swap×angel (緑茶わいん)
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swap×angel
小麦粉、卵、ベーキングパウダー。
あとは、思いのほか安売りしていたリンゴが六個。食べきれない分はジャムにすればいいや、ということで、砂糖も買い足してきた。
「……重い」
エレベーターの床にレジ袋をいったん下ろして、一息。
昇っていく独特の重力感の中、硝子に顔が映った。ふわふわの髪をした、とんでもなく可愛い女の子。自画自賛かよ、っていう話だけど。
百城千世子、というのが『この子』の名前だ。
真顔でいるとこの世のものとは思えない、天使のような顔立ち。試しに笑顔を浮かべてみると、途端に間の抜けた、幸せそうな顔になる。『あの子』にはあまり評判が良くないんだけど、私はこの顔が結構好きだったりする。
チン、と。
小さな音と共に扉が開いた。
レジ袋を「よいしょ」と持ち上げる。
と、足音と共に小学生くらいの男の子と女の子が駆け込んでくる。
「「あ、おねーちゃん」」
「こんにちは」
「「こんにちは!」」
可愛い。にっこり微笑みつつ、入れ替わりに出て行こうとしたところで、この子達のお母さんと会った。一緒のマンションに住んでいる同士、顔見知りだ。
「こんばんは、千世子ちゃん」
「こんばんは」
「おねーちゃん、さっき『こんにちは』って言ったよ」
「そうだね。もう『こんばんは』の時間だったね」
すみません、と謝ってくれるお母さんに「いいえ」と答えて、そうだ、とリンゴを一つ取り出す。
「これ、あげよっか」
「「リンゴだ!」」
「二つあげちゃうと今食べちゃいそうだから、ご飯の後にでも、お母さんに切ってもらってね?」
「はーい」
一階に向かうらしい三人と手を振って別れる。
どこに行くんだろう。足りない食材の買い足しか、お父さんのお迎えだろうか。幸せそうな家庭で羨ましい。高校二年生、十六歳の私には、まだまだ先の話だけど。
「将来かあ」
私はどうするんだろう。それから、あの子は。
「ただいま」
私達が住んでいる家の表札は『百城』となっている。決める時は結構揉めた。結局、じゃんけんで決めたんだったか。
誰もいない空間に声をかける──つもりが、家の中には人の気配があった。
泥棒?
そんなわけがなく、とんとん、と、規則正しい足音。現れたのは他のどんな顔よりも見知った、どこにでもある平凡な顔。百城千世子じゃないんだから、素の表情だと不愛想に見えそうなものだけど、この子がすると、何故か透明感のある顔に見えるから不思議だ。
「おかえりなさい」
出迎えの挨拶は、口に物を咥えているとは思えないほど流暢だった。
唇から微妙にはみ出しているのは、薄いピンク色をしたイカの身。
「あー、もう。またそんな身体に悪いもの食べて」
「またじゃない。このわたはちゃんと我慢してるし」
「塩辛には違いないでしょ」
むー、と睨むと、彼女はまるでそれが見えていないかのように笑顔を作って、
「それより、
「うん。すぐ支度するから待っててね、千世子」
百城千世子と対している女の子の名前は、
そして、中に入っている女の子の名前は、
◇ ◇ ◇
「はい、できたよ」
「あ、オムレツだ!」
本日のメインディッシュである野菜たっぷりオムレツを運んでいくと、千世子は明るい声を上げた。
付け合わせは昆布出汁の効いた玉ねぎとわかめのスープ(塩分控えめ)。一食分ずつ小分けにして作り置きしている生野菜サラダもつける。
デザートは今日買ってきたリンゴ──ではなく、冷蔵庫に残っていた在庫分のリンゴを食べやすいサイズにカットして、ピックを刺したもの。
「気に入ってくれた?」
「もちろん。私、眞子の料理大好きだよ」
「ありがとう」
褒めてくれるのは嬉しいけど、私的には献立を考えるのが大変だ。
千世子ときたら体型維持と健康のためにグルテン減量中、というか炭水化物自体なるべくNGな反面、野菜はこれでもかと要求し、それでいて栄養バランスは取れ、と無茶を言ってくる。しかも本人は意外と食いしん坊なので、ヘルシーメニューだからといってお腹に溜まらないのでは本末転倒。
このわたで大盛りご飯かき込めばいいのに、好物の塩辛いものは「食べても一口程度」に留めて頑張っているので、私としてもできる限り応援せざるを得ない。
千世子はスプーンを取り出してオムレツを切り分けながら、上目遣いで、
「眞子は私のこと好き?」
「好きだよ」
「心が籠もってない! 証拠にキスして」
テーブル越しに身を乗り出してくる彼女だったけど、私はそのおでこに手を当てて押し返す。
「やだ」
「なんで」
「塩辛を食べた口とキスしたくない」
渋々納得した千世子は「じゃあご飯食べて歯を磨いた後ね」と言った。
歯を磨いた後、と言っていたものの、千世子はちゃんと片付けが終わるまで待ってくれた。
千世子は洗い物をしない。手を冷やすのは厳禁だから。
千世子は料理をしない。包丁等で指を傷つけるといけないから。
食べる専門──いや、演じる専門の生き物が百城千世子だ。
洗い物の間、彼女はじっと私を見つめていた。いや、私の中にいる自分を、かもしれない。かすかな仕草や表情の変化まで見透かされてひどく落ち着かない気持ちになるんだけど、彼女がこの『人間観察』を止めてくれる気配はない。
眞子以外にはもっとさりげなくやるよ、とは本人の談。
殊更ゆっくりになるよう意識しながら全ての作業を終えて、一息ついてから、私は千世子の隣に座る。OKのサインだ。くっついた椅子に端をかけるように手を重ねて、どちらからともなく唇を近づける。
千世子の、というか空木眞子の顔が間近に来る。
「……そういえば、今日って暇な日だったっけ?」
「今更?」
十センチくらいの距離にある瞳が呆れの色を宿した。
「レッスンが早めに終わったから帰ってきたんだよ」
「早めに終わらせた、の間違いじゃなくて?」
「そうとも言うかな。何しろ私、天才だから」
これ以上の時間稼ぎは許さないとばかりに、もう片方の手が肩に乗せられて、あ、と思った瞬間には、私達の唇は重なっていた。
柔らかい。
思った直後、視界が暗転。
更に次の瞬間には、私は絶世の美少女と手を繋いで、肩に手を置いてキスしていた。
「……あー、もう。何度やっても慣れない」
顔を身体を離してぼやくと、千世子が笑った。
「自分とキスしないと元に戻れないもんね」
『天使』の笑顔。
素の状態の絶世の美の延長、はるか高み。私が浮かべていた間抜け顔とは全然違う。本当、どうやったらこんな顔ができるのか。
百城千世子はやっぱりものが違う、と思いながら、
「なんかもう、どっちが自分なんだかって感じだけどね」
「それはおかしいと思う」
用が済んだので立ち上がれば、服の裾を掴まれた。
見上げてくる表情には、果てしない透明感と耐えがたい“寂しさ”が浮かんでいた。
「千世子?」
「そんなの、そっちが私の身体に決まってるよ」
「いや、これは私の身体だから」
私は溜め息をついて千世子の手を振り払った。
私──空木眞子と彼女──百城千世子には秘密がある。
キスすることで身体を交換できる、という秘密だ。
どうしてなのかは未だにわからない。
初めて入れ替わったのは三年ほど前のこと。
近くのスーパーには置いていない、ちょっと珍しい調味料を探していた私は、角の向こうから来る千世子に気づかなかった。当時既に『スターズ』という大手事務所に所属していて有名になりつつあった千世子は、人目を避けながらの移動で、逆に前が疎かになっていた。
ぶつかって、折り重なるように倒れ、気づいたらキスをしていた。
ファーストキス。
まさか女の子にキスすることになるとは、と思いつつ、立ち上がって「ごめんなさい」と謝ると『私』が「こっちこそごめんなさい」と笑顔を浮かべた。
「え?」
「え?」
どういうわけか、身体が入れ替わっていた。
突然の事態に私達は大慌て。
元に戻るまでにもひと悶着あったけど、キスで入れ替わったんだからキスで戻れるはず、と試してみたら見事、大正解。
無事に戻った私は調味料はまた今度に決め、千世子に別れを告げようとした。
すると、
「ねえ、連絡先交換しようよ」
澄んだ瞳に正面から見つめられた。
実は危ない子なんじゃ? と少しだけ不安になったものの、万が一のためと言われて断れなかった。それに実を言うと、百城千世子の名前は知っていた。
同い年で芸能事務所に入っている美少女。ニュース番組の特集か何かで見たんだったか、平凡な自分と比べて「いいなあ」と思った。
だから、彼女と特別な体験を共有できるのが、少しだけ嬉しかったのだ。
万が一のため。
連絡先交換の口実はそれだったけど、本当に何かあった時だけ──例えば、朝起きて千世子になっていたら連絡しよう、と思った私と違い、千世子は積極的にコンタクトを取ってきた。
次の休み前には電話がかかってきて「会おうよ」と言われ、何をするのかと思いつつ出向けば、もう一回キスしようと迫られた。
「や、やっぱり危ない子だったんだ」
「何それ? ……ああ、違う違う。そういうのじゃないから安心して」
美人は何を考えているかわからないから怖い、なんていう映画か何かのフレーズを思い出した。
でも、千世子は本当に、やましいことなんて何一つ考えてなくて、
「役作りに付き合って欲しいの」
「役作り? お芝居の?」
「うん」
思えば、彼女はあの頃からずっと「演じること」に一生懸命だった。
二十四時間全てを演技のために使っているような子。
だから、私を呼び出してキスしようと──もう一度入れ替わりを試みようとしたのも当然、演技のためだった。
押し切られるままにセカンドキスを女の子と迎えた(戻る時のはノーカウント)後、私はえんえんと、千世子の特訓に付き合わされた。
付き合うと言っても、千世子が練習をするのをぼーっと眺めて感想を言うだけだったんだけど。「何でもいいから言って」と言う癖に適当言うと「真面目にやって」とマジトーンで言ってくるので、こっちも真剣にならざるをえなかった。
夕方になったところでようやく解放され、もう一回キスをして戻ると、私の身体はぐったりと疲れていた。
「あなたの身体、体力づくりが全然足りてない。筋肉のつき方もちぐはぐで動かしづらい」
その上、文句まで言われた。
なんなんだ一体、と憤慨しようと思ったら「次はいつ会える?」と聞かれた。
「またやるの?」
「もちろん」
何がもちろんなのか、当時の私には全くわからなかったけど、何故か、破天荒な役者馬鹿とか言いようのない美少女が放っておけなくて、次の約束をしてしまった。
後になって聞いたのだが、千世子は当時、将来に不安を覚えていた。
『百城千世子は十代で終わる』
『可愛いから注目されているだけ』
『賞味期限が過ぎたらタレントとして細々やっていくんじゃない?』
千世子の演技力は同世代で抜きん出ていた。
おまけに天性のルックスまで持っていたのだから、当然やっかみの声もある。彼女の悩みの種となった『陰口』もそういう種類のものだったんだろうけど、当時まだ十三歳の子供だった彼女は悩んでしまった。
『実力が足りない』
悩んだ末に至った結論は更なる努力。
けれど、技術をどれだけ磨いても、やっかみは減るどころか増えていく。千世子は思った。正統に評価してもらえないのは容姿のせいだ。
美しすぎる容姿が見る人の目を曇らせているのだ。
『ルックスも実力のうちだけど、私の容姿だと役の幅が少なくなる』
美少女すぎて脇役や悪役には向かないのだ。
『もっと平凡な見た目に生まれられれば良かったのに』
ないものねだり。
というか、お姫様が「貧乏になりたい」と言っているようなものだったけど──千世子は出会ってしまった。
どこにでもいる平凡な十三歳の女の子、ただキスをするだけで入れ替われる身体、つまり私、空木眞子と。
百城千世子は十四歳で『スターズ』を退所し、普通の女の子に戻った。
入れ替わるように突如現れた新星・空木眞子は同世代離れした演技力と「メイク映えする天性の顔立ち」によって一躍有名人に。
『スターズ』に入ると、かつての百城千世子と同等かそれ以上の活躍を見せ、今や高校生にしてトップ女優の一角に名を連ねている。
空木眞子の稼いだお金は大人顔負け。
セキュリティのしっかりしたお高いマンションを自分のお金で購入し、親友と二人で暮らし始められるくらいにはお金持ちだった。
高校生二人だけでの生活となるとスキャンダル的な問題なんかも出てきそうだけど、そこは幸い女の子同士。同棲相手がかつてのスター候補、百城千世子だったのもあって、世間的にも許容ムードが広がっている。
『空木眞子は百城千世子が見出した、彼女以上の逸材』
と、ある人が言っていたけれど、それはある意味、とても正しい。
だって、
◇ ◇ ◇
「百城さん。今日はどんなお菓子持ってきたの?」
いわゆるお嬢様学校で、生徒もお金持ちの子が多い。金持ち喧嘩せずというのは本当なのか、他人に悪意を向ける人がいない平和な空間でとても過ごしやすい。
ただ、年頃の女の子だけに甘い物には目がないらしくて。
お菓子作りが趣味な私がふと思い立ってクッキーを持ち込み、みんなに振る舞ったところ、これが大好評。今では毎日何かしら持って行かないと「今日はないの? 残念」とがっかりされてしまうくらいになっていた。
「今日はチョコレートでコーティングしたマシュマロだよ」
「わ、何それ美味しそう!」
数量には限りがあるので早い物勝ちだ。
朝のHR前の短い時間にマシュマロは完売御礼となった。ちなみにニ十個くらいは用意したものの、私が食べたのは完成時に味見した一個と、更にもう一個だけだ。
「んー、美味しい♪」
「ほんと。……でも、百城さんって自分ではあんまり食べないよね?」
「うん。太っちゃうから我慢してるの」
「えー、全然大丈夫だよ」
むしろもうちょっと太った方がいいんじゃ、と、お腹をつんつんつつかれるけど、私としては曖昧に微笑んで誤魔化すしかない。
「一緒に住んでる子が食事制限厳しいから、付き合ってるんだっけ」
「え、そうなの?」
「百城さんって彼女がいたんだ」
「その『付き合ってる』じゃないよ。同じメニューを食べるようにしてるってこと」
目を輝かせていた一人が「なーんだ」と残念そうにする。その子とは二日に一回くらいのペースでキスしてます、なんて言ったら根掘り葉掘り聞かれそうだ。だから絶対言わない。
「役者さんなんだっけ」
「え、そうなの!?」
「うん、空木眞子さん。知ってる?」
「知ってる! っていうかすごい有名な子じゃない!」
別の一人が目を輝かせたところで、教室の入り口から先生が入ってきた。彼女は空になっている私のお菓子ボックスをちらりと見て「先生の分を残しておいてくれても……」と呟いてから出席を取り始めた。
と、まあ。
今となっては『百城千世子』の知名度なんてその程度で、今の『百城千世子』はクラスメートにお菓子を振る舞うのか日課の、ちょっとお人好しな女の子でしかない。
「百城さん」
先生の声に背筋を伸ばして答えながら、私は「今日は放課後にジャムを作って……。明日はそれとスコーンかな」などと考えていた。
「百城さん」
放課後の帰り道。
冷蔵庫の中身とチラシの安売り品を思い返しながら、今日は何を買って帰ろうか、晩御飯は何にしようかと考えていると、背後から声をかけられた。
立ち止まって振り返る。
予想外の姿に、私は一瞬硬直した。
優しそうな顔立ちの長身美形。
私よりは一歳年上。役者。母親は『スターズ』の社長、星アリサ。
彼を何と呼ぶのが適切だろう。
「アキラ君」
結局、千世子から聞いていた通りにそう呼んで、私は微笑んだ。
「星さん、って呼んだ方がいいかな? おめでとう、今度特撮の主役が決まったんでしょ?」
「ッ」
彼──星アキラは私の言葉に、何故か辛そうな表情を浮かべた。
視線が下に泳いで、それから上に上がる。
「千世子ちゃん」
「………」
「他人行儀な呼び方をしてすまなかった。少し、話をしないか?」
私は「スーパーで買い物しながらで良ければ」と答えた。
「白菜、ネギ、春菊……」
「鍋にでもするのかい?」
「うん。豚バラと白菜がメインのヘルシー鍋だよ」
豚バラは具というよりダシを取る目的の方が大きいので、入れるのは最小限。昨日じゃがいもをたっぷり使ったので根菜は抑えめにして、白菜やネギが主役だ。
「主食がなくても満足感あるから鍋は便利なんだよ。グルテンフリーを目指すと主食って、そば粉かお芋系か春雨、フォーとかになっちゃうから。結局炭水化物メインなんだよね」
「まるで主婦みたいだ」
「うちには食べ盛りの子がいるからね」
今日はもともと早く帰ってくる予定だった日。
もしかしたら今頃、家でお腹を空かしているかもしれない。
伊達眼鏡をかけて変装した星君(千世子とは旧知だけど、私は初対面)は何とも言えない表情を浮かべて、
「もう役者は諦めたのかい?」
やっぱりそう来たか。
「うん、やめたよ。演劇部に誘われたけど断ったし」
「どうしてだい?」
「眞子に出会ったから、かな」
言ってて凄い違和感があった。
まさか、自分のことを「人生を変えた重要人物」みたいに話す羽目になるとは。でも、私との出会いが千世子の転機だったのは間違いないはず。間違いないよね、さすがに。
星君は「眞子君か」と苦い顔をする。
考えてみたら同じ『スターズ』。会っているに決まっている。だとすると、私と千世子の入れ替わりについて感づいていたり?
素知らぬ顔をしてショッピングカートを押せば、星君もついてくる。なんとなく周りの人が「お似合いのカップル」みたいに私達を見ている気がする。
「彼女は確かに凄い。ひたむきさも、演技力も、まるで君を見ているみたいだ」
私はダシ用の昆布を吟味する。
「でも、君だって負けていない。百城千世子は、あの程度のライバルに膝を屈するほど弱くはないはずだ。違うかい?」
「………」
私は。
私は、なんて返すべきだろうか。
千世子のことは本人、彼女の次くらいに知っている自信がある。今や切っても切り離せないパートナーである私達。お互いには自分のことを包み隠さず話している。星君の人となりも、どんな話をしたのかも知っている。でも、それはあくまでも伝聞。
演技以外のことに感心の薄いあの子から聞き出せたのは、主に演技についての感想(内容は駄目出しに近い)がほとんど。こっちから何を言ったのかは「覚えてない」がほとんどといった有様。そこから星君が当時何を考えていたのか想像するのは無理がある。
だから。
私は『百城千世子』ならどう返すかを考えながら、考えきれないまま、心に湧きあがった私自身の苛立ちを彼に向けていた。
「あなたに私達の何がわかるの」
「───」
星君が絶句して立ち止まる。
悪いことをしてしまった。きっと『百城千世子』の怒り声は迫力があっただろう。だから、話はこれでおしまいに──。
「君はそれでいいのか!」
「ッ」
「彼女のマネージャーのように甲斐甲斐しく付き従って、本当に満足なのか!? どうして僕が残っているのに君が辞めるんだ!? 君は、君の本心はこの状況を良しとしているのか!?」
私は答えられないまま、彼の言葉を、ううん、存在を無視した。
◇ ◇ ◇
星アキラの問いは前提条件が間違っている。
百城千世子が役者をやめる? そんなことあるわけがない。
彼女は──千世子は今でも役者を続けている。
当時よりも生き生きと、当時よりもずっと深く、強く、演じることを続けている。だって、彼女の演技は「存在そのもの」にまで及んでいるのだから。
だから。
『君はそれでいいのか!』
あの問いには何の意味もない。
なのに、私は何故か昔のことを思いだした。
千世子からの呼び出しは頻度を増していった。
特訓の度に筋肉痛になるので、対策として日頃からマッサージやストレッチ、朝のランニングをするようになった。お陰で体育の成績はちょっと伸びた。まあ、表情筋が疲れるのはどうにもならなかったけど。
私の身体が千世子によって様々な表情を見せ、様々なポーズを取るのは嫌な気分ではなかった。子供とはいえ本物の役者は違うということか、あの子にかかれば私の平凡な身体でさえ、普段とは全く違ったものに変わってしまうのだ。
なんとなく真似してみたくなって千世子の身体でポーズを取ると、あろうことか千世子本人に笑われた。
休憩がてら、持ってきたクッキーを勧めると「美味しい!」と食べてくれた。
「クッキーってこんなに美味しかったんだ」
「百城さんならもっと良いクッキー食べられるでしょ?」
「千世子」
「え?」
「千世子でいいよ。私も眞子って呼ぶから」
その頃には私はもうとっくに名前で呼ばれていたけど、一方的に呼ばれるのはと思い「千世子」と呼ぶようになった。
「クッキーにはあんまり良い印象なかったんだ。チョコレートとかも。『天使』はそういうの好きでしょ、って、みんなが勧めてくるから」
「天使って?」
「私のこと」
思わず絶句した。
でも、百城千世子は紛れもない天使だったので、ツッコミを入れる気にはなれなかった。
「本当は『なまこ』とか『このわた』が好きなんだけど」
「それは無いね」
「無いよね。だから、好きな物は甘いお菓子。……でも、眞子のお菓子は本当に好きかも」
また持ってきてくれる? と尋ねられた私は、好きだったお菓子作りで褒められたのもあって「うん」と二つ返事で了承した。
キスへの抵抗はだんだん無くなっていって、千世子に酷使された身体が筋肉痛になることの方が悩みになった。同時に、千世子に美味しいと言わせられるお菓子作りが私の課題になって、
「ねえ、眞子」
「うん?」
「私達、入れ替わったまま生活しない?」
ある時、そう提案された。
私の身体を貸し与える代わりに、私は百城千世子の身体を好きにしていい。正直、千世子にメリットがあるのかと言いたかったけど、彼女は自分の身体じゃなくて私の身体で役者をしたいらしい。
「このままでもスターになれるのに?」
「『百城千世子』じゃ『役者』でいられる時間が短いんだよ」
さすがにこの提案には悩んだ。
憧れの百城千世子になれる、と考えたら断る理由なんてないかもだけど、実際問題、千世子になって何をしたらいいのかわからない。
千世子の友達とかお母さんとかとどう接したらいいのか全然わからないし、代わりにレッスンに行けと言われても困ってしまう。
すると彼女は「大丈夫」と笑って、
「もう事務所は辞めるって言ってきたから」
「過去形!?」
そうだ。
あの時、結局私は千世子に押し切られる形で身体の交換を了承させられた。千世子が両親を説得する期間や退所のための手続きの期間を利用して、お互いの知識のすり合わせやお互いに「なりきる」訓練をした。
最初は渋々だった私も、天使のような美貌が意のままに動く様に魅了され、だんだん「まあ、いっか」と思うようになっていった。
自分の身体のまま友達として千世子の家に招かれ、途中でキスして入れ替わったり、学校が終わって友達と遊びに行くタイミングで合流・入れ替わって千世子を行かせたり、「入れ替わった状態を普通にする」練習を続けて、中三に上がる頃には私は千世子に、千世子は私になった。
以来、夜の自由な時間などに時々戻る以外は入れ替わったままの生活を続けている。中学卒業後に二人暮らしを始めてからは、千世子の両親からの電話やメールも私が対応しているし、向こうも同じ。一年以上『百城千世子』として生きてきて、私はもう自分の両親と普通に話をする自信がない。
百城千世子はもう、私のものだ。
『本当に?』
心の奥底にいるもう一人の私が、私に尋ねた。
「おかえりなさい」
「あ……」
ドアを閉じた後、そのまま呆けていたらしい。
越してきて初めて「ただいま」より先に「おかえり」を言われた私は、何事もなかった振りをして「ただいま」と笑った。
「お腹空いてる? すぐご飯にするから。今日は鍋だよ」
「眞子」
「ん?」
私の顔をじっと見つめていた千世子は首を振ると「なんでもない」と言った。
私の物ではなくなった私の顔は、ちっとも笑っていなかった。
着替えて、夕食の支度。
鍋の時は準備が楽だ。具材を切ればほぼ終わり。ぐつぐつ煮込む時間がもどかしいくらい。
キッチンで十分煮込んだところでリビングのテーブルに鍋敷きを置き、あつあつの鍋を乗せる。シメの予定が今日はないので、カセットコンロで加熱する必要はない。
二人で「いただきます」をして具材をつつく。
白菜を中心とした野菜たち。と、千世子が珍しく豚肉を積極的に回収している。どうしたんだろう。意図を尋ねてみようかと思ったら、じっと私の瞳を見つめ返されたので、なんとなく口を噤んだ。
「眞子」
「ん?」
「何か、あった?」
何もないよ、と、答えようかすごく迷った。
「星アキラ君と会った」
「何を言われたの?」
「……役者はもう諦めたのか、って」
「何て答えたの?」
「やめたよ、って」
天使の仮面がかすかに崩れた。
唇が小さく「余計なことを」と動いた後、彼女は淡々と言った。
「私はやめてない」
「知ってる。でも、世間的にはやめたことにするしかないでしょ?」
「眞子が眞子として答えたなら『最初から役者なんてやってない』って答えるべきだよ。何でわざわざ嘘ついたの?」
「子供みたいなこと言わないでよ」
言えないことがある以上、隠すためには嘘をつくしかない。
下手な大人以上に処世術の上手い彼女がこんなこと言うのは珍しい。
理由がある?
「他に何を言われたの?」
「何も」
「嘘」
ああ、咎めたかった『嘘』はこっちか。
「君はそれでいいのか、って」
「いいに決まってる」
『百城千世子』はきっぱりと答えた。
「……聞かれたのは私」
「だから?」
澄んだ瞳を見返す。
がらんどうのような、演技以外の全てをどうでもいいと思っているような──天から全てを与えられた物語の主人公のような、彼女。
空木眞子の皮を被ってさえ完璧な、私の憧れ。
「ねえ、千世子。もう止めようって言ったらどうする?」
「いいよ」
即答だった。
「私は別に困らないから。アキラ君がわざわざ来るくらいだし、『スターズ』ももう一回くらい『百城千世子』に投資してくれるでしょ? 幸い、私の身体は眞子が綺麗に
表情を全く変えないまま、彼女は「でも」と続けて。
「眞子はもう戻れないんじゃない?」
「っ」
「私が『お母さん』と喋る時の表情、眞子は知ってる? 声のトーンは? 前回の誕生日に何色の何をあげたのかわかる? 急に『スターズ』辞めて普通の女の子に戻る、なんて説得、眞子にできる? 言っておくけど私は手伝わないよ」
「な──」
頭にかっ、と血が上るのがわかった。
箸とお椀を置いて、音を立てて立ち上がる。テーブルを挟んで座っている『その女』を全力で睨みつける。
「あなたが奪ったんでしょ!?」
「合意の上じゃないと入れ替われないはずだけど」
「私に拒否権なんてなかった!」
「与えたよ。眞子が気づかなかっただけじゃない。わかったでしょ、眞子。眞子はもう戻れない。ううん。あなたは私のもの」
ひっ、と、声が漏れた。
これが映画だとしたら、急にジャンルが「ホラー」になったかのようだ。
千世子の淡々とした言葉。一つ一つがひどく恐ろしい。得体のしれない宇宙人と相対しているような感覚。
「騙したの?」
「前提条件から未来を推測できなかったなら、それは眞子の失態だよ」
「千世子」
「眞子。逆じゃ駄目なの?」
「逆?」
「そう。もうキスはしない。私が空木眞子であなたが百城千世子」
もう、元には戻らない。
戻っても「元通りにはならない」のなら、最初からこうだったことにしてしまえばいい。
「いい、の?」
「私にはもう『
神様から絶世の容姿を与えられた少女は、演じるためだけにそれを捨てた。
美しすぎるという枷を外したことで更に飛躍した。
彼女にとっては身体なんて道具の一つでしかない。道具の価値は使い手が決める。彼女にとっては『百城千世子』より『空木眞子』の方が価値が高かった。
私は『
「
千世子は食事を再開しながら言った。
「将来はパティシエにでもなるの? いいんじゃない? 眞子のお菓子は好きだし。きっと美人パティシエって有名になるよ」
「そんな、簡単に?」
捨てられるものなの?
入れ替わっていた時間より、元の身体で過ごした時間の方が、まだまだ長いのに。
「だからいらないんだってば」
「千世子は勝手すぎるよ。みんながみんな千世子みたいにできるわけじゃないのに。私みたいな凡人だっているのに」
「それは努力しなかったからでしょ?」
「え……?」
「実力が足りないんだよ。私は
「な、そん、な」
口がぱくぱくと動く。
もうわけがわからない。自分が何を言いたかったのか。何を悩んでいたのか。目の前にいる『モノ』に圧倒されてわからなくなりながら、叫ぶ。
「私が千世子になれないのは、努力が足りないからだっていうの!?」
「役者になりたかったの? だったら努力すればよかったのに。
「───」
私は、一番最初で間違えたのかもしれない。
会わなければよかった。
入れ替わらなければよかった。
ううん。この子に憧れなければ、
そうすれば、劣等感なんて。疎外感なんて。無力感なんて。感じなくて済んだのに。
『百城千世子』になっても『百城千世子』にはなれないなんて、当たり前のことに気づくのが遅すぎたんだ。
視界がぐるぐる回る。
袋小路にいるような気分で、私は席に着く。もう、どこにも行ける気がしない。何も言える気がしない。
と。
「……ああ。駄目だな、私」
千世子が箸を置いて
驚いて顔を上げる。
苦笑めいた笑顔が浮かんでいて、私はその顔が、全然透明じゃないように見えた。
「ごめん。眞子。全然伝わってないよね。苦手なんだよ。台本のない会話。即興演劇ならまだマシなんだけど。本物の会話は『お互いの配役』がかみ合ってるかどうかもわからないから」
「千世子?」
「私の好きな物はなまこ、このわた、松前漬け」
突然言ったのは彼女の好物だった。
天使時代は「生クリーム、ビスケット、マシュマロ」なんて答えていたのに、私になった時にこれ幸いと本当の好みを言うようになった。
「もちろん、知ってる」
押し付けられた私は本当に好きなので、特に困ってはいない。
それがどうしたのかという暗黙の問いに、千世子は、
「もし四つ目があるとしたら『眞子のお菓子』だよ」
「っ!?」
胸が高鳴った。
甘いものなんか大して好きじゃなかった彼女が。天使の外面に困っていた彼女が。高級スイーツ食べ放題のお金持ちが。
「パティシエが向いてると思ったのも本当。目指すなら応援する。だって、それは
「ぁ……」
「役者を目指すのもいいと思うよ。だって眞子、私に付き合って結構見てるでしょ、映画」
確かに見てる。
お互いの休日が重なった時は大抵映画やドラマの鑑賞会になる。完全に集中して見ている千世子と違って、私はお菓子作りながらだったり、宿題しながらだったりするけど。
「私が動かしてた頃の記録映像も大体見てるでしょ?」
「それは、見せられたし」
「同じマンションの人から好感度高いよね。高校でも人気者なんだっけ?」
「それは、お菓子があるからで」
「違うよ」
気づいたら、宇宙人のようだった彼女はただの女の子になっていた。
「眞子は私にはできない私ができる。時々元に戻ってたのは、それを再現するため。あれができたらもっと上に行ける気がするから」
「私の、間抜けな笑い方」
「私にできない演技があるなんて苛々するんだよ」
なんだ、と思った。
なんだそれ。
「千世子ってそんなこと思ってたの?」
「私だって、眞子が思ってたこと知らなかったよ」
「知る気あったの?」
「なかったけど」
なかったんだ。
「……私に役者は無理だよ」
熱くなって、冷たくなって、なんだかすっきり空っぽになってしまった胸を抱えて呟くと「いいじゃない」と言われる。
「無理でも、やりたいんなら。応援するよ」
「千世子が? そんな無駄なこと」
「無駄じゃないよ」
言って、彼女は笑った。
「眞子は親友だから。親友のやりたいことくらい、応援する」
「親友……」
私は瞬きして、深呼吸をして、言った。
「もう一回言って」
「絶対嫌」
真っ赤になって顔を背けた千世子は断固として、さっきの言葉を言ってくれなかった。
◇ ◇ ◇
それから、しばらく経って。
◇ ◇ ◇
『眞子と』
『ち、千世子の』
『『スイートクッキング♪』』
音声付きで再生される動画に、私は「うあああああ」と悲鳴を上げてクッションを抱きかかえた。
「止めて、止めて!」
「駄目。一回くらいは通しでチェックしないと。それともこのままアップする?」
「それも嫌だけど!」
恥ずかしくて仕方ない私をよそに、カメラに映されるのなんて慣れっこの千世子は平然としている。
動画の中の千世子も同じだ。演技していない時は表情に乏しいストイックなタイプ、という設定なので無表情に近い。対する私は顔真っ赤。このデコボコっぷりは受けるかもしれないけど。
──私は試しにお菓子作り動画を作ってネットにアップしてみることにした。
千世子に触発されて何かしてみたくなったけど、できることなんてお菓子作りくらい。
だったらお菓子を作る動画ならと思って相談してみると、思いのほか千世子が乗り気になった。自分も出るから作ろうと押し切られ、今に至る。
記念すべき(?)一回目の動画は女優のアドバイスのお陰で映像は綺麗だし音もクリアだけど、それだけに私を殺す兵器としての威力が高かった。
「これ、世の女優さんはみんな耐えてるの?」
「当たり前でしょ」
「ううう、あらためて尊敬するかも」
「っていうかいつまで恥ずかしがってるの。分量とか手順の間違いは私じゃわからないんだよ?」
まだしばらくはクッション抱えてごろごろしたい気分だったけど、千世子に睨まれては仕方ない。
私は起き上がり、頬がひくひく動くのを感じながら、ディスプレイを注視した。
画面の中で『元天使』と『現役者』がお菓子を作っている。
「変なの」
私はくすりと笑って、なんとなく私らしい気がするそのへんてこな動画を見つめ続けた。
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