バンドリ! 恋愛短編集 (黒マメファナ)
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Poppin' Party
【戸山香澄】キミと一緒に生きていくこと


 昼の暑さはあまり変わらないものの、夕暮れにはうろこ雲が高い空を泳ぎ始めたころ、戸山香澄はチューブ型の容器に入った氷菓を食べているところで、右側を歩く彼に名前を呼ばれ、視線を向けた。

 星のようなキレイな瞳を持つ彼は、香澄と全く同じ氷菓の結露した水滴をじっと見つめながら、話を切り出した。

 

「あのさ……夏休みが終わる前に、一緒に来てほしいところがあるんだ」

「どこ?」

「病院……なんだけど」

 

 二人そろって無縁な場所を示され、そこになにがあるんだろうと香澄は首を傾げた。単純についてきてほしいだけ、というわけではなさそうで、けれども彼と様々な場所へ旅をした経験がある香澄は、事情に関係なく行くと返事をした。

 

「近い?」

「そんなに近くはないけど、車ですぐか、新幹線かな」

「新幹線……!」

 

 頭のネコミミ……本人としては星らしいが、がぴょこんと揺れたような錯覚がした。旅行といえば車が前提の彼女にとって新幹線という移動手段は非日常、特別なものを感じていた。

 ますます、事情がどうあれ、香澄の胸中には楽しみという気持ちがあふれてくる。食べ終わった氷菓のゴミをコンビニの袋に入れながら、香澄は重大なことに気づいたように立ち止まり声を上げた。

 

「どうしたの?」

「なんで?」

「……今頃その質問か」

「だって絶対話逸らしたじゃん!」

 

 苦笑いをする彼は、香澄の瞳の奥で煌めく星を優しく包むように頬を撫でた。彼に愛情を持って触れられるとどうしようもなく幸せな気持ちになる香澄はそこが往来だという恥じらいを頬に浮かべながらも破顔した。

 

「えへへ~」

「会ってほしい人がいるんだ」

「……会ってほしい?」

 

 病院で会ってほしい人と言われて香澄は身構えた。以前何かのドラマでそう言って病気になった恋人を紹介されて愕然とした、という展開を覚えていたため、もしかしてと怪しむ。明るく、けれども優しく穏やかに微笑む彼に昔の恋人が……と目を細めた香澄に、彼は腹を抱えて笑い出した。

 

「僕は香澄が初めてのカノジョだよ、病気の恋人とかいないって」

「いないの?」

「なんで疑ってるの……?」

 

 まだ笑いのツボが収まらない様子の彼は続けてばあちゃんだよと補足した。そこで初めてその可能性があったことに気づいた香澄はそっかぁと頷いた。彼の父方の祖父母は健在であるために香澄は一年の間に何度も会っていたが、母方の祖母には一度も会ったことがなかった。

 

「とりあえず、明日でいい?」

「おっけー、有咲たちにも連絡しておくね?」

「助かるよ。さーやたちに、土産買っていってあげないとね」

 

 彼女のバンドも彼には大切なものであることを認識させられる一言に、香澄は嬉しさ半分、嫉妬半分で見上げた。

 特にドラムの山吹沙綾との距離感は、香澄が紹介された立場ということもあっていつも嫉妬の対象であった。何度言われても、胸から湧き出る独占欲とは折り合いがつけられないままでいた。

 

「決めた!」

「どうせロクでもないことだろうと思うけど、なにかな?」

「今日は泊まる!」

「……ホントにロクでもなかった」

 

 一度言い出したらやりとげる有言実行の精神を持ち合わせた彼女の言葉を否定することなく、家まで送っていってる立場だったのになぁ、土産も増やすか、と彼はぼやいた。香澄の両親、そして妹に、ここでアクションを起こさねば申し訳が立たないと、恋人として香澄を預けてもらっている立場として彼は彼女の奔放さにほんの少しだけ頭を抱えていた。

 

「いいよ、母さんには連絡しとく」

「ありがと! 大好き!」

「……チョーシいいんだから」

 

 だが彼はそれ以上は文句も愚痴もこぼすことなく、香澄の右手を左手で包み込んだ。ボーカルとして人気もある彼女のキレイな鼻歌を聞きながら、彼と彼女は夕陽に溶けていくのだった。

 

「おばあさん、病気なの?」

「うん……今は元気だけど、もう長くはないみたい」

「……そっか」

 

 香澄が目線をアスファルトに落とした。そういう歳だもん仕方ないよと彼は言うが、それがただ仕方がないという感情で済ませられないのが永遠の別れだった。未だ経験したことのない親しい人との別れを目前にして、けれども彼の目は温かい光を宿していた。

 

「大丈夫だよ、香澄……いや、ばあちゃんには大分甘やかしてもらったし、大好きだったから、たぶんそうなったら泣くだろうけど……それだけ幸せだったってことだから」

「……うん」

「それに僕は、死後の世界ってやつを、ちゃんと信じてるからさ……きっとじいちゃんと仲良くやってるよ」

 

 じいちゃんの時は小学生だったなぁ、と彼は西の空に目を向けた。人の死は避けられるものではない。でも、その後に苦しくても悲しくても、ちゃんと生き抜けば人生の()()()にはきっと幸せになる。

 ──それは、戸山香澄も考えなかったわけではない思考だった。しかし漠然と身に纏わりつく終わりの日を想像し、彼女はぶるりと身体を震わせた。一瞬一瞬を後悔なく、常にキラキラドキドキしているもののために、生きてきた。それはいつまで経っても変わることがないのだから。

 

「──ねぇねぇ」

「ん?」

 

 家に着いて、彼の部屋にやってきた香澄は迷うことなくベッドに飛び込んだ。恋人の匂いを、生活している空間を吸い込んでいく。そして、溢れに溢れて零れ落ちた幸せを口から溜息と一緒に吐き出した。

 

「香澄、あんまり匂いとかは恥ずかしいよ」

「え~、私、この匂い好きなんだもん!」

 

 余計に恥ずかしいから、と彼は香澄を引き剝がそうと腰を持つ、それに抵抗しじゃれあう二人はいつの間にか、最初にどうしてこうなったのかも忘れて、生きているという実感と愛情を確かめ合った。

 

「ねぇ?」

「ん? どうした?」

「死ぬってどういうことなんだろうね」

 

 どういうこと? と彼は首を傾げた。だが香澄は続けて、ほら、誰も経験したことがないことだから、と少しだけ震える手で彼の頬を包んだ。

 死といういつか来る現実が怖い。実は死ぬなんて概念がないんじゃないかと思うほど怖かった。そんな恐怖を言葉にすることで、共有することで香澄はなんとか呑み込んでいた。

 

「わかんないな」

「うん、わかんないよね」

「でもわかんないから、いいんじゃないかな」

 

 彼のその言葉は少しの恐怖という紺色を水で溶かして薄めたような、透き通った声をしていた。もうすぐ、愛した身内が亡くなるかもしれないという現実を前にしているのに、死という概念に、優しくて柔らかな、香澄が一番安心する微笑みで彼はその恐怖を語った。

 

「わかんないから、僕は香澄に一緒にいてほしいって思った。人間は真っ当に生きていれば独りで死んでしまうから。人間は死ぬその時まで、独りでは生きていけないから」

「……そっか」

 

 難しい言葉だったかな、と普段は擬音語が多い香澄への配慮の言葉を付け加えられたが、それは不思議と、彼女の胸にストンと落ちて溶けていった。

 優しい藍色をした声に、香澄の愛が溶けていった。

 

「じゃあ私も」

「ん?」

「死んじゃうときに、独りじゃなかったからよかった、平気だよって言えるように一緒に生きていきたい。私は、人生をキラキラ生き抜きましたー! って死んだあとの世界があったら堂々と閻魔様に言っちゃえるように」

「それはきっと閻魔様も苦笑いだね」

 

 くすくす、とお互いにやっと笑みがこぼれた。怖かったはずの未来に眩い星が、輝き始めた。この世から去ったあとは問題じゃない。この世から去ってしまう前に、その瞬間に、よくやったねと言えるような生き方をしたい。死んでしまうその時まで、キラキラと光を放ち続けれる、夜空の星たちのように。

 

「……ありがと、香澄」

「えへへ~、どういたしまして!」

 

 香澄は底抜けに明るい表情で同じベッドに転がる彼を抱きしめた。言葉で愛を語らい、行動で愛を語らう。

 願わくば、ずっと一緒にいよう。死した後も、ずっと。香澄はそんな言葉に満天の星を浮かべて、はいっ、と明かりの消えた暗闇の先にある唇に、誓いの口づけを交わした。

 




――香澄は、いつだって前向きで、だからこそ後ろ向きになってしまうような題材を考えていました。
彼女は怖いことは怖いタイプだし、決してバカではない……いやうんバカなんだけど、バンドのリーダーとして、仲間のために考えなきゃいけないことは考えてる、みたいな印象があるので。やる時はやる、みたいなところも香澄の魅力かなーと思います。


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【花園たえ】キミとビビビなプレリュード

 目を閉じる。そこに景色が浮かぶ。

 ──歓声、熱気、余韻。汗をかいた仲間たち。上がる息すらも忘れる程の悦び。手には相棒(ギター)があって、隣のMCをじっと聴く。ああもう終わりなんだ。終わりたくない。そんな未練、寂寥とセンチメンタル。

 

「……これが最後です、か」

 

 目を開ける。その景色はひどくつまらないものだった。

 何も無い。埃が窓の光を浴びてキラキラしているけれど、そこには熱気も歓声もない。汗もかかなければ呼吸もフラット。狭い部屋に独り、いるのは相棒(ギター)だけ。

 ──俺の青春は、ここにはない。もう、どこにも無いんだ。

 

「はぁ……虚しい」

 

 ここにはかつてあったハズの音と笑い声を俺は一度も聞いたことがないまま、大学に入学してからもう三ヶ月、もうすぐ四ヶ月になろうとしていた。

 軽音サークルは数人の幽霊部員しかいない。毎日来るのは……というかそもそも部室にやってくるのが俺だけ。

 

「最後に弾いて、帰ろ」

 

 そして明日からは俺も幽霊部員の仲間入りだ。そんなことを思いながら弦を鳴らす。

 寂しくて、悲しくて、それを無理やり封じ込めて空元気のままアップテンポ。どうせ観客もいないからね。

 

「あれ」

 

 独りよがりで何もかもを投げ捨てるような演奏、そんなことをしてる時に限って、部室のドアが開いて、そこから物凄い美人さんがやってきた。白くてスラっとしていて、黒髪ロングが素敵で、宝石みたいに透き通った指と瞳をしているヒト。誰だろう、サークルの部員さん?

 

「キミ、誰? 不法侵入?」

 

 演奏を止めたところで、背中のギターを下ろしながら宝石みたいな目を細めてきた。ええー、なんで不審者前提なの? おかしくない? 普通に部員かなって考えるのが自然じゃない? 

 

「……ええっと、部員、なんですけど」

「部員? なんの?」

「えっと……軽音の」

 

 そうやって言うと彼女は首をコテンと捻った。なんていうかおかしなヒトなんだなって思うよね。

 なんだな雰囲気というか、とにかく生きてる世界が違うような感じ。

 ──それでもゆっくりと俺の言葉を咀嚼したらしい彼女は、やがて難しい顔で呟いた。

 

「軽音サークル……そんなのあるんだ」

「え、部員じゃないんですか?」

「全然、私サークル入ってないし」

 

 不法侵入はまさかのそっちだったの? 急展開だ。当の本人は何を思ったか、うーんと首を捻ったまま周囲を見渡して、それから俺の方をじっと見た。じいっと見て、見て、何十秒もたっぷり見て、彼女はストンと近くの椅子に座った。

 

「アンコール」

「はぁ?」

「アンコール、もう一曲聴きたい」

「いや、なんで」

「誰かが聴いてた方が嬉しい」

 

 決めつけられた。でも、否定できるような言葉じゃないよね。実際に今はつまらないと感じてたわけだし。あんまりソロは得意じゃないけど、と無駄に前置きをしながら俺はギターを構えなおす。

 人前で演奏するってこんな緊張するもんだっけ。自然と心臓が早鐘を打ちだす。そんな緊張感の中、俺は俺ができる精いっぱいを奏でた。ミスもしたし、聞き苦しい演奏だったと思う。だけど、そのヒトはじいっと静かに聴いてくれたばかりか、終わった後に拍手までしてくれた。

 

「うん、やっぱり楽しそう」

「……そうだね。楽しい」

 

 やっぱり、俺はこうやってギターを誰かに聴かせるのが好きだ。でも、仲間がいなくて狭い部屋にたった一人押し込められて、窮屈な演奏しかできてなかった。

 そんなのは、楽しくなんてない。ただ闇雲に雑音を放つだけの、醜悪な独り善がりだ。

 

「……キミは」

「ん?」

「キミは、どうして独りぼっちになってまで、ギターを弾くの?」

 

 やがて、彼女はそうやって少しだけ下を見ながらそう問いかけてきた。何かに期待するような問いかけだけど、そんなの決まってる。

 あなたが今、ギターを持ってる理由と同じだから。

 

「好きだから」

「……好き」

「ギターが好き、音楽が好き。別に誰かに強要されたわけでもなくて、ただ好きだから」

 

 理由なんて単純、至ってシンプル。俺が相棒(ギター)に魅せられたってだけ。独りぼっちでも誰かがいても関係ない。そういう意図を込めた言葉に、彼女は宝石みたいな丸い目をゆっくり閉じて、それから開いた。透き通っていて吸い込まれそうな彩をしてる。

 神秘的なエメラルド。エメラルドって、そういえばすごく希少な宝石なんだっけ、なんてどうでもいい知識が頭をよぎった。

 

「私も好き」

「え……っ」

 

 まっすぐそんなことを言われて、俺はドキっと心臓が跳ねるのを自覚した。表情を変えずに、ただまっすぐに。

 そうしてから、続きは特に何も言わずにケースからギターを取り出した。青いギター。きっと彼女の相棒なんだろうなってわかるくらいにその構える姿はしっくりきた。

 

「ふふ、今日はいい音が出せそう」

 

 チューニングをしてアンプに繋ぐ。キレイな指が音楽を奏でる準備をしていく。

 うん、と頷いて弦を弾く。透き通った歌声と、少しだけ寂しそうな静かな、ギターと同じ海の色のような青い音色。このヒトは、何があってここに流れ着いたんだろう。

 ──小さな頃から一緒だったギター。独りでいるのが当たり前だった世界。そんな世界にある日突然、星が落ちてきた。

 うん、伝わる。目を閉じるとまるでギターが、彼女の歌が、自分の物語を奏でてくれてる。そこで静かな音色は一旦の静寂を生み……弾けた。

 今度は高らかに、そして激しく、黄色い音色を周囲に弾ませていく。そこには、彼女の出逢いが込められているようだった。

 赤と、紫と、ピンクと、黄色と。青色だった音に彩りが加えられていく。衝撃と情熱と夢、理性と裏腹、愛らしさと芯の強さ、安定と冒険。ただギターを弾くだけだった彼女の人生は、きっと沢山の色に包まれて、カラフルな星になったんだ。

 ──そしてその星たちは未だ輝き続けてる。そんな優しい締めくくり。

 

「……どう?」

「えっと……曲の、タイトルは?」

「う~ん、なんだろ……私、かな?」

 

 やっぱり、即興だったんだ。ロックでもポップでもあり、尚且つクラシックも嗜んでるだろうその技術に俺は、驚くことしかできなかった。もしかしてプロのヒトかなと思うくらいだ。

 俺だってステージで演奏し、ソロで拍手をもらえるくらいの技量があるって経験もあるし、自信もある。でも、それを彼女はあっさり……しかも、十八番でもない即興の演奏で上回ってきた。すごすぎる。

 

「独りも、つまんなくないけど……誰かと一緒の方がもっと楽しいよ」

 

 少なくとも私はそう思った、と彼女は透き通る目を細めて笑った。わ、笑う顔初めて見たけど、美人だからすごい画になるよね。そんな風に見惚れていると、彼女はどうしたの? と首を傾げてきた。

 

「い、いや……えっと、あ、まだ自己紹介、してなかった……よね」

「……そうだった。キミ、誰?」

 

 いや一番最初に戻るのやめてほしい、と思いながら今度は自己紹介をする。彼女はこれはご丁寧にどうも、なんておどけた……のかどうかわからないくらい真顔を崩さずに頭を下げてきた。

 

「そう、私は花園たえ。一応、ここの二年生だよ」

「うえ、先輩だった……んですか?」

 

 思わず変な声が出た。なんとなーく年上かなとは思ってたけど、まさかフツーに先輩だった。というか先輩なのにここのサークルの存在知らなかったんですか、マジで? 

 このヒト普段何考えて生きてるんだろう、たぶんギターを弾くことばっかりだ。

 

「それじゃあ、私はもう行くね」

「行く? 帰らないといけない用事があるんですか?」

 

 少し焦った口調になって、俺は慌てて立ち上がった。もう少し話していたい。花園先輩のギターを聴いて、このヒトに演奏を聴いていてほしい。そんな感情のままの問いかけに、彼女は両手を頭の上にあげてみせた。

 

「ウサギたちが待ってるから」

「う、さぎ?」

「そう、見る? いっぱいいるんだ、ほら」

 

 近づいてきてスマホを見せると、彼女とその彼女に抱えられているウサギ、オッドアイのウサギと、その周囲に沢山のウサギがいた。大家族ですね、と笑うとふふ、と自慢げに微笑む先輩は非常にかわいかった。

 

「そうだ、キミも来てよ」

「……きて?」

「そう、私の家」

「はい!?」

 

 そう言われて、強引に腕を引かれる。慌ててギターを纏めて有無を言わせない先輩について行くことにした。というかやっぱり拒否権ないし。

 ──いや、違うな。拒否権なくても強引に手を払えばよかったんだ。でも、払わなかった。俺は、このヒトと一緒にいたいって思ったんだ。

 

「好きです」

「うん、だと思った」

 

 ああ、ストンと腑に落ちた。最後にしようと思ってた日に現れた彼女は、俺の言葉にまた笑った。ちょっと勘違いしている気がするけど。

 ウサギでも、ギターでもなくて、俺はこの先輩という人間に惹かれたんだ。これは、何て言うんだろうか。

 

「前奏曲」

「え?」

「まるでプレリュードだ」

 

 プレリュード……そうだ。これは始まりなんだ。

 無くなったと思ったら、新しい青春が転がり込んできた。花園先輩は、俺にとっての流星だ。先輩がかつて出会った星と同じ、衝撃の出会いだった。

 

「シビれた。ビビビってきたからキミとは、仲良くなれそう」

 

 ビビビって、俺もきました。手を引かれて、俺はこれからの未来に明るいものを見た気がした。

 だから、俺が手を握り返してみると、意外なことに先輩は驚いたような表情をした。

 

「え?」

「仲良くなりましょう、俺、ギターも教わりたいし、先輩の家にも行ってみたいです! 俺、もっともっと上手くなりたい、上手くなって、先輩をもっとシビれさせたいです!」

「……うん、期待してる」

 

 頬を少し染めて、今までにないくらいの微笑みを向けた先輩。その瞳は何を期待してくれてるのかな。透き通ったエメラルドは、まだ俺になんの明晰さを与えてはくれないけど。

 このヒトの独特のテンポが好きだ。その瞳が好きだ。そのキレイな指が好きだ。花園たえ先輩が……俺は。

 

「キミは、あれだ……変態だね」

「変態……」

「うん、真っ赤なランダムスター、って感じ」

「……えっと?」

 

 今度はまた違った、即興か何かのオリジナルのメロディーを口ずさみ始める。なに、なにか俺変態発言したっけ? 

 そう思ったけど、先輩は物凄く機嫌がいい。発言がどうであれ、不快ではなかったようで。とりあえず、自分が特殊な人間だと彼女に認識されたっぽい。ううん、俺は変形ギターみたいなおかしいヤツなのか。

 沈んでいたらまた笑われて、その度にもっともっと、彼女のことを知りたいと思えた。いつか、このヒトの言葉の全ての意味がわかるような男になれたら、いいな、なんてね。

 

 




なにからなにまで意味不明、でもちゃんと彼女の中にロジックがある。そんな難解で、でも文系というよりは理系なイメージなのが花園たえというミステリーかなと。だから一人称で、おたえというキャラの心情を書かずに最後まで進めました。意味不明で、脈絡がないのが彼女なら、きっとつまびらかにしない方が彼女のままでいられそうだし。


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【牛込りみ】キミがいる世界で回る

 朝早くに起きて支度をして、牛込りみは行きつけである商店街のパン屋、やまぶきベーカリーを訪れた。

 目的はチョココロネ、彼女の大好物の一つであるそれを購入し、早速一つ取り出し幸せそうに食していく。するとその家の前を一人の制服に身を包んだ男子高校生がりみに気付き手を振った。

 

「おはようりみ」

「うん、おはよお」

「幸せそうだねぇ」

「幸せだよお……♪」

 

 りみはうっとりとした表情でチョココロネを一つ、食べきった。そしていそいそとカバンのポーチから携帯用のウェットティッシュを取り出し口許を拭いてから手を拭いてから彼の隣にやってきて、手を握った。

 

「えへへ……このまま、学校まで……いいかな?」

「うん、もちろん」

「やったあ」

 

 彼はそんな風に微笑む小柄なりみの喜ぶ姿に微笑みを浮かべてから、その背中に背負われ重たそうなベースを見つめて逡巡した。

 数秒の間ののち、持つよと提案したのは肩に提げていたカバンだった。

 

「あ、ありがとお」

「いやいや、ホントはベースも持ってあげたいくらいなんだから」

「これは……自分で背負いたいから」

 

 知ってるよ、と彼はりみのカバンを肩に提げながら手を繋ぎなおした。

 彼女には似つかわしくない大きな荷物、彼女にとっての大事なものでもあるベースを彼は少しだけ悔しそうに見つめた。

 

「大丈夫」

「そうだけど……」

「心配してくれてありがとお。うちは大丈夫やから、ね?」

 

 関西のイントネーションで穏やかに、りみは彼の心配を恋人としての想いで汲み取っていく。甘えるだけでなく、隣で並んでいたい。優しくて、チョコパフェのように甘く一つ一つに雑味のない滑らかな愛情をただ受け入れるだけの弱いままの自分ではいたくない。りみのそんな決意の表れでもあった。

 そんな決意を彼は笑顔で受け入れて、行こうかと短いデートのように手を恋人繋ぎにしていく。りみはたったそれだけの変化であっても、まるで星が瞬くような喜びを感じていた。

 

「今日も市ヶ谷さんの蔵で?」

「うん、今度新曲出すんよ」

「というと作曲は」

「もちろんうちやよ~」

 

 嬉しさですっかり関西訛りが出ているりみと彼は商店街を歩きながら会話をしていく。たまに知り合いに会ってしまい恥ずかしくなることがありつつも、バンド練習で中々時間が取れず、また彼も部活やバイトで忙しいため予定の合わないという二人にとって、朝の登校時間は大事なデートの時間でもあった。

 

「ホント、りみのベースはカッコいいよ。それだけにバンドとか全然未知の世界だから悔しいな」

「いっつも来てくれるだけで、嬉しいよ?」

「そりゃあ、緊張しがちなカノジョの応援に行きたいと思うのは、カレシとして当然だよ」

「……ふふ、いつも勇気もらってます」

 

 普段はおっとりとした彼女だが、かわいらしいピンクのベースを持つと、まるで世界が変わったかのようにキリっとした表情で演奏をする。そんなギャップを彼は愛しているのだが、ただ何か音楽を深く理解できるような経験がなかったため、カッコいいなどの感情面でしか感想が言えないことを悔やんでいるフシがあった。

 ──ただりみはそれでも大丈夫、と彼を見上げる。

 

「専門じゃなくても、ちゃんと興味を持ってくれる。いつも終わったら一番に感想を言ってくれる。キミだから、キミだけがしてくれることやんか」

「……うん」

「やから、そんな自分を責めんといて? うちはキミがよかったーってゆうてくれるの、めっちゃ嬉しいんよ?」

「りみ」

 

 りみにとって、彼がくれるものを彼自身がその価値をさげるということは許せないことだった。誰かにものをあげる、もらう時はもらった人がその価値の大きさを決める。そんな考えをしているからこその怒りでもあった。

 そしてなにより彼が自分にとって何かをくれるということがりみにはたまらなく幸せな時間だからでもあった。

 

「……ごめんりみ、反省した」

「うん、わかればいいよお」

 

 彼の言葉にりみはぱっと表情に微笑みを浮かべた。ようやく咲き始めた桜並木の道をりみと彼はゆっくりと歩んでいく。

 そんな春の訪れを見上げていた彼はふと思い出したように表情を明るく変えた。

 

「もらったと言えば」

「なぁに?」

「なにかバンドメンバーからもらったんでしょ?」

「……プレゼント?」

「そ、誕生日プレゼント」

 

 つい昨日行われた誕生日パーティでメンバー四人が選んだプレゼントの話題に、それはうちに来てからのお楽しみ、とりみははぐらかす。

 そんな彼女のリアクションにパニックホラーが大の苦手ジャンルである彼の背を悪寒が駆け抜けていった。

 

「わ、わかった……週末のデートで、だよね?」

「うん。泊まってくやろ?」

 

 そうだね、と相槌を打ち、ますます嫌な予感がしつつも彼はりみが問いかける週末のデートの内容についての話に頭を切り替えていく。

 恋人の誕生日を祝うデートだけに、彼女の好みを詰め込んでいくという予定にりみも自然と口許が綻んでいく。

 

「……って言っても具体的にどこ行くとか決まってないけど」

「じゃあ、散歩したいなあ」

「散歩?」

「うん。天気予報も晴れやし、桜も咲いて……カフェとかゲーセンとか、そういう二人でよく行くところでええよ」

「じゃあ……それでいい?」

「うん♪」

 

 二人でよく行くデートコースで、いつもと違うことを感じながら当たり前の日常を過ごしていきたい。そんなりみの願いに彼は頷いた。

 彼と共に過ごす時間、一緒に食べる甘いチョコレートパフェ、ゲームセンターでクレーンを前に一喜一憂したり、一緒にリズムゲームをしたり。そして夜は仲間とも一緒に見たパニックホラー鑑賞をして、好きなものを食べて一緒に寝る。

 そんな当たり前の幸せに浸って次の記念日に、また彼の誕生日に、愛おしいまでの愛情と日常を過ごしていきたい。

 ──りみは、そんな日常を過ごす中で姉に自慢できるくらいの人間になりたいと常に願っていた。

 

「お姉ちゃんからもね、誕生日おめでとうって連絡来たんよお」

「ゆりさんから? よかったね」

「うん、ちょっと泣いちゃったあ」

 

 海外に飛び立った姉、いつも背中を見てきた姉にはその一年に起こったことをたくさん話していた。成長の中に時折は惚気を挟む妹に、姉のゆりは呆れを含ませつつも成長した彼女に最後にもう一度だけおめでとう、と様々な想いを込めて言葉を贈っていた。

 

「お姉ちゃんがね、キミが嫌な思いをさせてきたら遠慮なく報告すること、だって」

「しないよ……やっぱり嫌われてるのかな?」

「そんなことないよ。じゃなきゃ、キミに任せた、なんてゆったりせんよ?」

 

 確かに、と彼は納得したように頷いた。かと言って好かれてるわけではなさそうだというのは内心にとどめておくことにした。

 ゆりにああいうカレシいいなあと言われているため実は途轍もなく気に入っているという情報を嫉妬の理由も含めて伝えていないので、そう思うことは無理もないとりみは曖昧に微笑んだ。

 

「あ、戸山さんだ」

「あー! おはようございますっ!」

「うん、元気だね戸山さんは」

「はい! 今日も元気いっぱいです! りみりんもおはよ!」

「うん……おはよお」

 

 道中でバンドメンバーでもある戸山香澄と遭遇し、香澄は彼の左側に立って彼と談話を初めてしまう。

 ──思わず、手に力が籠ってしまう。引っ込み思案だった彼女はそれまで感じていなかったものの、バンドのメンバーと積極的に関わることになり、また彼がそのメンバーたちと知り合いになってからというものの、自分が嫉妬深い方だということに気付いていた。

 

「それじゃ、りみりんまたお昼ね!」

「うん」

 

 だがまた別の友人を見つけたようであっという間にいなくなっていく香澄を見送ってから、りみは彼の腕を引いた。

 足を止め、ほんの少しだけ頬を膨らませていく。ヤキモチ、あまり過剰に甘えたくないという思いから若干控えめな嫉妬の表現をした彼女に、彼は大丈夫だよとほほ笑みを浮かべた。

 

「りみだけ」

「ほんとお?」

「浮気できるほど、器用なつもりはないから」

「……ならええけど、モテるカレシを持つと大変だよーって沙綾ちゃんがゆってた意味がわかるなあ」

「それは……いやモテたためしがないんだけど」

「モテる人ほどゆうんやって」

 

 山吹沙綾の情報はどこからきているのかと少しだけ苦笑いをしながら本当にそうだよ、と彼は自分の潔白と一途を主張していく。

 自分は牛込りみただ一人を愛しているのだと、少しだけキザっぽく。

 

「モテないってのは、信じてへんから」

「なんで?」

「だってうちのカレシに魅力がないなんてあるわけないやん?」

「……強欲だなぁ」

 

 そんな苦笑いのコメントにりみは悪い? と笑顔で問いかけた。

 悪くない、悪くないけどと言い訳を重ねていくと、りみはうちの好みのタイプ知ってるやろ? と更に畳みかけていく。自分には当てはまらないと信じて疑わない、彼女の理想の恋人像を何度も聞いている彼は若干言い淀みながら答えていく。

 

「カッコいい、王子様……」

「正解♪」

「絶対違う」

「えー、優しいしカッコいいしー、最高のカレシやと思ってるよ?」

「あの、恥ずかしいからやめよ? みんな見てるんだけど」

 

 惚気を繰り広げていく二人に知っている人は知っているため穏やかな春のような眼差しをしながら通り過ぎていく。

 そんな春の日差しにアテられながら、りみはその輝きと色彩に負けないほどの笑顔を浮かべて、彼を振り回していく。

 

「あでも、妬かせた分の補填はいつでも待ってる♪」

「……はい」

「えへへ、なにしてくれるんやろ~、楽しみ~」

 

 いつもは引っ込み思案な自分が、まるで嘘のように彼の前ではわがままを言える。お姫様でいられる。そんな時間を許してくれるということが、りみには一番大事なことだった。名残惜しく手を放し、そして行ってらっしゃいと手を振ってくれる彼がいてくれるから、ベースを背負って、生暖かい眼差しをする友人たちに最高の笑顔で挨拶することができる。

 ──牛込りみにとって、まさしく彼こそが自分をもっと違うところまで連れ出してくれる王子様のような存在なのだから。

 

 




りみりんはおっとりしてて、お姫様のようにロマンチストな一方で、ベーシストとしてブレない自分でいることが魅力に感じます。
えっとまぁ……関西弁まみれで誰やねん状態ですけど、ふとした時に関西弁が出る。みたいな設定をオーバーに盛り込みすぎた結果ですね。うん、あと彼女、割と手が届くなら伸ばすーみたいなところもアニメとかで描写があったので、こうなりました。


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【山吹沙綾】我慢しなくてもキミは

 彼は人気者だ。少なくともその彼を長らく傍で見てきた山吹沙綾は、二つ年上の彼のことを社交性のある人物だと感じていた。

 分け隔てなく、それが彼の良いところであり……そして沙綾にとっては悪いところでもあった。

 

「ごめんお待たせ……って、巴にモカも」

「よう沙綾!」

「おはよう沙綾ちゃん」

「さーや~」

「おはようさーや」

 

 春になり、近くの大学に通う彼と途中まで一緒の道を歩くようになった彼女は、やがてその待ち合わせに彼がひとりで待っていることが少ないことに気づいた。

 同じ商店街の出身である宇田川巴や青葉モカ、羽沢つぐみ、北沢はぐみといったメンバーもまた、以前の自分と彼と同じ関係であったために、楽しそうに談笑しているのだった。

 

「三人とも暇つぶしありがと」

「じゃーな」

「またね」

「さーやとなかよくね~」

 

 三人にこやかに手を振り、そして振り返った彼に沙綾はほんの少しだけぎこちない笑みで応対した。

 待ってくれてるのは自分が恋人(トクベツ)だから、という思いのほかに仄かに灯る、それは例えば自分じゃなくてもよかったのではないかという思いが、沙綾の胸中にかかる暗雲となっていた。

 

「さーや?」

「ん、なに?」

「元気ないけど……また無理してないよな?」

「……うん」

 

 無理はしてない。最近じゃ彼女の母も体調がいいし、いつも自分が楽しそうに友人のことを話すとますます元気になってくれる気がして、自分も元気になった。だがそれとは別に、先ほどの三人と話していた彼の横顔が、どうしても引っかかってしまうのだった。

 

「あのさ」

「んー?」

「今日って、大学終わったら……バイト?」

「おう」

「そっか」

「オーナーが野菜よくくれるし、新人も入るらしいし」

 

 八百屋の店主がオーナーをしているライブハウスにもどうやら新しい()()()が入ると聞いて、沙綾は思わず表情を険しくした。

 オーナーの娘も沙綾たちと同年代であり、どうやら話さない仲というわけではないらしいことを話から推察していた。

 

「あの、沙綾?」

「え、あ……な、なに?」

「すごい顔してたけど」

「あー、えっと、考え事……してて」

「そう?」

「うん」

 

 頭の中で沙綾は彼と一定以上の仲を持ち、かつ彼女自身ともかかわりのある異性を列挙していく。

 商店街のメンバーで集まっているAfterglowの五人、はぐみつながりでかかわりのあるハロー、ハッピーワールド! の五人、巴の妹である宇田川あことそこからのかかわりで広がったRoseliaの五人、つぐみの珈琲店で働く若宮イヴや常連の白鷺千聖、氷川紗夜の妹である氷川日菜から繋がるPastel*Palettesの五人、そして自分の所属していることでかかわりがあるPoppin’Partyの五人。さらには沙綾がかつて所属していたCHiSPAの新しく加わったドラムの大湖里実を除いた海野夏希たち三人やGlitter☆Greenの四人、戸山香澄の妹、明日香……これだけの人数と彼は気さくに話すという事実を改めて感じ、そして不安が募っていった。

 

「ねぇ、私って重いのかな?」

「え?」

「だって……キミが他の女の子と話してるのを見る度に、嫌な気分になるから」

 

 ぽつりと、沙綾の本音が彼の耳に届いた。嫉妬のままにわがままを言うのではなく、その感情を抱いてしまうことに対して悩んでしまうという彼女の自己肯定感の低さがうかがえる言葉に、彼は少しだけ考えるように間を置いてから大丈夫と呟いた。

 

「大丈夫って?」

「そのヤキモチは、大事だから」

「大事、なの?」

「そう、大事。だってきちんとどこかに行かないように見ていてくれるってことだからね」

 

 あっけらかんとそんなことを言う彼に対して、沙綾は驚きと呆れを入り混じらせたような表情で見上げた。

 彼は自分を例えると船だと感じていた。沢山の人の力で漸く動ける大がかりな船だと。

 

「さーやはそんな助けてくれる沢山の中で一番大事な役割なんだと思う」

「それって……船長、とか?」

「ううん」

「……違うの?」

「さーやは、碇だよ」

 

 碇、という言葉に沙綾はピンとこないような表情をした。船の中であまり重要かどうかわからない、縁の下の力持ちと言われている気がして、少しだけモヤモヤした気持ちを抱えて、何故か誇らしげな彼の横顔を見つめた。

 

「それがないと泊まれない。流されるまま、風のままだよ。さーやがいなくちゃ」

「えーっと、喜んでいいのかな?」

「どうだろう、さーやに頼り切りってことだから」

 

 笑いながら年上としてどうなんだろうって思うよ、と言う彼に沙綾もまた素直に笑みを浮かべた。彼の進む止まるの基準は自分が決めている。他の誰でもなく自分が、そう思うとそれこそ碇の如き重たく絡まる独占欲が、沙綾の身体を支配していく。

 

「ねぇ、今日サボっちゃおっか」

「え」

「さっき楽しそうにしゃべってたの、イヤだなーって思ってたのにな~」

「それは……」

 

 言い淀んだ彼に沙綾は更に攻勢を強めていく。腕を組み、抱き寄せ、肩に頭を乗せる。私は妬いてるんだよ、と沙綾は彼に誠実の証と言う名の愛情を強欲にねだっていく。

 この気持ちの清算を、と既に水に流したはずの気持ちを掬い上げ、彼の前に乾かし広げて見せるように。

 

「ずるい言い方だよ」

「なんとでも、私はキミのカノジョだもん」

「そうだね」

 

 自分はもう()()()でも()()()()でもないのだと沙綾は主張する。山吹沙綾は彼にとって山吹沙綾にしかなれない存在なのだと、自分を誇示していく。

 一方で内心はこんなことを言って引かれないか、もしかしたら嫌な女だと思われたかな、と落ち込み気味でもある彼女に、彼は少しだけ溜息をついて、覚悟を決めたようによしと呟いた。

 

「どこ行く?」

「……それじゃあ、誰にも見つからないところ」

「詩的だね」

「そのまんまだよ、知り合いに見つからないところ」

「それじゃあ電車に乗らないと」

「……だね」

 

 山吹沙綾の内心は、彼が大切そうに語ってくれた船に対する碇だという言葉を否定していた。彼女に彼の進むと止まるをコントロールする気はない。彼女が欲しいのは常に自分が吹きすさぶ方を見ていて、進んでいてほしいというわがままな風のイタズラだけだった。

 以前の沙綾はそんな自分が堪らなく嫌だった。だから大人しく、利口でいようとした。お姫様は王子様を待つのだという固定観念に苦しんでいた。

 

「それじゃあ今日一日誰にも見つからなかったら」

「見つからなかったら?」

「──私のこと、好きにしていいよ」

「はい?」

 

 だが、彼は教えてくれた。自由でいいのだと。白馬をどこからか借りて、王子を迎えに行って何処へでも振り回していいのだと。その衝動を我慢することが正しさではないのだと。彼はいつだって星のように沙綾を優しく見ていて、そして語りかけてくれるのだと。

 

「キミ、今えっちなこと考えたでしょ?」

「恋人から出た今のセリフでそう考えない男っているの?」

「やっぱり、キミもオトコノコだよね~」

「言いたいだけでしょさーや」

「バレちゃった?」

 

 冗談のように常に笑顔を絶やさず、けれど沙綾は嘘はついてない、と彼に念を押した。もしサボったこの日、二人きりで、誰にも見つからなかったのなら……主導権を彼に譲るつもりだと。

 

「期待しちゃった?」

「そりゃもう」

「……えっち」

「じゃあとりあえずショッピングモールか、服が買えるところに行こう」

「え?」

「制服じゃ……さーやが高校生だってバレちゃうでしょ?」

「……だね」

 

 なんだかんだで見つかるつもりが毛頭ない、どころか既に主導権を握られていることを自覚した沙綾は、彼の手を握って心からの笑みを浮かべた。

 ──我慢しなくても、わがままでも誰かに重いと言われても、彼だけはわかってくれる。彼は理解してくれる。なにより自分だけには、男女ともに人気者である彼ではない、沙綾からの愛情をねだるわがままな部分が顔を出す。そんな独占し独占される二人だけのヒミツという甘い味わいに、沙綾はまた一つ、病みつきになっていくのだった。

 

 

 

 

 




碇はさーやの夏の私服(だっけ? 確か)にあるアクセサリーから取りました。ポピパという船は割と暴走しがちなので、お母さんのように見守って、いざという時は表に立つ彼女らしいデザインだと思っています。
それでありながら、いつもは自分を海に沈めている、自分を押し殺しているようなキャラクターなので、そんな彼女がわがままになれるところが原作でいうところのポピパ……大切なヒトなのかなぁと思います。


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【市ヶ谷有咲】いつも、いつまでもキミと

 彼は兄弟を持たなかった。彼の両親は仕事を趣味として生きていたけれど、彼らは決して自分の子どもに愛情を注がなかったわけではなかった。

 しかし、幼いころから、両親と何処かに出かけたという記憶がない彼にとって、その愛情が完全に彼に伝わっていたかと言えば、そうではなかった。

 そんな彼にとって、たった一人、姉のような存在がいるとするならば、それは彼女──市ヶ谷有咲のことを指す。彼女は、彼と年は変わらないけれど、いつも同じく一人っ子であまり両親と一緒に過ごすことができなかった境遇から、まるで姉弟のように育っていった。

 彼にとって祖母という単語が指す存在は、いつだって彼の両親の母親ではなく、市ヶ谷家に行くと、いつも和やかな表情でご飯を作って、一緒にお風呂に入り、寝てくれた、市ヶ谷万実だった。

 ──そして、有咲と過ごしていく中で急激に発達した精神は、いつしか当たり前の男女の関係として発展させた。どちらから告白した、というわけではなかったけれど、彼らは、恋人として、互いの欠損を補っていた。

 

「なぁ」

「ん?」

「そろそろ、どいてくんねぇ?」

「やだ」

「やだって……お前さぁ」

 

 市ヶ谷家は質屋で、その敷地には大きな倉庫がある。普段は客のために開放されている、その地下に彼と彼女……そして彼女の大切な仲間たちにとっての、いわば秘密基地のようなものが存在していた。その地下空間で、二人きりの彼女と彼は甘い空気を醸し出していた。

 

「いい加減、足痺れてんだけど?」

「……しょうがない」

 

 よっこいしょ、と上体を起こし、彼は同じ目線になった彼女に対してありがとね、と微笑んだ。

 うるせーの一言くらい言おうとした有咲は、何も言わないまま少しだけ頬を染めながら、制服のプリーツの皺を直した。

 

「戸山さん」

「え?」

「今日も、来てた?」

「まぁなー、ライブも近いし、そうじゃなくても、日頃部活もやってねーんだから、香澄のヤツは特に」

 

 一年で、有咲の周囲は随分と賑やかになった。戸山香澄、彼女がこの蔵で、真っ赤なギターに出会ったその日から、やめてしまったはずのピアノ、正確にはピアノじゃなくてキーボードだけどな、と有咲が注釈する、だが鍵盤を叩く姿。それに青いギターを持つ長身の女性、ピンク色のベースを抱える小柄な女の子、彼もよく足を運ぶパン屋の娘、そんな五人で一緒にいる姿を見ることが、いつしか当たり前になっていた。

 

「ってかお前さ、香澄たちが来てる時ってホント、姿見せねーよな」

「女の園に立ち入るような下種にはなりたくないからねー」

「そんなもんか?」

「そんなもん」

 

 それでも気を遣って、顔見知りのパン屋の娘だけは、彼は? と、やまぶきベーカリーのロゴが入った紙袋を片手に探しに行くこともあった。女性五人の中で一人だけ、というのがやはり気後れするんだな、と結論を付けた有咲は、立ち上がった彼の腕を引いた。

 

「今日、泊ってくよな」

「そうするつもり」

「着替えは?」

「持ってる」

「ならよし」

 

 有咲はそこでようやく、笑みを浮かべた。そして昔に比べて随分と身長に差のできた恋人兼弟分に抱き着いたのだった。

 

「もうしばらく、ここで……膝枕してやっても、いいけど?」

「それじゃあ……甘えさせてもらうね、有咲」

「おうっ」

 

 ふにゃりと表情を崩した彼は、ソファに座った有咲の膝に頭を預けたまま、スマホを取り出して、有咲は有咲で本を読み始める。甘い雰囲気は維持したまま、日常のままでいられるのは、彼と彼女の過ごした時間の長さが根本にあった。

 

「そういや、今月のデートどこ行く?」

「んー、有咲、今幾ら持ってる? 僕は五万くらい? あるはずだよ、もうちょっとあるかも」

「お前……」

 

 あっさりと告げられた金額に有咲は困り顔を浮かべた。彼の両親は彼が困らないようにと毎月の小遣いが過剰だという特徴があったが、それを貯めていたらしい額を、憂慮することなく有咲は行先に頭を巡らせた。

 

「……京都、とか?」

「いいね。ちょっと暑いかもだけど」

「あ、じゃあやっぱなし」

「あはは、有咲らしいや」

 

 そんなやり取りをして、結局近くのショッピングモールでいいよ、という結論に至った二人は、お互いの空いてる日を確認していく。

 

「あ、その日もポピパがあるから」

「そっか、ライブ前だし、それだと、もうちょっと後の方がいいかな」

「その方が助かる」

「りょーかい」

 

 その時、ほんのわずかに宿った彼の表情に、有咲は首を傾げた。いつも笑顔を欠かさない彼にしてはとても珍しい、まるで何かを憂うような表情だったが、問いかける前に彼が起き上がり、いつもの笑顔を間近に迫らせた。

 

「お腹減った」

「……んじゃあ、メシ食いに行くか」

「そだね」

 

 立ち上がり、伸びをする彼はもう、変わらない彼だったため、有咲はその違和感と不安感を胸の奥に閉じ込めた。その日は、そのままいつもと変わらない日常を過ごして眠りについた。

 眠り際に、何かを言っていた気がしたのだが、香澄に振り回され、充足した眠気の中では記憶に留めておくことは、できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 喧嘩をした記憶は山ほどあった。幼馴染で姉弟のように育ってきた二人にとって小さな衝突は日常茶飯事だった。

 けれど、彼はいつしか、有咲に対して不満を言わなくなった。そのことを、何故が不意に思い出してしまったのか、それを考えながらもいつものように、生徒会の仕事を含めて終えたところで、やってきた香澄と一緒に帰る。そうして帰れば彼が、と思ったところで蔵が無人であることに首を捻った。

 

「ばーちゃん。あいつは?」

 

 それに対する祖母である万実の返事は、今朝学校へ行ったきり、顔を見ていない、という言葉。それに有咲はなんでだ? と焦りの表情を浮かべた。

 

「家に帰ってる、とかじゃなくて?」

「いや、あいつは基本はウチにいる。学校帰りに直帰した時なんてそれこそ、ずっと昔に喧嘩した……きり……」

 

 そう、彼は有咲と喧嘩をしない限り、小中高全てで必ず学校帰りには市ヶ谷家へと足を運び、顔を見せてから帰るのだった。

 だが、喧嘩なんてした記憶がない。昨日も……とても香澄には言えることではなかったが、少なくとも喧嘩をしていたら決して起こらなかった昨晩のことを思い返して、やはり喧嘩はしてない、という結論に至った。

 

「探しに行こう!」

「は──はぁ!? お前なぁ、もしかしたら怒ってるかもしれねーんだぞ?」

「だからじゃん! このままにしても、いいことなんてないよ!」

 

 ほとぼりが冷めるまでそっとしておこうとした有咲に反して、香澄はいつもと同じ、何かに真剣になれる表情で、ダメだよ、と香澄は全力で訴えた。

 全力で、香澄はまっすぐ、初めて会った頃と同じように有咲を突き動かそうと言葉を紡いでいた。

 

「あのヒト! なんで私たちを避けるのかな?」

「避ける……?」

 

 香澄は、少しだけ寂しそうに、だってそうじゃん、と呟いた。まるでその現実に痛みすら伴っているような、そんな顔で、香澄は言葉を紡いでいく。

 

「誘っても、蔵にも来ないし、ポピパのライブにも来ない。普段顔を合わせてるはずのさーやがどんだけ言っても、絶対」

「……お前ら、そんなこと」

「当たり前だよ! 有咲の大切なヒトなんだもん、私たちにとっても大切だよ」

 

 そんな優しすぎる、温かな言葉に有咲はじわりと泣きそうになってしまう。そうであってほしかった。自分を変えてくれた彼女たちを、彼と共有したいという想いが、有咲にもあったのだった。そして、共有というワードが、有咲の中で一つの閃きを生み出した。

 

「……そっか。わかったぞ香澄!」

「なにが?」

「あいつが来ねー理由だよ!」

「わかったの!?」

 

 そう言って、頭を掻きむしって、有咲は衝動的に走り出した。まるでいつも星を、キラキラドキドキを追いかける、彼女のように。感情のままに、想いのままに。

 ──それは普段の有咲にはないものだった。理性的でいつも暴走しがちなバンドのブレーキとしての市ヶ谷有咲は、そこにはいなかった。

 

「待ってろ──!」

 

 いつも一緒にいた家族が迷子になったのなら、自分が(ミチシルベ)になろう。いつだって、二人はお互いにないものを補って生きてきたのなら、言葉もなく迷う彼に気づいてあげられるのもまた、自分であるべきだと有咲は確信していた。

 

「はぁ……はぁ……っくそ! 体力、ついてきたと、思ったんだけど!」

「有咲! どうするの? 家行っても、開けてくれなかったら?」

「ふ、ふん、あいつが、私ん家の、はぁ……合鍵、持ってるんだから、私だって、ふぅ、あいつんちの、合鍵、くれー、持ってる……つーの!」

 

 辿り着いた、少しばかり大きな一軒家のドアに鍵を差し込み、カチャリという小気味いい音を立てて、息も絶え絶えの有咲は、玄関で香澄を待機させて彼の家へ足を踏み入れた。靴を脱ぎ、まっすぐに彼の部屋の前にやってきた有咲は、ゆっくりと三回、扉を叩いた。

 

「……なに?」

「なんだよお前、泣いてんのか? ホンット、ダッセーやつ!」

 

 涙声の弱々しい声に、有咲は全力で明るい声を出す。姉として彼の不安を吹き飛ばすように、そして、恋人として彼を立ち直らせるために。

 

「そういや、昔もそんなことあったよな……私が花女の中等部に行ったとき、お前、わんわん泣いて、怒って、部屋に閉じこもったっけ」

「忘れた、そんなこと」

「嘘つけよ、ったく、強情なヤツだな、お前も」

 

 お前も、と確かに有咲は言った。彼にそういうところがあるように、彼女にも確かに強情で、泣く時は誰にも見られたくないという意地がある。

 ──似た者同士。同じ環境で育ってきた、同じ境遇で育ってきた彼と彼女は、必然と似ていた。

 部屋の扉を開け、布団にくるまっていた彼を有咲は優しく撫でた。

 

「私がポピパやってんの、嫌か?」

「嫌じゃ……ないけど」

「けど」

「ふと、有咲がこのまま、僕を置いていってしまうんじゃないかって思うんだ」

「そっか」

 

 五年前のこと、成績優秀で、どこでも行けた有咲は中高一貫の女子校を選んだ。それは彼と同じ場所に通わない、という意思表示だと受け取ってしまった彼は、後にも先にもない大喧嘩をした。

 その頃から、有咲は彼を段々と弟ではなく一人の男性として見るようになっていた。姉弟としてべったりするのではなく、恋をしたい。そんな有咲の勇気ある乙女心が、選択させた道だった。まだまだ思春期には至り切れていなかった彼には、伝わらなかったことだったが。

 

「あの時と同じだよ……私は、お前を嫌ったり、会いたくねーって思ったりなんか、絶対にしねー」

「そうだね」

「でも、それがヤキモチってんならさ……こんなところで拗ねるんじゃなくて、もっとあるだろ?」

 

 私だってそうだけど、と有咲は笑った。彼はこうして有咲の前では子どものようになってしまうが、普段は温和で優しい、まるで祖母の暖かさをそのまま受け継いだような性格をしていた。それゆえに男女問わず、彼と仲の良いクラスメイトは多い。そんな人気者になってしまった彼に、あまり友人を作れなかった有咲は、大いに嫉妬したこともあった。

 

「お前といる時の私も、ポピパの私も……どっちも私なんだ。すっげー楽しくて、幸せで、満たされてる。私のタカラモノだからな」

「……有咲」

 

 寝転がり、視線が合わさった。彼が見た有咲の瞳には、優しくけれども確かに、星が瞬いていた。輝いて、まるでその星一つ一つが脈打つように。それは以前の有咲にはなかったものだった。

 

「……僕も」

「ん?」

「僕も、有咲みたいに変われる、かな」

「大丈夫だろ、お前実は、めちゃくちゃ強いからな」

 

 なら大丈夫かな、と彼は笑った。そして、変わろうという誓いと決意を込めて、いつも傍にいてくれた彼女の唇に、甘酸っぱい、まるで初めての時のような、キスをした。

 

「悪い! お待たせ!」

「ううん! 星見てたから~!」

「お前目いいな……」

 

 玄関で待たされていた香澄は夜空を見上げていた。都会の空に星はあまり瞬かないのだが、視力のいい香澄にはしっかり見えているようで、有咲にあれが白鳥座でしょ~? と解説を始めた。そこに、彼は申し訳なさそうに項垂れた。

 

「ごめん、戸山さん……僕」

「香澄!」

「え?」

「香澄って呼んでくれたら、許す! ってことで!」

「とや……香澄」

「許した!」

 

 ドヤ、という効果音が付きそうな表情の香澄に有咲はまた呆れ顔をした。そんな簡単でいいのかよ、と問えば香澄はいいの、これから仲良くなるんだもん、と返す。

 あっさりと自分が受け入れられることに、彼はまた、少しだけ涙を流しそうになり、上を見た。

 

「あ」

 

 ──その時、ハッキリと彼には見ることができた。キラリと流れる淡い光の筋。流れ星。

 そこに彼は願いを込めることにした。叶えてほしい願い、というよりも、一種の、有咲の唇に落としたような決意の想いを。

 

「何が見えたの!?」

「流れ星」

「え~、見逃した~! わたしも見たかった~! もう一回来ないかな!?」

「おいうるせーぞ香澄! 近所メーワクだっつーの!」

「有咲もね」

「わ、わかってるって!」

「有咲も怒られた~」

 

 有咲のこの出逢いが、戸山香澄を初めとした、出逢いが一生ものなのならば、自分にとってもそうであってみせる。そんな決意を乗せて、流星は何処かへ向かった。

 いつかこの青春時代が思い出になった時、その思い出を共有できるように、笑い合えるように。いつも一緒にいる、そしていつまでも一緒にいる、彼女の笑顔になるように。

 

「なぁ」

「なに?」

「土日、やっぱ遠出するぞ」

「急だね」

「仲直り記念ってやつだな、どこ行く?」

「なるべく暑くないところ、それでもって、おいしいものがあるところ」

「……決まりだな」

 

 週明けのばあちゃんが出してくれる料理はカニ鍋だな、と有咲は笑った。そこに、どうせなら香澄たちにも、と提案した彼に、有咲はまた優し気な微笑みで、そうだなと同意した。

 ──そんな突発的な旅行先が、大人になっても足を運ぶ二人の思い出の場所であり、同時に有咲が指輪を受け取る場所になるのだが、それは、もう少しだけ先の話である。

 

 

 

 

 




案外一人っ子気質でありながら若干の末っ子気質なのが有咲というキャラなので、いっそ弟を追加してみよう! というコンセプトでした。素直になれなくても、素直に言葉にしなくても汲んでくれて、時には大切な人のためなら真っ先に行動する優しいヒト。甘えん坊だけど面倒見がいい、みたいなところも彼女の魅力ならばという一話でした。


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Afterglow
【美竹蘭】ゼロ距離になるキミへ


 ──弱かったあたしはもういない。みんなに支えられて、みんなを支えて、あたしは本当の夕焼けを歌えるようになった。

 だから全員が同じ進路じゃなくたって、平気だった。そりゃ、ずっと一緒にいたから、寂しくはなったけど、Afterglowがあればすぐに会えるから。

 

「らーんー! 今から一限出る?」

「ひまり……うん」

「じゃあ一緒に行こっ!」

「いいけど、巴は?」

「知らないっ、ぜーんぜん電話に出ないんだもん!」

 

 そんなあたしたちが五人が一緒じゃなくなって、それもすっかり慣れちゃった頃のこと。家を出てすぐ、幼馴染の上原ひまりがそうやって声を掛けてきた。頬を膨らませるひまりは、あたしの前でもう一度だけ電話をすると、やっぱり出ない! と声を上げた。

 

「朝から元気だね……ひまりは」

「だってだって! 今日は絶対に行くからな、ってゆってたんだよ!? なのに寝坊ってありえなくない!?」

「まぁ、巴だからね」

 

 ズボラだし、というあたしの言葉にひまりはそーだけどさ、そーなんだけどっ、と唇を尖らせる。

 前々から、思ってたんだけど、ひまりは表情がころころ変わるし、ちょっと童顔っぽいところとか、それに反して大きい胸とか、元気なところとか、異性に好かれるタイプだよね。やっぱ、男ってひまりみたいな子が好き……なのかな。

 

「ん? どしたの?」

「……なんでもない」

 

 そう思って()()()のことを思い浮かべたところで、ひまりは前にいた知り合いに声をかけた。手を振って、でもあたしたちとは違った反応をする。

 

「あ、ひまりじゃん、おはよ〜」

「おはよっ! あれあれ、今日は独り? さみしー」

「いきなりいじってこないでくれる? この間別れたって教えただろー?」

 

 ──コイツは、大学で出会った男。見た目にチャラめの、ガサツそうな男。あたしは、この男のことが、嫌いだ。

 ひまりが言ってたように、つい最近、カノジョと別れたらしい。あたしが知ってるだけで片手の指を全部使わなくちゃいけないくらい。ほとんど一週間とか、長くて一ヶ月くらい。そんな軽薄なヤツがひまりと、あたしの大事な幼馴染と仲良く話してるのが、嫌だ。モヤモヤする。

 

「美竹も、おはよ」

「……はよ」

「なんだよ、愛想ねぇな。生理か?」

「は?」

 

 こういうところが、ムカつく。デリカシーないし、怒っても全然気にしないでへらへら話しかけてくる。ひまりが、そーゆーこと言っちゃうからフラれるんだよー、と茶化して、うるせぇ、とか言いながら、またへらへら笑う。

 ──なんで、こうやって突き放そうとするのに、どうして、アンタはそこにいるの? 自分でも理不尽だとわかる怒りが、吐き出せない。

 

「ホントに体調悪そうだな、美竹のやつ」

「蘭、大丈夫?」

「平気、だから」

「平気そうには見えねぇな」

「うるさい。いちいち構ってこないで」

「はぁ……マジで愛想ないやつ」

 

 そんなの、わかってる。あたしはひまりみたいにいっつもにこにこなんてしてられない。巴みたいに快活に笑ってられない。いっつも睨んでるみたい、顔が怖くて誤解されやすいんだから、そんな風に言われても……あたしは、かわいくはなれない。

 

「それじゃあ、二人ともまたね!」

「おう!」

 

 でもよりにもよって、そんなコイツと二人きり。気まずい、なんて思ってると彼はため息を吐いて、あたしに向かって笑いかけてきた。

 

「サボるか」

「は?」

「たまにはいいだろ? なーんか今日の美竹は変だしな、ひまりには言えねぇことでも、オレには言えるんじゃねぇの?」

「……うるさい」

 

 コイツの、こういうところも嫌いだ。デリカシーがないくせに、察しは悪くないし、無駄にカッコつけてくる。いいから、とあたしの手を引いてエレベーターを上がっていく。行先は、屋上だった。

 

「んー、いい景色だろ? オレのお気に入りのスポットなんだよ」

「屋上……か」

 

 それは、あたしにとって馴染みのある名前だった。屋上、あたしは中学の時も、高校の時も、こうして屋上から空を見上げていた。あの時はいつも夕焼けで、今は太陽は南に向かってる真っ最中だけど。

 彼は大きく伸びをしたと思ったら、おもむろにポケットからタバコを取り出してライターで火を点けた。

 

「……未成年じゃないの?」

「残念、オレ、今日でハタチなんだなこれが」

「つまり今日が初めて……なわけないか」

「当然」

 

 ニヤっと笑って、ソイツは煙を吐いた。不良……なんて似合いそうもない性格のクセに。

 あたしは、知ってるよ。アンタの、ホントの顔を。

 

「フラれた」

「さっき聞いた」

「……参ったよ。美竹の言った通りだったなんてな」

「ヒトのハナシを聞かないから……いい気味」

 

 二週間くらい前、いい感じの子ができた、と聞いた。その子はあんまりいい噂、何股かしてるってのを聞いたからやめときな、って言ったのに、コイツは一週間前、付き合って、フラれた。

 

「まーたフリーに戻っちまった、やんなるね」

「大体、タバコ吸う男は基本、嫌われるよ」

「そんなもんかね」

 

 だって……あたしが嫌いだもん。タバコの匂いも、肺を黒く穢すっていうその性質も、なにもかも。

 バンドやってるヒトは吸ってるヒト多いけど、あたしは、あんまりいいイメージがなかった。

 

「やめないの?」

「誰かのために、ってんなら……やめれるかな」

「なにそれ、ダッサ」

「おい」

「そうやってすぐカッコつけるんだから……バカみたい」

 

 ホントにバカみたい。カッコつけなくても、あたしは……ありのままのアンタのことを見てるのに。

 アンタに不良なんて似合わないよ。あの時のアンタは、不良には程遠いくらい優しかったし、今だって……あたしのことを心配してくれて、屋上に連れ出してくれたのに。

 ──好きだ、なんて言えたらいいのに。あたしは、その言葉で傷つかない方法を、知らない。傷つくと、傷つく性格だってことくらい、あたしにだってわかる。だから、あたしは言えない。

 

「悪いな……サボらせて」

「いい、そんなこと、どうだって」

「いやよくはねぇだろ」

「……あたしには、どうだっていいの」

 

 どうだっていい。今、アンタが何を考えてるのか、知りたい。そうやってほのかに灰色をした煙を吐いて、アンタは何を空に浮かべてるの?

 

「なぁ……美竹」

「なに」

「えっと……だな、ひ、ひまりって……カレシとかいんのか?」

「──は?」

 

 ああ……そういうこと。アンタは、またあたしの手の届かないところまで行っちゃうんだ。

 今度はひまりってわけ? 確かに大学入ったばっかりの時から仲いいもんね。ひまりも悪感情なんて抱いてないと思うよ。

 

「いないよ……だから、いいん、じゃ……ない?」

「いいって?」

「お似合いだと思うよ、ひまりとアンタ」

 

 それだけ言って、あたしは眩しい屋上から逃げ出した。まただ、まだだ、まだ、あたしは、この気持ちに涙を枯らせないままでいる。

 その数は両指の数くらい……アイツが、恋をした回数だけ、あたしは誰も知らないところで涙を流すんだ。

 

「なんで……なんで、あたしじゃ……あたしじゃないの……っ」

 

 手を伸ばしたって、届かない。人の距離は、人の腕二つ分だから。あたしがどれだけ手を伸ばしたって、どれだけ想っても、願っても、届かないようになってる。残酷な片手分の距離。

 これが、あたしの片思いが迎える、末路なんだ。

 ──あたしにハッピーエンドは、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼と彼女の出逢いは、なんてことのないものだった。大学の講義で宇田川巴、上原ひまりと一緒にいるところの近くに彼がいて、話しかけた。少しだけそれがナンパのようだったが故に、蘭が目を吊り上げて追い払うようにしたのだった。

 

「昨日は、悪かった」

「なに?」

「いやだって……前から気になってたんだよ、美竹のこと」

「あたし?」

 

 ──巴がそれにお、結局ナンパっぽいぞ、と囃し立てる。実際にナンパされた経験を持つひまりは少し警戒心を露わにする。そんな周囲の二人の反応に彼はまた、頭を下げた。

 

「そんなつもりはねぇんだって……高校の時初めて見て、めちゃくちゃカッコいいって思ってからさ、同じ大学で講義受けてて、舞い上がっちまって、それで暴走したのが理由ってか、なんつうか」

「もしかして、蘭のファンかなにかか?」

「Afterglowのってこと?」

「そうそう」

 

 理由を聞いて軟化していく二人に、けれども蘭はまた目を吊り上げた。

 あまりにも信用が早いだろう、という蘭の考えだったが、巴はいや大丈夫だろ、とあっけらかんと笑った。

 

「それだけ有名になったってことだろ、アタシらの夕焼けが」

「……それは」

 

 巴の言葉で蘭はそれ以上彼を糾弾することができなくなってしまった。美竹蘭にとっての誇り、それは厳格だが密かに認めてくれる、威厳のある父。そして個性的で誰が欠けてもいけなかっただろう幼馴染たち。それらが全てとなって背中を押した、Afterglowという一つの音楽。

 彼女はそれらのいずれかを肯定されて、非難できるような人物ではなかった。

 

「じゃーな!」

「痛っ、おう! また美味いラーメン屋、教えてくれよ?」

「任せとけっ、ってな! あはは」

 

 幾度か話していくうちに、彼はすっかり、馴染んでいった。まるで最初から知り合いだったかのようにするりと、彼が話しかけて、ひまりや巴、そして蘭自身が返事をするという、新しいいつも通りへと変わっていった。

 

「なー、ひまり、こういう時は、どうするんだ?」

「はぁ~、ホントさ、デリカシーないよねぇ。女の子はそういうの嫌うからね?」

「うぐ……気をつけます」

 

 そのうち、一年の後半になって見られるようになったのは、ひまりに恋愛相談をする彼の姿だった。自分を磨き始め、大学デビューと呼ぶに相応しく、彼の姿が変わっていく中で、ひまりのアドバイスがあることは一目瞭然だった。そして、その間に告白され流されるように付き合い、そしてフラれる、という繰り返しをよく見るようになった。

 

「また付き合ったの?」

「……おう、ってかまた、は余計な」

「はぁ……次は長持ちしなよ」

 

 最初は、幼馴染が彼と話していることが嫌なんだと思っていた蘭だったが、それが、次第に違う感情であることに気づいたのは、偶々デートをする彼の姿を見たときだった。

 

「蘭ちゃん……?」

「あたし……なんで」

 

 久しぶりに一緒に映画を見に行った親友の前で泣き崩れてしまった蘭は、初めて気づいてしまったのだった。

 ──大学で失いたくない、新しいいつも通りを見つけてしまったことに。彼女にとっての夕焼けのような存在が、彼であることに。

 そして、蘭が考える限り最悪のパターンが、片想いを初めてからおおよそ四ヶ月後、発生してしまった。彼が次に恋人候補に名前を挙げた人物が、それもまた大切な人物である上原ひまりだった。

 それが発覚した日、美竹蘭は体調が悪いという理由をつけて講義には出席せずに帰路についた。逃げた、と言っても過言ではなかった。

 しかし、逃げたところで現実はなにも変わらない。変わらないどころか、益々気まずくなって、朝会うことすら、億劫だと感じるようになっていった。

 

「おはよ、美竹」

「……はよ」

 

 ひまりとはどんな話をした? もう、付き合えちゃいそうなのかな。蘭の頭の中で、考えたくもないくらいに嫌な想像が、彼の顔を見るたびに浮かんでは、消えた。

 同時期に、風の噂で、タバコを吸うのをやめたことを知った。ひまりがあんまり好きではないと口にしていたことが理由なんだろうと当たりをつけた蘭は、そうやってすぐにカッコつける、と誰に言うでもなく、夕焼けに零した。

 

「でも、好きな人に好きになってほしいから、振り向いてほしいから自分を変えようとする気持ち、あたしもわかるよ。だって、あたしもそうだから」

 

 その言葉は、誰が聞くわけでもなく。夕闇に溶けていった。

 それから一週間、二週間と、彼と会わない、会っても話すらしない日々が続いたある日。

 

「ねぇ蘭! 最近、アイツと喧嘩してるの?」

「なんで?」

「なんでって……話してるところ、みなくなったし……」

 

 ついにひまりにそんなことを言われるくらいに、アイツとの交流が途絶えたのか、と蘭はため息を吐いた。どういうこと、と問い詰めるひまりだったが、蘭は本当のことを言わずに、別に、と言うだけだった。

 

「……なんで、昔みたいになってるの、蘭……」

「昔って……あたしは、なにも」

 

 昔みたいに、なんでも独りになろうとする、寂しがりやの彼女の背中という記憶がひまりを悲しませていた。

 カッコいい幼馴染が歪んでしまっていること、独りで苦しもうとしていることを知ったひまりは、涙でぬれた頬をぬぐいながら、叫んだ。

 

「やだよ! 蘭は、せっかく変われたのに……みんなで前に進めたのに……どうして、何処かに行こうとするの? やだ……そんなのやだよ……わたしたちは、みんなでAfterglowなんだよ?」

 

 ──離れても、アタシらはずーっと五人だ! と快活に笑う顔があった。わたし、いつでもウチでみんなが来るの、待ってるから! と拳を握った決意の顔があった。前に進まないと、いけないんだよね~、と穏やかに、けれど寂しそうに、目元を赤くしたまま微笑む顔があった。ずっとずぅっと、一緒だもんね、と今と同じように泣きじゃくるひまりの顔があった。

 蘭の、思い出にある、別れの瞬間。ずっと一緒に過ごしてきたAfterglowが、それぞれの道を歩む最初の日に蘭自身は言ったことを思い出した。

 

「──いつだって、同じ夕焼けを見てるよ、あたしたち!」

 

 そんな簡単なことを忘れていたのか、と蘭は恋に曇った自身の頭を殴りたい衝動に駆られた。

 恋敵だったとして、()()()()()()()()()()()()()()。ひまりは蘭のことを大切な幼馴染だと思っているし、蘭も、ひまりのことを大切な幼馴染だと思っている。想っているのだから、こんな意地も、見栄も、必要ない。いらない遠回りだ。

 

「ひまり……実は」

 

 蘭は、ひまりに全てを打ち明けた。カッコつけで、けれどイマイチ蘭の思うカッコいいには届かない彼の、そのカッコいいけれどカッコよくない姿に、いつしか惹かれていたこと。些細な嫉妬と片想いに疲れて、なにもかもが嫌になったこと。

 全てを知ったひまりは、腕を組んで唸り声を上げた。何かを迷う表情。考えて、考えて、そんな、う~ん、というリアクションにたっぷりと十秒ほど使った末に、泣き腫らした目を蘭に向けて、一言だけ呟いた。

 

「かんっぺきに、蘭の勘違いだよ」

「かん……ちがい……? ん? ねぇまってひまり、どういうこと?」

 

 疑問符を頭に、かつ大量に浮かべた蘭に向かってひまりはどう説明したらいいかと悩んで、面倒になったらしく、まるでもう一人の幼馴染、宇田川巴のように、明け透けに全てを話すことにした。

 

「あのね、アイツが好きなヒト、私じゃないことも、本命は誰かも、知ってるんだ~」

「へ? えっ?」

「……アイツもね、ず~っと、それこそ一年の時から、好きなんだけど~、って何回も聞かされてるからね?」

「は?」

 

 疑問詞でしか会話ができなくなった蘭は、その情報を整理していく。勘が間違ってないことは間違ってない。

 彼は惚れた女のためなら自分を変えられるくらいまっすぐなところがある。タバコをやめたのだってそれが理由だった。ならば、その相手がひまりではないなら……その答えは、蘭が全く予想もしていないところに転がっていた。

 

「……あたし、だったり、する?」

「……うん」

「マジで?」

「マジで」

「冗談じゃ、ないよね?」

「蘭、私のこと疑いすぎじゃない?」

「いやだってひまりだし」

「どーゆーこと!?」

 

 先ほどまでの重苦しい空気がまるで夢か幻だったかのように、蘭とひまりは、弛緩した空気の中、いつも通りの会話を繰り広げていた。

 

「ってか巴は?」

「寝坊」

「単位大丈夫なの、巴……」

「しーらないっ」

 

 繰り返しな気がするやり取りをして、その先には彼がいる。それもまた、蘭が大学で見つけた新しい、いつも通り、だった。

 甘酸っぱいだけでなく、苦い恋をした。それじゃあごゆっくり~、と意味ありげに去っていくひまりに感謝と、面白がっていることに対する不満の目線を送り、蘭はずっと距離を感じていた想い人に向き直った。

 

「……とりあえず、屋上?」

「だな……なんか話があるってひまりに言われたんだけど」

「……ひまり」

 

 まだ、手を伸ばしても触れることのできない、そんなもどかしい距離に目を細め、蘭はひとまずは文句を言ってやろうと決めていた。

 ──本命がいるくせに他の女と付き合うから、失恋が嵩むんだ、と。そうやってバカにして、笑いあって、いつか、手を伸ばさなくたって届く距離にいてやる、と蘭は決意を新たにしたのだった。

 

「とりあえず、アンタ当分禁煙ね」

「だよなぁ……」

「あはは、いーじゃん、あたしがいるんだからさっ!」

 

 いっそ、そのまま生涯、禁煙生活を送らせてやる。

 蘭のそんな目論見に気付くことなく、彼は彼女と共にひまりの待つ食堂へと歩くのだった。

 

 




いつも通りが大切、とは言うけれどそのいつも通りはしょせん高校の三年間限定で、中学高校はよかったけれど、その先は、と考えると趣味もジャンルもバラバラな五人が一緒になることはほぼないと考えます。
バンドストーリー二章の題材にもなった移り行くというのをテーマにして、その時一番傷つくのは蘭かモカだろうなぁとは思います。二人とも言葉が下手な印象ですから。
でも、そんなときこそ、仲間がいる。新しいいつも通りがある。変わっても変わらないものがある。きっと蘭は、何があっても前に突き進み続けるんだろうなぁ。


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【青葉モカ】キミは疑うより信じていた方がいい

 春眠暁を覚えず、処々啼鳥を聞く。

 柔らかな日差しの下で青葉モカはいい詩だよね~、と中国古典文学の一文を諳んじてみせた。孟浩然が詠んだ春暁だったかという返答に、モカはそうそうと微笑みを浮かべて、朝寝坊ができる幸せ……春、と空を見上げていく。

 

「モカは朝寝坊しちゃダメだと思うんだけど」

「え~、ダメ~?」

「これから学校でしょうが」

 

 麗らかな春の暖かさが心地よく、ついつい夜が明けたことも知らずに眠り込んでしまった。という意味を持つその漢詩を選んだのは共感できるからかと呆れる彼に、だってさ~あったかくて~ねむく~とモカはまた目を閉じようとする。

 

「こらこら。デート中に寝ないでよ」

「ん~、おうちでーとしたいな~おとまりでさ~」

「寝る気?」

「もち」

 

 ふわふわと綿毛のような笑みを浮かべるモカに彼は何度目かわからない溜息をついた。

 青葉モカはその実態を掴めない人物だった。飄々としていて言葉は嘘か本当か区別がつきにくい。言葉に真実としての重みが存在しない。好きも嫌いも、肯定も否定も、すべてが煙のように不確かで曖昧な重みしかなかった。

 

「うちでデートなら」

「ん~?」

「寝かせないけど」

「え~、えっちなんだ~」

「そういう言い方はよくない」

 

 寝てほしくないだけだよと彼はまた溜息をつく。いつも本心のわからない彼女に振り回され、男女としての睦みあいであったり、ある種自然な欲求すらも、モカは睡眠欲を盾に躱していた。

 

「なぁモカ」

「……だって~、あったかくて~、ふあ~……眠くなっちゃうんだも~ん」

 

 にへらと笑うものの、あからさまに拒絶をしたモカに彼の顔は曇っていった。

 だがそんな彼の表情にも気づいてるのか気づいていないのか、曖昧な表情で彼の顔を伺っていた。大丈夫だと言いつつも、いま一歩踏み込ませない雰囲気があった。

 

「ごめんモカ」

「あのね」

「──いいよ。モカのこと、わからないんだ」

 

 彼はそう言って、立ち上がり珈琲店を出ていく。恋人であるモカを置いて、会計だけは済ませてしまってから、少しだけ振り返って一人立ち去っていった。

 その様子をはらはらとした面持ちで見ていた幼馴染の羽沢つぐみがじっと出入口に視線を向けているモカに近寄っていく。

 

「モカちゃん……」

「やっぱ、ダメだったのかな~?」

「えっと……その」

 

 なにも言えずに戸惑うつぐみにモカが表情の読めない曖昧な微笑みのまま、けれど長年共に過ごした幼馴染の彼女には伝わるくらいの塩梅で少しだけ寂しそうな、悲しそうな顔で自分の想いを打ち明けていく。

 

「あたしね~本気でちゃんと好きだったんだ~」

「じゃあどうして?」

「わかんないんだもん。あの人が本当にあたしのことを好きか……」

 

 遠くを見つめるようにモカはつぶやいた。

 ──彼女の周囲の人間関係は、いつでも幼馴染たちがいた。幼いころから、今までずっと五人が一緒で気持ちが通じていて、喧嘩もするけれどそれが当たり前の世界だった。けれどなんてことのないふとした時に恋をして、追いかけていたら相手から告白をされて……初めは世界がまるで華やぐような幸せを感じた。毎日のように彼に会いに行った、毎日のように彼の腕や身体に触れ、緩む頬が抑えきれなかった。

 

「なら……」

「だってさ、怖いんだ……本当は、ただ惰性で傍にいてくれるのかも、とか……もしかしたら、カラダだけが目当てだった、とか知ったら」

「そんなこと……っ!」

 

 今まで関わってきた幼馴染たちにそんな恐怖を感じたことは一度たりともなかった。

 だが彼との仲が深まり、自然とキスやその先……という場面が多くなるにつれてモカは愛していたはずの男性に僅かな恐怖と不信感を抱くようになっていった。

 好きという言葉はまやかしではないか、男女としての行為ができないと苛立たれるのは彼の目的そのものがそれではないか。

 最初こそそんなことはない、あるはずがないと否定してきたモカも、後から後から湧いて出てくる、まるで背中を何かおぞましいものが走るような不信感というものにいつしか疲れてしまっていたのだった。

 

「そんなこと考えるような人じゃないよ」

「……わっかんないよ~、だって最近すーぐああやってさ~、えっちなこと言ってくるもん」

「そんな」

 

 さっきも寝かさないとか言ってたよ、と補足していく。つぐみはすぐさまモカの考えを杞憂だと否定しようとしたのだが、恋人であるモカとそれを傍から見ていただけのつぐみでは言葉で説得させることは至難の業だということに気付き、言葉がしぼんでしまう。

 否定してあげたい。けれどできない。そんなもどかしさを感じている幼馴染にモカは眠そうな瞳をほんの少しだけ開いた。

 

「どうして?」

「えっ……?」

「どうしてさ~、つぐはそこまであの人を庇うの~?」

「だって……だって、わたしは」

 

 わたしはあの人にも相談を受けていたから。そう明かしたところでモカはいまいちピンと来ていないようで首を横に傾げていた。

 ──付き合う少し前につぐみは彼から話を聴いていた。青葉モカの感情が読めないということを、そして彼女のことを好いているということを。

 

「だからわたしは、大丈夫ですよって……」

「それも演技かもよ~」

「じゃあ……どうしてモカちゃんは付き合ったの? そんな言い方なら、どうして……?」

 

 どうしてあの人のことを信じてあげられないの? と目から大粒の涙をこぼし始めてしまったつぐみに、モカはいよいよわからなくておろおろとし始める。

 なによりも大切な仲間の涙に、寂しさときっとこのまま別れてしまうんだと漠然と考えていたモカもほんの少しだけその涙につられて、感情を露わにしていく。

 

「あたしだってさ……信じてあげたいよ。大好きだもん……でもあたしは一緒にいるだけで幸せで、傍にいるとなんか眠くなっちゃうくらいあったかいあの人が好きで……それだけいいんだもん」

「うん」

「でも、最近ね……ちゅーしたがったり、その……脚とか、触ってきたりしてさ」

「……嫌だったの?」

 

 つぐみの問いかけに嫌じゃなかったんだけど、とモカは自分の中に生まれた形容しがたいほどごちゃ混ぜにされた感情たちをそれでもどうにか伝えようと言葉を探す。

 初めてキスをされた時も、初めて際どいところを触られた時も、まずモカが感じたのは恐怖ではなかった。

 

「熱かった」

「熱い……?」

「うん」

 

 それはモカが考えていたよりももっと、真夏の日差しに照らされた砂浜を素足で踏みしめるほどに熱を持っていた。唇や触れられた部分、羞恥とそれに加えてまた別の感情が頭の中が火を放って、モカはそれが苦手だった。

 恋も睡眠も、丁度春の麗らかさのような温度を快適と感じるモカが味わった熱は、手を引っ込めてしまいたくなるほどで……それ以来モカはそれを拒否し続けてしまっていたのだった。

 誰も自ら火傷をしたくはない。それはつぐみを頷いてしまうくらいに至極、当たり前のことだった。

 

「そうしたら……なんかあの人のことまで怖くなっちゃって……」

「そっか」

 

 だったらせめてわかるように、今みたいに言葉にすれば……そう思わなかったモカではない。だが、モカはどうしようもなく居心地のいいこの関係をできるだけ長く過ごしたかった。伝えたらもしかしたらそれが本当のことで、カラダで繋がれないのならと捨てられるのかもしれない。それがなによりも一番怖かった。

 

「じゃあ本当は」

「うん。やっぱり、ああやって離れられちゃうとね~、好きだったんだな~……って、おも、っちゃう……よねぇ~。大好きだったのに……あたし、バカだから」

「……だって言ってます」

「へ……?」

 

 つぐみの、全く別の人間へ向けた言葉にモカは大粒の涙をそのままにしながら驚きと疑問が入り混じった表情で彼女を見る。そこには通話中になったスマホがあり、ゼロだった音量を少しづつ上げて少し待つと、そこからバカモカ! と声が響いた。

 

「なん……なんで」

「モカちゃんがちっとも本音を話してくれないから、騙すようで悪いけど……って頼まれたんだ。すぐ近くにいるよ」

「え……」

 

 その言葉に慌ててモカが店を出てすぐ目の前、モカ行きつけのパン屋の前にそのパン屋の紙袋を手にした彼が怒りの表情で立っていた。

 だがその怒りは絶対にモカを許さないというほどのものではなく、本当に何度目かわからないくらいの溜息のみで消化されていく。

 

「はい」

「……え」

「メロンパン。なにいらない?」

「う、ううん……」

 

 そっけなく、けれど確かに怒りではないいつもの調子の彼に袋を渡され、モカはより困惑してしまう。

 あれだけ怒っていた。そして話を聴かれたとはいえ自分だったらそれでも許せるほどのことではないのに、どうして彼はそんな簡単に許してくれるのだろうか。

 

「当たり前」

「……え?」

「モカのこと……好きだから」

「好き……」

 

 モカにはその好きの真意がわからずに戸惑っていると、彼は再び今までよりも深く深くに溜息を吐き出した。

 ──モカの好きとなんにも変わりがない。特別でもなんでもないただの好きって感情になんの違いすらないのだと言い切った。

 

「変わんない……」

「変わんない。変わんないけど、モカはマイペースすぎ」

「……だって」

「言ってよ。それでいいならそれでいいって。なんか不満あるのかと思ってこっちは気が気じゃなかったんだから」

 

 さ、おいでと彼はまだ涙の跡が残る腫れぼったい目許を拭う彼女に手を差し伸べた。今度は、別に暁は覚えなくてもいいからとモカの引き、帰路についていく。

 そういうことならたっぷり寝ればいい、傍にいてくれるだけで自分も幸せだと彼はまっすぐモカを見つめて微笑んだ。

 

「あたし……あのね」

「もういいよ。モカのこと、わかったから」

 

 欲しかった言葉たち、こんな簡単に手に入るとは思わなかった望むくらいにふわりと暖かな春の日差しに照らされ、モカはそっか~、とほほ笑んだ。疑うよりも信じる方が、こんなにも心が暖かくなるのなら、最初からわがままであればよかったのだと知ることができた。

 

「寝るって、添い寝してればいいんだよな?」

「……ふっふっふ~、いやいや~わかってないな~」

「なにが?」

「──寝かさないほうでも……いっかいくらいなら」

「……あ」

「え、えへへ~、あんまり熱いのは……だめだよ?」

 

 善処しようとおどけた彼の言葉にモカは今度こそ誰にでも伝わる明らかな満面の笑みを浮かべてがんばれ~、と返事をした。

 ──その翌日はつぐみのために入浴剤を選ぶためショッピングモールへとやってきていた。二人を繋げてくれた頑張り屋の彼女に、ありがとうの気持ちを伝えるために。

 

 

 




作者にとっての青葉モカのイメージは本当に、知ってるヒトはよくご存知でしょうが、それを全部一話に集約した感じ、でしょうか。
マイペースで表情が読みにくいのは、本当の気持ちを隠しているから。その仮面の下にあるのは大切なヒトへの深くて、いっそ重たいと思えるくらいの感情。
なら、ともに歩めるのはやはり、海よりも深い器ですよね、ということです。


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【上原ひまり】キミが隣にいる幸せ

 少し、安心から離れてみたくなった。冒険をしたくなった。友人たちにはそう伝えたけれど、実のところは全て、その全てが嘘であることに、彼女、上原ひまりは重い溜息を吐いた。

 どんよりとした気分なのに、空は高く、薄い筋状の雲が楽し気に泳いでいることが、腹立たしいと思えるほど美しい夕焼けだった。

 そんな気分を払いたくて、彼女が頼ったのはゼミが同じ二つ年上の先輩だった。今年四年生で、既に就職も決まって、今は卒論に追われながらものんびりとした生活を送っている彼に対して、まるで友人たちについている嘘の分の鬱憤も吐き出すかのように、その先輩に全てを暴露した。

 

「父親と喧嘩した?」

「そーなんですよー!」

「それで?」

「それでママに頼んで避難先のアパート借りたんです」

「……お前んちマジ金持ちだな」

 

 ママとお兄ちゃんがすごいんだもん、ママとお兄ちゃんが! と胸を張るひまりを宥めるように彼は足を組み替え、机に肘をつけてひまりの前に手のひらを見せた。先輩の指がなんか好きなんです、と豪語するひまりはその指を目で追って、だらしなくにやけながら自分の手のひらを重ねて指の間に自分の指を絡めていった。

 

「どこのアパート? 近く?」

「うーん、大学まで歩いてニ十分くらいです」

「……それ、遠くないか?」

 

 確かに汗ばんじゃうんですよーとまだ目線は手に集中したまま、ひまりは表情を崩した。指同士が触れ合い繋がり合う空間の中で、彼はそんなに大変だったら、と車の鍵をひまりに見せた。

 

「明日も講義あんだろ、ついでに迎えに来てやるし、帰りも送ってってやる」

「え? いいんですか!?」

「もちろん」

 

 ゼミで関わって、再履修では色々と教え、ディスカッション等では異学年として馴染むために立ちまわってくれたり、関わりが多い仲であるが故の提案に、ひまりもぱっと笑顔の花を咲かせて見せた。

 

「今日は友達来るんで、また明日お願いします!」

「おう、任せとけ」

「えへへ、約束ですよ! 寝坊したからとか言ってサボっちゃダメですからね!」

 

 わーってるよ、と彼は手を振って講義室を後にした。

 心臓が苦しかった。ひまりはただひたすらに痛いくらいに張り裂けそうな鼓動を抑えるようにして、手を振り返した。

 恋をしたのだという自覚はあった。だがその恋心をどうすればいいということは何もわからなかった。ましてやそれを相手に伝えるとなるとどうにも勇気が出なかった。

 

「でも確実に、距離は縮まってるんだ……大丈夫、大丈夫」

 

 そう言い聞かせたところで、またひまりの胸に分厚い雲がかかっていくのを感じた。雨こそ降ることはないのだが、胸を苛む鈍色の痛みにひまりは顔を歪め友人との待ち合わせに向かった。

 翌日の朝、ひまりが鏡の前を行ったり来たりしながらそわそわとしていると、スマホが着信を示した。

 

「お、おはようございます!」

『ん、おはよひまり。えっとあと十分くれーでそっち着くけど大丈夫?』

「大丈夫、です!」

 

 電話を繋ぎながら五分してからワンルームの部屋を出て、月極の駐車場に誘導する。ひまりの母が借りている場所でもあるため、昨日の夜に相談し、使ってもいいと許可を出してくれたところだった。

 

「あれがひまりんち?」

「そうです!」

「いいとこ住んでんだな」

「一番上の角地なんですよ~」

「セレブ風に言うね」

 

 そんな雑談をしながらひまりは助手席に乗り込む。何度か乗せてもらったことはあるけれど、家まで来てもらうというのはまた違ったドキドキがあるのだと、大学への道を眺めながら考えていた。

 

「一人暮らしできてる?」

「いちおーできてますよ! 近くにスーパーもあるんでお買い物もできるし!」

「そっか」

 

 こう見えて料理もできるんですよ! とアピールすると彼がオーバーリアクションで驚く。そうじゃなきゃママも家出を許してなんてくれませんって、と笑うひまりに、彼はでもさ、と少しだけ静かなトーンで呟いた。

 

「ひまりって寂しがり屋だから、それは心配だよ」

「……あ」

 

 スカートを握りしめた。本当は寂しい。父と喧嘩をして、どうしても許せなくてそれならいっそ一人暮らしをしてみたらと言われて母に言われるがままアパートを借りた。家から少し遠かったし、近くなって朝早くに起きなくていいと笑ったのは最初の一週間だけだった。

 寂しい、誰もいない。幼馴染たちもそれぞれの道に進んでいて、夏休み以降は会えてない。唯一の友人はヘッドホンに繋いで奏でるベースくらい。

 ──それでも強がって、へーきですよへーき! なんて笑うひまりに、彼はそっかと微笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お待たせ、先輩……ってあれ?」

 

 講義が終わり、ゼミ室に入ったひまりはそこで机に突っ伏して寝ている彼を見つけた。教授は講義に出かけており、彼の顔の横には書きかけの論文の最期に、大量のfを並べていた。

 裕福でない彼はアルバイトと、卒論、両立させなければいけないというのに、その上朝早くにひまりを迎えに来てくれた。それどころか、独りで寂しい思いをしてないか、なんて声までかけてくれた。

 

「どうして、先輩の方がぼろぼろなのに」

「……ひまりが、ちゃんと笑えてねーからな」

「……バカですよ、先輩は」

 

 ゆっくりと目を開いた先輩に対して、ひまりは自分が涙脆いことを恨みながら彼の手を握った。

 キレイな指、音楽をしていたんじゃないかと思ってずっと聞けなかった手入れされた爪、けれどひまりは、こんなに寄り添ってくれる彼に対して自分の想いを隠すことができなくなっていった。

 

「先輩」

「ん?」

「私のおうちで寝ませんか?」

「は? ん? ごめんなんて?」

 

 処理落ちをした彼に対して、ひまりは通じなかった照れを隠すようにだーかーらー! と声を上げた。

 机で寝ると身体が痛くなるから、ベッドでゆっくり寝たらどうですか? という言葉に彼は少しだけ驚いた顔をした。

 

「いいのか?」

「そのコンディションで事故起こしたら泣いちゃいますからね!? 私だって最近車校で習いました! 車の運転にはベストコンディションじゃないとダメなんですよ!」

「そっか、じゃあひまりの家まで車どうすんの?」

「先輩が運転するんですよ? 私ペーパーなので」

「めちゃくちゃ言ってんじゃねーか……」

 

 だがそのくらいの距離なら問題ないと彼は立ち上がった。異性の後輩の家に上がりこみ、あまつさえ休憩所に使うという状況はどうかと思ったが、それ以上に思考、判断力ともに限界に達していたのも事実だった。

 

「おじゃまします」

「はい! ちゃんと片付いてるので大丈夫ですよ!」

 

 そうみたいだな、と笑われ、ひまりは少し頬を膨らませながら部屋のドアを開けた。小さなテレビ、レポートや課題をやっているであろうノートPCが閉じられている机、コルクボードには同年代の女性五人が集合している写真。そして、ベース。

 

「お、ベースだ」

「わかるんですか?」

「そりゃ俺もベース持ってるから」

「やっぱり!」

 

 予想があっていたという喜び、同じくベーシストという喜び、そして彼がこの部屋にいるという甘酸っぱい鼓動、全てがひまりの心をまるで綿のように軽くしていた。分厚い雲を吹き飛ばして、キレイな雨上がりの秋の空に変えてくれた彼の手を握った。

 

「ここが、私のベッドです……ゆっくり寝てていいですからね」

「ん……おお、ふわふわ」

「そーなんです。私のお気に入りなんですよー」

 

 近くに小さな机を出してきて、PCで作業をしながら笑うひまりは形容しきれない幸せを感じていた。やがて小さな寝息を立てる彼の寝顔を見て、ひまりはその髪を撫でた。

 いつも頑張り屋な先輩、明るくてカッコいい先輩、優しくて頼りになるのにちょっと頼りないところもある先輩。近くでかわいい寝顔をしている先輩。

 ──大好きな先輩。

 

「私、やっぱり先輩が好きです……」

 

 今はまだ、夢の中だけで聞いていてほしい。直接伝えることはできない。けれど、いつか、いつかこの寝顔を間近で、一緒のベッドの中で見ることができたら、そんな彼にキスをできたら。

 ひまりはそんな恋の先を考えながら、再びパソコンに向かいあった。夕焼けは優しく、まるでひまりの恋を見守るように、薄い雲の間を破り、窓から赤い光を差し込ませていた。

 いつかの子どもの頃、無邪気に話していた。私にいつか王子様が私を迎えに来てくれるんだって。お姫様の夢を見たんだって。キレイな馬に乗って、私のベッドで眠る王子様がいる。そんな夢を。

 

「ホントだったんだ、あの夢……子ども頃思ったのとはちょっと違うけど」

 

 いつも洗車されてるキレイな車に乗って、今ここで寝息を立てる。ちょっとだけ頼りのない王子様に、いつか愛される日のことを夢見ている。それは子ども頃と同じだとひまりは投げ出され、こちらを向いていた大きな手を握った。

 もう、ひまりの心が曇ることはなかった。あの日見た空のように、どこまでも続く青空を赤く照らす、キレイな夕焼けのように、輝いていた。

 




ひまりはなんというか全体的にメンバーに対してお母さんめいた口うるささとか、騒がしいという印象でしっかりもの、というよりはふわふわしているかなぁと考えながらこの話が出来上がりました。


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【宇田川巴】キミにだけ言われたい言葉

 ──祭りに来てくれよ。アタシの太鼓を見ててくれよなっ! 宇田川巴のそんな快活で明瞭な誘いを受けた彼は、まだまだ祭りというには明るすぎる空、商店街に賑やかな出店がやってきていた。

 いつも彼女と出かける場所も祭りという行事によって飾りつけられ、まるで違う場所に来てしまったような不安感が一瞬、彼の胸に生ぬるい湿気を含んだ風と一緒に吹き付けられた。既に人も多い。ここで巴が自分を見つけてくれるのは至難の業かも、と苦笑いをした時、後ろから名前を呼ばれ、振り返った。

 

「よかったー! 来てくれたんだな!」

「まぁね? それより巴、そのカッコ……」

「どーだ、カッコいいだろ?」

 

 彼の眼前にいた巴はサラシを巻き、法被を着ていた。肌色が多く、どこかセクシャルな印象すらあるはずなのに、彼女の雰囲気は色気はあるものの、カッコいい、という圧倒的な印象に塗りつぶされていた。

 元々、和太鼓をしていた経験からバンドでもドラムをやっているということは耳にしていた彼も実際に法被を身にまとい大人に今年も頼むよ、と信頼される巴に彼は、目を細めた。

 

「どうした?」

「いや……やっぱり巴ってカッコいいんだなって」

「そ、そっか? はは、あんまりそう面とむかって褒められるのは苦手だな……」

 

 頬をかきながら巴はそれじゃあまた後でな、と彼に手を振った。彼女はそんなやり取りにほんの少しの引っかかりを感じたものの、それはやがて彼女にとって一年で一番のイベントを前にして、テンションが上がり霧散していった。

 彼も見ていてくれる、という喜び、その中にはその後驚かせてやろうという算段があった。

 

「あの子はカレシかい?」

「そーなんです、って言っても付き合い出してそんなに経ってないんですけど」

 

 バイト先で出会った彼と恋仲になったのはつい最近。男勝りな口調と態度で、時には何度も友人や幼馴染に、男なら放っておかないという趣旨の言葉をかけられてきた彼女にとって、初めていいなと思えるのが彼だった。そんな彼をもっと喜ばせたいという一心で、巴は彼を商店街へと誘ったのだった。

 ──そしてそんな彼女が思考を巡らせていたそのころ、彼はとある集団に見つかり、後ずさっていた。

 

「あー、いた!」

「う、ひまり……それに花音さんに彩さんまで」

「こんにちは!」

「偶然だね?」

 

 巴と彼と同じバイト先で働く、かわいらしい年の近い女性三人に声を掛けられ、彼は逃げられないのだなと溜息をついた。その態度に髪をお団子に纏めた上原ひまりが誰かの髪を少し淡くしたようなワインレッドの浴衣の袖を揺らしながら、なにその態度はと頬を膨らませた。

 

「だってここで会うとは思わなかったし」

「だからって逃げ腰なのはひどくない?」

「ま、まぁまぁ、落ち着いてひまりちゃん、ね?」

 

 一つ年上の松原花音と丸山彩がひまりを宥めていて、改めて巴を含めたこの四人の仲の良さを再確認していた。逃げ腰になってしまったことを謝った彼は、ひまりの機嫌を保つために何か奢らせてくれと頼んだ。

 

「んー、じゃあわたがし!」

「あ、釣られちゃうんだ」

 

 彩が余計なツッコミを入れるが、彼としてはこれ以上ひまりに絡まれないためには必要な出費だと判断し、サイフの紐を緩めた。ついでなので彩と花音にも提案し、二人にもわたがしを購入した彼だった。

 黄色の浴衣姿の花音と、パステルカラーの花柄をした浴衣の彩、そしてひまりに囲まれた彼は、その華やかで姦しい空間に少しだけ疲れたように息を吐いた。

 

「まったく、いつも巴の太鼓が終わったらみんなでお祭り回る予定なんだからっ」

「巴が言ってたよ」

「そうだよ! そんな巴を貸してあげるんだからねっ?」

「貸すって……まぁいいや、わかったよ」

 

 結局、和太鼓の音色が聞こえるまで、彼はひまりに振り回され続けることになった。ひたすらにひまりの幼馴染というものがいかに大切かという愚痴、そんな巴が選んだという彼が少し頼りないという印象への愚痴、巴と接する時の注意点をありがたく聞いていたのにも関わらずいつのまにか巴の愚痴に変わっていることに彼は再び溜息で処理することにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 商店街の外れ、少しだけ喧騒から遠い、月明りの他は心許ない街灯のみに照らされたその下で、宇田川巴は彼と再び待ち合わせていた。スマートフォンを触り連絡を確認していた彼がふと巴の方へ目線を向け、そして驚いたような顔をした。

 

「……どう、かな?」

「……びっくりした」

「だろ? 実はさ、アタシもこれ……初めて、なんだよな」

 

 そうなんだ、と目を見開いた彼に巴は少しの不満が胸に溜まっているのがわかった。それの元は、上から見えた、彼がひまりや花音、彩に囲まれている姿。

 彼のことなら遠目でもわかる自信があった。だから最初に彼を発見できたし、上から見下ろして、腰に手を当てたひまりに詰め寄られる姿を見つけることもできた。巴と仲良くなる過程で幼馴染で、特にいつも一緒にいるひまりと仲良くなることがある種の必然に近いということは、頭ではわかっているけど気持ちがその納得とは真逆の感情を生み出し、巴の心臓を傷めるほどに鼓動させていた。

 

「巴、その浴衣──」

「──ああ、いい! 何も言わなくて……アタシなんかよりひまりや、先輩たちの方がキレイなのなんてわかってるよ」

「え、巴?」

「かー、しまったなぁ、アタシは甚平の方がよかったか? カッコよくビシっと決めた方が──」

「巴、泣いてるの?」

「──っ」

 

 暗がりで見えなかったが、巴の両目からは大粒の涙が零れて、アスファルトと夜闇の黒に吸い込まれていっているということを、彼は彼女の涙声から気付いた。どうして、と思ったものの、じわりと染みてきた巴の言葉から、それは先程のひまりや花音、彩とのやり取りを見ていたということだということにも、気付いた。気付くことができた。

 

「あのさ、巴」

「……なんだよ」

「確かに巴のこと、さっきはカッコいいって言ったよ。法被着ていつもみたいに笑う巴はカッコよかった……けど、それはその時の巴なんだよ、今の巴は、少なくとも僕の目には一番キレイでかわいいって思えるよ」

「……あのな」

「ん?」

「少なくとも、ってのはないほうがきゅんとするな」

「あ、そっか」

 

 そう茶化しながらも彼の気持ちに巴はさっきまで痛かったはずの刺すような胸の痛みが、甘く蕩けてしまいそうな締め付けられるような痛みに変わった。初めての感覚に、なんだ、どっちにしろ痛いんじゃんかと内心で苦笑いを浮かべ、なぁ、と彼の横にぴったりと寄り添った。

 

「コレさ、歩きにくいんだよ」

「うん」

「だから……」

「そうだね……手、繋ごうか」

「あ……」

 

 吸い込まれるように、右手が彼の左手の中へと吸い込まれていく。紺色に波紋のような模様があしらわれた浴衣の胸元と、普段は下ろしっぱなしにしているワインレッドのアップにした結び目を少しだけ気にしながら、巴は歩幅を合わせる彼に連れられていく。

 

「わたがしでも奢ろうか?」

「ひまりに奢ってたやつか」

「……巴はどこから僕を見てたの?」

「あ、え、あ……た、たまたま! そう、グーゼン見えちゃってさー! いやデレデレしてんのかー、アタシというものがありながらーって思っただけ……で」

「嘘が下手」

「う、うるさいなぁ!」

 

 半眼であからさまについた嘘を即座に看破され、巴は顔を赤らめた。自分はサバサバしている方だと思っていただけに、まさかここまで嫉妬や不満に感情が揺さぶられるとは思ってもなかったという戸惑いもあった。だがそれ以上に、彼があっさりとそんな女々しい自分を受け入れてくれたことに巴は少しだけ疑問を感じた。

 

「別に、巴以外の女の子に興味ないし」

「……なんでだ? アタシよりかわいい子なんているだろ、ひまりなんてモロかわいいタイプだし、彩さんや花音さんだって」

「僕は、巴が一番だと思うってだけだよ」

「お、お前っ、そんな恥ずかしいことよく……ああもう!」

 

 巴はかわいくてもキレイでもカッコよくても宇田川巴なんだから、そこに対した違いを感じないと真顔で宣言してみせた彼の方が巴にとってはカッコいいと思えて仕方がなかった。いつもは頼りない印象があるくせに、ここぞという時にはこうして巴が眩しいとすら思えるほどのカッコよさで照らしてくれていた。

 

「調子狂うなぁもう」

「それより、僕としては巴を妬かせたお詫びがしたいよ」

「それじゃあ……アタシはスパーボール掬いがいいな!」

「また子どもっぽいことを言い出すね」

「どっちが一番取れるか勝負しようぜ!」

 

 快活で明瞭な声で、歯を見せて笑う巴に彼はいいよと微笑みを浮かべた。

 ──そこの店主からは幾ら巴ちゃんとそのカレシだからってそんなにあげられないからね、と怒られるほど、お椀には溢れんばかりのスーパーボールを乗せ、二人で笑いあうのをひまりや幼馴染たちは見かけて、通り過ぎていった。二つだけ多かった巴の分をもらい、畜光することのできるソレを見た巴の妹、あこが喜ぶことになるのだが、それはまた別の話である。

 

 

 



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【羽沢つぐみ】今のキミも昔のキミも

 夏の夕方から夜に変わる頃、ポツリポツリと降り始めた雫が、やがて街の喧騒を全て雨音に消し去る中、彼はのんびりと自宅へと戻ってきた。

 

「ただいまー」

 

 予報されていた雨であったため、濡れた傘の雨粒を払い、多少裾についた水気を気にすることなく、部屋に向かった。明りのついた部屋から奏でられるピアノの音色、日常の音に彼は何も思うことなくカバンを床に置き、簡単な服に着替え、台所の冷蔵庫からコーヒーを取り出し、コップに注ぐことなくペットボトルに口をつけて飲む。

 と、ちょうどそこに先程までピアノを演奏していた母が台所にひょっこりと顔を出した。

 

「あ、アンタ、九重(ここのえ)みなかった?」

「帰ってきてないの?」

「いつも通りレッスン前にふらーっとどっか行ったから、どっかで雨宿りしてるかもね」

 

 九重、というのは彼の家で飼っているアメリカンショートヘアの猫の名前だった。音色が苦手なのか、ピアノレッスンの時間になるとふらふらと何処かに行ってしまう彼女のクセは今更なので気にすることもないが、雨が降ったせいで帰って来れないのではないかという母の言葉を受けて、彼は探しに行ってくると玄関に向かった。

 

「行ってくる」

 

 雨降る中、レッスン終わりで迎えに来ていた子どもたちの親に軽く挨拶をしながら、彼は帰ってきた時と同じようにのんびりと歩きだした。

 ──十年前は、レッスンを受けている子どもたちと同じだったのに、と過ぎた月日を背中に感じながら、向かう先は九重の散歩コースでもある商店街に、と思ったところで家の駐車場から女性の声と一緒に聞きなれた鳴き声が聴こえ、立ち止まった。

 

「んー、どうしよう、このままだと迷惑だよね……」

「……つぐみ、か?」

「あ! あ、あはは……お邪魔してます……」

 

 軒下で雨宿りとしていたのは、探していた飼い猫と戯れている、少女だった。

 夏の制服と短めの茶髪はしっとりと濡れており、手荷物からも、傘を忘れたのだという予想はできた。

 

「なにやってんだよ……呼べよ」

「だっ、だって今日はレッスンの日だもん! 先生呼んだら迷惑だよっ!」

「いや俺をだよ」

 

 あわあわと手を振って否定する彼女に、彼はため息一つでツッコミを入れた。

 つぐみはあっ、と声を上げ、それから下を向きながらでも、と頬を染めた。

 

「なんか……意識しちゃって……」

「……そうかよ」

「ご、ごめん」

「怒ってねぇ」

「う、うん」

 

 雨音だけになった空気を、九重が彼の足元にやってきて鳴くことでようやく元に戻る。つい最近、付き合い始めたばかりの空気も九重は知ったことではないようで、つぐみはその背を撫でると満足そうに鳴いた。

 そのしゃがんだつぐみのスカートがヒラリと捲れそうになった瞬間はっとしたように、彼はほらよ、とつぐみに傘を手渡す。

 

「あ、え?」

「貸してやる、けどちゃんと後で返せよ?」

「うん、ありがとっ!」

 

 全力で頭を下げたつぐみはだが次の瞬間、静かな雨音だけだった世界に轟く音に悲鳴をあげた。

 まだ遠くで鳴ってはいるがハッキリと聞こえた雷鳴。その音につぐみの足は止まってしまっていた。

 

「おい、つぐみ?」

 

 彼が声を掛けた瞬間、二度目の雷鳴。つぐみはまた悲鳴と共に彼に抱き着いた。

 彼女が苦手なもの。その一つが雷だった。雨雲を裂いているような大きな音と強い光、つぐみには今でも竦んで動けなくなってしまうもので、いつもの夜ならば枕を抱きしめ布団に潜り込んでいる、そのせいか、咄嗟に安心感を求めて彼の背中に手を回していた。

 

「お、おい……離れろって」

「無理……むりぃ」

 

 羞恥心も忘れてひたすらに恐怖感を薄めるために、まるで子どものように首を左右に振るつぐみを前にして、彼の両手が行き場を無くしたように宙を舞った。

 チラリと足元を見ると、もう九重はいなくなっていた。おそらく雷が嫌で一目散に逃げていったのだろうと言うのは察しがついたのだが、それよりも今は目の前の恋人をなんとかする方が、彼にとって目下最優先で対処すべき問題だった。

 

「か、帰れそうか?」

 

 首を横に振る。光る度に身体がビクっと震え、音がするたびに小さく悲鳴を上げてより密着していく。

 駐車場の中震えるつぐみ。そこには生徒会役員として、実家の手伝いとして、バンドのキーボードとして、頑張りすぎるほど頑張る彼女はいなかった。ただ頼れる恋人に縋る少女でしかなかった。

 

「……とりあえず俺んち、入るか」

「……ん」

 

 しっとりと濡れた髪に触れ、制服の肩の辺りが濡れて張り付いて、その僅かなラインにピンク色の紐が見えた気がしたところで彼は考えることをやめた。

 決してやましいことはない。ただ家に上げて着替えを貸して、雷が止むまで傍にいるだけ。彼はそう言い聞かせ続けた。

 

「お、おじゃましますっ」

「母さん。つぐみのことよろしく」

「あらあら、九重だけが帰ってきたと思ったらぁ、お邪魔虫だったのねぇ」

「そういうのいいから、このままじゃコイツが風邪引く」

「はいはい。ごめんね、照れ屋で」

「うるせぇって」

 

 つぐみはすぐにピアノのBGMに包まれたその家にやってきてほうっと一息をついた。ここなら雷の音は聴こえないという安堵感と彼の母親のほんわかした賑やかさに押され、BGMが反響する風呂に浸かっていた。

 

「いいなぁ、ウチのお風呂もこうだったら、雷なんて気にしなくていいんだけど……」

『いやいや、これはチャンスだよ、つぐ~!』

「なんの?」

『カレシの家にお泊りなんでしょ!? そりゃ、えっちするしかないでしょ!』

「……やめてよ、ひまりちゃん」

 

 ゆっくりしていい、という言葉に甘えて、つぐみは雷が鳴るたびに電話をかけてくれる幼馴染と通話をしながら温まっていた。しかし今日は心配というよりは恋バナに鼻息を荒くしていて、彼女はため息をついてしまった。

 

『じゃあ、シたくないの?』

「……そりゃ……好きだし、恋人だもん……シたい、けど……」

 

 風呂の熱気、というよりは頬の熱で真っ赤になったつぐみが、小さな声で同意する。付き合い始めたのはつい最近だが、想い始めたのは十年も前のことだったが故に一緒になりたい、恋人らしくいたいという思いは寧ろ強い方だった。だが、それ以上に思春期が訪れるよりも前から顔を合わせてきた彼と、という想像をしてしまうのは、なんだかいけないことのような気がしていたのだった。

 

『んもう、つぐはオクテなんだから~!』

「むぅ……知らないっ、もう今日は切っちゃうから」

『あ、ちょ──』

 

 えい、とかわいらしい声を上げて、つぐみは通話をオフにした。頬を膨らませて幼馴染への悪態を一通りついた後、今更ながら彼の……恋人の家にいるということ、そして雷が怖かったとはいえ抱き着いてしまったことの羞恥が頬を朱色に染めた。

 

「……ひまりちゃんのせいで、変に意識しちゃうよ」

 

 風呂を出て、彼の母の言葉に従いリビングで髪を乾かしていると、目の前にミルクと砂糖の入ったアイスコーヒーが置かれ、隣に彼がやってきた。その顔が少しだけ不機嫌そうに見えたつぐみは首を傾げるが、彼はそんなつぐみを一瞥もせず、テレビを見始めてしまった。

 

「え、えっと……?」

「ん?」

 

 声色も返事も、普段電話をしている時よりも素っ気ないもので、つぐみは次の言葉を失ってしまった。

 何か怒らせることをしたのか。いやそれ以前に駐車場で勝手に雨宿りをした挙句に雷が怖くて、こうして我が物顔でリビングでドライヤーをかけていることが、それに当たるのではないか、そんなマイナス思考が彼女の思考をぐるぐると駆け巡った。

 

「……母さんが連絡取ってた。今日はもう遅いから泊ってけ、だってよ」

「そんな、悪いよ……」

「そんなこと言っても、雷の中帰れねぇんだから、しょうがねぇだろ」

「……うん」

 

 そんなタイミングで告げられた言葉に、つぐみは増々罪悪感を募らせていった。彼がリビングを出ていくまでは保てた笑顔も風呂入ってくる、という一言と共にいなくなって独りになってしまえば、堪えることができずに膝を抱えて嗚咽に変わる。

 もっと自分が頑張れたら。雨の中でも帰れるだけの頑張りがあれば、雷を怖がることなく、家まで帰れるだけの頑張りがあれば、こんな思いはせずに済んだのに。すべては自分の頑張りが不足していたせいだ、と責め続ける冷たい棘のような感覚は、そんな小さく縮こまった身体を突如包み込んだ暖かさが和らげた。

 

「……やだ、放して」

「なんでだよ」

「だって……このくらい、自分でなんとかできるから……これ以上、迷惑かけたくないよ……」

 

 あんな顔をされて、仕方がないとため息をつかれてまで優しくされたいとは思わない。つぐみはそんな僅かばかり残っていた意地を振り絞って、首を横に振った。

 だが、彼は頑としてつぐみを放そうとはしなかった。それどころか意地を溶かそうと彼は今までにないくらいまで彼女と密着していた。

 

「迷惑じゃねぇから」

「……本当?」

「疑うなよ……恋人の言葉を」

「こい、びと……うん、ごめんね」

 

 されるがまま、つぐみは彼の胸に身体を預け、優しく頭を撫でられる気持ちよさに目を閉じていた。

 そんな純粋な愛情に溺れそうになりながらも、必死に掴まっていたところに、つぐみは彼の独白のような実はさ、という言葉に彼を見上げた。

 

「つぐみの風呂上りの時、なんかさ、変に意識しちまってて……素っ気なくて、ごめん」

「……それで」

 

 不機嫌そうに見えたのは視界に入れてしまうと意識してしまうから。自分と同じ気持ちだったと知ったつぐみは、そっかと呟いた。

 ──よく考えれば当然のことだった。同じ想いを持っているから、自分たちは恋人なのだから。

 

「……な、なぁ、つぐみ?」

「なに?」

「母さんからの伝言なんだけど……」

「うん」

「……今日は雷がうるさいといけないから、BGMかけて寝るから、って」

「……えっと?」

 

 その真意を測りかねたつぐみは少し考えて、すぐあとに彼が、つまりよっぽど大きな声や物音を立てない限り気付かないって意味だよ、と補足され、首まで真っ赤に染まった。

 彼の母にしてみれば、息子の恋人が家に泊まるのだからそのくらいは()()()()()()。それを邪魔するのではなく想うがままにさせてやろうという優しさだった。

 

「あと、まだ孫はいらない、だとよ」

「……も、持ってるの?」

「そりゃあ……もちろん」

「なんで」

「なんでって、そんなの……言わなくてもわかってんだろ」

「……えっちなことばっかり、考えた?」

「そん──! そんなわけねぇだろっ」

 

 言い合いの末、その日は二人で抱き合うようにして眠りについた。それからというもの、雨の降る夜につぐみは決まって、黄色い傘を差して彼の家の駐車場に来るようになった。

 それが昔から恥ずかしがりやで、けれど頑張りやな彼女なりの、精いっぱいの想いを籠めた、YESの意思表示だった。

 大人に近づき変わった関係でも、駐車場で待つ彼女の顔も迎えに行き、彼女を家に上げる彼の顔も、昔と少しの違いもない、と彼の母はモーツァルトを奏でていくのだった。

 



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ハロー、ハッピーワールド!
【弦巻こころ】キミは笑顔のヒーロー


 暗闇に浮かぶ星の海、揺蕩う川の流れのような星たちの瞬きを見ていた彼女の黄金の瞳もまた、感嘆と感動に星を煌めかせていた。

 空を見上げればいつでも浮かぶ星とは違う、まさしく満天の星たち。そんな星に照らされた新月の夜、弦巻こころは隣でレジャー用の折り畳み式の椅子に座る彼に、そんな黄金の星たちを向けた。

 

「すごいわね! こんなに星がたくさん!」

「本当だ、都会じゃこんな星は見れないね」

「空が近づいてくれたみたい!」

 

 感動と感情を爆発させ、両手に乗せて動きで表す少女に、彼はタンブラーの中にあるコーヒーに口をつけた。

 人工の明かりが一切ない山に立つ弦巻家所有のペンションの前に机と椅子を出し、こころは彼と二人きりで星空のロマンスに見惚れる。山の上であることで夏にしては湿度と温度の低い風を受けて、彼女の金色の髪が星の輝きを反射して揺れる。気持ちのいい風はまるで、突然やってきた二人を歓迎しているようだ、とこころはまた口許を綻ばせた。

 

「どう? 前にも来たことがあるけれど、素敵なところでしょう?」

「確かに、天の川もきっちりはっきり見える。星座がわかんないのがちょっと寂しいけど」

 

 そんな彼の言葉に、こころは大丈夫よ、と笑った。星座がわからない、ということは、それだけ星たちが、ともすれば織姫と彦星は人間が線を結ばなくても、仲間たちがいる。

 それがこころにはとてつもなく嬉しいことに思えていた。

 

「星は、独りぼっちなんかじゃないのね」

「ん?」

「織姫や彦星も、きっと一年間、独りぼっちで寂しいわけじゃなくて……沢山の仲間と沢山笑顔で暮らしているのね」

「……こころらしい」

 

 前向きな笑顔と考え方。いつも曇ることのないピカピカの太陽。いつだって誰かを照らしてそして笑顔に変えてくれる、笑顔のヒーロー。

 しかし、ふとした瞬間、彼はそんなこころにとってどんな存在なんだろう、と考える時があった。

 仲間ならバンドがある。影の立役者なら黒服たちがいる。自分は本当に、真の意味で弦巻こころの役に立てているのだろうか。

 

「あなたはあたしの将来の旦那様よ、誰が、なんと言おうと」

「俺が迷ったとしても?」

「たとえ……浮気をしていたとしても、よ」

 

 ニコリと顔を向けられ、彼は苦笑いで応えた。彼女としては信頼している言葉の一つなのだが、彼にとっては妙に圧力を感じなくもない笑顔だった。また一口コーヒーを啜り、その苦味に顔をしかめると、その様子を見ていたこころが、折り畳み椅子を彼のすぐそばに置いて、そこに座った。

 

「苦かった?」

「……俺の舌はまだ子どもらしい」

「いいじゃない、誰だってしかめっ面で、わかった風に苦味を我慢したくなんてないわ」

 

 だから砂糖を、甘みを与えてあげるのよ、とこころは苦味に閉じた唇を奪ってみせた。たった二人きりの夜空が支配する静かな世界で、風と星だけが、それを見つめていた。

 

「甘い、でしょう?」

「甘い……確かに甘い」

 

 むせ返りそうだ、と文句を唇を尖らせた彼に向かってこころはますます太陽の輝きを見せた。同時に甘えるように肩に頭を置き、手を重ねて、ねぇ、と一言声を出した。

 彼はため息をついたのちに手の甲を下に向け、五指を開いてこころの手を誘導した。細くて白い指が指の間に入り、手のひら全体で彼の体温を感じるその密着感と彼の一連の動作が、こころは好きだった。

 

「ありがとう」

「どーいたしまして」

「照れなくてもいいのに」

「うるさいし照れてないからな」

 

 照れると素直ではなくなる彼の、言葉とは裏腹な手の温かさが、そっぽを向いてしまうわかりやすさが、こころの胸の内にある世界を笑顔に、という夢とはかけ離れた感情を衝き動かし、主導権を握るようになる。

 こっち向いて、と静かに囁き、不思議そうに向いたその顔を驚きと羞恥に染めたくなる。そのまま膝の上に移動して、星空なんか見られないくらいに、独占したい。天使のような慈愛を持つこころが抱く、悪魔のような欲望だった。

 ──しかし、彼の膝の上にやってきたこころを待っていたのは、手痛い反撃だった。抱き寄せられ、舌が入ってくる感覚。それに溺れ夢中になり始めたところで、頭を撫でられ、彼は再び悪魔から視界を星空に取り戻した。

 

「あとで、な?」

「いやよ」

「ベッド行けばすぐにでもできるだろ」

「今がいいわ」

「ダメ」

「や」

 

 今まではわがままを言うこともなかったし、言ったことはなんでも叶えられてきた。そんな彼女が見つけた、思い通りにならないもの。それにこころ自身も振り回されていた。理性とは遠く離れていた本能と呼ぶべき、触れたい、独占したいのに彼は応えてくれないという不満。そんなままならない感情のまま、こころは頬を膨らませた。

 

「もうちょっと星を楽しもうって気はないのか」

「楽しんだわ、次はあたしを楽しんでほしいの」

「随分刺激的な誘い文句だなぁ」

 

 離れそうにない彼女の金色の髪を彼は優しく撫でた。サラリとした手入れの行き届いた髪、そこから立ち上るフローラルであり温かな香りにやや惑わされそうになりながらも、彼は理性的であり続けた。

 

「弦巻家のお嬢さまがこれってのはどうなんだ」

「だって、不安になってしまうわ。あたしは、あなたにとって本当に必要なの? 本当に、あたしが全てを独占していいのか、迷ってしまうもの」

 

 先ほどは自分がそれを否定したにも関わらず、こころはそんな不安な感情を吐露した。

 独占したい、けれどそうすることが彼の笑顔のためなのかはわからない。()()()()()()()()()という余りにも理不尽で不自然な感情が渦巻いていく。

 

「こころ」

「……なに?」

「笑ってよこころ」

 

 そんな感情に振り回されしかめっ面の彼女を前に、彼は笑顔を向けた。太陽にはとても叶いそうにない、小さな笑顔を生み出した。

 だが、その言葉は弦巻こころが弦巻こころたる所以を取り戻させた。世界を笑顔に、彼女は笑顔でいることで、周囲を幸せにしていく、太陽なのだと彼は訴えかけた。

 

「俺はこころを置いてったりしない」

「……あたしがわがままでも?」

「どんなに迷惑お嬢様でも、だ」

 

 周囲を巻き込むことがしばしばなこころだが、それに振り回される方の気持ちは彼は嫌というほど知っていた。

 ──楽しい。いつの間にか、顔が綻ぶ。そんな風に正しく誰を笑顔にするために輝く太陽のようだと。

 

「……大好き!」

「おわっ!?」

 

 そんな言葉に大袈裟な感情を荒ぶらせて、ガタンと椅子が倒れてしまうのもおかまいなしにこころは彼の首に腕を巻いてハートを飛び散らせた。

 

「やっぱりあたしっ! あなたといられるのがサイッコーだわ!」

「……そりゃよかった。できたらどいてくれ」

「もうちょっと!」

「いやいや、もうちょっとってお前なぁ……」

 

 馬乗りになった太陽を見据えた彼は、まぁいいかとため息一つで受け入れることにした。

 彼女でいっぱいになった視界の後ろには、天の川を挟んだ輝く二つの星があった。

 その二つの離れた星に笑われている気がして、彼はうるせぇな、と笑った。星も彼女の笑顔も楽しめる方法なんて、それこそ、考えればいくらでも思いついたことに、今更気付いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が更け、だんだんと西へと移動していく星を見ながら、こころはそこにキラリと闇夜を滑り落ちる光を見つけた。

 願いが叶うにしては早すぎる落下スピードに、目を奪われ同じものを見たであろう彼に振り返った。

 

「流れ星だわ」

「え、見逃した」

「どこ見てたのかしら?」

 

 うるせぇ、という背中から聞こえてくる返事に対してこころは、仕方がないわね、と体重を後ろに預けた。

 彼の体温に包まれ、言い知れない幸せに浸る彼女と、そんな彼女から伝わる体温に心臓を早くさせる彼はテラスを吹き抜ける風を浴びていた。

 

「ってか、あんまり外いると風呂上りなんだから風邪引く」

「ふふ、そうね」

 

 名残惜しそうにテラスから部屋の中へと戻っていく寝間着姿の二人は星の明かりに照らされた大きなベッドに腰かけた。

 ゆったりとした空間、だというのにこころは彼の頭を自らの膝に乗せて、満足そうに微笑んでいた。

 髪に触れることも触れられることも、肌に触れられることも触れることも、彼を感じる全てが、こころにとっては愛おしいと思えるものだった。

 

「どうかしらっ」

「マジで寝心地サイコー、柔らかいしいい匂いするし」

「に、匂いは……ちょっとえっちだわ、あ、ダメ、こっち向いたらダメよ、そっちはもっとダメっ」

 

 意地の悪い笑顔で頭の向きを180°回転させようとした彼を必死で留める。羞恥のまま唇を尖らせてそういうのはよくないわ、と説くこころに向かって、彼は一言ため息をついた。

 

「それ、こころが言う?」

「う……それでも、そういうのはマナー違反だわっ」

 

 先刻彼の膝で誘いをかけ、尚且つ現在は脚を惜しげもなく晒し、パーカーを被っただけの彼女は裾を引っ張りながら彼の頭を押さえていた。

 真夜中の攻防を制するのはいつも彼だった。そもそも、本気で嫌がるわけではないこころに勝ち目など最初からないのだが。

 

「えっち」

「誘うから」

「えっち」

「……いや、だって」

「えっち」

「はい……ごめんなさい」

「わかればいいのよ」

 

 太陽のような彼女にも、休む時がある。ならばせめて、彼女の安らぎになろうと彼は思っていた。そしてそれは、彼女も同様だった。

 

「でも……そんなえっちでも、あなたはヒーローよ、あたしのヒーロー」

「そんな大げさな」

「大げさじゃないわ!」

 

 いつだって傍にいてくれる、いつだって見守ってくれる。そんな優しくて強い彼を、こころはいつもそう呼んでいた。

 ──あたしのヒーロー。笑顔を取り戻すヒーローになりたかった太陽が見つけた、本物のヒーローは、ともすればただの平凡な一人の男だった。少なくとも彼は自分を物語にするならそう書くね、と笑うのだった。

 

「お、おいこころ」

「それは嫌いよ……あなたの物語なら、どうしてあなたが一番じゃないの?」

 

 彼の腕の中に収まり、こころは叱咤するように言葉を紡ぐ。もしもこころなら、自分の愛する彼をそんな風に()()()()()()()と。

 

「あなたはいつでも、あたしを守ってくれるヒーローよ。大好きな、旦那様ヒーローよ」

 

 そんなありがたくも厳しい言葉を受け取った彼は、彼女を離すことなく意識を堕としていった。自分の身体から力が抜けていく感覚、また朝日が昇るまで、しばしの別れになるであろう大切で、愛おしい彼女の身体を抱いたまま、彼は最後にポツリと言い残した。

 

「ありがとう……愛してる」

「……ずるいわ、寝る寸前に言うだなんて……バカ」

 

 その言葉を噛みしめながらこころも段々と眠りにつく。本当はもう、限界だった。彼が寝そうになる更に前から瞼が重く、何度か意識を手放してしまいそうになるのを堪えていたのだった。

 先に寝てしまったら、彼を一人にしてしまうから。強くて弱いヒーローを一人にしてしまうのは、こころにとっては自らが苦しむよりも辛かった。

 大人たちはこれを子どものような恋だと、笑いものにする。依存しあって、二人だけの世界しかないなんてことはないんだよとでも言いたげに揶揄する。だがこころは確信していた。彼の言葉に嘘はなく、また自分の言葉には一切の嘘も一時だけの感情もないのだと。

 ──たとえ浮気をしていても、たとえわがままお嬢様でも、二人は二人のままこうして夜空を見上げて生きていくのだと。

 そしてその生き方で、もっと数多くの人々を笑顔にしていくのだと。いつまでも、ヒーローの隣に寄り添って。

 



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【瀬田薫】キミとキミの記憶と

 羽丘女子学園の体育館で華やかなハロウィンパーティーの中心で高貴で咲き乱れる紫の花があった。女性がまた一人華やかな輝きを受け顔を真っ赤にしてその場にへたりこんでしまう。

 百花繚乱、独り百花咲き乱れ。その花の名前は瀬田薫、羽丘が誇る情熱の花だった。

 

「さっすが薫ね!」

「はぁ……でもこれじゃハロハピじゃなくて薫さんの独壇場だけどね」

 

 今日の彼女はハロウィンパーティーの仮装をすると言っていたがそれは仮装じゃなくてコスプレでは、と奥沢美咲が言葉を挟みたくなったものの、周囲の反応が良好ならそれでいいかと溜息をつき、ふと視界の端にいた青年に声を掛けた。

 

「ども」

「あ、美咲ちゃん」

「薫さん待ち?」

「まぁね」

 

 彼はちらりと薫の方を見てからまたスマホに視線を落とした。本来ならハロウィンパーティーはとっくに終わっている時間だが、この楽し気な祭りから覚めたくないという集まりのため、中々解散しようとはしない。

 

「帰った方がいいんじゃないですか?」

「そうかも。ただ」

「ただ?」

「……いや、なんでもない」

 

 ああこれはまた薫さんが何かやらかしたんだなと、彼のリアクションから察しをつけた美咲は、黒髪と同じ色をしたネコの尻尾の先についた鈴を鳴らしながら視線が合ったハロウィンパーティーが大規模になった主犯の片棒である弦巻こころを呼び寄せた。

 

「あら! 仮装してないじゃない!」

「いや、パーティ参加しに来たわけじゃないから」

「そうなのね!」

 

 目元に紫の、美咲と左右対称のフェイスペイントが特徴的な魔女のコスプレをしたこころは、太陽のような瞳を爛々と輝かせ、彼の傍にやってきた。

 そんな魔女と黒猫とは薫を通しての知り合いであったため、また彼としても薫と一緒に過ごしてくれる貴重な()()として、信頼、尊敬をしていた。

 

「それに女子校内なんだから男の僕が来てもよくはないでだろうから」

「そんなことないわよ!」

「きっと薫さんと踊るだけでハートが飛び交いますよ、たぶん」

 

 黄色い悲鳴とは程遠いよと彼は手で否定する。自分が他者から見て高身長イケメンと分類されたとしても、薫が隣に立てば見劣りし勝てないという、もはやコンプレックスと言ってもいいくらいの、自己否定を抱えていた。

 

「スマイルよ! スマイル!」

「⋯⋯こころちゃん」

「ちょっと薫を呼んでくるわね!」

「あ、ちょっと待って」

 

 止めようとしたものの既に行動力が人一倍あるこころに手を伸ばした頃にはあっという間に人込みの中に消えてしまった。

 美咲は溜息をつきながらまぁこころだからと苦い顔をしている彼に笑いかけた。それからしばらくして、こころが薫の手を引きやってきた。丁度撮影をしているところだった薫は戸惑いながらもプリンセスの行動には何が意味があるのだという信頼から黙ってついてきた。そして、彼の顔を見てその表情を華やかに変化させていた。

 

「やぁ、来ていたのかい?」

「……来ていたのかい? じゃないんだけど」

「ん?」

 

 きょとんとした薫に彼は少し苛立ち気味に視線をぶつけた。まさかアレを忘れたのかという厳しい視線だったが、そこでもファンに声を掛けられ、名残惜し気に振り返る薫に苛立ちが強まった。

 

「……やっぱ今日は帰る」

「ちょ、いいんですか?」

「いいんだよ、アイツは王子サマだから。こういう時は応えなきゃいけない性なんだし」

 

 そう言って出ていった彼は体育館の外へとやってきた。中の熱気と賑やかさに比べ少し肌寒い秋の風を受けて、今日は暖かい飲み物でも帰りに買っていくかと足を進めようとしたその時だった。

 ──その袖がしっかりと掴まれた。誰、と問いかけるまでもなく彼は彼女に背を向けたまま空を見上げた。

 

「……なんだよ」

「どこへ……行くんだい?」

「帰るに決まってるだろう。僕はこのお祭りについていけないからね」

「私を置いて、かい?」

「じゃああと何時間待てばいいの? こっちは既に一時間近く待ってるって」

「……それは、すまない」

 

 しゅんと下を向いた、ということは彼には見えていないのだが、どうせそうだろうと考え、敢えて冷たく接することに決めた。

 謝られて許したい気持ちと、何を今更という気持ちの混ぜ合わせの感情を、彼女にぶつけていく。

 

「僕はさ、キミにとってなんなの?」

「決まっている、キミは私の伴侶だ。最も愛すべき──」

「──僕はキミの仮面には付き合いきれないよ」

「っ!」

 

 改めて、という思いもあった。瀬田薫の羽丘の王子としての顔、ファンである周囲に振り撒く美しくも華々しい輝きは、彼にとっては理解の外だった。

 どうしてそこまで自分とは解離したナニカになろうとするのだろうか。常に本音を別のところに置く幼馴染たちに、彼はいつしかついていけない。理解をしたいとは思わないという悪感情を持ってしまっていた。

 

「だから今日はもう……っ!?」

「いやだ……行かないで」

 

 だが、瀬田薫の言葉に嘘はない。言葉に派手な装飾こそついてはいるものの、彼女にとって彼はまるで舞台裏でそっと飲み物を手渡してくれたり、様々な世界観を創り出してくれたりと役者を支える裏方のように、太陽ではなく月明かりのような愛をくれる大切な人物なのだから。

 去っていかないように、抱きしめてしまうくらいに、愛おしい人物なのだから。

 

「あのさ薫」

「……なに?」

「今日の約束、忘れてるでしょ」

「やくそく……しまった!」

 

 はぁ、と彼は予想通りの反応に溜息をついた。

 ハロウィンパーティが重なってしまった時点でとりやめることができればよかったのだが、それは薫も、そして彼も嫌だという感情が勝ってしまっていた。

 

「私のしたことが……すまない」

「いや、僕も悪いところはある。ただ、こんなに長引くなんて聞いてないけど」

「そうだね、いや、皆楽しいんだよ……この時間が」

 

 薫は、彼が見る空を見上げた。

 きっと、大人になればこうして無邪気にはしゃぐことはできない。彼女たちはそれを無意識的に感じ、その一瞬に楽しいという感情を注いでいるのだと、そう薫は感じていた。

 大人になれば大人を演じなければならないのなら、今は子どもを演じていたい。そう思うのが人間なのだと。

 

「達観したのいらないよ。だったら僕は無邪気なうちに、薫と一緒にいたいけど」

「私は、大人になってもキミの傍を離れるつもりはないよ」

「……なにそれ、プロポーズ?」

「それはキミからしてほしい。私だって……女の子なのだからね」

「気が早いから却下」

「……そう」

 

 また長い睫毛を伏せた薫に、それじゃあ僕がプロポーズしたくなるように早く着替えてきて、なんて言ってしまう甘い自分に、そして飴を与えられ嬉しそうに顔を輝かせる薫に、彼はもう一度だけ溜息をついた。

 いつの間にか背中に彼女がいたせいか、冷たい風は身震いをするほどではなく、彼の火照った身体を冷ますのにちょうどいい塩梅に感じられた。

 

「ま、待たせたかい?」

「……ううん」

「よかった」

「薫ってさ、案外昔から中身変わってないよね」

「……そうかい?」

「うん、まぁ、いいことだよきっと」

 

 変わることもあれば変わらないこともある。彼女が夢見た王子様も、彼女が夢見たお姫様も今は別々の道を歩んでいる。そしてその夢見た王子様の横顔は随分とたくましくなり、今は王子と呼ばれる自分の右手を握っている。けれどその中でも確かに、彼女にも彼にも、昔の面影がある。

 

「薫、今日は奢ってよ」

「仰せの通りに」

「そうじゃなくてさ……」

「それじゃあ……変わりに今日は、朝まで一緒にいてくれる?」

「……仰せの通りに」

「ふふ」

「はは」

 

 どこまでいっても、彼の背中を、横顔を見てしまうとファンが望む自分を演じることはできないな、と薫は感じた。

 ──王子ではなく、瀬田薫もまた、彼に手を取られ、共に踊ろうと誘われる一人の女性なのだから。

 

 

 



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【北沢はぐみ】笑顔のキミと約束の未来

 夕暮れの商店街、そろそろ店番も終わりだと北沢精肉店の娘である北沢はぐみはのんびりと、だがまるで何かを待っているようにそわそわと一点、商店街の道を眺めていた。

 それをはぐみの両親が暖かな表情で見守る。人待ち顔の彼女がぱっと明るい顔になるのは、それから少ししてからだった。

 

「はぐみ~」

「あ、きたきた! 今半額だよ!」

「いっつも半額だなぁ」

「とーちゃんとかーちゃんに許可はもらってるからだいじょーぶ!」

 

 バットとエナメルバッグを背負ったユニフォーム姿の彼に、はぐみは彼のためにコロッケを自分で揚げていく。普段は店番だけしかしない彼女が許可をもらっている唯一の客が彼だった。

 

「どーぞ!」

「ん……! うまっ!」

「やった!」

 

 最初は失敗も多かったはぐみも、今ではこうして美味しいと言ってもらえるコロッケが揚げられる。そんな成長にはぐみも彼も太陽のような晴れやかな笑顔を浮かべた。

 近所の家に住んでいる彼がちょっと待ってろ、と一旦自宅に帰っていくのを見送ってはぐみもエプロンを外してから母親にシャワーくらい浴びなさいと言われほんの数分だけ浴びて、苦笑気味の兄に髪の毛を乾かしてもらってから飛び出した。

 

「お待たせ」

「ううん」

 

 はぐみは前日に松原花音に選んでもらった服にしっかりと着替えて、汗を流し私服姿になった彼と手を繋いだ。

 目的地まで少しの距離を歩き、川沿いのライトアップされたピンクの花たちにはぐみは目を奪われていた。

 

「わぁ……!」

「夜桜は、またお昼と違った風情だよなぁ」

「うんうん! キレイだなぁ……!」

 

 感嘆の吐息をみせるはぐみの元気な横顔を見下ろし、彼はキョロキョロと視線がせわしない彼女とはぐれないようにと手を繋ぎなおす。指と指が絡まる恋人繋ぎに、はぐみも少し肩を弾ませてから、おずおずと握り返した。

 

「え、えへへ……恥ずかしいや、やっぱり」

「ま、まぁ、確かに」

 

 まだまだ恋人同士というものに慣れていないはぐみと彼はお互いを見つめて照れ笑いをする。こうして手を繋ぐのすら、できるようになったのはつい最近のことだった。

 ほんの少しの甘さと熱い頬をまだほんの少し寒い春風が撫でていく。ライトアップされた桜の木から花びらが舞い、はぐみは近くにきたそれを片手で捕まえる。

 

「とれた!」

「相変わらずすごい動体視力してんな」

「えーできるでしょ?」

「いやむずいし、夜桜はさらにむずいだろ……っと」

 

 ひらひらと舞い散る花びらを捕まえようとしたが、寸前で風に乗って逃げられてしまって彼は何も残らなかった手のひらをじっと見つめた。同じボールを見極めるスポーツをするもの同士、そこから話題はスポーツの話になっていく。

 

「来週ね、強いところと練習試合やるんだよ!」

「お、来週はヒマだ。じゃあ応援行こうか?」

「ホント!?」

「ホントホント、その代わりに……そうだな、俺の試合の応援も頼もうかな」

「言ったね?」

 

 それはつまり今年はレギュラーを取る、という宣言でもあるためはぐみが瞳を輝かせる。ソフトボールチームのエースで四番というはぐみと中学時代は野球部で四番ライトだった彼、高校では一年でレギュラーにはなれずに衝突したこともあったが、今ではお互いにお互いのことを応援できるようになっていた。

 

「これは活躍しないとだね」

「目指せ……じゃあ四安打四打点完封で」

「条件厳しいよ!?」

 

 頑張れ四番でエース、と彼は少しだけ意地悪く微笑む。

 それなら中学と同じ打順同じポジションねとはぐみに言い返されてしまい、苦笑いをしてしまう。二年生で四番はなぁ、と少しだけ弱気になった彼にはぐみは暖かな手を彼の手に重ねていく。

 

「いけるよ絶対!」

「はぐみ」

「だって毎日毎日練習遅くまで頑張ってるの、はぐみ知ってるもん!」

 

 商店街を通る野球部の誰よりも遅く北沢精肉店の前を通る彼、いつも家の前で素振りをしているし、雨でも泥だらけになって練習をしている彼を、はぐみは見てきた。だからこそ、はぐみは強い言葉で、確信に満ち溢れた言葉をかけていく。

 

「大丈夫!」

「……ありがとな。けど、ちょっと恥ずかしかった」

「あ……! ご、ごごめん!」

 

 彼の言葉でようやく、周囲の人に微笑ましい目を向けられていることに気付いたはぐみは耳まで真っ赤にしながらぱっと手を離した。だが、繋いでいた方の手を彼は素早く捕まえ、再び指の間に自分の指を通していく。

 

「こっちは……ダメだ」

「……うん」

 

 散りゆく夜桜を、はぐみは彼の手に包まれる自分の手を少し気にしながらまた歩いていく。楽しいことをすること、ソフトボールを全力ですること、バンド、そのどれとも違う胸の高鳴りに戸惑いつつも、はぐみはそれが恋をしたということなんだと、誰かを好きになるという感情なんだということを確信していた。

 

「はぐみね、キミが応援してくれたら、すっごくすっごく頑張れるよ」

「こっちこそ。はぐみが応援してくれるから、頑張れてるんだ」

「一緒!」

「一緒だ」

 

 笑い合い、桜をスマホのカメラに収めて見せ合い、また笑みを零す。夜のライトと桜という幻想的な景色を二人で分かち合っていたが、彼がスマホの画面に現れる時間がすっかり夜遅くなってしまったことで、帰らなきゃと呟いた。

 

「……え、もう?」

「ほら」

「ホントだ、あっという間だ」

 

 こんなに時間があっという間だと思ったことはないとはぐみは寂しそうに笑った。だがその顔に彼の表情も苦しそうに変わってしまったことで自分がわがままなことを考えたせいだと慌ててしまう。

 

「ご、ごめん!」

「いや……同じ気持ちだったから」

「おんなじ……」

「はぐみと、もっと一緒にいたい」

 

 月明かりに照らされたその表情は、はぐみの胸を痛いくらいに締め付けた。だが、これは恋の痛みであることを、相談して知っていた。儚いほど、狂おしく相手との時間の一秒一秒が貴重で、永遠であってほしくなるということも。

 

「は、はぐみのウチ、おいでよ!」

「へ……え?」

「とーちゃんもかーちゃんも、兄ちゃんも家に連れてこいって言ってたもん!」

「え、ま、今から?」

「一緒にいたいから!」

 

 真剣な表情で、まるでここぞという時の打席に立ったような瞳の色で、まっすぐ彼を見た。今日、また明日と手を離したら後悔する。この気持ちが二人にあるのだから、そのまま恋人として更に一歩踏み出したい。はぐみはそんな想いを彼にまっすぐ伝えていく。

 

「はぐみね、キミのこと本当に好きだもん!」

「……そんなの」

「そうだよね、キミもはぐみのことが好き、だから……」

 

 けれど、と彼は戸惑いを浮かべるのを遮り、はぐみはいつもの自分のように悩み事にも、思いっきり全力でぶつかる。自分の気持ちを全力で伝えることにした。かつて弦巻こころにもらい、あかりに渡したものを。

 ──ハロー、ハッピーワールド! は、世界を笑顔にするものそのために必要なものはまっすぐ夢に向かう勇気。それを彼にも伝えていく。

 

「は、はぐ……み」

「ほら……ここじゃ恥ずかしいからさ」

 

 元気に目を細める彼女とは違う、女性の仄かな色気すらも感じる微笑みをされ、彼の顔はライトアップに照らされ真っ赤になる。

 後はもう、拒絶することもなく彼ははぐみに連れられるまま、北沢家にやってきた。途中ではぐみの兄にどうせ持ってないだろうととあるものを手渡されたせいでお互い意識しすぎてしまったが、二人は一緒に長い時間を過ごすという幸せを感じていた。

 

「なんか?」

「うん?」

「昔ははぐみの方が妹っぽくてさ、俺が引っ張んなきゃって思ってたのに……いつの間にかはぐみに引っ張られること多くなったなぁって」

「えへへ! 成長してるでしょ?」

「とっても」

 

 けれどやっぱりはぐみに桜は似合わない、と彼は苦笑もした。咲いてすぐ散る桜ではなくはぐみは一年中強く咲いている印象が強かった。

 彼女は太陽だ。いつもいつまでもみんなを明るく照らす、太陽のような存在だった。

 

「ねね!」

「うん?」

「背番号は一番だよね!?」

「あのねはぐみ……高校は基本的にポジションで番号つくから」

「え、そうなの?」

「プロは違うけど」

 

 小さな子どもの頃からの夢を語り合う二人に桜の花びらが優しく舞っていく。あの憧れのスター選手のように、背番号一番を背負って打席に立つ。そんな夢を恋人同士の約束として、確かな今へと繋いでいくのだった。

 



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【松原花音】キミという道標

 午後十時、冷房の効いた快適な部屋。ベッドに身体を預けた松原花音は水色のクラゲがデフォルメされたクッションを抱えながら、メッセージアプリでやり取りをしていた。

 返事が来るたびに花音は頬を緩ませる。頬を緩ませながら、メッセージでは拗ねたようなやり取りを繰り返す。

 

『知らない、今日も構ってくれなかったもん』

『いや、他にヒトいたから』

『ふんだ』

『拗ねるなよ』

 

 その返事に、花音はデフォルメされたシャムネコが唇を尖らせながらそっぽを向くメッセージスタンプを送った。構ってくれなくて不満だったというのは事実だが、独占している現状を楽しむかのように、花音はベッドで微笑みながらスタンプを連打していく。

 

『わかった、明日は一緒に大学行くから、な?』

『本当? じゃあ待ち合わせしよっか』

 

 去年の秋に出逢って、恋に堕ちてから今日まで、彼女は自分の中にこんなにもわがままでどうしようもなく甘えたがりな一面があることを初めて自覚した。

 電車に乗るまでの時間だけの独占では飽き足らず、花音は次に通話ボタンを連打するスタンプを送った。電話したい。声聞きたい。そんな花音のわがままに、彼は応えて電話を掛けた。

 

「もしもし」

「えへへ、もしもし」

 

 数時間ぶりの彼の声、なのに待ち焦がれていたように胸が高鳴っていた。本当はずっとそばにいたい。同棲でもしたい、と思ったがそれは花音の両親も彼の両親も納得しなかった。付き合いの浅い状態の同棲はトラブルの原因になり得るのだから当然だと彼も頷いていた。

 

「今日はね、バイトでひまりちゃんと巴ちゃんがね、喧嘩してたんだけどすぐ仲直りしちゃうの。いっつもそうなんだけどね」

「本当に仲良しなんだな、その二人は」

「うん、そうだね」

 

 他愛のない会話を繰り返すだけで、花音の胸に言葉にできないほどの幸福感が溢れていく。彼への想いを、どんどんと募らせていく。その度に花音は砂糖のように甘く、わがままになるのだった。

 

「ねぇ、今週末暇?」

「お生憎様、バイトだ」

「やだ」

「やだって言われても」

「会いたい」

 

 しかしそれじゃあバイト先来るか? と問われては花音はまたやだ、と唇を尖らせた。二人きりになれば片時も離れたくないとばかりに甘える花音も、誰か人の目があれば適度な距離を保っていた。付き合う前からあまり違いが出ないため、一部の友人には心配もされているのだが。

 

「デートしたいなあ」

「したいなあって」

「水族館行きたい」

「花音はデートがしたいのかクラゲが見たいのかどっち?」

「どっちもだよう」

 

 デートもしたいし、クラゲも見たい。愛おしい彼とクラゲを同時に堪能できる一石二鳥、更にカフェでお茶もすれば一石三鳥という機会を狙う花音だが、彼にため息をつかれてしまい、頬を膨らませて、抱き枕に顔をうずめて呟いた。

 

「冷たい」

「ん?」

「冷たい……構ってよう」

「構ってるだろ、じゅーぶん」

「全然、ダメ、不足してます」

「お前なぁ……これ以上は構えません」

 

 やだやだ、と頭を振って駄々っ子のように彼の気を引こうとする。自分だけを見て欲しい。自分を生活の中心にしてほしい。そんな、笑ってしまえるほどの子ども染みた独占欲。花音としても、それが彼にとって最良の恋人ではないだろうとわかっていても、どうしてもやめられないのだった。

 

「いつ行くか……今決めるか」

「明日」

「大学サボんのはナシ」

「えぇ~……すぐがいい」

「明日は一緒に行くんだから我慢しろっての」

「やだ」

「そこでわがまま言ったら一緒に行くのもなし」

「やだ」

「じゃあちゃんと決めよう」

「明日がいい」

「……はぁ」

 

 ピリっと彼の僅かな苛立ち、怒りを声色から感じ取った花音は、わがままを言い過ぎたこと、疲れているであろう彼を思いやれない自分を責める意味も込めて、ごめんなさい、と小さな声で謝罪した。そして、その謝罪に対して彼が放つ言葉は、厳しかった。

 

「謝るんだったら最初から、話を進めさせてほしいな」

「……うん」

「さっきの会話、まるっと全部無駄だし、実現不可能なことは言っても仕方ないだろ」

「……うん」

 

 それでも、そうだとしても甘えたい。まるで二人きりでベッドで寝転がっているように構ってほしい。抱きしめて、キスをしながら甘やかしてほしい。

 一緒にいる時に幸せだから、どうしようもなく満たされているから、だからこそ触れられる場所にいない時が苦しい。それを満たす方法を知らない花音は必死に甘えていた。

 彼もそれをわかっているから、苛立ちはしてもその感情を花音にぶつけることはしない。泣かせても、彼女の渇きは満ちることがないことは、知っているから。

 

「明日、大学行きながら決めた方がいいな。なんなら迎えに行くよ」

「ううん……だいじょうぶ」

「そこで遠慮すんなよ。いつもだったら迎えに来てほしいなあ、ってわがまま言うクセに」

「だって……」

 

 だって、そんなことをされたら、いつかそれを当たり前だと思ってしまう自分がいるだろうから。彼が迎えに来なくて、それに拗ねてしまう未来が想像できてしまう。

 半年前はデートの予定を立てようとしてくれるだけで満たされていた。こうして声を聴けるだけで他に何もいらないくらいに幸せだった。一緒に大学へ行く、なんて知った日には朝から緩む頬を引き締めることができなかった。

 ──いつの間にか、それがあることが当たり前で、当たり前であるが故に満たされなくなってしまったこと。無いとどうしようもなく感情が抑えられなくなってしまうこと。家を出たら彼がいる、という幸せも、そんな当たり前に塗りつぶされてしまうことが怖かった。

 

「嫌われたくない……私、嫌われちゃったら……息もできないよ」

 

 恋は水、彼は酸素ボンベ。満たされれば満たされるほど、いなくなった時に溺れて死んでしまう。あふれんばかりの想いを泳げるほど、花音は自分の恋慕を制御できていなかった。

 マイナス思考に振り切れて、涙が止まらなくなる。彼に嫌われる未来を想像して、花音は恐怖という碇に囚われてしまった。足に纏わりついた恐怖は、花音を光の届かない海底へと、ゆっくり沈めていこうとしていた。

 

「……40分、その間我慢できそう?」

「え……?」

「今からそっち行く。電車はまだあるしさ」

「ふえぇ……い、今から……来て、くれるの……?」

 

 そんな彼女をまた光の当たる場所に引っ張り上げるために、彼は既に支度を始めていた。寝間着から簡単なシャツとパンツに着替え、貴重品と明日の講義の用意をして、イヤホンマイクで彼女の声を聴きながら。

 

「な、なんで……?」

「そりゃ、花音のことをなんとも思ってなかったら、こんな面倒なことしない」

「……面倒」

「そう面倒なんだよ。もう風呂も入って着替えたのに、また着替えて出かけるってのはさ。でも、でもな花音。俺は花音が好きだ……花音が俺を想ってくれて、それに応えられないのは我慢できないくらいに」

 

 彼が花音のわがままに、怒ってもいいくらいの甘えたがりに強く出られない理由が、それだった。

 一緒にいて、幸せそうに笑ってくれる花音を大切に想っているから。わがままになってしまうくらいに想ってくれることが嬉しくて、どうしようもなく幸せだから。

 

「電車の間は返事できないけど」

「……うん」

「すぐ、会いに行く、駅のコンビニで待ってて」

「……うんっ!」

 

 その言葉に、花音は涙を拭き、パジャマを脱ぎ捨て着替え始めた。丁度マンガを返してほしいと催促に来た弟に両親の説得を押し付け、花音は海の底から、光の当たる外へと飛び出していった。

 駅への道、暗いと迷子になってしまう危険もある花音だが、全く迷うことなくまっすぐに指定されたコンビニへとたどり着いた。もう彼は電車に乗っていたために、遠くに駅名だけが聞こえてくるのをじっと待つこと数十分。花音は彼の名前を呼び、周りの目も考えずに抱き着いた。

 

「……ごめんね」

「いいよ、俺も、会いたかった」

「えへへ」

 

 それと時を同じくして、花音のスマホに弟からのメッセージが入った。おそらく誤魔化すことなく真実を全て伝えたであろうメッセージの内容に、花音は怒りのスタンプをこれでもかというくらいに連打していた。

 

「なんて?」

「お夜食を作るので、ちゃんと連れて帰ってくること、だって」

「……申し訳ないな。ちゃんと返せるようにしなくちゃ。花音のお母さんにも、弟くんにも」

 

 手を繋いで、彼の顔を見ながらの会話。通話では満たされなかった想いが満たされていく感覚。充足感が花音を包み込んでいた。

 もう涙はなく、そこには笑顔だけが輝いでいた。

 

「一緒に寝る?」

「花音が寝るまではな」

「……シない?」

「弟くんが怒るぞ」

 

 不満そうに頬を膨らませてみても、それはやがて口許が緩み、笑顔に変わっていく。だが、そんな笑顔がまた罪悪感と、いつか来る、これが当たり前になってしまう未来に、曇ってしまいそうになる。今は幸せでも、いつかこれが当たり前になってしまったら、次こそ呆れられてしまうのではないか、嫌われてしまうのではないかと。

 

「確かに流石に毎日はキツイな」

「……だよね」

「だから、そん時までに金を貯めること、花音もな」

「……えっと?」

「アパートとか借りるのに、使うからな」

 

 彼はそう言ってキラキラと笑顔を向けた。花音が焦がれた笑顔。いつでも、いつまでも輝き続ける、それはまるで太陽のような眩しさだった。

 花音はその輝きに、うん、と笑顔で応えた。会いたいという気持ちは我慢できない。ならば、いつまでも一緒にいればいい。そんな風にわがままと向き合ってくれる彼への想いに、花音はますます水を注いでいく。

 

「……夜中になったら、夜這いに行くから」

「なんで宣言した?」

「じゃないと大学行けないもん」

「なんだそれ。いや、我慢してくれたら……明日は俺んちが空いてるんだけどな?」

「じゃあ明日も」

「も、かよ」

 

 迷子になりやすい方向音痴な花音が見つけた、いつも変わらない道標。

 いつか彼の元へと帰るのが当たり前になったら幸せだな。いつかこんな風に一緒に帰る日が当たり前になる未来が、花音は楽しみで仕方がなかった。

 



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【奥沢美咲】放っておけないキミが好き

 静かな空間だった。都会の真ん中だというのにその一室はその喧騒も忘れ去ったような静寂の中にあった。

 夜闇にあっても光の海の如くビルや街の明かりが眩しいのだが、それをカーテンで遮り、室内の暖かな光が彼女の横顔を映し出していた。

 

「おっそいなぁ……連絡も来ないし」

 

 スマホを見ながらその顔は決して明るいものではなかった。

 アルバイトはもう終わっている時間だろう、なのに一向に帰ってくる気配がない。ほんの少しだけ心配になってしまい、彼女は肩にギリギリ付かないくらいのまっすぐ伸びた黒髪の毛先を指に絡めた。

 ──電話をかけてやろうか、とも考えた彼女だったが、迷惑だったらどうしよう、という思いが手を止めさせる。

 

「早く帰ってきてよ……バカ」

 

 机に突っ伏し、眉根を寄せる彼女の悪態を吐く相手は、この部屋にはいなかった。出掛ける前、ほんの些細なことで喧嘩をしてしまったせいで、帰ってこないのか、それとも、事故にでも遭ったのか。

 彼女の胸中は、不安と後悔で息ができなくなっていた。こんなことなら、喧嘩なんてしなければよかった。普通に、笑って行ってらっしゃい、と言えればよかった。そんな想いが涙となって、机に丸い雫を落とした。

 

「た……ただいまー……」

「──っ!」

 

 ガチャリ、と鍵が開き、控えめな声を上げた瞬間、彼女は身体を起こし、慌てて涙を拭いた。後悔していたとは言え、素直に泣いてしまったことや帰りが遅くてずっと待っていたことを悟られたくなくて、ソファに座り、近くにあったクッションを抱きながら黙々とスマホを触る。

 

「うわ……み、美咲……まだ起きてたんだ」

「起きてちゃ悪い?」

「いや、悪くないけど」

 

 遅いから心配した、帰ってきてくれないかと思った……等々、去来していた想いではなく、彼女、奥沢美咲の口から出たのは、そんな本心とは程遠い、意地っ張りな言葉。ひとつ年上の彼は、そんな美咲の言葉の持つ意味が、朝のことを怒っているのだと思い込み、目を逸らした。

 悪いのは自分だから、素直にごめんと言えればいいのに、それができないのが彼の欠点でもあった。

 ──それどころか、更なる悪手を積んでいく。

 

「まだ、怒ってるの?」

「まだ? ふーん、今朝のことはアンタにとって、もうそんな過去の、どーでもいいことなんだ?」

「別にそういう意味じゃ──」

「──そう思ってないと出ないでしょ、まだ、なんて」

 

 もう怒ってはいなかったのに、そう言われては怒りが再熱してしまう。おざなりな言葉で処理されたという事実が、美咲の眉を吊り上げた。

 

「今日はここで寝る。アンタは広~いベッドで寝てれば?」

「美咲……だからあれは」

「いい、もう言い訳でも弁解でも、アンタの顔も見たくない」

 

 本当は、そんなことが言いたかったんじゃない。仲直りがしたくて帰りを待っていたし、そのための準備もしたのに。美咲はままならない自分の感情にまた、涙が出そうになるのを必死に堪えていた。

 きっかけはくだらないこと、美咲本人ですら思うほどくだらないことだった。前から約束していた予定を、多忙だった彼が忘れて、アルバイトの予定を入れてしまい、美咲が文句を言った。たったそれだけ。

 だがたったそれだけのことを、口に出してたったそれだけ、と言った彼に、美咲は思わず声を荒げてしまった。前から彼は、少し短絡的で嘘をつくのと謝ることが苦手で、どこか子どもっぽいところがあるとわかっていたのに、美咲はそこを批難してしまった。

 

「……そうかよ。悪かったな、帰ってきちゃって」

 

 そう言って寝室に消えていく彼を見送り、美咲は堪えていた雫でクッションを濡らした。もしかしたら、このまま、別れてしまうんじゃないか、漠然とした恐怖が堪えていた感情の上にのしかかり、あっという間に決壊してまう。一度決壊してしまった感情は、美咲の心にぽっかりと空洞を創り出した。

 

「バカ……バカ……」

 

 顔を埋め、せめてこの弱々しい自分の嗚咽が届かないように、そう耐えていると、その頭に優しく、大きな手が乗せられた。

 

「……なに、ってかもう寝にいったんじゃ」

「フロもメシもまだなんだし、ただ着替えを取りに行っただけです」

 

 見られた、という恥ずかしさでまた悪態に変わってしまった言葉に美咲が後悔していると、彼はそんな強がりでいじっぱりな彼女に背を向けて冷蔵庫を開けた。牛乳を取り出し、コップに注ぎながら、暗がりで彼女にただ一言、素直じゃないよな、美咲は、と笑った。

 

「うるさい、だいたい──」

「──ごめん」

「アンタは……って、へ?」

「ごめんって、言ったの……あれは、俺が、悪かった」

 

 暗がりで表情は見えない。けど彼のことだから唇を尖らせて、斜め下を見ながら言っているのだと、美咲にはわかった。

 同時に、たったそれだけの言葉で、本当になにもかもがどうでもよくなり、美咲は噴き出した。

 

「ふふっ……あはは」

「うわ、笑われたら泣くんだけど……マジで」

「ごめんごめん、はは……もういいって、ホントは、怒ってないから」

「え、マジ? 謝り損?」

「それは怒っていい?」

 

 なんで? と、理不尽さを感じた彼は、再び美咲のソファの隣にやってきた。上体を起こした美咲を見つめ、今度はハッキリと、ごめん、と黒髪に手を置き、そっと撫でた。

 

「バカ」

「待ってくれると思ってなくて」

「浮気でもしてた?」

「俺にそんな度胸、あると思う?」

「ない」

「……まぁ、そうなんだけど、即答されるとそれはそれで」

 

 実際に、浮気なんてしようと思ったこともしたこともない彼を信頼している言葉なのだが、複雑な思いに駆られる。一方で、浮気なんてしたらアンタの荷物全部ほっぽりだしてやる、なんてことを言いだす美咲を敵に回すことなんて一生ないんだろう、という思いもあった。

 

「あ、そうだ……モノで釣ろうとか、そういうのじゃないけど……仲直りにって買ってきたものがあったんだ」

「その前置きはいらない」

「そ、そっか……」

「素直に仲直りの証に、でいいと思うんだよ、あたしは」

 

 先程まで彼が美咲の頭を撫でていたはずなのだが、逆に美咲が彼の頭を撫でる。優しい、それこそ後悔や不安、怒り、素直になれなかった反動により、いつもよりも数倍甘く、優しい声色で美咲は彼に微笑みかけた。いつもはフラットで素直に笑うことの少ない彼女のする優しい微笑みは、彼にとってまるで聖女のような錯覚を起こさせていた。

 

「で? 何を買ってきてくれたの?」

「プリン、美咲がよくコンビニで食べる、プリン……なんだけど」

「……ふっ」

「あー、今鼻で笑ったな!?」

「いやだって、プリンて」

 

 コンビニのビニール袋に包まれたプリンと、プラスチックのスプーンを前に、美咲はいつもするような苦笑いを見せた。

 しかし、結構悩んだのに、という言葉が実に彼らしいな、という安心感もあった。

 

「あーあ、でも、アンタと思考が被るなんて思わなかったよ」

「被る?」

「うん、ってか冷蔵庫開けた時に気付いてくれるもんだと思ってた」

 

 そう言って、美咲は冷蔵庫の中から白く四角い箱を取り出した。その中にあるものが何か、彼にはすぐにわかった。

 いつも、恋人になった記念日やお互いの誕生日には欠かさずに買っていたものなのだから。

 

「はい、ケーキ……あたしも、ごめんって意味を込めて」

「み、美咲……」

 

 彼がすっかり忘れていた予定、それが、記念日の予定だった。詳しくは決まっていなかったのだが、どこか出かける、というような話を立てていただけに、美咲はそれに対して、あたしはちゃんと予定開けといたんだけど、と文句を言ったのが始まりだった。

 

「ん、おいしい……って、どしたの?」

 

 だがそんな遺恨はすっかり水に流し、紅茶とケーキで二人は今日の予定、記念日を小さく解消する。

 だが、いつもの雰囲気に戻った美咲は、彼がじっと自分を見つめてくることに怪訝な表情を浮かべた。

 

「いや……目、腫れてるから」

「あ……いや、もう気にしないでいいよ。仲直りもできたしさ」

「美咲……」

 

 あ、これはやばい雰囲気だな、と思ったが、拒絶する理由もなかった美咲はそのまま彼の雰囲気に流されることにした。

 六月の温い風が、アイスティーの氷をカランと鳴らした。まだ夜闇の風が運んでくる清涼感は、冷房が必要なほどではないのだが、二人は汗を流すほどの熱に息を上げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんかさー、こーゆーの、久々じゃない?」

「確かにな、久々だよな……二人でお風呂なんて」

「だよねぇ」

 

 湯煙に包まれた浴室に、二人の声が響く、しっとりと髪の毛を濡らした美咲が、しまったなぁ、という風に二度目の風呂に苦笑いを浮かべた。

 お互いに少し忙しい時期もあって、久しぶりだったのは二人で風呂に入ることだけではなかったのだが、誤魔化した彼に合わせるように頷くことにした。

 

「ってかさぁ、床はやめよって言ったし、キスマつけんのもやめよって言ったじゃん?」

「……言ったっけ?」

「ホント、バカ。こうなると全然、見境なくなるんだから」

 

 そんな見境のない彼に背中を預けながら、湯船につかる美咲は目線を自分の胸元にある赤黒い点に向けた。盛り上がるとキス魔の気があるカレシのクセを散々知っていながらも止められない自分へ向けたため息とともに明日着る服考えないと、と彼の肩に頭を乗せて湯気に満ちた天井を見上げた。

 

「で? 明日ホントにでかけてくれる?」

「明日は流石に忘れない……と思う」

「いやそこは確信しようよ」

 

 幾らなんでも今夜した約束を明日の朝忘れるわけはないだろう、と美咲はツッコミを入れながらも安堵していた。

 そもそも、今日の明日で予定が入ることはないという安心感も、それを助けていた。

 

「どこ連れてってもらおうかな~」

「やっぱりハンドメイド展とか、その辺?」

「それもいいけど……うーん、無難なデートとか?」

「それって、遊園地とか水族館とか、ショッピングとかってこと? でもなんで?」

 

 彼の疑問も当然のことだった。美咲は無難なデートコースを嫌がる傾向にあり、そういったレジャー施設は避けている。その理由はとてもシンプルなものでもあるのだが。

 

「いつもは知り合いに会うからって」

「たまには……いいじゃんか」

 

 

 行く先で知り合いに、彼と楽しんでいる姿を見られるのが、美咲は恥ずかしくて仕方がなかったのだった。

 そんな想いを汲んで、彼も付き合い始めの頃は不満を持ちながらも、彼女の言う通り、そういったデートは避けていた。

 

「──そうやって、照れてばかりじゃさ……これからずっと付き合って、結婚してもそれじゃダメだし」

「え?」

「なんでもないっ」

 

 そんな小さな呟きを聞き逃した彼は、再び、なんだよ、と訊くのだが、彼の限界が来るまで美咲は頑として教えることはなかった。

 

「はぁ~、のぼせたぁ……」

「ごめん、ついあたしの感覚で長風呂しちゃって」

「マジか、美咲すごい……」

 

 寝間着に着替えた二人は寝室で、僅かな明かりの中、ベッドに腰掛けた。彼はのぼせてしまったことであまり意識していなかったものの、美咲としては、こうして全く同じタイミングで寝室に入ることが少なかったため、やや緊張気味に、まぁね? と頷いた。もしかしたら、もう一回、そんなことも考えると中々ベッドに潜ることもできずに、美咲が固まっていると、彼は疲れたー、と仰向けに寝ころんだ。

 

「バイトでなんかあったの?」

「なんかあった……ってか、朝のせいかさ、あんまり集中できなくて、それで余計に疲れちゃった、って感じかな」

「……ごめん」

「そういう意味じゃないって」

 

 彼が仰向けになり、枕に頭を預けたことで漸く美咲もその隣に身体を預けた。

 すると、彼は美咲、と甘えた声を出した。寝る時にくっつきたがるのは、美咲ではなく彼の方だった。

 

「はいはい、じゃあ今日はもう寝るってことね?」

「まだなんかあった?」

「……うっさいバカ」

 

 まるで期待しているみたいだ、と自分の思考していたことの恥ずかしさを理不尽な罵倒で彼にぶつけ、彼の求めるままに、二の腕の上に頭を乗せ、彼に抱きしめられる恰好を維持していく。

 

「……実は、さ」

「ん?」

「俺、もしかしたら、このまま別れちゃうんじゃないか……って思ってた」

「そっか」

「うん」

 

 電気が消え、しばらくしてからそんな弱音を聞いた美咲は、そっと彼の唇にキスをした。不安を拭うように、分け合うように、そして美咲は大丈夫、と口にした。

 

「あたしは、多分……ずっと傍にいるから。バカだし、放っておけないし、デリカシーもなんもないけど」

「……ひどいね」

「けど、あたしは、アンタが好きだから……そこは安心していいよ」

 

 背中に手を回して、撫でると、彼は言葉通り安心したように、肩の力が抜けていった。

 年上の威厳や先輩らしさなんて何一つない彼の胸の中で、美咲はそっとまた、優しく微笑んだ。

 

「今日は、寝るまでこうしてあげる……いちおー、あたしの方が年下だってこと、偶には思い出してほしいんですけどね?」

「わかってる」

「わかってるかなー? ホントかなー?」

「うるさいな……」

「あー、はいはい拗ねない拗ねない。別にヤとは言ってないから……ね?」

「うん」

 

 子どものように高い声で、もう半分寝ている彼が頷く。それが最後の会話となり、やがて彼女の頭上からは、寝息が聴こえ始めた。

 美咲を優しく包んだまま、まるで甘えるように添えられた手に、美咲はどうしようもなく、愛おしさを感じていた。

 

「もう……でも、そんなとこが、好きになっちゃったんだよなぁ」

 

 誰に訊かれても、変なの、珍しい、そんなことを言われる美咲が彼に惚れてしまった決定的理由。

 そんな瞬間を垣間見た彼女は、寝ている彼から離れることなく、逆に身体を寄せて、眠りについた。

 ──喧嘩して、仲直りをして、それを一生のうちに何回繰り返すかわからない。その中で、彼女たちは、いつまでも二人でいることの意味を問い続けるのだから。

 いつまでも、また、おはよう、と言い続けて、おやすみと言い続けるのだから。

 

 

 

 



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Pastel*Palette
【丸山彩】ただ一人のキミへ


 彼女は目を閉じると、今でも鮮明に思い浮かぶ景色があった。ピンク色のサイリウムの光、涙に濡れながらそれでも笑顔で歌い続ける、あるアイドルの姿。

 ファン一人一人は笑顔だったり泣いていたりと様々だったが、それでもおめでとう、という想いでサイリウムを振っていた。

 

「ありがとうございました! わたしっ、みんなのアイドルで、いられて……幸せでしたぁ!」

 

 その言葉にファンの歓声が巻き起こる。

 アイドルバンドという一つの時代を築いたアイドルスター、丸山彩……そんな彼女の華々しい引退ライブだった。かつての仲間が楽器を構え、彩は涙を堪えて歌い上げる。そんな夢のような舞台を経験していった。

 

「……起きてってば、遅刻しちゃうよ!」

「はっ、マジで?」

「はい、もう朝ご飯できてるから、早く!」

 

 輝かしい日々から数ヶ月。彩はベッドに眠る彼を揺すり起こしていた。う~ん、と唸る彼を半ば無理矢理起こして、パンを目の前に出した。

 髪を下ろして、すっかり馴染んだエプロン姿で彼を見送り、彩ははぁ、と息を吐いた。

 

「さて、掃除しないと!」

 

 アイドルを引退し、彼女は一人の女性としての幸せを送っていた。大学時代に出逢った彼との暮らし、間近に迫る結婚という幸せに彩は顔を綻ばせた。

 ──とはいえアイドルは引退したものの、専業主婦でいるわけにもいかず、掃除を終えた彩は芸能事務所へと急いだ。

 

「あ、彩さん!」

「麻弥ちゃん!」

 

 事務所に入ってすぐ、工具を手に持った麻弥に遭遇した。引退ライブ以来の再会に二人は笑顔で旧交を温める。

 引退してから約半年ほど、彩は半ば活動自粛のような形をとっていた。それもそのはずで、彩が彼に出逢ったのは六年も前のことで、現在結婚を控えている二人はアイドル時代に付き合っていたのだから。

 

「あのヒトは元気ですか?」

「うん、今日も寝坊しそうになったの、慌てて起こしたんだよー」

「フヘヘ、彩さんはいい感じに奥さんできてるみたいっすね」

「……えへへ、そうかな?」

 

 そうっすよ、と言われ彩はまた頬を緩ませた。少なくともかつての仲間たちは祝福してくれている。だがファンはどうだろう、それが彩の一抹の不安だった。今日事務所から呼び出されたのも単なる仕事復帰の話だけではないはず、そう確信していた。

 

「麻弥ちゃんはまだ仕事?」

「そうなんです……あ、でもでも、なんかジブンも呼び出されてて……なんなんでしょう」

「なんだろうね? 麻弥ちゃんもそろそろ表に出てみたらーとかそんな感じ?」

 

 雑談を交わし、一旦は解散となった。

 空いている時間はレッスン室を見学し、後輩と食事を摂った彩は集合時間五分前に会議室へとやってきた。

 

「あら……? 彩ちゃん」

「千聖ちゃん! 久しぶり~!」

「そうね、三ヶ月振りくらいかしら?」

 

 ここでもかつての仲間であり友人でもある白鷺千聖と再会し、思わず瞳を潤ませているところで、扉が開かれた。

 そこには先ほど再会した麻弥のほかに若宮イヴ、氷川日菜の顔があり、彩は今度こそ決壊してしまう。

 

「みんな~」

「あははは、彩ちゃん泣きすぎ~」

「だって、だってぇ~」

「よく来られたわね日菜ちゃん」

「丁度近くにいたんだ~」

 

 高校生の当時、不安しかないようなスタートを切った五人が再び集められていた。

 どうして、と考えた彩の目の前に今度はさらなる驚きが広がった。そこにはプロデューサーと一緒に、仕事に向かったはずの彼もやってきた。

 

「どうして?」

「営業だよ、新商品のCMの依頼」

「それで、丁度我々がパスパレの復活ライブを計画していまして」

「え、ええ~!?」

 

 彩は今度こそ叫び声をあげた。

 復帰は半年後、復活ライブとCMで再びお披露目ということになった。その前に丸山彩は彼との結婚報告を、ということになった。

 

「な、なんか……いいのかな」

「何が?」

 

 帰り道、直帰してくれた彼に寄り添うカタチで二人は並んで歩いていた。彼との時間を得るために引退したのに再びアイドルとして活動できるという幸せ、事務所を通して公式にファンに自分のことを報告できる幸せ、そして、彼との時間を過ごせるという幸せ。

 

「二つ全部取って幸せになっていいのかな……?」

「そんなことを考えてたのか」

「だって」

 

 こんなに嬉しいはずのことが、彩にはどうしても前を向くことができずに俯いてしまった。幸せであるはずなのに、そのあまりにも出来過ぎた幸せが彼女の顔を下に向けた。ステージで輝ける喜び、愛おしい彼の傍にいられる喜び、二つは両立していてはいけないのではないのか、そんな思いに駆られていた。

 

「彩」

「……なに?」

「彩ってエゴサをいつもしてたって白鷺さんから聞いたんだけど」

「え……う、うん」

 

 突然の言葉に彩は疑問符を浮かべた。アイドルだった頃にはいつもSNSの検索に自分の名前を入力していた。引退の時にもそれを見てまた涙を浮かべた彼女は、その舞台から離れていくことで自然と、それをしなくなっていた。

 

「してみて」

「え……っと?」

「いいから」

 

 どういう意図があるのか分からずに、彼に促されるまま、昔のようにSNSを開いた。半年前から動かなくなった自分のページから検索をかけようとして、その検索ワードのトップに自分の名前を見つけた。

 

「な、なんでトレンドに私が……?」

「さぁて、調べてみたら?」

「む」

 

 その自分はわかっているよ、という態度に少しだけむっとして彩は自分の名前で検索し、その一番最初に見つけた記事に、彩は大きな声で叫んだ。

 ──そこには、丸山彩が婚約したという芸能事務所の発表が取り上げられていたのだった。

 

「え、で、でも……発表は、半年後の活動再開の時だって……」

「サプライズだよ。まぁ俺が計画したんだけど」

「えぇー!?」

 

 出逢いから一年後、彼が就職した先で広報担当していて、CM依頼を彩に持ってきた。それでより繋がりが深くなったという始まりを持つ彼。

 そんな彼が彩が復帰するこの時をずっと狙っていたのだと今更になってわかったのだった。

 

「な、なんで?」

「彩には欲張りでいてほしいんだよ」

「よく、ばり?」

「ほら、彩って割と遠慮がちでしょ? 俺が告白してからは毎日のように悩んでたし、プロポーズに応えるためって引退を宣言した。正直その時に彩の覚悟に惚れ直したよ」

 

 ──けれど、けれど彩はアイドルだと彼は言った。一緒に暮らしているうちによりアイドルとして輝く彩でいてほしいと強く感じていた彼は、彩のために奔走した。元メンバーに頭を下げ、事務所に頭を下げ、会社に頭を下げ、彼がお願いしますとありがとうございますという言葉と共に地面を見た回数はこの半年で数えきれないものとなった。

 

「彩、アイドルスターとしてもう一度、輝いて」

「……いいの? 私は、あなたと幸せになるって決めたのに……」

「ほら、これ」

 

 迷う彩に彼が見せたのは、ファンたちの声だった。勿論彼女が懸念したようなショックを受けるような反応、マイナスの感情もあれど、大部分は祝福の声で埋め尽くされていた。おめでとう、お幸せに、復帰も待ってます。そんな声たちは冷たい端末の向こうでとても暖かな光を放っていた。

 

「……っ! いいんだよね……? 私っ、あなたと一緒にいても、輝いて……いいんだ」

「……うん、彩は、アイドルでいいんだよ」

 

 多くの人に祝福され、その上で復帰を望まれているという事実に、決壊した思いと、溢れる想い。二つの感情が混ぜこぜに涙となって零れ落ちた。そんなとめどない感情はいつものように、泣き虫で愛おしい彼女を抱きとめるように、彼が受け止めていた。

 アイドルを引退すると決めた時も、何か悩みがあった時も、出逢ってからいつだって彩の涙を拭ってきた彼の目尻にもまた、涙が光っていた。

 

「彩は、俺の彩でもあるけど……みんなの彩なんだ」

「……うん、そうなんだね。知らなかった……私は、こんなにも沢山の人に愛されてたんだ」

「ちょっと、妬けるけど」

「ごめんね……でも、私はあなたを愛してるよ……これだけは誰にも譲れない、特別だから」

「……彩」

 

 手を繋ぎ、彩はただ一人特別に愛する彼と、愛する場所へと帰っていく。

 夕陽が傾き、夜が来て、また彼女にとっての特別なステージは昇ってくる。トップアイドルとしての彼女と普段の彼女、そのどちらも、彼にとっては眩しいほど憧れ、そして愛おしいと感じた丸山彩だった。

 ──そしてそれは、彩にとってもそうだった。仕事として営業にやってくる彼と、家で彩に甘える彼、そのどちらも彩にとっては愛おしいただ一人の彼だった。

 



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【白鷺千聖】キミとの恋は秘密の味

 秘密の恋がしたいわけじゃないのよ、と彼女は友人に漏らしたことがあった。珍しく年相応な表情で、肘をついて、その手の上に顎を乗せて。まるで自分の髪や窓に映る顔が忌々しいかのように見つめながら。

 

「私は、この名前を捨てられない」

 

 ──白鷺千聖、という名前を聞いたなら、また彼女の顔を見たなら、道行く人は色めき立つ。()()白鷺千聖が今、自分の目の前にいるのだ、と。それはある種仕方がないことだと千聖自身も諦観していた。しかし、恋愛においてはまた別なのだが。

 

「どうしたらいいの? 私は、恋をしてはいけないのかしら……?」

 

 女優として、アイドルとして、大成した彼女を襲った悩みはそれだった。恋をしてしまったこと。それが許されざる感情だと頭ではわかっていても、心はそれを否定した。

 

「私だって……」

「……浸るねぇ」

「浸って悪いかしら?」

 

 それを向かいで聞かされた彼は茶化すように笑ってみせた。彼は千聖のマネージャーであり、彼女のフォローが仕事の一つだった。

 だが今は別方面のフォローが必要だ、と嘆息する。

 

「千聖」

「なにかしら?」

「助けてほしいなら素直に言ったらどうだ?」

「なら助けだしてくれるのかしら」

 

 トゲのある口調。目線を合わせることなく紡がれた言葉を彼は受け止めることなくコーヒーを口にした。

 とある喫茶店の目立たない席で向かい合い、彼と彼女の机にはカップとケーキがそれぞれ置かれていた。片方は制服、片方はスーツ。しかもあの白鷺千聖であることも相まって、店員は二人の関係を疑うことはない。

 

「わかっているわ、どーせ私の悩みなんて十代特有の下らないセンチメンタルでしょうからね、もうあと数ヶ月もすれば二十代後半に足を踏みいれられるマネージャー様におかれましてはくだらないの一言で済ませますよねどうもありがとうございました」

「わかってねぇじゃん」

「何しに来たのよ」

「仕事だけど?」

 

 まるで普段の千聖とはかけ離れた不機嫌な声音で放たれたマシンガントークだったが彼にはひらりと躱され、眉間に寄った皺に対しても、大人の表情と余裕でやめなさい、と言われますます不満が募っていく。

 

「……恋人のクセに」

「それ今関係あるか?」

「マネージャーのクセに仕事道具兼パートナーの私を誑かした挙句告白させて泣かせた結果の恋人のクセに」

「待て待て」

 

 語弊と誤解をまき散らす千聖に対して、流石に焦りを見せながら彼は彼女の要望を聞き入れる体制に入る。

 マネージャーとして、大人としてではなく、恋人としての顔を見せた。

 

「あのな……千聖、俺は別に」

「もういいわよ、次の仕事に行きましょう」

 

 しかし、その切り替わったタイミングを狙って千聖は立ち上がった。伝票を持ち、会計ついでに領収書をもらう彼女の後ろで、彼は小さな声で呟いた。

 

「経費で落ちないと思うけど……」

「後で、あなたに請求しますから、そのために貰ったの」

「お、おい……わざわざか」

「はい」

 

 そうして、領収書の名前に素早く白鷺千聖のマネージャー、と文字を走らせた。やけにマネージャーという文字に力が入っているのは気のせいではないだろうな、と彼は速足に歩きだした彼女の後ろをついていく。

 

「おい、千聖っ」

「話しかけないで」

「お前なぁ」

「いいわよっ、私なんて、私なんて……っ」

 

 演技よりも演技らしく、けれども千聖らしくないその怒り方は彼に対する甘えの意味も籠っていた。

 恋人、とは言うが恋人らしいことを何度したことか。そんなやはり自分は無邪気に恋ができないということへの絶望がその中にはあった。

 

「待てって、おい千聖」

「っ、はなして」

 

 人通りの少ない商店街で、彼は千聖の腕を取った。だが勿論意地を張る千聖は振り払うと躍起になる。痴話げんかを繰り広げる二人に対して、傾いた陽の中を歩く僅かばかりの通行人が彼と彼女に瞳を向けた。

 

「騒ぐと騒ぎになるぞ」

「……サイテー」

「あん?」

「そうやっていたいけな女子高生に向かって脅し文句をしかけるというのね」

「いやいや」

「いいわよ、脅してハメて撮影して私に首輪でもハメてきゃんきゃん言わせればいいじゃない」

「いやお前何言ってんの?」

 

 突如口から飛び出た女優でアイドルで女子高生である彼女から出てはいけないワードたちに、さしもの彼もたじろいだ。唯一の救いは通行人には会話が聞こえない範囲のトーンであること。聞かれたらどうなるか、それは彼も彼女も周知の事実だった。

 

「……素直になれよ」

「じゃあ今すぐ愛の証明に婚姻届にサインして」

「素直になれてねぇんだよなぁ……」

 

 やっと足を止め、ツンと顔をそむけた千聖に彼は説得を試みる。だが会話をあさっての方向へと投げ捨てていく彼女は、まともに取り合うつもりが最初からなかった。

 故に、彼への言葉たちも届いてほしいと思っても、届いていないことには気づけないのだが。

 

「素直ってなに、なにをどう素直だって言うのかしら?」

「お前なぁ」

 

 彼がやや不機嫌そうな声音を出し、手を肩の高さまで上げたたことで、千聖はびくっと肩を震わせた。

 そして、反射的に瞑った目を開いた彼女が見た景色は、穏やかな表情をしながら頭を撫でてくる、恋人の姿だった。

 

「ったく……なんでもいいけどよ、次の仕事終わったらちゃんと電話しろよ」

「……どう、して?」

「迎えに行く……嫌だったか?」

 

 はっとしたように首を横に振ると、ならよし、と彼は前を歩き出す。彼女の頭の中には、今の言葉が違う意味を込めてくれているのだという期待でいっぱいになっていた。

 秘密の恋がしたかったわけじゃない。けれど、二人だけの合言葉が増えていく度に、千聖は年相応の表情で笑みを零すのだった。

 

「……イタリアンがいいわ」

「お、今からもうメシの話か」

「奢ってくれるわよね?」

「へいへい、お姫様の仰せのままに」

 

 黄昏に染まるスーツの後ろ姿に追いつこうと小走りに近づき、彼の横顔を眺める。その度に千聖は胸が高鳴るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──作戦通り、とすっかり日が暮れた街の夜景をカーテンで遮り、ワイングラスを手に千聖はほくそ笑んだ。

 イタリアンをねだった時から、それ以前に喫茶店で拗ねた時から、彼女はここまでの流れを思い描いていた。狡猾に、貪欲に。

 

「……千聖、俺の服どこにやった?」

「さぁ? ちゃんとバスローブは置いておいたつもりだったけれど?」

「そうだな、それしかなかった」

 

()()()()()バスローブ姿に身を包んだ彼が苦虫を踏み潰したような顔でため息をつく。何から何まで、今日は千聖の思い通りになっていることへの、わずかな苛立ちと畏れ。それを振り払うように、千聖はまぁ座りなさい、と促した。

 

「まさか酒を頼んでたとはな」

「うふふ、飲酒運転はいけないものね♪」

「……そうだな」

 

 レストランで半ば強引にワインを飲まされ、車という移動手段を失った彼は帰るに帰れぬまま、すぐ近くのホテルに連れ込まれた。ビジネスホテルでもラブホテルでもないその豪奢で広々とした部屋に、何処からか取り寄せた──またもやワイン。それを千聖は躊躇うことなく口をつけていく。

 

「おい、未成年」

「通報する? 逮捕されてしまうのはどちらかしら……ね?」

 

 流し目とチラリと肩をはだけさせての脅迫と誘惑の追撃に、ついに彼は折れた。とことんまでこのわがままな魔王(プリンセス)に付き合ってやろう、という諦めにも似た、それでいてどうせなら愉しんでやろうという欲望に満ちた表情でワインを注いだ。

 

「あんまり飲むなよ」

「ええ、わかってるわ」

 

 カツン、とグラスを打ち合い、机とワインを挟んで二人は、大人でも子どもでもマネージャーでも女優でもアイドルでもない、ただの男女としての二人きりの時間と空気に身を浸していく。

 

「これが……大人の味、なのね」

「慣れてそうな割には子どもっぽい感想だな」

「パーティでシャンパンは飲んだことはあるわよ、ノンアルコールの」

「はは……そうか」

 

 雰囲気に呑まれ、気付けばもうワインのボトルが空になりそうになったころ、千聖はすっかりアルコールという魔物に取りつかれていた。うまく平衡感覚がつかめず、感情の抑制が聞かない。それでも意識が妙にハッキリとしていた彼女は、左の膝を抱えて甘えた表情で彼を呼んだ。

 

「ん?」

「……酔ってしまったみたいなの」

「そりゃあ……大変だな」

「運んでくれるかしら?」

 

 しっとりとした表情で、甘い毒を垂らしていくように。唇に、瞼に、指先までを意識して千聖は目の前の彼を誘惑していく。舞台女優としての経験を活かして、演技がかったように、けれどわざとらしさは与えずに。千聖は少女ではなく女を演じていく。

 

「ったく、そんなに確かめようとしなくても、今更だろ……千聖」

「きゃ──っ」

 

 ──しかし、アルコールに身を任せなければできなかったことを、彼は最初から覚悟してきていた。彼女と同じ部屋に泊まるということはどういうことなのか、彼女と同じベッドで眠るということはどういうことなのか、年上である彼がわからないはずはなかった。抱きかかえて運んだのも束の間、ベッドに半ば強引に寝かせ、彼女の手首を持つ。千聖が全て自分の影に隠れた状態で、彼はたった一言だけまだまだ詰めの甘い彼女に忠告をした。

 

「据え膳食わぬは男の恥……ってな。お前がホテルを予約したって聞いた時からずっと、俺はこうするつもりだったんだよ」

「……ケダモノ」

「おいおい、啼かせてほしいっつったの、誰だよ」

「……言ってないわよ、そんなこと」

 

 千聖は逆光で見えない彼から顔を逸らした左手首はしっかりと彼の手が巻き付いており、それが千聖の心拍を高まらせていた。

 こんな彼は初めてだ、いつもなら自分が脱ぐまでなにもしてこないのに、とぼやけていく頭で思った。

 

「言ったろ? 脅してハメて……ってやつ」

「言葉の綾よ」

「じゃあ、やめるか?」

「……するわ、シて……あ、でも……」

「でも?」

「……電気は消して……お願い」

 

 真っ暗になった、空調の音とシーツの擦れる音だけが響く部屋で、アルコールで火照った身体に彼の手が当てられる。その度に、千聖は秘密の恋に溺れていくような、まるで愛情と言う名の首輪をつけられたような、逃れられない感情に絡めとられていく。

 彼のことしか考えられなくなるまま、彼の肩に爪を立て、絶叫を上げていく。愛おしい彼の名前を呼び、愛おしい彼に名前を呼ばれ、愛してるとささやかれる。

 その度に、彼女は思うのだった。自分が白鷺千聖で、よかったと。女優としてアイドルとして彼女が活躍したからこそ出逢えたのだから、彼がその名前を呼んでくれるから。ただまっすぐに、千聖、と短く。

 

「浸ってもいいけどな、千聖」

「ん?」

「お前はまだまだ十代だし、センチメンタルになっちまうのもわかるけどさ……俺がいること忘れんなよ」

 

 秘密の恋は、独りではできないんだからな、という背中からの声を聞き、千聖はそうね、と目を閉じたまま笑ってみせた。

 真っ暗な部屋はもう、時計の音と、時折身じろぎする度にするシーツの音だけを響かせている。そんな静寂の中で、千聖は友人には決して伝えることはできないであろう結論を彼に聞かせたのだった。

 

「──秘密の恋がしたいわけではないけれど、あなたとの秘密の恋は、ずっとしていたいわね」

「なに言ってんだ」

「浸っていいって言ったじゃない」

「へいへい、あー、明日どうすんだこれ……」

 

 頭を抱える彼のぼやきを聞き、千聖はくすくすと笑う。そして、()()()()()、彼女は悪魔の微笑みで彼を誘惑した。

 

「それなら有給でも使ったらどうかしら? 私、オフなのだし?」

 

 行きたいところがあるのよ、と言い出した天下の女優兼アイドルの計画に、彼は舌を巻かされることとなった。

 まるで一緒にいる時間全てを掴まれているような感覚に、彼はどっちが首輪をつけられてんだろうな、と暗闇に呟いた。

 

 

 

 



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【氷川日菜】キミと先を歩きたい

 氷川日菜はモテる。大学で彼女はアイドルでありながらも何人もの男性に好きと言われたのだろう。付き合ってほしいと言われたのだろう。

 ──だが、その星の数ほどの告白を日菜はたった一言、一言一句違わずに同じ言葉でフるのだった。

 

「うーん、ごめん興味ない」

 

 興味がない。それはどれほど想いを込めても届かぬ亀裂だった。

 氷川日菜にとって他者はそれほどのものでしかなかった。以前は、彼女がまだ制服に身を包んでいた頃にはそうでもなかったのかもしれない。自分と他人が違うことすらまだ理解したてだった彼女には他者というものは興味の塊だった。だがそれも数年経ち、氷川日菜は色々な意味で、大人になっていたのだった。

 

「おーはーよっ」

「おはよう、じゃないでしょ。また遅刻?」

「あはは~、ごめんごめん、思いのほかあったかくってさ~」

 

 大学の講義室で、またその無邪気な明るさを振るう日菜に彼はそう溜息と共に返事をした。

 それ以上興味もないという風に本に目線を戻した彼に、日菜は当たり前のように隣の席へと座っていく。

 

「……気が散るんだけど」

「講義中くらい静かにしてられるよー」

「そう言って寝息を立てられると気が散るんだよ」

「神経質なんだね~」

「……この」

 

 キミが大体ズボラすぎるんだと何度目かの言葉を日菜ははいはい、と聞き流す。だが彼女の口許には他の人間に話しかけられるのとは決定的に違うものが浮かんでいた。

 講義までまだ多少の時間がある。がやがやと色々な人間の話し声に包まれたそこで、日菜も雑談を始めていく。

 

「ねね、今日活動日でしょ? どーするの?」

「ダンスサークルは?」

「あーあれね、それよりあたしは星が観たい気分だし」

「……知らないよ」

 

 天体観測サークル。日菜が立ち上げた、今や彼と彼女の二人だけのサークルの名前に彼はまた溜息をついた。天体望遠鏡を持ち込んで、大学の屋上を借りて星を観る。そんなくだらない、もうすぐ消えてしまうサークルの名前と活動を、日菜は何故だか楽しそうにこなしていた。

 

「氷川は」

「んー?」

「……どうしてそこまで星を観たがるの?」

「そーゆー気分だから、かな?」

 

 そう、とその言葉を単なる気まぐれや適当なものだと捉え、彼はまた興味を無くしたように本を閉じた。丁度そのタイミングで講師がやってきて、春になりきらない講義室に一人の声が響き始めた。

 

「ねぇ」

「講義中は話しかけるなって言ってあるだろ。気が散る」

「……つまんない」

 

 頬を膨らませ、日菜は顔を伏せた。大学の講義も、講義内容をまるで呪詛のように淡々と言葉にしていく教授も、すべてが彼女の二つの言葉で灰色に沈められていった。

 ──興味ない。つまんない。氷川日菜は日常の中で失ってしまった興味に飢え、退屈という渇きに苛まれているのだった。

 

「氷川」

「なに」

「……お昼、部室で」

 

 だがそれでも、誰もが驚くことに講義に出席し、単位を獲得しているのはたった一つだけ日菜の飢えと渇きを満たすものがあるからだった。

 日菜は彼が使い終わったルーズリーフにロケットを落書きしていく。その顔はまるで、幼い少女のような無邪気な輝きが宿っていた。

 日菜にとって彼は同じサークルにたった一人残った人物であり、隣にいてもまるで窓から差す日の光のような温もりのある人物であり、そして。

 

「それで? 今日は晴れてるし普通に活動──!?」

「その前に、じゅーでんするっ」

「は、はぁ? ち、ちょっと……()()!」

 

 二人は他人には伝えていない秘密の恋人同士でもあった。

 誰の視線のなくなる天体観測サークルの部室で弁当を広げる前に、日菜は彼に抱き着き、服に顔をうずめた。

 

「んー、るんってするぅ……♪」

「いや普通の洗剤の匂いじゃないか?」

「違うよ、キミの匂いもするでしょ? 他にも講義室の匂いとか、えーっと」

「そんなに解析できるもん?」

 

 とにかく全部合わさってるからるんってするの! と笑顔を見せられ、彼はそっかとこの追及を諦めた。

 一通り甘えた日菜はすっかりいつもの笑顔を取り戻し、ご飯を食べつつ、あったことを色々としゃべっていく。

 姉の話、アイドルとしての他のメンバーの話、駅中にあるスイーツのお店がおいしそうだという話、他愛のなく意味もない会話に彼は相槌を打っていく。

 

「あ、あとね、生徒会の子がね、カレシにプロポーズされて……」

「結婚するんだ?」

「みたい。あたしより年下なんだけど……結婚って、そんなにしたいものなのかな?」

「わかんないな」

 

 少なくとも彼にとって、結婚とはまだまだ遠い未来のことのように思えていた。就活に忙しいとはいえ、まだ来年も大学に通う身であり、サークルの維持はできなくても、日菜とは変わらない日々を過ごしていく。そこでいきなり結婚という言葉を向けられても、彼には何ひとつ感慨もなにも湧いてくるものではなかった。

 

「結婚する……としたらキミと、だよね」

「わかんないよ」

「別れる気なの?」

「……そういうわけじゃないけど」

 

 就職先が決まって、ある程度自分で稼げるようになって……そんなものが数年分も、積み上げられる以上、その先で家庭を持つ相手が必ずしも学生時代に付き合っている恋人だとは限らない。そんな現実的であり得るかもしれない不明瞭な未来の話をした彼に、日菜は、んーと考えるような仕草をした。

 

「あたしたち、何があったら別れると思う?」

「……何突然」

「それだったらさ、わかんなくないでしょ?」

「なんだろうね……」

 

 彼は今すぐ別れてしまうほど許せなくなる要因を挙げていく。浮気をしている、借金があるかも、実は黙っていたけど黙っていたままじゃ付き合っていけないほど重要な秘密がある。などなど、そんな列挙された言葉たちに日菜はまたもや無邪気な笑みですべてを吹き飛ばした。

 

「あるの?」

「ないよ」

「じゃあ別れないね」

「そうだね……ってなんで嬉しそうなの?」

「キミと一緒にいれるんだなーって思ったらこの顔になっちゃうんだよ」

 

 付き合いたての頃は喧嘩の絶えなかった二人だったのだが、最近は喧嘩をしたことがなかった。それほどまでに彼女が傍にいることが当たり前であり、彼女が嫌だと思ったことがいつしか彼にとっての当たり前の日常に変わっていった証拠だった。

 

「俺は日菜が俺に興味を持ってくれてるか、今でも内心不安だよ」

「興味かー」

「……ん?」

「ううん、最初は興味だったんだけどさ、今はほら、キミのこといっぱい知ってるじゃん?」

 

 それはその通りだ。一緒にいる時間が長いんだからと彼は頷く。そこで日菜はだからもうとっくに興味はないんだよね、と呟いた。日菜にとってもう彼は知り尽くした相手であり、知りたいと思う相手ではないという事実を単純に突き付けていく。

 

「でも不思議でさ……パスパレもそうなんだけど、知ってるのに一緒にいて退屈しないし……なんかね、特別なんだよ」

「特別、か」

「うん、トクベツ」

 

 興味があるわけではないけれど、それでも一緒にいたいと思える。なによりも自分をただ一人の氷川日菜として見てくれるということが、彼が彼女に選ばれた要因だった。

 ほっとしたように微笑んだ彼に向かって食べ終わった弁当箱を乱雑にしまってから、嬉しそうに椅子を彼の隣に置いた日菜がネコのように目を細めて彼の温もりに頭を預けていく。

 

「ねーねー、星観た後泊まってっちゃダメ?」

「怒られなかったらな」

「うんっ、電話してみるー!」

 

 底抜けに明るい声で電話をするために離れようとした日菜を手招きし、彼はその頭を撫でていく。傍にいてもいい、と言われたような気がした日菜はますます笑みを輝かせて、腕にまとわりつきながら電話を始めた。母親が出たようで、軽い調子で恋人の家に泊まってもいいかということを伝えていく。母からまず出たのは着替えとかは、という言葉だった。

 

「あー、どーしよ」

「……いっそのこと三限休んだら? 別にノートとか取らないだろ?」

「あ、そっか!」

 

 また余計なことを教えたな、と少しだけ後悔しつつも何かある度にくっついてくる日菜の顔を見てまぁいいかと彼は思うことにした。日菜はそれから何度かやり取りをしていると唐突にぱっと顔を上げ、いいの!? と声を出した。最高潮に嬉しそうな顔をした日菜はわかった、じゃあねという言葉を最後に通話を終えた。

 

「どうしたの?」

「えへへ、おかーさんが持ってきてくれるんだって。サボんなくて済みそう」

「よかった。悪いこと教えたんじゃないかってヒヤヒヤしてた」

「えー、あたしそんなカンタンにサボったりしないもーん」

 

 講義が退屈でも、興味のない人に話しかけられても、それでも彼女は寝坊はしてもサボることは一度もなかった。

 それを彼はどうしてとは問わないところが、また日菜の心を弾ませた。同じ気持ちでいてくれているから伝わるという幸せが、二人の空間を埋め尽くしていく。

 

「えへへ……好き、好き好きっ、大好き!」

「ぐっ……きゅ、急に突進してくるな」

「だって! 二人きりの時はちゃんと伝えてほしーってゆったのキミだもん!」

「物理ダメージで伝えてくるんだな?」

「うんっ」

 

 文字通り好きを伝えるために頭を下げて抱き着き……もとい突進をした日菜の石頭を鳩尾で受け止めた彼は、その痛みに呻きながらも、俺も日菜が好きだと優しい声で返事をした。締め切られた窓を突き抜ける日の光で暖められた部屋が、彼の声を同じような温かさで日菜を包み込んだ。

 

「うーん、もっと誰かいても関係なくぎゅってしたい」

「恥じらいを持ってくれない?」

「え、恥ずかしくないよ?」

「……あのな」

 

 そもそも日菜はアイドルだろとツッコミを入れられ、彼女はそーだけどさーと胸の内にある不満を隠すことなく吐露していく。

 好きな時に好きと伝えられないという不安がないわけではなかった。可能な限りは彼の傍にいるが、周囲はルックスもスタイルも他とは一線を画す氷川日菜というアクセサリーを身に着けようと必死にアピールをしてくる。そのせいで昼にこうして二人になれない時もしばしばあるのだった。

 

「あの人たちにとってカノジョは服とおんなじだよ。ブランドものをオシャレに着こなせばステータス、みたいな」

「……まぁ、そんな感じする」

「でもキミは違う。だからあたしは一緒にいたいって思ったんだもん」

 

 その出発点が恋だったかと問われると、日菜も彼も違うと答えるだろう。だが二人は恋をした。アクセサリーではなく、アイドルなんていうブランドも関係なく氷川日菜を受け入れた彼を、いつしか日菜は特別だと感じるようになっていた。

 

「あ、でもさ日菜」

「なにー?」

「構われて鬱陶しいなら俺のとこ来ていいから。カレシです、って堂々とは言えないけど、独占くらいはしてあげるよ」

「……っ、い、いいのかな~? あたしが構ってほしくなってしょうがなくなっちゃうかもよ?」

「講義始まるまで、ってことでどうだ?」

「──るんってきた!」

 

 困らせようとしても、困ってくれない。自分がきっと他人には理解されないことを言ったとしても、理解はしないけれどしないなりの言葉をくれる。日菜にとって彼は特別の塊だった。自分が恋をするためにここで待ってくれたのだとすら思えるくらいに、日菜と彼は感情のバランスの取れた二人になっていた。

 

「卒業まで後一年だね」

「ん? そうだな」

「卒業したら、同棲したいなぁ……なんて」

「いいよ」

「いいの!?」

「なんでびっくりすんだよ……日菜ならそう言うと思ってたよ」

 

 わかっちゃうのかぁ、と日菜は彼を見上げ、一等星のような笑みを浮かべた。色々なものが積み重なった未来という名前だけがキラキラとする暗闇に、それでも確実な線を引いていこうと彼は決めていた。

 ──日菜と共に過ごすという先を、見つめるために。

 

 

 



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【大和麻弥】キミという魔法にかけられて

 芸能事務所のバックバンドや機材係として活動していた大和麻弥は、新結成されたアイドルバンドの臨時のドラマーとして呼ばれた。

 そんななんでもないはずのきっかけが、彼女の始まりだった。

 

「大和、おつかれさん」

「あ、どうも」

「なんかの収録?」

「いえ、今日は機材を少し」

「まだやってるんだ、そっちも」

「本当はコッチが本業で雇われてる身でしたから……申し訳なくて」

 

 気にする必要ないと思うけどねと缶コーヒーを片手に笑う彼に、麻弥はそうっスね、と力なく笑った。

 デビューは苦い記憶になってしまったけれど、だんだんとリリースイベントや小さな仕事をこなして、認知が上がってきた。だからこそ麻弥はふと、ここにいていいのだろうかという思いに駆られてしまうのだった。そんな小さな、けれど大きくなっていく不安から逃げる時、麻弥はいつも同じ場所にいた。事務所の小さな休憩所。いつも三つ上の彼がやってくるこの場所に。

 

「あなたに会えなくなるのは、嫌なんです」

「……事務所ではやめてくれ」

「……そうですね、すみません」

 

 堂々と彼はジブンのカレシなんです! そんなことが言えたらどれほどよかったのだろうと麻弥は力のない笑みを自嘲的にしていく。

 思い切って白鷺千聖には打ち明けたら、驚きつつもいいんじゃないかしらと微笑んでくれた。そもそも暗黙の了解としてアイドルは恋愛をしてはいけないというものがあるが、別に事務所はおおっぴらに禁止をしてるわけではないのよというありがたくも腹黒い言葉を聞き、麻弥はこの想いを捨てきれずに、胸にしまっていた。

 

「話題になってたよ」

「はい?」

「大和のこと、シンデレラだって」

「……シンデレラ、ですか」

「そう。裏方で誰にも注目されなかった灰かぶりが、魔法に出逢って、誰からも認められるヒトになる。大和にとってパスパレは魔法だったんだな」

 

 臨時の代役として抜擢され、そのまま正規メンバーへ。今では生来の性格が持つイベントでのその対応の丁寧さと男性にも女性にも接し方の変わらない身近さ、そしてなにより目を引くのはメンバーの中で唯一の楽器経験者だったという、経験と技術力。それらが合わさりファンも多いのだった。

 だが麻弥は、そんな称賛の言葉たちを否定していく。

 

「それは……良い方ばっかり見過ぎです」

「え?」

「ジブンは、そんなにキラキラしてないですから」

 

 対応が丁寧だと言われるが、それは千聖には到底敵うはずがない。彼女は顔を覚えられるようにリピーターの特徴や話した内容をスマホにメモし、暗記している。ファンにとって認知されているという事実はその人物にとっての優越感、満足感を満たすものだから、これからもファンでいてくれるために努力を惜しまない千聖の姿を見て、自分が丁寧だと言われるのは我慢できなかった。

 

「ジブンのいいところはみんなが持ってます、ジブンだけじゃない」

 

 身近さは若宮イヴの最大の特徴でもあった。思わずハグをしてしまいそうになりスタッフに止められた経歴を持つ彼女は、飾らない素顔で接していく。

 他の特徴もそうだった。演奏技術も唯一の楽器経験者とも言うけれど、経験を全て置き去りする氷川日菜の技術には麻弥が追いつけないと感じるには十分なものだった。

 なにより日陰でうずくまっていた灰かぶりがそれでも現状を変えようとあがいた結果、魔法をかけられ、それは一時的で解けてしまったとしても、一つ残したガラスの靴から返り咲くというストーリーは、麻弥に当てはまるものではない。

 

「それは彩さんみたいな子にこそ相応しいんです。努力して、努力してお披露目ライブの最中で魔法が解けてしまっても、その努力は残って……今はちゃんとパスパレといえば丸山彩、ッスから」

「……大和」

「ジブンなんてせいぜい、編集される前のシンデレラッスよ」

 

 その言葉の意味がわからずに首を傾げた彼に、麻弥は解説を始めた。

 シンデレラが今のカタチになる前と言われているロードピスの物語はもっと突拍子のない話だった。エジプトの女奴隷で、肌の色の違った少女はたまたま主人に踊っているところを見られてサンダルを送られる。そのサンダルを隼が持っていってしまい、隼が落としていった先にいたのがファラオだった。

 ファラオはこれを神託とし、サンダルにぴったり足の合う女性との結婚を宣言し、ロードピスは見染められ結婚した。

 

「ロードピスと一緒です、ジブンはなんにもしてないのに、千聖さんに言われるがままパスパレのメンバーになって、そうしたらなんでか人気が出ただけ、ただそれだけ……」

「それだけじゃ白鷺千聖も、推薦はしなかったんじゃないかな?」

「そうッスかね……」

 

 毛先を指で弄りながら、麻弥はやはり自嘲した。パスパレのメンバーはみんな前向きな人物ばかりで、いつもいつも前を見ている。夢に向かう力、夢を現実にする力。それがアイドルに必要だと痛感させられる。だから麻弥はここで、アイドルではない自分を創り出し、心を守っているようだと彼は感じた。

 

「あーでも、あなたが居てくれてよかったです。ジブンはこうして吐き出さないとやってけないスから」

「あ、おい」

 

 これ以上彼に迷惑をかけるのはやめよう。そんな気分だった。前は頑張るんで見ていてくださいと息巻けていたのに、だんだんと言えなくなる自分を見られたくなかった。見守っていて、愛してくれる彼に申し訳ないという気持ちで、立ち上がった。

 

「──()()!」

「……え、あ……あの?」

 

 だが、立ち上がろうとした手を引かれ、麻弥は視界が黒くなったことに戸惑った。機材の油と汗の匂い、そして、彼の匂い。いつもは風呂に入ってからなと近づけさせてすらくれない彼が、麻弥を包んでいた。

 

「俺は、麻弥のなんなんだよ」

「……恋人、っス」

「そうだ、恋人だよ。あの日麻弥を応援するって言ったのは、ただキラキラしてるところを見たいからじゃない。大和麻弥の全部が好きだから、今度は俺が麻弥の裏方として支えてやるって意味なんだよ」

「……でも」

「泣けよ……俺の前なら、泣いてもいいから」

 

 ──限界だった。麻弥は堰き止めていたものを吐き出すように、彼の服で涙を拭っていく。涙とともに溢れた愛を唇に乗せて、そっと重ねて、彼からの愛情をねだっていく。謙遜も自嘲もなく、傲慢に、強欲に。

 

「午後から……サボりませんか?」

「大和……」

「ジブンは、傷心中っスから……一晩かけて、癒してほしいです、なんて……フヘヘ」

「どこでそんな誘い方覚えてきたんだよ」

「えーっと、千聖さんから……ってこれはやっぱりヒミツです。怒られちゃいますから」

 

 もしかしたら、いつも大人びた雰囲気を持っている千聖にも自分のように甘えて、誘惑する相手がいるのだろうかと、ふとアドバイスを思い返し、すぐにその相手に思い至ってしまったが故に、麻弥はこれ以上の思考を打ち切った。

 おおっぴらには禁止にされていないということを知ってる理由も、全て説明がついてしまうことも、麻弥は考えるのをやめることにして、今は目の前の彼を頷かせるために言葉と唇と舌を重ねていく。

 

「そうでした。これからは麻弥って呼んでほしいです」

「……わかったよ」

「フヘヘ、いっぱい、名前で呼んでくださいね……恋人なんですから」

 

 いずれ麻弥は、自分のアイドルとしてのアイデンティティに目覚めていく。けれどそうあるほどにどうしようもなく、どこかで甘えたいという欲が出る。その度に麻弥はまた彼がいつも休憩をする場所にやってきては、甘いひと時を、時にはひと時では済まない時間を、過ごしていくのだった。

 



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【若宮イヴ】一瞬の永遠をキミと

 空は橙を段々と紺色に変え、星が目覚めていく。月明り下には星のようにまばらで淡い提灯が踊っている。

 祭囃子に太鼓の音が聞こえ、屋台がひしめく参道は色とりどりの浴衣姿や私服姿の老若男女ににぎわっていた。

 ──そんな人込みの中、一人の女性が息を切らせて小走りに男性の元へとたどり着いた。その容姿はまるで妖精のように通りゆく人を振り返らせた。

 

「す、すみません! 着付けに時間がかかってしまって……!」

 

 大きな瞳を伏せて謝罪を示す彼女の名前は若宮イヴ。提灯の明りすらも反射し銀色に煌めく髪、アジア系と欧州系の間のような顔立ち、長身にスラリとした手足を持つ彼女は、今日は白色にピンクと青の蝶が舞う浴衣姿だった。アップにした髪は普段見せないうなじが協調され、鎖骨や細い腕、ひらりと跳ねる脚は魅力にあふれていた。

 

「いや、いい……いいんだ」

「よくありません! かくなるうえは、腹を切って……ってどうしたんですか?」

「なんでもない……腹を切ったら意味ないだろ」

 

 そんな一段と妖精のような妖しさすら感じる女性に待っていた彼はそれに文句も愚痴も言えなくなるほど、見惚れていた。

 顔を覗き込まれ、浴衣では少々はだけすぎる胸元から視線をそらしながら紺色の甚平姿の彼はイヴの手を握った。

 

「あ……」

「人多いから、はぐれるなよ、イヴ」

「──はいっ!」

 

 不器用で恋愛下手な彼から手を握ってもらったということで既にイヴのテンションは最高潮に近くなっていた。寄り添い、そしてあまり縁がなかった夏祭りというものに指を差し、彼を振り回していく。

 リンゴ飴、チョコバナナといった屋台ならではの食べ物、射的や輪投げ、スーパーボールや金魚すくい。彼女はその度に目を輝かせた。

 

「金魚! 日本の夏の風物詩ですね!」

「金魚ならウチにいるんだけどな、年中」

「……あれは、あんまりかわいげないですから」

 

 そのセリフに彼はぷっと吹き出し、笑い始めた。数年間庭の池に生息する金魚はサイズもふてぶてしさも、金魚すくいで憐れにビニールの狭い世界に晒されるものとはまるで違っていた。エサをねだる肉食のような荒々しさはかわいさの欠片もないものだとイヴは常々感じていた。

 

「ブシとして……狙いは外しません!」

「射的でブシドーもクソもないんじゃないか?」

「そんなことは──あ」

 

 射的ではこれまたブシドーとはかけ離れたかわいらしい小物を狙うイヴだったが、思うようには弾は当たってくれずに全く何もないところへと消えてしまう。眉根を寄せたイヴを見兼ねた彼は貸して、と銃を取り、コルクをつめていく。

 

「こーゆーのはだな、ブシドーとかじゃないんだよ」

「……え?」

「理屈だよ。どこに重心があんのかとか、弾のブレかた、とか……な!」

 

 そんなことを言って放った弾丸(コルク)は見事にヒットした、のだが、倒れるまではいかなかった。だがイヴからすれば狙っても狙ってもちっとも当たらなかったものを当てた、ということであどけなく飛び跳ねた。

 

「すごい、すごいです!」

「だろ? まぁ取れなかったけどな」

「それでも、やっぱりすごいんです! もっと自慢しましょう! ケンソンなんていりません!」

 

 彼が自分のできなかったことをしてくれたことが嬉しくて、自分のために何かをしようとしてくれたことが嬉しくて、思わずイヴは彼に抱き着いていた。ハグしましょう、といつものクセであることもあり彼も特に恥ずかしがることもなく彼女の背中に腕を回しありがとう、と笑った。

 ──射的の店主の咳払いが聞こえるまでは。

 

「あ……す、すいません」

「いやいや、ラブラブでいいじゃねぇか! ほら、カレシの頑張りに免じて、お嬢ちゃんにはこれをプレゼントだ」

「え、い、いいんですか!?」

「遠慮はいらねぇよ」

「ありがとうございますっ!」

 

 深々と頭を下げてイヴは小さな白色と青色のイルカの置物を店主から貰い、巾着袋に入れた。

 ──アイドルとなる以前から付き合いがあった彼との関係を続けてることが本当はアイドルとしてよくないことをわかっている。けれど、よかったなと頭を撫でてまた手を繋ぎなおしてくれる彼は、イヴにとって何よりも代えがたい宝物だった。

 カランコロン、と慣れない下駄と浴衣の歩みに合わせてくれる彼が、イヴは何よりも大切なヒトだった。

 

「花火、人多そうですね……」

「だろうな」

「でも、キレイな花火、日本の和の心! 見たいです!」

 

 あなたと一緒に、花火が見たいんです。そんな気持ちを込めた彼女の言葉に、彼はそういうと思ったよ、と笑う。笑ってだからとっておきの場所を教えてやる、と彼女の手を引いた。

 

「え?」

「とびきりの場所だよ。人込みもないしゆっくり座ってみれるし、イヴが人目を気にすることのない場所だ」

「それは──」

 

 どこですか? という言葉に彼はいたずらっ子のような笑顔で提灯の明りから、人々の喧騒から離れてく。その道をイヴは知っていた。庭が広くて少し高いところにある、祭りのすぐ近くにある、彼の家だった。

 庭に椅子を置き、そろそろだなとスマホを見た彼の言葉を待っていたように、二人の眼前に夜空に、大輪の花が咲いた。色とりどりの鮮やかな燃ゆる花たち、その迫力にイヴは感嘆の声を上げた。

 

「わぁ……キレイです」

「だろ? まぁ、めちゃくちゃうるさいんだけど」

 

 苦笑い気味の彼の言葉をかき消すように、花火は轟音を鳴らして空気を揺らす。そのあまりに大きな音の中でも話ができるようにとイヴは彼の肩に頭を乗せた。

 暗がりにパっと一瞬光るその景色の中、二人は何度もその影を重ねていった。人目を気にする必要のない二人だけの世界の中では、花火の轟音ですら、阻むことはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「とってもハクリョクマンテンでした! 感動しました!」

「それはよかった」

 

 花火も終わり、静寂を取り戻した中で、イヴはその余韻に浸っていた。既に紺碧に染まった空には月明りと星の煌めきだけだというのに、彼女の瞳の中には未だにカラフルな花たちが浮かんでいた。

 そんな幻視の世界に旅立っている恋人に向かって彼は少しの溜息をつきながらおーい、と呼び掛けた。

 

「そろそろ帰らなくていいのか?」

「……あ」

 

 現実に戻される。帰らなくていけないのだという現実にイヴは花火たちを曇らせた。滲んでいく景色に彼女が躊躇いを見せたのもまた、花火の如く一瞬だった。

 迷いを吹っ切って、少女は妖精の羽を羽ばたかせ、愛おしい彼の腕の中に飛び込んだ。

 

「今夜は……帰りたくありません」

「は……え、えっ」

「ダメ……ですか?」

 

 

 ダメっていうか、ほらイヴは浴衣だから、と必死に彼は止めようとするが、イヴはそれなら服を貸してください、と譲らない。

 獅子奮迅、背水の陣で挑む不倶戴天の武者のように、若宮イヴはただ前へ進む。

 

「この花火を一瞬の思い出にはしたくないんです……! 私に、永遠の思い出を、くれませんか?」

「──っ!?」

 

 彼の肩が跳ねた。まだそこまで進んでいなかった関係を進めるような、誘い文句。その言葉を受けてゆっくりと頷き、抱き寄せたイヴの唇にそっとキスを落とした。何度も触れ合ったそれとは違うキスにイヴはきょとんとした顔をしていた。

 

「……え?」

「え?」

「え、なにその反応」

「何がですか?」

「いやだって……永遠の思い出をって、え?」

「はい、ですから、今日という日を、あなたと一緒に過ごしたいんです……?」

「え、だから……もしかして、ただ泊めてほしいってこと?」

「はい!」

 

 がくっと彼は肩を落とした。彼女の日本語が若干意味が違ってしまうこともあった。だが、それでもこの大事な場面で外してしまうとは、と。だがそれは逆に非常にイヴらしいことでもあるため、今度は肩の力を抜いて笑顔を浮かべた。

 

「ふ、ふふ……あはは」

「え……えっと?」

「いや、イヴらしいなって……泊まるって言ったらどういうことか、考えてないなんて」

「……あ」

 

 そこでようやくイヴ自身も自分が何を彼にぶつけていたのか理解し、真っ白な肌が朱色に染まっていく。

 うなじまで真っ赤になったイヴは、尻込みしてしまいそうになったが、一緒に見た景色とその時に合わせた唇を思い出し、小さな声で呟いた。

 

「……いいですよ」

「はい?」

「そういう覚悟も……できてます」

「待って絶対嘘でしょ」

「ブシに二言はありません!」

 

 何故そこでブシドーを思い出すんだよと彼は内心でツッコミを入れた。だがイヴは本気で覚悟は決めたように、彼に抱き着き今度は唇を奪い去った。

 ──本気かよ、という彼の言葉に若宮イヴは、妖精のように煌びやかな瞳の光を宿し、武士のように強い覚悟と決意を秘めて彼に向けて二言の無い宣言をしてみせた。

 

「はい! それが私のブシドーですから!」

 

 少し意味が違うが、やはりそれも、イヴの魅力のひとつだと彼は諦めたように彼女を抱きとめた。帯を解き、滑り落ちた彼女の白は、永遠の白の輝きを宿していた。

 風鈴がチリンと揺れる。瞳の中では花火は打ちあがり続ける。彼女の高校一年生の夏休みのとある一日は、若宮イヴにとって永遠の思い出となった。

 



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Roselia
【湊友希那】キミと進むという決意


 高校を卒業し、実家から少し遠い音楽を専門とする学校へと通うことに決めた湊友希那は、二人の幼馴染と共に下宿をしていた。

 ルームシェアをする友希那と今井リサ、そしてその二人と一緒に過ごす黒一点、それが彼だった。

 そんな三人の休日の一幕は、エプロンをつけたリサが怒鳴るところから始まっていた。

 

「片付けしなさーい!」

「……オカン」

「オカンね」

「いいから──早く、ハリー!」

 

 日常の一幕、昔から変わらない、ようで少し変わった三人のなんでもない日々の始まりだった。

 彼と友希那は音楽こそ一流だが、それ以外の生活がてんでダメだった。それすらも昔から変わらなかったために、リサは下宿についてきたようなものだった。

 

「休日くれーさぁ、昼まで寝ててーよ、リサぁ~」

「……同感だわ、思いっきり歌を歌いたいわ」

「あのね、アタシさ、お昼からカレとデートなんですケド?」

「知らん」

「知らないわ」

 

 また怒号、男性の部屋だというのにずかずかと侵入し、脱ぎ散らかした衣服や散らばった楽譜たちを纏めていく。下着もあるのにお構いなしに触るリサに、彼は少しだけむっと言葉を紡いだ。

 

「プライバシーは? プライドは?」

「は? 片付けない男にそれいる?」

 

 しかしながら男女以前に片付けをしない幼馴染の前に本気の怒声を出したリサに、彼は素直にすみませんでした、と沈んだ。

 女性の手に片付けられていく下着やら恥ずかしいものを指を咥えて見ているところに友希那がふふんと鼻で笑って、彼の肩に手を置いた。

 

「ざまあないわね」

「お前……友希那……」

「ってか……友希那もね?」

「なんですって……?」

 

 いや、なんでそんな意外そうな顔ができるの……? とリサは苦笑いをする。そして彼同様、友希那の部屋に散らばった楽譜やら下着やらをリサはぽいぽいと放り出してきた。どちらも酷い有様だと嘆息するリサの耳に抗議の声が届く。

 

「ちょ、ちょっとリサ……!」

「文句言うなら日頃から片付けてね?」

「まぁ、友希那のパンツなんて見慣れてるし──っ!?」

 

 その彼の言葉に友希那は素早く指でチョキを作り、彼の二つの眼球をかわいらしい、えい、という普段の彼女とはかけ離れた掛け声と共に突き、断末魔が彼の声から出た。

 リサが振り返り、いつものことだとばかりに近所メーワクだよ~、と笑う声がしているが、彼は冗談じゃない、とのたうち回っていた。

 

「ばっか、お前……ふざけんな……!」

「盲目でも大成する作曲家もいることだし、いいじゃない」

「よかねぇ……」

 

 ともあれ、そんなじゃれあいが合図になったように、友希那と彼は同時に部屋の掃除を開始した。リサはそれを腰に手を当てて見ながらため息をつき、デートのための支度をし始めた。

 

「夜はカレも来てここでご飯食べるから、間食は禁止ね!」

「わかったわ」

「りょーかーい」

 

 リサとリサの恋人と彼と友希那はよく一緒に顔を合わせるような仲だったが故に二人はあっさりと受け入れる形で返事をした。

 パタパタとシェアハウスから出ていくリサ。そしてそれを見送り、顔を見合わせた友希那と彼は同時にほっとしたような安堵の息を吐いた。

 

「マジで、リサは母さんみたいだよな」

「本当ね」

 

 くすくす、と笑い合って、二人は同時に腹の虫に苛まれた。

 そんなタイミングにまた友希那はふわっと微笑みを浮かべ、彼は苦笑いをする。孤高の歌姫と呼ばれた彼女と、そんな彼女と沢山の時間を過ごした彼だからこそ過ごせる、安らぎの世界がそこには存在した。

 

「確かメシ……昨日の残りがあったな」

「そうだったかしら?」

「リサが言ってた」

「そう」

 

 レンジに昨日のから揚げを入れ、既にリサによって炊き上がっている炊飯器を確認し、二人は向かい合ってマイクロ波の響く音を聞きながら雑談を繰り返す。

 

「あ、新しい曲書けたんだが」

「まぁ、見てあげるわ」

「友希那の音域には合ってると思うがな」

「流石ね」

「だろ」

 

 短い言葉の応酬だが、二人には通じる何かが存在した。長い時間の中で積み重ねられた距離感が、二人の間にはある。それは時折、リサが立ち入る隙のないものであった。数年前ならトゲトゲしさもあった友希那も、すっかり表情が柔らかいことが増えていた。

 

「ありがとう、使わせてもらうわ」

「どーいたしまして」

 

 高校時代なら、バンド結成以前から直後ならこんな言葉は出さなかった。ふわりと微笑み、鼻歌を奏でることもなかった。

 ──音楽に全てを懸けること、それをやめたわけではないが、それとは別に、友希那には大切なものが積み上げられていた。

 

「これ食ったらまた掃除再開だな」

「ええ、怒ったらご飯抜きにされてしまうわ」

 

 普段から音楽に没頭し、家事やらなにやらをリサにまかせっきりにしている二人は微妙に温まりきらなかったからあげと、タッパーに詰まっていたサラダを黙々と食べ始める。その二人の脳裏にあるのは片付けではなく、やはり音楽のことだった。

 

「好きよ」

「ありがと、俺も好きだからな」

「ふふ、そうね」

 

 伝え合う想いに、空気が温かくなる。

 大学でも交わされる短い会話でのやりとりだが、この会話に男女の恋情は込められていないことを知るのはリサだけだった。

 ──新曲の流れが好き、自分でも自信を持ってる。そんな会話。だがそれを極限まで言葉を排したやり取りは、しばしば、カップル認定を受ける理由でもあった。

 

「……これが洗剤、だったわね?」

「確か、リサが使ってた」

「……これは!」

「どうした?」

 

 昼ご飯を食べ終わり、二人は肩を寄せ合い、シンクに向き合っていた。リサが出かけている時の最大の難関と言っていいもの。それが、食器洗いだった。

 まず、洗剤がどれかうろ覚え。隣にはクレンジングや三人分、ないし四人分を纏めて食器洗いをするためにリサが購入した食洗器、それ専用の洗剤があり、常識人なら見分けのつくそれも、非常識な二人にとっては難関だった。

 なんとか記憶から正解を引き出し、スポンジに洗剤を垂らし、泡立てたところで友希那がはっと、何かに気づいた顔をした。歌詞のアイデアか、と彼が問うと友希那はゆっくりと彼を見た。

 

「見て、めちゃくちゃ泡立つわ」

「……洗剤、使いすぎたらまた怒られるぞ」

「そうね、けれど戻せないのだから仕方がないわ」

「開き直っちゃだめだろ……」

 

 後で怒られるのも怖い、と彼はリサにメッセージを送って謝罪しておく。そもそも家事全般が壊滅してる以上、今更よほどのことをしないとリサは本気で怒ることなどないのだが。

 だが、友希那も彼も予感している危険はあった。

 

「慎重にな、友希那……」

「わかっているわ……そのくらい」

 

 余分に泡立ち、それが手につくということは如何なる惨事を招くか。それは手を滑らせてうっかり皿、茶碗を割る、ということだった。

 友希那が覚束ない手でゆっくりと汚れを落とし、ツルリと滑らせてもいいように彼が目を光らせていた。

 

「っ、あ!」

「おっと、セーフ」

 

 そして案の定、皿を滑り落とし、寸でのところでキャッチ、なんとか一枚の皿が諸行無常の理を体現することはなかった。

 泡を水に流し、ついでに先程の危機も水に流した二人はふぅと息を吐いた。こんな単純な作業も、二人にとっては大変なものだった。

 

「食洗器、使えればいいのだけれど」

「ボタンがわかればな」

「本当ね」

 

 食洗器さえあれば水洗いをしてボタンを押すだけ、それだけ時短できて音楽に時間を費やせるのだが、そうもいかないのが彼と彼女という人物だった。

 覚えなければ、と思わないわけではないが、それ以上に音楽に容量を割いている二人にそこまで求めてないというのが、リサの本音でもあった。

 

「そういえば」

「どした?」

 

 シンクで達成感に浸っているところに、友希那がぽつりと零した。皿の水滴が落ちていくのを、宝石のような琥珀色の瞳に写してはいるが、友希那が見ているのは別のものだった。

 ──微笑むリサ、その隣でまた同じように笑う男性、その二人の織り成す空気。それらを幻視していた。

 

「恋人とは、恋とは、どういう気持ちなのかしら」

「……そーだなぁ」

 

 羨ましい、と思ったことは一度もなかった。それだけ、この生活に不満はなかったし、これまでもこれからも、自分は音楽と向き合って生きていく。その考えは変わらなかった。けれど、それ以上に彼女の脳裏にはリサにとっての恋人の存在が、如何にして彼女を変えたのか、その変化に着目していた。

 

「俺も経験ないし、上手くは言えねーけどさ、なんつーの? フツーの若者が考える恋愛てのは、俺や友希那にとって難しいんじゃねーかな」

「フツーの……なら、フツーじゃないなら、なに?」

 

 やけに興味を示してくるな、と彼は見据えられた琥珀色に少しだけたじろいだ。だが、その恋愛、という事象に疑問を抱くという気持ちには賛同できる彼は、友希那の髪をサラリと撫でた。

 

「男にこんなのをされてドキっとすんのが、フツーの恋だろ?」

「しないわ」

「だから、フツーの、って前置きしたんじゃねーか」

 

 言葉通り、微塵にも心拍数は上がらないと友希那は首を横に振った。だが、リサは違うらしい、ということは言外で伝わった友希那は彼の言葉の続きを待った。

 彼は、友希那から自分の左手に目線を落としながら、持論を展開する。間違っているような気がする、そもそも、その手の持論に正解も不正解もない。そう思いながらも自分の考えを吐露した。

 

「パートナーって考え方なら、いいんじゃねーの?」

「パートナー」

「足りねー分を補いあって、生活する、みたいな感じ。音楽と一緒だな」

 

 足りない部分を補って完成する。それはかつての自分の音楽だと友希那は思い当った。孤高の歌姫では足らなかった部分はRoseliaという彩り豊かな花たちが補ってくれた。日常生活においても、それは変わらない、恋愛においても論理的には変わらないのではないか、そう、彼は考えた。

 

「それが、私たちがするであろう、恋」

「なんか恋、なんてガラじゃねーけどな。どっちかっていうと、音楽活動を邪魔されねー居心地のいい相手探した方がマシだよな」

 

 浮ついた雰囲気がある、恋、という言葉に、友希那は確かにそうね、と微笑んだ。ガラじゃない。恋をしたなんて喧伝するような性格でもないし、男に心を奪われることはなく、それなら猫に心を奪われていた方が有意義だ、とすら感じているのだから。

 ──しかし、同時に友希那は右隣に立つ彼を見上げた。もしも自分が誰かと結婚しなければならなくなった時、家庭を持つことを迫られた時、彼女にとって居心地のいい相手は……そう考えた時に真っ先に想像したのはハッキリとした一人の人物の姿だった。

 確かめる必要がある。友希那は本能的にそれを確かめる術を思い付き、実行に移した。

 

「ねぇ」

「今度はなん──っ!?」

 

 肩をたたき、振り返り彼の視線が下がったところに、友希那は踵を上げた。ゼロ距離に彼の睫毛があり、その柔らかく、独特の唇に伝わる感触に、同じように目を閉じた。

 ほんの一瞬のふれあい。友希那が再び踵を床につけ、目を開けた時にその琥珀色には、真っ赤になった彼の顔が映っていた。

 

「な、な、なに、なにしてんだ、お前……!」

「確かめたかっただけよ。さ、早く片付けましょう。私はにゃーんちゃんに会いにいかなければならないもの」

「いや、たしかめって、いやバカ……俺、初めてなんだけどなっ!?」

「私もよ」

「──っ!? いやバカだろお前!」

 

 くるりと優雅にターンし、なおも恥ずかしさにのたうち回る彼を放置して、友希那は自室の掃除を始めた。まだ部屋の隅に残っていた下着を手に持ち、廊下に投げようとして、ピタリ、と止まった。外には彼がいる。普段なら一切気にしない彼女だったのだが気分的に思いとどまった。

 とくん、と心臓が跳ねる。先程の感触、熱、そして表情。それらを目の当たりにした友希那は、改めて、自分には安らげるパートナーを既に手に入れていたことに気づいた。

 

「Roseliaの時と同じね……ふふ」

 

 足りないと思ったらすぐ近くに、その足りなかったものがある。かつての自分は一人でなんでもできる気がしていた。音楽も生きていくのも。故に曲も詞も全て彼女が一人で創り出していた。だが現実は、リサがいないと生活は成り立たず、一人で皿洗いもまともにできない。彼の(サポート)があって、リサの歌詞(サポート)があって初めて、成り立っていた。逆に、彼は最近スランプを抱えてもいた。彼は友希那の声でしか曲を書けなくなった、と頭を悩ませていた。彼もまた、友希那の(サポート)がなければ成り立たない。

 

「後で、リサに色々訊いてみようかしら」

 

 そしてまた、初めて見つけた感情を自分のものにするために、彼女は自然にリサを頼ろうと考えていた。

 友希那は、ふと彼が昔に呟いていたフレーズを思い出した。人は死ぬときは独りだが、決して独りでは生きていけない。そういった矛盾を孕む生き物だ、と。

 

「ならば、独り死ぬその時まで、頂点へ狂い咲くわ──大切な仲間(ロゼリア)や、家族(あなた)と共に」

 

 ──それは、湊友希那が強く美しく歌い上げる、人生という名の決意の詩。

 

 

 

 

 



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【氷川紗夜】キミと恋を始める

 ──クーラーの効いたスタジオにギターの音が残響を残していく。淡々とそれでいてその中に恐ろしいほどの熱を込めた演奏を終えた女性は、汗を拭った。いくら空調で涼しさを保っていても集中していればそれだけで汗は出る。それを自覚したのなら休憩時だと水筒をカバンから取り出し一気に煽った。喉が鳴り、身体の中が冷えていく。そこで漸く彼女はふうっと短く息を吐いた。

 

「あともう少し……」

「もう少し、じゃなくてそろそろ時間だけどな~」

 

 ギターを構えなおした彼女、氷川紗夜に対して、水を差す一言が投げかけられた。そろそろ時間とは言うがあと一回くらいできる、という無言の圧力を青年はまるでことなきことのように受け流して、まぁあと一回ね、と笑った。

 

「……もういいです」

「そう? じゃ、片付け手伝うよっと」

「余計なお世話……って聞いてませんね?」

 

 彼と紗夜の関係は恋人同士、ということになっていた。なっていた、というのはお互い、厳密に言えば紗夜の方がどうしたらいいのかわからずに距離感が変わらないことを言い表していた。

 

「あなたというヒトは」

「まぁまぁ、怒んなって」

「怒ってません」

「怒ってんじゃん」

「怒ってません」

「はいはい」

「もう、話を聞いて!」

 

 笑い流され、紗夜は憮然とした表情でもう、と唇を尖らせた。今日も本来は一人での学校帰りだったはずなのに連絡をしていたら急にそっちに行くよという返事とともにやってきた。それが恋人と一緒にいたいという思考だとわかっていても、音楽ばかりの自分に彼が笑顔を浮かべてくれるのは何故かと考えてしまうこともあるのだった。

 

「帰ろうか」

「……はい」

 

 そんな時間が過ぎて紗夜は隣に立つ同学年の彼を見上げた。ひょんなことから関係が始まり、それこそ告白をされた時には泣いてしまうくらいに嬉しかった。バンド仲間である今井リサや白金燐子に、相談を持ちかけたこともあった。だが、恋人であろうとすればするほど、紗夜は彼への気持ちの表しかたがわからなくなっていった。

 

「はぁ……」

「溜息はひでーな」

「す、すいません」

「謝る必要はないんじゃない? ほら、寄り道しないか?」

 

 そう言って、彼はいつも彼女が利用するファストフード店のスマホクーポンを見せた。ポテトの割引券に紗夜は釣られ、心がほぼファストフード店へと向かったところではっとした表情をした。

 ──恋人の距離がわからない紗夜だったとしても、彼女は彼女なりに恋人らしいことをしてみたいと考えていた。だからこそ、今日はファストフード店を選択するわけにはいかなかった。

 

「あ、あの……今日は別の寄り道をしませんか」

「別の……? どこかアテでもあるの?」

「はい……こっちです」

 

 紗夜はそう言って彼の手を引いた。事前に調べて現地のもの見ていたため、場所は把握している。

 彼は戸惑いながらも初めて彼女から自発的にどこかへ行きたいと言い出したという喜びが勝り口許を緩ませていた。

 

「ここです、前から花女でも話題にあがってたので……」

「ここって……タピオカジュースの店?」

「はい、タピオカです」

 

 彼女の言葉通り、向かった先はタピオカジュースを取り扱う店だった。夕方の時間帯であっても若い女性客でにぎわう、まさしくトレンドの中心のような場所を指定してくるとは流石に思いつかなかったため、彼は少しだけ驚きの表情をした。

 

「意外だよ、紗夜が、タピオカだなんて」

「今井さんが、流行りだから、と」

「今井さんが」

「私も、気にはなっていたのです」

 

 そう言いながら紗夜は直立不動で列に並んだ。思い思いに雑談をしたり、スマホを見せあっている集団に混ざるそれはあまりにも異質で、彼は思わず腹を抱えて笑いだした。紗夜だけでなく周囲が怪訝そうな顔をするが、彼は構うことなく笑い続け、そして紗夜の手を握った。

 

「いや、やっぱ俺、紗夜のこと好きだ」

「──っ、や、やめて……こんなところで」

「あはは、だってさ、紗夜は他とは違う魅力がある。俺が惚れた通りの紗夜だから」

「……それ、褒めてますか?」

「ふふ、褒めてる褒めてる。ベタ褒めだよ」

 

 あまり自分の言葉を語ることがすくない彼からもたらされたふとした本音。俺が惚れた通りの紗夜、という言葉で、紗夜は少しだけ納得することがあった。

 ──彼は氷川紗夜という人物に惚れ込んだ。それが例え不器用で、距離がうまく測れないような女だったとしても彼は楽しそうに傍にいてくれる。彼女のパーソナルスペースをきちんと踏まえて接していてくれる。そんな賢さを持つ彼に今までずっと甘えていたのだということ。

 同時にそれは、結局つまらない女であるということも、紗夜は理解することができた。

 

「んで?」

「はい?」

「紗夜のことだからタピオカってなんなのかーとかめちゃくちゃ生真面目に調べちゃったんだろ?」

「う、うるさいわね……その通りだけれど」

 

 そもそも聞き慣れない単語の食べ物を調べようとするのは当然では? という返しに彼は首を横に振りながらあっけらかんと笑った。

 誰もそんなこと気にしてないだろ、と。だからこそ紗夜は好きなんだと。

 

「それで? どうだった?」

「……タピオカについて、ですか?」

「そ」

「そもそもタピオカというのはキャッサバデンプンのことであって──」

 

 つらつらと語りながら、彼が楽しそうな顔をして頷いてくれていることで、紗夜はますます熱を帯びて語っていく。普段は寡黙な印象のあると自負しているのに、ここまで話を聞いて居心地がいいということ、それが自分にとっての恋だと気づくにはタピオカドリンクの行列は長かった。

 

「……ふふ」

「どうした? 楽しそうだな」

「楽しいのよ、あなたといることが」

「……そうか」

「今、照れましたか?」

「気のせい」

「照れてますよね?」

「紗夜……」

「ふふ、あなたのそんな顔が見られるなんて、嬉しいです」

 

 彼といるとつい饒舌になる。彼とがいると思うとつい音楽に熱が篭る。彼といることが紗夜にとっては途轍もない幸せを呼んでいることに初めて気づくことができた。いくら距離が変わらなくても、自分は恋をしているのだと。

 

「タピオカミルクティー二つ、お待たせしましたー」

「ありがとうございます」

「どーも」

「……ストローがずいぶん大きいのね?」

「そりゃ、タピオカを吸い取らなきゃならないからな?」

「なるほど」

 

 そんな聞けば何を言っているんだというような会話ですら、二人は充実していた。ファストフード店に寄り道をしても、喫茶店に寄り道をしても感じることがなかった恋人らしさというものを、二人はついに実感していた。

 ──それを先に言葉にするべきは自分だ、と感じた紗夜は彼に向かって頭を下げた。ちゃぽんとタピオカが跳ね、ストローでタピオカを吸い上げていた彼が怪訝そうな顔をした。

 

「ごめんなさい……私、これまであなたに好きと言われてきたことを忘れてしまっていたわ」

「いいよ、紗夜は不器用で生真面目なの知ってるし」

「ですが」

「そーゆーとこ、俺は好きだから」

「……もう」

 

 さり気ない好きの二文字に、紗夜は顔を赤らめた。だが今までの紗夜ならばその好きという二文字に思考停止し、彼女から返すことはできなかったが、その言葉の意味を理解することができたことで、素直に彼女からも言葉を返した。

 

「私も……好きです」

「紗夜……」

「これまではあまりあなたに応えられなかったけれど……こんな私でもいいなら、傍にいて」

「こんな私でもいいなら、はいらないな」

「……カッコつけるのね」

「紗夜がかわいくなるからな」

「傍にいて……」

 

 夕暮れの街を、タピオカミルクティーを片手に持った二人が歩く。もう片方の手でお互いの手をしっかりと握って、影を伸ばしていた。

 ──この日、氷川紗夜の恋は始まった。今度は誰かに流されるわけでも、誰かの声に耳を傾けているわけではなく、自分の意思で、自分の音楽で。

 

 

 

 

 

 

 



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【今井リサ】どんなキミもキミだから

 付き合い始めて、恋人としての順調な毎日、順調に続いていく、幸せの積み重ね。しかし、そこで彼ら、彼女らはふと気づく時があるのだ。

 ──どうして、自分のことを好きになってくれたのだろう。自己肯定感の低さか、あるいはこれまでの異性経験の無さか、とにかくふとした時に不安になってしまうのだ。

 

「あー、遊んだねぇ」

「そうだな」

 

 すっかり夕暮れとなった帰り道、今井リサはいつもの茶髪をそのまま降ろした状態で彼と手を繋いで歩いていた。夏休み、ということもありプールに行き、子どものようにはしゃいで、いつもよりも露出が多い、ということでドキドキはしながらも、久しぶりにデートを満喫したという満足感がリサの胸を躍らせていた。

 

「そういえば、予定立てた時は全然乗り気じゃなかったクセにさ、めちゃくちゃ楽しそうだったね」

「乗り気じゃなかった? 誰が?」

「……へ?」

 

 その言葉に二人はきょとんとした顔を合わせた。

 ──七月半ば、アルバイト先であるコンビニの休憩室でくつろいでいた彼に、クセのある茶髪を指に巻きながら、リサがプールに行こうよ、と提案した時、彼は確かに生返事をしたはずなのだ。

 普段はお姉さん然としていて、頼りがいのある人物として彼女の通う学校でも、アルバイト先でも知られるリサの乙女な表情、だが彼はそんな彼女の方は見ることなく、スマホゲームに心を奪われたまま、そんな記憶があった。

 

「そこで、ああいいな! なんて言えるわけないだろ」

「言ってよ、そこはさ」

 

 冷めている、という印象は最初からあった。冷めているけれど、人を良く見て、何も言わずにフォローしている姿に、リサは惚れたのだから。だが、告白をしてOKを貰ったものの、その態度は一切崩れないところに、彼女は時折、泣きそうな気分に襲われていたのだが、どうやらそれは彼なりのスタンスらしい、と半年を過ぎた恋人関係で初めて気づいたのだった。

 

「アタシ、自分だけが見て欲しい、ってばっかの、重い女なんじゃないか……ってずっと思ってたのに」

「重い? リサが? まぁ確かにな」

「……重いんだ」

 

 独占欲や嫉妬はする方だという自覚はあった。だがそうハッキリと口に出されるとショックだとリサは沈んでしまう。

 ──だが、そこで自分を見て欲しい、なんて、言えないにしろ思っていたことは事実だったため、黙るしかなかった。黙って耐えていれば、デートはしてくれる。食事においしい、とも言ってくれるし、流石の彼もデート中はスマホを触る回数も少ない。だから想いは通じ合っている、そう考えることで、なんとかリサは平常心を保ち続けてきた。彼は、それを指して、重い、と形容したのだった。

 

「バカだな、そんなんで泣きそうになることないだろ?」

「……だって」

 

 プールの塩素で少し引っかかる髪を優しく撫でる彼になら、言ってもいい、そんな甘えた気持ちがリサの中に出てきた。

 

「アンタは、アタシのどこが好きになったの……?」

「そんなこと外で聞くか、恥ずかしい」

「ゴメン……」

「ここで話すのは恥ずい……だから、ウチでゆっくり話すか」

「え」

 

 落ち込んだところで、リサは思いもよらない急展開に汗を掻き始める。ウチに、家、つまりは彼の部屋に上げてもらうということで、初めてのことにリサは心臓が縮み上がるような感覚がした。

 

「親ならいないから安心しろ……紹介なんてしてみろ、お祭り騒ぎが始まるからな」

「い、いない……いない」

 

 つまりは、という妄想がリサの頭の中を駆け巡った。二人きり、部屋、恋人同士、それが意味することがなんなのか、わからない年ごろではなかった。

 

「お、おじゃまします」

「おう、コーヒーでいいよな」

「うん」

 

 そこから僅か数分、ごく普通の一軒家に案内され、そわそわとリサは周囲を見渡した。整理整頓された、どこか事務的で無感情な印象の伝わる部屋、その壁や一部の棚にある、とあるガールズバンドグループのポスターとCDがリサの目に留まった。

 

「……これ」

「ん? ああ、Roseliaの」

「なんで」

 

 興味がないものだと思っていた。ライブに誘ってもいつもの如く生返事、そして予定が空かない、と断られてきた彼女にとって、彼の部屋に自分たちがいることに疑問を感じるのは当然だった。

 

「カノジョが有名人だってなら、そのくらいの興味はある」

「そんな素振りなかったくせに」

「見せるわけないだろ」

 

 そっぽを向いた彼の表情は伺い知ることはできなかったが、どうやら気になっていることを気付かれるのが恥ずかしかったらしい、ということが伝わり、リサもふにゃりと幸せそうに顔を緩めた。

 

「そっか、ふふ……そっかぁ」

「なんだよ」

「ううん、なんでもない」

 

 急激に紐解かれていく彼の感情に、リサはこれまで抱えていたモヤモヤとした感情を全て吐き出した。あまり表に出てくることのないけれど、その実、リサが考えていた以上に自分のことを中心においてくれる彼への気持ちが、高まっていった。

 

「……それで」

「うん?」

「好きになった理由……だっけ、知りたいの」

「……そうだった」

「忘れてたのか、この短時間で」

 

 彼がジロリと睨んでくるのを、いや~、わ、忘れてないよ~? と躱しながら、言外に続きを促していく。

 色々とスッキリした今でも、それは知りたい。自分がどうして想いを抱えたまま、こうしていられるのか、自分がどうして恋人として彼の傍にいられるのか、知りたかったのだった。

 

「……カッコよかったから」

「へ?」

 

 その理由は、リサが予想だにしなかったことだった。あまりに驚いたため、間抜けな声が部屋で静かに響いた。

 彼は、リサの反応にだから言うのが嫌だったんだ、とベッドに転がった。顔を伏せているため表情を察することはできないが、照れていることは容易に想像できたため、リサは新鮮な彼の反応に思わず噴き出した。

 

「ふふっ、あはは、カッコよかったんだ、どこが?」

「どこって、バイトとかさ……色々だよ、色々」

「うんうん」

「笑うなよ……とにかく、特に理由なんてないってこと! 俺が言いたかったのはそれ」

「特に、か」

 

 特に理由なんてない。理由なんて全て後付けで、ただ琴線に触れたから傍にいたいと思った。この場合はリサも彼も、アルバイトでの仕事への姿勢が、それに当てはまるのだが。そんな感慨と共に彼が普段使っているであろう手元のクッションを抱きしめていると、リサ、と彼の優しい声に振り返り、その触れ合いを受け入れた。

 

「でも、俺の態度のせいで……泣かせて、悪かった」

「ん……うん」

 

 くしゃ、と撫でられ、後ろから抱きしめられ、リサは充足感に目を閉じた。言葉のない、けれどそれは恋人の語らいと呼ぶには相応しい、甘く切ない時間だった。

 

「……プールの匂いする」

「ちょ、嗅がないでよ」

「でも、リサの匂いってさ、なんか、安心する。あったかい」

「……バカ」

 

 バカ、と言われて、少しだけ傷ついたように彼は唇を尖らせた。

 だが、その罵倒が悪い意味を含むものではないことがわかっていた彼は、少しだけ考えたあと、思い切った提案をした。

 

「まだ髪ゴワゴワだし……風呂入ってけよ」

「お、お風呂?」

「つか……泊ってけよ」

「え……えっ!?」

 

 彼の一言にリサは今度こそ耳まで真っ赤にするくらいに恥ずかしがり、大きな声を上げた。

 確かにいない、というのは聞いていたが、泊れるくらい……翌日までいない、というのは聞いていなかったための驚きだった。

 

「……いいだろ、別に」

「ダメじゃ……ダメじゃないけど、一回、一回だけ、家帰ってもいい?」

「お前……いいけどさ」

 

 こうして、彼の渾身の誘いは、まさかの一旦帰宅という予想外の結果に落ち着いた。パジャマとか、コンタクトとか、着替えとかほしい、という彼女らしい理由のため、彼も許したのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一旦リサが帰った間に、彼はお風呂に入ることにした。万が一にも一緒に入る、なんて所業はできそうにはないという理由と、髪がゴワゴワだとぼやいていた彼女を早く手入れをさせてあげようという配慮だった。そうしておいて、帰る際に彼はリサに家の鍵を手渡した。

 

「これは?」

「流石に独りだと鍵閉めないと危ないからさ、入ってる間に戻ってきたら困るだろ」

「なるほど~……アリガト」

 

 信頼、それとさりげない優しさ。その二つにリサは思わず赤面してしまった。

 彼の趣味らしいウサギのキーホルダーのついた鍵を片手に戻ってきたとき、丁度彼が髪を拭いている時だった。

 

「おかえり」

「……たっ、ただいま……」

「どうした?」

「なんでもっ、なんでもないから……あはは」

 

 初めてのカレシ、初めてのカレシの家、そして、初めて男性の家に泊まる。初めてづくしの二人きりにリサの緊張、そして突き付けられる覚悟は彼女の余裕を奪っていた。

 また、薄い半袖のシャツから見える腕、肩甲骨、そして短パンから見える足、チラリと見えた腹からもわかる筋肉も、リサにとっては意識をしてしまう原因だった。

 

「お風呂、いい?」

「いいけど……大丈夫か?」

「う、大丈夫……だもん、行ってくる」

 

 直視できないまま、彼の横を通りぬけて……そして少ししたころ、未だ玄関にいる彼に恐る恐るといったように話しかけた。

 

「お風呂……どこ?」

「だろうと思った」

「だって……ハジメテ、だし?」

 

 その上目遣いとトーンに彼はやめろ、とやや固い声を出し、お風呂への道案内をして彼は部屋へと戻っていった。

 

「……ハジメテ、ってなんだよ……どっちの意味だよ、バカ野郎」

 

 虚空に消えるその言葉は、リサが聞くことはなかった。

 夕焼け空はだんだんと紺色を経て、静かな夜の闇を引き連れていく。自分の家が、彼女一人いるだけでまるで落ち着かない、そんな気持ちに襲われていた。

 

「あ、お風呂ありがと~」

「おう、今から乾かす?」

「うん」

 

 待つこと一時間、しっとりとした髪をタオルで拭きながらやってきたリサに、彼はドライヤーを手渡した。一度仕切り直して、それがお互いに覚悟を決める時間になったせいか、開き直ったようにリサと彼は二人だけの時間を順調に過ごしていた。

 じゃあちょっと席外すわ、と部屋から出ていった彼を見送りながら、リサは冷静に周囲を眺めた。

 

「……今日、一緒に寝るのを提案する。それで、コレを……使う」

 

 そう言って、リサが化粧ポーチからとあるものを取り出す。万が一彼が持っていない、ということが原因で生殺しに遭うのを防ぐ、もしくはそのまま高まり、持っていない状態で一線を越えないために、一度家に戻った道すがらで買ってきていたのだった。

 

「半年過ぎてるんだもん、おかしくないよね……ないよね?」

 

 羞恥心とわずかな恐怖心がブレーキをかけそうになるが、自問自答とゴリ押しで頭の片隅に追いやっていく。彼からも、リサからもそういうことを口に出さなかっただけに、家に誘われたのをリサはチャンスと捉えていた。ここで恋人として一線を越えて、今よりも深まった関係に発展しようと、目論んでいた。

 

「……ベッドの近くの棚からすっと出す。ベッドの近くの棚からすっと出す……落ち着け、落ち着けよ俺」

 

 ──そして、奇しくもそれは彼も同じだった。プールの帰り、勇気を出して帰りに家に呼び、予め買っておいたソレを取り出す。頭の中では完璧に行われたシュミレーションも、実際に相手が自分の部屋で髪を乾かしている、という事実に、脆くも儚く崩れていく。

 

「ココで臆したら俺は一生童貞……きっと、リサだってわかってるはずだ」

 

 リビングで自分にそう言い聞かせる。その姿は彼が普段外に見せている、フラットさからはかけ離れたものだった。

 黙っていればカッコいい、という灰髪の後輩が放った言葉を信じた結果、引くに引けなくて半年、もうリサにはカミングアウトしたついでに、もっと深く繋がりがほしい、と彼は考えていた。

 

「ねー、髪乾かし終わったよ~」

「おう……そっか」

「今なら、嗅いでもいいよー、なんて」

 

 ぎこちない会話をしながら、部屋へと戻っていくとリサはベッドに座った。そして、彼の膝の間に座り、背中を預けながら、スマホを触り始めた。

 自然と覗き込むかたちになった彼は、リサの下ろした髪から香るシャンプーの匂いと、緩い胸元からチラリと見えた、ワインレッドに慌て、何事もないかのようにスマホを取り出した。

 

「……俺んちのシャンプーの匂いじゃ、ないのな」

「そんなことしたら、バレちゃうから」

「そっか、明日同じ時間だっけ、バイト」

「そーゆーコト、でもそっちは、一緒に行こうね」

「いいけど」

 

 SNSを追いかけながら他愛のない会話をするリサ、そして、スマホゲームよりも恋人との他愛のない会話よりもその恋人の胸元に視線が向かってしまう彼、という構図が十分ほど続いたところで、リサは彼にキスをした。そして、ニヤっと笑い、襟を指で引っ掛けて見せた。

 

「女の子って視線に敏感だからさ~、アタシ以外には気を付けなよ?」

「……お前、わざと」

「そういうとこ、好きだよ……あはは」

 

 それから先のことを、リサはあまりよく覚えていなかった。だが、朧げな記憶の中で、彼の名前を呼びながら、伝えた気持ちは、愛してる、ずっと一緒だ、という言葉で返ってきて、幸せだったことは、リサの胸の中にずっと残っていた。

 ──そしてそれ以来、二人の関係性が少しだけ、変わったこと。

 

「んっ、も、バカぁ……」

「好きな時にしてもいいって言ってたのリサだし?」

「お、覚えてないんだってばぁ~」

 

 リサの部屋で、彼に後ろから抱きしめられ、髪に顔をうずめられるリサがいた。

 下ろした髪が特にお気に入りらしく、バイト終わりに視線がそっちに向くことにリサは少しだけ、思っていたのと違う、という想いとそれ以上に、そんな変なところがあるのに微塵にも好き、という気持ちが消えてないことで、気付いたことがあった。

 

「アタシは、アンタだから好きになったんだよね……こーやって困った甘えんぼなトコも、カッコよくなっちゃえるところも、全部含めて……アンタなんだから」

 

 完璧な人間はいない。恋人にしたいと思った相手にも当然、欠点は存在する。だが、その時になって、気付くことができるなら、二人の関係はより深くまで進むことになるだろう。

 ──美点も欠点も含めて彼、彼女ならば、その欠点も全て愛している。リサは彼にそんな想いを抱いて、共に過ごしていくのだった。

 



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【宇田川あこ】キミが照らす闇の道標

 宇田川あこは、ファンタジーの世界に魅入られていた。原点としては姉のカッコいい姿。それを自分なりに追い求めていくうちにたどり着いたものが、ファンタジーの世界だった。

 自分を表現できるゲーム、NFOと出逢い、そして大切な友人と出逢い、彼女はゆっくりと変わっていた。

 

『あこちゃん、お疲れ様、今回復するね』

「ありがとーりんりん!」

『付き合っていただきありがとうございました』

「いえいえ、紗夜さんこれで素材は揃いそうですか?」

『ええ』

 

 現在は同じバンドを組んでいる白金燐子と氷川紗夜とともにクエストのリザルト画面を見ながら達成感に頬を緩ませた。ハイレベルプレイヤーであるあこと燐子、そしてミドルプレイヤーである紗夜、そして、かわいらしい女性アバターがもう一人いた。

 

「お疲れ様~」

『お疲れさま、また足引っ張ってごめんね』

「ううん大丈夫! りんりんの回復はすごいんだから」

『はい……いていただけるだけで、攻略が楽になりますから……』

 

 あこがボイスチャットでゲームをする最大人数は彼女を含めて四人、その四人の中で黒一点である彼にあこは問題なーしとフォローする。確かにまだまだ動きに無駄は多いものの、着実に上達している。紗夜の遠慮することなんてありませんという言葉も合わさって電話越しの少しだけ高いテノールボイスがありがとうとあこの耳朶を打った。

 

「あ、そうだ! 今からさ、ラーメンでも食べに行かない?」

『い、今から……?』

『私はもう食事を済ませてしまいました』

『あー、っと僕は大丈夫だよあこ』

「ホント!?」

 

 唐突に決まったオフ会に参加するのは結局彼だけとなり、ログアウトする。折角だから迎えに行く、と言われて楽しみに待っているあこに姉の巴がタオルで髪を拭きながらどこか行くのかー? と声をかけた。

 

「うん! ラーメン!」

「お、いいなアタシもついてっていいか?」

「え……あ、おねーちゃんはダメ! これはあこのデートだから!」

「で、デートぉ?」

 

 幼い印象のある妹には似つかわしくない単語に巴は素っ頓狂な声を上げた。

 だがあこはそう、と邪気のない笑顔を花開かせ、さっきまでゲームをしていたんだからよくよく考えてゲーム仲間の燐子か紗夜あたりだろうとアタリを付けた。巴も知るこの二人は夜にラーメン屋に行くというイメージがつかないことだけが引っかかる部分ではあったが。

 

「あ、迎えに来てくれたみたい! じゃー、行ってくるねおねーちゃん!」

「お、おう……大丈夫かな、あこのヤツ」

 

 もしかしてゲームで変な男にそそのかされて、そんな悪い方向に思考が進み幼馴染たちに連絡をしたものの心配性だ、大丈夫でしょ、とすぐさま返事をされて不承不承ながら納得することにした。

 

「わー! えーっと、出迎えごくろう……なんちゃって」

「はいはい、闇の女王様は今日も元気だね」

「そりゃもう! 妾は闇の住人、夜こそが──えっと、えーっと」

「ごめん僕はそれ助けてあげられないかな」

 

 とにかく会えたことがうれしいことを伝えたかったあこは普段はツインテールにしている、降ろした髪を撫でつけながらこんな時にりんりんがいたらなーと唇をとがらせた。あこの言葉を適切に拾い、言葉を補完してくれる存在は燐子だけで、彼にはその翻訳をすることはまだできなかった。

 

「……そうだね」

「うん? どしたの?」

「なんでもないよ」

「えーっ、気になるよ~!」

 

 姉である巴、リサ姉と呼ばれる今井リサ、尊敬するRoseliaのメンバーたち。また他にも彼女がカッコいいと評するものはたくさんある。だけれど自分は彼女に未だカッコいいと目を輝かせてもらったことはなく、それが少しだけ気がかりだった。

 ──気分転換で始めたオンラインゲーム。その中で初心者の頃に出逢い、何度も助けられたネクロマンサーが彼女である以上、仕方のないことではあるのだが。

 

「というかあこはこんな時間にラーメン食べて大丈夫なの?」

「えー、だってさ~」

「だって、そんなにお腹減ってたの?」

「違うよー」

「え、じゃあなんで」

「なんででしょう!」

 

 いやわかんないよと考えることなく苦笑いをした彼に向かってあこは唇を尖らせた怒り顔をする。わかってほしい、伝わってほしいけど言葉にしていくのは少しだけ怖い。そんな気持ちを彼にぶつけていく。だがわからないまま彼は首をかしげるだけだった。

 

「むー」

「考えてもわかんないって」

「そうかもだけどさ……」

 

 不満顔をするあこに彼は少しだけ遣る瀬無い顔をした。隣を歩いているもののその距離はいつも遠くにある。男と女というだけではない、彼女の中で尊敬するもの、そうでないものの彼は後者に分けられているような気がしていた。

 

「わかんなかった代わりに今日は奢るからさ」

「ホント? あ、でも……」

「いいっていいって」

「ありがとっ」

 

 しゃべっている間に巴のラーメン屋に到着し、あらかじめ決めていたメニューと追加で餃子を注文する。二人前の量を頼んだことで首を傾げたあこに彼は今日も助けてもらったからお礼にね、と笑みを零した。

 

「う……そういうとこはなぁ……もうっ」

「……あこ?」

「なんでもないっ」

 

 そんな時、あこのスマホが震えた。燐子からのメッセージが表示されていた。

 普段の彼女からは想像もつかないくらいに明るい印象で、頑張ってね! とNFOで燐子の職業でもあるウィザードが親指を立てるスタンプが送られてきており、あこはいつから気づかれていたのだろうと顔を赤らめた。次いで紗夜から不純異性交遊は感心しませんのできちんと手順を踏んでからお互い責任を取れる年齢になってから、と長文で送られてきた。更に燐子だけでなく紗夜にもバレていたため余計に驚くことになった。

 

「どうしたのあこ?」

「え、あ、いや……えっと」

「もしかして親御さんとかお姉さんに怒られた?」

「ううん! 大丈夫!」

 

 心配そうな顔をする彼にあこは必死に首を横に振った。思わぬ応援を受けて赤くなってしまう顔を抑えた。その後は雰囲気の変化に気づかない彼は何もない雑談をしていると餃子とラーメンがやってきて、二人は麺をすすっていく。

 

「ん~、おいしーね」

「おいしい」

「でしょー? おねーちゃんのお気に入りなんだよ」

「背油豚骨を夜に……ってのは冒涜的だけどね」

 

 カロリーなんて気にしてるの、ひーちゃんみたいとあこは笑い、彼はひーちゃんという聞いたことのない名前を問いかけ、また話が広がっていく。あこはオフでも会話が途切れることがないという能力を持っていた。そんなうらやましいながら聞いていて飽きない楽しい会話が、彼の心を温かくした。

 

「ねね! 次のイベクエも一緒に行こーよ!」

「え、僕も参加できるの?」

「うん! むしろあのパーティだとタンクの紗夜さんしか前衛いなくてさ」

「……あ、僕がいたらってこと?」

「そ! あことりんりんにタゲが向かなくなったらラクだし、いざとなればあこがタゲ取って回復もできるじゃん!」

 

 言動からは考えられないくらいにきちんとした作戦を油に浮かべていくあこに、彼は驚きとともに尊敬の眼差しをした。

 いつだって誰かの後ろについていくあこの背中を彼は常に追いかけていた。

 

「やっぱ……」

「ねー聴いてる~?」

「聴いてるよ」

 

 二人の、というよりあこが発案したのを彼が聞き入れるという作戦会議はラーメンが空になってもしばらく続いていた。

 流石にそろそろ帰らなくては、なによりもあこの両親や姉が心配してしまうかもしれない。そんな気遣いを感じつつも、彼は言い出せないまま、ふと窓の外を見た。

 星はあまり見えないけれど、月は街灯に負けずにその優しい光を地上に降らせていた。

 

「……あこはさ」

「うん」

「カッコいいよ」

「……そうかな、えへへ」

「うん、僕の中では世界一だ」

 

 あこにとって世界一カッコいいのは巴、だけれど彼の世界では自分が一番だと、少し気恥ずかしそうに呟かれたことで、あこの頬はこれ以上ないくらいに緩んでいた。そして月光、少しがらんとした店内のBGMから、懐かしの恋の歌が彼女の背中を押していく。

 

「あこもね~、世界一だよ?」

「……何が?」

「世界一、キミが好き」

 

 机に置かれていた彼の手にそっと手を重ね、あこは動揺を隠しながらまっすぐに誰に力を借りることなく自分の言葉で伝えていった。

 自分は彼に恋をしているのだと、彼に伝えていった。

 

「あこが……僕を?」

「うん、好き。あこね、キミがチョー好きなの」

「……言い方軽い」

「えーっ!」

 

 満面の笑みで、一度口から出してしまえばもう恥ずかしさもない素直な想いを彼にすんなりと躱され、あこは不満の声を上げた。

 噓偽りのない気持ちだということは彼には伝わっていた。だけれど店員が、大衆の目があるこの場所で告白に返事をすることは、まるで公開処刑だという気持ちが強かった。

 

「……移動しよ」

「あ……うん」

 

 手を引かれ、あこは立ち上がる。支払いをスマホの電子マネーで支払い、あこと手を繋いだまま月明かりの道へと出ていった。

 あこは触れ合っている手の熱にドキドキしながら彼の横顔を見上げる。

 

「あこは、僕と……どうなりたい?」

「そんなの……! あこの傍にいてほしいよ。ずっと、あこの目指してるカッコいいを、見ててほしい」

「……そっか」

 

 彼はゆっくりと月明かりを見上げた。

 ──初めてのゲームで右も左もわからなかったあの日、確かクエストの時間帯は夜だったなということを思い出した。その日に、彼は引っ込み思案なウィザードとやたらと元気なネクロマンサーに出逢い、こうして今はゲームではなく現実で隣を歩いている。その中で抱いていた気持ちも、抵抗なく口に出せる。彼は月に照らされるあこを見つめた。

 

「僕も……」

「えっ」

「僕もあこのこと、好きだよ」

「……あ、え……本当?」

「うん。闇の女王に誓って」

 

 はじめは驚き、そして喜びにあこの表情は色を変えていく。想いはこの手の中にあるものと同じだということ。そして、なによりもまっすぐに伝えてくれたことが、あこには涙を流してしまいたくなるほどの嬉しさがあった。

 

「じゃあ、これからは……恋人?」

「そう、なるね……なんか恥ずかしくなってきた」

「えー! ねね、これからもデートしよ! 次いつ暇~!?」

 

 グイグイと変わらない勢いで笑みを浮かべるあこと、今日は勇気と羞恥が許容量をオーバーしたと日を改めようとする彼の攻防は賑やかで、これからの日々を街灯の影に照らし出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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【白金燐子】黒い愛も真っ白な愛もキミだけのもの

 静かな室内で、紙をめくる音だけが響いていく。

 一ページ、また一ページと本を読み進める音だった。他になんの音もない空間で、彼女……白金燐子は読書に没頭していた。

 一つの章が終わり、また新しい章へと進んでいく。時間を忘れ、燐子は集中力の続く限り本を読み進めていた。

 やがてガチャリとドアが開く音がして彼女はそこでようやく顔を上げた。ただいまとは言ったものの同居人が起きているとは思っていなかった彼は少しの驚きと少しの呆れを混ぜ込んだ表情で、もう一度だけただいまと呟いた。

 

「……おかえり、なさい」

「起きてたんだね」

「……はい」

 

 静かな口調でまた本に没頭していたの? と苦笑され、燐子は少しだけむっとした表情をする。

 本に没頭していたのは事実だけれど、自分は彼の帰りを待っていたのに、そんな不満を隠すことのない燐子に彼はごめん、と両手を広げた。

 

「待たせた?」

「……うん」

「ごめんね」

「……いい、よ? 忙しいの、知ってるから……」

 

 けれど寂しいものは寂しいのだと言葉でなくめいっぱいに広げた腕の力加減で彼に伝えると、彼はしっかりと大きな手で抱き留めてくれる。

 燐子はその腕が好きだった。その甘いぐらいの優しさが好きだった。

 

「あの……ごはん、用意するから、先にお風呂……入ってきて」

「そうさせてもらう。ありがと」

「……うん」

 

 頬にキスをされ、燐子は頬を緩ませて鼻歌交じりにキッチンへと向かっていく。新しい生活、愛する彼と二人の生活が始まって、燐子の世界はまた一段と色鮮やかさを増していた。今井リサに教えてもらった料理を作り、夜の遅い彼の帰りを待つ。寂しさもあるけれど、その分幸せなことをも多く、燐子は充実した生活を送っていた。

 

「燐子」

「きゃ……っ、もう……あぶないよ……?」

「いつもキミにはしてもらってることばかりだから……少しこの気持ちをどうにかしたくて」

「そう……だね。ふふ……」

「おかしなこと言ったかな?」

 

 燐子は首を横に振った。

 おかしなことじゃない。自分もそうして彼に愛を伝える時には必ず、抱きしめるのだから。手や腕を使って愛を分け合う。それに、してもらってばかりだと彼は言うけれど、自分にとっての最高の報酬は彼の愛情だった。抱き締められた時点で、彼女はもう充分なほどに満たされているのだった。

 

「でも、でもまだ足りない。あげたりないよ」

「じゃあ……こっちにも……」

「うん」

 

 身長差のある二人が視線を合わせ、頭の高さを合わせていく。

 一度……一度では足りず二度、三度と点けられた火よりも熱く、二人は静寂だった世界に吐息と愛を吐き出す。それまで対面上は清い関係を保たなければならなかった二人が、それでもそんな目を盗んで言葉では伝えきれない愛を育んできたという事実のある二人が、二人だけの世界を作ってしまえばもう、止めるものはいなかった。

 

「ごはん……先、に、しないと」

「そ、そうだね……」

 

 けれど暴走してしまいそうなくらいの愛情の分け合いも、まだ時間があるということがブレーキになることもあった。今のように、ご飯を先に済ませようと声を出すことで一時は抑制することもできた。

 

「と、ところで……仕事の方は、やっぱり大変……?」

「まぁね。でも、燐子とのデートは空けてあるよ」

「……無理は、だめ。どうしてもなら……また別の日でも……いいからね?」

 

 それが我慢できるようになったのも、一緒に暮らし始めてからだった。以前は大丈夫と見送ろうとして堪えきれずに泣いてしまうこともあった。本音をぶつけていかないでと縋って困らせてしまったこともあった。

 けれど、燐子は今、ホットミルクに口をつけながら本当に別の日でも大丈夫と口にするのだった。

 

「いや……それはダメだ?」

「どうして……?」

「燐子に甘えてしまったら今後も仕事を最優先にしそうで」

「……それは、困っちゃうね……」

 

 だから甘えない、という決意を見せる彼に燐子は冗談交じりにくすくすと笑った。

 一緒に暮らしてもちゃんと二人の時間を大切にしてくれる彼が、燐子は何よりも愛おしかった。燐子だってただ待っているだけではない。時にはRoseliaのキーボードとして舞台に立っている。その練習の量も並みではないため帰りが遅くなってしまうこともしばしばだった。そんな時には迎えに来てくれるのも、そしてデートの約束をきちんと履行する彼が、燐子が何よりも愛おしいと思える彼の誠実さだった。

 

「燐子」

「……ん?」

「ごちそうさま。今日もおいしかった」

「……よかった」

 

 二人で皿を洗いながら、彼は満足げにうなずいた。日に日に上達してくる料理を食べるのが楽しみでもある彼は、乾かした手を彼女の頭に乗せてから、また抱き留める。艶のある黒髪を撫でつけ、燐子はそんな彼の暖かさに包まれ、うずもれ、頬を緩ませた。

 

「明日は、遅くまで練習だったよね?」

「うん……開始が、ちょっと遅いから……」

「なら明日はスタジオまで迎えに行くよ」

「……待ってるね」

 

 なんでもない会話を繰り返していきながら、燐子はチラリと時計を伺う。まもなく日付が変わろうとするその瞬間を、彼女はソファの上で甘えながら過ごしていく。

 ──そして、日付が変わったことを知らせるスマホの振動が鳴り、彼は何事かと振り向く。

 

「ちょ、ちょっと待ってて……!」

「なにがあるの?」

 

 疑問符を頭に浮かべる彼に向けて、燐子は冷蔵庫を開けてから白く四角い箱を取り出した。

 以前なら家族ぐるみで祝っていたため大きなホールケーキだったが、今年からは小さな箱の中に切られたケーキが二つ、それが二人で暮らし始めて、初めての祝い事だった。

 

「誕生日……おめでとう……!」

「……燐子」

「あの……ね、いつも、いつも……わたしのこと、たくさん愛してくれて、ありがとう……」

「うん……こっちこそだよ。ありがとう、燐子」

「ふふ、うん……」

 

 ケーキと共に、燐子はネクタイピンの入った箱を彼に渡す。母親に訊ねたところ自分が夫である彼女の父親にどうやって渡したかとロマンチックで盛大な惚気話とセットで時代が違うかもしれないけれどと薦められた品が、ネクタイピンだった。

 

「あ……バラ」

「うん……なんとなく、これが、いいなぁ……って」

 

 金のピンの上に乗せられた黒いバラの装飾のネクタイピンに、彼はふぅん、と興味深そうに燐子を見つめた。

 無意識だったのだろう彼の表情に疑問を感じた彼女が愛らしく、彼はおいでと彼女を後ろから抱きしめた。

 

「かわいいプレゼントをありがとう、ずっと大切にする」

「え……っと?」

「黒のバラ、燐子の髪の色と同じで、キミのバンドと同じだ」

「……あ」

 

 黒いバラ、自分は名前と雰囲気から白、という言葉が多いけれど白と同じくらいに自分の髪と同じ色である黒も好きだった。

 同時に、まるで自分を身に着けてほしいという独占欲のように感じてしまい、少しだけ後悔をしてしまう。浅ましい女だと思われただろうか、欲深いと思われてしまっただろうか、そんな風にチラリと彼の顔を伺うと、微笑みをたたえ、愛情を唇に乗せていく。

 

「ん……」

「独占欲も、嫉妬も、全部燐子の愛なんだから……もっとわがままでいていいよ」

「……でも」

「それが許せなきゃ、一緒に暮らせないよ」

 

 二度、三度、キッチンの時よりも激しく、愛を与えていく。ねだられるよりも多く、濃厚に。やがて燐子も与えるだけでなく、与えていく。絡ませ合い、飲ませ合い……二人は二人の愛情によって呼吸をしていく。

 

「っ、はぁ……なら、これ……仕事には、いつも……つけていて」

「うん」

「絶対に……ほかの女の人に……見せて、もらいものだと……言って」

「わかった」

 

 その気高き香り持つ華が彼という花に集まる女性(むし)を払う効果を持つならば、それがむしろいいのだと彼女は考えた。

 彼という花の(あい)を受け取るのは自分だけでいい。そんな黒い独占欲と嫉妬を愛に変換して、彼に与えた。

 

「浮気は……許さない、から」

「許してくれなくていい……キミのものだから」

「……うん、なら……いっぱい、わたしのアト、つけるね……」

 

 見えないところを、彼女に独占されていく。時計も、彼女が選んだものだった。ネクタイピンに、ネクタイもこれがいいよと燐子が選んでいた。いつの間にか、身の回りがすべて彼女が選んだモノになっていることが、自分が彼女のモノになっていることが、彼は嬉しかった。

 ──自己主張の少なかった彼女が、今やこうしてゆっくりゆっくりと独占していく姿が、彼にはとてつもなく愛おしいものだった。

 ベッドに寝転がり、意識を手放しそうになる最後の寸前に、燐子は彼の腕の中に飛び込んだ。言葉ではなく腕や手を使って愛を示していく。彼の大きな腕に包まれながら白金燐子は幸福感ある疲労のまま、そっと眠りの世界へと堕ちていった。

 

 



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Morfonica
【倉田ましろ】特別をくれたキミに


「え、ましろ、マジであの月ノ森に?」

「う、うん……」

 

 とある喫茶店、通っているところとは少し離れた知り合いのいない場所で倉田ましろは下を向きながら頷いた。

 相手は中学では同級生だった男子高校生であったが、進路を詳しく訊きそびれてしまっていたし、ましろ自身としては自分の進路なんて……という思いがあり、こうして再会したのは夏が来てからになってしまっていた。

 

「馴染めてるの?」

「どうだろ……」

「お前がそーやって濁す時は大体、ダメな時って決まってんだよなぁ」

「……そうです」

 

 しゅん、と下を向くましろに彼はまぁまぁ、と宥めていく。

 月ノ森は幼稚舎から大学まで一貫されている伝統のお嬢様学校。しかもそこには財政的にも才能的にも豊かな人材が揃っている、という話を聴いたことのある彼は、そこに彼女が混じっている、ということがイマイチ信じ切れていなかったのだから、馴染めてないというのはある種のましろはましろだ、という安心感もあった。

 

「でもなんでまたあんなとこに」

「……笑わない?」

「そんな笑われる理由なのかよ?」

 

 首を傾げた彼女に、彼は少しだけ苦笑い気味にそう質問を投げ返していく。それだけ確固たる意志があるならいいのだが、中学三年間でましろの()()()をしてしまっていた彼はほんの少しだけ過保護かと思いつつも彼女の真意を問いただしたかった。

 

「笑われるかもしれない理由……だから、言わない」

「……の、割には今回はえらく頑固だな?」

 

 彼女に色々な部活を紹介したことを思い出しながら彼は、笑われるかもしれないから、自分には才能がないからとそのすべてを諦めてきた過去とは何かが決定的に違うことに気付いいていた。

 

「わ、笑わない……?」

「どんだけお前の月ノ森生活には笑いが潜んでんだよ」

「だって……」

 

 臆病で、一言目はもうやめる、二言目にはだって、と続く彼女の変化を如実に感じていた。世界は彼女には優しくはない。花を見つけられない蝶々に、生きる術を説くことはできないのだから。

 

「と……特別が、ほしくて……」

「特別……」

「うん。月ノ森で……私もなにか特別なものを見つけられたら……って」

 

 それが倉田ましろを傷つけ続けたものであり、同時にアイデンティティでもあった。何よりも普通な自分が、才能のない自分が嫌で嫌で仕方がなかった彼女が求めた場所が、月ノ森だった。

 だけど最初の内は挫折の連続だった。どこの部活にもスペシャリストがいる。周囲はお金持ちだったりで、何の賞を取っただとか、コンクールの話だとか、そんなことばかり。何も持たない彼女にとって、その環境は特別なものを見つける以前の問題だった。

 ──彼女たちに出逢うまでは。

 

「バンド?」

「うん。バンド始めたんだ……香澄さんたちに憧れて」

「あ~、ポピパの」

「知ってるんだ」

 

 そりゃそうだろ、と彼は地元発祥のアマチュアながら人気を誇る五つ……更に最近増えたもう一つのバンドを挙げていく。

 どれもプロに匹敵する実力があると言われるバンドたちに彼女は夢にまっすぐ、目指したいという気持ちにさせられたんだということを知った。

 

「そっか。ましろは、特別なものを見つけられたってことかな?」

「……そう、なのかな?」

「もっと自信持てよ。バンドの花形、ボーカルとして歌うなんて、カッコいいじゃんか!」

「ありがとう……」

 

 少しの寂しさがあった。まるで子が親離れをするような、寂寥が彼の胸を覆っていた。もう中学のように手のかかるましろではない。もう自分には何もないんだと癇癪を起すましろではない。それがいいことであるはずなのに、彼の胸を焦がしてしまう。

 夏休みに会いたいと言われたのも、自分がいなくなったことで漸く音を上げたんだなと高を括っていたことが、なにより彼自身の心に傷をつけていた。

 

「それじゃあ、()()……そろそろ帰るわ」

「……え?」

「なにやってんのかなーって心配してたから、ハナシ聞けてよかった。頑張れよっ」

「え……あ……!」

 

 髪のセットが崩れるかというくらいの乱暴さで頭を撫で、男女の関係としては非常に中途半端だった三年間に区切りを付けようとする。

 ──だがそれを、ましろは許さなかった。待ってと立ち上がった彼の手を掴み、引き留める。

 

「わ、私が……呼んだんだから、か、勝手に……勝手に帰らないで、よ……」

「けど」

「まだ、行くところはあるから」

「は?」

 

 驚く彼にましろは、んっ、と頬を膨らませたままスマホを見せる。それはつい最近公開された特撮ヒーローものの劇場版のビジュアルポスターだった。

 本来ならばメンバーの二葉つくしが幼いきょうだいを連れていく予定に便乗する形で観に行く予定だったものの、つくしに用事ができてしまったせいで流れていたのだった。

 

「……んで?」

「観たいもん」

「独りで観に行く……度胸はないか」

「……そうだけど」

 

 じろりと上目遣いで彼を睨んだ彼女は、夕方のやつだから、とまた席につき残っていたオレンジジュースのストローに口をつけ、座れという視線を彼に送った。

 怒っている時の彼女の扱いには細心の注意を払うべし……そう心得ている彼はゆっくりとまた席に着く。

 

「まだ用事あるし……それに、あの言い方で別れるのは……なんか嫌」

「なんか嫌って……おいくら──」

「ましろ」

「……ましろ」

「なんかって言うのは、なんか火山から噴き出る煙で、雷が鳴って、太陽が隠れちゃう……そんな感じ」

「わからん」

 

 ズバリと言われ、ましろは少しだけ落ち込む。独特過ぎる世界観の持ち主でもある彼女の表現だけは彼はついていけないものがあった。詩を紡ぐのは得意で、先生に褒められたものの活かし方がわからずにいたのだが、それを漸く活かせる場所を見つけたことで、言葉で表現するということに多少、抵抗感がなくなっていた。

 

「モヤモヤして、晴れないってのはわかった」

「うん。でもね、ただ曇るんじゃなくて……こう、マグマみたいなんだ」

「マグマ……うん、なんとなくわかった、かもしれない」

「ほんと?」

 

 自分の独特な世界を持つましろの言葉をなんとなく、関わってきた時間でニュアンスをとらえた彼にましろは、実はね、と自分が今何をやっているのかを話していく。自分の話をすることが苦手だったのに、バンドという出逢いは思いのほか彼女をいい方向に進めていることがわかった。

 

「なぁましろ」

「なに?」

 

 そろそろ映画館に向かおうというところで、彼に名前を呼ばれましろは見上げるようにして返事をする。

 彼は四ヶ月ほど会わなかっただけですっかり飛び立ってしまった彼女に、もしかしたら自分だけがそんな気持ちを持っていて、世話をしてくれる人以上の感情はないのかもしれないと思いながら、言えなかった気持ちを言葉にしていく。

 

「好きだ」

「そっか……え、あ……いま、なんて……?」

「二回も言わせんな。好きだって言ったんだよ」

「すき……すきって、恋愛的な……あの、好き、だよね……?」

 

 そうだよ、とそっぽを向きながら彼は口から出してしまったその気持ちにやや後悔をしていく。最初は妹のようだった。世話をすることで、なんとか自立してくれたらいいとそれだけを考えていた。

 ──それがいつしか、女性としての魅力にあふれていく彼女を、捕まえたいと思ってしまっていた。誰かの元に飛び立つくらいなら、自分という籠の中に閉じ込めてしまいたいと。そんな気持ちから出発した恋心だった。

 

「そ、それってさ……私と、付き合いたい、ってこと?」

「そ、そりゃあ」

「キスとか……その、えっちとか、したいってこと?」

「えっ……え……そ、そりゃあ、付き合えたら」

 

 この気持ちは間違ってるかもしれないけれど、とましろは自信なく前置きしながら彼に自分の想いを伝えていく。

 とは言っても、ましろ自身もその気持ちに気付いたのはついさっき、倉田と呼ばれた時だったのだが。

 

「価値がある……特別になりたいって、言ってたでしょ?」

「言ってたな、だから月ノ森に行ったって」

「うん……でもさ、キミはずっと、私がどんなに逃げても何があっても傍にいてくれた。こんな私の面倒を見てくれた」

「だな」

「だからね……私にそういう価値を見出してくれたキミが、私も好き。ずっとずっと、一緒にいたい」

 

 思わぬ告白の返事に、彼は驚きからやがて喜びの表情へと変わった。

 ──両想いだったのだという歓喜に、ましろも口許を綻ばせていく。だがこの出発点はいずれ、大きな諍いを引き起こすことを、彼女は感じていた。

 価値を見出してくれたから、多分彼女は言葉にしたほど、彼のことを想ってはいなかった。けれど今まで自分の傍にいることで自分を特別な場所に置いてくれた彼から、離れたくはなかったのだった。

 

「とりあえず、今日は映画見て……帰ろっか」

「そうだな……まだ付き合って一日目だもんな」

「うん」

 

 けれどその時までには、二人でまた別の特別を見つけられたらいい。

 なによりきっとその時には、今よりももっと、自分の特別を見つけられているとましろは未来の自分に賭けていったのだった。

 ──その特別がこの脆い恋を、強く結びつけられたら、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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【桐ヶ谷透子】キミの前では恋をしていたい

 時計を見る。まだ時間は来ない。また時計を見る。そんな風にそわそわと繰り返していることに最初に気づいたのは倉田ましろだった。せわしないのはいつもの彼女の特徴ではあるとしても、何かを待っているような雰囲気にましろは首を傾げた。

 

「透子ちゃん、どうしたの?」

「へ? えっ、なんかあたし、変だった?」

「ヘンっていうか……挙動不審?」

「あ、あはは、シロに言われたくないっしょ」

「ひどい!」

 

 桐ヶ谷透子はそんな風に言いながらもそわそわと視線を彷徨わせた。彼女にバッサリと言葉の刃で切り裂かれどんよりとした空気を漂わせるましろを介抱する二葉つくしと広町七深を後目に見ながら、確かに妙ねと八潮瑠唯が顎に手を当て鋭い視線を向けた。

 

「あまり集中もできていないように見えるわね。何か心配ごと?」

「いや、ほら~アレだよアレ! え~っと」

「誤魔化したいなら考えてから発言した方がいいわよ」

「ぐ、と、咄嗟にいー感じの出るわけなくない……?」

「なら事前に考えておくことね」

 

 なんか指摘がズレてない? ズレてる……んだよね? とましろ介抱組が二人で囁きあっているがそれは完全に無視した状態で、何かやむを得ない事情があるのだったら今のうちに言っておいた方がいいわよと瑠唯がさらに問い詰めていく。

 

「いや、家庭の事情とかだったらルイに言えなくない?」

「……確かにそうね」

「納得しちゃった!?」

 

 すかさずつくしがツッコミを入れる。そしてようやく復活したらしいましろがでも家の事情だったら逆に言えることじゃない? と首を傾げた。だがこれはまさかの瑠唯によって否定される。

 

「割とあるあるだよね~」

「わ、私は……ないけど?」

「つくしちゃん……私、もうつくしちゃんしか……」

「ちょいシロ? なんであたしら悪者みたいな扱いなん?」

 

 そんなコントのような一幕はあれど練習は練習としてきっちりとこなし、そして解散となった瞬間にそれじゃあまたね! と透子はまるで飛び出すように教室から出ていく。その様子はインフルエンサーとして流行を追いかけるものとしての忙しなさとは違うものだった。

 

「……透子ちゃんなら、SNSに理由乗ってる気がする」

「確かに、ちょっと見てみようか」

 

 二人がその答えに辿り着いて仰天の声を上げる頃、透子は夕焼けの校舎を背に駆けていく。息が切れるのも構わず家までの道を走っていく。

 そして、家の前に着いた透子は息を吐きながら、髪や息を整えてから少しだけそっと声を潜めてからただいま、と家の中へと入っていった。

 

「透子ちゃん」

「あ! えっと、いらっしゃいませ」

「うん、おじゃましてます」

 

 客間の廊下にいた男性に声を掛けられ、透子はパッと花が咲くような表情をした。そんなリアクションの彼女に彼は少しだけ苦笑いを含みながらも口許を緩ませた。

 透子にとって彼は小さな頃からの知り合い、兄のようでもあり憧れでもあり、同時に親同士に決められた、将来を共に歩くことを定められた相手でもあった。

 

「本日はどうされたのですか?」

「いやいや、少し寄っただけだよ。透子ちゃんはバンド?」

「う、あ、はい」

「そっか、最近名前を聴くようになってきて、僕としても誇らしい思いだよ」

「──っ!」

 

 穏やかな微笑みを浮かべられて、透子は瞳を輝かせた。普段の彼女とはかけ離れたような仕草でお茶お持ちしますねと荷物だけ置きに行く。昔はこそ何事にも興味津々で明るいグループの中心である普段の彼女のまま接していたのだが、年齢が重なるにつれて()()()()()としての自覚、という言葉の前に、彼女は二つの顔を持つようになった。

 

「うん、おいしい。これ、透子ちゃんが淹れてくれたの?」

「はい、お口に合いましたか?」

「いつの間に」

「将来のためですから」

 

 学校ではいつも通りの桐ヶ谷透子として明るく振舞い、だがその一方で親戚や客の前では桐ヶ谷呉服店の娘として、淑女としての振舞いを身に着けていた。それが桐ヶ谷透子の処世術でもあった。

 

「透子ちゃんは」

「はい?」

「……透子ちゃんはそれでいいの?」

「それで、とは?」

「将来のこと」

 

 将来、という言葉、自分が放ったものとは重さが全く違う同じ言葉を使われ、透子はややたじろいだ。それはまるで本当に将来のことを考えてるの? そんな不安や疑念の声にも聞こえた。そしてなにより、透子自身がそれを即座に否定できないのが問題だった。

 

「僕はね、今のまま透子ちゃんと一緒にいても、いずれ破綻するんじゃないかなって思ってる」

「……破綻、ですか?」

「だってそうでしょう?」

 

 全てを見透かしたような目に射貫かれ、透子は肩をわずかに上げた。にこやかでありながらひやりとした冷たさと鋭さを感じる目、彼が怒りの感情を表すのに使う顔をされ、彼女は慌てたように、頭を下げようとする。だけどそれは途中で、立ち上がった彼によって阻まれてしまった。

 

「謝罪よりも、忌憚のない言葉が訊きたい」

「それは」

「もっと言い方を変えよう。()()()()()を見せてほしい」

「……っ」

 

 ──それは彼女の祖母に口を酸っぱくするほどに禁止されているものだった。桐ヶ谷の娘として会話をせねばならない時はそれ相応の立ち振る舞いをせよ、という言葉を破るものであるため、少々戸惑いながらもやっとのことで首を横に振った。

 

「……できません」

「どうして?」

「あたしが()()()で、あなたが将来の伴侶、ですから」

 

 透子自身としても時代錯誤もいいところだと思わなくはなかった。女性が下がって男性を立てるもの。だがそれに逆らっても透子にとってなんのメリットにもならない。逆に学校で自由にさせてもらっている背景にはそういったことをマジメにこなしてきたという実績からなるものだった。

 

「なるほど」

「ですから」

「なら単に許嫁ではなく幼馴染として問う。透子ちゃんは、僕と一緒という決められた未来で満足するの?」

 

 まっすぐに、幼いころからの知り合いとしての言葉に、まだ彼を知り合いのお兄ちゃんとして慕っていたころのような表情で問われ、透子は……彼も驚くことに泣きそうに顔を歪めてしまった。

 

「と、透子ちゃん?」

「……あたしと一緒じゃ、嫌、なの?」

「えっ?」

「だから、そうやって将来を問いかけて……あたしとの約束をなかったことにしようとしてるんじゃん」

「いや、そういうことじゃなくて……」

 

 決壊し、泣き出してしまった透子に対して次に狼狽えたのは彼の方だった。実は彼女が奔放で明るく、有り体な言い方をすればギャルのような性格であることを知った彼は、こうして顔を合わせる時に透子から出る言葉たちがまるで嘘のように聞こえてしまっていた。だからこそ、将来の言葉を彼女が口に出す度に、実は嫌なのだと信じて疑わなかった。

 

「……確かにさ」

「うん」

「将来とか、ぶっちゃけ……よくわかんねーってなってたよ。でも、あたしは言われたから、じゃなくて好きで傍にいる……つもり」

「嫌いってわけじゃなかったんだ」

 

 まるで子どもの頃、転んでしまって泣いてしまった彼女を宥めていたように、客間のソファーに座った彼女の頭を撫でつけながら、彼は気づかなかった事実に息を吐いた。

 彼女は、彼のことを好いていた。他に男がいなかったからと言われればそれまでなのだが、それでいても透子は彼のまっすぐな生き方が好きだった。

 

「あたしさ、すぐ流行りだからとか、そういうノリだからってのに流されやすいんだよ」

「みたいだね」

「でも、()()()()()ってさ、いっつもまっすぐでブレないのがスゲーってゆーか、なんかあっても変わんなくて安心するんだよね」

「そっか」

 

 透子の知らなかった言葉たちを受けて、彼は自分の中にある彼女への気持ちが保護欲だけではないことを確信した。それが確信できていなかったからこそ、彼はそんな厳しくまた勘違いではあるがこのまま将来を決めてしまっていいのだろうという疑念を持ったのだった。

 

「──というか、お兄ちゃんって久しぶりに呼ばれた気がする」

「久しぶりに呼んだ。いっつもあなた、だからさーなんか恥ずかしいね」

「名前呼びでもいいよ」

「二人きりの時は、ソッチのが楽だし、そうする」

 

 砕けた口調で、でもいきなりはハズイなーと目を細めて笑う彼女に、彼は熱を上げていく。自覚するとこんなにもキレイに、女性らしくなった妹のようだった存在に、彼は勇気を持ってじゃあ僕から、と息を吸った。

 

「透子」

「……ん、なんですかー旦那様、なんちゃって」

「そこは返してよ」

「や、だってさ、透子ちゃんから透子はまだハードル低くない?」

 

 そんな気の置けなくなった彼と透子は、恋人同士のようにくっついたまま、しばらく二人きりの時を過ごして、やがて時間になりそろそろ帰るねと言う彼を玄関まで見送る。そこでは決して二人きりというわけではないため、また外用の顔をする透子に彼は少しだけ残念そうに笑った。

 

「それじゃあ、また」

「はい、お待ちしております」

「……次はいつ会いたい?」

「毎日」

「ふふ、じゃあ寂しくならないうちにね」

「あはは、毎日連絡するから」

 

 だがすぐに崩れ、透子の母親が一瞬だけぎょっと目を見開き咎めようとするが、なんとそれを留めたのは、いつもは厳しいはずの祖母だった。

 いつもの透子のまま、元気よく手を振り、花が咲くように笑う彼女に彼もまた同じように花が咲くように笑顔を返していくのを見た誰もが、それを咎めることなどできるはずもなかった。

 

「透子」

「なーに、おばあさま」

「このご時世、せめて高校卒業までは避妊せぇ」

「ぶっ、な、なにそれ! あたしまだいちおー処女なんだけど!?」

 

 なんだまだだったのかとでも言いたげな目線を送ってくる祖母に透子は顔を真っ赤にしていく。

 そしてそのタイミングで透子のSNSを探してお茶を飲む許嫁の後ろ姿を隠し撮りしたものを発見したましろとつくしによって翌日、根堀り葉堀り問い詰められることになる。

 

「え、シロだってカレシいなかったっけ?」

「なっ、えっとそれは……」

「ましろちゃん、聴いてないんだけど!? 二人とも、もっと月ノ森生としての自覚を──!」

「あたし許嫁だからセーフだし」

「許嫁……やっぱお金持ち、すごい」

「許嫁でも、隠し撮りはいいのかしら」

「ルイはホンット頭カタい」

 

 モニカの一員として過ごす、騒がしい日々。そして新しく過ごせることになった彼との静かな日々。桐ヶ谷透子にとって、どちらも自分の青春を、人生を彩り豊かにするうえで欠かせない一つのピースだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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【広町七深】普通じゃない恋をキミに

 広町七深は悩んでいた。端から見ればとてつもなくどうでもいいことを、真剣に悩んでいた。梅雨のさなかではあるもののすっきりと晴れたその日、彼女はコンビニエンスストアにやってきていた。

 

「むむむ……悩む」

 

 七深の手元にはおまけつきのお菓子と、そして激辛、と名前のあるスナック菓子と普通のスナック菓子の二つを見比べて難しい顔でうめく。その葛藤には今日は先日のライブ成功を祝っての小さな打ち上げが開かれる予定であった。

 

「とーこちゃんが言うには、お菓子を持ち寄るもの……らしいけど」

 

 ──ななみならさ、いいカンジのお菓子、買ってこれるっしょ! 

 なんとも無責任で曖昧な言葉でバンドメンバーである桐ヶ谷透子に託されたことも七深が悩む原因の一つではあるが、ここで透子が求めているのはどちらなのかということに頭を捻ってしまうのも、彼女の特異性を表していた。

 

「ん~、わざわざ私の名前出したからには、私の好みで選べばいいのかな? それとも、フツーっぽいものを選ばないといけないのか……む、難しい」

 

 特にボーカルでもある倉田ましろは極端に……透子が称するには舌がお子様、らしいことも七深の頭の中には重要な位置づけがなされていた。つまり自分の好きな味であり辛味やクセのある苦味のようなものも苦手、ということでもあるのだから。

 

「なにかお探しですか」

「あ、えっと……って、なんだ~、キミか」

「お、なんだとは失礼だな、七深」

 

 そんな悩める七深に手を差し伸べた、というよりもただ単純になにをやってるんだという呆れ交じりの感情を乗せて声をかけたのは彼女にとって知り合いに位置づけられる同年代の青年だった。

 

「呼び捨てはやめてーって言ったよね?」

「はは、広町さんって呼べば満足?」

「うん」

「うわ、友達とはフツー下の名前で呼び合うもんだろ」

「……と、友達じゃないし」

 

 嫌われたもんだなと笑う彼に対して、七深はほっといてと冷たく言い放ちまた両手にスナック菓子を置いて悩み始める。だが、放ってはおけないとばかりに彼はいっそ両方にしたらどうだろうかと言い始めた。

 

「知ってるよ、それはストーカーだよ」

「違う、たまたまコンビニでアイス買おうとしたら見たことあるヤツがいて、そいつがブツブツ悩み事口から吐き出してただけ」

「そーゆー言い訳か」

「はぁ?」

 

 彼女は彼のことが嫌いだった。幼い頃に父の絵を店のインテリアにと買った家があった。そんな親同士の会話に連れ回された中学時代の七深が出会ったのがその店のオーナーの長男だったというだけの知り合い。けれど七深が普通ではない才能を持つことに目を輝かせてくる、普通でいたい自分にとっては邪魔な存在というだけだった。

 

「連れない。そんなにフツーになりたいのか」

「なりたいよ。独りは嫌だもん」

 

 普通にならないと友達ができない。自分に友達ができないのは普通じゃないからだと半ば意固地になりながら才能(ツメ)を隠し続けて数年、だが彼女にとって友達と思い浮かべて顔が出てくるようになったのはつい最近のことだった。

 

「でも、七深って隠し事下手だよな」

「ヘタ?」

「だってその友達、わざわざお前指名でお菓子買わせてるんだろ?」

「う、うん」

「絶対面白がってるな」

 

 ずばり、と言った具合に透子の心理を当ててみせる彼に、七深はやっぱりそうかなぁと肩を落とした。薄々は感づいていることだった。そもそも、八潮瑠唯は幼稚舎の頃の七深を覚えていた。そして他のメンバーは他のメンバーで、どこかで彼女の特異性に気づいているフシがあった。

 

「あーやっぱダメだったのか」

「ダメじゃないだろ」

「なにが?」

「七深がフツーじゃなくてもいいってヤツなんだし」

「そんなわけないよ、だって……」

 

 弱いものは群れていられるなら弱い方がよかった。そんな七深の心にある弱者になりたいという願い。独りを怖がる彼女が……けれどもなんでもこなせてしまう彼女ができないものは、どうしても手に入るものではないことを彼は知っていた。

 

「みんなと違う、っていうのは、それだけ……悪いことなんだよ」

「それは、そうなのかもな」

 

 彼は思い当たるフシがあるとばかりに遠くを見つめた。当たり前のように自分とは違ったものを排斥していいわけがないと大人になればすぐわかるのに、現実は強く、出る杭を打ち沈めようと槌を振り下ろしてくる。

 

「だからさ、七深の言葉がずっと支えになってるんだよ」

「……なんか、トクベツなこと言った?」

「いいや、()()()()()()だった」

 

 ──ねぇ、イタリアってさ、どういう国? 暑い? 寒い? どんな食べ物があるの? 

 すぐさまそれらの質問を撤回させてしまった彼女だったが、その一瞬だけ目を輝かせ素の表情を見せてくれた彼女は満天の星のようにキレイだった。

 だから七深が普通でないことを知り、()()()()()こうして会うたびに彼女に対して親しいものとして話しかける。またあの星を探して、彼は目を輝かせる。

 

「変なの……」

「いいや、この気持ちはフツーだ」

「え?」

「つい最近まで、確かに変な気持ちだ、七深にしか抱かないこの気持ちはなんだろうって考えてた」

「……それで?」

 

 その気持ちがフツーだってわかったんだ。歌うように、よくぞ訊いてくれたとばかりに笑う。七深はそれに対しての知的好奇心、中身のわからないドキドキに思わず彼を見上げてしまう。それこそが、彼の術中だったということに気づくこともなく彼はおまけ付きのお菓子でも悩んでいたお菓子でもなく自分に、広町七深の視線を独占していく。

 

「好きだ」

「──は?」

「七深のことが、好きなんだ」

「なんで?」

「なんでだろうな。わかんないけど、これだけはわかるんだ」

 

 唐突な告白に、七深は目を白黒させてしまう。脈絡も動機もなにもわからないという中で、だけど彼の声と握られた両手だけは確かな熱を持っていた。

 それが、まるで伝染してしまったかのように七深は自分自身も熱を帯びてしまっていることに気づいた。

 

「私は、フツーじゃない、んだけど……」

「七深にとってはそれでフツーだろ?」

「もっと……フツーの子がいいと、思うけど」

「七深がいい、いや七深じゃなきゃ嫌だと思ったんだ」

「どうして?」

「あの時の質問の答えを、言いたいから」

 

 それは、七深の閉じかけていた門の隙間を縫うような言葉だった。彼女にとって、その質問はよくなかったと断じられるものだった。だが彼にとっては、自分を理解してくれるんだという喜びだった。だからずっと考えていた。彼女の質問の答えを、七深と話せる時間を求めていた。

 

「……ヤダ」

「え?」

「それだけじゃ……嫌だからさ、別の条件も付けていい?」

「なに?」

「フツーの恋人っぽいことも、したい」

 

 デートをしたり、手を繋いだり、そういった特別な関係らしいものにも七深には密かな憧れがあった。恋人同士になったら普通はデートをする。手を繋いだり唇を重ねたり、その人としかしないことをする。そんな普通の恋はできないと諦めすらあった彼女は、与えられた熱に心臓を期待か、また別のものかわからないが跳ねさせていた。

 

「ま~、キミのこと、嫌いってゆーほど嫌いじゃなかったし」

「それはよかった」

「だって、友達は……なんか嫌だったからね」

 

 その気持ちもまた、突き詰めると彼と同じ結論に至るということを七深はまだ知らない。だが、知らないなら知っていけばいい、そのために知ってもいいんだという普通に縛られない自由さに七深はあの頃と同じ星空のような輝きを目に灯した。

 

「で、やっぱどっちも?」

「このタコスがオススメ」

「お~、おいしそ~。じゃあ三つかな、多いかな?」

「いいんじゃない? 七深の好きなようにすれば」

「んーじゃあ、キミも連れていこうかな」

「はは……冗談だよな?」

「え?」

 

 強制的に連行され早速、()()に紹介された彼は打ち上げの場に驚きの嵐を巻き起こすことになった。まずどうしてこの場に連れてきたのという二葉つくしの質問に七深はあっけらかんとした表情で言い放った。

 

「離れたくなかったから」

「ええーだからってここに連れてくるの?」

「うーん、やっぱフツーじゃなかったのか」

「七深、恋人が一緒にいるにしても限度があると思うんだ」

 

 透子がその言葉に賛同したようにうなずきながら、ってかイイ感じに買ってこれるっしょとは言ったけどまさかそうなるとは思わなかった、と漏らした。それは驚きというより、七深に選ばせたら面白そうという期待を斜め上で裏切ったことに対する笑いをこらえるような表情に近かった。

 

「七深ちゃんに訊いたんですけど、お、お父さんイタリア人なんですか?」

「すご、ハーフ?」

「そうだね」

「道理で目鼻立ちが日本人離れしているのね、合点がいったわ」

 

 あっという間にバンドの打ち上げだったはずの空気を彼に持っていかれて少し納得がいかないという表情をしている七深に、透子がイイ感じじゃんと笑いかける。七深は少しだけ顔を上げて、少しだけ迷ってから透子に訊くことにした。

 

「私って、フツーじゃないじゃん?」

「んー、そうだなぁ」

「なんで、フツーじゃないのに、友達なの?」

「ぶはっ! え、ちょ、あははは」

 

 大真面目な質問だったのに、と七深が眉を上げ、透子はゴメンゴメンと心にもない謝罪をする。笑いのツボが一旦収まったところで、透子はまた彼の方を見た。実家でもあるイタリアンレストランの店を紹介していて、つくしが何かを考えるような仕草をしているという状況を俯瞰しながら、思ったままの言葉を伝えていく。

 

「フツーじゃないから、かな?」

「……え?」

「いやいや、つかフツーって感じのヤツ、ここにいねーし! ルイだってあんなんだし、ふーすけだってなんだかんだで、面白いヤツじゃん。シロに至っては特殊! 特殊すぎていつもいて飽きねーっての?」

「飽きない……わかんない」

「いーんだよななみはそのまんまで、だってそれが、あのカレシが好きになったななみなんだし、モニカの広町七深なんだから」

「とーこちゃん」

 

 ちょっとクサい語りしちゃったかなと歯を見せて笑う透子もまた、自分が普通ではないことを知っている一人だった。

 個性的で、それゆえに一つの音楽を創り上げていける。それが自分のいる場所なら、七深はよし、と立ち上がり未だつくしとましろに囲まれる彼を独占するために、友達との時間を過ごすために輪の中に飛び込んでいった。

 

 



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【二葉つくし】長い将来をキミの手を取って

 二葉つくしにとって、所謂、お嬢様学校と呼ばれる月ノ森に通っているものの自分がお嬢様である、特別であるという実感はなかった。だからこそ、月ノ森生としての自覚を持つ、ということは彼女にとってとても大きな意味があった。

 特別でないのならせめて、せめて何か特別に見えることをしよう。見栄、あるいは虚栄ともとれる彼女のスタンスはやがて、彼女のアイデンティティとなっていった。

 

「それでね、七深ちゃんと透子ちゃんってば、私がちゃんとしてって言うまでずーっと盛り上がってて、練習なのにね!」

「すごいね、ちゃんと濃いメンツを纏められてるんだなぁ、つーちゃんは」

「え……えへへ、そ、そうかな? と、トーゼンだよ! リーダーだもん!」

 

 日が暮れ始めた頃、学校帰りの制服姿ではやや馴染めていないようなレストランの一角でつーちゃん、と昔からの渾名で呼ばれたつくしは、向かいにいる彼に輝かんばかりの笑顔を見せてから、慌てて取り繕うように腕を組んで誇らしげに胸を張った。

 ──実際のところは、リーダーらしいことは何一つできている気はしていないのだが、それについては触れないようにしながら。

 

「バンド、頑張っててえらいね。これは俺も頑張んないと」

「あ、そういえば試験、もうすぐなんだよね」

「そうそう」

 

 同い年の彼が指す試験とは学校の定期テストのことではなく外部の検定の認定試験のこと。自分の実力を他者にわかりやすく、簡潔に明文化できるということで始めたもののもはや趣味の一環みたいだね、とつくしは苦笑いをした。

 

「つーちゃんの言う通りかも、勉強するの楽しいし」

「その言葉……羨ましいし、他のメンバーにも聞かせてあげたいなぁ」

 

 定期試験においてのMorfonicaメンバーの成績は八潮瑠唯はトップクラス、広町七深はよくもなく悪くもない中庸であるため除くとしても、残りの三人はお世辞にも良い成績とは言いづらくまた、常日頃の勉強に対する姿勢はつくし以外の二人は壊滅的であった。

 

「でも赤点までは取らないでしょう?」

「……ましろちゃんが」

「そ、そうなんだ……」

 

 自分もギリギリだった、ということは置いておくとしてバンドのパートにおいても結成理由においても最大の要ともいうべき倉田ましろは、その結果に瑠唯がよく外部受験に合格したわねと真正面から言い放つレベルだった。

 

「んー、でも勉強でバンドの練習が取りにくくなるのは辛いよねぇ」

「そーなんだけどさ……でも、やっぱり学生なんだもん! 勉強第一、でしょ?」

「確かにつーちゃんの言う通り……それなら、俺が手伝おうか?」

「え、手伝う……って」

「倉田さん、だっけ? その子の勉強もつーちゃんと一緒に見てあげるよ」

 

 ──つくしがギリギリで回避できている理由が彼、であり、中等部の頃から考査前になるとやたらめったらに赤線が引かれた教科書とまとまりきっていない雑多なノートを持って彼女は彼の家でそれらを整頓するという作業をしていた。ましろもそうすればあるいは、と考えた彼に、つくしは思いっきり頭を横に振った。

 

「それは……だめ」

「ダメ? どうして?」

「だって……それは、私の」

 

 つい、顔が曇ってしまう。バンドのためを思えば彼の提案はありがたく、頭を下げるべきところであるというのは理解できるのに、理性的でない自分がそれを邪魔してしまっていた。嫌だという気持ちを抑えられないでいた。

 

「ご……ごめん、変なこと言っちゃった。ましろちゃんが補習とかになったら大変だもんね……ここはしっかり者の私が、わがままを言うところじゃない……よね」

 

 ズキズキと痛む胸を抑えながら、つくしは笑顔を作った。他者のために自分を押し殺すこともしっかり者でなくてはいけない、リーダーシップには必要だからと喚く心の声をどこかに切り離していく。

 ──お願いします。そう言いかけるつくしだったが、彼はそれを遮り、切り離したはずのつくしのわがままを拾い上げるようにそこまで、と声をかけた。

 

「へ……な、なに?」

「俺、つーちゃんと恋人になった時に約束したこと、あった気がするんだけど……なんだった?」

「え、えっと……ちょっと待って、メモ、メモ……あ、あれ?」

 

 唐突に言われ、慌ててポーチを漁り始めるつくしに対して、彼は深くため息を吐きながら当時の言葉を再生するようにゆっくりとしかしメモではなく彼女の記憶に刻むように言葉を紡いでいく。

 

「恋人になるなら……ううん、その先、将来をちょっとでも考えてるなら言いたいことははっきり言うこと。迷惑だからとか、遠慮とか、そういうのはなくそう……って、言ったよね?」

「うん、言った……気がする」

「え?」

「……ごめんなさい、正直うろ覚えです」

 

 再び、ため息。そんなことだろうと思ったと彼は下を向くつくしに厳しさはあれど暖かな声でそれでと彼女の本音を促した。

 ──本当はどうしたい、と語る彼の目につくしはおずおずと胸の裡にあった痛みを吐き出していく。

 

「ましろちゃんを、あそこに連れていくのは……だめ」

「だめなの?」

「うん。だって……他の女の子と仲良くするの、もやもやしちゃうから」

 

 彼の家で勉強を教わるという時間は、自分だけに与えられたい。彼と二人きりでゆったりとした時間を過ごせるのは自分だけであってほしい。自分で浅ましいとすら感じてしまう気持ちを余すことなく、遠慮することなく伝える。

 嫌がられてしまうかもしれない。そんな恐怖を感じながら恐る恐るといった様子で彼の顔を見上げたつくしは、穏やかでどこかすっきりしたような微笑みに照らされていることに気づいた。

 

「ヤキモチか……うん、わかった」

「わかった……ってなにが?」

「つーちゃんがあの時間をそんな風に特別に感じてるってことが、かな」

 

 会計を終えながら、彼は歌うように上機嫌に、また一つ彼女の飾らないありのままの気持ちを知れたことが嬉しいという感情を隠すことなく声色に乗せていく。そこにヤキモチが嫌だとか重いと感じているようには思えず、またつくしはおずおずと彼に訊ねていく。

 

「い、嫌じゃ……ないの?」

「まさかでしょう」

「でも」

「恋人の素直な気持ちを受け止められないような男だったつもりはないよ。少なくともつーちゃんの気持ちはね」

 

 甘ったるい言葉、あやすような口調、昔から同じ歳であるにも関わらず兄妹として見られてしまうこともある、一緒に成長してきた彼。だがその中に確かに、つくしにしかわからないほど僅かに、兄妹にはない感情を見せる彼の手をつくしはゆっくりと握って、歩幅を合わせてくれる隣を歩いて、なら……とゆっくりとわがままを増やしていく。

 

「つーちゃん?」

「きゅ、()()……しない? ダメなら……どっちかの家、とかさ」

「制服だし俺の家は親いるし……つーちゃんの家もまずいでしょ」

「あ、そ、そっか……うう」

 

 学校帰りに一秒でも早く会いたかったという想いがこんなことで裏目に出るとは思わなかったと肩を落とした。

 そんなつくしの手を彼は引いて、ならこっちだよと家とは違う方向へと歩き始めてしまい、困惑する。同時に、何処へと連れて行ってくれるのかという期待も。

 

「制服がまずいなら……服を買いに行こうかなぁって思って」

「え……あ」

「こういうのも、デートっぽくていいしさ」

「うん……そうだね」

 

 彼のそんな提案に、つくしは少しだけ恥ずかしそうに頷いた。自分から誘ってしまったことを振り返っての羞恥心に顔を真っ赤にして、その事実を覆い隠すようにあのさ、と無理やり話題を転換していく。

 

「こうやってちょっとずつでも、デートしたいな」

「確かに、今まであんまり学生らしいデートしてなかったね」

「うん」

 

 二人はそれぞれ学生らしいデートというものを頭に浮かべて示し合わせたように顔を見合わせ笑った。服を選び、そして二人は学生という身分証明だった制服を袋に仕舞い、大人のフリをしていく。

 ──そうなればもう遠慮はいらない。お互いの気持ちをお互いに受け止めることをもう一度、今度は忘れないようにしっかりと約束した。

 

「……私、これからも頑張る。頑張って、ちゃんとリーダーとして、しっかりしていけるように頑張るね」

「頑張れ、つーちゃんならできるよ。確かにドジでおっちょこちょいなところはあるけど、俺はできるって知ってるから」

 

 信じている、ではなく知っている。後ろから包まれながらどこか確信めいた言葉をくれる

 彼に、つくしはありがとうと微笑み目を閉じた。

 誰にどれだけ励まされるよりも強い彼の声は、誰よりも自分に自信がない故に空回りしがちな彼女に、明るい道を指し示してくれるようだった。

 

「あ、でも」

「なに?」

「困ったことがあったら……バンドじゃなくてもなんでも、遠慮せずに俺に教えて。頑張るつーちゃんを支えることが、俺のつーちゃんに伝えられる大好き、って気持ちだから」

「だいすき……うん、そうする。頼ってばっかりでごめんね」

「いいって、嫌じゃないし。相手はつーちゃんだからね」

 

 昔とは違う関係で、昔とは違う距離感で、だけど彼が昔から大好き、と口にする時の顔はどこか幼い頃を彷彿とさせていて、つくしも昔とは違う関係であることを意識しながらも昔と変わらない笑顔で彼に抱き着くのだった。

 

「大好きだよ」

「うん、ありがとつーちゃん」

 

 しばらく抱き着いていたが、ふと自分の姿に気づきつくしは慌ててごめん! と言いながら離れようとする。だが、いつの間にか腰には彼の手が回っており、つくしはそんな意地悪をしてくる彼の顔を見上げた。

 

「えーっと……あれ?」

「ん?」

「もしかして……もしかする?」

「うん」

「……え、待って、待とうよ!? さすがにさっきので限界じゃ……!」

「ごめんつーちゃん、無理」

「えー!」

 

 結局、暴走してしまった彼を止めることはできずに帰ろうと立ち上がった頃には予定していた時間を余裕で越えており、料金表にあったものより3000円ほど割高になってしまったお金を払い、すっかり夜遅くなって冷えた空気を吸って吐きだした。

 

「お、怒ってる……?」

「え、ううん?」

 

 ため息だと思った彼はつくしにゆっくりと訊ねるが、何故か彼女は妙に嬉しそうな顔をしており、どうしたのと目を丸くされてしまう。

 つくしはその問いに充足感を以て返事をしていく。

 

「なんかさ、大人って感じ」

「……おとな?」

「うん。こういうところから出てきて、夜の街を歩く……みたいなの! 大人じゃない?」

「つーちゃんは大人のイメージ変な気がするけど……まぁいいや」

 

 なにその含み笑いは? とお茶を濁した彼に、つくしは抗議をしようと背伸びをしながら頬を膨らませる。そんな大人と子どもの間にいる彼女の文句を素早く唇で奪ってしまった彼の対応が大人っぽくてずるいという叫びは、夜の街に溶けていった。

 

 



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【八潮瑠唯】キミにしかわからないことこそ

るいるいは、なんというかバンドリの中でも未完成、という印象の強いキャラなので、いっそのこと純愛させたれ~、という思いが強かったです。


 街中のとある喫茶店で、八潮瑠唯は苛立っていた。余りにも整っていて、人形のような……いっそ無機質さすらある彼女の顔は一見無表情に見えるものの、同じバンドのメンバーである倉田ましろが見れば怯えて近づいてこないほど、内心は怒りに満ちていた。

 ──呼び出しておいて、遅れるとはどういうことかしら。しかも連絡もない。

 スマホを見てから、腕時計を見て、ため息をなんとか深呼吸で抑えて足を組み替えた。

 

「いらっしゃいませ、おひとりですか?」

「あ、えっと待ち合わせで……あ! 八潮さん、すみません!」

 

 バタバタと慌ただしくやってきたのは寝癖を跳ねさせるいかにも寝起きというような風体の男だった。そんな彼の登場に瑠唯が抱いた感情は安堵ではなくより激しい苛立ち。眉間に皺が刻まれるほどの呆れだった。

 

「遅れてしまい申し訳ありません、八潮さん」

「……外での集合は基本約束の時刻から五分から十分前、と私はそれを常識だと考えていたのですが、今は何時でしょう?」

「うっ……十時、半前です」

「正確には十時二十六分、それともあなたの常識ではこれくらいが適切ですか?」

「……遅刻です、すいません」

 

 今度はこらえることなくこれ見よがしにため息を吐く。思った以上に怒っているなと下を向いた彼に、だがそれは悪手だったことを伺わせるのは瑠唯の表情の変化だった。未だどうして怒られているのか真に理解していないことが伝わったが故の落胆のようにも感じられる苛立ちだった。

 

「まず」

「……はい」

「寝坊だ、というのはあなたの身なりを見ればわかるけれど……もしかしてあなたの持っている携帯端末はゲーム機か何かかしら?」

「あ……その、すぐにと思って」

「私も完璧ではないから予定してきたよりも遅くに起きたことはあるわ。そういう時こそ冷静に、まずは現状を相手に伝えることが先決ではない? 現に私は来るか来ないかもわからず三十分以上待たされて、帰ろうかと二度、考えたわ」

「うぐ……」

 

 マシンガンのように、あるいは爆弾の雨のように放たれる正論という言葉の暴力にうちのめされ、彼の肩がさらに小さくなる。教育実習で初めて顔を合わせたその時から、彼の中にある八潮瑠唯への畏れが大きくなるようだった。

 

「それで? 何か言葉はないの?」

「あの、えーっとですね……」

 

 跳ねる寝癖を触りながら、眼鏡のブリッジを持ち上げながら、彼は言葉を必死に探した。だが、こういう時の瑠唯は何かを言えば説教が飛んできてそれで赦してくれる。何度か怒らせたからこその自慢にもならない経験値が彼の口を素直に開かせた。

 

「待っててくれて、ありがとう……瑠唯ちゃん」

「……既にコーヒーを二杯余分に飲んだわ」

「その分は払うよ」

「必要ない。誠意というものはお金で買えないものだわ」

 

 それは表情の変化に乏しい瑠唯なりの感情表現であり、彼は自分に対してはとことんルーズであるのに、そういう機微を見逃さない人物でもあった。

 ほんの、ほんの少しだけの声の揺れから、呆れでも苛立ちでもない別の感情を読み取った彼はそうだね、と頬を掻いた。

 

「それじゃあ、今日は何処へ行こうか?」

「決めていないの?」

「いや、瑠唯ちゃんの気の向くままでどうかなって?」

「それは決めていないってことではないのかしら」

 

 そんなことないよ、と彼は一応の計画を白紙にするようにスマホをスリープモードにする。遅れた分、彼女のわがままに付き合うという姿勢を、言い換えるならお金ではない誠意を見せた彼に視線を合わせた瑠唯は、ならばとスマホを差し出した。

 

「水族館……?」

「ええ、昔の友人が……最近、恋人とデートをしたらしいの。普段はあまり表情を変えない印象があったのだけれど、その時ばかりは……とても幸せそうだったわ」

「それで……なるほどね」

 

 訊くところによるとその友人はおっとりとしていてお淑やか、それでいて普段は図書室にいるなど静かなところを好むらしく、ゆっくりと過ごしたいならオススメと紹介されていたらしい。騒がしいところを好まない瑠唯はそういったレジャーやヒトの集まる場所を避けていただけに、興味を惹かれたという印象が彼には強く残った。

 

「よし、じゃあ行こうか、というか水族館って行ったことない?」

「そうね。記憶にある限りは」

「それじゃあたぶんないね」

 

 決まりだね、と彼は立ち上がり、瑠唯もそれに合わせて無言で立ち上がる。だが瑠唯がお金を財布から出そうとする前にスマホをかざしながら会計を済ませてしまっている彼の背中を眺めていたがすぐにはっとしたように小走りで彼の隣に追いついていく。

 

「誠意はお金ではないと言ったはずだけれど」

「別にそういうのじゃないよ。ただあそこで分けるよりも一括の方が効率的ってだけだし」

「けれど」

「それより、瑠唯ちゃんもスマホ決済使わないの? 時間効率いいよ」

「……確かに、財布からお金も出さずにどうやって支払っていたのか、気になるわね」

 

 道中はスマホ決済の方法を話しながら電車に揺られていく。そんな中で瑠唯は便利だろう? と子どものように笑う彼の横顔を盗み見た。

 ──去年の初夏、中学生だった彼女の前で自己紹介をした時から、変わらない彼の屈託のない笑顔と生徒の機微を汲む姿勢は瑠唯の心を揺らした。

 

「よっと、思ったより混んでるね……瑠唯ちゃんだけでも座れてよかったよ」

「……ええ」

 

 恋人を気遣うことが男性として当然だったとしても、それを自分に向けられていると意識すると、瑠唯は自分の頬が僅かに熱を帯びていくことに気づいた。

 甘い、クセの強い感情。持て余してしまうようなさざ波。だがそれこそがまるで、これまで歩んできた人生に意味をもたらしているような感覚が、雰囲気も言動も大人びた彼女を年相応の少女に変えていた。

 

「……ん? どうしたの?」

「いえ、なんでもないわ」

「ああ、この体勢だとしゃべりにくいよね」

 

 座席に座っている瑠唯とその前に立つ彼、頭の高さからあまり声を張るのも憚られる状況にある、というほんの少しの不満を掬い、彼はごめんと苦笑いをする。そのたびに彼女は彼の飾らない姿が眩しいと感じる。彼の笑顔が自分の笑顔であるような気さえしてくる。

 ──またひとつ、彼を愛しいと思っていく。

 

「手を」

「うん?」

「手を繋いでいて。それなら、黙っていてもいいわ」

「……わかった」

 

 きっと知り合いが見たららしくないと笑い飛ばされてしまうのだろうと瑠唯は心の中で苦笑する。まさか自分がここまで誰かに甘えたいと思ってしまうだなんて、彼女自身ですら知らなかった一面なのだから。

 

「電車は公共交通機関としては優秀だけれどこういう時不便ね」

「確かに不便というか快適ではないよね」

「元来ヒトにはパーソナルスペースがあるのだから、混み合ってしまうとどうにも」

 

 会話をしながら、手は離さず二人は人の流れに沿って歩いていた。購入したチケットを係員に見せながらやや暗い空間へと向かっていくのを、瑠唯はきょろきょろと辺りを見渡していく。

 人がたくさん入っていくのにもかかわらず、静かな雰囲気であることへの驚き、そして水槽を見上げるという不思議な感覚だった。ふと彼を見るとそのリアクションが面白かったのか、珍しかったのか、悪戯が成功した子どものような笑顔を浮かべていた。

 

「どう?」

「……想像した以上ね。幻想的、というのかしら」

「連れてきた甲斐があったよ」

「それは最後に言うものではないかしら?」

 

 それもそうか、と彼は瑠唯の手を引いていく。周囲が暗いせいかより、握られている右手に意識が向いてしまう。デートらしいデートは初めて、ということもあり指先が熱くなるような気がしていた。

 

「ペンギンというのは……本当に水を飛ぶように泳ぐのね」

「だね、なんか俊敏で地上とはイメージ変わるよね」

「……そうね」

「誰かを思い浮かべた?」

「ええ……まぁ」

「そっか」

 

 普段はおどおどして、歩行すら覚束なさそうでありながら、ステージで見る姿は力強く羽ばたいている。水槽の中を、地上の姿とは比べ物にならない速度で自由自在に泳ぎ回るペンギンの姿が彼女の中でいつも顔を合わせる少女と重なっていた。

 

「やはり」

「うん?」

「……素直に表情を出せるほうが、かわいげがある……のよね」

「男性から見て、ってこと?」

 

 瑠唯は言葉ではなく首の動きで肯定する。桐ヶ谷透子や倉田ましろ、二葉つくしや広町七深……いつの間にか一緒に行動することが増えた、同じバンドのメンバーはみんな、色々なことに表情を変え、お互いに感情や思ったことを共有していっている。誰から見ても彼女たち()()は仲良しだと、そう確信できる。

 ──なら、私は? 一歩引いてそれが自分の役割だからと大人になった気でいる自分は……本当の意味でM()o()r()f()o()n()i()c()a()()()()と言えるのだろうか? 変われない自分が悔しい。変わらないことに言い訳をしたがる自分に苛立つ。いつから、こんな不安定になったのだろう。瑠唯の言葉にはならない情緒を、彼はそっと見守るように言葉を送る。

 

「付き合った時から、瑠唯ちゃんに向けた言葉に嘘はないよ。どれだけかわいげがなくたって、大人になりたくて背伸びの仕方を間違えていたって、恋人はただ一人、瑠唯ちゃんだけだから」

「けれど」

「仮定なんて意味を成さないよ。これは八潮瑠唯という個人に対する、愛情なんだから」

「……どうして?」

 

 その問いかけに彼はマジメに答えることはなかった。さぁね、といたずらっぽく笑われた瑠唯はむっとして……表情に出ることはなかったが、問い詰めようとする。だが手を放して先に歩いていって彼に追いすがるように待ってと歩みを早めた。

 

「──はい」

「あ……?」

 

 気づいた頃にはもう遅く、止まれず勢いのまま彼女は優しさと悪戯心の中に飛び込んで包まれていく。

 暗がりとはいえあまりに大胆で人目を憚らない抱擁に、瑠唯はまず困惑してしまう。彼は何をしているのだろう……その答えは、彼女の頭上から優しく降ってきた。

 

「ほら、瑠唯ちゃんが今自分で証明したよ。どうして愛してるのか、って問いかけに答えがないってこと」

「……私?」

「そう……どうして待ってって追いつこうとしたの? って訊かれた答えは突き詰めるとそうでしょ?」

 

 追いつこうとしたのは、彼女が彼と隣を歩く関係だから。なぜ隣を歩いているのか、それは彼に対して特別で唯一の愛情を持っているから。

 ──なぜか、という問いには、答えることはできなかった。強いて言えばなんとなく、タイミング、そんな曖昧でありどれも問いかけに満足な回答は出せない。だが()()()()()()()()()()なのだと、彼は言った。

 

「好きって気持ちに理由はない。好きになったんだから、一緒にいたいって思ったんだから……それ以上を求めるのは逆に効率が悪いよ」

「恋をすることや特定の誰かを愛することの方が、感情に振り回されるし、こうして二人の時間を費やしてしまうし、効率は悪いと思うわ」

「じゃあ、別れる?」

「……いいえ。別れない……別れたくない」

 

 彼といることは、効率が悪いことなのかもしれない。無駄で、将来の道を歩むうえで何も残らないものなのかもしれない。

 ──それでも、例えそうだったとしても、彼女はこの感情に振り回されることを選んだ。彼の手を取って、彼の腕の中にある温もりに触れ、心に触れ、理屈ではない愛情を確かめあう。そしてますます、彼のことを深く愛していく。

 

「──るいさん?」

「倉田さん……どうしたの?」

 

 それから数日後、月ノ森の空き教室では、またいつものようにMorfonicaの練習が行われていた。その休憩中に、珍しくスマホを見ていた彼女の口角の僅かな変化に気づいたのは、ましろだった。

 

「う、ううん……あ、えっと……なんかるいさん、スマホ見てる時、嬉しそうだなぁって」

「え、シロ! あのルイが嬉しそうってそれ目の錯覚じゃね?」

「……失礼ね。私はロボットではないのだけれど」

「いや~、ロボットっしょ!」

「と、とーこちゃん……」

 

 そこからまたお互いの声に騒がしくなっていく中で、七深がこそこそと瑠唯の袖を引いた。

 七深がいた角度からは、彼女がスマホで何を見ていたのかわかっていた。そして、彼女がとある教育実習生に恋をしたことも。

 

「るいるい、どこか出かけたの?」

「水族館に。記憶にある限り初めて行ったから、思い出してしまったのかしらね」

「そっかぁ~、ふふ、よかったね」

「……ええ、本当に」

 

 今度は明確に、四人の前で微笑みを浮かべた瑠唯を見た透子がまた一段と騒がしく、教室を驚きと興味と、様々な感情で埋め尽くしていく。

 騒がしくて、感情豊かで、自分にはない魅力とエネルギーを持った仲間たち。そんな四人に対して、瑠唯はいつものように冷静に、時計を眺めてからもう休憩は終わりじゃないかしら? と問いかけていった。

 ──首元、セーラー服に隠れたネックレスのチェーンの音が自分だけに聴こえることに喜びを感じながら。

 

 

 

 

 




ラブラブちゅっちゅな瑠唯ちゃんでした。普段大人然としていますが高校一年生、バンドリキャラ内で言うと宇田川あこちゃんや朝日六花ちゃんと同い年なんですよね。香澄やはぐみより年下なんだよ……うん。
あの風体ですからね、きっと色々苦労してるんだろうなぁと思いながら書いているので、読み返す時はそんな感じで瑠唯の発言を見返していただければ。

これにてモニカ五人が出そろいました。最後はRASとなりますので、またお楽しみに!


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RAISE_A_SUILEN
【和奏レイ】輝ける日々はキミと共に


 装置のような存在だ、と彼女は感情を出すことなく眩い舞台に立ち続けた。サポートメンバーとしてただただ、無感動に。

 楽屋から立ち去る時に、後ろで成功を喜び合う声が聞こえて後ろ髪をひかれるような思いすらもあった。けれど、彼女は前に進む。ただ、進んでいく。

 ──そんな時、彼女は出逢った。自分よりも小さな少女が、自分の求めていた震え、痺れるくらいの熱を持っていることを。

 

「Sweet! Excellent! Unstoppable!」

「はいっ! 今日も大盛況でしたね、チュチュ様!」

「ふふ、そうだね」

 

 大歓声の余韻もまだ残るライブハウスを出て、バンドメンバーと一緒に歩いているところで、和奏レイは興奮冷めやらぬ雰囲気のプロデューサー兼DJのチュチュに微笑みを浮かべて、ふと前を向くとメンバーたちにごめん、先帰るねとウィンクをした。

 

「ますきさん……」

「ん?」

「アレ、レイヤさんの?」

「ああカレシ。チュチュにスカウトされる前からの知り合いでさ」

 

 ロックの言葉にマスキングが肩を竦めて応える。いつの間にか付き合ってたんだよなという言葉にやっぱり、とほんの少し恥ずかしそうに眼鏡のブリッジを押し上げるロックに、パレオがやや興味ありげに目を輝かせる。

 そんなギャラリーを背中に置くレイに向かって缶コーヒーを投げて、それを片手でキャッチした彼女は微笑みながら距離を開けて風上に立つ。

 

「あんまり、煙近づけないでよ」

「わかってる」

 

 火を点けて煙を吐き出す彼にレイはけれど楽しそうに、歌うようにお迎えありがと、とコーヒーを煽っていく。

 スラリと背の高くクールな雰囲気のある彼女と、どこか日本人離れした鼻目立ちをした彼が作り出す空気はどことなく甘いというよりはほろ苦さを感じるものだった。

 

「んじゃ、行くか」

「うん」

 

 助手席に乗り込んだレイはすぐさま窓を開けて走り抜ける街灯と夜風に髪を揺らし、目を細める。スピーカーから流れるロックに心の中で拍を取りながら、彼の車から見える景色が好きだった。

 

「これは?」

「QUEENの……悪い、タイトル忘れた」

「聴いたことない」

「メジャーだったらド忘れしないよ」

「それもそっか」

 

 男性でありながら色気のある甘い歌声を耳に入れながら、やっぱカッコいいよねとレイは口にする。カッコいいってか、と彼はそれに苦笑いをする。

 だが、ロックの殿堂入りすらもした偉大なアーティストへの敬意の籠った声で、この人は自分の歌で世界中に伝えようと本気で歌ってる、と口にした。

 

「ロックだよな」

「ロックだよ。フレディは」

「死んでなきゃ、75歳くらいか……元気に音楽やってたのかな」

「どうだろ」

 

 HIVという重病に掛かり、苦しみの末に自らの死を受け入れた伝説的ロックミュージシャンのもしもに想いを馳せる彼にレイはふふ、と笑った。

 二人の行先は特にない。いつもこうして会った日にはロックミュージックと、夜風と共に車を走らせるデートをするのが日常だった。気まぐれに語らい、気の向くまま車が二人を静かな世界に連れていく。

 

「でも、良いなって思う」

「なにが?」

「QUEENだけじゃないけど、こうやって世界には何年も何年もこうして誰かに感動や、共感を届ける名作ってあるでしょ? そういうの、良いなって」

 

 確かになぁ、ともう音楽は諦めてしまった彼は寒々しい雰囲気を帯びた声で肯定した。輝かしい脚光を浴びるアーティストの足元には夥しい数の、夢に破れて、才能に破れて、音楽性に破れたアーティストたちの骸が積みあがっている。時には亡者が、その栄光の足を引っ張ろうと地の底から手を伸ばす。自分はその骸の一つであり、レイは逆に光を浴びているのだということを彼は知っていた。

 

「RASも」

「ん?」

「きっとずっとみんなの記憶に残るさ」

「そう……だね。そうなるように、私は歌ってるつもり」

「……自信持てよ、レイヤ」

 

 以前なら、そんなことないとレイは否定しただろう。彼女はRASと、チュチュと出会う前は……そして出会ってからしばらくは、ただ歌うことしかしてこなかった。そこに彼女の想いは何一つ乗っていなかった。だけど、そこにいつしかRASを想う気持ちが乗っていき、そして全員の想いを彼女は歌に乗せるようになった。それがどういう心境の変化かまでは彼にはわからなかったが、記憶に残る歌というのはそういうものだと彼は持論を語る。丁度、曲が切り替わり、悲し気でありつつも決意の籠ったメロディーが流れ始めていた。

 

「ボヘミアンラプソディー……」

「フレディはゲイだったんだと」

「……えっと?」

「父親は敬虔なゾロアスター教徒で、善悪二元論の中で男色ってのは悪だった。フレディは悪だったんだよ」

「……うん」

 

 ゾロアスター教、世の中は善と悪の二つで構成されているという教えを子どものころから教わってきた彼はどうにかして善であろうと努力したのだが、どうしても自分の好きなものは変えられなかった。

 ──ボヘミアンラプソディーはそんな自分を殺し、新しい自分へ変わっていきたいという想いと、それでも愛してくれた母親への、自分が善でいられなかったことへの謝意でできていた。

 

「そっか……彼は、苦しんでたんだね」

「でも、こうして苦しかったもん全部、歌にして、今でも名曲として残ってる」

「そうだね」

「そうやって強い想いがあれば、自然と残ってくよ。レイの歌も」

「……ん」

 

 やがてボヘミアンラプソディーが終わる頃、車が止まりレイはその景色にドアを開け、上を見ながらすごいよ! と彼を手招いた。

 あんまはしゃぐとこけるぞと言われ、レイは大丈夫とまた手を大きく振る。

 

「すごいなぁ……星がきれい……!」

「ロマンチックだろ?」

「最高に」

 

 誰もいない夜の海辺にやってきた二人は、都会の光のないその景色に見惚れていた。幼馴染に言われた、星という言葉、その意味をわかってはいたけど今一度星の偉大さに触れ、自分がこんな風になるんだという決意を新たにしていく。

 

「ねぇ」

「ん?」

「楽器、積んであるでしょ?」

「はぁ?」

 

 まさかと思ったのも束の間、何度かよろめきながら走って車のトランクを開けて、彼のアコースティックギターを取り出し、元気よく手渡す。

 何歌うの? と訊ねた彼に、レイは少し考えてからキラキラ星……かな? と笑った。

 

「……はいはい」

 

 音楽に一直線な彼女はこうなってしまったらもう止まらない。彼は諦めたようにギターをかき鳴らし、レイの透き通っていてけれど力強い歌が星の煌めく夜空に溶けていく。

 気が済むまで歌い、深呼吸をしたレイはまたもやねぇ、と彼の名前を呼んでいく。

 

「今度は──っ?」

「……私はキミの音、好きだよ」

 

 不意に唇を重ねられ、静寂を車のエンジン音が斬り裂いていく。キラキラと瞳いっぱいに星を輝かせ年相応の、十代の笑みを浮かべるレイに、彼は唇どころか言葉すらも奪われてしまった。

 

「おま……ったく」

「たまには、ホテルとかどう?」

「はぁ?」

「ほら……いっつも車の中だとさ……痛いし」

 

 そんな言葉に彼は海よりも深いため息をついていく。無邪気かと思えば途端に十代とは思えない色気を出してくる。さり気に指を絡めて、妖しく微笑みを浮かべたのにも関わらず、すぐにまた無邪気さを取り戻す、そんな二面性のあるレイに彼はいつの間にか惚れ込んでしまったことを思い出したのだった。

 

「了解、近くのでいいよな。つかトシは」

「私、何歳に見える?」

「……はい」

 

 大人っぽいもんな無駄にと呟き、乗れよとレイを促す。

 曲が一周したようで、またもやタイトルのわからなかった曲が流れ始め、レイがいい歌だねこれ、最高と笑う。

 

「……思い出した」

「タイトル?」

「These Are The Days Of Our Livesだ」

「意味は?」

「……教えない」

 

 それはひどくない? と不満げな声を出すレイに彼は後でな、と指を絡めていく。窓を開け、星を眺めながら、彼と彼女の幸せを乗せた車は都会へと戻っていく。

 ──そんな星を、レイはいつまでも忘れられない、という予感を抱いていた。いつだって彼とドライブをして思い出せるほど、素敵な景色と素敵な音楽だったのだから。

 

 

 

 

 



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【佐藤ますき】キミが一緒なら

 ──ドラムの音が響く。自分を振り返り、驚きと諦観を見せるメンバー。退屈な日々。情熱もある、技術も悪くないのだろう。だが自分とは、自分の音楽とは決定的に()()。彼女はいつも孤独だった。周囲は彼女のことを狂った獣だと称し、畏れられ、距離を置かれる。どうしてこうなったのだろうと自問自答をして、バンドが組めなくても、自分は自分の音楽ができていると常に言い聞かせ続けてきた。その先に、何もない、孤独の闇が広がっていることを知りながら。

 

「ますきー?」

「んぁ!? お……おお、お前か……」

「こんなところで寝ちゃダメだろー」

 

 だが声がしたことで、意識が覚醒した彼女は一瞬だけきょとんとしてから自分が夢を見ていたこと、実家の地下にあるGalaxyのステージの上で寝転がっていることに気づいた。

 悪い悪い、と歯を見せながら笑い、佐藤ますきは頭に残るようでありながら具体的な内容はわからなくなっていく夢を追いかけようと思考を巡らせた。焦燥感、寂寥感、そんな感覚に頭を掻き、振り払うようにまたドラムを叩き始めた。

 

「──それで、なんでまたあんなところで寝転がって……?」

「練習してたらなーんか、今日は調子悪くてな」

「それでアレかぁ、びっくりさせないでよー」

 

 ドラムに集中し、一息を吐いたところで彼がまたやってきて、コーヒーを片手に会話をしていく。のんびりとした口調で、秋口にありながらモンシロチョウでも頭の周りに飛んでそうなマイペースで春の陽気を思わせる雰囲気にますきは毒気を抜かれたようにホントにびっくりしてんのかソレとため息を吐く。

 

「心臓止まるかと」

「そんなにか……見えねぇんだけど」

 

 ますきはまじまじとGalaxyでアルバイトをしている一つ年下の彼を見つめた。能天気そうなその顔は、しかししっかりとますきよりも身長が高く、男性的な特徴もあり、彼女は思わず目を逸らしてしまう。

 

「んー? どしたの?」

「なっ……なんでも、ねぇよ」

 

 ──彼をまっすぐ見られなくなったのは、出逢った時には咲き誇っていた桜の花びらが散り、すっかり冬がやってきた時のこと。

 RASのドラマーとして、バンドのメンバーと本気でぶつかり、涙や怒り、喜び、全部の感情をぶつけて本当の仲間(チーム)と呼べるようになった頃であった。

 だがそんな意識に対して、自分の理想とする男性は、少なくともふわふわと綿毛のような雰囲気を漂わせる彼とは正反対であるからだった。

 

「まっすーさんって、案外ロマンチストというか……白馬の王子サマが好みなんですか?」

「……いや、そこまでわかりやすいモンじゃねぇ……と思うんだけど」

「でも絶対そのタイプって少女マンガ知識じゃないですか~?」

「う、うるせぇ!」

 

 口が堅そうなメンバーに相談したところ、暗に夢見がちと言われたこともある。

 ともすれば不良にしか見えないような彼女ではあるが、昔から所謂お嬢様学校で育ってきたますきにとってそれまで同年代の男性と机を挟んだ距離感で話すことすらなく、どこか空想上の生き物であるかのような錯覚すらあった。

 

「確かに今日は調子悪そーだ。ずーっとぼーっとしてるしさー」

「あ、ああ……悪い」

「大丈夫大丈夫。片付けやっとくからー」

「……あ、おい」

 

 だからこそ、この感情が恋煩いかどうかということもわからず、また認めたくないという気持ちが勝っていた。

 テキパキと片付けを始められ、手持ち無沙汰になってしまったますきは彼から離れていく。自室で転がろうかとも思ったがそれでは胸の中にあるモヤモヤとした正体のわからない感情を意識することになってしまう。そう考えた彼女はスマホで連絡を入れていく。

 

『ハーイ、マスキング』

「チュチュ、今からソッチ行ってもいいか?」

『オッケー、スタジオ開けておくわ』

 

 バイクを走らせ数分、チュチュのマンションにあるスタジオへとやってきたますきは、そこで見慣れたメンバーが揃っていることに驚きの表情をした。

 家主であるチュチュ、その従者を堂々と名乗るパレオ、そして。

 

「ますきさん、こんにちは!」

「ああ、ますき。ますきも、練習?」

「レイ、ロック」

 

 用事ついでに寄った、そう語るのはレイヤとロックだった。次いで驚きのままチュチュに目線を向けるとまっすーさんから連絡がある寸前にお二人からも連絡があったんですよ、とパレオが嬉しそうに説明をしてくれた。

 

「せっかく、どうしてもってレイヤが言うからオフってしてあげたのに」

「ごめんチュチュ、でも、待っててくれてありがと」

「フン!」

 

 それじゃあどうせだし、練習にしようかと仕切っていくレイヤ、準備しますと笑うパレオとロック、そして、その輪の中にごく自然にますきは自分がいることに気づいた。

 ──望んでも、望んでも手に入らなかったチーム。同じ方向を向ける仲間。独りでないという胸の高鳴り。

 

「……ますき?」

「あ、ああ……なんか、わかったような気がしたんだよ」

「ますきさん、最近何か悩んでるような感じしましたよね、解決したんですか?」

「おう……たぶん、だけどな」

 

 彼はそれと同じだ。口調も学校ではなんとか誤魔化しているくらいに粗野で、周囲と自分が違うことに苦心していた彼女にとって、なんでもない日常の一部のように接してくれるということがどれだけ心を動かされる存在なのか……独りにしてくれないということがどれだけ幸福なことなのか、ますきは今更になって気づくことができた。

 

「うっし! 今日は暴れるか!」

「じゃあパレオもお供します!」

「いいね、ぶつけ合おう」

「あわわ……今日は荒れる予感……うちも頑張らんと」

 

 その日はチュチュが本来の練習だったら全員放り出してるわ、と呆れるほどに全員が自分勝手に音楽をかき鳴らしていった。

 ──結局、全員を飲み込んでいったのは独りで突っ走っていくロックだったのだが。

 

「あー、すっきりした! やっぱ最高だな」

「うん、楽しかった」

「疲れましたぁ……」

「なに言ってんだよ! ロックが一番ヤバかっただろ!」

「え、ええ……」

 

 手の付けられない狂犬(マスキング)として敬遠されてきた自分はもういない。今はRASのドラマーとしてのマスキング、そしてメンバーきっての料理担当であり、ロックと少女マンガを貸し借りし、パレオとはかわいいもの談義をする佐藤ますきとしての自分のことが、嫌いではなかった。

 キバを抜かれたわけでも、首輪をつけられたわけでもない。ただ、無暗に吠えるほど弱く脆い存在ではなくなったということ。

 

「あ……おかえりますき」

「おう……ただいま」

「じゃあそろそろ上がるから、お疲れー」

「あ……あのさ」

「んー?」

 

 ロックを送っていき、自宅の八百屋の前まで帰ってきたところで、来た時と同じ制服姿に戻った彼とばったり出会った。

 調子が悪いと言ったのにどこかへ飛び出していたのを咎めることも問い詰めることもなくのんびりと手を振る彼をますきは呼び止める。

 

「これからメシでも、どうだ? 腹減ってさ」

「いいねー、お腹減ったよ」

「よし、じゃあラーメンな」

「おっけー」

 

 どこまでも、自分が描いてきた恋愛とは……マンガで見て想像してきたラブストーリーとはかけ離れたものだった。だが、それだからこそ、自分の気持ちが勘違いではないと信じることができていた。

 ──信じることで漸く、一歩を踏み出せることができる。あの日、チュチュの手を取った時のように。

 

「……ってさ、なんでもかんでも音楽につながるんだよな」

「ますきらしくていいんじゃない? らしい方が好きだけどなー」

「……そうか」

 

 普段のんびりとした雰囲気があるせいで感じることはないけれど、ふとした時に男なんだと感じてしまえる彼。並ぶと背が高くて、背中は広い。重たくて苦労している機材をひょいと持ち上げてしまえる彼。

 ますきは、そんな彼を知るごとに気持ちを深めていくのだった。

 

「それはギャップ萌え、というやつですね」

「ぎゃっぷ……もえ?」

「第一印象とは違うところにキュン、としちゃうところですよ」

「あー、ロックみたいなやつか」

「どちらかというとまっすーさんでは……?」

「あ?」

 

 その言葉通り、関わる時間が増えていくごとに相手の様々な一面がわかるようになったのは何も彼女の一方通行ではなかった。バンドメンバーと関わる姿、クレーンゲームでかわいいぬいぐるみを見つめる姿、お菓子作りのためにエプロンをする姿、第一印象ではわからないますきの表情を知る度、彼もまた、マスキングとしてだけではない佐藤ますきという一人の女性を深く意識していく。

 本当の自分、自然体としての自分、ますきはいつしか、彼に対してどう接するか考えることが減っていく。ありのまま、思ったままの言葉が口から出るようになっていく。

 ──やがて、二人は二人でいることが自然になる。傍にいることが、想いを伝えることが当たり前になっていく。だが今はまだ……その気持ちはお互いの胸の裡でしかない、秘められた想いだった。

 



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【鳰原令王那】何色でもない時間をキミと

 鳰原れおなは、ため息を吐く。学級委員として頼られることに嫌悪感はない。だがそれが本当の自分ではないという乖離が本人の心を蝕んでいく。目を閉じればすぐに思い浮かぶ景色、キーボードを弾く自分、横を見ると彼女と目が合う。楽しくて、観客からはかわいいと言われる。最高の時間。

 ──目を開けばその景色がまるで夢のようだった。誰もが自分をカッコいい、クール、おとなしい、優秀でいい子、そんな風に形容される。彼女にとって中学校というものは一種の牢屋のようですらあった。

 自分の生き方は自分で決める。そんな思いとは裏腹にそれを本当に是としていいのかと問い詰める自分もいた。

 

「レオ」

 

 かわいい自分(パレオ)かわいくない自分(れおな)、その埋めがたい二人の差に押しつぶされそうになりながら校門を出ると、そこには楽器を背負った男が立っていた。どちらでもない呼び方をする彼の名前を呟きやや顔を明るくしかけたところで、同じように校門から出てくる、自分と同じ制服を身にまとった少女たちがちょっと不思議そうに目線を送ったことに気づき、慌てて体裁を整えた。

 

「こ、ここで待つのは非常識かつ迷惑です」

「悪い。気をつける」

「……反省してない」

 

 少し離れて、あたりに同じ制服を着た子がいなくなったのを見計らってから、れおなは彼の隣を歩き始める。

 噂になったらどうするの? そんな柔らかく、だがトゲのついた言葉を受けた彼はもう一度だけ悪い、と反省の色のない謝罪をした。

 

「女子校ってああいうのが噂になるの、すっごく早いんだよ?」

「そういうもんか」

「みんな飢えてるからね」

 

 街中で何組の誰が男と手を繋いでいたとか、カレシらしきヒトと一緒に歩いていただとか女子校はその手の話題であふれていた。特にマジメでおとなしいれおなのようなヒトを校門前で男子が待っていた、となれば爆発的に噂が広まるのは必定だった。

 

「質問責めにあったら、あなたのせいだから」

「はいはい」

「もう、話聞いてる?」

 

 適当に流され唇を尖らせていたれおなは、だが自宅に着くなり少し駆け足でちょっと待っててと彼を置き去りに家に入っていく。生返事をしながら特に気にすることなく、スマホを触り、待つこと十分ほど、そこに鳰原れおなはいなくなっていた。

 

「お待たせ!」

「おう、行くか」

「うんっ」

 

 髪色をウィッグでピンクと水色のツートンカラーにし、眼鏡からコンタクトに変え、制服から着替え、さっきよりも一段高く元気な声で、弾けるような笑顔で()()()は彼の腕を取り駅へと向かっていく。

 パッと見た印象で彼女が鳰原れおなだと気づける人間はどれくらいいるのだろうか。彼はそう考えながらじっと見ていると、まるで犬のように期待したような瞳でなに? と訴えかけてくる。

 

「いいや? レオはいっつも元気だなーと思って」

「ふふふ、このプチデートが楽しいからかな?」

 

 ここから東京のRAS本拠地であるチュチュのマンションまでの道をデートと言い切るパレオに彼はそうかと笑みを浮かべた。普段の彼女からは考えられないほどまっすぐな感情をぶつけられるとそれはそれで照れてしまう……というのをパレオは知っていた。電車に乗っているあいだも絶えずくっついていく。

 

「ねね、今日は? 泊まってもいい?」

「……部屋汚くていいなら」

「え~、この間キレイにしたのに~」

 

 片付けんの苦手なの、と今度は彼が唇を尖らせる。パレオは苦手なのはわかるけど努力をしないと~と歌うように、まるでそれが本当は悪いことではないかのように言葉にしていく。指を彼の指の間に滑り込ませて、嬉しそうに微笑んだ。

 

「しょうがないから、パレオがぜ~んぶキレイにしてあげるね♪」

「キレイ好きなカノジョで嬉しいよ、ありがとう」

「どういたしましてっ」

 

 少女から放たれる蠱惑的とも言える声色に少しだけ心臓を跳ねさせる彼を見て、パレオはまた微笑みを浮かべる。れおなとしては大人しく静かでクールな女性、パレオとしては従順で感情にストレート、だが今の彼女はそのどちらとも違うやや加虐的な色合いが瞳からあふれていた。

 その色に彼は引きずりこまれるような感覚を味わっていた。出会ってから数ヶ月という短い時間、だがその時間の中で彼は確実に彼女という花の甘さに、堕ちていくようだった。

 

「そーいえば」

「ん?」

「今日はなんで迎えに来てくれたの?」

「……なんでって」

 

 だって、面倒だったでしょ? とパレオは片道の時間を指しながらつぶやく。彼の家は確かにチュチュのマンションからはそう遠くにはないが、往復となると彼女の家からは相当な時間がかかる。電車賃もそう安いわけではないし、なにより申し訳なさを感じての言葉だったが、じゃあレオはどっちがいいの? と問われ反射的に声を出してしまう。

 

「そりゃあ……そりゃあさ、嬉しい、けど」

「嬉しいなら喜んでおいて損はないと思うけどなぁ」

「誰かの負担になりたくない」

「そう思ってる時点で重いんだよ、レオは」

「ひどい!」

 

 その言い草にパレオは頬を膨らませる。なんと愛のない言い方なんだろう、この人はどうしてそんなひどい言い方をするんだろう。そんな憤りは握られた手と唇に吸い取られていってしまう。

 

「それが嫌、とは言ってないけど」

「言い方が嫌」

「そんなレオが好き」

「……っ、嫌い!」

「嘘つきだな」

「バカ……アホ、たらし、エッチ、変態」

 

 照れは心にもない、わけではないが傷つける意図ではない罵倒へと変わり、そしてまた、彼を誘う魅惑の花の香りを漂わせていく。わがままでいいんだ、もっとわがままになっていいんだ。そんな安心感がパレオとれおなの境界線を曖昧にしていく。

 

「でも嫌いではないだろ」

「うるさい。その余裕はホントに嫌い」

「年上だから余裕は必要、わかる?」

「知らない」

「お前も大概ひどいよな」

 

 その言葉に逆転した、とばかりにそれが嫌とは言ってない、と先程の彼のように言おうとしたところで、それこそが彼の罠だということに気づき慌てて咳払いで抑える。巧みにこのやり取りが嫌いではないということを示していることだった。

 

「なんだ気づいたのか、えらいえらい」

「子ども扱いしないでウィッグ乱れるからやめて」

「駄々っ子みたいだな」

「じゃあ……ロリコン?」

「うぐっ」

 

 気まずそうな顔で目を逸らしてくるほどの衝撃を受けたことが意外だったため、彼女はきょとんとした後にぷっと噴き出した。年下に、しかもいたいけな中学生をたらしこんだという罪悪感はあること。それでもこうして言葉や手で好きという気持ちを教えてくれる彼が、彼女には宝物のようだった。

 

「笑うなよ。こっちは深刻な悩みなんだ」

「じゃあなんで寄ってきたの?」

「好きになったんだから……しょうがないだろ」

「中学生を?」

「年齢発覚した時にはもう手遅れだったんだよ」

 

 まさか中学生だとは、いつもそばにいるネコミミヘッドホンのチュチュと同じ年だなんて思いもしなかったんだよ、と言い訳を重ねていく。彼女は小柄でかわいらしいもんね、チュチュ様と笑う。小柄でツンとした態度がまたかわいくて音楽に一生懸命で。そんな尊敬し敬愛するご主人様を想っていた。

 

「まぁ……レオもかわいいけど」

「ん?」

「いやレオもかわいいって」

「もう一回」

「何回言わせるんだ」

「普段言ってほしい分」

「どんだけだよ」

「毎秒、常に!」

 

 だが常にはムリ、と断られほんの少しだけ項垂れてしまう。つい、パレオの姿でいると抑制が効きにくくなってしまう。主人と慕うチュチュにも見せることのないわがままや、どうしようもなく好きなヒトを振り回したいという欲求を抑えられないということに意気消沈してしまう。

 

「レオは素直なのが一番だと思うけどな」

「そんなこと言って、めんどくさいって思ってるでしょ」

「うん」

「やっぱり」

「でもレオはそこがかわいい」

 

 落として、上げられて。先程の仕返しとでも言いたげな彼の笑顔に彼女は唇を尖らせた。めんどくさいけど、めんどくさいからかわいい。そんな風に言われても嬉しくないよとは返してみるものの、その言葉が嘘であることは彼女の表情を見れば彼でなくてもわかることだった。

 

「なぁレオ?」

「んー?」

「中学卒業したら、どうすんの? 進路とか」

「決めてないよ。先生にはいいところ狙えるから、とは言われるけど」

「うちの近くは?」

 

 それは通うのが大変、と言いかけてその真意を汲み取った彼女は、同棲はしませんと断った。存在は教えているにしろ両親にもまだ紹介できていないし、なによりまだそこまでの心の準備ができていない、というのが本音だった。だが、先回りされややショックを受けている彼に、そりゃあ、とまだまだかわいらしい未来の展望を伝えていく。

 

「ずっと一緒にいたいし、ほら、け……結婚とか、あるけどまだ早いよ」

「まぁ、十四だしな」

「誕生日来てないから十三だよ?」

「……具体的年齢を出すな」

「去年までティーンですらなかったし、二年前はランドセル背負ってたよ?」

「いじめて楽しい?」

「うん」

 

 ロリコン、という四文字を突き付けられやっぱナシだなと結論を付けた彼にでも、と彼女は志望校を上げていく。どれもが彼の家の近くにあるものばかりで顔を明るくしたところで、彼女はニッコリと笑みを浮かべて告げた。

 

「チュチュ様にも誘われていたから、そっちに行くね」

「……は?」

「二人で住むには狭くない?」

「そうだけど」

「近所になるからいいでしょ?」

 

 彼はもう一度そうだけどさぁと先程の彼女のように唇を尖らせた。その隙に、その溢れ出た好きという感情に、彼女は彼の腕を取りいたずらっ子のような笑みを浮かべてくる。愛されたいという欲求は愛を言葉にしてほしいという欲求へと変わっていく。

 

「ね、一緒がよかった? 一緒に暮らしたい?」

「そりゃあ……レオのこと独占したいし」

「──っ! そっか、そっかそっか!」

「なんでそんなにキラキラしてんの?」

「わたしもだから!」

 

 パレオでもなく、れおなでもなく。自分の作り出した自分ではない本当の声で彼女は目を輝かせて彼の愛に自分のめいっぱいの愛で応えていく。

 ──惚気とお互いのスケジュールのすれ違いで会えない日々が続き膝を抱えてうずくまっていた彼女を発見した主人たるチュチュがそんなのだったらゲストルームくらい貸すわよ! と折れて、予定より早く同棲するのは、それから数年後の話だった。

 

 

 

 



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【珠手ちゆ】譲れないキミとの約束

 新進気鋭の実力派ガールズバンド、RAISE_A_SUILENのプロデューサーにしてDJを担当しているチュチュ……珠手ちゆはぼやける視界と曖昧な思考で周囲を見渡した。確か、夜中まで作業をしていたところで、と途切れてしまっている記憶を巡っていた。

 近くに置いてあるタブレット端末で時計を見ると八時を少し過ぎたところで、彼女はふわぁと大きな欠伸をした。

 

「んんぅ……思ったよりも早起きしてしまったわね」

 

 従者のようであり、そして彼女にとっての支えのような人物、鳰原れおな(パレオ)が世話をしてくれるのは平日の夕方以降、もしくは休日のみ。現在は地元の中学に登校したくらいの時間だろう。メッセージが何通か送られてきており、それに簡易的な返事をしながら彼女は二度寝の準備をし始めた。

 ──それを見透かしていたかのように、来客のチャイムがチュチュの微睡を妨げていく。

 

「……もう、誰よ~……は? はぁ!?」

 

 どこか夢と現が曖昧で、重たかった瞼が一気に現実へと、そして目を見開きバタバタと慌て始める。

 画面の向こうにいたのは、チュチュにとって知らぬ人ではなかった。だが、RASのメンバーとは違いその人物が家の前にいるという事実は彼女に驚きと焦りを感じさせるものだった。

 

「おはよ、ちゆ」

「お、おはよ……じゃなくて、朝っぱらからなによ」

「なに……って顔見たくなっただけ」

「What? それだけ?」

「もちろんそれだけじゃないけど」

 

 スラリとした、黒のジャケットに白シャツ、スキニージーンズの似合う茶髪を少しだけ伸ばした爽やかな青年に微笑まれ、チュチュは頬をほんのりと染めながらテキパキと()()をしていくのを見守っていた。

 

「パレオちゃん、学校でしょ? 偶には僕が何か作るよ」

「……そう」

 

 ショルダーバッグから取り出したのはエプロン、そしていくつかの食材たち。それらと冷蔵庫からも食材を取り出し、ダイニングキッチンに立ち手早く調理をしていく。

 その後ろ姿からはぎこちなさはなく、なおのことチュチュは気恥ずかしさすら覚えてしまうのだった。

 

「ん?」

「……なに?」

「いやいや、後ろからすんごい視線を感じるから」

「あ……ごめん」

「キライなものは入ってないよ、大丈夫」

 

 以前からこうして彼女への世話を焼くのは彼の日課のようなものだった。だが最近……ことRASが本格的に始動してからは特に彼が突然やってくることが多くなっている。そして以前までのチュチュはそれを、邪魔だと眉根を寄せていたのだが。

 

「ありがと……助かるわ」

「──っ! うん、どういたしまして」

 

 柔和な表情を喜びに変え、ダイニングテーブルに和食を揃えていく。欧米暮らしが長かったチュチュとしてはベーカリーとスープ、サラダ……は食べないものの朝食といえば洋風のイメージがあるのだが、彼は頑として朝は和食、譲れないと作り続けていた。

 

「この味噌汁、また薄味だわ」

「えー、そんなことないって」

「あとジャーキー」

「はいはい、言うと思った」

 

 欠かせないのはジャーキー。食べるきっかけになったのは音楽活動の傍ら、手に取って食べられるものを探したことが始まりだった、いわば効率的な食事だったのだが、今ではすっかり好物としていかなる時も欲しがるようになっていた。

 

「……はぁ、ごちそうさま」

「おそまつさま、これからどうするの?」

「曲作り、そういうあんたは? ってか学校は?」

「それじゃあ僕はスタジオ借りてもいいかな? 練習したいし」

「ヒトの話聞きなさいよ!」

 

 あはは、と笑うだけで結局学校がどうなったのかには答えずに家にやってきた時に右手に持っていた黒い楽器ケースと楽譜などが入った手提げをソファから拾い、慣れた足取りでスタジオに向かっていく。随分と背が伸びたのに後ろ姿から受ける印象は変わらない。チュチュはそんなことを思いため息をついた。

 

「なんでわたしなのよ……いつもいつも」

 

 贅沢な悩みだということはわかっているつもりだった。それと同時にそんな贅沢がなければ自分はどういう生活をしていたのか、ということも。だがチュチュ様、と懐いて世話をしようとしてくるパレオや、彼がチュチュには時折、わからなくなる時があった。そのわからないという気持ちは、彼女の純粋な創作活動を阻害していく。

 ──そうなると決まってチュチュは、スタジオへ、彼がいる場所へと足を運ぶ。扉を開け、突如耳に飛び込んでくるふわりと甘く胸に響くような優しい音色にチュチュはフンと鼻を鳴らした。

 

「……excellent」

 

 黄金の身体から流れる美しく滑らかなスイング、楽しそうに跳ねる指が奏でるレバーとキイの開閉する音すら、彼女の心を震わせる。同時に、同じところまで上り詰めることができなかった自分の手のひらを見つめ、悔しさに歯噛みをした。

 

「ちゆ、聴いててくれたんだ……どうだった?」

「雑味が多いわね」

「まぁね」

 

 全体的にまとまってはいるが時折音が荒くなったりかすれたり、雑音が入ることを指しチュチュは腕を組んだ。そのサックスでは()()でまた、厄介者になるわと。だが彼は悔しがることも怒ることも悲しむこともなく、笑顔でそうだねと返事をする。

 

「あるでしょう、クラシック用のサックス」

「あるね。アレホントにキレイな音が出るんだもん、驚いちゃった」

「なら」

「──でも、僕にとってのサックスはこれだ。この味が、サックスなんだよ」

 

 ジャズでは彼の奏でるかすれなどの雑音も、立派な味として受け入れられる。だがことクラシックや吹奏楽では、それは致命的な灰汁となり受け入れられなくなる。それをわかっていながらもジャズ用に音の広がりを調整されたサックスを手放さない彼に、チュチュは厳しい言葉を向けた。

 

「認められなきゃ、音楽家に未来も価値もない」

「……そう、だね」

 

 ズキリと胸を痛めるような言葉、自分に言い聞かせるような言葉。

 ──好きだから、両親は褒めてくれるから。それでは意味がない。ちゆがチュチュになるまでに経験してきた音楽への憎しみ、その炎を燃え上がらせる薪を彼にも投げ入れていく。

 

「だからあんたは弾かれ者(アウトロー)扱いなのよ。せっかくそんな才能があるのに……!」

「ん……ちゆの言う通りだよね」

 

 ジャズで、ソロで活動しているのならそれでもいい。その個人が持つ音楽に向き合う魅力を出すことは悪いことどころかいいことなのだが、彼は集団の中で演奏することを選んでいる。その矛盾に、ちぐはぐさに、チュチュは苛立ちすら覚えていた。

 

「いつもそう、あんたは……最初からずっと」

 

 ──僕はちゆといたい。だから、ごめん。

 友人を大切にする、友情を大切にするクセに、最後には誰になんと言われようと珠手ちゆというたった一人のために、その友情すらあっけなく捨ててしまう。それがずっと、気にいらなかった。なにより、それを嬉しいと思ってしまう弱い自分自身すらも。

 

「でも、ごめん」

「なに」

「僕はこの音を捨てられないんだ。誰が、どう思ったとしても」

「why? なぜ?」

「これが()()()()だから……かな」

 

 は? とちゆは意味がわからず訊き返す。だが、わざわざ訊ねるほどの意味はこめられてはいなかった。何が何でもちゆを優先した理由も、今のサックスの音色に拘る理由も、根っこは全く同じ思い出からきていたのだから。

 

「僕の全てはちゆのモノだって……約束したからね。ちゆが最高だと思ってくれる音楽こそが僕の音楽で、ちゆを愛することが、僕の存在理由だ」

「あ、あんた……そんなことで、じゃ、じゃあどうして部活なんて」

「それを言ったのもちゆだよ?」

「え?」

 

 戸惑いつつも記憶を辿る。確かに、自分がRASの活動を通して、またぶつかり合ったことで彼女の考える最高の音楽への道が拓けたような感覚がしたことを彼に話した。その際、寝ぼけながら彼に偶には部活などでぶつかり合ってみれば、案外最高の音楽が見つかるかもと軽率に発言した……ということに思い当たり、漸く、彼の言っていることが納得できた。

 

「それで……結果は」

「あはは……ダメでした」

「そりゃそうでしょう」

 

 誰もが自分のようにうまくはいかない。自分が集めたバンドのメンバーが強い絆で結ばれ、真の仲間になることなんて……まさしくヒトとの出逢いがもたらした奇跡のようなものだということ。チュチュはRASというものがそういう類だと改めて感じた。

 

「まぁ、わたしからアドバイスできることは……やめておくことね」

「はぁ……ごめんねちゆ。せっかくアドバイスしてくれたのに」

「そもそも! あんたは我が強すぎるのよ。わたしくらいのプロデュース力がないとソロだろうとアンサンブルだろうと、凡人にされてしまうわ」

「ふんふん……じゃあちゆが面倒見てくれると」

「なんでそうなるのよ! 頭おかしいわよ(クレイジー)!」

 

 だって、ちゆは理解してくれるし、僕の我の強さをなんとかしてくれるプロデュース力の持ち主なんでしょ? と純真な瞳で微笑まれ、言葉を詰まらせてしまう。同時に、面倒を見る、という単語が別の意味を持っているような錯覚さえありチュチュはそっぽを向いた。

 

「わたしは……カイショウのない男はノーセンキューよ!」

「甲斐性……なるほど甲斐性」

「なんの納得よ」

「つまり音楽で稼げるようになるまで結婚はお預けってことでしょ?」

「けっ──!」

 

 さらりと、男女としての将来を指す単語を出され、今度は別の意味で言葉が詰まってしまい、チュチュは頬を染めた。ヘッドホンの下ではきっと耳まで真っ赤になっているだろうというくらい熱を帯びるのを感じながら、チュチュは半ばやけくそにそうよ! と肯定した。

 

「じゃあ、もっともっと頑張ろうかな」

「そ、そうしなさい……わたしは、そんなに、いつまでも……待って、ないわ!」

「それはそれとしてちゆ」

「な、なに?」

「フィアンセにご褒美をくれてもいいんじゃないかなーって?」

「う……あ」

 

 ──ヘッドホンを外され、距離がゼロへと近いづいていくのをまるでスローモーションのように感じながら、チュチュは、ちゆは彼にはその条件が難しいことではないことを知っていた。万が一にも、彼が夢破れることはない。それは誰よりも彼が自分の音を見つけるまでの努力やそして本気を信じている証拠でありそれは、彼が求める全てを許せる根拠でもあった。

 

「ここまでしたんだから、わたしに相応の結果を見せることね。中途半端なら、切り捨ててやるわ」

「任せて」

 

 音楽家を目指し瞳に炎を燃え上がらせる彼、ちゆの世話をする柔和で温和な彼。そのどちらの背中を見ている彼女は、RASと出逢ったことでそこに一つの目標を見出していた。

 後ろ姿ではなく、隣に立つこと、横に並ぶこと。昔は叶えられなかった小さな頃の約束を、今度はターンテーブルに乗せることを。

 

 

 

 

 

 



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【朝日六花】夢を撃ち抜いたキミたちに

「うう……さむっ」

 

 白い息を吐き出し、少しだけ赤くなった鼻を鳴らした彼女は、分厚い雲に覆われているであろう夜空を見上げた。マフラーに顔を埋めて息を吐くと眼鏡が少しだけ曇り、彼女……朝日六花は冬の訪れを如実に感じていた。

 

「こういう時は……やっぱりお風呂や~」

 

 実家である岐阜から上京したての頃はお世話になっている、という気持ちが強かった旭湯も、今ではすっかり第二の家としての居心地を得ていた。広いお風呂にゆっくりと温まることを想像するだけで寒くて一歩も動けないくらいだったのに足は確実に帰路を歩んでいく。

 

「あ、おかえり六花」

「……はい? なんでおるん?」

「え、なんで?」

「うちが訊いとるんやけど」

 

 そんな帰り道、もう少しで家に着く、というところで暗がりでも見慣れた後ろ姿が180度回転し、コンビニで買ったであろう肉まんを頬張る、恋人の姿に驚く。

 ──付き合って数年経ち、確かに一緒に住む家をと考え始めている関係ではあるものの、それはまだ未来形の話。彼の家は近辺にあるはずもないため六花は訝しげに眉根を寄せた。

 

「いや、ライブで汗掻いたし風邪引く前に風呂~と思ったら六花の顔が浮かんでさ」

「……だからそんなラフなんだ」

「そそ、食べる?」

「食べかけやない?」

「うん」

 

 よく見ると冬だというのにジャケットの下はスウェットとサンダルで、既に客としてお風呂から上がり、小腹が空いたからコンビニへと向かったのだろうと予想ができた。問題なのはその姿でどうしてまた旭湯に戻ろうとしているのかということなのだが。

 

「まさか……」

「うん。六花の部屋通してもらった」

「なんで!?」

「カレシだからね」

 

 ドヤ、と効果音が聴こえてくるような態度に六花は深い、それは深いため息を吐いた。そしてまだ僅かにしっとりとしている街灯に照らされた長い前髪を睨みながら、私がおらんのに部屋入ったらあかん、と頬を膨らませた。

 

「なぜ」

「かたしとらんもん。今特にえらいことなっとるのに……」

「あーそういえば下着落ちてた、青色」

「わーわー!」

 

 さらりと爆弾発言をした彼に六花は真っ赤になりながら抗議をする。最近は特に色々と忙しく、また半分一人暮らしのような状態であるため片付けをする余裕もなく部屋が荒れていたため、しばらく彼を呼べていなかった。

 

「し、下着をほうっておいたのは確かに悪いけど……それは見ないフリをするもんやろ」

「ごめん……でも六花の見慣れてるし」

「そーゆー問題やない!」

 

 本格的に怒りだしてしまった六花に、彼は素直にもう一度だけごめんと謝意を示した。それと同時に、コンビニのレジ袋を差し出していく。底を持つとほんのり温かく、彼が肉まんを一つではなく二つ買ってきていたことはすぐにわかった。

 

「あんまん」

「え?」

「それ、あんまんだから」

「あ、あんまん……って、それって」

 

 彼は甘いものが好きではなく、あんこは特に苦手……そんなことは六花にとってもわざわざ確認するまでもないことだった。

 ──つまり、レジ袋の中にあるあんまん、そして微糖のホットコーヒーは自分のために買ったものではなく、六花のことを思って買ったものだと気付くのも、そう時間はかからなかった。

 

「六花が最近部屋を片付けられないくらい忙しいこと、わかってる。わかってるから、ここにいるんじゃない」

「あ、ありがと……え、じゃあ」

「片付けも終わったから、コンビニ行ってたんだよ」

 

 それはつまり散らばっていた下着などを見られていたということであり、恥ずかしさがこみあげてはくるのだが、それ以上に何も言わず優しくフォローをしてくれる彼に対して、今度は彼女の方がごめん、と下を向いた。そうとは知らず暢気に銭湯を利用して部屋に来たものだと決めつけ、非難したことへの、下着を見られることとはまた違った恥ずかしさだった。

 

「オレは」

「え?」

()()()みたいに、スゴくはなれなかった。ただの趣味で楽器やってるだけのヤツに成り下がった。だからせめて、と思ってさ」

 

 RASの一員として、高校を卒業した後も半ばプロのようなものでメンバーと共にチュチュが持ってきた依頼をこなしたり、dubで定期的にライブをしたりと活動を続けてきた。そんな道の途中で、彼とは出逢っていた。同じ世界にいたはずの彼、そこで恋人という関係を結んだ彼。だが道は別々になってしまった彼だった。

 

「……そんなことない。なんて言えんけど……でもうちは、キミを()()とは言いたくない。ううん、誰にも言わせんよ」

「六花……」

「さ、せっかくだし泊まるでしょ? ちょっと待ってて」

 

 彼を部屋に通し、背負っていた楽器を置いて、マフラーと手袋などの防寒具を彼に任せて六花は浴場へと消えていった。

 肩まで浸かり、六花はゆっくりと思考を巡らせ、思い出に浸っていく。もうずっと前のことにすら感じる、彼の音楽を。

 

「──やっぱり、ずうっと音楽をやっていくのは、難しいんやろか」

 

 かつて、ガールズバンドパーティー(GBP)という大ガールズバンド時代に現れた高校生たちによる五つのバンドの祭典があった。アマチュアでありながら幾つもの奇跡のような輝きで武道館に立ったバンド、プロへの登竜門を潜り頂点を目指したバンド、小さな地元の商店街発でありながら絶大な人気を博したバンド、アイドルとの劇的な融合を果たしトレンドを席捲したバンド、世界を笑顔にするという旗を掲げ全世界に音楽の素晴らしさを届けようとしたバンド。

 ──そのどれもが、今や過去のものとなり始めている。それぞれの夢や目標に向かって、未来に向かって、枝分かれした道をそれぞれ歩んでいった。

 

「ハロハピさんは……まだ活動しとるみたいやけど、Roseliaさんも、Afterglowさんも、パスパレさんも……ポピパさんも、みんなもう……無くなってしまった」

 

 今でも目を瞑れば、ロック~という元気な声が聴こえてくる気がした。大好きだった戸山香澄とも、もう何年も会っていなかった。

 まだ地元に残っている人も、今では普通の人のように生活をしている。まるで最初から、楽器を持ってキラキラと輝いていたのが……夢だったかのように。それは彼も、同じだった。

 

「永遠はないからね」

「……うん……うん?」

「おじゃましまーす」

「ちょ、ちょっと!? なんで!?」

 

 思考の海に没しかけていたところで、意識が現実の銭湯へと戻ってきた六花はやってきた彼に驚き後退る。そんな驚きをよそに彼は六花の隣に二度目の入浴をして、いつもの笑顔を浮かべてきた。

 

「……なにしとるん?」

「六花が寂しそうだったから」

「うち?」

「今も」

 

 指摘され、六花はそうだよね、わかっちゃうよねと苦笑いをする。

 あの時点でも彼は帰ろうと思えば帰れた。だが六花は彼に泊まるよねと引き留めた時点で、何か思うところがあったのだろうということはわかっていたのだった。以前にも何度かそういうやり取りがあり、彼は六花にそういうパターンだよねと教えたことがあった。

 

「もうそろそろ大学も卒業だからさ、なんか昔を振り返っちゃいがち、というか……ふと」

「先輩たちが恋しい?」

「……そりゃあね。でも、うちが会いたい先輩たちは……今の先輩たちじゃないんよ」

「そうだなぁ……この間羽沢さんのところ寄ったけど、やっぱ違うんだよね」

「うん」

 

 大ガールズバンド時代と呼ばれた過去は、もうない。ガールズバンドも飽和状態になり、目新しさがなくなり……徐々に衰退していった。現在普通に生活していく上で名前を聴くガールズバンドは六花の所属するRASとMorfonicaというバンドの二つだった。

 

「終わりは、必ずあるよ」

「……うん」

「きっとRASにも、いつか終わりは来る」

「だけど……怖い」

 

 小学生の頃、憧れたギタリスト。そして上京するきっかけをくれた、キラキラでドキドキなバンド。それを目指してガムシャラに走ってきた彼女が直面していた終わりの瞬間に、だが彼は優しい声を掛けていく。

 

「でも、オレの世代なら誰だって歌えるし知ってるよ。きっと、十年経てば懐メロにでもなってるんじゃないかな?」

「……だから?」

「音楽って、辞めたらそこで終わりじゃないってこと。残り続けるんだよ、例え流行りもの扱いだったとしても、本っ当にいいものは……何年も、何十年も」

 

 それが音楽でしょう? と来春からレコード会社へ勤めることになった彼は笑った。例えそのヒトが楽器を置いても、歌わなくなっても、キラキラもドキドキもなくなるわけじゃない。むしろ、残り続ける。

 ──そしてそれを手に取った誰かがまた、その音楽を、キラキラもドキドキも愛していく。消えることなく、ヒトの心を揺さぶり続ける。

 

「オレも……そうだったらいいなーとは思うけど、やっぱインディーズじゃあね」

「そんなこと、ないよ」

「え?」

「だって、誰かが覚えてれば、消えないってことやんね?」

「ん、まぁね」

「……うちはずうっと忘れんから。キミが音楽やっとったことも、キラキラしとったことも、音楽も」

 

 彼は一瞬だけ驚いたような顔をしてから、そっかと柔和な笑みを浮かべた。街を眺めても、メインストリートに流れる映像を眺めても、そこに自分の知っていたものは無くなっているのかもしれない。

 そうだったとしても、胸の中に流れるメロディーは、知っていたもので溢れていく。それは青春の記憶だったり、友情の記憶だったり、出逢いの記憶だったり。

 

「じゃあオレも絶対に忘れない。ロックってめっちゃカッコいいギタリストがいたことも、それが最高にかわいくて愛しい六花だってことも。みんなが忘れても、オレは絶対に」

「……そっか、ありがと」

 

 自然と唇を重ね、湯気の中に見えるお互いの笑顔にますます心を暖めていく。甘く、時には少しだけ苦く、長いようで、一瞬のような時間を掛けて育てたそれぞれの愛のカタチは、二人にとって掛け替えのない記憶となっていく。

 ──そこにあるたくさんの音楽たち、彼女らが流れ星のような一瞬の時間を掛けて駆け抜けていった、夢を撃ち抜いていった、青春の一ページと共に。

 

 




これで、最終話です。そして、並び替えれば法則的に言うなら六花は32話目になるはずですが……彼女は最後に読むのにふさわしい内容、のような気がするのでここに置かせていただきます。

自分にとっての音楽は、大人になってもメロディーが口ずさめてしまうものですから。終わっても、終わらないのが音楽のよいところですよね。


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特殊回
【今井リサ】キミと駆け引きとクリスマス


クリボッチ配信でリクエストもらいました〜 短めです〜


 レッスンが終わり、それぞれ解散していく中、今井リサは空を見上げて白い息を吐き出し早足に音楽事務所に向かっていく。誰か他にいるだろう、と思い元気よく挨拶をしたもののそこにはリサの目当ての人物が一人、暖房の音とパソコンのファンの音に紛れて画面とにらめっこをしていた。

 

「お疲れ様〜」

「あ、ああ今井か……今日って直帰じゃなかったか?」

「まぁね、でも一応報告しておこう、的な?」

「そうか」

 

 その男性はプロとして活動し始めたRoseliaのマネージャーを努めている男だった。今まで自分たちでやってきた広報やオファーの精査などの雑務をこなし、前よりもより彼女たちが音楽に集中できるようにと管理をする人物であり、まだ若い身でありながらこの「大ガールズバンド時代」と呼ばれる空前絶後のガールズバンドブームの最先端たるバンドのマネジメント業務に携わることになった彼は、だが下積み時代とは比べ物にならない多忙さに追われる日々を送っていた。

 

「てかまた残業? 今日何日だと思ってんの?」

「……クリスマス・イヴだな。思い出させないでくれ、寂しくなる」

「あはは、クリボッチってこと?」

「ってこともクソも明日は一日今井の付き添いだった気がするんだが?」

「そうだったね〜」

 

 既に誰もいなくなったオフィスにタイピング音とリサの鼻歌がセッションを始める。暖房の低い唸り声もまた、リズムを取っているようだと感じた彼はふと画面から目を上げ、自販機からコーヒーを手に帰ってきたリサに訊ねた。

 

「今井は」

「ん?」

「この時間にこんなところにいて、よかったのか?」

「なにが?」

「いやその、友達とか」

「恋人とかってこと?」

「──まぁ、そうだな」

 

 遠回しにした言葉をわざわざ口にした彼女は密かに笑う。イメージの問題はあるものの特段恋愛を禁止しているわけではないため、そういう相手がいないようには思えない、と印象付けていたリサが24日の夜に事務所を訪ねてきているという事実に違和感があったのだが、リサはそれを先回りしたように彼の机に缶コーヒーを置いた。

 

「どのみち、明日もお仕事しなきゃなんだからカレシとかいても愛想尽かされちゃうって」

「そんなもんか」

「そんなもんだよ──同年代なんて」

「厳しいな」

 

 苦笑いをし、それならリサの付き添いで一日費やす自分も同罪なんだろうと自嘲した彼に彼女はそうだよと笑みを向けた。ひとしきり笑いあった後に、彼はおもむろにパソコンを閉じ、缶コーヒーを飲み干していく。

 

「送ってくよ」

「お、ありがと〜♪」

「あと──なにか奢ろうか、簡単なものでいいから」

「……へ〜? 気が利くじゃん?」

 

 まぁな、とコートに手を伸ばし、帰る準備をし始めた彼をリサは目で追いかけて、ベースを背負っていく。他愛ないおしゃべりが過ぎたせいか時間はすっかり22時を回っており、外の空気はひんやりと肌を刺すような冷たさに覆われていた。そんな寒空に長時間放置された車もまた、車内は外と変わらないほどに冷えていた。

 

「で、何がいいの?」

「ケーキ」

「……いや、もう十時」

「いいよ、今日じゃなくて明日でも」

「明日って……そうか」

「そうそう、てかアタシら、別にボッチじゃないんだね」

「そうだったな」

 

 走り始めた車はようやく暖かい風を出す。その温度にやっとマフラーを外し、前の信号を見つめ、その色が青から黄色に変わり、そして赤になったタイミングでもう一度何がほしいかの答えをリサはゆっくりと伝えていった。

 

「仕事、昼くらいには終わるでしょ?」

「そうだな、朝早いし」

「おいしいケーキ屋さん、予約してあるからさ……ね?」

「そういうことか……ん?」

 

 彼はその言葉に引っかかりを覚えたものの信号が再び青になり思考が中断される。急激に車内が暖房によって温められたせいで、フロントガラスがゆっくりと曇り始めていく。再び赤信号に引っかかり彼がデフロスターのボタンを押そうとした手をリサがつかみ、顔を彼に寄せた。

 

「──アタシ的には、このまま一晩……ってのもアリだケドね?」

「か、からかうなよ……全く」

「あはは、顔赤いじゃん」

「……信号のせいだろ」

「そっか、まぁそういうことにしてあげるよ!」

 

 デフロスターによって曇りが晴れ、信号は青に変わる。まっすぐの道を走らせながら彼はチラリとリサの横顔を見ると、彼女の顔は別の明かりに照らされてオレンジ色に染まっていた。

 だが心臓の音が聴かれることはなくやがて車はリサの家の前に到着する。彼女は運転席までやってきて、白い街灯に照らされながら窓を叩く。

 

「どうした?」

「はい」

「……なんだこれ」

「なんだって、プレゼントだよ」

「は……え?」

「明日も寒いらしいから、ソレは必須だからね〜」

 

 そう言って、彼がなにかを言う前にリサは手を振って家の中へと消えていく。

 緑と赤、そして金色のラインの入ったいかにもクリスマスといったラッピングに入っていたそれは、赤い色の糸で編まれたマフラーだった。彼女が普段使っているワインレッドよりも少し明るいカラーリングにチェック柄で他の色もあるソレは手編みではなく店のものだったが、いつの間に用意していたんだと彼を驚かせた。

 

「あ! リサ姉おかえり! どーだった?」

「あら……よかった、渡せたのね」

「うん、バッチリ」

「ええ、本当によかったです。直前までどうやって渡そうと右往左往していたので心配していました」

「……直前で、やっぱり渡せなく、なって……というのは、少し……わたしも」

「紗夜も燐子もひどくない!? アタシだってやる時はやるんだって!」

「明日も……うまくいくといいですね……ふふ」

 

 だが彼は翌日にあることまで全て、五人で考えたことだということには最後まで気付くことはなかった。そして彼女が決して恋愛ごとの駆け引きが上手な部類ではないということも、彼が気付くのはもっとずっと、後のことだった。

 

 

 




もちろんですが前回のリサ回とは話が繋がっていません。せっかくだから事務所絡みの話が書きたかっただけとも言う。


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【八潮瑠唯】キミと過ごした十二時間

※これは元がR18の「えっちなもの落書き置き場」の瑠唯と先生になっております。なので直接描写こそないものの際どい会話がバンバンに飛び交うので苦手な方は読まないように!




 クリスマスとなれば、教師としてはああ二学期終わったという感慨の方が先に来る。9月から始まった長い長い三ヶ月が終わり、そして冬休みばっかりは教師もちゃんとした休みがもらえる。年末年始の休みはもはや休みとは言えないような気持ちもあるが。そんな最後の日にあっても、俺は瑠唯のいる生徒会室に足を運んでいた。

 

「瑠唯、待たせたか?」

「……はい」

 

 いいえと社交辞令は言わない。実際、この八潮瑠唯って女は俺のことを今か今かと待ってたんだろう。誰もいないのをいいことにするりと腰に手を回すと、今日は意外なことに拒絶される。珍しい、いつもなら期待に表情が揺らぐのに。そんな驚きと疑問は瑠唯の言葉で解消されていく。

 

「一旦着替えなければなりませんから……制服とスーツじゃ、目立つから」

「……そりゃそうだ、んじゃ行くか」

「はい」

 

 いつからか、なんて覚えちゃいない。いつの間にかこうして瑠唯が俺の隣を歩くことが多くなった。ふと表情が和らぐことも、無表情っぽいのに何考えてるのかわかっちまうことも増えた。始まりは、そんな恋人っぽい関係からは程遠いものだったってのに。そういや、中等部で出逢ったこいつの処女を奪ったのは、一体いつだったか。

 

「……二年前の十二月半ばくらいだったわ」

「よく覚えてんな」

「その後のクリスマス、あなたと一晩中過ごしたのをよく覚えているから」

 

 その言葉でそんなこともあったなということを思い出す。俺は瑠唯のことを最初から狙っていた。中学生とは思えねぇプロポーションと立ち振舞いを見て、俺はこの女がほしいと思った。だから積極的に関わったし、庶務だったこともあり雑用としてふたりきりの時間を増やしていた。

 

 

 


 

 

 

 最初のガードは硬かった。だから色んな手を使って俺は瑠唯を堕としにかかっていた。でもこの雰囲気でも所詮は男のいねぇ環境で育ったまだまだ中学生だってのに気付いたのは冬休みが近づいた頃だった。生徒会室に置いてあった雑多な本などを資料室に片付けるという作業を瑠唯と二人でやっていた。

 

「なぁ、八潮ってさ」

「はい」

「クリスマスってやっぱ、ホームパーティーとかするのか?」

「……それは、どうしてでしょうか?」

「いや、なんとなく。ほらよく耳にするんだよな。カレシとデートとか、それこそホテル予約した……とかさ」

「──っ」

 

 一瞬瑠唯の手が止まる。動揺、してるんだろうというのはすぐにわかった。そもそも中高生が高級ホテルで性の六時間とやらを過ごすなんて話を聞かされた俺の身にもなってほしい。親の金だってのにまるでてめぇの湯水のように使いやがる。金持ちのお嬢様ってホント嫌だな。まぁそれを言ったら瑠唯も対象になるからと口にはしないけど。

 

「クリスマスが、本来の目的から逸れているという話でしょうか?」

「だな、八潮がカレシとってのも想像できないから」

「ええ、そんな相手いません」

 

 あくまでクールな返し、ただ言外にはそういった家族でのパーティなんかもないってことも理解できた。忙しいのだろうか、まぁそういうこともあるんだろう。だからこそこうして自立心の強い子がいるわけだ。自分の才能と親のスネで世間を渡ろうとする女よりかは好印象だな。

 

「……そんな話を知っているのですね」

「カレシとかって?」

「はい」

「そりゃ、俺がどういうセンセーやってんのかは、八潮が知ってんだろ」

 

 俺が生徒会顧問を任されている理由はプライド高く、また気難しい年代の女子を相手取れるだろうという評価からだ。なんだかんだでみんな箱入りばっかりだし、俺も昔は親のスネと才能だけで生きていこうとした部類の人間だしな。共感はできるんだな。それに俺はいい先生ではあっても真面目な先生じゃないってのが大事だな。

 

「知っていますよ」

「だよな」

「ええ……卒業した生徒会長……と副会長」

「──流石だな」

 

 俺は賢い子が好きだ。そしてこの女子校で遊ぶのが好きだ。いくらロリコンだと罵られようとも若くてうまそうな果実を前に我慢できるような性格はしてないってところだった。ただ彼女たちもそれはわかっていたようでそれぞれ卒業してからは別々の相手を作っていた。そういう割り切りができるのも、相手をしていた理由だった。

 

「私も、同じですか?」

「さぁな」

「……どういう?」

 

 そんな言葉に対し俺は瑠唯に後ろから迫りつつすっとぼけた答えを返した。いや、そう返すしかなかった。誤魔化してるわけでもなんでもなくて、ただ本当に瑠唯相手だけはそういう見極めもなく()()()()()()()処女までは奪わないようにしていた。スカートの中に手を入れることなんて、日常茶飯事となっていた。

 

「もう一回訊くけど、()()はクリスマス、ホームパーティーとかすんの?」

「……()()()()()()()

「そうか、じゃあ……そこまでに()()()()()()()()()?」

「はい……私はもう」

「じゃあ今日にするか」

 

 ──思えばこの時から、俺と瑠唯はもう戻れないところまで来てたんだろう。車で送るというのは瑠唯の家の近くの駐車場で調教してやるって意味だったし、どんどんと女の艶を身に着けて期待に口を開き、求めてくる彼女に溺れていて。焦れていたのは俺の方だった。瑠唯も、そりゃあもう妄想とかして頭の中が真っピンクになってただろうけど、俺だってそうだったんだ。

 

「思い出したのかしら?」

「色々と」

「……それで?」

「はぁ……いい女になったよ、お前は本当に」

 

 今年はレストランでいいもん食べて、それから高級ホテルのでかいベッドでというスケジュールが組まれていた。そこから俺は冬休みの間、また瑠唯に溺れるのだろう。二年で当時よりも更に一皮剥けたこいつの愛欲に、感情に。

 ──果たして、それがいつまで続くのか、あと二年で追われるのかなんて。少なくとも想像できるものじゃなかった。

 

 

 

 




中学二年生の六時間
中学三年生の六時間
合わせて十二時間ですよ♡


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