鬼にならなかったあなた (まなぶおじさん)
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鬼にならなかったあなた
あなたは人間だった。1865年目の夏季が訪れるまでは。
あなたはごくごく普通の両親に育てられた、普通の女の子だ。けれど人間とは何がしかの長所というものがあって、あなたは他の子よりもほんの少し身体能力が優れていた。さらに言えば、状況把握能力が他人よりも鋭いところがあった。
それが十分に活かされた遊びはというと、ずばり鬼ごっこだ。あなたは遮蔽物を飛び越えたり乗り越えたりとやりたい放題、鬼になれば「近道」を駆使して友達をすぐに捕まえたりと、そりゃあもう子供たちからは一目置かれたものだ。
――時おり、「お前は鬼の生まれ変わりなのか?」とからかわれたこともあったが、
「私は鬼なんかじゃないって」
そのたびにあなたは、けらけら笑いながらで反論した。
□
そうして今日も、あなたは近所の子供たちと泥だらけになってまで遊び回り、蒸し暑い日差しをいやいや浴びながらで家に戻る。すこし建付けの悪い長屋の引き戸を開けてみると、
あなたの家に、刀を持った知らない男がいた。
あなたが最初に意識したのは、それ。
次に気を配ったのは、血まみれになって畳の上で倒れている父と母の姿。
絶えないせみの音。
あなたは再び、男へ意識を戻す。男の右手には、ひどいくらい赤塗れた刀。左手には、なけなしの数枚のお札。身長はあなたの倍くらい。
あなたは最初に、こう思った。
こいつは強盗だ。
自分の両親を殺した。
なんて、腹が立つ。
殺してしまいたい、殺す。
あなたには最初から、恐れおののき逃げ出すという選択肢などなく。あなたは考える前に、玄関に置いてあった草履を強盗へ思いきり投げつけ、壁に立てかけておいた傘を手に取り走る。
不意の行動に強盗は驚き、額に石がぶつかる。すかさずあなたは強盗へ飛び込み、腹に傘を突っ立てる。
うめく強盗を前に、あなたは何度も何度も傘で突く。みぞおちめがけ、的確に――しかし子供の身では限界だったのか、やけになった強盗はあなたを乱暴に殴りつけ、あなたは容易く吹っ飛んで、壁に頭を打ち付けてそのまま気を失ってしまった。
気が付いたあなたは、すかさず状況を把握するために視線を右往左往させた。
まず最初に、知らないおじさんと目がぱったり合っ――つい驚いて後ずさりしてしまったが、おじさんは「よかった、目を覚ました」とほっと胸をなでおろしていた。
「気づいたかい?」
自分の家よりはるかに広い部屋、窓から夕焼けの赤い日差し、そこかしこに設置された脚つきの
ここは病院か。
助かったんだ。
あなたは、おじさんに意識を向ける。
「おじさんは、誰?」
「ああ。おじさんはしがない剣道場の師範を努めていてね、警官であるお父さんに剣術を指南していたんだ」
「あ、聞いたことある。お父さん、師範が厳しい厳しいってよく笑ってた」
「そうかあ」
おじさんが、苦笑いをこぼした。
あなたは夕暮れに照らされながら、よく父と母と三人で夕飯を共にしていた。その際に父は、仕事がつらかったとか師範に怒られた褒められたとか、そんなことを楽しそうに語っていたものだ。
いまでも、よく覚えている。
今でも。
「……あの」
「なんだい?」
あなたは、深く息を吸った。ぎゅうっと、己が着物を掴んだ。
そしてあなたは、大事なことを知るために、改めておじさんの目を見つめて、いたって冷静な口調で、聞いた。
「私の父と母は、死んだの?」
知っていることだ。けれどあなたにとって、父と母は何よりも大好きな存在だった。
だからこそ、あえて聞いた。生きているかもしれない、という曖昧な気持ちが胸いっぱいにならないように。
そしておじさんは、そんなあなたの平常心に少し驚いていた。なんて子供らしくない、そう物語っているかのような顔。
――おじさんは、あなたとしっかり視線を合わせて、何もごまかしていない真顔で、
「死んだ」
告げた。
「君の両親は、強盗に襲われて死んだ」
「そう、なんだ」
あなたは強く思った、あの強盗はまだのうのうと生きているのか。金というくだらない理由で父と母を殺したくせに、まだ生きているのか。
あなたは強く思った。あの強盗を殺してやりたい、殺し方なんて頭の中でいくらでも思いつく。自分も強盗を追ってやろう――
「待った」
あなたの思考は、おじさんの一声でぴたりと硬直した。
「落ち着くんだ。気持ちはわかるが、君のような子供が過剰な殺意を抱いてはいけない。それはよくないことだ」
おじさんは真剣な目つきで、対等なふるまいを以て、あなたの怒りを指摘した。
あなたの心の内が見破られたことで、あなたの口は思わずぽかりと開いてしまう。
「それに、だ」
「う、うん」
そしておじさんは、生真面目な顔つきのままで、あなたにこう告げた。
「あの強盗は先ほど、警察隊に処さ――やっつけられたよ」
――そんな。
「これでもう、君の心に巣くう悪いやつは消えた」
そしておじさんは、「さて」と前置きして、
「これから先のことを考えよう。君にとって、とても大切なことだ」
おじさんは決して、あなたから目を離さない。余計なことを考える隙を、与えさせてはくれない。
そんな意思が、二つの目から強く強く感じ取れる。
――この人には勝てない。あなたは、そう把握した。
「君はまだ子供だ。とてもでないが、一人で生きていくことはできない」
あなたは、素直に頷く。
「だから、身寄りのない子供が集う施設へ通うのが一番……だが」
だが。あなたは、二つ目の提案を待つ。
「……よければ、うちの道場に来ないか。おじさんはこう見えて寂しがりやでね、子供が欲しかったんだ」
「……いいの?」
「ああ」
おじさんは、ほんの少しだけ口元を緩ませ、
「愛弟子から、君のことはよくよく聞かされていたよ。わんぱくで、よく笑って、運動が上手で、鬼ごっこでは負けなしと聞いた」
あなたは、照れ隠しとばかりに両頬を手で添えた。
「それを聞いてね、いい子だなあ愛弟子ったら羨ましいなあって、そうおじさんは思ってたんだよねえ」
「う、うん」
そしておじさんは、微笑んだままで、ゆっくりとうなずいて、
「……そんな可愛い子を、放っておけるはずがなくてね。だからこうして、君に来て欲しいと思っている」
あなたは、おじさんを見た。
おじさんは決して、嘘なんてついていない。あなたのことを、本当に心配してくれている。父の師範という立場が、あなたの推測を保証していた。
「わかった」
おじさんが、慌てたようにまばたきをする。
「私、おじさんのところに行く」
そしてあなたは、おじさんに言う。
「おじさんの手伝いも、肩たたきも、なんでもする」
そしてあなたは、おじさんに本心を告げる。
「――剣も、習いたい!」
あなたの本心本音を耳にして、おじさんはたいそう驚いたように両目を見開いた。
「……どうして?」
「お父さんのような、立派な警察隊になりたいから!」
あなたは、真実の一つを口にした。
そんなあなたに対して、おじさんは、首を横に振るった。
「君は絶対に、警察隊になってはいけない」
「なんで?」
「憎悪を心の支えにしてしまえば、いたずらに敵を作ってしまうからだよ」
「敵? そうなの?」
「ああ。いくら強い剣士になろうとも、たくさんの敵を相手にされては敵わないからね」
おじさんは、間違ったことなんて言っていないのだろう。
けれどあなたの中にある悪への憎悪は、今もなおゆっくりと渦巻いている。警察隊になって、この手で悪を処す未来ばかりを繰り返し考えていた。
――そんなあなたのことを見抜いたのか、どうか、
「君は、道場で簡単な手伝いをすればいい。子供たちと遊ぶのもいいし、おじさんの肩を叩いてくれると本当に助かる。君は、それでいいんだよ」
おじさんはきっと、心の底からそう口にしてくれているのだろう。
だからあなたは、おじさんの願いを聞き入れるように、小さくうなずいた。
おじさんは、あなたの頭をそっと撫でてくれた。
あなたは、心地よいくすぐったさを顔いっぱいに咲かせた。悪への憎悪を、内に添えながら。
――
道場に引き取られたあなたが最初に行ったこと、それはおじさん――師範の動きを観察することだった。
手伝いに余裕が出来れば師範の観察を、弟子との仕合があらば欠かさず観戦し、なにもなければ剣に纏わる書籍を読み漁り、夜中になれば木の枝で素振り、時には外に出て近所の子供たちと鬼ごっこをした。
――鬼ごっこというよりは、追跡の訓練というべきか。
あなたが鬼役になった際、あなたは子供たちに対してこう告げた。
「三分間逃げていい、隠れてもいい。とにかく逃げまくってほしい。三分経ったら追いかける。追いつかれそうになったらわたしの顔をはたいてみて欲しい。攻撃を受けたら三分間動かないから」
これなら勝てると踏んだ子供たちは、全速力であなたから逃げ出した。持てる判断力を駆使して、物陰に隠れることに専念した子もいた。中にはあなたの鼻っ柱を折ろうと、いきなり殴りつけてくる小僧も居た。
けれど、結果は全勝無敗。
逃げる子供には、下町の全てを乗り越え飛び越え縦横無尽。隠れる子供には、対象の人柄を把握し予想し無事発見。喧嘩をふっかける小僧には、拳を避け蹴りを流してはい捕まえた――数分以内に全員捕まえる、という目標を設けても結果はあなたの全勝だった。
そんなふうに下町で目立っていたあなたは、いつしか子供たちからは鬼の化身とか呼ばれるようになる。
――そのたびにあなたは、言った子供めがけ、
「
そう、反論するのだった。
――
あなたが道場に住んで、数年が経過した頃。世間は少しずつ、やがて大きく変わっていく。
この国を治めている首相が、急死した。
死因は多忙による過労死そのもので、事件性はまったくありえないと政府から公表された。あれやこれやの陰謀論は乱立したけれども。
憎悪と鍛錬の中で生きていたあなたは、この事件自体には大して動揺はしなかった。問題は新首相が選ばれ、もののあっさりと、
『警察隊の、犯罪者に対する殺傷権を全て剥奪します』
新首相のこの宣告には、あなたも大いに大いに驚いてしまった。
曰く、世界の警察隊も無闇な殺傷を控えているから。
曰く、我が国の警官隊は優秀であるから、無闇に殺生をせずとも悪人を捕まえられる。
曰く、そのための訓練を充実させる。
――これを聞いて、あなたは「馬鹿か」と思った。
この国の治安がそこそこ良かった原因は、「罪を犯せば処されることもある」という、原始的な恐怖が常に存在していたからだ。
その行いが禁じられれば、悪人は「へましても殺されはしない」という余計な安心感を覚えてしまう。当然牢屋の中にぶちこまれはするが、死ぬよりはよっぽどましだと悪人は思うだろう。
なぜなら、刑務所暮らしがどんなものかを知っているから。
なぜなら、死ねばどうなるかなんてまるで分からないから。
世界の流れに追従するとか、国際社会化の為とか言っていたが、そんな漠然としたものよりも治安の方が、政治家のわがままに付き合わされる警察隊の命の方がよっぽど大事だろうに。
あなたは、つくづく思っていたし、
『我々警察隊をなんだと思っているのか。前首相は、我々警察隊のことをよく理解し、刀を振るう権利を与えてくださったというのに』
警察隊の長もまた、あなたと同じような考えを抱いていた。
『ただの犯罪者程度なら、刀を使わずとも何とかできましょう。ただ、『妖怪』と呼ばれる指名手配犯にはどう対応をしろと? 妖怪相手に、改心を求めるよう言葉で解決を図れと? 聞き入れてくれるまでに何人の警察隊が命を落とすでしょうな!』
警察長の言い分に、あなたは心から同意した。
天狗と呼ばれた誘拐犯は、それはもう嘘くさい身のこなしで数々の子供を、時には大人すらもさらっては身代金を要求した。もちろん、約束は守らなかったけれど。
海坊主と呼ばれた窃盗犯は、並外れた泳ぎの能力を駆使しては次々と船を襲った。奪えるものは「文字通り」根こそぎ奪い、そして何事もなかったかのように海へと消える。襲われて生き残った者は三名、全員が泳ぎの達人だった。
牛鬼という殺人犯に至っては、信じがたい巨体で何人もの人を、刀を持った警察隊ですら好き好んで殺した。暴れられればそれでいいと、熊すら襲ったこともあったという。
――これが、妖怪という連中だ。
その身体能力も脅威たりえるものだが、何より良心の欠如こそが妖怪の本領であるとあなたは考えている。躊躇が無い、それは人にとっての最強の武器ではないだろうか。
□
数日後の朝――
「隣町で、さっそく暴行犯が現れたのか」
居間で新聞を広げている師範が、気だるそうな声でぼやいている。
「どうなりました?」
「無事に確保されたそうだよ。まあ、警察隊の何人かは殴られたらしいけれど」
「……そうですか」
新聞を読み終えた師範に、あなたはひょこりと近づいていく。
そうして慣れた手つきで、師範の肩を指でほぐしていった。
「おお、ありがとう。最近はほんとうに上手くなったなあ、指圧師にもなれるんじゃないか?」
「いえ。私は警察隊になるつもりですから」
あなたのその言葉に、師範は落ち込むようにため息をついて、
「それだけはやめなさい。ほら、殴られるかもしれないだろう?」
「覚悟の上です」
「殴られたらね、本当に痛いんだよ」
こんな会話も、日常茶飯事。
そろそろ道場が門下生でいっぱいになる頃合いとなって、指圧を受け終えた師範がのっそりと立ち上がる。
「じゃあ、行ってくるよ。君は外で遊んでいなさい、ただし遠くには行かないように」
「はい」
こんな風に、話を断ち切られるのも慣れた。
けれどあなたが抱える悪人への憎悪は、今も昔も変わらない。
さらに数日後、警察長が自主退職したとの知らせが新聞で広まった。そりゃあそうだろうと、あなたは思った。
――
首相が変わって数年が経過しても、あなたは全く変わらなかった。警察官になるという目標、悪人への憎悪を。
すっかり背が伸びたはずなのに、道場では相変わらず雑用から肩叩きの繰り返し。しかして隙あらば師範の動きを盗み見、こっそり木の枝で素振り、時には「遊んできます」と言い単独で登山をしたりもした。
これは鬼ごっこの代用みたいなもので、険しい山道を走ってみたり、意味もなく崖を登ってみたり、猪の突進を冷や汗一つでかわしたりと、いい基礎訓練になってくれた。頂上を目指すにしても、昔はまる一日かかって、今は半日で事足りてしまうように。
あなたがそんなことばかりしているから、下町では「ほら、あの子」と注目されるようになった。登山家からは「すっげえやつだなあ」と盛大に笑われた。
――あなたがそんなことをしているから、困った顔をした師範からお呼びの声がかかってしまった。
道場の真ん中、あなたは師匠と対面しながら正座をしている。
「そんな危ないことは、やめなさい」
「いえ。私は警察官になって、人々を助けたいんです」
「前にも言ったが、憎しみで剣を振るえば敵を作ることになる」
「師範」
あなたは、師範の視線から逃げない。
「数年前に、警察隊の殺傷権は剥奪されたではありませんか」
師範は、困ったように唸る。
「それにです。私の、なけなしの身体能力があれば、悪人を捕まえる手伝いにもなってくれるはずです」
「……なけなし……?」
師範が、本気で首をかしげる。
「君の運動神経は、はっきりいって私を越えているよ。わんぱくを通り越して、その、すごいことになっている」
「ありがとうございます」
あなたは、頭を深々と下げる。内心、とっても嬉しかった。
「そのすごい運動神経を活かして、悪人を捕まえる。これは善いことでしょう」
「そりゃあそうだが……」
「護身の為に剣を振るえなければ、警察隊にはなれません。それは師匠も分かってはいるはずです」
「しかし」
「どうして、そこまで剣から遠ざけようとするのですか?」
そして師範は、うつむいて、「それはな」とつぶやいて、しばらくして、
「……君には、平穏に生きて欲しいからだよ。君の父と母のような、死に目には遭わせたくはない」
師範の言葉に、あなたは反論する思考を見失った。
その言い分はあまりにも正しかったから、父も母もきっとそう願うだろうから。
師範の主張に口を挟むか、受け入れるか。
あなたは、心の底から考えた。
あなたは、心の内の声に耳を傾けた。
――決まっていた。
「師範」
「うん」
「やはり私は、警察隊になって人々を助けます」
師範は、目を丸くしてまで驚く。
「やはり私は、悪人というものが許せません。父と母が殺されて以来、悪人への憎悪はずっと燃えるばかり」
師範の気遣いを無碍にしてしまう言い方に、多少なりとも胸が痛む。
――多少なり、か。
あなたは自覚する。やはり自分は、平穏に生きるのに我慢ならない人種なのだと。
「法が改正されなければ、むやみに刀を振るい、悪人を殺しまわっていたでしょう。ですが今は、それが禁じられている。感情のままに刃を振るえば、私も悪人として裁かれます」
言う。
「私は、悪人にだけは、絶対になりたくはありません」
あなたのその言葉に、師範は無表情に、無言となる。
師範は、あなたと数年も一緒に暮らしてきた。だから、あなたの言葉に嘘偽りなんて無いことがよく伝わってくれた、はずだ。
「……わかった」
あなたのことを変えられない、認めるほかない。
「明日から、剣の稽古をつける」
「――ありがとうございます、師範」
湧き上がる感情を抑えつけながら、あなたは頭を深く下げた。
「君の、悪への感情を変える事なぞ一生無理なのだろう。警察隊になるという決意も、本物なのだろう。木の枝で、素振りをするほどには」
「……見られていましたか」
「数年も一緒に暮らしていれば、隠し事の一つや二つは見つかってしまうものだよ」
二つ、か。
師範には、一生勝てそうにもない。あなたは、つくづくそう思う。
「ただ一つ、約束して欲しい」
「なんでしょうか」
師範の目と、あなたの瞳が重なった。
「死なないでくれ」
「わかりました」
罪を犯しても、大抵のことでは殺されたりはしない。
そんな隙があるだけで、この国の治安は以前よりも悪くなってしまった。きっと海の向こうも、同じような事情を抱えているに違いない。
あなたは、改めて決意する。
たまたま恵まれた運動神経と、この状況把握能力を駆使して、悪人という悪人をとっ捕まえてやる。
――
やりたい事の全てが、師範から許された。その事実は、元から燃え滾っていたあなたのやる気に油を注ぐようなものだ。
木刀を手にしての素振りは実に有意義であったし、門下生との仕合は色々と学べることが多かった。やはり鍛錬を積んだ者は、無暗やたらに攻撃したりしないから非常に仕掛けにくい。
それでも何度か仕合を潜り抜けていくうちに、あなたは段々と一撃を決められるようになってきた。試しに防御に徹してみたこともあったが、徐々に無傷でいられる時間が伸びていき、しまいには相手の方が疲労で降参してしまう事も。
門下生からは「どうしてそこまで強いのですか?」と何度も質問されたが、あなたは決まってこう言うのだ。
「師範の動きを真似してみたんです」
□
何度も鍛錬を繰り返していくうちに、あなたは負けなしの門下生となっていた。
時おり噂を聞きつけてきた道場破りが現れたりもしたが、そのたびにあなたは、日ごろから鍛えた技で道場破りを瞬殺。やられた道場破りはといえば、決まって「弟子にしてください」と懇願し、あなたは「師範はこの方」と手で促すのだ。
――午前中の仕合が終わり、ひとときの休憩がはじまる。あなたは道場内で、ゆっくりと腰を落ち着かせていると、
「お疲れ様です。今日もすごかったですね、まだ一本も取られていない」
「いえ、まだまだです」
若い男の門下生から声をかけられたあなたは、苦笑いで称賛を受け止める。
いまは秋。外は少し寒くなっているが、体を動かしたせいで随分と暑い。ほかの門下生達も、汗を流しっぱなしだ。
「謙遜を。この道場では、一番の剣士ではありませんか」
「師範には及びません」
「いやあ、もしかしたら師範を越えるかも……」
またまた。あなたは、手のひらをうちわのように仰いだ。
内心、その言葉は嬉しかったり。
「このままいけば、この町で一番の剣士になるのでは?」
「どうでしょうね……頑張ってみます」
「期待しています」
そのとき門下生が何かを閃いたのか、「あ」の一声と共に握りこぶしを手のひらの上に突いた。
「剣士といえば……聞きましたか、悪鬼の噂を」
その名前に、あなたの思考がびくりと震えた。
「……ああ、知っています。妖怪どもを殺して回っている、鬼仮面の剣士ですよね」
若い男の門下生は、その通りだとばかりにうなずいた。
悪鬼というのは、ここ最近になって活動し続けている妖怪殺しの「妖怪」だ。新聞によれば、悪鬼に狙われた妖怪どもは只の一閃で葬られているという。中には首まで斬り落とされている妖怪もいたとか。
やり口からして、悪鬼という妖怪は確実に剣の達人だ。剣を扱う門下生たちからすれば、悪鬼とは恐るべきもので、それでいて関心を引き立たせる存在でもあった。
無論、あなたも例外ではない。
「妖怪どもだけじゃなく、悪人が集う組織をも刀だけで潰しているとか」
「ううむ。妖怪は人外めいた者が多いですが、はたして本当に、そんなことが可能でしょうか」
「……妖怪なら、できそうな気もしますよ」
あなたは半信半疑ながらも、同意するように首を振った。
妖怪には、良心というものが欠落している。だから、やってはいけないことを平気でやれてしまう。躊躇の無さとは、実力と比例してしまえるものだ。
「しかしまあ、あれだ」
門下生は、そう前置きした上で、
「最近は、悪鬼人気が市民の中で高まってきていますねえ。まあ悪人という悪人を切り刻んでいるのですから、しょうがないといえばしょうがないんですが」
「私はあまり、好きではありません」
「最近は鬼の面が人気だそうですよ。子供たちもつけておりました」
「何かに憑かれてしまいそうですね」
「警察隊としては、こいつの存在は憎くてしょうがないでしょうねえ。手柄や人気は悪鬼が独り占め、市民からは腰抜けと言われておりますから」
「私は警察隊を支持しますよ。いつかは悪鬼も、お縄についてくれることを願うばかりです」
「……はっきりしていますね、あなたは」
「妖怪嫌いなだけです」
門下生の言葉に、あなたは本心本音ばかりを口にする。
なぜならあなたは、悪鬼の行為を拒絶していたから。
あの悪鬼とやらは、悪人を悠長にとっ捕まえて改心なんぞを促すのではなく、振るわれるべき刃を振るって叱るべき地獄へと叩き落している。それは確かに、あなたがやりたかったことに「類似」している。
悪鬼の行為で、救われた人間はいるだろう。
けれども悪鬼は、まちがいなく「殺人」という大罪を犯し続けている。
あなたからすれば、悪鬼なんぞは間違いなく妖怪そのものだった。
「さ、みんな、鍛錬の時間だ」
そのとき、道場で師範の声がよく響いた。
気だるそうに立ち上がる中、あなたは待ってましたとばかりに腕を回して立ち上がる。頭の中で渦巻いている黒い感情なんて、鍛錬で吹っ飛ばそうとしているのだ。
そしてあなたは、今日も連戦連勝を繰り返す。門下生からはかないっこないと評され、師範からは成長したなあと笑われる。
――
そうして数年が過ぎて、春が訪れた頃。あなたと師範は、ちゃぶ台を合間に互いを見遣りながら、夕飯を共にしていた。
「――入隊、本当におめでとう」
「ありがとうございます、師範」
最後の夕飯を、共にしあっていた。
「師範として、本当に鼻が高いよ。君の母も、そして父も、君を誇りに思っているだろう」
「いえ。わたしはまだ未熟者です」
「何を言う。私から一本取っただろう」
「まあ――そうですが」
あなたは、気恥ずかしそうに笑う。
「……警察隊になるのはいい、いいことだ。だが本当に、自分の命は大切にするんだ。いざとなったら逃げてしまってもいい、それも戦の流れだ」
「そうならないように、鍛錬を積み重ねます」
「君は本当に、努力を怠らないな。その、娯楽に興味はないのかな?」
「わたしは悪人を懲らしめることができれば、それでいいのです」
あなたは、本心から告げた。
「……君は本当に、ぶれないな」
「だからこそ、ここまで強くなれたのだと思います」
「道場では負けなし、山という山を制覇、時には害獣退治の手伝い……すごいねえ、かなわないよ」
「またまた」
「いやいや」
あなたと師範は、笑い合う。
「君なら、妖怪すら捕まえてくれそうだな。この国も安泰だ」
「最近は、ふっと姿を消す妖怪も多いそうですが」
「みたいだね。新聞では国外逃亡だの、密かに処……やっつけられているだの、いろいろな噂が流されているが」
「後者であることを望みたいですね」
「……まあ、ね」
そしてあなたは、悪鬼のことを思う。
悪鬼は今もなお健在で、こうして数年が経った今でも悪人を、妖怪を斬り続けている。
その揺るがない姿勢は、市民からすればもはや英雄にも等しい。現に町中では、悪鬼を題材にした物語であふれているほどだ。
中には悪鬼の真似をしようとして警察隊にとっ捕まえられたり、悪人に斬り殺された事例もある。良くも悪くも、人気者は影響力がむやみに大きい。
「神隠しの噂が広がって、悪人が恐れをなして悪事をやめてくれたらねえ」
「それでもやめないのが、悪人という存在です」
「まーそうかもしれないけどねえ……私としては、そうなることを願いたいよ。悪人が何もしなければ、警察隊の方々も無事平穏に暮らしていけるのだから」
警察隊の方はといえば、これまで以上に世間からの風当たりが厳しくなったといえる。世界を見据えての無殺生よりも、目先の成敗こそが庶民受けするのは言うまでもない。
更に切実な問題として、年々、警察隊における殉職率が上がってしまっている現実もある。
殉職の知らせを見聞きするたびに、あなたは歯痒い思いを抱く。どうして悪人相手に気遣いをしなければならないのか、刃を振るう相手を刃で裁いて何が悪い。武器には武器で対抗しなければ死ぬんだぞ、死んでしまえば全部終わりなんだぞ。
そんな、どうしようもない現状だからこそ。
あなたはこの身体能力を、把握能力を警察隊に捧げたいと思っていた。たかが一人の力で世間を動かすことなど出来はしないが、目の前の命ぐらいは救えるはずだから。
「師範」
「なんだい」
あと一口で、最後の夕飯が終わる。
明日になれば、あなたは警察隊の制服を着こみ、立派な隊員となるべく厳しい訓練を積み重ね、警察隊の宿所へ寝泊まりする事となるはずだ。
思うと、父の顔が見られたのは数日置きだった。
あなたと離れている間に、父はこの国を守るべく悪人と戦い続けてきたのだろう。
――ありがとう。
「……ごちそうさまでした」
「……ごちそうさま。いやあ、しばらく君の夕飯が食べられないのは、寂しいねえ」
「私も、そう思います」
あなたは、そっと立ち上がり、
「食器を洗い終えましたら、肩でも叩きますよ」
「おお、いつもすまないね」
あなたは、心の底から言った。
「今まで、本当にありがとうございました。お父さん」
あなたは、心の奥底から、そう言った。
――
警察隊に入隊して早くも数か月が経過した頃、あなたの耳にこんな話が届いてきた。
――あの女の隊員、すごいよな。身体能力が半端じゃない
――この前は、壁を登ってたぞ
――あいつに、俺の木刀が当たった試しがない
――あの子やばいよね……何がやばいって、全く驕らないところが。……はあ、お姉さま……
――久々にとんでもない新人が来てくれたな。それにしてもあの剣さばき、おそらくは先生の……
――この前、教官相手に一本取ってたぜ。一体何者なんだろうなあ、話してみてもあんま自分のことは話さないし
――前に告白してみたけど、職務一筋の一言でふられちまったよ。かっけえ……
警察隊の施設内において、あなたはすっかり有名人になってしまっていた。けれどもあなたは、早く実践に出られるようひたすらに訓練を続ける。
――そんなあなたの努力が認められたのか、認めざるを得なかったのか、半年も経たないうちに訓練生から正規の警察隊員へと昇格することができた。上官曰く、過去最速だそうな。
ようやく夢を果たしたあなたは、それはもう心が躍りきっていた。憎き悪人をこの手で摑まえることも、警察隊の皆を守ることだって出来るようになったのだから。
そんなあなたが、ひとたび現場へ駈け込めば、
――ど、どうなってんだ!? あいつは天狗か何かか!? ……え? な、なんだよいきなり怒って! あいたー!
――お、俺が、あんな女子に負けるだなんて……
――わわわわかった! わかったから! 降参するから折らないで!
――おお、またあいつが捕まえたのか! いったい何を食えばああなれるんだ?
――お姉さま……
――自分も、道場に通ってみるべきかなぁ……
――『お手柄! また『
この町じゅうにおいて、あなたはすっかり有名人になってしまっていた。あなた個人としては名誉なんて別にどうでもいいのだが、自分の活躍で警察隊の人気が上がるのであれば、それはそれでいいと考えてはいる。
まあ、鷹姫呼ばわりはさすがに恥ずかしいから、やめて欲しいと思っているのだけれど。
――それにしても、
いつになったら、妖怪探しを任せてくれるのだろう。何度か隊長に頭を下げたのだが、隊長は「その件に関しては、少し待っててほしい」と濁されるばかり。
警察隊に入ってから、あなたは確かに実践経験を積んだ。悪人への「手加減」も手慣れた。それなのに肝心の目標には、妖怪野郎を捕まえるという夢だけは、未だ叶えられていない。
「町中で強盗が現れた、数は六人ほどらしい。……期待しているぞ 鷹姫」
「頼むぜ、鷹姫!」
「お姉さま! ついていきます!」
「頑張ります!! あと、鷹姫はやめてください」
妖怪を相手取るには、まだまだ経験が足りないという事なのだろうか。妖怪退治を任されるのには、あと数年ほどはかかるのかも。
――あなたは、不意に「ああ」と思う。
悪鬼を相手取るには、まだまだ修行不足だ。
――
あなたが警察隊に入隊して、半年ほどが過ぎた頃――
町中の見回りを終え、そろそろ寝床につこうと署内の渡り廊下を歩いていた時に、
「ちょっといいですか?」
あなたは背後から、「知らない」男の声に呼び止められた。
夜更けの渡り廊下には、あなたと知らない男のみ。しかも警察署内へ侵入できるような危うさがある。最近普及された「電気」という技術により、周囲は見渡せよう。しかしあなたは、後ろをとられたまま。狙われる理由は、良くも悪くも「有名人」だから。
この間、数秒。
あなたは、二歩の助走をつけて前へ飛ぶ。男と大きく距離をとったあなたは、腰にかけてある警棒を引っこ抜きながら男めがけ振り向き、
「す、すみません。驚かせてしまいましたね」
「へ、」
男は、あなたと同じ警察隊の制服を着込んでいた。抵抗する気なんてないとばかりに、警察隊らしい中年の男は両手首を真上に掲げている。表情にいたっては、困ったように苦笑い。
その行動の速さに、あなたは、この男は間違いなく警察隊に所属していると判断した。
警棒を、腰に差し戻す。
「申し訳ありません! このような無礼をしてしまいまして」
「いや、いや、いいんだよ。その鋭さこそ、私たちの隊に求める才なのですから」
「……隊?」
あなたは、思わず首をかしげてしまう。
一方で男は、温和な表情のままであなたに近づいてくる。何の躊躇もなく、ゆっくりと。
「ここではあれですし、そこ、取調室で二人きりになりましょう。少しばかり、あなたとお話がしたいもので」
「――分かりました」
男は、取調室へ通じる鉄製の扉を鍵で開ける。そして先に取調室へ入って、笑いかけたままで「どうぞ」と手で促してきた。警棒を没収することもなく。
何者だ、この人。
あなたは真顔で、緊張感を身に着けたままで取調室に同行する。
□
「では、単刀直入にお話します」
鉄製の卓を一つ挟み、互いに椅子へ腰かけながら、男は変わらず無警戒そうな笑みを崩すことなくあなたへ語りかける。
「あなたには、退魔隊の一員になっていただきたいのです」
「たいまたい、ですか? 魔を退ける、退魔?」
「はい」
あなたはまず、覚えやすい名前だなあと思った。
次に、「魔」とは物騒な文字を使うのだなと思った。
「聞いたことはありませんか。この国にはびこる妖怪が、行方不明になっていく事例を」
「――はい」
「あれは、退魔隊に課せられた任務の一環なのです。この国から密かに授かった殺生権を行使し、」
考える前に、あなたの眉がぴくりと震えた。
「妖怪を密かに処した後に、その死体を文字通りなかったことにする。それが、退魔隊の役目です」
「……どうして逮捕ではなく、処するのですか。やはり、手に負える相手ではないから?」
「そうです。妖怪には良心が存在しない故に、普通の悪人よりも強く、そして殺せてしまう。そのことは、あなたもよく知っているでしょう?」
「そうですね」
あなたは、即答した。
「こんな相手に説得など通じません。世界が悪人の改心を望もうとも、殺生を拒もうとも、良心なき妖怪はそんなことなどおかまいなしです」
「はい」
「なので私たちは、政府に掛け合いました。悪人はともかく、妖怪はどうしようもならないから殺生権が欲しい、と」
「わかります。妖怪相手に手加減などしていたら、仲間が殉職してしまう」
「そうです、その通りです」
男はにこりと、あなたへ重くうなずく。
「妖怪を見つけても、隊員が全滅してしまえばまた逃げられる。そうして、必ずや新しい被害が押し寄せてくる。必ずです、妖怪はそういうことをします」
あなたは、異論なく首を振った。
「だからこそ、退魔隊のような存在が必要なのです」
「その通りです」
「入隊基準はふたつ。妖怪と戦える実力、妖怪に情けをかけない精神力」
「それが、私にあると」
「はい」
当然とばかりに、男はあなたの言葉を肯定した。
「この二つこそが最重要ですが、退魔隊の一員として覚えてもらいたい掟があります」
「それは?」
「退魔隊は、あくまで存在などしていない、という事になっています。そして妖怪を処するという都合上、公の場で評価や称賛を受ける機会など、あってはなりません
「はい」
「あくまで人知れず、妖怪のみを殺傷することこそが、退魔隊の存在意義です。……絶対に報われない立場ですが、やってはいただけませんか?」
「やります」
あなたはもちろん、即答する。
こんな反応なんて初めてだったのか、男の顔からはじめて笑みの色が消えていた。
「……さすが、さすがです」
男は真顔のまま、
「あなたの、悪人への憎悪は今も
「――知っておられましたか」
「あなたが警察隊へ入隊した際に、ほんの少しだけ、あなたの身元を調べさせていただきました」
あなたの素性は、そして感情は、退魔隊にすべて知られていたらしい。
けれどもあなたは、それでもいいと思った。妖怪への殺傷を保証してくれるのであれば、人生の全ても、弱みも、全て吐き出したって構わない。
「それでは近日、あなたには転勤という形で、ここから離れていただきます。よろしいですね?」
「はい」
――そして数日後、あなたは遠い地にある警察署へと転勤した、という事になった。
鷹姫として祭り上げられていたあなたは、転勤するだけで新聞紙は大盛り上がり。警察署の同僚達も、色とりどりの応援と餞別を手渡してくれた。「お姉さまぁー!」と抱き着いてくる女性隊員には、ちょっと笑っちゃったけれども。
――
かくして仮の転勤を終えたあなたは、元の警察署からすこし離れた位置にある宿所で寝泊まりすることになる。近くには木が生い茂る大きな山が存在していて、そこで追跡や連携の訓練を、暗器や刃物の取り扱いを学ぶ仕組みになっていた。
退魔隊の一員となったあなたは――とくに何も変わらない。
手に持つものが警棒から刀へ変わっただけで、ただひたすらに妖怪を殺す訓練を積み重ねていく。
――あの剣さばきには、まるで敵わない。一対一じゃ負ける
――暗器という暗器をあそこまで使いこなすなんて……強さへの欲求が貪欲だ。あいつには負けるな
――何でも使えるせいで、あいつの戦い方が見切れない。あいつに勝てた奴はいるか? いないか。
――脚も速いよな、数分も切らないうちに捕まっちまう。つか、あいつに登れないものなんてあるのかな?
――あいつ、鬼ごっこでは負けなしだったらしいが……だろうな、うん
――最年少で入隊したってのも、わかるわね
――あれなら悪鬼に勝てるんじゃねえかな
数か月ほど経ってみれば、あの中年の男――隊長からは、「これならもう実戦に出てもいいね。……早すぎるね」と評価された。
その言葉を聞いて、あなたは内心で大喜びする。こんなにも手早く、妖怪を処する許可が得られたのだから。
――
二十代になって、それから数年後――
妖狐と呼ばれる女性妖怪が、声すら届かない薄暗い森の中で腰を抜かしている。その両脇に、用心棒の死体を添えて。
「や、やめてください。もう、悪事などはいたしません」
震える声を口から発し、すがるように手と手を結んで、両目からは白く光る涙を流すその姿は、男性のみならず女性をも釘付けにしてしまうだろう。
肩をはだけさせた赤い着物に、甘い香水が加えられれば、手練れの退魔隊とて一時は躊躇する。
もちろん妖怪妖狐は、その隙を確実に逃さない。
「お前は妖怪と認定されている。殺人、窃盗、人身売買、違法な薬品の流通、これらが罪状だ」
そしてあなたは、絶対に隙をなど晒したりはしない。
悪事を繰り返す悪人に対しての憎悪が。自分だけ助かろうとする卑しさに対しての侮蔑が。二人いたはずの仲間が妖狐の手にかかり、殉職してしまったことに対するくやしさが、あなたの全てを動かす。
あなたは、袖の内側から短刀を取り出した。
「あ、ああ、そんな物騒なものを向けないで。そんなことよ遊びませんか? お金ならいくらでもあります」
それが、妖狐の最後の言葉だった。
あなたは頷きもせず、毒入りの短刀を妖狐めがけ投げつける。いとも簡単に妖狐の喉元へ突き刺さった短刀は、妖狐の呼吸を奪い、毒が妖狐の命を吸い上げていく。
短刀を抜こうともがく妖狐であったが、あなたがしっかりと短刀を押し込んでいったお陰で、妖狐は念入りに確実に死んでいった。
そして妖怪妖狐は、退魔隊の手により、処された。
「まったく」
殺されたくなければ誰かを殺すべきでないのに。
あなたはつくづくそう思いながら、死体の数を数え始める。妖狐、妖狐が雇った用心棒二人、退魔隊の同僚二名、
あなたは、殉職してしまった同僚の遺体に向けて、両手を合わせる。
――あなたが作る菓子は、自分の数少ない楽しみでした。ごちそうさまでした
――あなたのおかげで、まだまだですが銃の扱い方を覚えることができました。ありがとうございました
二人とも、先に極楽を楽しんでください。
心の底からそう思ったあと、あなたは妖狐の遺体を無表情で見下ろす。
退魔隊に入隊して初めて知ったことだが、妖怪という奴らは絶対に反省したりしない。
狂骨と呼ばれた殺し屋は、頭に銃を突き付けても尚つばを吐いた。
大蝦蟇と呼ばれた人食い犯は、刃物で追い詰めてもなお「まだ食い足りない」と泣きわめいた。
通り悪魔と呼ばれた辻斬りに至っては、複数の隊員で斬りかかった際に「俺は負けてねえ」などと吠えて死んだ。
あなたは心の中で断言する。この者どもは、これ以上生きてなどいけなかった。
さて。
事は済んだ。あとは妖怪を「後始末」するだけだ。
殉職した隊員は、家族の元へ送り返す。なに一つとして、真実を告げないように。
――
二十代も半ばを過ぎた頃。あなたは秋の夕暮れに染まりきった、歩き慣れた街並みの中をひっそり歩いていた。
道行く人とすれ違いながら、あなたは隊長から下された指示をもう一度思い起こす。
□
――あなたがたには、悪鬼の討伐を命じます。これは首相からの直々の指示です、最優先で行わなければいけません。
会議室の中で、退魔隊の誰もがざわめきはじめる。あなたも心から動揺する。
――悪鬼は今もなお、悪人を斬り続けています。それどころか、ここ最近は妖怪以外の悪人すらも切り捨てているようです。この前は、危険な薬物を売買していた組織を潰したようですね。しかも単独で。
恐ろしい話だと、隊員の一人がつぶやく。与太話などと、退魔隊の誰もが思わない。
――彼が活動し始めてから、数年の時が流れたはずです。年老いているはずなのに、悪鬼は未だ悪人殺しを止めようとはしません。
今や彼は市民の英雄、伝説、伝承にまで化けてしまいました。鬼の面も、この町の土産物として販売される始末。我々警察隊としては、嘆かわしいことです。
そのことは、あなたもよく知っている。
悪鬼が「活躍」するたびに市民は大盛り上がり、新聞もこぞって囃し立てる。そして必ず、「それに比べて警察隊は」の文言がこびりつく。
――何にせよ、悪鬼はいずれ討たねばならないと考えていました。ただの悪人にすら刃を振るい始めた今、次に狙われるのは何者か予想もつきません。
あなたは思考する。
悪鬼の行動範囲がこれ以上広がるとなると、ただの食い逃げすら殺傷の対象となるのだろうか。それとも、きな臭いと評判の政治家がつけ狙われるのかも。
馬鹿らしい、とは思えなかった。妖怪とは、何でもしでかしてしまう連中だからだ。
――討伐隊は、四人。それ以上は待機となります。では、一人目は――
あなたは四人目として、討伐隊に任命された。
それを見届けた隊員たちからは、多少驚かれながらも、何の異論もなくあなたの任命を受け入れてくれた。
――先輩曰く、四人目とは、退魔隊からすれば名誉ある数字であるらしい。
それを聞いたあなたは、心の底から喜んだ。歴戦の隊員から、悪鬼すら討てるだろうと保証されたのだから。
□
あなたは歩く。時おり猫が散歩している曲がり角を通り、最近になって息子が継いだ八百屋の前を過ぎ、軋む音がいちいち怖い木の橋を越えて、
あなたは、道場の前に立った。数年ぶりに。
道場から、剣と剣とがぶつかりあう音がよく響き渡ってくる。師範の指導が、ほかのどんな音よりも耳に入ってくる。あなたからは自然と、笑顔がこぼれ落ちていた。
――あなたは、顔と、心と、体を引き締める。
両手を腰に添えて、あなたは心の底から、大きく大きく、道場めがけ一礼した。
師範が教えてくれた剣術を、ふたたび殺生に用います。許さなくても、かまいません。
自分はこれから、死地へ赴きます。退魔隊という身分でありますから、顔を合わせてのお礼などは申せません。
師範はどうか、これからも幸せに生きてください。
わたしを育ててくださり、今までほんとうにありがとうございました。
伝えたいことをすべて伝えたあなたは、そっと、道場を後にする。未練があふれ出てしまう前に、あなたは早歩きでこの場から去、
「君、ちょっといいかな?」
あなたの背後から、あまりに聞き馴染んだ声に呼び止められる。
あなたは、逃げた。
□
あなたと三人の隊員は、とある山道を無言で歩んでいた。
何も語りはしないが、意思は通じ合える。何も顔には出さないが、何よりも信頼しあっている。それが退魔隊の本質だ。
いつでも戦闘態勢に入れるように、あなたと三人は常に周囲へ気を配る。それが数分、また数分と続き、冷たい秋風があなたの黒髪を揺らし、野兎の気配を感じ取りながらも山へ登っていき、
「あった」
隊員の一人が、そっと呟いた。
見上げてみれば、大きな廃鉱そのものが静かに佇んでいる。そっと視線を下ろしてみれば、闇へ続く入り口がぽつんと存在していた。
ここを通るのかと、誰かが呟いた。
あなたはといえば、
――暗がりの中を歩んで数分。見通しの悪い道筋を歩みながら、あなたはうんざりするほどの小石を避け続ける。罠の可能性も考慮しなければならないから、進む速度はとても鈍い。
それでも、死ぬよりはましである。
だから四人の隊員は、一切の妥協も許さずに道を切り開いていく。
あまりに静かすぎて、耳鳴りまで聞こえてきた。
しかし、あなたの足は止まらない。
一歩、また一歩と進んでいく。なるだけ音を立てないよう、あるかもしれない罠にかからないよう、あなた達は慎重に慎重に前へ進んでいき――広間らしい場所に出、
銀色の光が、あなたの喉元へ走る。
なんとか気づけていたあなたは光を、刃の一閃を小刀で受け流し――物体が、首が、鳥好きの隊員だったものが、あなためがけ飛んでくる。あなたは傷をつけまいとあえて伏せ、続けて暗がりの中で赤色が水のように迸る。それは血、歌がうまかった隊員の喉元から。
赤い着物を着た男が隊員の喉に刀を一突き。把握したあなたは、照明器具を男めがけ投げつけるが軽やかにかわされる。
同僚である女性隊員があなたの隣に立つ。
鬼の面をつけた男が、あなたと対峙する。刀についた血を袖で拭い、それを両手持ちした。
目が闇に慣れていく。
間違いない。こいつが、悪鬼。
女性隊員の表情が、怒りに歪む。あなたもまた、憎悪に任せて歯を食いしばる。そして冷静になるよう、何度も短く呼吸した。
――あなたは退魔隊の一員として、宣告する。
「お前が悪鬼だな。裁く者として、ここでお前を処する」
「その制服――警察隊のものか。密かに、妖怪退治を行っているという」
「そうだ。お前もそうなる」
「なぜ今更になって、狙われることになったのやら」
「お前が、見境なしになったからだ。妖怪に飽きたらず、悪人まで切って捨てるようになったからな」
闇の中で、男は「ううむ」と唸る。隙に見えるしぐさだが、こと悪鬼に限っては悠長な行為すら信用ならない。
「そうか」
あなたは、小刀を構える。
「政治家の方々が、俺のことを恐れ始めたのか。だからか」
その言葉の意図を、最初は理解できなかった。
けれどもあなたは、もう少しだけ頭を動かしてみて「ああ」と把握した。
政治家には、黒い噂というやつがつきものだ。市民に対して、負担にしかならないような政策を押し付けてきたりもする。例えば殺傷権の剥奪とか。
そして政治家とは、常に疑心暗鬼を抱えて生きているようなものだ。悪鬼という凄腕の悪人殺しが、自分をつけ狙ってくる妄想なんぞは何百回も想起したことだろう。
繋がった。
しかし、それだけ。
悪鬼は妖怪であり、あなたは妖怪を処する退魔隊の一員。悪鬼を殺すことに変わりはない。
あなたは、小刀を構える。腰に帯刀している二本目は、まだ抜かない。
女性隊員も、無言で刀を差し向けた。
そして悪鬼は、動じない。
間、
間、
間、
あなたの毒針が宙を走り、女性隊員も駆ける。悪鬼は首のみを動かし毒針をあっさり避け、女性隊員の一閃を受け流し返す形で刃を振るい――女性隊員が屈む、飛び掛かっていたあなたは毒塗りの手裏剣を悪鬼へ投げつけ、悪鬼は後方へ飛んでは距離をとる。あなたは前に、女性隊員は後ろに。
悪鬼があなためがけ刀を振りかざしてきては、あなたはそれを短刀で受け止め、
手ごたえが軽すぎる。
あなたがそう感じた瞬間、悪鬼はあなたの後ろを、後方で構えていた女性隊員めがけ突っ込んできて、寡黙な女性隊員が何かを叫びながら刀で応戦していたが、
あなたが振り向いた時には、勝敗が決していた。
たった三合打ち合っただけで、女性隊員のすべてが終わっていた。
女性隊員の首から上が、なにもなかった。
悪鬼は既にあなたの方を見据え、じっくりと構えてすらいる。
無口で、人形好きだった先輩が死んだ。
そんな現実を目の当たりにしたからこそ、あなたは途端に冷静そのものとなる。悪鬼の殺し方を頭の中で練り始める。悪人への憎悪が、いよいよもって燃え盛っていく。
ぶっ殺してやる。
絶対にぶっ殺してやる。
お前なんぞに殺されてたまるか、お前が死ね。
あなたは心の中で、何度も何度もそう念じる。
――あなたは、相手の戦い方を思考し始める。
悪鬼は、即死狙いの攻撃「しか」してこない。狙いやすい箇所に傷をつけて動きを鈍らせようとするとか、そんな真似はしないようだ。
ここであなたは、あることを思い出す。新聞紙曰く、悪鬼に狙われた妖怪どもは、決まって只の一閃で葬られているとか。
なるほど。
せめて一撃で、という情けでもかけているつもりなのだろうか。そんなの、殺し方を選んでいるに過ぎないというのに。
それでも、悪鬼の戦い方を分析できたことは極めて大きい。それもこれも、先に極楽へ旅立った先輩がたが教えてくれたお陰だ。
ありがとうございました。
仇は、かならず取ります。
あなたは、心からそう誓う。
悪人への憎悪が、もっと大きく燃え上がる
悪鬼の殺り方を知ったあなたは、短刀を腰にある鞘へしまい、本命の長刀をそっと引き抜き、構えた。
そして、動かない。
悪鬼も、手練れであるからこそ、その場から動こうとしない。
あなたが先か、悪鬼が焦れるか。
憎悪の炎が燃え盛るか、持ち前の正義が爆発するか。
それから数秒、いや数分も待ったかもしれない。それでもあなたは、ぴくりとも動かず、
悪鬼が眼前に迫ってきて、首狙いの一閃が走るがあなたは軽やかに受け流す。片手間に毒針を投げつけては悪鬼が鬱陶しそうに針を刀で弾き、その隙にあなたは悪鬼の右足を薙ぐ。浅かった。
悪鬼の姿勢が少し崩れるものの、悪鬼は叫び声とともに刀を上から下へ振り回し、あなたは刀で受けて――軽い。悪鬼の刀が一時の浮遊感を覚え、間もなくあなたの横腹めがけ刃が一文字に振りかざされて、
けたたましい金属音。
あなたの左手には、退魔隊のみが授けられる小刀が「いつの間にか」握りしめられていた。その刀身が、悪鬼の一撃を寸前のところで妨げている。
あなたの高い把握能力が、あなたを生き延びらせてくれた。手首を痛めようとも、死ななければ良い。
鬼の面を通じて、動揺のうなり声が聴こえてくる。ここまで生き残った奴なんていない、そう言いたいのだろう。
あなたは小刀をさっと手放し、嘘めいた速度で屈む。競り合いに夢中だった悪鬼が力の歓声に引っ張られ、あなたは悪鬼の左足めがけ毒針を投げつけ――刺さった。
悪鬼が唸り声を上げるが、あくまで一撃で決めようと、屈んだままのあなためがけ垂直に刀を落とす。
あなたはその場で横転し、距離をとったと判断するや手裏剣だの鉱石だのを勢いよく投げつけ、悪鬼はそれらを切り捨てていく。毒が回ってきたのか、動きも切っ先も鈍い。
あくまで悪鬼は、苦しまずあなたを殺そうとするだろう。だから悪鬼は、刀を両手に構える。一撃で仕留めるには、この姿勢が一番だろうから。
それは悪鬼なりの正義であり、市民からの人気を得た要素ではあったが、
「――、」
悪鬼の動きが、ぴたりと止まった。
海外より伝わった武器、
拳銃の存在は、知ってはいたのだろう。
だから、「こんな距離では避けられない」という現実も把握してしまっていた。
――あなたは、絶対に外したりはしない。退魔隊の皆が、拳銃の扱いを教えてくれたから。
それから数秒ほど、経った頃だろうか、
「わかった」
あなたは、返事をしない。
「俺の、負けだ」
あなたは引き金を、
「待て」
悪鬼が刀を捨てる。
「さっきの毒針のせいで、俺はどのみち死ぬ」
うなずかない。
「お前は強い、俺よりも。だからお前に、俺の意思を継いで欲しい」
悪鬼はおそるおそる、鬼の面を外した。
素顔を見たあなたの眉が、ほんの少しだけ揺れる。
「お前も警察隊なら、悪人を殺せぬ理不尽が分かってくれるはずだ」
悪鬼は震えながら、あなたへ鬼の面を渡そうとする。
「お前こそ、次なる悪鬼に相応し、」
廃鉱の中で、三度ほど銃声が反響した。
あなたの目前には、額を撃ち貫かれて倒れている元警察署長と、共に砕け散った鬼の面が地に転げ落ちている。
そして、あなたは、
「お前たち悪人と、一緒にするな」
これまでも、そしてこれからも思うことを、あなたは言葉にした。
悪鬼は、間違いなくあなたの手で討たれた。
あなたは、父と母を殺した悪人を憎み続けるだろう。
これからもあなたは、人々を苦しめる妖怪を殺していくだろう。
あなたが魑魅魍魎に殺されようとも、それらを道連れにするだろう。
あなたの戦いは終わらない。悪鬼なんぞ始末したところで、ほかの妖怪が死んだり消えたりなどしないのだ。
あなたは、そっと深呼吸する。
拳銃を懐にしまい、退魔隊より授かった小刀と刀を鞘へそっと収納し、
あなたは、殉職した隊員へ両手を合わせ、一礼した。
――
悪鬼が死んで、半年後。
殺人を重ねる妖怪、髑髏がとある森の中に潜んでいるとの情報を退魔隊が掴んだ。
隊長となったあなたと三人の精鋭が、夜更けの森の中を進んでいく。あなたは警戒して、けれど恐れはせず、そして髑髏への憎悪を燃え上がらせながら、生い茂る草木を踏みしめていって、
あなたと三名の隊員は、囲まれていた。
肉切り包丁を構えた髑髏が目の前に、烏天狗と呼ばれた強盗妖怪が木の枝の上に、山姥と称される殺人妖怪が物陰に、獏と言われた詐欺妖怪が背後に、数人の用心棒がそこかしこから現れはじめる。
「悪鬼、おめえは邪魔なんだよ」
髑髏のその一言で、あなたは「ああ」と全てを把握した。
どうやらあなたは、良くも悪くも有名人になってしまったらしい。だから妖怪と妖怪とが手を組んでまで、あなたを排除しようと目論んだようだ。
「びびってんのか? まあそりゃそうだよな。言っておくがここにいる全員が、てめえを殺したくて殺したくてうずうずしてるぜ!」
――君は絶対に、警察隊になってはいけない
――なんで?
――憎悪を心の支えにしてしまえば、いたずらに敵を作ってしまうからだよ
髑髏の言葉には、すこしも揺るがない。
師範の忠告が、今のあなたに響き渡る。
あなたは納得したように、深く息を吸う。
あなたは、何の躊躇もなく小刀を抜いた。
「この場にいる全員を、退魔隊として処する。かかれ」
そしてあなたは、三人の隊員は、魑魅魍魎どもめがけ我先にと飛び込んでいく。
森の中で、大きな声が迸る。幾多もの金属音や銃声が、挙句に爆発までもが闇夜を震わせた。
それからしばらくして、あなたの存在はふっと消え去った。
――
数年が経って、この国は随分と変化した。
海外に影響されたからか、食べるものも増えたし家の形もずいぶん変わった。夜を照らす明かりも増えてきて、治安も以前よりは上がったといえる。
――けれども犯罪とは、悪人とは、古来より絶えないものだ。
夜の八時を指した頃、とある一軒家にて、
「金はこれだけか?」
「は、はい。ですから、家族には手を出さないで!」
「いやいや、顔を見たよな? 見てたよな? お父さんもお母さんも、坊主も俺の顔を見たよな? じゃあ残念だが、死んでもらうしかねえんだよなあ……」
妖怪と呼ばれた悪人が、わざとらしくマチェットをぎらつかせる。表情こそげたげた歪んでいるが、隙も情もこの妖怪には存在しない。
「やめろ!」
「あっ、こら! 前に出ちゃだめだ!」
「おっ。おお、おお、元気な坊主だなあ……」
「お父さんとお母さんに、触るな!」
「おお、怖いなあ……」
この国は以前よりも豊かとなり、安心が保障されるようになった。
しかし妖怪とは常に飢えているものだし、妖怪にとって街灯だの安全だのは単なる賑やかしに過ぎない。
「じゃあお前から! 先にとっちまおう!」
「やめてくれ!」
鉈が振り上げられる。
妖怪とは、例外なく良心というものが欠落しているものだ。だからこそ、何でもしでかしてしまえる。
鉈が降り落とされた瞬間、父と母は息子の最期を見まいと腕で顔を覆った。
「あ?」
そして、真正面を見据えていた少年だけが、それを見た。
鉈を持った妖怪の手首を、誰かが握りしめた瞬間を。
「捕まえた」
「え、」
それが、妖怪の最後の言葉になった。
毒針に首筋を貫かれ、妖怪は声にならない声を発し、あっさりと死んだ。
「あ、」
妖怪が崩れ落ちる中、少年は間違いなく見た。
口元を黒いスカーフで覆い、今や珍しくなった着物を身にまとった大人を。
「あ、あのっ」
少年が、何かを聞こうとした。父も母も、異変を察してか顔を覆っていた腕をそっと下ろしていく。
――そのとき、黒い人が懐から小さな袋を取り出し、白い粉が部屋じゅうに広がっていった。
家族が不自然に眠くなっていく中で、少年だけはずっとずっと、黒い人から目を離さない。黒い人はうなずきもしなかったけれど、どこか羨ましそうな目で少年のことを見つめていた。
□
いまこの国を賑わせているのは、妖怪ハンターと呼ばれた妖怪専門の誘拐犯だ。
曰く、妖怪に襲われているところを助けてもらった。曰く、妖怪を背負って屋根の上を走っていた。曰く、僕のお父さんとお母さんを助けてくれた。
この件に関して、警察署は「調査中です」の一点張り。ある者は、数年前に世間を賑やかしていた妖怪、悪鬼の後継者ではないかと噂する。
その正体を暴こうとして、今日も野次馬達がカメラを片手に走り回る。町中で妖怪が現れれば、野次馬たちは真っ先にそこへ駆けつけていく。なんとか現場へ到着してみれば、警察隊が現場を封鎖中――これが、いつものパターンだ。
黒い人の正体を知る者は、この国ではほんの数人しかいない。
黒い人のことを、「彼女」の
そして、彼女の
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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