覚る母が子育てします (小鈴ともえ)
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夢と現の呪い

「貴方、本当に良かったのかしら?もう二度と……」

「それは言わないでよ紫。これは私の意思以外の何でもない。少し…寂しいけどね」

 

 紫は私の事を考えてこう言ってくれたんだろう。でもこう見えても私の意思は固いんだ。

突然この世界に来てから早千五百年程度か。初めはわからないことだらけだったし自分の種族すらさっぱりわからなかったのだ。

 

 人間だった頃の記憶。それはもう私には思い出せない程かすかな物。でもそれは千五百年という時間が忘れさせたのではない。おかしなことだがこの世界に来てからの事はまるで昨日の事のように、とはいかないまでも先週の事くらいにははっきり思い出せる。

 何故この世界に飛ばされたのかはわからない。死んだのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。

 

 自分を意識したのは恐らくここに来てすぐだったと思う。知識はある程度残っていたようだから何とか生活できていた。でも記憶は既に”元々私は人間だった” ”200X年頃に生きていた”という程度しか残されていなかったのだ。もしかしたら丁度現在の外の世界に住んでいたのかもしれない。

 ここの外の世界が私の住んでいた世界と同じ物なのかはわからないし証明する方法も無い。私が自分を意識した時の反応から考えれば、人間の私が住んでいた世界には妖怪はいなかったのだと思われるけど定かではない。

 

「さあ紫、何も気にせずやっちゃってよ。何、あの二人の事なら大丈夫よ。一晩ぐっすり寝ればきっと忘れるでしょうから」

「…貴方がそういうのなら。こっちへいらっしゃい」

 

 さとりとこいしなら大丈夫だ。地底はあの二人に任せても問題ないだろう。こいしは放浪癖があるから少し心配だけど、さとりに関しては心配する要素が無い。強いて言うなら鬼の暴動に巻き込まれないかが心配かな。

 最近は仕事もさとりに任せるようにしていたし慣れてもいるだろう。それに今では空ちゃんや燐ちゃんもいる。今回の騒動は空ちゃんが原因みたいだけど。

 

 あの二柱も何をしてくれたんだか。さとりの苦労が増えるだろうことについて文句を言いに行きたいが今はそれどころではない。私は紫とともに行かなければならないから。もう決意してしまったのだから。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 ここは何処だ。見知らぬ場所の見知らぬ地面。すぐに夢だと思った。だって私はさっきまで……何をしていたのだろうか。記憶喪失、という感じではない。

 確かに何かをしていた記憶はあるのだ。やはり夢か。先ほどまでの事を思い出せないのは夢ではよくある事。大抵は起きた後に夢の内容を忘れるものだけど私はどうやら夢の中でも色々忘れているらしい。

 

 夢とわかれば怖い物なんてない。起きた後にも何か悪夢を見た、と思う程度でしかないのだから。まあ悪夢は何故か覚えていることも多いんだけどね。

 

(しめしめ。この小娘なら丁度良い腹の足しにもなるだろう。都合の良い場所にいたものだ)

 

「っ誰?!」

 

 小娘って私の事か? それにしても目の前の動物…熊っぽいけど何故言葉が話せるのだろうか。わけがわからないよ。

 

(なっ、まさか妖怪だったか。こりゃ分が悪い。折角の獲物だと思ったのに残念だ)

 

 いやこれ熊一言も話してなかったわ。それにしてもいきなり熊に狙われて内心びくびくである。こういう類の悪夢はあまり好きではないんだけど。

 

 今の一件で分かったが夢の中の私は相手の考えていることが読めるらしい。心読めるとか覚か玃かよ。

 そうだ、どうせ名前は思い出せないし名前も適当に付けておこうかな。夢の中での名前なんてそうそう使わないだろうしそのまま『やまこ』でいいか。あえて平仮名にしているのは漢字だと厳つい気がするから。

 

 それにしてもさっきの熊気になる事を言って(考えて)いたような……夢の中だから何でもありなんだろうけどまさか妖怪までいるとはねぇ。それに私がまさにそれっぽいし。

 人間の私が妖怪を体験できるなんてラッキーなのかな。よくわからない。

 

 とりあえずまだ人間を見ていないから人間を探そうか。普通の夢ならほぼ人間しか出てこないというのにまだ一人も見ていない。それになんか辺りが暗くなってきたし。おかしいなぁ、夢特有の自由さも無いし見えている景色と踏みしめている地面の感触はやけにリアルだし…。本当にただの夢なのか怪しくなってきたぞ。

 

 一先ずは一晩過ごす場所を確保しなければならないと私の勘が告げている。確かに妖怪が蔓延る世界ならば夜は危ないだろう。今はまだ虫や鳥の鳴く声しか聞こえていないがそのうち妖怪の声も聞こえてきそうな雰囲気はある。

 夢の中で眠るというのもたまにあることだから不思議ではない。気がかりなのは本当に夢なのかどうかという事なんだけど。今から寝てのし夢を見たらこの世界は夢でないことが確実になる。

 

 私はこれからどうすればいいのだろうか。夢ではないとすればこの世界から逃れる術はもうない。どうせ人間だった頃の記憶も殆んどないんだけど、もちろん妖怪として生きた記憶も無い。妖怪がいるのなら幽霊なんかもいるかもしれない。

 そもそも自分の姿をまだ一度も見ていない。視点の低さと手を見るにかなり子供っぽい気がする。そして左胸の辺りについているおかしな眼とそこから伸びる数本の管。明らかに人間ではない。どうしたものか。このまま人間に遭遇したら間違いなく叫ばれる。

 

 ならばどうするべきだろうか。とりあえずこの服のままだとこの眼は隠せても管は隠せないんだよねぇ。ここが何処かも全然分かっていないしそれも何とかしないといけない。

 それにしても妖怪の身体というのはかなり便利な気がする。もう既に日は落ち切って真っ暗になっているのに問題なく辺りを見ることができる。もしかしたら人間の身体でもそうだったかもしれない。私は思い出せないけど。

 

 明日以降もこの世界のままならば覚悟を決めて生きなければならない。このカオスそうな世界で生き残ることはできるのだろうか。もし死んでしまったらそこで終わりなのだろうか。

 わからない事だらけのこの世界で私はまだ生まれたばかりなのだ。もしかしたらもう終わってくれるかもしれないけどその線はかなり薄くなったように思う。

 

 でもまあそんなことは今考えても仕方ないか。丁度良さそうな木の洞を見つけたし今日はここで休むことにしよう。きっと今日はよく眠れる。

 願わくば明日の私が無きことを。どうか人間として目覚めんことを。悪夢であったと目覚めることができれば万々歳である。とんでもなく薄い可能性。叶う事は恐らく……。




主人公の名前は「やまこ」。漢字にすると「玃」ひねりもくそも無い安直な名前なのは私のセンスが壊滅的だからです

タイトルとあらすじは変わるかもしれない
個人的にはタイトル考えるのが一番難しい作業な気がします。そして毎回碌なタイトルが付けられていないのですよね


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高天原

 新しい朝が来た。希望など無い朝だ。目を覚ました瞬間から理解できた。ここはどうやら本当に夢の世界ではなかったらしい。安易にやまこなんて名付けた自分が恥ずかしい。いやまあこれ以上名前を考えていても仕方ないからそのまま使おうとは思うけど、今考えると私って多分覚なんだよね。玃って確かオスしかいなかったはずだし。

 

 どうしてこうも必要なさそうな知識ばかりが残っているのだろうか。もっと役に立つ記憶なんぞいくらでもあっただろうにそういう事は思い出そうとしても思い出せない。生活できるだけの知識はあるようだから良いんだけど。

 

 で、確か私は人間を探そうと思っていたのだったか。その前にこの姿、特にこの第三の眼をどうにかしたいんだった。洋服じゃあ隠せないだろうし、和服もなぁ。時代錯誤感があるような気がする。今がいつなのかは知らないが転生するなら人間だった時代よりは先であろう。

 

 でもその前に自分の姿を確認しておかなければならない。水場は近くにあっただろうか。昨日ろくに歩き回っていないから周辺の地理が全く分からない。

……そういえば私は動物の考えていることもわかるのだった。幸い私の生まれたこの森っぽい場所には動物が多く住んでいる。その分獰猛な奴や妖怪化した奴も多くいるかもしれないけど。

 

「ちょっとそこの烏さん、水場が何処にあるか知りません?」

 

 丁度良いところに烏が飛んできたので聞いてみる。

 

(妖怪が私に何の用だ。喉が渇いているというのに。それにこの辺りでは見たことの無い妖怪だけど……もしかして取って食おうとしてるのかも! 逃げなきゃ)

 

 すぐに逃げられてしまった。でも今の烏のおかげで水のある場所は大体把握できた。森だと思っていたがここはどうやら山だったらしい。少し下ったところに広い池があるみたいだ。鳥頭とはよく言うが烏はかなり賢いはずなので少しは信用できる。

 

 

 

 おぉ、着いた場所は広い池というよりは普通に湖である。秋になったら紅葉がとてもきれいに見えそうだ。今は緑が生い茂っているので紅葉の季節ももうすぐだと思われる。

 

 まあそんなことは今はどうでもいい。問題の私の姿だが、これは眼を隠すだけでは駄目っぽい。くせ毛なのは何となく分かっていたが色が水色なのだ。ちなみに第三の眼は薄い緑色。管も思いのほか様々な方向に飛び出ている。人間と会うのは不可能かなこれは。はぁ。

 

『ため息などついてどうしたのです。水面に映る姿を見て自身の如何に醜いかを知ったとでも言うのですか? 私の姿を見てからそう思う事をお勧めしますね』

 

 どこを見ても誰の姿も見えない。いったいどこから話しかけてきているのだろうか。

 

『姿を隠している私を見る事ができるならば、ですが。今の貴方には圧倒的に経験が足りないでしょう』

 

「いかにも私を知っているような口調で話すのですね。貴方はいったい誰なんです?」

 

『私が誰か…ですか。強いて言うなら長くこの山に住んでいる神ですね。だから貴方の事も知っていたのですよ。昨日突然に現れた妖怪。放っておくはずも無いでしょう?』

 

 神と来たか。妖怪がいるなら神がいてもおかしくはない、という事だろう。その神の言い方から考えればこの世界で長く生きていればそのうち見つけることもできるようになるみたいだ。本当かどうかは判断できないけどくだらない嘘を吐くような神ではなさそう。

 

『貴方は覚。誰からも好かれることの無い悲しい運命を持つ妖怪。その運命だけは私と似通っている部分もあるかもしれませんね。天津神は大人しく高天原にいればよかったものを。……貴方は私にはないような可愛らしさも備えているようですが、恐らくそれでも慰めにはならないでしょうね』

 

 嫌われ者ねぇ。確かに心を読まれることは不快な事なんだろう。一方的に心を読む存在になってしまった私にはまだわからない事だけどこれから過ごしているうちに嫌でも認めさせられるんだろう。悲しいなぁ、生まれた瞬間から嫌われ続ける未来が確定しているなんて。

ぼそぼそ言っていたのは聞こえなかった。聞き返しても答えてはくれないだろうし。

 

『この山に住むのならまた会う事もあるでしょう。幸いこの山にはほとんど人間は近づいてきません。妖怪が多いためなのか、それとも麓の国に強い神がいるからなのかはわかりませんが。だからきっと貴方でも安心して暮らせるでしょう』

 

 嫌われ者の私でもだろうな。この山に住んでいる神様にも昔何かがあったのだろう。それより気になったのが ”麓の国” という言葉。流石に日本が国で分けられていたことは知っている。

これは今の時代が本当に未来なのか怪しくなってきたぞ。昨日から色々怪しく思いすぎな気もするけどこれは仕方ない。今がいつなのかというのはかなり重要な事なのだ。

 

「最近その国の近くで何かありましたか? あれば教えていただきたいのですが」

 

『ふむ、確かに貴方はまだ生まれて間もない。何が起きたのかを知ることは重要でしょう。普通の妖怪ならば勿論聞かなかったことにしたでしょうが、貴方ならば教えても問題ないでしょう』

 

 私が生まれたばかりだからなのか礼儀正しかったからなのかはわからないけど、教えてもらえるのはかなり有難い。何も知らないまま過ごすことになるのは結構しんどいからね。

 

『この国のすぐ近くというわけではありませんがここより少し西の方で大規模な墳丘を作っているようです。波邇夜須毘売が埴輪を作って置かせているようですよ。そうすることで信仰心を集めてしまおうという考えが筒抜けです。伊邪那美の屎から生まれたくせにどこまでも狡猾な奴です』

 

 墳丘に埴輪。古墳時代っぽいね。それにしてもこの神様口が悪い。敬語なのに屎とか平気で言っちゃうし。流石に人間でもそう下品ではないだろうに。

 

『話が逸れましたね。とにかく波邇夜須毘売には気を付けておきなさい。彼女はかなり人間よりなので迂闊に近づかないのが身のためですよ』

 

 神とは人間に利益をもたらすばかりではなく人間を苦しめる存在でもある。豊作にしたと思えば飢饉にする、災害から守ったかと思えば神鳴りとして大きな被害を生み出す。すべては神の一存だ。人間は神の前では無力に等しい。それは恐らく妖怪も同じこと。逆らうなと言うのはこの神様なりの優しさなんだろう。

 

『ではまたどこかで会うでしょう。それまでさようなら』

 

「ありがとうございました」

 

 姿は見えないけどお礼は言っておく。悪い神様ではなさそうだし毛嫌いされているようでもないみたいだ。この山で生活していればまた会う、というか話しかけられることもあるかもしれない。それまでにはもう少しこの世界での経験を積んで姿を見られるようにはしたい。

 

 早くもこの世界で生きることに何の疑問も持っていない自分が怖いけど、とりあえず今日はもう例の洞に戻ろう。随分長く話していたようでもう日も暮れかけている。

元々いた場所から少し降りてきたとはいえここでも十分に標高は高いようだ。遠くに見える稜線に消えて行く太陽はやはり大きい。

 

 今日の成果は時代と自分の見た目を把握できたことかな。人間に会うのは絶望的だと分かったし庶民用の碌な和服も無いことも分かった。よくわからない神様にも会えた(?)し実質一日目としては上々じゃないだろうか。悲しい事実を突きつけられた感は否めないけど。




さとりは若紫、こいしは千草鼠に近い色でそれぞれほぼ補色の関係にあります。主人公はそのほぼ中間色である勿忘草色の髪にしました。サードアイも含めてこいし寄りの配色です

身長はさとりたちより少し大きいくらい

とりあえず主人公がいる場所と時代の特定が完了しました


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神代の記憶

 妖怪って悪い事ばかりではない。ここ二週間程度は木の実くらいしか食べていないけど余裕で生活できている。それに食べていると言っても精々炙ったり焼いたり煮たりくらいしかしていない。というかそもそもそれくらいしかできない。

 何せここはどうやら内陸の山奥なので塩すら手に入らない。里やら国に行けば別なんだけどすぐそばの国に行く勇気は私にはない。

 

 だって動物たちから聞いた話では力の強い神様が二柱も住んでいるとか。神は基本人間有利になるように動く。つまり私が国に近寄ったら即座に消される可能性も否めない。

 二柱もいれば守備範囲は相当のものだろうから動物を偵察に使うよりほかない。特に鳥類ははるか上空から怪しまれることなく偵察できるので私にとってはありがたい存在だ。

 

 人間や妖怪には嫌われる覚でも動物相手だとそうでもないらしい。むしろ動物たちは私という存在を歓迎している気さえする。違う種族と話ができることが嬉しいらしい。確かに動物の言葉は人間は勿論、同じ動物から生まれた妖怪でもなければ理解できないものだ。

 でも私なら心を読むことで動物たちの言いたいことを理解することができる。私が木の実だけでも食べられているのはこれらの動物たちのおかげだといえる。

 

 どの木の実が食べられる物なのか、どこにそれらが生っているいるのか。それだけではなくて湧き水のある場所を教えてくれたり温泉の湧く場所も教えてくれた。どうやらここはどうやら火山らしい。そしてかなり近くに見えている富士山との位置関係から考えると八ヶ岳のどれかである可能性がかなり高い。

 

「石長姫……か」

 

 八ヶ岳の神と言えば武居大伴主神や石長姫なんかが有名だ。この前話しかけてきたのは明らかに女性だったので石長姫だと思う。私の知らない神様である可能性もあるにはあるんだけど、力を持っていそうな神なのできっと合っている。

 

「ほう、まさかこれほど早く私を見破るとは思ってもみませんでした」

 

 うわっ、びっくりした。今まで何処にいたのだろうか。まさか見張られていたのかな。

 

「急に現れないで下さいよ。まさか…貴方が?」

 

「はい、私が石長姫です。ここ数日私はかなり近くで貴方の事を見ていましたよ。気づかなかったようですけれど。でも動物たちとは大変仲が良くなったようで驚きましたね。神ですら知り得ない動物の心を読める貴方だったからこそ、でしょう」

 

 目の前に現れた女性は自神を石長姫と名乗った。醜さゆえに愛されなかった可哀そうな神であり木花咲耶姫の実の姉である。

 でも私から見ればそこまで醜くもないように感じる。比較対象が木花咲耶姫だったから相対的に醜く見えただけではないだろうか。それか天津神の基準が相当高いかだろう。少なくとも一般的に見れば美形であると思う。

 

「そんなことはない、と言えば嘘になりますが、こんなに早くわかりあえたのはここの動物たちが皆優しかったからですよ。そこにはきっと貴方の本来の優しさもあったのでしょう」

 

 心を読めば全てがわかる。私の前で隠し事はできようはずもない。それがたとえ神であっても。如何に過去の事を怨んでいたとしても今は昔。本来の優しさと言う物も戻ってきているみたいだ。

 

「優しさ、ですか。もう忘れて久しい気もしますが、貴方がそう言うという事は確かに存在しているのでしょうね。でもたとえ私に優しさがあったとしてもあの二人は許しませんが」

 

 思い出しているのははるか昔、神代の頃の事。私が深く突っ込むことはしない。石長姫様にして見れば思い出したくもない事だろうし。

 

「貴方も知ってしまったでしょうけれど改めて私の口から話しましょう。私は元々この山ではなくあちらに見える富士の山に住んでいました。えぇそう、妹の咲耶姫と共に過ごしていたわけです。そこに現れたのがあの男、邇邇芸なのです。あの山に来たのではなくはるか西にある岬で会ったのですが。天照様の孫だったからでしょう。咲耶姫が求婚された時は父上も大層喜ばれていました」

 

 私に話してくれるという事は一定の信頼を獲得したという事だと思う。ずっと監視していたのも私が信頼するに値する妖怪かどうかを判断するためだろう。普通なら神が妖怪を信頼するなんておかしな話だと思うけど。

 

「父上は私も一緒に結婚するよう言っていましたが邇邇芸は私を捨て、咲耶姫とだけ結婚したのです。それはつまり父上の立てた誓約(うけひ)を自ら破棄したという事です。

 その後自分だけが愛された咲耶姫は愚かにも私を下に見るようになったのです。そうして調子に乗った咲耶姫はこの山とあの山の高さを競うと言い出しました」

 

 競う方法は樋を使って水を流すという簡単なものだったらしい。

 

「水は勿論あちらの咲耶姫の山に向かって流れました。私が姉なのですからこちらの方が高いのは当たり前だったのです。しかし咲耶姫はそれを良しとせずこの山を砕いたのです。結果として咲耶姫の住む山は最も高い山になったのです。

 しかし私も黙ってはいられなかったのであの山を永久に出たのです。だからあの山はもう火を噴きません。なんとも弱弱しく、花のように美しいが儚い。あの子には丁度良かったでしょうね」

 

 石長姫様がいなくなったことで富士山は不尽の力を失い、火山としての機能を停止してしまったのだという。美しい山としてしか見ない人間には到底知り得ない話だろう。

 また邇邇芸命が石長姫様を父、大山祇命に送り返したせいで木花咲耶姫との子の子孫である帝たちの寿命も軒並み短くなったらしい。誓約(うけひ)破棄の影響とのことだ。

 

「話過ぎましたね。……おや、かなり強大な力を持った妖怪が山に入って来たようですね。私はそろそろ帰りますが気を付けた方が良いかもしれませんよ。ではまた会いましょう」

 

 出てくるのが急なら消えるのも急だ。神出神没。もう何処に行ったのかはわからない。そう言えばかなり長い間話していたのに動物一匹通りかからなかった。きっと石長姫様が何か細工していたんだろう。神って凄いんだねぇ。

 

「あら、貴方いったい何の妖怪なのかしら? あまり見ない大陸風の着物を着ているし」

 

 まあ実際には洋服なんだけどこの時代にあるとは思えないし仕方ないかな……

 

「って! 急に話しかけるのが流行っているの? まったく皆して……で、貴方誰?」

 

「相手の名を聞く時には先ず自分の名を言うものではなくて? まあいいでしょう。私は八雲紫。少しばかり旅をしている妖怪ですわ。この山には先ほど来たところです」

 

 は? さっき来た妖怪って強大な力を持つとか言ってたやつ? 確かに立ち居振る舞いに隙は無いように見えなくもない。ずぶの素人だから気がするだけだけど。

 

「私はやまこ。覚妖怪よ」

 

「覚ですって? しまった……」

 

 うん、知ってるよ。八雲さんの考えなんてお見通し。旅をしているのは本当らしい。さっきこの山に来たのも本当。何の妖怪なのかはわからないけど瞬間移動に近い速さでここまで来たらしい。

 

「まあ今更後悔しても仕方ないんじゃない? もう遅いし私は寝るわ。話ならまた明日の朝にでも聞こうかしら」

 

「貴方……見ず知らずの妖怪が目の前にいるのに緊張感の欠片も無いのですね。私が寝ている貴方を食すかもしれないのに」

 

 その時はその時ってわけでもない。寝ている間も無意識的に能力は作用するようで、敵意のあるものが近づけば流石に目が覚めるのだ。

 

「はいはい、じゃあ八雲さんも寝ればいいでしょう? おやすみ」

 

私は眠りにつくまでがかなり速い。自慢にもならないと思うけど眼が冴えて眠れないという事がないのは有難い限りだ。




さっさと進めないといつまで経ってもさとり様が出てこない


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憑坐と神霊の境界

何となく投稿時間変えてみました


 八雲紫と名乗った妖怪はあらゆるものの境界に棲む謎多き妖怪らしい。俗称はスキマ妖怪だが真の種族名は何なのかわからない。そもそもこの世に一人だけしか存在しないせいで種族という概念など端から無いのかもしれない。

 そんな不思議で近寄りがたい妖怪ではあるが旅をしてきただけの事はあるようで、たまにしてくれる話はなかなかに面白い。思えばもうかれこれ百年ほどは一緒にいることになる。

 

 紫はまるで底なし沼だ。好んで近づくことは無いが、一度踏み入ってしまえば話のネタは尽きるところが無くさらに深くまで踏み込んでしまう。引きずり込まれるといった方が正しいか。私はまだ心を読める分紫の手の内が分かっているので大丈夫なのだが、他に興味本位または食糧を求めて寄ってきた妖怪たちは少し可哀そうだった。

 何せそういう妖怪たちは紫にとって都合の良い手駒でしかないからである。運が良ければ興味を持たれずに見逃されることもあったが、最悪の場合使い捨ての式神としてその命を散らした妖怪もいた。手軽に式神を憑けられる紫は正しく大妖怪であり憑けられた妖怪たちは圧倒的に実力が足りなかった、ただそれだけなのだ。

 

「ねぇ紫、貴方が私の読心を恐れなくなったのはいつだったっけ」

 

「いつだったかしらね。でもかなり初めの方だったと思うわよ。だって貴方私の心をほとんど読んでいないでしょう?」

 

 なんだ、バレていたのか。そう、私は紫の心を滅多に読まない。読めないわけではないが意識して読まないようにしている。理由は紫の思考回路とその処理速度にある。一度考え始めると止まらない紫の思考速度は私の脳の処理速度をはるかに上回っているので読んでもほとんど理解できないまま私がノックダウンしてしまうのだ。

 一度それをやらかしてからは紫が考え事をしている時の読心を控えているのだ。でも紫はかなりの時間を考え事に費やすので実質ほとんど心を読んでいない事になる。

 

「流石紫。わかっていたのね。隠していたつもりだった私が馬鹿みたいだわ」

 

「これだけ長く一緒にいれば嫌でもわかるわよ。そう言えばこの山に来てからもう随分経ったのね。そろそろ旅を再開しようと思っているのよ。勿論貴方も来るわよね?」

 

 生まれたのも妖怪として成長してきたのもすべてはこの山であり石長姫様は私にとても良くしてくれた。この山を離れて暮らすことが今の私には想像もできないのだ。

 

「あら大丈夫よ。この旅には明確な目的がある。それさえ達成できればまたこの山に帰ってくることも自由よ」

 

「心を読むのは私の特権なのだけど……勝手に盗らないでくれる? でもまあまた戻って来られるのなら行ってもいいかな。なんだか楽しそうだし色々な場所を見たいからね」

 

 今回は容易に想像できるようなことを考えていた私が悪いのかもしれないが、それでもこういうところが紫を胡散臭くしているのではないだろうか。不思議の多い女性は確かに魅力的かもしれないが行き過ぎればただ胡散臭いだけになってしまう。

 

「心のスキマは誰にでもあるわ。今権力で民を押さえつけているような諸国の王でさえそのスキマは埋められないし決して埋まることは無い。あとは如何にそこを上手く突くかだけの話よ。貴方は貴方のやり方が、私には私のやり方があるの」

 

 紫の能力は便利だからねぇ。実際に心を読むことはできないみたいだけど、気のゆるみによって大きくなる心の隙を突くことであたかも心を読んだかのように振る舞えるらしい。

 正直なところ私にはさっぱり理解できない話である。紫の力が及ぶ範囲までなら如何なる境界も彼女に対しては無力だと言うが、その効力範囲がどこまで広いのかが未だに測ることができていない。否、紫自身測らせまいとしているのだろう。

 

「なんにしてもやまこも来てくれる気になったのなら早速出発しましょうか」

 

「ちょっと待ちなさいよ紫。ここを離れるのなら挨拶くらいはする時間を頂戴よ」

 

 私がここに来たばかりの時に世話になった動物たちはもうとうに死んでしまっているが、その動物たちの子孫などは山にいる。次に帰ってくる時がいつになるかわからないのでせめて挨拶くらいはしておきたいのだ。

 石長姫様は不変を司る神様とあって滅びる姿は想像できないが動物たちは違う。寿命は人間たちと大して変わらず、長く生きても精々五十年。妖怪や神から見れば一瞬でその身を散らしてしまうのだ。だから何も言わずにここを離れるのは何となく嫌なのだ。

 

「夜に出発するのが一番良かったのだけれど。でも貴方の言いたいことはわからなくもないから明日の夜に出発することにしましょうか。明日中に挨拶は全て済ませておきなさいよ? さて寝ましょうか」

 

「はいはい、おやすみ」

 

 

 

 

 私がこの山に来たのはただの興味だった。私にゆかりの深い地である出雲の大社に封じられている神、大国主。そしてその息子であり建御雷(タケミカヅチ)に最後まで抵抗したという建御名方(タケミナカタ)に興味を持ってこの地にやってきたのだ。

 

 

        八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 

 言わずと知れた須佐之男の詠んだ歌だ。幾重にも重なる雲が湧きたつ出雲の地。私の名はそこから考えた物だ。まだ日も昇り始めていない曙の頃、薄く紫色に染まった八雲が立ち、空に昇って行く。幾重にも思慮を重ねることを求めて八雲。その色と出雲が所縁の地である事から紫。

 単純だがそれゆえに気に入っている。誰にも読ませない思考、誰にも理解できない意図。それを求めているわけではない。単純(複雑)平易(難解)言葉(真の意味)を理解できる者を自ら選びたいからこその名前なのである。

 

 

 建御名方に興味を持ってやってきた私に最初の誤算が生まれたのはここに来てすぐの事だった。社にいたのは建御名方ではなく風雨を司る神霊と祟り神を操る土着神だったのだ。

 

 ならば封じられたはずの建御名方は何処に行ったのか。封印を解いて何処かへ行ってしまった? 否、社にある極太の注連縄がそうではないことを物語っている。そこで考えられるのが第二の仮説。建御名方が姿を変えて風雨を司る女神として過ごしているというものだ。

 神というものは姿形を自在に変化させられる。固定の姿という物が無いのだ。大抵は人間と関わりやすいように人型をしているが必ずしもそうだというわけではない。この地で信仰されているミシャグジがいい例だ。わざと人型をとらないことで祟り神としての力を増幅させていると考えられる。それを従えているのは威厳の無い見た目をしている人型の神なのだが。

 

 とにかく建御名方が洩矢ではない方のもう一柱である八坂になっているのだとすれば合点がいく。実はこの地には建御名方だけでなくその妻である八坂刀売もいるはずなのである。それすらいない。そして今この国にいる八坂神奈子と名乗る神霊は建御名方と八坂刀売の両方の性質を併せ持っているのである。神の世界の事は詳しく知らないが関係があることは確かだ。

 

 ここで重要なのは八坂神奈子が神霊であるという点である。神霊であるという事は昔は人間だったはずなのだ。それを器として何らかの形で建御名方と八坂刀売の神性が入った者、それが八坂神奈子なのだとすれば辻褄は合う。

 問題は何故そんなことをしたのか、どうやってそれを為したのか、なのだがそれは私には理解できない範疇の問題なのだろう。そも妖怪も神も人知を超えたものであるがゆえに理解などできようはずもないのだ。できてしまえば存在は消えてしまうのだから。

 

 

 

 建御名方は一つ目の誤算だった。二つ目の誤算は今動物たちや石長姫に挨拶をしに行っている少女、やまこに会ったことだ。建御名方を諦めて旅を再開しようと思っていたところで立ち入ったこの山。初めに声をかけたのは私だったが正直に言うと気づかれているだろうと思っていた。

 妖怪としてそこそこ長く生きてきた私はそこらにいる妖怪とは一線を画した実力を持っていると自負している。ならば私の出す妖力によって声をかける前から気づいていて当然。そう考えていたわけだ。

 

 しかし実際にはそうではなかった。なんと彼女は私に声をかけられるまで気づいていなかったらしい。驚きだったが声をかけた相手が彼女だったことは私の最大の不運(幸運)だったのかもしれない。

 覚であると気づいた時はひどく後悔したものだが一晩寝れば気にならなくなっていた。どうにも私の考えの全てを読んでいるわけではないと分かったからである。

 

 そして面白かったのは彼女が私に旅の話を頼んだ時である。覚とは常に相手の思考を先読みして行動する妖怪であり、人に話を頼むなど天地が逆転してもあり得ない。そう思っていたからこそ彼女の行動を無駄に深読みしてしまったのは良い思い出だ。

 珍しい妖怪だと感じたからこそ私は彼女に惹きつけられ、今までともに過ごしてきたのだと言える。常に一人で生活してきた私にとってともに食事をし、話し合った初めての友人だ。

 

 だからこそ彼女の意志は尊重する。私のこの旅の目的が達成されれば必ずこの山に帰す。それが私の彼女にできる精一杯の礼ではなかろうか。




百年進めてもさとり様すら生まれませんでした

次回からは紫様とほのぼの旅行になります


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原始の神霊界

「ねぇ紫、紫は何か目的があって旅をしていたんだよね? どんな目的なの?」

 

 彼女が旅を続けていた目的は紫の考えることの中でも最深部辺りにある、つまりは彼女の野望や計画すべての根底にあるせいで私には読めない事だ。八雲紫という妖怪を形作る上で最も重要な事の一つであるはずなのに私にはまだわからないのだ。

 でも一緒に旅をするのなら目的くらいは教えておいてほしい。そうでもないといつ帰ることができるのか、そもそも旅が終わり得るのかがわからない。

 

「そうねぇ、今はあまり気にしていないのだけれどこれからの事を考えると必要になるものがあるの。それを探しているのよ。そのついでにこの島の妖怪や人間なんかを観察しているというわけ。たまに面白い情報が入ってきたりもするわ。この間立ち寄った村では漁師が一人行方不明になったと言っていたかしら。空の舟があったというし大方海坊主にでも喰われたんでしょうね」

 

 その『何か』を見つければ旅は終わるらしい。でも結局『何か』が何なのかはわからないままだ。はっきり教えてくれないという事は言う気も無いという事だろう。

 わからない目的のためについて行くのは少々怖いが山を離れて生活するという楽しみもまたあるのだ。私の全く知らない動物たちがまた出迎えてくれるのだろうか。

 

「貴方は……人間と言うものについて何か分かったかしら?」

 

 生まれてから百年。勿論人間も見てきた。と言っても迷い込んでいるところを数回見たくらいだけど。自分から迷い込んで来たくせに人間たちは皆何かを恐れていた。それは恐らく山に存在するすべての物。

 彼らにとって闇夜の中では相手が妖怪だろうが神だろうが、ただの動物や植物、同じ人間であったとしても等しく恐怖の対象となる。得体の知れない物を恐れるがゆえに群をなして共同生活をする。それは正しい事であり生き延びるためにはそれが最善である。

 

「彼らは…そう、あまりにも弱すぎるね。でもそれだけじゃない。裏を返せば人間は全てを支配できるかもしれないんだから」

 

「そう、だからこそ私の理想は早く為されなくてはならないの」

 

 人間の弱さは常に何かを恐れていること。その恐怖や畏怖によって妖怪や神は生み出されているのだ。人間には妖怪のような力は無く、神のような叡智も無い。

 しかし彼らが()れる事を止めた時、この世のすべてが反転し得る。妖怪も神も力を失い、無様に消滅を待つだけの存在になり果てる可能性がある。その時に人間はあらゆるものの頂点に立ち、己を縛る物からの解放によってその全ての支配を考え始めるかもしれないのだ。

 

 つまり紫の理想は人間に恒常的な恐怖を与える事なのだろうか。そしてこの旅の目的はそれができる妖怪を探す事なのかもしれない。恒常的な恐怖を与えることが難しい理由には彼らの寿命がある。長く生きても四十年、つまりすぐに代替わりしてしまうのだ。一人一人の恐怖が長く継続しないので手間が余計にかかり、語り伝えられるうちにその恐ろしさが薄れてしまったりするのだ。

 

「まずは東に向かってみましょうか。ここより西は粗方見てきたし」

 

 ここは八ヶ岳なのでほぼ本州の中間地だ。紫はそんなことを知らないだろうが。つまり最悪の場合今まで紫がしてきた旅とほとんど同量の旅をしなければならないのだ。まあ私としては旅に何年かかってもいいんだけど。

 

 

 

 

 西には目ぼしいところはあまりなかった。数十里ほど西にあった山は悪くなかったが決定するには至らなかった。私の理想郷の場所が決まった後にでも観察をしていればいいだろう。

 

「今日はあまり進まなかったね。まあ私たちにとっては朝も夜もあまり関係ないから休みなく行っても良いんだけど」

 

「でも休息は必要よ。今日はこの山で休みましょうか」

 

 昼に動くと人間に遭遇する確率が高くなる。動物ならやまこがいるので問題はないが人間はそうもいかない。この世に正直な人間など存在しないのだから心を読まれるというのは誰にとっても不快な事である。

 

「私はもう少しだけ周囲を見てくるわ。それじゃ、おやすみ」

 

 土地勘のない場所で彼女を一人で行動させるのは少々気が引けるがこの眠気には勝てない。起きた時に彼女がいることを願うしかないか。それにしてももう少し抵抗できるようになりたいものだけれど。

 

 

 

「あら、起きたのね。存外早かったんじゃない? 紫にしては、だけど」

 

「失礼ね。それで、この辺りに何か面白い物はあったかしら?」

 

 彼女はあまり寝ない。時間は短くてもその分身体を休められるように調整しているんだとか。活動を続けるのに必要な分の睡眠はとっているという事だが、逆に言えば必要最低限しか寝ていないという事でもある。

 

「そうねぇ、紫が気にいるかどうかはわからないけどこの山の頂辺りに神社があったわよ。祭神は確か少彦名とか大国主とかだったかしら。遠くからしか見ていないから正しいかわからないけど」

 

 当たり前だが流石に分霊なようだ。神社に祭神がきちんといることの方が珍しい。本社より分社の方が圧倒的に多いからである。

 そういう意味でも諏訪の神が同居する神社と言うのはとても興味深いものだった。神と言うのは分霊であってもわがままな存在であり、他の神ともよく喧嘩をする。分霊が実態を持たないおかげで周囲への被害は概して少ない。しかし神と言うのはいくつに分かれても本体と同じだけの力を維持するという厄介な性質を持っているせいでたまに大きな飢饉が発生してしまう。

 

 だからこそ実態を持つ神が二柱もいるあの神社は異端なのだ。この百年で少々調べたところ、昔一度土地が破壊されるほどの戦争をしたみたいだ。そこで和解したのかどうなのかは知らないが、その戦争のおかげで今は大人しくなっているらしい。

 

 人間が神から最大の恩恵を受けようと思うならただ一柱のみを祀るべきなのだ。その神を篤く信仰すれば大いに繁栄するだろう。しかし人間と言うのは強欲なものなのでそういう事はしない。同じ神社に複数の神を祀ることでより多くの種類の恩恵を受けようとするのだ。

 その結果として自分たちにより多くの厄災が降りかかる。そうすると人間たちは何とかそれを抑えようとして神に様々な物を奉げる。神の分霊たちはそれを我が物にしようと争う……そういったことが際限なく続き次第に人間側が疲弊する。

 

 神社の管理を放棄すれば分霊たちはのそれぞれは各々大きな災害を起こして消滅する。人間は自分たちの益ばかり見るせいで害に目が行かない。結果として神の分霊は消滅し、神社としての機能は失われてしまうのだ。

 もう一度分霊を降ろせば神社としての機能は復活するが、人間たちはまさか神の分霊が消えているとは思わない。今までの旅で見てきたが、最早神域としての機能が無い神社はたくさんある。神と話すことのできる巫女がそもそも多くないことが原因だろう。

 

 巫女を単なる埋め合わせのように使っている神社も多く、そのせいで神を降ろせないのだ。かくも愚かな人間が私たちの存在の根幹を担っているというのは癪だがどうにもできない事である。

 私が作るべき世界はそんな人間たちを救済するための楽園。人間を生かすための世界だ。

 

「では行ってみましょうか。……安心なさいな。このスキマの中なら人間にはわからないわ」

 

 そもそも夜なので神社に人はいないと思うが。念のためにスキマで移動することにする。純粋に旅も楽しむために基本的には使わないようにしているが、人間がいるかもしれない状況ではやむを得ない。

 それよりも分霊がきちんと存在しているのか、神社周囲の状況や環境はどうなのかなどを調べなければならない。本来ならそこに住む巫女についても調査したいのだが今は寝ているだろうから諦めた方が良さそうだ。




モデルは金峰山神社と金櫻神社。本文で出てきた祭神は金櫻神社の方です。金峰山神社の祭神は大山津見、石長姫の親です

少彦名は言わずと知れた針妙丸の元ネタ

こういう事を調べていると色々な所でつながりが見えてくるので結構楽しいです


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大江山颪

 もう夜も更けているので境内には誰もいないようだ。闇夜を恐れる人間がこんな夜中に神社に来ることはまずあり得ない事なのだろう。

 

「この神社は…本物ね。神の分霊もきちんと存在しているしその管理も行われているわ」

 

 神社があっても神がいないことは多いらしい。目に見える肉体を持った神か、その神の力を持った分霊のどちらかがいれば神社としての機能は果たせるらしい。

 私に分霊は見えないけど紫には見えているようだ。何でもできそうな能力を持っているようで本当に羨ましい限りだ。私の能力なんて役に立ちそうでそうでもない微妙なものなのに。

 

「さて、早かったけれど旅はこれにて終わりね。あとはもう少しこの辺り一帯を調べれば……」

 

「え? もう終わりなの?」

 

 まだ旅が始まってすぐである。紫の目的である(と思っていた)妖怪も見つかっていないのにもう終わりとはこれ如何に。私の予想が完全に外れていたという事なのだろうけど。結局紫の探していた物とは神の分霊のいる神社なのだろうか。

 そんなもの全国を回れば相当な数が見つかりそうなものだけど。

 

「えぇ、この地こそ楽園とするに相応しい。貴方もそう思わないかしら?」

 

 紫はこの土地を気に入ったというのか。となると私の考えが根本的に間違っていたことになる。紫が探していたのは人間に恒常的な恐怖を与える存在ではなくそれを為すための楽園足り得る土地だったという事か。

 旅が終わってから気づくことになるとは思っていたけど予想のベクトルが完全に別の方向を向いていたのは少し残念。

 

「そうかなあ…こんな山の上にある神社に来るのは相当な物好きだけだと思うけど」

 

「それで十分なのよ。まあこの神社をそのまま使うわけではないわ。この土地を有効利用させてもらうだけ。それじゃ、帰りましょうか」

 

 行きはよいよい帰りもよいよい。紫がいれば行きも帰りも怖いものなどない。というか帰りは紫のスキマで一瞬なので行きの方がまだ怖い要素があったかもしれない。

 それにしても早い帰りだった。こうなることがわかっていたらあんな大層な別れの挨拶もしなくてよかったのに……いや、どうせなら私も少し旅をしてみようかな。

 

「待って紫。私も少し旅をしてみたいからここからは自分の足で行動するわ」

 

「そう、ならここで別れましょうか。またどこかで会えると良いわね」

 

 妖怪の寿命とこの国の狭さを考えればまたどこかで会う可能性は十分にあるだろう。それが数年後になるのかはたまた数千年後になるのかはわからないけど。

 ま、それまで私が死んでいなければの話なんだけど。結構どこに行っても死という物が付き纏うから常に油断ならないのだ。紫のおかげで少しの力は付いたと思うけど。

 

 

 

――――――――やまこの日記――――――――

 

 

旅を始めてどのくらい経ったかはわからないが、運よく紙が手に入ったので何かあれば日記として書いていこうと思う。

 

 

日付の無い日記は果たして日記と呼べるのだろうか? 只管西に進んで妖怪の多く棲む山を見つけた。

 

 

都には大層美人な女性がいるらしい。こんな辺境の山奥にまで噂が広がっているという事が驚きだ。何せ妖怪か動物たちしかいないこの山だ。妖怪にとっても魅力的な、つまり美味しそうな人間なのかもしれない。

 

 

この山が気に入ったので、山にいる妖怪全体をまとめているという山の四天王という鬼に定住許可をもらいに行った。特に嫌な顔もされずに許可が下りた。心の広い者は嫌いではない。とりあえず旅は一段落である。

 

 

私は決して好かれる妖怪ではないのでひっそりと暮らすことにした。周辺には人間も妖怪もいないので思いのほか快適だ。

 

 

噂にあった美人な女性は姿をくらましてしまったらしい。動物づてなので正確な情報なのかは判断できないが、どうやら不老不死の霊薬を残して月に帰っていったとか。なよ竹のかぐや姫に酷似しているように思う。

 

 

最近四天王に絡まれることが多くなった。わざわざ定住許可をもらいに行った辺りから目を付けられたらしい。ひっそり暮らしている意味がなくなるからやめてほしいと思うが、まさか鬼にそんなことが言えるはずもない。

 

 

都が長岡京に遷都されたらしい。確か旅を始めたのは聖徳王が没する直前辺りだったはずだから、もう紫と別れてから百七十年程度経ったことになるようだ。

 

 

今度は早々に平安京に遷都されたらしい。あれから十年ほどしか経っていない気がするのだが。

 

 

明日はまた四天王たちが酒を呑みに来るらしい。毎回他の場所で飲んでほしいと切に願っているが私の願いは通じない。鬼と真正面から向き合うなんて妖怪であっても避けたい事である。

 

 

――――――――――――――――――――――――――

 

「どうしていつもいつも私の住処に来てまで酒を飲んでいるのよ」

 

「別にここだけで酒を飲んでいるわけでもないからねぇ。それにわざわざ私らに挨拶しに来る妖怪も珍しいもんさ。大抵は勝手に棲みついて勝手に出て行く奴らばかりだからね。なあ萃香」

 

 四天王の一人星熊。注ぐと酒の格が上がる盃である星熊盃を持っている。時間が経つと不味くなるそうだがそうなるまでゆっくり酒を呑んでいる姿を想像することはできない。

 

「そうそう、そう言う意味でもお前さんは興味深いのさ」

 

 二人目の伊吹。無限に酒が湧き出る瓢箪である伊吹瓢を持っている。鬼の国に棲むという酒虫の成分がしみ込んでいるとかで美味しい酒が無限に湧く。酒虫に与える水分は伊吹が空気中の水分を萃めて確保しているのだろうか。

 

「それなりに呑めるし天狗と違って鬱陶しくないしな。こちらとしても気分がいいんだよ」

 

 三人目の茨木。それに酒を注いで相応の量を呑めば病気や怪我が治るという茨城の百薬枡を持っている。ちなみに副作用で身体が鬼に近づくらしいので、私は一度もその枡から呑んだことが無い。別に怪我もしていないし病気にもなっていないので呑む必要も無いのだ。

 

「覚ってのはもっと人に見つからないような場所で暮らしているものだと思っていたけれどねぇ」

 

「少なくとも私は人に見つからないような場所でひっそりと暮らしているつもりなんだけどね。貴方たちが勝手に来ているだけでしょう?」

 

 四人目の虎熊。一本角で白髪の鬼である。特徴的なのはその顔だ。他の三人同様容姿端麗ではあるのだが右目は完全に潰されている。さらにこの鬼の特徴として宝を持たないことが挙げられる。

 その昔小人族の一人に退治された経緯があるらしい。その時に奪われたのが全てを叶える虎熊の槌である。ちなみに虎熊の右目は百薬枡で治るのだがあえて治さずに残しているらしい。

 

 鬼の四天王である虎熊に打ち勝った小人に敬意を表する意図があるとか。きっと私なら生活が不便になるのですぐに治してしまうだろう。それをあえて残す鬼とは他の妖怪や人間と根本的に考え方が異なる化け物なのである。

 

「まあまあ気にするなっての。ほらこれでも呑んで落ち着きなよ。この私が注いでやったんだから呑めねぇとは言わないよな?」

 

 質の悪い金髪である。きっとこれが将来のアルハラと呼ばれるものなんだろうなぁ。星熊からすればただの善意なので断ろうにも断れないし、そもそも断ったら人生終わる。

 他三人も全く悪いと思っていないので余計に質が悪い。情に厚い鬼ならもう少し私の事も労ってほしいものだ。

 

「はいはい、呑むわよ。それにしても悩み事があるなんて貴方たちらしくもないわね。何? 最近の人間がまともに勝負をしてくれない? それは貴方たちが悪いわよ。毎回攫ってくる人数が多すぎて人間も萎えているんじゃないの?」

 

 悩み事などとは無関係な生き方をしているように見える奴らなのに実はそうでもないらしい。でも勿論私はそんなことを解決できる程万能ではないし鬼に生き方を指南してやれるほどまともな生き方もしていない。

 私にできることは精々助言を与えることだけだ。その生き方の問題点くらいなら私にもわかるからそこを修正するようにアドバイスするだけ。

 

「そうなのかねぇ。昔からこれくらいだった気がするんだけど…ほら勇儀、盃寄越しな」

「お、助かるね」

 

 人間が勝負を投げたくなるのもわかる。いくら人間の中では実力者であると言っても所詮は人間の中での話なのだ。相手は歩く災害である鬼。勝負にもなりはしないのだ。まあもう少し改善した方が良い点は指摘しておいた方が良いだろう。




虎熊童子の目が潰れているというのは完全に辻褄合わせのための捏造設定なので本気にしないでください

金熊童子は赤鬼で桃色の華扇と被る気がしたので採用しませんでした


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鬼畜生の所業

「そういえばさ、やまこには姓が無いのかい? 聞いたことが無いけど」

 

 私に姓は無い。不要だったし考えたことも無かったからだ。でも改めて考えてみれば姓名で名乗った方が恰好は付く。やまこだけでは何とも気の抜けた自己紹介になってしまう。

 

「無いよ。私は貴方たちと違って元から妖怪だから名前すら自分で考えた物だし。でも折角の機会だし考えてみてもいいかもね。何なら貴方たちで考えてもいいよ」

 

 この世界に来る前は人間だったはずだがこの世界に来てからはずっと妖怪である。だから名前だけあれば今まで何も困らなかったのだ。でも名前だけでも考えていたのは正しい判断だったようだ。紫によると名は体を表し、名の無き物に生は宿らないとのことだ。

 覚妖怪という種族名があるので大丈夫なのではないか、とも思ったがそうでもないらしい。種族名とは言わば一括りにまとめられた物の名でしかなく、それによって個を識別することは不可能だとか何とか。確かに『鬼』と言われてもそれが星熊なのか伊吹なのか、はたまた木っ端なのかは判断できない。

 

 独立に存在するためには個人名こそが重要になってくるらしい。種族名によって生を宿し。個人名によって初めて自我を宿す。名、という曖昧な物の重要性を理解させてくれたのは間違いなく紫だ。恩もある。しかしこの鬼たちにもここに住まわせてもらっている恩はある。だから今回はこちらに任せようと思ったわけだ。

 

「そうねぇ…なら古明地なんてどう?」

「へぇ? 斡子にしては悪くないと思うが何か理由でもあるのかい?」

 

 伊吹は『虎熊にしては』なんて言っているがこの四天王の中だと虎熊が一番まともだと思う。恐らく一度負けたことがあるから驕りが少ないのだろう。他三人は……うん、鬼の世界に一般常識なんて通用しないとはっきりわかる。

 

「えぇ、当然よ。先ずやまこは心を覗くだろう? それはすなわち他者の過去、つまりは古の記憶を明らかにすることだ。そして古の記憶とはその人が歩いてきた道そのもの。つまりは全ての底にある地面と考えられる。まさに覚のあり方そのものだとは思わない?」

 

 確かに虎熊の言わんとするところもわからないでもない。まあ私が読むのは何も過去の記憶だけではないのだけど。でも特に反論も無いしこれで決定で良いかな。

 

「うん。それで良いと思うよ。じゃあこれから私は古明地やまこね。これからもよろしく……するのは少し面倒かもなぁ」

 

「おいおい、聞こえてるよ。ま、やまこの姓も決まった事だし酒でも呑もうか。勇儀も萃香も酒持って来なよ」

 

 今回何もしなかった茨木が仕切ることに何も思っていない鬼三人。酒さえ呑めりゃあ良いんだろうな。ただでさえ四六時中呑んでいるような連中なのに。

 

 

 

――――――――やまこの日記――――――――

 

 

今日は虎熊に名字を考えてもらった。これからは古明地やまこと名乗って行こうと思う。それにしても何かあるたびに酒宴を催すのはやめてもらいたいものだ。鬼との付き合いで唯一面倒なのはそこだと思う。

 

 

伊吹がまた人間を攫ってきた。そろそろ嫌な予感がしてきたのでこの山を出て八ヶ岳に帰ろうと思う。明日は忙しくなりそうだ。

 

 

山を出ると言ったら四人からはとても驚かれたが、結局は気持ちよく送り出してくれた。またどこかで会う日が来るのだろうか。今夜は久々に木の洞で寝ることになりそうだ。

 

 

旅を進めて早一月。ようやく帰ってくることができた。今までは伊吹たちに頼んで盗ってきてもらっていた紙だが、今となっては再び貴重品だ。無駄なことは書けない。

 

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 旅は悪くないものだが非常に疲れる。まあ旅と言いつつも同じ場所に二百年以上もいた気がするけど。主に疲れたのは鬼の相手だった気がするけど。

 何はともあれ無事に帰ってくることができて一安心だ。しばらくの間はこの山でまた大人しく過ごしておこう。

 

「ほら、おいで。水場まで飛んで来られるかな?」

 

 今は帰って来て早々に発見した羽の傷ついた烏を水場まで連れて行こうとしているところだ。動物の心の悲鳴が聞こえてしまう私にはこの子を放っておくことができなかった。動物と言うのは変化に敏感だ。ほんの少しだけ妖力を持ってしまったこの烏の子は仲間から虐げられたらしい。

 人間の血の味を知ってしまった動物は妖怪になる。この子は冬の山で遭難して死んでしまった人間を啄んだらしい。基本的に雑食である烏なら別に不思議な事でもなく、これまでもそのように妖怪化した烏は何度か見てきた。

 

「よしよし、回復は順調に進んでいるようね。でももう少し効率的にするために妖力の使い方を少し教えてあげる。折角妖怪になったんだもの。どうせならすぐ死にたくはないでしょう?」

 

 妖力が上手く扱えない妖怪は基本的にすぐ死んでしまう。私がかつて死ななかったのはただ単純に運が良く紫に会うことができたからだ。彼女から様々な事を教えてもらううちに妖力の扱いが上手くなって今生きている。指南する者がいれば新参妖怪も長く生きることができるようになる。

 

 特にこの子に至っては私が見つけたというのもあればあまりにも可哀そうだという気持ちもあるので長く生きてほしいのだ。まだまだ少ない妖力でできることは限られているが生きているうちに妖力は増える。その時に応用できるように今から教えて行かねばならないのだ。

 

「おやおや、漸く帰って来たと思えば妖怪の世話をしているとは」

 

「まさか…石長姫様? 私の事を覚えているのですか?」

 

 昔ここにいたのは百年程度。ここを離れていたのが三百年くらいなので忘れられていてもおかしくはないと思っていた。そもそも数いる妖怪に比べれば私もまだまだ木っ端の類。覚えておくに値するとも思っていたので声をかけられたのはかなり意外だった。

 

「この短期間で忘れようはずもありません。それよりもそこの子烏はどうしたのです?」

 

 神にとっては数百年程度大したことは無いらしい。私にとっては人生の四分の三以上であるし、人間の寿命の七、八倍程度はあるというのに。私も長く生きれば数百年が誤差になるのだろうか。まだ想像もつかないほど未来の話だ。

 

「冬に迷い込んだ人間の肉を喰ったらしく仲間から追い出されたというので私が育てているのですよ。石長姫様はその人間について何かご存じなのでは?」

 

 私が唐突に現れた時や紫が急に来た時もこの山の神にはお見通しだった。それなら迷い込んだ人間一人くらい楽に見つけられただろう。

 

「勿論知っていましたよ。ですが私は私への信仰心もない人間の味方ではありません。わがままだとか思いましたか? 神にとって人間とはその程度の認識なのですよ。信仰してくれるならばその心に応える。信仰してくれないのなら無視です。

 神は相手がよく知る者であっても無駄な力など使わない。それゆえに巻き込まれでもしない限り信仰心の無い者に災厄が降りかかることも無いのです。それを分かった上で神を信仰するかどうかは人間にかかっているのですよ」

 

 石長姫様はこう言っているが実際の状況はもう少し複雑だ。その神に対する信仰心が今はないが()()()()()()()者には災厄が降りかかることが十分にあり得る。神から受けた恩恵を仇で返すような真似をする者には神は容赦なくその力を発揮する。

 独善的にも見えるがそうではない。神も信仰を得るためには人間を脅かすことが重要なのだ。ある意味で神と妖怪が同一視されるのはそのためだ。超常の存在であり自分たちの生活を脅かす物は一括りに敵であると認識されても不思議ではないのである。

 

「人間は欲深く小賢しい生き物ですから注意が必要ですね。それでは今日はそろそろ失礼します。まだ妖怪として生まれたばかりのこの子に神力を浴びせ続けるのも良くないでしょうから」

 

 生まれてすぐに石長姫様の神力を浴びまくった私が言うのもなんだけど、元々妖怪ではなかった動物なら特に敏感だろうからこの辺りの事は注意してあげないといけないのだ。特に石長姫様は力の強い高名な神。下手をすればこの子が消滅しかねない。




虎熊斡子(とらくまあつし)と読みます。何か男っぽいですが女性です
この名になったのにも当然ですが訳がありまして、他三人の名前である萃香・華扇・勇儀を数字変換して入れ替えて等都合の良いように数字を割り当てたらこうなりました、具体的には
83 13 22 4
3  34 21  
32 43 11
21 33 12
こんな感じです。かなり単純です


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食人怨霊

時間がブレて申し訳ないです


「ほらほらこっちよ。追いつけるかしら?……ギャッ」

 

 うーん、やっぱり烏から変化する妖怪だから予想はできていたけど…天狗っぽいなぁ。もう既に今まで見てきたほとんどの妖怪より速い。調子に乗って”鬼さんこちら”としてみたはいいものの全く対応できない速さでぶつかられたのでかなり応えている。

 

「ふふん、翼だってもう何年も前に治っているんだからやまこに追いつくなんて訳無いわ」

 

 なーんか意外に早く人型になったと思えば私の口調を真似しだしたんだよね。そのせいで言葉遣いがこの時代(今時)っぽくないが前世の時代(今時)っぽいのだ。そんなだと妖怪の間でさえも浮いてしまいそうなので矯正してあげたいのだが、本人にその気がないのでしようにもできない状況になっている。

 もっと他にも真似すべき対象はいただろうに。烏時代に見かけた人間とか神様でも。どうしてよりによって私を真似てしまったのか。

 

「本当に速くなったね。でもこの世には貴方よりももっと速い天狗がいるわよ。丁度良い、貴方もそろそろ育て親離れする頃よね」

 

 妖怪でなく普通の烏であった時から既に親離れはしていた。その後妖怪として育てたのが私だっただけだ。もう妖怪としても半人前以上にはなったし簡単に殺されることも無くなっただろう。

 

「いい? 昔はそうでもなかったけれど今の時代の天狗というものは群れて生活しているの。貴方もそこに入って生活してみなさい。私から紹介してあげるから」

 

 あの山の鬼や天狗なら嫌な顔をせずに迎え入れてくれるだろう。人間から恐れられる妖怪が妖怪から見て本当に恐ろしいのかはわからない。まあ鬼は他の妖怪にも恐れられている節があるが悪い奴らではない。付き合ってみてようやくわかる面白さがあるだけなのだ。

 他人の住処で宴会をやるのはいつまで経っても腹が立ったが、それ以外の事は慣れれば気にならなくなる。あの山の天狗は完全に鬼の支配下に置かれているのでそうそう付き合う事も無いだろうけど。

 

「えっ、所謂巣立ちってやつ? や、やまこも冗談きついわ~……本当なの?」

 

 あら可愛い。まあそんな悲しそうな目をしても決定は変えないんだけど。実際私はこの子の親でも何でもない。ただ見つけたから怪我が治るまで面倒を見て生き延びるための知恵を授けてあげただけだ。情で面倒を見続けるのも私でなくこの子に良くない。

 

「善は急げ、思い立ったが吉日よ。さあ行くわよ、はたて」

 

 

 

 

 最近までは何の変哲もないただの烏として生きていた。行き倒れて死を待つばかりとなった人間を見つけたのは数年前の冬だっただろうか。大寒波ともいえるあれほどの寒さは生まれて初めての事だった。

 いくら羽毛が生えていると言ってもやはり寒いものは寒い。だから私は人間が身にまとっている物で暖を取ろうと思い立った。問題はそれをするには人間本体が邪魔だったこと。

 

 だから私はそいつをどかそうと思って引っ張ったのだ。当然だが嘴のような尖ったもので皮膚を銜えれば切れて血が出てくる。不可抗力だったが私は血の味を知ってしまった。

 今まで食べていた物をはるかに上回る濃厚さと美味さ。生き残るためには食べる物を選んではいけない、という教えに従って寒さに凍えていた私は夢中でその血肉を喰い漁った。当然人間は死んでしまったのだが思いもよらないことが私の身に起こっていた。

 

 今まで感じたことの無い力が私の中から漲って来たのだ。実の親(と言っても大して関りは無いけど)も含めて仲間たちは私を警戒し排除しようとしてきた。

 そんなときに私を助けてくれたのがやまこだったのだ。覚という心を読む力を以て私の事情を理解し、散々突かれた翼が治るまで面倒を見てくれると言ってくれた。結局は翼が治った後も妖怪として生きることになる私に様々な知識を与えてくれたし力の使い方も教えてくれた。

 

 他にもいろいろな場所に連れて行ってくれた。湖よりも広いという海が見たいと言えば私を肩に乗せて運んでくれたし一番高い山に行きたいと言えば富士の山を登ってくれた。彼女は私にとって親よりも尊敬できる妖怪であり同時に信頼できる妖怪だ。

 心を読むことで他の妖怪には嫌われてきたようだけど言葉を話せなかった私にとってはとてもありがたかった。たまに読まれたくないことも読まれるけど気にするほどの事ではない。

 

「やまこってさ、子育てとか慣れてるの? 昔お世話になっていた時なんかはやけに手際が良かった気がするんだけど」

 

「何よ藪から棒に…ま、子育てなんかは一切したことが無いわ。誰かを育てるってのは正真正銘はたてが初めてね。そもそも妖怪ってどうやって増えるかわかる?」

 

 何か熟れているように感じたんだけど……それにしても妖怪の増え方か。私のように人間を喰う事で一般的な動物は妖怪化できるし、人間も特殊な方法を使えば妖怪化できるとか。

 

「そう、貴方の思っている通りね。最も多いのは人間の恐怖が生む妖怪よ。私もその一匹。考えていることが他人に知れてしまう恐怖、それは人間だけでなく妖怪も持つ潜在的な恐怖になり得るわ。そして人間から妖怪になる方法として最も簡単な物もそれね」

 

 人間が人間を恐れることで妖怪になってしまうという事で良いのだろうか。力ない人間が同族を恐れるなどにわかには信じがたいが。弱すぎるから誰もかれもを恐れているという事なのだろうか。小さな里くらいなら大丈夫そうだが大きな都とかになったら大変そう。

 

「いやいや、違うわよ。人間は底知れない物を恐れるきらいがある。人間の中に隠されている物、それは他人には知り得ない神秘であり恐怖の対象となるの。そしてそこから生まれる妖怪が貴女も良く知る最強の種族、鬼よ。鬼はほとんどすべてが人間上がりという特徴的な種族でもあるの。今向かっている場所にも多くいるけどそれも全部そうね。

 でも人間が人間を恐れることはあるわ。妖怪を打倒できる人間はもはや人間の尺では測れない。それゆえに大きな街や都で警邏や陰陽師をしているような者は少なからず同族から恐れられているわね。それが信仰に向いて神格化させることもあるし恐怖のまま妖怪化させてしまう事もある。本当、人間と言うのは度し難い生き物よね」

 

 へぇ。鬼も人間から成ったものが多いのか。……というか今から行く場所に鬼がいるなんて聞いた覚え無いんだけど。それに多くいるってそれ初めに言って欲しかったことじゃない? どのみち行くことになるから伝えられていなかったとかかな。

 

「まあまあそう落ち込むことも無いじゃない。鬼だって悪の権化と言うわけではないんだから。神として祀られている地域もあるのよ? だから大丈夫大丈夫。

 それよりさっきの続きだけどまだ妖怪が増える方法はあるわよね? 普通に考えればこれが一番単純、妖怪が妖怪を生む場合もあるわけ。例えばほら、この子とか?」

 

「…は?」

 

 何で当たり前のように赤子が出てくるのよ。どこから出てきた…というか見た目からして覚妖怪なんだけどいつの間に産まれたんだ。聞いても無いし気づきもしなかったんだけど。もしかして偽物? やまこは冗談が好きだから困る。

 

「あぁ、やっぱり気づいて無かったのね。実はこの子ねぇいつからお腹の中にいたのか不明なのよ。単為生殖でなければ無性生殖でもない。でも産まれてくるのは腹からなのよね。兄弟姉妹ってわけじゃないよ。

 石長姫様によると神の増え方と同じようなものじゃないかっていう話なんだけどね。確かに肉体を重視しない妖怪、特に自然発生的な妖怪はそもそもの身体が生殖に適していないものが多いのかも。いやー、でも産むのは大変だったよ。お腹切らないといけなかったし」

 

 この言い方……産んだのはつい最近だな。もしかしたら昨晩とかかもしれない。道理で抗いようのない眠気があったような気がしたのだ。

 はぁ、新たな妖怪の誕生など自分自身を除いてなかなか見られる物でもないだろうに。とても惜しい事をした気分になって残念である。

 

「名前とかもう決めてるの?」

 

「お? 切り替えが早いね。流石は天狗、その歳にしては頭の回転もキレもなかなかだよ。まあ冗談はさておき名前はまだ決めてないのよね。何せ産まれてすぐだし寝かせるので精一杯だったというか…あ、何ならはたてが決めてくれてもいいよ?」

 

 自分にとって初めての娘がそれで良いのか。良いんだろうなぁ、何故かこういうところは他人に任せきりなようだし。自分の姓ですら他人に決めさせたと言うのだから驚きだ。でも名前名前……私の名前も結局やまこが付けた物だし名前なんて考えたことも無かった。

 

「うーん……あっ、さとりでいいじゃない …何、そのままだって? やまこだって玃から取ったんでしょ? ならその子もやまこの子だってわかりやすくした方が良くない?」

 

 やまこが玃から取っているならさとりは覚から取ればいいという半ば安直、半ば真面目に考えた名前である。それほど響きも悪い気はしないが気に入らないのなら変えればいいんじゃないかな、と思う。




妖怪ってどうやって増えるの? と考えた時に日本神話の神のように不思議な増え方をするんじゃないか、という結論に至ったわけです

スカーレット姉妹なら両親がいるイメージが結構あるのに古明地姉妹になると途端に無くなる不思議。さとり様が大人びているからでしょうかね


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濛々迷夢

二週間空くとは…


 はたてとさとりを連れて――さとりは荷物ってほど荷物でもないしはたては自分で飛べるので一人でいるのとあまり感覚は変わらないのだが――かつて住んでいた山へと向かう。帰って来られるのだから当然行くのも迷わない……はずだったんだけど。

 

「ここ…どこだろう。おかしいなぁ、ずっと西に行けば着くはずだったんだけど」

「え? もしかして迷ったの? はじめはあんなに威張っていたのに」

 

 ぐ…痛いところを突いてきやがる。まさか迷うなどとは思わなかったのだ。只管西に行けば着く。これは確実だ。私の記憶にある日本地図と照らし合わせてもほぼ一致する。もしかして何処かで方角を間違えたかもしれない。

 きちんと太陽の向きを確認しながら進んできたはずなのだが。少し山を降りてここが何処か確認してみてもいいかもしれない。和服で眼を隠せば妖怪って気づかれにくい傾向があるし。この髪色は人間にどう見えているのだろうか。ま、流石にはたては翼を隠しても無理があるだろうけど…うん? それならもっと楽な方法があるではないか。

 

「少しばかり山麓を偵察してきてくれない? はたてならすぐだろうし。あまりこの子に負荷をかけるのも良くないから」

 

 まあ寝かせているからあんまり関係はないのだが。それに幼くても妖怪であることには変わらないので耐久性は申し分ない。狼などの野生の動物の母乳でもお腹を壊さないくらいには丈夫である。もしかしたら将来は化け物になるかもしれない。

 それは嫌だなぁ。異形という言葉がよく似合う程おぞましい妖怪もいるが、娘くらいは可愛いまま育ってほしいものである。この子が成長したらもはや姉妹にしか見えないと思うけど。

 

「はぁ~、仕方ないわね。行ってくるわ」

 

 実の親ではないけど育て親としては良い子に育ってくれて嬉しいよ。『面倒だなぁ』という心の声はバッチリ聞こえているけど。

 でもしたくない事を仕方なくであってもする、と言うのは組織に入ったあと何かと役に立つのではないだろうか。特にあの鬼どものすることと言ったら…本来はしたくないことのオンパレードである。四天王以外の鬼はあまり知らないけど。

 

 それにしてもさとり、か。随分と私の子らしい安直な名前ではないか。はたてに文句を言う気はさらさら無いし、名前を変えようとも思わない。母として他人に丸投げするのはどうかとも思ったが、恐らく私が考えるよりもこちらの方がよかっただろう。

 寝ているこの子も将来はそう言うに違いない。私のネーミングセンスはなめない方が良いだろうからね。自分で言っていて悲しくなりそうな話だが本当の事なのだ。

 

「見てきたよ。なんだか自然じゃない感じがして嫌な所ね」

「ふむふむなるほど…かなり南に下ってしまっていたようね。でもここから真北に向かえば着きそうか。ありがとう、助かったよはたて」

 

 まさか平城京の方まで南下してしまっているとは思っていなかった。西には来ていたが方角が少しずれていたらしい。前来た時とは季節が全然違うから太陽の位置もあまりあてにならなかったという事みたいだ。

 ここから先迷うのは嫌だから人間の使う道沿いに平安京付近まで行けばいいだろう。山はそこからあまり遠くない。歩けばかなりかかるかもしれないけど飛べばすぐだろう。

 

「少しの間人間の作った道を見ながら行くことにしようか。夜は誰も通らないだろうし低い場所を飛んでも問題なさそうだね」

 

 

 やはり道は偉大であると改めて実感した。あれからまったく迷うことなく夜のうちに平安京までたどり着いた。途中からはたてに運んでもらったので早く着いたというのは内緒。もうそろそろ日が昇り始めるので飛ぶ事は出来なくなるが残り数里程度なので歩いても十分に行ける距離だ。

 

「お、あれは所謂山賊ってやつらだね。上手く脅してやれば妖怪としての力も上がるかも……あれ? はたて~?」

 

 どこに行ったんだろうか。ついさっきまで横にいたような気がするのに。……うん? 何か下から悲鳴が聞こえてきたような…。声の主ははたて、ではなく山賊だったようだ。さっきはたてを見失ったのは目で追いきれなかったからか。天狗ってリアルにマッハ近くで飛ぶから近くにいると全く見えない。突風を感じるくらいだ。

 気になる山賊は…ご愁傷様だねありゃ。空からでも簡単に見つかるところにいるからそうなってしまうのだ。

 

 妖怪の跋扈するこの世界、夜に出歩くなど愚の骨頂だ。そんなことをするのは夜逃げの者か賊の輩くらい。里や村から一歩でも出れば死の危険が伴うというのを親に教わらなかったのか。それとも命を投げ出してでも逃げたかったのか。

 恐らく大抵は前者でもないし後者でもあるまい。逃げ出した者でも盗賊でも死を突きつけられると必ず悲鳴を上げる。そして必ずその場から逃げようとするのだ。でもできるはずが無い。妖怪を見て瞬時に逃げ出そうとするような人間は特別な力を持っていないことが多い。そんな者が妖怪から逃げられる道理はないのだ。

 

 今私が見つけた山賊も当然逃げようとしただろう。最初の一人は気づかぬ間にやられていたと思うけど周りでそれを見ていた者は恐れおののいて逃げようとしたに違いない。まあ天狗から逃げるなんてそれこそ同じ天狗くらいにしかできないだろう。

 

「あ、やまこも来たのね。でも安心して良いわよ。誰一人殺しちゃいないわ」

 

 単純にこれから行く山で通用するかを試すために妖怪慣れしていそうな人間を襲ってみたらしい。結果的に相手が期待外れだったわけだがはたての実力自体は問題ないんじゃないかと思う。私よりも随分早く気づいていたようだし、あれだけの速さの中で致命傷にならない程度に力を加減できるのならばあの山でもやっていけるだろう。

 特筆すべき長所も無いこの私でもやっていけたのだから。問題は鬼とどう付き合うか、かな。下手に遜りすぎても付き合いにくいと両断されるだけだ。一番は酒だけどね。

 

「何? 一人持っていきたい?……まあ良いんじゃないの? 鬼も天狗も人さらいをするからね。良い手土産になるんじゃない?」

 

 山賊など真っ当な生き方をしていないのだから一人くらい殺しても何も問題ないだろう、と言うのがはたての意見らしい。私も概ね同意見だ。元人間だったとはいえ今となっては考え方も妖怪寄りだ。人間一人の生死など気に掛けるほどでもない。

 特に今回は賊だし情など湧きもしない。もし今でも人間だったらこんな賊にも情は湧いたのだろうか。なさそうだな。あまりにもお人好しすぎるし想像もできないから。

 

「そいつを持っていくのなら飛んでいくよりほかないか。かなり高いところを飛ぶことになるけどそれでもいいの?」

「良いわよ。それより貴方はさとりちゃんの心配をしてあげたらどうなのよ。高いところって何度か行ったことがあるけどかなり寒かったわよ。いくら妖怪の子だからといってもあの寒さは赤子には耐えられないわ」

 

 ふはは、私が何の対策もしていないと思っていたのか。そもそも最近までは山から山へ飛んで移動していたというのにそれすら忘れてしまったというのだろうか。まさか鳥頭…?

 

「なーんか失礼なこと考えたでしょ」

「何のことやら。まあとにかくさとりに関しては心配いらないわ。石長姫様から特別な布をもらったから。元々棲んでいた山も冬はかなり寒かったでしょ?」 

 

 平地ならば雪が二丈(約6.06m)くらいになることもある。本来は私の防寒具として石長姫様がくれたのだが今はさとりを包むのに使っている。大きさも丁度良いし、私はそこそこ寒さに耐えられるのでさとり用としているわけだ。

 これのおかげでさとりをあまり気にすることなく移動できるのだ。衝撃さえなければこの子にとっては常に快適な状況というわけだ。

 

「石長姫……あぁ、やまこが時々言っていた神様だっけ? 本当にいたんだ」

 

 そう、はたてには石長姫様が見えないのだ。経験はもう十分積んだはずだから信仰心の問題なのだろうか。時々話題に出しているので名前は知っているのだがあまり信じてはいないらしい。

 まあ見えない物を信じるのは難しい事だと思う。むしろ昔の私が何故見えない石長姫様がいると信じて疑わなかったのかが不思議だ。声だって幻聴だった可能性もあるのに。今ではいることが分かり切っているので良いけどはたてにとっては一人芝居にしか見えないんだろう。



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無双風神

 一人連れて行くのにあたってその人間の仲間たちの記憶を改竄しようかとも考えたが、結局人間として最底辺まで落ちてしまっている山賊だ。自らの愚かさを認識するには知らぬ間に仲間が一人消えていた、という状況が良いだろう。

 妖怪を軽視したからこそのこの結果であり、真っ当な人間として生きることをやめたからこその結末なのだ。少しは妖怪というものについて考え直してみた方が良い。恐ろしさを完全に忘れてしまったわけではないことは先の様子からも読み取れる。

 

 知らない人間が一人死んだところで何も思うところはないが人間が嫌いであるわけではない。人間からは嫌われているけどね。今回の事を反省して真面目に生きて行く気になってくれたら私としては嬉しい。山賊のリーダーは部下たちにそのことを教えるための贄にでもなってもらおう。

 そうでもしないと浮かばれないだろうし。まだ死んではいないと思うけど気絶している者の思考は私には飛んでこないしはたての飛行は結構雑だからわからない。いずれにせよもう数刻もすれば死んでいるだろうけど。

 

 でもそれ以前にこの寒さでやられているかもしれない。大体富士山とほぼ同じ高度である海抜一里付近を飛んでいるから地上との気温差は20℃以上もある。それに加えて飛行時の風がある。凍り付いていてもおかしくないレベルだ。

 

「この山だね。はたても形や周囲の特徴をしっかり覚えていなさいよ。貴方がこれから棲む場所になるんだから」

「へぇ、この山ね。あまり目立ってないわね。こんな地味な山に本当に鬼がいるのかしら」

 

 周囲の山に溶け込むようにあるのは変に目立っても人間が攻めてきて面倒だかららしい。確かに妖怪がたくさん固まって棲んでいる場所を壊滅させられれば脅威は一気に薄れる。それを人間にさせないようにうまくカモフラージュしているとか。

 まあ人間が数十人攻めてきたところでこの山の妖怪がそう簡単に一掃されるとは思わないけど。神をも相手取れそうな奴が何匹かいるし。都の陰陽師なんかはかなり妖怪退治に特化していそうだけど今のところは大丈夫だろう。鬼が騙されやすいのが少し心配だけど。

 

「そこの者たちよ、止まれ。ここから先は我らの領分。いくらお前が天狗だからと言っても簡単に通すことはできぬ」

 

 種族は白狼天狗かな。前にも見たことがある。でも以前は山の警備や忠告など行ってはいなかったと思うんだけど。山で何かあったのだろうか……そういうわけでもないらしい。鬼や天狗たちに何かあったわけでもないのにたかが十数年やそこらでこうも変わるものだろうか。

 その辺りは下っ端の天狗には通達されていないらしい。いくら探ってもただ言われたからこの警備をしているという情報しか出てこないのならば直接聞くのが一番だろう。

 

「この山には伊吹萃香という鬼がいるわね? そいつを呼んで来なさい」

 

 明らかな動揺。最底辺の天狗にトップを呼びに行かせようとするのは少し酷だったかもしれない。でもこれが一番速くて確実だ。

 

「いっいっ伊吹様を呼んで来いと言うのか?! 正気ではない。お前たちはここで止めておいた方が良さそうだ。さあ覚悟しなさい」

 

 うむ、思ったよりも与えられた仕事に忠実なようだ。狼だけど犬っぽい。

 でも面倒な事になってしまった。まさかここで立ちふさがってくるとは思ってもみなかった。伊吹の名前を出せば怯んで引っ込むと思っていた。でも戦ったらさとりが心配だしなぁ。

 

「はたて、やっちゃっていいよ。少しの力試しとしては山賊以上に良いと思うし」

 

 騒ぎを聞きつけて応援が来たらそれはそれで良いだろう。はたてを鍛えてあげたはいいものの実力を見る機会はほとんどなかったし。私が相手をしてもはたてが何をしたいのかがバレバレなのであまり手合わせ相手としては良くなかったのだ。

 それに並みの妖怪よりはかなり速いであろう白狼天狗を相手にすることで速さにも対応できるようになる。あとはこの山の防衛線の実力がどれほどのものなのかを見極めたい。

 

「さあ行くz……」

 

 いくら何でも速すぎるでしょうよ。場所が近かったというのもあって何も見えなかった。風も遅れてきたし、何より相手も天狗であるはずなのに対応できなかったどころか気づいてもなかったし。天狗って怖いね。今から何をするかが分かっても避けれないから私でもまともに食らいそう。

 

「つまらないわ~。次のあんたはもう少し楽しませて頂戴…よっ!」

 

 流石は警備係の天狗だ。千里眼ももっていたんだっけ。それも使ってか次々と出てくる。これだけの天狗がいたのなんて知らなかったがどこにいたのだろうか。

 まあ出てくる度に一瞬でやられていくんだけど。これだけ連戦しても多対一でもこれだけ戦えるようになっているなんてはたても随分成長していたようだ。

 

「あんたも、あんたも……もう少し骨のある奴はいないの?……お? 何か来たわね。っぐぇ……や、やるじゃないあんた。さっきまでの奴らとは少し違うってわけね」

「無論あんな下っ端とは格が違いますから。私は大天狗様から直接令を下されてきたのです。この私が来たからには貴方の快進撃もここまでです。尤も白狼天狗を伸すだけなど快進撃とも言えないでしょうけど」

 

 煽るねぇ。それにしても今度の相手ははたてと同じ鴉天狗。単純な速さでは決めきれないだろう。やけに自信満々だから速さもあちらの方が上かもしれない。

 それにしても大天狗か。鬼曰く威張っているだけの無能の集まり、だそうだ。実質的なトップは天魔らしいが主に天狗に命令を下すのは大天狗らしい。

 

「大天狗……あぁ、威張っているだけの無能か」

「なぁっ!? 大天狗様に何と言う無礼なことを。貴方がここの何を知っていると言うのです」

「あぁ、そこにいるやまこに聞いたのよ。まあやまこも鬼から聞いたとか言ってたけど。何? 間違ってるの?」

 

 いやまあ合ってはいるだろう。だって相手の鴉天狗の少女もそう思っているようだし。流石にここで声を大にして言う勇気はないようだけど。私は天狗ではないので言いたい放題だ。わざわざ言うほど煽り厨じゃないから言わないけどね。

 

「あっているよ。あいつらは何の役にも立たん。天魔から気に入られているだけの能無しさね。

久しぶりだねやまこ。そっちの連れは知らないが誰だい?」

「そんなに経っていないけどまあ久しぶりだね伊吹。こっちの子は姫海堂はたて。あっちに帰ってから会って育ててあげたのよ。で、そろそろ自立させようかと思ってこの山に連れてきたの。仲間がいた方がこの子も安心だろうからね」

 

 私が伊吹と呼んだ瞬間相手側の天狗 ――どうやら射命丸文と言うらしい―― があからさまに驚いた。山に棲んではいるが顔は知らなかったらしい。どうやらこの子もはたてと大して違わないくらいの若さのようだからあまり世界が広くないんだろう。

 この歳で大天狗の直属の部下になっているという事はかなり才能に溢れている子なんだろう。射命丸は伊吹をあまり知らなかったようだが、逆に伊吹は射命丸をよく知っていたらしい。

 伊吹の能力上誰にも気づかれずに何かを観察することが容易だからだろう。それに鬼は強い者好きだ。将来有望なこの子がチェックされていないはずはない。

 

「いんじゃないかい? 天狗の治世に関わるつもりは無いが鴉天狗が一匹増えたところで大して悪いことは無いだろう。天魔のところにでも行くか。何の紹介も無しに組織に入れるわけにはいかないだろうしね。そこの射命丸もついでだ、一緒に来い」

 

 鬼はこのわがままが通せるから良いよね。それだけ他の妖怪からの畏れもある証拠だ。覚妖怪とは別格だもんなぁ。射命丸も初めて鬼を前にして何も考えられなくなっているようだし。

 なんだか少しだけ可哀そう。はたてと射命丸の勝負も少し見てみたかった気はするが伊吹には何を言っても無駄だろうし大人しく私もついて行くほかない。




この世界に慣れてきたからか初対面でも基本的に呼び捨てするようになった主人公

次回はまた少し遅くなりそうです


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狂乱天狗怖し

サブタイトルがどうにもならず詰みかけている現実


 天魔はおろか普通の天狗の棲む場所すら知らなかった私だが伊吹について行けば迷うことは無い。そもそもこの山をじっくり見る事すら初めての事だ。

 以前はじっくり見る間もなく妖怪の少ない場所が運よく見つかったし。

 

 こう改めて見てみると色々な種族がこの山には棲んでいたようだ。以前はほとんど見かけなかった天狗も予想よりはるかに多い数がいるようだし川辺には河童までいた。

 その他にも強くないから山に所属している妖怪も多い。この山にいる限り他の凶悪な妖怪や人間からの襲撃に怯える必要がほとんどなくなるからだろう。前回の私も概ねそんなことを考えてこの山を住処にしたような気がする。あまり覚えてないけど。

 

「どうせ何もないのに門を護っているなんてご苦労なこったよ。天魔はいるかい?」

「おや珍しい。伊吹様ですか。天魔様ならいらっしゃいますよ」

 

 仰々しいお屋敷だなぁ。こんな場所を襲うようなやつは相当ぶっ飛んだ奴だろう。伊吹とかそこら辺の。私一人なら先ず近づこうともしないと思う。

 門の前に二人の天狗が立っている時点で敵う気がしない。

 

 天狗の速さはさっき見せつけられたし、ここを護るほどの天狗はきっと射命丸やはたてよりももっと速いだろう。天狗の長をしている天魔なんてどれだけ速いのか想像もつかない。

 それでも伊吹たちをはじめとする鬼が天狗に恐れられているのはつまりそういう事だろう。速さがウリの天狗に対して、どれだけの速さで突撃しても怯まないだけの身体を持っている鬼は非常に相性が悪いと考えられる。

 

 まあ天狗も十分強いし私からしてみれば怖い種族ではあるんだけど。

 はたして天魔と言う奴がどんな体躯をしているのかと期待していた私だったが出てきた天狗を見て少しがっかりしたというのは秘密だ。

 がっしりしているのかと思っていた身体は思いのほか細く、伊吹が一発殴れば腹から上下に二分されてしまいそうなくらいだ。にじみ出ている気からはカリスマと言うものが感じられない。

 

 だがこれが天魔であることは間違いないらしい。周りの天狗や伊吹の様子からも明らかである。周囲の天狗たちはこの天魔とやらを持ち上げて崇拝対象にすらしているようだが伊吹はまた違った思いで見つめている。すなわち

 『いつ見ても弱弱しい天狗だねぇ』

である。事実天魔と呼ばれ天狗の長に君臨してはいるが彼女は強くないようだ。

 

 心の声が駄々洩れだからわかることだが先ほどから天魔が考えていることはずっと

  ”大天狗怖い” だ。仮にも自分の部下であるのだからそんな感情にならないのが普通である。

 

 何だか可哀そう。きっと無理矢理託された過去があるのだろう。私にはそこまで読めないけど大体わかる。勝手に押し付けられた挙句の果てに崇拝の対象にすらなってしまったのだから不憫でならない。かといって一度なってしまった以上簡単にやめることもできない。

 頑張れ天魔。きっと未来はそんなに暗くない。

 

 

 

 

 

 天魔と言えばこの山において鬼の四天王に次ぐ強さを誇る者として名を挙げられる。

 事実、先代天魔は殊戦闘においては四天王にも引けを取らない優秀な天狗だった。だが彼はなんとも運が悪かったと言える。鬼との宴会中、背中を叩かれた拍子に食べ物を喉に詰まらせてしまったのだ。

 

 妖怪も体の構造は人間と大差ない。存在が主に精神に依存するために、人間よりも物理攻撃に対してかなり丈夫なだけだ。溺れれば窒息するし、喉に何かが詰まっても同様に窒息してしまう。

 如何に妖怪としての格が高い天狗であっても窒息は回避できない。背中をたたいた鬼も悪意があったわけではなく、天狗にしちゃ素晴らしいと褒め称えたつもりでしかなかったのだ。

 

 鬼は天狗の組織のさらに上に存在するものであって組織に関りがあるわけではない。故にその鬼に対しては然したる罰も無く、天魔はただ一人呆気なく散ってしまった。

 これがもし天狗であったなら、大天狗だったとしても必ず処刑されただろう。

 

 この山において鬼は所謂特権階級であり、どんなに横暴な振る舞いをしようが天狗から咎められることはまずあり得ない。主に鬼が死ぬ時は人間に討たれるか同族殺しをしたときくらいである。

 

 鬼の好きな物と言えば酒だが、同時に鬼の弱点になり得るのも酒である。酒に強い鬼も酔うことなく無限に飲み続けられるかと言うとそうではない。

 鬼は酒に極端に強い代わりに一度酔いつぶれてしまえば決して目覚めないという。これは死ぬという意味の目覚めないではなく、まさに泥酔であり泥のように眠っている様を表している。

 

 強大な鬼もこうなってしまえばまな板の鯉、人間に首を斬られるのをただ待つばかりの物言わぬ傀儡となり果ててしまうのだ。

 如何なる妖怪をも切断する妖刀を以てすれば屈強な泥人形さえも容易に真っ二つだ。

 

 つまり何が言いたいのかと言うと酒は危ないということ。先代天魔の死因は不明という事になっているが現天魔は酒関連での鬼との衝突だろうと当たりを付けている。

 半分合っていて半分間違っているのだがそれを指摘できる者は鬼以外にいないのが実情だ。何せ宴会に参加していた天狗が彼一人だけだったので、天狗は本当に何も知らないまま天魔が死んだことになっていた。その天魔が次期天魔として公言していたのが現天魔の彼女なのである。

 

 故に彼女は務めなければならない。天魔として天狗の格を落とさないように。

 勤めなければならない。逃げられぬこの職場の束縛をその身に受けて。

 努めなければならない。他の天狗や山の妖怪たちに弱いと悟られることの無いように。

 

 天魔自身は天魔が天狗最強でなければならないと妄信している。先代天魔像を崩さないように自分の行動に常に細心の注意を払っている。

 だから天魔は気づけない。側近の大天狗から哨戒の白狼天狗に至るまですべての天狗が彼女の弱さを認めていることに。彼らはただ強い天魔を崇拝しているのではない。彼女自身の人柄(天狗柄?)が現在の天魔の地位を確固たるものにしているのだ。

 

 

 それら天狗の裏事情が分かってしまったからやまこは思わずクスリと笑ってしまう。

 しかし文はあまりの緊張で頭が白くなっており、萃香は大天狗を見定め、大天狗は彼らが主を見つめている。当の天魔は自分の事でいっぱいいっぱいなので、思わず漏れた含み笑いに気づいた者ははたてただ一人である。

 

「では姫海堂はたてと言ったか。この山を決して裏切らぬと契れるか? …………よろしい、正式に我らが山へ迎え入れようぞ。して伊吹殿、そちらの娘はどうなさるおつもりか」

 

 年寄り臭い話し方をするが然して高齢なわけではない。まだまだ数百歳の若造だ。そうはいっても大抵の鬼よりは長く生きているのだが。

 

「なに、こいつ()は私たち鬼の方で預かっておくよ。知己だからね」

「……気づいていたのね」

「当り前さね。何年生きてきたと思っているんだい」

 

 二人の間でのみ通じる会話。もしかしたらはたても分かったかもしれない。内容はと言うとさとりの事である。知らない気配が一つあればそこそこの年月を生きてきた萃香が気づくのは必定だ。

 それがやまこの娘であるとは思っていないようだが、はたてではない連れが一人いることには気づいている。大天狗たちも気づいてはいるようだが、こちらは萃香に全幅の信頼を寄せているので気にしていないようである。

 

「本日はこの山に新たなる天狗()が入ってきためでたい日じゃ。宴でも開こうかの。大天狗よ、皆を呼んでこい。伊吹殿はいかがしなさる」

 

 内心では恐怖に震えながらも表面上では何ともないように振る舞う天魔は実はすごい奴である。彼女の今の気持ちを一言で表すなら『鬼来るな』である。

 

「鬼があまり参加しても天狗が委縮してしまうからねぇ……うん、私だけで参加しようか。これなら他の鬼も文句は言わないでしょ。何せ勇儀たちも不参加だからね」

 

 一瞬だけ期待に躍り、すぐにまた沈んだ天魔の心の内を知る者はやまこしかいない。あぁ、現実は非情なり。それを最も実感しているのは天魔に相違ない。




スピンオフを一本書けそうなくらい主人公適性のある天魔さん。書きませんが


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地獄の苦輪

 はたての歓迎会として始まった酒宴はもはや騒ぎたい天狗の集まる場になっている。初めの方はまだ皆大人しかった気がするのだが、酒が入ると次第にタガが外れたようになっていったような気がする。はたてはまだそんなに飲めないようだけど。

 

「して、お前さんは何故(なにゆえ)この宴に残っていなさる。いや咎めているわけではない。伊吹殿のお知り合いのようであるしの。しかしお前さんが残る必要はあったのか? とそこを聞きたいわけじゃ」

「私が残るのは当然でしょう? 私ははたての義母(ははおや)だもの。それに無理をする必要はないよ、天魔さん。私は覚、隠し事はできないよ」

 

 天魔の心を読んでいるとこちらも辛くなってくるのだ。あまりにも無理をしているのがわかってしまうから。

 まあ役職的には仕方ないんだろうけど。一応形としては天狗の長であるわけだし。周りは全く気にしていないみたいだけどね。並みの鴉天狗にも劣る酒量に関してもそう言うものだと思われているし。天魔だけが一人空回りしている。

 

「む、そうであったか。では私の……いやうむ、まあそうであろうな。じゃがこれは私とお前さんだけの間に止めてもらえると有難い。腐っても私は天魔じゃからの」

 

 あぁ、話し方はそれがデフォルトなのか。それにしてもこの天魔いくつだ? 見たところ千は数えていないようだが、話し方はあれだし妖怪って見た目では齢を判断しにくいんだよねぇ。

 他の覚妖怪なら考えていない部分まで読み取れるのかもしれないが私の場合は相手が考えている所までしか読み取れない。私の能力って少しずれている気がするし仕方がないのだろう。

 

「貴方も大変なのね。ま、安心して良いよ。私から誰かに言うことは絶対に無いから」

 

 だって他の天狗たちも知っていることだしね。私が言わずともすでに周知の事実である。だから言うことは無いのだ。ちょっとずるいけど天魔を少しでも安心させるために少々のごまかしは必要だと思う。そうでもないといずれ憔悴して消えてしまいそうだし。

 

「何かあれば私に言ってもいいよ。伊吹や大天狗には言いにくい事もあるんじゃないの?」

「……うむ、あるにはある。しかしお前さんを信じ切るのにはいささか早計だと考えておるのでな。その時になればまた何やら言うこともあるやもしれん」

 

 ほう、慎重な天狗だ。だからこそ今の今まで生きて来られているんだと思うけど。

 でも肝心なところで抜けている天狗だ。

 

「少しでも考えてしまったら私にはわかるんだからさ、隠し事はできないと言ったでしょう?」

「しまった……まんまと嵌められたというわけか。私としたことが情けないことじゃ。しかしこうなってしまったのならば致し方ない。酒の肴に少しばかり話を聞いてもらおうかの」

 

 天魔の苦労話を肴にするなんてとんだ罰ゲームではないだろうか。折角の酒も不味くなること間違いなしなのだが。

 まあしかしこうなりゃ乗り掛かった船だ。そもそも船を出したのが私なのだから逃れる術はないんだけど。こうなるのは少し予想外だった。もう少し考えて発言すればよかったかもしれない。後悔先に立たずとはまさにこのことである。

 

 

 

 

 やまこが少し絶望しているのも知らずに天魔は自らの過去について話し出す。

 

「私は一介の鴉天狗でしかなかったのじゃ。力も元々このような物。まあ己を鍛えるため努めたことも当たり前じゃがあった。あの日々はまさに地獄じゃった。行ったことが無いので地獄がどのような物なのかは知らぬが、あれは少なくとも私にとっては地獄にも等しかったのぅ」

 

 力の無い者が己を鍛えよと鍛錬することはよくある。事実この天魔も昔は修業の鬼と言えるほど鍛錬に明け暮れたものである。しかしこの天魔、どうやっても一向に強くならない。

 本人が気づいていないだけで実はほんの少しずつは成果が出ているのだが、それでもナマケモノの歩み同様であり本人以外も気づけはしない。それゆえに現天魔はどうあがいても強くなれない、と言うのが天狗全体の評価であった。

 

「私が天魔になった所以は未だに分かっておらぬ。前天魔様は何をお考えになられておったのか、それは大天狗の奴らにもわからぬ事のようじゃな。なればお前さんにも決してわからぬ事よ」

 

 先代天魔が何を考えていたのか、それは大天狗にも伝えられてはいない。次期天魔を彼女にするとだけ伝えられており、その真意は誰にもわかり得なかった。

 そもそも寿命の長い天狗である。先代天魔はそれほど歳を取っていたわけでもない。そんな彼がどうして次期天魔を決めていたのか、それがこの山最大の謎として未だに残されているのだ。もう五十年ほど経った今となっては気にしている妖怪の方が少ないが。

 

「そも、私が天魔になるなど滅びの始まりにもなりかねん。それすらも前天魔様は知らなかったのであろうがな。お前さんは知らぬじゃろうが前天魔様はとても優れた方であった。飛んでは数瞬で山を一周し、その力は鬼にも劣らぬほどの……まさにあれこそが私にとっての天魔だったと言える。大天狗以下の天狗に役割を与えたのは私じゃ」

 

 やまこがまだ山を出ていなかった時にはできていなかった天狗の組織とも言える物が天魔の一声で急激に発達し始めたのはつい数年前の事だ。それまでは天魔や大天狗、鴉、鼻高、白狼、山伏と様々な天狗がいる中でも立場がはっきりしていたのは天魔だけだった。

 他の天狗たちは各々好きに生きていたものである。周囲の人里から人間を攫ったり、風を起こして畑を駄目にしたりと過ぎたいたずらをする者も当然ながらいたわけだ。

 

 現天魔が全ての天狗に役職を与えたのは偏に彼女が小心者であったからだと言える。天魔が恐れたのは人間からの報復と種族内での謀反である。

 彼女は天狗たちを組織に縛り付けることによって人里への被害を減らし、いざとなった時に自分を守ってくれる味方を作っておきたかったのだ。この理由を他の天狗たちに悟られないように事を運ぶのは並大抵の事ではない。

 

 しかしここで輝くのが天魔の培ってきた言い訳や説得なのだ。天狗が鬼を避けているという点を除いて無法地帯と化していた山を見事に作り変えた。

 天魔自身数十年から百年以上かかると考えていた目標はものの数年で達成された。これも彼女への敬意があってこそなのである。しかしそれを知らない天魔はまだまだ天狗たちの謀反を恐れているというわけなのだ。

 

「私のような小心な者はすぐに降ろされると思っていたんじゃがのぅ……かれこれ数十年は天魔のままよ。世はわからぬものじゃ。この太平の世もいつ終わるかと思うとおちおち酒も呑んでおれんな。ほっほっほ」

「無理してるねえ。でも貴方が続いてほしいと望むならすぐには終わらない気がするよ。この平穏も、貴方の統治も。あくまでも私の予想だけどね」

 

 天魔の笑えないブラックジョークを華麗にスルーしてやまこは話を続ける。だがやまこの言う通り、天魔がこの山を見捨てなければ簡単に廃れてしまう事はないだろう。今の天狗はそれだけの組織になったのだ。

 

 前天魔にこの未来が見えていたとは思えないが、彼の人選は確かに正しかったのだと今の大天狗たちは考えている。彼らにとってもすることが無いよりは何かしらしている方が落ち着くのだろう。ただ無為に過ごしていた彼らに生きる意味を与えた彼女の功績は大きい。




天魔回はとりあえずここまでです


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胎児の夢

 成り行きでもう一度この山に来ることになってしまったが別に後悔しているわけではない。鬼の面倒くさい酒絡みの話を回避できればそこそこ平和に暮らせるし、あっちの山では酒なんか呑めないしね。

 

 今度ははたてが立派に成長するまでこの山にいようと思っている。なんだかんだ言っても育て親であることは変わらない。さとりができる前までは一人娘のようなものだったのでかけた愛情も人一倍だと自負している。

 自立させるためにこの山に連れてきたというのに、どこまでも甘いものだと自分でも呆れてしまう。今一番かわいいのはさとりだけどね。これだけは譲れない。

 

「おうおうやまこ、酒でも呑もうよ」

「いやいや、今さとりが眠ったところなんだけど。貴方たちが酒を呑むとこの子が起きてしまうわ。あ? 確かに私たちは夜に生きる者だけど、それを生まれて間もない子に求めないで頂戴」

 

 いや本当に。酒が入るといつも以上にうるさくなるんだからさとりに悪影響である。それに鬼は見た目も怖いからね。さとりが見たら泣いてしまうかもしれない。

 不思議とあまり泣かない子だがいつ、どんな理由で泣いてしまうかは流石に私でも分からない。子供故に純粋で泣きたいと思った瞬間には泣いているからだ。

 

「釣れないねぇ。まあ安心しなよ、子守りは私がやってやるからさ」

 

 星熊に子守りを任せるほど私は馬鹿ではない。こんな力自慢の鬼に幼子を渡してしまったら跡形も残らずに返ってくる……いやむしろ返ってこないかもしれない。起きたさとりが失禁するかもしれないし……まあまだ子供だから全然おかしくはないんだけど。

 

「星熊に任せるくらいなら虎熊に任せるわよ……茨木も伊吹もいけないわ。さとりが死んでしまうもの。もう少し力をどうにかできるようになってから言ってくれる?」

 

 こういう場面で一番信用できるのは間違いなく虎熊だ。それ以外は何をしでかすか全く分からないので、この手の事に関しては信用できるはずもない。

 他の約束事とかだったらこれ以上信用できる奴らはいないんだけど。少し残念な奴らだといつも思う。評価が変わることは永遠に無いだろうけど。

 

「残念だねぇ。ならばまた明日の昼にでも来ることにするよ。それならばさとりも起きているだろうし。さ、帰るよ」

 

 来ることは確定なのか。昼間だからと言ってさとりが起きている保証は何処にもないんだけどねぇ。赤子ってのは寝るのが仕事みたいなところがあるし、それは人間でも妖怪でも変わらない。

 私のように自然発生した妖怪ならば寝てばかりいられないが、そうでない妖怪は幼少期と言うものを経験しているはずだ。あの鬼たちのように人間としてそれを過ごすこともあればはたてのように他の動物として過ごす者もいる。あるいはさとりのように元々妖怪だったり。

 

「まあまあもう少し待てって華扇。つまり酒さえ呑まなければいいんだろう?」

 

 確かにそういったが私の言いたいことはそこではない。うるさくなるから呑むなと言いたかったのだがこのチビっこい鬼には伝わらなかったらしい。

 まあ本当は分かっているくせに口先で誤魔化してくる嫌らしい鬼であるだけなのだが。

 

「少し気になっていたんだよね。やまこって寝ている奴が見ている夢もわかるんだろう? さとりってどんな夢を見ているんだい?」

「あ、それは私も少し気になるわ」

 

 お前にまで乗って来られたら私の逃げ場がなくなるではないか。適当にあしらって早く帰ってもらおうと思っていたのに。

 

 それにしてもさとりの見ている夢、ねぇ。確かに見る事はできるが見たことは無かった。然して興味も無かったし。私は見る事ができるだけだが、紫は入り込むこともできるらしい。夢と現の境界を弄っているのだろうか。

 他にも物語の中に入り込めたりだとか……まさに異次元だよねぇ。紫が入り込んだ後の物語がどう動くようになるのかが気になるがどうなのだろうか。

 

 ……そんなことを考えている暇はないか。鬼四匹からの圧が凄いし。何故急に気になったのかは分からないが、気になったら解決するまでしつこく言ってくるのがこの四匹である。執念深い奴らである。だから攫う人間の数が多かったのだろうが。

 

「到底言葉にできないような物ね。息を吐く間もなく変わっているし、そのどれもが私からみても分からないような物よ」

 

 人間から見れば超常的な妖怪である私から見ても到底理解できないような内容。目まぐるしく変化するせいで何かを理解する間もなく場面が変わってしまう。

 唯一何か分かったのは私とはたてのような顔と空から見た景色だろうか。

 

 人間の胎児は進化の過程を悪夢として見るという話もあった気がするが、妖怪は絶対に胎児段階でそのような悪夢は見ないだろう。進化も何もないのだから。

 人間の新生児はどうなのだろうか。今のさとりのように混沌とした夢を見ているのだろうか。自分が生まれてから見た物が訳の分からぬままに流れ続けるのだろうか。

 

 あるいは胎児の時に見た夢を踏まえた悪夢も同時に見ているのだろうか。夢は概ね本能が見る無意識の記憶ではないかと私は考えている。人間はその本能が進化の過程のDNAを記憶しているからこそそのような夢を見る事ができるのではないだろうか。

 逆に妖怪はそのような進化を経ていないから見た物がその者の全ての記憶になる。こうして考えてみると、人間と妖怪では同じ新生児でも見ている夢のあり方は全く違うのではないかと思う。

 

 妖怪は見た物のみからなる夢。単純な記憶の整理。対して人間およびその他の動物は生まれる前の記憶までをその夢に含んでいるかもしれない。まったく記憶にない物までが夢に出てくることもあるだろう。

見たこともない景色、会ったこともない人間すら出てくるかもしれない。

 

 人間の持つ本能は多くの進化の過程を経てきたからこそ発達してきたのである。そして私たち妖怪を生み出すあらゆる物への恐怖は本能が生きたいと思うからこそ生まれるものなのだ。

 そう考えたら妖怪には生きたいと思う本能が働かなくなるのか? いまいちわからなくなってきた。でも少なくとも死にたいと思う奴はいないだろうしなぁ。

 

「そんなにやまこが思いつめることは無いんじゃないかい? 夢がそんなに訳の分からないものだとは思っていなかったけどさ、まあやまこにも分からないんなら私たちには分からないんだろうねぇ」

 

 別に伊吹たちに説明するために考え事をしていたわけではないが、こんな考えは誰も分かってくれないだろうから勘違いしてくれていた方が都合が良い。

 

 因みに伊吹といえば夢には酒ばかりが出てくるらしい。現実の伊吹は割と素面でいることの方が多いが夢の中の伊吹は常に酔っぱらっているらしい。

 これは多分本人の希望が夢に現れているんだろう。今でもかなり呑んでいるような気がするが、本人としてはまだまだ足りないらしい。流石にそこまで行ったら私も追いつけない。鬼だけで楽しむような宴会でしか満足に呑めないだろう。

 

「こんな幼いのが私たちよりも訳の分からない夢を見ているなんてねぇ。もう既に勇儀よりも賢いかもしれないわね」

「あぁ? あり得ないって。まあ斡子よりも賢いってのはあるかもしれないけどねぇ」

 

 醜い争いである。結論から言えば勿論さとりの方がこの二人よりも賢いなどと言うことは無い。夢と言うのは本人が自覚できていないだけで皆混沌である。

 つまり酒を呑んでいる夢をよく見るからといってずっとその夢を見ているわけではない。起きた時には忘れ去っているような夢も見ているのだ。言ってもよくわからないんだろうけど。

 

「喧嘩をするなら帰ってからにして頂戴。さとりが起きてしまうでしょう?」

「あぁ、すまないね。では今度こそ帰るとするか。また昼に来るよ」

 

 別に来なくてもいいんだけど。というか寝ろよ。私でも今から寝ようと思っているのに、こいつらはまだ今から帰って呑むつもりらしい。

 どういう身体をしているのだろうか。そんなに酒が入るのもそうだが寝ないでよくやっているものである。まあ夢を見ている以上何処かでは寝ているんだろうけど、それがいつなのか分からないのでちょっと不思議である。

 

まあ帰ってくれるならば何だって良いか。




ドグラ・マグラはまだ読んでいる途中です。終わる気がしない


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幽夢の胡蝶

 頭が痛い。情けない事だが久々にあの四人と呑んだせいで加減ができなかったようだ。あの鬼どもの酒量が天狗と比べても桁違いであることを失念していた。

 気分も悪いが生憎水も無い。近くの河から取って来れば良いのだが、それすらも億劫になるほどやる気が起きない。眠い。もうさとりも寝かせたし私も寝てしまって良いような気がする。

 

 

「……ここはいったい…………」

「来たのね。ここは私と貴方の世界。他の誰もいない、と思うわよ」

 

 なんだかよくわからな場所に来たと思ったら目の前に紫がいた。どういうわけか分からないが、この只管にだだっ広い空間には私と紫の二人しかいないらしい。

 ここは紫の生み出したスキマ空間の中という認識で良いのだろうか。壁も天井も見当たらない。それどころか床さえもあるようにはみえないのに地に足をつけている感覚だけはある。

 

「やまこと話をしておきたい事があったのよ。少し強引だけれど許して頂戴」

 

 しっかりと私に用事があってこうしたらしい。紫の気まぐれでなくてよかった。紫は気まぐれで他人を奔走させるうえに、それを眺めて楽しむような性格をしているから四天王たちよりもかなり質が悪い、というか付き合うのが大変なのだ。

 逆に用事があるときは無駄な事を省くことも多いので余計な頭を使わなくて済む。

 

「まあいいけど……それで話しておきたい事って何? さとりの事?」

「いえ、それではないわ。尤もあの子は貴方よりも才がありそうだけれど、それも今は関係ない事よ。私が話したいのはあの鬼たちについて。貴方は近頃都が妖に襲われているのを知っているかしら? ……まあ知らないのも無理はないわね。ここに戻って来たばかりのようだし」

 

 怖い、怖いよこのスキマ妖怪。最近ここに来たことを知っているどころか以前住んでいたことまでも把握していやがる。

 それにさとりの事も知っている風だし。あの子への評価は概ね私も同じなので特に反論する気はないが、もしかしたら四六時中監視されているのだろうか。紫ならばできないことは無いが、されている側からすれば居心地の悪いものである。知らぬが仏。知らない方が良かった。

 

「都を襲っているのはこの山の妖のようね。上手くあの鬼たちの目を盗んでいるみたい。これが何を意味するか、貴方ならわかるでしょう?」

「……人間がこの山に攻め込んで来ると? あり得ないんじゃないかなぁ。あの鬼たちがいる限り人間に勝ち目はないと思うけど」

 

 四天王ならばまさに一騎当千。むしろ万にも値するかもしれない。それが四人である。さらにその下にも四天王ほどではないにしろ強い力を持つ鬼、天魔……は省いて天狗も控えている。まさに盤石。万の兵が攻め込んできても簡単に追い返せるし殲滅も余裕だろう。

 これだけの戦力差があるというのに紫は何を心配しているというのだろうか。まあ紫が心配しているのは私がいるからだろうけど。

 

「甘いのね。人間の中にも私たちに引けを取らない程の力を持つ存在がいることは知っているでしょう? まだ分からないけれど百年もすれば人間は妖との戦い方を学ぶでしょう。元より人間は私たちと相性が良い力を持っている」

 

 人間に固有の力……霊力だっけ。多少の差はあれど人間ならば誰しもが平等に持っている力だ。確か妖怪特攻だから、それで攻撃されれば最悪治らないこともあるとかなんとか。

 人間がただやられるだけの存在ではない事は知っている。力の強い人間がいるのも知っているし、都には特にそんな人間が多いのも鳥やらから伝え聞いている。鳥であるがゆえにかなり曖昧な情報だったので紫が危惧するほどまでだとは思っていなかったが。

 

「今はまだその力を使える者が少ないから良いのだけれど、そのうち武人どもも使えるようになるでしょう。そうなればこの山でさえも安んじて生きることはかなわないわ。

 悪い事は言わないから早く山を出て行った方が身のためよ。この状況は短くて百年、長くとも二百年はもたない。天狗に情が移った貴方には難しい事かもしれないけれど、ね」

「知っていたけど性格悪いね、紫は。でもその時にどう思うかはその時にならなければまだ分からないよね。さとりの事もあるし、私は恐らく逃げてしまうだろうけど」

 

 長くとも二百年。紫の憶測ではそれまでには確実に、この山を壊滅させられるだけの力を手に入れた人間が出てくるらしい。悔しいが先見の明は私と紫では比べ物にならない。比較することさえ烏滸がましいほどに差は歴然である。

 だからきっと今回の紫の憶測も間違ってはいないだろう。それはつまり私だけではなくさとりやはたて、さらにはあの四天王でさえも命の危機にさらされるという事である。

 

 伝えておくべきか否か、判断は難しい。今はまだまだ妖怪が優勢な状況であり、今この話をあいつらにしても聞く耳ももたないだろう。

 それならばもう少し待って、さらに都への被害が顕著になってきてから言った方が効果的なのではなかろうか。都を襲っている妖怪たちがまだバレていない現状で、徒に山の組織に亀裂を入れる利点も考えられない。

 

「それもまた貴方が自ら決めるところ。私は貴方がどちらを選んでも構わないと思っているわ。己を殺すも、子を殺すも、友を殺すもすべては己が断じなさい」

 

 一を取り十を捨てる。一を捨て十を取る。一を捨て十も捨てる。一を取り十も取る。

 

 実際にはこれ程単純ではなく、選択肢は無限にも等しい。その場の状況、その時の状態、その全てが予定を狂わせる原因となる。予定は未定。私の眼では未来を見透かすことはできない。

 どうせ私が決めても他の者が予想外の行動を取れば予定はすべて破綻してしまうのだから。

 

「さてさて、どうやらここに長く居すぎたみたいね。またどこかで、()()面と向かってお話しましょう。ではね」

「ちょま、待ってゆか…………はぁ」

 

 最後の言葉はいったいどういう意味だったのだろうか。次は……? 今までの私は誰と話していたというのだろうか。

 

「こんにちは」

 

 どうやら今日は千客万来である。それにしてもこの空間は不思議だ。紫がいなくなったのに残り続けているし、時々刻々と変化しているような気さえする。

 先ほどの紫(仮)は知り合いだったが、今度の来訪者は全く見覚えも無い。サンタのような赤い帽子に丸い綿のような物がたくさんついた洋服。右手にはよくわからない桃色の物、左手には本を持っている。

 

「あー、こんにちは? 貴方はいったいどなた?」

「私の事は気にして頂かなくとも結構です。ただ貴方に少し注意をば、と思い来ただけですから」

「注意? 貴方の事は知らないし何も言われることは無いはずなんだけど」

 

 いきなり見ず知らずの他人に注意されるとは思わなかったし心当たりもさっぱりない。こんな時代に洋服を着ている時点でこの国の人間でない事は確かだし、雰囲気からして妖怪の類だろう。

 ゆ(仮)に代わって今度はこの妖怪サンタ(仮)が私をこの空間に閉じ込めているのだろうか。

 

「貴方は自身の置かれているところをまるで分かっていないのです。貴方はあまりに深く、この世界に入り込みすぎている。これ以上深くまで進んでしまえば他人の夢にまで入り込んでしまうでしょう。そうなってしまっては夢を司る私も困るのです」

「夢? この世界は夢の世界だったと言うの?」

 

 確かによく思い出してみれば私は寝ようとしていた気がする。という事は先ほどのゆ(仮)は夢の世界の紫で、夢でつながった夢の世界の私と話をしていたという事なのだろうか。

 考えれば考えるほど底なし沼にはまってしまうような感覚に陥る。そもそも夢の中でこれ程しっかりと考え事ができるものなのだろうか。

 

「えぇ。人も妖も、すべての者が見る夢は深いところで繋がっているのです。詳しくは語りませんが、それを全て管理するのが私の務めなのです。

 さあ、貴方も夢と現が入れ替わる前にお帰りなさい。今、どちらにいるのか分からなくなっているのはとても危ないことなのです」




紫様は和装ですよ。時代に合わせて変えているので


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平安京の悪夢

明日の18:30でも良かったのですが書ききれたので今日出します


 目覚めるともう既に日は高く昇っている。というよりむしろ西に傾き始めているような気がする。これが気のせいではないとすると随分と長い時間寝ていたことになる。それなのに疲労がとれていない。この身体になってからこんな事は初めてだ。

 短い時間の睡眠でもその間に疲労がとれるように脳を休めるようにしているはずだからだ。原因は十割夢のせいだろう。

 

 普段の私ならばまず夢など見ない。夢は眠りが浅い時に見るものだからだ。しかし目覚めるまでは確かに夢を見ていたし、それがやけに現実味を帯びていたことも覚えている。

 紫の話から始まって最後は不思議な恰好の人外に夢から追い出された。確か深層で繋がっている夢を管理するとかなんとか言っていた気がする。夢を弄る妖……紫なら何か知っているだろうか。

 

 紫の話は確か都の事云々だったはず。この山の妖が次々人間の生活を脅かしているらしい。別にそれだけならば妖として正しい行動であるので何も言う必要はないのだが、対象が都に集中しているのが不味い状況なのだ。

 今の都には下級妖怪を倒せる程度の妖怪退治師しかいないが、紫の見立てでは二百年以内に上級妖怪をも屠る人間が現れるようになるだろうという事だ。

 もうそこまで来れば人間としての枠から外れ、その者が妖として恐れられるようになりそうな気もするけど。でもそのくらいの力をもつ人間が現れると思われるらしい。

 

 人間の牙が上級妖怪にまで届くようになれば私にはまず勝ち目がない。身近な上級妖怪と言えば紫や鬼、鴉天狗(はたてや射命丸など若いのは除く)以上の天狗たちだ。

 そもそも私では戦いにもならない蹂躙になると思う。それを退治できる人間になど勝てないに決まっている。

 

 

 だから私はできることならば今すぐにでも逃げたい。でもはたてが一人前に成長するまではここに残ると言ってしまっているからまだまだ出ることはできない。下手な事を言わなければ問題なく逃げ出せたんだけど……これは私の失態だ。

 でもまあ義理であっても娘を放って逃げるのはいざとなれば気が引けると思うんだよねえ。あの子にとっての私は真の親みたいなものらしいし。

 あれもこれも紫のように先を見据えながらにすればよかったものを後先を考えずに行動し過ぎた結果だ。進むも地獄、戻るも地獄ならばいっそ本当に地獄に訪問してみようか……なんて、馬鹿馬鹿しい。地獄は死者を鬼が虐めるところ。鬼がいるのならば行けないことも無いのだろうけど、私のような生者が行くような場所ではないのは確かだろう。

 

 ま、人間側も都が相当ひどくならなければ手出しはしてこないだろう。今まだ行動の意思がないのであれば、大きな被害は出ていないとみていいのではないだろうか。力が無いだけかもしれないけど。

 

 

 

 

 やまこはこう楽観視しているが、実際の都には相当な被害が出ている。

 昼間は特に何事も無く、様々な店の立ち並ぶ大通りは遠方から物を売りに来ている商人や呼び込みをする人でにぎわっているが、夜になればその様は一変してしまう。

 流石に妖怪が跋扈するような魔境になるわけではないが、通りには人っ子一人いなくなり建物の戸は固く閉じられる。それもこれも人間にとっては妖怪の魔の手から逃れるための精一杯の抵抗なのだ。都全体を覆うような邪なるものを通さない結界が張れるならば最も良いのだが、生憎それほど力を持っている人間はいない。

 

 つまり今の都は妖怪にとって荒し放題な場所であるのだ。更に住んでいる人間も多いので一度に多くの畏れを得やすいという利点もある。

 これ程の好条件であるからこそ山の妖怪たちも上の監視をすり抜けてまで都に降りてくるのだ。これで我慢しろと言う方が酷な話だ。天魔が改革を行う以前よりはマシになったとはいえ人間にとっては微々たるものだ。妖怪への対処方法の模索がまさに行われている。

 天魔が恐れたのはこれだ。彼女は紫よりも早くに人間の脅威を認識していた。力ない人間が集団になると如何に恐ろしい力を持つのかを正確に予測していたのだ。

 

 伊達に天魔足り得るほど長く生きているわけではない。つい二百年少し前には絶大な力を持つ人間が存在していたことも知っているのだ。現天魔が天狗社会に階級を作ったのもその人間の制度を参考に思い立ったからだ。天魔は彼女ほど民を導く力を持っていたわけではないが、勝ち取った信頼によってそれを補完している。

 

 そんな人間を慕っていた者たちも尋常ならざる力を持っていた。天魔はそれを知っているので人間の脅威も十分に理解できたのだ。それほどの人間が山に攻め込んで来れば壊滅しかねないということは明白だった。今の都にそれほどの人間はいないが、いつまた現れるかは分からない。

 しかしまだ百にも満たない若い妖怪や、やまこのように噂でしかその人間の話を聞いたことが無い者などは実感が湧きにくい。

 だからこそ天魔が禁じているにもかかわらず、己の欲望のためだけに監視網を抜けてまで都に降りてくるのだ。その勝手な行動が自らを滅ぼすことになるかもしれない、というところまで頭が回らないのである。

 

 鬼は山の頂点として、天狗の社会から完全に独立して存在しているために、都に降りてはならないという禁則事項は効力を有しない。しかし四天王を含めそこそこの年を生きてきた鬼は、かつて自分たちとも勝負でき、なおかつ勝っていた人間も知っている。

 虎熊に関しては小人に負けた過去も持っているのでより一層人間の強さを実感しているのだ。小さき身体に大いなる勇気を秘めている小人、脆き身体に強き精神を持っている人間。種族は違えど、相手よりも弱くとも生きる希望を捨てないその心は同じなのだ。

 

 しかしこれだけ力のある鬼が人間の真なる強さを知っていても若い世代の鬼はよく知らない者がどうしても多い。

 鬼はその多くが人間上がりの種族である。強さを求めてしまったから、相手への憎悪や嫉妬が肥大し過ぎたから、など多くの理由で人間は鬼に変じる。しかし原因は大抵の場合その者の意思の弱さによるものだ。故にそのような鬼たちは人間の弱さは知っていても強さは知らないことが多い。

 人間を弱いものだと断じた者たちが強い力を手にして増長してしまう。もう少し長く生きれば、鬼としての敗北を知っていればそれも収まって行くのだろうが若いうちは期待できない。

 

 

 今夜もまた平安京に妖怪が繰り出す。建物の前には魔除けの塩や鰯の頭などが置いてあり、家の中までは入れないようになっている道には妖怪が歩いている。

 人間はこれが恐ろしいので外に出ることは決してできない。来ているのは下級の妖怪ばかりなのだが、力の無い人間にとっては瞬殺されるか嬲り殺されるかの違いでしかない。だがそれすらも妖怪の気分次第であり人間に選択権は無い。

 如何に無残に殺されようと、如何に弄ばれようと、人間は同情するしかない。夜中に外を出歩いた者が悪いのであり、妖怪に見つかってしまったことが運の尽きだったと思わざるを得ない。

 

 だからこそ誰一人として出歩かないのだ。夜の都は人間が歩くには危険すぎる。酒蔵などが壊されて中身が盗まれてしまっていることもよくあることである。

 毎晩のように訪れる脅威。都に住むものが減ってしまうのも無理はない。それでも魔除けなどが地元の里よりは充実している場合も多いので、多くの人間が流出するわけではないのだ。

 

 

 今夜も人間は悪夢の覚めるのをひたすら待つしかない。まだ人間には何もできないのだ。




鬼って力を手に入れて調子に乗っているだけの奴も多そう(ド偏見)


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無意識の遺伝子

内容がまとまらなかった
難産でしたね


 うぅ……お腹が痛い。でも不思議と不快ではない。数十年ほど前にも一度経験したような痛みだからこれがどういう意味を持っているのかももちろん分かっている。

 

「もしかして私にももうすぐ妹ができるの? 楽しみだわ」

「確かにそうなんだけれどね、さとり……できれば分かっていても黙っていて欲しかったわ」

 

 この話を伊吹が何処かで聞いているかもしれない。あいつが今何処にいて何をしているかは知らないけど、霧になれば何処にでも行けるようなやつの行方を想像する方が馬鹿らしい。

 基本的にはよほど薄くなければ霧状のあいつにも気づけるけど、最近は気づけないくらいに薄くなっていることも多い。

 

 と言うかもうすぐはたてが来るのではないだろうか。昔からさとりの遊び相手になってくれている彼女には感謝してもし足りないかもしれない。

 私は彼女の親だから頭が上がらない、なんてことにはならないんだけども。

 

「母さんはそれで良いの? はたては母さんを慕っているようだけど……母親が自分の娘の世話を投げるなんて」

「そう言われると弱いねぇ。ま、とにかく行ってらっしゃい」

 

 

 さとりも私の心を読むことができる。まあ私も昔はさとりの心を読みながら世話をしたんだから逆の事も当然できるわな。

 さとりが私の心を読むせいで禁忌とも言える秘密がバレてしまった。すなわち千年以上後の時代から転生してきた事である。とてもありがたい事に、あの子は随分と聡いので私の秘密を他の者に言うことは無い。

 だから今のところは私とさとりの秘密になっている。秘密を知る者が増えれば増えるほどそれが漏れる可能性も高くなる。もうすぐ生まれてくるこの子もそれを知ることになるだろう。

 

 他人の秘密を秘密であると認識することは容易い。だがそれをずっと隠し続けるのは難しい。まだ五十くらいにしかなっていないさとりがそれを実行できていることは驚きだ。

 私なら絶対にできないね。自信をもって言える。紫がさとりを優秀って言っていた理由もよくわかる。私よりは優秀だろう事は私自身も分かっていたことだけど。

 

 でもちょっと母親としては心配。私の知識の一部を共有しているからなのか、同い年くらいの妖怪と比べても落ち着きが凄い。特にはたてと比べるともはや異次元に住んでいる者同士であるように思える。

 はたては自分の興味のある事があればすぐさまそれを確かめようとするけど、さとりは先ず頭で考えてから行動している。だからこそさとりの世話ははたてに任せているんだけどね。

 だって私が世話をしてもあの子ほど元気には動き回れないし、どうしても頭を使うつまらない遊びになってしまうから。子供にはもっとアクティブに遊んでほしいものだ。動くことを厭わないような子になってほしい。

 

 

 それにしてもお腹が痛い…………これでも人間よりかは幾分かマシなはずなんだけどなぁ。世の母親は強いよ。本当に。私はこの程度の痛みでも苦しんでいるのにさ。

 

 

 

 

 

 

 お腹が痛いお腹が痛いと何度も聞こえてくるし叫ぶような声も聞こえてくるのでうるさくて仕方がない。やまこのやつそんなに笑い転げるような物を見つけたのだろうか。

 ははーん、さてはさとりちゃんが何か拾ってきたのかな? それともはたてのやつか?

 

「おーいやまこ、何か面白い事でもあったのかい? 私らにも見せてくれよ」

「おいおい萃香、あれは面白い物を見た時の声ではないわよ。何かに中ったのかもしれないわね」

 

 斡子はこう言っているが本当だろうか。あいつに限って食中りするようなものは食べないと思うんだが。さとりちゃんは普通に遊びに行けるくらい元気だったみたいだし、今もはたてと遊んでいるようだ。死にそうな顔をしているのは疲れているからだろう。お腹が痛そうな様子は全くない。

 

「で、結局どうなんだい? ……………………その子誰?」

 

 斡子に先立ってやまこの住処に入った私の目に飛び込んできたのは血を流して倒れ伏したやまこと小さな赤子。よく見れば随分前のさとりちゃんに似ている。髪色は全く異なるが、それはさとりちゃんとやまこも同じだから気にすることでもないのだろう。きっと。

 

「し……死にそう。うえぇぇえ…………はあぁ、さとりの時はここまでではなかったんだけどねぇ。歳かしら」

「馬鹿言わないの。たった数十年で何が変わるのよ」

 

 まあそもそも「歳かしら」にも驚くほど感情が込められていなかったし冗談のつもりだっただろう。聞くところによれば私たちよりも若いようだし、斡子の言う通りやまこが数十年程度で変わるとは思えない。

 さとりちゃんの時よりも辛かったのはこの子が元気だからじゃないだろうか。叫び声だとも思った人間の赤子に勝るとも劣らない泣き声はさとりちゃんには絶対出せないだろうと思う。

 

「さとりちゃんと対になるように元気だね。これならはたてのやつにもついて行けそうだ」

「はたてもじきに天狗としての生活を強いられるようになるだろうけどね…………うっ……あぁありがとう虎熊。できれば水の方がよかったけど」

 

 やまこは水の方が良いなんて言っているが、疲れた時こそ酒に限る。楽しい時は酒。悲しい時は酒。疲れた時は酒。酒は百薬の長。華扇の枡を考えればあながち間違いとも言えない。

 それでもやっぱり沈んだ心にも荒んだ心にも酒は潤いを与えてくれる。水よりもよほどいいと思うんだけどねぇ。

 

「伊吹はそれでよく素面でいられるものだよ。酒量は全鬼の中でも一つ抜けているかもね。で? 虎熊はこの子をじっと見てどうしたのさ……へぇ、なるほど。じゃあこの子は『こいし』にしようか。名付け親は虎熊ね」

 

 いったいどんなやり取りがあったのだろうか。やまこのやつは斡子の心を読んで一人納得しているようだが私には全く理解できない。そも、恋ひしなのか小石なのかが全く分からない。斡子が心の中で提案したのか? 私にも分かるように教えてくれ。

 

 

 

 

 

 

 伊吹の予想が全く間違っているというわけではない。むしろかなり惜しいところまでは行ったように思う。こいしは伊吹の予想の一つにあった恋ひしから付けている。虎熊がこれを提案してきたわけではないけど。

 

 虎熊がこの子をじっと見つめたうえで抱いた感想が恋ひし(懐かしい)だった。虎熊がかつて小人の一人に退治された事は四天王と関わりのある者ならば皆知っている。

 どうやら当人はその小人をこの子に重ねたらしい。大きさとしては確かに似ているのかもしれないが、戦闘力としては桁違いだと思うよ。あの時の勝負をもう一度したいと思っているようだがやめてほしい。覚と鬼の勝負など結果を予想するまでもない。

 だから名付け親にしてこの子を傷つけないようにしたのだ。まあこいしという名前を虎熊の心中から取ったのは事実。こいしは私が守ってやらねば……まあ随分と元気だから私が守られる側になっても不思議ではないけど。

 

「へぇ、まあ斡子とまともにやりあえる奴なんてほとんどいないからねぇ。こいしちゃんがそこまでの存在になれるかはまだ分からないけど……うんうん、出産祝いに一杯どうだ?」

 

 阿呆か。まだ気分が悪いっての。自分の腹掻っ捌くようなものなんだから再生が速い妖怪でなければ死んでるくらいなんだよ。だから水が飲みたかったというのに、まともな方だと思っていた虎熊でさえも酒を渡してきやがった。気づきもしなかった伊吹に比べれば随分とマシだが。

 

 それにその直後に一杯勧めてくるってねぇ。どうしようもない酒好きだ。気分の悪い時の酒は薬にもならないし逆効果だよ。血が酒でできているような奴らには分からないんだろうけど。




サブタイトルは早々に決まっていたのに「こいし」になった理由で行き詰って筆を止めてからなかなか執筆できていませんでした。本当に申し訳ございません


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六里霧中

流石に遅くなりすぎたと反省しております


「はたて、ちょっとそこらの酪農家から牛でも攫ってきてくれない? 生きたままで」

 

 こいしと名付けた二人目の我が子。さとりと同じように育てられたら良かったんだけど……幸か不幸かこの子はさとりよりも圧倒的に元気が良い。元気なのは良い事だ。親としてこれ程嬉しい事も無いだろう。

 しかしそれに合わせるように食欲も旺盛なのだ。近くに棲んでいた動物たちに乳母のような役割を任せていたわけだが、流石にそれだと効率が悪い。対して人間の育てた牛ならば恐らく野生よりは高効率に乳を出してくれるであろう、という単純な思考だ。許せはたて。

 

「えぇ? この辺に酪農してるところなんてあった?」

「確か三里ほど北に行けばあったはずよ。はたてならすぐでしょ? …………うんうん助かるわ。じゃあこれをせめてもの礼として置いてきてちょうだい」

 

 面倒ながらも飲んでくれるはたてが大好きよ。さとりの世話の心配もしているようだが、まあ一日くらいは問題ない。むしろはたてに相手をさせるとげっそりして帰ってくるからね。たまには休ませてあげないと。

 

 はたてに渡したのは人間社会の通貨。流石に牛一匹をただ奪うというのには抵抗がある。純妖怪ならば何の背徳感は無いんだろうけど、生憎私には複雑な事情がある。

 金で解決するのはあまり好きではないが、単純な人間の価値観を考えれば金を渡しておくのが一番穏便に解決できる。

 

 世の中は金。

 時よりも金。

 金よりも地位。

 地位よりも命。

 

 そして昇りつめれば命よりも愛になるらしい。かぐや姫にぞっこんだった帝は不老不死の霊薬を富士山に捨てたと聞いたし。もったいないよなぁ。死ななければいつか月に行ってかぐや姫に会えたかもしれないのにねぇ。

 その可能性を自分の手で切り捨ててしまうなんてさ。遥か遠い未来を見られない、あくまでも今だけを考えて行動する。それをいかにも人間らしいと思ってしまう私はやはり妖怪であるのだろう。完全に染まり切っていないだけで。

 

 

 

 飛び立ったはたては一瞬のうちに見えなくなった。あれでも天狗の中では速くないというのだから如何に天狗が規格外の妖怪かが分かる。長はあれだけど。

 

「母さん、私も天魔さんに会ってみたいわ」

 

 私の心も読めるから当然のことだけどさとりも天魔の実態は知っている。その上で会いたいという理由は自分の()で実際に確かめてみたいからだろう。

 それは悪い事ではない。他人からの伝聞だけでなく、自分の目で確かめてこそ真実は明白になる。私の思っている天魔像とさとりの抱く天魔像は異なるものになるかもしれないし。

 

「少し聞いてみるわ」

 

 近くにとまっていた烏を遣いとして出す。意思疎通さえできれば如何なる動物でも使い魔とすることが可能だ。覚妖怪様様である。

 私とは気兼ねなく話してくれる天魔がさとりを前にして同じようにするとは限らない。一応の確認はしておいた方が彼女のためでもあるだろう。相手の嫌がることをするのは相手が嫌な奴であるときだけで十分だ。

 

 

 

 

 

 赤子と言うのは(さとりのような例外はあるものの大抵は)本当によく泣くもので、大人しく寝ている間以外は常に泣いているような気さえしてくるくらいだ。当然ながらそんなことは無いんだけど、それでも泣き声を聞かない時の方が少ないのは事実だ。

 

 今泣いているのはお腹が空いたからではなく排泄をしたからだそう。この時代におむつなんて便利な物はないので、こいしには適当な布を一枚引掛けているだけだ。そりゃあ気持ち悪くもなってしまうだろう。おむつがあっても人間の赤子は泣くもんね。

 

「ほーらほら。こいし、ちょっと我慢してね~」

 

 

 おしめを換えるのは親の仕事であると決まっているわけではなく、さとりが私の代わりにしてくれることも多い。主に私が鬼の連中に絡まれている時とか、天魔の愚痴を聞かされている時とかになるのだが……まあこれが高頻度なのだ。主に前者。

 さとりには悪いと思っているが、彼女も妹の世話を嫌がっているわけではなさそうなので助かっている。好んでいるわけでもないから完全に Win-Win であるとは言いづらいが。

 

 人間ならば幼い子供が赤子の世話をするのは難しいだろうがさとりは覚。なんら問題なくこいしの言いたい事を察して適切な処置を施してくれる。

 本当に良い子だよ、さとりは。少々言葉に棘が混じることもあるけど、それを差し引いても娘としてこれ以上を望むことはできまい。

 

 

 …………あらあら、恥ずかしがっている。普段から感謝はすれども褒めることはあまり無かったからだろうか。もう少し深層まで読めればこの称揚も普段から感じ取れるんだろうけどねぇ。

 

「やめてよ母さん。私はただ……こいしの事を思ってやっているだけなんだから」

 それを褒めているんだよ。妹のためにこれだけできるこは滅多にいないだろうから。特に妖怪は自分勝手な輩も多いし。

 ……あらまた照れた。こんなさとりを見れるのもあと何十年なのだろうか。

 

「大げさなんだから…………それにしても天魔さんからの返事遅くないかしら? もう一刻は経った気がするけど」

 

 言われてみれば確かにおかしい。今までは使いに出して半刻もすれば絶対に返事が来ていた。

 

 考えられる可能性としては

 

 1.烏が怪我をした

 2.怪我以外の何らかの理由で天魔の屋敷に到達できていない

 3.天魔がこの件について熟考している

 4.天魔が無視している

 

 このくらいだろうか。このうち4はあまり考えられない。今までされたことは無かったし、自分で言うのも変だが彼女は私を捌け口として重宝しているはずだから。

 3は可能性があるというくらいで、この理由もあまり考えられない。熟考するほどの難題でもなかったはずだから。

 

「少し外を確認してみるわ。私の代わりにこいしの世話をしていてね」

 

 考えられるのは烏に何かが起きたこと。烏は天狗の重要な使い魔の一つ。故に山で烏を傷つけることは概ね禁止されている。それすらも守らぬ妖怪が現れたか、人間に撃ち堕とされるような非常事態が起こっているのか。

 

 はたして外に出てみると三丈*1先も見通せぬほど濃い霧に覆われている。さっきはたてを見送った時には全く予兆すらなかったことを考えると何か妖怪の仕業であると思われる。

 なんか普通の霧にしては酒臭いし。妖気が混じっている気がする。

 

「伊吹?」

「おぉ、よく私がいたのがわかったね。かなり薄くなっていたはずなんだけどなぁ」

 

 うっわ、びっくりした。霧を出したのは伊吹で間違いないと思ったが、まさか本人がここにいるとは思わなかった。

 

「だって酒臭いもの。で、どうして伊吹はこんなに濃い霧なんて出しているのよ」

「どうしてって、そりゃあ暇つぶしに決まっているじゃないか。こうすると天狗たちもぶつからないようにゆっくり飛ぶんだよ。白狼天狗の眼も利かなくなるし面白いよ?」

 

 全部お前のせいじゃないか。こちとら無駄な心配をさせられて迷惑なんだよ。あの烏には結構重要な手紙を持たせていたと思うし……かなり不味いかも。あれが途中で捕まったら天魔の立場がなくなるのでは?

 というか白狼って千里先まで見通すんじゃなかったっけ。個体差があるのだろうか。

 

「今すぐやめてくれないかしら。一刻前に遣いに出した烏が帰ってこないのよ。伊吹のせいで迷っているんだと思うよ」

「本当かい? そういう事は早く言ってくれないとね。…………ほい」

 

 一瞬で霧が晴れた。伊吹なら能力を使わずとも殴った風圧で消せそうだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 結局我が家付近で見つかった烏に括りつけてあった手紙には『お主の娘ならば構わぬ』と書いてあった。あの深い霧の中をここまで戻ってくるなんてねぇ。動物の帰巣本能は馬鹿にできないよ。

*1
約9m




諸事情により次回は4月になりそうな予感
先に謝っておきます。申し訳ありません


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フラスターエスケープ

 特に何事も無く、我が子と三人で平和に暮らす日々。こんな日々がずっと続くわけがないという事はとうに理解できていた。かなり前に紫から忠告もあったし。

 今こんなことを考えているのは昨日夢に紫が出てきたからだ。あれから二年毎くらいにちょくちょく出てくる。夢を見るという事はすなわち紫がやってくるという事でもある。想定外だったのは少し慌てた様子だったということか。

 

 

 

 さとりももう二百を数えるほどの歳になり、こいしもすくすく成長してもうすぐ百五十になるかという頃になった。

 昔聞いた紫の話も正直に言うとほとんど忘れかけていた。そんな折に夢の中にやって来た紫からのたった一言「逃げなさい」という忠告。どうしてと聞く間もなく彼女は夢から出て行ってしまった。

 

 

 

 

 そして毎度の恒例となったように赤帽の妖怪(獏というらしい)に追い出されて目覚めた。それがつい先ほどのこと。結局紫は詳細を何も言わず、ただ一言のためだけに私の夢に侵入した。

 その意味を、その重要性を理解できないほど馬鹿であるつもりはない。それほどの急務であることは間違いないのだ。

 

 すっかり忘れていた。平和にかまけてすぎていた。

 西暦990年代中頃の酒吞童子討伐。源頼光をはじめとした頼光四天王が鬼の首魁、酒吞童子を討つためにやってくるのだ。

 

 もやもやが晴れないままでいるのは良くない。冷たい水で顔でも洗おう。

 

 

 

 外に出てみると辺りには朝靄が立ち込め、まだ日も出ていない中おぼろげに映る稜線はどこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 

 つん、と鼻にくる香り。こんな日でも変わらないものがあるということに少しだけ安心してしまう。

「伊吹、いるんでしょ? こんなに酒の香りが強い靄なんて他にないわ」

「……それもそうか。ま、今は声だけで我慢しておくれ。他に用もあるからね。それにしてもやまこがこの刻に目覚めているなんて珍しいこともあるもんだね。いつもはさとりちゃんに叩き起こされているのに」

 

 こちらからすれば伊吹がこの時間に起きていることも驚きだけどね。朝まで酒呑んで夕刻まで寝ている時も多いし。妖怪としてはその時間の使い方も正しいんだけど。

 

「今朝は何故だか落ち着かなくてね。これ以上寝る気にはなれなかったのよ」

「へぇ、やまこもか。実は私もなんだ。ここの総大将を長年やり続けているからこそ分かる変化もある。今日は山が哭いている。華扇たちや天魔もきっと気づいているだろう。風が山の聲を運んでくるからね」

 

 私には分からないほどごくわずかな変化。それでも長年この山にいる者にとっては感じ取れる程度の変化。伊吹の言うことが本当ならば若くても天狗なら分かるのかもしれない。

 

「来るよ。人間が」

「ああ。源頼光、だったかな。確か狙いは酒吞童子。その辺りまでならもう知っているさ。何せ元を辿れば同じ鬼がやったことの不始末だからね」

 

 伊吹も知っていたのか。流石は総大将といったところか。部下の不始末を知ってもこの落ち着き様か。私には到底まねできそうにないね。

 

「おそらくそいつらが来るのにもう暇はない。こんなに山がうるさいからね。だから…………やまこはもうこの山を出て行け。邪魔にしかならないだろう」

「……ありがとう、伊吹」

「何のことやら。私は本当の事を言ったまでだ。感謝される意味が分からないね」

 

 伊吹はあくまでも白を切るつもりのようだ。でも私には感謝する以外できない。さとりとこいしがいるからこそこう言ってくれたのだろう。

 私から逃げたいと言わせないようにわざわざ伊吹の方から言ってくれたのだ。山の頂点に君臨する者からの命令であるから山の妖怪から恨まれることも無く、堂々と山を出ることができる。

 

「さとりとこいしが目覚めたらもうすぐに発つよ。天魔や茨木やはたてに文にもよろしく伝えておいてちょうだい。また、会えるかな?」

「……さあね。生きていればまた会うこともあるだろう。今生の別れになるやもしれないけどね。生きていればまた会おう、やまこ。楽しかったよ」

 

 そう言って薄れてゆく酒の香り。香りだけじゃない。周囲の靄も含めた山中の霧が萃められてゆく。伊吹童子が本気になるか。進んで見たいものではないねえ。

 

「ありがとう、さようなら。私もなんだかんだで楽しかったよ」

 

 酒絡みの鬼は心底鬱陶しかったけど、それでも楽しくはあった。散々文句も言ったけどどうしてか嫌いにはなれない、憎めない奴らだった。天魔の愚痴も聞き慣れれば結構色々な所から入ってきた話もあって面白かった。

 あとは単純にさとりとこいしの相手をしてくれた若い鴉天狗二人。もうすっかり一人前と言っても良いだろう。きっと約束は守れた。

 

 

 さようなら、妖怪の山。もう二度と会えないかもしれない友人たちも。私が逃げずとも二人を守れたならばまた違っただろうに。無力。ああ無力。

 きっと伊吹は助からない。私の知識が確かならば酒吞童子は討伐されるはずだからだ。知っていても守れない命はそこかしこにある。神でもない限りはその全てを救う事などできない。歴史を変える事などできないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「えー!? もう天狗さんたちと遊べないの?」

 

 活発なこいしがよく遊んでもらっていた天狗 ――まあはたてのことなんだけど―― は流石にこの山から連れ出せない。彼女も既に組織の一人。身勝手な理由で共に逃亡するなんてできない。

 できることなら人間がこの山に入ってくる前に撃退してしまうのが最適解だ。だが現実的に考えてそれは不可能。どの径を通って来るかも予測できないうえにあちらは神の加護までついている。圧倒的に分が悪いのだ。

 

「こらこいし、母さんが困っているでしょう? 少しくらい我慢しなさい」

 

 そうは言っていても心の中では寂しがっているさとり。てっきり嫌々連れまわされているのかと思っていたが、存外本人も楽しんでいたようである。素直じゃないねえ。

 

「……母さんを庇うのやめるわよ?」

「悪かったからそれはやめてちょうだい」

 

 それにしてもこの精神年齢の差はいったい何なのだろうか。高々五十年くらいしか違わないのにさとりはかなり落ち着いていて、逆にこいしは全然落ち着きがない。

 元々の性格かな。さとりは引きこもっていそうだけどこいしは外で遊んでいそうだもんね。私はどちらかというとさとりの性格に近いのかな。

 

「ふふん、私は母さんのようにこんな狭い穴倉に引きこもって生活する気なんて無いわ。きっと広い所で悠々と生きてやるんだから」

 

 それは楽しみだ。目標が高いのは悪い事ではない。大抵はそれに到達する前に挫折してしまうんだけど。さとりがどこまでやれるか分からないが、挫折もまた経験。親としてはどちらに転んでも構わないと思っている。

 流石にそれで精神を病んでしまうようなことになれば見過ごせないけど、そうでもなければ何もせず見守るつもりだ。

 

子は親から離れて暮らす可し。

 

いつか離れていってしまう時が来るまでは存分に可愛がってあげよう。はたての時のように。

 

 

 

「さ、行きましょうか。とっとと山を出た方が良いわ。人間が来るのは夕刻から夜の間だと思うけど油断はできないからね。さとりもこいしも持つべきものは持った? ……じゃあ行くわよ」

 

 まだ上手く飛べないさとりのために歩いて下山。こいしの方が上手く飛ぶのは自分から飛ぼうという意識があったからだろう。さとりは大抵引っ張られていただけだから。

 でも飛ぶことが全てではない。確かに回避や移動にはこの上ないほど便利だが、空中では自由が利きにくい分、思わぬ敵襲があったりすると簡単に撃ち堕とされることもある。戦闘や逃亡においては頭脳もまた重要な要素なのだ。

 

 

 もう山を振り返りはしない。別れは既に済ませた。二度と戻って来ないであろう山に未練はない。狭い世界に妖怪の持つ長い生。生きていればまた何処かで会うこともあるかもしれない。



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大江山悉皆殺し

大した量も書いていないのにここまで遅くなるとは思ってませんでしたorz


 私が暮らしているのは基本的に山の中。前までは大江山で、今は懐かしき諏訪の地に帰って来ている。私の生まれた場所であり、一応ながらさとりの産まれた場所でもある。覚えているはずもなかろうが。

 

 相変わらずこの山に人間が入ってくることは少ない。一番近い集落からでも日帰りは難しいためだろう。妖怪も結構いるしね。石長姫様は別に人間を守護してくれるわけでもないし。

 そう言えば最近石長姫様が八ヶ岳の麓(住処から二つほど嶺を超えた先)の国の神と何やら話をしたのだったか。その時に何故か私に会わせる約束をして帰って来たらしい。

 

 曰く人間に迷惑をかけるわけでもないのに嫌われるという妖怪に興味がある、とのことだったが……これは恐らく上っ面だけの文言だろう。考えられる本心としては私が本当に人間に害を与えないのかを量りたいといったところか。

 どうやら相手さんは一国を治める強い神らしいし、周囲の山にいる妖怪を警戒するのもまあ当然ではあるかもね。山の妖怪って動物由来の者が多いから。動物由来とはすなわち人間を喰らって妖怪化してしまったということでもある。

 

 はたてなんかがいい例だろう。彼女の場合は妖怪として幼い頃から私が教育したから理性のある子に育ってくれたが、普通ならば妖怪となった後は自力で生きていくために無差別に人間を襲うようになる事の方が多い。

 人間の血の味って忘れがたいほどらしいからね。私が口にすることは無いだろうけど。

 

 

 

 

 

 紫が訪ねてきた。こうして現実世界で会うのはもう何十年ぶりだろうか。時間感覚がおかしくなっているだけで実は百年以上経っているかもしれない。

 人間なんて六十年生きればいい方なのに妖怪は暢気なものだよ。百年経っても見た目はほとんど変わらないしねぇ。頭ばかりが大きくなるだけ。悪くはないけど不便ではある。人間の子供だと思われて襲われることもしばしば。飛んで逃げればすぐ撒けるから良いんだけど面倒ではある。

 

「久しぶりだね。それにしても紫の方から訪ねてくるなんて珍しい。何かあったの?」

「変わらないわねぇ…………そも、貴方から訪ねてくることなぞ無いでしょうに。それとも夢ではない、という事を言いたいのかしらね」

 

 どちらにせよ私の方から訪ねているけれど、と紫は言いたいようだ。

 確かに言われてみればその通りである。私から訪ねた事なんて今までに一度たりともない。普段紫が何処にいるかなんて知らないからね。探しても会えないだろうし。

 夢で会うにしても紫が勝手に入りこんできているだけだしね。結局は紫の方からしか会いに来れないんだよね。滅多に会わないのもそのせいなのだろう。

 

「ま、挨拶のようなもので別にそこまで考えて言ったわけではないよ。それで? 何かあったから来たんでしょう?」

 

 紫は確か石長姫様を避けているように感じるし……いや逆かな。紫がいる間は本当に出てこないもんね。

 

「妖怪の山、覚えているかしら?」

 

 そう来たか。

 

 忘れるはずもない。過去に二度も棲んだ場所。めんどくさいが親しい友人や娘同然の子も棲んでいる場所。

 そしてもう百年も前に逃げ出してしまった場所。

 

 あの山のその後がずっと気になっていながらも聞くに聞けなかった。

 恐ろしかったからだ。親しい者が傷つけられるということの意味をまだ知らない私にとって、腕の立つ人間に襲われた鬼たちのその後など聞けようはずも無かった。

 でもあれから百年あまり。流石に心の整理はついた。今なら聞いても衝撃は少ないだろう。

 

「あの山は、結局どうなったの?」

 

 紫からしてもこの質問がされるだろうという事は分かっていたはずだ。させるために先の質問をしてきたのだろうから。

 そのうえで渋い顔をしているのは演技なのか違うのか。そこまでは読めそうにない。

 

「私も当時の山の状況を自分の眼で確かめたわけではないから真実は分からない、というのが本音よ。それでも当時の事を記した書物はいくつか戴いてきたわ」

 

 戴いたと言っても紫のことだからどうせこっそり盗んできただけだろう。

 その記すところは

 

 

長徳元年、源頼光を長とした四天王と藤原保昌らが酒吞童子なる鬼を退治せし。身の丈七尺にもなろうかという大男としてげに恐ろしき面をしたる。人肉を喰らい血と酒を好みたる。その様まさに鬼と言うに相応しく、頼光もその姿を見て恐れ慄きたる。

酒吞童子の曰く汝らは何者かと。頼光の応えて曰く我らは山伏なりと。

童子、人の己を滅さんとするところを知っていたり。故に頼光は鬼を欺き、己の素性を語ることなし。これは偏に八幡三神の加護のありし故なり。八幡神の頼光らに伝えて曰く童子に汝らが欲するところを悟らせる可からず。

さらに酒を渡したり。こは神変奇特酒なる酒で、如何なる鬼でもたちどころに眠らせる毒の入りたる酒なり。人が呑めどもゆめゆめ酔うことなし。故にこは神便鬼毒酒とも呼ばる。

頼光眠りし鬼どもの首を掻き、酒吞童子の首をも搔き斬らんとす。されど童子、ひとえに煙が如く霞み消えたり。辺りを見ばそこに宴の跡は無し。狐に化かされたかあやしと思いつつ山を降りる。

半刻ほど下ったのちに頼光気配をば感じ取る。綱もまた異なる気配を感じ取りき。太刀一閃。綱が刀は茨木童子の腕を斬り落としたり。茨木童子は酒吞童子の右腕たる鬼なり。なればこの刀を鬼切丸と名付く。また頼光が刀は酒吞童子の首を正しく掻き斬りたり。今度こそ手ごたえあり。首とともに髭まで斬られていたり。なればこの刀を髭切と名付く。

首なお抗い頼光に噛みつかんとす。頼光は公時の兜を重ねてこれを避け即ち箱に封ず。これにて鬼はさながら退治されし。それより後、女子供が攫われることなし。その首と腕とは未だ都という。

 

 

「どうだったかしら? これが当時の人間の書の一つ。他も大差ない物だったわね」

「自分の眼で確かめたわけではないけど明らかにおかしいと思うよ」

 

 酒吞童子ってのは伊吹の別名だったはず。男じゃない。あいつが女装してたのなら別だがそんなことをするとは思えない。身長に関しては何とも言えない。自在に身体の大きさを変えれるような奴だから。

 最も不可解な所は茨木の名が出ているのに星熊や虎熊の名が出ていないことだ。特に星熊。この中では一番暴れそうな奴の名が出ていないことは明らかに不自然だ。

 

 これのどこまでが本当の事なのか全く判断できない。恐らくほとんどは人間の都合によって作られた嘘だろう。頼光らが自分たちをより大きく見せるために誇張して伝えたと考えるのが妥当とまで思える。

 

 だが途中途中に挟まれている出来事は本当臭いのだ。例えば煙のように霞んで消えた、とかは伊吹の能力が関係しているに違いない。

 人間がそれを知っているわけはないので、これに関しては頼光が本当の事を伝えたのだろうと推測できる。鬼だけが酔い、人間は決して酔わない酒と言うのは神の醸造した酒と考えるならばまああり得ない話ではない。

 神力は妖力と相性が良くない上に八幡神ってかなり強かった気がするし。

 

「伊吹達がこんなに簡単にやられるとは考えにくい。それにあの山の鬼はかなり多かったし強かったはず。たかが人間数十人で落せるようなものじゃないよ」

「本当にそうかしらね。人間が悪知恵を働かせれば妖怪など塵と吹き飛ぶ。その程度の存在よ。私たちは。私は当時を見たわけではない。それでも今、確実に言える事はあの山には既に鬼がいないことだけよ。一匹たりとも、ね」




酒吞童子関連の文章はwikiからとって来た情報と捏造した設定を混ぜて適当書いているだけです。古文も得意ではないので文法的な間違いには目を瞑るか指摘して頂ければ。現代仮名遣いなのはわざとです
自分が如何に古文の授業を蔑ろにしていたかを実感しました。表現が乏しすぎますね


わざわざ茨木童子を酒吞童子の右腕と書いたのは切り落とされた腕が右だから。これが酒吞童子の統治の終わりを暗示している、という設定。本文から分かる通り酒吞童子は厳密には萃香ではないんですが。


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業火救済

しばらく休載とします


 妖怪の山からは鬼が完全に姿を消したらしい。彼らの強さを知っている私からすればにわかには信じがたいことである。

 この前紫から見せてもらった書物の内容は八割以上が嘘でできていただろう。ただすべてが嘘であるわけではないようなのだ。どこまでが真実でどこからが虚構なのか、その判断がまったくできない。

 

 真実に見せた嘘と言うのは人間が得意とするところであるし、かの文章も知らない者が見れば特に違和感を覚えることも無いだろう。

 都の安全を脅かす恐ろしい鬼と言うのが幼い少女としてではなく、筋骨隆々の大男として書かれているのも上手いところだ。自分たちが恐れていたものが幼女だと知れば、人間はさらに恐怖に陥れられただろう。

 

 人間の目指すところは妖怪の殲滅。そのために徒に恐怖を植え付けるようなことはしまい。特別な者でなくとも神より授かった物を駆使して頭を使えば強大な妖を倒すことも可能である、と頼光たちを引き合いにだすことによって示した。

 妖怪狩りが増えるように仕向けた書、か。書いた本人は恐らく、体験した本人は必ず妖の強さを知っている。その上で庶民たちには絶対になれない貴族よりも退治師を目指させる。

 

 何の力ももたない一般人。武器だって良くても先祖から伝わった刀。悪ければ鍬や鋤しかもたない農民まで。当然生き残れるのは1%未満だろう。元より力では人間が敵うはずもない相手。まともな武器もないのだからそうなるのは必定だ。

 それでも上流階級に位置する人間は妖怪退治を推し進める。自分たちからだけでも脅威が去ればそれで良い。低級の庶民など都だけでなく全国に吐いて捨てるほどいるのだから少しくらい減ってもなんら問題はない、と。

 

 噓っぱちではない。印象操作とも言えるものだ。哀れ人間は同じ人間によって支配され、殺されているというのに。彼らは何も知らないのだろう。人間を殺すは異形の物と頭の中で決めつけてしまっているから。

 手の上で踊らされているという自覚も無く、信憑性も無い噂を頑なに信じる。真実に気づいた先には妖が死という手土産を持って待ち構えているというのに。

 

「救えないね」

「? ……どうしたの? 母さん」

「どうして聞くの?」

 

 貴方なら私の心を読めばわかるでしょうに。

 

「母さんも知っているでしょう?」

 

 読心という点においては私よりもはるかに強い力を持つさとり。いつからだろうか。この子は能力の制御を身に付け、私の心を読まないようになったのだ。

 理由は単純。怖いから。私の心を読むという事は未来を知るということ。妖怪がいないという事が常識になっていると思われる世界を直視するということ。

 それは彼女にとって余命を宣告されているようなものだ。あと数百年もすれば妖怪の天下は終わり、あり得ない速度で人間が成長し始める。

 

 妖怪は人間の心の隙間に棲む生き物。否定されれば居場所は失われてしまうだろう。

 

 さとりの心は強くない。いつか来る破滅を知って尚その詳細を知りたくはないようだ。

 私が平気なのはきっと元が人間だから。人間は長く生きても百年。この時代ならば六十年。今の私は既に六百年生きている。妖怪としては若くても人間からみれば途方もない年月だ。

 つまり私はもういつ滅んでも受け入れられるだろうとそう思っているのだ。さとりやこいしが私よりも先に死んでしまう事さえなければ、私はきっと悔いなく死ねるのではないか。実際にその時にならなければ分かることではない。死が恐くないわけではないのだから。

 

「生者必滅であるように盛者必衰でもあるのよ。人間も栄えればいずれ衰えるもの。私たちの寿命ははるかに遠いんだから、きっと人間の衰退の方が早くに訪れるわ。だから今日はもう忘れてお休みなさい」

 

 こいしも既に眠っている。遊び疲れて早くに眠るこいしとは違ってさとりはなかなか眠ろうとしない。夜だからかもしれないが、これまでだって寝かせていたのは夜なのだから身体はそのサイクルに慣れているはずだ。

 となれば単純に眠たくなるほど疲れないからだろう。精々が鳥や狐なんかと話しているくらいだし。こいしは山を駆けまわっているのに。

 

 

 

 

 ……とそんなことを考えている間にさとりも眠ったようだ。

 

「ようやくその子も眠りに就きましたね。では行きましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうした。顔色が悪いんじゃないのかい? それとも元よりそうなのか?」

「おやめなさい、八坂。この子はあくまでもただの妖の一つ。三人もの神にとり囲まれた事など無かったでしょう。まともに話をする気はあるのですか?」

 

 石長姫様に連れて行かれたのは立派な神社。此処こそ一国を治める神の拠点である。此処に強い神がいる事自体は生まれた直後くらいに聞いていたから知っている。それでも想像していたものよりもかなり大きな神社だ。

 当然ながら目の前にいる二柱のどちらかが主祭神なのだろうが私にはどちらなのか分からない。どちらかと言えば八坂と呼ばれた神の方が強そう、その程度だ。

 

 そもそも分霊の共同生活でなく、実体を持つ神が同じ神社に二柱もいる事そのものが普通に考えればおかしな状況だ。往々にして神は自分勝手なもの。仲良く共同生活など想像もできない。

 

「いったいどうして同じ神社に二人も神がいるのか不思議なのかい?」

「…………声に出ていました?」

「いんや。ただ顔を見て思ったことを言ったまでさ。……どうだい? 心を読まれるってのは気持ち悪くないかい?」

 

 確かに気持ち悪いものだ。でも生憎私にはさとりとこいしという子がいる。心を正確に読まれる事すら日常的にされているので半分慣れたと言っても過言ではあるまい。

 首を横に振ると途端につまらなさそうな顔になった。顔だけではなく心の中も。本当に勝手な神様だよ。

 

 この洩矢諏訪子という神様はこの地で誕生した土着神らしい。となると本来の主祭神はこちらになるのか……ああ思い出した。国譲り、か。

 

 となれば洩矢神がこの神様で間違いない。八坂神奈子様はタケミナカタなのか八坂刀売なのか。性別から判断すれば後者の方が納得がいく。が、あの酒吞童子でさえ幼女だった世界だ。彼女がどちらであってもおかしくはない。

 それに彼女自身に聞いても分かることではない。私の知る神話を知っている者は誰一人いないはずだから考えるだけ無駄だろう。

 

「なるほどね。あんたが他人に嫌われる理由が分かった気がするよ。ただ本当に害を与えるわけではないみたいだね。私も神奈子も憂い過ぎていたようだ」

「私が言っていたでしょう? 悪い妖怪ではないのです。ただこの子とまもとに話せるの者は限られているというだけで」

 

 本当に。妖怪の山にいた時だってまともに話ができたのは四天王の奴らと天魔、あとは文にはたてくらいのものだった。探せばもう少しいたのかもしれないが、私には探す気が起きなかった。

 どうせ覚妖怪を嫌う者の方が圧倒的に多いのだ。そんな少数派を苦労して探すくらいなら今いるそれとつるんでいる方がよっぽどマシである。

 

「ふむ、そうだ。私もお前に聞きたいことがあったのだった」

 

 

 人間が寝静まった里で、妖怪と神の会合はまだしばらく続きそうだ。




今現在モチベーションがかなり低くなっております。
更新頻度は遅くなる一方ですし、文字数も減ってきているのを自覚しています。誠に勝手ながら一時休載の扱いとさせてください。未完にするつもりはありませんので、七月を目処に投稿を再開しようと思っています。
急な報告となってしまい大変申し訳ございません。


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妖怪ポリグラフ

お久しぶりです。ここからまた再開できればと思います


 神と妖怪。普通ならばどちらからも歩み寄る事などあり得ない。天狗などのように妖怪でありながら神として祀られる者たちも少数ながらいるが、それを除けば神と妖怪はまさに水と油。

 妖怪が人間の信仰から生まれた神を崇める事は無いし、いくら人間が嘆願しても神が妖怪を退治することも余程の害が及ぼされない限りは無い。

 

 神が付き合うのは人間であり、妖怪が付き合うのも人間である。

 間に板挟みになって生きるよりほかない人間のなんと哀れな事か。と言っても当の人間たちはそのことを悲観的に捉えているわけではない。彼らにあるのは生かされている意識ではなく生きていく意識だけだからだ。

 

 神と妖怪の仲立ちとなるのは人間。しかし人間がいなければ全く関わらないのかと言えばそうではない。現に今までやまこは石長姫とかなりの時間を同じ空間で過ごしてきた。しかし、これに関してもやまこの運が相当に強かったと言わざるを得ない。

 

 石長姫はもとより下賤な者の前には姿を現すことも無い。人間であれ妖怪であれ、神として自分と対等でない者の前に姿を現すことは基本的に無いのだ。

 国津神ではあるが神としてのプライドは高く、妹からでさえも永遠の生を取り去る事を厭わない程度には芯が強かった。人も妖怪も見下す彼女が対等だと認めるのは永い間神々だけだった。

 

 彼女がやまこの前に姿を現したのは、やまこがこの山で不意に誕生した妖怪であり、しかし妖怪とは思えないような特異な存在であったからだ。

 自分の事を知っている人間も妖怪も動物もいない中で、生まれたての妖怪に名を当てられたことへの驚きと興味。彼女がやまこを他の妖怪達よりも少しだけ高い場所に置いたのもそれを踏まえれば当然の事だった。

 

 悠久の時を生きるには、その間の退屈を紛らわせてくれる何かが必要になる。多くの神々にとってのそれは人間との交流であり、一部の蓬莱人たちにとってのそれは殺し合いだったりする。

 石長姫にとってはやまこという妖怪の存在が現在その役を担っているのだ。近場に国を置いている諏訪子や神奈子にとってはこれこそ驚くべきことだった。

 

 人間から見れば永遠にも思える数千年、あるいはそれ以上という妖怪の寿命。しかしそれさえも真に永遠を生きる者から見れば瞬く間に過ぎ去ってしまう。永遠を司る彼女にとって寿命のある者との付き合いは、ただ別れを辛くするだけのものだった。

 

 その石長姫が気に入って連れてくるような()()存在。しかも人間には害を及ぼすことも無いという、妖怪の在り方を覆すような特異な存在に諏訪子や神奈子が興味を示さない方がおかしかった。

 

 しかしやまこ自身も神と自分の立場の違いくらいは自覚している。自分勝手ではあるが絶大な力を以て単騎で国を亡ぼすことさえもやってのける。

 特別強いわけでもない彼女にとって、神とはまさに天上に住むべき種族であった。

 

 現在のこの空間。彼女がまともに話せるのは一番立場が高いとも言える石長姫しかいないのだ。その差は偏に話し慣れているか、いないか。

 決して居心地の良くない空間で、ただ神の気に触れるようなことにならないよう差し障りない返答をし続けなければならない。自分を隠した会話と言うのは人間の最も得意とするところだ。そしてそれは元人間であった彼女も例外ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 居心地が悪い。来る前からこうなるであろうことは薄々分かってはいた。何せ神が三柱とただの妖怪が一匹だ。石長姫様は良いとしても、残る二柱は私にとって他人同然。

 遥か昔から一方的には知っていたのよ。それこそ石長姫様に会う前から諏訪国の偵察はしていたくらいだし。だがこうして面と向かって会うのは初めてだ。石長姫様以外の神に会うのも初めてである。緊張して心臓が飛び出しそうとかそういうのはなくても口の中は乾いている。

 

「顔色の悪さは治らないねぇ。石長姫が言うには普段はこうじゃないらしいけど……何とも信じがたい。神の御前だからと言って畏まる必要はないよ。私たちはお前から信仰を貰おうとは考えていないからね」

 

 だからこそ余計に居心地悪いんだけど。今までここまでフランクに話しかけてくる神様なんていると思ってなかったから少々の混乱状態に陥っている。力のある神が妖怪に対してそこまでフランクでいいのかというところも相まって、なかなか落ち着こうにも落ち着けない。

 

「そういう事です。八坂も洩矢も貴方から信仰を搾取しようなどとは思っていませんよ。何も気に病むことはありません」

 

 それは心を読めば大体わかる。そも、私の信仰は恐らくすべてが石長姫様に行っていると思われるので、今更この二柱を信仰せよと言われても困ってしまう。

 そのあたりの知識はそれほどないのでよくわからないのだが、この国の人々が二柱を信仰しなければならないことに対してどう思っているのかが予測できない。一番気になるのは国譲り当時の人々の気持ちだけど。

 

「まあ良い。お前に聞きたい事はいくらでもあるからね。今夜はとことん付き合ってもらおう。お前はいける口かな?」

「ええほどほどには。鬼や天狗ほどではありませんが」

 

 あいつらはどれほど呑めば潰れるのやら。

 そもそもあの華奢な身体のどこにあれほど大量の酒を入れる場所があるのだろうかと思う。妖怪の身体の作りが人間と違うと考えても不思議だ。

 

 で、神もその類の不思議生物らしい。とりあえずで持ってくるのが一升瓶四本(一人一本)である時点で少し不安になってくる。そのうち一斗樽なんかが出てきても全く不思議に思う事は無いであろう雰囲気だ。

 石長姫様が特に驚いた様子も無く普通に瓶を空けているところを見ても、これが神の交流では普通であることが伺える。

 

「石長姫様も酒を嗜まれるのですね。少し意外です」

「おや、そう言えば貴方の前では呑んだことがありませんでしたね。私も含め、神と言うのは得てして酒好きです。そのこだわりも様々なもの。口噛み酒しか呑まない神もいた気がします。巫女がいなくなったらどうするのでしょうかね」

 

 うむ、口噛み酒か。私には少々刺激が強すぎるかな。気にしなかったら何も問題なく吞めるんだろうけど、知っていれば躊躇いそう。

 

「私は特にこだわりはないんだけどねぇ……強いて言うならこの地の米から造ったやつが好きかな。古明地やまこと言ったっけ? お前さんが気に入っている酒は無いのかい?」

 

 この洩矢諏訪子という土着神は私が言うのも何だが幼い。だがそれは見た目だけの話だ。伊吹と同類のにおいがする。

 

 それにしても気に入っている酒か。特に銘柄なんかは気にしたことも無かったし、呑む時は大抵あいつらが盗んできた物か伊吹の瓢箪の酒だから気にしたことも無かった。

 

「……そこまで強いこだわりはありませんが、強いて言うなら鬼の酒器で生まれる純米大吟醸は美味しかった覚えがありますね」

「へぇ、鬼の酒器から酒を呑んだことがあるなんて驚きだねぇ。あれは鬼の宝だ。そう易々と誰かに貸すとも思えないが…………」

「……お断りしますよ。私は別に強いわけでは無いので」

「分かっているさ」

 

 嘘。心の中の声はまるっとお見通しだ。甚く残念がっているのが読み取れる。そもそも鬼と関りがあるからと言って強いと思うのが間違いなのだ。

 あいつらはわざわざあいさつに行った私を珍奇な奴だと面白がっただけ。あとは酒に強いというのもあっただろう。少なくとも戦闘面では特別な事も無い。

 

「ところで古明地よ。お前は何故人を襲わない? 妖ならば人を襲う事こそ道理であろうが」

 

 はじめの質問がこれか。確かに妖怪であれば人間を襲うのが当たり前だ。存続に必要な人間からの恐怖心を最も効率よく得るための方法が人間を襲う事だからである。

 人間を喰う、喰わないに関係なく、妖怪とはそういうものだ。はたてだって遊び感覚で人間を脅かしたり攫ったりする。

 

 おかしいのは彼女たちではなく私。だが今のところ、人を襲ってこなかったことによって困ったことは特にない。心を読まれるという恐怖は出会ったその瞬間に得られるものだからだ。稀に山に立ち入ってくる人間たちだけで事足りるのが現状だ。

 それ以前に人間を襲うという事に少しの忌避感がある。何百年経っても私が元人間であったという事実は揺らがない。

 

「その必要が無いからですよ。己の内面が暴かれるという恐怖は決してなくならない原初の恐怖。人が闇夜を恐れるのと同じことです。人は知らぬうちに私たちサトリに力を与えているのですから、これもある意味では信仰と呼べるものかもしれません」

「ははっ、神との対比かい? 実に面白いやつだよお前は。そうだ、お前も何か聞きたいことがあれば聞くと良い。特別に答えられる事なら答えてやろう」

 

 初対面の神様にする質問なんてパッと思いつかない。そもそも普段どうやって過ごしているのかも知らないし。

 とりあえずどうして酒が好きなのか、という質問には答えてくれそうにない。そんなことはきっと神様たちも知らないだろうから。




石長姫がはたてには見えないという設定を出してから実に半年以上経っているんですねぇ。12話くらいしか進んでいないのに

次回で山に帰ってもらいますが、神奈子と諏訪子はこれからもちょこちょこ出てくると思います。ご近所さんなので


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没我の愛

「どうでしたか? 八坂と洩矢は」

 

 どう、と言うのは……彼女たちの人となりのことか。こういう時に心を読めるのは便利だ。見当違いな返答をされては相手も困るだろうし、たとえ相手が言葉足らずであっても真意を読めるのならば会話はすれ違わない。

 

「そうですね。妖の私にも明るく接してくださったのは本当に嬉しかったです。神様とはもっと近寄りがたい存在だと思っていました」

「おや、私もですか?」

「当然ですよ。石長姫様とはもう長い間過ごしてきたので今夜の彼女たちほどではないですが」

 

 それでも私が敬語を使う相手なんてあの二柱に会うまでは石長姫様くらいだった。どれほどの年月が経っても、どれほど親密になっても、私が敬う気持ちを持ち続けるならばきっと敬語で接し続けるだろう。

 今の距離感で接することさえ烏滸がましいと感じているのに、今以上に近づくことはできそうにない。それはあの二柱も同じだ。人間からの信仰が篤い彼女たちの威圧感は神様に慣れているはずの私でも顔色が悪くなるほど、言葉では言い表せない程に凄まじかった。

 

 

 私は基本的に敬語を使わない。使う相手はこのような近寄りがたい存在だけに対してだ。昔はそうでもなかったが、今は自分とは格の違う相手に対してのみか。

 

 昔は当たり障りのないように、誰に対しても敬語で接すれば良いのだと思っていた。紫は……あちらから唐突に話しかけてきたのが悪い。急な返答に敬語が出るわけも無く、結局そのまま続けた形になった。でもそれでよかったと思っている。

 彼女との生活を通して、私はこの世界の恐ろしさを知ることができた。完全なる弱肉強食。やらなきゃやられる。

 

 遜るのは悪い事ではない。日本人には美徳として捉えられていたせいか、私も謙遜することに対して何の違和感も覚えていなかった。

 でも紫がそれではいけない、と諭してくれたのだ。生き延びるならば相手になめられないことが最重要。弱者と認められてしまえば生き残れる確率はグッと下がるらしい。

 だから私は天魔にも、鬼にも敬語を使わずに偉そうな態度で接してきた。たったそれだけで私を襲おうとする妖怪は激減するのだから面白い。生物と言うのはどこの世界でもどんな種族でもどんな時代でも同じようなものなのだと実感できた。

 

 でも鬼に怯える妖怪も、種族は違えど人間の恐怖によって生みだされた存在であるという点に関しては私とも同族のような関係だと言える。だから不敬だとかを気にせずに軽い気持ちで付き合うことができる。

 

 人間の愛情によって生み出される人間。畏れによって生み出されるのが神。恐れによって生み出されるのが妖怪だ。

 

 

 畏れと恐れ。人間が中心のこの世界で、神は敬われる存在であり、私たち妖怪はただ怖れられるだけの存在だ。

 神は人間に畏れられるものであるので本来妖怪が神を畏れる必要はない。でも私の中の人間の心がそれを許しはしないから私は神と一定の距離を保つようにしている。だから一応石長姫様とも親しくなりすぎないように配慮はしているのだ。妖怪と仲のいい神なんていうレッテルは貼られてほしくないし。

 

「相変わらず堅いことで。結局酒もあまり吞んでいませんでしたし。好みではありませんでしたか?」

「いえいえまさか。とても美味しかったです。だからこそ吞み過ぎないように気を付けていたのですよ」

 

 何よりも自分が呑まれることが恐いから。三杯は酒人を飲むとはよく言ったものだ。美味しいからと言って呑み過ぎると結局自分に返ってくる。

 神とか鬼とかはその一杯の基準が桁違いだから大丈夫なのだろうと思いつつ。でもあれだけの酒をたった一升しか呑まなかったのは失敗だったかもしれない。普段この山にいるときは酒なんて吞めないから。

 

「貴方はそういうところも堅いのです。良い心がけだとは思いますが。…………おやもうこんな時間ですか。そろそろあの子たちも目覚めそうですね。ではまた会いましょう」

「はい。今夜はありがとうございました。少しだけ、世界が広がりました」

 

 さとりたちといるときも姿を見せないだけで見守ってくれているのね。そう言えばはたての時も、さとりがまだ赤子だった時も気にかけてくれていたんだった。

 やはり根は何処までも優しい神様なのだろう。本人はそれを忘れて久しいと言っていたような記憶があるが本当なのだろうか。それともそれが優しさであると気づいていないのだろうか。

 

 さとりがいれば分かるかもしれないけれど。でもさとりの前では姿を現してくれないからどうしようもない。逆にどうして私以外の前に姿を現さないのか、それもまだ分からない。

 

 

 まあ良いか。とりあえずもう朝だし二人を起こそうかな。放っておいても少ししたら起きてくるだろうけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 珍しく母さんに起こされた。そう言えば昨晩は遅くまで母さんと話していたから起きるのが遅れたかな、と少し思った。

 でも外を見ればまだ日が昇り始めた頃。卯の刻あたりではないだろうか。寝過ごすといけないから母さんがわざわざ起こしてくれたのだろうか。

 

 隣を見ればこいしはまだ寝ぼけているのか、起こしに来た母さんに抱き着いている。母さんの方も「困った子ね」などと言いながらまんざらでもないようだ。困っていないのなら放置で良いか。

 

「いや困ってるんだけど。助けてよさとり。この子の力馬鹿にならないんだけど?」

「寝ているからでしょ。きちんと起こせばきっと弱まるわ」

 

 寝ている時は何故か思いもよらない力が発揮できることもあるらしい。歯ぎしりなんかがいい例だ。起きている時にはどうやってもあんな音出ない。

 今のこいしもおそらくは似たような状態なのだろう。起きている時からは到底想像もできないような力で母さんを縛り付けているに違いない。どうせすぐに目覚めてその束縛も解けるだろうから放置で良いか。

 

 残念ながら、そう本当に残念ながら私は母さんの心を読まないし、母さんが何を思っているかも分からないもの。

 

「折角今日は私の一番好きな場所に連れて行ってあげようと思ったのにな~。動けないんじゃ行けないわね~」

「…………はぁ」

 

 もっとはっきり言えば良いのに。仕方ない。こいしを起こすか。

 

「ちょ、待ちなさいさとり。その方法はあまりにも手荒過ぎない?」

 

 えー。少し恐い思い出を想起してあげようと思っただけなのに。私はされたくないけれど。

 

「じゃあ母さんの能力は? それで起こせないの?」

「いや、私の能力で起こすのは、サトリの能力で相手に心を読ませようとするのと同じだから無理よ。私たちの心を読めるのは同族だけでしょ?」

「ならどうするのよ。手荒な方法で起こせないなら叩き起こすという選択肢も無いんでしょう?」

 

 私がそう言うと母さんは意地悪そうな笑みを浮かべる。何か策があるのなら初めからそう言ってほしいものだ。回りくどいと他人に嫌われるよ、母さん。

 母さんが誰に嫌われても私だけは嫌いにならないであげるけど。……だからその顔やめて。

 

「ごめんごめん。とりあえずこいしを起こすには食べ物が一番よね。朝食置いてあるから取って来てくれない?」

 

 

 

 

 結局朝食の匂いにも釣られなかったこいしを雄鶏のうるさい声で起こすことになったのはまた別の話。あれで起きないのなら強引に起こすしかないと母さんが折れた結果だ。可哀そうなこいし。

 

 

 今はもう昼過ぎ。母さんの一番好きな場所だというから常日頃から話題に出てくる石長姫という神の社かと思っていたがそうではなかった。そもそもそちらに関しては場所も知らないらしい。神社の場所も知らない神とよく交流できるものだ。

 私は自分の目で見たことが無いけれど、母さんの心を通してなら母さんの心を読んでいた頃に見たことがある。私から見れば近寄りがたい雰囲気だったが、話をすればまた違うのだろうか。

 

 ならばいったいどこなのだろうかと心を弾ませながら母さんについて行っていた私たちだが、母さんが「ここよ」と言って立ち止まった場所はどう見てもいつも使っている湖で、少し落胆してしまったのは避けられないことだっただろう。

 

「ここが? 毎日来るところじゃん。もしかしてお母さん頭がおかしくなっちゃったの?」

「ぐ……失礼な子ね。いい? ここには伝説が残っているの。さとりは知っているわよね?」

「確か……ここの白馬が人間の男女を親から逃がしたとか何とか」

 

 数十年前に母さんから聞いた話だ。

 

「まさか……」

「ふふ、どうかしら。また少しついてきなさい」

 

 そう言って湖に沿って歩き出す母さん。馬が出るか蛇が出るか。はたまた人が出るのか。母さんの表情からは何もうかがえない。




二話に出てきた湖がここ、白駒の池。今更思い出しましたが、二話で出てきた烏は文にでもしようと考えていたのでした。今の今まですっかり忘れていたのであれはもう名も無き一羽の烏として生を終えたわけですが


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天馬行空の舞

いつもは水を汲みに来るだけだから知らなかった事だが、母さんの後について歩く湖は思っていたよりも広かった。だが母さんが言うにはこの湖でもかなり狭い方らしい。ふもとにはこの百倍もの大きさの湖があるという。

近江にはそのさらに何十倍かの湖が…………と考えるとそれはもはや海と何が違うのだろうと考えてしまう。

 

「あ、さとりは何か勘違いしているようだから一応言っておくけどね、この湖は本当に狭いのよ。それこそ池と呼ばれるくらいには。広く感じるのはそうさせられているからよ。今どれほど歩いたか分かる?」

「もう一里は歩いた気がするけど。日も少し傾いてきているし」

「ざーんねん。まだ二町*1ほどしか進んでいないわよ。そもそもこの湖は多く見積もっても一周が四半里程度しかない。私たちが歩き始めた場所はほら、すぐそこでしょう?」

 

 母さんが指さした方を見てみれば、確かに私たちがいつも水を汲む場所は目と鼻の先のように感じた。あり得ない。こんなにも長く歩いたというのにほとんど進んでいないなんて。

 

「じゃあさ、お母さん、あそこに戻るのにもまた長い時間がかかるの?」

「そうじゃないのよね。戻るときは見た目通りの距離になるわ。()()()()に近づこうという意志がある時だけ、この湖では距離が見た目通りでなくなるの」

「? 私とこいしはあの場所が何処かも知らないのにそうなるの?」

「そう。その意思のある者とともにいる者にもこの術は影響を及ぼす。この湖が白駒の伝説を作ったのもこの性質があったからなのよ」

 

 そんな便利な術式があるのならあの山でも使えば良かったのに。そうすれば人間に襲われる心配も無かったし、鬼が全滅することも無かったはずだ。鬼が人間ごときに負けるはずなど無いと慢心していただろうことは容易に見て取れるけれど。

 

「あらさとり、これはそんなに簡単な術ではないのよ? この術を使ったのはおそらく石長姫様。私の知り合いで他にこれ程の大掛かりな術式を組めるのは紫くらいのものね」

 

 紫というのは母さんの知る限り一番の妖怪。つまりとても高度な術だから簡単には使えないというわけか。

 何故わざわざこの湖にその術を施したのかというのは不思議なところだが、一番不思議なのはどうして母さんがあの場所とやらを知っているのかだ。いくら歩いてもほとんど進まない上に目的地がどこにあるのかも分からない。そんな場所をどうして母さんは知っているのだろうか。

 

「あら、そんなの簡単なことじゃない。ただ歩き続けたのよ。昔、まださとりが生まれるよりも前かしらね。この辺りを散歩している時にふと周りの景色が一向に変わらないことに気づいたのよ。それでも少しずつ進んでいるのは分かったから歩き続けたというわけ」

「つまり暇だったのね。で、あとどのくらいで着きそうなの?」

「今丁度半分といったところね。距離だけで見れば案外近いのよ」

 

文字通り距離だけを見れば、か。実際はまだ半刻ほど歩かなければならないらしい。こいしはまだまだ元気そうだけど…………私には辛いわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故この場所が白駒の池と呼ばれるようになったのか。それを語るには今からおよそ400年前にまで遡らなければならない。丁度やまこが初めての妖怪の山で暮らし慣れてきた頃だ。

 かつて大層な栄華を極めた道士に飼われていた馬が一頭、石長姫の住む八ヶ岳に迷い込んだ。過去の栄光に縋り、今なおその没落に耐えられない様子だったその馬に手を差し伸べたのは他でもない石長姫だった。

 

 彼女が珍しく自ら関わった理由には、既にやまこという存在を目の当たりにしていたというのもある。しかし、一番はやはり昔に一度その馬を見ていたからにほかならなかった。

 

『お前は既に人の考える馬ではない。妖と呼ばれる存在に変じてしまったお前を受け容れてくれるであろう道士ももう死んでいる。お前はもう人と関わるべきではない』

 

 他人というモノにほとんど興味を示さない石長姫にしては珍しく、かなり厳しい発言だった。石長姫が以前その馬を見たのはさらにその100年前。馬が妖となっているのはもはや確定的であり、その時に乗せていた道士がいない所からその者が死んでしまっただろうことも容易に読み取れた。

 彼女が馬にこう忠告したのは馬のためでも人間のためでもあった。少なくとも今の彼女がどれほど危険な存在であるのかを石長姫は正しく理解できていた。

 

 しかし声をかけられた方からしてみればこれは困惑以外の何物にもならない。なりようがない。尊い道士の下で動物としての第六感を極めたとも言える神馬にとって、気配すら感じないがまるで隣にいるように聞こえる声は不気味でしかなかった。

 威嚇しても何処にいるのか分からないのだから効果的なのかどうかも分からない。人語を解する彼女ではあるが、生憎馬の口では人語を話せない。

 

 馬が唸り神が笑う。そんな会話とは言えない構図が出来上がっていた。

 しかしやはり、その無為な時間を終わらせるのも石長姫だった。

 

『お前が言いたい事は分からない。それが分かる妖は今別の場所に行ってしまったから。だが私としてはお前をこの山から出すわけにはいかない。麓に被害が出れば怒られるのは私の方だから。大人しく、湖の底で眠っていなさい』

 

 

 そうして眠らされた先は白駒の池の湖底よりさらに下。そのころはまだ名前も無かった湖だがこれを機に伝説が生み出され、それにちなんで命名された。

 

 それから丁度二百年ほど後、暇だったからと歩き続けてやって来たやまことその馬の少女、驪駒早鬼は出会った。そのころには既に人型を得て言葉も自由に操れるようになっており、さらに馬だった頃には無かった翼まで生えてすっかり妖怪らしくなっていた。

 はじめはやまこをあの得体の知れないモノの使者かと疑っていた早鬼も、いくらかの会話をする中でどうやらそうではないと判断したのか徐々に心を許し、何故この場所にいるのか、如何にしてこの湖の伝説が生まれたのかを彼女に語った。

 

 

 

 如何にして白駒の伝説が生まれたのか。それはまだ彼女がここに来てすぐの事だった。見知らぬ洞穴で眠りから覚めた彼女は一先ず自分が何物にも縛られていない事を確認した。馬である彼女にとって、人間に手綱を握られているのかどうかの確認は半ば習慣付いていたことであり、妖となって数十年という彼女もまだその癖が抜け切れていなかった。

 自分を縛る物が何もないと確認した彼女は次に洞穴の出口を探し始めた。当然だ。昨日の誰かの言葉が本当なのならば自分は湖の底で眠っていたことになり、しかし周囲は水ではないので何処かに地上へとつながる穴があると考えたのだ。

 

 幸い彼女は第六感だけでなく五感も人間とは比にならないほど鋭かったので、ごくわずかな風の吹きこむ方向を肌で感じ取ることができた。

 ようやっと地上に出た彼女が目にしたのは小さな湖と湖畔で倒れている男だった。不思議に思いつつ近づいてみると男はその馬を神の遣いか何かと勘違いしたのか、彼女にこうなってしまった理由を語り出した。

 

 曰く彼は近くの里でこれまでは平和に暮らしてきたが、ある女性と恋仲になったことをきっかけにして彼女の父親からひどい扱いを受けるようになった。自分は下賤な農民だから彼女とは釣り合わない、と彼は語った。慈悲のあるならばどうかお助けください。どうか彼女と永遠に添い遂げたい、とも。

 

 彼女が男を哀れに思う事は無かった。神の遣いでもなければ赤の他人の恋愛の手伝いなどする気も起きなかった。ただ馬を相手に神に祈る愚か者だとしか思わなかった。

 

 

 だから彼女は男を蹴り飛ばした。彼女の自慢の脚力で蹴られた男は何も理解できないまま、身体が湖面と接するその前に絶命していた。

 元来彼女は人間を憎んでいた。嫌っていた。あれほど素晴らしかった聖徳の道士を死へと追いやった人間たち。幾歳が過ぎ去っても彼女がその怨みを忘れる事は無かった。その心が彼女を妖怪へと押し上げたのだ。

 

 その夜、今度はその男と恋仲だった女が山へやって来た。親を欺いてまで山に入ってしまった女。彼女が道中妖怪の類に出会わなかったのはただの豪運であろう。男を追って迷った先にたどり着いたのが湖だったのは幸か不幸か。

 

 新月。月も無い夜に、しかも頭上を木々が覆う山の中でただ一つ、星の光を反射する湖面が彼女を導いた。周囲よりも少し明るい湖を背に佇む真っ黒な馬を女は上手く見ることができず、娘を追ってきた父親もそれは同様だった。

 かつて甲斐の黒駒とも呼ばれた彼女は四肢と尾、髪だけが白かった。真っ暗な中にボヤっと映るその白を見て白馬であると判断してしまった親子を誰が責められようか。

 

 娘は神の親切だと思い縋り、父は神の怒りだと思い平伏する。

 それを見るや馬は女を背中に乗せて走り出した。父も勿論追いかけるが一向に距離は縮まらない。だが引き離されることも無い。やがて疲れ果て、立ち止まってしまった父親に対して馬はまだ走り続けた。男の目にはどう映ったのだろうか。

 静止している自分に対して走り続けている馬はほとんど離れているようには見えない。だが少しずつ確実に距離は開き、ある場所で女を降ろすとその女は導かれるように入水して湖に沈んでしまい、馬は地下へと消えていった。

 

 

 その後どうにか里に帰った男がこの話を里中に広め、不思議な伝説として湖の白馬が語り継がれていくことになったのだ。

 

 伝説の中では白駒のおかげで男女が池の中で結ばれたように語られているが、実際には黒駒のせいで男女ともに池の中で永遠の時を過ごすことになってしまったのである。

*1
約200メートル




白駒池は凡そ0.11km^2
諏訪湖は凡そ13.3km^2
琵琶湖は凡そ670.4km^2
カスピ海は凡そ374,000km^2
日本の国土面積は凡そ377,835km^2

世界は広いものです


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