カワラナイモノ (紅卵 由己)
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 暖かさの衰えた秋の空の下。

 街の中を、ねずみ色のリュックサックを背負った一人の青年が歩いていた。

 服装は上が白色で半袖のカッターシャツで、下が黒色の薄い記事のズボン――と、何処かの学校の制服かと思わしき衣類を見に纏っているようだが、その各部はまるで獣に引き裂かれたかのように不自然な破れ方をしていて、辛うじて靴だけが目立った損傷の無い形を維持しているようだった。

 よく見ると、制服の白の所々には赤の色も存在している。

 服装だけでも十分悪目立ちする有様だが、当人の面構えもまたそんな衣類の有様を現すが如く酷いものだった。

 黒い髪の毛も所々が跳ね返る形で乱れており、耳の下から顎の付近までに生えている髭にしても、まるで何日も剃られず放置されていたとしか思えない長さで。

 その瞳は、赤く染まっていた。

 目の下には隈が出来ており、満足に眠る事が出来ていない状態を暗に示している。

 総じて言って、一般的な認識における身嗜みどころか健康管理すらロクに行えてない事が見受けられる姿だった。

 しかし、彼の姿を目にして驚く者はいない。

 街の中――それも多くのビルが立ち並ぶ都会だというのにも関わらず、彼の周囲には人の姿も声も見受けられない。

 それも当然の事だった。

 そもそも、彼が現在歩いている街は最早街と呼べる状態では無いのだから。

 建物の窓は度合いに差こそあれど少なからず割れていて、折れ倒れた電柱の傍には切れた電線が放置されていて、かつて誰かが運転していたと思わしき車も上から潰れていたり横転したりしていて、単なる粗大ゴミと化していた。

 青年の視界に入る景色だけでもこの有様だった。

 まるで、災害の後を想わせる光景。

 

「……チッ」

 

 唐突に青年が舌打ちをする。

 視線が前方右側の方向にある廃墟と化した建物の上方へと移る。

 元は何らかの企業のものだったのであろうその屋上から、

 

 ――ヴゥルルルルル!!

 

 本能剥き出しの唸るような声と共に『それ』は飛び降りてきた。

 その姿を一言で説明するならば、真っ黒い体の恐竜という表現が正しいだろう。

 巨大で屈強なその体躯は、異常に発達した両腕も合わさって既に現実離れしている。

 尤も、恐竜という時点で既に現代の世界からはかけ離れた存在なのだが、その姿を赤い瞳で捉える青年は恐れも驚きもしなかった。

 その表情に浮かぶのは、ただただ不快感。

 アスファルトの大地に亀裂を生じさせつつも着地した黒い恐竜は、本能的に獲物として認識した青年の方へとその発達した右の腕を振り下ろそうとした。

 青年は気だるそうに後方へと飛び退きそれを回避すると、直後に自ら恐竜の懐に向かって走り出す。

 

 ――その瞬間、駆け出すその脚を起点に彼の体は変わりだした。

 

 色は青白く変色し、脚の形は獣のような逆関節のそれに変じ、足先から生える爪も明らかに伸びて毒々しい紫色へと変わる。

 変化の過程で穿いていた靴は破ける事も無く何処かへと消失し、ズボンも制服のそれとは異なる材質の、髑髏の装飾品が取り付けられたベルトを締めた別物へと変化する。

 そして、尾てい骨にあたる部分から、変化した脚と同じ色の尻尾が生え現れる。

 

 ――下半身の変化に続き、上半身もまた変わっていく。

 

 白のカッターシャツが風に溶けるかのように消え去り、露出した肌はそこまでの変化で見せた色と遜色無いものになっていた。

 両腕には装飾と言うよりは拘束具に近い鉄の輪がいくつも取り付けられ、指先の爪は足先のそれと同じく紫色に変色して鋭い形に伸び、両手の甲には小さな鉄板が体の一部のようにくっ付き。

 胸元や両肩からは白い骨のようなものが皮膚の上から出現し、皮膚の色やベルトに付けられた髑髏の装飾品も相まって生物とは思えない異質な雰囲気を醸し出す。

 黒い髪の毛が異常な速度で一斉に伸び出し、背中を覆うほどの規模でもって(たてがみ)の形を成す。

 閉じた口元が前方へと突き出しマズルの形に変化し、耳の位置が猫のように即頭部へと移動して、最後に瞳に宿る赤く怪しげな光が輝きを増して。

 恐竜の懐に潜り込んだ頃には、全ての変化が終了していた。

 

 ――変わった姿は、まるで獅子だった。

 

 獅子の獣人――そうとも呼べる人外の姿へと変貌した青年は、躊躇いも無く恐竜の白い腹に手刀の形で右手の爪を突き立てる。

 それだけで十分だった。

 獅子の指先は爪の鋭さでもって恐竜の腹部を易々と破り、生じる激痛によって恐竜の口から絶叫が響く。

 その声に人外の青年は不快そうに赤い目を細めつつも、突き立てた爪でそのまま引っ掻くような動作でもって腹を貫通した腕を引き抜くと、命の源たる鮮血が吹き出て来る。

 それだけに留まらず、鮮度の落ちた肉が腐っていく光景を早送りにしたかのような調子で、黒い恐竜の体が貫かれた腹部を起点に腐臭を放ち始めた。

 突き立てた獅子の爪には、その色が示すが如き猛毒が仕込まれていたのだ。

 その猛威は肉を腐らせ、そして食らう。

 

 ――ヴルルオオ、オオォ……ッ!!

 

 苦痛に満ちた、恐竜の鳴き声。

 自身の肉体が腐っていく感覚というものには、どれほどの苦しみが伴うものなのだろうか。

 その声は、何かを訴えているようにも聞こえた。

 だが、腐食の毒に体を侵された時点で、仮に青年が心変わりしたとしても恐竜の末路は確定している。

 もう、助からない。

 故に、青年に出来る事も一つしか無かった。

 跳躍し、自身の上方に見えていた恐竜の喉笛を右手の爪で(つらぬ)()く。

 新たな鮮血が漏れ、耳障りに思えた鳴き声が途切れて。

 抵抗する力をも失った恐竜の体は、次の瞬間に内側から破裂するように粉々の粒となって消え去った。

 吹き出た鮮血以外に、その死を示す跡は残らない。

 

「……侘びはしないからな。先に仕掛けたのはそっちだ……」

 

 体に降り掛かった鉄錆の臭いのする液体が、人間のそれから変化した獣の鼻を突く。

 自分がが殺した存在の爪痕(あかし)が、強制的に記憶として脳髄に刻み込まれる。

 獅子の顔に喜びは無く、その胸の内にはただただ虚無感だけが残された。

 

「……疲れた……」

 

 うんざりしたようにため息を吐くと、吐息と共に力も抜けていくような感覚があった。

 もうその姿でいる必要は無いと判断したのか、獅子の獣人と化していた青年の体は瞬く間に制服姿の人間の姿に戻るが、浴びていた鮮血が制服の白に赤を染み込ませてしまっていた。

 その事実に、青年は二度目のため息を吐いてしまう。

 

(……ああくそ、こんな事に使いたくは無いんだけどな……)

 

 それが何者のものであれ、血の臭いがこびり付いた状態というのはあまり好ましくない。

 先ほどの恐竜のような存在を、無用に招きこんでしまう可能性もある。

 青年は一度背負っていたリュックサックを下ろすと、野外である事にも構わず着ていた白いカッターシャツを脱ぎ、下ろしたリュックサックの中から2リットル程の水が入る大きさのペットボトルを取り出し、キャップを外して中に入っている飲み水を血液の付着した部分にかけ、濡らし始めた。

 無駄に多く使ってしまわぬよう、慎重にペットボトルの傾きを調節する。

 狙い目の部分を濡らした後、すぐさまカッターシャツの布地を折って擦る。

 付着した量が量だったためか、薄い赤が痕として消せずに残ってしまってはいたのだが、それでも血液の臭いをある程度軽減させる事には成功したらしい。

 ついでに、といった感覚で飲み水を少し口を含み、青年は喉を潤しておいた。

 

「……ふぅ……」

 

 ……このような事は、別にこれが初めてではなかった。

 人外の生物に殺されそうになり、自らもまた怪物と化して返り討ちにしたことは。

 だから、恐竜を殺した際に胸に生じた感覚や鉄錆の臭いにも、慣れていた。

 どんな事情があったにせよ、人の足では逃げ切れない歩幅を有して襲い掛かってくる以上は、自らの身の安全を守るために殺す以外の手段は無かった――と、そう考えておけば多少なり気の滅入りを抑える事が出来た。

 たとえ、自分が殺した相手が()()()()()()()()()()()()()()()()()、仕方のない事だったと。

 納得出来ずとも、するしかなかった。

 濡らしたカッターシャツを着た後、警戒するように周囲に視線を泳がせて安全を確認すると、下ろした荷を改めて背負い青年は歩みを再開する。

 当然と言えば当然なのだが濡らしたシャツは冷く、少しだけ不快にはなった。

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 ある日、世界は変わってしまった。

 どうして変わってしまったのか、その原因は不明なままに。

 まず最初に、空が裂けたらしい。

 まるで画用紙を破いたかのような空の先に、迷彩色の景色が見えていたと。

 その次に、世界中の人間の一部が人間ではなくなったらしい。

 ある者は獣のように、ある者は竜のように、またある者は機械のように――数々の人間が人外としか呼べない存在へと変貌していった。

 まるで風に乗った流行り病(ウィルス)のようなその災厄は、世界を瞬く間に染め上げた。 

 それが人知を超えた災厄だったのか、あるいは見知らぬ誰かによる人災だったのか――真相を知る者は、少なくとも常識と法に守られた表舞台にはいなかった。

 どちらにせよ、世界に起きた変化について確かな事はいくつかあった。

 変化によって現れた人外の存在たちは、全て現実のものである事。

 変化の有無に関わらず、世界の大半の人間は一方的に巻き込まれた側である事。

 そうして変化した結果得た力を、好んで利用する者がいるという事。

 

 獅子の獣人に変身する青年も、そうした変化の病に蝕まれた一人だった。

 様々な人間がどの文献にも記載されていない人外の存在へと変身したように、彼という存在もまたその日に変えられたのだ。

 尤も、青年自身は自らが『変わった』その瞬間を憶えてはいないだろう。

 どのようにして変えられたのか、その過程も事情も理解はしていない。

 だから当然、自分が人間ではないナニカに変わってしまうようになった事を知った時――混乱したし動揺もした。

 

 だが、何よりも彼の心を揺さぶったのは。

 変化の瞬間以外にも、憶えていない事が。

 思い出せなくなった事があった事だった。

 

 大切な誰かの顔を思い出そうとして、失敗した。

 肉親に与えられた自分の名前を思い出そうとして、失敗した。

 確かに暖かく在ったはずの家族との営みの場を思い出そうとして、失敗した。

 

 記憶喪失、という事実を彼は記憶の中の知識から認識した。

 必死になって記憶を辿ろうとしても、浮かぶ景色には必ず穴があって。 

 憶えている事よりも、憶えていない事の方が大切なものであったような気がして。

 

 許せない、と思った。

 思い出したい、と願った。

 その瞬間から、それが彼の歩む目的となった。

 

 行き先の解らない歩みは、いっそ旅か冒険と言っても過言では無かった。

 往く途中、腹が空く度に頼りにしたのは、大抵廃棄されて冷房の機能さえ停止した主のいない売店の売り物だった。

 金銭を払って手に入れているわけではなく、無許可である時点で盗賊としか言えない行いである事は知覚していたが、そうでもしなければ飢え死にしてしまう事が明白だった以上、他に術は無かった。

 日が経って消費期限を切らしていた惣菜も構わず食べたし、そういった整った料理が無かった時には腐っていた肉を売り物としてあった着火機などを使い炙って食べた。

 あるいは、獅子の獣人の姿に変身していれば生肉であろうと生野菜であろうと問題無く食べられたかもしれないが、彼には何故かその案を選び取る事が出来なかった。

 

 どうしても、出来なかった。

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 世界が変わり、空が裂けるような事があっても、昼夜の概念に変わりは無い。

 歩き続けている内に日の明るさは消え、暗さや冷たさと共に夜が訪れた。

 近場に見つけた芝生の広がる公園に立ち寄り、青年はベンチの上に腰掛ける。

 

「……はぁ」

 

 徒歩で歩き続ける程度では、大した距離を進む事は出来なかった。

 置き去りにされた自転車でも使う事が出来れば話は変わったかもしれないのだが、鍵が掛かったままで使えない状態であったり、何らかの理由で壊れたものであったり、発見出来たものは大抵使おうと思って使える状態では無かった。

 最初は青年自身、自分の住んでいた家の場所と形を思い出す事が出来ていれば、そこにあるかもしれない自分の自転車を使う事も視野に入れていたのだが、考えてみれば崩れた建物の瓦礫や硝子の破片などが散乱している道が珍しくない街の中で、所詮は本能丸出しの怪物と遭遇した拍子に壊されてしまう可能性が高いものを頼りにし続けられるかどうかは怪しく思えた。

 

(……ポケットの中に自転車の鍵が入っていた時点で、俺が自転車を持っていたって事は確実なんだがな……)

 

 どうせ使いようが無いのなら、持ち主であると思わしき自分の名前でも書いてあれば良かったのに――と、内心でどうしようも無いことを毒づく青年。

 そんな都合の良いものが用意されているほど甘い話になるなど、歩き始めた最初から思っていなかった。

 そもそも、彼には目的地と言える場所も無いのだ。

 記憶を取り戻す事を目的とする以上、最も優先するべき事柄は家族との再会となるのだが、家族を含めて今いる街に住んでいた人達が何処へ向かったのか――という問いに対する答えを出せない現状、どの方角に歩みを進めていけば良いのか、青年自身見当も付かない。

 最悪、青年が進んでいる方角と住人達の行き先が真逆の方向であるという可能性すらあるのだ。

 道標が無い以上、全てが運任せだった。

 家族と会える可能性も、再会に繋がる情報を得られる可能性も、明日もまた生き延びられるかどうかの可能性も。

 

(……最悪過ぎるな。今更思い返すまでもない事実だが)

 

 怪物の蔓延る街の中では、夜中もまた安全ではない。

 むしろ、夜中にこそ動きを活発化させる怪物だって存在するのだ。

 灯の壊れた街中はとても暗く、とても物を見れる状態ではなくなっている。

 そのような暗闇の下であっても他者の姿を一方的に認識出来る怪物の存在を、この時間帯からは警戒しなければならない。

 懐中電灯も無い以上、人間の姿のままではこの夜を無事に過ごし続ける事は難しい。

 青年は腰掛けていたベンチから立ち上がり、一度深呼吸をして、心を落ち着かせるよう意識を働かせる。

 視界に両方の手のひらを入れ、自身のもう一つの姿である獅子の獣人の形をイメージする。

 口の中には鋭い牙を、爪には毒を宿す紫の色を、足には地を駆ける獣の力を。

 一つ一つ、変わった後の姿と感覚を思い出すように、自身の身体として現実に定着させる。

 人間の身体が人外たる獅子の獣人に変わる『変身』の過程はとてもゆっくりで、全ての変化が終わった時には、黒い恐竜と遭遇した時と比べ何十倍もの時間が経過していた。

 

(……やっぱり時間が掛かってるな……戦いになる時と比べて……)

 

 青年だった獅子の獣人が赤い瞳を細める。

 意識して変わろうとしても、変化の速度に違いが生じている事はこれまでの経験で理解していた。

 怪物と遭遇するなどの危機的状況であれば、そこまで強く意識したつもりが無くとも半ば自動的に変わってくれるのだが、一方でそれ以外の危機感の薄い状況では余程強く意識しなければ身体が変わってくれる事は無かった。

 これでも能力に目覚めて以来、素早く『変身』出来るようになった方である。

 その事実を、自分がこの変身能力を制御出来るようになってきたとプラスに考えるべきか、あるいは怪物化の病が知らず知らず進行していっているのだとマイナスに受け止めるべきなのか。

 どちらかと言えばプラスに考えたい所だった。

 マイナスに考えた所で、この能力が生き抜く上で必要なものとなっている事実は覆しようがなかったから。

 

(……さて、と……)

 

 獅子の獣人の膂力であれば、街の中を人間の時以上に素早く移動する事が出来る。

 だが、先に述べた通り、夜中は夜中で日の光が有った時とは異なる危険が潜んでおり、迂闊に動こうとすればするほど襲撃される可能性は増す。

 よって彼は、この公園で一睡を決め込む事にした。

 視界を泳がせ、公園の中に造られたツリーハウスのような木造のアスレチックを発見すると、静かにその中へと入っていく。

 外部からの視界を遮れる位置に寄り、背負っていた荷を下ろし、仰向けに倒れ込んで眠ろうとしてみる。

 当然ながら身を包むものは無く、木の床は寝床としては硬く。

 身体を薄く覆う獣毛によって寒さについてはある程度防げるのだが、それとは別問題で眠りから覚めた時には節々を痛めそうな心地の悪さがあった。

 

(……ここで寝とかないと、後が辛くなる……)

 

 瞼を閉じ、意識を放棄しようと試みる。

 疲れは明確にあるはずなのに、思いの他眠気は薄かった。

 眠ろうと思えば思うほど、むしろ意識が覚めてしまう。

 獣の聴覚が吹く夜風の音も聴き取ってしまい、尚の事眠りにくい。

 ……本末転倒と言えなくも無いのだが、周りの音を鋭敏に感じ取れなければ、寝首を掻く不意討ちに対応出来ない可能性もあるため、彼はこうして獅子の獣人の姿のまま寝ざるも得ないのだ。

 

「……ああくそ」

 

 眠ろうと試みて、三十分。

 寝心地の悪さも相まって苛立ちは募り、それが尚の事彼の睡魔を遠ざけていた。

 無意味だと理解していても、苦言が漏れる。

 疲れを癒すために眠ろうとしているのに、眠るために疲れているような気さえしてくる。

 それでも眠ろうとする。

 眠らなければならない、と頭の中で反芻しながら。

 そうして、時間だけが過ぎて。

 ようやく意識が閉じてきて、寝息を立てようとした時だった。

 

 ドゴァ……ッッッ!! と。

 その耳に、風の音とは異なる凄まじく大きな音が入り込んで来た。

 

「…………」

 

 一瞬で意識が覚めてしまった。

 仰向けに寝転がっていた状態からすぐさま起き上がり、彼は状況を把握しようとアスレチックを構築する木の横壁の上にある隙間から街の景色を覗き見た。

 夜中の景色には月の光しか灯りとなるものが無く、今いる位置からでは目を凝らしてみても異変の全容は解らないが、それでも獣の聴覚はある音を聴き取っていた。

 彼が推測するにそれは、

 

(……爆発音。怪物同士が縄張り争いでもしているのか……?)

 

 いくら街の中には怪物が蔓延っているとはいえ、何の理由も無く起きる類の音とは思えない。

 怪訝な眼差しで街の方を睨んでいると、再び大きな音が耳の奥を突く。

 音源は、かつては多くの人間が住んでいたのであろう九階建てのマンション――その向こう側。

 何か怪物絡みの何かが起きている――と確信を得るには十分過ぎる情報だった。

 選択肢は三つ。

 危険の度合いを確認するために異変の起きている場所へと向かうか、見て見ぬフリをして音源とは真逆の方へ向かって走り去るか、あるいはこの場所に潜伏したまま嵐が去るのを待つか。

 少しだけ考えて、彼は選択する。

 

(……様子を見に向かった方が良さそうだな)

 

 間違い無く、多少の危険は付き纏うだろうが。

 何となく、それに見合うだけの発見があるような気がした。

 故に、彼は下ろした荷をそのままに、木造のアスレチックの中から出て、向かう。

 獅子の膂力を発揮し、人間のそれを凌駕する速度でもってアスファルトの大地を駆け抜ける。

 そうして異変の渦中近付くにつれて、獣の嗅覚が新たな情報を獲得していく。

 

(……煙の臭い。何かが焼けている臭い。そして……この臭いは)

 

 臭いは、どんどん強くなる。

 音は一定の間を経て、断続的に響いた。

 嫌な予感はしたが、引き返そうとは思わなかった。

 

(……怪物の臭いだ)

 

 彼は改めて確信を得るように、感じ取った臭いに答えを付けて。

 直後、答え合わせが為される。

 街灯とは異なる灯りでもって、暗闇の黒がある程度拭われた景色によって。

 暗闇に穴を開けるように眼前に広がっていたものは、臭いから推測していた通り――炎。

 燃え上がった炎の周囲に、砕け散った駐車場の地面が瓦礫となって散乱しているのが見える。

 炎や月明かり越しに見える景色には、それと同じ原因によるものであるのだろう――何者かによる破壊の痕跡が点々と存在していた。

 そして、それ等から少し離れた位置に、明確に人間とは異なる輪郭(シルエット)の巨駆が立っているのが視える。

 偶然にも背後から見たその外観は、これまで見た事のある怪物とも異なる異形だった。

 形だけで言えば、それは頭から一本の角を生やした竜のような姿。

 だがその体表に肉は無く、剥き出しとなった骨自体が身体を成している有様だった。

 青年の脳に、知識として記憶されていた恐竜の化石という単語が過ぎる。

 視界に入った怪物の姿は最早、骨の竜――あるいは竜の屍と呼ぶ他に無いもので。

 その脊椎にあたる部位には、何処か生々しい造形の――生き物のそれのような眼が付いた謎の物体が今まさに肉付けられていた。

 それがただ蠢くだけの肉の塊なのか、あるいは点々と存在する破壊痕を作りだした原因なのか、判断する間も無く。

 骨の竜の頭部が動き、その瞳にあたる部分に生じていた緑色の光が、ふと獅子の獣人を捉えた。

 思っていた以上に近付き過ぎたためか、気付かれてしまったらしい。

 骨の竜の口が、開く。

 

 ――ギィュルルルォォォオオ!!

 

 顎の筋肉など微塵も残っていないはずにも関わらず、その怪物は感高い奇声を上げていた。

 これまで見て来た多くの怪物と同じく、人並みの知性や理性は感じられない。

 しかし一方で、その強さの格がこれまで遭遇した怪物達とは違う――と、青年は思った。

 直後、骨の竜は青年に向かって振り返り、殺意しか感じられない速度でもって爪を振るった。

 咄嗟に後ろに跳び、避けていなければ怪我では済まなかったかもしれない。

 剥き出しの骨がどれほどの硬度を誇っているかなど、青年の知識では想像も及ばないが、そう思えるほどの危機感を抱いたのは事実。

 肉を持たない骨の身体に、猛毒の爪が通用するとも思えない。

 

(……最悪だ。いつもながら最悪すぎる……)

 

 ここは全力で逃げるべきだ――と、青年が素直に思案しようとした、

 その時だった。

 

「余所見してんじゃ――」

 

 突然に、誰かの声が聞こえた。

 声は上方――骨の竜の頭上から聞こえた。

 そして、

 

「――ねぇ!!」

 

 ゴッッッ……!! と。

 骨を強く打つ、鈍い音が夜中に響く。

 青年はその赤い瞳で、声と音の主の姿を仰ぎ見た。

 その姿を、見た事は無いはずだった。

 にも関わらず、何処か見覚えがあるような気がした。

 

(……こいつは……)

 

 殆ど人の形をした身体を染める主な色は、緑だった。

 その頭から長く伸びた髪の色は、薄く青み掛かった白だった。

 口元から曲がった牙がはみ出ているのが見え、両耳は長く尖っている。

 両肩や即頭部からは、人外の証とも呼べる鉄の色の角らしき突起が生えていて、その外観は青年の脳裏に『鬼』という単語を呼び起こさせる。

 

 その人外は、骨の竜の頭蓋に拳を振り下ろしていた。

 音は響いたが、骨の竜に痛みを感じているような素振りは無い。

 骨の竜が首を上に動かし、頭に乗った鬼人を振り落とそうとするが、その前に鬼人は獅子の獣人から見て左側の位置に自ら飛び降りた。

 

「頭を殴ったってのにマジで何ともねぇのか。頑丈なヤツだ」

 

 鬼人は踵を返し、その視線を骨の竜へと向け直し呟いている。

 攻撃が通用していない事実を認識していながら、まだ戦おうとしているようにも見える。

 そんな姿を見て、思わず青年は困惑交じりの声色でこう言った。 

 

「逃げないのか? 下手をすると死ぬぞ!!」

「あん? ってか誰だお前。話は出来るようだが……っと!!」

 

 言葉を交える暇も無く、骨の竜が追撃を仕掛けに三本指の右手を振り下ろして来た。

 幸いにも骨の竜の一撃を鬼人は避ける事が出来たようだが、その事実に安堵する間も無く続けて青年に向けて今度は左腕が振るわれる。

 初撃で攻撃の速度を理解していたつもりだったが、それでも回避は間一髪の事となっていた。

 動作と共に、言葉が紡がれる。

 

「お前と同じく人間『だった』同類!! 名前は忘れたから答えられない!!」

「ああそうかい!! 悪いがヤツは俺の獲物だから余計な事はすんなよ!!」

「馬鹿か!? 拳一つでどうにかなる相手でもないだろう!!」

「どうにかするんだよ!! 出来なきゃ死ぬだけだ!! ビビってんならさっさと逃げろ!!」

 

 どうにも撤退の二文字は思考に無いらしい。

 青年からすると、鬼人のことを見捨ててしまっても特に損する事柄は無い。

 助けなければならない理由も特に無く、助力する事自体を鬼人自身から拒まれている。

 だが不思議な事に、それでも放ってはおけないと思った。

 だから、

 

「こっちとしても死なれると困る。勝手に助力させてもらうぞ!!」

「はぁ!? お前馬鹿、俺一人で十分だってー!!」

 

 いちいち鬼人の訴えは聞かなかった。

 獅子の獣人は意を決し、骨の竜へと立ち向かう。

 



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 自分が変化した後の戦闘能力がどれほどの物なのか、実のところ青年自身もよく解ってはいなかぅた。

 全力で走ってどこまでの速度を出す事が出来るのか、力ずくで殴ってどれほどの硬さまでなら砕く事が出来るのか、どの程度の攻撃までなら直撃しても耐え切れるのか――疑問を上げればキリが無い話だが、自らの力がどこまで通用するのかどうかという指針は、実際に全力を発揮せざるも得ない状況に立たされなければ限界の目安を知る事も出来ない。

 青年は、決して自身の能力を過大評価しないようにしていた。

 戦う時には、常に確実に敵を倒すよう全力を出そうと意識していたつもりだったが、大抵の相手は猛毒の爪で一裂きしただけで死に至ってしまうため、常々自身の変化した身体の『強さ』に実感を得る事は出来ていない。

 これから先も安全に確立に仕留められる相手だけと遭遇するのであれば、それはそれで問題も無いのだが――決してそう都合良い話にはならないだろう。

 事実として、眼前に立つ骨の竜の巨体はこれまで対峙したどの怪物よりも更に巨大で、隣に見えるマンションの半分程度の身長は誇っていた。

 マンションが遮蔽となって姿を隠していたとはいえ、何故こうして近付くまで気付く事が出来なかったのか、不思議に思えるレベルだった。

 そして何より、その身体から吹き出る気配そのものが、青年の直感に危険さを示している。

 この骨の竜は、こちらを『殺せる』だけの能力を持っている――と。

 

(……とんでもない話だな。こんなの、殆ど死んでるも同じじゃないか)

 

 骨の竜の三本指の鉤爪による攻撃を跳んで避け、その動作を目に慣れさせつつ青年たる獅子の獣人は考える。

 眼前の怪物は身体の殆どに筋繊維が見えず、それでいて骨だけで動いている。

 その事実から見ても、その存在は他の怪物と比べてひたすらに異常さを極めている。

 何処かに、死体とも呼べる骨だけの身体を動かすための『何か』が存在する――と考えるのが無難な理由だろう。

 であれば、まず第一に怪しい部分は、僅かに残っている生身の部分。

 

(……どちらかの、肉の塊か)

 

 背後から姿を目撃した際に見えた、脊椎に形成されていた橙色の蠢く肉の塊。

 そして、正面から見て首の下――肋骨に覆われる形で存在している、脊椎のそれと同色の心臓のような外見の鼓動する肉の塊。

 元が生物であったのであれば、どちらかと言うと後者の方が急所としては適切だ。

 生身の部分であれば、猛毒の爪で腐らせ死滅させる事も出来る。

 とはいえ、

 

(あそこを爪で攻撃するには、相当近付かないといけない……俺に、出来るか?)

 

 黒い恐竜に対してやったように懐に潜り込み、その場で跳躍したとしても心臓を狙う事は難しい。

 心臓の周りを分厚い肋骨が覆っている以上、少なくとも心臓より下の角度からの攻撃は肋骨に遮られてしまう。

 あるいは肋骨と肋骨の間に指一本でも通せるだけの隙間があれば狙えるかもしれないが、仮にその方法を試して失敗した場合、返しの牙で殺されてしまう可能性が非常に高い。

 確実に、骨に遮られる事なく心臓を爪で抉り裂くためには、心臓よりも僅かでも上の角度――首元の付近から狙う必要がある。

 そして、

 

(……アイツには、あまり期待は出来ないな)

 

 半ば勝手に共闘させてもらっている相手の鬼人の手に、武器らしい武器は見当たらない。 

 せめて長い刃物か何かでも持ち合わせているのであれば、肋骨の隙間を通して心臓を貫く事が出来たかもしれないのだが、獅子の獣人たる青年と同じく徒手空拳しか武器として扱えるものは無いらしい。

 互いに死なない程度に囮の役を担えれば御の字だろう――と、割と適当に共闘相手の扱いを内心で決めていると、当の鬼人から大声でこんな言葉が飛んで来た。

 

「へいへーい!! お前はただ避けるだけか腰抜けー!! 情けないぞ色々とー!! その腕っ節は飾りかー!? ホント何しに来たんだお前!! 足引っ張りに来たんなら帰れ!!」

 

 全体的に小馬鹿にする調子の声だった。

 というか、喋ってる暇があったら打開策を考えてほしいと青年は切に思う。

 そして、単純に言葉の内容に対して多少腹が立った。

 よって青年も吠えるように言い返す。

 

「こちらはそもそも戦おうと此処に来たわけじゃないんだよ!! 気になったから見に来ただけだ!! というか、囮になってやってるんだから隙を見てお前があの心臓を狙ったらどうなんだ!!」

「あぁん? 心臓……って、まさかアレのことか? というか骨だけなのに何で心臓あんの? 骨の内側に血管でも詰まってんの? 全体的にどうなってんの?」

「そんな事を俺が知るか!! 少なくともあそこ以外に急所らしい急所は無いだろう!!」

「お、おう……それもそうか……」

 

 何処か理解出来ていないような調子だが、鬼人も一応は青年の考えに乗ってみる事にしたらしい。

 これで気を引いている内にどうにか近付いて、心臓を攻撃してくれれば良いのだが――と考え骨の竜の攻撃を避け続けていた青年だったが、突然骨の竜が青年の事を追う事を止めた。

 思わず疑問を浮かばせる青年だったが、そこで鬼人が突然慌てたような声色で青年に向けてこう言った。

 

「……っておい、待て!! 離れすぎるな!!」

 

 青年には、突然投げ掛けられた鬼人の言葉の意味をすぐには理解出来なかった。

 少し離れた位置から骨の竜の姿を見て、ある一点に疑問を浮かべた時には遅かった。

 直後、脊椎に肉付けられていた橙色の肉塊が、突如上方に向けて射出される。

 

「……ッ!?」

 

 その形状を見て、青年の脳裏に『ミサイル』という単語がただ過ぎる。

 脳に刻まれた知識の通りであれば、それは人間が作り出した大規模な破壊を生じさせる兵器。

 そう、思えばこの場に来たそもそもの発端は遠方からも強く響いた爆発音ではなかったか。

 射出された『ミサイル』は一度上空に向けて放り出されたかと思うと一度放物線を描き、直後に青年の立つ場所に向けて急降下してくる。

 よく見るとその『ミサイル』には緑色の目と口が存在していて、外観からしても無機質な兵器というよりは生きた怪物のような印象を受けた。

 アレが起爆した場合、爆発の範囲はどれほどのものになるのか。

 音だけでも遠方にまで響き、この場に転々と存在する破壊痕から見ても、生身の身体に直撃でもすれば肉片すら残ることがない事を容易に想像が出来た。

 

(まずい……っ!!)

 

 獅子の膂力でもって気持ち全力で駆ける青年だったが、ふと『ミサイル』の方へと視線を向けると、今も尚猛烈な速度で大地に向かって直進していたはずの『ミサイル』は、明らかに軌道を曲げて青年を追跡していた。

 信じられないことに、追尾機能を有していたのだ。

 このままでは到底避けきれない――そう判断した青年は咄嗟に地面に散らばっている瓦礫の内、片手で持てる程度のサイズのものを右手で持ち、それを礫として振り向きざまに全力で投げ放った。

 獅子の獣人の腕力でもって銃弾の如き速度を得たアスファルトの礫が、あと三秒もあれば直撃する距離にまで迫っていた『ミサイル』に命中する。

 骨の竜が放った『ミサイル』は、人間の作ったそれとは異なり外殻が鋼鉄ではなく肉によって構築されているものだ。

 内部構造まで詳しく知る由は無いが、それが知識の中にある『ミサイル』と同じであれば、何らかの物体に衝突したりする事によって生じる衝撃の影響で起爆する。

 知識として有していた上方を頼りにした対応方法であったため、骨の竜が放った肉塊の『ミサイル』にも人間が造ったものと同じ理屈が通じるかどうか怪しい所ではあった。

 結論から言えば、間違ってはいなかった。

 幸いにも、とは付け加えられないが。

 

 直後、青年の間近で肉塊の『ミサイル』は起爆し、光と共に莫大な量の熱と音を撒き散らす。

 当然ながら、爆発の範囲内に立っていた青年は無事では済まなかった。

 爆音が、獅子の絶叫すら掻き消した。

 

 直撃こそ免れはしたが、起爆した肉塊の『ミサイル』から生じた熱は身体を焼き、音は鼓膜を鋭く貫き、そういった痛みに苦しむ声を上げる間も無く、青年の身体が一○メートル以上は軽く吹き飛ばされてしまう。

 地面の上に背中から叩き付けられ、二転三転。

 うつ伏せになって倒れこむ青年の意識が、一瞬朦朧とする。

 頭が痛い。身体が熱い。喉が渇く。

 それでも、生きている――その事実を強く認識し、歯を食いしばって起き上がる。

 

(死んで……たまるかっ……!!)

 

 骨の竜が、青年にトドメを刺そうと迫り来ようとする。

 だが、その前に骨の竜の真横から鬼人が叫んだ。

 

「おおおおおおおおおおおおっ!! 覇ァ!! 王ッ!! 拳ッ!!」

 

 動作に気合を込める程度の効果しか無いはずの言葉だった。

 だが、直後に鬼人が骨の竜に向かって突き出した拳から、紫色の巨大な怪物の顔のような何かが射出された。

 それは勢いを伴って骨の竜の顔面に当たると、骨の竜の頭部が実際に殴られたかのように横を向いた。

 その攻撃の内容に、青年は何処か覚えがあるような気がした。

 鬼人の攻撃によって脅威の優先度が変わったのか、骨の竜の注意が青年から鬼人の方へ逸れる。

 鬼人の方へと振り向く骨の竜の脊椎に『ミサイル』は存在しなかったが、一定の時間が経過すれば新たな『ミサイル』が肉付けられる事は容易に想像がついた。

 もう一度同じ事をされれば、次は致命傷――最悪死に至るかもしれない。

 

(アイツの言っていた、『離れるな』という言葉……)

 

 骨の竜の『ミサイル』を封じるための間接的な手段は、既に鬼人が叫んでいた。

 つまり、

 

(……『ミサイル』の破壊力が強すぎるから、爆発があの化け物自身を巻き込んでしまう間合いでは発射出来ないんだ。単に爪で攻撃した方が有効だからって可能性もあるけど、最低限生存本能ってやつがあるのなら化け物だって『自分を傷付ける』選択は本能的に避けるはず……)

 

 対処法は理解した。

 骨の竜が放つ『ミサイル』を超える速度で動ける者がいれば、あるいは追尾してくる『ミサイル』を意図的に誘導し、骨の竜自身に叩き込む事も出来たかもしれないが、獅子の獣人の膂力ではそこまで都合の良い方法を実現させる事は出来ない。

 であれば、最早取れる手段は接近戦以外に無い。

 それはそれで爪で裂かれる危険が付き纏うわけだが、追尾してくる『ミサイル』の脅威に曝されるよりは幾分マシだと思えた。

 

「今行く……!!」

 

 鬼人に対してというよりは、自分自身に言い聞かせるように青年は呟く。

 骨の竜の意識が鬼人の方へと逸れた今この時こそ、青年が比較的安全に攻撃を出来る好機だった。

 痛みを堪え、青年は自ら骨の竜の下へと全力で駆け出す。

 その接近に、骨の竜もまた気付いたらしい――骨と化す前は尻尾だったのであろう長い尾てい骨を無造作に振るってくる。

 視界の外からの攻撃に回避は間に合わない――青年は右の腕から肩までを押し付けるような一撃で尾てい骨の一撃を迎撃する。

 まるで鉄板にハンマーを振り下ろしたかのような轟音が響くと共に、骨の竜の尾てい骨が獅子の獣人の膂力に押される形で動きを止める。

 再び振るわれる前に駆け抜け、骨の竜の足元にまで近付き、膝にあたる部分の裏側に向かって跳び――渾身の蹴りを放つ。

 

「っ……!!」

(硬い……だが!!)

 

 ミシィ!! と()()()骨が軋む高い音が鳴り、強制的に骨の竜の左の膝がくず折れ、姿勢が崩れる。

 転倒を免れようと動いた左の手が地に着き支えとなるが、それだけでは自重を支えきれずに左の膝も地に着いた。

 その結果、少しだけ急所と思わしき心臓の位置が低くなっている。 

 着地し、吠えるように言葉を放つ。

 

「今だ!!」

「当然!!」

 

 青年が伝えるまでも無く、攻撃の回避のため下がり気味に立ち回っていた鬼人が、一転して骨の竜の下へと駆け出す。

 骨の竜が支えに使っていない右の手で鬼人の体を掴み取ろうとするが、鬼人はその手を飛び越えるように跳躍し、骨の竜の心臓目掛けて拳を放つ。

 ドスッ!! という肉を打つ音が重々しく響き、続いて骨の竜の口から感高い絶叫が響いた。

 その反応から見ても、やはり心臓らしき肉の塊が急所であった事は間違い無いようだ。

 だが、

 

「っ!! うおっ!?」

 

 急所に一撃を貰ったはずの骨の竜は、痛みを叫びとして訴えながらも戦闘行為を中断しようとはしなかった。

 先ほど空を掴んだ右手で心臓に拳を突き放っていた鬼人の事を掴み取り、そのまま握り潰そうとしている――いや、あるいは口元にまで寄せて牙で噛み砕くつもりか。

 鬼人は必死に掴む右手から逃れようとしているようだが、このままではどちらにせよ助かる見込みは無い。

 選択肢は二つ。

 すぐにでも鬼人を助けることを優先するか、あるいは無防備になった骨の竜の心臓を猛毒の爪で抉るか。

 青年は殆ど衝動的に叫び、動いた。

 

「やめろおおおおおっ!!」

 

 青年は骨の竜の足元から懐へと移動し跳躍――骨の竜の右の手首を思いっきり殴り付ける。

 だが、拳の威力が足りないのか、あるいは方法自体が間違っているのか、右手の掴む力が弱まっている様子は無い。

 重力に引っ張られ、落ちる。

 そうして無駄な時間を過ごす間にも、鬼人の口から苦悶の声が漏れている。

 

(くそっ、どうする……このままだとアイツが……!!)

 

 獅子の獣人には、その身体にある部位以外に攻撃に使えるものは無い。

 骨の体を両断出来るような得物も無ければ、粉砕出来るほどの膂力があるわけでも無い。

 であれば先に心臓を狙ってみるのも一つの手ではあるのだが、ここに来て青年は思考に疑問を生じさせてしまった。

 猛毒の爪で心臓の肉を抉ったとして、その時点で骨の竜は殺せるのか。

 いやそもそも、あの心臓が本当に骨の竜の活動を司る核なのか。

 少なくとも、過ちの対価が別の誰かの命になってしまうこの状況においては、決して抱いてはならない疑いの念だった。

 

 青年は思考する。

 骨の竜が放った『ミサイル』の爆発によって倒れ伏し、危うくトドメを刺されかけたその時、骨の竜に向かって物理現象では説明がつかない飛び道具を放って骨の竜に一撃を食らわせていた。

 アレは怪物となった者だけが行使出来る『能力』なのか、あるいは『技』なのか。

 同じ事を、自分にも出来るのか。

 出来たとして、それは骨の竜に通用するのか。

 

(……やるしかない)

 

 助けるための選択肢に、他のものは浮かばなかった。

 鬼人が飛び道具を放つ際、何か特別な動作をしていたようには見えなかった。

 ただ突き出した拳の方から、未知の力――『気』としか表現出来ないエネルギーが形と威力を伴って射出されたように見えた。

 であれば、そこに複雑な理論や理屈は存在しないのだろう。

 大事なのは、それを実現させようとする意思の方だと不思議と思う。

 

「――――」

 

 右手を拳の形にし、左手だけを骨の竜の右腕に向け狙いを定める。

 拳から放つ『気』のイメージは、不思議と自然に構築出来た。

 知識としてではなく、怪物の身体が技能――あるいは機能として知っているような感覚があった。

 その感覚に身を任せ、拳を突き出しながら、頭の中に浮かんだ言葉を叫ぶ。

 

「食らえ――獣王拳ッ!!」

 

 直後に、獅子の顔の形をした紫色の『気』が、青年の右手より解き放たれた。

 獅子の『気』は拳の軌道と同じく直進し、牙を剥いて骨の竜の右腕に食らい付く。

 そして、

 

「噛み砕けッ!!」

 

 命じるような言葉と共に、握り締めた拳に更なる力を込める。

 すると、その動作に連動する形で骨の竜の右腕に食らい付いていた獅子の『気』が力を強め、一息に骨の竜の右腕を噛み砕く。

 バキィッ!! という音と共に砕けた骨が散らばり、骨の竜が絶叫にも等しい奇声を上げる。

 右腕が噛み砕かれた事により繋がっていた右手は重力に従い地面に落ち、鬼人もまた手の中から脱出して着地する。

 その顔は、驚きの情を浮かべていた。

 

「お前、その技……」

「…………」

 

 青年自身もまた、自分が『技』を放てたことに対して少なからず驚きを覚えていた。

 骨の竜の右腕を噛み砕いた獅子の『気』は空気に溶けるように消失し、骨の竜は奇声を上げながら残った左手を振り下ろしてくる。

 それを青年と鬼人は互いに左右に分かれる形で避け、双方共に視線を再び骨の竜の心臓に向ける。

 

「それじゃあ、もう一発いくぞ!!」

「……わかった……!!」

 

 右手を失い立つ事さえ難しくなった骨の竜が、そのままの姿勢で何かをしようとした。

 威嚇の咆哮でも上げようとしたのか、自らに及ぶ被害をも無視して『ミサイル』を放とうとしたのか。

 どちらにせよ、二人の行動を遮るには遅かった。

 

「獣!!」「覇ァ!!」

「「王ッ!!」」

「「拳ッ!!」」

 

 鬼人と獅子の獣人――その拳からそれぞれ異なる外観と色を伴った『気』が放たれる。

 鬼の牙と獅子の牙が骨の竜の心臓に食らいつき、双方が拳に力を込めると共に肉を潰す音が炸裂した。

 双方の『気』の蹂躙はそれだけに留まらず、心臓の裏側に存在していた『ミサイル』の発射口でもある脊椎までも貫通し、肉付けの終わっていない未完成の『ミサイル』を起爆させた。

 ドゴァァァッ!! という断末魔の如き大きな音と共に、骨の竜の体が爆発に呑まれる。

 生じた爆風によって広がる灰煙に、青年と鬼人は咄嗟に腕で視界を遮り自らの目を守った。

 やがて爆風が吹き抜けた事を実感した青年は腕を下ろし、骨の竜の姿を改めて視認する。

 

 瞳から、緑色の光は消えていた。

 全身からは焦げ臭い黒煙を上げ、胴部に見えていた心臓は残骸すら吹き飛んだのか残っておらず、脊椎やそこから生える百足の脚――あるいはそう見えるだけで骨と化す以前は翼であったのかもしれない部位は砕け、最早見る影も無く。

 そこにあるのは、動かぬただの骸の姿だった。

 

「…………」

 

 アレも、元は人間だったのだろうか。

 外敵として遭遇した以上、考えてもどうしようも無い事ではあったが、それでも思ってしまった。

 眼前で、骨の竜の身体が細やかな粒となって分解されていくのが見える。

 これまでも何度か見た事のある光景ではあった。

 見る度に疑問に思う事もいくつかあったが、その殆どに答えは出ない。

 確信を得られたのは、死に果てれば自分もああなるということぐらいだった。

 

「……ん?」

 

 ふと、骨の竜の消滅を見ながら立ち尽くしていた青年は、視界の中におかしなものを見た。

 いつの間にか鬼人が、消滅しようとしている骨の竜の方へと向かっていたのだ。

 何やら、砕けて分散した骨の竜の残骸に視線を泳がせているようで、やがて一本の骨を手に取った。

 それはただの人間であれば両手を用いてようやく掴める太さを誇る骨だったが、鬼人の手は人間のそれよりも一回りほど大きなもので、易々と片手で竜の骨を掴み取っていた。

 不思議な事に、鬼人が手に取った骨だけは途端に分解されなくなっていた。

 まるで、鬼人の武器としてその存在が切り換わるように。

 

「……おー、しっくり来るな。武器が欲しかった所だしちょうどいい」

 

 先ほどまで闘っていたとは思えないほど、軽い調子の声だった。

 鬼人の表情を見れば、骨の竜の消滅に対して感傷を抱いているようにも見えない。

 それが、青年にとっては少し羨ましく思えた。

 物色が終わったのか、鬼人は右手に竜の骨を棍棒のように携えながら青年の近くにまで歩いてくる。

 

「まぁ、一応礼は言っておくぜ。一人じゃ勝てなかったっぽいし」

「……お互い様、だと思うがな。お前が助けてくれなければ俺はやられていた」

「しっかし、俺と似たことが出来るとは思わなかったな。あんな事が出来るんなら最初からやってくれりゃよかったのに」

「自分でも出来るとは思っていなかった。偶然の産物とでも思ってくれ」

「……偶然にしては、出来すぎだったがな」

 

 鬼人が小さく漏らした言葉は、青年の脳裏にも同じ疑問を抱かせるものであった。

 しかし、今は答えの出ない事について長々と考えている暇は無い。

 目の前には自分と同じく、知性や理性が人並みに残った相手がいる。

 ひとまず外敵を撃破し、ある程度の余裕がある時間を作れた以上、今はその貴重な時間を言葉を交えることに使うべきだ。

 

「とりあえず、もし良かったら場所を移して休憩しないか。必要なら食料も分ける」

「お、そいつは俺としても願ったり叶ったりだな」

 

 鬼人自身からも承諾を得て、青年は元居た場所へと歩を進める。

 眠気もすっかり覚めてしまい、用件も増え、今日の夜更かしは長引きそうだった。

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 数分後。

 獅子の獣人の姿のまま、青年は鬼人と共に荷物のリュックサックを置いていた木造のアスレチックの中へと戻って来た。

 途中、戦闘の音に引き寄せられる形で別の怪物と遭遇する可能性も考えられたが、何事も無く移動を済ませる事が出来たのは幸いだった。

 青年は自ら毒爪を触れさせぬよう注意しつつ、リュックサックの中から食料をビニール袋ごと取り出し、自分と鬼人の間に置く。

 ラインナップとしては、焼きそばやらハンバーグやらを生地の中に同梱した惣菜パンやおにぎりといったコンビニの売れ残り(確実に消費期限切れ)が主だった。

 その内容に鬼人は特に不満そうな顔をすることもなく、適当な調子でマスタードを乗せたウィンナー入りのパンを覆う包装のビニールを手で裂く。

 口に銜え、口元から張った肉の折れる音を鳴らしながら言葉を発する。

 

「しっかし、こうして見るとライオンってだけじゃなくてゾンビっぽくもあるな。その姿」

「ゾンビ、か。こうして『生きて』いる時点で実感は湧かないが……」

「例えだから気にすんなって。一応カッコいいと思うぞ、黒くて」

「一応と言ってる時点で皮肉染みているがな」

「……お前、もしかしてその姿嫌いだったりする?」

「少なくともカッコいいと思ったことは無い」

 

 青年は自分で並べた食料に手を伸ばそうとはしなかった。

 特に空腹になっていたわけでもなかったし、うっかり毒の爪を掠めて貴重な食料を腐らせてしまう事は避けたかったからだ。

 尤も、鬼人の言う通り、獅子の獣人の体が死体のように根本的に腐っているのであれば、腐った食料であろうと平らげることは出来るのかもしれないが。

 

「……で、こちらはこちらで聞きたいことがあるんだが」

「何だ。前置きしとくけどこっちも正直知ってる事は少ないぞ」

「普通の人間達が避難してる場所が何処か知らないか。方角だけでもいい」

「知らん。そもそも今のこの世界に普通の人間が生き残れているのか、それすら解らん状態じゃあな」

「……そうか」

 

 どうやら鬼人も、青年と同じく避難した人間達が何処へ向かったのか、見当もつかないらしい。

 最悪、もう既にこの世界に『普通の人間』が存在しない可能性も頭に浮かんでいるようだ。

 その可能性は、青年もまた考えていないわけではなかったが、そうであってほしくないと思っている。

 思わず苦味を帯びた表情を浮かべてしまった青年に対し、鬼人は続けて『つぶあん&マーガリン』と書かれたコッペパンの袋に手を伸ばしながら、適当な調子で問いを返す。

 

「お前は普通の人間を探しているのか?」

「厳密には家族。名前も顔もロクに思い出せてないがな」

「ふーん。記憶を失ってるのは俺だけと思ってたけど、お前もなのか」

「……お前も記憶を失ってるのか」

「まぁな。記憶喪失がこの力の対価によるものなのか、あるいは別の切っ掛けによるものなのかまでは解らんけど」

 

 言葉の内容に対して、鬼人の口調は軽かった。

 失った記憶に対して執着が無いのだろうか。

 そう思っていた青年だったが、ふと鬼人がこんな問いを出して来た。

 

「お前にとって、家族ってのは大切なものなのか」

 

 一瞬、青年はその問いに言葉を詰まらせた。

 青年にとって、それは当たり前の前提だと思っていた事だった。

 だから、青年は逆に問いを返した。

 

「……お前にとっては違うのか?」

「違うな。だって、俺の方には記憶として残っちまってるし」

「……何?」

「覚えてるんだよ。何故か、家族の事は。覚えてて嬉しくもねぇけど」

 

 予想外の返事だった。

 単なる疑問と思っていただけに、鬼人が口にした内容は青年に驚きを感じさせるに値するものだった。

 鬼人は続けて、その事実から考えられる事を口にした。

 

「それが大切だと思っているお前は忘れていて、大切じゃない俺は覚えている。もしかしたら、俺達は力と引き換えに、人間だった頃に大切と思っていた事を思い出せなくなっちまったのかもしれねぇな」

 

 それは、単なる予想の話だった。

 だが、決して軽視出来ることではなかった。

 もしも、鬼人の語った言葉が真実だったとしたならば。

 今も尚、大切なものだと信じているものの全てが、これから先失われる記憶のリストであるという事になってしまう。

 最終的に人間としての全ての記憶(あかし)を失った時、自分は果たして狂わずにいられるのか。

 人間としての自分は、生きていられるのか。 

 目に見えない何かに貪られているような気がして、青年は不安を感じずにはいられなかった。

 結局、この日も眠れなかった。

 



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 暗闇の時間が過ぎ、日陰の時間が訪れた。

 骨の竜との戦闘によって生じた疲れを出来る限り癒すため、木造のアスレチックの中で鬼人と共に一夜を横になって過ごした青年は、既に獅子の獣人の姿から人間の姿に戻っている。

 晴れているとは言い難い曇り空の下、青年は急かされるような足並みで歩き続けていた。

 先日の鬼人との会話の過程で、リュックサックの中に溜め込んでいた食料を予想以上に消費した。

 思えば鬼人が(戦利品の骨棍棒を除いて)手持ち無沙汰であったという事実から察するべきだった事なのだが、鬼人には自身の食料の持ち合わせは少しも無かったのだ。

 決してこれまで何も食べていなかったわけではないとの事で、途中途中青年と同じく売店の売れ残りなどを頼りに腹を満たしていたらしいが、青年とは異なりリュックサックのような多くの物を入れるための道具が都合よく手に入らなかったらしく、基本的に手に入れた食料は満腹になるまで腹に詰め込んでいたらしい。

 そうして移動と共に時は経ち、腹も空いてきて食料を探している内に骨の竜と鉢合わせになってしまい、闘うことになったと鬼人は夜中に語っていた。

 そんなわけで、青年は動き出して早々に自分自身が食べる食料を確保するために売店が近場に無いか探しだす羽目に。

 でもって、同行者が一人。

 

「いやー悪いな。パン食だと思ったより腹が満たせなくてよ」

「……助けられた恩もあるからある程度は許容したわけだが、それにしたって食べ過ぎだと思うんだ俺は」

「だからその点については謝ってるだろ。悪かったって」

 

 青年の真横には、件の鬼人が着いて来ていた。

 どうやら鬼人も青年と同じく避難した人間の居所を知りたいらしく、ひとまず青年と行動を共にする事にしたらしい。

 実際問題、骨の竜を撃破した時のように互いに助け合う事が出来れば怪物と遭遇した際の生存確率は飛躍的に高まるため、青年としても同行者が加わることに不満は無かったのだが、単純に食料の消費がこれまでの二倍――あるいはそれ以上になるという点は無視出来るわけもなく。

 さっさと食料を補給して、安心を得たいというのが青年の本音だったりした。

 歩を進めていると、ふと頭に浮かんだ疑問を青年は鬼人に対して口にする。

 

「というか、人間の姿には戻らないのか? 怪物の姿が見えない今、その姿でいる意味は無いと思うが」

「逆に聞きたいんだが、何でわざわざ人間の姿に戻ってるんだお前? 脆い人間の体より強い怪物の体でいた方が安全だし、戻る意味も特に感じられないんだが」

「使い続けた結果どんな『副作用』があるのかも解らないだろ。納得出来る理由が無い限り、俺はあの姿になりたいとは思わない」

「ふーん、まぁ強要はしねぇけどよ。随分面倒臭そうな進み方をしてんのな」

 

 適当な調子の鬼人の返事に、青年は内心で「大きなお世話だ」と呟いた。

 青年自身、わざわざ遠回りな進み方をしているという事に対して自覚はあった。

 自身の現状の目的を鑑みても、獅子の獣人の姿で進んだ方が早く進めるという事ぐらい、鬼人に指摘されるまでもなく解っている。

 それでも、恐れも無く平然と怪物としての側面を受け入れている鬼人の素振りには疑問しか浮かばない。

 この鬼人だって、元は人間であったはずなのに――と。

 

「……はぁ」

 

 思わず、怪物の力を得てからもう何度吐いたかも覚えていないため息が漏れた。

 決して他人事とは言えない問題だが、それで不満を溜め込んでいる自分自身がどうしようもなく馬鹿らしく思えたのだ。

 自分でも気付かぬ内に、心が病んできてしまったらしい。

 自覚していた当たり前の事を指摘されただけで、不機嫌になってしまう程度には。

 

 食料探しは難航した。

 発見して入った売店の中を見繕ってみても冷凍食品に惣菜や生肉などは全くと言っていいほどに見当たらず、海産物に至っては店自体が冷蔵の機能を失っているためか既に腐臭の源と化してしまっていて、腹を満たすために確定で食中毒に苦しむ羽目になりかねないものばかりだった。

 とても焼いて食べられるようになる類とは思えない。

 店内に食べ物のかすや残骸といった『食後』を意味するものが散乱していなかった事から見るに、食材の不足っぷりは怪物によって無秩序に食い荒らされたのではなく、鬼人と同じく人並みの知性と理性を持った複数の『誰か』が持ち去ったのであろう事は想像出来た。

 歯を磨く事すら難しい現状では虫歯が怖くもなるが、幸いにも余っていたチョコレートなどの菓子類やサイダーなどの炭酸飲料が入ったペットボトルもリュックサックの中に確保しておく。

 元々、スーパーやコンビニの備蓄は『誰か』が既に確保しているとしか思えない不足っぷりであった事を青年自身も理解はしている。

 とはいえ、食料が手に入らず困るのは他ならぬ自分達になるわけで、罪悪感を感じつつも怪物の影響によって壊されてはいなかった無人の住宅の扉を壊して侵入し、キッチンにある冷蔵庫や棚の中身を確認したりもした。

 恐らくは避難を急いだために持っていく事が出来なかったと思わしき備蓄を確保し、青年はようやくリュックサックの中にしばらくは安心出来るだけの食料を詰め込み終える。

 その一方、鬼人は主のいない家の内装を眺めながらこんな事を言っていた。

 

「住む奴がいないと寂しいもんだな。いい家なのに」

「壊されてないだけマシ、だと思いたい所ではあるな」

 

 そこにはきっと、誰かの思い出があったのだろうとは思う。

 だが、それは結局『誰か』とは他人の関係である青年や鬼人には決して共有出来ない情報なのだ。

 そして本来、招かれざる客が勝手に上がり込んで良い場所ではない。

 主のいない家を後にし、青年と鬼人は元々進んでいた方角に向かって歩みを再開する。

 

(……それにしても……)

 

 道中、青年はふと空を見上げた。

 今日は雲に遮られて見えないが、空にはまるで傷跡のようにも見える裂け目が生じている。

 それは日が経つにつれてどんどん幅を広げているようで、青年にはその裂け目がまるで口を開くかのように――この世界を飲み込もうとしている怪物のようにも思えた。

 あの裂け目の向こう側には、何があるのだろう。

 脳裏に刻まれた知識として、人間が死後向かうとされる天国や地獄という魂の行き場の名が浮かぶ。

 だが、人間ではなくなった者達に天国や地獄に続く扉は開かれるのか。

 返り討ちにしてきた怪物達が、死後に光の粒子となって何処かへと消える光景が頭の中で反芻される。

 あの光は、何処へ向かったのだろうか。

 天国か、地獄か、あるいはそのどちらでもない何処かか。

 仮に、空の裂け目の向こう側に世界があるとすれば、そこが怪物達の世界――いつか還るべき場所なのか。

 

「…………」

 

 雲に遮られて見えないはずなのに、自分の意識が裂け目の中に吸い込まれていくような錯覚がして、青年はそれまでの思考を断ち切るように視線を下ろした。

 多々続く睡眠不足の影響か、頭が痛む。

 一度立ち止まり、リュックサックの中から黒色のラベルが貼られたペットボトルを手に取る。

 鬼人からも喉が渇いたと訴えられたので、自身が手に取ったものとは異なり薄い赤色のラベルが貼られたペットボトルを手渡しておく。

 蓋を回して開き、中身である黒色の炭酸飲料を口に含む。

 大して甘くは無かったが、それでもある程度嫌な気持ちを和らげる程度の効果はあった。

 一方で、鬼人は不満そうに口を尖らせ、

 

「……あのよぉ。梅味のサイダーって正直どう思うよ?」

「飲んだ覚えも無いから知らん。吐かずに飲めるならいいだろ」

「……あー、ヤバい、口直ししたい。ちょっと何か甘いの寄越してくんね?」

「我慢しろ。その調子で食べ始めたら食料枯渇コースに一直線だろうが」

 

 鬼人の不満そうな声を聞き流しながら、青年は炭酸飲料のボトルを片手に歩く。

 適当な話題を交えながらも、彼等は確実に何処かへと進んでいた。

 曇り空は晴れず、変わらない空模様の所為でどれほどの時間歩き続けていたのかは解らないが、それでも見える景色は多少変わっていく。

 とはいえ、疲れは感じて来た。

 いつまで歩き続ければ、人に会う事が出来るのか――と青年は少し憂鬱になる。

 そんな時だった。

 

「……おい、アレは何だ……?」

 

 鬼人が、疑問の声を上げながら右手の人差し指で何かを指していた。

 鬼人の指した方向を目で追うと、青年も鬼人が疑問の声を漏らしたものを目撃した。

 それは、

 

「……煙……?」

 

 自分で言っておきながら、それでも疑問符が浮かんだ。

 これまでの歩みの過程で、同じものを見る機会は何度かあった。

 大体は怪物が吐き出す火炎が生み出す二次被害によるもので、つい先日も骨の竜が放った『ミサイル』によって爆発と共に黒煙が空へと昇っていくのを見たばかりだった。

 だが、眼前に見える煙はそういった前例とは毛色の異なるもののようだった。

 色は黒ではなく白色で、漂う臭気から不快さは感じられず、むしろ食欲を湧きたてるような香ばしさの方が感じられる。

 煙自体の規模も前例に比べれば小規模で、危機感を煽るようなものではない。

 青年は期待を込めて、こう結論を出した。

 

(……人がいる!!)

「あ、おい!! どうしたそんな慌てて!!」

 

 鬼人の声など耳に入らなかった。

 息を切らしかけるほどに速く、青年は煙の立っている場所に向かって走る。

 胸の内が高鳴った。

 ようやく言葉も介せぬ怪物ではない『誰か』に、会う事が出来るという期待によるものだった。

 そして、青年の視界に望んでいたものが見えた。

 見知らぬ顔の人間達が集まっていたのだ。

 視界を凝らして見てみれば、煙の発生源と思わしき焚き火があって、その傍には生の肉や野菜が串に刺される形で放置されている。

 同じようなものが、他にも複数存在していた。

 どうやら、食事を作っている最中だったらしい――青年はとりあえず声をかけてみる事にした。

 

「あの……」

 

 最初に、その声に気付いた一人――藍色の服を着た大人びた女性――が振り向いた。

 その表情には疑問の色があった。

 

「あなたは……?」

 

 問い掛けられて、今更ながら青年はハッとなって気付いた。

 記憶喪失である所為で自分の名前が解らない以上、問い掛けられてもどう自分の素性を明かせばよいのかが解らないのだ。

 青年が言葉に迷っている内に、次々と辺りにいた人々から疑惑の声が聞こえてくる。

 大人の声だった。

 

「何だあの子……」

「あんな子、一緒に来てたか?」

「……生存者?」

 

 外観の変貌も相まってか、自分の顔を知っている人物はいないように見えた。

 着ているものが制服であることは辛うじて伝わるかもしれないが、それはそれとして『学生である』という情報以外に人物を推理する材料が無いのだろう。

 そして、青年から見てほぼ真後ろの方向から聞き覚えのある声が響く。

 振り返ってみれば、鬼人の姿が見えた。

 

「おおーい!! 俺を置いてくなってー!!」

 

 まずい、と青年は素直にそう思った。

 青年がこの場に踏み寄り声をかけた時点で、子持ちと思わしき女性を始めとした老若男女の視線は青年の立っている方へと向けられていて、結果として彼等全員がタイミングの悪いことに鬼人の姿を見てしまった。

 思えば、青年自身は怪物の姿を見慣れていて、自分自身も怪物の力を使う事が出来ることも相まって失念していたことだが、普通の人間達からすると知性や理性を伴った怪物の存在はどう映っているのだろうか。

 いくら鬼人の体が肩から上を除けば殆ど人間に近い姿をしているからといって、その異形をすんなりと受け入れてくれるのだろうか。

 恐らくは怪物達の脅威から逃げてきたのであろう、ただの人間達が。

 

(……どうする……)

 

 再度集まった人間達の方を見れば、やはり全員が少なからず驚きの表情を浮かべていた。

 ただでさえ青年自身の素性も認知されていない状態で、この突然の遭遇――問題が重複してしまっている。

 どんな言葉で説得すればいいのかと、思考を練ろうとする青年だったが、その前に目の前の女性が慎重な様子で言葉を発してきた。

 

「……あなた達、人間なの?」

「えっ……」

「お願い。素直に答えて」

 

 予想外の問いかけだった。

 あなた達、と前置きしている時点で、鬼人だけではなく青年もまた怪物としての側面を持っている事を理解した上での質問である事は察しがついたのだが、それがどんな意図を含んだ問いであるのかまでは解らなかった。

 少なくとも、外観の話をしているのではないと思った。

 きっとこれは、内面の話なのだろうと。

 

「んー? いや、今は見て解る通り人間じゃないと思うんだが」

「ちょっとお前黙ってろ」

 

 やけに当たりがキツくないか!? という鬼人の嘆く声は放っておき、青年は女性に対してこう答えた。

 

「人間でありたい、とは思ってます」

「……そう」

 

 その返事を、どう受け取ったのだろうか。

 少なくとも、眼差しから感じた疑いの念は薄れた気がした。

 女性は安堵したかのようにため息を漏らすと、やがてこんな言葉を漏らした。

 

「……だったら、良かった。二人とも、よく生きてここまで来たわね」

「あの、ここは……」

「外から来たのなら解ると思うけど、この辺りには野生の怪物が近寄って来ないから、見ての通り安全地帯なのよ。備蓄が続く限り、食べる事だけはそこまで困らない」

 

 安全地帯。

 その言葉に安堵しつつも、一方で青年は疑問を覚えた。

 怪物の脅威の知りながら、この場が安全地帯だと断言出来る理由が解らないのだ。

 余程強力な『武器』でも持っているのか――とまず最初に予想してみたが、とても想像の及ばない話だった。

 であれば、

 

(……案外、答えは単純なのか? さっきの反応から考えても……)

「もしかして、俺達と同じような奴がここにはいるんですか?」

 

 そう問いを飛ばすと、女性は何故か苦い表情を浮かべ、

 

「……ええ、あなた達と同じような奴がいるわ。それも複数」

「複数……!?」

 

 大抵の怪物達が近寄ろうともしない『縄張り』を作れている時点で、その可能性も十分考えられはしたのだが、それでも自分や鬼人のような存在は怪物と化した者達の中でも少数派であると思っていたため、驚きを隠せなかった。

 それも、複数と語った以上は恐らく一人や二人という話ではない。

 両手の指では数え切れないほどの『同類』が、この辺りに集っているという事だ。

 一人一人の戦闘能力がどれほどのものかは知らないが、少なくとも誰か一人は野生の怪物に『この辺りに近寄ってはいけない』と本能的に察知させるほどの力を有していると考えられる――単純に、獅子の獣人と化した自分や鬼人よりも強いのかもしれない。

 しかし、

 

(なら、どうしてこの人はこんな苦い表情をしているんだ……?)

 

 素直に疑問を覚えた。

 確かに、安全地帯だとはいえ此処はきっと彼等が元々居た住まいではない。

 いつになったら元の住まいに帰れるのか、いつになったら今の暮らしから開放されるのか――と、不満を覚えるような要素をいくつか予想する事は出来たのだが、果たして理由はそれだけなのだろうか。

 ともあれ、

 

「とりあえず、出来ればその『同類』達と会ってみたいんですが……」

 

 一度会ってみる必要があると思った。

 きっと、そう遠くない場所にいるのだろうと思った。

 だが、

 

「あまりお勧めは出来ないわよ」

 

 一言だった。

 故に、青年もすぐさま聞き返す。

 

「どういうことですか?」

「あなた達が優しい性格をしている事は何となくわかるのよ。だから、逆に受け入れられない。怪物相手に生き残れるぐらい強いのなら、むしろ『外』の方がいいかもしれない。まだ彼等に存在を知られていない内に、此処ではない何処かに向かった方がいいわ」

「…………」

 

 女性の声色には嫌味などなく、本当に親切心から青年や鬼人に向けてそう告げていた。

 この辺りに『縄張り』を作っている『同類』と、会わない方がいいと。

 だが、青年にも青年で引けない理由がある。

 どれほどの悪条件が目の前の女性に苦い顔をさせているのかは知らないが、それでもここから更に別の安全地帯――及び多くの人が集う場所を期待して再度旅路に出るなんて事は勘弁したいものだった。

 意を決して、青年は女性にこう返す。

 

「それでも、お願いしたいです。これからどう動くにしても、その『同類』と会って最低限話をしておかないと、ここまで歩き続けてきた意味が無くなってしまう」

「そうだぜ。アンタが何でそんな顔でそんな事を言うのか、詳しい事情までは当然知らねえが……それでも、顔合わせすら無しってのはな。行く宛も特別あるわけじゃねぇし……どうにもなぁ」

「…………」

 

 女性は沈黙した。

 表情に混じる苦味が増す。

 このまま口を開かなかった場合は、自力でこの『縄張り』を作っている『同類』を探してみよう――と青年は考えていたのだが、やがて女性はため息を吐いてこう言った。

 

「……わかったわ。着いて来て」

「ありがとうございます」

 

 素直に礼を言い、件の『同類』の居場所へ案内しようと歩きだす女性に青年と鬼人はついて行く。

 途中、青年や鬼人の事を怪訝な眼差しで見る大人達の視線に気付いたが、青年は視線を感じた方へと自らの視線を向けてしまわないように意識する事にした。

 素性も明らかになってない相手に対する反応としては当然のものだと思ったし、怪物達の存在を恐れている以上、自分や鬼人に対しては疑心だけではなく多少なり恐怖も感じている――そんな表情を浮かべられている事実を直に認識したくはなかったのだ。

 実際はそう考えている時点で、自らが自らの事を住民と同じ人間ではなく怪物として認めつつある事を、自覚してはいないのかもしれないが。

 

 逃れ人の集いから離れ、荒れた住宅街の中を女性の案内に従い歩いていると、やがて正面の方向にあるものが見えてきた。

 手前には黒く塗装された鉄の門が見え、その向こう側にあるのは――色は白く、全体像からしても横に長く、玄関と思わしき場所の上方には何か紋章のような形の石造りの飾り物が見える――マンションやアパートとは異なる、住まいのように見えて人が暮らす『家』とは根本的に構造が違うと思える建造物。

 

(……あれは……)

「……っ……!?」

 

 ――ジジ!! ジザザジジザジザザザザジ!!

 

 その外観を視界に入れた途端、何故か頭の奥で形容し難き雑音が響き、青年は思わず右手で即頭部を押さえていた。

 頭が――脳が痛みを発しているのが解る。

 何かを思い出そうとして、頭の中で一つの景色が浮かび上がろうとしているようだったが、結局それは明確な記憶として成る前に忘却の海に沈み込んだ。

 パッタリと、雑音が止まる。

 

「おいどうした、大丈夫か?」

「……いや、大丈夫だ。気にしなくていい」

 

 何となく解ったのは、視界に移り込んだこの風景が、自分の失った『大切なもの』の記憶に直結している『何か』を表しているという事だけだ。

 この場所か、この場所に似た『何か』を、自分は『大切なもの』として覚えている。

 その事実に疑問を覚えずにはいられなかったが、今は優先するべき事柄がある――そう思い、青年はその思考を一旦切り捨てることにした。

 よく見ると、門の手前には門番のつもりなのか二体の人外がその姿を晒し出している。

 案内のため先導して歩いていた女性が足を止め、青年と鬼人の方へと振り返り口を開く。

 

「あの『小学校』があなた達の会いたがっているやつの居場所よ。基本的に許可も無く中に入ってはならないって奴等のルールで決められてるから、あたしの案内はここまで。悪いけど、敷地内で何があってもあたし達には何も出来ないから……気をつけてね」

 

 言葉の通り、女性は『同類』の居場所らしい小学校の校門が見える場所まで案内すると、歩いていた道順をそのまま戻る形で青年達と別れた。

 改めて、青年は眼前に聳え立つ『小学校』を見据える。

 この建物の中に自分の『同類』がいて、それは案内をしてくれた女性曰く、(少なくとも)青年には受け入れられない相手だという。

 一度だけ深呼吸をすると、横合いから突然鬼人がどうでもいいことを問い掛けてきた。

 

「……しっかし、やけに礼儀正しかったなお前。もしかしてああいう人がタイプだったり?」

「年上相手には敬語ぐらい普通は使うだろ。あと、タイプって何だタイプって」

「好みの問題に決まってんだろ。ほら、お前も人間だったのなら好きな女の子とかいたのかなーって」

「……お前の理屈が正しかったら、本当に好きな人がいたとしてもそれは真っ先に思い出せなくなってるだろ。そういうお前はどうなんだ?」

「胸がデカくて髪の毛も長いお姉さんが外観的には好みだな。気の強い性格だったら最高。赤のバニーガール姿になってくれたらもっと最高」

「覚えている時点で『そういう』のと実際に会った事は無いという事か。なるほどなるほど」

「いいやきっと思い出せないだけで人間だった頃はそんな素敵お姉さんと会ってラブコメしてた事実があることを俺は信じている……っ!!」

「結末は失恋だと予想しておくか」

 

 これから危険かもしれない場所に向かうというのに、鬼人は警戒も恐れもしていない様子だった。

 少なくとも、自分の『同類』に関係する案件とは別の方向に疑問を抱き、これから危険が伴うかもしれない場所に向かうという時になって雑談を挟む程度の余裕はあるらしい。

 つくづく、自分とは対照的なやつだ――そう青年は思った。

 自分にはとても、このタイミングで別の事に意識を向ける事など出来ない、と。

 鬼人と共に校門前まで近寄ると、門番らしき二体の人外が当然の如く声を掛けてきた。

 

「……誰だ? 見覚えが無いやつだが」

「お前達も俺達の仲間入り志望か?」

 

 片方は人の輪郭を保ちながらも全身が肉と骨ではなく岩石に置き換わっている石の巨人の姿をしていて、もう片方は片腕が何かを打ち出すための砲台と化している白い獣毛に覆われた――脳に刻まれた知識は『ゴリラ』と訴えている――獣人の姿をしていた。

 ――この二体は、先日戦った骨の竜よりも格下の相手だ。

 直感でそう思い、この二体は『縄張り』を仕切っている者ではないのだと青年は判断した。

 恐らく、目的の『同類』は眼前に見える校舎の何処かにいるのだろう。

 二体の言葉に対して返答する前に、青年は自身の姿を人間のそれから獅子の獣人へと意識して切り替える。

 抱く緊張が良い方向に作用してくれたのか、そう時間も掛けること無く変化は終了した。

 視点が少し高くなるが気にせず、獅子の獣人と化した青年は口を開く。

 

「ついさっき此処に辿り着いた者だ。仲間になるかどうかは、アンタ達の事を知ってから決める」

「……へぇ」

「どうやら門番のようだが、とりあえず通してくれないか。俺達はこの辺りの『縄張り』を仕切っている奴と会って話がしたいんだ」

「随分と威勢がいいな。いいぜ、ボスのところに案内してやる」

 

 正直に答えると、ゴリラの獣人が校舎に向かって歩き始めた。

 頼みもしていないのに、素直に案内の役まで担ってくれるらしい。

 住民達のような普通の人間ではなく、自分達と同じ『同類』ならば特に断る理由も無かったのか、あるいは青年がゴリラの獣人や石の巨人の事を格下だと直感したように、ゴリラの獣人や石の巨人もまた獅子の獣人の姿を見た途端に青年の事を格上だと直感したのかもしれない。

 立ち塞がったとしても、痛い目を見るだけだと。

 石の巨人は案内をゴリラの獣人に任せるつもりなのか、特に動こうとはせずその場で門番としての役を継続するようだ。

 獅子の獣人と鬼人が、ゴリラの獣人の後を追う形で校舎の中へと入る。

 元々は多くの子供達が通い学びの場所としていた場所の空気には、埃が混ざっているような気がした。

 上履きを履いて歩くべきなのであろう廊下の上を人外の土足で歩き、案内に従い進んでいくと、ゴリラの獣人はやがて『図書室』と黒く描かれた板が上に見える扉の前で立ち止まった。

 コンコン、と(体格から考えると非常に奇妙な形で)丁寧にノックをしてから、中にいる人物に向けて声をかける。

 

「ボス、何か俺達の『同類』が来やがりましたぜ。会って話をしたいとも言ってやがります」

 

 その敬語を聞いただけでも、上下の関係は明確なものだと思えた。

 扉の奥にいるのは、敬語で話しかけなければならない事情を含む相手だと。

 そして、扉越しに返事を受け取ったらしいゴリラの獣人が、何も言わずに扉から横に退く。

 その右手は青年と鬼人に対して、暗に『さっさと入れ』と告げているようだった。

 青年と鬼人はその意に従い、扉を開けて『図書室』の中へ足を踏み入れる。

 そして中に入った途端、多々置かれたテーブルの傍にある椅子に腰掛け、何か雑誌らしきものを読んでいる人間達の姿が目に入った。

 その内の一人――恐らくは『同類』達の集いを仕切っている、黒いサングラスをかけた人物が、青年と鬼人の姿を見るやこんな言葉を放って来る。

 喜々として表情で、迎え入れるように。

 

「ようこそ、俺の『王国』予定地に。ここまでの旅路お疲れ様だ。ま、適当な椅子に腰掛けてくれ?」

 

 



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 率直に言って、違和感しかなかった。

 図書館という場所は過去の自分自身にとって重要な思い出に関わっていないためなのか、どのような場所であるのか――その印象、イメージを曖昧ではあるが青年は覚えていた。

 基本的には静かで、生徒が落ち着いて本を読むための場所であると。

 だが、今――怪物の力を宿していると思わしき『同類』達の集うこの図書館は、そういった感想からはかけ離れた空間となっている。

 辺りからは話し声どころか菓子類をバリボリと噛み砕く咀嚼の音が響き、そもそも読んでいる本にしても本来学校には置かれていないはずの漫画の単行本や週刊誌といった娯楽一直線のものばかりで、元々収納されている本は殆どが棚の中に放置されている有様だった。

 テーブルの上には菓子類の袋やジュース類の詰まったペットボトルなどもあり、最早学び舎の一部としての面影は無く単なる遊び場と化していた。

 ひとまず体格を戻すために人間の姿に戻った青年は、背負ったリュックサックを下ろしてから椅子に座り、間に木製のテーブルを挟む形で怪物としての側面を持った『同類』達を統率していると思わしき黒いサングラスの男を見据える。

 鬼人は椅子に座る気も人間の姿に戻る気も無いらしく、そのままの姿で同じく椅子に腰掛けたが、季節外れな黒いサングラスが目立つ男の口元には笑みという形で余裕が表れている。

 仮に鬼人がその手に持った骨の棍棒で殴り掛かったとしても、返り討ちに出来るという確信があるのだろう――と青年は推理した。

 サングラスの男が、世間話でもするような軽い調子で口を開く。

 

「随分と苦労したみたいだなぁ、そのボロボロの服を見るに」

「色々と。そういうアンタは随分と楽をしているように見えるな」

「これでも苦労はしてたんだけどなぁ。ま、この体たらくだとそう見えて当然か」

「一応確認するが、アンタが此処のリーダーって事でいいのか。俺の『王国』予定地とか言っていたけど」

「その認識で正しいから、その点では安心していい。新しい社会を作るのには時間が掛かって当然だろ? だからまだ予定地止まりなのさ」

 

 双方の表情や口調は対照的だった。

 サングラスの男の口調が楽しげな一方で、対照的に言葉を返す青年の口調は常に一定で。

 青年の表情が冷たさを感じさせるほど固くなっている一方で、サングラスの男の表情は喜びや楽しさを表す色に染まっていた。

 左手を腰に当て、怪訝そうな眼差しを向けながらも鬼人が言葉を発する。

 

「『王国』とはまた随分と大袈裟だな。日本って『王』によって成り立った国じゃなかったと思うんだが」

「例えだよ例え。少なくとも『帝国』よりは控えめにしたつもりなんだが、やっぱそう思うか?」

「自分の縄張りに『国』なんてくっ付けてる時点で十分大袈裟だって」

「何事もやるならスケールはデカい方がいいだろう? その方が楽しいしやり応えを感じられる」

 

 その楽しげな口調の言葉に、青年はつい少し前に出会った女性や住民達の居た場所の風景を思い返してみた。

 何というか、例えの大袈裟っぷりも相まって、まったくイメージが嚙み合わない。

 だが、所感を口に出す前に、サングラスの男の方が先に問いを出してくる。

 

「さて、まぁ手短に聞きたいんだが、何でお前達は俺に会いに来たんだ? 新しい『同類』に会えるってのは素直に嬉しく思うが、やっぱり仲間入り志望なのか?」

「仲間入りするかどうかも含めて、これからの動向を決めるための指針が欲しかったからだ。……単純に『同類』として話も聞きたかったって事情もあるけどな」

「『同類』として? 何の話をだ?」

「単刀直入に聞く。アンタは結果として得た怪物の力の事をどう思ってる」

 

 その問いに、初めてサングラスの男が真顔になった。

 何故そんな事を聞かれたのか、とでも言いたげに首を傾げている。

 だが、直後に笑みを深めてこう言葉を返してきた。

 

「そんなもの決まってるだろ? この力は証だ。力を持つ者として、人間を超えた存在として生きる事を許され、世界に選ばれた証。最高の贈り物だよ……快感だ」

「……こんな、呪いにも等しい力が? 押し付けられて迷惑だとは思わないのか」

「いや全く? 何でそんなネガティブに考えないといけないのかね。力が手に入ったんだぞ? 人間を超えた力が。気に入らない奴を跳ね除けて、好き放題に世界を変えられる力が。嬉しく思えないのか?」

 

 サングラスの男の口調は、本当に喜々に満ちている。

 青年には、その理由が何も理解出来なかった。

 確かに得た力は人知を超えていて、ただでさえ怪物の蔓延る今の世界において力を得た事は、 知性や理性を失った怪物として彷徨う事になるよりはずっと幸運な方だと考えられるのかもしれないが、それでもここまでの歓喜を顔や声に出せるほどの情感に青年は共感する事が出来ない。

 この男は、ただの人間ではなくなった事に対して明らかに喜んでいる。

 ただの人間ではなくなったという事実を坦々と受け入れている(ように見える)鬼人より、遥かに異常な感性だとしか思えない。

 

「……思えない。生き残るために散々利用してきた力だが、嬉しいと思った事は多分一度も無い」

「ふぅん? そっちの兄ちゃんはどうなんだ?」

「ま、少なくともラッキーとは考えてるつもりだ。流石に『選ばれた』だとか、そんな飛び抜けた解釈をした事はねぇけど」

「別に飛び抜けてはいないさ、単なる事実だ。もっとその幸運を誇ればいい」

 

 鬼人の返事は相変わらず適当な調子だった。

 だが、その内容に青年は確かに安心する事が出来た。

 少なくとも鬼人は、このサングラスの男とは違うと思えたからだ。

 サングラスの男はその視線を再度青年に向け直す。

 ただし、呆れの色を混じらせながら。

 

「んー、どうやらお前は自覚が足りないみたいだなぁ。そんなに人間なんかに未練があるのか?」

「ある。出来る事なら、時間が巻き戻って元の日常を返してほしいと思う程度には」

「……わかんねぇなぁ、脆弱な人間の体にそこまで執着してる理由が全くわからねぇ。椅子に座る前に見せていたあの姿、中々悪くないと思ったんだが」

「最近同じ事を言われた事があるが、答えは同じだ。大きなお世話だ、放っておいてくれ」

「いいや放ってはおけないな。人間を超えた存在として義務を果たそうともせず、意味も無く人間の暮らしに戻ろうと足掻いてるだけだなんて。そんなカワイソーな奴、とても放ってはおけない。そういう奴をしっかり導いてやるのが王様の役目ってやつだからなぁ……」

「…………」

 

 何か、嫌な予感がした。

 気付けば、図書館に集っていた『同類』の面々の視線がいつの間にか青年の方へと集まっている。

 悪目立ちしている場違いな異物を見るような、そんな視線が。

 本を読む手も、菓子を歯で砕く音も、語らう声も――既に止まっている。

 ただ、この場に集う『同類』達を纏める王の言葉だけが続く。

 

「うんうん、まぁせっかく苦労してここまで来たのは見れば解る。だから、そんな奴を相手に早々こんな事をするのも心苦しいんだがな、郷に入らば郷に従え……だっけ? そういう言葉もあることだし、実際俺としてもさっさと『らしく』なってくれた方が好ましいし……これはもう、仕方無いよなぁ」

 

 男の口角が上がる。

 その顔が再び笑みの形を作る。

 右手が上がり、意を汲み取った『同類』の面々が席から立つ。

 そして、嫌な予感が的中した。

 

「……捕らえろ」

「……ッ!!」

 

 サングラスの男の命令と共に、図書室に集っていた『同類』達がそれぞれその身を怪物へと変じ始めた。

 ある者は真っ黒い悪魔の姿に、ある者は一つ眼の黄色い異形の姿に、ある者は鶏にも似た巨大な鳥のような姿に、またある者は赤い獣毛に身を包んだ細い体の狼の姿に。

 危機感が緊張を一瞬で変化に要するラインを超えさせる。

 意識するまでも無く、青年の体は人間から獅子の獣人の姿へと変じていた。

 座る事に使っていた椅子を右手で掴み、腕力に任せてサングラスの男へと投げ付ける。

 バキィ!! と骨が折れる音にも似た音が響くが、それは骨ではなく椅子が砕ける音だった。

 

「……いきなりキング狙いは無謀じゃあないか?」

 

 見れば、サングラスの男の体も既に人外の姿に変わっている。

 その姿は、ある意味において先日遭遇した骨の竜よりも異質なものだった。

 サングラスの男が変じた姿の外観を直球で述べると――それは知識として刻まれた『猿』と呼ばれる動物のようだった。

 全身の筋肉がいったい何処でどれほどの鍛錬を積んだのかと疑う程に発達しており、胸の部分には刺青か何かなのか赤い文字で『最強』と描かれている。

 尻尾が生えていたり髪の毛らしきものが見当たらない点を除けば、その姿は人外でありながら殆ど人間に近い輪郭をしているように見えた。

 変化したにも関わらずかけられたままのサングラスが、尚の事人間の面影を主張している。

 だが、そういった人間の面影や獣の要素などから導き出される全ての印象を――全身余すところなく染め上がっている銀色の体色が全て塗り潰す。

 笑みと共に見せた金色の歯も相まって、体の全てが金属で出来ているように見えてしまう。

 あの人外の体は、そもそも生物なのか、あるいは機械なのか――そんな単純な疑問に即答出来る者など、いるのだろうか。

 異質極まる姿を目の当たりにした青年の本能が、これまで以上の危機感を訴える。

 

 ――駄目だ、こいつは……ヤバい!!

 

 実際に戦いとなる前から、そう思えるだけの何かを感じてしまった。

 ただでさえ、それ以外にも図書室には敵として襲い掛かってくるつもりであろう『同類』が集っている――真っ向からぶつかって勝てる見込みなど微塵も無い。

 だが、そもそも青年は最初の一手からして間違っていた。

 状況が不利だと理解していたのであれば、椅子を投げたりなどせず最初から逃げる事を優先していれば良かったのだ。

 直後、逃げる――その選択を先送りにしてしまった結果が、当然の結果が襲い掛かってきた。

 

 ゴパッッ!!!!!! と、凄まじい轟音が図書室に響いた。

 金属質の猿人間と化したサングラスの男が、獅子の獣人たる青年の腹部に向かって拳を放った音だった。

 青年は咄嗟に後方に跳んで拳を避けようとしたが、予測を超える速さで踏み込んできた猿人間の拳から逃れきる事は出来なかった。

 衝撃に伴う威力を軽減させる事こそ出来たものの、それでも肺の中から空気が全て漏れる。

 殴られたというより抉られた――そう錯覚してしまいそうになる程度には、放たれた拳の威力は凄まじいものだった。

 

「ぐ、は……っ!!?」

 

 一気に図書室の壁に叩き付けられ、当たり所が悪かったのか青年の意識が明滅する。

 尻が床に落ち、立ち上がろうと支えにする腕に力を込めるが、うまくいかない。

 そして、

 

「んー、捕らえろってわざわざ言ったのに結局俺が捕まえちまったなぁ。いやはや」

 

 いっそ退屈そうな調子で、金属質の猿人間が間近で呟いていた。

 その手に頭を乱暴に掴まれ、そのまま力ずくで床に振り下ろされる。

 顔面に伝わる鈍い衝撃と共に、抵抗する間も無く青年の意識が埋没した。

 



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 寒い。

 目が覚めた時、青年が最初に感じた感覚はそれだった。

 明滅する意識の中、両手は後ろに回され手首を何かで縛り付けられていて、いつの間にか上着を脱がされているという事実に気付く。

 体は、いつの間にか人間のそれに戻っていた。

 立ち上がり、動こうとすると、首に圧迫を感じ、苦しくなる。

 両手だけではなく、首もまた何かに縛られているらしい。

 視界が霞む中、状況を確認しようと眼を凝らして見るが、見えたものは木製の扉と白い壁ぐらいで、正面の方向には今の青年に場所を特定出来るようなものは無く。

 何かの臭いが充満していて、あまり心地良くは無いと思った。

 ここは何処だ。

 そう思い、今度は周りを見回してみるが、見つかったものは何かに使われていたのであろう白い色のボールが入った鉄の籠や、山のような形に積み上げられた木製の器具などぐらいで、最低限理解出来たのはこの場所が『倉庫』であるという事実ぐらいだった。

 相変わらずといった調子で頭の中で雑音が響き、脳が何かの記憶を呼び起こそうとしたが、やはり明確なものとして思い出す事は出来ない。

 

「…………」

 

 どうやら、この『倉庫』の中には現在青年以外に誰もいないらしい。

 薄暗く、狭く、寒く、臭く。

 とにかく孤独で、とにかく不快で、とにかく辛さを感じさせてくる空間に一人、閉じ込められている。

 どうやら、自分は捕まってしまったらしい――と不思議なほど冷静に状況を認識する。

 頭の中に、黒いサングラスをかけた金属質の猿人間の姿が呼び起こされる。

 

 思えば、あの男は自分を捕らえて何をするつもりなのだろうか。

 実の所、青年はあくまでも『人間』であろうとした自分に対してサングラスの男が何をするつもりのか、まったく予想出来ずにいた。

 ただ、捕まれば何か好ましくない事を強制されると思い、危機感を覚えた。

 未明で不明のそれから逃れようとして、失敗した。

 だから今、自分はこの『倉庫』に閉じ込められている。

 解っているのは、それだけだった。

 頭の中に、この状況を生み出した張本人の言葉が呼び起こされる。

 

 ――いいや放ってはおけないな。人間を超えた存在として義務を果たそうともせず、意味も無く人間の暮らしに戻ろうと足掻いてるだけだなんて。

 

(……くそっ)

 

 心の中を抉ってくるような言葉だった。

 今までの自分の生き方を否定するような言葉だった。

 あんな言葉に一言も反論出来なかった自分に腹が立ってくる。

 

「……くそっ……!!」

 

 認めるしか無かった。

 あのサングラスの男は、自分よりも遥かに強い。

 戦う前から、青年には勝ち目があると思うことすら出来なかった。

 怪物としての自分を受け入れている者と、怪物としての自分を拒み続ける者――その強弱を、ハッキリと示されてしまった。

 つい先日に鬼人と出会うまで、ずっと一人で生き延びてきた自分の努力が否定される気分だった。

 

 実際問題、青年自身あの男に言われるまでも無く疑問を抱いた事はあった。

 人間であり続けようと、人間として足掻いていこうと、怪物としての自分を否定し続ける今の生き方に果たして意味はあるのだろうか、と。

 その疑問が浮かぶ度に、きっとそれは大切な物を守っているのだと、失ってはいけないものを失わないようにしているのだと、何か意味がある行為なのだと自分自身に信じ込ませてきた。

 その柱を、折られた。

 人間としての自分は無意味なものだと、否定された。

 それが、どうしようも無く悔しかった。

 だけど、どれだけ憤ってみても、今の状況を打破する力には繋がらない。

 後ろに回された両手は何かに縛られていて、何より首を輪の形の縄か何かに縛られているおかげで身動きは取れない。

 怪物の姿に変わる事が出来れば話は早いのかもしれないが、その行為自体がサングラスの男の言葉を肯定してしまうようで、変わる事そのものに対して心が受け入れられなくなっている。

 

 そうこうしている内に、腹が減った。

 何かを食べたいという衝動が胸の内に生まれる。

 思えば、気を失ったままどれだけの時間が経ったのだろう。

 倉庫内には正面の扉や上の方に窓が付いているようだが、そこから差し込む光の量は乏しく、今が昼間なのか夕方なのかあるいは夜中なのか――確かな認識が得られない。

 いつまでこの状態が続くのだろうか。

 一緒に来ていた鬼人は無事なのだろうか。

 不安が不安を呼び、焦燥に駈られていると、突然正面の扉から異音が聞こえた。

 扉が開き、向こう側から誰かが倉庫内に入って来る。

 片方は図書室で顔を見た覚えのある男だったが、もう片方は全く見覚えが無い幼き女の子だった。

 男は青年の姿を見るや女の子の手を引き、まるで物を捨てるような調子で青年の前に放り出す。

 そして、素っ気無く言った。

 

「食事だ」

「……ッ!!?」

 

 ゾッとする意味を含んだ言葉だった。

 驚愕に言葉に詰まり、反論を口にする前に男は扉を閉めてしまう。

 ガチャリ、と鍵が閉まる音が遅れて聞こえる。

 後には少女と青年だけが残され、その場には冷たき静寂が訪れる。

 

「…………」

 

 青年は、しばらくの間喋る事を忘れてしまっていた。

 それほどまでに、扉を開けた男の行動と言葉は青年の心に衝撃を与えていた。

 食にありつける何処かへ案内するのでもなく、何らかの食料を置いていくのでもなく、ただ一人の女の子――恐らく『怪物』としての側面を持たない普通の人間――を『倉庫』の中に置き去りにした『だけ』である以上、男が告げた言葉――恐らくはあのサングラスの男の命令――の意味は明白だ。

 

 ――その()()を、食べろ。

 ――お前は人間ではなく怪物なのだから、それで腹は満たせるだろう?

 

 ……どこまでの化け物になれば、こんな事を思いつくのだろうかと青年はただ思う。

 この場に食料は無く、そもそも手が後ろで縛られている時点で、傍に食料があったとしても食料を手に取って食べるという当たり前の工程をなぞる事は出来ない。 

 精々可能な事があるとすれば、首に伝わる圧迫に耐えて床に落ちた何かを舐め取れるかどうかといった所だ。

 

 ――そう、人間の姿のままであれば。

 

 怪物の姿になれば、首や後ろに回された手を縛るものを引き千切る事が出来るだろう。

 怪物の力を使えば、目の前で閉ざされた扉をその力で破り脱出を試みる事も出来るだろう。

 怪物の体であれば、人間の姿では到底食べられない食物も噛み砕き飲み込む事が出来るだろう。

 

 ……それがサングラスの男の狙いなのだろう、と青年は推理した。

 これは、生き物が当たり前に持つ欲求を利用したチキンレースのようなものだと。

 空腹になれば、誰だって食べ物を求めるだろう。

 到底食べられない物、食べれば体を壊す物であっても、口に入れて胃袋を満たそうとするだろう。

 人間としての記憶を失い、怪物だらけの世界で一人目覚めてから――他ならぬ青年がそうして生きてきたのだから。

 もしも、空腹を意思で我慢し切れなくなり、怪物の姿に成ってしまったら――その時、正気を保ち続けていられる自信が無い。

 仮に、そうして目の前に見える少女の五体を食欲と狂気によって食い散らかしてしまったら――きっと、もう『人間』であろうと足掻き続けていた青年の心は二度と修復出来なくなってしまうほどに壊れてしまう。

 後には口元を赤い血で染め、人間の心を限り無く失い、救いようの無い狂気に浸った怪物だけが残るのだろう。

 生きるためだと言い訳をしたとしても、この一線だけは決定的だ。

 あのサングラスの男は、青年に怪物としての『自覚』を持たせるため――たったそれ一つだけのために、一人の少女を生け贄に捧げたのだ。

 

(……どうすれば……)

 

 怒りよりも先に、恐れが心に染み入る。

 いっそ餓死してしまえるのなら、そうしてしまいたい。

 怪物ならまだしも、明らかに普通の人間にしか見えない女の子を食らう事など、死んでも許容出来ない。

 目の前の、食料として捨てられた少女が力なく起き上がる。

 本当に怪物として食べさせる事を前提としているためか、下着以外に着ているものは見当たらなかった。

 過去に誰か――恐らくはサングラスの男本人かその仲間――に虐待されていたのか、体には点々と青痣が浮かんでいる。

 拘束された青年を見るその瞳に、光は無かった。

 どんな言葉を掛けてやればいいのか、そもそも少女がこの場に放り捨てられた原因とも呼べる自分にそんな資格があるのか――青年は迷った。

 互いに発する言葉も無いまま、ただただ時間が経過する。

 食に飢え、満たされない感覚に心を灼いて、どれだけ時計の針は進んだか。

 やがて、自らの中に芽生えつつある衝動から逃れるように、青年は少女に口を開いた。

 

「……ごめん……」

「…………」

 

 少女は口を開かない。

 だから、青年の言葉だけが続く。

 

「……俺の所為で、こんな事になって。君は何も悪くないのに、こんな狭い場所で化け物と一緒にされるなんて」

 

 言葉を吐き出す度に、目から雫が零れた。

 そんな資格は無いと解っていても、止められなかった。

 

「……俺は、きっといつか我慢出来ずに君の事を食べてしまう。そうならないためには、もう俺が死ぬしか方法は無いと思う。だけど、俺にはもう自分で自分の舌を噛み切れるだけの力も残ってない。度胸も無い。そもそも噛み切ったとしても生き続けてしまうかもしれない。だから……」

 

 もう、心が折れかけていた。

 だから、こんな事を口走ってしまった。

 

「……俺を、君が殺すしか無い。俺が君を食い殺す前に。どんな方法を使ってもいい。身勝手な願いだってのは解っている。だけど、それでもお願いだ。俺に、俺に……人殺しをさせないでくれ」

 

 我ながら、最低な願い事だと思った。

 加害者でありながら、被害者に自分の願いを押し付けている事が。

 小さく幼い女の子に、殺しの業を背負わせようとしている自分自身の身勝手さが。

 自分の言葉を、少女がどれだけ理解出来たのか青年には解らない。

 届かなかったとしても、仕方が無いとさえ思える。

 だが、濁った瞳で青年の顔を見つける幼き少女は、青年に向かってこう言った。

 

「……やだ」

 

 否定の言葉を。

 仕方が無い事だと思いながらも、青年は疑問の声を漏らした。

 

「……何で?」

「……だって、お兄ちゃん悲しそう」

「……ああ」

「……そんなお兄ちゃんを、傷つけたくない」

「……でも、そうしないと君が死ぬ」

「……それでも、やだ」

 

 少女の言葉は、殆ど駄々を捏ねるような声だった。

 きっと、この少女は青年がどんなに自分を殺すよう訴えても同じ言葉で断り続けるだろう、と思った。

 お兄ちゃん、という呼び方が胸の内に覚えの無い暖かさを抱かせるようで、とても厳しい言葉で強制させようなどとは考えられなかった。

 だが、それでも、少女の命を守るためにはこうするしか無い――そう思い、青年は心を鬼にして卑怯な言葉を吐き出してしまう。

 

「……君には、お父さんやお母さん……家族がいるんじゃないのか。君が死んだら、きっと悲しむぞ」

 

 知らない顔の誰かの笑顔を、人質にした。

 自分がその温もりの温度を覚えていない事をいい事に。

 会ったばかりでも、この少女が優しい性格をしている事は理解出来た。

 だがそれでも、こう訴えかければ、たった今顔を知った誰かの生より、ずっと前から顔を知る育ての親の笑顔を優先するはずだ。

 そう思っての言葉だった。

 そして、少女の返事はこうだった。

 

「……いないの」

「……え」

「……お母さんもお父さんも、いないの。何処にいるのか、わからないの」

 

 青年は絶句した。

 その回答を、全く想像していなかった。

 今のこの世界が弱肉強食の理論に支配されている事を、知りながら。

 こんな場所に、奴隷以下の扱いを受けて放り出された少女の境遇を、察する事が出来なかった。

 

「……お兄ちゃんじゃないお兄ちゃんも、いないの。みんな、わたしのことを置いて何処かへ行っちゃったの」

 

 少女の言葉は涙声だった。

 きっと、少女の中ではもう会えないものだと認識されているのだろう。

 最初は希望を持っていたのかもしれないが、そんな心もきっと何処かで折れてしまった。

 本当は何処かで生き延びているかもしれなくとも、かもしれないとしか言えない曖昧な可能性を信じられなくなった。

 

「もう、やだよ」

 

 故に。

 直後の言葉に、名前も知らない少女の願いが詰まっているように思えた。

 

「……もう、痛くなるようなのは、やだよ……」

 

 それは、所々に青痣が出来るほどに痛め付けられた体の事か。

 それとも、家族と離れ離れになってしまい孤独に苛まれた心の事か。

 あるいは、その両方か。

 

(……くっ……)

 

 ここに来て、青年は少女の命だけではなく心までも救いたいと思ってしまった。

 そう思ってしまうほどの言葉を、胸の奥に叩き付けられてしまった。

 だが、この状況を打開するには難しい問題が確かに存在する。

 

 第一に、まず青年が自由に動けるようにならねばならない事。

 第二に、逃げ切る前に脱出がバレてしまった場合、最悪あのサングラスの男と戦う事になってしまう事。

 第三に 仮に脱出が成功したとして、その後少女と共に何処へ逃げれば確かな『安心』を得られるのか、全くと言ってもいいレベルで解らない事。

 第一の問題からして、青年が怪物化した際に自らの衝動を抑え切れるかどうかという賭けの話が混じっている。

 第二の問題にしても、目の前の扉の向こうにサングラスの男の仲間が見張り役として立っていた場合、不穏な動きはすぐにでも感付かれてしまう。

 そして第三の問題――これが一番の問題とも言えた。

 この『縄張り』における普通の人間の扱いがどんなものであるか詳しくは知らないが、案内をしてくれた女性の言い分からしても目の前の少女の非道な待遇からしても、怪物の脅威からは『安全』であっても人としての自由や尊厳は守られていない事は想像に難くない。

 であれば、人の集いに戻っただけでは意味が無い。

 何処か遠く、最低でも『縄張り』の外にまでは行かなければならない。

 だが、その場合も危険は付きまとう。

 

 

 サングラスの男の『縄張り』の外では、道中確実に野生の怪物の襲撃に遇う。

 危険に晒されるのが青年一人ならまだしも、無力な少女一人を庇いながら戦えるのかどうか、自信が無い。

 食料だって、自分だけではなく少女の分も必要になる。

 鬼人ほど大食らいではないだろうが、何より少女は普通の人間――青年ほど体が頑丈ではなく、下手に大きく消費期限切れを起こした食料を食べたりしたら体調を崩してしまうだろう。

 今でさえ衰弱しているように見える状態で、それは致命的と言っていい。

 これまで集めてきた食料を入れたリュックサックは間違い無く接収されているだろうし、何処に持って行かれたのかも解らない状態でのうのうと探索していては確実に脱走に失敗する。

 それでは本末転倒だ。

 

 もっと善良な性格の『同類』が管理している『縄張り』に辿り着ければそれが最善かもしれないが、そんなものが都合良く見つかる可能性を青年には信じられない。

 この『縄張り』に辿り着くまでが、そもそも長く険しい旅だった。

 それと同じ工程を、今度は誰かを守りながら歩む――途方も無い話だ。

 仮に新たな『縄張り』に辿り着いたとして、此処のように普通の人間が虐げられるような場所ではないという保障は無い。

 希望が見えない。

 いっそ屈服して願い媚びてしまった方が確実かもしれないが、あのサングラスの男が青年の嘆願によって大人しく少女の死が前提となった方針を取り下げてくれるような心性を持ち合わせているとは思えない。

 それ以外にも頭の中で必死に少女の体も心も死なずに済む方法を模索してみたが、やはり確実性のある答えは想像すら出来なかった。

 そうして、無駄な時間だけが刻々と過ぎていく。

 

 ふと、同行していた鬼人の事が頭を過ぎった。

 青年はこうして捕らえられたが、それはサングラスの男の意思に反する人間としての思想を持っていたからだった。

 だが、鬼人は確か自信が怪物と化した事について青年とは異なり幸運だったと口にしていたはずだ。

 サングラスの男ほど苛烈ではなかったが、怪物の体に特に不快感を抱いているようには見えなかった。

 青年が気を失った後、どのように扱われたのか――そして、扱いに対して鬼人自身はどう立ち回ったのか……気懸かりではあった。

 どうにか無事でいてほしい――そう思う程度には、情が寄っていた。

 

 正直な所、あの鬼人の思想はよくわからない。

 聞いた言動の大半は適当で、深く物事を考えてるようにはとても見えなかった。

 その態度に腹が立った覚えもある。

 だが今となっては、あの能天気さが逆に羨ましかった。

 怪物としての力を忌避したりせず、さながらただの武器か道具として受け入れているように見えた、あの在り方が。

 

(……何で、あいつは怪物の力を受け入れられたんだろうな……)

 

 浮かんだ疑問にも答えは出ない。

 そもそも、答えが出たとして今の状況がどうにかなるものとは思えない。

 救いなど無い。助けなど来ない。そんな希望など存在しない。

 これ以上思考したとしても、最早蛇足以外の何物にもならない。

 それが現実だった。

 心をすり減らしながら、いつしかそう達観しようとしていた。

 つもりだった。

 なのに。

 

 ゴシャァアアアアッ!! と。

 突如、目の前の扉が外側からの力に圧される形で折れて倒れてきた。

 その音に、青年と少女が同時に扉のあった方を向く。

 暗がりで姿を視認しづらいが、その輪郭を青年は覚えていた。

 鬼人だ。

 

「よーっす、助けに来たぞー」

「……お前、何で……?」

 

 相変わらずの適当な調子の言葉に、思わずといった調子で疑問の声が漏れた。

 だって、今の青年を助けるという事は、あのサングラスの男の意向に明確に逆らうという事だ。

 青年と同じく、険しい道なりを歩き続け、ようやく辿り着いた人間と『同類』の集う『縄張り』から、自ら離反するという事だ。

 目に見えた危険を冒してまで、鬼人には青年を助けなければならない理由など無いはずなのに……。

 鬼人はこう答えた。

 

「何でって、俺はお前に一度助けられてるんだぞ? 結果的にだが。食料だって分けてもらったし、貸し借りの話になればどう考えても俺の方がお前に借りを作っちまってる。むしろ、ここまで助けに来るのが遅れちまって悪かったってぐらいだ」

「……たった、それだけの理由でか……?」

「ついでに、あいつ等の事が気に入らなかった。あんなのと一緒になんていられねぇよ……」

 

 声色が、初めて苛立ちの篭ったものに変わっていた。

 今この時に至るまでの間に、何かがあったのかもしれない。

 鬼人は青年の後ろに回り、両手を縛る何か――縄のようなものを解きながら、

 

「そんな事より、さっさと行くぞ。ちょいと派手に音を出しちまったからな。その内連中は俺達を捕まえに来るはずだ」

「……逃げて、何処に行くんだ? 行く宛があるのか?」

「無い」

「なっ」

 

 キッパリと言われて、元々『逃走後』に希望を想像出来ていなかった青年でさえ思わず声を詰まらせる。

 しかも、鬼人は直後にこう告げた。

 

「そもそも、逃げ切れないと思うしな。監視の目だってあるし、見逃してでもくれない限りは。単純に走って逃げるだけじゃいつか追い着かれる。お前も俺も、速さに特別長けているわけじゃねぇし……その女の子を抱えながらってなると、尚更な」

「おい待て。逃げられる見込みが無いのなら何で助けた!? これじゃ、ただ状況が悪化しただけじゃ……!!」

 

 これでは今この場で助けられたとしても、すぐに捕まってしまう。

 それでは全くと言っていいほどに意味が無い。

 ただ鬼人の立場を悪くするだけだ。

 しかし、直後に鬼人は呆れたような調子でこう言った。

 

「だから、逃げずに勝つ方針にすればいいだけの話だろうが」

「……おい、まさか」

 

 嫌な予感がした。

 そして、予想通りの答えがやってくる。

 

「戦って勝つ。誰より優先してあのグラサン猿男をぶちのめす。それ以外に活路は無いって、お前も解ってたんじゃないか?」

「…………」

 

 それは、青年自身考えもしていなかった解決方法だった。

 この状況に至るまでの過程から、不可能だと決め付け思考すらしなかった話。

 その解に対して、青年は苛立ちを込めてこう返した。

 

「……それが出来るのなら、そもそもここで捕らわれていない」

「かもな」

「勝てる気がしなかった。俺があいつの怪物としての姿を見た時、その時点で俺には打ち勝てると信じる事すら出来なかったんだ。きっと、奴はまったく本気なんて出していない。手加減した状態でさえ、歯が立たないんだぞ。そんな相手にどうすれば勝てるっていうんだ」

「知らん」

 

 無責任な言葉に、青年の頭に血が昇りそうになる。

 だが、鬼人は更に言葉を紡いだ。

 

「そもそも、お前は勝ち目があると思ったから戦うのか? 俺が骨の竜と戦っていたあの時も、勝ち目があると思ったから首を突っ込んで来たのか?」

「……それは」

「逃げるって選択だってあっただろ。実際逃げてたら『ミサイル』で狙われてお陀仏って可能性もあったが、そうとも知らずにお前は自分から言っていたぞ。死なれたら困るから勝手に助力させてもらうってな。……なぁ、そもそも何で死なれたら困ると思ったんだ? 俺が持ってる情報とやらは命と等価値だったのか?」

「…………」

 

 その問いに、青年は答えられなかった。

 思えば、あの時の自分の行動は自分自身不思議に思った所もある。

 単純な利益だけでは説明出来ない、何かの衝動に従う形で行動していたような気がする。

 その答えを、鬼人はあっさりと口にする。

 

「多分だが、お前は単純にアレじゃないのか? 危険な目に遭ってる奴を見かけたら、身の危険を承知の上でも助ける事を優先するタイプ。お前、度を越えたお人好しタイプなんだろうよ」

「……俺が、そんなやつに見えたのか」

「そう見えた。っつーか、結局骨の竜と戦う流れに乗っかって、途中で俺がヤツに捕まった時だってトドメを刺す事より助ける事を優先してたじゃねぇか。自覚が無いのならもう病気のレベルだとしか思えねぇ」

「…………」

 

 さも当然のように語られて、青年はふと反論する事さえ忘れていた。

 その間に鬼人は青年の首元を縛る『何か』を解き、拘束状態から開放する。

 そして、改めて質問を放ってきた。

 

「一つだけ答えろ。お前はその子を助けたいのか。それとも見捨てるのか」

「…………」

「可能か不可能かは聞かねぇ。ただお前がどうしたいのかをハッキリ言ってみろ」

 

 シンプルな問いだった。

 とてもシンプルな問いだった。

 こんな事は深く考える必要も無いと言わんばかりの調子で放たれた言葉は、だからこそ柔らかいオブラートなどには包まれておらず、剥き出しの鋭さでもって青年の心に突き刺さった。

 青年は、少しの間黙っていた。

 救助を感付かれ追っ手を差し向けられるまでの時間が迫る中、鬼人は返答をただ待った。

 そして、やがて青年はこう返した。

 

「その子を助けたい。どんな手を使ってでもだ」

「いい返事だ」

 

 その回答に満足したのか、鬼人はあからさまに笑みの表情を浮かべた。

 青年自身、もう状況がこう動いてしまっては流れに乗るしか無い――そう諦める思考も確かにあった。

 だが、助けたいと思う心情は紛れも無く本物だ。

 そのためなら、忌避する怪物の力を使ってでも戦う事を選択する。

 サングラスの男は自分に宿った怪物の力を支配のために使い、それ自体を当然の義務だとさえ言っていたが、元々勝手に押し付けられたも当然の力――自分に宿った力の使い方は、自分で勝手に決める。

 今までは、あくまでも生き延びるための手段として扱ってきた。

 だが、少なくとも今この状況においては一人の少女を助けるためにこの力を使うと、そう決めた。

 最低限少女の体が冷えぬよう、雑に捨て置かれている自らの(元々破損はしていた)制服で少女の体を包むと、青年は鬼人に向けてこう告げる。

 

「……今から『変わる』が、もし狂ってしまったらお前が止めてくれ」

「任せろ。壊れたテレビみたいに殴り付けてすぐ戻してやる」

 

 青年の体が、鬼人と少女の前で変わっていく。

 夜の闇を纏うような暗い色の獅子の獣人が、人の殻を脱ぎ捨てて現れる。

 幸いにも、自我は繋ぎ止めることが出来たらしい――獅子の獣人と化した青年は、鬼人に向けて問う。

 

「で、流石に何の策も無いってわけじゃないだろうな」

「策って言い張れるようなものでも無いけどな」



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 鬼人の案はこうだった。

 広く動きやすい場所に出て、そこで全力で迎え撃つ。

 実際問題、サングラスの男から捕らえられた時は図書室という場所がそもそも戦いの場としては狭すぎた――その上、集団の長であるサングラスの男以外にも『同類』の手下が室内に集っていた。

 であれば、逆に広く動き回れる場所で迎え撃ってしまえば、まだ打つ手を模索するだけの余裕も作れる可能性がある――という話らしい。

 校舎の狭い通路や各教室などは論外だろう。

 であれば、戦いの場は決まっている。

 彼らは今、文字通り動き回るために用意された乾いた場所――運動場にいた。

 

「……広いなぁ」

「戦うにはもってこいだろ?」

 

 既に、脱走はバレている。

 これから行われる戦いに巻き込むわけにはいかない少女の扱いについては、青年が捕らわれていた体育館のそれとは異なり、運動場に個別で建てられていた倉庫の中に隠しておくという方針に決まった。

 青年と鬼人は、その倉庫を背にする形で追っ手として来るであろうサングラスの男の手下を待ち受ける。

 集団を相手取る以上危惧するべき、囲まれて袋叩きにされる危険性については、各自速やかに撃破する事で突破する方針で決めていた。

 むしろ、サングラスの男が仕掛けてくる前に多くの追っ手と戦えた方が尚良いと、青年でさえ思っている。

 何故ならこの場に来る前、鬼人は青年にこう説明していたからだ。

 

「薄々気づいてたかもしれねぇが、俺達は戦えば戦うほどに強くなっている。今のままだとあのサングラスの野郎に力負けするのは目に見えてるからな、少しでも力をつける必要がある。その相手を、即興だが手下どもに担ってもらおうぜ」

 

 実の所、青年にはそのような形で強くなった感覚に覚えが無い。

 だが、本当であれば無視出来ない話だった。

 今はとにかく、あのサングラスの男に勝つための強さが必要だ。

 不利な状況も糧とし飲み込み、少しでも勝てる可能性を増やさなければならない。

 時が来て、視界に十人以上の『同類』の姿が見えた頃、青年は鬼人に目配りをして、

 

「来るぞ。抜かるなよ!!」

「当たり前だ!!」

 

 一気に駆け出し、鬼人と共に手下の群れが居る方へと自ら向かう。

 サングラスの男の怪物としての力は未だに未知数だが、手下の方は数で劣る青年と鬼人だけでも十分対応出来る程度の力しかないようだった。

 二人に比べ、戦いの経験――あるいは苦難の経験が劣っているからかもしれない。

 彼らの素性は知らないが、あのサングラスの男の思考に同調して手下となっている者は少なからずいるだろう。

 人間を越えた存在として自らの立場を設定し、力で劣る普通の人間達を虐げ支配する――そんな思想の下で日々を過ごしていたのなら、食料さえあるいは人間から搾取していてもおかしくは無い。

 本心はどうあれ、そうして楽をして過ごしていたのなら、身を挺して怪物と戦って来た回数は多くないはずだ。

 少なくとも、自分よりも強い力を持った怪物と戦って来た経験は少ないだろう。

 こうして捕まえに来た者達についても、数の利に慢心している節がある。

 この『縄張り』に辿り着くまで、日々野生の怪物と命懸けで戦ってきた青年と鬼人にとって、その程度の相手は大した事は無かったのだ。

 烏合の衆、と称するのが正しく思えてくるほどに。

 そうして数々の手下を自らの実力で下し、冷えた夜風に対して青年と鬼人の体が暖まってきた頃。

 その時は、来た。

 

「……捕まえるのに随分と時間が掛かってると思ったら、中々やる奴等だったんだなぁ」

 

 いっそ忌々しいとさえ思える声が聞こえた。

 青年と鬼人は、即座に声の聞こえた方へと視線を移す。

 運動場の乾いた地面の上に力無く倒れ付す自らの手下を見やりながら、その男は姿を現した。

 この辺りの『縄張り』を仕切る、サングラスの男。

 既にその姿は怪物の姿――金属質な猿人間の姿――に変わっている。

 その視線はまず、青年ではなく鬼人の方へと向けられた。

 

「お前とは互いに良い関係を築けるとも思ってたんだがなぁ。まさか、仲良くしようとしてその当日にこんな真似をしやがるとは思ってなかったよ」

「生憎、俺はお前とは最初から良い関係が作れるなんて考えてもなかったよ。思考回路の時点でソリが合わない」

 

 ふぅん、と聞き流すような調子で受け答えるサングラスの金属猿人間。

 その視線が、鬼人から獅子の獣人と化した青年の方へと移る。

 

「で、差し入れは気に入ったか? 選りすぐりのものを選んだつもりだったが」

「……どうしてあんな女の子を餌にしようとした」

「ん? もっと肥えた女の方が良かったのか? そうか、それは確かに俺の選別ミスだな」

 

 その間の抜けた返しに、青年は歯を剥き出しにして怒る。

 暗い倉庫の中、餌として閉じ込められた少女の泣き顔が脳裏に過ぎる。

 

「ふざけるな……ッ!! あの子がいったい何をした。あんな扱いまでされるような事をやったっていうのか!? 人の命を何だと思っているんだ!!」

「家畜。あるいは奴隷。今じゃそう思っているが?」

「お前……ッ!!」

「おい落ち着け!! ヤツの言葉に乗せられるんじゃねぇよ!!」

 

 鬼人の言葉に、一気に踏み込もうとした足の力を緩める青年。

 だが、口元からは歯軋りの音が鳴り、元々赤かった目は既に血走っているように見える。

 その怒りを意に介さず、サングラスを掛けたその悪魔は自らの言葉を発する。

 

「……しっかし、その様子だと食ってないようだなぁ。あの差し入れ。でもって、何処かに隠したと見える。なぁ、何処に隠したんだ? 貴重な奴隷だからよ、食わないってんなら返してほしいんだが」

「死んでも、お前には教えないし渡さない……ッ!!」

「それなら自分で探すとする。その前に、まずはお前らからとっ捕まえないとな」

 

 金属質の猿人間はそう言うと、右脚を前に出して構えを取った。

 青年と鬼人もまた構えを取り、臨戦態勢に入る。

 走り出す直前、サングラスの男はこんな言葉を響かせていた。

 

「さぁて、それじゃあまた屈服させてやろうかぁ!!」

 

 直後に、三者共に一斉に駆け出した。

 まず最初に、獅子の獣人がその膂力でもって金属質の猿人間と激突した。

 互いに右の拳を正面からぶつけ合う。

 結果は一目瞭然だった。

 

「っ……!!」

 

 金属質の拳と打ち合わせた瞬間、その衝撃に青年が苦悶の声を漏らした。

 右の拳はもちろんの事、腕から肩までが一斉に痛みという名の悲鳴を上げる。

 続けて鬼人がその右手に持った骨の棍棒を金属質の猿人間の頭頂部に目掛けて振り下ろしたが、ガァン!! と高い音を鳴らすだけで、一発貰った張本人の反応からしても明確なダメージを与えられたようには見受けられなかった。

 お返しと言わんばかりに金属質の猿人間がまだ振るっていない左の拳で獅子の獣人たる青年の腹部を殴ろうとする。

 咄嗟に青年は後ろの方へと飛び退き、拳の一撃を空振らせる事こそ出来なかったが威力を殺す事には成功したらしい――その口から苦悶の声が漏れることは無い。

 同時に鬼人も飛び退き、一旦態勢を整える。

 

「痒いなぁ痒いなぁ!! この程度か? もっと本気を出してみろよ!!」

 

 敵の煽りは無視し、鬼人は思考する。

 恐らくあの金属の体は、硬さだけならつい少し前に戦った骨の竜の体よりも上だろう。

 ただ拳や棍棒を打ち付ける程度で倒せる相手ではない。

 鬼人はすぐさま棍棒を左手に持ち替え、空いた右手を振りかぶる。

 同じ考えを抱いたらしき青年もまた、同じように右手を振りかぶった。

 共に、技の名を叫ぶ。

 

「覇ァ!! 王ッ!! 拳ッ!!」

「獣ッ!! 王ッ!! 拳ッ!!」

 

 獅子の顔の気と鬼のような顔の気が、共に金属質の猿人間の体を食らわんとして向かう。

 片や骨の竜の体の文字通り食い千切った一撃――避けられなければ一たまりも無いはずだ。

 だが、現実は彼等の願う通りの光景を見せてはくれなかった。

 二つの異なる顔の気は猿人間の金属の体に食らい付くと、食らい付いた歯の方から一気に霧散してしまったのだ。

 当然、技を受けたはずの猿人間に効いているような様子は無い。

 

「それがお前らの『技』か? 俺様を前に『王』なんて付いた名の技とはな!!」

 

 そう受けた技に対して上から目線の感想を漏らす猿人間は、突如その右手の人差し指を空へと向けた。

 その指先に、何か黒く禍々しいものが見える。

 不吉な予感がした。

 

「これがこっちのお返しだ――ダーク・スピリッツ!!」

 

 猿人間が響くような声で『技』の名前を告げた直後だった。

 突然、上方から巨大な黒い稲妻にも似た何かが降り注いできた。

 確かに今日の空は曇り空だったような覚えもあるが、天災と言うには異質極まる現象だ。

 次々と自分達を狙って降り注ぐ『それ』こそが猿人間が行使出来る『技』なのだと、左右前後に動きまわって回避に専念する青年と鬼人は理解した。

 そして、真っ先に青年の意識が異なる方向を向いた。

 

(まずい、こんなものがあの子の隠れている倉庫に当たったら……!!)

「おおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 

 自らに雨の如く降り注ぐ攻撃を無視し、青年は『技』を行使している猿人間に向かって駆け出し、正面から肉薄する。

 毒を宿した爪を生やす右の五指を伸ばし、突き刺すような動作でもって攻撃を仕掛ける。

 狙うは顔面――ではなく、サングラスに覆われて見えないその眼球!!

 

「……チッ!!」

 

 初めて、猿人間たるサングラスの男が青年の回避を選択した。

 行使していた『技』を維持するための集中を削がれたためか、上方から降り注ぐ異常な人災がパッタリと止む。

 その結果に、青年は一つの予想を脳裏に浮かべられた。

 つまり、

 

(……あのサングラスがファッションの一環なのか何なのかは知らないが、いくら金属の体と言っても眼球まで硬くはなってないだろ!!)

 

 故に、攻撃を避けられたとしても焦りの情は無い。

 続けざまに眼球目掛けての攻撃を決行し、猿人間に回避を余儀無くさせる。

 その必死さから見ても、やはりサングラスに覆われた眼球が弱点である事は間違いなさそうだった。

 

「鬱陶しいぞ!!」

 

 途中、突き出した手を右手で弾き、猿人間は切り返すようにその右足で青年の腹を蹴ろうとした。

 だがその瞬間、青年は左手を同じように突き出し――その爪が猿人間のサングラスのレンズを正確に貫いた。

 奇妙な形のクロスカウンターが成立する。

 猿人間の蹴りが青年の腹を捉え、その威力でもって苦悶の声と共に後方へと仰け反らせる。

 一方、獅子の爪に貫かれたサングラスのレンズは爪が抜けると共に破片を散らし、その事実を認識した猿人間の口から怒りの声が響く。

 

「て、めぇ……っ!! よくも俺の自慢のトレードマークを!!」

「……やっぱり、その眼が弱点のようだな」

 

 怒りの声に、今度は青年の方が笑みを返す。

 その攻防を少し離れた位置から見ていた鬼人もまた、青年の言葉に納得したらしい。

 しかし、直後。

 猿人間が再び右の人差し指を上方に向け、その先端に黒いエネルギーを迸らせようとした――その動作から来ると推測される『技』の発動を阻止しようと、青年が今度こそサングラスの奥に見える眼球を狙おうとした時だった。

 黒い力が突如消失し、人差し指を立てていた右手の形が、拳の形に変わる。

 あっさりと自らの『技』を中断したのではない――その動作でもって行動を疑わせ、誘いに乗った相手をその拳で殴り付けるためのブラフだったのだ。

 しかし、気付いてからではもう遅く。

 既に猿人間に向かって接近しようと動いてしまった青年の顔面に、金属の豪腕が振るわれた。

 

 ゴキャァッッッ!! と肉と骨を打つ凄まじい音が響く。

 

 その威力に、青年は一瞬首が飛んだかと錯覚した。

 体を丸ごと吹っ飛ばされ、数メートル以上も乾いた大地を転がる。

 吹っ飛ばした側である猿人間が、容赦すること無く追撃に走ろうとする。

 それを見た鬼人が猿人間の追撃を阻止しようと動いたが、その行動さえ読まれていたのか、猿人間は追撃に向かおうとした足取りを急に止め、振り返ると共に右の足で鬼人の体を蹴り飛ばした。

 青年と同じく飛ばされて、鬼人もまた長い距離を倒れ転がる。

 その吹っ飛ぶ様子を確認する事も無く、猿人間は再び青年の追撃へと足を向かわせた。

 そして、

 

「……っ、ぐっ……!!」

 

 拳の威力の影響か、青年の意識は明滅していた。

 元々、捕まってから何も食べ物を口に入れていない状態だったのだ――その一撃は体の芯から力を奪うに足りるものだった。

 それでも起き上がろうと、仰向けに倒れていた状態から起き上がろうとした時。

 突然、凄まじい力で首を掴まれた。

 強制的に起き上がらせられ、直後に再び顔面に衝撃が奔った。

 殴られたと知覚した時、その視界には残忍な笑みを浮かべる金属質の猿人間の顔があった。

 

「我が侭にしても度が過ぎてるなぁ……よくもまぁこんなひでぇ事をしやがるもんだ」

「……っ、はぁっ……!! お前がしてきた、ことに比べれば……安いものだろ」

「口が減らないヤツだ。どうやら、躾ってやつがとことん必要らしい!!」

 

 首から手を放されたと思ったら、今度は腹に足を落とされた。

 首を直前に掴まれていた事も相まって、腹を足と地面に挟まれた青年の呼吸がおかしくなる。

 だが、意識が遠のこうとした瞬間、顔面に殴られたかのような衝撃が奔り、強制的に現実へと意識を戻される。

 どうやら徹底的に痛め付けるつもりらしい。

 サングラスの男から、暴力と共に嘲りの言葉が発せられる。

 

「大層な口を利いてもこの程度の悪知恵が浮かぶ程度か。これならまだ逃げた方がマシだったろうにな」

「ぐっ、げほっ」

「何を考えてよりにもよって俺を相手にしようとしたかは知らんが、もしかしてあの小娘でも助けようと思ったのか?」

「は……っぐ」

「だとしたら本当に馬鹿なヤツだ。あの野朗も含めてな。あんなのを助けて何の利益に繋がる? お前達が得をするような事が何処にある?」

「げはっ、ぐえっ」

「ハッ!! 馬鹿馬鹿しい。大人しく俺様の意思に従っていれば、痛い目を見ずに済んだものを。人間を守れば人間らしくいられるとでも考えたのか? 人間の暮らしに未練があるようだったしな。そんなに望むなら人間らしく扱ってやるよ。あのガキと同じく奴隷として、だがなぁ!!」

 

 殴られ、蹴られ、吊り上げられて、叩きつけられて。

 体から戦う失われつつある中、青年は意識を朦朧とさせながらも、目の前の殆ど人の形をした悪魔の声を聞いていた。

 言動も内容も、ここまでに至る青年の行動そのものを嘲るものだった。

 以前にも青年は、この男に自らの考えを否定されている。

 人間として生きようと足掻く事が無意味だと言われ、それに反論も一つも出来なかった事に悔しさを覚えた。

 だが、青年はたった今告げられた言葉の内容を否定せず、むしろ噛み締めていた。

 体感としてはゆっくりとした時間の中、首を左手で掴まれたまま、ぼんやりと思う。

 

 逃げた方がマシだった――結果を知っていれば、あるいはそう思ったかもしれない。

 少女を助けて何の得があるのか――確かに得るものは何も無いかもしれない。

 人間を守れば人間らしくいられると考えたのか――そう考えた事は全くなかった。

 

 確かにサングラスの男が語る通り、青年の行動は決して自身の利益に繋がるものではないだろう。

 戦いをする時点で傷と痛みを背負う事は避けられず、成功したとしても自分が何かを得るわけではなく、失敗すればただ厳しい代償だけを背負わされる。

 根本的に、損得の話にすらなってないとさえ言える。

 その事実を、青年は改めて認識した。

 そして、今更なことのように、今までの歩みを思い返した。

 

(……ああ)

 

 思えば、自分自身でも理由など考えた事の無い、疑問だらけの生き方だったのかもしれない。

 記憶すら失い、知人の顔も思い出せず、自分が根本的に人ではなくなった事を理解していながら何故、それでも尚家族に会いたいと――失った過去を求め続けようとしていたのか。

 怪物の姿のまま過ごしていれば、怪物からの奇襲にも日々の食事にも困らない――その事実を認識していながら、出来る限りは人間の姿のまま過ごそうとしていたのか。

 そうして人間としてあろうとする事について、大切な物を守っているのだと、失ってはいけないものを失わないようにしているのだと、きっとそれには意味があると信じ込もうとしていた理由は、何か。

 

 不変のものが欲しかった。

 自分も周りの景色も何もかもが変わり果ててしまった世界で、記憶を失い家族との繋がりさえ断たれた自分の中に、怪物として物の感じ方だって変わってしまった後になっても、それでも人間『だった』過去から変わらず残っていると確信出来るものが。

 自分らしさ、とも呼べる心の柱を立てたかったのだ。

 それさえあれば、どれだけ醜悪な姿の怪物に変貌してしまっても、変化の過程として知らず知らずに何かの記憶を失ってしまうかもしれなくても、不安に押し潰される事は無い――自分を見失う事は無いと思ったから。

 青年はそのための柱を、過去の自分を知る家族に求めようとした。

 だが怪物の蔓延る世界で目覚めた時、周りに自分を教えてくれる家族や友人の姿は無く、青年は過去の姿である人間の姿で出来る限り過ごそうとする事で、自分が別の何かに変わってしまわないよう暗示を繰り返してきた。

 過去を失う事を恐れた。何か別の物に変わってしまう事が怖かった。

 その不安と恐怖が、いつしか不変のものが欲しいという願いの原点さえ覆い隠し、怪物としての自分を『自分ではないもの』として認識させるようになってしまいのかもしれない。

 本当は怪物としての自分も、紛れも無い自分自身であるのだと――そう信じる事が出来ず、怪物としての自分を忌避し否定し続ける思想に歪み捻れてしまった。

 思えば自分らしさなんて、そもそも怪物としての姿を『自分ではないもの』として否定し続けていた時点で、探す事なんて出来るわけがなかったのかもしれない。

 異物とは思わず許容し受け入れていれば、もっと早くから恐れから開放されていたのかもしれない。

 

『多分だが、お前は単純にアレじゃないのか? 危険な目に遭ってる奴を見かけたら、身の危険を承知の上でも助ける事を優先するタイプ。お前、度を越えたお人好しタイプなんだろうよ』

 

 鬼人は青年の性格をそう語っていた。

 実際青年自身、そう語られるだけの選択を損得に関係無く選び取っている。

 その際に最も大きな指針となったのは、間違い無く彼の胸の内にある衝動だった。

 夜中に骨の竜と戦った際には怪物の姿で、少女の言葉を聞いた時には人間の姿で――共に、変わらぬ衝動を胸に抱いていた。

 変わらないものは、在った。

 姿が変わっても記憶を失っていても、人間と変わらぬ確かなものはそこに存在した。

 例え、それが怪物と化した結果『変わった』心によって導き出された、過去に在った自分と異なる間違った答えだったかもしれなくとも――それでもいいと、信じられるものを現在の自分の中に見つけられた。

 

(……そうか、なら……)

 

 不安が払拭される。

 少女を救うために使うと決めた力――許容という形で仕方なく受け入れていたそれに対する疑念が、晴れる。

 怪物に成っている現在の自分を否定する必要はもう無い。

 むしろ受け入れ、信を置き、自分の想いの全てを託してみようと考える。

 どんなに姿が変わってしまっても、変わらないものがあると理解出来たからでこそ。

 人間としての自分と、怪物としての自分が、一つに重なる。

 そして、

 

 ガァン!! という金属同士がぶつかり合うような高い音が響いた。

 眼前より迫る猿人間の右拳を、青年が左手で吊り上げられた状態のまま自らの右腕――厳密には腕に幾重も取り付けられていた鉄の腕輪で遮り、受け止めた音だった。

 防御に使った鉄の腕輪には亀裂が生じ、拳の衝撃を受け取った腕の肉と骨は軋み震えている――だが、それでも『防がれた』という事実は、優勢を確信していた猿人間にとって疑問を抱かせるには十分な出来事だった。

 それだけの力がまだ残っている、という事実についてもそうだが、何より――これだけの劣勢を、これほどの戦闘能力の優劣を叩き込まれていながら、青年がまだ戦う事を諦めていないという事実が何より猿人間を驚かせた。

 

「お前、この期に及んでまだ足掻きやがるのか……?」

「……当たり、前だ……」

 

 猿人間の言葉に、青年は真っ向から応じる。

 今にも消え入りそうな掠れた声で、それでも眼の光だけは絶やさずに。

 

「……お前なんかに、あの子をあれ以上傷付けさせない……」

 

 その時、猿人間は目撃した。

 息も絶え絶えに言葉を漏らす獅子の瞳の色が、赤から青に変わる所を。

 全身がひび割れるような音と共に亀裂が生じ、何か輝くものが体内より漏れ出している所を。

 青年の内側で――何かが明確に切り替わり、未知なるものが産声を上げようとしている――そんな変化の兆しを。

 猿人間はその変化が意味するものを知っているのか、表情が一気に驚愕の色に染まって、

 

「お前、まさか……!?」

「……そのためにも、俺は絶対に負けない……っ!!」

 

 直後の事だった。

 青年の体――獅子の獣人の体が、辺りに黄金色の光を噴き出しながら破裂した。

 その首を左手で掴んでいたはずの猿人間の体が、さながら爆発に圧されたかのように吹き飛ばされる。

 まるで夜空に輝く星ののような輝き――その奥にあるものを、一度殴り飛ばされながらも状況に復帰しようと走ってきた鬼人は真っ先に目撃した。

 そこに在ったのは、獅子の獣人の立ち尽くす姿だった。

 ただし、その体の色が元在ったものから明らかに変わっている。

 全体的に毒々しくも見えた薄い紫の体色は橙色に変じ、元は黒かった覚えのある髪の毛のような獅子の鬣は銀色になっていて、穿いている黒いズボンの色合いは以前より明るいものに見える。

 ふと見れば、両腕に拘束具のように幾重も取り付けられていた腕輪や手の甲を覆う鉄板、そして肩から突き出ていた白い骨のようなものは消失していた。

 筋肉は引き締まっていて、体格は少し前に在った姿より縮んだようにも見える。

 その変化に疑問を抱いていると、眼前の獅子の獣人に更なる変化が訪れる。

 辺りに散らばった――恐らくは元在った体の残骸と思わしき――破片が、一斉に光の粒子となって獅子の獣人の方へと集い、何かを形作り始めたのだ。

 それ等は全て、実体を伴って獅子の獣人の装備と化す。

 

 頭上に集っていた粒子は、何処かの学校が支給していたかもしれない帽子のような形を成し。

 肩の上から背中までを覆った粒子は、あるいは誰かが着ていたのかもしれない黒い色の学生服を成した。

 

 その変化が示す意味を、鬼人には詳しく理解する事が出来なかった。

 強くなったのか、弱くなったのか、そもそもアレは『あの男』のままなのか――それすらも察する事が出来ない。

 だが、それでも――理屈も過程も知らずとも、夜風に学生服を棚引かせるその獅子の姿を見て、思う事はあった。

 

 まるで、死んでいた状態から生き返ったかのようだと。

 本来在るべき姿に――『らしい』と言える姿に、戻ったかのようだと。

 

 全ての変化が終わったのか、黄金の光は空気に溶けるように消えていた。

 突如として吹き飛ばされながらも、上手く着地は出来たらしき金属質の猿人間が少し離れた位置で口を開く。

 

「……お前、その姿……まさか『進化』したっていうのか……!?」

「…………」

「馬鹿な……人間としての過去に未練たらたらで、一向にその力を受け入れやがらなかった奴が、何でそれに至れる!! 何であの状態からこうなる……!! いったい何をしやがった……!?」

「お前には、絶対に解らない」

 

 猿人間の疑問に狼狽する声を、獅子の獣人は一言で両断する。

 その声と言葉に、鬼人は確認を得た。

 一人の虐げられた少女を救うため、目の前の悪魔と戦う事を選択した、他の誰でもないあの男の意思を感じられる。

 

「チィッ……だが『進化』が出来たからって何だ。俺様と同じ領域に立てたとでも――」

 

 猿人間の言葉は最後まで続かなかった。

 問答無用と言わんばかりに猿人間との距離を一気に詰めた獅子の獣人が、その顔面を力強く殴り付けたからだ。

 ガァン!! という音が夜の空気を伝わり響く。

 金属質のその顔を殴り付けた獅子の獣人に、痛みを感じているような様子は無い。

 殴られた猿人間の方こそが、硬く柔らかい金属の体を持っているはずなのに、痛みを感じているかのように苦悶の声を漏らしている。

 

「……つ、強え……!!」

 

 その光景を眺めていた鬼人は、思わず呟き、そして明確に理解していた。

 通用しなかったはずの獅子の獣人の拳が、効いている。

 明らかに、彼は強くなっている。

 

「何だ、この力……!! この俺様の金属の体が、痛みを訴えているだと……!?」

 

 理解が出来ない様子で、猿人間が言葉を漏らしていた。

 対する獅子の獣人は、ただ告げる。

 くだらない目的のために一人の少女を餌とした、弁護のしようも無い正真正銘の悪党へ告げるに相応しき、粗暴な言葉を。

 

「覚悟しろ、クソ野郎。あの子の涙の代償を払ってもらうぞ」

 



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Final

 夜中の運動場に、吠えるような声と肉と鉄がぶつかり合う高い音が響く。

 獅子と猿――それぞれ異なる獣の特徴を宿した人型の怪物の攻防は、ここに来て拮抗どころか逆転していた。

 学生服を羽織った獅子の獣人は、金属の体を持った猿人間と真っ向から殴り合う。

 攻防の中で互いに殴り殴られ、その度に苦悶の声が漏れている。

 体力の面から見ても肉体の頑丈さから見ても、金属の体を持った猿人間の方が優勢であるはずなのだが、その猿人間の方こそが獅子の獣人に防勢に立たされつつあった。

 恐るべきは手負いの獣の底力か。

 猿人間の拳を受けて尚、獅子の獣人は決して退こうともせずに前進して次々と拳を放っている。

 この程度の痛みや衝撃など、どうとでも無いと言うように。

 その勢いに圧される形で、攻防の中で少しずつ猿人間の体が後退していく。

 そして、やがて。

 

 ゴガァン!! という轟音と共に、猿人間の体が宙に浮いた。

 獅子の獣人の放った拳を捌き切れず、その腹部に一撃を見舞われた故の事だった。

 ドジャア!! という音と共に猿人間の金属の体が乾いた地面に落ち、大きな砂煙を辺りに撒き散らす。

 

「どうした。一方的に殴り蹴る事は得意でも、殴り合う事には慣れてないのか」

「チィッ、偶然強くなったからって調子に乗るんじゃねぇ……!!」

 

 獅子の獣人の言葉に、仰向けの状態から起き上がり苛立った声で返す猿人間。

 攻防の面でも精神の面でも、とっくに獅子の獣人は猿人間よりも優位に立っていた。

 劣勢を薄々感じているのであろう猿人間は、以前指先にだけ溜めていた黒い力を両手に溜め始める。

 すると、猿人間の周囲の空間から黒い球体のようなものが次々と出現し、数を増やしていく。

 

(あれはやべぇ……!!)

 

 今は介入するべきではないと判断し、離れた位置から戦いを見ていた鬼人の直感が危険を訴える。

 恐らく、あの数多に出現している黒い球体は『発射口』だ。

 猿人間の意志一つで、一斉に以前放って来た黒い力が押し寄せてくるに違い無い。

 今の猿人間の注意が獅子の獣人にのみ向けられている以上、鬼人の方に『技』の狙いを割く可能性は少ないと考えられるが、それはつまり全ての『発射口』の狙いが獅子の獣人に向けられている事実を指し示している。

 先程は態度からも多少の遊び心を含んでいたのか『落雷』という形で『技』を放っていたが、今回は遊び心を取り入れるほどの余裕も無い――回避など容易く出来ぬよう、範囲を伴った攻撃を放ってくるはずだ。

 既に彼等の戦場は、運動場内でありながらも猿人間の手下達が倒れ伏している位置からは離れた位置に移行している――範囲を制限するものは特に無いのだから。

 

「食らえ……そして死ね!! ダーク・スピリッツ・デラックス!!」

 

 猿人間が黒い力を溜めた両手の平を獅子の獣人に向かって突き出すと同時、出現した球体から以前にも『技』として扱っていた未知の攻撃力を秘めた黒いエネルギーの奔流が、星空を想わせる弾幕を成して襲い掛かってくる。

 獅子の獣人には、それを回避する事が出来ない。

 上に跳んでも左右に避けても後ろに逃げても、確実に命中してしまうと言えるほどの射線があり、体の何処にも命中しないような『余白』は見当たらないのだから。

 そして避けられなければ、未知の攻撃力を秘めた数多の黒い力に体を射抜かれるのが道理だ。

 どれほどの攻撃力を秘めているのかは解らないが、とても物理で測れるような真っ当なエネルギーでは無いだろう――射抜かれた部位からポッカリと穴を開けられてしまっていても納得が出来る。

 

 そんな攻撃を前にして。

 そんな絶望的な状況を押し付けられて。

 獅子の獣人は――それでも尚一切の躊躇いも見せずに前進した。

 

(嘘だろ……!?)

 

 その両手に、変化の際にも生じていた黄金の光を灯して。

 真正面から次々と襲い掛かる暗黒の猛威を、輝ける拳で打ち砕く――!!

 

「はあああああああああああああああああああっ!!」

「何、だと……!?」

 

 自らの『技』の象徴たる黒い力を真っ向から殴り、砕き散らしていく獅子の獣人の姿を見た猿人間の表情は、まさしく信じられないものを見た時のその驚きを浮かべていた。

 猿人間は意図して自らの『技』の範囲を狭め、真正面から闇を打ち砕き突破を試みる獅子の獣人の勢いを殺そうとするが、迫る闇の勢いが増す度に、応じるように獅子の獣人の拳が力を増す。

 勢いが衰えても、前進は止まらない。

 自らが力負けしている理由を、猿人間には理解する事が出来ない。

 獅子の獣人も、闇に向かって拳を放つ度に少なからず力を消耗しているはずなのに。

 自分自身もまた力を振り絞り、闇を放つ『発射口』を増やして攻撃を増量させているはずなのに、その拳に宿る黄金の光が全く衰えを見せない――!!

 

 そうして、やがて。

 獅子の獣人の輝く拳が、猿人間の胴部を捉えた。

 ガキャァ!! という肉が鉄を打つ音が炸裂すると同時に黒い力の奔流が途切れ、猿人間の周囲に存在していた黒い球体も全てが消失する。

 猿人間の体が拳の威力に圧され、10メートル程の距離を後退する。

 だが、まだ倒れない。

 猿人間の戦意は、まだ砕けていない。

 

「ち、くしょう……この、野良猫風情がぁ……っ!!」

 

 悪態をつく猿人間に対して、獅子の獣人の返事は無い。

 最早言葉で応じるつもりは無いと言わんばかりに一歩を踏み出し、そこから一気に猿人間の懐に向かって駆け出し始める。

 対する猿人間は、先程自らが弾幕として放っていた黒い力を右手に溜め、その状態のまま拳を構えた。

 自らの『技』が通用しない事を知った猿人間にはもう打つ手が無いように見えたが、どうやら今度は獅子の獣人の体に拳の一撃と共に直接黒い力を叩き込むつもりらしい。

 確かに、獅子の獣人が弾幕を突破出来たのは拳の威力だけではなく、それを覆っていた黄金の光によるもの――それが存在しない部位に直接叩き込んでしまえば、無事では済まないだろう。

 更に、猿人間は空いた左手から咄嗟に何かを目の前の地面に投げる。

 それは、バナナの皮のように見えた。

 あの男が元々そんなものを持っているようには見えなかったし、そんなものが偶然落ちていたとは考えにくい――あるいはこれもまた猿人間の行使出来る『技』の一つなのか。

 だとすればこれは、攻撃ではなく妨害のための『技』なのだろう。

 進路の上に咄嗟に置かれたそれを踏ん付けてしまえば、まるで漫才のような馬鹿馬鹿しい話ではあるが、獅子の獣人はバランスを崩して最悪転倒する――そして、直後に待ち受けるのは猿人間による笑えない拳の一撃だ。

 真っ直ぐ躊躇いも無く走る獅子の獣人には、咄嗟に走る勢いを弱めてバナナの皮を踏まない足取りに変えるだけの余裕など無い――そもそも咄嗟に投げたバナナの皮を瞬時に認識出来ているのかどうかも解らない。

 故に、猿人間の一手に対して一手を返す者は決まっていた。

 

「覇王拳ッ!!」

 

 その叫びと共に、二人の戦闘を横側から眺めていた鬼人が、獅子の獣人の進路に投げ込まれたバナナの皮を狙って、拳から鬼の顔の形をした『気』を放った。

 その大きさはこれまで放って来たものと比べると小さく、とても怪物相手に通用する攻撃力を秘めているようには見えない――だが、その分速度は増しており、獅子の獣人の足が届く前にバナナの皮程度を吹き飛ばすには十分なものだった。

 

「っ!! 糞がっ!!」

 

 獅子の獣人の道を遮るものは何も無い。

 鬼人の横槍によって一手を潰された猿人間には、最早拳で応じる以外の道は無い。

 互いの距離が詰まると同時――輝ける黄金の光を纏った拳と、夜闇よりも暗き黒を纏った拳が衝突した。

 少女の味方として人間の側に立った者と、怪物の王として君臨しようとした者。

 互いの右手に宿るものが目に見えて真逆なものであった事に、はたしてどのような意味があったのか。

 

「おおおおおおおおおおおおおおっ!!」

「はあああああああああああああっ!!」

 

 大地を踏み締めた互いの意思が互いを圧し合う。

 拳に宿る力の規模が増し、その度に辺りに衝撃の波が生じる。

 恐るべきは勝利への執着か――あるいは敗北への恐怖か。

 猿人間の黒い力は、ここに来て獅子の獣人の放つ黄金の光を圧し負かし始めた。

 

「負けるはずがねぇんだ……テメェ如きに!!」

 

 ゴスッ!! という鈍い音が響く。

 猿人間が右拳で獅子の獣人の右拳を圧しながら、駄目押しと言わんばかりに使っていなかった左の拳で獅子の獣人の腹を打った音だった。

 姿が変わり力が強くなったとはいえ、それで失った体力が戻るわけではなかったのだろう――その一撃に、獅子の獣人の力が緩みそうになるが、

 

「もういい加減に楽になれ!! 諦めろ!! その無意味な生き様を直々に終わらせてやるからよぉ!!」

「ぐっ……!!」

「お前が死んだ後で、あのガキも死体に変えて墓に同伴させてやる。精々天国とやらで慰めあうんだなぁ!!」

「……!!」

 

 その言葉に、青年の目付きが明確に変わった。

 同時に、拳に宿っていた黄金の輝きが爆発的に広がっていく。

 それは、拳どころか獅子の獣人の全身を覆っていき、やがて獅子の形を成す。

 それは紛れも無く、過去にも使われた彼の『技』の象徴。

 誰かを助ける――その意思にて形作られた獣が今、目の前の闇を喰らい尽くす。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

「まだ……まだ、力が増すのか……っ!?」

 

 獅子の獣人が吠えると同時、その右拳が猿人間の右拳を跳ね返す。

 拮抗は崩れた――獅子の獣人は続けて左の輝く拳で猿人間の腹を殴り上げる。

 猿人間の金属の体が拳の威力に浮き上がり、くの字に曲がった腹部には減り込んだ拳の痕が残る。

 

「ぐ、は……っ!?」

 

 これまで以上の苦悶の表情を浮かべる猿人間に対し、獅子の獣人は即座に一度振るった右の拳を構え直す。

 それこそが、今の自分が持つ最高の武器だと信じるが故に。

 

「獣!!」

 

 だんっ!! と響かせるほどの力で大地を踏み締め、

 

「王!!」

 

 心が叫ぶ言魂を手の中に込め、限界以上の力で拳を握り締めて、

 

「拳ッッッ!!!!!」

 

 猿人間の顔面目掛けて、放つ。

 轟音が炸裂した。

 恐らく、これまで何物の攻撃も受け付け無かったのであろう金属の体を持った猿人間の顔面に拳を減り込ませ、獅子の獣人は拳に伝わる反動や痛みの全てを無視してそのままの勢いで振り切っていく。

 声を上げる事も無く、猿人間の金属の体が顔面に加わった力のみで縦に回転しながら十数メートル以上も吹き飛んでいき、落ちても尚ある程度の距離の地面を抉っていった。

 勢いが止まった後になっても、猿人間に起き上がってくる様子は無く。

 そうして、勝敗は決した。

 獅子の獣人は、気を失ったと思わしき猿人間に向けて、聞こえはしないだろうと理解しながらも言葉を発する。

 

「……戦ってやるさ」

 

 きっとそれは、あるいは猿人間だけに向けられた言葉ではなかった。

 自分自身に対する決意であり、先の未来に対する宣戦布告だった。

 

「王様だろうが神様だろうが知った事か。俺が俺である限り、必要の無い涙を流させるお前達のような奴等には何度だって歯向かってやる!!」

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 戦いは終わった。

 気を失った猿人間――と化しているサングラスの男を放置し、獅子の獣人は少女を匿っていた倉庫の方へと足を進める。

 その途中、共に戦っていた鬼人が近寄って来た。

 

「……やったな。やったんだよな」

「ああ」

 

 鬼人の言葉に、獅子の獣人は簡潔に返答した。

 運動場にいる敵対者は猿人間はもちろんの事、手下も含めて戦えない状態になっている。

 まだ校舎内に手下が残っている可能性は否定出来ないが、群れの頂点であるサングラスの男を倒された事実を知れば、好き好んで襲い掛かりには来ないだろう。

 トドメを刺したわけではないため、意識を取り戻したサングラスの猿人間が復讐のために再び獅子の獣人を襲う可能性も考えられるが、その時はその時――何度でも相手をして、何度でも打ち倒すと既に覚悟は決めている。

 鬼人もまた、それを理解しているか否かは定かではないが、トドメを刺さなかった点について獅子の獣人に問い質そうとはしなかった。

 敵対者を殺すも生かすも、決めて良いのは勝利者である獅子の獣人のみだと考えたのかもしれない。

 

「随分とかっけぇ姿になったな……服まで付いてくるもんなのか」

「特に望んだ覚えは無かったんだがな。服のように見えて、実は皮か何かという可能性もある」

「どう見ても学ランだよなそれ……何というか、番長って感じだ」

「それ不良のリーダーという意味だった気がするのだが……そう見えてしまうか?」

「そう見える。んー、俺もそんな風に『変わった』らカッコよく成れるんかね。翼を生やしたドラゴンとか、全身甲冑で剣や盾とか持った騎士とかそういうイケメン路線」

「……うん、絶対に違うとだけは何故か断言出来てしまうな」

 

 イケメン化済みの余裕かこのライオン丸ー!! とか何とか訳のわからない事を言って嘆く鬼人を放っておいて、獅子の獣人は倉庫の扉の前まで歩いていく。

 ……実際問題、こうして怪物の力を手にした者は何らかの切っ掛けで『変わって』いくのだろう、と彼は思う。

 今回戦った猿人間も、過去にはまた異なる姿で在った可能性が考えられる。

 あるいは、あの体も最初は金属質のそれではなかったとか、そういう可能性だ。

 仮説だけならいくらでも立てられる。

 これまで遭遇して来た野性の怪物にしろ、今回戦った『同類』達にしろ、皆過去には何か別の姿をしていて、心だって今とは異なる性質を宿していたのかもしれない。

 故に、獅子の獣人たる青年自身、今の姿のままこれから先も戦っていけるのかどうか、自身は無い。

 今でこそ纏っている学生服や学生帽、そしてズボンなど、おおよそ人間が身に着ける衣類が体についた姿をしているが、また何らかの切っ掛けで姿が変わってしまう可能性は否定出来ないのだ。

 

 だけど、一つだけ今回の事で確信はあった。

 どんなに姿が変わっても、変わらないものは確かにある。

 それを信じて行動していれば、まだ見ぬ未来でも自分を失う事は無い。

 そう、信じられる。

 

「……しかし、どうするかな。今になってあの子の面倒を見られるかどうか不安になってきた。とりあえずあの女性を頼ってみるか? 食料の備蓄とかあればいいが」

「無いならあの連中の備蓄から拝借しとこうぜ。どうせ見下し精神で人間達から奪ってたもんだろ」

 

 鬼人とこれからの事を口にしながら、獅子の獣人が倉庫の扉を開く。

 

 ――きっと、これから先も苦難は続くだろう。

 

 人間から共に生きる事を否定されて、居場所を失ったり。

 そうしてまた知らない道を歩き続ける日々に逆戻りする可能性もある。

 思い出したかった記憶から温度が消え、望みが知らぬ間に失われてしまう事だって。

 そんな、誰かが保障してくれるわけでもない未来を頭に浮かべながら、それでも尚――彼は内心でこう呟いた。

 

 ――それでも、歩き続けよう。

 

 ――生きて、戦っていこう。

 

 ――俺が、俺である限り。



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