真・恋姫†一刀無双 ~初出会は少女仙人-混沌の外史~ (カメル~ン)
しおりを挟む

第○➀話 一刀降臨

 

 

 

 こんな光景は、今までに見たことがなかった。

 その考えがはっきりと読み取れる顔付きで、一人の少女が口を少し小さく開き、驚きの表情をしながらそれに見入ったまま、かなり上空を見上げていた。

 

 ここは、大陸の聖地、五名山の一つである東岳泰山近くの山の中。

 東岳泰山は兗州の泰山郡にあり、この辺り一帯には未開の森が広がっている。

 木々の合間より夜空が開ける場所から、少女は空の一点を見つめていた。

 

「………」

 

 白き光の塊であった。

 それは卵を引き延ばしたような楕円状に輝いており、長さは目測で九尺(二百七センチ)と少しあるだろうか。

 今日は月が満月に近く明るいが、夜の帳の中で月光以上の光を放っていた。

 眩しく輝いている塊はゆっくりと降りてくる。

 しかし、その輝きは降りてくるほど薄くなっているようだ。

 そしてその中に、薄く影のような何かが見えてくるのに少女は気が付いた。

 

「……人?」

 

 少し離れていた場所で見ていた少女は、思わずその輝きへ向かって走り出していた。

 ほぼ見通せない暗い森の中を、まるで見えているような動きで、木々の枝や葉を掴んだり避けながら、合間にちらりと上空の輝く光を追う。

 彼女は、俊足の人外的な動きと身の熟しで、あっと言う間に降りてくる光の真下近くまで来た。

 そこは、少しだけ木々の隙間があり、開けていた場所だった。背の低い草が茂る中、地面が所々に見えている。

 光の降下はまだ止まらない。

 しかし、それはもうほとんど光を失っていた。

 光の中にあったものの姿がはっきり見える。どうやら少年のようだ。

 そして、少年の体は地上から、三尺(七十センチ)ほど地上から浮いていたが光の消滅とともに……いきなりドサりと落ちた。

 

「ぐっ……」

 

 少年は頭を押さえて少し呻いていた。どうやら頭を打った模様。

 そして少女は―――

 

 

 

 些かビビっていた。

 

 

 

 少女は仕方なく少し離れたところから、「大丈夫ー?」と声を掛けたが、帰ってきた言葉は、その返事には成っていない言葉だった。

 

「いてて……。えっ? 真っ暗……?! ……ここ、どこなんだよ?」

 

 頭を押さえながら気が付いた少年は、予想外だったのだろう。周りが暗いため、驚いた声を上げながら、その場に座り込む形で上半身を起こす。

 少年が女性と思われる声の方を向くように顔を上げると、薄暗い中、森が周りを囲み、ここは空き地なのか草が茂り点在する地面が見える場所で、自分から少し離れたところに少女が一人立っているのが見えた。

 その声を掛けてくれたであろう少女の背丈は、自分の顎の位置より高めの百五十五センチぐらいだろうか。周りは暗いため、色が黒く見える髪は、頭のつむじの部分で後ろ手に一つに大きく丸く纏められている。

 服装は、首から膝まで覆うマントのような暗い色目の分厚そうな大布で全身を隠していた。背中に剣のような長物を担いでいる。足元はブーツのようなふくらはぎまで隠すものを履いていた。

 顔は薄暗い中でも、少し切れ目だが僅かに大きめで、美人だとはっきり分かる整った顔立ちだった。自分と同じか少し年下ぐらいでまだ少し幼いようにも見えたが。

 その少女は少年を観察しながら答えた。

 

「ここは、泰山の傍の山中よ。……君は、何者?」

 

 少女はあの光に巨大な気を感じて上空に気が付いたのだ。それは発見時、少女の持つ力を大きく超えたものだった。

 今、少年からは特になにも感じられないが、そのためまだ油断することが出来なかった。

 

「俺は北郷一刀っていいます。 た、泰山? ……えっと……すみません、広い範囲でいうとどこの県ですか?」

(泰山を知らないの?! ……なんだこの人は?)

 

 驚きの表情をする少女は、とりあえず少年へ答えを返す。

 

「私は、雲華(ユンファ)よ。泰山は泰山郡にあるでしょ? 県? …泰山が泰山郡の中のどこの県にまたがっているかが聞きたいの?」

 

 一刀はそう雲華と名乗る少女に逆に聞かれる。

 

(ゆんふぁ? 中国の人かな……? それよりグンの中に県?! なにそれ?)

 

 自分の認識と違うその内容に混乱する一刀だった。

 

「えっと、グンの中に県って……あの、そのぉ……」

「……なにかな?」

 

 話が噛合わないことに、少女は少し不機嫌になりつつ言葉を返した。

 一刀は今いるこの場所について、まず基本に返ることにする。

 

「一つ聞きたいんだけど……ここって日本……ですよね?」

「……に・ほん? なにそれは?」

 

 雲華と名乗る少女は、知識にない名称が出てきて少し悩んだが、機転を利かせて少年へ聞いてみる。

 

「……もしかして、それはどこか遠くの国の名前なの?」

 

 一刀は雲華の言葉から取っ掛りを見つけて飛びついた。

 

「そうです、国の名前です! 日本です」

 

 しかし、雲華は少し考えるが、すぐ小首を傾げる。

 

「私も少し物知りな方だと自負してるけど……そんな国の名前は聞いたことないわよ。この国は……そうね、漢という名前よ?」

「かん……?」

 

 一刀は、これはアカンっ――と思わずくだらな過ぎるダジャレを考えてしまったほどショックを受けた。ここは日本じゃないらしい。

 

「……今、西暦何年ですか?」

「セイレキ……? んー、先ほどから、どうも君の言うことがよくわからないんだけど」

 

 雲華は少年の体の気の流れや様子から、本気で彼は迷っているようだと確信する。そして逆に質問してみることにした。

 

「……あのさぁ、君、ホンゴウカズト…殿だっけ? さっき光りながら空から降りてきたけど……君は天の人なの?」

 

 一刀はそのあまりの内容に一瞬絶句ののち、思考の混乱が加速する。

 

「………………。えぇっ、空から降りてきた?! 俺が……ですか?」

 

 雲華と一刀は淡々とやり取りする。

 

「うん、そうよ」

「……光りながら?」

「そうそう」

「……俺が……天の人?」

 

 そして、一刀は固まっていた。意味が分からず、固まっていた。

 ここはどこで、そして一体自分になにが起こったのかが全く分からない!

 

 表情といい動きといい、思考が固まっている彼を見て、雲華もかなり困っていた。

 だが彼の雰囲気から、とりあえず脅威は感じられないと判断した彼女は、一刀側へ歩を進め傍までやってくる。

 一応、彼とは話は通じているようだが、固有の名前にしても起こった状況も、お互いに認識外のモノのようで、最初から話のやり取りがほとんど成立していないのだ。

 分かったのは彼の名が『ホンゴウカズト』というやけに長い名だなぁと言うぐらいである。雲華は、これは字(あざな)も込みなのかもと判断して一刀へ確認する。

 

「失礼だけど、確認させてね。……君はホン・ゴウが名前で、字がカズ・トなの?」

 

 雲華はとりあえず、認識出来そうな彼の名前から踏み込むことにした。さらに細かく聞いてみる。

 

「ホンが姓、ゴウが君の名……でいいのよね?」

 

 しかし、一刀からは「違いますけど」と答えを受ける。その続きの内容でも、雲華は困惑した。

 

「俺は姓が北郷、名が一刀です。字は……俺にはありません」

 

 そう言いながら、一刀は文字の形に地面を指でなぞる。

 雲華は、その書いた形がだいたい認識出来た。

 

「なるほど……文字はそこそこ私たちの使っている形に似ているようね。では、北郷殿と呼べばいいのね? 私の事は雲華(ユンファ)と呼んでくれていいわ。……そうそう、一応、先に確認しておくわ。真名って知ってるわよね?」

 

 また、意味のよくわからない言葉を受けて一刀の頭の中に疑問符が浮かぶ。思わず雲華へ聞き返す。

 

「……真名?」

「そう、真名とは個人の持つ、真の名前よ。親密・信頼のおける間柄でしか呼び合わないものよ」

 

 説明を受けても、一刀の表情から「なに、それは?」と理解していないのを読み取った雲華は、一刀へ呆れつつも親切に警告を交えながら説明する。

 

「んー、これも知らないようね。これはとても重要なことだから言っておくわ。いい、他人の真名は絶対、不用意に呼ばないことよ。相手の許可なくその真名で読んだら、殺されても文句は言えないほどの事だから。北郷殿……声に出して反復してみて」

 

 雲華は真剣な表情をして一刀を見ていた。一刀にもその真剣さが伝わる。

 

「……分かったよ。えっと……人の真名は許可がない限り……勝手に呼ばない。これでいいのかな?」

「くれぐれも、忘れないでね。本当に殺されちゃう事もあるからね」

 

 そこではっと気が付いたように、一刀は恐る恐る彼女に聞く。

 

「ごめん!っ先に言ってから聞く。雲華って……真名じゃないよね?」

 

 ふふっと、笑顔で吹き出しながら雲華は言う。

 

「自分から雲華って呼んでって言ってるでしょ? 仮に真名だったとしても問題ないわよ。まあ……私は真名はもう忘れちゃったから関係ないけどね」

 

 そこで、一刀の腹部辺りから大きくお腹の鳴る音が聞こえた。

 雲華は、呆れたように微笑みながら一刀に聞いてみた。

 

「北郷殿、君……行く当てもなさそうね……。まあ、悪い人にも見えなそうだし。今日はもう遅いから家にいらっしゃい。あんまりいいものは無いけど、野宿よりはマシでしょ? 第一まだ何も聞いてないしね」

「俺は助かるけど……本当にいいのかな?」

 

 すかさず意地悪に聞く雲華。

 

「……何かするつもりなの?」

 

 一刀は大焦りで手を前で振る。

 

「滅相もありません! 非常にご迷惑でしょうが泊めていただけるならありがたいです! なんでも話します!」

「ふふっ、冗談よ」

 

 一刀の体に纏う気や所作から、身体能力では自分には到底届いていないと判断した雲華は、からかいに満足したようにそういう言うと、「こっちよ」と言って一刀を連れて森の中の自宅に向かった。

 

 

 

 

 雲華の家は、森の中の直径が三メートル近くあるだろうか……その巨木の上に建てられた、梯子を伝って上る小屋のような家だった。

 少し下で待つように言われ、雲華が先に中へ入ると明かりが灯されたのか少し開いた扉から明かりが見えるようになった。木で作られている小屋のようだが、壁や窓からは明かりが全く漏れていない。しっかりと作られているようだった。

 間もなく、いいわよと声があり一刀も梯子を上って入ると……二度驚いた。

 まずは、彼女の服だ。

 すでにマント状の紺色の厚めの大布は、脱いで壁に掛けられていた。

 そして……彼女が着ていたのは、蝋燭の薄明りでもはっきりと艶のある鮮やかな紅の赤で、裾が少し短めの膝ぐらいまでのもので、スリットがちょっと大胆なチャイナドレスだった。刺繍も落ち着きのある華やかなものだった。目を見張るとはこのことだろう。

 さらに、薄暗闇でもわかっていたが、改めて見ても驚くほど可愛い美人さんだった。

 一刀が目を丸くして思わず驚いてしまった顔を見て、雲華も同様に一刀を見て少し驚いていたようだが、その驚いた顔も……良かった。

 彼女は一刀のキラキラと光に反射する制服が気になったようであった。

 

 とりあえず、ちょっと待っててと、干し肉や木の実など、あとは小麦を水等で捏ねて固めて蒸した物など、火を使わないでもすぐに食せるものをお皿に並べて振る舞ってくれた。

 

「なにもないけど食べてね」

「ごちそうになります」

 

 二人は、入口から入ってすぐの食堂と思われる場所にある食卓で食事を始めた。

 食事をしながら二人とも落ち着いて来たのか、先ほど出会った前後の現象や質問を話合っていた。

 

「なるほど、では北郷殿は――」

「雲華、もう北郷……でいいよ? 俺だけ殿をつけられてもこそばゆいし」

 

 一刀の様子から気持ちを汲み取り、雲華は従うことにする。

 

「そう、分かったわ。では北郷。君は天の人ではなく、あくまで普通の人間で、この今の……君の言う中国の三国時代だっけ? この時代とは違う、ずっと明日以降の先の時代から来たと言うのね?」

「うん、そう言うこと」

「……まあとりあえず、よかったわ。始めは天の人が、おチャメな私をシバきにきたと思ってびっくりしちゃったもの。でも、う~ん」

 

 雲華は判断しかねていた。ただの人間にしては、あの状況が余りに超常現象すぎる。

 雲華自身の持つ『人外の常識』すらも上回っていた。この少年はなんなのか。結論は出ない。

 

 すると、一刀が質問した。

 

「雲華。そういえば、君はここで何をしているの? こんな山奥だと道もないし、人里を離れたようなこの小屋で」

 

 今度は雲華が、何気なくさらりと常識外の発言をした。

 

「えっ? だって私、仙人だから。人里離れるのは当然でしょ? 私たち仙人は、基本的に人の世界に関わっちゃいけないのよ」

「…………」

 

 一刀はその予想外のトンデモ内容に、食事中の動作が固まり、箸から掴んでいた木の実がポロリとお皿に落ちた。そしてもっとも気になった単語を呟いた……つもりだった。

 

「……センイン(船員)? ……近くに大きな川とかあって、船を操って人知れず魚採ってる?」

 

 凄まじくボケる一刀だった。

 

「違います! せ・ん・に・ん、仙人よ! 空も飛んじゃうわよ!」

 

 雲華は、軽く馬鹿にされたのかとちょっとカチンと来た。

 

「見てなさいよ!」

 

 気合いを入れるように長袖のチャイナドレスの袖をまくり綺麗な腕を見せると、肘を腰に付けるように曲げ、グっと拳を作って気を溜めるような所作を軽くハッと気を込めてすると、その左腕外側の柔肌に、食卓の上にあった良く切れそうに刃の光った刃渡り十四センチほどの小刀を右手で持ち、サクりと左腕外側に鋭く切り付ける。

 

「おい! ……え?」

 

 しかし、切り裂かれたはずの左腕外側の肌には全く傷が無かったのだ。まるで見えない鋼鉄の手甲でも付けているようだった。

 

 一刀は向かい合う机の反対側から、止めようと手を伸ばして必死になったが……一瞬で目を疑った。切り付けた時に刃は確実に皮膚に当たって引くように鋭くバッサリと切られたはず……だったのだ。

 しかし、切れてナイ。

 

「どう? これが硬気功よ。まあ、これの真似事ぐらいは人でも出来るやつはいるけどね」

 

 雲華は、そう言いながら逆手に握り直した小刀を、さらに左腕外側に何度もドカッドカッと鋭い刃先を突き立てるが赤くなることすらも全くなかった。これは完全に人じゃない。

 最後に同じような力で小刀を机に突き立てると、ゴッという凄い音と共に、木の机に軽く六センチほど刃先が突き刺さっていた……。抜けない……。なにげなく軽々と振っていると思ってた彼女の腕力と握力も半端なかった。

 

「あーあ、机が傷ついちゃったわ」

 

 雲華は、緊張したこの空気を解すためか、わざとらしく大きく溜息を付きながら言った。

 一刀は少し背筋が寒くなる質問をしてみた。

 

「人の世界とは関わらない、仙人の雲華が……なぜ俺と関わりを?」

 

 ふふんと鼻を鳴らしながら、にっこりとそれに雲華は即答する。

 

「それは、君が普通の人とは違うからよ。確かに見た目や考えは人かもしれないけど。あの現象は人、いえ……この世界の仙人でも起こせないことだからよ。間違いなく君には何かあの現象を起こした力がある……その理由も」

 

 一刀は自分が買い被られてるとしか思えなかった。ここで気が付く前は、学校に通ってる普通の高校生で……ただの人で。取り柄といえば、人より少し剣道がうまいぐらいだ。

 

「………」

 

 少しうつむいて、現状とその理由を真剣に考えようとしている一刀を、雲華は向かいから眺めていた。そして、少しすると一つの考えが閃き、それは小さく声に出ていた。

 

「……ふむ、試してみるかな」

 

 

 

 この後、せっかく出したものだから食べて頂戴ねと食事を再開した。話はキラキラの服のことや、この世界の話をすることで一刀は興味を持ち直したようだ。少し気分も晴れたらしい。

 食事が終わると、今日は色々あったので早々に休み事にした。一刀は入口から入ったところの食事をしたこの食堂のような部屋で机を横に退け、手すりや背もたれの無い平らな座面だけの横長椅子を二つ横に並べて、毛布を体に掛けてそこに横たわって寝ることに。雲華は上にある部屋でそれぞれ休んだ。

 

次の日、とんでもないことになるとは、この時、一刀はまだ何も知らなかった……。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年03月18日 投稿
2014年03月22日 文章修正
2014年03月27日 文章修正
2014年04月08日 見直しと文章修正
2014年04月19日 冒頭加筆と見直し修正
2014年05月01日 見直しと文章修正
2014年05月02日 後書きに単位の注意書きを追記
2014年11月01日 文章見直し
2015年03月01日 文章修正(時間表現含む)



 ちなみに中華人民共和国では、字の公用を廃止しているそうです。
 また、本来名を呼ばせないために、実名以外に呼ぶ名として字があるとのこと。親や主君などの特定の人物や目上の人物だけが名を呼べたみたいです。
 なので、例えば張飛将軍とは呼ばれないようで、張将軍となるようです。まあ、恋姫無双ではあまり関係ないですけど、こう見ると、名が真名に近いですねぇ。

 ろうそくは三国時代には存在したものの、唐の時代ごろになって一般でも使われるようになった模様。
 参考までに。
 
 あと、本作内では距離等について、後漢ごろの単位(一尺≒23cmなど)を使っています。



 補足)時間表現に十二時辰と一日百刻制を採用
 十二時辰は一日を十二に分ける時法です。
 一時が二時間になります。
 紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている『春秋左氏伝』に表記が確認されています。

 子時からスタートして、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥と干支順に進んでいきます。
 子時は現代の24時表記で言うと23時になります。

 早見表
 子時(23-01時)
 丑時(01-03時)
 寅時(03-05時)
 卯時(05-07時)
 辰時(07-09時)
 巳時(09-11時)
 午時(11-13時)
 未時(13-15時)
 申時(15-17時)
 酉時(17-19時)
 戌時(19-21時)
 亥時(21-23時)

 各時辰の最初を初刻(しょこく)、中間を正刻(せいこく)と言い、
 0時を子の正刻、正子(しょうし)、午の正刻つまり12時を正午と言います。

 十二時辰は十二刻とも呼ぶようですが、前漢の時代に一日百刻制が確立。
 一刻は14分24秒程に相当します。
 これも使っていきます。
 例えば、
 午前5時15分は、『卯時の初刻から一刻程』となります。
 午後2時30分は、『未時の正刻から二刻強程』で表せます。
 午後8時45分は、『戌時の終わりから一刻程前』で表せます。
 なのでこれまでの『刻』での表記を修正していきます。
 具体的な表現ですが、
 『卯時(午前五時)』とかになる、
 『二刻強(三十分)』になる形です。
 カッコで現在時間の補足も付けていく予定です。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第○➁話 修行始まる *1

 

 

 

 寝苦しい――という言葉があるが、それは起きれば解放されるものであります。

 しかし……。

 

 先ほどから目が覚めてるのに……眼球は動かせるのに、視界が真っ暗です。そしてなぜか体も――動かない!

 『手の指先から、足の指先までが……う、動かないんですけどぉ!』と、焦り始めた一刀だった。

 さらに恐ろしいのは、全身の皮膚感覚までも全く無い。周りに何も接触するものがなく、空中に浮かんでいるような感覚というべきか。

 いや、それ以上に不安な感覚だった。何も感じれないのだ。感触も温度も風も何も……。

 ただし、真っ暗な中でも音は聞こえていて、そして口を動かすことが出来て声は出るようだ。

 

「おーい! 雲華ーーー。なんかおかしいぞーーーーーーーーー!」

 

 思わず一刀は大きな声を上げた。

 

 

 

「ふむ。やっと目が覚めたようね。このまま永眠するんじゃないかと思ったわよ? 北郷、おはよう」

「おはよう……雲華」

 

 挨拶どころではないはずだが、律儀に返してしまう一刀であった。

 すでに、雲華は一刀のすぐ横でこの有様を見ているようだ……というか、間違いなくこいつが仕掛け人だろう。

 彼女が仙人ということを昨晩教えてもらっていたので、この状況に陥っていることを連想することが出来た。でももし知らなかったら、体のあまりの突然な異常に死を覚悟しパニックになっていたかもしれない。

 なぜこうなってるのか、状況がまたしてもよくわからないが、昨日、この世界で初めて目覚めた時より、状況が相当悪いことはまず間違いないだろう。

 ここは冷静にまずは、理由を聞くしかない一刀である。

 

「あのぉ……雲華? この状況は、何か意味があるのかな? 目は見えてないし、体も動かないんだけど。感覚も無いよ」

 

 それを無視するように、雲華はすごく気になる事を一刀に確認してきた。

 

「心配になったのはそれだけ?」

「………」

 

 一刀は、「ん?」と思った。そう、息がちょっとずつ苦しくなってきているのに……気が付いた!

 

「ちょ! 息が……苦しいん、ですけどぉ!!」

 

 すでに、肺の呼吸機能が落ちてきてるのか、大きな声を出せなくなりつつあった。

 

「これで見えるかしら?」

 

 雲華の声と同時に、急に一刀の目に情景が入ってきた。

 雲華の右手が、指先が目前に迫り、一刀の眉間の辺りを触れて離れた後、のような状況が見えた。周りはすでに部屋の窓が開けられ、眩しい朝日が差し込んでいる。今日は良い天気のようだ。……和んでる場合じゃないが。

 体は仰向けなようで、正面に見えている天井を中心に見れば、昨日寝ていた食堂の部屋の中だとわかる。雲華は一刀の左側に座っていた。

 

(――と、ホントどうでもいいな、そんなことは!)

 

 とりあえず今は、『空気プリーズ!』と一刀が思い直す。

 すると、雲華は一刀の感覚が無くなり脱力中の左手を取って、……なんと雲華自身の胸に?!

 

「どう? 苦しさだけじゃ何だし、ご褒美よ?」

 

 彼女はウインクまでしてくれていた。

 見た目、間違いなく一刀の手が、雲華の柔らかそうな胸に押し当てられているのが見えていだが……。

 

(恨めしいぞ、この左手め!)

 

 ……いや、思わず熱くなってしまった彼だったが、今は本当にそれどころではない。

 一刀は苦悶の顔をさらに赤くしながらも雲華の顔を見て、その思いが自然に口から声が漏れた。

 

「感覚ないけど……う、うれしい……めちゃくちゃうれしい……けど………それ以上に…めっちゃ息苦……しいわ! ……雲華……何がしたいん…だよ、こ……れは!」

「ふーむ。違うのかな?」

 

 雲華は一刀の左手を胸に抱えながら、呼吸難で苦渋の顔になっている一刀の状態を冷静に横で見ながら少し悩む表情をしていた。そして、「ちょっと手助けしないといけないかな」と言って、また右手を顔の方に伸ばしてきた。しかしそれは、顔ではなく、喉の上に翳される。

 

「この首の辺り、何か感じない? この辺りの気の流れが、塞がり気味になってるから呼吸が苦しいのよ?」

 

 一刀は、『そんなこと言われても訳が分からないよ?』という顔を雲華へ向ける。すでに、話すのもキツイ状態になってきていた。掠れるような声でやっと意志を伝える。

 

「む……り……」

 

 すでに、一刀の顔は息苦しさに赤くなり始めている。もう呼吸が……ほとんど止まっている状態である。空気を求めて口をパクパクし始めている。

 雲華は、依然として、喉の上に手を翳さしたまま、静かに一刀の様子を見ているだけである。そして、追い打ちをかけるように言葉を紡ぐ。それも小首を傾げて、にっこりにながら。

 

「北郷……。本気で、何とか考えないと死んじゃうよ?」

 

 それを聞いた一刀は、雲華が本気で『俺を助ける気がない?!』と慌てた。

 

「首のところにあるでしょ? ほら?」

 

 雲華は、見えていて当たり前のようなことを言ってきた。しかし、『ほら? とか言われても、凡人の俺には何にも感じないんですけど! 見えないんですけどぉ!』と口パクだけで雲華に必死で抗議する。一刀はもう限界だった。

 

 (俺の肺よ……! ……呼吸……して……くれ)

 

 そのまま、一刀の意識は遠退いた――――。

 

 

 

 どれくらい、時間が経っただろうか? 一刀は目を開いた。

 感覚的には一瞬のような気がする。

 

(呼吸は戻ってい……る? ……ようで……戻ってないぞぉ!)

 

 そしてまた、『呼吸が段々苦しいんですけど? 体も全く動かないんですけど!』と、内心で一刀は叫ぶ。

 

 雲華は、先ほどと変わらず、喉の上に手を翳したままである。

 

「あら、北郷。一瞬で戻ってきたわね。早く呼吸を自分で戻した方が楽よ?」

 

 一刀は、雲華の言葉に愕然とする。

 

(やっぱり、落ちてたのは一瞬かよ? えっ? これって、窒息地獄の無限ループコースか?)

 

 冗談じゃない現状に我慢ならず、一刀は雲華へ叫ぶ。

 

「ちょっと、雲華! さすがに酷いだろ? 寝起きでいきなり、これはどういうことだよ!」

 

 一刀は、さすがにかなり頭に来ていた。『朝起きたら、いきなり拷問か? 俺が何したよ?』という気持ちでいっぱいになっていた。

 すると、雲華は怖いことをさらりと告げてくる。

 

「昨日……私は言ったわよね? 仙人と人は関わりあっちゃいけないって」

「でも! 雲華は俺が……普通じゃないって……認めてたよ……ね?」

 

 一刀は、もう息がかなり苦しくなってきていた。すると雲華はニコリと微笑みながら一刀に告げた。

 

「ごめんね。それはちょっと違ってたわ。あくまで、『君に起こっていた現象』が、普通じゃなかったのよ。だ、か、ら、今君自身に普通と違う人だということを『証明』してもらわないとね。それが無理なら、仙人と関わった人として、ここで……君には死んでもらうしかないわね♪」

 

 言葉尻で、雲華は指先を自身の首の辺りでひゅっと弧を描くように動かす。

 

「ええっーーー!?」

 

 思わず、一刀から苦しいながらも声が掠れ漏れた。

 

「北郷。この世界は、君が思っているほど甘くない。今の君でも、なんとか生きていけるんじゃ?と考えているなら……それは大間違いよ。 この国では、戦争や疫病で数多の人が虫けらみたいに、あっさりと死んでゆくのよ。君も……ここで普通の人として生き残っても惨いだけよね」

 

 雲華の先ほどからの一方的な仕打ちと、この傲慢な意見に、一刀は―――

 

 

 

 切れていた!

 

 

 

「それは…………雲華が……勝手に……決める事じゃない! 死ねるか! こんなところで!」

 

 

 

 完全に頭に来ていた一刀は、雲華を睨みつけて怒りを絞り出すように言葉を大声で吐いた。すると雲華は、いきなり見当外れな返事をしてきた。

 

「ほら~、出来てるじゃない♪」

 

 雲華は『してやったり』の顔で嬉しそうだ。

 

 一刀は、『あ? こいつ、なにを言ってんだ!』と、体は相変わらずピクリとも動かない為、口元と声だけで、本気で雲華に食って掛かる。

 しかし、吹き出しながら雲華は言う。

 

「北郷、今、君は自分が普通に呼吸出来てるのに気付いてないの?」

「…………」

 

 一刀は、怒りも忘れてまさに「はぁ?」というような顔をした。雲華は言葉を続ける。

「まあ、全身に比べれば、首の気道の縛りは弱くしてたけれど……君自身が気迫で首裏の肺動作の気道を通したということよ。呼吸が普通に出来てるでしょ? ……まあ、人でも気功の使い手にはこれぐらい、難なく出来るやつもいるけどね」

 

「…………」

 

 一刀は、固まっていた。雲華はにっこり笑いながら一刀に告げる。

 

「よかったわね。練習してちょっとづつコツを掴めば、ここでは死なずに済みそうね?」

「お……ぅ」

 

 一刀は、ここで初めて『雲華に騙されて本気にさせられた』ことに気が付いた。

 

「さてと、じゃあ北郷。もう一回やりましょうか? 昼までに五十回ぐらいしないとコツがつかめないわよ?」

 

 雲華は、再び喉の上に手を翳して気道を弱めに閉じようとする。

 

「ええっーーー、五十回?! 俺、ホントに死んじゃうから!」

 

 容赦などなく……すでに、一刀の呼吸は厳しくなってきていた……。

 

 

 

 

 まさに生き地獄だった……。他に形容しようがなかった。

 一刀は、今、生きていることに少し後悔しかけていた。死んでた方が楽だったかもと。

 彼は昼前までに、延々の窒息落ちループ地獄を味わっていたのだ。

 一度成功したからといって、次も成功するなんてことが素人にあるはずがなかった。怒りも収まっていた彼は、十七回連続で失神していた。十八回目に漸く呼吸が普通に出来た。十七回の苦しさの連続から怒りの『死んだ方がマシだー!』と言う気迫が気道を通したみたいだった。

 そこからお手洗い休憩を挟んで、雲華は二度あることは三度あるでしょ?と拷問を軽く続行する。

 

 一刀は思った。仙人じゃなくて……こいつ、絶対に『鬼』だ……と。

 

 それからさらに、一刀は十二回連続で失神していた。これは、この状況は……キツ過ぎる。

 

「も、もう……、む、無理……じゃね?」

 

 完全なまでにへとへとに疲れ切っていた一刀だったが、また息が容赦なく苦しくなってきている。しかし、悪い意味で、もう笑えるほど失神に慣れてきていた。言葉とは違い、苦しいながら結構不思議な余裕があった。

 

「北郷。それそろ、本気で肺動作の気道の所だけ探って気迫を込めたら? 呼吸をしたいと。肺はどうやって呼吸動作をしているのかと。そういう気持ちで、気迫を込めるのよ」

 

 雲華に反論したいのはいっぱいあったが、現状、それを言っても状況は変わらない。もう分かっていた……この『鬼』は、状況を絶対に変えたりしない。

 一刀は考えた。雲華の言う通りに、肺を動かすのは肺の周辺の筋肉、それらを動かすのは脳から自律神経が来ているはずで……と。『その辺りよ動いてくれ、動いてくれ』と強く気合いを入れる。

 すると……感覚がないはずの体から、後頭部、首筋、肺周りに掛けてなにか、体に纏わりつくというか包み込んでいる雰囲気を捉えた。その捉えた雰囲気を人体型のイメージで意識すると、首筋の流れが薄くなっているように感じた。そこを強く流れろ、流れろと気合いを込めてみる。

 

「どうやらようやく少し、見えたようね?」

 

 雲華は、一刀が呼吸の変化を感じるほぼその瞬間に一刀へ声を掛けた。一刀の呼吸は元に戻ったのである。

 

「北郷。続けるわよ?」

「……ああ」

 

 一刀は、それから十回連続で呼吸回復に成功する。最後の一回は、肺呼吸関連器官すべての気道を完全に、雲華が絶った状態からの回復だった。

 

 終わった後に、雲華は言った。

 

「北郷、肺以外の部位についても原理は同じよ。腕も動かせるんじゃない?」

 

 一刀は、そうだ!と思いチャレンジする。だが、そうそう上手くいくほど甘くはなかった。まず腕が動くには、どういう筋肉、神経が必要か、その気道の位置を感じ取るところから、初めから慎重に進めなければならないからだ。

 一刀の様子を見ていた雲華は、さすがにいきなりは無理そうだし、時間ももう少し掛りそうだと感じて一刀を止めた。

 

「ふむ。もうお昼だし先に食事休憩にしましょう」

 

 そう言うとお手洗い休憩でもしたように、雲華は一刀の首の顎のすぐ下辺りに手のひらを近づけると、少し気合いを入れてからゆっくりを全身へと手のひらを翳してまわる。

 すると数秒ののちに、何も感じず動かなかった一刀の全身は、元の感覚や動きに戻っていた。

 

 

 

 二人は一刀が横になってた長椅子を脇へ避けて、机を部屋の中央へ再配置すると長椅子を並べて食堂を本来の状態に戻した。

 昼食は、雲華が手早く炒飯のようなものと、汁物を調理して用意してくれた。

 昼食を食べながら、一刀はふと疑問に思ったことを雲華に質問した。

 

「仙人って、やっぱり全員、こういう修行をするのか?というか、体得しているものなの?」

 

 そうよ。という答えを期待していたが雲華の答えは違っていた。

 

「いいえ。そんなことはないわ。知識でしか知らない仙人も多いはずよ」

「それでいいのか? 仙人って」

 

 一刀の答えに、彼なりの仙人像があることに雲華は気付き、それを分かりやすい形で否定する。

 

「仙人という『生き物』だから、資格とかとは違うのよ。何かを知っているから仙人になれるというわけではないのよ。極端にいうと……生まれた時からもう決まっているの。仙人か仙人じゃないかはね。素質を持って生まれた人だけが修行して仙人になれる。素質が無い人はどう頑張っても人なのよ」

 

 一刀は、雲華の話を聞いてごはんを食べるのをしばし止めた。雲華は箸を休めて話を続けた。

 

「分かってるわよね? 達人クラスの『人』でも、さっきのコツをつかむだけでもたぶん十年、二十年掛るわよ?」

「………」

「北郷、人外確定おめでとう」

 

 仲間が増えたことがうれしいのか、雲華の機嫌がよい。それとは対極な感情の一刀だった。

 

「なんか、嬉しくないよ……」

「さぁ、とりあえず、きちんと食べましょ~う♪」

 

 一刀は、俯き気味に『俺、人外?』について複雑な気持ちで、いろいろそのことを考えながら無言で食事を続けた。

 食事が終わると、雲華が片付けを終えた後に話があると言ってきた。

 食堂の長椅子にそのまま座って待っていると、雲華が隣の小さめの調理室から出てきた。そのまま机に来るのかと思ったが、部屋の隅の箱から、新しい木簡をいくつかと筆や硯等の筆記用具を持ってきた。

 

 雲華は、それを一刀に使いなさいと渡し、そして話の要件を伝える。

 

「さて……これから君はこの世界でどうするか、どう生きていくのか少し考えましょうか」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 雲華の話を進める雰囲気に、是非もないという感じではある。一刀は、仕方のない感じで返事をする。

 

「……はい」

「君はどうやら人ではなさそうだし、私も出会ってしまった以上はこの世界で最低限、君が生きていけるぐらいの知識を身に付けるまでの手助けはしてあげるわよ。だからいきなり、君を放り出すことはしない。しばらくここにいるといいわ」

 

 雲華は正直に考えていることを話す。

 一刀はしばらく住むところが出来るので少し安心した。

 

「ありがとう、雲華」

 

 素直に一刀は礼を述べた。雲華は、『まあ、ただの人だったらサクっと殺(や)ってたんで、運が良かったと思ってればいいよ♪』と怖いことをさらりと口にする。そして本題だといって雲華は話し出した。

 

「北郷。君は、この世界で生きていく術(すべ)を身に付けないといけないわ。それにはまず、先ほど苦行で行ったことを身に付けることよ。それと、君の知識にある文字はおそらく、この時代のものとは少し違うと思う。なので、この時代の読み書きは覚えておくべきね」

 

 雲華の話は非常に現実的だった。この三国志時代に生き残るには術(すべ)が必要だろう。

 

「なるほど。読み書きはすごく助かるかも。しかし……さっきの苦行かぁ」

 

 先ほどまでの『鬼』による地獄の悪夢がふと蘇る。思わず身震いした一刀だった。

 

「さっきの苦行だけど、先に説明しておくわね。あれは、仙人界の体術の一つ、『神気瞬導』というのよ。まあ、あれはまだ第一条のほんの入口だけどね」

「しんき……しゅんどう?」

 

 一刀はもちろん初めて聞く言葉に疑問符が浮かんでいた。それに対して雲華の説明が静かに続く。

 

「『神の気は瞬時に伝わる』と、いうところから来ている仙体術の名前よ。天仙の一人である、真征(しんせい)という女性仙人が祖よ。まあ、この方が私の師匠なんだけど。最強仙人を五人上げれば必ず入ってくるという仙人よ。仙人を推して化け物というぐらい強い方ね」

「ふぇぇ」

 

 思わず一刀は、変な声を漏らしてしまう。

 

「神気瞬導はこの方が、仙人が仙人の修行をしていても、所詮仙人程度で終わってしまう。神の域に一歩でも近づく修行を……というところから始まっている。ただ、仙人を否定する思想の体術なので、仙人たちの間では余り人気がないわ」

「………」

 

 一刀は、人気がない……?えっ?という表情をする。雲華はそれを見てちょっとムッとした表情でさらに続けた。

 

「人気と実力は違うものよ。私は昔、実際に見たことがあるから知ってるけど、真征様が奥義を使えば、巨山が本当に一撃で消えてなくなるわよ。この術は極めれば本当に神の域に近いものよ。……でも、私も長いこと修行をしていて、最後の第五条へ一歩踏み込んだけれど、そこからはなかなか進めないわ。大技は使えるけれど、奥義にはまだ届かないしね」

 

「その神気瞬導は、第五条までで終わりなの?」

 

 一刀の『それだけしかないの?』という感じの質問に、『その内容の一つ一つが難しいものなのよ!』という怖い顔で答える雲華。

 

「神気瞬導は次の五条の順で成り立っているわ。

 一つ、気道を絶ち、気道の流れを再開させること。それが気を理解する者なり

 一つ、気によって体は動くものなり。すなわち、より気の強いものはより強い力、より気の早いものはより早い動きが出来るものなり

 一つ、気によって体は回復するものなり。回復への気の大きさ、強さは偉大なり

 一つ、気に限界なし。体力とは違うものなり。限界と思ったところに限界が出来るものなり

 一つ、周りの気をも取込み、気を極めたものは神に通ずるものなり」

 

 

 

「……うーん。師事してくれる者がいないと、一つも先に進めなさそうだなぁ」

 

 そういいながら、一刀は木簡に不慣れな筆で書き留めていた。

 

「まあ、私が直々に教えてあげるし。回復まで出来れば、そう簡単には死ねなくなるから、とりあえずその辺りまでが目途ね」

 

 第三条までか。……どれぐらい期間が掛るのかと、一刀は考えた。すると、ふとある疑問が浮かんだ。

 

「雲華、君は……長いこと修行って……」

 

 すると、雲華は思いっきり不快な顔で、手の平を一刀の前にすっと突き出して言葉を遮った。

 

「はい! 邪推はそこまで~。あのね、君。うら若き仙人にそういう期間的ことは聞かないでよね。全く」

「ご、ごめん」

 

 一刀は、『しまった、仙人でも女の子だった……』と後悔した。

 そんな彼の様子に雲華は、それを見越して意地悪そうに、そして楽しそうに言った。

 

「分かってると思うけど、『第三条』が終わるまでの期間が長くなるか短くなるかは、北郷次第ということなのよ。その合間に読み書きも進めるわよ」

「……はい。わかりました」

 

 地獄の期間は君次第と言われ、どうも追いつめられた感いっぱいにそう素直に答える一刀だった。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年03月22日 投稿
2014年03月27日 文言修正
2014年04月12日 文言修正
2014年04月15日 文言修正&挿絵追加
2014年04月19日 文言修正
2014年05月03日 文言修正
2014年11月02日 文言見直し
2015年03月01日 文言修正(時間表現含む)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第○➂話 *1

 

 

 

「さてと……北郷、これからも修行が続くわ。その服は汚れるだろうし、この服をあげるから着るといいわ。少し場を外すから着替えなさい」

 

 そう言いながら、雲華は綺麗に畳まれた新しそうな代わりの着物を渡してくれた。そして、「終わったら呼んでね」と言って彼女は上の階に上がって行った。

 雲華からもらった服は、色が紺に近いものだった。上下に別れていて生地が丈夫そうで、少し現代より袖や足周りの生地巾が広い感じのゆったり気味な形だった。襟、袖先、裾には、見た目が華やかになる程よい黄色の糸による刺繍装飾が施してあった。下はズボンに近いもので紐で縛る形で腰から落ちないようになっている。上も前で数か所を紐で結んで留める形だ。服のサイズは少し小さいぐらいだが、余裕がある服なので、それほど問題ではなかった。

 一刀は、その服に着替え、脱いだ服を畳み始める。……そういえば、肌着や下着とかは、今後この時代の代用品になっていくんだなぁと思うのだった。

 一刀は服を畳みながら、ふと色々と別の考えを巡らせる。

 

(この時代といえば……昨日の夕食時とその後に少し、この世界の……この時代の事について雲華から少し話を聞くことが出来たけど。そこで『皇帝は霊帝』と『黄色い布を頭に巻いた農民ら貧しい階級層が中心の大きな乱が起こっている』と聞いてその内容から推察するに、この時代は三国志の三国鼎立よりも結構前で、黄巾党の乱の最中のように思えたんだよな。三国志の英傑たちについて試しに少し聞いてみると、雲華でも曹操の名前はすでに聞いたことがあると言っていたし。

 劉備の名は、まだ聞いたことがないとか。孫権はまだ、孫堅や孫策がいるからそれほど有名じゃないとか。

 だけど、ここで俺が気になったのは、雲華が孫権には『姉』の孫策がいるからと言っていた事だ。「兄じゃないの?」と聞き直すと彼女は「姉よ」と言う。

 俺の知っている孫策、孫権は、男の兄弟で下に妹がいたはずなんだけどと尋ねると、雲華はなんと、「孫策、孫権は三姉妹よ?」とトンデモ情報を何気なく言ってくれた。

 それで、さすがにないだろうと冗談のつもりで、「曹操まで女なわけないよね?」と聞いたら……曹操まで「女よ」ということだった。

 どうなってるんだよ、ここは。

 ありえない……俺の世界の歴史と性別が全然違う。女性が武将って……? 筋力、身体能力的にどうなんだ? ここは、まるで別の世界のような気がしてきた。さらに知るのが怖くなってそこで話は切ったんだけど……。

 それと、余り人の世界に関わらない雲華だが、たまに買い物には行くらしい。……ん? そういえば、彼女はどうやって生計を立ててるんだろ?)

 

「北郷、まだかなー?」

 

 雲華の呼ぶ声が上の部屋から聞こえた。

 おっと、考えに耽ってしまってた……と、すぐに一刀は雲華に返事をした。

 

「ごめん、もういいよ」

 

 上の部屋から梯子を伝って、下を見ながら降りて来た雲華は、一刀の着替えた姿の感想を梯子を降り切る前に言ってくる。

 

「ははっ、北郷、似合ってるわね」

 

 口を押えて、雲華は笑っていた。

 雲華は梯子を降りると、一刀の傍を眺めながら一周ゆっくり回る。一刀はちょっと恥ずかしい感じがした。

 

「うん、いいんじゃない。丈もまあ大丈夫そうね。……んー、すこし小さかった?」

「いや大丈夫。問題ないよ」

 

 これで十分だった。わずかな贅沢も言えない世界にいるのだ。こうやって衣食住あるのは本当にありがたい事だった。本来だったら天涯孤独な上、まず食べる物も住むところも金もなく、そして生きる技術もこの時代の知識もない状態で、現代の殺し屋も真っ青になるぐらい人を殺しまくっている連中がウヨウヨいて、警察もいない無法地帯に放り出されていたところなのだ……。今朝から昼前までの雲華はキツかったが、それも結局は一刀のためにやってくれたことだった。一刀は、雲華には本当に感謝しないといけないなと思った。

 

「それにしても、北郷の服は変わった生地の服ね……」

 

 そう言って、雲華は食卓の上に畳んで置いた白いポリエステル生地の服を見ていた。

 

「ははっ、確かにこの時代の技術じゃ作れないものだからね」

 

 軽く一刀は受け流す。

 

「じゃあ、この服は預かってしまっておくわね」

 

 彼女はそう言って畳んでおいた一刀の服を、壁にある引き戸の中の大きめの桐箱ような箱に丁寧に仕舞ってくれた。

 

 

 

「さてと……」

 

 腰に手を当てて一刀を見て言う雲華の、そんな『そろそろ地獄を再開しましょうか?』みたいな『鬼』の掛け声に聞こえた一刀は、もうちょっと休みたいなーと、時間を稼ぐ気持ちで質問を仕掛ける。

 

「神気瞬導は仙人に人気が無いっていってたけど、人気のある仙術ってどんなのがあるの?」

 

 雲華はふむ……と考えると、まあいいかなと話を始めた。休憩延長に同意してくれた模様だ。

 

「言ったかもしれないけど、神気瞬導っていうのは術としては少し人臭いところもあるのよね……。なので、仙人たちの間では余計に人気がないわ。仙人ってのは幻術とかの方がそれらしいから。飛翔術とかは特に人気あるわね。あと、消えたりして場所が変わる移動術とか」

「すごいな……ほんとに出来るものなの? 飛翔術とか。」

 

 一刀は思わず、気になる術の名を言ってみる。

 すると雲華はその場に立ったまま目を閉じ、両肘を曲げ肘を胴側面に付け、手の平を上に向けて精神を集中する。二言、三言、術語を発し、上に向けていた手の平を胸の前で合わせると、足で床を軽く蹴る。すると、すうぅぅと蹴った力の分だけ空中に上がって……止まった。イメージは氷の上を滑る感じで、ゆっくりと減速しながら空中に進むように見えた。

 

「どう?」

 

 その状態から彼女は自慢な表情で、にっこりと一刀を見ていた。

 

「おおっ、ほんとに浮いて止まってる!! どうなってるんだ?」

「空気上に足場となるところを形成出来れば、落ちることはないわ。物には重さがあって、仙術でそれを下から釣り合わすことが出来れば、足場が出来る。足場は基本足の裏付近になるけど、当然着点を変えることもできる。こんな感じでね」

 

 そう言って雲華は、五尺(百二十センチ弱)ほどの空中で、肘を曲げた手の平の上に頭を載せて、左肘を付く形で横に寝そべってみせた。

 

「ひええっ、めちゃくちゃ便利そう!」

「慣れてくれば、空中で寝ることもできるわよ?」

 

 雲華は空中で立ち上がると、術をゆっくり解いて床へ舞うように着地する。一刀はそれをパチパチと拍手で迎えた。

 

「仙人らしい術は、確かに便利ではあるけど、私的にはどうなの? という感じなの」

「良さそうだけど、そうなんだ。でも、これって人でも修行を積めば出来そうな気もするけど……どうなのかな?」

「そうね……簡単にやってるように見えるわよね? でも、仙人と人では気と体の作りそのものが違うのよ。だから、素質と力そのものが違う。しかし、たまに仙人に近い質の気を持ってる人がいるにはいるのよ。まあ、それが人達の世界で言う怪物武将の類ね」

 

 怪物武将……? 一刀はこの段階では、ちょっと想像することが出来ていなかった。雲華は話を続ける。

 

「あと仙術には、強力な念という概念もあるけれど、本当に強い気を極めたものには念術は通じないのよ。最終的に『気』を破るものは、形は違えども『気』だけよ。神気瞬導は仙術としては地味だけど……万物の無限なる気と、遥かなる高みの術を極めれば、万里離れていようと仙造装備で遮られていようとも、標的のみを捉えて、それを討つことが出来るのよ。しかし、この最後辺りは段違いに難しいわ。加えて邪気も取り込んでしまわないようにしないといけないしね。それで私もまだ、一歩踏み込んで二歩目の足場を探してる感じなのよ」

 

 すさまじく凄そうな話ではあるが、どう凄いのか知りたくなった一刀は雲華に聞いてみる。

 

「第五条ってどんな感じなの?」

 

 一刀の表情から、難しさが余り分かっていなさそうな感じだったこともあり、雲華はその疑問に答えようと告げる。

 

「んー、そうね。百聞は一見に如かずだし見てみる?」

 

 気を僅かしか持たないものは目標として難しいんだけど……といいながら、雲華は一刀に一枚の木簡を手渡す。

 

「それを胸元に立てて持って、窓の方を向いて、窓の手前まで移動して」

 

 一刀は体を窓の方向に向け言われた通りに窓際まで移動する。「次はどうするの?」と振り向いて雲華へ聞くと――ギョっとした。

 

 

 

 彼女の漆黒だった二つの瞳が、今は蒼い光を放っていたのだ。

 

 

 

 一刀は、その綺麗な輝きと異質な状況に思わず見入って動きが固まってしまった。

 

「これだけ近ければ難易度はそうでもないかな。……さて、いくわよ~」

 

 彼女は両手に拳を握り、肘を軽く曲げ、左肩と左足を前に出す形で、余裕のある構えを取っていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 そして……ほのかに光る感じがした右拳が打ち出される―――一刀の背中目掛けて?!

 『パンッ』と乾いた音が響く。

 それは一刀の指先にて木が一瞬で砕ける衝撃と同時だった。反射的に前を向くと、胸元に立てていた一尺(二十三センチ)ほどの小さめの木簡は指先に握った欠片を残して吹き飛び、すでにバラバラに床へ落ちてゆくところだった。

 一刀の背中や胸には何の変化も衝撃も感じなかった……。

 

「こんな感じよ?……どう? 北郷、そろそろ修行をやる気になった? 面白そうでしょ?」

(難なくやってのける雲華だが、この技術……すげぇ……さっき聞いたのをよく考えると、距離や障害は関係なく、気が突然に突き抜けて来る感じなんだろ……? 防ぐの無理じゃないのか?)

 

 一刀はそう思うと寒気がしてきた。

 

 

 

 休憩は終わりということで、一刀はそれからさらに一時(二時間)ほど、また雲華により強制的に全身の感覚を奪われ……朝に行った肺部分の気の絶修行の復習と、新たに右腕の気の絶状態からの復元までを力の限り行うことになった。

 おかげで一刀は、とりあえず、肺と右腕の絶気からの復元までは出来るようになった。軽快に進んでいるが……まあ、普通の人間の進捗ではありえない状況である。

 そして、ここで次の休憩となった。

 

 一刀は雲華が入れてくれたお茶を、彼女と共に食堂の机で長椅子に座り飲んでいた。

 すでに申時(午後三時)前頃だろうか。この部屋は普通の二階建てよりも高いところにある。その窓から入ってくる陽射しは、少し傾きかけてはいたが、まだ太陽は地平線からそこそこ高い位置にあるのが分かる。

 これから、どうするんだろうと思っていた一刀に雲華が話しかけてきた。

 

「さて、ちょっと家の外に出ましょうか」

「外で何をするの?」

「いいからいいから」

 

 そんな雲華に従って、二人は食堂を外へ出ると梯子を伝って下へ降りた。梯子を降りた辺りのこの巨木の周りは、伸びた大枝からもさらに三メートルほどぐるりと森が後退していて平らな広場みたいになっている。雲華は部屋から持ってきたのか肩から袋を下げていた。そして、梯子の裏の奥に進むと、巨木に一体化した物置みたいな倉庫小屋の扉を開けて、中から大きめの背負い籠と、背負い紐のついた大きな水瓶を出してきた。水瓶はどう見ても五十キロはあるだろう。子供が入れそうな大きさだった。それを雲華は軽くひょいと背負うと、一刀は籠をお願いという。

 

「これから山菜取りと水を汲みにいくわ」

 

 雲華の提案に、一刀は確かに食べ物ぐらい自分も探さないとなと、了解して雲華について森の中の獣道を進んで行った。

 一刀は、何も知識がないので、雲華に「それ洗って食べられるから、これは焼くと美味しいのよ」など、種類や名前と食べ方とサバイバルな知識を教えてもらいながら、半時(一時間)弱ほど森の中の草木が繁る道をゆっくり歩いて進んだ。彼女も一緒に集めていたので、すでに一刀の大きめの背負い籠は結構一杯になってきていた。満杯だとかなりの重さになるのだ。だが雲華の背負う水瓶はその比ではないので、一刀は黙って慣れない山道を雲華の後を遅れないようにとついて行った。

 すると、道の先の木々の間からバチャバチャと水の音が聞こえてきた。雲華が前にどんどん出る形でさらに進むと……二人は森の中だが、かなり開けた場所に出る。

 

「おおー、すごいなー!」

 

 一刀は思わず疲れを忘れて、喜びの混じった驚きの声を上げる。

 

 多くの岩で周りを囲まれた、直径五メートルぐらいの広めの温泉が湧いて溜まっていた。深いところは一メートル以上の結構な深さがありそうな雰囲気だった。

 一刀は邪魔にならない端の方へ籠を置いて、少し湯気が上がるお湯に触ってみるとちょうど良い感じの湯加減である。

 雲華は、背負っていた大きめの水瓶を下す。どうやら、温泉のお湯が水替わりのようだ。

 一刀は、良く考えるとどうやって水を汲むんだろうと考えた。すくって水を入れる容器はパッと見、見当たらないんだが……。

 すると、温泉の溜まってるところは、広いところと別に、奥にもう一つ直径二メートルぐらいのお湯が溜まっているところがあった。

 

 雲華は、奥の溜まりへと慣れた足取りで進む。そして水瓶の大きめの蓋をボンッと重い空気音をさせながら外すと、そのまま湯溜まりへ水瓶をゆっくり倒し、お湯が水瓶に満水になった状態でザッと素早く、水瓶を満水のお湯ごと高々と汲み上げた……それも片手で。

 それ……一体何キロあるんだよ。一刀は目が点になっていた。

 

 雲華は、満水の水瓶に水漏れしないようにとしっかり蓋をする。

 一刀は、もう帰るのかな……せっかくだから温泉入りたいけど……と思っていると、雲華に気持ちが伝わったようだ。

 

「せっかくだから、温泉に入る?」

 

 一刀は、ヨシ!と思ったが……。

 

(ここ、着替えるところどうするんだろ?)

 

 周りを何気なく見ながら思っていると、雲華は肩に掛けていた袋から、手ぬぐいのようなものを出して渡してくれた。

 

「北郷、はい。これを使いなさい。あと、温泉は広い方を使いなさいね。小さい方は飲み水用にしているから」

「あの、雲華。ここって着替えるところないよね……?」

「ないわね」

「あの~見えちゃうんじゃない?」

「……そうね……じゃあ、これで大丈夫でしょ?」

 

 雲華の手が……指先が、一刀の額の間に触れた。

 もう、おわかりいただけただろうか?

 

 

 

 視覚が絶にされた! 俺の楽しみがぁーーーーー!!

 

 

 

 しゅーん。

 一刀は入浴後、とぼとぼと雲華の家へ来た道を戻っていった……。

 

 でも、雲華はやさしい。

 一刀は、温泉の端で視覚が絶な状態で服を脱いで、前を手ぬぐいで隠した……情けない状態で見えない足場の恐怖に狼狽えながら岩場に立ち尽くしていた。

 そこへ雲華が来てくれて、視覚が絶な彼の手をゆっくり引いて、湯船に一緒に入ってくれたのだ。

 一刀は泣いた。

 もちろん、生まれて初めて裸の女の子のすぐ横で風呂に入れたからだ。

 

(クソッ……何も見えなかったけどな!)

 

 

 

 

 ……さて、天国もあれば地獄もある。

 雲華の巨木の家へ帰ってくると、もう夕暮れが迫っていた。昨晩は特別だったが、本来、夜は照明用の油やろうそくがもったいないということで、雲華はいつも早めに寝ているらしい。

 一刀もそれに従うべく夕餉を雲華と取ると、すぐに……寝させてはもらえなかった。

 

 一刀の『鬼』からの修行はまだ続いていた。

 肺、右腕の復習と左腕の絶気からの復元まで進んで、やっと就寝させてもらえたのだった。

 

 修行が終了し、雲華は上の部屋への梯子を上がっていく途中で、「おやすみ」と長椅子でヘタばって横になっている一刀に優しく声を掛けてくれる。

 そして、追い打ちも忘れない。

 

 「北郷、明日もがんばろうね♪」

 

 しかし、天国はあるのか、地獄のみ待つのか。一刀の……明日はどっちだ?

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年03月27日 投稿
2014年03月31日 一部修正
2014年04月10日 見直し加筆修正
2014年04月17日 文章修正&挿絵追加
2014年04月28日 文章修正
2014年11月03日 文章見直し
2015年03月01日 文章修正(時間表現含む)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第○➃話

 

 

 

 次の日の朝、一刀は目を覚ました。

 覚めた瞬間に不思議と一気に眠気は飛んで、辺りをきょろきょろと確認する。

 うん、いきなり夜でもないし、視覚もちゃんとしてると確かめ安心する。

 ここ二日、目が覚めるとトンデモないことになっていたので、少しトラウマになりかけていたのだ。

 もぞもぞと、一刀は長椅子二脚を横に並べて作っている寝床から起き上がる。

 修行のせいか、ヘトヘトだったのでよく寝れたが、やはり木の板の上なので起きたあとは少し体が痛い。しかし、居候の身で三食寝床付なので十分満足しないと。

 一刀は、さっきまで寝ていた場所の対面の位置にある窓が、すでに開けられているのに気付く。どうやら雲華は、もう起きているようだ。

 今日も、外は晴れている模様。オレンジの陽射しが景色から感じられる。まだ、日の出後間もないみたいだ。

 自分の使った毛布を畳むと壁の棚へ片付け、避けてあった机を食堂の真ん中へ移動し長椅子を並べ直す。

 これは一刀が、昨晩の修行の最中に「起きたらまず、寝床を片付けて元の状態に戻しておいて」と、雲華から言われていた事だったからだ。

 先日までは、自分の部屋のベッドなんて起きたらそのままだったから、慣れない事なのだが……『鬼』には従うしかないのだ。本能が体を動かしていた。

 一刀はついでと、雲華が一刀を起こさないようにとしてくれたのであろう、まだ閉まっていた自分の寝ていた側にある窓も開ける。まだ少し赤い色の陽射しが入ってくる。窓は下部を押して開く庇型だ。ガラス戸なんてこの時代にはほとんどない。そして窓の内側の両端に付いてるつっかえ棒で止める。

 

「おはよう、北郷! 調子はいいかな?」

 

 窓の下から、元気な雲華の声が聞こえた。

 一刀は、下を見下ろしてみる。雲華は、薪を作っていたようだが、よく見ると手には剣が握られている。一刀は、挨拶と共に不自然な点を一応確認する。

 

「おはよう、雲華。調子はまあまあだよ。ところで……薪を剣で切ってたの?」

「そうよ。ちょっと鍛練も兼ねてね」

(鍛練?)

 

 一刀は、首を傾けて「どんな?」と体で意思表示をする。それを見た雲華は、声を掛けてきた。

 

「ちょっと見てみる? 顔を洗って降りてくれば?」

「わかった」

 

 窓の横に桶と水差しが乗っている洗面台があり、水差しから桶に水を張って顔を洗う。台の横に掛けてある手ぬぐいで顔を拭くと、桶の水は台の横の排水溝に流す。排水溝は木で出来ていて、小屋の外へ出され巨木を伝って地面に向けてさらに木管が通してあり、その先の地面には底の抜けた軽石の詰まった大亀が地面に深く埋められていて、簡易の下水浄化装置になってる。厠以外の排水はそこに集められていた。壁には小さな鏡もあり、手櫛で髪を軽く整える。

 そして、一刀は、急いで下へ梯子を伝って降りていった。

 下へ降りた時、広場には雲華が切ったであろう薪が辺りに散乱していた。今、気が付いたのだが、それは倉庫に乾燥させて置いてあったのか倉庫の扉は開きっぱなしで、直径一メートル、厚さ三十センチほどの輪切りの大きな木材がまだいくつか雲華の横に積んであった。彼女はそれを一つ掴み、ほいっと空中に放ると手に持った剣で、ササッと目に映らない剣速で豆腐のように一瞬で綺麗に切り裂いていた。落ちてきたものは、薪にちょうどよい大きさになっている。

 

「ふむ。腕は鈍っていないようね」

 

 見えない速度も凄いんだが、どんな切れ味だよ、その剣……いや技なのか? 剣道を嗜んでいた一刀は、でたらめな剣術にもほどがあるだろうと、まずその剣が気になった。

 

「雲華、ちょっとその剣、見せてもらっていい?」

「ん? いいわよ、どうぞ」

 

 一刀は、雲華から剣の刃を下にして柄から受け取るように渡してもらうと……重い、異常に重い。片手では持つのが無理な重さだった。

 刃も厚く、柄も入れると一メートル少しあるが比重が重すぎる。両手で必死に胸元へ引き寄せて、やっと持てるぐらい……三十キロほどの重さがある。それともこの時代はこんなのを振り回して戦っているんだろうか。刃の部分はキラキラしてよく磨かれているかのような輝きがあった。日本刀にはない美しさがある。

 

「その剣、彗光(すいこう)の剣というのよ。なんでも昔々、偉い仙人の爺さんが作ったとか。切れ味もいいんだけど、今まで刃こぼれはほとんどしないし、しても勝手に直るから便利で使ってるわ。あまり刃には触れない方がいいわよ。この専用の鞘でないと切れ味が良すぎて鞘ごと切れちゃうから。鞘には刃の切れ味を並みの剣にする効果が付加されてるとか聞いたけど」

 

 そういうと雲華は、足元に転がる立派な幅の広い帯状の肩紐が付いた鞘を、コンコンとつま先で蹴った。

 一刀は、両手で柄の部分を持ってるのだが、余りに重いので地面に剣を突き立てる形で置いてみる……と、自重で……じゃなくじわじわ勝手に潜っていくんだけど、この剣……。仙術で刀身を高周波サーベル化してるんじゃないのか?!

 雲華は、一刀の前の地面に刺さったその剣の柄を掴むと、右手でヒュッと持ち上げ、先ほどの薪を切る作業をサササっと三回繰り返した。そのあと、刃を空へ向ける形で手首を反して刃の部分を確認すると、足元の鞘を取り、剣を納めてそれを肩に担ぎながら一刀に用を言いつける。

 

「私は上で朝食の用意をしてるから、君は辺りに散らばった薪を二十本ずつ、小屋の中にある縄で縛って中に積んどいてね」

「わかったよ」

「お願いね」

 

 そう言って、雲華は近くの薪を四、五本拾うと、軽快に梯子を上って家の中へ入って行った。一刀は、なるべく急いで薪を縛る作業を片付けると、倉庫小屋横の庇のある場所に行き、そこへ置かれた水瓶から柄杓で水を汲み手を洗うと、水瓶の蓋を閉めて梯子を上って雲華の家へ戻った。

 

 

 

「ねぇ、雲華はどうやって生計を立ててるの?」

 

 一刀は、食堂の長椅子に座りながら、朝食の乗った皿を、隣の調理室から食堂へ運んで机の上に手際よく並べてくれている雲華に尋ねた。

 皿を並べ終え、雲華も一刀の向かいの席に座りながら、「ん、どうしたの?」と逆に一刀へ聞いてきた。

 まあ、普通なら聞かないほうがいいと思うことだが、そういかない事情も一刀にはあった。

 

「えっと、食べ物や木材は森でも手に入ると思う。でも、雲華の小屋には、お皿やお鍋や、高そうな服とかあるだろ? そういうのは、買わないといけないんだよね? こうやって俺がいるとお金が掛るし、悪いなと思って。なんか俺で手伝えることがあれば、手伝いたいなぁと」

「ふむ。そうね……じゃあ、今日も修行が上手く進んだら教えてあげる。さあ、北郷、ご飯を食べたら今日も、みっちり修行するわよ!」

「ひぃぃーーーーーーーーーーーーー」

 

 そのあと、一刀は、うまかったはずの朝食に何を食べたのか思い出せないほど修行をやらされたのだった。それは、昨日まで進めた、肺、右腕、左腕の気の絶から回復する復習と、今日は新たに両足と胴体の筋肉系について、絶から回復する修行が行われた。出来るまで、慣れるまで何度も何度でも行われた。過酷過ぎるそれらの修行により、一刀は、朝だけでなく、昼食の内容まで、思い出すことは出来なくなっていた……。

 夕食の段階で今日のノルマを達成し、食卓の長椅子にヘタって座っている一刀へ、雲華は約束通りに生計をどうやって立てているか説明してくれた。

 

「難しいことではないわ。私があげた、君が今着ている服や、私が着ているこの服は自分で裁縫したものなの。私は、良い生地で高値の付く服を作って、それを街の贔屓のお店に売っている。それが収入のあるお仕事よ。もともと、私はそんなにお金がいるわけじゃないから、たまに……ね。そうねぇ、近いうちに一度、この森を出て街へ行ってみる?」

「ぜひ。雲華、それで……俺が、なにか手伝えることはあるかな?」

「んー。今の所、ないわね。売り物だから裁縫には職人の腕がいるわけだし、せいぜい運んでもらうというぐらいだけど、数も量もまとめても、水瓶ほどの大きさも重さもないのよ」

「……それでも、荷物を背負わせてもらえないかな?」

「ふふっ、分かったわ。では、ありがたく」

 

 雲華は、一刀の世話になってる借りを、なんとか返そうという気持ちがうれしかったようで、食卓に両肘をついて頭を乗せてこちらを見ながらニッコリと微笑んでいる。一刀はいつ借りを返せそうか、気になったので雲華に予定を伺う。

 

「いつ街にいくの?」

「……そうね。とりあえず、今の修行が全身で出来るようになったらにしましょうか」

「はい……頑張ります」

 

 雲華の答えは、奮起させる意味も込めているのだろうが、一刀には鬼の修行と恩返しの板挟みで、精神的になかなか『キツイご予定』となった。

 夕食が終わると、今日はもう修行はしないという。その代り、少し読み書きの勉強をしましょうということになった。

 そして雲華は、漢字の羅列で埋まった竹簡の冊を持ってきた。

 うーん、全く読めないんだが……。一刀は雲華にその旨を伝える。

 すると雲華は、一刀に文字個別の意味を聞いてきた。現代の日本と少ししか違わないものや、全く違うものがあり、まずそれを覚えることになった。

 一時(二時間)ほど勉強をして、今日は寝ましょうということになった。

 時間的にはまだ、亥時(午後九時)辺りなんだが。雲華は、明日の予定をなぜかニッコリと嬉しそうに言ってきた。

 

「明日は、内臓系の修行に移るわよ」

「ちょっと想像がつかないなぁ、どうなるんだろ。今までは手足といった、感覚・筋力系だったから分かりやすかったけど」

「そうね。新しいナニかが見えるかもね♪」

 

 それは……三途の川か、天国というのでは?とは言わない……いや、言えない一刀だった。そうなりそうな予感がしすぎるし!と。

 『鬼』の修行とはそういうものだ、間違いない。そう、ビビりまくる一刀だった。

 そして、雲華はさらに気になることを告げる。

 

「明日は、それに加えて、もうちょっと面白いことに挑戦してもらおうかしら」

「……面白いこと?」

「そうよ。じゃあ、おやすみ、北郷。良い夢を」

 

 そう言って、雲華は上への梯子を上っていった。

 

「良い夢を……どころか、間違いなく悪夢を見そうだよ……」

 

 疲れていたが、なかなか明日の地獄が気になって、眠れない一刀だった。

 

 

 

 

 そして、日は上った。ここへ来て四日目である。雲華(ユンファ)が、食堂の向こう側の窓を開けようとするところで一刀は目を覚ました。もぞもぞと『長椅子ダブル寝床』から起き上がる。

 

「あ、北郷。起こしちゃった? おはよう」

「おはよう、雲華。いや、時間的に結構早く寝たから、十分寝れたと思うよ」

 

 寝つきは悪かったが、幸い悪夢は見なかったので、今の時間までぐっすり寝れたのは本当だ。一刀も寝床を片付け、傍の窓を開ける。まだ早朝の朝焼けの状態だ。今日も晴れのようである。雲華は窓の横で顔を洗い終わると、一刀へいきなり『鬼』にふさわしい言葉を述べる。

 

「今日は、朝食抜きで修行に入るわよ」

 

 雲華にはもちろん、「なんで?」と聞いたが、彼女は「当然でしょ?『内臓』の絶をするのに食べ物を内臓に入れててどうするのよ?」と。

 なるほど……と雲華の言葉に納得する一刀だった。そして、部屋が汚れるかもしれないので、外で修行をすることになった。

 長椅子を一脚、下におろして、そこに一刀は寝転ぶ。

 相変わらず雲華により、絶によって全身の自由は効かない状況で修行は行われている。

 今の段階で一刀自身でも、全身の筋肉・感覚系に対しての絶状態は回復できるが、確かに変に暴れるとかえって危険であるので雲華に従う。

 口にはしないが、なにげに雲華も一刀の朝食抜きに付き合ってくれていた。こういうところは、やさしさを感じるので一刀も彼女を憎めない。

 

 さて、空腹を我慢して、まずお腹から……ということで雲華によって、胃袋の気の通りが絶にされた模様。一刀は空腹の皮肉も込めて言葉が出た。

 

「う~ん、お腹が空かなくていいかもね」

 

 すると、雲華は呆れてはいるが……目が笑っていない様子で一刀へ真剣に答える。

 

「北郷……。なに、呑気なことを言ってるの? 確かにそうかもしれないけど、現実はお腹の臓物が、中にぶら下がったままの肉の物体に成り下がってるのよ。早く気を通して元に戻さないと死ぬわよ。手や足は無くても生きていけるけど、臓物は違うのよ。心臓や肺以外でも三つ以上の臓物が同時に数時間止まったら命はないんだからね。」

「ひぃぃぃ、ゴメン。ちゃんとやるから見捨てないでくれ!」

 

 一刀は本気で命の危険を感じるのだった。必死で、お腹の部分の気が途絶して異質な雰囲気の部分を感じ取る。そして、気よ繋がれ、繋がれ~と意志を強くする。すると……気が途絶することによって異質な雰囲気になっていた部分がスっと無くなった。それを、雲華は、一刀の体の気の流れを見ていたことで、瞬時に確認する。

 

「ふふっ、ちゃんと出来るじゃない。追いつめると、進化するようね♪ 一刀の特徴としていいことを教わったわ」

 

 この瞬間、一刀にとって雲華は「鬼」を超えて進化し、『悪魔』にランクアップした!

 

「あひゃぁぁぁ、いややぁぁぁぁぁーーーーーーーーー」

 

 雲華により、一刀は一気に臓物五つの気を絶にされた………………彼は必死で……絶から回復させていた……。

 その後も修行地獄を見続ける一刀だった。おかげで順調に?心臓以外の『内臓の気の絶からの回復』の修行を終えて、二人は食堂で少し早めの昼食を取る。

 

「さて……昼食の後はお楽しみの新企画よ」

「……俺は、多分お楽しみじゃないけどな……」

 

 一刀は午前中の地獄もあり、この目の前の『悪魔』の企画に対しての、不安でいっぱいの正直な気持ちを返す。

 そして食事が終わり片付けも済んだ後、二人が梯子で下の広場へ着くと、雲華はちょっと待っててと、倉庫となっている小屋へ入っていった。何かを探してるのだろうか?

 薪を避けているのか、小屋の扉の中からガタゴトと音がしている。

 一刀は小屋へ近づき、気軽な感じで手伝おうか?と声を掛けて中を覗いたところ……薄暗い中を、一刀のいる入口に向かって、暗い大きめの見たことのない人影が近づいてきたのだ!

 驚いた一刀は小屋の扉付近から急いで離れた。

 出てきたのは、一刀の背丈ぐらいで人型をした木の人形だった。ただ、操り紐もないのに普通に一人でに歩いてるんですけど……。

 その木の人形には人間と同じように、腕や足等に関節があった。そして、ピノキオのような直径二センチ、長さ三センチ程の枝鼻がある以外は、顔はのっぺらぼうだった。まあ、リアルな顔があったら逆に怖いものがあるけど。

 その人形は、小屋の入口を出て少し離れたところで立ち止まり、一刀の方向を向いた。そこで、雲華が小屋から出てきた。扉を閉めると一刀に自慢する。

 

「どう? 木人よ。ちゃんと動いてるでしょ」

「動いてるでしょ……ってこれも仙術?」

「そうよ。ある程度の自我を持っていて独自の判断で行動するわ。命令には忠実よ」

「……すげー……って、これ何に使うつもり……ですか……雲華さん?」

 

 練習相手が必要でしょ?と雲華は言いたそうな、ニンマリした顔をしている。その一刀の悪い予感は冴えていた。

 すでに、雲華は、小屋の脇に倒したあった木刀チックな棒を木人に手渡している。木人の手の指はきちんと関節まであってしっかりとその棒を握っているようだった。

 雲華は、今度は一刀に棒を手渡しに近寄ってきた。そして棒を手渡しながら、話をする。

 

「君は、最初の晩に話を聞いたときに、剣術を少しやってるって言ってたから、今、見せてもらおうかな」

「……わかったよ」

 

 断る理由がなかった。この時代では、自分の身を守るために、最低限の武力は必要なことなのだ。一刀自身も、まず、自分の今の状態を確かめたかった。

 

「木人くん、はじめて」

 

 すぐに雲華の声が掛り試合開始。すると、するするっと木人は、一刀に近づいて、鋭い剣を打ち込んできた。

 

「ぐっ」

 

 重い一撃だ。思わず、一刀の口から声が漏れる。しかし、一刀はそれを一度受けるが、力を逸らしながら流すと逆に木人に打ち込んだ。だが、一刀の一撃は易々と木人に受けられる。すぐに一刀はすり足で距離を取る。ここで一刀は、目線は木人に向けたまま、気になったことを雲華に大声で確認する。

 

「雲華! 今の、この木人の強さってどれぐらいなんだ?」

 

 木人は、再び迫ってきて打ち込んでくる。木人のくせに力は相当あるようだ。まともに受けるのはうまくない。どう、いなすか考えてると、雲華の答えが聞こえてきた。

 

「たわいない雑兵ぐらいかな……ちょっと背は高くて膂力はある方だと思うけど」

 

 一刀は木人の剣を受けずにかわしながら、「そうか」と呟いていた。手ごわいと思っていたが、これで雑兵ぐらいなんだ……。確かに太刀筋は適当な感じだな、と一刀は思ったが、雑兵でも毎日殺し合いを仕事にしてれば、普通の現代人よりも相当腕は立つはず……。そういえば、侍は人を切るごとに強くなるようなことを、本で読んだ気がする。こんなのがこの時代の戦場には何十万といるのだ……。

 

「くそーーー!」

 

 一刀は叫びながら木人に正面から打ち込むと、向こうの反撃をひらりとかわし、胴へ鋭く打ち込んだ。これはまともに当たった。「お!」と雲華の声が離れた所から聞こえた。だが、木人は止まらない。すぐに反撃に出てくる、いい打ち込みが出来たと少し緩んでいた一刀は、強烈な数撃を何とか凌いで、再び間合いを取った。すると、一刀は後ろからぽかりと頭を雲華に棒でたたかれる。

 

「はい、北郷は死んじゃった。終了~」

「ええっ?」

 

 木人は、一刀への打ち込みをやめた。

 つい先ほど、雲華の声が聞こえた時には、向こうの梯子の傍にいたはず……。いつの間に真後ろまで来たのか……そして、一刀は雲華の言葉の意味がすぐに読めなかった。すると、雲華は一刀に大事な事を教えるように説明を始める。

 

「戦場において、敵は一人じゃないのよ。君はもっと周りに気を配らないと、すぐにあの世行きよ。……まあ、今だと君は雑兵ぐらいの強さね。うーん、この時代でもちゃんと鍛えれば……そうね、正規軍の百人隊長ぐらいにはなれるかもね。まあ、百人隊長ぐらいだと使い捨てな感じでどんどん死んじゃうけどね。

 でも北郷、安心して。神気瞬導の第二条を身に付ければ、元が凡人でも仙術の『速気』が出来るようになる。それで人と比べれば一気に達人の域になれるから」

「そっき?」

「そう。早く動こうとする気が、気の通り道に走ると速気になる。それが、体を一瞬で動かすのよ。と、同時に相手は非常にノロく見える。時間がゆっくり流れると言えばいいのかな。なので切り放題、刺し放題になるから」

 

 最後の言葉の部分を聞いて、一刀は思った……そうなった時、俺は相手を切ってしまうのだろうか、刺せるのだろうかと。表情からそれに気付いたのか、雲華はまあ、それぐらい余裕が出来る術なのよ、と言い換えてくれた。

 

 それから、またしばらく木人との打ち込みあいである。二刻(三十分)ほどすると、一刀はグッタリしてきた。慣れない本気の打ち合いで、ペース配分が出来なかったのだ。それを見ていた雲華は、「次は体力の配分を考えなさい」と言いながら木人を止める。一刀もペース配分もそうだが、もっと基礎体力をつけないといけないなと感じた。

 

 休憩ということで、二人は食堂へ戻るために梯子を上っていく。すると木人は、一刀の使っていた棒と自分の棒も持って倉庫に自分から入って扉を閉めていた。

 それをふと目に留めた一刀は、後片付けが不要な道具とそれが出来てしまう仙術って便利かも……と改めて思うのだった。

 食堂に入ると、雲華が隣の調理室でお茶の準備をしてくれていた。一刀の汗をかいていたのに気が付いたのか、雲華は「顔とか絞った手ぬぐいで軽くふいて、それに着替えなさい」とデザインが今の服に近い、空色の新しい服を出してくれた。一刀は、食堂の隅で体を拭いたあと、その服に着替える。あとでこの紺色の服を洗っておかないとな……と思いつつ着替え終わると、長椅子に座って待っていた。すると、雲華から声が聞こえてきた。

 

「休憩のあと、読み書きの練習をするから、棚から竹簡や木簡、筆記用具を用意してて」

「わかった」

 

 二人はお茶を飲み終わると、読み書きについて先日の続きをする。

 漢字の個別の意味の復習と、新しい漢字の確認をする。それが一区切りつくと、次はやさしい文章から読み方を教わる。そんな勉強を一時(二時間)ほど続けると、雲華はとりあえず今回はここまでと告げる。

 一刀は、雲華へ紺色の服を下で洗ってくると伝えると、じゃあ、そのあとに水汲みと食糧探しに行くからと聞かされた。

 

 一刀が洗濯ものを干し終えると、二人は準備を整えて水汲みと食糧探しへと、また森の獣道を進む。雲華は、また大きな水瓶を背負っている。

 彼女の肩には、袋も掛けているのが見えた。一刀も、大きな籠を背負っていた。すでに三十分ほど歩いて食材を探して一刀の籠には結構な量の山菜が入っていた。

 加えて途中で雲華が、鉄の芯が入った竹串で野ウサギを射止めており、血抜きを終えて籠にぶら下げられていることもあり、前回より結構重くなっていた。

 他の生き物の命を貰って人間は生かされているんだな……と考え深げに、一刀は雲華に続いて歩いていた。

 

 ここで、道の先の木々の間からバチャバチャと水の音が聞こえてきた。

 そう……再び温泉である。

 

 雲華は慣れた歩調で奥の岩場の湯溜まりへ進み、相変わらずてきぱきと、水瓶にお湯を豪快な方法で確保していた。

 

 一方……ここへ来て四日目……一刀の若きリビドーは自然と溜まるものである。いろいろ妄想しちゃうものなのだ。そして温泉である。脱いじゃったりもするのだ。見た目は少女仙人なのだ。いつもチャイナドレスから良いスタイルが見て取れるのであった。良い香りも溢れているのである。

 

 「じゃあ、また、せっかくだから、温泉に入る?」

 「……うん」

 

 一刀は一瞬、間があくがそう答えた。雲華は「ん?」となったがそこは流す。そして、一刀は端に行って服を脱ぐ。彼が下着姿になったところで、雲華は、脱ぐ前に先に手ぬぐいを渡しに近づいてきたが……。

 一刀は、彼女の目線が自分の下半身を見ているところで止まっていることに気が付いた。そう、一刀のアソコが……モッコリ状態であったのだ。

 雲華の顔は少し赤くなってるが、下を向いていた目線がゆっくりと一刀の顔に向く。

 怒られる……一刀は怯んだが、意外なことに雲華の顔はニッコリと微笑んでいた………ただし、『悪魔』の微笑みというヤツだったが……。

 そして、彼女の両手が上下に広がりそれぞれの指先が、一刀の額の間と下腹部に素早く触れた。

 みなさん………もう、おわかりいただけただろうか?

 

 

 

 

 視覚と共に――――――――アソコが絶……!!!!!

 

 

 

 

 途絶で壮絶である!! そういえば、あの局所は絶の修行していない!

 パタりと下に垂れてクッタリしてしまった……。

 ああ、俺の存在価値がーーーーーーーーーーーー!!!

 

 ぽ~~~ん。

 宦官とはこういう心境なんだろうな~と、天竺へ向かう坊さんみたいな悟りを開きながら、すでに来た道をひたひたと戻る帰り道である。アソコの絶状態がまだ続いていた一刀だった……。

 

 でも、雲華はやさしい。なんとまた視覚が絶な一刀の手を引いて一緒に湯船へ入ってくれた……その上に、今回は背中までも洗ってくれたのだ!

 そして、ちょびっと……、む、胸が当たった――かすったのだ! 一刀は、ただただ泣いた。

(胸のどこが背中に当たったかは――みんなで考えて欲しい)

 おおっ? ヨコシマな考えの所為か……アソコの絶が自力で解けた!!

 

 ………

 

 あ、雲華が――『悪魔』の気配が近づいて来た……。

 

 ……それからどうしても、背中を洗ってもらった時の記憶が思い出せない……そして、さっきまで、夕方の食堂の長椅子に座って、夕食を待つ間で妄想に耽っていたと思ったんだが……。

 一刀が再び気付いたときは、もう次の日の朝だった。

 ……なにげに晩飯も抜きですか……?

 

 

 

 

 さて五日目。本日の地獄の修行は『心臓の気の絶』なのだ……。心臓が鼓動を停止するのである。心停止である。一刀は素直な気持ちで、雲華へ事実を確認する。

 

「雲華……それって『死んでる』よね?」

「ん? 大丈夫よ。絶になった瞬間はまだ意識があるわよ、たぶん。死ぬ気で頑張れば三十秒から一分ぐらいは、意識の中の気は持つんじゃないかな?」

 

 たぶん……って。『悪魔』の軽いノリの返事に、溜息しか出ない一刀だった。医学的に『死んでる』状態で『死ぬ気』っていうのも説得力がないしなぁと。それに増しても、猶予はよく頑張って、たった一分ですか……。今日は完全に死刑執行に近すぎた。だが、一刀はもはや地獄行きを覚悟するしかなかった。

 

 そう、やるしかないのだ。……この『悪魔』の前では!

 

「じゃあ北郷、いくわよ?」

 

 食堂で、長椅子に寝転ぶ一刀に雲華は、いい天気ね?という感じで、絶開始を軽く告げる。心の準備も何もない……即実行であった。

 もはや、『やってやる!!』 一刀は覚悟を決める。その瞬間だった。ここ数日、筋力の絶を散々行っていたことで、今、自分の心臓が止まったのがわかった……。目を開けていたが視覚が十秒ほどで、スーっと周りから中心に向かって狭まり闇へ落ちた。全身の血の流れが止まったからだろう。なんとも言えない気分だった。心停止である。享年十●才である。

 

 

 

 ……死んで……死んでたまるかーーーーーーーーー!

 

 

 

 まさに必死だった。胸にぽっかりと穴が開いている感覚なので、心臓の絶の雰囲気はすぐに捉えられた。死ねない!こんなところでは死ねない!!

 

 その時、一刀の様子を静かに見守っていた雲華は、驚愕の表情をする。そして言葉が漏れていた。

 

「一刀の体が……あの出会ったときの強大な光を放っている!?」

 

 そう、窓から入る朝の光の中でも、一刀から放たれる光は見えるほどであった。「やはり……」と目を細めた雲華は、一刀についてなにかに気が付いたようだった。まもなく、一刀から声が掛る。

 

「で、できたよ!」

 

 一刀の体調が戻るのに反比例するかのように、あの光はゆっくりと消えていく。その光に、一刀は気付いていないようだった。その光が消えるのを見届けると雲華は、自然な態度で一刀に答える。

 

「どう? やれば出来るもんでしょ?」

「いや……それは、なんか違うような気がする答えじゃない?」

「ふふふ、まあいいじゃない。……さて、あと何回かやるわよ?」

「ひぇぇぇぇーーーー」

 

 そのあと、軽く二十回ほど絶で心停止した一刀だった……。

 

 

 

 なんかもう、ある悟りに到達し、怖いものは無くなった気がする一刀だった。死に寄り添う少年?みたいな趣だ。かなり調子に乗っている感じがしている。昼食をとりながら雲華は黙ってそんな一刀の様子をうかがっていた。

 昼食後は読み書きの時間となった。読み書きの時間は一度休憩を挟んで一時半(三時間)ほど行った。そのあと外に降りて、木人修行である。

 しかし、今、どういうわけか木人は雲華と対峙していた。それも二人とも例の木刀のような棒を持って……。一刀はその疑問を雲華に聞く。

 

「あの、雲華。俺の稽古の時間じゃないの?」

「ん? まあ、ちょっとその前に見てもらおうかなってね」

「それに……雲華は素手じゃないんだ?」

「そうか。北郷、言っとくけど、私が得意なのは実は剣と槍なのよ。自慢じゃないけどちょっとしたものよ?」

「えっ?」

「神気瞬導で強化しまくった膂力・速力に加えて、気力技を剣や槍ごと相手に叩きこむ。それが私の武技の完成形よ」

「………」

 

 一刀は小口を開けて絶句していた。

 武器を持っている有段者は無手よりも三倍強いといわれていたはず。彼女は、素手の状態ですでに桁違いの実力があるだろう。

 

(雲華……君はどんだけ強いんだよ?)

 

 一刀は、はっと先ほどまで、悟りを開いたごとく思い上がっていた事に気付く。そして、認識を新たにする。この時代……いや、いつでも、どこにでも、上には上がいるという事を。

 雲華は木人を相手に稽古を始める。寸止めをしているようで打撃音は聞こえない。ただ彼女の瞬速の棒から出る風切音のみが、絶え間なく聞こえてくるだけである。僅かに彼女の残像が木人の周りに見えるぐらいだ。そして、周辺の地面に砂煙がタタタッといたるところから上がる。木人もかなりスピードを上げて対抗しようとしているようだが、雲華の前では、もはやただオタオタしているようにしか見えない。

 一刀の感覚で十五分ぐらいそれは続いて……終わった。木人も動きを止める。雲華はこちらにゆっくりと歩いてきた。驚いたことに呼吸は全く乱れていない。

 

「はい、次は北郷の番よ」

「……おう」

 

 雲華から棒を受け取る。構えて棒を早めに振ってみるが、雲華の出すような鋭い風切り音など出るはずもない。

 

「………」

「北郷。今は、戦いの雰囲気を掴むことよ。形に惑わされないでね」

「そうだな……。わかったよ。今日は十本ぐらいとるぞー!」

「そうそう! 頑張って」

 

 雲華からの応援を受け、気持ちを仕切り直し、一刀は木人に勢いよく向かって行った。

 しかし……一刀は返り討ちにあっていた。そう、雲華との対戦でスピードが上げられていたからだ。すでに、二、三度、肩や肘近くをキツめに叩かれた。ほぼ防戦一方であった。木人の踏込が早い。先ほどオタオタ状態だったのは雲華が相手だったからで、一刀には強敵になった。ただ、一刀は泣き言は言わない。まず、状況を確認する。

 

「雲華、今日のこいつは、どれぐらいの強さ?」

「正規兵の十人隊長ぐらいかな」

「ちょ……一気に上げ過ぎじゃない?」

「そうかな、将軍ぐらいまで上げてみる?」

「―――これでいいよ!」

 

 強さを下げる気など全くないみたいだ……さすが『悪魔』さま。

 仕方ないと、一刀はここで今まで見せなかった早い突き技を見せる。

 一瞬、木人が防御に徹しようと引いて出来た隙を狙って頭に一撃を入れる。そして、油断せず周りを見て後方に距離をとる。

 

「おー、今回は出来てるね」

 

 予想通り、隙があったらぽこりと一刀の頭を後ろから叩くつもりだったようだ……。油断大敵である。そのあとも、何度か奇策を駆使して木人から二本取ったが、こちらも四回ほど肩等を打たれた。頭は避けたが結構なダメージであった。

 今回、相手がかなり強くなったが、間合いをなるべく取り、相手の剣もなるべくまともに受けないように努めて、二刻(三十分)ほど続けて終わった。終わったあとも、昨日よりはまだ動けた。少しペース配分出来たのかな。雲華もそのことを評価してくれる。

 

「まあ、昨日よりは考えて戦えたみたいね。しかし、本当の戦場には昼も夜もないから、一日ぐらいぶっ通しで戦うことも珍しくないのよ。体力にはいつも余裕を持たせるようにね」

「一日……!?」

「最悪だと一週間とか。それもほぼ寝ずにね」

「……地獄だな」

「敗残の兵はそんな感じよ。命のやり取りをしてる戦争だからね」

 

 本当の戦場は、一刀の考えからはまだ遥か遠いようだった……。雲華は近づいてきて、俺が打たれて痛めているところに手を軽く翳してまわる。

 

「あれ……? 痛みが……」

「どう? もう直ったでしょ?」

 

 雲華はニッコリと微笑んで、傷があったと思われる場所をポンポンと軽く叩いた。一刀は、体を捻ったり触れたりしてみるが、先ほどまで数か所、打たれて大きく鈍い痛みがあったところに、全く痛みがなくなっていたのだった。それに体も軽い。疲れも、ぐっと取れていることに気付く。

 

「それが神気瞬導の第三条よ。気を巡らせて活性的に使えば傷や病、疲れなどでも、早く劇的に回復できるわ。それが例え、本来、人にとっては致命傷であってもね。そこまで身につけれれば、この時代でも生きていけるはずよ」

「………」

「さて、夕飯の用意を始めましょうか。部屋へ入る前に、絞った手ぬぐいで体でも拭いてきなさい」

 

 そういって、雲華は手ぬぐいを一刀に渡してくれた。そして、梯子を上って家の中に入っていった。ふと、気が付いて辺りを見回すと、もう夕暮れが迫っていた。木人はちゃんと棒を二本拾って倉庫に入っていくところだった。一刀は倉庫脇に行って、服を脱いで横の梁に掛け、そこにある水瓶から柄杓で水を汲み、手ぬぐいを濡らして絞り体を拭く。そして再び服を着ると、一刀も梯子を上って木の上の家へ入っていった。

 

 夕食のあとは、読み書きの勉強であった。これまでの復習と、この時代では現代と違う意味の漢字に付いてさらにいろいろ教えてもらう。もともと頭が普通の人の一刀はそれほどメキメキとは勉学が進むわけではない。しかし、雲華は違った。竹簡の冊を何冊分も使うのだが、内容をすべて暗記しているようだった。漢字に付いても一つ一つの意味を細かく説明してくれる。例文なども豊富だ。

 

「雲華は、竹簡の冊をどれも覚えてるようだけど。どれぐらいの数を覚えてるの?」

「さて……一度、目を通したものは覚えているから。んー、五千は超えてるんじゃないかしら?」

 雲華は、そう言って、顔を少し上向きで目線を上げ、右人差し指を顎のところにちょんと当てながら考えるそぶりを見せる。

 

「……そうですか。雲華は、武もすごいけど、半端ない知識量に判断も早くて的確だし軍師にも向いているかもね」

「ん、なに? ……北郷は、私とこの時代でどこかの諸侯に仕えたいの?」

「ははっ、まさか。雲華はともかく、今の俺じゃ取り柄がないよね。一つの戦いに生き残るのもどうかというところだし……」

「ふーん。まあ、そうね。さて、勉強を続けましょうか」

 

 ここはね――と、読み書きの勉強を一時(二時間)ほど行った。そのあと、雲華から明日の修行の内容について少し話があった。

 

「明日は、頭部にある各部位の絶からの回復を修行するわ。ただし、脳ともう一か所は除外するけどね」

「……もう一か所?」

 

 余計に気になるが、現状では分からない。まあ、明日になればわかることだった。雲華も軽く言葉を流してくる。

 

「まあ、気にしないでね。それでは今日は休みましょう。北郷、おやすみ」

「おやすみ、雲華」

 

 

 

 

 日はまた昇る。しかし、今日は曇っていた。庇型の窓は晴れの日はちょうどいいが、曇りだと室内は少し暗い感じの部屋になる。なので、一刀は食卓の机は少し窓寄りに設置した。

 二人は朝食を終え、今日は読み書きの勉強からスタートする。

 雲華が、また懇切丁寧に教えてくれる。とりあえず勉学にしても、少しずつ前に進むしかない。天才たちとは違うのだ……一刀はそう考え、一生懸命覚えるのだった。

 一時半(三時間)ののち、一刀は下の広場に出て、木人と実戦剣術修行を行う。

 木人の強さは昨日と同じだった。まあ、剣術も一日で上達するほど甘くはない。一刀は何本か取るが、こちらも木人に結構ボコボコにされる時があった……頭に軽く掠っても結構痛い。それは半時(一時間)ほど続けられた。終わった後に雲華が、気で怪我や疲労を回復してくれた。そこで昼食となる。

 その席で、雲華が昼から予告通りに頭部の修行をやるわよと言ってきた。昨日から心臓、頭部と急所が続き、緊張気味の一刀である。美味しいはずの昼食の味も薄く感じるのだった……。

 昼食の片づけをし、食堂の机を横に避けあと、一刀は長椅子に寝転ぶ。

 いよいよ頭部の修行に入る。

 まずは顔の筋肉系からの気の絶が順次始まる。いつも通り、各部分ごとに進めていく。顔の筋肉系がうまく絶から回復すると、顎の気の絶へ続く。顎は脱力するとカクンと開きっぱなしになってしまう。そして、よだれが止まらない……。早めに気の通りを回復する。ここまでを何回か繰り返し修行したが、結構間抜けな顔になるので、雲華の前もあり、恥ずかしいものがあった。

 そして次は歯と同時に、舌と味覚も一気に気が絶たれる。一刀はこの間、まともにしゃべれないのが結構不安だった。意思表示は重要なのである。それが上手くいくと、次は嗅覚。その次は聴覚と順調に進む。そして最後は……視覚……だったはずが、そこで終わった。

 雲華はわざとだろう……「終わったわよ?」と何食わぬ顔をしている。

 

 そう、視覚だけは絶からの回復修行が行われなかったのだ。……なぜだ?

 ん?そういえば今日は温泉の日ではないだろうか。ここのところ一日おきに食糧採集がてらで入りに行っている。

 そして……予想通り、このあと水汲みと食糧探しに行くと雲華は言ってきた。

 

(ふふふっ、そういうことですか、『悪魔』さん……いえ、雲華さん。甘い! 舐めてもらっては困る)

 

 そう、一刀は諦めていなかった。密かに視覚を自力で絶にし、その絶を解くことに成功していたのだ! 一刀の心は叫んでいた。

 

 

 

 ああ、温泉タイム、プリーズ!!

 

 

 

 雲華の、いつもの『肩に袋と水瓶背負いスタイル』の後ろに続き、一刀は意気揚々と足取りも軽やかに、獣道を行く。

 下郎ども、見せてやろう、『俺様の真の力を!』という王者の風格すら……まあ漂ってませんけどね……胸を張って彼は、我が道を突き進んで行きます。

 

 そして、夢見た桃源郷からの音が……そう、道の先の木々の間からバチャバチャと水の音が聞こえてくる。

 

(待望の温泉ゾーン、入浴タイムです! プリーズです!)

 

 一刀の思考には、希望が高まり過ぎていたのか、すでに良く分からないものが混ざって来ていた。

 

 雲華は例のごとく、水瓶を豪快にお湯で満たし蓋をする。そして、一応なのか一刀に確認してくる。

 

 「それじゃ、せっかくだし温泉に……」

 「入るよ!」

 

 もちろん!と、前掛りに即答する一刀である。

 雲華は、肩に下げた袋から手ぬぐいを出して、一刀へ手渡すために近づいてきた。

 すでに一刀は万全を整えている。「絶でもなんでもするがよいわ!備えあれば憂いなし!」と。

 一刀は、雲華から手ぬぐいを受け取る。すると、雲華の手が、指が、一刀の眉間に触れる……とたん、視覚が一瞬落ちる……が、瞬間回復する。早い!圧倒的に早い。すでにそれは一刀によって極められていた!

 

 一刀は何も見えてない、変わってないよ……という振りで、モタつくように服を脱ぎ、下着も脱ぎ、前を手ぬぐいで隠す。えーっと、雲華は……と、一刀はゆっくりと周囲を確認する。しかし、雲華の姿が確認できない。

 

(あれ?)

 

 岩の陰で脱いでいるようだ。

 

(……まあ、待とうではないか!)

 

 しばらくすると、雲華が岩陰から出て……きた!

 そして、雲華は一刀の所へ岩場を歩き、ゆっくりとやってくる。また手を引いて一緒に入ってくれるのだろうか。

 でも、正面から来ると見えちゃうよ……と思っていたのだが。

 しかし、一刀は目を疑った。目がおかしくなってるのだろうか? 彼女の肌が、美しい白めの肌色ではない部分があるのだ! それも胴体部分全部だ……と?

 

 ……もうおわかりですよね?

 彼女は、紺色の麻の『湯あみ着』ってものを着ておりました。

 

(……へん! 邪道じゃねえかぁ! うぇ~ん。ちくしょーーーーーーーーーー!)

 

「北郷。目は見えてるんでしょ? さっさと入ったら?」

 

 すでに、雲華にはモロにバレていた……。

 そう、雲華はどうやら一刀が、視覚の絶からの回復について、自力で体得することを予見していたのだ。彼女としては、追いつめられると一刀には能力が開花するとの考えがあり、彼のヨコシマな願望を利用して能力をまんまと促進させていたのだ。

 もちろん、先ほども気の流れで、一刀の視覚が瞬間回復しているのにも気付いていた。

 

 まあ、しかし、紺色の麻の湯あみ着でも……雲華は可愛かったからまあいいかと、一刀は納得する。

 それに……神は見捨てなかった! 湯船の中で不満げに聞く。

 

「……この前も湯あみ着を着ていたの?」

「いいえ、着てないわよ」

 

 おおぅ。神様ありがとう! 一刀は神様に感謝した。

 

 さらに!

 湯溜まりから、彼女がふいに立ち上がろうとした時……お湯を滴らせながら、彼女の湯あみ着が体に張り付き……そ、そのボディラインが!全貌が!

 雲華は、ハッと顔を急に真っ赤にして、事態に気付いたのだが……すでに手遅れだ。

 そして、腰の……そして、胸のラインが……胸のラインの中にさらに! さらに………………。

 

 ん?……気が付くとなんと翌朝だった……。

 なぜか、普通に長椅子ダブル寝床に寝ている……んだが。

 あれ?どうやら、温泉からの半日ほど記憶のない一刀だった。どうやって帰ってきたんだろう……雲華が連れて帰って来てくれたのだろうか? そして……また、晩飯抜きですか……?

 

 

 

 一刀が寝床を片付け窓を開けていると、下の倉庫にでも行っていたのだろうか、ちょうど外の入口から雲華が入ってきた、彼女に鉢合わせた一刀は「おはよう」と挨拶をする。

 彼女は、ちょっと気恥ずかしそうに目線を一瞬外すが、一拍置いて「おはよう」となんとか返してくれた。

 一刀としてもよかった。もう一日、記憶が飛ぶとかは勘弁してほしいところである。

 あのとき、どうやって自分を気絶させたのだろう……仙術なんだろうか。

 一刀は聞けなかったが、そこもちょっと気になるところではあった。

 朝食後は、昨日と同じ読み書きの勉強を行なった。一刀は、簡単な文章が少し理解できるようになったが、雲華曰く、もっと多くの漢字個々の意味を覚えていかないと、読める文章が増えないわよと言われた。とりあえず、読める漢字の数を増やすようにしないと思う一刀だった。木簡に筆で練習を続けていた。

 休憩を二度はさみ、昼食前まで読み書きは続いた。

 そのあと、二人は昼食を取った。そして……。

 

 さて、本日昼からの地獄の修行は『脳の一部の気の絶』になる。脳が一部とはいえ、思考を、機能を停止するのであった。もはや部分脳死状態である。一刀は聞かざるを得ない気持ちで、雲華へ事実を確認する。

 

「雲華……それって、もしかして、記憶が呼び出せなかったり、意識が飛び掛けてるよね? 間違いなく『脳死一歩手前状態』だよね?」

「脳死? なにそれは?」

「心臓は動いてるけど、脳が反応しなくなってる状態だよ」

「ああ、まあそうね。……きっと大丈夫よ。気迫でなんとかなるから」

 

 どうやら『悪魔』さまにおいては、根性論で脳死がどうにかなるとお考えめされているご様子だ。

 また、昨日のこともあり、彼女の容赦は全く期待できないそうにない。

 それでも、一刀には昨日の温泉での衝撃的な光景がよみがえる……我が人生に悔いなし。

 ……いや、もうちょっと欲しかったなぁと、長椅子へ横になった状態で考えていたが、ふと上を見ると、雲華の双眼が蒼く光ってる状態で、上から無表情な顔で覗き込まれているのに気が付いた。

 美しいけど……恐ろしい!

 一刀の表情からヨコシマな考えが漏れているらしかった。

 

「北郷……覚悟はいいわね? 随分と……余裕があるようだし?」

「ひ……」

 

 一刀は、雲華により、一気に脳の部分絶状態に放り込まれた。

 これはヤバイ!

 視覚も、聴覚も一気に持って行かれた。暗闇のなか、意識がグニャグニャになっていく……。

 うぅ……これは……本当に……危険な状態だ。えっと、気が通っていない雰囲気の部分を感じないと。まずい……脳の気の通りの感覚がよく分からない……この状況……何秒持つんだろ?

 一刀は、結構な混乱状態になっていった。細かいところが分からない。そこで、もう思い切って考え方を変えることにする。とりあえず、一度頭部全部に気を通す事を考えよう。頭部中の気の通りそうな雰囲気のところに片っ端から通れ、通れ~~!と必死に気を通すように考えるのだった。その考えがよかったのか、加速度的に気の通りは回復し、意識が完全回復する。一刀は、必死の回復成功の第一声を上げる。

 

「うわー、危なかった!」

「まあ、悪くない判断だったわ。でも、今日の修行は脳の気の絶な部分を捉える事も重要なことなのよ。出来るまで何回でもやるからね」

「……よく考えると、情報を引き出して比較して、思考する部分が絶になっているのに、細かく考えられないんじゃないのかな?」

「……やるのよ!」

 

 一刀は、この『悪魔』に逆らえる気がしなかった……。もはや限られた部分脳で、なんとかするしかなかった……結局、二十回ほど繰り返して、漸く、脳内の気の流れが止まった雰囲気の部分を捉えることが出来るようになった。さらに二十回ほどその修行は続いた。最後はかなり短時間で、場所を捉え、回復できるようになっていた。

 

 これでやっと、ほぼ全身の各部について、絶からの復帰に成功した一刀だった。長かったような短かったような……。でもこれだけは言えた――死ぬほど辛かったと!(ちょっとだけ、イイ目にもあったけど……)一刀は少し涙ぐんでしまった。

 その様子を見ていた雲華は、そんな一刀に優しく告げる。

「北郷、おつかれさま。そうね……街へは四日後に行くことにしましょうか」

「おおっ! 結構すぐなんだ」

 

 一刀は、一瞬湿っぽくなったが、気を取り直す。やっと雲華に少し恩返しができるのだ。

 一刀が初めてこの時代の街へ行く日程も、ようやく決まった。仙人の住む山の森の外は、人が住むこの時代には、一体どんな世界が広がっているのか……怖い部分もあるが、少しワクワクしている一刀であった。

 

 

 

つづく

 




2014年03月31日 投稿
2014年04月08日 見直しと加筆修正
2014年04月20日 見直しと文章修正
2014年04月28日 見直しと文章修正
2014年05月11日 見直しと文章修正
2015年03月03日 文章修正(時間表現含む)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第○➄話 一刀街へ

 

 

 

「―――……………」

 

 一刀は今、焼け落ちた街並みの跡を見渡し、茫然としていた。視界に動く人影は見えない。風もなく音もない。

 

 

 

 目を落とすと、通りであったであろう足元には、すでに多くの者に踏みつけられた幾多の足跡の残る黒い灰や黒い欠片が散乱する。そして目線を上げると、中央の通りを隠すように、黒い灰等の元となった炭化した家々の柱や廃材が、延々と転がる破滅的な光景が広がっている。しかし、それだけではない。何か嫌なものが焼けた臭いなども辺りには漂っていた。

 

 一刀は、ようやく見ることが出来たこの時代の外の光景が、こんな悲惨なものとは考えておらず、衝撃を受けて固まっていた。

 

「これが、この時代の普通なのよ。ここは、割といい街だったんだけどね」

 

 後ろから雲華に声を掛けられ、我に返った一刀はゆっくりと振り向いた。

 

 ここは泰山郡博(はく)県の舎亭(役所)のある街であった。周囲は高い壁で囲まれた城郭の中なのだが、つい先日、黄巾党の残党の襲撃を受け、焼き討ちにされた様子に見える。

 泰山郡は黄巾党の勢い盛んな青州と隣接する地でもあり、今なお黄巾党の被害をまともに受け続けている地域なのだ。

 

 

 

 

 

 この日の朝、一刀はいつもより早く目が覚めた。昨日までの三日間がまた、『悪魔』さまによる輪を掛けた厳しい修行の連続でヘトヘトだったのだが、やはりこの時代の外の様子には興味があり、興奮気味であったためだろう。しかし一刀は、その三日の地獄修行のおかげで、全身のほぼどの部位に気の絶を受けても、瞬間に気を通して絶を回復できるようになっていた。当然平行して、木人実戦剣術修行と、読み書きの勉学も成果はともかく続けられている。

 一刀は近くの窓を開ける。東の蒼暗い空が明るくなりかけていた。雲は少ないので良い天気になりそうだ。あと十五分程度で日は上りそうである。寝床を片付けて窓の横で顔を洗う。そうしていると、上から梯子を伝って雲華が食堂へ降りて来た。

 

「おはよう、北郷。今日は早いのね」

「おはよう。なんか、目が覚めちゃって」

「ふうん。じゃあ、折角だし、早めに準備して行きましょうか」

 

 食堂の反対側の窓を開けながら、雲華は一刀の逸る気持ちに合わせてくれる。

 二人は朝食を手早く終えると、外の街へ出る準備を始める。ここで一刀は十一日目にして、初めて食堂の上の階の中の様子を、見ることが出来た。

 雲華は、準備の為か梯子で上の階に上がっていった。少しすると、「ちょっと来て」と一刀に声が掛った。一刀は思わず「上がっていいの?」と聞いてみたが、「いいわよ」と声がしたのでそろそろと梯子を上がってみる。

 そこは、やはり雲華の部屋のようで、小さめな机と椅子と、窓際に木枠の組まれた女性らしい赤の布で装飾された、古風な中華様式ベッドのような寝所があった。しかし意外だったのが、窓以外の壁面がすべて棚になっていて、そのほとんどに竹簡や木簡が積まれて埋め尽くされていたことだ。さすが勉強家なんだなぁと雲華に納得する。そして、部屋にはもう一つ、上への梯子が掛っていた。

 その梯子の掛った上の部屋から雲華は顔を見せ、大きな包みを差し出そうとしていた。この家は少なくとも三層建てみたいだ。外から見ると、地上から六メートルほどの高さの巨木の枝の間に建てられた、二階建てのような屋根付きの建物なのだが、どうやら広めの屋根裏があるみたいだ。

 一刀はとりあえず、さらに上の梯子に足と手を掛けて、雲華から差し出された大きな包みを受け取る。包みは梯子を通してある木枠の穴ギリギリぐらいの大きさだ。ゆっくりそれを持って、雲華の部屋の机の上に仮置きしようとする。すると、雲華が注意するように言った。

 

「それが、今日の荷物よ。家の外まで運んでおいてくれる?」

「了解」

 

 一刀は、売り物が入っている大事な包みを擦らないようにと気を付けながら、さらに食堂への梯子を伝って、食堂から外へ出て広場への梯子を下りた。

 それに少し遅れて、雲華が一刀に続くように広場への梯子を下りて来た。雲華は、あの最初に出会った時のように、マントのような紺色の厚めの大布と纏う。それには風防もついているのか、今は頭を覆い髪も隠している。おまけに鼻の上からも口当てのような布で隠していた。そして背中にはあの「彗光の剣」を背負っている。さらに、手にも一振りの剣を持っていた。一刀は、雲華の物々しい姿を見て、改めて大変な時代なんだな……と思った。そしてどうやらこれが、雲華の完全武装スタイルらしい。

 

「北郷、忘れ物はないわね?」

 

 一刀は雲華から渡された大きな包みを背負っている。世話になってる恩返しもあり、今日の自分の仕事だと張り切っていた。

 

「ああ、俺はいいよ。戸締りは大丈夫?」

「まあ、大丈夫でしょう。日のあるうちに帰ってくるつもりだし。木人くんもいるから」

 気が付くと木人が倉庫小屋から、そっと外を伺っていた……怖いよ。

 

「そうそう、北郷にはこれを。一応渡しておくわ」

 

 そういうと雲華は、一刀の顔を目をしっかりと見つめながら、手に持っていた一振りの剣を一刀に差し出した。

 

「……これを?」

「そうよ。外では自分の身は自分で守らないと生きていけないわよ」

「……わかったよ」

 

 雲華の有無を言わさない感じに、一刀はその剣を受け取った。四尺弱(九十センチほど)の剣だった。外形は装飾については派手さはないが、鞘に収まった状態でも優美な美しさがあった。特にいいのが、この剣は「彗光の剣」よりも全然軽かった。鞘に入った状態でも振れそうに思える。とりあえず、鞘の鎖を腰の紐に通し、剣を腰に差す。

 

「じゃあ、出発するわよ」

「うん、行こうかぁ」

 

 そう言うと二人は森の中へ雲華を先頭に進んでいった。近いので歩いていくのだろうか。一刀は道が分からないので、雲華に取りあえず付いていくしかない。幸い、あの後も二回温泉に行ったので、大きな荷物を背負いながら森の中を歩くのは大分慣れて来ていた。足元と荷物に引っ掛からないように、上からの枝等を注意しながら歩く。

 朝早めから行動したおかげで、一時(二時間)ほど歩いてもまだ、辰時の終わり(午前九時前)頃だ。そこで少し森の開けたところに出る。

 雲華は、その開けた場所の真ん中に埋まっている、踏み石のような岩の前まで来ると、素早く術語のような文句を二言三言発した。そして、一刀にその岩を踏んで通るように言う。一刀はそれに従い、踏み通る。雲華もそれに続く。

 

「無事に結界を通過したわ」

「そういうのが、やっぱりあるんだな」

「排他的な仕掛けが無いと、人が入って来ちゃうからね。……さてと、それじゃあ、いくわよ!」

 

 雲華は、以前部屋で見せてくれた飛翔術の『双方の肩の横で手のひらを上に向け、術語を発し、手を胸の前で合わせる』手順を行うを、一刀のお尻を下から右手で抱えるように軽々と荷物ごと持ち上げると、空に向かって駆け出していった。二人の体は青空へ一気に駆け上って、雲をも突き抜けてゆく!

 雲華は、俊足を飛ばす。かなりの高度とスピードが出ている。加速後はしばらく駆けていなくても慣性で前へ滑るように、飛んでいるように進む。一刀は、動転して思わず大声で叫んでいた。

 

「うわぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

「北郷、叫ばないでよ! つい先日、この術は見たでしょ?」

「違ーーーう! この状況だよーーー! これーーー落ちたら死ぬでしょーーーーー!」

「それはー、まあ人ならこの高さから落ちれば確実に死ぬでしょうね! 上空へ三里(千二百メートル強)は上がってると思うし!」

 

 雲華は、一刀の絶叫状態とは対の状態で、もちろん落ち着いている。ただ、風圧等で声が伝わりにくいので大声を出しているが。

 

「大丈夫よ、私がいるんだから! 落ちてもちゃんと拾ってあげるから!」

 

 雲華の説得に、やっと少し動揺が収まってきた一刀は、今度は上空からの圧倒的に広大なこの世界の広がりに気付き、感動の声を上げる。

 

「おおおおおーーーーーーすげーーーーーーーーーー広ーーーーーーーい!」

「すごいでしょーーーーー! 北郷はーーー結局、叫ぶのねーーーーー!」

 

 雲華もいつの間にか一緒に叫んでした。

 

 少しずつ落ち着きながら一刀は、しばらく空の移動を楽しみ、眼下に広がる圧倒的な風景を眺めていた。雲華も一緒に同じ方向を見ている。すると、一刀は少し申し訳なさそうな顔を雲華に向ける。「ん?どうしたの」という雲華に一刀は答える。

 

「結局、雲華に運んでもらっちゃってるな……俺。運ぶのに付いてきたつもりだったけど」

「まあ、地上にいる間は、君に運んでもらうから。それで十分よ」

 

 そういって、一刀に向かって笑いかけていた雲華だったが、急に驚いたような顔になり目的地の方を睨む。そして、こう呟いていた……。

 

 

 

「街に大勢いるはずの、人の気の塊を感じない」と。

 

 

 

 雲華は、目的の街から一山手前の山中に降りる。雲華曰く、空を飛んでる間は幻術で大鷲のような鳥に見えるようにしているそうだ。しかし、降りて術を解けば人に見えてしまうという。まあ、追加で幻術を使えばごまかせるだろうが、今は一刀もいる。二人は、少し歩いて街に向かう。

 山を回り込むように谷を進み、街道へ出て、その一本道を街の城壁門の所まで半時(一時間)強ほど掛けて急ぎ気味で歩いて来たが、誰ひとりとしてすれ違うことはなかった……。

 そして、今、博(はく)の街の正面門の前にいるが、すでに門は完全に破壊されて存在していなかった。門の空間から無残な中の様子が垣間見える。

 一刀は茫然とした表情で門をゆっくりとくぐって行き、しばらく進むがその中に広がっている惨状への驚きに固まって歩みを止めると、少しの間見入っていた。

 そして、その後ろから「これがこの時代の普通よ」という声に、一刀はゆっくりと声の主である雲華へ振り返った。

 

「さあて、どうしましょうか? ご飯でも食べる?」

 

 雲華は、はや見慣れたものを見てしまったなという感じの口調であった。マント状の大布の間から、肩に掛けていた袋を一刀に向けて、上に差し上げて見せる。

 

 一刀は己を取り戻したのか、雲華の所までゆっくり戻ってくる。そして、少し呆れたように口を開く。

 

「なんで昼食を持ってきてるんだよ……。街で食べるんじゃなかったの?」

「そんなお金はないわよ。お金は大切に使わないと。食べ物は森にいっぱいあるんだから」

「そうか……。悪い、俺は言える立場にないな。この惨状にかなり混乱しているみたいで。今日はちょっと、色々といろんな事がいろんな意味で落差ありすぎかな……。生きていけるのかな、こんな時代で」

 

 雲華は、頭を項垂れて顔を伏せている一刀の目前まで進むと、トンと彼の肩を軽く叩く。一刀はゆっくりと顔をあげ、「なに?」と雲華の顔を見る。すると雲華は、ゆっくりとにこやかに自信を持って言葉を紡ぐ。

 

「そのために君は、仙術を身に付けているんでしょ? 大丈夫よ。さて、とりあえず、これを食べましょう」

「ああ、でも……門の外で食おうか」

 

 一刀も、頼りにしている雲華の言葉に気をとり直す。一方、さすがに雲華も一刀の意見に賛成する。こんな酷い光景を見ながらというのはあんまりだろう。二人は門の外まで歩いて行くと、日陰を探して荷を下ろし、やれやれ何でこうなった?……と昼食を取った。一刀は一つの街がこんなにあっさりと壊滅しているこの状態の異常さに恐怖していた。

 

「官軍って、まだ動いていないのか?」

「有力な諸侯も動いているみたいで局所的には黄巾党に勝ってるみたいだけど、ここと隣接する青州には百万からの黄巾党がいるらしいわよ。さすがにこの辺りにも近寄りたくないと思うけど?」

「百万……」

「まあそれも、もとの多くは農民だしね。徹底的に討ち果たせばいいってものでもないでしょうし。どのみち相当力がある軍団で攻め込まないと、今は勝負にならないでしょう?」

「んーそうだな」

 

 二人は食事を終わると、雲華は「どうする?」と聞いてきた。一刀としては、せっかく外のこの時代を見に来たのに、戦のあとの廃墟を見ただけとかは避けたいものがあった。そこで思い切って雲華に提案する。

 

「他に無事そうな街って近くにないのかな? ……雲華が裁縫した服の取引をしてくれるお店はこの街だけなの? 他にあればそこへ行けないかな?」

「んー、そうね。あるにはあるわ……少し足を延ばさないといけないけど。じゃあ思い切って、泰山を挟んで青州と逆方向だけど行ってみましょうか」

「うん」

 

 それじゃあ、準備をしていきましょうということになり、一刀は無駄になりそうであった荷物を再び背負う。そして、歩いて少し山道に入った人目の付きにくい場所までくると、雲華は「じゃあ、また空を行くわよ。距離が少しあるから結構速度を上げるからね」と言って、一刀を再び抱えると空へと駆け上がった。

 即、「え?」という返事をした一刀の言葉が出にくくなるほどの加速状態に入る。

 雲華がわざわざ速度を上げると知らせてくれたのは、息が思うようにできないほどスピードが出るためであった。後ろを向いていないと呼吸が本当に苦しい……いや出来ない。これは……時速にすると二百キロ……それ以上出てるんじゃないだろうか。荷を背負っているので背中は幾分マシだが、極度の風圧で急速に体が冷える感じがした。だがそれを、雲華がさらに一刀へ気功によっての体細胞微振動による体熱維持を掛けてくれているみたいで、この程度は十分我慢できた。それは『悪魔』さまのこれまでの修行に比べれば大したことではなかったりした。ある意味、苦行の修行が無駄ではなかったのだ。

 一時(二時間)は過ぎていない辺りで、雲華が駆けるのをやめる。段々と緩やかに減速してゆく。

 

「もうすぐ目的地に着くわよ」

 

 ようやくか……一刀は飛行に入ってからずっとその間、後方へ遠くゆっくりと流れてゆく雄大な風景を見ていた。最初の飛行よりもさらに高い……雲華曰く、上空四里(千七百メートル弱)をほぼ移動してきた。本当にここは……この大陸は広い。水墨画の世界のような幻想的な大河と山々。そして、この高度でも見渡す限りの広大な平原や、そこに点在する街、城郭。当然、近代的なコンクリートの高層ビルなんてどこにもなかった。自然の中に点在して人が生きて住んでいた時代であった。

 

 雲華と一刀は、今度は街に近い場所の小さな森にひらりと降り立った。一刀は、そこで雲華へ真っ先に知りたいことを質問する。

 

「雲華、ここはどの辺りなの? 泰山からは大分離れた内陸だよね?」

「ここは、予州潁川(エイセン)郡の長社(チョウシャ)県の街よ」

 

 一刀は、予州……と聞いて少し考える。最近は、雲華から各州についても少し教えてもらっているが、思い出すのは泰山郡のある兗州の南隣の州というぐらいである。他には特に思い出すことはなかった。まあ、今回は雲華の服を扱ってくれている店がここにあるというだけだろう。

 二人は二刻程(三十分)も歩かずに門のところまで来た。ここも高い塀に囲まれた城郭の街のようだ。門も大きい。そこには数名の腰に剣を差したり、槍も持って睨みを利かしている守備兵がいた。そして、街に入っていく者、出ていくものを列に並ばせて検査している。左側通行のようだ。

 

 その列に一刀も近づこうとする。すると、後ろから雲華が悠然と一刀の右腕に左腕を絡めて来る。一刀は慌てて雲華の方を向くと、いつの間にか風防と口当ては外していて、顔を見せている。そして、一刀の耳元に口を寄せて小声で話す。

 

「警戒が厳しいわ……ここは、若夫婦ということでいくわよ」

「ええっ?」

「兗州から来た、服飾の商人夫婦ということで通りなさい。はい、これ通行証よ」

 

 そういって雲華は、一刀へ一本の竹簡と、変わった形の金属片をいくつか渡す。竹簡には、何やら走り書きに印が押してある。金属片はお金で通行の賄賂だという。一刀は一瞬悩む。いきなり演技を……それも、若夫婦という事でしなければならないが、ここは腹を括るしかない。

 

「わかったよ。やってみる」

 

 そして、順調に検査の列は進み、守備兵の前に一刀と雲華が並ぶ。守備兵らは、みな一刀より低い背丈だった。腰には当然実剣が下げられている。一刀へは少し見上げるように身なりを確認してくる。

 一刀は、前に並んですでに中へ通過していった人達の真似をし、胸の前で袖に手を隠す形で合わせ僅かに進み出る。雲華もそれに続く。周辺の兵士からは、雲華の可愛さ美しさにひゅーと口笛めいた音やざわめきが聞こえる。守備兵の長らしき人物が一刀に問いかける。

 

「ここへは何しに来たんだ?」

 

 両手を僅かに持ち上げながら頭を少し下げ、礼をする形で一刀は答える。

 

「兗州から来た服飾の商人夫婦でございます。品物を届けに参りました」

 

 そういって、竹簡と金属片を兵長らしき人物に握らせる。ドキドキものである。

 後ろにいた守備兵が「この包が荷だな?」と軽く包を持ち上げながらその重さと柔らかさを確かめるように軽く全体を揉む。そして、後ろからも二人の姿を見回しながら、「大丈夫そうですな」と前にいる兵に言うのが聞こえた。前に立つ質問してきた兵長らしき人物も竹簡を一刀に戻しながら、その後ろの兵に頷き声を上げる。

 

「よし、行っていいぞ」

「ありがとうございます」

 

 そういって、一刀は門の中へと進む。雲華も終始無言で横に並ぶように付いていく。そしてようやく、二人は門の中の街の正面通りまで進んできた。一刀はここで小声で雲華に気になったことを呟いた。

 

「雲華の持っていたその剣……大丈夫だったね」

「まあ、列に並ぶ前あたりから幻術で見えないようにしていたからね。さすがに見えてたら不自然でしょう? 商人で門を通るのに、いかにも使い手!のような剣を背中に差していたら」

「え、そうなの? 全然気づかなかった……」

 

 そう言いながら、さっき預かった竹簡を雲華に返す。それを受け取りながら雲華は一刀を褒めてくれた。

 

「うまいじゃない。全く外からは自然に見えて緊張状態には気が付かないぐらいだったわよ。君は本番に強いのかしらね」

「結構必死でやったけどね。上手く出来てよかったよ」

 

 一刀は、それはそうとと言う感じで「よくそんなの持っているね?」と竹簡の通行証の事を聞くと、雲華は「他にもいくつか持ってるわよ。黄巾党に殺されたであろう商人たちが落としていったものをね」と答えた。それを聞いて一刀の気持ちは、生きるためにはそういう事もやはり必要なんだろうかと複雑であった……。

 

 さて今の時間は、未時正刻から二刻程過ぎた(午後二時半)ぐらいだ。帰りの時間を考えると長居は出来ない。今度は雲華が前に出る形で、街の通りを進む。一刀はようやくこの時代の街並みを見ることができた。この街は少し大きめの街らしい。建物はいかにも中華風で、朱の色が多く使われている感じだ。五層程度の塔もいくつか見える。まだ、日も高く、人の流れも多かった。

 しかし、一刀はいくつか気になる点があった。それはまず、人々の衣装だ。確かに中華風なのだが……ちょっと「おかしい」。基本は中華なんだけど、妙な感じにいろんな国の民族衣装が混ざっていて近代に近いデザインが入っている気がするのだ。ほかにも店頭に並んでいる本や、小物、道具などにも中華だけではない雰囲気を感じていた。

 そして、大きな違和感の一つに、武人ぽい人に女性の比率が多いことだ。鎧を着ている守備兵にも女性がちらほら見かけられる。現代の中国にある兵馬俑などを見るとそんなことは絶対に無いはずだ……。曹操や孫策、孫権は女性だという話を雲華から聞いたことを思い出した一刀は、そもそも雲華が強すぎるし、まさかここはそういう女性が強くても当然な世界なのかと考え始めていた。

 やがて、一件の店の前で雲華は止まると、「ここが私と取引しているお店の一つよ」と一刀に説明する。店の前には可愛らしい女性用の服が並び、どうやら女性服の専門のお店のようだ。一刀は「ここかぁ。ようやく着いたね」と背負っていた荷物を背中から下ろして両手に抱える。雲華はその様子を見終わると、早速中に入っていくので、一刀も中へ付いて行く……が、入ってすぐのところから、一刀の目が点になった。

 『ワァ~~オ!』と、どこからか女性の裏返った声の効果音が聞こえてきそうな、可愛らしい女性用下着が見やすく整然と大量にハンガーチックなものに、吊られたり掛けられたりして並んでいたのだ。

 男性にしてみれば壮観である。しかし、マジマジの見るのはさすがに不味い。一刀は耐え切れずに雲華へ小さめに声を掛けた。

 

「雲華、俺……荷物を渡したら外で待ってるから」

 

 雲華も一刀の居心地の悪さに気付いたのか、しょうがないわねと了解するように答える。

 

「分かったわ。一着、一着を査定をしてもらうことになるから、二刻少し(三十分)ほど掛ると思うけど、このお店から余り離れないでね」

 

 すると、店の奥から一刀達の声を聞きつけたのか、二人の女性が現れた。一人は若く、もう一人は店主なのだろうか、相応の年の女性だった。年上の女性がすぐに話し出す。

 

「あら雲華殿、久しぶりですね。今日は?」

「どうも。新しい服を作りましたのでこちらで売って頂けないかと」

「あらあら、良かったわ。雲華殿の服はとても人気があるから、次はいつ入るのかと、多くの方から聞かれてましたから。特に……とある立派なお客さまから、事あるごとに良く聞かれましたので困っていたところなのです。ぜひお持ちの新作をお見せいただきたいですわ」

 

 雲華はその話を聞いて「わかりました」と頷くと、後ろにいる一刀から大きな包みを受け取り、店にある大きめの机の上に置くと包を開き始めた。若いお店の女性もそれを手伝う。色々な可愛らしい服に交じって、落ち着いた良いデザインの女性用下着も幾種類も出てきた。それを見て一刀は、赤くなりながら慌てて体の向きを変えると雲華に声を掛ける。

 

「じゃあ、雲華。俺は外に出ているから」

 

 雲華は、振り向いて頷くと、また商品の方を向いて仕事に戻った。

 一刀は静かに、しかし急ぎ気味に店内から店の外へ向かう。

 

 年上の女性が「あの方は、よろしいので? 中で休まれては」と言うが「お気になさらずに」と雲華は返していた。今回は、このお店がお客なのだ。雲華は一刀を一人に……と多少気になるが、世話になるのはあまりよろしくないと考えた。気は追っているので、一刀に何かあればすぐに対応は出来るしと。

 

 少し慌て気味に、一刀は外へ出た。ふう、と一息落ち着いて前を見ると……店の前で小さな女の子が泣いていた。

 

 

 

 

 

 この店の前の通りは、この街では広めの幅があった。八メートルぐらいはあるだろうか。東西に延びるこの道のどうやら西の方から来たのか、一人の幼い女の子が目元を両手で押さえながら「ううぅううぅ」と呻くように鳴き声を出しながら、フラフラと人ごみの中を進んで来た。身長は百十センチも無いだろう。髪は黒に近いグレー系で、前髪は左目の上辺りで左右別けされ、耳前はふわふわくるくるで長めであった。後ろは長めのツインテール。結び目部分は髪でお団子にされ、結びに赤のリボンを巻かれている。服は胸に細めの白いリボンの付いた、褪せた緑系のスカートの服を着ていた。靴も茶色系のしっかりした布で作られたものを履いていた。服に繕いやほつれなどは確認できないし、靴も痛みは酷くないところから家は普通よりも裕福な部類に入るのではないかと予想できた。

 そんな子が、泣きながらずっと歩いて来たのだろうか? しかし、周りの人は一瞬目線を向けるがほぼ無関心のようだ。戦乱気味の時代とはいえ、困った子供の事などに手を差し伸べる余裕などないというのだろうか……?

 だが、一刀はその女の子に声を掛けずにはいられなかった。

 

「どうしたの?」

 

 不意に少し離れた横から声を掛けられた小さな女の子は、一瞬ビクリと驚いた顔で、両手を胸まで下げて、声を掛けられた見知らぬ少年の方に顔を向ける。目尻が少し下がり気味だが、目のぱっちりとした綺麗な顔の子だった。しかし、すぐに「ううううぅ」と顔を崩して泣き出してしまった。一刀はそんな少女の傍へ行って、膝を落として目線を合わせて再度やさしく声を掛けた。

 

「僕は北郷っていうんだ、どうして泣いているの?」

 

 すると一刀の様子に少し安心したのか、小さな女の子は、たどたどしく理由を話し出す。

 

「ううぅ……はぐれちゃったの……みんないなくなっちゃったの……ううぅ……」

 

 小さな女の子は、絞り出すように一刀へ泣いている理由を口にした。どうやら、家族と逸れてしまったらしい。西から来たよな……と考えて、小さな女の子に一刀は西を指差しながら優しく質問する。

 

「ねぇ君は、こっちから来たよね? ずっと向こうから来たの?」

「……うん、そう」

「そうかぁ」

 

 どうやら予想通り、この通りを西から来たことは間違いないみたいだ。この子の足でずっとと言ってもそれほど遠くないだろう。この街の一辺はそれほど長くないはず。そう考えて一刀は小さな女の子に提案する。

 

「よし、じゃあ僕が一緒に探してあげよう。さっき言ったけど僕は北郷って言うんだ。君の名前を聞いていいかな?」

「ほんごう……お兄ちゃんが……いっしょに?」

「そうだよ。それで君の名前を教えてくれないかな?」

 

 すると、小さな女の子は泣き止むと、ぱぁぁと綺麗な可愛い笑顔を一刀に向けると、自分の名前を教えてくれた。

 

「私は、白(ぱい)というの。ほんごうお兄ちゃん」

「そうか、白ちゃんか。じゃあ、一緒に探しに行こうか?」

 

 一刀は、膝を落とした体制で、白ちゃんに手を差し伸べる。白ちゃんはその手を大事そうにぎゅっと左手で掴むのだった。一刀は、白ちゃんを見ながらゆっくりを立ち上がる。白ちゃんは笑顔で、そんな一刀を見上げていた。一刀は、ゆっくりと歩き出す。白ちゃんも歩き出す。ペースは白ちゃんに合わせてゆっくりである。ここで一刀は、白ちゃんに大切な事を聞く。

 

「白ちゃんは誰とはぐれたの?」

「お兄ちゃん……」

「そうか……お兄ちゃんだけ?」

「んー他にもいっしょにいたけど……」

 

 他にもいたけど、よく知らない人達なんだろうか? とりあえず、兄さんがいるようだ。

 一刀は道を歩きながら、この子に気付いてくる人がいればいいけど……と考えながら前方から向かってくる人達を確認しながら歩いていた。そして、数分ほど歩いただろうか。

 すると、後ろから男と思われる大きめの声を掛けられる。

 

「おい、お前!」

 

 一刀は唸るようなその低い声に、思わず振り返って、そして少しギョっとする。一緒に振り返った白ちゃんは、口元に空いていた方の右手を当てて震えて固まっていた……。

 その男の顔には大きめの刀傷があった。そして、その男は一刀より頭半分ほど大きな巨漢の男である。そして縦もあるが横もあった。この時代では希少な体躯の持ち主なはずだ。

 服装は乱暴な着こなしで、間違っても品がよい身なりではなかった。髪も長いぼさぼさの髪を後ろでに縛っている。そして、腰には当然のように実剣を下げていた。

 

「そいつは、俺の妹だ! 早くよこせよ」

 

 その男は、事情を近くで聴いていて知っているのか、乱暴に白ちゃんを自分の妹だと言ってきた。獣のような鋭い目で、一刀と白ちゃんを交互に見ている。特に白ちゃんへの目付きが獲物を狙うかのような目つきに変わったのが気になった。この時代に来る前の一刀だったら、こんな大柄のチンピラに凄まれたら完全にビビっていたと思うが、すでに『悪魔』さまを知っている今の一刀だと、「自分よりは結構強いかな?」ぐらいの感情しか湧いてこない。かなり冷静に様子を見る事が出来た。

 

「おい、早く渡せよ」

 

 その男は、強引に白ちゃんの手を取ろうと前に出ようとした。そこで一刀は、どう見ても白ちゃんの兄には見えないその男を手で遮り声を掛けた。

 

「ちょっと、あんた、待ってくれ」

 

 その乱暴な男は一刀の声で動きを止めるが、邪魔をされたことに苛立った顔付きで一刀を睨むと、今度は口元をニヤけさせてこう告げた。

 

「おいおい、命のあるうちにその妹を俺に渡しとけや、兄ちゃん。ぶっ殺すぜ。……そこの妹! 来ないなら、お前もぶっ殺すぞ!」

 

 そういうとその乱暴な男は、腰の刀に手を掛ける。この男の所作を少し追って見た物腰から結構剣を使うことが予想できた。

 剣の腕に人間性は関係ない。強い奴は強いのだ。

 一刀の横にいる白ちゃんは、完全に震え上がって口がカチカチと音を立てていた。だがここで、このままだと二人とも切られると思ったのか、白ちゃんは一刀の手を放そうとしたのだ。自分を犠牲にすればと……。

 一刀も一瞬考えた。おそらくこの乱暴な男の方が強い。この子を渡さなければ切られるだろう。白ちゃんの顔を見る。彼女の顔は恐怖に歪んでいた……でも、彼女はみんなが生きる選択をしようと考えたのだ。

 一刀は思った『俺はこれでいいのか? 本当にこんな世界でいいのか?』……と。

 そして一刀の口から次の言葉が自然と出てきた。

 

「やれるもんならやってみろよ……。この子はあんたには渡さない」

 

 その乱暴な男は、意表を突かれたのか一瞬、「ん?」という顔をしたが直ぐに笑い出す。そして自信満々に自分の武力をひけらかすように言い放った。

 

「はははは、兄ちゃん……俺の剣の腕を知らないんだろう? 俺は百人隊長もやったことがある男なんだぜ? 悪いことは言わねえ。さっさとそのガキを渡せ!」

 

 もう次に一刀から「わかりました」と聞くだけだと思ったのか、その乱暴な男は胸元で腕を組んで仁王立ちし一刀の言葉を待っていた。しかし……一刀の言葉はこうである。

 

「そんなのは関係ない。百人隊長の腕も関係ない。子供が怯える……こんな世界は絶対間違っているんだ!」

 

 一刀の言葉に、ガキが綺麗ごとを並べてんじゃねえよ!とその乱暴な男は切れるように言葉を吐く。

 

「……てめえ、何言ってんだ? 弱い者は死んでゆく。ただそれだけ――なんだよ!」

 

 そして、そう言い終わる前にその乱暴な男は、抜刀し一刀に切り込んで来ていた。一刀もほぼ同時に白ちゃんの手を離し剣を抜いて前に出る! そうしないと……白ちゃんも危ない。

 木人よりも一回り強い相手。おまけに初めての実剣。しかし、体はいつも通りに動いていた。いや、いつも以上か。絶対に負けられないという気が全身に満ちている。相手よりも、早く強く打ち込むことを心掛ける。例え現実としては届かなくても……。

 数度打ち合うと、一刀はその乱暴な男に吹っ飛ばされていた。やはり強い。百人隊長は伊達じゃなかった……。

 幸い、一刀は、刀傷は受けていなかった。しかし、戦い慣れしたその乱暴な男は荒っぽい戦場のケンカ剣術だった。互いに打ち合う剣撃のなか、強烈な前蹴りを一刀は腹へ受けてしまった。

 なんとか腹筋で受けたが、うずくまって立ち上がれない。その一刀へその乱暴な男はゆっくりと迫る。

 先ほどから、道の往来で始まった切り合いに遠目の人の輪が出来ていた。しかし、まだ警備兵が来るには時間が掛りそうに思えた。剣を握った男は、もう一刀の前まで来ているのだ。一刀の命は風前の灯であった。白ちゃんはさっきの手を離した場所から震えながら見ているだけだ。それを横目で見たその乱暴な男は一刀に向かって話す。

 

「バカなガキだ。早めにあの娘を渡せば死なずに済んだのによ。……じゃあな♪」

 

 何とか体を起こしていた一刀の頭上に、すさまじい威力と速度でその乱暴な男が振り下ろした剣刃が迫った。これは死んだな……と一刀は思った。しかし次の瞬間……一刀にはそれがなぜかゆっくりと見えていた。ゆっくりなのでちょっと、体を動かしてそろそろと歩いて別の場所に移動した。

 一刀が座っていた位置を、今は誰も居らず、何もない場所を、その乱暴な男の剣が通過する。ブンという風切り音だけが辺りに響いたあとに、周りから驚きの声があがる。そして、二つの大声がはっきりと周りに聞こえた。

 

「……なにぃ!?」

「ちょわわ。動き早! なかなかやるねぇ!」

 

 一つはその乱暴な男の、一刀を仕留めそこなった事とそこに誰もいない事、そして……自分の右腕に七寸(十六センチ)ほどの小刀が刺さっていた事への驚愕の声。

 そしてもう一つは……いつの間にか一刀の近くまで来て、立って見ている女の子の感嘆の声だった。

 一刀は、先ほど座り込んでいた所から、数歩移動した所で剣を持って立っていた。しかし、ダメージは残っている。その一刀も、痛みをしばし忘れ驚いていた……傍にいるこの子はだれ?と。

 その女の子はとにかく帽子が目を引いた。オレンジのカンカン帽の右横部分一帯にどういう原理なのか可愛いお花が咲き乱れている奇特な物であったのだ。髪は見える範囲だとミドルのボブ風、前髪は目元まで伸ばして軽く先がカールしている感じ。目は目尻の位置は普通だが、黒目の部分がやや大きく見える。少し猫っぽい愛嬌のある目をしている。

 服装もなかなか派手なものを着ていた。上は白に近い水色で洋服に近い感じの紐ではなくボタンのように思えるデザインと襟もとがおしゃれなリボンとアクセサリー類が付いていた。上着は袖が長く口も広くオレンジ系の中華風のものだった。

 下は動きやすい七部丈のズボン風な黒地の中華服である。刺繍が華やかな花の模様だ。靴は平底で踵も低い動きやすいものを履いている。

 そして、両手には三尺(六十二センチ)程度の短めの剣を持っていた。

 一刀はその女の子に話掛ける。

 

「えっと……あの……あなたは?」

「あなたの考えは悪くないなってね。助太刀に来てあげたよ」

「そ、それはありがたいんだけど……」

 

 そこで「くそ!」とその乱暴な男は腕に刺さった小刀を抜いて投げ捨てる。そして、小刀を投げてきたであろう、乱入してきたこの女の子に怒り心頭な声で怒鳴りつけた。

 

「このクソ女が! よくもやってくれたな。お前もぶっ殺してやる」

 

 すると、彼女は「やれるもんならやってみれば?」と、先ほどの一刀と同じセリフを怒気を乗せて発した。もはや、怒りの限界を超えて、その乱暴な男は問答無用で、この女の子に切りかかっていく! 一刀も割って入ろうかと動こうとしたが……彼女の動きが尋常ではなかった。

 その乱暴な男の剣を片手であっさり軽く弾くと、両手に握った剣を高速で数撃、男に浴びせると、背を向けて静かに白ちゃんのところまで歩いて行く。

 

 その乱暴な男は、膝を付いてしゃがみ込んだ。と同時に髪の毛が左半分バッサリと落ち、上半身の鎧と着いた服がドサリと何分割かで地面に落ちて、上半身の裸を晒していた。

 白ちゃんのところまでいった彼女はゆっくりと振り向いて目を細めると、その乱暴な男へ送る言葉の最後には殺気を込めて言い放つ。

 

「この辺りのお店で、『女の子の服』でも買って着るなりして……もう、帰ったほうがいいと思うが?」

 

 圧倒的な、武技の差を思い知らされたその乱暴な男はどうしようもないことを悟ったように「く、くそ!」という、まともに言い返せない悔しさ全開の言葉をもらして遁走していった。周りを囲むように弧を描いていた人垣も争いの終息により散ってゆく。

 

 白ちゃんは、もう震えてはいなかった。この傍にいる女の子にぎゅっと掴まると、白ちゃんから一刀が予期していなかった言葉が出てきた。

 

「遅いよ、単福お姉ちゃん。このお兄ちゃんが……一緒に居てくれて……助けてくれたの。やさしいの」

「うん、わかってるよ。白ちゃん」

 

 『単福お姉ちゃん』と呼ばれたその少女は、そう言って優しく白ちゃんの頭を撫でる。その親しい様子を見て、一刀は一応確認する。

 

「あれ? 君は、この子のお姉さんなのか?」

「改めまして、私は単福といいます。ああ、この子は親友の妹なんだよね。引っ越すことになったんだが、この辺りは人が多くて逸れてしまって……さっきから、知り合いと手分けして探していたんだ。本当にありがとう」

 

「たんぷくさんですか。俺は北郷といいます。いや、こっちも助かったよ。君が来てくれなければ危ないところだった」

「単福と呼び捨ててくれていいから。親友の妹を助けてくれた恩人さんだからね。危なかったか……まあ、そういうことにしておいたほうがいいのかね?」

 

 一刀は単福という少女の目線が、なぜか一刀の後方を見ていたので、その先を追ってゆっくりと振り返って見ると……少し離れた道の脇に仁王立ちする『悪魔』さまと目が合ってしまった……。

 

 単福は、白ちゃんの手を引くと、一刀に向かい別れの言葉を伝える。

 

「名残惜しいんだけど、先を急ぐのでこの辺りで失礼させてもらうよ。本当にありがとう!」

「いいや、こっちも助かったし、困ったときはお互い様だよ」

「ほんごうお兄ちゃん、ありがとう」

 

 白ちゃんの笑顔で、すべてが幸せに済んで良かったと思う一刀だった。

 

「そうだな俺も行かないと。じゃあ単福も白ちゃんも、引っ越しの道中気をつけて、元気で!」

 

 人で込み合う通りの中、単福に手を引かれる形で白ちゃん達は歩き出す。三人はお互いに笑顔で手を振りながら、短い出会いを惜しみつつ別れた。間もなく、単福と白ちゃんは人ごみに掻き消えて見えなくなる。

 ふと気が付くと、一刀の横には雲華が立っていて、不満一杯の口をへの字に曲げた顔で一刀を横目で睨むように見つめていた。

 

「や、やあ、雲華。……ごめんなさい」

「……全く、君は……いきなり、問題に自分から飛びこんで行くとは……。どうやら私の修行が全然足らないみたいね。明日からも、どんどん行くからそのつもりでいてよね」

 

 どうやら、雲華はイライラしているみたいだ。何かに火をつけてしまったようである。

 

 雲華の服の方は、結構な金額で引き取ってもらえたらしい。とりあえず、当面資金には困らないそうで良かった、良かった。

 しかし……一刀は帰りの飛翔術で死にかけた……これは良くなかった……。

 時間が遅くなったという理由から、雲華は行きよりもさらに加速し、より高高度で帰ったのだ。わずか半時(一時間)で、泰山まで戻っていた。一刀は軽い全身凍傷と酸欠状態であった。まあ、雲華の気功で即復活させられたが。簡単には『悪魔』さまは死なせてはくれないのである。

 

 再び結界内に入るとき、一刀は疑問に思っていたことを雲華に聞いた。

 

「家から、いきなり飛翔術で飛んだ方が早くないの?」

 

 すると、雲華はきちんと答えてくれた。

 

「結界内は鳥以外の不法飛行侵入者には罠が発動するから、私でもいつもここまでは歩いてるわよ。そうね……君だけ、家まで飛ばしてあげようかしら? きっと楽しいわよ」

 

 冗談じゃない。どうも、雲華はまだイライラしているように見えた。

 結界の入口を通って歩いて雲華家に付いたのは日が間もなく沈むころであった。

 

 

 

 

 

 

 そして……ここにも、夕暮れが迫る中の街道を進む一行があった。

 単福はすでに親友と合流し、引っ越しの旅の途上にあった。単福とその親友はそれぞれ馬に乗り、彼ら各々の使用人たちがその後ろに数台の馬車で荷物を引いて続いている。

 

「世の中には、なかなか面白い漢がいるね。世の中まだ捨てたもんじゃないよ」

 

 単福に並ぶ馬上にて、白ちゃんを手の間に乗せたまだ若い青年は、幼馴染の単福の話を聞いて話半分の返事をする。

 

「ふうん……そうなのか?」

 

 それへ反発するように、上を向いて兄に訴える白ちゃんの声が聞こえた。

 

「ほんごうお兄ちゃん、弱虫じゃないよ!」

 

 彼らの旅は続く、一刀の修行もまだ続く。

 

 

 

つづく

 




2014年04月04日 投稿
2014年04月08日 見直し文章修正
2014年04月24日 見直し文章修正
2015年03月05日 文章修正(時間表現含む)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第○➅話

 

 

 

 無事に街で服を売ることが出来、泰山の雲華宅へ帰宅してきた雲華と一刀は、まさに日没の空が赤焼けの中、梯子をゆっくり上がって……上る途中でふと、一刀は倉庫の方に目をやると……木人が、ゆっくりと扉を閉めるところだった。

 思わず「ご、ごくろうさん」と声を掛けた。すると……木人は軽く右手を挙げてくれると、扉を内から閉めていた。

 

(……あいつ、言葉が通じるのかな……)

 

 一刀は首を傾げながら、何とも言えない不気味な気分になっていた。

 

 一刀が食堂に入ると、雲華はすでに剣やマント状の大布を壁に掛けて、窓の横の台で手を洗っているところだった。入ってきた一刀の表情を伺うと、雲華は彼へ少し気を使っているのか聞いてきた。

 

「どう、やっぱり疲れたかな? すぐご飯にするわね」

 

 そうこちらに少し微笑んだ顔を向けたまま、手を台の横の手ぬぐいで拭きながら言うと、彼女はそのまま調理室に向かって入っていった。

 

「いや、大丈夫だよ。雲華が最後に気で回復してくれたから」

「そう、ならいいけど」

 

 続いて一刀も手を洗いながら、雲華とやり取りをする。雲華に帰り道の道中は酷い目にあったが、ちゃんとそのあとのフォローやケアはしてくれるのだ。それがあるので憎めない『悪魔』さまなのである。どうやら、あのイライラは収まってくれたようであった。

 

 まもなく、雲華が用意してくれた夕食を食べながら、一刀は今日の気になったことを雲華に聞いてみた。

 

「雲華は以前、仙人は人と関わってはいけない……と言っていたけれど、今日はお店の人と普通に会話して、商売をしていたよね。これは大丈夫なの?」

「そうね……基本、『仙人は人と関わってはいけない』のは変わらないわ。だから今日もお店の人以外とは会話をしていない。でも、どうしてもというときはある。そのときに許される条件としては、二つ。どちらかを満たせばいい。一つは、仙人である事を相手に気付かれない事。もう一つは、相手も仙人の親族だというとき。これは仙人の配偶者の場合も含むわ」

「えっ? 仙人の親族って仙人だけじゃなくて、人にもいるってこと?」

 

 雲華の回答の中に予想外のものがあり、一刀は思わず聞き返した。それに対して、当然という風に雲華は頷きながら返す。

 

「元々、仙人の親は人がほとんどなのよ。まあ、仙人が人と結婚して仙人の子供を産むこともあるけどね。自らの直系は一親等、そして二等身までの親兄弟は親族として大丈夫よ。ただし、これ以外に仙人の事を知らせるような親族、仙人は……間違いなく確実にキッチリ消されるわよ」

 

 言葉と共に雲華の指が、自分の首を落とすように、またもシュッと手首を中心に弧を描く。『悪魔』さまに……いや、仙人に容赦はないらしい。まあとりあえず、仙人の掟は大丈夫そうなのでよかったのかな。

 

「仙人の掟を一度破ると、一度制裁……まあほとんど暗殺専門の仙人による抹殺だけど……これも一応許される例外はあるわ」

 

 なにげなくこちらへ斜めに向いている雲華の顔に、殺気の籠もった笑顔が浮かぶ。一刀は内容を予想するが、恐る恐る聞いてみる。

 

「……ナニかな?」

「もちろん、己の仙人の力を見せつけて『返り討ち』にするのよ♪」

(やっぱり~?)

 

 予想通りの返答に一刀は呆れていた。

 雲華は、ふふふと余裕のある顔をしている……『悪魔』さま、あんた、絶対何度かヤってますよね?

 

「要は、暗殺専門の仙人を追い返せばいいのよ。暗殺専門の仙人も、自分の命は惜しいのが多いから引き分けを認めさせてもいいわ」

 

 雲華は、容易く言うが、間違いなくそいつらは武闘派の凄腕仙人だ……普通の人や並みの仙人では万に一つも無理だろう。まあ、雲華の強さならそうなんだろうと一刀も納得して……話を元に戻す。

 

「で、あのお店の人達は?」

「ああ、若い方の女の人が仙人の奥さんで、もう一人が、仙人の実の母親らしいわ。それに、私が仙人ということは知らないはずだしね。若い方の女の人の旦那は、まだ若い見習い程度の仙人だけどね」

「そうか。まあ、服も無事に売れたようだし、良かったね」

 

 雲華は、そうねと微笑んで話を終わり、二人は食事を続けた。

 二人は夕食を終え、一刀は皿等の後片付けが済んで、雲華が調理室から戻って来るまで待つことにする。

 夕食後は、読み書きの勉強ということで、一刀は机の上を拭いて、勉強用の竹簡の冊や木簡等の筆記用具を準備して食卓で待っていた。そして竹簡の冊の一つを広げながら、そこに書かれた読めそうで簡単な文章を復習がてら少しだけ読んでいた。

 戻ってきた雲華は、長椅子に座ると早速、読み書きの勉強を始める。今日は、いつもと違ってまず質問形式だった。雲華が、これまでの覚えた箇所について口頭で問題を一刀に伝え、一刀は声で回答したり、木簡に文字を書いたりして返答した。二刻(三十分)ほどで終了すると、雲華は「とりあえず、少しは身に付いてきたようね」と言ってくれた。それから、半時(一時間)ほど新しい難しめの文章の勉強を進めていった。

 それが終わると「今日は早めに寝ましょうか」ということで、ほどなく就寝した。

 

 

 

 

 十二日目の朝、結構どんよりと曇っていた。ここに来てから雨は、九日目丸一日と十日目の朝に降っただけだ。

 起きていつものように寝床を片付け最寄の窓を開けると、しばし外のそんな空模様を見ていた一刀は「今日は天気、持つかな?」と呟いていた。

 曇りの日はお日様が見えないので、時間が掴みにくい。日の出辺りは明るくなるので分かるのだが、昼間は完全に曇っているとサッパリ分からない。しかし、雲華には雲など関係なく、太陽からの気で位置はハッキリと分かるらしい。

 

 「おはよう、北郷」

 「おはよう、雲華」

 

 後ろからの雲華の挨拶する声に窓際から振り向くと、一刀も笑顔で雲華の顔を見ながら挨拶をする。一刀は、そこで「ん?」となった。雲華がいつもより穏やかな顔をしている気がした。

 一刀の方を見ながら上から梯子を降りて来た雲華は、一刀と反対側の窓を開けると、一刀のいる窓横の台へ来て顔を洗う。この時代にも化粧道具はもちろんあるが、雲華は普段、ほとんど化粧をしていない。しかしそれでも、改めて横側より見える目鼻立ちの良さから、美しさや可愛らしさが損なわれることは全くなかった。

 思わず見入ってしまった一刀に「どうしたの?」と首を傾げて雲華が聞いてきたので、一刀は少し焦ったが「今日も元気そうでよかった」と、思い付いた当たり前のことを言って誤魔化していた。

 

 二人は食堂で朝食を取る。お皿に乗った食事を運んでくるときに雲華に聞かされたのだが、今日はこれから新しい修行の段階に入るらしい。一刀は一昨日までに、全身の各部について絶からの気の回復は出来るようになっていた。今日から何をするんだろうと食事の間に考えていたが、ふと昨日の事で一つ気になることを思い出す。

 

「雲華、実は昨日、戦いの最中に相手がすごくゆっくりと見える時があったんだ。それで、相手の剛撃が簡単に避けれたんだけど……。それがなかったら、俺は昨日死んでたかもしれない」

「見てたわよ。と言うか、あんな重要な事なのにやっと思い出してくれたのね? それに、あれは私が君に『速気』の手助けをしてあげてたんだけど?」

「………」

 

 一刀は、『見ていた』という言葉から、そうだったのか、という衝撃を受けていた。そう、雲華はあの状況で一刀を『助ける』という行動ではなく『死にかけのチャンスに何が起こるのか』を選択していたのだ。さすがは『悪魔』さまである。まあ、応えてしまった自分も自分なのだが。雲華は一刀に説明してくれる。

 

「あれが、『速気』よ。ハッキリと体験出来たでしょ? あんな風に相手がかなりゆっくりに見えて、相手に一撃するも逃げるも避けるもやりたい放題の状況になるのよ。速気を長時間持続できるようになれば、四方から一度に何十人に襲われても消えるように躱せるし、同時に相手もすべて倒せるわ」

「………」

 

 改めて聞いても圧倒的過ぎる話だ。雲華の話はまだ続く。

 

「『速気』と同じように『剛気』もあるわ。普段、もともと体の筋肉は全力でも三割も使われていない。その筋肉を剛気で強化した上で十割以上まで持っていく。そうね……君でも四十石ほど(約一トン)は普通に持ち上げられるようになると思うわよ……片手で」

 

 それで片手かよ……一石辺り確か、二十五、六キロほどなので合計が四桁キロとかおかしい重さに……トンと言う単位が思いつくも、何故か豚が頭に浮かぶほど唖然として固まっていた一刀だった。

 

「例え、敵に捕らわれて鎖で繋がれても、手足を縛られ牛に引っ張られて八つ裂きになりそうになっても、『剛気』が使えればその状態から十分逃げられると思うわよ。あと、『剛気』は硬気功にも繋がっている。強く丈夫にという気は、筋肉と皮膚組織を鋼以上の強度に強化するわ……ま、でもそれは第二条の話ね。北郷、君はまだ第一条を習得し終えていないから。ということで、今日から第一条の完全習得を目指すわよ」

「……はい」

 

 『悪魔』さまの話は漸く終わった。そして、一刀の返事は小さかった。本当にそんなところまでいけるのか? この段階まででもかなり苦労して進んで来たこともあり、一刀の頭へこの先に浮かぶイメージは、修行と言う名の『悪魔』さまによる地獄ショーしか想像出来なかったのだ。

 雲華は「さて、まず食事を終わらせましょう」と、考え込んで箸を握ったまま目線を食卓に落とし食の進みが止まっていた一刀を動かした。二人が食事を終え、机等を端に片付けると食堂の真ん中に長椅子を一脚置いた。

 そして、始めるわよと、一刀をそこに仰向けにさせる。すると、雲華は一刀に言った。

 

「北郷、絶の状態を覚えている?……そうね、確か君は目の絶が出来たわよね?」

 

 ニヤリと少し怖い笑顔を、雲華は一刀に向けている。もはやバレている事実なので、一刀は素直に答える。

 

「ああ、出来るけど?」

「じゃあ、その絶を右腕に対しても出来るかな?……やってみて」

「……わかったよ」

 

 いつものように逆らうのは無意味。一刀はやるだけである。そう、『悪魔』さまに言われればやるしかないのだ。

 まず、右腕の気が通っている箇所を感じる……今はもう慣れてきていて、それを感覚的につかめている。これまではいつも、絶の状態からそれに気を通していた。それを肩のところから右手全体へ、今は止める意志を込める……強く込める。

 すると、右手から気の流れが少なくなり、流れが止まる。一刀の意識から右手の感覚は失われていた。それを静かに見ていた雲華は一刀に確認する。

 

「ふうん、北郷、これ、初めて試してみたの?」

「うん、これが初めてだよ」

「……分かったわ、じゃあ、右手の気の流れを戻してみて」

 

 一刀は右手の気の絶の状態を、通常の流れがある状態へ戻す。まあ、戻すのはもうほぼ一瞬だ。雲華はその様子を、目を閉じて笑い気味な表情で気の流れを伺っているように見えた。

 そのあと、雲華は一刀に再び右手に同様の事を二十回ほど繰り返させる。それが終わると、同様の事を順次、左手、右足、左足、胴体へと行ってゆく。

 ここまでで午前中が終わり、昼食を挟んで、そのあとさらに内臓、肺、心臓、頭部へと移してゆく。申時正刻(午後四時)ごろで、すべてが一通り終わった……。肺、心臓、頭部の脳はかなりキツかったが、すでに感覚は掴めているので、なんとか最初の数回に少し苦戦するだけで他はうまくできたと思えるものだった。

 雲華から、起き上がっていいわよと声を掛けられ、一刀は椅子から起きて立ち上がる。

 一刀は無事に終わったのかと、ふうと息を吐きほっとしていると、急に背中側の脇の下から雲華の手が胸の前へ回って来て、背中越しに――

 

 

 

 ぎゅうっとハグ……抱きしめられていた!!!

 

 

 

 雲華の……む、胸が背中に強烈に当たってるんですけど?! あの可憐で立派な柔らかい感触が、二つもこれでもかと押し付けられてるんですけど!?

 しかし、そんなヨコシマなその思いも吹っ飛ぶ感じで、一刀は女の子に抱き付かれてるという、人生の中で全く経験のない余りの事態に何事か?!と慌てて、首を左肩越しに後ろを見ると、雲華はその顔を…右の頬を一刀の左肩下部に当てて、振り返った一刀の顔に寄せて見上げながら自分の事のように最高の笑顔で喜んで告げる。

 

「北郷、すごいじゃない! 自分自身で絶にするのは回復させるよりも相当難しい技術なのに、最初の日より全然早いなんて! 素晴らしいわ! 私が仙人になってから一番驚いた事かも」

「そ、そう?」

(……そうなのか? まあ、俺の人生でも今日が一番の驚きかもしれない!……女の子とハグハグ♪)

 

 雲華は喜びの表現に気が済んだのか、あっさりと一刀から離れる。背中から雲華の柔らかな感触……もとい、温もりが離れていったのが少し寂しい一刀だった。

 だが彼は動けず、まだ動かず……一刀は目を閉じ噛み締めながらその場で一人、背中の『二度とないかも』的な余韻を『まだ』楽しんでいた……。

 

 それから雲華は、水汲みと食糧調達に行くと伝えてきた。朝からずっと酷い……そして、今度は一時的に最高の感動的な桃源郷を垣間見るなど、精神の安定にはほど遠くやや疲弊気味な様子なので、一刀はのんびり温泉でも浸かろうかなと支度に取り掛かった。

 

 すでに、これで六回目の食糧探しになり、一刀も慣れてきたことで自生して食せる植物について、判断し易いものは採取出来るようになってきていた。もちろん、雲華もいつものようにガンガン籠に突っ込んでくれる。なので、一刀の背負った籠の埋まりも回数を追うごとに早くなって来ていた。いつもの温泉の場所までは、こなれた手際と道筋に慣れてきたこともあって二刻強(三十分)と徐々に縮まっている。そして最後はのんびりと景色だけを楽しみながら歩いて到着するようになっていた。

 

 雲華はいつものように、まず奥の岩場の湯溜まりへ軽快に進み、サクッと水瓶にお湯を豪快に確保し蓋を閉めていた。もうすでに、前回とその前から水汲みに来たら、温泉は決定事項になっているので「入る?」という確認は無くなっている。

 そして、前回、前々回も雲華は紺の湯あみ着を着て入浴し、一刀の横に並んで入ってくれるのだが、上がるときは一刀から離れてもっとも遠いところから、そして背中を向けてお湯から上がる。雲華の正面からの胸元がお湯で張り付いた最高の湯あみ着の姿は拝めなかった。それは寂しいのである。一刀のリビドーは満たされないのである!

 だが――

 

 

 

 雲華の背中からの湯で張り付いた、美しいクビレのある湯あみ着の姿は……桃尻の形はシッカリと拝めているのだった!

 

 

 

 一刀はこれだけでも、多少のリビドーは満たされ……神に感謝するのであった。しかし、毎回そこで、雲華に後ろを振り返えられ厳しい目で睨まれるため、僅か数秒で目線を外さざるを得なかった……。少し寂しい。

 

 さて、話は戻って……今回も、雲華は一刀の所まで来て、肩に掛けた袋から手ぬぐいを出して渡してくれた。そして、雲華はいつものごとく岩陰で服を脱ぐべく離れていった。一刀は手際よく服を脱ぐと畳んで下着も服の間に挟むと、手ぬぐいで前を隠しながら、湯船の脇まで行くと、この場に置きっ放しにしてある太い竹の手桶でお湯を浴びると、先に湯船に入っていつもの浅瀬の位置でのんびりしていた。まもなく雲華も岩陰から出て湯船の脇で背中を向けて竹の手桶でお湯を浴びる。そして――

 

 歴史は動いた?!……何かがおかしい。

 

 そう、雲華はいつも湯船への入退出時は背中からなのだが……今日は、横を向いていらっしゃるではないか!! なんと言うことでしょう!

 さらにお湯を浴びて、お湯で張り付いた胸のふくらみが、二の腕で一部隠れているが…見えるではありませんか! そしてさらに、湯あみ着の紺の色が……薄い? 明らかに薄いんですけどと、一刀は自分の目の色彩に異常が発生したのかと、辺りの景色を見回して見比べてみたがやはり……薄い。

 そう、もうおわかりいただけただろうか?

 

 

 

 湯あみ着の下が透けて見えそうなのだぁぁーー☆☆☆!!!!!

 

 

 

 雲華のあの美しいスタイルの体が、張り付いた湯あみ着越しに……ヤバイのである。ある意味、素肌よりエロい事この上ないのだ。

 一刀の下半身は圧倒的に強大なリビドーの高まりを受けて、湯船の中ながら非常にデンジャラスでモッコリな状況に陥ってた。

 雲華は、首まで湯船に浸かってゆっくりとこちらへ近づいて来る。一刀がいるところは浅い。雲華と一緒に並んで、そこで温まるのがいつものパターンになりつつあった。浅いので、一刀のヨコシマな想いとモッコリな状況は即バレてしまうのだ。

 一刀はもはや、究極奥義的な苦渋の決断をせざるを得ない状況に追い込まれていた。

 状況的に、リビドーの赴くままに行動を起こした場合……「生(なま)」か「死」かである。現状、おそらく比率は、1:99……さらに1は限りなく0に近そうであった。

 しかし一刀は、すでに苦労して本日、わずかな合間に神の御業を習得していた……。解決法はすぐそこにあるのだ。

 雲華はというと、横向きに一刀へ背中側を少し向けて、浅瀬になった一刀の傍へ這い寄るように近づいており、もはや目の前まで来ていた。

 一刀は目を瞑ると、男としての溢れんばかりの悲しみの表情を浮かべた。そして……彼の神技は一瞬でついに『炸裂』していた。

 

 雲華の背が岩に寄り掛かるように、一刀の右横に並んで湯船の中で足を延ばして座る。

 ……一刀の下半身はすでに、その類まれな力を失い……クッタリしていた。自身による一気な絶によってである。

 

(はぁぁぁぁぁ……)

 

 一刀の何とも言えない表情に気付いた雲華が、一刀に声を掛ける。

 

「どうしたの? なんか表情が辛そうね?」

「いや、気にしないでくれ……」

 

 雲華に聞かれた質問に、目を閉じてそう答えるのがやっとな一刀だった。

 少しして一刀は目を開くのだが……当然一刀はすぐに気が付いてしまう。自分のモッコリな状況がバレてしまうこの距離である。横に並んでいる雲華の、紺の色が薄い湯あみ着越しに……二つの胸の膨らみのその中に薄っすらと……すると、雲華の左手が横からサッと伸びて来て一刀の眉間に当てられる。何か刺さった感触が?と同時に一刀の視覚が暗転する。

 

「見ちゃダメ!」

 

 雲華は一刀の目線に気付いたらしい。雲華の台詞に対して、一刀的には『でも、その恰好はどうなの?』と聞きたいが、『悪魔』さまにはとても聞けない。

 そして雲華から、どうやら視覚の絶を食らったらしいのだが、驚いたことに得意な視覚への瞬間回復を何度掛けても気道が回復しなかったのだ! 視覚が落ちたままなのだ。

 

「物理的に絶えず『絶』にされれば、君の得意技でもそう簡単には見えないわよ?」

 

 どうやら雲華は何か鋭いものを一刀の眉間に突き刺して視覚を常時絶っているらしい。

 でも、思い出す。しっかりと一刀は見た。雲華の湯あみ着越しの、二つの胸の膨らみのその中に……真ん中辺りに薄っすらとピ……すると、雲華の声が聞こえた。

 

「思い出してもダメ!」

 

 一刀はビクリと驚いた。なぜ?! このドンピシャなタイミングで指摘されたんだ? まさか、雲華の仙術は相手の思考も筒抜けなのか?!

 ……でも一刀は理由がすぐに分かった……分かってしまった。まあ、バレるだろうね♪

 そう、一刀の下半身が一気に『瞬間回復』していたからだった!

 

 一刀は恐怖した。ヤバイ、これはヤバイと……命を消されるか?それとも記憶を消されるのか?それとも……アソコを消されるか?と。

 しかし、なんと異変はまだ続いていたのであった。

 よく分からない。雲華がそのあとに発した言葉が一刀にはよく理解できなかった。完全に想定外だった文言が並んでいた。

 

 

 

「しょうがないわね」

 

 

 

 そのあと、雲華がすぐ横にいる一刀に何か罰らしき事をすることはなかった。一刀も雲華の理解外の言葉の意味に対しての解読に全力を上げて固まったまま時間は過ぎていった。

 そして、一刀の答えが出ぬまま、充分温泉を堪能した雲華が湯船から上がるときに一刀へ「もう、いいわよ。眉間に刺さったのを取って捨てておきなさい」と言って着替えるために湯船を後にした。

 そのあと、一刀は眉間に刺さったものを抜くと、瞬間回復を掛けて視覚を回復する。ふと、抜いた物体に目をやる。そしてじっと見つめる。それの先は鋭く、気功によって強化されてなのか、まっすぐ三センチほどで細く短く黒い……。

 ふと雲華の頭部を思い出す。後頭部で大玉に括っているけど長いよな……。目元や眉はもっと短いし。

 そして一刀はまた、ヨコシマな事がいろいろと頭に充満し、それが超新星爆発して思わずツブやいていた――

 

 

 

「……これってどこのケだろう……?」

 

 

 

 その瞬間、なにか竹製の桶のようなものが、俯(うつむ)いて『細く短く黒い』それをじっと見ていた一刀のおでこに神速で直撃し粉々に砕け散っていた。一刀はそのあとの……この日の記憶がない。もちろん晩飯を食べたという記憶すらカケラも残っていない。……また、当然晩飯抜きですよね……? でも、ありがとうございました。

 これでも今日は、結構幸せな一刀であった。

 

 

 

つづく

 




2014年04月10日 投稿
2014年04月19日 文章修正
2014年05月03日 文章修正
2015年03月05日 文章修正(時間表現含む)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第○➆話

 

 

 

 一刀は薄っすらと気が付いた。

 まだ目を瞑っていたが、雨の音が聞こえる。そして、段々と覚醒する。どうやら、外の雨音で目を覚ましたようだ。ゆっくりと目を開く。

 雲華の家は外壁が隙間なくしっかりと作られているので、板の間から光が入ってくるようなことはない。これは夜の間、外から室内の光が横と下から漏れて見つかることが少ないようにそう作ってあるそうだ。

 なので窓が閉まった状態だと、日が昇っていてもかなり暗いのだ。しかし、真っ暗というわけではない。きちんと家の外壁に設置された、僅かだが光取りがある。

 それを頼りにしようと思うのだが、日が昇っていないのか、それとも雨雲が厚いのか、いつも以上に暗かった。一刀は手で探る感じで窓辺までいき、庇式の窓を押し開ける。部屋が少し明るくなった。

 同時に隔てる物が無くなり、雨音が大きく聞こえてくる。窓のつっかえ棒をし、少し窓から首を出して周りを見ると結構な大雨だった。そして、外もかなり暗い。雲が厚いのか、時間が早いのか……雲華が起きていないところを見ると、まだ時間は早いのだろう。

 まあ、早く目が覚めて当然だろう。窓辺でゆっくりこうして時間を遡って思い出すと、昨日、温泉で『細く短く黒いモノ』をじっと見ながら、ひとセリフ呟いてから、今のこの時まで時間が飛んでいるのだ。

 前日の夕方前から寝ていれば早く起きても不思議ではない……いやいや状況からして、永眠しなかっただけで……ましてや、それ以前の『貴重な記憶』は克明に残っているし!

 一刀は、損失がただ半日ならほぼ丸儲けのような気がしてきた。

 とりあえず、気を取り直して寝床を片付け、食卓を元に戻す。

 そんなプラス思考をし始めた一刀だが、なにげにお腹が、ぐ~と鳴ってきた。

 現実は厳しい……しかし!もっと大事な事があったのではないだろうか!?

 そう、あの『スゴく貴重だったかもしれない細く短く黒いモノ』は、どこに行ってしまったんだろう!と、クダラナイことを考えて頭を抱えたり両手を天に伸ばしたりし、ワタワタしていた一刀へ思わず声が掛る。

 

「お、おはよう、北郷」

 

 ビクりと……一刀は動きを止めてゆっくり振り返ると、雲華がすでに梯子から降りて来ていて床に立っていた。少し顔を赤くしているように見え、その目線が一刀からチラチラと外し気味である。一瞬、『考えていたモノ』がシンクロしていたのではという感じがしたが、一刀も遅れ気味に少し照れながら雲華の顔を伺うように返事を返す。

 

「……おはよう、雲華」

 

 そこで改めて気付いたのだが、いつもは後頭部の旋毛のところで玉状に纏めてある雲華の髪が、今日はすべて下ろされたままであった。前髪も真ん中で軽く分けられ横に流している。長さは腰ぐらいまであり、見事なつやのある黒髪である。

 一刀は、髪を下してもまたいつもと違う美しさのある、綺麗な雲華の姿をしばらく見入っていた。

 そして、自然とその事について聞いてみる。

 

「今日は、髪を下ろしてるなんて……どうしたの?」

 

 雲華は、この髪の姿を一刀にじっと見られていたのが恥ずかしいのか、まだ赤いような少し複雑な感じの表情だったが、最終的にはムッとした顔をして答える。

 

「北郷……昨日の罰よ。私の髪を……この櫛で梳くのよ」

 

 そういうと雲華は、半透明のような綺麗な細工のある櫛を一刀に渡す。これが鼈甲細工の櫛というものだろうか。そして、雲華は長椅子を少し食卓から離すと、椅子の端に横側を向く形で座る。そして自分の後ろ側の長椅子の空いた部分を、ポンポンと叩き催促する。

 

「さっさとここに来て。ゆっくり丁寧に梳くのよ」

 

 『悪魔』さまの指示である。一刀はやるだけであった。

 一刀は長椅子に片膝をついて、少し腰を高い位置にする形で雲華の後ろについた。すると雲華がさらに指示をする。

 

「髪の裏側に手を差し込んで、少し手前に浮かせてゆっくりと梳きなさい」

 

 雲華は横に流していた前髪を手で取って、こんな感じでと一刀に手本を見せてくれる。そして梳く順番も、分かりやすく髪に手を当てながら指示する。

 

「まずは真ん中の頭の上の方から毛先まで何度も丁寧にゆっくりとしてみなさい。それが終わったら少しずつ外側に……そうね、右側から端の方に進めていってみて」

 

 一刀は、手本に倣ってゆっくりと雲華の髪を梳いてゆく。

 頭の中央の上からゆっくりと何度もサラリと通るようになるまで。中央部分が終わると少しずつ外側へまず右側から、何度も丁寧にゆっくりと梳いてゆく。そして次は左側へと。すると、雲華が褒めてくれる。

 

「……なかなか、うまいわね」

 

 雲華の髪を梳くたびに……いや、雲華の傍にいるとイイ臭いがする~~。

 一刀は思った。こんな『罰』なら、いつでもどこでも喜んで!と。

 とりあえず、一刀は聞いてみた。

 

「雲華はいつも、これ自分でやってるんだよね?」

「そうよ」

「やっぱり、めんどう?」

「まあ、巻いてしまうから、今日みたいにしっかり丁寧に梳くことは少ないけどね」

「ふぅん。大変そうだな。なんなら俺が、毎日してあげようか?」

 

 すると、雲華はピクっと背筋を伸ばして、そしてゆっくりと上目使いに振り返る。

 顔がまた少し赤い。そして、ちょっと遠慮気味に聞いてくる。

 

「ほんとに? ……嫌じゃない?」

「全然」

「じゃ、じゃあ、お願いしようか……な。また……呼ぶから、してよね」

「わかったよ」

 

 その返事を聞いて、雲華は嬉しそうに微笑んでいた。

 

 罰と称しての一刀に取ってはある意味、『堪能の時間』と化した髪梳きの時間はほどなく終わり、雲華もご機嫌気味に「朝食にしましょうね♪」と笑顔で告げて調理室へ向かう。

 一刀は髪梳きで移動していた長椅子を元の位置に戻し、のんびり雨音を聞いていた。

 まもなく朝食になり、食事をしながら一刀は雨が降ってるし今日の予定はどう?と雲華に聞く。

 前の雨の時は勉強と、その後は雲華に受けた体の部位の絶を回復するというのを、散々やらされたのだった。共に室内で可能だったからだが。一刀は、まあ今日もそんな感じだろうとは考えた。

 すると、雲華の口から少し予想外の話が出てきた。

 

「少しだけ、君の知ってるこの時代の事を聞いてもいいかな?」

 

 一刀は予想外だったが、二階の彼女の部屋の様子から勉強熱心でもあるのは知ってるので、一瞬、間が空いたが「いいよ」と返事をした。

 朝食が終わってその片付けが済むと、雲華は食卓へ戻って来て長椅子に座る。

 そして、雲華からの質問に一刀が答える形で、この時代の知っている事を一刀なりの浅い知識だが話した。一刀から聞くことはしなかったが、雲華はこの時代より先の事について質問してくることはなかった。

 質問してきたのは、この時代の服の事、時間や重さや距離等の単位の事、お金の事、書物の事、有名な武将の事。武将の話では、特に知勇兼備な武将ではだれが有名だったかというので趙雲や周瑜らの事について知っている事を話した。

 そのなかで一番長かったのはやはり服の事だった。仕事に関係あるからか興味深々だったが、残念なことに一刀自身はせいぜいゲームの三国時代の武将のコスチュームぐらいのイメージしかない。大きめの木簡にイメージを少し書いてみたりとか。しかし、それでも雲華にはある意味『新鮮』だったようだ。

 それが半時(一時間)ほど続き「わかったわ、ありがとう」と雲華は言ってくれた。

 そして、じゃあ読み書きの勉強を始めましょうと、二人で筆記用具を用意し、竹簡の冊等を広げて勉強をはじめた。最近は少し難しめの文章についても読める物が増えてきた。相変わらず、個々の漢字についての知識習得に多く時間が割かれている。中国の漢字の数は日本よりも結構多いのだ。おまけに形がいろいろ違うのは困った。

 一時(二時間)弱過ぎた辺りで、休憩を挟む。

 その時に雲華の入れてくれたお茶をのほほんと飲みながら、さっきまで見ていた竹簡の冊を復習がてら読んでいると、服に関する記述があった。

 一刀はそこで、ふと閃いたことがあった。そう……『メイド服』である!

 雲華は服が作れるのだ。もちろん、雲華にそれを着てもらいたいと思っている。そして、その恰好で横へ立ってお茶を入れてもらいたいのだ。

 目の前で、一刀の表情の様子が変わったのに気が付いた雲華は聞いてみる。

 

「どうしたの? ……なんかイケナイことを思いついたような顔をして」

 

 なにげにスルドイなと、一刀は感心しながら雲華に話す。

 

「実は雲華の裁縫の腕を見込んで、ぜひ作ってみてもらいたい装飾の服があるんだけど」

 一刀から出てきた答えを聞くところ、ヨコシマなモノではなさそうなので、少し期待外れ的な「ん?」という表情をした雲華だったが、服という得意分野のこともあるので、あっさりと話の先を促すように聞き返す。

 

「どんな服なの?」

「『メイド服』って言うんだけど……」

 

 すると、雲華は少し、怪訝そうな顔をして聞いてくる。

 

「え? めいどって……あの世で着るような、冥土の服?」

 

 思わず、目の前にいる雲華が白い着物に△頭巾を付け、手の甲を胸の目でダラりと下げた姿を想像して、一刀は飲みかけたお茶を吹き出してしまう。「汚いわね……」とお叱りを受けるが構わず笑う一刀。

 

「うははっ、違うよ! んー、そうだな。『メイド』ってのは意味合いで言うとお手伝いさん…使用人のことなんだけど。俺のいた時代では、飲食店の女性の給仕さんが可愛く着飾るのに着ているんだ。俺的には大好きな服なんだよ」

「ふぅーん」

 

 雲華は一刀から目線を外して、右手を顎の所に当てると、小声でなにか言ったような気がした。

 

「……(ふぅん、めいど服か……一刀が好きな服なのね。……作ってあげようかな)」

「え? 雲華、何か言った?」

 

 雲華は、少し慌てたように「ううん」と首を小刻みに横に振った。そして「とりあえずだけど」と付け加えて、一刀にその服はどんな装飾がされているのかを尋ねた。

 一刀は口頭ではなく、大きめの木簡を何枚も継ぎ足して使って、その服のデザインを具体的に筆を使って描いて見せる。それを見た雲華は……一度、目を静かに閉じるとパッと見開らき、思い付いた事を正直に明確に一刀へ疑問とともに伝えた。

 

 

 

「これを……この裾が『極端に短い』この服を……誰に着せて……君は一体何をしたいのかな?」

 

 

 

 一刀の描いたイメージ図は、ほぼ全身像で可愛いミニスカのフリフリだった。

 雲華の右手の人差し指が、その絵のスカート部分を、足がムチムチの……ふとももがむき出しのところを指し示していた。

 どうやら一刀は『悪魔』さまに対してやってしまったらしい。ふと一刀が気が付くと、雲華の両目の瞳が、蒼い光を放っていた……。

 

「ギャァぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーー!!」

 

 休憩のはずだったが、いつの間にか雲華から一刀へ、痛覚に対しての連打の特訓になっていたことは言うまでもない。痛覚を早めに自力で絶の状態にしないと耐えられないほどなのだ! その時の一刀の絶叫は、外の雨音に打ち勝って森の遠くからも聞こえたという……。

 そして、一刀の本能の赴くまま描いたイメージ図は、全身が痛みで痺れる中、手直しさせられていた。

 でも、雲華はやはりやさしい。結局作ってくれるらしい。……そして――

 

 

 

(きっと着てくれるよね?) ……だれが? ……もちろん雲華が、だ!

 

 

 

 そう思わずにはいられない。そうでなければ、厳しい修行に耐えて生きる楽しみが、ケズり、エグられる思いの一刀は、目を閉じ拳を握り震わせるのだった。

 雲華は、そんな一刀を少し生暖かい目で見守っていた。

 

 気が付くと、時間はもうお昼前だったので「昼食にしましょう」と雲華の一声で昼食となる。

 雲華は食堂の隣の調理室へ入ってゆく。そこはそんなに広くない。畳の広さだと二畳と少しぐらいか。二口の竈と食糧棚、水瓶、排水溝がある流し台ぐらいで横長の窓が一つある。

 山菜と言っても種類が豊富だと、捏ねたり蒸したり焼いたり煮たりすれば料理の種類も驚くほど増えるものなのだ。

 雲華は料理も手慣れているようで、味がうまくて作るのも速い。調理室から聞こえてくる包丁で食材を刻む音が半端ない。トントンという音ではない……カカッという高速で短い斬撃の音が何度か聞こえてくるのだ。そのあとでジャッと油で炒めている音が聞こえてくる。

 きっと、すべて映像を早回しで見ているような、そして手元は見えないんだろうなぁと一刀は考えていると、早くも出来た料理が運ばれてきた。極端に言うと「昼食にしましょう」と調理室に入って、間もなくすでに出来上がったお皿を持って出てくる感じである。

 冷凍食品でもこんなに早くは出てこないぞと思う一刀であった。魔法のような手際だった。神気瞬導恐るべし。

 昼食を終える。雲華は皿類を持って片付けに向かう。その間、一刀は食卓を拭いたり、食堂の床の掃除をしていた。

 外の雨はまだ降っていた。

 一刀はとりあえず、この後は先ほど中断した読み書きの勉強の続きかなと考える。

 そして、雲華が戻って来た。すると「修行をしましょうか」と、のたまうのだった。「なにするの?」と一刀は素直に聞いてみる。すると雲華は説明を始めた。

 

「これまで一刀は、私から……外から気を絶たれる事に対してや、自分で気を通すのを止めて絶にして、それを元に戻すことを繰り返し身に付ける事をしていたのよ。それは、神気瞬導の防御の基本技術なの。そして、私が見る限り一刀は、その基本が漸く出来るようになってきた。それでこれからは、少しずつ神気瞬導の攻撃の技術にも入って行くことにするから」

「おおっ?……というか、第一条だから基本かなとは思ってたけど、あれは防御だったのか」

 

 雲華は、一刀の基本が即防御?という考えに、少し呆れた顔をして嗜める。

 

「違う。防御の元になるものでもあるし、攻撃の元にもなるものを一刀は習得しかけているのよ。まず、自分の体の気の流れを自在に制することよ。神気瞬導の基本と真髄もそこにあるの」

 

 一刀へ分かりやすく説明すると、雲華はまだ未熟な彼へ大切なことを教えてゆく。

 

「武術だけじゃない。物事は何事もすべて基本が大事よ。それだけは覚えておきなさい。逆に基本が出来ないと、技など小手先だけ身に付けても『それだけ』で終わってしまう。基本があってこそ、防御や攻撃の技をより他の技とも結びつけ発展させて行く事ができるのよ。そうすることで技の幅も視野も広くなる。これから学ぶことが基本とどう結びついているのかよく考えて習得しなさい。真に強くなるには、それが出来ないとだめよ」

「……わかったよ」

 

 一刀は雲華の言葉に素直に頷く。彼女は厳しいが、やさしい。きちんと教えてくれるのだ。

 一方、雲華も一刀の道理に対する素直さも気に入っている。その態度に彼女は自然と微笑んでしまう。雲華は穏やかに話を進める。

 

「神気瞬導はまず、自分の体の事を良く知り、肉体のすべての器官を自在に使いこなす知識が必要なの。君はもう、体中の各器官への気の流れを把握してる。把握していれば部分的に動かす事や止めること、そしてこれから身に付けるであろう強化なんかも可能になる。それを知っていないと、まず重要な防御も取れない。さっき、私は君に痛覚の無差別攻撃をやったけど、基本が出来ずに痛覚をいち早く切れなかったら、君はすぐに気絶してたはずよ」

 

 一刀は話の内容を理解して、雲華の顔を、その目を見ながら小さく頷いた。一刀の理解に満足し、雲華は一刀を少し褒めてくれる。

 

「私は痛覚を切れとは指示していないのに、君は不慣れなりに無意識に神気瞬導の第一条を使って凌いでみせたのよ。よく出来たわ」

 

 一刀は改まって褒められてちょっと照れ臭かったが、雲華に喜んでいる顔をさせる事が出来たことの方が嬉しかった。もっと頑張らないとと思う一刀だった。

 雲華は、さて漸く本題に戻るわよと言うと、午後からの修行について話を始める。

 

「北郷。君は今まで自分の体の事ばかりだったけど、今度は外に対して気の認識を広げていくのよ」

 

 すると、雲華は食卓の上に出していた両手の内、右手だけをテーブルの下に隠した。そして、ニッコリしながら一刀に質問する。

 

「さて、私の右手の指は、今何本立てているでしょう?」

 

 一刀は、右手がある位置を机越しに見る……しかし、当然見えているのは食卓上の木目のみである。一刀は、自分以外の、他人の気を見る方法が分からなかった。目を凝らしたり、力を入れて見たりするが見える物は木目なのは変わらなかった。

 

 雲華は、その様子を伺っている。

 少しすると、なるほどと雲華は一刀から目線を外すと、何かに気が付いたようだった。彼女は右手を再び食卓に上げると一刀へ先ほどとは別の質問をする。

 

「君は今、自分の手の気の流れをどうやって見てるのかな? 今、見てみてよ」

「え? 自分の気の流れ?」

 

 そうそうと、雲華は一刀に促す。

 すると、一刀は目を瞑り何かを感じているようだった。その時に雲華は一刀に声を掛ける。

 

「今、私の右手の指は、今何本立てているかな?」

 

 一刀は目を瞑ったまま雲華の方向を見る。すると、前方に、雲華の座っている辺りに薄く流れが見えた。その中で右手なのか、はっきりと気の流れが見える部分があった。おそらく雲華がよく見えるように気を高めてくれているようだ。よく見ると二本真っ直ぐなのが見え、三本が曲がっている。一刀は見たままを答えた。

 

「二本?」

「正解よ。なるほど……目を瞑って認識しているのかぁ。それは矯正しないといけないわね。これからは目を開いた状態でも自分の気の流れが見えるようにしなさい。その方が有利に戦えるから。大丈夫、慣れれば見えるようになるわ」

 

「分かった。これからはそうしてみるよ」

「そうだ! ちょっと手助けしてあげる」

 

 そういうと、雲華は席を離れて窓際に移動し窓を閉め始めた。雨が降っているので曇天のため薄暗い部屋は、二つ目の窓を完全に閉じると一気に暗くなった。明暗差に慣れるまでは、一刀の視覚は一気に真っ暗近くに落ちる。しかし雲華は、暗い中でも気で周りのものが認識できるため、普通に移動して先の位置に座る。

 

「さあ、これで目を開けていても瞑っているのと同じような感じになったでしょ? これで、自分の体の気の流れを見てみて。大丈夫、目を瞑っている感覚で気を感じればいいんだから」

 

 雲華はそうやさしく一刀を促す。一刀もその期待に応えようと、暗闇の中で目を開けたまま集中する。

 まず、目を開けた状態で瞑っていた時の感覚を思い出す。すると、暗闇に僅かに見えている手の輪郭の中にぼんやりと気の流れが重なって見えてきた。一刀は思わず声を出す。

「すげぇ、見えてる! ぼんやりとだけど、手に重なって中に流れてるのが見えてるよ!」

 

 一刀は気の流れが動いている手の指を握ったり、開いたりして確認していた。

 

「そう。ハッキリと見えるように普段から意識するようにね。そうね、初めの内は夜とかでもいいけど、昼間に日向でもハッキリ感じ取れるようにならないとね」

 

 そう話す雲華の方を見る一刀。一刀にはすでに雲華の全身の体の気が、おぼろげながら見えていた。それに喜び掛けた一刀は気が付いた……そう、重大な事に気が付いてしまったのだ。

 体の気の流れは、そのまま、体の形になっているという事に。そして、気の流れを繊細に捉えればば捉えるほど、ハッキリとその輪郭を捉える事が出来るのだった……。

 もはや、一刀は自分の体の気を見ることなど、完全に記憶の彼方へ追放されていた。

 もう、おわかりいただけますよね?

 

 

 

 彼は集中しまくって見ていた……雲華の胸の、腰の――ぁあl、sだlskdぁs。

 

 

 

 もはや、一刀の頭の中は本当に文字化けていた。

 しかし、気が逸っても、まだ未熟な彼に少し早かったみたいだった。決定的な解像度は得られなかったのだ。一刀は気落ちしかけたが、栄光ある目標が増えたのだと考え直す事にしたのだった。

 

 一方で雲華は、一刀がどうせそんな事を考えているのだろうという事は気付いていた。しかし、それよりも雲華も見入っていたのだった。そう、気を捉える一刀の両目の、仙人の放つ蒼い光ではなく、あの空から降りてくる時に彼から放たれていた白に近き光と同様の輝きを放っている二つの瞳に……。その圧倒的な美しさの光の力に。

 どれぐらい経ったか、雲華は一刀に声を掛けられる。

 

「休憩にしない?」

 

 急に声を掛けられる形になり、一刀に気付かれたのかとビクッとなりかけたが、雲華は平静を装って「そうね」と答える。そして席を立ち一つ窓を開けると、お茶を入れてくるからと一刀にもう一方の窓を開けるように言って調理室へ入っていった。

 一刀は、雲華に言われた通り、閉まっている窓辺に向かって行き窓を開けると、外の雨の様子を眺めていた。少し雨足は弱くなってきていた。

 

 休憩が終わると、午前中の続きの読み書きの勉強となった。ひたすら、見たことのない漢字や形が今と違う漢字について、一刀は教えてもらった。そのあとに竹簡の冊にある文章を読んだり解説してもらったりした。

 今日の内容に項羽や劉邦の話が出てきていたが、この二人も女性だったようだ。そのあと雲華にじゃあと聞いてみたが、過去の有名人の多くも大体女性だった。太公望……呂尚(りょしょう)、紀元前十一世紀に活躍した周の軍師だがそれは男だったとか。

 そのあと再度休憩を挟み、夕方まで読み書きの勉強となった。百個近くは漢字を覚えさせられたのではないだろうか。

 夕食の準備に入った雲華が居なくなった食卓で、一刀は一人で木簡に漢字の練習をする。この木簡も、雲華が薪を切る要領で大量に作ってくれている。そして両面に書いたあとは、もちろん調理室に運ばれ薪変わりに使われる。

 一刀渾身の力作であるメイド服イメージ図はまだ取ってあるようだったが。

 

 ほどなく、夕食となる。時刻は酉時正刻(午後六時)より少し前で、日はもう完全に落ちているため、先ほどの勉強の途中から窓も閉められており、ろうそく等に火が灯されている。

 食事をしながら、一刀は雲華に聞いてみた。

 

「前は聞かなかったけど雲華は、雨の日って普段は何をして過ごしているの?」

 

 雲華は、ん?というような表情をすると、箸を休めて一刀の質問に答える。

 

「そうね……やはり、服飾の仕事をしてることが多いかしら」

「そういえば、裁縫の道具を見ないけど?」

 

 一刀は、雲華に倣って、箸を休めると食堂の中を見渡しながら答えた。そして、指を天井に向けて、話を続ける。

 

「上の階にもなかった気がするけど」

 

 この時代、ミシンなどはないと思うし、上の雲華の部屋には壁にもそれらしいものはなかったはず。すると、雲華はニッコリしながら言う。

 

「その上よ。仕事場は屋根裏にあるのよ。そこに生地の在庫や裁縫の道具類や機材があるわ」

「そうか、そういえば、街へ行く日の朝にそこから荷物を梯子越しに渡してもらったっけ」

 

 ふと、一刀は申し訳ない顔をして雲華に謝った。

 

「ごめん、そんな大事な時間も俺の修行に付き合わせちゃってるんだよね……」

 

 すると、雲華は目を瞑りながら首をゆっくり横に振る。

 

「元々、短い時間しか仕事には当ててないから大丈夫よ。ここ最近も毎日少しはやってるんだから。これでも、今も予定より進んでるくらいだから」

「えぇっ、そうなの?」

 

 雲華は、笑いながら首をうんうんと縦に動かして頷いていた。

 一刀もよく考えると、雲華が調理時の包丁から出す、カカッという斬撃音を聞いているところから想像するに、雲華は服飾工場の生地の裁断機よりも早く正確にシャシャッと型出しし、縫う作業でも工業用ミシンよりも高速で綺麗にダダッと仕上げてそうだった。

 神気瞬導、便利すぎる。やはり、基本が大事ということか……? 少し違うか。いや……応用幅が広い技なのだろう。よく考えれば、早いんだから何でもアリじゃないか!

 『身に付けて損ナシ』というニンマリした一刀の表情の変化から、考えている事が透けて見えているが、自分に気を使う申し訳ない心のから離れてくれて良かったと思う雲華だった。

 

 「……(助かってるのは……君だけじゃないのよ)……」

 

 雲華は人知れず、声を出さずに呟いていた。

 

 食事を終わり、雲華が後片付けをしている間に天気が気になった一刀は、窓辺に移動し少し窓を押し開けて外を伺うと、雨はどうやら止んだようであった。隙間から見える空には星が見えていなかったことからまだ曇ってはいるようだが。明日は天気だといいなと思っていると、雲華が食卓へ戻ってきた。手には洗ったぶどうをお皿に乗せて来ていた。

 

「痛まないうちに食べましょう」

「そんなのも取ってたんだ。いつの間に?」

 

 雲華曰く、前回の山菜採りで食材の生えていた傍に、ぶどうの木があったらしい。粒はこの時代には品種改良なんてないから、小さめである。一刀は早速、食卓の上のぶどうの実を一つつまんでみると、それなりに甘くおいしい。さらにパクついていく。そこで一刀は早速提案する。

 

「よし、ぶどう狩りだ!」

「木は一本しかなかったわよ? これらが一番状態がよかったから取ってきたのよ」

 

 しゅーん。悲しい事実を即答され、一刀は落ち込んで下を向いてしまった。すると雲華が閃いたとばかりにニタリとして一刀に声を掛ける。

 

「わかったわ。じゃあ、明日、天気ならブドウ狩りをしましょう!」

 

 その内容に「えっ本当?!」と嬉しそうに雲華の顔を見た一刀だったが……直後に後悔していた。

 

 

 

 その雲華のニンマリした顔が『悪魔』さまの顔だったからである。

 

 

 

 そう、どうやら……ブドウの字が違うらしい。(いつの間にかカタカナになっている!)

 そして『狩られる』のは俺なんだろうなぁと確信する一刀だった。

 沈黙する一刀に、さて読み書きの勉強をしましょうか?と追い打ちを掛ける雲華だった。勉強は一時(二時間)程続けられた。

 そのあと、ずっと気落ちしている一刀に気を見る修行をしましょうかと、三本灯していたろうそくの本数を一本にする。それも遠い位置に置き直すことで一刀の手元がより暗くなるようにして行われた。

 雲華の『胸』が!『腰』が!で、ここは俄然やる気が復活する一刀だった。

 しかし、自分の腕を見ているフリをしながら横目で雲華をチラチラ見るのだが、捉えられる気の量はまだまだ薄く少なく、満足できる解像度に届くことはなかった……。

 それは半時(一時間)ほど続けられると、今日はそろそろ寝ましょうということで就寝となった。

 

 いつもの『長椅子ダブル寝床』に入ると、再び頭へよぎる『悪魔さまのブドウ狩り祭り』の恐怖に、先程外を見ながら「明日は天気だといいな」と一瞬でも思った自分を呪い、改めて「ずっと雨でありますように!」と強く願うと、明日への希望を失いつつ眠りについた一刀だった。

 

 

 

 

 

 十四日目の朝、なにか当然のように晴れていた。快晴である。「ヒャッホ~イ」の『悪魔さまのブドウ狩り祭り』当日を迎える。

 雲華が梯子を伝って食堂へ降りてくると……すでに二つの窓は開かれ、快晴の空に上ったばかりの朝日の光が部屋へ射し込む。食卓はきちんと真ん中へ、長椅子も定位置に置かれて掃除もされ整然としていた。そして、食卓の上を見ると一枚の木簡が置かれていた。

 雲華は、それに目を通し読み上げる。

 みなさん、内容はもうおわかりいただけていると思いますが――

 

 “おはよう、雲華。晴れたので今日は探さないでください。 北郷一刀”

 

「ふふふ、朝早くから動く気配はあったけど……逃げたな」

 

 家の出口へと振り向いた雲華の……『悪魔』さまの双眼はすでに蒼い光を放っていた。朝の狩りの始まりである。

 

 一刀が起きたのは日が昇る結構前であった。起きるとまだ部屋が暗いが、もう割と慣れてきていたので寝床からそろりと窓際まで行き、ゆっくりと窓を押し開ける。地平線が僅かに白み始めたところであった。まだ暗い。しかし、この時代は月の明かりが結構助けになる。空を見上げると、星が澄んだ夜空に全力で瞬(またた)いていた。本日は残念ながらどう見ても快晴の為、満月を少し過ぎた西の空の月は明かりの代わりになった。

 窓のつっかえ棒をして、もう一方の窓も静かに開ける。そして、寝床を片付けて食卓を元に戻し、床を軽く掃除する。もはや、一刀はここが自分の家と感じているので、最近は雲華に言いつけられなくても豆に掃除をしている。

 そして一刀は、寝る前に考えた今日が快晴だった時の計画を実行した。一刀には作戦があった。そう、『気の絶状態』だ。さすがに雲華でも、気が無いものはそうそう探せないはずなのだ。

 だが、一刀も気を付けなければならない。完全に気の絶にすると死んでしまうのだ。そうこれは、命がけの『かくれんぼう』である。

 一刀は、山菜採りで慣れた道を二十分ほど来た地点で草陰に潜み、先ほどから全身に対して体内活動の限界まで気の流れを落としてじっとしていた。

 そして、枝葉の間から周りの様子を慎重に伺っていた。

 すると、トントンと非常に軽く右の肩を叩かれた気がした。一刀は、小枝が当たったのかと思って無視していると、風もないのに、体を微動だにしていないのに、『トントン』と再度叩かれている……確実に叩かれている……それも指で叩かれている?!

 一刀は、そーっと、ゆっくりと右の肩の後ろを振り返った。

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーー!!」

 

 一刀が見たものは木人の顔のアップだった。直径二センチほどのピノキオ風な鼻先が目前にあったのだ。隠れていた草陰から飛び出し、距離を取って振り返った。

 そこには、木人を小脇に抱えた雲華が立っていたのだ。そして雲華が呆れたように声を掛けてくる。

 

「北郷、残念でしたぁ。やるのなら、家から出る前に気を抑えるべきだったわね。ちなみにそれは暗行疎影(あんこうそえい)って言う、気を落として存在を希薄にする技よ。初心者にしては技は上出来だけど。どうやら苦行の成果が出ているわね」

「うっ、くそ……初めから丸わかりだったのかよ……」

「だって君、もう家を離れていく向きがいきなり食糧集めの獣道への方角だったし。私はそれを追いながら気を探ってここへ来ただけよ?」

 

 そう言いながら、雲華は脇に抱えた木人を下ろして立たせる。木人は、ご丁寧に片手に一本ずつ計二本棒を持っていた。木人は一刀に木刀風の棒を渡そうと柄の部分を向けてくる。

 

「くっ、結局ブドウ狩りかよ!」

 

 一刀は、吐き捨てるように声を出しながら、ヤケ気味に木人から棒を引っ手繰るように受け取り、三歩下がって間合いを取ると腹を括ったのかそこで構える。ここは獣道から少し外れたところで、草木が乱立しており、棒をまともに振れそうにない場所である。

 それでも、一刀は自分から切り込んで行った。すると木人が一刀の棒を受けたかと思うと華麗に流して一刀の頭に一撃を入れてきた。

 なに?!木人の動きが前と違う?!と一刀は気が付いたが、前のめりに打ち込んだ棒が、上手く流されて体のバランスが前に出過ぎて崩れてしまい、なんとか体を捻って頭ではなく左肩で受ける一刀だった。しかし、木人の一撃は一刀の予想以上で受け止めきれずに体を飛ばされてしまう。左肩に激痛を感じるが、飛んだ勢いに合わせて地面を転がる。同時に周りに気を配りながら体制を起こし整える。そして、雲華に大声で確認する。

 

「雲華! また、木人の強さを上げたのかよ?」

 

 すると雲華は、これも街に行った時の罰よ、と涼しそうに言う。どう見ても『ブドウ狩り』を理由にしたとしか思えないんだけどぉ? しかし、すでに『悪魔』さまが上げたものが下がるわけがない。

 

「木人くんは百人隊長ぐらいの実力よ」

 

 一刀は、先日街で戦ったその乱暴な男を思い出していた。

 

(マズイ……あのレベルだど普通に戦ってたら勝ち目がない。おまけにさっきのダメージで、左肩はもう思い切り振れない……)

 

 ふと、考え事から意識を戻した一刀が気付くと、木人が迫って来ていた。木々が乱立しているが、百人隊長クラスになると、その辺をかなり上手くかわして寄せてくるのだ。

 一刀は「どうすればいい……」と自問自答するが、先ほどの当たりや今見ている動きで、膂力、技、速度で勝るところがない。己の力の無さが歯がゆいがこれが、凡庸な高校生の実力である。

 

(無様に打たれるしかないのかいのかよ……くそぉーーーーせめてスピードやパワーがあれば……ってあれ? 目の前まで来た木人の動きが急にノロい?)

 

 一刀は迷わない。チャンスだ!と思った瞬間に力いっぱい踏み込んで木人に打ち込んでいく。

 

「ハァーーー!」

 

 掛け声と共に一刀は、左肩に激痛を感じながらも渾身の一撃を木人の頭部へ叩き込んだ。すると、棒がへし折れると同時に、百人隊長クラスの木人は打ち込んだ側へ吹っ飛んでいた。

 

「…んぁ……?!」

 

 一刀は、何が起こったのか分からずその場で茫然としている。右横に僅かに風を感じると、雲華がいつの間にか一刀の横に来ていた。一刀は茫然と口まで少し開いた表情のまま、ゆっくりと雲華の方を向く。

 雲華は一刀にいつもと変わらない落ち着いた口調で教える。

 

「今のが、神気瞬導の『速気』と『剛気』の合わさった一撃よ。まあ、手助けはしたんだけど、はじめて打ったわね。どう? 感想は」

 

 吹き飛んでいた木人がヨロヨロと起き上がると、足取りをゆっくりと整えて一刀らの傍までやってくる。木人に棒がへし折れるほど打ち込んだであろう頭の箇所が、少し欠けていた。一刀は凄いと思うと同時に、この威力で、もし人の頭を打っていたらどうなったんだ……と恐ろしくなった。

 雲華も一刀のその表情の変化から、喜びよりも恐怖に動いている事を察して一刀に静かに言葉を掛ける。

 

「加減や使い方、使いどころをしっかり身に付けるのよ。そうすれば大丈夫だから」

「……そうだね。力を得るってそういうことが、きちんと出来ないといけないね」

 

 雲華は一刀に家に戻るわよと、少し精神的ショックを受けた一刀の、転げた時に汚れたであろう顔の汚れを、さり気なく手ぬぐいで優しく気遣う様に拭いながら告げる。一刀もうんと頷いて、二人はゆっくりと歩いて巨木の家に戻っていった。

 

 木人は、寄り添うような二人に気を使ってるのか、少し離れながら後から静かに付いて来ていた。

 

 

 

 一刀と雲華は巨木の家に戻ってきた。日は少し上っている。しかし、『ブドウ狩り』は以外な速さで終わってしまったので、時刻的にはまだ、辰時正刻(午前八時)ごろだった。

 朝食を用意すると言い、倉庫の横の水瓶から柄杓で汲んだ水で手を洗った雲華は、梯子を上がって家に入って行った。一刀も手を洗おうとすると、木人が倉庫の横にきちんと持って帰ってきた折れていない棒を置くと、扉を開けて入って行こうとしていたので、一刀は思わず呼び止める。

 

「ごめんな、さっき思いっきり殴っちゃって」

 

 すると、木人は立ち止まり、首を横にゆっくり振ると右手を軽く上げて倉庫の中へ入っていった。一刀は確信する。

 

(……木人くん、絶対言葉が通じてるだろ? おまけになんてイケメンな対応……)

 

 一刀が手を洗っていると、雲華が梯子から降りてきて、「汚れたでしょ? 手ぬぐいで拭きなさい。はい、着替えも」と着替えの服を渡してくれた。そして再び梯子を上って中へ戻ってゆく。

 一刀はこれまでも、記憶がない日は目が覚めると服が変わっていたりして、着替えてはいたのだが……よく考えるとその時、下着はどうやって?……イヤ深く考えたら危険な事が起きそうだと思考を瞬間に消し去った。

 こうやって、手渡しされて着替えるのは久しぶりかも。

 一刀は体を拭いて着替えると、汚れ物は後で洗うことにして、傍に置いてあった洗濯用の桶に入れて置きその場を後にした。

 

 梯子を上がって食堂に入ると、早くも朝食の準備が出来ていた。雲華はすでに奥の長椅子に座って待ち、こっちを見ていた。一刀はここで違和感を感じた。雲華の髪にカラフルな色の付いた紐が見える。雲華も一刀の目線に気付いたのか、首ごと窓側を向いて側頭部を一刀に見せる。そう、後ろ髪が先ほどまでのいつもの玉状が解かれ、ポニーテール状に色の付いた紐で縛られているのだ。

 艶やかな髪が揺れ、これはこれですごく可愛い。

 すると、雲華が一刀に言う。

 

「あとで……食事の後で髪を梳いてもらうから。本当は、起きてすぐに梳いて貰いたかったんだから。いいわね?」

「いいよ。約束だし、梳いてあげる。雲華、その髪型も似合ってるね」

「ありがとう。ふふ、じゃあ、食べましょうか♪」

 

 雲華は、ご機嫌で食事を始めた。一刀も、雲華の嬉しそうな表情を見ながら手前の長椅子の席に座ると食事を取った。

 髪を結んでいる紐の話等を交えながら、ほどなく食事は終わり、雲華は皿を持って片付けに向かう。一刀も、洗濯物をしてくると告げて、下へ降りて先ほど脱いだものを洗って干していた。

 

 すると、干し終わる辺りで雲華が長椅子を片手に下に降りて来た。どうやら雲華は、天気が良くて風が通り、木漏れ日がやさしいここで髪を梳いて欲しいようだ。

 巨木の木陰と日向との境界辺りに長椅子を置いた雲華はその端に座る。

 雲華は髪を束ねていた色の付いた紐をほどくと、袖の中から出した櫛を自分の後ろへ近づいてきた一刀へ、少し体を左に捻って手渡し再び前を向いた。

 一刀は櫛を受け取ると「はじめるよ」と声を掛けてから、丁寧に雲華の髪を梳いてゆく。

 小鳥が美しい声で合間に囀る、平和な二人の時間はあっという間に過ぎてゆく。

 ほどなく髪梳きの時間は終了し、雲華は気持ちよさそうに満足げに梳かれた髪を玉状にして、後頭部の旋毛辺りへ結いとめる。

 雲華は、後ろを向いて、ありがとうと一刀に笑顔で微笑んでくる。

 一刀は髪を梳いている間に、その滑らかな艶のある髪の肌触りと、雲華から風に乗ってくる香りを堪能し、雲華の満面の微笑みも見る事が出来て顔にも締まりがなくデレデレと……油断していた。

 雲華はゆっくり立ち上がると、長椅子を梯子の横に置いて、再び緩んだ……緩みきった表情の一刀の所まで戻って来る。そして、思い出したような事を言う。

 

「そうそう、一刀には髪梳きのお礼をしなくっちゃね」

 

 そう言った雲華の表情は、すでに『悪魔』さまの表情になっていて、ニタリと目が笑っていない不気味な微笑みが浮かんでいた。

 一刀は『何をやらかしてしまったのか』イロイロあり過ぎて分からず困惑し、夏でもないのに汗が染みだしてきた表情と、加えて先ほどまでの天使の笑みがいつの間にか恐怖の『悪魔』さまの表情に変わり、その落差に考えが混乱の極みに達した思考のまま、体も固まっていた。

 さらに……雲華は、一刀にはここで予想していなかったことを告げてきたのだった。

 

「私と手合せしてみましょうか」

 

 と。正に直々のお礼参りの模様だ。

 どうやら、「ヒャッホ~イ」の『悪魔さまのブドウ狩り祭り』は、まだまだ絶賛開催中だったようである……。

 

 

 

つづく

 




2014年04月14日 投稿
2014年04月24日 文章加筆修正
2014年05月15日 文章修正
2015年03月07日 文章修正(時間表現含む)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第○➇話

 

 

 

 「手合せ」って……一刀は、雲華のその意図が掴めなかった。

 

 今、雲華の家のある巨木下の広場で、雲華と一刀は向かい合っている。

 雲華から、髪梳きのお礼にと手合せを申し込まれたが、力量差が違い過ぎて、ブドウ狩りどころではない。それはもうヒキニク祭りと言える。一刀は思わず、雲華へ確認してしまう。

 

「……ほんとにやるの?」

 

 だが雲華は、一刀からの問いかけに応えず、はにかむように笑うと、一刀へ背を向けて歩き出し、改めて一刀から少し距離を取る。二メートルの距離が八メートルになった程度だが。

 一刀はその様子を黙って見ていた。

 雲華は一刀の方へ向き直ると、腰の横辺りで両手を広げて一刀に微笑みながら言う。

 

「さあ、私を捕まえてみて。体のどこを掴んでもいいわよ。ただし……神気瞬導で、ね」

 

 どうやら、雲華は一刀との神気瞬導による『鬼ごっこ』をご提案のようだ。棒を持っていない状態なら、ボコボコのヒキニクにされるようなことはなさそうである。

 ここの広場は、巨木が大きく枝を伸ばしており、その周りの森は枝からさらに少なくとも三メートル以上は離れているため、かなりの広さがある。また家を建てる際に一部材料にしており、低い位置の大枝はすべて根元から切り落とされている。そのため、一番低い枝でも五メートル以上のところにある。

 一刀は、わざわざ雲華が『悪魔』さまの雰囲気を出し、『仕合い』という大げさな言い回しから、一体全体何事かと思ってしまったのが……とりあえず内心でほっとする。

 だが、神気瞬導と言われても、一刀に出来そうなのは体の気の絶ぐらいだ。まだ、『速気』も『剛気』も使えないし、技も知らない。いや、アンコウソエイ?だっけ。気を落として存在を希薄にする技はイケるようだが、今は丸見えだしな……。

 まあ、雲華もそんなことは承知のはずであった。それに、彼女がやれというのだ……すなわち『鬼ごっこ』をやるしかないのである。

 それに、モノは考えようだ。

 雲華は言った。体のどこを掴んでもいい……どこを掴んでも……そう『どこ』でもいいのである。 掴もうではないか、栄光あるモノを、部位を!

 一刀は、雲華に「わかった」と伝えると、一歩雲華に近づこうとした。すると、雲華は軽く足を開き両手を構えると、早速一刀に対して素早く手の平(掌)を付きだして来た。

 距離があるので、何かなと少し様子を見ようとしたところ……一刀はいきなり左斜め側へ前のめりに倒れてしまった。一刀の左太腿の気がいきなり、絶の状態になったため踏ん張れなくなっていたのだ。

 一刀は左太腿の絶に対して瞬間回復を掛けて立ち上がろうとし、ここで漸く理解する。

 雲華は一刀の接近する動きを、神気瞬導の絶技で止めようというのだ。一刀が立ち上がると雲華が声を掛けてきた。

 

「どう? これが神気瞬導の基本の応用技、飛加攻害(ひかこうがい)。絶状態になる気を、相手の部位へ投げつけたり、直接触れて伝えたりするものよ。君みたいに回復出来ればいいけど……できない者ならその箇所は数時間で壊死を起こす。

 だから使う場合は、相手の力量や技を仕掛ける目的も考えてね。相手を殺す為に全力で完全に心臓などの急所を絶状態へ追い込むか、それとも自然に回復するように、手足等へ部分的に弱く掛けて一時的に止めるかとかをね」

 

 一刀は、雲華の見せた技と言葉から、神気瞬導の恐ろしさを改めて知った。まさに普通の人に対しては、一方的な効果があるだろう。少し離れた位置からでも、相手の手や足に放って動きを止めれば、その隙に攻撃できるのだ。この技だけで百人隊長や、もしかしたら歴戦の千人隊長でも容易く倒せるかもしれない。いや、必殺の絶で脳や心臓などの急所に直接当てれば……強敵に近づく必要すらないのだ。

 一刀は、ここで顔を厳しく歪める。まただ……と。朝に木人へ放った一撃といい、命のやり取りを……殺意を覚えてしまう。先日、街で実際に理不尽に死にそうになった事が大きいのだろう。

 以前の学生生活では、ただ、のほほ~んとしていて「朝起きて、学校に行って、くだらない事をやって、夜寝る」、そんな退屈で平和な日々との落差が恨めしく感じられた。

 その一刀の表情から考えに気付きながらも、雲華は続ける。

 一刀には『強く』なってほしいから。外の世界は『そういう世の中』であるから。躊躇えばここは、自分が簡単に死ぬ時代なのだから。

 殺意に狂うのはいけないが、常に殺すという選択肢も状況により選べなければならない。雲華は目を一度閉じて再び開くと、悩みの表情を見せる一刀を促す。

 

「さあ来なさい、北郷。今はやるしかないの。殺す、殺さないを選べるのは……『強い者』だけなのだから」

 

 雲華は、一刀の反応が些か心配だったのだが、少しの間ののち、一刀は答えてくれた。

 

「そうだね。『強い者』だけだね」

 

 そういう一刀は辛そうだったが、なぜか口元が微笑んでいた。

 一刀は『雲華には本当に教えられ、助けられてばかりだな』と、感謝と共に自分の情けなさへ笑いが込み上げて来ていたのだ。

 ありがたい。

 そして、その思いに応えたいと急に顔を引き締めていた。

 

「雲華。じゃあ、いくから」

 

 一刀は雲華に出来るだけ素早く近寄っていく。すると当然、雲華は引き離すように移動しながら、飛加攻害を放ってくる。

 しかし、絶にする気が飛んで来るのである。それが分かれば、こちらも『見ればよい』のだ。一刀は雲華側の気に集中すると、おぼろげながら飛んで来るものを見つけ、それを躱した。

 ようやくやろうとしていた事が進み、雲華は一刀へ笑顔で話す。

 

「そうそう。分かってきたみたいね」

 

 神気瞬導の基本を十分に使えば、今の一刀でも見えるのだ。もちろん、見える速度で雲華が投げてくれているからだが。

 一刀が避けている間に雲華は距離を取り直していた。それが数分繰り替えされると、雲華の投げくる速度が上がってきだした。広場を、巨木の周りを回るようにうまく雲華は逃げ続ける。

 

 一刀は、雲華の後を追いながらも飛加攻害の技をギリギリで避けるが、避けるたびに雲華に離されるので、歯がゆい思いから「もっと早く動けないのか」と強く意識するようになってくる。

 すると、彼女から飛んで来る気がいきなりスローになった。余裕で躱せた。また、高速で飛んで来た。また「早く」と意識すると途中からまたスローになる。

 このスローで見える現象に、一刀自身ではそう急に変わるものじゃないことから、一刀は雲華に確認する。

 

「雲華。たまに俺、『速気』が掛ってるみたいななんだけど? なんかそっちでしてる?」

「ええ、当然。でも、君が意識して『より早く動こう』というと気を込めないと発動はしないから。それと『速気』や『剛気』は、まず感覚に慣れないと経験不足の者は危ないのよ。加減が分からず、激突したり、握りつぶしたりとね」

 

 雲華の言う通りである。『速気』も良く考えると高速で物に掠ると火傷するし、それが少し尖っているだけで切れたり抉れるはず。『剛気』も軽く人の肩を叩いたつもりが、人体ごと打ち砕いてしまう可能性があるものだ。

 

「だからちょっと、その状態に慣れてもらおうかと思ってね。慣れてくれば楽しいわよ? 時間も節約できるしね」

「おお、確かにそうだった!」

 

 一刀は一瞬ヘボな自分に落ち込みそうになったが、今それを克服しようとしているんだと気付く。そして、俄然やる気になってきた。克服できる上に、映像の早回しのように動ける可能性があるのだ! 雲華は乗せるのもうまい。

 早速、動き出す一刀。当然、今度は『速気』を使ってタタッと雲華に迫る。使えるモノは使わせてもらおう、栄光を掴むために!! なにげに一刀の目が血走っていた。

 しかし、あと数歩というところで雲華が……消えた?

 なんと、高速がスローで見える『速気』で接近したのに一瞬で見失ってしまったのだ。でも、一刀はゆっくりと振りかえる。雲華のパターンがなんとなく少し読めてきたのだ。

 いた……雲華は、三メートルほど真後ろで微笑んで右手を振っていた。

 

「……ちょっと、早すぎるんじゃない? 俺の……希望が……栄光が…………部位が……」

 

 ショックの余り、つい言葉の最後に向けて本音があふれ出てしまう一刀。

 

「あら、北郷。もうあきらめちゃうの?」

 

 雲華がいつになく挑発的だった。だが確かにそうだ。まだチャンスが無くなったわけではない。

 そう、一刀のリビドーは止まらない。一気に最大加速した。一瞬で雲華に迫る。だが、手を伸ばし届くかという一瞬、手か何かに掠った感触があったが、雲華はまた消えるように避けた。だが今度は後ろへ回ることはなく、五メートルほど下がって一刀との距離を取るに留まった。

 しかし、雲華は喜んでいた。

 

「すごいじゃない。一瞬掠ったわよ」

「掠ったね。でも……雲華はその倍は早いでしょ。これでもすごいの?」

「今の速さなら、神気瞬導の使い手として遅くはないものよ。まだ初心者だしね。さあ、北郷、本気でどんどん来なさいよ。君の栄光とやらは、ココにあるわよ?」

 

 雲華は、そう言うとウインクしながら、最後にナント僅かに胸を突きだして見せた。

 ……どうみても、挑発し過ぎですよ?雲華さん。だが、一刀は止まる男ではなかったのだ。

 加速!加速っ!加速っーーー! もはや、リビドーが加速していた! 加速するのは気じゃなかったのかよ?……そんな突っ込みが来そうな一刀の本能が先走ってゆく。

 もっと早く!もっと早くっ!

 

 一刀は、一歩だけ雲華へ迫る、掴むために! そして、さらに二歩迫る、栄光のために! だが、なぜか途中で少し加速が落ちた。三歩離れる。

 そんな、ムカつく自分の体へ激励する。

 『そんなダラシナイ体に育てた覚えはない! 今、加速しないで、オマエどうするんだぁぁーーー!』と、加速し続ける体へヨコシマな思いながら、速気が滾る。

 雲華は、当初からこちらを完全に向いて後ろ向きに移動している。明らかに移動するには不向きな体制なんだが、それでも断然早いのだ。

 しかし、一刀は迫り始めていた。雲華の表情はなぜかニコニコしている。

 一刀の額からは汗が出て来始めていた。もはや全力なので、一刀もそう長くは持たない。

 それを三分も続けただろうか。

 ついに、ついに!雲華へ手が届くところまでキタァーー! しかし、彼女に迫るのに気を集中し過ぎて、一刀は忘れていたことがあった。

 飛加攻害である。

 雲華は、迫ってくる一刀へ逆に加速して容易く彼の間合いへ踏み込むと、手の平を一刀の胸へ優しく触れて絶気を叩き込んだのである……。

 

「はい、休憩ね」

 

 二人とも加速中だったので、そのままクタリと倒れ込む一刀を、雲華が正面から優しく抱きとめる形で支えて『速気』を収めて立ち止まる。

 一刀は、体は動かないものの、なにか柔らかなものが二つ胸に当たっている……当たってるんですけど!?と、天国を見るもその状況に留まった。

 雲華は、ほどなくその場に一刀を横たえる。

 ああ、柔らかな栄光が……部位が、離れて行ってしまった……寂しい……そっちに気を取られて、もはや瞬間回復など忘れ、表情が天国から筆舌に尽くしがたい悲しみに変化していく一刀であった。

 その表情を見ながら……そんなにコレはいいの?と少し呆れ気味に、自分の胸元を一瞬見る雲華だったが、右手を腰に当てながら一刀に声を掛ける。

 

「君は、いつまで寝ているの? 早く立ちなさい、お茶にするわよ。梯子の横の長椅子にでも座ってなさい。上で用意してくるから」

「はい」

 

 雲華は、まだ横たわっている一刀からの返事を聞くと梯子を上がって行った。

 一刀は、雲華により首から背骨への気の絶を受けていた。それを瞬間回復させるとゆっくりと立ち上がる。そして、その場で……その胸に残る、雲華の柔らかな二つの感触の余韻に静かに浸っていた……。思わぬご褒美、ラッキー♪と。

 

 雲華は、調理室でお茶のお湯を沸かしながら、一刀の進歩に噴き出していた。

 

「あの加速の伸び様……どこまで伸びるのかな……それに」

 

 口元を抑えて、ふふっと思い出し笑いをしていた。

 雲華の目にも、一刀の伸びはかなりのものだ。おそらく、神気瞬導が彼に合うのだろう。

 お湯が沸くと、彼女はお茶の用意を持って外へ向かって出ていった。

 

 一刀は、雲華と長椅子にお茶セットを挟んで座って休憩している。

 時間は……お日様の位置から巳時正刻から二刻過ぎた(午前十時半)ぐらいか。

 一刀も慣れて来たのか、最近お日様が出ていれば少し時間が分かる感じになってきていた。慣れとは恐ろしい。

 ああ、それにしても雲華の入れるお茶がうまい。そして、巨木の枝からの木漏れ日が心地よい。風も穏やかだ。一刀は辺りの緑多き光景を見回しながら、先ほど雲華の髪を梳いていた時にも感じていたが、ここは静かで良い場所だなと思うのだった。

 ふと、こんな生活が続くのも悪くない……いや、全然イイんじゃねぇ?という気がして来ていた。

 だが、今の自分ではダメだとも思った。まず一人で、この時代に生きていけないと、と考える一刀だった。

 いつまでも、雲華に迷惑を掛けてはいられない。一度ここから外へ出て、一人で生きていける自信が付いたら……生きていられたら、いつか戻って来られればいいなぁと。

 そんな事を考えていると横から、雲華が小石を三つ、手の平の上に乗せているのを一刀へ見せてきた。何かなと思っていると雲華がニヤリとしながら言う。

 

「これを上に放るから、全部取ってみてよ」

 

 普通なら二つぐらいは、放られた距離が近ければ取れるかもしれない。しかし、三つになると結構厳しい。だが、『速気』を使えば、止まっているのを摘むように取れるだろう。

 

「わかった、いいよ」

 

 すると、雲華が上へ石を放る。さすがは、雲華だ。まさに取り辛いように離れて三つが放られた。一刀は、『速気』で早く動いていた先ほどの修行の感覚を思い出し、『早く動こう』とする気を高めた。すると、放物線を描いて離れていく三つの石は、空中でほぼ静止……いや、ゆっくり動いているものに変わる。

 一度雲華の方を、向く。何故か向いた頬肌に抵抗のような違和感を覚えつつ見る。彼女も『速気』を使っているのか、ニッコリと一刀へ再度微笑んできた。加えて早く取って来て、という感じで首を石の方向にクィっと向けた。

 一刀は、のんびりし過ぎたのか、『速気』の集中力が落ちたのか、雲華の顔から目を前へ向け直すと石の動きが大きくなってきたので、早めに取るために急いで立ち上がろうとする。すると、体の周りに何か纏わり付く感があった。急ぐと余計に邪魔な感じが大きいので、少しゆっくり気味に動き、空中に浮いている三つの石を掴むと、雲華の座る長椅子へゆっくり帰って来た。

 そして『速気』を切ると、雲華へ石を返す。

 

「はい、これでいいんだよね? それと……今回、『速気』で動くときに体の周りに何か邪魔な違和感があるんだけど……」

 

 雲華は、ふふっと笑いながら石を受け取る。一刀は、なぜ雲華が笑っているのかが分からない。

 一刀が長椅子に座り直しても、雲華はまだ、ふふっと口を押えて笑っている。一刀も釣られてふっと笑いながら、どうしたの?と聞いてみた。すると、雲華は教えてくれた。

 

「北郷が、もう自分の力だけで『速気』が出来ていることに、まだ気づいていないから……可笑しくて」

「……えっ? そうだったの!?」

 

 どうやら、もう雲華は何も一刀に影響を与えていないらしい。すでに一刀は、自力で『速気』が発動できるようである。それを聞いた一刀は、石を取った自分の両の手を見て、しばし固まっていた。そして思い出したかのように叫ぶ。

 

「ほんとかよ!」

「さっき石が取れたでしょ? まあ、まだ安定してないから気を抜くと普通の状態に戻っちゃうと思うけど。集中して時間を延ばせるように、日ごろから心掛けなさい。それこそ、一日中ずっと『速気』が持続できるようにね。今みたいに石の数を増やすことで手軽に練習できるし」

 

 確かに、先ほど、石の動きが最後の方は徐々に早くなっていっていた。『速気』が落ちるということは周りが早くなるということだ。雲華はさらに注意を付け加える。

 

「それと、練習は今みたいに辺りに、なにもない状態でするように。『速気』状態では周りの軽いものも非常に重くなっているの。体の周りに纏わり付くのは風を強く受けるからよ。小枝とかでも同じだから。気をつけなさい」

 

 一刀は、『鬼ごっこ』の段階では、その違和感を感じなかったことが気になり聞いてみる。

 

「でもさっきまで、風の違和感を感じなかったのは?」

「私が、君に影響を与えてたからよ。軽く『剛気』系のね。硬気功も『速気』には必須になってくるわよ。体を剛体にすれば、多少体に当たろうとも関係なくなるからね」

 

 ふと、先ほど雲華に掠った指先を見ると……指先の皮が僅かに捲れていた……。冷や汗が出た。

 そして、そうか、雲華はワザと掠らせた……そう理解するのだった。

 彼女の顔を見ると、漸く気が付いたのという感じでニッコリされる。

 雲華の話を聞くほど、彼女の言っていた基本が大事なのだと納得させられる。すべての知識や事象が織込まれて関連していくのだから。一刀は、先に雲華へ確認する。

 

「じゃあ、次は『剛気』についてやるのかな」

「そういう事になるわね」

「わかったよ。確かに必要だよな」

 

 休憩を終わり、二人は長椅子から立ち上がる。雲華はお茶の一式を戻してくると言い、一度家へ梯子を上って入っていった。

 そして、戻ってくると雲華は『彗光の剣』を背負っていた。それを肩から下ろすと、鞘の幅広の立派な帯を持って一刀へ差し出し告げる。

 

「北郷、これからいってみようか」

「それって……」

 

 初めに見せてもらった時に、重すぎて持ち上げるのが大変だった剣だ。以前の一刀は、両手で持たないと持ち上がらないほどの重さを感じていた剣だ。

 雲華は難しく考えないように一刀へ助言する。

 

「『剛気』も要領は『速気』と同じよ。全身の動きを力強くするように気を込めればいいの」

「うん」

 

 そう言って一刀は頷き、静かに全身へ気を、力強さを、と充実させて、雲華から差し出された剣のぶら下がる帯を、右手で受け取ろうと手を伸ばす。

 そして、帯を握り締める。重い剣を受け取った方の足の部分に僅かに負荷が掛っているのが分かる。しかし、一刀はその重たい三十キロ近くはありそうだった剣を……片手で普通に受け取れていたのだ。それも手が伸びきっている状態でである。

 以前との体験差に感無量であった。雲華が片手で軽く持っていたように、自分が今、その様にこの重量級の剣を持っている事に。

 

「抜いてみれば?」

 

 雲華に促され、一刀は鞘を左手で掴むと、剣を鞘からカチリと鞘外れの音をさせて抜きさる。そして、右手を伸ばして剣を斜め上にゆっくりと翳してみた。あれほどの重さだったのに普通の剣よりも軽く感じるほどスムーズに振れた。

 横でそれを、雲華は微笑みながら見ている。

 だが、ほどなく剣に重みを感じるようになってきた。一刀は鞘を地面に置いて、雲華から少し離れて両手で剣を振ってみる。気を込める事で、体に力みが入ることから動きがぎこちない。

 そして、まだ片手でも振れるが、やはり少し重く感じる。どうやら少しずつ重さが増していく感じだ。

 そこで、雲華が声を掛けてきた。

 

「さすがに、『剛気』の持続力もまだまだね。北郷、そろそろ鞘に収めなさい。持てなくなる前にね」

 

 一刀もそう思い、素早く剣を鞘に納めると、剣をお礼と共に雲華に返す。

 

「大事な剣なのに、貸してくれてありがとう」

「別にいいのよ、君なら。また貸してあげるから練習しなさいね」

 

 雲華は、そうニッコリと微笑んでくれる。

 この時代だと、宝剣はとてつもない価値があるものだ。雲華は言っていた。この剣は高名な老師仙人が作ったものだと。

 これほどの切れ味のある名剣だ、きっと広大な領地や、天下の財宝と比肩するものだろう。

 本来なら一刀は、影を見る事すら叶わない剣だろうなと思うのだった。

 

 雲華は、剣を肩に掛けながら「次は上で読み書きの勉強をしましょうか」と告げてきた。

 一刀も早朝から体力、精神力面をかなり消費した思いがあるので、すぐに頷いた。

 雲華は一刀の返事を確認すると、梯子横の長椅子を持って梯子を上がっていった。

 一刀も忘れものが無いのを一応確かめると梯子を上って家の中へ入って行く。

 

 ほどなく、食卓に筆記用具や竹簡の冊などが並び、一刀らはいつものように机を挟んで向かい合って読み書きの勉強に入る。

 神気瞬導の修行の方は、目に見えて結構な前進があったけれど、勉強に関しては普通の記憶力しかない一刀には中々荷が重い。

 しかし、雲華の記憶力は本当にすごい。一刀は大きめの木簡に、漢字を適当に練習して表面を埋めたものを雲華に少しの時間見せた。そして、木簡を雲華に見せないようにして何文字目にある文字が何かを聞くとすべて正解したのだった。おまけに「なんなら見ずに全部書いて見せましょうか」と言って来たから完全にお手上げである。一刀もそれなりに知人は多かったが、こんなすごいのは見たことがなかった。

 一刀は、頑張るしかなかった。

 それでも、少しずつではあるが読める文章や、書ける漢字も増えて来ていた。

 半時(一時間)と少し、読み書きを進めると昼食になった。

 

 昼食は水餃子であった。

 うまい……雲華の手料理は、本当にうまいなぁ……あぁ幸せだ……と、一刀の頭の中も水餃子のようにぷよぷよになっていたらしい。

 雲華もその様子に満更でもなかったようで、食事中に笑顔が絶えることはなかった。

 

 昼食後はふたたび、読み書きの勉強になった。一度休憩を挟み、一時(二時間)ほどして終わりとなった。

 勉強の教材として、文章読解にはいつも有名書物の竹簡の冊が使われている。孫子などは結構面白い。概念的なことを教えてくれるため、現代人が読んでも十分に参考になるものだ。さすが二千年を超えても伝わっているだけはある。

 一区切りついたところで一刀は、雲華へこの時代の手紙の書き方について聞いてみた。どうやら、格式に依って大きく変わるみたいだった。一方で、友人らの間では結構いいかげんになってるらしい所もあるとか。いつの時代も変わらないんだなぁと一刀は思った。

 格式が上がって行くと木簡を木箱に入れて、その箱や紐にも階級があるようだった。

 そうして読み書きの勉強が終わると、再び修行となった。

 しかし雲華曰く、食堂で出来るからと、このままここでやるらしい。

 

「君は朝の修行で、少し自分以外の気が見えるようになってるんじゃない?」

 

 雲華はそう言って来た。一刀もそうなのかなと、昨日試してた目を開けたままで自分の気の流れを見てみる。気の流れを意識すると、腕や指の気の流れが昼間の明るい部屋の中でも薄っすらと見えてきた。

 

「お、ホントだ」

「朝に、私の放った気が見えてるんだから、自分の気の流れぐらいは、まあ見えるでしょ。で、私の気は見えてる?」

 

 言われて一刀は、自分の腕の方を見ていた目線を、雲華の方へ向ける。

 すると、雲華の姿にダブって……気の流れが服を透過して3Dのように薄っすらと見えている。分かると思うけど、正直余り気持ちの良いものではないのだが。

 しかし、服の上からでも……カタチは見える!

 

「み、見えてるよ」

 

 特定の部位に集中しかけているため、返事すら覚束ない一刀に、雲華はその二つの柔らかな部位の前へ人差し指を立てた右の拳をスッと出して来る。一刀は、すでに血走ったヨコシマな目線をしているのだろう。だが、一刀に注意するわけでもなく声を掛ける。

 

「この指の気の流れも見えるわよね……?」

 

 ナニ!? 最重要目標の視界に、『異物』がぁぁ!……ここで、はっと、我に返る一刀。

 危ない、危ない。相手が『悪魔』さまという事を忘れてはいけないのだ。

 僅かな油断や判断ミスで、脳ミソごと記憶をケズり出されても不思議ではないのだから。

 

「ああ、ちゃんと見えてるよ」

「じゃあ、この指の気の流れを止めてみて」

 

 どうやら、雲華は一刀にあの気を絶にする技、飛加攻害(ひかこうがい)をさせようと考えているようだ。

 確かに、神気瞬導の基本技にして、非常に強力な技だと思えた。一刀は雲華に質問と要望をする。

 

「俺が気を飛ばして、雲華の指の気の流れを絶てばいいのかな? でも、気の飛ばし方は良く分からないから、まず教えて欲しいんだけど」

 

 すると、雲華は一刀の考えを否定するように返してくる。

 

「今はまだ、君は気を飛ばす段階じゃないわ。だから、指に直接触って気の流れを絶にする気を送ってみて頂戴よ」

「ああ、わかっ………えぇっ!? いいの?! ホントにいいの?」

「な、なにが?!」

 

 一刀は急に動揺し、雲華もそれに少し驚く。

 女の子の体に、肌に、一刀自ら触る……こう書くと、表現にヨコシマなものを感じざるを得ない。

 一刀の気持ちはそんな気持ちである。自分から触れれる、そんな状況が学生になってからあっただろうか! ……いや、無い……皆無……だったのだ。

 ある意味、大きな一つの壁を超えれるかもという『感動』の出来事である。

 その感動は当然、雲華の考えの外なので、彼女にとって『これは大事な何かへの許可確認?!』に聞こえてしまい、何事かと驚くのだった。

 一刀は恐る恐るという感じで雲華へ確認する。

 

「えっと……指に触っていいの?」

「いいわよ。なにかあるの? そんなに驚くように確認して」

「い、いやなんでもないよ。なんにもないから!」

 

 自身も気付かぬうちに雲華は、一緒に暮らす一刀へ愛着が出て来ており、自然に抱きしめたりしているので、「指がなに?」という感じであった。

 首を傾げつつも雲華は、一刀へ飛加攻害について改めて説明する。

 

「飛加攻害は、神気瞬導の基本にもっとも近い技よ。純粋に気の流れを止めるという絶気を、相手の有効な部位に叩き込むのよ。その効果は絶気の強さに因るから。流れを完全に絶たないようにする弱い気だと、時間が経てば回復する。完全に絶っても、気が弱ければ人によっては回復する。それは、ほんの一部の気の流れが、少し絶たれたから元に戻るのよ。でも、強力な絶気はその部位から、完全にすべて気の流れを失わせる。これを復元するには気功の達人でないと無理だから。強力な絶気だと普通の人はもう一生、その部位に気が戻ることはないはず。すなわち、技を受けたその部位はほぼ死んだということよ」

 

 何度聞いても神気瞬導の恐ろしさを感じる話だった。人臭いという仙体術であるがゆえに、人にもっとも効果のある術でもあるだろう。

 雲華の話は続く。

 

「北郷。もう君は、飛加攻害を受けてもほぼ瞬間に完全回復できる。それもこんな短期間の修行でね。実は完全回復というのは、気の達人でもそう出来るものじゃなのよ。それは、自分の体から失なわれた気そのものを、再度出したり集めることや、元通りに再び通すことが非常に難しいからなの。言っておくけど……君の回復の速度は、私の回復の速度ともうそれほど変わらない」

「ええっ?! そうなの?」

「基本だけど……いえ、基本だからこそ、本来はそれほど難しいことなのよ」

 

 雲華は少し呆れ気味に一刀へ話をした。

 

「気力は無限……とはいえ、君に真髄の一旦を見るとは……分からないものね。さて、修行に戻りましょう。とりあえず、私の人差し指の根元に触れてみて」

「うん」

 

 一刀は左手の人差し指と中指とでゆっくりと、雲華の右手の甲側から人差し指の根元に触れる。……一刀はこっそり思う。やはり、少し自分より柔らかいなぁと。

 雲華は一刀へ促すように言う。

 

「さあ、流れを止めてみて」

 

 一刀は、そう言う雲華へ目を合わせて小さく頷く。

 止まれ、流れよ止まれ、気の流れよ……止まれ! 触れる雲華の指元に、強く絶の思いを込めた気を一刀は送る。すると、一刀の気が雲華の人差し指の根元の中へ入っていく感じと同時に、目視していた雲華の右手の気の流れから、人差し指の流れが絶え、根元から指先に向かって停滞した気の姿が徐々に消失して行った。

 さらに手の甲の半分ほどと中指、薬指辺りまで、まとめて絶の範囲は染み入る様に広がっていく。そしてその範囲は、皮膚の表面からも色が変わっていくのが分かる。生気が無くなっていくのだ。

 一刀は……怖くなった。人の……雲華の綺麗な肉体の生気が、部分的に徐々に失われてゆく。

 次の瞬間、目を瞑ると一刀は、本気の全力で瞬間回復を雲華へ掛けていた。それはあの白き光に輝いて放たれていた。と同時に、雲華の手はまさに一瞬で気の流れが完全回復する。

 

 一刀は、俯いて食卓の上の木目を見つめていた。

 冗談じゃない! 指先だけと思っていたのに……毒のように広がっていくものなのかこれは……この技はと。

 雲華から、穏やかに諭す声が聞こえてくる。

 

「この技を身に付ける為には、必ず相手が必要なのよ。君なら出来るようになるから」

「でも、もし……」

「大丈夫よ、北郷。私はそんな簡単には死なないから。でも、心配してくれてありがとう。とっても嬉しいわ」

 

 そういうと、雲華は優しく、一刀の伸ばしていた左の手を握り返すのだった。

 雲華は、飛加攻害の修行はそこで一旦終えることにした。

 

 しかし、彼女は『悪魔』さまである。気分転換にと、次の修行が木人との実戦剣術であった。

 おまけに朝に百人隊長程度へ上げたばかりだというのに、はや千人隊長並みだというのだ。

 一刀はすでに梯子を下りて広場へ出て棒を握り、木人と相対する形で向かい合っていた。

 

「北郷、『速気』や『剛気』は、よわーく使うのよ」

 

 なんともアバウトなアドバイスである。まあ、言いたいことは分かるが。しかし、相手は千人隊長並み。間違えば、自滅かヒキニクなんだが。『ブドウ狩り祭り』はまだ続いてるのかよ?ああっ?と、一刀はやるせない気持ちに成りかける。

 しかし、『悪魔』さまは釣るためのニンジンも忘れてはいない。「終わったら、山菜取と温泉よ♪」と、いう事だった。

 

(うおぉぉぉぉぉーー)

 

 拳を静かに握ると頭の中で吠える一刀の、一瞬朽ちかけた気力がヨコシマな想いに瞬間完全回復する。いや、気が百二十パーセント溢れ出ていた……『温泉タイムプリーズです!』と。

 さらに、一刀の調子に乗った声が吠えた。

 

「悪いな、木人くん。グズグズしている暇がなくなったんだ。プリーズなんだよ!(……なにが? 温泉が、だ!)」

「………」

 

 当然、木人は無言である。口など無いのだから。

 そんな様子を見ながら、雲華は始めるよう合図する。

 

「じゃあ、初めて」

 

 まず、仕掛けたのは木人だった。千人隊長とは、歴戦の兵か、技量の高い兵のみである。雑兵のレベルではない。素早く一瞬で、下段から上へ――棒を右斜め上へ切り上げながら一刀の間合いに入ってきた。

 昨日までならこれで、一刀は一撃KOだった事は間違いないという攻撃だった。

 対して一刀は、雲華の声が掛った瞬間から、『速気』を使っていた。だが、雲華の意に反して全開で使っていた。それは、千人隊長のスピードが分からなかったからだ。

 そのため、超高速までコマ送りで見れる、『速気』全開状態で待機することにしたのだ。動かなければ風というか、空気の抵抗は受けないのだ。一刀は、結構本番に強いようだった。

 しかし、『剛気』は重たいものが持てるから効果は一目瞭然だが、『速気』は自分がどれぐらい早いのかが、分かりにくいことが難点だなと一刀は感じていた。三倍速いのか、十倍速いのか……その辺が掴めるようになる頃には、それなりの使い手になれそうな気がした。空気の抵抗もそれに反して受けるだろうし。

 一刀は、踏み込んできた木人に対し、『速気』を少し落としてゆっくり動き出す。それでも十分だった。木人の動きは面白いように完全にスローに見えている。まず、木人側の下段から右上への切り上げに対しては、一刀側から見ると右下から左上に切り上げて来るように見える。

 なのでゆっくりとその流れから外れるよう、棒の刃の通過した木人から見て左側前に移動する。この位置だと振り終わった後でないと切り返すのは無理なため、最も不利で且つ完全に間合いの中に入られたことになるのだ。

 一刀が移動したのに、その時木人が気付いたようだった。腕は振り切るしかないので、動きの方向は変わらないが首がこちらへゆっくり少し動いた。

 とはいえ、木人はのっぺら坊なので、どうやって視覚的に一刀を捉えているのか謎は多い。と、どうでもいい事を考えつつ、一刀はバランスが崩れやすいように、木人が腕を振っていく方向へ合わせて胴を軽く打っておく。そして、一刀はそのまま木人の左横を後ろへ抜ける。するとやはり木人は打たれた分の踏ん張りが効かず、数歩ととっと前に突っかけていた。

 一刀は、千人隊長並みの木人を軽くあしらって見せたのだった。

 辺りを警戒しながら構え直す一刀は、その結果に思ったほど驚いていなかった。『速気』を使った時に木人の動きが止まったように思った瞬間に、この結末は見えていたからだ。驚いたのは、初めに木人の動きが止まったように思った瞬間が最高だったのだ。

 だがまだ、修行は終わっていない。木人はすぐに体制を立て直すと、一刀へ向かってきた。それを、『速気』『剛気』を使っていなしたり、間合いに切り込んで面を打ったりとほぼ一方的に木人を一蹴していた。

 しかし、十五分も過ぎたころ、『速気』の掛りが悪くなりだした。まだ初心者のためだろう一刀は、気力が息切れして来てしまっていた。

 これこそ『悪魔』さまタイムであった。

 一刀は横目でチラリと雲華を見た。

 しかし雲華は、全く止める気はなさそうに、一刀が見た瞬間にニンマリと『悪魔』の笑顔を浮かべていたのだった。

 一刀は「しまった」と思った。「よわーく使うのよ」という意味はここにあったらしい。

 そう、これは当初から持久戦を想定していた剣術練習だったのである。

 だが、一刀は思った。俺を、俺の栄光を、部位を、リビドーを甘く見ないでもらいたい!と。

 目を静かに閉じ、温泉タイムを想像する一刀。そんな場合じゃないんだが……。

 木人は弱ってきだした一刀へ、千人隊長の力を見せ俊敏に迫る。

 そして、木人は情け容赦なく一刀へ渾身の一撃を振り下ろしていく。

 

 そこで……雲華のニヤけていた表情が、「ん?」と言う意表を突かれた感じに変わる。

 満ちているのだ、一刀から。

 

 

 

「我が気力は無限なり」

 

 

 

 そう悟りを開いたかのように呟くと、一刀は静かにゆっくりと動き出す、『速気』で。そして、木人の振り下ろしてきた、もはやスローな手首を掴むと……さらに『剛気』をも使って木人の体を持ち上げると――――

 

 

 

 雲華側へ投げ飛ばしていた。

 

 

 

 一刀は、どうだ!という顔で、血走った目で雲華の方を見ていた。

 先ほど目を瞑った間に一刀は思い出していた。そうあの、温泉で薄い紺色の湯あみ着ごしに見えた、二つの膨らみのさらに中に見えた薄い……ふおぉぉぉぉぉぉぉ!!

 

(ふふふ、瞬間回復する、この満ち溢れる圧倒的な気を見るがいい! ただし、ヨコシマなモノだけどな)

 

 雲華は少し呆れたように口を歪め、肩の横辺りで「参ったわ」とに手を広げて見せる。とはいえ何故かまた嬉しそうに微笑むのだった。

 そして、今日の修行はもう終わりにしましょうかと告げる。

 

 一刀は投げ飛ばした木人を起こしてやる。ちょっとやり過ぎてしまったので、謝った上で、立ち上がった木人についた土を綺麗に払ってやった。幸いどこも壊れていないようだった。思いっきりぶっ叩いた時といい、木人は結構頑丈みたいだ。

 木人は、棒を倉庫横へ片付けると倉庫の中へと戻っていった。

 その様子を見ながら、雲華はそれじゃあと言葉を続ける。

 

「お待ちかねなのかな?……の山菜取りと水汲みがてら温泉にいきましょうか」

「うん」

 

 一刀は内心で「ヒャッホ~イ」とガッツポーズするのだった。

 

 

 

 一刀と雲華はいつもと同じように、大籠と水瓶と肩に袋を持って、普通に山菜……(あ、途中でイノシシが獲れました。雲華が『剛気』で瞬殺)を取って、普通に温泉に到着して、普通に雲華が水瓶にお湯を豪快に汲んで、普通に温泉に入って……入ったところまでは普通だったのだ。

 どうしてそういう事になっているのか……一体どうして……どうして『それ』は……それの色が『白い』んでしょうか?

 もう、おわかりになっている方もいるかもしれませんが。

 

 

 

 そう、雲華の湯あみ着が薄い紺ではなく……『白』、完全に純白なんですけどぉ!!

 

 

 

 お湯が滴ると……張り付いちゃうと……ぁあl、sだlskdぁs……なんですけど!!!

 現代の白水着のように濡れた時のスケ見え防止とか、そんな表現の自由を無視した、男にとって横暴な機能はついていないんですけど?!

 温泉。それはまさに桃源郷だったのだ……エロい。

 今、一刀と雲華はいつもの様に岩に寄り掛りながら横に並んで入っているのだ。

 彼が横目でチラリと見ると、その光景が……湯気の邪魔や、お湯の波で多少歪みは出るが……目に……いや、脳細胞にそれは焼き付いていく。

 

(もう焼き付けるしかない! 見えちゃってますよ、色んなイロが……。もう見えちゃってると言っていい。神様がきっと許してくれる!)

 

 一刀は、そんな訳の分からない事を脳内で叫びまくっていたが、やはり雲華の事が気になったので聞いてみる。

 雲華は横にいるのだが、先ほどから黙ったままなのだ。

 そして、顔が……体全体がほんのりと桃色肌なのだ……。どう考えても恥ずかしいと堪らなく感じているはず。

 一刀は気を利かせて、雲華の方は見ずに正面を向いたまま、顔を雲華の方に寄せて聞く。

 

「あの……雲華さん? どうしたの今日の温泉は。……なんか無理してないかな」

「別に。……誰かさんが、頑張ったご褒美なんじゃない? それに……(そう、何事にも始まりはあるものなのよ)」

 

 雲華の途中からの言葉は、口を水没させてブクブク言っていたのでほとんど聞き取れなかった。

 

「それに? なに?」

「なんでもないわよ」

 

 雲華へ聞き直しても教えてくれなかった。

 雲華の態度が心配になって、この決定的な状況にもかかわらず、いまいち一刀のリビドーは反応しない。

 そして、十分温泉を堪能した二人は湯船から上がることになるのだが、いつも雲華は一番遠い端まで、首を水の中に付けて移動し湯船から上がって行く。

 しかし今日は、なんと少し離れたところから立ちあがって深みへ移動していく。まだ浅い場所なので太腿ぐらいまでしかお湯はなく、背中を向いているとはいえ、お湯が滴り湯あみ着が張り付いた体が……背中から桃なお尻が透けてほぼ丸見えなのだった!

 

「ちょ! 雲華! 見えてる、後ろ、見えてるよ!」

 

 思わず、一刀は声を上げて雲華へ教えるが、ゆっくりと恥ずかしそうに僅かに振り向いた雲華は、小声でつぶやくと前を向いて対岸の岩を上がって着替えに行ってしまった。

 一刀はそれを茫然と見守っているだけだった。

 当然、脳内では全編を完全焼き付き録画されているのは、言うまでも無いが。

 

 耳を疑った。

 恥ずかしそうな小声だったが、なんとか聞き取れた。

 

「見たければ……勝手に見ればいいじゃない」

 

 しばらく放心してから、「えぇーーーーーーー?!」という一刀の絶叫が温泉に響く。そのあとに「早く着替えなさい!遅いと水瓶も持たせるわよっ!」という怖い声が聞こえていた。

 

 

 

 雲華の巨木の家へ帰る途中、一刀と雲華は一言も言葉を交わさなかった。

 お互いに少し、気恥ずかしいところがあったからだが。

 しかし、家の前の梯子の下までへ来ると雲華から一刀へ話しかけてきた。

 

「少し、割に合わないわね」

「えっ?」

 

 何の割があわないんでしょう……って、まあ先ほどの湯あみ着のことだろうなと一刀も理解する。

 「だから」と前置きすると、雲華は一刀の『名前』を呼ぶ。

 

「一刀。今から北郷ではなく、君の名前で呼ばせてもらうから……ね」

 

 雲華は、少し心配気味に、少し恥ずかしそうに上目遣いで確認するように聞いてきた。

 一刀は、何を言い渡されるのかドキドキしていたのだが、その反動もあって大喜びである。そして、この身寄りのない不安な時代に来て、敬愛する雲華から名前を呼ばれる正直な気持ちを伝える。

 

「いいよ! 雲華と家族みたいでとても嬉しいよ!」

 

 それを聞いた雲華は……完全に真っ赤になっていた。普段の彼女には全く油断も隙もない。しかし、この時は完全に意識が止まっていた。それほど彼女にとって『家族』とは衝撃的な言葉だったみたいなのだ。それを誤魔化すように、雲華は、急いで梯子に向かって移動しながら顔を一刀から隠すと告げた。

 

「じゃあ、一刀。ご、ご飯にするから食卓を拭いておいてね」

 

 そういって、雲華は飛ぶように梯子を上がって家の中に入っていった。

 

「ん?(俺がうれしいと恥ずかしいのかな?)」

 

 と、そんな見当違いなことを考えていたが、まあいいかと梯子を上っていった。

 

 家に入って、イノシシまで乗せた籠を、調理の邪魔にならないように調理室前に置く。前回だと重くて運べなかったものだが、一刀は『剛気』が少し使えるようになったので、なんとか運べるようになっていた。

 一刀は雲華に言われたように食卓を拭いたり、棚を整理したり床を少し掃除したりした。

 ふと気が付くと、調理室前の籠とイノシシが消えていた。そういえば、先ほどから調理室の方から、ダダッ、カカッ、ドドッと高速な斬撃音が飛び交っている。

 ちょっと怖いので覗くのはやめよう。どうせ血まみれの手と巨大な中華包丁を握って振り向く、蒼い双眼状態の雲華に「ふふふ、なに? 一刀。君も調理されたいの?」と言われるのがオチである。

 まさに、触らぬ『悪魔』に祟りなしなのだ。

 

 今日は、さすがに少し調理に時間が掛ったみたいだ。しかし、出てきた料理は手が込んでいたものだった。何かお祝い事みたいな豪華さである。皿を手早く並べ終わると雲華も席に着く。最後に変わった形の、コップのような器を二つと瓶を持ってきた。コップのような器を一刀の席へも置く。雲華が瓶の栓を開けると、「さあ、どうぞ」とお酌をしてくれる。一刀は器を持つと雲華がついでくれた。

 

「これは?」

「お酒よ。名酒造りの仙人から手に入れたものよ」

「俺、お酒を飲んだことあんまりないんだけど」

「まあ、これなら美味しいし多少は大丈夫よ。さあ一刀、少し飲んでみて」

 

 「じゃあ」と一刀は少し飲んでみる。 ん?これは……思ってたよりもうまい! 味について雲華に告げる。

 

「これ、おいしいね。果実酒?」

「そうよ。甘めだから一刀も気に入るかと思って」

 

 雲華は、一刀が気に入って飲んでくれて嬉しそうにニッコリを微笑んだ。一刀は「じゃあ、次は俺がつぐよ」とその瓶を受け取り、雲華についであげる。注がれるのを待つと、雲華は「乾杯しましょう」と言うので、一刀は器を軽く合わせる。すると漸く雲華も少し飲む。「やっぱりこれは美味しいわね」といつも愛飲しているのか、満足そうに器の中のお酒を見ていた。そして、一刀へ向かって言う。

 

「さあ、食べましょう。冷めちゃうから」

「そうだね。いつもに増して美味しそうだ」

「今日は頑張ったから一杯食べてね」

「うん。さぁ、食うぞぉ!」

 

 一刀も今日は一杯食べれそうな気がした。下品にならない食べ方でガツガツ食べる。雲華はそれを楽しく見ながら、たまに手酌しながら優雅に食べていた。彼女の場合、お酒に強いのか一瓶飲んでも余り変化はなかった。一方一刀も酒に強いのだろうか、たまについでもらいながら飲んだが、余り酔った気はしなかった。お酒が仙酒だったかもしれないが。今日は贅沢だなぁと一刀は思う。

 そして、イノシシの肉を薄めに綺麗に焼いてあるのが特に絶品だった。久しぶりに焼肉食ったぜ!という感じである。少しクセはあるが、この時代、この世界なのだ。万物が食になっていくのも自然の流れだった。

 「あーうまかった。ごちそうさま」と一刀は雲華にお礼をいう。お腹一杯だと、長椅子に寝転びたくなるが、雲華はまだ片付けもあるのだ。

 「おそまつさまでした」と可愛く微笑んで調理室へ皿を運んでゆく。今日は数が多かったので、調理室の傍まで一刀も皿運びを手伝った。歩きながら横に並ぶと雲華はすごく嬉しそうだった。一刀は戻って食卓を拭き、床が汚れてないか確認したりしていた。

 

 雲華が食卓に戻って来ると、読み書きの勉強になった。筆記用具類と木簡、そして竹簡の冊を机に配すると、一刀は雲華からまず、ひたすら漢字を覚えさせられた。ここへ来て十四日経つが、雲華の反復練習ですでに二百から三百文字ぐらいは、新しく意味なども覚えたようだった。必死にやれば凡人でもそれなりに覚える物だという事だろう。そして、普段から漢文ばかりだとそれが普通になってくるものなのだろう。一刀は思う。住めば都というが、やはり慣れなのだろうか、と。

 一時半(三時間)程したところで、今日は疲れただろうからと、寝る事になった……なったのだが。

 

 

 

 歴史がまた一つ動いた。激動です……それなりに。

 

 

 

 一刀は、いつものごとく『長椅子ダブル寝床』を作ろうと食卓を避けるために長椅子を動かそうとした。すると雲華から声が掛った。

 それがいつもの、寝る前の挨拶かと思いきや全然違う事を聞いてくる。

 

「一刀も……そろそろ、これだと寒いわよね?」

「えっ? あ、ああ、でもまだ大丈夫かな」

 

 何故か照れながら言う雲華だが、きっと気を遣って言ってくれているんだと思い、一刀は軽く返した。すると、雲行きが怪しい。

 

「そろそろ、寒いわよね?」

 

 なにやらトーンが下がった声質に『悪魔』さまを感じる一刀だった。『悪魔』さまが黒といえば、白でも黒なのである。そう答えるしかないのだ。完全なるイエスマンになる。

 

「はい、そろそろ寒いです」

 

 一刀は素直に棒読みでそう答えた。俺は間違っていない、一刀はそう信じている。それを聞くと雲華は「よろしい」と答える。次に雲華の口から何が飛び出してくるのか、またも怖い意味でドキドキしながら待っていると―――トンデモナイ提案が聞こえてきたのである。

 

「一刀は、上の部屋の私の寝床で寝なさい」

(なにぃーー!?)

 

 それを聞いた一刀は慌てる。雲華を追い出して寝るなんて無理だろ。すぐに一刀は言い返す。

 

「そんな! 雲華の寝床を奪うなんてできないよ。雲華はちゃんと自分の寝床で寝ないと。俺はここで大丈夫だから」

 

 すると、雲華はニッコリと少し照れながら、最高の笑顔で答えていた……。

 

「一刀が私の寝床で寝ても大丈夫よ。ちゃんと――――私もそこで寝るから」

 

 一刀は余りの内容に思わず聞き返す。それに雲華は答えていく……が。

 

「…………もう一度お願いします」

「大丈夫よ。ちゃんと私もそこで寝るから、一緒に」

「…………もう一度お願いし――」

「一緒に寝るのよ」

 

 最後は、一刀の声を遮りながらの『悪魔』さまの声と凄みのある表情だった。もはや、一刀に選択の余地は皆無になった。一刀の返事は短く棒読みの一言である。

 

「はい」

 

 ああ、夜は更けてゆく……。

 

 

 

つづく

 




2014年04月19日 投稿
2014年04月25日 文章修正
2015年03月07日 文章修正(時間表現含む)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第○➈話

 

 

 

 さて、『悪魔』さまの指示に「はい」と答えてしまった一刀。もはや、やるしかないのであった。実行あるのみである。

 修行なら、たとえ火の中、水の中であっても突き進んで喜んで死ぬのみなのだ。

 討死万歳である!

 しかし……しかし、これは……余りに……状況が状況だった。

 

『一人の少年が、うら若き女の子と、同じ寝所で、一晩一緒に寝て過ごす』

 

 どう表現しようと、どう考えようと、どう取り繕おうとも、疑う余地は皆無と言える。

 

 

 

 そう ―――― 『イカガワシイ』のである! 少年誌エロを超えちゃうかもなのである!

 

 

 

 一刀は考える。

 

(ついに俺のリビドーが、フルに溜まりきったストックが、一気に完全開放されてしまうのだろうか?!

 そして、あの栄光の、部位の――ついにその現物をこの手に……つ、掴んで……握って……触って……あんなことや、こんなことまで……●●してしまうことがデキちゃうんだろうか――――)

 

 今は、全く必要がない状況なのだが、途方もないヨコシマな気が無尽蔵に一刀の周囲へ溢れまくっていた。

 そしてそんな、頭の回りをエンゼルが飛び回るような思考を巡らして、完全に顔面の締まりが崩壊しているだらしない表情の一刀へ、雲華が「これに着替えて上の部屋に上がって来てね……」と告げる。

 それを「ハイハ~イ♪」と言いながら着替えを受け取る一刀。寝間着なのだろうか?

 新しい装飾の服を渡すと、雲華は静々と梯子を上って上の部屋へと消えていった。

 しばらく、呆け続けていた一刀だったが、急に思い出したように「待たせてはイケナイ!」と、無駄にカッコを付けたキリリとしたつもりの表情を作ると、窓の横の洗面所のところで歯を磨く。

 この時代でも、歯ブラシのようなものは存在する。歯磨き粉はさすがにないので、塩などで軽く歯や歯茎を丁寧に一通り擦って口を何度かゆすぐ。一応、雲華と一刀は朝晩二回が習慣になっていた。

 そして、慌てるもウキウキしながら雲華から渡された服に着替え始める。

 だが急いでいても一刀は、脱いだ服をきちんと畳むことを忘れない。『悪魔』さまは基本に厳しいのだ。

 

 

 

 しかし……やはり、何かが変だった。そのことに一刀は、今、身に付けた服で気が付いたのだが、イエスマンにはどうしようもなかった……。

 

 

 

 雲華は、寝るときにはいつも髪を下ろしている。そして、その艶やかな長い髪の毛が、折れたりしないように桃色の生地で出来た長い袋状のものを頭に被り、髪を収めて外からその袋に付いている紐で軽く縛っている。髪を丸く束にすることで折れを防ぐらしい。その髪の袋を、寝るときには背中ではなく、横から上に出して眠るのだ。

 雲華はそんなに意識して作ったわけではないのだが、髪を収めた桃色の袋状のものは後頭部で折れたようになった部分が耳のように見えるので、遠目に見ると実はなにげにちょっと可愛く見えていた。

 服装も、あの鮮やかな紅のチャイナ服から、下に着ている可愛い下着が僅かに透けて見える桃色の生地に、紫のヒラヒラの付いたネグリジェ風の可愛らしい着物に着替えている。

 そしてすでに雲華は、木枠の組まれた女性らしい赤の布で装飾された、古風な中華様式ベッドの端に足を下ろすように座って静かに一刀を待っていた。

 すると、下の食堂から一刀の声が聞こえてくる。

 

「着替えたから、梯子を上がってもいいかな?」

「いいわよ」

 

 一刀は、恐る恐る梯子を一歩一歩上って雲華の部屋へ上がって来た。

 すると、雲華は一刀の姿を見て口を押えて吹き出していた。

 

「ふふふ、スゴく似合ってるわね、一刀」

 

 一刀は、いくらなんでも無理があるよね?と、呆れながら笑い顔で一応抗議する。

 

「嘘つけ! これは、なんなんだよ?!」

 

 みなさん、超凶悪犯の囚人服をご存じだろうか? 猿轡を口にした上で、手や足をベルトのような拘束具で固定して最終的にはまるでミイラのように動けなくするものである。一刀が着ているのはそんな感じの頑強な太い帯が一杯付いており、それらは長く垂れていて気を付けないと踏みそうになる。さすがにサルグツワはしていないが、袖からは手が出る事なく延々と長い。おまけになんで知ってるんだろという、おなじみの囚人柄の横へのボーダー柄が上半身に入っていた……。

 さすがに、この犯罪者扱いのような服はないのではと、一刀は雲華の顔を見て抗議したのだが……ここで、一刀は雲華の姿に気が付いた……気が付いてしまった。

 一刀は、最後のだよの「よ?!」と言い切った口の形のまま表情ごと固まっている。

 そして自分の服の事などは、もうどうでも良くなって雲華の様子に見入っていた。

 それは、ベッドの端に素足のふくらはぎ以下の足先を下ろすように、膝を合わせてちょこんと座ってこちらを笑顔で見ており、後ろに長く垂れる耳帽を被った、桃色で下着の少し透けたネグリジェ風の可愛らしい着物を着ている姿に。

 

 

 

 『ああ、雲華は、可愛いなぁ♪』

 

 

 

 一刀の脳ミソには、既にその思考しか存在しなかった。

 そして、雲華に「その服はイヤ?」と小首を傾げながら上目使いに可愛く聞かれると、一刀が反論することは、もはやあり得なかった。

 

「もう、これでいいです。思い残す事は何一つありません」

 

 すでに、一刀の言葉は内容が少しおかしく、そして棒読みであった。

 さらに、雲華はベッドがら降りて靴を履くと、一刀の傍へやってくる。

 可愛らしい耳帽の……そしてすぐ傍で近いため、透て見える凝った刺繍の入った胸やお尻の可愛い下着がベッドの位置よりも、大・大・超拡大されて見えてるんですけど?!

 それに裾が……ネグリジェ風の可愛らしい着物の裾が超ミニではないのだが、明らかに短いんですが?股下十センチ無いんですけど!

 一刀はどうしてこうなった?と想像が付かなかった。

 先日の街に持って行ったときに見た雲華の作った多くの服の中に、こんな裾の短い服はなかったと思うんだが……と。

 それは当然、雲華がその後に新しく作ったからに他ならない。誰かさんのために、わざわざである。

 もちろん参考にしたは、昨日、一刀が墨で描いた好きなミニスカメイド服だった。あの木簡は、ミニスカ版も含めてごっそりと屋根裏に保管されているのであった。

 そして、一刀の所へ近づいて来た雲華は、彼の服から垂れている紐や帯を手に取ると……一刀を拘束するのではなく、「ちゃんと結んで留めておかないと危ないでしょ」と、その服の邪魔にならにように帯を畳んで、一つずつ服へ結いつけていった。

 その雲華の所作の間が……ヤバイです。

 生なももが!ふとももが! ムチムチっと、プルプルル~ン♪

 そして―――。

 

 

 

 腰を曲げたら桃(モモ)尻の白い下着が近距離で……直接丸見えです……横からでも!後ろからでも!!

 

 

 

 もう、堪能し過ぎて一刀は完全に放心状態である。ただ、目は標的にロックオンされ、脳は映像記録を逃すことなく焼き付け続けるのは自動的に継続されていたが。

 しかし、雲華は少し顔を赤くしているがそれを隠そうとはしていない。普段通りに振舞おうとしている? いやそれなら早く済ます為に『速気』は使わないのだろうか? 一刀は、モンモンと色々考えていた。

 雲華はゆっくりと一刀へ甲斐甲斐しくその作業を終えると、「はい! これで、帯類は邪魔にならないでしょ?」と言うと、さらにアッサリとトドメの『それ』を提案してくる。

 

「じゃあ、寝ましょうか?」

 

 一刀は、脳ミソが大分混乱気味と言えた。大変興奮気味でもあるが。リビドーが超新星爆発……いや、ビッグ☆バン!しちゃってもいいんでしょうか?そんな感じである。一刀は、思わず雲華に聞き返してしまう。

 

「えっ?! 寝ちゃうの? 俺、このまま自由で寝ちゃっていいの?!」

 

 すると、雲華は一刀の目を普段のように優しく見つめながらこう告げる。

 

 

 

「一刀には……君には、その拘束が本当に必要なの?」

 

 

 

 その雲華の言葉を聞いて、一刀の原子炉のように燃え盛っていたリビドーは、一気に緊急停止した。

 そして、一刀は考える。

 そうである。相手は、大恩ある敬愛する雲華なのだ。……『悪魔』さまは今は関係ない。

 その、雲華にどうこう出来る資格が、今の自分自身にあるのだろうか? 何も成していない、ただ、雲華の厚遇に甘んじているだけの、世話になりっ放しの自分に……。

 もちろん、雲華はそんな傲慢なことは少しも思っていないだろう。

 そう、今の自分に資格なんてあるはずがない……。

 

 

 

 余りの自分のお気楽なバカさ加減と情けなさに―――― 一刀の目から涙がこぼれていた。

 

 

 

 びっくりしたのは、雲華である。

 

「一刀?! どうしたの?!」

 

 慌てて寄り添ってくると、心配そうに背中に優しく手を回して抱いてくれながら一刀を見上げる雲華に、一刀は急いて涙を拭いながら笑顔を作って答える。

 

「な、なんでもないよ、雲華。ただ、君に……ありがとうって」

 

 その気持ちを量りかねて、雲華は不安そうにつぶやく。

 

「一刀……」

 

 雲華に心配させちゃいけないと、心配顔の雲華の顔を見ながら一刀は笑顔を続けて話をする。

 

「大丈夫、大丈夫。さあ、寝ようか」

「……そう。じゃあ、一刀。こっちに来て」

 

 雲華も一刀の気持ちを汲んでくれたのか、深く追求せずにベッドへ一刀を背中に手を回してくれたまま案内してくれた。

 ベッド脇まで来ると、雲華は一刀から離れて掛け布団を捲ると、靴を脱いでベッドへ上がる。

 一刀は、それでも……それでも思わず思ってしまう……なんかいい匂いがする~~!と。

 どうやら、ヨコシマな感情を完全に消し去ることは不可能なようだ。潔くここは諦めよう。

 敷き布団の下は結構固いのか、雲華が上に載ってもそれほど凹んだ感はない。

 

「さあ、一刀も靴を脱いで、どうぞ」

 

 雲華は笑顔でそう言って、潜りこんだ布団の自分の横の空いた、敷き布団の処をポンと軽く叩きながら一刀を招いた。

 一刀はもう落ち着いていた。雲華の笑顔に少し恥ずかしそうに微笑んで返しながら返事をする。

 

「じゃあ、遠慮なく……おじゃまします」

 

 一刀は、雲華の布団に潜り込むと掛け布団を上に掛けた。うぅん、いい匂いだ……ここにも、まさに極楽があったのだ。

 そして、雲華の布団の中は予想以上に暖かい。一刀は食堂での長椅子には慣れてきていたが、やはり布団はいいなぁと改めて思い直していた。

 布団の下は板張りのようであった。敷き布団の綿があるのでそれほど気にはならない。まあ、この時代にスプリングのようなバネなんてあるはずがない。

 あと一応、枕のようなものもある。木の台に綿が入ったクッションのようなものが上に付いているものだった。雲華は「それを使ってね」と言ってくれたので使わせてもらう。雲華も同じものを使っているのでお揃いであった。

 ベッドの縦は百八十五センチぐらいはあったので横になってもまだ少し余裕があった。足先を伸ばすと板に届くけど。

 

「じゃあ、明かりを消すわよ?」

「いいよ」

 

 一刀は、雲華の言葉に首を横に向けて彼女の方を向いて答える。すると、雲華もこっちを向いていた。ふふっという感じで嬉しそうな顔をしている。

 横に並んで寝ている二人の距離はそれほどない……というか近い。互いの肩は十五センチも離れていないだろう。

 雲華は一刀の返事を聞くと、布団から指を一本出すと、くいっと素早く指を曲げた。すると1本だけ点けていた蝋燭がシュっと消えた。部屋は一気に真っ暗になった。一刀は消した方法が気になって真っ暗な中、雲華に聞いてみる。

 

「今のは、どうやって消したの?」

「消灯用の仙術よ。特定の位置にある蝋燭だけを消せるのよ」

「それ、便利だな」

「じゃあ、今度教えてあげるわ」

 

 一刀は「やったぁ、ありがとう」と言うと、雲華がドキっとするようなことを言って来る。

 

「……じゃあ、お礼を先払いでもらいたいんだけど」

「な、なにかな?」

 

 急に先払いとか……一刀は何を言われるのかと、またしてもドキドキして待っていると、雲華は恥ずかしそうに小声で言ってくる。

 

「……て、手を……一刀の手を握って……眠ってもいい……かな?」

 

 それを聞いて一刀は、そこで雲華が自分が涙を見せてしまった時といい、ずっと家族的な自然体だなぁと気付くのだった。まあ、この突飛な服にはどう言う意味合いが込められているのかは少し謎だが。

 一刀は左側の非常に長い袖を捲っていって手の平を出すと、布団の中で少し雲華寄りへ左手を動かすと答える。

 

「いいよ。俺も……雲華の手を握って眠りたいな」

「……そう。よかった。うれしい」

 

 そういうと、雲華の方から手を……にぎ……って、じゃなく一刀の手の指と指の間に―――雲華の指と一刀の指がしっかり絡み合うように握られていく。

 一刀は、(えぇっ、そっちーーーー?!)といきなりハイレベルな『女の子と手を繋いで』展開に、心の中で叫んでいた。

 雲華が真っ暗な中、こっそり言う。

 

「あったかいね、一刀の手」

「雲華の手も、あったかいよ」

 

 一刀もこっそりと言い返す。

 初めは少し気恥ずかしいのだが……慣れれば周りが見ていようとも、どうと言う事は無くなって来るものである。二人は早くもすでにそういう境地に達しつつあった。

 

「ふふっ、さあ、寝ましょう」

「ああ、おやすみ、雲華」

「おやすみなさい、一刀」

 

 雲華を、ずっと守って行けるように強くなりたいなぁ……一刀は心地よく落ちていく眠りの中で、ふとそう思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 次の日、一刀は目を覚ます。

 上を向いた寝ぼけた視線は、薄暗い中、見慣れない赤い感じの四角い小さめな天井とその周りがヒラヒラした赤っぽいい布で周りが飾られている。

 それを見て、急速に一刀は昨晩の事を思い出す。

 そう、雲華の布団で、雲華の隣で寝たんだということを。同時に、手をつないだ左手のことを思い出す。

 そして……まだ手は握られている。

 一刀は仰向けに寝た状態とまま、ピクリと手を動かすと……どうやら、絡められた雲華の右手だけじゃなく、なんと雲華のもう一方の手にも包むように握られているのに気が付いた。

 一刀はゆっくりと左に首を傾けて、雲華の方を見る。

 雲華は綺麗な可愛らしい顔を、体ごと横向きにこちらに向けて、一刀の左手を両手で胸に大事に抱き寄せるようにして、まだ静かに寝息を立てていた。

 一刀はちょっと信じられなかった。

 あの雲華が、完全に気を抜いて横で熟睡してしまっているのだ。

 達人仙人としては、まさに致命的な状況と言えた。

 今の雲華は『悪魔』さまではなく、耳帽のごとく一刀の横で丸くなる『こねこ』さまになっていた。

 そんな可愛い雲華の寝顔を、しばらく一刀は静かに眺めていた。

 そして、再び強く思うのだった。この気を許してくれている隙だらけな状態の雲華は、自分が死んででも絶対に守るんだ!……と。

 ふと、一刀は雲華の頬をぷにぷにっと突っついてみたくなった。よせばいいのにである。

 一刀はゆっくりと左手を動かさないように体を雲華の方に向けて、向かい合うように横になると、そ~っと右手を近づけて雲華の左頬をつんつんと突っついてみた……。

 次の一瞬で、掛け布団がいつの間にか足元に退けられながら、それがまだパサリと倒れ込む前に、一刀がまだ横になっている隣、彼女が今まで横になって静かな寝息を立てて熟睡していた場所に旋風が起こり―――

 

 

 

 双眼が蒼の光を発した雲華が、凄まじい殺気と鋭い構えを取って立っていた。

 

 

 

 薄暗い部屋の中で、目だけが鋭く光っている『悪魔』さまが身構えているという、ホラー顔負けの状況と少し場違いだったが、一刀は思わず普通に声を掛ける。

 

「お、おはよう、雲華」

 

 辺りを凄まじい眼光で忙しく探りながら警戒していた雲華が答えた。

 

「……おはよう、一刀。……もしかして、私……完全に寝ていた?」

 

 雲華の話ぶりから、本人も気が付かない内に完全に意識が落ちてしまっていたらしい。

「ああ、良く寝ていたよ。可愛らしい寝顔でね」

 

 それを聞いて一気に顔が赤くなる雲華であった。

 彼女は、「もうっ」と言う声とともにその場に、ストンと両脹脛を太腿の外にするように膝を曲げて可愛らしく座り込むと、横にまだ寝そべったままの一刀に不機嫌そうな顔を向ける。

 やはり、寝顔を見られるのは恥ずかしいらしいのか、雲華はなにやら小声でつぶやく。

 

「……(ほんとは私が、一刀の寝顔を楽しむつもりだったのにぃ……)」

 

 いや……どうやら、一刀には寝顔を見られても恥ずかしいけれど、すでに納得しているみたいだ。

 

「ん? なに、雲華?」

「そ、そうだ。髪を梳いてよね」

 

 本心を誤魔化すように雲華は、一刀の日課と決めた髪を梳いてもらうことにする。ゆっくりと桃色の耳帽の頭に被った袋の紐を外してゆく。

 一刀は、その前にと提案する。

 

「先に窓を開けるよ」

「そうね、お願い」

 

 雲華も一刀に同意しながら、紐を解きを続けている。

 一刀はベッド脇から降りて靴を履くと、薄暗い中をうろ覚えだがおおよその窓の位置へ向かう。

 この部屋の窓も庇式なので、一刀は下から押すように開く。

 光が部屋に入って来てかなり明るくなる。庇の脇から覗く空は一面青い色をしている。すでに日は上っているようだった。

 

 この部屋に二か所あるもう一方の窓も開けて、ずいぶん明るくなった部屋の中を、一刀はベッドまで戻って来る。

 いや、ベッド近くで立ち尽くしてしまっていた。

 一刀は朝の光が差し込む中に、桃色の袋を頭から外して長い艶やかな黒髪を可憐に靡かせ、丁寧な刺繍の入った下着の透けた桃色の生地に紫のヒラヒラの付いたネグリジェ風の着物を着て、ベッドの上で可愛らしく座っている雲華を純粋に綺麗だなぁと見とれていたのだ。

 そんな立ち止まった一刀の姿に気が付き、雲華は小首を傾げて尋ねる。

 

「どうしたの?」

 

 一刀は、自然体でつい正直に答えてしまう。

 

「いや窓から見えた、今日の外はすごくいい天気な青空で綺麗だったけど……朝の光の中の雲華の方がずっと綺麗だなと思ってね」

 

 今度は、それを聞いた雲華の顔の方が超新星爆発を起こしていた……。

 そして、全身の白い肌もほんのり桃色になり、思わず手で口元を隠してしまうほど雲華は動揺してしまっていた。

 しかし、もはやそれは、恥ずかしいのではない。

 

 

 

 ……そう、うれしいのである。たまらなく、嬉しいかったのだ。

 

 

 

 そして、雲華も一刀の言葉に、思ったことを自然に返していた。

 

「うれしい……一刀に、そう想ってもらえることがとても嬉しいわ」

 

 二人は、しばし互いにそのまま静かに見詰め合っていた。

 すると、一羽の鳥が、窓の縁にパタパタと止まると一鳴くする。そこで、漸く二人は我に返ると、窓にいる鳥の方を向いた。その鳥は、部屋の中で人のいる気配に気付くと慌てて飛び去っていった。

 その様子を見終えると、二人は再び顔を合わせて笑う。

 そして、一刀は間を改めて雲華に言う。

 

「じゃあ、雲華。その綺麗な髪を梳くね」

「うん、お願いするわ」

 

 靴を脱いで雲華のベッドに上がると、ちょこんと座る雲華の後ろへと移動する。

 

「……君しか梳く人はないんだから……綺麗に梳いてね」

「わかってるよ」

 

 一刀は振り返った雲華から、櫛を受け取りながら雲華の言葉に軽く返す。まだ彼は分かっていない。

 髪は女の命である。

 雲華はこう「君にしか梳かせないんだから」と言いたかったのだが。

 櫛を渡し終えて前を向きなおした雲華は、それゆえ少し不満顔をしていた。

 でも、一刀だし……次はいつ言おうかしらと、すぐに気を取り直して微笑んでいた。

 一刀は、自身でも気付かぬうちに、とても大切なものを扱う様に、自分の宝物のように丁寧に扱って髪を梳いて行く。

 一刀は、親からもらったり、自分で買ったりした、今までの人生で手に入れたどんな宝物よりも気を遣って扱っていた。

 

 

 

 雲華が、雲華のすべてが大事だ……もう、自分よりも大事かもしれない―――。

 

 

 

 雲華も髪を梳かれながら考えていた。

 一刀に髪を梳かれていると、殺伐としたこれまでの人生にない幸せな気持ちで落ち着いてくる。そして一刀に髪を触られるのがうれしい。一刀と一緒にいるのが楽しい―――。

 ふと、昨晩から今朝に掛けて、完全に寝入ってしまった自分を思い出す。それまでの人生では、常に緊張を持っていた意識が途絶えるなどありえない事だった。

 それは、死に繋がるのだから。

 しかし一刀へは、すでに長時間に渡って自身の死の可能性を晒して見せていたことになるのだ。

 

(そうね……武人だけの私は……昨晩死んでしまったのかもしれないわね)

 

 そして、同時に思う。

 でも気に入っている一刀になら、死の隙を見せたことを後悔することもないわねと。そんな尊い存在は、今までの人生で彼女にはいない。師匠ですらもだ。

 そんな、自分も全然悪くないなと思い、なにげに幸せな雲華は自然と笑顔になっていた。

 

 一刀は、またもや長時間、髪の肌触りや雲華から香る芳香を堪能してしまった。

 おまけに、ちょこんと雲華が座った後ろから見ると、桃尻の下着が着物から透けてる部分と直接見えてる部分が、最大解像度で自由に何度でも好きなだけ閲覧可能であった。

 敬愛する者に対して……一刀は、自分がなさけなく……いやいや……これは役得……いや!この作業は断じて『罰』である!と、思いこむ事にして流した。もはや完全に意味不明だが。

 当然、その間目に飛び込んできた視覚は、最大解像度で脳ミソに全篇が自動録画で焼き付け済であった。

 すでに終わったことは仕方がないのだ。今はどうでもいいのである!

 

(……あとで思い出せればいいんだよね♪)

 

 それと一刀は、ここ数日考えていたこの時代での、新しい目標をついに自分に立てたのだった。

 

 

 

 『修行を終え、外に出て早く一人前となって、再びここに帰ってくる』

 

 

 

 だがまだ、外に出て何をするのかを決めていないなど、色々悩んではいた。

 今一刀は、食堂で雲華が作ってくれている朝食が運ばれてくるのを待っている。

 髪梳きが終わった後、お互いに着替える為、一刀は食堂へ降りて窓を開けると、囚人服のような寝間着を着替えて窓の横で顔を洗う。食卓周りを拭いたり床を掃除していると、紅のチャイナ服に着替えた雲華が降りてきて顔を洗うと「じゃあ、朝食にするわね」と笑顔で、今しがた調理室に入って行ったところである。

 ほどなく、朝食が出来、雲華によって手早くお皿が運ばれてくる。

 彼女は手の平だけでなく、雑技団のように腕、二の腕にも並べて載せて来るので大体、二度往復すれば事足りた。「いただきます」と一刀と雲華は食べ始める。

 痛むともったいないのでと、イノシシの肉が朝からだが振舞われる。焼肉はいつ食べてもうまいなぁ。

 一刀は、朝からそれを堪能して食べていた。ご飯なら三杯はいけるなぁと。

 ほどなく朝食が終わり、片付けが済むと修行となった。

 どうやら食堂で、このまま絶気技である『飛加攻害』の続きをやるようだった。

 雲華は一刀へ丁寧に教える。

 

「昨日は、絶気を掛けた周りにまで、勝手に広がっていったわよね?」

「ああ」

「あれは、相手の気の流れが上手く理解出来ていなかったからよ。ただ単純に『気の流れを絶つ』としただけだとああなってしまうの。第一、私が君に絶を行うと、きちんと範囲が絞られていたでしょう?」

 

 一刀は、昨日の毒のような広がりを見せる気の絶に少し恐怖を感じていたが、良く考えると雲華は影響範囲を完全にコントロールしていたのだ。

 そう考えると、自分が未熟なだけだと分かったのでやる気が出てきた。

 

「わかったよ。じゃあ、どうすればいいのかな」

「一刀は自分に絶を掛けるとき、場所を特定してその流れがどうすれば止まるかを考えて絶を掛けていたでしょう?」

「うん、確かに」

「それと同じことを相手の体でもやるのよ。体の構造は基本的に同じなのだから、自分と同じ場所に作用させれば同じ効果が得られるでしょ?」

 

 言うまでもないが、さすが雲華である。説明が分かりやすい。一刀は、納得して笑顔で雲華に答える。

 

「なるほど! よく分かったよ」

 

 それではと、雲華は再び右の人差し指を立てた拳を、昨日と同じように一刀の前に出して来た。

 

「じゃあ、はじめるよ」

 

 一刀は雲華に断ると、雲華は頷いてくれる。それから一刀も昨日と同じように左手の人差し指と中指だけを雲華の右の人差し指の根元に当てる。

 そして、自分の指の気の流れを止めるときと同じように考え、雲華の気の流れの同じ個所に絶にする気を送り込んだ。

 すると、雲華の人差し指の気だけが止まると、その指の気だけが失われていった。そしてそのままの状態で維持されたのである。

 

「やっぱり凄いわね」

 

 雲華が一言告げた。一刀はそれに相槌を打つように言葉を続ける。

 

「ああ、この技はすごいね」

 

 すると、雲華は一刀を見つめると気の絶えた、力のない人差し指を残したままの右手で、一刀の左手を優しく掴む。そして首をゆっくりと左右に振るとこう話はじめる。

 

「君は昨日と含めてこの技をたった二度しか使っていないのに……今のは完璧だったわ。この技は基本に近いゆえに上達は難しい。増して他人の体の気を思い通りに動かすのは並大抵では身に付かないの。理論は分かっても普通は効果が出にくいから。相手の気を制することは上級者の条件だけど……君はすでに第四条の無限の気力の会得といい、順番が少しおかしいと思えるくらいね」

「無限の気力もそうなの?」

「当り前よ、あんな膨大な強い気力を瞬間的に爆発的に生み出しているんだから。……今の私でも……無理よ」

 

 その雲華の顔はなぜか、とても……とても嬉しそうだった。

 それから、雲華が一応と、一刀は雲華の右手の指、右腕、左手の指、左腕の順に気を絶する修行を行った。いずれも、一回で成功させることが出来た。

 この飛加攻害という技の要点は、相手の気の流れを正確に把握すること。そして、絶にするときに相手の気を上回る必要があること。この二点である。

 今回の修行の際は、その箇所に触れて気を絶にするのだが……『雲華は俺の体より、やはり柔らかいなぁ……』と、一刀はまたしてもヨコシマな思いに浸っていた。

 同時に回復訓練も兼ねて、雲華の絶にした体の箇所、右手の指、右腕、左手の指、左腕を一気に一刀は瞬間完全回復させる。回復までを1回にして計十回行った。

 雲華はもはや笑っていた。

 

「君の瞬間回復は……本当にすごいわね。どうやら、疲れも一気に飛んじゃうみたいだし。もしかすると、すでに第三条は習得しかけているのかもね」

「そうなの? ずっと絶を一気に回復させるという気持ちで掛けているだけなんだけどなぁ。あ、でも最近はとにかく元気になればいいなぁという気で掛けてるかな」

 

 一刀は自分ではよく分かっていないので、そんな感じなんだけどと考えを言ってみる。

 すると、雲華はこう答えてくれた。

 

「普通はこう一気には回復しないものなのよ。一度閉じた気の通り道は気を送って通してあげないと……そうね、先導する気が必要なのよ。閉じていた通り道にその人の気を、気功の達人の気が引っ張って通してあげるの。だから普通は腕、足と部分的にしか出来ないと思う。私もそうよ。早くすることで、全身回復でも早いけど。君みたいに同時に進行させて一気に回復なんて……出来るとすれば、そうね……師匠ぐらいかも」

「えぇ? そうなの」

 

 さすがに、一刀も驚く。なんとなくやってる事なのに、大事過ぎるんですけど?と。

 

「そうよ、それぐらい驚異なのよ。うーん、君の気の持つ力は、神気瞬導を通すと絶大な効果があるようね」

「そうかぁ。でも、よかった。それなら雲華の役にも立てそうだ」

 

 「え?」っと雲華が一刀に向かって首を傾げる。一刀は嬉しそうに答える。

 

「今の俺では、武術じゃ足手まといにしかならないけれど、もし雲華が一人で直せないような怪我や病気をしても、俺が力を貸せば直せるかもしれないじゃないか」

 

 雲華は嬉しそうにやさしく笑う。そして一刀に答える。

 

「ありがとう。きっとそうね」

 

 ここで、休憩のお茶になった。

 食卓に座って雲華の入れてくれたお茶を、彼女と食卓越しに向かい合って飲んでいる。

 ああ、お茶がうまい。

 雲華へ顔を向けると、ニッコリと優しく微笑んでくれる。

 綺麗で可愛い女の子と過ごす時間……ああ、極楽である。

 今はまだ、巳時正刻(午前十時)ぐらいだろうか。窓から快晴の明るい光が食堂を明るくしている。

 一刀はさて、この後はどうするんだろうと、雲華へ聞いてみる。

 

「次は何するの?」

「そうね、昼食の前に体を動かしましょうか」

「はーい」

 

 どうやら、広場で修行のようである。木人が出るのか、それとも『悪魔』さまが出るのかであろう。そして、時間は一時(二時間)もある。

 まもなくお茶が終わり、一刀と雲華は梯子を下りて広場まで出てきた。

 そこには木人が一人、すでに立っていた。そして……なにか、昨日までと明らかに雰囲気が違ったのだ。

 どっしりと構えている。貫禄があり過ぎだった。

 一刀は、雲華にまずは聞いておかなければならないことがあった。

 

「雲華……あのさぁ、木人くんを……どんだけ強くしたの?」

「え? ああ、千人隊長じゃ力不足かなと思ったから、とりあえず、五千人隊長ぐらいの強さにしてみたけれど?」

「えぇっ!? とりあえずって……それ、もう将軍ぐらいの強さでしょ?」

「そうね。準将軍ぐらい?かな」

「………」

 

 一刀は沈黙する。二時間もあるのだ。

 そして、五千人隊長である。準将軍並みと言える。ゲームで言えば、少なくとも武力30ぐらい?はありそうな地位だ。

 千人隊長では出来たけれど、今の木人を相手にそうそう温泉タイムや寝間着姿について、超解像度閲覧の思考を満喫している余裕があるとは一刀も思えなかった。いやまあ、毎回満喫するまで見続けてしまう彼もどうかと思うが。

 これは少し厳しいのではないか……と一刀は雲華の方をそっと見てみる。

 ニヤリとして、こちらが見るのを待っていたようだった……『悪魔』さまはお喜びのようである。

 

 「くっ」

 

 思わず、一刀の口から苦しい吐息が漏れた。

 木人が、ずぃっと一刀へ木刀風の棒を差し出して来る。木人の顎が少し上がっているようで、雰囲気が「おい、小僧。相手をしてやろう」……そんな風格を感じさせる所作であった。

 小僧として、それを両手でありがたく受け取る一刀だった。すると、雲華が待ちかねていたように声を掛ける。

 

「木人くん。遠慮はいらないからね~♪」

「おぅい!」

 

 一刀は声を出して、雲華へ煽るなぁぁという目線を断固として送る! 雲華はそれをニッコリと受け止めると。

 

「じゃあ、始めて」

 

 と、あっさり気味に、ついに声が掛ってしまった。

 木人がゆっくりと間合いを詰めながら軽く棒を振ると、剛剣が風を切る音が聞こえてきた。

 一刀は、すでに軽く『速気』を掛けている。まだ十分に対応できる……そう考えていた。

 木人が動いた。

 なんと、まっすぐに五千人隊長が最速で突いて来たのだ。

 一刀は『速気』の速度を上げざるを得ない。上げながらスロー気味な木人を木人から見て向かって右側へ避ける。

 そう、木人がもう目前まで踏み込んで来ていたのだ。すると早くも、一刀が避けた方に木人の首が向く。木人の後ろに回ろうとした一刀は動きが捉えられているようだった。

 木人は一刀が移動したのに気が付くと、すぐに足を踏ん張って一刀側へ向きを変えると右手で棒を横に払ってきた。

 『速気』中でもややゆっくりぐらいで動いている。相当剣速が出ているのだろう。こんな一撃を普通に受けたら間違いなくお陀仏だろう。

 しかし、見ているだけでは勝負にならないのだ。一刀は一つ合わせてみることにする。『速気』に『剛気』を合わせて行くことにした。

 ただ、まともには受けない。流すのである。木人が棒を振ってくる、そして抜けて行く方向へ上から擦り打つように一刀は棒に『速気』と『剛気』を合わせて打ち込んだ。

振っている方向とは少し違う角度からの打ち込みに木人の剣先が揺らぐ。

 すなわち、木人の体制が崩れていた。しかし、木人はその崩れた体制からも返す棒でさらに一刀を打とうとして来る。

 一刀は、予想以上の五千人隊長水準の持つの対応力に汗が出てきた。一刀は悟る。この相手は小手先では崩せないと。決意せざるを得ないと。

 

 

 

 そう、倒される前に倒しに行くしかない。

 

 

 

 千人隊長クラスの時に一刀は、常に避けて躱して流してほぼ逃げ回っていたのだ。スローな相手から逃げ続ける。たまにチャンスがあれば何度かは打ち込んだが、自分から積極的に『止め』を刺しに行こうとはしなかった。それで十五分間逃げ回っていて結局、気の消耗からピンチになっていた。

 しかし、この五千人隊長クラスは完全には躱しきれないし逃げられない。そして、今の『速気』の状態だと、弱めに使っているが二、三十分で気が尽きそうな感じだ。

 そして、そのあとはヒキニク祭りが待っていそうである……。

 ブルッと寒気のする一刀だった。

 一刀の様子を見ていた雲華は「ん?」と彼の変化に気が付いた。一刀の気の流れに鋭さが加わっていた。

 

 決意した一刀は迷わない。『速気』を十分に使って五千人隊長クラスの木人から一旦距離を取る。そして、正眼に構える。一刀に気が満ちてくる。

 木人も一刀の先ほどまでの避け続けていた動きが変わり、正面から対するようだと構えを取った。

 一刀から仕掛ける。

 『速気』で踏み込む。かなりの速度のはずだが、木人も反応してゆるりと動き出す。それでも一刀の方が早い。そしてお返しの突き技だ。木人の喉の位置を突く!

 木人も前に出かけていたのでカウンターで炸裂した。木人の体が大きく仰け反る。二人の激突に太目の棒が一瞬僅かにたわんで軋む。そして一刀は『剛気』で突き切った。木人はバランスを崩して仰向けに倒れる。一刀は木人の首元に棒を当てる。

 そこで、雲華が声を掛けた。

 

「とりあえず、一刀が一本ね」

「ああ」

 

 五千人隊長クラスを倒しながら、一刀は淡々と答える。なぜなら、まだ始まったばかりなのだ。次は死んでるかもしれない……いや冗談じゃなく。

 そして、突きが次も決まるかは分からない。木人は明らかに反応していたのだから。

 

「さあ、じゃあ、次いくわよ」

 

 木人もケロリと起き上がった来ていた。『悪魔』さまのお楽しみはまだまだ続くのである。

 

 

 

つづく

 




2014年04月26日 投稿
2014年05月03日 文章修正
2015年03月09日 文章修正(時間表現含む)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➀○話

 

 

 

 五千人隊長……改めて考えてみる。

 一刀は、間もなく始まる木人との二回戦のインターバルの僅か合間に『速気』を使って思考する。一分を七、八分の感覚に伸ばすことはもはや難しくない。

 さて、五千人隊長は、兵士五千人のトップである。

 多少贔屓等もあるだろうが、少なくとも五百人から二千人の中でもっとも腕が立つと思われる人物であろう。中には五千人中で一番のヤツもいるはずだ。

 何度も言うが五千人中なのだ。現代の勉学で言えば、東大なんかにも楽勝で入れて、マサチューセッツ工科大学をも普通に卒業出来ちゃうわけなのだ。

 そして、十万の大軍がいたとすると、その中でわずかに二十人しかいない準将軍・副将たち並みなのだと言えた。

 そう……もはや、中には三国志に名を残した人物も当然いる立ち位置なのだ。

 

(シャレにならない)

 

 一刀は、そう素直な感想が思い浮かんだ。

 こちらは先日まで、普通の生活をして過ごしていた、偏差値五十ちょこっとぐらいで少し剣術ができるかなぁというぐらいの凡人高校生なのである。

 確かに仙術の『速気』がそこそこ使え、『剛気』は僅かに使えるようになってきているが、そもそもモノが違うはずなのだ。

 二度目のマグレな勝利があるとは思えないのであった。

 だが今からまだ長時間、一刀はその怪物と戦わなければならないのだ。

 偏差値五十ちょこっとの頭脳だとしても、生き残るために使わざるを得ない。

 フルに使わざるを得ないのであった。

 「うーむ」と考えた結果、一刀には、試験とも言えるこの試練を乗り越えるために思いつくことがそれしかなかったのである。

 

 そう、『カンニング』である。

 

 思考の流れは、気の流れと言える。一刀は自分の指を、手や足を動かすときに気の流れがどう動くのか、どういう感じに見えるのかは、大体わかるようになってきていた。

 相手のそれを見ていれば、どこが動き出して、どこを狙って来る動作をしようとしているのかが、先に読めるのでは?と考えたのだった。

 まだ薄くしか見えないだろうが、気の流れは、同じ体の構造を持つ者なら同じはず。

 すなわち……え?……ちょっと待て。体の構造?……一刀は気付く。

 

 相手は……『木人』である。

 

 その一瞬、外からは『速気』中なので、超一瞬だけ一刀の顔をキモく変形したように見えた。雲華は、一刀の方をはっきりとは見ていなかったようで、表情の変化に一瞬気が付いたが「ん? なに?」という表情で少し顔をこちらに向けただけだった。

 

(どうしよう……)

 

 一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をした一刀であった。

 しかし、少し後ろに立つ、もはや貫禄ある木人の気をチラリと見てみた。

 すると――。

 

 見えたのである。薄っすらと気の流れが。

 

 さらに、チラリ、チラチラと良く見てみる。ヤツのその指先まで気が通っている。人と同じように、その手が動く前に気の流れが強くなっているのが見えた。その変化を一刀は見逃さない。

 

(いけるんじゃねぇ?)

 

 一刀は僅かの間、ニヤリと笑ったのだった。

 その一瞬、またしても外からは『速気』中なので、超一瞬だけ一刀の顔を不気味に変形したように見えた。

 雲華はそれに気が付き、その一刀に告げる。

 

「顔を変化させて遊んでいるようだから、そろそろ始めるわよ?」

「ああ、いいよ♪」

 

 妙に、軽い返事に変わった一刀の変化に雲華は気付く。

 

(どうやら、勝てる可能性の高い答えがあるのに気が付いたようね。ふふっ、どれを選んだのかな)

 

 雲華はやさしい。厳しくはあるが本当に不可能なことはさせなかった。最初からいつも一刀なら出来ると、やってくれると信じていたのであった。

 

「じゃあ、始めて」

 

 雲華のその掛け声に、貫禄の木人が動き出す。一歩、また一歩と一刀に迫るのだった。

 すると、なんと一刀も木人の方へと詰めていった。

 一気に互いの間合いに入り込み、木人が木刀チックな棒を容赦なく一刀の頭上へ閃光のような先制の一撃を振り下ろす。

 しかし、一刀は木人の棒を振り下ろす軌道には……すでにいなかった。最少の消耗ですむ程度の『速気』で一瞬半歩下がり、木人が振り下ろす軌道を躱すと、木人の右の手首へ木人が振り下ろす軌道に少し遅れて被せるように打ち込んだ。そしてそれは、一刀の引き技を見て、木人が上に棒を戻そうとしたところで少しカウンター気味に入っていた。

 すると木人の打たれた方の右手から、握られていた棒が離れたのであった。

 人体の手首には、痛打されると激痛が走る部分がある。親指から手首への延長上にあり、手首の部分で僅かに盛り上がっている辺りである。試してもらうと分かるのだが、人差し指でポンポンとその部分を軽く叩くだけでも痛く電気も走るのだ。そこが、剣道の手からひじまでの部分を指す『小手』で最も威力のある箇所になる。

 一刀は、木人の体の気の流れを読み、上段から頭を狙って打ってくることが事前に分かっていた。当たる直前まで軽い『速気』で待ち、一瞬だけ高速動作し、引いてギリギリ紙一重で躱す。そして、木人の気の流れから、正確に弱点である手首の位置を軽い『速気』と『剛気』で打つ。

 だが木人は、残った片方の左手を返して間合いになる様に一歩一刀側へ踏み込みながら、下から上に棒を外へ向かって払うように切り上げてきた。

 さすが、五千人隊長水準の木人である。反応が早い。そして、痛覚も人ほどは無いのだろう。先ほど手を離したのはクリティカルヒットされたことで、痺れというか乱れた気が走ったからであろう。

 だがその動作も、一刀は木人の下半身や左腕の気の流れから予測が出来ていた。左腕なので、ほぼ左に払う事しかできない。なので一刀は、軽い『速気』でゆっくりと木人の攻撃出来ない右側に踏み込むと、さらに胴を完全に打ち抜いて後ろに抜けた。そのまま、一刀は反転して再度の木人の攻撃に備える。

 さすがに五千人隊長の動きは一流で鋭く早かった。今回の上段からの攻撃だけでも、先ほどまでの見てからの対処では『速気』でも反応は遅れ気味な上に後手後手だっただろう。しかし、事前に動きが分かれば、軽い『速気』でもこのように効率よく活かせ、躱せる上に反撃できるのだった。

 

(すごいなぁ、神気瞬導は)

 

 普通はどう考えても、五千人隊長並みの者による一方的なヒキニク祭りの展開であろう。

 一刀は、改めて神気瞬導の有意さと万能さに感心する。

 だが、その一刀の一連の動きを見て雲華は……笑い出していた。

 それは一刀の選択した方法が、よりにもよって難易度が高く高度な技だったからである。その名は、思考発極(しこうはっきょく)。気の流れにより相手の動作思考を発(あば)き制する究極の戦い方の一つだった。

 初めてやって見せたその上で、実際に五千人隊長水準の動きを上回っていた。さらに消費した気力も最低限であった。これなら、二時間ぐらいは気を持たせられるかもしれない。

 雲華は考える。

 

(一刀は、すでに神気瞬導をごく自然に使っているんだわ。それが、どれだけ難しいことか本人は知らないんだろうけど……。そうでなければ、思考発極を使えるわけがないのだから。確かにこれも基本の応用ではあるのだけれだけど。それだけに上達するのは難しいはずなのに。……どうやら、次の『鬼ごっこ』は私も少し本気にならざるを得ないようね)

 

 その後も、さらに五千人隊長並みの強さである木人の攻撃が続くのだが……一刀は相手の動作が事前に分かるため、最小の動きで躱すと最大の効率で攻撃に転じる。そして、なるべく次の攻撃に移るのが遅れるように、時間を稼ぐように間合いを取りながら戦った。

 そして、そのうちに一刀は五千人隊長水準の猛者が放つ剣技を、見えていた気の流れで、技の体の動きを真似て『速気』と『剛気』を加えて攻撃に転じ始める。

 まず、一刀から攻撃を右上段より打ち掛ける。それは、木人から見ると左上からくるので、木人は当然受け止めようとしに来る。それを、一刀は棒を持つ手を『速気』で反して棒先を一瞬で左上段に振り変え、引きながら木人の頭頂を強烈に打つ。手首を僅かに返すだけで、梃子の原理で棒先は大きく方向が変わるのだ。

 当初、木人は良くこれを使い、一刀の『速気』の早さに対してまず先手を取る事と、この動きを上段、中段、下段に散らして対応していたのだった。

 だが、それを逆手に取られると、木人側はかなり厳しい。動きを先読みされながらの上に、『速気』によって先手で一刀に攻撃を取られるのだ。堪ったものではない。

 

 雲華は、それを目を細めて見ている。一刀は、さらに一つの大技に手を掛けていたのだった。

 それは、視鏡命遂(しきょうめいすい)。見えた気の流れで、相手の技の動きを鏡に映すがごとく取り入れ、初めから自身の命令で遂行するがごとく思う通りに出来てしまう技である。

 進む木人との実戦剣術修行の中で、一刀はそれら、『思考発極』と『視鏡命遂』の技の精度を上げてゆく。

 結局一刀は、ヒキニク一丁上がりの予想に反して、五千人隊長並みの木人相手に数回棒が肩等に掠られることはあったが、痛打される事なく一時(二時間)を迎えたのである。

 雲華にしても、斜め上の結果であった。

 そう、そしてその事は、雲華には自身の事以上に嬉しいことであった。

 一刀は木人の横を抜ける刹那の段階で、強烈な小手を打ち込んだ。木人は思わず棒を落としてしまう。

 それを見て、雲華は声を掛ける。

 

「そこまでにしましょうか。おつかれさま」

 

 耐久の意味もあったので、この一時(二時間)は実に休み無しで行われたのだった。

 雲華が見る限り、木人はまだ元気そうだが、一刀は優位に進めてはいたものの体力的には大分ヘバって来ていた。だが、それでもまだ一刻(十五分)ぐらいは戦えそうな気力を残しているようであった。

 時間を稼ぐのも兵法の一つである。一刀が強敵を相手に、出来るだけ打ち合う回数を減らして間合いを引き延ばし、気力を温存してきた効果が出ていた。

 雲華は一刀に近づくと、とても優しい笑顔を向けながら、袖から出した手ぬぐいを握ると、その手を伸ばして来てくれて、大事そうにやさしく一刀の額に浮かぶ汗を拭ってあげる。一刀も嬉しそうにそれを受ける。

 

(ああぁ、雲華はやさしいなぁぁ)

 

 一刀の頭には、先ほどまで『悪魔』さまに仕組まれていたはずの、地獄の五千人隊長木人剣術修行の苦しさは、すでに欠片も残っていなかった。

 そう……もはや無限の気力に溢れかえっていたのであった。『幸せ~~』な気で、勝手に全身へ瞬間回復まで掛っていたのであった。バカでボケていたのである……。

 そして、雲華はそんな天然幸せボケ中の一刀に質問をするのだった。

 

「どうして、少しは覚えていたはずの飛加攻害(ひかこうがい)を使わなかったの?」

 

 一刀は一瞬固まる。そして、雲華の目を改めて見ながら軽く右の拳を握ると、左の手の平をポンと軽く叩く。

 

「なるほど! 思いつかなかった……剣術の事を考えていたから、『触る』という発想は思いつかなかったよ。確かに、すり抜ける際とか十分、腕や足に触れたなぁ」

 

 雲華は拭いた手ぬぐいを袖にしまいながら、呆れるように笑う。

 

「一刀には脅かされるわね。期待していたより、ずっと難しいことをやっちゃうんだから」

 

 そういうと、嬉しそうに、雲華はゆっくりと――――

 

 

 

 一刀の正面からぎゅっと抱き付いていた。ハグハグであった。三度目である!

 

 

 

 雲華は腕を背中に回してくれていた。加えて一刀の体は絶を受けていないのである。

 そして……

 

(おなかの上あたりに……当たってるんですけどぉ! 完全にフィットです! フィットしちゃってますよ、これは!!

 生で、柔らかい二つの、掴むための、栄光の、部位の……jdじゃそいじゃいおsjヴぁvj)

 

 一刀の思考はまたも文字化ける。

 それに、木人くんがそばにいるのに……ってあれ、すでにいない!?

 一刀が周りを見回すと……気を使ってくれてるのか、彼、すでに倉庫に入って行くんですけど。右手を軽く挙げてくれて、握った拳の親指を立ててくれてるんですけど?! イケメンな行為をサラリとしてくれるんですけど!?

 というか、木人くん。人間味ありすぎだろ。

 一刀は嬉しいやら、どうしてよいのか分からずやらで、思わず雲華に聞いてしまう。

 

「あ、あの、雲華? 俺、汗かいてるし……ね?」

「いいの」

(えっ? いいの? ほんとにいいの?! って、なにがいいんだろう?)

 

 一刀の思考は完全に崩壊してた。

 昼前の巨木の広場は、快晴のもと枝の間から美しい木漏れ日が射し、風も穏やかであった。その合間に鳥たちが愛の求愛の囀りなのか、どこからか綺麗な鳴き声が聞こえてくる。

 平和で、長閑(のどか)な時間は流れてゆく。

 

 一、二分はたったと思うが、二人はまだ静かに抱き合っていた。

 一刀もいつの間にか雲華の背中に左手を回し、そして右手で雲華の頭をゆっくりとなでなでしていた。雲華もそれを目を瞑って甘んじて受けているようだった。

 

(なんでもいいんだよな。幸せだし)

 

 一刀は思った。雲華は喜んでくれてるし、これで、大事な雲華を守れる強さに少し近づけてるんだよな……と。

 その永遠に続くかと思われた、尊い幸せで静かな時間だったが、ついに……ついに、破られるのであった――――。

 

 

 

 グゥゥゥゥゥゥ~~~~。

 

 

 

 一刀は、お腹が空いてしまっていたのである! 容赦のない破壊音であった。

 一刀には納得できない。俺の腹よ、なぜ今、鳴る?

 しかし胃袋は再び、グゥゥゥ~~と鳴った。鳴りやがったのである。関係あるか、早く食わせろと言わんばかりであった。

 思わず、一刀が自らの胃袋に絶を食らわせてやろうかと思ったところで、雲華が顔を少し赤くしたままゆっくりと一刀の背中へ回していた手を解いて一刀から離れる。

 そして、手を後ろで組みながらモジモジするように上目使いで照れながら言う。

 

「一刀に、おいしい昼ごはんを作ってあげる♪ 一刀はゆっくり体を拭いてくればいいから」

 

 そう言うと、雲華は何度も振り返りながら笑顔でゆっくりと梯子を上がっていく。それを、一刀も笑顔で応えて見ている。一番上まで上がって家に入るときに、雲華は可愛く小さく手を振ってくれる。一刀も小さく手を振って返す。そして、雲華はニッコリとして家に入って行った。

 

 ……どうみても、二人とも完全に『バカ』になっていた……。

 

 しかし、本人たちは全く気付かないでいた。他人がどう思おうと、すでにどうでもよいと言える。それに、この周囲には他に誰もいないのである。平和なのであった。『これでいいのだ!』と思っていた。

 雲華を見送っていた一刀は、思い出したかのように倉庫小屋横の庇のある場所に置かれた水瓶のところに来る。すると、そこには対戦の合間だろうけれど、いつの間にやら着替えと手ぬぐいが置かれていた。

 一刀は雲華へありがたいなぁと思いながら、水瓶から柄杓で水を汲み、手ぬぐいを濡らして絞ると丁寧に体の汗を拭うと用意されていた橙色の服に着替える。

 すでに着替える服は、紺、空色、薄緑、橙色の四色に増えている。そして下着も、一刀が着ていたものを参考に、白地やグレーの生地で雲華が同じようなものを何組か用意してくれた。出来る女性は、スバラシイ! 改めて何か、雲華の役に立てればと思う一刀であった。

 そして、ゆっくりとと言われていたことから、一刀は先ほどまで着ていた空色の服を先に洗濯して、倉庫横の日が少し当たる干場に干してから、梯子を上って家に入って行った。

 一刀が食堂に入ると……なにかが違った。

 ちょうど、昼食の用意が終わったのだろう。お皿はすでに食卓に並べ終わっている。油で軽く炒めたいい臭いがする。炒飯のようだ。汁物や野菜も並んでいる。

 しかし、並べている場所がいつもと違う……横に二人分並んでいた。

 いつもは、向かい合って座っている。家の主である雲華が奥に座り、居候の一刀が扉側に座ってというのがいつものポジションなのだ。

 しかし今並んでいるのは、奥の雲華側に二人分が並んでいる形になっていた。

 ん?そういえば、朝も俺が食卓でいつもの位置で待っているところに手早く運んできたときに、雲華は一瞬止まって並べるのを考えていたような……。

 そして、良く見るとお箸を始め、食器類も一刀専用のものが用意されるように見える。雲華と当然のごとくお揃いのものである。

 

「あの……雲華――」

「今から一刀は、私と並んで食べるのよ」

 

 雲華は優しく微笑んでそう言って一刀のところまで来てくれる。『悪魔』さまの微笑みではない。しかし、一刀は「はい」と答える。それ以外の選択肢は無いように思えた。

 雲華に手を引かれて「どうぞ」と席を勧められ、席に着く。

 雲華も静々と並んで一刀の左側の席に着く。

 ……横にピタリとくっ付いていますよ、雲華さん?

 彼女のいい匂いがしますよ。桃尻も当たってますよ?

 一刀は横を見る。

 雲華も、こちらを向いて嬉しそうに少し頬を赤くして微笑む。

 一刀もニカリ(にこりじゃない……それを超えているニッコリ)として『もうどうでもいいやぁ』という悟りに近い笑顔を雲華へ向ける。

 

「じゃあ、食べましょうか?」

「そうだね。いただきます」

「いただきます」

 

 一刀はお腹も減っていることもあるが、雲華の作る食事がおいしすぎてガツガツと食べていた。そして汁物をずぃーと飲んでいるときである。

 また歴史が動いた……。 それは今なの? 早くない?

 

「あーん、ってしてもいい?」

 

 左にぴったりとくっ付いて座っている雲華が、こちらを向いて小首を傾げながら可愛くそう宣ふのであった。

 それは余りにも不意打ちすぎた。

 一刀の口に入っていた物は、「プーーーーーーーーーッ」と見事な放物線を描いて口から吹き出されていた。辛うじて正面を向いていたのが救いである。

 横を向いていれば、雲華の可愛い可愛いお顔にお見舞いしていたところだった。

 

「ちょっと一刀、汚いわね!」

「ゲホ、がぅっ、は、鼻にご飯ツブ、入ってる……」

「大丈夫?! 一刀、ほらこれで拭いなさい」

 

 雲華が手ぬぐいを貸してくれた。それで、鼻をふん!として詰まっているものも出すことが出来た。

 一刀は食事を中断して、食卓の上と床の掃除をする。早めに綺麗にしないと染み込んでしまうからだ。雲華も箸を休めて手伝ってくれる。

 雲華はその時に、片付けながら少し寂しいそうに一刀の目をじっと見ながら聞いて来た。

 

「一刀はあーんって、するのイヤだったの?」

 

 一刀は、全力で……まさに本気の全力で、馬のまねをするように、首を横に何度も振りながら「ぶるるるー」と口を鳴らすように続けて答える。

 

「そんなわけないよ!……雲華にあーんってしてもらいたい」

「……本当に?」

「ホントに本当だよ。あと、え~と……俺も……雲華にあーんってしてもいい?」

 

 今度は雲華が真っ赤になって沈黙するのだった。そして、小さな声で彼女は返事をするのだった。

 

「……私も一刀に……してもらいたい……かな」

 

 「ナニを?!」と雲華に聞き返したい! もうすでに二人とも『バカ』の極みですホント。勝手にしてくださ~い!……と言いたくなる程だ。いやいや、思わず興奮してしまった。

 他人は見ていません。だれも見ていませんから。続きをどうぞ、そうぞ。

 そんな意見すら、有るのか無いのか知らず、気にせずに、一刀の不始末の片付けが終わった二人は、再び仲よく並んでくっ付いて座るのであった。

 

「あーん、してもいい?(はぁと)」

 

 雲華は再び一刀に可愛く聞くのだった。今度は一刀も噴き出さない。

 

「うん、いいよ」

「はい、あ~ん♪」

 

 一刀は、口に入れてもらった炒飯を「もぐもぐ」と食べる。

 

「うまい!」

 

 一刀が食べるのを見ている雲華へ、ニッコリと笑顔を返す。一刀のその笑顔を見て安心すると、雲華もまた上品に食べ始める。

 でも、塩味のはずなのに、とても甘(あんま)~~~い!のは、まさに気のせいだろう。

 ん? 一刀はここで気が付く。気付いてしまう!

 炒飯をすくって一刀の口に入れてもらったレンゲなのだが、雲華がニコニコしながらそれをそのまま使って普通に自分の口に運んで食べているんですが……。

 そ、そう、気にしちゃダメってことですよね。一刀は気にしない。気にしてないから。次は俺の番なんだから!と。

 めっちゃ気にしすぎています!

 一刀は、自分のレンゲで炒飯をバリバリ緊張しながらよそい始める。

 そして……声が上ずった状態で一刀は言っちゃいます。

 

「ゅ、ゆんふァ?」

 

 一刀は、炒飯を雲華の可愛らしい口で食べやすいように、少し少なめによそったレンゲを持ったまま、雲華の方を向いて特殊に高度な緊張状態で固まっていた。

 

「ど、どうしたの? なんか疑問形のような語尾上がりに呼んで」

 

 一刀のその変な様子に対して、疑問府を浮かべるように雲華は小首を傾げて確認したのだった。

 すると、ごくりと唾をのみ込むと、一刀は言っちゃうのである。

 

「雲華……はい、あ~ん」

 

 そう言うと一刀は、少なめによそったレンゲを雲華の方に差し出した。

 すると、雲華は少し恥ずかしそうに微笑むと、小さめな口を開いて躊躇する事なくパクリと一刀のレンゲから食べてくれたのだった。

 

「おいしい♪」

 

 もう、それだけで一刀は至上の喜びであった。

 一刀の脳ミソの中では『自分の唾液の付いたものを、抵抗なく口にしてくれる女の子がいるんだよ? 誰もが学生時代の中でも最高の思い出の一つだと思うんじゃないかね、君ぃ?』と、誰に言っているのか分からない空想が繰り広げられていた。

 すでに、一緒の布団で寝たやつが何を言ってるんだと思うだろうが、それとこれとは『全くの別物』なのである。

 そして次の瞬間に、一刀は雲華の口から残されたこのレンゲを、真空パックで永久保存できないだろうかという『バカ』な事もまさに真剣に考えていた。

 しかし……そう、このお宝は鮮度が大事なのだ。特に乾く前が重要なのである!

 大きな選択肢が一刀の前に示されていた。

 

 ぶっちゃけ、『なめる』か『なめない』かという事だ!

 

 しかし、ここは漢として……いや、人として現実的でなければならないだろう。うん、永久保存は不可能なのだ。そうすると、『しかたがない』と言える。選択肢は一つしかないのだ。男の子なのである。ぶちゃけた割には、すでに結論は決まっていた。

 

 

 

 ……早い話が「舐めたい」のである! 『舐める』のは、もはや正義なのである!!

 

 

 

 まあ形としては、次の一口を平然を装って『レンゲをシッカリ味わって』(ナメ尽くして)食べるだけのことではあるが。

 一刀は、もはや訳の分からない理論に終止符を打つべく、その行為を強引に『正義承認』して実行しようとしたのだが、そこで『愕然』となった……。

 『しまった』と……そして、無かったのだ……肝心の『お宝』が。

 

 えっ? 一体ナニガオコッタンダ?

 

 何気なく……隣の調理室から洗い物をする水音が聞こえてくるのに気が付いた。

 一刀は大きなミスを思い出していた……そういえば、最後の一口を雲華に食べてもらった気がする一刀だった。

 すでに、目の前から食卓のお皿は、一刀が呆けている間に姿を消し、握り手の形のままの手を残したまま、あのお宝のレンゲの姿も消えていたのだった。

 またしても一刀の前から『貴重なお宝』が忽然と姿を消したのであった……。

 だが、彼は『悪魔』さまの苦行を散々耐え抜いて来た北郷一刀である。

 

「おっほん。そうだな夜に……楽しみを取っておくのもまた一興!」

 

 苦し紛れに、そうほざくのであった。

 

「なに? 楽しみって」

 

 そんなに一刀を追い込みたいのだろうか? 片付けを終えて、食卓へジャストタイミングで戻ってきた雲華は、ニッコリとして一刀に聞いてくる。

 守るべきものが、そこにある!

 一刀は、極秘のX(エックス)計画(仮……ナメルのメがエックスに似ているという、どうでもいい発想より――)をこんなところで露呈させるわけにはいかない。

 『バカ』な状態が深刻な知能低下を引き起こしている一刀は、それでも必死に考えるのだった。

 なんでもいい、話題が欲しい……そうだ、昼から何をするのか聞こう!と、無駄に『速気』を使って限られた時間を最大限に使って考え、答えを出すと一刀は雲華へ尋ねる。

 

「昼からはなにをする予定? 雲華といっしょだと何でも楽しみだよね」

 

 『バカ』なりに、頭はまだ回っていたようであった。

 

「ふふっ、そうね♪……じゃあ、読み書きの勉強をしましょうか」

 

 実に無難な展開と言える。自爆によるピンチを凌ぎ切り、一刀は少し落ち着いた。知能も少し回復した。

 早速、筆記用具に木簡や竹簡の冊と、いつもの用意を食卓上にそろえると二人は学習を始める。

 だが、さすがは雲華である。基本に忠実なのだ。こういうときには、きちんとけじめをつけていた。

 食事の時のように横に座ったりはしない。以前と同じように向かい合って厳しい指導が続くのである。一刀も『悪魔』さまには絶対服従なのだ。

 イエスマンは勉学に励むのであった。

 二人は半時ほどごとに休憩を取って、合わせて一時(二時間)ほど読み書きの学習が続いた。それぞれ漢字を個別に覚えることと、難しめの文章を読む事であった。そして、一刀も少しずつ確実に読める文章が増えて来ていた。

 そして感想など、自分で考えた少し長めの文章を書くことも、僅かずつ出来るようになってきた。

 

 さて、読み書きの勉強が終わり、二人はお茶を飲んで休憩している。当然、長椅子に並んで座っていますよ?

 すなわち、一刀の知能は再び低下するのである。それは次の修行でも加速しそうであった……。ただし、『幸せの気力は無限なり!』の状態ではあった。

 横にピタリと寄り添うように座る雲華は、次の修行について話をする。

 

「次の修行は……『飛加攻害』をするから」

 

 そう言った雲華は、なぜか少し恥ずかしそうにする。知能の低下していた一刀には、その理由はこの時点では当然理解出来ていない。どうしたのかなぁ~♪と、お目出度い感じである。

 しかし、そんな彼でも始まればすぐにその理由が理解できた。

 飛加攻害の修行は、まず昨日の雲華の右手人差し指への失敗で始まった。その時に彼女は言った。『この技を身に付ける為には、必ず相手が必要だ』と。

 そして今朝は、雲華の右手人差し指に成功し、両腕へ範囲を広げて、実際に両腕を使って行われた。

 そして今回である。

 雲華が……雲華がなんと……そう、長椅子に横たわっていたのだった。

 扉側の食卓から、長椅子を少し離して置いてあり、そこに寝転んでいるのだ。

 

「さあ、一刀。私の足に……『飛加攻害』を掛けてみて」

 

 飛加攻害を掛けるという事は……現時点で絶気を飛ばせない一刀は……触るしかないのであった。柔肌に触っちゃうという事だ!

 

『一人の少年が、無抵抗で寝転んだ、うら若き女の子の生足を、ムチムチィ~なふとももやふくらはぎを、思うがままに自由に触って―――』

 

 結論を言おう、ハレンチなのである! もはや取り繕えないと言えよう。いかんともしがたい状況なのだ。

 そろそろ、P●Aや東●都から有害図書指定を受けそうなほどかもしれない。

 でも、北郷一刀には関係ないのである。彼はやるのであった。なぜ?

 

 それは……君には『悪魔』さまの声が聞こえなかったのかね?

 

 もはや、指示は下っていたのだ。一刀にとってのまさに正義である! 彼にもはや躊躇いはない。

 ただし、触ってる『だけ』だと、おそらく『確実に命がない』ので飛加攻害を掛ける事を一刀は忘れない。断じて忘れないのである! それだけの知能は辛うじて残されたのであった。彼は、まだ死にたくはないのである!

 

 さて、そろそろクドイので話を進めよう。

 一刀は長椅子に寝転んでいる雲華の右足のひざ下付近の脹脛に指先をそっと触れる。しかしクドクても、彼は思うのだった……柔らかい、暖かいと。そして……芳香&ムチムチだぁ!と。

 しっかりそれらを悦な表情で堪能しながらも、一応『命が掛っている』での、真剣に雲華の右足の気の流れは読んでいる。そして、ひざ下からの気の流れを足先から順に確実に止める。

 一刀は、午前中に行った木人との修行で、他者の気の流れをほぼ確実に掴む事が出来るようになってきていた。

 右ひざ下部分以下を足先まで絶にしながら、今度はその上の部分の太腿側も膝から足の付け根付近に絶気を送り込み、一気に絶にする。そう、絶気は気の通り道を使って、体の中へ伝える事ができるのだ。

 それを確認するように雲華は、一刀へ向かって言う。

 

「ふふっ、一刀は離れた箇所にも絶にする気を送り込めることに気が付いたのね?」

「ああ。皮膚から内側に伝わるんだから、少し離れた場所にも伝わるってことだよね? それならもっと離れた場所でも届くかもしれないと考えただけなんだけど」

「正解ね。これは、相手の気の流れを正確に掴んでおく必要があるけど。一刀は、それがすでにきちんと出来ているということね。すばらしいわ」

 

 雲華は、一刀の方へ顔を向けながらとても嬉しそうに微笑んでいる。

 そんな雲華を見ながら一刀は、「じゃあ、元に戻すよ?」と声を掛けて右足全体を瞬間回復させる。

 

「じゃあ一刀、次は左の足へ……ふとももから左足全体を絶の状態にしてみて」

 

 雲華は、少し照れながら一刀に指示をする。その反応は当然であった。自らのムチムチィで可憐な『ふ・と・も・も』を触らせる指示なのである。触らせちゃうのである。乙女な彼女が、触っていいよと自分で言ってしまっているのであった。

 一刀は立ち位置を変わるため、雲華が横になる長椅子の脇を反対側へ移動する。当然、頭の方を周りますよ? 紳士的に振舞わねば……油断をすれば一気に『悪魔』さまの餌食になるのだから。

 一刀は、反対側の左足側に回ると、少し遠慮気味に右手の人差し指と中指と薬指の指三本の第一関節部分だけを、チャイナドレスのスリットから覗く瑞々しく艶めかしい太腿へゆっくり軽く触れる。

 指先から伝わる滑らかな肌触り……いけない……楽しむだけでは『命が無い』のだ。これは修行なのだ。

 もちろん先ほどからこの全編は、知能が低下し続けている脳ミソへではあるが、超解像度録画により焼き付けが続いているのは言うまでもない。後でじっくり楽しむんだ!……そう、一刀は自らに言い聞かせて堪えるのだった。

 まず、左足全体の気の流れを掴む。そして、足先から上に向かって順に気の絶の状態へ変更していく。そして最後に太腿の付け根付近……かなりデンジャラスゾーンですが、それはあえて……『あえて』スルーして太腿を絶の状態にする。

 雲華の左足も、手際よく完全に絶な状態になったのである。

 一刀は散々なヨコシマな気を溢れさせつつも、雲華へ向ける顔だけは紳士的なさわやかな笑顔を忘れない。にっこりと、そして内心恐る恐る雲華へ確認する。

 

「どう……かな? 手際よく出来たと思うけれど」

「……そうね、もうほとんど完成形に近い絶技の伝播の仕方かな。少し呆れてしまうほどね」

 

 初めの間が少しあったような気がするが、雲華は嬉しそうに笑ってそう一刀の『飛加攻害』について評価する。そして、一刀は「じゃあ」と言って早めに瞬間回復で雲華の左足を気の絶を元の状態に戻す。

 少し慣れて来ているとはいえ、やはり血色の落ちた絶状態の敬愛する雲華の足を見るのは、一刀には辛いものがあるのだった。

 改めて血色が戻り、窓からのそよ風に香る瑞々しい二本の横たわる雲華の生なおみ足を「ニヒヒ」と横目で愛でる一刀であったが、雲華からの「それでは」という声ではっと我に返る。

 雲華は、一刀からの目線に気が付いているように顔を赤らめながら言う。

 

「一刀。一応、左右の各足についてあと二十回ずつ、反復練習をして頂戴……」

「わかったよ」

 

 あれ?注意とか無いんだけど……?無いんですけど?! ヨコシマな目で見ててイイの? もっと触っちゃってもいいの?!

 一刀はそーっと雲華の目を見る。すると……雲華の目が恥ずかしそうに、一刀から目線を外したり合わせたりとチラチラしている。

 一刀は逃さない!

 

 結果……一刀はすっかり堪能してしまった……。先ほどは『指先だけ』だった、修行として行っていた雲華との接触部分を『手の平』にまで増やしていたのだ。もはや、『ハンザイ』の域に達した行為と言えよう! おまけに少し撫でてしまっていた……。

 これは『アカン』。そろそろR-18団体の規制委員会が黙っていないでしょう!

 しかし……そんな状況にも関わらず、雲華は顔を赤らめながらも何も言わなかったのである。たまに、こそばゆいのか悶えていた気もする。そして、吐息までもあったような気もする。

 

(そうだ、こ・れ・は、あくまで、気のせいなんだ!!)

 

 そう思い込むようにしながら、一刀は計四十回の雲華の両足に対しての修行が終わったことを、雲華へ表情だけはさわやかに取り繕って知らせる。

 

「雲華、おつかれさま。終わったよ」

 

 時間は申時正刻から二刻強(午後4時半)ぐらいだろうか。日が結構傾いて来ている。

 一刀は……『あれ?』っと雲華からの返事が無いことに気付く。そして、雲華の顔を見てみる。

 それは、雲華の表情が……一刀は、やってしまっていたのだった!

 そのお顔は、お待ちかねの『悪魔』さまのニタリな微笑みだった。

 見てはいけないものを、見てしまった……そんな一刀である。『悪魔』さまはご機嫌です。

 

「さてと……そろそろ狩りの……いえ、鬼ごっこの時間ね?」

「あれれ……? 一瞬にして、狩りなの? もしかすると、ナニか死んじゃうのかな」

 

 『悪魔』さまに油断は出来ないのであった。しちゃいけないのである。それは、死亡である。即、死に繋がると言える。いわゆる即死なのだ。気を抜くということは、この地上から去ると同義語のである。

 そして、当然のごとく休憩もなく、次の地獄の修行へと突入のようであった。

 

「さあ一刀、広場へいきましょう♪」

 

 『悪魔』さまのその声に従うしかない一刀だった。トボトボとヒキニクとして売られる、去勢された牡牛のように、食堂から雲華に続いて梯子を降りる。

 一刀は調子に乗ったことを後悔した。猛烈にした。照れた顔に騙された。一杯食わされたのである。

 どうやらある意味、予想通りの展開になってきましたよ?みなさん。

 

 下へ降りると、雲華は『思考発極』について、向い側で死の宣告を待つようにショげて立つ一刀へと聞いて来た。それは、相手が『思考発極』を使って自分の動きを読んでくる時の事をである。

 

「一刀、君ならどう対応する?」

 

 もはや死が、間近に迫っている気がする緊張に包まれ、知能が戻り気味な一刀の脳ミソはフル回転する。

 

「うーん、そうだな、気を読ませないように極限まで『暗行疎影』で薄くして、最高速の『速気』で戦うかな。そうすれば、ほぼ読まれないよね?」

 

 「こう?」と言いつつ、雲華は『暗行疎影』と『超速気』と『思考発極』を同時に発動する。

 

「どう? さあ、始めましょうか、鬼ごっこを♪」

 

 一刀も『思考発極』を使って雲華の動きを読もうとするが……なんと前に立つ雲華の体にほとんど流れる気が感じられないのだ。しかし、雲華は普通に歩いたり手を動かしたりしている。と、思うと、姿が消えて……真後ろから右手をいきなり彼女の両手で掴まれてたりされたのだった。前を向いたままの状態で、お手上げな一刀は文句を口にする。

 

「……ちょっと雲華、ズルくない? こんなの絶対に破れないでしょ?」

「そんなことないわ。師匠だけが使えると思うんだけど、現想行体(げんそうこうてい)という奥義技があるわ。究極の気が想像の外の動きを現実として体に行わせるそうよ。超速気の何倍も速いはず。いや……早いとかじゃないわね。もう『捉えられない』動きなのよ。なので、別の書き方として、幻想の皇帝という異名もある技よ」

 

 しょうがない、座して死ぬことは漢として許されない。死ぬのなら前のめりに……栄光を、あの部位を掴んでからだ!……とヨコシマな気が充実し、一刀も雲華と同様の『暗行疎影』と『速気』と『思考発極』を同時に発動する。しかし一刀は、これだけでは体がほとんど動かせないことに気付いた。

 それは、暗行疎影が気の流れを弱くする為で、力が十分出なかったのだ。これを補うために『剛気』も同時に発動する必要があるようだ。弱い気で落ちた筋力等を『剛気』で数倍化して補完するのである。これに『速気』を加えれば、気の流れがほとんどない状態でも、気の流れで動作を読まれることなく、普通以上に動けるのであった。

 ここで、後ろから両手で一刀の右手をまだ掴んでいる雲華から声が掛る。

 

「私が『剛気』も必要と言わなくても、自然に出来ちゃうのね。とても嬉しいけど……少し寂しいかな」

 

 そう言って、一刀の右腕にそっと、頬を寄せてくる雲華だった。一刀は、率直に思ってしまう。

 

(もう、負けてもいいかな……そうだな、雲華にヒキニクにされて送ってもらうのも全然悪くない。人生十●年、太く短くもありかな……)

 

 ヨコシマな心も、可愛い雲華には敵わないのであった。可愛いこそ正義である。死も全く怖くなかった。唯一怖いのは『悪魔』さまなのである。絶対服従と言える存在なのだ。

 

「さぁ、一刀。本当に今からはじめるわよ!」

 

 しかし、その『悪魔』さまからの声が再び掛ってしまっていた。一刀はもはや、やるしかなかった。

 雲華の両手が離れた瞬間に、一刀は動き出す。彼は決めたら迷わない。離れた瞬間の雲華の手を掴もうと自己最速の『速気』でまず首だけ右後方に振り向いて見る。目の右端に僅かに、雲華の姿を捉えたかに思えたが、体ごと振り返った時にはすでに掴まえるどころではない位置に移動していた。

 一刀は再度、雲華の体の僅かな気の流れを捉えようとしてその姿を凝視するのだが、何一つ見えないのであった。

 

「くっ」

 

 策が全く思いつかないが、とりあえず八メートルはある雲華との間合いを詰めようと、一刀は『速気』で近づいていく。一刀の動きに連動して距離を取られるかと、思っていたが、なぜか雲華は動かない。

 一刀は、雲華の前までやってくる。こちらを見ていた雲華はさらに目を閉じるのだった。そして、一刀を挑発してくる。

 

「さあ、一刀。私を捕まえてみて」

 

 一刀は一気に雲華へ掴もうと手を伸ばす。しかし、触れる直前で躱された。さらに何度か雲華を掴もうとするが、目を閉じたままで雲華はすべて躱したのだ。

 一刀も『思考発極』を雲華にされないように、頑張っているつもりだったが……これは見えて捉えられているということなのか? 

 すると、雲華は目を閉じたままそれを見越したかのように話す。

 

「今は、一刀の気を見ているわけではないのよ。一刀も『暗行疎影』と『速気』と『剛気』技が調和されてよく出来ているわ」

「じゃあ、なんで雲華は躱せて、俺が掴めないんだ?」

 

 一刀は素直に疑問について聞いてみた。すると、雲華は答えてくれる。

 

「やっと、少し一刀に説明出来るわね。これは、風羽来動(ふわらいどう)という技よ。羽根が風に舞うように、寄ってくる相手の風圧、気圧を受けるとそれに反するように動じて避けるというものよ。今のは一刀の掴みに来る風圧に反して動いただけよ。普段は相手の気圧を受けてそれに反応して避けてるわ。基本的に大技は気を込めないと威力が出ないから、この技は特に有効なのよ。あと、風圧だけで避けてると、瞬動されると風を突き抜けてくる技もあるから過信はしないことね。あと、死んだものには気なんか殆どない奴もいるから気だけ探るというのも注意は必要よ。そのために常に視覚と連動させることね。まあ、気のない技で威力技なんてそうそう拝めないと思うけど」

「死んだものって?死んだまま動いてるってこと?」

「そうよ。死体を操る仙人や、自分が死んだまま仙人続けてる強者もいたはずだけど」

 

 もはや、なんでも有りな感じのカオスな仙人世界である。

 さて、瞬動すれば『風羽来動』中でも掴める可能性がある事を雲華より聞いたのだ。一刀はチャンスを逃さない!

 一刀は早速、全力の『速気』で瞬動して雲華を掴んでみた。

 すると……本当に掴めたのだった。両手でそれぞれ掴むことが出来たのであった。

 

 

 

 それも――ついに……栄光の、あの部位が♪

 

 

 

 ポヨンポヨンで柔らか~い。

 しかし、一刀の記憶がそこで……その一瞬でプッツリと刈り取られ、失われたことは言うまでもない――――。

 

 今日も幸せだったなぁ。「バカ」になっている一刀には、痛みや苦しみの感情は一切ないのであった。

 

 『ありがとうございました』

 

 その一言である。

 

 

 

つづく

 




2014年05月04日 投稿
2014年05月15日 文章修正
2015年03月09日 文章修正(時間表現含む)



 マサチューセッツ工科大学の卒業偏差値……85とかいうちょっとおかしいレベルです。ハーバードは86らしいです。
 偏差値85=0.023%
 偏差値86=0.02%
 いずれも学生10万人で約20人というところですね……。
 (ちなみに偏差値80で0.135%、75で0.621%、70で2.275%です)

 並び方
 昔の中国では左側(向かって右)が上座として序列が決まっていました。これを左上位と呼ぶようです。雲華が家主なので一刀に対して上座に座っています。日本にも左大臣、右大臣と昔の官職で左の方が高いのは中国からの影響ですね。

 参考までに。





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➀➀話

 

 

 

 真っ黒なぼんやりとした中、意識が少しずつ掴め始めた。瞼は未だ閉じてられている。

 一刀は、自分が普通に眠っていたのだと思っていた。

 しかし、そうではない。ふと、急速に記憶が、途切れた時の瞬間を思い出した。

 自分は……雲華に狩られた?……と。

 また同時に、順々と雲華に対して行なったそれまでのムチモモなでなで等、『不埒な行為』の数々を思い出していた。

 そして最後に、『どこでも掴んでいい』とは言われていたが、我ながら本当に『栄光の部位』を掴んでしまうとは……プリンッと柔らかかったなぁ♪……あ、イヤイヤ! 調子に乗り過ぎてしまったと、自分は修行中に一体何をやっているんだろうと、若気の至りとは言え、一刀には猛烈に後悔の念が湧いてきていた。

 だが……ほんのちょっとだけ……手をワキワキすればよかったかなぁ、とも考えていた。

 ……当然ながら、また晩飯抜きなんですよね? そして、再び冷たい長椅子の上に放り出られて、きっと独り寂しい朝を迎えているんだろうなぁと思っているのだが………どうもおかしい。

 なにやら頭の後ろが、暖かく……そして程よく柔らかかったり……。さらになにげなく、周囲に女の子のいい香りもするのですが。

 一刀は、ゆっくりと目を開けてみる。すると―――

 

 雲華が心配そうな、少し申し訳なさそうな顔をして、凄く近い位置の上から一刀の表情の様子を見ていた。

 周りの景色が赤くなっている。朝焼けなのか……一瞬、気温の感覚や周囲の木々を見てみたが、影の方向から夕暮れか? 一刀は、目覚めた直後で少し回っていない頭ながら考える。真剣に考える。

 

 一つ、状況からしてこれは『ご褒美』的要素の強い、伝説のムチムチぃな『ひざまくら』状態ではないだろうか?

 一つ、著しい失態により、気を失ったのに晩飯が食べれそうである。

 

(……何ガオコッテイルンダロウ?)

 

 一刀は、かつて経験したことのないこの状況に―――恐怖した。

 『悪魔』さまのお怒りが限界を超えて……まさか『最後の晩餐』の食材が、自分自身になったのではないだろうか?と。『ひざまくら』は食材の『熟成』に必要だからではないかと……。

 そんな『バカ』なことを考えている一刀へ、ずっと静かに待っていたのだろうか、膝の上へ大事に頭を乗せている雲華が一刀に声を掛けてくる。

 

「大丈夫?『超速気』で思わず殴っちゃったから……ごめんね」

 

 そう言って、なんと一刀へ謝ってきたのだ。

 そういえば、首の角度や顔の右側の形や感覚が『少し』変わっているような気もしないでもない。しかし一刀は、正直なところ『超速気』でと聞いて、首がどこかへ飛んで行ってなくてよかった~と考えていたので、にこやかに雲華へ答える。どうやら、生命の危険を感じて、瞬間的に『剛気』によって一刀の体へそれなりの防御力が働いたのだろう。

 

「大丈夫だよ。生きてるし……それに、今、雲華のしてくれてる膝枕で元気になりそうだから」

 

 一刀は一度目を閉じると、快適を示すように少し首をスリスリするように振って、その枕の高性能さを改めて『堪能』する。

 すると、気が一刀の体に無駄に満ちるのである。同時に瞬間完全回復するのであった。

 チャイナドレスが膝上程まではあるので、直接的なその肌の滑らかさは『堪能』出来ないのが少々残念だが、生地の肌触りもよいので悪くない……悪くないよ! スリスリは『正義』であり、自分も悪くない。これは不可抗力というものだと、一刀は最後に変な持論を頭の中で考えながら、閉じていた目を開いて雲華を見る。

 そんな一刀の、顔の眉を寄せたりニヤけたりの三段変化から、感情が丸わかりの様子を黙って見守っていた雲華は、少し顔を赤らめながらも呆れるように一刀へ言う。

 

「さあ、もう体はすっかり回復したでしょ? ……そろそろ起きなさい。夕食の準備をしないと」

「そうだね……膝枕……名残惜しいけど、すごく未練あるけど」

 

 雲華から促されてながらも、その果てなき願望を口にしつつ、一刀は横に手を付いてゆっくりと頭を起こし立ち上がる。

 雲華も立ち上がり、一刀の前へ立つと、上目使いに照れながらこう言ってくれる。

 

「……そんなに良かったの? しょうがないわね……またしてあげる……ね」

「ホント!? やったー!」

 

 一刀の嬉しそうな顔を見る雲華だが、釘を刺すのも忘れない。

 

「次の鬼ごっこは、こうは行かないから……しっかりやるのよ。それと……ん」

 

 雲華はそう言ったところで、少し遠慮がちに一刀の右手の近い所へ左手を出してきた。一刀の『バカ』な脳ミソが回る。うーむ。どうやら、雲華はお礼が先に欲しいらしい。手を握って、繋いでもらうという『お礼』が!

 

「は~い♪」

 

 そう言って、一刀は指の間が大きく開いて出されていた雲華の左手に、自分も指を開いて合わせるようにしっかりと組んで繋ぐ。

 すると、雲華はとても嬉しそうに笑顔で一刀へ見上げるように顔を向けると「さあ中に戻りましょう」と言って、ゆっくりとゆっくりと、歩幅も短く無駄にくっ付いて梯子のところまで行き、上りにくいはずなのだが、あえて腕を繋いだまま梯子を二人で上っていった。

 『バカ』なのだがしょうがないのである。誰も見ていないし、手を離した方が安全だと教えてくれる人もいないのだから。もはや諦めが肝心である。

 

 部屋に入ってもまだ手を繋いでいた二人だが、さすがに食事の用意をするためには手を離さなければならなかった。調理室のところまで来ると雲華が「また、後でね」と恥ずかしそうに言いながら、手を繋いでいないその右手も今組んでいる一刀との手を包むように重ねると名残惜しそうに組んだ左手を組み外すと、左の手を小さく振りながらにこやかに調理室へ入って行った。

 一刀は、部屋に入ってからも、調理室前で手を離した今も、だらしなく『ほわわん』とした表情で、おまけに「あとなの?あとなの?」と意味不明な言葉を呟きながら、まだそこに立ち尽くしていた。

 もはや通路に立ち尽くした邪魔なオブジェと化していたが、さすがに三分程すると、意識が戻って来たようであった。

 「おっといけない。基本、基本」と今更か?と言われそうなことを口にしながら、窓横の台で手を洗うと、食卓拭き用の台拭きを水で濯いで食卓を拭いたり、長椅子に座って床が汚れていないか確認していると、調理室から出てきた雲華によって机へお皿が一気に並んでゆく。

 以前からずっとそうだったかのように、二人の食事は昼と同じように二人分横に並べられている。

 

「さあ一刀、座って」

 

 雲華は先に一刀へ座るように勧める。一刀の『バカ』となっている脳ミソは桃色に冴えていた。それによると、どうやら彼女は一刀の横へピッタリくっ付いて座りたいらしい……。なので、基準となる一刀にまず座って欲しかったのだ。

 レディに待たせるなど言語道断である。速やかに一刀は着席すると、雲華がくっ付いてくるのを彼女の方を軽く笑顔で見守りながら待つ。すると雲華は恥ずかしそうに静々と期待通りに桃尻をくっ付けて来て座ってくれるのであった。

 

「さあ、食べましょう」

「ああ。いただきます」

「いただきます」

 

 この揺蕩(たゆた)う、ほのぼのとした食事が進む状況の中にもかかわらず、一刀の今の脳ミソには、フィットした桃尻についても大いに関心はあるのだが、それ以上に『あの無念』を晴らさなければならないという考えが勝っていた。その思いで溢れかえりだしていた。

 今日の夕餉は煮物である。そして得物はお箸。そう、残念ながら――レンゲではない……。

 イヤイヤ、それでも――

 

 『あーん』は出来るのである! そう、X(エックス)計画の実行だ!

 

 漢は決めたことはやり通さなくてはならない。すでにロマンと言えよう。諦めないのである。失敗は取り戻さなければ、死活問題にも発展しかねないのだ。もはや、夕食における最優先事項なのであった! 御託はもういいだろう。

 

 

 

 とにかく『なめたい』のである! この件にはしつこいのだ。変態でもOK~!

 

 

 

 一刀は、蹂躙出来る対象を割り切っていた。「体」と「唾液」は別物なのだ……と。『ダエキ』や『ケ』は違うんだと! もはや、決めればなんでも正義と言えるのだ。正義にしちゃうのである!

 一刀は慌てない。失敗は一度で十分。戦力が豊富なうちに仕掛けるのも兵法のうち。早速、華麗な箸さばきでほぼ手つかずのまだ豊富な状態の煮物を掴むと、雲華の方へスィっと差し出すとイケメン風のクールで優しい笑顔を精一杯作って、彼女へ勧める。

 

「雲華、はい。あ~ん♪」

 

 雲華は、一刀からの熱愛なアタックに目をぱちくりと少し驚いた表情をするが、一刀の顔を見ると嬉しそうにニッコリと照れながら笑って、可愛くあ~んと……一刀の使っているお箸をパクリと、その可愛いお口で包み込み、彼のお箸から煮物を受け取ると口元へ手を上品に当てながら、「おいしい」と言って食べてくれた。

 

 

 

 一刀は、再び『貴重なお宝物』をGETしたぁぁ☆☆☆!

 

 

 

 見ると、お箸の先はまだツヤツヤとしていた。何度も言うが、これは『鮮度』が大事である。乾く前がもっとも重要なのと言える。一刀は、千載一遇のこの好機を逃さない! 選択肢は、『保存せず味わう』の一択なのだ。

 しかし、ダイレクトにただ『ねぶる』のは些かマナーや優雅さに欠ける行為だった。一刀にも矜持はある。

 わずかにご飯を『貴重なお宝』で掬うと、内心でドキドキなのを感じさせない多少ぎこちない不自然な微笑みの表情で、パクリと食べていた。

 お箸を口から抜き取る時に、唇からお箸へ『異常な力』が掛っていたことは言うまでもない。

 食事はそのあと何事もなく、一刀は当然のように雲華の方から数回、あ~んをしてもらった。その一口一口が猛烈にうまい! それ以外の言葉は脳ミソからすでに消去されていた感じだ。思いつくのは不可能だと言えた。

 お返しに、一刀も雲華へあ~んを返すのであった。

 もはや食卓周辺には、他者が見ちゃいられない……とても入り込めない空気が満ちていたことは間違いないだろう。他に誰もいなくて、よかった、よかった。

 

 食事の片づけが終わると、雲華は『剛気』の応用である『硬気功』の修行をしましょうと言って来た。今日のようなことで、一刀にぽっくり逝かれても困るというのだ。

 一刀も死ぬ確率が減る修行なので、断る理由など有りはしない。まあ、有ったとしても『悪魔』さまがやりましょうと言ったのだ。さぁ、やりましょう。

 さて、『硬気功』である。

 雲華が、食卓を挟んで一刀へ改めて少し説明を始める。

 

「神気瞬導において、『剛気』をもって主に皮膚、骨格、筋力等を強化し硬質化することで『硬気功』を実現しているの。もうそれは、一刀も少しは使ってるから分かると思うけど」

 

 確かに一刀は、五千人隊長並みの木人との実戦剣術修行で、打ち込むときや受けるときに力負けや打撃されそうな時に防御用で、軽く骨や筋肉に強くなれ強固になれと『剛気』で補強していたのであった。肯定の意を込めて一刀は雲華へ頷く。それを受けて、雲華は話を進める。

 

「それで重要なのは、どのくらい気を強くすれば、剣で切られても耐えられるのかということよね? それは、個人差があるのでやってみないと分からないんだけど……」

 

 その瞬間に、向き合って座っている一刀の背筋に非常に寒いものが走った。雲華の目を見ながら話を聞いていた一刀だったが、思わず、目線を逸らす。

 『ヤッテミナイト分カラナイ』……それは『悪魔』さま理論だと、ダメでもとりあえずヤルってことですよね? それも刃のある剣で。要点は本当にソコなんですかね?

 色々と何か追いつめられてる?感のある一刀の頭に疑念が浮かぶ。

 再び一刀は、『悪魔』さまをそっと見てみる。

 

 

 

 ニヤリとしていた――――。

 

 

 

 ダメだ。

 彼女にとって、修行と普段がキッチリ割り切られている。

 さりげなく、静かに一刀に死亡フラグが立ちました……。

 先ほどまでの、桃源郷のようなまったりとした亜空間は、一体どこへ行ってしまったんだろう。

 一刀は、なぜいきなり剣に飛躍するのか理由が知りたかった。死んじゃうよ?ふざけるな!である。しかし『悪魔』さまにより、実行することが決まっている以上、それを聞いても意味がない事であった。

 一刀が今、しなければならない事、それは剣撃に耐えられる『硬気功』をすぐに身に付けることだ。そうと決まったら、一刀の動きは早い。一刀は雲華へ聞いてみる。

 

「確かに今の俺には、これなら剣の一撃に耐えられそうという基準が分からない。それってどれぐらいなのか、雲華自身が将軍らの剣の一撃に耐えるときを想定した『硬気功』を見せてもらえるか?」

「ふふっ、やっぱりアノ技を使う事に気付いたのね」

 

 一刀の知能は、今の一気に緊迫した状況により『幸せバカ』な状態から、偏差値五十ちょっとまで回復してきた。使えるものは何でも使うしかないのだ。

 そう、今朝の木人との実戦剣術修行と鬼ごっこで使っていた、『視鏡命遂』である。もはや一刀は、気を使った『硬気功』の現物を見れば大体加減が理解できるのだ。

 雲華の顔には笑いが浮かんでいた。それは、一刀がそのことに気付いてくれての嬉しさからである。

 雲華は長椅子から立つと、洗面の台のある窓側へ出てくる。そして左手を曲げて軽く袖を捲って腕を出すと一刀の方を向いて声を掛ける。

 

「じゃあ、左腕に将軍並みの剣撃に耐えることを想定した『硬気功』を掛けるから。しっかり見ていなさいよ」

「ああ」

 

 一刀は、雲華の全身の気の流れを見ている。すでに全身に強い『剛気』が走っていて筋力、骨格等を強化している。気の流れに全く淀みや無駄などなくさすがだと思う。彼女の場合、本来常にこの状態が普通なのだ。これで、おそらく将軍らの膂力でも十二分に耐えれるだろう。そして、その『硬気功』を掛けられた左腕は……表面に至るまで内側まで気で覆われていた。つまり皮膚も血管も神経線維もなにもかもすべて剛気で完全に強化されているのだ。その強さは、普段彼女が全身に掛けている剛気の三倍ぐらいか。

 一刀は長椅子から立ち上がる。すでに彼の『視鏡命遂』は発動されている。もう昼間までのダメージは無く、食事も取って気力は満タンである。雲華の状態を写し取るように『硬気功』を同じく左手に実行する。やってみると分かるのだが、これは……大量の気を消費する。ほぼ全力で気を投入し続けながら維持しなければならない。今の一刀にはこの強度を保てるのは十分ぐらいが限界そうだ。

 雲華の気の流れを、さらに良く見てみると……なんと、その消費分を体外から薄く広く集めるように気が流入しているではないか。これは、第五条の『周りの気の取込み』というやつだろう。減った分が補填され続けるのだ。これならいつまででも発動していられるのだ。

 一刀も負けてはいられない。今は、戦っている状態ではないのだ。そう……温泉タイム記憶映像の出番である!!

 彼は目を軽く閉じる。その頭の中に一瞬であの湯気漂う桃源郷な光景が蘇る……。

 

 

 

 あの、お湯の滴りピッタリと体に張り付いた雲華の白い湯あみ着の、二つの胸の膨らみの、その中に薄っすらとだがその色はハッキリとピ―――――。

 

 

 

 一刀の目が鋭く再び開く。その二つの瞳の奥からはあの白き光の輝きが漏れている。そして全身は圧倒的な気力に満ちているのであった。まあヨコシマな気なのだけど。

 そして、彼は再び告げるのである。

 

「我が気力は無限なり! ブツブツ……(湯あみ着の……二つの胸の……薄っすらと……ピ―――ンク)」

 

 あとに続く一刀の言葉が、ブツブツと小声で少々聞き取りにくいのだが、なにやらイカガワシイ単語がチラホラと繰り返し聞こえるのは、きっと気のせいだろう。

 おまけに一刀はその有り余る気で、全身丸ごと『硬気功』を掛けていたのだ。これには雲華も驚きを隠せない表情に変わっていた。

 さすがに普通、全身一気に『硬気功』を掛けるのは彼女にしても気力の消耗が非常に大きい技なのだ。もちろん彼女にも可能だが、初心者的な一刀がやってのけるとは思わなかったのである。

 しかし今、彼の溢れ出ているイカガワシイ気力は無限・無尽蔵であった。

 肉眼でもその輝きの一部が捉えられ、夜になってろうそく等が灯されたこの食堂の中でもぼんやりとその白き光を放っていた。

 ふと、一刀は雲華が右手に得物を握っているのに気が付いた。それは、ここに来た日の夜に彼女が仙人の証として『硬気功』を実演するために使った、刃渡り十四センチほどの小刀だった。

 その時と同じように彼女は左の袖を捲ると、再び自分の左手に鋭い刃先を突き立てるが当然赤くもならない。

 すると、雲華はこちらを向いて一刀へ近づいてくる。そして、左手でゆっくりと一刀の左手を掴む。

 このときの感覚が凄い。

 お互いに強力な『硬気功』が掛った手同士である。動くけど固いという不思議な感覚なのだ。互いに軽く当たると鈍い岩や金属の様なゴツゴツという感じの弱い音がしていた。一刀は思わず感想が口から出る。

 

「すごい……な」

「そうね。まあ、自分の体だけでもその感じは分かるけれど、痛覚や感覚を共有していない他の人の体だと特に不思議なものがあるわね」

 

 「さて」と言うと、雲華は一刀の眼前に小刀を翳す。一刀も雲華が近づいて来たときに意図は分かっていた。これで、まず試そうというのである。雲華は、一刀の左袖を軽く下げ手首から肘までを露出させると声を掛けて来る。

 

「じゃあ、行くわよ」

「はい」

 

 最悪、左腕一本飛ぶことになるだろう。しかし、イエスマンに否はなかった。しかし代償が腕一本なので、一刀はかなりビクビクと緊張気味ではある。

 雲華は、躊躇いなく結果が分かっている気軽さで、ヒュッと一刀の左腕に素早く切りつける。

 すると、僅かに固いものが擦れるような音がしただけであった。

 一刀は左腕に特に痛みを感じない。どうやら一刀の強力な『硬気功』は成功していたようだ。

 一刀は一瞬、無邪気に喜ぼうとしたが、雲華はニヤリとしながら告げた。

 

「これで、明日の昼食の後に、木人くんと実剣での剣術修行ができるかな」

「ちょ! えっ?」

「一刀、実剣で経験や実績を積まないと、戦場では役に立たないわよ」

 

 雲華の言うことは最もである。ここは現代の日本とは違うのだ。強力な殺傷能力のある互いの自慢の武器をぶつけ合い、技量を競い合って自らの血飛沫を飛ばし合い、常にギリギリで命のやり取りが行われている時代であり場所なのだ。

 一刀は、雲華と厳しく目を合わせている。夕食の時のような浮ついた感は今、互いにない。

 

「常に油断しないで。気を抜かずに、出来るだけ周囲の敵意のある気を警戒することよ。死は……いつもすぐそこに、傍にあるから。……一刀、君はどうか死なないでね」

 

 雲華は、とても大事な事を教えるようにそう言うと、愛おしいものを見る優しい笑顔を一刀に向けてくれていた。

 彼女は無茶な事を言うようでも、いつも一刀の事を考えてくれている。一刀自身もその気持ちになんとか応えたいと思っている。

 一刀は早く、敬愛する雲華へ恩返しが出来る、力になることが出来る、守ってあげることが出来る、そんな一人前の存在になりたかった。

 それには、一刀も決意として雲華に言っておかねばならない大事な事があった。

 一刀は『硬気功』を解いて、雲華の前へ立つ。

 その一刀の何かを訴える様子を見て、雲華も『硬気功』を解いた。一刀は両手で、静かに雲華の右手を取る。

 雲華は、どうしたの?という風に小首を傾げて一刀を見つめている。

 すると、一刀は静かに話し出す。

 

「雲華。俺、修行が終わったら森の外の世界へ出るけど……一人前になって、なるべく早くここに帰ってくるから。必ず帰ってくるから。それまで……待っててほしい。その時に君へ大事な事を言うよ」

 

 いきなりな告白モードの一刀に、雲華は一瞬固まってしまう。しかし、一刀の真剣な表情にその意を汲み取る。そして、彼女も素直な気持ちの返事を返していた。

 

「分かったわ。私、待ってる。ずっと……ずっと待ってるから。……でも、大事な事……今は言ってくれないの?」

 

 雲華は顔を赤くしながら、恥ずかしそうに一刀へ上目使いに可愛く、そして少し意地悪そうに聞いてくるのであった。その内容をもう知っているかのように――である。

 一刀は照れながら、しかしすでに言葉に出した意地を見せなければならないとして答える。

 

「今はまだ……ね。楽しみにしていて欲しいかな」

「うん。楽しみに待ってる」

 

 二人は、しばし見詰め合う。ろうそくの柔らかな灯りに包まれ良い雰囲気だ。

 一刀は握った彼女の右手を引いて優しく引き寄せる。雲華も引かれるまま近づき、一刀の胸に頭を付け背中に手を回し甘えてくる。

 またハグハグです、四度目ですよ。フィットしますよ? 柔らかな二つの丘が完全にフィットしてますから! 一刀が、自分でフィットさせましたよ。

 一刀も雲華の背中に手を回し時折、彼女の頭をなでなでしながらハグハグを満喫していた。そして、一刀はさらに大胆な行動に出ていく。

 一刀は雲華の頭を撫でていた手を、彼女の顎に当て上を向かせるのであった。もう、お分かりですよね?

 

 

 

 チューしたいんです! 『ダエキ』がロマンなんです! ベロベロしたいんです!! 

 

 

 

 しかし、一刀はまたしても油断していた――――。

 少し上を向く形になっていた雲華のその可憐な唇から、その冷静な言葉が流れるのである。

 

 

 

「でも、待つ必要があるかどうかは……一刀が、明日の夕日を見れたらの話かな」

 

 

 

 そうですね♪

 そうだった……一刀の死亡フラグは、まだヘシ折れていないのだ。木人との実剣による剣術修行……今日と同じ準将軍並みなのか? いやいや、『悪魔』さまが同じにするわけがない。その日のうちに百人隊長が千人隊長水準になったこともあるのだ。

 間違いなく将軍並みだろう……デンジャラス。英雄たちと肩を並べるレベルで、実剣で殺し合いですか?

 シャレとか冗談とかじゃない。現実が過酷すぎる。

 気が付くと、雲華は静かに一刀からすでに離れていた。あぁ、一刀には過酷な状況が続いていた。

 彼女が抱き付いていたときの温もりが徐々に冷めていくのが寂しい……一刀は柔らかな二つの感触の余韻をまだ楽しむも背中の悪寒が強くなって行くのであった。

 雲華はゆっくりと食卓に戻ると、一刀へ声を掛けた。

 

「さあ一刀、次は読み書きの学習にするわよ」

「はい……」

 

 一刀は少し元気なく、雲華の向かい側へ筆記用具や竹簡の冊、木簡等を揃えると座る。雲華はいつもの通りで淡々と学習は進んで行く。今日は難しい文章の読みが中心だった。その中で読めない漢字を木簡に書き留めておいて後で説明を受ける感じだ。結局、『硬気功』は二刻(三十分)ほどもしていなくて、その分読み書きの学習が一時半(三時間)ほど行われた。それでも、幾分早い感じで今日の修行や学習は終了した。雲華は、笑顔で労いの言葉を掛けてくれる。

 

「おつかれさま、一刀」

「今日もありがとう、雲華」

 

 一刀のお礼を聞くと雲華は、窓横の洗面台で歯を磨き、それが終わると一刀へ向かって少し照れながら言葉を伝える。

 

「さあ、一緒に寝ましょう。……早く着替えて上がって来てね。待ってるから」

 

 まだ、明日の剣術修行が頭にあって憂鬱な気分の一刀なのだが――「待ってるから」……。

 

(キタァーーーーーーーー!♪)

 

 一気に彼のテンションが上がって来る。

 そうだ!今晩も雲華と楽しく一緒に寝よっと、と割り切り始めていた。

 ラストナイトフィーバーに成りかねないが、それはそれでヨシである。

 明日は明日の風が吹くのだ。そうと決まれば一刀は歯を丁寧に磨くと、急いであの囚人服のような寝間着へ速気でもないのに速攻で着替え終わると、梯子の下から上へ声を掛ける。

 

「もう、上がってもいい?」

「いいわよ♪」

 

 一刀は梯子をゆっくりと上がっていくと……途中まで上がった段階で、えっ?となった。

 雲華が、梯子の傍まで笑顔で、後ろ手を組み可愛いポーズで迎えに来てくれていたのだ。くれていたんだが……どうも一刀は自分の目が壊れているのではないかと思ってしまった。

 雲華の寝間着なのだが、色が桃色に紫のヒラヒラではなく、薄い水色に紺のヒラヒラに変わっていた。それはまあ似合っているのでいいだろう。そして、透けて下の可愛らしい下着が見えているのも昨日と同じなので嬉しいことだ。それも問題ない。

 さて、問題?なのは裾である。昨日のは十センチはないが裾はあったのだ。しかし……今日のは『無い』のだ。『無い』どころか『マイナス』である。元々着ている衣装の生地が股下まで無かったのだ。

 とりあえず冷静に、分かりやすく言おう。

 

 

 

 可愛い刺繍細工の入った桃尻パンティがほぼ丸見えですよ? フリースルーです! おみ足も素足でムチムチぃなまま、寝間着色に合わせた薄い水色の耳帽な可愛いお姿でお出迎えですよ?

 

 

 

(それでいいの?! ほんとにいいの?!)

 

 梯子の途中で止まり、一刀は思わず笑顔で小首を傾げてしまった。雲華は、少し恥ずかしそうに顔を僅かに赤くしているのだが全く隠そうという素振りはない。むしろ見てください的なポーズではないだろうか。

 もはや、超高解像度での記憶録画しながら見ちゃってるので手遅れだけど。特に先ほどから縦皺の入った彼女のデルタゾーン周辺に、一刀は目が釘付けなのであった。

 

「どうしたの……? 早く上がって来て」

 

 じっくりと自分の着衣と、体が見られているのが分かっている雲華だが、相手は一刀なのである。もはや咎める事はないのだ。

 ハッキリ言っておくと、彼以外の男性がこの情景を見た場合、あと温泉の情景も同様だろうが……ほぼ命はない。良くても眼球は無くなっているはずだ。雲華は容赦しないことを忘れてはいけない。

 雲華から催促を受けた一刀だったが、きつく抑え込んでいたはずのリビドーがここへ来て活動を再開しました!とアソコがモッコリな状況になってしまっていたのだ。

 雲華の前に出辛い状況に陥っていたのである。困った、どうしようかと悩み始めた所に解決案?なのか雲華から予想外の言葉をもらう。

 

「その……前は気にしなくてもいいから! 早く上って来なさい」

 

 強めに促される言葉に従い、一刀は梯子を上がりきると、少し前屈み気味でモッコリをなんとか目立たなくしようとしていたが、雲華からさらに告げられた。

 

「一刀、恥ずかしがる必要はないの。男の子なんだから、堂々とすればいいのよ。だって……ここには私と二人しかいないんだから。それにそれは……私の今の姿が気に入ったからでしょう?……一刀に気に入ってもらえて嬉しいから」

 

 そして、雲華は恥ずかしげに微笑むと、長い袖の中にある一刀の手をそっと両手に取ってベッドへ案内してくれていた。

 こ、これは……雲華にとって一刀のモッコリがすでに容認されている?! しかし、その意味を本当に分かっているのだろうか? いや、温泉の時もそうだが、話の前後からもそれが『ナニの為』のどういう現象かは知っていると思われる。 

 ふと、一刀はなぜ、どうやって雲華がその事を知ってるんだろうと考えてしまった。そう、雲華は『今は一人』だが、もしかして『以前は誰かといっしょに住んで』いて……と。

 一刀は一瞬、落ち込む感じになった……しかし、改めて考え直す。自分は今の敬愛する雲華が良いのではないのか? 執着する必要のある過去なのかと。

 そんな考えをしていたからなのか、一刀の足がバリアフリーな綺麗に板が敷き詰められた床にも関わらず、つっかかり僅かにカクンとなる。その僅かな振動が、横にあった小さ目の机に慌てて積んだのか不安定であった竹簡や書物の山を崩してしまう。

 床に広がった書籍たち……雲華が「ああっ!」と慌てた声を上げる。なんとなく一刀が目線をそれらに向けると、その難しそうな書籍名のなかに紛れていたいくつかの書籍名に目が留まった。

 

 

 

 『必見!男性の体の神秘』『阿蘇阿蘇~彼が喜ぶ寝間着特集~』『男女の良い雰囲気の作り方』『女性からのお誘い百選』『仲良き夫婦の夜の過ごし方』――などなど。

 

 

 

 些か文学には程遠い題名のそれらは、見た目がまだ新しい書物ばかりで、優に二、三十冊はあった。

 ……あれれ? 一刀の杞憂はどうやら取り越し苦労であったようだ。そういえば、街へ行った帰りに、「学習用の本を買ったから持って」と言われて不機嫌な雲華から持たされた気がする。

 そう彼女は、実に初々しいのである。

 一刀は手を引いてくれていた雲華の方をゆっくり見ると、ミダラな今のその姿を見られるよりも遥かに恥ずかしいのか、すでに真っ赤になっていて、一刀と目線が合うとその目線をゆっくり横に逸らしていった。

 かわいい。

 彼女はさらにかわいい言い訳をする。

 

 

 

「わ、私にだって知らないことはあるんだから……そう! これは、勉強よ、勉強……」

 

 

 

 そう言いながら、珍しく気弱そうに目線を戻して来て、上目使いに可愛いく一刀を見上げてくる雲華だった。一刀は、ニヤけながらよせばいいのに少し意地悪な質問をしていく。

 

「じゃあ、これについても知ってるんだよね?」

 

 わざわざモッコリな部分を指差して聞いたのだ。

 

「そ、それは……こ、子作りに……重要な部位で……」

「それから?」

「そ、そういう気持ちになると……膨らむのよ」

「そういう気持ちって?」

「………えっと……私を……押したお――」

 

 次の瞬間、「って、ばかーーーっ!」と、一刀は雲華に再び『超速気』で見事に思いっきり張り倒されて失神したのであった。

 

 

 

「――ずと、一刀。起きてよ、もう。折角静かな夜なのに。傍で一緒にお話できるのにぃ。そう思って早めに修行を切り上げたのに……」

 

 なにやら、連続する可愛い可愛い内容の言葉に、一刀は目が覚めた。『残念ながら』自慢のモッコリは、すでにお静まりのようであった。

 再び雲華が、上から心配そうに優しい瞳で見下ろす感じで見つめている。一刀の頬や髪を優しく撫でてくれているようだ。

 そして、頭の後ろが柔らかい肉質で暖かい……耳端にかすかに当たるのが布生地では無く、ナマな瑞々しい滑らかな肌のようである。どうやら腰から下は雲華のベッドの柔らかい綿の布団の上に横たわっていて、さらに周りは雲華の女の子らしい香りに包まれているようだ。

 これって、究極の桃源郷的で生モモな『ひざまくら』ですかね? この極楽な気分によって急速に溢れ出る『無限の気力』によって、またしても角度が大幅におかしい首と、激しく変形している右側の顔面が、そして深刻なダメージを受けていた頭部が瞬間完全回復を起こしていた。……一刀が起きなければ、それなりに危険な状態だったのだが、それはまあ軽くスルーしておく。

 一刀はかなりの『硬気功』を掛けて受けたつもりだが、加減の無い状態の雲華には通用しないようである。それほど剛な力なのに、体が吹っ飛んでいないのは、飛ばす力ではなく、体内へ叩き込まれた力が凄かったためだ。常人ならグチャグチャなヒキニクレベルだと思われる。

 とりあえず、今回も首が一回転して取れてなくて良かった良かったと、呑気で素直に喜ぶ一刀であった。

 

「雲華、ひざまくらをしてくれてるんだ?」

「良かった、すぐに目を覚ましてくれて。だって、この時間は……一刀も甘えていい時間なんだから。……でも、あんまり恥ずかしいのは……まだ……ね」

「まだなの?」

「そう……まーだ♪」

 

 そう、ふふっと嬉しそうに雲華は言ってくれる。

 

「……そうだね、俺、待たせてるんだよね」

「うんそうよ。……今も……ずっと待ってるんだから」

 

 ええっ?『今』もって? 雲華を改めて見返すと嬉しそうに、そして恥ずかしそうに少し体をしをらせながら微笑んでいた。

 すでに待っている、と彼女は言ってくれているのだ。

 

 

 

 『一人前になったら』と告げている一刀は、さすがにここで、なし崩しに彼女へ向かって『行く』ことは彼の矜持としてできない事なのだ。

 

 

 

 雲華が『慎ましく待つ女』を見せてくれている以上、『誠意ある漢』として行動しなければならない。一刀は慎重に口に出す文言を熟慮した上で、雲華の思いに応える言葉が彼女へ告げられた。

 

「じゃあ……モモにサワサワ、スリスリしてもいい?」

 

 そう、彼の思いには『一線を超えなければセーフ』という新たな『正義』が芽生えていた。

 彼は北郷一刀。絶倫なのである。本能なのであった。女の子に甘えたいのだ。サワサワ、スリスリしたいのである。それはすでに『正義』と化していた。

 一瞬、雲華から膝枕上の自分に向かってこめかみ辺りに、人を廃人に変える威力のコークスクリューパンチ辺りが深々とめり込むんじゃないかという幻想が見えた一刀だったが、なんと雲華からの答えは小さく……「いいよ」であった。

 

(いいの? って、ホントにいいのかよ!?)

 

 自分で要望したことではあったが、ヒジョーに予想外な返事に一刀は一瞬固まる。しかし、彼は北郷一刀。チャンスは逃さなかった。

 じゃあ、と言うと顔を横にするように、体ごと仰向けから右向きに寝そべり直す。一刀の頬には、待望の瑞々しいうら若き少女のムチムチィなフトモモのフィットする感触が、そして真近から漂う女の子な芳香がタマラナイのである♪

 ゆっくりと頬をスリスリとしてみる。

 

 

 

 嗚呼、ス・バ・ラ・ス・ィー! スバ~ラ!(外国人風になまり気味)である。

 

 

 

 さらに、一刀は左手で雲華のフトモモをなでなで、サワサワしてみた。本当に女の子のもち肌って瑞々しくって柔らかで滑らかなんだなぁと芳香と共に堪能していた。

 その時、雲華には異変が起こりつつあった。一刀の丁寧な太腿付け根に近い部分へのスリスリと右太腿外側へのサワサワのコンボに、彼女の少年誌エロでは記述出来ないアウトな部位に変化が起こって来ちゃっていたのだ。

 

 

 

 僅かに熱いのである!

 

 

 

 一刀の行為は決して不快ではない……むしろ不思議と心地よいのだが、それがその……色々とムズムズしてくるのだ。つまり、気持ちいいのであった!

 一刀は、暫したっぷり堪能しながらその『いい加減にしろや』的なお触りを続けていると、上の方から時折、「ぁう」と吐息が……「んっ」と小声が漏れているような気がして上の方へ「どうしたの?」と顔を向けてみた。

 もちろん、下から見上げると、あの二つの、栄光の、掴むための部位が寝間着から透けた可愛らしい刺繍細工の施された下着越しにその膨らみが閲覧・堪能できるのだが、その絶景越しに雲華の顔を見る。

 すると、周囲の肩や腕、気付けば一刀の目前に広がるおみ足も桃色になっていて、顔はそれ以上に赤く艶やかになった雲華がいた。

 雲華は可愛く恥らいながら、モモを僅かに擦って……すり合わせるようにしながらこう伝えて来る。

 

「まだ……ダメなんだから。今日はこれぐらい……ね」

 

 彼女は何かに耐えているようだった。本日の特別サービスタイムは終わりのようである。

 

「ああ……また、いいんだよね?」

 

 一刀は、『獲物は逃さない!』という本能がそう言わせていた。まだまだ、味わい尽くしたいのである。雲華もイヤじゃなかったが……しかし、自分の変化に戸惑いがあった。待てるのかな……と、次は負けちゃうんじゃないかと。

 

「うん……また」

 

 少し困惑気味に、でも少し期待もしていたりと、そんな返事を返すの彼女であった。

 一刀は漸く、雲華の太腿から頭を上げて上体を起こすと、雲華のベッドの上で胡坐をかいて座る。

 雲華は、膝立ちで掛け布団をゆっくり捲ると、顔を一刀へ向けて告げる。

 

「今日の罰として一刀はこれからは毎日、私と手を握って、そして……くっ付いて眠るのよ」

 

 二人の関係はまだ加速している。一刀は思う。『罰』……もっと『厳罰』を食らわしちゃってください、と。

 そう言った雲華から、指の間を大きく開かれた右手の平が一刀の方へ翳される。一刀はそれにゆっくりと自分の左手を指と指の間に互いの指を差し入れてしっかりと握り合わせる。雲華は安心したようにニッコリと微笑むと「さあ、寝ましょう」と横になる。手を組んでいる一刀も横になる。

 そして布団が掛けられる。すると、仰向けの雲華はもぞもぞと一刀の方を向いて横になると枕と共に一刀の左肩と腕に当たる位置まで寄って来るのだ。

 一刀の腕は今朝のように雲華の両手にすでに包まれていた。彼女はそれを二つの胸の膨らみに大事そうに引き寄せている。そして満足そうに気持ちを伝えてくる。

 

「ふふっ、一刀は温かい♪」

「雲華も温かいよ」

 

 一刀の肩に当たる雲華の吐息が心地よい。腕を抱いてくれている柔らかな雲華の体も最高だ。

 雲華は、指で行う例の仙術で部屋の灯りのろうそくを消すと、それから二人はしばらく桃色な互いを称える話や短めの寝間着の事をしていた。

 なぜそんなに短くしたのかと一刀が聞くと、昨夜から今朝の一刀が髪を梳くまで、チラチラと雲華の下半身に目が行っていたからだと言うのだ。この水色の寝間着は桃色のと同時に作ったのだが、水色は余りに裾が短すぎた失敗作だと思っていたのだという。しかし、桃色の寝間着すらさらに下から覗こうとする一刀を見ると、裾はより短い方が喜ぶのでは?と考えて今夜着たというのだ。

 

「だって、一刀を喜ばす為だけに作ったんだから……」

「ありがとう、雲華。とても綺麗で可愛い姿だったよ」

「嬉しい」

 

 気のせいか、一刀の左肩に雲華の可憐な小さめの唇が触れた気がした―――。

 

「さあ、そろそろ寝ましょうか」

「ああ、おやすみ、雲華」

「おやすみなさい、一刀」

 

 

 今日も振り返ると幸せな良い一日だった。まあ、明日は分からないのだが……。

 眠りに落ちる寸前、一刀はこっそりとあの瞬間を思い出していた。

 

 そう、夕食の時の『貴重なお宝物』の『味』を。

 

 それは―――

 

 

 

 最高に甘~~~~~~~~~い!

 

 

 

 食べ物の味ではなかった。それは『気持ち』の味だったのだ。

 一刀の人生の歴史に、また金字塔が一つ追加されていた。

 第十五日目が静かに平和に終了する。

 

 

 

つづく

 




2014年05月11日 投稿
2014年05月19日 文章修正
2015年03月11日 文章修正(時間表現含む)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➀➁話

 

 

 

 一刀は、左肩辺りの違和感で目を覚ます。

 窓が閉まっているため薄暗い部屋の布団の中で、まだ意識がぼんやりな状態のまま、ゆっくりと顔をそちらに向けると……体を一刀へ向けて横になっている雲華が目を閉じた顔を一刀の左肩に当ててゆっくりとスリスリしていた……。

 

(べ、別にいいんじゃないかな?)

 

 一刀は、少し驚くが人の事は言えない。全く言える立場にない普段の行いがある。だがそのハートフルな光景に、目がはっきりと覚めた。彼女の可愛いスリスリの様子をそのまま静かに見守り、堪能することにした。

 しかしまもなく、一刀の顔を伺う様に彼女の目が開く。当然、一刀と目が合うのだが。

 ちょっとびっくりした風に彼女の目が僅かに大きく見開らかれ、スリスリが一瞬止まる。しかし、一刀を見ながら雲華は、再びスリスリを再開する。

 

「あの、雲華さん? おはようございます」

「おはよう、一刀」

 

 彼女は、すぐにスリスリを止め笑顔で返事を返してくれた。そして返事が終わると、一刀を見ながらスリスリを再開する。

 そして相変わらず今日も、一刀の左手はまだしっかりと雲華に組み握られている。そしてそれは、雲華の胸近くに彼女の左手も添えられて大事そうに引き寄せられており、彼女の胸の下着や寝間着越しとはいえ、一刀の腕へ二つの膨らみの柔らかさが……やや挟まれている?感じも加えて伝わって来ていた。

 ヤルことは何ひとつ済んでいないのだが、これは――もはや『新婚さん』となにが違うのだろうか?

 幸せである。一緒の布団も暖かい。雲華も暖かい。彼女の栄光の部位も暖かい!

 朝から、幸せな『無限の気力』に満ち溢れる一刀であった。

 雲華はスリスリを十分楽しむと、漸くスリスリの理由らしき事を口にする。

 

「寝る前と起きた時は、甘える時間なの」

「……そうだな」

 

 幸せ『バカ』たちに理屈はいらなかった。

 一刀も右手を伸ばして、雲華の頬や鼻先、眉毛、前髪を指先で軽く突っついたり撫でたりして暫し、布団の中で二人戯れていた。

 一刀が目を覚ましてから十五分ぐらいは経っただろうか、頬を撫でられていた雲華が髪梳きを要望してきた。二人はぼちぼちと布団から起き上がる。しかしまだ組んだ手は離さない。名残おしそうに二人の間で前後に揺らす。それを一分ぐらいしてやっと手を離す。

 ダメダメである……。

 しかし、彼らは気にしない。なぜ? それは、誰も見ていないからだ! そう、二人以外に誰もいない。誰も見てませんから!

 さて、一刀は昨日と同じようにベッドを降りて、靴を履いて窓辺に向かい窓を開ける。今日も快晴なようで、雲の少ない明るい光が部屋に入ってくる。

 空を確認してベッドへ戻ってくる一刀を、雲華は桃尻の下着を――いや、背中を彼の方へ向けてベッドの上で待っていた。

 雲華の薄い水色のスケ透けの寝間着の裾は本当に短い。おヘソの五センチほど下にしかなく引っ張ってもパンツにほとんど掛ることはない。つまり、背中向きの下着の桃尻は丸見えなのだ。

 そのことが少し気になるのか、一刀へ振り返りながら裾を少し下へひっぱって僅かでも隠そうとしている雲華なのだが、そのしぐさが逆に――『すごくエロ』いのだが。

 もちろん、一刀は窓辺から振り返ったその瞬間から、一瞬も欠くことなく最大視力解像度で脳へ記憶録画中である! 『無限の気力』の元になる『お宝』なのだ。つまりこれは『正義』と言えよう。誰にも邪魔させないのだ。

 ベッドへ上がると一刀は、「えへへ」とだらしない顔のまま、雲華から櫛を受け取る。雲華も一刀に見られてるのは……実はそんなにいやじゃない。一刀が喜んでる感じなので、裾を引っ張るのをさり気なく続けていたりする。

 一刀は受け取った櫛で丁寧に丁寧に自分の『宝物』を梳いてゆく。雲華も一刀が以外に上手く丁寧なので、喜んですでに自分の髪を安心して任せている。

 櫛で梳くときに起こる僅かな空気の対流は、雲華の髪と女の子な香りも巻き上げてくる。一刀は、スンスンと鼻を鳴らして今回も存分に堪能していた。

 ほどなく髪は綺麗に梳き終わる。

 

 朝の雲華のベッド上での、まさに連続する桃源郷的な至福な時を迎えている絶好調にだらけ切った表情の一刀は―――またも油断していた。

 

 そんな悦な彼に、彼女は……振り返った『悪魔』さまは、ニヤリと微笑んで呟くのである。

 

「もう、思い残す事はないわよね? さあ、今日の修行はきっと新しく見るものがあるわよ」

 

 『新しく見るモノ』……それは? 閉じた地獄の門の裏側なのか?それとも三途の川の向こう岸なのか……。

 一刀の表情は脂汗が出る感じへ一気に引き締まる。彼女の余裕の表情から『死』がまさに……確実に近づいている? それをこの目で見て、この身で実際に知る事になるのかと慄(おのの)く一刀であった。

 勝負は午後の実剣での、対将軍並みな強さが予測される木人実戦剣術修行だ。なんとしても生き残るのだぁ!

 

 そう!予想されるそのあとの――『温泉タイム』のために♪

 

 目的はズレまくっているが、真剣な表情で一刀はこの時、まだそう思っていた。

 このあと、二人はそれぞれ別かれて着替え、顔を洗い、食卓にて並んで朝食を取る。

 そして、引き締まった表情と意気込みの中、一刀は午前中の修行に突入する。

 ところが、午前中の修行を終えたあとの一刀は―――

 

「人生、十●年。『見るもの』も見た気がするし、もう思い残す事はないかなぁ~♪」

 

 そんな事を呟けるほど、顔が再び締まり無くだらけ切っており、彼の周りにはイカガワシイくヨコシマな気力が満ち溢れていた。

 一方、雲華は顔を真っ赤にしており、一刀の顔を見れないほどとても恥ずかしそうにしていた。

 いったい、午前中の修行に二人になにがあったのだろうか。

 

 

 

 朝食後、まず読み書きの勉強であった。

 いつもの様に、食卓を挟んで向かい合う形で座り、一刀は木簡に筆を使って雲華より教えられる漢字を書きこんでゆく。

 記憶力が常人の一刀が覚えるには、ひたすら反復練習しかない。雲華は、これまでに彼へ教えた漢字や文章の範囲をすべて覚えている。そして、一刀がどの漢字をよく間違えるのかまで完全に把握していた。彼女の頭の中で、傾向と統計が取られているのだ。至れり尽くせりと言える。とても親身だ。でも、『悪魔』さまでもある。

 四回以上同じところを間違うと非常に怒られるのだ。三度までは許してもらえる……ふと、エロいこともそうなのだろうか? そっちの方が不安になる一刀であった。

 これまでに覚えた漢字の使い方を雲華に確認されつつ、新しい漢字もまた五十程追加された。三国時代、大陸で使われている漢字は使用頻度の低いものや難しいものも入れると実に五千字を優に超えるほどもある。日本の高校まででは二千字程度しかない。おまけに形や意味も違うのだ。今、一刀が理解出来て使えている漢字数は千を超えた程度である。ただ言い回しが色々あるので、拙いが意志や意見を人に使えることは大体出来る程度には文章も書けるようになってきた。

 雲華の考えでは、まず使用頻度の高い漢字、千五百字は理解して使いこなせるようにしたいらしい。

 休憩を二度はさみ、一時半(三時間)程続けられた。

 ここは何事もなく終わっていた……そして、歴史は動くのである。

 

「その……次は、他者への絶の修行を……します」

 

 一刀は、雲華から次の午前中の修行の内容を聞かされたのだが……先ほどまで普通な様子だった――いや『悪魔』さまな風格に見えた、彼女の言葉や態度が、急にしをらしいのだ。

 聞かされた内容を踏まえ、一刀はこれまでの過程を頭の中で振り返ってみる。

 

(絶……えーっと確か、指、手、腕、二の腕、足先、脹脛、フトモモの順でやって……次は――)

 

 そして、気付いてしまった……。一刀は、気付いてしまう。気付いちゃうのである!

 昨晩も硬気功の修行にて、雲華の全身の気の流れを『詳細』に掴めていたが、あえてスルーしていたコトにだ。

 気の流れは『体の形』、そして『からだ内部の部位の形状まであらわにする』のだ。

 絶の修行で残された彼女の部位は、頭部か胴体である。おそらく頭部は最後だろう。

 残る箇所、それは……。

 

 

 

 つまり――胸部、腰部の形状と内部構造までが気の流れで詳細に丸見えになるのだ! 男の子が女の子の体の神秘な構造すべてを網羅し把握しちゃうのである!!

 

 

 

 ……非常にハイレベルでヤバイと言えよう。

 そのまま外形を色つきで写真で公開すれば、間違いなく刑法百七十●条で規定される『わ●せつ物頒布等の罪』に問われるレベルなのは間違いない。

 すでに一刀の能力は、人間万能CTスキャンなのである。

 これは修行であり、神聖で中立な立場と気持ちで冷静に現状を捉えなければいけない。

 

 でもそれは……彼にはムリな事だ。

 

 彼は、北郷一刀なのであった。

 しかし……部屋の中で相手も適切な年齢でその行為を認め、そして見るだけなら全く罪にならないハズ。現代日本でも問題は無いのだ。

 一刀は、雲華の方をゆっくりと改めて見てみる。

 雲華は、一刀の方を向いて顔を赤くしながら無意識に体をよじるように、そして胸と股間の辺りを手で隠すようにして一刀の傍に立っていたが、そのすべてを理解しながら彼女は……小さくコクリと頷いていた。

 

 

 

 もはや『正義(セーフとも言う)』である! 異論は認めない。

 

 

 

 一刀は好機を逃さない。素早く長椅子を食卓より少し離して場所を作ると、どうぞと言わんばかりに両腕をそちらの方向へ彼女を誘導するように向けた。

 すると雲華は恥ずかしそうに、ゆっくりとその長椅子へ横たわると目を閉じた。やはり気にするように、手で大事なお胸とお股の辺りを隠すようにしている。左手は胸部、右手で下腹部を隠していた。

 そこは、人類の……いや男にとっての神秘な場所であった。栄光と至高の部位なのだ。一刀はゴクリと唾を飲み込みつつその彼女の不自然な態勢を眺めるも、その隠す姿もエロいので手の位置については黙認していた。

 しかし、極限に恥ずかしいはずの雲華が、あろうことか左側へ立つ一刀へ聞いてきたのだ。

 

「今日は、胴体について気の絶を……行なってもらおうと思っているんだけど……どっちからしたい?」

(ど、どっちとは? それは……ハイ・アンド・ロー?(外国人訛りで)ですか、上か下かですか? それを好きに選べと……?)

 

 突きつけられた、『究極の選択肢』に興奮を隠しきれない一刀は、暫(しば)し右手の指を眉間に当て、その右手の肘を左手でて支えるキザっぽい姿で熟考した形を示しながら「上で」と言うつもりが、つい口走ってしまう。

 

 

 

「ムネだ」

 

 

 

 ――と。

 思考と一字も合っていなかった。本能的な気持ちが先走り過ぎである。

 恥ずかしがっていた雲華も、さすがにムッとするほどであった。欲望が余りに直接すぎたのだ。言葉にするならもう少し褒めるなりのプラスアルファが必要だったのだ。

 それでも、雲華は「しょうがないわね」と呆れるように少し笑うように言いながら一刀に指示をする。

 

「じゃあ、私のお腹に手を当てて上半身の筋肉系から気の絶をやってみて」

「手の位置は……お腹なの?」

「お腹です」

 

 一刀は、どこに手を当てたかったのだろう。(もちろんムネだ!より標高の高いところを渇望していたのだ!最高峰ならベスト!!)

 しかし、お腹という現実に少し……いや、かなり気落ちしながら、一刀はそれでも左の手の平を雲華のお腹に当てる。

 チャイナドレス越しだが、雲華は柔らかく暖かい……。思わず少し撫でてしまう。

 

「だ、ダメよ。集中しなさい!」

 

 一刀は、珍しく雲華からお叱りを受けてしまった。慌てて言われた通りに一刀は、胸周りや背中の筋肉等へ絶気を送って絶にしてゆく。

 『悪魔』さまの逆鱗に触れると、すぐに人生の終着点へ到達してしまうのだから。でも、最近ちょっと……いや油断はするまい。小さな油断は、ろくな事にならないのだ。

 一刀がそう考えている中、雲華は複雑な心境であった。

 

 

 

 実は、お腹を撫でられるのが、ちょっと気持ちよかったのである。

 

 

 

 最近、一刀に触ってもらえるのが嬉しいのであった。先ほどもお腹を一刀に触ってもらって、ナデナデされるのが実に悪くなかった。彼の手は暖かいから。

 しかし、今は彼の為の修行中である。甘える時間は今じゃない……彼女も我慢していたのであった。

 

 一刀は先ほどから気の流れを捉えている。雲華の上半身に流れる気を――隠す腕は少し邪魔であるが、胸を流れる気を!外形も、中身も完璧です!

 彼女のその掴む為の、栄光の、二つの、その『サキ』も―― 一刀の気の感覚は形を、全貌をついに捉えてしまっていたのだ。

 温泉では、白の湯あみ着越しにアクセントとなる色と共に全体の大きさは把握出来ていたのだが、本日その可憐な形状をついにすべて掴むに至ったのであった。一刀の個人記憶史に、脳ミソにそれは刻み付けられていた。

 

(ありがとうございます!)

 

 それが一刀の溢れる思いであった。しかし、こう呆けている場合ではない。まだまだ修行中なのだ。

 そしてついに、一刀は二つの栄光の部位を絶にする……しかし、その絶になって気が消えていく光景に彼は耐えられなかった。

 すぐに他の部位も含めて、完全回復を掛けていた。

 雲華は、まだ途中にも関わらず急に完全回復を掛けられ、どうしたのかと目を開く。そして、俯いたまま固まっている一刀へ心配そうに声を掛ける。

 

「どうしたの、一刀? まだ……修行の途中よ?」

 

 一刀は無言で首を横に振る。そして呟くように口から言葉が零れていく。

 

「だって……雲華の気の通っていない体を……服越しでも見るのがやっぱり辛いんだ」

 

 そう、力なく言う一刀に――雲華の、『悪魔』さまの声が響く。

 

「やるのよ、一刀。続けなさい!」

 

 それは、厳しい口調だった。言葉は続く。

 

「辛いなら、嫌ならより早く完璧に身に付ける事よ。今、一刀が気にしている事で技が未熟なまま終わって……誰が喜ぶと思っているの?」

 

 一刀は雲華の方をゆっくり向く。すると少し優しい表情になって、雲華は言うのであった。

 

「私が怪我や病気をしたときには、一刀がすぐ治してくれるのでしょう? ……頑張って」

(そうだ。俺が、雲華を治すのだった。その時の為に、今、俺は何としても相手の気の流れを完全に制する修行を完遂しなければならないのだ。何をやっているんだ俺は!)

 

 一刀は真剣な表情に戻り、修行をすぐに再開する。

 雲華のお腹に置いた手から、彼女の上半身へ再び絶技を送り込み、筋肉系から骨格へと順番に気の流れを絶の状態にしてゆく。

 胃袋より上の内臓も、肺も、そして心臓も止める。雲華は今、まさに心肺停止の状態にされていた。

 彼女は、誇りある武闘派の達人仙人である。しかし、今は完全に気を許した上で、本来屈辱的な完全無抵抗な仮死の状態にされている。

 師匠以外では一刀だけが唯一実現した状況だろう。今なら師匠にすら許させない、普通は弟子同志で行わせるか、別の稽古台となる人間で行う修行であろう。

 その稽古台を自ら引き受けてくれたのだ。まさに全幅の信頼を寄せる彼にだけ預ける状態であった。

 そこで、彼女の口から小さな歯の合わせる音がする。一刀は彼女の口元を見る。すると、口が「も・ど・し・て」と動いていた。

 一刀は直ちに瞬間回復を掛ける。

 一瞬で胴体の上半身に気が通り、回復した雲華は横になりながら、隠す仕草だった両手を解いて指を組んで背伸びをする。

 

「ふう。久しぶりの感覚かな、心肺停止なんて。私としてもいい修行かも」

「ごめん。俺の修行のために雲華がこんな事まで――」

「もう……そんなことは言わないの。いいの、一刀のためなんだもの。私は嬉しいよ」

 

 彼女の可憐な優しい笑顔でそう言われて、一刀は思わずお腹に乗せていた手で、彼女のお腹をナデナデしてしまう。

 

「あん、だ、ダメだったら! 特に問題はなかったけど、一応あと二十回、しっかりやってみて」

 

 雲華は、やさしく撫でてもらっていた一刀の手を左手で掴むとそう言って、一刀へ修行の続行を促した。一刀も気を取り直して……改めて彼女の胸部を見る。

 先ほどまで隠していた彼女の左腕の気が重なっていた事でやや見難かった胸部が、今はその形だけがはっきり見えている。見えちゃってます。すでに脳ミソに焼き付けた記憶録画に追加記録するのを一刀は忘れない。

 雲華は、一刀の瞳の奥に灯った白き輝きで、自分の胸の形をその『先端』までもが気にの流れによって完全に捉えられているのを感じていたが、もはや隠そうとはしなかった。

 

(一刀なら、いいかな……どのみち、ね)

 

 一刀は、雲華の胴体の上半身部分の気の流れから、その構造を完全に把握する。そして、先ほどと同じように皮膚、筋肉等の外から内へ骨格、内臓、肺、心臓を絶にして行き、最後に瞬間回復を掛ける。すでに一サイクルが相当早い。それをテキパキと二十回正確に行った。

 横になってずっと見守ってくれている雲華へ、一刀は報告する。

 

「終わったよ、雲華」

「そうね。とても良く出来てたわ。素早く正確だったから私も楽だったし」

 

 そう言って雲華は、微笑みながら一刀の方へ顔を向ける。しかし、すぐ恥ずかしそうに上目使いになって口を開く。

 

「じゃあ……次は……」

 

 そう言いながら、先ほどから握っていた一刀の左手を、ゆっくりとお腹の上を滑らせて下腹部の方へと、大事な……神秘な部位の近くまで自ら移動させていった。

 

「ちょ、雲華さん?!」

 

 その様子をゴックンゴックンと生唾を飲みまくって見ていた一刀は、慌てて雲華に確認する意味で顔を向け声を掛けた。

 すでに一刀の左手の平の半分以上が、彼女の下着の上まで掛っていることに、デルタゾーンに近すぎることに――。

 

(いいの?! ほんとにいいの?)

 

 これは、一刀の歴史が大陸移動を起こすほどのインパクトがあった。女の子の下腹部へ、一刀の左手が触れている部分から伝わってくる色々な感触にである。特に雲華の股下側に最も近い小指の受ける感触が『多彩』だ。

 まず、チャイナドレス越しに彼女が身に付けている刺繍入りの桃尻を包む肌触りの良さそうな下着だ。そして更に……その下のデルタゾーンから縦方向に僅かに盛り上がっている『何か』の感覚があるのだ。

 ささやかな『ケ』とプラスアルファの『至高な何か』と想像されるが、これ以上は少年誌エロでは『ぴぃーーーー』としか表記できないものだ。

 そういう『ぴぃーーーー』モノだと推測される。

 一刀の首を何度も傾げながらの錯乱気味な動作と表情から、雲華へ「ほんとにいいの?」と何度も確認してることが分かるが、彼女は赤くなりながら恥ずかしそうに伝える。

 

「大事な所だから……しっかりお願いね」

 

 一刀は、彼女のその答えに目を血走らせながら返した。

 

「任されました! 喜んで!」

 

 一刀は考える。これは『厳しい修行』なんだと、決して『エロが目的で、欲望に溢れているワケ』じゃないんだと、雲華のもしもの時の為にもなのだと。だから如何なるモノに遭遇しようとも『正義』なのである!と。

 一刀は、まず彼女の胴体下部の気の流れを見てみる…………………………は、鼻血が出そうになる。これは――――

 

 

 

 アウトだった!

 

 

 

 すでにスリーアウトか。……いや、完全試合を喫していると言っていいだろう。

 うら若き女の子の下半身なのである。その全貌が、形が外も内部も見えているのだ。

 モザイクも無い状態。

 すでに、一刀の記憶録画は多重録画データで脳ミソが埋め尽くされそうだった。

 頭上にエンゼルが舞っている。『ぴぃーーーー』なのである。

 詳細を記すにはR-18小説に移転しなければならないだろう。

 だが――少年誌エロの意地を見せて、あえて書けるだけ客観的に書こうではないか。

 

 一刀の目には、雲華の胴体部分の下半身側について筋肉・神経関連、骨格、内臓系の気の流れが、立体的に浮かび上がって見えている。そして……外形と内臓系の一部に男の子として熱い視線が行く部分が存在するのだ。これは本能的なことなので当然なのであった。

 

 

 

 つまり、『赤ちゃんの元が出来て、育って、通る』部位の辺りだ。

 

 

 

 非常に一般的な言葉と表現を駆使せざるを得ない部分と言えよう。細心の注意が必要なのである。

 そんな自らの恥ずかしい部分へ、熱い視線を注がれているのに気が付いている雲華は、いい加減、一刀へ修行を進めるよう促してくる。

 

「もう、そんなにじっと見ないでよ……早く、気の絶を進めなさい。これも一通りを二十回ね。……ブツブツ(一人前に成ったら、私の芯の芯まですべてを見た責任をちゃんと取ってよね……)」

「ご、ごめん。雲華の体だから気になっちゃって……今、二十回ってののあと、小声だったけどなんて言ったの?」

「いいの! 早く進めなさい」

「は~い」

 

 一刀の頭の中は、『進めるべき修行の事』と、『女の子の大切な部分や状況をもっともっと記憶録画する事』で飽和状態を迎えていた。絶の技に付いてはもはや、機械的な正確さで淡々と進行させている。その傍ら、特定の部位の観察と堪能が続いていた。

 絶から瞬間回復までの一サイクルは雲華へ負担を掛けないようにとやたら短いのだが、次の一回に移るまでが非常にゆっくりと……不自然に何かを堪能するためだけに時間が掛けられていたと思わざるを得えないほど間が開いていた。

 そのため問題なく二十回が済んだ時には、いつもの食事の時間より二刻(三十分)は過ぎていたと思われる。

 すっかり、女体の神秘の検分を堪能しつくし満足して、だらけ切った表情の一刀が雲華へ声を掛ける。

 

「雲華~、お疲れさま♪ 終わったよ~」

「………」

 

 一方、雲華は無言で顔を真っ赤にしており、俯いて一刀の顔を見れないほどとても恥ずかしそうにしているようにしていたが……よく見るとそうではなかった。口の端がニヤリと笑っているのが見えたのであった。

 もう、おわかりいただけただろうか?

 

 

 

 『悪魔』さまは非常にお怒りである!

 

 

 

 一刀が、それに気が付いたのは昼食の時であった。

 彼はウキウキして、雲華側の長椅子に並んで座ると、雲華は怖い顔をしながら無言で自らのお箸で向いの席をツイツイと指していた。

 よく見ると食卓にはお皿が、依然のように食卓を挟んで向き合う様に並べられていた。

 そして、一刀の御茶碗には白いご飯がてんこ盛りに盛られ―――黒いお箸が一善、垂直に突き刺さっていたのだった……。まるで墓前に供えるかのように。

 

「ひぃーーーーーーーーーー」

 

 一刀は後悔した。しかし、後の祭りだった。余りに神秘への閲覧を堪能し過ぎたのだ。

 どう見ても午後は『死』の予感しかしない……。

 こうなってしまった以上、彼の取る行動は一つだった。

 一刀はすぐに動いた、彼は迷わない。

 雲華側の長椅子を立つと、一刀は彼女の後ろを通って、洗面台のある窓際の空間へ出た。

 そして―――

 

 

 

 土下座である。

 

 

 

 一刀は、床へおでこを「ゴツン」と音を立てて付けると『悪魔』さまへ言上する。

 

「この度は申し訳ございませんでした。雲華が、余りに可愛く、余りに可愛く、余りに可愛く、余りに可愛く、余りに可愛く、余りに可愛く、余りに可愛かったために過剰な行動を取ってしまいました。だって小指で少し撫でた時に素直に反応してくれたし……一人前に成って戻って来たら、大事にするから、今回の責任も合わせて取るから許してほしい!」

 

 ピクン。一気に述べた一刀の言葉に雲華が反応する。

 

「……本当?……大事にしてくれる?」

 

 どうやら、雲華は一刀から『余りに可愛く』が五回以上あった事を高く評価し、ご希望の責任も取ってくれるという言葉を聞けたので、今回の言上に満足したようである。

 それに、先ほどの修行の合間に一刀から受けた小指のナデナデで「あん」とか「やん」とか小声を上げた上、大事なところが少し熱くなってしまったのも事実であった。一刀に触ってもらうのはイヤじゃないのだ。

 

「本当だよ。約束する。ずっと大事にするよ」

「うん……わかった。じゃあ、許してあげる。それに言ったでしょ、まだ……恥ずかしいのはダメだって」

 

 雲華は席を立ってそう言うと、土下座し額を床にまだ付けている一刀のところへ来ると彼のその手を取って立たせると、一刀を雲華が座っていた奥の長椅子に座らせた。

 そして、彼女は一刀のお昼のお皿を、またいそいそと自分の横の一刀の前へ並べ直してあげる。

 しかし、御茶碗の白いご飯と垂直に刺さるお箸はそのままであった。

 

「このあと、そうならないようにちゃんと食べてね♪」

 

 一刀の致命的なフラグは、まだビクとも折れていないようであった……。

 だが、とりあえず雲華にお供えぐらいはしてもらえそうである。機嫌を直してくれた雲華は、再び一刀の横にぴったりと桃尻を付けて座ってくれていた。一刀も多少死相が出ていて顔が引きつっているが、彼女との昼食をあ~んを交えながら楽しんでいた。

 一刀の空元気も大したものであった。

 

 さて、ついに昼食が終わり、雲華の片づけも終わる。

 いよいよ地獄の門が、開く時間である。

 食堂から下の広場へ出る前に、雲華は以前街へ行くときに一刀へ貸した四尺弱の優美な軽い剣を再び彼へ差し出した。

 一刀はそれを両手で神妙に受け取ると、鞘の鎖を腰の紐に通し、剣を腰に差した。

 

「外に出て下に降りた瞬間から始まると思ってて。二時(四時間)頑張ってね」

「えぇっ? 二時!?」

 

 聞き返す一刀へ、ニタリと笑顔を返す『悪魔』さまであった。

 ぐっと反論を言いたくなるが、すでに二時と彼女の口から出た以上、決まってしまっている事なのだ。もはや諦めるしかなかった。

 だが一刀は一つだけ、これだけは確認しておかねばならない事があった。

 

「えーっと、木人の強さって……準将軍並みじゃないんだよね?」

 

 雲華は頷いた。一刀の予想通り、木人の強さが上げられている模様だ。

 

「じゃあ、やっぱり木人の強さは、将軍ぐらいまで上げたんだね?」

 

 一刀の予想していた強さだ。ゲームで言えば、武力五十から六十にもなるところだ。有名な武将たちが名を連ねてくるヤバすぎる水準なのだ。冗談ではないのである。

 

 

 

 しかし……しかしである、雲華はナント……ゆっくりと横に首を振っていた。

 

 

 

 ナニ、それ?どういう事だろう。一刀は、イヤ~な予感しかしない。しかし一縷の望みに掛けて雲華へ聞いてみるしかない。

 

「えっ? じゃあ……準将軍程の強さより下げたの?」

 

 一刀は、雲華は頷いてくれる事をありえないとは思いながらも願っていた。しかし、それは無情にも雲華の次の一言で無残に打ち砕かれるのだった。

 

 

 

「猛将ぐらい?まで上げちゃってるから♪」

 

 

 

 モウショウって言われる水準って……? 最低でも武力八十とかじゃないだろうか。ヘタすると九十とか?

 一刀は外への扉の取っ手を握ったところで、思わず止まってしまっていた。

 

(武力八十ちょいだと、公孫瓚(賛とはまだ知らない)とかいたような気が。……本当に容赦ないな、雲華は。俺に本気で死ねと?)

 

 さすがは『悪魔』さまだ。本当に悪魔である! ――でも可愛いのである。

 

「くそっ、生き残ってやる!」

 

 一刀は、非常に重くなったように錯覚する外への扉を開いていく。

 上から下の広場を見ると木人はいなかった。取りあえず、梯子を下りてみる。

 周りを見回しても、木人は見当たらない。雲華も降りて来たので振り向いて聞いてみる。

 

「雲華、木人くんは?」

 

 すると、雲華が振り向いてこちらを見る一刀の後ろを指さした。その時、一刀の背中からカサッカサッと何やら草を踏みしめる音が聞こえてきた。広場からいくつか広めの獣道が伸びているのだがその一つからそれは現れた。

 一刀は、背中に感じる大きな気の方をゆっくりと振りかえる。そこに、木人がいた。いたのだが、以前よりもさらに風格、装備が違った。違い過ぎた。

 なんとヤツは、木で出来た馬――木馬に跨っているのである。そして、将らしい鉄や木で出来た鎧を装備し、おまけに鋭そうな一流の槍を手に持っての堂々の登場であったのだ。

 一刀は……絶句していた。

 ちょっとやりすぎではないだろうか? 木人の気を見れば分かる。もはや前回の比じゃない相手であった。

 木人は軽くウォームアップで槍で数回ヒュヒュッと空を突いているが……明らかに速い。非常に動きが速いんですけれど?

 一刀が軽めの『速気』で見ても余りスローにならないほどであった。

 一瞬、一刀の頭に考えが過る。

 良く考えると森の外がいくら無法地帯とはいえ、こんなハイレベルな敵に対応するほどの武力が、一人前になる為に自分へ必要なんだろうかと。もう、今でも十分生きていけそうなので修行を終わってもいいのではないかと。単に『神気瞬導』の第三条まで、習得すれば良かったような気がしたのだが……。

 しかし、すでに『悪魔』さまの指示が出ている以上、一刀は目の前の『死闘』に集中しないといけなかった。

 さて、ウォームアップの動きからして、猛将レベルの木人の基本動作思考速度が早い為、『速気』の強さを上げないと思考の先読みをして対応する『思考発極』が機能しない。しかし、『速気』の強さを上げると一刀の気の消費が大きくなってしまう。

 今日は二時(四時間)の長丁場なのだ。気力は枯渇する可能性大である。どうやって補充すればいいのだろうか。

 一刀は、とりあえずゆっくりと腰の剣を抜いてゆく。木人の力量から、剣を抜く時間も惜しいのだ。

 そして、剣を抜き終わった瞬間、雲華が情け容赦なく声を掛ける。

 

「両者、はじめて!」

 

 一刀は、まず全力の『速気』で木人の気の動きを捉える。木人は馬上からリーチのある槍で一刀を正面から鋭く突いてこようとしているようだった。ヤツの槍を握った左腕にそれを思考する気が流れ始めていた。

 槍と書いているが形で言うと、この時代は矛という形状に近い。だが基本的に突く武器であることは変わらない。軌道が基本的に直線であるため、とにかく攻撃が早いのだ。

 剣と槍どちらが優位か?使い手の力量が同じなら、それは槍である。圧倒的な間合いを持ち、上級者の撓(しな)りを合わせた変幻の軌道は剣と比べ、非常に読みにくいのだ。

 おまけに木人は馬上から、上から突き下ろして来ている。

 圧倒的に一刀が不利であった。

 早くも、撓りを加えられた手加減の無い鋭い突きが一刀へ突き下ろされて来ていた。弱く突くフェイントも混じっており、手前で引き返して行くが、三撃目が腹を突いてくる深い突きだった。

 先読みと強めの『速気』で見ているにもかかわらず、人間の持つ条件反射的に不意に伸びてくる攻撃もあったのだ。

 一刀は力で対抗するような無理をせず、剣で槍の軌道を流れに任せるように変え、体をなるべく小さく躱して凌ぐのが精一杯であった。

 昨日の雲華との鬼ごっこで『風羽来動』のコツが完全に盗めていれば、もう少し楽に凌げたかもしれないが、この状況で技を試せるほどの確信がなかった。

 今の木人は準将軍クラスとは、完全に次元が違う強さなのだ。

 すべての攻撃を油断なく見ていないと命がない感じがしていた。一刀はキツイ状況へと、じわじわと追い詰められつつあった。合わせて、気力がジリジリと減っていく。

 その中で、間合いの届かない剣で戦わなければならず、まだ反撃の糸口は彼に見えていなかった。

 それなりの仙術を使えても、この時代の猛将ほどの強さになると武力ではかなり不利になるように思えた。

 ヤツらは人間離れしているようだ。

 それに槍は突いてくるだけではなく、横から払う動きも当然出来る。

 一刀は油断していたわけではなかったのだが、木人の連続する変幻技に対応が遅れた。

 右肩側面を木人の槍の柄の部分で横からまともに強打される。

 その剛撃で大きく横に飛ばされ、バランスも崩し掛けるが、彼はほぼダメージは受けていない。

 

 

 

 そう、『硬気功』である。

 

 

 

 昨夜、雲華に見せてもらい、自分も試すことが出来ていたので使うことが可能だった……もう、すでにこれしか受ける方法がなかったのだ。

 体の体制が崩れ気味なところへ、さらに間髪入れずに木人の突きの槍が鋭く迫る。

 先読みで来るのは分かっているのだが、すでに、剣でそれを払うには間に合わない体制でもあった。

 しかし一刀は―――流れに逆らわないようにそれを払っていく。硬気功の掛った右肘を使って。

 だが、今の一刀にとって硬気功は異常なほど気力を消費する。使ったあとはすぐに弱くしなければ数分しか持たない技であった。

 一刀は考える。四時間後に自分はどうなっているんだろうかと。いや一時間後すら、すでに冷たくなっていてもおかしくない相手だ。

 

 雲華の圧倒的強さを目の当たりに知って以来、相手の強さに臆したことはなかったが、これは―――怖い。

 

 相手の木人を睨みつつも、一刀の膝が少し震えていた。

 

 

 

つづく

 




2014年05月19日 投稿
2014年05月26日 文章修正
2015年03月11日 文章修正(時間表現含む)



 漢字の数(ウィキペディア参考)

 漢字の理論とは万人に開かれたもので、適当と思われれば新たな漢字をつくる事が誰にでも可能である。

 中国語の音節の数は、1600種未満。
 ただし、同音異義の語を、部首を付けるなどの手法を用いて区別する漢字は、5000種前後が同時代的に使用されてきた。

主要な歴史的中国語辞典(字書)が採録した漢字数

年   辞書名   漢字数
100   説文解字  9,353
543?  玉篇    12,158
601   切韻    16,917
997   龍龕手鑑  26,430
1011  広韻    26,194
1039  集韻    53,525
1615  字彙    33,179
1675  正字通   33,440
1716  康熙字典  47,035
1916  中華大字典 48,000
1989  漢語大字典 54,678
1994  中華字海  85,568
2004  異体字辞典 106,230

 常に新しい字が創作されるため、過去から現在に至る過程で、どれだけの数の漢字が作られたかは不明である。
 だが、新造漢字は、公的に認められた一覧からはよく除かれる。
 現代のコンピュータで処理するための文字集では、Unicodeが7万字を収録、『今昔文字鏡』が15万字を収録している。

 なので、三国時代でそれなりに使われる漢字は最大にみても五千字程度と推定しています。
 もしかすると、孔明や曹操たちの作った漢字もあったのではないでしょうか?
 そう思うと漢字にもロマンがありますねぇ。

 参考までに。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➀➂話 楽しい日々よ、ありがとう

 

 

 

 うららかな午後、たまに巨木の枝の間から柔らかい陽射しのある、いつも平和な巨木下の広場のはずが――先ほどから武器同志の金属がかち合う、殺伐とした音が辺りに響いていた。

 

 一刀は、いきなり行き詰っていた。

 

 『速気』にも思わぬ弊害があった。

 武力が猛将並みまで一気に上げられた、木人との実戦剣術修行の戦いが始まって、まだ僅かに十分もない程度である。

 しかし、すでに一刀は開始当初から、木人の間合いの長い槍と素早く練達な槍術の前に、ほぼ防戦一方であった。

 雲華ほどではないにしろ木人の強さが、苦行に耐えて身に付けた仙術を以ってしてもなお、互角にすらなれない状況にその心は膨らんでいく。

 その体感時間が『速気』によって何倍にも引き延ばされていくのであった。

 

 そう、恐怖の時間がである。

 

 そして、木人はさらに容赦なく、一刀の弱点をどんどん突いてくるのであった。

 一刀の弱点……それはあくまでも武人としては、まだまだ素人という点である。

 ここ十数日で一刀が武術に関して身に付けた事は、実はほぼ『何も無い』のである。神気瞬導で身に付けたのはあくまでも、『速さ』と『力』と『体の丈夫さ』等であり、功夫や剣術のような具体的な武術ではないのであった。木人との実戦剣術修行も、戦場での感を養う為であり、剣術そのものを習っているわけではなかった。

 武術は、基本の型の習得と日々の鍛錬が重要である。猛将たちは『速さ』と『力』と『体の強さ』に加え、武術を長年磨き練り上げてきた者達である。

 おまけに今日の一刀は得物が木人と違うために、槍術を『視鏡命遂』で盗んでも剣ではほぼ活用できなのである。

 状況が完全に八方塞がりであった。

 

 これも……『悪魔』さまの思惑通りなのであろう。

 

 さぞかし、ご満悦の表情をしていらっしゃる事だろうと、雲華の気を一瞬探ってみる。どうやら一刀の常に真後ろにいるようである。

 これは……隙があったら、更に後ろからバッサリと切られるということなのだろうか……?

 一刀は思わず、昼食の御茶碗のご飯へ垂直に突き刺さったお箸の情景が目に浮かんだ。ぞっとして身震いしてしまう。

 近いぃぃ、現実がそれに近いんですけど!

 だが、そんな事を考えている場合ではない。木人が放った俊敏な槍先が、顔面へ迫って来たのだ!

 一刀は『速気』を必死の全開にして、首を振ってそれをギリギリで躱す。しかし、撓りが混ざっての変則さに躱しきれず、額を槍が僅かに掠ったのか血が舞うのが微かに見えた。

 危なかった。『硬気功』も焦りからほぼ間に合わなく掛けられなかったのだ。

 畳みかけて襲いかかってくる終末の現実に、一刀の膝がさらにガクガクと震えだす。力みもあって気も大量に減っていく。後、何分持つだろうか?

 そしておまけだったが、その首を振った瞬間に僅かに後ろが見えた。

 雲華の立ち姿に、その表情がちらりと見えた……。

 一刀は思っていた。さぞかしご機嫌な事だろうと。

 

 しかし――――彼女は、何故かいつものあの余裕の微笑みを浮かべた『ニタリ』としていなかったのだ……。

 

 先ほど捉えた真後ろに立つ雲華の気は……そう言えば、彼女にしては何故か少し弱かった。

 一刀はその原因が、雲華の姿と表情を自分の目で見て、ようやく理解することができた。

 

 

 

 雲華は、口元を両手で押さえ、小さく震えながら、必死に心配し涙を堪えるように一刀の戦いをずっと静かに見守っていたのだった……。

 

 

 

(な……んだと?!)

 

 一刀は、震えた。雲華が『悪魔』さまではなく、『こねこ』さまになっていたことに……。

 彼は完全に誤解をしていた。この今日の苦境は、すべて彼女の『ニヤリ』のためだと思っていた事を。そして、自分が余りにも情けなく感じていた。

 雲華は覚悟を決めて、その姿を俺に極力見せないようにしてまで、今日のこの時に臨んでいたのだというのに―――。

 一刀は、静かに目を閉じて思う。

 

(俺が強くなるのは、何のためか……そう、それは彼女を……雲華を泣かせる事じゃなく―― 守れる男になるために!!)

 

 一刀の心に、一閃と『輝くもの』があった。

 雲華を思い、立ち尽くす一刀へ、容赦なく猛将クラスである木人の膂力の乗った強烈な槍の振り下ろしが頭頂へ迫る。

 『輝くもの』――それは街で一人の幼い少女を助けた時にも一刀が見せたものであった。

 

 

 

 『勇気』である。それは溢れんばかりの量であった……。一瞬で満ちているのである!

 

 

 

 一刀の目は、静かに見開かれていく。それは、双方の瞳の奥より鋭い白き光の輝きを放っていた。

 そして、一刀は木人の強烈な槍の振り下ろしを、持てる最高の『速気』と『剛気』を帯びた体と右手でビタリと目前にて掴んでいた……。

 もはや、『無限の気力』を発動した一刀に気の枯渇などない。

 一刀は、先ほどまで圧倒的な力量差に、恐怖を感じて怖気づき掛けていた木人を、逆に力の籠もった眼光で睨みつける。そして言い放っていた。

 

 

 

「お前は強い、圧倒的に。だが、俺はここで引くわけにはいかない。負けるわけにもいかない。だから―――俺に倒されろ!」

 

 

 

 一刀の先ほどまでとは別人の凄まじい気迫に、木馬上の木人も一瞬怯むほどであった。だが、猛将並みの武人がこの程度で本気に怯むことはない。

 木人は、掴まれた槍を力を入れて横に振ってみるが、驚くことに槍は撓(たわ)むもビクともしない。だが、ならばと木人は脇を閉めると、膂力に任せて左片手で一刀ごと引き揚げようとする。

 棒の端にぶら下がった人間一人を持ち上げようというのである。木人の力もさすが『怪物』並みのものがあった。

 一刀は、さっと膝を曲げてしゃがみ気味に重心を下げ、更に槍をこちら側へ引っ張ることで持ち上げ難くする。

 さて、倒すような大口を叩いた一刀だったが、冷静になり少し考えるとこの修行開始直後から、すでに気力を全開で戦っても力は兎も角、早さも、武術の技量も木人には及ばない事は分かってきている。

 気は無尽蔵にあるので、『硬気功』を使い続ければ二時(四時間)の間、死なずには済むだろう。

 しかしそれだとおそらく、何も出来ずにこのままジリ貧である。だがこの修行……いや勝負は何としても勝たなくてはならない。

 一刀は、この状況で勝つためにあえて―――雲華に質問する!

 

「雲華、教えてくれ! 『超速気』ってどうやるんだ?」

「えっ?」

 

 追いつめられる一刀を必死に心配しながら見ていた雲華だが、いきなり一刀が復調し出して何が起こったのかその理由を考えていたところで、急に声を掛けられ驚く。一刀の声はまだ続いた。

 

「戦いの途中での……質問は禁止されていないよね? そこで『超速気』をやって見せてよ」

 

 木人がそんなことはさせるかと、木馬も動かし一刀を前後に揺さぶる。この木馬が予想以上に良く出来ている。馬だけに力もかなりのものだ。戦いが無事に終われたら、後で乗せてもらいたいところだ。

 激しく地面近くで引きずられ、揺すられる一刀に、雲華が叫ぶ。

 

「手順的には難しくないわ。でも、この技には相性に個人差が凄くあるから『超速気』が掛るかどうかはやってみないと分からないわ。百人に一人ぐらいしかできないから。それに出来たとしてもそこにも個人差がある。そうね……まあ、ダメ元でやって見て。手順は、まず『速気』を掛けた状態にする。そして――その状態のまま、さらに上に『速気』を掛けるのよ、こうよ!」

 

 雲華は、先ほどまでの心配げな態度は隠し、『速気』で腕を動かして見せた上でさらに『速気』を掛けて見せてくれた。それを一刀は、木人と対峙しながら『視鏡命遂』でチラチラと見る。チラチラと見るのが得意だったのが助かった。『芸は身を助ける』である。普通に見ると僅かに残像が見えていた彼女の腕先が、肘から上の残像が消えて無いように見える程早くなる。一方気の流れを見ると、『速気』の素早い気の流れの外を、更に包むように気の早い流れが包んでいる。

 

「よし!やってみる。ありがとう、雲華! 大丈夫、俺は勝つよ……君のために」

 

 『君のために』に雲華は、赤くなって固まっていた。

 そう言い終わった瞬間、全身に『硬気功』を掛け、『視鏡命遂』で雲華に見せてもらったように全身へ『速気』を掛け、さらにその上へ『速気』を意識して地面を蹴り瞬動する。

 この二重の『速気』を完全に分けて形成出来る能力と、お互いの気の流れに乗せて『速気』を加速させられるかどうかは、確かに個人差が大きいと思う。

 百人に一人というのは数少ない神気瞬導の使い手の中ということだろう。それは、まあつまり殆どのヤツは身に付かず失敗するという事だろう。

 実は、一刀はそれでよかったのだ。これは、『なにかするぞ』という木人に対するフェイントであるのだから。そもそも、『硬気功』のようにいきなり使う技がそう何度も上手く行くはずがないのだ。次は雲華に『風羽来動』を見せてもらうつもりである。

 

 

 

 だが――――木人の動きが止まっていた。

 

 

 

「あれっ?」

 

 いや、ゆっくりとは動いている。雲華の方を一瞬見ると、彼女も『超速気』で見ているようである……マグレって続く事もあるものなのだという、一刀の動きに驚いた後に、笑顔で喜んで手を振ってくれている。

 木人とは、槍を挟んで引き合っての棒相撲な状態であったが、一刀は木人が引きに入った瞬間を狙って動作を起こしていた。そして槍を木人側へ体ごと一気に突っ込み、加えて剛気で押し込んだ。そして槍より手を離す。

 木人は、逆を突かれたことと『超速気』に付いていけない事もあり、木馬から引きはがされて後ろへゆっくり落下して行く。

 一刀の『超速気』が予想外に成功したのであった。一刀は『速気』の状態へ戻して木人の様子を見る。

 鈍い音を立てて馬の反対側へ木人が落ちる。しかし、すぐに木人は速攻で立ち上がって来た。

 そして、馬には乗らずに槍先を円を小さく描くように、小揺らせ撓ませながら疾風のような全速で走り近づいて来ながら一刀へ閃光の一撃を突き込んで来た。『速気』で見てもこの対応力である。猛将の水準は、ヤバすぎる!!

 一刀は迷わない。使えるものは何でも使うのである。

 直ちに、再び力を込めて『超速気』を発動する。

 

 やはり、木人の動きが止まってるほどにノロくなった。

 

 一刀は、油断せず『硬気功』を纏い、テクテクとゆっくり気味に歩いて木人の傍へ行く。そして、剣を持っていない右手を木人の右足太腿へ当てると、ヤツの両足の太腿へ絶気を送り込んだ。ここで『飛加攻害』である。

 それから、少し離れたところに移動して『速気』まで落とした。

 すると、木人はゆっくりと俯せに倒れて行った。すぐに手を付いて立ち上がろうとするが両足が、最早言う事を利かないのである。

 一刀は『硬気功』は解かなかったが、周りに気を配りながら『速気』も弱くして様子を見る。彼は雲華の言葉を守り、戦いの最中は出来るだけ基本を守っているのだ。

 どうやら、木人は結局立ち上がれない。地面に座る形で槍を構えるのが精一杯だった。

 一気に勝負は決したと考えられる状況に変わった。

 

 

 

 

 雲華が歩いてこちらへ近づいて来た。そして、木人の様子を見ながら話し出す。

 

「完全に予想外ね……。これだけ速度に差があると、もう勝負にならないわね。これが神気瞬導の怖いところだけど」

「じゃあ……これで、おわ―――」

「しょうがないわね。続きは、私が相手になるしかないでしょ?」

「…………(そう来ますか……なるほど!)」

 

 彼女の気持ちはどうあれ、『悪魔』さまの宣言した二時(四時間)は絶対らしい。言葉とはそれほど重たいのである。

 一刀もそれを理解する。

 雲華は、座り込んでいる木人の傍へ行って太腿の気を回復させると、木人から槍を受け取ろうとしていた。

 

「ちょ~っと、いいかな?」

「なに、一刀?」

「剣の勝負でお願いします! 可愛い可愛い雲華さん」

 

 一刀は、彼女が槍を受け取る前に割り込んだ。割り込まざるを得ない。『視鏡命遂』を使えるようにしておかないと。そして、彼女へゴマを摺るのを忘れないのだ。基本である。

 しかし、雲華はニッコリと言葉を返してくる。

 

「剣で……いいの? 『彗光の剣』になるけど。あれ、並みの硬気功なら真っ二つよ?」

「…………」

 

 まだ、死ぬわけにはいかない! 彼は、潔くそう内心で言い訳すると、にこやかに何事もなかったかのように述べた。

 

「槍でお願いします。可愛くて美人で料理が上手い、雲華さん♪」

「料理……美味しい?」

「うん、美味しいよ。俺は幸せだなぁ、雲華の作ってくれる食事が毎日食べられて」

 

 雲華は、一刀とのノロケ話に頬を染めながら上目使いに可愛く言ってくれたのだ、その言葉を。

 

「じゃあ、夕飯も頑張るね……だから―――生き残ってね」

「………あれ?」

 

 いつの間にか、雲華の表情が『悪魔』さまのニタリな表情になっていた。

 一刀は、にこやかに固まった表情で思う。また俺は油断していたのだろうかと……。そして内心で叫んでいた。

 

(女心が、わからなーーーーい!!)

 

 さて、成行きで雲華とあと一時半(三時間)以上も戦わなければならない一刀だったが、問題が発生していた。

 それは、『こねこ』さまな雲華の気持ちに応える為に、圧倒的力量差にも怯まず立ち向かうために木人へ見せた『勇気』である。『無限の気力』の元になったものであった。

 しかし、相手が雲華に変わってしまったのである。

 彼の『勇気』はすでに消滅していたのだ。

 それは、相手が敬愛する雲華である事とともに……『悪魔』さまへすでに完全降伏していたためである。『勇気』のカケラも湧いてこないほどの恐怖と力量差のみがあった。

 だが……彼には切り札がまだ残されていた。前へ吊るされているニンジンが有るのだ!

 

 

 

 そう、これが終われば―――『温泉タイム』である! プリーズなのだ! カムオンでインなのである!

 

 

 

 漢(おとこ)にとっての望みがある。桃尻郷……桃胸郷、いや! 桃源郷はそこに見えているのだ! ムチモモ、プルンプリン♪ 栄光の、至高の部位も待っているのである!

(こんなところで到底終われない……生き残るのだぁぁ!)

 

 一刀のそんな思いの丈が、それを生み出していた。まさに、究極の気がすでに満ちていたのだ。

 

 圧倒的に『イカガワシイ』……彼の気が!

 

 木人は雲華へ槍を渡すと、馬を従えて広場の端に下がっていく。

 巨木上の家へ上る梯子から時計周りに九十度ほど回った位置で、剣を持った一刀は、槍を構えた雲華と対峙する。

 雲華は槍を眺め、それを僅かに握り直しながら一刀へ教えてくれる。

 

「木人の槍術は、私のが元になっているから少し参考にしてね。じゃあ、始めるかな」

 

 それは、木人より雲華の方が槍術が上ということを伝えるものであった。

 お互いに初めから本気全開である!

 一刀は雲華の「始めるか――」の辺りで、すでに全力の『超速気』に入った。もちろん、自分の気の流れを希薄にし相手へ見せない『暗行疎影』と、それを補う『剛気』、気の流れから相手の先読みをする『思考発極』、技を使う相手の気の流れを捉え、技を自分のものにする『視鏡命遂』も駆使してである。

 だが雲華を見ると、彼女もすでに同様に対応していたようだ。すでに彼女の体には気の流れを確認できない状況であった。

 雲華もこちらに気付いているようで、表情から「残念でした」と伝わって来た。そして、地面を軽やかに蹴ってこちらに突撃してきたのである。

 だが、『超速気』同士である。見えないほどの速度差がない……いや、まさか……そんなことは……一刀はその現実に焦っていた。

 

 

 

 あの、達人仙人の雲華の動きが……自分よりも遅いのではないだろうか――そんな現実にである。

 

 

 

 一刀は、その場を動かずに雲華が近づいて来るのを待っていた。

 彼女は一直線に槍を突き入れてくる。一刀は『暗行疎影』をやめて、全身へ普通の剛気の五倍程度の強力な『硬気功』を掛けて防御を固める。そして槍の一番手前の、刃ではなく柄の部分を掴もうとする。

 しかしその瞬間、掴むどころか見失うほど一気に彼女の槍の速度が上がったのだ。

 そして一刀は、右胸をまともに突かれたのであった。その勢いで飛ばされるが『超速気』で体制を立て直す。幸い『硬気功』のお陰で体にダメージはない。

 雲華は一度、一刀との間合いをとって槍を構え直す。

 一刀はふと、雲華の体に気の流れが薄っすらと見える事に気が付いた。良く考えると、先ほどから雲華も『暗行疎影』で体の気の流れを落としていたのである。そのため、動作の速度が落ちるのは当然と言えた。

 これは、雲華からの一種のフェイント攻撃であった。

 午後のこの修行で、初めてまともに攻撃を受けたが、完全に一刀の体を突いて来るという、まさに真剣勝負と化してきていた。『硬気功』が無ければ大けがをしていただろう。雲華は本気なのである。

 だが、一刀は自分の怪我についてよりもショックなことがあった。

 それは……雲華にもらった大事な水色の服が、槍で突かれたことで右胸のところが破れてしまっているのに気が付いたのだ。

 

(雲華の可愛い手で作ってもらった、大事な大事な服が……)

 

 一刀の目付きが変わる。

 雲華にも、一刀が服の破れ目を見てから、その表情の変化に気が付くことが出来た。それは体に一撃を受けて、一刀の目が覚めたかなというぐらいに感じていたのだ。なので、雲華はまさか一刀が、自分の体より服の事を気にしているとは思っていなかった。

 一刀は『硬気功』の強さを少し落とすと、その分を『超速気』に当てた。そして『暗行疎影』は一旦やめる。『暗行疎影』は相手に気の流れを読ませない事には優れているが、自らの動きを大きく制限するのだ。

 一刀は攻める事にした。

 そう、雲華の持つ槍をまず、なんとか無力化しようと考えたのだ。

 両手で剣を握ると、間合いのある槍を構える雲華へ向かって行った。

 雲華は、もちろん槍で迎え撃つ。手加減などしない。『思考発極』で先読みすら加えている。そして一刀へ、上段、中段、下段に剣よりも遥かに早く鋭い突きが五月雨式に撃たれる。剣と槍が得意だと言っていたのは伊達ではない。

 さらに、撓(たわ)みを生かして一刀の防ぐ剣を回り込むようにも突いてくるのだ。自由自在である。特に下段攻撃後の上段への連続攻撃が厳しく、その対応が難しいものだった。

 このため、一刀は剣で切り込もうとするも、迎撃の槍先を十何合かを全開の『超速気』の剣で辛うじて受けて凌ぐのだが、結局、雲華の槍の間合いの外で足踏みする形となり、中へ入ることは出来なかった。

 そして、撓みの攻撃は槍術の経験のない一刀では『思考発極』を使ってもまだ先読み出来ないのである。だが、『視鏡命遂』は撓ます時の腕の気の強弱まで読めるので、普通に見ていれば遠くないうちに軌道まで掴むことは可能である。

 しかし、雲華もその辺りは工夫する。動作を起こす直前まで『暗行疎影』で気の流れを隠し、個々の動きの思考と動作をなるべく短い時間で俊敏に行う事で、読ませる間隔を極端に短くするのだ。これで、もはや読み切るのは武人としての才能が突出していないと無理である。一刀は、武人として今後頑張ったとしても精々百人隊長レベルである。

 彼は考えた。

 

(なにか……何でもいい、突破口はないだろうか)

 

 雲華のペースや形式で戦われると、一刀は勝ち目のない非常に苦しい戦いになるのは確実であった。一刀は自分でも、武術関係において雲華には刃が立たない事はすでに分かっていた。なので……彼は別の所に着目することにした。

 ふと、先ほど服が『突き破られた』ことで閃いたものがあった。常識では雲華を出し抜けない。そう、常識を突き破らないと、と。

 それは――神気瞬導の『超速気』である。

 『超速気』は『速気』の状態の上に『速気』を掛けるのだ。ただし、出来る奴は非常に少ないという事だった。

 じゃあ、その『超速気』のさらに上に『速気』を掛けるとどうなるのだろうと、一刀は考えた。

 確率で言うと出来たヤツなど、よくて一人か誰もいないのであろう。

 しかし、決めたら迷わないのが、北郷一刀である。

 やってみる。

 

 その瞬間、一刀へ攻撃を続けていた雲華は、彼の動きに異変を感じた。一瞬、一刀を絶対的に入らせない自信のあった得意な槍の間合いに、彼が入って来たように見えたのであった。それも、槍の攻撃をすり抜けて、である。

 目の錯覚かと思ったが、それが一度ではないのであった。

 起こるわけがないことが起こる。この違和感を表現すると、心霊現象が目の前で起こって、それをまさに見てしまった……そんな感じであった。背筋が寒くなる感じなのだ。

 そして、雲華は驚愕する。

 目の前にいた一刀の姿がいつの間にかスッと消えて――気が付くと……すぐ真横に旋風を共なって立っていることに。

 その現象に恐怖した雲華は、条件反射で槍を横に立つ一刀へ全力で振った――つもりだった。

 そこでさらに、彼女は戦慄する。手に持っていたはずの槍が、すでに無かったのである……。

 雲華は、知っている。

 『超速気』に『速気』を掛けても早くならない事を。

 それは、『自分には出来ない』からだ。だから、それは――誰も出来ないものだと思っていた。

 

 雲華は、『超速気』を解いて、ゆっくりと後ろを振り向く。

 そこには、槍の柄を地面について左腕を絡ませた形で持った一刀が、笑顔で静かに立っていた。そして、彼は空いた右手の人差し指で右胸を指しながら言う。

 

「実戦剣術修行、終わっていいかな? ほら、大事な服が破れちゃうからさ」

「……しょうがないわね」

 

 雲華は、はにかんで首を少し傾けながら、そう答えるしかなかった。

 だが次の瞬間、一刀は力が抜けるように槍を手放し、ゆっくりとその場に倒れて行く。

 

「一刀!」

 

 雲華は『速気』で慌てて掛け寄り、すぐに一刀を抱き留め支える。

 

「ははは、『超速気』に『速気』を掛けるのは、俺には少し無理があるみたいだ……」

「当たり前でしょ、速気系は無理をすれば、筋肉系や神経系が速度に耐えられずに砕け散っちゃうのよ! それをいきなり全身に掛けるなんて。 それに……師匠以外誰も成功したことがなかったのよ。師匠も現想行体が有るし『超・超速気』は危険度が高いのでほとんど使わないのに」

 

 雲華は、そう言いながら全力で一刀へ気功回復を掛けてくれていた。

 

「やっぱり、ほとんど成功者はいないんだ」

「ええ、でも君は成功者よ。あの瞬動……いえ刹那の動きから生還しているのだから。……どんな光景なの?」

 

 雲華は、自分の見る事のない世界を尋ねていた。

 

「大丈夫、『超速気』の世界と感覚はそう変わらないよ。ただ、風がすごい重たい壁になっているとは思う」

「そう。それと……私に一撃も入れなかったのは?」

 

 雲華の声のトーンが少し下がる。

 しまった、と一刀は思った。この槍の無効化作戦では雲華に対して、手を抜いた事になりそうである。それに、確かに雲華へ一撃を加えるチャンスは、十分にあったのだから。

 一刀は『超・超速気』で受けたダメージの時よりも……厳しい表情になった。

 回復を受ける中、あえて『悪魔』さまからの致命傷な御仕置の一撃は勘弁してもらいたいところである。

 一刀は、持てる力をすべて出すことにする。まさに全開である!――そう、ゴマ摺りに。

 

「正直に言おう……その、雲華が可愛くて、可愛くて、可愛くて、とても可愛くて……それに、その瑞々しい綺麗な肌にアザを付けるかもと思うと、どうしても攻撃が出来なかったんだよ。……このあと温泉だし、痛んだ箇所を回復させてもアザがもし万が一、残ってるのが見えたりしたらとか、俺、耐えられないし……」

 

「……『可愛くて』が四回しかなかったけど、とてもも一回―――」

 

 雲華は一刀の目を見ながら、まず静かにそこを突っ込んでキターー! やはり、五回以上『可愛く』とかがないと好評価されないようであった。もはや、非常に重要事項なのだと一刀は認識する。

 

「……それで、温泉で見えたら……ねぇ」

 

 一刀は、本気で焦った。先走って溢れるヨコシマな気持ちが、この後の桃源郷を口走ってしまったのだ。ま、まさか、今日は行かないなんて世紀末な事にならないだろうかと、一刀は血の気が引く思いであった。

 しかし、雲華は一刀から目線を外して少し考えると「……今日は不問とします」と今日の真剣な戦いの中での、一刀の攻撃の不十分さを許してくれた。

 

(んんっ?)

 

 雲華の言葉の中に一刀は、一瞬意味深なものがあったような気もしたがあえてスルーする。

 一刀は、いつの間にか巨木の広場の木陰で、雲華のムチムチィな膝枕の形で介抱を受けていた。

 さすがに、『超・超速気』で引き裂けかけていた筋肉、神経系の完全回復には雲華も少し時間が掛るみたいであった。「じっとしてなきゃだめ」とゆっくりと寝かされ、大事そうに頭を膝の上に抱かれるように置かれる一刀であった。

 雲華の一刀の両肩へ軽く手を掛けている所から、心地の良い暖かな気功がじんわりと伝わって来ていた。

 時折、午後の日が枝の間から差し込み、そよ風が流れる、平和な時間が過ぎて行こうとしていた。一刀は、のんびりと雲華の顔を見上げている。雲華も時折微笑んで応えてくれる。

 

(なにげに、最高の時間じゃないかぁぁ♪)

 

 しかしこの、ほわほわな状況により、一刀の幸福感が一気に飽和してしまう。

 それは、すべて一刀の瞬間回復へ雪崩れ込んでいった。その急速な回復に雲華も気付く。もはや、一刀のコンディションは依然と変わらない体調に戻ったのであった。

 しかし……この体制が気に入ってしまった一刀は、動かない。動くもんか!雲華が動こうとしても、しがみ付いてやるぅと、それぐらい考えていた。

 ところが、雲華も一刀の両肩に置いていた手を離したが……立ち上がる事もなく、それどころか、右手で一刀の髪を撫でたり弄ったりと、のんびりしていた。

 彼女は考えていた。

 自分に出来ない事をいくつも出来る人に出会えた事を。それも気に入っている人がであった。それはとてもとても素敵なことなのだと、膝上の一刀を優しく見下ろしながら雲華は改めて感じていた。

 そんな自然と微笑んでいる彼女へ、一刀は自分の方から声を掛ける。

 

「雲華、そのぉ、いいの? こう、のんびりしてても」

「ん? そうね……い、いいんじゃないかな。たまには」

「いいよね、たまには」

 

 二人とも、昨晩も今朝ものんびりジャレていたような気もしないでもないが……そう、誰も見ていないのである。関係ないのだ。好き勝手な二人の時間なのである。

 なのでその間に、互いの手をニギニギしたり、指で顔をチョンチョンとしたり、頬をナデナデしたり、ニタニタと夕食の話をしたり……そろそろ凶暴な虎か熊の大群にでも襲われればいいのにと、いないはずの外野に思われたり思われなかったりの一刻(十五分)ほどを過ごすのであった。

 

 だが、雲華は雲華である。

 彼女が二時(四時間)と言った、木人との実剣での剣術修行は介抱までの時間を合わせても、まだ半時程しか経っていなかった。

 

 そして残った一時半(三時間)について……実剣による木人剣術修行は再開されるのである!

 

 えっ?終わったんじゃないのかよ、という一刀の発言は、雲華の「一旦終わったでしょ?」と言う言葉に軽く一蹴される。

 そして、雲華は一刀の『超・超速気』は今後一切禁じ手としたのだった。体が壊れるものであったからである。そこでさらに彼女は、木人剣術修行を行う時に『超速気』までも禁じたのである。

 だが、これには一刀も反論する。当然である。木人くんに贔屓し過ぎである。自分にも構ってほしいのである!

 いやいや、『超速気』がないと武術の技量ではヤツに勝てる見込みがゼロに近いのだ。ヒキニクになっちゃうのだ。

 すると、雲華はやさしくと言う。

 

「しょうがないか。じゃあ……木人くんの馬を外して、槍を剣にしましょう」

 

 よし!ただの剣同士なら『思考発極』と『視鏡命遂』が使える!と、一刀は右手で拳を握ると震わせる。

 先ほど、温泉は否定されなかったことからこの後の『温泉タイム』は確定である! ヨシヨシと彼は、溢れ出るヨコシマな気力と共に、そう喜びかけたが……『剣』?

 そう、一刀には瞬間に『自分が真っ二つ』な光景が目に浮かんだ。

 彼はゆっくりと雲華の表情を伺った。『ニタリ』なら――それは木人による彗光の剣の一撃で斬殺な『死』を……享年十●才を迎えることに……。

 

 

 

 しかし、彼女は「んっ?」と、笑顔で可愛く僅かに首を傾けて一刀に応えながら、『普通の剣』を木人へ手渡していた。

 

 

 

(おやや?)

 

 これで生き残れそうだが、一刀にはこれはこれで、強烈な『違和感』であった。

 何かが変わった風にも思う。しかし考える間もなくそのまま、木人剣術修行は再開される。

 始まる前に、一刀は小走りで雲華へ近づき、水色の服の上着と肌着を脱いで雲華に渡す。

 

 「悪いけど、破れたところを直しておいてほしい。大事な君の作ってくれた服だから、また着たいんだ」

 

 手渡す時に、雲華の手も優しく握っていた。彼女は頬を染めて小さく頷き、それを受け取る。

 そして一刀は、漢(おとこ)らしく、表情を精一杯イケメン風な表情を作って爽やかに微笑むと木人に向かってゆっくり歩を進めていく。

 だが、一刀の内心には――『温泉タイム』への渇望に寄せた『ウヘヘ、ムヒヒ』的なヨコシマな『無限の気力』で溢れ返っていたのであるが。

 その気力を背景に、彼の体には全開の『速気』と『剛気』と『硬気功』と『思考発極』と『視鏡命遂』の五重のコンボが常に掛り続ける。

 そして再び戦いが始まる。

 一刀は、猛将並みの木人の猛攻に対して、先読みでの先制、先読みで剣の軌道変更、先読みでの『速気』見切り避け、剣撃を『硬気功』の腕でわざと受けての同時にカウンター的な反撃など、『速気』と『剛気』と『硬気功』と『思考発極』を中心にした技で凌ぐ。

 現実は凌ぐしかないのだ。動作と剣速について言うと木人の方がかなり早いのだ。そして武術の技量には圧倒的な差があると言えた。なので、ほとんど防ぐので精一杯である。

 すでに何撃か頭や肩、腰にもまともに受けていた。いずれも『硬気功』が無ければ間違いなく致命傷の攻撃だった。

 だが、一刀もその技量をただ見て受けているわけではない。『視鏡命遂』にて、木人の繰り出す剣術を、その気の流れから掴んで一刀も同技を自ら放つのである。

 木人の出して来る上からの剣の振り下ろしの下ろしたあと、剣先を百六十度近く返し、直ちに剣で斜め上側に切り上げる技を盗むのであった。これは一刀(いっとう)流の技に近い。

 これなら、剣を振り下ろしてから、本来剣を上に引き揚げる間に攻撃できない隙にも攻撃が出来るのである。

 一刀は、木人の剣撃を『硬気功』の左腕で受けて肘まで流し、さらに肘で下へ追い落とすのに連動してそのままカウンターで木人の頭頂点に剣を強烈に打ち込み下へ振り切る。そして上へ返す剣でヤツの右胸を、一刀から見て左上に切り上げる。すると木人の鎧の武具の一部が今の鋭い攻撃の衝撃で壊れ、今日の為に誂(あつら)えたのであろう分厚い胸当てが外れそうになった。戦うにはかなり邪魔であった。

 一刀は一旦距離を取ると、木人に言ってあげる。

 今、雲華は先ほどいそいそと一刀の服を直すために家の中へ戻っていったので、この場にはいない。

 

「胸当てを外したらどうです。待ちますよ。服を脱いだ俺の、上半身にしか攻撃して来ない礼です」

 

 木人とはいえ、武人として力量に敬意を表して丁寧に伝えていた。

 そうなのだ。木人は気付かせないようにしていたのだろうが、一刀に対して下の服がある腰以下に、ほとんど剣による攻撃が来ていなかった。来てもすべてフェイント程度であった。

 相変わらず、ヤツの行為はイケメンすぎるのである。

 すると木人は、いかにもな顎を斜め上に少し上げるようにした。まるで、「ふん、小僧め、余計な気を使いよって」と言っているかのようであった。

 だがこの時代、戦いは互いの名誉と命を掛けた神聖なものでもある。そのような気遣いも悪くは無い、尊いものなのである。

 木人は静かに膝を付いて剣を置くと、手慣れた様に胸の武具を外す。そして、邪魔にならないように軽く広場の外周傍へ放ると、木馬が静かに歩いて来て、それをカプリと口に銜えて脇へ下がって行った。

 一刀は思う。どのような仙術なのか知らないが、芸が細かいな……こいつら本当に作り物か?と。

 木人は再び剣を左手で握り、立ちあがる。そして右手でクイクイッと「さあ、掛ってこい小僧」と一刀に合図すしてくる。

 再び激しい戦闘を再開する二人だった。木人も、先読みばかりされるわけではない。一刀の動作のクセを間も無く読んで、先読みしてくるのだ。本当にヤバイ武将なのである。

 逆にクセから木人に先読みされ、頭に連撃を食らった一刀はクラクラさせられた。

 しかしと、一刀は一瞬考える。この水準で猛将かも?という強さなら、最強クラスは一体どうなるんだと。

 だが、激しい戦いと別の想いにその思考は、端へと追いやられていく。

 必死で剣をぶつけ合い、二人の間に剣閃の火花が舞う。

 一刀は当然再開当初から再び『飛加攻害』も狙っているのだが、木人はそれも警戒し全く傍へ近寄らせなかった。

 熱い戦いは、まだまだ中盤にも届いていない。休憩なく終わりも遠く、切り合いは続いて行く。しかし開始当初、一刀が三対七で取れていた攻撃が、じわじわと二対八にまで下がって来ていた。武術については対応の才能も比例してゆく。

 時間はそれなりに経過してきている。

 しかし、益々厳しい、ヤバイ、また打たれたと一刀の考えが行き詰ってくる。

 そんな中、一刀の胸中を過り、彼を支え続ける大部分の熱きその想いは―――

 

 

 

(温泉温泉温泉温泉温泉桃尻温泉温泉胸温泉温泉桃尻温泉温泉胸温泉温泉温泉腰桃尻温泉温泉胸温泉温泉腰温泉胸温泉桃尻温泉温泉腰温泉桃尻温泉胸温泉桃尻胸桃尻温泉胸桃尻腰胸桃尻胸腰桃尻胸ムチムチモモ―――)

 

 

 

 一部ヘンな所があるが、一応漢字で表現してみる。

 ヒドイのである。悪化してると言っていい。

 途切れない彼のその果てなき想いは、続いていく。

 最後の方は、想いがすり替わって当初の想いがアヤしい状況になりつつあるのだが……。

 もう少し、戦いに集中すればどうかと思うのだが、これは『無限の気力』に必要なのであった。もはや、生き残る生命線なのだ。これは『正義』なのであるよ!(最後はエセ中華風に発音)

 そんな一刀の考えなのだが、これで勝とう戦おうと言うのがそもそも武人に対して失礼千万なのである。

 だが、見た目の彼の戦う姿は必死で非難されることはまずない。

 今、目指すものは、温泉胸腰桃尻ムチムチモモと、勝利である!

 そろそろ、こう表現している方が何を書いているのだろうと、ヤバくオカしくなってくる程であった。――いやいやそんな事はどうでもいいのだ。

 

 一刀は、木人に対しての攻撃比率が三対七、二対八と、そこからさらに下がりながら、行き詰まりつつもまだ、この稽古の最終的な勝利を諦めていなかった。

 それは……木人に対してまだ、彼が勝っている部分があったからだ。

 最後に勝てばいい、それまでは現状で凌いでやろう。だが、気付かれてはいけない。一刀は、密かに頭の隅でそう考えながら、木人の攻撃を切り返しつつ時間が過ぎていくのを待っていた。

 ふと、気が付くと雲華が服の修復が終わったのか広場へ戻って来ていた。

 『温泉タイム』へ抱く、熱きその想いを念仏のように内心で唱える一刀は、雲華の見守る中、木人の猛攻をその後一時(二時間)近く耐えたのである。

 終盤は更に攻撃比率が下がって、一対九ほどになり、一刀はボコボコにされる状況になって来ていた。だが、木人も永久に動けるわけではないみたいであった。

 ヤツも少し、攻撃の切れが悪くなっている感じがあった。

 それもそうであろう。二人は互いの攻撃が決まっても致命傷にならず、戦いを続けて常に高い気力と体力の消費を続けているのである。そして単純な考えで言うと木人は、一刀の九倍攻撃してくるわけである。

 ダメージを別にすると、体力、気力は攻める方が明らかに消費するのだ。

 また、一刀のような大量の気を無尽蔵に生み出す『無限の気力』など、そう誰でも出来るわけがないのだ。

 木人にも活動の限界はあるようだ。

 一方の一刀は、更に直前まで近づいてきた『温泉タイム』に『無限の気力』は最高値を記録する勢いにより、全身に無駄に分厚い『硬気功』を展開しており、延々と瞬間回復も掛り続けていることもあって体調はすこぶる万全であった。

 さて、一刀が狙っている逆転の可能性。それは『剛気』である。パワーだけは、現状でもこの猛将並みの木人に負けていないのである。

 そろそろかなと、一刀は動き出す。

 不自然にならないように木人と対峙しながら、木人が正面から力一杯に打ち込んでくるのを待っていた。

 そしてそれは、キタ。

 一刀はそれを剣で受ける――ふりをして、途中で持っていた剣を手放していた。

 木人はそれを見て、一瞬動きが鈍るが振り下ろしは続いた。

 振り下ろされてくる剣を、一刀は白羽どりではなく、初めから『硬気功』で固めた手をブイ型にして鈍い音と共に手に当てて止め、挟み込んでいた。

 そして、この剣術修行の途中で試していた『超剛気』で挟み込んだ剣ごと木人を地面へと一気にねじ伏せようとする動きをとる。

 だが――木人はそれを察知して、持っていた剣を手放し、素早く距離を確保していた。

 

(あれっ……?)

 

 一刀の作戦は、なんと失敗してしまった。

 木人は、徒手で構えを取っていた。功夫の嗜みもある様に見える……。

 

(ヤバイ、どうしよう……)

 

 その時一刀は、自分で手放した足元に落とした剣に気が付いた。そこで閃くのである。

 挟み込んだ剣を左手で持ち直し、一刀はゆっくりと足元の自分の剣を右手で掴む。

 そう、二刀流である。まあ、恰好だけであるが。

 しかし、二刀流で重要なのは、実は腕力と言える。 

 相手が両手で打ち込んでくる剛剣を、片手で止められなければ優位性は半減するのである。

 その点は『剛気』や『超剛気』があれば、全く問題がないのであった。

 

(さて、どこまで反撃できるのか?)

 

 一刀がそんな事を考えていた時に、雲華が両者へ声を掛けてきた。

 

「そこまでにしましょう」

「えっ? これからいいところ――」

「そんなわけないでしょ。君はどれだけ、木人くんにやられてたのよ」

 

 反論しようとした一刀を、吹き出しながら一蹴する雲華だった。

 「まあ、確かにやられまくってたけど」と一刀も認めるしかない。

 雲華はさらに厳しい事を彼へ言う。

 

「最後仕掛けた技、やるのならもっと前にやりなさい。最後にいいところを見せても、修行にならないじゃない」

「……ごめん。そう言われるとそうだな」

 

 そして、続けて雲華は厳しい、余りにも厳しい制約を一刀へ言い渡すのであった。

 

「あと、『無限の気力』も当面禁止かな」

「えぇーーーー!?」

「あんなに無尽蔵に気があったら、君の極限での修行が出来ないじゃない」

 

 『無限の気力』は『悪魔』さまご希望の『一刀の極限状態』には邪魔らしい。『悪魔』さまの御言葉である。もはや、守らざるを得ない。

 一刀は、ようやく生き延びて折れたはずの死亡フラグが、再び確実に立ち上がったような気がした……。

 ガックリと力なく項垂(うなだ)れその場に座り込む一刀へ、雲華は彼の肩へそっと手を置くと、静かに……そして恥ずかしそうに声を掛けてあげる。

 じゃあそろそろ、山菜取りと―――温泉にいきましょうか、と。

 

 

 

 一刀は――――――復活する!

 

 

 

「温泉だぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

 

 タイムでプリーズなんです!と、彼は力強く立ち上がり、咆哮していた。

 体は力みで震えながら、両拳を握り、絞り出すように声を出していた。

 まさに魂の叫びであった。

 もはや、明日の『死』などどうでもいい感がある。今を、温泉を、桃源郷を楽しもうではないか!

 そんな、一刀の本心がそこには溢れていた。当然、ヨコシマな気も無限に溢れていた――――。

 

「禁止って言ったのにぃーーー!!」

 

 気が付いたときには一瞬で気が飽和している一刀の状態に、雲華の声が空しく近くの森に響き渡るのであった。

 

 

 

 

 さあ、温泉である! 

 本来は、水汲みと山菜取りのついでなのだが……そんなことはすでに一刀の記憶には残っていない。

 彼の脳ミソには、温泉に行くついでに、水汲みや背負っている籠へ道すがら食材を見つけて集める、そんな感じにすり替わっていた。

 いつもの様に二人で森の中の獣道を行く。

 一刀の背負う籠はすでに一杯になっていて、しばらく散策のごとく歩いたころ、バチャバチャと水の音が聞こえてきた。

 前回と違うのは……道中ずっと二人が手を繋いでいる事だ。互いに指と指の間にガッチリ組んでいるのである。時々、無意味に手を前後に振ったり、無意味に肩もくっ付けたり、無意味に互いの顔を見合ってニコニコするのである。

 もはや、どうしようもない感じなのだ。甘えるのは寝る前と、起きた時だけじゃねぇのかよ?と口調を乱暴にして問い正したい……あ、いやいや、いいんですよ。だれも見てないから、ホントにもーね。……何も言うまい。

 

 さて、雲華は一刀の『無限の気力』について禁止したのだが、どうも無意識に飽和するので、一刀自身も止めようがなかった。

 なので、禁止はやめて――『無限の気力』になっていない時に修行する事になった。

 雲華としては、一刀が限界状態での修行になればいいのだ。

 逆に言うと、雲華を推して『無限の気力』を使う一刀は、修行の意味が無くなるほどの脅威になって来ていた。

 しかしいずれにしても、『無限の気力』がない状態の一刀にとっては、修行を『死が間近』な地獄として行う事になるのであった。

 

 でも、それは『明日から』だ!

 

 一刀は『前向き』にこう考えていた。

 

(今晩寝ている間に、自分の絶とかの心臓発作でぽっくり行くかもしれないじゃないか! きっとその方が幸せな人生だったと振り返れる気がするんだ。だから……今を楽しむんだぁぁぁ!)

 

 思考が完全に追いつめられた人間のものであった。それほど『悪魔』さまの修行は、一刀にとって怖いのだ。

 もっとも、横で一緒に寝ている雲華が、そんなぽっくりを見逃すはずがないのであるが、モルモットのように怯える一刀はすでに頭が回っていなかった。

 

 湯気の上がる見慣れてきた温泉に付くと、雲華は水を汲んで入るから先に入っていてと、いつもの様に言われ、彼女の肩に掛っている袋から手ぬぐいが出されて渡される。そして、組み合っていた二人の指と手が離された。

 雲華と手が、彼女の温もりが離れて少し寂しい一刀であったが、服を脱がなければいけないので気を取り直して、いつもの位置へ行くと籠を下ろして、服を畳みながら抜いでいく。

 雲華は、いつもの様に奥の湯溜まりで、豪快に背負ってきた水瓶を満水にすると蓋をして帰り口に近い場所へ置く。そしていつも着替えをしている岩場へ行く。

 一刀は脱ぎ終わって手ぬぐいで前を隠すと、湯船際で掛り湯をしてゆっくりと温泉に浸かる。ここは、熱すぎずぬるすぎない良い湯加減なのだ。

 いつも靠(もた)れ掛かっている定位置の浅瀬の岩へ寄り掛かって雲華を待っていた。

 まもなく、雲華が手ぬぐいを携えていつもの様に岩場から出てくる。

 一刀に対して横を向いていたため余計に……出てきた瞬間から、一刀は白い湯あみ着を着いている雲華へ目が釘付けである。

 初めから言っておこう。

 

 なにかがオカシイ♪

 

 そして、彼女はいつものように湯船際の岩場で掛り湯をする。

 当然、彼女の白い湯あみ着は、お湯によって滴り張り付きスケ透けになって、彼女の綺麗で見事なボディラインを浮かび上がらせるのである。

 そのことは、もちろん当の本人も気付いていることだ。知っているのにも拘わらず、雲華はなんと……『正面』を向いてこちらへゆっくり歩いて来るではないか……。

 すでに湯船際で、こちらを向いて入る時にイロイロ見えた気もしないでもない。

 そのためか、彼女の顔は温泉に入ったばかりだと言うのに、すでにのぼせたような赤さであった。恥ずかしそうに顎を少し引いて上目使い気味にしている。

 湯船際はすぐに深くなるのだが、一刀の傍は浅瀬である。そして一刀は岩へ靠れ掛かっている低い位置から見上げる事になる。

 こ、これは……アウトでしょ?

 雲華は近づいて来る。浅瀬に近づき水面から出ている部位が多くなってゆく。

 以前のように、膝を折って首まで浸かって横に移動して来る事をしない。

 初めから見えていた肩から、徐々に胸……お腹……おヘソ……腰下……お股……フトモモ……と露わになってくるのだった。

 彼女の手ぬぐいは、肘を曲げた右手に持たれているが、湯あみ着にはほとんど掛っていなかった。

 つまり―――

 

 

 

 パーフェクト(二十七個連続アウトで完全試合)である!

 

 お、おまけに……その状態で、一刀の目前で雲華は立ち止まっていたりする。

 完全に識別できるのである、凹凸にイロイロと。

 

 

 

 少年誌エロ的に文字で限界表現すると……胸部は『肌桃肌谷間肌桃肌』、お股は『肌ケ(少し)肌』、な感じである。

 完全にお湯で張り付き水滴を滴らせ、かなりの率で透けている湯あみ着に意味などあるのだろうか……?

 いや、大アリである!

 完璧なほど、余計に盛大にエロいのだ!!

 一刀は茫然と彼女の艶姿を見上げていたが、称賛しなければイケナイと僕(しもべ)的な本能がハッと気付くと、いつものように『他人にはとても聞かせられないハズカシイ』言葉を述べ始める。

 

「とても可愛くて、とても可愛くて、とても可愛くて、とても可愛くて、とても可愛くてすごく綺麗だよ、雲華」

 

 大事な事なので、キチンと五回言う一刀だった。

 もちろん、そんな事をしている一刀の脳ミソの片隅では、最大解像度ですべての光景が記憶録画され続けているのは言うまでもない。

 雲華は、一刀の顔を見ながら、とても恥ずかしいそうに小さく頷く。

 だが、実はまだ終わっていなかったのである。

 雲華は一刀の言葉に満足し、岩場に靠れてのんびりするために、ゆっくりと背を向けていく。

 だが……その後ろを向いた彼女の光景に、口を少し開けたまま一刀は凝固する。

 

 

 

 雲華の背中側には―――湯あみ着の白い生地が無かったのだぁぁ☆☆☆!!!

 

 

 

 あったのは、幅が一センチほどの白い布紐だけであった。腰からT字に近いお尻の形に沿ってカーブを描く三本の紐と背中に横に入った紐だけしかなかったのである。

 彼女が着替えの岩場より出てきた当初から、一刀も見た目に白色が何か少ないような違和感があった気がしていた。

 

 健康的なうら若き女の子が、無抵抗に見た目がほぼ全裸で、栄光の胸も桃尻も、シークレットなケをも彼の目の前に晒してくれたのだ。

 

 先ほどからの桃源郷な情景に、彼の歴史は『刷新』されていた。

 もはや、動いたという次元ではなかった。新規に刊行である。新しいページが開くのである。

 ヤバイ……コレはどう褒めればいいのか、さらに……一気にリビドーが満ちて来てアソコまでモッコリとしてしまった一刀は、もはや混乱の境地に達してしまった。

 雲華は、寛ぐようにゆっくりと一刀の横の岩場に並んで寄り掛っていた。もちろん一刀へ肩と桃尻をくっ付けてである。そして彼に向ける表情は、ほぼすべての自らの体の外見を間近でジックリと見られたであろう事を思ってか、非常に赤く恥ずかしそうであり、首を少し斜めにし上目使いで見てくるのだ。

 それは一刀の脳ミソとハートを完全に打ち抜き……砕いていた。

 雲華は、微妙に複雑な作り笑いをしている一刀の表情から、その下の水面の揺らぎを通して見える彼のシモな変化に目線が行き……その熱き想いのリビドーに気付いていた。

 

「ねぇ……それが、私の姿への一刀の返事なの?」

 

 右横から伝わる雲華の小さな声と感じる目線に、一刀は温泉に浸かっているからではなく、『これは……危険な状態?』と戸惑いから額に油汗を感じていた。

 『絶対絶命』、自分に明日なんてこないのだろうか。でも、すでに満喫した気もしないではない。一刀は雲華の質問に――繕える自信が無くて、今の気持ちを正直に答えていた。

 

「そうだね、雲華の可愛く綺麗な姿にとても熱く興奮しちゃった。……でも俺も言ったことは守るつもりだよ。余り待たせないように頑張るから」

「そう…………(嬉しい)。私も……(期待して)待ってる」

 

 なんと、怒りの言葉やお仕置きでないだけでなく、やや不鮮明な箇所もあったがそう言うと、雲華はコトリと頭を一刀の肩に傾けて乗せて来たのだ。

 一刀も自然と右手で雲華の肩をやさしく抱くのであった。

 暖かい湯船で静かに身を寄せ合う、二人の平和で幸せな時間はゆっくりと流れていく――――。

 

 すでに夕暮れ前のいい時間になりそうであった。

 もはや、別々に着替えている意味もあるのかと思われるが、それは違うのだ。

 親しき中にもけじめやメリハリは必要なのである。それがないのは只の堕落だろう。基本を大事にする雲華には妥協できない部分であった。

 着替えを終え、帰る支度が整うと二人は再び手を握って帰るのである。それは行きと反対の手と手を繋いでいた……もはや長き付き合いを感じさせる雰囲気を醸し出していた。

 

 

 

 

 二人が、巨木の家へ戻って来る頃には日が沈みかけていた。帰るのに少しゆっくり歩き過ぎたようである。

 結局、またしても家の中の調理室前まで、手を繋いで来てしまう二人であった。

 

「じゃあ、夕食の準備をするね」

 

 そう言って雲華は空いている手で握っている二人の手を包むようにして、名残惜しそうに一刀との手を解いて調理室に入って行った。

 一刀も背負っていた籠を調理室前へ下ろすと、食堂の卓上を拭いたり床の軽い掃除をし始める。

 ほどなく、山菜取りで収穫したものが活かされた、夕食の用意が出来あがる。

 今日は吹かしものである。干し肉を使ったシュウマイやイモ類と、洗って刻んだ野菜のサラダなどであった。

 彼女のご飯は、いつも出来立てで暖かくおいしかった。そして彼女のあ~んが甘~いのだ。

 一刀もお返しのあ~んをするのであった。

 すると、更にくっ付けてくる桃尻も暖かいのである。もはやどうしようもない感じだ。

 

 夕食の片付けが終わると、夜の修行となった。

 まず、読み書きの勉強である。再び雲華と向い合って筆記用具や竹簡の冊や木簡を用意して始める。

 今朝、新しく増やした漢字を覚えているかの復習も含めて、みっちりきっちり行われた。難しい長文の読解も増えてきた。一刀も地道に読める文が増えて来たので、気分が乗って進めやすかった。最後の方は作文である。やはり自分の意思を他人に伝えられる文が書けることは重要である。

 また雲華曰く、文章の出来で、その人を見る目も違ってくる事だろうというのだ。確かにこの時代、文官としての能力を学がある者も判断するのだろうし、それは色々な所や場面で十分有る事だと考えられる。

 雲華としては、まだ今一つな文章であるらしい。すでに四則計算が出来るのだから、文面が向上できれば、県の最下級役職ぐらいなら雇ってもらえるかもしれないとのことだ。

 一刀が目指す、『一人前』とは……彼なりに少しまとまってきていた。

 それは、どこかの君主や太守になるとか、そんな強大なものでは決してないのだ。

 実にささやかな物である。

 

 

 

『この荒れた時代にそれなりの家を自力で構えて、食うのに困らない財と奥さんと子供を養え守れて、堂々と生きていける人物に』

 

 

 

 ただそういう普通の話であった。

 なので、現状の『猛将との血飛沫上げてのガチバトル』な修行は完全に範疇外であった。

 正直、そんな職業には就きたくないと言える。ゴメン被るのである。

 平和で、奥さんと木陰でまったりとイチャイチャして、食事時にはあ~んをしていたいのだ。

 だが、今は雲華が……『悪魔』さまから『神気瞬導の第三条までの習得!』と掲げられているため従っているだけである。

 しかし、それも大詰めを迎えていた。

 読み書きの学習を一時(二時間)程行ったあと、頭部の絶についての修行が行われた。

 これが終われば、『神気瞬導』の第三条までの、

 

『一つ、気道を絶ち、気道の流れを再開させること。それが気を理解する者なり

 一つ、気によって体は動くものなり。すなわち、より気の強いものはより強い力、より気の早いものはより早い動きが出来るものなり

 一つ、気によって体は回復するものなり。回復への気の大きさ、強さは偉大なり』

 

 が大体終わったことになる。おまけで第四条の、

 

『一つ、気に限界なし。体力とは違うものなり。限界と思ったところに限界が出来るものなり』

 

 まで行ってしまっているんだが。

 雲華は、食卓の机から少し離した食堂の長椅子へ静かに再び横になっていた。

 一刀もこれは少し緊張気味である。

 なにせ脳を完全に絶にすれば……雲華が本当に死んでしまうのだから。

 だが、雲華は一刀を信じている。落ち着いて彼にアドバイスを始めた。

 

「落ち着いて、自分の頭に行った手順と同じ感じを思い出しながらお願いね。順番は筋肉系から内部へ進んでね」

「分かったよ」

 

 一刀は、ゆっくり静かに雲華の言葉に頷いた。

 そして、首や、顔の筋肉系、顎、頬や目の周りなど順に気の流れを絶にしてゆく。次は、視覚、聴覚、嗅覚などの感覚、神経系を絶にしてゆく。

そして、脊髄、小脳の一部、大脳の一部へとどんどん絶にしてゆく。

 脊髄が絶になった段階で首から下の全身が動かなくなるので一気に緊張する。

 一通り終わると直ちに、瞬間回復を掛ける。

 

「どうかな……?」

「君には、武術の才覚はそれほどないのだけれど……『神気瞬導』については末恐ろしいものがあるかな。問題ないわ」

 

 雲華は、一刀に向かってとても嬉しそうに微笑んでくれていた。そして、次の指示と共に言っちゃうのである。

 

「じゃあ、今のを後、二十回しっかりやってみて。それが終わったら……寝ましょうか」

「うん。頑張るよ」

 

 持てる力のすべてを使っての速攻で終わらせようと動くのである! しかしその間、一刀の思考は全く別のところに移っていた。

 彼女の『終わったら寝ましょうか、終わったら寝ましょうか』と、その言葉が彼の思考の中で延々と繰り返されているのである。

 雲華の頭部への絶技二十回は、一刀の脳内で機械的にカウントダウンされていき、ほどなく終了する。

 そして、一刀は正常な思考が戻ってこないまま、雲華へ声を掛けていた。

 

「オワッタヨ」

「なんか、心ここにあらずという感じね。ホントにしょうがないわねぇ」

「ソンナコトナイヨ」

 

 一刀の受け答えがまだ、機械的であった。雲華は諦めたように言ってあげた。

 

「まあ、問題なく出来てたかな。……じゃあ、寝ましょうか」

「―――喜んで!」

 

 一刀は、雲華から待望のオンタイム宣言により、思考の彼方から一瞬で帰還する。

 二人はいそいそと仲よく窓横の洗面台で歯を磨くと、雲華は先に梯子を伝って上に上がって行った。

 雲華が居なくなると、一刀は、食卓から修行のために離していた長椅子を机へ寄せると、部屋周りを整頓する。気持ちが急くが、基本は守らなければならないのだ……『死』は、ほらそこにあるよ?『悪魔』さまは恐ろしいのである。

 一通り終わってから、一刀は棚から『囚人寝間着』を取り出すとあっという間に着替えを終える。すでに、何カ月も前から着慣れているような手際に見えた。

 そして、梯子の下から上の雲華へ声を掛けるのである。

 

「もう上に上ってもいい?」

「……いいわよ」

 

 一拍の間があった……が、一刀は気にせずに一歩一歩梯子を上ってゆく。

 今日も、梯子の近くまで出迎えてくれる雲華である。

 一刀は梯子を上り切る。

 その見た目は、寝間着と耳帽の色が、昨日の水色から橙色系になっていた。そのため寝間着は下の下着が少し透けて見える橙色の透過生地に変わって、ヒラヒラの装飾も赤に変わっている、服のデザインは少し変わっていたが、裾が短すぎるのは昨日と同じであった。

 なので、桃尻の下着が丸見えなのも昨日と同じである。

 ここまでは、まあ良いだろう。

 だが……だがである。これは、イケナイことだと思うのですがドウでしょう?

 

 

 

 胸元の下着と桃尻の下着も、僅かに透けかけているというのは?!!

 

 

 

「ちょ!雲華!?」

 

 スバラシイィィ!! 口から出る言葉と感情が違うことは、よくあることである。一刀はその眺めに感激するとともに、この時代に透過するように見せる裁縫技術を持つ雲華に感心していた。

 一方の雲華は、さすがに正面からまじまじと見られるのは恥ずかしい様子だ。照れた表情の雲華は、いつもの一刀の彼女を称賛する言葉を待たずに早々と彼の右側へ回って来て、彼の右肘に腕を絡めてベッドの方へ誘(いざな)おうとするのであった。

 しかし、彼女との距離が近いため、余計に詳細な姿が一刀の目に見えて、入って来てしまうのである。すでに彼の脳ミソへの記憶録画も、視覚の最大解像度でバッチリ撮られてしまっていた。

 一刀の目線と『無限の気力』が発動しているので、雲華も薄々は見られている事に気が付いている。

 まあ、一刀に見られるのは嬉しい事なのだ。なにせ、見せる為に自分で作ったのだから。

 二人はベッドへ上がると、なんと雲華が一刀に膝枕をおねだりしてきたではないか。一刀は「俺だと固いんじゃないかな?」と言うが、雲華はいいのと言う。

 一刀にイヤはない。可愛い雲華が言うことである。一刀が正座をすると、雲華が嬉しそうに仰向けになり彼の膝へゆっくりと頭を置いた。

 その具合について一刀は声を掛ける。

 

「固くない?」

「うん、固くないかな。ふふっ」

 

 雲華は嬉しそうに一刀を見上げて微笑んでいた。一刀も見下ろして笑顔を返す。返すのだが……一刀から真っ直ぐ正面に仰向けで横たわる雲華……寝間着と下着が薄く透けているのである。

 そちらに思わず一刀の目が行っていると、下から雲華の手が伸びて来て、一刀の頭を両手でやさしく包むように掴むとゴキッと下へ、雲華の顔を向くように角度を変えるのである。一刀は思わず懇願する。

 

「雲華……『剛気』で首の方向を矯正するのはどうかと思うよ? もげちゃうから」

「今は顔を見ていて欲しいの。お話したいの」

「分かりました」

 

 逆らうことは、愚かなことである。イエスマンの宿命である。そして、雲華は静かに話し始める。

 

「一通り、君の修行が終わっちゃった」

「そうだね」

「でも、まだまだなんだから……」

「雲華……」

 

 雲華は一刀の膝上で顔を横に向けると、膝へ頬をスリスリしてくるのだった。一刀はそんな雲華の頭を耳帽の上から優しく撫でている。

 この二人のまったりな時間の中で、雲華からそれが一気に氷付くような、デスオアライブの問いが出るのである。

 

「一刀も……まだ修行したいわよね?」

「え゛っ?」

 

 地獄の修行である。一刀が思わず、聞き返すように言葉に詰まるのも無理はなかった。『悪魔』さまの修行なのだ。今のような、甘える時間なら聞き返すことなどアリはしないノダ!

 一刀の思考が固まる中、容赦なく『悪魔』さまのダメ押しがやって来る。

 

「修行したいわよね?」

 

 甘えの時間なのに、『悪魔』さまの甘えの時間になってるんですが。

 一刀の額には、条件反射的に脂汗が浮かび上がってきていた。

 だが……イエスマンに『否』は無いのである。『悪魔』さまが『黒』と言えば、色が存在しない空気の色でも『黒』なのである。一刀は、恐怖にカクカクと小さく震えながら棒読みでオウム返しのごとく答えるのみである。

 

「修行、シタイ(死体)、デス(Death)」

 

 不思議に複雑ながら意味は合っていた……さすが『悪魔』さまのお導きと言えよう。

 その答えに満足した雲華は、今度は自分が膝枕をしてあげると告げてきた。そして、「スリスリやナデナデしてもいいから」とちゃんと甘いアメも付けてくれたのである。

 位置を変えて、雲華の膝枕にスリスリ、ナデナデとやりたい放題の一刀であった。だが、雲華の膝枕を散々堪能しながらも、これだけは言っておくのだった。

 

「まだ不十分な読み書きと、これまでに教えてもらった『飛加攻害』なんかが、もう少し上手くなるまでだね。雲華を、待たせないようにしないといけないから」

 

 先ほどから、一刀に太腿へのスリスリや足回りから桃尻までさり気なくサワサワされて、「あん」とか「うぅん」などちょっと際どい声が出かけていた雲華であったが、一刀の想いには小さく答えるのである。

 

「……うん、わかってる」

 

 そして間もなく二人は、再び並んで布団へ入った。やがて明かりが消され、雲華は一刀の手をいつもの様にしっかり握ると、昨日よりも寄り添ってくるのであった。そして、スリスリしてくるのであった。挨拶もスリスリしながらであった。

 

「じゃあ一刀……おやすみ」

 

 間もなく、修行を終えてここを離れなくてはならない。それはとてつもなく寂しい。本当は、ここに残ってずっと彼女に甘えて、そして甘えられていたいのだ。スリスリしていたいのである。

 だが、彼女は強く素晴らしいのだ。だから、傍に居るには自分もその価値が無ければいけない。それは自分の我儘なのだろう。しかし、それが北郷一刀の矜持でもあるのだ。

 だから、男として早く一人前になって、ここへ帰って来て、そして―――彼女に伝えたい想いの言葉があるのだ。

 

(だから、前へ進んで俺は伝えるよ)

 

「おやすみ。雲華」

 

 

 

 

 しかし気が付けば、さらに七日が過ぎていた―――。

 もやは、溺れそうである……いや、イカンイカン!

 これも北郷一刀である。

 一通り『神気瞬導』の修行は終わったのだが、それらの完成度を上げるという名目である。

 『飛加攻害』を相手に飛ばして絶技を掛ける方法や、急な瞬間的状況の中での『硬気功』等の発動などである。

 読み書きの勉強も、集中して行われた。使えるようになった漢字は、千六百近くになってそこそこ難しい文も前後の意脈で読める物が随分増えてきた。作文もまあ、それなりに幼稚さの無い、なるべく雲華から教わった文官が好みそうな言い回しを当てて書けるようになりつつあった。

 その中でも、相変わらず地獄的にキツイのが実剣による木人との実戦剣術修行である。

 『無限の気力』と『超速気』が使えないと、もはや一刀には逃げ回るしか生き残る術がないのである。だが、なんと雲華はそれを認めていた。まあ、木人くんがそう簡単に逃がさないのを分かっているからだが。いつも一刀は、ボコボコの極限状態ながらなんとか生き延びて終了していた。

 雲華は気功で一刀のダメージを直しながら、「この時代では、生き残るのが一番大事だからそれでいいの」と言ってくれる。

 それと、修行の合間に僅かだが基本的な剣術、体術も教わった。

 接近戦での剣術や関節技などである。剣術の切り返しにも色々あるのだった。また、組み伏せたあと相手を締め上げる技も有効そうに思えた。

 それから、木馬にも乗せてもらった。足を置く鐙(あぶみ)が無かったので、一刀は雲華に提案し、イメージを木簡に描いて木を削り出して作ってもらい付けてもらった。この時代に鐙は、まだ余り普及していない感じである。

 雲華も「これは便利ね」と喜んでいた。

 乗馬だが、馬の上下に合わせてこちらも調子を取らないと、馬はノってくれないみたいだ。そして、普段の木馬は気分によって首を上下に振ったりと、やたらにリアルな動きをしていた。

 一刀は、木馬に名前が無いと聞き、赤兎馬風に木兎(もくと)と名付けてやった。

 名前を付けて呼んでやると懐いて来た。木馬でも可愛いなぁと思う。

 天気が良い日は毎日、木馬に乗るのであった。

 だが途中、三日も雨の日があった。

 家で過ごすのだが、雲華から約束の仙術と役に立ちそうな仙術をいくつか教えてもらった。あの指で特定のろうそくを消すヤツとかもである。

 屋根裏の服の裁縫部屋も見せてもらった。

 メイド服は帰って来た時に見せてあげると言われた。これは、速攻で目的を達成して帰って来ざるを得ない。今の雲華に着てもらいたいのである!

 

 また一方で、結界を抜けて森の外へ、そして街までの道についても、わざわざ実際に外へ二回ほど案内してもらった。これでなんとか迷わず出て行けて、ここまで帰って来れそうである。

 そして、二日に一度は温泉に入った。

 雲華の湯あみ着姿は何度見てもいい目の保養であった。お湯の滴った、彼女の斜め前方と後方からの眺めが最高にエロいのである。そのシーンの記憶録画数は三百を下るまい!

 雨の日は、頭へ雨笠と獣の皮のマント風な雨具を身に付けて出かけた。雨の山道は足場が悪いので非常に良い経験になった。ただ、温泉までの道程は難所がほとんど無いので助かったが、彼女は山で天候が悪い時は、出来るだけ動かない方がいいと教えてくれた。

 雲華がいつも着替えをしていた岩場は少し岩の屋根をがっちりと作ってある場所で、雲華曰く「しかたないわね」と背中合わせになり……二人で着替えたのであった。

 交代で着替えれば良いのにである。

 狭い場所なので、イロイロ当たったり見えたりするのである。

 後で雲華から、可愛く「めっ、なんだから」とお叱りを受けたことは言うまでもない。

 

 そして、特筆しなければならないのが――日が経つごとに二人の関係は、ギリギリ感が上がっている気がするのは気のせいではなかった。

 甘えの時間における、互いへ触れ合うスキンシップの割合が増えていくのである。

 例えば、食事の時間は、くっ付いているのは当然として、互いのあ~んの回数が増えるのである。ゆっくりなので、時間も掛るのである。そして、あ~んで口元が汚れると互いに見詰め合いながら、相手の口元を指先で拭ってあげて……その指を舐めちゃうのである。

 バカでダメなのである。

 また、朝起きる前の状況だと、隣り合う互いの手の指同士を組んで、しっかりと握られているのはもはや見慣れて変わらないのだが……雲華と一刀は互いに向かい合って横になり、彼女は頭を一刀の胸にくっ付け、さらに左足フトモモまでが一刀の足の間へ入って絡んじゃっています。

 一刀も右腕を雲華の背中へ自然と回して包み込んでいる次第。

 もはや、『何か』あったのではと、思われても仕方のない状況なのである。

 そして、寝る前のスリスリ、サワサワ、ナデナデの時間は……少年誌エロでは、もはや書けない状況で、互いに特定の部位が思わず熱くなっちゃうほどになっていた。

 そんな過酷な状況下にて『欲望』を抑え込む精神的な部分が、究極に鍛えられすぎな気がしないでもなかった一刀であった。

 

 この時代に来て以来連日、一刀は雲華との厳しくも楽しい日々であった。

 しかし、『それ』は少しずつ近づいて来ていた………。

 

 読み書きも予定のレベルはほぼクリアしたことと、『神気瞬導』の派生技もそれなりに精度を上げれたことから、この場所へ来て二十四日目の夜なって一刀は旅立つ日を決断する。雲華も言葉にはしないが、小さく頷くのである。

 いよいよ、一刀の旅立つ日が二日後と決まる。

 

 さて二十五日目、出立前日の今日は、朝から良い天気である。

 二人は、森の結界の外までへの道順についての最終確認と、川へ遊びに――デートに出かける。雲華は、わざわざ木箱に詰めてお弁当を朝に作ってくれていた。

 そして、雲華は――離れない。

 家から目的地までの移動中も、結界にて出る呪文を確認する時も、それから移動して川に付いても、川で遊ぶ時も、辺りを一緒に散策しても、お弁当を食べる時も、昼寝しても、帰宅する道でも一切離れなかった。

 スリスリも収まらない。彼女は完全に『こねこ』さまになっていたのだった。

 ヤバイ、可愛いのである。どうしようもなく愛しいのだ。

 彼女は、行くなとは絶対に言わない。行動でその想いを示すのみであった。

 一刀も時折、彼女を寄せて抱きしめると、彼女の顔を見ながら「待ってて欲しい。すぐ戻るから」と何度も言って聞かせていた。

 彼女は、その度に小さく可愛く頷くのである。

 一刀も、本当は抱えてでも連れて行きたい気持ちなのだ。しかし、それでは自分が納得できないのであった。

 一刀も壊れたボイスレコーダーのように「雲華、雲華」と名前を呟きながら、彼女の手をニギニギして、頭や、頬や、顎や、他色々とナデナデするのだった。

 お互いの甘える行為が、夕食時も、そして寝るまで続いていた……。

 溺れすぎのダメダメである……。

 

 

 

 

 そして、ついに旅立ちの朝がくる。一刀がこの時代に来て二十六日目であった。

 雲華のベッドでの、朝の甘えが長いのであった。一刀の胸に自分の顔を押し付けて脇から手を彼の背中へ回し抱き付いて、ずっとスリスリしているのである。

 一刀は、そんな雲華の背中を優しくポンポンと叩いて宥(なだ)めている。

 生憎、快晴とはいかないが、時折日が射すまずまずの天気であった。

 今日は温泉の日でもある。

 さっぱりして旅出立ちたいという事から、朝食前に二人で早朝の温泉となった。

 ここで、最後の雲華さんアタックが来たのである!

 湯船にて、彼女の湯あみ着での抱き付きからのスリスリであった。

 これにはしばらく、一刀も完全に『壊れて』いた。

 よく覚えていない。いないんだ!

 モッコリもしてしまっていた気もしたし……ソレをやさしくそっと撫でられたような気がしないでもない。そんな妄想的な桃源郷もいい思い出であった。

 温泉から一刀は、フラフラと天国気分で雲華に寄り添われ、イチャイチャと獣道を巨木の家へと戻って来る。

 そして朝食を二人並んでゆっくりと楽しみながら終えると、昨晩最終確認した荷物を背負うと出発の準備を整え、一刀は雲華を従えて外の広場に降りてくる。

 準備した包の荷物は、雨具一式に、毛布代わりの厚手の生地、僅かな着替えと日持ちの良い食糧、読み書きの勉強は続けるようにと、筆記用具に竹簡の冊が数冊と木簡も少し、貴重な紙も持たせてくれた。

 そして広場にて、これもねと雲華から、護身用にあの軽い剣と当面のお金も贈ってくれたのだった。一刀は、「ありがとう」と実戦剣術修行で使い慣れた、この贈られた剣を早速腰に差した。

 外形は装飾について派手さはないが、鞘に収まった状態でも優美にして美しさがあった。一刀の知るところではないが、実はこの剣も高名な老師仙人が作った『龍月の剣』という稀代の一振りなのであった。あの『彗光の剣』すら受け止めきれる飛び抜けた耐久力と、仙術により重力と風圧の影響を受けにくい特性が付加されているのだ。『超速気』での効果が倍加するのである。見る人が見れば、この剣も腰を抜かすほどの名剣なのであった。

 

 森の外への結界の場所へ続く道は、巨木の家の広場から僅かに離れたところに比較的長い直線の道があった。

 見送りはいいと言う一刀に「ここまでは、ね」と、付いてくる雲華であった。

 二人はそこで向かい合っている。一刀は右手で、向かい合う雲華の右の手を優しく取って握ると出発の挨拶する。

 

「雲華、じゃあ行ってくるよ。待っててくれ。俺、戻って来るまでもう振り向かないから。その分早く帰って来るから」

「うん……待ってる。君の姿がここから居なくなっても、君との楽しい思い出と一緒に、ずっと、ずっとこの家で待ってるから」

 

 僅かに涙ぐむ雲華の頭と頬を、一刀は優しく愛おしく左手で撫でるのであった。

 一刀は、手に取っていた雲華の手をゆっくりと離すと、前を向いて静かに歩き出す。

 雲華も黙ったまま、少しずつ小さくなってゆく一刀の背中を見送るのだった。

 一刀は振り返らない。

 

(早く、早く帰って来てね)

 

 小さくなってゆく一刀を見ているのが少し辛くなり、雲華は一刀から目線を下へ外した一瞬であった。

 背筋がゾッとし、ハッとする。

 

 

 

 雲華は――――自分に対してではない、凄まじい『殺気』を捉えたのだ。

 

 

 

 一刀は、前を向いて進む。間もなく直線が終わり、道が右に曲がって、自分の姿が雲華の視界から見えなくなっちゃうなぁと考えていた時、後ろから悲痛な声が響く。

 

「一刀! 危ない!! かず―――」

「えっ?!」

 

 一刀は、雲華の急な予想外の絶叫に先ほどの約束を忘れて、思わず振り向いてしまう。

 同時になにやら、衝撃を受けて倒れ込む一刀だった――――

 

 

 

つづく

 




2014年05月26日 投稿
2014年06月06日 一部修正
2015年03月11日 文章修正(時間表現含む)



 解説)一瞬意味深なものがあったような気もしたが
 つまり、雲華も実は一刀と温泉には行きたいということ。
 そして、背中の白い布が無くなっている新しい白の湯浴み着姿を見せたかったという気持ちが溢れてしまって、一刀に気付かれそうになった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➀➃話 旅立ち

 

 

 

 ――最後に「危ない!」と彼女の声が聞こえた。

 

 

 

 視覚や聴覚ら五感が、すべて奪われた暗闇の世界。

 

 一刀は、また油断していたのだった。

 これまでの修行の最中に、周りの気を捉える修行もそれなりにしていたというのに。その成果を、全く活かすことが出来なかった。

 結果が出なければ、やっていないも同然ではないだろうか。

 旅立ちに際しての色々な感情や、これからの選ぶべき仕事についての事が、それにまだ結界内だという事も、この世界で重要な『周囲への注意』を怠らせてしまった。

 なんて自分は不甲斐ないのだろう。

 これまでの修行でも、油断していた瞬間を何度も、可愛い『悪魔』さまに突かれていたというのに。

 でも雲華は、いつもいつも最後は優しかった。

 

 

 

 こんな感じにバカな自分は、死ななきゃ直らないのだろう……。

 

 

 

(―――って、あれ? ……この感覚は全身に対しての絶?)

 

 一刀は一瞬で、周囲の気を探りながら、全身へ一気に『瞬間回復』を掛ける。

 

「やっと、気が付いたのね」

 

 そう一刀の耳元で告げる、雲華の声は辺りを警戒しているのか少し低いものであった。

 どうやら一刀は、後ろへ振り向いた瞬間、後方から来た雲華により全身への絶技を食らったと同時に、抱き付かれる形で二人は道の前方へ倒れ込んでいる様子に思えた。

 一刀が捉えた大きな気は二つ。

 一つは、もちろん雲華のもの。そして、もう一つは……一刀よりも小柄な男のものであった。

 この場所は、雲華に見送られていた六十歩(八十二メートル)ほどの若干上り気味の直線で、ほぼ終わり部分の曲がり角に近いところである。

 道の周りもずっと木や草が生い茂る場所なのだが、その丁度曲がるところに、雲華の家の木よりも少し幹回りは細いが、それでも巨木と言って差し支えない木が立っていた。その地上から十メートルほどの高枝へ隠れるように、もう一人の気の持ち主がいるようであった。

 先程までは『暗行疎影』のような感じで、気を抑えて身を隠していたのだろう。

 一刀は自分が背負っていた荷物が、雲華の抱き付いて来た衝撃で辺りに散乱しているのが彼女の肩越しから見えた。

 その中に入れた覚えの無い、なにか紅いモノが見えたような気がした。

 一刀は、敵と思われるヤツへ体制を立て直す為に、雲華から素早く離れようとして、更にヘンなものを見てしまう。

 それは、雲華の胸の辺りで、小さくだが一瞬――――

 

 

 

 見えるはずの無い『向こう側の景色』が見えていたのだ……。

 

 

 

 一刀は『速気』から『超・速気』に入ろうとしたところであったが、その意味の分からない現象に気付き、意識と体が固まってしまった。

 その余りの精神的な衝撃に、彼の体が小刻みに震え出していた。

 そして、彼が捉えていた彼女の気の詳細な状態から……すでに心臓の半分近くが損傷欠損……及び停止し、更に左肺の一部やその前と後ろの骨格及び筋肉類ごと消失しているのが確認出来てしまった。

 ただ、すでに毛細血管に至るまで全て閉じられているため、流血はほぼ無い。

 一刀は、驚愕の表情で固まった顔で、ゆっくりとその破孔の有る紅のチャイナ服の胸元から、雲華の顔を見る。

 

 雲華は、少し寂しそうに静かに微笑んでいた。

 一刀は自分を庇った為に、雲華が大怪我をしたと瞬時に理解する。

 

「ゆ、雲華?! お、俺の所為で――」

 

 彼女は、一刀の唇に右手の人差し指をやさしく押し当てて遮ると、静かに話しながら『心臓が停止している体』で立ち上がる。

 

「違うわ。これは、私が自分で選んだのよ。人の所為するような道を歩いた事なんて、今までに一度もないわ」

 

 そう言い終わる頃、血流が止まったことで、雲華の綺麗な瞳から光が……輝きが失われたのが一刀には分かるのだった。

 彼女は『悪鬼』のごとく気を漲らせて、愛しいものを襲った敵に対峙しようとしていた。そして、厳しい口調で僅かに見下ろしながら一刀に告げる。

 

「早く逃げなさい。大丈夫、私は『まだ』戦える」

「ち、治療を――」

 

 そこで、まだ若い感じの男の声が巨木の上から響き渡る。

 

「ほぉう、そんな方法で……相変わらずやる事が凄まじいな、雲華。自殺紛いの『視鏡命遂』でその男の気道を完全模写して成りすまし、我(ワレ)が撃った、相手の気を捉えて距離ほぼ無制限で破壊する大技の『気導拳(きどうけん)』を身に受けて俺の目論見を破るとは。

 その上に……まさか……心停止してからすら相手を屠るところから、他の技名と違い、『自ら刻みゆく死に送ってもらう必要など無い』という強い誇りと決意を表す名が付いたと言う、神気瞬導で最難関の奥義の一つ『刻死無葬(こくしむそう)』とは……ふふ、恐れ入る。我にも出来ぬからな。

 さすがは、仙人界で『修羅仙女』と言われているだけのことはあるな。この仕事を受けた時、貴様ら二人とも消せを言われたが、正直、その男を先に消したら、怪我をする前に退散するつもりだったのだが……これは飛んだ拾いものだな」

「そちらも口だけは、相変わらず回るようね、死龍(スーロン)。ふーん、じゃあ、どんなモノだか拾ってみればどう?……命掛けでね!」

 

 雲華は、常識では考えられない『心臓損傷欠損による心停止』というハンデを、全く感じさせない気迫の籠もった言葉を返していた。

 一刀も、肉眼では枝葉で姿の見えない敵を気で探り睨みつけていた。雲華以外の達人仙人に初めて遭遇するが、それは凄まじい気の塊に包まれているヤツだった。まさに雲華のような強さが想像される化け物である。

 

 雲華は、再び小声だが、厳しい口調で命令するように一刀に告げる。

 

「早く逃げなさい。今の君なら十分逃げられるはず。そして、遠くに離れたら常に周りへ近付く気を警戒しながら『暗行疎影』を使って身を隠すのよ。さあ」

 

 彼女は、自分の瀕死の体の状態など気にする風もなく、一刀の事を心配するよう丁寧に指示してくれる。

 『悪魔』さまの命令である。何があろうと聞かざるを得ないのだ。

 だが……一刀は、目線を下へ落とし、俯くと呟くように言い始める。

 

「……無理だよ」

 

 雲華はその答えに怒気を込めて促す。

 

「君なら十分逃げ切れるから、諦めないで! 大丈夫、私はまだまだ戦えるんだから」

「違うよ」

 

 一刀は、そう否定すると、ゆっくり首を横に振りながら俯いていた顔を上げると、彼女を見ながらやさしい表情で言うのだった。

 

「あの化け物に『突撃しろ』や『倒せ』とか『時間を稼げ』とか、そういう事なら、その先に『死』が見えていても喜んで行かせてもらうよ。でも……今の……そんな状態の君を残して『逃げる』という選択肢は――俺には無い。そんなことは、君の言葉であっても『聞けない』!」

 

 最後は、逆に雲華を叱るように睨みつけていた。

 すると、先程まで恐るべき気を放っていた彼女が……光をすでに失っている瞳に涙を浮かべながら急に弱々しい声で言い始める。

 

「だって……だって私がここで負けたら……一刀が死んじゃう」

 

 彼女を気遣い、一刀もゆっくり立ち上がると、雲華の手をそっと握り言葉を返した。

 

「大丈夫、二人で戦おう。そうすれば、きっと勝てるよ」

「……うん」

 

 すると巨木の上から、ヤツの声が再び聞こえてきた。

 

「ふん、今生の別れは済んだか? まあどの道、二人とも同じ所へ行くんだ、気にするな」

「一刀を……貴様は……何故、一刀を狙うの? 仙人の掟では、『人』と関わってはいけないとあるけど、一刀は『人』を超えているわ。問題ないはずよ、どういうこと?」

 

 雲華は、一刀へ向けられた殺意に再び気を持ち直して、下から睨むようにヤツのいる方向を見ながら核心に迫る質問を続ける。

 

「一刀は『人』だというの? 何でそんな判断を―――」

「我(ワレ)は知らん。お前は兎も角、その男は消せと受けただけだ」

「一刀を……?」

「そいつが生きていると、都合が悪い奴がいるのかも知れんな」

 

 一刀は、雲華の手を握った瞬間から全力で彼女の胸部へ『瞬間回復』を掛けていた。しかし、目立った効果が余り無いのだ。

 愕然とするが、再度全力で『瞬間回復』を掛けてみた。だが、結果は変わらない。小声で呟く。

 

「雲華……これは、どうなってるんだ?」

「部位が完全に欠損している場合……おそらく、相当の気の量とその質の高さと時間が掛るわ」

 

 雲華はヤツと対峙しながら、隙を見て小声で返してくれていた。

 それとは別に一刀は、先程から雲華の事で動揺が酷く、注意が散漫になっている部分があるのか、気の満ちる気配が一向にないのであった。先程「二人で戦おう」と大言を吐いたにも関わらず、このままでは満足に戦うことすら出来そうにない感じだ。

 

 そう―― 一発逆転を狙えそうな『超・超速気』を使うのに気が足らないのだ。

 

 今の一刀は、自分の体が多少壊れるぐらい微塵も恐れていない。決めたら迷うことはない。だが、気力不足から発動が出来ないのであった。

 雲華も彼の気力不足に気が付いていた。

 

「クソッ」

 

 激しく悔しい表情で項垂れる一刀へ、雲華は「一刀」とやさしく声を掛ける。

 一刀は雲華へ向けて顔を上げる。

 彼女は、既に見えてはいないその目を彼へ向けると、少し儚げに微笑みながら言葉を伝える。

 

「大丈夫……私がやるわ。今、神気瞬導の真髄を見せてあげる。しっかりと見ているのよ」

 

 それはまるで最後の修行を、姿を一刀へ見せるかのように。

 そう言い終えた彼女の体から感じる気は、以前と変わらないものであった。心停止で不足する全身の細胞へのエネルギーを、周囲の気から取り込んで転換して取り込んでゆく。雄々しく彼女の気は満ちてきていた。

 雲華はその状態で『超速気』を使いヤツへ向かって飛び出してゆく!

 

 相手が暗殺仙人だろうが、達人仙人だろうが関係あるか! 打(ぶ)ちのめしてあげる!―― そんな凄まじい怒気とスピードと技量であった。

 

 死龍(スーロン)という、暗殺仙人も同時に動き出す。二人は周囲の木の枝や幹を足場に飛び回りながら、何十合という拳の応酬が繰り広げられていた。

 鈍く固いもの同士が、ぶつかり合う音が周囲に高速に響いている。

 一刀も『超速気』で二人の闘いの気の移動を追う。だが、『超速気』も立っているだけとはいえ、かなりの気を消費する。今の一刀では、長時間見続けることすら厳しいものがあった。

 だが、これだけは倒れようとも目を離すわけにはいかない。彼女は一刀の代わりに重症な身で闘ってくれているのだ。

 『超速気』状態の一刀が、目まぐるしい動きをしている二人の気を追う。

 さすが雲華である。開始して一刻程(十五分)を過ぎてもまだ一撃も受ける事は無く、大口を叩いていた相手のヤツを蹴り、殴り、地面に叩き付ける場面が何回かあった。

 その時に漸く、死龍という男の姿を垣間見ることが出来た。

 ヤツは武器を持っていなかった。無手で闘っているようだ。

 雲華が、武器を持っていなかったので助かった部分であった。

 身長は百六十センチほどで、一刀より二回りほど小柄な男であった。

 仕事柄の為か、全身グレーの比率が高い色合いと動き易いようにだろう、袖周りや足首周りは細く現代に近い感じの服装をしている。その他、胸当てや腕当てのような金属製の武具が見えた。そして肩から斜めに前半分と背中周りを覆う、こげ茶色でマント風の大布を纏っていた。

 頭は髪を黒寄りなグレー色の布で覆い縛っていた。釣り目で眼光は鋭く鼻筋は高めに通っている。見た目はまだ若く思えたが、仙人なので実際どうなのかは分からない。

 ヤツは何度か高所から地面に叩き付けられたはずが、ケロリと起き上がり、追撃に来る雲華の攻撃を躱して再び上に飛び去っていく。

 ヤツの気の状況を見る限り、全身を覆う『硬気功』の防御力が半端ではない。雲華の剛打を何度か真面に受けているはずであるが、殆どダメージを受けていない。

 再び雲華の剛撃が、ヤツの腹にクリーンヒットした。その衝撃で木の幹や枝に激突して行く。

 

 一刀は、ヤツの闘い方を見てすぐに『神気瞬導』の同門者だと気が付いた。

 

 雲華は一刀の傍へ構えを解かずに着地する。一刀は彼女に声を掛ける。

 

「あいつ、神気瞬導の使い手だったんだな。それも雲華並みで相当手強い……最初の話で詳しいヤツだなと思ったけど」

「そう……あの男も『神気瞬導』の使い手よ。それに加えて『硬気功』の怪物でもある。鉄人仙人、鋼仙(コウセン)の死龍(スーロン)の号を持つヤツよ」

 

 そう言うとヤツが態勢を立て直した為、再び雲華は攻め込んで行った。

 さらに、二人は二刻強(三十分)の間激戦を続ける。

 雲華は未だにクリーンヒットは受けていない。代わりにヤツへ強烈な打撃を加えていた。それでもヤツの強固な『硬気功』は、ダメージを殆ど受けないようなのだ。

 それは本当に、どんな体の構造をしているのかと考えさせられるものがあった。

 そして、雲華もさすがにすべては躱せていない。だが、そこは腕や足で防御をしている。

 さらに防御の際、カウンター気味に至近距離でヤツへ――

 

 

 

 雲華の、閃光のような凄まじい気の塊のような一撃がヤツの腹炸裂していた!

 

 

 

 その強烈な一撃を受けて、死龍は高速で直線的に森の奥へ吹き飛んで行き、途中で巻き添えになった木を何十本もへし折っていた。

 先日、一刀が『神気瞬導』の技について話を聞いた時に雲華が教えてくれた。これは『気導砲』と言うらしい。

 膨大な気を拳から一気に放出して前方の敵に当てる大技ということだった。受けた部分や部位は破壊されると言う。まあ、当たれば倒せる技らしい。多分受けた者は、余りの威力に死んでしまうのだろう。

 それがカウンターで、ヤツの腹部に真面に当たったのを一刀も気で感じていた。

 一刀が捉えた雲華の放出した気力は、かなりの量だ。彼女はこの一撃にかなり掛けていたのかもしれない。

 雲華は一刀の近くへ着地すると、一刀へ少し微笑み掛けようとしたが、表情が急に険しくなり、死龍が吹き飛んだ方へゆっくり振り向くと呟いていた。

 

「うそ……」

 

 死龍は、森の中をこちらへ向かってゆっくりと歩いてくる。

 ヤツの、服の上半身は破れ散ったのか吹き飛んでいた。武具の胸当てと、分厚かったマント風の布が裂けた状態だが残っている。

 

「さすが『修羅仙女』の放つ『気導砲』、凄まじい威力だ。我が……『超・硬気功』で傷を負うとは……」

 

 ヤツの腹部の肉が、手の平を広げたほどの範囲で抉れていた。まだ、そこから僅かに煙も上がっている。

 だがヤツは、死龍の気は、まだまだ満ちている状態であった。

 膨大な気によって、徐々に傷の部分へ復元回復も掛っているようだった。

 

 

 

 ――化け物過ぎる。

 

 

 

 一刀は先程、ヤツが『武器を持っていなかったので助かった』などと思ったが、そんな物は必要なかったのだ! すでにヤツの体自体が恐るべき凶器だったのだ。

 一方、雲華は大きく気を減らしていた。

 しかし……雲華は再び……静かに周囲から気を集め始めている。

 一刀はその姿に『神気瞬導』の底力を感じた。気力は無限なのだ!

 雲華は、再び死龍へ向かってゆく。

 そしてヤツへ凄まじい連撃を食らわせていった。

 だが、雲華が渾身の『超剛気』の一撃を放とうとも、ヤツの『超・硬気功』はダメージを殆ど受けず破れない。

 先程、雲華が放った『気導砲』ぐらいの強大な威力の攻撃しか、ヤツの剛体を通らないのだ。

 さらに戦いは続いた。開始から一時(二時間)が過ぎようとしていた。

 それでも、雲華は攻め続けていた。

 だが彼女は、死龍の攻撃を……完封出来なくなって来ていた。それでも、腕や足で防御して凌いでいた。

 その激戦の最中、なんとかヤツに右拳による『超剛気』の会心の一撃を当てて森へ吹っ飛ばした時に一刀の傍へ雲華が下り立った。

 

 だが一刀は、彼女のその異変に気付いて言葉を失っていた。

 

「雲華……その手……」

 

 一刀が見たものは、ヤツの『超・硬気功』の剛体を何度も何度も『超剛気』で殴りつけていた雲華の右拳であった。あの……綺麗な可愛い手が、紫を通り越してどす黒く腫れ上がり――激しく変形を起こしていたのだ。紫に変色した左手で思わず隠す彼女だったが、すでに腫れて左手では隠し切れない大きさになっている。

 そして、あの短剣の剣先で突いても全く変化のなかった強力な『硬気功』を施し防御に使っていたはずの両腕も袖から覗く部分が――紫色に変色してボコボコになっている状況が垣間見えた。一刀は思わず彼女の足元にも目を落とす。脹脛まであるブーツ状の靴を履いている為、目視では確認出来ないが、はみ出した紫色の部分が確認できる。おそらく中も腕と大差のない状況なのだろう。太腿にも幾つかの紫色の痣が出来ていた。

 ヤツの『超・硬気功』の剛体と拳はそれほど固いのだろう。

 そして……雲華からは、すでに当初ほどの気が感じられなかった。幾分だが明らかに衰えて来ていたのだ。

 しかし、それは当然と言える。心停止した状態で、すでに一時(二時間)以上も全力で戦っているのだ。

 やはり、心臓が動いている側と、止まっている側とではハンデが余りにあり過ぎるのだろう。

 一刀は、闘いの当初から、ずっとただ見ているだけである。本当に男として情けない思いであった。

 しかし、この雲華の状態を見てもう限界であった。とは言え、普段絶倫な彼も、このような悲愴の状況では、ヨコシマな考えが微塵も浮かんで来る事がなかった。一刀は考える。

 

(何か、有効な手はないのだろうか……並みの攻撃ではヤツに全く効果がない)

 

 すると、雲華も考えていたのか呟く。

 

「剣が……」

「これ?」

 

 一刀は咄嗟に、腰に差していた剣へ手を当てる。雲華は、首を横に振り答える。

 

「その剣では耐久性はあっても、あの男の『超・硬気功』の剛体は切れない。でも――彗光の剣なら、両断までは出来なくても、あの男の筋や腱を切ることは出来るはず」

「そうか! 俺が取って来るよ。でも、その前に雲華のその傷へ『瞬間回復』を掛けないと」

 

 自分へ手を伸ばそうとした一刀を、雲華は左手で制し止める。そして指摘してくる。

 

「私とあの男の気を追うのにずっと『超速気』を使っていて、私に『瞬間回復』を掛けたら、君には気が残っていないでしょ?」

 

 雲華は、自分がそんな状況でも一刀の事を良く見ていたのだ。

 そして、やさしい笑顔で伝えてくれる。

 

「私は大丈夫よ。君を信じて待ってるから」

 

 ここまで言われたら、我の思いに耐えて剣を取りに行くしかなかった。

 

「分かった。必ず取って来るから」

「うん、行って。待ってる」

 

 彼女の笑顔を確認すると一刀は即、走り出した。

 巨木の家まで往復しても一里半(六百メートル)程度である。戻ってきたあと、残りを全部回復に回す事を考え、『速気』で移動する。

 

 走り去ってゆく一刀を、とても優しい表情で見送っていた雲華は、再び静かに死龍へ向き直る。

 その表情は、すでに『悪鬼』のごとき険しい表情に変わっていた。

 あの男は、吹き飛んでいた森の中から、再びゆっくりと歩を進めて雲華へと向かって来ていた。

 雲華は考えていた。

 

(普通なら、もうとっくに倒せている強力な攻撃でも、あの男には全く通じない。こうなったら持てる力全てで一撃に掛けるしかない。

 一刀にはああ言ったけど、筋は兎も角、あの男が本来の調子に遠くなりつつある私に、腱をそう簡単に切らせる訳がない。

 このままでは、じりじりと倒されるだけだわ。余り離れた距離は稼げなかったけど……もしかの時には、何とか逃げてね……一刀)

 

 そう、彼女は全力を出して負けた時に、すぐに一刀が巻き込まれるのを避けたかったのだ。

 雲華は、目を閉じるとあの男の気を捉える。

 そして、相手の内部を直接狙う『気導拳』の構えを静かに取るのだった。

 今回使う気の量は、今持っている可能な限りの量を使って。

 

 狙うは――――ヤツの頭……脳に対してである。

 

 それは、迷わず瞬発された。雲華はこの一撃にすべてを掛けていた。

 

 

 

 

 一刀は『速気』にて、ほどなく巨木の家に着くと、『彗光の剣』をいつもの壁の場所に見つける。

 探すときに一瞬、闘う二人への気を伺う集中力が些か下がったが、再び確認してみる。 その時に、雲華の大部分の気が凝縮するのが分かった。

 

(お、おい、雲華……俺が戻る前に……何をする気だよ)

 

 そして、ヤツへ放たれたのが分かった。

 一刀は感付いた。これは、以前木簡を吹っ飛ばしたのと同じ技で『気導拳』だと。

 だが、今回の気の量は彼女のほぼ全力と思える程あった。

 そして、雲華の放たれた気は再び現れた場所で、標的が……ヤツの頭だということも感じ取れた。先程彼女の半分ほどの気を使った『気導砲』であの威力なのだ。

 全力なら、頭は消え去るだろう。

 

(これは雲華が、勝っ――……えっ?!)

 

 一刀は死龍の気も捉えていた。

 なんと……ヤツは全身の『超・硬気功』を解いていた。

 そしてそれに使っていた膨大な自身の気を、頭と心臓の二か所だけに振り向けて『超・硬気功』を掛け直していたのだった。

 雲華の放った渾身の強力な『気導拳』は確かにヤツの脳へ当たった。

 

 

 

 だが、死龍は――――倒れない。

 

 

 

 そして、間もなく逆に雲華の残された気が、更に弱々しくなり倒れるのが感じられた。

 一刀は、『彗光の剣』の帯を握り絞めて走り出していた。

 

 

 

 

 雲華は愕然とした。確かにヤツの脳に『気導拳』が当たったはずなのだ。

 現にあの男の頭が一瞬揺れ、耳や鼻や目からは血が僅かに出ていた。

 だが渾身の一撃にも関わらず、頭部は残ったままで血が僅かしか出ず、死龍は歩を一歩一歩と進めてくるのだった。

 

 雲華が放った渾身の『気導拳』は、死龍に通じず破られたということだろう……。

 

 彼女は残った気で全身へ弱い『硬気功』を掛けて防御し、再び周囲の気を集めようとするが、間もなく両肘、両膝が破壊されて崩れ去りながら倒れるのであった。

 死龍は、彼女から少し手前の離れた所で雲華をニヤリと見据えながら、彼女へ『気導拳』を逆に放っていたのだ。

 そして、倒れている雲華の所まで歩いてくると、地面に両肘両膝が破壊されて転がってもなお、傍に寄るなとばかりに激しく睨みつけてくる彼女の襟首を掴むと引きずり上げていく。

 雲華へ顔を寄せ、彼女の攻撃で血を僅かに流した表情で、微笑みながら死龍は言うのだった。

 

「さすがとは言っておこう『修羅仙女』よ。そんな体で成したとは驚きだ。

 我の『超・硬気功』を最高に上げてなお、いくらか損傷させられた。その礼と言ってはなんだが、あの男の餌になってもらわんとなぁ」

「………」

 

 睨んで無言を貫く雲華にそう言いながら、死龍は『超・硬気功』で再び固めた右人差し指を、釣り上げた雲華の腹へ突き立てる。そしてその突き刺さった指先から―――『気導砲』を放っていた―――。

 

「がッ、ぐふッ……」

 

 それは、激痛が伴う彼女のツボを突き抜け、肝臓を突き抜け、骨や筋肉を巻き込んで雲華の背中へ突き抜けて飛び散るのであった。

 雲華の口からも血反吐が漏れて来ていた。

 そんな状況にも関わらず、彼女は思っていた。

 

(一刀逃げて。一刀逃げて。一刀逃げて。一刀逃げて。一刀逃げて―――)

 

 しかし、そんな一途な思いも、道の直線の向こう側に現れた彼の魂の絶叫によって消え去るのである!

 

 

 

「ユンファァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」

 

 

 

(もう!だめじゃない一刀………私のために戻って来ちゃったのね…………)

 

 雲華は自分の事は、もはや考えてはいなかった。一刀が……彼が、ここに来れば死ぬ事になると言うのに…………しかし、それでも来てくれた事がとても―――とても嬉しかったのだった。

 

 一刀は見てしまった。

 ヤツに襟首を握られ吊るされ、もはや無抵抗に掴まっている雲華の姿を。

 そして、彼女のあの可憐で可愛い手足より血が流れ――加えてそれらが、肘や膝から先があらぬ方向を向いてしまっているという惨状を。

 さらに、そんな彼女の柔らかいすべすべして綺麗だったお腹に、ヤツの醜い鋼鉄の指が突き刺さり、彼女の美しかった背中から血飛沫が肉片とともに後方へ飛び散って行った有様を。

 

 

 

 一刀は――――――――――――キレテイタ。

 

 

 

 その瞬間、死龍ははっきりと視界にも捉えていたはずの一刀の姿を見失う。

 死龍は、もちろん道の直線の向こう側に現れる前から一刀に気が付いていた。

 

 だが、見失った。

 

 死龍は、雲華にも劣らない『超速気』で一刀の気を確実に捉えていたのだ。

 

 だが、それでも見失った。

 

 そして、死龍は―――雲華をも見失ったのだ。

 今まさに、がっしりと手に握って吊るしていたはず――なのにである。

 死龍は、背筋が寒くなるほど戦慄した。

 

(何が……起こっているんだ……!?)

 

 そして、彼のまさにすぐ後ろから、小さめの低い声が聞こえた。

 

「オマエダケハ……絶対ニ許サナイ!」

 

 数々の修羅場を潜ってきた死龍であるが、こんな不可解な経験は初めてだった。その固まった表情でゆっくりと後ろへ振り返る。

 そこには、雲華をとても優しく『お姫様抱っこ』で抱き上げ、双眼の瞳の奥に白き光の輝きを放つ目で睨みつけてくる一刀が静かに立っていた。

 死龍は、始め理解できなかった。

 あの距離で、一瞬、いやまさに、刹那であった。

 『超速気』の早さではない。これはもっと早い。だが、その上の『超・超速気』でもない。

 なぜなら『速気』の行動には必ず風圧が伴うからだ。それがあるので分かるのだった。

 だが、今の瞬間、死龍は周辺に全く風圧を感じなかった。

 それに掴んでいた手が緩むことなく、いきなりあった物が無くなった感覚であった。

 一刀の周りには、あの白き光の輝きに包まれていた。

 日も昇りはじめて明るいというのに、はっきりとそれが見えていた。

 死龍は、まさかと思った。そんなわけは無いと。

 そして死龍は、一刀へ瞬動して殴り掛っていった。

 

 しかし―――まさかであった。

 死龍の攻撃は、雲華を抱いた一刀に当たるどころか触れることなく―――すり抜けていた。

 

「バ、バカな……げんそう……こうてい……だと……?」

 

 死龍は固まっていた。

 『現想行体(げんそうこうてい)』は、究極の気が想像の外の動きを体に行わせる技である。雲華の師匠が好んで使うと言う『神気瞬導』の奥義の一つ。

 『現想行体』と戦えるのは『現想行体』だけと言われている。

 『現想行体』からの攻撃はこちらへ可能だが、『現想行体』側への攻撃は当たることが無いのだ。

 今、一刀の気は溢れ、究極に高まっていた。

 

 

 

 『無限の気力』はヨコシマな気や、幸せな気、そして勇気など、気であればなんでも良いのであった―――そう『殺気』でも!

 

 

 

(敬愛する、大事な大事な可愛い可愛い雲華に……よくも……よくもやりやがったな―――)

 

 もはや、怒気だけでは収まり切らない感情であった。

 『ユルサナイ』……『生カシテハオカナイ』

 一刀から感じられる、信じられないほど膨大な凄まじい量の気に恐怖を感じ、死龍は大きく森の奥へ距離を取った。

 もはや、撤収するしかなかった。

 死龍は、これまで自身の膨大な気の量には自信があったのだ。だが、今の自身の気の量を酒の杯とすると、この男の気の量は―――池ほどもあったのだ。

 一刀は自らの傍へそっと、雲華を下ろし横たえる。

 だが、その殺気の籠もった荒んだ顔の表情を見られたくない一刀は、雲華の表情を見ることなく死龍へ対峙するのであった。

 一刀はヤツに対して体を少し左斜めに向かい、静かに右拳を伸ばしてヤツへ向ける。

 雲華は気を視ていた。一刀の体があの最初に降りてきた時と同じ、神聖に思える至高の光の輝きに包まれているところを。

 

「す、すごい。あの時の……至高の気の力が一刀へ……一気に集まっている」

 

 そして一刀は静かに告げていた。

 

 

 

「消えろ」

 

 

 

 その瞬間、余りにも巨大な光の塊が一刀の右手から一直線に死龍へ向かって打ち出された。

 死龍は逃げ去ろうと思ったが―――すでに逃げる場所が無かった。

 気が付いた時には、それは一瞬で背後まで来ていたのだ。

 そして、間もなくその光の圧倒的な直径に飲み込まれていった。

 

「――おァァ――――――――!」

 

 ヤツの強靭さを誇った『超・硬気功』であったが、それが規格外の一刀の放った『神・気導砲(しん・きどうほう)』の強大な威力に負けて、ヤツの剛体が融けるように一瞬で光の中で消えていった……。

 一刀の右手の先には、この泰山の広大な森の中に大きな空き地が広がっていた。

 細長く広い範囲で地面を抉るほど薙ぎ払われ、そこには残光がまだキラキラと舞っていた。

 しかし、彼はそんな光景には興味が無かった。

 一刀は雲華の傍へ戻って来ると、ひざを折り地面へしゃがみ込む。

 そして再び、雲華を優しく優しく抱いていた。

 すでに、雲華の全身への『瞬間回復』には入っている。

 だが、不味いことに圧倒的な至高の『無限の気力』のもとになっていた『殺気』が無くなろうとしていた。

 怒りの矛先が向いていた死龍を、すでに一瞬で葬ってしまっていたからだろう。

 一刀は、弱々しい雲華の顔に頬を寄せてスリスリしながら、申し訳なさから呟くのだった。

 

「俺の……俺がここに来たから……」

 

 しかし雲華は、静かに力なく首を横に振ると言葉を紡ぐ。

 

「そんなことない。私は自分で考えて、自分でしたことの報いなだけよ」

 

 一刀の不安が広がってゆく。先ほどから全力で『瞬間回復』を掛け続けているのに効果が非常に弱いのだ。どうなってるんだこれは……?

 

「雲華……その……『瞬間回復』が……すごく効きにくいんだけど」

 

 すると、雲華は寂しそうに微笑みながら言うのであった。

 

「完全に死んだ細胞や神経には『瞬間回復』は掛りにくいの……君は、そうなる前に回復させるのよ。覚えておきなさい」

(な、なん……だと―――そ、それって)

 

 すでに、雲華の体全体から感じられる気の量が、いつもよりもずいぶんと小さいものであった。

 

「一刀……これから私が言う話をよく聞いてね。それは、今日の君を狙ってきたことにも関係があると思うから」

「……わかったよ」

 

 雲華の真剣な表情に一刀が答えると、彼女は話を始める。

 

「君が来た時から、考えていたの。そして修行の中でも見せてもらった。そして今日も。一刀は、追いつめられると尋常ではない力を発揮する。それはまるで、君がこの世界からいなくなることを助けるかのようにね。だから、多分――

 君は、この世界で何かを『成し遂げ』なければいけない存在のはずよ。

 これから、それを探し『成し遂げ』なさい。約束して欲しい……ね?」

 

 雲華は優しい表情を一刀へ向ける。

 話を聞いていた一刀だが……こう話を聞いている間にも、みるみる雲華の気は小さくなって行く。

 そして、雲華は寂しげに告げてくる。

 

「これからは、君一人だけど……頑張って。わたしは……ずっと……ずっと見てるから……」

「……俺……雲華がいないと頑張れないよ……」

 

 一刀も『避けられないもの』が近づいて来ていることに気付いてしまっていた。

 雲華は、再び優しい笑顔を浮かべて無言で首を振る。

 彼女の目は開いて動いているが、血流が無く、すでに目の輝きは失われている焦点の合わない目を向けてくれていた。

 

「一刀、ちょっとごめんね。服が汚れちゃうけど」

 

 雲華がそう言い終わると、今まで流血が無かった胸元から血が僅かずつ流れるのだった。一刀は、思わず傷口を見てたあと、再び雲華の顔を見る。

 

「雲華、傷口が――」

「最後に……一刀の顔が見れた。良かった元気そうで……ずっと元気でいてね」

「えっ?」

 

 雲華の表情を見ると、彼女の目に光が戻っていた。

 

「こ、これは」

「ふふっ……血管の弁を……開放して今、ちょっとだけ……血流を起こしたのよ」

 

 そう言って、彼女は一刀の顔をじっと静かに見ているのだった。

 間もなく雲華は話し出す。

 

「この一か月……ありがとう。私にとって……とてもとても楽しい時間……だったわ。

 物心ついてからずっと一人で歩いて来たから……。

 だから……私は、最後はきっと……どこかで……一人で、野たれ……死ぬと思っていたから………。こうやって……誰かに、看取られるのも……悪くない……わね」

 

 弱々しいが、優しく……嬉しそうに雲華は微笑んだ。

 彼女の目尻からは涙腺の力も失われたのか涙が零れ落ちていた……。

 

「か……ずと……聞いてほしい…………私の……真名はね……くおん、……九つ……の音と……書いて……九音と……呼ぶのよ。覚えて……いて……くれると……うれしい………」

 

 分かったと小さく無意識に頷く一刀。

 

「九音……」

「あ……りが……とう、……ひさし……ぶりに……ま……な……を読ばれ……た……………わ……………………す……き……よ………か……ず………………」

 

 最後の声は出ず…口は「と」を言う形を一瞬するように小さく口が開いたように見えた。

 優しく微笑んでいた表情から生気が無くなり、力が……失われたのが分かった。

 くたり――と抱きしめていた体からも力と……そして……あの敬愛する彼女の気がすべて抜けていくのが、一刀には分かってしまった。

 

 一刀の目は大きく開かれて……両目からは涙が止めどなく流れていて…………彼女が最後につぶやいた、その言葉を反復するように……小さくつぶやいていた……。

 

「………すきよ……だと……?」

 

 雲華を抱きしめていた一刀の腕が、体が激しく震えていた……。

 一刀は力の限り叫ぶ。

 

 

 

「うおおおおーーーー俺が言うべきセリフだったのにーーーなんだよそれーーーー!!」

 

 

 

 そして一刀は心の中で絶叫した…………………

 

(くそーーーー雲華を守れなかったぁぁぁぁーーーー俺の大バカヤロー----!!!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一刀は、全く動かない……絶叫した後、項垂れたまま随分長い時間、固まってその場に雲華を抱きしめたまま居続けた。

 しかし、日が傾き地平線に近くなった頃、つぶやくように「埋めてあげないとな……」と言葉が口から洩れた。それが看取ったものの役目であると。

 一刀は、優しく優しくその愛おしい雲華の体を抱き上げると、ゆっくりとヨロヨロと歩いて雲華の家の巨木の見えるところまで来る。

 そしてその傍へ、途中で回収した彗光の剣を立て掛け、雲華の小さな墓を作ってあげるのだった。

 その間、敬愛すべき者を失い、ずっと涙の止まらない彼のその目は……焦点が合うことなく、ほぼ無意識に、無気力に、力ない動作を続け、その作業は完遂される。そして、再び日が昇るころ、彼は、この森を静かに去って行った―――。

 

 

 

 彼は、強くなったと思っていた。しかし、それでも大切な……一番大切なものが守れなくて……。強さとは何なのか。本当の力とは何なのか……。

 

 一刀は、まだ本当の真の『強さ』を知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、一刀は何も知らない……。

 

 

 

 一刀が去って、日が少し高くなったころ。

 雲華の家の倉庫の扉が静かに開いた。

 そして……中から木人が出てきたことを。

 

 

 

 その木人は、静かに雲華のお墓に近づいて行ったことを……。

 

 

 

 ふふふ……一刀は知らない。

 『悪魔』さまは、彼の気付かないうちにいつのまにか『魔王』さまにランクアップしていたことを……。

 そして、『魔王』さまが希望する伴侶の条件は、

 一つ、「いつも一緒にいてくれて楽しく過ごせる」

 一つ、「修羅仙女と呼ばれる私に恐れず気楽に接してくれる」

 一つ、「手料理を美味しく食べてくれる」

 一つ、「得意な私の裁縫で仕立てた服を着てくれる」

 一つ、「同じ問派、そして強き使い手である」

 一つ、「当然……私の好ましく思える人である」

 一つ、「一緒にお風呂に入ってくれる」

 一つ、「私の自慢の髪をやさしく梳いてくれる」

 一つ、「一緒に傍で寝てくれる」

 一つ、「私の最後を(一度は)看取ってくれる」

 そして最後の最難関、

 一つ、「真名を教え、呼ぶことを許す=真名を知っている」

 だということも。

 

 みなさん。もう十分に、いや十二分に、オワカリイタダケタダロウカ?

 もはや、伴侶の該当者は……現状でフラグを立てまくってるのはただの一名のみですね。

 そして―――

 

『ずっと、ずっと見てるから――』(……どこで?)

 

 有言実行型である彼女は……静かに、そう、静かに、行動を起こすのであった。

 

 

 

 

 さて、長く?厳しい修行の期間をこのような形で終え、物語はいよいよ森の外の世界へ移ります。

 この物語は、実はまだほとんど始まっていなかったのだ。

 

 

 

 一刀の三国志時代の物語、真の『恋姫・一刀無双』がここから始まる。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年06月02日 投稿
2014年06月06日 一部修正
2015年03月13日 文章修正(時間表現含む)



 解説)雲華は、ボロボロで死んで実質数時間放置なのに……復活?
 まず、一刀の注ぎ込んだ気が無駄になったわけではなかった。雲華が一度息を引き取る前後から、その日の夕方まで、一刀は彼女をずっと抱いていながら実は『瞬間回復』を掛け続けています。
 遺体とは言え、雲華には綺麗でいて欲しかったからです。想いのすべてをぶつけて、破壊された両肘、両ひざ、ダメージを受けた腕、足、そして欠損した胸部、腹部等も全て復元した上で埋めたのでした。
 さらに、一刀の注ぎ込んだ気は、無意識に彼女にはずっと綺麗な姿でいて欲しいという思いが、雲華の体の中でその保持を行ったのだった。
 そのため雲華の気は一時、体からすべて失われたが死んでからの体の細胞は一刀の気で守られ生きたまま保持された。そう、彼女が乗り移った木人に掘り返されるまで。
 上の伴侶の条件に入っていませんが、「自分体を綺麗に復元してくれていた」ことも最難関並みで非常にポイントが高いようですよ(笑)



 解説)神気瞬導
 『仙人が仙人の修行をしていても、所詮仙人程度で終わってしまう。神の域に一歩でも近づく修行を……』というところから始まっている。
 仙人を否定する思想の術であるため、仙人達からはあまり支持されていない。

 開祖は、天仙の一人である、真征(しんせい)という女性仙人。
 天仙真征――この外史世界で最強仙人を五人上げれば必ず入ってくるという仙人である。
 雲華曰く、仙人を推して化け物というぐらい強いそうである。

 神気瞬導は仙術である。
 そのために、まず普通の『人間』では習得出来ない。
 それは気功や武術の達人であっても例外ではない。『仙人』の素養が高いことが必要である。
 また、これは『武術』ではなく『体術』である。
 『空を飛ぶ』『消える』などと同じようなものと考えてもらいたい。
 そして、上手く『空を飛ぶ』、上手く『消える』と言う風な個人差、能力差による『上手い下手』は存在する。

 神気瞬導は、以下の第五条で成り立っている。

 一つ、気道を絶ち、気道の流れを再開させること。それが気を理解する者なり
 一つ、気によって体は動くものなり。すなわち、より気の強いものはより強い力、より気の早いものはより早い動きが出来るものなり
 一つ、気によって体は回復するものなり。回復への気の大きさ、強さは偉大なり
 一つ、気に限界なし。体力とは違うものなり。限界と思ったところに限界が出来るものなり
 一つ、周りの気をも取込み、気を極めたものは神に通ずるものなり

 第一条は、自身の体のすべて、筋肉・神経・骨格・内臓・心臓・脳等の気の流れから完全に各部位の存在と機能を理解掌握し、気の流れを以ってそれらを自在に操作して動作・停止を可能とすること。
 第二条は、気の強弱、種類によって、自身の体のすべてを以って、力や速さ等について最大限の利用を可能とすること。
 第三条は、体の状態は気の力に大きく影響を受ける。それは『病気』や『怪我』の回復も例外ではない。膨大な気と強固な決意の気は、不治の病や致命傷であっても『瞬間回復』すらさせる能力や可能性があるということ。ただし、第一条、第二条を認識・理解・習得していて初めて効果が出る物である。
 第四条は、体力は食物など、限られた他の物からの力を利用するものである。だが、気とは思考・意志という、物体ではない無限の存在なのである。それを如何に使うのかということ。これは自分以外の外から手に入れるという考えにも通じている。
 第五条は、本来一人の気力とは無限とはいえ小さいものである。だが、周辺にある物や世界が持つ気は膨大である。それを自在に利用出来れば、それは『神』の力にも比肩するということ。

 第四条、第五条は、おおよそ理解出来ても実践出来る使い手は格段に少なくなる難易度である。第三条までそれなりに熟せれば使い手と見做される。
 神気瞬導の使い手を名乗れる者は、これまでの五百年近いの歴史で四百名程度しかいない
 当代に残るのは百数十名のみである。
 『超速気』の使い手は開祖を入れてこれまでに十八名。一刀は十九人目であった。
 雲華はかなりサバを読んでいたことになるが、実は存在を知らなかったのである。
 個人差も相当あるので『速気』に近い『超速気』も存在するのだった。
 そうなると『超速気』だとは本人も言い辛いのである。
 雲華の『超速気』の最高速は非常に早く、開祖も褒めて喜ぶほどで、歴代でも三番目の速さであった。
 達人仙人である雲華の実年齢だが、実は本当にまだ若い部類である。半世紀すら超えていないからだ。神のめぐり合わせもあるのだろう。彼女は戦災孤児であり、たまたま地上の荒れ様を確認するため、下界へ降りていた開祖に仙人素養を見込まれ拾われたのだった。
 それが、並み居る暗殺仙人達が敬遠するほどの武術と、神気瞬導を身に付けたのだった。
 死龍も割と若い世代に入る使い手だ。雲華の師匠は開祖であるが、彼は違った。開祖から孫にあたる弟子に師事を受けた。だが、死龍の実力は相当なものである。鋼鉄をも遥かに上回り、目や口の中までも完全強化している彼の『超・硬気功』は、武器を含めた普通の攻撃が全く効果が無いのである。
 だがそんな彼でも、彗光の剣を持った完全装備の本来の実力の雲華の前では、敗れ去る可能性は高いのである。




【基本技】
速気:(そっき)
早く動こうと思考する気の流れが神経系や筋肉系を加速させる技。
使い手は瞬動を得る。
そのため、相手が相当のクラスでない限り、動きがゆっくりに見える。

剛気:(ごうき)
強く動こうと思考する気の流れが神経系や筋肉系を強化させる技。
使い手は人外の剛力を得る。
牛や馬クラスに対しても筋力で優位になれる。




【技】
暗行疎影:(あんこうそえい)
気を落として存在を希薄にする技。

飛加攻害:(ひかこうがい)
絶状態になる気を部位へ触れたり、投げつける技。
上達すれば、手だけでなく足や武器からも放つことが出来る。

思考発極:(しこうはっきょく)
気の流れにより相手の動作思考を発(あば)き制する究極の先読み技。

視鏡命遂:(しきょうめいすい)
見えた気の流れで、相手の技の動きを鏡に映すがごとく取り入れ、初めから自身の命令で遂行するがごとく思う通りに出来てしまう技。

風羽来動:(ふわらいどう)
羽根が風に舞うように相手の動作の風圧、気圧を感知して避ける技。

硬気功:(こうきこう)
剛気を応用し、皮膚、筋肉、骨格、神経・感覚系を強化して、金属のように強靭な部位にする技。
刀剣類すら受け切れ、傷を被ることが無い。




【大技】
超・超速気:(ちょう・ちょうそっき)
超速気にさらに速気を掛けるという未踏な技。
余りに異常な速さに剛気で強化したはずの筋力、神経系が砕け散るほどである。
だが、技が炸裂すると『修羅仙女』すら何も出来ないほど圧倒的である。
開祖以外に一刀が初めて成功する。

気導拳:(きどうけん)
膨大な気力を拳から、相手の気を捉えて距離に関係なく、直接相手の内部へ当てる気功の大技。
当たった部分は破壊される。防御するにはこれ以上の体内硬気功で防御するしかない。
雲華は、一刀を庇う為に防御が遅れ完全ではない上に、超・硬気功すら使う集中気功の達人が相手であった為、防御し切れなかった。

気導砲:(きどうほう)
膨大な気力を拳から外へ放つ気功の大技。
基本は前方へ放たれる。当たったり、触れた部分は破壊される。

超速気:(ちょうそっき)
速気の状態にさらに速気を上掛けする技。
二つの状態をそれぞれ維持する必要があり難易度が高い。
個人差も非常に大きい。
これは、猛将?というクラスの動きですら、スローに貶めるの技なので使えるかどうかで天と地ほどの力量差が出て来る。

超剛気:(ちょうごうき)
剛気の状態にさらに剛気を上掛けする技。
二つの状態をそれぞれ維持する必要があり難易度が高い。
個人差も非常に大きい。
上手く行けば、牛や馬の動きですら、指一本で軽く制するレベルである。

超・硬気功:(ちょう・こうきこう)
死龍の個人技。『剛気』を応用強化した『硬気功』へのさらに『硬気功』の重ね掛けする技。
普通は強化し過ぎて細胞が固く潰れてしまうレベル。
通常のあらゆる攻撃が通じない強固さを持つ。




【奥義】
神・気導拳:(しん・きどうけん)
途方もない至高の気力を拳から、相手の気を捉えて距離に関係なく、直接相手の内部へ当てる気功の神技。
受けた相手は、耐えきれず、その膨大なエネルギーにほぼ間違いなく瞬間消滅する。

神・気導砲:(しん・きどうほう)
途方もない至高の気力を、拳から外へ一気に放つ気功の神技。
開祖の天仙真征はこの技で、大山を完全に根こそぎ吹き飛ばしたことがある。

現想行体:(げんそうこうてい)
究極の気が想像の外の動きを体に行わせる神技。
現世の者は、見えていても、それを『掴む』ことが出来ない。
幻想の皇帝の異名を持つ。

刻死無葬:(こくしむそう)
心臓が止まった状態でも動き戦える人外技。
自己犠牲を物ともしない、崇高な気でなければ顕現できない。
他の技名と違い、『自ら刻みゆく死に送ってもらう必要など無い』という強い誇りと決意を表す名が付いている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➊➎話 一刀無双の外史

 

 

 

 この時代、大陸ではその全土を巻き込んだ大乱が吹き荒れていた。

 

 黄巾党の乱。

 しがない旅芸人だった張三姉妹の、長女の張角(真名は天和:てんほー)、次女の張宝(地和:ちーほー)、三女の張梁(人和:れんほー)が、某諸侯の保有物だったにも関わらず、いつの間にかに流出してしまった妖術書である『太平要術の書』を偶然手に入れた事により、これを利用して青州を中心に多くのファンを獲得した。

 この張三姉妹は非常に珍しく、ファンなら誰でも自分達の真名を呼ぶことを許していた。

 彼女達は、州境を無くした大陸全土の人気アイドルに成りたいがため、張角は「わたし、大陸のみんなに愛されたいのーー!」や、張宝は「大陸、獲るわよ!」と発言し、それを『決起宣言』と捉えたファン達が各地で行動を起こす。

 そして、この時期に追い打ちを駆けるような、大雨、地震、疫病、干ばつ、蝗の大発生、凶作……連鎖する天の非情な采配は、治世に問題があるためだという人々の思いや考えを後押しし、張三姉妹の歌に癒しを求めるのだった。

 同時に、

 

 『蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下役満』

 (蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下「役満」)

 

 という合言葉が流行し、党員は公共の場所や舎亭、門などに「甲子」「役満」等の二文字を書き付けた。

 彼らは目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻く。

 この乱は黄巾党天国地域の東の青州を除いても、大陸全土の七割にも及ぶ各地で発生する。

 当初は農村から始まり、次第に遠方都市部を中心とした黄巾党員が、一時青州以外だけで総勢五、六十万にも達して蜂起する大乱となった。

 彼らは地方で、張三姉妹の来訪を――歌を待ち望んでいたのだった。

 後漢の権威は地に堕ちたのである。

 

 事態を重く見た時の皇帝である霊帝は、皇甫嵩、朱儁、盧植ら、勢力内でも知識や経験豊富な将軍らを立てて、合計で二十万を超える官軍とともに各地域へ派遣する。

 しかし、対峙する黄巾党勢力の兵の多さや、予想外に優秀な指揮官が率いている黄巾党軍も少なからず存在したこと。

 また、この時期の後漢は、すでに財政難からその二十万の兵力の多くを、中央の役職を兼任させた周辺の各諸侯に負担してもらう逼迫した状況であったため、国家として更なる追加の兵力は多く見込めなかった。

 そして……後漢の内部腐敗からの自滅も大きく、戦いは一進一退が続く。

 その一つに、冀州方面の官軍と張角軍本隊との戦いが挙がってくる。

 その官軍の将軍は皇帝の命を受けた知略の雄、劉備や公孫賛の先生でもある盧植将軍の軍で、彼女のその練達な攻勢により、黄巾党の首領である張角の二十万以上の軍は冀州鉅鹿の広宗へと押し込まれ篭城する。

 しかし、内部が腐敗していた後漢の姿を象徴する事が起きた。

 盧植将軍は優しく、礼節を重んじる人物であり、汚職には程遠い性格と存在であった。

 ある時、都より冀州鉅鹿の広宗へ戦場監察官がやってくる。

 中央より来た使者に対し、彼女は礼を尽くして自ら出迎え、現状の優位な戦況を理路整然と明確に報告し、余裕の無い戦場ながら労いの宴をも催すのであった。

 しかし、彼女は只一つ行わなかったことがあった。

 

 それは―――『賄賂』である。

 

 だが、すでに腐敗の中にあった戦場監察官には、この『賄賂届けず』という事象だけで大きな不況を買うのであった。

 都へ戻った戦場監察官は中央へ報告するのだった。

 

 『無能な盧植将軍は、ワザと引き延ばして戦わずにおります。貴重な兵糧と戦力を遊ばせております』

 

 ――と。

 このため無実無根の疑いを掛けられ、包囲軍の要である盧植将軍が突如、罷免されるのであった。

 そして、それだけではなかったのである。

 

 

 

 

 洛陽――司隷河南尹(しれいかなんいん)にある後漢の首都である。

 広大な洛陽盆地(東西六十キロ、南北二十三キロ)内、その北限近くの中央部に東西三キロ、南北四キロの敷地を有する洛陽城を中心にしている。

 この城は、もともと西周時代の成周城(東西三キロ、南北二・二キロ)を東周時代に北側を増築(北側へ一キロ)、秦時代にも南へ増築(南側へ七百メートル)して出来た前漢洛陽城の上に再建されたものである。

 城壁内は中央やや左上の宮城(東西五百メートル、南北一キロ)と内城に分けられるが、宮殿が多くを占め、それ以外の諸施設や街並み等の多くは城外にあった。

 また、城の南門である平城門前には広大な兵駐留用の広場を備え、その南側約一キロには幅二百メートルほどある洛河が緩やかに蛇行して流れる、総街外郭は十キロ四方以上もある広大で美しい街並みであった。

 都市として、当代大陸一の人口と経済力を有して繁栄し、賑わっていた。

 その洛陽城宮城内の宮殿にある広間――二メートルほどの直径を誇る巨大な柱と梁が何十本と並び、広く高い天井を支え、それらも見事な朱塗りや金細工等の装飾を施された、のちの太極殿内を思わせる大広間に董卓は一人召し出されていた。

 

 董卓は、普段の天女の羽衣ようなヒラヒラとした個性的な服装と違い、宮中百官の黒地に朱と白と――諸侯を示す銀の入った格式ある正装で平伏している。

 正面奥に床よりも三段階高くそびえ立つように設けられてる、金の龍が装飾された玉座には、皇帝陛下である霊帝が鎮座されていたからだ。

 霊帝は、黒地に金の金具と赤い紐の装飾の付いた頭冠を被り、胸元の大きく開いた紫と金をベースにした豪華な着物、多くの宝石や金細工の付いた帯と前垂れの有る衣装を身に付けていた。髪は薄い紫で腰ほどまであり、先の方は大きくいくつかの曲線を描いている。瞳は大きな紫色をしており、可愛らしい鼻と口をしていた。

 時の皇帝である彼女は普段、後宮に籠もって美食に耽るダメっ娘さんであった。

 先の黄巾党の乱に対応する将軍たちへの指名や指示にしても、他の者達が「こうなさいませ、ああなさいませ」という事を鵜呑みにして行っていたのであった。

 本来、今ここにいて行うような政務は、何進や十常侍らに任せているのだが、先日、十常侍のメンバーらから、同僚の趙忠が政務で大失態し、その償いをさせるには『董卓に張角軍本隊と戦ってもらうしかない』というよく分からない事を聞かされたのだった。

 趙忠を可愛がっていた霊帝は、「じゃあ、とりあえず董卓に行ってもらえばいいんじゃない?」と軽く答えると、十常侍のメンバーらは「陛下の直々のお言葉でなければ、言う事を聞きますまい」と返されるのだった。

 そのため、面倒くさいわねぇと思いながら、この場にイヤイヤ出て来たのであった。

 一方董卓は、これまでも十常侍らから何かと無理難題を言われることが多かったのだが、彼女の軍師である賈駆の進言の元、上手く出仕を断り、切り抜けて来ていた。

 だが、今回は皇帝陛下である霊帝より勅命の使者が、賈駆の不在時に呼び出しを知らせに来た事もあり、宮廷への出仕を断ることが出来なかったのであった。

 

 玉座下の右脇に控えていた、陛下の側近配下の高官が勅命を読み上げる。

 

「董卓殿には、将軍として冀州鉅鹿の広宗の城へ出陣のこと」

 

 見事な朱の色の敷物に平伏していた董卓は、予想していなかった勅命の内容に顔色が変わる。

 冀州鉅鹿の広宗の城といえば、確か張角軍本隊と交戦し、出陣中の盧植将軍が罷免されたはず……まだ、都にいる何進大将軍らが先に候補に上がるのが道理……見るからに戦向きでない私がなぜ、と。

 

「董卓よ。表をあげなさい」

 

 陛下からの催促の言葉に、董卓は顔をゆっくりと七十度ほど上げる。目線を上げれば僅かにお顔が拝見できる。このような場合、正面から皇帝を見ることは許されていない。

 

「行ってくれる?」

 

 陛下から、可愛らしいが淡々とした確認の声が掛る。事情はどうあれ、今、勅命と共に陛下からの直々の言葉である。

 この場では、臣下としては受けるしかない。董卓は美しく澄んだ落ちついた声で答えるのみであった。

 

「はい……」

「じゃあ、頑張ってね」

 

 そのように、すでにヤレヤレ感な風に言うと、再度平伏していた董卓を見る事もなく、霊帝は檀上を降りた後ろの脇に控える趙忠の額を、ペシリと軽く右手の指二本でしっぺすると、その趙忠を従えて広間を足早に出て行った。

 董卓はその退出の気配を察して顔をあげると、顔をニヤつかせながら陛下の後に退出する十常侍の数名のメンバーらを確認したのだった。

 

 間もなく、盧植前将軍に代わって急ぎ、その冀州鉅鹿郡の広宗城の周辺を固める八万の官軍へ新たに五千ほどの兵を伴い、単身で董卓が将軍として派遣されて来るのだった。広宗の周辺にいる黄巾党本隊の軍勢は実に二十万を優に超えている。このとき董卓の軍師である賈駆は、華雄らと予州方面へ黄巾党討伐の遠征に出ており同隊出来ていないのだった。

 今回もおそらく、温か味があって庶民らに人気のある政治を行う、やさしい董卓に嫉妬した宮中内での勢力……十常侍らの一部が、戦に向かないことを知りながら都に董卓が単独なのを狙い、無理やり地位を失墜させる目的で皇帝に進言し派遣させたのだろう。

 

「詠(えい:賈駆)ちゃん……」

 

 彼女は、鉄で補強され黒塗りされた勇壮な四角い屋根付きの部屋を有した、移動する戦車仕立ての牛車に乗りながら不安げに呟く。

 この戦車は、軍師の賈駆が以前から準備していたものである。

 さらに董卓は、賈駆に「もしもの時は」と指示されていた通りに重厚そうな黒い鎧と勇ましい仮面を付け、見た目を強面にして、そして牛車の中で指揮を執り、極力その可憐で優しそうな姿を人目から隠していた。

 賈駆は予州方面へ出陣する際、一人で都に残す董卓へ、こういういくつかの策を竹簡の冊にして渡していたのだった。

 しかし、策が記されていたとしても、状況は往々にして異なり判断も難しい。そして董卓は将軍として不慣れな事もあり、兵への指揮も十分には出来ないのだった。

 結局ひと月ののち、黄巾党側の夜昼終わりのない散発的な攻撃をはじめとする、実戦経験が必要なゲリラ的な闘いと大きな兵力差の戦いで董卓はじりじりと敗走する……。

 ただ、敗走時に賈駆からの策を仕掛けて、追走する黄巾党の部隊に大きな損害を与えて引かせることに成功していた。

 それは、追走する敵部隊に対して、以前から逃走路に準備していた大規模な大軍ごと包み込む火計だった。撤退の早い段階で実行したため、官軍側の被害は軽微で、黄巾党側は大混乱の上に二万近い死傷者を出していた。

 この事が、のちに黄巾党討伐より帰都した賈駆、陳宮、そして宮廷浄化派の荀攸らによる擁護の糸口となった。そして、董卓へ出陣を画策し無理強いしたことは、腐敗要素の排除と『その先へ』いう流れにも繋がってゆくのだった。

 また、この追撃する黄巾党へ大きな損害を与えた董卓の指揮は、形を変え『燃え盛る炎の中、単騎で黒く勇ましい鎧を纏った巨躯を誇る憤怒の将軍が、二十万以上の大軍の敵を相手に大打撃を与えて悠々と引き返した』等の尾ヒレが付いて、巨躯な猛将的武勇として世間に広がるのだった。

 このように賄賂関連や策謀等で意図的に、有能な人材を排除したり不適切な人材を使うなど、思わぬところでの足の引っ張り合いが行われていることにより、官軍は自らにより苦戦を強いられていた。

 だが、その中で各地の諸侯の参戦もあり、少しずつではあるが、地方の黄巾党勢力を駆逐しはじめていた。

 

 

 

 

 董卓の軍を敗走させたあと、冀州の張角の軍は、次に皇甫嵩、曹操の連合軍に補給の糧食を焼かれて困っていた。大軍はそこにいるだけで莫大な量の兵糧を消耗する。

 地盤のある軍団はまだいいが、張角の軍は地盤を持たないゴロツキ集団であった。それが二十万からいるのである。

 そして追い打ちを駆けるように、各地の黄巾党勢力が討伐により殲滅、後退する状況が各地からの伝令で、張三姉妹の参謀である末妹の張梁に続々と届いていた。

 

「天和姉さん、そろそろ、潮時かも」

 

 張梁は、そろそろ限界な雰囲気を長女に伝えた。しかし、長女の張角と次女の張宝は、椅子に座って手足をバタつかせながら文句しか言わない。

 

「れんほーちゃーん。おーなーかーすーいーたー」

「人和。もう、こんなところにいたくないわよ。ご飯も、お風呂も、少ないし……」

 

 張梁はメガネを少し直しながら眉を寄せると、困り切った顔で二人の姉に話す。

 

「……どこにも行けないわ。私達の活動を抑えるために、大陸中に討伐命令が出ているのよ。ここも周りに官軍が警戒していて、糧食の輸送部隊が潰されているしね。私達三人だけならともかく、付いてくる人達が一緒じゃ無理でしょ」

 

 それを聞いた張角、張宝の二人の姉は末妹へさらに不満の言葉をぶつける。

 

「えぇーー、なんで?」

「……はぁ? 私達、何もしてないわよ? 討伐命令って……」

 

 張梁は目を瞑りながら頭に手を当てて呟いた。

 

「周りの連中がね……」

 

 そうしている間にも、「敗残兵がまた来ました」と城の外壁門の傍にあるこの館へと指示を仰ぎに千人隊長クラスが度々訪れてくるのである。そして来る度、来る度、皆が同じことを聞いてくるのだった。

 

 『『『『 どうしましょう? 』』』』、と。

 

 張三姉妹は、もはや共に聞き飽きていた。だが、彼女らはアイドルらしくイラついた内面を出さずに、普段と違う声色でやさしく指示を出していた。

 その訪れる波も、夜が更けると途絶えるときがあるのだった。そして張梁は、この城を包囲している周辺に対して放っていた見回りから得ていた、『官軍の総攻撃が近そうだ』という情報を二人の姉に伝えると……三人は無言で荷物を纏め始めていた。

 

 準備が終わると、三人は再び見合って静かに頷くと、滞在しているこの館から……この城から密かに出て行こうと、館の玄関から張梁が扉を開けて首を出し、外の様子を伺おうとした時だった。なんと張梁は――

 

 扉近くの外を、こちらへと向かって来ていた一人の男と目が合ってしまうのだった。

 

 この張三姉妹がちょうどこっそり脱出しようとした、まさしくその時に、五千人隊長の男、波才(はさい)に会ってしまったのである!

 波才と言う男は、予州潁川郡方面で展開していた黄巾党軍の指揮官の一人で、潁川郡で奮戦ののち官軍に敗れた後、敗残兵と共に本隊に合流していたのである。

 体格もよく背丈も七尺七寸程(百七十九センチ)あり、五千人隊長である彼は立派な鎧や武具を装備している。

 髪は紺系の色をしていて、後ろで縛っていたがそれほど長くはない。縛り損ねた短めの前髪が、数本額に垂れている。顔は鼻が少し高く精悍な顔つきであったが、目が優しそうなのでキツくはない。

 そして、彼を表現するのに的確な言葉がある。それは『ファンクラブの会長』である。ファンとして、張三姉妹に尽くすと共に、ライブに随伴して通う行動力があり、黄巾党員達からの信頼も同志として厚く、そして頭も良く回った。

 彼は官軍が総攻撃を仕掛けてくる動きを、周辺に放っていた自分の部下から把握し、報告しにきたのだった。

 

「これは、人和(れんほー)さま」

「えっと……波才……だったわよね?」

 

 波才という男は、黄巾党軍指揮官の中でもかなり優秀で且つ腕も立つ人物だったので、張梁も覚えていたのだった。

 

 波才は夜分の来訪の非礼を詫び、官軍の総攻撃が近い事を告げると、策があるので提案したいという。張三姉妹は部下からの『初めての提案』に顔を見合わせるが、とりあえず聞いてみることにする。

 四人は館の扉付近から部屋の方へと戻る。扉近くの一室に通され席に着いた波才は、『人和さまのお手』によるお茶に恐縮しながら、張三姉妹へ自らの策を披露する。作戦は簡単明瞭なものだった。

 張三姉妹は開戦後、一万の兵とともに隣の州である黄巾天国地域の青州へ脱出する。その時、残り二十万の兵を連動攻撃させ時間稼ぎをする。というものだった。

 張角軍への攻撃軍側に立つ曹操らは、少数の手勢は操れても、二十万というこれほどの規模の兵をまとめ、扱える器は黄巾党指揮官にはいないだろうと推測していたのだが、波才というこの男が非凡な才を見せたのである。

 

 それから、二日立たない内に戦いが始まる。

 官軍側は皇甫嵩将軍と曹操で、城の場外に出ていた黄巾党の主力であり脅威になりそうな三万程を先に挟み撃つことで殲滅し、黄巾党全軍の士気等を完全に崩壊させる作戦に出る。

 皇甫嵩将軍は、涼州安定郡の出身で、詩書を好み文武に優れている豊満な女傑で、猛烈な武闘派ではないが特に剣と弓馬術に長けていた。約六万の兵を率いてほぼ右正面から、指示の来ることがないであろう一方的に混乱する黄巾党の雑兵群を、自慢の騎馬隊にてただこじ開けていく手筈。

 曹操は、能臣として黄巾党討伐で大陸の中央や東方各地を転戦し名を上げ、兗州陳留郡太守を務め、さらに今回は皇帝直属の軍である西園軍の一隊を任され率いていた。だが任されていたのはその名前だけで、兵はほぼ自前であった。迂回挟撃部隊として動き、その数は約二万である。

 曹操には配下として主力武将らが総力戦で集っていた。猛将の夏候惇、夏侯淵、典韋、許緒ら武人と、王佐の才の荀彧が参陣していた。

 皇甫嵩将軍は正面から、雑兵ごときがという勢いで前掛りに討ちかかって進撃していった。曹操の部隊も同時に、夏候惇、許緒を先鋒に迂回の行軍を開始する。

 

 しかし、開戦まもなく敵側の黄巾党軍陣営から鏑矢が上がると、状況は一変する。

 黄巾党軍二十万が、周辺の広域で地響きを立てて津波のように動き出したのである。

 皇甫嵩将軍が、攻めていた地域の軍は引き始める。そして、別の黄巾党軍の大軍が、皇甫嵩将軍の側面に襲いかかったのである。皇甫嵩将軍の軍団は大きく崩れかける。

 相手は散って行くはずの、統率など取れるはずもないと考えていた黄巾党軍が纏まって行動する状況に、皇甫嵩将軍は驚きを隠せない。激を飛ばすが、軍団の体制維持が限界で進軍が止まる。

 曹操は、その余りに悪い状況を捉えると即時判断で進路変更を自軍へ指示する。迂回の行軍をやめ、直ちに皇甫嵩将軍を襲う黄巾党軍の側面を突いた。主力が打撃を受けて壊滅すれば、迂回部隊の意味はほぼなくなる。曹操は、黄巾党全軍の動きを見て唸ると同時に対策を指示していた。

 

 さて波才が、この統率の取れそうになかった黄巾党軍の大兵団へしたことは――

 

 まず命令の単略化である。

 

 「前進攻撃」「後退整列」「待機」の三つだけを各千人隊長に特殊な音の出る『かぶら矢の同時に放つ数』について木簡で指示する。その木簡には同時に「我らが天使、『数え役萬☆姉妹』(かぞえやくまん・しすたぁず)を守る聖戦である」「この戦いに勝って我らの天国である青州へ行こう」「敵は食糧をたんまり持っている」さらに「手柄を立てたものには彼女らから希少な【特典】がある」と追記してあった。そして、それ以外に『注意書き』を一つ記して。

 彼は、張三姉妹に説明したあと、これを日の出と共に自ら、各千人隊長一人一人に『数え役萬☆姉妹』の直筆サインと共に配って歩いたのだった。各千人隊長らは、即配下の者達にも伝える。これで、兵力二十万強がやる気になってしまったのである。

 この中には、少数の兵なら少し作戦が立てられる悪人面の上背のあるアニキが率いる、チビ、デブらの一団もいた。

 そして、秀逸なのが各千人隊長の命令三つに対する鏑矢の指示をずらしてあったのだ。これで、二十万の内の三分の一が前進攻撃、三分の一が後退整列、三分の一が待機と、一度鏑矢の命令を出すだけで同時に動かすことが出来るようになったのである。当然、「前進攻撃」「後退整列」「待機」の兵団は攻撃力が増すよう固めて配置するように事前に少し調整したのであった。

 

 官軍側は当初、黄巾党は多くとも三万程しかまともに機能しないと考えていた。

 だが黄巾党軍は、雑兵のため隊列の動きには荒い所があるものの、なんと二十万全軍が連動してくる圧倒的な兵力差の攻撃で襲ってきたのである。

 また、鏑矢が上がる。すると曹操らが攻撃していた軍団が引きはじめた……。そして、曹操の軍団に大軍が側面から襲ってきたのである。それは曹操軍の三倍以上の兵力である。精強な曹操の軍であるが、一人に三人掛られる状況ではさすがに分が悪くなる。おまけに側面からであったため、凌ごうとするも大混戦になった。その後も順次、寄せたり引いたりを、上げられる鏑矢に従って敵の大兵団で繰り返すのである。

 このため官軍側は兵力差によって、当初からあっと言う間に戦力の損耗が激しくなってきた。

 早々に事態へ気付いた曹操は長くは耐えきれないと判断し、皇甫嵩将軍へ合流後に進言し、最終的には早期の撤退を余儀なくされたのだった。

 苦戦を強いられ、兵を予想外に多く損失した上、目標であった張三姉妹の生け捕りと、『ある書物』の回収に失敗した曹操は思わず口から言葉を漏らした。

 

「なんてこと……少し彼らを甘く見過ぎていたようね」

 

 曹操も、すぐに連動を混乱させ阻止しようと、鍵となる偽の鏑矢を官軍側で打とうと指示したのだが、余りに特殊すぎな音色がすぐには再現できなかったのである。それは『数え役萬☆姉妹』の曲のイントロ部であった。

 波才は、注意書きに「馴染みの、我らが聖歌の音以外のニセ鏑矢は無視しろ」とも指示していた。すでに、そこまで考えて作戦を実行していたのだった。

 

 曹操は、殿を引き受けた夏侯惇や許緒を戦場からかなり離れた、万が一の時にと決めていた合流場所で待っていた。

 僅かな不安から、曹操は傍に控える夏侯淵に声を掛ける。

 

「秋蘭(しゅうらん)、春蘭(しゅんらん:夏侯惇)や季衣(きい:許緒)は無事なのかしら?」

「はっ、混戦になりましたが、大軍とはいえあの姉者達が雑兵ごときに遅れを取ることはないかと」

「……そうね」

 

 分かってはいるが、敗軍には危険が伴うのだ。曹操は今、合流して皆のいつもの笑顔が見れるまで、何もないことを祈るしかない。

 そばにいる荀彧も、今回は敵の正攻法で物量的な策に良案が示せず、悔しそうな表情で佇んでいた。彼女は次戦に備え必勝の手をすでに考え始めていた。

 各地の黄巾党は、まだすべて駆逐されたわけではないのだ。

 討伐軍の戦いもまだ続くのであった。

 

 青州は黄巾党が大流行しており、黄巾党天国地域になっていた。余りに数が多いので、略奪する相手がおらず、普段は皆、同志として普通の農民の生活を送っているものが多く、実は統制が取れていた地域であった。 

 ほどなく今、黄巾党の首領である張角と二人の姉妹を迎え、これから臨時のコンサートが各地で開催されることになる青州は、今後熱狂的な軍団を持つ、もっとも大兵力を有する勢力として、大陸制覇に名乗りを上げる事になる。合流した二十万を合わせると、青州の黄巾党軍の動員可能な総兵力は実に百二十万を超えていたのである……。

 

 そして、さらに異変が起こっていた。

 張三姉妹はこの撤退戦のどさくさで『太平要術の書』の一部を紛失するのだった。

 彼女達は、移動中から青州各地へ結束を促す為にコンサートの予告や準備の指示を出し終えると新たな本拠地となる、平原郡の平原城へ入っていた。

 

 「天和姉さん、やっぱりあの書物のうち、一冊無いみたい……」

 「えぇー? あ、でも私たちの人気が落ちるってことは無いわよね?」

 

 張角は最も重要な事案だけ確認した。張梁は姉らを安心させるように教える。

 

 「それは、大丈夫。もう書物の有無は関係ないから」

 「じゃあ、いいんじゃない?」

 「そうそう、ご飯も、お風呂もとりあえずあるし」

 

 そのことを聞いた、張角と張宝は深く考えていない答えを返すのだった。

 だが、一番の異変は燃え去ることなく『太平要術の書』がすべてこの世に残っていた事である。

 

 

 

 

 ここは冀州の中心都市、魏郡の鄴(ぎょう)。

 鄴城(東西二キロ、南北一・五キロ)は通常の県城の一・六倍以上の外周を誇る大きな城であった。旧来より北方異民族の脅威に晒される地域の一大拠点として、その内部の広大な一角に商業街を有するものであった。城の周辺にも街並みが広がり、堀のような溝を巡らせ外郭を形成していた。

 最近、司隷校尉にも就任している袁紹が、冀州の州牧として納める本拠地である。

 司隷校尉とは、長安と洛陽を取り巻く七郡が属する司隷(しれい 州は付かない)を統括する官名である。

 袁紹は今、皇帝から――いや……何進大将軍の推薦で司隷校尉の職に就き、洛陽周辺への黄巾党排除の勅命を受けたために都まで出仕して鄴には不在だった。

 本来、後漢の将軍であった何進が、司隷校尉もするべきところなのだが、読み書きが怪しく、この役職は仕事が山積みで面倒という事もあり、特に『熟せない』という現実があった……。

 そんな中、何進へ司隷校尉以下を総領する権限を与えられた。

 昔に肉屋をやっていた仕事柄、人を乗せるのが得意だった何進は、袁紹に目を付ける。彼女の育ちの良さを、逆手に取るのであった。

 要職に重要なのはまず家柄と、褒めて持ち上げて就任を促したのだった。

 すると袁紹は、見事な縦巻きロールのみで形成されたような、自慢の太腿辺りまで届く黄色系の長い髪を僅かに揺らすように、少し顎を上げその先に右手の甲を添えるようにして高笑いで答えるのである。

 

「おーっほっほっほ。三公を輩した家柄の者こそ……わたくし袁本初こそが、司隷校尉には相応しいと? 大将軍閣下、そー言う事なら、謹んでやらせていただきますわ!」

 

 そう言って横で顔良が顔をしかめる中、袁紹がほとんど勝手に本拠地を不在にしてなお、引き受けてくれたのであった。

 その間に、冀州の領内へは黄巾党の進行を許していたが、この鄴周辺は、残っていた文醜や田豊(でんほう)によって事なきを得ていた。

 袁紹が在城していた場合、田豊の命令通りに中々動いてくれないので、複雑な戦術は大いに失敗する可能性が高かった。

 袁紹不在が幸いと言っては……なんだが、実際は丁度よかったと言える。

 残っていた文醜もそう言える性格だが、彼女の場合「細かいことは気にしねぇぇ!」と言いつつも腕力と武力は凄まじいので多少の作戦違いは倍にして埋めてくれる為、田豊はそれを考慮した作戦を立て黄巾党を撃退するのだった。

 

 そんなある日のことである。

 鄴の城の中の、周囲を念入りに人払いのされた部屋に袁紹配下の女性武官である審配がいた。字は正南(せいなん)。

 髪は深緑系の色にストレートで股下ほどまである長さ。前髪は片目だけ見えてる段差のある水平に揃えたお嬢様カット。背は六尺九寸(百六十センチ)ほどである。

 彼女は、袁紹に付き従いながらも、若き野心家の女性であった。

 彼女自身、いくつもの高名な兵法書の類を学び、良く学問をしてきたと自負している。そして、武芸も並みの武官には負けない自信がある。さすがに顔良、文醜らには遠く及ばないが。

 まあ、武芸はさて置くとして、戦略、戦術について、すでに良策を主である袁紹へいくつも献策しているのだが、どういうわけか一向に採用されないのだった。

 その理由が知りたかったのだが、やっと広間での袁家の戦略検討の場に参列する機会があった。その時も審配は三つほど策の案を出していたのだが、それが―――

 

 全て田豊によってダメ出しをされていたのであった。

 

 それも、その場にいながら完全に反論できない理由を先に多く並べられていたのだった。

 それを聞き終わると、審配の敬愛する袁紹は言うのだった。

 

「駄目ですわねェ……審配さんは」

 

 審配は、石鎚で頭を殴られたような衝撃を受けるのだった。その場に固まったまま、戦略検討の場が終わるまで、立ち尽くしていた……。

 それ以来、審配は献策をしていない。

 自分より頭が回り袁紹お気に入りの同僚、『袁家の良心』の田豊が邪魔邪魔で仕方がないのある。

 田豊はいつも明るく愛くるしく、そして密かにいつも袁紹のあの酷い行動による被害のフォローを、顔良と共に陰でしまくっていたのだった。

 

(私の献策の邪魔をしまくった挙句……『私の』麗羽(れいは:袁紹)さまに……ちょっと可愛がられ過ぎじゃない?)

 

 田豊は、いつも袁紹と文醜に酷く振り回されているので、『可愛がられて』いるのかは普通に見ているとかなり微妙なところであるが、歪んだ目で見ている審配には楽しそうに見えたようであった。

 見た目の陰気さもあるのか、元々袁紹には余り良くしてもらえない彼女であった。

 

 そんな審配は、この人払いをした部屋で配下の伝手で一人の情報取集屋に会っていた。

 両者は部屋の中央付近にある、長方形の重厚で立派な机に向かい合って座っている。

 机の上には、一冊の書物が置かれていた。

 その情報取集屋は、なんとあの『太平要術の書』の一部を手に入れて来たのだった。

 『太平要術の書』は三巻で構成されていた。『太平要術の書』の上下の二巻、そして……『太平妖術の書』一巻である。審配が手に取ろうとしているのは「妖術」の文字が見える最後の巻であった。

 

 審配は静かに微笑みを浮かべた口を開き、相手の者を褒める。

 

「良くぞ……うれしいわ。……ほう。これね」

 

 そう言いつつ、机越しに渡された本を手に取ると数枚頁をめくる。

 そして、表紙裏にそこだけ斜めに書きなぐった覚書があるのを見つけた。

 

 『悪しき事に使い続けると寿命が縮む』

 

 ――とある。

 

「ふん、上等だわ」

 

 彼女の口元は笑っていたが、目は死んだ魚の目のように笑っていなかった……。

 

 

 

 

 先の、冀州鉅鹿の広宗の城での黄巾党討伐時に、大きな損害を受けた曹操は、殿として皇甫嵩将軍の軍が洛陽方面へ戻るのを見送ると、本拠地である兗州陳留郡の陳留城へ戻って来ていた。

 あれから、すでに十日ほど経っている。

 まず、大損害を受けた自軍の立て直しが急務であった。

 先の戦いでは、精鋭二万を率いて出たが、雑兵とは言え不意を付かれた上に圧倒的な差の大軍で包囲されての殲滅戦に近い状況になった為、次の戦いに参加できない死傷者が半分の一万に届いていたのであった。

 予備戦力を全て加えても、次戦は一万六千程度にしかならない状況であった。

 それでもまだ、ここ本拠地には万を超える兵力が残っているが、ここを空にするわけにはいかない。

 当然、中央からの増援など無い。すべて自前であった。

 しかし、中央からはすでに更なる出陣の指示だけは届いているのだった……。

 皇帝の臣下としてやらなければならない。

 だが、それ以上に敗北の汚名を早急に返上しなければならなかった。

 

 この時代、舐められたら終わりである。

 

 幸い、皇甫嵩将軍の弁明の計らいがあったようで、先の敗北の責任追及はなかった。

 しかし、相手が大軍であったとはいえ、『曹操は手酷くやられた』『弱いんじゃないのか?』という噂が広がるのである。

 曹操としては、機会があれば早急に打ち消さなければならないのだ。

 とは言え、兵力については、ここへ残す負傷兵たちの早い回復に期待することと、新たに志願兵を早急に募る必要が出て来ていた。

 それについては、荀彧がすでに手筈を進めている。

 そんな中、幸いだったのが主な武将達に怪我がなかったことだ。曹操も、その事だけは今回の救いであった。

 だが、この更なる出陣の指示に難題が、曹操陣営内の問題も含めていくつか見て取れるのだった。

 

 ここは陳留城の宮殿内の大広間である。

 曹操は中央奥の太守の椅子に着いて両脇に夏侯淵、夏候惇が並ぶ。床には大きな大陸の地図が広げられていた。その左側へ曹仁、荀彧。右側へ曹洪、典韋、許緒らが並んでいる。

 今ここは、中央からの出陣の内容について検討する会議の場となっていた。

 曹操がまず一つ目の問題の核心を告げる。

 

「この寡兵の状態で、さらに完全に二面作戦をする必要があるわね」

「はい。厳しいですね」

 

 夏侯淵は、言葉だけでなく表情も同様に厳しくしながら曹操へ同意する。

 次の討伐は期限が同時期に二か所であるが、その距離が余りに離れすぎていたのだ。個々撃破するには限界を超えて行軍しなければならず、効率が悪すぎるのであった。

 曹操は、『あなたの考えは?』というふうに、自軍の軍師である荀彧にも声を掛ける。

 

「桂花(けいふぁ)」

「はっ。……今回、両面どちらも日数的に有余はありません。双方の位置的に二千里(八百キロ)ほど離れているため、我が軍団で黄巾党勢に対して二面作戦を取るほかありません。なので第一軍は司隷右扶風の陳倉周辺の六万、第二軍は揚州廬江郡六安に籠もる四万の敵に対する事になります。

 そこで陣容についてですが―― 第二軍を秋蘭とわたくしと流琉(るる:典韋)、そして、第一軍を華琳(かりん:曹操)さま、春蘭、栄華(えいか:曹洪)、季衣で編成します。兵力はそれぞれ……四千と一万二千です」

 

 曹操は、ニヤけながら荀彧に確認するのだった。

 

「桂花、そちらは十倍の敵を相手にするけど大丈夫なの?」

「華琳さまの方も五倍の敵ですが……周辺の地形と私の策を用いれば十分に勝てるかと」

「そう」

 

 どう割っても曹操軍は敵の黄巾党の兵力に対して寡兵なのであった。

 だが荀彧の自信のある様子に、そして曹操も同様の考えだったことに納得する。

 それは――布陣は同じ、兵数だけが五千と一万一千であった。荀彧も前回の汚名を注ぎたいのだと……それでこそ曹軍の一員であると共に、その意気込みが戦力差十倍の四千なのだということを。

 

「華侖(かろん:曹仁)、留守は頼んだわよ。……あなたは、く・れ・ぐ・れ・も動かないように!」

「あぁーあ、また、留守番っすか? 華琳さま、つまらないっす。春蘭といっしょに暴れたいっすよ!」

「我慢なさい」

「……はーいっす」

 

 行動の九割以上が裏目に出る曹仁なのである。戦力に余裕のある時なら巻き返せるが、失敗すると現状は厳しすぎるのであった。だが、彼女は『遠征しない』状態に『する』……すなわち籠城させると裏目の裏目で凄いプラスになるのであった。今の寡兵な状況での拠点防衛には打って付けであった。まあ、本人の意志は別なのだが。

 そんな曹仁へ、普段彼女に慕われている夏候惇も慰めるのだった。

 

「華侖、お前の分も私が暴れてくる。我らが家の守りを頼んだぞ! 次こそは必ず、共に先陣を務めようぞ」

 

 その言葉に、曹仁は頷くのであった。

 

「華琳姉さま、私は余り戦いには向いていないと思うのですが」

 

 不満を述べる人物がもう一人いた。可憐な姿に凄まじい毒舌家の曹洪である。彼女は曹操軍の金庫番であり、後方の輜重を担当していて陣容には普段名が上がらないのであった。それが、今回は五倍もの兵数の敵に挑む軍勢の中に、自分の名が挙がってしまっていたからである。正直なところ、戦場の矢面では汚れるので戦いたくないだが。

 すると曹操は、しょうがない子ねという表情で諭すのだった。

 

「栄華、今はあなたにも戦ってもらうしかないわ。分かるでしょ? 私達の名声と実力が上がれば、あなたの好きな、お金も食料も綺麗な服も手に入るのよ?」

「……わかりました。華琳姉さまのお言葉ですし、しょうがないですわね」

 

 毒舌家の曹洪であったが、唯一敬愛する曹操には従うのであった。

 曹操は、更に意見が無いか周りを確認すると、話をまとめるのだった。

 

「では、その陣容で四日後に出陣するわ。桂花は出発時の兵糧等の手配を。秋蘭は兵達の配分調整を。栄華は二方面の補給の手筈をそれぞれ整えなさい。他の者は各部隊で十分な準備を」

「「「「「はっ」」」」」

 

 一同からの返事を聞くと、曹操は続いてもう一つの問題点について話を始めるのだった。

 

「さて、出陣の内容についての検討は終わるけれど、ここに集まってもらったのは早急に対処する必要のある問題の件よ」

 

 曹操を除いては、ただ一人以外、一同の顔が曇る。なんだろう?と。曹操は、その理解している人物を名指しして答えさせるのだった。

 

「桂花」

「新たな人材の確保……ですね?」

 

 荀彧は言葉を選び、曹操のご機嫌をうかがう。『人材不足』……とは言えないのであった。

 一同は「おおっ」とざわめき立った。武官については二面なら十分に戦える陣容があるだろう。

 だが、文官については二面作戦になった場合ですでに、結構厳しい状況である。

 荀彧は非常に優秀な軍師である。作戦なら、二面、三面でも考え付く事だろう。しかし、やはり戦場に軍師が実際にいるといないとでは、かなりの差になってくるのだ。今回は曹操自らがその役も兼任するのだが、今後の事を考えるとあと二人は軍師が必要であった。

 曹操が考えていたのは、さらに遠征に出た間……その間の領地の管理にも及んでいるのだった。

 農地の開墾、街の整備、治水、治安対策……。とにかく行政関連の文官が熱望された。

 曹操がみんなに問う。

 

「なにかいい案はないかしら。人物の推薦でもいいわよ?」

「「「「「……………………」」」」」

 

 一時、全員が沈黙した。

 曹操自身も沈黙していた。分かると思うのだが、見回すと曹操陣営には『身内』が実に多いのだった。

 それを差し置いてとなると、気安く推薦するのは憚られるのだった。現に、身内以外は荀彧も含めて、主君の曹操自らが直接認めた者だけである。

 それに気が付いて曹操は言うのだった。

 

「今後、私達にはより多くの人材が必要になるわ。優秀で人間性に余り問題が無いなら誰でも構わないわ。まず引き入れなさい。本当に無用なら、首はいつでも切れるから」

 

 相変わらず容赦のない感じである。しかし、主の命である。

 

「「「「「はっ」」」」」

 

 皆、承知の返事をするのだった。

 ここで、荀彧が一案出すのであった。

 

「華琳さま、領内だけでなく、人材の多そうな近隣の都市に優秀な在野はいないか、しばらく当たってみます」

「そうね。お願いするわ」

「はっ」

 

 曹軍の新たな人材の確保については、そこで終わり、会議の場はお開きとなった。

 

 

 

 

 そして、曹操軍は出陣の日を迎える。

 陳留の城に残る曹仁と曹純も、正面の城門の外まで出陣してゆく仲間を見送りに出て来ているのであった。

 城壁にも守備に残る多くの兵たちが、知り合い達の仲間を見送っていた。

 だが、城壁には旗が僅かしか残されていなかった。

 今回の戦いの為、周辺の城からも殆どの『曹』の旗指物が急ぎ集められたのだった。

 

 曹操軍は少し先の分かれ道で二方面に別れるため、この城門前での集結が、今回の出陣前の最後の集会になった。

 そこで第一軍の曹操は、第二軍の夏侯淵・荀彧の部隊へ半分に分けたはずの旗指物の多くをここで渡すのであった。

 これに荀彧や秋蘭は驚く。当然である。作戦には寡兵を多く見せる手として旗は必須であった。

 しかし、曹操は全員と全軍を前に告げる。

 

「みな聞きなさい! 私は曹孟徳。この戦いは曹軍の真の強さを見せる戦い! 夏侯淵、荀彧、典韋、あなた達は曹軍の『知』を見せてあげなさい。そして、夏候惇、曹洪、許緒、私達は『武』での曹軍の戦いを世に知らしめるのよ。全員奮戦せよ! ――出陣する!」

『うおおおぉぉぉぉぉーーーーーーーーー!!!』

 

 曹操の決意の宣言に全軍が士気を上げて咆哮する!

 

 夏侯淵は、夏候惇に声を掛ける。

 

「姉者……」

「秋蘭、大丈夫だ。心配するな。私がお前たちの分も十億万倍働いてやる!」

「姉者……(単位、間違えてる)……」

 

 そうして、曹操軍の第一軍と第二軍は出陣して行った。

 

 第二軍は、南方へ約千里(四百キロ)程の行程を十二日で踏破して、二日間の準備後、揚州廬江郡六安に籠もる四万の黄巾党軍と対峙する。

 その第一陣は荀彧率いる部隊、第二陣は典韋率いる部隊と二度の陽動戦で殆どの兵を城から引きずり出すのだった。

 荀彧は周囲の地形を完全に読んでいた。大軍をそれぞれ別々の狭道に誘い込んで上から岩や木材で押しつぶし大混乱にするのであった。

 そして、夏侯淵率いる第三陣は周囲の山々と森に伏せていた大量のすべての旗指物を一気に露出させ、加えて銅鑼の音を幾つも鳴らして、凄まじい大軍で六安の城を包囲したように見せかける。

 そして城門へ悠々と迫る曹軍第三陣に、城の残った黄巾党の兵らは騒然となり、城壁の櫓でそれを落ち着けようとしていた指揮官だったが―――夏侯淵の放った一本の強弓の矢に胸を射抜かれて絶命するのだった。

 指揮官を失った在城する少数の黄巾党兵力は、完全に戦意を失い直ちに降伏した。

 

 さて、曹操率いる第一軍である。

 司隷右扶風の陳倉周辺までの約千里(四百キロ)程の行程を僅か十日で踏破していた。そして一日休養したのち――

 

 すでに決戦である!

 

 相手は六万の黄巾党軍であった。彼らは、先の曹操敗戦の報と兵力が五分の一という状況に見下したようにぞろぞろと集結してきたのだった。

 曹操はなんと、誘き出すように平原で堅陣を構えて駐屯していたのだった。

 そして、堂々と無謀とも取れる平原にて対峙するのであった。兵法的には勝算は低いはずである。

 だが早々と、戦いの火蓋は切られるのである。

 そんな状況の中、曹軍から二千程の一軍が前に出て来る。そして、さらに……一人の武将が単騎で進み出ると名乗りの上げるのであった。

 

「我が名は、夏候元譲!」

 

 前進を始めようとしていた黄巾党軍の先陣らは、その地響きを起こすほどの剛声に歩が止まる。

 夏候惇は構わず声を上げる。

 

「我こそ、曹軍の大剣! 命が有ったら見知りおけ! ――全員突撃ィィィィ!」

 

 そう言い放つと彼女は――夏候惇の部隊は、真正面から『突撃』した。

 相手は六万のも軍勢である。

 しかし、夏候惇はただ何もない平原を進むが如く突撃する。正面にいる敵は彼女が全て切りまくる。百人隊長も千人隊長も関係ない、すべて一振りで片付ける。そして、その先へ突撃する。

 彼女は包囲される。しかし、周囲の敵を全て切りまくり瞬殺し、さらに奥へ突撃する。夏候惇は止まらない。そして、その配下の部隊も止まらない。突撃し続けたのである。

 

 

 

 黄巾党軍の兵は戦慄する。これは――――『怪物武将と死兵兵団』だと。

 

 

 

 突撃し続けた修羅のような夏候惇は、十人の兵を僅か一振りで薙ぎ倒していた。その余りの光景に黄巾党軍の兵は近づくものが減っていった。

 いつしか、夏候惇とその一軍は、六万もの黄巾党軍を率いる指揮官の前まで歩を進めていた。そして全身が血飛沫で血まみれの悪鬼のような姿の奥に、炎のように輝く双眼で睨みながら彼女は静かに一言、前にいる騎乗したヤツへ確認する。

 

「貴様が総指揮官か?」

「そ……そうだ。わ、私の名は――」

 

 次の瞬間、その指揮官の首は宙を舞っていた。

 

「略奪の賊の名など、聞く必要もない」

 

 そう呟くと、彼女は自らの自慢の剣、『七星餓狼(しちせいがろう)』を空に高々と差し掲げると勝どきを上げる。

 

「――夏候元譲、敵の総指揮官を討ち取ったりーーーー!」

 

 周囲に勝どきの歓声が轟く中、その声らを聞いた瞬間、曹操の声が曹軍内に響く。

 

「中軍、残党狩りよ! 敵を殲滅せよ! 我に続けぇーーー!」

 

 曹操は、手にしている愛用の『死神鎌 絶(ぜつ)』を振りかざし、中軍の六千の兵を引き連れて猛烈な前進と攻撃を始める。傍には許緒が付き従っていた。

 後軍を曹洪に任せると、曹操自ら敵の掃討に乗り出すのだった。

 その後軍も、まもなく敵の残党を排除・殲滅に動くのだった。

 もはや、夏候惇の怪物振りと、曹操率いる第二陣の統率力の取れた圧倒的な武力の前に六万を誇った黄巾党軍は、多くを討たれた上に散り散りになって霧散したのである。

 雑兵とは言え、五倍もの兵力に力技で完勝しまうのであった。

 そもそも、前回の殿のような、敵包囲内に残って敵を引き留めるような状況では、夏候惇の恐ろしさは十分に発揮されないのである。まあ、それでも無傷で帰ってくるのだが。

 『猪のような一直線の華麗なる突撃』こそが彼女の最高の持ち味なのである。

 血みどろの状況で帰って来た夏候惇を――曹操は出迎え抱きしめるのだった。

 

「さすがは春蘭ね。よくやってくれたわ、ありがとう」

「か、華琳さま?! 服が――」

 

 血が付くことなど気にしない。彼女は、夏候惇の――その実力に掛けていたのである。

 

「いいのよ。それに、今のあなたはとても綺麗だもの」

「華琳さま……」

 

 周りで、それを静かに許緒と曹洪は見守っていた。

 当初、曹操は突撃する先陣の兵二千の夏候惇の部隊へ、許緒も入れようとしたのだった。

 しかし、夏候惇は断固拒否するのであった。それでは「華琳さまの守りが薄くなる」と……そして自分の武技を信じて欲しいと告げたのである。

 それを夏候惇は、見事に成し遂げたのであった。

 曹操は、これらの戦いによって失墜しかけた名を、再び馳せることになったのである。

 また、この戦いの武功は夏候惇自身へも、後漢の爵位を得る切っ掛けにも繋がるのであった。

 そして、まだ黄巾党討伐の戦いは続く。幸いその途中で武官の、于禁、李典、楽進が新たに配下に加わってくれたのだった。

 とはいえまだ、文官の不足は深刻であった。

 そんな中、荀彧の情報網に、都で仕えている人物に優秀な長女がいるという話が入っていた。

 曹操は直ちに直筆の竹簡をしたため、その、都で仕えている人物に送るのだった。

 

 

 

 

 このように、大陸の状況は常に目まぐるしく動き、誰もまだ見ぬ混沌とした世界が広がっているのだった。

 

 そのような時に、あの男は静かに世界の脇へ登場するのである。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年06月06日 投稿
2014年06月07日 一部加筆修正
2014年10月26日 文章修正
2014年11月08日 宣陽門(魏晋代の名称)→平城門(後漢時)
2015年03月03日 文章修正



 解説)諸侯の任地や領地等がおかしくない?
 些か恋姫的歴史ズレ&結構なねつ造あり。
 さらに、中央職を兼任しています。
 本作、真・恋姫†一刀無双の独自展開な部分ということで……。(汗
 現状をちょっと纏めると以下な感じ。

 何進:黄巾党の乱が勃発後、大将軍となる。現在、中央の高位だが、元が身分の低い出なので、近衛兵を率いて首都の洛陽を守備している程度で地盤は無い。袁紹を上手く遣い、司隷校尉の仕事を押し付けている。
 (公式の英雄譚では口調から、まだ『男』の可能性が……汗)

 袁紹:冀州の州牧で、現在、何進から代行的に司隷校尉も任されている。
 (まあ、顔良が殆ど死にそうになって走り回っているのですが……。それでも何進には大きな借りがある感じに)
 配下には、武官として張郃がいる。

 曹操:兗州陳留郡太守。兼任で現在、皇帝直属の軍である西園軍として一隊を率いている。(野望を秘めた能臣√? あと、ゲームでは陳留刺史ってなってますけど……)

 董卓:并州刺史、河東太守などを歴任し、現在京兆尹の太守。黄巾党の乱にて洛陽へ勅命により臨時で協力を要請され都入りし、配下は黄巾党討伐へ、彼女自身は洛陽周辺の政務も手伝っている。西涼に親戚等の地盤を持っている。
 配下には、賈駆、呂布、張遼、華雄、陳宮がいる。(そのうち高順ちゃんが?)





 全然関係ないですけど……個人的に恋姫では、賈駆――詠がお気に入りです♪(笑



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➊➏話 伏鳳厄難 *1

 

 

 

 一刀は、雲華のお墓を作った後、まだ日が昇る少し前に泰山麓のこの思い出の森を出る為、再び結界の出口へ向かうあの直線の道をヨロヨロと通り過ぎようとした。少し薄暗いその直線の終わり辺りに、雲華が自分を庇ってくれた時に散乱した旅立ちの荷物がまだそのままになっていた。

 よく見ると、それらには僅かであるが彼女の血痕がついていた。

 

「………」

 

 どれ一つを取っても、彼女が一刀の為に選んでくれた物であった。彼はそれを再び力なくだが大事そうに集め始める。

 集め終えると……一刀は、再びヨロヨロと巨木の家へ引き返していった。

 そして、食堂の食卓の上にその荷物を静かに置くと、ゆっくりと机に背を向ける。

 

 雲華ハモウイナイ――そう、彼にはもうそれらは必要ない物になっていたのだ。

 

 ただ、剣とお金と日持ちの良い食糧だけはまだ持っていた。彼は考えていた。

 そして……小さく呟いた。

 

 

 

「……誰ダ……指示……シタノハ……」

 

 

 

 剣は、彼女のカタキを討つために、お金と日持ちの良い食糧はその糧に。

 それから間もなく、一刀は静かに巨木の家を後にする。

 

 だが、彼には『当て』がなかった。

 

 もはや、ただのバカであった。だが、関係なかった。

 彼の頭に今は『カタキを探し出して討つ』という事しか浮かんでこなかった。

 それは一時的とはいえ、想像外の膨大な『殺気』を纏った事から来た多くのその残気と余りの自我の『喪失感』から、一刀は邪気に取り込まれているかのようであった。

 彼には、本来有るべきなにか……重要な『アノ強大な感情』が欠けているようであった。

 それに、他にやることもなかったのだ。思考は非常に鈍いが負への思いで一つに纏まるのである。

 一刀は探し始める。

 彼は広大な大陸で、ただ迷子に成りに出たようなものであった。

 行なった事は、気で広く周囲を探り、人の気の集まりで見つけた近くの村や、小さな街で「仙人ヲ見タコトハナイカ?」と聞くぐらいだった。しかし当然、知る者は皆無。酷い時には目が虚ろで無表情なこともあり、彼を変人扱いするところもあった。

 そもそも『仙人、人に関わらず』の掟があった。そして、よほどでない限り見た者は消されてしまうのだ。闇雲に探しても、見つけ出すことはほぼ不可能であった。だが数日後、鈍い思考の中で、ふと一刀は思い出した。

 そう以前、雲華が街で服を売ったお店である。あそこの家族は仙人の関係者だった事を。

 

『ここは、予州――川(――セン)郡の――県の街よ』

 

 雲華の声でどこか場所を聞いた気がするが、はっきりとは思い出せなかった。

 

(確カ……予州ノドコカダ……西ヲ目指ス)

 

 彼は、ただ、がむしゃらに西を目指し始めたのであった。

 それはまだ、冀州鉅鹿の広宗へ張角の軍を盧植将軍が追いこんでいた頃である。

 そして彼は見事に――――この広大な大陸の迷路に迷うのだった……。

 

 

 

 

 

 

 大陸全土を巻き込んでの黄巾党の乱は、張角が引きこもったのを良しとし、兵力総数が百万を軽く超える青州周辺は一時置いておく状態になっていた。そして、北部や中央周辺では、皇甫嵩、朱儁、董卓(呂布・張遼・華雄)、曹操(夏候惇)らの奮戦や、その他に、袁術(孫堅・孫策)、公孫賛(趙雲)の面々の働きにより、ようやく沈静化に向かっていた。

 ……なお、何進や袁紹は殆ど戦っていない。

 何進は、「大将軍として首都の守りが肝要」と言ってほぼ動かず。

 そして袁紹は中央での高位を巧みに利用し他人へと押し付けた。

 

「おーっほっほっほ。そのような雑用は、あのちんちくりんにやらせておきましょう♪」

 

 顔良から「麗羽様、どうしましょう?」と知らせを受けた黄巾党との必要そうな自分の担当分の戦いは、中央からの命として、もっぱら曹操に命じて戦わせていたのだ。

 先の曹操の二面作戦も実は、片方の司隷右扶風(シレイウフフウ)の陳倉周辺の六万は、袁紹の担当だったりするのであった。

 間違いなく職権乱用と言えた。

 のちにそれを知った曹操は「なんですって!」と激怒するのだが……。

 しかし、そういった功により、それぞれ高位の官位や刺史、太守に叙された。

 皇甫嵩は左車騎将軍、朱儁は右車騎将軍。董卓は副車騎将軍。曹操は奮武将軍を拝命し、兗州刺史も兼任へ。曹操配下の夏候惇もその武功により、奮武将軍司馬の官職を後漢より頂いている。

 袁術は、影響下にあった荊州南陽の正式な太守に。公孫賛は、無難で普通な働きだったがなぜか幽州涿郡太守と遼西郡太守を兼任に……趙雲がお世話になった返しという事で頑張ったみたいである。

 

 

 

 

 

 

 そんな華々しい栄達とは遠い存在がいた。

 劉備は関羽と張飛と共に、公孫賛陣営から黄巾党の乱の始まりを契機に独立していたが、結局千人程度の義勇兵のみの運用が精一杯で、たまに現れる各地の官軍に付随してその都度、食糧を融通してもらうなど場当たり的な転戦をしていたのみであった。

 その多くの戦いで先鋒を押し付けられ、関羽、張飛は先陣となって奮闘し敵部隊を撃破するが、打ち破ったという武功は官軍に取られるばかりであった。

 それなりに、関羽、張飛の武勇は知れるようになったが、軍団・組織としては都合の良い扱われ方に留まっていた。彼らには案や方針、良策を考えてくれる人材がいなかったのである。

 官軍が、曹操の軍であればもう少し良い状況もあったのかもしれないが、運なく華雄の部隊に遭遇して手酷く使われたりと、劉備達は行き当たりばったりの行軍で、覇王との邂逅も、いまだ起こっていなかった。

 たまに官軍のいい年をした男の副将辺りから、劉備らの強さに興味もあるのだろうが、やはり劉備と関羽のその艶やかな美貌と可愛らしい張飛に目を付け、下心満載の足元を見た勧誘を受けたりする。

 

「ワシのモノ……いや、部下になれば、こんな不自由で貧しい日常には縁遠くイロイロと『良い思い』も出来ると思うのじゃが……どうじゃ?」

 

 そんなときは、下卑た男へ劉備が答えるまでもないと、関羽がスッと彼女の代わりに前へ立ち、厳しく威圧するような目で回答していた。

 

「我々は良い暮らしがしたくて、戦っているわけではない! 皆が笑顔で暮らせる平和な世を見たいという、我ら三人の想いの為だ! お断りする」

「……ふ、ふん。好きにするがいい。折角だというのに……後悔せぬことだな!」

 

 関羽と張飛の強さは戦場で直に見ているので、官軍の副将辺りといえどもゴリ押しは出来ず、捨て台詞を言って去って行くのであった。

 そして今、劉備ら三人は冀州から予州沛国の北限近くまで南下して来ていたが、周辺の黄巾党の討伐がほぼ終わっており、戦う場所を失い食糧を得る当てを失って、前方に荒野の見渡せる岩場手前の一角へ陣を張り、千人程の義勇兵達と駐屯し途方に暮れていた……。

 陣内の天幕の中、劉備はまだ光沢が保たれた輝かしい腰まである赤茶のツインテールと、その服の色と合わせて淡い桃色で豊満な胸と紅の短めのスカート状な服を身に付けた体を、無意識に、天然に可愛く揺すって手を顎下辺りで組みながら関羽に相談する。

 

「愛紗(あいしゃ:関羽)ちゃん……どうしようか?」

「桃香(とうか:劉備)さま……そうですね。鈴々(りんりん:張飛)、何かないか?」「鈴々は、みんながおなかいっぱいで、平和ならそれでいいのだ。鈴々は、それ以外はよく分からないのだ」

 

 にははとハニかむ張飛のその予想をしていた答えを聞いて、黒色の美しい左サイドポニーな髪を僅かに揺らしつつ、関羽は劉備に提案する。

 

「この周辺は、すでに黄巾党の討伐が終わったようです。なので、私と一隊でこの辺りを通る旅人か商人を探して、まだ黄巾党のいる地域の情報をいくつか聞いてきます。その情報から判断して、ここより新たな場所へ移動しましょう」

「そうね……うん。愛紗ちゃん、お願い」

「はっ。鈴々、桃香さまの守りを頼んだぞ」

「分かったのだ。お姉ちゃんは鈴々がしっかり守るから大丈夫なのだ」

 

 その黒の短パン姿な小さな体の二倍以上の長さと、同等以上の重量がありそうな自慢の丈八蛇矛(じょうはちだぼう)を悠々と軽く振って応える鈴々の返事を聞くと、関羽は立て掛けてあった青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を手に握り絞めると、天幕を出て少し離れた所に繋いである愛馬へ騎乗し、万一に備え百人程の歩兵の一隊を率いて荒野へと出て行った。

 彼女らは、この辺りをすでに一週間ほど根城にしていたので、周辺の地理はかなり詳しくなっていた。

 半時(一時間)ほど移動して、関羽は道幅が広めの南北に通る街道にたどり着いた。

 しかし見渡す範囲に人は通っていなかった。時刻は、まだ朝の巳時正刻(午前十時)ごろであった。

 関羽は仕方なく、しばらく待つことにする。

 この時代の道は、整備されていても道幅が広い程度で基本はデコボコな砂利道であった。石畳などは無かったのだ。そのため雨が降ると車輪を持つ荷駄の移動は難儀するのであった。なので今日のような雨が降っていない日が続き、路面が固まっている時は通行する行商や旅人の数をそれなりに見込めるということだ。

 それから、さらに半時ほど過ぎた頃、北方から荷馬車を二十数両も伴った大き目の商隊と思(おぼ)しき隊列がかなり遠くに見えた事に、目の良い関羽は気が付いた。

 

「商隊が見えた! 皆、ゆくぞ!」

 

 関羽の掛け声と共に、ゆっくり駆け出す騎馬に、百人程の歩兵は駆け足で付いて行く。

 彼女と歩兵の一隊が、商隊へ近づくと、商隊の護衛部隊が警戒のため、隊列の前へ集まって来たのが目に入った。関羽が部下へ叫ぶ。

 

「私だけで行ってくる。お前たちはここで暫し待て」

「はっ」

 

 部下の百人隊長の声を後ろで聞いた関羽は、商隊の前まで来ると馬から降りて声を掛けた。

 

「商隊の代表の方と話がしたい。私は関羽雲長という者だ」

 

 関羽は、敵意が無い事を示す意味で青龍偃月刀の刃先を、背中側に隠すように持って立っていた。

 彼女の整えられた髪の艶やかな右に流れる部分と、左後頭部の長く美しいポニーテールの黒髪。そして身に付けるは、胸元へ縦に線の入った白生地に、腰回りは青緑色の生地で背中側に膝裏まで大きな切れ目のある楓の葉のような形をしていて、その縁は黄色い布で装飾され、肩を大きく露出した袖口に豪華な刺繍の入った独立した袖の付いた上着。また、黒に近い紺の短めのプリーツの入ったスカート状の裾布の服。足は太腿の上の辺りまで焦げ茶の少し厚めな足布を履いている。足元も上等な靴を履いていた。

 実に華やかな服装なのだが、すでに長き行軍でやや埃っぽく汚れてもいた。

 すると、商隊の前に並んだ護衛部隊の間から一人の可愛らしい女の子が出て来る。

 

「ええっとー身なりはまあまあですね。盗賊の方じゃないんですよね? よかったー、この辺は安全だって聞いてたけど道を間違えちゃってて……それで、ででででーんと出ちゃったのかなって……てへっ♪ 関羽さんでしたっけ? 申し遅れましたー、わたくし名前を麋芳(びほう)、字は子方(しほう)といいます。姉と共に商人みたいなことをやってます。あのー、それでも兵隊さんを連れてて物々しいですが……何かありました?」

 

 麋芳と名乗った彼女は、服装が白地に橙や青緑がアクセントになった裾の短い、少し露出度の高めのお腹も見せる可愛らしい服装をしていた。そして橙(だいだい)色がなにか眩しい感じの、膝裏まで左右真ん中と三方に伸びる長い髪の毛の起点となる小さな頭を右側へ少し傾げつつ、関羽の後方で将から少し離れるようにして道を塞ぐ形で控える部隊を見ながら、そう言った。

 

「いや、すまない。少し尋ねたいことがあってな。我々は黄巾党を討伐している、劉備玄徳さま率いる義勇兵で、私はその将をしているのだが、この辺りはもう平定されたようなのだ」

「劉備さま……ですか。そうですね。私もそのように聞いてますよー」

 

 麋芳は、関羽へ黄巾党の討伐について小さく頷きながら相槌を打つ。関羽は手短に本題へ入った。

 

「あなたは、黄巾党がまだ暴れている地域を知らないだろうか?」

「うーん」

 

 実は、麋芳は北方の街々で劉備の義勇軍の噂を聞いていたのであった。何度も官軍の先頭に立ち、略奪の限りを尽くしていた凶暴で残虐な黄巾党の大軍を相手に、全て正面から打ち破った剛の武将である関羽と張飛を従えていると。

 

「お連れは、劉備さまと関羽さんと後ろの兵隊さん方だけですか?」

「いや、あと将をしている張飛や多くの兵がいるが」

「ほおーそうですか(やはり、張飛さんはいるんだ。私も少しは武術をするから、分かっちゃうよ。この人、怪物かも……さて)」

 

 麋芳は感心しながら、内心いろいろと考えていた。関羽は早めに催促する。

 

「で、どうなんだ。何か知らないか?」

 

 麋芳は、考えが纏まったのか話し出した。

 

「実はですね、これから徐州へ戻っちゃうんですが、途中で黄巾党が出没する地域があるんです。よかったら……劉備さまの義勇軍で護衛してもらえません? もちろん、それまでの兵糧や費用は提供させて頂いちゃいますよ?」

「護衛……」

 

 関羽は考える。

 

(この商隊には五十人ほどの護衛部隊がいる。多少腕の良いヤツもいるみたいだが、黄巾党の一軍が相手となると確かに厳しいかもしれんな。我々は移動するしかない状況ではある……悪い話ではない)

 

「麋芳殿、一つ聞きたい。黄巾党の残党はどれほどいるのだろう?」

「んー、そうですね……うじゃうじゃいます♪」

「そうなのか?」

「はい、徐州へは官軍が殆ど派遣されていませんので」

「なに!? ……わかった。申し訳ないが、この兵達とここで待っていてもらえないだろうか? 主に話して来る」

「いーですよ♪ 待ってまーす」

 

 関羽の判断が早かった。この麋芳が、嘘を言っても得が少ないことは分かっている。

 関羽は、百人隊長に道の脇で待機するように告げると、一騎で劉備の元へ急ぎ戻っていった。

 早速、関羽より事情を聴いた劉備は即決する。

 

「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、移動しよう!」

 

 もちろん、張飛は「わかったのだ。ご飯がまた一杯食べれるのだ」と喜んだ。

 直ちに劉備達は、兵と陣を纏めて移動を開始する。

 麋芳は、劉備らを少し驚きながら出迎えた。

 

(全部で三百人ぐらいかと思っていたのに千人程もいるよー……大丈夫……かな? てへっ♪)

 

 麋芳らの商隊を先頭に、劉備ら千人程の義勇兵団は先陣を張飛隊、中軍を劉備隊、後詰を関羽隊の三隊に分け、五列で二百人程並ぶ形にして街道の通行の邪魔にならないように続いた。一種異様な隊列になっていたが、直ちに徐州へと移動を始める。

 馬上の劉備、関羽、張飛は皆、新天地に希望を持ちつつ笑顔であった。

 麋芳が、とんだトラブルメーカー、歩く天災だという事は知らないがゆえに……。

 

 

 

 

 

 

 とある街の門をくぐろうと、その門への道をヨロヨロと歩いて近づいて来る一人の男がいた。

 頭から膝まで、前の部分を除いて隠しているボロボロの大布を被っているが、そこから覗く服装は破れ放題、前髪も伸び放題……。わずかに数本、顎に無精ひげが伸びていた。

 臭いも酷いのか、周りを通る商人や、旅人も思わず傍を避けて歩いていた。

 余りの身なりの悪さに、門で警備に当たっている背丈が七尺六寸(百七十七センチ)ほどあるガタイの良い屈強そうな男の守備兵は、門へ真っ直ぐ近づいて来るその不審な男に近寄ると、門から三十六歩(五十メートル)ほど手前で道の脇へ軽く突き飛ばした。

 その守備兵は、一瞬違和感を感じた。手で突いた時に、その男がやたらに重いように感じたのだ。

 その男は突き飛ばされ、道の脇近くへ無様に尻もちをついて転がった。

 ――鈍くドスンという重そうな音も立てて。

 だが、それは一瞬だった事もあり、守備兵はしっしと「向こうへ行け」と手の甲で追い払う素振りをして定位置へ戻っていった。

 その尻もちをついた、ボロボロの身なりの男はまだ若い感じであった……。

 

 よく見ると―――― 一刀だった。

 

 森を出てから四ケ月近く過ぎていた。

 倒れたところから、一刀はゆっくりやる気なくヨロヨロと起き上がる。

 

(ココはドコだろう……まあイイか)

 

 『殺気』の残気と邪気に取り込まれていた症状は、思考から少し改善しているかに見えたが、代わりに彼には自我の『喪失感』が増大していた。

 どこを、どう歩いて、今自分がどこにいるのか……。

 すでにどうでもよくなって来ていた。

 雲華は……九音はもうドコにもイナイ……やる気がなかったのだ。

 

 彼がボンヤリ覚えているのは……あの後、彼女のお墓を作り、旅立ちの道具を置いて巨木の家を去った事。

 雲華のカタキを探そうと散々放浪していた事―――。

 すでに、ふた月前にはお金も尽き、風呂も無く野宿のみで彷徨っていた。

 

(モウ……ドウでもイイ。でも……一人で過ごすの………寂しいヨォ……雲華)

 

 前に佇むどこか知らない街の門を、静かに眺める彼の目元に僅かに涙がにじんで来ていた。

 その時である。門の中から僅かに叫び声が聞こえて来た。

 

「泥棒ーーーー! 誰か、捕まえておくれーーー!!」

 

 門の傍を守る数名の守備兵達も騒然となっていた。一名を残して門の中へ入って行った。あのガタイの良い屈強そうな男の守備兵もである。

 そのあと、門の近い中から「ギャァァーー」という男の悲鳴が幾つか聞こえて来た。

 どうやら、泥棒と守備兵達が戦闘になったようである。まあ、七、八人ほどいたので直に取り押さえるだろうと思っていたが……複数の悲鳴?

 さらに門へ一人残っていた小柄の守備兵が、門口から僅かに遠ざかるのが見えた。

 そして、門の中から血まみれの長刀を振りかざして、盗んだであろう荷物を左肩に担いだ、身の丈が先ほどのガタイの良い屈強そうな守備兵よりも、さらに一回り以上巨躯な大男が出て来る。

 この時代、良家の者達の平均身長は百七十センチを超えるほどあったが、一般人は男性でも百五十センチ台であった。賊の男は百八十五センチほどもあり、本当に稀な巨躯であったのだ。

 大男は、血走った眼で間合いの長い長刀を右手で振り回しながら近付いて来るため、門の傍に居た者はみんな巻き込まれるのを恐れて悲鳴を上げて逃げ惑っていた……一刀を除いて。

 その大男は、巨躯を揺らし逃走するためか急に走り出す。

 それも、やっと立ち上がり、端から道の真ん中辺りまで出て来ていた一刀の方へ向かって来たのだ。一刀も身長は百七十五センチ程あるが体格的にそれより二回りほど大きい男は、浮浪者同然の恰好の一刀に向かって叫んだ。

 

「どけーーーー! 邪魔するとぶっ殺すぞーーーーー!」

 

 しかし、一刀はどうでもよかった……。

 泥棒の大男は、避けようとしない一刀へ猛然と切りかかる。

 

「どけって言うのが分からないなら、オラーーー! オマエも死ねやーーーーー!」

 

 だが、その言葉に一刀は、ぴくんと来た。

 

「………」

 

 一刀の頭上に、左側から大男の長刀がブンと風切音のうなりを上げて、まさに振り下ろされ―――なかった。

 そして、すでに大男は一刀の前にいなかった。一刀の左手が素手で長刀を掴み取り、右拳が打ち出されていた。

 大男は「ぐえぇぇっ」というすごい声と血反吐を周囲に吐きながら、一刀から十メートル以上地面を人の頭程の高さを浮いて飛び、落ちてからも派手に転がり、一刀の二十メートル程前方に吹っ飛んでいたのである。

 一刀は、無気力に、そしてほぼ無意識に『神気瞬導』の『速気』と『剛気』で拳を放っていたが、普通の人に対しての威力は絶大だった。

 門へ続く道の真ん中に大の字に倒れ、気を失っている大男の腹部は余りの威力に……少し陥没していた。

 しかし、一刀はそれを見ることなく、パタリとその場に倒れて込んでいた。

 

 ちょうどその時、一刀の少し後方にこの街の中へ入る為、門へ向かっていて偶々この現場を牛車で通りかかっていた人物がいた。

 牛車に乗った立派な身なりをした彼女は、一刀の働きのその一部始終を見ていた。

 そして、勇敢な身なりの悪い人物―― 一刀は、その人外な難行を行うと静かに倒れてしまい動きそうになかった。

 

(なんと……人が本当に飛ぶとは。あの御仁は身なりは悪いが、間違いなく、どこぞの名のある武人――元将軍ではないだろうか……? あの膂力……いろんな武人をこの目で見てきたが……尋常ではない)

 

 そう考えた牛車の主は、自分に追随する後ろの荷馬車の家中の者に、倒れている身なりの悪い武人を屋敷まで丁重に運ぶようにと指示を出す。

 二人の家中の者が一刀の傍へ行く。そして運ぶのだが、顔を顰めていた……二ケ月ほど風呂に入っていなかった事もあった。だが、もう一つ困っていた。一刀は剣を一振り持っていたのだが……それが異様に重かったのだ。

 実は『龍月の剣』も普通の剣よりもかなり重かったのである。使う者だけが――主だけが恩恵を受ける剣なのだ。結局、一刀と剣は後ろの荷馬車へ二回に分けて別々に運ばれた。

 

 

 

 一刀は、不意に周囲になにか懐かしいものを感じた。これは……そう随分長い間、忘れていたものであった。絶対に忘れてはイケナイものの一つであった。大好きなモノであった。

 それは匂いだった。それも――

 

 

 

 若いプルンプリン♪の女の子の香しいイイ匂いだったのだ!

 

 

 

「はっ!!」

 

 何か、長い眠りから完全に覚めたような感覚を覚える一刀であった。

 一刀の場合は特にだが――殺気や邪気ですら、人間の三大欲である『性欲』の……絶倫な彼の『エロ』で『イカガワシイ』気に及ぶはずがなかったのだ。

 彼の『正義』が呪縛を粉砕する!

 ……一刀は、まだ周囲に薄っすらとその香りが残っているのを、必死にクンカクンカと嗅いでいた……。

 

 静かに、変態紳士が『ハレンチ』に、ここに復活する。

 

 一刀は目を覚ますと、そこは初めてみる場所で、十五メートル四方ほどもある広く立派な部屋の、朱色の豪華な細工のある寝台に寝かされていた。白い石を敷き詰めた床に、壁伝いはこげ茶色で統一され、木材の板が彫刻で抜き細工されたシースルーな感じで非常に明るい場所であった。

 

「………」

 

 一刀はゆっくりと起き上がる。ここはどこだ?という風に部屋の中をゆっくりと見回しながら。調度品や椅子のような家具も立派なものが置かれている様子が伺える。

 

(そういえば、三国志の時代なんだよな、ここは……真名は不用意に呼んじゃいけない……と)

 

 雲華からの基本を思い出す。そして彼女の事を思い出していた。

 

(雲華……)

 

 その時起き上がっていた角度は垂直に近くなり、布団が胸からずり落ちると、一刀は少し驚いた。

 なんと、すでにきちんとした服まで着ていたのだ。加えて今気が付いたが髪も洗われて切り揃えられ整えられているようだ。髪が覆っていた首の回りが以前より涼しく感じ違和感となり気が付いた。記憶の最後の自身の姿を考えながら髪を触ってみる。

 確か最後は何も考えず、髪も伸び放題で風呂にも入らずに放浪していた気がする。相当ひどい恰好のはずだったと思い出していた。

 一刀には今の、こんな厚遇を受ける理由もあても全く思いつかなかった。

 

「………なにが起きたんだろう?」

 

 そうしていると、周囲の廊下と思われる場所にこちらへと近付く気を感じると、間もなく人影が見えた。「失礼します」と声が掛る。その声に一刀は小声で思わず返事をした、「どうぞ」と。

 扉であろう折り畳み戸を静かに開くと、使用人のような地味だが汚れの無い衣服を着ている女性が現れる。彼女は部屋へ一歩足を踏み入れ、起き上がっていた一刀を確認すると慌てたように「失礼しました!」と少し慌てる形で答えた。どうやら一刀がまだ完全に寝ていると思っていたのだろう。実は運び込まれてからそう時間は経っていなかったのだ。状況的に彼はどう見ても衰弱した行き倒れである。簡単に回復するとは思えない所だが、『神気瞬導』の『無限の気力』がそれを行なっていた。

 

「お客様、少しお待ちください。主を呼んで参りますので!」

 

 そう言って一礼すると、扉を丁寧に閉めて廊下に消えて行った。

 間もなく再び廊下に人影が一人見えた。

 そうして扉の前までくると一言「お客人、失礼します」と言われたので、一刀も「どうぞ」と答えると、静かに折り畳み戸を開けてこの家の主なる人物は入って来た。

 

 先ほど使用人が『主が来る』と言っていたが、それは女性だった。

 薄緑の長い髪とぐるぐるの瞳がまず印象的である。

 背丈は七尺足らず(百六十二センチ)ほど。頭には旋毛の辺りへ大き目の頭冠を乗せ、目を引くその髪は後ろで四つに束ね分けられていて優美で大きな曲線を描いていた。首から膨らみの豊かな胸元まで、大きく露出された形の白地に黄色と赤の装飾の付いた、右前の裾が短く左側が長い形の服を着ていた。そして、右肩を隠す形の花の装飾と金の紐で飾られた上掛けを掛けている。

 顔立ちは、目は少し青味のあるグレー系のぐるぐるな瞳で、目尻は普通で眉は眉間寄りほど太く端は細く、鼻筋は通り、少し小さめの口をしている。

 落ち着いた綺麗な顔立ちをしている人だ。

 一刀は早速だったが、まず気になることを思わずその女性へと質問する。

 

「ここは何州の何郡のどこでしょう? そしてあなたは?」

 

 だが、一刀は無礼なことにすぐに気付いた。

 

「あ、……失礼、申し遅れました」

 

 そう言って一刀は寝台の上ではあるが『叩頭礼』……右手のこぶしを目の前で左手のひらで包み、お辞儀の姿勢をとった。『恩義を受けたらまず、名と礼を述べなさい』と雲華から基本だと言われていたからだ。条件反射に近い。

 

「俺は、姓は北郷、名は一刀。字はありません。この度は身に余る数々の厚遇、ありがとうございます」

 

 すると、その女性は落ち着いた口調で静かに答えた。

 

「ふむ。類まれな力をお持ちでまだお若いのに、やはりしっかりとしていますね。では、北郷殿と」

「えぇっ? いや、北郷で構いません」

「いいえ。あなたはすでに、当主である私がお招きした当家のお客人なのです」

 

 丁寧だが、彼女には有無を言わさぬ迫力があった。少し懐かしい感じがしながら、従うしかないようである。

 

「分かりました。よろしくお願いします」

「はい。素直な方は好きですよ」

 

 それなりに年上のようだが、まだ、皺ひとつない表情に艶やかな長い髪や白い首筋からの豊かな胸など、美しさを保つ彼女はにこやかに言うのであった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「そうそう、ここは、司隷河内郡温県の街です。そして私の名は――司馬防(しばぼう) 字を建公(けんこう)と申します。当家へ……司馬家へようこそ」

 

 一刀の次の滞在先が決まった瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 一方、長い旅をする者がここにもいた。

 管路より、天下を平穏にする存在の力を持つと言う、『天の御遣い』の噂を聞いて、是非合ってみたい、可能なら……いや、何としても仕えてみたいと、動き出していた諸葛亮と鳳統は―――盛大に空振りしていた。

 加えて管路からは、泰山周辺に降臨する、近くに居るだろうということだったが、そんな御仁の噂はどの陣営からも、どの独立した義勇兵の間からも、ついに聞くことはなかったのである。

 そのため更に範囲を周辺に広げていろいろ各地を回っていたのだが、可愛い小柄な少女二人旅であった。大陸中の地図が頭に入っているため、人通りの多い大きな街道を選んで移動していたのだが……獲物が隙を見せたり、弱ったり、偶然条件が揃ったりするのをじっと待ち続けてついて回る、見続けている、ストーカーハイエナのような盗賊達もいるのだ。

 もともと、『天の御遣い』様の軍に入れてもらうために、水鏡女学院の門下生の証であるがとんがり帽子や大きなリボンなどと共に目に留まりやすく、立派でとても可愛らしい服装をしていたのも狙われる要素になった。おまけに護衛もいなかった。

 二人は散々範囲を広げて歩き回わり、数々の街で聞いて回ったが、結局何も有力な手掛りを得る事は無かった。

 

 その時、諸葛亮と鳳統は最後にもう一度と言う思いで泰山周辺へと戻って来ていた。そして、道幅が四十九歩(六十七・五メートル)程もある始皇帝の巡遊時に作られたという大きな街道を歩いていた。

 しかし―――偶然にも人通りが無かったのである。たまたまであった。だが起こる時はあるのだ。

 しばらく、歩いていると『感』の鋭い諸葛亮は気が付いた。前方、後方、見渡す限りに人が見えなかったのだ。

 

「雛里(ひなり:鳳統)ちゃん。イヤな予感がする……。一旦戻ろう」

「!……朱里(しゅり:諸葛亮)ちゃん、前っ……」

 

 もはや……遅かった。

 すでに、後ろを振り向いて見ていた諸葛亮も立ち止まっていた。

 幅の広い道の中央に近いところを歩いていたのも、逃げ道が無くなった原因となった。

 気が付くと前から八人……おそらく道の外を後ろから大回りしてここから見えない端から足の速い者が回り込んだのだろう。後ろから七人、左右の横からも五人ずつで完全に諸葛亮と鳳統を包囲していた。

 コイツらは、服を粗々しく着こなしており、そして僅かでも綺麗とはお世辞にも言えない風体で、腰に実剣を下げていて見るからに盗賊風な連中だ。

 そして、見回すと……全員男であった。

 後ろから近付いて来ている中で真ん中を歩き、一番体格の良く背丈が七尺九寸(百八十三センチ)ほどの大男が指揮しているように見えた。

 大男は太り気味で、髪もボサボサ、髭も眉毛も伸び放題で不潔そうな口と、鼻毛の出た丸く低い鼻と、血走った目付きの表情で二人をジィ~と嘗め回すように見ると、舌なめずりをしながらニヤニヤしていた。

 諸葛亮と鳳統の二人とも、塾で護身術も学んではいる。

 だが、人見知りの激しい鳳統はすでに顔が蒼くなって震えだしていた。

 

「あわわ……」

 

 言ってる場合ではないのだが、自然とその言葉が口からこぼれていた。

 まず、体格が違いすぎて恐怖を感じていた。

 諸葛亮と鳳統の二人とも非常に小柄である。六尺一寸(百四十三センチ)程しかなく。『こねこ』のように可愛いらしかった。

 それが―――ヤツらの獲物であった。

 二人には周りの子分らから、トンデモナイ内容の声が聞こえて来ていた。

 

「御頭~、これでまた二週間ほど犯りまくって楽しめますぜ?」

「ヒャッハーーーー! 二人いるしな。朝から晩までお楽しみだぁぁぁ」

 

 すると後ろから御頭の怒鳴り声が響いた。

 

「初めは、俺様からだぁ! 今晩はお前らは我慢しとけよぉぉ」

「「「「「「「へーい」」」」」」」

「この前の女は十日ほどで死んだからなぁ、へへっ、今回は何日持つか楽しみだぁ」

 

 諸葛亮も顔が蒼くなってきていた。捕まったら、死が見えている……。

 最悪である。望む主に仕えての戦いの最中、自分の策で破れて戦場で果てるならまだ納得も出来ると言うものなのだが。

 しかし、まだ何も始まっていない。

 

 これっぽっちも始まっていないこの時期に――――まだ死ねないのだ。

 

 諸葛亮は僅かに震えながらも背中から、護身用の刃渡り九寸(二十一センチ)程の短剣を右手に握り抜き放っていた。その様子を見ていた鳳統は呟く。

 

「しゅ、朱里ちゃん……」

「は、はわにゃ……ひ、雛里ちゃんも戦おう。わ、わたしゅたちは、こんな所で死ぬために多くの事を学んで来たんじゃないのにょ! 多くの人を助ける為、平和な世にするために頑張ってきたんじゃから」

「う、うん」

 

 『はわわ』自体をも噛んでしまうほど、噛みまくっても訴えてくる諸葛亮の気迫に、震えながらではあるが鳳統も諸葛亮とお揃いの護身用の剣を左手で抜いていた。

 諸葛亮は最終的な目的の為なら、人殺しでも悪魔の所業でも、何でもやるつもりであった。その覚悟で今まで生きてきた。

 それが、こんなところでは死ねないのである。

 いつもの動きより固いが、諸葛亮は手薄な所はないか、冷静に囲む二十五人の輪が小さくなるのを可愛い目で見まわしながら確認していく。

 そして……愕然となった。

 

(なんてこと……二人に一人が――手練れ……)

 

 諸葛亮は一瞬悲しい顔になったが、小声で鳳統に話し掛ける。

 

「ひ、雛里ちゃん……私と同時に右横から来る五人の右から一人目に飛び込むでしゅ」

「う、うん、わかった」

「私が、相手をしている間に―――全力で逃げてね」

「えっ?」

 

 諸葛亮は、自分よりも足が少し早い鳳統を逃がすことにしたのだ。二人とも無事で助かるのはこの陣容では無理だと、その最高の頭脳は答えを出していた。

 そんな覚悟の諸葛亮達を見て、御頭が笑い出す。

 

「はははっ。おいおい、お嬢ちゃん達。やるってのかい? 俺たちゃこれでも傭兵や細作をやってるんだぜ。そこいらの十人隊長ぐらいなら瞬殺しちまうんだよ? ちなみに俺は五百人隊長をやってたこともあるんだぜ? まあ、腕を切り落とされて、痛みでヒィヒィ言ってる所を更に犯るのも悪くないけどなぁ?」

 

 御頭の余裕の言葉に盗賊全員が笑い出す。

 悪魔のような集団であった。諸葛亮は覚悟を決める。しかし、鳳統は渋っていた。

 小声で諸葛亮へ囁いた。

 

「しゅ、朱里ちゃんだけ置いてなんて……行けない」

「雛里ちゃん、それだと二人とも確実に掴まってしまう。私の志を継いでほしいの。お願い!」

 

 静かに二人は目を合わせていたが、鳳統には諸葛亮の目に全く譲る気がないと分かった。昔からそうであった。渋る鳳統に、諸葛亮は説得を続ける。

 

「雛里ちゃんの方が足が速い。だから……」

 

 ついに鳳統は静かに頷く。諸葛亮は微笑むと、すぐに実行に移った。

 

「じゃあ、行くね」

「うん」

 

 右横から来る五人の右から一人目の男へ二人は突撃する。

 諸葛亮は、ほぼ正確に見切っていた。その男は二十五人の中でも弱い方から二番目だった。

 弱い上に後ろから来る仲間との距離が結構あったのだ。一番手薄なところを最大の戦力で突くのである。兵法通りであった。

 諸葛亮は、一直線に男の前まで来ると右手の短剣で、まだ抜刀していなかった間抜けな男の利き手に切りつけた。これで、利き腕で剣を握れない。もちろん、狙いをつけていた時から相手の特徴を分析していたのだ。

 鳳統は走り抜けたかなと目線を男の後方へ一瞬向けるとなんと……鳳統がすでに倒されていて隣の凄腕の男に掴まっていた―――。

 諸葛亮はすぐさま、その男に切りかかろうとしたが、その男は閃光のような剣の抜刀技を見せ、諸葛亮の短剣を軽く剣で一度弾くと、手刀で彼女の握っていた短剣を叩き落として彼女を素早く地面に押さえつけた。

 押さえつけられた諸葛亮らは、傍に集まる野盗らの余り風呂に入っていないイヤな臭いが鼻に付いてきていた……。

 実は、鳳統は逃げる気などなかった。右横から来る五人の右から一人目の男を諸葛亮と倒す気だったのだ。しかし、その横の凄腕の男が諸葛亮を捕まえようと動いていた為、その男へ突撃して……簡単に捻られて掴まってしまったのである。

 

 二人は荷物を取られ、固く分厚い竹で口へさるぐつわをされ、布で耳栓をされ、腕を後ろ手にそして足も縛られた二人は、藁で編まれた体がすっぽりと入る大きな袋へ別々に入れられると、どこへともなく運ばれていった。

 そんな中、諸葛亮は考える。

 

(このあと、このどこの誰とも知れない男達らから、散々慰み者にされて力尽きて一生を終えるのかな。自分は、これと言って人々を助ける事もなく一生を終えるのかな。でも、昔には私よりも才能があった人間も病気や戦争で一杯死んだりしていたと思う。そんな事は、この世界ではそう珍しくない平凡な事なのだと思う。そう、自分も結局は凡人の一人だったのかもしれない。それとは別に……ゴメンね、雛里ちゃん……助けられなかった……。でもまだ……)

 

 鳳統も考えていた。

 

(このあと、私達はどうなっちゃうんだろう。あの荒くれな男たちに延々とイヤらしい事をされて辱められて苛められて死んじゃうのかな。……ゴメンね、朱里ちゃん。私が、足手まといになっちゃったね。朱里ちゃんだけなら逃げられたかもしれなかったのに。でも、なんの為に今まで頑張って勉強して来たんだろう。平和の為にと思ってここまで来たのに。こんな所で終わる為じゃない事は確か。そうまだ……)

 

 しばらく移動した後、部屋のような外の音が多少遮られる空間に放り込まれた。そして、ずいぶん待ち時間があった。

 その間、袋の中で互いにさるぐつわがされているため、途中耳栓ながら僅かに聞こえた呻き声のみで互いの生存を知ると、上手く発音できない声と聞き取りにくい状況で互いに謝っていた。

 二人が袋から出された時には、すでに日が沈みかけていた。

 そこは藁で編まれた小汚い筵(むしろ)が敷かれた掘っ建て小屋のような場所で、皿に油と芯を浸した薄暗い灯りがついていた。

 そして、蒸せたイヤな臭いがする場所であった。壁や天井には、女の子を拘束するためなのだろう、鉄であろう金属の鎖や手錠、足枷が見える。

 外からは、宴のような雰囲気が伝わって来ていた。

 数人の男に諸葛亮と鳳統は囲まれていた。諸葛亮はじっと静かに睨んでいたが、鳳統は僅かに震えてそんな余裕は無いように見えた。

 そして男達に手足を掴まれ、縛っていた紐ははずれされ……本来の主様に見てもらうために用意していた立派で大事な衣装を脱がされ、二人は可愛らしい下着姿にされてしまう。

 周りにいる男たちは、二人の質の良い綺麗な下着と、小柄で透き通るような白く瑞々しい肌の体に「ヒュー」と口笛や拍手など感嘆の声を上げる。

 だが御頭より先には手を出すことは出来ないため、部下たちは何もできず、二人はまだ無事であった。

 しかし、両足首をそれぞれ頑丈な鉄で出来た鎖の伸びる足枷がガッチリはめられたのだった。もはや家畜のような状況である。

 二人には凶暴な性獣に襲われるのをただ待つように、淫靡な長い夜が始まろうとしていた。

 周りにいる男たちが居なくなって間もなく、御頭が一人で小屋へ入って来た。

 ヤツはすでに上の服は着ておらず、腰へすでにモッコリ化した股間を覆うように巻かれた薄汚れた下帯のみであった。酔った様子の御頭は、食後に用意された可愛らしい獲物二人を前に上機嫌だ。

 

「がはははっーー。これから朝までヒィヒィとたっぷりと可愛がってやるぞ……ぐへへへっ」

 

 そう言いながら、酒や食べカスで汚れた口元と涎を右手で荒々しく拭う。

 部屋の中央に寄り添い、鎖で両足首を繋がれた二人であったが、その時、諸葛亮が話し出した。口に太目の竹のさるぐるわをされていたが、意味は大体分かる言葉で。

 

「わ、私は名を諸葛、字を孔明といいまふ。ほ(こ)れでも軍師を自負していまふ。諸侯の元へ連れて行へ(け)ば、ふふなふ(少なく)ない恩賞も出ると思いますが、如何でほ(しょ)う?」

 

 諸葛亮はまだ諦めていなかった。すべての可能性に掛けようと考えていた。この御頭が『バカ』な場合の事にも。

 

「ああぁ?」

 

 御頭は、この獲物風情が「まさか大した軍師なわけがない」と思い、「何の戯言を?」とも思ったが機嫌が良く、『余興』と考えて話を始めた。

 

「ははは、本当なら……直の事『生かしては置けない』なぁ。そんなエライ人が俺達をその後、見逃すはずがないよなぁ? えぇ? だからお前たちは―――安心してここで『死ね』!」

 

 諸葛亮は、苦い表情で目線を落とし沈黙する……手が尽きかけていた。

 すると……なんと鳳統が震えながら言葉を紡いでいく。

 

「は(さ)、最後のお願いがありまふ。ほ、ほれ(そ、それ)を守っていははへ(頂け)れば……何をされても耐えまふ」

「ああぁーー?」

 

 御頭は、まだ言うかと虫を見下すような目をしていたが、いかにも小さく震えて気弱そうな……いじめ甲斐の有りそうな自分の好みの少女が何を言うのかが気になった。

 

「言ってみろ」

「はい……三週間……私達は(が)生き残ったら、逃がしてくあはい(ください)」

「三週間……」

 

 鳳統は恐る恐るながら、御頭の目を不屈の気持ちを込めた目で見返していた。

 御頭は考える。

 

(バカめ、俺達の責め苦を二週間生き残った者はいない。だが確かにそれは一人での話だ。二人なら可能だとでも思ったのか? ……まあ、余興としては面白いか――)

 

「言って置くが、休みなどないぞ。まあ、不眠不休だけでも持たないだろうよ。それに、三週間だと精神的に快楽等で『物狂い』になった上で、俺達の誰かの子を身籠っていると思うぜ。それで良いなら……考えてやろう」

「ほ、ほれ(そ、それ)で構いません」

 

 鳳統は僅かな希望に即決する。横で驚く諸葛亮は呟いた。

 

「ひ、雛里はん(ちゃん)……」

「しゅ、朱里はん(ちゃん)。生き残るほ(の)よ。わ、私達にはやることがあるんだから」

 

 鳳統が見せた不屈の心に、諸葛亮も小さく頷く。

 余興は終わりだと言う風に、御頭は口元をニヤけさせながら二人へゆっくりと近付いて行った――――。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年06月10日 投稿
2014年06月12日 加筆修正&挿絵追加
2014年06月18日 一部修正
2014年06月20日 一部修正
2014年10月30日 文章見直し
2014年11月21日 一部修正
2015年03月15日 文章修正(時間表現含む)



 解説)袁術が太守に就いた荊州南陽郡
 この時代にもっとも人口の多かった郡で、ほぼ一州に匹敵したそうである。
 人口約240万人。
 ちなみに、首都洛陽のある司隷の七郡を合わせても280万人ほど。

 解説)予州沛国
 前漢までは沛郡だが、後漢では沛国となっています。

 解説)始皇帝の巡遊街道
 秦の長さでは道幅六十七・五メートルは五十歩の模様。
 後漢では四十九歩程度。





 うぉぉ、片方居れば天下も取れる、稀代の双璧がぁぁ………。(汗
 あぁ、孔明・士元、惜しいかなその時を得ず?
 次回を待ってて~~




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➊➐話 司馬家と八令嬢+小話 *3

 

 

 

 非情な覚悟を決めた下着姿の諸葛亮と鳳統は動かない。

 諸葛亮は、淫獣のごとく迫り来る御頭から、鳳統を庇うように寄り添っていた。

 この仕官への旅を提案したのは、諸葛亮であった。自らが動かないと時代は変わらないと言って。

 その事に、鳳統も賛同してくれた。古くからの親友であり同志だった。そして、直接言わないながらも互いに認め合っていた。そう、片方が居れば天下が取れる程――と。それは、二人が敵味方に分かれるようなことになれば、天下が割れる事になる。

 

 ゆえに日頃から、『仕えるなら、絶対同じご主人様にしようね』と誓い合っていた。

 

 今回も、人見知りで旅の苦手な鳳統は付いて来てくれた。諸葛亮はその事に少なからず責任を感じていた。

 でも、鳳統はそんな事は絶対に言わない。諸葛亮が自分でそう言ったとしても「そんなことないよ。これは自分で決めた事なんだから」と絶対に、確実に返してくるだろう。

 

 ――だからこそ、報いを受けるのなら自分がまず受けるつもりでいた。

 

 御頭はこの後の事を想像しながら、イヤらしくニヤニヤとした表情で二人へ一歩一歩近づきながら口を開く。

 

「では、さっそく存分に頂くとするか―――ん?」

 

 そこまで言いかけた時、敏感な御頭は異変を感じた。これでも相当腕が立ち、且つ部下を率いている指揮官である。

 立ち止まると、首を左にゆっくり向けて背後の扉の更に向こうの様子を伺っていた。

 そう、ほんの今、先ほどまで聞こえていた宴の喧騒が無くなっていたのだ。

 御頭は眉を寄せ表情を曇らせると、二人に背を向け出口の方へ引き返して行った。

 そして、小屋の出口横の大き目の箱の底から一振りの剣を取り出した。彼は、お楽しみのために油断して、服と共に自分の剣を外に置いてきたのであった。

 右手で剣を抜いて鞘を床に静かに置くと、ゆっくりと外への扉を押し開ける。

 小屋から少し離れたところの森の中に出来ていた広場に、仲間達が宴をしていた大きな焚火が見えるのだが、その周りにすでに動かなくなって横に倒れた仲間たちの姿と影が見えていた。

 そして、一人の見慣れぬ女と思しき大き目な人影が、動かないソレらを、二人、三人、四人、五人と静かに歩く途中に軽々と拾い上げながら、山積に背負った姿で森の影へ運んで行くのが見えた。御頭は……背筋が寒くなっていた。

 

(……なんだ……これは?)

 

 そして、ここで気が付く。

 結構高床になっているこの掘っ建て小屋からの……視覚の左隅に見慣れない―― 一瞬前まで居なかった小柄な人影を間近に捉えて、思わず声を掛ける。

 

「お、お前だれ―――」

 

 『だ』と言い切る前に、小柄な人影が放った瞬動の槍で喉を貫かれ、御頭は絶命した。

 諸葛亮と鳳統の目の先、二歩程(二・五メートル)の扉付近に立っていた御頭の首の裏側に、一瞬で何かが突き抜けて来ると同時に血が大量に滴り始めた。

 二人は状況が分からず戦慄する。今の状況より、更に悪いモノが来てしまったのかと。

 さらに異様だったのが、槍で喉を貫かれた御頭の……背丈が七尺九寸(百八十四センチ)ほどの大男の体が、宙に僅かに浮いた状態であったのだ。

 それらの光景に、二人は驚きのあまり声が出なかった。

 状況から考えるとそれは、槍を片手で一杯に伸ばした状態である。その先に、四石半(百二十キロ)ほどの物をぶら下げて持ち上げる膂力は間違いなく怪物であった。

 その、浮いた『物体』はスッと部屋の外へ釣り出され、その辺りへ放り投げられたのであった。鈍い音に加え地面が僅かに揺れる衝撃が床から二人へ伝わってくると同時に、その御頭を倒した人物が小屋の中へ入って来た。

 その人物は、部屋の中を見回すと呟くように言葉を続ける。

 

「ひどいところね……。……ふーん、やはり違ったかな」

 

 二人は外の様子が見えていなかった為、今初めて槍を構えたこの人物の姿を見た。

 二人とも驚いていた。目の前で見たあの御頭の巨体を軽々と外に釣り出した力量から、御頭並みの体格の人物だと思っていたのだ。

 しかし、姿を見せたのは少女のように見えた。

 後頭部で多色な紐で纏めた、ストレートで艶やかなポニーテールの黒髪。背丈は、六尺七寸(百五十六センチ)ほどしかなかった。将としては小柄な体格になるだろう。

 そして、服装はこれまでに見たことのない異彩を放つ衣装と装備だ。裾がプリーツ風で結構短く、胸元から前の部分には紅紫の紐のアクセントの付いた淡い緑色の生地を重ねる感じで、色々な装飾布がヒラヒラとしている。加えて、それらを引き立て溶け込むような金属鎧部分。また、肩から二の腕辺りが丸く膨らんだ感じで背中にも大きなリボン風の装飾があり、そう、抽象的にあえて言うなら、『とても可愛らしい』服装なのだ。そして、その人物は耳に宝石の装飾具と顔に―――蝶のような模様の仮面を付けていた……。

 諸葛亮らは、心の中でこの人物を『仮面の将』と呼ぶことにした。そして、恐る恐る仮面の将へ尋ねた。

 

「はわわ……あ、あの……ありがとうございます……私達を助けてくれたんです……よね?」

「そうねぇ。結果的にはそうなるかもね」

 

 確定的ではない要素がありそうな答えが返って来た。仮面の将は二人を見定めるように見てくる。

 するとその後ろから、もう一人現れた。

 その人物も顔立ちが少女風な女性であったが鋭い表情と立派な槍を持ち、またこちらも仮面の将と同様の『とても可愛らしい』衣装と装備をしている。背丈は七尺四寸(百七十三センチ)ほど。女の子としては上背がかなりあった。

 

「主様、外の他の者はすべて土中へ始末しましたが」

「そう、じゃあジンメは、さっきの物をソコまで持ってきたら馬の所へ戻って待っていなさい」

「はっ」

 

 仮面の将は、目線を交えて『ジンメ』と呼ばれた女の子に指示していた。

 驚いた事に、『始末』というのはすでに賊らが埋められていた状態だったのだ。良く考えると全員あの世逝きの跡という恐ろしい事なのだが……何という手際の良さであろうか。

 この時代、疫病などは人の死骸からも多く蔓延したと考えられたため、可能であれば埋没処分するのが戦場でも通例であった。

 

 さて……仮面の将らは、今偶然にここに居る―――わけではなかった。

 彼女は、感じていのだ……わずかな『仙気』を。

 確かにここ泰山へ戻って来たのは久しぶりになるのだが、戻って来ると見慣れない『人』の集団の中にわずかな『仙気』が感じられたのだ。

 それで、わざわざ確認のため近くへ寄って話を少し聞こうとしただけなのだが……仮面の将らが女二人連れだというのを確認すると、「ヒャッハァァァーーー! 死ぬまで犯して楽しめる、新しい得物だぁぁ」といきなり集団の全員が剣を抜いて、その後も非道でイヤらしい言葉を連呼しながら襲いかかって来たのだ。ろくでもない鬼畜な『人』の集団と考えられた。

 

 彼女は、『魔●』さまである。愛しの伴侶以外の、それも下郎に容赦などなかった―――。

 

 そんな仮面の将は、「それじゃあ」という声に続いて有無を言わさない感じに、諸葛亮と鳳統に向かって話を聞く。

 

「いくつか質問に答えて欲しいのだけど」

 

 その雰囲気に諸葛亮と鳳統は一瞬目を合わせる。二人は何となく思った。これは、答えによっては……ここでこのまま死ぬかも知れないと。

 

「二人はどうして、泰山の麓へ来たの?」

 

 彼女らを見れば仮面の将には分かった。僅かな『仙気』がこの二人から出ていることに。だが、彼女たちは『人』だった。

 神聖な泰山である。結界も張っている場所もあるぐらいなのだ、気軽に来られては困ると言うものである。

 諸葛亮らは、ここが誘拐された場所より移動していた時間から、割と近い場所と言う事は分かっていたが、仮面の将の発言から、街道からさらに泰山寄りに来ていることが分かった。

 一方で、仮面の将の雰囲気から、常人ではないものを感じ問いに正直に答えることにした。

 

「はわわ、わたくしは名を諸葛亮と申しましゅ。実は……『天の御遣い』さんに是非お仕えしようと思いまして」

「ふぅん……あの『天の御遣い』にねぇ……そう」

 

 仮面の将は、少し穏やかな顔になって、目線を二人から僅かに離しながら答えた。

 諸葛亮は驚いた。

 今まで尋ねた誰からも全く反応が無かったその言葉に、仮面の将にはピンと来るものがあった様子であったからだ。

 諸葛亮は、仮面の将から何か聞けるかもしれないと、自分達の行動について詳しく話し始める。

 

「わ、私たちは、荊州から来たのですが、地元に管路という占い師さんが来た時に『天の御遣い様は天下を平穏にする存在の力を持つ』と言い、加わえてこの泰山周辺に降臨されるからと聞いたのです。それで、こちらの鳳統とこの場所近くへ参ったのですが、兗州周辺でも、予州の北部の方でも、誰も知る者が居なかったのです。手掛りなく、そのため残念ながら帰ろうかと。それで、最後にもう一度この辺りで聞き込みをと思いましたら――」

「で、ヤツらに掴まったと言うのね。しかし、管路……あいつがね。それに……天下を平穏にする存在の力か……なるほど、良いことを聞かせてくれたわ」

 

 仮面の将は、何か長く考えていた謎が解けたような嬉しそうな発言と表情をしていた。そのことが気になったが、諸葛亮は不用意に聞くのは躊躇われた。『●王』さまの本質に気が付いているのかもしれない。そこは避けて無難な辺りを聞いてみる。

 

「占い師さんを、ご存じなのですか?」

「まあ、少しかな。余り関わり合いたくない者なのよ。外れる事も少なくないし。……でも、当たる時は当たるわ。(特に―――悪い事絡みでは……ね)」

「そうですか……」

 

 仮面の将は考える。

 

(諸葛亮と鳳統……確か、字が孔明と士元だったはず。凄い天才的頭脳だと聞いてたけど本当かしら。少し試してみましょうか)

 

 仮面の将はニヤリとしながら、思いとは違う事を口に出す。

 

「二人の来た理由は分かったわ。……それで、小柄だけど二人とも武将として『天の御遣い』に仕えるつもりなの?」

 

 諸葛亮は仮面の将の微笑みの表情に、背筋へ一瞬寒いものが走ったが、正直に答える。

 

「いえ、私達は―――軍師として力になれればと」

「そう。じゃあ、その二人の軍師様に(本当に役に立つのか)私の小さな疑問を少し質問してもいいかしら?」

 

 仮面の将の表情は、鋭さが増して真剣であった。

 並みの軍師では、まず大陸に平穏などもたらせない。第一に、能力が低いやつが『天の御遣い』に近づけば……それだけで『天の御遣い』が危なくなるのだ。

 それに―――

 

 まず自分が認めた者以外が、勝手に『天の御遣い』の傍に侍(はべ)るなど、『魔●』さまは許せないのである。

 

 それは、この二人が可愛かったからなのだ……自分の伴侶が、気に入って手を出しそうな予感がするのだ。『英雄、色を好む』のは分かっている。

 特にあの『サワサワスリスリナデナデ』が好きな人だし――私もイヤじゃないけれど……それが『力の源』の彼ならば。だから、認めたもの以外容易には近寄らせたくなかった。

 値しない者は、全力で底を割らせて叩きつぶす!……そんな思いが彼女の表情に出ていた。

 諸葛亮は鳳統と顔を見合わせる。ここが正念場らしいと。そして二人で頷いで返答する。「わかりました」と。

 

 その仮面の人物は、持てる知識の最難関の質問を交互に、二人に浴びせていった。だが二人は共に、それらを理路整然と明確に待ち時間もそれほど無しにスラスラと答えていった。

 各十問ずつ、二十問ほど続けると、この二人がまさに只者でないことが分かってきた。質問はすべて、ただ知識を覚えているだけではダメなものを選んでいた。加えて、応用し、発想し、先を読む、それらが飛び抜けていないと答えられないものばかりであった。

 例えば、当時天災の一つであった雨期の河川の氾濫についてどう対処するか。

 これは、地形や土質、河川の水量、雨量の予測・計測に始まり、農耕への発展・影響、人の流れ、人口、労働力、資金等から乾期における堤防建設とこれまでに無い工期短縮可能な堤防構造及びその利点、さらに河川の水量の調整のための川筋の分離合流とその各判断基準、そしてそれらの国家における公共事業性など多方面についての話となるのである。

 他にも、後漢の外側の勢力について、また、それらへの個々の戦略的な対処とどう向き合って行くか等の話も盛り上がるのであった。

 軍師のその総合力は、ただ軍事に関しての事だけではない。それ以外の知識・発想・転換力等も無くては真の『軍師』たりえないのである。

 だが、仮面の将は驚嘆する。

 

(これは……天下の奇才ね。私の答えすら予想して――そして、上回っているもの……。おそらく二人の内、片方だけでも味方に付けれれば、天下が見えてくる才覚だわ。特に、諸葛亮は戦略が、鳳統は戦術が私の想像を超えている。二人は『本物』だわ――――)

 

 仮面の将は、目を瞑りながら二人に両手を上げて質問するのを「参った」と言わんばかりに終わる。

 

「ふぅ、面白い話や答えを幾つもを聞かせてもらったわ。ありがとう」

 

 諸葛亮と鳳統はほっとする。だが、同時にこの仮面の将の知力、能力は何なのだろうと思うほかなかった。そう、質問の合間に答弁する内容は、自分達二人に勝らないまでも全く劣らない水準だったのだ。

 自分達が三十の策を立てれる水準だとすると、彼女は二十九か八は対抗して立てて来そうであった。それに、これだけの圧倒的な武力を誇るのだ。最前線でこちらの策を予想され臨機応変に動かれると……二人が負ける可能性を否定できないものがあった。

 そんな考えをよそに仮面の将は告げる。

 

「あなた達は本当の軍師だという事も、ここへ来た理由もよく分かったわ。ちょっと待っていなさい」

 

 そう言うと仮面の将は槍をその場へ置き、小屋の出口を出て右側に一旦消え掛けると、荷物を持って再び入って来た。

 そう、諸葛亮と鳳統の服と荷物であった。

 仮面の将が、もう一人の槍を持った女の子へ先ほど持ってくるよう指示していた物だ。盗賊らのとは違い明らかにモノが上等で綺麗であったので、掃討の途中で気付いていた品物であった。

 仮面の将は、二人の寄り添う傍にそれらを丁寧に置くとしゃがみ込む。そして彼女らの繋がれていた足首の拘束金具に手を掛ける。

 諸葛亮と鳳統は、御頭が小屋へ来る前に金具を当然確認したが、それらは頑丈な造りをしていた。石鎚か何かで叩かないと壊れなさそうに見えた。しかし、仮面の将がそれに手を掛けると、ボロボロの藁の輪でも軽く割くように、バキリと繋ぎ目部分を素手で引き千切っていた。

 驚いた顔の二人に仮面の将は、「さぁ着替えなさい」と笑顔で勧める。諸葛亮と鳳統も笑顔を浮かべ言葉に従い身支度を始めた。

 その合間にも、二人は情報を知っていそうな仮面の将へ『天の御遣い』への想いの熱弁を振るっていた。

 

「そう……なるほど……『天の御遣い』を、天下を平穏にする存在の力を持つ者を中心に動けば、楽ではないにせよ天下泰平の実現は色々な方向から不可能ではないように感じるわけね」

「はい。だからこそ、お仕えしたいのです」

 

 二人の着替えが終わりかける中、諸葛亮は力強く仮面の将に答えた。鳳統も横で共に頷いていた。

 そして鳳統は残念そうに、とんがり帽子を両手で掴んで被り直しながら呟く。

 

「あわわ……で、でも……どの陣営の方からも、どの独立した義勇兵のみなさんからも手掛かりは……なくて……」

 

 諸葛亮も鳳統の方を向いて寂しそうであった。

 その、とても残念そうで寂しそうな様子を見ていた仮面の将は――しょうがないわね、と口を開く。

 

「そちらの『天の御遣い』の話のお返しに……面白い話を聞かせてあげる」

 

 仮面の将の表情が、仮面越しに優しく微笑むのが分かった。

 諸葛亮が控えめに聞いてみる。

 

「……なんですか?」

 

 

 

「いるわよ――――『天の御遣い』は」

 

 

 

「「本当ですか!?」」

 

 諸葛亮と鳳統は、仮面の将が『怖い人かもしれない』なのを忘れて、彼女の間近へ身を乗り出すように二人同時に聞いてきた。仮面の将は、二人のその思いの強さに苦笑しながら優しい表情で教えてあげる。

 

「……姓は北郷、名は一刀。字は無いそうよ。身長は七尺五寸(百七十五センチ)ほどのまだ若い十代後半の男の子よ。少し長めの淡い焦げ茶色の髪で、前髪が右目を隠すぐらいあるわね。凛々しい眉に鼻筋も通っていて、口元は普通だけど意外に大きく開くわよ。(モリモリ食べるし――あ~んとか……)目は濃い焦げ茶色で力強いものを持ちつつ、全体は優しい顔をしているわ。あなた達なら見ればすぐ分かるかも。もしか……どこかで会えたら、あの人を助けてあげて」

「男の方ですか……わ、分かりました。北郷さんですね。必ず、必ず全力でお助けします! ……でも、なぜそんなに知っているんです?」

「私は……『天の御遣い』に命を助けられたからよ。本人はそのことを全く知らないだろうけどね。さて、焚火のそばに移動して何か食べましょう。明日の朝に街道まで送ってあげる、孔明先生、士元先生」

 

 二人はきょとんとする。まだ字は名乗っていなかったからだ……が「はい」と素直に喜んだ。ここでは、仮面の将が一枚上であったので納得する二人であった。

 諸葛亮は、思い切って仮面の人物へ聞いてみた。

 

「あの……教えてください! あなたの名は?」

 

 仮面の将は、一度目を閉じると諸葛亮達へ静かに答えた。

 

「―――名は■■■……字は……■■■?……かな」

 

 しかし……なぜか疑問形だった。

 

 

 

 

 

 

 少し時間は巻き戻る。

 明るい陽射しが、廊下の透視細工のされた板壁より漏れ射し込む、床一面が白い石の床材で敷き詰められ、立派な調度品等や上品な装飾のされた広い客間で、豪華な寝台にて目を覚ました一刀は一人の人物と面会していた。

 司馬防と名乗った、一刀が横たわる寝台手前正面へ立つ品の有る綺麗な女性家主は、ここを『司馬家』と言っていた。

 三国時代に司馬の姓の人物といえば―――司馬懿(しばい)である。字は仲達(ちゅうたつ)。

 だがそれ以外の司馬氏について、一刀は良く知らない。

 司馬懿……かの諸葛亮が最後に五丈原で長期対峙した魏の軍師。

 また、魏の中では電撃戦や破竹のように進撃も熟す戦上手だった。そしてその殆どに寡兵で勝利していたと思う。

 ここは、その『司馬』なのだろうか?

 だが、いきなり「司馬懿いますか?」と聞くのは余りに突拍子もなく不自然に思えた。一刀はその疑問については一旦保留することにした。そして別の質問をする。

 

「あの、俺はなんでこんな厚遇を受けているのでしょうか?」

 

 そう、意味が分からないのであった。

 当然顔見知りでも無く、借りや恩を売っていたわけでもなく、一刀はボロボロの恰好で物乞い同然に見えていたと思うのだ。そんなゴロツキに普通は近寄りたくもないはず。そして、持っていたのは大した装飾もない軽めの剣一振りのみ―――。

 

(そういえば、雲華からもらった俺の剣は……?)

 

 辺りを見回すと、あの剣はなぜか寝台横の壁手前に装飾の豪華な剣台へ綺麗に拭かれ、非常に丁重に『飾られて』いた。

 その一刀の目線から、司馬防もその剣へと目を向ける。

 

「とても素晴らしい剣ですわね。当家にも征西将軍まで昇った曾祖母の司馬鈞(しばきん)が使っていた宝剣があるのですが……驚きましたけれど、この剣は『それ以上』の出来のように思いますわ」

 

(そんなことないよなぁ……雲華が気軽にくれた剣なんだけど――)

 

 一刀は知らない。雲華がわざわざ持たせてくれたこの剣が、高名な老師仙人の作った『龍月の剣』という事を。その巨万の富や広大な領地にも匹敵する価値を。

 だが何も知らない一刀は、あまり驚いても、否定しても相手に失礼になりそうだったので、ここは軽く流す事にする。

 

「え? そ、そうですか。そんな大したものでは――」

「そのように謙遜なさる必要はありませんよ。目を持つ者が見れば確実にすぐわかります。このような剣は、普通の者が持っていれば甚だ分不相応ですが、あなたのような剛の者が使うに相応しい剣でしょう」

 

 しかし、司馬防の目と表情は確信を持って言っているように思えた。内心で首を捻る一刀だが、それとは別に司馬防の言葉の内容について考える。

 

(俺がゴウ? ……言い回しから『剛』だよな。ということは……『神気瞬導』か)

 

 どうも倒れる前後の詳細をほとんど覚えていないため、一刀は彼女へその辺りを正直に聞いてみる事にする。

 

「あの……俺……何かしましたか? 覚えていなくて……」

「……そう、覚えていらっしゃらないのですね」

 

 司馬防は一刀へ少し気の毒そうな顔をすると話してくれた。

 

「実は今朝、我が街の豪商宅へ一人の盗賊が現れたのですが、その者が巨漢の豪剣遣いだったのです。その家の警備の者が四人、さらに騒ぎを聞いて駆け付けたその区画の守衛達も六人が切られ、さらに城門まで迫ったため、城門の守備をしていた腕の立つ守備兵達が対応したのですが、内外側合わせてその場にいた十人が切られた上、門外へ出られてしまったのです。切られた内六名もが死亡しました。十名が今も重症です。力任せの荒い太刀筋でしたが、かなりの使い手で、逃がすと捕まえるのは難しい状況でした。

 そのときに北郷殿が、剣を振りかざして向かって来るその盗賊を、正面からお一人で、こちらのお持ちだった宝剣すら抜くことなく、相手の剣を左手で掴み取った上で、ただ一撃の見事な右正拳で倒してしまわれたのです。わたくしが間近で見ていましたが、賊の巨体は八歩ほども空中を水平に飛んで十五歩(二十メートル)近く離れたところまで転がって行きました」

 

 一刀はここまでを内心で『うわ~俺、無茶やってるなぁ~』と他人事の風に聞いていた。そして思い出したのは『だれかを倒した記憶はあるな』というぐらいだ。司馬防の話はまだ続いた。

 

「この司隷河内郡温県の街は今のような時勢でも、そういった罪人は逃がさない良き街として、皆が長い間守り誇りにしておりました。それがまんまと逃げられる悲しい現実なところを北郷殿により事無きを得たのです。ありがとうございました。街の顔役としてお礼申し上げます。また、重症の中には仲の良い友人の子供もいましたので、その友人のカタキを見事に果たしてくれた事にも感謝しております」

 

 司馬防は、ここまで述べると一刀へ礼を取り頭を下げた。

 そして顔を上げた後……彼女の顔がなぜか、僅かに赤くなっていく気がするのは気のせいだろうか。彼女はそのまま言葉を紡ぐ。

 

「それから……私や、亡くなった母や祖母は武人ではありませんでしたが、当家は曾祖母が征西将軍であったことから天下の武人を尊敬し愛しております。差し出がましいようですが、北郷殿はお痩せになられて生活にお困りのご様子。是非、ここを我が家と思われ、気の向くままご逗留くださいませ」

 

 確かに、一刀の体は以前より少し痩せていた。無気力だった体は、食欲も最小限だったようだ。

 だが今は自我がはっきりと戻ったので、どこか自然豊かな森に行けば生きてはいけるだろう。そう思ったので「いや、でも――」と断りの言葉を述べようとすると。

 

「ご逗留くださいますよね」

 

 司馬防は、寝台へにじり寄ると、有無を言わさぬ雰囲気で念を押して来るのであった。

 

「……はい」

 

 司馬防は一刀の返事を聞くと「よろしい」という感じで静かに微笑みながら頷くのであった。

 一刀は、雲華に似ている感じの押しに弱いようだ……。

 

 三国時代も含め、当時はこのように家柄や身分のない者が『食客』になることは少なくない。まずは有力者の食客になって、のちにその後押しで公職につくケースは多かった。有力者側からすれば、有能な人材に先行投資するような考えであろう。多くは将来のトータルでの見返りを期待してのものである。人数の多い場合は、数百人、千人以上も抱えている場合もあった。

 また、受ける側も仲間達らで偶然を装ったり、自分の能力をわざわざ押し売りして庇護に預かろうという者も少なくない。有力者から乞う場合もあるが、機会からすると稀であろう。

 司馬防は先祖からの潤沢な財力と街の有力者であったが、そう言った『食客』は余りいなかったのである。それは求める『本物』が非常に少ないからであった。そして、厳しい人物でもあったため、身内以外は邸宅内に住まわせることはしなかったのだ。

 司馬家では通常、『食客』や、使用人及び守衛らの住む場所は、邸宅外の隣接した敷地に別に用意されている。

 すなわち一刀は……なぜか相当『色々な意味で気に入られた』ようであった……。

 

 一刀はこの時ふと、気によって南方向から廊下に五人の人物が現れた事に気が付いていた。それらは壁の透視細工の無い低い位置をゆっくりこっそり移動して来て、そして折り畳み戸である扉の前で五人固まって止まった。間もなく何か漏れるように声が聞こえて来くるのだ。初めは警備の者かと考えた。しかしそれは小さい声で、扉付近にて少女らのような姦(かしま)しい声であった。

 

「なにか、少し優しそうな人~ですわ~」

「ふん、身内以外の男の方を、お母様が家に住まわせるなんて」

「どういう方なのか詳しくハッキリ知りたいですね」

「………ぁぅぅ」

「お強い方らしいので剣を習いたいです!」

 

 司馬防も一刀の様子から、すぐ気付いたようで扉の方へ顔を向け注意をする。

 

「あなた方、お客様に対して、はしたないですよ。夕食の時に紹介しますから、下がっていなさい!」

「「「「失礼しましたーー」」」」「………ぁしたぁ……」

 

 その可愛らしい声達はパタパタという複数の慌てて去る足音と共に、フェイドアウトするように来た廊下の端へ消えて行った。一刀は、さすがに『女の子達』が気になったので尋ねてみる。

 

「今の方々は?」

「すみません姦しくて、私の娘達ですわ」

「……はあ、でも五人程いたような……」

 

 少し、恥ずかしがるように司馬防は教えてくれる。

 

「今の五人と、後三人ほど……わたくしには娘が八人おります」

 

 司馬家は結構な大家族のようだ。

 一刀は、内心で多いなぁと驚いたが日本でも、昭和の初めごろまでは、こういう例が少なくなかったのは知っていたので別の言い回しで話を返した。

 

「そ、そうですか。俺は一人でしたので、賑やかそうで羨ましいです」

「個性派ばかりで大変ですが、皆可愛く元気で健やかに育ってくれました」

 

 司馬防は母親らしく嬉しそうに微笑んでいた。

 しかし次の瞬間、寝台の傍へ立っていた司馬防は、女性らしい表情になって一刀へ言葉を伝える。

 

「でも……一人か二人、男の子がとも思ったのですけれど」

「そ、そうですね……」

 

 なにやら、不思議に周りが熱いような、そんな気がする一刀であった。

 その時、廊下を複数の人影が透しのある壁板越しに歩いて移動して来るのが見えた。その人物らはこの部屋の折り畳み戸の前に来ると、そのうちの一人の人物が綺麗な澄んだ声で司馬防へ声を掛けてくる。

 

「母様、優華(ヨウファ)です。お客人へ昼食をお持ちしましたが」

 

 一刀の小首を傾げ『どなたです?』の表情から、司馬防は「長女の伯達(はくたつ)ですわ」と声の主の事を教えてくれた。

 

「お入りなさい」

「はい」

 

 『伯達』と呼ばれた司馬防と同じ薄緑な髪の色をした彼女は、使用人の女性と共に両開きの広い折り畳みの扉を開くと、先を静かに歩いて寝台の横――司馬防から半歩引いた右横へ立った。なんとなく、司馬防の陰に隠れるような感じもしないでもない。まあ気のせいかと一刀は思った。

 彼女は並んだ司馬防よりも、頭二つほども背の高い女の子だ。

 その後、彼女に続いて使用人の女性が、昼食の乗った手押しのワゴン風な台を押して入って来た。見るからに豪華なお皿と食事である。

 司馬防の横に立つ『伯達』と呼ばれた彼女は『叩頭礼』の形を取り、一刀へ優しい声と雰囲気で挨拶する。

 

「お客人様、お初にお目に掛ります。司馬防の長女で、名を司馬朗(しばろう)、字を伯達(はくたつ)と申します。伯達とお呼びください。よろしくお願いいたします。……無事、目が覚められて良かったです」

 

 そう言って一刀へ和やかに微笑んでいた。とても可愛らしい笑顔である。

 

(しばろう はくたつ……八人姉妹の長女か)

 

 一刀は「誠にご丁寧に」と少しずれた事を言いながら、彼女へ北郷の姓と名を名乗った。

 彼は名乗りながら更に考える。先ほどの『優華(ヨウファ)』というのはこの子の真名なんだということを……気を付けないと……勝手にそれを呼んだら『常識知らずにも程がある』ということになるだろう。

 一方彼女は一刀が名乗る間も、彼の瞳や表情を優しく見続けていた。

 

 司馬朗を名乗った彼女は、背丈が七尺五寸(百七十五センチ)程もあった。それは一刀とほぼ変わらない背丈である。

 一方、親子で並んで立っていると、彼女の母親譲りな共通点もよく分かる。

 まずその薄緑色な艶のある髪、ぐるぐるな瞳、眉間寄りは太く端は細い綺麗な眉、そして白肌と豊かな胸元である。さすがに、目の少し紫味のあるグレー系の色と大きめ瞳、そして鼻が少し低めな辺りなど違うところも当然あるが、全体が司馬家の品のある綺麗な顔立ちをしていた。

 頭には旋毛の左寄りの所に小さ目の頭冠を頂き、右髪に大き目な花のアクセサリーが付いていて、その艶やかに流れるような後ろ髪は太腿へも届く程長く、耳前の髪も長く胸横辺りで優雅に纏められている。胸元まで大きく露出された白地に黄色縁と赤の肩紐等の装飾ある服を着ており、首には豪華な金と大きな宝石のネックレスをしていた。

 

 彼女は、使用人の女性へ「そちらで少しお待ちなさい」と優しく指示をしつつ、右手で優雅に髪を直しながらそこへ佇んでいた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 一刀はビビビッと気が付いた。

 密かに、今も超スローの腹式呼吸式で『クンカクンカ』している。

 先ほど一刀が、完全復活で目覚めるきっかけとなった『アノ匂い』は――――『彼女からの女の子の香(かほ)り』だったのだ。

 という事は、彼女はこの部屋に一刀が目覚める前に来ていたということだが……。

 司馬朗と言う女の子はとても思いやりのある優しい令嬢であった。

 今も彼女は、街の皆の為に危険な暴漢を倒してくれ、気を失った一刀をとても気に掛けていた。先ほども用事の合間に一刀の様子をこの部屋へ態々見に来ていたのだ。そして無事に目覚めた一刀を見て喜び、始めは普通に言葉を送っていたが、ふと男の子と話をするという余り経験の無いこの現状に気が付き少し赤くなっていた。彼女は男の子に興味はあるのだが内心は色々と複雑で、その所為か一瞬話題に窮していた。

 そんな彼女は一刀へ、同様に複雑な……いや『匂い』への思考に没頭していた彼へゆっくりとした口調で尋ねる。

 

「あの……北郷様はどこの出身でしょうか?」

 

 母のお客人ということで、様付で呼ばれる一刀であった。

 

「―― っ……泰山……郡です」

「兗州泰山ですか。私は、この司隷河内郡から余り出たことがありません。外の旅のお話をいつかお聞かせください。それで……どちらの県ですか?」

 

 不意を付かれると共に一刀は困った。自分の事については余り多くの事を詳しく話さない方が良いように思ったのだ。『仙人の掟』である。なので偏差値五十ちょっとの頭を使って言い訳をする。

 

「あ、あの『はくたつ』……さん……実は俺、目覚めてから、以前の事を余り覚えていなくて……」

 

 それに母の司馬防が助け舟を出してくれた。

 

「伯達、彼は体力の落ちた中、あの荒事のあとで、まだ目覚めたばかりなのよ。今は食事をしていただいて体調を戻してあげないと」

「し、失礼いたしました、北郷様。わたくし自分のことばかり……」

 

 そう言って司馬朗は、とても悲しそうに申し訳なさそうな顔をしていた。一刀は思わず彼女を慰める。

 

「い、いや、全然気にしないで。俺は全く気にしてないから。折角のその優しく綺麗で可愛い笑顔が、俺が原因で見れないのは悲しいから……ね?」

「か、可愛い……? 私が?」

 

 司馬朗は呟いた。顔が、いや耳まで赤くなっていたかもしれない。

 一刀は、自然に思ったまま相槌を打つ。

 

「うん、『はくたつ』さんは可愛いよ。とても」

 

 司馬朗は一刀の言葉に、もはや―――『感激』していた。

 この当時、七尺五寸(百七十五センチ)もある女性は中々いなかったのだ。まだ、武人なら恰好も付くのだが、彼女は武について全く出来ないことはないが得意ではなく……文官志望であった。

 世は『可愛く小柄な文官』が一般的なようで、家をたまに訪れる中央の背の低い男性文官からも、司馬防が席を外している間に司馬朗へ、彼女の背の高さについて『仕官もそうですが、伴侶探しも大変では……おっと失礼』と心無い本心か冗談とも付かない言葉を残して、帰って行くことも幾度かあったのだ。

 彼女は、すでに官職に付ける年齢と優秀な実力を有していたが、『長身』という噂が流れているのかいないのか、中々声が掛らないでいた。

 さらにそのことで、心に少なからず『デカくて可愛気がない女』という傷があり、司馬朗は仕事以外では余り積極的には表舞台に出ない感じで過ごしている。

 だが、そんな彼女へ家族以外で「可愛い」と言ってくれる……それも優しそうな男性が現れたのである。しかも追加で『とても』と強調が付いているのだ。

 

 一刀は全く気付いていなかった。なにやら『歯車が回り出した』ことに―――。

 

 司馬防は、娘の変化に気が付きつつも見ぬふりをして二人へ声を掛ける。

 

「さぁ、北郷殿はゆっくり昼食をお召し上がりください。優華、私達は行きましょう。また後で参ります」

 

 司馬朗も我に返って、一刀へ言葉を伝える。完全に赤くなりながら。

 

「わ、わたくしも後程……必ず」

 

 昼食は、二人が退出すると傍に控えていた使用人の女性が、寝台用の卓台を用意してくれて、一刀は寝台に居ながら貴族のような豪華で美味い食事を頂いた。

 配膳も、片付けも一刀はノータッチの給仕を受ける。

 そして食事の後に、使用人の女性に厠の場所を教えてもらう事に。初めてなので、その場所まで邸内を案内してもらった。途中、庭が望めるのだが……とにかく建物も庭も驚くばかりに広い! その途中で聞いたのだが、この屋敷は隣接する外の敷地も合わせて優に一里(四百メートル)四方以上あるそうだ。もはや個人の城と言っていい規模であった。

 一刀は、昔の貴族の膨大な資産というか、貧富の差は尋常じゃない事がよく分かった。

 でも、それと幸せは必ずしも比例しないのもよく分かるのだ。一刀は、雲華と楽しく暮らした決して大きくない巨木の家を懐かしく思い浮かべていた。

 

 昼食が終わってしばらくすると、一刀は「一度お昼寝をして体をお休めになるよう」にと、再び部屋へやってきた使用人の女性から司馬防の言伝として伝えられた。

 確かに放浪で体にそれなりにガタがきているように思ったが、痩せてる以外は、例の『香り』の時の瞬間回復で問題はない状態ではあった。

 しかし、これは誰にも説明は出来ないので仕方なく休む事にした。ここはすごく寝易い寝台であった。そして掛け布団は純白でさらに豪華な虎の白の刺繍の入っている。羽毛布団かもしれない……軽いなぁ……と思っているうちに、スヤスヤと一刀は眠ってしまった。

 

 一刀が休んで、どれぐらい時間が経っただろう。

 この客間へ一人向かって来るのが、周辺の気を見ていた一刀には分かった。輪郭と背丈から司馬防のようであった。

 客間の横の廊下を回って扉付近に来ると「北郷殿?」と言って声が掛った。もう一度声が掛ったら返事をしようと一刀が思っていると、彼女は―――静かに扉を開けると部屋へ入って来た。

 一刀は「???」となった。

 八人も子供が居る彼女だが不思議と司馬防もまだ若いようで、司馬朗と少し違うがいい香りがするのであった。

 

「汗はかいていないようね」

 

 そう言いながら、母親のように一刀の前髪を撫でたり、布団を直したりしてくれていた。そのあとは寝台の横に静かに立って、一刀の顔をしばらく眺めている様子に思える。どうやら、心配して様子を見に来てくれたらしい。

 

 一刀は、嬉しかった。

 

 雲華を失って、先ほどまではこの世界で完全に孤独な身の上だったのだ。少し救われた気がした。嬉しすぎて少し涙が出そうになったが、それは起きてるのがバレるかもしれないので、必死に表情を変えないように我慢していた。

 すると、また一人この客間へ近付いてきた。感じる気の輪郭と背丈から司馬朗であった。扉付近に来ると「北郷様? 伯達ですが……」と声が掛った。すると、寝台横に立っていた司馬防が移動して、静かに中から扉を開けた。

 司馬朗は、中に司馬防が居たことに驚いたふうに小声で言う。

 

「え、母様? 申時(午後三時)って言ってましたのに……」

「優華、あなたも一刻(十五分)早くってよ。どうしたの?」

 

 どうやらお互いに約束の時間よりフライングしている様であった。一刀、大人気である。

 司馬防は流石に流すのが上手いのだが……司馬朗は顔を真っ赤にして、こういう気持ちに慣れていないのか慌てていた。

 

「わ、私は……その……」

 

 すると、司馬防は優しく我が娘に言ってあげる。

 

「彼の事が気になったのね。あなたの姿をしっかりと見ながら、とても可愛いって言ってくれたものね」

「……はい」

 

 母子である。その気持ちは丸分かりであった。司馬朗も素直に認めるのであった。彼女も一刀の様子を甲斐甲斐しく見に来ていたのだ。

 司馬防も娘を褒められた事に当然悪い気などするはずがなかった。なんと言っても司馬朗はこの司馬家の家名を背負って立つ自慢の『長子』なのだから。高い知力等も十分良かったが、母が一番気に入っていたのが彼女の慈愛である。こんな時勢であるから、命取りに成りかねない長所ではあったが、だからこそであった。

 一方、一刀は流石にこのまま黙って聞いているのは悪い気がしてきた。両手を伸ばし、寝起きの真似をして目を覚ます。

 

「……ぅん……んーーー」

 

 司馬朗が少し慌ててパタパタしていた。母子二人で扉の所から寝台の横までやってくると、司馬防が一刀へ声を掛けてきた。

 

「北郷殿、具合はどうですか?」

「あ、おはようございます……と言うのは少し変ですが、良く休めました。体調も気分もいいですよ。ありがとうございます」

 

 この後一刀は、司馬防と司馬朗としばらく話をした。二人掛けの椅子を寝台の横へ使用人らに用意させて二人が座ると、昼食後に厠へ行く際に少し見せてもらった屋敷内の話を聞いた。少し尋ねると、建物は部屋数が二百に迫り、一部が庭の展望用に三階まであるそうだ。

 火事の際には延焼防止用に区域ごとに土塀や、渡り廊下を壊す仕掛けまであるらしい。

 また話の中で、一刀は司馬防へこれほど大きな司馬家について、「他にも司馬を名乗る名家はあるのかな」と聞いてみた。

 

「母の司馬儁(しば しゅん)は予州潁川太守、祖母の司馬量(しば りょう)も揚州予章郡太守、曾祖母の司馬鈞は征西将軍でした。いずれも本家はここへ置き、任期の間だけ外へ出向いていましたの。なので、この近隣の州地域で名のある司馬家と言えばおそらく当家を指す事でしょう。あとは親族が別の少し離れた地域に居りますが……それぐらいでしょうか」

 

 一刀は、この時代やそれより前も長い時代、家柄が重要視されていると雲華から聞いていた。

 身分の低いものが司馬を下手に名乗っても『怖い目』に会うだけであろう。

 

 となると……居る。司馬懿はここに。

 

 さて、どんな人物なのだろうか。やはり、キレキレなんだろうか。

 他の姉妹たちもどういう子たちなのだろうか……夕食時に皆を紹介すると聞いている。今の時間は屋敷等の話を聞きながら、会えることを楽しみに夜を待つ一刀だった。

 

 

 

 日が落ちる前に使用人の女性により、客間の照明用のろうそくへ明かりが灯されると、司馬防と司馬朗は準備がありますのでと一刀の客間から退出していく。

 そして、ほどなく夕食の時間を迎える。時刻は酉時正刻(午後六時)ごろであった。

 一刀は、いつもの使用人の女性により体調を確認された後、綺麗な薄紫の服へ着替える事になった。手伝おうとする彼女へ、着替えは自分で出来るからと言う一刀だったが、それは使用人として叱られると言うのだ。迷惑を掛けるわけにもいかず、少し恥ずかしいがその言葉に従う。

 この使用人の女性は銀(イン)さんという名前だ。先代の時から二十年ほど仕えているという。彼女は使用人長の一人で配下が九人いるそうである。

 司馬家は使用人の待遇すら他家とは違うようで、繕いや汚れの無い制服を身に付けており、外出時でも一目置かれるそうである。給金も高く高級使用人という感じらしい。

 そして、どうやら銀さんと彼女の使用人隊内の数名で一刀は丸洗いされたようであった。その事実を聞いて着替えながら礼を述べた。

 手伝ってもらい着替えが終わると、再度「ありがとう」と伝えた一刀は、銀さんに案内されて屋敷の中でも一際大きな建物である母屋内の広間へ通された。

 身内用の『食堂広間』という事だが、広かった……天井は二階まで吹き抜けで床面積も二十五メートル四方はあるだろう。

 床には朱の敷物が引かれ、正面中央奥に二人分の席が、その両端に左四、右四の大きな座卓の宴席が設けられていた。コの字よりもハの字の様に角度の開いた机の配置になっている。一人分の席の机の面積が畳二枚分近くあり広い。

 そこにはいくつかの立派な花飾りと料理のお皿は一人前で十ほど並べられていた……豪華すぎる。それでもまだ前菜らしい……。

 司馬防が正面の座卓の左側へ立って「さあこちらの席へ」と一刀を右側の席へ迎えてくれた。

 一刀が席前へ立つと、司馬防は広間の入口に向かって、両手を打ちながら皆に声を掛ける。

 

「さあ、私の可愛い娘達、入って来なさい」

「「「「「「「はい」」」」」」」

 

 その多くがハモるように声が聞こえると、司馬朗を先頭に女の子たちが食堂の広間へ一列で各自の手に優雅な扇を持ってゆっくりと順に入って来た。母親の司馬防が、綺麗な人なので多分とは思っていたが……やはり全員が可愛く美人の女の子達が歩いて来る。そしてその髪は全員が薄緑色で、瞳がぐるぐると眉の形まで母の司馬防譲りである。

 一刀が立っている宴卓の前に広がる場所へ司馬朗を右端に順に並んでゆく。

 

(司馬朗の他に七人もいるけど、なんとかしてすぐ覚えなくちゃ……)

 

 先頭の司馬朗は――可愛いがその中で一番『背が高』かった。

 そしてその次の子は――すべてがとても『美人』だった。

 三番目の子は――その中で一番『ほわわん』としていた。

 四番目の子は――その中で一番『キツ』そうな顔をしていた。

 五番目の子は――その中で一番『ハキハキ』した感じの顔をしていた。

 六番目の子は――その中で一番『優雅だが無口』そうな顔をしていた。

 七番目の子は――その中で一番『小柄だが元気』そうな顔をしていた。

 八番目の子は―――

 

(って……あれ? 七人?)

 

 並んでいる女の子が七人しかいなかったのだ。

 それでも、可愛い女の子らが並ぶと壮観ではある。このまま、アイドルグループと言っても十分通用するだろう。

 一刀は『もう一人はどこ行ったんだ』と思いつつも考える。さて、どの子があの司馬懿なんだろうと。ここにいない一人なのか? それともこの中にいるのか。二番目のすごく美人の子は、いかにも軍師らしい姿をしているが、この子なのか? そんな思いが錯綜する。

 とりあえず……『七人しかいないようですけど?』と一刀が言おうとしてしたときに、一刀の横に立っていた司馬防は、少し前に居並ぶ娘達七人を見回しながら、彼女らの方へ豪華な刺繍で飾られた朱色の敷物の上をゆっくりと移動しながら尋ねていた。

 

「いったい、あの子はどうしたのです? ―――明華(ミンファ)は?」

 

 どうやらやはり一人、明華(ミンファ)という子が今のこの顔触れにいないらしい。

 

(名で呼ばれないと真名じゃ分からないなぁ。ミンファって一体誰だろう?)

 

 一刀がそんなことを考えていると、母親の言葉に姉妹たちが、一斉に姉の司馬朗へ視線を集めた。司馬朗は困ったように答える。

 

「それが……時間になっても姿が見えなくて。この時間にこの場所という事は知ってるはずなんですけど……」

 

 その時に、広間の入口から女の子の声が聞こえて来た。

 

「優華(ヨウファ)姉さんは悪くありません。遅れてすみません」

 

 そして、ツカツカと食堂の広間へ入って来るのであった。

 しかし皆、その入って来た女の子の姿に唖然となっていた。驚きのあまり司馬朗は口元を手で押さえている。

 

 

 

 広間の入口に現われたショートな癖っ毛の女の子は―――右肩に剣を、抜き身で担いでいたのだ。

 

 

 

 刃渡り三尺八寸(八十八センチ)ほどある実剣であった。丁寧に磨かれており、それは良く切れそうに見える。

 客人の歓待への対局的な姿に母の司馬防が厳しい声を上げる。

 

「司馬懿! どういうつもりです!?」

(えぇっ?! こ、この……女の子が司馬懿!?)

 

 その司馬懿と呼ばれた女の子は、身長七尺二寸(百六十八センチ)程。司馬朗に次ぐ背丈だ。

 髪色はもちろん薄緑で、瞳もぐるぐるである。眉もやはり母親似で眉間寄りは太く端は細くである。

 ショートな癖っ毛の左前髪上に金細工の髪止めを付けている。少し赤味のあるグレー系の瞳の目は『眠そうな感じ』であった。鼻はやや低めで僅かに小さめだ。

 武人向けの胸元の空いた動き易そうな白地に赤と黄色の装飾で、肩や二の腕は露出する形と裾は短めの服装であった。両腕には袖のような装飾が少し入っている手甲を装備している。足元は膝上まで薄緑の足布を履き、ブーツ風な靴を履いていた。

 司馬防の厳しい言葉は続く。

 

「剣など持って、返答次第では許しませんよ。昼間に今夜はお客人の宴席と伝えておいたはずです」

 

 一刀は司馬朗の右側に立つ文官そうな、すごい美人の子が司馬懿かな……と思いっていたので武官スタイルの結構なギャップに戸惑っていた。

 すると、司馬懿が小さめな口元を開いた。声は可愛い声である。

 

「べつに? ……母君、深い意味はありません。『たまたま』剣の稽古をしておりまして、遅れそうになりましたので慌てていたのです。そうですねぇ、折角ですからお詫びに、お客人へ我が剣舞でもお見せしましょうか?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 そう言うと彼女は剣先をスッと鋭い眼光と共に――― 一刀の方へ向けるのであった。

 どうやら、これは何か意図があるように見えた。

 

「司馬懿! なんという……。余りに無礼ですよ!」

 

 司馬防は、激昂前の厳しい表情で司馬懿の前へ向かおうとした。

 

 折角の宴会が、家族会議になっては興ざめの上に面倒なので、ここで一刀は司馬防を表情と手振りでまあまあと制止すると、司馬懿へ軽く苦笑いの表情を向け言うのであった。

 

「いやいや、それも楽しそうだ。見せてくれると嬉しいな。いいかな?」

 

 本気の鋭い目線を向けていた司馬懿だが、その一刀の言葉と飄々とした一連の対応で納得したらしい。目線は穏やかになり、その一刀の声にコクリと頷いていた。

 と、同時に彼女はぼそりと聞こえないほどの小声で呟く。

 

(ふぅん、この程度では、恐れたり驚くこともないか……いつもの下卑た勧誘に来る中央の役人達なら、脂汗を吹き出しながら大騒ぎして滑稽なんだろうけど、対応も融和的だし、皆の話通りというのか? ふむ、この武人は……中々)

 

 司馬懿は……姉妹中で一番『よく分からなくて、眠そう』な顔をしていた。

 

 そんな表情の中、司馬懿は一列に並んでいた姉妹らが左右に分かれて空けてくれた場所で、では一つ宴席の前にと『陳謝の剣舞』を一刀と皆へ見せてくれた。

 彼女の動きは非常に素早く滑らかで、その襟から肩、背中の部分に施された刺繍の装飾が映える自らの服装にも合わせたような美しい剣舞を舞う。剣舞と武技は等しくはないが、一刀の目から見ても彼女の持つ気の大きさや剣速からかなりの武人だと推測された。

 普通に考えると、家族と言われる者が家内の宴席に剣を伴って来る事は余り考えられない。つまり皆、ほぼ丸腰なのだ。その状態で、司馬懿は話で聞いた一刀の動きを実際に見たかったのである。

 司馬懿には身内以外の『無能でエセ英雄者』が、この司馬家の家の中にのうのうと住むなど許せなかったのだ。不意を付かれれば底が浅いものは尻尾を必ず出す。

 だが……一刀はあくまで自然体でいた。

 司馬懿が、広間へ入る前と後での表情や会話が同じであった。

 

(この男は本物か……。仕方ない、母君が決めたことだ。……もう、この件はいい)

 

 司馬懿は、見事な剣舞を舞い終わる。

 一刀は自分の席前で、司馬懿へ他の皆と共に拍手を送っていた。

 彼としては予想外である。司馬懿はもっと軍師チックな大人しい文学少女派だと、一刀は考えていた。だがもはや彼女はバリバリの武闘派っぽい雰囲気だ。もしかすると、この三国時代の軍師はこういう感じが多いのかなと……ひょっとして諸葛亮とかも?と少し考えた。

 司馬懿は剣を床へ置く。すると、使用人たちが剣を持って室外へと引き上げていった。

 

 ようやく揃った八人の姉妹は、再び一刀が立っている宴卓の前に広がる場所へ、司馬朗を右端にして順に一列並んでゆく。

 それが並び終わるのを確認すると、司馬防も司馬朗の右側に立ち、横の娘達へ右手で促すように言うのであった。

 

「さあ、私の可愛い娘達、お客人の北郷殿へご挨拶なさい」

「「「「「「「「はい」」」」」」」」

 

 右端の司馬朗から礼を取りながら再び順に名乗り始める。

 

「では改めまして北郷様。わたくしは司馬家長女、名は司馬朗、字は伯達。司馬家へようこそ」

「私は司馬家次女、名は司馬懿、字は仲達。先ほどは失礼しました、北郷様。司馬家へようこそ」

「わたくしは司馬家三女。名は司馬孚(しばふ)、字は叔達(しゅくたつ)と申します。ごきげんよう北郷様、司馬家へようこそ」

 

 司馬孚は身長が七尺一寸(百六十五センチ)と少しあるだろうか。司馬防よりも一寸強高い背丈だ。姉妹の中でもひときわ白く美しい肌が印象深い綺麗な女の子である。おそらく皇帝の後宮にも一人いるかという体の体形等も含めたバランスの取れた美人であろう。髪はストレートで後ろ髪は、肩甲骨の上辺りまでで切り揃えられての上側へ緩い弧型をしている。前髪は左右の端の部分が垂れた耳のような形で長く、耳前は胸上の辺りまで伸びて外側に切り上がるように揃えられていた。

 顔立ちは、目は漆黒の瞳で目尻は普通。眉はもちろん母親似で端が僅かに下がり気味でやさしく見える。鼻は綺麗に通り少し高め。口元は桃色で形といい非常に整っている。

 右側頭後部辺りに小さ目の頭冠を付けている。服装は白地に黄色と赤の装飾の入った、胸元が僅かに見える程度で脚部も露出が比較的少ない長い裾のものを着ている。

 襟の首下辺りに大き目の宝石の装飾が付いており、袖は袖口が広く豪華な装飾が入っている。足元は踵の少し高い靴を履いていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「わたくしは~司馬家四女です。名は司馬馗(しばき)、字は季達(きたつ)~です。北郷様、司馬家へようこそ~です」

 

 司馬馗は身長が六尺七寸(百五十六センチ)あるぐらいか。ふわふわのウェーブの薄緑の髪が腰ほどまで届く感じで、見るからにほわわんな雰囲気である。

 

「……私は司馬家五女。名は司馬恂(しばじゅん)、字は顕達(けんたつ)。北郷様、司馬家へようこそ」

 

 司馬恂は身長が六尺九寸(百六十センチ)ほど。髪は太腿まである見事なストレートロングで、少し釣り目のキツめな気の強そうに見える女の子だ。

 

「私は司馬家六女です。名は司馬進(しばしん)、字は恵達(けいたつ)。北郷様、司馬家へようこそおいで下さいました」

 

 司馬進は身長が六尺八寸(百五十九センチ)ほどだろうか。彼女は目に力の有る感じを受ける。髪は首下辺りまでで切り揃えられているスタイル。ハキハキした性格が表情に現れている感じだ。

 

「……ぅ七女……。司馬通(しばとう)、雅達(がたつ)ですぅ……。北郷様……ょぅこそ」

 

 司馬通は身長が六尺六寸(百五十四センチ)ないぐらいか。腰まである優美なカーブの髪でとても優雅な雰囲気の女の子だ。そして、いつも大人しく無口で恥ずかしそうにしている。

 

「私は司馬家八女です! 名は司馬敏(しばびん)、字は幼達(ようたつ)です! 北郷様、司馬家へようこそ! よろしくお願いします!」

 

 左端の司馬敏は身長が六尺四寸(百四十九センチ)ほどだろうか。髪は肩ほどまでのイチョウの葉のような扇状をしていて、少し日焼け気味のいかにも元気そうな女の子である。

 

 四女から八女までの下の五人は、宴席の為か首筋から胸元まで開いた、白地に紅の色リボンや装飾の施された同じ形の服を着ていた。

 また、司馬防と司馬朗もそれぞれ、いつもと異なる……胸元を強調しているような優美な服装に変わっていた。

 

(えっと、シバフ、シバキ、シバジュン、シバシン……シバ……トウ? ま、まずい……一度に覚えられない……かも)

 

 各自から自己紹介を受けた一刀であったが、司馬八令嬢について―――髪が全員薄緑色で瞳もぐるぐる、おまけに今は下の姉妹達五人が同じ服装のため、背の高い司馬朗と漸く誰か判明したバリバリ武闘派な司馬懿と、途轍もなく美人の……司馬孚?ぐらいの名しか現段階で認識できていなかった。他の下の姉妹達は……其々の雰囲気と髪型と背の高さに差があるのが今後の救いか。

 

 一方で司馬防を含め、司馬家の面々が一列で並ぶと、栄光の……掴む為のそれは『際立って』いた。

 漢(おとこ)として―――それを……それは比べてはいけないと思っている。一刀には、分かっている。しかし、しかし、本能が比べざるを得なかった。

 

 

 

 そう、みんな胸が大きい。司馬防と司馬朗は特におおきい! おっぱいがおっきいんです!

 

 

 

 そして、一刀は思う。

 君(おまえ)がナンバーワンだ! ……司馬朗が長女の貫録と言うべきか一番大きかった。

 すでに次点の司馬防ですら、雲華の倍はありそうであった。

 その、次に一番左の年少の子(司馬敏)も、ついで司馬孚もそう負けてはいない。特に司馬孚は形、大きさが美しいの一言である。

 一番慎ましいのが司馬懿なのだが、それでも雲華程の大きさは有りそうに見えた……。

 

 姉妹八令嬢の挨拶が終わると、司馬防は「さあ皆、席に着きなさい」と着座を促した。

 予定よりも一刻(約十五分)以上遅れていたからだ。司馬防は厳しい人なのである。一刀から向かって左側に司馬朗、司馬孚、司馬恂、司馬通。右側に司馬懿、司馬馗、司馬進、司馬敏が座った。

 まもなく、給仕らから皆の杯へ飲み物が注がれる。そして司馬防の宴に際してへの言葉が始まる。

 

「北郷殿、あなたはすでに勇気を見せ、類まれな力を見せ、我らの街と人を守って当家にいるのです。わたくし、司馬防 建公の客人として、この地で気の向くままゆっくりとお過ごしください。さあ本日はお迎えした初日ということで、ささやかですが家内の身内にて宴を用意しました。料理や飲みものを存分にお楽しみください」

「過分なもてなしに感謝します」

 

 一刀も司馬防をはじめ、集まってくれた八人姉妹の令嬢達に目線と共に礼の言葉を伝えた。

 この時、司馬朗が加えてという感じで口を開く。

 

「あの、それから……母様、改めて都よりお帰りなさいませ」

「「「「「「「お帰りなさいませ」」」」」」」

 

 司馬朗の後に、七人の妹達が母の司馬防へ帰宅の喜びを表した。司馬朗が話を続ける。

 

「大変な時期のお仕事、お疲れ様でした」

「ありがとう、みんな。でも、いいのよ。今日は北郷殿の歓迎の宴なのだから」

 

 一刀は、状況が一瞬よく分からなかったが、司馬防が都から帰ってきたところみたいな事を知った。

 司馬防が右に座る一刀へ顔を向けて説明してくれた。

 

「丁度、私が洛陽より帰郷の為、街の門の傍へ差しかかった時に北郷殿と会ったのですよ。……きっと『ご縁』があったのでしょう」

 

 言葉の終わりの方で、彼女は少し頬が赤くなっていた。

 

「そ、そうですね」

 

 一刀も思わず照れてしまった。

 そして改めて司馬防の言葉で宴が始まる。

 

「では、本日の北郷殿の活躍と、私達の出会いに乾杯!」

「「「「「「「「「乾杯!」」」」」」」」」

 

 全員で乾杯する。雲華のところで飲んだ仙人の果実酒も美味かったが、ここのお酒も果実酒のようで結構飲み易かった。口当たりがよく、つまみ始めた料理にもよく合った。

 初めに出されていた少し冷めてしまった料理も再度温め直されて運ばれて来ていた。ここの台所には下から熱した大きく平らな石板を利用した皿ごと再加熱して適温まで温め直す設備があるそうだ。

 宴が始まり、一刻(十五分)ほどたったころ、「では私から」と司馬防は一刀の杯に酒を注いでくれる―――そして、なんと当主自ら一芸を披露してくれた。

 それも、文官だと言うことだったが『剣舞』を舞ってくれたのである。司馬防へ剣として使用人が持って来たのは、司馬懿の使ったような実剣ではなく、白い木剣のような軽く細く、装飾に鈴や長めのリボンの付いたものだ。

 そして、舞が始まる。とても雄大で優美な舞なのだが……一刀は集中出来なかった……いやある意味集中はし過ぎていた。

 そう――

 

 胸の弾みに!動きに! おっぱい、たゆんたゆん♪

 

 八人生んだとは思えない締まった体と胸であった。……ごちそうさまでした。

 終わると、娘達も一刀も「すごい!上手い!」と拍手喝采が上がっていた。そのとき右側列の一刀の前にいた司馬懿はボソリと呟くのであった。

 

「母君の『剣舞』なんて……随分久しぶりだな。普段、中央の位がどんなに高い使者や文官らが来ても男の人の前では絶対なさらないのに……」

 

 さらに、『剣舞』の間にチラリと一刀の表情と目線を見ていた司馬朗も、聞こえないほどの声で呟いていた。

 

「……母様、ズルい……」

 

 司馬防は横の席へ戻って来ると一刀へ静かに「私の姿を見て頂けました?」と尋ねて来たので、一刀は「は、はい、とても良かったです」と些かイカガワシイ気持ちで見ていた事もあり、恥ずかし気味に答えると彼女は「そう、よかった……」となにか熱い感じで言葉にする。

 そして間もなく、一刀の杯へ次に酒を注いでくる者がいた。目の前の右手すぐに座っていた司馬懿である。順番で言えば、司馬朗じゃないのかと思ったが、そうでは無いようだ。

 「まあ、聞いてくれ」と司馬懿は相変わらず眠そうな表情で酒を注ぎながら一刀へ言ってきた。彼女は使用人数人を呼ぶと何か指示していた。使用人達は一時広間から出ると、何か楽器のような物を持って帰って来た。そして、宴席の前の広場に、椅子を中心に共に並べる。

 それは、後で聞くと蹋鼓(ふみつづみ)という足踏みの太鼓と、もう一つは木枠に幾つも鐘がぶら下がったものだ。鐘は青銅で鋳造され、底面がカーヴを描き、断面は楕円形をしている。木槌を両手に持ち、それらを触れる位置に置かれた椅子に座ると、司馬懿は演奏を始めた。

 現代にはない懐かしい感じの音色と曲であった。素晴らしい演奏に、一刀は箸を休めて聞き入りながら考えていた。

 

(剣舞に、演奏力、そしてずば抜けた知力と頭脳を併せ持つであろう司馬懿。さすが、三国志でも総合力で三本の指に入る人物というべきか……なんでも超人じゃないのか? こりゃ曹操ぐらい君主が優秀じゃないと使えないよなぁ)

 

 演奏が終わると、再び拍手が皆から起こる。一刀も司馬懿が席に戻って来るまで手を叩いていた。

 

 使用人らが楽器類を片付けていると、一刀の正面に絶世の美女が静かに立っていた。

 その次に「どうぞ」と控えめに可愛らしく杯に注いでくれたのは、確か司馬孚(しばふ)と名乗っていた三女である。酒瓶を持つ透き通るような白く瑞々しい肌の手、指の形に長さ、さらに爪の形、そして仕草までもがすべて美しい女の子だ。

 注いでもらうと、一刀は「ありがとう」と優しい笑顔で司馬孚へ礼を言うと、彼女は少し照れるように「それではご覧ください」と言って宴席の前の広場へ移動する。

 一刀は、三国時代における司馬孚という名前に心当たりがない。まあ、司馬懿に家族がこんなに多いとは知らす知識不足なためなのだが。

 一刀はこっそり横の司馬防へ、司馬孚を初め姉妹の名と字について再度聞き直していた。とりあえず皆、字には『達』が付く事だけは覚えている。

 

「うちでは司馬朗が伯達、懿が仲達、孚(ふ)が叔(しゅく)達、馗が季達、恂(じゅん)が顕(けん)達、進が恵達、通が雅達、敏が幼達の順ですわ。街の者らは司馬の八達と呼んでいるようです」

「う……(もはや九九のように覚えるしかないなぁ。朗が伯、懿が仲、孚が叔、馗が季、恂が顕、進が恵、通が雅、敏が幼……四女の『キがキ』と末っ子が幼達というのが分かりやすいぐらいか。しかし、司馬孚とは真の歴史上では美男子だったとかかな?)」

 

 そんなことを考えていると、司馬孚は使用人に弦楽器をいくつか演奏するように指示していた。……ここの使用人は演奏も出来る者がいるようである。そして準備が整うと曲の演奏が始まる。

 

 すると司馬孚は―――演舞を踊ってくれていた。

 

 一刀は理解した。酒の入った状態の目の前で、絶世の美女が踊ると『天国が見える』のを。そりゃ、項羽や呂布が裏切ったりするわけである。一刀も雲華の『重きこと』がなければ『夢中に狂って』いたかも知れない。

 すると、彼女の演舞を見ながら司馬懿は首を僅かに傾げ気味に呟く。

 

「おいおい、みんなどうしたのかなぁ……」

 

 左斜め前に座る司馬朗も、誰にも聞こえない程の声で呟いていた。

 

「……蘭華(ランファ)は、身内以外の前では、今まで一度も舞を見せたことが無いのに……」

 

 司馬孚は最後に膝を折り、頭を垂れて擱座するように天舞の舞を終わる。

 再び全員から大きな拍手が起こっていた。

 そして僅かに瞳の奥に真剣な眼差しを残しながら、司馬孚は微笑むように一刀へ感想を聞いてた。なにか、魔法でも掛けるかのように、そして試すかのように。

 

「いかがでしたか? 北郷様」

「うん、すごく良かった! ……俺は演舞を初めて見るけど、君の演舞には何か凄い力を感じるよ。―――でも、誰にでもは見せない方がいいね、きっと。叔達さんの大切な人達の前だけにするといいよ。今日の素晴らしい舞は一生忘れないと思う、ありがとう」

 

 その言葉を聞いた司馬孚は、微笑みを辛うじて崩さなかったが、ひどく衝撃を受けていた。

 「……はい、そうですね」と意識の外で一刀へ答えて自分の席へゆっくりと戻りながら考えていた。

 

(居た!! 今まで、私を見た男の人は皆、私の外見で冷静では居られなくなる者ばかりなのに。そして『舞』は――確実に『狂わせる』はずだった。……辛かった、男の人は皆、私の外見ばかりを見るだけで冷静に『私』を見てくれる人はいなかった。北郷様は、母様が認めたほどの人だから、もしかしたら他の人と違うかもと思って『舞』に掛けて見たけれど―――)

 

 そして、司馬孚は席に付くと、静かに独り会心の笑顔をし続けていた。

 

 次に一刀へ「さあ、北郷様~どうぞ」とほわわんと可愛らしい雰囲気を溢れさせて正面に立ち、杯にお酒を注いでくれたのは、四女の司馬馗(しばき)であった。

 八姉妹では小柄な方に入る彼女だが、雲華とほぼ同じ背丈であった。だが、栄光の部位は遥かに勝っていると一刀が思ったのはないしょである。

 注ぎ終わり一刀が飲むと「では~聞いて~下さい」と言って、広場の方へゆっくりと移動する。

 使用人達にほわわんと指示すると、大き目の弦楽器が運ばれてきた。灑(さい)と呼ばれる長さ八尺一寸(百八十九センチ)程の分厚い板に、弦が水平に二十七本張られている。義爪で弦を弾くように演奏するものだ。琴の盛り上がっている部分が平面になったようなものを想像すると早い。

 演奏が始まると、ほわわんさは無くなり、軽快な弦を弾く演奏が続く。

 集中したときには『ほわわん』状態ではないらしい。

 素早く弾く難しそうな曲を難なく弾き終え、皆から拍手を受けると……再びほわわんとなる彼女であった

 

 次は五女の司馬恂(しばじゅん)が「どうぞ」と杯へ注いでくれた。だが、彼女に笑顔は無い。怒っているわけではないのだろうけれど、何か気に入らない事が一刀へあるかの様にも見える。母である当主の指示であるから『やるだけ』という感じだ。

 だが、仕事にそつは無いタイプに見えた。使用人に指示した簫(ショウ)と呼ばれる竹笛を複数吹奏する管楽器を受け取ると美しい旋律を吹きはじめた。外形としてはハープのような凹型で波のような曲線に並んでいる形だ。

 鳴らす音色は、皆が箸を休めて聞き入る程のものであった。

 吹き終わり、皆から拍手をもらい、一刀からも「良かったよ、ありがとう」と言葉を貰うと、少し恥ずかしそうに「どうも」と言って、使用人へ楽器を渡すと席へ戻って行った。

 

 一芸が丁度、宴参加者の半分の五人終わったところで、左横に座っていた司馬防から、期待するように一刀へ声が掛けられた。

 

「北郷殿は、何か見せてもらえませんか?」

「え゛……?」

 

 料理を口に入れようとしていた一刀は、慌てて箸から落としそうになった。気が付くと司馬朗を始め、八令嬢ら皆の視線が彼に集まっていた。これは、何かしないわけにはいかない雰囲気である。

 だが、一刀は一発芸を持っていなかった。手品みたいなのが出来ればいいんだがと考えると……閃いた。

 一刀は「分かりました」と言うと、まだ見せていないのに拍手が起こった……これは恥ずかしい……一刀は早く済ませようと席から移動を急ぎつつ思った。

 彼は傍にいた使用人に幾つか、ここに有るかどうかの確認と指示をする。用意してもらうのは、座卓とコップのような陶器を五つ、陶器に入る小さなボールのような球体。そして、弦楽器の演奏者。

 

 演奏を始めてもらう。これは、球体の転がる音を消すためだ。

 座卓に乗せた五つの陶器の一つに小さな球体を入れる。そして卓上で陶器を移動させ―――どこに球体があるのか当ててもらう、というものだ。

 その手順を簡単に皆へ説明する。難しい事は何もないので、九人の司馬家メンバーは頷いた。どうやら皆、動体視力には自信があるらしい。

 一刀は、『ヨシヨシ』と内心で吹き出していた。

 

 一刀は陶器を何回か移動させると、まず司馬敏に場所を聞いてみる。まあ、当然正解する。しばらくそのまま何回か人を変えて当ててもらう。今の所、皆正解である。

 そして、一刀は速度を一気に上げてゆく。そう――『速気』である。

 

 もはや、手品でもなんでもないのである。力技で『見える』か『見えない』かである。

 

 次は、ほわわんの司馬馗に「き……きたつさん答えは?」と字を思い出しながら正解を聞いてみた……すると、ククク、間違えた。

 彼女は悔し紛れに言う。

 

「おかしい~です、さっきまで当たってた~のに」

 

 だが、司馬馗以外はまだ見えているみたいだ。一刀はそれじゃあと――『超速気』まで上げた。

 まず『超速気』中に非常にゆっくりと動かす。それでも皆に答えを聞くと、この段階で見失うものが続出した。だが、まだ見えているものが三人いた。

 一人は司馬懿、次に司馬敏、そして――司馬防であった。

 さすがに、最初の一刀の動きを見ていただけはある目を持っているようだ。一刀は更に速度を上げてゆく。

 『超速気』で『普通』に動かすのだ。これは相当早い。だが、一人だけまだついて来た。

 それは、司馬敏だった。完全ではないが二回に一回ぐらいは当たっている。

 一刀はそこでおしまいにした。皆が楽しめれば良いのだ。極限までやる必要はないお遊びの場であったし。

 

「こんな感じでしたけど?」

 

 司馬家の九人には、結構楽しんで貰えたようである。おまけに、皆が「北郷様、早ーい!」と羨望の眼差しを向けてくれていた。機嫌の悪そうであった司馬恂も含めて、皆が笑顔で一刀が席へ着くまで拍手してくれた。とりあえず、無事にノルマが果たせてホッとした一刀である。

 

 そのあと、六女の司馬進(しばしん)、七女の司馬通(しばとう)が続けて一刀へ杯を注いでくれた。

 司馬進はハキハキと「どうぞ」と杯に注いでくれたが、司馬通は声も小さく更に「…ぅぞ」と「ど」の発音が聞こえなかった。

 そのあとの司馬懿の呟きで、「司馬通は身内以外のものには、殆ど杯に注いだことがない」ということを聞いた。

 しかし、彼女は頑張って、一刀へ優雅に杯へ注いでくれた。顔も恥ずかしいのか真っ赤になっていた。一刀はその気持ちが嬉しかった。

 司馬進は無口な司馬通を助ける形で、共同で一芸を行ってくれていた。妹思いが心地よい感じで伝わってくる。

 司馬進は竽(う)という楽器を演奏する。それは、簧(した)という薄片を入れた竹管を多数束ねた物で、長さ四尺二寸(九十七センチ)で、管の数は二十三本の管楽器である。司馬通は、箜篌(くうこう)という、レ字型のハープ風な弦楽器を使い二人で合奏を披露してくれた。

 姉妹というのも関係あるのだろうか、息がよく合っていて美しい合奏だった。

 演奏が終わると、皆が惜しみなく拍手を送る。

 司馬通は、嬉しいのか恥ずかしいのか無口なので、よく分からない状況でテンパっていた。

 

 ふと気が付くと、一刀の席の前に元気な女の子が、酒瓶を持って仁王立ちしていた。

 次は、八女の司馬敏(しばびん)が元気よく「北郷様! さあ、どうぞぉ!」と杯へ酒を注いでくれた。

 「北郷様! 見て! 見てて!」と言いながら広場へ飛び出して行った。

 そして、彼女が見せてくれたのは剣舞であった。

 それも、すごいアクロバティックな空中技が連続するものであった。一刀が見たところ、司馬敏の武の才は八姉妹では一番のように思える。

 力強さもあるが、明らかに動作が一段速いのである。目も素晴らしい動体視力を持っていることもあり将来有望だなぁと感じていた。

 激しい剣舞の後だが、彼女の息は乱れていなかった。

 一刀はその事にも皆と一緒に拍手を送っていた。

 

 さて、最後に「どうぞ」と優しく一刀の杯へ酒を注いでくれたのは長女の司馬朗であった。

 注ぎ終わると、少し恥ずかしそうに「心を籠めて鳴らしますので聞いてください」と一刀へ言うと、一度自分の席へ戻って座卓の下より立派な縦長の五尺(一メートル)ほどの箱を出すと、中から二胡に近い二本の弦を間に挟んだ弓で弾く弦楽器を取り出した。

 そして、広場の真ん中に置かれた椅子へ静かに座ると曲を奏で始めた。

 その音色は心に染み込んでくるような音色であった。

 一刀は不思議とその旋律から、雲華のことが思い出されて、気が付くと頬を涙が流れていた。

 司馬家の全員も司馬朗の奏でる音色に聞き入っていた。

 彼女の優しい慈愛に満ちた気持ちが、音に乗り移っているかのように思える。家族の皆が長姉の奏でる旋律が好きだった。

 それは、敬愛する姉が奏でるものだからという部分も強かった。

 司馬家の身内への結束は非常に固いものがあった。そして、身内へは寛容でもあった。

 司馬朗は、優秀でとても良い姉であった。七人の妹の面倒を良く見て、そして公平に慈愛を持って大切にしたのである。

 妹たちは皆考えていた――――。

 こんな良い姉に誰も仕官の声を掛けないなんて。どの陣営もそれを見抜けないなら大したことは無い、そんな所は仕官するに値しないんだと。

 ――逆に、この姉の仕官を決めたところは、見る目がありそうで仕官するに値するだろうと。

 特に司馬懿は、誰かどこぞの他人へ仕える気など全くない考えを持っていたのだ。

 姉を陰で、ずっと支えていれればいいかなぁと気楽に考えていたのであった……。

 

 

 

 つまり、司馬朗が動くことは、司馬八令嬢が動くことになるのである。

 

 

 

 司馬朗の奏でる曲が静かに終わる。

 目尻の涙を拭うと一刀は、ぽつりと「もう一回聞いてもいいかな?」と彼女へ声を掛ける。司馬朗は小さく頷いた。

 一刀が司馬防の方も見ると彼女も頷いていた。

 そうしてじっくりと、もう一回引いてもらい、それを聞き終わると全員から司馬朗は大拍手を受けていた。一刀も立ち上がって拍手をしていた。

 このように楽しく豪華な宴席は一時(二時間)を優に越えて続けられた。

 

 そろそろ宴も終わりを迎える頃、一刀は司馬防より宴の最後に一言挨拶をと振られてしまった。彼はそういった改まった席でのスピーチなどには慣れていなかったが、今の気持ちを素直に述べることにした。

 それは、余所からきた自分への、今夜の豪華で暖かな宴席の開催と朝からの厚遇についての謝意と、そしてそんな自分には気軽に接してほしいと伝えた。そして―― 一刀はここであえて滞在期限を先に宣言する。

 

「今、これまでの無理な放浪のため体力がありません。なのでそれが回復するまで、暫しの間こちらでお世話になります。俺はその後、再び旅へ出たいと思います。おそらく、ひと月程と思いますが、それまでよろしくお願いします」

 

 一刀の期限切り宣言に、司馬防と司馬朗を始め、皆驚いた表情をしていた。こんな良い家にこんな厚遇なら、普通は延々と居座るものであるようなのだ。

 そう、一刀は思う。ここは居心地が良さそうで、すばらしい家風と一家だ。それだけに―――

 

 

 

 『雲華の時のような強大な不幸をまた呼ぶかもしれない』自分とは長く関わってはいけないと……。

 

 

 

 宴席は無事に終わり、皆がお休みの挨拶と共に徐々に食堂の広間から各自の部屋へ戻ってゆく。

 一刀は、まだ屋敷内に不慣れなため使用人長の銀さんに先導されて客間へ戻って行く。

 そんな中、まだ広間で使用人へ少し片付けの指示をしていた長女の司馬朗は、後ろから母の司馬防よりそっと声を掛けられる。

 

「優華(ヨウファ)……話があります。二刻(約三十分)後に私の部屋へ来なさい」

 

 

 

 

 司馬朗は先ほど宴会の別れ際に母から掛けれらた言葉に従い、一度自分の部屋へ戻った後、夜分ながら指定通り二刻後に母の部屋を訪れていた。

 扉の前で、彼女は小声で中へ声を掛ける。

 

「母様、優華です」

「お入りなさい」

 

 「はい」と答えた司馬朗は、先ほど一刀の宣言に寂しいものがあるのか、いつもより少し弱々しく返事を告げると静かに扉を開けて、ろうそくの明かりの付いた司馬防の部屋へ入っていった。

 司馬防は、壁際にある豪華な装飾の机に四つ置かれた椅子の一つに座って、入って来た司馬朗を神妙な表情で見つめてきた。

 その表情を見て司馬朗は尋ねる。

 

「母様、どうしたのです?」

 

 すると、司馬防は沈黙したまま、机の天板下の引き出しから紐で封のされた一つの木箱を取り出した。そして、紐を解くとその箱から一編の竹簡を取り出す。

 それを司馬朗に手渡すとその内容を静かに告げた。

 

「曹操殿より、あなたへ仕官のお話が来ています」

 

 

 

 

 

 

 

 諸葛亮は、大きめな焚火の傍で鳳統らと夕食を終えた後、漸くゆったりとした時間を過ごそうかとしていた時に重要なことを仮面の将へ確認する。

 

「あの、あなたは『天の御遣い』さんの今の居場所はご存じないのでしょうか?」

「……それは私も知らないわ。でも生きている事は分かる。安心しなさい、そう簡単に死ぬ人ではないから」

 

 仮面の将は穏やかに微笑みながらそう答えた。

 

「……そうですか」

 

 諸葛亮は、残念そうに返事をしながらもこれからの事を考えていた。『天の御遣い』が男の人と聞いて、今日の事もあり少し不安なところもあるのだが、自分たちが目指す世の平穏の為に早く会いたいと思っているのだ。

 なら、と続けて質問する。

 

「あなたは、これからどうするんですか? 北郷さんには会わないんですか? 会う予定なら、お邪魔かもしれませんが私達もご一緒させていただけませんか?」

 

 鳳統も横で仮面の将へ向かってコクコクと頷く。

 当然だが、仮面の将が一番彼に詳しいのだ。一緒に行動する事こそ、現状で『天の御遣い』に遭遇する可能性がもっとも高い。

 だが、仮面の将はそっけなく答えていた。

 

「残念だけれど、私……私達には他にすることがあってね。一緒にあなた達を連れて行くことはできないの」

「それでも、邪魔にならないようにしますから――」

 

 食い下がる諸葛亮らに、『●王』さまはニタリと冷たい微笑みを浮かべながら答える。

 

「どうしてもと言うなら――邪魔になるからここで死んでもらうことになるわよ? ……地元へ一度戻りなさい。大丈夫、『力を持った』彼は凡人ではいられない。必ず出て来るから」

 

 諸葛亮と鳳統は固まるしかなかった。彼女から凄い威圧感を受けたからだ。もはやこう答えるしかなかった。

 

「……分かりました」

「はい、二人ともお茶でも飲みなさい」

 

 そう仮面の将に優しく勧められ、三人でお茶を飲むのであった。

 そんな時鳳統が、控えめに仮面の将へ尋ねる。

 

「あわわ、あの……もう一人の方は……食事とかいいんですか?」

「ああ、ジンメ? いいのよ、ちょっと用を言いつけているから」

「……そうですか」

 

 それからは焚火を囲み、しばらくのんびり過ごすと早めに就寝となった。

 翌朝、仮面の将らは言葉通り、始皇帝の大きな巡遊街道まで馬で諸葛亮と鳳統を見送った。

 別々の馬に乗り、送られながら、諸葛亮と鳳統はそれぞれアレっと思った……やたらに外皮か筋肉の固い馬だな……と。

 

「昨晩は厳しい事も言ったけど、そのうち私も彼の元へ行くかもしれないし、そうなればまた会う事もあるでしょう。その時まで二人とも元気で」

「「ありがとうございました」」

 

 諸葛亮と鳳統は、改めて仮面の将らに向かって礼を述べた。そして、諸葛亮はさらに言葉を続ける。

 

「助けて頂かねば、命は無かったかもしれません。このご恩はいつか。共に行けないのは残念ですが、いずれ来ると思う再会の時を楽しみにしています」

「……うん、私もね」

 

 仮面の将は、馬上から笑顔で答えた。

 そして、互いに手を振り続けながら別れた。諸葛亮らの姿が見えなくなるまで見送ると仮面の将らの姿はいつの間にかその場から忽然と消えていた――――。

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

司馬八令嬢小話(優華編)『真の救世主は?』

 

 司馬家の八人姉妹の長女は、名を司馬朗、字を伯達、真名を優華(ヨウファ)という。

 彼女は、母の司馬防が都から帰郷して来ると言うその日の朝、屋敷を少し抜けて『天青館(てんせいかん)』という街中の育児所に顔を出していた。

 ここは温県の街で、災害や疫病等で親を失った孤児たちの為に司馬家が建てて運営していた。長女の司馬朗自身が中心に立って面倒を見ている。今、ここには40人弱の子供達が住み込みでいた。

 もちろん司馬朗は、普段の多くの時間について街の仕事や屋敷の事があるため、いない時間は使用人長の一人にも手伝いに入ってもらい、人を雇い子供達の躾等もしてもらっている。

 基本『天青館』の子供達は、自分の事は自分ですることになっている。

 それでも、運用費のほぼ全てを司馬朗が個人的に工面していた。

 

「あぁ! 伯達様だぁ」

「「「「「「わぁーーーい♪」」」」」」

 

 優しい笑顔の司馬朗が姿を現すと、背の高い彼女の周りはたちまち子供たちに囲まれてしまう。彼女は良く一緒に来る四女の『ほわわん』な司馬馗より人気があった。

 いつもの光景であった。子供達は純粋なので、その人物が持っていて伝わる雰囲気を率直に感じ取っていた。司馬朗の真名の『優華(ヨウファ)』を表すように、その溢れ出ている優しさとやはり母親を連想させ、『長姉』な頼り甲斐のある事が分かるのだ。

 彼女はニコニコと子供たちに声を掛ける。

 

「皆、元気にしていましたか?」

「は~い、伯達様~」

「私、いい子にしてましたよー?」

「そう、じゃあ、今日は甘いお菓子を持って来てますから」

「「「やったー♪」」」

「でも、ちゃんとお勉強の時間を過ごしたあとですよ」

「「「「「「ええぇーー」」」」」」

 

 ここでは、成長し大きくなって良い仕事付けるようにと、畑の手入れの仕方から読み書きと簡単な計算まで教えていた。

 講師として次女の『眠そう』な司馬懿や、四女の『ほわわん』な司馬馗、五女の司馬恂は『眼鏡』を掛けて、六女の『ハキハキ』な司馬進らが時々長姉に頼まれて来ていた。

 そして、末っ子八女の『元気一杯』な司馬敏は来ると子供たちと一緒になって庭で遊びまわっているし、七女の『優雅で無口』な司馬通の場合は……逆に子供たちの中に仲良く静かに紛れていたので講師はしていない。

 稀に講師として三女の『絶世の美女』な司馬孚もお忍びて来ている。子供にはあの彼女の『呪われた影響』がないからだ。一応厚めのベールは被ってはいるが。

 

 時刻は、朝の食事も済んで一息ついていた辰時正刻(午前八時)過ぎ頃。

 司馬朗はそれから二刻(三十分)程、読み書きの勉強を見ていた。個々に学習の進捗差があるが、それは……八令嬢らは大体覚えていたので問題が無かった。

 

 そして――そんな平和な日常に、外でなにやら騒ぐ声が流れて来る。

 

 それは初め遠く聞き取れなかった、しかし。

 

「逃がすなー! うわぁぁぁーー」

「オラァァーー死ねやぁぁl」

「ぐがぁぁーーー」

「き、切られたのか、おい! くそぉーーー。ぎゃぁぁーーーー!」

 

 近付いて来る周囲の叫びに、『天青館』の授業が中断したところに、『決定的な理由』の声が聞こえたのだった。

 

「剣を持った強盗がそっちへ行ったぞーーー! みんな外へ出るなぁーー!」

 

 

 その声と状況に司馬朗は―――部屋の高い位置の梁に掛けられた剣を手に取っていた。

 

 彼女は優しいだけではない。現実の厳しさも知っている人間だ。

 司馬家の長姉として、剣の嗜みはそれなりにある。得意ではないが、闘うべき時は知っているつもりであった。

 

(子供達らを守らないと―――)

 

 お手伝いの人と、年長の子供達主導で子供達全員を出入口から離れた所に移動させ、自分は鞘と柄を手で握りいつでも剣が抜ける必死の体制で構えていた。

 

 そしてしばらくの後、周囲の街並みの中から騒がしい殺伐とした叫び声と雰囲気は―――遠退いて行った。

 

 静寂になったが、それでも半刻(七、八分)程は皆、声を潜めて固まっていた。

 周りの住人らが「もう大丈夫だ」と外の様子を外から報告してくれて危機が去ったことを確認すると漸く司馬朗は柄から手を離し、子供達らへ振り向き優しい笑顔で「もう大丈夫よ」と知らせた。

 

 子供達は、司馬朗の周りに集まりしがみついて来て、泣き出していた。

 

 近所の惨状への対処や、子供達を落ち着かせてから司馬朗は『天青館』を後にする。彼女が司馬家本屋敷へ帰ると母の司馬防が既に牛車で都から帰って来ていた。

 だが、家の中が何か慌ただしい感じだった。

 彼女は、使用人長の一人を広い廊下で呼び止め確認する、すると。

 

「奥様が『街の英雄』さまを―――朝に街中で暴れて、そのまま街外へ逃げようとした『剣を持った強盗』を単身素手で倒されたその方をお客人として連れて来られたのですが、その……身形が酷くて……現在、銀さんの組が総力を上げて対応中でございます」

 

 帰る前に対処した時の、道に広がっていた惨状が思い出される。司馬朗らの『天青館』もお湯や白い清潔な布を提供し彼女らも手伝ったのだが、まだ数人が血だらけの酷い怪我で呻いていた。事切れた者も数人いたのだ。

 倒れていた者の中にも身長も大きく剣の強い者もいたようなのだが、街中で相手をした者は全員倒されたというのに、それを一人で、おまけに素手で倒した人物というのか。

 

「あら優華、元気そうね。よかった」

 

 そこで司馬朗は、後ろから声を掛けられ振り向く。母の司馬防であった。

 

「母様、お帰りなさいませ。都での長きお勤めお疲れさまでした。……ところで、聞いたのですが『街の英雄』さまを連れて来たと」

「ふふふっ。まだ若い方だけれど、真の武人な方よ。八尺を超える(百八十五センチ程)賊からの力のある頭頂への一撃を、その剣の刃部分を素手で掴み取っての、相手へ返したその賊の巨体が空へ滞空するほどの強烈な一打。まず、凡人や並みの将には不可能ね」

 

(大男の繰り出す剣の刃の部分を素手で掴む?!)

 

 武人としても一流と言える妹の司馬懿なら華麗に剣で受けて切り倒すと思うが、『刃の部分を素手で掴む』ことは流石に無理だろう。

 司馬朗でも該当する人物は思いつかなかった。

 まず、それなりに名のある将軍や達人でも、手の平が切り落とされるところしか想像できない図だからだ。

 

(会ってみたい。あの時、子供達や街の人達を恐怖と悲しみに落とし入れた酷い状況を、たった一人で受け止め粉砕したその方に……)

 

 司馬防は娘の変化に気が付く。年頃なのに、男の子に余り興味が無さそうな娘が少し心配になっていたのだ。

 

「疲れからか気を失ってらっしゃるわ。痩せておられるし、身形からも放浪していて行き場の無さそうな御仁のようだし、彼には我が本屋敷に『食客』として居て貰おうかと思っているのだけれど。今、彼の髪や服装を整えているから、あの良い客間の準備をしておいて」

「(本屋敷に……)は、はい、母様」

 

 使用人長の銀らがお客人の身形の準備を終え、担架のような平行な棒二本を布でつないだ形のものにその『街の英雄』となった方は乗せられ、この本屋敷で最高の客間のうちの一室に運ばれた。司馬朗も傍に付いていく。

 母の司馬防が言ったように確かに寝台に横たわる彼の容姿は若い。自分と同じか少し若いぐらいの男の子だ。

 彼の持っていたという剣も運ばれてきたが、使用人二人掛かりで剣台へ乗せ飾られていた。

 

(この方はすごい力持ちなのね。こんな重い剣を普通は武器として振れないもの)

 

 司馬朗は彼が休む寝台の傍で、その表情を優しく見ながら彼の襟元あたりや足元の布団などを整えたりしていた。

 彼女の女の子な良い香りが寝台周りへ充満してゆく。

 彼が、この屋敷でゆっくり疲れと取ってくれるといい。司馬朗は感謝していた。

 

(皆の為に、ありがとうございました)

 

 彼女は残り香を残し部屋を後にする。

 この後も二刻(三十分)ごとに数回彼女は彼の様子を伺いにここへ脚を運んだ。

 『街の英雄』さまに取って重要な、彼女の程好い残り香の濃度はドンドン上がって行った。

 

 そして彼は―――正気に戻ったのである!

 

 

 

小話(優華編)END

 

 

 




2014年06月18日 投稿
2014年06月18日 文章削除&加筆修正
2014年06月27日 一部修正
2014年07月01日 一部修正
2014年10月31日 文章見直し
2015年03月22日 文章修正(八令嬢の真名変更、時間表現含む)&小話(優華編)追加
2015年03月28日 文章修正
2015年03月30日 小話ルビ化



 解説)全員あの世逝きの跡
 残虐非道のようですが、あくまで仮面の将らは「槍先を鞘袋に納めていた」状況で多数の剣を抜いた暴徒集団に襲われたのです。……一応『正当防衛』なのです(笑

 解説)『魔●』『●王』さま
 もはや、なんのことやら……(1話~14話を見ていれば、おわかりのはず 笑)

 解説)■■■……字は……■■■?
 完全な伏字で、すみません。(汗
 もちろん決まっています。
 いずれ本文内に登場するので、今はお待ちください!!
 ノーコメントで。

 解説)司馬防もまだ若い
 限界を超えるような若いときから早産を交え最短で八人…。
 ギリで二十代可能では?!
 (そして矛盾があろうとも、登場人物は十●歳以上です 笑)




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➊➑話

 

 

 

 袁紹は、冀州魏郡の本拠地である鄴まで半日程のところで、顔良と精鋭三万五千と共に夜営をしていた。司隷校尉の官職を受け、また黄巾党との戦いも一応想定して洛陽まで来ていたが、一段落したため結局無傷での一時冀州への帰郷となっていた。

 

 「顔良さ~ん、お茶を一杯頂けるかしら?」

 「は~い、麗羽さま」

 

 顔良は、袁紹の今のご機嫌と雰囲気に合わせて好みのお茶葉や湯加減の指示を部下に命じていた。

 本来お付の者がするような内容だが、袁紹には気に入った専属のお付の者が存在しないのであった。顔良や田豊がこれまでも何十人も探して来たのだが皆、半日持たずに首となっていた……。

 そして袁紹自身が、もはや下々の者では自分のお付の者は務まらないとして、自然に好みを察してくれる顔良や田豊、文醜しか傍に置かなくなったのだ。そのためか袁紹は、意見や提案・献策においても彼女ら以外からはほぼ受け付けなくなっていた。

 すなわち仕事も、気に入った事だけを適当にやり、面倒や困ったことは顔良や田豊へすべて丸投げしていた。だが――それが逆に良かったのであった。

 袁紹はこの時点で、もっとも部下に恵まれていた主君と言えるかもしれない。顔良、文醜、田豊は袁紹に対して腹黒さが余りなく、懸命に尽くしてくれたのであった。他ではきっととうに愛想を尽かされているはずである。そして私腹もたんまりと肥やされていただろう。

 また、袁紹は気に入った者には太っ腹な君主でもあった。興味が無くなれば、宝刀でも顔良、文醜へ気前よく与えたり、俸給も田豊らへは目が飛び出るほどのモノを提示していた。だが、顔良、文醜、田豊は必要以上は受け取らなかった。受け取った振りをして袁家にこっそり返却していたのである。(まあ文醜は、顔良らに説得されてだが……)

 宝刀の返却がバレた時にも、『保管場所がなかったので~』と言い訳するのであった。

 そんなお人よしの優秀な上層部達のおかげで、経済や軍事に関しての細かい所も含めて予想以上の大成果で返してもらい、袁紹自身はそれほど内政等を気に掛けずに、いつの間にか冀州全土の領有運営と司隷校尉から来る実入りも合わせて、膨大な財力と軍事力を有する諸侯になっていた。

 

 

 

 今は、直径が五丈(十二メートル)程もある豪奢で巨大な天幕の中、品の良い刺繍の施された高級な敷物が床に敷き詰められ、贅沢な装飾の施された長椅子にゆったりと腰を下ろし寝そべっていた袁紹は、お茶を飲みながら洛陽での光景や、やり取りを思い出していた。

 

 それは、幅三丈半(八メートル)天井が二丈半(六メートル)はあろうかと言う宮城内の長い大廊下にて、十常侍の一部と激しく口論をしていた何進大将軍閣下の姿であった。

 袁紹は黄巾党の乱が一段落したこともあり、何進へ「おーっほっほっほ、わたくし休暇を頂きますわ」と申し入れるために洛陽城内の宮城を訪れた時であった。

 彼女はその口論の内容を良く覚えていないが、抽象的には『パンがなければ菓子を食べればイイではないか?』という貴族思考な十常侍らに、現実を知っている何進が食って掛っていたところのようであった。

 まあ実の所、財政難にも関わらず、宮城内の全員がより一層贅沢をしようとしており、何進も更に贅沢をしたくて自らの取り分を多くしようとしたが、当然全く足りない。

 そのため、十常侍らが取り過ぎだと言いに来たのだが、彼らからは「では今の重税から更に税を掛ければいいじゃないか?」と言われていたのだ。だが、徴収は何進側の担当であったので、そんな面倒はゴメンだと言い合いになっていたのだ……。

 袁紹も思考は十常侍側に近いため「何をお怒りなのかわかりませんわ」という感じではあった。

 言い合っていた一同だが、袁紹の姿を見ると言い合いをやめるのであった。中央での位は十常侍や何進の方が断然高いのだが、袁紹の個人で有する資金と兵力は大陸でもすでに有数になりつつあった。十常侍らは所詮宦官、何進も私兵はあるが二千もいなかった。すでにこの時代、真の実力者は中央ではなく、袁紹ら諸侯になっていた。さらに彼女のすぐ傍には猛将でもある顔良もいたからである。

 十常侍らは「ではまた」と言い早々に宮殿の奥へ退散していくのであった。イラついていた何進へ袁紹は声を掛けた。

 

「大将軍閣下、どうかなさいましたの?」

「おお、袁紹殿。イヤ……最近、あ奴らがわらわの妹に取り入って、些か増長しておると思ってのぉ……もしかすると、そのうちに袁紹殿の力を借りるやもしれぬ」

「それはお任せくださいな。わたくしは閣下の御味方ですわ」

「うむ、頼りにしておるぞ」

 

 だが、そのタイミングで悠々と「それはそうと」と休暇を言い出した袁紹なのであった……。何進は少し渋い顔をしたが、袁紹直々の願いでは聞かざるを得ないのであった。

 そして……その袁紹帰郷の話を少し離れた位置で、人知れず静かに聞いていた人物がいたのだった―――。

 

 そういった記憶の光景を思い浮かべ終わった、長椅子で寛ぐ袁紹はポツリと呟くのであった。

 

「そうねぇ……閣下に五千程兵をお貸しすればよかったかしら」

 

 その言葉を聞いても、顔良は袁紹へ何も言う事はしなかった。兵を貸していれば、何かあればどちらに転んでも一大事なことになる。最悪、勝手に『袁紹の兵が――』とも言われ兼ねない。何もないに越したことはないのであった。

 そんな時、天幕の外の部下から顔良へ声が掛った。

 

「顔良様、夜分失礼いたします。鄴から使者として審配様が参られ、至急袁紹様へ報告とお見せしたいものがあると参っておりますが。一応、少し離れた天幕に待っていただいております」

「審配……さん?」

 

 顔良は、一瞬違和感を覚えた。帰郷の行程は先に田豊らへ手紙にて知らせていたからだ。そして、予定通りに明日の昼過ぎには鄴に着く事になっている。わざわざ今、知らせに来る事とは何だろうかと。それに……使者が審配自身と言うのが気になった。通常は伝令の兵で済むところなはずだ。

 彼女は袁紹軍に武将として名を連ねる一人である。本来なら重要な内容だと思われ、袁紹にすぐに取り次ぐべきであった。

 だが、顔良は同時に嫌な感覚も持ったのだ。

 審配は、袁家の今後の戦略について何度か献策してきた人物だった。まあ、田豊にそれらを何度か『添削』されて返されていたと記憶しているのだが。そう、田豊は悪い点を否定するだけではなく、こう直して再献策すれば良いのではと付けて審配へ戻していたのである。そしてある日の会議の場において、直接皆の面前で『添削』されて以来、審配からの献策が一切無くなったのであった。

 ちなみに袁紹はその時『駄目ですわねェ……審配さんは。でも、前向きな姿勢は悪く無くってよ』と袁紹にしては激励の言葉を送っていたのだ。

 

(その人物が今、この場に……それとも単なる偶然なのかしら?)

 

 顔良は、袁紹への直接な取り次ぎを一瞬迷った。

 そして、間も良くなかった……袁紹は『暇で退屈』な時だったのだ。袁紹から声が掛る。

 

「顔良さ~ん、どうかしましたの?」

「……あのー、麗羽さま。鄴から審配さんが報告と見せたいものがあると来ているそうです」

「なんでしょう……まあよろしくてよ、審配さんをお通しなさい」

 

 袁紹からの指示であるため、顔良から天幕外の部下へ「審配殿を呼んでくるよう」にと指示をする。

 まもなく、審配が恭しく天幕の入口からゆっくりと入って来た。

 袁紹は長椅子へ横になり、寛ぎながら悠々と待ち構えている。

 審配は、袁紹の少し右前に立つ顔良の手前まで進むと、袁紹より頭を低くするため膝立ち状態になり、袖を合わせて『鞠躬』(ジュイゴン)……両手のこぶしを目の前に組み、お辞儀の姿勢を取ると口上を述べた。

 

「長らくの都でのお働き、誠に袁家の誇りにございます! 無事なご帰還をお喜び申し上げます」

 

 袁紹は、それを聞くと無言で首を縦に一度頷いた。そして催促する。

 

「審配さん。報告と見せたいものとは何かしら?」

「はっ、まずはこちらをご覧いただいたあと、ご報告させていただきます」

 

 そう言うと審配は、顔良へ袁紹様に見てもらうモノの入った一尺(二十三センチ)四方ほどの紐で閉じられた箱を手渡す。顔良は当初の順番と違う審配へ『報告が先ではないの?』という目線を送るが、審配は知らぬふりか目を下方へ伏せていた。少し訝しげに見るが、まあ箱自体は普通の軽いものであった。

 軽く揺すってみるとカタカタと軽いモノような音がするだけだ。危険な――刃物等ではないように思える。

 顔良は、紐を解いて箱を袁紹の元へ届ける。

 袁紹は少し体を起こしてその箱を受け取ると、蓋を……ゆっくりと開けた。

 

 ――――覚醒が始まる。

 

 それを見た袁紹は、何かに魅入られた表情に変わり、底の浅い箱に入っているその『モノ』を右手でゆっくりと取り上げ目の前へ差し上げると喜びの声をあげた。

 

「……これは―――美しく、素晴らしいものですわね! 無性に着けたくなりますわ!」

 

 

 

 それは、『蝶の羽模様の彩色された美麗な仮面』だった。

 

 

 

 袁紹はそう言うと、目元へその仮面を装着する。

 審配はすかさず、報告と言って『袁家指針書』と書かれた竹簡の巻物を袁紹へ向かって差し出した。顔良はそれの題名を見て顔色を変える。

 

「審配殿! これは一体何です―――」

「斗詩さん、お下がりなさい」

 

 すると、袁紹が顔良を諌め止める。しかし、顔良は食い下がった。

 

「麗羽さま、これは田ちゃん(田豊)がまず見るべき―――」

「斗詩さ~ん、わたくしはお下がりなさいと言いましたわよ」

 

 顔良の言葉を、再び袁紹の静かでゆっくりとした……だが語尾は唸るような低い声で遮った。

 顔良は、蝶模様の仮面姿にではなく、袁紹の元の雰囲気が変わった事に気が付いた。……何か『冷たい』感じに見えたのだ。

 だが、主の命である。顔良は審配からやむなく一歩下がった。

 袁紹は、長椅子からゆっくりと優雅に立ち上がると、審配へ近付き彼女から直接その『袁家指針書』を受け取ると中身を見るのであった。

 そして間もなく笑い出しながら―――宣言する。

 

「おーっほっほっほ。素晴らしいですわ、審配……いいえ、流葉(ルーイエ)さ~ん。共に袁家千年の帝国を築きますわよ!」

 

 

 

 華北の夜にて、まさにとんでもないことが始まってしまっていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 司馬家当主司馬防の部屋―――。

 時刻は亥時(午後九時)を二刻強(三十分)ほど過ぎたところか。

 ろうそくの薄明かりが部屋の中を、心を表すのだろうか僅かに揺れるように照らしていた。

 曹操からの竹簡に、そこへ浮かび上がる母の司馬防と長女の司馬朗の二人の表情は、美しくも真剣なものになっていた。

 先程までの一刀歓迎の宴会にて、二人はなるべく彼の傍でお酒を楽しくそれなりの量を飲んでいた。しかし実は共に一刀へ己の綺麗な姿を印象付けたくて……気に入ってもらいたくて、粗暴な所作に気を遣いつつ飲む量を抑えていたのだ。

 今はさらに少し時間を置いた事で、ほとんど酔いが覚めている状態になっている。

 司馬朗は、司馬防より聞かされた事を自然に口に出して反復していた。

 

「曹操様から……仕官の話……ですか?」

「そうです。優華(ヨウファ)にとっては初めての仕官のお声掛けになりますね」

「はい」

「曹操殿からは今まで、いろいろな方面でそういったお声掛けを聴いた事がありません。あの方の陣営に入るには、相当優秀でなければいけないと言うのをよく聞きます。あなたは、そう言う立派な所の目に留まったということですよ。自信をお持ちなさい」

 

 司馬防はそう言うと、自慢の娘である司馬朗へ優しく微笑んでいた。

 

「ありがとうございます、母(はは)様。あの、曹操様とはどの様なお方でしょうか?」

「あなたも噂ぐらいは聞いていると思いますが、以前わたくしは仕事柄、あの方に直接会って洛陽の北部都尉をお願いしたことがありました。要点のみをお伝えするだけで、それ以上のすべてを理解される方でしたね。そして卒なく熟される人です。聡明で且つ底が見えない人物ですね。今でも十分出世されていますが、これからもさらに飛翔される方でしょう。ただ普段は汚職等にも厳しい方ですが、目的によっては清濁飲まれる方だと思います。……それでも今の諸侯の中では『当家の繁栄』を考えれば一、二を争う良いところだと思います。でも、優華……決めるのはあなたです。よくよく考えてお決めなさい。私はそれで構いません」

「……母様」

「仕官の話はここまでです。――コホン」

 

 司馬防はそこまで言った後、ワザとらしく咳払いをすると、少し顔をニヤリとさせて司馬朗へ聞くのであった。

 

「今日のあなたの演奏は、これまでに聞いたことがないほど、彼への想いが入っていたわね……。それに、北郷殿が曲名を知らずにか『もう一回』と言ってくれて嬉しかったでしょう?」

 

 司馬朗は顔を一瞬で真っ赤にして照れテレになっていた。母の問いに対して一言返すのがやっとであった。

 

「はい……」

 

 一刀の前で演奏した曲は――『愛があればもう一度』と言う曲名であった。

 

 しかし、司馬朗も司馬防へ『女の想い』を問い返すのであった。

 

「でも、母様。その……北郷様へ見せた、あの非常に情熱的な母様の剣舞は『愛する人達(家族含む)』にしか見せない特別なものと、私がまだ幼い頃に亡き父様へ言っていたのを聞いた気がするのですが……母様も、そう(彼を愛してる)なのですか?」

 

 今度は、司馬防が真っ赤になる番だった。娘が、あの剣舞の真の意味を知っているとは思っていなかったのだ。

 司馬朗が、初めて見る母の『恥じらう女の顔』であった。

 だが、司馬防は……顔を赤らめながらも司馬朗の目を見ながら堂々と言うのであった。

 

「……そうね。あの剣舞でこの私の体の……熱い気持ちが、北郷殿に伝わって欲しいと想いながら舞ったわ。私は元気な男の子を生んでみたいのよ。女盛りの時期は短いわ。そして、選ぶのは彼だから……」

「母様……」

 

 司馬朗はその言葉を、母として聞くと複雑だったが、一人の女のしてのその潔い情熱的な想いには共感出来た。

 

「優華も決めたのなら、しっかりと北郷殿に想いを伝えなさい」

 

 司馬防は、愛娘の頬を優しく撫でながらそう言葉を伝えていた。

 母へはにかむ司馬朗だが、母から目線を外すと、ふと慈愛の目になって呟いた。

 

「でも、蘭華(ランファ:司馬孚)も……私と同じ想い……いやそれ以上かもしれない」

 

 司馬孚は幼いころから、姉妹の中でも飛び抜けての美人であった。そのため、言い寄る、這い寄る、忍び寄る、の感じで常に男たちの『変に鋭く熱い視線』に晒されてきた。年頃になると今度は山のような縁談話であった。司馬家ほど名家でなければ、どこかの貴人の妾にでもされていたことだろう。

 だが司馬家にしても、やってくる縁談話ですら、相手方を精査してみると年齢・容姿詐称の『ヒヒジジイ』や何もできない『お坊ちゃん』な感じの怪しいモノが多いのであった。

 もちろんいくつか好人物な相手もいるのだが、司馬孚に直接会うだけで彼女の『見た目』に必ず『狂って』しまうのであった。幸いその症状自体は、数日合わなければ元に戻るものではある。しかし、二人きりの時には常に嘗め回すような目線をくれ、肉欲へ狂っている状態になっているのだ。

 司馬孚は、そのような人物らには幼少からの『嫌な罪(積み)重ね』から興味を持ちようが無かった。

 だが……だが、である。ついに現れたのだ。司馬孚の『見た目』にもあの強力な媚薬のような『演舞』にすら狂わない人物が――― まあ、一刀なんだが。

 

 その事には、宴会の中で見ていた母の司馬防も当然気が付いていた。

 そして、その後も司馬防は見ていた。

 司馬孚の本気度は、『演舞』が終わって席へ戻る際に見せた『一刀へ向けられた想い』を込めて一心に彼を見つめる表情と情熱的な視線で十分伺えた。

 司馬防は、自分と司馬朗と司馬孚の娘らそれぞれの気持ちの籠った行動を顧みた。

 そして思わず頬を染めながら、イカガワシくも想い考え付いた、その言葉が微笑んだ彼女の口からハレンチに毀(こぼ)れてしまうのだった。

 

「これは……母も娘二人も――――北郷殿へ嫁入りかしらね……」

 

 ―――この時代、正妻は一人だが複数の妾がいるのも普通であった。当然正妻を決めるのは家主である。

 また、この外史では女性の地位も向上しているため、逆の正夫なるものもあるそうな。

 

 

 

 だが……親子(母娘)丼ぶりはいいのだろうか――――――――。

 

 

 

 

 

 

 

 次女である司馬懿のこの部屋は二階にあった。彼女は装飾もそれほど華美でなく広くもないが、日当たりがよく庭を見渡せる部屋をいくつか愛用していた。

 すでに夜も少し更けた子時(午後十一時)前頃、すでに寝る前であった為、寝間着に着替えていたが、両開きの扉を叩く音と共に聞きなれた唯一の姉の声が聞こえてきた。

 

「明華(ミンファ:司馬懿)、ちょっといいですか?」

「どうぞ、姉さん」

 

 幼いころより、優しくよく面倒を見てくれる姉だった。そんな姉は司馬懿や姉妹、使用人等の家族だけでなく街の皆にも優しい女性であった。天災や火事等で被害を受けた者たちがいると聞くと現場に言って励まし、後に自分の装飾具や仕事で得た俸給を届けさせていた。

 司馬懿には、家の外の者にまで、そんな気持ちはまるで湧いてこない。

 だが、そんな姉の慈愛が好ましく自慢であり、ずっと助けていければと思っている。

 司馬朗も司馬懿を頼りにしていた。自分を優に上回る知識と智謀もだが、幼いころから特に『先を見抜く力』がズバ抜けていたからだ。

 部屋へ入ってくると、司馬懿から窓の傍の席へどうぞと案内された。ほどなく姉の口から相談の内容を聞かされる。

 

「実は先ほど母様より、私へ初めて……仕官のお話をいただいていると伺いました」

「それは、おめでとうございます、姉さん!」

 

 司馬懿は純粋に喜ぶのであった。司馬懿から見ても司馬朗の才能は低くない。大きな陣営の軍師は厳しいかもしれないが、贔屓なしで軍師補佐は十分に熟せる人物だ。通常の文官の仕事程度なら難なく片づけることだろう。

 そんな姉に声を掛けてこなかった諸侯は、やはりどこも駄目だなと思っていた。仕えるに値しないと。

 そんな考えとは知る由もない司馬朗は、自分の考えと気持ちを妹へ話し出す。

 

「私はその陣営について人伝に聞く程度の知識です。その当主の方は、まだ若いが知も勇も兼ね備え、汚職や賄賂にも厳しく、従う臣たちもみな優秀で、治める地域は皆豊かだと聞いています。そしてその人物の伸び代は、まさにこれからの人物だと私も感じています。そして母様も『司馬家の繁栄』を考えるとそこが良いのではと言われました」

 

「明華、あなたはその陣営をどう思いますか?」

「先に聞いておきますが、それは――曹孟徳の陣営ですね?」

「……やはり、すぐ分かりますか」

 

 司馬朗も、司馬懿ならすぐにわかると思っていた。

 

「べつに……。ただ『若い』『知』で想像が出来て、『領地豊か』で確定ですね。諸侯の身でありながら、あらゆる分野で非常に優秀な人物だと思います。しかし同時に、能力・効率優先主義のため非情な采配も少なくない事でしょう。一方で、有能な臣下を大事にする人物ですし、出世を選ぶならお勧めできます。ですが……姉さんには少し居るのが辛くなる陣営かもしれません」

 

 司馬懿は、敬愛する司馬朗の人となりや性格までを慎重に考慮して心配しながら答えていた。

 そんな姉思いな彼女を見て司馬朗は、司馬懿へ質問する。

 

「明華、あなた自身ならどの諸侯がよいと思いますか?」

 

 司馬懿は即答する。

 

「ありませんね……べつに。孫堅・孫策は少し面白そうですが、伸び代は曹孟徳にかなり劣るでしょう。それと、あくまで個人的にですが……袁本初と曹孟徳はキライです。特に忠誠を強要し過ぎる感じの独裁系は好きではないので。ただ……姉さんの選んだ陣営には協力いたします。姉さんの為に、そして司馬家のために」

 

 他人の為に仕える気など全くない司馬懿は、優しい司馬朗へ『鞠躬』(ジュイゴン)の姿勢を取り姉への恭順を示した。

 

「ありがとう、明華」

 

 そう言って、司馬朗は司馬懿の癖っ毛の頭を優しく撫でてあげた。

 司馬懿は、眠そうでぶっきらぼうな顔をしていることが多く、余り笑顔を見せることはない。だが、姉からのナデナデには口元が少し緩むのであった。

 司馬懿は加えて礼とばかりに話をする。

 

「今のところ消去法で行けば、曹孟徳の陣営が最後に残ります。べつに、私自身は選びませんけど」

「分かりました。後は私自身が決めます」

 

 司馬懿は、ここで姉へ一つ確認する。

 

「べつに……私が気にしている訳ではないですが、あの方……北郷様はどうするのです、姉さん?」

 

 すると、司馬朗は少し恥ずかしそうに司馬懿へ聞いた。

 

「……その……明華にも……やはり分かってしまいますか?」

 

 彼女は自分の仄(ほの)かな所で想いを見せていると思っていたのだ。

 信頼している姉妹とは言え、初めてなこの熱い気持ちを知られるのは実に恥ずかしく思える。

 司馬懿は、姉の照れテレな表情とその想いがよく分からないのか、余り良い顔をしなかった。

 

「あれだけ懸命に想いを込められて奏でられれば、家族はみんな気付きます。あと蘭華も……そして母君までもが、そのように見受けられますね。母君もまだお若いですから……べつに……しょうがないのかも知れませんけれど、そんなに彼はイイですか?」

 

 司馬朗は、照れながら可愛く小さく一つ頷くのであった。

 ここで、「はぁ」と溜息を付きつつ司馬懿は、一刀について――――『先見』の読みをする。

 

「――――?!(なんだこれは……そんな)」

 

 彼女の頭の中での『先見』の読みが、何か大きな力のような『白き光の輝き』によって見通せないのであった。こんな事は彼女自身初めての感覚だ。だが大きく示されるものは――『吉』であった。

 

(決して『彼を選ぶ』という事が悪くないというのか? ……分からない)

 

 驚いた表情から、訝しげなものに変わった司馬懿へ司馬朗は不安になり声を掛ける。

 

「どうかしたのですか?」

「いえ、べつに……あの方については少し様子をみたいと思います。……ですが、先に私の意見を言っておきます。

 我が家は、栄えある司馬家です。出自のはっきりしない者と安易に『縁』を結ぶのは如何なものかと考えます。確かに、あの方の優れた『力』は少し見せてもらいましたが、母君らも含めて良く良く考えて頂ければと思います。

 あと、曹孟徳は合理的な人物です。要件をしたためている間に、返事が最速で何日後に来るかほぼ正確に予測しています。言うまでもありませんが、返事は早いほど好印象になるでしょう。さて……それで姉さんはどうしたいのです?」

「明華……あなたは、余り北郷様のことを良く思っていないのですね」

 

 司馬朗の少し寂しそうな顔が、司馬懿には辛いものがあった。だが、姉や家族が良い方向へ進むように検討・思考するのが、姉妹内での自分の役目だと思っている司馬懿は否定しなかった。

 

「……客観的に見ての判断はそうなります」

「北郷様は、体調が戻られれば旅に出る、それはひと月後……。曹操様へ承諾と合流場所を知らせてほしい旨の手紙と送って、受け取った後、不足していたもの準備に手間取ったとして……ひと月ほど稼げないかしら。そうすれば……北郷様に送ってもらえるかもしれないわね……♪」

 

 司馬朗は、己の手を組み合わせ上を向きながら、『手を取り合って北郷様と二人、ララララ~ンと道を進む』お目出度い妄想に一瞬捕らわれていた。

 そこで、司馬懿はトンデモナイ事を冗談のつもりで言ってみる。

 

「姉さん、もう曹孟徳のところで固めてしまうのですか? それでいいんですか? 孫堅・孫策や袁紹、董卓、袁術、公孫賛、馬騰など、それに……そんなにお慕いしているのなら、いっその事『北郷様に仕える』とか……色々と良く考えられては?」

 

 それを聞いて、司馬朗は動きがピタリと止まる。そして、ゆっくりと妹の方を向いて静かに微笑んだ。

 

「そうね、良く考えてみるわ。明華……ありがとう」

 

 そう言った司馬朗は、間もなく司馬懿の部屋を後にする。

 何かが『ガチリ』と嵌(はま)ってしまったかのようだと、司馬懿は感じていた。

 

 

 

 

 

 

 一方、洛陽の端に位置する董卓の広大な屋敷の一室でも、尋常ならざる秘密談義が行われていた。董卓の屋敷は洛陽城内にも存在するが、一部武器の運び込みや周辺の出入りの監視など、こちらの方がもっぱら好位置かつ好都合であった。

 

「それは、確実なのですね? 宮城内にて黄巾党の乱が一段落した事で一過的に休暇が増えて警備がこの少し先の数日にかなり薄くなるというのは」

 

 董卓軍筆頭軍師である賈駆が、ろうそくの明かりが僅かに途切れた重厚な長机の端の陰に隠れるように座っているその人物―――荀攸に確認した。荀攸の右後ろには盧植元将軍も控えていた。

 荀攸――荀彧の姪に当たるがそれより年上の人物。彼女も耳帽を纏っており、荀彧に少し顔立ちが似ている少女であった。ただ、男嫌いな毒舌家ではなく、物静かな可愛い微笑みを称えた淑女である。

 彼女は静かにゆっくりと頷きながら答える。

 

「何進と十常侍らには、元々専従の護衛は付いていません。宮城の守りがかなりしっかりと機能しているからです。外への守りは何進が……予想外ですが綿密に差配していると分析しています。内側は宮中奥は十常侍らが、それ以外を何進が受け持っています。その数日は常時と比べ七割ほどまで落ちると思います」

 

 宮城は広いが門や守る場所は限られていた。平時の守備兵総数は約三千程と調査済だ。

 ……今、ここには董卓、賈駆、陳宮、張遼、荀攸、盧植が集って、宮中内の腐敗勢力を一層する計画が検討されていたのである。呂布は……すでにお休みな感じで、陳宮に任しこの場にはいない。また、盧植より皇甫嵩将軍も加わると報告されていた。

 始まりは董卓がある日、先の黄巾党戦敗戦の情状酌量時の返礼にと荀攸を食事に誘い、その折、宮中内の腐敗について互いに漏らすように話をしたことからであった。

 荀攸はさらに、何進や十常侍らが贅沢を尽くす為に、増税を検討し始めていることを掴んでいた。これ以上のさばらせていては、後漢や民は持たないと考えたのだ。彼女は国が滅べば大乱になると考えていたのだ。それはすべてを犠牲にしてでも防がなければならないと決意していた。

 そのためさらに、その元凶となった……後宮に籠もり、外へ無関心な現皇帝の代替わりをも含まれていたのであった。

 すでに荀攸が、現皇帝の妹君である献帝へ当計画を伏せて、次代皇帝の腐敗分子等に対する気持ちを確認済であった。献帝は十常侍らもそうだが特に、元は肉売りの何進から皇帝の妹だがらと、自分を軽く見られていたことが我慢ならなかった様子だという。皇帝の娘ならまだしもと言われ……許しがたしと。

 現在、計画でもっとも厄介と思われていた、何進の息の掛った袁紹とその軍団が丸ごと冀州へ戻っている。

 代わりに曹操率いる八千の兵が洛陽には駐屯していたが、中央との関係は袁紹ほど密接ではない。ただ、現皇帝の霊帝に対しては能臣かのように思われる。霊帝への対処を誤れば十分敵に回ると考えられた。

 荀攸が確認する。

 

「そちらの準備はいかがでしょうか?」

 

 董卓は静かに荀攸へ頷くと陳宮を見た。陳宮が状況を元気よく全身を使って説明し始める。

 

「現在、我ら董卓軍側が想定している本作戦の投入総兵力は五万であります! すでに近隣には一万五千を配置済。そして更に、袁紹軍の補填と称して中央より移動の許可を受け、本拠地の長安より三万五千を華雄殿が率いて現在移動中でありますぞ~」

 

 その答えを聞いて荀攸も納得の表情をして頷くのであった。

 どんどんと夜が更けてゆく中、彼らは計画の最後の詰めを慎重に進めていくのだった……その計画の日はそう遠くないのである。

 

 

 

 

 

 

 一刀は、司馬家一同による暖かで豪華な歓待の広間から、使用人長の一人の銀さんに先導されて、あの目覚めた豪華な客間へ戻って来ていた。

 いつの間にか寝台のシーツ調の敷物などが新しいものに取り換えられており、寝間着も同様に白地に紺の襟元と袖口の新しいものが用意され、着替えもまた手伝ってもらう。

 少し飲み過ぎたと感じ、寝台脇の水差しから水を一杯飲むと、一刀は寝台へ潜り込んだ。

 銀さんは布団を少し掛け直してくれ、「それでは、ゆっくりとお休みなさいませ」と言って静かに退出して行った。

 部屋には長いろうそくが二本灯されたままであった。常夜灯替わりなのだろう。この時代では贅沢なことであった。

 そして、夜が更け時刻が子時正刻(午前零時)を過ぎ、日付を跨いだ頃―――。

 酔いが醒めるぐらいまで起きていて、うとうとと眠りに落ちていた一刀だったが、廊下の通路を一人の気が静々と一刀の客室へ向かって来るのを捉えていた。

 

 その輪郭から……司馬防だという事が分かった。

 

 こんな時間に何だろうと思って追跡していたが、彼女は折り畳みの扉の前に来ると、中で休んでいる一刀へ少し照れたような小さな声を掛けて来た。

 

「北郷殿……あの……起きていますか?」

 

 寝静まったこんな夜分である事と、相手が綺麗な司馬防という事だが、なんと言っても家主でもあり……ここで答えなかった後、どうなるのかと思ったので一応返事をする。

 

「は、はい……起きていますけど。何かありました?」

 

 すると、司馬防はしばらく恥じらいのある小声で「あ、あの、そのぉ……」と迷った風だったが、意を決したように言うのであった。

 

「お部屋に入って……お話を……傍へ行ってもいいかしら」

 

 どうも、あの冷静且つ威厳のあって優しい母親の司馬防にしては妙な感じだ。それも気になったので一刀は答えていた。

 

「あの……建公殿、とりあえず、お入りください」

「はい……失礼いたします」

 

 体裁のある淑女な振る舞いで、彼女は折り畳みの扉の片方を静かに開けて入って来た。

 髪には赤い花の飾りと、そして色打掛風な外は多くの美しい赤い花柄の刺繍の施され内側は朱色な上着を着て、とても若々しく綺麗な頬を染めた表情と立ち姿が、ろうそくの弱い光の中へ幻想的に浮かびあがって見えた。

 一刀が「あの……」と言いかけると、司馬防は色打掛風な上着を静かに床へ脱ぎ落とすのだった。

 そこには紅色で透過性の高い、裾が膝上ほどまでだが両サイドの切れ込みが腰ほどまで大きく入ったネグリジェ風の衣装を身に付けた妖艶な司馬防が佇んでいた。

 シースルーなんだが……掴む為の栄光な部位には、何も身に付けていない!

 その形は、支えが無くとも保たれ、先の方までがまだ若々しく上を向いていた。彼女は、それを全く隠そうとはしていない。それは一刀に見てもらいたいからだった。

 そして下部の方には、紐で結んでいる布が少なめな黒の腰帯が見えるのみであった。そう……まさに、紐の方が外しやすいからだ。

 その彼女の姿から、最終目的はほぼ『明らか』なのであった。

 一刀は、その最終目的を確認するかのように司馬防へ声を掛ける。

 

「建公殿……それは……」

「ごめんなさい。こういう色事には……慣れていなくて。……でも、私のこの気持ちをあなたに……熱く感じて欲しくって」

 

 そう言いながら、司馬防は僅かに上目遣いにして、一刀の横になっている寝台のすぐ脇にまで静かに近付いて来た。

 そして、そのまま寝台へとゆっくりと上がって―――だが一刀は、そこで掛け布団を握り絞めつつ目を閉じて言った。

 

「すみません! 俺には心の整理が付いていない大事な人が……」

 

 司馬防は一刀の言葉を聞きながら、掛け布団上を一刀の傍横まで移動すると、優しい表情を浮かべてゆっくりと寝そべるのだった。そして頭を起こすと母のような顔になって優しく静かに一刀へ聞いた。

 

「……今も……いるのですか?」

「……いえ……彼女は、亡くなりました」

「そう、寂しくお辛かったでしょう」

 

 そう言って、司馬防は一刀の頭を優しくゆっくりと抱いてくれた―――豊満なプリンプルンな栄光の部位で。……もちろん彼女は意図的に。

 

 大きい~柔らかい~いい匂い~。

 

 元々絶倫な一刀への究極のトリプル効果だった。若さゆえか、彼の錆びて固まったと思っていた心の針は、軋みながらも動いてしまうのである。

 そして、司馬防は時折一刀の頭を優しく撫でてくれていた。その際、さり気なく掛け布団上をもひと撫でして、仰向けな彼がすでにモッコリになっている事を確認すると彼女の想いも熱く高まるのであった。だが彼女は焦らない。そして優しく導くように伝えて来るるのだ。

 

「私に……してほしい事があれば何でも……どんな事でも言ってください……ね」

 

 一方一刀も、彼女の豊満な栄光の部位を、複雑な感情ながらも堪能しつつ色々考えるのだった。

 司馬防は、少し年上だけど、母性が溢れていて……すごく落ち着ける女性だなと。

 

 そして、自分を受け止めてくれる『悪魔』さまはもうどこにもいない――寂しいと。(すでに魔●さまになっていますがね)

 

 一刀は、ついに小声で呟いてしまう。

 

「建公殿……その……あなたが横で……添い寝してくれると嬉しいです」

「……はい。では……北郷殿が臥所(ふしど)を開いて、私を好きに導いてくださいませ……」

 

 司馬防は、男性側から力強く何度も誘ってほしいのであった。気持ちはまだまだ女の子なのである。

 彼女が一度掛け布団の足元に下がると、一刀は上半身を起こして布団を大きく捲って開いていく。

 そして、一刀は司馬防へ向かって下から右手を差し伸べる。すると、司馬防は照れながらも嬉しそうに、その柔らかく綺麗な右手を静かに一刀の手の平にゆっくり乗せる。そして彼に引かれるに任せるのだった―――。

 

 ナニにはまだ至っていない。

 

 ただ横に並んで……たまに少し重なりながら二人の男女が寝ている『だけ』である。

 

 「そ、そこは……余り撫でられると……」

 「ふふっ、固くて……とてもご立派ですわ。ねぇ……私のココも優しく撫でてくださいな」

 

 ―――だが、お互いのイロイロな部位については確認し合う、夜の親密な関係に移りつつあった。

 

 

 

 

 

 

 豪華な宴会に加え、『至福な心も体も熱い夜』から一夜明けた一刀は、当然の如く余り眠れていない。結局一刀は、あれから半時(一時間)ほど司馬防のムチムチィな体のイロイロな部位を、サワサワスリスリナデナデしていた。おまけに途中で彼女と三回ほど……接吻――ファーストも含めたキスをしてしまっていた。とても甘い味がしたのであった。さらに、最初の接吻のあと、司馬防は自分の真名が『水華(シェイファ)』だと教えてくれた。

 ただし、「今はまだ、娘達には恥ずかしいから、夜に臥所で会うときだけね」と言われたのだった。そんな中で、やはり精神の一部が疲れていたのだろうか、一刀はいつの間にか眠ってしまっていた。

 最後は彼女の、豊満な栄光の部位の谷間に顔を埋めてゆっくりたっぷりとイイ香りをクンカクンカしつつ、スリスリして、その『先っぽ』を衣装越しにサワサワしていた事は記憶にある。そして、彼女の微かな甘い嬌声を子守唄のように聞いていた気がした。

 だが起きた時には布団と寝間着に乱れは無く、最後に彼女が丁寧に直して行ってくれたようであった。そんな彼女に自分だけが先に落ちてしまったので、悪い事をしてしまったと思っている。朝、会った時に一番で謝りたいと一刀は考えていた。

 同時に司馬防の、自分が眠るまで居てくれた上、そのあときちんと身辺を直してくれた気遣いが一刀にはとても嬉しかった。

 だが……一刀が起きたのは卯時(午前五時)であった。起きたというか起こされたと言うべきか―――女の子に。

 その彼女は、早朝から折り畳み戸の扉の前で元気よく叫んでくれた。

 

「北郷様ーー、幼達です! 朝の鍛錬に付き合っていただきたいのです! 北郷様ーー?」

 

 司馬敏はこう言う感じで一刀の声が掛るまで叫んでくれていた。

 

(幼達って……末っ子の少し日焼けした元気な子か)

 

 諦めてくれそうもなく、一刀は声を掛ける。

 

「分かったよ、着替えて行くからそこで待っててくれ!」

「はーい!」

 

 寝台から少し離れた所に豪華な衝立で区切れた場所に衣装置き場があった。人の良い一刀は、幾つか掛っている高そうな服の中から動き易そうな服を選ぶと手早く着替えて部屋を出た。

 外で待っていた司馬敏も昨晩の宴の服装と違い、装飾はあるが動き易い服装と両腕に手甲を付けている姿だ。そして彼女は、姉妹で一番小柄で身軽な全身を使って、ニッコリと少し幼い風の可愛い表情とポーズで一刀へ挨拶してくれる。

 

「おはよーございます、北郷様!」

 

 体に比して大きくプルンプリン♪な彼女の胸がとても眩しい。さり気なく目線を動かさずに、それを確認しつつ一刀も挨拶する。

 

「おはよう、幼達さん」

「あはっ。私はすこし年少ですし、北郷様は母上様のお客人です。幼達で構いません、 お気遣いなく呼び捨ててください!」

「そうか。では幼達、おはよう」

「はい!」

 

 司馬敏は笑顔の表情を崩すことなく、早朝から肩までのイチョウの葉のような扇状の髪を左右へ揺らして子犬のように元気一杯だ。

 彼女は早速、両手に持っていた剣の片方の柄側を一刀へ手渡す。思わず受け取るが、一刀は確認するように声が出る。

 

「これ……」

「大丈夫です! 刃はちゃんと潰してありますから。ここでは音が響きますのでこちらへ!」

 

 そう言って司馬敏は、一刀の右手を掴むと有無を言わせない感じで、元気に引っ張って行くのであった。

 建物の脇を抜け中庭を抜け小道を通って、四、五分程移動しただろうか、広い庭の離れたところに小さめだが竹林が見えてきた。そして脇の小道から、その中の直径が四丈半(十メートル)ほどの静かな空間まで来た。

 

「ここなら大丈夫かと。とりあえず、攻撃行きますね!」

 

 司馬敏は言うが早いか腰の剣を抜き去ると、その肩ほどまである薄緑の扇状な髪を軽快な体の加速に靡かせながら、電光石火な横からの一撃を一刀へ見舞ってきた。

 すでに用心して『速気』に入っていた一刀だが、スレスレで早い横撃を躱す。すれ違いざま、揺れる胸と彼女の元気な瑞々しい少女の香りが漂うのであった。一刀は、さり気なく密かに腹式呼吸で吸引する。何気にイカガワシイ気がMAXに溢れてきていた。

 昨夜の宴会でも司馬敏のスピードはある程度分かっていたが、これは相当なものだと一刀は思った。

 さらに鋭い剣撃は続く。一刀も一瞬の隙に腰から剣を抜き、体へ当たりそうな剣撃を逸らそうとするが裁き切れない太刀筋があった。引いて躱していたが、背に竹林が迫り高級そうなこの服が切られる位置取りだったので、『超速気』を使って一瞬で彼女の後ろへ回り込む形に位置を入れ替えた。その一刀の圧倒的な高速の動きに司馬敏は歓喜する。

 

「す、すごいですーー! 今のは当たる軌道(寸止めするつもり)と思ったのですが。北郷様は、話に聞いていた通り流石な方ですね!」

「えーと、どんな感じの話で聞いているの? 俺は、その辺りも含めて以前の記憶がしばらく無くてね」

 

 司馬防から現場の状況は聞いているが、変に尾ひれが付いていないか気になった。『人外』や『仙人』と言う感じで捉えられると危険な気がしたからだ。

 すると司馬敏は、剣を持っていない右手の人差し指を、癖なのか自然に唇下へ軽く当てながら言い始める。

 

「相手は大柄な剛剣の使い手で、その強烈な力のある上段からの一撃を、北郷様が素手で掴んだと同時にその者の腹へ凄まじい拳を見舞って一発で倒してしまわれたと! 私もさすがに素手で剣を掴めるほどの修練を積んでいませんので尊敬いたします!」

 

 とりあえず、聞いた内容には酷い誇張はないようなので安心する一刀だった。司馬敏は更に聞いてくる。

 

「北郷様、剣の剛撃を容易く素手で掴めるものなのでしょうか?」

 

 彼女は一刀の答えにすごく期待を寄せた眼差しを向けてきた。

 

「俺の場合は、はっきりと見えてたし、『硬気功』があるから出来たけど、普通はやらない方がいい。片腕が無くなる確率の方が遥かに高いから」

「普通はそうですよね! でも『硬気功』ですか、凄いですね! 話には聞いたりしますが、出来る方は皆、老練な方が多いので」

 

 人の世界での『硬気功』がどんなものなのか聞いてみたくて一刀は質問する。

 

「へぇ、出来るって老師の方はどんな感じなの?」

「そうですねぇ、剣を腕で受けたり、鋭い刃を幾つも並べた床に横になったり、素手で大きな岩石を砕いたり……ですね」

「おお、すげぇ」

 

 一刀は自分でも出来る事だが、修行すれば可能にしてしまう『人』はやっぱり凄いなと思った。

 それから再び、司馬敏が「手合せの続きをお願いします!」と言って剣練は再開された。一刀にとって久しぶりの訓練でもあったが、涼しい早朝から忘れていた物を思い出した感じがして引き締まるのだった。

 とりあえず、馬脚を現すこともなく半時(一時間)程、剣の練習が続けられた。一刀は『無限の気力』によって、体力的には息も乱れず、ほぼ疲労の無いの状態のままだった。

 司馬敏は、少し息が上がっていたが満足したように剣を収めると――― 同じく一刀も剣を収めたが、早朝から起こされ寝不足からか些か精神的に疲れ気味の腕へ、彼女はそのお詫びと言うわけではなさそうな無邪気な感じでしがみ付いてきた。

 しかしご褒美なのか……当然若々しい汗に香しく匂い立つ、形の良い柔らかな胸が当たってくる。

 驚いた一刀は、確認の声を掛ける。

 

「ど、どうしたの、幼達?」

 

 しかしその質問を素通りするように、司馬敏は可愛く聞いてくる。

 

「あのー、失礼でなければ、兄上様と呼んでもいいですか?」

「えっ?」

 

 なぜに兄上様?と思っていると司馬敏は話し出す。

 

「今まで、稽古と言えば明華(ミンファ)姉上様が――あっ仲達姉上様です! 以前は多く付き合ってもらっていたのですが、最近は少なくなり寂しかったのです。また、家中に仕えるものの中には手合せに足る者が余り居なかったですし。そんな中、久しぶりに力のある方に出会えました! それも男の方です。母上様は言っていました。コレと言う師となる男の人に出会えることは少ないでしょうと。それで、あの……分かりやすい『縁』をと……駄目ですか?」

 

 彼女の真っ直ぐな目で見られると断れる気がしなかった。一刀は応えてあげた。

 

「ああ、分かった。いいよ兄上様で」

 

 一刀は優しく笑顔を司馬敏へ返した。

 すると彼女は会心の笑顔と共に、その一刀の優しい思いと姿に、ビビッと震えるようになったと思うと姿勢を正して、その自身の想いを述べていく。

 

「あの、それから! 私より遥かにお強い兄上様を尊敬し、出会えたことを喜び……そして若輩ながら、熱く一生お慕い申し上げます!」

 

 彼女は、顔を真っ赤にして恥ずかしがりながらも一刀の目をしっかりと見て言ってくる。

 

「その……色々と、末永くお願いいたしいます、兄上様♪」

「えっ……あれれ?」

 

 一刀……末娘にさり気なく『終身想われ宣言』されていた。大人気である。

 

 一刀ら二人は、司馬敏が一刀の腕にベッタリとしがみ付いている事もあり、剣の話をしながら時間が掛ってゆっくりとした感じで庭から客間の傍まで戻って来た。

 すると――そんな二人に複数の姦しい声がほぼ同時に掛けられる。すぐにその声の主らが傍に集まって来ると包囲されてしまった。

 

「まぁ~シャオ(小嵐華……シャオランファの略:司馬敏)さん~ズルいですわ~」

「ふん、ほ、北郷様と妹がくっ付いて歩いているなんて……うらやま――ゲッフン、ハレンチです!」

「小嵐華、一人でとはどういう事なのか、ハッキリと詳しい説明をしてもらいたいですね」

「……ぁぁぅ、……ぃぃなぁ…っ…」

 

 司馬馗、司馬恂、司馬進、司馬通であった。一刀としてはまだそれぞれをきちんと認識出来ない姉妹達と言える。

 朝から、姦しくワイワイと可愛い少女達に囲まれ、サワサワと触れられる人気の一刀だった。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年06月26日 投稿
2014年06月27日 加筆修正
2014年07月05日 一部修正
2014年10月06日 文章修正
2015年03月22日 文章修正(八令嬢の真名変更、時間表現含む)
2015年03月28日 文章修正



 解説)罪(積み)重ね
 司馬孚を容姿を見て『狂って』しまった者は、彼女程の容姿でなければ許容(興奮)出来なくなってしまう『呪い』的なものが掛るようなのであった。
 司馬孚への異常な興味は一週間ほど会わなければ薄れていくのだが、容姿の許容は長年持続するようである。
 そのため、司馬孚は外を歩く時には白い薄布で顔を隠しているのだった。



 解説)ギリギリ二十代な司馬防さんのヒ・ミ・ツ♡
 これは、今は誰にも言えないお話なんです。
 八人の娘を持っている為、『周囲の目』的に夜の経験が『非常に豊富』そうな彼女でありますが……実は、流行病で十年以上前に他界した彼女の亡き夫が、極限に夜の生活について淡泊な人物であったそうなのです。
 彼女はそうではなかったので(いや――むしろ……ダイヌキ)、これまでも家名に傷を付けぬようにと操を守ってきて、イロイロと辛かったようです。
 そのため、八人もの娘が居ながら夜の経験が―――非常~に少なかったりするのであります。
 一刀に対してどこか初々しいのは、その事も大きいようです。
 亡き夫については人柄は敬愛していましたが、男女の気持ちとしては微妙でした。
 絶倫そうな一刀へ、夜を(非常に)期待している彼女がいます。
 ……しかし八人……亡き夫な人物の命中率が驚異的なのか、タイミングがドンピシャで良かったのだろうか……(爆





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➊➒話 +小話x2

 

 

 

 その戦いぶりは、紅の花を思わせる妖艶な衣装姿も合わせて、まさに赤き烈火のごとくであった。さすがは、江東の虎と号されるほどである。

 彼女は、抜き放たれた純金の装飾がなされている自慢の宝刀『南海覇王』を右手に握り、それを前方の敵軍へ指し向けていた。

 そして、己が頭に掲げる金細工の施された大きく立派な冠を振り乱すがごとく、両脇の騎馬群で疾走する味方の軍勢へ向かって交互に振り返り、自ら先頭を駆ける馬上から劈(つんざ)くほどの大声で叫ぶ。

 

 「オラァ、お前ら突撃だ! さあ、いざ戦わん! 奴らの命を食い尽くせぇーー!」

 

 そして、敵軍より降り注ぐ矢の中を、身に迫るそのすべての矢を鮮やかに撃ち落とし、先頭で敵陣へ切り込んで行く。

 

 「オラァ、オラァ、死にたいヤツはガンガン掛って来な! 我(われ)があの世に送ってやる!」

 

 彼女の名は孫堅、字は文台(ぶんだい)。孫策、孫権、孫尚香の母である。

 切り込んだその彼女の周りは、数撃で血と屍の絨毯と化していた。

 黄巾党の乱の討伐では、予州において参戦し、今は青州に居る波才をも一度敗走させている。黄巾党の乱が収まった今は、荊州南方で中央の力が弱まったことで多発していた反乱の平定に明け暮れていた。

 今日も、寡兵にも関わらず、彼女は恐れることなく真っ先に敵陣へ切り込んで行った。

 

 

 

 孫堅の勢力は、まだまだ貧弱な状況であった。私兵は三千程しかいない。若き少女のころより江東など各所の守備兵団に協力して反乱の鎮圧、そして黄巾党の乱でも少数の私兵を引き連れて各地を転戦して名をあげた。その際、いくつかの地方の県の次官を歴任したが評判がよく、それが袁術の耳に入る。

 袁術は、袁紹の従姉妹だが、袁紹の母は正妻ではないため、自分とは血筋的に劣ると思い『袁紹ごときが』と下に考えていたのだ。しかし、いつの間にか袁紹は華北で自分以上の勢力(すでに冀州の州牧)を誇る上、配下に顔良、文醜という豪傑に加え、田豊なる高名な軍師まで揃えるに至っていた。

 それに引き替え、自分には主な武将がお気に入りの『何でも不満なくは熟すけれど』の張勲しかいない。

 そのため袁術は友軍として、まだ小規模ながら噂に高い孫堅を呼び寄せ、突出した武力と統率力を誇る彼女を厚遇した。袁術は時に孫堅へ、その潤沢で膨大な資金と兵力を貸し与えて事に当たってもらっていた。

 孫堅はそれらを使って期待に応え、袁術が手を焼いていた荊州黄巾党の本拠地であった巨大な荊州南陽郡の宛(エン)城を攻略し、その周辺をも平定する。

 だが先日の黄巾党討伐の恩賞において、孫堅は武功はあれどその資金・兵力はほぼ袁術の力と評価され、一人の武将としての評価に留まり明確な官位が得られなかった。皇帝より、武功を称え下賜されたという立派な装飾が施された剣と砂金の大袋のみであった。

 さすがに袁術も、これだけでは申し訳なく孫堅は自分の元から離れると考え、現在、袁術により予州刺史として上表中であった。さらに袁術は、宛にほど近い南方にある県の棘陽城を孫堅へ丸ごと貸し与え、加えて兵一千と資金・兵糧を与えていた。

 これを受け孫堅は、今はことさら大きな不満を言うことなく続く戦いに染まっていた。

 

 

 

 孫堅は、しばらく敵陣をねじ込むように進むと、敵の将であろう本陣らしき軍勢のところに出た。

 先頭の敵歩兵群の槍の矛先が十以上も孫堅へ同時に迫るが、馬上からヒラリと躱しそれを捻り込むように飛び越えつつ上空で剣を数撃煌めかせると、素早く華麗に敵兵の背後へ着地した。そして、ゆっくりと再び彼女が姿勢を正したときには、後方の槍兵はことごとく絶命しており倒れていった。

 その一部始終を見て対峙していた敵の将は、その背中へ猛烈に寒気が走っていた。

 

 目の前に『怪物』が現れた……と。

 

 それから五度も呼吸することなく、敵の将は地面に赤い血だまりを広げながら倒れていた。

 敵の将の死を確認して、新たな敵を探すために、ゆっくり周囲を伺う孫堅のその雰囲気と剣を握る立ち姿と鋭い彼女の眼光は、まさに野生の虎を彷彿とさせるものだった。

 敵の兵は、恐怖しかなかった。さらに己らの将が撃たれたことで勝機が無くなり、そして虎のごとき『怪物』から一刻も早く逃げようと自然と惑い、敵陣中央部からの崩壊が始まっていく。

 完全に戦意喪失状態な敵兵群に、孫堅は「張り合いが無くなった」とばかりにため息を付いていた。そこへ、二人の将が飛び込んで来る。

 

「母(かあ)様! 私よりも無茶しないでください」

「大殿、無謀が過ぎますよ」

 

 一人突出した孫堅を急ぎ追って来た孫策と程普であった。

 

「遅いぞ、二人とも。だが、丁度いい。面白いところは食ってしまったからなぁ。後は適当に片付けておけ」

 

 孫堅はすでに『用は済んだ』とご帰還の乗りであった。

 それを二人はげんなりと聞いていた――――。

 

 

 

 

 一方、ここは袁術の本拠地、荊州南陽郡魯陽(ろよう)県城の宮殿内の謁見用大広間。袁術と張勲の二人は、戦の緊張には程度遠い『のほほん』とした時間をこの地で過ごしていた。

 位置的な関係を言うと、魯陽は南陽郡本来の治所(郡庁のような場所)の宛より二百二十里(九十キロメートル)ほど北北東にある。魯陽と南方の劉表の治める襄陽(じょうよう)を結んだ直線上のほぼ中間点に宛がある形だ。宛と襄陽までの距離は二百四十里(約百キロメートル)。ちなみに宛と襄陽(じょうよう)を結んだ直線上の中間付近に新野がある。

 現在、宛城は総構え的な街周辺外郭部も合わせて改修中であり、今後袁術陣営は本拠地を魯陽から宛に移す予定でいる。

 三階層に近い吹き抜けの天井を支える豪奢な柱が並ぶ大広間の広い空間の中、今は袁術の傍近くに張勲のみがいたのだが、その張勲が散歩をするように室内をゆっくりと優雅に歩いていた袁術へ声を掛ける。

 

「美羽(みう:袁術)様は、少し孫堅さんにお甘いのではありませんか?」

 

 張勲には珍しく、袁術へ問いただすように質問ていた。袁紹に対抗するために孫堅が必要な人材だと進言し、取り込む為の工作・手筈を整えてきた張勲であったが、予州刺史として上表するのはいいとしても、さらに一つの県城と兵と兵糧から資金まで無償提供するのは行き過ぎだと考えていたのだ。それに貸し与えた棘陽城は宛までの距離が魯陽の三分の一しかない。ヘタをすれば多くの兵と資金を費やした宛を取られる可能性もありえるのだった。

 

 袁術は少し拗ねたように、そして少し恥ずかしそうに張勲へ話し出した。

 

「なんじゃ、七乃。七乃が炎蓮(イェンレン:孫堅)殿に力を貸してもらうように言ったのではないか」

「そうですが、県城を貸し与え、兵や資金・兵糧などまで出すのは行き過ぎですよ。孫堅さんは虎なのです。猫だと思っておいででしたらたら、そのうち餌と一緒に美羽様も丸ごとパクリと食べられてしまいますよ?」

 

 張勲は、少し脅かすように袁術へ進言する。だが袁術は、小柄で子栗鼠のような体をさらに縮こまらせ、涙目になりながらも反論してきた。

 

「そ、そんなことはないぞよ。炎蓮殿は信用できるのじゃ。わらわの為に頑張ってくれておる。そ、それに、確かに厳しい事を言われるが……母(はは)様のように優しいのじゃぞ」

 

 張勲は、ハッとした。漸く袁術の考えが理解できたのであった。確かに張勲が見る限りにおいても、今のところ孫堅に目立った不穏な動きは無い。

 洛陽から戻って来た後に、この広間で一同を前にして黄巾党討伐関連の論功行賞が行われたのだが、袁術が張勲へ相談なく、いきなりその場で県城の一つを孫堅に貸し与えると言い出したのであった。

 君主が公の場で言った事であるし、そこで家臣の張勲が口を挟めば色々と問題になりそうであった。それにあのままの待遇では、確かに孫堅はその後にどんな動きに出るのかという不安もあった。

 張勲としては長年袁術に仕えているが、自分に相談無く勝手に公の取り決めをした例がなかったため、その行動に少し不安があったが、結果として良かったのかもしれない。

 確かにこれまでの孫堅の働きは、県城の一つを完全に与えるぐらいしても多くのお釣りがくるほどであったのだ。

 

(しかし―――母様のように孫堅さんを慕っておいでだったとは)

 

 張勲は、失礼にあたるが密かに時には自分が、主君である袁術の姉のような気持ちで小言を言っている事も少なくないのであった。しかし、母のような気持ちになった事は無かったのに気が付く。

 袁術がそういう人物を先に望んでいたという事はないと思うが、丁度それに当て嵌まってしまった人物が現れたという事だろう。

 それが今後どういう影響を及ぼすかを、「さてさて……」という感じで張勲はまだ掴みかねているところだった。

 

 

 

 

「母(かあ)様、先の論功行賞ですが、あれで満足なのですか?」

 

 孫策は、普段は誰にでもタメ口な話し方なのだが尊敬する母に対してだけは違った。そんな敬意を払う孫堅の考えが知りたくて直接その事を、今、隊列の先頭で共に馬を並べて左側を行く母へ確認するように尋ねていた。

 彼女らは現在、一つの戦いをさっさと終えて漸く手に入れたというべき自らの居城へ引き揚げる途中である。

 居城の棘陽城はさほど大きいものではない。一辺が一・五里(六百メートル)四方よりも広い程度の城塞を中心とした、その外に街が広がるこじんまりとした都市であった。

 娘の孫策の質問に、しばらく黙っていた孫堅は前を向いたままこう返す。

 

「そうだな、今は……特に大きな不満は無い」

 

 その言葉に孫策は「なぜ?」と問い返す。我々が戦って平定した地域の多さを考えると到底納得できないのであった。その理由を是非聞きたいと詰め寄る。

 

「私は納得できません。明らかに成した事に対して公平でないと思いますが?」

 

 すると、前を向いていた孫堅が僅かに孫策へ顔を向け言うのだった。

 

「雪蓮(シェレン:孫策)よ。今の時代、敵を作るのならあっと言う間だ。だが、信用できる味方となると千里の道の険しさが楽に思えるほどのものだ。先の論功行賞で初めから思いやりなく淡々と今の待遇を示されていれば……私もここを去っていた」

 

 孫策は複雑な顔をしていた。母の考えの先に気付き困惑しているのだろう。孫堅の話は続く。

 

「お前もその場にいて、当初から聞いていたから知っている通りだが、初めは剣と砂金だけであった。そのあと、張勲が無表情にただ予州刺史として上表する旨を伝えて来たが……本当はそこで恩賞は終わっていたのだ。だが袁術殿は……あの子は、必死の思いの表情をして独断であの棘陽の貸し出しに加え、兵と資金と兵糧を付けてくれたのだ。張勲のかなり焦った表情を見て確信が出来た。おそらく、張勲をあの場で黙らせておける所を選んでくれたのだろう。嬉しいではないか、友軍の幼い主が自ら心を砕いてくれたのだ。それに実際の所、この地盤無き中途半端な我が兵団規模であれば、厳しい運営になるのが常であるが、今の我々は常時潤沢な資金・兵糧、そして補充兵に補給と後方に付いては全く心配なく戦えている。袁術殿に協力する前と後では天と地ほどの安心感があるのではないか?」

 

 孫策も以前のギリギリな運営状況に良い思い出は無い。母のいう事にも一理ある。今の袁術陣営の規模は、潤沢な資金・兵糧を有し六、七万の兵でもすぐに動かせ長期間戦えるのだ。精鋭ながら三、四千で短期戦ですら限界が見える自兵団とは地盤が違う。また、孫策自身も、何度か直接会話をしたが子栗鼠のような可愛いさで素直なところもある袁術をはなから嫌っているわけではない。だが、一言だけ言うのであった。

 

「しかし、我々が矢面に立つことが多いことを、そして討死する同胞がそれだけに多く出ている事をお忘れになりませんように」

「同胞が多く逝くことは確かに悲しいことだ……だが、最前線で剣を振るって血みどろで戦うことこそが我々の本懐ではないのか……雪蓮?」

 

 孫堅は孫策の顔をしっかりと見た上でニヤリと笑うのであった。

 孫策にも、同胞らの多くにも熱き戦いの血が流れていることを孫堅は良く知っているのであった。

 

「棘陽は今は空に近い宛に最も近い南の位置にある。袁術殿が我々を信用し軽く見ていない何よりの証拠であろう。それに予州刺史になれば、軍権は無いが収入はそれなりに見込める。そして大きいのが、それらの地域にも足掛かりや協力者を得やすくなる事だろう。孫策よ……わが娘よ、戦うべき敵が華北にも東南にも大勢いる事を忘れるな」

「はい、母様」

 

 これ以後、孫策も母の考えに同調するようになっていった。

 袁術は『無二の友軍』であると。静かに孫堅・孫策、袁術連合は結成されていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 司馬家の朝は結構早い。

 そんな時間から一刀は、客間前の廊下から続く庭で下の五人姉妹に囲まれていた。

 卯時正刻(午前六時)過ぎには全員が起きていますと、六女の司馬進(しばしん)からハキハキと聞かされる。

 まあ、一刀も雲華と居た時はそれよりも早く起きていたぐらいなので、この時代は朝日と共に起きて夕日と共に眠るような感じだからと、特に気にすることはなかった。

 それよりも気を払うべき事があった。

 姉妹らの顔は見覚えたが、それに合う姉妹全員の名と字はまだまだ怪しい感じなのだ。

 八姉妹は伊達では無い。

 

(確か『朗が伯』に始まり、『懿が仲』、『孚が叔』、『馗が季』、『恂が顕』、『進が恵』、『通が雅』、『敏が幼』……ハキハキな子は恂の次の『進が恵』だったっけ……)

 

 そんな体たらくな頭の中の状態だ。

 司馬進は髪を首下辺りまでで切り揃えられている、いわゆる『おかっぱ』な髪型だ。

 まだ司馬馗以下四人のどれが誰なのかの認識が昨日今日では余り付いてなく、もっと明確な記憶力が欲しいと思う一刀であった。今はまだ雰囲気と髪型が頼りで、連想して思い出す感じであった。

 

 早朝の鍛錬の後、司馬敏はずっと一刀の腕にしがみ付いていたが、頭へ大きめの頭冠を乗せ眼鏡を掛けた、髪が太腿まである見事なストレートロングな女の子に「はしたないですわ」と早々に引き剥がされていた……。

 

(眼鏡を掛けた子? 誰だっけ……えっ、あれ? 昨日は掛けた子は居なかったよなぁ)

 

 その声とその子の表情を良く見ると、少しキツめな釣り目と雰囲気、ストレートロングな髪型……どうやら五女の司馬恂(しばじゅん)のようだ。下の五人姉妹では一番背が高い。頭冠の大きさが更に差をつけていた。密かに指折りながら名を思い出す。

 

(えぇっと……五女……『恂が顕』、司馬恂かな……)

 

「えっと……顕達さん? 昨日は眼鏡を掛けてなかったよね?」と司馬恂へ聞いてみると「普段は掛けています」と僅かにムスっとした感じで答えたが、すかさず一刀に「可愛い感じに似合ってるね」と言われると、恥ずかしそうに「……ど、どうも」と答え、少し嬉しそうにして俯いてしまうのであった。

 

「……ぁぁぅ、ぉはょぅござぃますぅ……」

 

 一刀の傍で無言で恥ずかしそうに長い間モジモジとしていたが、ついに顔を赤くしながら意を決して言葉を伝えてくる子がいた。姿と長くカーブを描く髪形は優雅だが無口な七女の司馬通(しばとう)だ。

 

(大人しい子……七女の『通が雅』、司馬通か……名が六女の司馬進と『しんにょう』繋がり……って連想クイズかよ)

 

 彼女は、家族や古くからの奉公人以外とは話を殆どしないという。そんな彼女にとっては、一刀との挨拶一つも大変な事なのであった。そんな苦労を知ってか知らずか、一刀は自然と彼女の長くカーブする優美で艶(つや)やかな髪の頭を優しく撫でながら「おはよう、雅達(ガタツ)さん」と笑顔で返事を返すのであった。

 すると、「きゅぅ」と可愛く声を上げて一刀の方へ倒れ掛かって来たのである。失神したのかと思いきや、自分の事を変に思わずに優しく返事をしてくれた事が『嬉しくて』抱き付いて来たのであった。

 おっぱい、いっぱい当たってるから……。

 しかしそれは当然早々と、キツめな司馬恂に「まぁ!ハレンチですわ」と引きはがされていた。

 そしてやはりというか、司馬通のあとを争う様に皆の明るい挨拶の応酬になった。

 その際、一刀は挨拶と共に各自の字の後に『さん』と敬称を付けていたが、年下だからと皆そろって「「「「呼び捨てで」」」」と言われてしまう。

 加えて是非にと『兄様/兄上様』の呼び名で呼ばれることとなった。

 五人の中で一番年長の、ふわふわな腰程まである髪でほわわんな感じの司馬馗(シバキ)が音頭を取る。雰囲気はほわほわしているが、人見知りや物怖じ等は全くない子のようだ。

 

「それでは~よろしく~お願いします~です、兄上様~」「お兄様」「兄(にい)様」「……ぁにぃさまぁ」「兄上様!」

「おう」

 

 一刀は宴会で『気楽に接してほしい』と言っていたので、これもまあ悪くないかと受け入れていた。

 これだけいれば一人ぐらい低血圧な子がいそうな感じがしていたが、司馬防が言ったように本当に皆健康な可愛い娘たちに育っていたみたいだ。

 確かに朝早くから客室前に広がる庭にて、個人差があるがこのように楽しそうに姦しくワイワイとされていると、彼女たちの健康さを納得せざるを得ない。

 さらに、目のやり場に困る揺れる大きめな栄光の掴む為の部位×五人攻撃と、加えて包囲されたことでほのかに匂い立つ女の子な香りに、一刀は抗う術無く堪らず密かにクンカクンカし堪能してしまうのであった。

 そんな五人の娘達に囲まれていた所へ、母の司馬防と絶世の美女な三女の司馬孚が静々と一刀の客室周りの回廊を歩いてくるのが見えた。

 その司馬孚は、運命的な男の子と思っている一刀へ妹達だけが寄り添って姦しくしている様子に、自分はまだ殆ど話も出来ていない事の不満な気持ちから、澄んで美しいが彼女にしては珍しくキツめの声を掛ける。

 

「もう! あなた達、朝早くから失礼にもお客人の寛ぎのお時間を邪魔しているのではありませんか?」

 

 姉の声に、そして何より母の姿に下の五人は慌てて輪を解いて、一刀の後方へ一歩下がると歳の順で横に一列に並んで頭を僅かに下げ『鞠躬』(ジュイゴン)の礼を取る。普段の司馬防は優しくも厳しい母なのである。そんな中、一刀がまず口を開く。

 

「おはようございます。昨日は、楽しき宴会に色々と『最後まで』ありがとうございました」

 

 一刀は深夜の件も含めて、なるべく自然に二人へ言う形で昨日の礼を述べていた。

 司馬孚も母へ主に礼を言っているのだろうと笑顔で「おはようございます」と受ける。そして彼女は密かに思っていた。

 

(……やはりこうして、私の顔や姿をちゃんと見ても普通の対応をしてもらえてる♪)

 

 そして司馬防は――『最後まで』の部分で、彼が先に寝てしまった事への詫びが入っている事に気付き、笑顔で僅かに照れながら一度首を横へ振ると答えた。

 

「おはようございます、北郷殿。『最後まで』楽しんで頂けたようで何よりですわ」

 

 静かに僅かの間、二人は見詰め合う……が、司馬防は自然な感じに話を前へ進める。

 

「さあ、そろそろ朝食の時間ですので、北郷殿も食堂へお越しくださいませ」

 

 司馬孚も含めた娘達は、母の言葉に一瞬驚いた表情をした。

 司馬家の食事は、いつも母屋内のあの宴会が開かれた身内用の『食堂広間』で家族揃ってとなる。『家族揃って』なのだ……朝食のそんな席へ一刀はすでに呼ばれてしまっていた……。

 家主の言葉に、早朝のひと時は終了となった。

 一刀は一度部屋に戻り、着替えてから食堂広間へ移動することになる。皆が食堂に行くのと入れ替わるように、使用人長である銀さんが来て急ぎの着替えを手伝ってくれた。

 少しみんなを待たせているかもしれないと思い、急ぎ気味で銀さんに案内されながら広間へやって来た。

 入口の両開きの見事な彫刻細工のされた大扉付近で、スラリと背の高い司馬朗が「おはようございます」と優しくにこやかに出迎えてくれた。

 一刀も「おはようございます、伯達さん」と笑顔で答える。

 家主は司馬防なのだが、一年の大半は都務めの為、現在家は若いながら長子の彼女がほぼ仕切っているのだ。今朝も、使用人長らへ準備の指示を行っていた。

 

 さて、一刀が広間に入った瞬間――みんなの視線がなぜか鋭く、熱いのであった。

 

 そこには直径が二丈(四メートル六十センチ)程の巨大な黒塗りの繊細な彫刻の施された立派な円卓が用意されていた。それは金具で連結・分解出来るもので、延長部分を足せば楕円にも、さらに大きな円卓状にもできる優れものであった。

 円卓には華やかな花々も飾られ、すでに椅子が一刀の分も合わせ十席用意されていた。そして……次女の司馬懿のみが席に着き、司馬防を始め、皆なぜか不自然な感じに全員がまだ立っていた。

 普段の司馬家の円卓は、司馬朗が家を預かるようになってから席順が『自由』なのであった。司馬防も今は概ね家を任せている事からそれに従っていた。そのため、一刀の横に座るには、一刀が来る前に最後に空いた席の両横に座っているか、一刀の座った横に座るしかないというわけだ。

 そんな事に興味が無く、すでに独りだけ席に着いていた司馬懿は、片肘を付いて呆れた感じで周りを見ている。

 だが、その光景の事情がよく分からない一刀は敢えて聞いてみる。

 

「あの……皆さん、どうしたんですか?」

 

 すると、司馬防がいたずらっぽい顔をして、一刀へサッと近付いて右手を取ると共に円卓へ向かっていった。

 一刀に少し遅れて広間へ入って来た司馬朗と、すでに中にいたが感の良い司馬孚が同時に「ああっ!」と声を上げるが遅かった。

 司馬防は、司馬懿の座る右の席に一刀を座らせた。一刀は思わず司馬懿へ挨拶する。

 

「お、おはよう、仲達さん」

「おはようです、北郷様。まあ……周りは一過性のものだと思って気にしないでくれると」

「はあ」

 

 一刀へ母の客人として敬称を付けてくれるが、司馬懿は初めからもっぱら普通の対応だ。

 そんな会話を右に聞きつつ司馬防も、一刀の右側にさっと座ってしまったのである。

 その様子に、司馬馗以下五姉妹も、「あーぁ」と残念そうに声を下げていった。だが、敬愛する母に対して『ズルい』とは、娘達は言えないのであった……。

 しかしここで、司馬防は「白華(パイファ)」と六女の司馬進を呼び寄せた。『おかっぱ』風の髪の頭をピクリとさせて司馬進が「はい、なんでしょうか、母様」とハキハキと答えながらキビキビと司馬防の席の傍まで行く。すると、司馬防は静かに立ち上がって席を替わってあげる。

 

「昨日の宴会では良くやってくれましたね」

 

 宴会の一芸の際、自然な流れで恥ずかしがり屋である妹の司馬通と一緒に演奏したのだ。その気遣いへのご褒美と言うわけみたいだ。司馬進が「いいのですか?」と周りを見ると、姉妹たちも納得した笑顔で頷いてくれ、そろそろと各々周りの席へと座り始めた。司馬防は司馬通のその一つ右に座る。

 そんなこんなで全員が席に着くと、ほどなく使用人達が料理を運んでくる。だがそれは、昨晩の宴会のような驚くほど豪華で多数の料理ではなかった。食材は質や味は良いが贅沢過ぎるものではなく、量も必要な適量程度に抑えられている。

 そのことに一刀は―――安心していた。

 毎日をお客人だとして無尽蔵で豪勢に歓待され続けたら、息もつまり恩も溜まり過ぎて申し訳なさすぎると。

 司馬防は、一刀へ顔を向け尋ねる。

 

「うちでは普段は必要以上には振舞っておりません。……北郷殿はどう思われますか?」

 

 そう、食事が『家族揃って』と言うのは、お客人には見せていないそんな部分も含まれてくるのだ。おそらく客人扱いだと、昨日の昼食のような感じで毎回豪勢な料理が運ばれてくると思う。だが……それは特別な部屋で、そして一人で食べなければならないだろう。

 そんな気がして一刀は、微笑みを返しながら自然に答えが出ていた。

 

「人とは欲を言えば切りがないものです。だからこそ本当に必要な時に、惜しみなく必要なだけ使う、それがとても良い事かと。そして……みんなで揃って笑顔で食べる食事は、いつも最高に美味しいと思いますよ」

 

 一刀は、雲華との生活で、『贅沢』が『幸せ』に直結するわけではないことを良く学んでいたのだ。

 司馬防を始め、娘達も一刀の言葉に頷き笑顔になっていた。

 もちろん『司馬家』には、司馬防の中央からの定収入のほか、この屋敷以外にも別の屋敷や広大な領地もあり、毎日豪勢に三代過ごそうともなお有り余るほどの財がある。

 だが普段から厳しい司馬防は、自らの生活にもしっかりした考えを持っていた。

 そんな司馬防は仕事柄、中央からの使者やお客を迎える事も少なくない。だがその多くが、決まって『賄賂』に加え、連日の爛(ただ)れたような『豪勢』な歓待を要望してきていた。

 そんな目障りな輩は、ハナから家族の住むこの屋敷に宿泊させることはしない。この街の別の格の落ちる屋敷に迎えるのが常である。稀に姉妹代表として、司馬朗や司馬懿が顔を僅かに見せるのみな感じだ。

 このように家族全員で食卓を囲んで迎えて過ごす客人は、身内以外では一刀が初めてであった。

 

「北郷殿には、余りにつまらないことを聞いてしまったようですね。……中央から訪れる多くの者は心を失くしているものが多いものですから、つい」

 

 司馬防が申し訳なさそうに言ってきた。

 一刀は「そんなことないです」と、箸を休めて右手を振りながら答える。

 

「そのような時代に俺は、立派な見識を持たれる建公殿や、やさしい皆さんが居るこの司馬家と出会えたことに感謝しています」

 

 一刀も、この大陸の少なくない地域が無法地帯になっていることを目の当たりにしており、人々の心の多くが荒んでいるのがある意味『常識』のこの世界なのだ。そして、今の国家中枢の人々も多くが『人として』病んでいる大変な時代なのだと改めて理解していた。

 

「わたくしたちも北郷様に出会えたことに感謝しています。昨日の恐ろしく、そして残酷な賊から、街内の正義が守られたのは貴方様のおかげですから。さあ、北郷様、母様、みんな、楽しく朝食を頂きましょう」

 

 司馬朗が、姉妹を代表するようにそう纏めてくれていた。

 その後、歓談を交えながら楽しい朝食の時間となった。

 

 司馬朗は一刀の考えに共感と共にとても満足していた。そして彼女は、頬を僅かに染めながら円卓の正面の席から一刀を見つめていた。

 彼は、奢ることなく謙虚であり優しく、そしてあのような立派な剣も持ち、武人としても一流に加えて、異様に背の高い自分の事を『とても可愛い』と言ってくれる人――それはおそらくもう現れない『大切な人』……という思いが彼女の中でさらに強くなるのであった。

 

 司馬孚も一刀の考えへ共感し、とても好ましく思いながら、時折静かに司馬朗の横の席から彼を見つめていた。そして考える。

 彼は、自分には想像も出来ない長き間、極限の過酷な放浪を経験しながら、それでも奢りなくとても謙虚であり、その視線がいつも皆に優しい。武人としても勇敢で立派で……そして私が『いつもの罪』を感じないで過ごせる初めての『男の方』――こんな人はきっと二度と現れない……この出会いと好機を逃がすものですかと決意していた。

 

 司馬防は、一刀の考えの話から――確信していた。

 彼が『心』『技』『体』すべてを持ち合わせている『憧れていた真の漢(おとこ)の武人』だと。自分の直感は間違えていなかったのだと。

 そして、決めるのだった……残りの女盛りは『すべて彼の為に』と―――。

 その瞬間から、彼女の体は熱くなっていった。

 

 朝食が終わると、その場で解散となる。

 すると司馬防が、一刀へ「先ほど変な事を聞いたお詫びに」となにやら熱い眼差しで自ら屋敷を案内する旨を伝えて来たので、一刀はそれではと気楽に笑顔で案内をお願いしようとしていた。

 司馬朗と司馬孚はまたしても同時に「ああっ!」と声を上げ、今度は負けられない気持ちで母と一刀の傍へ詰め寄って来た。

 口火を切ったのは、声も美しい司馬孚である。

 

「お母(かあ)様は、都でのお仕事明けで気付かぬ内にお疲れが溜まっているはずですし、優華(ヨウファ)姉様も明日の街会議の準備で何かとお忙しいはず。ここは、わたくしに任せて頂くのが最良かと思いますが」

 

 「えぇっ?!」と司馬朗は痛いところを突かれるのであった、確かに事前の準備があったのだ。そういう事はまず片付けなさいとの母からの厳しい教えがある為、突っ込まれては断念せざるを得えない。しかし、いつの間に把握されていたのか……侮れない妹と言える。

 一方、司馬防は司馬孚の表情を見つめ余裕な構えをしている。だが、美しい愛娘が『初めて好意を寄せる人』へ近付くために頑張ってアセアセと割り込もうとする姿が可愛くて――折れてあげるのだった。

 

「そうね……北郷殿、申し訳ありませんが、少し疲れがありますので私とはまたの機会に。本日は変わって、この叔達が私や伯達の代わりに案内をいたしますので、どうか我が家をご賢覧ください」

 

 そう言ってもらった司馬孚はとても嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに一刀へ促した。

 

「それでは北郷様、行きましょうか。まずは慣れてもらうためによく使う主なところを回りましょう」

「あ、そうですね」

 

 一刀と司馬孚は、司馬防と司馬朗に会釈をすると見送られながら食堂を後にした。一刀と司馬孚は二人並ぶように歩いている。この屋敷の主な廊下は、横に六人ほど並んでも十分歩けるほど広いのであった。これが個人宅とはと、本当に現代とは違うなと格差を感じていた。

 そして一刀は―――やはり横を静々と共に歩く、とびきりの美人が気にはなった。いや、気にしないのは男として不可能と言えよう。

 こんな感じで一刀の衝撃を想像できないだろうか……映像や写真も含めて今までに見てきたすべての女性の中で一番の美人と思える人……よりもさらに一段階綺麗な人に出会ってしまったと。そんなレベルに透き通るような艶やかな白い肌に文句の無いスタイルで万人が完璧美人と思うのが司馬孚である。現代で言うまさにワールドクラスな美貌なのだ。

 同時に一刀は、司馬孚の想いや苦悩は全く知らないため、まさに高嶺の花だと。きっと引く手あまたで近いうちに凄い名家か英傑に嫁ぐんだろうなぁと、相手のヤツは全く羨ましい事だと完全に他人事として呑気に考えていたのだ。

 一方、司馬孚は時折一刀からの視線を感じていた。

 だがそれは普段、男達から受ける狂うように全身を舐って来る感じの不快感は全くなかった。なにせ、家の使用人ですら影響が出てしまうため、本家屋敷側には基本的に男の使用人はいないのだ。

 かつて姉妹達にも当然聞いてみたが、そんな感覚は自分だけであった。

 初めて普通な感覚で、男の人と並んで歩くという体験が出来たのであった。一刀からの視線を楽しむぐらいの感じであった。

 二人が通っている廊下は、一刀の客間へ向かう廊下とは九十度違い、食堂広間から南へ向かっている。因みに一刀の客間屋敷は西側に向かう廊下の先にある。

 一刀がまず案内されたのは、巨大な母屋の一階南側にある『寛ぎの広間』と言われる家族のリビング的な部屋だった。その天井は二階まで一部が吹き抜けで高くなっており、食堂よりも一回り更に広い。部屋の中には階段もありキャットウォークのような天井通路やロフト的な寛げる空中空間まで備えていた。また外への壁際は全て格子状で開閉することが出来、優しい風と明るい光を取りこむ事が出来る仕掛けを備えているうえに、全開放が出来て庭の敷石状のテラスと一体となるとても開放的な場所だ。内側の壁際には天井まで続く巨大な書棚が並び、室内のあちこちに座卓や長椅子があり、床にも分厚い敷物がされていて実にのんびりと過ごせそうな大広間であった。

 

「特に用が無い家族はここに揃っていますので、北郷様も自由にお越しくださいませ」

「うん、ありがとう。すごくいい部屋だね」

 

 やはり中華な風で中華じゃない部分があるなぁと、一刀は内心思いながら楽しげに室内を見回しつつ感想を述べた。

 「それでは」と司馬孚は、次の場所へ案内してくれる。『寛ぎの広間』へ来た廊下とは違うもう一つの部屋の対にある扉より出て廊下を北へ進む。少し進むと廊下から左に曲がり少し細い廊下を進んで大き目な建物の中に入った。そこで司馬孚が説明してくれた。

 

「姉妹用の屋敷です。ここには十二部屋あります。その五つを司馬馗以下五人の妹達が使っています。一応私を含め上の三人も割り振られていますが、普段は使っていません」

 

 廊下から見た外観は、横長な三階建ての普通のマンションほどの大きさがあった。それがたった十二の部屋しかない?

 その部屋群の一つの扉の前に二人は立った。高さが十尺(二メートル三十センチ)ほどもある両開きの立派な折り畳み戸の厚めな朱塗りの木製の大扉であった。司馬孚が中へ声を掛ける。

 

「和華(ホウファ:司馬馗)、いますか? 蘭華です。北郷様に部屋の中を見せてあげて欲しいのですが」

「は~い、少しお待ちください~ませ」

 

 どうやらこの部屋は四女の司馬馗の部屋らしい。一刀は考える。

 

(『馗といえば季達』か。綺麗でふわふわなウェーブの髪形だよな)

 

 ほわわんとした返事が聞こえたが、すぐに中で小さく「えぇ~っと、どうしましょう~」という声が聞こえたと思うと、急にガタガタと音がし始めるのだった。

 その音に一刀と司馬孚は顔を見合わせて笑っている。そして「もう素直にあきらめなさい」と司馬孚は優しく大き目の声を掛けるのだが「でも~兄上様が~折角いらしたのに~です」と返てくる。その言葉を聞いて司馬孚の表情が微妙に変わる。

 司馬孚は、一刀に向かって少し小声で聞いてきた。

 

「北郷様、兄上様……とはいつの間に季達と兄妹の契りを?」

 

 朝食の時には皆、母の前だったからかまだ『北郷様』と呼んでいたのだ。

 司馬孚は『兄』という言葉に凄く親しい感じが羨ましくて……いや、司馬家ではこう言った『義兄妹』の契り等は非常に重要であったのだ。安易に結ぶものでは決してないものだと。当然、その事は末妹の幼達まで周知なはずなのだ。

 

「えーっと……」

 

 一刀は、言い淀む。それに対して、司馬孚は改めて問う。

 

「あの、季達だけ……ですか?」

「いえ、季達以下五人と……」

 

 『五人』と『もう呼び捨ての間柄?』に思わず「まぁ」と声が出る司馬孚であった。

 

「皆からはもう『兄』と呼ばれましたか?」

「……はい、最初は五人から同時にですけど」

 

 一刀は正直に答えるしかない。隠しても良い事ではないだろう。司馬孚は、少し呆れながらも、妹達が決めた事に少し優しい顔になっていた。

 

「北郷様……あなたには司馬家の娘達と『義理の兄』としての義務が発生しています。それは互いに解約が無い限り死んで以降もずっと残ります。……妹達を大事にしてやってくださいね」

「はい」

 

 司馬孚へしっかりと頷き、真摯に返事をする一刀だった。司馬孚の只ならぬ雰囲気だが、一刀は『兄』について引っ込めるつもりは毛頭なかった。彼女達から是非にと頼まれ、自分も承諾したことなのだ。

 雲華から一度口にしたことは、そう簡単には曲げられない事を学んでいる。『義理の兄』として最善を尽くすのみである。それに……天涯孤独はやはり寂しいのであった。

 司馬孚の頬は、少し赤らんでいた。

 司馬孚と一番仲の良い六女の司馬進はハキハキしている分、気に入らない者にもハッキリとした態度で示す実はかなり気難しい子なのであった。その彼女にまでアッサリと兄と慕われているとは――さすがは私の『想い人』だと。

 

「お、おまたせ~しました~です。兄上様~、蘭華姉上様~少し散らかっておりますが~どうぞ~です」

 

 見た目は重そうな折り畳み戸の扉だが、スムーズに内側から頭冠を乗せたほわわんな髪を揺らし笑顔の……少しバツが悪い表情の司馬馗が二人を部屋へ迎えてくれた。

 

「おおおっ!」

 

 散らかっていると言われたが、一刀の現代の部屋に比べれば全く気にならない。また、それがどうでもいいぐらい良い光景の部屋であった。それに……少女の部屋中に漂う女の子な香りが素晴らしいの一言である。

 そこは、三階まで吹き抜けの南窓側が三丈半(八メートル)、奥行七丈(十六メートル)程の広い長方形な部屋に、窓際は二階三階まで階段によって繋がれた奥行二丈(四メートル五十センチ)ほどの床がそれぞれ有り、長椅子等が置かれ、外にもバルコニーが続き、各階の窓際で外や庭の景色をゆったりと見れるようになっていた。まさに圧倒的な解放感がそこにあった。

 また入口側の壁も二階まで階段によって繋がれロフトのようになっているとともに全面が巨大な壁面収納になっていた。

 この建物は二年ほど前に司馬懿が考案して改装したらしい……先進的すぎるよなぁ。

 司馬馗の大きく古風な中華様式の寝台は、一階の窓際に置かれ朱色で平らな木枠の天井の有るお姫様仕様なものであった。

 床にはよく磨かれた黒の石材と木材がバランスよく敷き詰められ、柔らかい敷物が幾つも敷かれていた。

 そして……可愛い動物のぬいぐるみのようなものが部屋中に多数置かれていた。

 どうやら、先ほどはこれを片付けようとしたらしい。入口上のロフトから一つ二つと目の前に落ちてきた。

 「ああ~」と司馬馗は慌てるが、一刀が先に猫のような丸っこい枕程のそれをゆっくりと拾い上げる。良く見るとそのデザインは兎も角……非常に丁寧に縫われ造られていた。

 

「これは……? もしかして季達が作ったの?」

「は、はい~」

 

 この時代では一般的ではないのだろう。すごく照れたように、そして秘密を知られどう判断されるのか、ほわわんながら緊張している感じであった。

 一刀はそのぬいぐるみを優しく撫でながら笑顔で答えてあげる。

 

「良く出来ているね、これ。女の子らしくて俺はいいと思うよ」

 

 その答えに、司馬馗の表情がパッと明るく可愛い笑顔になる。そして彼女は、少し大きめな優しい瞳を一刀へ向けて可愛いお願いをする。

 

「あの~兄上様~その子を記念に~貰ってくれません~か?」

 

 一刀は、司馬馗の気持ちを汲んで「いいの?」と確認すると、「はい~是非」と。一刀は「それじゃあ」と言って笑顔でお腹の前にそのぬいぐるみを抱えるのだった。

 そのすでに自然な『兄妹』二人の遣り取りに司馬孚は驚くも、安心して見守っていた。

 司馬馗は、「さあ~こちらへ~」と二人を窓際の二階の長椅子へ案内してくれた。入口に向かって部屋の全体がよく見えると共に、窓際の窓扉は全開にされていて庭の景色も窺える特等席だった。

 司馬馗曰くぬいぐるみは、この場所や『寛ぎの広間』で作っているとのこと。

 その後窓際の三階まで上がったりと、司馬馗の部屋を十分見せてもらった二人はしばらくのち退出した。後ろから司馬馗に「いつでも~また来てください~です」と、照れながら小さく手を振って見送られた。

 こちらへ来た細めの廊下を戻りながら、一刀がここの部屋の作りを気に入った風に見えたので、司馬孚は一瞬『よろしければここを使いますか』と言いそうになったが、くっと言葉を飲み込んでいた。

 そんなことになれば、先の雰囲気から自分より先に妹達が『想い人』とあっという間に、男女のねんごろな関係になる事が自然と想像出来たからであった。先ほどの照れながら「いつでも」というのは『夜』も当然入ってくるはずだ。

 ほわわんながら欠点の少ない司馬馗には司馬孚と違い、すでに中央から普通に良い縁談がいくつも来ていた。しかし、まだ仕官する先が決まっていないとしていつも断るのであった。だがその時の曇っていた表情から、どれも元から乗り気でないのがはっきりと分かっていた。でももし今、一刀との縁談はどうかと尋ねたら……司馬馗は頬を染めながら「あの~私で~よろしければ~」と小さく頷くのが目に浮かぶようである。

 司馬馗だけではなく、その下の四人にも縁談は舞い込んで来ている。司馬朗と司馬懿には殆ど来ていないのが不思議ではあるが、下の四人も同様の仕官を理由にやんわりと断っていたのだ。

 司馬孚自身も含めて姉妹は皆、姉へ協力したいという気持ちから、司馬朗の仕官先には一族の大事な問題として注視している。だがそれへの追随は、今の司馬孚としては絶対的ではないと考えていた。『想い人』には姉の仕官先に共に入ってもらえれば最高ではあるが、別の陣営でも『集中による一族の断絶を防ぐ為』と彼への追随に言い分は通るはずだ。司馬孚の『彼しかいない』という想いは、司馬朗への協力以上に切実なのであった。

 だが……下の四人も次の縁談相手が『北郷様』と言われれば――皆、恥ずかしそうに小さく頷くような気がするのだ。

 この人には、武や謙虚さも魅力だが加えて不思議と強く引き付けられる何かがあるように司馬孚は感じていた。

 二人は、先程の廊下まで戻って来るとさらに北へ進む。すると、一刀の滞在している平屋の客間屋敷へたどり着いた。ここには一刀の部屋も合わせると十五の部屋があった。ちなみに一刀の部屋はその中で一番良い部屋の一つである。同じ階級の部屋は五つずつ用意されている。それは、同時に同じ階級の人達が複数来た時に困るという理由からだ。

 更に廊下を北へ進むと、二つ目の客間屋敷があった。そこは厠もある場所だ。ここは以前、一刀が銀さんに連れて来てもらった所でもある。右側には中庭を望み、左側に広大な庭の眺望が広がっている。ここは二階建てで二十ほどの部屋があった。先ほどの客間屋敷の一番下の階級がここの最上位になっている。

 さらに廊下を北へ進む。すると、母屋に準じる大きさの『北の屋敷』と呼ばれる三階層の建物に付いた。ここの部屋数は五十を超える。

 

「ここは、一階の多くを母の建公が使っております。あと、二階の数部屋と三階のいくつかの部屋を次女の仲達が使っています」

 

 入口付近では使用人が三人で掃除をしていたが、二人が近付くと壁際に並び直して恭しく礼の形を取ってくれていた。司馬孚は「ごくろうさま」と笑顔と右手を軽く上げて応える。使用人達は、一刀のお腹の辺りに持っていた司馬馗のぬいぐるみへ目を止めると微笑んだ。

 漸くここで東へ方向が変わる。そして『北の屋敷』を抜けるとすぐの北側へ向かう廊下への分かれ道の所で司馬孚が説明してくれる。

 

「この北側への通路の先が湯殿になります。当家では二日に一度、入浴となっています。母屋にもありますがそちらは屋根があり、こちらは露天風呂となっています。毎回どちらか一か所が使われます」

「天気や季節で変えている感じなのかな?」

「そうですね。……あと、お客人用の湯殿も先ほど途中にあった二つ目の客間屋敷にあるのですが……北郷様にはそちらではなく、私達家族と同じこちら側を使ってもらう事になります」

 

 うおお!……一刀は思わず口から出そうになった言葉を抑え込んでいた。自分だけの為に別で用意してもらうという気が引ける事にはならないし、これぞ至高に香り立つと言っても過言ではない女の子風呂なのを凄く嬉しく思ったが……良く良く考えると、かち合わないように注意しないと超不味いよなぁと考えていたのだ。姉妹達の気持ちを殆ど把握していない今の一刀にとっては、ある意味、ロシアンルーレット(覗き=即追放?)である。

 一刀は、もはやこの司馬家内では完全に家族扱いなのであった。

 しかし司馬孚も、もし同じ時間に入浴が重なってしまったらと、少し想像して恥ずかしそうな表情になっていた。しかしそれはそれで――と思う気持ちもあるのだった。

 あえて時間を分けないのは、湯殿や洗い場が広いからでもあるのだが。

 

「申時(午後三時)から、戌時の終わり(午後九時前)まで使えますので。また、宴のある日は子時正刻(午前零時)までと伸びます」

「うん、分かったよ」

 

 結構時間に幅があるので、少し安心する一刀だった。一時間しかなかったら絶対にカチ合ってしまうところである。

 そのまま二人は廊下を東へ更に進むと、母屋の最も北の部分に繋がっていた。

 母屋は一部三階層の巨大な建物で、『食堂広間』『大広間』『応接広間』『寛ぎの広間』と四つの大部屋を有し、二つの調理室や厠、室内浴場(大浴場と小浴場)の他、八十余の部屋があるということだ。

 

 歩きながら司馬孚より母屋の説明を受けていると、二人は先ほどの出発点へ戻って来た。

 とりあえず一周したし、そろそろ終わりかと思っていたが、司馬孚は「こちらへ」と一刀を少し歩いたところにある二階へ続く立派な彫刻の施された幅の広い大階段へ案内していった。

 

「長女の伯達の部屋と私の部屋が二階にあります」

 

 司馬孚は先に階段を上りつつ、振り返って一刀を二階へ招いてゆく。二階まで上がるとまずホールのような、ゆったりした長椅子も置かれた高い天井の広い空間があった。

 

「ここより南への廊下を行くと伯達の使う部屋があります。今はまだ仕事中だと思いますのでこちらへ」

 

 先程聞いていた、明日の街会議への準備だろう。

 二人は北側へ向かう廊下を少し行くと、大きな両開きの引き戸の扉が見えた。それは高さが九尺ほど(二メートル十センチ)あるものだった。

 司馬孚は「ここが私の部屋です」と引き戸の左側の扉をスライドさせた。思ったよりも軽くすべるように開いていく。

 

「さぁ、どうぞお入りください」

 

 彼女の勧めに、「お邪魔します」と一刀は部屋の中へと進んで行った。

 先ほどから一緒に歩いていて、微かに匂っていた司馬孚の甘く爽やかな女の子の香りが、部屋に入った瞬間から一刀の全身を包んでいた。当然密かに複式呼吸+深呼吸クンカ中なのは言うまでもない。

 

 ここは北側の部屋だと思ったのだが……とても明るかった。

 二階から三階までが吹き抜けで二階から突き出た三階部分から光が燦々と降り注いでいるのだ。太い梁や柱は部分的に部屋の雰囲気へ溶け込むように露出されている。

 ここも七丈(十六メートル)四方ほどもある広い大空間な部屋であった。部屋の中にある階段によって三階窓際のロフト風な場所まで行け、そこから広い屋上庭園なルーフバルコニーに出る事が出来るようだ。

 広い部屋の中は低い家具でいくつかに仕切られていた。

 寝室には水色のシースルーな生地で覆われた木枠天井の付いた中華風ではあるが純白に塗装されたお姫様寝台が設けられていた。

 低い書物棚で区切られた座卓のある書斎のような場所もあった。

 その区切られた中でもっとも広い場所の床には、繊細な刺繍の施された敷物が敷き詰められていた。

 そしてその隣接する壁の一部には……驚いたことに剣や槍や戟が多く飾られていた。

 中には、華やかな飾りとリボンで装飾された木剣もあった。剣舞用のものだろう。

 それらを見て立ち止まると、一刀は傍らの彼女へ尋ねる。

 

「叔達さんは、もしかして武術も?」

 

 一刀の言葉に、司馬孚は壁に掛けられた一メートルほどの重そうな実剣を左手でひょいと持ち上げると、鞘から手慣れた様に右手で剣を抜いて見せながら少し照れるように述べる。

 

「はい、姉の仲達には少し及びませんが……」

 

 そう言いながら、一刀から少し離れると素早い風切り音をさせながら、鮮やかに剣を振って見せてくれた。

 

「おおおっ」

 

 一刀からの驚きの声に、そのまま彼女は暫し舞い続ける。実戦剣舞である。絶世の美女な司馬孚の舞は、その容姿に加えて本当に最高で美しく素晴らしいものだった。

 そして、動きと錬度を見ればかなりの武力だということも分かってくる。

 

 だが、やはり、そう………揺れるおっぱいは最高であるよ~(中華発音)。プルンプリン♪万歳!

 

 元が最高な美貌なだけに、昨晩の演舞以上にヤバイものがあった。だが、一刀は『狂う』ことは無く見終えていた。おそらく一刀が平気なのは、彼女の舞を見る事で膨大に発生する常人の男ではまず耐え切れない膨大なイカガワシイ想いが、『気』へ全転換されるからであろう。

 剣舞が終わると一刀は、司馬孚へ惜しみない笑顔と拍手を送った。こんな高級な『剣舞』は二度と見れないだろうという感動と万感の思いを込めて。

 一方司馬孚は、一刀の先ほどとそれほど変わらぬ笑顔と拍手に『安心』していた。そして、彼を強く想うと共に真剣な表情になり―――突然その言葉を述べ始めるのであった。

 

「私の舞をお気に入りいただけましたか?」

「うん、とっても。昨晩の演舞もすごかったけど、今のはそれ以上によかっ―――」

「では、私の事も――体もお気に入りいただけそうですか?」

「それはもう!うん!……って……ええっ?!」

 

 一刀は、言葉を遮られたようで且つ、思わず応えてしまったが余りの内容に聞き違えたかと思い改めて司馬孚の顔を見ると、頬を赤く染め恥ずかしそうにしながらも、真剣な『告白』のように感じられた。

 彼女は静かに片膝を付いて剣を床へ置くと、一刀へ恭順を示すように『鞠躬』の礼を取っていた。

 

「お願いいたします。今より、北郷様のお側近くにわたくしが居る事をお許しください。そして……司馬家を離れる際にも是非ともお連れいただきたいのです」

 

 そんな熱い彼女の言葉に、一刀は―――首を縦に振れなかった。

 正直一刀は、男としてめちゃめちゃ嬉しかったのだ。まるで確率が数億分の一の全米宝くじに当たったようなものと言えるのだから。こんな絶世の美女に告白と帯同をお願いされているのだから。こんなマグレは絶対に二度とないだろうと考えていた。

 『想われる』のは個人の心の中だけの問題なので、気分で舞い上がることも出来た。

 だが、『共に行く』となると話が全く違ってくる。

 一刀の傍にいると、圧倒的な敵にまたいつ不意に襲われるかもしれないのだ。

 それは、愛しく大切だった雲華ほどの使い手でもいきなりの暴力に死んでしまうのである。

 そんなことに、優しく素敵な『司馬家』の面々を断じて巻き込むわけにはいかないのであった。

 それに、司馬孚ほどの超美人なのだ。正直その相手が、容姿において平凡な範囲に収まる自身である必要性を全く感じない一刀であった。嬉しいけれど正直、なぜ選ばれたのかがよく分からないのも乗り切れない理由であった。

 

 自分の熱い願いに対して動かない、そんな一刀へ司馬孚は不安が募るのであった。

 彼女は今までで一番必死であった。人生を掛けていると言っていい瞬間と言えた。

 いままでは『狂ってしまう』男の人の中から相手を選ぶしかない状況だったのだ。それではおそらくこの見た目の姿から起こる欲望的な肉欲の世界のみで、自分の人生は終わってしまうことだろう。彼女はそんな人生を望んではいなかった。敬愛する司馬朗を応援しつつ、愛しい人と共に支え合って普通に生きていきたいとずっと考えていた。

 一刀のような人が現れる『この時を待っていた!』のだ。

 司馬孚は……自分の『すべて』を話そうかと思ったが出来なかった。それは、すべてを知った彼に自分の業ごと押し付けるのではなく、知らない一刀にきちんと選んでもらいたかったからだ。

 

「やはり……私ではお気に入りいただけそうにありませんか?」

 

 司馬孚は、凄く切なく悲しそうな表情で訴え―――食い下がるのであった。

 これは、男にとってはかなりキツイ展開と言えた……特に経験の少ない一刀は解決方法がまるで浮かばなかった。

 なのであまり良くないが……一刀は結論を伸ばすことにした。

 

「あの、叔達さん」

「は、はいぃ」

 

 司馬孚は余り緊張しない娘であったが、この瞬間に人生が決まるかもと思い、上ずった声で返していた。それに一刀は話し掛ける。

 

「叔達さんのことは……とても美人で素敵な女の子だと思っているよ」

「で、では……」

「でも、俺の傍は何故か死が付き纏うんだ。短い人生で終わるかもしれない。それに、君ほどの相手が、俺である必要は無いと思うんだ。だから……叔達さんはもうしばらく良く考えてみて。俺も考えてみるから」

 

 片膝を付いて『鞠躬』の礼を取る司馬孚へ、一刀は左手にぬいぐるみを抱きかかえ直して右手を差し伸べで立たせようとする。

 すると、彼女は静かに言ってきた。

 

「……分かりました。貴方様がそう言われるなら……。しかし、人はいつか死ぬものです。そして、私の貴方様への気持ちはきっと変わりません。だから―――私の真名を北郷様へ預けます。私の真名は、蘭華(ランファ)です。どうか、蘭華とお呼び捨て下さい、北郷様」

「―――!」

 

 『鞠躬』の形から頭を一段と下げて、一刀へ恭順の礼をとる司馬孚であった。

 彼女の方も一刀の事情を知らないため、『街の外の無法地帯では死と隣り合わせなのは当然』というぐらいに考え、自分の剣の腕とを測りに掛けて答えていた。

 全身を『超・硬気功』で固める死龍のような、人外の強大な殺人仙人が相手になるかもしれないとはもちろん想像していない。

 

 真名―――雲華が教えてくれたのは……死ぬ間際だった。個人差はあるだろうが、とても大事な物なはずである。それを預けるのはある意味『覚悟』と言えるだろう。司馬孚は真名を告げてから微動だにしない。呼ばれるのを静かに待っているのだ。

 

 そんな姿に、一刀は――――

 

「蘭華」

「はい!」

 

 司馬孚は嬉しそうに顔を上げ、一刀より差し伸べられていた右手を掴んで立ち上がる。そして……静々と一刀の間近へ寄って来た。

 

「あの、蘭華……さん? すごく近いんだけど」

「はい……」

 

 一刀の真ん前に立つ司馬孚との距離は十センチもない。一刀の眼前に立つ彼女の美しい髪から、更に濃い天使な良い香りが流れて来ていた。

 すでに真っ赤な顔をして照れている上目使いな彼女だが、さらに一刀の手を両手で優しく掴むとその胸元に引き寄せるのだった。

 一刀の右手の甲に、彼女の柔らかな栄光の部位の温かみが強く感じられた。

 そして、彼女は更にくっ付いて来た。その頬を一刀の胸に寄せるほどに。

 

「蘭華……?」

 

 一刀が気が付くと、彼女は――――泣いていた。

 

「……嬉しいんです。こんな日が来た事が。もう少しこのままで居させてください……」

 

 彼女は、まるで何かとずっと戦っていたかのようであった。

 一刀は……家族としてポンポンと背中を叩いてあげながら、やさしく彼女を抱きしめていた。

 感覚的には七、八分経っただろうか、一刀はまだ司馬孚の背中を時折ポンポンと叩いてあげていた。もう、泣いている気配は感じられなかったが。

 すると彼女から声を掛けられた。

 

「……北郷様は、お優しいんですね。抱きしめていただいて……とても嬉しいです。あの……その……お礼に、このまま寝台まで……行きますか?」

「行かないから!」

「う~ん、残念です。あの……いつでもお声を掛けくださいね」

 

 司馬孚は、飛びきりの笑顔でそう言ってきた。

 彼女は、涙を流して数分は本当に泣いていたのだが、そのあと愛しの一刀がどんな態度を取ってくれるのか観察していたようであった。そのあとにこうして少し誘ってみたのだ。

 すでに、熱い想いを固めている彼女には早いか遅いかの事と言えるのだ。覚悟を決めた女の子は強いのである。

 しかし一刀はさぁさぁと、顔は笑顔で心で超~悔やみつつ、いつもの距離まで司馬孚の両肩を軽く掴んで離していく。

 

「屋敷の案内をありがとう、蘭華。それから……真名を預かる代わりに俺のことは一刀と呼んで欲しいかな」

「……はい。では、一刀様……で」

「うん、改めてよろしくね」

「はい」

 

 敬称はいらないんだが司馬家の客人では付いてるのが自然そうなので、それで納得する一刀であった。

 

 

 

 

 

 

 

 袁紹の黄巾党討伐の洛陽遠征軍三万五千は、予定通り翌日昼前に本拠地の冀州魏郡鄴城へ到着した。

 久しぶりの主君の帰還を、文醜、田豊、張郃(ちょうこう)ら主な将達が城門の外まで閲兵と共に迎え出ていた。

 馬六頭立ての戦車から、皆が迎える城門前広場へ颯爽と袁紹は降り立った。その姿を見ていた諸将らは静かに少しずつざわめいていく。そして、袁紹の本質的な雰囲気の異変に気付いた田豊は止めようとしたが、文醜が自然といつものノリで声を掛けてしまう。

 

「姫さま~、それ~なんですか? 似合わないっすよ~?」

 

 そう、袁紹はあの蝶の仮面を着けて戦車から降りて来たのだ。宴会のときならまだしも、平日の職務中にその姿を見ると、パッと見は異次元的に違和感を覚えるものである。なのでまともな臣下なら、普通は声を掛けてしまうのも当然と言えた。

 だが、あの側近にはお気楽で割と温厚であった袁紹から返ってきた、ゆっくり気味で且つ後半の低く厳しい声の言葉に―――皆が震え上がる。

 

「なんですの文醜さん。主君の私に何か文句でも? 余り軽口を言っていると許しませんわよ」

「文ちゃん、麗羽様に謝って! お願い!!」

 

 後方から馬で掛け込んで、慌てて飛び降りて来た顔良の雰囲気が只事ではない。

 それに――袁紹の雰囲気がいつもの呑気で明るい部分が完全に消えていたのだ。そして、目が冷たくギラギラとしているのだった……。

 文醜は、顔良の悲愴な表情を信じて、右手のこぶしを目の前で左手のひらで包み、お辞儀の姿勢をとる『叩頭礼』で主君へ恭順を示し、普段は流すように言う言葉をきちんと述べて詫びる。

 

「麗羽様、申し訳ないです。久しぶりにお顔を見れましたので、調子に乗ってしまいました。以後気を付けますっ!」

「ふんっ、……そうなさい」

 

 袁紹は、仮面の奥から鋭く冷たい目線を文醜へ向けて来てそう言い放っていた。

 周りは兵も含め、ざわつき驚いていた。これまでの袁紹に対して側近の文醜がこのような礼を取ったことなど殆ど見たことが無いのであった。まさに『なにを言ってもやっても大目に見てもらえる』立場の将だったのだ。

 袁紹へ頭を下げていた文醜はふと気が付いた、戦車からもう一人さり気なく降りて来た事に―――それは僅かにニヤニヤした感じの審配であった。

 審配は、以前からイマイチな政策と過激な戦略を主張する献策をし、会議にて田豊、顔良が反対し、田豊が改良点を添削してあげて返していた人物。陣営では武も知もほどほどの将だ。だが、彼女の長いストレートな髪で片目だけ見えてるという暗い雰囲気からか、袁紹のウケは今一つだったはずなのだ。

 田豊もその意外な人物に、猛烈な違和感を覚えていた。

 

(なぜ彼女が麗羽様と一緒にぃ? 先日、この城で見かけたのに……鄴から外へ移動すると言う知らせは受けていないしぃ……)

 

 袁紹は、城内に入ると休憩もそこそこに、宮殿内の謁見の間へと諸将を集めていた。 集まった居並ぶ諸将を前に、袁紹は州牧の椅子にゆったりと座り相変わらず先ほどの異色な蝶の仮面を着けている。

 この招集は、現状の領内の状況の確認と、袁家の戦略の再確認かと思いきや、袁紹はこれまでの政策や戦略とは方向性が違う事を言い出すのであった。

 これまでの戦略では、まず袁家の華北全域への影響力を広げる事であった。それにはまず、華北の南部を少しずつ取り込んで力をつけ、北の公孫賛を討ち、その後華北西側の幷州を制して華北全土を掌握。その後に大陸中央へ影響力を伸ばす形が基本とされている。

 まだまだ始まったところに過ぎない所だが、それがなんと……公孫賛とまず話をすると言い出したのである。

 

「流葉(るーいえ:審配)さん、あのパッとしない白蓮(ぱいれん:公孫賛)さんをここへお呼びなさ~い。予定通り話をして、私の袁家千年帝国の建国に協力してもらいますわ」

「はっ、直ちに使者を出します」

 

 その場にいた全員が顔色を変える。

 

((((袁家千年帝国の―――建国?!))))

 

 その内容と指示に思わず田豊は、そのトレードマークと言うべき赤い縁の眼鏡を落としそうなほど驚き、大きな声を上げていた。

 

「麗羽様、千年帝国とは一体、ど、どういう事でしょうかっ? 袁家にはまず『華北全土を掌握』という戦略がありますのにぃ。平均的で長所のない公孫賛殿と話をするなど……無駄です。呼び出して闇討ちにするなら別ですが、それも猛将の趙雲が傍にいますし失敗するでしょう。それに、建国などとぉ……中央に伝われば、ああぁ、逆賊・逆臣と言われましょうぅぅーーー!」

 

 すると、袁紹の横にいる審配から声が発せられた。

 

「田豊殿、おだまりなさい! 我々臣下は、主君のお考えを実行する立場にあります。姫様が公孫賛殿と協議したいと仰せなのです。今、中央は賄賂漬けに加え、内部の権力争いが絶えない魔窟に成り下がっています。我らの主君がそれを正すのです! ですが、まだ立つには時期尚早。今は勢力を結集する時期なのです。そのような姫様の高尚なお考えに貴方の『小さき妄想』と異なるからと、公なこの場で堂々と異論ありとは……貴方の方こそ主君に逆らう逆臣ではありませんか?」

 

 それだけ言うと、ドヤ顔の審配であった。

 だが……田豊は一歩も引くことはなかった。

 

「何を言いますか! 真の臣下は主君の間違いを諌めるものですぅぅーー! 麗羽様、その考えは間違っておりますぅぅ! なにとぞ、以前の戦略へ戻されますようご再考くださいませぇぇーーー!」

 

 田豊は、審配の顔ではなく袁紹の顔を見て訴えていた。

 その時、審配の反対側に立つ顔良が田豊へ合図をして来ていた。鼻先を左手の人差し指と中指で触り『わたしも加勢しましょうか』と。

 田豊と顔良は、随分前から不測の事態に備えて色々考えていた。その時に、会議での加勢や助言などの合図も決めていたのだ。しかし、田豊は『加勢は見送って』という『右手を握って親指だけを立てた状態の拳を右耳に当てる』合図を送り返していた。状況から加勢する人物も危険になると判断しての事であった。

 

 袁紹は動かない。

 すると、余裕の表情で審配はこう言い始めた。

 

「それでは、麗羽様に決めて頂きましょう。私は麗羽様の先ほどの発言に大賛成です。さあ、麗羽様、そこの主君に逆らう物言いの田豊殿の意見か、私も大賛成の麗羽様自身のご意見かを……どうぞ」

 

 すると、袁紹は徐(おもむろ)に立ち上がる。そして、冷たく静かに怒りの声で告げていた。

 

「真直(マァチ)さん……いえ、田豊よ。残念ですわ……。わたくしの考えが絶対ですのよ。そして、従わない者に―――用はありませんの」

 

(えっ?)

 

 田豊は耳を疑った。お叱りの声かと覚悟していたのだが……用がない?と。

 側近中の側近と言える田豊へ信じがたい厳しい内容の言葉に、謁見の間にいる諸将も緊張の余り水を打ったように静まっていた。

 

 そこで、審配が冷酷にニヤニヤしながらワザとゆっくり言葉を述べる。

 

「麗羽様、逆臣など、もはや生きていても仕方がありませんわよねぇ」

 

 袁紹は、審配のその言葉を聞き終えると、田豊へと冷酷な言葉を続けた。

 

 

 

「終わりの無い暗闇の獄で、新帝国建国の知らせを聞いて冷たくなるまで、ゆるりとお過ごしなさいな」

 

 

 

 袁紹勢力の筆頭軍師である田豊は、この日より鄴城地下の薄暗い湿気た地下牢で鋼鉄の足枷を付けられた上で投獄されたのである。

 

 

つづく

 

 

 

 

 

司馬八令嬢小話(和華編) 『ほわわんなんて~言わせま~せん!』

 

 司馬家四女は、名は司馬馗(しばき)、字は季達(きたつ)、真名は和華(ホウファ)という。

 見た目というか、ふわふわのウェーブな髪の雰囲気や話し方はおっとりしているが、人見知りや物怖じなどはしない性格だ。

 本人曰く『ほわわん』という表現は正直―――心外な表現である。

 目もパッチリしている。グルグルではあるが決して眠そうではない。

 そして、結構気分屋な司馬懿や、殆ど外に顔を出せない司馬孚ら二人の姉に代わって、司馬朗の代役も務めることも少なくないのだ。

 頼れる四女と言える。

 ただ……片付けは苦手なようであった。

 彼女の趣味は縫いぐるみ造りだ。動物の、犬や猫や兎や馬や虎や熊や竜や麒麟等を可愛くしたような表情を持つ丸っこい縫いぐるみが、五日に一つくらいは増えている為、それらが彼女の広い部屋を埋め尽くそうとしていた。

 そんなある日のこと―――

 

 

 

 先程、朝食後の食堂への扉を出た辺りにて、当家のお客人である北郷様を母上様と優華(ヨウファ)(司馬朗)姉上様、蘭華(ランファ)(司馬孚)姉上様の三人のいずれかが、屋敷内を案内するという話をしていた。

 北郷様とは早朝義兄妹になったばかり。私は『兄上様』と呼ぶことにしている。

 兄上様は、とてもお強い武人で凶悪な賊を母上様の目の前で倒したと言う、背が高くて……優しそうな素敵な方だ。

 時々都や各所からお見合いや縁談が来ていたが、いつも乗り気がしなかったのは、この兄上様に出会う為だったのかもしれない。

 大体、母上様や優華姉上様がここまで認める男の方は、これまで聞いたことも見たこともない。でも昨日の昼間、客間の扉の隙間からみたお休みの表情と、昨晩の宴会で初めて近くでお会いしてみて―――私も気に入ってしまった。

 これは司馬家の『血』のためなのかもしれない。

 

 兄上様が屋敷内を見て回る事を聞いた私達下の姉妹五人―――私と、環華(ファンファ)(司馬恂)、白華(パイファ)(司馬進)、思華(フーファ)(司馬通)、小嵐華(シャオランファ)(司馬敏)は本屋敷敷地の西側に位置する三階建ての長方形な建物である姉妹用の屋敷に戻ると、私の部屋に集まって兄上様らがこの建物にも見に来るのかという話になっていた。

 各姉妹の部屋は埃やゴミ等は使用人により掃除されていたが、基本置いてある物はそのままなのだ。

 其々の妹達の部屋は散らかっていたのである。

 そして、兄上様に対して恥ずかしくて『見せられない』という話になっていた。

 環華は、眼鏡を人差し指で上げながらキツめに発言する。

 

「なんで、大事な事なのに予告がないのかしら」

「きっと母様や姉様方は早々に綺麗にして準備されてたのでしょう」

 

 白華はズバリ確信を付いて来る。

 きっとそうだろう。私もそう考えた。

 

「………ずるぃ……ぉ(かぁ)様方……」

 

 思華もこの面子の時は、無口なりに話をしている。驚いたが、初対面な兄上様とも私達家族と同じように『かなり』普通に話が出来ている。奇跡と言える気がしている。やはり兄上様は私達と『相性』が良いのは間違いない。

 思華は長年いる使用人達ですら、月に数えるほどしか会話をしていないのだから。

 

「私は、別に兄上様なら全部見られても気にしません!」

 

 胡坐を掻いて頭の後ろで手を組み、ハニカみながら元気に告げる小嵐華の意味深な発言に輪を作る様に座る皆が顔を見合わせる。

 

((((ゴクリっ……ぜ、全部見られても……))))

 

 そ、そういう考えもありかな。わたしもちょっと同意し掛ける。

 しかし―――

 

「あ、兄上様達がきます!」

「え? シャオラン、ホントなの?」

 

 環華が、急ぎ立ち上がって聞き返す。

 

「兄上様の雰囲気が近い気がします!」

 

 小嵐華の動物的感は良く当たったので、全員が急いで立ち上がり、各自の部屋へ慌てて戻って行く。

 

 『全部見られても……』

 

 一瞬そうも考えたが、乙女として努力は放棄したくない。

 とりあえず、下にある縫いぐるみだけでも―――

 

和華(ホウファ)(司馬馗)、いますか? 蘭華です。北郷様に部屋の中を見せてあげて欲しいのですが」

 

 ガーン。よりにもよって私の部屋から?! いや、まだ間に合う。間に合わせるぅぅぅ!

 

「は~い、少しお待ちください~ませ」

 

 しかし、足元や床には山ほど縫いぐるみ達が転がっていた。これを床に積んでもしょうがない。思わず私は声を上げててしまう。

 

「えぇ~っと、どうしましょう~」

「もう素直にあきらめなさい」

 

 すかさず、扉の外に立つ蘭華姉上様の無情な声がした。

 

「(あ~ん、姉上さまはいい~ですよ、準備が~済んでるの~ですから)でも~兄上様が~折角いらしたのに~です」

 

 同時に思った正直な気持ちも口にしながら、私は目線を上げた。

 すると、入口の上には開いている空間と収納があったのを忘れていた。私は必死で傍の縫いぐるみを集めて抱え、階段を上って入口上側の空間と収納へ何往復かしていた。

 漸くなんとか……山にはなったが移動させ終えると、扉の外で待つ兄上様ら二人の客人を部屋に招き入れ、部屋の中や窓際の階層等を見せて回った。

 そして無事に二人を外へと見送った。

 当初縫いぐるみが数個崩れて来て見苦しいところを兄上様に見られてしまったが、結果的にぬいぐるみを一つあげる事が出来たので良かったかな♪

 

 そう思ってニッコリしながら部屋の扉を閉めた瞬間、入口の上の縫いぐるみの山が一気に崩れて来てしまった。

 

「うひゃぁぁ~~~ん」

 

 私は縫いぐるみの山に埋もれてしまっていた。

 

 

 

 ――どうやら『ほわわん』と言うより司馬馗は……少し『ドジっ子』だったみたいだ………。

 

 

 

小話(和華編)END

 

 

 

 

 

 

司馬八令嬢小話(白華編)『ダイスキですが、なにか?』

 

 司馬家の八人姉妹の六女は、名を司馬進(しばしん)、字を恵達(けいたつ)、真名を白華(パイファ)という。 おかっぱな髪で、思ってることをハキハキハッキリと話す娘である。

 そのためか論戦に強く、司馬懿を推して国語・漢字博士とも呼ばれる。

 

 司馬家の娘には特殊な力を持っている女の子が数名いる。

 次女の司馬懿は先見の感を持つ。

 三女の司馬孚は、見た者を男性を肉欲へ狂わすほどの異常な魅力があった。

 そして司馬進も―――

 

 彼女は、他人に出会うとその人物の根本を感じ取ることが出来た。

 だが、そのままその事を相手にハッキリ言ってしまう大きな欠点も併せ持っていた。

 

 過去、白華(パイファ)らがまだ小さい頃に、母司馬防の勤め先のある洛陽へ家族が少しの期間、滞在した時の事だ。

 母の司馬防へ、中央に勤めるまだ若いが要職に就いている徐(ジョ)という男が近づいて来た。

 母も若いため、人当たりが良く気の利くその男を、ある日家に招いたのだ。

 姉妹らも呼ばれ、家族が広間に揃う。

 すると母から娘達の紹介が始まり、その男へ娘の一人だと紹介された瞬間―――白華(パイファ)は言った。

 

「この人は、いけません。身持ちが悪いです。他にも女がいっぱいいますね。それに、蘭華(ランファ)(司馬孚)姉様を狙っ―――」

「何という事を言うのですか、白華!」

 

 母に口を塞がれ、横にいた明華(ミンファ)(司馬懿)へ命じ、部屋の外へ連れ出されていった。

 

「すみません徐さん、お気を悪くしないでくださいませ」

「いやいやー、はははっ、気にしておりませんから――」

 

 そんな事を言っていた徐という男は、居心地が悪かったのかその後すぐに帰って行った。

 白華にも珍しくハッキリと感じ取れたのだ。

 ――女を食い物にする男。あの男が狙っていたのは、母をイチモツで虜にしたあとに―――綺麗な蘭華姉様をたっぷり貪ろうと元からゲスな考えだった事を。

 母の司馬防は怒っていたが、しかし……そのあと、近くにいた明華が放った言葉の方が衝撃的だった。

 

「あの人は近いうちに―――死ぬから。やめた方がいいですよ、母君」

「「「「「「「「!………」」」」」」」」

 

 母と、その場にいた他の姉妹達は絶句する。

 そして、その男は十日ほどのちに……ホントに死んだ。弄んでいた部下の奥方にブッスリ刺されたという―――。

 

 

 

 

 時は流れ―――河内郡温県で平和に過ごすそんなある日、一人の若い男が司馬家の屋敷に運び込まれて来た。

 その男は、街の門を破って逃げようとした凶悪な盗賊を倒したという事で、母のお客人としてこの屋敷に住むという。

 

(若い男……母様にまた近寄ろうとする俗人なのか……でもまぁ)

 

 洛陽の徐という男の一件以来、元々慎重な母だったが更に慎重になった。男を見る目が厳しくなり悪い男には、まず引っ掛からない。

 また、以前の一件から『絶世の美女』な姉の蘭華は、何かに掛けて白華に良くしてくれる。病気になって寝込んだ時は、いつも母と徹夜で付いてくれたりしてくれる。

 蘭華姉様の、何かに一途になる所が白華も大好きである。

 白華自身も人前に余り出れない大きな欠点を持つ身でもあり、あれから『異常な魅力』の所為で、表を普通には歩けなくなっていった蘭華姉様とは共に感じる所があったのだ。

 

 さて、我が『司馬家』へやって来たその若い男は何者なのか。

 とりあえず、下の姉妹五人で話し合い、休んで寝ていると使用人から聞いた客間へコッソリ様子を見に行こうという事になった。

 廊下を忍び足で進み、目的の客間の折り畳み戸の扉の前まで来る。

 

 この五人の中で年長の和華(ホウファ)(司馬馗)姉様が僅かな隙間から覗き込む。お客人の表情が見えたのか呟く。

 

「なにか、少し優しそうな人~ですわ~」

 

 その言葉を聞いて、環華(ファンファ)(司馬恂)姉様、白華、思華(フーファ)(司馬通)、小嵐華(シャオランファ)(司馬敏)が口々に言葉を漏らす。

 だがこの時、白華は和華姉様の表情に違和感を覚える。これまで縁談等が来る時や男の人が絡む表情は、何処か乗り気でない影が出るのだが今の表情は頬が少し赤いのだ。

 

「ふん、身内以外の男の方を、お母様が家に住まわせるなんて」

「どういう方なのか詳しくハッキリ知りたいですね」

「………ぁぅぅ」

「お強い方らしいので剣を習いたいです!」

 

 しかし、これらの発言でこの直後、母に追い払われてしまい、白華はそのお客人の表情を見れずに姉妹用の屋敷へ引き上げた。

 五人の姉妹で姦しく話し合う。

 この場へ戻った後、やはり和華姉様はお客人を悪く言わない。母に気を使ってるわけでもなさそうだ。

 環華姉様は、闘志むき出しで『他人はこの屋敷から追い出すべし!』と息巻いている。

 思華は、母に気を使っているみたいで無言で発言は控えているようだ。でも内心では激しく思考が渦巻いている子なのだ。

 末の小嵐華は、若い男で武が立つと聞いて嬉しそうな意見だ。

 白華自身は、見ればすぐ分かる。なので夜の宴まで保留とした。

 

 間もなく夜を迎える。

 そして、白華は『食堂広間』で開かれた宴の席で若い男のお客人に会った。

 何か偉大な……底知れない白く眩しさを感じる。愛するものを守ろうとする勇気、大切な者を死んでも守りたい。だが最も注目すべきは――無限で『正義』のエロス……変態紳士がここにいた!

 

 出会ってしまったと言うべきかもしれない―――兄様にもしたい『夫』と言う人に。

 

 

 白華にとって、こんなことは初めてだった。

 直接、お客人の前に立ちながら、ハッキリと考えを告げられなかったのだ……。

 何故だろう。

 

 

 

 いや、この『大好き』という熱い想いをハッキリと伝えるのが―――ハズカシイからだ。

 

 

 

 人前で言えない事、言ってはいけない事もあるという事を、白華は初めて自らの経験で強く学んでいた。

 それと……もともと白華はエッチな事に興味のある子だった。

 物心ついた後に、母と父の淡泊ながらもその夜の営みを見てしまってから―――。

 それから、コッソリ男女の営みについての本も読んで勉強もしている。

 いつか自分と子作りをする好きになる人のために。

 白華は操は堅いが実は……(大事な人とのエロい事が大好きです。母の娘ですし♪)

 

 

 

 今度、彼女はハッキリと兄様に言うつもりである、『何人子供がほしいのですか?どんな体位がお好みですか?』と。

 

 

 

 彼女は思う。『変態淑女』が居てもいいですよね、と。

 

 

 

小話(白華編)END

 

 

 




2014年07月05日 投稿
2014年09月01日 文章修正
2014年09月12日 北の屋敷から西側→東側…文章修正
2014年10月26日 文章見直し
2014年11月13日 文章見直し
2015年03月22日 文章修正(八令嬢の真名変更、時間表現含む)&小話(和華編+白華編)追加
2015年03月28日 文章修正
2015年03月30日 小話ルビ化



 解説)孫堅の各地転戦
 当外史での動きとして見てくださいませ。



 解説)劉表
 完全なる新勢力。
 ちなみに新野は、現在南陽郡に所属し袁術の領地。



 解説)司馬家『本家屋敷』の奉公人(17話、18話の下人の呼称は使用人へ変えました)
 守衛は四十八名(うち女性は十名)。
 広大な屋敷には四か所に門がある。外壁の周囲も不定期に巡回している。
 身元と合わせ、腕が優先されるため世襲制はない。勤続年数に対して退職時に特別金が支給される。
 それでも二十名以上は代々仕えている。
 守衛、守衛長、守衛隊長の三階級に分けられる。
 その中で守衛長は三名、守衛隊長一名(女性)。
 家事使用人は三十七名(うち女性は三十四名)。
 こちらは、代々仕えているもののみである。
 使用人、使用人長、筆頭使用人長の三階級に分けられる。
 その中で使用人長は四名、その四名の一人が筆頭使用人長(女性)。
 守衛隊と使用人隊の各一隊は司馬防に付いて都へ行き来している。
 普通の奉公人と違い俸給も数倍高く、街中でも一目置かれる高級奉公人達である。



 解説)司馬家の真名のルール
 『非常に愛しい者』にのみ預けます。同僚や主君であっても預けてもらえない可能性が高い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➋●話 (熱い夜)

 

 

 

 四ケ月近く前の、あの暗殺仙人による襲撃の次の日の昼前の事。

 

 

 

「……誰カナ?」

 

 

 

 この時はまだ『悪魔』さまだった、蘇った雲華の第一声である。

 それは、邪気に取り込まれた一刀の、心の叫びの様な呟きと同じ内容の言葉であった。

 彼女の体は、一刀が作ってくれた小さなお墓下の土中から、木人によって掘り起こされていた。

 

 

 

 

 雲華は、一刀の腕の中で亡くなる直前に、最後の力で仙術の『魂の憑依』を行っていた。まだ、自分の気力の一部を残していた木人側へ退避したのだ。

 彼女は、『死んで』からも窮地の連続であった。

 まず憑依自体も、初めから成功が約束されていない掛けであり、その事すらも一時的な処置に過ぎない。

 そしてこの後すぐ、次に大きく損傷を受けた自分の体を復元する必要があった。

 なぜこの時点で、一刀に協力を頼まなかったのか……一つは、損傷の酷い体に対しては『膨大な良質の気』が必要であった。完全な修復が行なわれ、そのあと実行予定の『魂の帰還』までたどり着け、確実に成功するかは不明であった。もう一つは冷静な判断が出来なくなっている今の一刀が、一気に死力を尽くし過ぎて自身のすべての気を使い果たし、死ぬ可能性も高かったからであった。雲華としては、一刀を巻き込んでまでの共倒れは絶対に避けたかったのだ。

 そのため、雲華が初めに対応すべき問題は気が全く足らない事であった。彼女は、木人に憑依してから延々と気を周囲から集め続けている。自力で最後の『魂の帰還』まで出来るかの可能性は……二割ほどしかないと考えていた。早くしないと体が腐敗してしまい、魂も霧散してしまうという常に厳しい時間との戦いであった。

 結局、魂の霧散の刻限が迫る中、次の日の昼まで掛けて膨大に集めはしたが十分とは言えない気の量に、傷みが進んでいるであろう自分の体を復元できるかは、すでに非常に『分の悪い掛け』になっていた。

 物置小屋から外に出る頃に辺りを探ってみると、すでに一刀の気を周辺に感じることは無く、巨木の家の近くに『彗光の剣』を立て掛けて置かれた自分の墓のみが残されているのを見つけた。

 そして、彼がもうここを立ち去っていたという現実に寂しい気持ちが込み上げる中、木人姿で慎重に自分の墓を掘り起こしてみて驚いた。なんとそこにある自身の体は―――復元が完璧な状態で、さらに細胞までがどういうわけか新鮮保持されていたのだ。

 

(一刀……ありがとう)

 

 雲華は、彼からの思いやりと大きな愛を感じていた。すでにボロボロの朽ち果てた体であったのに、欠損や負傷のない状態まで綺麗に復元してくれてから葬られていたのである。

 彼女はその状態を無駄にしない為、すぐに丸々残った自身の充分な気力を使い、慎重に仙術の『魂の帰還』を行った。

 

 

 

 

 雲華は元の体で墓穴から起き上がると、全身の土まみれな状況と肺の中の空気が埃っぽい事に僅かに顔を顰める。そして、この状況の原因となった襲撃の指示者へ、その怒りを含んだ「誰カナ?」という疑問の言葉は向けられていた。

 過去に暗殺仙人を何名も退けた自分ならまだしも、命(体というべきか)の恩人で且つ、唯一の愛しい者を殺そうとした相手……。彼女の表情と眼光は凄まじい殺気を帯びていた。

 

 

 

 『悪魔』さまは―――『ゆるさない』のである!

 

 

 

 当然彼女は、すぐに一刀を追う事も考えた。だが、それよりも自分にしか出来ない、しなければならない事があるのではないかと考えたのだ。

 

『ずっと、ずっと見てるから――』

 

 傍に居る事だけが『見ている事』にはならない。まず得体のしれない人の外にいて、彼を排除しようとする敵を葬り去ってやると決意していた。

 

 雲華は、穴が開(あ)き胸元の露わになったボロボロの紅のチャイナ服と埃まみれの体を着替えようと、倉庫横の庇の下にある水瓶から水を汲んで近くに掛っていた手ぬぐいを濡らして顔と手足を何度か拭う。この後、着替えを取って温泉に行かざるを得ないと考えていた。

 そして、広場から梯子を上り家の食堂へと入っていった。

 するとそこには……食卓の上に一刀の旅の荷物がまとめて静かに置かれていた。まるで別れを告げるかのように、想い出を置いていくかのように彼女には見えたのであった。

 それを見ると猛烈に寂しくなり、一刀に会いたい!元気な自分の姿を見せ、抱きしめて彼にスリスリしたい!という衝動が噴き出してきた。

 雲華は着替えの事など忘れ、扉を開けて一刀の後を追うべく、家の外へ『超速気』で飛び出していった。

 しかし、結界の出口へと続くあの直線の曲がり角へ来た時に、左脇から森の奥へと広がる広大な一刀の放った『神・気導砲』の跡地が目に入り、思わず歩を止める。

 あの時、直接目視していたわけではないが、気を捉える事でほぼ見たままの状況は掴んでいた。当然あの一刀の纏った圧倒的に途方もない気も。

 

(……今すぐ一刀に会いたい。しかし―――彼は普通とは違う。いつの間にか奥義の『現想行体』をも使っていたりと、あの力は『神』に通じるものだわ。間違いなく……何かを成す為にこの世界へ降りて来たのよ。彼はもう十分強い。わたしが傍に居ては甘やかしてしまいそうだし、ううん……私が甘えてしまいそうだわ。……きっとすぐに……子供が出来ちゃうかも。形は違うけど、これも彼の『旅立ち』なのかな……)

 

 そう、彼と再会し『メロメロのデレデレな夫婦生活』をするのは『一通り』終わってからよね♪と思ったのだ。

 

 雲華は、その状況を想像してゾクリとし、そして不敵に―――ニヤリとしていた。

 

 

 

 ここに、『魔王』さまが誕生する!

 

 

 

 そうなった時、彼はきっともっと『強く大きな人物』になっている事だろう――私の伴侶にさらに相応しくと。

 

(もしかしたら、多少の色(女)が付いてくるかもしれないけど………彼に相応しいかはその子達の器量とともに彼の総合評価として判断しましょう♪)

 

 これが本妻の余裕なのか―――雲華はそう考えているのであった。

 

 雲華は再び巨木の家へ戻り、軽く食事を取ると着替えを持って温泉へ向かう。そして、自分の体は一刀が治してくれたものだと感謝しながら、丁寧に身綺麗にして家まで戻って来ると、温泉に浸かりながら考えていた行動へとすぐに取掛かった。

 彼女は、あの愛用していた紅のチャイナ服を失ったが、お揃いの紺色の光沢のあるチャイナ服を作っていた。黄色の刺繍による見事な花びらを持った華麗な花が描かれている。今はそれを身に着けていた。

 さて襲撃者のアテだが、一刀にはさっぱりだったが、雲華には当然伝手がある。

 

「余りあの方を煩わせたくはないのだけれど……しかたないわね」

 

 そう、彼女の使う仙術『神気瞬導』の師匠である真征(しんせい)だ。

 数少ない超一流の仙人だけの称号、天仙の位にある女性仙人だ。年齢は……弟子の嗜みと共に怖くて聞いたことはないが、千を軽く超えているのは間違いない。齢千三百歳を超える老仙を小童扱いで呼んでいたのを知っているからだ。当然、経験も知識も情報網も非常に豊富と言える。

 旅支度を整えると、師匠の元へ早速出発していった……木人と木馬を従えて。

 

 

 

 

 

 

 五岳(ごがく)。

 大陸にある道教の聖地となっている五つの山の総称である。

 五名山とも呼ばれ、陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北の各方位に位置し、その五つの山、東岳泰山、南岳衡山、中岳嵩山、西岳華山、北岳恒山が聖山とされる。

 位置関係は簡単に並べると以下の感じになる。

 

      北岳恒山

 西岳華山 中岳嵩山 東岳泰山

      南岳衡山

 

 それぞれの山は仙人界の重鎮らが住み守っている。

 雲華の師匠の真征(しんせい)は揚州予章郡廬陵(ろりょう)県にある南岳衡山に居を構えていた。

 衡山は、泰山からおよそ三千里(千二百キロ)南にあった。雲華の住む泰山にも仙人界の重鎮らはいる。なぜに雲華は師匠の傍にいないのか。

 仙人界には、人の世界とは違ういくつもの常識が存在する。

 その中の代表的な一つが――― 一人前の仙人は、師匠から遠く離れて自らの存在を示すのが好ましいとされているのだ。師匠の傍でいつまでもヌクヌクとして、その威を借る者は能力がいかに長けていようと『下仙』とされた。雲華は、幼いころからおちゃめが過ぎるところもあったが、早い段階で独立している。一人で暮らすようになり経験も積み、今はかなり丸くなって来ていた。

 また、世話になった師匠や目上、義理の者への接し方にも暗黙の決まりがあった。

 それが、『低姿低頭挺身』と言われるもの。

 常に一歩下がり、頭を低くし、有事には共に身をささげる事を是とする、と言う考えである。

 そのため訪問に際し、飛ぶ、瞬間移動すると言う『短縮・楽』な方法で訪れる事は有事以外において避けねばならないのであった。(逆に師が弟子等の目下の者へ訪れる場合はアリ)

 特に、高く(師匠の居る場所よりも上から)飛んで行くというのは『失礼極まりない』行為と言えた。

 何と言っても、真征は天仙である上に、育ての親でもあり師匠でもあるのだ。今回は更に、愛する者の為になる情報を教えてもらいに行くことになる。僅かの礼も失する訳には行かなかった。

 このため、雲華は三千里(千二百キロ)を陸路で粛々と移動するのであった。

 木馬のいいところは、周囲から集めた気力さえ分けてやれば、餌も水もいらない所である。それで、半時(一時間)に六十里(時速二十五キロ)ほどで移動してくれるのだ。

 雲華は、例の襲撃側からの追手がないか周囲へ慎重に注意を払いながら、十日ほどで三千里の道程を踏破し衡山へ到着する。天気も晴れが続いたこともあり、途中はお得意の野宿になる。移動はもっぱら『気による暗視』を使った夜間であった。さらに、木人は『従者』らしく、木馬はより『馬』らしく見えるように幻術が掛けられていた。

 雲華は衡山へ入る前に、沢を見つけて身を清めると、旋毛に丸めていた髪を丁寧に梳いて、カラフルな色の付いた紐で纏めてポニーテールへと結い直すと、正装のような非常に落ち着いた感じの服装に着替えていた。それは純白に白い糸による繊細な刺繍の施した生地をベースに、襟元等に赤と黒のアクセントが入っている裾の長めのチャイナドレスである。そして、白地に黒と赤と金細工の入った小さ目の頭冠を、僅かに左後頭部寄りの辺りに付けていた。

 着替え終わると彼女は、武器を続く木人に持たせ、本人は丸腰で静かに山を登りはじめる。

 雲華が真征の元を離れ泰山に来てからは、年に数度、仙術の『便鳥(びんちょう)』によって文をやり取りするぐらいで、直接には二回ほどしか会っていない。今回も十年ぶりぐらいに会うため、雲華にしては珍しく少し緊張気味であった。

 深い森の中の仙人の通る道を辿り、結界の門を数か所潜る。基本、聖山内での戦闘は厳禁となっている。そのため襲われることは基本的には無いと言えた。

 万が一戦いが起こった際には、天仙の武闘派が仲裁……もしくは粛清に来る。正直、天仙の武闘派は絶望的にヤバイ。名高い暗殺仙人達でも退ける実力のある雲華だが、天仙達の練達は度合いが違う。雲華の全力でも一撃掠れられるだろうかという程度だろう。ほぼ瞬殺と言える。

 だがここは、師匠のいる聖山でもある。天仙真征が応援に来てくれる可能性は高い。その場合は相手が武闘派の天仙でも、引き上げざるを得ないだろう。天仙同士の戦いも厳禁なのだ。まあそれ以上に、天仙真征に勝てる天仙が殆どいないというべきか。だが真征でも相手の天仙を必ず完全に倒しきれるわけでもない。天仙とはそう言う存在なのだった。

 山の中腹に建物が見えてきた。聖山内には天仙の住む館がいくつか点在している。

 それらは絶壁や尾根の上部付近にあり、一部が崖や岩を刳り貫かれて足場や通路等が作られた朱塗りの木造の中華風な建物である。渡り廊下や回廊もあり、見晴しや下界の眺めも絶景であった。

 そんな建物の一つ、その外周部の壁に建てられた、大きく繊細な彫刻と金の金具類で装飾された朱色の門の前に雲華一行は立っていた。

 雲華は仙術の『伝鳥(でんちょう)』(文ではなく言葉を伝えてくれる)を呼び出して師匠に来訪を知らせようとしていると、門が僅かに軋む音を立てて静かに開いた。

 そして隙間からひょっこりと一人、短めの黒髪から猫耳が出ている使用人風な恰好をした小さな女の子が顔を出す。

 

「……雲華……様?」

「あら、黒(へー)ね、久しぶり。元気にしていた?」

「―――雲華様ぁ!」

 

 その子は半泣きで雲華へ駆け寄って来るとしがみ付き、スリスリして幼げに甘えてきた。

 背が五尺七寸(百三十センチ)程と小柄で胸のなだらかな体からは、二尺(四十五センチ)程のしっぽも生えていて、それも雲華の腕に巻きつけて親愛を示して来る。

 この子は真征の僕(しもべ)の一匹。

 もともとはただの猫だったらしいが、仙猫と化しても真征に仕えている。見た目は可愛いのだが、これでも武闘派だ。俊速で左右から襲い来る猫パンチの連打は野生の熊をも軽くKOする程だ。

 雲華が、真征によってここに連れられて来た時には、すでにこの姿で居た。小さいころからの遊び相手でもあり、稽古相手でもある。

 犬が飼い主を出迎えるのはよくあることだが、実は猫も出迎える場合がある。ただ、犬のように帰って来たのが分かるわけではない。猫の場合は、その時間近くになると迎える場所まで行ってしばらく待っているのだ。猫は気分屋なので出迎えてくれる場合、相当気に入られていると思ってよい。

 

「黒、どうしたの……って、そう、お師匠さまが知らせてくれたのね」

「はい。雲華様が間もなく来るからと。便鳥も来ていませんでしたから、驚きましたけど」

 

 久しぶりにかつて見慣れた門をくぐり、大きな木の生い茂った馴染みの石畳の道を雲華は黒と並んで歩いていた。木人は後方から武器や荷物と木馬を連れて付いて来ていた。

 その途中で黒は急に、雲華の顔をその黄色の瞳でじっと見つめてきた。

 

「どうかしたの、黒(へー)?」

「あの……もしかして、雲華様は結婚されました?」

「えぇっ!? してないわよ……黒は急に何を言い出すのよ」

「そのぉ……とても女性らしく綺麗になられたかなと」

 

 黒は、以前の雲華との差を感じていた。昔馴染みなので率直に言ってくる。

 

「それに、以前は気を抜く間もなく、寝ても起きても常に鋭敏な気が漂っていて、中々スリスリするのも大変だったのですが、今日はゆったりとした大きな気を感じます。前回来た時よりもまた強くなりましたね」

「ふふっ」

 

 やはり黒は良く見ているし、鋭いなと思う雲華だった。

 

「結婚はまだしていないけど……したいと思う人に出会えたわ。彼の詳しい話はお師匠様に会ってからするつもりだけど」

「はぁぁ、いいですにゃぁ……黒にもそんな方が欲しいです」

 

 黒は歩を進めつつ、人差し指同士をくっつけ合いながらそんな事を言っていた。

 そうこうしていると館の入口にたどり着く。

 真征の館は絶壁をも取り込み、巨大な岩を繰り抜いて木造の内壁を施してある部分も多い。そして、最上部との高低差が五十丈(百十五メートル)程もある雄大な建物であった。

 その館の入口に、僕長をしている大柄な老仙虎の黄光(おうこう)が出迎えてくれた。

 当然、雲華とは旧知な間柄の一頭。

 

「お帰りなさいませ、雲華様」

「黄爺(おうじい)! 相変わらず元気そうね」

「雲華様も。ほっほー、良い気を纏われるようになりましたな。滞在中に一度手合せさせていただけますかな」

 

 黄光は、真征に一番古くから仕える獣僕だ。僕の中で最も忠実で……もっとも強い。この者はただの僕ではない。

 真征とともに天仙らと戦ったこともあるそうだ。

 黄色く長い髪に、黄色く長い立派な髭を蓄えており、背は八尺七寸(二メートル)程もあった。今は人の姿をしているが、もちろん元は虎である。

 雲華が小さいころは、たまに獣姿で背中に乗せてもらい空を飛んだものだった。

 今までの手合せで、雲華が勝てたことは無い。

 

「お手柔らかにね」

「ははっ。さぁ、主様がお待ちかねですぞ」

 

 黄光が先導し、雲華と黒が並んで続く。他にもいた僕らに木馬を預けた木人も一応、雲華の後に武器を持って付いて来ていた。

 ちなみに幼いころに拾われた雲華は、真征にとって養女待遇であった。なので、ここへ来た当初から僕(しもべ)らから主である真征の親族として敬意を払われていた。そして、彼女は真征と同様に僕達を大事に扱ったので敬愛されていた。かつて黄光が病に掛った際には、他の僕達と共に雲華も付きっ切りで看病をしている。

 いくつかの階段を上り廊下を通り、橋を渡り、そして一つの部屋の豪華な大扉の前で立ち止まると、黄光が中へ声を掛ける。

 

「主様、雲華様が戻られました」

「どうぞ、待っていましたよ」

 

 黄光によって扉が開かれ雲華らは通される。黄光と黒は扉から入った脇へ控えている。雲華と二歩後方に木人が部屋の中を進む。

 そこは、崖の側面を大きく掘り込み、床を崖から大きくせり出して広く作られた横五丈弱(一十一メートル)縦九丈(二十一メートル)ほどの雄大な大展望の部屋であった。

 その奥に一人の女性が静かに立って出迎えていた。

 雲華がその人物――真征の立つ二歩ほど手前で片膝を突き『叩頭礼』の礼を取って静かに声を掛ける。

 

「ただ今、戻りました。お師匠様」

「良かった。元気そうね、雲華」

 

 真征は優しい笑顔で娘であり弟子の帰還を喜んでいた。

 彼女は、背丈が七尺四寸(百七十一センチ)程あった。真っ黒で真っ直ぐな髪は、地面に巻くほど伸びて垂れていた。前髪は長い髪が髪留めされ、真ん中で軽く分けられているだけの形。顔立ちは眉は細く長い。目元はやや切れ長だが瞳は蒼く大きい。鼻筋は通り高く、唇は小さ目だが少し分厚い。艶があり色気のある表情をしていた。

 まさにアジアンビューティーな雰囲気と容姿である。

 一方服装は、真珠貝を削り出して作られた小片群でスパンコールの装飾のされた、先切り金鎚(片側が平らで片側が細くとがった形状)に似た独特の帽子を被り、同じく全面に真珠貝製のスパンコール装飾のされた、裾が五尺は地面を引きずっているだろう胸元が開いた袖の無いチャイナドレス風の衣装を纏っていた。

 髪も服も仙術によって僅かに床からは浮いているので汚れる事はない。

 驚くことに顔立ちや肌の色艶は、雲華とそれほど変わらないほど若く見えるのだ。それは雲華が初めて会った時と全く変わらない。

 師匠はきっと歳を取らないのだろうと、雲華はすでにそう考えていた。

 

 天仙真征――実力は仙人を推して化け物なのだが、普段は物静かで外見は女神さまのような姿をしているのだった。

 

「お師匠様も、変わらずお元気そうで何よりです」

「今日は、どうしたのです? ……『便鳥』も無く来たということは、難しい事のようね」

「はい。ご慧眼恐れ入ります。実は私の前に……想い人が現れました」

「まぁまぁ」

 

 少し顔を赤らめながら言う雲華に、真征は胸前で手を合わせながら喜んだ。雲華は、ですがと告げながら一刀との天から落ちてきた出会いの辺りをまず話す。真征は話が長くなりそうなのを察して、雄大な光景が広がる窓際の机で話を聞きましょうと言い、二人は移動する。黒は用意してあったお茶と菓子を二人に出していた。木人は黒らの近い脇へ移動している。

 雲華は、一刀を家に招いた辺りから旅立ちまでを手短に要点を纏めて二刻(三十分)ほどで話し終える。

 すると、真征は顎に左手の人差し指の先を軽く当て考えながら悪戯っぽく言う。

 

「つまり……本当は旅立ちまでに色々と期待しながらも、子作りはまだと……」

「そ、そうですが……重要なのはそこではありません!」

 

 雲華は、気持ちを見透かされている事に、顔を真っ赤にしながらも真征の論点のズレを思わず指摘してしまうのであった。

 真征は可愛いわねと言いながら、本題に入る。

 

「確かにその北郷という少年は、尋常ではないようね。我が奥義の『神・気導砲』に『現想行体』となると……『超・超速気』の速度次第では、私に匹敵する『神気瞬導』の使い手になるわね。それも――あくまで脇の力でしかなさそうだしね」

 

 そう言う真征の表情は、静かで落ち着いている。この方も極めるのは『神気瞬導』だけではないのだ。懐の深さは計り知れない。

 

「少年の『神気瞬導』への異常な適応力は、おそらく本来の使命を達するため、生き残るのに必要だった部分が大きいでしょう。相手が死龍ではなく仮に天仙だったとしても……彼は倒していたかもしれないわね」

「……はい」

 

 雲華もそう感じていた。そして、そんな一刀に――脅威も感じてしまうのであった。この感情は当然師匠も感じてしまうだろう……もし師匠が一刀の排除に動いたら……。

 雲華の表情は徐々に険しいものに変わって行った。

 だが、育ての親でもある師匠に隠して相談などは出来なかった。これは掛けでもある。それでも師匠は味方に付いてくれると雲華は考えている。そんな心配を汲むように真征は口を開く。

 

「彼の力は気になるところだけど、今のところその目的は我々仙人達へは影響のないもののように感じるわね。雲華、安心なさい。私は貴方の味方ですよ」

「あ、ありがとうございます!」

 

 雲華は席を立つと机の脇で再び片膝を突いて『叩頭礼』の礼を取り感謝の言葉を返していた。大きな一つ壁を越えれたのと言える。少なくとも強大な力を持つ敬愛する師匠と……争わなくて済むと。今の言葉だけで、ここへ来た甲斐があったと思う彼女だった。

 しかし本題がまだ残っている。雲華はそのままの姿勢で、さらに『ここへ来て知りたかったこと』を真征へ尋ねる。

 

「彼がこの大陸へ現れた事を知ることが出来、尚且つ排除しようとする勢力にお心当たりはないでしょうか?」

「そうね……、『辿り着けるもの』達かしら」

「『辿り着けるもの』……達……とは?」

 

 聞きなれない言葉に、雲華は真征へ聞き返していた。すると真征は答えてくれる。

 

「その少年は、ずっと先の時代から来たということだったわね。『辿り着けるもの』達は新興の勢力で、仙術によって歴史を飛び越え何かを企てる者達よ。おそらくその者達は、先の歴史を是とせず、今の歴史へ干渉し変えようとして……それに対して大きな反作用が少年をここへ呼んだのかもしれない。それに気付いた彼らは当然……」

「――― 一刀を消しに来る」

 

 真征は、脇で礼をとる雲華へ静かに頷いた。そして入口の脇へ控える老仙虎の黄光へ声を掛ける。

 

「黄光、『辿り着けるもの』達について密かに力を貸す仙人達を調べなさい」

「ははっ。お任せを」

 

 彼は、返事をすると同時に姿がその場から忽然と消えるのであった。

 

「雲華。今回は少し時間を掛けねば……急には動けません。しばらくここでゆっくりしてお行き」

「はい」

 

 相手は、歴史に干渉しようとする得体のしれない仙人達なのだ。そして時間が掛るのも当然と言える。本来は諜報に不慣れだが、自分でやらなければならないところであるのだ。

 ここは邪魔にならない様、手慣れた者達に任せるべきだと考え、雲華は素直に従うのみであった。

 

「さてと、では――」

 

 そのあと雲華は、真征から一刀について、夜の食事が終わるまで延々と根掘り葉掘り聞かれるのだった……。

 

 それから調査が終わるまで三か月を要した。

 その間、雲華は真征や黄光から久しぶりに手ほどきを受けたり、黒らと共に修練したりと、しばし館の中で昔に戻った時間を過ごしていた。

 調査はまず、数日動かずに空ける事からはじめ、さらに急には動かず、動いても少しずつ静かに調査を進めていき、最終的な仙人の特定と探索には黄光自らが出て行ってくれた。彼も、戻って来てから教えてくれた。並みの僕では見つかり、返り討ちに合うところであったと。

 『辿り着けるもの』達は十名程の仙人で構成されていた。天仙はその中にいないとのことだった。

 その中でも中核は四名。

 名は左慈、于吉、弧炉(ころ)、蛇蝎(だかつ)で、彼らは仙術によって歴史を飛び越えることが出来ると言う。

 普段は、左慈と于吉、弧炉と蛇蝎の二組に分かれて動いているという。左慈と于吉の動きはまだ完全に掴めていないが、弧炉と蛇蝎の組、計七名の仙人達の活動範囲は黄光が特定して来てくれていた。

 話を聞いた雲華は、まもなく『討ち果たす』旅の準備を静かに始める。

 雲華の部屋は、以前使っていた部屋がそのまま残されていた。定期的に綺麗に掃除がされていて、昔に自分がここに居た時と変わらない時間を過ごすことが出来た。

 そんな彼女の部屋を、旅の数日前に真征が訪れる。

 

「行くのね? 相手は七名と聞いてるけど」

「はい。何名居ようと私としては、この戦いは避けられません。彼に害成す者らは討つのみです」

 

 愛する者の為に闘う決意を述べる雲華に、逡巡する気配は微塵も感じられなかった。

 

「誰か付けましょうか? すでにあなたは一度襲われているし、我が家が手を貸しても名分は立つわ」

「いえ、すでに困難な情報を集めてもらい十分助けて頂きました。特に黄爺には」

「そうね、最初にあなたが土の中に入ったと聞いた時に、入口の脇で凄まじい怒気と殺気を放っていたものね」

「ふふっ、横にいた黒も切れていましたが、途中でその凄まじい殺気に押されて最後は恐れおののいていましたね」

 

 ここで、真征は手を二度叩いて鳴らす。するとバツが悪そうに顔の照れた黒が部屋の扉をまず開けると外へ戻り、再び人一人が入るほどの大きな木箱を持って部屋へ入って来た。

 そして、黒はそれを静かに床へ置くと箱の蓋をゆっくりと開いた。

 すると―――中には精巧に作られた女性体形の人型の木人が入っていた。

 

「これをお使いなさい」

「こ、これは……『聖仙木人』!」

 

 『聖仙木人』……木人制作の達人となっている聖老仙が作った最高の木人である。その体には余りの精巧さに、動き始めると間もなく魂が宿ると言われ、通常の木人の十倍は強くなると言われるものであった。

 

「連れている木人は、すでに自分の意思であなたに懐いている様子。移してあげるといいでしょう」

「しかし、お師匠様……」

「『うん』と言ってくれないと、きっと黄光が横に付いて行くと言って聞かないことになるでしょう」

「……分かりました」

 

 黄光は、本当に付いてきそうな感じなので受けざるを得なかった。ほどなく雲華が連れていた木人から『核』が、聖仙木人の体へ移された。

 再び動き始めた木人は、同時に用意されていた新しい衣服を自ら身に着けると、雲華に対して―――言葉を話し始める。

 

「主様、素晴らしい体をありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」

 

 木人は、綺麗な体形の女の子らしい新しい体を大層気に入った様子であった。

 

 そう、木人くんは実は―――『女の子』だったのである。

 

 雲華が真征へするように、木人は雲華へ片膝を突いて礼を取っていた。その姿と動きは非常に滑らかで、もはや生きているようにしか見えない。

 彼女は雲華より『ジンメ』と呼ばれるようになる。

 

 それから十日後――― 一刀の抹殺を企てる『辿り着けるもの』達の構成員である弧炉と蛇蝎の組、計七名は大陸の歴史から土の中へと人知れず居場所を変えるのであった。

 その際、弧炉だけを生かしたまま捕えて仙術で詳しい理由や事情を履かそうとしたが、この組の者は詳しい事は知らない様子であった。ただ、死龍に指示を出したのは于吉だと言うことは分かった。

 

「あと三名ね……。ジンメ、今日は見事な働きだったわ」

「はっ、ありがとうございます。残り三人もお任せください」

 

 雲華は、頭の中で戦いを振り返る。

 雲華と『ジンメ』は共に戦装束として、これまでに見たことのない異彩を放つ『とても可愛らしい』衣装と装備を身に着け、それぞれ槍を手にして木馬へ跨っていた。

 そして、七名の仙人達へまず木馬ごと突撃して行ったのは『ジンメ』であった。美しく長い紺の髪を靡かせ、彼女の閃光の槍があっという間に格下の五名を倒していた。

 そのあとは、弧炉と蛇蝎らとの一対一になる。

 元から暗殺仙人を屠る実力のあり、さらにこの三か月を師匠らの元で気合いを入れて鍛え直した雲華と、『聖仙木人』の体を得て、雲華に近い実力となった木人『ジンメ』を相手に一対一では相手が悪すぎた。それぞれ三合以内で勝負が付いていた。

 

「さて、一度衡山へ寄ってから泰山へ戻りましょう。左慈、于吉らの組の動きの情報が入っているかもしれないし」

「はっ」

 

 弧炉と蛇蝎の組の根城は、ひと気の少ない涼州の辺境に近いところであった。

 雲華とジンメは、ここから追跡者や周囲に気を配りながらゆっくりと衡山へ寄った。しかし有力な情報は得られず、情報は掴み次第知らせてもらえるということで、真征らへ礼と別れを告げると雲華らは一度泰山へと帰って行く。

 そして……泰山の森の傍で左慈、于吉らとの関係者かと勘違いし、見慣れない『人』の集団とその中に僅かな仙気を纏った者を探し当てた結果、窮地の諸葛亮らに出会うのである―――。

 

 

 

 

 

 

「北郷様はこの先、我が家から旅へ出られて……その後、何処かへ仕官されるのでしょうか?」

 

 一刀は絶世の美女な三女の司馬孚から広い司馬家の屋敷内を時計回りに一周ぐるりと回遊するように案内してもらったあと、彼女の部屋から二人とも『食堂広間』まで戻って来ていた。

 一方司馬懿と下の五人の姉妹達らは『寛ぎの広間』で勉強会をしており、それが終わったころ、『食堂広間』へ再び司馬防を始め、司馬家の面々が一堂に会しての昼食となった。

 今回の席順は、一刀が食堂へ入った直後から末っ子二人、元気な司馬敏と無口だが優雅な雰囲気の司馬通に両手を取られたまま円卓への着席となっていた。

 その昼食の最中、一刀は司馬朗により先の質問を受けていた。

 

「仕官……?」

 

 そんなことはこれまで微塵も考えたことが無いため、一刀は司馬朗の質問に意表を突かれたように箸が止り、驚いた発音で言葉を返した。

 軽い話かなと思い、一刀は別の話題へ流そうかと司馬朗の表情を伺うと―――彼女の表情は真剣に見えた。

 一刀へ余り関心がなさそうな司馬懿も、一瞬じっと一刀を見てくる。彼の発言次第で、司馬朗の決断に影響が出る可能性が大きいからだ。

 姉の仕官の話を知らない他の姉妹達も、一刀の話でもあり、微妙にこの質問の行き先に注目しているようであった。

 一刀は、どう答えようかと迷った。

 そんな二人の様子に、司馬防が助け船を出してくれる。

 

「優華(ヨウファ)、北郷殿は体調を戻す為に昨日、我が家へ来られたばかりですよ? 今はまだ、ゆっくりして頂かないと」

 

 司馬朗は、自分の事で頭が一杯になっていた事に、はっとして慌てて一刀へ謝った。

 

「も、申し訳ありません。母様の言う通りですね……北郷様、今の私の言葉はお忘れください……」

 

 司馬朗は、昨日も同じような事があり、自己嫌悪でしゅんと意気消沈してしまう。

 その姿に可愛そうになった一刀は、ここで話すのは相応しくないかなと思い、彼女へ伝える。

 

「あの伯達さん。後で伯達さんの部屋を見せてもらえないかな? 朝は仕事中とのことで見せてもらえていないから……」

 

 女の子の部屋をと言うのが一刀には少し恥ずかしかったが、朝の続きと言うのであれば不自然でもないだろうと思ったのだ。

 司馬朗としては好意を寄せている一刀が、自分の部屋へ来てくれると言うのだ。また、一刀の素早く優しい気遣いも感じて、意気消沈していた彼女は表情が明るくなった。

 

「はい、喜んで。あの、明日の街会議の準備の方は纏め終わりましたので、この後どうでしょうか?」

「じゃあ、昼食後に案内してもらおうかな」

 

 一刀の言葉に、司馬朗は嬉しそうに「はい」と頷いた。姉思いな姉妹達は、食後に一刀と話をしたり自分の部屋にも来てもらって遊びたかったが、皆長姉へと譲ってあげることにする。

 その様子を、司馬防もにこやかに見守っていた。

 

 母屋の二階の廊下を南へ向かい、司馬朗と一刀は並んで歩いていた。昼食を終え、二人は先ほどの約束通り司馬朗の部屋へ移動中である。

 司馬朗はそんな中でも、幾つも一刀について考えていた。

 彼女は、使用人らも含めて司馬家で一番背が高かった。しかしそれは昨日の朝までであったようだ。司馬朗は、昨晩の宴会と今朝の朝食時にて食堂の入口で挨拶をした時に、一刀が自分に近い身長だということは分かっていたが今、横に並んで歩いて漸く彼の方が自分よりも僅かに背が高いということが分かった。

 司馬朗には『一番背が高い』というのは、彼女にとって嫌な意味での無意識的な精神圧力になっていた。一刀の存在は、それを大きく軽減してくれていたのだ。

 それと同時に彼女はほっとし嬉しく思っていた。少なくとも一刀には『自分より大きな女の子』とは思われなくて済む……『自分より小さな可愛い女の子』でいられることに。

 そして、彼とは近い背丈ということでほかの家族達と違い、目線を下げることなく会話が出来る。また、先ほども階段で僅かに躓いたときもサッと肩を支えて貰えたりと。他の者達では、体格負けで支えきれない者も多いことだろう。

 司馬朗は、一刀の自分より広い肩幅から想像すると、抱きしめられたら……きっと包まれるような抱擁感を味わえるのではないかと、内心でその時を思い描いている。

 歩を進めながら思考の片隅で、彼女はそんな感じに彼の良い点や甘い接触をあれこれ妄想していた。

 

 そのうちに廊下の突き当たりとなり、右へ向くと両開きの装飾の施された朱塗りの扉が現れる。部屋の前へ着いたようだ。

 司馬朗はその扉を右側から、そして左側と順にゆっくりと引いて開くと、「どうぞ」と一刀を中へ招いてくれる。

 「では、おじゃまします」と一刀は控えめに辺りを見まわしながら中へ入って行く。

 母屋二階の南に位置する部屋の南半分が『寛ぎの広間』に乗っているというこの部屋は、南側が一階の高い天井のため、五尺(百十五センチ)ほどの段差の存在する床に変化のある部屋になっていた。第一印象は『日当たりがよく植物が多い部屋』。

 扉から近い方の床は、天井までの高さが一丈半弱(三メートル四十センチ)ほどあるので、南側の高くなっている床の部分も十分な天井高があった。扉近く側の床部分が就寝と勉強や仕事場の様で、壁面部分が収納になっており、多くの書物が収納されていたり仕事用だろうか机等が置かれていた。寝台は折り畳み式の繊細な彫刻の施された衝立で仕切られた一角に置かれていて、やはり木枠の天井の付いた朱色のお姫様ベッド仕様なものが置かれていた。一方、南側の高い床の部分は日当たりが良く、寛げるような長椅子や脇机に敷物が配置され、また窓扉越しに続く広い屋上庭園風のルーフバルコニーが見えている。

 一刀はその窓扉に近い、長椅子のところへ通された。

 そのあと、司馬朗は自らお茶を入れてくれる。それを頂きながら、窓扉越しの屋上庭園の眺めを楽しみつつ二人は雑談を交わす。

 

「伯達さんの部屋は植物がいっぱいだなぁ。良い感じに落ち着いた雰囲気がいいね。まだ他のみんなの部屋を見たわけじゃないけど、日当たりが良くて、それぞれの部屋に個性がありそうだね」

「白華(パイファ:司馬進)の……恵達(けいたつ)の部屋はもっと植物が多いのですよ、ふふっ」

 

 恵達といえば、ハキハキしたおかっぱな髪の子だよなと考えながら、どんな部屋なのか今度見せてもらおうかと思ったりする。

 続いて、一刀は壁際の書籍の話をする。かなりの数があるみたいだけど、姉妹で共有して使っているのかと聞いてみる。

 すると、この家の書物庫は母屋から東に廊下で繋がった別館が一棟あるという事であった。それでも、各々が返すのが面倒で部屋に持ち込んだままになっているものも多いとか。年に一度、年末にそれらを全部書物庫に戻すのが慣例になっているそうだ。ちなみに司馬懿は一冊も自分の部屋には持ち込まないらしい。というか、部屋では仕事や勉強は一切しないということである。司馬懿のイメージが当初の予想とズレすぎてるなぁ……と思う一刀であった。もっとバリバリの文学少女だと思っていたからだ。それに、今はまだ彼女とは余り話す機会が無い感じで、想像が全く追いついていない感じであった。

 司馬孚曰く、司馬進の方が裏表がない分、司馬懿より気難しいと言う話だったのを思い出し、一刀には懐いてくれていて普通にハキハキキビキビした可愛い良い子にしか思えない……そのギャップをいつか見ることがあるのだろうか。

 一刀は、その事を少し司馬朗に聞いてみた。

 すると、やはり司馬進は最近ようやく大人に近づいて来て、少しは我慢するようだが……二、三年前までは、会った瞬間から気に入らないと「私はあなたと話をしたくありません」とハッキリ言ってしまっていたとのことだ。そして、そのあと近寄りもしないという。だが、どうやらそれは相手がどういう人物かを見抜くのが優れているところから来ているようで、彼女の気に入らない人物は必ず裏で賄賂や汚職の常習者や、高圧的に女性を弄ぶ等の問題のある者であったというのだ。

 一刀は、「じゃあ俺には懐いてくれてるし、光栄なことなのかな」と言うと、司馬朗は「ふふっ、でも白華は北郷様には、いつもとは少し違う対応をしていますけど」と意味深な事を言ってきた。

 そして一刀が「ん?」と小首を傾げて不思議そうな顔をしても、司馬朗はニッコリと笑っているだけであった。

 それは……司馬進は、ハキハキしていてハッキリ言う女の子なので、これまでも気に入った人には「良い人ですね」や「優しい人ですね」や「好ましい人柄ですね」等当人へ伝えるはずなのだが、一刀にはまだ『ハッキリと直接』伝えていなかった。そう――直接にその決定的な想いを一刀へ伝えるには、まだ『恥ずかしい』らしいのだ。

 司馬朗は、昼食前に司馬進へさり気なく『ハッキリしない事』を確認してみると、本当は「勇気と思いやりがあって、兄のように頼り甲斐があり、そして……(……も優しそうで、……にしたい)理想の男性です」と一部聞き取りにくい所もあったが、好意を寄せていることを一刀へ伝えたい様子であった。

 

 一刀と司馬朗は、窓扉から外の屋上庭園風なバルコニーへ移動する。天気はまずまずで、風も穏やか。そして二人で、遠くの空をのんびりと眺めていた。

 そんな中、司馬朗は静かな口調で話を始める。

 

「私の元に仕官のお話が来ました。……私は司馬家の長子であり、私の選択する所属先は妹達の将来にも直結してくるものだと慎重に考えています」

「……そうだね。姉妹らは皆、伯達さんを慕っているようだしね」

 

 一刀の言葉に頷きつつ、司馬朗は話を続ける。

 

「その仕官先は母様も、次女の仲達(司馬懿)も良いところだと言ってくれています。私自身も……そう考えています。実は妹の仲達には、かつていくつか仕官の話が来ていました。残念ながらすでに当人が全て断ってしまったのですが……それは、武官としてでした。私の腕は大したことはないのですが、仲達の武はかなりの腕前です。しかし北郷様は、その仲達をさらに凌がれている武人です。……昼食での質問はそんな力をお持ちの北郷様が、我が家へ留まらずという事は、さらにより良い待遇を求めてどこか大きな諸侯へ仕官されるおつもりではないかと思い、その考えをお聞きしたかったのです」

 

 司馬朗の話す表情は真剣なものだった。当然だろう、仕官とは人生の大きな分岐点なのだから。しかし、今の一刀にはそんな大きな考えは微塵もないと言える。空っぽな感じなのだ。

 一刀が、この『司馬家』から離れようと考えているのは、大切なものを守れない自分から逃げるように、只々……彼女らを巻き込みたくないだけである。その先は考えていない。それはただ、あの時の『絶望的な喪失感』からずっと逃げているだけなのかもしれない。今も考えるほど、一刀は分からなくなっていった。

 そして―――弱々しく震えるように思わず呟く。

 

「……俺は……これから何をすればいいんだろうか……」

 

 すると司馬朗は、街の英雄で且つ一流の武人と慕っている一刀のそんな言葉に一瞬驚いた表情を見せたが、両手で彼の手を静かに優しく握ると、熱い視線を一刀へ向けてその言葉を述べた。

 

「私と……共に人生を歩いて貰えませんか?」

「え゛ぇっ?」

 

 彼女の、余りに突然の大告白に戸惑う一刀であった。完全に『プロポーズ』と言えよう。

 妹の司馬孚もそうだが、そこまで一気に人生を掛けられるものだろうか。

 

 一刀の、甘い時代の考えや想像は届かない。

 そう、この世界の人生は概ね短い。疫病、戦争等が絶えない事で、目にする命の遣り取りも多い。そして、そのことが人々へ常に死を意識して生きさせているのだ。

 だからこそ彼女達は熱く、鮮烈で率直な考えなのだという事に。

 現代のように、はじめから老後など考えていない。いつ死んでも悔いが残らないように全力で生きているのだ。

 また、家柄の問題もある。彼女らは母からは伝えられていた。限られた人間関係……広いようで案外狭いものだということを。母が認め、自分も……それだけに一刀への司馬朗ら姉妹の決断はシンプルになって来ていた。

 

「北郷様は記憶を失くされ、体調も戻っていない苦しい時期なのだ思います。しかし、人は目標を掲げてそれに向かって努力して行くべきです。そうでなければ……人生に意味を見い出せず、空虚感に襲われる事でしょう。だから、私と目標を立て前に進んでいきませんか? その……あの……一緒に子孫を残す、とかでも全然構いませんから!」

 

 司馬朗は真っ赤になりつつも、その熱い想いをぶつけて来る。普段なら一刀も共に真っ赤になっているところだが、『絶望的な喪失感』がぶり返しているのか、先ほどよりも状態が悪化してきていた。

 

「でも、俺の傍は……守ってあげられない程どうしようもないような……恐ろしい死が近くにあるかもしれないんだ……」

 

 一刀にははっきりと震えが見て取れ、その表情が、そして存在が更に弱々しく無感情に感じられた。しかし、そんな一刀へ、司馬朗は静かだが力強く言葉を述べる。

 

「―――それでも構いません。貴方と少しでも共に歩めるなら」

 

 そう言って彼女は、何か絶望的な恐怖に立ちすくむ一刀を、慰めるように優しく包むように抱きしめていた。

 

 

 

「そうなっても貴方の所為ではありません。なぜならそれは―――私が自分で選んだことなのですから、後悔もしないことでしょう」

 

 

 

(………!! 大切ダッタ人カラ、同ジヨウナ事ヲ聞イタ気ガスル………………なんと思われようとあんな思い――二度とゴメンだ!)

 

 一刀の目と表情に力が戻る。だがそれは拒絶へのものだった。

 この時代での約束は重い。一刀は、司馬朗の想いを『仕官先へまず振り向けさせよう!』そう考えるに至った。

 

「ありがとう。でも今は……君の想いへの返事をすることは出来ないかな……。俺はまだ自分の……記憶も含めて色々な事に納得や整理がついていない」

「えっ?」

 

 司馬朗は、一刀の返して来た言葉に少し違和感を感じつつ、そして内容が前向きでないことに声をあげた。

 一刀は、司馬朗の両肩へ優しく触れて体を少し離す。

 司馬朗は一刀の返事の続きに注目していた。自分の想いに『では、いつ答えてくれるのか? それとも……』と。

 一刀は、司馬朗の不安そうに変わった表情を、優しい表情を作って見ながら『彼女の為を』と思い、『選択肢を無理やりに未来へ伸ばす』言葉を続ける。

 

「君の言う通り、目標は生きるために大事だと思うから、俺は体調が戻るまでに仕官先か目標を考えてそこへ向かって進む事にするよ。だから、伯達さんはこの司馬家の繁栄の事もあるし、今考えている良さそうな仕官先へ―――早く返事をした方がいいと思う。そして先ほどの話は、俺がもう少し先の目標をしっかりと考えることが出来たぐらいの時に改めて。……それでどうかな?」

 

 すでに一刀は――焦っていた。そう言い終わる前には、司馬朗の表情は……彼女の目には涙を一杯ためて悲しみのどん底であったからだ。

 

「それはやはり、私ではお気に召さないと……妹達とは義兄妹の契りを結んで、蘭華からは真名を預かり、そして―――母様とは、ょよ夜を共に……なのに私には……何も……それは背が高いからですかぁぁーーーー? デカい女はイヤですかぁぁーーー? ぅぅぁぁあ~~ん」

 

(―――!? 夜の事まで全部、この子にバレテルヨォォォーーーー?! というか伯達さん壊れてる?)

 

 まだ、間近にいた彼女は、一刀の胸を軽くポカポカと叩いたあとに、彼の肩に顔を寄せながら啜り泣いていた。

 物静かで知的で、少し一刀よりお姉さんぽい女性と思っていたのだが……やはり可愛い人だなと、一刀は思ってしまう。

 そして一刀は―――司馬朗を優しく抱きしめて、思い出したかのように密着した彼女の圧倒的ボリュームな栄光の部位の、柔らかく心地よいフィット感を堪能すると共に、彼女のスバラしい芳香をそっとクンカクンカしながら、頭をナデナデしつつ慰めの言葉を自然に話していた。

 

「伯達さんはとても可愛いよ。美人だし、物静かな雰囲気もいいし、性格も妹達思いで優しいから好きだし……本当だったら喜んですぐに受けてるよ」

「ぐすっ……ほ、本当ですか? ……好きって……喜んでって……本当ですか?」

「う、うん」

 

 すると、司馬朗も一刀の背中に手を回して抱きしめてくる。先ほどまで泣いていたのだが、すでに目尻を拭うと照れながら笑顔を浮かべつつ言ってくる。

 

「ふふっ嬉しい……私達、相思相愛ですね」

「でもやっぱり……俺といれば危ないからダメ―――」

「いやです……離れませんから」

 

 そうクールに言うと、司馬朗は綺麗な顔と豊満でプルンプリン♪な胸を、一刀の頬と胸へゆっくりとスリスリして来た……彼にとって反則技と言える。スリスリは、雲華と交わした気持ちのイイ触れ合いを思い出させる。

 一刀は、欲望に負けそうになりながらも言葉を絞り出す。

 

「で、でも、君には現実に司馬家を背負っての大事な仕官の話があって、早々に決めないといけないだろうし、俺は目標を決めて旅に出るわけだし」

 

 司馬朗のスリスリが静かに止る。そして一刀の肩から顔を僅かに離した。

 

「それは、少しじっくりと共に考えましょう。立ちはだかる障害には手に手を取って当たることこそ絆を深めますから。……あの北郷様……是非、私の真名を預かって欲しいのですが」

 

 司馬朗は、静かに顔を上げて一刀へ確認してくきた。背丈が近いので顔が近い! 一刀としては司馬孚の真名の件があり、それを司馬朗が知っている事もあって「うん」としか言えないのであった。小さく一刀は頷いた。すると、司馬朗は嬉しそうに伝えてくる。

 

「私の真名は優華です。以後、幾久しく……私も名前で北郷様を呼んでもいいですか?」

「……いいよ、優華さん」

「はい、一刀様。あぁ一刀様~」

 

 そう言って、司馬朗は再び一刀の背中に回していた手に少し力を入れてスリスリと抱き付いてきた。

 だが、すぐにそれを緩めると司馬朗は一刀へ話し出す。

 

「そうでした、現実にで思い出しました。一刀様、明日の街会議なのですが私と一緒に出て頂けませんか?」

「へっ? なに?」

 

 話が飛び過ぎて一刀は話に付いていけていない。明日、街会議があるのは司馬孚のツッコミで聞いているから知っていたのだが、なぜそれに自分が出るのかよく分からないからだ。

 

「実は、役所の方や他の顔役の方々が是非、『街の英雄』の一刀様にお会いしたいと。それと仕事のような話なのですが、昨日のような凶悪な賊が近づかないように不定期に街や門を見に来てほしい様な事を……」

「それって、警備の仕事の手助けみたいな感じになるのかな? 俺のような武人が、不定期に門や街を回っているという噂を周辺に流して賊の接近を減らすと言う感じなのかな」

「まさにそうですね、おそらくそれに近い詳しい話は明日あると思いますが……如何でしょうか?」

 

 ここで断ると、まず顔役の『司馬家』の立場がないだろうと一刀は考えた。どのみち暇でもあるし、何か少しでも世話になっている司馬家の役に立つならと思っていた。可能な期間を先に断っておけば、この街を離れる時も文句は言われないだろう。

 

「分かったよ。あとは街会議の時間を知らせて貰えれば」

「では、夕食と朝食の時にお知らせと確認をしましょう」

「………あのぉ優華さん、そろそろ離れませんか?」

 

 そう言った一刀であったが……内心では司馬朗の、豊かな胸を含めた柔らかな抱き心地と髪や体からのスバラしい女の子な芳香を堪能していたのだ。好きな女の子には弱い彼。何度か癖のようにサワサワナデナデしたくなったのだが、一刀は何とか耐える。

 一方、司馬朗は可愛く一刀へしばらく微笑えむと一刀の肩に顔を寄せてより密着してきていた。

 

「…………ふふっ……」

 

 彼女は、一刀のイカガワシイ思いを知ってか知らずか、更に一刻(十五分)ほども彼の背中に回した腕と肩に乗せた頭と彼の胸にくっ付けた胸を、解き離す事はなかった。

 まるで一刀に、自分の体の感触を覚えてもらえるようにと……。

 その間、二人は別々の方向の景色を見ながら静かに雑談をするのであった。この街の中の話が多かったが、孤児達の救済所や災害受難者への支援等で彼女が慈善家でもあることは良くわかった。とても心の広い優しい可愛い女の子なんだと。

 そして漸く背中に回した腕を解いてくれたかと思ったが、さらにとんでもない爆弾発言が続いたのだ。

 

「今日は、お風呂があるのですが……一刀様、この後、間もなくですし、一緒に入りましょうね。申時正刻(午後三時)の一番で♪ 今日は、母屋側の湯船になりますから近いですし」

 

 どうやら離してくれなかった最後の長い時間の抱擁は、お風呂までの時間を稼ぐ為であったみたいだ。

 しかし、非常に不味いのではないだろうか。偶然ならともかく、いきなり一緒に入るというのがさすがに周りへの説明が付かない。一刀は、もう一度確認するように聞いてみる。

 

「一緒に? 大丈夫かなぁ……いろいろと不味くないかなぁ?」

「いいえ、問題はありません。すでに一刀様へ真名も預けましたし、それに……相思相愛の仲ですもの……」

 

 いやいや、そう言う問題ではないと思うのだが。

 ポっと頬を染め、両手を頬に当てながら司馬朗は可愛い仕草で言っている。

 しかし、ホントに真名を預けられると許される話なのだろうか。一刀は、今一つ真名についての常識を把握できていないのだ。

 まあ一般的には、真名を預けるにも個人差があるので、当然混浴まで許されない場合も多いと思うが、一刀のこれまでの雲華との経験では相当深い意味があるものだと認識していたのだ。

 もちろん、一刀も混浴が嫌なわけがない。断じてないと言える。女の子が好きなのだから。その一糸纏わぬ姿を見たいんです。クンカクンカしたいのだ。サワサワもダイスキなんだ。

 なぜなら――彼は絶倫なのであるから。

 しかし、一刀は客人とは言え世話になっている身の上。節度は守りたいのであった。まず、家主の司馬防に筋を通さなければ……と考えていると、いつの間にかすでに母屋の風呂場まで来ていた……。

 雲華の時といい、一刀は混浴への欲望に弱いのである。

 どうやら、司馬朗に静々と手を引かれて、途中で使用人達にも頭を下げられ(見られ)、その際に司馬朗は普通に「もうお風呂は入れるかしら?」と全く隠す様子もなく確認までされていた。

 もはや、司馬防の耳に入るのは時間の問題―――。

 広い脱衣場へ司馬朗に続き入ると……この屋敷では使用人が服を脱着してくれるのであった。

 故に混浴もバレバレ過ぎている。

 もはや言い逃れはできまい。司馬防さんは、怒ってしまうのではないだろうか……ここはもはや開き直って堂々と行くしかない!

 一刀は、すでにもっこり気味になっている事も込みで、桃源郷へ堂々と入って行った。

 幸い、一人ひとりの脱居場所が横に八尺ほどの幅で板により間仕切られているので、いきなり司馬朗の使用人によりヌギヌギされていくあられもない姿が見れなくて残念……イヤイヤ、節度が守られていて結構である!

 一刀の衣服の脱着担当は、『丸洗い』の時から慣れている使用人長の銀さんであった。なので特に緊張することもない。腰に湯浴み用の腰布を巻かれる時に「リッパでお若いですわね」と言われてしまったが……。

 『いざ桃源郷へ!』と思っていると、後ろから司馬朗の声が掛かる。

 

「あの、準備はいいですか?」

「……うん、入ろうか」

 

 と、一刀はすでに観念気味にそう言って、声のした後ろへ振り向くと……なんということでしょう……白いビーナスが立っているのかと思ってしまった。

 彼女は湯浴み着を着ていた。だがそれは、あるものに似ていた、そう―――白いスクール水着に。

 薄めの白生地は、当然伸び縮みしないので胸や腰やお尻の形の大きさに調整されて作られていた。そのため濡れていなくても、完全フィットしていて、絶対領域な至高の部位や掴む栄光の部位の先っぽまでもが、すでに透けて色等イロイロと見えてしまっている気がしないでもない。

 しかし、司馬朗は頬を染めながらも手を後ろに組んで斜め気味に立って全身がよく見てもらえる可愛いポーズを取ってくれている。

 一刀は風呂場のためか、いつもよりも何か匂い立つ女の子の香りに、一瞬クンカクンカして惚けそうになったが、なんとか正気を保って声を掛けてあげる。

 

「とても綺麗だね。似合ってるよ」

「はい……嬉しいです。じゃあ、入りましょう」

 

 司馬朗より差し伸べられた右手を左手にて一刀が取ると、一刀の手を引いて彼女が一歩前に出る形になった。すると、スク水風の湯浴み着の背中が一刀の目に入る。それは、桃尻の部分には布があるが、背中部分には……何も無かったのだ……。首の後ろで紐閉じされている形で、肩甲骨やその脇下横からはみ出て見える胸の外周。シミ一つない美しい背中の肌と背骨の線を降りて腰のクビれが桃尻へと繋がっていくラインを至近距離から最大解像度での閲覧を堪能出来たのだ。

 たくさんの至高なご褒美に、一刀はもはや司馬防から来るであろう、愛娘へ対しての混浴に加え視姦という幾多のハレンチ行為へのお叱りは、甘んじて受けようと考えていた。もはや悔いナシな思いがある。

 そして湯殿への扉を通り、湯気と木のよい香りのする浴室へ入る。すると―――

 

 

 

「北郷殿、自慢の湯殿へようこそ。貴方が来るのを待っていましたよ」

 

 

 

 なんと司馬防もスク水風の白い湯浴み着姿で中央の湯船にすでに寛いで入っているではないか!

 一刀は……思考が混乱から停滞し体が硬直してしまう。これは、どうすればイイノダロウカと。

 しかし、司馬防は優しく言葉を伝えて来る。

 

「ここには、真名を貴方へ預けた……すべてを貴方へ許す女達しかいませんから、安心して入ってくださいね」

「は、はぃ」

 

 その気遣いの声に辛うじて返事を返し、一刀は漸く動き出す。気が付くと、司馬防の左側の少し奥の湯船に、司馬孚までがスク水風の白い湯浴み着姿でお湯に浸かっていた。一刀と目線が会うと、顔を赤く染めながら会釈してきた。

 ここは室内だが湯殿の広さは、縦が三丈超(七メートル)、横が五丈半超(十三メートル)ほどとかなり広い。更に奥の部分が可動式の屋根になっており、屋根が開放状態ならば露天させることが出来る。今は日もまだ高く天気も良いので露天状態であった。

 ここには四つの湯船があり、露天下には木々や花等の植物も植えられていた。元から天井自体が高いのでここも開放感がすごいと感じる場所だった。

 とは言え、一刀はまだ開放的にはなれないでいた。先ほど予想外の声を司馬防より掛けられて立ち止まったため、軽く握っていた司馬朗の手が離れて推進力を失い、その場で停滞していたのだ。

 すると司馬防が静かに湯船から立ち上がると、一刀のところまでゆっくりと近づいて来た。湯船から上がったことで水が滴り張り付いた薄い湯浴み着は、栄光の部位から至高の絶対領域までの殆どが、透過している感じに見えちゃっているのであった。

 しかし、司馬防は綺麗な立ち姿の整った優雅な歩調で、その状態の姿を見せつけるかのように静かに歩いて一刀へ近づいて来るのであった。司馬朗も「母様……大胆」と横で呟いているのが聞こえた。

 若い一刀は、司馬防のその豊満な女性の神秘な姿に見入ってしまっていた。

 激しくもっこりな状態の一刀から、視線が熱いのであった。司馬防は、頬を染めながらもそんな一刀へ近付くと彼の右手を取ると優しく握る。

 

「さあ、まず体を洗いましょうね」

 

 司馬防は、一刀の横まで来ると、まるで子供の手を引くように洗い場の椅子へ座らせた。そして手ぬぐいを使って、優しく背中や腕を洗ってあげる。その際に彼女は、自分の豊かな胸や体を湯浴み着越しに、さり気なくスリスリとして来る事を忘れない。その司馬防の一刀を独り占めの様子に、「母様/お母(かあ)様だけ楽しんでる!」と、慌てて司馬朗と司馬孚も参戦してくるのであった。

 結局、一刀は三人掛りで隅々まで綺麗にされてしまっていた……。まさに桃尻……イヤ桃源郷が見えてしまっていた。

 髪を洗われる時は、正面から司馬孚が洗ってくれたのだが、真近な距離でその美しい胸から腰、さらにその下への湯浴み着が透けた光景に目を閉じることが出来ず、一刀は目に水が入って少し痛い目に合っていた……バカである。でも、それが北郷一刀なのだ。

 そして……もっこりな部分は――――なんと慈愛溢れる純情な司馬朗が恐る恐る、母の司馬防からアドバイスを受けながら丁寧に洗ってくれたのだ。

 体を綺麗に洗われたそのあと、一刀は浅目な湯船に入るのだが入った当初から茹るような興奮が最後まで続くのであった。

 一刀は三人の美人に、桃尻やタワーワなおっぱいをその身に代わる代わるスリスリやバインと押し付けられ、囲まれて、いっぱいおっぱいいい思いを堪能したのだった。

 

 

 

(桃源郷は、ここにもあったんだぁぁぁーーーー!)

 

 

 

 一刀は、思いがけず堪能する中で彼の内なる『本能』と戦い、悩み始めていた。

 彼の『正義』と言えるイカガワシイ気が、魂が、訴え始めていたのだ。

 それは漢として、こんな『桃源郷』を、ひと月という短い期間で―――本気で手放し出ていく気か……と。

 そして、その夜はさらにダメ押しがやって来る。

 ひと月後にここを離れるという『現実』に立ち向かい、耐え切れるのだろうか。

 一刀は自身の持つ『本能』との敗色濃厚な鬩ぎ合いが始まっていた―――。

 

 

 

 

 司馬防は夕食が終わり、家族皆で寛ぎ、そして娘達へのおやすみの挨拶までは、微笑む優しい母の顔であった。

 しかし、下の娘達が一人、二人、三人と寝静まる頃―――これから毎夜、始まるであろう想いを寄せる男との、共に臥所で迎える熱き情事に頬を染める一人の女の顔になっていた。

 彼女は静々と一刀の客間へ向かう。そして、部屋の前に着くと扉越しに中に居る愛しい男へ小声を掛けた。すると暫しの後、中からの……僅かに戸惑いながらも承諾の返事を受け、彼女は恥ずかしげに、しかし満足げに微笑みながら、粛々と中へ入って行くのであった。

 再び彼女が部屋を出て来たのは―――日の出の少し前であった。

 

 

 

 

 

 

 夜の静まり返る森の中。

 月夜の僅かな光に浮かびあがる左慈と于吉の表情は、僅かに衝撃を受けているようであった。

 急に連絡が取れなくなった、弧炉と蛇蝎らの組の根城へ慎重に近付き気を探ったが誰も見つけられない事に。

 そしてしばらく後、巧妙に離れた場所に埋められ隠された彼らの躯を見つける。

 

「左慈、我々の計画に気が付いたものがいるようですね、あの女仙人でしょうか?」

「どうかな。先日気のせいかと思ったが、周囲に天仙のような気を一瞬感じたのは偶然ではないな」

「天仙……ですか。さすがに、いささか分が悪いのでは」

「心配するな、猛毒の餌はすでに撒いてある。しばらくは、竿から垂れた針へ獲物が掛るのを、ひっそりと見聞と行こうではないか」

「ふふふっ、貴方も楽しみますねぇ」

 

 二人は静かに去って行く。その後ろにもう一人仙人らしき者を連れて―――。

 

 

 

つづく

 

 

 

 

             *  *  *

 

 

 

 R-15版)一刀と司馬防さんの熱い夜♡ (完全版はR-18カテゴリへ♪)

 

 

 

 夕食が終わり『寛ぎの広間』へ移動しても、一刀の周りは司馬防を含め彼女の娘達に囲まれていた。

 司馬防は司馬孚から義兄妹の話は聞いていたが、目の前の一刀はまさに下の五人の姉妹からは兄として慕われ、姉妹達の身近な他愛のない議論の狭間で、誰の味方なんですか?と詰め寄られながら、彼はうまく妥協点を探りながら公平に彼女達を納得させていたのであった。

 司馬防は長椅子にて静かに寛ぎながら、傍の娘達や一刀をにこやかに微笑む優しい母の顔で見守っていた。

 そんな彼女は、心の奥で密かにこう考えている。『将来的に』と前置きしながら、彼が愛娘達の何人かの良き夫になってもらえればよいのだけれど、と。

 

 そして―――今はまず私の……と。

 

 皆での寛ぎの時間はいつもより少し長かったが、戌時の終わり(午後九時前)にはお開きとなり、娘達は各自の部屋へと別れて戻って行く。

 一刀も下の五人姉妹達に「途中までいっしょに」と連れられながら司馬防や司馬朗、司馬懿、司馬孚へ軽く「おやすみなさい」と告げる。上の三人の娘達も一刀へ「おやすみなさい」と返す。司馬防もゆったりと長椅子に寛いだ姿勢にて、皆の母の顔のまま「おやすみなさい」と笑顔で返していた。

 一刀は、五人の姉妹らと和気あいあいで『寛ぎの広間』を後にし客間へと戻って行った。

 そして、夜は更けて行く……。

 

 司馬防は、『北の屋敷』の自室で一人、夜の深さが満ちるのを静かに待っていた。

 今は母の顔では無く――― 一人の男に恋焦がれる熟れた雌の顔になっていた。

 すでに、昨夜のように華やかな打掛姿の下には、一刀の欲情を掻きたてるように水色のシースルーでベビードール風の膝程まで裾のある衣装と、腰横下の辺りに紐で二ヵ所を結んでいる布が少なめで、僅かに絶対領域を隠す透けた水色の腰帯を身に着けている。胸は、昨夜同様に彼へ見てもらう為に何も付けていなかった。再び一刀を悩殺する準備は万端である。

 待つ間、彼女は考えていた。

 司馬防の男性経験は前にも述べたように、無くなった夫ただ一人で、夜の数も非常に少ない。

 なので、臥所(ふしど)にて男女で愛し合う子作り行為の経験は少しある程度(一方で出産経験は豊富♪)だ。しかし、そんな彼女でも湯殿での一刀の反応が少し不可解に思うのであった。

 娘二人は、若く美しく、そして自画自賛ではないが、自身の姿も胸やお尻を含めて肌の張りもまだまだ悪くないと思っている。

 そんな女人達が三人も、素肌が透け透けの欲情的な白い湯浴み着を着て、胸を初め柔らかな体を強くスリスリと接触してくれている状態。そして、『すべてを貴方へ許す女達』とも当初から告げているのであった。

 健全な男であれば間違いなく『食いついて』、手を伸ばし、至る所を……そしてイケない所もサワサワしたり、モミモミしたりスリスリしたりしてくる『はず』。

 亡くなった淡泊な夫ですら、司馬防が数度共に湯殿へと誘った時には、毎回掴む為の栄光の部位へ手を伸ばしてきたものである。そして、その夜は決まって熱いモノになったほどであったのだ。

 中央から偶に来る好色で下卑た高官の男達なら、間違いなくその場で自分を含めた三人の綺麗な女の子らに対して延々と気が済むまで何回も子作り行為に励むことだろう。

 ところが一刀は、この三人の綺麗な女の子らのスリスリやサワサワを―――受けるのみであった。それも表情から、ぐっと耐えるように、何かの想いと鬩ぎ合っているように見えた。

 彼が女の子に興味があり興奮できることは、入浴中の当初から最後まで某ヵ所が『もっこり』し続けていたのを見ていれば分かる。『もっこり』だけではない。司馬朗の恐る恐るでたどたどしい手による『洗う』所作によって、彼は堪らず『天国』気分を味わったのだから。

 そして司馬防には、彼が欲望に『耐えている』その原因が分かっていた。

 それは昨晩、一刀より『亡くなったが心の整理が付いていない大事な人』の存在を知らされていたからだ。

 司馬防はそれを今晩、なんとしても取り除こうと考えていた。それは、彼へ想いを寄せる娘達の為に―――いや……これはやはり……自分の彼への熱い想いを叶えるためなのだと、彼女は気が付くのであった。

 司馬防は、男との夜の営みが……キモチイイのが実は結構好きと言える。イケナイ所も含めてをサワサワ、スリスリ、ナデナデ……チュッチュやペロペロもしたい気持ちを持っている。

 今も女盛りでもあり、そのため夜が随分寂しい期間も長かったのだ。

 そんな彼女だが、誰でも良いというわけではない。

 この熟れた体と財産目当てに、言い寄って来る男も多かったが、一向に気持ちが昂ったり、興味をそそる人物には出会えないでいた。

 しかし、偶然が重なり一刀と出会った。

 まだ出会って二日だが、彼の姿を見たり彼の事を想うと、体がとても熱くなってくるのを感じている。これが一目惚れなのかもしれない。

 年は十程も離れて若いけれども、彼は憧れの真の武人であり、謙虚で娘達や自分へも優しい彼に引かれているのが大きいのだと思う。

 加えて司馬防は、会った瞬間に運命を直感していた。『この人を逃せば次は無い……最後の男性』だろうと。

 ゆえに彼女は今夜、この体のすべてを使ってでも彼に完全に振り向いて貰おうと、そしてその先へ……と考え、すでに熱く疼くお臍の下辺りを意味深に軽く撫でるのだった。

 

 

 

 一刀は下の五人姉妹達に姦しく客間まで送られると、その後ろに静かに続いていた銀さんに寝間着へ着替えの手伝いをしてもらうと、すぐに寝床へ入った。銀さんから「お休みなさいませ」と声を掛けられ、「ありがとう、お休みなさい」と手伝いの礼と挨拶を返した。

 そして銀さんが部屋を離れると、横になった布団の中で静かに今日の事を考えていた。

 昨日に続き今日も楽しい一日だった。しかし、色々とこれからの自分について、考えさせられる一日でもあった。

  特に、昼間に自ら呟いた言葉を改めて思い出していた。

 

 『俺はこれから何をすればいいんだろうか?』

 

 司馬家へ来るまでの四か月程の放浪の間、途方もない殺気に飲まれた結果が招いた、負の感情状態ながら持ち続けていた『雲華のカタキを取る』という思いは―――。

 

(ぐっ……今もあの最後の光景を思い出すと、負の感情に引っ張られる……)

 

 一刀は、少し気を落ち着けながら、視点を少しずらして考える。

 あの暗殺仙人に指示した背景や黒幕については、調べるにしても今も全くアテが無く、目的としては現実的でないように思う。確かに今の自分なら、予州中の街をしらみつぶしに回れば例のお店へたどり着けるだろう。

 しかし、良く考えればそのお店で情報を聞けば、その無関係であろう仙人の親族も巻き込む可能性があるのだ。それに実際の所、気軽に聞ける話ではない上に、暗殺仙人らの情報など知っている可能性も殆どないだろう。さらに雲華の、自分が仙人だという事すらお店の彼女らは知らないと言っていたのも思い出した。

 今は『カタキを取りたい』という自身の思いを、再確認するに留めるしかないように思えた。

 他には手掛りがないのだ。

 もちろん、諦めたという事では断じてない! 歯がゆい思いであった……。

 それと入れ替わるように一刀は、雲華との最後の話の中で彼女が言っていた、『一刀がこの世界で何かを成し遂げなければいけない存在』であり『それを探し成し遂げて欲しい』という言葉を思い出していた。

 だがこれも、雲を掴むような話であった。まずその『何か』を探さなければならないのだ。

 改めて一刀は思う。雲華と一緒なら、その『何か』や暗殺仙人に指示した背景や黒幕についても、きっと探せ出せたのではないだろうかと。

 

 だが、もう彼女はいない。大きな『残件』に対して自分は独りなのだと―――。

 

 一刀は、つくづく自分がまだ何もできない小さな存在だと考えさせられていた。

 そんな悲しくなる思いから逃避するように、一刀は今朝早くからのこの家での出来事を思い起こしていた。

 夜中には司馬防から優しく蕩ける様に体を合わせての添い寝をしてもらい、早朝には司馬馗以下五人の義姉妹が出来、午前中には司馬孚からこの家を案内された後に旅立った後も一緒に行きたいと言われ、午後には司馬朗からこれから共に人生を歩みたいと求婚のように親しく詰め寄られ……。

 あと司馬懿がいるが、彼女にも特に嫌われているわけではなさそうに見える。初日の宴会の時から、一刀はすでに母の客人として認められているように感じられた。

 今日の夕食後にも『寛ぎの広間』にて、彼女から少し剣術について、いつ頃から始めたのか師はいるのか等の質問を受けたが、普通に気軽な感じでベタベタされることも無く、むしろ少しホッと寛げるぐらいだった。

 残念ながらと言うべきか司馬懿は、一刀について男性としてはあまり感心がないのだろう。

 とは言え司馬家の人達は、一刀へ積極的に暖かく強く結び付こうとしてくれているように感じた。

 一刀は『一人は寂しい』と強く感じている為、すごく嬉しい思いがある反面、やはり死と脅威を呼ぶであろう自分からは『関わりを控えて距離を取っておかなければ』という矛盾した思いをどうすればいいのかとの考えに至る。

 そのため司馬朗と司馬孚には、中途半端で先延ばしのような対応になってしまっていた。

 

 『死』『脅威』『独り』『寂しい』『添い寝』『義兄妹』『一緒に』『求婚?』『距離を取る』―――もはやどう収拾させればいいのか、一刀は完全な混乱状態であった。

 

 さらに有無を言わせぬ湯殿にての、もはや『すべてを許す』と言う、司馬防、司馬朗、司馬孚の三人の親しく綺麗な女の子達の、お湯に透けた白い生地下で肌が恥じらいから赤に染まっての桃源郷……。

 一刀は若い。そして、絶倫なのである!

 司馬家の家族らは皆、美人でおっぱいいっぱいで魅力的な上に、一刀へ家族愛以上な『激しいスキンシップ』を繰り広げてきていた。

 彼にとって、その同意による『イカガワシイ』&『ハレンチ』は、まさに『正義』となっているのだ。本能であり理屈などなかった。

 だが、そんな気持ちに対抗するものもあった。

 

 それは――『雲華への想い』。

 

 一刀にとって『唯一』として愛おしかった者への気持ち。

 それを守るために『正義』に抗おうとすることは、絶倫な彼にとっては拷問とも言えるかもしれない。

 彼の中では「聖人のごとく雲華への想いを守るんだ」と言う天使と「本能の赴くままにヤリまくれ」という圧倒的に強大な悪魔(正義)の思考が『激しいスキンシップ』を受けるたびに交錯し続けていた。

 そんな状態で、湯殿にて司馬朗より恥らいながらも腰の辺りを丁寧に洗われながら「一刀様、一刀様」と耳横にて小声で艶めかしく言われ続けると共に、背中を司馬防のタワーワな栄光の部位でゆっくりと擦られ「ふふっ、我慢なさらずに」と言われながら洗われ、さらに正面には片膝を付いて頭を濯いでくれる絶世の美女な司馬孚の至高の絶対領域が至近距離にて、白布越しに張り付いてハッキリと見えちゃっても「一刀様……」と隠さないでいる強烈な光景が……トリプルで激しく攻めて来ていたのだ。

 一刀は盛んなオスとして、圧倒的な物理的且つ現物攻撃を前に、この一家の人達へ熱い想いを向けてはいけないと思いつつも、ついに耐えきれず―――『天国』気分になってしまっていた……。

 

(ゴチソウさまです……イヤ、いかんいかん!)

 

 まだここへ来たばかりだが、司馬家面々の自分への尋常ではない狂おしい程親しげな愛情を強く感じているのだった。

 それは、もうずっと以前から繋がりがあるような。そして少し贅沢過ぎる部分があるが、不思議と一刀もあまり違和感なく、ここでは気分よく暮らせている。

 そんな司馬家の現状に、一刀は湯殿の時にも男としての本能的な思考(もはや生殖プレイorサワナデスリモミプレイ)が芽生え始めていたが、こんな状態がひと月も続いた後にはどういう状況になるのか想像してみる。

 それはもはや『バッサリとすべての関係(愛情、肉欲、まさかの血縁?!)を断ち切る』という形でここを旅立つのは不可能なのでは……という考えにぼんやりと至ろうとしていた。

 しかしそれは『司馬家』を正体不明な敵からの『死』や『脅威』へと巻き込み、引きずりこむ事に繋がりかねないのだ―――と、一刀の思考は、ここで再び一番初めに戻り堂々巡りをする。

 それが、どれぐらい続いただろうか。

 気が付くと、一刀は再び部屋へゆっくりと近づいてくる司馬防の気を捉えていた。

 

 

 

 下の娘達が一人、二人、三人と寝静まっていき、夜の深さが満ちる頃、司馬防は静々と一刀の客間へ向かい始める。

 彼女は―――ドキドキしていた。胸の高鳴りが抑えられない。何も知らぬ処女でもあるまいしと思うのだが……。

 今晩何が起こるのか、どこまで関係が進むのか、彼の心を最後まで開くことが出来るのだろうか……司馬防の心に期待と不安が交錯する。

 一歩一歩一刀の客間へ近づくにつれて、顔と体の火照りは増すばかりである。

 そして、一刀の客間の前に着いてしまう。

 だが司馬防は、躊躇することなく両開きの折り畳み戸の扉越しにて、中に居る愛しい男へ小声を掛ける。

 

「水華(シェイファ)です。北郷殿……起きていますか」

「……はい」

 

 僅かに間があるも、中から眠気を感じない彼の声が聞こえて来た。司馬防は、昨晩も彼の声は寝起きではない声であった事に気付く。

 それは武人だからなのか、寝るのがいつも遅いからなのか、それとも誰かの来訪を持ちわびていたのか……と考えが頭を過ったが、今は後に回すことにする。そして、続けて少し照れながら声を掛ける。

 

「今宵も……お話をしに参りました……中へ入っても構いませんか?」

 

 彼女は今夜も来てくれた。

 一刀は、気に掛けて貰えることが嬉しくもあり、先ほどまでの葛藤もあり、とても複雑な気持ちであった。

 さらに、司馬防は恩人と言える存在。

 謎の残る脅威から生き残ったが、オカシクなった状態で再び孤独となり世界へ放り出されていた一刀に、元へ戻る切っ掛けや贅沢な居場所と、愛娘らと共に家族のような暖かい結び付きを与えてくれたのだ。

 加えて、彼女は美人で優しく母性に溢れ、雲華の体の温もりを失って寂しい一刀に対して、昨晩も唇と共に体の温もりと真名まで預けてくれて、一刀へ一人の男として熱い好意を持ってくれているようだった。

 一刀は、なんとなく少し雲華との関係に似ているように感じていた。

 今も思考が無限回廊に落ち入り掛けている一刀にとって、救世主の女神が現れたようにも思えた。

 だが、昨晩の臥所内で睦み合っての添い寝の事もある。今夜は、サワサワスリスリな添い寝だけで済むだろうかとも思う。しかし―――

 

(今は彼女と話がしたいな)

 

 一刀は、ふとそんな自然な思いから、布団の中で横になっていた状態から体を起こすと、外の司馬防に対して声を掛けていた。

 

「……はい。どうぞ」

 

 暫しの間の後、中から一刀の……僅かに戸惑いながらも承諾の返事を受け、司馬防は恥ずかしげに、しかし満足げに微笑みながら、折り畳み戸の扉の片方を静かに開け、粛々と部屋の中へ入って行くのであった。

 扉を通りながら司馬防は『お話をしに』とは言ったけれど、それが『言葉の綾』であることは一刀も分かっていながらの了承だと思うと、嬉しく感じていた。当然、昨夜の熱く唇を合わせたり、互いの体の大事な箇所へ触れての、サワサワスリスリな確かめ合いを当然踏まえての入室同意ということは間違いないと。

 彼も再びそのことに……気持ちよくなることに期待しているのかもと考えると、彼女の下腹部の女性的な内なる大事なところが自然と徐々に熱くなってくるのであった……。

 静かに扉を閉めると、司馬防は寝台へ向き直る。

 開いた扉からの僅かな空気の流れが、一刀のところへ司馬防の女の子な良い香りを運ぶ。

 一刀は、無意識的に気付かれないよう、静かにそのいい匂いをクンカクンカする。

 これは既に、彼の本能的行動になっている。もはや誰にも止められないのだ。

 湯殿では、司馬朗ら三身一体の香りがムンムンと充満していたが、白スク湯浴み着でのの直接接触バインバインスリスリ攻撃により、クンカを堪能する余裕などなかったのだ。

 やはり、静かに落ち着いて粛々と匂いを堪能するに限るとともに、『極み』を感じるのであった。

 司馬防は、昨日と同じように自らの打掛着を床へ脱ぎ落とす為、腰帯に手を掛けようとした。

 しかし一刀は、それを制するように、そしてそのままの姿でここに座るようにと、起き上がり布団の上に座るその傍らの位置を、ポフポフと軽く叩きながら声を掛ける。

 

「水華殿、そのままこちらに来て座ってください。少し話がしたいんだけど」

 

 一刀からの意外な申し出に僅かに驚きながらも、司馬防はちゃんと真名で呼ばれた事も含めて笑顔で頷くと寝台の横まで静かに進んでゆく。

 近寄る間に彼女は、話の終わった後どうせなら、打掛を一刀に脱がしてもらおうと思い付く。そして、そうお願いしたときの彼の反応を想像して、笑顔にその少し楽しみな気持ちも加わっていた。

 司馬防は寝台に腰掛けて履物を脱ぐと、一刀の右横へお尻を滑らせるように移動する。

 この客間には夜間も蝋燭が灯されている。

 近くで見る司馬防は、蝋燭の薄明りに浮かび上がりとても幻想的に見えていた。

 昼間と違い、頭には頭冠ではなく赤い花の飾りがされていて、後ろの髪も束ねることなくすべてが自然体な感じで流されていた。

 昨晩は、いきなり彼女に打掛を脱がれてシースルーな衣装越しに豊満で形の良い栄光の部位をまざまざと見せつけられ、きちんと落ち着いて姿を眺める余裕がなかったのだが、やはりこうして改めて近くで見る司馬防は、雰囲気が母性に溢れており優しそうで綺麗で、傍に居てもらえると安心出来るような、心地よい空気に包まれている女性なのだった。

 司馬防はすぐ横まで来ると、落ち着くように、そして一刀へ僅かにくっ付くように座り直す。すると彼女へ、一刀の口から頭に浮かんだその考えが自然に漏れていた。

 

「綺麗だし、やっぱり落ち着くな……」

「えっ?」

 

 司馬防は、とんでもなくドキリとしてしまう。まだ悩殺スタイルに移行してもなく、気構えすらもしていない状態なのに、不意打ち的に一刀から言って欲しい言葉の一つを自然な感じに聞かされたからだ。

 司馬防は完全に顔を赤らめ、両手で頬を隠して一刀のいない寝台の外へ顔を逸らせてしまった。

 

「あっ、俺……」

 

 思わず言ってしまった一刀も、我に返って『何を言ってしまったんだ』と、こちらも気が付くと司馬防と反対側へ目を逸らしてしまっていた。

 司馬防は自分が良い雰囲気へとリードするはずだったのだが、一刀からの気負いのない自然で素直な気持ちの先制初撃に沈黙してしまう。

 二人は互いに動けず、しばらく照れた状態で固まっていた。

 だが、間もなく一刀から話し掛ける。それは雲華との経験からだろうか。

 すでに昨夜や湯殿の関係もあり、自分の方が年下ではあるが男として引き過ぎては、わざわざ部屋まで来てくれている司馬防に悪いと思ったのだ。

 

「その……えっと、先ほどまで一人で悪い方にいろいろ悩んでいたので……水華殿が来てくれて助かりました。嬉しいです」

 

 一刀は、横にいる司馬防の方へ少しはにかむ感じの顔を向けて、静かにそう伝えた。そうして軽く彼女の膝に手を置いた。

 すると、司馬防も漸く嬉し恥ずかしの呪縛から立ち直り、膝に置かれた一刀の手の上に自分の手を重ねる。

 

「私も……嬉しいです。今宵も北郷殿のすぐ隣に居ることが出来て……好きですよ」

 

 司馬防は素直に想いの言葉を綴りながら、一刀の手の上に乗せた手をゆっくりと撫でるように何度も滑らせると共に、十分熱くなっている体と顔を一刀の方へ徐々に寄せていった。

 一刀は、蝋燭の灯りによる幻想的な司馬防の姿に目を奪われていたが、再びすぐ横にいる司馬防から匂い立つ女の子なイイ香りもクンカクンカと堪能していた。

 そして、まもなく右腕に彼女の豊かで柔らかな掴む為の栄光の部位が強くスリスリと押し付けてくるように当てられるその感触も楽しんでいた。

 この時の一刀は余り考えていなかった。素直に自身の『正義』に従っていた。

 『聖』『邪』は別として―――。

 更にお互い顔を傾けて見つめ合っていたが、近づいて来た司馬防の瑞々しい唇が軽く一刀の唇の右半分に触れる。

 

 一刀は―――拒む事はなかった。今は、司馬防に甘えたかったのだ。

 

 軽く挨拶的なキスをしてくれた司馬防へ、一刀は話し掛ける。

 

「水華殿、オレ……私の方も姓の北郷ではなく、名の一刀で呼んでくれると嬉しいです」

「……では、一刀殿と。ふふっ、もう私に余り気を使う必要はありません。普段通りに……ね」

 

 再び、司馬防は唇を寄せて来る。今度は一刀からも僅かに唇を寄せ、互いの鼻先で鞘当のような遊びが入った後に、しっかりとお互いの唇と気持ちを確かめ合っていた。

 

(んっ、檸檬と蜂蜜の味……?)

 

 司馬防の唇と唾液は、程よく甘酸っぱいものであった。美味しいと言っても過言ではない。今度は一刀からついついついばむように、彼女の柔らかな唇を堪能してしまう。更に美味しさとそして『甘さ』を求めるように唇の奥へ……。

 司馬防は、一刀にされるがまま、唇などを合わせるように甘えるように答えるようにと受け止めてあげていた。

 すでに彼女は、一刀からの甘い接吻により、すでに気持ちよくなってきてしまってもいる。体の力が徐々に抜けて行く感じであった。

 

「んっ、ぅ……ぁぁ……ぁ……ぃぃん……」

 

 司馬防からは、自然と鼻に抜けるような甘い声が漏れて来る。

 そして、司馬防はゆっくりと一刀に押されるように、後ろへゆっくりと仰向けに倒れ込んでいった。

 一刀も少し追随するが、右手で司馬防の上に倒れ込む前に自分の体は支えていた。

 一刀は、司馬防の上に覆い被さるような感じで彼女を見下ろす形になった。互いの座った位置の差で、一刀の目の前は司馬防の胸辺りになっている。

 司馬防の顔を見ると、彼女はやさしく微笑んでいた。

 そして、司馬防の右手が伸びて来ると、一刀の頬や頭をナデナデしてくれた。

 

「さぁ、一刀殿……私を……好きにされていいのですよ?」

 

 一刀には、この期に及んで司馬防の誘いの言葉を拒む気はなかった。

 しかし、このまますぐに肉欲に逃げるのではなく、まず自分の行き場の無い話を司馬防に聞いて欲しいと思った。

 

「あの水華殿……聞いて欲しい話があるんだけど」

 

 司馬防はふと思い出す。この部屋に入って来た時に、一刀は確かに「一人で悪い方にいろいろ悩んでいた」と言っていた事に。

 司馬防は焦ることなく、愛しい一刀の希望を優先してくれる。

 

「分かりました。ふふっ。では一刀殿も、こう横になられては?」

 

 そう言って、司馬防は一刀を撫でるのをやめると、体を仰向けから横向きに変える。今度は司馬防が自分の前をポフポフと軽く叩いていた。まず、一刀を気楽にさせてあげたいと思ったのだ。

 

「うん、そうだね」

 

 一刀は司馬防に従い、向かい合う様に布団の上で横向きになった。一息つく感じで一刀も司馬防に笑顔を返す。

 

「で、どうされたのです?」

 

 司馬防は優しく静かに、一刀へ話の催促する。まさに母性が溢れていて安心出来る雰囲気になっていた。

 一刀は、話始めようとしたが……待て!

 一瞬、超速気で出来るだけ長めに思考時間を稼ぐ。

 まず、さすがにこの時代に迷い込んで来たという重要な事や、仙人に関することは話せない。とっ掛りの無い自分の『成すべき事』についてもだ。

 おまけに良く考えると、司馬家で目が覚める前の事を、よく覚えていないと言った気がする……。

 だが、亡くなった『大事な人』がいることは、昨日、口に出してしまった。

 さて、どうするか。

 超速気で引き延ばされた精神世界の中でしばらく悩んだ一刀は、しかたなく現実に近い代替えの話をして司馬防に意見を求める事にした。

 それは―――

 

 以前も行き倒れていた一刀は、泰山の森で剣豪の少女に助けられ、その子と一緒にしばらく仲良く暮らすようになった。

 たがある日、急に一刀を狙って特殊な功夫を使う正体不明な強敵が現れた。そして、強敵は倒したが、その戦いで剣豪の少女は死んでしまった。

 少女の死のショックで長い間……およそ四か月程、記憶が曖昧な状態で放浪していて、この司馬家に拾われた。

 その正体不明な強敵は、泰山の森で行き倒れる前に関連があったかもしれないが、それ以前の事については何一つ思い出せないため、今は探りようも対策のしようもない。

 襲ってきた正体不明な強敵は、誰かに頼まれたという内容の事を話していた。

 そのため、またいつか別の強敵が、一刀を不意に襲ってくる可能性がある。

 泰山の森で行き倒れる原因が、その正体不明な強敵にあったかもしれないが何とも言えない―――と。

 

「俺は弱かった……。敵の不意の初撃を、彼女が代わりに受けてくれなければ……死んでいたのは間違いなく俺でした……」

 

 代替えの話であったが、一刀は落ち込み、そして―――静かに泣いていた。

 司馬防は、一刀へ顔を近づけ頬を寄せ、そして右手をやさしく一刀の背中に回して抱いてくれた。

 彼女は昨晩、一刀の『心の整理が付いていない大事な人』という言葉から、一刀が司馬家に来る前の記憶を回復して(持って)いる事に気が付いていた。それを知らされてなかったのは残念なことだが、今、事情があることを知り一刀を攻める気にはなれなかった。

 そして、一刀が湯殿で自分や娘達から受けた、あれほどの女体による苛烈な接触行為に対して、なぜ頑なに耐えていたのか改めて気が付いていた。

 そう、『大事な人への想い』だけでなかったことに。

 もし、深く結びついてしまったら……愛していたであろう、その剣豪の少女のように、司馬防や司馬朗らも巻き込んでしまうかもしれないと、一刀が考えていたのだろうということに。

 一刀が、強敵という程の使い手なのだ。やはりその敵の腕は、相当な武人だと想像できる。

 だが司馬防は、結局その者を一刀は倒してしまっているという事だとも思っていた。

 なれば……新たな強敵が現れた時に、巻き込まれて自分達が殺されてしまっても、それは運命ではなく、あくまで状況の範囲内になる。

 このご時世なのだ、戦い以外にも病魔や天災などで死ぬ要素などいくらでもあるのだ。

 さらに、もう一つの可能性を司馬防は口にする。

 

「最悪を考える事は対策として悪くないけれど、しかし、逆にもう敵は来ないかもしれないのでは、ということも考えられますね」

 

 司馬防により優しく抱かれている一刀の頭に、雲華から聞いていた事が浮かぶ。確かに仙人の掟には、制裁者を『返り討ち』にすれば許されるとあった。

 司馬防は、一刀からの話を総括し、静かに自分の考えを話し出す。

 

「一刀殿。私の経験の中の話ではありますが、確約もない事象に対して、必要以上に気に留めても良い事はないように思います。災厄を避ける努力は当然必要ですが、初めから結果を決めつけるような事があってはいけません。そのような考えが、逆に宜しくない結果を引き寄せる事に繋がるときもあるかと。そもそも人生とは、何が起こるかは分からないものなのですよ。それに人生の有用な時間は、思うほど長くはありません。ですから、直近でその時に出来る事、やりたい事へ精一杯努力して生きて行けば良いのではありませんか? きっと貴方のその『大事な人』も、そう思う方だったのではないでしょうか。私は……一刀殿に、これからも強く生きて行ってほしいですよ」

 

 司馬防の優しくも強い意味の込められた言葉を、一刀は静かに噛み締めながら聞いていた。

 

(水華殿……。確かに雲華だったら、何時までもグズグズしている俺を叱る事だろう。俺は、少し考えすぎていたのかもしれない……)

 

 まだ、自分の何が変わったわけではない。だが司馬家の人達との出会いは、大きな希望や光を取り戻す切っ掛けになりそうな事は間違いないだろう。

 一刀は、迷いに捕らわれ霞んでいた道が徐々に開けていく思いがした。その気持ちの変化を司馬防へ伝える。

 

「ありがとう、水華殿。少し気持ちの整理が出来ました。確かに俺は、必要以上にすべての関わりを怖がっていたのかもしれない。急に気持ちを切り替えるのは、まだ無理かもしれないけれど、色々な事をもっと前向きに考えていきます」

「無理もありません。『大事な人』を失う事は、半身を割かれる程寂しい思いだったでしょうから」

 

 そう言って司馬防は、右手で一刀の背中を撫でながら、彼を再び優しく抱きしめてくれていた。

 一刀からの話を聞いて、司馬防は正直な意見を聞かせてあげた。

 そんな彼女だが、しかし……今日の本当の目的を忘れたわけではない。

 

 ここは、逃がさないのである。

 

「一刀殿は、まだ当分当家にいるのですから、この街を見たり人々と会ってみたり話したり、また私を含め家の者と接しながら、体調と合わせてゆっくりで良いので強い貴方を見せてください。その間……私が少しでも、貴方の寂しさを埋めることが出来ればと思っています。私が……お嫌いでなければ……愛してくださいませんか?」

 

 ―――ごくり。

 司馬防の誘いの言葉に一刀は、思わず喉を鳴らせてしまう。彼女にも、聞かれてしまったのではないだろうか。

 『お嫌いでなければ』なんて言われて、今の状況の一刀に拒否出来るはずもない。

 雲華の事は今も大事に想っているが、悩みを聞いてくれた司馬防へも、とても感謝している一刀であった。

 そして司馬防の事を、色々な意味で気に入っているのは間違いない。それは好きという気持ちでもある。

 それに昨晩、サワサワナデナデスリスリして堪能した、女性として成熟している司馬防の体が気にならないわけがないのだ。

 ペロペロもしたいのである。

 今も体を密着した状態で『愛してください』と言われてしまっていた。

 優しく包まれた匂いがたまらない感じで、クンカクンカするのであった。

 昨晩から相思相愛と言える間柄になっている。つまり、すべてが合法な状況。一刀の『正義』以外の何物でもないのあった。

 何度も言うが、一刀は絶倫なのだ。

 昨晩の添い寝と、今日の湯殿の行為を受け、この期に及んで『何もない』となれば―――それはもはや『北郷一刀』ではないと言える。

 

 すなわち、『もう我慢できない!』が一刀の本音だった。

 

 司馬防は、体を合わせた状態で静かに一刀の答えを待っていた。

 一刀からゴクリという唾を飲む音が盛大に聞こえた。彼も呼吸が速くなって、興奮しているみたいであった。

 

(触れて欲しい……早く私に触って!)

 

 司馬防は少し怖かった。

 ここで『何もない』となれば、脈が無いに等しいのだから。

 だが、それは杞憂に終わる。

 

「水華殿……ホントに、いいの?」

 

 一刀は司馬防と目を合わせて、遠慮気味に確認する。

 司馬防の待ちわびた言葉を、ついに言ってくれたのであった。

 司馬防は、高鳴る想いを秘めて控え気味に答えるとともに、すかさず当初の行動をしてもらうお願いを忘れない。

 

「……はい。……あの……帯を解いて打掛を脱がしてもらえますか」

 

 そう言うと彼女は自らの体をゆっくりと起こし、引けば緩む腰帯の先を、追う様に体を起こして来た一刀の右手へ手渡した。

 一刀は言われるままに、座って向かい合う彼女の帯を引くと、簡単に帯は解け打掛は緩んだ状態となった。

 司馬防は、一刀へ目を合わせ頷き、続けて『脱がせて』と合図する。

 一刀は正面から近寄り、彼女の肩から豪奢な打掛を浮かせ、そして――背中側に落としてあげる。

 すると一刀の眼下に、水色で透け透けのベビードール風の膝程まで裾のある、オスの気をそそる艶やかな衣装の光景が広がる。

 水色だと、肌色の透過率がかなり高いのを知っているだろうか。司馬防は確信犯と言えた。

 彼女の栄光の部位である二つの膨らみは、白い滑らかな肌と形の良さに加え、先っぽとその若々しい色が丸見えの状態であった。

 昨晩もこの栄光の部位の感触を堪能しているが、凄まじいボリュームとインパクトがある。彼女はすでに体が十分熱くなっているようで、先っぽが、スケスケの生地の下からツンと主張していた。

 一刀はもちろん言うまでもなく全編を、脳内へ超高解像度記憶録画するのを忘れていない。

 司馬防は、恥ずかしいながらも一刀の表情と反応を上目遣いに見て来るのだった。

 

「ッ……とても魅力的で綺麗だよ」

 

 一刀の興奮気味の言葉と、食い入るように釘づけな目線を見れば、まずそれが胸に……その先っぽに来ている事はすぐにわかる。さらにその下の小さく透けた腰布に隠された絶対領域へも伸びていることに。

 

「嬉しい……さぁ、遠慮せず好きに……触ってください……楽しんでください」

 

 司馬防は、女としての喜びを得ようとしていた。

 そして、彼女の目は一刀が、早くもモッコリ状態に移っている事を見逃してはいない。

 自分の体を見た一刀が、反応をしてくれている。それだけで嬉しかった。

 

 一刀は、彼女の栄光の部位を生地越しに、サワサワし始める。透過重視な荒目の生地な為に、強く快感が伝わって来るのか、司馬防の口からは「……んっ……ぁぁん…………」と悩ましい吐息のような声が漏れてきている。

 一刀は、手に伝わる柔らかさと強弱の感触とともに、すでにその彼女の声も楽しんでいる様であった。

 雲華の時にも反応があったので、司馬防にもそれなりに楽しんでもらえている感じなのが分かった。

 たまに一刀は、栄光の部位をイロイロと攻めちゃっている。一刀としては丘の柔らかさ等がタマラナイ感じだ。

 加えて彼女の反応が、悦楽の声色もソソラレるのであった。

 一刀はしばらくの間続けて、攻め続けていた。

 司馬防を――『教育している』と言っていい行為であった。

 司馬防自身も、そのキモチイイ感覚を何度も楽しんでいたいのであった。彼女の亡くなった夫からは、ほぼ無かった行為であり、一刀以上にその甘い感覚にハマっていた。

 

(サワサワしてぇ……もっとサワサワしてほしいのぉ!)

 

 司馬防は、そう声に出しそうになるが耐えていた。

 今晩は、一刀に自分の体を好きなだけ楽しんでもらいたかったからだ。

 彼女の女としての本能なのか、愛しい一刀にどんどんと自慢の部位を蹂躙されていく自分を考えると、下腹部の奥の大事な女の子な部分が更に熱くなってくるのを感じていた。

 

 一刀の右手が、栄光の部位から下がり、司馬防のお腹や桃尻をサワサワしはじめる。その新しい感覚に、司馬防は悶え始めていた。

 ちょうど、胸から他の体の部位も触って欲しくなって来ていた絶妙の頃合いであったので、余計に気持ちが良くなって来ていた。

 昨晩からなんとなくだが、すでに一刀との体の相性も良いように感じている。

 それはとてもとても、嬉しく素敵な事なのであった。

 夜の生活が変わる――男女のキモチイイ事が実は好きな司馬防にとっては、革命にも似た日常の変化と言えるだろう。

 前の夫は人物としては好きではあったが、残念ながら余り体の相性は良くなかったのである。加えて淡泊な夜の営みであったため、キモチイイと感じる事は少なかったのだ。

 夜がとても寂しく思えていた。少女に成り立てな幼い頃、『女』になってから、ずっと続いていたのだ。

 そしてここ十年ほどは熟れた豊満なこの体を、夜中に独りで慰めるしかなかったのであった。

 だがこれからは、そんな状況を一刀が救ってくれそうに思う。

 たくさんの夜を、彼と一杯楽しみたいのである。

 そして、待望の元気な男の子を一度は生んでみたいと考えている。

 司馬防は、そんな色々と『ハレンチ』な想いにより、彼をより愛おしく感じるのであった。

 その一刀が自分の体を求めて、サワサワスリスリと触れてくれていることが、今、余計に体をどんどん熱くさせている。

 栄光の部位へのサワサワと平行して、一刀の右手により、軽く背中やお腹をサワサワナデナデされているだけだったが、もはや『ダメ』なほど気持ちイイ。

 さらにその手は太腿、膝、脹脛へも、そして太腿の内側へも往復してやってくるのであった。

 司馬防の一刀への気持ちが、丁度最高になっていたためか、不思議な事にこれだけで、司馬防にとって気が遠くなるほどの悦楽を受けてしまうのであった。

 

 そして――――彼女の甲高い嬌声が不意に客間に響いていた。

 

 クンカとサワサワし続けてていた一刀は驚いたが、司馬防が、クッタリと急に横に倒れそうになったので支えてあげる。

 司馬防は、体に余り力が入らない状態になっていたのであった。

 すぐに意識ははっきりしたようだったが、一刀の右腕に寄り掛かる感じになっていた。だが、今日の彼女は精神的に『イカガワシイ』意味で、タガが外れている感じで気合いが入っていた。

 力が入らず無防備な熟れた体を一刀へ晒し、恥ずかしいのか顔を逸らしながらも、こう気持ちを伝える。

 

「わ、私は大丈夫です。……構わずに……私の体を……もっとアレコレと楽しんで……ください」

 

 そういうと司馬防は一刀の左手を……自らの絶対領域である至高の部位まで運んでいた。

 昨晩も臥所の中でサワサワナデナデしてしまっている部位とは言え、今日は布団のように覆うものは何もなく、その気になれば肉眼でクッキリハッキリ確認出来ちゃう状態だ。

 水色の透け透けな小さ目の腰布は、すでに汗なのか水気を帯びているようで体に張り付く感じになっており、おまけに彼女はパイ●ンな為、『ケ』による影などどこにも見当たらないビーナスな光景がそこにある。

 ただ一刀は今、右手で彼女を支えている為、上から腰下を見下ろしているに過ぎない。

 だが目線は、絶倫なオスとしての本能から、自然と熱いモノへと加速していくのだった。

 

 ―――彼女の腰下へ潜り込み、小さ目の腰布を剥ぎ取り、間近でサワサワしじっくり堪能して見てみたい、イロイロしてみたいのである。

 

 一刀の心には、そんな欲望が『当然』のごとく沸き起こっていた。

 そして……司馬防も……亡くなった夫にもされた事がないそれを、熱く期待しているのだ。

 さらにその先をも。

 

 とりあえず、一刀は再び―――ゴクリと唾を飲み込む。

 自然と気合いと力が入ってきていた。

 そしてまずは司馬防の期待に応える意味で、右腕に寄り掛かる彼女を、左手でサワサワナデナデしてあげる事にする。

 さらに腰のエスカレートした箇所を、ナデナデサワサワしてあげる。

 すると右腕で支えてあげている司馬防は、悦楽な『ハレンチ』行為へ気が入っていることが影響し過ぎているのか、様子がいささかオカシくなり始める。

 

「……ああぁぁーーん……ソコ……ソコの……●●…を……ぁぁぁああーーん」

 

 一刀はまだ、軽くサワサワしてあげているだけだが、どうやら彼女は特定の部分に強く悦楽を感じるようなので、そこを丹念にサワサワナデナデして攻めてあげた。

 

「……ぁあーーぁ……か、一刀…んぁ……す…きぃーー、………ソコも……すきぃ……」

 

 夜をリードしてあげるつもりであった司馬防だが―――完全に悦楽にハマってしまっていた。

 彼女自身もよく分かっていなかったのだ。体の相性の良い愛しい人が相手だと、自分が激しく艶めかしく乱れてしまう事に。

 一刀は、自分の腕の中でどこか初々しく、美しく乱れる彼女が可愛くなって来ていた。

 

 

 

 4万文字をOVERしたので…熱い夜♡の続きは、後書き最後へ

 ↓     ↓     ↓     ↓     ↓

 

 

 




2014年07月16日 投稿
2014年09月01日 文章修正
2014年09月12日 文章修正 熱い夜追加
2014年09月13日 熱い夜R-15版化(あんまり変わってないという話も…)
2014年10月25日 文章見直し修正(熱い夜除く)
2015年03月21日 文章修正(時間表現含む)
2015年03月28日 文章修正



 解説)さり気なく確認はいつ?
 司馬朗は、勉強会の前に司馬進へ聞いていた。
 一刀への『評価』について、いつもなら出会った宴会の席で告げているはずではと聞いてみたのだ。
 ただ、宴会の席でもハキハキとしながらも、司馬朗には司馬進が僅かに照れて見えたことから、悪い印象ではないとは思っていた。
 なお、司馬朗はこの確認の前に司馬孚より、下の姉妹五人が同時に一刀と義兄妹の契りをしたことと、司馬孚からは先ほど自らの真名を一刀へ預けたことを伝えられていた。そして、昨晩、司馬懿の部屋から母屋へ戻る時に、深夜の母の行動を目撃する。
 下の姉妹達の契りや、司馬孚の予想以上の積極的な本気度、そして母、司馬防の……圧倒的な実力行使は司馬朗の焦りを誘い、昼食での発言へも繋がっていったのだ。

 そして……司馬朗にも言っていない考えが、司馬進にもあった。
 司馬進は、今は一刀を義兄として甘えていたかったのだ。
 だがそんな中で、一刀と自分の部屋で二人きりになるのを静かに待っている。その時に「兄(にい)様は、勇気と思いやりがあって頼り甲斐があり、そして……夜も優しそうで、夫にしたい私の理想の男性です」と告げ―――真名も預けるつもりである。




 解説)『司馬家』の女性の下のケは……
 一刀は気が付くのだった。
 まず、湯船から上がってきた母性溢れる司馬防さんの湯浴み着の至高な絶対領域に……髪の色の薄緑な色を見つける事が出来なかった。
 次に、髪を洗ってくれた絶世の美女の司馬孚さんは、近距離の正面に膝立の状態で湯浴み着越しの至高な絶対領域をガン見で確認できたのだが……髪の色と同様の薄緑な色を見つける事が出来なかった。
 そして、腕や……もっこり部分を洗ってくれた優しい司馬朗さんは、片膝立ちで至高な絶対領域が湯浴み着越しながら、ほぼ○見えでしたが……やはり髪の色と同じ薄緑色を見つける事が出来なかった。
 一刀はとりあえず結論付けるのだった。彼女達は、皆、パイ●ン(アルべき所にケが無いん)だと。
 一刀の極秘調査は続く―――。




 挑戦)司馬防さんの熱い夜♡
 書いているうちに、本編に絡む一刀と司馬防の心情等の描写が多く入ったため、『一刀と司馬防さんの熱い夜♡』として、本文の『つづく』の直後に挿入しました。
 加えて、本文のページ内文字数が40600文字程となった為、最後700文字ほどがさらに後書きの最後にあります……すみません(汗




 解説)本当は……三国時代に入浴の習慣はなかった
 中国に限らず、水が豊富でない西洋なども入浴というのは余りなかったとか。濡れた手ぬぐいで体を軽く拭いたり、暑い日には桶に水を張り行水をする程度だったもよう。
 そのため、体臭を消すために部屋に香を焚いたり、香水が開発されたりしたようです。
 ちなみに三国時代は、身分の高い人は厠に行って出るたびに、いちいち服を着替えていたとか。













 R-15版)一刀と司馬防さんの熱い夜♡ つづきはここ!
 ↓     ↓     ↓     ↓     ↓



 そして、彼女はふたたび『天国』気分になってしまう。

「んぅ…ーーぃィのぉーーーぃ、●クぅーーー、●ッちャぅーーーーーーーーー!!」

 だが、司馬防も先ほどから手を差し伸べ、一刀へやさしくサワサワクイクイしてあげていた。
 司馬防の『天国』へ到達する淫らな光景とそこへ至らせた満足感に一刀も感じてしまっていて、「ぅっ、くゥゥ……」と共に『天国』気分になってしまった。

 そのあとも休むことなく、一刀はこれまでのお礼も兼ねて司馬防を何度も何度も気持ち良くしてあげる。
 しかしそれは、熱く甘く彼女を自分好みへ『教育』するようでもあった―――。
 気が付けば、もう明け方に近くになっていた。
 司馬防は、これまでに感じたことのないキモチイイ悦楽をずいぶん堪能することが出来た。
 一刀も、ペロペロまでは出来なかったが……多くの脳内への高解像度な極秘記憶映像を得るとともに、最後には間近での各所のサワサワを堪能し終えてしまっていた……。
 司馬防は今回、子作りまで行けなかった事が少し残念ではあった。
 しかし、大きな前進があった。一刀が、蝋燭の灯る良い雰囲気の明かりの中で、自分の体をじっくりと見てくれて、気に入って、弄って楽しんでくれたことが嬉しかったのである。
 真の快楽を知り始めた彼女は、艶めかしい表情を一刀へ向けながら、膨らむ楽しみはまた今夜に……と思うのであった。

 事を終えた二人は、しばし後、司馬防が日の上る前に『北の屋敷』へ戻るということで身支度をする。
 司馬防は少し乱れた髪と衣服を纏い、その気怠さへ満足げに微笑みながら客間の扉を開けて外へ向かう。そして一刀へ『再会』を約束させる。

「一刀殿。また……今晩も熱く……してくださいませ……」
「……あ、あぁ」

 扉の手前で熱いキスを交わすと、一刀も満更ではないようだった。



 熱い夜END



----------------------------------------------------


 熱い夜の解説)『極み』を感じる
 ……もはや何を言っているのやら……(笑)
 静寂の中、うら若き女性からほのかに匂(にほ)い立つ香りを、気付かれることなく粛々と呼吸音を消し、ゆるりと深呼吸を行い、そしてそれを一人優雅に楽しむ……クンカの極意であ~る!




 ああ、惜しいかな……カタカナマジック……その真言を得ず♪





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➋➊話

 

 

 

 公孫賛。字は伯珪(はくけい)。赤毛で首程までの短めなポニーに、前を分けたお姫様カットの髪型。優しげな表情を象徴する少し大き目の茶色掛った瞳。しかし、しっかりした意志を表す力強い眉が印象的。肩を露出させ、腰下から前に長めの垂布のある朱色系の着物と袖布を纏い、膝上までの黒い短目のスカートに、足元は朱色のロングブーツ風の靴を履く。加えて普通に控えめな胸元から腹部に掛けてを守る金細工の入った手甲を含む『普通の鎧』を装備し、戦時には腰へ愛用する『普通の剣』を差していた。

 袁紹陣営内部に不気味な影が差す少し前、その北方の近隣に勢力を有する公孫賛は、先の黄巾党討伐の功により、元々自らの地盤であった幽州の遼西郡太守として正式に任じられ、足場を固めつつあった。

 また、加えて幽州の西中央に位置する涿郡太守も兼任する事になり、横に細長い州内で挟み込むような領地の効果により州全体へ急速に勢力を伸ばそうとしていた。

 公孫賛には不得意な分野は殆どなかった。軍事、内政、外交となんでも普通にそつ無く熟せた。

 彼女自身は大それた野望家ではない。

 だが、代々二千石(郡太守クラス)であった有力豪族の家柄であった。

 そのためか祖先に恥じない家の格式を守り、さらに発展させて一族の中で名前を残したいという思いはあった。

 それは―――幽州の州牧になり、のちに可能なら中央より王として封ぜられて代々幽州を治めることだ。

 だがそれには配下に多くの優秀な人材が不可欠であった。

 そのため趙雲には、彼女が客将的な位置にいるにも関わらず、彼女の故郷である常山郡に近い涿郡太守代行の要職に着かせていた。

 公孫賛には妹の公孫越がいるが、妹ではなく趙雲にその任をあたえていた。その人事は趙雲という人物を知る公孫越も納得してのことであった。

 趙雲。字は子龍。少し高めの鼻に小さ目な形の良い唇、細めの顎等の美しい顔立ち。そして紫色の鋭い眼光はすべてを射抜くように鋭い。僅かにグレイ掛った水色の美しい肩ほどまでの長さにて、奥に向かって斜めに切り上げるように揃えられた髪を靡かせる。白い絹のような滑らかな生地で裾が短く、袖に蝶の羽模様な絵柄を刺繍された着物を纏う。また、先が足首ほどまでもある、褪せた紫色風の長帯を締め、足には太腿の途中まで着物と同様の白い長めの足袋を履く。足元は芸者の履く「おこぼ」風な履物だ。そして強さの証明なのか、彼女は鎧の類を一切身に着けていない。

 幽州は、しばしば匈奴や烏桓族等の外部勢力が侵入してくることもあり、反乱等も多く元々不安定な治安地域であった。そんな状況に趙雲は常山より義勇兵を率いて、幽州内で孤軍奮闘していた公孫賛に加勢し、徐々に協力するようになった。

 趙雲の故郷は冀州常山郡にある。そこは、幽州に近い事もあり幽州内の治安の影響を大きく受ける場所なのだった。また、趙雲自身もこの乱れ始めた世の中を鎮める力を持つ真の英雄に仕えたいために、より大きな勢力の元で名を上げておく必要があると考えていた。丁度このころに、行き当たり的発想で公孫賛の元を訪れた劉備達とも共闘している。

 公孫賛にとって趙雲は、武将として非常に大きな戦力になった。公孫賛自身も戦えば普通に強いのだが、趙雲はキレが違った。その単騎での武勇だけを見ても幽州一だと公孫賛は確信している。

 武装する相手が千人いようと臆することなく駆け抜け、彼女の通ったあとには自慢の直刀槍「龍牙(りゅうが)」 にて一撃のもとに倒された者らが累々と倒れている光景を幾度も見せられた。

 また、趙雲は頭もよく回った。公孫賛は盧植将軍の元で経書・兵学を学んだが、趙雲は直感と戦場での空気だけで小ズルい賊や反乱軍の参謀らの裏を巧みに掻いてみせた。

 そのため、将として一軍を率いても連戦連勝であった。

 だが最近趙雲は、時間があれば兵法書なども読むようになっていた。裕福な公孫賛の元には貴重で高価な書物が多数あった。将来の主に、より早く認めてもらえるように、自分の知識や見聞の幅をさらに広げるために努力していたのだ。

 そんな姿の趙雲をたまに見る公孫賛は、よく食事をともにするのだが、度々同じ話を振っている。

 

「星(せい:趙雲)、そろそろきちんと私からの俸禄を受け取らないか? お前の働きなら言い値を出すから」

 

 そう、趙雲へ正式に配下になってもらおうと、公孫賛は度々勧誘していたのだ。涿郡太守代行も、地位と共に趙雲に好きなだけ俸禄を取っていいからという裏返しの意味があった。

 しかし、配下にという件に関しての趙雲の返事はいつもそっけないものだった。

 太守代行にいたっても、手早く領内の不安勢力へ直接赴いて掃討したり釘を刺し、領内運営も要点をテキパキと文官たちに指示すると同行させていた公孫越へ監視を任せて、早々に遼西郡へ戻って来ていた。

 

「白蓮(ぱいれん:公孫賛)殿、とてもありがたい話だが、いつも言っている通り私はまだ道の途中にすぎず、真の主を決めるまでは俸禄や要職を貰うつもりはないのです。他人の話や噂ではなく一度世を回り、主は自分の目で見定めたい。その結果、白蓮殿が主に相応しいと決めた時は謹んで俸禄をいただこう。今は友ということで勘弁してくだされ」

 

 二人で酒を酌み交わしながらの意見交換が続き、気が付けば夜が開けているのだ。公孫賛はその話の中で出て来た、趙雲の意に沿うような領地運営をしているつもりである。軍備を揃え、治安を安定させ、治水や災害に備え、税を抑えた民にやさしい豊かな領地作りを。

 だが、趙雲が求める主の目指すもの―――それは州に留まらず、この大陸全域に及ぶもののようであった。

 公孫賛は思う。そんなことが可能だとすれば『皇帝』だけだと。

 しかし、すでに今の中央にはそんな力は存在しない。

 今は純粋な力において、各地の有力な諸侯の方が圧倒的になりつつある。現実的に中央を超える力を持つ諸侯の数は、すでに十を優に超えるほどもあるのだ。もはや中央は都である洛陽周辺のみを支配しているだけで、国としては諸侯からのおこぼれで存続している状態と言えた。

 

 趙雲の望む主(あるじ)像は、現実から遠い夢物語に過ぎない―――と。

 

 

 

 そんなある日、趙雲が「白蓮殿、散歩しながら話をしよう」と公孫賛に言って来た。

 趙雲は公孫賛に感謝していた。

 幽州の安定と共に隣接する故郷の常山郡の治安も改善されていった。そして、黄巾党の討伐に大きな勢力と言える公孫賛勢力の一員として参加させてもらい、武功と名を上げることが出来た。個人での討伐参加であれば、ここまで名を上げる事は出来なかっただろう。

 しかし中央から、公孫賛へ新しい領地として涿郡太守の兼任が貰えたことで恩を返せたように思えたのであった。

 二人は公孫賛の現在の居城になっている遼西郡令支県の令支城の城壁から、少し日が傾き出した城外の雄大な自然を静かに並んで眺めていた。

 

「白蓮殿、私は近いうちに世の中を見る旅に出るつもりだ」

「そうか……要るものがあれば遠慮なく言ってくれ。友として可能な限り揃えよう。兵が必要なら千でも一万でも連れて行くといい」

 

 驚いたふうに自分へ振り向く趙雲へ、公孫賛は笑顔でそう言った。

 公孫賛は趙雲という友を気に入っていた。もう引き留める人事は尽くしたつもりである。その友が行くというのだ。あとは気持ちよく旅立たせてやるだけである。

 

「すまんな、白蓮殿」

「正直、星が抜けるのはかなりキツイけどな。だが、それでもしっかりやっていけるところを、外から星に見てもらうのも悪くないだろ。まあ、少しは主選びで贔屓目に見てくれよ。で、何が必要なんだ?」

「とりあえず、単身で身軽に動いて回るつもりだから、これと言うものは無いな。すでに当分路銀に困らない分は報奨金で貰ってるしな」

 

 趙雲は黄巾党討伐時に多数の敵の将を討った報奨金が、すでに個人なら十年以上楽に遊んで暮らせるだけはあったが、その総量だけでも持って移動するには困る量になっていたのだ。

 

「そうだな……では、飛びきりうまい酒と極上のメンマをお願いしようか」

「ははは。星らしいな、分かった。私が自分で探して選んで手渡そう。それで、どの辺りを回るつもりなんだ?」

「とりあえず、一通りは。袁紹に曹操、張角に陶謙、孫堅に袁術、董卓に馬騰、劉焉に劉表、その周りの勢力や洛陽も見てこようと思っている」

 

 この時、趙雲の頭の片隅に、かつてこの地で共に戦った劉備達の姿が浮かんだのだが、未だ勢力として名声を聞くことがない事から、今の所は主の候補に挙がることはなかった。

 公孫賛は、趙雲の言葉を聞くと一瞬、回り終わったら戻って来て各勢力の情報を聞かせて貰えればと言おうとした。馬を使えば趙雲なら、半年もあれば大陸全土を優に回れるだろう。

 だがすぐに、それは頼める話ではないと気が付いた。新しい主にのみ、それらの情報は伝えられる事なのだろう。

 

「そうか。しかし中央もか……まあ、星ならどこに行こうと心配することはないけどな。いつ出発するのか知らせてくれよ。前の夜は、宴会を開いてとことん飲むぞぉ!」

「うむ、必ず知らせよう」

 

 二人はまた、しばらく城外の自然の眺めを静かに並んで眺めているのだった。

 こんなのんびりした時間は、もう二度とないかもしれない。

 互いにそう思いながら―――。

 

 

 

 趙雲は身辺整理を進め、十日が経った。あと二日もあれば、引継ぎ等にも目処が立つと思われた。

 そのため趙雲は、三日後に出立する旨を公孫賛へ伝えようとして宮城へ出仕すると、文官より袁紹からの使者が来るということで、丁度趙雲へもその事について知らせを出そうとしていたところだったと聞かされる。

 現在、公孫賛は袁紹とは割と良好な関係にある。

 黄巾党の討伐では、轡を並べてと言う形で同一の戦場でまみえたことはないが、洛陽での論功行賞では顔を合わせ、のちの酒宴では隣席となり気軽に話ができる間柄となっていた。

 「毎日顔を突き合わすのには大変な連中だよ」と、苦笑いをしながら公孫賛から聞かされた時の事を趙雲は思い出した。

 とりあえず、趙雲は公孫賛の執務室へと向かう。

 執務室に着くと、公孫賛は「いいところに来た」と部屋の中へ迎えてくれ、先の文官が言っていた袁紹からの使者についての話になった。

 

「正式な使者は、二日後にくると遣いの書状には書れていたな」

 

 公孫賛からそう告げられて、趙雲は、んっと一瞬表情が固まりかけた。

 今、三日後に出立する旨を伝えるわけにはいかなくなったからだ。

 公孫賛も今は余り趙雲に面倒は掛けられないのは分かっていたが、相手が袁紹となると趙雲がいる間に使者からの内容だけは、しっかりと確認し対処しておきたかったのだ。

 一方趙雲も乗りかかった船だと思い、また出立も最悪伸ばしても問題はなかったので、話を先に進めることにした。

 

「で、誰が来ることに? それに要件が気になるところだな」

「確か郭図と書いてあったはずだが……」

 

 そう言って公孫賛は、紙に書かれた書状を箱から取り出し、趙雲へ手渡した。

 

「郭図……確かやり手の文官だったな。なになに、んー、要約すると友好のための贈り物と親書を届けにくる……か」

「星には袁紹の手前、ウチの顔役の一人として謁見には立ち会ってくれよ」

 

 確かに、実質幽州一の将軍となっていた趙雲がいるといないとでは大違いと言える。なんと言っても相手はすでに大陸でも五本の指に入るであろう勢力規模の袁紹なのだ。公孫賛の考えはよく分かる。

 

「分かった。この謁見には立ち会おう」

「助かるよぉ、星」

 

 公孫賛に少し涙目で頼まれると、もはや趙雲に断ることは出来なかった。

 だが、この決断が最凶の展開になろうとは、このときには誰も気付けるはずもなかったのである。

 

 

 

 

 

 

「兄上様ーー、おはようございます! 幼達です! 今日も朝の鍛錬に付き合っていただきたいのですがーー!」

 

 昨日の朝同様に早朝からイチョウの葉のような扇状の髪を揺らし、司馬家八女で末っ子な司馬敏の元気一杯な挨拶に始まる。彼女は一刀の客間の扉前で、元気よく何度も叫んでくれていた。一刀は司馬防との夜の後、仮眠的に横になっていたが最早寝れる状況では無くなっていた。『司馬家』の朝がやって来る。

 一刀は「分かったよ~」と少し力の無い返事をして、急ぎ服を自分で着替えて扉の外へ出た。

 すると、先ほどから司馬敏により繰り返された大きな掛け声のような挨拶によって起きたのか、他の姉妹の、司馬馗、司馬恂、司馬進、司馬通までもが互いにおはようの挨拶と共に、一刀の所へ集まって来ていたのだ。

 そのため、一刀は部屋から出た庭に面した広い廊下にて、あっという間に下の五人の姉妹に挨拶ともに、いっぱいおっぱい攻めで周りを囲まれてしまっていた。

 

 一刀は正直まだ、『眠かった』。

 

 しかし、決してそれを悟られてはイケナイ。特にその理由である『やん事無き事情』については。

 一応昨晩は客間に戻ってから、司馬防が訪れてくるまでの一時半(三時間)程は横にはなっていたし、彼女の去った後の半時(一時間)程も『速気』による加速の中で、体感時間の延長によって数時分に相当する時間は休めているはずなのだ。

 だが―――

 

「兄(にい)様、いささか眠そうですね? 夜中はナニカがあって良く寝れなかったのでしょうか」

 

 おかっぱ髪で六女なハキハキ者の司馬進は、ハッキリと疑問を言ってきた。

 ギクリ。

 

(おかっぱの子……無口な七女の一つ上の子だっけ。確か『進が恵』……司馬進 恵達か)

 

 一刀は、腰痛や首の骨が軋む音だったほうが、全然マシであろうと思うほど内心にイヤな衝撃を受ける。

 司馬進の言葉が呼び水になったのか、さらに―――

 

 腰ほどまで届くふわふわのウェーブの髪を揺らしつつな四女の司馬馗と、掛けた眼鏡を右人差し指で直しつつ、太腿まである見事なストレートロングな五女司馬恂と、呼びに来ていた末妹の司馬敏が口を開く。

 

「確かに~兄上様~朝なのに~少しお疲れのように感じ~ます」

「お兄様、夜中に私の事を考えていて眠れなかったと……? ハレンチな! でも……仕方ないですね♡」

「兄上様、元気がありません! 寝不足なのですか?」

 

 そして……腰程までの優美なカーブの髪を持ち、とても優雅な雰囲気で無口な七女司馬通にまでも指摘された。

 

「……ぁにぃさまぁ………眠そぅ………」

 

 一刀は思った。自分は人を謀(たばか)るのがヘタなのではと……。

 しかし、ココは如何なる犠牲を払っても、切り抜けなければらないだろう。

 だが、そこで庭横の小道に絶世の美女が静かに佇んでいるのに気が付いた。

 

(……蘭華?)

 

 司馬孚は美しい声であったがまさに棒読みのような挨拶をしてきたのだ。

 

「おはようございます、一刀様」

 

 彼女は、いつから居たんだろう……。

 そして――少し俯いた陰のあるその表情からは、イヤな予感しかしてこない。

 続けて、司馬孚は情け容赦なく一刀へ追い打ちを掛けてきた。

 

「そう言えば、皆が寝静まった昨夜遅くに、お母様が『北の屋敷』からナゼか南への廊下を歩いていくのを見掛けましたが……」

「「「「「えっ!?」」」」」

 

 下の五人姉妹に動揺が走る。

 さらに――客間の食堂方面通路の曲がり角の辺りから静かに現れた司馬朗が、トドメにボソリ。

 

「一刀様……昨夜遅くから日が昇る前までの長ぁい時間に、一刀様の客間の中で母様と……お二人で一体何を……?」

「「「「「「え゛ええっーー!?」」」」」」

(だがらなぜ、何時からそこにいて、核心すぎるそれを知っているんですか、優華さん!)

 

 その内容に、下の五人姉妹に加え、司馬孚も激しい驚きの声をあげる。

 最高機密のはずが……すでに一刀は、たった半時(一時間)後の早朝より姉妹らから四面楚歌で完全包囲されているらしい。

 外からは見えないが、一刀の背中に流れる嫌な汗が最早止まらない。

 一刀の持つ偏差値五十ちょっとの頭脳が、この難題を解決しようと『速気』発動とともにフル回転する。

 まず、冷静に問題になりそうなキーワードを集め整理してみる。

 『皆が寝静まり』『誰にも気付かれないであろう夜遅くに』『彼女らの母親と』『皆の寝所から少し離れた客間で』『男女が長時間も二人きりに』……。

 そして、纏めてみる――――う~ん、そこから導き出される答えは……ヤバイものしか……ないよ。

 

 

 

 そう。

 生々しく『ハレンチ』で『イカガワシイ』答えしか浮かんでこないのである!

 

 

 

 やはり少なからず寝不足で焦りのある思考では、いささかも都合の良い言い訳を、思いつけないのであった。

 これはもはや、彼女らの敬愛する母親に対して、好き放題トンデモなくイケナイことを散々してしまった男だと思われてしまうしかないのか……。しかも、ほぼ事実な事だと言える。

 それは、司馬家に滞在する身において……『絶体絶命』に他ならない。

 そういう考えが思考に充満し、精神を追いつめられつつあった一刀であったが、この決着はあっさりと付けられてしまうのだった。

 

「どうしたのです、娘達よ。今日も、一刀殿の部屋の前に集まって姦しいことね」

 

 なんと、厳しい母な司馬防の登場である。それも少し前に廊下へひっそり現れた司馬朗の、更にその斜め後ろへ静かに立っていたのだ。

 司馬朗は余りの不意のことに、ビクリと硬直してその場に立ち尽くしていた。

 司馬防は母親の貫禄を漂わせ凛としており、その場の一刀と娘達を見渡せる位置に立つ姿からは、眠気など微塵も感じさせなかった。

 司馬防は良く通る声で話し出す。

 

「聞いていれば、一刀殿の寝不足気味な話から、私と一刀殿との話になっているようですけれど……一刀殿に問題など少しもありません。いいですか、一人前の成人した娘としてすでに字を贈り私の認めた自慢の娘達よ。今は独身の私が、夜中に自らの家で、昨日私の真名を預けた一刀殿の部屋へ行き、私から相談をしながらお願いして、あなた達の『弟を作る』行為をしたとして、何か問題でもありますか? あなた達も好きな殿方に振り向いて欲しいのであれば、機会を待つだけでなく可能なれば自らも積極的に行動なさい」

「お母様……」

「「「「「…………」」」」」

「……母……様……」

 

 一刀を庇うような母である司馬防の強い意志の籠もった言葉に、司馬朗を初め娘達は返す言葉が無かった。しかし―――

 

(いやいやいや、水華さん! 『弟(妹かも)を作る』という行為は、『まだ』していないと思うんですけどぉぉぉーーー)

 

 一刀の心の中の叫び声は、外の誰に聞こえない。

 いや、声を出せなかった。司馬防から一刀へ『今、イイところなの!一刀殿は余計な事は言わないで』と表情と目が訴えていたためだ。

 司馬防は娘達へ、欲しいものは自分の意思と力で掴んで欲しいということと、愛する男を奪う女の戦いを教えているかのようにも思えた。

 その光景は、見ようによっては日本神話の恐ろしい『八頭のオロチ』……イヤ、一刀の知る伝説の『ヤツマタのオチ』の前触れのようであった……。

 

 「ははっ……」と乾いた笑いの声が、いつの間にか一刀の口から零れていた。

 

 ちなみにそのころ司馬懿は、庭で剣の軽い鍛錬を終え、『寛ぎの広間』で一人のんびりとお茶を飲みながら一息付いている所だった。

 

 

 

 さて、司馬防の娘達への言葉で固まっていたその場であったが、一刀の方を向いて放ったいつもは無口な司馬通の衝撃的な一言で再び『革新的』に動き出す。

 

「ぇっと………じゃぁ……ぁにぃさまぁは………ぉ、ぉとぅさまぁ……に?」

「「「「「「「お父様ぁ!?」」」」」」」

 

 悲鳴交じりの多数の困惑の声が、客間横の庭の中に響く。

 確かに司馬防と婚姻することにでもなれば、そうなってしまう訳だが……一刀はまだ十●歳なのだ。

 一刀にとっても『お父様』という呼ばれ方は、かなり違和感のある呼称と言えた。そして、長女の司馬朗が一刀よりも年上という事に加え、何と言っても一気に八人も娘が出来ちゃうという事象にも。

 しかし司馬防は、この件の重要要因についても、さっさと皆に告げてしまう。

 

「それは―――一刀殿が、誰を正妻にするかで決まることです」

「「「「「「「………!!」」」」」」」

 

 そう、正妻は一人なのだ。それ以外の妻は厳密には妾扱いとなるのだ。

 加えて、司馬防は一刀の方を見て優しく告げる。

 

「でも私は、一刀殿の妻の一人に数えて頂ければそれで……満足ですよ」

 

 司馬防以外が一刀の正妻になれば、司馬朗らにとって一刀が家系上で義父になることはない。そして、皆が妻であれば、一刀に対して母と娘達は同格となる形だ。

 まあ、その場合でも少々倫理的な問題が残るような気がしないでもないが。

 とにかく、一刀が司馬家に来てまだ三日目の朝にも関わらず、トンデモナイ展開になっているのであった。

 そう、『司馬家の娘達』は、あらゆる意味で司馬防の子であったのだ。普通なら母親と肉欲的な密通者に対して、嫌悪感を抱く者が出るはずであった。

 ところが……『この程度』ではこの場の誰一人、想いがへし折れる事などなかったのである。あの、無口で非常に気弱だと一刀が思っていた司馬通でさえも。

 またしても、その彼女が初めに動き出す。

 

「…………ぁにぃさまぁは……みぃんなのぉ……だぁんな……さまぁ……♪ わたくしぃの……まなぁは……思華(フーファ)……ですぅ……」

 

 気に入った一刀とずっと居られて、姉妹らも一緒で人見知りする心配が少なくなると考え、司馬通はそう言いながら嬉しそうに一刀を見ていた。

 

「わ、私は別に。けど……どうしても私をと、お兄様が言うのなら……真名は環華(ファンファ)よ」

 

 真っ赤な顔で眼鏡を何度も指で掛け直しながら、司馬恂はレンズ越しで上目遣いにチラチラと一刀を見てくる。

 一刀は何も言っていないのだが……真名まで預けてしまう彼女であった。

 

「兄上様~、お会いしてから~ずっとお慕いして~いますわ~。私の真名は~和華(ホウファ)~です。今宵は~私のお部屋へどう~です?」

 

 ほわわんと照れながらも、ふわふわヘアーの司馬馗はお誘いの言葉と共に一刀を熱く見つめていた。

 

「兄様は、勇気と思いやりがあって頼り甲斐があり、そして……夜も優しそうで、夫にしたい私の理想の男性です。是非よろしくお願いします! 真名は白華(パイファ)です」

 

 司馬進は頬を染めながらも、真っ直ぐ一刀を見つめながらハッキリと気持ちも言ってしまうのだった。

 

「兄上様! 元気だけが取り柄の私ですが、末永くよろしくです! 私は小嵐華(シャオランファ)です!」

 

 司馬敏は、いつも通りに元気一杯に一刀を見つめている。

 

 出会って間も短く、一刀自身まだ判別すら怪しい状態で、司馬懿以外の真名を預けられてしまった。

 揃いもそろって思い切りが良すぎる彼女達だが、僅かな好機や隙を見極め逃さない、迅速な先手必勝の『司馬家』の血が、司馬防の教えがそうさせるのだろう。

 積極的な下の五人姉妹の熱い告白と行動に、司馬防は微笑ましく見ている。

 

「あらあら……(全員?)。一刀殿、これは当分寝不足が続きそうですわね♡」

 

 すでに先日、一刀へ想いをぶつけていた司馬朗と司馬孚であったが、今の母の言葉や下の五人姉妹の気持ちの入った告白に、この場で黙っていることなど出来なかった。

 一刀以外には『後がない』司馬孚が、先に一歩一刀の方へ踏み出して、可憐に頬を赤く染めつつ美しい声で話し出す。

 

「わ、私には、すでに真名を預けた一刀様しかいないのです。他には誰も、良人になれる人はいません! もうどこまでも、貴方様に付いていきますから!」

「蘭華……」

 

 一刀は、司馬孚が全く諦めていない事を改めて知る。

 下の五人の姉妹からは、司馬孚がいつの間に『真名預け』の先手を取っていたのかと少し驚きの声があがる。『司馬家』では血縁以外に真名を預けることは非常に愛しい者だけへの……求婚に匹敵する証と言えるからだ。

 加えて、司馬孚の事情を知る司馬家の面々は、今の熱い発言の重さを知っているのだった。

 

 そして―――司馬朗も長子として司馬家を背負いながらの、重く、その熱い想いを一刀へ静かにぶつける。

 

「私の真名を預けた一刀様。私に……仕官の誘いが来ているお話を覚えていますよね?」

 

 「えぇっ!?」と下の五人の姉妹から再び僅かに驚きの声があがる。司馬孚に加えて司馬朗までが一刀に真名を預けている事と、初めて長姉に来た仕官の誘いの話もあったからだ。それを下の五人の姉妹は、今知ったのである。

 一刀は、司馬朗の方へ顔を向け小さく頷く。

 

「うん、優華さん」

 

 未だ何処かへの仕官なのか知らない一刀だったが、彼女は仕官先へ運命の返事を早々にしなくてはいけないはずなのだ。それはもう、数日のうちに。

 司馬朗は静かに続きを話し出す。言葉に力と想いを込めて。

 

「一刀様、私の……『夫』として共に―――曹孟徳様へ仕えましょう! 貴方となら共にどこまでも歩んでいけます!」

 

 司馬朗は、本当はついでに『背の高過ぎる私に、初めて可愛いと言ってくれた愛しい貴方しかいません!』と熱く、想いの核心を伝えたかったのだが、司馬孚に被る気がしてここで言うことを控えていた。

 

 「曹……孟徳……様……?」

 

 一刀には、司馬朗の再度の告白も衝撃だが、その仕官先の名前はそれ以上に来るものがあった。

 下の五人姉妹達も、長姉の仕官の誘い先があの仕官最難関と言われている、曹操陣営だと聞いてどよめいていた。

 一刀は、トンデモナイものを聞いてしまった気がした。だが、一刀の知る歴史上の司馬懿は曹操の配下なのを思い出す。

 この司馬家の司馬懿は、姉の司馬朗の良き協力者だ。司馬朗が曹操の所に行けば当然、司馬懿も曹操陣営に協力することになることだろう。そして、いずれその偉才が曹操の目に留まって……。

 歴史は、繰り返されるということか。

 いや、これは司馬朗が真剣に考え、最善として決断した事なのだろう。

 

(しかし―――俺が?! 三国志の主役ともいえる、あの……曹操に? 仕える?)

 

 それは一刀には『想像が出来ない』、『よく分からない』事であった。

 そんな様子が伺える一刀を見ながら、司馬朗はその決意を口にする。

 

「本日、仕官を受ける旨の書状を曹孟徳様へ出します。一刀様、あなたの事はその手紙には『まだ』加えません。ですが、私は次の手紙には『夫も』と書けるようにするつもりですから」

 

 顔を恥ずかしさで赤らめながらも、司馬朗は一刀と目を合わせ見つめながらそう強く言い切る。

 もうその想いは、止められないのである。

 一刀は色々なことが起こり過ぎていて即答出来ずにいた。

 

「もう……決めたのですね、優華」

 

 そう声を掛けてきた後ろに立つ司馬防へ、司馬朗はゆっくりと振りかえると、家の長子としての考えを伝えた。

 

「はい、母様。司馬家の大きな発展の為には、現状で最善の選択だと判断しました」

「……わかりました。頑張りなさい」

 

 司馬防は、穏やかな優しい表情で愛娘である司馬朗の決断を励ました。

 

「優華姉様……」

 

 司馬孚が司馬朗へ声を掛ける。

 司馬孚も、姉をずっと助けていきたいと強く思ってきた妹なのだ。

 司馬朗が曹操陣営へ仕官するのなら、一刀に付いていくと言っている司馬孚が姉へ協力するには、一刀を曹操陣営へ引き込むしかないと言える。

 司馬朗は、司馬孚へ静かに頷いた。

 下の五人の姉妹達も、姉をずっと助けていきたいという思いは同じである。

 

「「優華姉上様」」

「「優華姉様(!)」」

「……優華ぁねぇさまぁ」

 

 姉の決起宣言とも言える告白内容の言葉に、少し心配そうにしている下の妹達へ、司馬朗は優しい笑顔で答える。

 

「大丈夫よ、貴方たちの姉を信じなさい」

「「「「「はい」」」」」

 

 妹達は長姉が優しいだけの人物ではない事を良く知っていた。すでに母が中央での職務中の司馬家も立派に切り盛りしているのを見て来た。

 そんな長姉の言葉に、妹達は普段通りの雰囲気を取り戻していた。

 それはすなわち―――一刀争奪戦の再開である。

 

 もう母子達としては、互いの気持ちを暴露した告白宣言により、彼女達の中で一刀はすでに皆の共有財産的立ち位置になっているのであった。

 そのため、争奪戦といっても一刀に相手をしてもらう、構ってもらう時間の奪い合いということになる。

 それにまだ気づいていないのは、一刀ただ一人なのは言うまでもない。ゆえに、一刀には固まっている時間などもはや無い感じだ。

 司馬家の女達は、互いの気心を知る以上、もはや遠慮などしないのである。

 まだまだ早朝であり、時間としては辰時初刻(午前六時)にもなっていない。

 

「兄上様! さあ、この嫁の小嵐華と優しくカッコよく剣術や夜の稽古をしてください!」

「シャオラン、ずるい~ですわ。今日は~私の番~です。兄上様~、部屋でゆっくり~私の作っている~兄上様縫い包み(ぬいぐるみ)~人形の意見を~お願いします~です」

「兄様、私の部屋で朝食までの時間、夜の営みの形や子供の数など将来の話をして寛ぎましょう」

「ふん、お兄様。どうしてもと言うなら、私と手を繋いで庭を散歩した後に、部屋へ入れてあげてもいいけど?」

「……ぁにぃさまぁ……思華(フーファ)を…………かぁわいがってぇ……くださぁい……」

 

 よくよく内容を聞くと、キワドイものも多々あるのだが……。

 結局、最初の下の五人姉妹に姦しく囲われる状況に戻るのかと思えたが、少し違った展開を見せる。

 

「朝食まで時間がありますし……私の部屋にて、夜中に客間の中で一刀様がしていた事を……私にもしてくださいませ!」

「一刀様、今日の街会議に着る、私の体に『丁度』合う服を、私の部屋で体へ触れてジックリねっとりと選んでください」

 

 そう、さらに司馬孚と司馬朗も露骨に過激な発言で、妹達の作る一刀包囲網に加わって来たのだ。

 一刀は、もはや完全に超過密おっぱいおっぱいぃ~な状況になっていた。

 しかし、二日連夜で余り寝ていない一刀は、この贅沢に『ハレンチ』な状況を楽しみつつも切実に思うのであった。

 

(これも悪くないけど、全然悪くないんだけどぉ……何も考えないでゆっくりぐっすり寝たいなぁ……)

 

 そんな彼に助け船を出してくれるのは―――やはり司馬防であった。

 

「はいはい。可愛い娘達よ、一刀殿はお疲れですよ。みんなの気持ちはちゃんと伝えたのでしょう? だから、今は彼にゆっくりとした時間をあげるのも『良き妻』の務めですよ。『出来る妻』なら、一刀殿をせめて朝食前までの時間は休ませてあげましょう」

 

 母の発した『妻』関連の言葉に、娘達は一瞬の内に周囲の輪を解いてくれる。

 『良き妻』『出来る妻』……彼女達にとって良い響きであったのだ。

 

「ありがとう、みんな」

 

 一刀は時間をくれる司馬朗ら姉妹達にお礼を言い、そして廊下で優雅に佇む司馬防へ、僅かにはにかんで礼を返した。

 そして一刀は漸く、朝食までの一時(二時間)弱を睡眠に当てることが出来、眠気を飛ばすことが出来たのであった。

 

 いつもより少し遅い辰時正刻前(午前七時四十五分)頃に、一刀は母屋の食堂へ入った。

 食堂の円卓には、一刀以外皆すでに席へ着いていた。

 どうやら毎回席争奪戦は大変だと、二日サイクルでのくじ引き結果になった模様である。その中で司馬懿だけは、家族にお付き合いという感じであった。

 一刀の両脇は、ほわほわと喜んでいる司馬馗と、右の拳を握って小さく可愛くガッツポーズを取る美女司馬孚あった。

 

「では、いただきましょう」

「「「「「「「「いただき(~)ます(ぅ)」」」」」」」」

 

 司馬朗の挨拶で朝食が始まる。

 しばらく歓談を交えた朝食の席で、司馬朗はこの後、出席予定の街会議についての話をしてきた。

 

「一刀様、朝食の後しばらくしてから私と屋敷を出る事になります。時間は巳時正刻(午前十時)前になるかと。牛車にて一刻強(十五分)と少しで会議の行われる場所へ着きますので。そこで、私達の街の代表者らとの面会と会議になります」

 

 話を聞いた一刀はちょっと考えて司馬朗にお願いをする。

 

「出来れば、少し早く出てもいいかな? 街の中をちょっと回って見てみたいんだ。それと、久しぶりだからうまく乗れるのか自信ないけど、牛車ではなく馬に乗って回ったらダメかな?」

 

 一刀自身、雲華の所で旅立つ前の少しの期間、木馬に乗って練習したが実際の馬は初めてで少し不安な気持ちもあった。それでも好奇心が勝った。

 一刀の提案に、少し皆が驚く。

 家には格式というものがあり、司馬家の外出には概ね姿が見えないように、大きな車輪の付いた小部屋の車を引く形の牛車や馬車が使われていた。

 もはや司馬家で家族扱いの一刀なのである。

 すでに用意されている仮の衣装も、食堂に来る前に部屋へ運ばれてきたものを確認してきたのだが、生地だけではなく金銀宝石の装飾品までもがとても立派なものであった。

 

「あの一刀様、申し訳ありません。早く出て街を回ることはもちろん出来ますが、今日の外出は公事となりますので、馬を使うのあれば馬車となります。私的な用向きなら騎乗でも良いのですが……今日は……」

「ふふっ、一刀殿だけなら武人ですから、騎乗でも問題にはならないと思うのだけれど。それに実は公事だからと言って、車を必ず使う必要はないのです。今は多くが公事に車で移動しているけれど、私も馬で駆けて行ったこともあるんだから」

 

 司馬朗の意見に、司馬防が参考の話を挟んだ。しかし参考の話だけに留まらない。

 

「でも優華。本当は、車の中で一刀殿と密着して二人っきりになれるのがいいのよね?(本当は、優華も車を必ず使う必要はない事を知ってて言ってるのだから)」

「……やだぁ、母様……」

 

 司馬朗は、図星を突かれて真っ赤になって俯いてしまった。

 

「ははは……じゃあ、今日はのんびりと牛車で行きましょうか」

 

 ここで騎乗でとなると、司馬朗の立つ瀬がない感じになる。一刀は気を利かせ彼女の案を取り入れた。一刀のその答えを聞いて、彼女は俯いていた顔を上げ、一刀へ向けて嬉しそうに微笑む。

 

「……一刀様(やっぱり優しい♪)」

 

 そのあとは、司馬孚と下の五人の姉妹達が「密着~?! 私も行きたい!」と各々言い出して、それを宥めるのに司馬朗が苦労した事は言うまでもない。

 

 姦しい朝食が終わり、司馬朗を除く姉妹達は渋々、姉妹間での勉強会の準備で各部屋に戻ったり『寛ぎの広間』へ移動したりした。

 そんな中、一刀は相変わらず眠そうな表情の司馬懿を呼び止め、この家の馬について教えを乞うた。

 武人である司馬懿が騎乗しないわけがない。一刀は、この家で彼女が馬について一番詳しいと考えていた。

 すると、司馬懿は朝食の話で一刀が馬に結構興味がある事を分かってくれたのか、厩舎まで案内して色々教えてくれる。厩舎の隣には、馬や牛に引かす車を数台格納している車庫も併設されていた。

 司馬家に来て時々、遠くで馬や牛の鳴き声はしていたのだが、正確な場所は知らなかったのだ。厩舎は母屋の東側にあり、離れた外塀の近くにあった。一刀は母屋の東側へ初めてやって来ていた。厩舎のそばには小さいが馬で周回できる場所もある。

 この本屋敷の厩舎には、八頭の馬と四頭の牛がいた。隣接する別の屋敷の厩舎にも、八頭の馬と二頭の牛がいるとか。

 一刀は木馬しか間近で見たことが無いので、生きた馬や牛に触れるのは新鮮であった。

 また厩舎には、馬の口に噛ます『はみ(轡とも言う)』や『鞍』などの乗馬用の馬具や、車用に馬や牛を連結する軛(くびき)や綱、輪っか等の金具類の道具が壁に掛けられていたが、雲華のところで木を材料に制作してもらった騎乗時に足を置く『鐙』はやはり無いようだ。一刀は再度、筆で形を描いて作ってもらおうと考えていた。

 馬具の付け方を司馬懿に聞かれたが、一応木馬にも同じ感じの馬具を付けていたので、思い出しながら付けさせてもらった。

 司馬懿も横で、もう一頭に手際よく馬具を付けていた。武人は自分の馬の支度や面倒を見るのも仕事の内と言える。それが済むと彼女はひょいと慣れた風に馬に跨った。

 一刀も遅れながら馬具を付け終えて騎乗する。鐙がないのでちょっと乗りにくいのだが鞍がしっかり付いているので腕力と、司馬懿の乗り方を参考にしてなんとか乗れた。

 やはり木馬と同じように、手綱で動きを操作できるようだ。基本的には、木馬も馬もお願いする感じなのだ。あくまでも走るのは、馬なのであるから。機嫌を悪くされるとまともに走ってくれない事になるのだ。

 司馬懿の後について、まず小さ目な周回コースを回る。

 

「ふーん。北郷様は、馬は達者じゃないのか……」

「ははっ、さすがに分かっちゃうか。うん、まだ乗り始めて間がない感じだよ。やっぱり仲達さんはうまいね。自然に乗れてる感じだ」

 

 後ろから見ていても、司馬懿の騎乗には安定感があるのが分かる。雲華も乗り慣れていたので、一刀もその判断が出来るぐらいの目はあるつもりでいる。一刀の場合は、まだ馬に乗せてもらっている感じが強いのだ。

 

「別に……。まあ、慣れだから。時間があれば自由に乗るといいから」

「うん、そうさせてもらうよ」

 

 馬上で緩やかな風に揺れる、司馬懿の癖っ毛の髪がイイ感じに印象的だ。他の姉妹達に比べて唯一胸が控えめなのだが、馬上でゆっくりと揺れるその均整の取れたスレンダーな姿は貴重で魅力的であった。

 この活発そうでスポーティーな女の子が、あの司馬懿なのだと言う。自分の中のガチで軍師チックな文学少女のイメージとは、まだ合ってこない一刀であった。

 ちょうどいい機会なので彼女と話をしてみる事にする。

 

「今朝の、お姉さんの仕官の話って聞いた?」

「ええ、貴方が食堂へ来る前に」

「仲達さんは、お姉さんの曹家陣営への仕官についてどう考えたのかな」

「別に。私は、姉さんに付いていくだけ。妹達もみんなそうかな。まぁ、蘭華は少し違うか。……貴方へみんなが真名を預けた事も聞いたわ」

 

 一刀はそれを聞いて、司馬懿がどういう反応をするのか少し心配になった。彼女だけが司馬家の中で違う反応をしそうだったからである。そして、策謀によって亡きモノに……とか。

 だが―――

 

「まぁ、しょうがないわ。気に入ってしまったものは」

 

 なにか、意外に呆気なくスルーな感じであった。

 

「そ、そうか。もっと拒絶されるものかと……」

「まあ私も、司馬の娘だから」

 

 僅かに苦笑しながら司馬懿は、そう言った。ただ一刀へ釘を刺すのは忘れない。

 

「だから……皆にちゃんと向き合ってあげて。あと、私は武人として母君の認めた客人と思っているぐらいだから。勘違いはしないで」

「うん、分かってるよ。これでも分別ぐらいはあるから」

「どうかしら……? でも、客人にしては珍しく私へ変に構えないし……不思議と、家族みたいに気楽に話が出来るのは確かね」

 

(……俺は対応できるからいいけど、普通のヤツなら初見であんな剛剣を目先へ向けられたら構えちゃうだろって……)

 

 一刀は、宴会でいきなり剣を向けられた事を思い出していた。剣舞から、彼女は相当腕が立つはずである。間違いなく並みの武将以上の剣技の持ち主ではないかと推測していた。一刀の『神気瞬導』の『速気』や技を駆使してもどうかという相手であろう。先日の賊なら、彼女でも十分倒せたのではないだろうか。

 

「それに、貴方は武の力が飛び抜けてそうだし。ウチでは小嵐華が、目が良くて剣が速いから結構強いけど、真剣勝負になればまだまだ。ふっ、貴方には今度、剣の練習でもつきあってもらおうかな」

 

 司馬懿は、口元を僅かに緩めてニコリとした。おそらく、馬について教えた見返りにということだろう。

 一刀は、回答を試されている感じかしたので返しておく。

 

「まあ、俺の剣が参考になるか分からないけど、時間がある時に声を掛けてくれれば」

「そう。では、近々声を掛けさせてもらうから」

 

 司馬懿はこの後勉強会があると言い、一刀も早めに出発して街を見させてもらう気でいるの事もあり、二刻(三十分)程で厩舎から母屋へ戻って来た。

 母屋へ帰って来ると、一刀は使用人長の銀さんにお着替えですと出迎えられて、自室の客間に移動して着替えを行った。

 白地に銀糸でも織り込まれているようなキラキラした生地の中華風な上着とズボン型の衣装であった。その襟や袖には、金細工の宝石の装飾も付けられていた。シンプルで動き易いながら贅沢な装いである。

 そして公事なのでと、寝台横の壁手前の豪華な剣台へ飾るように置かれていたあの剣を取り上げて、手際よく鞘の鎖をズボン側の腰帯の金具に掛けた。

 すると、銀さんはその動作を見て驚いた表情をして「やはり北郷様は凄いですね」と言って来た。理由を聞いてみると、どうやら掃除の時に剣台と特に剣が見た目より重すぎて、作業は二人で行なう必要があり、皆驚いていると言うのだ。その剣が一刀によって片手で軽々と普通の剣のような扱いで、身に付けられてしまうのを見て感嘆の声が出たらしい。

 一刀には軽めに感じる剣なので、その話には首を傾げるしかないのだが。

 加えて銀さんは、「許可を頂いていたのですが、剣の手入れをしたくてもどうしても抜けないのです」と言うので一尺ほど軽く抜いて見せた。すると、余りに簡単に鞘から抜けたので「あらっ?」と不思議そうに声を出した。ついでなのでと、出発までに軽く一刻(十五分)程の間で手入れをしてもらうことにした。作業の台を用意してもらい、一刀がその上に抜いた状態で剣を置いてあげて作業をしてもらった。刃の部分を丁寧に拭いてもらい、艶が出るように仕上げたものを一刀は鞘へ納めた。

 するとそこへ、司馬朗が一刀の客間まで迎えに来てくれた。

 

「一刀様、予定の巳時正刻より二刻程早い(午前九時半ごろ)ですが……わぁ、衣装がお似合いですね。帯剣されているお姿が恰好良いですよ」

 

 室内に入って来た司馬朗が、着替えた一刀に気付くと胸の前で掌を合わせニッコリしながら彼の周りを半周ほど見回りながら褒めてくれていた。

 

「ありがとう。なんか、立派な服過ぎる気がするよ」

「ふふっ、では時間には早いですが……そろそろ出掛けましょうか? 少しですが街も見て回れますし」

 

 何故か彼女の頬が少し赤くなった。時間が早ければ早く家を出るだけ、『密着』出来る時間が長いという思いなのか。

 一刀としても街も見れるし……実は、司馬朗と司馬孚の女の子な匂いが、司馬家の中でより好みだったりするのだ。

 そんな、牛車の狭い空間内でのクンカチャンスを一刀が逃すはずもなかった。

 

「喜んで! じゃあ行こうか」

 

 即答すると、銀さんが客間の折り畳み戸の扉を両開きで開けてくれた。一刀は司馬朗と並んで廊下へ出る。そして食堂広間の傍へ至る廊下を通って、母屋の南東にある玄関前へ移動する。勉強会が始まっているのか、司馬家の面々の見送りはないようだ。

 

「そう言えば、水華殿は今日の会議に出なくていいの?」

「もちろん、母様も出て頂いてもいいんですけど。最近は、私が勉強を兼ねて出ているので」

「まあ、そういうことですよ」

 

 遅れて玄関へ司馬防が現れ、後ろから二人へ声を掛けてくれた。

 

「うん。一刀殿、衣装がお似合いですよ。一応、私と優華でこれが良いのではと選らんだものです」

「ありがとう、水華殿、優華さん」

「さあ、行ってらっしゃい、二人とも。私の事を聞かれたら、次の五日後の会議に顔を出すと言っておいて頂戴ね」

「「はい、行ってきます」」

 

 そう言うと二人は、すでにそこに止められていた朱色をメインに、アクセントと車輪周りを黒色で塗られ金具等に金銀細工が多く使われている牛車へ、後ろから緑色のカーテン状の布を捲るように乗り込んだ。車は小屋のように両側面に二尺(四十六センチ)四方程の引き戸の格子窓はあるが、四方を閉じられた状態に今はなっている。広さは片側三人ほどで計六人が向かい合わせに腰掛けてゆっくり座れそうに見える感じだ。この車は必要に応じて、平らな屋根とそれを支える柱だけを残して窓の付いている側面や、御者台のある前方の木製の壁をすべて外す事も出来る特注品という事だった。

 司馬朗は乗り込んで早々、向かい合わせでなく、公言通りなのか一刀の横にとても嬉しそうな笑顔で並んで座ってきた。

 さらに、どう控え目に判断しても桃尻をくっ付けて来ているのであった。肩さえもピッタリとくっ付いている。次の動きは、一刀の肩へ頭を傾けて乗せてきそうな感じだ。

 もちろん一刀としては、別に全然構わないのである。ノープロブレムで、ウエルカムな事と言える。

 他にも同行者として二頭立ての牛車の御者台に一人と、護衛に二人騎馬兵が付いてきていた。

 司馬朗にとってはいつもの事だが、一刀にしては何か仰々しく感じている。

 一刀は凡人育ちなのだ。護衛が付いてる移動なんて、生まれてこの方一度もないのであった。

 

(御者に護衛とか、どこかの王子さまかよ?)

 

 だが、引いているのは牛なのだ。そんな、吹き出しそうな思考が彼の頭に浮かんで来ていた。

 

「石(シー)さん、お願いします。少し街中をぐるりと回るような感じでね」

「はい、伯達お嬢様」

 

 御者の石という初老の男性に、司馬朗は声を掛けた。彼も代々司馬家に仕えているが、今は別館の方で仕事をしていた。司馬孚の影響は、業が深いのである。

 ゆっくりと牛車が動き始める。

 動き始めてる……ガタガタと動いてるよね、一応。……遅い、と言える。

 牛の歩みを思い出してほしい。それは人が普通に歩く程度なのだ。馬の場合は幾分テンポも早く、そして軽快に走り出すイメージがある。

 良く考えると、一刀には牛車を引いた牛を走らせるという想像が付かない感じだ。牛も当然、走ることはあるのだが……今の牛車の速さは、走ること無くゆっくりのままであった。

 どうやら高貴な家やお金持ちと言う時点で、乗り物は牛のように移動がのんびりと優雅でなければならないのだろう。距離を走る訳でも、急ぐ訳でもはない街中では特に。

 一刀と司馬朗は、進行方向に向かって右側の座席に、窓を間にするようにくっ付いて座っていた。

 そして振り返るように二人で窓の外の街の様子を仲よく見ながら、司馬朗が色々と教えてくれていた。

 一刀は、ここが司隷河内(しれいかだい)郡温県という事を、この三日で何度か聞いていたので理解していた。

 司馬朗はまず、この街は温城に隣接形の街である事と、都の洛陽にも近く大きな街ということを教えてくれた。

 温城は二里(八百メートル)四方程の大きさらしい。軍事や役所、貯蔵庫などの建物が多く、場内の町並みは広くない。一里四方以上にもなる司馬家のような屋敷群が収まり切らないため、場外へ町並みが広く大きく取られていた。そして、街の外周にも高い塀が建設されていて囲んでいるという。

 まず、屋敷の外に出たのだが、しかし……司馬家の屋敷は広いと再認識出来た。

 ゆっくり歩いているのもあるが、片側にある司馬家の塀が一刀の感じで数分は続いてなかなか終わらなかった。この近所は屋敷街ではあるが、その中でも司馬家は非常に大きい屋敷の一つだ。

 『司馬家』以外にも『常家』『趙家』の大邸宅や、多くの役人や商人ら名士の邸宅があるという。

 一刀の感覚では十分弱、屋敷街が続いて延々の朱壁と所々で巡回していたり、監視をしている衛兵がいる光景が続いていた。

 そのあとに漸く、普通の広さの住民の家並みが、数多くびっしりと見えてきた。

 そして大通りの街中も朱色が基調で緑や黄の枠線の入った中華風な建物が多いのであった。前に雲華と行った街よりも個々の建物が、新しいのか手入れが行き届いているのか、色のコントラストが鮮明な感じがする。

 すでに朝もいい時間なので、道には買い出しに出ている民衆も多くなっていた。大通りの道幅は幅が八歩(十一メートル)程あるという。今通っている主要な通りでも四歩程あるので、牛車が通っても特に問題はない。

 それに、この牛車が司馬家のものだと分かる様で、人々は脇に寄り、礼を取ったりしてくれる者が多く、自然と道が譲られるのであった。

 一刀は自分の事のように誇らしく、少しお大臣な気分になっていた。

 

「この牛車に礼を取る人が多いね。やはり凄いな司馬家は」

「それだけに、重い責任というものもあるのです」

 

 司馬朗は、視線を窓の外に向けたまま静かに言った。これから向かう街会議もその大きな一つなのだろう。

 一刀は司馬朗の話に、身が引き締まる思いがした。

 少し空気が重くなったが、そのあとに司馬朗は、私用で街に行く事も多いと、お気に入りの雑貨のお店や飲食店などを教えてくれた。今は寄り道するわけにもいかないので、今度ゆっくりと回りましょうという事になった。

 半時(一時間)弱の間では、牛車の移動距離は八里(三・二キロ)程で主要な通りをいくつか流して見れたぐらいであった。

 まあ、おかげでゆっくり街並みを見れたし、司馬朗はずっとイイ匂いでクンカ天国だし、桃尻は暖かいし良い事尽くしのように思い満足する一刀がいた。

 牛車は町並みを抜けて、温城の城門を潜る。当初の説明で、会議場所は城内の役所と聞いている。門の前で守備兵と役人らが、司馬家護衛の騎兵の者と話をしていた。役人らは窓から外を見ていた司馬防と一刀へ、右拳を目の前で左掌で包む形の「叩頭礼」を取ってくれる。

 そして牛車はゆっくりと場内に入って行き、会議が行われる屋敷の前へ到着した。

 「じゃあ仕事をするかな」と、一刀は背伸びをすると、一刀の様子に微笑んで外へ出る司馬朗に続いて、後ろの出口から牛車を降りた。

 

「おはようございます、県令様。こちらにお連れしたのが北郷様です」

 

 司馬朗は、出迎えてくれた背丈が六尺五寸(百五十センチ)程の年配で白髪混じりの少し立派な服装をした女性に「叩頭礼」にて一刀を紹介した。一刀も続けて礼をして挨拶をする。

 

「おはようございます、県令様。初めまして、姓は北郷、名は一刀と言います。字はありません。よろしくお願いします」

 

 すると県令という、この県の長である年配の女性は「では貴方が」と笑顔を一刀へ向け、穏やかな口調にて名乗った。

 

「おはようございます。私は、県令の王渙(オウカン)と申します。ようこそ北郷殿、伯達殿。わざわざ足を運んでいただき感謝します。また、北郷殿には先日の賊への対処協力についてお礼を申し上げる」

 

 王渙も一刀へ礼を取って返すのだった。

 

「さあ、続いてこちらへ。皆も待っております」

 

 王渙を先頭に、司馬朗、一刀の順で役所になっている屋敷へ入り広い廊下を進む。

 途中で王渙から司馬防について尋ねられ、司馬朗が母の次回来訪を伝えていた。

 時々要所に立つ守備兵らが通る度に礼を取ってくれていた。

 そして、広めの謁見の間へ入る。一刀らは部屋の中央の装飾の豪華な敷物の上を通って進む。先には机と座席がコの字型に近い形で並べられていた。

 奥で迎えるようにお誕生日席の位置へ横に三つの机が並び、そして中央の敷物へ向かい合う様に六つずつの机が置かれていた。

 各机の幅は九尺(二メートル七センチ)程もあった。

 十数名の人物が、両脇に並ぶ机の後ろに席へまだ座らず、立って出迎えでくれていた。そして、司馬朗らへ朝の挨拶を送って来る。一刀らもそれに挨拶を返す。

 王渙は奥の机の前まで来ると皆へ向き直った。一刀らもそれにならう。どうやらここにいる人物らへ再度紹介するようであった。

 両脇の十数名を一度見回すと、王渙は静かに一刀を紹介する。一刀も再度名乗り挨拶した。続いて周りの顔役や役人らが、それぞれ一刀へ名乗りと挨拶をしていく。

 そして、それが周り終わると王渙は、再度例の賊を圧倒的な武力で見事に倒し、賊に対して『鉄壁の治安』を有していると言う街の高い評判を守ってくれたのが一刀であると称えてくれたのだった。

 周りの人物らから、自然と拍手が上がる。司馬朗も嬉しそうに拍手してくれる。

 急な予想外の展開に一刀は、変な汗が額に浮かび、逆に非常に緊張していた。小学、中学、高校で表彰された事など一度もないのであった。

 街の顔役となっている司馬防から『街の英雄』と言われてはいたが、買い被られ過ぎな事だと思っていた。

 それが、こういう公の場で、実際にきちんと本当に評価されていたのを聞いた。この街の人口は、学校など問題にならない程の数なのだ。

 王渙は改めて一刀へ言う。

 

「本当に感謝を。これまでも、守備兵らと住民らの協力で皆誇りを持って守って来た事なのです。そして、今回の賊が強かっただけに、それが破られると、きっと歯止めが聞かない、より凶悪な賊を招くようになるのです。昨年以来、実際に周辺の街や村には昼間に街へ別れて侵入し、夜中に百人規模の凶悪な賊の集団と化して、堅固な守備の門を打ち破って脱出し、多く住民や正規守備兵の犠牲者と金品等の大きな被害を出している事例が幾つかあると聞きます」

 

 変な汗を掻いていた一刀であったが、ここまでの話の流れは見えてきていた。

 昨日司馬朗から『不定期に街や門を見に来てほしい』という話があるとは聞いていたが、どうやらそれは、最近の凶悪な賊の集団へ対しての抑止力に少しでもなればというつもりで呼ばれたように考えられた。

 

「わが街の『鉄壁の治安』という話は、そういう輩の危険から住民らを遠ざける効果が少なからずあります。それらを踏まえた上で、住民達を代表して感謝と共に、加えて協力して頂きたい件があり、本日はお越しを願いました。とりあえず、席へお掛けください」

 

 王渙の言葉に一刀らが席へ移動すると、他の皆も席へ別れて座ってゆく。

 司馬朗は、中央の敷物に向かい合って置かれている机列の、お誕生日席側から見て一番右手前の机席に座る。その机には一刀の為にもう一席用意されていた。一刀は司馬朗の右側に着席する。

 お誕生日席は横に三つの机があり中央は県令の王渙が座る、この座席配置からやはり『司馬家』の序列はこの街でかなり上らしい。

 他の顔触れを見て見る。半数は女性だった。流石にこの階級だと有名武将らのように全員女性というわけでは無いようだ。

 また司馬家の屋敷を出て、街中の多くの人を見て、ここに並ぶ人達を見て……一刀にとって重要な事を再認識することが出来た。それは―――

 

 司馬家の家族らが「どんだけ美人率が高いんだよ?」という事であった。

 

 司馬家の中にいると、基準がおかしくなるの感じで。使用人の女性らまでも、顔立ちがすっきりとしていて綺麗な顔立ちの人達なのだ。

 そういえば、雲華と街へ行った時も雲華程の美人は、単福という女の子ぐらいだったなと一刀は思い出していた。白ちゃんは、まだ可愛いという年頃だしと。

 やはり世の中には、公平などどこにもないと言う事なのだろう……。

 一刀は、自分が凡人顔にも関わらず、美人に囲まれていることを喜ぶかのような、そんな不純でどうでもいい事を考えていると、王渙から一刀へ声が掛る。

 

「北郷殿、どうでしょうか?」

 

 物思いに一刀が耽っている間に、話はすでに先ほどの凶悪な賊の集団への対策の話になっていたのようだった。『神気瞬導』以外は、凡人の偏差値五十そこそこな頭なのである。二つの事を同時に聞いたり考えたり出来るスペックなど有りはしないのだ。

 この席に出そろった顔役のお歴々が、一刀へ期待の視線を集中しているのが分かった。

 

(んっ、どうでしょうか?……って何がだろう……ヤバイ、聞いてねェ)

 

 一刀は、完全に聞き漏らしていた……。

 

「えっと……」

 

 微妙に目を泳がせ、前を向いたままな一刀のこめかみを、嫌な汗が伝わって落ちて行った。

 思わず、横の司馬朗を見てしまって『助け船を出してもらおう』と考えたが、この場で彼女を見つめた上に助言を頼っている『英雄』は、皆にとても情けなく見えるのではと思えて来てしまったのだ。

 そして止せばいのに、確認せずに言ってしまうのである。

 

 

 

「もちろん、喜んで!」

 

 

 

「おおぉ、さすがだ!!」

「わぁ!」

「助かります!」

 

 回りの顔役らからは『英雄』を称えるような感謝や歓声の声が上がるのだが、その中で一刀は聞いてしまった。

 「ええっ?」と言う、横に座っていた司馬朗の驚いた疑問形の言葉を。

 一刀は、ふと雲華が言っていた重要な事を思い出した。

 発言した言葉には、責任や重みがあるのだということを。

 

 一刀は思った。自分はどんな『失敗』を選んでしてしまったんだろうかと―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今、劉備は頭の片隅に疑問を抱き始めていた。何かがオカシイのではと。

 

 

 

 元々、地元のある幽州涿群周辺の野盗や賊らが大手を振って跋扈しはじめたこの情勢を正し、皆が笑顔で暮らせる平和な世を見たいと、桃園の誓いで決起した劉備と関羽と張飛であった。

 しかし、その目的に対して一生懸命頑張ったが、三人で何をやっても近づくことが出来ず(目的を実現する案や方針、良策が立てられなかった為)しかたなく、かつて盧植将軍門下の同窓であり仲の良かった幽州の有力豪族となっている公孫賛に身を寄せて戦った。関羽と張飛の活躍により劉備らは重用されたが、公孫賛より黄巾党の乱の始まりを契機に、急に(人柄だけは良い劉備に人気が集まり過ぎる事が懸念された為)公孫賛陣営からの独立を勧められた。

 劉備は友人の勧めに契機的には良しと、公孫賛の元で同行を募らせてもらった千人程度の義勇兵と共に黄巾党討伐に意気込んで乗り出した。

 ところが、協力した官軍からはいつも先陣を押し付けられ、関羽と張飛は奮闘すれど得られるのは、たまに官軍副官らからの関羽と共に体を嘗め回すように見られながらのイヤラシ気な勧誘と、わずかな糧食だけであった。

 そのうち、周辺に点在していた冀州、兗州、予州の黄巾党軍は討伐され、劉備らは取り残される形に陥る。

 最近劉備は焦っていた。

 自分に付いて来てくれている関羽と張飛と気の良い義勇兵達は、いつも命がけで全力で戦ってくれている。

 なのに、目的へ……前へ進んでいる気が全くしないのであった。

 劉備は桃色な頭を必死で駆使するが、盧植将軍の元で学んだ知識には、放浪からの立身など有りはしなかった。公孫賛の元に行く前と同じ……自分で考え、選ぶしかない状況である。

 とりあえず、辛苦の移動の果てにたどり着いていた、この予州沛国の北限からの移動は考えていた。だが何処へ……。

 そんな時、関羽の発案で、街道にて商隊ら通行人から情報を参考にしましょうと提案されて待っていると、徐州で黄巾党が多く残っていると言い、その情報の提供者である麋芳と言う人物が商隊を率いていて、護衛をしてくれれば必要な物や糧食も出してくれるという。

 『麋芳さん』は良い人そう♪……急に光が差し込んで来たように、劉備の頭は桃色一色になって、そして皆で突き進んで行った。

 

 確かに『麋芳さん』の言う通り、徐州には黄巾党がいた。それもたくさん。

 今、関羽は戦っていた。周りは皆、黄巾党の軍勢に囲まれて。

 今、張飛も戦っていた。周りを皆、黄巾党の軍勢に囲まれた劉備を守りながら。

 そして、気の良い義勇兵達の……共に歩み、戦い、笑顔を見せていたお兄さん、おじさん、女の子達の姿はもうどこにも見えない。

 それは今、劉備の目が恐怖と悲しみの涙で曇って良く見えていないばかりではない。

 彼らはすでに皆、紅に染まり地に伏し、そしてもう動かない。

 それから、『麋芳さん』は―――最後の……この日五度目の交戦開始当初に戦いながら小さな林へ移動すると、その姿を見失っていた。

 

 ……その麋芳は……彼女だけは、劉備らの目が届かなくなると、最後まで持っていた金目のものを敵兵の前で派手にバラ撒くと、それに群がる混乱の隙にこっそりと黄巾党の兵に化け、劉備達に知られる事もなく、静かに今、戦場より逃げ果せていた―――。

 

 

 

 劉備らが麋芳の商隊と合流した当初、長い列を成したその特異な一団の旅は順調であった。劉備ら一団は、麋芳の姉が屋敷を構えるという東海岸線に近い東海郡朐(ク)県の街を目指していた。

 劉備達は初日、二日目と麋芳から振舞われる一日三度の食事を、腹いっぱい食べられて皆幸せだった。

 

 だが全ての意味での分岐点が現れる。

 それは、ここであった。

 予州の魯国を通過し、徐州に入って間もなくの辺りでのこと。

 

「あのー、近道がありますが、行きます?」

 

 麋芳が言ったあの一言。今思えば、何に対しての近道になったのだろうか。

 確かに選んだのは劉備自身である。関羽も張飛も自分の意見に従うであろうとは思っていたのだから。だが―――

 

 ここ一日で、五度も黄巾党の軍勢に出会うのは納得いかないものがあった。

 劉備は思う。この状況は、本当にすべて私がいけなかったのだろうか……と。

 

 初めは相手の黄巾党も千ほどの軍勢だった。

 次は三千。

 そして五千。

 おまけに二万。

 トドメなのが五万……。

 

 それも初めの黄巾党軍千人以外は、すべて麋芳が我先に逃げて行き、それを護衛として守る為に追った道であった。

 なぜ、こんなに黄巾が固まっているのかと言うと―――青州の城陽郡で数日後に張姉妹のコンサートが開催される為、守備を残した徐州黄巾党の三分の二程が移動中であったのだが……それは劉備達の知るところではない。

 初めに千人いた義勇兵も麋芳の商隊も五戦目には、もはや跡形も無くなっていた。

 劉備までもが血飛沫にまみれ、好きではない剣を逃げながら必死で振るっている状態なのだ。すでに劉備を初め関羽、張飛に至るまで、全員馬を乗り潰していた。

 

 殺らなければ、殺られる。殺られる前に、殺れ!―――この極限状態に、桃色も説得の言葉も何も必要なかった。

 今、自分の命は……運命は自分で守り、切り抜けるしかない状況だ。

 

 四戦目の二万を退けた段階では、疲労困憊ではあるが、まだ百五十程の兵だけは残っていた。

 しかし、最後に出会ってしまった五万は、手練れな精鋭も多い徐州での黄巾党本隊だったのである。

 最後の戦いが始まってからすでに一時半(三時間)が過ぎていたが、切っても倒しても黄巾党の兵が減らなかった。日は傾きかけていたが日没によって逃走可能な暗闇になるまでは、まだ一時(二時間)弱はありそうに思えた。

 そしてどうやら先ほど退けた二万の残存も、敵に再び合流し始めているようであった。

 おまけにそれまで四度も敗れはしたものの、仲間を多数殺された徐州黄巾党の士気は以外に高く、さらにすでに関羽、張飛が相当疲弊色の濃い戦いを見せていたために「仲間のカタキを取れそうかも」「今なら倒せるかもしれない」という可能性がチラチラ見えてもいたのだ。

 特に関羽の状態が良くなかった。張飛に劉備を任せていたため、常に最前線に立っていたがゆえに不意に受けた数も含め、昨日から四本の矢を受けていたのだが、いくつかが出血に対しての止血が十分ではない状態で、黄巾党五万との戦いに入ってしまっていた。

 張飛は矢傷などの大きな怪我はなかったが、昨日からの連戦にも関わらず一食も食べていないため、パワーが十分出なくなっている。普通ならお腹が減って、もう戦いたくないところなのだが、劉備や関羽らの命が掛った状態であったため、丈八蛇矛(じょうはちだぼう)を力の限り振り回して戦い続けていた。

 

 最後に残された三人は大軍に追われる中、この小規模な平原に散見する小さな林を伝いながら、少し離れた所に見える大き目の山森の方角を目指すしかなかった。関羽と張飛が如何に勇猛であろうと、大軍に対して劉備を連れてたった三人で、平地にて迎え撃つには余りに分が悪すぎると言えた。

 このままでは、本当に討ち取られてしまう。

 

(((早く山森の所まで―――)))

 

 三人は移動を急いだ。

 そして、目指す山森まで目測であと三里ほどのところで―――殿の関羽が足へ矢を受けてしまったのだ。

 

「く……くそう」

「愛紗ちゃん!」

「愛紗--!」

 

 怒りの張飛が殿に回り、矢を射ていた敵兵達他、迫っていた百人近くの兵へ突撃し全てを切り伏せる。

 だが傷を受けた関羽の脚から、残っていた躱すと同時に素早く移動する俊敏さが、大きく削ぎ落とされていた。

 万全の状態であれば一本の矢ぐらいなど、ほぼ影響がない関羽と言えるが、長時間の出血も加え、余りにも疲労が蓄積し過ぎていたのだ。

 黄巾党軍の主力から少しずれた位置まで離れられていたが、このままでは距離を詰められてしまう。

 だがどんな状況でも、関羽の闘志が落ちる事はない。決断は早かった。

 

「はぁはぁ………鈴々! 桃香様を連れて先に行け! はぁはぁ……」

「!」

「愛紗ちゃん! 何を言ってるの」

 

 劉備から見ても、明らかに関羽は疲労していた。ここは林ではなく平地なのだ……こんなところで、迫って来ている多くの敵兵を、今の関羽ではどれほど相手にできるだろうか。

 

 関羽は……彼女は苦しいや痛いという類の言葉は絶対に言わない。

 そして、劉備へ優しく微笑むのだった。

 

「はぁ……、心配には及びません。ここで少し呼吸を整えて敵を蹴散らし、すぐ追いつきますから。鈴々……桃香様を頼んだぞ」

「……ダメだよ、愛紗ちゃん! そんな――」

「約束なのだ、愛紗! 死ぬな! 桃香お姉ちゃんは鈴々が絶対守る!」

「ああ、必ず。それに、桃香様を守る鈴々に勝てる奴はいない。さあ桃香様、安心して行ってください」

「でも……」

「愛紗はそう簡単には死なないのだ。愛紗は……鈴々のお姉ちゃんは強いのだ!」

「ああ。倒せるとすれば鈴々だけだ」

 

 張飛は関羽を……関羽の『強さ』を信じている。張飛と関羽は笑顔で互いを見ていた。

 

「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん……」

 

 劉備は二人へ、そして散って逝った義勇兵の人達に対して、何も出来ていない自分の不甲斐なさを噛みしめていた。

 

 

 

 劉備と張飛は森へ……先へ進む。

 関羽は、一度も振り返らない。

 劉備達に背を向け、すでに迫る黄巾党五万の一軍を前に、激戦を物語り血に染まっている愛用の青龍偃月刀の柄を地に立て、血みどろな姿の関羽は平原で一人仁王立ちしていた。

 

(そういえば……麋芳殿は……戦死したのか?)

 

 関羽はふと、走馬灯のように色々なことを思い出す中で、今はどうでもよい事を思い出していた。

 気が付くと、夕焼けが綺麗であった。

 そして―――大量の矢が飛んでいて一気に自分へ降り注いでくるのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 会議が終わり、司馬朗は一刀と司馬家へ戻って来た。

 司馬朗は家内の用を一通り確認指示したのち自室へ入る。そして、すでに紙に書き上げていた仕官を受ける旨の書状を静かに読み直す。そして読み終えると、大き目の包み紙へ封じ、箱に静かに入れると丁寧に紐で結び留めるのだった。

 そして、階下へ降りると使用人の中で、もっとも腕の立つものを呼び、箱の書状を曹操の元へ……仕官勧誘の書面内に「届け先」として書かれていた、本拠地になっている兗州陳留郡の陳留城へ届けるように遣いを出すのであった。

 陳留郡は司馬家のある司隷河内郡のすぐ東隣の位置にある。

 陳留城へ書状が届くのは、およそ二日後になる。

 だが今、曹操は洛陽へ袁紹の代わりに兵八千を率いて守備として駐屯中なのであった。

 曹操へ司馬朗のその意志が届くには、まだ日を多く要するという事だ……。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年09月12日 投稿
2014年09月14日 加筆修正
2014年10月25日 文章見直し
2015年03月20日 文章修正(時間表現含む)
2015年03月22日 八令嬢の真名変更
2015年03月29日 文章修正
2015年06月11日 文章修正



 解説)ヤバイものしか……ないよ
 厳密には言い訳がないこともなかった。しかし、そこにはさらに内なる高度な駆け引きがあったのだ!
 一刀としては、『余り聞かれたくない以前の身の上話』というのがあった。
 それを、司馬防にだけ話していたのだ、と。
 しかし、一刀の偏差値五十ちょっとの頭脳が、恐るべき予想を立てていたのである。
 『司馬朗の持つ情報はそれだけか?』――――と。
 「ぃ、●クぅーーー、●ッちャぅーーーー!!」という嬌声が聞こえたのですが……という最後のカードを持っている可能性を否定できなかったのである。
 出された瞬間に、一刀は見苦しい形での完全敗北を喫してしまうだろう。
 彼女が、『司馬防の長子』で、あの才人『司馬懿の姉』であることを忘れてはいけないのである!
 それならば、ここまでで―――負けた方がマシと判断せざるを得なかったのだ。
 司馬朗さんは普段、とても優しい人であるが、敵に回してはいけない人でもあるのだった……。



 解説)伝説の『ヤツマタのオチ』
 一刀の先輩に女好きな先輩がいたのだが、一時並行して付き合っていた八人の彼女全員が一堂に鉢合わせをしてしまい、その先輩は八人の彼女らにビンタでボコボコにされた上、彼女ら全員に振られてしまったというお話。



 解説)「もう……決めたのですね、優華」
 母の目は鋭いのである。
 司馬朗が『何を』本当に決めたのか理解しているのであった。
 それは『長子としての考え』に留まらないのだ。



 解説)牛の全速力
 時速二十から二十五キロぐらいらしい。





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➋➋話

 

 

 

 瀕死の怪我をした虎がいた。

 だが、周りに挑んでくる猫が何十匹いようとも、すぐに虎を倒すことは不可能である。

 所詮、虎に勝てる猫は……いないのであるから。

 

 

 

 関羽は黄巾党の追手が近付いて来るまでの間、しばらく平原で一人佇んでいた。

 静かに戦いへの呼吸を整える。

 かなりの疲労と血が流れ過ぎているため、気を張っていないと気絶する感覚があった。

 しかし、ここは戦場という緊張感が、気を張らせてくれていた。

 幸い、無理をして移動するのをやめたことで、流血もほぼ無くなって来ている。

 そして今、周りには己のみ。死んでも守るべき大事な人は、この場にいないのだ。

 自分だけを守ればいい……。それは、動く体力があれば、決して難しいことでは無い。

 そう―――関羽は最初から死ぬ気など全くなかったのだ。

 なぜか?

 

 

 

 決まっている。あの日、桃園で結盟したのである。

 劉備や張飛と死すときは同じ日と決めたのだ。それは今日ではない。

 

 

 

 誓いは守るためにあるものだ。

 関羽はその最後の一瞬まで諦めない、そういう女の子なのだ。

 ただ残念な事がある。

 さすがにどう頑張ろうと、今は五万を超えるこの徐州黄巾党を倒すことは不可能な事だ。今日まで共に泣いて笑って戦ってきた義勇軍らの……散っていった皆の敵を取ることは機会を待たねばならないだろう。

 すでに張飛は劉備を連れて、森まで到達しているはずだ。

 あとは、自分がここをなんとか切り抜ければ良いだけと思える。

 

 関羽は綺麗な夕焼けの空に、ふと自分へ向かって来る無数の矢を見つけた。

 しかし、彼女は全く慌てない。

 見たところ、矢の数はざっと二百はあるように見えた。

 先程張飛の怒りの反撃により、百名近くの黄巾党軍の兵があっと言う間に倒された事で、追撃に現れた黄巾党の一軍は用心し、まず離れた位置から関羽へ矢によるの攻撃に切り替えたようだった。だが、二百の矢が全部彼女のところに来るわけではない。

 当たる軌道で飛んで来るのは精々数本だなと、すでに関羽は見切っていた。彼女は……未だ一地方で名が知られる程度の武人だが、その実力はすでに大陸でも五本の指に入る武力の持ち主なのである。

 夏侯淵や黄忠、呂布らの強弓から放たれる高速、神速の矢ならともかく、普通の兵らが放った飛んで来ることが分かっている普通の矢など、止まって見えているのと変わらないのだ。

 矢の雨が間近まで到達する。実際に当たりそうな矢は九本だけのようだ。それらに、関羽は正面を向いた状態から青龍偃月刀を両手で構えて迎え撃つ。

 軽く青龍偃月刀の刃先を子揺らすように回し、体へ当たる軌道に飛んで来た矢じりの先端だけを軽く弾いていなす。九つの小さな連続する金属音をさせながら、矢はすべて進路を変えた。

 関羽の周りに、外れた二百以上の矢が壮観に突き刺さる。もちろん関羽は大地へ一人、矢を受けることなく仁王立ちのままだった。

 その結果を見た黄巾党の一軍では、一本ぐらいは当てろと内部でどよめくが、彼らも頭を使わない訳ではない。関羽への距離をかなり詰めて、もう一度矢を一斉射撃してきたのである。再び二百程の矢が短時間で関羽へ迫る。そして今度は彼女へ正面から当たる矢の軌道は三十本以上になっていた。

 だが関羽は―――体をスッと横へ向きを変え、向かう表面積を減らし当たる軌道の本数を絞ると、迫るそれらもすべて冷静に撃ち落とす。さすがに、二、三本をまとめて払わなければならないが。それでも関羽には難しいことではなかった。

 再度、関羽の周りに外れた二百以上の矢が、初めから無価値で無意味なモノのように、ただ突き刺さっていた。

 このことは黄巾党の一軍を戦慄させた。

 黄巾党のその場にいた多くの兵は肉眼でハッキリと見ていた。当然当たるはずの矢が、関羽によってすべて軽く逸らされていく様を見せられたのだ。もはや関羽を普通の矢では倒せないと知らしめたのだった。

 しかし、その黄巾党の一軍を率いる千人隊長は、まだ関羽の殺害をあきらめないでいた。同時に追っていた劉備と張飛の姿がそこに見えない。すでに逃げ果せた可能性がある。全員を逃がすわけにはいかなかったのだ。

 隊を分けて追えばまだ追いつけるだろうが、今ここには兵が七百程しかいない。張飛には先ほど百名程を短時間で倒されている。半数では三百五十程だ。普通ではたった一人の敵にあり得ない考えだが、三百五十程では全滅の形で返り討ちに遭う可能性も否定できなかった。

 彼は、もう一刻(十五分)もすれば後続が追いつき、ここの兵は二、三千にはなると考えていた。追うとすればそれからだと。それまではまず、目の前の関羽から個々撃破するのが順当と言える。

 すぐさま黄巾党の一軍は隊列を組みかえていた。歩兵百人を横一列に並べる事による槍衾の形を取らせる。そして前列百人に加えて二列目も百人で形成させた。一列目の人の間からも槍を出す形で隙間なくし、少し上へ角度を付けている。正面に加え飛び越えて来ることを防ぐ為であった。

 関羽までの距離は七十歩程(百メートル)ほどへと詰めていた。

 そして、槍衾の兵らは隊列を維持しつつ、関羽へと小走りで近づいて行った。

 

「ふっ……」

 

 関羽は静かに鼻で笑い動かない。それは……すぐには動く必要がなかったからだ。

 槍衾で百人を二列並べ二百人で寄せて来ようと、横一列な状態では関羽の正面から同時に攻撃出来るのは、せいぜい十人程度なのである。

 さらに―――関羽は槍衾との距離が十歩(約十四メートル)を切る辺りで、休ませていた体を急に左横へ向かって全力で駆け出して回避に出る。

 関羽は一瞬のうちに槍衾の左端まで移動した。

 その時、関羽から見ると、敵兵は縦に二列で百人並んでいるの形になった。敵兵らは慌てて関羽の方へ向こうとしたが、前後が詰まった状態になるため槍が使い辛い状況に陥っていた。黄巾党軍は、関羽の兵法で最悪に戦い難い形にされていた。

 もたついている敵に対し、あっと言う間に関羽は早くも十人ほど切り倒していた。

 黄巾党軍は、もはやバラバラに槍を向けていくしかなくなっていた。だが、三対一や五対一ぐらいでは、手負いとはいえ関羽は全く止められないのであった。

 そのため、さらに一秒間辺りに二、三人が切られ続けた結果、短時間で半数が討たれ残りは我先にと霧散して行った。

 その場を指揮していた黄巾党軍の千人隊長は、その状況に狼狽しながらも残りの兵へ突撃を指示した。

 だが、先ほどの矢の雨に対しての見事な撃ち落としに加え、この目の前の一方的な惨状を目の当たりにした黄巾党の兵達は、もはや関羽に近づこうとする者がいなかった。

 さらに、関羽はまだすぐそこに青龍偃月刀から血を滴らし、凄まじい姿で此方を睨み仁王立ちしていたのである。

 そんな修羅を目の前に、戦意を喪失し進退窮まり掛けていたその黄巾党一軍の隊長のところへ、後続の増援の兵ではなく伝令がやって来た。

 それは「劉備らへの追撃を中止の上、急ぎ後方に引き返して合流し、敵軍を叩け」と言うものだった。

 伝令にあった「敵軍」についてその千人隊長が確認すると、それは―――なんと徐州太守率いる大軍であった。

 

 関羽の前にいた残り五百程の黄巾党の一軍は、急に全員が引き上げだしていた。いや、その場から多くが散り散りになったと言ってもいい光景が見えていた。

 そして小さなこの平原には関羽が一人、仁王立ちで残された。

 だが、関羽は動かない。

 

 関羽は―――動けなかったのだ。

 

 黄巾党の一軍が小さなこの平原から、自分から離れて引き上げるのを見届けると、「ふぅ」と気が抜けるように静かに立ったまま気絶していたからである。

 だが、異変がその直後に起こる。

 

 そんな関羽の傍、後方七歩ほど(約十メートル)の所へ、いきなり何もない空間から焦げ茶の厚手のマント風の布で全身を隠すような人物が忽然と現れた。

 その人物は気配を消したまま、ゆっくりと後ろから関羽へと一歩二歩と近付いて行く。そして、懐から蝶の羽のような模様の怪しげな仮面を取り出そうとする。

 と、その時。

 焦げ茶マントの人物は咄嗟に躱す。しかし、手に握っていた怪しげな仮面は、一部が砕け散っていた。それを目で確認しながら、仮面を破壊した得物を向けて来た方を視認する。

 

「………」

 

 そこには、何故か同じような蝶の模様の入った仮面を着けた、可愛らしい衣装と鎧を着て鋭い槍先を向けている女の子と、その後ろに一歩控えるようにそちらも仮面を着け、槍を持つ背の高い女の子が静かに立っていた。

 見た瞬間に、それぞれが自分に匹敵する技量の持ち主らだと焦げ茶マントの人物―――于吉は感じていた。

 槍を向けている仮面の娘は、僅かに首を傾げながら謎の焦げ茶マントの人物に告げる。

 

「なにをする気?」

 

 急に現れた仮面の娘の低く凄むような声にも飄然とし、焦げ茶マントの人物はその質問には答えず、愉快そうに話し出す。

 

「ふふふっ、これはこれは。あなた達ですね、弧炉と蛇蝎達を易々と倒したのは。しかし私達……私の動きをも掴んでくるとは、中々ですね」

「質問に答えてない……わよ!」

 

 仮面の娘は、もはや問答無用と『超速気』での高速の槍で突きに出る。

 焦げ茶マントの人物――于吉の胸元で、攻撃を何かで受けたような鋭い金属音が炸裂し、彼は強烈に突かれた勢いで仮面の娘から飛ばされ離れると同時に一言発する。

 

「今日は私の負けですね。では、また」

 

 そして于吉は現れた時と同様、忽然と姿を消した。

 

「なっ?!」

 

 仮面の娘は、瞬時に周囲を見回して気を探すが、見た目だけが消えたのではなかった。

 彼女はすぐに仙術で、今の焦げ茶マントの人物が使った大きな仙気と同じ感じの気質を半径百里(四十キロ)に及ぶ広い範囲で捉えようと少しの間、術を連続で行使したが……捉える事が出来なかった。

 その術はかなり力を使うのか、終わった直後に仮面の娘は手と膝を地に付く。

 

「主様、大丈夫ですか」

「はぁ、はぁ……大丈夫。くっ、いきなり消えるとは。私の捉えられる外に逃げられたみたい。せめて方角と距離ぐらいはと思ったのだけれど、それとも……歴史を飛び越えて逃げたかも。全く侮れない相手だわ」

 

 この術は自分一人での状態なら、全力を出すと周囲への防御が薄くなり危険であるが、今は『ジンメ』がいるので使えたのだ。だが、それでも後を追い切れなかった事は悔やまれる。

 

 仮面の娘は気を取り直すと、何か手掛りをと砕いた仮面の破片の落ちた辺りを探してみたが、驚くことに破片は、いつの間にか粉状になってほとんど風に流されていたのだった……。

 

(………隙がない相手)

 

 お手上げねという表情で、仮面の娘はジンメと顔を見合わせた。

 

 仮面の娘である雲華とジンメがここに居るのはもちろん偶然ではなかった。さて、どうしてここに来れたのか? それはまず先日、便鳥で管輅を泰山近くの街へ呼び出して会っていたからであった。

 管輅は六尺二寸(百四十三センチ)ほどの小柄な女の子だ。彼女も仙人の端へ名を連なる一人。薄い深緑な長い髪に全身を隠すフード付きのローブのような朱の厚布を纏って木の杖を持つ。

 そしてそんな彼女の占いを聞いたのだ。それも天の御使いへの占いを。すると―――

 

「偉大な王となる可能性のある三人の内、一人が操られた忠臣に殺されるかも。三人の一角でも欠ける事は……天の御使い自体への影響がかなり……大きい?」

 

 それが非常に悪い占いであったのだ。当たるとマズそうなので……当たりそうである。

 操られる……操るのは仙人かと聞いてみると、「そう」と。

 忠臣とは誰なのかを聞いてみるが、「さあ」と。

 場所を聞いてみると「海に近い東側……? んー、徐州の中部……東海郡辺りかも」と。

 いつなのと聞いてみると、「うわ、今日か、二、三日のうち?」と。

 雲華は「時間が無いじゃない!」と、荷物も適当に慌てて泰山から南の徐州方面へ出て来たというわけだ。

 そこで、ジンメと二手に分かれて徐州東海郡の大き目の街道をいくつか張っていると、人にも関わらず仙気を僅かに漂わせた三人の人物が、兵らを多数連れた長い列で通って行ったのである。

 あとはそれを離れて、様子を見ながらつけて来たのであった。

 ちなみに、管輅へ他に天の御使い関連で占いはないかと聞いてみると……意味がよく分からないと言い、それでも聞くかと言うので雲華は聞いてみた。

 

 すると―――「おっぱい」と。

 

 しかも「おっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱい」と『おっぱい』を八回も繰り返して言うのだ。何度やっても必ず八回出ると言う。

 雲華は何故かピンと来た。これは―――『女』達だと。

 いきなり八である。末広がりなのだ……縁起はイイ。

 しかし、時間は余り無いようである。

 それは……もちろん魔王様の堪忍袋が『砕け散る』時間がである――――。

 

 ここで漸く雲華は、数十体の死体だらけな周辺の様子から壮絶な戦いを生き残ったであろう、この血まみれで仁王立ちの女の子へ近付こうとした。だが、あと一歩というところまで近づくと、雲華はこの女の子へ近付くの止める。傍に寄って気が付いたのだ。

 気絶した状態でもこの子から只ならぬ気勢が感じられた。近付き触れるものは『倒す』と。

 そこへ、平原の端より兵の足音に交じって甲高い女の子の叫び気が近付いてくる。

 

「劉備さまぁー。関羽さーん。張飛さーん。味方を連れて、ででででーん! 麋芳参上だよ~♪ おっ?!おおおっ、関羽さ~ん? なんと見事な、ご最後をぉー?!」

 

 先頭を進んできた派手な橙色の髪の女の子は、関羽の目を閉じピクリとも動かず血まみれの姿を見ると悲壮な声を上げた。

 五百人程の一軍の兵を引き連れて現れたのは、なんと麋芳であった。

 雲華は、この一軍によってこの血まみれの女の子の安全は確保できたと判断する。

 おまけにこの麋芳と名乗る人物は、『カンウ』と呼ばれるのこの子の知り合いのようだ。

 

「言っとくけど、その子死んでないから。ちょっと深く寝てるだけよ」

「あれー? 仮面の劉備さまじゃない? こっちの人も背が高い? 張飛さんじゃない?……えへへー、どなた様ー?」

 

 どうやら麋芳は、仮面の娘ら三人の姿を、見知った組み合わせと勘違いしたみたいである。

 仮面の娘らは、この『カンウ』という女の子を早々に麋芳へ預け、去ることにする。

 

「名乗る程の者では。いや、私達も通りすがりなのよ。この凄い子は良く知らないし……知り合いなら丁度よかったわ。……そうそう、その子を起こすのなら少し離れた場所からツツキなさいね、真っ二つに成りたくないなら」

 

 そう伝えると仮面の娘らは、足早に去って行った。

 

「ほへっ? 何のことだろー?」

 

 仮面の娘らを見送ると麋芳は、兵らに劉備と張飛の特徴を伝え、周辺に十名ずつの捜索兵らをいくつも散開させる。

 そして、麋芳は先ほど仮面の娘に伝えられた意味が分からず、止せばいいのに関羽へと近付いていく。

 

「ぎょぇぇぇぇ~~~~~~~~~」

 

 離れた位置まで届く、麋芳の半泣きの大声が上がった事は言うまでもない。

 その声に麋芳らの周辺を警戒していた兵らが戻ってくると、関羽の青龍偃月刀が麋芳ののど元ギリギリで止められていて、その状況に麋芳の腰が抜けてゆっくりとしゃがみこむところだった。

 

「……麋芳……殿?」

 

 見知った顔だったので関羽に寸止めされた模様だ。見知らぬ者なら首が飛んでいただろう。麋芳は、ちょっとだけチビッていた……。

 間もなく、麋芳はここに至った経緯と状況を簡単に関羽へ説明する。

 麋芳が敗走しながら戦っていると、陶謙の軍の先行部隊に遭遇したという。麋芳は陶謙の軍に姉の糜竺の伝手で顔が効く為、指揮官の一人より『我ら陶謙の軍六万余は、拠点を出た黄巾党の軍団が分散して移動し始めた事実を好機ととらえ、程よく離れて付けて行き、後方より頃合いを見て戦いを仕掛ける途中である』と言う話を聞く事が出来た。麋芳はすぐにその更に後方の本隊の陶謙へ目通りし、義勇軍の勇猛な劉備らの話をして一軍を出してもらい、少し大回りだが脇道を抜けてここへ来たと言う。今、陶謙の軍六万余が後方より黄巾党軍に襲い掛かり、優位に戦いを進めている最中とのことだった。

 麋芳の行動に一度は礼を述べた関羽であったが……彼女へはいくつか疑問が浮かぶのであった。

 

(なぜこの者は、黄色い頭巾こそ被っていないが、最後に見た服装では無く、今は黄巾党のような服装なのか……。そして、前方の敵から気付かれないように軍を配するには相当離れる必要がある……それは我々が戦っていた戦場から、相当離れていた場所で遭遇したという事……その真実は―――)

 

「関羽さーん、劉備さまを急ぎ探しましょー♪」

 

 関羽の思考は、最優先事項により掻き消える。そう、今は劉備や張飛を探すことが重要であったのだ。

 関羽も捜索の最前線へ、馬を借り飛び出していった。

 だが必死の捜索にも、結局この平地内と関羽から聞いた方向周辺の森に劉備らを見つけることは出来なかった。

 日もすっかり暮れて捜索が難しくなったが、関羽は一人でも捜索を続行すると言う。しかし麋芳は自分らが探すからと、時々ふらつく関羽を説得し手当と食事を取らせて休ませた。

 麋芳は言葉通りに、夜間も百人程の隊を三つほど動員して、森の中の深部へも呼びかけながら探したが、用心の為か劉備側からの返事もなく、夜が明けていく。

 黄巾党と陶謙の軍の戦いは、陶謙の軍の勝利で終わっていた。

 

 陶謙、字を恭祖(きょうそ)という。徐州の黄巾党の残党蜂起のおり、徐州州牧に任命され、討伐の機会を伺っていたのだ。

 初老の女性である。若き頃は勉学に励み、国の為に西涼への討伐や幽州などで刺史にもなっていた。しかし、余り器量が良くなかったことから長年付き合っていた男性との結婚に失敗。彼を器量良しで秀才の若い娘に取られたと言う。その事から、次第に道義へ背くようになり、だまし討ちや略奪と、最近は感情に任せて行動するようになってきていた。

 特に曹操に対しては裕福で才女な上、洛陽で見掛けた際、最愛の男を奪って行った娘にも似ている綺麗な顔の為、内心で凄まじい感情が芽生えているのであった。

 そんな中で、麋芳の乾いたその性格と、糜竺のどこかヌケているが明るく穏健誠実とその律義さだけは気に入っている。だが、糜竺、麋芳の姉妹は軍を統率するのが苦手なため後方での協力者として接し用いていた。

 徐州黄巾党はいくつかの拠点を残し、その総勢はいつの間にか十万を超える規模になっていた。それはこの地が中央からは遠いため、殆ど官軍が派遣されなかったことによる。黄巾党の乱の最盛期には、黄巾党の人数が四、五万程度と些か少なかったこの地であるが、各地で黄巾党の討伐が進み一段落する頃になって、各地の敗残兵が徐州に一部が集結してきたのであった。

 徐州は黄巾党について、中央から置き去りにされた土地と言えた。

 そこへ「徐州の事は内々で解決せよ」と、陶謙が各地での実績により中央より派遣されたのである。その代りに「州牧にしてあげる」という帝からのお駄賃の前払いであった。

 そんなある日、黄巾党の拠点を監視している各地の砦から、大軍が移動する準備を始めたと言う知らせが届いてきたのだ。

 調べてみると、何かの物見遊山で青州まで行き、後日その大軍は帰って来るという。

 陶謙は青州へ行ったきりなら放っておくつもりであったが、帰って来るとなれば後ろを見せている今が好機であると判断し、掻き集めて動員できた兵力六万で直ちに出陣してきたのだ。

 都合の良い事に、黄巾党軍が前方に現れたいずこかの義勇軍と交戦し、それへ追撃に追撃を重ね気を取られていると伝令が入ったため、総攻撃を掛けたのであった。

 兵で勝る隊列を組んだ正規軍が、隊列の伸びて乱れた賊軍の後方から襲う形なのだ。陶謙は圧勝を確信していた。

 今の陶謙に取って、どこにも所属しない雑兵に近い義勇軍などどうでも良い軍であった。麋芳が兵を貸して欲しいと言って来たので融通しただけであった。

 戦況は決し、すでに追撃や残党狩りに入っていた。だが、徐州黄巾党軍の残党が依然徐州に点在する拠点を守っている状況はまだ残っている。

 

 関羽は、日の出の随分前から目覚めていた。体調はまだまだ万全ではない。だが、食事も睡眠も取れていた。劉備と張飛はまだ食事にも有り付けていない可能性が高い中、休んでなどいられなかった。

 関羽は、麋芳へ頭を下げて馬と数日分の食糧を頼むのだった。

 

「多くの軍兵を使い、我が主らを夜通し探してもらい、さらに色々手配頂き麋芳殿にはとても感謝している。だが、これ以上は過ぎるというもの。本来であれば、兵を寄越して頂いた州牧様の元へも伺いお礼を申し上げるべきところなれど、この風体では逆に失礼になろう。申し訳ないが、麋芳殿よりお伝え出来ないだろうか。これより私一人で主らを探しに参るつもりだ。お借りした物は後日必ず、東海郡朐(ク)県の街までお返しとお礼に参る」

「分かりましたー♪ まーだ徐州に黄巾党が残っている間に来ていただければと思いまーす♪ 関羽さんたちの武勇で、皆の敵を取りましょー! そーそー、もしこちらに劉備さま達が行き違いで来られた時にー、関羽さんがどちらの方面に向うつもりかを今言っといてくれれば♪」

「うむ。では、主らが向かった森の先、予州の魯国方面へ向かったとお伝え頂ければ。それでは急ぎ失礼する」

 

 関羽は馬へ跨ると、麋芳に見送られ森の方へと去って行った。

 残された麋芳は色々と考えていた。

 

(うーん、昨日はなんであんなに黄巾党の軍に会っちゃったのかな? えへへー♪ やっぱり巻き添えで死ぬのはゴメンだよねー? でもとりあえず、関羽さんと張飛さんの武力には、投資しておいて損はないかなー♪ 利子付きで戻って来てほしいよねー♪)

 

 麋芳は非常にゲンキンな子だった。

 

 

 

 瀕死の怪我をした虎はいた。 しかし―――必ず死ぬわけではないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 我が輩はバカである……。

 一刀はつくづくそう言う気分だった。

 そろそろ日が沈みかけ、まもなく『司馬家』の夕食を迎える。

 

 家主である司馬防の代わりに最近は司馬家を切り盛りする長女の司馬朗とともに、一刀が参加していた街会議は昼食を挟み、未時終わり(午後三時前)まで行われた。そのあと、司馬朗が気晴らしにと気を使ってくれたのか、一時(二時間)ほど街中を再び牛車で回ってくれた。だが、その眺めていたはずの景色は脳内に記録保存し損なっているようであった。牛車内でたまに司馬朗と話をした会話の内容と共にすぐ思い出せない。

 一刀は自室になっている客間で一人、考えていた。

 そう―――街会議において自らが発してしまった『言葉の重い結果』を。

 

 

 

「それでは北郷殿には、その神出鬼没で凶悪な盗賊集団の対策責任者をお願いします」

 

 

 

「……ぇ?」

「もちろん、必要な兵や装備、武器類については逐一相談の上で十分検討させて頂きます。当然、その対価につきましても。ご安心ください」

「……ぇぇ?」

「ほほほ、いやぁお体を静養中とのことでしたので、まさかお引き受け頂けるなんて。……英雄とは、やはりこういうお方を言うのですわね」

 

 この司隷河内郡温県の県令である王渙に、あっさり笑顔で逃げ口を完封されてしまう一刀であった。

 

「………………ぅひ……はぃ……」

 

 一刀は今更だが思った。

 

(街の門を時々気ままに巡回するだけの期間限定(一ヶ月)で『簡単なお仕事です♪』じゃなかったのかよ。……詐欺だ……)

 

 午前中はここに居る顔役ら皆で、これまでのその盗賊団に関する各地に残る被害の状況について、延々と県令配下の文官によって報告を受けた。

 一刀はそれを顔の引きつった状態のまま、黙って席に座って聞いている他なかった。

 もちろん内容など、思考のパニくった状態で覚えているはずがない。

 横に座る街の顔役の一人、司馬家代表代行な司馬朗も、周りに良く聞こえるこの状況では、一刀へ提言など出来なかった。

 昼食の前に、それぞれ別室にて一刻(十五分)ほど休憩となった。

 そこで、漸く司馬朗が話掛けてきた。

 

「少し難しいことになりました」

「すまない」

 

 彼女は一刀を責めるわけではなかった。彼が良く聞いていない風で話を受けた当初は『なんて不用意な……どうするつもりなのですか?』とも考えていたのだが、この休憩までの時々覗かせた一刀の後悔や苦悶が伺える表情と、急に置かれた難しい立場の彼に……同情してしまっていたのだ。なぜなら彼が好きだからである。困っている一刀を助けたいという気持ちが勝ってしまっていた。少々甘々と言える。

 

「迂闊過ぎだよね、俺。……司馬家にも迷惑になるかもしれない……」

 

 そう言う一刀へ無言で首を振る司馬朗だった。

 それに『司馬家に迷惑』ということはなかった。一刀の武量は自分も含め、母の司馬朗や司馬懿、司馬敏らが認めているところである。盗賊団ごときには遅れは取らないはずなのだ。この街を襲って来れば、間違いなく多くを捕縛し殲滅できると考えられる。重要なのはこの問題はこの街だけではなく、多くの街や村でもかなりの問題になっている事だ。解決できれば『司馬家』には大きな栄誉となると言える。そして……それは一刀の名声をも……。

 

「(これは)…………」

 

 司馬朗は少し難しい表情をして考え込んでいた。

 そんな彼女に申し訳なく一刀は声を掛ける。

 

「本当にすまな―――」

「一刀様」

「は、はいぃ?」

 

 すると、横にいた司馬朗はとても優しい表情になって、一刀の前へ静かに回り込むと向かい合い、彼の手を取るのであった。

 

「貴方は堂々と。これは多くの人の為になることなのです。委縮する事など何もありません。司馬家は貴方の家族で味方です。大丈夫ですから安心してください。それに……私が一刀様に恥など掻かせません!」

「……優華さん」

「昼食以後は、堂々とそして悠然と構えてください。貴方はもうすでに、この街で期待の凶悪盗賊集団対策責任者なのですから」

 

 司馬朗の信に足る力強い言葉に、一刀もこの場は気を取り直す。確かにすでに引き受けたのだ。ウジウジと後悔していても今は良い事などないだろう。とりあえず、この場は強気にいくしかないのだ。

 

「わかったよ。ありがとう、優華さん。まず会議が終わるまで頑張ってみるよ」

「はい」

 

 司馬朗は一刀の表情の変化と、自分の言った考えを好きな人が素直に良い方向へ取り込んでくれたことをとても嬉しく思った。それは『信頼されている』ということに繋がるのだから。

 どんなに気持ちを込めた良い案を出したとしても、採用されなければ、寂しく、空しく、そしてそれが多く重なれば心も離れていくものである。

 

 昼食時から一刀は立ち直った。良く見、良く聞き、良く話すように振舞った。司馬朗もよく補足した。

 午後は街の現状での新たな問題点と前回からの改良点と残件について話し合われた。そこでも先日の、単独ではあったが非常に凶暴な盗賊の出現への対策は長時間議論されていた。兵の増員と教練・強化が検討されることになった。これと盗賊集団の対策予算等について予備金からの拠出が決定されたのである。

 

 

 

 司馬家内の一刀の客間は、徐々に少し暗くなって来ていた。

 すかさず部屋へ銀さんがやって来てくれて、持ってきた新品の長い蝋燭を灯してくれた。

 すべて、あとの祭りと言える。そして事の重大さは深刻だ。全権を与えられ任されたた対策責任者というのは基本的に『解決しない限り降りられない』のではないだろうか。例外的には『他に適任者が登場』か『死んだ時』ぐらいだろう。

 ひと月後に、『じゃあ旅に出るので♪ さいなら~』は絶対通用しそうにない……。

 それこそ、顔役の司馬朗に……いや『司馬家』にトンデモナイ迷惑を掛けてしまうだろう。

 戦って倒したり捉えるのは、なんとかなりそうだが、何といっても盗賊らは神出鬼没なのだ。いつ来るのか分からないのである……この『鉄壁の治安』の街にくるのは一年も二年も後かもしれない。

 となれば、あとは―――

 

(こちらから速攻で探し出して……幹部らや主力構成員を倒すしかない! だが、そのためにはどうすれば……)

 

 

 

 司馬朗は、会議を終えて一刀と街を回って戻って来たあと、夕食の準備指示を途中にして珍しく自室にいた。

 それは曹操への仕官を受ける旨の書状を出す為である。すでに紙に書き上げていた書状の内容を再度確認するために読み上げる。

 しかし、事前に用意していた内容の手紙は……一通ではない。

 八通ほど用意されていた。それは、すぐに仕官を受ける手紙から、断りの手紙までである。

 そして、司馬朗も困っていた。

 

(これは……曹孟徳様のところに、一刀様と共にはせ参じるには、まずこの盗賊問題を早急に片付けないといけなくなってしまったけれど……それに……)

 

 書き上げていた八通の書状の中から選んだ、司馬朗が静かに読み上げた書状の一部には、こういう趣旨の文面が書かれていた。

 

 『曹孟徳様への仕官を非常に嬉しく考えております。しかし、緊急で顔役として街の重要な問題へ対応する為、一、二ヶ月ほどお時間を頂きたい』と。

 

 読んで内容を確認し終えると、書状を大き目の包み紙へ封じ、飾り彫は少ないが高級木材の箱へ納め、立派な紐で縛ると静かに部屋を後にし階下へ降りて行った。

 最も腕の立つ使用人が呼ばれたのはその直後であった。

 

 

 

 さて夕食の席になっていた。黒塗りの円卓を一刀を入れて十人で囲む形での、家族の穏やかで賑やかな食事の席を迎える。今日は朝の熱い告白合戦のあとの朝食の席で別れてから日が沈むまで、下の五人の姉妹達と司馬孚らは一刀へ近付ける機会すらなかったのであった。

 そのため、周りから想いがモンモン、体はムンムンしている感じだ。

 しかし、一刀でもさすがに食事の席ではクンカを堪能出来ない状況だ。当然料理の香りが勝ってしまうから。それがなければ、大切な匂いは逃がさないところだが。

 今はそんな事をしている場合じゃないのでは?と思うだろうが、そんなことは北郷一刀には関係なかった。

 それとは別に一刀は先ほどから、左隣の席に座る三女で絶世の美女な司馬孚から左手を握られてしまっていた。同様に右手は右隣へ座るふわふわな髪で『ほわわん』な雰囲気を持つ四女の司馬馗に握られ、おまけにその手は前後に『仲良し♡』とばかりに振られてたりする……。ちなみに両名の握り手とも、まだ指と指とのガッチリラブラブ型ではなく、普通に手を握っているだけの形だ。時々サワサワと掌や甲を擦られてもいた。

 すなわち、一刀は両手を封じられている状況だ。

 

「えーと、蘭華さんに和華(ホウファ)さん? 手を……」

 

 一刀の感覚では食事の「いただきます」が言い終わり五分は経過していると思うが、まだ一口も食べていないのであった。

 司馬防を見るも、一刀の両手の状況に嫉妬しているのか、ニッコリと笑顔を返してくれるだけでいつもの助け船が無い……。

 どうしようかと思っていると―――

 

「本日の街会議で決まった重要なことがあります」

 

 目を閉じ、お箸を静かに置いた司馬朗が、一刀の状況に嫉妬したわけでは……少しはあるようだった。

 

「まず……そこの蘭華に和華。一刀様の手を開放しなさい」

 

 姉の言葉なので、ゆっくりと名残惜しそうに二人の妹は一刀の手を離すのであった。

 

「こほん。本日の街会議で、一刀様が例の周辺の街々を襲っている神出鬼没な凶悪盗賊集団について、この街での対策責任者に就任しました」

「「「「えぇーー(~)?!」」」」「……ぇ……」

 

 司馬防と司馬懿と司馬孚は騒がない。

 彼女達は、目を閉じて静かに司馬朗の言葉を聞いている一刀を見守っていた。

 そのあと左横に座る司馬孚を初め、司馬馗、司馬恂、司馬進、司馬敏らの口から一刀を心配したり応援の言葉が続いた。

 

「一刀様……(しかし滞在静養期間の一ヶ月の期日では……)」

「兄上様~すごい~です」

「ふん、お兄様やるじゃない」

「さすがは兄(にい)様。しかし、体の静養を考えると時期尚早です」

「私もお供します! 兄上様!」

 

 少し遅れて普段は無口な司馬通までも。

 

「…………ぁにぃさまぁ……がんばぁって……」

 

 そんな中、無言で司馬朗は司馬懿を見つめる。姉の視線に司馬懿は頷くように一度瞼を閉じた。

 そして瞼を開くと早速、司馬懿は核心を突いて話をし始める。

 一刀がどうしてそんなものに今就任してしまったのか……そんな事は先ほどまでの彼の表情や姿から『うっかりだろう』と彼女には聞かなくても分かるし、もはや時間の無駄で利点も無い事なので関し無いのある。

 司馬懿としては姉の司馬朗の力となり、思いに応えるだけである。……それ以外も少しはあるが。それでも……。

 

「なんとまあ、とだけは言っておこう。だが、これは良く良く考えれば皆の『好機』にもなる。難点と言えばやや制限のある期間と、拠点や首謀者らの特定だろうが……すでに私なりに幾つか想定してある。乗るかね、北郷様?」

「な?!」

 

 司馬懿の言葉に一刀は驚く。すでに予見していたような話振りと思えた。

 

 だが、彼女は『あの』司馬懿なのである。

 

 一刀はそれを知っている。一刀は迷うことなく頷いた。すると司馬懿は一刀の表情を見ながら口元を僅かに緩めると話し出す。

 

「北郷様がこの街へ来た時に、一名ではあるが腕の立つ凶暴な賊を容易に倒してしまっているという事実と、それ以来『街の英雄』と言われたことから、その役職への就任の依頼が来る可能性はかなり高いと考えていた。なので凶悪盗賊集団関連の被害報告資料は全部、昨日の昼に役所へ行って目を通して来た」

 

 その時一刀は、帰りに牛車で街を回って、ぼーっとしていた時に言われた司馬朗との話をふと思い出す。その話の中に「貴方には、私が……『司馬家』が付いています。あの明華は、いつでもとても頼りになりますから心配いりません。私が頼めば……いえ、言わなくてもきっと明華は一刀様を……家族を助ける為の良い案を―――」とそんな内容だった。また、司馬朗は「明華は他人を助ける策までは、余り考える子ではありませんけど」とも言っていたなと。

 そんな、司馬懿が昨日からわざわざ下調べをしてくれていたのだ。

 

「考察の結果、その乱暴な行動から狡猾な首脳部ではない。普通に拠点があり、そこを根城にしているな。食うのに困れば標的の街を決め、分散して昼間に侵入し夜に強奪を実行する型を繰り返している。だが……腕は立つ集団だな。被害側の死者が異様に多いし、その傷はほとんど一撃で倒されている。そして肝心の、やつらが次にどこを襲うのかというと……」

 

 司馬懿の頭脳から繰り出される言葉に、皆が集中する。

 

「次の標的は……私も意外だったが―――この街だ」

「なにぃーーーー?!」

「「「「「「「なんですってーーーー?!」」」」」」」「………ぇぇっ?……」

 

 さすがに、司馬懿以外の全員が驚きの声を上げた。

 

「それは、同時に集められていた各街での犯罪資料を読んで統計してみて分かったのだ。襲われる街は、直前に単独の賊による犯行が増えるのだ。それもかなり腕が立つやつが代わる代わる何回も来るみたいだ。おそらくそれで、門や守備情報を得ているんだろう。だが、この街は北郷様が一人目を軽く倒してしまったから、次が来るかどうか不明だし、来たとして次についても被害を出すわけにもいかない……つまり、今はこの近くに拠点はあるはずなので、去られる前に一刻も早く乗り込んで全員倒して捕まえようという事だ。当然その拠点の位置も、いくつか予測してある。で、いつやるかだが?」

 

 そこで、司馬懿は一刀の顔を見る。ここは対策責任者の判断するところだ。一刀は、司馬懿の顔を見て微笑みながら言う。

 

「分かった。……明日の夜だ! 決行を明晩にする」

 

 司馬懿は一刀の答えに口元を緩めて満足げに頷く。司馬懿もここまで来れば、一刀は即決すると判断していた。だが、これだけで即決できる人物は意外に少ない。そう、この事件へ対する最大の問題が解決されていることが条件なのだ。それは当然盗賊達を圧倒できる武力を持っていなければならない。司馬懿も自らの武に自信が無いわけでは無い。だが百人規模の集団となれば、自分がその立ち位置なら即決は難しいところだ。

 

「一刀様、よろしいのですか?」

 

 司馬懿の案とは言え、さすがに決断が早いのか思い切り良すぎるのか、司馬朗が少し心配そうに声を掛けた。

 

「大丈夫だよ。逆に好機は今しかないと思う。悪いねみんな。さあ、冷めない内にご飯を先に食べてしまおうよ」

「そうね。さあ娘達よ、今は食べましょう」

 

 夕食の後は、忙しくなることが分かっている司馬防の言葉に、夕食が再開される。

 食事をしながら一刀はふと思う。

 

(『明華は他人を助ける策までは、余り考える子ではありませんけど』って……それって俺が対策責任者じゃなければ放っておいたって事か? いや、俺が就任することは予測していたし……でも俺がこの街に来てなかった時は……スルーしてた話なのかも? いやいや、この街が次の標的なんだし、そういうわけにも……)

 

 そんなことを考えていると、右横に座る司馬馗がほわほわな雰囲気で……。

 

「兄上様~あ~ん~です。一杯~食べてください~です」

 

 彼女はお箸で、豚肉と青椒を掴んで一刀の口元へニッコリと可愛い笑顔をして運んでくれていた。皆の不意を付いたこの行動に円卓は騒然となった。司馬懿を除いて。

 普段から皆、上品に食事をするのだが、司馬防や司馬朗は硬直してお箸を落とすし、司馬孚が噴き出したのを初め、下の他の四人の姉妹らがお箸で司馬馗を指しながら「ずるい(ぃ)ー!」と非難の声を上げ、司馬恂などは椅子を一刀の横へ運んで来てまで「もう、どうしてもお兄様があ~んと言うなら」と混乱を極める食事風景となった。

 当然、最後は司馬防の厳しい母の雷が落ちていたが。

 そんなこんなの賑やかな食事を終える。呑気に食事を取っている場合かという考えもあるが、腹が減ってはなんとやらである。

 

 夕食を終えると円卓でお茶を飲みながら、一刀の表情は引き締まった顔に変わってゆく。

 司馬懿は使用人に、この街周辺の地図を持ってくるように告げた。間もなくそれが運ばれてくると、円卓から少し離れた広い食堂広間の床に実際の東西南北の方向を合わせて広げさせる。そして、想定している盗賊の拠点について指し棒を持って説明を始めた。

 一刀を初め皆が円卓を離れ、十尺(二・三メートル)四方程の大きめな巻物風の地図の周りを囲んで見下ろしている。

 

「奴らは街を襲った逃走時に、荷物を運ぶため馬車を使っていることは分かっている。すぐに追いかけた街の者らは追いついた後、決まって全員殺されている。その後の追跡ではいくら追っても追いつけなかったと記録にある。……私としては重い荷物で満載なのだから追いつけないのは変だと考えた。つまり襲った街からそう離れていない距離で荷物を積んだ馬車は見失われている事になる。そこから奴らの拠点位置には制約が出て来る。街から近い街道沿い……近くの森の中か山の山道口近くだろう」

 

 司馬懿は指し棒で地図の温の街の少し西の位置を指していた。

 

「この温の街は山から遠い広い平野の中にある。そして周辺に街道沿いの大き目な森は二か所しかない。そのどちらかだが……容易に水が確保できるのは川に近いこちらの森だろう」

 

 説明が終わると司馬懿は一刀の顔を見る。

 

「ありがとう、よく分かったよ。今から確認しにちょっと行ってくる。馬の用意をしないと」

「私が馬車で傍まで送って行こう」

「私も! 兄上様、お供に!」

 

 一刀の行動に、司馬家の中でも腕の立つ司馬懿自身と末っ子の司馬敏が協力を申し出てくれる。一刀は笑顔で頷いた。

 司馬懿は使用人らへ愛剣の用意と馬車の準備の指示を出す。

 

「私も……と言いたいところですが、役所に状況を知らせに行く者が必要ですね」

「うん、頼むよ」

 

 司馬朗が、するべき自分の役目を引き受けてくれる。司馬孚も何か言いたそうであった。しかし、外に出れば彼女を見た男性は、その『見た目』に必ず『狂って』しまい大変な事になるからだ。だが、彼女もかなりの剣技持ちなのだ。盗賊ごときにそう遅れは取らないだろう。

 

「蘭華は、この屋敷を頼むよ。今夜街へ襲撃が無いとは言えないから」

「はい、一刀様」

 

 一刀の言葉に司馬孚は笑顔で答えていた。

 

「じゃあ、悪いけれど皆よろしく」

 

 残る司馬家の面々は、食堂から馬車が回されて来る玄関へ向かおうとする一刀と、使用人から剣を受け取った司馬懿と司馬敏を見送る。

 

「気をつけて、明華、小嵐華、一刀殿」

「母君ご安心を。今日は確認だけですので」

「行ってきます、母上様!」

「はい……ぁ、その今日は」

 

 司馬防が笑顔で声を掛けてくれるが、一刀は『夜のお約束』を思い出す、だが。

 

「無事なお帰りを待っています」

 

 そう言って、司馬防は夫を送り出す妻の礼を静かに取るのであった。

 

「はい、行ってきます」

 

 一刀は笑顔でそう言うと、使用人二人掛りで客間から急ぎ運んで来られた『龍月の剣』を片手で取り上げると、それを腰の鎖に掛けつつ玄関へ移動した。

 

 間もなく、使用人らが引いて現れた二頭立ての馬車は、司馬懿と一刀を御者席に司馬敏を後ろへ乗せると、勢いよく司馬家の屋敷を飛び出し街の西の門へ向かって走り出す。車は昼間の街会議に行くために乗った状態から、すべての壁板と後ろの布を外した天井と柱だけの状態にされていた。軽くて見通しや後ろと御者席との移動が出来て利便性は良い形だ。

 

「先ほどは言わなかったが、月が新月(全て欠けて夜がより暗くなる)に近付いているのも襲撃の条件になってくるだろう」

 

 一刀と司馬敏が夜空を探してみると、確かに空に浮かぶ月は大きく欠けて来ていた。

 夜になり、すでに街の通りは空いてきている。司馬懿は馬車を軽快に飛ばす。

 直ぐに街の西門へ着くとそこはまだ開いていた。「まだ開いてるんだ」と言うと後ろから司馬敏が、「この街の門は卯時正刻(午前六時)から亥時正刻(午後十時)までは開いています」と教えてくれた。

 守衛の兵らは「……行商に行った娘がまだ……」と一人の女性の何かの訴えを聞いているようだったが、門へ近づいて来たのが司馬家の馬車とすぐに気付くと、馬車が止まるのを見計らい彼らは近づいて来て礼を取った。

 司馬懿が、先を急ぎ話し出す。

 

「私は司馬仲達だ。こちらは本日街会議にて、例の凶悪盗賊集団の対策責任者に就任された北郷様だ。後ろは妹の幼達だ。賊調査の為に今からここを通る」

 

 司馬懿の明快な紹介と説明を受け、守備兵の小隊長も、一刀を見て「貴方があの『街の英雄』の」と言い、話は上から降りて来ているらしく、「ご苦労さまです。どうぞお通り下さい」と通された。

 

 日はすでに完全に落ちている。戌時(午後七時)を少し過ぎたあたりか。街の外はこの時代、もはや星明りしかなくかなり暗い状況だ。一刀は目を瞑っていても周囲の気から景色の外形を正確に捉えられるため問題ないが、司馬懿らはどうか……。

 どうやら彼女らの視線は、暗闇の街道を正確にとらえているようだった。馬も夜目がよく利くため関係なく、小石や砂を巻き上げ蹴り上げてひた走っている。

 

 街を出て街道を西へ向かい、四半時半(十五分)を過ぎた頃、目的の森から二里(八百メートル)ほど離れた辺りで止まる。

 用心の為、街道脇の小さな林で馬車と身を隠し待ってもらう事にする。一刀は一応、周囲の気を確認したが見られた形跡等はないようだ。

 

「森の中は真っ暗に近いけど……大丈夫なのか?」

 

 司馬懿は視野について確認してきた。いかな達人でも見えなければ苦戦もあるからだ。

 

「大丈夫。ほぼ真っ暗でも歩き回るには問題ないよ」

 

 そうか、と司馬懿は少し呆れながら言う。

 

「兄上様、私をお供に!」

 

 そこに、司馬敏が小声ながら元気よくそう言ってくれた。だが良く見ると少し緊張気味である。当然だろう、彼女は正直こんな実戦は初めてなのだ。それなのに真っ暗な森の中には、殺しを何とも思わない凶悪な賊が百人以上もいるのだ。それも腕利きも多いという集団だと聞いているのだから。

 

「ありがとう、シャオラン」

 

 頭を優しく撫でてあげた。司馬敏は目を瞑ってそれを気持ちよさそうに受けていた。緊張し過ぎていた無駄な力が取れた良い表情になる。

 

「でも、最初は俺だけで行ってくる。状況が良ければ再度、仲達さんと小嵐華にも来てもらうことにしよう」

「うむ。では待っている」

 

 一刀は、緩い『速気』を使って草原を抜け、森へ向かって駆け出して行った。

 更に加速してゆく。

 一刀はすでに、馬車の中からこの森に近づく前の遠くより、森の中に多くの人の気の塊を感じていたのだった。司馬懿の読みは、ズバリと正確に的中していた。

 

(奴らはここにいる!)

 

 一刀は森へ入り、人の気の塊へ向かって続いている、人が剣でかき分けたようだが馬車が通れそうな幅の急造の道を辿り進む。

 もちろん周囲の気は探っている。奴らのアジトまでで警備に立っているのは途中に二人だけだ。おそらく夜目の効くやつだろう。

 一刀はそれを『暗行疎影』を使いながら静かに迂回する。そして盗賊の拠点にたどり着いた。

 そこは、森の端から一里半(六百メートル)ほど奥であった。森の端から火の光が見えにくいように、森の端方向には切り倒した木の丸太を使い、三丈(七メートル)程の高い壁を立てた四十歩(五十五メートル)四方の広場のような空間を中心に、いくつかの小屋が取り囲んで建っていた。火は壁の有効な場所で使われているようだった。それ以外は自由奔放、気ままという感じに見える。大声に制限はあったが、普通に行動や話をしている様子で神経質な物音で気付かれる心配は低そうだ。

 一刀は、木陰に潜み捉えた気の数を慎重に数える。誤差はあるが、数は百十には届かない。剣技については判別できないが気の大きさでは十人ほどが大き目な気を持っていた。 それらは以前、雲華と一緒に行った街で出会った、かつて百人隊長をしたこともあるという乱暴な男ぐらいの気の大きさはあった。それでも、司馬懿や司馬敏を超える気の大きさではなかったのを確認する。

 『さてと』と一刀は偏差値五十そこそこの頭脳で少し考えてみた。この賊の数では、普通に一方から攻めたのでは多くが逃げられそうな感じであった。全員捕まえるには、常識だと大軍で周囲を囲むのが妥当なところだろう。だが、明日決行である。急に多くの兵は望めない……となると……。

 

(…………………)

 

 とりあえず、一刀は一人で考えるのをやめて、一度司馬懿らの所に戻ることにした。

 

 

 

「兄上様大丈夫かな」

 

 司馬敏は小さな林の中で馬車から僅かに離れた所から、少し心配そうに一刀の颯爽と駆けて行った草原の向こうに広がる森の方をずっと見ていた。

 司馬懿は馬車の御者席に座ったまま、周りへの警戒を続けていた。ここはもう戦場なのだ。油断は禁物である。彼女にしても、実戦となると数えるほどしかないのだ。周辺に出た黄巾党の残党討伐や街中での暴漢の対処ぐらいか。

 彼女は街の予備役ではあった。それもすぐに百人隊以上を任される立場にある。『司馬家』に加え、そう言う立場でもあるため、街の資料の閲覧も可能であったのだ。

 

「無用な心配だ。先ほどの彼の動きを見ても分かるだろう?」

「……うん。 あっ、帰って来た!」

 

 一刀は森を抜けると再び緩めの『速気』で駆けて馬車のある林まで戻って来た。

 先程ここを出てから二刻(三十分)程も経っていない。すぐさま馬車の荷台で拠点の中の建物の大まかな配置や敵の数などの状況を説明する。

 そして、油断は出来ないが割と手薄なので、一度実際に見て貰おうという話になった。

 一刀としては、司馬懿だけに見てもらえばいいかと思っていたのだが、司馬敏が自分も行くと真剣な表情で言ってきた。

 司馬懿は難色を示したが、一刀は言ってあげる。

 

「いいんじゃないか。シャオランもいずれは一人で実戦を戦うようになると思う。今は俺もいるし、仲達さんもいるだろ? 経験は多い方がいい」

 

 一刀自身も、今も怖くないわけはなかった。だが、今まで雲華や木人くん、乱暴な男や死龍……この街でも、凶暴な賊と色々経験してきた。それに人生でいつ死に掛けるかは、分からないのだ。それを根底で支えるのは数多の経験と言っていい。

 思い浮かぶ……雲華と出会った当初の無限ループの失神地獄で、「あっ、もうすぐ気を失うな……うはは」と理解できてしまえた事を。心臓の絶でまさに何度も『死んだ』のである。心臓が止まった瞬間から、全身の血流が止まり背中がうすら寒いのだ。享年十●歳を何度も迎えたのだ。

 つまり、大抵の何と比べようと『悪魔さまの地獄の修行』に比べれば、大した『恐怖』ではないのだ。楽勝と言えるだろう。アレ?っともう騙されるのはイヤなのである……。

 

 すでに何かを悟ったような表情をしている一刀を見て、司馬懿も折れるのであった。

 そう決まると、「はい」と一刀は司馬懿へ右手を伸ばす。司馬懿は、頭ではこれが何か理解出来ていた。だが……と、極僅かに顔を赤くして逡巡する。

 今度は「はい、小嵐華も」と一刀からの左手に、司馬敏はニコニコしながら頬を染めつつ、一刀の左側に立って右手をサワサワと繋いでくる。

 そう、『お手て繋いで♪』の形だ。夜道は危険なのである。

 

「ほら、仲達さんも」

 

 そう言って、司馬懿の右手を一刀が掴むと三人は、馬車の止めてある小さな林から草原へと出て行った。

 初めは恥ずかしそうにしていた司馬懿だったが、草原から森に入るときちんと一刀の手と繋いできた。新月が近い暗い夜な上、森の深部になると、人の目ではほぼ先に何があるのか見えにくい状態であった。枝の間からの僅かな星空の光だけで、視界を全て把握するのはかなり厳しいと言える。

 一刀は二人の手をゆっくりと引っ張る形で、森の中の少し荒れた道を進む。しかし、ここは盗賊らによって馬車が通れるほど剣等で草木を切り開いて作った広い道であったので、賊の見張りが立つ二ヶ所をやり過ごすだけで、三人は比較的障害なく盗賊団の拠点へ再び潜入することが出来た。

 まず、火の光を遮る丸太の壁がある広場の内側を見渡せる少し離れた草陰に、三人は潜んでいた。周りが暗く、慎重に歩いて移動し迂回もして来たので片道で、すでに二刻(三十分)程時間が過ぎていた。

 しかし、司馬懿に拠点内の建物の配置と状況を直接見せる事が出来たので、作戦についての不安は無くなったように思えた。

 そのあとも一刀らは二刻(三十分)程の間、慎重に何ヵ所か場所を変え、拠点の現状把握を行ない、気の量が大きく体格のよい強そうで戦力として脅威になりそうな男らを重点的に調べていた。

 だが、そのために見落としがあった。

 

 一刀達三人は草陰で、腹這いになって川の字の形で周りの様子を伺っていた。

 そろそろ、引き上げの頃合いだと思っていたその時に……事は起こった。

 広場の端を歩いていた目立たない一人の小柄な男に、ボロ布の猿ぐつわをされた若い女の子が縛られ、台車のようなものに乗せられ引っ張られていた。そして、彼女は台車上で身をよじり抵抗していたが、その抵抗により口の猿ぐつわの布が破れて声が上がったのだ。

 

「―――んー、お……お母さーーん! 助け……むぐぅーんー」

 

 その女の子は連れていた男から、すぐにまた汚い布の猿ぐつわをされる。その様子に周りの男達が集まって来てワイワイと事情を聞くと、女の子を連れた男は得意そうに「ついさっきなんだが、そこの街道で見つけた。一人で歩いていた行商の娘だ」とか何とか言い、「ひゃほ~い、今夜はこの小娘を朝まで無理やりにヒィヒィ言わせるぜ!」や「腰が外れるまで前と後ろでズブズブと楽しむぜぇ~♪」と外道発言を連発した。周りの男らも「俺にも楽しませろ!」「いや、俺が先だぁ」と異様な盛り上がりを見せていた。

 

 そしてここでも……その様子の一部始終を見て、一刀の左横で彼の手をずっと先ほどまで優しくニギニギと繋いでいた司馬敏は、その正義の怒りの炎が異常な盛り上がりを見せていたのだ。

 

 間もなく、その汚い布で猿ぐつわをされた女の子は、抵抗空しく……小さな小屋の中へ……男達に無理やり引きずり込まれ、押し込められようとしていた。

 

「あの子……門の所にいたのお母さんの……兄上様……わ、私……私は……どうしたら……」

 

 すでに司馬敏は、小さく出した声と小柄な体が怒りで震えていた。

 司馬懿は、一刀の右手を強く握り、厳しい表情のまま無言で目を閉じていた。

 

 そう、作戦は―――明晩なのであった。

 街ではまだ何も準備が出来ていないのだ。今、騒ぎになれば明日の作戦が失敗するかも知れない。

 大きな正義の為に……小さな犠牲は……やむなしなところがある。

 それがごく『一般的』な『常識』且つ『正義』なのだ。

 

 ―――――と、普通はそう考えるモノなのである、が。

 

「はぁぁぁ……あのぉ仲達さん?」

「……なに?」

「予定を一日早くしても……いいかな?」

 

 司馬懿は『コイツは何を言っているんだ?』という顔をして、横の男の顔を見た。

 彼は、優しくはにかんでいた。

 その顔を少し眺めた司馬懿は……彼女も口元を緩めながら尋ねてくる。

 

「……………………別に? 指揮官は貴方だし。……でも大丈夫なの?」

「まぁ……なんとか……するよ(昔の地獄な修行に比べれば楽勝あるよ♪)」

「兄上様ぁぁぁ!(小声)」

 

 司馬敏は、嬉しそうに笑顔で一刀へスリスリと抱き付いていた。

 そう、作戦を変えられるヤツが、決定できる人物がココにいる。

 準備的(剣が有れば特に不要)にも人的(兵力:1)にも能力的(当責任者で仙人級)にも。

 そして―――一刀は一度決めたら迷わないのである。

 一刀は、司馬懿と司馬敏に素早く指示を出すと動き出した。

 一人きりで広場の中を悠然と歩き、女の子の連れ込まれた小屋へ向かう。

 歩きながら……脳内に貯めに貯めているお宝記憶映像の一つをロードする。本日は、昨日の湯殿の美女三人白スク水桃源郷でございま~す♪ 白地に薄く朱に染まった肌が濡れて張り付き、スケスケのプルンプリンで桃でシリなのである。パイ●ンなのである――。

 たちまち、一刀の身に一瞬で満ちて来ていた。そうハレンチな―――『無限の気力』が!

 今更でも言っておくが、これも一刀の『正義』なのであった。

 

 広場周辺の賊らも皆、先ほどから小屋の方向へかなり気を取られていたので、広場内を一刀が歩いていてもすぐには外部の者と気付く者はいない。

 小屋の周りには、男達が中の様子にイヤラシく聞き耳を立てて屯(たむろ)していた。

 一刀は、その男達の後ろから静かに近付くと、最後尾より順番に軽く男達の首筋へ手刀を振り下ろしていく。すると男達はドサドサと倒れ、そこに屯していた十五人ほどが動かなくなった。『飛加攻害』である。彼らは気絶していた。加えて半日ほど呼吸以外は声や手足が動かない神経系への絶を掛けてあった。

 そのまま小屋の扉を開ける。鍵が掛っているが『剛気』で扉及び鍵ごと力技で引き抜くように開けた。

 中では、先ほどの小柄な男が上半身を脱いでいて、女の子の服を破り掛けようとしていたところだった。

 いきなり鍵ごと扉が開いたので、驚いた小柄の男へも『速気』で剣を抜き、剣の腹でこめかみの辺りを軽打する。刀から伝える『飛加攻害』であった。男は叩かれた反対側へ卒倒して動かない。

 女の子は状況が分からずに怯えていた。一刀は、温の街から来た盗賊取締りの役人だと告げて、女の子の縛りの縄と猿ぐつわを取ってあげた。そして小屋の中から外を伺う。

 すでに、異変に気付いた賊の数名が動き始めていたが、周囲の気を探ると全体の動きは鈍いみたいだ。まだ全員がこの広場へ出て来ていない様子だ。その時、この小屋へ広場の外側を隠れながら回り込んで来た司馬敏が入ってくる。

 一刀は司馬敏へ女の子を預けると、小屋から出ないように指示をする。司馬敏へは小屋から敵を牽制し、広場へ誘き出し注意を引き付ける囮役を頼んでいた。

 一刀は小屋から素早く出ると、小屋の周りの安全を気を探り続けながら確認し、自分は広場の外側に回り、小屋へ近づく為に広場へ出ようとする盗賊らの気を捉えると、片っ端から接敵し『飛加攻害』を剣から伝えたり、飛ばしてぶつけて倒していった。

 

 五分程で八十人ほど倒すと、さすがに盗賊の首脳部も忍び込んで来た奴らが何かおかしいと騒ぎ始めていた。

 何と言っても、見つけた倒れているヤツは息をしているが、皆目覚めることなく動かないという怪現象は起こっていたからだ。

 「なにが起こっているんだ!」と不気味になってくるのも当然と言える。

 どうやら思惑通り、盗賊達は小屋の中に時々扉の隙間から顔を出す司馬敏の方に注意が行っており、広場の外で隠密行動を続けている一刀には気が付いていないようであった。

 だが、盗賊達は小屋に対して火矢を用意し始める。もう時間は掛けられない状況になって来ていた。幸いと言えるのかわからないが、盗賊の残りの二十七名は固まったところに居た。

 一刀はそこへ、広場の外周を回って静かに乗り込んで行った。

 そこは丸太の壁の反対側に当たるところで、広場の外側に広めの通路が伸びている所であった。固まっていれば安全という集団心理なのだろうが、当初の小屋の前で屯していた仲間が大量にヤラれているのに学習能力は無い感じに思えた。

 一刀は即『超速気』を使い、二十七名へ一気に接敵し個々に両手の手刀で『飛加攻害』を掛けていった。一刀が『超速気』を解いた瞬間、二十七名がバタバタと倒れていく。

 もう周辺に動ける気は感じない。

 その様子をそっと小屋から見ていた司馬敏へ、一刀は「終わったよ」と苦笑しながら優しく声を掛ける。「す、すごい……」と言いながら辺りを見回しつつ、司馬敏は捕らわれていた女の子を連れて、遠巻きに一刀の傍まで来るのだった。

 最後に倒した二十七名の内、中心にいた頭目と思われるガッチリしているが少し細身の男だけは気絶させずに体の自由だけを奪い、声は出せるようにしておいた。

 

 頭目は狼狽していた。すべてが一瞬の事で何が起こったのか全く分からなかったのだ。まさに、酷い悪夢のようなものだろう。

 火矢で追い込もうとしたつもりが、気が付くと急に動けなくなって地面に転がっていたのである。

 居たことに気付かなかった一刀が現れて、思わず頭目は口走る。

 

「お、お前は何者だ?! これはなんなんだ!?」

「俺は、ただの盗賊集団の対策責任者だ。この技は剣技と気功術の合わせ技(適当で本当の事は教えない)だよ。ヘタに逃げると一生もとに戻らないからな。そのままだぞ」

「グッ……。た、助けてくれ。倉庫にある金目のものは全部やってもいい。そうだ、アンタ、仲間にならねぇか? アンタなら―――」

 

 一刀は再び素早く『飛加攻害』を、頭目の声帯へ剣の腹を当てて掛ける。話を聞くだけ無駄だったと。後は役所の人達が彼らの罪を裁いてくれるだろう。

 地面には百七人の盗賊が全員無傷で転がっていた。戦闘開始から一刻(十五分)後の事であった。

 

 さて司馬懿だが、一刀は彼女には来た道を戻ってもらい、捕縛用の兵を街から呼んで来てもらう事にしたのだ。途中に居る見張りは最悪の場合、切って動けなくするか、倒すように指示した。一度通って来た道を戻るのだ。暗がりでも司馬懿には難しいことでは無い。

 結局彼女は不意を付いたとは言え、それぞれ一撃で、そして剣の柄だけで二人の見張りを悉(ことごと)く失神させ、賊の腰帯で手と足を手際よく縛上げると、脇の目立たない草陰へ転がしておいた。

 司馬懿は、二か所での対戦を熟し二刻(三十分)程で林の馬車の所まで戻って来ると、温の街へ急ぎ馬車を走らせ始めた。

 すると間もなく……司馬朗が乗る馬車に続いて街の守備兵を五十人ほどゆっくり駆けるぐらいの速さで率いて来る一団に出くわすのだった。

 

「明華?! 一刀様と、小嵐華は!」

「姉さんこそ! ……そうですね。こちらから報告したほうがいいでしょう。驚かずに聞いて下さい」

 

 司馬朗は緊張する。……まさか、見つかって誰か動かせないほどの怪我でも、と。

 

「明日と言っていた作戦決行を……今、やってるわ」

「…………はいぃ?! それって一刀様が今、戦っているの?! 一人で?!」

「そうです。あと、小嵐華は囮をやっています」

「…………」

 

 司馬朗は、司馬懿からの想像の斜め上の回答に少し固まっていた。

 そんな姉を気付かせる意味もあり、今度は司馬懿が質問する。

 

「ところで、姉さんは? その兵達は……もしかすると我々の護衛ですか?」

 

 固まっていた司馬朗の目に生気が一瞬で戻り、加えて気合いが入ってきた。

 

「………そうよ。でも明華! これから一刀様と小嵐華の加勢に行くわよ!」

「そうね……」

 

 その姉の気迫は、もう誰にも止められそうにない勢いがあった。

 おそらくすでに戦いは終わってるし、現場に人手が入って丁度良いので止めるに及ばずと従った。

 ただ、馬車が足りないと夜通しで連行することになりそうであるが。

 

 司馬朗と司馬懿らの一隊が森の傍に近づくと、森の中から司馬敏と掴まっていた女の子が盗賊の作っていた道を通って出て来たところであった。

 もちろん一刀により事前に、この道の見張りが司馬懿に倒され道の端へ転がされているのを気によって掴み、もう安全だと確認していたのは言うまでもない。

 司馬朗が先に声を掛ける。

 

「シャオラン!」

「優華姉上様!」

 

 司馬敏は司馬朗の馬車のところまで、女の子を連れて近寄った。

 

「大丈夫?! それで一刀様は?!」

「兄上様はもちろん無傷でご無事です! 奥で応援が来るのをお一人で待っていますよ!」

 

 そのあとは、司馬懿が兵らを仕切っていた。どうしてかというと……。

 それは、すぐに司馬朗がその場から馬車ごと居なくなっていた。

 彼女は森の暗い道を馬車から何度か落ちそうになりながら走り抜け、拠点の広場で出迎えた一刀に会うと、馬車を飛び降り急ぎあの小屋の中へ彼の手を引っ張って入って行った。

 一刀は余りの司馬朗の勢いに怒鳴られるかと思いきや、彼女はいきなり一刀の胸へ抱き付くとその胸へ頬をスリスリしてきたのである。

 

「あ、あの……優華さん?」

 

 一刀がそう言っても、司馬朗はずっとスリスリスリスリしていたのであった。

 

 司馬懿は、自分の乗っていた司馬家の馬車を司馬敏に預けた。伝令の兵を一人とあの女の子も乗せて。それは百十人程の賊を運ぶため、更に馬車の応援を寄越してほしいと伝える為でもあった。

 そして司馬懿と兵らは森の中の道を小走りに進み、途中に転がしていた賊も拾って広場まで到着した。

 司馬朗の乗った馬車を見つけると積んであったいくつかの縄を下ろして、一刀が広場に集めて転がせてある賊らの手足を縛るように伝えた。

 司馬懿は、一刀と司馬朗がいないので探してみると……例の小屋にて姿を見つけた。

 

 兵の手前もあり自重してほしいところである。

 

(場所を弁えてください、姉さん)

 

 ……まだスリスリしていた。(一刀はずっとクンカクンカしていた……)

 

 

 

 一刀と司馬朗ら四人が『司馬家』へ戻って来たのは、日付を大きく超え、もう朝方の寅時正刻(午前四時)ごろであった。

 賊たちは全員厳重に縛られ、後の増援で来た馬車に分けて乗せられ、城の地下にある牢屋に放り込まれた。一刀は役所へ出向き、事の次第を説明した。最後は途中から緊急の知らせを受けた県令の王渙や一部顔役、治安の長も加わっての報告会になった。

 報告会が終わったあと、夜も遅いという事で役所内にて休んで行ってもらえればという話も出たが、馬車もあり司馬家は近いということでこうして帰って来たのであった。

 すると、司馬防と司馬孚が寝ずに出迎えてくれたのである。

 

「みな、大役お疲れ様でした。軽い食事と湯殿を用意してあります。疲れを癒してゆっくりと休みなさい」

 

 司馬敏は役所を出る頃には馬車の後ろで、すでにうつらうつらしていたが、家に着く頃にはぐっすり夢の中であった。一刀が荷台から静かに下ろしてあげると、そこからは使用人らが二人来て引き受けてくれ、そっと彼女の寝床まで運んで行ってくれた。

 一刀はとりあえず、食堂広間へ用意されていた座卓の上の塩の効いた握り飯と漬物をいくつか頂いていた。その右横の席にはピッタリと司馬朗も寄り添って握り飯をお箸で頂いている。さらに何故か左横に司馬孚が静々と寄り添って座り、お茶を頂きながら一刀をじーっと熱い目線で見ている。そして、正面には司馬防が静かに微笑んで一刀らを見ていた。

 

(また……おっぱいに包囲されてる? 夜中なんですが。いえ、もう明け方前ですよね?)

 

 軽食を終えると、一刀らは体が埃っぽいのでお風呂を頂くことに。今日は緊急でもあり、母屋の湯殿にお湯が張られていた。

 そして、横板で一部区切られた広い脱衣場で、一刀は使用人長の銀さんに脱ぎ脱ぎされていた。

 脱ぎ終わり、腰下に軽く白布を巻いて、さあ湯を浴びてのんびりとさっぱりしよう、そう考えていたのは……やはりそれは幻想だった。

 脱居場所を振り返ると、司馬防、司馬朗、司馬孚の三人の美しい女の子らが、すでに薄っすらな汗に透け気味のパツンパツンの白スク水着風の湯浴み着のボディを見せつけ、匂いもムンムンと漂わせ、顔と体をすでに火照らせながら『獲物』をニッコリと笑顔で待っていた。

 

 「あぁぁぁぁーーーーーーーーーーー!」

 

 一部が露天されていた屋根の一角から、新月に近い弱い月明かりが射す夜中の湯殿に一刀の悦楽な声が何度も響いていた……。

 だが、まだ夜が……夜の女の戦いが終わったわけでは無かったのである。

 

 

 

「異議ありぃぃぃーーーーーーーです!」

 

 

 

 すでに湯殿にて数度『天国』を味わってしまっていた一刀は、体の隅々までを綺麗にされ、さっぱりとした湯殿から、寝床のある客間へ移動しようとしていた。

 しかし、その一刀の右横には……司馬防がそっと夜の女の顔をして、しっとりと寄り添っていたのだ。

 それを見た司馬朗が司馬孚を従え、廊下にて『異議』の声を上げていた。

 彼女達は知っている。司馬防は今、羽織っている着物の下には『何も付けていない』という事を! ……自分達も同じだからなのだが。

 

「これから、司馬家で決めたいことがあります。『夜』についてです!」

 

 再び食堂広間へ、軽食の用意されていた机までやってくる。

 配置は先ほどと同じ。司馬朗と司馬孚でその栄光の部位にて、一刀を挟み込むように座り、正面に司馬防が座る。

 司馬朗は机の上へ、懐から取り出したものを一つ静かに置いた。

 

 それは朱色の紐で編まれた宝石の付いたお守りだった。……微妙に『安産祈願』の。

 

「まずこれを一刀様にお渡します。一刀様はこれを今宵はこの人と……という方へ日中に渡してください。それを夕食後の良い頃合いに、現在家を預かっている『私が』確認します。今宵はみんな疲れていますので『お開き』ということで」

 

 司馬朗は横の司馬孚が頷くのを確認する。そして前の……女として強敵な自分の母の様子を伺った。

 

「……分かったわ。ただし、私は中央の仕事へ戻らなければいけない事を考慮して頂戴。なので明日は『私』で。そして、一日おきは必ず『私』ということで。そしてその間の一日は『私を含めた』中からということなら」

 

 ここ数日を考えれば圧倒的に不利な条件と言える。最悪夜は母の連荘も有り得るからだ。しかし、近いうちに司馬防が中央に戻ればそれはなくなる。母への気持ちもあり……悪い条件ではない。

 司馬朗は司馬孚の方を向いて意見を伺う。司馬孚も辛そうな顔をしているが考えは同じようで、小さく頷くのであった。それを受けて司馬朗も決断する。

 

「わかりました。それで決定します!」

 

 

 

 とりあえず、一刀の意見は一切確認されなかったことだけは確かなようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このころ、大陸にある噂が流れた。

 大陸の西の奥を治めていた皇族でもある君主の劉焉が亡くなったと。

 そして劉焉の後を継いだのは、子の劉璋であると。

 だが、この者に対しての勢力周辺での評判は、概ね良くなかった。

 この者には民の為に良い政治を行う思いも、

 良く働いた家臣らに褒美や宴を開いてやる思いも、

 かつて都に献帝の友人として送られ、帝から劉焉の独断を諌めてくるように言われ領地へ戻ったが、それを実行する思いも、

 戦力の一部だとはいえ、悪行も働く東州兵を取り締まる思いも、

 いまだ無かったのである。

 

 しかし、それには『偉大』な理由があったのだ。

 劉焉には子に劉範、劉誕、劉瑁、劉璋といた。

 だが、劉璋の上の姉三人は病により、すでに相次いで亡くなっていたのだった。

 世継ぎで残ったのは、劉璋だけであった。劉璋は、劉焉の少子(末の子)なのである。

 すなわちそれは―――

 

 

 

 まだ、かわぃぃよぅじょ(幼女)だったのである!

 

 

 

 偉大なるよぅじょが、何もしなくてもそれはツミではない!(某家臣黄権の談)

 偉大なるよぅじょに、何を求めてもムチャである!(某家臣王累の談)

 偉大なるよぅじょは、そこに居るだけでシフクである!(某家臣張任の談)

 かわぃぃよ、かわぃぃよ、かわぃぃよ、かわぃぃよ、かわぃぃよ、かわぃぃよ~~。

 幼女君主劉璋万歳~!!

 

 

 だが、この事がのちに想像を超えた騒乱を呼んでいくのである。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年09月19日 投稿
2014年09月20日 文章修正 なんでだ…また、西と東を勘違いしてた…otz
2014年09月25日 陶謙について本文加筆
2014年10月24日 文章見直し
2015年03月19日 文章修正(時間表現含む)
2015年03月22日 八令嬢の真名変更
2015年03月29日 文章修正 +管路の容姿



 解説)操るのは仙人
 これは、人に関わってはいけないという仙人の掟に反しています。
 しかし于吉を倒せる暗殺仙人がどれほどいますか……。
 于吉は、意識の無い状態の関羽に接触しようとしました。一応、その時に関羽に対してはバレようがないからですね。
 まあ、今回は未遂ですけど。



 ドウデモイイ設定)おっぱい連呼!
 意味不明な言葉ということで、『ぱいおつパイオツ…』にしようかと思いましたが、やはりシンプルイズベストで!



 解説)温の周辺の地形
 go●gleやyah●oの衛星写真でも温の位置や周辺の地形は概ね確認できる。洛陽から近いですね。60キロぐらいの距離です。馬なら十分日帰りできますね。



 解説)司馬懿は使用人らへ馬車の準備の指示を出す。
 この時、役所へ行くであろう司馬朗の分も当然指示しています♪



 解説)馬の暗視能力
 馬の眼球の構造は人と違います。
 通常入ってくる光に加え、網膜の後ろ側にタペタム(輝板)が存在し、その反射光が視細胞を刺激するため、二度光の刺激を受ける仕組みなのである。
 月明かり程度で草原を駆け回るに苦も無いレベル。
 見通しの良い街道なら、相当月が欠けていても道はハッキリ見えてます。



 解説)劉璋の上の三人
 史実では董卓死後の李傕を殺す計画がバレてそれ関連で殺害されてますね。



 パロディ?)幼女君主万歳~!!
 これが後の『傾国の幼女』の語源である……。
 ……これで一作書けますねぇ♪





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➋➌話 (15-22話オサライ有)

♪)第15話から第22話までのおさらい
 黄巾党の乱末期、張三姉妹は冀州鉅鹿の広宗へ二十万以上の兵で立てこもり、当時の皇帝である霊帝の命により派遣されて来た盧植将軍(失脚)、董卓を退ける。そして配下に優秀な指揮官の波才が合流し、彼の指揮で曹操、皇甫嵩将軍連合軍をも敗走させたが、糧食の問題から冀州黄巾党の二十万は青州へ姉妹らと移動した。張三姉妹を支持する青州黄巾党軍の総兵力は百二十万となった。この移動の際、張三姉妹は『太平要術の書』の一部を紛失する。
 袁紹は洛陽にて何進大将軍の推薦で司隷校尉の職にも就き、兵権の一部を乱用して自分の代わりに中央の命として便利に曹操軍を使い、西と南へと同時での黄巾党討伐を課した。曹操は先の敗戦の汚名を、五分の一や、十分の一の通常では考えられない寡兵にもかかわらず、夏候惇や荀彧の活躍によりこれらへ一方的に且つ同時に勝利する。
 この二面作戦で人材増強の早急な必要性を痛感した曹操は、人材探しを始め、その一人として面識のある司馬防へ彼女の長子仕官要望の手紙を送った。
 中央の皇甫嵩将軍や朱儁将軍、諸侯らである董卓、孫策と共闘した袁術、曹操、公孫賛らにより、青州を除く各地で十万を大幅に超えるような大軍を有する黄巾党勢力は鎮圧され、取り敢えず大乱の一時終息となった。
 黄巾党の乱で戦果を挙げたものらは、官位や領地を新たに得る事になった。
 一方、劉備らは義勇兵とともに公孫賛陣営から黄巾党の乱の始まりを契機に独立しようとしたが、人材なく時流を見誤り、立身出来ずに予州沛国の北限近くで途方に暮れていた。劉備らは近くを商隊で通りかかった麋芳と出会い、まだ黄巾党が残る徐州へと向かう。
 そんな時、管輅より、天下を平穏にする存在の力を持つと言う『天の御遣い』の噂を聞いた諸葛亮と鳳統は、荊州から泰山の周辺にやってきたが出会うことが出来ず、野盗に襲われるが謎の人物に助けられ難を逃れると荊州へと戻っていった。
 袁紹配下の審配は、伝手の情報取集屋から張三姉妹の持っていた『太平要術の書』の一部を入手する。
 董卓は、今の後漢の皇帝の治世に疑問を抱く荀攸や盧植将軍、帝の妹の献帝ら等多くの顔触れを集め、洛陽でのクーデタを計画する。動員兵力は五万。その決行は間もなくである。
 袁紹は、何進大将軍より休暇を貰い洛陽より兵三万五千を率いて本拠地である鄴へ帰ってきた。だが奇妙な仮面を着けてであった。それは到着前夜に配下の審配による『太平要術の書』を利用したであろう謀略に因るものだった。それにより袁紹の思考は別人のように変わっていた。華北袁家は千年帝国の建国に動き出す。袁紹は軍師であった田豊の千年帝国へ反対の諫言を一蹴し、彼女を投獄してしまう。
 その際、袁家千年帝国の建国への協力の為、公孫賛への使者が立てられる。
 曹操は袁紹の代わりに兵八千を率いて洛陽の近郊に駐留する。
 袁術は、孫堅と黄巾党討伐の時に築いた共闘関係を、より良い信頼関係に発展させ、連合勢力として動き出そうとしていた。それは配下の者達にも良い形で浸透し始めていく。
 公孫賛は黄巾党の乱で客将の趙雲の働きもあり、二つの郡の太守となったが、引き留めておきたい趙雲は世を見て回る旅に向かうという。結局、友として送り出そうとしていた矢先に、袁紹からの使者が来るというので、趙雲も謁見の際に同席することになった。
 そのころ麋芳に付いて来た劉備らは徐州へ入るとすぐに、徐州黄巾党らと五連続での遭遇戦を経て義勇兵団らは壊滅してしまう。麋芳は最後に逃れるも、劉備らは追い回され続け、負傷した関羽は独りで殿へ残り、張飛に劉備を託した。そんな時、徐州黄巾党軍を徐州州牧の陶謙の軍六万が後方より襲い壊滅させる。関羽は黄巾党の敗走により助かった。そこへ陶謙より兵を借りて来た麋芳が到着し、兵も使って劉備らを探すが発見出来なかった。関羽は麋芳へ礼を言うと劉備らを探しに独り行く。
 そして西方では劉焉が亡くなり、継いだのは劉璋(かわぃぃ幼女)だった。


 一方、一刀は暗殺仙人の死龍との戦いで敬愛する雲華を亡くしたことで、オカシクなり漠然と『カタキを討つため』と四ヶ月も無駄に放浪した末に、司隷河内郡温県の街へたどり着く。
 偶然に街中から門の守備らを切り倒して逃げてきた剣豪の強盗を、条件反射的に仙術の『神気瞬導』の無手の一撃で吹き飛ばす。だが、一刀は旅の影響の疲れでその場に倒れ込んでしまう。そこに黄巾党の乱でずっと洛陽に詰めており、久しぶりに帰郷した街の名士の司馬防が通りかかり、一刀の闘いの一部始終を見る。倒れていた一刀は司馬防にその武を認め惚れられ、また顔役としてこの街の『鉄壁の治安』を守ってくれた感謝から司馬家に家族同然の食客として招かれ暮らすことになり、一番良い客間を与えられる。
 一刀は部屋に広がっていた若い女の子な香りにより、正気を取り戻す。目覚めた一刀は司馬防と彼女の八人の娘の長子である司馬朗に会う。一刀は会話の中で司馬朗を「可愛い」と告げる。彼女は美人で文官であったが背がかなり高く(文官は背の大きくない小っちゃい方が好ましいとされている?のか)仕官の誘いも縁談も皆無に近かった。そのため、司馬朗は「言われたの初めて♡」と一刀の事がとても気に入ってしまう。
 初日の晩は、司馬防と娘達全員で歓迎の宴をしてくれた。一刀はその席で次女の司馬懿に会うが、この家に住む価値があるのかと、剣舞と称していきなり剣を向けられ試される。一向に動じない一刀を司馬懿は武人の食客として認めた。
 三女の司馬孚は絶世の美女であった。しかし、その美しい容姿は見ただけで『男を常に肉欲へと狂わせる』呪いの様な現象を引き起こしていた。そのため、山程の仕官口や縁談はあれど成立しなかった。しかし一刀だけは違った。彼は『神気瞬導』によりイカガワシイ気持ちを即、全て気に全転換出来る為、司馬孚の呪いを全く受けない体質だったのだ。司馬孚は、自分と普通に会話が出来る男の子である一刀の存在に衝撃を受け、強い好感を持つに至る。
 その他の下の五人の妹達も、母が認める一刀の事が兄の様に気に入ったようであった。宴では司馬防を初め、八人の娘が一芸を披露してくれる。一刀も余興で早技を披露した。宴が終わる時、一刀は何か一言と乞われるがお礼の言葉の後に、「静養の終わったひと月後には旅に出る」と告げる。
 その夜、司馬防は部屋へ司馬朗を呼び、曹操からの仕官の誘いの手紙を渡す。司馬朗は司馬懿の部屋を訪れ仕官の話を相談する。司馬懿は消去法だと曹操が残ると告げる。
 そして……夜が更ける頃、一刀の客間を司馬防が男と女の関係を求めて訪れていた。一刀は雲華への想いに悩むも、雲華を失った寂しさから司馬防の暖かい求めを受け入れる。だが、一刀は旅の疲れもあったのかサワサワの途中で寝落ちしてしまう。
 二日目の早朝、一刀は慕われていた下の五人姉妹らと義兄妹になる。朝食はすでに家族として母屋の家族用の食堂へ招かれていた。一刀は雲華を失い孤独感があり、このような新しい関係を嬉しく思う反面、また死龍のような突然の脅威を自分が『司馬家』へ呼び込むのではと苦悶し始める。
 朝食のあとの午前中、司馬孚に広大な司馬家屋敷内を案内される。最後に司馬孚の部屋へ招かれ「ずっと傍に居させてほしい」と熱く告白され真名も託される。
 そして昼食のあとには司馬朗の部屋を訪れる。そこで今度は、「ずっと共に歩みたい」と求婚のような告白を受ける。一刀は司馬孚と司馬朗からも真名まで受けたが、自分へ迫る謎の脅威と天秤に掛け、態度に迷っていた。
 その折、司馬朗より「皆が一刀の武を見込んで街の警備参加へ期待していて、明日の街会議へ出て欲しい」とも頼まれる。
 そんな一刀であったが司馬朗の部屋を出た後に、今日はお風呂の日だと彼女に引っ張られ湯殿へ……そこで待ち受けていた司馬防、司馬孚らも加え三美女に桃源郷を見せられた。
 その夜、一刀は葛藤していた。謎の脅威と孤独と寂しさと司馬家との結びつきとに。そこへ再び夜の客間を司馬防が訪れる。一刀は司馬防に葛藤する内心を打ち明けると、彼女より親身に提言された。それは、『確約もない事象に対して、必要以上に気に留めても良い事はなくて、人生の有用な時間は思うほど長く無い。だからその時に出来る事、やりたい事へ精一杯努力して生きるべき。一刀殿には強く生きて行ってほしい』と。
 一刀はそんな母性豊かで自分を好いてくれている司馬防を好ましく思った。子作りには至らなかったが司馬防を喜ばせ、イロイロ楽しんでしまうのであった。
 三日目の早朝、司馬懿を除く七姉妹が一刀の客間前に集結し、なぜか段階的に司馬防との夜の関係がほぼ発覚。だがそこへ登場した厳しい母からの、好きな男性への女の想いが皆へ告げられる。それを聞いた司馬防の娘達は、各地で大きな戦いが起こり、時代が不穏な動きの中、人生の長さや限られた出会いの機会等の状況を鑑みて、思い切った決断をする―――七姉妹が順々に一刀へ告白し始める。その中で司馬朗は、曹操への仕官を受ける旨の返事を今日出すと宣言するのだった。
 この日、一刀は司馬朗と街会議へ出席の予定があり、その場所までの移動手段である馬や牛のいる厩舎を、司馬懿に朝食のあと案内してもらう。
 そのあと、司馬朗と共に牛車で街中を少し回り街会議へ。そこで、一刀は県令の王渙や顔役らと顔を合わせる。会議が始まったが、一刀は上の空で別の不埒な事を考えていた。その時に重要な決定の是非を振られるも、確認せず不用意に是と答えてしまう。
 それは、『神出鬼没な盗賊集団の対策責任者』就任であった。
 一刀は自分の不用意さを悔いるが、司馬朗より「一刀様に恥など掻かせません!」と信のある力強い言葉を貰いその場は立ち直る。
 夕方に司馬家へ帰宅した一刀は自室で色々考え悩むが、最後は役目を受け入れ対策を考え始めていた。
 司馬朗は自室で、曹操への書状の最終確認を行い、八通用意した中の一通に決定する。それは仕官に『即赴く』でなく『街の顔役の急務により一、二ヶ月有余を』という内容だった。その書状は使いの者により曹操の本拠地、兗州陳留郡の陳留城へと送られた。
 夕食の席にて、今日の街会議で一刀が『盗賊対策責任者』になったことが告げられる。皆は驚いたり喜んだりした。
 その方針について司馬朗が司馬懿に目線で助言を求め、司馬懿は予見的ながら鋭い意見を述べる。それは次の目標がなんと『この街』で、盗賊団の拠点は近くの森だとその理由等の説明もし、一刀へ「どうするか」と行動の決断を確認してきた。
 一刀は盗賊団に逃げられる前にと即決し、作戦は「明晩決行」とし、すぐ偵察に向かった。それには情報を提供した司馬懿と、力になれればと司馬敏も馬車で同行する。
 偵察で賊の拠点に侵入する三人だが、その際に女の子が乱暴されそうになるのを目撃してしまう。司馬懿と司馬敏は明晩決行の前に葛藤するが、それを見た一刀は『一日早めてしてもいいかな?』と言い、あっさり一刀を主力に皆で鎮圧に乗り出し賊を一網打尽にする。
 役所へ知らせに行っていた司馬朗も兵を引き連れ賊の移送に加わり、街まで連行すると、夜の明けぬ深夜に司馬家へ帰宅した。
 だが、夜の女の戦いがまだ残っていた。寝ずに待ち構えていた司馬防、司馬孚に司馬朗の三人は、疲れと汚れを落とす為と湯殿にて一刀へ桃源郷な奉仕をする。その後、司馬防だけが一刀と客間へ向かう姿に、司馬朗は異議を訴え再び四人は食堂にて会合となり、短期では司馬防に有利だが『司馬家の夜の決まり』を制定するのだった。
 だがそれには、もちろんずっと横にいた一刀の意見など入っていなかった……。


 一刀の愛情の籠もった気による身体復元のお陰で復活した『魔王さま』こと雲華は、一刀を襲った背景を知らべるため、師匠である天仙の真征を南岳衡山に訪ねる。
 慎重に進められた調査は三か月を要したが、その間に雲華は師匠の元でさらに鍛え直していた。
 そして、首謀者らは左慈、于吉、弧炉、蛇蝎ら十名程の仙人で構成されている『辿り着けるもの』達という仙術によって歴史を飛び越え何かを企てる者らの存在を掴む。
 雲華は、真征より『聖仙木人』の体を送られ劇的に進化した木人くん(女の子だったのだが)へ『ジンメ』と名を与え従えると、動きを掴むことが出来た弧炉、蛇蝎ら七名を西涼の辺境にて排除する。
 そして泰山へ戻って来ると、偶然野盗に襲われていた諸葛亮らを見つけ助けた。
 その後、左慈、于吉の動きが掴めないため、便鳥を使って管輅を呼び出し、天の御使いについて占うと、悪い内容が出る。当たる可能性は高いと感じた雲華は、木人と徐州まで対応に出ると、気絶した関羽へ近付く于吉と遭遇するが取り逃がしてしまう。
 加えて、管輅の占いにより、一刀へ「おっぱいX8」の接近に気付くのだった……。


 一刀は『司馬家』四日目の朝を迎えようとしていた―――。





 

 

 

 日の出も近いので、夜の女の戦いは「お開き」のはずであった。しかし、家主であるがまだ若き美貌を誇る司馬防の「一刀殿を客間まで送りたい」との言葉に、それならばと背は高いが可愛い司馬朗、絶世の美女な司馬孚も一緒について来ていた。そして互いのささやかな対抗意識の所為か……結局、三人は寝床の中までついて来ていた。一刀もこんな時間までも待っていたのかという彼女達へ、お断り的な意味の言葉を告げられなかった。

 客間の寝台が広く大きいので可能な事もあったのだが、一刀を中心に彼女ら四人は寝転び三角形崩れの位置を形成していた。これも添い寝と言えるのか分からないが、各々が一刀の表情が見える位置に陣取りニコニコしている。司馬朗と司馬孚は、殿方と一緒に臥所に入る事自体が生まれて初めてであったため、ドキドキと僅かに緊張もしていた。一方で司馬防は、一刀や娘達をゆったりと眺めている。

 当初は、一刀も女性陣らの方を交互に見て微笑んでいたが、いつの間にか動きが止まる。

 一刀は、女の子らの甘く良い匂いが、疲れに加え心地よい安心感と眠気をもたらしたのか一番最初に寝息を立て始めてしまっていた……。痛恨と言えよう。

 三人の女性陣は、「あら、一刀殿」「ふぅ、お疲れなのですね」「あぁ、一刀様」と残念そうな小声を上げる。だが、司馬防は「良い夢を」と一刀の前髪を愛しく撫でるように軽く触ていた。女性陣三人は無言で顔を見合すと、そんな一刀を静かにゆっくり休ませてあげましょうと、こっそりと寝台を降りて静かに彼の客間から各自の部屋へ戻って行った。

 

 

 

 どれぐらい眠っていただろうか。一刀が寝床に入ったのは卯時(午前五時)を一刻(十五分)は回っていたころのはずだ。寝入ってから二時(四時間)ほど経っているようである。彼は、家の中の人の気の動きが急に慌ただしくなったため目を覚ましたのであった。廊下からの客間へ入る間接的な光は、すでに日が十分高い様子だ。

 司馬防らはいつの間にか部屋から去っていた。最近、気が抜ける時があるのか、周囲の気を捉え損なう事がある一刀だった。雲華を失う原因となった『油断』をしないようにいつも気を張っているつもりなんだけと、少し小首を傾げる。まあ調子の悪い時もあるのだろう。

 さて、決まりだと言うので銀さんを呼ぶ『呼び鈴』を鳴らす。自分で着替えた方が早いのだが、いつも「いけません! 奥様や伯達お嬢様より、北郷様は家族の一員だと言われております。当家に見合った行動を取られますように」と言われてしまうためだ。今は周りが慌ただしい理由を聞けるので丁度いいのもあった。

 銀さんは扉の前に来ると、呼ばれた事を小声で確認してきたので、一刀は「起きますので着替えを」とお願いする。銀さんは失礼しますと静かに扉を開けて入って来ると、部屋の一角にある鏡付きの台にて洗顔や歯磨き等を手伝い、そのあと手慣れた手付きで一刀を着替えさせてくれる。その間に一刀は司馬家内のとても慌ただしい様子を銀さんに確認した。

 すると、銀さんは―――

 

「北郷様は、昨日の朝に『神出鬼没の凶悪な賊の対策担当官』へ就任されたばかりなのに、昨夜のうちにその賊を全員生かして一網打尽にされたことが街で評判になっていて、お祝いや贈り物、寄付金が山のように届いており、色々な方面の方々も当家へ挨拶に来られているのでございます」

 

 聞けばすでに、普通の家一軒が優に買えるほどの財が集まっているという。

 

「な、なんだって?(そりゃ家の中の人の気の流れが、慌ただしくもなるよな。だけど……どうするよ、俺)」

 

 面倒な仕事を片付け、これから当分ゆっくり休めると思っていた一刀は、実はとんでもないことをしてしまったのでは?と非常に焦るのだった。だが、もう遅い気もしていた。

 

「一刀様、優華です。今、よろしいですか?」

(優華も余り寝ていないはずなのに、今はこの家を預かっているから大変な事になっているんじゃ……)

 

 丁度着替えを終えた一刀は、銀さんに礼を言い、身を正すと「どうぞ」と扉の外に立つ司馬家の長子として最近の家を切り盛りしている司馬朗へ声を掛ける。銀さんが折り畳み戸の扉を開け一歩脇へ下がり礼を取ると、司馬朗が入って来た。

 

「お目覚めと聞きました。少しは休めましたか?」

「ああ。あの、先に寝てしまって……ごめんね」

「い、いえ。お疲れの様でしたし、みんな気にしていないかと」

 

 二人は、寝る前の事を思い出し少し照れていたが、一刀が思い出したように尋ねる。

 

「そうだ、どうやら大変な事になっているみたいな……」

「はい。街中は一刀様の見事な活躍にお祭り騒ぎのようです。就任初日に加え、今まで大小二十以上の街や村が被害に遭っていて対策に苦慮し、近隣のどの街や村にとっても心配事になっていましたので。そして、この温の街が狙われていた所での捕縛で、この街の大きな被害を直前に防ぐことが出来ましたから、もうすっかり『街の大英雄』と」

 

 いつの間にか呼称にさり気なく『大』が増えてるのであった。

 

「えっと……確かに捕まえたのは俺だけど……拠点は仲達さんが調べて考えて教えてくれたことだし、小嵐華が上手く賊らを引き付けてくれたから、裏でどんどん倒せたし。優華も賊を逃さず運んでくれたし―――」

「でも、その時の状況判断と決断と指揮官は一刀様でしたから。そしてそれを見事に成功させました」

 

 そう、最大評価はその一団の指揮官になる事が当然多いと言える。副官や参謀は確かに局所的に高く評価されるも、最後の決断を下す総指揮官には比べるまでもないことなのだ。

 

「それから、今日のお祭り騒ぎはこの街『だけ』ですが、数日後には周辺の街へ広がることでしょう。もう、この近隣で一刀様の名前を知らない者は、いなくなると思いますよ。今晩はお城の御屋敷にて県令さまが、一刀様と我が司馬家の働きに宴を開かれるとの事です。中央から派遣されている武官の方も来られるとか」

 

 司馬朗は、一刀の活躍と周りの評価にとても嬉しそうにニッコリと微笑んでいた。

 

「なっ……」

 

 逆に一刀は、そんな大げさな状態になっている事に顔が引きつり青くなってきたのであった。学校の中の、いやクラスの中ですら、それほど目立つ存在ではなかった一刀は、それなりに友達はいたが、隣のクラスでも自分を知らない奴は結構いたと思うのだ。それが……街単位でしかもそれがいくつもと言う。このお祭り騒ぎは、すべてがこの街へ来た時にたった一人の賊を一刀が、それもほぼ無意識で反射的に倒したところから始まった事だが、スケールが想像できず……『わらしべ長者』の比じゃないなと、ふと彼は考えていた。

 昨晩の事も、一つの面倒事をただ早く無くそうとしただけなのだ。とはいえ、達成した時にどうなるのかを全く想像していなかった訳ではない。幾らかの報酬を見込めてこの司馬家に栄誉ももたらせて恩を返せると考えていた。夜中の報告会でも王渙へ、これは司馬家の協力のお陰と強調していたのだ。それなのに、今自分がこれほど前面に出されて持ち上げられるとは思っていなかった。一刀は、戸惑いではなく……正直困っていた。

 だが街中を含め皆が喜び、わざわざ宴を開いてくれと言うのだ。もはや一刀に反論する事も断れるはずもなかった。

 司馬朗がさっそく再び面倒そうな事を話して来る。

 

「それで一刀様、事を聞き付けた街の皆さんが一刀様にお会いしたいと、隣接する応接屋敷の方に徐々にお集まりです。朝食を取った後にお顔を出して頂けますか? 今は母様が皆のお相手をしていますから大丈夫ですので」

 

 すでに司馬防までも訪問客へ対応しているという事だ。ここで自分が断るわけには絶対にいかないだろう。どう考えてもそれは恩を受けている『司馬家』に酷い泥を塗ることになるのだ。

 

「分かった。朝食を取ったら急いで顔を出すよ。建公殿にもそう伝えておいて」

「はい。すみません、お疲れのところを」

「いや、大丈夫大丈夫」

 

 一刀は複雑な気持ちであったが、頑張って自然な笑顔を作って返した。そう伝えると、司馬朗は一刀の客間から急ぎ気味に出て行くのであった。

 その様子に一刀も早速、朝食を取る為に食堂広間へ移動する。一刀に続いていた銀さんが厨房へ朝食の用意を指示していた。

 食堂広間の円卓には司馬懿が待っていたかのように、一人座ってお茶を飲んでいた。一刀から声を掛ける。

 

「おはよう、仲達さん。昨日はお疲れ様」

「おはよう、北郷様。あの、なんか他人行儀だからもう呼び捨てでいい。仲達でも司馬懿でも」

「じゃあ、俺も一刀と名前でいいよ」

「……貴方の方が少し早生まれだし、昨日の指揮と戦いに敬意を表して……一刀兄さんで」

 

 司馬懿は眠そうに無表情ながら、少し照れくさいようにも見えた。だが、一刀はそれには触れずにその呼び名を受けた。

 

「わかったよ。しかし、なんか街の雰囲気が大変な事になってるらしいんだけど。でも、昨日の捕り物は仲達の事前調査と、その統計からの正確に考察された情報が無ければ絶対に無理だったよ。ありがとう」

「いや。情報や意見を提供できても、それを信用し、そして上手く活用して実行できるかが重要で本当は難しい。……少し不思議なんだが? 一刀兄さんが私の提言にほぼ即答していたけど……まるで私の言う事が高確率で正解だという事を知っているような、ね」

 

 一刀は、目の前へ運ばれ並べられた食事をいただく前に、その質問について司馬懿へ答える。それは、未来から来たから司馬懿の能力の高さを知っているとは言えず、気付かれないように―――嘘ではない答えを。

 

「実は……街会議の帰りに牛車で街を回っていると、優華(司馬朗)が仲達はとても頼りになると言っていたから、それを信じたのさ」

「ふぅん、ありがとう」

 

 姉の司馬朗からということで、彼女は納得したようだ。

 一刀は、朝食をいつもより少し早いペースで食べ始める。そして、その合間に司馬懿に訪ねるように話を投げる。

 

「そういえば、このあと挨拶に顔を出す隣の屋敷なんだけど、まだ行ったことが無いな」

 

 司馬懿は「応接屋敷か」と呟くように言うと簡単に説明してくれた。一刀はそれを食事を進めながら聞いていた。

 応接屋敷は、本家屋敷敷地の西南の一角にあり、東西七十六歩(百五メートル)南北四十三歩(六十メートル)ほどの敷地に建っていて、一部二階建ての立派な邸宅風の建物を中心に多くの建物が建つ。本家屋敷とは高い塀で完全に仕切られている。それは男性が本家屋敷側へ迷い込んで、司馬孚に会うと大変な事になるからだ。本家へ親族以外を招く場合、殆どはこちらへ通され、泊まる場合もこの応接屋敷となるという。

 

「正面玄関から行くと、応接屋敷の玄関前広場でも皆で待ち構えてるはず。こちらの裏門から向こうの裏門へと入って行った方がいいと思う」

「そうか、ありがとう。そうするよ。しかし……賊一人倒した事から始まって、司馬家に招かれたのは嬉しい事だけど、なんでこんな事になって来るのか……」

「……貴方は時流……『時』を味方に付けているのだと思う。それはとても大きな力(一つの時代に数名だけの―――誰もが持てるものじゃない)」

 

 司馬懿は、それが重要な事でも、いつも眠そうな無表情の顔で淡々と話す。まあ一刀には、それをどうして良いかよく分からない話ではある。

 そんな時、食堂広間の入口をストレートロングな髪にいつもの眼鏡をした五女の司馬恂(しばじゅん)が通りかかる。

 

「っ、お兄様! おはようございます。昨晩は見事なお働きでしたわね」

 

 いつもは気難しそうに眼鏡をスッと指で掛け直している彼女であったが、今は嬉しそうな笑顔で その太腿ほどまであるロングストレートの薄緑な髪を揺らしながら一刀の座る席の横へ来ると、胸の前で拳に一方の手を包むように合わせながら笑顔で話してきた。

 すると、司馬懿が司馬恂へ促した。

 

「丁度いい、環華(ファンファ)。一刀兄さんを裏から応接屋敷へ連れていってあげて」

「それはお兄様がどうしても私でというなら……いいけど。って……『一刀兄さん』?」

 

 いつもの口調だが、司馬恂は訝しげに眼鏡を指で掛け直しながら、司馬懿の一刀への呼び方の変化とそれが『兄』という呼び方に内心驚く。その意味に。

 

「なんだ、変か? 私でも認める時もあるということ」

「いえ。そ、そう……ですか」

 

 司馬恂ら姉妹は、実の姉妹で一緒に暮らすゆえに司馬懿を良く知っている。司馬家の姉妹は勉学において皆優秀だが、彼女らから見ても司馬懿は突出していた。長子である司馬朗や母の司馬防をも優に凌ぐ才能を持っていると。勉学のみならず、武人としても大成出来るほどの腕前であろう。

 だが司馬懿という人物は、小さい頃からずっと、他人には絶対に仕える気はないと言っており、母の司馬防と姉の司馬朗以外には無理に我慢して従うところをほぼ見たことが無いのであった。そして、ぶっきらぼうな風でも姉妹らや家の者には微妙に甘い。だがその反動か、外の者には遠回しに情け少なく厳しい性格なのだ。

 そんな外の者に対して司馬懿が動くのは、相手に乞われたから従うわけでもなく、相手が優秀だからでもなく、正しいからでもなく、富豪だからでもなく、貴人だからでもなく、強いからでもない。

 ただ単に『人物』もしくは『考え』が気に入るかどうか、気も使わなくて済むかどうかだけなのだ。そのため、これまで縁談や仕官の口も来ていたが、すべて即日に断っている。

 その司馬懿が一刀を――『兄さん』と呼んでいるのだ。大きな変化であった。

 司馬恂には、司馬朗の仕官の話並みの驚きと言えた。

 まあ、その予兆はあった。厩舎を案内したり、昨晩の偵察にも付いて行き、急な『作戦変更』にも司馬懿は従ったのであるから。

 司馬恂は一刀が朝食を終えるのを見計らうように声を掛ける。

 

「じゃあ、お兄様。裏門経由で移動しましょう」

「おう、って仲達は送ってくれないの?」

「一刀兄さんが来いと言うのなら、私も行ってもいいが隅に立っているだけだと思うぞ」

「はは……そうか、まあ俺への客というし。仲達はこちらでのんびりしててよ」

「そうさせてもらう」

 

 一刀は司馬恂へ、じゃあいくかと応接屋敷までの先導を頼んだ。

 すると、一歩前に立つ司馬恂が振り向き気味に、少し頬を染めながら左手を出してくる。

 

「どうしても、私と手を繋ぎたいというのなら……仕方ないですけど」

 

 どうやら、前払いで正当報酬をご所望のご様子である。一刀が手を繋いであげると、司馬恂はきゅっと握り返して来てニッコリと笑顔になったかと思ったが、思い出したように慌ててツンとした表情に戻し、ゆっくりと歩き出した。

 二人は食堂広間を後にし一刀の客間の通路を南へ曲がり、姉妹屋敷中の廊下を西奥へ抜けて庭へ出る。

 広大な本家屋敷には四か所に門があり、そのうち玄関側を含めた三か所は馬車等が余裕を持って出入り出来る大きな門だ。残る一箇所が応接屋敷に近い門となっている。その門は西側から本家屋敷と応接屋敷を区切るように短い長さ十五歩(二十メートル)、幅三歩強(四メートル五十センチ)程の袋小路になっている道に出る。裏門は両屋敷間での荷物の出し入れもあるので、無理をすれば馬車も通れなくもないが、普段は荷物と人が時々通るのみの門だ。普通の家で言えば勝手口見たいな雰囲気の場所と言える。

 門の内側のところには、女性の守衛が一人いて門は閉められた状態だった。一刀らが近付くと身を正し礼を取る。家中でも一刀の武勇の話は伝わっており、『街の大英雄』を前に守衛の子は少し緊張しているようであった。司馬恂が声を掛ける。

 

「応接屋敷へ向かいます。門を開けて」

「はっ」

 

 すると、守衛は門の外に用向きと開門を知らせ、門を内と外から開いてくれた。

 門の外側の道には応接屋敷側も合わせて男性六人の守衛がいた。全員が一刀らへ礼をとる。彼らはもう何代も司馬家へ仕えている者達のため、主従の間ながら司馬恂からも安心している雰囲気が伝わってくる。

 門の外側は本家側と応接側でそれぞれ男性が三人ずつおり、その中に守衛長の一人の荘(ソウ)さんもいた。彼は良い使い手のように見える。他の者より明らかに感じる気が大きかった。

 彼は、応接屋敷側の門を開けさせると、二人へ「どうぞお通り下さい」と伝える。

 一刀らは「ありがとう」と言って応接屋敷の裏門を潜り応接屋敷側へ入った。

 

 

 

 広い庭に厩舎や馬車等も本家屋敷並みに備えてられていて、ここだけでも広大で立派な邸宅なのである。客人用の階級別の宿泊部屋や湯殿を初め、当然司馬家の家族全員分の部屋等も区画別けされた場所に用意されている。また、使用人や守衛らの住む場所も敷地内にある。

 ただ、この屋敷は客人との面会に幾らか特化している。

 屋敷内の一角に、東西南北二十二歩(三十メートル)四方で二階まで吹き抜けの大広間が用意されている。 今、一刀らは廊下を歩き、一刀らに気付き一瞬礼を取りながらも客人らへの振る舞いに慌ただしく働いている使用人らを横に、その広間へ近づいていった。気で確認すると中の人数は五十人を超えている。

 司馬恂は慣れているようだが、一刀はどんどん緊張してきていた。街会議の時は人数が絞られていたし、王渙の後に続いて歩いてということもあったが、今回はそうはいかない感じだ。

 大広間には正面の大扉の他に、側面へさらに二か所の出入り口がある。その一つの扉の前まで来ると、司馬恂は一刀の脇へ周り「頑張って」と声を掛けた。

 一刀もここまで来たので腹を括るしかなく「じゃあ行くか」と声を出すと、そこにも控えている使用人が扉を開けてくれた。

 一刀は司馬恂を後ろに伴って入って行く。

 すると、その場の歓談が、「おおお」っというどよめきにすぐ変わる。大広間の中央の位置までの進路上にいる人たちが、一刀がそこへ歩いて行くために各々が横へずれるように移動し開けられる。

 一刀が真ん中まで行くと司馬朗がすぐ横へ、司馬防と司馬恂はその少し脇へ立った。司馬朗がそこにいる五十名ほどの皆に一刀を紹介する。

 

「こちらが、周辺の街を脅かし対処に困っていた凶悪な賊の一団を、昨晩全員捕える武功を挙げられた北郷様です!」

 

 改めて、広間内は先ほどよりも大きい「わぁぁー」「うおおー」とどよめくのだった。司馬朗に促され、一刀は自己紹介する。

 

「私は姓を北郷、名は一刀と申します。字はありません。今は、こちらの司馬家にお世話になっています。みなさん、今日はお集まり頂きありがとうございます」

 

 司馬家の面子もあり、可能な限り堂々と述べた。

 一刀の挨拶に再度、広場内は湧く。その中、一刀の前に身なりの良い白い髭を蓄えた老人が後ろに二人ほど従え現れる。どうやら街の長老の一人のようだ。

 

「北郷様、まずは街の長老としてお礼を。この街が襲われる直前だったと聞きおよびました。恐ろしい厄災から守っていただき感謝しています。そして―――かの盗賊らはすでに二十以上の街や村で千人近くを殺していると聞く。その親族たちは数万に上るはずです。その者達は皆、貴方に感謝することだろう。……儂もその一人です。本当にありがとうございました」

「!? っ……(死者が千人だって?! あいつらどんだけ凶悪なんだよ。極刑間違いなしだな。……しかし俺、それ聞き漏らしてるよ……知ってたら……知ってたら?)」

 

 一刀は、思わず狼狽えそうになったが、皆の前なのでなんとか持ちこたえる。

 

「さ、昨晩の自分の行動によって、みなさんの命や安全が守れてよかったです。枕を高くして今晩からお休みください」

「うむ、確かに! 北郷様が居てくだされば安心じゃ」

「そうじゃ、そうじゃ」

「そうよ。そうよね」

 

 一刀の言葉を聞き、周りの皆が同意と喜びと安心の声が広がった。一刀の挨拶や、皆を代表した長老の言葉もあり、場を仕切る司馬朗が「みなさま軽い食べ物や飲み物でご歓談を」といつの間にか大広間の外周に沿うように多くの席が設けられていた。

 一刀は食客にも関わらず司馬家で上から三番目の上座の席に座らされる。さりげなく司馬恂が脇から色々と教えてくれるのだった。お客達は周りを埋めるように座りはじめる。そして、一刀はお客からのお酌を延々と受けていく。

 そんなとき、その中で先ほど長老の後ろに控えていた二人のうち、背の大きい左手を布で吊った男性が、一刀の前に膝をついて重々しく礼を取るのだった。

 

「私は、北郷様が初めてこの街の門へこられたおり、貴方様を道の脇へ突き飛ばした無礼な守衛にございます。あのときは知らぬとは言え、大変失礼な事をしてしまいました。この場にてお詫びいたします。申し訳ございませんでした」

 

 一刀は彼をよく見るが、実は余りよく覚えていないのだ。だが、このまま覚えてないとも言えず、とりあえず気にしていないからと伝えてあげた。一刀は彼の怪我が気になったので聞いてみる。

 

「その傷は?」

「はい……。北郷様が倒される前に、あの門を破ろうとした賊に切られた折、腱や筋ごと持っていかれました。治ってももう剣は……。きっとバチが当たったのでしょう」

 

 彼は寂しそうに左手の肘の辺りを摩っていた。

 すると、一刀はちょっと診せてもらえますか?と席を立ってその彼の傍へ行き、その左肘に両掌を挟んで気の流れを確認すると、部分的に気による『完全修復』を掛けてあげる。

 少しすると、その守衛の男は痛みが大きく引き「おやっ」という言葉が漏れた。

 一刀が手を放すと、先ほどまで動かなかった守衛の男の左腕が彼の意思で曲げたり伸ばしたり出来たのだ。

 

「こ、これは……」

「気功を使った回復です。まだ少し腱や筋が残っているようでしたので。よかったですね、時間を少し掛ければ元に戻りますよ」

 

 本当は完全に切れていたのだが、不自然過ぎにならないように一刀は誤魔化し気味に理由を述べていた。

 それでも傍にいて見ていた、司馬防や司馬恂、他の客らも驚くであった。

 この守衛の男は司馬防の友人の子息で結構裕福な家であり、きちんとした医者に診てもらった上での病状だったのだ。

 治る見込みはほぼないと告げられていたと聞く。だが、その腕が今動いているのだ。

 

「おおぉ、北郷様は気功医術の名医でもあったのか!」

「すばらしいですわ」

「この時代に救世主のようなお方が現れた」

「おお、ほんに。悪鬼の賊らを倒し、不治の病を治す偉いお人だ」

「そういえば、大陸の東方へ天の御使い様が下られたとか噂もあったが、それは北郷様のような方をいうのではないのか」

「ありがたい、ありがたい」

 

 大広間は一刀の示した武功や人々を気持ちと傷も癒す行為に、すばらしい人物だと賞賛の声が広がり続くのであった。一部の者は一刀に神様の如くお祈りまでしてくれていた……。

 一刀は、また思いつきで動いてしまったことで問題が発生したのではと考え込んでしまいそうになったが、そんなところへ慈愛に熱い司馬朗が嬉しそうに飛び込んで来る。

 

「あのご子息は、母様からとても深く酷い傷だと聞いていましたのに、治してしまわれるなんて……すごいです、とても素敵です!」

 

 周りに人がいなければ、きっと抱き付かれていたのではないだろうか。興奮した喜びからか、司馬朗に一刀は両手を握られブンブンと上下に振られていた。

 

「ちょっと、落ち着こうか、伯達さん」

「あっ! は、はい」

 

 幸い、まだ周りは騒然としている感じなので、司馬朗の行動は取り立てて目立つものにならずに済んだようだ。

 そのあとも、街中から有力者、地主、政治関係者、商人、職人、役人、武人、そして一般の人らまで幅広くお客はひっきりなしに司馬家の応接屋敷を訪れて来ていた。一刀は杯へ注がれたお酒をほとんど飲んでいないのだが、回数が二百、三百となるとかなり『来る』のは当然と言える。一応、気を利用して代謝を上げているのもあるのかベロンベロンにはなっていないが。

 合間に短く二回ほど休憩があったが、申時(午後三時)前まで続き、漸く今晩のお城での宴の準備がありますのでと本日はお開きになった。

 途中、司馬孚以外の姉妹も一刀の様子を見にやってきていた。司馬懿も優雅で無口な司馬通と一緒に時間の最後の方に来ていた。

 そして、この日届けられたお祝いや贈り物、寄付金の総額は、小さ目だが立派な邸宅が買えるほどに膨れ上がっていた……。

 

 応接屋敷の片付け等の指示を使用人長らに任せると、城での夜の宴に備えて体を休める為、司馬防や司馬朗も皆と共に本家屋敷へ一刀に付いて戻って来た。当初から一刀の傍にいた司馬恂は、おっとりながら割としっかりしている司馬馗が昼食後に応接屋敷へ来た時に、一刀から休むようにと言われ、入れ替わる形で一足早く本家屋敷へ戻って来ていた。夜への準備は、本家屋敷に残っていた司馬孚を中心に司馬恂も加わりほぼ終わっていた。ここ数日、一刀以上に寝ていない司馬防にも流石に疲れの色が出ていた。多くの人を朝からずっと相手にしてきたのだ、無理もない。そのため、一刀、司馬防、司馬朗は夜に備え、半時と二刻(一時間三十分)程の仮眠を取ることにした。

 仮眠を取ったことで、なんとか体調を戻すと、宴へ出席する者は早速着替えて準備に入った。一刀と司馬懿、司馬敏は帯剣を許されたので腰に剣を帯びる。

 司馬防や司馬朗らも宴に相応しく、より美人が映える華やかな装いの着物を纏っていた。

 ただ今夜の宴へ司馬家の全員が出るわけではなかった。司馬孚と司馬進、司馬通は欠席するという。

 無理をすれば全員出れない事はなかった。魅了度の高すぎる司馬孚も薄い透過性のあるベールの風な布で顔を隠し、体形も隠れる服装で出席すれば問題ない。話すに難ありなハッキリ娘の司馬進、無口な司馬通も喋らずじっと席に座っていれば良い。

 だが、そこまで無理をして出る必要もない様に思えたのだ。祝いの席なのに司馬進、司馬通は兎も角、顔を隠した姿では司馬孚がわざわざ変に皆の注目を集めれば可愛そうである。といって司馬孚だけ家へ残すのもどうかと、司馬進と司馬通も残ることにしたのだ。

 三名は体調が優れないということにして、城内の御屋敷での宴には司馬家として七名での出席となった。屋敷を出たのは日が沈む二刻強(三十分)程前の夕方であった。牛車を二台出し、先頭の車には一刀を初め、昨晩に賊を捕まえるのに携わった司馬朗、司馬懿、司馬敏が、後続の二台目に司馬防、司馬馗、司馬恂が乗り込んだ。車は壁板が全部外され見通しの良い状態に設定されている。護衛に騎乗した守衛が八人付いて来ていた。

 司馬家の屋敷を出てからもぽつぽつと人が見送ってくれていたが、街の中心に近付くほど沿道に人が増えていき、街の大通りへ入ると人垣がどんと厚くなっていた。

 そして、歓声が上がり、お礼や安心や一刀らを称える声や言葉が城門へ入るまで続いて広がっているようだった。沿道の人数は万を優に超えているように感じられた。

 初めは、余りの人の多さに戸惑っていた一刀であったが、司馬敏が元気よく手を振っているのを見て、自分も手を振りはじめていた。司馬懿と司馬朗も軽く手を上げて小さく振っている。後ろの司馬防らも軽く手を振っていた。

 そうして民衆に見送られながら二台の牛車は城門を入って行った。

 城門内では、守衛の兵らが閲兵の様に道の両端に横一列に並んで出迎えてくれていた。宴には街の有力者らも集まって来ているようで立派な馬車や、牛車、そして戦車のような車も止まっているのが見受けられた。司馬懿と司馬朗はその光景を見た時に一瞬静かに顔を見合わせていた。

 

 

 

 一刀と司馬家一行は御屋敷の玄関前まで来て牛車を降りると、役所の高官数名がわざわざ待っていて出迎えてくれた。そこには一刀より役職的には僅かに上位になる県の治安の長(役職名:県尉)もいた。一刀は臨時で一時的に県令直属での『盗賊対策責任者』(臨時準県尉相当)となっていたため、県尉らとは協力関係にあるが独立組織に近い。それは行き掛り上の役割な感じの上、事後申告となるだろうが、参謀に司馬懿、司馬朗。副官が司馬敏といったところか。

 昨晩の一刀の就任当日で解決してしまった功績に、今日も県尉は一刀を笑顔で迎え喜んでいた。もともと人柄が良い人物だが、あの賊らがこの街だけの長期間の問題なら彼の立場が無い所であった。幸い、あの賊らは街を幾つも巻き込んでの広域にわたり、責任は大きく分散していたのだ。それでもここ半年ほど県尉への取り締まり要望の圧力は相当なものがあった。とは言え、凶悪すぎて正直手に負えない案件でもあったのだ。しかし、一刀がそれから開放してくれたのであった。嬉しくもなるというものだ。

 出迎えていた役所の高官らからも贈り物をもらっていたので、一刀と司馬防らは礼を言いその高官らに見送られつつ、御屋敷の奥へと廊下を進んでゆく。

 司馬防、司馬朗が並んで先頭を歩き、少し間を空けて一刀が、その後ろを司馬懿ら姉妹が続いた。

 今夜の宴は主に一刀、そして司馬家の為であるが、一般的な立場では一刀は司馬家の食客にすぎないためだ。

 いよいよ宴の会場となっている御屋敷の大広間へ入る。そこは昨日の役所の謁見の間よりもかなり広い場所だった。まず司馬防と司馬朗が広間へ入り、会場では席を立って迎える皆へ盛大に紹介される。拍手等の状況が一段落し司馬防らが席へ向かうと「それでは」と言う会場内の呼び声を受け、そして一刀は入って行った。

 「こちらが、北郷殿です!」と入った瞬間に紹介されると、前の司馬防ら以上の歓声と歓迎ぶりである。上から紙吹雪が舞う演出まであった。

 一刀はかなり緊張していたが、とりあえず堂々としている事に注力する。これは司馬朗からの提言であった。とにかく慣れですからと。

 一刀は、以前の学生のビクビクしたような軽い気持ちでは無く、名門『司馬家』の一員として、その周りの歓待を受けるように一度止まり、周りを見渡し軽く会釈するに留める感じで応える。この日も、白地に銀の繊維の織り込まれたようなキラキラ感のある生地に上等な刺繍の入った動き易そうながら上品な上着とズボン風の服装に腰へ『龍月の剣』を帯びていた。本人は余り気付いていないが、かなりカッコよく見えているのであった。

 一刀に続いて少ししてから司馬懿らも紹介され会場へ入った。

 一番奥の上座に県令の王渙を中心に、次席になるであろうその左(正面からは右)側に司馬家一行に交じり一刀。そして右側へ県の顔役達と高官ら、そして……中央からのこの温県へ来ていたという武官と、河内(かだい)郡太守からの使いという武官も順次座っていく。その武官らは王渙のすぐ右横近くに着座していた。

 会場の中心は幅広い通路のように通されており、そこへは綺麗な刺繍を施された朱の敷物が敷かれ、それに並行する様に多くの宴席が並べられていた。

 並んだ料理もかなり豪勢で、その食材も近隣の農地で昼に収穫されたものや、南を流れる黄河から昼網で水揚げされた新鮮な魚介類が、水の張られた生簀ごと運ばれて来て捌かれ調理されたものだという。

 大広間内は一刀と司馬家一行らを迎えて皆が席に着き、場が落ち着くと、王渙が杯を持って静かに立ち上がると、体を一刀らへ向けながら昨日の就任からの電撃的な行動とその武功を改めて語り紹介してくれた。そして、今日はささやかながらとと言いつつ、招待者が二百人は超えているこの感謝の宴へ参加している皆へ「北郷殿と司馬家の雄姿によってもたらされた今日の平和に乾杯!」と音頭を取ると、皆の「乾杯!」という声が上がり賑やかに宴は始まる。開始当初は、しばらく食事をしながらの歓談の時間となった。

 その時に一刀は、司馬防らから県令の右横に座る武官達について教えてもらえた。

 中央から来ている武官に付いては司馬防が知っており、何進大将軍に連なる王匡(おうきょう)という女の子武官ということであった。

 一方、太守からの使いという武官については司馬朗より、司隷河内郡太守の次子で娘の朱皓(しゅこう)なる武官だという。司馬防もその事は知っており、司隷河内郡太守についても教えてくれた。それは―――朱儁将軍だという事だった。

 朱儁将軍といえば、黄巾党の乱で名前が挙がってくる官軍を率いた将軍である。河内郡の治所は温県の東北東六十二里(二十五キロ)の懐(かい)県の城にあり、馬なら半時(一時間)で来れるという。

 一刀が武官の彼女らについての話を小声でひっそり聞き終わったところで、王渙の方からも武官らについて紹介が始まった。

 

「北郷殿は、こちらのお二人は初めてですね?」

 

 そこで、初めて一刀は武官らと目を合わせると、まず彼から名乗った。

 

「はい。どうも、北郷一刀です」

「私は何進大将軍に仕える名を王匡、字を公節(こうせつ)と申す。本日は偶然、王渙殿の元を訪れていたのだが、司馬家の方々を含め北郷殿の見事なお働きを聞いた。本日はお目に掛れてうれしく思っている」

 

 王匡は肩の辺りで綺麗に切り揃えられた薄い紫の髪を揺らしながら、整った凛々しい顔に笑みを浮かべて一刀らへ挨拶してきた。

 

「どうもありがとうございます」

 

 流石に中央、それも大将軍と聞いて、一刀も恐縮気味に答えた。

 続いて、その横の太守の娘の朱皓が一刀へ言葉を掛けて来た。

 

「私は太守の娘で名を朱皓、字は文明(ぶんめい)と申します。北郷殿、今朝一番に知らせを受け、太守を務める母上も貴殿と司馬家の見事な働きに大変喜んでおりました。この件は物的被害もさることながら犠牲者も甚大で、討伐の準備には入っていたのですが足取りが掴めず、この河内郡の大きな問題になっていた事象でしたぁ。太守である将軍の言葉として感謝をお伝えする次第です」

 

 朱皓は肩よりか少し長めのふんわりとした薄桃色の髪をしていて、優しい顔を微笑ませ、胸元でぽふりと手を合わせながら話していた。

 先程の大将軍に続いて、朱皓からもさらに太守で朱儁将軍直々に感謝と言われ、一刀の恐縮感は内心うなぎ上りであったが落ち着いて答える。

 

「ありがとうございます。結果として被害を出すことなく、この街の安全を守れて良かったです」

 

 朱皓は、そんな飾らない一刀へ興味を示すように、言葉を続けて掛けてくる。

 

「しかし、役目を急に受けられたにも関わらず、就任当日に我々が手を焼いていた凶暴な奴らを即討伐されるとは、その武の力量と勇気を武人として尊敬いたします~。ぜひ一度、懐の城にてその武技を見せて頂きたいものですが」

 

 その申し出に、一刀は更なる厄介事を言いつけられないように返すしていく。

 

「申し訳ありません。昨晩は危機が迫っていましたので戦いましたが、先日までの放浪の旅で体調を崩し、現在司馬家にて静養している身なのです。その話はまた日を改めてお願いしたいのですが」

「そうでしたか~。それでは当分司馬家に?」

「はい、そうです」

 

 朱皓は「分かりましたぁ。では後日に。お大事に静養してください」と、そこで武官らの挨拶の会話が終わる。

 だが、この二人との挨拶が後の難題へのトリガーになったことは今は誰も知らない。  開始からしばしの歓談のあと、徐々に宴に来ていた者達が一刀らの杯へお酒を注ぎに順に来始じめる。

 そして、宴が進むと、中央の敷物の所にて、音楽の演奏、雑技、演舞などが次々と披露され会場の皆で楽しんだのであった。

 酉時正刻(午後六時)ごろから始まった宴は亥時正刻(午後十時)過ぎまで続けられた。後半には王匡、朱皓からも一刀は酒を注がれた。

 王匡は六尺九寸(百五十九センチ)程のスラリとしたほろ酔い姿で、一刀の前へ立ち「まあ一杯」と注いでくれたのだった。彼女は賑やかな宴ではなく、数人で静かに飲みながら話す酒が好きらしく、「またの機会に」と言って、先に宴の席を後にしていた。

 その少しあとに、六尺五寸(百五十センチ)程の武人としては小柄な体を、酔っているのかフラフラさせながら、朱皓が一刀の杯へ酒を注ぎにやって来た。

 「飲んで、飲んで~♪」と口調がすっかり酔っ払いだった。まあ、半無礼講の宴なので一刀もかなり砕けて来ていて「はいはい」と気楽に注いでもらうのであった。

 挨拶も一巡が終わった宴の終わり近くからは、一刀も席の横に瓶と樽を据えて注ぎに行ったり注ぎ返していた。朱皓の杯にもたっぷり注いであげていた。

 一刀は、近くに座っている王渙や司馬家の面々、街の高官らとは席が近いので注がれたり注いだりして楽しいお酒を楽しんでいた。

 司馬家の面々は酒に強いらしく、司馬馗も『ほわわん』なまま……いや余計にそう見えなくもないが……殆ど変らないのであった。特に司馬防、司馬朗は、朝から合計すると相当飲んでいるはずなのだが……底の無いザルなのか……恐ろしい。どうやら女の子なので最初から酒豪と見られたくなかった感じだ。家では抑え気味であったのだろう。ただ司馬防と司馬朗も、さすがに今日は疲れもあり酔いが回って来ていたのだが、一刀が見ているので粗相が無いようにと頑張って抑えて振舞っているのである。

 一刀も初日の司馬家の宴ではそれほど飲んではいなかった。そのため今日、お酒を初めて沢山飲んでいた。朝から昼に掛けては、形式だけでちびちびと口に当てる程度であったが、今の宴の後半はリバースもなく普通に飲んでいた。

 一刀は、自身がそれなりに飲めるということをここで知るのであった。

 そして宴は終わりを迎える。

 司馬朗と一刀は『司馬家』を代表して、集まって祝ってくれた多くの人らへ「ありがとうがざいました」とお礼の言葉と述べ、王渙の「え~明日以降も、また宴を楽しめるような平和であるように、皆で頑張りましょう! 解散!!」と締めくくった。

 すでに時刻が亥時正刻(午後十時)過ぎということもあり、希望者らは宿泊部屋へ案内されていた。

 一刀と司馬家の一行は、王渙と役所の高官ら、そしてフラフラながら朱皓や残っていた客らに見送られながら王渙の御屋敷を後にした。

 

 

 

 司馬家へ帰って来ると、昨晩は臨時だったが今日がお風呂の日で、加えて宴のあった日なので、子時正刻(午前零時)まで湯殿が延長して解放されていた。

 そのため、一刀が牛車から降りた瞬間、そのまま皆に湯殿へ引っ張られていったのである。

 その中で司馬懿だけは「私は最後に独りでゆっくり入らせてもらう」と、司馬家の理性とも言える最後の砦は健在であり、一刀は何故かホッとしたのであった。

 屋敷へ居残り組の司馬進、司馬通はすでに部屋へ戻って休んでいるとのことだった。しかし……司馬孚は「おかえりなさいませ。一刀様……ご一緒に♡」と『北の屋敷』の東側に位置する露天の湯殿の入口傍で待っていたのであった。

 そして今回は、下の五人姉妹のうち三人もが一緒に入るという。子時正刻までにあまり時間が残ってないからという理由ではないようだ。

 司馬恂は「なんとハレンチな!なんてイカガワシイ! でも、お兄様がどうしてもと言われるのなら……仕方ないですわね」と言って、頬を染めつつ眼鏡を外しながら静々と脱衣場へ、司馬馗は「はぅ~少し恥ずかしい~です。でも、兄上様~とご一緒に入るのはイロイロ楽しみ~です」と一刀へ熱い視線を向けながらほわわんと脱衣場へ、司馬敏は笑顔で「ふぁぁ……兄上様……お背中お流しします!」と一刀へ伝えるが、すでに睡魔のためか覇気少なく眠そうに脱衣場へ入って行った。

 脱衣を手伝ってくれた使用人達が下がり、一刀が脱衣位置から振り向くと……スケスケパッツンパツンで、白スク風湯浴み着なおっぱいボインバインな女の子が横一列に六人も並んでいた……壮観過ぎる。

 そして、一刀はすでにその場に充満している、女の子のムンムンな匂いにクンカし、興奮の余り立ち眩みを覚えるほどだ。

 そんな中、「兄上様ぁ……!」と司馬敏が眠り込むように倒れ込んできたので、一刀は慌てて我に返り抱き留めていた。それでも司馬敏が「お風呂……お風呂……」と言うのでお姫様だっこで抱きかかえてあげ「じゃあ入ろうか」と湯殿へ入っていった。

 司馬恂と司馬馗が「シャオ、ズル(~)い」と一刀のあとに続く。司馬防達も先手を取られたわねと、顔を見合わせながら笑顔で続いて入っていった。

 一刀は軽く司馬敏と掛り湯をすると、司馬敏が溺れないようにと浅い湯船の所へ浸かるのだった。司馬恂と司馬馗も掛り湯をしてその傍に浸かっていた。

 一刀は司馬敏の頭と腰を手で軽く支えているので、トテモ近いのであった……司馬敏の僅かに日焼けして健康的なプルンプリンで呼吸に合わせてゆっくりと上下する胸に。

 そしてその薄く白い湯浴み着は、水を吸って張り付き、透過率は軽く五十パーセントを超えている状態なのだ。二つの柔らかな栄光の部位はお湯にも浮くように静かに揺れている。加えて焼けていない素肌の部分は結構白く、ポッチ周辺がピーンクなのでよりエロさが強調されている。

 だが、それは司馬敏だけではない。司馬馗と司馬恂も色白でタワーワなのだ。浮くように揺れてそこに見えている。ポイントも桃色なのである。

 そしてふと、一刀は司馬防らに目を向けると……三人とも一時湯浴み着を脱いでタワーワな体をキレイキレイに洗っていた。

 ビーナス達がそこにいる。

 ここはトンデモナイ桃源郷だと認識を改めていた。

 挨拶や宴続きでかなり疲れているはずの一刀であったが、何もしていないのに『もっこり』が限界なのであった。

 にもかかわらず、このあと湯殿から体を洗い終えた司馬防や司馬恂らに連れ出され洗われてしまっていた。もはや『天国』のみが続いていた……。

 ちなみに今日の『もっこり』当番は司馬馗だった。司馬防らに丁寧に教えられつつ、ほわわんと普通に洗われちゃった一刀であった。

 司馬恂も一刀の背中をタワーワに洗いながら言うのであった。

 

「こんな……な、なんてキモチィ……イ、イヤラシイ!ハレンチな! お兄様が無理やりこんな事をさせるなんて……でも(妻として)……仕方ありませんわ」

 

 途中で司馬防らと交代すると、今日は司馬防が正面に陣取り、立て膝の●イパン姿で頭を洗ってくれていた。司馬朗と司馬孚は妹達以上なタワーワを駆使して一刀の手や足を丁寧に洗ってあげるのだった。

 すでに寝息を立てている司馬敏は、のぼせるといけないので、一刀らが湯殿から出るころには、使用人らに体を綺麗に拭いてもらい寝間着を着せられて静かに部屋へ運ばれていった。

 

 

 

 さて、風呂に入って体が綺麗になり、疲労も気分的に少し回復し、時間も子時(午後十一時)を過ぎれば―――あとは寝るのみとなる。

 『司馬家』の夜を迎えるのである。

 すでに、司馬馗と司馬恂は湯殿を後にし、一刀にそれぞれお休みの挨拶をすると、別れを惜しみつつも姉妹屋敷の方へ下がっていった。

 彼女らも夜の決まりについては、昼食時に司馬孚より通達されていたので知っていた。今日の晩に一刀と夜を共にする可能性があるのは、司馬防だけであるという事を。

 ここは南の廊下から『北の屋敷』へ入る辺りの、中庭や西側の広い庭も眺められる広めの廊下的な場所だ。

 今、一刀、司馬防、司馬朗、司馬孚が会し、司馬朗によって『確認』が取られている。司馬朗と司馬孚にも希望はある。

 

「母様……お持ちですか?」

 

 ただ、あくまで可能性であった。一刀から例のお守りが渡っていなければ―――。

 

「もちろん。はい、これを」

 

 しかし、司馬防は赤い紐の端を指で持って、お守りを吊り下げるように、少し勝ち誇るように司馬防と司馬孚へ見せていた。確かにあのお守りである。

 つまり、一刀が司馬防を今日の夜に欲したということだ。そして、その意志を彼がお守りを渡すときに司馬防へ伝えているという事だ。

 司馬朗と司馬孚は母を―――羨ましいと思うのであった。

 今夜の負けは認めざるを得ない感じで、司馬朗と司馬孚は意気消沈気味であった。

 

「分かりました。母様、一刀様、おやすみなさいませ……」

 

 今夜はもう多くは語らない。司馬朗に続いて司馬孚も「おやすみなさいませ」と告げ、静かに母屋の方へ去って行くのであった。

 司馬朗らを見送ると司馬防が一刀へ頬を染めながら向き直る。

 

「一刀殿、客間にてお待ちください」

 

 司馬防は準備をするため、一度『北の屋敷』の自分の部屋へ戻るという。

 

「うん、待ってるから」

 

 一刀もそう言うと見つめ合う二人は、そっと軽いキスをしてその場を別れた。

 

 司馬防は自室に戻ると、いそいそと取り寄せたばかりの悩殺スケスケ夜伽衣装を身に着け始めていた。

 そして、赤い紐の宝石の付いたお守りを貰った時の事を思い出した。

 それは応接屋敷での一度目の休憩の時だった。司馬朗と司馬恂が広間に残っており、一刀と司馬防が気晴らしに屋敷の裏手に出たときに。「これを……」と一刀は恥ずかしそうに手渡してくれたのだ。とても嬉しかったのと共にその意味に、司馬防は大事なところがジュンと熱くなってしまったのを思い出すのであった。

 

(一刀殿………あぁ……今夜は……)

 

 その女の熱い想いはもう止められないのである。

 

 一刀は自室に戻り、銀さんを呼んで寝間着に着替えた。銀さんが去った後、寝台の上に大の字に寝転び、司馬防の……夜の到来を……一昨日の晩の事を色々思い出したり、今夜スル事を想像したりしながら、固く「もっこり」しつつ待っていた。

 そんな時に、客間の折り畳み戸の扉の外から、急に声が掛る。

 

「一刀殿、水華です」

 

 一刀はその声を聞いて愕然となった。思わず固まってしまっていた。

 

(ど、どうなっているんだ……!!?)

 

 そう、それは客間の周囲の接近する『気』を探っていたつもりが……司馬防の接近が捉えられなかったのである―――。

 

 

 

(き、気が……『神気瞬導』が……使えな……い?!!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛紗ちゃん……大丈夫かな」

「……心配ない……のだ。……休むのだ……」

 

 力なくつぶやく劉備に、張飛が眠そうに言葉少なく答える。二人とも疲れが溜まり、腹も減っている状況が続いている。

 森の中で大木の洞(うろ)を見つけ、薄暗いその中に汚れも酷い服装のまま、そっと潜んで休んでいた。

 劉備と張飛は生きていた。

 だがそれは当然といえるだろう。張飛も今は一部の地域でしか名が知られていないがその武の力量は関羽に勝るとも劣らず、すでに『人中の呂布』を入れても大陸で上位三人の内の一人に入るであろう実力なのである。空腹ではあるが、手負いも無くまだ戦える状態でもあった。加えて命を掛けて殿を務めている関羽から劉備を頼まれているのだ。

 

 張飛は完全に野獣と化していた。

 

 関羽と別れたあと、急いでその場を離れ森へたどり着くため、張飛は劉備を担いで森を目指した。そして森に入るとそのまま奥へ進むと山を一気に二つ超えた。そこで小さな沢を見つけ、二人は喉を潤してさらに奥へ移動する。ここからは劉備も「自分で歩くから」と二人で歩いての移動となった。このころにはもう日がほとんど落ちていた。

 夜中も夜目が聞く張飛に手を引かれ二人は歩き続け、さらに小さい山を二つ超えた辺りで草陰に隠れて後続の様子を伺った。

 一時(二時間)程休んでいたが、追手は来ないようだった。その間に、張飛は何か食べられるものはないかと探してみる。野生児なのか、張飛はほぼ真っ暗でもハッキリと周りが見えると言う。鼻も良く利くので、疲れた体ながら色々と探してくれるのだ。

 しかし、こんなところにあるのは草類しかなかった。それも少しの量であった。穀類や肉などあるはずもないので劉備は兎も角、張飛には腹の足しになることは余りなかった。

 だが、ずっとここで身を隠しているわけにもいかず、劉備と張飛は移動を始める。

 しばらくゆっくり移動すると間の悪い事に、張飛は遠目に森の中を走って移動する黄巾党の一隊を見てしまう。奴らは松明で周辺を見回しながら移動していたのだ。それは実は、陶謙の軍に敗走させられ四方に霧散した残党の一隊であった。

 劉備と張飛はそれを、自分達を殺しに来ている追手だと勘違いしてしまうことになった。黄巾党の軍は数万はいると思われる大軍であったからだ。他にも何隊か周辺に追手が出されているに違いないと考えるのは自然な事であった。

 疲労の大きい劉備を歩かせたことと、二時間休んだことが原因であろう。しかし、もうそれを言っても意味のない事である、この後どうするかだ。

 黄巾党の一隊が向かったのは、予州魯国の方角であった。劉備は、黄巾党の討伐が済んでいる地域に脱出しようとしている自分達を、逃がさないように殺そうと追いかけて来ていると予想していた。

 そのため、このまま北の魯国ではなく、より中央に近い安全な西へ向かって移動すべきだと、張飛へと提案する。

 

「鈴々ちゃん……このまま北へ向かっても黄巾党のいっぱいいる青州に近いし、一時安全な予州西部か兗州を抜けよう……そして一度白蓮ちゃんのところに戻ろう」

 

 所持金も糧食も何もないこの地獄のような状況に、全く策もあても浮かんでない劉備は、公孫賛の助力を再度仰ごうと考えるぐらいしか思いつく事が出来なかった。

 

「……でも、愛紗は?」

「このまま敵に囲まれた状態で再会出来ても、状況は変わらないと思う」

「……分かったのだ……今はお姉ちゃんの安全が大事なのだ」

 

 関羽との再会を危惧する張飛だが、そうもいかない逼迫している事情も理解できた。

 ここから、劉備と張飛は西へ進路を変えて移動を始める。

 そして日は上りはじめ、周囲の安全を十分確認出来るようになり、大木の洞(うろ)で仮眠を取るのだった。

 一時半(三時間)程仮眠を取った後、劉備と張飛は再び山や森の中を進む、途中僅かな食べ物を探しては食べ、沢を見つければ水を飲みと、厳しいの逃避行を続けた。

 その後、どうにか黄巾党の残党に出会うことなく、夕方ごろに予州沛国北部の街道傍へ戻って来ることが出来たのである。

 

 劉備と張飛の西への方向転換は大きな分岐点となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あるひ、おかあたまがしんじゃった。

 そしたら、こわいかっこうをしたオバサンとオジサンがいっぱいきて、あたしがあるじさまだというの。

 あるじさまはえらい? ときいたら、いちばんえらいといわれた。

 こうていさまよりえらい? ときいたら、それはちがう、そのつぎぐらいといわれた。

 でもこのしゅうでは、いちばんえらいみたい。

 まあ、それでもいいかな。えらいひとはなにもしなくていいんだから。

 このしゅうでは、いちばんえらいんだから。なにもしなくていいんだよね。

 

 

 

 だって―――みやこで、こうていさまはなにもしていなかったんだもの――――――。

 

 

「雨柳(ユイルー:黄権)、蜜誕(ミータン:劉璋)さまは?」

「今日はまだ奥でお休みになっておられますよ?」

「そうか。朝一の愛らしいご尊顔を拝せなくて残念だ」

 

 張任は、黄権からの答えに美しい顔を曇らせながらそう答えた。

 

 ここは、益州蜀郡成都県の成都城内の宮殿表廊下。豪華な金銀の装飾のされた天井は高く二丈半(五メートル七十五センチ)程もある。

 この城は三里(一・二キロ)四方の宮城を中心に、さらに二重の高い城壁を巡らした三重の外郭を有し、第二外郭内、第三外郭内を二本の川が流れる広大な領域を誇り、最外郭の外周は四十里(十六キロ)に達する。城壁内には住居や街並みも多く内包している、西方ではもっとも栄えている城塞都市である。

 秘境とも言える険しい天然の要害の山々に囲まれる蜀郡を中心とした地域は、母であった劉焉が長い間治めていたが亡くなり、最近劉璋が継いだばかりだ。

 劉璋は、延々と言いくるめてくる者や説教を言う者がキライなのであった。

 母が亡くなったおり、代わりに偉くなったのでこれからは何もしないでノンビリ出来ると思っていた劉璋のところへ、多くの家臣が進言にやって来ていた。

 厳顔、呉懿らは「母上様は、ああされた、こうされた、劉璋さまはなぜ手本にされないのじゃ?」と叱るように言ってきた。

 また、法正、張松、孟達らは「こうなれると良い、こうこうこういう理由でこうされるべきです!」と無理に押し付けてくるようなのだ。

 「みんな、うるさいのよ、うるさいのよ、うるさいのよ! あたしはえらいのよ!」と劉璋は言い放ち逃げるように後宮に閉じこもるのであった。

 そのためにそれ以後、側近は非常に限られていた。現在の主な側近は黄権、張任、王累であった。

 黄権は、字を公衡(こうしょう)と言い、若い少女の文官である。劉璋に気に入られて主簿(公文書を作成)を担当しているが、おっとりとしており、怒ることも無く知識は割と豊富で助言も的確ため、傍にいる事も多いのだった。

 そして張任は、字を奉宗(ほうそう)といい、見た目は長い黒髪の美しい清楚な女性武将である。腰には装飾のされた日本刀のような細い剣を帯びている。劉璋の近衛隊も指揮しているが、成都城周辺全軍七万の兵権も統率している。劉璋にとっての攻守のかなめと言えた。

 

「変態ですね。蓮風(リンフー:張任)様は」

「なんだと、雨柳? かわぃぃモノは『宝』ではないか!」

「―――でも、朝、昼、晩と日に三回も、それに毎日ここへ来るのはどうかと思いますが?」

 

 張任に対してそう言って、宮殿奥への入口から王累が出て来たのであった。

 

「紅余(ホンユイ:王累)か」

 

 王累は、字を伯忠(はくちゅう)と言い、近衛隊の少女隊長である。背丈は六尺四寸(百四十八センチ)ほどしかなく、まだ支給された正規の鎧や武器が大きいようで、体に合っていない。それでも、戦うには問題ないらしい。腕は相当立つのであった。

 加えて王累は、劉璋にその小柄で背中ほどまで伸びるふんわりした赤毛の可愛らしい姿がとても気に入られているため、奥の寝室のある後宮まで入る事が許されているのだった。

 劉璋としては、張任は『しつこい』のが難点だが、言う事は大体聞いてくれるし、戦いには強いので頼りにはしているのである。

 

「いいではないか。わが主の元気でかわぃぃお姿を確認して何が悪い?」

「絶対、お姿を堪能してますよね?」

「してる、してる」

 

 張任のもっともだという言葉に、王累は鋭くツッコむのであった。黄権も王累に激しく頷いて同意した。

 

 劉璋は字を季玉(きぎょく)という。前漢の皇族の血を引いている。皇族は代々幼女時代から成人までが抜群にかわぃぃのであった。それは劉璋にも受け継がれていた。愛くるしさは、子猫が如く、子犬が如く、お人形が如くであるのだ。

 それは、黄権も王累も認めているが、張任は病的だった。中毒と言えるだろう。劉璋症候群と言ってもいい。一日三回の処方が必要な模様だ。

 

「ああ、蜜誕さま、ミータンさま、ミータンさま、ミータンさま――――」

「う~~~~~っ、うるさいのよ、蓮風(リンフー)! むこうまで、きこえてくるんだからっ」

「はぁぁぁぁぁ、蜜誕さまぁぁぁ♪」

 

 怒りの主の登場にも、張任は思わず満面の笑みで破顔していた。

 

 

 

 これが、この外史の………………忠臣張任であった。

 

 

 

つづく

 

 

 

 




2014年09月26日 投稿
2014年10月24日 投稿
2015年03月19日 文章修正(時間表現含む)
2015年03月22日 八令嬢の真名変更
2015年03月29日 文章修正



 解説)県における警察署長的な役職
 いまさら感ですが、県尉というようです。
 県・侯国の武官で盗賊などを取り締まる。



 解説)太守からの使いの席順。
 上意下達であるので、使者として県令に伝えに来た昼前の謁見時には、県令の王渙が下座にて礼をとり通達を受けていたが、それが済んでいる夜の宴では客人の一人という立場となっている。



 解説)リバース
 往年の人達には懐かしい響き。
 これ以外に前兆の無い「オートリバース」、二回目以降や二人同時も指す「ダブルリバース」という言い方もあるとかないとか……。



 予想)立て膝の●イパン姿
 ●の部分には、きっと「か」「き」「く」「け」「こ」が入るんだと……(笑



 解説)王累の字
 史上では伝わっていないので「ねつ造」です。





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➋➍話

 

 

 

(―――周囲の気を感じ取れない?!)

 

 一刀の頭は、当たり前になっていた気を探るという事が上手く出来ない状況に、一瞬真っ白になりかけていた。

 

「一刀殿? 水華ですが」

 

 そんな一刀へ再び、客間の折り畳み戸の扉の外から司馬防の声が掛った。一刀は大の字になっていた寝台から反射的に少し起き上がる。

 

「あ、ああ。……どうぞ……」

 

 しかし、その一刀の声は動揺のため僅かに震えていた。

 いつもの一刀なら、人の『気』は建物や植物よりも圧倒的に強いため捉えることが容易である。なので精神を集中して物体から発せられる気だけで、完全に情景を捉えていなくても接近が分かるのだ。そのため一刀は先ほどから、客間の周囲に対しての人の気だけを探るようにしていた。

 そのはずであったが……完全に気を捉え損ねていた。いや、気が全く探れていなかったのだろう。それが意味するところは―――。

 客間の扉を静かに開けて、司馬防はゆっくりと部屋へ入って来た。そして扉を閉めると一刀が横になっている寝台へ頬を染めながら、布団の上に起き上がっている一刀の顔を見つつ近づいて行った。

 だが、その一刀の様子が少しおかしいのであった。

 それはこれから始まるであろう、二人の熱く激しい夫婦的な子孫繁栄行為への期待や緊張に対してなのかと思ったが、彼女はここ数日一刀を見ていてそうではないことに気が付く。そしてその一刀の顔は真剣な表情をしていて、彼の視線は静かに両の腕へと落ちていた。

 

「一刀殿……どうかされたのですか?」

 

 司馬防は心配そうに彼へ声を掛けた。

 一刀は―――なんとか少し落ち着いてきていた。

 咄嗟に基本へ返り、自分に流れる気を捉える確認をしていたのだ。今はちゃんと気の流れは『視え』ている。ぐっと気を入れてみると『剛気』から『硬気功』も出来ているし、部屋の中の情景や、目の前の司馬防の体も『気』の流れの細かい所まで目線を向けなくても捉える事が出来ていた。

 

(じゃあなぜ……。今後『気』が……『神気瞬導』が使えなくなるとか洒落にならないぞ)

 

 一刀は『超速気』にて自己感覚の時間を引き延ばして現状を検証する。

 ここで一刀はある箇所の体の変化に気が付いた。

 

 『もっこり』が萎えてしまっていることに。

 

(いやいや、ちょっと待て。以前も『もっこり』の最中でも『神気瞬導』に問題は無かったはずだ。なぜ、今回だけ……)

 

 その時ふと一刀は思い出す。

 ここ数日、気が捉えられないことが何度かあった事を。これは何か……嫌な予感しかしないのだが……そう『条件』があるのではないだろうか?

 そして、考えが辿り着くのだった―――そのとき何を思っていたのかを。

 

 

 

 『●●と熱い、激しい子作り行為がしたぁぁぁぁーーーーーい!』

 

 

 

 そう思っていた事を。そして、●●に入る対象が……雲華以外であった時に限ることを……。

 

(うおぉぉぉーーー!? こ、これは……まさか……………)

 

 一刀は改めて気付く。雲華が『悪魔』さまだったということに。いや、もう天に召されたし(現実は違うが)、これは……『魔王』さまにランクアップしてもいいよね?

 もう、おわかりいただけただろうか?

 

 雲華は、自分以外の女との意志のある子作り行為(究極の愛情表現)由来の『気』に対して『(一刀、死ねばいいのに!と致命的になりかねない)なんらか』の足枷を付けていたのである。

 

 そして―――それと共に一刀は雲華と別れる直前の事を思い出す。自分の決意していたことを。

 

 自分が『一人前になる』旅に出ようとしていた事に。

 

 雲華はそれに対して言ってくれた……『待ってる。君との楽しい思い出と一緒にずっとずっとこの家で待ってるから』と……まさに、想いの籠った言葉だった。思い出すと涙が流れそうになる。

 しかし、彼女の言葉は―――『待ってる』とは『逃がさない』と同意である!

 彼女は足枷により『神気瞬導』が弱まる、もしくは影響(最悪、術の喪失)が大きくなると、一刀は泰山に戻って来る可能性が高くなる……いや、帰らざるを得ない状態になると考えていたのだろう。

 一刀も彼女の性格から『逃がさない』という事は当然分かっていた、分かり切っていたのだ。

 いや、あのときはそれで全然良かったのだ。雲華の事が好きだったのだから。『俺が逃がさない!』という思いであったから。

 

 しかし今は―――足枷『だけ』が残っているのと言える。

 

(…………………マジか?)

 

 『超速気』の時間感覚で二分ほど固まっていた一刀だった。そして、呪縛が解けるように動き出す。彼はふと重要な事に気付く。きっと雲華と過ごした時間に教えてもらった大事な事なのだ。

 

 それは一刀の矜持と言える。

 

 

 

(俺は今もう――――――『一人前』なのか?)

 

 

 

 それは…………断じて『否』である。

 自分が『一人前』だったら、雲華もこんな足枷を付けたりしなかったかもしれない。

 

(そんな……そんな半人前の俺は……今から何をしようとしていたんだ? 雲華はもういないけど、水華殿や優華達とは相思相愛かもしれないけど……、湯殿での桃源郷は間違いなく『天国』なんだけど! ―――『一人前』とはなにか。確かに盗賊らは倒して街は守ったよ、立派なことだ。だけど、たまたま司馬懿の情報やみんなの協力があればこそだった。それに賊討伐は『人として』という話だ。『一人前』とは違う。それを宴に招かれたり……皆にちやほやされて。……間違いなくここ数日、好意を受けている司馬家の高貴で豪華で贅沢な生活に浮かれていたんだろう。だいたい日々の『神気瞬導』や剣術の、そして『漢字』の読み書きの修練はどうしたんだ? ……調子こいてんじゃねぇぞ、俺! それに雲華の敵を討とうと言うヤツが、いつまでも見えない敵にうじうじビビってんじゃねぇ! 来るなら来やがれだ! そして―――)

 

 一刀は両手の拳をゆっくりと、そして力強く握り絞めながら新たに思う。

 

 

 

(……雲華の敵を討つまで死ぬわけにも、雲華が命まで掛けて教えてくれた『神気瞬導』を、今絶対に失うわけにもいかない―――!)

 

 

 

 一刀は『超速気』を解き、下を向いていた顔をゆっくりと上げる。

 寝台の傍に司馬防が静かに立っていた。彼女は今夜も綺麗であった。髪を全て下ろし花の髪飾りをし、見事な打掛を羽織っている。花飾りと打掛は毎夜違うものを身に着けてくれているのが分かる。その顔は恥ずかしいそうに頬を染め、可愛いのであった。いい女なのであった。一刀は気持ちの変化にも関わらず、思わず女の子な香しい匂いにクンカクンカしてしまうのだ。

 先程、廊下で別れた時の互いの想いはひとつであった。

 だが一刀の考えは……今の気持ちは少し変化を見せていた。

 司馬防は、女として一刀の表情から先程と違うものを感じ取ったのであった。だが、それはイヤな感じのものではなかった。

 一刀の目と彼の雰囲気からは何か、これまでに無かった湧き上がる力強さを感じていたのだ。

 しかし、彼女は今日の自分の願いが少し遠退いたのも感じるのであった。

 

「水華殿、俺は大事なものを改めて思い出しました。俺はここへたどり着く前に決めていた事があったのです。それは俺にとっての重要な男としてのケジメでした」

 

 司馬防は静かに穏やかな表情で話を続ける一刀を見ている。

 

「貴方と熱く一つになるには……俺はまだまだ未熟です。俺はもっと修練を積み成長し、自分で考え行動し、結果が出せるようにならないといけない。そして少なくとも自分の納得できる、武に頼りすぎる事のない仕事を持ち、投げ出すことなく継続して日々それを熟し、それによって糧や財を得て、自らで己の住む居を構えなくちゃいけない。それは大きくは無くも。そして……(アイツの敵も―――)……だから今は……」

 

 一刀は、今の今まで司馬防が期待で高まっていたであろう気持ちを嬉しくも申し訳なく思い、いつの間にか力強く握り絞めた拳へと視線を落としていた。

 すると司馬防は、寝台の上へ静かに座り靴を脱ぐと、一刀の横へ近寄り、彼の握った拳の上へ優しく自分の手を置いてゆっくりと話し出す。

 

「一刀殿……我が司馬家にはすでに屋敷や十分な蓄財と力があります。でも貴方はそう言ったことにはこだわりなく、それだけの武を持ちながらも、謙虚で真っ直ぐで。そう言ったところに私……そして娘達も魅かれているのでしょう。貴方は武人なのですから、思うまま力強く歩んでほしいの。でも……貴方を満足させられる私の女としての時間は、もうそんなに長くありません。長くても数年……せめて一年ぐらいは残していてくださいね」

 

 そう言うと、司馬防は一刀へゆっくりもたれ掛かると肩へ頬をスリスリとしてきた。一刀は司馬防のいじらしさにグッとくるのであった。一刀も思わず寄せられてきた彼女の頭に顔を寄せ、髪へ優しくスリスリやナデナデしてしまっていた。

 そんな優しく自分に接して来てくれる一刀へ、司馬防は嬉しそうに鋭い想いをあっさりと確認してくる。

 

「でも、一刀殿……熱く一つにならなければ、イイんですよね?」

「…………………………………えっ?(それは……確かに)」

 

 

 

 ――――――いいかも。 (いやいや、イカンでしょう)

 

 

 

 一刀の中の『正義』を名乗る強欲な悪魔な想いと気の引けた天使的な思考が、言葉を合わせて聞こえたような気がするが、一刀と司馬防の『一つになる一歩手前』な熱い夜は更けてゆく……………いや、現実を見るとそうもいかなかった。

 熱く激しく一つになるのなら、司馬防は多少の寝不足も無理にでも頑張れたと思うが、明日も朝から周囲の街からの訪問客で大変になることは分かっていた。

 そのため二人は、同じ臥所に入るも暫しの間、懲りずに互いを軽くサワサワナデナデだけする内に、疲れと心地よさからか共にスヤスヤと眠りに落ちてしまっていた。

 ちなみに、司馬防が布団へ入る直前に打掛を脱いで見せてくれた下の、取り寄せたスケスケ夜伽衣装がスゴかった……黒のテディ風で、胸から腰までの一体型だが、湯浴み着よりさらに布が少ないにもかかわらずスケスケの前部分しかなく、お尻と胸の後ろはTバック風な紐状の布と結び紐だけであった……。余りの桃尻とおっぱいな光景に、一刀の『もっこり』は再発動してしまい、一瞬固い決意が飛びそうになったのは言うまでもない。

 

 それなりに二人の夢の中の夜は更けてゆく…………。

 

 

 

 

 卯時(午前五時)の前辺りから、司馬家の使用人達は動き始める。主(あるじ)や家族の世話への準備と厩舎の飼葉や掃除をするためだ。早番と遅番があり、使用人達全員が早く起きるわけではない。

 一刀はその彼女らの気を捉えると、目を覚ます準備に入った。鈍った体を再び鍛えようと考えていたのだ。そうと決めたら一刀は即実行に移す。

 一刻(十五分)程布団の中で、使用人長の銀さんの準備が整うのを待っていた。彼女は一刀の世話をしてくれるが専任と言うわけでは無く、当然他の自分の仕事も持っているのだ。彼女は毎日、朝早くから起きていて夜も結構遅く、また部下への指示やフォローもしなくてはならないのだ。そしていつも思慮深く手を抜くことなく、笑顔で事に当たってくれているのであった。

 すぐ近くの周りにいるこういう姿が『一人前』なのだなと一刀は思っている。

 一刀のすぐ横ではまだ、司馬朗が静かに眠ったままであった。一刀はそっと布団の端に寄り、靴を履いて静かに寝台を後にする。寝台横の『呼び鈴』を取ると折り畳み戸の扉のところまで移動し、扉を少し開けて隙間から手を出すと『呼び鈴』を出来るだけ小さく鳴らした。

 すると、結構耳の良い銀さんが静々とやって来たので、一刀は扉の隙間から寝床の司馬防を指すと小声で話す。

 

「ギリギリまで寝かせてあげたいんで、他の部屋で着替えたいんだけど。あと少し体を動かしたいので木剣のような物と、身軽で汚れても良い服を」

「畏まりました」

 

 一刀は銀さんからそのまま隣の客間へ通されたので、そこで少し待つと彼女が持ってきてくれた服に着替えさせてもらった。

 その後、一刀は客間を出るとまだ薄暗い庭の中を進む。四か月程の放浪の間も特に修練をしていない(した記憶もない)ので、自分から行なうのは随分久しぶりと言える。屋敷の西側に広がる広大な庭の離れたところにある司馬敏と朝の稽古をしたあの小さめな竹林へ、その中の静かな空間へとやってきた。

 一刀は、軽く体を伸ばしたりと柔軟体操のような準備運動をする。

 雲華や木人くんと修行をしたときは、ほぼいきなり対戦に突入していた。確かに実戦は準備運動なんてする暇はないだろう。そういえば、司馬敏の時もいきなり始まったなと思い出していた。

 とは言え、一刀は一刀である。両肩を回し、首を回し、足の屈伸や背伸びをして一通り準備運動をしてから修練を始めた。

 そして、貸してもらった木剣と刃の潰された剣を、肘を伸ばした状態で右手と左手にそれぞれ持つ。今は周囲の『気』は探っているが『剛気』を解いているので、それぞれそれなりに少し重たく感じていた。

 『神気瞬導』で力を発揮するには、基礎体力を向上させることが望ましい。なぜなら、その向上した分も加えて『神気瞬導』で強化、倍加されていくからだ。なので、一刀は『速気』や『剛気』を使わない状態にて、両手でそれぞれ剣を数分の間、振り続けてみる。

 一刀は自分の剣(つるぎ)については、軽く丈夫なので『日本刀』のように扱っている。だが、雲華と別れる前の数日間に、剣や刀に付いての基本的な扱い方も改めて聞いていた。なんと言っても大陸には大陸風の剣使いが多いのだ。相手の武器の特性をきちんと知ることが肝要なのである。

 大陸の剣は長い剣身と両刃が特徴で、切り払う事も出来るが刺すことが主な目的だ。片側にしか刃がなく、鍛錬された細い刀身を持って目標物を素早く断ち切る『日本刀』とは大きく異なるのだ。もちろん大陸にも『刀』は多く存在する。しかし刃が広かったり、うねりも大きい形の柳葉刀風が主流で、重量と遠心力をつけ斬りつける形で威力を発揮する。初めて一刀が『超速気』を使った日に、木人くんが槍から持ち替えて使った実剣は南刀に良く似た刃が広めで真っ直ぐな片刃であった。

 そんないろいろな剣の扱い方を思い出しつつ、途中で左右の剣を持ち変えて振るう。

 やはり、放浪でかなり痩せたことで、筋力まで結構落ちているため基礎体力だけの運動は想像以上にキツいのであった。身長が百七十五センチ以上ある一刀は、元々の体重が六十六キロほどあった。それが今は、本人は正確には知らないのだが五十七キロほどになっている状態なのだ。

 幸い司馬家では食事には不自由しないので、鍛えていればそのうち筋肉は戻って来るだろうと、そう思って一刀は剣の修練を続けていく。実際に司馬家に来てからすでに一キロ以上は戻って来ていた。

 一刻(十五分)程すると、それなりに全身へ筋肉疲労を感じてくる。一刀は体が相当鈍っているなと強く感じていた。先日の司馬敏との剣練ではずっとクンカによる『無限の気力』もある上で『速気/超速気』を使っていたので、その時は軽めに歩いているぐらいの疲労感覚だったのだ。

 今日もすでに朝から司馬防の香りをクンカしての『無限の気力』で気が満ちているので『瞬間回復』を使って、普通の運動による筋肉的な疲労をほぼ元に戻していった。

 一刀は筋肉疲労をそうして一瞬で取ると、両手の剣を傍らへ置き、辺りを見回す。すると直径五寸(十二センチ)ほどの結構太目の伸びた幾つも並んだ竹を見つける。次は全身の筋力をバランスよく付けようと、その竹の一本に登りはじめた。木登りは自分の体重を使って、腕と足と腹筋と背筋や心肺機能等、全身を同時に鍛えることが出来るのだ。ただ木の場合は上の太い枝で休めるが、竹の場合は枝が細い上に上部にしかなく、登りはじめると降りるまで普通なら休むことは出来ないので少し注意が必要である。一刀の場合は疲労した場合でも途中で『瞬間回復』によって回復できるので問題ないのだが。

 そして、竹は樹木よりも表面が滑らかな為に掴みずらかった。それは握力とともに挟み込む腕力や脚力も必要なのだ。実に良い運動である。

 二丈半(六メートル弱)ほどまでを登り降りすると、一回でも相当な全身への負荷になっていた。『剛気』を使って登り降りすれば、百回行ってもこれほどの疲労にはならないだろう。

 一刀は疲労回復と登り降りを十回ほど繰り返していた。

 

 そんな時、早起きな司馬敏が遠目に一刀を見つけたのか「おはようございまーす! 兄上様ーーー!」と呼びながら嬉しそうに駆けて来た。

 一刀も「おはよう、小嵐華」と返す。すぐに司馬敏は笑顔で尋ねてくる。

 

「兄上様は朝の修練ですか?」

「ああ。皆には朝食のときに改めて言うつもりだけど、いろんな意味で自分を鍛え直さないといけないなと思い出したんだ。ここ数ヵ月で随分体が痩せ衰えてしまっているから、まず体力を元に戻しつつ基本を思い出して修練をやらないと」

「そうですか。でも、いいことだと思います! まずは体が資本ですから!」

 

 元気の良い司馬敏らしい意見だった。だがそのあと、司馬敏には珍しく少し頬を赤くしておずおずと聞いてくる。

 

「あの……、それは母上様との……それとこれから私達姉妹との……つまり、その……」

 

 元気が取り柄の司馬敏ではあるが、女の子として『それ』は言い難そうであった。だが結局一刀には元気に言ってくれる。

 

「……兄上様はそこまでして『子作り』を頑張りたいのですね! 私達を相手に全力で『したい』んですね!」

「…………………………」

 

 イロイロ『したい』のは否定しないが、今回それは違う。

 一刀はそう思った……。

 

 一応、司馬敏には体力を元に戻すのはそれ(子作り)とは別の事で、理由は後で話すからと告げて体の鍛錬に戻った。それでも「わかりました! でも子孫繁栄に体力は不可欠ですよね!」とあくまでも持久力関係に期待しているようであった。

 話題を変えようとふと、一刀は自分のやっていた事を聞いてみる。

 

「竹登りやってみたよ。シャオランはしたことある?」

「得意ですよ! やってみましょうか?」

 

 そう言って、あっという間にするすると身軽に登っていき四丈半(十メートル)ほどの高さまで到達すると手を振り、隣の竹に飛び移ってそして一気に降りて来た。

 どう見ても、一刀とは基本の身体能力が違いすぎると改めて思ってしまった。

 司馬敏は『神気瞬導』を使っているわけではないのだ。今もケロリとしている。雲華も元々の身体能力が高かったのを思い出した。この時代の武の達人たちは凄いのである。

 しかし、一刀も気を取り直す。竹登りにもコツがあるはずで、そして体力が戻れば多少は速く登れるはずだと考えた。

 

「うまいもんだな。慣れてるのか?」

「遊びが少ないですから、小さい頃から登ってました! でも、母上様や優華姉様からは司馬家の令嬢が余りするものではありませんと言われて、ここ三年ほどは登っていませんでしたけど」

 

 ニハハと司馬敏は、薄緑の扇状の髪を揺らしながら苦笑いする。

 それから一刀と司馬敏は、折角一緒だしということで共に剣の練習をはじめる。

 これは一刀にとって重要な『正義』の名の元でのクンカタイムでもある。昨晩は朝まで司馬防と一緒に寝ていたので、クンカプレミアムタイム継続中と言ってもいい。

 ゆえに『無限の気力』も継続中なので気が不足することはない状態だ。

 一刀は、司馬敏が身体能力の高さから目や剣速による攻撃にまだ頼っていると司馬懿が言っていたのを思い出す。

 そこで、多少ゆっくりな剣舞形式で、敵の攻撃に対してどう受けるべきか、反撃するべきかを考えながら対戦することにした。考える攻守者は強いからだ。一刀はそれを普段からやっておく事が実戦での助けになると思っている。

 慕う一刀の提案と先日の実戦を見ていたこともあり、司馬敏は受けてくれる。彼女も一本、刃の部分を潰した剣を持ってきていたので、互いにそれを使い暫しの間、あまりスピードのない形で攻守の手を考えながらの練習となった。

 しかし、司馬敏も『司馬家』の一族なのだ。頭を使った攻撃ができないわけがない。巧みに柄や肘、膝なども組み込んでの激しい応戦ぶりで、技的なものでは完全に武の才で劣る一刀は防戦側になってしまうのであった。

 練習なので当然、司馬敏も寸止めしてくれるわけで、一刀としても彼女の攻撃が万一当たってもいいように、急所へは強めに『剛気』は掛けていたので怪我等の問題は特になかった。同時に『速気』についても途中で強弱を確認しながら、体へ部分的に掛けたりを繰り返しながら『神気瞬導』の現状の具合を確認していた。

 一刀としては、司馬敏へこれまでの雲華や木人くんとの修練での経験も取り入れ、復習するように剣術の攻撃で応戦をしたが、司馬敏の見せた肘や膝を連動させた攻守の戦いも新たに良い参考になった。司馬敏も一刀が繰り出す雲華や木人くんの使っていた高度技には考えながらの対応を見せていた。

 一刀が技比べ的な剣舞で苦戦するのは、司馬敏に比べるまでも無く彼自身が『神気瞬導』による、速度と膂力と頑丈さへ思い切り頼った武なのだから仕方のないところではある。一刀としては剣速に頼る傾向の司馬敏へ対してと言うのもあるが、より自分が剣技への新しい発想を取り込むことを重要視していたのだ。例え司馬敏に、持ち技面や武人の才では「ん、アレ?」と物足りなく思われようとも。

 その対戦を半時弱(五十分程)続けると、少しずつ朝食の時間に近づいて来たので、二人は竹林を後にして客間の所へ戻ってくる。

 司馬敏も「少し汗を拭いますので!」と言って、一刀の客間前の廊下で分かれ自分の部屋へ戻って行った。

 竹林を出た辺りから『気』で分かっていたが、すでに司馬防は起きていて一刀の客間の寝台を後にしていた。一刀は部屋の中へ入り、銀さんを呼ぶと自分も汗を掻いた体を拭いつつ普段の室内服へ着替える。

 司馬防について銀さんに聞くと、卯時正刻(午前六時)ごろまで休んでいたと言う。

 今の時間はそれを二刻強(三十分)過ぎた(午前六時半)ぐらいか。朝食は辰時を一刻程過ぎた(午前七時十五分)辺りから、『食堂広間』へ司馬家の面々が揃い始めるのでまだゆっくり出来る時間はあった。

 銀さんへ着替えの礼を言うと、一刀は客間の廊下を南に『寛ぎの広間』の方へ移動してみる。

 一刀が広間へ入ると、そこにはすでに司馬懿や司馬孚と司馬馗、司馬恂、司馬進、司馬通が起きて来ていて、長椅子に掛け少し呆れ気味な顔の司馬懿を中心に集まってワイワイとしていた。

 そして何かを一斉に引くと各自は棒の先を見てガックリとしていた。

 そのタイミングで一刀が「おはよう」と皆に声を掛けると、司馬孚達は一刀へ気付き「お(ぉ)はよう(ょぅ)ござい(ぃ)(~)ます(ぅ……)」と少し気落ちした雰囲気で返事をくれると近寄ってきた。

 司馬懿も長椅子に座ったまま、苦笑いをしながら「おはようです」と返してくれた。

 皆が何をしていたのかと一刀が尋ねると、『食堂広間』の円卓で一刀の隣に座る位置決めのくじだと言う。

 『当落』については中立な司馬懿が管理していて、くじは九本の長めの棒の先に『右』『左』と書かれているらしい。さらにどの棒かを覚えても意味がないように毎回、『右』『左』を書き換えるらしい。司馬懿は知っているので最後に残ったものとなるルールだ。

 あと残り四本。当たりは二本と確率は五十パーセントだ。

 

 司馬孚が一刀をふわふわで広めな敷物の上へ、靴を脱いて手を引いて招き横へ体をくっ付けて座らせると、その周りに下の四人の姉妹達も靴を脱ぐと、続いて座ったり寝転んだりして寛ぎ始めた。一刀の周りへは朝から壁際に並ぶ窓扉の格子より風が僅かにそよぎ、女の子が甘く匂い立つのである。もちろん一刀は静かに息を無段階のスローリーな深呼吸に切り替えていた。絶好のクンカタイムと言えよう。

 そこで司馬孚は「あの……昨晩はその………お楽しみで?」と頬を染めつつ小声で一刀に聞いてくるのであった。その小声に耳を立てるように、周辺の四人の妹達も一瞬できゅっと一刀への包囲距離を縮めてきた。

 一刀は自然な感じに答えた。

 

「いや実は、朝食の時に話すけど、自分にとって大事なことを思い出してね。それに今日も大変だろうから割と早めに寝ちゃったんだよ」

 

 司馬孚は『割と早め』という言葉の意味を多重に思考したような間を開けつつも、朝食時にするという『大事なこと』の話も聞かなければと「そうですか」と一応納得の言葉を返してくれた。下の四人の姉妹達も同じ気持ちのような顔を一刀へ向けていた。

 一刀は「ははは……うん、そうなんだ」と言ってその場をやり過ごすしかなかった。

 そこへ、広間の入口から着替えてきた司馬敏が入ってきた。すると司馬懿の持つ細長い筒を見つける。

 

「おはようございます! あ、席のくじ引きですね!」

 

 早速、司馬敏は司馬懿の所へ行き、細長い筒に入っている棒を元気よく引き抜いた。

 

「あ!……ぁ」

 

 司馬敏は元気が……一瞬無くなった。ハズレたのだ。彼女は司馬懿の座る長椅子へ無念そうに崩れ落ちながら腰掛けた。

 くじは残り三本で当たりは二本となる……。

 

 さて、一刀は皆に聞きたいことがあった。一刀が今日から始めようと考えているのは武の修練だけではない。

 そう、漢字の読み書きの事だ。

 そして……それには先生が必要なのである。幸いと言おうか、ここは司馬懿のいる『司馬家』なのだ。早速聞いてみる。

 

「この家で一番記憶力がいいのは誰かな?」

 

 雲華は、一刀の回答を全て覚えており、どこを間違え覚えていないのかを正確に完全に把握していた。あれと同じことが出来る人間がそういるとは思えないが、一刀はとりあえずそう聞いてみた。

 すると、司馬懿が答えた。

 

「一応、私か。十二万文字ほど書かれた竹冊を一番早く覚えたはず」

「そうですね。いつも通り一度捲っただけで覚えていましたね。私もそうですけど。でも――――その日の内には姉妹みんなが覚えていましたよね?」

「ああ」

 

(…………………はぁ?)

 

 司馬懿と司馬孚の会話に一刀は付いていけない。

 そんなバカな…………いや、バカは俺だけ? そんな気持ちになった。

 

「そのあとで、一万文字目は何かとか百頁目の一行目を全部書き出せとかやって確かめたからなぁ。幼達が一番遅かったな」

「すみません! ですが、あれは三十年ほど前の司馬家の家計簿と収穫記録でしたよね? 丸覚えも得意な、明華姉上様や蘭華姉上様はすぐでしょうけど」

(…………………物語や文脈が無い、漢数字の羅列だがら一番覚えにくいパターンじゃねぇか! 聞いた俺がバカだった。司馬家って司馬懿以外もみんなすごいじゃないか! なんで、俺は司馬懿だけしか名を知らないんだろう?)

 

 つまり、先生は誰でもイイらしい。

 

「よーくわかったよ。えーと、みんなで勉強会をやってるだろ?」

「はい、時間が空いたものは午前中にここに集まってやってます。将来に備えて、軍略、経済、土木建築、行政、治安、災害対策等、幅広く文献を元に知識を付けたり、議論や課題などもやっていますけど。もしかして一刀様も参加されますか?」

 

 横の司馬孚が答えてくれた。だが、内容からしてこのメンバーに付いていけそうにない。一刀はとりあえず、目的を述べる。

 

「えーと、実は漢字の読み書きを習いたいんだけど、誰か教えてくれないかな。基本的な文章や手紙を書くために以前千五百字ほどやっていたけど、少し忘れてるしまだまだだから」

「では、私がお兄様に教えたいです」

 

 すぐに司馬進が起き上がって、一刀の正面へ座り直すとそうハキハキ言ってきた。それに続くように司馬通も司馬進の横に寄り添うよう静かに座る。

 

「……ぁの、…………ぉ手伝ぃしますぅ………」

 

 すると、その様子に司馬懿が今ここの年長者として纏めるように話し出す。

 

「そうだな、漢字博士の白華(パイファ)が適任だな。論戦ですべて言い負かす為の、意味合いや例文の知識も豊富だからな。私もなかなか苦戦する。思華(フーファ)も手伝うといい」

 

 司馬進の弁舌はすごい才能みたいだが、使者には向かないようだ。相手についての感想をすべてハッキリ言ってしまうだろうから。

 司馬通の才能はまだよく分からない。だが、いかに高くともこの時代では人前に出て自分の意見をはっきりと伝えられなければ、良い主に巡り合い認められよく働く事は出来ないだろう。だが、彼女には姉妹達がいる。いずれかの補佐をすれば十分なんとかなるだろうから心配はなさそうに思う。

 

「じゃあ、白華、思華、お願い出来るかな? 手間を取らせるけどよろしく頼むよ、可愛い先生方」

 

 一刀は前に座る二人の手をそれぞれ握ると笑顔でそう声を掛けた。司馬通と司馬進は頬を染めながら頷いた。

 そんな一刀からの行為を見て、一刀を囲む残りの司馬孚を含めた姉妹達が羨ましく思い「わたしも」と言い出すのだった。だが司馬懿が「そんなに教えたいなら私にどうだ?」と言って引き下がらせていた。

 漢字の先生も決まり、ひと段落したところで皆が少し雑談をしていると、司馬防が笑顔で広間に入って来た。

 

「おはようございます、一刀殿、娘達よ」

 

 司馬懿を初め姉妹達は皆立ち上がって、母へ礼を取り挨拶する。一刀も立ち上がって「おはようございます、水華殿」と挨拶をする。

 司馬防は一刀のところまで来ると、「今朝はありがとう、良く眠れましたわ」と時間ギリギリまで睡眠が取れたことにお礼を伝えると、司馬懿の横に空いている椅子へと優雅に座る。そこで司馬懿の傍に置かれてある、筒に入ったくじとハズレの六本を見つける。

「あら、今日はくじの日なのね……」

 

 司馬防は少し悪戯っぽく微笑むと、「ねぇ一刀殿、私の分を引いてくださいな」と可愛くお願いしてきた。

 娘達は皆、その手があったかと言う表情をするも、すでにハズレを引きあとの祭りな感じだ。

 一刀は靴を履きながら「本当に俺が引いていいの?」と確認するが、司馬防はニッコリとしていた。……間違いなくハズすと機嫌を損ねそうだ。

 司馬懿の座る長椅子へ近付くと、一刀は彼女が改めて持ち上げた筒に入っているくじ棒を一通り眺める。確率は三分の二となっている。当たり二本にハズレを含む状態では最高に高い当選確率の状態だ。

 一刀は悩む方がダメだろうと、あっさり引いた。

 

 …………ぁた……………らなかった。

 

 ハズレであった。

 朝の『寛ぎの広間』であるはずか寛げなくなった瞬間だった。

 

 

 

 あっさりと皆、『食堂広間』へ移動した。一刀は『寛ぎの広間』を出る時に司馬防から手を握られながらも、「もぉ」とお尻をボンと軽くぶつけられてしまった。

 そのあと食堂広間の入口近くで家内の朝の指揮を取っていた司馬朗が、一刀らへ挨拶をしながら司馬懿の持つ筒から最後に残った二本のくじから『右』を引いて一刀の左右の席が誰か決定する。残った『左』が司馬懿となった。

 司馬家の面々は順次、卓上へいくつか見事な花の飾られている円卓に座りはじめる。一刀の正面の席は司馬防に陣取られていた。そしてずっと些か陰のあるニコやかな笑顔を向けられてしまう。母上様はお怒りですと娘達は皆含み笑いを浮かべながら一刀から目線を外していた。一刀の右側の席へニコニコと座ろうとした、そんな事情を知らない司馬朗は「??」となっていた。左の席に座る司馬懿のいつも眠そうな表情は変わらない。

 全員が席に着いたところで使用人らによって朝食が静かに運ばれ並べられる。その間に司馬朗もやはり昨晩の一刀の事が気になるのか、一刀へそっと顔を寄せて来ると小声で「あの……昨晩はその……どう……でした?」と聞いてきた。一刀がどう答えようかと思った丁度その時に、司馬朗の所へすでに応接屋敷の門の前へお客が並び始めているという使用人の伝言が届いた。

 今日も一刀は余りノンビリする時間は無い模様だ。だからこそ、今言っておかなければいけないと一刀は考えた。

 食事の配膳が滞りなく終わり、食事の挨拶が始まるかと言うときに、一刀は皆に声を掛けるように話し出す。

 

「みんな、食事の前に聞いてほしい事があるんだ」

 

 一刀のこれまでになかった強い雰囲気に皆、少し緊張する。そして皆の視線が一刀へ集まった。

 

「昨日の晩、俺の中に重大な事が起こったんだ。そして、その事で俺にとって重要な事を思い出すことが出来た。それは―――以前から、そして今も俺がまだ『未熟な存在』だったということなんだ。だけど、皆はそんな俺を大事にしてくれて……そのことにまず感謝を。建公殿には言ったけど、だから俺は男のケジメとして、そんな今の未熟な状態で、その……『子作り』は出来ないって。俺はより研鑽に励み、早く自分で多くの事を考え判断して色々な課題を解決出来るようにならないと! それに加えて自分の仕事を見つけて、それを立派に続けながら蓄えや住むところを自分で揃えなければダメなんだ。これは俺が決めていた『一人前』になったって事なんだ。もちろん、今の俺は漢字を覚えるにしても、武の修練にしても、先日のような大きな物事にしても……今は皆の協力がないと達成は難しいと思う。だからこれからもよろしくお願いします」

 

 一刀は目を閉じ、少し頭を下げていた。

 

(それは、俺が自分の行動に常に責任が取れるようになるために……。

 あの最後の日、俺を庇うように致命傷を受け、「俺の所為で」と呟いた俺に雲華は言っていた―――『違うわ。これは、私が自分で選んだのよ。人の所為するような道を歩いた事なんて、今までに一度もないわ』

 あの言葉を俺は一生忘れない。

 あんな後悔の無い、自信をもった人生を俺も歩みたい。雲華のように)

 

「一刀殿……少し謙遜と遠慮が過ぎますよ―――私達、家族に対して」

 

 司馬防の声と表情は―――少し怒っていた。司馬朗を初め、周りの娘達も頷いている。彼女の言葉は続いた。

 

「それに言ったはずです、『司馬家』は貴方の味方だと。一刀殿は一言男らしく言えば良いのです『力を貸せ』と。それに貴方が先日成し遂げた事は決して小さなことではありません。沢山の人の命と財産を守り、敵(かたき)を討ったのです。それは並みの『一人前』の人間では到底成しえないことなのですから。ですが話は分かりました。私の気持ちは昨晩、一刀殿へ伝えましたし、一刀殿はご自分が納得出来まで励むのも良い事だと思います。もちろん可能な限り皆で手を貸しますから。それと……『子作り』をしなければいいんですよね?(今は、ちゅっちゅやペロペロやくりくりがあれば……ウフフ♡)」

 

 横で静かに目を瞑っている司馬懿を除く全員の熱い視線が一刀へ集中する。

 

「………………………………そ……そうかも(……多分)」

 

 皆の無言の圧力と……苦笑いを浮かべる一刀の心の底に一杯ある『期待』と『正義』がそう言わせていた。

 「はぁぁ」「んふふ」など、姉妹達の間に安堵や喜びの反応が広がった。

 

 一刀の話で些か時間も経過していることから、それからいただきますの挨拶のあと、幾分急ぎ気味で一刀と司馬防と司馬朗は食事を終えると、接客用の着替えを行って応接屋敷へと向かっていた。

 ただ今日からは、ずっと応接屋敷に居るというも大変だというので、朝は一時間置きでの接客で、昼からは昼食込みで二時間ごとに一時間休憩という感じで、日没前までを予定していた。

 つまり、接客予定時間はおおよそ以下の通りになる。

 辰時正刻(午前八時)~巳時(午前九時)

 巳時正刻(午前十時)~午時(午前十一時)

 午時正刻(午後零時)~未時正刻(午後二時)客と昼食有り

 申時(午後三時)~酉時(午後五時)

 

 近隣の街や村からやって来るお客は、遠い事もあり移動手段を持つ裕福な家の者が多い感じであった。一般の者らは代表者がまとめての付届けや会いに来る形が多いようだ。

 その分、数が集約されて細やかな対応が出来ていた。

 また、一刀らが休憩のときは司馬懿、司馬馗、司馬恂、司馬敏が交代でお客の相手をしてくれていた。こう忙しい時は家族が多いのはいいなぁと思う一刀だった。本家屋敷の方も司馬孚らが代行しているので大きな問題はなかった。

 彼は、無難に接客を熟すと午前中に二回ある各一時間の休憩時に『寛ぎの広間』で行われている勉強会へ顔を出した。

 とりあえずの目標は、まず使用頻度の高い漢字千五百字~二千字の習得にする。それだけ習得すれば色々な言い回しを使って文章を書くことが出来、大抵の意志は相手に伝えられるという事なのだ。

 それは県の役人などの仕事に就くとしても最低でも必要な事だろう。この時代は主に家柄で雇用されるとはいえ、能力がないと程度によっては首にもなるはず。ある程度自在に読み書き出来なければ、仕事を貰っても支障が出るのは目に見えている。

 ちなみに司馬家の姉妹達も臨時で役所の仕事を手伝っているという。顔役として司馬朗が勤めている以上、仕事は回ってくるのだ。特に太守から回ってくる難題を司馬朗、司馬懿が対応することが多いらしい。なので県の役人の仕事で用いられる漢字の情報は、彼女らが現場を良く知るため、教えてもらうには非常に効率が良いのであった。

 一刀は脇に高く積まれた木簡へ、司馬進と司馬通から意味が述べられる文字をどんどん復習がてら書いていった。

 間違えていると、右横に座っている司馬通が優しく優雅な小声で「ぁ、……ぁにぃさまぁ……そこはぁ……こぉですぅ……」と綺麗で可愛い顔と腰まである優美なカーブの薄緑色の髪をすぐ近くまで寄せて来て、綺麗で柔らかそうな指をその箇所へ指しながら、良い香りをクンカさせてくれつつ教えてくれる。頬を染めてお人形のように可愛いので思わず抱き締めるたくなるほどだ。

 無口で人見知りな司馬通だが、教え方は優しく正確だ。彼女は……子供達の先生などが合わないだろうか……。

 一方、司馬進は若輩ながらハキハキと貫禄十分な大学教授以上の授業っぷりだ。一つの漢字に対して語源、漢字の形の由来、変化に始まり、すべての意味と多種多様な例文を、分かりやすい高度な言い回しや状況を織り交ぜた教え方からその教養の高さが溢れているのであった。また薄緑な首下辺りまでで切り揃えられている『おかっぱ』風な髪もさらに知性を感じさせて見えるのであった。相手についてハッキリ言ってしまう性格さえなんとかなれば弁舌は立つし能力は高いのだが。

 彼女も何故か正面には立たずに、一刀の左横に桃尻をピッタリとくっ付けて座りながら教えてくれているのだ。内心嬉しい限りではある。一刀は彼女からの香しい匂いにもクンカしてしまっていた……。

 教える側の状態は最高なのが、接客でのお酒も入っているのもあって、覚える側の状態が今一つ集中出来ないようであった。

 一刀は午前中を『そのような』有意義な休憩時間を過ごしながら接客も熟して午後に向かっていく。

 

 一刀の昼は応接屋敷の大広間にて、客らとの昼食から始まった。色々なお客から杯に注いでもらい、何度となく盗賊捕縛の話をすることになった。

 そこへ意外なお客がフラりと現れる。

 朱皓である。彼女は河内郡太守朱儁将軍の娘であった。今日も「注がせて、注がせて~♪」と、どうやらこちらが地の様子で一刀へ言い寄って来た。

 彼女は司馬敏とほぼ同じ背丈ぐらいだ。しかし大きく違う点があった。それは、ちんまりした胸である。昨晩は酒にほろ酔いしてフラフラしていたが、その栄光の部位が揺らめくことは『全く』なかったのだ。一刀は僅かに残念な思いでいる。

 そんなイカガワシイことがまず浮かんだ少し酔っている一刀だが、一応思考力も残っていた。

 しかし―――何をしに来たのであろうか、と。

 昨日の話では、県令の所へ来て皆へ将軍からの感謝の言葉を伝えて彼女の使命は果たしたように思えていたので、もう会う事は無いように考えていたのだ。

 その朱皓は一刀の前へやってくる。

 

「あのぉ、北郷殿の体調が回復されるまで、この街に滞在することにしましたぁ。太守の母上には、北郷殿の間近で武を見せてもらうともう伝えてますし、街で宿も取ってますのでご心配なく~」

 

 この子は一体どういうつもりなのだろうか? 一刀は昨晩、『旅で体調を崩し静養している』とやんわりと断ったつもりなのだが。

 

「えっと……、文明殿。今日明日に俺の体調が戻るというわけでもないんですが」

「はい、もちろん。二週間ぐらいは居るつもりですので♪ 戻っても私以外でもできる細かい用を言われるばかりなので……」

(それって、サボりたいってことかよ……)

 

 名家のわがままお嬢様……どこにでもいるものなのだろうか。だが、良く知らない相手のすべてを鵜呑みにするのは危険な時代であり、それになんでも思い通りになる時代ではない。この世は、誰でも明日街ごと殺されてるかもしれない世界なのだ。

 ふと、脇にいた司馬朗を相手から一瞬目線を隠すように見ると、彼女は表情を変えずに首を僅かに横へ振っていた。それは、困った客が現れた時の対処をいくつか決めていたものであった。

 無表情で軽く頷けば、そのまま相手に話を合わせても受ける話は受けてもよく、また少し下を向いて首を傾けた場合は、上手く司馬防へ話を振れなどがあった。

 僅かに首を振る場合、様子を見て話を流せというものだった。

 一刀は司馬朗の判断を取り入れる。

 

「そ、そうですか、俺の体調がいつ戻るか分かりませんし、ここ数日はこうして遠方から来ていただいた皆さんと、話をさせてもらっていますので何も出来ないと思いますが、この街は良い所だと思うのでゆっくり滞在してください」

「ありがとう、また来ますね~」

 

 そう言うと、朱皓は一刀の所から離れていった。

 司馬朗と一刀は離れた位置ながら一瞬顔を見合わせて『なんだろう』と首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日、袁紹の使者が訪れるということで、公孫賛の居城となっている遼西郡令支県の令支城は朝から使者を迎える準備が進められていた。

 訪問の書状が来てから急遽、城内や隣接する街の大通りは掃き清められ、城門や城内の建物の一部について褪せた彩色を塗り直すほどの手間が掛けられていた。

 趙雲はそれを城壁等から静かに見守っていた。

 趙雲としては、友に付き合って謁見に立ち会うという些か軽い気持ちであったが、公孫賛としてはそうもいかない。

 袁紹はこの後漢時代に四代にわたって三公を輩出した名家の汝南袁氏の出身であり、何と言っても現在大陸で有数の勢力を有しているのだ。十万の兵でも数日で整えられるであろう戦力と兵装と財力と兵糧備蓄がすでにあるのだ。公孫賛も代々二千石の豪族の家柄で、今も一勢力を率いている身なればその実力の凄さをよく理解しているつもりである。

 加えて袁紹が『あんなの』でも、配下の軍師や武将らは一芸に秀でた優秀で我慢強くて良く主君に仕えてくれる者達を多く従えているのだ。

 公孫賛としては少なくとも幽州内の掌握と北方の烏丸を一度叩いて有利な条件での不可侵締結をし、後顧の憂いを無くしてからでなければ対抗し得ない勢力だと考えていた。

 頼みであった趙雲も居なくなることもあり、それ故に今は余計な波風を立てないようにやり過ごしたいのであった。それには、使者に対して謙(へりくだ)ることなく厚くもて成す事が最善と言える。厚遇することで、袁紹への面目と使者の面子や機嫌取りが出来るのであるから。

 そして、昼を過ぎた未時(午後一時)ごろ使者はやってきた。二頭立ての立派な馬車と数台の荷馬車に三十騎ほどの兵が護衛に付いて来ていた。

 袁紹の使いの一団は城門を潜り、所々に公孫賛の兵が整然と並ぶ通路を抜けて、迎賓用の宮殿の入口に到着する。そこには公孫賛の妹である公孫越が出迎えていた。馬車から降りて来た郭図は、紺色の腰上まで伸びた緩いカーブの掛った髪の僅かな乱れを整えると、公孫越と軽く挨拶を交わした。

 そして、郭図は従者らに命じ荷馬車から袁紹様からの贈り物ですと、兗州で採れたみかんの木箱をいくつか下ろすと、公孫越へどれか中から一個選ぶようにと言ってきた。つまり毒見をするというのだ。公孫越がそれでは失礼ながらと少し緊張しながら一つを選らんで郭図へ手渡すと彼女はその皮を剥いて一つ、二つと中の身を食べると、「はい、ちょうど食べ頃です。皆さんでお召し上がりあれ」と言うのであった。さらに大きな酒樽も下ろされていた。それは洛陽で袁紹と公孫賛が酌み交わしたお酒と同じ銘柄だと郭図は告げ「もしお酒が必要でしたら今日にでも皆へ御振舞あれ」と伝えてきた。贈り物には他にも銀の甲冑一式や、一山程ある黄金の延板、他に特産物等があった。そのあと郭図らは一度客室へ通された。少しの休憩と旅の服から使者の服装へ着替える為である。

 その間に謁見の間の脇にある一室で、先ほどの出迎えの一部始終について公孫越より聞かされた公孫賛と趙雲は、袁紹からの使者の態度や贈り物から使者の用向きは、まず両勢力の友好的なものの締結や確認ではないかと推測せざるを得なかった。

 三人は両勢力についていろいろと意見や話を交わした。

 そのときにまず考えたのは袁紹側の『利』であった。公孫賛と友好的状況になると袁紹がどう『助かる』のか『得をする』のかだ。

 一つは、袁紹の後顧の憂いが少なくなるという事である。この華北に袁紹以外と言えばそう多く無く、次と言えば一番に北方に勢力を有する公孫賛が挙がるのが事実なのだ。さらに、もしその二つの勢力が手を組めば、華北を制圧することはそう難しいことではない。現時点でも二つの勢力が手を組んだ場合、最終的には二十数万程度の精鋭の兵力が動員できるだろう。

 そうなれば、短期で幽州を掌握でき、大きな有力者の余りいない不安定な幷州を勢力下へ取り込み、黄巾党天国の青州へも十分攻め込め平定できる力となるだろう。また、袁紹の協力もあれば北方の烏丸らへも早期に奥まで押し返すことが出来、相当有利に不可侵の締結が出来るだろう。

 その結果、幽州刺史や州牧の他にも青州刺史や……『王』という夢も現実になる可能性が十分出てくる。だが話はそう簡単ではない。

 

「白蓮殿、少し話が美味すぎないか?」

「姉上、私も星殿に同意します」

「確かになぁ。しかしこちらにも大きな『利』があるのも事実。先に贈り物までされたのもあるし、使者の用向きが友好締結の場合、麗羽(れいは:袁紹)の使者を無下には扱えないだろ?」

「それはそうだが。今日は良いとしても油断は常にしない事だ。使者が戻った翌日に大軍が寄せて来るかもしれない」

「あのなぁ、星、怖い事言うなよぉ」

 

 趙雲が居なくなった翌日に、大軍が来られても非常に困るのだ。だが、油断させての強襲はありえる話だった。袁紹の一番の状況は―――『公孫賛勢力がなくなる事』だろう。美味しい料理は独り占めしたいはずなのだから。それ以外は……まあ、あり得ないので公孫賛は考えるのをやめる。

 

「星殿、一応今でも国境近くは昼夜交代にて、袁紹側の動きを常に監視はしていますので大丈夫かと」

「ふふ、伯珪殿は人がいいからな。妹殿は気を付けられよ」

「信用ないなぁ」

 

 三人の見解はとりあえず、友好の使者であった場合は受諾するが、使者が去ったのちに令支城の駐留兵と周辺の砦の人員を強化して当分慎重に様子をみようという事になった。もちろん敵対的な内容なら、即全力での応戦体制に移行となる。これには趙雲も最後まで残ると告げてくれた。

 使者の準備と、公孫賛側の意見の統一が出来たところで謁見の場へと移ってゆく。

 

 袁紹の使者とはいえ、公孫賛も同じ諸侯の一人であるため、奥の床より二段ほど高い太守の席に彼女はどっしりと座って迎えていた。その両脇に趙雲と公孫越と配下の武官文官らが数名並んでいる。

 使者の正装に着替えた郭図は、謁見の間の入口から太守の席の前まで敷かれている豪華な敷物の上を静かに悠然と進んで来るのであった。その後ろに従者が二人、金箔細工のある黒塗りの二尺四方ほどある大き目の箱を抱えて付いて来ていた。

 郭図は公孫賛の手前、三歩(四メートル)程の手前で止まり、両手の指を目の前に組み、お辞儀の姿勢をとる「鞠躬」(ジュイゴン)の礼をした。

 そして、袁紹の使者としての用向きを静かに話し出す。

 

「本日、わが主であります袁本初様の使者として参りました郭図でございます。伯珪様にはご機嫌麗しく存じます。さて、本日の用向きでございますがそれは―――」

 

 一瞬、公孫賛、公孫越、趙雲の表情に緊張が走る。

 

「―――友好関係の締結にございます」

 

 郭図の言葉に、三人からはとりあえず一山超えた感のある音を立てない「ふぅ」という息が漏れるのだった。郭図の言葉は続く。

 

「つきましては、まず袁本初様よりのお贈りの品について改めて報告いたします。まず、銀の甲冑一式、金塊百石(二百六十七キロ)、蜜柑二百石、酒百石、他特産物百石です。どうぞお納め下さい」

「本初殿の御気遣いに感謝する。用向きについては前向きに考えたい」

 

 公孫賛は、形式的な言葉を返す。

 挙げられた品は、先に公孫越より報告を受けた郭図が到着した折に荷馬車に積まれていた物であった。公孫賛としては、返礼にはもらった物と同等のもの、例えば、装飾のされた宝剣に宝石、鉱物等を考えていた。そして、別途郭図にも砂金の袋などを持たせるつもりでいる。

 だが話はここで終わらない。

 

「さらに、こちらにもお持ちしました、袁本初様直筆の書状と貴重な装飾品をお持ちしております。こちらに付きましては伯珪様と先の黄巾党の乱で共に活躍された趙子龍殿にも下賜せよとの事にございます。お目を通されお受け取りください」

 

 場の流れとしては、公孫賛に拒否する要素など全くない申し出だ。

 

「ありがたくいただこう」

 

 公孫賛の言葉に郭図の後ろの二人の従者が脇へ移動する。公孫賛宛のものを公孫越が、趙雲宛のものを文官が受け取り、それぞれの元へ運ばれた。

 まず、公孫賛側の箱が空けられる。

 公孫賛は、太守席の前の一段下で公孫越が膝を付くように掲げた箱の中のものをおもむろに覗き込んでいた。そこには一通の書簡と―――

 

 薄い朱色な無模様の仮面が置かれていた。

 

 箱の中の様子は公孫賛にしか見えなかった。何かに見入られたようにそれへ視線を落としたまま動かないのであった。

 趙雲は贈り物を受け取る為に少し前へ出ていたが、公孫賛の様子を見て箱の中に何があるのか気になり、文官に自分の箱を開けさせるのだった。

 もう、もちろんオワカリイタダケタダロウカ?

 

 

 

 そこには黄色い蝶の羽の模様の施された美麗な仮面が入っていた。

 

 

 

 そして―――間もなく趙雲の異様に力の入った声が、謁見の間に響き渡る。

 

 

「―――でゅわっ!!」

 

 

 公孫賛が『まあ、あり得ない』と考えていたのは、袁紹との隷属同盟であった。公孫賛にも面子や意地があり、いいように使われるそんな同盟はありえなかった。

 だが……ここに袁公覚醒同盟が締結されたのである。

 公孫賛や趙雲は概ね油断していたわけではなかった。だが、相手のその下準備が大きく見え過ぎて、敵の本来の目的であった予想外の一手に気付くことが出来なかったのだ。

 袁家千年帝国の建国は一歩大きく前へ進んでいく。最恐の将をも手に入れて……。

 謁見の間では趙雲の「美々しき蝶が―――」との声が高らかに聞こえてる中、「姉上、星殿、しっかりしてくださいぃぃーー!」という公孫越の悲しい叫びがこだましていた。

 

 それはもう、誰にも止められない勢いになりつつあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一昨日、司馬朗より曹操宛の書簡を託された司馬家使用人きっての武を持つ女性守衛の楊(よう)は、馬に乗って出発していた。持ち前の体力と馬術に加え天候にも恵まれ道中も問題なく、曹操の本拠地である兗州陳留郡の陳留城が遠目に見えるところまでたどり着いていた。

 温県から陳留まではおよそ東南東へ直線で二百五十里(百キロ)、道程は片道で四百里(百六十キロ)程であった。

 初日は夕方から出て、五十里(二十キロ)程進んだところで宿を取り、次の日も朝から休息を取りつつ七時間程駆けて二百五十里(百キロ)、今日も百里(四十キロ)程を駆けて来ていた。

 楊は、馬速を緩めて陳留城の城門の手前、二十丈(四十五メートル)程のところで下馬すると、馬を引いて開いている城門を守っている多くの守備兵達の所まで来ると堂々と名乗りを上げる。

 

「私は河内郡温県の名士『司馬家』に仕える楊と申す者。この度、曹孟徳様からの文に対してのわが主の返しの書状をお持ちした。しかるべき方へお取次ぎ願いたい」

 

 初めは見知らぬ人物と馬が一騎で来たため、訝しげに話を聞こうとしていた守備兵達は、君主の曹操の名が出たことで一気に緊張した行動となった。

 曹操の軍律は厳格であった。すぐにキビキビと鎧で身を固めた男の百人隊長が対応に出て来ると話し掛けてきた。

 

「遠路、お疲れです。現在、主様は城を不在にしておられる。しかし、今城におられる曹仁様へ取り次ぎいたすので、城の一室にて暫し待たれよ」

 

 百人隊長は、十人隊長の一人に城の一室へ楊を案内させる。

 楊は移動しながら、曹操不在に少し不安を覚えていた。この書状の用向きに付いては、司馬朗の仕官の返事という事は知っており、早急に曹操へ渡す必要があるものだと認識していたからだ。だがここはとりあえず、曹仁に会ってから考えようと切り替えていた。

 楊が部屋で待っていると、間もなく部屋へ先ほどの百人隊長と、立派な身なりをした二人の女の子が入ってきた。

 そのうちの一人、薄黄色の髪を左後ろで纏めクルクルテールにしてる女の子が話し出す。

 

「あー、私が曹仁っす、こっちは曹純っす。要件は華……孟徳様からの文の返事を届けに来たって聞いたっすけど、急ぎっすか?」

 

 独特な言い回しの将であるが、数段格上の者の言葉であり、楊は聞き答えるのみだ。

 

「はい、聞いていらっしゃれば話が通りやすいのですが、我が司馬家の長子である司馬伯達様への仕官お誘いの御返事なのです」

「ああ! 何人か仕官募集してる話は聞いてるっす。そうっすか……悪いっすねぇ……孟徳様は今洛陽の方へ行ってて、いつ帰って来るのかまだ分っかんないんっすよ。うーん」

 

 すると一緒に入って来ていたもう一人のぽあぽあした感じの曹純が、後ろで赤い可愛いリボンにて纏め太腿まで届くほどの細目なクルクルロールを何本も扇状に広げた薄黄色な髪を可憐に揺らしながら、悩む曹仁を促すように言ってあげる。

 

「華侖(かろん:曹仁)姉さん、ここで受け取ってもいいですけど……、急ぎだったら先に洛陽まで行ってもらった方がいいんじゃないかしら。華琳さま宛のものですし、勝手に見ることはできませんし……。華琳さまなら、ここは『待つ』よりも『動く』ところでしょう?」

「うーん、柳琳(るーりん:曹純)が言うならそうすっかな。えっと、楊殿でしたっけ? 悪いっすけど、洛陽まで直接行ってくれるっすか。駐屯してるんで直ぐわかると思うっすけど。もちろん、ここへ来たことは後日、孟徳様へ言っとくっすよ。そそ、一応一筆竹簡に書いておくっすから一緒に渡せば大丈夫っしょ」

 

 結論は出た。楊自身も早く届けたいと考えていた事もあり、ここへ来た事も考慮されるであろうし望むところと言える。

 

「ありがとうございます。では、よろしくお願いします」

 

 曹仁はすぐに書き物の用意をさせると、曹純が竹簡へ一筆したためる。最後だけ『曹仁子考(しこう)』と自分で署名していた……。

 楊はそれを受け取ると、直ちに洛陽へ向けて出発していった。帰りの道程も見越して馬を休ませながらここまで来ていたので移動にそれほど問題は無かった。

 陳留から洛陽までは真西へ四百十二里(百六十五キロ)程である。

 楊が持つ司馬朗からの書状は、早ければ明後日には曹操の元へ着きそうに思えた。

 ―――何事もなければ、であるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日も一刀は無事に夕方まで接客を努め続けた。昼からの接客の合間にある一時間の休憩は、本家屋敷に戻ってすぐに出会ったいつ見ても美しい司馬孚を誘って庭で乗馬を楽しんだ。一刀は武術と漢字の勉強に加え、雲華のところでは余り出来ていなかった馬術についても上達しようと考えていたのだ。司馬孚は剣術に加え、馬術も良く嗜むということであった。馬術は司馬懿にも負けないらしい。

 司馬孚は、そのままでは男性の前に出れないという致命的な欠点があるが、なにげに能力はあの司馬懿にそれほど負けていないのではないだろうか……。イヤ……そんなまさかと考えていたほろ酔い気分の一刀は、飲酒運転ならぬ飲酒乗馬をしていたが、その時司馬孚に「あの……お守りはもう誰かに?」と聞かれてしまった。

 司馬孚という子は不意に来るので油断できないのである。後が無いと考えているのか一刀との関係に常に前向きで熱い気持ちをぶつけてくるのだ。

 一刀は「いや、まだだけど」と言うと、彼女は静かに馬を並べ寄せて来て「その……私と……しませんか?」と頬を染めながら言ってきた。

 一刀は「何を?」とは言い返せないのであった。さすがに『アレ』しかない。『イイこと』なのである。クンカも、し放題なのだ。『正義』と言えよう。

 ただ―――ヤリすぎると『神気瞬導』を失ってしまうことになる……。

 一刀は、一瞬で酔いが覚めたようにハッキリと言葉を返した。

 

「今日はもう相手を決めてるんだ」

 

 一刀はあくまで誰とは言わない。それはフェアではないと思うからだった。一刀からお守りを手渡すのがルールなのだから。

 司馬孚は気も回る良い子である。

 

「じゃあ……私もまだ可能性はありますね」

 

 そうニッコリと穏やかな笑顔を返してくれた。

 そんな司馬孚がちょっと可愛くて少しの時間、一刀は一頭の馬にピッタリ寄り添って二人乗りをしてあげるのだった。もちろん……クンカクンカもするのも忘れるはずがなかった。

 

 さて、夕方を迎え応接屋敷からお客人達が……なかなか減らないし帰らなかった。日が暮れてからも到着する人などもいたりしたからだが。まあ少し大らかな時代でもある。

 そのため、いつも通り酉時正刻(午後六時)ごろに『食堂広間』で夕食となったが、そのあとにも一刀らは一度応接屋敷に行く事になったりした。

 

 だが、そう言った客も含めると、昨日から一刀と司馬家に寄せられたお祝いや贈り物、寄付金の総額は、すでに中規模の邸宅がポンと購入できる程にも届いていた。

 

 それなりに忙しい一刀の一日が暮れていく。

 そしてその夜、一刀からお守りを手渡され一刀の客間を訪れたのは――――

 

 

 

 頬や顔を真っ赤に染めた司馬朗であった。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年10月06日 投稿
2014年10月24日 文章修正
2014年11月03日 文章修正
2015年03月19日 文章修正(時間表現含む)
2015年03月22日 八令嬢の真名変更
2015年03月30日 文章修正



 真実・現実)足枷だけが残っているのである!
 安心したまえ、一刀。 全部残ってるから♪



 解説)剣と刀
 日本では剣術と一つに纏まってしまっていますが、中国では『剣術』と『刀術』で分けられ、そして武術の流派によってもいろいろ専用の剣や剣術、刀と刀術があります。
 しかし本外史では曖昧な感じになっています。



 表情)……………はぁ?
 そのときの一刀の表情は完全にこうである。  (゚Д゚)ハァ?



 解説?)兗州で採れたみかん
 温州ではない……。
 (温州蜜柑でございます。
  こ、これは大丈夫なのか?
  パクッ。「グアッ」 バタッ。
  丞相!丞相! 巨星堕つ……)








目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➋➎話 動乱の序幕(熱い夜)

 

 

 

 司隷河南尹(しれいかなんいん)洛陽にある洛陽城後宮の豪奢な食堂広間。後漢の皇帝である霊帝は今日も政務を十常侍や何進へ丸投げし、この後宮に引き籠って一日中美食に耽っていた。そして今夜も贅の限りを尽くした晩餐を、今回に限っては料理の得意な趙忠に三時(六時間)程掛けさせ多種大量に作らせたにもかかわらず、結局霊帝はその豪華な料理群へ一瞥をくれるだけであった。

 

「ふん、やっぱり朕はお菓子が食べたいの。その食台に並んでるのは、もうゴミだからさっさと捨てなさい! まあ時間制限の中で、必死に料理を作って疲弊する黄(ファン:趙忠)の顔が見みれて少しは面白かったわ」

 

 霊帝は席の横に置いてあったお菓子だけをひと口食べるのみであった。

 それから間もなく霊帝は寝所へ趙忠を連れて移動するがそれはまだ寝る為ではなかった。

 

「時間制限を何度も超過したこのノロマめ! ノロマの黄(ファン)の顔を見てるだけでも、朕はそれなりに疲れたんだから!」

 

 等々、無理難題を命じながら分かり切った結果の趙忠を散々に詰(なじ)る霊帝。だが、言葉責めされる趙忠はすでにそれが悦な快楽状態になっていた。

 

「はぁはぁ、もっとお願いします、空丹(クゥタン:霊帝)様ぁぁぁ!」

 

 彼女は詰られ好きな変態体質の性の為、さらなる罵倒を求め続けた。

 人々を統べ良き方へ導く存在であるべき皇帝が、こんな非生産的で無人徳で無駄な日々を送っていた。

 そしてまた、その皇帝を補佐するはずの何進大将軍や十常侍を初め、宮城の皆が自らの富や身分をより良くすることのみに心血を注ぎ、この大陸の行く末や民の生活を考える者など居ないかに思えるほどであった。

 だが、この同じ広大な洛陽の一角でそれらを終わらせる計画が有志らにより静かに進んでいるのであった。

 

夜が更けた一室で再び董卓と賈駆、そして荀攸が会談に及んでいた。ここは洛陽の西端に位置する広大な董卓の屋敷の離れだ。

 三人で食事の後お茶を啜っていたが、賈駆が頃合いとみて計画の最終状況を再確認する。

 

「いよいよ明後日ね。洛陽内の準備はもうとっくに終わっているわ。後は華雄と兵が来れば完璧よ。報告に寄れば、予想通りに宮中の守りは一過的に休暇が増えてかなり手薄になってきてるから、中止の指示が予定の時間に来なければ、そちらも明後日の早朝に各自が事前に伝えた指示通りに独自で動くように伝えて頂戴。でも依然曹操の動きは不透明だわ。宮中で月(ユエ)と一緒に、二度ほど曹操らと顔を合わせたけど、相変わらず今は霊帝の能臣かのように振舞っているわね。その本心は分からないけど……明後日の障害になる可能性は高いと判断しているわ。なのでそのつもりで動くわよ。曹操の駐屯兵数は八千で、洛陽の東側最外郭の外に駐留しているわ。今回こちらが用意しているのは、今洛陽に駐屯している外郭内五千、西側最外郭の外の一万の計一万五千の兵と長安から華雄が率いて来る三万五千の合わせて五万よ。曹操は夏侯淵、夏候惇とも連れて来てるようだけど、こちらも恋や霞や華雄の他にも盧植殿や皇甫嵩将軍らもいるから最終的には圧倒できるはず。でも出来る限り不意を突きたいのよね」

 

 今洛陽に駐屯している董卓軍の兵は、董卓が何進大将軍に贈り物や下手になりつつ袁紹の代わりに是非洛陽の守りをやらせてほしいと、本来袁紹から守備とその負担を押し付けられて曹操が全て引き受けるはずの所に割り込んだ成果だ。そして曹操はその経緯を知らずにいた。曹操はただ兵八千で洛陽に駐屯せよとの命のみを受けたのであった。そして董卓はさらに何進大将軍の許可を取り、補填として追加で三万五千を呼び寄せている。

 だが―――この三万五千という数について、実は何進大将軍へは兵数を大幅に少ない五千と偽っていた。また上意の命に従い能臣的によく働く曹操に一部負担させる事を残したのも何進大将軍を油断させるためであった。

 

「さすがに三万以上も追加が来れば、何進は兎も角、曹操は我々の計画に気が付くはずだわ。だから到着ギリギリで計画を予定通りに実行するわよ」

 

 バレる頃にはもう計画は優位に進んでいることだろう。

 董卓と荀攸も頷く。

 荀攸はすでに霊帝を廃した後の新皇帝の予定である献帝の側近という立ち位置でここに来ているのであった。

 そして今回の計画の首謀者は董卓である。彼女は元来優しい性格で、民衆の側にも立った『優しい政治』をもっとうにしている。だが彼女は優しくはあるが弱い人間ではない。悪政により理不尽に苦境へと立たされ続ける人民をこのまま黙って見過ごせないのであった。だから禁断の計画を行うと決めたのだった。配下となってくれているが親友でもある賈駆にお願いして万全の計画を立てて貰っていた。そんな彼女にまだ一つ気掛かりがあった。

 

「あの……椿花(チュンファ:荀攸)さん、今回曹操の動き次第では実力で排除することになります。ですが曹操陣営にはあなたの叔母に当たる荀彧さんがおられると思います」

「はい。ですが……時間を与えると彼女は間違いなく霊帝を事前に囲う対抗策を考えるでしょう。流石に宮中二千余と曹操の兵でしっかり護衛されるとそう簡単に廃せません。その上、それが囮などという状況も起こりえます。我々は失敗できません。なので彼女へは……開始直前に知らせます」

 

 身内に対して命の危険を知らせないという訳にもいかないのだ。その辛そうな荀攸の表情とギリギリの苦渋な考えから董卓は彼女の思い汲み取る。

 

「……そうですか。ならばもしもの時、荀彧さんについては各将へ可能な限り保護するように通達しましょう」

「いえ、お気遣いなく。身内の私の知らせは兎も角、こちらのその特別扱いな事実が曹操の耳に入れば彼女の立場が揺らぎましょう。それにあの方は、己の才のみで十分身を守るでしょうから」

 

 荀攸は身近で見てきた事がある故、荀彧の才の底無しさを知っていた。正直、今の董卓側の人材と戦力がなければ絶対にこんな計画にも乗らなかっただろう。特にこの目の前にいる恐るべき智謀の軍師がいなければ。

 その賈駆も小さく頷き同意する。

 

「そうね、荀彧殿は危険だわ。それに曹操自身もね。大詰めだし、ここは慎重にいくべきよ。じゃあ、細かい配置と担当と非常時の行動についてもう一度だけ言うわよ―――」

 

 三人は、人払いのされた一室の中でさらに大机の席を互いに少しずつ寄せると、小声で話しを続ける賈駆の言葉に時々了承の意の為か頷いていた。

 

 

 悪政を、この世を憂いて董卓らが起こそうとする『新皇帝擁立』計画が、大陸全体への血で血を洗う動乱の魁になる可能性については、多くの想定の中の一つにまだ小さな存在としてあっただけであった。

 

 

 

 

 今、曹操は洛陽東側最外郭傍の街中に中規模な屋敷を借り受けて当面の滞在場所としていた。しかし曹操はずっとそこで優雅に寝泊りしているわけでは無かった。

 洛陽東側最外郭の外に駐留している曹操軍には曹操、夏侯淵、夏候惇、荀彧、許緒、典韋の内二人が日替わりで詰めるという形になっていた。それも毎日、曹操、夏侯淵、夏候惇のいずれかが必ずいるという。

 当初曹操以外が自分達だけで交代しますのでと提案した。だが……。

 

「ここへは遊びに来ているのではないのよ。戦場の感が鈍るし、兵に示しがつかないから」

 

 曹操自身がそう言うと自ら日替わり要員に加わった。二、三日に一度程度の日替わりとはいえ、主君が傍にある立派な屋敷ではなく兵と同じように幕舎で休むのだ。それゆえすでに曹操軍はここへ駐留して半月以上経過するが、兵らの雰囲気に気の緩みは全く見られなかった。

 今夜はその曹操と典韋が駐留地に詰めている。曹操は天幕内で兵糧や装備の補給についての報告書に確認の目を通していた。すると夜の見回りを終えた典韋が警護の兵が立つ天幕の外から中へ声を掛ける。

 

「華琳さま、失礼します」

「流琉ね。定時報告かしら、入っていいわよ」

 

 典韋は曹操からの了承に天幕の中へ入って行くと、曹操の手前で礼を取り定時報告を行う。主に洛陽へ向かって来る外敵に対しての確認報告である。城内については賊等の監視を行っていた。

 

「東方面各所、北方面各所、南方面各所、いずれも大きな兵団等の動きや異常はありません。西方面に潜ませている者達からも今の所異常の報告は来ていません。外郭内も街中、城内側とも特に異常なしです。この駐屯地内も兵糧、飲料水、兵装、厩舎、兵の配置場所、兵の雰囲気を確認しましたが大丈夫です」

「そう、ご苦労さま。今日は昼間に小規模な模擬戦でも兵達の良い動きを確認できたし、私も半時(一時間)程前に陣中を少し見て来たけど大丈夫そうね。流琉、貴方も今日はもうおやすみなさい」

 

 曹操は、少し前に配下へ于禁、李典、楽進らが加わったとは言え、まだ入ってそれほど長くはないにも関わらず、若いながらも将として立派に務めている典韋を笑顔で労っていた。

 

「はい。華琳さまはまだ?」

「大丈夫よ。これをあと少し確認したら終わるから。すぐ休むわ」

 

 そこへ天幕の外から声が掛る。

 

「華琳さま、桂花です。よろしいでしょうか?」

 

 実は夏侯淵や荀彧らは曹操との組み合わせから外れても、曹操が陣側で寝泊まりする場合、一人を守備として屋敷に残すがそれ以外の者は密かに付いて来て陣側で寝泊まりしていた。曹操自身の実労働時間は、勤勉な曹操陣営の中でも常にトップクラスであった。臣下の良将達はそれを良く見ており、自然と礼を尽くすのであった。

 曹操もその屋敷からの自主的な移動については知っていた。夏候姉妹や荀彧がよく曹操の閨を訪れるからだ。

 だが今の荀彧の声は、よく夜に曹操が閨で聞く甘い声ではなかった。

 その事に曹操の表情が引き締まり、場が少し緊張する。

 

「どうかしたの、入りなさい」

 

 荀彧は、入ってくる早々に礼を取りつつ気になる要件を伝えた。

 

「はっ、実は先ほど、ここしばらく董卓配下の将の一人、華雄の姿が見えないという報告が上がって来ました」

「華雄……相当腕が立つ子だそうね」

「はい。現在董卓の陣には将が呂布、張遼、華雄とおり、飛将軍を始めいずれも武芸に秀でているとのこと。で、その華雄ですが、二、三日なら体調を崩しているという処でしょうが、すでに八日程姿を見ないとあります。董卓からは将の移動の報告はこちらへ出ていません」

「……そう、重病なのかしら。でも一応真実を把握しておいた方がいいわね。他の二将は?」

「今日の夕方の段階で呂布は郭内にいるようです。張遼は外ですね。最後に確認された華雄の位置は郭内です。いずれも当初より董卓側からあった将の配置報告の通りです。一応すでにそれとなく周辺に探りを入れていますので、明日には何か分かるかと」

「そう。お願いね」

 

 曹操は、まだ『新皇帝擁立』計画について何も気付けていなかった。いやさすがに気付きようがなかった。

 それは、賈駆と荀攸が曹操を洛陽に駐屯させる前にほぼすべての配置や兵装の準備を終わらせていたため、洛陽内では大きな動きが今日まで全くなかったのが大きい。また、駐留軍の一つに曹操自身が洛陽にいる事で、いつでも外敵に対処できると『安心』していたところがあったのだ。だがこれも現皇帝派について合理的に少数の兵だけにして纏めて叩くという賈駆の深謀な画策の一つであった。

 そして、董卓側と荀攸側でもこの計画を知っているのは兵を指揮する最高幹部達だけだったため全く外に漏れなかったのである。

 何進大将軍へ直接に追加の兵の許可を取ったのも、知っている者をなるべく何進のみに絞るためと、長安から洛陽までのいくつかの城などの検問を抜ける許可証が必要であったためだ。そしてそれはさらに荀攸の協力によって、袁紹軍の兵の代わりの補填と理由は明記されているものの、兵数について書かれていない通行許可証を作成していた。袁紹が三万以上の兵で洛陽に駐留していた事は周辺の軍関係者は知っている話であった。ゆえに中央からの通行許可証を持ち、三万余の兵を率いて洛陽に向かっても咎めるほど不自然ではない形になっていた。

 また賈駆は華雄についても―――呂布との激しい一騎打ちの模擬戦中に腕と腰を軽く痛めたとして、療養していると配下の兵らには伝えているのであった。他の者では華雄の名に大きな傷が付く内容だが、相手が呂布ではそれは大きな物に成ることはない。いや、逆に『箔』が付くと言える。

 黄巾党の乱では数万の大軍をいくつか破った功で将として夏候惇が官位を得ていたが、呂布は洛陽周辺の万に届かない黄巾党のいくつもの兵団に百騎程度で突撃を繰り返し、自慢の方天画戟(ほうてんがげき)と強弓で敵の総指揮官や千人隊長達を狙い撃ちで狩りまくっていた。その中には逸材もいたかもしれないが、呂布の前では皆雑魚と同じ運命を辿っていた。呂布はその戦い全てに無傷で生還した上、前に立った者はほとんどを一撃で屠ったと言われており、彼女の群を抜くその武勇に『人中の呂布』、前漢の李広に準えて『飛将軍』とも呼ばれるようになった。なので呂布と模擬戦をする気になるだけで十分怪物と思われ、実際に行ったとなれば誇れる程のことなのだ。

 その華雄は長安から来た董卓軍の定期補給の終わった部隊に紛れ、通行許可証と共に洛陽を脱出し董卓の本拠地となっている長安へ急ぎ戻ると、長安の守備兵六万三千から直ちに三万五千を率いて即時折り返して来ている途中であった。

 それは明後日の早朝に洛陽へ到着する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 袁術の本拠地、荊州南陽郡魯陽(ろよう)の城には、孫堅配下の将の一人、周泰が精兵五百とともに詰めていた。

 このことは、袁術自身が孫堅へ自身の身辺警護にと最近協力を要請した事であった。それは、孫堅がその気になれば容易に袁術を除くことが出来るということにも繋がるのだが。まさに信用しているという申し出であった。

 孫堅は英雄の才覚を持ち、戦、宝物、酒等に貪欲で、口調や振る舞いは乱暴なところもあるが、非常に義理堅い部分もあった。敵には全く容赦はないが、味方には非常に信頼を寄せ寛容でもあったのだ。

 そのため袁術の要請に対して、孫堅は周泰だけではなく、なんと末娘の孫尚香も友人にと寄越して来たのだ。つまりそれは人質にも等しい人選でもある。

 その際、袁術より間借りし今の孫家の居城と言える棘陽(キョクヨウ)城にて、孫尚香と周泰は孫堅より謁見の間にて命を受けた。

 

「小蓮(シャオレン:孫尚香)には荷が重いかもしれんが、両家の架け橋の一つとして重要な役目となろう。これは袁術殿と年の近いお前にしかできない事だと我は考えている。袁術殿と友好を育み良き関係を頼んだぞ」

「分かりました、大丈夫よお母様。周々(シュウシュウ)と善々(ゼンゼン)も連れて行っていい?」

「ふん、迷惑を掛けないようにな」

「は~い」

「明命(ミンメイ:周泰)よ、相互協力の関係にある袁術殿を常に死守せよ。同時にあの方はまだ弱く幼く、時には進むべき道へ導いてあげるがよい。小蓮の事も頼んだぞ」

「はい!」

 

 周泰はよく気が付き、機転も利き、腕も立ち、そして朗らかでやさしい性格であった。孫堅は人物も見て袁術の為にと送り出していた。孫尚香についても、人懐こい性格と好奇心が強く勇気もあって行動派なところが今の袁術に良い刺激になると考えたのだ。

 一方袁術の元では、この要請の書簡が出されたあとに参謀の張勲が知るところとなり、余りにも危険な行為だと袁術に撤回の書状をしたためて中止するように進言したが、結局は主君である袁術に説得されてしまう。

 張勲には野望などなく、だた袁術が心配なだけなのである。だが自分だけでは肥大してゆく袁紹の勢力には対抗しきれないと考えていたため、孫堅を巻き込んだわけであった。

 そして孫堅は少ない身入りや糧でも数倍する戦果を出しており、予想以上に義理堅いのは確かなようであった。そして今回、周泰は兎も角、娘の孫尚香まで寄越したことが張勲の考えをも徐々に転換させていった。

 袁術は、孫尚香と周泰の二人と五百の兵の到着を歓迎した。流石に虎の周々とパンダの善々には驚いたが、二匹は孫尚香に言われると、袁術の手を舐めて恭順を示すと袁術も二匹の頭をナデナデしてあげた。

 孫尚香には、宮城内の袁術の部屋に近い場所へ自分の城だと思ってくれて構わないと立派な部屋を用意した。このとき袁術は孫尚香と互いに真名を預け合うのだった。

 周泰も城内の場所の良い一角へ屋敷を与えられた。

 そして背中を預ける者として袁術より周泰も真名を呼ぶことを許された。同時に周泰も袁術へ真名を預けていた。

 

 周泰は夜の見回りを欠かさない。その身体能力の高さを使い、堅牢な城壁を超える事も苦ではなかった。今日も袁術や孫尚香の身辺を無事に守れて終われそうであった。今も袁術や孫尚香の寝所の周辺を、中から外からと見回って来たところである。周泰は日々命を賭して過ごしていた。

 ここ数日袁術の様子を窺い話も交わしているが、まだ幼い為か多少我儘なところがあるものの悪い人物ではなさそうである。周泰は人格者でもあった。孫堅の命とは言え、守るのならそれに相応しい人物を望むところであった。だが、その心配はなさそうに思えた。今の所は孫尚香とも仲良く過ごしているので、心置きなく主命を果たせそうである。

 そんなほっとした表情をして城壁の上で休む周泰の前を……一匹の灰色の猫が夜に輝く目線を周泰へくれながらスタスタと歩いて通り過ぎようとしていた。

 すでに仕事の終わった感のある周泰の表情は、もはや『お猫様』に夢中でニッコリと微笑んでいた。そして思わず声を掛けてしまう。

 

「お猫様お猫様。どちらへ行かれますか? 私と少しお話をしませんか?」

 

 猫は周泰の誘いに一瞬足を止める……が、またスタスタと歩いて城壁の矢避け用の壁の上へ飛び上るとそのまま移動を続けた。周泰は歩調を合わせながら、再び声を掛けていた。それは毛並の良さや姿の美しさなど、『お猫様』を褒め称えるものだった。周泰の目的は二つ。仲良くなることと、もう一つは―――モフモフすることである! モフモフしたいのである。それは気に入った人にされない限り、猫にとっては迷惑なことなのだが。

 散々、お世辞やおべっかを猫に送った周泰であったが、ついにその猫の毛並の良さに我慢しきれなくなる。

 

「その……少し……ちょっとでいいので、モフモフさせてもらえませんか?」

 

 その時周泰はお猫様へぺこぺこと手を合わせ、必死にお願いしているのであった。

 

「もちろん、お礼の品も……」

 

 そう言って、懐から煮干しを取り出すのだが―――無情にも猫は「にゃぁ」と小さく『イヤだ』と言うかのように鳴くと、トッと城壁面を伝って城壁から城内の屋敷から伸びる細く高い塀に飛び移るとそれを伝って行き、屋敷の屋根へたどり着くとその上へ登って移動し屋敷のいくつかあるベランダのような場所の一つへ降りて行った。

 周泰はガックリと項垂れるも、ふと思い出す。あの場所は……と。

 そう、そこは先ほどまで安全を確認していた袁術の寝所の窓辺だったのだ。猫はカリカリと窓扉を引っ掻いていた。すると、中から窓扉が開き、袁術が外へ出て来た。

 袁術はその猫の頭を数回撫でると猫の両脇を持ち上げるように抱える。

 周泰は思わず小声で袁術へ声を掛ける。

 

「美羽さま、美羽さま」

 

 夜中に声を掛けられ、一瞬身を縮めて声の方向にビクリとする美羽であったが、それが少し離れた城壁の上に居る周泰だと気が付いた。

 

「なんじゃ、明命か。脅かすな。……どうしたんじゃ?」

「その……お猫様は?」

「おお、こいつか。まだ小さい頃にたまに見かけていたので蜂蜜水をやっていたらそのうちに懐いてのお」

 

 話をしながら袁術は猫を抱きかかえる。その様子に周泰は蕩けそうな顔になり、もはやモフモフへの欲望に我慢できなくなってきていた。

 

「美羽さま、そのお猫様に触ってもいいですか?」

「別に構わんが……」

 

 周泰のいる場所はまだ城壁の上であった。袁術のいる場所は城内の屋敷の三階である。袁術の部屋にぐるりと回って来るのは手間ではないかと思ったのだ。だが周泰は気軽に答える。

 

「では、すぐ行きますね」

 

 そう言うと軽快に垂直な壁を走りながら猫が通ったのと同じ経路で、猫以上にあっという間で袁術のいる場所までやって来た。

 その様子に袁術の口から思わず「おおお」と声が漏れた。

 参謀の張勲も将軍としての腕前はあるが、とても今の周泰のような動きは出来まい。来た時から孫堅の寄越してくれた周泰の腕前を信じてはいたが、その見事な身のこなしに袁術は感心するほかなかった。

 そして同時に共に寄越してくれた五百の兵の大きさも感じていた。間違いなく孫堅の兵の中でも精鋭だろう。孫堅の兵は決して多くはない。どう頑張っても四千程だ。

 その貴重な兵数から割いてくれていた。

 だが今回の袁術の要請に対して孫堅からはその見返りの要望は―――何もなかったのである。

 袁術は孫堅の気遣いを思い『ぐっ』と来ていた。

 周泰は袁術へニッコリと笑って尋ねてきた。

 

「ちょっとだけ、そのお猫様を抱いてもいいですか? モフモフしてもいいですか?」

「あ、ああ。可愛がってやってくれ」

「はい!」

 

 周泰は嬉しそうに袁術からやさしく猫を借り受けると、少し迷惑そうにしている猫を煮干しで交渉しながら宥めつつ袁術の側に座ると猫の体をモフモフするのであった。

 袁術はモフモフに満足でニコニコしている周泰へ静かに尋ねた。

 

「明命は……、そいつも……妾も守ってくれるか?」

「はい! もちろんです。この命を掛けて、美羽さまもこの子も守ります!」

「そうか。頼んだぞ」

 

 周泰はいつまでも猫を笑顔でモフモフし続けていた。

 

 後日、張勲が二千五百の兵と荷駄の隊列を率いて孫堅の本拠地になっている棘陽城を訪れた。張勲は孫堅に謁見すると袁術からの感謝の書状を読み上げ、その『贈り物』について告げる。

 

「孫堅さんには、この度の要請へのお応えにとても感謝いたします。つきましては、美羽様よりこのお貸ししていた棘陽の地と少し南の育陽の地を贈られるとのことです。加えて、兵二千と兵糧一万石を合わせて贈られるとのこと。また宛の城と街の修復が終われば、そちらにも専用のお屋敷を用意する予定ですので、これからもよろしくお願いしますね」

 

 袁術は城付で二県の贈与に加え、兵二千とさらに孫堅軍全軍の半年分以上の兵糧を贈ったのであった。その話に、孫堅は穏やかな笑顔を浮かべ礼を言いい、孫策や周瑜らは目を閉じて微笑んでいた。漸く孫家として自らの永久の安住の地を得たのだ。それも二県も一度に。万感の思いである。そして兵も兵糧の備蓄も一気に増えるのだ。何と言っても、全員が当分飢える事がないのは素晴らしい事であった。

 今後、袁術と孫堅は連合の度合いをより深めていく―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここは青州。今だにここには多くの黄巾党の残党が残っている。そして、中央はここへの討伐の兵を送ることはなかった。それはこの地の黄巾党の兵数が百二十万を超えていたからである。

 現在は張三姉妹を中心に州内の統制が取られていた。

 ただ張三姉妹を中心と言っても、軍事関連は波才を、行政は三女の張梁が中心で、平凡ながら割と多くの武官や文官はいるが、大案を考え、承認印を押すだけでも睡眠不足になるほどの忙しさであった。

 しかしそれでも行政関連は裾野が広く、張梁だけでは正直回し切れない状態だった。何と言っても彼女はコンサートにも出なければいけないのだから。

 そんなとき張梁は文官の中に、すごく手際のいい子を見つけていた。名を孫乾と言った。紫調の美しい少し短かめの髪に猫耳風の髪玉袋と鈴の装りを付け、圧倒的な胸が強調されつつも少し大人びた白と黒と青の色合いの大胆な服装をしている。僅かに赤身掛かった優しい目と表情をしている女の子だ。

 張梁はすぐに孫乾を自分の補佐官へと任命して、コンサート時の不在時には行政代行も任せていた。

 また青州は黄巾党天国を背景に、中央からほぼ独立した状況になっていた。そのため、住民達は後漢の中央からの税についてはほぼ大部分が免除されており、地方の税が幾分大目に課されているのみで、住民達は他の州より幾分余裕のある暮らしが送れていた。そういうこともあり住民達は、州内で略奪を行うことなく農業や水産業を中心に普通の暮らしを営んでいた。

 そしてその労働の合間に、張三姉妹らによる青州の各所でコンサートが開かれるという娯楽があり、多くの戦友であり同志達と共に応援に興じることで、慰労になり連帯感や士気を高める事が出来ていた。

 だが、そんな落ち着いた統制下の中で事変が起こった。

 それは、青州城陽郡の徐州との州境近くの街にて張三姉妹によるコンサートが開かれた際の事だった。その日の為に数日前から、張梁が講演計画の中心となって会場周辺の青州黄巾党数千人も手伝い、皆で広大な会場を整備して用意していた。それは徐州からの黄巾党の同志ら数万が来ることになっており、会場は両州の黄巾党の同志で溢れ返って共に大いに盛り上がるはずであった。

 ところが当日、日が落る頃に開演時間となっても徐州からの同志が全く一人も現れなかったのだ。広大な会場は七割以上が空席となっていた。そしていまひとつの盛り上がりになってしまったコンサートが終わる頃―――傷だらけに変わり果てた徐州からの黄巾党の同志ら数百人が会場へたどり着いたのだ。

 会場は騒然となった。

 張梁がすぐに治療の準備や食事の用意するように指示を出す。

 青州黄巾党百二十万の大将軍でありながら、会場警備の責任者をしていた波才が掛け寄ると、比較的傷の浅かった千人隊長から事情を聴くことが出来た。

 話によると徐州州牧の陶謙の大軍に後方より不意に襲われ、徐州黄巾党のほぼ全軍が壊滅的な状況に陥って散り散りに敗走したという事であった。

 これまでも、大陸の至る所で何十万という同志達が、住んでいた土地も追われ戦いにも敗れ散っていった。だがその時は各地の同志達の大規模な組織軍や、張三姉妹の本隊も官軍の大軍に包囲されて動けない状況だった。救出に行くことも敵(かたき)を討つことも何もできなかったのだ。そして波才自身も予州潁川郡より追われ、兗州の本体に合流し、そして今は青州にいる。

 だが、現在この青州には黄巾党百二十万の同志と、州内各地に整えた城塞と蓄えた十分な兵糧があるのだ。

 

 いつまでも同志を討たれたまま俺達は逃げ回るのか?

 今が……怒りの反撃の時ではないだろうか―――。

 

 波才が静かに周囲を見回すと、黄巾党の同志達の多くの顔は怒りに震え、俯き拳を握って耐えているように見えたのだった。

 話を聞くためにしゃがみ込んでいた波才は静かに立ち上がると、傍に並び負傷した徐州黄巾党の仲間達をじっと見ている首領の張角へ、その昂った思いから言葉に力を込めて声を掛けていた。

 

「天和(てんほー)さま、大陸を獲るのは……今ではないでしょうか?」

 

 それを姉の横で聞いた次女の張宝は「それは私の言った台詞でしょー?」と一応波才に突っ込んでいた。

 波才の提案に、張角は右手の人指し指を軽く顎へ当て、少し考えるようなカワイイ仕草と姿勢を取るとお気楽にニッコリと大きく明るい声で答え始める。

 

 

 

「んー。じゃ~あ、みんなで獲っちゃおうか♪」

 

 

 

 張角の再宣言ともいえる言葉に、波才らが拳を突き上げて雄叫びを上げていく。

 

「うおおおおおーーーー大陸、獲るぞぉぉぉーーーー!」

 

 その声への反響と皆の同意の雄叫びが徐々にコンサート会場全体へ広がって行った。

 

「えっ……? 天和姉さん……(せっかく平和に暮らせて、歌も歌えているのに……)」

 

 治療の指示をしていて、その近くにいなかった張梁がそう絶句していた。

 

「ノリは大事よね」

 

 張角の横にいた次女の張宝は勢いだけで余り考えていない様子だ。

 そして長女の張角は―――

 

「まぁ、いいよね♪」

 

 と、先の事をホントに何も考えていない感じなのだが……。

 黄巾党の乱、第二幕も開演が近いのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 <<以下、R-15版一刀と司馬朗さんの熱い夜♡を含む 完全版はR-18カテゴリへ♪>>

 

 司馬朗は一刀の客間へ向かっていた。

 その頬や顔を真っ赤にしているのだが、それは一刀とのこれからあんな所やこんな場所のサワサワナデナデスリスリなイカガワシイ夜の事を想像しているのではなかった。いや、当然頭の片隅に考えているのだが、それはまだ後の話になるだろう。

 単に非常に恥ずかしいのだ。

 彼女はまだ、ただ廊下を、ひと気のない夜の更けた一刀のいる客間への廊下を、自分の部屋のある母屋から歩いて来ただけなのだが。

 では、なぜ恥ずかしいのか?

 それは生まれて初めて……こんなに淫らな『下着』を付けたからである。

 彼女は今、決して下着のみで歩いているわけではない。綺麗で豪華な刺繍の入った打掛をきちんと着てはいるのだ。

 しかし、恥ずかしいのであった。

 その下着は紫色の透け透けで胸布と腰布は別々であった。透け透けは湯殿で、すでに慣れているのでまだ大丈夫であった。胸布も司馬朗の豊満な部位に対して生地が少ないのもあり、一刀にはイロイロと全部見られてしまうだろうが、それも気持ち的には覚悟が出来ているのでまだ大丈夫。問題は腰布であった。もちろんきちんと履いているのだが。でもそれは……脱がなくても脱いだのと同じ状態に出来る仕組みの腰布なのである。簡単に表現すると中央でパカッと開いてしまうという代物であった。透け透けの意味も余りない感じなのだ。

 ハッキリ言ってしまうと少しじゃないぐらい直接見えている感じに近い。申し訳程度に、パカッと開かないように二ヵ所を紐で結んでいるぐらいなのであった。

 司馬朗は自然に少し内股気味に廊下を歩く形になっていた。しかしそれも微妙にスレスレしてしまい困ってしまう。

 そんなに恥ずかしくても、選んだのは司馬朗だから仕方がないのではと思うのだが……実は選んだのは彼女自身ではなかったのだ。

 使用人は見ていた。司馬朗が一刀から今夜にと選ばれたと知って、司馬防が娘の部屋の前に『夜の男女の有り方、過ごし方』という題名の本と、選りすぐりの取り寄せ下着の入った小箱を置いてソワソワと立ち去るのを……。

 そして司馬朗が、緊張しているのか喉を潤す為に水分を多く摂った所為か、厠へ行こうと部屋の扉を開けた時に、彼女は床へ「頑張りなさい、優華」と書かれた木簡と共に静かに置かれた反応の取り辛い親心を見つけてしまう。

 司馬朗も努力家で勉強家であった。そのため一刀との夜が迫る僅かな時間にも一生懸命勉強してしまった……『夜の男女の有り方、過ごし方』という題名の本を。しっかりと目を通して記憶しまくっていた。

 そして、次に司馬朗は下着の入った小箱を開けたが、斜め上なハレンチさに固まっていた。だが、本の中で睦み合う男女の一例にこれに近い下着を着ていたら……というのが有るのを思い出す。

 

(知識だけではなく実践しなければ身に付かないのだから)

 

 そう自分を言い含めて彼女は眼を瞑ると、勇気を振り絞って……静かに履いた。

 

 一刀の客間が近づいて来る。司馬朗はうっすらと手に汗を掻いているのが分かった。ここは自分の家であり、一刀が来てからも何度も訪れている場所というものの今宵は意味合いが違う。一刀から今宵は自分をと求められたのだ。あの『可愛い』と言われてから慕っている気持ちは昂る一方であった。ずっと共に歩みたい、自分にメロメロになって欲しいのである。そのためには母の行き過ぎと思われる衣装も使っているのであった。

 そして―――『司馬家』にとって重要な仕官の話もある。

 司馬朗に取っての仕官とは何のためなのか。

 その最大の目的は『家を大きくする』ということである。自分の才覚を発揮して仕官先に貢献し、対価として名誉や土地や地位を得て家に還元するのだ。

 彼女個人としては、普段も良く行なっている慈善事業や、人々の平和な生活を守れるようなそんなことに力を使いたいという思いもある。

 しかし、下に七人の妹達と家を背負っている以上、大きな間違いや我儘は許されないのだ。

 そしてその『家を大きくする』目的にはもちろん、一刀も関係があることなのだ。

 正直、一刀が県令から依頼され盗賊集団の対策責任者になった仕事を、その日の晩に片付けてしまうとは考えていなかった。素晴らしい武勇と勲功と言える。だが、司馬朗は司馬懿が手を貸すのなら『数日のうちに』片付くとは予想していたのであった。

 だが彼女が曹操へ出した仕官への返事の書状は月単位での有余を求めるものだ。その有余はもちろん意図的に書いている。

 彼女の目的は三つあった。一つは、もちろん一刀と気持ち的にも肉体的にも熱く固く親密になることだ。次に彼の名を大きくすることである。この時代、有名と無名では扱いに雲泥の差があるのだ。一刀の実力と今の実績でも時間を掛ければ名声を大きくすることは可能だろう。そして最後の一つは、旅に出るのを止めさせ、家族として共に仕官へ引きこむ事である。

 一刀の『街の英雄』としての武の実力は、この街だけの噂ではなく、すでに近隣へ及んだ大きな舞台でも実践実証されているのだ。

 司馬朗は一刀が―――『司馬家』を大きくするのにも必要な人材だと確信している。だから離したくない……いやそれ抜きでも一人の女の子として上背のある自分を『可愛い』と言ってくれる彼と離れたくないのであった。

 今夜はそのための大きな一歩なのである。気合いが違うのであった。心の奥底では激しい子孫繁栄行為をも僅かに期待している想いもある。

 だから容易にパカッと開くスケスケの腰布でも履いているのだ。

 そんな色々な熱い想いと意志を胸に、司馬朗は一刀の客間の前の両開きの折り畳み戸の扉の前まで来ると、緊張気味に中へ声を掛ける。

 

「一刀様、優華です」

「ああ、待ってたよ。入って入って」

 

 一刀の親しみのある明るい声で呼ばれると司馬朗は『いよいよなのね』とゆっくりと扉を開ける。そして恥ずかしさの為か、内股気味に少し目線を床へ落として中に進んで行った。

 

「ちょうどいいところに来てくれたよ。この漢字が分かんなくてさぁ」

「え?」

 

 一刀からの声の位置が予想していた正面の寝台の上からではなく、部屋の壁際にある文机から聞こえて来たのだ。おまけに漢字がどうこうと言う。

 そう、一刀は文机にさらに蝋燭を二本立て手元を明るくし、傍らに木簡を山と積んで漢字の練習に勤しんでいた。

 時刻は子時初刻(午後十一時)を回ったころになる。

 

「いやぁ、今日改めて白華、思華に復習させてもらって、覚えてたはずの漢字を結構忘れるんでヤバいなと……」

「はぁ」

「で、ここなんだけど」

「あ、はい、一刀様」

 

 司馬朗は、期待と大きく違う展開に一瞬呆けたが、自分が少し気負いすぎている事に気が付いた。

 それから二人は司馬朗に後ろ辺りから密着される形で、一刻(十五分)強ほどにこやかに穏やかに漢字の練習をしていた。一刀はこんな勉強も悪くないなと思いつつも、集中力が別の方に行ってしまうので少し考え物ではあった。

 それが終わると、一刀は遅ればせながらちゃんと言ってあげる。

 

「ありがとう、優華さん。助かったよ。それと……その……とても似合ってて可愛いね」

 

 一刀は初めから気付いていた、司馬朗の夜の艶やかさに。しかし、初めから飲まれる訳には行かないのである。待つ間も、漢字の練習はいい気分転換だった。

 司馬朗も熱い夜への想いに逸り過ぎていた自分を時間を掛けて抑えることが出来、自然な形で照れるように自分の服装へ目を落とした。

 

「いえ、一刀様のお役に立てて嬉しいです。そして……気に入って頂けて嬉しいです」

 

 一刀はこの世界へ来て、こっぴどく学んだことの一つに階級と順序がある。

 そう、魔王さまと武術の才能が少し程度な自分、魔王さまと知能が偏差値五十そこそこな自分、なので魔王さまが先で次が自分である。そして座席の位置にしても、それらが乱れると取り返しの付かない事(=死)もあるのだ。

 そのことは、この司馬家に来ても、城での宴会でも、そして応接屋敷での応対にしても社会の常識として当然存在していた。

 司馬家に世話になっている以上、一刀はそれを考慮しなければならないのだ……平和な日常のためにも。

 この家の女の子はみんな可愛いのであった。一刀はもちろん皆気に入っている。司馬懿を除けばとりあえず相思相愛な状況と言えるだろう。

 しかし、『誰をどれくらい好きか』、これへ下手に順番を付けたり適当に考えていると一瞬で破滅に繋がってしまう。血を見るのは確実なのだ(もっぱら一刀が……)。

 ここは当然、階級と順序に従うべきなのだ。では司馬防の次は誰か? 答えは司馬朗となる。

 だが、一刀は階級と順序がなくても次は司馬朗だと考えていた。司馬家へ来てからの関係を考慮しても彼女が選ばれるのだが、それでもやはり―――

 

 

 

 おっぱいである。

 

 

 

 まず、司馬防を凌いでいる。一家の中でナンバーワンと言える。いつもタワワンと揺れるのだ。揺れれば気になるのは当然。そして直接見たい。つまり、サワサワナデナデスリスリもしたいという事。そして――そこはまさに掴むための栄光の部位なのである。

 一刀も四六時中そんなことを考えている訳ではない。それでも漢として気にしない訳にはいかないのだ。

 今の一刀には大きな足枷も付いている。

 だが、その中でも彼には『譲れないモノ』があるのだ!

 一刀は彼女の母、司馬防のタワーワな魔性の胸で、すっかり味を占めてしまっていた……。

 とは言え、無理やりやガッつく事も憚られる。あくまでも自然で、お互いに気持ちの熱くなった『正義』な形でなければならないのだ。

 実はそんなイカガワシさ満載の内心も心の片隅に秘める一刀は、漢字の練習で使った筆などを平常心を保った顔で片付けていたが、その彼へ司馬朗は目的を確認するように聞いてくる。それも回りくどくない内容で。

 

「一刀様、その……私にお守りを渡してくれたのは、今夜私と一緒に夜を共にするためですよね?」

 

 加えて司馬朗は片付けの終わりかけていた一刀へ近寄り、彼の右肘を優しく右手で掴むと、彼の右後ろから身を寄せ左手を背中に回しふんわりとハグハグしてきたのだ。

 一刀は司馬朗の濃厚な女の子の香りに包まれていた。もちろん彼は条件反射でクンカクンカする。

 今日の一刀はお守りを渡すタイミングがほとんどなく、応接屋敷にいる時の少しの合間に手渡していた。一刀から「あの……これを」と周囲の目線から僅かに外れた時間に渡されたため、司馬朗も「わかりました」と頬を染める時間も有る無しな感じで受け取っていた。すぐに次の訪問客を迎えたため『自分へ渡して貰えたことでよし』とその時は考えていた。

 今になって朝の一刀の宣言が気になっていた。この漢字の修練もその一環であろう。昼間の一刀の行動も活力のあるものだった。昨日までのどこか少し影のある弱気な彼から一転して変わったように感じている。

 なので、もしかすると臥所に一緒に入らずに、そのまま健全に朝を迎えるとかもあり得るのだ。

 しかし、一刀は司馬朗へ向き直り、彼女の手を優しく握るとしっかりと考えを伝える。

 

「うん、今夜は優華さんと一緒に過ごしたいと思ったから」

 

 一刀は彼女から想いの籠った熱く優しいハグハグまでされ、すでにイカガワシイ気で満ちていた。だが――それだけでもない。この家へ来た当日からの彼女の行動、性格、表情等、人としても好ましいものだった。また姉妹の柱でもあるからか一緒にいると癒され、落ち着ける存在なのだ。一人の女の子としても、家族としても大事にしてあげたい、守ってあげたいと思っている。

 

「もっと色々話をしたいし、教えてほしいこともあるんだ。それにこれから二人だけで学ぶこともあると思うし……」

 

 そんな一刀の少し照れた熱い想いも込めながらの期待を裏切らない言葉に、司馬朗は頬を染めながら可愛らしい笑顔で頷き返してくれる。

 それから二人は、仲良く手を繋いで寝台へ並んで……もちろん桃尻をくっつけられる形で腰かけ靴を脱ぐと、落ち着いた感じでしばらく話をし始める。

 いきなり夜の営みへなだれ込む事にはならなかった。雰囲気は結構盛り上がっていたが、一刀は司馬防との夜の営みでも、少し経験値を上げていたからだ。

 一刀はまだ、この時代の、世界のことをよく知らないと言える。また、昨日今日と応接屋敷で街に影響を持つ多くの有力者に会った。その人達との話の中で良くわからない事もあるのだ。

 今日も夕食後に応接屋敷に出向いたり、昨晩も城で宴会だったりと全く落ちついて色々聞いたり話す時間がなかった。

 そのためそれから二刻(三十分)ほど、昨日会った街の有力者らの地位や影響力の話に始まり、この温県の街や外の事になる河内郡の状況や、近くだという都である洛陽の話なども聞かせてもらった。司馬朗も何度か洛陽へ行ったことがあるという。

 そしてその後に――― 一刀はある重大な事実を知る。

 

 この温は大きな街で自衛力も高く比較的富裕な民や商人が多いと言う。昨日応接屋敷に来た人達の多くは、その中でも各種の業種や役所の各部署の長(おさ)格の人達、そして街の区画での長老達や代表者らと言う。そう言えば街会議で会った顔役の人たちも何人か挨拶に来ていたのを思い出した。

 各街の有力者達の影響力は、その街では絶大だという。もちろんこの街でもだ。覚えを損ねるとそれこそその街には住めなくなるのだ。最悪殺されることにもなるほどらしい。それは現代よりも遥かに顕著である。ちなみに司馬朗へ『司馬家』の街への影響力を聞いてみた。

 すると、街会議で七、八割の賛成の意見を司馬防の反対意見で覆した事が何度もあるらしい。『司馬家』が反対すれば賛成派の有力者でも多くが意見を変えるほどらしい。その逆の反対派優勢を覆す場合も然り。伊達に会議の場で県令の近くに席があるわけではないのだ。また、屋敷の普段の私兵(守衛)は五十人ほどだが、街へ一声かければすぐに千人単位で人が集まるという。……恐ろしい。

 司馬防の機嫌を本気で損ねるとどうなるのか、その一部を垣間見た気がする一刀だった。

 そしてこの司隷河内郡は洛陽のある弘農郡に隣接することと、朱儁将軍が太守であったことから黄巾党の乱でもそれほど大きな被害を受けていないという。先日捕縛した神出鬼没な盗賊団の悪行が注目されるぐらいであった。治安でも政治でも概ね安定した地域だと言うことだ。雲華と見た泰山郡の黄巾党に焼き討ちされ尽くした街の惨状を思い出すと、一刀はこの地が恵まれている地域なのだと改めて感じていた。

 また洛陽は皇帝が居住する絢爛豪華で巨大な洛陽城を中心に、この温県の街の二十倍以上も大きいという。最外郭外周は百里(四十キロ)を遥かに超え、数十万人が暮らしているという。大陸各州の商人達が集まり訪れ各地の名産品も揃い、手に入らないものは無いだろうという街の賑わいだと言う。一刀も是非一度は行ってみたいと思った。

 一刀が聞いた話で驚いたのは、洛陽周辺の司隷を統括する役職の司隷校尉に袁紹が就いていることだ。袁紹と言えば確か三公を配した華北の勢力だと思っていたのだ。一刀は黄巾党の乱の辺りまで遡った袁紹の地位の話まで詳しく記憶に留めていなかった。何進の部下のような感覚で捉えていたぐらいである。

 その直後、一刀は話の補足だったのだが途轍もなく大きな衝撃を受ける話を司馬朗から聞く。

 

「黄巾党の首領の張角と本隊の二十万は青州へ移動し、強大な勢力を未だに維持しています」

「えっ……? 張角が生きてる?!」

「はい」

 

 司馬朗には一刀の驚いた意味がよく分かっていない。単に知らなかったことを今知ったと考えていた。

 一刀は固まっていた。明らかに一刀の知る現代に伝わる三国志と違う『展開』なのだ。すでに武将達がみんな女の子という点で大きく異なっているが、『展開』が違うというのは重さが全く違う事であった。シャレにならないのだ。

 

 

 

 つまり、一刀の知っている三国志の『展開』の知識があてにならないということ意味していた。

 

 

 

 もはや、なんでもアリと言える。

 最悪、『三国』に分かれない未来もあるということなのだ。

 それはもう知らないのに近いという事でもある。

 

「孫策伯符か孫権仲謀、それと劉備玄徳って知ってる?」

 

 一刀は思わず掌へ文字を書きながら司馬朗へ訪ねた。

 雲華にも尋ねた事だが、三国志と言えば、曹操、劉備、孫権だろう。すでに曹操は諸侯として確実に存在している。

 黄巾党の乱がとりあえず終わっていることからそれぞれ名を馳せているはずである。すると司馬朗は答えた。

 

「孫策、孫権は荊州南陽郡を治める袁家に協力する孫家の娘でしょうか。あと劉備ですが……私は………聞いたことがありません」

「…………(り、劉備を知らない?! いないってことないよね……というか、三国志なのに、劉備が表に出てこない未来ってどうなるんだよ!)」

 

 一刀は言葉が出なかった。そして背筋が寒くなると同時に思うのである。

 

 

 

(この世界は一体――――どこへ向かって進んでいるんだ?!)

 

 

 

 司馬朗は一刀の考え込んだように押し黙り、動かなくなった様子に思わず声を掛ける。

 

「あの、一刀様……? 一刀様!」

「えっ? ああ……そうか、劉備を知らないか……」

「はい……すみません」

 

 一刀の少し力の入らない声に、力になれなかった、期待に応えられなかったと思い、司馬朗が申し訳なさそうに謝ってきた。

 

「あ、いや、俺の記憶がズレてるだけかもしれないし、謝らなくてもいいよ。(そうだ、劉備はまだ小さな街を任されているだけかもしれない)」

 

 司馬朗を優しい表情で慰めつつ、一刀はこの時代の『展開』に自分の知る三国志との差異が小さいことを願う他なかった。

 すると、司馬朗が気を利かせてくれる。

 

「情報が集まる中央に勤める母様なら何か知っているかもしれません。明日にでも聞いてみます」

「おっ、そうか。都の洛陽なら確かに何か噂が流れてるかもしれないね」

「はい。ですが、その……今、名を挙げた方々は?」

 

 当然な疑問だろう。孫権までならそれなりに知名度はありそうなのだが、劉備は無名なのに知ってるというのは不自然極まりない感がある。一刀は曖昧になる答えを返すしかなかった。

 

「いや、放浪していた時にどこかで聞いた気がして……ね。俺もはっきりとした記憶じゃないんだ」

「そうですか。何かを思い出す手掛かりになるといいですね」

「そうだね、ありがとう。じゃあ、そろそろ休もうか」

 

 一刀は気を少し取り直す。先日司馬防も言っていたように悪く考えても良いことはないだろう。

 時刻は間もなく、子時正刻(午前零時)ごろに差し掛かっていた。明日もまた朝から応接屋敷に詰めることになりそうで睡眠は確保しておきたいところである。

 しかし――――そのまま休むはずもない。お互いに熱い目的があるのだから。

 とは言え、司馬朗にとって男と二人きりで夜を過ごすのは実質今夜が初めてなのだ。一刀の『休もうか』の声に改めて頬が朱に染まる。

 二人は手を繋いだまま、一刀は豪奢な刺繍の施された布団を大きく捲るとその真っ白な布の上を這うように、司馬朗は手を引かれるままお尻を滑らすように大きな寝台の枕のそばまで進むと、再び座った状態で向い合う。

 司馬朗は本で少し学習したが、一刀に先んじて動こうとはせず、彼の次の動きを……そのすべてを受け入れるつもりで待っていた。

 先ほど文机に灯されていた蝋燭はすでに消され、今部屋の中は良い雰囲気の明るさになっている。そこに浮かび上がる表情は、とても幻想的であり綺麗で可愛くもあるが……異様に欲情をそそりエロくもあったのだ。

 一刀は、司馬朗の雰囲気から自分の行動を待っているのだと推察し、彼女の目をじっと見つめる。

 司馬朗は恥ずかしい為か当初チラチラと目線を外すが、最後は一刀とジッと目線を交わし静かに見つめ合う。

 

「大丈夫だから。綺麗で可愛いくて……好きな優華さんに無理強いはしないよ。優しくするから」

「(可愛いって)! とても嬉しいです……その最高の言葉を聞けただけで。構いません、一刀様のお望みのままに。私はそれで幸せなのですから」

 

 蝋燭のほのかな灯りに部屋の壁へ浮かび上がった二人の影は、ゆっくりと互いに近付くと静かに頭の影が重なり合う。

 司馬朗がゆっくりと目を閉じると、一刀は司馬朗へその瑞々しい唇に僅かに優しく触れるようなキスをしてあげる。司馬朗は一度目を開け嬉しそうにほほ笑むと再び瞼を閉じた。一刀は再度唇を寄せ、軽く啄(ついば)むようにキスをする。

 二人の影は、初め僅かな間の重なりであったが、次第にその重なる時間が伸びていった。

 そして数度目のあと最後は一刀が上から被さる様に重なったまま寝台へとゆっくりと倒れこんでいった。

 それからしばらく長い間、熱く激しい接吻を終えると、一刀は司馬朗の恥ずかしいのか顔を真っ赤に染めた彼女の頭や髪を優しくナデナデしてあげた。

 そして一刀は僅かに体を起こすと、司馬朗に優しくキスの感想をささやき掛ける。

 

「とっても、甘いね」

「……はい」

「じゃあ優華さん、打掛を脱がすよ?」

 

 すると、司馬朗は仰向けのまま一刀を改めて見つめ直す。

 

「一刀様、私の事はどうぞ『優華(ヨウファ)』とお呼び捨てください。もう、貴方の妻のつもりなのですから」

「うん、わかったよ。じゃあ優華、打掛を脱がすからね」

「どうぞ」

 

 一刀は司馬朗の腰に巻かれた豪華な腰帯をゆっくりと外していく。外しやすいように司馬朗も体を座る形に起こして向い合う形になって協力してくれる。また腰帯もすぐに外せるよう六尺程(百四十センチ)と少し短いものであった。

 腰帯を外し脇へ置くと、一刀は次に打掛へ手を掛ける。司馬朗はその下のハレンチ極まりない下着のことを思い出し、それを見られてしまうという恥ずかしさにより、思わず一刀から目線を逸らしていた。

 一刀は自らの手で、彼女の打掛の前を開(はだ)けさせていった。そしてついに一刀の待ち焦がれていた司馬朗の見事にタワワンなおっぱいが、紫色の薄い生地を通してスッケスケの状態で彼の目前にその全貌を現したのである。

 

「おおお……」

 

 その圧倒的にタワワンな状態にもかかわらず、それは重さに負けることなく美しいフォルムを維持していた。さらに、司馬朗も熱くなっていることを表すように白かった瑞々しい肌は全体に僅かに朱に染まり、それぞれ中心やや上にあるポッチはツンと生地を持ち上げる程見事に大きく上を向いて存在を主張していたのであった。その周囲は少し広めに美しいピーンクな光景が広がっている。

 その一部始終を捉えようと、少し血走りかけたイヤラシい一刀の目によって最高解像度での脳内記憶録画がフル稼働していた。

 しっかりじっくりその豊満な光景を脳に焼き付けると(この間十五秒程)、一刀はさらに目線をゆっくりと、彼女のおへそのさらに下へと向けていった。

 

「……………」

 

 一刀はその下の美しい絶景に声が出なかった。

 司馬朗は一刀から目線を逸らしたまま動くことはなく、彼に視姦されるままであった。司馬朗は気が付いていなかったのだ。内股でスリスリと歩いていた事が、思わぬ事態を引き起こしていたのである。

 

 

 

 そう―――例の紐がほどけてしまっていたのだ。(パカリ)

 

 

 

 一刀はそれをしっかりじっくりと見てしまう。透けた湯浴み着越しとかではなく、正面から『生』で、そしてパ●パーンで~♪

 司馬朗にとって僅かに救いであったのがまだ座って足を崩した状態で、外れた紐は二本のうち前の紐だけだった為に『丸見え』ではなかったことだろう。

 一刀は、目線を逸らしたまま顔が真っ赤な司馬朗へ心に浮かんだ言葉をそのまま伝えていた。

 

 

 

「……ありがとう」

「えっ?」

 

 

 

 司馬朗は一刀の掛けてくれた言葉の意味が良くわからず、疑問の声を口から漏らすと彼へと目線を戻した。

 本当なら、『綺麗だね』『美しいね』『(胸が)大きいね』『触ってもいい?』等を想定していたのだが、その『ありがとう』は何に対してかと気になった。

 だが、その一刀の目線は彼女の下腹部に固定されたままだったのだ。(この間先ほどから二十秒程。もちろん脳髄の持てる総力を上げての多重記憶録画中です♪)

 司馬朗の目線も自然と自分の下腹部へ……その光景はほどけた紐が見えての『パカリ』。

 

「きゃぁ!」

 

 司馬朗は思わず小さく可愛い声を上げて足を閉じ、打掛の前を隠してしまう。

 その声と動作に一刀は慌てて目線を外し謝罪する。

 

「えっ? あ、ご、ごめん!」

 

 一刀はここで漸く、腰布の閉じていた紐がほどけていて大事な所を隠すための布が開いて無毛な女の子の絶対領域を露わにしていたことが、司馬朗の一刀へのサービスではなかった事に気付くのであった。

 正直、彼はガン見しずぎていた。真に羨ま……ゲッフングフン、けしからん事である!

 司馬朗は一刀へ困ったような少し怒ったような顔を向ける。

 彼女としては今夜にも見せてしまう所であったかもしれないが、ソコは絶対に一番最後になるはずの箇所であったのだ。

 彼女は恥ずかしさ一杯の控えめな小さな声で、一刀へ確認するように聞いてくる。

 

「一刀様……み、見ちゃいましたか?」

「優華、ごめん。み、見ちゃいました。てっきり君が見せてくれてるんだと思って……興味があったし……綺麗だったから……ホントにごめん」

 

 一刀は正直に答えるしかなかった。

 司馬朗は、今日一番に顔を真っ赤に染めて上目づかいで眉を寄せ困った表情をする。確かに恥ずかしくて目線を逸らせながら、自分が一刀に見てもらっていた状況である。一刀がそう思うのも無理はない。そして、彼女はいろいろと思うのだ。

 

(一刀様には、いずれ必ず見られちゃうところだし……興味を持ってもらえてるし、綺麗だって言ってもらえてるし……あぁ、でもなんて恥ずかしい! だけどここで立ち止まれない。大体母様に女として大きく遅れを取ってるんだから、これは一刀様とより親密になって巻き返す好機だと思うべきだわ。それにすべての事を覚悟してきたはず!)

 

 一方、一刀はここで痛恨のミスのを犯してしまったのではないかと考えていた。せっかく良い雰囲気だったにも関わらず、調子に乗り過ぎたのではないかと。正直、記憶録画のし過ぎで司馬朗の衝撃のエロ下着と半見えであった絶対領域の光景が、今も幻覚のように眼前にチラついていた。

 困った風な表情ながらも意を決した司馬朗は、そんな思いの一刀へ予想外の事を尋ねてきた。

 

「一刀様、その……も、もっと私の……女の子の秘所を見たいですか?」

 

 『喜んで!』と思わず言いそうになった一刀だが、『ちょっと待った!』のだった。今日の目的を当初のものに絞るべきだと考えた。調子に乗ってはロクなことがないのだ。それは雲華といるときに散々思い知ったことではないかと。もし司馬朗にニタリとされた日には……一刀は背中に少し鳥肌が立つのを感じていた。ここは謙虚に行くべきだろう。

 

 

 

 そう、おっぱいで!

 

 

 

 謙虚でもなんでもないのである。

 あのビッグサイズの掴むべき栄光の双丘をサワサワナデナデスリスリと、さらにもっとエスカレートしてイロイロしたいのだ!

 ホントに司馬防で味を占めすぎなのであった……。

 

「今日は、もう遅いし、きっと優華の大事な所を見せてもらうと、絶対夢中になっちゃうと思うんだ。だから今夜はまずその……君の綺麗な胸を……よく見せてほしいんだ。いいかな?」

 

 少し控えめに尋ねる一刀の両手の指が司馬朗に見えない位置で自然と空気を揉むようにワキワキと動いていた。

 そんなヨコシマな思いも行為も知らない司馬朗は、自分を求めてくれる一刀に気を取り直すように微笑むと答えてあげる。

 

「はい……私の……この胸は一刀様の物です。お好きなようにお楽しみください……」

 

 そう言うと司馬朗は両手で隠した打掛を肩からゆっくりと下へと落とし、その豊満で透け透けの僅かな胸布にまだツンと上に向かって美しい形の先っぽが立ち上がったままの双丘を一刀の前へ露わにしてあげていた。

 

 「じゃあ」と言いつつ、一刀は司馬朗の胸へ両手を広げるように外側の横から回り込むように遠回りに控えめに近づける。そして、ビッグサイズな双丘を下から掬うようにそっと触れつつ軽く持ち上げてみる。胸布が少ないので肌に直接触れる形になった。

 

 ―――スバラスィィィィイ感触であった。

 

 重厚でそして若く大きな分、司馬防以上ではないだろうか。マシュマロのように柔らかで滑らかな肌は程よい弾力も持っていた。指を滑らしサワサワナデナデすると非常にきめ細かい肌だと改めて思い感じていた。

 一刀はさらに堪能する。つまり、モミモミである。

 そしてモミモミへ円運動も加わり夜の営みは加速していく―――。

 

 司馬朗は快楽的な天国を迎え、クタリとしていた。呼吸も少し荒いものになっていた。

 それはやがて徐々に収まっていく。

 一刀はそのエロい情景を、司馬朗の頭や髪をゆっくりとナデナデしながら眺めていた。

 そして落ち着いた頃に、横になったまま天国初体験を終え少し不安そうな表情の司馬朗へ顔を寄せると穏やかな優しい表情で言ってあげる。

 

「とても、素敵で可愛かったよ。優華の胸は大きさや形や肌触りがとてもいいし、俺は好きだよ」

「ぁあ……」

 

 そして、一刀はその想いを伝えるように彼女の唇に優しくキスをしてあげた。

 司馬朗は本当に自分のすべてを一刀へ見られてしまった思いでとてつもなく恥ずかしかったのだが、一刀から貰ったその言葉への喜びの方が勝っているのを感じた。

 彼女は改めて思いを強くしていた。一刀と共に人生を歩んで行きたいと。それは女としての恥ずかしいところを一杯見られてしまっても、許してしまえる只一人の男の人だと今まさに実体験して理解出来たのだから。

 

 だが……彼女の恥ずかしいところはまだ終わっていないのであった。

 

 司馬朗は股間に違和感を覚えた。何か水っぽい僅かに冷たい感じがしたのである。

 

(えぇっ、まさか私……お、お漏らし……を!?)

 

 司馬朗は横になったままであったが思わず、両足を特に太腿を寄せる気持ちで閉じていた。するとやはり女の子の絶対領域の周辺に水気を感じ、自然と僅かに太もも辺りがモジモジスリスリの動作になっていた。

 すると一刀がその動きから彼女の状況に気が付いた。そして寝台の脇に用意していたのか何枚かある白い綺麗な手拭き用の布の一枚を司馬朗へ渡す。

 

「はい、優華これを使って。大丈夫だよ、俺は―――この香りが嫌いじゃないし……」

 

 余計な変態の一言が漏れているが、司馬朗はそれどころではない。本で少し勉強していたが、男女の営みで女の子の大事な所から、お小水でないモノが出るともあったが『こんなに出てしまうの?』という気持ちなのだ。いや、今はどちらかまだ判断がつかないでいた。好きな人の前でお漏らしなんて耐えられないのであった。

 しかし司馬朗は、ここで一刀の(変態な)一言を思い出す。今はお小水独特の匂いは感じない。それに代わってどこか淫靡な香りがしているのであった。

 

(と、とりあえず、お漏らしではないのね……)

 

 司馬朗は少し安心するが、この濡れた状態を処理したいところである。

 だが、今は手拭き用の布を受け取ったが仰向けで横になり、傍らで一刀が見ているのだ。この状況で絶対領域に布を当てがい拭き取る動作をするのは余りにも恥ずかしいかった。

 

 ちなみに司馬防はどうしていたのかというと……彼女は一刀がこの香りにニヤけた表情で盛んに鼻を鳴らしていたのに気が付いていたのだ。そこから一刀がこれを気に入っていると判断したのである。なので―――絶対領域についてはほぼ拭き取らずに一刀と夜を過ごしていた。

 計算高いが……エロ過ぎである。まあ一刀も一刀と言えるが。

 

 司馬朗は起き上がり、白い布を腰下へ隠すように置くと、一刀へ上目使いにお願いする。

 

「一刀様、その、少し背中を向いていてもらえますか? まだ、恥ずかしくて……」

「あ、ごめん。うん、そうだよね、分かったよ」

 

 女の子には細かくても気を使わなければならないのは当然と言える。

 一刀は、爽やかな笑顔で司馬朗へ背中を向けた。

 彼は何も残念なことも気落ちもしていない。なぜなら布こすれの音は聞こえてくるし……気と読めばそのあられもない姿を完璧に捉えられるのだから。

 ――最低変態紳士と言えよう。

 だが、今は彼女の気持ちを察してあげ、そこまではしなかった。日本男児の真心である。

 じきに自然と見せてくれるようになる時に、じっくりその様子を楽しもうと熱く期待して。

 でも、音だけであれこれ妄想して十分楽しんでいた………ある意味、最低には変わりなかった。

 

 すでに子時も終わりに近付き(午前一時前)二人は共に布団へ入り休む事にする。

 司馬朗は腰布と胸布を付けた姿であった。胸布は下腹部の水気を拭き取るときに付け直していた。やはりまだ少し恥ずかしいのだ。

 だが、二人は手を繋いでいた。

 そして互いに向い合うように横を向いて寄り添って横になっていた。一刀は時々司馬朗の胸へ顔を埋めるように僅かにスリスリする。もちろん、布団の中に湧き上がる麗しい女の子の濃厚な匂いをクンカクンカしつつ。

 そして、互いにお休みの挨拶の優しいキスを数度も交わしていた。

 だが、間もなく心地よさと気持ちよさと匂いの良さから、またも一刀から寝入ってしまっていた。

 そんな一刀の頭を司馬朗は彼の寝顔を眺めながら、優しくナデナデしていた。

 

(ずっと共に歩みますからね、一刀様。よろしくお願いします)

 

 最後は一刀の頭へそっと自分の顔を寄せると司馬朗も安らかな眠りへと落ちていった。

 

 <<以上、R-15版一刀と司馬朗さんの熱い夜♡を含む 完全版はR-18カテゴリへ♪>>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほどなく『司馬家』は朝を迎える。

 一刀が司馬家へ来て六日目の朝だった。そして――殆ど誰も知らないが、曲がりなりにも安定していた後漢帝国最後の朝である。

 今日も一刀は卯時(午前五時)過ぎから起き出し、庭の竹林で朝の鍛錬を司馬敏と行った。

 その寝床から起きる際には、司馬朗も一緒に起きていた。

 彼女は今の司馬家の内々をすべて預かっている立場である。仕事は山のようにあり毎朝早くに起きているのだ。

 お互いに『眠いね。でも今日も頑張ろう』と声を掛け合い、一刀の客間の前で軽くハグハグすると笑顔で別れた。

 

 そして早くも、朝食の時間を迎える。

 その直前に居た『寛ぎの広間』では、昨夜一刀の客間からの『きゃぁ』という声はナンダという事で話が盛り上がっていた。

 一刀としては、まず『ナゼに知っている?』と言いたい。

 もちろん発言者は司馬孚だ……。何やら恐ろしい……日頃から司馬孚とは仲良くしていなければいけないなと、一刀は思いを強くする。

 司馬防は内心は不明だがにこやかに傍観していた。

 司馬懿は片隅の敷物に寝転んで我関せずと本を読んでいた。

 当然、一刀は『黙秘』するしかない。

 だがそのために『きっと一刀様が逞しい体で激しく――』と下の五人の姉妹達から、より姦しく色々な熱い憶測が述べられていた。

 それは朝食の席へまでも続いていた。

 家内への差配のためそんな事情を知らない司馬朗が、家族の中で最後に一刀の横の席へニコニコしながら座る。昨晩を一刀と共に過ごし、自分を求められた事がずっと嬉しいのであった。

 そんな司馬朗だが食前に皆の前できちんと、今日もすでに応接屋敷に客が多数来ていることを告げ、家族皆の協力を呼びかけていた。ただ今日の来客は昨日程ではないので午後の未時(午後一時から三時)は休憩になるということだった。

 他、今日はお風呂があるなど伝達事項の後、いただきますの挨拶で食事が始まる。

 和やかに食事が進む中で、いきなり司馬進がハキハキと朝の熱い疑問に終止符を打つためかハッキリと尋ねてくる。

 

「優華姉様、昨晩の『きゃぁ』とは何かあったのですか?」

 

 一刀は聞いた。その瞬間に右側に座り、音も静かで上品に食事をする司馬朗から『ゴポッ』っと吹く音を。

 驚いた一刀は小さく何度も咳き込む司馬朗の背中を優しく擦って介抱する。

 それを見かねた司馬防がついに代わりに動いた。

 

「白華、先ほどから優華の一刀殿へ向ける明るい表情を見れば、小さな事だと分かるでしょう? 皆も初めて経験することに驚くこともあるはずですよ? それに夜の事を一々聞くというのは『野暮』と言うものですよ。覚えておきなさい、いいですね」

「「「「「「「は(ぁ)い(~)」」」」」」」

 

 まさに鶴の一声で決着する。

 司馬朗もほどなく無事に回復し、その後は和やかに皆での朝食を終了した。

 続いて間もなく一刀と司馬防と司馬朗は着替えをすると応接屋敷へ移動し、今日もすでに来訪していた客人達への応対に追われ始める。

 最初の辰時正刻(午前八時)からの半時(一時間)分の来客らへの応対を終えると、一刀は昨日から始めた通りに今日も午前中二度有る休憩の時間を、母屋での勉強会にて漢字の修練に充てていた。それの一回目を終えて再び応接屋敷に帰ってくると……また彼女が来ていたのだ。

 そう、朱皓である。

 

「あはは♪ また来ましたぁ~。今日も頑張ってますね。北郷殿、体調の方はどうですかぁ?」

 

 彼女が暇なのは良く分かった。

 しかし、こう度々来られると監視されているようで落ち着かない。本当に彼女には何か目的があるのかもしれない。

 でもまあ、雰囲気から行き当たりばったりで、全く計画性が無い気もしないでもないが。

 とりあえず、一刀は無難な対応をする。

 

「気遣ってくれてありがとう。幸いこうやって文明殿らお客人へお礼の挨拶をする分には大丈夫だよ」

「そう、良かったぁ。そうそう、昨日よりお客人も減っているし、時間があれば街を一緒に見て回らない? 馬で回れば短い時間でも結構回れるよ~」

 

 一刀は『街を回る』と『馬で』と言う言葉がちょっと面白そうに思えた。それに『短い時間でも』という所も興味を引いた。

 確か午後に一時(二時間)の休みがあったはず。厩舎で馬を借りれば半時(一時間)ちょっとなら行けそうに思えた。

 

「未時(午後一時)過ぎからで半時ほどなら時間があるけど……? それと俺一人じゃないかもしれないけど、それでもいいなら」

 

 一応保険も付けておくが、朱皓は全く気にしていないようだ。

 

「あは、いいわよ未時ね、分かったわ。じゃあその頃にまた寄せてもらうね~♪」

 

 そう言うと朱皓は、嬉しそうに笑顔で去って行く。本当に暇なんだなと思う一刀であった。

 するとその様子を少し離れた場所で見ていた司馬朗が近寄ってきた。

 

「一刀様、何故すぐに受けたのです?」

「えっ、何か不味かった? 休憩時間中には戻れると思うし、大丈夫だと思ったんだけど。あと街に不慣れな俺一人だと何か有るかもしれないから、腕の立つ小嵐華も一応一緒に誘おうと思っていたんだけどな」

「今すぐに問題という事はありません。ですが、あの方はこの河内郡の太守である朱儁将軍の娘だという事を忘れないでください。何か有れば太守様が出てくるのです。朱儁将軍の私兵は数万に上ると思います。お気を付けください」

「分かったよ。つまらない問題を起こさないように気を付けるよ。ありがとう」

 

 一刀は優しく司馬朗のスベスベな頬を右手で優しく撫でてあげる。

 

「い、いえ……」

 

 一刀の自然な優しい行為に司馬朗の頬が染まる。

 司馬朗は心配なのだ。もしかすると朱儁将軍が一刀の武力を欲しがっているのではないかという事に。大事な人を取られる訳には行かないと。

 

 それから特に何事もなく昼を迎える。

 今日は来客は絞られていたようだが、お祝いや贈り物、寄付金の一件当たりの額は増えていた。総額はすでにとんでもない額になってきているみたいだが、一刀としては特に関心はなかった。世話になっている司馬家に恩返しが出来て良かったと思うぐらいであった。

 一刀は無難に接客を熟し、二回目の休憩時間にも司馬進、司馬通から漢字の修練を受ける。昨日、そして今日も、総ざらいによる千五百字から二千字中で知らないものや忘れている漢字の割り出しを進めている。

 そして漢字の修練が終わると再び応接屋敷へ戻り、一刀は昼食を訪問客らと共に頂くのであった。

 乾杯や食事が終わり、来客への挨拶も一通り終わって落ち着いた頃、朱皓と約束した刻限の未時を迎える。

 ここで一刀は気付く。またもや飲酒乗馬になるということに。しかも今度は公道である。この時代、そんなことで馬に乗るほどの人物が咎められることはなかったが、司馬朗の言葉を思い出し不安要素を取り除こうと、一刀は数分の短い時間ながら水分を取った上で、体内の気を高めて代謝を促進し、可能な限りアルコールを体外へ排除した。

 一刀は少し早めに客間へ引き上げると、銀さんに動き易い服装へと着替えさせてもらった。一応、愛剣は持っていくことにする。如何なる時も油断は出来ないのだ。

 また司馬敏へは午前の二回目の漢字の修練の合間に、一刀から街への同行を依頼していた。すると二つ返事で返してくれた。もちろん朱皓に付き添っての行動ということは伝えている。

 

「兄上様からのお誘いですから喜んで!」

 

 司馬家の中でも実は、彼女は割と暇をしている。末っ子の特権と言うべきか、良い姉達を持ったというべきか、仕事は出来る姉達がみんな片付けてしまうのだ。

 司馬敏もやれば出来る子なのだが、少々甘やかされていると言えるかもしれない。

 ともかく、この街に詳しくて腕の立つ司馬敏が傍にいれば、大抵の問題は解決できるだろう。

 

 厩舎から馬が表の玄関へ回される頃、朱皓も馬に乗ってやって来た。

 一緒について行く司馬敏の紹介も県令の城での宴会で顔を合わせているのでスムーズに進む。

 

「幼達殿ね。もし迷ったらよろしく~」

「はい、文明様! この街は庭のようなものですから大丈夫です!」

「じゃあ、文明殿行こうか」

 

 一刀の掛け声を合図に出発する。しかし、さすがに馬三頭が横に並ぶと大変なので司馬敏には悪いが後ろについてもらい、前を一刀と朱皓が並んで進んで行った。

 朱皓は暇だったのかすでにこの街の大通りはもう大抵、馬や自分で歩いて回ったと話してくれた。その中で美味しい食べ物屋や、珍しい物が並ぶ店や大きな本屋辺りを今日は見て回ろうと言うのだ。一刀としても半時(一時間)程と限られた時間でもある。先に目的がはっきりしている方が計画や時間の配分がしやすいと思えた。

 さっそく朱皓が僅かに前へ出て先導し一刀らはそれに従い本格的に移動を開始する。

 馬なので人気のないところは少し駆け足で軽快に進めるため、牛車よりも断然早く移動が出来た。

 司馬家の屋敷がある邸宅区画を抜け、少しずつ人通りのある住宅地域を抜けると人通りの多い商業区画へと到達する。ここまでの所要時間は一刀の体感で十分も掛かっていないぐらいか。ここではさすがに駆け足だと危険なので、ゆっくりと馬の歩を進める。

 すると、あちこちから一刀へお礼の声が掛かってきた。どうやら乗ってきた馬の司馬家独特の馬具の飾りと、牛車で通った時に多くの人に顔を覚えられているらしい。同時に司馬家のただの客人ではなく、すでに連なる者という話も伝わっており、おいそれと気軽に話をしてくる感じではなかった。おまけにその横には太守の朱家の馬具の飾りの馬も並んでいるのだ。

 そうするうちに間もなく目的の店へ到着した。傍にある馬止へ馬を繋いでさっそくお店に入ろうと近付いた。どうやら甘味処のお店のようであった。

 

「ここですよぉ。北郷殿は甘い物は大丈夫ですよね~?」

「ああ、好きだよ」

「幼達殿は……大丈夫そうですね~」

 

 司馬敏はすでに店の前に漂う甘い香りにうっとりして中を伺いつつあった。

 

「はははっ、早く入ろうか」

 

 三人は早速お店に入っていく。だが一刀らが入ると店の中は『街の大英雄』がやって来たとお祭り騒ぎに変わる。

 外の作りも中の作りも立派なお店だ。店中でお礼の声を掛けられつつ、二階の個室へ急遽丁寧に初老の店の男主人自らが先導して三人は通された。

 朱皓は「急に悪いねぇ。ちょっと寄っただけだから」と軽い感じに、司馬敏も当然といった感じで歩いていくが、当の一刀は少し恐縮気味だ。

 その個室は一番作りの良い部屋のように見える。立派な座卓の奥に朱皓が座りその左に司馬敏が座り朱皓の前に一刀が座る。

 店の主人自らお茶を出し、注文を受け下がっていった。

 一刀としては元いた現代のノリで、もっと普通に街中を楽しむかと思っていたのだが、現状はまさに貴族やVIP扱いと言える。

 

「シャオランもこんな感じで時々街の店に来るのか?」

 

 一刀は普段どうしているのか気になり司馬敏へ聞いた。

 

「いえ、美味しそうなお店を見つけるところまではしますが、屋敷まで運んで来て貰いますね。お店に入って食べるのは、久しぶりですよ!」

 

 よく考えると、当然そうなるかと思う一刀だったが、朱皓は少し違った。

 

「私は良く自分でお店に入って食べるかな~。だって、早く食べたいんだものぉ。それに冷めてしまうものも多いんだから~」

 

 お嬢様でも色々いるという事だろう。だが太守の娘が街中をこうフラフラしていて大丈夫なのだろうか。彼女の気を探ってみるとそれほど大きくないのだ。横に座るほぼ同じ背丈の司馬敏と比べると一目瞭然である。朱皓のちんまりした胸と司馬敏のプルンプリンな胸の差の如くだ。

 気の大きさから、おそらく良くて十人隊長ぐらいの腕しかない感じに思えた。

 ……まあ太守の娘をどうこうすれば、ソイツとその一族郎党は破滅しかないわけだが。

 ここはそんな時代なのだ。

 

 そうしていると早くも、甘味が運ばれて来たので三人は頂くとする。井戸水で冷やされているのか、果物等がひんやりとしていて旨かった。納得の味わいを楽しめた。

 サービスなのか結構な量が盛られていたように思う。

 お代わりと言われて再度待たせると、店側も冷や汗ものと言う事だろうか。

 三人とも完食し、残り時間もそう多くないので満足のうちに店を出る。

 だが、ちょっと待てと思い一刀は朱皓に尋ねた。

 

「文明殿、代金は?」

「え~? 母上に請求するんじゃない?」

「……(おいおいお嬢さん、だだの店の主人が太守の将軍様に向かって請求できるわけないだろう)……ちょっと待ってて」

 

 一刀は店へ戻ると、銀の粒を一応持って来ていた立派な財布から取り出し、店の主人に渡そうとした。この財布は司馬朗が何かの時にと持たせてくれたものだ。金の粒も入っている。しかし店の主人は笑顔で受け取らなかった。

 

「ありがとうございます。ですが、街の皆を救った大英雄様から代金を頂いたら、この街に住めなくなってしまいます。それに北郷様が来てくださっただけで、大きな宣伝になりますのでご心配いりませんです、はい」

 

 そこまで言われては、一刀も笑顔で引き上げるしかなかった。店の主人は「またいつでも来てくださいませ」と言って店の前まで一刀ら三人を見送ってくれる。

 確かに、そのあと馬上からそのお店を振り返るとすでに長い行列が出来ていた……。

 皆逞しいものだと感心し店を後にする。

 

 そのあと、珍しい物が並ぶ雑貨店に寄り、大きな本屋にも寄った。

 三人とも各店で数点品ずつ品物をゲットしたが、揃いも揃ってどのお店も初めの店と同じ様に代金は受け取らなかった。

 三人が去ると大勢の人が集まるので、それが代金だと納得するしかない感じだ。

 朱皓は、お遊び入りな風で過剰な表現で言ってくる。

 

「北郷殿……いや、北郷さまさまのおかげよねぇ~」

「はい! 兄上様大人気です!」

「いやはや……」

 

 一刀も調子に乗るわけではないが、当然悪い気分ではなかった。

 さて、そろそろ予定の半時(一時間)も終わりが近付き三人は帰路につこうとしていた。

 

「さて、そろそろ時間かなぁ~。 ねぇ宿の傍へ送って欲しいかも♪」

 

 朱皓の申し出に、時間もまだ少しあるし太守のお嬢さんの安全を考えれば、まあ当然であろうか。

 

「いいよ、文明殿。幼達もいいかな?」

「はい、大丈夫です!」

「じゃあ、こっちだよぉ」

 

 先ほどと同じように朱皓と一刀が馬を並へ、司馬敏の馬が後ろに続いていく。

 そして、一刀の感覚で一行は三、四分ほど馬を進めると――何故か人気のないところへ出て来ていた。

 そこは幅が広めで四歩(五メートル五十センチ)の一本道だった。

 

 

 

 一刀はその前方に大きな気を持つ一人の人物を見つける。

 

 

 

「兄上様!」

 

 司馬敏は後方へ目を向けていた。すでに後方にも数名がいるようだ。

 一刀は気の捉える範囲を広げてみる。

 どうやら他にも人が配置されていて周辺を封鎖している様子が感じられた。

 一刀は……まんまと油断していた。

 

「文明殿……これは何かなぁ?」

「北郷殿、今日最後のお楽しみでぇ~す♪」

 

 朱皓はとても嬉しそうな笑顔で右に轡を並べる一刀へそう答えた。

 

 

 

 どうやらつまらない問題が起こりそうであった……。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年10月22日 投稿
2014年10月23日 文章見直し
2014年11月01日 文章見直し
2015年03月21日 文章修正(時間表現含む)
2015年03月22日 八令嬢の真名変更
2015年03月30日 文章修正



 解説)霊帝
 先帝の桓帝の実子ではなく、同じ河間王家出身。
 彼の治世の開始当初から、羌や鮮卑等の異民族の侵攻が活発化する一方、度重なる天災により地方での反乱も頻発した。後漢へ古きから仕える地方の将軍らがそれらの鎮圧に尽力する間も霊帝本人は宮殿内で商人風な事をしたり、酒池肉林に興じて朝政を顧みず、政治の実権は徐々に十常侍と呼ばれる宦官らが行うことになっていく。
 中央が機能不全に陥り社会が不安定に向かうと黄巾の乱が発生。すでに中央だけでは処理しきれず、地方の力を借りて乱を平定するも中央とはほぼ独立した地方軍閥の台頭を許すこととなった。
 その後も売官を行うなど「銅臭政治」と呼ばれる、賄賂が横行する悪政を行ったため、同時に治安の悪化も進み後漢の国勢はますます衰退した。
 国内がさらに乱れる中でも宮城にて崩御。
 ……ヤリたい放題です、酷いですね。



 解説)霊帝の売官
 曹操の父曹嵩が、三公の一つ太尉の位を1億銭で買った。
 崔烈も500万銭で、三公の一つ司徒を買ったとか。



 解説)後漢のお金
 五銖銭というのがありました。
 後漢末期の穀物1斛(石)の価格が、通常期に100~200銭位。
 1石26kg=13000円=130銭 とすると1銭100円感覚ぐらいでしょうか。
 まあ、貨幣や物の価値には年代差がありますし単純比較は難しいですけど。
 でも、上の1億銭がどれほどの額かですねぇ。流石金持ちの曹家。



 解説)人中に呂布あり、馬中に赤兎あり
 こう言われるようになったのは呂布が中央で行き場が無くなり、袁術に身を寄せたが受け入れられず、次に袁紹を頼って行き共に常山の張燕を攻撃した辺りとか。
 あと、董卓の傍にいたころから飛将軍とは呼ばれていたようです。



 解説)周々(シュウシュウ)と善々(ゼンゼン)
 周々は孫尚香のペットの白い虎で「ガウガウ」と吠える。
 善々はパンダで「グルルルルルルッ」と唸る。
 真恋姫の呉√に登場。



 栄光)おっぱいである。
 漢にとっての永遠の双丘である。なぜ、目指すのか? それはそこに双丘があるからだぁぁぁ。
 ……改めて書くと最低やなぁ。(笑)



 挑戦?)司馬朗さんの熱い夜♡
 『時刻は間もなく、子時正刻(午前零時)ごろに差し掛かっていた。』これ以前の文はR-15とR-18は同じ文章です。R-18部分だけだと文が繋がらず読みにくいところがあるので丸ごと入れてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➋➏話 洛陽動乱前篇

 

 

 

 洛陽城傍にある皇甫嵩将軍の邸宅内の、自然が美しく良く手入れが行き届き落ち着いた感じの庭が一望できる楼閣にて、皇甫嵩将軍は盧植元将軍と食後のお茶を静かな気持ちで共にしていた。盧植は今、徐(おもむろ)にその美しい庭を眺めている。

 

「……来なかったわね♪」

 

 その声に皇甫嵩は瞼を閉じて静かに答える。

 

「予定通り(決行)のようね……」

 

 未時正刻(午後二時)までに中止の使者が来なければ、董卓陣営と献帝陣営は各自予定通り静かに行動開始である。

 

「んー……明日の今頃はうまく行ってるよね?」

「コツコツと準備してきたんだもの……私達が新しい扉を開けるのよ」

 

 

 

 幾何かの血が流れるかもしれないけれども―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 徐州東海郡にて、黄巾党軍により敗残の中で仁王立ちのまま気絶した関羽を助ける形になったが、管輅からの情報により『辿り着けるもの』達の動きを阻止した雲華一行は、泰山の麓に広がる森にある巨木の家へと戻ってきていた。

 帰途にて再度、近くにいるであろう管輅を呼び出し一刀について再度占ってもらうも、「大きな流れが起こるかも?」という漠然な物しか出てこなかった。それ以上は進展なく、雲華と『ジンメ』は管輅と別れて家へ引き上げてきたのだ。

 だが、雲華には一つずっと気になることがあった。それははっきりとジンメにも伝わっていた。

 

「主様、何か……ずっとイライラしていますが」

 

 そう、気になって落ち着かないことがあるのだ。それは決まっている。帰途にての管輅の一刀に関する占いでもまた出たのだから。もちろん―――

 

 

 

 『おっぱい×8』である。

 

 

 

 確かに一刀は若いし彼の性格なら、ナデナデスリスリが好きであるし女の子に興味や欲が出るのは当然ではある。しかし、まだ離れ離れになって四ヶ月ちょっとなのだ。加えて女の子の一人、二人ならともかく八人もいると出ている。そしてその状況はどうやら一時的ではないようなのだ。気にならないわけがなかった。

 

 どういう経緯でそうなったのか、一体何をしているのか、どんな状況なのか――。

 

 普段は沈着冷静なはずの雲華だが、こと一刀のことについては中々冷静になれないでいた。

 

「あぁんもう! まだ四ヶ月程なのに……女の子に興味あるのは分かるけど、少し早いし、いくらなんでも多すぎなのよ!」

「はぁ」

 

 雲華は不貞腐れるように食卓へうつ伏した。

 木人育ちの『ジンメ』にはまだ恋愛感情は理解しずらい感情だった。

 

「これは―――一度現状を調べるべきね」

「はぁ」

 

 ジンメの返事はどこか気合が入っていない。はっきり言って呆れ気味なのだ。

 ただただジンメは主へ忠実に従うのみである、が……ここに一刀がいた時の二人の仲を良く知っているので『これは犬も食わないな』という事は分かるのであった。

 雲華としては今、『辿り着けるもの』達の方の情報や進展も無い状況と言える。丁度いい機会に思えてきた。

 

「さあ、昼ご飯を食べたら早速確認しに出かけるわよ!」

「はぁ」

 

 今まで、いつもどこか寂しそうにしていた主が、急に何かとてもワクワクしていることにジンメは気付いていた。理由は分かるが、その気持ちについてはまだ良く分からない。それは別に構わなかった。彼女はどこまでも付いて行くのだから。

 

「主様……少し嬉しそうですね?」

「ふふふ、そうかな♪」

 

 『ジンメ』にはまだ理解できる感情が少ない。

 だが彼女は―――以前の体では体感することのなかった背中が薄ら寒い感覚を、『恐怖』という感情を今初めて理解する。魔王さまは『おっぱい×8』にお怒りだったのである……。

 

 

 

 雲華の顔は久しぶりに――――ニヤリとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一本道の前方に、一刀らの進路を遮るかのように一人の……若い感じの女性の武人が立っていた。

 一刀は落ち着いていた。

 

 ゾクリ――――――。

 

 念のため『超速気』にもすでに入っている。

 周辺の気には脅威と思える程の者は『感じられない』。道の先に居る武人が――副将程度の力量はありそうな気を発しているがそれでも十分対応出来る状況だからだ。一刀らの後ろに控える司馬敏の方がずっと大きな気を感じるぐらいである。

 

 しかし、今――――一瞬、本能に響いた恐るべき悪寒を感じたのは気のせいだろうか。

 

 一刀は……改めて周囲の気を探るが大丈夫なようだ。きっと気のせいなのだろう。

 この状況を作ったと思われる朱皓は何故かニコニコしてた。

 周辺を封鎖し固めているのは朱皓の兵なのだろう。

 

(一体何のために……? 最後のお楽しみと言っていたが……)

 

 すると一刀のその疑問を投げかける表情に対して朱皓が答える。それもわざとらしくである。

 

「きゃぁぁ~~北郷殿、前方から暴漢が~~♪」

 

 その声に前方の女性の武人が思わず声を上げる。

 

「ひ、姫さま! (女なのに)だれが暴漢ですか!」

「どっちでもいいじゃない、張(ちょう)。戦うには雰囲気が大事なんだから~」

「良くありません! 剰(あまつさ)え強引な上に暴漢などと、朱家に仕える誇りある者として納得できましょうや。正々堂々とやらせてくだされ」

 

 一刀にも大体状況が分かってきた。どうやらこのジャジャ馬お嬢様の仕組んだ猿芝居の模様だ。どうあっても一刀の武を見たいと言うのだろう。しかし、公道を大掛りに封鎖するとは困ったものである。

 朱皓のしたことは個人的な思い付きだけでやっていることだろう。なので、ここで武を見せないと次は何をするか分からない気もする一刀だった。現代でも映画の撮影とかでは許可を取ったりして封鎖はあり得ることだけど……この時代の、郡の太守というのはその家族ですらこんな勝手なことが、気楽に出来るほど権力があるのだろう。

 その身勝手さは考えれば腹立たしい事だが、今一刀が勝手に怒っても司馬家に迷惑をかけるだけにも思えた。ここは話に乗って早く事態を収拾し、その後に上手く彼女を諭すしかないだろうと考える。

 

「えっと、朱皓殿。とりあえず、あの前の人と戦えがいいのかな?」

「ん、あれっ? いいの~?」

 

 『いいの』じゃねぇと言いたい、そんな気持ちで一刀は馬を下りた。道の先に居る武人とは二十歩(二十八メートル)ほど離れていた。そして一刀は朱皓らを後ろに数歩前へ出る。

 その瞬間、一刀は後方に急に強い気を感じた。

 

(なにっ?)

 

 司馬敏に近いほどの大きな気だった。だが司馬敏とは違っていた。それは――朱皓の気だったのだ。どうやら一刀らは朱皓にさらに一杯食わされていたらしい。彼女はずっと気を抑えていたのだ。これだけの気を発するなら相当強いはずである。道理で一人でも街中をフラフラ出来るわけであった。

 しかしすでに一刀は、背中側を含む周囲の気をすべて把握しており、初めから朱皓の気を捉え、彼女の体の動きも正確に掴んでいた。その彼女の小柄で動き易そうな服装の体は馬から軽やかに飛び上がった。

 

「兄上様!」

 

 一刀は司馬敏の声に後ろを見ずに上半身を右へ振って、朱皓の『飛び蹴り』をあっさり躱す。しかし朱皓は着地と同時に、続けてしなやかで鋭い蹴りや拳を一刀へ叩き込んで来た。一刀はそれを躱したり素手で軽くいなしていた。

 朱皓の動きは素早く『超速気』の状態でなければ食らうところであった。

 十合程の手合いを交えると朱皓はさっと後方へ一度間合いを取った。肩より少し長めのふんわりとした薄桃色の髪を軽やかに揺らしながら。

 

「ほぇ~~、全て凌がれますかぁ。結構本気だったのに~。じゃあ、これどう受けます?」

 

 朱皓は少し離れた位置から、引いた右拳を一刀へ向けて放ってきた。驚いたことに近距離から拳気が高速で飛んできたのだ。一刀は全身へ『剛気』を掛けて強化していたが、拳気の威力を見切り両腕の防御を『硬気功』まで上げると、左腕でその拳気を左やや後方へ弾き飛ばした。弾き飛んだ拳気は道の端にある固めの土壁に当たるとその部分を見事に深く砕くのだった。

 一刀は朱皓の次の動きに備え、体制を崩すことなく悠然と構えている。

 

「……」

 

 朱皓は軽口を開かなくなり、目が鋭くなった。そして――彼女は瞬動する。

 小柄な朱皓はその体格と小回りを生かし、一刀へ下方からの足払いや拳の突き上げ、蹴り上げ等の連続技を連発する。加えてその攻撃と動きは気を込めているためか、かなり重く硬く早くそして正確であった。それは大きく躱しての『速気』ではもはや容易に回避できないほどの体捌きだ。

 だが――一刀の『超速気』の速さの領域はそれを遥かに凌ぐものであった。そして早さ以外も。

 朱皓は果敢に攻めるが、一刀にはすでに『ゆっくりな拳術舞』であった。

 数十合対した頃、朱皓は急に脚へ異変を感じた。両足に力が入らなくなってきたのだ。

 

「こ、これはぁ……」

 

 おもわずその場にペタンと膝を腿の外側へ曲げお尻を付いて座り込んでしまった。一刀はその朱皓へゆっくりと近付く。彼は少し弱く『飛加攻害』を彼女の脚へ蹴りを裁く時に掌から通していたのだ。

 

「朱皓殿、もうそろそろいいでしょう? 休憩の時間も残り少なくなりますので――」

 

 朱皓はその言葉に、軽く扱われた思いがしてカチンときた。

 

「……屈辱ですね~。私は暇つぶしで本気の拳を撃ったりしない!」

 

 『本気の拳』――道の脇に並ぶ土壁は太目の木の柱を杭に瓦を高く積み重ね、外を固い土で塗られた相当頑強なものだ。それが深く抉れている。普通の人が受けたのであれば大けがや死んでいる威力なのだ。

 彼女は両手に気を込めると、自らの両太腿を叩くように手を押し当てた。そして……静かにゆっくりと立ち上がる。

 一刀は驚いていた。そう、気功を使えるのは仙人だけではないという事。人でも中には使える者もいるのだ。しかし、それにしても朱皓はまだ若い。普通なら足が元の状態に戻るのに一時(二時間)は掛かる程度で『飛加攻害』を掛けていた。これはもう気功師範の領域ではないだろうか。

 朱皓はまだ納得いかないとばかりに、素早い動きで一刀へ挑んできた。

 だが、一刀は思った。朱皓の不満はあくまで彼女の我儘にすぎないと。一刀は当初から流すつもりだったが、手加減のいささか薄い一撃を放っていた。

 

「ぐっ」

 

 朱皓からくぐもるような声が漏れた。

 彼女は一刀からの鮮烈な威力と速さによる腹部への一撃に、体をくの字に曲げて……宙を舞い、勢いを殺しながら道へと転がった。

 

「姫さま!」

 

 道の先にいた朱家の張と呼ばれた武人の近くまで飛ばされる。先ほどまで黙って見ていた彼女だったが、この状況に思わず駆け寄っていた。

 そんな朱皓はそれでも起き上がろうとしていた。『硬気功』とはいかないが、気によって腹部を強化し防御していた事を、一刀は彼女の体の気の流れから知っていて、受けたダメージは深刻ではないと把握している。

 

「武人は力を持つほど周りの事をよく考えて行動すべきだと思います。太守様の娘である貴方は尚更だ。これで失礼します。幼達、帰るよ」

 

 一刀はその場で朱皓らへ背を向けると、馬のところまで戻り跨ると司馬敏を従えて司馬家の本屋敷へ戻って行った。

 戻る途中、一刀は厳しい顔で一言も話さなかった。司馬敏は一刀の後ろへ静かに従っていた。

 

(兄上様、厳しい時は厳しいんですね!)

 

 一刀が去った道に残された朱皓は呟いていた。

 

「くっ、彼……な、何という強さなの~。母上にも肉薄できる私が……。確かにこれは賊ごときが何人いようと問題じゃないわねぇ……」

 

 朱皓は自分の武力に結構自信を持っていたのだ。若くして母から学んだ気功を守備と攻撃に取り込んだ近接と中距離格闘はかなりの水準だと。実際に黄巾党の乱では姉と共にこの河内郡の北方の守備に残り、冀州との州境近くに現れた小規模ないくつかの兵団を蹴散らしていた。

 

「姫さま、大丈夫ですか!」

「当たり前でしょ。北郷殿が手加減してないわけないでしょ~。彼が本気だったらきっとお腹に穴が開いてるわよぉ」

 

 まだ腹部が強烈に痛くはあるが、気功が使える朱皓は動けないほどではない。

 

「やっぱりぃ……彼、凄くいいんじゃない?」

 

 どうやら、つまらない問題はまだまだ続きそうであった。

 

 

 

 

 一刀は厳しい顔をしていたが……実はそれ程怒っている訳ではなかった。それよりも、太守の娘に対して殴ってしまった事の重大さがこみ上げていたのだ。女の子を殴ってしまったというのもあるが、司馬朗へはつまらない問題を起こさないようにすると話していたのにである。朱皓へは誰かが叱らなければいけなかったとは思うが、自分である必要はなかったと考えるのだ。

 屋敷に戻ったら、司馬朗か司馬防へ報告の上で相談しなければいけないなと思う一刀であった。

 一刀らが屋敷へ戻ってくると、訪問客への応対再開の申時(午後三時)まであと一刻(約十五分)ほどに迫っていた。もっと早く帰宅出来るつもりだったのだ。

 本当は早めに帰って来て、そのあと出来れば厩舎まで行き、乗せてもらった馬の鞍とかを外してブラシ掛けまでやってあげるつもりでいたが、もう時間がないため馬の鼻面を撫でて礼を言うと使用人へお願いする。

 そして同行してくれた司馬敏へも礼を言うと、一刀は客間へ戻って急いで銀さんに接待用の服へ着替えさせてもらう。

 間を置かず一刀は急ぎ、本屋敷の庭の道を応接屋敷の方へ移動する。「司馬朗や司馬防はすでにここを通って応接屋敷へ入られました」と、本屋敷側の裏門を守る女の子の守衛が通るときに教えてくれた。一刀も間もなく通るということで、応接屋敷側との両裏門は解放状態のままにしてくれていた。門の外の男性守衛らに礼で見送られ、一刀はそこを通り抜けて応接屋敷へと入っていく。

 訪問客への応対は時間通りに始まり、申時一杯(午後五時まで)の一時(二時間)の予定であった。昨日に比べ時間を短くした影響か待ち客が多く、結構ひっきりなしにお客へ挨拶する為、一刀は例の朱皓との問題については、まだ司馬朗らへ報告出来ていなかった。少し問題が大きそうな事でもあったので、司馬防へも夕食前ぐらいに例のお守りを渡す時か、夜にでも相談しようと考えていた。

 訪問客への応対自体は滞りなく進む。そうして酉時(午後五時)が近付いて、客が少し減ってきた状況へ向かい、漸く先に司馬朗から今日の朱皓との街の散歩はどうでしたかと聞かれる。

 一刀が実は……と言い始めたその時だった。

 

 彼女が――なんと朱皓が応接屋敷へやって来たのだ。

 

 その朱皓の服装は、これまで何度かここへ来た時に着ていた、高級であるが普段着る装いの服装ではなく、改まった上等な服装をしていた。

 

「北郷殿~~~!」

 

 そして彼女は入口から入ってすぐの所から、少し大きめなハッキリ聞こえる声で一刀を呼んできた。

 これでは一刀は正面から行かざるを得ない。彼女の事は皆が太守の娘だと知っており、道を開けるように大きく横へ道を譲ったり壁近くまで寄ったりした。そうして前の空間が大きく開けられると、朱皓はゆっくりと大広間の中へと進んで来る。

 よく見れば、先ほど朱皓の傍にいた武人と他数人が付き従って後ろについて来ているではないか。

 

(うわっ……これから一体なにが始まるんだ?! 司馬家に迷惑は掛けられないんだが)

 

 一刀は緊張気味に朱皓からの出方を伺うしかなかった。

 だが朱皓は一刀の前まで来ると―――ニッコリと微笑んできた。

 

「北郷殿、先程は大変身勝手な事をしてしまい申し訳ないです。近隣に住まう者にもちゃんと謝罪してきました~」

 

 彼女の後ろへ並ぶ武人達も神妙にしていた。彼らは思いはどうあれ立場上、彼女の命に従わねばならない所があるので仕方のない事ではある。

 

「い、いえ。こちらも身分を弁えず、厳しい態度を取ってしまいました。すみません」

 

 一刀も叱る形とはいえ、太守の娘に……女の子に手を上げてしまったことを反省していた。

 その話を聞いて一刀の横の司馬朗や、傍まで来ていた司馬防に『何かあったのね』と気が付かれてしまった。

 

「こちらへ改めて参ったのはこれから懐(かい)の城へ戻りますので、その挨拶に寄らせてもらいました」

「えっ、今からですか?」

 

 もう大分と日が傾いて来ていた。しかし朱皓は笑顔を崩さない。

 

「この温の街とは六十里(二十五キロ)程ですので、馬ならのんびり走っても一時(二時間)あれば余裕で着きますので~。いやそれに、北郷殿の賊を捕縛した圧倒的な実力を実際に見れましたし、私のこの街への役目はとりあえず終わりましたので。戻って自分の仕事をきちんとやらなければと」

「……そうですか」

「それでは、司馬家の皆さんもまたお会いしましょう………是非近いうちに」

 

 そう言って、ニッコリと足早に朱皓ら一行は去って行った。

 

 一刀は朱皓が来た時から少し冷や汗を掻いていたが、それが引くことはなかった。そのまま司馬朗より大広間から別室の部屋へと引っ張って来られてしまった。

 

「一刀様、何かあったのですね?」

 

 一刀は事の成り行きを、お店を回って帰りに朱皓を送る際の、公道を封鎖されて待ち伏せからの朱皓自身との戦いと、最後の行動までを簡潔に有りのまま話して聞かせた。だが最後の対応だけは司馬朗より一言貰ってしまう。

 

「非常に危険な行動でした。朱皓殿は気の良い方のようでしたが、実際は根に持つ性格の人物が多いのです。太守様も人物の出来た方ですが、次も上手く行くとは限りません。先ほどの朱皓殿の『近いうち』にという言葉は留意しておくところです」

「そうだな……ごめん。俺って感情で動いちゃうところがあるからさ」

「ただ、今回の件は朱皓殿に非があるところです。お気持ちは分かりました。一応、母様や明華(ミンファ)にも知らせて出来ることはしておきましょう」

「そうだね」

「全く……一刀殿は、肝が太いですね」

 

 そこへどうやら話も聞いていたのであろう司馬防が別室へと現れた。

 

「考えるだけでなく、実際に太守様の大事な姫君へ一撃食らわせるなんて」

 

 確かにそこだけ聞くと、時代を考えれば三代まで滅ぼされることも普通に有り得そうな内容に聞こえる。少し一刀の冷や汗の量が増えた。

 

「まあでも、今後も今回の件で罰せられる可能性は低いでしょう」

「母様?」

 

 司馬防は気付いていた。朱皓の目が……一刀を気に入っていることに。

 

「さあ、お客様がまた来られたようですよ」

 

 司馬防の言葉に一刀らは再び大広間へ戻っていった。

 

 司馬家では今日も無事に訪問客への応対が終わる。この時代、時間はあくまでも目安である。すでに酉時正刻(午後六時)に近くになっていた。一刀達は応接屋敷を後にしようとしていた。一刀は今夜もイケナイ夜を過ごそうと、僅かな時間に司馬防へお守りをキッチリ渡そうと呼び止めた。すると、ニッコリ嬉しそうに微笑みつつお守りを受け取ろうとした司馬防から、思い出したように例の人物についての事を一刀は聞かされるのだった。

 

「一刀殿、確かこう書いて『劉備玄徳』と言う人物ですよね?」

「あ、そうそう! 聞きたかったんだ」

「私も一部仕事で都周辺の治安に携わっている部分もあるので、黄巾党の乱の軍関連の資料を見る機会が少しありました。それには乱で官軍へ協力した義勇軍なども報告があった者については僅かに記されています。その中に冀州から兗州の辺りでの戦いで劉備という義勇軍の記載がいくつかありました」

「そうですか……放浪の際に聞いた名前のような気がしたから」

 

 一刀は『劉備』に拘(こだわ)る理由を先にはぐらかせておく。

 司馬防はすでに聞いていたように頷く。そして残念そうな表情をする。

 

「ですが、冀州と兗州についてはすでに乱は平定されたので、そのあとその義勇軍がどうなったのかは分からないのですけど」

「わかったよ、ありがとう」

 

 一刀はその先に少し心当たりがあった。冀州、兗州と来れば、その先には徐州があるのだ。現代の知識では劉備と徐州には大きな関係があるはずなのだ。きっとその辺りに居るのであろう。徐州を譲られるイベントでも発生するのではと、現状を知らない一刀は納得していたのであった。

 

 そして司馬家は間もなく家族全員での夕食を迎えた。楽しい食事の時であった。

 その後皆で、『寛ぎの広間』へ移動したところで司馬懿に声を掛けられた。寛ぎの余興に『剣の稽古』をしないかと言ってきた。それも皆が見ている前の、この広間から庭へ続く平で大きな石を敷き詰めたテラス調な場所でである。おそらく今日の朱皓との戦いの話も聞いたのだろうな、と思うと同時に稽古の約束もあったと思い出す。断る理由はないので気軽に受ける一刀だった。

 刃を潰した剣が用意され、一刀は皆が室内からのんびり眺める石敷きの場所へ司馬懿と出る。そして互いに一度剣を軽く合わせると稽古というか……試合は始まる。初日の宴で彼女の剣舞を見たのだが、華麗で素早く勇壮である。それは彼女の実戦の剣でも変わらない。だがより洗練された鋭さがあった。司馬懿の打ち込んで来る剣は、いずれも無駄がなく正確だった。確かに司馬敏の方が剣速は早いかもしれないが、司馬懿にはまだ勝てそうにないのは良く分かった。司馬懿は確実な捌きと受けをし、スキを逃さない攻撃の剣術なのであった。一刀としては色々と彼女から『神気瞬導』抜きで学びたいところだが、『速気』レベルではおそらく完全に圧倒されるのが分かるため『超速気』で対応せざるを得なかった。だがその水準だと、司馬懿の動きもスローに見えている。それでも一刀はその動きを見るだけでも今は十分勉強になると気が付き参考にさせてもらう。一刀はたまに司馬敏を参考にした肘や膝を加えた体術も交えて司馬懿の意表を突いたりすることで、司馬懿を退屈させないようにと楽しい稽古の時間を過ごすことが出来た。

 その後今日はお風呂の日ということで、一刀はまたも例の如く女の子達との夢の桃源郷な湯殿を堪能してしまう。そして風呂上りを再び『寛ぎの広間』にて皆でゆったりと過ごしていたが、亥時(午後九時)過ぎにはお開きとなり、皆でお休みの挨拶を交わすと、それぞれの部屋へと戻っていった。ただ、司馬防だけは一刀と共に静かに彼の客間へと入って行った……。

 今日の司馬家の夜もそれなりに平和な形で更けていくのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曹操は今宵、洛陽東側最外郭傍の街中に借り受けていた屋敷にて就寝の予定となっていた。今日は外の駐留地には夏候惇と許緒が詰めることになっている。残りの夏侯淵、荀彧、典韋もこの屋敷で休む予定であった。

 皆で夕食の後、先ほどそのまま皆でゆっくりとお風呂に浸かり、さっぱりして寝所へ一人移動してきたところだった。後程、夏侯淵か荀彧辺りが来ることだろう。

 この部屋は四丈(九メートル二十センチ)四方程の朱塗りの見事な透かし彫りの壁で囲われた寝室であった。広めの寝台の脇の剣台には、すぐに使える形で死神鎌の『絶』が置かれている。

 

(今宵はどう楽しむかしら♪)

 

 普段は身を引き締めている曹操の少し息抜きの時間でもあった。そんな事をのんびり考えていて、そろそろ楽しむ時間ねと考えていた亥時正刻(午後十時)過ぎの事だった。

 

「華琳さま……今、よろしいでしょうか」

 

 夏侯淵の声が掛かる。が――その声には少し緊張が感じ取れた。曹操はすぐに頭を切り替える。

 

「いいわよ、入りなさい」

 

 夏侯淵は部屋の扉を開けると、足早に入って来る。

 手短に礼を取ると夏侯淵は妙な提案をしてきた。

 

「華琳さま、お手数ですが外へ出て西の空を見ていただけませんか」

「なに? ……確か今夜は新月だったわよね。星でも一緒に見ようというわけではなさそうね」

 

 夏侯淵が態々お願いに来たのだ。理由があるはずであった。曹操は寝間着に一枚打掛を羽織ると、寝室の外へ出て行った。そこは廊下に出てすぐに庭へと降りられる作りになっている。

 だが、庭に下りる前に、曹操の歩みは廊下で止まる。

 空は月が無く、星がよく瞬いていており美しい光景が広がっていた。しかし、西の空にいくつも僅かに薄らと星々を隠し見えていた。それは細く立ち上る――煙であった。非常に見えにくい状況だったが曹操は見た瞬間にそれが何か理解出来た。

 そして訝しげに眼を凝らすと呟く。

 

「――――炊煙……」

 

 曹操の所にはいろいろな情報が入ってきていた。その数ある中に、董卓軍の炊煙の時間も入っていた。董卓軍の食事の時間は日々部隊ごとにバラバラだった。そして大きくズレることも稀にあったのだ。今日も昼食が一部一時(二時間)余りも遅い未時正刻(午後二時)をかなり回っていたのである。しかしそれでも過去最大ではなかったことで、計画通りに出来ていないか董卓軍の怠惰な一面でいつもの事だという事になっていた。

 

(しかし今夜のズレ方は……朝昼晩を合わせて過去最大………待って、これはいつものズレなの?)

 

 曹操の判断には迷いが出ていた。基準にすべきものがあやふやにされていたのであった。

 戦の前に食事は必須と言える。活力や持久力に差が出るのだ。大軍となれば、それは大差となる。賈駆はこの日のために常日頃から食事の、炊煙の時間を適当にずらしていたのだ。

 だが、それでも曹操の判断は手堅いものであった。

 

「今日の董卓軍の行動の報告に小規模な演習が伸びて終了が遅くなったとあるから、この時間に炊煙を上げる理由は、僅かにあるわね。あとは……今、外から敵が徐々に近付いて来ている情報を得て臨戦態勢に移行している所なのか、それとも―――自分達で急に戦いを始めようとしているかというところかしら。でも炊煙をあれだけ上げる時間があるのに、まだこちらへ報告が来ていないとなると外から敵ということは無さそうね。つまり、演習の所為か……自ら戦いを始めるつもりかのどちらかね」

「華琳さま……」

「秋蘭、駐留兵へ全員起こしを。同時に陳留城へ援軍の早馬を出して。そして急いで西側へ斥候を出しなさい。その後に董卓側へ確認の伝令を出すのよ。それは帰ってこない可能性もあるから(そのつもりで人選なさい)。まず東門周辺を必要なら実力で確保しておきなさい。それと、桂花をここへ」

「はっ」

 

 曹操は洛陽から真東の陳留城までの主要な街や村に独自の厩舎を置き、馬を全力で走らせて伝令を伝える準備を整えていた。陳留まで四百里(百六十キロ)程。それを片道二時半(五時間)程で知らせることが出来るというものだった。実際に数回昼夜関係なく抜き打ちで伝令を行い実践済であった。

 そして陳留城には曹操が駐留を始めてから援軍として守備兵とは別に常時曹純率いる虎豹騎二千を含む一万四千を交代で待機させていた。追加でさらに即日に二万を送り出せ、加えて半月程度で数万を各地から招集する体制を整えているのである。

 だが、どれほど急いでも援軍の到着に歩兵であれば丸三日は掛かる距離だった。

 

 夏侯淵が下がり、間もなく屋敷内がやや騒がしくなり始めようかという頃、荀彧がやって来た。

 

「華琳さま、桂花です」

「お入りなさい」

 

 荀彧は神妙な表情で静かに入って来た。

 

「早速だけど貴方は董卓の動き(炊煙)をどう見ているの?」

「はっ。まず十中八九、偶然にズレたのではなく目的を持った確信犯かと。一つ二つならともかく、条件が揃いすぎていますので。しかし現在、洛陽に駐留する董卓軍の総数は一万五千です。広い洛陽周辺をすべて守るにも攻めるにも些か少ない数です」

「そうね、守るに関してはそのために私達もいるのだから」

「しかし、油断した宮城をとりあえず攻めるにはちょうど良い兵力かと」

「……確かにね。ということは……長安辺りから援軍がすぐに来るわね」

 

 この洛陽の都にある巨大な洛陽城は、山を背に北側一杯近くの、そして東西はほぼ中央の位置にある。両軍の主力は東西最外郭の外に駐留している。

 だが―――董卓軍は外郭内部に当初から飛将軍呂布と五千の兵を配置していた。董卓が宮城を攻めるということであれば大きく先手を取られていることになる。

 

「それに加えて、宮城内に手引きする者があれば、制圧に苦労はほとんどないかと」

「董卓はやはり……霊帝を排除するつもりということで間違いないのよね」

「はい、おそらくは」

「ふっ……(麗羽から聞いていた話が参考になるのか少し掛けだけど、)何とかして霊帝を救い出すのよ。それが―――私の覇王への近道で大きな一歩になるのだから」

「はっ」

 

 荀彧は曹操の考えを瞬時に理解する。

 曹操と荀彧は……この瞬間、この董卓の計画すらもその野望へ向けての手段の一つとして利用する気になっていたのだ。

 曹操の野望に『優秀な皇帝』や『力を持った皇帝』は最初から必要ないのである。

 

「この屋敷も危ないわね。桂花、私が着替えたらすぐに陣へ移動して会議を開くわよ。皆にそう伝えて」

「分かりました。では失礼します」

 

 曹操は着替えるために小間使いへの呼び鈴を鳴らした。

 

 

 

 

 時刻は子時正刻(午前零時)に近付いていた。

 洛陽西側最外郭外の董卓軍の駐留陣内では、董卓、賈駆、張遼が天幕で最後の確認をしていた。

 先ほど曹操からの伝令が来たが……もうこの世の者ではなくなっていた。

 その時点から静かに両陣営は開戦しているのであった。

 すでに宮城内では動き出している時間である。

 曹操側が董卓陣営の配置を調査していることは当然把握していた。今日は当然人員配置についても裏を掻く必要があり実行していた。

 すでに宮城内へは荀攸の手引きにより皇甫嵩、盧植、そして呂布が百人程の精鋭と共に入っている。そして間もなく主要な門をすべて内から開き開城し、陳宮率いる五千で突入する予定になっている。

 そしてここにいる、三人と兵一万ほどはすべて対曹操への時間稼ぎの一団であった。この後間もなく一、二時(最大でも四時間)のうちに華雄と三万五千が到着する予定なのであるから。掃討はそれからが本番になる。

 

 その時、洛陽の高い外壁の内側から、子時正刻を告げる鐘の音が微かに聞こえて来た。

 董卓は近くに座る賈駆と張遼の表情を伺うと、静かに可愛らしい声ながら力を込めて告げる。

 

「詠ちゃん、私達も予定通り始めましょう」

「分かったわ、月。いよいよ始めるわよ。さっきの伝令で、曹操はもうこっちの動きに気付いてるのが分かったけど、でも少し手遅れね。霞、頼んだわよ。三千を率いて西門から郭内を抜けて東門を制圧してちょうだい。もし音々の隊への攻撃があるようならそれの排除を最優先でお願い」

「分かってるー。久しぶりに強い奴と戦えそうやからなぁ、ウチ楽しみやわぁ、腕が鳴るわー」

「もう霞、楽しむのはほどほどに頼むわよ」

「分かってる、分かってるー。ほな行ってくるわ」

 

 張遼は待ってましたと勇んで陣内を飛び出して行った。

 加えて間もなく曹操の屋敷へ先行させた街中に散らしている別働隊の兵五百が突入予定である。これは曹操側の出鼻を挫き混乱させる為と、あわよくば曹操を討ってしまおうというものであった。

 

 しかしその頃曹操は――すでに反撃の行動を起こしていた。

 先に潜ませていた斥候により伝令が囚われ切られた事がいち早く伝えられると、曹操はそれを宣戦布告と捉え、陳留城へ援軍の伝令の第二陣を走らせると同時に、兵八千を各将へ割り振り行動を開始していた。

 曹操と許緒は兵三千五百で外郭の外から南回りで西の董卓本陣へ急速進撃中であった。夏侯淵と典韋には兵二千で東門周辺以東を任せ、霊帝へ謁見し顔を知る夏候惇へは二千を預け、宮城へ突撃し霊帝を確保せよと命じていた。

 とは言え洛陽は広大なため、西側までを往復し董卓側の動きも含めて状況が確認出来るまでにかなり時間が掛かってしまっていた。反撃開始の時刻はすでに子時から二刻(午後十一時半)をかなり過ぎていた。

 荀彧も命を受け一団を率いる為に郭内の屋敷から駐留陣内へ来ていたが残務処理のため最後まで陣に残っていた。そして、間もなく出ようとしていた時だった。天幕の外から「荀彧様、おられますか。荀攸様より手紙を預かって来ました」と絶妙の時間に声が掛かったのだ。その使いはおそらく荀彧が一人になるのを、そして時期を待っていたのだろう。荀彧は荀攸の名を聞いただけで要件と宮城内は完全に絶望的な状況だと理解していた。荀攸――姪っ子だが荀家の名に相応しい能力の子だ。度胸もいい娘であった。天幕から荀彧は外に出ると、静かに控えていた者から手紙を受け取った。その者へ無言で金子を渡すと素早く人知れず立ち去って行った。

 荀攸からの手紙には「親愛なる伯母上さま、すぐに洛陽から遠くへ脱出してください。曹操軍は全滅しますから」と書かれていた。

 

(それはどうかしら)

 

 荀彧は脇にある篝火から火をその手紙へ燃え移らせ地面に置いた。それが焼け落ちて灰になるのを確認すると、何事もなかったかのように陣内に残る最後の一軍の待つ場所へと急ぐのであった。

 

 

 

 

 洛陽城内にある宮城の内側では少し早めの形で静かに作戦行程が進行していた。皇甫嵩と盧植が後宮のある宮城から洛陽城正面外壁側までの門を無血で開かせていたのだ。呂布と精鋭百が奥に残り、開放したいくつかの門を守っていた。そして洛陽城の南正門である平城門が開くと、外郭内へ配置されていた陳宮率いる五千がその前で、すでに整然と並び待ち受けていた。

 皇甫嵩と盧植はその中から千ずつ兵を率いて、再び後宮へと十常侍らを討伐に向かう。また千を荀攸が率いて呂布のいる所まで案内しはじめる。荀攸らは献帝を確保し新皇帝の名の元に、何進と霊帝を討ちに向かう計画でも最重要な部隊だった。

 陳宮は残り二千で平城門を閉じ、宮城外へ備えるとともに他の門から城外への逃亡を試みる者はすべて討つという計画であった。

 

 就寝中だった何進大将軍は、衛兵に部屋の外から声を掛けられ起こされる。初めは安眠を邪魔したその衛兵を叩き切ってしまおうかと思ったが、その「呂布将軍並びに皇甫嵩将軍、盧植元将軍が宮城内で謀反」の内容にそれどころでは無くなっていた。

 初めは何を言ってるんだと思ったが、露出度の高いエッチな寝間着のまま屋敷から見下ろせる宮城の門を見ると、この真夜中の時間に開門され篝火が置かれていたのだ。洛陽城内の軍事と警備は何進のみが管理しているはずである。明らかに外で何かが起こっていた。

 何進は急ぎ、この屋敷の衛兵を可能な限り集めるように命令する。この女は怠慢でエロスなだけではなかった。

 彼女は兵が集まる間に、頭へ扇型の頭冠や胸が強調された紫主体で腰や肘を高級毛皮なファー状のモコモコが覆い、腹部の前に大きな橙のリボン付きな布垂れのあるいつもの礼服に急いで着替える。そして左腰に剣を差しつつ、集まった百人程の兵を率いて屋敷から見えていた開放されている門へと迫った。

 だが近付くと、そこには真紅の旗を靡かせて――呂布がいた。

 呂布は何進大将軍のかつての部下なのであった。

 

「呂布よ、これはどういう事なのだ、董卓の差し金か?」

「何進大将軍……丁度いい。貴方には死んでもらう。家族の敵(カタキ)」

「なんだとぉ?」

 

 呂布の言った言葉の最後の意味が良く分からないが、呂布の表情と目は完全に戦場での容赦のない飛将軍のものに変わっていた。右手には必殺の方天画戟(ほうてんがげき)が握られている。

 呂布が何進の配下を突然辞めたのは、何進から犬を貰ったことから始まっていた。呂布はその犬から、家に連れて帰った後で話を聞かされた。

 何進が些細なことからその犬の幼い弟犬を棒で打ち殺したということを。そして自分も捨てるように呂布へ与えられられたのだと。呂布はそんな無慈悲な何進が許せなかった。だから何進の配下を辞めたのだった。

 だが、呂布も普段は新しい主の董卓の立場も、その配下の自分の立場も弁えていた。だからこの役目を、今日の日を静かに待っていたのである。

 

「何進、勝負」

 

 呂布は有無を言わさぬ凄みで勝負を堂々と迫っていく。

 何進は口や悪知恵もまわるが腕にも自信があった。そのため、呂布の強さも良く知っていたのだ。一対一とか冗談ではなかった。

 なんとか切り抜けねばここで殺されてしまうと判断した何進は、必死に考えるのだった。元肉屋に、固執する武人の誇りなどないのだ。生き延びるために利用出来るものは何でも使うのである。加えて呂布の性格を利用するしかない。

 

(『家族の敵』と言っていたがそれに繋がる呂布との接点は与えた犬ぐらい……そう言えばその時は子犬で、悪さをしたやつを一匹躾に棒をぶん投げたら当たって死なせてしまったな)

 

 何進はその事を思い出していた。まさかと思ったが大本はそれのようだった。

 

「呂布よ、どうか聞いてくれ。子犬の死んだ件は故意ではない。躾けようと叱るために投げた棒が偶々当たってしまったのだ。その後にもう一匹を其方に与えたのは儂よりも犬の事を良く知るお前に預けた方が子犬も幸せだと思ったからだ」

「……」

「それに儂は――あの子犬の立派な墓を建てておるのだぞ。供養もしているのだ」

「……! 本当か」

「ここですぐバレる嘘を言ってもしょうがあるまい。それにお前が初めて洛陽へ来た時、多くの動物達を連れており餌代や住むところに困っていた時に、最初に手を差し伸べたのは誰であったか忘れたわけではあるまい?」

「……あの時は、ありがとう」

 

 そう、呂布は―――『動物関連』を突かれると弱いのであった。

 

「なあ呂布よ、こんなにお前や、お前の家族たちの事を考えてやった儂を、お前は殺すと言うのか?」

「……………分かった」

 

 何進はその言葉に内心で『ニヤリ』とした。だが話にはまだ続きがあったのだ。

 

「恋や、恋の家族についての恨みは無くなった。でも―――この国の、民の事を蔑ろにしてずっと私腹を肥やしていたことは……許せない」

 

 暫し呂布の表情が動物の話で緩んでいたが、それが元の情け容赦のない凄みを増した飛将軍の顔に戻っていた。

 

「何進大将軍、お覚悟」

「………」

 

 呂布は何進へ、個人的な恩から敬意を払った言葉遣いで、そして今の主の意に添うべく勝負を挑むのだった。

 何進は―――今度は言い訳が出来なかった。

 

 

 

 

 洛陽城の南正門である平城門が陳宮率いる二千の軍で閉門された僅かの後、夏候惇率いる二千の兵が平城門へ現れた。

 門上の楼閣と周辺の城壁の上が僅かに騒がしくなるが、夏候惇は城門の前へ悠々と一騎で出ると夜の闇の中、声を響かせる。

 

「私は、奮武将軍である曹操様配下の奮武将軍司馬の夏候元譲である。非常事態に付き警備のため火急に開門されたし!」

 

 帝の臣としての官職名を名乗り、まず公人として武人として皇帝の居城に筋を通すのであった。だが、門上の楼閣に並ぶ兵の間から元気よく現れたのは陳宮であった。

 

「夏候惇殿、貴殿の力はもはや必要ないのです。お引き取りを」

「陳宮殿、貴殿の守備は洛陽城内では無いはず。こんな時間になぜそこに居る!」

「もはや言う必要はないですぞ」

「ふん、逆賊がぁ、ならば押し通るのみ! 全軍、掛かれーー!」

 

 夏候惇の率いる隊は星空の暗い中、勇ましく兵の全員が大声を上げつつ門へと殺到する。だが洛陽城の城壁は天下一の巨城に相応しく頑強で異様に厚く高さも六丈半(十五メートル)程もあった。破城槌等の攻城兵器は無いため、城壁を上って裏から開門するしかないのだ。

 夏候惇の隊の一部が返り鍵と石の錘の付いた縄を投げたり、壁に足場を打ち込みつつ上っていく。

 城壁からは阻止するように矢が次々と放たれていた。さらに引きつけたうえで、石や岩を落とす準備も整っていた。

 だが実は攻城について、夏候惇は荀彧より秘策を授けられていた。二千のうちの二百を城の東面に伏せておき、南側の鬨(とき)の声が上がったら敵は多くが南に集結するためおそらくや一呼吸置けば手薄になる東の城壁から暗闇に乗じて登らせ、城壁の上を南面へと攻撃させよと指示を受けていたのだ。門周辺の城壁上を制圧すれば、味方がどんどん登れ壁の裏へ回るのは容易になる。曹操側も洛陽の守備陣営であるため城壁の繋がりや城の構造はある程度日頃から調査把握済なのであった。

 それを受け東側城壁では、すでに夏候惇の別働隊の一部でその半分の百名ほどが城壁の上を確保していた。開戦より一刻(十五分)と掛からないでいた。まだ続々と登ってくるが、城壁上の幅は三丈(七メートル)程である。なので兵が百もいればとりあえず、隊を形成して攻め寄せれると判断した曹軍の百人隊長は、隊列を組み城壁上を南側へと進軍し始める。

 そのころ陳宮側も東側城壁の異変に遅れて気が付いていたが、この門を集中的に守る方が時間稼ぎになると判断していた。そして、壁上を寄せてきた曹操の兵らとの間でも戦いが始まった。

 しかし、間もなく異変が起こる。

 西側よりこの門へ、強敵な一軍が迫って来たのであった。

 

 

 

 

 洛陽の寝静まった街を一隊五十人程の董卓兵の小隊が十隊、街の広範囲から別々の経路で東にある一つの屋敷を目指していた。その一隊を率いるのが閻(エン)であった。

 

「隊長、間もなく屋敷のある区画ですぜ」

「もうそこらに曹軍の兵が居るかもしれん、注意しろ。なるべく、裏道を抜ける経路で行くぞ。皆、俺の後に続け」

 

 彼はこの作戦に参加している五百の兵の百人隊長の一人であった。今作戦について聞かされた時は、その内容と共に、その伝言者に対して他の隊長らも皆驚いていた。

 それは彼の上司である千人隊長等ではなく、董卓軍筆頭軍師である賈駆その人で、その場まで態々出向いて来て、その口より直に告げられたのだ。

 

「この戦いは、必ず勝たなければならない! その為に皆の力を貸してほしい。よろしく頼む」

 

 これまでは閻が筆頭軍師様を見掛ける機会など全軍の演習ぐらいであったからだ。

 

(小柄だったが、凛とした綺麗な方だったな……)

 

 それもあり皆、名誉ある命令と力強く頷き受けていた。

 彼には妻と子もおり、家は長安の中にあった。董卓軍の百人隊長となれば、家の周囲ではちょっとしたものであった。俸禄もそれなりで不満なく、暮らしは悪くなかった。それに董卓の治める地域は、物価も調整されまた税等を見ても他の諸侯らに比べると低く、民衆たちに優しいものだった。他の諸侯らの地に住む親戚らは大変そうであった。長安の街中も賑わっており、董卓の行う治世に満足している知り合いや同僚、部下の仲間はとても多かった。今作戦は本来、帝に弓を引く逆臣行為になる訳だが、黄巾党の乱が起きても相変わらずで、水害や飢饉にも関係なく重税を課す今の帝の治世に、逆に自分達が終止符を打てると思うとやり甲斐を感じるのであった。

 

 そのために我ら五百が、邪魔となる曹軍に打撃を与える命が与えられたのだ。

 

 この作戦も命を懸けて家族や皆のために成功させようと、移動のさ中にも改めて決意していた。

 そして目的の屋敷へ到着する。

 その屋敷は洛陽の東の端にあり、東西九十歩(百二十四メートル)南北三十六歩(五十メートル)程の立派な屋敷であった。

 すでに何隊か到着していて、周囲の塀の高さは一丈と三尺(三メートル)程あったが組み立て式の簡易梯子をいくつも掛け突入を開始していた。その董卓軍の仲間らに閻らも頷くと簡易梯子を組み立て始める。

 だがその時、中から戦いの掛け声に合わせて悲鳴と激しい金属音が上がり始めた。そして、屋敷の回りの道へ曹軍と思われる一隊も現れる。だが後続の仲間の隊と戦闘が始まり、こちらへはすぐに寄せて来る様子はなかった。

 閻らの隊も梯子を塀に掛けると急ぎ屋敷の中へ飛び込んで行った。

 庭へ入り屋敷の建物へ向かおうと、事前の打ち合わせ通り小隊で隊列を組む。日頃から三人一組か二人一組で敵に対するように訓練して来ていた。

 しかし入った庭の中で見た光景は予想外だった。

 円陣を組む数十人の曹軍の輪の中に居る一人の女の子の武人が、重く巨大なヨーヨーを自在に操り振り回し、仲間たちを片っ端から次々と倒していった。その余りの威力にそれを受けたものは、体が飛ばされ打撲や圧力により潰されたり体の腕や脚が彼方此方あらぬ方向へ曲がって事切れていった。

 

「私は典韋。貴方達、ここを曹操様のお屋敷と知っての攻撃ですね。闇討ちのようにお命を狙ってくるとは許しません」

 

 その子は小柄で少し幼い可愛い顔と澄んだ声をしていたが、敵に対する所業は無情壮絶であった。だが、短時間で十の小隊の計五百の数と言うのは、同時に全てを相手に出来るわけもなく捌き切れていなかった。閻らの隊もいよいよ弓を彼女らへ射かけ、切り込もうかとしていたところ、屋敷内を別の場所から突入していたであろう一隊が内部を網羅したようだった。

 

「曹操はこの屋敷に居ないようだ! この怪物だけでも倒すぞ!」

 

 屋敷の中からの声を受け周囲の仲間から「おおー!」と鬨の声が上がった。

 閻らは曹操が討てていたら西の陣へ引き上げの予定であったが……最後まで戦う事になった。

 

「野郎どもーーー、相手は少数だ! 皆で一斉に掛かるぞ。俺に続けーーーーー!」

 

 閻は勇気を振り絞り、仲間たちを鼓舞しつつ戦いに、強敵な典韋の前へ身を投じていった。

 広大な洛陽の中で始まった、曹操軍と董卓軍という大きな勢力同士で起こった戦の中の片隅の戦いであったが、ここでも互いに自らの信じる者らに掛けた壮絶な多くの命のやり取りが行われた。

 しかしその奮戦も、結局典韋を疲労させた程度に終わり、傷を負わすことは叶わなかった。

 屋敷から生きて帰還できた董卓兵の数は五十に満たなかったという。帰還者の中に閻は居なかった。

 

「大丈夫なのか流琉」

 

 東門へ兵らと引き上げてきた典韋へ夏侯淵は声を掛けた。

 

「はい、秋蘭様。少し逃しましたがほぼ討ち取りました。こちらも百ほど死傷兵が出てしましたが……」

「いや十分だ、良くやってくれた。やはり来たか。むざむざと華琳さまの寝所を襲われましたでは、曹軍全体の士気に関わる事だからな」

 

 夏侯淵は東門周辺を任されていたが、曹操の宿泊していた屋敷の意味をしっかりと考えていたのだった。預かった兵は二千と多くないが、典韋が居ることが大きかった。

 

「あとはこの東門と後方の陣をしっかり守ろう。間もなく東への撤退にも備えて、この場所は今の戦いのわが軍の生命線だからな」

「はい!」

 

 寡兵である曹操軍はすでに『負けない戦い』を選択し戦略を立てていた。

 

 

 

 

 西側より平城門前へ現れたのは張遼の率いる三千の隊であった。

 夏候惇の隊は非常にまずい状況に陥っていた。このままでは門の前で挟み撃ちになってしまうのだ。やむなく夏候惇は一度、門周辺から引くしかなかった。

 城壁上に残された曹操軍は孤軍奮闘する形になった。夏候惇隊の勝利を待つのみと言える。さらに陳宮はすぐに一隊を城内側から東門方面に回し、城壁上へ上げて今のうちに挟み撃ちにする行動に出ていた。

 一旦平城門から引いた夏候惇隊は、直ちに門前にある広大な兵駐留用の広場の東側へ、相手を短時間で粉砕するため、練度の高さを示すよう瞬く間に鋒矢の陣を敷いて迎え撃つ。

 一方張遼の隊は移動用の長蛇の陣を、一瞬で魚鱗の陣に組換え対峙する。そして張遼一騎で前に出ると自らから先に名を告げる。

 

「ウチの名は張遼や! 陣形の組み上がり見ると、そっちも見事な兵の練度やなぁ。なぁ誰かウチと一騎打ちせいへんか? えっと、そっちは誰かいな?」

 

 張遼の挑発気味ながら堂々の一騎打ちへの名乗りに、武人として夏候惇も一騎で前に出る。

 

「我が名は夏候惇。逆賊に名乗るつもりはなかったが、そう堂々と名乗られた上は返してやる」

「おお、相手に取って不足なしやわぁ。しかし、言い方きっついなぁ。まあしゃあないか。ほな、始めよか」

「いくぞ、張遼とやら」

 

 二人の馬は駆け出すと、真っ直ぐ一直線上をぶつかる様に進んで行く。そして二人は―――激突する。

 張遼の飛龍偃月刀(ひりゅうえんげつとう)が唸りをあげる。それを夏候惇の七星餓狼(しちせいがろう)が弾き飛ばすのだった。そのまま夏候惇の剛撃が張遼を襲うが、飛龍偃月刀の柄の部分で撃ち落としていた。

 

「うはぁ、すんごいなぁ。腕が痺れたわぁ。これは楽しいなぁ」

「むぅ、中々やるではないか」

 

 夏候惇もこういう凄腕の相手と戦うのが楽しいぐらいである。だが、今は楽しみに浸っている場合ではないのだ。この一瞬も城壁上では部下が追いつめられて殺されている。

 夏候惇は、間を置かず果敢に七星餓狼を振るい張遼へと切りかかっていった。だが、二人の激闘はその後二十数合合わせても決着が付かなかった。

 夏候惇の僅かな焦りが少し動きを硬くしたのか、楽しむ張遼を圧倒できないままだった。時間が無い夏候惇は、次の大一番に掛けることにする。

 

「張遼よ、次は隊の力比べだ!」

 

 張遼も戦場の状況は把握している。それに一騎打ちもそれなりに楽しめたことから隊の力比べも悪くないと考えた。

 

「ええでぇ。ほな、本番いくかー!」

 

 お互いに隊まで下がると、双方の軍団が突進を始める。

 兵団で重要なのは突破力、防御力と色々あるが、それを支える移動力も重要であった。張遼の部隊は騎馬隊を中心とした『神速』の用兵だった。

 それが夏候惇の隊へ正面から襲い掛かって行った。だが……夏候惇隊の突撃力は練度、組織力とも異常だった。夏候惇の七星餓狼が正面の張遼の一撃を大きく弾き飛ばすと、後続の兵達と共に張遼隊を真っ二つに裂いていったのだ。それは張遼隊の最後尾まで抜けるものだった。張遼隊は夏候惇隊の正面に立った兵らの多くが戦死していた。

 三千の兵が二千五百程になるという状況であった。移動しながら張遼の隊は大きな損失の出た隊列を何とか立て直していた。そして再び広場の西側にて陣形を作る。敷いた陣形は鶴翼の陣であった。

 先ほどまでと張遼の顔付きと雰囲気がより険しい物へ変わっていく。

 

「こらアカン。今のも本気やったけど、これは―――ちょっと死ぬ気で行かなあかんみたいやなぁ。おらぁ、みんな気張りや!」

 

 夏候惇隊もすり抜ける際に張遼を始め張遼隊の攻撃で損出は出ていたが、張遼の隊のように陣形が崩れることはなかった。

 

「いつでも来るがいい」

 

 平城門の楼閣の上から戦いを横目で見ていた陳宮は完全に考えを改めていた。張遼と何度も各地を転戦していたが、彼女の『神速』の用兵がこれほど崩された上に大きな損失を受けるのは前例が無かったのだ。

 やはり曹操の軍団は想像以上に強い。その証拠に、まだ城壁上の夏候惇の一部の隊は降伏することなく頑強に抵抗していたのだ。

 あまり間を置かず、張遼隊と夏候惇隊は再び激突する。夏候惇隊の鋒矢の陣は張遼の鶴翼のど真ん中を粉砕し抜くつもりで飛び込んで行った。

 だが今度は張遼隊が魅せる番であった。夏候惇隊の勢いを受けた瞬間に張遼が激を飛ばすと鶴翼の陣が―――前進しながら雁行の陣へ変化していったのだ。夏候惇隊は勢いのまま、雁行の陣の一直線に斜めになった壁に受け流されていた。夏候惇隊をやり過ごした張遼の率いる隊から順に『神速』で夏候惇隊の後ろや側面へ回り込み、そのまま長蛇の陣で突撃したのである。

 この時の張遼の働きが凄まじかった。飛龍偃月刀で薙ぎ払いながら夏候惇隊の隊列を大きく崩していったのだ。いかに突破力の高い鋒矢の陣でも、側面や後方への対処は難しいのであった。

 数で劣勢に立ち、陣形を大きく崩された夏候惇隊は非常に厳しい状況に追い込まれていた。夏候惇は千人隊長らへ陣形再編へ指示すると、自らは後ろも見ることもなく混戦の中張遼へ向かって行った。

 逆転するには、ここは将を討つしかないのであった。

 

「張遼、勝負だーー!」

 

 夏候惇の後ろに決死で御供をする数十の兵が付いて来るがほぼ単騎に近い突進であった。彼女の個人の突撃力も異常だった。張遼隊の精鋭らが、次々と七星餓狼の餌食になって叩き切られていく。

 そんな修羅な夏候惇の勝負を張遼も受けて立った。

 

「ええ根性しとるなぁ、惇ちゃん。でも、仲間の敵はキッチリ取らせてもらうで」

 

 夏候惇に目の前で次々部下を討たれた怒りを、そのまま飛龍偃月刀に込めて夏候惇へ叩きつけていた。

 徐々に馬の脚を止めての、二人の凄まじい剛撃の打ち合いになっていく。

 周辺の兵らも戦っていたが、思わず遠巻きに見入るように中々決着のつかない勝敗を見守るのだった。

 張遼も本気の本気で打ち込んでいたが、それでも今は夏候惇の気迫の方が上であった。

 先ほどは焦りから動きが硬かったが、今の夏候惇は存分に剣を振るえていた。

 それでも五十合を超える長い一騎打ちとなっていった。だがこの決着は意外な形で着くのはもう少し後となる。

 

 

 

 

 皇甫嵩と盧植はそれぞれ兵を千ずつを率いて、呂布の守っていた宮城の南門ではなく東門と西門から後宮奥へと進撃して行った。皇甫嵩と盧植は先頭に立って標的である十常侍と―――何太后を探して突き進んで行った。

 だが、火を掛けたり必要以上な破壊活動と略奪行為は厳禁していた。賈駆や陳宮や荀攸の試算でこの洛陽城が丸焼けになった場合、再建する財源は短期間では捻出不可能な額だったのだ。

 遷都の予定もないため、現状の資産を引き継ぐ形が最良と判断していた。

 洛陽城全体では今夜も二千以上の守衛が居たはずであった。だが二つの軍へは抵抗がほとんどない状態だった。城の奥に潜むものは栄華を極めることに耽っていたため研鑽することもなく堕落した者が多く、もはや抵抗しようという覇気を持つ者は極少数であった。

 その中で、十常侍らはまだ栄華に固執する精神力だけは突出していたようであった。最後まで抵抗を続けていた。

 皇甫嵩の隊が追いつめると、十常侍のメンバーの多くが楼閣の一つに守備兵数十人と立てこもり必死の抵抗に及んでいた。

 そんな中、盧植の一軍に捕まった男の十常侍の一人は、すぐに命乞いをしてきた。

 

「盧植殿を将軍職より更迭したのは儂ではないが、奴らが悪かったのだ。た、助けてくれ。家の蔵にある金目のものは全部やってもいいのだ」

 

 そんな十常侍へ盧植はこう答えた。

 

「んーあのね。何か一つでいいけどね、貴方が自信を持って言える人民のために行った事を挙げてくださいな。もし何かあれば、その貢献に対して命だけは助けましょう」

 

 しかしその十常侍は何も挙げることが出来なかったと言う。

 そして多くの十常侍らの立てこもっていた楼閣は―――中から火柱を上げて燃え落ちていった。

 

 皇甫嵩は楼閣の包囲と消化を盧植に任せると、まだ十常侍で隠れている者が本当にいないかも含めて、後宮のさらに奥の進軍する。そして彩色の美しい壮麗な建物の一つへ突入した。

 そこには霊帝の妻である何太后がゆったりと豪奢な長椅子へ横になり、普段と変わらず寛いでいた。

 

「この無礼者め、下がりなさい! 将軍だと言えどもここは入ることならぬ禁断の場所ですわよ」

 

 だが覚悟を持って今に臨んでいる皇甫嵩は微動だに怯まない。

 

「栄華を楽しむ者には、それに相応しい大きな役目と責任というものがあるのです。あなたは本来の役目を果たせませんでした。なので『死』をもって責任を取る必要があるんです。それは『国が傾いた責任を取って見せしめに処刑される者』という貴方の新しい役目でもあります」

 

 そう言うと皇甫嵩自らが部屋の中へ踏み入ると、抵抗する何太后に当身を食らわせ失神させると縄も何太后へ自ら掛けていった。

 

 荀攸が呂布のいる宮城南門のところまで兵千を率いて来ると、呂布と兵らの傍らに首と胴体が一撃のもとに一度離れた傷口を仮縫いされた何進大将軍の遺体が丁重に置かれていた。

 他は降伏し武装解除され、一時的に縛られ拘束されている守衛兵らが数十人座らされていた。

 呂布は荀攸と兵千を率いて宮城を進軍する。まず、献帝の居る区画周辺の安全を確保すると、荀攸が一度報告の為、献帝へ謁見する。

 献帝は肩下程までの長さの緩くカーブの掛かった薄桃の髪に、白と薄桃の袖に胸や腰へ金を織り交ぜられた帯と豪奢な前垂れの着物を纏い、頭には黒地に四方を金の装飾金具と赤い飾り紐で飾られた立派な頭冠を被り、表情はとてもとても可愛らしい顔を微笑ませて荀攸を迎えてくれた。

 

「白湯(パイタン:献帝)さま、計画は予定通り進んでいます。詔を下賜いただけますよう」

「うむ、椿花(チュンファ)よ、よろしく頼むぞ。朕の署名の入った宣言書じゃ。霊帝、何太后、何進、十常侍を討つのじゃ。そうすれば、朕が皇帝だもんね!」

「ははーっ」

 

 この区画へ精鋭五百を残し、呂布と荀攸は進軍する。抵抗はもはや全くなかった。飛将軍の噂は洛陽中に、そして城内でも有名なのだ。真紅の呂旗を見ただけで皆が無抵抗に投降していった。

 そして―――後宮の最奥までやって来た。

 この区画は本来皇帝と許可された者でなければ立ち入れない区画である。だが、討伐の詔がある以上、今は問題ではなかった。呂布と荀攸は一気に雪崩れ込んだ。

 そこは金銀と宝石の装飾が柱や天井までびっしりと施されていた。余りの豪華な造りに国や人民達への無責任さがより浮き彫りになった感じに見えた。

 とは言え、素晴らしい造形には違いなかった。国の資産としては申し分のない出来栄えばかりであった。数十以上も部屋を通ったが、そのすべてが豪華であった。

 だが、見つかるのは数名の使用人や小間使いばかりだった。

 そして最後の大部屋へ入る。

 そこは、金の竜の彫刻がふんだんに施された巨大な寝台が置かれていた。床以外の壁と柱の下から天井までもが竜の絵や彫刻で埋め尽くされていた。驚いたことに金の織り込まれた最高級布団以外の寝台すべてが……天板まで金箔ではなく純金で出来ていたのだった。竜の両目は大きな親指大の金剛石、握る玉は一尺ほどもある不純物の全くない完全球体の水晶であった。唯一、寝台にかかる幕だけが少し透可性のある感じの朱色の『普通』の生地であった。

 この部屋だけで、国の財政が傾きそうである。

 

 しかし、そんなことよりも―――霊帝が居ないのであった。

 この部屋の回りもくまなく探してみるが、姿は見当たらなかった。

 少し遅れて皇甫嵩も兵数百を連れてやって来た。今は盧植の隊が中心で、宮城南門内の広場へ拘束した者をすべて集めているという。

 呂布が何進を討ち、何太后も皇甫嵩が拘束し、十常侍も盧植と皇甫嵩が大半を討ち、一名を捕えたのであるが、霊帝を逃せば―――『逆賊』となるのだ。

 ……呂布はすでに戦闘のない現状に、興味が無くなっている様子であった。手持無沙汰な雰囲気に見える。

 

「どこからか外へか脱出した可能性も考えなくてはいけませんねぇ……」

 

 皇甫嵩の呟きに、荀攸は先ほど捕まえたばかりのこの区画の小間使い達に質問をした。

 

「霊帝は少し前までここに居ましたか?」

 

 すると、小間使い達は口を揃えて言うのだった。

 

「このあたりのお部屋には先ほどから―――いらっしゃらないです」

「では、半時(一時間)か、一時か、それより前はどうでしたか?」

「……二時(四時間)ほど前にはいらっしゃったと思います。一時半(三時間)前には静かになっていましたので。いつまでここでお休みだったかどうかは分かりません」

 

 今の時刻は丑時正刻(午前二時)をかなり過ぎていた。

 

 

 

 

 曹操と荀彧の読みでは黄巾党の乱での戦いぶりからも、董卓自身は戦闘自体が得意ではないはずで、本陣から動かず居るだろうという予測をしていた。そのため曹操と許緒の精鋭三千五百で大将首を狙おうと考えたのだ。城内ではおそらく大勢は短時間で決まってしまうと考え、そちらに兵力を回すより少数精鋭による突破に絞り、この一手が妙手となると考えたのだ。そして、距離はあるが迎撃を受けにくい郭外の迂回ルートを取っていた。

 だが、董卓側も賈駆の采配により、万一に備え多くの兵を本陣に残し、敵の来襲への臨戦態勢を整えていたのであった。

 これは初っ端から、倍の兵力の組織力と知恵で董卓軍は援軍到着までの制限時間を凌ぐか、曹操軍は寡兵でもその統率力と突進力で一気に打ち砕くかのガチバトルと思われた。

 しかしその戦いは始まってすでに半時(一時間)を過ぎていた。

 そして戦闘は曹操側の小規模な牽制で膠着していたのである。

 

 当初に、曹操隊の本陣への接近を董卓軍の斥候が捉えていた。このため直ちに曹操隊への奇襲に備えがされたのであった。

 一方曹操軍は洛陽の西の端へ出た辺りで自軍の斥候より、すでに董卓軍が接近を掴んで臨戦態勢をとって待ち構えていると知らされる。

 寡兵で勝負をつけるには不意を突いての突撃が効果的で常道であるが、十分な備えをされればそれは死地へと変わるのだ。備えがあろうと相手が有象無象の賊程度なれば気にもしないところだが、相手は董卓軍の精鋭であの軍師もいることだろう。

 曹操は急襲の陣形をやめ、堂々と速度を落とし董卓軍へと迫っていく。董卓軍の陣へあと一里(四百メートル)のところで両軍は対峙する。

 そして、曹操は一人で前に出ると、問いかける。

 

「私は曹孟徳! 董卓よ、理由がどうであろうと皇帝に牙を剥くとはいかなることか! 後世に永久に残る汚名と知るが良い。私は国家の逆賊を討つ! 正義は我にあり!」

 

 曹操の言葉はまさに正論と言える。そして覇道に必要な『大きな理由付け』でもあった。曹操の凛とした言と気迫に辺りは静まり返っていた。すると、それに反論する声が董卓陣営から少し小さいがしっかりした口調で上がった。

 

「皇帝とは国を、そして民をより良い方向へ導く者であるべきなのです。残念ながら今の帝や取巻き達にその働きは期待できないのです。黄巾党の乱以後も民衆達の状況は悪くなる一方で、さらに重税を掛ける動きがありました。ですので今の帝には退位を願い新皇帝を立て、国家を建て直すのが臣下の務めかと。曹操よ、貴方は貴人に言われるまま従い、ただ見ているだけなの凡人なのですか? 私は民の為なら喜んで逆賊の汚名を受けましょう」

 

 董卓陣営から一人の小柄な……重厚な黒い甲冑に強面の面を付けた武将が現れていた。董卓である。彼女は最近、宮中でも公の場でもほぼこの姿で通していたため、側近や武将ら以外は董卓の素顔をほとんど知らない。

 どう見ても重たい鎧のはずである……が董卓がよろけることは全くなかった。彼女はおっとりとしてやさしく、常に物や人に対して繊細に接しているため、か弱く見えるがその腕力、筋力だけは常人を超えているのであった。

 正論の曹操に対して、董卓は民衆寄りに訴え、曹操の痛いところを……知らずな形で覇王を目指す者を『凡人』扱いの皮肉を込めて告げていた。

 

 さすがに『凡人』発言には、覇王を目指す曹操の自尊心が大きく傷付けられたのであった。そこまで言われて黙っている曹操ではなかった。

 

「ふん、そんなものはすべて綺麗ごとでしょう。『顔すら隠している』あなたに説得力など無いわ! 逆賊の分際で何を言っているのかしら」

 

 曹操の言葉に董卓は仮面へ手を伸ばそうとしたが、その手を横へ出て来た賈駆の手が掴む。

 

「詠ちゃん……」

 

 そして賈駆は曹操へと言い放った。

 

「曹操よ、貴方には一生分からないわね。自分の目的のために手段を選ばない貴方には。これ以上は無駄でしょ? 決戦あるのみよ」

 

 賈駆は曹操がここへこれだけの数の兵で現れたことで、その底にある野心に気が付いたのだった。皇帝の真の能臣ならば、全力で宮城を目指し皇帝の安全を図ろうとするはずなのだ。

 それに対して曹操の今の考えが、皇帝を助けることは重要ではなく、皇帝を利用することを考えて動いている戦略に繋がっていたのであった。

 そう―――もし董卓さえ居なくなれば、あとは皇帝が誰でも『丸取り』であるのだから。

 だがそうは行かない、させないのである。

 賈駆は強く思う。

 

(月は私が守るんだから! 曹操、あなたの好きにはさせない……ここで引導を渡してあげるわ)

 

「第一弓隊、構え!」

 

 賈駆は董卓を連れて陣へ下がると、扇を曹操側へ翳し早速弓隊を構えさせる。本当にこれ以上話すことなどないと言う意味としてだ。洛陽城の守備ということで弓隊は元々多かったが、今日の作戦では歩兵や騎馬兵を呂布らの城内や張遼にほぼ預けたため、本陣の半数が弓隊であった。もともとこの陣地からは動かない防衛作戦にも合致するため丁度よかったのだ。

 曹操も隊へと下がっていく。論戦では一応僅かに勝てたが、自尊心は大きく傷付けられていた。

 

(董卓め、必ず私の前に引きずり出して、その面の中の顔を拝んだ後に首を跳ねてあげるから)

 

 さて曹操軍はここでは短期戦にしなければいけない理由がある。曹操自身も推察している通り、援軍が来る前に勝敗を決しなければならないのだ。

 曹操には一つ都合がいいことが起こっていた。

 今入った斥候の詳しい知らせによると、董卓の陣には弓隊が推定で今いる兵六千余の半数にも及ぶということだった。つまり――弓隊を無効化出来れば互角の数に持ち込めるという事である。そして弓隊は接近戦にかなり弱いのだ。なので、矢を食らわずに董卓の陣へ接近出来ればまだまだ十分勝負になると考えたのだ。さらにどうやら董卓軍の陣に将は董卓と賈駆しかいないようなのである。

 一方こちらは武に強い許緒と曹操自身がいる。

 あとは……どうやって被害を抑えて攻め寄せるか考えるだけであった。矢の数は限りがあるのだ。いかに多く無駄に打たせるかが重要であった。その点、今が夜というのは好都合な時間だった。両軍ともわずかに篝火を陣内に配置している。

 しかし、こちらの篝火を消してしまえば、こちらの正確な位置は分からなくなるはずなのだ。

 でも、その前に……と小隊をいくつか実際に董卓軍へとけしかけて、敵の弓隊の反応を調べる曹操であった。それに半時(一時間)弱ほど掛かっていた。

 

 

 

 そして膠着していた戦闘は―――曹操と董卓の直接対決はついに動き出す。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年10月30日 投稿
2014年10月31日 文章見直し
2014年11月01日 文章見直し
2014年11月08日 宣陽門(魏晋代の名称)→平城門(後漢時)
2015年03月17日 文章修正(時間表現含む)
2015年03月22日 八令嬢の真名変更
2015年03月30日 文章修正



 解説)援軍の伝令の第二陣
 炊煙を確認した段階での援軍要請は、曹操自身もはっきりしてなくて中止もあり得る状況だったため陳留に待機していた兵のみの出陣要請であったが、もはや董卓との継続的な大規模戦闘が想定される為、第二陣以降も急がせるようにという内容が追加されている。



 解説)呂布は何進大将軍のかつての部下なのであった。
 本外史では、真恋姫の黄巾党の乱時点で陳宮と共に官軍の将として何進配下だった設定を踏襲してます。
 史実では 丁原→董卓→献帝……な流れみたいですね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➋➐話 洛陽動乱後篇

 

 

 

 その夜、洛陽城の後宮の最奥にあった豪奢な皇帝の寝所で、趙忠は添い寝をして漸く霊帝を寝かしつけると、自分もその場にウトウトと一緒に眠ってしまっていた。

 どれくらい寝たのだろうか、普段はそのまま朝まで寝てしまうこともある趙忠だったが今夜は夜中に目が覚めた。彼女は自分の部屋へ戻って休もうと、寝ぼけ気味にとりあえず厠へ行くため部屋の外へ出る。

 初めは薄暗い廊下の先をぼんやりと見ていたが、どうも騒がしい気がした。彼女は知らないが、このときの時刻は丑時(午前一時)を少し回っていた。

 何気に廊下から左側に見える外の景色へ目を向ける。

 後宮は朱塗りの高い塀に囲まれている場所だが、それぞれの建物の土台は巨石を積んであり一丈半(三メートル五十センチ)以上階段状に嵩上げされている基礎を持っている。そして、皇帝の寝所はその土台に乗る高い天井の二階立ての建物の一階階にあった。そのため一階からだが、その廊下からの眺めは遠くの高い塀の向こうに見える建物をある程度眺めることが出来た。

 その眺めの中に明るく赤いチラチラしたものが見えており目に止まった。そしてそれは、高い楼閣を黒い煙も上げながら包んでいた―――。

 

(ええっ、火事ぃぃーー?!)

 

 寝ぼけていた趙忠は一気に目が覚めてきた。思わず廊下の手すりを掴んで乗り出すように眺める。

 すると、火事に気を取られていたが、月の見えないいつもより暗めな夜の闇の中に、何やら少し遠くから大勢の人の声が上がっているのに気が付いた。まるで戦の鬨の声のようである。

 と言うか……。

 

(鬨の声そのものじゃないのぉぉーー?)

 

 後宮は人気も最低限に少なくされていることと、夜中であるため離れていても空に声が良く通ってくる。趙忠はかすかに遠くから流れて来る悲鳴のような声を聞いた。

 

「飛将軍だぁぁぁーーー……」

 

 そうはっきりと。

 

(こんな時間に……飛将軍は呂布将軍。……まさか董卓殿が謀反でも? ……と、とにかく空丹(クゥタン)さまに知らせて……一度どこかへ逃げないと!)

 

 趙忠は先の事を考え、まず自分が落ち着くことも考慮し冷静にまず――厠へ向かって行き用を済ませた。

 

 

 

「空丹さま! 空丹さまぁぁぁ! 起きてください、大変です!」

 

 スッキリした後再び、霊帝の寝所へ飛び込むように戻って来た趙忠は、無礼を承知で霊帝を揺すり起こす。

 

「何っ……何なの? ちょっと、趙忠! 無礼にも程があるわよ。またキツく詰って欲しいの?」

「空丹さま、今はそれどころではありません! 謀反です、反逆ですよぉぉ!」

「お前は何を言ってるの? 悪い夢でも見たんじゃない?!」

「あれが夢なものですかぁ!」

 

 そう言って趙忠の指差す、開けっ放しになった扉の先の暗闇に赤い火柱が見えていた。この寝所も蝋燭がいくつか灯され薄明るい感じであったが、無理な勉学など余りしない所為か、霊帝の視力はかなり良かったこともあり、その楼閣の惨事が遠目にもはっきり見えていた。

 

「なっ、何あれは! 火事なの?!」

「遠くからですが飛将軍という声を聴きましたから、呂布が騒ぎを起こしている中に居ることは間違いありません。周りからも鬨の声のようなものが聞こえてきます」

 

 霊帝は寝台から急いで降りると、慌てて靴もつっかけ気味に開いた扉から廊下へ飛び出した。そして耳を澄ますと趙忠がいう事が嘘ではないことを知る。

 追って傍に来ていた趙忠へ霊帝は振り向くと、その表情は強張っていた。

 

「何という事なの! 黄(ファン)、説明なさい!」

 

 この期に及んでの難題である。全体の状況は分からないのだ。そして確認している暇もない。分かっていることから推測するしかない。趙忠は政治のことはからっきしだが、料理が得意なことからも分かるように連想力と発想力はあった。

 

「あの独特の面倒なことはしない呂布が来ている以上、董卓が主導して反逆を起こしていることは確実でしょう。董卓配下は優秀な軍師らに加え猛将、勇将揃いです。すぐにここから逃げるべきですぅぅ!」

「どこに逃げるというの!?」

「東へ、曹操の陣へ向かいましょう! あの者は、上意に良く従い良く働いておりましたから、きっと力になってくれるかと」

「なら、急ぐの! はやく脱出するの!」

「はいっ」

 

 霊帝は急いで趙忠と服を纏って脱出の身支度を済ませる。

 この皇帝の寝所には特殊な仕掛けが施されていた。

 

 そう―――抜け穴である。

 

 それはどこにあるのかというと――。

 霊帝は一本の六寸(十三センチ)ほどの鍵を取り出した。それを、黄金の寝台の土台右側面にある小さ目な蓋と気付かない隠し蓋を開けそこの鍵穴に挿して右へと回す。

 今度は、土台左側面の目立たない場所が大き目の蓋になっており、それを開けると直径が三寸ほどの綱の一部が五本並んでいた。まず脇にある固定解除の取っ手を回す。

 

「黄、早く切るの」

 

 霊帝の指示に趙忠は懐刀を抜いて一番左の綱を鋸(のこぎり)を掛けるように引いて切る。綱は最後の方は自分から千切れるように切れた。すると重さが千石(二十七トン)は有りそうな黄金の大きな寝台が、ゆっくりと小さ目な鈍い音を立てながら滑る形で動き出した。ズレた部分に見える造りからどうやら一部に黄金の滑車も付いているようだった。

 それは、事前に釣り合わせてた錘の一部の綱を切ったことでの差の力で、ゆっくり開く仕掛けになっていたのだ。

 寝台の滑りが止まると、人ひとりがやっと通れるほどの隙間が空いていた。

 霊帝と趙忠は綱を切った土台の扉を閉め、再び反対側の鍵を掛け、隠し蓋を閉めると、それぞれ蝋燭の灯りを手に、抜け穴の石の階段を下りて行った。

 一度踊場で折り返し三階分ほど地下へ降りただろうか。そこは一丈半(三・五メートル)四方の空間になっており、全面が石でガッチリと組み上げられ、そこから通路が東西と南に向かって分岐していた。その場所から西の通路へ入り少し離れたところの右側の壁に目立たない印があり、先ほどの土台のような隠し蓋があった。

 その蓋をあけ、鍵穴に鍵を通して回すとその少し下の位置の岩が薄めの扉になっており、それを開くとそこにも五本の綱が見えていた。上で切ったのと同様に一番左端の綱を切る。すると遠くで鈍い小さな音をさせて、階段上の寝台が元の位置に戻るのだった。そして音が止んで暫し後、並んだ綱の右横にある取っ手を回して固定設定する。これで上の寝台の扉は容易には開かない。

 操作した扉等を元に戻すと、二人は曹操の陣を目指して地下の真っ暗な通路を東へと手元の灯りを頼りに歩き出した。

 それは荀攸と呂布らが突入する二刻(三十分)程前だった。

 

 

 

 

 荀攸と呂布が霊帝の寝室へ突入して、二刻強(三十分)が経過しようとしていた。

 皇甫嵩も駆け付けて来ていたが、これまでの地上の通路や経路からは脱出されていないと言う事であった。また使用人らの話から、霊帝の傍に十常侍の一人である趙忠もいることが分かった。そして、洛陽城の南の平城門に夏候惇が二千程の兵で現れ、交戦中との情報も伝令によって盧植を経由してここまで伝えられていた。荀攸は城門前の敵兵らについて、おそらく後で南門前を通過する予定の東門へ向かう張遼の一軍と交戦状態になると予想していた。

 荀攸は黄金の寝台の上へ目を向ける。

 だがそこには残念ながら蹴っ飛ばされたように、表地へ金糸の織り込まれた豪華な布団が大きく裏返って寄せられている状態が残っていた。きちんとしていれば体温が残っている可能性もあって、時間が判断出来たかもしれないがその状況を見て、部屋に入った当初から皇帝の行動は推測するしかないと考えていた。

 逃げたのは最大で一時(二時間)程前、最小だと突入直前の二刻(約三十分)程度と思われる。一応、後宮の裏側の向こうに連なる三重の高い壁の付近も兵をやって確認中ではあるが、朗報は望み薄な感じだ。

 荀攸も後宮からの抜け道があるという情報を事前に入手していた。だがどこからどこへと言う詳細までは掴んでいなかった。

 その抜け穴から宮城を脱出し、洛陽城からも脱出していく可能性が高い。市街のどこかかに出るか、それとも外郭の外まで一気にということも考えられた。

 

(今、抜け道を探している時間は無い……)

 

 ここで荀攸は頭を切り替える。

 抜け道があった時の対応も賈駆らと話をしていた事案である。抜け道があるとすればそれを使って『どこへ』逃げるのかと。

 彼女らの意見は一致していた。

 

 おそらく――東へ。

 

 西は董卓軍が固めているのだ、そちらに行ってもすぐに捕まえられる。

 南は手薄だが当てがない。袁術を頼るには距離があり過ぎる。曹軍を討ったあとでもなんとかなる。

 董卓らが困るのは曹操軍が近くで固める東方面だった。故に打つ手は一つ。

 

「これより、宮城の東門と洛陽城の東門を通り洛陽市街の東端を急いで目指して進軍しましょう。脱出路は不明ですが先回りします。城内はもう、陳宮殿と盧植殿に任せれば大丈夫です。私と、呂布殿と、皇甫嵩殿でそれぞれ五百を率いて出ましょう。最外郭東門は曹操の兵が固めていると思いますから、大通りの進軍は極力控える形でお願いします」

「邪魔なら恋が先にそいつらを倒す」

 

 呂布は、事もなげに言ってのける。明らかに寡兵なのだか、攻撃は門の内側からであるし、曹操軍も大軍ではない事は分かっているからだ。まあ彼女の場合、兵数の多少はあまり関係ないかもしれないが。

 

「いえ、今はそれよりも霊帝を倒す方が先です。曹軍と遭遇した場合は止むを得ませんが、霊帝らが曹軍へ近付いて逃げ込む前に抑えましょう。大通りより北側の広い方を私と呂布殿で、南側を皇甫嵩殿にお願いします」

「分かった」

「分かりましたわ」

「それとこの笛を。使う状況については門へ移動しながら説明します。あとは斥候を東外郭の外に出しておきます。曹操が寡兵で踏ん張っているのは皇帝の身柄を確保するためのはず。撤退が早い段階で始まったらこちらも急いで追わなくては」

 

 後宮に見張りの兵を五十程残し、荀攸らは洛陽城東門から兵を率いて出撃し一路洛陽市街の東端付近を目指した。

 

 

 

 

 霊帝と趙忠は――少し歩き疲れが見えてきていた。

 まだ歩き始めて半時(一時間)程であるが、何せ皇帝としての仕事は殆どせずに、食っては眠るという怠惰な生活に延々と浸っていたのだ。趙忠もここ五年近くは霊帝の傍にいることが多く体を動かすことは余りなかった。

 ただ地下の通路は平らで、途中にいくつか分岐があったが、基本は真っ直ぐ進めばよく、地下ながら城外に出たと思われた後はほぼ一本道だった。そしてそれは最後に少し階段になっておりそこを登ってゆく。

 階段を上がると木の扉があった。それは少しこちら側に弧を描くように横に対して湾曲していた。引いて開けると少し重く扉の外には石が張り付いていた。

 外は――浅い一丈半(三・五メートル)程の深さの空井戸の底だった。壁には上へ登れるように窪みが上まで続いている。

 二人はヒソヒソ声で話す。

 

「空丹さま、出口のようですよ」

「漸くか……」

 

 霊帝はすでに『逃避行はもうコリゴリ』という感じになっている。

 趙忠は持っていた蝋燭の灯りを足元に置くと、その上まで続く窪みに手と足を掛けて慎重に登り始めた。

 井戸の上まで行くと木の蓋があったがそれほど重いものではなく趙忠でも動かせた。

 ゆっくり恐る恐る顔を出すが……真っ暗であった。外の雰囲気ではなく建屋内らしい。上半身まで出して手探りで手を伸ばすと井戸の外側は二尺半(六十センチ)ほど地上から出ていた。

 とりあえず、一度霊帝の傍へ戻る。

 

「外は何処か密閉された場所のようです。灯りを井戸の上へ置いたら空丹さまにも、お疲れのところ申し訳ありませんが上へ登って頂きますので」

「仕方がないわね」

 

 普段からキツく当たっていた趙忠なのによく頑張ってくれていた。他の者なら皇帝として従う気にならないが、長年世話を掛けていた分、少し申し訳ない気になっていた事もあり霊帝は素直に従う。

 趙忠は灯りの取っ手に身支度で袖の中に入れていた長めの紐を取り出し括ると、上に登って井戸の外に出ると、灯りを上へと手繰り上げた。

 それで井戸の外の空間を照らすと……そこには立派な馬車があった。馬車小屋の中らしい。車の近くに寄って見るときちんと手入れがされているようだ。平らな屋根付きの少し小型で両側面には小さな窓があり、後ろ右半分と御者側左半分に板が張られた形のものだ。だが馬は繋がれていない。しかし、よく耳を澄ますと外には馬が居る様子が伺える。

 それらを確認すると趙忠は、とりあえず登る際の邪魔にならない井戸の内側へ灯りを掛け、井戸の下へと降りる。先に隠し通路への扉を閉め、大変だが霊帝を下から支え押してあげつつ上へ登らせた。そして底に置いていた霊帝の灯りも井戸の外へ上げると二人は小休憩した。

 その時に室内の壁を確認すると、『出口扉』と書かれている部分があり、取っ手の形状から引き戸になっているようである。

 休憩もそこそこ、趙忠は扉をゆっくりと開けると……ここは厩舎と思われる場所だった。

 趙忠は今は十常侍までにしてもらっているが、かつては霊帝の傍回りの色々な事をさせられていたので一応馬車も扱えた。

 久しぶりなので、多少手間取ったが馬を一頭引いてきて壁の馬具を使い馬車に連結させる。ここで持ってきた蝋燭の灯りの一つを消し、もう一つは車内御者台裏に紙で風よけのある灯り掛けに下げる。それは低めの位置にあり、弱い明るさなので外にはほとんど漏れない。

 

「それでは、行きましょう。これで少し楽なはずですので」

「そうね、では早速出発なさい」

 

 二人は馬車へ、霊帝を後ろの座席に趙忠は御者台という位置で乗ると、手綱を操り静かに馬を走らせ始めた。

 昔、街の中を走らせていた記憶を頼りに東を目指した。敷設された道がそう変わることはないのだ。

 その移動はしばらく順調のように思えた、その時。

 

「馬車がいたぞーーー!」

 

 街裏の細目の道とは言え、真夜中に走っている馬車が目立たない訳がない。その声は敵か味方か不明だが、追手から逃げている霊帝らの恐怖心は激増する。またその声をきっかけにそう遠くない周囲から鬨の声が上がり出していた。

 そして、車の側面に衝撃音が二つあったかと思うと、矢じりの先が室内に突き出ていた。

 

「うわぁっ! 黄よ矢が刺さっている、急ぐのよ! これは敵よ!」

「はいぃぃーーー!」

 

 霊帝らが寝所を脱出して抜け道の移動に半時(一時間)強と、馬車の準備に二刻(三十分弱)を要していたことで、城から東方面へ展開し掛けていた荀攸や呂布らの追手がもう迫って来ていたのだ。

 まだ距離は百歩(百四十メートル)以上離れている状況であったが、後ろからは馬に騎乗した兵らと、槍や剣を握った多くの者たちが隊列を組みつつ殺伐とした雰囲気で追い縋って来ていた。たまに矢も飛んでくる。

 まず騎乗兵らが速力に物を言わせじわじわと迫って来ていた。

 ここは街の東端まで残りあと二里半(一キロ)少しほどの位置だった。

 もはや絶体絶命――――。

 

「弓隊構え………撃てぇ!」

 

 『撃て』の声の前に、霊帝らの馬車は急に左右の横道から兵らが現れた地点を通り抜けると、後方で追って来ていた騎馬兵らが矢を浴びて倒されていた。そして道に兵らの壁が出来る。

 ふと前を見るとさらに兵が固めていたので慌てたが、良く見ると旗に『曹』の文字が。 趙忠が馬の速度を緩めると、一人の女の子がその前へ進み出て、手の指を組み合わせる形の「鞠躬」の礼を取る。その者の衣服の頭部を覆う風防は猫耳のような形が見て取れた。

 趙忠には見覚えのある者だった。

 

「あなたは――」

「趙忠殿、道を遮る無礼、お許しください。曹軍筆頭軍師の荀彧でございます。霊帝様、逆賊らからお救いするため臣下である曹軍がお迎えに上がりました」

 

 その内容の声に御者台の後ろから霊帝が急ぎ顔を出す。礼を取る荀彧なる者の髪型と顔へ、曹操と謁見した際に連れていた一人として見覚えがあった。

 

「おおぉ、さすがは曹操ね。荀彧とやらもご苦労。この働き決して忘れないわ」

「ははっ。早速ですが状況は切迫しております。敵の董卓軍は当方より兵が多い上、準備を整えていた様子。残念ながら一度東へ引き、万全の体制を整え反撃に移るほかありません」

「何と歯がゆいことなの! ええい、董卓などさっさと―――」

 

 強気に反撃への文句を言おうとしていたがその時、後ろでは董卓の兵らと荀彧の連れて来て壁を作っていた兵らとが激しく激突し始めており、攻撃の怒声と死の叫び声が上がり始める。

 

「ひいぃっ、分かったの! 早く東へっっ!」

「はっ、ではこちらへ」

 

 荀彧は残る百人隊長らへ、曹軍であり官軍として意義ある決死の足止めを命じると、百人隊の一つを連れて東門を目指し始めた。

 荀彧は曹操から皇帝の予想される逃走路について指示を受けていた。実は、曹操は袁紹から洛陽の守備を引き継ぐ際に、見返りではなかったが要求したことが一つあったのだ。それは抜け穴の位置ではなく、無いとは思うが万一の場合『その後』、どう皇帝を逃がすかについて東方面に限っての『場所の助言』を貰っていたのだ。あとはその周辺で大通りではなく、なるべく近道で東門へ抜ける経路は限られる為に事前待機する事ができた。

 だが限られた経路を予測していたのは―――董卓軍、新皇帝側もしかりであった。

 荀攸はこの日のためにと、以前より地図を確認した上で洛陽の街内の道を実際に概ね一通り通っていた。先程の馬車の発見位置によりその数々の経路の中から、一瞬で東門への最短路を予測していた。そして宮城を出る前に各将へ渡した、特殊な甲高い音色の笛が荀攸により闇の濃い空へと響く。これが大通りの反対側で鳴ったら、発見の意と共にすぐに反対側に居る隊は東門を目指せというものだった。同時に同じ側に居る隊は、よりその音の東を目指せばいい。

 荀攸と荀彧はここで直接顔を合わせることはなかった。だが、互いに僅かに感じるところはあるのだ。

 

(『曹』の旗印だけど、この絶妙の位置取り……伯母上さまね)

(相手は董卓軍だけど読みの動きがいいわね……荀攸かしら?)

 

 荀彧は皇帝の馬車と百の兵と共に先を急いだ。彼女の頭脳を持ってしてもこの東門までの状況は流動的且つ綱渡りであった。

 彼女が陣から率いた兵力は、五百ではなかったのである。三百であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曹操は出撃を前に、北側に位置する西最外郭の西門より少し南に築かれている董卓の陣へ並ぶ篝火の風景を遠く眺めながら―――唸っていた。

 

「うぅーーー、悔しいわね。まんまと騙されていた上、好機は一回だけということね」

「華琳さまぁ」

「ごめんなさい、季衣。大丈夫、ここは冷静にならないといけない所ね。そうよ、一度で決めればいいのよ」

 

 この時間になって西方街道からの細作が知らせてきたのだ。予想していた董卓の援軍が少なくとも三万以上で寄せて来ているということを。ただ進軍速度から、まだ到着には優に一時(二時間)以上は掛かるということだった。そしてその軍団を率いる将軍は華雄であることも同時に伝えられていた。

 開戦により華雄の件も仮病だろうと思われたが、向こうの思惑どおりの展開と、先ほどの凡人呼ばわりが尾を引いており、いつもの冷静さが少し遠退き不機嫌さを隠せないでいる。

 許緒にはそれが僅かな不安になっていた。曹操も人間である。怒りが加わると戦いが少々突っ込んだものになるのだ。

 

「董卓め……見てなさい、今から思い知らせてあげる」

 

 曹操は小隊を嗾けて董卓軍の弓隊の反応を正確に分析していた。互いの陣には篝火があるが、この董卓の陣までの両陣間は新月の夜のため極めて見え辛い環境なのだ。

 予想通り小隊の損失は月夜の戦闘時よりも、死傷者が少なく命中率も低い。董卓軍はこちらの部隊の僅かな影の規模と、進撃速度と方向を予測して矢を撃っているに過ぎなかった。

 

「さぁ、季衣。横ではなく、縦で攻めるわよ」

「はい、華琳さま!」

 

 曹操軍は動き出した。

 陣形はまず、北側へ向けて横に幅広く詰めて兵らが並んだ横陣隊列を全軍三千五百に取らせた。この姿が曹軍陣内の篝火に浮き上がって董卓側から見えていた。

 そして銅鑼の合図で、篝火を同時に消すと一斉に曹軍は進撃を開始する。

 曹操の選んだ進撃は、横へ幅広く並んでの形―――ではなく、実は暗闇の中で敵へ一列で縦に進撃する形で横との間隔を広く取って進路を絞っての縦列行進で攻め始めることだった。その際、大声と銅鑼の音により、篝火を消す前に見せた横へびっしりに並んで攻め寄せる風を装うのだ。

 この行動を受け、董卓側はすぐに大量の弓隊による南方面への応戦を始めた。

 それは矢を大量に、まず董卓の陣から遠い所へ、次は曹操の陣までの中間位置へ、そして自陣の少し手前よりへ三段階に渡って広い面積に曹操軍の進撃速度を予想して順次面制圧的な射撃をするように放っていた。

 賈駆としては、曹軍より小隊の嗾けから曹操の狙いに気付きかけてはいたが、自陣に居る将の状況と倍する兵数から、この場に籠って曹操の出方と長安からの援軍を待つ後手を取ると決めていた。

 折角の董卓軍側からの攻撃は暗がりな上、横にスカスカの状態で進軍してくる曹操軍に対して効果がほとんど得られなかった。

 さらに曹操は自陣に居た半数近くの兵千五百を率い、戦場の西端をこちらも細い隊列で外側へ迂回する様にそして董卓軍の陣の西側面よりやや離れた位置を北上し、その後方を伺って進攻しようとしていたのだ。

 正面からは許緒が巨大鉄球『岩打武反魔(いわだむはんま)』をかざして矢を避けつつ、董卓軍の陣の正面に到達する。

 

「みんな、行っくよぉー!」

 

 後続を鼓舞する掛け声と共に、築かれていた柵ごと弓兵を巨大鉄球で薙ぎ払い出していた。

 許緒は何ヶ所か離れた位置を攻撃する。その柵が破れたところから、許緒率いる二千の曹軍は到達した兵からじわじわと董卓軍の弓隊へ襲い掛かっていた。

 賈駆は許緒率いる兵の出現の仕方を伝令で知ると、曹操に今夜の闇を利用され一計図られたことを知る。直ちに隊列の後ろの弓兵から、徐々に後方へ下げさせつつ中軍の歩兵千を前線に当たらせた。当初の配置は先方弓隊三千余、中軍千、後軍二千である。下がらせた弓兵には異例で若干不慣れだが装備を槍へ持ち替えさせる。一応訓練を受けさせており、槍ならば隊列を組んで組織的に間合いを取って攻撃すればそれなりに兵力になる。準備が出来次第、それを再び曹軍の兵に当たらせた。弓兵は多少討たれたとはいえまだ三千近くもいるのだ。弓兵を弓兵のみと考えているなら策士策に溺れるである。賈駆も陣に籠る以上色々と考えているのであった。

 戦場は常に変化していくものである。

 許緒の率いる隊は当初、弓兵のみに対して一方的な攻撃になっていたが、徐々に陣奥より現れる槍や剣を持った部隊と戦うことになっていった。そしてその敵兵数がどんどん増えて来る。

 さらにそれは組織立っており、黄巾党などと比べると格段に手強い相手となった。許緒が何とか鉄球で突破口を開こうと奮闘するが、精強な曹軍と言えど数で押され出すと全体では苦しい展開になってくる。

 だが許緒の部隊は、董卓の先方周辺を完全に南方向へ集中させ『引き付け役』の仕事はキッチリと熟していた。

 一方、曹操の隊は董卓の二百歩(二百七十メートル)四方程の陣の裏に当たる北側まで回り込みつつあった。董卓の陣の位置は曹操が洛陽に布陣してから変わらず、その中の配置や周辺の地形等も斥候らによって詳細に報告されている。また今も案内役としてその斥候らが進撃路を先導していた。

 彼女の隊は少し速度を落として突撃の為の陣形を、狭い敵陣内へ深く早く攻め込むために細長い『長蛇の陣』へと整える。

 そして気合の籠った表情で曹操は馬上から後ろを振り返ると、愛用の死神鎌『絶』を構えつつ従う兵らへ告げる。

 

「勇敢なる曹軍のつわもの達よ。これより天下の逆賊を倒す。狙うは董卓の首よ! 突貫する、我に続けぇーー!」

「おおぉぉぉーーーー!」

 

 精兵千五百は曹操に続き、董卓の陣の北側後方から鬨の声を上げつつ襲い掛かって行った。

 その少し前に、賈駆は周辺の斥候から曹軍の一部が陣の西側面の離れた位置を後方北側へ迂回して来ている情報を知らされ、直ちに対応を指示するもその直後に後方より襲撃が始まったのだ。

 その襲撃情報も間もなく賈駆の所まで、曹軍の鬨の声と共に届いた。

 董卓の陣は、南北と西に柵を立ててあり、さらに後軍の本陣周辺にも柵を作っていた。 迂回情報を受け、本陣の守備も密集隊形を取らせている。

 

「くっ、曹軍めやけに動きが早いわね」

「詠ちゃん」

「月、大丈夫よ。こちらの方が兵が多いし……でもまさか、隠し玉も使うことになるとはね」

 

 賈駆にはまだ秘策があったのだ。

 だが曹操率いる千五百はただの精兵ではなかった。虎豹騎程ではないが、個々の強さは相当な水準であった。曹操自身の武力もかなりあるため、組織立った隊としての突貫力は強力であった。董卓の陣を後方から猛烈にこじ開け進んでいく。さらに後続は側面遠方へ火矢を放ち、敵物資に損害と全体への心理的圧力を掛けていくのも忘れない。

 董卓側も後軍に精鋭二千と弓から槍へ換装済の中軍を後方へ寄らせ兵千を合わせた三千を分厚く配置し直していたが、それでも曹操軍は董卓の首を狙い、陣後方からの一点突破で猛烈に進攻して来ていた。

 

 そんな状況だったが、今度は――曹操隊の後方より賈駆の隠し玉が襲い掛かる。

 状況は竜虎の戦いのように二転三転していく。

 曹操は後方からの、その襲撃伝令の詳細を聞かされ驚いた。

 

「なんですって?! ……西門が開いて董卓軍の兵三百が?」

 

 そう、数は三百であったが完全に予想外の後ろからの別働隊の攻撃は、曹操隊への心理的なものも含めて強烈だった。側面からの攻撃は続く後方の兵が対応すればいいが、真後ろからもとなると常時敵に完全包囲されることになり脅威であった。

 だがこの状況に対して曹操の選択は……今日の心理はさらに『突っ込んで』行くことを選んでいた。そもそも当初の目的から突貫する必要があり、もはや引く事など出来ないのだ。

 

「やってくれるじゃない、賈駆と言ったかしらあの軍師。ついでに首を取ってあげる。後ろの百は反転して後方の敵のみを食い止め後退しつつ隊へ追随せよと伝えなさい! それ以外は周囲への攻撃を前方のみの攻撃に切り換えて全力で前進! 敵本陣を突っ切って董卓を討ち、先方と対峙している季衣のところまで抜けるわよ!」

「はっ!」

 

 後方からの伝令に一瞬で指示を出して送り返すと曹操は猛烈な怒気と共に進撃を続ける。

 そしてついに曹操の長蛇の陣の先頭は董卓本陣まで到達する。曹操とその傍を固める兵らは董卓軍精鋭でも容易に止められなかった。

 曹操自身も愛用の鎌を存分に振るい、すでにかなりの返り血を浴びていた。董卓本陣周辺の精鋭は現れた曹操軍の先頭の兵らと、曹操へと改めて順次襲い掛かってゆく。

 それを素早く流れるように鮮やかに、彼女は死神鎌で周囲の曹軍兵らと刈り倒してゆく。

 そんな光景が、董卓にも賈駆にもすでに柵越しのそこに見えていた。

 

「くっ、北側からの曹軍の兵数は進軍速度から、この後軍の半分以下の兵力だろうに、それに曹操自ら先頭で切り込んで来るって……どれだけ強いのよ」

「詠ちゃんは、後ろへ」

「月を置いてそんなことできるわけないでしょ」

 

 董卓は重厚な漆黒の鎧の脇に差していた剣をすでに抜き放っていた。彼女自身は剣の腕は全くダメであった。だがそれでも、賈駆を守ろうと武器を手にしていたのだ。

 賈駆は采配の扇しかもっていなかったが、董卓の一歩前から下がろうとはしなかった。

 本陣の柵も寄せる曹軍の圧力で倒されていった。曹操の兵らが董卓本陣を徐々に制圧してゆく。曹操は自ら鎌でじっくり董卓らへ止めを差すべく馬を下りる。

 

「董卓、どうやらこれまでのようね」

 

 その目線の先にしっかりと董卓らを捉えて、死神鎌を向けながら微笑みを浮かべて言い放っていた。

 だが―――

 

「曹操様、大変です! 華雄が―――」

 

 曹操は一瞬、その後ろからの伝令の声に振り向き、そして再び前の―――賈駆の顔を見る。

 

 

 

 陣内に残る篝火に浮かび上がる賈駆の、口許は笑っていた。

 

 

 

「なるほど……私が現れてすぐに長安からの援軍へ伝令を出して騎馬隊だけ寄越させたのね」

「そうよ。打てる手は全て打つわよ。董卓軍が勝つためにね」

 

 曹操の細作の言っていた優に一時(二時間)以上と言うのは歩兵を合わせた軍全体の速度とその軍の構成内容も当然確認しており、その場で騎馬隊を再編成して移動するにしても時間が掛かると思われていたが……どうやら随分前から長安で再編成の訓練もしていたのだろう。騎馬隊がもし来る場合とした予想よりさらに二刻(三十分弱)は接近が早かったのだ。

 曹操は脇に控えた伝令から華雄率いるのは八千もの騎馬兵と聞かされる。

 董卓の周辺にはまだ多くの後軍の兵が残っており、すでに董卓周辺に集まってきて兵で壁を作り始めていた。目的を優先し馬を下りずに先に突撃していれば董卓らにもう手が届いていたかもしれないが、怒りが大きかった分尊大に振る舞ってしまい貴重な時間と機会を無駄にしてしまった感があった。

 今からでも刺し違える気なら討てなくはないが、それは覇王を目指す者が今取るべき行動ではない。許緒と合流する時間を考えれば機を逃したと言える。その後の曹操の行動は速かった。

 彼女は目を細め、怒りを隠せない表情を董卓へ向けて低い声で告げる。

 

「董卓、ここでの命は預けておくわ。その顔を見るのは今度にしてあげる」

「曹操、貴方は……逃られませんよ」

 

 曹操はその言葉をこれ以上は時間の無駄と、無視するように踵を返し馬に乗る。

 

「さぁみんな、季衣の所まで何としても突破するのよ!」

 

 華雄の援軍の報に董卓隊の勢いが盛り返し始める前にと、本陣周辺の曹操とその隊はこの狭い場所で進行を開始しつつ鋒矢の陣を徐々に取ると、後ろを見ることなく許緒と合流すべく、彼女が引き付けてくれている南方面の董卓軍先方の陣に向けて転進(撤退)の進撃を始める。

 賈駆は本陣の兵には追撃指令を出さなかった。

 曹軍は予想以上の強さで、半端な兵力では討てないと理解したからだ。それよりもまずガタガタになった本陣の立て直しを優先する。

 その後間もなく、華雄が騎馬兵の精鋭を数十率いて本陣まで現れ馬を下りてきた。

 

「皆、無事なのか!」

 

 さすがに数日の行軍と長駆により、多少疲れた感があるが息は上がっていない。

 本来なら、少なくとも本陣手前で降りて歩いて来るべきところだが、まさに今まで曹軍が居た生々しい状況に、突撃しそれらを粉砕する勢いで飛び込んで来たのだ。

 

「大丈夫よ、危なかったけど。助かったわ」

「ありがとう華雄」

 

 董卓も重厚な面を僅かに外して、安心した可愛らしい笑顔を華雄へ送る。

 

「はっ。それで曹操は?」

「悪いけど、すぐに陣を南に抜けて曹操を追って頂戴。まとまった強力な戦力でないとあの曹操は倒せないことが良く分かったわ。敵は精鋭だけど大分叩いて疲弊させてるから。西外郭側の門は抑えてるし、今なら南外郭外の東への広い一本道な街道で後ろから討てるはず」

「分かった、この華雄が曹操を討つ」

 

 董卓らへ軽く一礼し本陣外で馬に乗ると、華雄は本陣を迂回する形で八千もの騎馬兵団を率いると南へ追撃を開始した。

 

 そのころ曹操は董卓本陣を抜け、南の董卓軍先方を南北から挟み撃ちにする形で許緒と合流を果たしていた。そしてそのまま、もはや長居は無用と陣外南方面へ全力で抜け出していた。曹操のその険しい表情から董卓を討てていないことに許緒は気が付いた。

 

「華琳さま……」

「ごめんなさい、季衣がこんなに頑張っていてくれたのに……」

 

 曹操は将の大切さを改めて痛感していた。許緒が心配していたことを踏まえていればと、済んだことだが頭に過る。

 そして許緒は一応無事ではあったが、何ヶ所か槍が僅かに掠ったのか直線的に血が滲んでいるところがいくつかあった。また多くの兵が傷付いていた。それは曹操の隊も強硬策の連続で、精鋭とは言えかなり疲弊し許緒隊と同様だった。満足に動けるものは二隊合わせてもすでに二千程であった。

 そして、付いてこれないものは――周辺に死兵として残っていった。

 曹操は出陣の時に宣言していた。この官軍としての戦いは、例え戦死しようと家族へは恩給を出すと。

 

「とにかく今は東へ向かい、皆と合流する事が最優先事項よ」

「はい!」

 

 許緒は知能派では全くないが周りの空気には敏感であった。その感性が全力で曹操の意見を指示していた。

 董卓の陣を抜けた曹軍は一路南側へ―――向かわなかった。

 ここでも『王佐の才』は健在であった。曹操は思い出していた。

 

 『帰途東へ向く際は南を通らず、西外郭の一番南の門を目指してくださいますように』と言われていたことを。

 

 その門の前に来る。暗闇の門上の楼閣では争う剣撃の音がまだ僅かに聞こえていたが……門は開いていた。

 荀彧は霊帝の保護に三百、そして退路を確保するために二百をこっそりここへ向かわせたのだ。

 董卓軍がいかに大軍であろうと洛陽の大通り程度の幅(四十七メートル程)では一気に包囲するのは難しく、街内の裏道では尚更である。局地的には武力のある曹操と許緒は、まずそう簡単には討ち取れないのだ。董卓側の思惑を逆手に取った、洛陽の広大な迷路のような街自体を緩衝帯に使う良策であった。

 ただ曹操らはその門を通過すると、裏道ではなくなるべく大きな通りを突っ切っていく。曹操は進行速度で道を選んでいた。

 これに対して華雄は陣周辺に董卓軍が放っていた斥候から、曹軍が別働隊により外郭内から門の一つを破って街の中へと通過したことを聞く。曹操を追ってその門の前に来たが、門はすでに閉められていた。

 この状況に華雄の騎馬隊ではどうしようもなかった。

 

「おのれぇ、曹操めぇ!」

 

 怒りの言葉を吐く華雄だったが止む無く、洛陽の街の南外郭外側にある大路を通って一路東側を目指し始める。この経路は巨大な洛陽の都の外を回るため、騎馬隊でもかなり時間が掛かる距離であった。戻って西門から大通りを通った方が早い気もするが、華雄としてはすごすごと主君の居る陣の傍を通るという、少々屈辱に感じる事はしたくなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東へ向かいつつもしばらく徐々に北寄りへの道を移動し、間もなく五里(二キロ)程北上していた曹操は洛陽の東西を通す大通りに出ると、東へ向かって一気に突っ切る様に進んでいったが、前方に僅かな鬨の声と剣撃音を聞く。

 そこはこの巨大な洛陽の都の最外郭西門から真東へ十二里半(五・二キロ)ほど来た、東西のほぼ中間点になる洛陽城南正門である平城門の周辺だった。広大な兵の待機広場も存在する場所でもある。その方面へは夏候惇しか差し向けていない。

 敵軍が居るなら突っ切るしかなかった。

 だが少々変わっていた、薄らと闇の中の広い南正門前の広場に浮かぶ兵達は余り動かず、ある場所を松明を持ち囲うように取り巻いていたのだ。

 それは一騎打ちのようであった。最後までさせてやるべきところだが、今は軍として戦術的に急いでいる。

 曹操は覇王らしく名乗りを上げ割って入る。

 

「我が名は曹孟徳! そこに居るのは何れの将か? 答えなさい!」

「華琳さま!?」

「曹操やて?!」

 

 兵達が取り巻く中で鳴っていた激しい雷のような剣撃音と、互いに得物から身を躱した時の恐るべき威力を物語る空撃音が止まる。

 そう、夏候惇と張遼がすでに七十合を超えるいつ終わるか分からない一騎打ちに及んでいたのであった。

 だが些か強度が弱かったのか、張遼の飛龍偃月刀には刃こぼれが目立ってきていた。一方夏候惇の使う七星餓狼は怪力剛剣の夏候惇がこれまでに幾たび激しい戦場を共にしようとほとんど傷つかない名剣だった。この一騎打ちでも依然その輝きに曇りは感じない。

 張遼としては愛用の武器の状態から、曹操の声掛けは良い合間となっていた。

 声を掛けて来た者の方向へ薄暗い中、この場の皆の体と視線が向いて行く。

 

「春蘭です、華琳さま」

「ウチは張遼や。あんたが惇ちゃんの大将か?」

「張遼! 孟徳様の前で、変な名で呼ぶな!」

「張遼。本来なら、味方側に合流して一緒にあなたを討つところだけど、一騎打ちではそうもいかないわ」

「そらどうも。でも惇ちゃんの大将(曹操)が手ぶらでここにおるって事は……ウチの大将の勝ちみたいやなぁ」

 

 張遼はすでに冷静だ。勝って引き上げるなら、大将首を上げているはずである。曹操に勝ち目があるとすれば、長安からの援軍が来るまでしか機会がないはずだ。時間的にもう援軍が到着する時刻であった。この状況ですでに勝敗は明白のようだ。

 

「くっ。はっきりと言う子のようね。嫌いではないけど気をつけなさい」

 

 覇王に『あんたの負け』と言うのである。曹操は張遼を睨み付けていた。だが本気の夏候惇と互角にも戦える張遼なのだ。涼しい風と笑顔で受け流していた。

 

「で、どないするん?」

 

 今度は張遼が曹操へ鋭い視線を向ける。許緒は曹操にずっと静かに寄り添って守っていた。だが、張遼からの圧力がまさにあの夏候惇に匹敵するものがあると感じ、驚くと同時に危険を感じでいた。この将を相手に命がけでも曹操を守り切れるのかと。

 

「季衣、安心しろ。私がここに居る」

 

 許緒の少し危惧する雰囲気を見た夏候惇が優しい顔で安心させる。許緒も笑顔を取り戻す。

 

「はい、惇将軍」

「それに、もう数合あれば奴の偃月刀、我が七星餓狼でへし折れる」

「ちぇ、バレとるんかいな。惇ちゃんには適わんなぁ」

 

 張遼は耳横の辺りを掻きながらバツが悪そうであった。

 

「では張遼、ここは黙って通してもらうわよ」

「うーん、しゃあないなぁ」

 

 曹操の声に苦笑する。張遼としてもこのままでは、夏候惇に数合で飛龍偃月刀を折られた上で切られてしまいかねない。部下の下手な武器に持ち替えても、あの七星餓狼に武器ごと両断されそうである。張遼は命が惜しいわけではない。ヤルのなら万全でこの好敵手らと戦いたいのだ。

 

「次、会った時の楽しみにさせてもらうわ。行ってええで」

「張遼」

 

 ここで夏候惇は城壁に向かって七星餓狼を翳す。そこにはまだ頑強に夏候の旗を掲げ抵抗を続ける夏候惇隊の一部が居た。

 

「あのなぁ……惇ちゃん(助けるのは無理やで)」

「違う。あの者たちはすでに貴殿らを留め置く死兵だ、せめて地に埋めてやってくれ」

「……分かった」

 

 夏候惇は城壁に向かって叫ぶ。

 

「曹軍夏候元譲の勇猛なる兵達よ! 最後まで曹軍の意地をみせよ! 後の事は心配無用だ。そして必ず敵は私が取る!」

 

 それに答えるように、城壁の夏候惇隊から鬨の声が上がる。曹操らが兵を纏め東へ去った後も彼らの士気が落ちることは―――最後の一兵までなかった。

 城壁の夏候惇隊に対していた陳宮は、張遼が曹軍を見送る状況に後でちんきゅーきっくを見舞うほど憤慨していたが、結局張遼は門の前で守る様に隊列を組んだまま動かなかった。

 戦いが終わった後に張遼は、仲間の兵達の亡骸の傍に夏候惇隊の兵らの亡骸も埋めてやったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 霊帝の乗る馬車の御者台には馬の扱いに慣れている曹軍の兵が乗り、趙忠も後ろの馬車内の座席へと下がって霊帝を守る様に寄り添っていた。

 さすがに霊帝と馬車内で同席するには荀彧や副将ぐらいの地位が無ければ相応しくなく、そのため今は馬車の周りを精鋭の騎馬兵が固め、馬車を中心に円陣を組む形で急ぎ東門を目指していた。

 荀彧は先頭近くを馬に乗って移動し薄暗い街内も的確に進路の指示を出しつつ考えていた。

 

(先に出した霊帝発見の早馬を受けて、流琉辺りが来てくれるはず。東門までもう少し、それまで凌げば―――)

 

 だが、その思いは打ち砕かれる。

 荀彧の右側傍を並走していた馬上の兵が―――急にどこかへ居なくなった。

 

(ドクン)

 

 荀彧の右へ振り向いた視界には落馬していく矢を受けた事を悲鳴のように告げるの兵士らと、右横からの道に並ぶ敵兵影とさらに飛来する矢の影が見え、そしてそれらが到達する。

 風防の猫耳付近や服を掠ったのか引き裂き破り、そして騎乗していた馬へ数本矢を受け、荀彧は倒れる馬から暗闇の地面へ投げ出される。

 

「止まれーー!」

 

 百人長の声で、楕円な円陣を組んでいた進行が止まる。横道から矢を射た弓兵らは少数だったのか道の奥へと素早く引いて行った。足止めの伏兵だろう。

 

(ここは私に構わず進むべきところなのに)

 

 今の曹操に最優先は霊帝の身である。

 そう思ったが曹軍の鉄の規律を思い出すと、ハッと向いた前方はすでに一瞬の間に何本かの松明を灯した一隊の影で塞がれていた。

 そして、前方に立ち塞がっていたのは暗闇の中、濃い黒紅に見える旗を掲げる兵達と僅かな松明の灯りに浮かび上がった―――呂布だった。

 

(くっ、ここでりょ……呂布なんて)

 

 呂布は気まぐれな所為もあり、宮城等で会う事も無く此処でが初顔合わせになるが、情報的には良く知っている。

 荀彧も黄巾党の乱の討伐資料に目を通していたが、飛将軍のその戦果は信じられないものであった。曹軍にも猪武者の怪物な夏候惇がいる為、もしかしたらと思うが、雑兵らとは言えそれでも万に近い百倍程の兵数に力押しですべて勝ってしまっているこの武将は異常だった。荀彧としても兵が一万いても全く安心できない――そういう将なのだ。

 そのため寡兵の今回は初めから郭内において正面からの対決は夏候惇以外は想定せず、なんとか出し抜く作戦を選んでいたのだ。

 強敵の出現に荀彧は、東門まであと一里半ちょっとという距離を異様に遠く感じていた。

 騎馬に乗った呂布が闇の通りを静かに一騎で遠く進み出て来た。そして霊帝を守る曹軍の傍まで来ると、相手が霊帝を含む隊なのもあり礼儀として先に名乗る。

 

「呂布だ。皇帝をこちらへ。断れば全員倒す」

 

 呂布は『霊帝を倒す方が先』と言われている為、今はそれにしか興味が無かった。相手が曹軍でもである。だがそれ故、断られたら全員倒すつもりでいる。

 荀彧は痛む体を起こして――話を伸ばすことで少しでもと時間を稼ぐ。

 

「私は曹操軍筆頭軍師の荀彧です。呂布将軍、霊帝さまをそちらへとのことですが、どうなさるおつもりか? 我々は皇帝陛下の臣下の身、無礼があってはなりません。先にお聞かせください」

 

 すでに皇帝の列に矢を射かけて来る相手である。聞くまでもなく全て分かりきっている事だった。

 正直、いきなり切られる事も想定内の策である。

 いずれにしてもこの後、真っ先に切られるのは自分だと荀彧は考えている。

 それでも時間を稼がなければならない。曹軍の将達らは一騎当千なのだ。荀彧は自分が去っても今までのように何とかしてくれるはずであると信じている。

 だが周りの兵らはすでに、呂布の大きな威圧に硬直し掛けていた。

 そんな中、呂布は呟いた。

 

「…………お前が荀彧か」

「は? ……はい」

 

 その返事に呂布は珍しく迷い、考えるように目線を荀彧から左へ僅かに外した。

 陳宮から、先ほど指示を受けた仲間の荀攸の叔母だと聞いていたのだ。

 『家族は大事』―――呂布のもっとうである。

 

「荀攸から……知らせは?」

 

 すでに先ほどから死を覚悟していた荀彧は正直に答える。

 

「………逃げろとだけ……手紙が来ました」

「……」

 

 呂布は『無かった』と言う事なら即刻切るつもりだったのだが、『逃げろ』という事は助けたいということである……切れなくなってしまった。

 とりあえず方天画戟の柄で当身を食らわせて転がし、後で連れて帰ろうかと考えた時だった。

 呂布の率いた隊の後方から鬨の声が上がる。そして左の脇道からも――。

 

「呂布ーー! この夏侯淵の矢を受けてみよ!」

 

 襲おうとする荀彧から注意を引きつつ夏侯淵は名乗る。

 

「秋蘭?!」

 

 予想外の人選の援軍に荀彧は声を上げた。

 同時に呂布へ向かって鋭く早い剛の矢が連続で数本迫って行った。

 

「んっ」

 

 呂布は馬を荀彧の傍から大きく下げつつ、方天画戟でそれらを素早く弾き飛ばす。

 その隙に、荀彧との間に曹軍と夏侯淵が割って入った。夏侯淵は前を警戒しつつ背中越しに尋ねる。

 

「大丈夫か、桂花」

「貴方が来たの?」

「流琉はもう一人前の仕事をする、心配ない。桂花、お前たちはこちらの道から陛下らと回って先に行け! この怪物は私が相手をする。近接なら厳しいが中、遠距離ならなんとか時間内は抑えてみせよう」

 

 そう言いつつ、夏侯淵は呂布に愛用の剛弓『餓狼爪(がろうそう)』から鋭く威力のある矢を連続で浴びせていた。

 

「わ、分かったわ」

 

 ここは迷う所ではない。

 確かに、流琉でも呂布相手はかなり厳しいかもしれない。だが、歴戦も含め幅広い戦術の取れる夏侯淵なら戦いようが十分あるはずだ。

 

「弓隊、構え……撃てぇ!」

 

 夏侯淵の号令で、道幅一杯に先頭は上中下三段でさらに奥へ十名ずつ横に並ぶ夏侯淵隊の美しい隊列から正確で大量の矢が呂布一人へ浴びせられる。さすがの呂布も馬をも射倒され、今は方天画戟で矢を撃ち落としつつ下がるしかない。

 ここが一番難しい局面と夏侯淵は読んだからここへ来てくれたのだろう。

 さすがと言うべき読みだと荀彧は改めて心強く思うのだった。

 荀彧は兵の一人から馬を譲り受けると、霊帝の乗った馬車と七十名ほどの兵を率いてその場を後にしようとする。

 

 

 

 だが呂布はそれを―――只では許さない。

 

 

 

 呂布の倒れた馬には、弓が積まれていた。それは―――大型で凄まじく重厚な鋼鉄の剛弓だった。呂布は方天画戟を脇へ置く。そして倒れて事切れている馬を片手で起こすと体に密着させて矢を撃つ間の盾にする。太く長い鋼鉄の矢が番(つが)えられると引き絞りに入るのだが、その鋼鉄の弦を引く音が……金属の軋む音が少し離れつつある荀彧のところまで聞こえそうな異様な音を立てるのだった。おそらく、剛の力自慢が数名でなければ引ききれないものだろうと想像できたが、呂布はそれを一瞬で引き切り撃ち放つ。

 

 それは余りの威力に―――神速だった。

 

 この時、弦音の響きにこれは危険と察知した夏侯淵も、呂布の狙う軌道軸だけを一瞬で見切り、合わせて二本の剛の矢を放っていた。

 目の良い夏侯淵ですら僅かな残像しか見えなかった。だが、二本の固い威力のある矢に『当てさせる』事は出来た。僅かだが軌道が逸れたはずである。どこへ放たれたのか? 呂布の狙いは?

 

 荀彧らと霊帝の乗った馬車は走り去る。

 よく見ると、馬車の側面の板には二寸(五センチ弱)ほどの穴が開いていた。それは反対側の側面の板をもまさに紙のように貫通していた。

 呂布は暗い中、去り際に馬車側面の窓から霊帝が僅かにこちらを見ていたのを逃さなかった。

 そして―――もう、霊帝は窓からこちらを見ていなかった。

 反対側の板の穴には夜の闇でよく判別できなかったが、血がベッタリと付いていた。

 

 

 

 

「お前、やるな」

 

 呂布は素直である。夏侯淵が自分の神速の矢を当てさせるように予測して矢を放った事を褒めた。偶然ではない事は、弓の名手ならすぐに分かることだ。

 

「貴方ほどではない。さあ始めようか、撃てぇーー!」

 

 一方夏侯淵も呂布の剛弓の速さと威力に一瞬魅せられそうになった。だが、倒れた馬を盾にしているとはいえ方天画戟を手離している無防備な状況に、彼女は夏侯淵隊へ命じ追い打ちの矢の雨を指示する。そして自分も呂布へ速射の鋭く早い剛の矢を放っていった。

 呂布は鋼鉄の剛弓自体で迫る矢の雨を落ち着いて正確に撃ち落とす。そして迫る矢の合間を見つけて再び方天画戟を握る。

 また、呂布の率いていた隊は後方からの夏侯淵隊に対応するためと、呂布自体が前にいるため弓等で援護出来ないでいたが、一部の数十人が隊列を組んで前へ近寄り呂布と合流する。

 しかし、夏侯淵隊の弓隊の一斉射撃は終わらず正確で強烈だった。呂布は雨を払う程度に猛烈な矢の来襲を払い避けていたが、普通の兵はそうは行かなかった。

 夏侯淵隊が数回連射するうちに、呂布以外は皆四、五本受け射殺されていた。

 だが、夏侯淵としてはこれ以上どうしようもなかった。

 

 呂布は単身――矢の雨の中を完封しつつ一歩、また一歩と前に夏侯淵隊へと進んできていたのである。

 

(これが、飛将軍呂布……実力は姉者以上か……)

 

 夏侯淵は静かに恐怖を覚えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 篝火の多く焚かれた東門の前では、皇甫嵩の兵五百と典韋率いる千五百が静かな戦闘に入っていた。

 典韋はまず薄闇の中、敵の旗に『皇甫』と読み取ったときは董卓軍じゃないの?と一瞬思ってしまったが、その動きは当初から敵対行動を取ってきた。そのため典韋は門周辺をガッチリと固めて動かないでいる。

 皇甫嵩隊がここに来る前に荀彧から早馬の援軍要請が届くと、夏侯淵が事前に待機していた五百を率いて出ると聞いたときに典韋は驚いた。思わず「誰がここを守るんです?」と聞いてしまったほどだ。

 だが夏侯淵は静かに微笑むと「流琉がここに残っているから安心して行って来れる」と言ってくれた。

 夏侯淵にこの曹操軍の生命線と言える大役を託されたのだ。その可愛らしい姿と瞳には普段以上の気合が入っていた。

 いつもは先頭に立って巨大ヨーヨーである『伝磁葉々(でんじようよう)』を振るっている彼女だが、今は一歩下がった位置から戦況を俯瞰する形で戦いを進めていた。

 

(典韋という子は、黄巾党の乱でいつも前線に立つ将だと聞いていたのに……)

 

 皇甫嵩は寡兵という事もあり、隙が無いか敵の反応と友軍を待つ形で矢からも距離を測りつつ寄せては返す牽制に徹していた。ただ、将である典韋を引きずり出せば勝機はあると思っていた。当初、ここは夏侯淵辺りだろうと思って苦戦を予想して遠巻きにしていたが、陣や門上等の篝火の灯りの中に浮かぶ旗に『夏侯』の旗が無く『典』であったため寄せて来たのだ。だが、中々手堅い反応ぶりに膠着した動きになっていた。

 

((味方のだれか早く来ないかなぁ……))

 

 二人ともそう考えていた。

 そんな、皇甫嵩に西方面の斥候から知らせが届く。『曹』と『夏侯』の旗を掲げた軍勢が徐々に大通りをこちらへ迫って来ているという事だった。兵数はおよそ三千五百という。おそらく曹操に夏候惇とあと許緒まで居そうである。ここにいる典韋も含め皆武力が高い将達であった。

 皇甫嵩としては敵の兵数といい敵将の数と質といい、この隊単独でこれ以上の対応は難しいと判断し、大通り北側の街内へ入り味方との合流を第一に一度下がるしかなった。

 

(……あれ?)

 

 典韋は異変に気が付いた。皇甫嵩が大きく距離を取り、大通りの北側へ向かって離れようとしていたのだ。黙って見送るべきかと一瞬考える。しかし、彼女はいつもの通りではいけない気がした。

 

(こんなとき、秋蘭さまならどうしてたかしら……)

 

 そう考えてみると、総兵力で勝る反逆軍側が『今なぜ』皇甫嵩が北へ離れようとするのかという事に気が付くのだった。それはここにいると『不味い』ことになる……挟み撃ちになるという事だろう。

 つい先程、東門の後方となる外の東方面と南北方面からは敵影無しと報告が来ている。

 典韋は、千人隊長を呼んだ。

 

 皇甫嵩は東門の曹軍の隊列から一軍が出て来た事に気が付いた。陣の篝火の傍を通過した折、先頭には僅かに『典』の旗が読み取れた。

 

(ええっ?! この状況を待っていたの?!)

 

 皇甫嵩は少し驚いた。そして余り上手くない形と思えた。典韋が率いているのは影の大きさから五百程のようだ。これでは隙をついても、兵が千人程も残る東門は取れそうになかった。

 この状況で、何か良いことはないか……皇甫嵩はそう考えていた。

 すると東門の陣から出て来た曹軍の隊の間から一人の将が声を掛けて来た。

 

「私は典韋と言います。皇甫嵩将軍、お相手を」

 

 かつての官軍の名将である。若輩の典韋は自ら先に名乗を上げた。

 

「……分かりました。典韋さん、この皇甫嵩がお相手しましょう」

 

 皇甫嵩は武闘派ではないが、弱い訳では無い。歴戦の将軍に相応しい名剣を抜き放つと典韋からの申し出を快諾し改めて相対していた。今は門を取れないが、力を見る上で典韋へ一当てしておくのは悪くないと思う事にした彼女だった。

 典韋側は無難に密集隊形で攻守に優れた魚鱗の陣の陣形を東門の前で敷いていた。

 皇甫嵩は典韋の布陣を見て取ると大通りの西側を改めて背にする形で――縦に長く長蛇の陣の形を取った。

 そして彼女は先頭に立って隊を率いている。全面が薄く突撃力は将に大きく委ねられる。つまり典韋を圧倒するぞと挑発している陣形でもあった。

 両軍はゆっくりと動き出した。そして先頭がぶつかり合う。

 皇甫嵩は掴む為の栄光の双丘を始め豊満な体の持ち主で、普段は眼鏡を掛けた知的な優しい表情の女性である。だが、生死のやり取りをする時は、その眼鏡の奥の瞳は深緑の闇となるのだった。

 典韋が先頭にいない典韋隊の前面は、皇甫嵩によって切り裂かれていた。

 曹操軍を相手にかなり一方的に感じる勢いだ。伊達に漢帝国の将軍は名乗っていない。

 「これはいけない」と、それを見た典韋が、愛用の巨大ヨーヨーを持って前に出る。

 部下を切り倒そうと振り下ろされた皇甫嵩の剣を、典韋が間に入って巨大ヨーヨーで受け止める。典韋が力で押される事はないが……それでも受ければ只では済まない剣の威力なのはヨーヨー越しにも認識できた。

 典韋は力で皇甫嵩の一撃を払い退けると、距離を取ってヨーヨーを……と思ったが距離を取らせてもらえなかった。

 皇甫嵩は智将でもないが、要領は良かった。豊富な経験から相手の投げつける感のある武器の特性をすでに見切っていた。

 そのため典韋は常に皇甫嵩より接近戦を挑まれる形となった。こうなると、ヨーヨーを盾に凌ぐしかない。力押しだけでは、皇甫嵩は上手く躱し、いなされてしまっていた。また、皇甫嵩へは長蛇の陣により縦に後ろから大きな人の力の圧力が掛かるのだ。それを利用しつつ典韋の個人の剛力を多人数の圧力で押し返していく。

 

「では、典韋さん。そろそろ退場を願おうかなぁ」

 

 先頭に出て来ていた典韋は、気が付くと魚鱗の陣の先頭部の三角の先から北側の辺沿いに力で押し流されて来ていた。

 さらに皇甫嵩隊の陣形は長蛇の陣からいつしか、蛇の頭の部分が大きくなって典韋周辺を半包囲しつつあった。

 そして、皇甫嵩が一瞬下がったかと思うと、典韋へ向かって端に錘の付いた網や鍵縄が周囲の兵ごと掛けられる。

 

(!!……不味いわ)

 

 典韋は慌てたが、一気に周囲の敵味方の兵らごと網に引っ掛り囚われ引きずられる形になった。その奇襲に将を捕獲された典韋隊にも動揺が広がる。

 典韋の隊の兵らが網を部分的にいくつか切っているが、皇甫嵩隊は一気に速度を上げ、典韋らを引きずりながら離れようとして行った。

 典韋は皇甫嵩の狙いに漸く気が付いて悔やんだ。対峙した初めから自分だけが目的だったのだと。

 皇甫嵩は周りや状況を要領よく利用し、無理はしないが好機も逃さない。そういったところではやはり優れた将であった。ただ本人は……男運だけはないなぁと嘆いているのだが。

 

 しかしここで事態は急変する。

 皇甫嵩隊は急に後方からの猛烈な突撃を受けたのだ。その兵力は僅かに二十騎ほどであったが――先頭には夏候惇と許緒がいたのだ。

 東門が近くなり、二人は曹操の命で援軍として騎馬隊で早めにここまで帰って来てみると……陣には夏侯淵ではなく典韋の旗しかなく、おまけに敵軍が居て苦戦しているではないか。

 それを見た後は嵐のようであった。二人は七星餓狼と岩打武反魔を振りかざしつつ敵陣の最後方へと飛び込んでいき縦横無尽に吹き荒らしていった。同時にまさに血の雨が降っていく。

 

「流琉ーーーーーー!」

「踏ん張れ、流琉よーーー! 曹軍の将の意地を見せよ!」

 

 皇甫嵩の長蛇の陣は隊列自体が薄いのもあるが、二人の猛攻と後方からと言うのもあり、あっという間に数十人の塊が粉砕されていった。その偶に人が高々と舞う光景に気が付いた皇甫嵩も驚きを隠せない。

 

「な、なに? 呂布さんでも裏切ったの?!」

 

 そしてそれが、じわじわと後ろから迫って来る状況に焦るのだった。

 

「撤退! 皆さん、撤退します!」

 

 皇甫嵩の決断は早い。無理はしないのである。

 その状況と夏候惇、許緒の言葉に、典韋も意地を見せる。網の間から踵を渾身の力で地面に打ち込むようにすると持ち味の怪力で踏ん張るのだった。

 網を持っていた兵らの多くは突然の急激な静動を受け、握った手から縄が離れていった。

 夏候惇と許緒の猛勇を見ると、引き返して再び典韋を連れて来る時間などなかった。

 さらに……。

 

「逃がすがぁ゛ぁぁーーー!」

 

 夏候惇の悪鬼のような台詞も聞こえて来るのだ。もはや皇甫嵩は迅速な撤退しか思いつかなかった。

 許緒と典韋の兵らが網の掛けられた典韋らの周辺を包囲。敵の兵らは武装解除し、典韋と兵らを救出する一方、夏候惇は言葉通り追撃しようとしていた。

 皇甫嵩らの隊が大通りから脇道へ流れ込んでいるとき、さらに東門寄りの道から―――荀彧の率いる馬車を伴った一隊が現れる。

 猪の如く一騎で駆ける夏候惇の姿と、それを追う数騎の持つ『夏候』の旗を薄闇に見た荀彧は叫ぶ。

 

「春蘭! 秋蘭を助けに行って! 呂布が来たのよ!」

「なにぃぃ?!」

 

 その荀彧の言葉の瞬間に、夏候惇は皇甫嵩を後回しにせざるを得なかった。

 それを聞いた許緒と典韋も荀彧の所へ集まってくる。

 

「あの、霊帝さまは?!」

 

 少し冷静な典韋は夏侯淵が直々に向かった曹軍の最重要案件を確認する。

 荀彧の顔はさらに曇る。

 

「ここまではお連れしたんだけど、それが……」

 

 荀彧は静かに馬車の方を向く。

 

 霊帝は―――重症だった。

 

 夏侯淵の剛の矢二本で軌道がズレたが、呂布の鋼鉄の剛弓は霊帝の右胸下へ風穴を開けて一瞬で貫通していったのだ。加えてその受けた衝撃で、霊帝は馬車内の反対の側面壁まで飛ばされ叩きつけられていた……。

 おそらく呂布は左胸の心臓付近を狙っていたのだろう。

 本来なら、その場で傷口を縫い合わせて塞ぎ、安静にして自然に出血が止まるのを祈るしかないのだが、移動する必要があり揺れる馬車の中、趙忠が傷を抑えてじっとさせている他なく、病状はすでに意識不明の状況であった。

 そして、そんな状態でもこの後も急ぎ東へ移動させなくてはならないのだ。

 だが今は。

 そう考え、荀彧が再び指示をする。

 

「ううん、大丈夫。陛下は、こちらでなんとか東へ移動させるから。今は、春蘭たち三人で私の連れて来た兵達を先導させて、呂布と戦っている秋蘭の所へ早く加勢しに行って!そして出来るだけ早く戻って来なさい。董卓軍の大軍に捕まる前に東へ移動しないといけないのを忘れないで!」

「分かった! 行くぞ、季衣、流琉!」

 

 典韋の隊五百を連れて、夏候惇らは大通りの北側へ、荀彧の通って来た道を逆流する形で急ぎ呂布との対戦場所へと向かって行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏侯淵隊にもう弓矢は残っていなかった。呂布は耐え切った―――いや、余り効かなかったと言うべきか。

 だが、あの呂布の足止めには成功した。

 それは一刻(十五分)程の半分もないという時間だがこれだけの時間、飛将軍呂布に何もさせなかったのは夏侯淵隊だけであろう。

 

「なかなかだった。でももう終わり」

 

 呂布は静かに方天画戟を構える。

 その時、夏侯淵の弓隊の整列する後方から敵の隊が現れた。荀彧の足止めさせていた隊を蹴散らし、荀攸の隊が迫って来たのであった。

 同時に、呂布の隊も夏侯淵隊の矢が切れた事に気付き一部が呂布の方へ寄せて来始める。

 

(まずいな。時間はもう十分稼いだはず。なんとか引き上げたいところだが……)

 

 夏侯淵がそう考えていると、弓隊の百人隊長の一人が彼女に荀彧らが去った道へ目線を向けながら小声を掛けてきた。

 

「妙才様、我らがその道へ入ったところで壁を作り、時間を稼ぎますゆえ東門までお引きください」

 

 彼らは撃ち尽くした愛用の弓を担ぎ、すでに腰の剣を抜き放っていた。

 当初の五百から三百を呂布隊の後ろから攻めさせ、二百でここへ来ている。

 相手は呂布なのだ。部下からの有り難い申し出だが、残念ながら二百では呂布だけでもそう時間は稼げないだろう。加えて敵の援軍も間近へ迫って来ているのだ。

 曹操より勝手に死ぬことは許されていない夏侯淵だが、ここで部下を盾にし三百の残りと合流しても追いつかれて結局呂布と戦う事になるだろう。ならば信頼のおけるこの部下とも共に戦いたい。

 

(それにまだ……)

 

 夏侯淵は静かに微笑む。

 

「まあ、そう言うな。そこの道で皆と共にこの呂布を倒そうではないか」

 

 夏侯淵も弓を担ぐと、一応と腰に差していた両刃の剣『十字餓狼(じゅうじがろう)』を抜いていく。

 弓は得意であるが、剣が苦手と言った覚えはない。

 百人隊長を始め兵らも、この怪物すぎる呂布相手に自分達だけではそう持ちこたえられないことは分かっている。だが、これまで付き従い戦ってきて名将と確信する夏侯淵に、少しでも生きていてもらいたいのだ。そうすることで自分たちの住む家も家族らも守られると信じていた。

 だが、共に戦えることも嬉しいのである。

 

「はっ、ではやりましょうか」

 

 夏侯淵の言葉で、兵らにそれほど死への恐怖は無くなった。

 逆に、残ってくれる将軍と共にやってやろうじゃないかと士気が上がる。

 夏侯淵らは素早く射撃用の隊列を解くと、背後からの荀攸の隊に挟み撃ちにされないように、荀彧らが去った通りへ呂布を夏侯淵が対峙し牽制しつつ下がると素早く兵らは隊列を組む。

 呂布は夏侯淵らが引いて隊列を組んでいる道へ、静かに堂々と歩を進めると呟く。

 

「恋はいつでもいい。早く来い」

 

 彼女は夏侯淵らのやり取りと動きを伺っていた。

 呂布としては先程までの猛烈な攻撃に敬意を表して、『逃げると言うなら叩き切る。向かって来ても叩き切る』である。

 普段は逃げる相手には興味が無くなるところなのだが……。

 向かってくるというのだ。彼女は受けて待っていた。

 夏侯淵もダラダラする気は毛頭ない。そして―――負けるつもりもない。

 彼女は呂布へと一気に切り込む。それに合わせて隊の兵らも手練れを中心に五人一組で数組続いた。多対一、これも勝つ為の兵法と言える。

 夏侯淵は姉の夏候惇に対し膂力に劣るが、素早さと正確さ、見極めは負けていないと思っている。呂布に対しては最初からその持てる力の全力攻撃有るのみだ。

 方天画戟を右手に握り自然体に立つ呂布に対し、左下方からの最速の十字餓狼での鋭い突きを見舞う。

 戟を扱う呂布の間合いは長いが、常に三百六十度を防御できる訳では無い。一か所を防御、対処すれば、その両真横や真上からの攻撃への対応には時間が掛かるはずである。

 そういった方向から配下の兵達らが剣を振りかざし同時に襲い掛かった。

 だが、呂布は異常と言えた。その動き、攻撃は明らかに早く、力強く、正確であった。

 夏侯淵の突きは速度といい左下方から方向と厳しいものがあったが、まずそれを方天画戟により最速で捌く。

 夏侯淵は見ていた。左手で放った渾身の自分の剣の一撃を、それ以上の下からの一撃で上へ弾き飛ばすように退けた後の呂布の動きを。夏侯淵の左手は伝わる強大な衝撃で痺れていく。

 そして退けた上で同時にそのまま夏侯淵へ下方からの高速の戟を放って来たのだ。剣は弾かれている、引き戻しは間に合いそうにない。咄嗟に右手で餓狼爪を戟と体の間に引き込んだ。餓狼爪と、方天画戟がぶつかり合い火花が散る。餓狼爪が鋼鉄製でなければ切られていたところだった。そのまま夏侯淵は戟の威力で後ろに飛ばされる。

 呂布の動きはそれでは止まらず、腰を僅かに回し位置を調整しつつそのまま切り上げる軌道で、真上から来る兵を左斜め下から体を両断していた。その兵は仲間らの体を台に走り上がって呂布に切り込んで行った者であった。後ろからも三方同時に襲っていたが、方天画戟の刃の反対側の柄も使われ、前後同時に倒され弾き飛ばされていった。

 刃が無い柄でも高速で強大な膂力で叩かれれば人は死ぬのだ。

 呂布はまさに後ろにも目があるような戦いぶりに見えた。

 彼女の一瞬での一連の動作が終わると餓狼爪を盾に弾かれた夏侯淵以外、兵らは皆躯になっていた。

 呂布は容赦なく呟く。

 

「次は?」

 

 夏侯淵は無言で再び剣を構えると殺気を漲らせ呂布へ挑んで行った。その雄姿に彼女の隊の兵らも続く。

 今回夏侯淵は単撃ではなく連撃を浴びせ続けた。突く、切る、払う。基本技を最速で連発していく。

 だが呂布は躱すことなくそれを『すべて』受けていた。また飛将軍の膂力は強すぎ、払って間を作ることは難しかった。

 呂布は夏侯淵に対しながら、後方及び側面の夏侯淵隊の兵らの同時攻撃も受けて、そして倒していった。

 その時、荀攸の隊がこの通りへ一部入って来ると同時に、呂布隊の一部も合流する。これにより呂布の後方からの攻撃は無理になってしまった。一騎打ちでない状況から呂布隊と荀攸隊は呂布の上方から夏侯淵隊へ矢を射かけて来たり、両端から呂布の前へ回り込んで来る者が出て来始めた。

 夏侯淵と隊の兵らは呂布の前面のみからの攻撃を続けていた。

 だがこの状況の変化に、飽きやすい呂布は無感情に呟く。

 

「そろそろ本気で行く」

 

 『もう早く終わらせたい』そんな感じの意味もある言葉に夏侯淵の表情は険しくなった。

 

(馬鹿な……今まで本気じゃなかったと言うのか―――)

 

 途端、夏侯淵は閃光が見えた気がした。思わず咄嗟に攻撃ではなく、剣を防御に構えると同時に弾き飛ばされた。

 その一瞬の攻撃で、仲間の兵らが十人程倒されていた。いや、それはたった一撃であったのかもしれない。

 呂布が倒れている夏侯淵に一気に迫る。片手を付いて、反動で飛び起きギリギリで地面に打ち下ろされる戟の一撃を躱したかと思ったが、続けて背中に衝撃が来た。同時に少し熱い。

 

「ぐっ」

 

 どうやら 返す戟で右の背中を切られたらしい。着地と同時に片膝と、手を付いた。

 さらに方天画戟を振り上げ夏侯淵へ近付こうとする飛将軍。

 

「妙才様ーーー!」

 

 夏侯淵隊のすべての兵らが一歩でもその進撃を阻止するため呂布へと突撃して行った。

 だが――呂布へ接近するものは全て首の動脈辺りを切られて卒倒していった。

 その数は二十や三十ではなかった……。その上邪魔者のように躯は脇へ払い飛ばされていく。

 同時に、呂布の周りを固め出した董卓側の兵らによっても、徐々に夏侯淵隊の兵達は討ち取られていった。

 その光景に――夏侯淵は痛みを忘れて剣を支えに立ち上がっていた。

 

「おのれぇ、呂布に董卓軍め!」

 

 夏侯淵の周りにはもう、一人も兵が残っていなかった。

 そして、董卓軍の兵らが一人二人と夏侯淵に迫る。

 だが、曹軍の誇る夏侯淵が一般の兵に倒せる訳がなかった。呂布同様に十字餓狼の一撃のみで二人を切って捨てていた。猫では、虎は倒せないのだ。

 

 そう、虎を倒せるのは虎だけである。

 

 夏侯淵は呂布に挑む。

 

「呂布よ、勝負だ!」

「分かった」

 

 一騎打ちの状態に持っていく。こうなると、周りの兵は手を出せない。

 辺りは静まり返っていく。

 先ほどから荀攸も後方より戦いを静かに見ていたが、降伏勧告はしなかった。曹軍は討ち果たすと考えていたからだ。

 将二人は静かに構えを取った。

 

(一撃で呂布を倒す!)

 

 人の体とは不思議なところがある。極限に達すると痛みは感じないし、体は動くのである。物理的に壊れていない限り。

 勝負は一瞬だった。

 仕掛けたのは、もちろん夏侯淵だ。

 十字餓狼へ全力と全体重を掛けて、呂布と刺し違える気で放った―――喉への一閃の突きであった。

 

 だが、届かなかった。

 

 夏侯淵は自分の挙動の瞬間、それよりも一段早い呂布からの一閃を本能で感じたのだ。それは自らの首へ迫る下からの戟の軌道で迫ってきた。余りの速さに完全に躱しきれずに右顔面部に衝撃と斬撃を感じ……体ごと後ろへ大きく飛ばされ、地に倒れた。

 

 

 

「秋蘭ーーーーーーーーーーーー!!」

「「秋蘭さまーーーーーーーーー!!」」

 

 

 

 この時、角を曲がって来た夏候惇らが見たのは、血飛沫が上がり飛ばされ倒れていく夏侯淵の姿であったのだ。

 無心だった。夏候惇は馬から飛び降り、道を駆け抜け夏侯淵の元へ駆けつけ優しく抱き起す。

 道に横たわっていた夏侯淵の右の背中と、前髪に隠れた右顔のあたりに大きな斬撃痕が入っているように見えた。

 

「おおぉ……秋蘭、秋蘭!」

「……ぁ、姉者……これ……は夢か………………すまない……」

 

 夏侯淵は……力なく静かに目を閉じた。

 許緒と典韋と兵五百らも傍へ駆け付け周囲に円陣を展開する。

 要の東門の守りを託し、自分の代わりにここへ赴いてくれた夏侯淵の姿に典韋は衝撃を受け力が抜けて膝を付いてしまう。

 

「し、秋蘭さまぁ……」

「流琉……秋蘭を頼む」

 

 そんな典韋に夏候惇は静かにそう呟き、夏侯淵の身を託した。

 夏候惇は静かに立ち上がる。

 その眼光、その体からはこれまでに見たことのない気迫が漂っていた。

 

「春蘭……さま」

 

 そして、許緒自身も、また周囲の曹軍兵らも凄まじい気迫を漂わせていた。

 だがこれは、状況から一騎打ちの結果であろう。ならば借りは、一騎打ちでしか返せない。

 

「季衣、私一人でやる。皆で秋蘭の事を頼む。それと帰りの準備をしておけ」

「はい……」

 

 夏候惇は七星餓狼を抜き放つと、威風堂々と呂布の前に立つ。

 呂布は夏候惇らの状況をじっと見ていた。

 周りの董卓軍兵達は……夏候惇らの余りの気迫に押されていた。それ程の静かながら大量の怒気が辺りに伝わって感じ取れた。

 周辺は両軍の兵らが千人以上いる状況だが、静まり返っている。

 

「我が名は夏侯惇。一騎打ちを所望する」

「呂布だ。恋は構わない」

「では、参る」

 

 

 

 夏候惇は爆発した。

 

 

 

 それは七星餓狼が折れんばかりの正眼からの一撃であった。

 呂布は右手の方天画戟で防御するも―――二丈(四・六メートル)ほども体ごと後ろへ飛ばされていた。呂布自身、後ろへ飛ばされたのは初めてのことだ。

 その光景に周囲はどよめく。飛将軍がいかなる状況でも力負けした話は、只の一度も出たことが無かったからだ。

 さらに呂布の右手は痺れていた。素直に一言褒める。

 

「お前、少し強いな」

「当たり前だ、あの夏侯淵の姉だからな」

「……なるほど」

 

 すでに倒した相手だが、夏侯淵はこれまで相手をした中で三本の指にも入るほどに思える。自分の神速の矢に当てさせ軌道を変えた事といい、特に最後に感じた喉への一撃の気配は鋭いものがあったことは認めていたのだ。

 だが、呂布も言う。

 

「では本気でやる」

「ああ、掛かってこい」

 

 夏候惇も右手を自分へ招くようにして呂布を挑発した。

 瞬間に両雄が激突する。

 今度は呂布が先に仕掛ける。渾身の方天画戟の一撃を、相手の脳天から打ち下ろしていく。だが夏候惇はそれを、靴の裏が地面に少し沈むほどの衝撃を受けるも、両手を使い柄と剣先裏に手を添え七星餓狼で支えるように受け止めた後、持ち上げはじき返す。

 そのまま七星餓狼で、呂布の胴を薙ぎにいった。

 それを方天画戟の柄の鋼鉄の厚い部分で受ける。今度は飛ばされずに堪え、横へ一尺ほどズレて止めた呂布だが、そうしないと柄が切り込まれると思わせる一撃であった。

 普段の夏候惇なら厳しい相手なのだが、今は完全に箍が外れていた。五割増しぐらいの力が出ていたのだろう、この呂布に引けを取っていなかった。

 その後も、互いに譲らない得物同士がぶつかる衝撃波、空を切った時の凄まじい風圧に、周囲の兵達は硬直したように動けない様子でいた。

 それは普通の兵達だけではなかった。

 気合の入っていた許緒ではあったが、呂布の実力を見て衝撃を受けていた。彼女自身剛力に加え、かなり目が良く反応もいい方だと自負するが、二人の猛撃を追っていると反応しきれないほどの斬撃がいくつも見て取れた。

 自分が出て行っていたら十合持たなかったと確信出来るほど呂布は怪物と言えた。

 それ故に、その呂布に食らいついている夏候惇の切れっぷりが心強いのであった。

 

(やはり惇将軍がいれば曹軍は負けない。今でも僕が入ればきっと――あの呂布を倒せるよ)

 

 でもこれは一騎打ちである。夏候惇を信じるのみだった。

 呂布の方天画戟が夏候惇の右胴へ打ち込まれる。それを七星餓狼と右肘も使って受け止める。呂布の膂力も強烈であった。キッチリ受けるも夏候惇は二丈以上横へ飛ばされる。体勢を少し崩したとみると、呂布はそこへ追い打ちをかけるように速い連撃の突きを放っていく。

 夏候惇は良く食らいついているが、それでも――呂布の方が自力で勝っていた。特に連撃の速さは凄まじく、すべては受け切れず辛うじて首を振って避けて凌ぐ。夏候惇のその長い黒髪に掠り、何本かハラハラと散っていく。

 だが押されようと、これだけでも他に出来る者はそう居ないと思わせる動きだった。

 体勢を整えを再び夏候惇は連撃の突きの呂布へ強引に切り込んで行った。

 夏候惇の肩に僅かに掠っていたが、逆に呂布が腕を引き込む前に七星餓狼が呂布に届いていた。

 呂布も首を振って攻撃をかわす。その時に僅かに赤毛の切れた髪が宙に舞い、黒い右腕の服に切れ目が入っていた。

 

「……初めて、髪と服を切られた」

「ふん、次はその肌に傷を刻んでみせよう」

 

 夏候惇も首寄りの左肩の服と肌に軽く掠り傷を受けていた。彼女はもはや肉を切らせて骨を断つ、そんな覚悟に突入していた。

 二人は少し距離を取りつつ、静かに先の先の先の見えない駆け引きと気合いを練り込み対峙する。

 周辺両軍の多くの目が集まり、二人の次の一合への緊張に皆固唾を飲んでいた正にその時だった。

 

 

 

『ぐぅぅぅぅーーーーーーーー』

 

 

 

 強烈に……何かが鳴った。

 その瞬間、対峙していた二人のうち、最強の将の殺気の籠った気迫が……やる気が静かに下がって行った――。

 

「……お腹が空いた」

「はぁ?」

「恋はもう満足。お前、なかなか強い」

「……ふざけるな、呂布!」

 

 呂布は気分屋な上――燃費が悪かった。

 眠い夜間の行動に加え、城内からの行動と、夏侯淵隊、夏侯淵、夏候惇と強敵の連続で、エネルギーと共にやる気が切れてしまったのだ。

 呂布としてもすでに、今までの怪物能力が一気に八割程度まで落ちてしまっていた。

 それでも十分怪物ではあったが。

 

「……呂布殿……」

 

 ここに陳宮か董卓辺りが居れば、宥めすかしで最後まで呂布を働らかせられたかも知れないが、残念ながら荀攸にはこの現象と対処の方法が良く分からなかった。

 だがここで、声が響く。

 

「姉者! 今が引き時だ……我らの目的は呂布との一騎打ちではない」

「――秋蘭!? おおぉっ………生きてる……」

 

 典韋に支えられつつ、夏侯淵は立ち上がっていた。先ほどは呂布の閃光の一撃で頭部を一瞬で揺すられ、脳震盪を起こしていたのだ。

 

「今大事なのは、華琳さまの元へ早く合流することだ。そうだろう、姉者?」

「……くっ」

 

 曹操の為に働いている自分達である。今の呂布への感情はあくまでも個人的なものと言える。それも一騎打ちでの結果に対してだ。そして夏侯淵はまだ生きていた。その夏侯淵の言葉である。

 

「……東門へ引き上げる。呂布、我が名は夏候惇! 忘れるな。機会があれば次こそは決着を付ける」

「夏候惇……分かった」

 

 呂布は動かず――董卓側の兵が五百未満な上に、相手には万全な呂布と互角に近く戦う将がいて、他にも二人健在な許緒と典韋と五百を超える兵がいるのだ。そうなると、荀攸も今は手の打ちようがなくここは静かに見送るしかなかった。

 夏候惇らが素早く撤収しここを去った後、荀攸は呂布から霊帝についての話を聞く。霊帝へ向けて放った剛弓に手ごたえ有りという話は聞けた。だが、ここでは逃してしまったのも事実であった。

 霊帝を生かしたまま逃がしてしまうという最悪の事態を考慮し、董卓らと早期に再度会談する必要を強く感じていた。

 間もなくここへ……間が悪くというべきか、少し遅く皇甫嵩の隊が現れ合流した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏候惇らは急ぎ一路、東門を目指す。呂布隊の後方を攻めていた夏侯淵隊も生き残りは同時に撤退させてきた。

 また、典韋らが従軍にあった荷馬車の荷を下ろし、そこへ夏侯淵は乗せられ夏候惇が付き添う形で移動していた。

 

「秋蘭、無理はするな」

 

 横たわる夏侯淵の背中右側と顔の右側には、出血を抑えるように布と包帯が巻かれていた。その右顔の傷は深く、特に右眼は水晶体を含む眼球の四分の一以上を切り裂かれていた。

 もうその右眼で物をはっきりと見ることは出来ないだろう。

 

「……姉者、すまない。この顔ではもはや共に閨で華琳さまの寵愛を受けることは出来ないだろう。だがこれからも華琳さまの一兵として力を尽くす気持ちに変わりはない。華琳さまのお傍は……姉者、頼んだぞ」

 

 夏侯淵は少し寂しそうに姉へ微笑んでいた。

 

「秋蘭……」

 

 直に東門が見えて来た。

 今の時刻はすでに寅時正刻(午前四時)を過ぎていた。

 陣内はおそらく荀彧が指示しているのだろう、すでに撤収の準備が順調に進んでいる状況だった。そんな中、夏候惇らの隊の帰還をずっと気にして待っていたのだろう、彼女らの隊列が現れると同時に、その慌ただしい陣の中からすぐに荀彧と――曹操が飛び出してくる。

 

「秋蘭が、呂布との戦闘になったですって?! って……秋蘭!?」

「申し訳ありません、華琳さま。多くの配下を失い、お見苦しい姿をお見せしてしまって……」

 

 夏侯淵は右の顔を曹操から手と腕で隠すように詫びた。

 荷台に横たえられたその夏侯淵の痛々しい姿に、曹操の表情が一瞬強張っていた。

 だが、その口からは気迫が籠った堂々とした君主の言葉が送られる。

 

「秋蘭、厳しい戦いの中、本当に良く『生きて』戻ったわ。桂花から聞いているわよ。呂布を引き付けて陛下を逃がす時間を作ってくれた事を。さすがは我が曹軍の誇る両将の一人よ。秋蘭が謝る必要は何もないわ。胸を張りなさい」

 

 実際、呂布に生死を掛けた真剣勝負の一騎打ちを挑んで、これまでに生き残ったのは夏候姉妹だけであった。

 そして、曹操は優しい笑顔になり、荷台の夏侯淵へ近付くとその顔を隠す腕の手を取ると穏やかに声を掛けた。

 

「その傷も一緒に愛してあげる。私の秋蘭は何も変わっていないわ。早く元気に御成りなさい」

 

 そう言いながら、傷に触らないように、夏侯淵の頬を優しく撫でていた。

 

「華琳さま……」

 

 曹操は、綺麗な顔に傷が入り愛着のある部下らも死なせ気落ちしている夏侯淵を、そのまま同情で慰めるのは余計に惨めにさせると気が付き、臣下としての立派な働きを恥じることは何も無いとまず褒めたのだ。そして人として愛情を示してくれたのだ。

 夏侯淵は曹操の気使いに笑顔の涙が溢れた。

 

「華琳ざま゛ぁ……」

 

 そして……その曹操と夏侯淵の嬉しそうな安堵の表情に、夏候惇の方が泣いていた……。

 荀彧や、許緒と典韋や周辺の兵達も思わず貰い泣きしていた。

 だが、そうしている時間は短かった。

 曹操達に時間は――無いのだ。

 

 

 

「ところで陛下達のお姿が見えませんが?」

 

 典韋は目じりの涙を拭きつつ、曹軍の最優先事項に気が付き尋ねていた。

 

「激しい移動を少しでも避けるために、先発隊として先に少しゆっくり目に陳留まで送らせているわ」

 

 典韋の質問に横にいた荀彧が答えた。

 時間が無い中、多重ハンモックのように直接振動が伝わりにくい様に縄と竹を組み合わせて吊った状態の寝台を応急で馬車へ設置し、騎馬兵百と送り出していた。

 またその際、応急だが酒で傷口を拭い止血と裂傷治癒に効果のある薬を塗り縫い合わせる処置もされた。以前意識不明な状態だが、ここへ留め置くことは董卓側による確実な死を意味していた事から、移動はそうするより他に無い措置であった。

 

「さぁ、我々もそろそろ出るわよ。皆、陳留からはもう援軍が出ているはず、踏ん張りましょう!」

 

 曹操が号令を掛ける。夏候惇らが返って来るまでが待機最終期限であったのだ。

 追撃を受ける厳しい行軍が予想される中、士気を上げる内容も忘れない。

 この時、霊帝の傷を縫合した曹軍の軍医で一番の腕利きが夏侯淵の傷の縫合を開始していた。出来るだけ早い状態で対応しておきたかったからだ。酒で傷を洗い薬を塗り、出来るだけ丁寧に縫合する。

 夏候惇は夏侯淵に寄り添うということで典韋が先方として全軍の先頭で出た。次は曹操と許緒と荀彧が中軍で出る。最後に後軍として縫合を完了した夏侯淵と夏候惇が出発した。夏候淵はまだしばらく安静ということで、馬車に引かれ荷台で綿のとても分厚い布団へ横になっての移動であった。総勢は三千程減り、五千ほどになっていた。

 後軍は董卓軍の追手に対して殿となる。そのため、騎馬兵や歩兵らでもまだ傷の少ない者らから三千が集められていた。

 まず追手として来るのは華雄率いる騎馬兵団八千となろう。

 

 

 

 曹軍、そして董卓軍でも誰もがそう思っていた――――だが現実には違う事になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遅れて合流した皇甫嵩は、荀攸から霊帝を曹操に連れていかれてしまったことを聞かされた。呂布はすでに静かになり……うとうとしていた。

 

「すみません、椿花(チュンファ)さん。先に東門の方に行っていたものですから」

「……こうなっては仕方ありませんね。今頃、華雄将軍が騎馬隊を率いて動いているはずです。それから今日中に洛陽の予備役も集めれば、すぐに五万程は編成できるでしょう。とりあえず、我々ももう曹操らが去ったと思われる東門へ移動しましょう」

「んー、何か忘れていませんか?」

 

 皇甫嵩は、荀攸へ今回の計画の全兵団配置を確認した。

 

 皇甫嵩将軍……彼女が持っているのは将軍の地位だけではない。

 長安と洛陽の間にある郡、弘農(こうのう)の太守、それが皇甫嵩であった。彼女も歴とした諸侯の一人である。

 そして当然彼女も私兵を持っているのだ。

 だが曹軍の目があり、これ以上の兵力を洛陽内へは配置出来なかった為、今回の計画に置いて『彼女のいつもの考え』の特徴が非常に出ている配置になっていた。

 そう――『無理はしない』という配置となったのだ。

 荀攸が一応確認の為、頭にあるその規模と条件を話し出す。

 

「もちろん覚えています。しかし、曹操軍の残兵数は五千はいるはずです。……千以上では待機のままでは? 確か、洛陽から六十里(二十五キロ)付近に二千を伏せているという話でしたよね?」

「ええ、ですが殿を厚くし、少数で曹操らと霊帝が逃げて来れば……不意を突けて面白いことになるかもですよ?」

 皇甫嵩はニッコリと自然に微笑んだ。影がない笑顔もそれはそれで怖いのである。

 そして彼女は一度に移動させることなく、バラバラに少しずつ弘農から私兵の一部を移動させていた。少々経費が掛かる為、資金力がある太守級でなければ出来ない配置であった。

 

 

 兵数千以上では待機……つまり兵千以下では攻撃開始である。

 

 

 

 さて……。

 最良と思ってしたことが最悪の裏目に出る事もあり得えます。

 逆に、何を馬鹿なことをやっているんだという事でも、最高の一手に繋がることも有ったりします。

 何が正解かは分からない……多くの人が居るからこそ起こる、それが世の中です。

 

 

 地平線近くの東の空が、少し闇から紺色に僅かに明るくなり始めたころのこと。

 皇甫嵩将軍配下の二千が昨日の昼過ぎから、この街道脇の森周辺へ慎重に徐々に集結して来ていた。

 日付を超えた辺りで点呼を取り、欠員無く全員が当初からの予定配置位置である街道脇の少し離れた二ヵ所へ潜んでいた。

 

「田(でん)隊長、洛陽方面からの街道を、馬車を警護するように騎馬隊百名程の一隊がこちらへあと四里(一・六キロ)程に迫って来ており、間もなくここを通ると思われます」

 

 全力で馬を駆り戻って来たのであろう、斥候は肩で息をさせながらも力強く報告した。

 

「ご苦労、分かった」

 

 それらを率いるのが田と呼ばれる女性の千人隊長であった。

 田は、傍にいた同じく女性の千人隊長である郭(かく)に声を掛ける

 

「郭隊長、準備はよろしいか?」

「いつでもよろしくてよ」

「では、始めようか。曹軍の本隊も直に来るだろう。短時間の勝負だ。我が隊が目標の前面を封鎖したら、同時に後方からの封鎖を」

「了解ですわ」

 

 だがここでもう一人、陳留方向の東方面へ出していた斥候の一人が慌ててやって来た。

 

「田隊長、申し上げます」

「どうした?」

「東方面から数台の荷馬車と思われる荷駄隊がやって来ます。距離はおよそ三里(一・二キロ)。数名の護衛も付いているようです」

「……まだ暗いこんな時間にか?」

 

 ここで、郭が背中越しに意見する。

 

「それも曹操のものかも」

「……んー、確かに有り得るな、報告ご苦労」

「はっ」

 

 田は、郭へと向き直ると、作戦に臨機応変な変更を加えた。

 

「騎馬隊の通過後、先に後方を封鎖してくれ。荷駄隊が通過したのちに前面を封鎖する」

「ですわね。了解しましたわ」

「その後は前後で挟み撃ちだ」

 

 郭は傍に止めていた愛馬へまたがると二里ほど離れた自陣へと途中から街道を下りて脇の草原を抜けて全力で帰って来た。

 間もなく曹操軍の旗を翻らせて馬車を囲うような騎馬兵の一隊が、郭隊長率いる千の兵を伏せている地点を気付かずに通過していった。

 郭は静かに十ほど数えると叫ぶ。

 

「皆、行くわよ!」

 

 郭の隊は鬨の声を上げずに静かに街道の道へ一気に湧き出し封鎖すると、田隊長の率いる隊が潜む位置へと進撃を開始した。

 

 郭が愛馬でここを去ったあと、田の隊は荷駄隊の通過を静かに待った。台数は三台だが、護衛も含めやけに急いでいるように見えた。そして何も知らずにこちらも通過後、静かに十を数えると行動を開始する。

 

「始めるぞ!」

 

 街道上にあっという間に隊列を作ると西へ、郭の隊側へと進軍していった。それに連動するように街道の両脇からも鶴翼の隊列で移動していく。

 

(誰も……逃がさない!)

 

 田の考えは明瞭だった。

 

 

 

 騎馬兵百に守られて趙忠と霊帝の乗る馬車は曹操の本拠地である陳留を速度を抑え気味に目指している。

 趙忠は揺れる馬車の中、蝋燭の灯りを頼りに時々立ち上がると、竹と縄で衝撃吸収を施され吊るされた寝台に横たわる霊帝の苦しそうな表情を悲しそうに確認する。

 意識は依然戻らない。

 

「空丹さま……」

 

 もう何度目だろうか、再び様子を見ようと立ち上がろうとした時だった。

 

「敵襲だーーーー!」

(そっ、そんなぁ……)

 

 一番聞きたくないその内容で聞こえて来る叫び声に、ほのかな蝋燭の灯りの薄暗い馬車の中、趙忠は凍り付いた。

 

 

 

 その荷駄隊は急いでいた。短い休憩を挟み、危険だが夜通し街道を洛陽へと駆けて来ていた。それは命が掛かっていたからだ。

 桓(かん)という商人……と言うか運び屋であった。

 途中、黄巾党の残党に襲われるなど、問題もあったが運よく切り抜けられるも、納期がギリギリになってきていたのだ。この時代、時間には大らかなはずなのだが、それは相手に因った。

 その納品相手は――洛陽に居る十常侍の一人であった。

 十常侍のような高級官位の者の機嫌を損ねると、あっという間にあの世行きの時代であったのだ。

 なにやら高級茶や食材の乾物を山のように急に頼まれていたのである。

 そう、霊帝がどういう目的で使うのか不明だが、大量に頼んだ新しい料理の高級な材料群であった。

 そのために必死だったのだが……桓は何か周囲がおかしいことに気が付く。

 そして、何気に後方を振り返るとそれが何か分かった。

 

 いつの間にか千人近い兵に追われる形になっていたのだ。

 

「うわぁぁぁーーーー! なっ、これはなにアル?!」

「なんか一杯兵に囲まれているのだ」

「桓さん、これはどういう事?!」

 

 馬車を操る桓の傍へ、護衛の馬に乗る二人が寄って来た。

 それは小柄ながら凄い蛇矛を持つ赤毛の女の子と、桃色な女の子であった。

 

「私は何も知らないアルゥゥゥーーーーー!」

 

 

 

 

 世の中は色々と起こるのである。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年11月11日 投稿
2014年11月21日 文章修正
2015年03月17日 文章修正(時間表現含む)



 解説)黄金の寝台。
 一立方メートルの金塊で20トン弱あります。
 27トンにもなると、現在1g=4650円程なので……材料費のみで1256億円ほどに(汗



 解説)馬の睡眠
 馬の睡眠時間は人に比べてかなり短く平均3時間程とか。
 そして人のようにサイクルがあり、それは30分ほどで5~7回ほどあるようです。
 という事で夜中も大半は起きてるのよね。



 解説)皇甫嵩
 史実では黄巾党の乱のあとに其の数々の功で冀州州牧になったのは袁紹ではなくこの人。
 左車騎将軍に任命され、槐里侯に封じられる。また、八千戸の食邑を与えられ、州牧になった。



 解説)夏侯淵隊が呂布の足止めに四半刻半(十五分)の半分もないという時間
 荀彧らは、東門まで残り一里半(六百メートル)程しかなかったが、馬車内の異変を錯乱気味な趙忠から聞き、途中でいったん馬車を止めざるを得なかった。霊帝の余りの状況の確認と対処考慮に結構時間を食っていた。



 注)第15話から洛陽城の南門を宣陽門と書いていましたがそれは魏晋代の名称で後漢時は平城門と言っていたようですので26話等を修正しました。
 大差はないのですが、やはり雰囲気は大事かなと。
 あと中国では後漢時代の洛陽城について正式には『東漢雒陽城』となっているようです。長安に対して東にあるので、後漢については『東漢』と呼ぶのが一般的です。洛陽も『雒陽』と違うんですよね。面白いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➋➑話

 

 

 

 張飛。その可愛らしい表情と小柄な体に似合わず、身長の倍は優にある愛用の丈八蛇矛を携える彼女は、すでに人知れず武力において大陸でも三本の指に入る程の武人だった。また知性と言うものに縁遠い彼女だが、戦に於いては鋭い感と戦況の見極めに加え、部下への指示も的確で将としての資質は高いものがあった。

 しかし一方、満腹での睡眠時には結構油断し隙が出来る癖があった。今も周囲へ千人ほどの殺気を放つ兵の接近に気が付けないでいた。先ほどまで移動中の馬上にも拘わらず落馬しないのは、野生児の身体能力故であろう。商隊長の桓の叫び声に漸く周囲を覆う大勢の殺気を察知し、彼の元へ馬を寄せて行った。

 

 三日前の夕方に、沛国北方の街道に出て公孫賛の元へ向かうため、一時黄巾党勢力から迂回するように西へ向かって移動を開始した劉備と張飛は、その夜に徐州黄巾党の残党ら数十人程に襲われていた『運び屋』の桓率いる荷駄隊一行を助ける。関羽のことも有り、張飛の振るう蛇矛に黄巾党へ対する怒気が混じり、空腹にも関わらず残党達はあっという間に蹴散らされていた。

 その武勇を見込まれ洛陽まで護衛してくれれば駄賃を弾むと桓に乞われると、公孫賛の元までの旅費が得られると考えた劉備の同意によって今に至っていた。この二日の間に、着ていた血に染まった服についても洗濯することが出来、二人はかなりマシな格好になっていた。

 しかし、またしても周囲へ多くの兵を相手にするような事態になるとは思っていなかった劉備は焦っていた。

 

(これも、私の判断の所為なの……?)

 

 だが、今はそれどころではない。

 桓が、この兵に追われる状況が起こる事情を隠していたのではないかと、一言詰め寄るために馬を寄せて行った。

 

 並走する商隊長の桓へと詰め寄る二人だが、当の桓はそんな事情を知るはずもなかった。

 第一、荷にはご用達の印のある筵(むしろ)も掛けてあるのだ、昼間なら一般の者は恐れて道すら譲り近付くことすらないはずである。

 それに寄せて来る兵らは遠目に見ても、黄巾党のように適当な装備ではなく、皆統一のとれた兵装を身に着けていた。明らかにどこかの名のある軍勢と思われる。

 後ろより迫る兵団には馬に乗る兵達もいて追い掛けて来ていた。並ばれるのも時間の問題に見え、逃げ切れるものでもなかった。

 

「と、とりあえず事情を話すアル!」

 

 運ぶ品は十常侍への納品物なのだ。並みの諸侯らでは手は出せないはず。そう思い桓は劉備らと共に直ちに減速し始める。劉備も不安ながら今は従うしかない。張飛は一応用心として劉備を守るために臨戦態勢へと入っていく。桓達は、それらの荷がすでにすべて接収対象になろう事を知る由もなかった。

 この時、桓らの目に後ろの兵達だけなく前からも多くの騎馬が隊列を組んで近付いて来るのが見えた。桓らは少し慌てるものの荷駄隊を左へと寄せる。

 すると前方からの騎馬隊の一団は、こちらの荷駄隊の後方の所属不明な千程の兵らに気が付いたように急激に歩を緩めていった。

 ここに皇甫嵩軍伏兵隊の曹軍包囲陣が完成する。

 皇甫嵩軍からすると、最低でも洛陽を含めた事が落ち着くまで、荷駄隊の十数名は拘束対象であった。逃げるようならもちろん死んでもらう事になる。

 そういう考えの千人隊長田(でん)がまず、荷駄隊の方を片付けるべく兵らを伴って確認に出て来た。東の空の明るさが紺からどんどん薄くなってきており、新月の夜の闇に比べると周囲も随分見やすくなりつつあった。

 荷駄へ掛けられた筵に押されているご用達の印に気が付きつつ、目線を荷駄隊の前に立った商隊長と思われる桓へと向ける。

 

「これらの荷は如何なる物だ?」

 

 その将は、自らの名を名乗る事も無く告げたその言葉に、中央への恐れが無いような強い雰囲気があった。事情が分からない桓は答えるのみだった。

 

「はいぃ、十常侍さまからの要望により急ぎ洛陽へお届に上がる途中の品物でございます」

「ほぉう、そうか。では、これらは接収―――」

 

 ここまで田は言いかけたが、前に見える曹軍騎馬隊がこちらへと急に土煙を上げ突撃を掛けて来る様子に言葉が止まり、曹軍の進路先を塞ぐ後ろの味方側兵団へ向くと、同時に上げた手を曹軍の方へ振り下ろしながら続けて叫んでいた。

 

「槍隊、前へ出ろぉーー!」

 

 

 

 

 霊帝の乗る馬車を守る、曹軍の騎馬隊百人隊長の向(しゅう)は、進む街道の前方から来る荷駄隊に続き、さらに奥へ……数百人から千人規模の兵団の出現と思われる異変に気付いた。同時に後方を確認すると――そちらにも千人近い兵団の影を見止めたのだった。

 

「敵襲だーーーーー!」

 

 彼はそう叫びつつ自分の落ち度を後悔し掛けていた。

 東へ出発する際には筆頭軍師の荀彧より直接、東方面に敵影無しという事を聞いてはいた。

 しかしそれに安心せず油断なく走ってきていたが、五十里(二十キロ)以上走り抜け、敵影などないことからここ数里は僅かに眠気も交じり少し油断が芽生えて来ていたのだ。もっと警戒していればという思いが湧く。

 だが今、自分の個人的で愚かな考えに浸っている時間などない。

 一度、隊へ徐行の指示を出すが、前方では遠目に荷駄隊へ兵団の指揮官が尋問をしているような様子が見て取れた。

 これらの纏まった兵団はおそらく董卓側の兵団に間違いないだろう。捕まれば任務は―――霊帝を生きて陳留まで届けるという大事を果たせない。

 ここはもはや前方で僅かに隙がある今、強行突破しかないと考えられた。

 

「全騎、強行突破するぞ! 続けぇーーー!」

 

 自分の油断が後方を取られての完全包囲に繋がったと感じた隊長の向は、修羅となって進んで行った。

 

 

 

 

 田の号令に、兵団の一部から荷駄隊の少し先へ、曹操軍の騎馬隊寄りに道を塞ぐ形で百五十人程の槍の一隊が小走りに進み出ると、隊列を形成する。

 その徐々に戦場化する街道の状況に、桓と商隊の者らは納品先の事もあり荷を捨てて逃げるわけにもいかず、しかし居れば命は無さそうだという恐怖、さらに周囲は兵らに囲まれて封鎖されているという事もあり、ただその場でワタワタとしていた。

 一方張飛は、特に慌てる事も無く落ち着いて劉備へ訪ねていた。

 

「お姉ちゃんどうするのだ?」

 

 その言葉の答えに劉備は、先の自分の判断への焦りを思い出しつつ迷いもあったが中立的な判断をしていた。自分も含め夜食も食べていたしお腹いっぱいの張飛がいれば、逃げるのは難しくないだろう。だがまず護衛の約束があるし、もうすぐで洛陽だったのだ。駄賃が貰えれば公孫賛の所まで旅が出来る。

 そう考えを纏めてから張飛へと答えた。

 

「とりあえず、まず桓さんらをしっかりと守る形で様子を見ようよ。洛陽に付ければ白蓮ちゃんのところまで行けるお駄賃が貰えるし」

「分かったのだ。オジさんたちはいい人達だし、守ってあげるのだ。それにお金がないと旅の途中でご飯が食べれないのだ。それはとっても困るのだ……」

 

 張飛にもご飯が食べれるお金の大事さは身に染みて分かっていたのだ。そう言う意味でやる気も出てきていた。

 そうしていると、騎馬隊と槍兵らとの間で戦闘が開始された。騎馬隊側も槍を持つ者ら二十騎近くが前面を固めて円陣から鋒矢の陣に変えて突撃する。百騎とは言え曹軍の精鋭であった。その為、正面にいる歩兵数十人の槍隊らを蹴散らしていた。曹軍は穴の開いたところを広げて機動力で突破していこうとしていた。

 

「弓隊、構え!」

 

 どこからかそんな声が聞こえて来た。

 曹軍の向は、前に広がった空間へ脇を固めてくれる槍を抱えた騎馬兵らと進んで行こうとした時、その目の両端に街道脇へ並ぶ少し離れた草の影から兵達が立ち上がるのを捉えていた。

 その兵らは皆――矢を番えていた。

 

「放てぇぇーーー!」

 

 槍の歩兵列を突破した曹軍の騎馬隊の前方は、少し先に荷駄隊が右に止まっている為、道幅と共に隊列幅がやや制限されるところに向かっての収束進行に気を取られる。その僅かな距離にて、街道両側面から田の声の合図による矢の集中砲火を受け曹軍は馬ごと討ち倒されていた。

 それにより街道は塞がってしまう。突進が止まり立ち往生する騎馬隊の隊列へ脇に残った皇甫嵩軍の槍兵らが側面より襲い掛かっていった。

 討ち倒された兵馬らの中から向は曹軍の百人隊長の意地を見せるかの如く、矢を三本受けつつも修羅の形相で這い出して来ていた。さらにその周囲に寄せる兵らに渾身の剣を見舞って討ち倒していく。他の曹軍の騎馬兵達も動けるものは向に続いた。

 荷駄隊近くで繰り広げられる地獄絵図に、桓を始め商隊の護衛の者らのほとんどは荷駄車の脇に隠れて震え上がっていた。

 

 一方洛陽側より追って封鎖した皇甫嵩軍千人隊長の郭(かく)率いる隊は斥候が言っていた馬車を抑えようとしていた。

 一体誰が乗っているのかを確認し、人物によってはこの場で死んでもらう事になる。この馬車に乗っているのが、重要な人物であることは間違いないだろう。

 十騎程の騎馬兵を郭が連れて馬車へ迫ろうとすると、曹軍側は馬車を見捨てる事なく逆に後方の騎馬数を厚くする動きをしていた。最後まで近寄らせないという意志が見えていた。

 だが曹軍はその進路の先で、隊列の進行が止められた様子で急激に減速し、止まったのだった。

 郭は共に迫った十名程の騎馬兵達とその追っていた曹軍手前、七丈(十六メートル)程の所で止まると、後ろからの配下の歩兵らが追い付いて来るのを待ちつつ、馬車の周辺にいる騎馬兵らへ挑発するように声を掛ける。

 

「馬車の中の人物を渡しなさい。そして降伏すれば命は助けましてよ」

「断り申す。この逆賊どもめ、恥を知れ! 我らは曹軍の精鋭なり。命を惜しむものなど一人もおらぬわ」

 

 曹軍側の十人隊長の一人と思われる兵が言い返してきた。

 実は皇甫嵩軍伏兵隊の千人隊長でも、この戦いについて漠然とした指示しか受けていなかった。計画が漏れることを危惧した皇甫嵩は、今日この地を通る曹軍の旗を持ち、千人以下の場合のみその兵団を討てという形で命じていた。

 皇甫嵩は部下からの信任も厚いため、その命に郭らは曹操軍を討とうと忠実だった。だが、いたずらに自分の隊の兵らを戦わせることはしない。降伏させ、この隊の隊長とこの馬車の人物を討てば十分な戦果と言えるのだ。部下らにも浸透していていたのだ、『効率よく、無理はしない』という主君の考えが。

 郭は曹軍からの発言で、すでに田と二人してある程度今日の戦いについて予想していたが、この戦いの真の概要を確信する。

 曹操軍と董卓軍が洛陽を守っていた。その曹操軍を待ち伏せするのだ、その意味を概ね知ることが出来る。そして今こちらを逆賊と言うのなら霊帝に弓を引いたという事なのだろう。だが賄賂などを好まず、腐敗していた中央に明るい未来を見いだせなかったであろう主君である皇甫嵩の考えに、郭はこれからも従うつもりである。

 

「それは残念ですわね。ではせめて精一杯戦いなさい」

 

 すでに郭の後ろや周辺には数百の槍や剣を振りかざした兵達が追いついて来ていた。郭は右手を上げるとその手を曹軍へ差し向ける。

 

「攻撃開始ですわ!」

 

 まず前列の少し後ろより現れた百程の弓隊により曹軍側へ矢が一斉射される。かなりの近距離からの射撃に撃ち落としや避けることが余り出来ずに、十騎以上を討ち取っていた。

 そのあとに槍や剣をもつ歩兵らが切り込んで行く。

 このため馬車の後方傍でも激しい切り合いが始まった。矢が数本突き立った馬車はもがくように可能な限り前進してこの戦闘場所からの距離を取ろうとしていた。

 馬車の内側に矢じりが突き出した様子に、呂布からの一撃が思い出され趙忠は手の打ちようのない現状から錯乱気味であった。そんな精神状態では御者席へ顔を出し、そこに座る兵士へ無理な催促をすることしか出来なかった。

 

「は、早くこの場から逃げて頂戴。陛下が、霊帝様が、空丹さまが襲われるぅ~~!」

「し、しかし、前も後ろも塞がれております」

「では、脇へ、横へ逃げるのです!」

「そちらへは馬車の走れる道がありません」

「では、ど、どうすればぁぁ~!」

「申し訳ありません」

「あぁぁぁーーー、だ、誰か、皇帝陛下を、霊帝様を、空丹さまを助けてぇ~~~!」

 

 無情にその声は周りの殺し合いな喧騒が広がる、朝の澄んだ空へと響くのだった……。

 

 そう、響いていた。

 そしてその声を僅かに聞いて、大きく反応した者がいた。

 

「……皇帝さま?」

 

 その人物は桃色の髪を揺らし、ゆっくりとその声の方へと振り返っていた。そして……可愛らしく口許へ右手の人差し指を当てつつ小首を傾げた。劉備玄徳である。

 劉備は前漢の景帝の第九子、中山靖王劉勝の庶子の劉貞の末裔という。祖母劉雄が兗州東郡范県の令、母も州郡の官吏を務めていた。だが母が幼くして亡くなると、叔母のいる幽州涿郡涿県にて彼女は育ったが末裔の証として、母より宝剣『靖王伝家(せいおうでんか)』を受け継いでいる。事情は分からないが皇帝と言うのなら一族の末席として一先ず助けなければならない。

 その叫び声は曹軍の騎馬兵らに囲まれた馬車の御者台へ顔を出している者から聞こえていた。何度か聞くと、今の皇帝である『霊帝様』だと聞こえていた。

 だがこんなところに本当にあの皇帝が居るのだろうか。同時にその疑問も湧いてくるのだった。

 

(確かめないと……)

 

 しかしこの混戦の中、馬車まで行くのは容易ではない。それに攻める側は兵数が圧倒的な上に統率が取れていた。助けるとしてもとんでもない事になるだろう。

 

 だが――劉備である。

 

 身内を助けるのに理由はいらない。『正義は我にあり』なのだ。その考えは頑なであった。

 

「鈴々ちゃん、馬車の中の人が皇帝さまかどうか知りたいんだけど」

「う~ん。鈴々一人なら大丈夫だけど、お姉ちゃんを連れて馬車の所までは難しいのだ。それにお姉ちゃんから遠くへ今は離れられないのだ」

 

 張飛は劉備の安全が第一で、荷駄隊の桓らやその他は余力の範囲内での話なのだ。戦場化しているこの街道周辺で、劉備を一人には出来なかった。

 

「何かいい方法ないかな」

「んー、分かったのだ」

 

 張飛の目には歩いてすぐ先の傍に――千人隊長の田の姿を捉えていた。

 

 

 

 

「ねぇ、あの馬車の中にいるのは誰なのだ?」

「ん?」

 

 周辺の自軍の攻撃に指示を出していた田は不意に左真横より声を掛けられた。いきなりそこに現れ質問されたことに、田とその周辺の兵らは一瞬固まった。

 その姿に見覚えがある。先ほど荷駄隊の護衛の馬に乗っていたヘソ出しの短いズボン調の服を身に着けた小柄な赤毛の幼さの残る可愛い女の子だ。だが左手に握るは対照的な長くゴツい重そうな蛇矛であった。

 先ほどから突然に始まった戦いに、荷駄隊の連中は道の脇で震え上がっているものだとばかり思っており監視だけしていたつもりだが、この少女は怯えも無くただそこに悠然としていた。それに周りの者に気付かれずに、いきなりここまで現れる身のこなしは尋常では無いと身構え、田は警戒した。

 

「な、なんだ貴様」

「貴様じゃない、鈴々は張飛なのだ。張飛と呼べ。あ、でも今は、それはいいのだ。あの馬車の中にいるのは誰なのだ? 教えるのだ」

 

 小娘が千人隊長の自分へ一方的な問答である。当然な答えを田は返す。

 

「知らぬ。まず貴様に教える必要はない。一介の護衛風情が、私に大層な口を利くな」

 

 自分を張飛と呼んでくれないことや、聞いた内容を教えてくれない事に少しカチンと来ていたが、張飛は答えが『知らない』と言われた時にと考えていた行動へすぐさま移る。

 

「だから隅っこにでも引っ込ん――」

 

 そこまで言いかけると、田は後頭部へ強い衝撃を受けてその意識を、張飛の弱めな右手手刀で刈り取られていた。その様子に周囲の兵が動揺し、張飛から大きく下がる。

 張飛は倒れ込む田を速やかに右肩へ担ぐ。

 

「みんな聞くのだ。この隊長さんは預かったのだ。馬車まで道を開けるのだ」

 

 張飛の作戦は大胆だった。敵の将をまず抑えてしまおうと考えたのだ。

 

「鈴々ちゃん、すごいすごい。これなら馬車の傍まで行けそうだね」

 

 劉備は周りの兵が唖然としてる中、満面の笑顔で張飛の元へ寄って来る。天真爛漫というべきか傍若無人と言うべきか……。

 敵の将を捉えているのだ、馬車の傍の曹操軍へも敵ではないと最高の主張が出来て近付き易い。おまけに死んだ訳では無く意識が無い為、部隊の者は容易に劉備らを攻撃出来ないでいた。どうやら敵の将は自分がいなくなった時の指示を明確にはしていないようだった。

 田が率いていた前方包囲面側の曹操軍への攻撃が止まる。

 矢を背中等に三本受け、さらに肩や足を掠るように切られた傷があるが、曹軍の百人隊長の向はまだ修羅の形相で戦っていた。しかし、敵の兵らが道を開くように下がり、前方から現れた敵の将を担ぐ張飛と、桃色可憐な劉備には面食らったようであった。敵の兵らが周りに下がると、向(しょう)と数人の曹軍の兵が残った。その者たちへ劉備は尋ねる。

 

「馬車の中の方は本当に皇帝さまですか? 私の名は劉備、字は玄徳と申します。先日まで黄巾党の乱に於いて義勇兵の一軍を率いていました。私の家は中山靖王劉勝の庶子の劉貞の末裔と聞いております。皇帝さまであれば、一族の末席として私の家に伝わる宝剣『靖王伝家』に誓ってお助けせねばなりません」

 

 劉備は腰の『靖王伝家』を向らへ見せていた。それは明らかに普通の剣の作りではなかった。

 

「某は曹操軍百人隊長の向と申す者。こちらへ」

 

 兵らをその場へ残し前方を見張るよう告げると、向は自ら馬車の傍まで下がり劉備らを連れて来た。

 中からは趙忠のすすり泣く声が時折聞こえている。

 その後方、二十丈(四十五メートル)程の所では後ろからの包囲軍からの兵との戦闘が行われていた。道の脇の遠くを見ると、逃がさないように包囲する敵兵らが見えていた。

 向は御者席横の入口から車の中の趙忠へ話を通していた。敵の将を捕まえ進路前方の戦いを停止させて、陛下の遠戚一族の劉備がやって来たと。

 すると、趙忠が涙を拭きつつ御者台へと姿を現した。今は藁にも縋る思いである。劉備は向と位置を代わり傍へ寄って行く。

 

「私は霊帝様側近の十常侍が一人、趙忠です。貴方が一族の劉備殿ですか」

「はい。中の方は霊帝さまなのですね?」

「……そうです。今は逆賊董卓の配下、呂布の剛弓の矢を受け負傷され意識が戻っていません。しかし、私が『伝国の玉璽』を預かっています」

 

 趙忠は少し馬車の中へ身を引くと懐から、豪華な金糸で編まれた袋より上部は丸く下部は四角い形の印を隠すように取り出した。一辺が四寸程。上部の手で持つところに5匹の龍が絡み合った見事な彫刻が施されていた。印には『受命於天既壽永昌』と刻まれている。

 

「皇帝陛下を、霊帝様を、空丹さまを助けてぇ……」

 

 馬車の中で劉備に向かって俯き頼むその趙忠の背後には、竹と縄で吊られるように作られた寝台が見えていた。

 

「分かりました。この劉備玄徳、霊帝さまを守りましょう! ……ところで、趙忠さん、十常侍の方ですよね? 今日の朝に洛陽へ届くように食材を山ほど注文していませんでしたか?」

「へっ? ……え、ええ確かに」

「えっと、それ何とかしてもらえます? もう洛陽へ行っても無駄そうなので……(御給金、御給金!)」

「はぁ」

 

 この事態にも桃色な天然がさく裂していた……。彼女にとって旅費の確保も重要であったのだ。

 とりあえず、陳留まで行けば曹操にでも頼んで何とかして取り計らうということで、趙忠との話がまとまると、桓らの荷駄隊と共に陳留へ移動することにした。

 劉備は、曹軍の隊長向へその準備をするように、そして前方の敵兵に道の両脇へ半里下がる様に指示する。

 次は後方を封鎖したまま戦闘を続けている敵兵団の対応をしなければならない。劉備と張飛は馬車の後方へ、気絶した敵の隊長を足だけ縛り担いだまま移動する。

 

「戦いを止めるのだ! お前たちの将は捕まえているのだ! 戦いをすぐに止めるのだーー!」

 

 張飛の大きな声が戦闘してる周辺へ響く、すると敵の指揮官らしき女の子の武人が叫ぶ。

 

「田(でん)! ……お前達、殺したのですか?」

「ううん、まだ生きてますよ」

 

 劉備はニッコリと笑顔で答えていた。その余裕のある笑顔で逆に狂気を感じた。

 それは田と周辺の兵らは腕が立つはずなのだ。そもそも千の兵らが居る中で、良く見たところ田も含めて無傷で捕まえているのだ。この者らの腕が想像できた。

 

「くそっ。……皆、戦いを一時停止して下がれ!」

 

 皇甫嵩軍千人隊長の郭(かく)の命と田の状況に兵らは統率が取れていることを示すように速やかに戦いを止め、後ろへ下がり隊列を取っていく。

 郭は劉備らの前に少し距離を残して立つ。

 

「……その者をどうするおつもりです?」

「生きてお返しします。但し条件があります。この地域から速やかに撤退してください。そうすれば安全と思われる場所まで移動したところでこの方は開放します。開放に伴い貴方を含め、二十騎ほどは当分付いて来てください」

 

 この指揮官も居なければ、この後臨機応変な対応は出来ないだろう。

 劉備は、そうも考えてにこやかに話を伝えていた。

 それは将一人を犠牲にして戦果を挙げることも、普通の事だという事を知らないかのように。彼女は当然飲まれると思っているのだろうか?

 先ほどまで血みどろの戦いをしていた郭は渋い顔をする。

 そして、彼女は一つ確認する。

 

「生きて返してもらえるのですね? 我々も含めて」

「はい。私、劉備の名に掛けて約束します」

 

 郭は一つ溜息を付くと答えた。

 

「分かりましたわ。……その条件を飲みましょう」

 

 おそらく皇甫嵩以外の軍団ではこの条件を飲まなかっただろう。彼女たちは『無理はしない』のである。曹軍の数が千人以上なら見逃す予定で、元々今回は条件付きの戦闘だったのだ。

 しかしこれは後々大きな決断となる事だった。郭は馬車に誰が乗っているのかまだ知らない。知っていれば戦闘は続行されただろう。主君の為に。

 郭は、隊の三百人隊長の一人と田配下の二百人隊長の一人に、弘農郡へこの街道以外の経路で分散して引き上げるように早々と指示を出した。

 一方曹操軍は残り四十騎ほどになっていた。先を急ぐため、酷い怪我をしているの者は元気な兵とこの場の外れに水と食料を渡し十数名残していくことになった。陳留へは三十騎で移動する。向は背中と肩に三本もの矢を受けていたが、傷が固まる前に矢を抜くと、布を強く巻いて止血し帯同すると言ってきた。

 桓らの荷駄隊も一緒に陳留へと移動することになった。

 これに敵の郭ら二十騎が付く。

 

 時間を惜しむように、この不思議な軍団は陳留方面へと足早に移動し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 華雄の率いる騎馬兵団八千が東門に到着したのは、曹操軍の最後の隊である夏候惇と夏侯淵の隊が東門を離れてから僅か一刻程(十五分)後だった。

 曹操軍は先方から後軍まで二刻強(三十分)程掛けて順次出発して行ったという。

 隠れていた董卓軍の斥候が状況を知らせてくれた。

 

「ううむ、何という事だ。もう少し進撃速度を上げるべきだったか」

 

 出来れば補給が容易な洛陽での戦いで決着を付けたかったところである。何と言っても速度重視なこの騎馬兵団に食糧関連の輜重隊は付いていないのだ。

 また、長安からの長駆ということもあり、戦闘への余力を考えるとかなり抑えながら走らなければならなかった。止むを得ないがこれから今一度追撃することになる。

 曹操軍も連戦で疲労困憊している今が好機なのだ。こちらも多少疲労があるが、十分有利な状況だろう。それに曹操軍は歩兵隊を含んでいる。まだ出たところという報告もあり騎馬隊で追うなら追い付くのは容易であろう。

 情報はもう一つあった。曹操の本隊が出る、今から半時(一時間)以上前に馬車を円陣で囲う形で百程の騎馬の一隊が出て行ったという事だった。

 それは速度重視の隊である。華雄の騎馬隊でも厳しい距離の差になって来ていると考えられた。

 だがその数であれば、確か皇甫嵩将軍の伏兵が発動するはずである。騎馬隊とは言え百では二千の伏兵に対抗できまいと容易に推測できた。馬車と騎馬隊百について、華雄は伏兵側へ任せる事にした。

 では追撃に出ようと思うがその前に……と華雄は百人隊長の一人を呼んだ。

 

「華雄様、お呼びでしょうか?」

「おう、お前の隊はこの場へ残って呂布殿や荀攸殿らが来たら、我が隊が洛陽を離れて追撃する故、補給を頼むと伝えるのだ。それまで一応曹操の陣を調べておけ」

「はっ、分かりました」

 

 そう告げると華雄と騎馬兵団およそ八千は、曹軍をどこまでもという勢いで追撃を開始する。始動した馬脚群により激しく土煙を上げながら。

 土煙が収まるのを待たずに残った百人隊長は華雄の命に従い、隊を東門のやや南に築かれた曹操の陣へと進めた。そして馬止へ馬を繋ぐと、曹操軍の残していった陣内を部下らと分担して確認していく。

 急いで出て行った様子も有り、多くの兵糧や重量のある装備類、天幕等の資材は捨て置かれていた。

 

「隊長、これなら掘り出し物が色々ありそうですぜ」

「……手に隠せるもの以上の持ち出しは認めんぞ。身の程は弁えておくように皆へ言っておけ。華雄様の戦いもまだ終わっていないとな」

「へい」

 

 将軍の話も持ち出され、神妙な表情になった部下らと共にさらに調査を進める。

 一刻(十五分)ほどすると、荀攸、皇甫嵩、呂布の隊が東門へと現れた。

 部下からそれを聞いた華雄隊の百人隊長は、確認途中の曹操の陣からすぐさま同じ董卓軍である呂布将軍の所へと向かった。相手はあの飛将軍であり、多少緊張気味に訪れる。

 だが……すでに馬上で静かにお休みのようであった。呂布もまた落馬することなく器用に寝続けていた。

 そのことを呂布配下の百人隊長に告げられると、やむなく荀攸の所へ向かう。こうなると戦いでも起こらない限り、呂布は当分眠りから覚めないのだ。

 荀攸の所へ行くと、彼女はまだ当然起きていた。

 

「荀攸様、華雄様より洛陽から離脱した曹軍の追撃を行う旨と、それに伴う兵站の確保をお願いしたいとの事でした」

「そうですか、分かりました。直ちに手配しましょう。武名髙き華雄将軍の騎馬隊八千なら曹操軍に止めを刺せるでしょう」

「はっ、よろしくお願いいたします。現在我々で曹操の陣を調査しております。まとまり次第お知らせいたします」

「分かりました」

 

 報告を終えると華雄隊の百人隊長は足早に去って行った。一応略奪は禁止されているが戦時下なれば多少は目を瞑られる。とは言え部下の行動が気になるのだろう。

 そして華雄の武を称えつつ言った荀攸だったが、色々と心配事があった。

 まずこの大計画がいくつも大きく狂ってきていたことだ。皇帝を取り逃がし、曹操とともに洛陽から脱出されていた。しかし圧倒的な兵力と地理条件ではまだ十分討ち果たせる状況ではある。現在まさに強力な兵団が追撃に向かっていた。

 その華雄は自分の武に自信を持っている。統率力も高く、確かに騎馬隊八千での総力なら疲れている曹軍と曹操までも屠れるだろう。だが……彼女は自尊心が高過ぎ、加えて柔軟な思考の持ち主ではない。そして曹軍には夏候惇を初め武に優れた武将達がいる。一騎打ちを挑まれれば、華雄はどうするだろうかと。

 荀攸は、陳留の方角を静かに眺めるのだった。

 

 

 

 再び曹操の陣の調査に戻った華雄隊の百人隊長は、戻りを待っていたかのように慌てた部下から声を掛けられる。

 

「た、隊長……お、女の遺体が……箱に……」

「なに?!」

 

 部下のとんでもない言葉に、確認のため百人隊長は急ぎその場へ赴いた。

 他にもすでに数人の部下がそこへ駆けつけていた。

 それは上級な将官の天幕だと思われた。なにやら華麗な衣装の入った箱に埋もれるように、隠されているようにそれは見えた。

 

(女を弄んだあげくに無礼討ちにでもした死体の隠ぺいか?)

 

 緊張気味に、遺体の入ったすでに蓋のずらされた朱塗りな箱の中をゆっくり覗いていく。死後数日経てば大変な事になるのだ。見たくないがこれも仕事であった。

 そっと見てみた。

 遺体の目は閉じられていた。

 

 それは――とても可愛らしく美人の凛々しい少し小柄な女の子だった。髪の毛は黄色で短めのツインテールクルクル巻き毛であった。

 

 だが死体の割には……全く痛んでいなかった。

 恐々と百人隊長は手の部分に触れてみた。手触りが皮膚に近い感触であった。

 しかしそれでも気が付いた。これは『人』ではないことに。

 

「……人形……か……?!」

 

 周囲の部下はそれを聞いて少し安堵する。

 そうそれは、死んだか眠った人にしか見えなかったが等身大の人形だったのだ。

 この時代、玩具の小さな人形ぐらいはあった。だがこういった等身大のものを愛でる趣味はほぼない。せいぜい信仰の対象になる神像ぐらいである。

 百人隊長は……怖くなった。それは余りに精巧すぎたのだった。

 彼は箱から後ずさるように離れると一言部下らへ告げた。

 

 

 

「そいつを後で――――森にでも捨ててこい」

 

 

 

 生ごみや不要なものの処分は、ある程度現場の責任者に一任される。

 夏候惇が心血を注いで作成した、等身大の華琳様人形はこうして捨てられてしまったのである。

 そして、何かが始まろうとしていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでに卯時(午前五時)を迎え、空は少しずつ日の出に向かって白み始めていく。周りも薄明るくなってきていた。

 曹操軍は、森の脇や草原の中に敷かれた比較的平坦に整備されているこの幅広い街道を疲れつつも全力で、もはや補給が得にくい不利な洛陽を早く離れるべく本拠地の陳留を目指していた。最低でも洛陽方面へ向かっている援軍と合流しなければならないのだ。歩兵らも今しばらく駆け足での移動となる。

 夏候惇は後軍の先頭近くに、負傷した夏侯淵が横になっている荷馬車に並んで移動していた。

 そこで夏候惇は、右のこめかみへ一筋の冷や汗を流しながら、ふと思い出してしまっていた。

 

「……秋蘭、れ、例のモノはどうした?」

 

 その『モノ』という発言により、瞬間に夏侯淵もトンデモナイことを思い出していた。いつも冷静なはずの夏侯淵も慌てた声を上げる。

 

「あ、姉者……皆に気付かれないように……姉者の天幕に隠したままだ……」

 

 そう、等身大の華琳様人形の事である。今回洛陽への駐留は袁紹が再び戻るまでの数ヵ月という事だった。黄巾党の乱も落ち着き、洛陽には大陸中の服飾が集まってくることも有り、大きな問題は無さそうだと考え持ってきてしまっていたのである。

 昨夜は夏侯淵も夏候惇も緊急で即刻出陣したため退却の荷を全く纏められず、洛陽からの退却時に陣へ戻ったら真っ先に持ち出す予定だったのだ。だが、夏侯淵の命に係わる呂布との戦いと、大きな負傷で二人の頭から完全に注意が飛んでいたのだった。

 もう少し時間があれば、総退却となり天幕から兵糧、武具まですべて持てる物は移動させたはずだったが、それも出来なかったのも大きいところだ。

 

「うぅっ、今から……引き返して―――」

「姉者、気持ちは分かるが無茶を言うな。おそらく陣はすでに董卓らに占領されているはずだ」

「くっそう……」

 

 夏候惇は目を閉じ手綱を握る拳を震わせ、その無念さに必死で耐えていた。

 夏侯淵は『また作ればいい』とはとても言い出せなかった。あの人形がどれほどの手間で作られているのかよく知っているからだ。

 その骨格の一つ一つの削り出し具合から、手足の指先の、爪の形成、表皮部分の組み上がりの姿までが曹操と瓜二つだっだ。さらにまつ毛、眉毛、頭髪等、そしてあんなところのケまでの大部分が―――風呂や閨でコッソリコツコツと集めた曹操本人の実毛なのだ。

 そこまで揃えるのは並大抵ではなかった。夏侯淵ももちろん全力で協力していた。二人の希望と執念が籠った人形と言える。

 それを持ち出せなかった事実に、まさに身内の一人を亡くしたような、お通夜のような二人の気持ちと雰囲気になっていた。

 そこに、陣の後方から伝令が馬を寄せて来ると告げる。

 

「将軍方へお知らせします! 後方より董卓軍の騎馬隊と思われる兵団が接近して来ます。その数、八千!」

「分かった……奴らめぇ、絶対に許さん!!」

 

 その表情は血の涙も流さんばかりであった。

 夏候惇は、その無念の元凶の接近を聞いて―――再びキレていた。

 

「姉者……私の分まで頼んだぞ」

「おうっ!」

 

 珍しく夏侯淵も、キレていた。

 

 

 

 夏候惇は夏侯淵へ兵を百程付けると、彼女の乗る荷馬車をそのまま街道の先へと進ませる。夏候惇らもその後をしばらく進み、街道でも丁度谷のように狭くなっている場所を見つけると、その場所へ後軍三千の兵達を街道が中心に展開させ封鎖する。

 また少し洛陽側へ戻った街道上にそのうちの七百騎ほどの騎馬隊が突撃隊形と言える長蛇の陣を取って待ち構える。もちろん先頭には夏候惇が『七星餓狼』をすでに抜き放ち、洛陽方面の道の先を睨み付けていた。

 そしてその目に華雄の率いる董卓軍騎馬隊の一団の姿を捉える。八千騎が上げる砂煙は遠目にも確認できた。

 夏候惇は突撃する好機を静かに……怒りを力に変えて待っていた。

 先を行く夏侯淵は、馬車に横になりながら中軍の曹操へ早馬を出す指示をする。そして自分も中軍へ追いつくべく速度を急速に上げさせていた。

 

 華雄は街道の前方に兵が展開されているのに気付く。そろそろ追いつく頃合いだと考えていた。そこは街道を中心に道が狭くなっているところのようであった。なるほど多勢を待ち受けるには良い場所である。

 

「ふふふっ、おそらく夏候惇辺りか」

 

 華雄自身、曹操と共に夏候惇が、皇帝から黄巾党の乱での武功に因って奮武将軍司馬の官職を受けていることを知っている。機会があれば是非ともその武勇を見たい相手であった。相見(あいまみ)えるのを楽しみにしていたのである。

 

(踏み潰す前に一当てしておくか)

 

 そう考えると華雄は隊列を手前で止める。そして一騎で悠々と曹軍の前に出て行った。

「我が名は華雄である。董卓軍の将なり。そちらを率いるは奮武将軍司馬の夏候惇か?」

 華雄は愛用の戦斧『金剛爆斧(こんごうばくふ)』を曹軍へ差し向ける。

 夏候惇は俯き気味にゆっくりと前へと馬を進めた。そのため表情は良く見えない。互いの距離は二十二丈(五十メートル)程だ。

 

「…………ぉス……」

「ん? なんだ?」

 

 夏候惇の言葉がいまひとつ聞き取れなかった華雄は聞き返す。

 すると夏候惇は顔をゆっくりと上げる―――修羅の顔を。

 

「この夏候惇が……お前を倒ス! 董卓軍は許さん!」

「馬鹿な………」

 

 華雄はこの距離で夏候惇の雰囲気に戦慄を覚えた。それはまさに呂布のような圧力を感じたのだ。有り得ないと言う思いが口から言葉を漏れさせた。

 次の瞬間、夏候惇は『七星餓狼』を振り上げ華雄へと鋭く差し向けると叫んでいた。

 

「騎馬隊、突撃だぁーー! 私に続けぇーーーー!」

 

 その敵からの号令に、華雄も慌てて後ろの全軍に指示を出す。

 

「おおっ、こちらも全軍前進! 曹軍を踏み潰せぇーーー!」

 

 華雄は自分から一騎打ちを挑もうと思っていた。だが、挑む前に戦いは始まってしまった。しかしお互いに先頭でいるため、形的に初めは一騎打ちに近い状況となる。

 

「はぁーーーーーー!」

「うおおおぉぉぉーーーーーーー!」

 

 互いに馬が接近し間合いに入ると、渾身の一撃の打ち合いとなった。

 夏候惇は右手で間合い一杯に愛刀を振り下ろす。華雄は右手と長い柄を脇で締めた形で『金剛爆斧』を右側側面から掬うように合わせていく。

 金属が凄まじい勢いで激突する音が鳴り、猛烈に火花が辺りへ飛び散った。

 その結果、華雄が馬ごと夏候惇から見て左側へ一丈(二・三メートル)ほど動かされていた。正確には華雄が夏候惇の一撃の威力差に激しく馬上より飛ばされそうになり、馬が引きずられるように寄れたのだ。華雄の右手は夏候惇の渾身の一撃で完全に痺れていた。

 

(馬鹿な。な、なんという威力の一撃なんだ。呂布殿に近い威力か?!)

 

 膂力にも自信のあった華雄は驚くと共に感心しかける。だがそんな暇などない。夏候惇からの次の一撃が迫っていた。しかしもはや力の差を感じて、『金剛爆斧』を使って全力で受け流すしかなかった。先ほどよりも軽く弾くような金属音が響く。

 呂布の強さと一撃の威力を知らなければ、夏候惇の二撃目でやられていたかもしれない。

 華雄はその後数撃をすべてまともに受けずに、鋭く力を逃がす形で凌いでいた。

 間もなく、それぞれの後方より騎馬兵団が接近しぶつかり合った。そして混戦になっていく。

 華雄が当初からいい勝負と前のめりに攻撃へ出ていれば、元の自力で勝る夏候惇によりもう勝敗は一騎打ちの形で付いていたかもしれない。だが夏候惇が見せた憤慨中の一方的な勢いに、華雄が警戒し呂布の強さに対して考えていた防御に上手く徹したため、将同士だけでの決着にならなかった。

 こうなると、兵団の力の差になって来る。

 夏候惇は数撃で華雄を倒せると踏んでいた。董卓軍の騎馬兵数は夏候惇率いる曹軍の騎馬数の十倍以上なのだ。しかし将の華雄が居なくなれば、八千いようと敵ではなくなる。

 とはいえ、事は思い通りに行かない場合も多い。勝負ごとに絶対はないのだ。

 今居る場所はまだ側面から回り込めるほど幅が広いため、華雄側は曹軍を押し包むように動こうとしていた。

 その動きにさすがに夏候惇も不利を感じた。

 

(ふん、ならば見せてやろう)

 

 この位置に停滞するのは不味いと考え、突撃の攻勢に切り換える。

 夏候惇は華雄を力づくの一撃で、脇へ避けさせると華雄率いる董卓軍の中央へ切り込んで行った。

 それはまさに苛烈である。華雄の武を以てしてなんとか受け流せたが、普通の兵らにそんなことは不可能だった。

 夏候惇の周囲は竜巻の様相で前に居る者は、切られると同時にその突進力と剣の威力で側面や後方へ吹っ飛んでいく。後ろに続く騎馬兵らも夏候惇の士気と指揮で死兵に近い能力を発揮した。その突破力は異常だった。

 華雄の騎馬兵団は夏候惇の隊を覆うように両翼へ広がった為、中央が薄くなっていた事もあり、夏候惇隊は難なく一方的に突貫し後方へ抜け出していた。

 華雄側は一気に百五十程は死傷者が出ていることだろう。

 夏候惇は隊を反転して後方より再び攻撃する為、街道の土手を下りその脇の腰ほどの草の生えた荒れ地へ入る。馬自体は田んぼのような明らかに体が沈むほどの悪路でない限り速度は些か落ちるが移動に大きな支障はない。騎馬兵の多くは少しの崖なら下れるほどなのだ。

 華雄は夏候惇を自軍奥へ見失い動きが取れなくなった。前方へ出て、封鎖している陣へ攻撃を掛けるべきかとも考えるが、どう見ても先に強力な夏候惇を抑えることが重要だった。ただ、今の兵数ではヤツの姿を捉えるには多すぎた。華雄は兵団内からの伝令により夏候惇らは後方へ抜けたことと多くの犠牲が出た事を知る。

 千人隊長を急ぎ四人呼ぶと、それらにこの先の街道を封鎖しているところを攻めるように伝える。

 華雄は兵を二分し、身軽になって夏候惇と対戦することにした。今、一塊状の自軍の数を減らしたかっただけなのだが、頭の固い華雄にしては合理的な案だった。

 夏候惇が、街道先の味方の援護に向かえばそれを後方から襲い、こちらへ向かって来れば、その間に封鎖している陣へ向かった四千の騎馬兵団で勝ちが拾える手になるのだ。

 その夏候惇はというと迷わず華雄と対することを選んだ。やはり将を抑えればこの場からの曹操ら中軍後方への進撃はとりあえず止められるのだ。

 殿として今は勝敗よりもより重要な事だった。

 そして今、どうやら兵を分割するためか陣形が定まらず、混乱気味と見た華雄の隊へ再度後方より突撃する。その際、目立っていた千人隊長を一人、二人と切り倒していった。

 だがその動きに割って入ってきた華雄によって、千人隊長の三人目以降は倒せなかった。

 

「おのれ、夏候惇!」

 

 自分では無く配下の指揮官を倒しに来た事に怒りを口にしたが、夏候惇は軽く流す。

 

「ふん、お前を倒した先か後かの事だ、気にするな。それよりそろそろ華雄、お前の番だ! 一騎打ちで決着を付けよう」

 

 並みの武将の発言なら怒りのまま問答無用で受ける所だが、呂布並みの者と戦えるかと考えると容易には踏み切れないでいた。

 華雄としても情けなく許せない事だが、呂布のあまりの段違いな強さだけは認めているのだ。

 

 『呂布には勝てる気がしない』

 

 呂布の凄さをこれまで間近で見ているからこそ、そう感じてしまうのだった。夏候惇は呂布以上では無い。その証拠に―――すべてなんとか受け流せているからだ。呂布の突きには受け流しきれないものがあったのだ。とはいえ全力の受けに回った状態で、ギリギリな相手も呂布以来である。

 呂布との経験が頭と肝を冷やさせていた。この夏候惇の膂力とスピードは、攻めに回っては受け切れるものではないと判断していた。

 

「残念ながら、そうもいかん。ここでの目的は一騎打ちではない。貴様ら曹操軍の殲滅だ」

 

 夏候惇は、故意にニヤけながら武人として強烈な挑発の一言を放つ。

 

「華雄……逃げるのか?」

「……何とでも言え。個人的なことは後に回させてもらおう。そうだな……曹軍が貴様のみになったら喜んで受けてやろう」

 

 華雄としては屈辱だが、将としての筋は通っていた。

 人形を失ったことで怒り狂っていた夏候惇だったが、華雄の筋の通った回答にいつしか自分も冷静になりつつあった。

 知的な駆け引きは出来ないが、それぞれの戦いの局面に何が重要かは良く知っていた。

 ここは一騎打ちでなければ、華雄とだらだら戦い、留まって時間を食うのは明らかに夏候惇隊としては不利になる。今は自身の隊は一か所に留まらず、縦横無尽に粉砕して回るのが最良の手だと思われた。

 だが、街道先を封鎖している隊へは手は貸せない状況だ。間違いなく向かった瞬間後方を取られるだろうから。

 あの狭まった地形位置へ配置に付かせた時点から、急ぎ陣内の後ろで馬防柵を作らせているが、どれほどの数が作れ効果があるか。あとは二千三百の曹操軍の粘りに期待するしかなかった。ここを突破されれば残りの曹軍兵数ではこの董卓軍騎馬兵団に対抗しえないだろう。

 まさに踏ん張りどころであった。夏候惇は自分の最善を尽くすのみである。

 

「では、曹軍の騎馬戦を見せてやろう」

「こちらも受けて立とう」

 

 華雄側も後方で隊列が出来上がりつつあった。

 四千対七百の騎馬戦が始まった。

 

 

 

 曹操軍二千三百の隊は千人隊長らの指示に、近くの竹林と間近に迫った山沿いの木々から材を集め、それらを縄で組み合わせて急遽作成した多少歪な馬防柵数十を、まず街道を中心に封鎖するように横一線に設置すると、次にそれが蓋のような浅くコの字を作る様に設置した。そのコの字の内側へ槍隊と弓隊の一部を配置し、コの字の外側の陣内に剣を持った主力千五百と残りの槍隊と弓隊らで包囲するように董卓軍を待ち受けていた。

 華雄隊の半分、四千の騎馬隊は寄せて来る状況から槍を持つものを先方位置へ配置して、数に物を言わせて馬防柵の配列を突き崩すように攻めて来るだろうと思われた。

 曹軍は柵側に籠り、まずありったけの矢を射かけて出来る限り董卓軍の出血を強いる。さらに接近するものから槍隊の集中攻撃に晒し、多対一で個々に討ち取る。侵入、突破しようとする騎馬を剣を持つ歩兵隊が死兵となって集団で襲い掛かる。そういう指示が出ていた。

 初めの一刻(十五分)程は両者距離を取っての矢の打ち合いであった。

 だがその後、矢が切れた董卓騎馬兵団は一点突破を図って来た。突破に対する当初の損害は目を瞑る、前の死体を乗り越える勢いで次から次へと騎兵を繰り出してきたのだ。一点への多勢の圧力にその周辺の馬防柵は押されて配置が崩れ出し、その箇所を中心に間もなく侵入路が数か所に増え、そのすべてから進攻され始める。

 幅の狭い場所で封鎖した為、寡兵でも同数以上で対峙出来る利点が唯一の救いだったが、それでも元々騎馬兵という強力な兵に加え、兵の減少を考えずに押し込める許容量の兵数差がジワリと出て来ていた。

 それから一刻(十五分)程経つと、すでに柵内への侵入数は二百騎を数えていた。こうなると多対一の戦いに中々持ち込めず、騎馬兵に対して弓兵や歩兵の一対一も至る所で起こり、曹軍側は討ち取られて行く数が増え始めていた。

 それは今後改善されることのない、時間と共に悪化していく状況が千人隊長らにも予想できた。

 それでも予想に対して奮戦するも現実を覆すことなど出来ず、さらに一刻(十五分)後には二百以上は討ち取られ、曹軍の敗色が濃厚になりつつあった。

 すでに、横一線に設置していた馬防柵はほぼすべて撤去、破壊されてコの字に配置していた柵も多くが破られて騎馬の侵入を許していた。

 

 このままではもはや―――。

 

 そう千人隊長が思っていた時だった。

 柵中に侵入して来ていた騎馬兵が馬も伴うがごとく急に柵外の董卓軍側へ吹っ飛んで行った。それが続けざまに何回も繰り返される。それは巨大な鉄球によって起こされていた。

 

「みんな頑張れーーー、援軍に来たよーーー!」

 

 中軍に曹操、荀彧といた許緒であった。

 元気な声と共に五百を超える曹軍が柵内へ侵入して来ていた董卓軍の騎馬隊へ襲い掛かって行った。

 

「許緒様!? 中軍を守っておられたのでは」

 

 千人隊長は許緒の参戦に驚き尋ねる。

 

「秋蘭様が中軍まで伝令を出してくれたんだよ。『もしかの時は華琳さまは私が守る。今でも弓は十分撃てる』って」

「そうでしたか。……危ない所でした。ありがとうございます」

「惇将軍は?」

「前方にて七百騎で華雄率いる騎馬隊四千を押させておられます」

「じゃあ、ここを守るのが僕の仕事だね」

 

 許緒は夏候惇の所まで出る必要はないと判断した。

 董卓軍は許緒と援軍によって、一気に士気を取り戻し二千五百まで増えた曹軍にこの狭地にて押され始めていく。

 

 

 

 華雄と夏候惇の兵団同士での戦いは、夏候惇の異常な突破力に華雄は兵数で大きく上回りながら苦戦していた。

 どう隊列を、陣を組んでも夏候惇の突撃は止められなかったのだ。華雄自身も正面に何度か立ったが、押し返す事が出来ないでいた。弾き飛ばされるか、受け流すしかないのだ。華雄以外では夏候惇へ近付く事は死を意味していた。度重なる突撃を受け、華雄側はすでに千人近くが死傷している。

 夏候惇側はまだ五十程である。冗談ではなかった。

 

(ここに張遼がいればな。この兵数で神速の騎馬の陣形と攻撃ならば、あの夏候惇でも抑えられようものを)

 

 思わずそんな弱音を考えてしまうほどだった。

 

 だが夏候惇側も実は厳しい状況だった。兵数が少ないという事はそれだけ、隊の皆が必死に多くと戦わねばならなかった。いくら強いと言っても体力には限界があった。

 夏候惇も体中が痛くなってきていたのだ。長時間張遼と戦い、限界を超えて呂布と戦い、今も怒りに任せて限界近くで戦っているため、酷くはないが体中の筋肉が細かい断裂を思わせるような悲鳴を上げていたのである。

 隊の兵達も徹夜に加え厳しい連戦の為、体力が限界に近付いてきていた。

 呼吸を整えつつ僅かな休憩も兼ね、街道傍の荒れ地にて華雄の隊と少し距離を取って突撃の隊列を整え直していた。

 

(体力的に考えて董卓軍の兵数を一方的に削れるのは後数百だろう。そのあとは……ふふっ、潰し合いか)

 

 夏候惇には深く考える事などない。最終的にはいつも殺るか殺れるかしかなかった。

 

 華雄にはまだ夏候惇側の疲弊が見えていなかった。

 また止められない夏候惇の脅威に隊の士気は下がっていた。このままでは、四千もいた騎馬兵団が本当に磨り潰されかねないと。

 そして――街道の先を攻めていた四千の騎馬隊側から伝令が来た。

 

「申し上げます! 曹軍の援軍として武将の許緒率いる五百名以上の部隊が加わり、苦戦しております」

「なにぃ?!」

 

 華雄に迷いと焦りが見えていた。この時点で自軍の死者はまだ千に届いていない。十分動ける騎馬兵は六千六百程はあった。一方曹操軍は多く見ても三千二百程度しかいない。

 しかし倍の兵を誇りながら、どちらの戦況も良いところなく……不利な感じすらあったのだ。

 

(敵援軍は本当にこれだけなのか? これ以上来れば……)

 

 冷静な判断が出来れば陳留からの援軍には時間を要し、このまま時間の経過で、じわじわと攻勢に出れるところなのだが、当初から夏候惇の悪鬼のような度重なる威圧を受けて、不安が過剰に心へ広がっていた。

 

(惨敗………。洛陽にはすぐにでも大軍が編成されよう。今大きな打撃での敗北を受ければ将軍としてこの後、戦場から遠ざけられるやもしれん……それだけは避けねば……)

 

 ここで対峙してすでにかなりの時間が経過している。曹操は取り逃がした感が強くなってきていた。それは、より大規模な対曹操戦がこれから始まるという事なのだ。

 さらに街道先の戦場より追い打ちを掛けるような伝令が来た。

 

「大変です! 千人隊長の趙(ちょう)殿、許緒からの大鉄球の直撃を受け討死!」

「おおっ!?」

 

 その報告が決意させる。

 

「くっ、曹軍め。……最後に目に物見せてくれるわ!」

 

 華雄は伝令へ向かって、隊へ戻り千人隊長らへ伝えるようにと『ある』指示を出した。

 

 街道先の董卓軍騎馬兵団へ伝令が帰ってくると、彼らは攻め込んでいた曹軍の陣内から柵の外へと移動を始めた。

 それを見た許緒は夏候惇の所まで追撃に出ようかと考えたが、董卓軍は陣から少し離れた位置に長蛇の陣の隊列を作っていく。

 

(えぇっ? 陣形を整えて再度の陣内への突撃!?)

 

 多くの馬を使えなくし兵を倒したが、それでもまだここを攻撃する董卓軍は三千四百はいた。馬防柵の配置も今は有って無いがごとき配置位置だった。

 許緒は曹軍歩兵らに、残っている馬防柵を可能な限り配置し直させ、再び防御攻撃の態勢を取らせた。

 

 一方、夏候惇も少し遅れて伝令により許緒の援軍について知らされていた。

 

「そうか分かった。そのまま季……仲康(ちゅうこう:許緒の字)に陣をしっかり守る様に伝えてくれ」

「はっ」

 

 夏候惇は許緒の援軍に口許を緩めていた。

 これで華雄を抑えている間は、街道先を突破される事は無いだろうと思った。

 だが、変化が起ころうとしていた。

 華雄の率いていた隊は、遠目に街道先の別働隊の再編成状況を見ていたのか、それが整ったと見るや街道周辺に隊列を組んでいた場所から怪我人らも連れて―――洛陽方向へゆっくり移動し始めたのだ。

 それに対し、街道先の曹軍に対峙する隊列は曹軍陣側を向いたまま、まだ動かない。

 

「何だ……?」

 

 そろそろ華雄の隊へ再度突撃しようと、その動きを街道脇の荒れ地から見ていた夏候惇だったが怪し気な動きに様子を見る。

 てっきり華雄の隊は一度移動して位置を変え、また隊列でも編成し直すのかと考えたがそうではないようだった。撤退のようにも見え、そのまま洛陽方向へ移動が続く。

 夏候惇はその華雄隊を追わなかった。殿の任としては、それよりもまだ残っている残り半分の董卓軍の方を見る。華雄隊が十分離れたら街道先の残っている敵を攻撃するつもりでいた。だが洛陽方向に動いていた華雄隊の動きは間もなく止まる。夏候惇隊の動きをまだ確認出来る位置だった。後方から襲われる可能性が高いため、街道先の董卓兵へは攻撃できなくなった。

 その時、街道先の曹軍陣側と対峙していた董卓軍が動き出す。

 

 夏候惇は気付いていない―――先ほど戻る敵の伝令に伴い街道の反対側の土手に隠れつつ華雄の騎乗する馬が街道先へ移動して行ったことを。

 

 街道先の董卓軍騎馬兵団は、曹軍陣地へ突撃した。

 その先頭には華雄が立ち、彼女の『金剛爆斧』が正面の二つの馬防柵を一撃で薙ぎ払い周囲の曹軍兵らを蹴散らしていく。

 

「うわぁぁーー、華雄だぁ! 敵将が現れたぞぉ!」

 

 敵将の突然の登場に、曹軍陣内は驚きの声が上がる。夏候惇将軍はどうしたのだという不安とともに。

 先駆けとして圧倒する武力で侵入して来た華雄に対し、許緒は巨大鉄球の鎖を握り、振り回しつつ問いかける。

 

「僕は許緒。惇将軍はどうしたの?!」

 

 道が狭まった奥のこの位置からだと、夏候惇の姿は確認できなかったのだ。普段の愛らしい目ではなく、その瞳には殺気が籠っていた。

 

「さぁて、知らんな。人の心配より、自分の心配をすべきではないのか?」

 

 華雄は悠然とそう言いつつ、愛用の戦斧の剛撃を馬上の上段から許緒へ見舞った。咄嗟に鉄球を投げ合わせぶつけていく。

 だが、許緒の大鉄球『岩打武反魔(いわだむはんま)』は戦斧にはじき返される。

 

「うわっ」

「むう、威力はかなりのものだな。だが、まだまだだ!」

 

 続けて華雄の『金剛爆斧』が風を切り唸りをあげて右斜め上段より許緒を襲う。許緒は鉄球と鋼鉄の鎖を使ってなんとか受け凌いだ。

 守備側の要の許緒が完全に抑えられてしまい、曹軍兵達は華雄に続く騎馬兵の突入が容易には止められない。

 だが、董卓軍の動きがおかしいのであった。

 その動きはこの陣を崩そうというものではなかったのだ……そう、董卓軍全騎馬兵が許緒一人に群がっていった。

 華雄は曹操の追撃も、夏候惇隊を負かすことも、この陣を破ることもあきらめたのだった。だが、『手ぶらでは帰れない』のである。

 

 

 

 所望したのは許緒の首だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでに日が登り始めていた。東の空に時折山裾から見える朝日が眩しい。今朝のこの地の空はほぼ快晴である。

 卯時正刻(午前六時)はもうとっくに過ぎているであろう。曹軍百人隊長向(しゅう)率いる三十騎と劉備らが護衛する桓の荷駄隊、そして霊帝の乗る馬車らは、あれから平原や山間の中を通る街道を順調にひた走り、もう数里で虎牢関という木々の少ない険しい所まで来ていた。

 まだ気絶していた皇甫嵩軍千人隊長の田は両手を前で、両足は膝を曲げて其々足首と太腿を繋いで縛られ、目隠しとさるぐつわもされ、張飛の小柄な背中へ背中合わせで括りつけられ馬に乗せられていた。

 皇甫嵩軍の郭ら二十騎は少し離れてついて来ていた。

 劉備が隊長の向のところへ馬を寄せていく。

 

「向さん、そろそろあの人を離してあげようかなぁと思うんだけど」

 

 向は少し難しい顔をしたが、「わかりました」と全体へ停止の声を掛けた。生きてここまで来れた状況は、劉備の協力のおかげであることに間違いない。それにこの先の関を越える際に何かあるかもしれないのだ。今は劉備の考えを尊重して問題は減らしておいた方が良いと判断した。

 劉備は昨夜……と言いうか数時 前に、荷駄隊の商隊長の桓らと共にこの先の虎牢関と汜水関を越えて来ていた。通るのは許可証が必要なので結構大変なのである。ここまでくれば、時間的に彼女らが兵達を再び集めてという事はもうないだろう。問題ない、そう考えたのだった。

 二十歩(二十七メートル)ほど離れたところに郭達の騎馬隊も止まった。

 劉備と張飛は捕えていた田を郭達らとの中間点付近まで担いで行き、縛ったままの田へ気付けを行って目を覚まさせるとその場を離れた。気が付いた田は、体を縛られ目隠しとさるぐつわの状態に、訳が分からず地面上でもがきだしていた。

 郭達数名が近寄り田に数言声を掛けると落ち着き、拘束を全部外されていった。

 田はゆっくり立ち上がると劉備や張飛らの方を睨むように一瞬見たが、背を向けて郭達と二十騎の仲間のところまで戻ると、兵から馬を譲られそれに跨った。そして間もなく皇甫嵩軍の一団は静かに去って行った。無様に負けた者が何を言っても意味がないのを知っているのだ。

 

「では向さん、先を急ぎましょう」

「はい、行きましょう」

 

 皇帝を連れた曹軍と劉備ら一行は、ほどなく虎牢関へたどり着く。

 その建物の偉容さは少し離れた位置からも伝わって来る。圧倒的な城壁の高さと幅を誇る関である。谷間を埋めるように聳え立つ現代の巨大ダムのような見栄えであった。水圧の事は考えないので弧を描かず横へ真っ直ぐに建造されている。高さは十二丈(二十八メートル)、幅百三十丈(三百メートル)以上、厚さ十八丈(四十一メートル)。幅四丈半(十メートル)、高さ三丈(七メートル)の大門とその脇に荷馬車や人が普通に通れる小門があり、抜けるまでに分厚い三つの扉が通路の前後と中間部分にある。扉は上部から内部串刺し式で、からくり的に固定する形であるため扉部分に閂は存在しない。

 さらに関の分厚い壁の中には矢間通路や部屋も多数作られており、一万以上の兵が関自体だけに立て籠ることが出来、両面どちらからの攻撃にも対応できる構造であった。当代最も強固な関である。

 ここの大門は通常閉められており小門だけが基本、日の出から日の入りまで開いている。そのほか許可証を持つものは夜中でも通ることが出来た。

 そして、常時七百程の兵が詰めている。

 向は心配していたのだ。ここにも董卓側の手が、すでに回っているのではないかということを。封鎖されれば、七百の兵でも短時間なら一万以上の兵でも十分相手に出来るだろう。

 向ら一行が関の小門の前まで行くと、守衛の者らは当初普段と変わらない応対であった。向の心配は杞憂だった。董卓らは今回の重大な計画の漏えいを防ぐために知る人数や決行場所を絞っていたため、洛陽以東にはほぼ手を打っていなかったのだ。

 だが、曹軍の向ら一行の返り血を浴びている状況に、守衛らにも緊張が走っていた。守衛隊長が、気持ち少し距離を取り問う。

 

「そのご様子……曹軍の百人隊長の方とお見受けするが、何があったのか?」

「洛陽にて……董卓が皇帝陛下に反乱を起こした次第」

「なっ―――――」

 

 事の大きさに、守衛隊長は絶句する。向も自らの隊の血まみれな姿に下手な言い訳は出来なかった。

 

「我ら曹軍は陛下の側に立ち応戦中なのだ。先刻、ここを我が軍の早馬が通ったと思うが? 我らはここを抜け、陳留に向かわねばならぬ。速やかに通していただきたい」

 

 守衛隊長は引き継いだ直後なのか、早馬について認識していない様子で横の衛兵らに確認する。そして間もなく要件は不明だが早馬通過の件は事実だと知ったようだった。

 

「話は分かり申した。だが、しばし待たれよ。ここは関守衛総長の判断を仰ぎたい」

 

 事が事だけに、守衛隊長だけでは判断出来ない問題なのだ。その申し出に向も理解できるが、面倒の可能性もあった。とは言え強行突破は容易では無く最後の手段である。

 

「分かった。時間が惜しい、急ぎお願いする」

 

 その言葉と共に、ずっしりとした砂金の入った袋、大と小を渡すのも忘れない。これは出発時の荀彧からの指示であった。

 向は、陛下の同行についてはまだ伏せていた。敵か味方か不明なためだ。

 守衛隊長は足早に関の中へ確認の為に入って行った。

 先ほど、劉備らにより人質の将を解放したことはやはり正解だった。

 引っ掻き回されて、早々に不審者一行として通行拒否な面倒事になり兼ねない恐れがあった。

 この状況で通行許可が出れば、ここが霊帝の味方側とある程度判断も出来る。陛下の同行についてはそのときに明かせば、続いてここを抜ける主君曹操らへの協力をも得られるかもしれない。

 向はそう思っていた。

 

 

 

「なに?! 京兆尹太守の董卓殿が皇帝陛下へ反乱だと……本当なのか?」

「はい。状況から嘘だとは判断出来ませんでした。曹軍の早馬も要件不明ながら確かに夜中に緊急で東側へ通過しております」

 

 守衛隊長は関守衛総長の周(しゅう)の執務室で状況を報告していた。

 

「私としては特に問題はないと思いますが……通過を許可いたしますか?」

「……よかろう。陛下側に立つ者たちを通さぬわけにいくまい」

 

 そう言いながら、周は机の上に置かれた大きめの砂金袋を眺めていた。この男、賄賂が嫌いではなかった……。

 守衛隊長は関守衛総長の返事を持って再び小門の前へと現れた。

 

「通過の許可を頂いた。それとこれを。汜水関守衛総長宛に一筆竹簡を書いてくださっている。お持ちになり早く通られるが良かろう。向こう側までお見送りしよう」

 

 向ら一行は直ちに足早で、床を含め頑強な岩を整然と組み合わせて作られている長い小門の通路を抜けていく。

 小門を東側へと抜け一行は一度そこで止まる。すると馬車から肩口や裾に金糸の入った豪華な装いの趙忠が姿を見せた。

 

「私は霊帝陛下側近の十常侍が一人、趙忠です。虎牢関の皆さんへはこの馬車におわす陛下の為に、まもなく西からここを通る曹操殿への協力を希望します」

「は……………」

 

 向がこの合間でと、守衛隊長がいない間に趙忠へお願いしていたのだった。

 その彼女の言葉に守衛隊長は……唖然としていた。まさか、である。

 

「「「「ははぁっーーーーー」」」」

 

 次の瞬間、守衛隊長と周辺の兵らは皆、その場で平伏する形や膝を付いての礼を取っていた。趙忠はそうでないのだが、恐怖と悪名の高き十常侍である。それだけでも、畏れ多いのだが、皇帝までも馬車内に居ると言うのだ。一般の守衛や隊長には、まさに『とんでもない』事だった。その知らせを受けた関守衛総長の周も、執務室から門外まで飛び出して来て平伏していた。

 これでどうやら、虎牢関は霊帝と曹操寄りの拠点として反撃の大きな足場になりそうである。向と劉備ら皇帝一行は、異常に恐縮する雰囲気の漂う中を見送られつつ東の汜水関へと急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 董卓と賈駆、張遼らは新しい漢帝国の朝日を、洛陽城の南正門である豪奢で勇壮な平城門の前に広がる広大な平城門前広場で、その眩しい光を受けようとしていた。今日この後新たな元号が新皇帝の名において定められる予定である。

 ここには今、二万程の兵が整列待機していた。

 陳宮と盧植はまだ城内掌握のために中へ留まっている。

 すでに荀攸から東門付近についての報告により、霊帝および曹操らを東方面に逃した事が伝わっていた。

 

「んー、思い通りにいかないわね……。ごめんね月、最低でも霊帝だけは洛陽で討ち取っておきたかったけど……作戦を立てた私の責任だわ」

「ううん。詠ちゃんを初め、みんな頑張ってくれたと思う」

「実際、敵ながら曹操の将や兵らは強かったでぇ。ほんま楽しかったわ」

「そうね……正直、曹操やその将らがここまでやるとは思ってなかったわ。大体恋に正面から挑んだ将が二人とも生き残るなんてちょっと信じられないわね」

「それはウチも同感やなぁ。でも呂布っち、手加減してないって話やろ? ウチでもほんまに死ぬ気でいかんと一合であの世行きやからなぁ」

「とにかく、今は洛陽の中を完全掌握することが一番よ。華雄の結果もまだわからないし。あとは例の協力関係の話をすぐに纏めないと」

 

 董卓も頷いた。長安に続き洛陽という超巨大都市を支配下に組み込もうとしているが、董卓勢力単独ではどうしようもない。やはり同調する諸侯や新皇帝を指示する勢力を早急に取り込んで大陸全土を一刻も早く一つに纏めなければならないのだ。

 

 一国に二君はいらない。

 

 先の穢れ切った君は、生きているなら早急に排除しなればならない。

 そうしなければ戦いの要因が残り、人民らに平穏を提供できないのだ。

 そして、この洛陽とその周辺地域には、霊帝やそれに仕えた者達寄りの有力者がいるのである。それが曹操であり、朱儁将軍であり、そして袁紹や袁術らである。

 それらも同時に刈り取る必要があった。

 しかし現在はまず足場を固めるべく、数千の兵らを洛陽内に居る不穏分子の有力者ら捕縛へと向かわせていた。

 

「霊帝と曹操を討っとったら今夜は大宴会やったんやろ?」

「そうよ。でももうそれどころじゃないかもね。曹操が生き残ったら、いつ来るか油断できないわよ。皇甫嵩殿と椿花、それと恋……はもう勝手に寝てるわね。霞、あなたも先に休んでてちょうだい」

「へいへい。ふわぁ……そうさせてもらうわ」

 

 張遼は、天幕から欠伸をしながら出ていくのだった。

 

「月も奥で横になってていいわよ。その仮面や甲冑も大変でしょ? 今しばらくは待つだけだしね」

「うん、少し休んだら交代するから」

「ありがと」

 

 董卓も先は長いかもしれないと素直に従い、まず体を休めることにし天幕の仕切られた奥へと入って行った。

 

「月の為にも、今回の曹操の将の力や戦力を再検討してすぐに次に備えないと」

 

 賈駆は、一人呟くと休む間を惜しんで対曹操戦の計画を見直し始めた。

 

 そのころ洛陽の街中では色々な事が起きていた。

 この洛陽には各諸侯から中央の状況を調べに来ている者らが人知れずいる。今、『董卓軍が夜襲により洛陽城へ侵入占拠する反乱に及び、城外や西郊外にて曹操軍と戦った。曹操軍は東へ脱出中。霊帝の安否所在は未だ不明』という世を震撼させる情報を携え、馬に乗った旅人や荷車を引いた商隊に扮した者達が、各門の通行規制解除を待って大陸中へと旅立っていく。

 一般の市民らや役人らも、皇帝を襲った反乱を諸侯が起こした事に騒然となろうとしていた。また夜中には街中を大勢で軍が走る地響きのような音と振動に、皆外へ出ることも出来ずに恐怖していたのだ。これからの物価や生活はどうなるんだと言う思いも含めて……。

 皆の様々な不安の黒い影が、日が昇り始めた都である洛陽に広がって行きつつあった。

 

 そして、そんな洛陽から霊帝支持派で単独、もしくは私兵らと共に脱出しようとしている者も大勢いた。多くは包囲され捕まっていったが、中には協力者や守衛責任者らへ賄賂やコネを使うもの、また百を超える私兵を持ち、武勇に秀でた者の中には都を実力で脱出する者も何人かいた。

 その中に何進大将軍に仕えていた王匡(おうきょう)もいた。

 彼女は私兵達からの分散した手引きと、持ち前の武勇で包囲網を自力で突破し、騎馬兵数十騎を引いて洛陽を脱出した。

 彼女が向かったのは、北東方向―――朱儁将軍の領地である司隷河内郡であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雲華を失い、その戦いの後遺症により無気力状態で三国世界の大陸中央を彷徨っていた一刀が、街で暴れた賊を倒したことから世話になっているここ河内郡温県の司馬家は、いつもと変わらぬ朝を迎えていた。

 滞在から七日目。

 今朝、洛陽では董卓らが起こしたトンデモナイ動乱が始まったが、ここ温県にはまだ届いて来ていない。

 そのため、一刀もいつもと変わらない。

 司馬家の八令嬢らを始め、家主の司馬防にも熱烈な感じで気に入られ、『家族』らしか住んでいない屋敷内の最高級の客間が一刀の自室になっている。

 昨夜は亥時(午後九時)過ぎには司馬防と共にその客間の寝床へと入り、そのままぐっすりと―――すぐに寝るわけがなかった。

 二人は若い男女なのである。相思相愛とも言え、そして夫婦のように同じ屋根の下で暮らしている。

 亥時である。夜は長いのだ。子時正刻(午前零時)前に寝るとしても時間は一時半(三時間)近くもたっぷりとあった。

 なので―――

 

 いっぱいおっぱい他、色々といろんな事やいろんな所を楽しんでしまっていた……。

 冒頭から寝台に上がった司馬防はその豪華な打掛を下ろし、この時代によくあったなというそのハレンチ極まりない下着を至近距離でまざまざと披露してくれる。それは桃色スケスケ下着であった。両開きなパカリ構造はないが、胸布や腰布の中央縦の部分の透け具合が尋常ではないモノであった。隙間を糸で大きく閉じてるだけ……そんな感じに見える。その縦線の上部を飾る小さ目のリボン風な装飾が可愛く、それが欲情をそそるのだ。

 一刀は思う。いつも一体どこから探してくるんだろうと。

 そして披露が終わると、数度の長く濃い接吻の後、司馬防は一刀へせがむのだ。

 

「一刀殿……さあ……脱がせてくださいな……」

「う、うん」

 

 背中から司馬防を抱くような位置に座り、ナデナデモミモミしながら少しずつ胸布から外していった―――。

 そして最後はすでに見ていない所はなく、そのまま二人は横になり……サワサワナデナデスリスリモミモミチュッチュペロペロクンカクンカしていない所も無いと言える状況へと進んでいった……お互いに。

 彼女は何回天国に到達したのだろう……一刀からの行為はそんな熱いものがあった。

 もちろん、一刀もそれなりに到達していた。司馬防は豊満な体の全てで返してくれるのだ。

 散々二人は子作りには及ばないながらも営みを楽しんだ後に、互いの心地よい温もりと疲労感の中、静かに眠りに落ちたのだった。

 

 天気は、少し曇っていたがまずまずのようであった。

 一刀は今日も卯時(午前五時)過ぎには一人でこっそり起きて、この屋敷の使用人長の一人である銀さんに隣の客間で着替えさせてもらった後に、きちんと鍛錬を行った。

 決めたことはちゃんとやって行きたかった。雲華の生き様の様に後悔無く、そして恥ずかしくないように。

 もちろん、夜の営みでも……どう言う訳か子作り行為まで考えると、『神気瞬導』が使えなくなるため、ポイントでは時折『我、無心なりィィィィ!』と耐えるのだ。コレに彼は強烈に精神が鍛えられていった。

 もはや確実に新たな精神世界への悟りが開けそうであった。

 鍛錬を終え客間へ戻り体を拭い、『寛ぎの広間』へ向かう。司馬防ではなく、いつの間にすり替わったのか司馬家八令嬢の一人、絶世の美女な三女の『司馬孚』と共に。

 

 起きた時から何かがおかしかった。まぁ……なにか、では無いか……。

 

 朝、銀さんを静かに呼ぶために客間の折り畳み戸の扉を少し開けると―――廊下に司馬孚がにこやかに立っていた。……いつからいたんだろう。いや、気で二刻程(三十分)も前からそこにいたのは知っていた。

 

「おはようございます、一刀様」

「お、おはよう、蘭華(ランファ)」

 

 しばらくの間、一刀へ静かでにこやかに微笑むと、彼女は立ち去った。

 

(えっ、それだけぇ?)

 

 意味が分からなかった。

 そして一刀が、修練を終えて庭の竹林のある場所から客間の廊下まで帰ってくると―――廊下に『また』司馬孚がにこやかに立っていた。

 

「何か私に御用はありませんか?」

「いや。……今は特に」

「そうですか」

 

 そのまま一刀へ静かでにこやかに微笑むと彼女は再び立ち去った。

 一刀が銀さんに汗を拭ってもらい着替えて客間を出ると……また司馬孚がにこやかに廊下へ立っていた。

 

「何か御用はありませんか?」

「ええっと……」

 

 一刀にはなかったが、彼女には『ある』のだろう。

 

「今日は、何の日でしょう?」

 

 彼女はにこやかに……攻めて来た。彼女の表情は穏やかに見えるが―――すでに我慢の限界なのだろう。

 

(何の日だろう?)

 

 一刀は、目を瞑り頭を少し左へ傾げて眉を寄せながら考えるが、正直分からなかった。

 

「お母様、優華(ヨウファ)姉様、お母様とくれば……次は?」

 

 一刀は漸くピンと来た。夜のお話のようである。まだ早朝なんだけれど、もう言ってきすか……? だが、彼女にとっては死活問題なのだ。

 

「悪い、今日の分のお守りをまだ預かってないんだ」

「えっ」

 

 夜の伽を指名する意味で決まった、一刀から渡された者がその日の夜のお相手を示す『お守り』は、最近の家内を預かっている八令嬢の長女である司馬朗が朝食の後に一刀へ渡してくれている。なので一刀はその『お守り』を今、持っていなかったのだ。

 彼女のにこやかだった表情が一気にトーンダウンしていた。すでに少し泣きそうである。

 

(ええっ。そ、そんなにぃ?)

 

 一刀は思わず、司馬孚へ体を寄せて手を握り慰める。

 

「あの蘭華、お守りを預かったらちゃんと渡すから、ね」

「……本当ですか? 約束ですよ?」

 

 一刀の言葉を聞いた瞬間に、彼女は復活した。……彼女も彼が『お守り』を預かる時間は知っているはずで……女の涙に可愛く謀られたというべきか。その彼女のジッと見つめて来る視線がやたらに熱い。

 

「あ、ああ。約束するよ」

「一刀様ぁ」

 

 司馬孚に抱き付かれながらの廊下を南へ『寛ぎの広間』の方へと向かって行った。

 もちろん一刀は―――間近な司馬孚の匂いをクンカクンカしながらである。

 彼のハレンチ紳士振りも、相変わらずであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏候惇は何か違和感を覚えた。華雄の率いていた隊の動きが『止まった』のだ。

 

(将が居るにしては些か動きが無意味過ぎるな。それならもう一方の隊へ移って―――)

 

 夏候惇はハッとした。

 

「全隊前進! 直ちに前の騎馬兵団を粉砕し、街道先のもう一つの隊に後方より全力で突撃する! 華雄を撃つぞ、私に続けぇー!」

「おおぉーーーーー!」

 

 夏候惇隊六百余は鬨の声を上げると、夏候惇の騎馬を先頭に一直線で敵兵団へと駆け出して行った。

 

 

 

 許緒は華雄と対峙する自分の後ろを囲う殺気群に気が付いた。いつの間にかに騎馬兵らに包囲されていたのだ。

 

(まさか……突撃の狙いは……初めから僕?)

 

 許緒の目が苦々し気に細まる。彼女は非常に厳しい現状を認識する。今は一騎打ちでは無い。全ての手が正当でそれが兵法である。

 後ろを囲う騎馬兵らは皆、剛槍を手にしていた。

 曹軍の千人隊長も、許緒へ攻撃が集まっていることへ気付き、兵の一隊を差し向けていたが、その間へ董卓軍側の騎馬隊が分厚い壁を築いて取り巻いていた。

 すでに先程から許緒は華雄の苛烈な攻撃を受け止め凌ぎ、前面から手が離せない形だった。

 

 それは―――背中に感じた。一つではない衝撃。

 

 何か一斉にズブリとめり込んでくる感覚であった。

 

「がっ」

 

 激痛に思わず許緒は……振り向いた。それは大きな隙だったが、華雄はあえて『見せて』やった。

 刺さっていた。自らの背中に十数本の剛槍が。

 

 だが、驚いた顔をしていたのは―――騎馬兵達の方だった。

 それは良くて一寸弱(二センチ)程刺さったところで、それより先へは進まなかったのだ。

 許緒の小柄ながら皮膚下に広がる柔軟で鋼のような背中の筋肉が剛槍の侵入をそれ以上許さなかったのだ。出血も槍ごと筋肉を締めることで最小限にする。

 

「ぬ、抜けない……だと。バカな」

「よくもやったなぁ。後で覚えてろ!」

 

 そう台詞を吐くと許緒は前を向いた。なぜかその目線は一瞬、華雄の右後方を見たが再び華雄を睨み付ける。

 

「これで……僕に勝ったと思わないでよ。まだ、戦えるから!」

「ほぉう、敵ながら認めざるをえんな。その闘志、見事だ。せめて我が手で葬ってやろう」

「それはどうも。でも―――後ろからお迎えが来てるよ」

「あ?」

 

 許緒の指摘に、後方の音を華雄の耳が拾う。それは、すさまじい味方の阿鼻叫喚の声と共に。

 

「季衣ぃーーーー、無事かーーーーーー!」

 

 もちろん夏候惇の声だった。

 その瞬間、華雄の余裕ある表情が一気に蒼白へと変わった。

 

(もう一方の隊は何をしている! 夏候惇を後方から牽制、攻撃すれば―――いや、今は)

 

 働きを期待された先ほどまで華雄のいた隊は、すでに夏候惇に突貫され混乱の最中で動きが取れない状態だった。

 しかし最早それどころではない。華雄は振り向いた。

 

 人が散々に舞っていた……。

 

 槍で突かれて持ち上げられるとかではない。剣だ。剣で切り下げる、切り上げる、横に薙ぐ……それが嵐や竜巻の如く連続することにより、その状況を作り出していた。

 華雄はその光景を日頃から戦場で並ぶ同僚の戦いでよく見ていたから知っていた。

 

(この敵には絶対勝てない―――)

 

 思わず華雄の声は震えた状態で叫んでいた。

 

 

 

「ぜ、全軍、直ちに洛陽へ撤退するーーー!」

 

 

 

 ここは体裁にこだわっている場合ではなかった。騎馬兵の多くを盾にして華雄は洛陽へ逃げ帰っていった。帰り着いた時には、強力で重要な騎馬兵の八千のうち実に三千騎以上失っていた。

 夏候惇は後を追わなかった。気持ち的にはどこまでも追いたかった。

 許緒が万全なら殿を任せ追う事も出来た。

 だが、殿の任と許緒は『戦える』と言っていたが彼女は重症だったのだ。その体でも敵を陣外に叩き出すまで戦い続けた。

 それが終わり力を抜くと刺された背中の十数箇所から少なくない血が流れ出していた。

 思わず膝を付いてその場に蹲る。

 背骨にも二本刺さっていた。幸い棘突起と呼ばれる、神経の通る椎孔に影響のない部分であったので後遺症の残るものではなかった。

 だが最早、酒で傷を洗い縫合し、安静に横にならざるを得なかった。

 

「ごめんなさい、惇将軍。敵将を討つ好機だったのに」

「気にするな。来てくれて助かった。今は休め。季衣が元気になったらいつでもカタキは討ってやる」

 

 そう言って、横になる許緒の頭を優しく撫でた。

 

 夏候惇と許緒の殿による華雄の撤退によって、洛陽動乱戦は一旦の集結をみる。

 だがそれは、董卓対曹操の……より大きな戦いへの前哨戦に過ぎなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数千の軍隊が移動する街道。

 遭遇する場合、商人や旅人らは接近前に隠れるように譲るしかない。避けなければ間違いなく踏み潰されるのだから。それに敗残兵などに出くわせば商人らの荷駄隊などは略奪にも合う危険性が大きかった。なので、軍の隊列には基本近付かないのが普通の事であった。

 司馬家守衛の楊(よう)は、司馬朗の士官の返事を携え、洛陽に駐屯すると聞いた曹操に届けるべく、日の出と共に洛陽へと馬に乗って出発する。彼女はすでに陳留から汜水関と虎牢関を西へ抜け、その先の街道はずれにある小さな街に宿泊していた。

 もちろん……洛陽動乱の事は何も知らない。

 

 この日の街道はおかしかった。

 洛陽まで後六十里(二十五キロ)程の街道にて、戦いがあったような跡を通ったのだ。それもまだ血が渇いていないところがあったり、街道土手の脇にはすでに盗まれたのか鎧を剥がされた遺体がまとめて残っていたりしていた。まだ一時(二時間)も経っていないのではないだろうか。この地域には黄巾党の残党は残っていないはずである。しかし楊は洛陽へ行くのを急いでいた。周囲を注意しつつ先へ進む。

 そんな中、彼女は洛陽方向より足早に駆けてくる旅人から、すれ違う手前で声を掛けられた。

 

「武人の方、間もなく千程の敗残兵ような兵達とその後にも少し離れて五百程が東に向かってここの道を通るぞ。どこかへ退避した方がいい」

「そうですか。お知らせ感謝する」

 

 旅人は足早に道を東へとそのまますれ違って去って行った。楊は戻る訳にいかないので、やり過ごそうと周辺を見回すと、街道を下りた少し外れに林を見つける。

 馬首をそちらに向け走らせ、急ぎその林の奥へと移動し静観した。

 時刻は辰時(午前七時)頃であった。

 楊は三十分ほどでその隊列を静かにやり過ごすと、洛陽へと再び街道上へ戻り馬を走らせる。

 楊は気付かない。やり過ごしたのが―――曹操の一行だという事を。

 

 

 

つづく

 

 

 




2014年11月21日 投稿
2015年03月15日 文章修正(時間表現含む)
2015年03月22日 八令嬢の真名変更
2015年03月28日 文章修正



 解説)華雄
 歴史上、字すら『不詳』。カワイソス。
 正史では出生不詳で董卓配下胡軫の部下となっている。
 そして、孫堅の討伐に向かった初平2年(191年)、特に活躍することなく首を取られている。
 演義では大活躍ですね。でも董卓討伐時、関羽に結局は首を取られますけどね……(汗



 解説)悪路に強い?馬の崖、坂落とし
 某動画サイトに昔の米兵らが高さ十メートルほどの短い距離を崖下りしているのがありました。訓練と思われますが、一種の度胸試しみたいな感じですね。
 安全の為か岩場では無く、土がむき出しのところで、その降り口は垂直に近い形です。
 人が乗った馬が一頭ずつ、順に下って行くのですが、半分ぐらい落馬、馬も滑落してますね(笑
 でも、馬も人も慣れれば行けそうな感じでした。二、三十人やってましたが死んでる人や馬はいませんでしたし。



 解説)虎牢関(ころうかん)と汜水関(しすいかん)
 実は『虎牢関』は『汜水関』(しすいかん)とも呼ばれ、唐の時代に置かれた関所のひとつ。二つあったのではなく同じものだったというのが事実。
 虎牢とは西周の穆王がこの地で虎を飼っていた事に由来するとか。
 なお後漢時代には関所ではなく要塞が置かれていた模様。この地は険しく防衛に適していたことから歴代の王朝で防衛施設があった。

 まあ、当外史ではふたつちゃんとありますよ。
 洛陽から東北東に約百里(四十キロ)の位置に『虎牢関』、その二十里(八・五キロ)東に『汜水関』と。そしてその東側の先は黄河を望む官渡へと続いてゆく―――。
 某MAPで洛陽の東北東五十キロほどの所を見ると河南省鄭州市ケイ陽市に虎牢関村や汜水村があったりします(笑



 IF)皇甫嵩軍の伏兵を虎牢関に向かわせて先に関を抑えてしまえば良くない?
 虎牢関上からの見張りや斥候が東西両方面へ交代で常に出ていて、所属不明な二千もの兵の接近には間違いなく気付きます。
 兵団で関へ寄せて行って、皇甫嵩将軍の兵達だと明かしても、正式な中央の命令書が無い限り関の建屋内部へ入れてもらえることはまず無いでしょう。
 二千程度の兵では強引に攻めても返り討ちです。
 なので、この時点では結局虎牢関の手前で曹軍を待ち伏せることになります。



 謎)王匡
 Y●hooで『王匡』と検索すると『東京』になるのは何故?(笑
 何かがおかしい。バグってるぜ。



 推測)後遺症の残るものではなかった
 おそらく戦いの多い三国時代でも『どうすれば人間が壊れる』か『死ぬ』かは研究されていたと考えられる。『治す』ことは出来ないが、治る怪我かどうかは同様の怪我からの経過や治った症例結果の積み重ねで分かったのではないだろうか……。
 まあ華佗もいるしね。



 結果)洛陽動乱ー洛陽の戦い
 この戦いで董卓側は、兵数は曹操側の損失を超える騎馬兵三千を含む六千以上失ったが将に大きな怪我はなかった。対する曹操は、四千程の兵数で済んだが、夏侯淵、許緒は重症であった。特に夏侯淵は右眼を失うことになった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➋➒話 小話+ 一刀微動す

そろそろと始まります。
一応、小話から読んで頂ければ。(振り有)

●司馬八令嬢のおさらい
全員薄緑の髪。ぐるぐるの瞳。司馬懿以外は胸が大きい、おっきいんです
司馬朗 伯達(優華 ヨウファ) ………… 司馬家長女。背の高い優しい子(17話最後に小話)
司馬懿 仲達(明華 ミンファ) ………… 眠そうだが剣の腕も立つ子。胸は並程有
司馬孚 叔達(蘭華 ランファ) ………… 絶世の美女な子
司馬馗 季達(和華 ホウファ) ………… ほわわんな子(19話最後に小話)
司馬恂 顕達(環華 ファンファ)………… ツンデレ眼鏡の子
司馬進 恵達(白華 パイファ)………… ハキハキハッキリな子(19話最後に小話)
司馬通 雅達(思華 フーファ) ………… 優雅で無口な子(29話頭に小話)
司馬敏 幼達(小嵐華 シャオランファ)…… 日焼けしてて元気で剣才有りな子


 

 

 

司馬八令嬢小話(思華編)『それは、妄想思考の渦を巻く者』

 

 司馬家の八人姉妹の七女は、名を司馬通(しばとう)、字を雅達(がたつ)、真名を思華(フーファ)という。

 優雅なカーブを持つ髪に、優雅な眼差し。背は姉妹の中では二番目に小さい。彼女のその全体の雰囲気が醸し出す、可憐な可愛さは普段着る衣装とも相まって思わず抱き締めたくなるほどだ。

 そんな少女だが、彼女には大きな欠点があった。

 それは他人に対して、上手く話をすることが出来ないのだ。良く言えば無口。

 

「………ぁぅぅ……」

 

 身内であれば、ある程度普通。長年家に仕える者で辛うじて。他人の場合、その人物の前に立つことすら難しい状況になる。

 だが、司馬家は非常に名門で裕福であったので、それでも問題は無かった。仕事をせず、外に出なくても食べて生きていくには全く困ることは無いと言える。

 しかし本人は、実はそのような消極的な人生を考えていなかったのだ。

 もちろん、長姉らに協力するのも吝かではない。身内に囲まれる環境は、気を使わなくて済むため非常に望ましい。しかしそれは、『万が一の場合』。

 彼女は―――『野望』を持っていた。ほんの(ささ)やかだが。

 

 

(自分で見い出した武人に仕え、その軍師になりたい。……主様は、諸侯ぐらいにはなって欲しいな♪)

 

 

 ――いや、案外細やかでは無かった。もはや『自信家』と言える水準だ。

 ここで分かる様に、彼女の思考は普通の者達と変わらない。いや、より活発と言えるかも知れない。

 ある日、一人の若い男が屋敷に運ばれて来たことから『彼女の野望』は『急に』始まろうとしていた。

 

 その男の人は、たった一人でそして無手にて、街内で何人も切り殺した上で逃げようとした凶悪な賊を打倒したと言う。操の固い母が認め、本屋敷に住まわせるらしい。こっそり姉妹らと見に行ったが、その時は姿を拝む事が出来ずに終わる。

 そしてその日の夜に、歓待の宴の席で彼と出会う事に。

 その際、姉の明華(ミンファ)(司馬懿)より実剣を向けられるも平然と苦笑いで受け流していた。

 

(なんて動じない方なの。……以前の事はよく覚えていないと言う方らしいけど、きっと一角の人物に違いない。厳しい雰囲気の母を制してのあの融和な対応。優しい雰囲気。ふふっ、私の『野望』にピッタリ♪ でも……私の事を気に入って認めて頂けるかしら。ヨシ!ここは頑張らなくちゃ)

 

「……ぅ七女……。司馬通(しばとう)雅達(がたつ)ですぅ……。北郷様……ょぅこそ」

 

 挨拶もスゴく頑張った。記録的だ、彼女にしては。やはり『野望』への想いの成せる技なのか。

 ほどなく宴が始まる。

 まず、母からお酒を彼の杯へ注ぎ、一芸を披露し始める。

 そして――母の胸が、揺れる揺れる。

 

(こ、これは……母上様、あざとい。ずっと身持ちの固い母上様が、外の男の方の前で『胸を揺らして』舞うのは見たことがないもの。積極的なのですね。むう、私も胸は結構大きいと思いますけど、母上様には適いませんし、舞にも母上様を上回る自信が……。でもせめて一芸ぐらいは)

 

 自慢ではないが、これまで外からの客人を招いた宴にほぼ出たことがない彼女である。姉の司馬進が、事前に「一緒に演奏でもしましょうか?」と言ってくれてて力強い。これで普通に彼の前へ颯爽と酒を注ぎに立つことが出来る。

 だが、いざ順番が回って来ると体は、思考とは真逆のたどたどしい足取りで若い彼の前へ進み出る。

 

「…ぅぞ」

 

 気迫で声を絞り出す。なんとか言えた……最低限の内容は。

 ヤバかった。喉が鳴らず、無音になるところだ。

 でも、彼の表情は自然な形でにこやかであった。

 中央からの客人らは決まって、彼女のたどたどしい様子に、小馬鹿にした物珍しそうな目線や不快感を表すのだが、彼の表情や優しい視線にそういった様子は見られない。

 思華(フーファ)の妄想は、飛躍し爆発する。

 

(目と目で通じ合う、主従関係~。なんて素敵なんでしょう♪)

 

 その直後の演奏も頑張った。

 彼は笑顔で、家族らに溶け込み盛んに『私だけの為に』拍手してくれている。彼女には、バッチリ『そう見えて』いた。

 

(ああ、北郷様~。この方となら天下も取れそうかも♪ 今宵から大戦略を練らなくちゃ)

 

 彼女も司馬防の娘で、司馬朗らの妹なのだ。気持ちが完全に突っ走っていた。

 

 次の日の早朝から姉妹らと彼の客間前へ押しかけ、思華は長い間モジモジとしていた後に彼へ頑張って告げる。

 

「……ぁぁぅ、ぉはょぅござぃますぅ……」

 

 すると彼は、彼女の頭を優しく撫でながら「おはよう、雅達(がたつ)さん」と笑顔で返事をくれた。

 思華は――蕩けていた。胸中の大戦略と共に。

 

(まず、温県で北郷様の名の元に二千程義勇兵を集め、纏まりのない幷州の上党郡辺りから破竹の如く勢力を伸ばし、幷州を平定。公孫賛と手を結び袁紹領を掠め取っていく。袁紹の勢力を弱めて、この河内を含む司隷に勢力を伸ばして、中央からのお墨付きを得る。そして公孫賛と袁紹を倒す。北方の幽州と冀州の一部を公孫賛に譲り、共同で南方へ進出。余力を残しつつ曹操らと手を組んで青洲を平定。この直後公孫賛と共同して、ここで曹操も倒す。この段階で幷州、冀州、予州、兗州、司隷の一部を平定。そのまま南方へ進み、徐州、揚州、荊州、交州……ああ、百万の兵らと大陸制覇はもう少しです……我が主様♪)

 

 「きゅぅ」と可愛く声を上げて、彼女は『北郷様』へ抱き付いていた―――。

 

 

 

 彼女の『野望』は、まだ始まったばかりである。

 

 

 

小話(思華編)END

 

 

 

 

                 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 時代と事態は、風雲急を告げ転がり始める。

 一刀の滞在する『司馬家』がある司隷河内郡温県へ、洛陽での動乱が伝わって来たのはその日の昼前であった。

 

 『今明朝、司隷京兆尹太守董卓、弘農太守皇甫嵩らが反逆し、皇帝であられる霊帝を武力で廃すと共に、新皇帝として献帝の擁立を行ない候』

 

 それはまず、温県県令の王渙(オウカン)の所へ伝えられた。そして同時に伝達の馬は、この河内郡太守の朱儁将軍の元へも走っていく。

 王渙は温城内宮城の謁見の間にて、その報を受け衝撃に震える。

 彼女にはこの街を守って行く義務がある。

 この温県は、都の洛陽から目と鼻の先にあった。そういう周辺地域は、中央からの影響を強く受けてしまうのだ。今までは黄巾党の乱でも守られ、安定していた都洛陽に近接する良い面を『経済』や『治安』で受けて来たが――今後は『動乱』の影響をまともに受けることから逃れられない。

 ここ河内郡の太守、朱儁将軍は廃された霊帝派側の勢力でもある。

 今の都の献帝を擁立した董卓らとは、敵対することになることは容易く想像出来た。

 

(そして、霊帝は生死不明。曹操軍の東への全面撤退。泥沼……ですね)

 

 まだ董卓軍らが霊帝と曹操まで討ち一方的なら、霊帝派側も諦めて纏まりようもあったかもしれない、だが。

 県令の彼女は、駆けつけてきた文官の長らや県の治安の長(県尉)へ静かに命を発する。

 

「直ちに予備役の招集準備に入りなさい。そして城内の兵糧、武具の急ぎ再確認を。我々は―――朱儁将軍の命を待つ。また、緊急の街会議を招集します、各所へ通達なさい。それと――」

 

 彼女は、もう一つ指示を出していた。

 

 

 

 その衝撃的動乱の知らせは、ここ数日行われている『近隣の街の大英雄【北郷一刀様】』に対して大勢の来客への応対を行っている司馬家にも齎(もたら)される。

 一刀がこの街へ来た際、一人の賊を倒した事で付いた『街の英雄』と言う彼の称号も大分とスケールアップしている感じであったが、そんなことが一気に霞むほどの内容であった。

 

 『董卓らの皇帝陛下への反逆と新皇帝の擁立―――』

 

 都への街道も一時封鎖され、街へ引き返してきた商人らから事情が伝わって来たという。応接屋敷の大広間は徐々に騒然となっていく。

 

 この国、この大陸はどうなるのか。

 明日からの生活は大丈夫なのか。

 都に近いここも戦場になるのだろうか。

 もう平和な日々はないのでは―――。

 

 誰か――――オシエテ、何カ希望ノコトバヲ。

 

 そういった思いからだろう、ふとその場の全員が徐々に―――『大英雄』と呼ばれている一刀の方を向いていったのである。

 一刀もそれに気が付く。

 その中には司馬家の面々、司馬防に司馬朗、そしてその場に偶々いた司馬懿までもが彼を見つめていた。

 

(……えっ?…………この俺に、どうしろと……………?)

 

 司馬防らの不安げな姿を、この場では英雄的な振る舞いを強いられている一刀は、静かに自らも混乱する思考の中で、ただ見つめ返す事しか出来ない。

 丁度その時、その場へ一人の使者が訪れる。

 ――県令からの伝令と言う形で。

 

 司馬家での『近隣の街の大英雄』に対して周辺各地から訪れる、大勢の来客への応対は急遽終了となった。当分それどころではなくなったからだ。

 応接屋敷の大広間とは別の奥の一室にて、直ちに司馬防と司馬朗に司馬懿、そして一刀も、訪れて来た使者よりその伝令を聞かされる。

 使者は静かに木簡を箱から出すと、読み上げる。

 

「司馬家には予備役兵千五百をご準備の上、このあと太守様の援軍も合流する温の街の防衛に協力いただきたい。司馬仲達殿にはその部隊長として二千人隊長をお願いしたい。副長等についてはお任せいたします、と」

 

 伝令と言うよりも協力要請であった。

 司馬家は街の顔役の一つで協力者ではあるが、家ごとに指示系統は独立している。県令の王渙や太守の朱儁将軍の家臣という訳では無いのだ。

 そして、本当に司馬家は一声掛ければ千人単位で人を動員できる模様である。

 

(太守云々言ってたけど……臥所でモミモミペロペロスリスリさせてくれる水華(シェイファ:司馬防)さんも、本気で怒らせるとホントに大変な事になるんだな……ガチで一族、いや区域ごと皆殺しに)

 

 だが、話はそれだけでは終わらない。

 

「また客人の北郷殿には、勝手ながら―――洛陽探索をお願いしたいと、王渙様が」

「「えっ」」「え゛っ」

 

 一刀自身まで、声が出てしまっていた。ただ、想定内なのか司馬懿は沈黙していたが。

 

 司馬家は間もなく『食堂広間』にて、花も飾られた漆黒の円卓を囲み全員揃っての昼食を迎える。(席クジで、朝から一刀の横は司馬恂と司馬敏)

 先の使者からあの後、急遽『街会議』を招集するという事も知らされ、その席で協力の内容と対策を決定するとの事になっている。

 もちろん出席しなければ中立か、敵になるという現状での意志表明にもなってくる。司馬家もよく考えて行動する必要に迫られていた。

 しかし、まずは全ての活力となる食事である。腹が減ってはなんとやら。

 司馬朗の「では、いただきましょう」の声で、皆「いただきます」と食事は始まる。

 司馬家の娘達は、既に全員が字を頂く一人前の扱いである。

 なので、先ほどの使者から伝えられた話は、使用人長ら以外を下がらせているこの場でも行われていた。

 

 董卓側の軍は、非常に強いと言う話だ。

 領土は、膨大な人口と市場を持つ洛陽のある司隷河南尹(かなんいん)も加えたことになり、兵数は総数で二十万以上を優に動員出来るだろう。

 さらに、配下の将軍らも飛将軍呂布を始め、張遼、華雄、長安にも高順。そして、元官軍の皇甫嵩将軍、盧植将軍らもおり非常に精強を誇る。

 緻密な作戦や寡兵であっただろうとはいえ、あの精鋭揃いという曹操軍を一蹴し完全撤退させたと言う実力は本物と考えていいと思われる。

 一方、この司隷河内の朱儁将軍旗下は総兵力は五万強程なのだ。将軍以外の将と言えるのは文官の長女の朱符と次女の武の立つ『あの』朱皓ぐらいか。

 河内は、洛陽に近く平地も多い地で要害は少ない。

 一概に『じゃあ参戦しよう』と気軽にいかないのは当然と言える。

 ただ、董卓軍もこちらへ向けて全軍を出せる訳では無い。

 洛陽から引き上げた曹操の持つ総兵力は陳留を中心に八万を下らないはずだ。また、霊帝派の筆頭と言える袁紹、そして南の袁術らも、それそれが遠征軍だけで十万、五万を優に動かせる規模の諸侯達だ。他にも公孫賛や劉表、陶謙等とこれらが連合を組んで動けば董卓側は劣勢に成りえるはずだ。

 そんな姉妹らの話を一刀は食事をしながら静かに聞いている。

 それは一刀に、『董卓の台頭』が三国志の知識としてあるものだからだ。非情で身勝手な政策から、この後は袁紹らの『反董卓連合』に敗北という流れで、繁栄を極めた広大な都の洛陽も焼き払われるという展開だったはずである。

 

(やっぱり、そういう流れになるのかな)

 

 先日、張角が青洲で生きているということを夜の寝台で司馬朗から聞いて動揺したが、この状況から完全に別物という訳では無さそうに聞こえる。

 そして家族皆での話は進み、意見を姉妹らが出し合い討論した上で、県令の要請に参加すべきかどうかの考えが出され始めていた。

 そんな、司馬家の面々の話を横で聞きつつ、一刀は少しぼんやりと考えていた。

 周辺の街の人達が去り際に、一刀へ向かって言った声が色々あったが、その中で一人の老婆の残した神へ拝むような言葉が思い出された。

 

『ああ英雄様、皆をお守りください。街を家を人を―――皆の幸せを、そして子供や孫達の希望を―――』

 

 その時は自身も動揺があり、「なんとか力になれれば」と咄嗟で返したが……。

 戦乱は全てを飲み込み、丸ごと磨り潰し奪っていく。

 一刀は、この大陸の本当に悲惨な現実の一部を実際に見て知っていた。『強大で理不尽な暴力』により、丸焼けになった先日まで人々の笑顔で溢れていたであろう街一つが呆気なく出来上がってしまうという惨状の跡を。

 

(俺には、命懸けで雲華に授けてもらった『神気瞬導』による結構な力がある。弱い人達を守るために、彼女に助けられた俺も―――何か出来ることがあるんじゃないのか。盗賊団を捉えた時の様に……)

 

 先程、県令の使者から伝えられた『洛陽探索』については聞いた瞬間、「俺がかよ?」と余り乗り気ではなかったが、一刀のその気持ちが静かに、そして大きく変わりつつあった。

 

 そう―――個人的な旅は何時でも出来る。世話になっていて愛すべき『司馬家』のあるこの街が間近で起こった騒乱で丸ごと無くなるかもしれないのだ……。まずここでの戦いが終わるまで、街の平和のメドが付くまでは『皆と頑張ろうか』と。

 

 

 周りの八令嬢の姉妹達の考えが結構出揃っていた。

 司馬孚曰く、「普通に考えれば逆臣の討伐。『大乱』を起こしつつある責任、世論や諸侯は反董卓へ集いましょう。出馬なきは当家の恥かと」

 司馬馗曰く、「董卓らは~長安等の領地内で庶民寄りの~『良い政治』を行なっていると聞き~ます。腐敗していた~中央に鉄槌を下したとも言え~ます。個人的には~董卓側を評価し~ます。ですが~この街を攻撃するのであれば~皆を守るため全力で闘うのみ~です」

 司馬恂曰く、「司馬家の為に―――最終的に勝つ方へ付く。反董卓であるべき」

 司馬進曰く、「どちらに世論が集まるのか……霊帝が生死不明とか。生きていれば反董卓。亡くなっていれば董卓側が有利に。ここは様子見も大事かと」

 司馬通曰く、「………ょぅす見で……(幷州へ進出好機♪)」

 司馬敏曰く、「義というものがあります! 理由はどうあれ『武での強奪』! 正義は董卓らには有りません! 討たれるべくして討つべし!」

 

 この辺りで少し急ぎになったが皆、昼食を終える。円卓上は皿類が速やかに片付けられて、使用人長の銀さんによりお茶が出される。また、床の赤い敷物の上には都洛陽を含む一丈半(三・五メートル)四方の大きな司隷河内の地図が広げられ、その周りを皆で囲んでいく。

 そして落ち着いたところで、長姉司馬朗の意見の前に満を持して司馬家の頭脳、司馬懿が述べる。

 

「司馬孚の意見は普通に考えればもっとも。これは逆臣の討伐だ。周辺の有力な諸侯らが動けば十分勝機がある。緒戦さえ凌げば街は十分守れよう。策もある……だが今回は同時に別の動きへも慎重に様子を見た方がいい、姉さん、母君」

 

「「「「「「「「「えっ?」」」」」」」」」

 

 司馬懿以外の皆から疑問符な声が返って来る。

 司馬懿の意見を受けて、このあと纏めの発言をしようとしていた司馬朗が尋ねる。

 

「何か、気になることでも?」

 

 司馬懿には『先見の感』があるのだ。皆、何度かソレに助けられている。一刀は知らないが、もはやそれは司馬家全員が無視できないモノに成っている。

 

 

 

「……何か―――もっと大きなことが起こる気がする……これからの戦い、どう転んでもいやなモノしか感じられない」

 

 

 

「「「「「「「「「え゛っ」」」」」」」」」

 

 司馬懿の述べた戦慄の発言に、全員が固まる。

 

 『皇帝が反逆で変わるよりももっと大きなことって?! 一体何が……』

 

 入口等で外を監視する使用人長らまでも固まっている様子だ。彼女らは口が堅い。そして彼女らも、司馬懿の『先見の感』のほどを良く知っているのだ。

 

「何か……それ以上のことが(今の状況でまだ入口と)……そう」

 

 家主の司馬防が、目線を落とし難しい顔をしてそう呟き考え始める。が、すぐに司馬朗を見て促した。

 

「優華、司馬家長子である貴方の意見を聞かせて頂戴」

「はい。この住み慣れた故郷の温の街を守ります。住む人を、子供達を守りたい。明華の言う……如何なる困難が起ころうと。

 そして今一つ。董卓という方は、『悪政』を断とうとしたのかもしれない。でも、最後の結末まできちんと見ていたのでしょうか。この段階で、大きな争いの種が残った以上『失敗』したと言えるのではないかと。もはや大きな戦乱を生み出し、関係のない多くの人々を巻き込みつつあるこの現状の『責任』を取ってもらう必要があると思います。私は―――反董卓を指示(支持)します。では母様」

「ええ。でも、その前に……一刀殿、貴方の意見を聞かせて欲しいわ」

 

 母である司馬防の言葉と、真名を預けた者の意見を、兄と呼ぶ者の意見を聞こうと司馬家家族の皆が一刀の方を向く。

 一刀は静かに皆を見回すと話し出す。

 

「………俺には大局は良く分からない。多分、皆の方が良く分かっているんだと思う。でも、優華の意見は尤もだと思う。この街を、人を戦乱から守らなくちゃ。ここへ来てまだそんなに経っていないけど、皆には世話になったし此処はいい街だと思う。俺もやれることは何でもやるよ。一緒に守ろう?」

 

 一刀はそう言って皆へ微笑んだ。

 司馬防も頷くと、自らの意見を述べる。

 

「これから大陸は、難しい時代になりそうね。様子を見ながら皆で慎重に進みましょう。でも最後に残るのは民や人の意志だと思います。それに助けられる指導者か、それとも利用する指導者か……、それとも――それ以上の何か……か。すでに『賽は投げられた』みたいだけれど、今はこの街を守りましょう。それと、明華の感では優華の仕官先の予定である曹軍の未来は悪くないハズ。ここは反董卓の勝利を信じ、県令の要請に応えようと思います。――いいかしら、私の愛する人達?」

「「「「「「「「はい!」」」」」」」」

 

 一刀も頷く。

 それらを受けた司馬防は指示を出し始める。

 

「和華、直ちに司馬家ゆかりの者達への招集を。各区画の代表へ通達なさい。数は、ひとまず千五百です」

「はい~母上~様」

 

 司馬馗は、直ちに使用人長の開けてくれた出口から『ほわわん』と出ていく。

 

「明華(ミンファ)、今回司馬の兵団、千五百を率いるのは貴方です。副官に環華(ファンファ)を付けます。しっかりなさい」

「はい、母君」「母上様、分かりました」

「優華、今次作戦参謀は貴方です。補佐に白華を付けます。後方の兵站、兵装の準備もしっかりね」

「「はい、母様」」

「蘭華、貴方はこの屋敷の事を思華と頼みます」

「はい、お母(かあ)様」「……はぃ……ぉヵぁさまぁ」

 

 そして司馬防は、残る一刀と司馬敏を見る。

 

(俺とシャオランが、例の『洛陽探索』になるのか……まあ、適役かな)

 

「一刀殿、これ後に街会議へ向かいます。その席で、恐らく依頼された『洛陽探索』の任に就く事になると思います」

「はい」

「その際、同行者をして、小嵐華、そして――――私の予定です」

「は?」

 

 『私』と言われ、一刀は一瞬『良く分からなかった』のだが、その瞬間―――

 

「「異議有りーーーーーーーーーーですっ!!」」

 

 司馬朗と司馬孚が、司馬防へと食って掛かる。母対娘×2での開戦である。

 

「母様、それはイケマセン!」

「そうです、それならば薄布(ベーゼ風)を被ってでも私が洛陽へ行きます!(今夜は私が添い寝の番ですし)」

 

 家主で総大将に当たる母を危険な敵情視察に行かせられない―――のもあるけど、夜が母の連荘になるのではないですか!と両者ともそんなところの方が心配であった。

 だが司馬防も正論と親の威厳で対抗する。

 

「娘達よ、最新の現地を良く知る者が同行する事に、何か問題でも?」

「「ぐっ(そうきますか)」」

「それに、剣の腕で私に勝てますか?」

「「ぐぐっ(確かにお強い……)」」

 

 そう、実は動体視力と言い、剣技といい、司馬防もこの娘二人以上に結構ヤルのである。

 娘達に反論を許さなかったのだ。さすが母である。

 何といってもこれまで、司馬の兵団を率いていたのは彼女なのだから。

 

「優華、私の不在時は貴方が兵団の総指揮をなさい」

「はい……母さ―――」

「水華殿、ちょっと待ってください」

 

 司馬防と落胆気味の娘二人は、声を掛けてきた一刀の方を見る。

 

「俺は、水華殿の同行には反対です」

「………なぜ、です?」

「水華殿、概略でも地図があれば何とかなります。今回は、相当過酷な道中と現場だと思います。小嵐華程の動きが出来るなら大丈夫だと思いますが、出来ますか?」

「………(ああ、彼の気持ちに――今度は私が言い返せないのね)」

「心配なんです、貴方が」

 

 そう言って一刀は、司馬防の手を取って静かに見詰める。

 

「(ズルイ……これではもう何も言い返せないわ……でも嬉しい)わ、分かりましたわ……一刀殿がそう言われるなら、従いましょう」

 

 司馬防は、少女の様に頬を赤く染めながら見詰め合う一刀へ従った。

 司馬朗と司馬孚ら姉妹らも驚く。

 

(あの厳しい母様が、意見を引っ込めるなんて……初めて見るかも)

 

 顔役たちが集う街会議や、太守を前にしても意見を堂々と主張して来た母であった。だが、愛は人を変えるのだろう……そんな思いが垣間見えた。

 という事で場が、ひと段落ついたかに思えた頃、再びひと波乱起こる。

 使用人の一人が知らせを持って広間へ入って来た。

 

「大変です、伯達お嬢様! 守衛の楊(よう)殿が―――『書簡』を持ったまま帰って来ました」

「! ……そうですか」

 

 司馬朗の顔が、右へ目線を外し複雑な表情になる。

 楊は、司馬朗より曹操宛に仕官の返事を記す書簡を託された司馬家使用人きっての武を持つ女性守衛だ。別室で待っていた楊の下へ、司馬朗は食堂広間を抜け出し急ぎやって来た。

 ここ数日余り休んでいないのだろう、楊の表情に疲れが見て取れる。

 

「お嬢様、申し訳ございません。予定通り陳留へ行き、城を預かっていた曹仁将軍へ会うも、現在孟徳様は洛陽駐留とのことで、急ぎ駐留先の洛陽へ向かい今朝到着しましたが―――『事変』を受け曹軍は東へ全軍敗走したとのことで、曹孟徳様に会えておりません。敗走という重大な状況を受け、その場で判断しかねましたので再度ご指示をお願いしたく戻ってまいりました」

「……そうですか。楊、苦労を掛けましたね。書簡は?」

「はっ、こちらに」

 

 司馬朗は、出された書簡の入った箱を受け取ると―――楊へ言葉を伝える。

 

「貴方は、今日はゆっくりと休みなさい」

「しかし―――」

「今は、曹操様側にしろ、こちら側にしろ―――それどころでは無くなりました(洛陽探索から戻られれば、そう、一刀様を高く大きく羽ばたかせる『好機』が来ていますし)」

 

 司馬朗は再度、楊へ休むように伝えると部屋を後にした。

 

 司馬家はすでに次へと動き始めている。

 一刀は食堂から客間へ戻り、使用人長の一人である銀さんに急いで着替えさせてもらっていた。今回も公式の場で着ている、白地に銀糸を織り込まれている形のキラキラした生地の中華風な上着とズボン型の衣装だ。シンプルで動き易いながら贅沢な装いで一刀も気に入っている。

 

(曹操陣営への仕官の件、優華はどうするつもりなんだろうな……)

 

 そのことを考えながら身支度を進める。

 このあと、司馬防、司馬朗、司馬懿と共に『作戦会議』とも言える街会議へ乗り込む予定である。一刀は『龍月の剣』を、飾られていた剣台から掴み上げ腰に帯びる。

 以前の街会議で、剣を帯びた時とは意味合いが違う。前は『お飾りもの』な感じで付帯していたが、今日のは賊退治の時と同じ様に、非常時の完全に『人を倒す為の武器』として帯びているのだ。いつもより気持ち的に少し重たく感じていた。

 本屋敷の立派で広い玄関口へ二頭立ての馬車が回されてくる。朱色をメインにアクセントと車輪周りを黒色で塗られ、金具等に金銀細工が多く使われているいつもの高機能な車が付いている。すでに玄関前に出揃っていた一刀ら四人は、壁板を嵌められた形のその車へ後尾より乗り込む。

 今の時刻は、未時正刻に一刻強程前(午後一時四十分)頃だ。

 司馬朗は、軍師チックで優雅な鳥の羽の扇を持っている。司馬懿も一刀の様に帯剣している。これも司馬家に伝わる名剣だそうだ。

 一方司馬防は……一刀へ桃尻をピッタリとくっ付けて彼の手をサワサワと握っていた。

 向かいにいつもの眠そうな顔の司馬懿と座っている、ヤキモキ顔な司馬朗の扇の木製取っ手が微妙にミシミシと鳴っているのは気の所為ではない。

 一刀は苦笑いのあと、司馬朗へ先ほどの『戻って来た仕官の書簡』の件を尋ねる。すでに司馬防らは、一刀が玄関口へ来る前に聞いている様子だ。一刀の重要な質問にも司馬防らの口許は優しく緩んでいる。

 彼に聞かれた司馬朗は答える。

 

「今はいいのです。それより―――先にすることが出来ましたので」

 

 最終的には彼女自身で決めなければならない事であり「そ、そう」と一刀は返すのみであった。確かに曹操側も現在敗走中らしいし、こちらも強大な董卓軍が大軍で街へ押し寄せて来るかもしれないというトンデモナイ状況ではある。彼女の言葉に納得せざるを得ない。でも『この時期だからこそ、よりチャンスだったんじゃ?』とも彼はふと思った……。

 ほどなく街を抜け県令らが集い『街会議』が開かれる温県城へ到着する。その宮城内屋敷の一つの奥にある広き部屋、すでにコの字に近い形で並べられた大きめな机群が用意されている謁見の間へと進む。

 今日はコの字の位置以外にも机が並べられ、顔役の他にも多くの有力者が集まっているようであった。

 有力者の上位に位置する司馬防達の姿に、集う有力者らから軽い会釈や挨拶の礼を受ける。

 すぐに県令の王渙が、笑顔で近づいて来た。司馬家の戦力は当てになるのだ。戦いになれば、強い味方は多いに越したことはない。

 司馬防が先に軽く礼を取ると司馬朗や一刀らもそれに倣い礼を取る。

 

「おおっ建公殿、良く来られました。お待ちしていましたよ。良い時期に都からこちらへお戻りでしたね」

「ええ。王渙殿もお変わりなく。我が司馬家もお力になれればと」

 

 王渙が、司馬防の言葉と後ろに続く一刀ら三人を一瞬見て頷く。長子司馬朗、奇才司馬懿、客人ながら一族同然と言う若き『街の大英雄』北郷一刀と、司馬家の本気振りがそれで見て取れる面子が来ているのだ。

 司馬家の到着で、体裁が整ったのだろう。王渙が告げる。

 

「そろそろ街会議を始めましょう」

 

 県令の声に、集まっていた街の有力者らが席についてゆく。そして場が鎮まると王渙が話始める。

 

「まず状況確認になりますが―――ここでお一人、ご紹介します」

 

 王渙の言葉と共に、謁見の間の入口傍の銅鑼が鳴り、大きな扉が使用人らにより開かれる。皆の目がそちらへと向いて行く。そこには一人の、肩の辺りで綺麗に切り揃えられた薄い紫の髪を揺らし、淡い紺と黄色の動き易そうな服に鎧を纏った女の子が静かに立っていた。

 それは、あの一刀の賊討伐の宴で中央から来ていたと聞いていた確か、王匡(おうきょう)という何進大将軍に仕える武官の子であった。

 

「朝方まで洛陽におられたという王匡公節(こうせつ)殿です。ご存知の方もおられると思いますが、彼女は何進大将軍の下で地方への軍需物資の補給など、後方担当の役をされていた方であります」

 

 県令の拍手に周りも続き、謁見の間に拍手の輪が広がる。

 彼女は、コの字の形に机が置かれたところも突き抜けるように、足元へ敷かれている赤い絨毯の上を進んで来ると、県令の王渙の前まで進み出て一度礼を取る。

 そして皆へ振り返ると僅かに俯き気味だった顔をゆっくりと上げる。

 

「王渙殿の紹介、痛み入ります。王公節にございます。今朝ほど、逆臣董卓らは総勢五万程の軍で反乱を起こし、宮城等の洛陽内の主要な施設を抑えております。私も城内におり危ない所でしたが、隙を付いて城壁を越えて郭内へ、そして協力者らの助けもあり配下の五十騎程で追手を躱しつつ洛陽の外郭を脱出してまいりました」

「「「おおーー」」」

 

 彼女の武勇と行動力を示す脱出逃避行に声が上がる。彼女は言葉を続ける。

 

「洛陽城内で何進大将軍は飛将軍呂布に切られ、何太后様は捕まり、十常侍の方々も一人夏惲殿が捕まるもそれ以外は抵抗の上、炎上する楼閣と運命を共に。ただ趙忠殿のみが霊帝陛下と共に城外へ脱出されたのではと協力者らに聞きました。また、私と同様に外へ出れた者は、かなり少ないと思います。皆捕まったか切られたかと。私は割と早い段階で外へ出れましたので助かりましたが、外にもその後多くの兵が出て来ていましたので、あの後の突破はかなり難しくなったと考えられます。……勝手ながら私も叶いますなら、皆様とここで何進大将軍への恩を、闘いと言う形で返したいと参上しました」

「貴重な情報に感謝します。さあ、王匡殿こちらへ」

 

 何進は私服を肥やす人物であったが、協力者や部下への気前は悪くなかったのだ。王匡自身は余り賄賂に染まることはなく、堅実に職務を熟す人物であった。武も立ち、仕事も優秀だったので何進は彼女を普通に好遇していた。そのため、王匡は何進には恩を感じていたのだ。人というのは、悪い一面だけでは測れないところもあるのだろう。

 県令の王渙は、正面に並ぶ三つの机の中心に座っているが、王匡へ右側の机の席の一つを勧める。

 司馬家の机が前に有る位置だ。宴で面識のある一刀らは静かに声を掛ける。

 

「大変でしたね」

「追手は大丈夫でしたか、怪我とか」

「幸い、追手は普通の兵達でしたので。将らが率いていれば危なかったでしょうけど」

 

 董卓の配下の将には、三国志を代表する呂布や張遼らがいるという話なのだ。これから洛陽へ探索で乗り込もうと言う一刀らには、まさに他人ごとではない話と言える。

 街会議の話は進む。

 王匡の話を受け、霊帝派の洛陽内の残りは殆ど投獄されていると予想された。事前に董卓側の参謀らは、捕縛する人物らの特定を進めていたのだろう。

 洛陽での内部工作は、ほぼ無理な状況の模様だ。

 そしてこの街自体の対応の話に移ってゆく。

 県令は朱儁将軍の命を待って、この街を防衛すると皆へ告げる。元々温県の街は河内太守の朱儁将軍の支配下なのだ。王渙自身も太守により任命されている。その王渙の呼びかけで集まった有力者達である。異論を唱える声は上がらなかった。

 打って出るとなれば異論もあろうが、自分達の財産のあるこの街を守ることは『当然』の判断である。

 それからしばらくは、現在の兵力、兵糧、装備の現状の確認報告。そして予備役の招集状況。そして担当割。

 県令の王渙が出す兵で二千を超えるほどだ。司馬家の千五百はかなりの数と言える。

 各有力者らの予備役を合わせれば、とりあえず六千を超える兵が街を守ることになる模様だ。予備役といっても街では、このご時勢であり半月、ひと月ごとに区域単位で集団訓練が行われており、日々の農作業等の合間や個別に準備はされていたと言う。

 それに加え「これから太守様からの援軍もあるだろう。また、反董卓の諸侯も近く動き始めよう」と王渙は語気を強め述べる。

 温県は司隷河内でも比較的大きな街であり、朱儁将軍もここを早々に失うと全軍の士気に関わると考えていると見ている。

 そんな感じに話は進んでいるが今の所、司馬家の頭脳である司馬懿からは特に発言は無い。いつも通り眠そうな目で黙って聞いていた。

 一刀がどうなの?と聞いて見ると。

 

「別に………一刀兄さんの洛陽探索の方が気になってる」

 

 そんなマイペースな返事が返って来た。(頼りないから?と)意味合いは分からないが、司馬懿に気に掛けて貰えて彼は少し嬉しい感じだ。

 丁度、そのときに県令からその話が出て来た。

 

「温県での準備はこのように順調に進められると考えています。気になるのは董卓側の動きです。どれほどの規模の軍がこの温県へ、司隷河内へと向けられるのか、それを率いる将軍は誰なのかを早期に掴む必要があります」

 

 当然である。温県の予備役にはまだ余力がある。しかし、敵の規模を想定せずに総動員しても効果は上がらない。動員時期には最良のタイミングがあるのだ。

 そのためには、董卓側の現地で用意される兵団規模を正確に掴めればいいのだ。

 

「そこで、洛陽内での董卓軍側戦力の準備動向について探索が必要となります。非常に困難な役目となるでしょう。また洛陽からはこの街は距離が近いので、対応の期間を考えるとすぐに情報が欲しいところなのです」

 

 そう、予備役を招集するにも時間が多少は掛かる。

 情報を掴んで、出来るだけ早く戻ってくる必要があった。

 

「―――北郷一刀殿。この難しいお役目を、董卓側へ顔の知られていないであろう貴方を中心にお願いしたい」

「「「「「「おおーーー」」」」」」

「武勇も申し分なし」

「確かに適任ですなぁ」

 

 この謁見の間に居る多くの有力者から、『街の大英雄』への期待の声が上がる。

 

「北郷殿、どうでしょうか?」

 

 皆は当然知らない事だが、その気になれば馬よりも断然早くここへ伝えられる一刀なのだ。『神気瞬導』は武術だけではないのである。それに、一刀にはまだ『奥の手』もあった。

 そして……『どうでしょうか?』……以前は、内容を完全に聞き漏らした時に聞かされた、王渙からの苦い確認の言葉だ。その時はマヌケ同然に答えてしまっていた。

 だが今回は違う。一刀は全ての内容とリスクを把握した上で――答えた。

 

 

 

「もちろん、喜んで!」

 

 

 

「おおぉ、さすがだ!!」

「「「わぁ!」」」

「助かりますぞ!」

 

 回りの顔役らや有力者達からは『英雄』を称えるような感謝や歓声の声が上がる。

 その中に司馬家の面々の「お願いしますね、一刀殿」「頑張ってください」「一刀兄さん頼むわよ」という声も聞こえてくる。

 広い洛陽ので状況把握に、後ほど配下を用意し紹介する事と、副官等の必要については「北郷殿にお任せする」ということになった。

 そして、そろそろ一度全体休憩を取ろうかと王渙が動こうかとした時、一人の武官が彼女の下へ近付くと耳元で囁く。

 すると、王渙の表情が驚きの表情へ。

 そして入口扉付近の銅鑼が鳴ると、ゆっくり大扉が開いていき―――

 

「どうも~皆様、太守朱儁の次女、朱皓です~。援軍の第一陣、二千を連れて来ました~」

「「「「「おおおーーーー」」」」」

「太守様が早くも動かれるかぁ」

「これで、さらに安心だな」

 

 周囲から、太守からの援軍へ歓喜の声が上がる。

 これに司馬懿が横で一言呟く。

 

「……急報とは言え、やけに動きが早いな。あと、兵数も中途半端な感じだが」

「え?(確かに……それに、あの子が帰ったのは昨日だよなぁ)」

 

 一刀が聞き返していると、県令への挨拶も早々に朱皓が司馬家の席の後ろへ。

 援軍を含めた内容の会議は一旦休憩の後と県令が伝え、周りは一刻(十五分)程の全体休憩に入った。

 

「これは司馬家の方々~。また当分、一緒ですねぇ~♪ ふふっ」

 

 何やら彼女の一刀を見る視線が熱い。

 それを見た司馬朗が、条件反射的に発言する。

 

「北郷様は、近々に洛陽へ行かれますので」

「へ?」

 

 予想外の知らせに一瞬、動揺し掛ける朱皓だが、ポンと軽やかに掌を軽くたたく。

 

「私も~洛陽に急な用事が~♪」

 

 しかし、それは彼女の後ろにスッと現れた副官の女史に否定される。確か張(ちょう)と言ったはずだ。

 

「姫様、何て勝手な事を仰せなのですかぁー? この二千の兵も太守様への置手紙で引っ張って来てると言うのにですぞぉー」

「どっちみちここへ送る兵なんだから、後か先かの問題よ~。それに張、私が戻るまで指揮を頼むわ~」

「無茶を言わんでください! 勝手に兵を動かしたのを見過ごした挙句、姫様は敵地の洛陽です、なんて報告したら太守様に私が切られてしまいますから」

「大丈夫~、大丈夫~、北郷殿について行けって言われてるんだから~」

 

 ピクリ。

 司馬防動く。

 自分も我慢してこの地へ残るのである。『小娘』を易々と彼と共に行かせるわけにはいかない。

 

「朱皓殿、念のため早馬で太守殿へ確認されればいかがか? 一時半(三時間)もあれば十分かと。なんでしたら当家から伺いを出しましょうか?」

 

 結構トーンの低いドスの利いた声である。太守へ一歩も引かない意見をする時の迫力であった。

 朱皓の笑いの表情に余裕がなくなる。そして――

 

「い、いや~、冗談はこれぐらいにしておきましょうか~」

「それが宜しいでしょう」

 

 司馬防は、ニッコリと朱皓をたしなめるように横目で微笑んだ。

 

 休憩を合わせ、街会議は二時(四時間)に渡って行われた。

 戦時下における、外からの人の出入りや物資の検査やその基準、キツくしすぎると物価の高騰や物資不足なども起こるため調整には皆でかなりの時間を掛けた。

 そして明後日中には予備役らも揃い、太守軍を加えた総勢八千以上になる兵らが、街の各所の配置へ付き臨戦態勢へ入ることになっている。県令の王渙が纏めているがここの旗頭はすでに、太守軍の軍団長として来ている朱皓となっていた。前の宴会では太守の使者の一人であったが、今回は立場が全く違うのだ。なので、休憩後の後半は中央の席に彼女が座って進められていた。

 また街の手前等での防衛線についても検討が始まり、明日も作戦について一部の知恵者らが城へ集まり検討することになって今日の街会議は終了する。

 一刀はその後、さらに半時(一時間)城内へ居残りとなる。司馬防らへは迎えを頼み、先に屋敷へ戻ってもらった。彼女らもやることは山積みなのだ。

 城内の一室へ通された一刀へは、配下として商人姿に身を変えた、洛陽の地理に明るい精鋭の兵二十人が紹介される。さすがに十キロ四方以上もある広大な洛陽を、司馬敏と二人だけではキツイかなぁとは思っていたところで、助かったと言えた。ただ誰にも言えないが、一刀は人を使うのが初めてと言える。それもあり、今少し変な緊張ある気持ちになっていた。また直接その者達を見回すが、精鋭といっても気の大きさは十人隊長ほどの者が殆どなので無理は絶対しないようにとだけは伝え、情報の受け渡しについてを皆へ簡単に指示した。ただなぜか――朱皓が部屋の片隅にいて聞いてるんだけど……。おまけに時折、一刀の方を見てニッコリしていたりする。

 そして、かなりの額の活動資金もその後に皆へ渡された。司馬敏も連れていく旨を伝えていたので、それも合わせて一刀は預かる。隊長になる一刀には特に、都で半年は優に過ごせるほど金の粒の入った袋が渡された。おそらく一刀については二月といないだろうが、資金面で困ることは絶対にさせないと言う。大きな協力をしてくれている司馬家への礼の一つということだろう。

 配下の二十人はその日の内から順次、洛陽へと個別に別れて出発して行く。

 顔合わせと前準備の要件を終え、彼は県令の王渙らへ報告する。白髪が髪に混じる県令だが凛としている。

 

「北郷殿、よろしくお願いします。もたらされる情報はこの街の命運に大きく影響します。非常に危険で重要な役目ですが、貴殿の力ならきっと。御武運を」

「ありがとうございます。では行って来ます」

 

 一刀は、城内にあった役所の外へと出る。

 すでに時刻は戌時を一刻強ほど過ぎた(午後七時十五分)頃。すでに日は落ちて真っ暗に。ただ、城内の各所は監視用にある篝火で、視界だけでもなんとか歩ける明るさだ。

 出口近くには、司馬敏が自ら馬車で迎えに来てくれていた。一刀の姿を確認すると元気に笑顔で手を振ってくれる。

 

「待たしたか? ありがとう……悪いな、シャオランまで危ない洛陽まで行く事なった」

「ニハハッ、私は兄上様と一緒ですから、とても楽しみです!」

 

 彼が馬車に乗り込むと、彼女は軽快に手綱を捌き方向転換させると馬車を走らせる。一刀よりも全然上手い。

 一刀と司馬敏は明日、早朝の出発予定である。

 彼女も何度か洛陽へは行ったことがあるので、初めて行く一刀にとっては、即戦力として心強い相棒である。

 司馬敏は、本当に嬉しそうにニッコリと笑っていた。

 彼女は上の姉妹達が良く出来過ぎて結構暇なのだ。このような大役は初めてと言える。

 

「確かに、私一人でしたら不安も大きかったと思います。でも、兄上様がいますので全然危ない気がしないのです!」

「そうか、でも油断はするなよ。俺自身も気を付けるけど(もっと言いたい事はあるけど、俺が守らないと―――絶対に)」

「はい、もちろんです!」

 

 間もなく司馬家の屋敷へ到着する。すでに司馬防や司馬朗、司馬敏達は一刀を待たず先に食事を終えている。一刀がそのことも、帰る司馬防らへ告げていた。

 特に司馬朗は参謀としていろんな事態を想定しながら、事前に対応する作戦を考えなければならない。いくら時間があっても足らないはずだ。明日もある。他の姉妹達も手が空いた者は手伝っている様子だ。

 一刀は通路脇で手を洗うと『食堂広間』へ入り、一人遅れて食事を取るため漆黒の円卓へと向かう。

 そこには司馬懿が座ってお茶を飲んでいた。

 

「お帰り、一刀兄さん」

「ただいま。あれ、寛ぎの広間へは?」

「ああ、さっきまでいたよ」

 

 司馬敏も一刀について食堂広間へ入ってきて、漆黒の円卓に彼のすぐ横へと座る。一刀が席に着くと銀さんがお茶を先に運んでくれた。順次料理もやってくる。

 

「とりあえず、配下になってくれる二十人に会って個々に洛陽へ向かい始めてもらってる。そっちは順調?」

「まあ、姉さんがやってるから大丈夫。蘭華も手伝ってるしね」

「仲達は手伝わないの?」

 

 一刀にそう言われ、彼女は苦笑いをする。

 

「私の作戦は効率第一で、味方に対しても非情になる。私自身は、自分の作戦が気に入らない。だから気が乗らないんだ。姉さんは作戦を立てるのに時間が少し掛かる。それが唯一の欠点。でも姉さんの作戦は優しさがある。私は姉さんの立てる作戦が好きだ。私が作戦を考える時は―――先日の盗賊団ような『人間性の無い相手』の時が相応しい」

「そうか……。(周りは完璧超人と思ってるけど、本人にしか分からないことも当然あるよな)でも」

「ん?」

 

 箸を止めて、彼女へ顔を向ける一刀へ、司馬懿も目線を合わせ向く。

 

「きっと出来るよ、仲達にも。優華のような優しい作戦が。俺はそう思う」

 

 一刀にそう言われ、司馬懿は少し驚いた顔をする。そして些か照れるように小さく笑うと、頬を染めるように彼女は返事を返した。

 

「ありがとう、兄さん。そうかな……じゃあ、ちょっと試してくるかな」

 

 そう言って、司馬懿は円卓の席を立つと食堂から退出する。『寛ぎの広間』へ手伝いに行くのだろう。まあ、今の顔を一刀に見られているのが照れくさいのもあったのだが。

 

「兄上様、凄いですね!」

「なに、シャオラン?」

 

 一刀と司馬懿とのやり取りを静かに見ていた司馬敏が義兄を褒めた。

 

「だって、明華姉上様を本気にさせちゃうんですから!」

「本気?」

「はい、明華姉上様が作戦を考えるのは本気の時だけです。それも母上様に言われるか、優華姉上様に頼まれた時くらいで……今の様に自分からやってみようと言うのは余り見たことがありませんから!」

「そうか、ありがとう。でも俺は大したことは言ってない。凄いのは仲達だから」

「まあ、確かに姉上様はすごいですけど」

 

 本気になった司馬懿が防衛戦を考えると―――あの孔明でも破るのは難しいのだ。

 

(その時確かに、防衛側の魏は三倍以上の兵力があったけど……そんな歴史もあるんだよな)

 

 一刀はそんなことを考えていた。

 

 食事を終えた一刀も司馬敏と共に『寛ぎの広間』へ移動する。七人の令嬢と母親の司馬防はいくつかの組に分かれて作業を行なっていた。その中で司馬防は都にて黄巾党の乱での資料を垣間見た内容から、娘らと献帝派の将軍たちの戦力を想定していた。だが盧植と皇甫嵩は優秀、張遼や華雄らの戦績は凄まじく、その中でも呂布に至っては「これは本当?!」というおかしなことになっていた。「相手が雑兵らであったとしても、百人の騎馬兵とはいえ、こう何度も一万近い軍を正面から撃破出来るものなのか?」と。明らかに戦略を戦術のみで容易に破れる将だという事だった。だが司馬防はそれが真実だと言う。

 司馬朗を、いや軍師たちを悩ませる存在と言えるだろう。司馬進と司馬懿と司馬孚も巻き込んで対応を捻り出そうとしていた。

 それらの邪魔をしないように一刀は端っこで漢字の修練を始めていた。司馬敏と……そして司馬通がいつの間にか可愛く横に来て手伝ってくれる。

 司馬家全員が、亥時正刻(午後十時)過ぎまで『寛ぎの広間』に集まっていたが、明日もあるし、頭を結構使ったので今日はそろそろ休もうということになった。

 それぞれ、おやすみの挨拶を行なって自室へと引き上げていく。

 

 しかしその中で―――彼女の今日はまだ終わらないのだ。

 朝も早くから、彼の客間の周辺を徘徊して待っていたりしていた。

 そして、あのお守りをやっと朝食の後すぐに(自ら奪うようにだが)渡される。

 

 

 

 その『イケナイ』少女の名は、もちろん―――司馬孚である!

 

 

 

 彼女の想いは、ただただ『熱い』ものに変わって来ていた。

 速攻で自分の部屋に戻り、朝から万全の用意していたものへと着替える。

 雅な刺繍の色打掛を纏い、もちろん中も『自ら選んだ』欲情的な雰囲気の下着を身に着け済である。

 母と姉への分、自分の立場からこの日まで『静かに』耐え忍び、どれだけこの時を待っていた事か。一刀が今夜を屋敷へ戻らず、洛陽に立つと言うのなら薄布を頭へ被ってでもコッソリ付いて行って夜だけは一緒に迎えようと思っていたぐらいであった。

 臥所を愛しの彼と共にしたいのだ。母も優華姉様もイロイロ触ってもらってモミモミサワサワスリスリペロペロチュッチュチュッチュしてもらってるはずなのだ。

 

(今夜は、私の番なんだからぁぁァァァーーーー! ハァハァ……)

 

 彼女は心の中で絶叫していた。『激しい運動』をしたわけではないが、すでに呼吸が乱れ気味にある。母屋から一刀の客間へと向かう廊下の途中で、彼女は壁に手を付き暫し呼吸を整える。

 

(激しく仕掛けましょう、私から―――♪)

 

 彼女は一刀の部屋へと静かに近付いて行く。

 そして、客間の前へ着くと彼女は美しい声を上げる。

 

「一刀様、蘭華(ランファ)です。今、参りますからーーー!」

 

 そう言い放つと、その両開きな折り畳み戸の扉を開き、愛しい彼の横になっている布団が少し盛り上がった寝台手前で飛び上がると、彼へ向けて体を踊り込ませた。布団ごとギュッと抱き締めると左右へゴロゴロと甘えるように「一刀様~、一刀様~」と声掛けしつつ横へ往復しながら転がるのであった。

 だが、気が付いた。愛する彼ごと抱き締めているはずの布団が―――『軽い』事に。

 

(…………?!)

 

 すると、部屋の入り口から無情な声が。

 

「あの……蘭華さん? ゴロゴロして………俺の寝床なのに何て事してるの?」

 

 そう、一刀は一度布団に入ったが寝る前にと厠へ行っていて、部屋に、もちろん寝台にも居なかったのだ。

 

「あ……えっと………(まさか私……き、嫌われちゃった?)」

 

 無様に寝台の上をゴロゴロ往復している姿を思いっきり見られてしまい、司馬孚は赤面状態に陥り、思考と体が固まっていた。

 すると、一刀は固まっていた司馬孚の横へ―――寝台の手前から司馬孚がしたように体を寝台へと飛び込ませてきた。

 

「あはははっ、偶にはこれも楽しいね」

 

 そう、一刀は気で司馬孚の行動が丸々見えていたのだ。厠に行っていたのは偶然だが、ちょっと追いつめて少し『からかった』のだ。

 その事に司馬孚も気が付く。

 

「も、もう、一刀様、酷いです。貴方の機嫌を損ねてしまったのかと――」

「ゴメン、ゴメン。ちょっと蘭華が綺麗で可愛かったから」

「!――――」

 

 司馬孚、二度目の赤面フリーズ。

 

「そうそう、その顔が綺麗で可愛いよ」

「も、もう! 今夜中に今度は一刀様にこんな顔を倍はさせてあげますからね」

「ははっ、期待してるよ」

 

 司馬孚との楽しい?熱い夜が始まった―――。(後日熱い夜追加)

 

 

 

 そして、洛陽への出発の早朝を迎える。

 今の時刻は卯時(午前五時)頃。

 司馬孚は、一刀の横で満足気な表情をして静かに寝息を立てている。彼女の好ましい女の子な匂いが部屋に満ちている中、何やらまだ新しい淫靡な香りも混ざっていた。

 昨晩の子時(午後十一時)前から始まった二人の睦み合いは、寅時正刻を一刻過ぎる(午前四時十五分)程まで熱く続いたのだ。

 一刀は―――『絶世な美女』の司馬孚に蕩かされていた……。

 彼女は、持久力といい、耐久力といい、奉仕力といい、女性として最高の完全体なのだ。その事を平凡な少年(だが絶倫さでは負けない)は思い知らされていた。

 一刀は起き上がる。『へろへろ』な体で。

 『へろへろ』なまま銀さんを呼び、着替えて庭へ日課の修練に出かけた。

 とりあえず、司馬孚からのエロスにより『無限の気力』で体力はあるが、『精神的』には睡魔へ加え浮ついてへろへろフラフラなのだ。

 『無限の気力』が回復出来るのは、あくまでも疲労損傷した身体や体力的なものだけだ。眠気や気怠さや浮ついた気持ち等が回復することはない。

 出立は卯時正刻から三刻強程後(午前六時四十五分)頃を予定している。そのため修練も二刻(三十分)程で切り上げる。すでに昨日の内に出立の準備はされている。街側から提供された馬や馬具、必要品等は使用人らによって手入れと馬へ積み纏められ、いつでも出立できる状態だ。

 今日は、卯時正刻(午前六時)前からと早めの朝食になる。司馬家の面々が一刀と末妹の司馬敏の出陣とも言える出立を見送るためにと『食堂広間』へ集まってくれての朝食になっていた。

 司馬孚は、寝不足からかハイであり、肌はツヤツヤした感があった。

 すでに一刀と寝所を共にした間柄ということで、彼女にも母や長姉に劣らない立場との自負からか余裕が出来ていた。

 

「おはようございます、一刀様♪」

「ははっ。おはよう、蘭華。おっ、ありがと」

 

 さり気ない彼への朝の挨拶と、その彼の襟元を自然に直してあげる仕草など、司馬防も「ほほう」と落ち着いた美しい娘の成長を喜んでいる。

 朝食も済み、一刀は客間で銀さんの手伝いにより、少し使い古された街人風の上下の衣装へ着替える。一応、剣は持っていくが一般の剣を持って行く事になっている。

 司馬敏も自室で同様に着替え中である。これらも県令側から支給されてきた物である。あくまで目立ってはいけないという形だ。

 間もなく、家族や使用人長らの皆に見送られる一刀と司馬敏の一行である。邪魔になる可能性を考慮して今回、相談の上で使用人は誰も同行しない。

 彼は屋敷の玄関外へ元気な姿を見せ、司馬敏と二人は其々馬にまたがる。

 一刀は、事前に使用人長の銀さんへ『鐙(あぶみ)』を木簡に絵で描いてみせ、木製にてそれを司馬敏の分と予備でも数個作ってもらっていた。

 それを馬具の装備に加えた馬であった。やはり足裏を乗せれるので乗りやすい。

 

「兄上様! これは楽でいいですね!」

 

 司馬敏も『鐙』を気に入ってくれたようだ。

 

「じゃあ、行きます。急変あればすぐ帰って来ますので」

「「「「「「「「「いってらっしゃいませ」」」」」」」」」

「シャオもしっかり、そして気を付けてね」

「はい、母上様!」

 

 司馬家の皆に送り出され、颯爽と一刀は司馬敏を従えて共に司馬家を後にする。

 現地対策として、結構細かい地図も揃えてもらっていた。

 大きな巻物型は目立つので折りたたんでいる形のものだ。外ではなるべく広げずに宿で見て確認して覚えてから探索することに決めている。幸い司馬敏の記憶力も相当良いので本人も「ハッキリクッキリ記憶しました」とすでに覚えている様子で心強い。

 そうして司馬家から最初の角を曲がり、皆の姿が見えなくなったところで……一刀は気持ちグッタリとする。

 一刀は、精神的にはへろへろフラフラのままで出発していたのだ。

 だが、この街に取っての重要な役目で今洛陽へ行こうとしている時に、散々楽しんだ司馬孚との熱い夜を理由には出来るはずがない。

 『重要な日の睡眠時間が三十分とかありえないだろ?』とそんな心境だが、自分で撒いた種といえる。いやまあ、『ナカには』撒いていないのだが。なのでここは漢らしく、黙って空元気で行くしかない。

 司馬敏が少し心配そうに、横へ並んで進む馬上から声を掛けて来る。

 

「大丈夫ですか、兄上様……寝不足ですよね? 蘭華姉上様は綺麗ですからしょうがないですけど」

「ま、まあ……そのゴメン」

 

 誰と一緒に寝たのかは、もはや姉妹の間では公表されている感じで隠しようもない。それに、それが受け入れられている雰囲気と言える。

 

「ニハハッ、兄上様は男の方ですから。……そのぉ、兄上様?……不束ものですが、私も今夜からよろしくお願いいたします!」

「!………」

 

 司馬敏は初めから一刀との同行を喜んでいた。それは皆の役に立てるというだけでは無かったのだ。自分も一刀に『夜の寝所で可愛がってもらえる』という淡い想いも入っていたから――。

 

「嬉しいです! 二人きりですし♪」

 

 フラフラだが一刀はすでに何やら熱いのだ、若いと言えよう。一刀は思い出す、この子の入浴時の白スク風の透けた湯浴み着越しな日焼け箇所と、していない白い瑞々しい肌のコントラスト、そしてコンパクトな体に豊満で形の良い若々しい掴む為の栄光の双丘――――滑らかな肌はケの存在しない絶対領域へと続いて降りてゆく……。

 小柄で少し年下だが、すでにエロイ体付きなのだ、この子も。

 今夜も楽しみぃ。

 

(はっ! イカンイカン。これから知識の無い初めてな敵地へ向かい、命の危険もある敵の軍団の内情を探ろうと言うのだ、遊び気分で熟せる訳がない!)

 

 一刀は気を引き締め直す。―――が、今一刀の横に馬が『二頭』いるんだが。

 一頭はもちろん司馬敏の馬だ。

 そしてなぜか、いつの間にか……朱皓が? さも初めから決まっていたように馬に乗ってニッコリと横をコイツは進んでいる。

 

「……なぜ、貴方がいるんです?」

「まあまあ、いいじゃないですか~」

「……冗談はやめたんじゃないんですか?」

 

 一刀は、司馬防へ昨日彼女が言った言葉を突き付ける。

 すると笑顔の顔のままだが、彼女は言った。

 

「もちろん―――冗談ではないからですよ、これが~。太守の母へ事情を書いた手紙を送りました~。早めに私の代わりの者を温へ送ってくれるでしょう~」

 

 温県の街にいる兵団の最高指揮官がコツゼンと消えたのだ。どうなるのだろうか。

 

(あの張と言う人、大丈夫かなぁ?)

 

 多分、朱皓の代わりに対応するのはあの人だろうと一刀は思うが、その狼狽と混乱っぷりが想像に難くない。

 

「ふふふ~、張はああ見えて、先代から朱家に仕えている家の者ですから~、私以上に振る舞えますよ~。だから大丈夫なんです~」

 

 『出来る』と『やらされる』は別の事だと思うのだが……一方で、ついて来てるこの現状はすでに変わりそうにない。彼女は決意を持ってここに来ているようであるし。

 

「それに、北郷殿の力になれると思って来てるんだから~」

 

 まあ、彼女も確かに腕はかなり立つ。あの気功の拳の威力は、かなりのものだ。常人であれば、受けると致命傷だろう。

 

「あの一つだけ確認が。董卓側への面識は大丈夫ですか? 会った瞬間にバレると困るので(あれば帰ってもらおう)」

「母は有名だから皆知ってるし、姉も長女だから面識あると思うけど~、次女の私は直接は無いから安心して~。洛陽へは小さいころから結構来てるし、お役に立つわよ~」

「そうですか。じゃあ……しょうがないですね。いいでしょう」

「ホント? やった~。あ、もちろんここでは北郷殿の指示に従うから~『何でも』言ってね~♪」

 

 不思議とその言葉と視線に『熱い』ものを感じさせていた。

 

「……そう願います」

 

 さすがに、この状況で指揮権を取られるのは困るところだった。一人オマケが付くぐらいは諦めよう。

 そんなここまで二人のやり取りを静かに聞いていた司馬敏だったが、ここで「むん」と構えるように朱皓へ問いかける。

 

「朱皓殿、その……もう兄上様を後ろから襲わないですよね?」

「あはは~、もうしない、もうしないから~。あの時は遊びが過ぎてゴメンね~、幼達殿もよろしく~」

「なら、良いです。よろしくです!」

 

 次は私が相手をしますと言うポーズであったが、朱皓の返事を受けて構えを解いていた。兄思いの可愛い末妹である。

 さて、一人増えた一刀一行だが、このまま南下し黄河を渡る。

 

 黄河。大陸を流れる二大大河の一つ。全長約5千464キロにも及び、一万里を軽く越えている。

 本来『河』という漢字は、固有名詞であったりする。

 大陸では『河』と書いたときはこの『黄河』を指すのだ。

 それほどの川である。

 温県の南の辺りは、それほど川幅は広くない。だが、それでも水が流れている部分の幅だけで軽く五百メートル以上はあった。その流れは結構荒く早い。

 広い部分は二キロ以上もある。少し上流や下流へ行けば実に四キロ(十里)ほどの川幅がある箇所もいくつかあるほどだ。

 温県の街に取っては一つの大きな要害といえるだろう。だが同時に、範囲が広すぎるためすべての箇所を守ることは出来ない所でもある。

 

 そんな河を船で渡る。しかし、一行は温県に近い東門から洛陽の中へは向かわない。用心して、洛陽の北の山中を人知れず大きく迂回して西門から、長安方面から来た者を装って入る予定である。温県から東門までは八十里(三十二キロ)程、西門までの道程は百二十里(四十八キロ)程とみている。そのために獣道のような余り人の通らない山中を多少時間を掛けて慎重に通ることになる。

 洛陽潜入も明日朝になる予定であった。

 一刀は黄河を渡って少し進むと、近隣周辺の気を広く捉え、人通りのない所と状況で山中を通る西向きのルートの獣道へと三人は消えるように全力で進んだ。

 

 

 

 

 

 

 一昨日から泰山麓の森にある巨木の家を出て、愛しの彼氏……いや『夫(決定済)』である一刀の行方を探しに動き始めた『魔王』さまであるワクワク顔の雲華と、それに従う少々呆れ顔の木人『ジンメ』の一行。

 今朝のような一刀のタダレタ実情を見た時の、彼女の堪忍袋が砕け散った後の豹変ぶりが見物……イヤ楽しみ―――ゲッフングッフン、きっと悲しみに打ち震える彼女の姿を見るに忍びない気もするがソレはそれとして。

 『何も知らない』彼女達は、大陸の内陸に向けて木馬にて移動中であった。

 もともと彼女らには、一刀を襲う謎の仙人集団である『辿り着けるもの』達らの排除という荒事があるのだが、十名ほどいる構成仙人の内、すでに弧炉と蛇蝎の組、計七仙人を屠り、残りは左慈と于吉の組のみとなっていたが、ヤツらの動きは正攻法では掴めなくなっていた。

 

(そんな時だからこそ―――今、一刀を探しに行くわよ♪ ニヤリ)

 

 事の発端は、雲華が占い師である管輅から一刀関連の占いの中に『無視できない』内容の単語が並んでいるのを聞いたからであった。それは―――

 

『おっぱいおっぱいおっぱいおっぱ……』

 

 つまり『おっぱい×8』というイカガワシイものが、一刀の傍にあるという事について、「実際どうなのよ?」とハッキリさせるために立ち上がったのである―――正妻/制裁として。

 そうしてネグラを出てきたわけだが、本題の『さて一刀は何処に』ということである。

 もちろんその手掛かりは管輅から得ていた。

 

『大陸の海側にはいない……かと』

 

 つまり内陸にいるということになる。

 そして雲華なりに一刀の動きを予測してみていた。

 巨木の家を去った後、彼は何をしようとしたのか。それも彼が去ったのは翌日という早さ。また彼女がずっと蓄えていた結構な額のお金や、保存食はそのままであった。

 旅立ちの日に持たせた日持ちのいい食料とお金、そして『龍月の剣』だけが無くなっていた。

 冷静さを欠いていたとしか思えない動きだ。

 さらにあれから彼がここへ戻って来た形跡もない。

 

(きっと……私と同じことを―――カタキを探しに行ったのでは? ああ、私の為に♪)

 

 伴侶として嬉しい限りの行動である。

 その得体の知れないカタキの連中らと戦おうというその気持ちに彼女は、グッと来ていた。僅かにほんの少し堪忍袋の強度が増した……。(すでに緒という話では済まない……)

 とはいえ、一刀には彼らの動向を知る術がないように思われる。そうすると、ただ一つだけ仙人の知り合いと言うべきなのは、以前に外へ一緒に行った時の服を売りに行った街のお店が思い出される。

 

(きっと場所を正確に覚えていなくて、あの場所を探しに大陸内を彷徨ってるんだわ……。でも……なんでおっぱいなのかしら)

 

 女らが彼の周りを囲う状況への接点が、まるで思い浮かばないでいた。

 それに、そんなに体を許す女が居る場所として思いつくのは娼館ぐらいしか思いつかない。

 

(うーん、腕を見込まれて用心棒でもしているとか……)

 

 この時代、女奴隷や街を移動する荷車隊の娼館も当然あったりする。不思議ではない事だ。

 一刀が『女スキー』で、サワサワスリスリが好きなのも知っているが強引に行くタイプでも無い。また、特に名を聞くわけでもないから『英傑色を好む』訳にも行かないだろう。だから、そんな多くの女に好かれるわけでもない……と思っている。

 

(でも、孔明や士元の件もあるし……油断は禁物かな)

 

 そんな色々な思いで移動し始めたところであったが、出発した次の日、昨日の朝方になるが思わぬ人物と彼女らは遭遇接近していた。

 近付いて来る一つの気に雲華と、そしてジンメも気が付いた。それは僅かに仙人のような気も交じっている。

 場所は、泰山を出て少し南への街道を選んで通った予州魯国でのことだ。

 その少女は一人、馬に跨り北を目指して向かいから道を進んで来た。美しい黒髪の左サイドポニーな姿に少し汚れの見える白地に縦線の入った上着に青緑の服、裾の短い黒のプリーツ状なスカート風の服装。それに業物な偃月刀を右手に握っていた。

 表情は冴えない風だが、隙の無い常人離れした巨大な気を纏っている。

 雲華らはその気に見覚えがあった。

 

(この気……確か『カンウ』と言われていた娘だったはず)

 

 彼女らは、そのまま無関心で互いに静かにすれ違う。雲華らは、それから次の日の今日までさらに大陸内部の西を目指して街道を進んで行った。

 

 

 

 

 

 

(どこにもいない……鈴々と桃香さまは一体どこに行ってしまわれたのか)

 

 正直関羽は途方に暮れていた。

 黄巾党の大軍に五連続で襲われ、劉備率いる義勇軍が壊滅……あれから早五日経つ。

 まず血まみれの服を、山間の沢で何度も丁寧に洗いとりあえず身形をマシにすると、昨日までの数日間、見つけた村や街で「桃色の髪の美しい娘か、小柄で元気な赤髪の子を知らないか」と聞き込みをして歩いていた。しかし、全くそれらしい二人連れや一人旅の娘も見ていないと言う。

 そのことから関羽は、劉備らが山野を抜けて、一気により北の地域へと向かったのだと判断し、昨日で予州魯国を後にしていた。

 今は兗州泰山郡へ入っており、街道を北へと進んでいる。

 彼女は、すでにその先の事を考え始めていた。

 

(もしこの周辺でも二人の情報が得られないとなると、より北へ―――もしかすると公孫賛殿の元を目指して先を急がれたのかも)

 

 そんなことが彼女の頭へ過っていた。

 ――だがそこは、すでに豹変した異質で強勢な仮面の将らが支配し住まい、安住の地では無くなっている事を関羽はまだ知らない。

 

 

 

 

 

 

 一刀は、常に周辺の広い範囲の人の気を探っていた。そして人に見られないように、三人の騎馬隊は山中の草木の生い茂る獣道を西へと進んでいく。

 助かったのは、司馬敏は本能で、そして朱皓もこれに近い気配を探る事が少し出来るということだ。なので交代で監視が出来る感じだ。

 昼頃になり山中の北側の傾斜に小さめな沢を見つけると、ちょうどいいのでそこで食事にすることにした。

 天気も良く、ちょっとした木陰を見つけて入り、具合のいい石を皆それぞれ尻へ敷き、司馬敏と朱皓の三人で司馬家を出る時に多めに持たせてもらった弁当を頂く。朱皓も干し肉や蒸したイモの入った弁当や食料を持って来ていた。

 早めに飯を食べ終わる。すると司馬敏がお願いをしてくる。

 

「あの……兄上様、この沢で少し体を拭きたいのですが」

「ん? まあ、いいけど」

「じゃあ、サッと拭きますね」

「それじゃ、私も~」

 

 そう朱皓までもが言うと、一刀の見てる脇へ行き二人の少女は―――ナント服を脱ぎ始める。

 実は司馬家のお風呂が、昨日は無い日だったのだ。今夜の事を考えて司馬敏は、乙女として体を綺麗にしたかったのである。

 『見えちゃうからちょっと待て』と言う感じで一刀は手を広げて目線を隠しつつ、そんな女心に『何も気が付かない』彼は、馬が繋いである少し離れた南側の傾斜の道のところまで移動した。

 この辺りは丁度、洛陽の東側外郭端の北側辺りの位置であった。傾斜の木々の間から長大な外郭の壁と巨大な洛陽の街の一部が見えている。

 一刀はこの休憩の間に、朱皓の馬へも例の『鐙』を付けておいてやろうと考えた。だが、ちょうど良い強度の紐が無いことに気が付く。

 そこで、強度のある木か草の蔓(つる)を利用しようと考えると、少し周りの森を探し始めた。

 僅かに獣道からも外れた山の斜面に蔓のある植物を見つけると、彼はそこへと寄って行く。

 すると一刀は、その木々の茂る中の奥へまるで投げ捨てる感じで置き去りにされたような、人が入るほどの長さと幅のある朱塗りの大きな箱を見かける。それはまだ綺麗で新しいものに見えた。

 

(なんだあれ?)

 

 放り出された衝撃でだろうか、その『蓋』はすでにズレていた。

 それは―――朱い棺桶のようにも見える。

 

(なんだろう……ま、まさか本当に……棺桶なのか?)

 

 よせばいいのに、彼は一歩一歩とそれへ吸い寄せられるように近付いていった―――。

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

 次回、ついにキます(笑

 

 題して『究極の木人』

 

 その出来映えは最高を越えていた……。

 細密精巧無双な素体に、至高の素材(三大英傑のケ)、それへ仙術により究極な気の要素を付加された木人。

 最高の木人である『聖仙木人』は、普通の木人に比べ十倍は強いと言われている。

 『究極の木人』―――はたしてその正体は?(バレバレ)それは、どこまで届くのか。

 新しい『何か』が始まる。

 

 『究極』とは最高を超える……その最後の到達点である―――。

 

 

 




2015年03月27日 投稿
2015年03月28日 文言修正
2015年03月30日 小話ルビ化
2015年04月07日 文言修正



 失敗)重要な日の睡眠時間が三十分とかありえないだろ?
 現実には結構ありますよね……?
 結構前になりますが、仕事で徹夜して朝を迎え、そのまま朝一に予約していた健康診断へ行こうとしたことがあります(笑
 しかし朝七時頃、一度家に戻りシャワーを浴びた後、ごろんと横になって手足を伸ばしていると………寝てしまい、目が覚めたら午後一時だったというムチャクチャな日がありました(爆
 もちろん、病院へは再予約の電話を入れて、そのまま再び会社へ仕事の続きをしに行きましたとさ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➌●話 究極の…… +小話

 

 

 

 木々の間から洛陽の街も望める南側傾斜地の森。

 一刀は、草木の茂みの中へ打ち捨てられたようにあった、人が入る程の大きな朱い木箱を見つけ、それへと近付いて行く。

 

 彼は献帝派らの軍事動向を知る目的で『洛陽探索』のため騎馬を駆り、洛陽の北側に東西へ連なる草木に覆われた低めの山々の中、獣道を通って洛陽の西部へ回り込もうとしていた。そして西側外郭にある門より長安方面から来た者らを装い潜入するため、隠密に移動している最中であった。

 この任務の同行者は、司馬家八令嬢末妹で剣の腕の立つ司馬敏と、強引に合流してきた司隷河内郡太守朱儁将軍の次女で気功拳使いな朱皓の二人。

 司馬敏は、司馬一族特有の薄緑色な肩ほどまでのイチョウの葉のような扇状の髪を元気に揺らす。普段、装飾はあるが動き易い白地に黄と赤い肩袖の服装と両腕に手甲を付け剣を腰に帯びている。だが今日は潜入の為に、少し使い古された街女な衣装に県令より支給の剣を背中側の帯へ差していた。

 一方朱皓は、肩よりか少し長めのふんわりとした薄桃色の髪に、動き易そうな山吹色に黒の部分染めの入った拳法使いらしい胴着の雰囲気もある品の良い服装をしていた。

 今は弱い日差しの有る天気の中、昼食休憩で女性陣二人は沢で体を綺麗に(一刀は気付いていないが夜に備えて……)と拭いている最中。

 この間に一刀は、朱皓の馬へも馬具の『鐙(あぶみ)』を付けてやろうと強度のある草木の蔓(つる)を探して周辺を見て回っていた。

 そんな時、彼は『棺桶にも見える』変なモノを見かけたというわけだ。

 一応、目的の蔓の方も二メートル以上を確保し、箱へ近付きつつ軽く巻いて手元で縛っておく。

 また、朱い箱へ近寄る彼は、すでにその中に入っている物が何か分かっていた。

 

 それが―――服を着せられた等身大の人形だと。

 

 彼は気に因って、周囲の情景が詳細に視える。それは近距離ならば内部もある程度見通せるのだ。

 それにしてもソレは、細密精巧ぶりが感じられるモノであった。

 驚くべきはその内部に完全な人の骨格を持っている事だ。目にもガラスのような球体が入り頭蓋骨から歯までも成形されている。そして筋肉部分や外皮、舌までもなにがしかの素材で稼働するよう作られているように見えた。

 一刀には知る由もないが、夏候惇はまさに閨で曹操の体を撫でて触れて感じた骨格、筋肉の形状すらも全て完全再現していた。

 そしてまたその材木の名はカリンという。中国家具に使用されている木材、紅木の一種だ。タイ、ビルマにも分布する木で、灰白色で光沢があり強勒で硬いものである。

 一刀は箱の近くまで来る。

 蓋は、箱ごと放られた衝撃のためか斜めにズレていた。隙間からは桃と朱色基調(あの紺と紫の色違い版)な服が垣間見えている。まあ、夏候惇らによる曹操が普段着ない色調の服を着せて楽しんでいた跡なのだが……。

 一刀は箱の縦側から覗き込んだ。そこは頭の有る側になる。

 気による視覚では、透過して重なった感じに見えて不気味な上、色までは分からない。

 なのでこうやって、改めて普通に見ると―――

 

 美しく黄色いクルクルツインテールの髪にドク特な髪止めをした、とても綺麗な少女の人形であった。

 

 口と瞼が薄らと開いている。人形ながら幻想的で凄い美人だ。

 それから人形であるのにも関わらず、『何か』……『念』というか『希望』というか……尋常では無い『気迫ある』モノを感じた。

 

(……すごいな……これ、本当に人形なのか?)

 

 内部構造を視た一刀ですら、改めて良く見ても外観は『人』にしか見えなかったのだ。

 

(なんでこんなところに、こんなものが……一体誰が)

 

 周辺の麓側を気で視通すと半里(二百メートル)程南に道が通っているようだ。朱い箱の南側に四人程で運んで来たような枯葉の乱れた跡も残っている。それらはまだ新しいように見える。コレはつい最近に『捨てられた』のだろう。

 道からこれだけ遠く離れたこんな山奥まで運ぶ面倒さや、無造作に放置な扱いから持ち主がすでに不在な事を物語っていた。

 一刀は、考える。

 

(もったいないなぁ、これほどの出来栄え。二つと無い気がする)

 

 だが、担いで持っていく訳にもいかない。これから洛陽へ潜入するわけである。こんなに大きな朱い箱は目立ってしょうがないのだ。

 もちろん人形剥き出しは論外だろう。担いでる最中、振動で口と目が開き白目全開だと、どう見ても死体にしか見えない。

 

(ふむ…………一度、アレを試してみるか)

 

 『試す』とは、もちろん仙術の『木人起動の儀式』である。木人くんを見ていると非常に面白そうだったので、雲華から旅立つ前の最後のところで一応はと教えてもらっていたのだ。今回は、核が無い真っ新(まっさら)な場合となる。

 

(えっと、まず確か抜いた自分の髪の毛先一寸程に気を通して強化……それを木人の頭頂と心臓の位置に完全に打ち込む、と。――イテっ)

 

 一刀は二本髪の毛を抜き、剣の刃で二センチちょっとに切り揃えて気を通し強化すると、人形を少し起こし、まず頭頂へ一本。そして再び寝かせ、胸元が開いている服だったので容易に心臓付近の位置へ残り一本を完全に打ち込む。

 

(次に、自分の気を分けてやる……ええっと、これはそんなに多くなくていいと。後でも分けれるって言ってたし)

 

 とりあえず、食事を取った直後でもあり、普通にエロスがなくても気は満ちていた。なのでそれを分けてやる。先ほど打ち込んだ一刀の髪の二か所からだ。其々へ手を翳し、気を送り込めばよい。早速実行する。

 一刀は人形の頭の右側の位置から、箱へ少し覆い被さる様に膝立ちの形でいる。

 ふと、彼の目が右へ泳ぐ。

 人形が履いているのは、プリーツにフリル風の少し短めなスカートであった。そこから僅かに太もも部分の肌が覗き白い足袋が靴の方へと延びている。

 

 彼は―――動いた。よせばいいのに。

 

 いや、これが結果的には『最良の行動?』になったのだが……。

 彼は儀式の最中にも関わらず、気になってしまったのだ。そう、スカートの中が。

 

 そこは女の子にとっての『絶対(防衛)領域』。

 

 しかし同時にそこは、『漢の(侵攻すべき)ロマン』でもある。無抵抗な人形を下から覗き込みたい、下着はどんなのかな♪ スカートの中をじっくりと見てみたい……それは自然な成り行きではないだろうか? 誰が彼の行為を責められよう。コノ衝動は『漢として生まれた』本能と言っていい。

 第一理屈などない。彼にはコレも『正義』ナノダカラ。

 ……並ベル理由ハ、モウコノ辺デイイダロウカ。

 ツマリ―――捲リタイNODA。

 

 ぺろん♪

 

 彼は迷わない。現代社会で人に対して行なえば『強制●褻罪』に成りかねない行為でも。

 次の瞬間にはスカートを捲っていた。しかし、彼は目を疑った。そう、先ほど視た時は人形の精巧さに驚いて確認が疎かになっていたのだ。

 

 ハラリと捲れがるスカート。だがその下に期待する下着は―――無かった。

 

 

 

(――――――――fじゃcんscんjksjfかjf――?!)

 

 

 

 久しぶりに一刀の思考が文字化ける。

 

 ケが見えた。黄色いケ、ケケッ、ケケケケヶヶ――――。

 

 これは嬉しいと言う狂った表現と言おうか。決してケが『一杯ある』わけではない。ささやかであり可憐。純粋無垢な永遠の『絶対領域』なのだ。

 パ●パンではなく、あるべきモノがそこにある。雲華の入浴時を強烈に思い出す。

 

 その思い出の熱い妄想ビジョンも加わったのか、一刀の興奮度はこの期に及んで――――MADMAXであった。

 

 その所為で一刀の鼻から、ポタリ、ポタポタ。

 

 ―――数滴の鼻血だった。

 

 だがそれは直ぐに止まっていた。すでに洛陽の半場まで覆いかねない規模で溢れ出ていた『無限の気力』で自動的に瞬間回復したのだ。

 一方、内側まで朱い箱の中へ『血のシズク』は落ちていったが、目線は下半身側に向きっ放しで体が凝固しており、一刀はその事に気が付かなかった。

 そして、意外に直ぐ正気に戻った彼による気の注入は『適当』に終わる。

 

(いかんいかん! 人形に興奮してしまった。次は……木人への制約付けと言うべき六箇条だっけ……)

 

「えっと……、

 一つ、主に忠実であるべし。

 一つ、主を守るべし。

 一つ、それらを踏まえて自ら思考すべし。

 一つ、前述の内容を改ざんしてはならない。

 一つ、前述の範囲で自分を守るべし。

 一つ、前述に大きく反する場合は―――朽ちるべし」

 

 これらを其々言の葉ごとに思いの『気』を込めて人形へと封入してゆく。

 

(そして後は、主として『起こす』だけ)

 

「―――さぁ起きよ、我が忠実な僕よ!(请那么起来,我忠实的佣人!)」

 

(フヒヒ、カッコよく決まったぜ! 俺の美人な少女木人ちゃん♪ …………ってあれ?)

 

 彼は、両掌を上へ向け手を斜めへ開いて上げる形のそれらしい華麗なポーズを決めていた。

 しかし、草木の茂る周囲の静寂さの中、風と落ち葉が僅かに舞うのみ……。

 無情にも、箱の中の人形に―――変化は無かった。

 一刀は頭を抱える。

 

(オーマイゴッド! ……ハッ、もしかして『人形』はムリで、『木人』でないといけなかったのか。そんなぁ……失敗かよ。くそぉ、こんなことなら『人形』への仙術も聞いておけばよかったなぁ、まあもう無理かぁ……)

 

 聞ける相手もおらず動かない以上、もはや一刀にはどうしようもなかった。彼にはこれからすべき大事があるのだ。惜しい人形だが、今は温県の街に残っている司馬家や街の安全には変えようもない。

 一刀は朱い箱の傍から静かに去っていく。一度だけ振り返るが、その後はもう前を向いて歩き獣道へと戻っていった。

 確かに一刀は大事な手順を一つ飛ばしてしまっていたのだ。しかし、概ねクリアはしていた……偶然に。

 とは言え、少し時間差が出来てしまったようである。

 

 

 

 一刀が馬を繋いでいた場所まで戻り、馬達へも餌を与えつつ蔓を使って朱皓の馬へも馬具の『鐙』を付ける。馬具には長さを調整する為に複数の通し穴が用意されており、余った所に蔓を通して結びそれほど苦労することなく『鐙』を追加装備出来た。

 それが終った頃、司馬敏と朱皓が食事の荷物も持って戻って来た。

 

「もう、いいの?」

「はい、兄上様! お待たせしました!」

「あれ~? それは?」

 

 朱皓が、一刀の付けた彼女の馬の『鐙』に気が付いた。

 

「ここに足を乗せるんだ。格段に乗り易いよ。急拵えだからちょっと見栄えは悪いけど」

「おお~、始めて見ますが確かに乗り易そう。ありがとう、北郷殿~」

 

 朱皓は『鐙』を利用して馬に跨る。そして足裏も置けることに喜んでいた。

 

「じゃあ、そろそろ先を急ごう」

 

 一刀ら三名は、再び獣道を馬に跨り進み始める。獣道とは言え、基本的に周囲は草木が鬱蒼と生い茂り道も悪い為、進行は慎重であった。順番は一刀が先頭、朱皓、殿に司馬敏で細い道を進んていた。

 そして、一時(二時間)弱進んだ頃のこと。距離的には沢の辺りから二キロ弱西へ進んだだろうか。

 一刀は進む先に―――気を捉えた。

 振り向くと、声を落として後ろの二人へ告げる。

 

「止まって。前方に人が居る」

「「え!?」」

 

 直ぐに「どれぐらい先~?」と尋ねる朱皓へ一刀は答える。

 

「一里(四百メートル)ほど先だ。三人いるな、それなりの使い手だ」

「おおっ、さすがは兄上様!」

「……す、すごいね~、私には全然分かんない距離だわ~」

 

 木々や雑草の葉等が遮り少し先についても、視覚では容易には見通せない状況なのだ。

 また、それなりに感や気で、人の気配を捉えられる司馬敏と朱皓だが、その圧倒的な距離に一刀を褒める。

 現代の戦場でも隠密行動を取る為の最高の装備の一つと言える、強力な対人レーダーを有しているに等しい感じである。

 だが、一刀は苦笑いを返すだけだった。

 

(雲華なら、その気でなくてすらこの十倍の距離でも余裕で正確に掴めるだろう。俺なんかまだまだだ)

 

 これでもここ数日、早朝の布団の中で司馬家内の人の気の動きを正確に捉える練習をしてきた僅かな成果であった。雲華や死龍ほど全開時の気が大きければ距離があっても細部までハッキリ視え感じ取れるが、普通の人らに関してそうはいかない。慣れが必要であったのだ。

 さて、見つけたのはいいがどうするかである。

 

「使い手ってどれぐらい~?」

「十人隊長ではまず収まらないと思う。其々が離れた位置で三人しかいないし、かなりの精鋭だと思う」

「ふうん、じゃあそれ多分、周辺を警戒している斥候の中でも、じっと潜んで状況通報だけする上位者ね~」

「ですね! なので見つかると人相等が報告され、後に門の前で応援の部隊らに囲まれるかもです!」

 

 一刀は、話の間も気を探っているが、その気を捉えた三人はやはり動こうとはしていなかった。

 

「……完全にこの先の場所について定位置で見張っているな。連中はまったく動かない」

「じゃあ~、速攻で倒しちゃう~? 私がちょちょいっと行ってくるけど?」

「わ、私も!」

 

 朱皓と司馬敏は『殺る気』満々である。

 朱皓は、最初に県令の宴会で会ったときは猫を被っていて、話し方も仕草もぽふりと手を合わせるなど上品な感じだった様に思うのだが、もはやその時の面影は全くない。

 今も、指をポキポキしながら目をギラギラさせてイキイキとしている。

 まあ彼女は大丈夫だが、司馬敏はまだまだ実戦経験も浅いところではある。

 とは言え、確かに二人の武力なら無難に一対一へ持ち込んだ上で圧勝しそうだ。

 しかし、一刀の結論は―――

 

「前の三人を……迂回しよう」

「……分かったわ~」

「はい、兄上様!」

 

 二人は一刀の判断に従う。確かに倒すと彼らの定時連絡は途切れ、潜入時に際して警戒されてしまう恐れが増える。ちなみに、一刀の部下の二十人らは遠回りした上で東門と南門からの潜入となっている。このルートを通るのは一刀らだけであった。

 さて、前方の三人の配置はこの山中でも比較的通り易いところを選んで、百歩(百三十八メートル)間隔ぐらいで横に幅広く五百メートル程をカバーしていた。主に緩やかな傾斜の南側に網を張っている様に思える。

 なので、一刀らは北側斜面の崖もある少しキツめの所を通ることにする。

 さらに先ほどから雲が空を覆い始めていたが、天の采配か―――雨がパラパラと落ちて来る。

 風が少し前から無いため、枯葉を踏む音が目立っていたが、これで音による察知は難しいはずである。

 また、この雨が、『奇跡』へのトリガーともなった。

 

 

 

 打ち捨てられた朱い箱へ、眠るように横たわる人形の少し開いた口元に……その『歯』には、先ほど一刀の落とした『鼻血』が当たっていたのだ。僅かでも喉に落ちていれば一刀の声により即『起動』していたモノである。

 だが、すでに二時間程が経ち、それは……乾いていた。

 しかし、降り始めた天上からの恵みの雨が、そのうちの一際大きめな雨粒が口へ……歯へと降って来た。そしてそれは歯先へ直撃する。

 その衝撃に因って歯から喉へ垂れかけて乾いていた血痕が―――折れた。

 それはそのまま水滴の一部と共に喉の奥へと吸い込まれるように落下して行った。

 次の瞬間―――

 

 地響きが起こり、周辺の空気が共鳴し震える。

 それは、凝縮されたものから全解放され湧き上がる圧倒的なパワー。

 そして朱いあの箱からは、超新星爆発が起こったかのような白い至高の光が天に向かって一瞬だが一閃の柱となって伸びていった。遠くからは曇天の中、竜神や雷のようにも見えたかもしれない。

 

 細密精巧で無双な『人形』の体が―――興奮度MADMAXな主から捧げられた『鼻血』と、それに込められた究極の『気』も合わさって高速に且つ高度に変換されていく……新しい『命』の塊の誕生であった。

 

 

 

 それは『人形』や『木人』ではなく、それを超えるモノ……なんと、ほぼ『人』に昇華されていた。

 

 

 

 一刀の授けていた圧倒的な量と至高の気(些かイカガワシイ)がこの『華●様人形』の形と体に込められていたアノ人物に関する作成者の『想いの念』と『希望』を取り込んで、肉体の全てを彼の『瞬間回復』の能力に近い現象で完全に再現生成するに至ったのだ。

 それらは人形だった『彼女』の中に、三国志の三大英傑筆頭ともいうべき人物の全ての『才能』と多くの『知識』までもが含まれることを意味している。『彼女』は自分の名と真名をもほぼ引き継いでいた……。さらに、主の持っている『神気瞬導』の力までも。

 朱い箱の周辺には、箱から噴き出した白い至高の光の残滓がキラキラと降り注いでいる。

 その箱の口端を、中から出て来た綺麗な『人の手』が掴む。『彼女』はもう一方の手で蓋をずらしつつ起き上がって来た。それから箱の中でゆっくり立ち上がると自分の服を見下ろす。 

 そして第一声―――。

 

「何、この服の色は?」

 

 良く響きそうな凛とした声。

 だが内容は、自分の服のピンクと朱の色合いが、少し可愛らしいことに何かしら違和感があったようだ。

 だがそれよりも……。

 彼女はスカートの中が少し『涼しい』事に気が付いた。慌てて手を横から突っ込んで確かめる。

 少女の可愛い顔は、真っ赤に染まっていく。

 

「なっ、なんで履いてないのよ!?」

 

 慌てて箱の中を見回す。すると……数枚のブラウス風な服の下に何枚か下着を見つける。すぐに一枚を掴み、足を通すと急いで履いた。

 漸く一息つくように呟く。

 

「私の主(あるじ)様は、一体私に何をしてくれてるのかしら?」

 

 少女は、腰に手を当てて不機嫌な顔で周囲を見回す。

 『主』と呼ぶ者へ、媚びる雰囲気は『全く』感じられない。

 本当は夏侯淵と夏候惇が着せ替えの途中であっただけで、一刀がした訳ではないのだが、絶賛憤慨気味である。

 

「あらっ? そう言えばその主様はどこかしら」

 

 下着を履く時、気により周辺から誰にも見られていない事を確認していたが、改めて思い付いていた。

 目覚めた『究極の木人』は、いきなりその主(あるじ)をロストしていた。

 だが次の瞬間に、その位置を『感じる』。彼女に刷り込みは必要なかった。

 西方五里(二キロ)程の先にその人物を捉える。それは男の子。

 自らの体に流れる気の源である。感じ取れない訳が無かった。

 だが、そのすぐ横には二人の『女』がいた……。

 そんな主様もこちらに気が付いて驚いたのか、振り向いたところで固まっている様子が見て取れる。

 

(……下着を脱がした状態の私をこんな場所に放置したまま、どういうつもりなのかしら、私の主様は?)

 

 興奮した妄想ビジョンから、一部『魔王』さま要素までもが入ってしまっていたのだろうか。

 そんな『驚くかわいい』主の姿に、『究極の能臣』でもある彼女の表情は少し意地悪く―――

 

 

 『ニッコリ』としていた……。

 

 

 

 

 

 一刀らは、山中に潜む敵と思われる監視者三人をやり過ごす為、弱い雨が降り始める中を、山の北側斜面寄りの崖もある道の悪い所を進む。

 それは進み始めて少し経った頃、百歩強(百五十メートル)ほど進んだ辺りであろうか。

 地響きが伝わってきた。

 同時に一刀は馬上で、東の方角の近い位置に強大な気の高まりを感じて思わず振り返る。

 

「! ……兄上様?」

「なに~どうしたの、地震? ん?……遠くに何か大きな気を感じるわね」

 

 後ろに続く二人も一刀の見ている方向を向く。朱皓も気が付いたようだ。

 ちょうど崖下に近い位置を通っていたため、雷のような白い至高な光の柱を見ることは出来なかった。だがその強大な気は……一刀自身に近い感覚の『気』であった。彼はすぐにそれが何か理解出来た。

 あの『人形』であろう。しかし―――。

 

(一体、な、なんだ……この『気』の大きさは。こんなに注入した覚えが無いんだけど)

 

 彼は、自分が無意識に『無限の気力』の至高域まで駆け上がっていたことに、気が付いていなかったのだ。

 

(大事の前の……超大事?!)

 

 自分で仕出かしたことに狼狽えていた。

 そのため今、先程気楽に仙術を使ってしまった事への後悔に、背中を冷たい汗が流れていく。

 

(ま、まさか失敗してて―――何か魔人でも生み出しちまったのか?!)

 

 それは、強(あなが)ち間違っていないかもしれない……。(二人目?)

 仙術とは彼にとって『良く分からないモノ』なのだ。何が起こっても不思議ではない。

 一刀は、改めて自らの行為がトンデモナイ事象を起こしてしまったのではと恐怖を覚えていた。

 

(それとも、強力な暗殺仙人からの刺客人形として、動き出したとかないよな。冗談じゃねぇ)

 

 ――強大な死龍の姿と共に悪夢が脳裏を過る。

 

 だが、強大な気は間もなく感じられなくなった。それは『彼女』が気を低く抑えたからであったが。

 一刀はすでに周辺への『気の探査』を最強に強めている……今の所、未確認なものが近寄って来る感覚はいない。

 距離が二キロもあるため、一刀では低く小さくなった気をまだ捉えきることは出来なかった。だが、先ほど捉えた強大な気の姿は、『人の女の子』であった。

 それもクルクルツインテールの。シルエットは、どう見てもあの人形しか思いつかないが。

 

(くそ、人にも見えたが。失敗した人形が動き出したのか? それとも再び眠りに付いたのか……)

 

 謎は深まるが、ここで戻る訳にもいかない。潜む監視者へ近付いている途中でもあり、道も狭く先導して先頭を歩くのが一刀であったためだ。

 結局彼は、周辺への気の探査を最強に強めた状態で前へ進むことにした。

 

 

 

 主へ色々思惑のある中、『究極の木人』な彼女も移動を開始する。

 しかし彼女は―――自分の身長よりも一回り大きなあの朱い箱を大事に背負っていた。

 初め彼女は、身ひとつで移動しようとする。だが、置き去りになる箱を振り返った。

 この箱は彼女自身が作られた際、共に大事な収納用として親ともいうべき夏候姉妹によって作られていた物だった。箱とは言えそれは同じ木製の、『姉妹』とも言えるべき存在。

 

(貴方だけ、置いては行けないわね)

 

 箱の中に長めの紐を二本見つけ、一本で箱を十字に縛り、もう一本を背負い紐にすると彼女は箱を縦に背負い歩き始めた。その姿は図柄としてはシュールな状態であるが。

 さて、そんな彼女は主から距離を置いてついてゆく。

 

(下着の件といい、そんな状態の私を置いて行った事といい、一方で女を二人も連れてるところといい……この人物は本当に主に相応しいの?)

 

 忠実な『木人』には、あるまじき発想である。だが、納得しかねる状況もあり、アノ英傑の思考が易々と誰かに従う事を許さなかった。

 とは言え、本人も少年の事をすでに『主様』と言っていることに違和感は感じていない。

 そのまましばらく、先を進む当の主の様子を窺っていると、その先に潜むような三人の動かない人物らを避けるように北側の急斜面側を通り始めていた。

 

(……これは隠密で監視者を躱そうという事? すると、私を箱ごと持っていくには邪魔だったということかしら。……それに私は親お二人の着せ替え人形であったし……下着についてはその時に? もしかして私の起動が遅れて、主様は諦めて置いていかれたのが真実? これだけの量の気を私へ込められたのだもの、苦渋の決断だったのかも。実は―――とても立派な方?)

 

 確かに彼にとって苦渋だったことは事実である。可愛い美人の少女人形が『僕(しもべ)』に♪……そんな『漢の夢』を捨てて行かざるを得なかったのだから。

 そして、彼女は先ほどの儀式での彼のハレンチな『ぺろん♪』についての記憶は無く―――真実や彼をまだ良く知らない……。

 主様に対して少し前向きな考えに成りながらも、彼女はまだ彼の観察を続けていた。

 

 

 

 一刀は先ほどの『人形』の異変により、後方側も含めて『気の探査』を最も強めた全周警戒での移動を強いられる。

 三人は慎重に移動を続け、進むに険しい北側の斜面側ではあったが無難にその場を通り、一時(二時間)程で潜む監視者の警戒域を抜ける。弱い雨もその頃には止んでいた。

 警戒する『気』の連続使用を強いられる状況ではあるが、一刀に疲れや気の衰えは見えない。朝は精神的にヘロヘロであったはずなのだが。

 彼の強靭で――『乙女の髪や頬を雨の雫が静かに滴る』、『僅かに服が、雨に濡れ肌へ吸い付く』――高度な感性によって周囲にご褒美が溢れていた。匂いなど無くとも変態紳士に死角は皆無である。そして同時に『無限の気力』も彼を無敵へと至らせる。

 彼らは、道を再び南側の獣道へと移して西を目指した。

 だが日が沈む前頃に西側から六里(二・四キロ)付近でもう一組の潜む監視者三人を見つける。今日はここまでと思われ、その先へは進まず、北側の急斜面側の少し洞窟のように彫り込まれた場所へ塒(ねぐら)を求めた。

 依然、後方へや全周警戒を続けているが、一里(四百メートル)以内に近付く不審なものは感じられない。ただ、監視者三人が先ほど西から来た三人と交代していった。どうやら異常が無ければ半日程度ごとでのローテーションのようだ。おそらく三チーム制か。東側の組もそちら側から交代要員が来て入れ替わるのだろう。

 それを感じつつ一刀は、他の二人と周辺で枯れ木や四角いブロック型に近い石を集め、出口側に少し暖炉の様に壁を作る形で火を起こしていた。周辺は少し前に日が沈み暗くなっている。

 

「うーん、結構時間が掛かってしまったなぁ」

「まあまあ~、明日には洛陽にも入れるでしょ~」

「そうです。急いては事を仕損じます!」

 

 朱皓と司馬敏は一刀へ気遣ってくれる。

 自分は兎も角、他の二人は真っ暗な状態で、北側斜面の足場の悪い険しい道を進むのは無理だと判断した。

 幸い、日持ちする食べ物はまだ残っているし、歩いて来る途中でもこの状況を見越して食べれそうな実やキノコ、草等を集めていた。

 それらを剣で刻み、手持ちの鍋へ塩を少し振って軽く煮て汁物にする。

 戦時下なのもあるが、名家で美食家であろう朱皓ら二人は特に文句を言わない。

 手短に夕食を終えると途中の沢で足した水の入った竹製の水筒でそれぞれ喉を潤す。一刀用には大きめの水筒二本が馬へぶら下げられている。

 馬達へも少しの牧草に穀類のエンバクと人参数本に、大きめの竹を割っての器に水筒から水を移しそれを口元まで持ち上げて飲ませてやる。馬は胃袋が小さいのでこまめに食事を与えていた。

 朱皓は終始落ち着いている。今ものんびりと一刀が剛力で適度な大きさに引き裂いた薪を焚火へとくべる。彼女は、一刀よりも実際の戦場を多く知る人間と言える。

 加わり方は強引であったが、一行の中にそういう実戦経験者がいるといないでは精神面での部分の差は大きかった。

 そんな気持ちからか、一刀が朱皓へ少し微笑んでみせる。

 

「ん? なにかな~」

「いや……明日の門の通過時の事をね」

「兄上様? 商人風に入るのですよね?」

 

 一行は売りに来たのではなく、手持ちが無いので『なるべく安い良質のお茶の葉を探して』買いに来た風を装う手筈である。

 

「まあね。でも、文明殿は今、結構身形がいいだろ?」

 

 そう、一刀らは少し使い古された服を着ているが、朱皓は綺麗な結構良い生地の山吹色に黒の部分染めの入った胴着の雰囲気もある品の良い服装をしている。

 

「なので、文明殿が商隊の隊長役かなと」

「なるほど~。ではまあ引き受けましょう」

 

 身形の良い者の方が部下というのは不自然さがある。この一行には強引に加わったのだ、これぐらいはやらなくてはならない。太守の所へは数多の商人がやってくるのだ。それに『猫をかぶる』など彼女には造作もないことであった。

 時刻は、戌時を二刻強ほど過ぎた(午後七時半)辺りか。

 

「一応、長安の東や南陽北部辺りで商いをする商人を装う形でいこうと思う。俺はその辺りの知識がないんだけど大丈夫かな?」

「じゃあ、その辺りの地域の事のすり合わせをしとく~?」

「そうですね! 私も姉らから聞いたり知ってることを是非!」

 

 それから、三人で焚火を囲み一時(二時間)程洛陽、長安、南陽辺りの話をあれこれとしていた。

 それが終わると就寝になった。

 朱皓が加わり二人きりの旅とはいかず、露骨な司馬敏との『夜のお楽しみ』はお預けな感じになったのが……。

 

「兄上様! 傍で休んでもいいですか?」

 

 そんな元気なおねだりで、筵を敷いた一刀の横へ……と言うかおなかに抱き付かれるように、そして子リスの様にスリスリしてくる。

 彼女の豊満な胸もスリスリと当たってる。そして、いい匂いも……。

 それを見ていた朱皓までもが「くっついた方が温かいよね~」と背中側に寄り添って来ていた。背中からも一刀はスリスリされていた。

 敵中での野宿という緊迫した状況のはずが、それなりの安らかな眠りの夜になっていく。

 

 一方、『究極の木人』であるはずの彼女は、二里(八百メートル)程離れた場所の大きな枝葉の傘がある木の根元に濡れていない草の葉を敷いて朱い箱を置くと、紐を解きその中で横向きになり、腕をクロスするように両肘を抱え膝を曲げる形で、気を探ってじっと主の様子を窺っていた。

 

「ちょっとなんなの、あの女二人は!? 私の主様に近すぎでしょう。全く馴れ馴れしいわね! 主様も引き剥がしなさいよぉ……少し寂しい。……それに……お腹が空いたわね……」

 

 僕(しもべ)設定が効いているのか、アノ英傑様の性格にしては『とてもマイルドで控えめ』な彼女であった。

 一刀らの「洛陽探索」一日目が終わる。

 

 

 

 だが――残念ながら、洛陽ではすでに兵団の動きが始まっていた……それも最悪と言えるほどの。

 一刀は少し潜入が遅れたことを危惧していたが、それが現実のものになろうとは誰も思っていなかった。

 何故ならそもそも董卓軍と曹操軍は、昨日早朝に一応一つの大きな決着を迎えている。そのためさらに数万単位での大軍を動かす為に、作戦と準備には今日明日では済まない時間が必要であったはずなのだ。

 

 董卓側は一応の勝利とは言え、霊帝を生死不明ながら取り逃がし、西側本陣はガタガタにされ、華雄の騎馬隊も許緒にかなりの負傷を追わせるも、三千もの騎馬兵を失った。

 それに、陣営内の軍師賈駆らの考えを上回る、曹操自身を初めとする曹操軍の予想以上の土壇場での戦闘力である。出鱈目で圧倒的な強さを誇る飛将軍との真剣勝負にも、生き残った将がいるという衝撃の事実……。

 また曹操の本拠地である陳留周辺には、数万の曹軍精鋭兵がいるはずで、洛陽での戦いに比べてその兵数は十倍近くになるだろう。こちらも昨日から各地へ予備役の招集を掛け、洛陽の駐屯兵をこの地周辺だけで十三万、皇甫嵩の領地である弘農や董卓本拠地の長安、その他周辺からも十万を動員する予定。それでも長安には五万を配置予定であり、まだ予備兵力には余力を残してはいる。膨大な費用も掛かり、足しにするため早期に抑えた何進や十常侍らの財貨も全て投入予定である。

 そういう状況に安易な作戦や計画は、とても立てられない事は当然と思われていた。

 

 曹操側も、昨日になるが劉備と皇帝ら一行が昼を大きく過ぎた頃に、曹操軍の援軍である曹純率いる二千の虎豹騎隊と遭遇。皇帝を守っていた百人隊長の向(しょう)より事情を聴いた曹純は、向の部隊と劉備、皇帝らへ虎豹騎三百騎を付け守らせると陳留へ向かわせる。霊帝だが、日頃から趙忠により密かに好配分のされた栄養素を採る食事(お菓子も手作り)のおかげか、未だ持ちこたえていた。また、護衛が虎豹騎三百騎ではあるが、通常装備の兵程度なら三、四千が相手でも十分蹴散らせ突破出来る程の猛者達揃いである。

 曹純は残りの虎豹騎を率いてさらに主君の元へと西へ前進する。途中すでに汜水関は、霊帝を擁する曹操側へ協力的で、ほぼ素通りな形に先を急ぐ事が出来た。

 そして昨日夕方頃、虎牢関にて曹操本隊に合流する。虎牢関も曹操側へ門戸を開いており、巨大な関の内部や門を通り抜けた東側に陣を敷いて、食事や負傷兵らの休憩と再度の手当てが行われていた。

 そして今日の日没過ぎ、李典と楽進率いる一万余が虎牢関へ到着していた。二千程は途中から遅れていた。それに千人隊長を充てそれらも遅れて到着する。

 だが、それ以降の援軍については于禁に陳留から一万を率いらせ汜水関防衛へ向かわせるに留めている。来た援軍らも駆けに駆けて来ており精鋭ながらも疲労が目立っていた。

 加えて曹操軍は、中軸の将である夏侯淵と許緒が負傷し、一旦体制を整え直す必要があり、数日で洛陽へ再度決戦に向かうと言う状況ではなくなっていたのだ。

 虎牢関には李典と楽進ら一万四千を残し、曹操と洛陽組の将らに負傷兵二千余は、曹純と虎豹騎千七百に守られつつ、明日昼過ぎより陳留へ帰還することになっている。

 

 そんなどちらの陣営も大きく動く状況ではないはずが、ほぼ準備のいらない一人の将が動いたのだ―――

 

 

 

 そう、それは呂布。

 

 

 

 事の発端は、彼女の家族である犬の『菓菓(カカ)』の嘆願である。

 その菓菓には毎日仲良くしている人がいた。その人はここ一年ほど欠かさず朝に屋敷の前を通り、菓菓に挨拶とその背中をかいてくれたり、頭を優しくナデナデしてくれる。その人からは『菓菓は可愛いなぁ』という気持ちが伝わって来ていた。菓菓もその人が気に入っていた。稀に呂布もその人物を見かけている。偶に呂布が声を掛けると、飛将軍からの言葉にその人物は緊張しながら礼を取っていた。真面目で優しい女の子であった。

 ところが昨朝、その人は来なかった。

 菓菓は街周辺の殺伐とした気配が気になって探しに行く。その人の通る道と仕事の場所は知っていたから。何度か迎えに行った事もあった。すると、その人は数人の人達と共に倒れていた。周囲には血が撒かれたようになっている惨状が広がる。

 菓菓は、恐る恐る傍に寄る。その人は……大量の血を流してすでに冷たくなっていた。菓菓は、冷たいその人の顔を温める様に、いつまでも舐めて別れを惜しんでいた―――。

 

(……友人のカタキを取って欲しい)

 

 呂布は、家族である菓菓の言葉を受けて動き出した。完全な私情であれば機を見る所であるが、状況から恐らく霊帝派の残党であろう。遅かれ早かれ討つべき相手なのだ。

 まずその子が倒れていた周辺で、戦闘をしたヤツは誰なのかを陳宮に調べてもらう。これはまだ今日の昼過ぎの話だ。

 

 すると―――頼まれた彼女は手際よく調べ、二刻(三十分)程後に呂布の所へ知らせに来てくれる。

 

「恋殿、分かりましたぞ。その場所は、何進大将軍配下の王匡を逃がそうとし、その手引きをしたそ奴の部下らが斬ったようなのです。その者らは王匡に付いて行き洛陽北の河内郡温県の方面に向かったとか……しかし恋殿、何故そのような事を?」

「ねね、わかった。……知りたかっただけ、ありがとう」

「なに、礼には及びませぬ」

 

 恋殿の返事に、陳宮はニッコリと嬉しそうな笑顔を返したが、それが呂布の発言に一瞬で凍る。

 

「これから、そこに行って、ソイツらを斬ってくる」

「え、えぇーーっ? 恋殿、お待ちくだされ。その場所は霊帝派である朱儁将軍の治める地域ですぞ!」

「じゃあ……いつでにソイツも倒してくる」

 

 呂布は事も無げにそう言うと、家族である犬達の居る屋敷を後にする。屋敷の使用人らへ数日の犬の世話と百人隊長宛てに指示と伝令を出して。

 

 呂布の言う尋常では無いその内容と起こそうとする状況に、陳宮は移動する呂布へ縋る様に「朱儁将軍の兵は、五万程もいるはずですぞ~! 恋殿、恋殿~」と止めようと務める。だが呂布は「陳宮、月や詠に伝えておいて」と伝言するだけだ。

 ここは、主君の董卓や筆頭軍師の賈駆に止めて貰った方がいいと判断した陳宮は「分かりましたぞ」と言って一旦、急ぎその場を離れる。

 だが、それは一刀らに取って、さらに悪い方へと連鎖してゆく。

 東外郭内の門に近い兵待機用の広場で、呂布や旗下の百人隊長と集結する騎馬兵らが手短に出陣の準備をしているところへ、外から東門を通り二千程の騎馬隊を率いて陣形練習を城外で行なっていた一人の将が戻って来る。

 

「あれ? 呂布っち、何準備してるんや?」

 

 張遼であった。彼女の問い掛けに呂布は無表情な顔を向ける。

 

「これからちょっと、温県まで行ってくる」

「……なにやら、散歩っちゅう訳でもなさそうやけど?」

 

 アノ飛将軍の率いる命知らずで悪鬼のような百騎突撃隊の物々しい陣容がそこにはあった。昨日の早朝時は基本的に城内戦ということで、その後の陳留方面への曹操軍追撃があるかもしれないと待機状態であったが呂布がスヤスヤとお休みになってしまったので表立った活躍はなかった。これが華雄の軍に加わっていたら展開は別物になっていただろう。

 張遼の騎馬隊も精鋭揃いではあるが、正直、飛将軍の騎馬隊への突撃は生涯勘弁願いたいという顔ぶれだ。

 だが味方であれば、軍神が傍に居るようなものである。並みの兵が相手なら数万いようと負ける気はしない。

 

「ふうん……曹軍と事を構えるのは先になりそうやし、少し退屈し掛けたところやわ。ウチも『ちょっと』一緒に行こか~♪」

「……そう?」

 

 もはや、黄巾党の乱鎮圧で官軍の一軍を率い武功を上げた、朱儁将軍と旗下五万の兵を舐めているとしか思えない発言だが、冷静に考えるとこの強襲は時期的に悪くない。

 恐らくこの洛陽での事変は伝わっているだろうが、急に不意打ちな数万単位の動員には間違いなく数日は掛かるのだ。今日や明日の対応で呂布の恐るべき並みの城門すら打ち砕く突撃進攻を止める準備ができるとは思えなかった。

 

『普段、本気を出させるのに大変な呂布が、ヤル気満々と言うこの状況。『時』も得ている。この流れに乗るべきだろう』と。

 

 張遼も乗り気になってしまった……。

 

 そして―――

 洛陽城内宮城の一室で、今日は新行政関連の書類に埋もれ政務資料の整理をしていた董卓軍筆頭軍師の賈駆のところへ慌てて飛び込んで来た陳宮は、呂布が河内郡へ出陣しようとしている事を伝える。そして『すぐ止める様に』と訴えていた、だが。

 

「そうね……悪くないわね」

 

 急(せ)く陳宮の呂布出陣行動の報に対して、少し考えた賈駆までがそう呟いていた。

 

「なにを、言っているのです、詠殿!」

「まあ、お茶でも飲んで落ち着きなさいよ、音々」

「しかし、独断行動では―――?」

 

 確かにそうなのだが、まず呂布はあれでいて中々機を見るに敏である。

 下手はまず打たない。これまでも見たことが無い。

 昨日の夏候惇との対戦も荀攸に聞いた話では、力の落ちた呂布に対して曹軍には夏候惇、許緒、典韋と健在の将らがいた。呂布はあの場を意表をついて対峙し、上手く引いたと言える。ヘタを打てば呂布自身と荀攸まで切られる展開も有り得たのだ。

 それは、董卓軍における最高の力となる戦力を失い、宮中の献帝派も纏め直さねばならないという不味すぎる取り返しの利かない展開であろう。

 それに比べれば、今はまだ霊帝と曹操を逃したが、息を付ける余力すらある状態と言える。

 また、呂布という本来味方に付けるのが難しい気性の人物は、『配下』という扱いや位置では無く、手を貸してくれている協力者だと賈駆や董卓は考えている。これまでも『お願い』していた。彼女の圧倒的な力を考えれば『誰も縛ることなど出来ない』のだ。

 だが、そんな取り計らいに感じればこそ、呂布も董卓を『主』と言い、『配下』と言われようと黙って近くにいてくれているのだ。おそらく、今後も彼女を真に従属させる者など現れないだろう。

 今回も、曹軍に仕掛けるのではなく、虚を付いた霊帝派の朱儁将軍の庭を脅かそうというのだ。街の一つ二つを圧倒的な武力を見せつけて落としておくのも牽制としては悪くないと感じていた。

 皇甫嵩と盧植の両将軍らからも朱儁将軍は「きっと近々参戦してくるでしょう」と聞いている。後手に回るよりも先手必勝とここは行きたい。

 今なら曹操軍もすぐには援軍等に動けないはずだ。

 

「恋は今どこなの?」

 

 賈駆は、執務の机の座席からゆっくりと立ち上がる。

 陳宮と賈駆が外へ向かうため宮城の廊下を歩いていると、一人の文官が木簡を携えてやって来た。

 

「文和(賈駆)様、張将軍より報告がこれに」

 

 賈駆はその木簡を陳宮と見る。そには『今、この都は暇そうやから、私もちょっと恋と行ってくるわ~』と書かれていた。陳宮はその内容に呆れ、賈駆は―――噴き出していた。

 

「ぷっ、あはは。さすが、霞」

「笑い事ではありませんぞーー!」

 

 張遼の動きも受け、二人は先に董卓の所へと向かう。

 宮城内に用意された広々とした部屋から、窓扉の全開されたテラス風な場所のある席へ出てお茶を飲んでいた董卓は、二人からの話を聞くと静かな口調で答える。

 

「……そう、恋ちゃんが……分かりました」

 

 董卓も腹を括っている。霊帝に生死不明ながら脱出され曹操も撃ち漏らしている以上、霊帝派側との戦いは近いうちに始まるだろうと。これは自分の責任でもあるのだと。

 

(せめて―――早く戦いを終わらさなくては。そして人々の戦乱の苦痛に倍する平和で穏やかな時代を……)

 

 彼女の思いは、すでにそこへと集約していた。

 「恋ちゃんによろしく」と董卓からの伝言を受け取り、賈駆と陳宮は呂布が準備をしている場所へと急いだ。張遼も加わったことからも、もちろん呂布らがどこで準備しているかぐらいは二人とも分かっている。

 洛陽の東外郭内の門に近い兵待機用の広場へ二人の軍師がやってくる、すると。

 

「おっ、来た、来た~。その表情やと予想通り行ってええみたいやなぁ~」

「まあね、後詰めに盧植将軍に五千の兵を率いて出てもらうけど、とりあえず二週間分程の食料は直に用意出来るから。音々、中軍二千を頼むわよ」

「……分かりましたです。恋殿が行くなら当然音々も」

 

 結局、先方として、呂布が百、張遼が二千、中軍を陳宮二千、後軍に盧植五千。

 

「総大将は―――呂布将軍、恋、貴方よ。月がよろしくと言っていたから、頼むわよ」

「分かった、すぐに帰って来る」

「そうお願いするわ。他にも色々やることはあるんだから。音々、細かいところはよろしくね」

 

 賈駆がニヤリとしている。賈駆の言葉に呂布と陳宮は頷く。陳宮は衛兵を捕まえ、輜重の隊長や弓と歩兵の隊長らを呼びに行かせる。さらに盧植将軍へも、賈駆のしたためた印の入る木簡を持つ使者が立てられていた。盧植は昨日より、洛陽のある河南尹の太守代行を任されている。

 そんな中、準備がついに整った呂布隊と張遼隊が早々に出陣を始めた。鍛え抜かれた精鋭の騎馬部隊が勇壮に東門を飛び出してゆく。

 先方の騎馬二千百の馬脚により上がる土煙が収まると、隊列はもはやはるか先へとすでに進んでいた。

 次は陳宮率いる輜重と弓、歩兵中心の兵二千の部隊が準備をし始める。即応部隊を充てる為、半時(一時間)掛からずに出れる予定だ。

 今の時間は申時(午後五時)少し前の辺りである。

 今日中に黄河の南側まで一気に、先方と中軍までの軍勢を寄せて置く流れで作戦は急展開に進んでいた―――。

 

 『究極の木人』は、この一連の大きな動きをすべて気で掴んでいたが、主の目的を知らずにいたため、ただ傍観していた。

 しかし、温県から派遣されて来ていた一刀配下の数名がこの動きを掴んだ。

 一刀と事前の打ち合わせの際に、こういう万が一の場合についても指示があった。

 その指示に従い、今日中に一名が夜陰に紛れて準備をしていた船頭を叩き起こすと船で黄河を渡り、温県の街へと知らせが向かう。

 その非常事態の知らせは、夜中に温県県令へと届けられたのである。

 

 

 

 大陸中央に広がる広大なる地域、荊州。

 袁術と孫堅の勢力地、南陽郡の南に、襄陽郡、江夏郡、長沙郡の豊かな三つの郡が存在する。この三郡を合わせれば、大陸最大の人口を誇る南陽郡に匹敵する規模があった。

 三郡が有する兵力は、四万の水軍を合わせ十八万にも及ぶ。

 この豊かな地を治める諸侯が劉表である。

 本拠地は、襄陽郡にある優雅な造形の水の都たる襄陽城だ。

 ここは、大陸二大河川の一つ長江の最大の支流である漢江に囲まれる、内陸河川港のある大きな自然要害な城塞都市である。城内は六里(二・四キロ)四方以上もあり、その外側にも網の目の様に水路入り組む壮大な街並みが広がっていた。荊州だけでなく、大陸内でも有数の大きさと人口を誇っている。

 豊かな都市を証明するように、中心となる朱塗りの宮城は金銀の金具が要所に用いられており非常に豪奢であった。

 ここ謁見の間も三階層を拭き抜けにする、樹齢が二千年を優に超えるであろう太い巨大な柱が並び、意匠の凝った美しい赤い絨毯が主の席の前まで続いている。

 

「景升(けいしょう:劉表)様、ご機嫌麗しゅう」

 

 今は無き姉が主君に嫁ぎ、軍関連を統括する劉表の義理の妹である蔡瑁徳珪(とくけい)が入口の扉より進み来て手前にて礼を取り声を掛けた。

 それに対して―――野太い声が返って来る。

 

「ふっ、其方は元気そうだな? 真梅(ジェンメイ:蔡瑁)よ」

 

 そう、裕福なここ襄陽周辺の地を治める君主である劉表は―――男性であった。

 

 彼の年齢はすでに初老を迎えていた。彼も前漢の景帝の第四子、魯恭王劉余の子孫であり皇帝の血を引く劉家の一人だ。そんな彼だが、すでに体が丈夫な人物では無かった。

 

「『其方は』とは……またそのような事を」

「……それより、真梅。例の件はどうなっている。時間は多くないぞぉ?」

「はぁ……なかなか難しゅうございます」

 

 そこへ、劉表の座る豪華な彫刻の入った三段の太守席の傍に控える、白髪交じりの女性文官の一人蒯越が相槌のように述べる。

 

「我が君は、難しい要求をされておりますので。姫様で宜しいではありませんか?」

「……何を言う。ワシは男なのだ、当然の思いだと思うが?」

 

 劉表は、そう静かに傍にいる配下へ告げていた。

 彼には一つの長い間の願いがあった。

 

 後継者は―――『男』に継がせたい。可能なら武勇優れし者に、と。

 

 彼には娘が二人いる。

 劉琦と劉琮だ。

 若き頃より多くの妻たちと夜も頑張って来たつもりだったが……授かったのは女の子が二人だけであった。

 

(せめて平凡でも息子が欲しかった……なれば、『婿』には天下へ名の響く『漢』を――!)

 

 だが、彼の望みは中々難題と言える。

 ここ十数年、男性では領内で千人隊長は多く出る程度いるのだが、それなりに若い副将級の五千人隊長に耐えうるものすら登場していないのだ。

 最近一人、五十一歳で副将になった『男』がいたが、十●歳の愛娘達には無理があった……。

 蔡瑁は実に必死で『腕の立つ若い男』を探している。そんな漢を見つけ出し養子にして、姪の劉琮の婿にすればこの三郡は、自分の思うがままになるのだから。

 元々、劉表がこの地へ勢力を伸ばそうとしていたころ、まだ少女であった頃から武が立ち、指揮官としての才もあった彼女が蔡家を率いて彼に合力したのだ。

 彼女自身も、それほど好きでもなく妻でもないが、密かに『男児を』と主君と十の夜を越えて共に朝を迎えている身でもある。そのためにこの地への思い入れが強かった。

 

(なんとしても我が一族で探し出さねば……)

 

 そこへ一人の文官が現れ、脇を通り蒯越のところへ報告する。

 報告を受けた内容を、彼女は劉表へと伝えた。

 

「我が君……残念なお知らせが。城へ仕官の出仕を願った馬良殿、お越しにならないと……」

「そうか……才能だけでなく、顔も美しいという白眉の娘は来ぬか……」

 

 劉表は残念な顔をする。彼はすでに子種が尽きており、『女』ではなく、最近はこの地の発展のためにと人材を集めようとしていた。

 先日は諸葛亮、鳳統らにも断られている。

 どうも周辺地域へ、若いころから毎晩手広く子作りに励み過ぎた事が災いして、好色な主君という風潮や噂が出来てしまっていたのだが……本人は知る由もない。

 劉表は静かに呟く。

 

「……どこかに、いないものか。賢者をも引き付ける大きな力と器をもつ漢が―――」

 

 

 

 襄陽城内の庭園で、二人の姫が召使いの船頭の操る池の船に乗る。城内へも漢江の豊かな水が地下を通して巧妙に引き込まれており、池でありながら網の施された流入口と流出口があり、僅かに緩やかな流れを作り出している。

 

「水音(スイネ:劉琦)お姉さま、ほら綺麗な模様の鯉が」

 

 鯉とは本来、池にだけ居るものでは無く、『鯉の滝登り』に有る様に、激しい自然の中で生きている魚でもある。ちなみに『鯉の滝登り』は立身出世することに良く例えられる。黄河の上流にある滝、竜門を登る事を成した鯉は竜へと姿を変えるという『後漢書』党錮伝の故事から来ている。

 

「……ほんと綺麗ね雫音(ナーネ:劉琮)。その鯉もいいけど……でも、……素敵な殿方と『恋』がしてみたいわ」

「そうですね、お姉さま。二人とも可愛がっていただければ♪」

 

 劉琦と劉琮。淡い紫の長い髪も美しい二人の姉妹の姫は仲が良かった。二人ともすでに母を亡くしており、最近はいつもいっしょであった。

 劉琮へは、まだ若い叔母の蔡瑁が『とても良く』してくれていたが、大事な姉の劉琦の事を良く言わない事がとても気になっていた。

 劉琮もその理由は分かっている。これでも、諸侯の娘の一人なのだ。

 姉の劉琦に変わって、この豊かな襄陽周辺を自分に継がせて、後見人にでもなり権勢を揮(ふる)いたいのだろう。

 だが、劉琮にはそんな気は全く無かった。姉の劉琦の下で力になれればそれで十分だと。

 

(私が叔母様を説得しなければ……)

 

 姉の劉琦へ優しく微笑みながら劉琮はそう思っていた。

 

 一方姉の劉琦は、おっとりとした性格であった。

 何事にも動じない感じである。

 ただ、すでに体の悪い父の強い思いは感じていた。『男に継がせたい』という思いである。そのために『見つかれば』、自分は殆ど面識のない殿方へと急ぎ結ばれることになるだろう。

 本当は、女の子として運命的な出会いや、緩やかで温かい信頼関係をハグ(育)くんでから結ばれたいと考えていたが。

 それだけが心残りである。しかし、ここまで何不自由なく育てて頂いた父へ『その願い』に応えてあげるのが、最大の親孝行だとすでに気持ちを固めていた。

 せめて誠実な方であればと望むのみであった――――。

 

 

 

                 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ―――『究極の木人』が大陸に誕生した時の事。

 揚州予章郡廬陵(ろりょう)県にある南岳衡山に居を構えている、雲華の師で天仙でもある真征(しんせい)はこの日、『三度目』の驚きの呟きをしていた。

 彼女は今、崖の側面から大きくせり出すように作られている、雄大な朱塗りの大展望部屋の窓際にある席から洛陽方面を望んでいる。

 

「何か下界が騒がしいようね」

「はっ、一体何が起こっているのか……」

 

 傍に控えていた老仙虎の黄光(おうこう)も相槌の言葉を漏らす。

 二度は洛陽方向から、天仙が全開で発する程の巨大で至高な『気』の高まりを感じたのだ。一つは些か『イカガワシイ』感じのする気ではあったが……。

 だが、それに先んじる一度目は西方の遥か遠方より感じられていた。

 真征は今一度、西方方向へ顔を向けると目を細める。

 

 それも―――少し小さな、たった一つの存在から発せられていたが、洛陽方向に感じたものよりも、『より大きなモノ』であったのだ。

 

 

 

 さらに……驚くことにそれは、『仙人の気』とは少し異なっていたのである……。

 

 

 

 ――『猛毒』がついに本格的に活動をし始めたのだった。

 

 

 

 つづく

 

 

 

 

 

 

 

司馬八令嬢小話(環華編)『眼鏡のツンデレアマノジャク』

 

 司馬家の八人姉妹の五女は、名を司馬恂(しばじゅん)、字を顕達(けんたつ)、真名を環華(ファンファ)という。

 太腿程まで伸びる見事なストレートの長い薄緑な髪は艶も輝き美しい、そして。

 

 眼鏡っ子、世に憚る―――いや違うか。

 

 ぐるぐるの目も拡大して見えている。

 眼鏡……この時代でも連想されるものは知識階層(インテリ)だ。ガリ勉、才人、少し運動音痴、弱い(体も)……。そんな一部マイナスな見方までもある。

 

 ふざけんなぁーーーである!

 

 環華は、母譲りの元気溌剌、朝も飛び起き、運動神経も良い方で、その気になれば剣も拳も十人隊長程度には負けない。

 ただ、姉妹の中で少し目が悪い。でもそれは、乱視ではなく、少し遠くは全体が僅かにボヤけて見える程度で、眼鏡が無くても通常生活に困ることはない。

 

(私もすでにお年頃……そろそろ縁談も♪)

 

 そんな、気持ちになり始めた頃の事。

 確かに縁談が舞い込むようになったのだが、やって来るのは歳も優に一回り程上で『堅物な』人物のものばかりであった。

 

(あれれ……なんかコレジャナイ感じが)

 

 まあ、結構年上(おっさん)でも別によかった。だが会ってみると、どうも皆の性格が『堅い』『暗い』のだ……。

 彼女は、少しツンとトンがった見た目とは違い、天邪鬼なところがある。

 

 彼女の希望の伴侶、それは……少し『おバカ』である。

 

 マヌケとは違う意味だ。環華は面白く楽しい人物が好きなのだ。

 夫婦とは一緒にずっといることになる。『堅い』『暗い』……耐えられるわけがない。

 その様な人物は最初からゴメン被るところだ。

 彼女も初めは素直な態度で見合いにも臨んでいたが、防衛本能が働いたのか徐々に辛辣な表向きな表情を見せるようになっていく。

 ついには。

 

「どうしても私をと言われるのなら、貴方が『虎』を倒す所を私に見せてください♪」

 

 しつこく求婚を迫って来る者へは、この決まり文句である。

 彼女は本当に『虎』を倒せと望んでいるわけではなかった。

 『虎』に見立てた張りボテと面白い芝居でも見せてくれたり、彼自身が虎の着ぐるみでも着て虎同士の戦いでも楽しく演劇風に笑わせてくれればそれでよかったのだ。

 だが『堅く』『暗い』やつらは皆、『真に受けた』のだ。

 無理だと大声でわめくもの。妻にと言う環華へ『真顔』でお前が虎をつれて来いと凄む者。などなど。

 

 彼女としては皆、機転の無い『マヌケ』な男達であった。

 

 そんなある日、都から帰って来られた母上様が、共に連れて来た男をいきなり『この屋敷』に住まわせると言う。

 冗談ではない。それもナント道で拾ったと言うではないか。猫ではないのだ。しっかりされ厳しい母上様にしては、軽率ではないかと。

 

(さっさと出て行ってもらうに限るわ)

 

 環華はそればかり考えていた。

 そして夜を迎えると、その男を『歓迎する』という宴が開かれた。

 彼女はムスッとしたキツ目で少し不機嫌な、また『マヌケ』が来たのかという表情でその宴へと臨む。眼鏡姿に食いつかれても困る(『堅い』『暗い』奴が良く釣れるので)と思い、他の姉妹に合わせ目立たないように眼鏡を外していく。

 

(まあ、おそらくいつものような『普通の男』でしょうけど)

 

 だが、初っ端の姉、明華(ミンファ)(司馬懿)の実剣による彼への鮮烈な挑発にも、驚いたことにその男は穏やかでにこやかであった。

 明華はこれまでにも、賄賂を求め下卑た中央の文官らが来た時、別館で行なわれた宴で、実剣演舞を舞い『わざと』手を滑らせ、回転しながら高く弧を描き彼らの席の目先の机に剣を突き立たせると言う事を『数回』やっている。

 環華はその時、凄く楽しい。毎回それを見るために出席していると言っていい。

 こぞって下卑た丸腰でもある文官らは腰を抜かし、席からも転げ落ちトンだソソウで漏らしていたからだ。

 それに対して、お客人なこの男の落ち着き振りである。彼も丸腰なのにだ。

 

(……何、この人は。これまで会ったり見て来た男達とは……違う?)

 

 彼への自己紹介でも、環華はそれを探ろうと客人へ向ける目をキツく凝らしていた。

 間もなく一芸大会が始まる。事前に長姉の優華(ヨウファ)(司馬朗)姉上様言われたので、仕方なく彼女も静かに順番を待っていた。

 母上様や姉上様達が……何か歓待の度合いがいつもと違いおかしいと思われた。

 彼女らの彼への眼差しが熱い。

 だが、環華には理解出来ない。

 普通と少し違う人物なのは、確かかもしれないが。

 そうして、彼女の順番になる。彼女にとっては普通の客人だ。

 こうしてタダのお客人へ酒を注ぐとき、少し睨み付ける様に注いでいる。

 環華は、その時の相手の対応を楽しんでいたのだ。

 彼も、それには少し苦笑いのようであった。

 だが他の中央からの男達からのような、イヤな感じはしなかった。彼らからは常に人を見下すような雰囲気を感じるのだ。だから彼女はそういう者達には『そのよう』に対応している。

 だが、この客人からは終始感じることはなかった。

 彼女はここで反省した。

 彼は、最近隙の無い母上様が認め、わざわざお連れした真のお客人であった事に気付く。

 

(……ここまで、失礼なことをしてしまったわ……せめて演奏は全力で)

 

 彼女は、(ショウ)と呼ばれるハープのような凹型で波のような曲線に並んでいる形の竹笛を複数吹奏する管楽器を、真剣に全力で美しい旋律を吹きあげる。

 彼からは笑顔と拍手と「良かったよ、ありがとう」との言葉を貰う。

 環華は、自分がしていた事が少し恥ずかしく「どうも」と返すのが精いっぱいであった。

 

(彼は……何か違う)

 

 彼女はそう思った。

 そんな自分の演奏の終わったあと、母上様からお客人へ声が掛けられた。

 「北郷殿は、何か見せてもらえませんか?」と。

 それに対して「え゛……?」という彼の声。

 環華は注目した。彼の応対に。断る者も結構多い。だが武が立つという話を聞いてはいる。なら、剣舞でも見せてくれるのかと思われた。

 

 彼の一瞬困ったような表情は、一瞬で―――ニッコリとなる。

 

 彼のその悪戯を思いついたような楽しそうな『ニッコリ』に、環華は内心『ドッキリ』してしまっていた。

 そして、彼が見せてくれたのは、演舞でも、剣舞でも、拳舞でもなく、―――『遊戯』であった。

 

 それも楽しい『遊戯』。

 

 彼は私達みんなに挑戦してきたのだ。五つの腕のどこに球が隠れているのかを『当ててごらん』と。

 内容は力技で確かに武に通じているが、それがとても楽しいものに。

 家族皆が夢中になっていた。もちろん私も――――――。

 

 

 

 彼は面白い、楽しい人だ。

 

 

 

 次の日も朝から、彼の客間へと姉妹らに紛れて向かう。

 その時に眼鏡姿も「可愛い感じに似合ってるね」と言って貰えたし、障害はすでに何もない。

 

 

 今日から、いや、あの『ドッキリ』した瞬間から、私は彼に夢中なのだ――――素直じゃないけれど。

 

 

 だって、私は(ツンデレ)アマノジャクですもの♪

 

 

 

 P.S.

 先日の夕食後『寛ぎの広間』に皆のいる所で、彼に『虎』を倒す所を私へ見せてと言った。

 私の『虎の件』は、彼以外の家族皆が知っている。

 すると、彼は少し考えると庭へ消え……庭に居た背にシマのある猫をつれてくると―――白い布へ『虎』と筆で書いたものを首に巻かせ、その格好の猫をコトリと寝かす様に倒していた……。猫は迷惑そうに「にゃあ」と鳴く。

 

 『おバカだ……』

 

 当然、皆―――「虎が猫に~」と呟いて、爆笑していた。

 

 あはははっ。これで、いいのにね。

 もちろん、その背にシマのある猫はその後『虎』という名前になっている。

 

 

 

小話(環華編)END

 

 

 




2015年04月07日 投稿
2015年04月22日 文章修正



 解説)雫音(ナーネ:劉琮)
 スミマセン、中国読みと音読みを合体してます。
 ナーインより、ナーネの方が可愛いかなと。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第➌➊話 呂布来たる

 

 

 ついに(エモノ)―――捉える。

 

 いつの間にか、『魔王』さまの『狩り』は佳境に入っている模様だ……。

 

(逃がさないわよ。『おっぱい×8』の覚悟はいいかな?)

 

 何への何の覚悟なのか、もはや怖くて想像も付かないシロモノな気がする。

 緒はすでに影すらなく、『堪忍袋は破れる為にある』―――そんな造語の出現すら感じさせる。

 いや、もはや前後の事はどうでもいい雰囲気が、喜びが、この者から伝わって来ていた。

 

(ふふふ、楽しみ♪)

 

 彼女の小顔な表情に愛が溢れ、『ニヤリ』が止まらない。

 もちろんこの人物は、雲華である。

 

 それは突然に感じられた。

 間違いなかった。『彼』と一緒に温泉に入って、彼が彼女の濡れて透けた白い湯浴み着姿を、その『絶対領域』を見た時と『全く同じ』波長な気の溢れ出す感覚であったから。

 だが、ダガダ、その時よりも随分と気が大きいのは……ドウ言ウことダロウカ。

 『とてもカワイイ』を、五回言って表現シテくれた自分以上ノ存在ガあるトデモ?

 加えて、ここは穏やかな日の光が射している。つまり今はまだ昼間なのに、ダ。

 

(―――ブチン)

 

 一瞬周囲へ『魔王』さまの嫉妬による、両眼を蒼く光らせての暗黒闘気風の雰囲気が満ちる気がした。従うジンメが恐怖する。

 二人は予州潁川(エイセン)郡長社(チョウシャ)県の街を目指し、西へと街道を進んでいた。今の位置は予州魯国から兗州済陰(セイイン)郡へ入ろうかという辺り。

 彼の気を感じた位置は、ここより西方へ優に五百里(二百キロ)以上離れているが、巨大な人の気の集まっている場所、都の洛陽付近であることは感じ取れた。

 

(今、『見に』行くからね♪ ―――クビト●●●ヲアラッテマッテテネ)

 

 彼女の握る手綱に力が入っていく。二頭の木馬の脚は早まっていった。

 

 ―――先程、何かがモゲる(引きちぎる?)ような音が鳴ったかに思えたのは、きっと気のせいだろう……クワバラクワバラ。

 

 

 

 その街並みの西側の外れを、黄河に流れ込む沁河(しんが)が通っている。

 司隷河内郡の治所は、温の街の東北東六十二里(二十五キロ)の懐(かい)の街である。そこに太守朱儁将軍の居城懐城がある。三里(一・二キロ)四方程の城郭に周辺を街が囲む。

 ここは懐城の宮城内、謁見の間。

 

「ふん、あの跳ねっ返りめ……仕方のない娘だな。張(ちょう)のヤツは半泣きだろうなぁ」

「まあ、涼風(リャンフォン:朱皓)ちゃんらしいですけど~」

 

 その姿は、立てば七尺四寸(百七十センチ強)ほどの女性らしい体形の上背。気功拳使いとして動き易いズボン風な前垂れの付く胴着仕立てだが、太腿の側面部に大きな窓が空く、朱色と黒の部分染めのある装飾の抑えられた実戦的な服装。まだまだ若く見える凛々しい鼻の通った表情に、鮮やかな朱色の腰下まで続く緩いウェーブのあるポニーな髪。それを簪ふうな金装飾付きの髪留めで止め右頭部寄りへ小さ目の頭冠を被っている。

 そんな朱儁将軍は、太守席の右の肘掛に片肘を付きつつ、娘からの自分勝手な手紙へ渋い顔を傍に居る長女で朱皓の姉の朱符(しゅふ)へと向ける。

 次女の目付にと付けている、朱家に代々仕えている千人隊長の張は、温の街に置き去りの模様だ。

 

「でも、母様が北郷殿についていなさいと言ったのですから~。仕方ないのでは?」

「だが、敵陣の洛陽までついて行くとは思わなんだわ。よほど気に入っているのだな」

「ふふっ、涼風ちゃんが気に入った北郷殿って、どんな方なんでしょうね?」

「……そなたも興味があるのか?」

「私もあの子の姉ですから~」

 

 母へと向かって、薄朱な腰上程のストレートロングな髪へ少し大き目な朱地と金装飾の頭冠を被る朱符はニッコリと微笑む。彼女の文官らしい服装は、朱い生地に白と金装飾で統一されていた。

 そんな様子の長女を見ながら朱儁は考える。

 領地内の西方周辺を騒がせ、大きな問題となっていた百人を超える凶悪な盗賊団を、取締り役職の就任当日にほぼたった一人の武力で一蹴し、全員を無傷で捉えたという北郷なる人物の武量とはどんなものかと考え、武の立つ娘の朱皓を温の街へと向かわせたのだ。

 そして、帰ってくるとあの跳ねっ返り娘がベタ褒めである。ああ見えて負けん気が強く、母朱儁との稽古ですら中々参ったと言わないのだが、『いやいや、完敗してきました~』と、それも―――嬉しそうにであった。

 

(涼風を完封するほどとなると、本気の私をも上回るか……)

 

 朱皓との修練は基本のみで戦っているが、手を抜いてはいない水準なのだ。

 彼が娘へ最後に見せた間合いの外から来た一撃の踏み込みは、残像しか見えないほど鋭かったと言う。

 

(そしてあの子が、すぐに反撃できないほどの痛撃を……それも本気じゃなかったらしいからな。その前には本気の拳気を片腕で『軽く』弾き飛ばして見せたり、娘の両足へ気道を封じる技も見せたというし)

 

 あの拳気は、普通の人の身だと深く抉るほどの威力がある。朱儁は若き時に、山野の村々を襲っていた巨大な野生の熊をその拳気で仕留めたこともあるのだ。

 そして今の朱皓は、その当時の自分の威力に負けてはいない。

 

(本物の、完全な硬気功ということか……歳は涼風に近い少年と言う。男では珍しくまさに気功の達人の域に達しているな)

 

 目線を右へと外しそんな考え事をする母へ、小首を傾げ朱符は声を掛ける。

 

「母様?」

「ん? あ、ああ、温県への兵の話だったな」

 

 霊帝派である朱儁将軍の勢力はすでに、反董卓で動くことは既定路線である。すでに周辺の街へも予備役の招集についての号令をかけ始めている。

 だが、全軍五万超のうちの三万を揃えるにも一週間は掛かる見通しだ。温県に朱皓が率いた二千は、この城の即応部隊の半数である。そのため、一時この城はかなり無防備になった。

 まあ今は予備役の第一陣が集まり始めており、すでに万を超えている。しかし全軍が揃うには、少なくとも半月は掛かる模様である。

 とは言え、そこまで待ってもいられないのが現実の問題なところだ。

 

「はい。今のところ曹操殿からは共闘の話は来ていません。まだ退却の途中でありましょうし、一度体勢を整え直してから動くでしょう。ですが、曹操殿とは言え一諸侯では董卓の今の規模を相手にするのは厳しいでしょうから、近々共闘の話は来るでしょう。それを促す為にも温の街へ兵を」

「そうだな。我々は地理的、規模面で曹操殿以上に厳しい。だが今は、反董卓の動きが早く大きくなるよう動くべきだ。曹操殿に先んじてでも前線を固めなければならん。特に温は洛陽に近く大きな街で重要だ。先の二千に加え、今日明日にでも早急に八千は送っておこう」

「分かりました。早速準備が出来次第、四千ずつ送り出しましょう。それで温の将はどうします?」

「……ん? ふふふっ、もう張に代行をさせればでいいのではないか?」

「母様ぁ。(あぁ……張殿、お可愛そう……やぱり親子ね)」

 

 まだ、董卓軍の動きを知らない二人は、切迫した雰囲気には至らない。

 朱符は母をジト目で見るが、朱儁は、ふははと笑っているだけであった。

 

 

 

 

 

 

 夕刻前に動き始めた呂布と張遼らは、温からほぼ南、黄河から半里(二百メートル)ほど南の位置に陣を敷きつつ、陳宮との合流を待った。

 張遼は偃月刀を握るも一騎、日が落ちる寸前の黄河の南岸に立つ。そうして茶色く濁り荒々しい黄河の流れを静かに眺めていた。

 昼間の雨で湿った草の匂いを緩い風が運んでくる。

 

(さぁて……どんな戦いになるんやろなぁ)

 

 明日になるが今回最初で唯一の要害と言えるであろう、この黄河の渡航を控える。川幅は一里は優にあり、流れもかなり速い。さらに、昼間に上流へも雨が降った影響もあってか、いつもより水嵩が増してきていた。それでも渡れない状況では無い。

 張遼は、すでに周辺の村々から配下に指示を出し船を集め始めていた。

 盧植の後軍五千も合わせれば兵数は九千百程おり、渡るのは往復を繰り返してのそれなりな手間となる。

 今回は馬も多い。馬を渡すには兵よりも大きな船が必要でもある。

 幸いこの地域は渡航の要所でもあり、何万もの大軍ではない事から急な船の徴集でもなんとかなりそうであった。

 それとは別に副将ながら張遼は、先程呂布に一言告げていた。

 

「恋、明日、黄河を渡るのはウチの部隊からやで。ええやろ?」

 

 呂布を先に北岸へ送ると、そのまま突撃して行きそうであったので、一応釘を刺しておく意味もあった。

 呂布は順番には関心が無い様子で頷きながら答える。

 

「分かった」

 

 日が沈み、張遼が川岸から陣内へ戻って来た頃、陳宮の中軍二千が到着する。弓隊と歩兵と輜重隊である。

 

「お待たせしましたです! 恋殿、霞殿」

「一応、この辺りが陣地の定番やし、すぐにメシにありつけるように土竈の準備と火起こし始めてるで。船の手配もついでにやってるわ。まだ途中やけどなんとかなるやろ」

 

 張遼が、船の手配や陣と竈の準備の進捗を陳宮に伝えた。呂布は基本、こういった事はしない。配下の百人隊長の孟(もう)か陳宮がいつも行っている。今回も百人隊長の孟が動こうとするところを、張遼が「ウチがやるからええで」と告げていた。

 早速夕餉の支度の材料が輜重隊から配給されていく。

 食事の用意が出来ると、呂布の幕舎へ張遼と陳宮も集まっての夕食を取る。

 

「温の地に強い奴っていたっけ? 音々は、誰か知らんか?」

「強いかは別として……確か、県令は王渙、地域の有力者は『司馬家』『常家』『趙家』辺りですぞ。都の官僚の一人でもある司馬防は割と名が知れてますな。彼女は黄巾党の乱の一段落で、都から故郷へ休暇に帰っていたようなのです。説得し損ねてますな。有力者達は恐らく県令側へ着きそうです。それと流石に朱儁将軍は、まだ出て来ていない気が。精々、次女で武が立つと聞く朱皓辺りというところでしょう!」

「ふぅん。まあ大きめな街の温を落とせば、次はイヤでも朱儁将軍辺りが出て来るっちゅうわけやな」

 

 張遼は嬉しそうにニッコリしながら、豪快に酒を飲み干していく。

 

「あと、県令の王渙は度々王匡を都から招いていた様ですから、おそらく王匡の配下らもいる事でしょう!」

 

 幕舎の中央奥へ静かに座り、食事へ夢中になっていた呂布が、ゆっくり目線をあげて一言呟く。

 

「逃がさない」

 

 それは、静かな口調であったが、傍の二人には極刑的な宣言と等しい言葉に聞こえていた。

 

 

 

 

 

 夜が進み黄河を越えて温県へと、この世界の終末のような状況についての伝令が届けられる。戌時正刻(午後八時)頃のことだ。

 

『今夕刻前、董卓配下の飛将軍呂布が急遽、洛陽より軍を率い河内郡へ向けて北上進攻を開始。副将には張遼将軍。恐らくすでに黄河南岸まで到達している模様。なお、兵数は先方と思われる騎馬二千以上を確認―――』

 

 温城の謁見の間。

 朱儁軍将代行の張と県令の王渙が、夜にも関わらず緊急の伝令と聞き、広間へ慌てて入って来ると奥へ並んで立つ。

 先ほど夕暮れ前には、治所の懐から追加で温の街へ四千の兵が到着し、この街の朱儁軍将代行を張に任す旨の木簡が届けられてきた知らせをこの場で同様に受けていた。

 そして今は、昨日潜伏させるべく送り出していた街人風な衣装の兵が、とんぼ返りの様に帰って来ると、絶望的な内容が吐き出されてくるのをただ聞いていた。

 県令の王渙と張は静かであったが、それは咄嗟に言葉が何も思い浮かばなかったからであった。

 報告の言葉が終わり、しばらく静寂があった。

 報告の兵が怪訝に思い、下げていた顔を上げたのを見て漸く王渙の口が動いてくれた。

 

「……ご苦労……下がって今日は城で休むといい」

「はっ」

 

 報告の兵が下がる。かの者は明日再び洛陽へと戻って行く。

 張が蒼白な顔で、不安げに王渙を見ると指示を口にする。

 

「まず……朱儁将軍への使いを……そして千人隊長以上と知識者を招集して対策を……」

「……ですね」

 

 間もなく王渙の「誰かある! 火急だ! 県尉(治安の長)と、全ての千人隊長らを呼びなさい。あと、筆と木簡を」の声が広間に響いた。

 それから半時(一時間)後に、温城内の屋敷の広い横八丈(十八・五メートル)縦十丈(二十三メートル)程な一室で、二階まで吹き抜けの高い天井から掛けられた一丈半(三・五メートル)四方程の黄河以北の温周辺の大きな地図を前に、千人隊長達と知識人ら二十名余が集まって来ていた。司馬家からは司馬防、司馬朗、司馬懿が来ている。また、ここには王匡も王渙の兵の一部を任され、配下五十余を加えた兵団の千人隊長として参加している。

 今日の昼間に温城で行なわれた董卓勢力対策会議(軍議)で、司馬朗が中心に考えた策が街防衛案に採用と可決されていた。

 司馬家は日頃から街会議にて進言し、万一に備えて街周りの農地や用水路について縄張りへ取り込んで整備してきている。公共事業など建設面での才のある司馬馗と司馬朗、そして司馬懿、司馬孚も知恵を出し合っていた。

 それを生かす時が……ついに来てしまった。

 だがそれでも呂布相手の良策は、まだ出されていなかったのだ。

 正直、呂布一人に対して、一万も二万も兵を充てることは、寡兵な勢力の朱儁軍では難しいことであった。

 いきなり『呂布の襲来』と聞き、手の打ちようを思い付けず皆が地図の前で沈黙する。

 多くの者が呂布について、黄巾党の乱での噂を聞いていたのだ。圧倒的な、まさに『人中の呂布』『飛将軍』の強さを。司馬家の面々は、噂に加えて司馬防から百騎で万の兵を幾度も蹴散らした実績記録を知らされてもいた。

 また先日の洛陽動乱でも、精強で知られる曹操軍配下の夏侯淵将軍に重症を負わせ、一人で猛将の夏候惇将軍、許緒、典韋を引き上げさせたと伝わって来ていた。

 

 ―――誰にも止められない。

 

 そんな怪物が、この街への侵攻軍の『大将』で出て来るのである。

 加えて配下も副将が張遼将軍……彼女も黄巾党の乱では一度も敗走したことが無いと聞く将であった。そして先ほど追加で陳宮率いる二千も加わったとも伝わって来ていた。さらに都の東門近くでは、数千が集まりつつあるという伝令まで届いている。

 場に、重い空気が広がって行く。

 

「伯達殿……何か飛将軍への良い案はないですか」

 

 県令王渙の、首を絞めてくるような内容の言葉を受け、聡明な司馬朗も窮する。

 

「ええ……そうですね……ええっと……」

 

 一瞬、ある(この街の英雄的)人物の事が頭を過るが、戦えばまず『死んでしまう』という対戦相手にその愛しい名を出すことなど出来なかった。今、この場に居なくて良かったとすら考えていた。目線を僅かに、母へ向けると司馬防も小さく顔を横に振る。想いは同じである。

 その時―――

 

「姉さん、呂布は私が引き受けましょう」

 

 名乗りを上げたのは、これまでの対策会議で一度も発言の無かった、妹の司馬懿であった。

 しかし、相手はまさに人知と超えている呂布。頼りになる妹の申し出とは言え、まさか自分の代わりで無謀にも受けたのではないかと思え、心配になり声を掛ける。

 

「でも、仲達……」

 

 そんな、姉司馬朗の心配そうな表情と声に対して、司馬懿は口許を緩めて力強い言葉を返す。

 

「これから突貫での大掛かりな準備の必要は有りますが、実行時に兵はそう多くいりません。誰も強大な呂布に勝てないのは、『人』の極限である者に、『人』で対処しようとしたからです。だが、やつも『人』の範疇には収まる者。なれば、自然の猛威には勝てないでしょう」

「「「「おおおーー」」」」

 

 どう対処するつもりか不明ながら、司馬懿の発した希望のある自信の籠った言葉に、その場の多くの者が期待の声を上げる。そんな中、司馬懿は目線を落とし内心で呟いていた。

 

(兄さんごめんなさい……皆を守るため、今の私は―――『鬼』になる)

 

 鬼才司馬懿が、対呂布の防衛戦に大きく乗り出した。

 

 夜は進んでいくが、それに反するように温の街は慌ただしく動き出す。

 夜中だと言うのに予備役の追加招集すら始まっていた。夕方に加わった朱儁軍四千を合わせ、現在一万二千程になっていた兵力はすべて防衛に当てられる。追加の予備役も明日には二千は加わる手筈。城塞に籠った場合、攻略にはその三倍は兵力が必要だというのが通説である。今分かってる董卓側の兵数は多くても一万程。だが、飛将軍一人で一万以上の兵に匹敵するだろう。

 打って出る兵は、状況が優位になってから……敵大将の呂布が『居なくなって』からになる。

 呂布への対策も重要ではあるが、まず街の基本防衛策を同時に進行させる。

 それは、すでに区画調整されている街周辺の畑を利用した、街を囲む形での人工沼地の創出である。温の街は元々、南北側と東側の三方を川幅三十メートル程な三本の河で囲まれているところに広がっている。

 平時は堅く閉じている街の南北側と東側の三本の河側のいくつかの水門を全開にして水を大量に街周辺の畑へと引き込んで行く。周辺の農民らも道へ篝火を並べて夜通しで手伝い、牛と牛鍬や馬鍬で梳いてから水を入れ、さらにドロドロにしていく。

 そこは侵入すれば足を取られて矢の的な死地となる、堀のような幅四十歩(五十五メートル)程ある広い区域で街を囲んでいった。

 そして、呂布対策について司馬懿は、西側だけ一部沼地を作らず、幅七歩半(十メートル)ほどの直進出来る進入路だけを通して残した西側城門の周辺での作業に掛かっていた。西門周辺は一度封鎖し内側では周囲を高い幕で隠しての作業になっていた。街への出入りは南門や北門へ迂回してもらう。

 まず、西側城門の外側両脇に城門の通路の壁の延長のような奥行二十尺(四・六メートル)、高さ十五尺(三・五メートル)ほどの土の壁のような土手を作る。城門の通路に沿って内側は垂直に切り揃えられ外に向けてはなだらかに低くなる形のものだ。

 同時に工兵らを集め、城内側の城門の両脇に左右それぞれ少し距離を置いて、内部が一部屋程もある分厚い土壁の大きな土窯を作らせていた。

 他にも七寸(十六センチ)四方の柱を積んだり並べて人が通れるほどの大きな通路状の物を作らせたり、馬車にも乗る水車を少し改良した仕掛けをいくつか作らせたり、六寸(十四センチ)ほどもある釘を大量に先を尖らせてから木枠へ打ち込ませていったりした。また絵師上がりの兵らを呼んで、城門の通路の石壁に似せた絵を大きな布へ描かせてもいた。

 司馬懿は他にも細かい作業を指示していく。

 彼女の計画によれば、多少の雨でも殆ど影響はない策という。

 司馬朗も司馬懿も、呂布らを相手に黄河の渡河時に短期間で仕掛けられる策は無かった。それは、やはり『人』対『人』になってしまうから。じっと城側に籠っての必勝の時を待った。

 斥候も出しているため、非番の者は交代で寝ておく様にとも指示が出ていた。街の者の多くも、明日から無事に寝られるのかという不安な気持ちを胸に、眠りに就く。

 そして当然、夜中に逃げ出す者達もいる。相手は常勝の飛将軍なのだ。普通に考えればこの街は負けるはずと。敗戦をむかえる前に逃げる方がマシだと動いていた。それも正常な判断と言える。

 温の街は、夜を通して喧騒が続いていた。

 

 

 

 ほどなく次の日の朝を迎える。

 黄河の南岸に陣を敷いていた呂布率いる董卓軍は、朝日が昇る前から起き出し、食事を取ると卯時正刻(午前六時)頃には張遼の騎馬部隊から黄河を多くの船で往復を繰り返しながら渡河し始めた。

 張遼の部隊が終えると次が呂布の部隊、そして陳宮の部隊がと、続々と順調に北岸へと上陸を進める。

 陳宮はまだ南岸にいてこちらの岸側の指揮を取っていた。

 二時(四時間)ほど経った巳時正刻(午前十時)近くに、洛陽から後軍の盧植将軍率いる五千の歩兵団が到着する。輜重も優にひと月分程は運ばれて来ている様だ。

 

「これは子幹(しかん:盧植)殿、お待ちしていましたぞ!」

 

 陳宮が、小柄な体ながらも元気ハツラツで万歳するように、七尺二寸(百六十六センチ)程な背丈の女史を出迎えた。

 

「公台(こうだい:陳宮)殿、丁度良い時期よね? 渡河している時間を読んでゆるゆると進んで来たけど」

「子幹殿の兵らは小休憩の後、食事をされた頃に渡られれば丁度良いでしょう! こちらは渡った後の先の陣にて食事を行ないますゆえ。そうすれば、申時(午後三時)頃には全軍で北上出来ますぞ!」

「分かりましたわ。ガンバッ!だね♪」

 

 そう言って、陳宮に比して余計に目立つ感のある女性らしい豊満な胸を、些か強調するような金細工と金糸もふんだんに使われている鶯色な服装にメガネっ子さんの盧植将軍は、膝裏まで届くほど豊かな白銀から僅かに黄色掛かる天然パーマな髪を揺らしてニッコリと肘を曲げて小さくガッツポーズしていた。

 

 そのころ、呂布らは黄河北岸を少し北上したところで陣を構え、戦(いくさ)前の食事の準備をしていた。数時で移動の為に幕舎は設けていない。本陣は椅子が少し並べられただけの簡易的なものだ。

 呂布は席を外していた。彼女は今、『重要な件』を確認しに行っている。

 張遼は、昨晩より放っていた斥候から日が昇った状態の温の状況を聞いていた。

 

「なんやて!? 大きな緩衝地帯が周囲に出来てるて?」

「はい。畑と思われる箇所が、幅広く街を囲うように整然と冠水しております。少なくとも幅は三十五歩(四十八メートル)以上はあるかと。以前はそのようなものは有りませんでしたので、朱儁軍側が仕掛けているものかと。また、西側にのみ冠水していない進入路が残されております。あと城と街内の兵数ですが、朝方に援軍と思われる四千程が加わり推定ながら一万五千程はいる模様」

「だいたい分かった。動きがあれば、また知らせてな」

「ははっ」

 

 張遼は斥候の兵を見送ると、左下へ視線を外しつつ思考する。

 

(西側だけ通れるやて……まあ事前に音々から南北と東には河があるて聞いてたけど。うーん、考え過ぎかもしれんけど、なんか罠クサイなぁ。それにしても、絶対に一晩で準備できるもんやない。随分前から綿密に準備してたんやろなぁ、そんな大掛かりな仕掛けは初めてやわ。なんかスゴイのがいそうやね、楽しみやなぁ)

 

 彼女は、少し嬉しそうに顔を上げた。

 

「霞、どうかした?」

 

 すると、本陣に戻って来た呂布に声を掛けられる。

 どうやら食事の準備が出来たらしい。彼女は早く食べたいのだろう、張遼を『わざわざ』呼びに来たのだ。自分一人だけで食べないところがカワイラシイ。

 

「いや、じゃあメシを食べにいこか」

 

 コクリ。

 この時ばかりは、飛将軍呂布も口許が緩むのである。

 

 盧植の率いる兵五千も渡河を終え、呂布らの陣に合流すると、董卓軍河内侵攻軍、総兵数約九千百が勢揃いする。直ちに行軍の隊列が編成される。

 時刻は申時(午後三時)少し前だろうか。日は少し傾いてきたがまだ高い。

 そして、総大将呂布の方天画戟(ほうてんがげき)を差し上げる仕草。

 

「では、行く」

 

 その静かな掛け声のあと、『おおぉーーー!』と全軍での鬨の声が上がると、それは早く確かな歩みでジワリジワリと北上を開始した。

 

 

 

 

 このころ一刀ら一行は、無事に洛陽の街へ西側の門からの入郭を果たしていた。

 

 今朝彼は、日が昇る前の卯時(午前五時)には起きた。いや、またも起こされたと言うべきかもしれない。

 起きた時、彼の頭は司馬敏と朱皓の小柄ながら柔らかく暖かい二人の桃尻に挟まれていた上に、司馬敏に朝のもっこりな股間へ頬や鼻でスリスリとアイサツされていたのだ。

 これで起きない方がどうかしている……とりあえず寝ている間に『暴発』しなくてヨカッタ。

 まあ、素晴らしい二人の匂いは間近で堪能出来ているので気力も十分と言えよう。

 一刀はコソゴソと起き始まる。司馬敏は少し恥ずかしそうながら悪びれる様子は無い。『妻』の嗜みとでもいうのか……。

 

「おはようございます、兄上様! 今日もお元気みたいで何よりです」

「うん、おはよう、シャオラン」

 

 ナニが元気なのかは、突っ込まないでおこう。それはきっと気のせい。

 

「おはよう、北郷殿。良く寝れた~?」

 

 そう元気に挨拶をしてくれた朱皓だが、これまで男に触らせた事など当然無い桃尻を、一刀の頭へくっ付けていたのが恥ずかしく少し赤くなっていた。

 一刀は……夜中に彼女から、偶に遠慮気味ながらもっこりをサワサワと服の上からだが、撫でられていた事は触れないでおく。

 

「おはよう、文明殿。うん、大丈夫。ぐっすりだよ」

「そ、そう~! じゃあ今日も張り切って行こうか」

 

 一刀の言葉に、安心した様子で朱皓は笑顔を浮かべる。

 日が昇る前に、まず火を完全に落とす。明るいと煙はとても目立ってしまうため、消しておかなくてはならない。

 三人は早速荷物を纏めると馬に乗り、今居る北側の斜面側を慎重に通り、潜む董卓陣営の三人の斥候監視域を一時(二時間)掛からずに抜けた。

 そこからは再び緩い南側の傾斜にある獣道を進み、ついにその西側へ北から南に抜ける街道まで出た。もちろん森からそこへ出るときは、周辺に人がいない事を一刀が慎重に気で探ってからである。

 そうして街道沿いに少し南へ下り東西に通じる道幅の広い大きな通りへと出て来た。

 時刻は巳時正刻(午前十時)辺りだ。

 ここは長安と洛陽へ通じる大きな街道なので、行き交う人の数はぐっと多くなる。

 だが、これからすぐは東にある洛陽の西外郭門へは向かわない。どうも、先程からこちらへと振り返ったり、見ている男の数が多い様に思うのだ。

 一刀一行は少し西へ馬を進めて行き、出店で食事休憩すると、そこで周辺にも動かずに監視している者がいないか、追跡して来る者は無かったかを確認してから漸く東へと向かい始めた。

 そうしてしばらく東へ進むと、遂に長大な南北へ二十五里(十キロ)は連なる、都である洛陽の西の外郭壁中央部に位置する大門へ到着した。早速門を通るために馬を降りると、待つ列の最後尾へと並ぶ。

 予定通りに先程から商隊隊長を朱皓にお願いしている。彼女が先頭で入郭の検問を待っていた。

 その時に、門から出て来て近くを通っていった数人の商人らの話の中で、一刀らは気になる内容を聞く。

 

「おい、そういえば董卓軍が東門からどこかに攻め込む為の軍を出撃させたらしいぞ」

「うわぁ……でも、これから西へ向かう俺達は安全かなぁ」

「多分な。洛陽より西方には前の皇帝様寄りの勢力は少ないからなぁ」

 

(なんだと?!)

 

 一刀と朱皓らは顔を見合わせる。

 早く、郭内へ先行しているであろう一刀の配下らと落ち合う場所へ向かいたい。だが、焦ってはいけない。ここはもはや敵の本拠地。

 それに出発時の温には八千程の兵と司馬懿もいるのだ。並みの兵団では返り討ちになるのだから。

 一刀と司馬敏はそう考えれた。だが、朱皓は司馬懿の凄さの半分ほどしか知らないのもあって少し目線が落ち着かない。

 

「文様、大丈夫ですよ」

 

 三人は、洛陽では名前を偽装するため、一刀は『郷』、朱皓は『文』、司馬敏は『幼』で呼び合う事にしている。

 一刀の人物と強さを信じている朱皓は、彼の言葉で少し落ち着く。

 

「そ、そうだよね。大丈夫、大丈夫~」

 

 多少ぎこちないが彼女も笑顔に戻る。

 洛陽ともなれば大門の守衛や役人の数は多く、門も幅で八丈(11メートル)と広いので同時に検問が進み流れはスムーズだ。一刻(十五分)も待たずに一刀らの検問の順番になった。前後の役人らの動きからこの場では『賄賂』は無くなっているようである。通行証と用向きと身形に荷物を調べられて許可を受けて通行しているように見えた。

 しかし、どういう訳か先ほどまで端にいた実剣を腰に差す男の守衛長らしき人物が、一刀の商隊の先頭に居る朱皓の前へ進み来て尋ねてくる。

 

「用向きはなんだ?」

 

 一刀は忘れていた。そして先ほどより周囲から良く『振り返られる原因』が分かった。

 雲華と街へ行った時と同じ事が起こっていたのだ。朱皓と司馬敏が『可愛く美人』であったため、通行人や門にいた守衛や役人らの注目を集めてしまっていた。

 

「はぃ~、実はなるべく安い良質のお茶の葉を探しに、弘農手前の湖(コ)の街近くの村より参りました。天下一の洛陽の都ならきっと見つかると」

「そ、そうか、すばらしい。……あの、暇な時間は……ないかな? 一緒に食事でも」

 

 いい歳の守衛長に詰め寄られる朱皓は、苦笑いを浮かべている。

 

(何かスバラシイんだよ、コイツ。仕事中に口説くんじゃない)

 

 一刀がそう考えていると、周囲からも「衛長、ずるいなぁ」「アンタ、今付き合ってる飲み屋の女はどうするんだよ?」等のヤジが起こる。

 「うるさい! 俺は今に生きてるんだよ」と開き直った反論をする。言い訳はいつの時代も変わらないらしい。

 すると朱皓が言って……やった。

 

「すみません、時間も無いですし~。あと、許嫁が西方の地元で待ってますので」

「ぐはっ」

 

 守衛長は天を仰ぐようにクラッとする。あっけなく撃沈されていた。

 しかし、彼はなおも食い下がる。もう一人の街娘な服を着る、可愛く掴む為の栄光の部位がおっきい司馬敏に目を付けたのだ。目線を露骨に双丘へ向けつつ懲りずに言い寄る。

 

「えっと、君は……暇はないかな? 綺麗な服が欲しくはないか」

 

 すると、司馬敏は恥ずかしそうな表情で言ってしまった。

 

「すみませんです! 横にいますのが……お、『夫』です!」

「「「「「「!………」」」」」」

 

 守衛長の目が、いや、彼だけの目ではない。周囲にいる若い衛兵や役人の男達が、鋭く一刀を『血走った目で』睨んで来ていた。加えてなぜか列に並んで待つ人らや朱皓までがジト目だ。

 彼らの目が訴えていた。

 

 『毎夜、その幼い感じのカワイイ娘のおっきい胸を弄んでるのかぁ? 散々子作りに励んでるのかぁ』と。

 

「おい、お前!」

 

 突然、その睨む守衛長が、一刀の肩を力強く掴んで来た。

 一刀ら三人は一気に緊張する。

 

(まずい。今、捕まる訳には……)

 

 一刀は一瞬『闘い』の決断をも考えようとしていた。

 すると、守衛長は静かに目を閉じると……言った。

 

「―――大事にしてやれ。だが、夜はホドホドにしろよ―――通って良し!」

 

 一刀らは、無事に門を通過していた。

 

(ふう、ヤレヤレ、通れて良かった。でも……通行用の木簡を確認してないだろ、守衛長のオッサン! 穴の開いたザルじゃねぇか)

 

 そんな西門での笑い話は後に置いておき、一刀ら三人は急ぎ先行している一刀の配下達と接触するための場所へと急ぐ。

 そこは都市の中心、洛陽城南の大通り近くから一本道を入ったところにある大きめな老舗の本屋である。

 味方かどうかの判断は『白い羽』だ。それを荷物や服に付ける。

 だが、単に『白い羽』では当然間違える。

 そのため、加えて白い羽の真ん中に墨により、『・(点)』を付けた物で差を付けることにしていた。

 情報が無ければ点は一つ。この時は互いに素通りだ。

 情報が有れば点は二つ。この時には静かな本屋を出て、人通りが多い喧騒な場所で並んで歩きながら情報交換する。

 話しが終われば羽は点一つの物へ戻す。

 なお情報が無ければ、羽は外していてもいい。

 また本屋内に点の羽を持つ者が三人以上いれば、四人目以降は店内を素通りして外へ出ることになっている。あまり集まると目立つようになるからだ。

 一刀らはその本屋を見つけると、近くの馬止へ馬を繋ぎ、急いで中へ入る。

 そして探す。

 

 

 すると、点二つの羽を差してる者が―――十人ほどもいた。完全に異常事態だった。

 

 

 一刀が目で合図を送ると二人が外へ付いて来る。一刀の配下二十人の中でも隊長格に指名していた二人だ。

 馬は一時馬止に止めたまま、朱皓らも含め五人は道へ歩き出すと配下の一人が話し出す。

 

「長(おさ)、一大事です。すでに温の街へは昨夜に知らせていますが―――」

(き、昨日の……夜ぅぅ?)

 

 話の内容がオカシイ。一刀には付いていけていない。彼の背中を、静かに冷や汗が流れていく。

 どうやら、司馬敏と朱皓と添い寝をしながらスリスリサワサワしてもらっている場合では、完全に無かったらしい。

 配下の衝撃的な話は続いていた。

 

「―――昨夕に董卓軍が河内郡へ進攻し始めました」

 

 一刀は、鈍器で頭を殴られたほどの衝撃を受けて立ち止まる。横にいた司馬敏、朱皓らも顔色を変えていた。しかし話はまだあるため五人は再び歩き出す。

 さらに、まだまだこれからという内容が続いて出た。

 

「その董卓軍を率いるのは、呂布将軍。副将は張遼将軍―――」

 

 一刀らは、完全に立ち止まる。その配下の者は、立ち止まったまま全てを話し続けた。

 

「―――以上両将は騎馬隊二千強程。中軍は軍師陳宮率いる弓隊含む二千、そして後軍に盧植将軍率いる五千です。今朝早くから黄河の渡河が始まった模様。早ければ恐らく今頃は、北岸に全軍が上陸完了しているかと」

 

 往来の中で五人が立ち止まると邪魔で目立つことから、すぐ脇の人気の少ない小道の袋小路へと入った所へ寄り、配下のもう一人も話始める。

 

「昨夜温へ内容を知らせた私は、今朝まで温におりました。街には昨夕と、今朝早くに朱儁将軍より懐から四千ずつ、合計八千の兵が増援で増えております。また、飛将軍呂布の対応に司馬仲達様が策を持って当たられております。そして、洛陽への帰途に私が確認しましたときは辰時(午前七時)でしたが張遼将軍の『張』の旗を持つ兵と馬が多数の船で渡河しておりました。時間的に見てすでに全軍がほぼ北岸へ上陸していると私も考えます」

 

 飛将軍呂布の率いる軍。はたして止める術があるのか。

 配下二人は次の指示を待つため、一刀を見る。同様に朱皓と司馬敏も一刀の判断が気になり一刀を見た。

 

 だが、その一刀は、下方の一点を見つめて―――僅かに震えていた。

 

 一刀の知る歴史上で呂布と司馬懿は対戦したことは無い。

 司馬懿は確かにスゴイ。精密な思考と策にしろ、剣の腕も一角の武人としての力量もあるだろう。

 だが、先日『寛ぎの広間』で司馬防の話す呂布の戦績を横で聞いていた時に感じていた。この時代の呂布の出鱈目な強さは、もしかするとあの『修羅仙人の雲華』にも通じるんじゃないのかと。

 

 そんな怪物には……ドンナ策モ通ジナイ―――。

 

(マタカ、俺ノ遅レタミスデ大事ナ者達ヲ助ケラレナイノカ……)

 

 一刀の意識は、深い闇へ落ち込もうをしていた。

 

 

 

 

 北上を続ける董卓軍の先頭は、飛将軍呂布率いる『修羅の』騎馬百。そして張遼将軍の『神速の』騎馬隊二千。次に陳宮の率いる中軍二千が進み、後軍の盧植兵団五千が整然と続く。

 四将が揃っての事前の話し合いで、結局温の街の南の老蟻河(ろうぎが)を渡り、西側の平原から回り込んで堂々と街側へ進軍しようということになった。

 『城塞に騎馬』という通常では相反する組み合わせなのだが……飛将軍は黄巾党の乱で、城塞戦をも旗下百騎でいくつも熟して来ていた。

 やわな城門など、破城槌のような方天画戟の一撃で粉砕され、城内も縦横無尽に百の騎馬隊で駆け抜けていた。城壁の上までも階段を馬で駆け上がり突き進んで行くのだ。

 その悪鬼のような騎馬軍勢の光景に、黄巾党の兵らは城から命からがら逃げ出すしかなかった。

 諸侯相手の城攻めは初となろうが、状況は『そう変わらんやろうなぁ』と張遼は見ている。

 

 そこそこの武人や策では呂布の猛進撃は、まず『止められない』から。

 

 先程までいた北岸の陣から温の街は十二里半(五キロ)ほどしかなく、申時正刻から三刻強経った(午後四時四十五分)頃には、温の街の真西三里(一・二キロ)ほどの距離の平原や畑が広がる場所へ素早く軍の展開が終わっていた。

 日は結構傾き、夕暮れが丁度背中側に近付きつつある。

 そこから、張遼と呂布は十数騎を伴って、様子見で城側に寄って行く。

 

 温の街は、城以外の街も大きく囲う様に外郭壁が連なっている。その壁上には兵らと共に『朱』の文字の旗が多く並ぶ。また、県令の『王』の旗や『司馬』の旗も稀に見えている。

 街の西側に城が位置し、高さ四丈半(十メートル)程の城壁の二里(八百メートル)程の横幅に対して、その西の城門はほぼ中央の位置にあった。門の高さは二丈無い程(四メートル)で幅は二丈と少し(四・五メートル)。

 不思議に思えるのが、門より少し離れた城内側の両側から盛んに煙が上がっている。おそらく、豊富な水源を生かし城壁上から熱湯でも掛ける為に火でも起こしているのかもしれない。煙の量から、かなり火が大きいように感じるが。それよりも……。

 

 今、その西城門は――――全開されていた。

 

 扉は分厚く重たい木製で鉄の補強板にゴツイ鋲打の入った一枚扉が、天井から絡繰りで吊り上げられ落とされてくる形だろうか。

 随分傾いた日を受けて、遠目に門の通路の中まで光が入り城内まで見通せるが『扉』らしきものは見えない事からそう想像出来た。ちなみに一般的に扉は外側寄りにある。それは、万一の場合に通路を岩や土砂で埋め厚く扉ごと塞ぐことも出来るためだ。

 さらにこの西門より真っ直ぐに自分達の傍近くまで伸びている進路は、掃き清められたかのように綺麗に見えた。

 そして、呂布らは気が付く。

 

 よく見ると、一人の人物が開いた西門の前、六十歩(八十二メートル)程外に立っていることに。

 

 相手は一人。

 張遼が出ようとするところを、呂布が手で制する。

 

「恋が行く」

「……分かった」

 

 この侵攻軍の大将は呂布である。ここは大将の面子の掛かるところだ。張遼が出るわけにはいかなかった。呂布はゆっくりと一騎で馬の歩を進める。

 西門の前に立つ人物に対して、半里(二百メートル)強程離れたところで相対する。

 ただ一人、地に立つ人物が先に声を上げる。

 

「呂布将軍とお見受けする。私は温の顔役『司馬家』の次女、司馬懿仲達と申す。温の街へ如何なる用向きか?」

 

 物々しく軍を率いて来る者に、無駄とも思える事を改めて聞く。これは、その者がどう答えるかで『人物』を見る意味も含む。

 この時張遼は、『しまった』と思った。相手は朱儁軍の代表でも、県令でもなかったのだ。自分が出ても問題がなかったことに。

 そして司馬懿の質問へ、呂布はこう答えた。

 

「王匡の配下を出せ」

 

 呂布は駆け引きなどしない。それは、その先に多少の策があったとしても関係ないからだ。その自信と実力が駆け引きを必要としていなかった。

 なので目的を『素直に』そのまま聞かれた相手へと告げていた。

 それを聞いた司馬懿は、呂布と言う人物を掴み、内心でニヤリとして提案する。

 

「よろしい。将軍が私を倒せたら、要望に応えましょう。如何か?」

 

 司馬懿は、有無を言わさないように早々と剣を抜いていた。

 

「……いいよ」

 

 呂布は言葉と同時に、右手に持つ方天画戟の握りを強めると、操る馬を司馬懿へと駆け出させる。

 

「待て! 止まれ、恋―――!」

 

 後ろから張遼の声が聞こえるが、動き始めた呂布は止まらない。

 

 県令の王渙、朱儁軍将代行の張に、王匡、そして司馬防と司馬朗らは、守備兵達と共に城壁から静かに司馬懿のこの恐るべき『鬼の計略』を見守っていた。

 それはまさに飛将軍を、呂布を『人ではない力』で『殺害する』為のもの。

 だが今この時も、司馬懿はすでに一つ大きな掛けをしていた。

 それは呂布との距離だ。

 

 司馬懿も全力で駆け出していた――――――西の城門へと。

 

 

 

 

 クルクルツインテールな彼女は、『彼』の異変を感じ取った。

 何故なら彼女はずっと様子を伺っていたノダ。そう、自らの主の様子を。

 主である『彼』は深く暗い闇へ落ち込もうとしていた……。

 

 『究極の木人』な彼女は、夜中に主がずっと傍の女達と離れずにいた事も、いつの間にか二人の女の桃尻に頭を挟まれていた事も、股間のもっこりへ女の顔でスリスリされていた事も、それをもう一人の女の手でサワサワされていた事も、すべてしっかりと把握していた。

 

(主様は女がタイヘンお好きなようね……フン)

 

 だが、自分も『女』の体をしていた。彼女は少し安心する。

 

(……私も、気に入っていただけるかしら……ハッ、私ッたら何をバカな事を!)

 

 そんな『女好きな主』が早朝から移動を始めると、彼女もその後にコッソリついて移動を開始する。

 だが、斥候の監視域を躱し西へ進み、ついに森を出ようとしたところで、彼女は朱色の大きな箱を担ぐこの『才気に欠ける格好』で主を追い続けるのかと再度迷う。彼女の才能と人格は三大英傑筆頭のアノ人物なのである。自負というものがあった。

 だが、彼女の人格は『覇王』ではなかった。

 

 『能臣』であったのだ。

 

 彼女が選んだのは、この森から踏み出して主へとついて行く事であった。そのために『小さい事』へは目を瞑ろうと決める。

 朱い大きな箱が彼女の背で揺れていた。結構この姿へ目を向ける者がいる。些か男に偏っていたが。荷は朱いが少し大きいだけで珍しいものではなかった。しばらく歩いていると、それ以上の原因があることに気付く。綺麗な髪に桃と朱色な可愛い色合いの服装で、彼女が美人な方が注目されていたのだ。そのことが分かるも、これは諦めるしかなかった。とりあえず、箱の中の足元の端にあった数枚の紺の布地のうち大小二枚で、鼻から口許と服装の上に羽織って隠し凌ぐことにする。

 主は少し南へ向かい、今度は大きな街道を西へと向かって行ったが、少し進んだ所でしばらく止まる。その姿を気で細密に探ると、どうやら食事を取っているようだ。

 彼女自身も人の体も持つため『お腹が空いて』いた。山の中で沢の水を結構飲んだが、水だけではやはり空腹は凌げないようだ。

 彼女も知識としては色々知っている。

 店に入って食事を取るには『お金』が必要なのである。

 しかし、『●琳様人形』であった自分にそんな持ち合わせはなかった。

 だが、どうすればお金が手に入るかは知っていた。

 彼女は道の端へ寄り、朱い箱を下ろすと箱の中に残っていた十枚程の上質なブラウス風な服を箱の上に並べて―――売り始める。

 彼女はこれが、とても人気のある『裁縫師』の作った上質な服だという事を知っていた。人形製作者の色々な思いが、彼女へ籠っていたようである。

 それらの服が実際にどう良い作りをしているのかを、凛とした声で丁寧に『売り子』として説明していると、彼女の周囲へすぐに人が集まって来ていた。口許や服を紺色の布で覆い隠していようとも、艶やかなツインテールの髪や美しい眼光に眼力の有る瞳等、溢れ出す彼女の高い魅力は自然に人を引き付ける。途中で何度か、ウチの店で働かないかという誘いさえ受けていた。

 そのうちに、商人風なお金を持っている女人が言い値で買って行ってくれる。

 彼女は『値切る』人物には売らずに『気前のよい』人物に売った。

 服は数枚しかなかったが、彼女の売り方も上手く、物自体も良かったので良い値で売れ、ひと月近くは暮らせるほどのお金に変わった。実はまだ、数枚下着が箱にはあったが……それは着替え用にするつもりである。

 そのお金で長物用の背負子(しょいこ)も買い、主とは別のお店で食事を取る。その店の料理人の腕は今一つであったが、不問にする。

 それと入れ替わる様に、食事を終えた主らが今度は街道を『東へ』と向かい始めた。どうやら洛陽を目指すようだ。

 主が店の外という、ごく近い距離を通って行く。しかし、彼女は気の大きさを並みの人程度まで小さく下げていた。

 一刀の気の全周警戒は主に大きさを見ており、個々について自分と同質という所まで細かくは見ていなかった。

 なので主は彼女に気が付かず、そのまま街道を東へと進んで行った。

 二刻(三十分)ほど遅れて、彼女はお腹を満たし店を出ると再び朱い箱を背負って主のあとを追う。

 そうしてしばらくすると主らは西外郭の大門に並び、無事に中へと入っていった。

 しかし、彼女は門へと近付く道で、知識が有る故に困った。

 

(……通行証がないわね)

 

 朱い箱は兎も角、身形は良いため、通行証の木簡が無いのは些か不自然であった。

 まあ、あの守衛長なら美人なだけで通してくれそうだが、彼女はそんな事は知らない。

 通行証は、住む街や村の役所に行ってお金を払えば、木簡へ行先と職業と有効期間を記し、役所の焼印と朱印を押して発行してくれる。

 しかし、それよりも重要な事を彼女は知らなかった。

 

 自分の素顔が、董卓勢力下では『お尋ね者』であるという事を。

 

 一応、今は偶然にも紺色の布で口許や、服を覆う形の姿ではある。

 それに加え、彼女はこの洛陽で動乱があった事も知らない。ここは霊帝の治める都市だと古い知識しか持っていないのだ。

 だが、通行証の木簡が無かったことは結果的に良い状況に進む。

 彼女は『門を通らなかった』のだ。

 広範囲の気を探り、西外郭の壁周辺について外と内で守備兵の薄い所や不在なところを把握する。そして、至高の気を吹き込んでくれた主から引き継いでいる『神気瞬導』の力を駆使する。

 街道から少し外れた人気のない場所から、箱を背負いながらも『暗行疎影』と『超速気』で、僅かに目の錯覚のような残像のみを残す動きにて見つけた手薄な場所まで移動し、一瞬で壁を垂直に駆け上がると誰もいない城壁上の楼閣へと入った。そして、機を見て内階段も再び『超速気』で駆け下りて人知れず郭内へと出て行った。

 それからは再びゆっくりと人波に紛れて大通りを歩きつつ、一刀の後を付けていたのだが。

 

 その主の気が、突然急速に深く暗い闇へ落ち込もうとしているのを感じた。

 

 その理由は良く分からない。

 だが、その状況を『臣下』として見過ごせなかった。『自分ほどの人物』の主が自思考だけで『壊れて』しまうなどアリエナイ、有ってはならないと。

 彼が主に相応しいかを探っていた彼女だったが、『そんなこと』は後回しの状況だと行動を起こす。

 彼女は、洛陽城南の大通りから一本入ったあの本屋のある通りを進み、袋小路に立ち止まっていた五人の集団のところまで一気に近付いて行く。

 

 そして、彼女は『府抜けている』主の―――一刀の右の頬を張り倒していた。

 

 

 

 暗い縁に落ち込みながらも一刀は気が付いていた。『ダレか』が一瞬で近付いて来たことを。そして、振り下ろされた手を『超速気』で『避けた』つもりであった。

 だが、一刀はその右の頬を思いっきり打たれていた。

 そして、その威力で飛ばされ二十歩(二十七メートル)程ある袋小路奥の壁際へと転がる。

 他の四人は、いきなり朱い大きな箱を背負った紺色の生地を纏う見知らぬ人物が横に立っており、一刀が視界から消えていたこの一瞬の出来事に驚く。

 『あの』一刀が一撃を受けたのか飛ばされるように道の奥へと転がっていったのだ。

 

「兄上様!」

「北郷殿!」

 

 二人とも急展開に偽名の事が飛んでいた。

 道の往来の人々も、叩かれ周辺に響いた鈍い音と人が転がる道の脇の袋小路で起こった出来事に、一瞬数名が何事かと小路口で足を止めるも我関せずとまた歩き出していく。

 四人の内、司馬敏と朱皓は直後に反応し、すでに朱い箱を背負う人物と一刀の間に立っていた。

 

「お、お前は誰―――」

「だまりなさい! 今はその後ろの方に話があります」

 

 司馬敏が朱い箱を背負う人物に食って掛かろうとしたが、その彼女に一喝された。

 その強い口調の言葉から、並みの者では無い風格と威厳と威圧を感じて、司馬敏の言葉が止まる。

 その時、司馬敏、朱皓の二人の肩へ後ろから『ぽん』と、いつの間にか立ちあがって来ていた一刀が手を掛ける。

 

「いいよ、幼も文様も。なに、ちょっとした『身内』かもだ。大丈夫、下がっていて」

 

 『身内』と聞いて一瞬二人は驚くが、一方で一刀からは尋常ではない気勢が感じられ、二人は一刀の後ろへ下がる。

 頬をかなりの威力で叩かれた彼だが『硬気功』を瞬間に纏っためダメージは無かった。だが、その時全力ではなかったが『超速気』で躱せなかったほどのスピードで打たれ、『硬気功』が無ければ首が十分折れるほどの威力を受けた。それでも、向こうもまだおそらく全力ではないだろう。もはや一瞬の油断も出来ない。

 それと前に立つ者には見覚えがある。黄色いクルクル髪のツインテールに凛々しい目元の表情、そして自分に近いこの気質、おそらくあの人形である。彼女の登場には自分が噛んでしまっていると感じていた。

 しかし、雲華に忠実な木人くんを見ている一刀には、『主をコロス木人』など考えられない。

 なのでこの状況、完全に目の前のモノは何者かの刺客としてやって来たと考えるのが妥当に思えた。だが一点だけ良く分からない。目の前のモノがどう視ても『人』に見えていた。透過する構造がすでに人形ではなく、『女の子』なのだ。だが今はそのことは後に回す。

 闘いが避けられないのなら、一刀は出来れば場所を変えたかった。人の往来の近いこんな所で全力同士で暴れれば死人が多く出てしまう。

 

「……で、話ってなんだ? 戦うつもりなら、出来れば場所を変えたいけど」

 

 彼女は一刀からそんな言葉を受けた。

 どうやら、正気へ戻すつもりで主の『硬気功』を確認した上でも響くように『少し』力を入れてひっぱたいたので、主は何か勘違いしているようだ。だが、それならそれでと、彼女は利用する。

 

「弱い者を相手にしても下らないから、ちょっと活を入れに来ただけ。なにを深く悩んでいるのかしら? 事情は知らないけれど、貴方は今、本当に持てる全力を尽くしたと言えるの? 本当に全力を尽くしたのなら、暗く落ち込んで『後悔する』ことなど何も無いはずよ」

「なに?」

 

 だが、一刀は言われたことがすぐに思い当った。

 

(そうだ。いつも全力を尽くした雲華はそうだったじゃないか―――)

 

 一方で一刀は思う。雲華の最後の時、自分は本当に手を尽くしたのかと。

 今気が付く。自分の『全ての気』を……『命の気』を使い切ってはいなかったことを。加えて彼女には凄い『師匠』がいたじゃないかと。その師匠のところへ直ぐに連れて行けばまだ手があったのではないのかと。

 そして今。

 

(まだ時間や、手は有るんじゃないのか。いや、まずオレが全てを掛け、全力で街へ戻らないと―――考えるのはそれからだ)

 

 落ち込んでいる時間など微塵もない。そんな気迫に、一刀の目へ力が漲って来る。

 

(ふう……手の掛かる主様のようね)

 

 『究極の能臣』は、主が持ち直して内心ホっとする。

 一刀は、箱を背負う彼女に正面から向き合い尋ねた。ただ絶対に、仙人関係の事は隠さなければならないため、偽装的な『身内』を意識した中途半端な言葉が出る。

 

「キミの名は……えっとなんだっけ?」

 

 『究極の木人』は一刀にそう問われ一瞬言い淀む。本来、木人の『名』とは主が付けるべきモノなのだ。しかし、彼女にはすでに『元々の名』があった。

 また、初対面にも関わらず、何やら彼の言葉に齟齬がある。利口な彼女はソレに彼が先ほどの『身内』と言った部分に拘りたいらしい意図を感じ取っていた。

 そして彼女は主の姓が『北郷』という事を知っている。

 ここは余計な事を言わず、無難な言葉を返してあげる。

 

「……姓は『東郷』、名は『操』と書いてトウゴウソウよ。よく覚えておきなさい」

 

 彼女は『夏候』は名乗らない。通常、子は父方の姓を名乗るためだ。

 だが彼女は『北郷』を名乗らない。それは――この大陸では同姓不婚があったから。

 

「……(と、東郷だと……俺に合しているのか……)分かった。じゃあ、東郷。今は俺の行く場所へ付いて来て。落ち込む用件を片付けれたらキミの相手にもなるよ」

 

 一刀は、この東郷操をこの場から、自分を餌にして引き離しも同時に考えていた。残り四人の力ではこの彼女への対抗はまず難しいと思えたからだ。

 一方、『行く場所へ付いて来て』……そんな一刀の言葉に、彼女は内心でドキリとしてしまう。主様からの初めての『ご命令』なのだから。

 

「いいでしょう」

 

 彼女は目を瞑り顔を逸らして、それらしく受ける。だが、彼女に犬のような尻尾が有れば、ご機嫌に振っているのが見えた事だろう……。

 とりあえず一刀は考えていた、自分の事はすべて後だと。

 

 『ただ―――皆を助けたい』

 

 今はそれだけだった。

 東郷操とも用件は纏まり、一刀は四人へと向き直る。

 

「皆はここで役目を。俺が温まで全力で行ってくるから。文様、戻ってくるまでここをお願いします」

「分かった~。必ず戻ってよね」

 

 一刀は頷く。

 

「兄上様! 皆を街を……」

 

 少し泣きそうになってる司馬敏へ、一刀は優しく頭を撫でてやる。

 

「分かってる。守ってくるよ」

「こちらはお任せを。御武運を!」

 

 配下の二人が一刀へ伝える。

 一刀は小さく頷くと東郷操へ目線を送る。

 彼女が頷くと同時に、二人は朱皓らの傍から―――消えた。

 

 一刀は駆ける。『超速気』を全開にして。

 彼らが駆け抜けたのは、人の歩いていない建物の屋根や塀であった。垂直な壁すらも走った。

 そしてあっという間に東の外郭壁も飛び越えていく。そのまま黄河の南岸まで、三十キロ弱を『数分』で到達する。

 驚いたことに、そんな一刀の動きに対して、東郷操は朱い大きな箱を『背負ったまま』で付いて来ていた。空気抵抗は一体どうなっているんだろう。そんな疑問も浮かぶが、今はどうでもいい。

 次に黄河を渡る。

 だが、さすがに狭くとも五百メートル以上もある川幅をジャンプ台も無く一気に飛び越えることは物理的に出来なかった。

 じゃあ、やはり船か? ―――否。

 だから彼は『超速気』の限界で走る。

 ご存じだろうか、時速二百五十キロで水面に激突するとそこはコンクリートの固さに匹敵するということを。

 

 

 つまり、それ以上のスピードで蹴り、彼は水面を―――突っ走っていた。

 

 

 

 

 

 

 司馬懿は、温城の開いたままの西城門へと走り出す。それを馬で追う形の呂布。

 対峙していた折に、司馬懿の弾き出したその時間差は、おそらくゆっくりと呼吸を数度出来る程度……現代時間で十秒も無い。

 二人の距離が九十歩(百二十四メートル)以下だと時間差が無くなり危なかった。

 だが半里(二百メートル)はあった。

 つまり呂布側は門まで三百メートル弱。馬が早いと言っても、ゼロからの加速となれば二十秒近くは掛かる。

 司馬懿は門の通路内を通って城内側へと入る。そこは広場になっており、城門通路から出て四歩(五メートル)程の位置で剣を握ったまま呂布を待つ。

 その通路の長さは、九歩無い(十二メートル)程。

 その様子を呂布も当然追いながら見ていた。

 だが、この通路を無事に駆け抜ける姿を見られる事自体も、司馬懿の計略として炸裂していたのだ。

 

 普通に『駆け抜ける事が出来る』と―――思わせる為に。

 

 呂布は、迫る城壁からの無数の矢を、小虫を払うかのように方天画戟で全て弾き落としていく。そのまま西城門へ全速で突入しようとする。

 だが、門の通路へと入る直前に彼女の本能が『異変』を知らせていた。先ほどまで気にならなかったが通路外側の土を盛った土手が目に入る。加えて、通路の床に違和感を感じた。石の様には見えたが……『絵』であったから。

 だが、馬は急には止まらない。

 馬が門の通路へ一歩目を踏み出すと馬の脚の甲へ、何本も長い釘が突き抜けて来ていた。馬は血を流そうとも進む勢いで、二歩目三歩目四歩目と足を踏み抜きながら中へ進んでいく。

 そう、床全面が六寸(十四センチ)程の釘によって覆われていたのだ。

 当然、入口の土もその分綺麗に嵩上げされていて表面上は平坦に見せていたのだ。

 司馬懿は、僅かに作られ絵の下に隠されている小さな『飛び石』の位置を全て正確に記憶していた。他の者では踏み抜いていただろう。

 さらに、絵の布は事前に踏み跡まで無数に付けられている念の入れようであり、『飛び石』の位置は全く判断出来なかった。

 更に、それ以上の脅威が呂布を襲う。

 司馬懿が先に立つ通路出口側の下部両側から人が通れるほどの高さのある木の通路のようなものが顔を出す。そしてそこから透明な何かが勢いよく流れ出て来た。その途端、通路の温度が急上昇する。

 そう、これがこの通路を『死地』に変える秘密兵器であった。

 司馬懿が呂布を葬るために用意した策、それは―――

 

 

 

 即席の熱風放射設備であった。

 

 

 

 城門通路の両脇に設置された、中が大きな部屋程もある二器の土窯の中で大量の材木を鞴(ふいご)も使って盛大に燃やす。炉内上部に貯まった高温の空気を、馬車にも乗る水車を少し改良した、歯車も用い数人の兵らが交代で回す大型送風機を数台作らせ、それで延々と発生する高温の空気を押し出す。

 家が燃える火災でも、熱風の温度は七、八百度はあるのだ。それを一分も受け続ければ『熊』でも命は無い。生物である以上、呼吸をすれば肺も焼け、生き残ることは理論上不可能であった。

 その高温の空気を七寸(十六センチ)角の柱を並べて作成したダクトのような通路に通す。柱とは完全に燃え切ってすら崩れることは無いのだ。火を噴きながらも熱風は通路を吹き抜けていく―――。

 

 つまり、どんな豪傑でもこの策をまともに受ければ『人』である以上ひとたまりもない。

 

 床は堅い長い釘で覆われ、踏み抜いた場合、動くことは出来なくなるだろう。

 呂布の乗る馬は全速で駆けて来ていたため七歩目まで進むと入口から五メートル近くは侵入していた。そして、その馬体はすでに斜めに倒れ始めていた。

 普通この場合、距離の近い入口側へ、方天画戟を使って片足の踏み抜きを覚悟してでも戻るという選択が賢いと考えられる。

 それを考え通路外側の土を盛った土手も、入口側に逃げた時用の有効範囲を伸ばす為のものであった。

 

 だが、呂布は恐ろしい。彼女の『本能』は司馬懿のこの死地の策を上回っていた……。

 

 呂布は遊びのある右腕の白い袖で顔を隠すと目も閉じ呼吸を止める。

 そして倒れながらの馬上から飛び―――幅四丈強(四・五メートル)程ある城門通路内の床から低い位置の左右『側面の壁』を交互に蹴って、目にも止まらぬ速さで『前進』して来たのであった。

 上部へ上がりがちな熱風を極力避け、床の踏み抜き釘をも同時に躱して見せたのだ。

 その瞬間的な行動力に司馬懿すら驚愕する。

 

(……バカな、飛将軍に恐怖心はないのか)

 

 しかし、いかに呂布でも、出口付近の両端は熱風の吹き出し口があり近寄れない。つまり、城門通路を出た中央位置付近に着地しなければならないのだ。

 だが司馬懿も―――それを見越し、そこに万が一の『最後の策』を残していた。

 呂布は宙を舞いつつ、城門通路から飛び出して来た。そして、目を開くと彼女も気が付く、司馬懿の『最後の策』に。

 それは単純な蓋のある巨大な落とし穴。

 司馬懿が通り抜けた時に留め具が外されている。踏めば落ちるのみ。

 穴の底ほど広くした形に掘り込まれた底に無数の鋭い鉄の杭を打ち、油を敷き、門上の楼閣や城壁から火矢の雨を見舞う。後は焼き尽くすだけだ。

 最早、そこへと着地しなければならず、踊り出した呂布の体はすでに空中である。

 いかに飛将軍でも空中で水平移動はできず、飛び続ける事も出来ない。

 

 司馬懿は笑っていた、鬼の顔で。

 

 しかし―――呂布も笑っていた。飛将軍の顔で。

 

 呂布は使う、『方天画戟』を。

 そう、城門通路の出口ギリギリの床を、剛力を持って方天画戟で思い切り突く事で驚異的な前進推力を得ていた。

 呂布は、司馬懿の『立ち位置』へ方天画戟を振り下ろしつつ悠々と静かに着地する。

 司馬懿は、その直前に『立ち位置』から下がるしかなかった。その立ち位置寸前までが落とし穴であったが、呂布はそれにも気が付いていたから。

 しかし司馬懿は、この超人へ臆することなく剣を構える。だが、この瞬間に死を覚悟していた。

 策は破れたのだ。

 

(……これは勝てぬ。この身体能力と目で追えぬ動き、瞬間の行動力―――もはや人を超えている。ああ、姉さん……母君、妹達……一刀兄さん、ごめんなさい)

 

「熱い……痛い。……傷を負ったのは初めて。やるな、お前」

 

 呂布は、無傷ではなかった。服から肌の露出した両肩と腹部を火傷していた。

 

「お前、司馬懿と言ったか、覚えとく。だが、死ね」

 

 呂布の方天画戟が見えない速さで、司馬懿の首へと振り下ろされた。

 

 

 

 

 

 

 一刀は『超速気』で地を駆け続けていた。すでに温の街の城壁はそこに見えている。

 黄河の流れる水面を走り抜けて越え、温の街まですでに一キロを切っていた。この距離なら司馬懿程の気の大きさがあれば感知出来た。

 しかし、一刀は驚いていた。司馬懿へと近付いて行く者の気の大きさに。

 他にも非常に大きな気が、それ以外にもいくつかを西の城外に感じられる。多分、この大きな二つが呂布と張遼なのだろう。

 それにしても、呂布の気は司馬懿に比べて圧倒的に大きかった。それは、まさに怪物級と言えよう。人として認識出来た気の中では、一番大きいのが直ぐに分かる大きさであった。そしてそれが『最大』の状態かという事はまだわからないのだ。

 そんな二人の距離が段々と近付いて行く。

 

(策を練ったと聞いたが、餌が仲達自身なのかよ!)

 

 司馬懿の行動に、なんて無茶なことをと思っていた一刀だが、人の事は言えない。

 気の状況から城門通路に誘い込んでの不意打ちということだろう。

 だがその嵌められたはずの呂布は、その『死地』から抜け出そうとした動きが感じ取れた。

 一刀の『超速気』は先程からすでに限界まで上げている。だがもう、少しバテても来ていた。

 南から河も越え、畑の湿地堀も飛び越え、そして外郭壁も駆け登り越えていた。

 守備兵らは、風が通り抜けたかように何も気が付かない。

 司馬懿と呂布の距離は、もうあと数メートルしかなかった。

 一刀は、そこから西の城門へ向けて、再び街中の建物の屋根を突っ走り温城の城壁も飛び越える。

 アト、四百メートル程。

 だが一刀は、呂布が司馬懿の眼前に立っているのを感じ取ってしまった。

 

(ウソ……ダロ……)

 

 そして、呂……の腕……動……が感じ……、そして―――方天……ガ……懿……首……振リ下……レテ……。

 

 ウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダ――――イヤ、モウ間ニ合ワナイ――――トドカナイ――――――――。

 

 

 

「―――諦めちゃうの? それが、貴方の本気なの?」

 

 

 

 その時、『超速気』で駆けていた一刀の耳元で『究極の能臣』の彼女が静かにそう囁いた。

 これだけ近いと『超速気』中でも瞬時に声は伝わって来る。

 その言葉に、一刀は怒りを覚えていた……自分に対して。

 

(マタ、中途半端デ諦めるのかよ、俺! ―――いい加減にしろぉぉ!!!)

 

 そう、『無限の気力』はヨコシマな気や、幸せな気、そして勇気や殺気など、『気』であればなんでもよかった。

 

 つまりそれが―――――自分への渾身の『怒気』でもだ!

 

 あふれた無限の気が、彼を無敵へと、無双へと誘(いざな)う。

 

 

 

 炸裂する力、それは―――――『超・超速気』

 

 

 

 すべてを使う、使い切る。

 そんな一刀の姿は、『超速気』中である『究極の能臣』の彼女の横から一瞬で『消えて』いた。朱い箱をまだ背負う東郷操はそこで……建物の屋根の上で立ち止まる。

 

「―――主様、頑張って」

 

 

 

 司馬懿へと放つ、呂布の閃光の一撃であった。それは見えない。

 だが、司馬懿にも武人としての意地と一流さがあった。

 

(無抵抗で、切られる訳にはいかない)

 

 司馬懿は、『首』への一撃を先見で読んでおり―――それを家宝の剣の一つで咄嗟に受けていた。

 並みの剣ならへし折れて、切られていただろう。

 呂布の膂力に遠くへと吹き飛ばされ転がるも致命傷の一撃は凌いでいた。

 

「明華! 逃げなさいーー!」

 

 母司馬防の大声が上から響く。

 余りの状況に固唾を飲み、城壁や周りの者達は声を上げれなかったが、司馬懿の見せた最後の意地の武器の鳴り合う音が響き、周りも目を覚ます。

 だが、呂布が放つ二撃目を受けれるとは司馬懿も思っていない。もう、予測に反応も出来ないだろうから。

 司馬懿は、自分自身の先読みはしたことがなかった。

 

(ここで終わるのか私は……いやまだ)

 

 呂布は眼前だ。司馬懿はそれでも立ち上がろうとするが、豪打された衝撃の影響からか体が動かなく片膝を付いたまま呂布を見上げるほかなかった。

 

(くっ、ここまでか)

 

 そして、それを周りの誰もが思ってしまう。

 呂布が二撃目を振り下ろし始めたその時であった。

 

 強風を伴って疾風の様に何かがやって来た。

 

 呂布だけが気付いた。それは、『人』であった。

 呂布は右上から、司馬懿の左肩から斜めに右わき腹下までを振り抜こうとする一撃を放っていた。そこに『ヤツ』は一瞬で、司馬懿との間に割り込むように入ってくる。

 『ヤツ』が纏ってきた突風がその場を吹き抜ける。

 呂布は構わず、ソイツごと真っ二つにする気で方天画戟を振り下ろす。

 だが、方天画戟の刀身が、ヤツの肩にめり込むほど当たったにもかかわらず―――火花を散らして弾かれていた。

 

「なに……」

 

 そしてさらに目を見張る。

 弾かれ浮いた右腕下を抜けて、受けた『ヤツ』の左肩の先にある左拳がそのまま反撃(カウンター)で呂布の間合いの中へ飛んで来ていたのである。

 その一撃は、避ける間もなく呂布の腹部を渾身の威力で打ち抜いていく。

 

 

 

 呂布は、これまで受けた事のないその余りの威力に―――後方へ吹っ飛んでいた。

 

 

 

 圧倒的な強さで大陸中に知られ、今もその武勇を目の前で魅せたあの飛将軍呂布が、壮絶な一撃を腹へまともに受け『くの字』になって傍の建物すらいくつか突き破り、数十メートルは吹っ飛んで転がっていた。誰も見たことも聞いたこともない光景である。

 

 少しの間、余りの鮮烈的なその光景へ、周辺全体が呆気にとられる。

 兵らは皆、小口を開けて『ポカーン……』となっていた。県令らや司馬防、司馬朗も口を手で押さえたまま固まっている。

 だが次の瞬間、城壁の兵らや城の中は「うおおおおおおぉぉぉーーー! 河内郡の――永遠の英雄様ぁーー!!」と大きく沸き返った。

 

 司馬懿は、見上げる光景へいつの間にかそこに立ち尽くす一刀を捉えていた。

 まさに一瞬で疾風の様に現れたのだ。

 

「一刀……兄さん?」

 

 一刀は放った左拳を握った腕をまだ伸ばしたまま、司馬懿へとゆっくり振り返る。

 

「よかった……本当によく一撃目を受けてくれた。……ありがとう」

 

 『超・超速気』に入った頃には一撃目を受けて司馬懿が飛ばされていた後であったのだ。だから、一刀は助けた気分など全くない。自分の不甲斐なさを司馬懿に助けてもらったという気持ちになっており、涙を浮かべていた。

 だがまだ、それで戦いが終わりという訳では無かった……。

 

 その時に想像を上回る事が続く。

 まず、西城門の通路を、呂布がしたように側面の壁の低い位置を交互に蹴って高速で前進し、偃月刀で落とし穴をも飛び越えて張遼が城内に現れていた。方法が分かれば、同等の事は彼女にも可能であった。城内の呂布に気を取られ、外にいた張遼への警戒が薄かったのだ。彼女も隙は逃さない。

 それでも当然多少の火傷はするのだが。しかし、その程度で止められる張遼でもなかった。

 

「あちちちーーー、恋、大丈夫かーーーーーー!」

 

 いつもの袴とさらし姿へ、上着を頭から被って現れた張遼から、凄まじい気勢が上がっている。

 

(おいおい本当かよ、さっきの呂布並みの気の大きさになってるじゃないか……えっ、

まさかこっちが呂布とかないよな)

 

 一刀は、呂布を知らないため混乱する。

 一刀には―――今、余力が無かった。

 左拳を伸ばした姿のままだったのは、身体の限界を超える『超・超速気』を使った為、体中が壊れて痛くて動けないでいたためである。まだ、ギリギリで痛みに耐えて立っている形だ。左肩にも軽く切れ目が入って血が流れている。

 実は先ほどの、最後呂布への一撃を放つ辺りは、ほぼ『超・超速気』が解けかけていた。今、『瞬間完全回復』で全力復旧中だが、瞬間回復はしない感じだ。十分程は掛かりそうであった。

 

「とりあえず、仲達は一度下がっていてくれ」

「……分かりました、兄さん」

 

 周囲にいた兵が、まだふらつく司馬懿を連れて行ってくれた。

 城内の兵達は、かなりの数で城壁上や城門通路を出た広場周りも固めているが、司馬懿が近すぎて手が出せない状態であったのだ。

 しかしここで、張遼の登場に加えて追い打ちを掛ける事が起きる。

 

 一刀の渾身の一撃を受けて吹っ飛んでいた―――その呂布が方天画戟を握りつつ立ち上がって来たのだ。

 

 一刀は必死であった為、手加減はしていない。強力な『硬気功』で『超剛気』な膂力で『超・超速気』の速度で彼女の腹部をぶっ叩いていたはずである。それでも立ち上がって来たのだ。

 

(……バ、バカな……無傷なのか?!)

 

 まるであの『超硬気功』使いな仙人の死龍である。

 さらに気勢が先ほどよりもグンと上がっていた。間違いない、この子が呂布だ。

 凄まじい殺気である。これが飛将軍なのか……。

 

 だが……その歩いて近づいて来る彼女の体を視て、一刀は更にぎょっとする。

 

(こ、こいつ本当に人間か?)

 

 それは……すでに『壊れて』いた。

 やはり、『超・超速気』の速度での攻撃はヤバすぎたのだ。

 内臓器官がぐちゃぐちゃになっていた……。

 医学的に言えば、普通の人間ならショック死していてもおかしくない状態である。インナーマッスルは耐えていたが、肝臓や膵臓や腎臓等の細胞が高速で拳を受けた衝撃波に耐えられなかった。

 持ってあと余命は数時間であろう。もはや多臓器不全である。

 一刀は司馬懿を助けるために行なったその行為に後悔はしていない。だが、自分の行為に『恐怖』はしていた。

 カタカタと体へ震えが来ていた。

 死龍は最愛の雲華のカタキであったから、屠った事にも気持ち的に納得は出来ていた。

 だが、呂布は一刀の『身内』をまだ殺してはいない。なにもここまですることは無かったのだ。

 だが―――手加減できる相手ではなかった。

 多分それは、間違いなく自分や『身内』の死に繋がるだろう。今ですら、間違いなくそれほどの相手である。

 

「恋、大丈夫か、―――! ……恋」

 

 張遼は呂布に近付くと……気が付いた。呂布の表情に『死相』が出ている事に。すでに口からは一筋の血が流れ出していた。

 

「……大丈夫、『まだ』戦える」

 

 そう言いつつ、呂布は口許の血を拭う。

 全身には恐るべき激痛が走っているだろうに、彼女の、飛将軍の表情は余り変わらない。

 『まだ』戦える―――なんと恐ろしく聞こえる事か。

 依然彼女の気勢は荒ましく……それで、死ぬまで戦うというのである。

 一刀は、自らも壊れた体ながらコレと戦うには『超・超速気』しかないとの判断に至る。

 でもここで、彼は僅かに震えつつも彼女へ声を掛ける。

 

「な、名乗り遅れました。俺は姓を北郷、名を一刀と言います。貴方が呂布将軍か?」

「そう」

 

 鋭い眼光ながら赤毛で綺麗な小顔でコクリと可愛く頷いた。

 

「名は呂布、字は奉先。あなたは強い。……北郷一刀か、忘れない」

 

 武人として無双の誇りを持っていた呂布は、その自分に致命傷を負わした人物として彼へ敬意を持って応えていた。

 

 そして、一刀はそんな彼女へ―――唐突に告げていた。

 

「―――一時降伏してください。貴方を助けたい」

 

 呂布の表情が、とても険しくなる。

 彼女ほどの武人である。自分の体の事は良く分かっていた。この傷で助かる訳など無いのだ。

 その自分に無駄な情けを掛けられていると思ったのだろう。この状態での降伏など、武人として名を落とすだけである。彼女は完全に侮辱されたと憤りを覚えていた。

 それを、この自分に致命傷を負わした程の人物が言った事で余計に頭に来ていた。

 

「なに言うてんねん! ウチがアンタを許すと思ってんのか?」

 

 横から、張遼も出来もしなことを抜かすなと凄い殺気で一刀を睨む。

 呂布が倒れたとしても、私がアンタをブッコロス―――そう彼女の目が訴えている。

 怖い……。

 そんな張遼の横で呂布は、自分で一刀へと答える。

 

「それ必要ない。自分の体、(助からないと)良く分かる。それよりもすぐ戦おう」

 

 彼女は再戦を要求して来る。武人として、董卓配下として、脅威となる一刀は倒して世を去ろうと考えていた。『超・超速気』の彼の動きを見てすらである……底が知れない。

 一刀は一度、目を閉じて僅かに下を向く。

 そうしてゆっくりと、顔を上げると決意の眼光で二人に伝えていた。

 

「分かりました。でも、俺が勝ったら―――治療させてください。命懸けで絶対に助けますから(『超・超速気』中なら短時間に全力の『飛加攻害』で失神させられるかもしれない。ただ、あの気勢に『飛加攻害』が通じるかが分からないところだけど……今は、やるしかない)」

 

 呂布の『本能』が、彼の真剣な目の光のそれに気が付き訴えていた、その一刀の表情と凄まじい気勢にウソは感じられないと。

 だが、理解が出来なかった。初対面の……それも敵側の者に対して自分の命を掛けてでも、助けたいという考えが。そんな義理などないであろうに。

 

(何故……? 相手への命を捧げる無償の奉仕……それは『愛』だと教わったけど……月から)

 

 それと、自分で付けた彼の左肩の傷が徐々に治って来ていることに疑問が湧いた。

 

「ソレ」

「ええ、俺は気功治療が出来るんです。だから、将軍に負わせてしまった深い傷も完治させられると思います。貴方はここで死ぬべき人ではない」

 

 左肩の傷口を見る呂布へ、一刀はそう説明する。

 それを聞いて、この時張遼は一瞬で考えを改めていた。

 

(なんやコイツ、よう分かっとるやんか♪ このカワイクて強い恋が死んだら、世の中おもろ無さすぎやろ。この恋が助けられるっちゅうんなら、一時的というのもあるし、恋の降伏しか選択の余地はないなぁ。恋が嫌がってもなんとかせなな……。しかし、『総大将』が降伏か……これはこっちも一時撤退やろなぁ。まあ、こんな強い新しい『遊び相手』も発見出来た事やし今回は良しとするか)

 

 呂布は、武人として死を受け入れる覚悟は出来ている。

 しかしこの深い傷が治ると言う事実。また武人としては、今日致命傷を受けた上に一時気絶し、すでにこの男との戦いには破れたと言えた。今日の再戦は余りに見苦しい気がする。そして命懸けで戦っても……死なせたくない、助けたいと言われた。そして、降伏しろと……それは―――傍に居て欲しい? そしてその人は男の子。

 

(『愛』なの? ……一目惚れなの?)

 

 若干の勘違いが発生しているが『大勢(ハーレム)』に影響はない。

 自分を倒す男の子が現れた、それに気が付く。死相が出ているため呂布の表情は変わらないが、ふだんの彼女なら頬が少し赤くなっていただろう。

 『愛』……気持ち的には嬉しくもある。どうも男達は自分に腰が引けている者ばかりや、配下の百人隊長らの様に敬う者達ばかりしかいないのだ。

 また董卓らとの関係や約束もある。

 おそらく今、ここで死ぬことが一番全てを裏切ることになる気がしていた。

 『一時降伏』は妥協できる話で悪くない。

 借りについては、何か『武勲』等で返せばいいだろう。

 

 少しの時間熟慮した呂布は口を開く。

 

「分かった。一時的なら」

 

 呂布は証しとして、右手に持つ愛用の武具『方天画戟』を一刀へと差し出した。

 

「ありがとう、呂布将軍」

 

 想像以上に重量のあるそれを受け取る。それを横で見ていた張遼も内心ほっとする。

 一刀は続けて急ぎ提案する。それは早い方が良いから。

 

「じゃあ、すぐに応急処置だけはさせて。少し手を握るけどいいかな」

 

 すでに呂布の額からは、体調異常からくる脂汗が出ている。精神を操られているというなら有り得るだろうが、こんな激痛が普通に感じられている体でまだ立っていられるのは、おそらく彼女だけだろう。その痛み、一万人いても一万人が失神すると思う。まさに恐るべき武人である。

 

 コクリ。

 

 呂布の了解を受けた一刀は、彼女の手を握る。稽古はしっかりしているようで豆が出来ている武人の手であるけれど、柔らかい女の子な手である。

 その瞬間から、全力で一刀は『瞬間完全回復』を掛ける。

 呂布の表情が驚きに変わる。

 

「(手が温かい、それに)……痛みが少しずつ引いて行く」

「それはよかった」

 

 一刀は、自分の回復中の気力分も一時全て呂布への『完全回復』に回した。

 その分一刀へ『超・超速気』の後遺症の激痛が戻って来るが、おそらく呂布の感じている痛みは、これの数十倍はあるはずである。

 

(再戦の後じゃなくて良かった……応急分も厳しいところだった……)

 

 この時点ですでに彼女の火傷は完治を見せている。

 だが臓器は酷く破損している為、予想以上に復元へ気と時間が必要であった。

 しかし、そんな一刀らへ―――神は祝福を与えてくれる。

 呂布との握手、それはつまりすごく近い位置にいるということ。

 

 つまり、匂い立つ♪ クンカクンカ……。クンカイベントが発生していた。

 

(キターーーーーーーーーーーーー!!)

 

 彼女の、直前の戦いでの『汗』や、苦痛による『脂汗』すらもオイシク頂いてしまうのである。

 ご褒美的な『無限の気力』により『イカガワシイ』気が膨大に発生する。

 『瞬間完全回復』により、彼女の体内では凄まじい勢いでの復元を見せていく。

 ぐちゃぐちゃだった呂布の内臓は、半時(一時間)ほどで完全復元されていた。

 

 

 

 その間に張遼将軍は、西城門外の矢の届かない所で待つ十数騎へと、一刀から城の朱儁軍側を通して竹簡が縛られた矢文を届けさせる。

 呂布が単騎で城内へ飛び込んだ事はすでに、陳宮らのところに届いており、董卓軍九千余が城側へと動き出していたのだ。

 陳宮が、騎馬隊の先頭に出て攻め寄せて来ていた。

 

「恋殿ーーー! 今、参りますぞーー!」

 

 すでに距離で言えば城壁まで一里半(六百メートル)まで迫っていた。

 だが、そこへ一騎の騎兵が、第二報として張遼の筆跡での竹簡を届けてくる。

 陳宮は騎馬部隊の進軍を一旦急停止させた。

 すぐに、『城壁から飛んで来た』と言う知らせの内容を確認する。

 

『呂布将軍が負傷し、―――』

 

 えっ? 陳宮はその内容が信じられない。

 呂布はこれまでにおける数多の戦歴で、一度もその身に掠り傷すら受けたことが無いのだ。

 さらに読み進める。

 

『―――将軍は一時降伏と相成った。ついては速やかに全軍洛陽へ撤退の事。撤退が適えば、我、副将張遼は即時帰還する』

 

(れ、恋殿が……『一時降伏』……『降伏』……一体何が)

 

 陳宮は、城壁が連なる温城の方を見て思う。

 だが、確かに筆跡は張遼のものである。大将の呂布が捕虜になり、指揮権限は副将の張遼に移る。最高指揮官の指示である。

 陳宮の後方から、盧植も追い付いて来た。

 

「公台殿、逸る気持ちは分かるけど、ちょっと早いんだけど……って、どうかしたの?」

 

 少し涙目な陳宮から、無言で一枚の竹簡を渡される。

 

「……これは……つまり今、二人とも城の中ということね。でもあの飛将軍が降伏するなんてね。あの子は天性の『武』を持ちながら、『武力』だけでは絶対に屈しない子に見えたから。きっと、それ以上のなにかあるのかもね」

「……それ以上の?」

「それに、張将軍はああ見えて、しっかりした考えの方よね。その方も納得されての指示である以上、これ以上の進撃は下策かな?」

 

 陳宮も張遼を良く知っており、それ以上に呂布を知っている。

 確かに、力だけであの呂布を従わせることなど無理なことだという事と、張遼の判断がいつも的を得ていることは同意出来る。

 しかし呂布を置いての撤退には―――いや呂布と単に離れたくないのだ。

 その時、傍で様子を伺っていた、呂布配下の百人隊長の孟が口を挟む。

 彼は『百人隊長』ではあるが、今この軍に残っている誰よりも強かった。

 

「奉先様は降伏なさいましたか。では、我ら百騎も投降いたします。申し訳ないが、我々は奉先様のみに従っておりますので」

 

 彼は威風堂々と、裏切り者と言って来るなら受けましょうと、その場で剣は抜かずも構える。

 だが盧植は少し首を横に振って見送る。彼は静かに頭を少し下げると、陳宮と盧植へ背を向け、百騎を率いて足早に温の城の方へと進んで行った。

 

「……貴方はどうします、公台殿?」

 

 盧植は洛陽に居る時に、陳宮の呂布ベッタリな事を見て来ていたから、その気持ちが分かっていた。

 陳宮は悩む。

 付いて行きたかったが、しかし、竹簡に書かれた最後の一言を思い出して考え留まる。

 

「……これは一時的な降伏ですぞ。帰って来られるのを洛陽で待ちまする!」

 

 竹簡の最後にはこう書かれていた。

 『―――あと陳宮殿へ呂布将軍よりの伝言……ちんきゅー、家族たちのことお願い』、と。

 

 

 

 一刀の『瞬間完全回復』だが、まずは応急処置のつもりが、呂布はほぼ完全復活する。半日ほどは、復元器官が慣れるまでゆるゆると養生する必要はあるが。

 

 呂布は、確実な致命傷を受けていたが、一刀の気功治療により命を取り留めていた。

 

 ついでに一刀自身も回復が終わっていた。クンカイベントのおかげと言えよう♪

 張遼は、まだこの敵城内に一人で残っていたが、気負うこともなく、呂布が本当に助かったことで上機嫌になっていた。

 そして一刀は張遼からその喜びのためか、肩をバンバンと叩かれつつ「お前、スゴイし、ホンマええやっちゃなぁ。気に入ったわ」と言葉を貰っていた。

 ついでにと、張遼の火傷も直してあげると、「おっ、ヒリヒリが治ったわ。ありがとうなぁ、んっ」と……頬に感謝の口付けまでされる始末であった。

 また、城外の盧植将軍より、董卓軍撤退の意向が伝えられて来る。正直、城内では追撃の話も出ていたが、呂布将軍を董卓軍から引き剥がしたという大戦果で、今は十分ではとの意見が大勢を占めた。

 今日、朱儁軍単独で悪戯に戦火を拡大するのは得策ではないのだ。戦うならば反董卓の諸侯が足並みを揃えてからだろうと。

 これで漸くなんとか一件落着……とはいかなかった。

 呂布には『あのカタキ』の事がまだあったのだ。家族との約束である。確認だけは今しておきたかった。

 

「一刀、今王匡と話がしたい」

「えっと、話をするだけ?」

 

 コクリ。

 

 すでに一刀は呂布より治療中に少し話をする中で、同等の武人と恩人ということでタメ口でいいと告げられた上に、「真名は恋だ。一刀と呼んでもいい?」と言われて了承してしまっていた……。

 一刀は城壁を見上げ声を上げる。

 

「公節(こうせつ:王匡)殿はいらっしゃいますか? 呂布将軍が話したいことがあると」

「今、行きましょう」

 

 一刀は、司馬懿や王匡は勇気があるなぁと思う。

 あれほどの凄い戦いを見せる人物の前に立てると言うのである。『神気瞬導』が使える今の自分でもかなり怖いと言うのに。

 肩の辺りで綺麗に切り揃えられた薄い紫の髪を揺らし、六尺九寸(百五十九センチ)程のスラリとした体格の王匡が城壁から一人降りて来た。

 そして、彼女は呂布の前に立つ。その横には一刀が付いている。

 呂布が尋ねる。

 

「王匡。……一昨日の朝、洛陽城北東側の谷門付近で、お前を手引きした仲間はどこ?」

「彼らは―――みんなこの温の街で息を引き取ったわ。あの付近の守衛達は勇敢で、逃げずに最後まで抵抗されたから……こちらも皆深手を負っていた」

「……本当?」

「一昨日に作ったお墓を見ますか?」

 

 それを聞くと、呂布の王匡を見る目が急に鋭くなった。飛将軍の目に。

 一刀も呂布の急激な気を高まりを感じる。ヤバイ水準である。

 

「……王匡、お前があそこを通って逃げなければ、家族の友人が死なずに済んだ。お前が―――」

「少し待ってもらいたい、呂将軍」

 

 そこで会話に一人の人物が割り込む。それは先程まで呂布と戦っていた司馬懿。

 

「王匡殿がどうこう言われたが、良く考えて欲しい。王匡殿がそこを通る原因となったのは何かを」

 

 そう、それは―――董卓ら献帝派が洛陽で反逆を起こしたからに他ならない。また、それが起こったのは霊帝や、側近らがまともな政治をしていなかったからだ。

 物事は原因があり、結果がさらに結果を生み連鎖する。

 司馬懿は続ける。

 

「どこかで不幸な連鎖は切らねばならない。守った者も死に、切った者も切られて死んだ。お互いに大事なものの為に命を掛けてそして散ったのだ。尊い事だ。そう思わないか、呂将軍」

「………分かった。失言だった。王匡殿、謝る。こめんなさい」

 

 王匡へ飛将軍が個人的にぺこりと頭を下げる。呂布は素直であった。今は一刀の『捕虜』で命を助けられた貸しもある身なのだ。董卓の『命』である霊帝派の討滅は、保留の状態となっている。

 

「……いや。もう過ぎた事。分かってもらえれば」

 

 王匡もそれ以上呂布個人へは何も言わない。呂布はつい先程も主の為、一刀に命を奪われ掛け、そして先日も何進大将軍を切ったのだろうから。

 一刀は司馬懿を見る。まさに『優しい』対応であった。

 司馬懿も一刀からの視線と気持ちに気が付き、少し恥ずかしそうに僅かに微笑んだ。

 

 

 

 こうして、呂布が温の街に滞在することとなった。

 

 そして『人中の呂布』敗れる。

 それを『一撃』で成した者の名は、大陸中に知られることになるだろう。

 だが、その者は―――はたして英雄となるのだろうか。

 

 

 それは誰にも分からない。

 

 

 

 つづく




2015年04月21日 投稿



 解説)クビト●●●ヲ
 いろいろあるよね。
 きっとマナコ(眼)辺りかな。(ここも指で突く)



 解説)クワバラクワバラ
 雷が傍に落ちないようにとのおまじない。



 解説)司馬防
 なにげに、歴史上では洛陽県令とかもやってます。
 老年になると騎都尉に転任。その官秩は比二千石といいます。さらに、祖先の曾祖父は征西将軍にまでなり、祖父も豫章太守、さらに父も潁川太守まで昇った事から、やはり地方でも飛び抜けての名家ではないでしょうか。



 解説)とてもに人気のある『裁縫師』
 実はこれが雲華だったりします。



 解説)三百メートル弱。馬が早いと言っても
 サラブレッドで、3ハロン(六百メートル)で32秒ほどみたいです。
 単純に半分で16秒ですけどね。馬はサラブレッドでもなく、ゼロスタートなのでそれよりは遅いかと。
 恋自身で走った方が絶対早いんでしょうけど(笑



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。