今川義元の野望(仮) (二見健)
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1.九英承菊

 そこは禅寺だった。

 比較的新しく建てられたものらしく、建材の木目はまだ味のある色合いをしていない。

 

 佐々木道誉に焼かれ、応仁の乱で焼かれ、応永の乱でも焼かれている寺である。どうやら神仏の加護も火事には弱いらしい。

 

 臨済宗建仁寺派の大本山、建仁寺。京都五山の一つに数えられている名刹だった。

 

「なぜ、そこまで出仕を渋っておるのだ」

 

 俺の前に、老人がいた。

 

 老人の名は常庵龍崇。

 建仁寺の住持(住職)で俺の師匠にあたる人物だ。

 

「近頃は大名家への下向も増えておる。世俗に交わることを不名誉とする風潮は、もはや残っておらん。学識を買われているのだから、むしろ名誉であろう」

 

 建仁寺の法堂で、俺と師匠は正座で対面していた。

 

 法堂とは講釈をする場所なのだが、本尊を安置するための仏殿も兼ねているため、屋内には木彫りの仏像が置かれていた。

 

 達磨大師の教えを至尊とする禅宗では、偶像崇拝のための仏像は本来は無用である。しかし仏像がなければ仏教とみなされず弾圧されていたかもしれないし、わかりやすいものを置いておかなければ参拝客も寄りつかないのである。

 

「二度も招聘を断るとは、諸葛孔明でも気取っておるのか」

 

「書状での呼び出しを無視しているのですから、むしろ司馬仲達ではないかと」

 

「この馬鹿弟子が! 何が司馬仲達だ!」

 

 老人の顔がサッと朱に染まった。さながらタコ入道である。

 

 ……脳の血管が切れてそのまま入滅してくれればいいのに。

 

「何のために孤児のお主を拾ったと思うておる! この無駄飯食らいが!」

 

 答えたくない質問である。なぜならそれは、金のためという理由だからだ。

 

 この時代、寺は大名家の子女を引き取るための場所になっていた。その時に差し出される寄進が寺の大きな財源になっていたのだ。

 

 師匠はそれをさらに発展させて、見込みのある子どもを拾ってきては英才教育を施して、大名家に送り出すというビジネスに手を広げている。戦国人材派遣会社、建仁寺。アウトソージング事業である。

 

 建仁寺は何度も焼かれているため、再建できず手付かずで放置されている区画もあり、住持自ら金集めに奔走しているのが現状だった。

 

 俺は咳払いを一つすると、怒り狂う老人を諭すために、つとめて冷静に意見を述べた。

 

「今川家でなければ何処へでも」

 

「なぜそこまでして今川への出仕を断り続ける。わしにはもうお主の考えていることがわからん。今川は大国ぞ。駿河と遠江、二カ国の太守である。いずれは三河を呑み込んで、三国の王になるのだぞ。拒否する理由がないだろうが」

 

 老人の声は段々と小さくなっていった。年老いて気弱になっているように思えて、俺はつい老人を労るように身を乗り出してしまう。

 

「師よ。どうしても、行けと言うのですか」

 

「ああ。わしの存命中に、祖塔を建て直しておきたいからな。金が入り用なのだ」

 

「……左様ですか」

 

「足利も三好も寺を焼くばかりで、これっぽっちも金を落とさん。いっそ今川殿に畿内の覇者になって貰えば、京の都も潤うかもしれんな。はっはっは」

 

「はっはっは、ではありませぬ」

 

 その日、俺は寺から叩き出されてしまった。

 

 今川をスルーし続けていれば、いずれ他の大名家から声がかかるだろうと思っていたのだが、どうやらアテが外れてしまったようだ。

 

 どうして俺がそこまで大名への出仕を拒むのか。その理由は、今川家だからだ。

 

 今川家だけは嫌なのだ。大事なことだから二度言うが、今川家だけは嫌なのだ。

 

 だって今川家って滅亡するじゃん。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 俺は孤児である。表向きはそうなっていた。

 

 ――俺は二十一世紀からやって来た。

 

 真実を知っているのは俺だけだ。師匠の常庵にも話していない。

 

 未来の知識は劇物である。

 

 タイムパラドックスやバタフライエフェクトという思考遊戯は好かないため、ぶっちゃけどうでもいい。なんか大名や武将が女性だったりするので、真面目に考えるだけ損に思えた。萌え系の戦国である。ラノベやエロゲの世界ではなかろうか。

 

 話を戻そう。

 

 未来知識を秘匿する理由は、ここが中世封建社会だからだ。

 おかしなことを言えば村八分。物狂いの類と思われ、座敷牢に放り込まれるならばまだ幸運だろう。犬神、猿神、蛇神に取り憑かれたと騒がれたり、狐狸妖怪だと疑われて斬られることも有り得る。

 

 大名相手に商売をしている生臭坊主な師匠だったが、俺のような天涯孤独のガキを拾ってくれたことには感謝している。

 

 薄い汁と雑穀しか口にできず、いつも飢えていたが、二十歳まで生きることができたのだから。

 

 ……でも今川だ。お歯黒の今川。蹴鞠キングダム今川。今川焼きは関係ない今川。

 

 さて、駿河今川家。

 今川の宗家であり、今川範国が駿河守護に任じられたところから始まった家だった。

 

 一時的に遠江の守護を預かったこともあったが、そちらは後に弟の今川了俊に与えられている。ちなみに了俊の子孫は遠江今川家というのだが、現在は堀越や瀬名を名乗っており、どちらも駿河今川家の家臣になっていた。

 

「貴殿が九英承菊殿か。遠路はるばる、よう参った」

 

 駿河今川家、九代目当主、今川氏親は小太りの男だった。

 狩衣を着ており、頭には烏帽子を被っている。公家風の格好である。

 

 世間では開明的な分国法『今川仮名目録』を制定したという大業のため、内治の人物と思われているが、その実体は大きく異なる。

 遠江に手を伸ばしていた斯波家を尾張に追い払う際、戦場に出ていた人物である。

 

 鉱山労働者を使って、土竜攻めで城を落としたこともあった。北条の援軍として関東入りして山内上杉家とも戦い、関東管領の上杉顕定を破っている。

 

 内政だけの人間ではなく、大名の当主としては出来物であった。

 

 あと史実では今川仮名目録が制定されたのは今川氏親が死ぬ間際のことだったが、こちらではすでに発布されていた。

 

「貴殿にはわが娘『菊』の教育係を任せたい」

 

「と言うと、仏門に入れるおつもりでしょうか」

 

「否」

 

 氏親は短く告げる。

 

「あれは嫁に出す。大名の妻として相応しい教養を身に着けさせねばならん」

 

「拙僧は禅寺の者。大名の姫に与えられるものはございますまい」

 

 俺は眉をひそめた。まったく意味がわからなかった。

 

 大名の妻としての教養というのは花嫁修業のようなものだろう。茶道や詩歌ぐらいならば嗜むが、台所や奥向きのことは専門外である。薙刀の扱いぐらいならば教えられなくもないが、俺の他に適任者がいるはずだ。

 

 このオッサンは俺に何をさせたいのだろうか。

 

 真意を問い質すように見据えていると、氏親は気まずそうに視線を逸らした。

 

「大名の妻とは方便。実のところ、わが娘はうつけ姫と呼ばれておる」

 

「なんと」

 

「幾人もの教育係を付けたが、いずれも長続きしなかった。唯一、蹴鞠だけは優れておるようだが、それだけでは何もできん。和歌も漢詩も、礼法も茶道も、いずれも途中で飽きて放り出しておる。教育係はわしから禄を出している直臣であるのに、独断で追放してわしの面目を大いに潰したこともある」

 

 きな臭くなってきた。

 氏親の娘――たしか菊だったか。これはおそらく名前の繋がりから芳菊丸のことを差しているのだろう。

 

 芳菊丸とは、今川義元の幼名である。

 

 うつけだったというのは初耳だったが、不思議時空の戦国時代だ。そういうこともあるのだろう。

 

「なればこそ出家させるべきでは」

 

「出家させたとしても、わしの死後、菊を使って今川家を操ろうとする輩が現われるだろう。今のままでは危うすぎて出家させることも能わぬ」

 

 今川氏親は家督相続時にお家騒動を経験している。

 

 その時に幕府の支持を取り付けたのが、叔父である伊勢盛時(北条早雲)だった。氏親の母は早雲の妹だったのである。幕府政所執事、伊勢氏の出身である早雲のおかげで家督を継承できたのだ。

 

 氏親はお家騒動の渦中にあって、家督相続の難しさを痛感していた。

 

 今川仮名目録でも長男に相続させると明文化して足回りを固めているところである。それは側室の娘を出家させるほど徹底されていた。

 

 俺は出て来そうになった溜息を呑み込んだ。大名の前で失礼な態度は取れないからだ。

 

「……ひとまず会ってみるとしましょう」

 

「おお! 引き受けてくれるか!」

 

 このオッサン、俺の返事を聞いていたのだろうか。俺は保留と答えたつもりなのだが。

 

 氏親は嬉しそうな笑顔を浮かべて膝を起こし、小姓を呼び付けて何やら指示を出していた。小姓がすり足で退室してから暫く経つと、俺の背後に新たな人物が現われる。

 

「関口刑部、参上仕りました」

 

 それは少女だった。黒髪ショートの眼鏡っ子だ。……この時代に眼鏡って何だ。

 

 年は十五歳前後。

 白い着流しの上に、桃色の生地の打掛を羽織っている。打掛には『二つ引き両』の家紋が入っていた。

 

 家紋を見るに、おそらくは今川一門衆である。

 

 少女は俺の隣に並んで座ると、氏親に向かって平伏した。

 

「九英承菊殿。この娘は今川の分家である関口家の者だが、菊の世話役を任せておる。身内以外に、あのうつけ姫は任せられんのでな」

 

「巷で噂にならぬよう、と言うことでしょうか」

 

「その通りだ。まかり間違って他国の大名にでも知られれば嫁の行き先が減るだろうし、出家させる時も足下を見られて多額の謝礼を吹っかけられるだろう。そもそも恥である。今川家の威信が落ちかねん」

 

 血を分けた娘をそこまで言うのかと思わないでもないが、大名に求められる冷酷非情さはこの程度では済まないはずだ。

 

 支配者であり搾取者である。

 人面獣心でなければ、他の者に取って代わられるだけだろう。

 

「刑部少(ぎょうぶのしょう)。そなたに九英承菊殿の案内を申しつける」

 

「はっ。かしこまりました」

 

「では九英承菊殿。娘を頼みましたぞ」

 

「非才の身ではありますが、私の全知全能を与えましょう。しかしながら器が小さければ水はこぼれ落ちるでしょうが」

 

「小さき器でも満たせるのならば、貴殿を呼び寄せた価値はあったと言うもの。空の器とは虚しいものよ」

 

 氏親の物言いには感慨があった。

 俺の目の前にいるのは、北条早雲という下克上の怪物に水を注がれた人物だった。

 

「然らば私はこれにて失礼いたします」

 

「うむ。大義であった」

 

 俺たちの会話が終わったのを察したのか、少女は無言で平伏してから立ち上がる。

 

 俺も袖を払って一礼してから、少女の後を追いかけた。

 

 謁見の間を出ると、どっと溜息が出て来てしまう。しんどい疲れたやってられん。

 今川義元の教育係って何だよ。雪斎か。雪斎なのか。……はい、雪斎です。

 

 九英承菊という名前の時点で、ある程度は覚悟していたのだが。

 

「九英承菊様」

 

 少女はふと立ち止まり、俺に向き直った。

 

「私は関口刑部少輔氏広。今川一門衆、関口家の当主です。と言っても実権はまだ義父が握っていて、私の役目は姫の世話役。ほとんど無役の身と変わらない立場ですので、私のことはどうぞお好きにお呼びください」

 

「ならば氏広殿でよろしいか」

 

「呼び捨てで構いませんよ。教育係は世話役よりも上役になりますので」

 

 関口氏広は肩の力を抜いて微笑んだ。

 どうやら氏広はしっかり者の委員長タイプの眼鏡っ子のようだった。

 

「氏広でよいかな」

 

「それで結構です。では姫のもとに案内いたします」

 

 廊下をすたすたと歩く。

 

 駿河の国府。

 駿府城と呼ばれることもあるが、今川家では今川館と呼ばれることの方が多い。

 

 本丸の奥深くにどっしりと構えているのは、武家造りの寝殿である。

 この時代の城は本丸、一の丸、二の丸と続く多層式であり、現代人がよく思い浮かべる天守閣はそれ自体は城ではない。天守とは防御施設の一部であり、居住性は皆無である。有り体に言えば見栄えのする壁のある櫓なのだ。

 

 城主やその妻子の居住区、評定の間、謁見の間などは本丸の武家屋敷にあった。

 寝殿造を簡略化した武家造と言われる建築様式である。

 

 渡り廊下を歩いていると、ちらほらと土倉を見かけた。武器庫や兵糧庫だろう。

 

 厩舎もあり、馬飼が軍馬に水をやっているところだった。

 

 城内を興味深げに見物している俺に、関口氏広は物言いたげな顔を向けた。言うべきか迷っているような印象を受け、俺は「何か?」と尋ねてみる。

 

「あ、その。九英承菊様は京で学問を修められたとお聞きしておりますが、どのようなものを?」

 

「さて。具体的に話せば長くなるが」

 

「できればどのようなものか、概略だけでもお教え願えませんか」

 

 見定められていると俺は思った。

 

 軍学は七書である孫子、呉子、司馬法、尉繚子、三略、六韜、李衛公問対。

 歴史書は古事記、六国史、四鏡、平家物語、将門記、神皇正統記、太平記。

 万葉集、古今和歌集、新古今和歌集などの歌書にも目を通したがこちらは才能がなかったのかあまり身につかなかった。

 武野紹鴎がうちの寺で闘茶をやっていた時に、発明されたばかりの侘び茶を手ほどきされたこともある。

 

 ……などと言えば知識自慢うぜぇとなるはずだ。俺は日本人は謙虚であれという教えに従った。

 

「教典の類はそなたらには無用だろうから省くとして、軍学、歴史、漢詩に和歌といったところか」

 

「具体的には?」

 

 やけに食い下がる。

 氏広は眼鏡をキラリと輝かせながら距離を詰めてきた。うら若き乙女の匂りがして、僧侶の身には毒である。ちなみに俺は童貞だ。だって僧侶なんだもん。

 

「よもや私を疑いか」

 

「滅相もございません。私は。私はただ」

 

 真意を見定めるために問いを投げてみると、氏広はあからさまに動揺していた。若いなと思う。俺より五つほど年下なだけだが、氏広は意外に素直な性格をしているようだ。

 

「……姫さまの助けになりたいんです」

 

 ポツンと、湖面に水滴を落としたような言い方だった。俺の中で波紋のように理解が広がった。

 

「うつけ姫と呼ばれ、親族衆からも一門衆からも、実の父親にすら侮られて。当人を差し置いて嫁に出すか出家させるかを議論するなんて、姫さまが可哀想すぎます。姫さまはただ、ちょっと頭がゆるいだけなんです」

 

「頭がゆるいと?」

 

「あ、これは内緒でお願いします」

 

「……ああ」

 

「姫さまの世話役である私が優れた見識を持っていれば、主である姫さまも見直されるかもしれないと思ったんです。有能な家臣を召し抱えていれば、その主も評価されるわけですから。……まぁ私は表向きは大殿の直臣なんですけど」

 

 その考え方は間違ってはいない。

 が、氏広は俺に学問を教えてくれと言っているわけで正直めんどい。

 

「私に学問を伝授してください! お願いします、何でもしますから!」

 

 ん? 今何でもするって……いや。

 俺は頭の中のエロい妄想を切り捨てる。アホか。

 

 とりあえず今はまだ返事は保留しておいた。今川のうつけ姫に追い返されればそれまでのことだからだ。

 

「私に菊姫の教育係が務まるようなら、その隣で勝手に知識を盗めばよかろう」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 女色に惑わされたと言うことはないはずだ。うん、ないはず。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 桶狭間の戦いと言うと、歴史オタは「田楽狭間だバーカ」と口汚く罵ってくるものである。

 墨俣一夜城が創作だったとか、豊臣秀吉が農民出身ではなく下級武士出身だったとか、真田幸村の名前は信繁だったとか、浅井長政の肖像画が不細工だとか、長篠の戦いは設楽原の戦いだったとか、鉄砲三段撃ちは無かったとか、それらはもうテンプレになっている。

 

 実際の桶狭間の戦いはどういうものだったのか、面倒なのでここでは語らない。

 

 さて、桶狭間もとい田楽狭間で討ち取られた今川義元とはどのような人物だったのか。

 

 現代では殿上眉でお歯黒の貴族趣味で、顔面に白粉を塗りたくった『バカ殿』だと思われている。最近ようやく再評価されてきているが、まだまだバカ殿のイメージが強い人物だった。

 

 しかしその正体は、今川仮名目録追加二十一条の発布、寄親・寄子制度の実施、外交上の奇跡である甲相駿三国同盟の実現、三河の分国化など、数多の偉業を達成した革新的人物であった。戦国時代の最先端を走る者である。

 

 その今川義元が、なぜうつけ姫と呼ばれているのか。

 俺は不思議で仕方がなかった。が、出会って一秒でその理由を理解した。

 

「また新しい教育係ですの? 無用だと言っているのに、まったく、父上のお節介にもほとほと嫌気が差して参りましたわ」

 

 十二単である。

 

 平安貴族のお姫さまが着ているような、何枚も重ねた着物姿である。

 

 歩くだけで全力疾走並みに体力を使うのだろう。姫は一歩も動こうとしない。

 

「まさか、これが?」

 

「……公家趣味なんですよね。できれば九英承菊様に矯正して頂ければ有り難いのですが」

 

「嫌だ」

 

「無理ではないんですね。では頑張ってください」

 

 俺の口から咄嗟に出て来た言葉はあまりにも稚拙なものだった。関口氏広に揚げ足を取られてしまうという有り様である。

 

「おまけに男ではありませんか。男なんて性欲の塊で、汚らしくて、気色の悪い生き物です。畜生の方がまだ可愛げがあるだけマシというものですわ」

 

「ちなみに姫は男嫌いです」

 

「そのようだな」

 

「氏広さん。わらわに男を近付けぬよう厳命しておいたはずですが、よもやお忘れになったのですか?」

 

「姫さま。九英承菊様は京の建仁寺で徳を積まれたお坊様です。仏門に入って長いお方が、どうして女色に迷うことがありましょう」

 

「寺の坊主どもは男同士で絡み合っていると聞きましたわ。相手を選ばず性欲に狂っているようでは、野に放たれた獣と変わらないではありませんか。人里に近付く野犬は追い払われるものです。わらわのしていることはただの自衛ですわ」

 

「姫さま! いくら何でも失礼です!」

 

 俺を害獣呼ばわりする物言いに、懸命に説得していた氏広が色を失った。

 だが、俺は不快には思わなかった。

 

 正しいと思った。この姫は間違ったことは言っていない。

 大名の姫である。

 男を嫌うのは身体を清く保つため。当然のことだ。

 そして戦国時代には実際に堕落した僧侶が多かった。初見の僧侶を信用するなど無理である。

 

「氏広。この姫は、まことにうつけか?」

 

「は? 今なんと?」

 

 氏広は困惑していて棒立ちしている。役に立ちそうにない。

 

「おい、小娘」

 

「なっ、わらわを小娘と!? わらわを誰だと――」

 

「なぜ学問の師を追い払う」

 

「……知れたこと」

 

 俺は激高する菊姫の言葉を遮った。菊姫は手にしていた扇子をバッと広げる。

 

「おーっほっほっほっ! 今川の姫たるわ・ら・わに勉強など無用。知識が要るなら家来を呼び付けて問い質せば済むことで、技術が要るならば家来を呼び付けてやらせればいいのですわ!」

 

 間違いではないが、決して正解とはいえない答えだった。

 採点すれば五十点に届かない点数だ。だが、まったく見込みがないわけではない。

 

 平時ならばその答えに百点を与えてやってもいい。だが、戦国時代にそれでは駄目だ。

 

 俺は腕組みをして溜息を吐いた。

 

「馬鹿者が。思い違いも甚だしい」

 

「なっ、なななっ!? 何故です!?」

 

 菊姫は目を丸くしてあたふたしていた。

 

「知識や技術がなければ家来が正しいことをしているのかすらわからんだろうが。最後には家来に家を乗っ取られ、謀反を起こされて死ぬるのみぞ」

 

「わ、わわわ、わらわは今川の姫で、家来たちはわらわの高貴な血に自ずからひれ伏すはずで……」

 

「その家来にも、お主と同じ血が流れているのだ」

 

 例えば関口氏広。彼女は今川の分家である。

 遠江今川家の末裔である堀越や瀬名も一門衆。氏親から五代戻れば兄弟だったという血の濃さだ。

 今川宿老である三浦家には北条早雲の娘が嫁いでおり、早雲の甥である氏親とは縁戚である。

 

「むしろ、お主と取って変わることもできるのだ。それだけの大義名分を、お主の家来たちは生まれながらにして持っておる」

 

「……では、わらわはどうすれば」

 

「学ぶべし。私から教えを請うのが嫌だと言うなら、独学でもよかろう。先ず隗より始めよと言う。いろは歌でも何でも構わん。さすれば高度な知識はいずれ、お主の頭に独りでに入り込もうとするはずだ」

 

 うつけ姫は顔を上げた。

 

 十代前半の幼さを残した少女だった。箸より重いものを持ったことがなさそうな、たおやかな姫君は、つややかな黒髪を長く伸ばした目付きがきりっとした美少女だった。

 

 菊姫。

 

 いや、今川義元。

 

 一つ、興がわいた。

 このうつけ姫がどこまでやれるのか。試してみたくなった。

 

「大名の女になるか、仏門に入るか。それとも」

 

 陳腐な感傷を覚えた。

 俺が太原雪斎であるならば、これは運命ではないか。

 

「戦国大名になってみないか?」

 

 後の今川義元が目を見開いた。

 

 この日、俺の時間が動き始めた。

 

 

 



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2.今川家の教育者

 今川仮名目録とはどのようなものだったのか。

 

 戦国時代に今川氏親によって制定された分国法であり、今川家の領国経営は仮名目録に則って行われていた。武田家の分国法である『甲州法度之次第』にも多大な影響を与え(と言うか半分コピペってる)、北条家や織田家も仮名目録を参考にしたという。

 

 内容は大雑把に言えば大名家の運用マニュアルだ。

 細かく述べると土地の裁定、家臣の義務、借金や利息の制限、宗教法、スパイ防止法である。現代人にとってはごく当たり前のことしか書かれていないが、この時代においては開明的な法律だった。

 

「これを読むだけで、大殿がどれだけ優秀かわかるだろう」

 

 俺は仮名目録の巻物を机に広げていた。

 現代人にとっては暗号のごとき草書体も、俺にはもう慣れたものだった。

 

「……さ、三十三条もあるんですの? えっと、一日一条ならば一ヶ月かければ」

 

「一日で覚えろとは言わんが、一週間で頭に叩き込め。あと明日は難太平記の講釈をするので、今晩はその予習に充てるように」

 

「あわわわわっ。わらわは体調が……」

 

 青ざめて額に手を当ててふらついている菊姫がいた。

 

「『わらわ』は止めよと言っただろうが」

 

「『わたくし』でしたごめんなさい!」

 

 菊姫の手の甲を、教鞭でペシンと叩く。

 

「うぅ……いくら何でも厳しすぎます……おーほほ……ほほ……」

 

「私の指導を求めたのは姫の方からだろう。要らぬと言うなら去るまでのことだが」

 

 菊姫のキャラ付けである高笑いにも力がない。

 

 嫁入りは嫌だ、出家も嫌だという菊姫。

 

 いざ戦国大名に――と言うほどの野心はないようだが、実力さえあれば家臣から侮られることもなくなり、自分の意志を通すこともできる。

 

 菊姫はそれにすがって努力している最中だった。もっとも性根は軟弱にもほどがあったが、それは言わぬが華だろう。

 

「あの姫さまが活字に目を通しておられるなんて、氏広は感無量です。しくしく」

 

 涙腺を崩壊させているのは関口刑部少輔氏広。官位の刑部少輔は関口家の当主が代々名乗っているもので、今川氏親から受領したという形式になっている。と言っても正式に任官されたものではなく、戦国時代に流行った自称官位でしかない。

 

 ちなみに氏広は瀬名家から関口家に養子入りしていた。

 瀬名と関口、どちらも今川一門なので肩身の狭い思いはしていないようだ。

 

「ところで九英承菊様。難太平記とはどのようなものですか?」

 

 氏広に問われ、俺は仮名目録の巻物を閉じると、別のものを広げた。

 

「著者は遠江今川家の祖、今川了俊。尊氏公の御世、九州探題に就任し、かの地の南朝方をことごとく殲滅なされた御方だ」

 

 南北朝時代、今川宗家の弟に優れた人物が現われた。

 だがその子孫である堀越や瀬名は今や勢いを失い、今川の一門として存続しているだけである。まさしく盛者必衰だった。

 

「書の内容は今川家の歴史書で、今川視点から書かれた太平記とも言える」

 

「太平記とは何ですの?」

 

「……南北朝時代のことを書いた軍記物だ」

 

 わざわざそこから説明しなければならないのかと若干げんなりする。が、小首を傾げている姫が可愛かったので許した。

 

「それにしても、なぜ今さら今川家の歴史書を読まないといけませんの? わたくしは今川の姫ですのよ? 流れている血の高貴さは他でもないわたくしが最も心得ておりますわ。おーっほっ――」

 

「説明するまでもないだろうが、今川は吉良の分家であり、征夷大将軍になれる家柄だ」

 

「……ほ?」

 

「うわぁ。あの姫さまの高笑いを止めてしまいましたよ」

 

「今川家が管領や執事などの幕府の役職に就かなかったのは、今川家が足利家の継承権を有していたからである。幕府の役職は家臣のもので、足利一族のものではないのだ」

 

「……それは、つまり」

 

 菊姫は扇子を握り締めた。震えそうになる手を押さえ付けていた。

 

「今川には、名分があるのですわね?」

 

「左様」

 

 俺は頷いた。

 

 愚鈍な少女の中で、何かが広がり始めていた。それは夢だ。誰もが夢想し、無理だと笑って諦める夢だ。

 

 少女は夢を見ている。天下に号令をかける夢である。

 

 さて、どうなるか。俺は内心でほくそ笑む。並みの者なら怖じ気づくのだろうが、この姫はどうなるのだろう。

 

「流石はわらわ! よもや将軍の血が流れていたなんて、これは盲点でしたわ! わらわの高貴な血筋に全国の諸侯が跪くのも夢ではないと言うことですわね! おーっほっほっほっ!」

 

「わらわは止めい! 鬱陶しい!」

 

 やはり阿呆か。

 俺は教鞭でペチペチと菊姫を叩いた。菊姫は「ぴぎぃ!」と奇妙な鳴き声を上げながら、逃げようとして着物の裾を踏み、盛大にすっ転んでいた。

 

 ゴロゴロと転がる残念娘に、俺と氏広が溜息を吐いたのは同時だった。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 菊姫へのスパルタ教育を始めてから二ヶ月が経った。

 

 当初はすぐに辞めるだろうと思われ、哀れみの視線を向けられていたが、今やそれは驚愕に変わっている。菊姫がうつけだということは家中でも秘されていたはずなのだが、人の口に戸は立てられないと言うことか。水面下で噂は広まっていたようだ。

 

「貴殿は駿河一! いや、天下一の教育者である!」

 

 と感激した氏親から感状を貰ってしまった。こんな紙切れをどうしろと。

 

 その噂もすでに広まっていたようで。

 

「どうか九英承菊殿に、わが愚息の頭を叩き直して頂きたい」

 

 岡部久綱という男がいる。

 今川家の譜代家老であり、岡部左京進家の当主だった。岡部家は久綱の祖父の代で枝分かれしており、今川家では岡部本家と岡部左京進家の二つが厚遇されている。

 

 見たところ、武人のようだった。

 駿河先方衆(旗本)の一人であり、言わば氏親の近衛兵である。遠江平定でも槍働きをしていたのだろう。

 

 竹を割った性格の武人にしか見えないが、万が一のこともある。俺は目を細めた。

 

「真意をお教えいただけませんか」

 

「真意とは?」

 

「五郎兵衛殿に拙僧の教えが必要とは思えないのです」

 

「うちの五郎をご存じであったか! 一家臣に過ぎぬ拙者の娘を存じておるとは、感服仕った! もはや貴殿の他に娘を託す相手は考えられませぬ!」

 

 誤解されそうな言い方をする久綱に、俺は頬を引きつらせる。

 

 押し出しの強い男だった。こういう人物には回りくどい言い方をしても伝わらないだろうし、伝わったとしても嫌悪されかねない。もう直接言うしかなさそうだ。

 

「端的に申します。私は久綱殿のご子息が、間諜の類でないかと疑っているのです」

 

「……今、何と?」

 

 冷や水を浴びせられたように久綱は喜色を消して、怒りに震えた。

 

 無粋な物言いをしてしまった。しかし念を入れておかなければならない場面である。油断すれば報いは流血としてやって来る。それが権力者の定めだった。

 

「菊姫がうつけでなくなれば不都合が生じる方々もございましょう」

 

「いや、まぁ、それはそうだ。なるほど。九英承菊殿の仰りたいことは理解できた。だがなぁ」

 

「まだ理解が足りません。久綱殿がご子息を私に託すということは、岡部が菊姫の後見になると思われかねない。いいえ。十中八九、そのように受け止められるでしょう」

 

「……不都合があるのかね」

 

「不都合です。こちらも、岡部にも。そして長子相続を方針にしている氏親様にとっても」

 

「……そうか」

 

 主君の名前を出され、久綱は意気消沈した。

 将来のために岡部を味方に付けておく機会だったが、家中の反感を買ってまですることではない。

 

 そもそも史実では今川義元は出家しているのだ。

 

 長男と次男が病死し、出家していた側室の息子が当主になろうとして、ようやく担ぎ出されたのが今川義元である。

 

 ここは俺の知っている歴史とは違う。それを認識しておかなければ、舵取りを誤った船のように転覆してしまう。

 

 何事においても慎重に、だ。

 

 そう思っていたのだ。……それでもまだ甘かったのだろう。

 

 今川館の城下にある武家屋敷が俺の自宅だった。

 

「九英承菊様の世話係を命じられました! 五子(いつこ)でーす!」

 

 なんか部屋にいた。

 

 無言で戸を閉めて、隣の屋敷の門戸を叩く。

 

「うーっす。どなったっスか……って、隣の坊さんじゃねーっスか」

 

 出て来たのは三下口調の少年だった。

 

 三浦家宿老、三浦範時の三男である三浦氏満だ。三男なので影が薄く、重臣の息子なのに無役のニートである。以前「いや俺やればできるし。こう見えて北条早雲の孫だし」と言っていたが、その場にいた兄に「俺もだっつーの!」と殴られていた。

 

「なんなんスか? 俺、脳内で槍の稽古をしていたんスけど」

 

「いや、部屋に変な生き物がいてな」

 

「ああ。台所に出て来る黒いアレっスか? お坊さん、意外と女々しいんスね」

 

 俺は氏満の顎先にアッパーカットを放った。

 梃子の原理で頭蓋骨がシェイクされ、脳みそがぷるぷるすると脳震盪を起こす。意識があるのに身体が動かない状態になるのである。

 

 俺は氏満を引きずって自宅に戻る。

 

「どうも五子でーす! 炊事も洗濯もできませーん! あ、お腹が空いたのでご飯を作ってくれませんか?」

 

 俺はその奇妙な生き物を指さした。

 

「これ、何?」

 

「ああ、岡部のところの娘さんっスよ。なんスか? まぁ見た目だけは綺麗どころではありますけど、あんなの囲ってるんスか? 坊さんって意外と面食いだったり? いや、坊主だから禁欲するべきなんスよね? あ、ちょ、待って、いま手を離されたら頭ぶつけるって、ほんと冗談はやめ――」

 

 軽口を叩き始めた氏満を外に捨てると、俺はそれに目を戻した。

 

 見た目は美少女である。

 茶髪ポニーの小リス系で、年のほどは十二歳ぐらいだろうか。笑うと八重歯が目立つ娘である

 

「何のつもりだ、岡部五郎」

 

「やだなぁ。岡部五郎なんて五子は知らないですよ。五子はお奉行さまに命じられてお坊さまのお世話をさせていただく町娘なのです」

 

 町娘のような安っぽい着流しを着ている。おそらくは古着屋で調達してきたのだろう。

 着物の袖をまくって半袖にしており、何がしたいのだろうか、シャモジで空っぽの鍋をガンガン殴っている。たぶんメシの催促だ。居候にあるまじき図太さである。

 

 あと腰帯に太刀を差していた。この時点でお忍びは破綻している。こんな町娘がいてたまるか。

 

「特技は五人張りの大弓を引くことです! ひゃっはー!」

 

 どこの鎮西八郎だ。こんな町娘がいてたまるか。

 

 こうして強制的に岡部五郎兵衛元信あらため、改名して岡部五子元信になった少女が俺のところに押しかけてきたのだった。

 

 岡部久綱、武人らしい力業(ゴリ押し)である。なんだこれ。マジでなにこれ。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 俺は坊主である。

 と言っても頭髪は剃っていない。ハゲではない。ハゲではないのだよ。

 

 裏技というか何と言うか、頭巾を被っていればオッケーのようなのだ。実際のところ毎日ツルツルにするのは面倒だったため、いわゆるスポーツ刈りのお坊さんは結構多かった。色々理屈を付けて妻帯している浄土真宗の連中と比べれば、これぐらいは勘弁して貰えると思う。たぶん。

 

 そう言えば、本願寺。

 戦国時代に大名クラスの力を有していた織田信長の宿敵だが、この世界では『本猫寺』になっていた。戦乱に厭いた人々が癒しを求めてお猫様を崇拝しているらしい。意味がわからないが、そういうものである。納得してもしなくても本猫寺は存在しているのだ。

 

 話を変えよう。

 

 朝、俺の目覚めは日の出と共に始まる。

 この時代では特に早起きではない。百姓も農作業のためにこの時間に起き出している。代わりに就寝時間も早いのだが。

 俺は寝間着の浴衣から黒い法衣に着替えると寝室を出た。

 

 足は隣の部屋に向く。そこは仏間である。

 仏間には何もない。以前説明したように禅宗では仏像は不要なのだ。

 

「うぅ、超ねみぃ。五子でーす。おはようございます、そしておやすみなさい。ぐーぐーぐー……」

 

 俺は無言で元信の足を払った。そのまま少女の背中を踏み付け、ぐりぐりすると悲鳴が上がる。

 

「うひぃぃ! おはようございます、お師匠! 今日も一日がんばりましょー!」

 

 なぜ朝から少女を折檻しなければならないのか。溜息の一つも吐きたくなる。

 この娘、放っておけば寝ながら歩くのである。寝ながら朝食を食べ、それから二度寝しようとする。

 

「五子は禅宗ってかたっ苦しくてあまり好きじゃなんだけどなー……ってお師匠! なんで棒を握り締めてるの!?」

 

「雑念は叩いて外に出すものだ」

 

「はい五子なにも考えません! 雑念って何それおいしいの? もう今の五子は無我の境地に達してるね!」

 

「解脱しているならもはや痛みを感じることもあるまい。叩くぞ」

 

「ひぃぃぃぃっ! 何があっても叩くつもりなんですねお師匠!?」

 

 ごたごたの後。

 香炉に抹香を放り込み、おつとめの最初に読むのは開経偈(かいきょうげ)である。ゆっくりと喉の調子を整えながら読み上げると、次に般若心経を広げた。

 

 それが終われば屋敷の掃除である。

 

 井戸水を桶に張り、固く絞った雑巾であらゆるところを拭く。拭く。ひたすら拭く。もちろん元信にもやらせている。使用人にやらせることもできるが、これは禅宗の修行だった。屋敷を留守にする場合でなければ自らの手でやることを俺は自分に課していた。

 

 世話になった建仁寺で仕込まれた、おそらくは死ぬまで続ける習慣だった。

 

「ひゃっはー! メシだー!」

 

 掃除が終われば朝食の支度である。これから作るというのに喜んでいる馬鹿がいた。

 

 朝は一汁一菜が基本だったが、昨晩の残り物などで一品さらに増えることもあった。……はずなのだが居候のせいで残り物が出なくなっていた。

 

 小さい身体のくせに大量の米をかきこむ超高燃費娘である。全自動穀潰しだ。

 

「ごっはんー! おっにくー!」

 

 ハイテンションな馬鹿がいた。

 

 なんと今日は朝食に肉があった。隣の三浦家で飼育されていたニワトリである。お裾分けに来た三浦母がニートの就職先を求めているようだったので、それとなく戦場に出られるよう推挙しておくと伝えておいた。ニート涙目。

 

 ちなみに昔の日本では肉食は流行っていなかったという説もあるが、実際のところ労働力である牛馬でなければ何でも食っていた。美味なものは猪、鹿、鴨、兎などである。熊、狸、リスも食う。でも薩摩で有名な『えのころ飯』は勘弁な。

 

 朝食の後片付けをしてからは自由時間だ。手紙のやり取りをするために書き物をしたり、その日の菊姫への指導内容をまとめ直したりする。手が空けば座禅を組んで読経した。

 

 頃合いになると、いよいよ今川館に登城するのだが。

 

 この日は玄関先で何者かが「御免」と声を張り上げて、激しく戸を叩いている。緊急の用事のようだった。

 

「何事か」

 

 玄関先に現われたのは伝令役の馬廻である。馬廻とは家臣の次男三男で構成されており、警備や伝令、事務仕事を任されている大名の側近であった。

 

「はっ。大殿からのご命令で一刻後に評定を行うため、九英承菊様は菊姫さまの後見として列席されたしとのことです」

 

「相分った。お役目ご苦労」

 

「然らばこれにて御免」

 

 馬廻りの少年は颯爽と走り去った。随分と涼しげな容貌をしているなと感心していると。

 

「五子に挨拶もしないなんて弟のくせに生意気だよ、ぷんぷん。去年まで寝小便をしていたのをみんなに言いふらしてやろうかな」

 

 もうバラしている。いとも容易く行われるえげつのない行為だった。

 

 あれが岡部久綱の息子、岡部忠兵衛貞綱らしい。重臣の子息だが馬廻りとして活躍しているという。思わず隣のニートと見比べてしまいそうだ。

 

 ともあれ一刻後である。

 

 時間的な余裕はほとんどない。事前に情報を仕入れておくことも、その情報を使って作戦を練ることも、根回しをすることもできないのである。

 

 いずれは諜報活動に力を入れなければならないと痛感する。だが第四子である菊姫に重要な役目が与えられるとは思えない。俺自身、出しゃばるつもりはなかった。今回も今川の一門として形だけ出席しておけと言うことなのだろう。

 

「師匠。今日のお勉強は?」

 

「城まで共をせよ。その後は勝手にするがよい」

 

「わーい! 朝からお肉が食べられたし、勉強もなくなったし、今日の五子は絶好調だよ!」

 

 登城までの所要時間は半刻ほどである。徒歩で四半刻、さらに姫の住居は三の丸の屋形にあり、面会までに四半刻かかっていた。合計で半刻だ。

 

「どれだけ待たせるつもりだ、馬鹿娘」

 

「すいません九英承菊様。でも姫さまは一応は女の子ですので、身だしなみに時間がかかるんですよ」

 

 ようやく姫が登場すると、思わず俺は苦言を漏らしてしまう。

 十二単の裾を持たされていた氏広が弁解するが、はっきり言って話にならなかった。緊急時だというのに面会するだけで四半刻もかかるというのは、もはや格式がどうこうと言えたものではない。

 

 俺の苛立ちに気付いている氏広は気まずそうだったが、空気が読めない菊姫はなぜか上機嫌である。

 

「本日の着物の柄は、わたくしの名前と同じ菊の花にしてみましたわ。……あ、あの。師匠はどう思いますか?」

 

「金地は趣味ではない。もっと落ち着いた色合いの方が……ではなく、お主は評定を何だと思っている」

 

 意見を求められたので見たままの感想を述べると、菊姫は「ががーん」と意気消沈していた。後半の俺の説教を聞き流すほどショックを受けているようだ。

 

「突然の呼び出し、氏広は何か聞き及んでいるか」

 

「さぁ。まだ何も」

 

 氏広は首をひねりつつ、だが言いたいことがあるらしく、そのまま言葉を続けた。

 

「遠江衆の子息が動き回っているみたいです」

 

 今川館に滞在している遠江国人の子息が、実家と連絡を取り合っている――という意味だった。

 

「朝比奈か」

 

「いえ」

 

 遠江朝比奈家は今川家の宿老である。

 遠江先方衆の筆頭であり、当主の朝比奈泰能は今川家の遠江戦略の重要人物だった。

 

 遠江に動きがあるなら、まず朝比奈が関わっているものだと考えたのだが、氏広は首を横に振った。

 

「福島か」

 

「証拠はありませんが」

 

 氏広は苦虫を噛み潰したような表情をする。

 

「えっと……お二人は一体何の話をしているんです? それよりも『この着物なら師匠の目を奪うこともできましょう』と絶賛していたのは、どこのどなたでしたか?」

 

「私ですけど空気読みましょうよ姫さま。これから評定が始まるんですから」

 

「お小遣い一年分で購入した加賀織物を、気になっていた殿方に酷評されたのですよ! これは切腹ものの失態ですわ!」

 

 ぽんこつ姫が何か言っていたが、俺と氏広はスルーした。この姫の扱いも慣れたものだった。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 今川家にはトラウマがあった。それは『飯田河原の戦い』と呼ばれるものだった。

 

 今から十五年ほど前のこと。

 武田信虎が勢力を伸ばしていた頃、甲斐の豪族である大井家、今井家らが今川に助力を求めたのである。

 

 今川氏親は一万五千の兵を今川最強の武将、福島正成に預けて甲斐に乗り込んだ。福島正成は富田城、勝山城を陥落させながら北上し、武田の本拠である躑躅ヶ崎館の目前まで接近する。距離にしておよそ二百メートルのところまで押し寄せていたという。

 

 おまけに武田の兵はわずか二千のみ。まさしく武田存亡の危機である。

 

 武田信虎は偽兵を使って自軍を大きく見せながら、騎兵を使った機動戦で今川方と互角に渡り合った。今川軍は前哨戦で二百騎あまりを討ち取られるという敗北を喫する。それでも今川は大軍。一度の小さな敗北だけでは崩れず、福島正成は「敵は強い。各々さらに気を引き締めよ」と全軍に訓戒していた。

 

 その日、信虎のもとに長女が生まれたという報告が入った。後の武田信玄である。

 

 御曹司の誕生に武田軍の士気はにわかに上がり、戦況を膠着状態までもつれ込ませた。日中の戦いは引き分けに終わったが、深夜の夜襲によって今川軍は大混乱に陥り、またもや数百騎を失った。追撃されてさらに首を取られ、最終的に四千人の死者を出したのである。

 

 以後、福島家は今川家の主流から外され、武の要としての役割は朝比奈家に移されていった。

 福島正成は娘を氏親に嫁がせていたのだが、これが産んだ姫は出家させられている。福島家は政権の中枢から排除されたのである。

 

「どうか拙者に出陣の下知を! 此度こそは陸奥守の御首を上げてみせますゆえ!」

 

 その福島正成が今川氏親に嘆願していた。

 

 地に落ちた武名を取り戻すために、必死になっている老人である。頭髪は禿げ上がっていたが、肉体に衰えは感じられない。武将としての道を諦めていないことが、身体を見ればわかるほどだった。

 

「今さら何を言うのかと思えば。二十年前に切腹しておけばよかったのだ」

 

「残された一族のことを思えば、拙者一人が果てたところで無意味というものでございます」

 

「お主がいなければ福島を厚遇していただろうよ」

 

 リアルタイムで晩節を汚しまくってる老人に、氏親は鼻でせせら笑った。準一門への対応とは思えないほど二人の関係は冷え切っていた。

 

 周りの重臣たちは蚊帳の外に置かれ、ひそひそと内緒話を繰り広げている。

 

 俺は菊姫の後ろに正座し、退屈を持て余していた。

 

 周りを確認すると、氏親の両脇、最上段に宿老の三浦範高がいる。

 今川家では重要な役割を背負っていた家臣であり、史実では桶狭間の戦いでも三千人の別働隊を率いていたのだが、ゲームではこれっぽっちも出て来ない人物である。あと範高はニート氏満の祖父だった。

 

 もう一人の宿老は朝比奈泰能。

 立場上は今川家の長老格だが、泰能はまだ中年だった。福島に代わる武の要だ。

 

 この二人の宿老が氏親体制の両輪だった。

 

 それから関口、瀬名、堀越、蒲原などの一門衆が続き、氏親の息子である氏輝、氏豊が並ぶ。

 

 充分すぎるほどの人材がこの場にいたが、緊急の評定のためこれでもまだ大半が自分の領地にいる。すべての城主を呼び寄せれば如何ほどの数になるのか。評定の間から溢れ返りそうだ。

 

「で、一体何があったのですか?」

 

 扇子で口元を隠した菊姫が小声で話しかけてくる。

 どうやら先ほどの話をまったく聞いていなかったようだ。俺は溜息と一緒に答えた。

 

「武田が南下してきたのだ」

 

 甲斐源氏の嫡流、甲斐武田家。

 当主である武田陸奥守信虎は甲斐国内を牛耳っていた守護代の跡部氏を排除し、穴山や小山田を戦で破って従属させ、甲斐統一を成し遂げた守護大名である。

 

「武田がなぜ駿河に兵を出すのです? 大義名分はありませんわよ?」

 

「今川と武田は宿敵同士。名分などなくとも攻め込んでくるだろうが、あえて述べるなら扇谷上杉との同盟が理由になる」

 

「武蔵国にいる上杉がどうして関係するのです?」

 

「陸奥守信虎は上杉の娘を嫁にしている。婚姻同盟を結んでおるのだ。今、上杉は北条に城を奪われ続けている。北条と同盟を結んでいる今川は上杉の敵であり、武田の敵とも言える」

 

「……強引な」

 

 菊姫は呆れ果てていたが、俺も内心その通りだと思った。

 まぁ今川も甲斐に何度も侵攻しているのだ。大義名分など今さらである。

 

 武田侵攻の報が入ったのが今朝方である。

 南下してきたのは二千人の小勢だが、すでに国境にある大宮城が包囲されているという。知らせを持ってきたのは大宮城主の富士家からの伝令で、すぐに救援を出して欲しいとのこと。

 

 氏親が重臣たちと協議を行っていると、独自に情報をつかんだ福島正成が領地の兵を呼び寄せようとしていることが発覚。これは謀反と疑われかねない暴挙だった。

 

 氏親は福島正成の行いを止めさせるために城下にいた家臣を集めて合議を行い、数の暴力で封じ込めるつもりのようだ。

 

「ともあれ武田は駿河衆で迎撃する。お主は遠江で高天神城を守っておれ」

 

 氏親と正成の話も一段落したようだ。

 正成は平伏していたが、握り締めた拳が震えている。横顔を見れば歯を食いしばっていた。

 

 これでようやく現実的な話をすることができる。場の雰囲気が変わり、武田を迎え撃つため空気が引き締まり――そこに水を浴びせかけた馬鹿がいた。

 

「よいではないか」

 

 甲高い、裏返った声だった。公家の話し方を真似しているようだった。

 

 堀越貞基。

 今川一門衆の一人だが、遠江今川家の後継者を自負している。遠江守護の復権を求めており、気位が高く扱いにくい男だった。

 

 初老の貞基は悪巧みをするような黒い笑顔で言う。

 

「福島殿がこれほどまでに頭を下げて懇願しているというのに、耳を傾けようともしないとは。駿河の太守である治部大輔殿(氏親)が狭量なことを申されるものよ」

 

「何のつもりか、左京(堀越貞基)」

 

 言葉が主君に対するものではなかった。

 

「相手は二千の小勢であろう。総大将でなくとも武将としての参加ぐらいは許しておくべきではないか。治部大輔殿が福島殿を追い詰めれば、最悪の時期に謀反を起こされかねんぞ。武田侵攻に合わせて背後で蜂起されれば、それはもう厄介なことになるだろうよ」

 

「わしを脅すつもりか」

 

「滅相もない。それがしは今川一門。親族ではありませんか」

 

 堀越貞基は突然言葉を改める。面従腹背を隠すつもりもない態度だ。

 

 さらに貞基に同調する声が上がる。

 

「堀越殿の発言にも一理あり」

 

「陸奥守を押し返すなら、福島殿の他に適任はなかろう」

 

「福島殿も失敗を反省し、次に生かしておるはず。二度と武田には遅れは取るまい」

 

 駿河朝比奈家の当主、朝比奈信置。駿河河東に領地を持つ葛山氏広。駿河先方衆、由比正信たちだ。

 

 福島が――いや、貞基と手を結び、二人で事前に根回しをした結果だった。

 

 氏親は苦々しげに顔を歪めている。今や主導権を完全に奪われていた。

 これが守護大名だ。戦国大名ではない。豪族の盟主にすぎない、連合王国の王だった。

 

「総大将は今川氏輝殿。副将に福島正成殿でよろしいか」

 

「意義なし」

 

「同じく」

 

 各地の城持ち衆を集めていれば圧殺できただろう意見は、投票者の寝返りによって無視できない力を持ち始めていた。当主の息子を立てるというやり方で、長男に家督を譲りたい氏親の顔を立てているのだからタチが悪い。その所為で下手に切り捨てられない意見になっていた。

 

 両家老も謀反をちらつかされては反論も思い浮かばないようだ。

 戦で例えるならば奇襲されたようなもので、完全に混乱してしまっている。

 

「わたくしたち、この場にいる意味はありますの?」

 

「答えなければならないのか」

 

「い、いいえ。遠慮しておきます」

 

 俺たちが参加している意味は、まったく存在していない。

 うつけ姫と坊主、期待される方がどうかしている。彼らは戦の専門家であり、俺たちは素人だ。

 

 まだその時ではなかった。だが、出番はすぐにやってくるだろう。

 

 

 



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3.武田の姫君

 武田勝千代晴信。

 

 甲斐武田家当主、武田信虎の長女である。飯田河原の大勝利の日に生まれた、赤子の身でありながら武田の運命を操った娘だった。

 

 晴信は背の高い、大柄の少女だ。

 十六歳になったばかり。甲斐源氏に連なる高貴な姫武将である。

 長い髪を腰まで伸ばした、猛々しい雰囲気の美少女だった。

 

 武田晴信は鉄製の軍配を手の中で弄びながら、床几(しょうぎ)に腰掛け、城を囲んでいる甲州兵を睨み付けていた。いや、本人は睨んでいるつもりはないのだ。目付きが鋭く、他人からそのように見えると言うだけのことだった。

 

「おーい、勘助。大宮城ってどれぐらい堅いんだ?」

 

「……はぁ」

 

 晴信の声に、傍にいた隻眼の老人が溜息を返した。

 

「……大宮城は南北朝時代、武田家に備えるため上杉憲将に命じられた富士大宮司家によって建設されました。平城ではありますが富士川の支流である潤井川から水の手が入っており、深い水堀を越えようとすれば大きな犠牲が出るでしょう」

 

「今川領に入るためには、富士川に沿った街道を通らなければならないからな。そんなところに堅城を置くとは、昔の上杉もやるもんだ。今は雑魚だけどな、あはははは」

 

「姫さま。やはり、この出兵は……」

 

「言うな」

 

 豪快に笑っていた晴信が、一瞬で笑みを消した。

 

 現在、武田家は国力のすべてを信濃攻めに注ぎ込んでいる……はずだった。諏訪と手を組んで大井を滅ぼし、その次は小笠原と手を組んで諏訪を滅ぼすための戦略が練られている。

 

 晴信は流石は父だと思うのと同時に、なぜこうなるのかという思いに胸を痛めていた。

 

 晴信は大井攻めで抜群の働きを示していた。だが、そのやり方が信虎の反感を買ってしまっていたのである。

 

 信濃の内山城を包囲していた時、晴信は父に「あの城は落ちない。撤退するべきです」と進言していた。

 

 元服したばかりの小娘の言うことである。信虎はそれを受け入れずに包囲を続けた。だが、晴信の発言通り冬まで囲んでも城は落ちなかった。雪が降り出して撤退しなければならなくなった。米を無駄にしただけで城攻めは失敗に終わったのである。

 

 その時、晴信は「今こそ攻めるべし」と告げた。信虎は娘の正気を疑った。「城が落ちぬと申したのは他でもないお前ではないか」と。

 

 晴信は言った。

 

「いま敵は我らが撤退するものと思い込んでおり、油断し切っております。いま攻めれば敵の士気は低く、さしたる抵抗もなく陥落するでしょう」

 

 結局、進言は受け入れられなかった。

 

 だが晴信はそれで諦めるほど潔くはなかった。味方が撤退しているのを横目に、自分の手勢二百騎を繰り出すと、怒濤のごとく攻め立てて内山城を落としてしまったのである。

 

 以後、信虎と晴信の関係は冷え切っていた。

 元々、二人の仲は悪かった。信虎は娘の才能に嫉妬していた。かわいげもなく、間違いをズバズバと指摘してくる娘が憎くて仕方がなかった。

 

 信虎は晴信とは異なり、父に従順な妹の信繁を溺愛していた。

 

「……姫さまが駿河攻めに回されたのも、これ以上、武功を上げないようにするためでしょう。我らが相手をしなければならないのは今川家だけではありませんぞ。この戦場においては姫さまが勝てば勝つほど、今川と同盟を結んでいる北条も援軍を送ってくるはずです」

 

「そう暗い顔をするな、勘助。まぁ、なるようになるさ」

 

 戦場には『風林火山』の旗指物が翻っている。

 

「勝利ってのは六分ぐらいでちょうどいいんだよ。勝ちすぎれば逆に危ういんだ」

 

 辛勝を続ければ味方は何度も戦訓を得ることができ、やがて最強の軍団が出来上がる。

 逆に完勝を続ければ味方は慢心して弱くなり、一撃で家が滅亡するほどの大敗を喫するだろう。

 

「……姫さま。やはり武田の屋形は、あなたこそが」

 

「言うなって。勘助も軍師ならいじけてないで策を出せよ。あたしたちはもうすぐ今川と戦うんだぞ」

 

 その時、前線で味方を鼓舞していた男が軍営に現われた。

 

「軍師殿の指示通り、陣立てが完了いたしました」

 

 飯田河原の戦いで抜群の働きを示し、晴信の守役に抜擢された男だった。娘の教育を任せられるだけあって信虎からの信頼は厚く、晴信にとっても実の父親以上に思っている。

 

 板垣信方。

 

 信虎世代の武田四天王であり、武田二十四将にも数えられている、武田の名将である。

 それほどの人物を晴信に付けたのは、目付(監視)の役割を期待されているからだ。信方は最悪の場合、晴信を切り捨てて武田を優先できる男だった。

 

「おう、ご苦労さん。いやぁ、信方がいてくれて本当に助かるわ。経験豊富な現場指揮官ってお前ぐらいしかいないからなー」

 

 だが、それでも気心の知れた相手である。晴信の声も弾んでいた。

 

「で、勘助。作戦はどういうものなんだ?」

 

「……はっ」

 

 隻眼の老人は杖をつきながら立ち上がり、周囲の地図を広げてみせた。つい先ほど物見を走らせて作らせたものだった。

 

「……まず大前提として、今回の戦は城攻めではございません」

 

「いや、城を囲んでるところだろ――いや、なるほど」

 

「お察しの通り。これは『後詰めの計』。それをさらに煮詰めた奇襲返しにございます」

 

 後詰めの計とは敵の支城を取り囲み、誘い出された援軍を撃破する作戦のことである。

 

 援軍を出さなければ城方の士気は大きく落ちて落城する。それは主従契約の不履行でもあり、他の城主たちの信用も失われて見限られてしまう。

 

 援軍を撃破されれば、これも城方の士気は落ちて落城する。

 

「奇襲返しとは、こちらに奇襲をかけるつもりの敵を逆に奇襲すると。……つまり、陣形を一瞬で変化させるということか」

 

 呟いたのは板垣信方だ。歴戦の武将である。先ほどまで己の手で陣を整えていたこともあって、すぐに策の全貌を暴いてみせていた。

 

「今の陣形は鶴翼。これは後詰めにやってきた敵から見れば鋒矢(ほうし)になる」

 

「逆さ鶴翼か! 攻城戦で使用しない騎兵を後方に置いているが、あれも引っ繰り返せば敵の真正面に騎兵が現われる! 流石は我が軍師、山本勘助だ!」

 

 

 

 

 

 

 この戦いは『富士川の戦い』と呼ばれることになる。史実には存在しない戦いである。

 

 今川軍は総勢一万。駿河衆七千、遠江衆三千の大軍だった。

 

 総大将である今川氏輝のところには、すでに敵の情報が入ってきていた。

 

 意図的につかまされたものだと気付かずに「敵の大将は十六になったばかりの小娘。百戦錬磨の武田陸奥守の姿はなく、おまけに敵の数はたったの二千。敵は城攻めをしている最中であり、背後から奇襲をかければ必勝である」と興奮していた。

 

「陸奥守信虎がおらぬとは、汚名返上は成らずか……」

 

 福島正成は若干残念そうだったが、娘の首を取れば信虎を悔しがらせることもできるだろうと思い直していた。姫武将はできる限り首を取らずに出家させるのが慣例のはずなのだが、そういった決め事はすっかり頭の中から抜け落ちているようである。

 

「者ども! 武田の娘を、逆落としにかけて追い散らしてやろうぞ!」

 

「エイ、エイ、オー!」

 

「……あいつら、奇襲する気あるのか?」

 

 今川軍は羽鮒丘陵から逆落としで駆け下りながら武田軍を襲う。

 

 武田勝千代晴信は馬上にあってその様子を目に焼き付けていた。一万人の奇襲である。壮観だと思いながら、それを撃破すればどのような気持ちになるのか、今から楽しみで仕方がなかった。これから少女は父と同じ偉業を成し遂げるのである。

 

 その日、今川軍一万は壊滅した。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 敗北した兵士たちが、大量に今川館に押し寄せてきていた。

 

「討たれた兜首は五百あまり。雑兵の三千は未帰還です」

 

 戦場で逃散した足軽もいるだろうから、実際に打たれた雑兵の数は二千人ぐらいだろう。

 

 飯尾為清、蒲原氏徳、朝比奈泰長、孕石信定などが討死。首は甲府に送られたらしい。

 

 幸い今川氏輝は生き残っていた。福島正成も逃げおおせている。そろそろ責任を取って腹を切っておくべきではないか。今川最強も墜ちたものだと陰口を叩かれていた。

 

「大宮城が降伏するのも間近でしょう。武田晴信、恐るべし」

 

「いいい五子こわがってないし! 武者震いしてるだけだし!」

 

 関口氏広の眼鏡が曇っていた。岡部元信はぷるぷるしている。

 

 今川館の三の丸。

 武家屋敷の一室に俺と氏広、元信が詰めていた。

 

 今、城主の間では重臣たちで会議が行われている。俺たちは呼ばれればすぐに参上できるよう城詰めを命じられていた。

 

「これからどうなるのかなぁ。大宮城って東海道の喉元にあるんだよねー」

 

「元信にしてはいいところに目を付けたものだ。お主の言うとおり、大宮城が落ちれば、そこから小勢を繰り出されただけで東海道が切断される。さらに先にある蒲原城が落ちれば、本格的に今川の滅亡が見えてくるだろうよ」

 

「まさか、城二つで?」

 

 氏広は信じられないと言いたげな顔をする。

 

「ともあれ、次も後詰めを出さねばなるまい」

 

「そんな余力は、現在の今川にはとても……」

 

「使えそうな敗残兵をまとめ上げれば二千人ぐらいにはなるだろう」

 

「それは、そうですが……」

 

 雑談を交わしていると、部屋の戸が叩かれた。「失礼」と言いながら入ってきたのは岡部元信の弟である。

 

「九英承菊様。大殿がお呼びです。姫さまとご一緒に、ご同行をお願いします」

 

 俺が腰を上げ、菊姫の自室に足を向けようとすると、元信の弟、岡部貞綱も後を追おうとする。

 

「ちょっと忠兵衛。お姉ちゃんに挨拶しないなんて、五子は弟をそんな薄情者に育てた覚えはないよ!」

 

「ボクはあなたに育てられた覚えはありませんが。……やれやれ。九英承菊様のもとで、少しは真面目になったと聞き及んでいたのですが、相変わらずのようですね」

 

 十歳前後の少年が、姉に向かって辛辣な言い方をしたものである。涼しげな美形が辛辣な言葉を吐くと、かなりの毒を感じるものだ。部屋の温度が下がったような気がしたのは俺だけではないようで、氏広も目付きを鋭く少年を睨み付けている。

 

「今のボクは大殿直属の馬廻、岡部左京進貞綱です。無役のあなたに気安く呼ばれる筋合いはない」

 

「兄弟でしょう、あなたたちは!」

 

 反射的に怒鳴った氏広は、すぐに異変に気付いた。

 

 元信の顔が、真っ青になっていたのだ。

 

「うそ……でしょ……」

 

 そこにいたのは普段の脳天気な小娘ではなかった。まるで捨てられた子犬のようだった。

 

 左京進とは岡部左京進家の当主が名乗るはずのものだ。それを貞綱に譲ったと言うことは、岡部左京進家の家督を貞綱に譲り渡すと宣言したことを意味している。

 

 岡部五子元信の立場が、宙に浮いてしまったのだ。

 

「どうやら父上はあなたを見限ったようですね。まぁボクは鬼ではありません。血を分けた姉上を放逐するほど冷血なつもりはない。ボクを岡部の後継者として立てて下さるなら、岡部家での立場は保証しますよ」

 

「父上が、どうして……?」

 

 うつむいて声も出せなくなった元信に、貞綱は見下す笑みを浮かべていた。

 

 今までの人生を他でもない父親に否定されたのだ。堪えられるものではないと思う。

 だが、俺には少女にかけるべき言葉が見付からなかった。岡部の次期当主という立場は、俺には想像もつかないものだった。

 

「話は終わりか」

 

「ええ、お待たせしました」

 

 姉が震える姿を目にして、貞綱は毛ほどの動揺も見せていない。

 戦国時代にありふれていた下克上の一つに過ぎないと、冷徹に割り切った態度。

 貞綱なら問題なく岡部家を掌握するだろうと思わせる貫禄があった。気に入らないが当主としての在り方はまったくもって正しかった。

 

 ……いや、本当にそれが真実なのか?

 

 二人の父親である久綱とは一度対面している。本人に何も伝えずに後継者を変更するほど、久綱が薄情な人物だとは思えなかった。何らかの力が働いたとしか思えない。

 

 部屋を出てから貞綱が呟いていた。

 

「……どのように取り繕ったところで、姉にとって、ボクは簒奪者でしかないんですよ」

 

 少年の独白は聞かなかったことにしておこう。

 

 岡部の娘が菊姫の周りにいると聞き及んだ何某が、岡部久綱に何かを吹き込んだのかもしれない。

 

 ならば、いずれ解決できるようになるだろう。

 菊姫が戦国大名を目指すなら、障害はすべて俺が排除する。それで終わりだ。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 城主の間には、当主と宿老の三人がいるだけだった。

 

 襖の向こうにはいざという時のために刀を手にしている小姓がいるのだろうが、彼らはここで見聞きしたことを誰にも話すことはできない。

 

「……父上。あ、あのっ」

 

「九英承菊殿。貴殿の見識を見込んで、意見を述べて頂きたい」

 

 氏親の顔には疲労感がにじみ出ていた。一族、家臣、領民の命を背負うストレスに押し潰されようとしているように思えた。

 そして、菊姫を無視である。理由はわからないが、血を分けた親子とは思えない態度だ。

 

 しかし今は緊急時。それに他人の家庭に首を突っ込む野暮をするつもりもない。

 

「初陣も済ませていない坊主に何をお求めです」

 

「歴戦の武将が敗れたのだ。戦歴などもはや関係あるまい」

 

「そこまで仰るなら、僭越ながら拙僧の所見を述べさせて頂きます。大殿におきましては、すでに皆さま方と協議をなさった通りにされればよろしいかと」

 

「それは貴殿の意見ではないが?」

 

 氏親が冗談を聞いたとばかりに笑い出した。臨済宗の坊主、禅問答でもする気かと目が笑っている。

 

「今川と北条の後詰めを蒲原城に入れるのでしょう? 北条左京大夫は河東を譲れと言い出すでしょうが、今川の存亡と引き替えにするならば惜しいものではございますまい」

 

「貴様、それをどこで」

 

 三浦範高が唖然としていた。答えを言っているようなものである。

 

 河東とは富士川の東側のことで、かつては北条早雲の根拠地だった。早雲の後を引き継いだ北条氏綱は同盟相手のこの土地を欲しがっていた。

 

「……河東は渡せぬ」

 

 氏親の言葉は俺の予想していたものだった。

 

 北条の援軍は期待できないということを答えさせるために、あえて河東を譲ってはどうかと提案してみただけである。

 

 河東は今川の重要な経済地域。加えてそこにいる家臣は今川を主と仰いでいる。領主が勝手に土地を切り分ければ、史実の真田と徳川のように話がこじれかねない。

 

「ならば今川方だけでも蒲原城に入れておくべきです。決戦を避けて耐え続ければ、武田の娘はいずれ本国に引き返すでしょう」

 

「では誰に兵を預けるべきか」

 

「大殿直々に……と言いたいところですが、大殿が駿府を留守にすれば、餓狼のごとく隙をうかがっている遠江の国人が一斉に離反しましょう。ゆえに岡部久綱殿か、朝比奈泰能殿が出陣すればよろしいかと。ただし、決戦は何をもってしても避けて頂きたい」

 

「俺か? 大命を頂けるならば光栄ではあるが、俺では力不足だと思うのだが」

 

 宿老、朝比奈泰能は謙虚だった。身の程をわきまえていた。

 二千で一万を破った武田晴信には敵わないと、その豊富な従軍経験から理解しているようだ。士気の高い一万の将兵がいれば、あるいは……と言ったところだろう。

 

「朝比奈備中でも及ばぬなら、岡部美濃でも及ばぬだろう」

 

「……打つ手なしと言うわけか」

 

「北条に頭を下げねばならんのか。北条は元々今川の家来だったのだぞ」

 

 会議は踊る。ここだ。俺は確信した。

 

「我に秘策あり」

 

 今川義元が飛躍するための、最初の一歩。

 

「兵数は二千で結構。今川菊を総大将に据え、朝比奈備中を副将に付けるべし。拙僧は軍師を務めさせて頂く。わが軍略によって今川を勝利に導かん」

 

 俺の隣で、菊姫が口を半開きにしていた。

 

 それは菊姫の生涯でもっとも間の抜けた顔だった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

「一体何をお考えになっているんですの! 答えてください、師匠!」

 

 俺は速やかに武将たちに役職を振り分けてから、出陣の準備をするために城内を奔走していた。

 

 隣でぴーぴー騒いでいる小娘はほとんど無視である。

 

 三の丸、虎口(城門)の前には馬廻に命じて集めさせた武将が並んでいた。

 朝比奈泰能と相談して抜擢した人材たち。

 いずれも具足を着用し、いつでも出陣できる状態だった。古臭い巻物に描かれていそうな武者の姿だ。南蛮鎧の影響を受けた当世具足はまだ見当たらない。

 

「先手大将、岡部美濃。槍大将、久能弾正。弓大将、三浦次郎左右衛門」

 

「はっ」

 

「かしこまりました」

 

「大任、果たしてみせましょう」

 

 岡部久綱、久能宗能、三浦正勝が進み出て片膝をついてしゃがみ込む。

 

 現場指揮官などもあれば、直接戦闘に参加しないが重要な役職もある。戦目付(軍功を記録)、兵糧奉行(兵糧の調達、輸送計画の立案)、旗奉行(軍旗を振る)は兵士の士気に直結する仕事だ。それらも割り振ってから、俺は将兵の前列で気まずそうにしていた少女に向き直った。

 

 関口氏広に命じて、無理やり引きずってこさせた少女。

 

「鉄砲奉行、岡部五子」

 

 その目が驚いているのを、俺は内心で含み笑いしながら、表向きは無表情で見詰め返した。

 

「……お師匠?」

 

 今川家にも少数だが鉄砲が配備されていた。全部で二十丁しかないが、使いどころを選べば戦を左右するだろう最新兵器である。

 

「二十丁。お主に預ける」

 

「は、はいっ! かしこまりました!」

 

 暗い顔をしていた元信が、きょとんとしてから、弾かれたように返事をした。

 

 ある意味、これは賭けだ。岡部元信ならば使いこなすのではないかと俺は期待している。

 もし駄目だったとしても、たったの二十丁。有効に活用できないのが当然なのだから、誰を鉄砲奉行に命じても結果はあまり変わらないだろう。だからこれは失敗しても構わない。

 

 俺の前で岡部久綱が唸っていた。それから笑顔で腰を屈めて俺に頭を下げる。

 

「各々方。これは今川菊の初陣である。今川の姫君に勝利を与えるか、敗北を刻み込むか、それは各々の働きによって決するのである」

 

「今川の興亡この一戦にあり! いざ参らん!」

 

 俺の言葉に繋げ、朝比奈泰能が号令を発する。同時に武将たちの怒号が響き渡った。

 足軽大将、番頭、組頭へとすみやかに命令が伝達され、決められた順番で虎口を潜り抜けていく。

 

「なっ、なっ、なぁっ!? わわわ、わたくしは一言も喋っておりませんわよ!?」

 

「お飾りの大将だからな」

 

「むきぃぃぃっ! 何だかよくわからない間に今川軍の総大将にされて、これから戦場に向かわなければならないなんて! 今川の高貴な姫であるわたくしが、どうして穢れた場所に赴かなければならないのです!? 大将は城でどっしりと構えているものでしょう!?」

 

 キレていた。とうとう限界を迎えたらしい。

 

 俺は菊姫の抗議を無視して、関口氏広を呼び止めた。彼女は菊姫を乗せるための駕籠を手配しているところだった。

 

「氏広、駕籠は無用だ。さっさとこの馬鹿を着替えさせろ。ああ、姫に合う大きさの具足の手配も頼む。そちらは……三浦の兄から範高殿へ取り次ぐように」

 

「了解しました」

 

「あ、ちょっと氏広さん! 着替えって何ですの!? と言うか馬鹿って誰のことですか!」

 

 それはもちろん、馬と鹿を間違えそうな目の前のお姫さまのことに決まっている

 

 氏広が菊姫を引きずっていく。時間は有限、大切に活用しなければならないのだ。

 

「朝比奈殿。軍馬は如何ばかり集まるだろうか」

 

「五百といったところだ。城を守るだけなら軍馬はそれほど必要ないはずだが、不足しているのか?」

 

「いや、充分だ」

 

 さて、氏広に無理やり着替えさせられた菊姫は、いじけながら姿を現した。

 

 具足姿だが重さに喘いでいる様子はない。普段あれだけ重たい十二単を着ているのだ。蹴鞠で適度に運動しているのもあり、歩くだけでバテることはなさそうだった。

 

「我らも出発するとしよう」

 

「……あ、あの」

 

 俺が馬に跨ろうとすると、具足の下に着た法衣の袖を引っ張られた。

 振り返ると、そこには不安げな面持ちの菊姫がいた。出陣の前に怖じ気づいたのだろうか。疑いの眼差しを向けてみると、菊姫の頬が朱に染まった。

 

「わたくし……馬に乗れません……」

 

「なんと」

 

 衝撃の新事実――いや、俺の見落としだ。氏親が蹴鞠以外に取り柄がないと言っていたではないか。公家趣味のぐうたら帝王学に染まっていた菊姫だ。乗馬の訓練を受けていないのだろう。

 

 何たることだ。俺は愕然とした。

 

「私は留守役ですので、後はお任せしますね」

 

 関口氏広がにっこり笑ってから去っていく。もっとも頼りになるやつが居なくなってしまった。

 

 朝比奈泰能は俺たちから逃げるように飛び出していった。泰能は事実上の軍のまとめ役。姫のお守りを任せるわけにはいかないのだが、これでは誰も頼りになりそうにない。

 

「え、なにを……うひゃぁ!」

 

 俺は溜息を吐くと、菊姫の脇に手を入れて持ち上げ、馬上に押し上げた。

 俺がその後ろに騎乗すると、何とも様にならない二人組の完成だ。

 

 なんだこれ。ふざけているのか。

 

 これから武田と戦うというのに、俺たちは何をしているのだろう。

 

 

 



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4.富士川合戦

 蒲原城。

 

 東海道の難所である由比ヶ浜と薩捶峠がすぐ近くにあり、標高百四十メートルの山頂に築かれた砦である。

 

 今川範国の三男、氏兼が蒲原城を受領。その子孫は蒲原を名乗っていた。なので蒲原家も今川一門衆だったが、家を継いだばかりの蒲原氏徳が富士川の戦いで戦死、蒲原家は断絶していた。蒲原家は今川一族の誰かに継がせるのかもしれないが、今はまだ城主不在の城である。

 

 城代として朝比奈泰能の娘である泰朝が入っているが、応急処置にしかなっていない。新しい城主として赴任してから一日二日で城兵の心をつかむのは不可能である。このような状態で、城攻めの達人である武田晴信から城を守り切れるとはとても思えなかった。

 

「よって我らが取るべきは攻撃のみである」

 

「正気か、軍師殿」

 

 菊姫を総大将にした今川軍二千は蒲原城に入っている。

 

 城内では軍議が行われていた。列席しているのは指揮官クラスの者たちだ。

 

 その中の一人である朝比奈泰朝は背の高い美少女だった。セミロングの黒髪を先っぽで縛っている髪型をしており、すらっとした均整の取れた身体付きをしている。十七歳ぐらいだろうか。間違いなく美少女なのだが、ただ一つ、決定的なものが足りていなかった。

 

 胸が、ぺったんこである。

 

「貧乳お姉さんの言うとおりっス。独断専行っスよ、これは」

 

「貴様、死にたいのか」

 

「北条早雲の孫であり、軍監に大抜擢された俺は反対するっス!」

 

 はやし立てているのは三浦氏満。今川宿老の一族に生まれておきながら、なぜか部屋住の立場だった少年だ。あと北条早雲は軍監の仕事とは無関係である。

 

 氏満の発言で般若ような形相になった泰朝が殺意の波動を放っていたが、それはともかく。

 

「貴様を軍監に抜擢するよう三浦範高殿に進言したのは、他でもないこの私である」

 

「俺っちはこの軍議に呼ばれなかったっス! 何も聞かなかったことにするっスよ!」

 

「変わり身はやっ!」

 

「貴様は羞恥心がないのか」

 

「……三浦家の恥だ」

 

 氏満の神速の手の平返しに、集まっていた全員が呆れ返る。岡部五子がツッコミ、泰朝が吐き捨てる。弓大将に抜擢された三浦正勝は、弟の痴態に言葉もない様子だ。

 

「三浦の三男はともかくとして。軍師殿、討って出るとはどういうことかな。言われなくともわかるだろうが勝算がなければ我らは付き合えんぞ」

 

 弛緩しかけた空気を引き締めたのは岡部久綱だった。

 

 適度に緊張がほぐれたところで、あらためて本題を切り出すのは人生経験の妙が為せる技だろう。機微というものを心得ている。

 

「無論、勝算はある。なぜなら今の武田は弱体化しているからだ」

 

「何を根拠に断言するのか」

 

「武田軍は二千。先日の今川の死者は三千だ」

 

「痛い敗北だったが、それが?」

 

「要するに、一人の武田兵が一つ以上の今川兵の首を持っているのだ」

 

「あ、そっか」

 

 俺の話を聞いていた五子が手を叩いた。

 

「武田の足軽は報酬を貰う前に討死するわけにはいかないってことだよね。武田にとってはまだ序戦もいいところだから、論功行賞もやっていないだろうし」

 

「……なるほど。士気が下がっているのか」

 

 久綱は納得したようである。だが、これだけでは足りない。俺はさらに説明を付け足していく。

 

「加えて大勝利によって驕っているのもある」

 

「気に食わないが、油断しているわけか。だが、我らの方も同じようなものだぞ。敗北によって武田に怯えている。士気も低い」

 

「将たる者が、戦えぬ理由を兵に押し付けると?」

 

「……申し訳ない、失言だった。兵士たちを使い物にするのがアタシらの仕事だよな」

 

 朝比奈泰朝の分析は冷静で正しかったが、俺はそれに同意を示さなかった。

 お前らは兵を鼓舞することもできない無能かと確認作業のように問い詰めると、泰朝は己の言動を恥じるように頬を染める。

 

 これでようやく作戦の説明ができると思っていると。

 

「あー。ところで姫さまは何をしているんスか?」

 

 三浦氏満が気まずげに上座に目を向けた。

 

「あうぅぅ……お股が……わたくしの太股が……」

 

 そこには座布団の上に寝転がって、さめざめと涙している菊姫がいた。

 

 両手で太股を押さえて、身をよじってもだえている。周囲には脱ぎ散らかした具足が転がっていた。この時代、両家の婦女が人前で素足をさらすなど破廉恥にもほどがあるのだが、そんなことは関係ないとばかりに足袋まで脱ぎ捨てている。

 

 もじもじしている姿は中々に色っぽかったが、これっぽっちも心が動かされないのはどういうことだ。なぜこの娘はこんなにも残念なのだろう。

 

「初めての乗馬だからでしょ。今川の御曹司が情けないなぁもう」

 

「一応あれが総大将なのだがな」

 

 岡部元信が天井を見上げ、もの悲しそうに「今川おわた」と呟いた。

 

 誰もそれに反論しなかったことが、一同の心境を表していた。

 

 俺が武田に敗北すれば。

 

 氏親は家中を統制するために責任者を処断するだろう。そして何の後ろ盾も持たない俺ほどスケープゴートに適した存在はいない。城持ちの家来を罰したら反乱を起こされるかもしれないが、俺を処刑しても誰も困らないのだ。

 

 今川の敗北は、俺の死を意味していた。

 

 それでも、試さずにはいられなかった。

 

 敵は武田信玄だ。身体が震えた。武者震いだった。

 

「この作戦の成否は、囮部隊の働きにかかっている」

 

 俺は気を引き締め、やっと一同に作戦の概略を話し始めた。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

「……不味いな」

 

 武田晴信は爪を噛んでいた。見上げた視線の先には大宮城がある。

 

 堅い城なのはわかっていた。

 だからこそ後詰めの計で援軍を撃破し、城兵の士気を地に叩き落としてやったのだ。

 

 だが、勝ちすぎた。

 士気を落としたのは敵だけではなく、味方も同じだった。精強な甲州兵が、今や国に帰ることしか考えていない。

 

 大宮城に最初に突貫した者は確実に死ぬ。

 だからこそ敵に最初に槍を付けた者、一番槍がもてはやされるのだ。その一番槍を譲り合っているような状況で城を攻めれば、敵の反撃を許して予想以上の被害が出るだろう。

 

「……姫さまの馬廻衆を出しますか」

 

「いや」

 

 隻眼の軍使が進言するが、晴信は首を横に振った。

 

 晴信に与えられた馬廻衆、直属兵の二百騎は配下武将の次男三男で編成された次世代の幹部候補生である。エリートのため士気は抜群であり、城を攻めさせれば少なからず被害は出るだろうが、大宮城を落とすことができると確信できる。

 

 しかし彼らの半分は使番(伝令将校)としての役目を担っていた。

 馬廻を失えば失うほど、全軍の能力が低下していくのである。駿河攻めの序盤、いずれ北条からの援軍もやって来るだろう状況である。馬廻を使うのは時期尚早に思えた。

 

「……軍使を出して降伏を勧告いたしましょう」

 

「そうだな。富士なんとかも状況がわからないほどの阿呆ではないだろう」

 

 大宮城主は富士信忠だったが、晴信はその名前を覚えていなかった。

 

 山本勘助が降伏勧告の手配をしていると、本陣の帷幕に板垣信方が駆け込んできていた。

 

「申し訳ございません! 大宮城に今川方の忍を入れてしまいました!」

 

「はぁ? 何やってんだ、お前ら?」

 

 大宮城は完全に包囲しており、ネズミの一匹も通さないようにしていたはずだ。

 

 そこまで考えて晴信は気付いた。城から抜け出そうとする敵を警戒していたため、外からの侵入者を見落としたというわけか。

 

「あー、くそっ。今さら城方に何かができるとは思えないけど、どうにも裏目ってないか?」

 

「これから警備の責任者を切腹させるところです。お立ち会いになられますか?」

 

「勝手にやってろ。で、勘助」

 

 これは何だと、目で尋ねる。老獪な軍事は暫く考え込んだ。

 陰鬱な老人だが、軍略を披露している時だけは明るくなっているように見える。もっとも、それなりの付き合いがあるからそう思えるのであり、晴信以外にとっては不気味な老人にしか見えていないはずだ。意外と面白い性格をしているのだが。

 

「今川氏親からの密書を届けたようですな。さらなる援軍を出すため今暫く持ちこたえよ――と言ったところでしょう」

 

「援軍だと? 富士川で大敗してから、まだ三日も経っていないんだ。どこから援軍を編成するんだよ。敗残兵を集めて、それで戦うつもりなのか? 話にならんな」

 

「その通り。士気が低すぎて使い物にならないはず。援軍を出すと言うのは虚言でしょう」

 

「哀れなものだ。富士某とやらはそうとは知らずに時間稼ぎに使い潰されるわけだ」

 

 晴信は大宮城主に同情した。大勢力の思惑に振り回される小勢力の悲哀といったところか。

 

 しかし厄介なことになった。

 これで城方は息を吹き返す。降伏勧告をしても無駄だろう。被害覚悟で攻めるしかなさそうだ。

 

「ご報告いたします!」

 

「馬を下りろ、慮外者が!」

 

 息をせきって駆け込んできたのは、物見に出していた騎兵だった。よほど慌てているのだろう、馬上から声をかけるという切腹ものの無礼を行っている。

 

 板垣信方がぶち切れて、物見を馬上から引きずり下ろし地面に叩き付けた。

 

「も、申し訳ありません! で、ですが、中野台に今川の『二つ引き両』が翻っております!」

 

「……勘助。援軍はないと言っていたよな、あたしら」

 

 さっと地形を頭に思い浮かべる。

 中野台は富士川を挟んだ先にあり、方角は南西。距離は一里ほど(4キロメートル)。

 

「数は?」

 

「およそ五百!」

 

 偵察部隊にしては大きいが、城への援軍にしては少なすぎる。何のための軍勢なのか、晴信にはよくわからなかった。

 

 嫌な予感がしていた。

 

 敗北から立ち直った相手だ。窮鼠である。武田軍が虎ならば鼠など恐れるに足りないが、今や虎は慢心しきって猫になっている。

 

 敵軍は中野台で小休止を取っていた。隙を窺うようにぴったりと張り付いている。どうやら今すぐ襲いかかってくるわけではないようだ。

 

 ならば、その間にこちらも体勢を整えさせて貰うとしよう。

 

 晴信は忍を使って情報を集めた。すると敵の大将の名前が判明した。

 

「今川菊。元服前の小娘で、おまけに蒲原城に引きこもってる」

 

 貴族化した大名によくいる人物だった。自らは滅多に出陣せず、配下に指揮を取らせる性格のようだ。

 

 それだけではない。

 

 今川菊は、うつけ姫と呼ばれている。そして今、噂通りの行動を取っていた。

 

 中野台にいる五百の小勢は、今川家の宿老である朝比奈泰能が率いているようだ。今川菊に命令されて出陣したが、仕掛けることができずに立ち往生しているらしい。

 

 無能な指揮官ほど兵力を小出しにするものである。小勢を繰り出して情報をかき集め、戦場のすべてを理解した気になるのだ。もちろんそれは仮初めの全能感である。情報が届くまでに戦場が変化していることを理解していないのだ。

 

 そして手元に軍がいなければ安心できないようである。臆病と慎重をはき違えているようだ。だから蒲原城に千五百の兵を置き、敵の近くに五百の兵を出すというチグハグなことをする。

 

 これでは各個撃破してくれと言っているようなものである。

 

「勘助、出るぞ。手始めに朝比奈泰能を討つ!」

「ははっ!」

 

 法螺貝が鳴り、武田菱と風林火山の旗が翻った。

 

 陣形は逆さ鶴翼。つまり鋒矢だ。

 先の戦の焼き直しだが、各個撃破には速戦即決に適した鋒矢が最適。一度使った作戦のため、兵士たちへの意思疎通も速やかに行われる。

 

 一抹の不安があった。

 

 晴信はそれを総大将の重圧から来るものだと思っていた。二千の軍を率いるのは、この駿河攻めが初めてなのである。

 

 勝って、勝って、勝ち続ける。そうすれば次期当主の立場も盤石になるはずだ。

 

 晴信は生まれついての戦国大名だった。

 だからこそわかる。

 もし妹が当主になれば、晴信は妹を殺してしまうだろう。それだけは嫌だった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 血流川という川がある。

 史実でも武田と今川が激しく争い、川が血の色に染まったことから、そう呼ばれるようになったという。

 

 こちらの歴史でも、そう呼ばれることになるのだろう。

 

 血流川の沿岸、東光寺の麓に布陣している兵の数はおよそ七百。

 俺と菊姫はその中にいた。未だに馬を二人乗りしているという間抜けな姿である。

 

「こっ、こっ」

 

 菊姫が奇声を上げていた。

 

「こっ、こここ、こっ、こんなに前線に出てしまったら、ししし死んでしまいますわ! 死ぬのはいいい嫌ですすすっ!」

 

「士気が下がる。泣き言はやめろ」

 

 予定されている主戦場の中野台から十町(一キロメートル)の距離だ。

 

 血流川に伏せている七百人は伏兵だった。

 蒲原城に千五百の兵が残っているというのは、偽兵の計である。実際には百ばかりしか残っていない。

 

 蒲原城の留守役は炊事の煙を多く見せかけ、大量の旗を立て、太鼓を打ち鳴らし、ときの声を上げ、ローテーションの休憩も取らずにひたすら巡回を続けると言ういじましい努力をしていた。

 

「伊賀衆、任務完了でございます」

 

「ご苦労」

 

 大宮城に潜入した忍者が戻ってくる。

 

 今川家に雇われていた伊賀者だが、忍者とは社会的地位が低く、有能な守護大名である氏親でさえ「あのような下賎な者どもが役に立つのか」と懐疑的だったほどだ。焼き働きも暗殺も、武士にとっては不名誉な仕事なのである。

 

 だからこそ簡単に借り受けられたわけだが、今川家の防諜能力が低いことを表しているため素直に喜べなかった。

 

 忍の面相は覆面で隠れているためわからなかったが、性別は女である。

 

「……十三人、死にましてござります」

 

「そうか。敵方の軍規は私の予想以上に緩んでいるようだな」

 

「……はっ」

 

 大宮城に潜入させた忍は十五人。帰還できたのは目の前の女忍と、他に一人だけのようである。それでも武田軍が普段通りに警戒していれば、一人も城に入れなかっただろう。

 

 敵の士気を計る指標のようなものだ。手応えを感じていると、女忍がジッと俺を見詰めていた。

 

「まだ何かあるのか?」

 

「……お坊さまは、いい人なのですか?」

 

 俺に何かを言いたいようだが、言葉が拙くて伝わっていない。

 

 伊賀衆から大量の死者が出る任務を命じたのは俺である。俺がいい人なら全人類が菩薩になれるだろう。

 

「報酬は銀二百貫。足りないと言いたいのか」

 

「いいえ」

 

 女忍の目が何かを訴えかけていた。だが相手をしている暇はない。

 

「優しくされたいなら忍などやめてしまえ」

 

「――っ!」

 

 無様に心を乱している女忍を捨て置くと、俺は朝比奈泰朝を呼び付けた。

 

 この小勢を率いている実質的な指揮官は泰朝である。

 俺はただの軍師で、おまけにこれが俺の初陣である。だから俺には泰朝のような補佐役が必要だった。

 

「軍師殿。配置は完了したが……」

 

 泰朝は暗い顔をしていた。緊張からではない。

 

 俺は作戦会議で、非情な命令を下していた。

 

『囮部隊の指揮官は玉砕するまで戦い抜くべし』

 

 死ねと言った。死ぬほど努力しろではなく、死ねである。今川の勝利のため死ねと命令した。

 

 適任者は朝比奈泰能と岡部久綱の二人だった。

 経験豊富なこの二人でなければ達成できない仕事だった。

 

『では拙者が死ぬとしよう』

 

 岡部久綱が進み出た。朝比奈泰能は今川の宿老であり、彼が欠けた穴を埋められる者はいない。娘の朝比奈泰朝はまだ若すぎて、宿老が務まるとは思えなかった。

 

 異論を出す者はいない。若者たちは衝撃のあまり息をすることすら忘れている。

 

『失礼だが久綱殿に務まる仕事とは思えんよ』

 

 久綱で決まりかけていた。そこで朝比奈泰能が声を震えさせながら口を挟んだ。

 

『ご、五百の兵を決死の地に送り込むなら、しゅ、宿老の肩書きぐらいは必要になるはずだ。俺が適任だろう』

 

 俺はなぜか堂々としている岡部久綱よりも、怯えている朝比奈泰能の方が頼りに思えた。

 

「……あなたは地獄に堕ちるだろう」

 

「もとより覚悟の上だ」

 

「僧籍にありながら、殺生の界隈に身を置くとは、とんだ生臭坊主だな。外道だ」

 

 泰朝は責める。俺はこれから彼女の父親を間接的に殺すのだから。

 

 

 ――軍太鼓が鳴り響く。

 

 

 中野台が戦場になっていた。

 距離は一キロメートル。草木に隠されているため目視はできないが、音色は充分すぎるほど届いている。

 

 太鼓の音。法螺貝の音。馬蹄の音。金属がぶつかる音。悲鳴。絶叫。断末魔。

 

 二千の甲州兵が五百の駿河兵に襲いかかっている。

 

「はじまりましたわね」

 

「囮部隊の撤退の合図と共に討ち入る。およそ四半刻後だろう」

 

 囮部隊が撤退するのは、朝比奈泰能が戦死してからである。

 指揮の引き継ぎは泰能の弟、泰永に。泰永が戦死していれば泰永の息子、元長に。すべてあらかじめ決めてある。

 

「師匠。泰能さんには、わたくしから命令しておくべきだったのではなくて?」

 

「あの時のお主に、それができたとは思えぬ」

 

 乗馬の痛みでごろごろしていたからではない。

 泰能の忠誠心は御神輿のお姫さまではなく、今川家に向けられている。それすら理解していない菊姫に何が言えるだろう。

 

「悔しいか?」

 

「……ええ。そうですわね」

 

「ならば、いずれ彼らの上に立てるように励めばよいだけだ」

 

 菊姫は真剣に物事を見詰め始めていた。

 実戦の空気に触れて、刺激を受けている。いい傾向だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 岡部五子元信は富士浅間神社の傍にある浅間街道にいた。

 

 馬の口を縛り、馬蹄には布を付けている。兵士が身に着けている具足にも布を挟んで、金属がこすれる音が出ないようにしていた。

 

 奇襲前である。

 浅間街道の伏兵は七百人。備大将は岡部久綱。元信は副将だった。

 

「ほーへー。それが種子島っスか。そんな玩具が役に立つとは思えないんスけどね」

 

「静かにしてくださいよ、三浦の穀潰しさん」

 

「ほほほ北条早雲の孫であるこの俺っちが穀潰しだと――」

 

「愚弟が失敬」

 

 元信の手下に訝しげな目を向けていたのは三浦氏満。

 彼は兄の三浦正勝に拳骨を落とされ、引きずられていった。

 

 元信には二十丁の鉄砲が付けられている。

 

 普通なら足軽に持たせるのだろうが、元信はそれを武者に持たせていた。

 

 たったの二十丁では威嚇にしか使えない。脅しならば効果を見込めるのは最初の一発だけで、二発目からは脅しにもならないだろう。それに再装填に時間がかかりすぎて、二発目を装填した時に乱戦になっていれば、同士討ちを避けるため撃てなくなる。

 

 そう思った元信は鉄砲を撃ち終わった後は、それを捨てて斬り込むつもりだった。

 鉄砲足軽は狙撃後に斬り込めるほど士気が高くない。それなら最初から槍でも持たせた方がまだマシだ。と言うわけで鉄砲武者が生まれたのである。

 

「父上、忠兵衛、そしてお師匠」

 

 元信は身近な人物の顔を脳裏に思い浮かべる。

 

 無骨な父、美形だが嫌味な弟、そして外道な坊主。

 

 そこで元信は戸惑った。身近な人物の中に、外道坊主が入っているのはなぜだ。

 九英承菊とはまだ二ヶ月しか付き合いがないのだ。家族と同列にするのは間違っている。

 

「いやいやいや、ありえねーですから。あの人、お坊さんですから」

 

 元信は首を振る。

 意識を戦場に引き戻した。遠くから戦の音が聞こえていた。

 

 初陣だった。

 

 勝てる。そう思った。武人の本能。いや、女の勘である。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 激戦だった。

 中野台にいた五百の今川兵は、今や二百まですり潰されていた。

 

 富士川が紅く染まっていた。

 

「まだ崩れないのか。朝比奈泰能、見事な戦いぶりだ。正直侮ってたわ」

 

 武田晴信は感心していた。

 並みの軍なら百も死ねば潰走している。いや、最初の一撃で粉砕されていたはずだった。

 

 富士川を渡ったため突撃の勢いは減っていたが、甲州兵の突撃を駿河兵が止めるとは予想外だ。

 

 何が敵将の心を支えているのだろう。今川宿老としての意地だろうか。

 何れにせよ下克上の世の中である。泰能の忠誠は、敵ながら天晴れだった。

 

「板垣に伝令! 侵掠すること火の如し!」

 

 晴信は鉄製の軍配を突き出した。

 

 当意即妙。使番が走り出す。

 

 名馬の産地、甲斐の騎馬が一斉に嘶いた。

 虎の子の武田騎兵を率いるのは四天王の板垣信方。

 

 朝比奈泰能の命運はすでに尽きていた。

 

「主君に恵まれなかったようだな、朝比奈泰能。このあたしが引導を渡してやろう」

 

 法螺貝の音色と共に、瀑布のごとき勢いで武田騎兵が疾駆する。

 二百という数でしかないが、足軽の一千や二千は簡単に蹴散らすことができる騎兵だった。

 

 暫くすると、空高く槍が掲げられる。

 その穂先には兜首が突き刺さっていた。苦悶の表情を浮かべた男だった。

 

「朝比奈備中守泰能、討ち取ったので逃げていいですか!?」

 

 ようやく敵の大将が死んだらしい。

 

 だが、これは何だ。晴信は腹を抱えて笑ってしまった。

 

 敵将の首を取ったのは、よりにもよって足軽。しかも小娘だった。土臭い農民である。

 

「朝比奈が農民に首を取られるなんてな。最後まで不幸なやつだ」

 

 敵軍から撤退の太鼓が鳴り響いていた。

 大将が死んで、慌てて逃げ出すことにしたのだろう。

 

 彼女の頭の中では、すでに次の戦が練られている。

 

 ここで首を取れば取るほど、後の戦で楽ができるのだ。

 逃がした敵は蒲原城に入るだろう。そうなれば駿河侵攻がさらに遅れることになる。

 

「さて、追撃するか」

 

 武田晴信は何の違和感も抱かず、当然のように下知していた。

 

 

 

 

 

「我、勝てり」

 

 黒衣の軍師が呟いた。

 

 

 

 

 

 一瞬のことだった。

 

 今川軍を追撃していた武田騎兵の横合いから、銅鑼を鳴らしたかのような轟音がしていた。

 

 種子島だ。

 すぐに気付けたのは武田晴信と山本勘助だけである。百戦錬磨の武将、板垣信方ですら何が起こったのか理解できていない。

 

 本来、馬とは臆病な生き物である。

 鉄砲の轟音に驚いた馬が竿立ちになり、騎馬武者が振り下ろされていく。

 

 さらに浅間神社の方角から、鉄砲一斉射に合わせて伏兵が現われた。

 流血川からも七百ばかりの伏兵が出現している。

 

 両軍は同時に突撃を開始する。

 左右から横槍を入れられ、武田の精鋭が次々に討ち取られていった。

 

「板垣信方様! お討ち死に!」

 

 ――板垣が鉄砲で死ぬとは、武田四天王らしくない最後だ。

 それはつい先ほど、朝比奈に対して抱いた感想によく似ていた。

 

「ひぃぃぃ! もう駄目です! 逃げますぅー!」

 

 朝比奈泰能を討ち取った足軽娘は兜首を刺している槍を捨てて逃げ出していた。

 

 一万の今川軍を破った武田軍は、今や烏合の衆に成り果てている。

 

「これは……まさか……」

 

 晴信は軍配を取り落としていた。

 

「姫さま! 撤退の下知を!」

 

 山本勘助が叫んでいる。

 

「勘助! これは! これは何だ!?」

 

「釣り野伏です! そんなことはどうでもいい! もはやここは死地ですぞ!」

 

 驚愕すべきことだった。

 

 謀多きは勝ち、少なきは負けるという。

 敵は晴信が皮算用している間にも、膨大な数の軍略を廻らしていたのだ。

 

 この分だと大宮城から出て来た敵兵が退路を塞いでいるのだろう。晴信は大宮城に忍が入ったことに不自然さを感じていたが、それは杞憂ではなかったのだ。渡された密書に書かれていたのは、時間稼ぎの虚言ではなく、決戦に参加しろという指示だ。

 

「敵はここであたしを殺す気だ。何なんだ、この相手は。何を考えてここまで策を練ったんだ?」

 

「姫さま! 姫さま! ……っ、失礼を!」

 

 乾いた音がした。勘助が晴信の頬を叩いていた。

 

「姫さまは武田将兵の命を預かっているのですぞ! それが何たる有り様か! 武田の後継者たる自覚すら失われたのか!?」

 

 隻眼の軍師は命をかけて諫言していた。

 

 一瞬、晴信は父親に叱られた小娘の顔をした。だが、すぐに気を取り直した。

 

「……撤退する。それと勘助。すまなかった」

 

 配下が拾い上げた軍配を受け取った。ここからが正念場だった。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

『富士川の戦い』は痛み分けに終わった。

 

 退路を富士信忠に塞がれた武田勝千代晴信だったが、国に帰るため必死になっていた甲州兵はまさしく死兵と化していた。富士信忠の軍はあっさり蹴散らされ、武田晴信を取り逃がしている。もっとも、俺もそう簡単に晴信の首が取れるとは思っていなかったため、落胆することなく結果を受け止めていた。

 

 今川軍は三千の将兵、多数の武将、そして宿老の朝比奈泰能を失っている。

 武田軍の死者は一千人。四天王の板垣信方が討死にしていた。

 

 武田軍は兵力の半数を失うという壮絶な事態になっていたが、それでも被害は今川の方が多かった。他にも駿河北部の村々が略奪を受けており、家臣に褒賞を与えれば大赤字である。

 武田にしても得た物は何もなく、失った物ばかりの戦だった。

 

 そう言うわけで、痛み分けである。

 本当は今川の敗北なのだが、大名の面子とやらで今川が負けを認めるわけにはいかないのだ。

 

「貴殿の働き、比類なし。独断で武田を攻めたのは褒められたものではないが、宿老である朝比奈備中の同意もあったため不問と致そう。貴殿がいなければ駿河の半分は失われていただろう。大義であった」

 

「拙僧ごときに勿体なきお言葉です」

 

 戦いから一週間が経ち、今川館の城主の間で論功行賞が行われていた。

 

 前みたいにぺらっぺらの感状だけではなく、大名物の茶入れである酸漿文琳(ほおづきぶんりん)も下賜されている。

 

「それから興国寺城を貴殿に任せたい」

 

「暫く」

 

 一気に城持ちまで抜擢されるという話だったが、俺はそれに待ったをかけた。

 

 新参者の俺が城持ちになれば、家中の和を乱してしまう。名門の血筋であればともかく、俺は氏素性の知れない者である。

 

 城を与えるなら俺ではなく。

 

「僭越ながら申し上げます。能うならば興国寺城は菊姫様にお与え下さい。拙僧はその後見を務めさせて頂きます」

 

「……ふむ」

 

「お言葉ですが」

 

 俺は声をひそめながら、膝を前に出した。内緒話である。

 

「菊姫様の家中での声望が高まっており、譜代の皆様から面会を求められております。このまま駿府に置いておけば派閥が生まれるでしょう」

 

 そうなれば後継者を氏輝に押している氏親は、いずれ菊姫を冷遇せざるを得なくなる。そうなる前に遠くに追いやってしまえとそそのかしているわけだ。

 

「貴殿はそれでよいのか?」

 

「その方が菊姫様のためになりましょう」

 

「謙虚なものだな。相分った。興国寺城はわが娘に与えよう」

 

 俺は内心で微笑んだ。

 これで直属の武力が手に入ったわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから。

 

 俺たちは二百の兵士を連れて東海道を進んでいた。

 

「おーっほっほっほ! このわたくしが興国寺城主ですか! 興国寺! 名門のわたくしに相応しい、素晴らしい響きですわ!」

 

 我らが姫は手の甲を口元に当てて高笑いしている。

 無理やり訓練させた甲斐があって一人で馬に乗れるようになったのだが、姫が乗っているのは農耕用の愚鈍な駄馬である。まったく様になっていなかった。

 

「姫さまは今日も絶好調ですね。……はぁ」

 

「何ですの、氏広さん。辛気くさいですわよ?」

 

「……姫さまって幸せな頭をしていますよね。たまに羨ましくなります」

 

 関口氏広のテンションは皮肉を吐くほど下がっていた。

 

 氏広にとっては、これは左遷でしかない。

 

 と言っても関口家は一門衆の中でも重要な役割を持っている。幕府との連絡要員である走衆という役目があり、完全に干されたわけではなかった。

 

「直訴すればよかったのに、氏広っちは素直じゃないなぁ」

 

 岡部元信が馬の背に寝そべり、空を見上げてあくびをしていた。

 

 元信の言うように、配置換えを願っていればそれが通っていたはずだ。だが氏広はそれをよしとしなかった。

 

 氏広は最後までうつけ姫の味方をしていた一門衆である。何だかんだ言って姫の味方だった。

 

「で、なぜあなたがここに居るんですか」

 

「五子はお師匠の世話役だからね。弟に家を乗っ取られてるし、しゃーないでしょ。それとも氏広っちは天涯孤独になってしまった五子を見捨てるん?」

 

「氏広っち言うな! あなたも今川家の一員なら、今川一門には敬意を払いなさい!」

 

「血筋を自慢されてもねぇ。五子だって藤原南家工藤氏の末裔なんよ?」

 

 何気に駿河の豪族は名門ばかりだった。先祖を探すと意外な名前が出て来たりするものである。

 

「あなたが藤原南家? 笑わせてくれるわね。どうせ自称でしょう?」

 

「そりゃ五百年以上前のことだから本当のところはわからないけどさ、氏広っちだって足利の分家の分家の分家だよね。ぶっちゃけ微妙だよ」

 

「な、な、何ですって!?」

 

 どうにもこの二人、相性が悪いらしく暇があれば口喧嘩をしていた。いや、喧嘩するほど何とやらと言うやつかもしれない。

 

「いやぁー、楽しみっス。興国寺城はかつては北条早雲の居城だったんスよ」

 

 あと三浦氏満がちゃっかり付いてきている。

 

 氏満は先の戦では軍監として、活躍した兵士の記録を付けるという役職に就いていたのだが、どうやら大量の記載漏れがあったらしく、祖父の三浦範高に勘当を言い渡されていた。肉親の情がなければ切腹させられていただろう。

 

 三浦母に泣きつかれたから引き受けてしまったが、俺としてはゴミを押し付けられたような気分だった。

 

「わたくしの快進撃はここから始まるのですわ! おーっほっほっほ!」

 

 高笑いをしている姫を横目に、俺たちは馬を止める。

 

 そこは緑だった。植物が生い茂り、景色がほとんど見えなかった。木々の上から櫓の先端がかろうじて見えているぐらい、緑が鬱蒼と生い茂っている。

 

「……あ、あの。まさか、興国寺城とは」

 

「いい響きだよね!」

 

「あれが北条早雲の居城っスか!」

 

「……私の左遷先です」

 

「三方を沼地に囲まれた天然の要害だ。空堀と土塁があるようだな」

 

 全員、反応がバラバラである。まったく息が合っていない。

 

 ああ、それと。

 

「しししし師匠! いいえ、雪斎さん! まさかあれがわたくしの城なんですの!?」

 

 俺こと九英承菊は興国寺の住持に任命され、それにともない名前を太原崇孚雪斎に改めていた。

 

 ――太原雪斎。

 

 後の今川家の宿老。執権。宰相。大軍師である。

 

「城下町も見当たらないようですし、本当にここが?」

 

 イメージと違うと騒いでいる姫に、俺はニヤリと笑いかける。

 

「左様。あれがお主の、今川義元の居城である」

 

 そして、菊姫も城持ちになるため、これを機に元服。

 烏帽子親は岡部久綱が務め、ついに今川義元を名乗ったのである。

 

「それと、私はお主の師を辞めたつもりはない。師匠と呼べ、この馬鹿弟子が」

 

「わたくしも、今まで通りに。できれば菊と呼んで欲しいですわ」

 

 なんか義元が色気づいていた。なにこれ。きもい。

 

 

 



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番外1

番外1『教えて雪斎先生!』

 

 

【一時間目】

 

 実のところ今川家の石高はそれほど高くはない。

 

 駿河一国で十五万石、遠江を含めて三十万石である。

 隣国の武田家は甲斐一国で三十万石だった。

 

 気候が温暖で川も多い駿河の米は良質だったが、その収穫高は決して高くはなかったのである。

 

 ならばなぜ、今川家が武田家の倍以上の兵力を動員できるのか。

 

 石高制では一万石で二百五十人の兵が動員できると言われている。この数字を今川家三十万石に当てはめると七千五百人になる。

 

 しかし今川軍は一万人以上の兵を何度も動員していた。これは石高以上の動員兵力である。これはなぜなのだろう。

 

「なぜと言われても、わからないものはわかりませんわ」

 

 俺は答える気ゼロの生徒を教鞭で叩いた。

 これは暴力ではない。教育的指導である。PTAもモンスターペアレンツもいないから安心だった。痛くなければ覚えませぬ。

 

 場所は興国寺城の本丸。

 俺は今川義元と名を改めた姫君に問題を出していた。いつもの授業だ。

 

「過酷な兵役を課していると言うこと?」

 

「勝手なことを言わないでください。今川家は北条家ほどではありませんが善政を敷いているはずです。元信の発言が事実なら一揆が頻発しているはずですが、そのような事実はありません」

 

 関口氏広が眼鏡をくいっと押し上げながら反論すると、岡部元信が「言ってみただけだし。なに熱くなってんの?」と言い返していた。

 

 また口喧嘩が始まりそうだったため、俺は教鞭で岡部元信の額を軽く叩いておく。教育的指導である。

 

「義元。今川家の特産品を述べてみよ」

 

「えっと……茶葉とか絹織物、あとは海産物ですわよね? 木綿は三河の方が良質ですが、駿河でも栽培していますわ」

 

 ぐぬぬと睨み合っていた氏広と元信が固まっていた。

 

 あのうつけ姫が、ぽんこつが、残念娘が、すらすらと答えたのである。

 

 二人はすわ天変地異の前触れかと恐れ戦き、窓を開けて雨が降っていないか確かめていた。いくら何でも義元を馬鹿にしすぎだろう。

 

「お二人とも、わたくしを何だと思っていますの?」

 

 義元涙目だった。これに懲りたら日頃の言動を振り返って反省して欲しい。

 

「それと塩だ。甲斐の商人がよく買い付けに来ている。さらに補足しておくと、海産物からは干鰯(ほしか)という肥料が作られている。これは米や野菜の収穫を増やすだけではなく、木綿の栽培にも用いられている」

 

 戦国時代とは貨幣経済が広まり始め、商品作物の生産が始まった時機でもある。当然、大名である今川家もその流れに乗ろうとしていた。

 

 堺や博多には及ばないが、駿河には清水湊や吉原湊、遠江には懸塚や浅羽などの貿易港があった。そこから特産物が輸出され、多大な富を生み出している。

 

 言わば今川家は商業大国なのである。

 

「要するに、今川家の兵力は商業力にあるのだ」

 

「……ぐーぐーぐー」

 

 俺は船を漕いでいる元信の胸ぐらをつかむと、よいしょと振り返りながら少女の身体を持ち上げ、一息に畳に叩き付けた。

 

「ひぎゃあぁぁぁぁ!」

 

 背負い投げ……いや、教育的指導である。

 

 

 

 

 

 

 

 

【二時間目】

 

 休憩を入れた後のこと。

 

「さっきの話からすると、興国寺城一万石からは二百五十人以上の兵士が動員できるんですよね。実際のところ、どれだけ動員できるんですか?」

 

「あ、五子も気になる!」

 

「今川家嫡流たるわたくしの居城なのです。五千人以上いるに決まってるではありませんか、おーっほっほっほ!」

 

 妄言を吐いている義元はさておき、俺が取り出して見せたのは検地台帳だった。

 

 和綴の古ぼけた本だ。興国寺城の以前の城主が取っていた記録である。

 

 脳筋の元信は漢数字の羅列を見て「うわ」と顔をしかめていたが、インテリの氏広はすらすらと目を通していく。それから元信と同じ顔になった。

 

「あれぇ? 氏広っちにも難しかったかなぁ?」

 

「気持ち悪い声を出さないでください。しかし、これは酷いものですね」

 

 そう、酷かった。

 

 俺は話について行けず目を点にしている義元を手招きすると、台帳のある部分を指さした。

 

 そこに書かれていた文字は『伊勢新九郎盛時』。

 

「いせしんくろう……って、北条早雲ではありませんか!」

 

 俺は苦々しげに頷くしかなかった。

 

 北条早雲はたしかに以前の城主ではあるが、それは今から三十年以上も昔のこと。

 俺たちが赴任する前は天野康景が城主で、その前は河毛重次。他にも二人の前任者がいるが、どいつもこいつも腐っていた。

 

 当然だが、石高とは土地が開発されれば増加する。

 

 今慌てて検地を行っているところだが、ざっと調べたところ二万石に相当する農地が見付かっていた。

 興国寺一万石の土地から、実際には二万石の米が取れていたならば、一万石の米はどこに消えたのか。

 勿論、誰かのポケットに決まっている。これはそういう話である。

 

「不味いですね、これは。百姓が付け上がっているかも。いや、主犯は百姓ではなくて以前の城主でしょうか」

 

「氏広の危惧はまさしくその通り。すでに地元の名主が付け届けを持ってきている」

 

「わたくしは初耳ですけど」

 

「……そうか」

 

「ちょ、ちょっと! 何ですの、その意味深な沈黙は!?」

 

 俺たちは義元に振り返り、すぐに視線を外した。一同無言である。

 

「まさか賄賂を受け取ったのですか、雪斎様?」

 

「その者はすでに打ち首にしているが、何か問題でも?」

 

「……あ、いえ。何でもありません」

 

 氏広がガクガクと震えていたが、それはさておき。

 

 何十年も着服され続けていた一万石だが、これは庄屋や名主たちが勝手に行っていたわけではなかった。

 そもそも計数のプロである代官が気付かないわけがない。つまり代官も共犯と言うわけだ。それだけではなく以前の城主たちも付け届けを受け取っていたようだ。

 

 領地全体が汚職に塗れていたのである。

 

「本日の夕刻、代官二人が切腹、商人と百姓六人を打ち首にする。お主たちも立ち会うように」

 

「……はい」

 

 前任の城主に責任を取らせるのは難しかったが、領内に残っている実行犯たちは粛正しておかなければ、後々の統治に響いてくる。

 

 氏広の言うように百姓が付け上がるのだ。見せしめは必要である。

 そして行動するなら着任したばかりの今をおいて他にない。

 

 そう言うと三人が黙り込む。ドン引きされていた。

 

「氏広の質問に答えると、実質二万石なので五百人。経済力を足して一千人と言ったところだ。検地の結果が出るまで断言はできないがな」

 

 

 

 

 

 

 

 

【三時間目】

 

「そう言えば、五子は富士川合戦で鉄砲を預けられていたんですよね?」

 

「うん、そだよ。鉄砲で大活躍して、大殿から感状を貰ったんだ。うひひっ」

 

 キモイ笑い声を出している元信に、氏広が白けた目を向けていた。

 

「まだまだ玩具と侮られていますけど、あの轟音には離れていたわたくしたちも肝がすくみましたわ」

 

 義元が身震いしている。

 

 実際には肝がすくむどころか小便を漏らしていたのだが、それは鉄砲の所為だけではなく、初陣だからというのも大きいだろう。

 

 失禁してしまった義元だったが、俺はそれを笑うつもりはない。言いふらすつもりもなかった。

 

 今川軍にも泣き出して「にゃむにゃみにゃぶつ」と念仏を唱えていた兵がいた。南無阿弥陀仏の念仏は一向宗なのだが、こちらの本猫寺の念仏は何かが違っていた。よくわからないが門徒だったのだろう。

 

 ともあれ精強な甲州兵が混乱するほどだ。我らが姫君が失禁するのはむしろ当然である。

 

「音で驚かせる戦術は、そう何度も使える手じゃないよ。使えば使うほど威嚇としての威力は下がってしまうからさ。でも、もしも鉄砲が何百丁もあったら……」

 

「何百丁って、現実的な話ではありませんよ。家が傾きます」

 

「でもあれは、百姓が武者を殺すよ」

 

 元信は言う。射撃訓練を受けていない武者に扱えたのだ。ならば百姓にも扱えるだろうと。

 

「敵が持つ前に、こっちが持つしかない。武士の時代は、もうすぐ終わるのかもね」

 

 少女の声色が変わっていた。頭の中が戦場に切り替わっている。

 義元が「ひっ」と怖がっていた。何やってんだこいつは。

 

「授業中だ。殺気を引っ込めろ」

 

「あうっ」

 

 元信の後頭部に教鞭で一撃。教育的指導である。

 

 それにしても岡部五子元信。彼女の頭は戦闘に特化し過ぎているようだ。

 現時点で鉄砲の本質に気付いている武将がこの国に何人いるのか。おそらくは片手の指で足りるだろう。

 

「鉄砲を大量に揃えるために必要なものとは、何だと思う?」

 

「はいはいはーい! 鉄と火薬でーす!」

 

 いきなり不正解の脳筋は無視して、考え込んでいる二人に目を向ける。

 

 氏広はすぐに答えにたどり着いたようだが、俺は手の平を向けて言葉を遮った。

 

 義元に目を向ける。今日の授業を聞いていたなら答えられるはずだ。はずなのだが、この胸中の不安は何なのだろう。

 

「ええっと、鉄でもなく火薬でもない? あっ、名門の――」

 

「馬鹿者」

 

 名門がどうした。阿呆か。

 俺は義元の額に教鞭を落とす。教育的指導である。

 

「お金ですわ! いいえ、経済力!」

 

 額を抑えて涙目になった義元だったが、頭に衝撃を受けたからだろうか、なぜか正解にたどり着いていた。まったくもって意味がわからない。

 

「そう、経済力である。大量の鉄砲を揃えるには大量の金が必要になる」

 

 日本の金銀と引き替えに明国から永楽銭を輸入しているというアホらしい現実もあるのだが、その話はまた別の機会にするとしよう。

 

「ではどうすれば経済力を増やすことができるのか」

 

「敵国の米を略奪したり? ――あうっ! あうあうっ!」

 

 俺は元信に教育的指導を三発叩き込んだ。

 

「単純に米の収穫高を増やす、ですか? 耕地を広げたり、治水をしたり、肥料を改良したり。鉄製の農具や牛馬を普及させるとか」

 

「他には交易を行う、ですわね」

 

 氏広と義元の発言は間違いではない。

 

 だが、楽市や関所の撤廃などについて講義をするにはまだ時期尚早のようだった。

 関所については他国との国境にあるものは必要だろうが、豪族や寺社の関所などは警備の利点など存在せず、ただの中間搾取でしかなかった。

 

 必要なものは中央集権だ。

 最終的には家臣の領地を含めて検地を行うことになるだろう。

 

 今はまだ気の遠くなる話だった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

番外2『忍者マスター雪斎』

 

 興国寺城での俺の自宅は、城内の一室にあった。この城には城下町がないため、下級武士たちは二の丸の長屋に詰め込まれ、重臣は本丸の屋敷で起居している。俺の立場は今川義元の家老のため、本丸に部屋を与えられていた。

 

 日没後、俺は文を書いていた。

 

 行灯の明かりが卓上を照らしている。使用している油は安価な鯨油だったが、これは強い異臭を放つため、窓を開けて風通しを良くしていた。

 

 手紙の宛先は友野次郎兵衛宗善。駿府の町年寄であり、今川家の御用商人だった。

 今川家は宗善の友野座を優遇する変わりに、関税徴収の代行や輸出する商品の点検など、細々とした実務を押し付けていた。

 

 友野宗善は武士ではなかったが、これも御恩と奉公の関係である。

 

 さて。俺が手紙のやり取りをしている友野宗善だが、この人物は商人らしく数寄者のようで、俺が氏親に下賜された酸漿文琳(ほおづきぶんりん)の茶入れを見せて欲しい、できれば売って欲しいと手紙を送ってきていたのである。

 

 本当は今すぐにでも小判に変えて鉄砲を揃えたいところだったが、少なくとも氏親が存命している間は茶器を売り飛ばすなどとんでもない。とりあえず脈はゼロではないと相手に教えるために「金に困れば手放すかもしれない」と書いておく。

 

 筆を置き、背を伸ばす。

 

 そろそろ寝るかと思い、歯を磨くための塩を用意する。それから水桶を片手に井戸に向かおうとしたところで――見付けてしまった。

 

 なぜか部屋の真ん中に、ポツンと水が満たされた桶が置かれているのである。

 

 摩訶不思議。ホラーだった。この屋敷には妖怪がいるのだろうか。

 

 俺は歯磨き道具を畳に置くと、般若心経を取り出した。

 このお経には悪霊の力を「空にする」という効果があると言われている。

 色即是空、空即是色。いわゆる空の思想である。眉唾だが、試してみるのも一興だった。

 

「……何をしているのですか?」

 

「座敷童……ではないな」

 

 忍者が出て来た。富士川合戦の時に活躍した女忍だった。

 

 俺たちは水桶を挟んで向かい合った。しばらく待ってみたが、相手は無言である。暇なので俺は二本の指に塩を挟むと、おもむろに口に突っ込んだ。

 

「あ、あの」

 

 しゃこしゃこと歯茎に塩をすり込んでいく。

 

 歯を磨きながら女忍を眺めていると、彼女は次第に身体を震えさせていた。怒りに震えているのかと思ったが、そうではない。瞳が光っている。涙目になっているのだ。

 

「私、責任を取って貰いに来たのでございますです……」

 

「ごぼっ」

 

 むせた。気道に塩が入り、喉に痛みが走る。

 いきなり何を言い出すのだろう、この女忍は。責任とは何だ。

 

 一瞬エロい妄想をしてしまう俺だったが、よくよく考えてみると俺は彼女の仲間を大量に殺している。

 復讐にでも来たのだろうか。

 

 ……いや、それはない。殺そうと思えば何時でも殺せたはずだ。

 

「あっ、すいません。大丈夫でございますですか?」

 

 女忍は咳き込んだ俺の背中をさすってくる。覆面をした黒装束の少女が、物音を立てずに、何時の間にか背後にいる。ホラーだった。

 

「誤解させる言い方をしてすいませんでした。あの作戦で、私の仲間はほとんど死んでしまったのでございますです。ですので隠密としてのお仕事ができなくなって、お殿さまに暇を出されてしまったのです」

 

「つまり、責任とは」

 

 無慈悲な派遣切りだった。俺は新しい雇用先というわけだ。

 

 話を察した俺に、女忍が頷いた。

 

「はい、お察しの通りです。お願いします。どうか私を雇って下さい。故郷には五人の弟たちがいるのでございますです」

 

「五人もいるのか……」

 

 この時代、七五三というように子どもが成人するまで生き残るのも神頼みだった。

 

 子どもを大量に作るのは家名を残すために必要なことだったが、それでも運が悪ければ後継者が絶えることもあった。

 子どもの五人程度なら多すぎるわけではない。

 

 そして伊賀は農耕に適さない山国だ。一族を食わせるためには出稼ぎをするしかなかった。

 それが忍者である。

 下賎な仕事と馬鹿にされ、命をゴミのように捨てて、ようやく食っていけるのが伊賀の忍だ。

 

「……はぁ」

 

 俺は溜息を吐いた。こんな年端もいかない小娘が血みどろの人生を送っているのである。思わず憐憫の情を覚えてしまう。

 

 溜息を聞いた俺に、断られると思ったのか。女忍はビクリと身をすくませていた。

 

「二百石を扶持する」

 

「……え?」

 

「流れ者の傭兵忍者を重く用いるつもりはない。俺は囲い込んだ忍のみを用いるつもりである。不満ならば余所に行け」

 

「いいえ、不満などはございませんです!」

 

 忍者の囲い込みはいずれ通る道だった。

 

 武田は『三ツ者』、北条は『風魔』、松平は『服部』、隣国の大名たちは専属の忍者集団を抱えている。だが今川にいる忍者は傭兵契約をしている伊賀衆のみである。

 

「二百石だなんて、本当にいいのですか? 私の聞き間違いではございませんですよね?」

 

「一族を呼び寄せるなり、故郷に仕送りをするなり、好きにすればよかろう。働き次第で加増も有り得るから、頭数を揃えることも考えておけ。十人いれば四百石は出してやる」

 

「よ、よんひゃ!?」

 

 詳細は明日伝えると言い置き、俺は布団に入った。

 

 翌朝。

 俺の部屋に見慣れない女中がいた。

 

 背は百四十センチもないほど低く、中学生ぐらいにしか見えない。黒髪を後ろでまとめて簪を差した髪型をしていている。涼しげな水色の着流しを着た美少女だった。

 

 小柄なのに巨乳である。びっくりするほど豊満だった。脅威の胸囲だ。

 

 ニコニコと笑っているロリ巨乳だった。

 何だこいつと驚いていると、足下に一瞬で着替えが出現していた。

 

「では私は朝食の支度がございますですので」

 

「……あ、ああ」

 

 とりあえず着替えを済ませると、何時の間にか女中が俺の背後にいる。

 よくわからないが腕を前に突き出しているので、脱いだ浴衣を押し付けてみると、ロリ巨乳はそれを受け取ってニコニコ笑いながら去っていった。

 

 部屋に食事の膳が運ばれ、釈然としないまま腰を下ろす。

 

「で、お主は何者だ?」

 

「あ、これは申し訳ございませんです。まだ名乗っておりませんでしたね」

 

 少女は俺の前で正座をすると、三つ指を突いた。三つ指……もう突っ込みたくない。

 

「伊賀忍の楯岡道順でございますです。どうか末永くよろしくお願い申し上げます」

 

 その時、寝ぼけ眼をこすりながら岡部元信が部屋にやって来た。

 

「ふあぁぁー、超ねみぃ。今日もメシをたかりに来た五子でーす。ぐーぐーぐー……」

 

 そう言えば世話係という名の穀潰しがいたが。

 

 俺はロリ巨乳と脳筋を見比べて溜息を吐いてしまう。戦力差はおっぱいだけではなかった。あらゆる意味で岡部五子元信は敗北していた。

 

「五子。お主を世話係から解任する」

 

「はいぃぃ!? どどど、どうしたのお師匠!? 朝っぱらから笑えない冗談にもほどがあるよ!」

 

 こうして俺の配下に専属の忍者(世話係)が加わったのである。

 

「五子の身体に飽きたから捨てるってこと!? ひどいよ、あんまりだよ! 五子のことは遊びだったの!?」

 

「まぁまぁ、落ち着いてください。五子さんの分も用意していますから」

 

「べ、べ、別にご飯なんかで懐柔されたりしないんだからね! 捨てるのは勿体ないから食べてあげるだけなんだからぁ!」

 

 楯岡道順。別名、伊賀崎道順。

 口癖は「ございますです」の年齢十八才の合法ロリ。完全敗北した元信だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

番外3『外道坊主雪斎』

 

「皆発無等等、阿耨多羅三藐三菩提心」

 

 俺は教典を頭の上に捧げ持ち、ゆっくりと下ろした。それから磬子(けいす)を棒で叩く。ごーんと、部屋の中に寂しげな音が響き渡った。

 

 般若心経、修証義、寿量品偈、観音経普門品偈。すべて読み上げると一刻が過ぎていた。

 

 朝比奈泰能の四十九日である。

 

 俺は通夜から葬儀、初七日から七日ごとに訪れては読経をしていたが、本日は四十九日という一つの区切りである。そのため四十二日よりも列席者は多かった。

 

 場所は掛川城の近くにある総善寺。朝比奈家の菩提寺である。

 俺の宗派とは異なる曹洞宗の寺なのだが、何を思ったのか娘の泰朝が熱心に働きかけたらしく、俺に葬儀を頼み込んできたのである。

 

 他宗派の縄張りに踏み入るのは正直気が進まなかったが、泰能の死の責任は俺にあるので断り切れなかった。

 

 俺は数珠を握り締めると、列席者に向きを変えて、手を合わせながら頭を下げた。

 

「これでひとまず忌明けです。親族の皆様はお疲れさまでした」

 

 朝比奈泰能の夫人がホッと溜息を吐いていた。

 四十九日を過ぎると死者の霊が家から去ると言われている。寂しい言い方になるが、何時までも死者に縛られているわけにはいかないのだ。死者を快く見送ってあげるのが、現世を生きる者の務めである。

 

 茶を頂き、雑談を交わしてから引き上げる。

 列席者たちは忌明けの宴として精進料理のもてなしを受けるのだろうが、坊主の俺には関係ない話だ。

 

「軍師殿。いや、すまない。雪斎殿」

 

 寺の門前で声をかけられる。振り返ると、朝比奈泰朝がいた。

 相変わらずの貧乳だったが、心労が溜まっているのだろう。疲れた顔がゾッとするほど色っぽかった。

 

「喪主のそなたが場を外すのは如何かと思うが」

 

「見送りだ。堅いことは言わないでくれ」

 

 泰朝は気恥ずかしげに頬をかいた。

 

「今回は父のために無理を言ってしまったと思っている。すまなかった。そして、ありがとう」

 

「いや。そなたに礼を言われることではない」

 

 殺した相手のために念仏を読むのは、かつてない苦行だったが、すべて俺の自業自得だった。

 と言うか、なんかもう吐きそうだった。ぶっちゃけ帰りたい。修行不足でごめんなさい。

 

「戦場ではきつく当たってしまったが、あなたのことを恨んでいるわけではないんだ。父は後事をあなたに託して、納得して死んでいった。娘の私があなたを恨むのは、父の死を貶めることだと思うんだ」

 

「そうか」

 

「うん。自分でも何が言いたいのかわからないけど、上手く伝わっているかな?」

 

 多分だが、仲直りをしたがっているのだろう。

 俺は別に泰朝と喧嘩をしているわけではないが、泰朝は富士川合戦で俺を罵ったことを引きずっていた。

 

『あなたは地獄に堕ちるだろう』だったか。気にするほどのことではない。

 

 まぁそれっぽいことを言っておけばいいかと俺は適当に言葉を選んだ。

 

「すべてのものは滅びゆくものである、不放逸によりて精進せよ」

 

 仏陀釈尊、最後の遺誡を引用しただけである。

 

 手抜きもいいところの説法なのだが、なんか泰朝が号泣していた。

 

「うっ、ひぐっ、あ、ありがどうございまず」

 

「う、うむ。それでは拙僧はこれにて御免」

 

 尻尾を巻いて逃げ出した俺の背中に、泰朝が大声を放った。

 

「雪斎様! 私は、父に恥じぬ武将になります! どうか私を見届けて下さい!」

 

 返事は思い付かなかった。頑張れ若者と応援したくなっただけだ。

 ……実は俺も若者なのだが、それは言わぬが華である。

 

 

 



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5.内乱の気配

 武田信虎の配下に、加賀美虎光という人物がいた。

 

 加賀美家は名門である。

 新羅三郎義光の孫、遠光を祖に持つ武田の分家だった。遠光の子らは秋山、小笠原、南部という支流を生んでいる。

 

 四百年前に枝分かれした一門衆だ。武田信虎にとっては従順な家来ではなかったのだろう。

 

 ――誅殺された。

 

 一時の感情に任せて手討ちにしたと言われているが、真相は定かではない。

 しかしこの事件がなければ、武田信虎が粗暴で傲慢だったと言われることはなかったはずだ。

 

 虎光殺害を諫めた家臣がいた。馬場虎貞、内藤虎資である。

 今川への出兵に反対した家臣がいた。山県虎清、工藤虎豊である。

 

 いずれも摂津源氏や藤原南家を祖としており、出自不明の豪族ではない。武田家の譜代だった。

 

 彼らも次々に誅殺された。

 

「中央集権を目指すなら、まずは小山田や穴山を討つべきだろう。やつらは武田に弓引いたという前科を持っているんだからな。つまり、政治的な理由はなかった。私的な理由で殺したというわけだ」

 

 武田勝千代晴信は法堂で燃え上がる炎を眺めていた。

 

 熱気に満ちた部屋である。

 滝のように汗が流れ、少女の髪はしとどに濡れていた。肌を火照らせた少女の姿は、男ならば見ているだけで涎を垂れ流すほど色気に満ちていたが、彼女に色目を使う男はこの場にはいない。

 

「……御館様の家督相続で、叔父の油川信恵を支持したのが穴山と小山田ですからな」

 

「なんか胡散臭いんだよな、あいつら」

 

 片目が見えず片足が動かない異形の軍師、山本勘助が気怠げに口を開いた。

 

 かつて武田信虎は祖父の武田信昌、叔父の油井信恵、穴山、小山田を敵に回していた。敗北した油井一族は壊滅したが、他は国内の混乱を抑えるために赦免されている。おかげで穴山と小山田は従属こそしているが、独立性を維持したまま残ってしまっていた。

 

「無念です。私の父はどうして殺されなければならなかったのですか」

 

 内藤虎資の娘、内藤修理亮昌豊だった。

 難を逃れた内藤昌豊は表向きは武田家を出奔したことになっているが、工藤祐長という偽名を使って晴信のもとに身を寄せていたのである。

 

「内藤家が何をしたのです! あんなものは諫言ですらないと言うのに!」

 

 怒りに震え、涙をこぼしている内藤昌豊だったが、晴信も勘助も振り返りもしない。

 

「教えて下さい、姫さま!」

 

「……あ、えーっと。誰だっけ?」

 

「なっ! 内藤修理です! 修理亮昌豊!」

 

 晴信がもの凄く失礼なことを言っていた。

 昌豊が唖然として金魚のごとく口をぱくぱくしている。

 

 この少女、恐ろしく影が薄いのである。

 容姿にもまったく特徴がなく、少し前に話をしていた相手に顔と名前を忘れられるほどだった。

 

「まぁどうでもいいか。で、父上は暴君と化しつつあるわけだが」

 

「よくありません!」

 

「……国内の緊張が高まりつつあります。御館様が屍山血河を築かれるか、千々に乱れた甲斐の豪族たちが群雄割拠するか、どちらかになるでしょう」

 

 昌豊を無視しながら勘助が説明していると、それに補足を付けた者がいた。

 

「あるいは姫さまが屋形を襲うか、ですね」

 

 高坂弾正忠昌信(春日虎綱)。

 ひまわりの花のように可愛らしい美少女である。

 

 父の死後、姉夫婦に家から追い出されたという経緯を持つのに、少女の笑顔に陰はなく、むしろきらきらと輝いていて眩しいほどだ。

 

 富士川合戦で朝比奈泰能を討った農民娘だった。泰能の首は今川家に奪い返されていたが、晴信は美少女が好きだったので小姓に取り立てていたのである。

 

「謀反を勧めるのか、弾正」

 

「いえいえ、滅相もございません。御館様に疑われて斬られるのが関の山でしょうから、今のうちに逃げておきましょう!」

 

「なぜそうなる」

 

 高坂昌信には才能があったのだろう。

 教養のない農民の出とは思えないほど頭がよく回る。事あるごとに「逃げましょう」と言うのが鬱陶しかったが、その思考には閃きがあった。

 

 暴君が勝つか、甲斐が砕けるか。

 そこに第三の道を見出すのは、常人では不可能だろう。知勇を兼ね備えていなければ、口に出すのも憚られる言葉だった。

 

「……支度だけは行っておくべきでしょう」

 

「勘助。お前もか」

 

「……最悪の場合に備えておくのです。次の屋形のことですぞ」

 

 次郎のことかと、晴信は苦々しげに顔をしかめた。

 

 武田次郎信繁。晴信はこの妹のことが嫌いではない。むしろ好意を覚えていた。

 素直なのだ。父を敬い、姉を慕う。そこに邪心がないのは顔を見ればよくわかる。

 

 それは信虎も同じなのだろう。

 信虎は信繁を目に入れても痛くないほど可愛がっていた。

 

 最悪、武田の屋形は信繁に譲られることになるかもしれない。

 そうなればまたお家騒動である。

 国を割って争い、誅滅させられた油井一族のように信繁が死ぬ。

 

 いや、次は今川や北条が介入し、以前よりも酷いことになるだろう。

 

 だから先手を討たなければならない。それは晴信にもわかるのだ。

 

「父と妹だぞ、お前ら」

 

「もはや争いは避けられません。姫さまが動かなければ、譜代が一斉に離反するだけです。譜代を斬ったのです。彼らの恐怖は凄まじいものがあるでしょう」

 

「怖いです! 逃げましょう!」

 

 内藤昌豊の発言は誰も聞いていなかった。

 高坂昌信の発言は聞こえていたが無視された。

 

「……親不孝ではありますが、下克上の世。これが定めなのでしょう」

 

「勘助。これがお前が言っていたことなのか?」

 

 晴信と勘助が初めて会った時のことだった。

 信虎と喧嘩をした後、ひとり泣いていた晴信の前に現われ、この男はこともあろうにこう言い放った。

 

『天下一の軍師、山本勘助でございます』

 

 泣いている姫を覗いた痴れ者は、天下一の軍師を自称した。

 それがおかしくて話を聞いてみると、老人は熱く軍略を語り、晴信はその知識の量や見識の高さにすぐに魅了された。

 天下を目指すのも面白そうだ。そう思って召し抱えた。

 

『おそれながらそれがしが、姫さまを天下人に育ててさしあげます』

 

 これもその策の一つなのか。

 下克上をしなければならないのか。

 

『ともに天下を取ろうぞ、勘助』

 

 晴信はこう答えた。その日、晴信と勘助は共犯者になった。

 晴信が止まれば、それは裏切りだ。勘助はそれを責めることはないだろうが、晴信は死ぬまで後悔するだろう。

 

 晴信は悩んだ。考える時間はまだ少しだけ残っていた。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 興国寺城の城主は今川義元だったが、先日ようやく十四歳になったばかりの箱入り娘が政事(まつりごと)を執り行うのは無理があった。

 

 と言うわけで、政務は俺が補佐することになっていた。

 

 やらなければならないことは開墾、治水、裁判、徴税の他に、動員計画の作成、治安の維持、街道の整備、公文書の発行、兵糧や武器の管理などだ。並べてみると激務のように思えるが、決してそのようなことはなかった。

 

 俺もかつては政務とは書類仕事に忙殺されているというイメージを持っていたのだが、実のところは暇である。

 政務は朝に一刻、夕に一刻、それ以外は授業に充てていた。

 

 奉行を任命すれば、後は報告待ちだ。

 

 城主の仕事とは家臣のコントロールであり、言ってしまえば管理職。企業の社長のようなものである。綱紀の粛正のため現場に顔を出すことも必要だが、基本的に事務所に引きこもっていた方が社員たちは安心するというもの。

 

 これぞ身分制度の特権だった。……ミスれば死ぬけど。

 

「遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よですわ!」

 

 俺が御殿で政務を執っていると、庭から今川義元の大音声が流れ込んで来る。

 奏者や祐筆などの側近たちが、ちらっと縁側の向こうに目をやっていた。

 

「これが『今成通(いまなりみち)』の上鞠(あげまり)ですわ! おーっほっほっほ!」

 

 白い玉が、ふわりと浮き上がっていた。

 

 退屈そうに欠伸をしていた岡部元信が落ちてきた玉を蹴り飛ばし、関口氏広が危なげに足で拾って次に繋ぐ。職場から拉致られてきた侍の少女たちが玉を回すと、第一の座(最初に蹴る人)の義元に玉が戻る。これを繰り返して、玉を落とした者が敗北である。

 

 見ればわかるが蹴鞠だった。

 

 俺はビキリと、米神に血管が浮き上がるのを感じた。

 これはあれか。真面目に仕事に励んでいる俺への当てつけか。

 

「ひぃぃぃぃ! ごごごご家老! そろそろ休憩を入れてもよろしいのでは!?」

 

「……む。そうか」

 

 休みをくれてやればこれだ。せめて俺の見えないところで遊んで貰いたいのだが。

 

 溜息を吐いていると、鞠を胸に抱いた義元が盛りの付いた犬のように走り寄って来る。

 

「師匠。お仕事はもう終わったんですの?」

 

「一服しているだけだ」

 

「師匠も参加なさいます? わたくしの蹴り技の数々、お見せして差し上げますわよ?」

 

「いらん」

 

 久しぶりの蹴鞠にテンションが上がっているらしい。普段よりも二三本、頭のネジが弾け飛んでいるようだった。

 

「ちょっとだけ。ね、ちょっとだけですから」

 

 しかも、しつこい。

 唯一の特技と言ってもいい蹴鞠を披露したくて仕方がないようだ。

 さながら褒められたがっている子どもだった。

 

 思えば哀れな娘である。

 本来なら親兄弟が褒めてくれるはずなのに、大名の娘に生まれてしまったばかりに肉親の情というものを知らないのだから。

 

「参加はできないが、ここから見物させて貰うとしよう」

 

「はい! 『今成通』の実力、御覧に入れてみせますわ! おーっほっほっほ!」

 

『成通』とは平安時代に『蹴聖』と呼ばれた蹴鞠の名人、藤原成通のことである。

 たしかに義元は当代の名足だったが自画自賛も甚だしく、全方位から白け切った視線が向けられている。

 

 なのに義元は空気を読まずに高笑いをするばかりだった。

 

 俺は茶坊主が運んできた湯飲みを受け取って一息に飲み干した。ぬるかった。

 首を傾げながらもう一杯貰ってみるが、やはりぬるかった。

 

 気の利かない坊主だと冗談交じりに思っていると、天井から黒い影が落ちてくる。

 

「あの。ご主人さま」

 

 参入したばかりの女忍、楯岡道順である。

 

 今日は世話係の時のような着流し姿ではなく、本業の忍装束だった。ただ、なぜか覆面は付けておらず素顔を出している。

 

 少女は黒い着物(ミニスカ風)の下に、針金を編んだ帷子を着込んでいた。それにしても、見れば見るほど巨乳である。

 

 あと俺の呼び方がお坊さまからご主人さまに変わっていた。

 

 俺の感想は、あざとい。これに尽きる。

 

「場所を変えるぞ」

 

「……えっ? あ、その」

 

 この女忍、任務の報告に来たのだろうが、どこか一つ抜けていた。

 人目があるところで忍者の格好をして出現すれば機密も何もない。女中の格好をして耳打ちをするとか、他にやり方はあっただろうに。

 

「やだ……まだ昼間なのに……ございますですよ……」

 

「聞こえているのか。場所を変えると言っている」

 

「うひゃぁっ!」

 

 道順が、ぼーっとしていた。

 声をかけるとハッと飛び跳ねて天井に張り付いた。蜘蛛のようである。凄い技術だと思うのだが、何がしたいのか理解不能だった。

 

「そんな、ご主人さま。私、まだ覚悟ができてございませんですよぅ!」

 

 覚悟とは何だろう。

 若干不機嫌になりながら言うと、少女は困ったように身をよじって恥ずかしがっていた。

 

 なにこれ、うぜぇ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 高天神城は遠江南部、遠州灘の近くにあった。

 史実では武田信玄が攻略を諦めて素通りした城である。小さな山の上に立てられているのだが、その山があまりにも急斜面だった。石垣はなかったが、土塁や堀割がある。防御に優れた山城だった。

 

「……おのれ、陸奥守信虎。おのれ、勝千代晴信」

 

 富士川合戦の序戦で、一万の兵を率いて大敗した老人がいた。

 

 高天神城主、福島正成である。

 

 老人は城主の居室で、真っ昼間から酒を浴びていた。

 傍らで酌をしているのは艶めかしい美女である。老人に囲われている歩き巫女だった。気取った言い方をすれば白拍子と言うのだが、実際のところはただの娼婦だ。

 

「父上。大殿からの使者が来訪しておりますが」

 

「……またか」

 

 襖の向こうからの声に、福島正成は溜息を吐いた。

 

 息子の福島弥四郎である。酒と女で堕落している父を見たくなかったのか、弥四郎は襖を開けて中を覗こうとはしない。

 

「父上。流石にこれは不味いのでは……?」

 

「どこがだ?」

 

「病に伏せていると嘘を吐いて、呼び出しに応じないことです」

 

「だから、それのどこが不味いと言うのだ。病気と偽るのは兵法の基本であろうに」

 

 大敗した正成は主君の氏親に何の釈明もせずに、自分の兵だけを引き連れてさっさと高天神城に帰還。それからずっと城に引きこもっていた。

 

 このままでは福島家は取り潰されるかもしれないと危機感を抱いている弥四郎に、しかし正成は悪びれもしない。人を食ったような言い方をして丸め込もうとするばかりである。

 

「ですが父上! このままでは福島はお終いですぞ!」

 

「……はぁ。貴様というやつは」

 

 正成は理解していた。

 今川館に入れば生きて帰ることはできないと。無理やり切腹させられて、一族に首桶が送られることになるだろう。先祖の働きによって手に入れた城も没収されて、旗本衆の一人に数えられることになる。

 

「いいか、弥四郎。高天神城がある限り、福島は滅びぬのだ。この城を攻め落とすなら一万の兵が必要になるだろうが、武田に大敗して兵を失った今川がどこからその兵を捻出すると言うのだ?」

 

「父上、あなたはまさか」

 

「馬鹿者。誰が謀反などするか。わしはな、いずれ氏親が頭を下げてくるのを待っておるのよ」

 

 正成は主君の足下を見ていた。

 最終的に許されるだろうと確信しているからこそ出仕に応じないのである。

 

 厭らしい笑みを浮かべる老人に、傍らの女が気味悪がって離れようとする。それは許さぬと老人の腕が女を引き寄せた。

 

 何時の間にか弥四郎が居なくなっていた。余計なことをしなければいいがと思っていると、すぐに襖の前まで戻ってくる。

 正成はぐいっと盃を飲み干すと、気怠げに酒気を吐き出した。

 

「何だ、まだ何かあるのか? 小言なら後に――」

 

「……それが、堀越殿がお越しになられたのですが」

 

「会おう」

 

 正成は盃を捨て、女を突き飛ばす。

 

 福島正成は酒にも女にも溺れていなかった。所詮は嗜み。気慰めである。襖を開けると、唖然とした息子を捨て置き、肩を怒らせて城内を闊歩する。

 

「おのれ、武田信虎。おのれ、武田晴信」

 

 老人は憎々しげに吐き捨てる。

 

 かつては今川最強の武将ともてはやされ、遠江平定においては最前線で槍を取っていた。やがて遠江の国主並みの発言力を手に入れた。

 それが今や主君を相手取って綱渡りの外交をさせられている。

 

 それもこれも武田の所為だ。

 

「……おのれ、今川義元」

 

 そして、今川のうつけ姫の所為だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「『おのれ、今川義元』と。確かにこう言ったのだな?」

 

「……はい。福島の声は、憎悪に染まっていたのでございますです」

 

 場所は変わって櫓の上。

 城下を一望できる高所にあり、高所恐怖症なら足がすくんでいるだろう。

 

 道順は櫓の屋根の上にいた。他者が介在できない、吹き抜けの密室である。

 

「堀越殿とは堀越左京(貞基)のことか」

 

「いえ、それがどうにも。高天神城に忍はいませんでしたが、密会の部屋には警備兵が多すぎてとても近付けませんでした。ですので確認はできていません。未熟な忍で申し訳ございませんです」

 

「未熟とは思っていないが、忍がいないと?」

 

「正確には、実力のある忍がですけど。あんなものは、ただの真似事でございますですよ」

 

 大した自信だった。だが、信用しても構わないだろう。

 楯岡道順。別名、伊賀崎道順の言うことだ。謀略で城を陥落させ「伊賀崎入れば陥ちにけるかな」と謳われた、歴史に名前を残してしまった伊賀忍者である。

 

「やはり、福島は……」

 

 俺は独り言を呟き、黙り込んだ。忍に聞かせる話ではない。

 

「いずれ高天神城の兵糧を焼くことになるかもしれん。備えておけ」

「……はっ」

 

 楯岡衆、総勢十人。

 焼き働きをすれば、また死人が出るだろう。わかっていて、また命じた。少女の返事には感情の色が消え失せていた。

 

 お互いに業が深い。

 必要があれば俺は彼女に死ねと命じるだろうし、少女はそう言われることを覚悟している。こんなものは美しい主従関係ではなく、ただひたすらグロテスクだった。

 

 俺が地上に降りて櫓を見上げてみると、そこにはもう誰もいなかった。

 

「あっ。今日のお昼ご飯は、鮎の塩焼きでございますですよ。ちなみにご主人様は頭からバリバリ食べる性格だったりします?」

 

「……よくわかったな」

 

 背中に声をかけられ、振り返ると女中姿の道順がいた。

 何時の間に移動して着替えたのだろう。やはりホラーだ。

 分身の術を使っているのではないかと疑ってしまう。物理法則は破ってはいけないと思います。

 

「ご主人さまは何時も米粒一つも残さずに綺麗に食事をなさっておりますから、教養があるんだなぁと思わず感心してしまうのでございますです」

 

「教養などあるものか。食い意地が張っているだけだ」

 

「その食い意地が張っているお方は、ご主人さまよりもはるかに汚らしく食事をするのでございますですよ」

 

 名前を言われなくても誰なのかわかってしまった。

 あの脳筋はガツガツと米をかきこむ度に米粒をこぼし、魚の骨はぐちゃぐちゃして、汁物のお椀には葉っぱがくっついて残っている。

 岡部元信。その行儀の悪さは今川家ナンバーワンである。

 

「そう言えば今さらなんですけど、ご主人さまはお坊さまなのにお肉を食べてもいいのでございますです?」

 

「肉食だが僧職系男子だ」

 

「……へ?」

 

 俺にしては珍しい失態だった。

 滑っていた。口が滑って、ギャグも滑っていた。

 

 それはともかく、道順の言うように俺は肉も魚も食う生臭坊主と化していた。

 寺で飢えていた時はともかく、今の仕事は身体が資本。食わなければやっていけないのだ。

 

「雪斎さま! 一大事です!」

 

 食堂に向けていた足を止める。

 

 関口氏広が転びそうになりながら駆け寄って来た。

 着物の裾がえらいことになっているのに、氏広は恥ずかしがる素振りを見せない。それだけ重要な話を持ってきたようだ。

 

「まずは落ち着け。大事があるならば、大声で叫ぶのは愚の骨頂である」

 

「これは失礼しました」

 

 氏広が息を整え、衣服を正しながら気を静める。

 

 肩でしていた息が収まると、氏広は訥々と語り始めた。

 

「大殿がお倒れになられました」

 

 時が来た。

 

 思わず笑みが浮かびそうになった。ついに始まったのだ。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 今川氏親が倒れた。

 

 病名は不明である。この時代の医学とは漢方薬学であり、統計による裏付けがあるため効果がないとは言い切れないのだが、現代の西洋医学とは比ぶべくもない。実際、詐欺師のような医師は少なくなかった。

 

 ともあれ氏親と面会できるのは医師の他には親族と宿老だけだった。

 

 氏親が倒れたことは家中では秘すべきという意見もあったようだが、氏親本人があえて公言するよう命じていた。病を隠し通すのは無理があり、もしも情報が漏れてしまった場合、むしろ動揺が大きくなるとのこと。

 

 氏親が伏せっている中、政務を代行したのはその妻だった。

 

 寿桂尼(じゅけいに)。

 公家の中御門家から嫁いできた女性である。

 

 夫に変わって政務を執ったため、後世では女性の戦国大名と呼ばれている人物だった。

 

「大殿の容態は如何様であったか?」

 

「え、えっと。わたくしは医学の専門家ではないので何とも言えませんが」

 

「そうではなく、素人目に見てどうだったかと問うておるのだが……」

 

 岡部久綱が弱り切った顔になっていた。

 

 今川館の、かつて義元が菊と名乗っていた頃に住まいにしていた三の丸。

 

 そこに今川家の家臣たちが集まっていた。

 

 岡部久綱、元信、貞綱の親子。

 朝比奈泰朝。

 三浦正勝、氏満の兄弟。

 関口氏広と義父の氏録、実父の瀬名氏貞。

 

 他にもその身内が集まっており、合計で三十人を超えている。世間話と言うには規模が大きすぎて、謀反の会議に見えるほどだ。

 

 今川氏輝が富士川で大敗したからだろうか。何の工作もしていないのに、義元への期待が高まり、勝手に集まってきていた。期待するのは勝手だが、こうして集結されると面倒なだけである。誰かの策謀ではないかと疑ってしまったほどだ。

 

 氏親は病に伏せているだけで、氏輝や氏豊もこの集会に怒りを表すだろう。

 さっさと解散させなければならないのだが。

 

「ちょっと師匠。これはどういうことですの?」

 

 上座でガチガチに固まっていた義元が、広げた扇子で口元を隠して小声で俺に話しかけてきた。随分とテンパっているようだ。

 俺はその隣で座している。家老として義元を補佐するためだった。

 

「どうと言うことはない。この者たちを安心させればよいのだ」

 

「安心と言われましても……」

 

「生まれながらに他者を従わせて来たお主なら容易いことだろう。今までより規模が少しばかり大きくなっただけのこと。何ら難しいことはない」

 

「……師匠がそこまでわたくしを買っていてくれたなんて。わかりました。不肖今川義元、師匠の期待に応えるため、一肌脱いでみますわ!」

 

 ガバッと立ち上がった義元に、一同の視線が集まった。

 

「おーっほっほっほ! みなさん、不安になるのはわかりますが、案ずることはありません。今川家に義元あり! さぁ、この今川義元に頭を垂れて従い――」

 

「おおぉっとぉ! 足が痺れましたぁぁぁ! 痛いよぅ痛いよぅ!」

 

 今川義元が高笑いと共に世迷い言を口走った刹那。

 

 前の方にいた関口氏広がわざとらしく転がって、大声で泣き真似を始めていた。

 迫真の演技である。恥も外聞のかなぐり捨てた姿には、鬼気迫るものがあった。喧嘩相手の岡部元信が哀れみの目を向けているほどだ。

 

「あら、どうしたんですか氏広さん?」

 

「……この馬鹿弟子が」

 

 俺は立ち上がると義元の腕をつかんだ。「あっ、手を繋ぐなんて……」と急にしおらしくなった義元をそのまま隣室に放り込む。

 

「お主、今何と言おうとしていた?」

 

「それをわたくしの口から言わせようとするんですの!? そんな……恥ずかしいですわ……」

 

「写経百枚」

 

「申し訳ありませんでしたせめて五十枚で許してください!」

 

 魔法の言葉、反省文である。

 

 俺は溜息を吐くと、義元をその場に放置して先ほどの部屋に戻った。

 結局こうなってしまう。

 経験を積める機会だったのだが、失敗も身になったということにしておこう。

 

「お待たせして申し訳ない」

 

 岡部久綱や朝比奈泰朝などの気心の知れた者たちが、気にすることはないと苦笑していた。

 

 ともあれ上座の最上段が空席のままで、俺は話を切り出した。

 

「氏親公の容態は未だ不明である」

 

「回復の見込みはないのか? もしものことがあれば、我らはどうすればいいのだ?」

 

「不敬である」

 

 俺は決して怒鳴らず、静かに告げる。

 不安にかられてこれからの立ち回りを考えていた孕石元泰は、大声には大声を返す人物だった。血の気が多いのである。

 

「大殿が生きるか死ぬかを論ずるなど家来の分を越えている」

 

「それは、そうだが……」

 

 まずは正論から入り、もっともな話だと思わせる。

 

「これより義元公のお言葉を伝える。『義元は長幼の序を守り、今川家を盛り立てる所存』とのこと。義元という名は『義の元』であり、その名のごとく一点の曇りもない異心なき御仁である」

 

 関口氏広や岡部元信が俺を見て「うわぁ」という顔をしていた。

 

 長幼の序というのは即興の作り話だが、異心については嘘は言っていない。たしかに義元に異心はないのだから。

 

「義元公は事が起これば自ら槍を持って、敵を討ち果たさんと欲するだろう。宿敵武田を討ち破った時のように」

 

 おお、と者どもがどよめいた。

 現実を知らなければ、武田を追い払ったという実績はこれ以上ないほど大きく見えてしまう。

 

「故に心配ご無用。皆様方におかれては大事に備えてこれまで以上に鍛錬に励むべし」

 

 俺は両手を畳に付けて無人の上座に頭を下げた。

 

「義元公に平伏!」

 

「ははーっ!」

 

 他の者も同じように、無人の上座に平伏する。「なにこれ?」と戸惑っていた元信が、久綱に頭をつかまれ畳に叩き付けられていた。

 

 謎の儀式である。

 無人の上座に、史実の今川義元が腰を下ろしているような気がする儀式だった。気がするだけで妄想である。

 

「一体なにをなさっているんですの、あの人たちは!?」

 

 部屋の外から義元の声がしていたが、誰も聞いていなかった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 今川義元の虚像崇拝事件から二刻後。

 夕暮れに、俺は義元の私室を訪れていた。家臣たちと面会していたのは大広間で、それとは別室である。

 

 部屋には掛け軸や香炉が置かれていた。鏡台には銅鏡が据え付けられ、傍に唐物の櫛が置かれている。貝合わせのための貝も机に並べられていた。

 

 平安時代の姫君の私室のように、寝台は屏風で仕切られている。思わず目を奪われてしまうほどの屏風は、狩野派の大物である狩野元信の作、四季花鳥図だった。

 

「うぅぅ……終わる気がしませんわ……」

 

 義元が墨を涙で滲ませていた。葬式でもあるまいし縁起が悪い。

 

 義元が写しているのは五部大乗経。

 崇徳院が配流先で写経したものと同じである。執念に燃えていた崇徳院でさえすべて写すのに五年かかったと言われているから、義元なら多分死ぬまで終わらないだろう。

 

「残り五枚だ」

 

「本当ですか!?」

 

 義元がガバッと身を乗り出した。必死すぎて見ているだけで情けなくなる。

 

 それにしてもと俺は思う。

 この義元、父親が危篤状態にあると言うのに落ち込んでいるようには見えないのだ。家族の仲があまりに希薄すぎて実感が沸かないのだろうか。

 

「ねぇ、師匠」

 

「何だ?」

 

「師匠のご両親は、どんな方ですの?」

 

「さて。もうほとんど覚えておらんよ」

 

 たった七年しか会っていないだけなのに、もう顔がぼんやりとしか思い出せない。人生の密度が違いすぎて、はるか遠くの記憶になってしまっていた。

 

 義元が微笑んだ。

 

「わたくしと同じですわね」

 

 さて、それはどうか。

 厳密には違うのだろうが、細部にこだわるのは俺の悪い癖だ。だから反論はしなかった。

 義元がそう思うなら、それでいい。

 

「ねぇ、師匠」

 

「何だ?」

 

「師匠は何をなさろうとしているんですの?」

 

「……今頃それを聞くのか」

 

 呆れたが、それでも義元は進歩していた。

 出会ってすぐの頃なら、こんな質問は出て来なかった。

 

 菊姫は与えられる側の人間だった。人の心だけは手に入らなくても、それ以外なら望めば何でも手に入り、何もしなくても生きていけた。

 

 それが今や与えられる側から、与える側になろうとしている。

 今川義元は変わりつつある。それがわかったから俺は微笑んだ。

 

「名前の意味と歴史の流れを見極める、と言ったところか」

 

「意味がわかりません。これが禅問答というやつですの?」

 

「作麼生(そもさん)」

 

「は?」

 

 禅問答と言うから尋ねてみたら、義元は首を傾げていた。

 

 もし俺の手に教鞭があれば、迷わず振り下ろしていたことだろう。

 

「教えたはずだろうが! 作麼生と問われたら説破と答えよと!」

 

「ひぃぃぃ! 忘れてましたすいません! せせせ説破!」

 

「……もうよい」

 

 いよいよ馬鹿らしくなって溜息を吐いてしまう。

 

 なぜか今川義元がいるとシリアスになりきれない。舌打ちしたくなるが、これも一種の才能だろう。むしろこの娘がぽんこつでなければ、主に俺の所為で血みどろのシリアス一直線になっていたかもしれない。

 

 日が暮れてきた。

 義元の写経はまったく進んでおらず、完全に集中力が切れてしまっている。これ以上やらせても無駄だろうから、そろそろお暇しようかと腰を上げると。

 

「……何だ?」

 

「あ、えっと」

 

 義元が法衣の裾をつかんでいた。

 少し歩けば振り解けそうな、弱々しい力である。少女は着物の袖を口に当てて、気まずげに目を逸らしている。

 

「わかった」

 

 俺は短く言うと、その場に腰を下ろした。

 その場で立ちすくんでいる義元に、苛立ち混じりに言い放つ。

 

「何をしている。写経が終わるまで待てと言うのだろう?」

 

「あっ、ええ! そうでした!」

 

 慌てて机に向き直った義元だったが、その手の進みはあまりにも遅い。この分だと戌の刻(午後七時)まで終わりそうになかった。

 

 まぁ、たまにはこういう日もあるだろう。

 

 俺は座禅を組んで、過ぎ去る時に身を任せた。

 

 

 



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6.当主怪死

 今川氏親が死んだ。

 辞世の句はなかった。最後は意識不明に陥っていたものと思われる。

 

 葬儀には七千人の僧侶が参加し、曹洞宗最高の法式で行われた。

 

 七千人とは非現実的な数字である。学校の朝礼の十倍以上の人数だ。都の巨大な寺ではあるまいし、それだけの人数が一カ所に集まればまず間違いなく寺がパンクする。

 実際のところは坊主がずらっと並んで一斉に念仏を唱えたわけではなく、入れ替わりに参列しただけだった。

 

 それでも歴史上類を見ない大葬儀であったのは確かだった。

 

 喪主は今川氏輝。今川氏豊は位牌を持つ。

 御太刀持ちは三浦氏員。死者のための御太刀持ちは朝比奈信置。

 棺を担ぐのは岡部久綱と福島正成。

 

 今川義元は女人のため役目は貰えなかったが、それは出家していた姉の玄広恵探(今川良真)も同じだった。

 それは仕方のないことなのだが――こともあろうに福島正成が参列していた。

 

 福島正成は譜代衆から冷ややかな目を向けられていたが、家中の和を優先した寿桂尼が沙汰を後回しにしてひとまず許したのである。

 

 棺の中に六門銭を入れて、龕龕(さがん。棺の蓋を閉じて鎖と布をかけること)を終えると、火葬場まで運ばれる。遺骨の一部は骨壺に、大半は墓所に埋められた。

 

「はぁ、疲れましたわ。葬式ってこんなに大変だったんですわね」

 

「私たちを前にそれを言いますか、姫さま……」

 

 俺は今川家と僧侶の仲介役として奔走していた。それだけではなく参列者の管理という事務仕事も押し付けられ、葬儀が始まれば念仏を唱えていた。義元たちの相手ができないほど多忙だったのである。

 関口氏広も義元に恥をかかせないよう尽力していたようだ。互いに苦労が忍ばれるものだと、顔を見合わせて苦笑してしまう。

 

 さて、本来なら一ヶ月は喪に服すべきなのだろうが、そこは戦国大名。

 当主の死によって家中の統制が乱れたり、他国が蠢動しないとも限らず、葬儀から三日後には早くも新当主の宣言が行われようとしていた。

 

 悲しみに暮れる暇もない。まったくもって武士とは業の深い生き物である。

 

「これより氏輝様による新体制が発足するわけだが、その前に我らの立ち位置を決めておかねばなるまい」

 

 葬儀が終わった翌日、俺たちは三日後に備えて作戦会議を行っていた。

 

「立ち位置? わたくしは兄上の妹で、一門衆に名を連ねる興国寺城主ですわよね。それでいいのでしょう?」

 

「駄目だ。例えば私が讒言を行えば、そなたを切腹させることぐらいは容易いことである」

 

「ししし師匠!? あなたが謀反だなんて、笑えない冗談にもほどがありますわよ!」

 

 義元がぷるぷるしていた。

 冗談では済まない発言だった。実際に俺がその気になれば下克上できる状況である。

 

 俺にできるのだ。他のやつらにできない理由はない。

 それだけに現在の状況は危機的であると言える。

 

 今川氏親は家族の情は薄かったかもしれないが、今川義元の立場を保証していた庇護者だった。それが亡くなれば、義元は嫌が応にも政治に巻き込まれることになる。やらなければ立場を守れないのだ。

 

「政治ってやつだね。めんどくさいなぁ」

 

「誰もあなたに期待なんて寄せていませんよ。猪武者には必要のない知識でしょうから」

 

「今日の氏広っちは何時もより刺々しいよ! 疲れてるの!?」

 

 相変わらず険悪な二人はさておき。

 

「今川家は分岐路に立っている。一つ、先代の政策を引き継ぐ。二つ、先代の政策を切り捨てる。このどちらかを選ばねばならん」

 

「……ん? それってどちらも正しいって答えだったりしない?」

 

「氏親公が存命中ならば、元信の言でよいのだが」

 

 得るものがあれば失うものがあるというのが政策である。非の打ち所がない政策というものはこの世には存在しない。その逆の劣悪極まりない政策は存在するのだが。

 

 だから氏親の政策にも新政策にも、どちらにも一定の理はあると言える。

 

「しかし今回は、片方の政策を取れば今川家に害悪しかもたらさない」

 

 氏親の政策。それは武田との敵対である。

 長年の間、一進一退の攻防を繰り広げている今川と武田はもはや宿敵とも言える間柄だったが、戦争状態が長すぎて体制に限界が生じ始めているのだ。

 

 富士川合戦のように多くの武将やその身内が討ち取られても、領地は一寸たりとも増えていないのである。こんなことを繰り返していて、新当主がまた武田に出兵すると言えば家臣たちはそっぽを向くだろう。

 

 今までは当主が氏親だったからやっていけただけのことである。

 

「つまり、私たちは新しい政策を取らなければならないと」

 

「でもそれって、しんどいよ。何もないところから新しいものを生み出すわけでしょ?」

 

 氏広と元信が難しそうな顔をしているが、義元はきょとんとしているだけだった。

 

「武田との戦をやめるだけでしょう? お二人とも何を悩むことがあるんですの?」

 

「……あ」

 

「……れ?」

 

 唖然としている二人を置いて、俺は頷いた。

 

「左様。義元の言う通り、新政策とは親武田政策のことである」

 

「そんな」

 

「嘘でしょ」

 

「お二人とも! 以前にもこんなことがありましたが、わたくしも成長しているんですのよ!?」

 

「聞け、お主ら」

 

 教育的指導は省略。

 

「しかし新当主の氏輝様はまず新政策は行われないでしょうね。今まで通りにやればそれでよいと考えるのではないかと」

 

「だからこそ我らが新しい道を示すことが重要になるのだ。その目論みは氏輝様とあえて対立することで、政治的な譲歩を引き出すことにある」

 

「……家を割ると?」

 

「存在感を示さなければ、城を奪われ嫁に出されるだけだぞ」

 

 氏広が溜息を吐いた。

 一門衆の一人として、家中の和を乱す行為には抵抗があるようだが、家を割ってでも家来たちからの求心力を高めておかなければ、いずれ踏み潰されるだけである。手段を選んでいられる状況でないことは理解しているようだ。

 

 やりすぎれば危機感を覚えた当主に排除されるが、それでも現在の飼い殺しの状態よりはマシである。

 

「わたくしに兄上に意見しろと仰るわけですわね」

 

「よろしいのですか、姫さま」

 

 義元はけろりとしていた。たぶん何もわかっていない顔だ。

 

「で、わたくしは何と言えばよろしいのです?」

 

 俺は三人に説明を続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「新たに今川宗家の家督を襲名した今川上総介氏輝である」

 

 今川館の大広間に重臣(一門衆、譜代衆、城持ち衆)が集められていた。

 

 今川氏輝は十七歳の若造で、氏親とよく似た顔をしていた。氏親が小太りであったのに対し、氏輝は痩せ形である。目元にしわを寄せていかめしい顔を作ろうとしているが、あまり上手くいっていなかった。

 

「ちと若すぎぬか」

 

「頼りない風貌ではあるが、中身もまさしくその通りかと」

 

 そこかしこから小声で氏輝を侮る声が上がっていた。

 

 氏輝の顔が朱に染まる。

 

「……せ、静粛に」

 

 それでも一時の感情に任せて怒鳴り散らさなかったのは評価すべきだった。

 ここで怒ったとしても陰口を叩いた者が名乗り出るはずがない。かえって器の小ささを露呈させるだけである。

 

「先の発言は無礼千万であり、本来ならば今すぐ手討ちにしているべきものである。今回は許すが、当主を侮るような発言は以後謹んで頂きたい」

 

「よいのだ、彦五郎(氏豊)」

 

「しかし兄者。ここで釘を刺しておかねば、当主の兄者がますます侮られるだけぞ」

 

「よい。私には実績がないのだ。こうなるのは当然だろう」

 

 氏親の次男、今川彦五郎氏豊が配下たちを睨み付けるのを、氏輝は冷静に静止した。

 

 意外と人物ができているのか、そう思わせてから口を開く。

 

「我が父上は名君だった。足利の連枝(れんし)として関東に出兵し、当地の秩序を回復させた功績によって幕府から遠江の守護職を賜り、斯波との戦にも勝利した。まこと偉大なお方であった」

 

 各々はそれぞれ思うところがあるのか、しみじみと頷いている。

 

「私は父上の偉業を引き継ぐことになった。ゆえに、その路線も継承する。まずは内政に力を入れて国を富ませ、しかる後に宿敵武田を滅ぼすべし」

 

 大きく出たものである。

 武士とは命よりも面子を優先させる奇妙な生き物で、大言壮語を好む傾向にある。本来ならその言葉は好意的に受け止められていたはずだった。

 

 だが、喝采は上がらない。

 多くの者が下を向いて唇を噛んでいる。彼らは何かを堪えるような顔をしていた。

 

 氏輝はその空気に戸惑い、次の言葉を言うべきか迷っている。隣にいる氏豊に助けを求めるも、氏豊もわからないと首を横に振るだけだ。

 

 義元の後ろで正座していた俺が、口元に手を当てて咳を一つした。事前に示し合わせておいた合図である。

 少女の背中がぴくりと震え、十秒ほど躊躇ってから、ようやく口火が切られた。

 

「あ、あのっ」

 

 声が震えていた。続きの言葉が出て来ていない。

 

「やめても構わんぞ」

 

 小声で告げる。

 氏輝に排除されたとしても、たとえ今川が滅びたとしても、俺には生き残る自信があった。義元を連れて他の大名に亡命することもできる。

 

 義元に今川家を背負う器がなければ、諦めるしかない。その時はすっぱり割り切ってしまおうと俺は思っていた。

 

 少女は唾を飲み込み、改めて口を開いた。

 

「畏れながら、兄上に申したき儀がございます。発言を許されたく」

 

 義元の高い声が大広間に響き渡る。

 よどみのない、なめらかな口調だった。数多の視線が少女に集まるも、少女は怯まない。

 

「……うむ。許す」

 

 氏輝は戸惑いながらも発言を許した。当主としての器量を見せているつもりなのかもしれないが、すぐに後悔することになるはずだ。

 

「武田との戦はやめるべきです」

 

 鏑矢が放たれる。大広間がどよめいた。うつむいていた者たちが、一門衆のいる上段を見上げて唖然としている。

 

「戦上手の陸奥守信虎と争ったところで血が流れるばかりで、何も得るところはありませんわ。たとえ土地を得ることができても距離が離れすぎていて援軍が間に合わず、すぐに奪い返されるだけでしょう。武田との戦に利を見出すなら、それこそ甲州全土を手中に収めなければなりません」

 

「……なっ、き、貴様っ。いま何と申した!?」

 

「理解できるよう順を追って説明したつもりなのですが、ならばもう一度言いましょう。武田との戦はやめるべしと申しているのですわ」

 

「貴様! 今川一門が当主に逆らうかぁ!」

 

 身内からの裏切りに、氏輝は激高した。

 勢いよく立ち上がって小姓から刀を奪い取ると、鞘から半分ほど刀身を出して脅しをかける。

 

「ひぃぃぃ! や、やだっ! 死にたくありませんっ!」

 

「……おい」

 

 義元がヘタれた。

 毅然としていた姿が一変し、泣きながら俺にしがみつき小動物のようにガクブルしている。

 

「おい、離れろ。……ええい、喝っ!」

 

「ひぃぃぃぃ! すいませんでも兄上が恐ろしすぎますぅぅぅ!」

 

 俺は義元を睨み付けた。前門の虎、後門の狼である。

 義元は俺にもビビりまくっていたが、それでも氏輝よりはマシだとばかりに俺に抱き付いていた。

 

 いい匂いがした。白壇の甘い香りだ。……どうしてこうなった。

 

 生暖かい視線が俺たちに向けられている。

 しかし、これほどの醜態をさらしていても、俺の目論みは達成されていた。

 

「畏れながら、大殿に申し上げます。義元様の発言には一理あり」

 

 義元の醜態に目を瞑るほど、武田との戦に嫌気が差していたと言うことだ。何でもいいから使えるものはすべて使って、武田との戦を避けようとしている。

 

「甲斐との戦はもはや割に合いませぬ」

 

「内政を整える。それは大いに結構なことと存じます」

 

「武田とのことはそれから考えても遅くないかと」

 

 三浦範高や朝比奈泰朝、岡部久綱らが意見していた。

 

 彼らは切っ掛けを欲していたのだ。今川義元という当主の妹が責任を持つと宣言したからこそ、発言できるようになったのである。武田のことは保留するという逃げ道を用意しておくことも忘れていない。これが政治だった。

 

「――っ! 貴様は興国寺城で謹慎しておれ! ええい、さっさとこやつをつまみ出せ!

「兄者! 怒りを静められよ! 皆の目があるのだぞ!」

 

 俺たちは怒り狂った当主の命令で、小姓たちに叩き出されてしまった。

 しかし俺たちは敗者ではなく勝者だった。

 

 後ろを振り返ってみると、福島正成が武田討つべしと叫んでいたが、時すでに遅し。

 会議の趨勢はもはや決していた。誰も老人の言葉に耳を傾けていない。

 

「……しくしくしく。怖かったですわ、師匠」

 

「まぁ、こやつにしてはよくやった方か」

 

 俺は法衣に涙と鼻水を染みこませている小娘に、溜息を吐かざるを得なかった。

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

 史実では今川氏輝は十四歳で家督を相続し、二十四歳で死去している。

 在位期間は十年。その内、氏輝が若年のため寿桂尼が政務を代行した期間が六年ほどだった。実際には四年ほどしか政務を行っていなかったのである。

 

 こちらでは若干というか、かなり時間の流れ方が異なるようで、氏輝は十七歳で家督を相続していた。

 

「二年、待ってみよう」

 

 俺は言う。ここが限界点だと。

 深い理由はない。何となくという、ただの勘だった。二年以内には情勢が動くように思えた。

 

「暗殺でございますですか」

 

「……因果なものだ。坊主が人を殺すとは、末法の世はここにあったか」

 

 俺は質問に答えず、自虐の言葉を吐いた。

 

 時刻は深夜。場所は興国寺城の中にある法堂。

 人の気配は俺のものしかないはずなのに、耳元で楯岡道順の声がしている。気配を殺して潜んでいるのだろう。

 

 俺は精神を整えるためにお経を唱えた。

 長年の習慣で、次第に心が落ち着いていく。

 

「……仏にすがるのは心の弱さか」

 

「仏門一筋に進めないのは、お師匠が器用すぎるからだと五子は思うよ」

 

「こんな夜更けに女一人で出歩くのは感心せんな」

 

「女だけど侍だし。それに五子ほどの腕前があれば、雑兵十人ぐらいならまとめてひねり潰せるからね。えっへん!」

 

 なにそれこわい。

 

 岡部五子元信は小袖に袴を穿いていた。武士の格好である。これに肩衣(かたぎぬ)を着れば公式行事に出ても恥ずかしくない礼服になる。

 

 元信は「どっこいしょー」と言いながら、俺の隣に腰を下ろして胡座をかいた。もう少し女としての恥じらいというものを持って欲しいものだ。まだ十二歳の小娘だが、当時の感覚では結婚を意識してもいい年齢である。これでは嫁の貰い手がなくなって、朝比奈泰朝のように嫁き遅れになりそうだ。

 

「ね、お師匠」

 

「なんだ」

 

「五子はね、夢ができたよ」

 

「そうか」

 

 まったく興味がなかったので聞き流していると、元信が「聞けよ」と俺の頭を殴り付けた。

 イラっとした。弟子が増長するのはよくないことだ。俺は元信の腕をつかむと、体重を乗せて床に押し付け、腕ひしぎ三角固めを決めた。

 

「あたたたた! ちょ、やめっ!」

 

 サブミッションは坊主の嗜みである。

 いくら元信が脳筋で成人男性よりも力が強かったとしても、人間の身体には関節という鍛えられない部分があり、そこを攻めれば呆気ないものだった。

 

「ぷはぁー、ひどい目にあった……お師匠に襲われたって言いふらしてやる」

 

「やめろ」

 

 衣服が乱れ、顔を赤くして、熱っぽい吐息をして、瞳をうるませている少女がいた。

 もしこの場を第三者に目撃されたら、十中八九、誤解されていただろう。

 

 しばらく睨み合っていたが、馬鹿らしくなって座禅に戻る。

 

 俺がお経をそらんじていると、元信が木魚ドラムで遊び始めていた。一分も集中力が保たないのかと呆れ果てる。

 

「五子の夢はね、いずれ別家を立てることなんだ。岡部五子家とかどうかな?」

 

「名前が微妙だな。で、一族はどうするんだ?」

 

「それはまぁ……そのうち増えるし。言わせんなよ恥ずかしい!」

 

 生んで増やすと。

 岡部五子家(一人)というのはギャグなのでやめておくべきだ。

 

「ま、そのうちね。夢って叶わないらしいけど、試しに祈ってみようかなっと」

 

 五子がふっと息を吐いて立ち上がり、寂しげに去っていった。

 

 意味深な言葉を残していったのだが、もしやと思い、残された俺は虚空に声をかけてみた。

 

「あれは探りを入れていたのか?」

 

「……おそらく」

 

「面妖な」

 

 道順の声に、溜息を返してしまう。

 本当に厄介なことになってしまった。あれは坊主に何を期待していると言うのだ。

 

「……ご主人様」

 

「どうした?」

 

「あの。今ちょうど駿府のお城からの連絡があったんですけど」

 

 突然のことだった。あの道順が動揺していたのである。

 任務中はほとんど感情を乱さないあの道順が、俺の前で肩を抱いて恐れ戦いていた。

 

「二週間も持たなかったか」

 

「……はい」

 

 二年待つつもりだったが、まさかの二週間とは。

 

 やはり時系列が意味不明だ。この世界の謎が深まるばかりだった。

 

「『二人とも同時に』です。ご主人さま。あなたは、何者なのでございますですか……?」

 

 怯えを含んだ目を向けられていた。俺は苦笑を返すしかない。

 

 ともあれ、ここからは時間との勝負だ。

 俺は早足で法堂を飛び出すと、まずは関口氏広の部屋に足を運んだ。

 

「なんですか!? まさか夜這い!?」

 

「今川館で変事があった。福島より先に城を抑えねばならん」

 

「……雪斎さまはもう少し情緒というものを解された方がよろしいかと」

 

 不満げな氏広に支度を任せる。

 急がなければならないのは将であって兵ではない。準備と言っても数騎の馬で事足りるだろう。

 

 俺は次に今川義元の寝所に向かった。見張りの小姓が誰何の声を上げ、無礼だと怒鳴り散らしていたが、同行していた道順が背後から首を絞めて制圧していた。

 

「なっ、こんな夜中に何ですの? まさか夜這い!?」と驚いている義元に有無を言わせず今川館で変事があったと伝える。「師匠は情緒というものを理解して欲しいですわ」とブツブツと文句を言っていたが、気にせず引きずっていった。

 

 なぜ二人とも同じ反応をするのか。俺を何だと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川家で怪事件があった。

 当主、氏輝が急死したのである。同日、弟の氏豊も死去していた。同時に当主とその予備がいなくなってしまったのだ。

 

 毒物による暗殺が疑わしかったが、真相は不明である。

 

「兄上たちが……そんな……」

 

 俺たちは変事の翌朝には今川館に入城していた。

 

 御殿の仏間には二人の遺体が安置されていた。その前に立って、義元が愕然としている。

 

「雪斎さま。あなたはまさか……」

 

「疑いはもっともだ。そして、私には弁解の言葉はない」

 

 俺に向けて険悪な声を放ったのは関口氏広だった。

 

 この初動の速さについては言い逃れはできなかった。忍を使っているからだと答えても、余計に疑いが増すだけである。暗殺者を送り込むことができると宣言するようなものだ。

 

「雪斎よ。わらわもそなたを疑っておる。身の潔白を証明するなら今しかないぞ」

 

「言葉による弁解など三文の価値もありますまい。武士(もののふ)とは行動によって証を立てるものと存じております」

 

 尼姿の女性、氏親の室である寿桂尼も俺を睨み付けていた。

 

 ともあれ俺たちは遺体の傍で問答をするわけにはいかず、場所を変えて城主の間に入った。当主が座るべき場所は空席である。

 

「……ご報告します。福島正成の手勢が、事件の真相究明のためと称して城に兵を入れさせろと要求してきております」

 

 先代の馬廻だった岡部貞綱が報告する。

 

 高天神城にいるはずの福島正成も、俺と同様に行動が早かった。これで容疑者は二人。やはり問答は無用だった。

 

「……雪斎。わらわの息子たちを始末した下手人探しは、ひとまずは置こう。福島正成の目的とは何ぞや?」

 

「無論、今川館の乗っ取りでしょう。その後すぐに氏親公の長女である玄広恵探を呼び寄せ、家督を簒奪させるつもりかと」

 

「側室の娘ふぜいが、今川の家名を襲うか」

 

 寿桂尼が忌々しげに吐き捨てた。

 福島正成のことも、自分が腹を痛めた息子たちを失ったことも、何もかもが腹立たしいのだろう。もはや彼女の子どもは義元一人しか残っていなかった。

 

「玄広恵探はどうするつもりだ?」

 

「討ちます。そこにいる、今川義元が」

 

「……わたくし、が?」

 

 義元がぎょっとしていた。

 

 出家していた者が還俗したのだ。これをもう一度出家させるなど、あまりにも甘すぎて家来たちから侮られ、今川の統制が乱れるだけである。

 

 だから討つ。新当主の力を誇示するために討たなければならない。

 

 そう言うと、矢面に立たされた義元の肩が揺れた。

 

「義元。私が外道なことを言っているのはわかっている。だが、相手も外道だ。今川当主を謀殺し、新たな当主に己の血を入れて今川を乗っ取ろうとしている。ゆえに討たねばならん。他でもないお主の手によって仇を取らなければならんのだ」

 

「……理屈はわかりますわ。でも、わたくしが姉上を殺すなんて」

 

 無理だ。俺はそう言いかけた義元の手を握りしめた。

 

「お主がやらぬなら、私がやろう。だが、本当にそれでよいのか?」

 

「……師匠。あなたは、ほんとうに、もう」

 

 悲しみに暮れていた義元の顔が、ぐぬぬと歯を食いしばるものに変わって、最後には畳をぶん殴っていた。

 

「ああもう、わかっています! やらなければやられるだけだと! どうせ師匠のことですから、兄二人が死んでもわたくしがまったく悲しんでいないことはとっくにお見通しでしょうね! やりますわ! やればいいんでしょう!?」

 

 キレていた。

 公式行事でしか顔を合わせることがない兄弟たちだ。それが死んだからといって、さめざめと涙することはない。

 その悲しみは、現実を見せ付ければ立ち直れる程度のもの。

 

「よくぞ言った。それでこそ氏親殿の娘ぞ」

 

 寿桂尼は娘を賞賛していた。

 そして次に放った言葉が、俺の今までの疑問をやっと解消させた。

 

「思えば因果なものだ。氏輝とそなたとの関わりが薄かったのは、兄弟殺しを躊躇わぬようにという氏親殿の配慮だったのだ。無論、氏輝のためのものである。それが今や、そなたの役に立っておるとはな」

 

 俺たちは驚いて寿桂尼を見詰めていた。

 

 義元に家族としての情がこれっぽっちも与えられていなかったのは、お家騒動を想定していたからだった。思えば叔父と家督を争った氏親である。邪魔になれば殺せるよう、息子のために策を残していても不思議ではない。

 

「戦国大名とはこういうものぞ。わらわたちを恨んでも構わぬ。それだけのことをしてきたと思っておる」

 

「ご心配なく。関わりが薄すぎて、恨むことすらできませんわ」

 

「……そうか。そうだろうな」

 

 寿桂尼が寂しげに微笑んでいた。

 

 義元は動揺していない。もとより他人のようなもの。「血が繋がっていないと言われるかと思いましたわ」と肩をすくめている。

 

「師匠。策を」

 

「然らば、まずは野良犬を追い払うとしよう」

 

「これは正当防衛ですわね」

 

「いかにも」

 

 俺たちが出会った時のやり取りだった。あの義元がよく覚えていたものだ。

 

「福島討つべし! ですわ!」

 

 義元が号令をかけた。

 

『花倉の乱』が始まろうとしていた。

 

 

 



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7.大義

 空が朝焼けに染まっていた。紫や橙が混じった色合いの空である。

 師走も半ばに入り、朝は身を切るように寒かった。今川館の門前に詰め寄った兵士たちは、かじかんだ手に白くなった息を吹きかけている。

 

「寿桂尼が意地になっているのやもしれんな。まぁ、やつとてわかっておるだろう。城主不在の城など、半日も守り切れるものではない。ここで死ねばやつは犬死によ。寿桂尼は城に固執する愚は犯さぬ」

 

 あえて周囲の者に聞こえるよう独白するのは福島正成である。

 泰然と構えることで士気の低下を防ぐ、熟練の人心掌握術だった。初陣から五十年も経てば、これぐらいのことはできて当然。そうでもなければ生き残っていないと言うように、その老体は自信に溢れていた。

 

「最悪、寿桂尼の首を落としてしまってもいい。血を見せれば刃向かう気概のある諸侯も恐れおののいて我らに従うだろう。穏便に尼寺に押し込めたいところではあるがな」

 

 二百の兵はすべて武者である。足軽の招集を待っている時間がなかったからだ。

 兵数よりも速度が大事だったからで、今でもそれは間違いではなかったと正成は確信している。

 

 あとは玄広恵探を還俗させて今川家を相続させてしまえば、刃向かう者はすべて逆賊である。諸侯の力を使って、一気に駿河を掌握することができるだろう。

 

 福島正成は勝利を確信していた。

 老人の誤算はたった一つ。今川義元の影にひそむ者が見えていなかったことだけである。

 

「福島正成に告ぐ。直ちに駿府から立ち去るべし」

 

 甲高い声がしていた。

 先代の馬廻衆、岡部貞綱だ。まだ声変わりしていない少年の声だった。

 

 福島正成が言い返す。

 

「我らは氏輝様の訃報を聞き及ぶに至り、城内にひそむ狼藉者を取り押さえる手伝いに参った次第。それを立ち去れと命じるならば、狼藉者はすでに捕えたのだな?」

 

「……いや、それは」

 

「捕えておらぬと? お主らは何をしているのだ。時が経てば、真実はさらに闇にもぐるのみぞ。失礼だがお主らの有り様は真相を隠そうとしているようにしか見えぬ。あるいは本当にお主らがやったのか?」

 

「言いがかりは止されよ! 何の証拠があって言っている!?」

 

「だから、我らはそれを調べに参ったのだ」

 

 福島正成の強弁に、岡部貞綱は押されていた。

 六十半ばの老人と十歳の少年だ。貞綱には将来性はあっても、現時点では役者が違いすぎた。

 

「上意である」

 

 ゆらりと現われたのは、黒衣の男だった。

 

 ――太原崇孚雪斎。

 

 今川義元の教育を任されていた坊主だった。今は義元付きの家老で、興国寺城で政務を行っているはずだ。

 

 それが、どうしてここにいるのか。福島正成は混乱しながら聞き返した。

 

「上意とは……何ぞや」

 

「福島正成は居城で蟄居するべし。これは駿河今川家当主、義元の命である」

 

「なっ! 当主、義元だと!?」

 

「福島正成。城中一同が喪に服する中、お主は手勢を率いて城に乗り込もうとし、霊前を騒がせるという悪徳を為している。ただちに引き下がるならば良し、大事ゆえの混乱として多少は目をつむることにしよう。重ねて申し渡す。疾く立ち去るべし」

 

「今川義元が当主だと? これは何の冗談だ。寿桂尼の策略か。義元と言えば蹴鞠以外に取り柄はなく、諸国にもうつけと知れ渡っており、氏輝様に逆らったという前科もある。おまけに次女ではないか! 長女を差し置いて当主に座るとは、人の道にもとる行いぞ!」

 

 それは舌戦だった。

 太原雪斎は何の権限も持たないただの坊主。陪臣ごときが直臣たる正成に指図するのは礼を失する行いである。

 

 故に正成はおのれの勝利を疑っていなかった。正論を主張するにも力が必要なのだ。そしてこの坊主にはその力がない。

 

 ところが坊主は老人に冷ややかな視線を送っていた。

 それは侮蔑だった。人に向ける視線ですらない。害獣へ向けるものと同じだった。

 

「今川義元に三つの義あり」

 

 黒衣の坊主が三本の指を突き出した。

 

「一つ。義元は確かに年少だが、正室である寿桂尼の娘。今川家の相続権は義元の方が上位にあり、さらに前権大納言、中御門宣胤を祖父に持つ。長女の玄広恵探よりもはるかに高貴な血筋である」

 

 太原雪斎は主張する。その一つは正統性。

 正成はたじろいだ。思わずその指先に見えない力が宿っているように錯覚してしまう。

 

「二つ。義元の当主襲名は寿桂尼および宿老、三浦範高も認めたる事。岡部、朝比奈もこれを追認し、今や譜代衆の大半が義元の家督相続を支持している」

 

 正成は歯噛みした。

 こやつらは義元を傀儡にして今川家を私物化しようとしているのだ。

 老人は自分のことを棚上げにして黒衣の坊主を罵ろうと口を開き――。

 

「三つ。義元の名は足利将軍、義晴公の偏諱。すなわち公儀の認可を得たということである」

 

「なんだとぉぉぉぉ!?」

 

 正成は目を見開き、割れ鐘を突くような大声で叫んだ。

 

 義元の『義』の字が、将軍から賜った物だと言い張っているのだ。つまり幕府は今川義元の家督相続を望んでいると言うこと。

 

 何時の間に、どうせ法螺だろうと思うものの、心中には一抹の不安があった。

 これに逆らえば今川の逆賊だけではなく、天下の将軍に刃向かったという事実が残ってしまう。下手をすれば末代まで一族に汚名を引きずらせることになるのだ。

 

 だが、今さらだった。

 現在の幕府は自前の軍事力を持たない、権威だけの無力な存在だ。元より地方のお家騒動に介入する力もなく、その気もないだろう。

 たとえ正成が逆賊に認定されたとしても、今川家を取ってしまえば何の問題もない。金銀小判を見せ付けてやれば、京にいる雀どもは鳴き方を変えてみせるだろう。

 

「太原雪斎! お主らは虚言を弄して偽りの正統性を掲げ、長幼の列を乱し、駿府城を横領しながら、今川家をおのれの欲しいままにせんとしている! これは一つだけでも大逆である! 恥を知るならば貴様らの方こそ、ただちに居城に戻り蟄居すべし!」

 

 福島正成は雪斎の弁舌で怯んでいる兵たちを叱咤するため、腹の底から声を上げた。

 

「これ以上の問答は無用! あの坊主を討ち取り、正しき今川家を取り戻さん!」

 

 激励を受けた兵士たちの意識が、戦闘用のものに切り替わる。彼らは抜刀したり槍を握り直して、じりじりと距離を詰め始めた。

 

 これで後には退けぬ。覚悟の上だった。

 

 今川家を取るのだ。流血は必然だった。

 血の洗礼があればこそ、今川家はより強く生まれ変わることだろう。

 

 太原雪斎は不遜の態度を崩さない。冷徹な目で迫り来る武者たちを睥睨すると、ゆっくりと右手を持ち上げた。

 

「――っ! あれは!」

 

 福島兵の前進が止まる。

 

 城内から走り出てきた兵士たちが太原雪斎を追い越し、その前で種子島を構えていた。

 

 すでに火を付けた火縄を装着しており、火蓋は開けられている。あとは引き金を引けば火縄が火薬に落ちて爆発。鉄の玉が飛び出すようになっていた。

 

 正成は鉄砲を金持ちの道楽と侮っている人間だったが、それは大軍のぶつかり合いに限った話だ。正成は鉄砲の試射で鎧が射貫かれる場面を見たことがあり、費用を度外視すれば優秀な武器だと認めていた。

 

 鉄砲二十丁である。

 被害覚悟で突撃すれば、太原雪斎を討ち取れるかもしれない。だが、福島正成には突撃命令を下すことはできなかった。

 

 足軽ならばどれだけ死のうが一向に構わない。

 だが、ここにいるのは福島家の精鋭ばかりだ。足軽ではなく武者である。

 

 それに、鉄砲で十数人が討ち取られた後、太原雪斎に肉薄できたとして――まず間違いなく罠があるだろう。

 さもなければ、そこまで無防備に敵前に姿を現すことはないはずだ。

 

「おのれぇぇぇ! クソ坊主があぁぁぁ!」

 

 福島正成は地団駄を踏んだ。老人にはもう為す術はなく、もはや撤退するしか道はなかった。

 

 兵を集め、皆殺しにしてやる。

 今川義元とこのクソ坊主だけは、切腹も許さず河原で打ち首にしてやると、老人は瞳に憎悪の炎を燃やしながらわめき散らした。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 福島正成の私兵たちが整然と隊列を乱さずに撤退していた。

 銃口を向けられれば、死への恐怖からあえて突撃する阿呆が出て来るものだが、そう言った者は一人もいなかった。よく訓練された兵ばかりである。

 

「退いたか。あの御仁も愚物とはいえ知恵が回るのが厄介だな」

 

 そこら中からパチンと火蓋が閉じる音がしていた。

 

 俺の背後だけではない。城壁の矢狭間に配置していた銃兵が、さらに三十人。左右から狙い撃つという殺し間、いわゆる十字砲火である。

 今川宗家が新たに手に入れた二十五丁と、興国寺城での五丁。合計で五十丁の鉄砲がこの城にあったのだ。

 

 ここで福島正成の配下を討ち減らしておけば、後顧の憂いを減らせただろうに。まぁ、すべてが望み通りに行くことはない。

 

「心臓に悪いですよ、雪斎さま。福島殿はもはや形振り構っておらぬご様子。狂乱して我らに突撃することも有り得たでしょうに」

 

 岡部左京進貞綱が安堵の息を吐いていた。

 そんな少年の背後に現われ、ぽんぽんと彼の肩を叩きながら小悪魔な笑みを浮かべる少女が一人。鉄砲部隊を指揮していた岡部の脳筋少女である。

 

「にしし。去年まで寝小便してた忠兵衛だし、元最強に怯えるのもわかるけどね。五子もちょっとだけ怖かったし。で、実際どうなの漏らしたの? お姉ちゃんに相談してみなさい、誰にも言わないであげるから」

 

「雪斎さま。今川家はこれからどうなるのでしょうか……」

 

「二つに割れるだろう。義元派と恵探派に」

 

 無視である。うざい。

 

「と言うか福島正成って好色そうな顔してるよね。あれは女を何人も手込めにしてきた顔だよ。五子にも鼻の下を伸ばしてたっぽいし。あ、もしかして忠兵衛もあの爺さんの射程範囲かもしれないね。お姉ちゃん男色はあまり好きじゃないけど、これも武士の嗜み、忠兵衛がどうしてもって言うなら父上には黙っておいてあげるよ」

 

 ……無視である。

 

「どうしても血を流さなければならないのですか。我らが争っても、喜ぶのは武田だけです。あるいは北条すらも手を叩いて喜んでいるかもしれません」

 

「それでも必要なのだ。今川の膿は出し切らねばならぬ。不戦屈敵を論じている孫子も、命令に従わぬ王の愛妾を斬ったのだからな」

 

「あーあー、久しぶりに鉄砲をぶっ放したかったんだけどなぁ。五子は残念だよ。鉄砲の殺し間がどれほどの威力を発揮するのか、検証できるいい機会だったのに。あ、必殺技の決め台詞を思い付いちゃったぜ。あなたの心臓にずっきゅーん!」

 

「……雪斎さま」

 

 貞綱の顔色が悪くなっていた。ひどく青ざめている。

 脳筋にトラウマを植え付けられているような感じだ。姉を口舌で圧倒していた時と比べると、見違えるほど弱々しくなっていた。

 

「これ、悪化しています」

 

「……まさか」

 

 洒落にならなかった。岡部元信がうざったいのは何時ものことだったので気にも留めていなかったのだが、これが以前よりも酷くなっているとは。

 

「御免!」

 

「あっ、ちょ! 雪斎さま、ボクを見捨てないでください!」

 

 俺はやはり無視した。……そっとしておこう。

 後ろからすがり付いてきた貞綱をずるずると引きずりながら、俺は今川館の本丸御殿に入った。

 

「あ、師匠!」

 

 報告を待ちわびていのか、義元がぱっと笑顔を浮かべて駆け寄って来た。

 君主にしては軽率すぎる行動だったが、今は説教をしている場合ではない。

 

「野良犬退治はいかがでしたか?」

 

「首尾よく追い払ったが、次は群れをまとめて来るだろうな」

 

 大雑把に数えて、福島は五千の軍勢を集めてくるだろう。堀越などの今川家に反抗的な国人衆はここぞとばかりに福島に加勢するはずだ。

 

 対するこちらは八千も集まればいい方だった。ほぼ倍の数ではあるが決定力にはなっていない。

 

「でも師匠には策がお有りなんですわよね? 以前、武田を討ち破った時のように!」

 

「たわけ」

 

「あいたっ!」

 

 教育的指導を――していないのに義元が頭を押えていた。

 

 度重なる指導の恐怖が身体にすり込まれているようだ。叩かれると思って頭を押さえ、思わず声まで出してしまったらしい。義元が「ええっと、今のはその」と恥ずかしがっていて、ちょっとだけ可愛かった。

 

 ともあれ真面目な場である。俺は咳払いをして話を戻した。

 

「あれは泰能殿を犠牲にした上で成り立つ邪道の策略だ。福島ごときに武将の命を捧げるなど、猫に小判をくれてやるようなもの」

 

「本猫寺の方々なら喜びそうですけれどにゃぁ……いえ、何でもありませんわ」

 

 軽口を叩こうとした義元を睨んでから、俺は改めて今回の戦略を語った。

 

「氏輝様の死から福島正成の行動の早さを鑑みるに、やつらは事前に入念な計画を立てて行動していると見るべきだ。やつらの挙兵は素早く、対するこちら側は――」

 

「招集が遅れる、ですか?」

 

「いかにも。我らの味方は氏輝様が亡くなったことすら寝耳に水だろう」

 

 すでに敵より一手遅れている。

 兵法にある攻撃側の有位である。戦の主導権はやつらが握っている。

 

 ならば、まずは。

 

「戦の主導権を奪い返すところから始めるとしよう」

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 福島正成は高天神城に帰還すると、即座に挙兵。

 さらに周辺の領主たちが参入する。

 それは事前に謀議していたとしか思えないほどの動員速度であった。

 

 今やその軍勢は五千に膨らんでいる。

 堀越城、見付端城の城主である堀越貞基。井伊谷城の井伊直宗が加わったことが大きい。

 

 福島正成は義元派を抑えるために遠江に千の兵を置くと、残りを率いて駿河に入った。

 

 時間が経てば経つほど義元側が有利になるため、福島正成が即戦即決を望んだと言うのもあるが、それ以上に、駿河には正成の大義名分があったのだ。

 

 花倉の遍照光寺にいる玄広恵探である。

 

 腰を据えて遠江を攻略していれば、その隙に玄広恵探が義元側に暗殺される恐れがあった。

 そうなれば大義名分を失った正成に味方をする勢力はどこにもいなくなり、五千の兵はたちまち霧散するだろう。

 

「お祖父さま! お久しぶり――ではありませんわね。父上の葬儀以来ですから」

 

 今川義元の腹違いの姉、玄広恵探。

 今川氏親の娘であり、福島正成の孫でもある少女である。

 

 福島正成と玄広恵探は遍照光寺の本堂で対面していた。

 

 少女は出家してるはずなのに節制からはほど遠く、きらびやかな振り袖を身にまとっていた。大陸伝来の布地に金箔を散らし、京で織られた菫色の着物である。

 吊り目がちで、気の強そうな少女だった。

 顔付きは今川義元とはあまり似ていないのに、雰囲気は瓜二つである。今川宗家の自尊心が、似たもの同士の二人を作り上げているようだ。

 ただしその美しさや可愛らしさは義元より一枚劣っていた。母方の血、公家と豪族の差かと、福島正成は内心で溜息を吐いてしまう。

 

「聞きましたわよ。菊が今川の家督を狙っているそうですわね」

 

「左様。掟破りの鬼畜の所業である」

 

「許せませんわよねぇ? うつけの菊が当主になるなんて。今川の破滅が待っているだけですわ」

 

 福島正成は頷いた。

 愚物ではあるが御輿にするならこれぐらいでちょうど良い。玄広恵探も今川義元も、頭の出来では大差ないだろうと内心で嘲笑する。

 

 玄広恵探は還俗して今川良真を名乗り、花倉城を占拠した。

 

 方上城には福島側の福島彦太郎、斎藤四郎衛門、篠原刑部少輔らを入れて、今川義元の隙をうかがわせる矛にしながら、最前線を守る盾にする。

 

 合戦の序盤は塗り絵である。

 

 敵味方にわかれ、調略を駆使しながら小城を奪い合い、小競り合いを繰り返しながら主導権をたぐり寄せて、最終的に自軍に有利な決戦場を設定する。

 

 友軍の集結を待っていた今川義元は完全に後手に回っていた。

 

 現状は福島正成の一方的有位である。二つの城から今川館をうかがっており、現在の今川義元はあまりにも無防備。今川館は商業都市の駿府を支配するための平城であり、その防御力は脆弱だったのだ。

 

 今川義元は遠からず今川館を捨てて後退するか、あるいは城を枕にして討ち死にするだろうと思われていた。

 

 

 

『片上城。ここが福島方の急所である』

 

 

 

 岡部家の三人は黒衣の軍師、太原崇孚雪斎の言葉を思い返していた。

 

「まさか、やつらがまことに片上城に入るとは。鬼謀だな、あの軍師殿は」

 

「義元様の窮地に見えながら、しかし敵側も兵力を分散している。これはボクたちにとっても好機ですね」

 

 岡部久綱、貞綱の父子がそれぞれの所見を語っている。

 

 岡部元信は鳥肌が止まらない。たった一手で情勢が激変する、その瞬間を感じていた。

 

 ――片上城の背後には、志太郡が広がっている。

 

 岡部氏の本拠地である。

 敵がまんまと片上城に入ったところで、その背後で岡部一族が挙兵。さらに今川館から出撃した本隊と合わせての挟撃。理想的な各個撃破作戦だった。

 

 お師匠すげぇ。すげぇ、すげぇ。

 元信の心臓が高鳴っていた。戦いの前の緊張感と混ざって、自分でも止められない気分である。

 

 さらに、元信に預けられた鉄砲は五十丁。

 今川家すべての鉄砲をかき集め、すべてを元信一人に託していたのだ。その信頼もさることながら、鉄砲は集中運用しなければ効果を上げられないと理解しているのである。どういう頭の構造をしているのかと問い詰めたいところだ。

 

「あー、その、五郎」

 

「五子」

 

「ああ、そうか。改名したのか」

 

 岡部久綱は気恥ずかしげに頬をかいていた。久綱は辺りにいる岡部左京進家と岡部本家の兵を見回しながら、元信に背を向けて口を開く。

 

「この戦が終わったら――」

 

「いや、ちょ、父上!?」

 

 死亡フラグっぽい台詞である。元信は嫌な予感がして思わず止めに入った。

 

「これに勝てば、五子の家督相続を邪魔する輩は消え去るだろう。だから左京進家に戻らんか?」

 

 後ろめたい気持ちがあるのか、岡部久綱は娘の顔を見ることができず、うつむきがちに話していた。弟の貞綱も苦々しげな顔をしてそっぽを向いている。

 だが、二人とも元信のことを決して嫌っているわけではなかった。二人の態度を見ればそれがわかった。侮蔑も嫌悪もない。罪悪感にまみれた顔だった。

 

 元信は笑った。

 

「ありがと」

 

 そして首を振った。

 

「でも左京進家なんてしょぼい家、五子にはもうどうでもよくなっちゃったんだ。これからは岡部五子家の時代なのだよ! ふーははは!」

 

「しょぼい!?」

 

「五子家!?」

 

 元信の家族二人が素っ頓狂な声を上げている。家を侮辱されているのに二人は怒るどころか、むしろ寂しそうにしていた。

 

「そうか、わかった。それが五郎の道ならば、俺からは何も言うことはない」

 

「五郎じゃねぇよ! 五子だよ!」

 

 父親の尻を蹴飛ばしていると、やがて戦の時間が訪れる。

 岡部五子元信は鉄砲隊を率いるために配置に付いた。

 

 奇襲である。法螺貝は吹かない。太鼓も叩かない。接近するまで叫ばない。

 

 片上城には幅三尺の堀があり、その向こうに木の柵が張り巡らされている。土塁はない。大金をかけて建てられた城ではないが、山頂は駿河の盆地が見下ろせる高さにあり、その高さ自体が防御力になっている。

 

 山中にあるため馬は使えず、徒歩で斜面を駆け上れば雑兵の息はすぐに上がる。

 

「五郎、忠兵衛、別れるぞ」

 

「承知!」

 

「耄碌したのお父さん!? 五子だよ、いーつーこー!」

 

 岡部左京進家の手勢六百人を三つに分けて、それぞれが二百を率いる。

 元信には今川本家から預けられた鉄砲衆五十人が与力として従っているため、今や元信は二百五十人を率いる侍大将という身分になっていた。

 

「五子! 鉄砲を率いているお主は先頭を走れ!」

 

「五子じゃねぇよ! 五郎だよ! ……あれ? 五子って五郎?」

 

 名前をころっと忘れるあたりは親子である。この親にしてこの娘ありだった。

 

 ともあれ元信の率いる鉄砲武者。またしても武者に鉄砲を持たせているが、今回はただの趣味だった。だが最前線で突撃している鉄砲武者たちは生え抜きの職業軍人。山の斜面を駆け上ってもバテないという効果を生み出していた。

 

 脳筋はこれを想定していたわけではない。武人の勘――いや、元信曰く女の勘という意味不明なものがもたらした結果だった。

 

 片上城の城兵たちが今さらながらに岡部勢の接近に気付いたらしく、泡を食ったように配置に付いている。

 

 まばらに飛来する矢が数人に命中するも、突撃の勢いを削ぐには至らない。

 

「怯むな! 岡部軍団の力、今こそ見せる時ぞ! ひゃっはー! 命を惜しむな名を惜しめー!」

 

 高所から降り注ぐ矢の射程は長く、下側からの矢は届かない。

 

 しかし岡部元信は弓を引き絞った。

 五人張りの強弓。鎮西八郎並みの剛力で引き絞られた弦が鳴る。

 

 元信の身長ほどの大きな弓から放たれた矢は、敵方の武者を吹き飛ばしていた。

 

「お見事! 性格以外は尊敬しています姉上!」

 

「うるさい忠兵衛! あーもう締まらないなぁ!」

 

 少女の怒鳴り声が最前線に行き渡る。甲冑に矢が刺さっても物ともせずに鉄砲隊が配置に付いた。腰から火縄を取り出し、火打ち石を叩き付ける。すでに銃弾や玉薬は装填されており、火縄を装着して火蓋を開けばすぐにでも撃てるようにしている。

 

 一人の敵兵が二本の矢を放つ頃には射撃準備は整っていた。

 

「てーっ!」

 

 かけ声に合わせて、山中に砲声が響き渡る。

 バタバタと敵兵が倒れ、坂道を転がり落ちてくる。

 

 さて、一番槍の時間だと元信が舌なめずりをしていると。

 

 その横を颯爽と通り抜けていく集団がいた。

 

「我こそはと思う者は前に出よ! 一番槍には黄金をくれてやろう! 前進前進! 死にたくなければ前に出よ! 進め進めぇぃ! 一番後ろにいる臆病者には味方の鉛玉が浴びせかけられようぞ! さぁ突撃じゃぁ!」

 

 岡部久綱だった。顔面を真っ赤にして太刀を振り上げている。

 

 元信は思わず叫んでいた。

 

「あーっ! ちょ、父上ずるい! 抜け駆けだよ卑怯だよ!」

 

「抜け駆けは武士の慣いじゃ! 一番槍は俺のものぞ!」

 

 娘の武功を横取りしようとする大人げない武将がいた。

 こんな親の背中を見て育ってきた子どもたちである。元信が脳筋になるもの、貞綱がやさぐれるのも当然の結果だった。

 

 この日、電撃的な奇襲を受けた方上城はわずか二刻で壊滅した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川義元は今川館で指揮を執っている黒衣の僧をぼーっと見詰めていた。

 出口に近いため情報の伝達が早く済むと言って、三の丸の虎口付近にある土倉を仮の司令部にしている。

 埃っぽい部屋の中で、太原雪斎は矢継ぎ早に指示を繰り出していた。

 

「岡部美濃様、朝比奈備中様、ともに片上城を占領しました。両軍勢は手はず通り片上城を放棄して花沢城に入っています」

 

「方上城の損害は?」

 

「柵は壊れましたが損害は軽微です。あの……本当に何もせずに放棄してよろしかったのでしょうか?」

 

 雪斎は伝令の疑問に答えず、順番待ちしていた者を呼び付けた。

 

「遅れて申し訳ありません。朝比奈元長でございます」

 

「遅参である。申し開きはあるか」

 

「あまりにも突然の招集ゆえに兵が思うように集まりませなんだ。これも拙者の不徳のゆえ。この上は戦場にて汚名を雪がせて頂きたく」

 

「よろしい。ただちに花沢城に入り、朝比奈備中に与力すべし」

 

「――なっ」

 

 遠江朝比奈家の小娘の傘下に加われと言うのかと、朝比奈元長の顔が怒りに染まった。朝比奈泰能殿ならば問題あるまいが、朝比奈泰朝はちょっと行き遅れているが小娘である。駿河朝比奈家の当主を侮るなと言いたげだった。

 

 義元は小首を傾げた。

 伝令の報告よりも後回しにしたり、同族の別家の下に置いたり、むざむざ駿河朝比奈家を敵に回すような発言をするのは挑発しているとしか思えない。

 

 それに一度手に入れた城をなぜ捨てるのか。決戦に使用しないにしても、敵に再利用されないように破壊しておくべきではないか。

 

 あらゆることが疑問だった。

 

「ねぇ師匠。あれは何故ですの?」「こうした理由は?」「師匠! 師匠!」「無視しないで欲しいですわ」

 

 義元はぴよぴよとエサを求める小鳥のようにさえずり、雪斎はその都度、教え子を諭すように論を展開する。

 

「この沙汰は決して厳しすぎるものではない。朝比奈元長が黙って下がったのがその証拠。君主とは厳しくありながら公平たるべし」

 

「その心は?」

 

「旗本でありながら決着が付くまで日和見していた連中にはすべて切腹を申しつける。挽回の機会を与えるのは、むしろ温情である。さらに詳しく補足しておこう。やつは『片上城の戦い』の結果を聞き及んでから近付いてきた軽薄な輩であり、忠誠心は期待するべくもない。まずは危険な場所に配置して流血させ、使えるか否かを見分する必要がある」

 

「長いですわ、師匠」

 

 他人の目があるから後回しにすると言うこともなく、面倒臭そうな顔をすることもなく、義元への指導はどこまでも真摯だった。義元に知識を伝授すること以外はすべて些事であると言わんばかりの態度である。

 

「では城を捨てたのは?」

 

「死中に活あり」

 

「……はい?」

 

「野良犬とは餌があれば飛び付くものだ」

 

 雪斎は言葉を濁した。謀は密なるを何とかかんとか――だと思う。

 

「もしかして……これは、釣り野伏? 今回は城が囮ですの?」

 

「……ふむ」

 

 餌に飛びつく野良犬という表現が、武田晴信と重なって見えていた。餌とは片上城である。これは、かつての朝比奈泰能と同じではないか。戦術的には釣り野伏とは別物だったが、その本質は同じように思えた。

 

 雪斎は感心したように黙り込んでいたが、報告待ちの伝令にせっつかれてその対応に回ろうとしていた。

 これだから女心を解さない朴念仁は。

 義元は内心で苛立ちながら口を開こうとするが、なぜか上手く言葉が出て来ない。

 

「あ、その。師匠……」

 

 褒めて欲しいと言いそうになったのである。

 自分は子どもかと、義元は恥ずかしくなって顔を火照らせてしまった。

 

「お主は今川の屋形だ。甘えるのは程々にしておけ」

 

「あっ」

 

 雪斎は口では冷たいことを言いながらも、義元の頭に手を置いた。

 

 義元はうつむいた。抹香の匂いがした。義元はこの香りが好きだった。

 

 

 




・原作知らない人が多いみたいですね。説明しよう!
うちの作品では今川義元、武田晴信、山本勘助、武田四天王(山県、馬場、内藤、高坂)が原作キャラ。それ以外はオリキャラです。詳しく知りたい人はwiki見てどうぞ。

・岡部久綱と親綱は名前が混同しており、めんどいので統合。嫡子の正綱もボッシュート。当初はモブだから適当でいいだろと思っていたのですが予想外に出番が多くて焦る作者がいたりする。


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8.花倉の乱

 関口氏広は書き物をしながら物思いにふけっていた。

 

 氏広の役職は祐筆である。

 その役目は主君に代わり文書を作成することだった。

 

 家臣の招集状や、幕府への親書、当主交代を宣言するための黒印状など、様々な書類を扱っている。祐筆が作成した文書に、義元が花押(サイン)をすることで、初めて法的実行力を持つという仕組みである。

 

 氏広の仕事はそれだけではない。

 前線に兵糧を運び入れるための輸送計画を文書に起こしたり、金貸しから銭をかき集めるための借用証書を発行するなど、兵糧奉行や勘定奉行のような仕事まで押し付けられていた。今川家が代替わりしたばかりの現在、信頼できる官僚が少なかったからだった。

 

 はっきり言って激務である。睡眠不足はお肌に悪い。泣きそうだ。

 

「あ、そこ違うっスよ。花沢城番は朝比奈の姉御っス」

 

「……あ、本当だ」

 

 氏広は現代人にとっては暗号じみた文字『今度召出岡部美濃守花沢在城之儀申付之条』というものを指でなぞり、間違いに気付いて溜息を吐いてしまう。

 

 らしくない失敗だった。やはり疲れているのだろう。

 

 間違いを指摘した三浦氏満はドヤ顔をしている。

 役職すら与えられていない、強いて言うなら雑用係でしかないのに生意気な態度だった。

 

「ふっふーん、流石は俺っち。これが未来の今川宰相の実力っスよ。フッ、我ながらおのれ自身の才能が恐ろしいっス」

 

「すいません。三浦のお兄さんを呼んできてくれませんか?」

 

「調子に乗ってすいませんでした! それだけは何とぞご容赦を!」

 

「……うわー」

 

 うざかったので三浦正勝に引き取って貰おうと思っていると、氏満が神速の土下座を披露していた。どれだけ兄に怯えているのだ、この弟は。

 

「にしても真面目な氏広さんがボーッとしているなんて珍しいっスね。考え事っスか?」

 

「ええ、まぁ。と言うか名前で呼ばないでください気持ち悪い」

 

 氏広は筆を置き、凝っていた身体をほぐすために背伸びをする。

 

 それほど大きくはないが胸を強調する姿勢になり、氏満が鼻の下を伸ばしていた。童貞には刺激が強かったのだろう。

 気付いた時には文鎮を放り投げていた。

 

「ひぃぃぃ! いきなり何するんスか!?」

 

「あ、すいません。手が滑りました」

 

 せめてもう少しマシな言い訳を……と氏満が愚痴をこぼしているが、それはともかく。

 

「まさか主君の姉君に弓を引くことになろうとは。うつけ姫とその世話役でしかなかった私たちが飛躍したものです」

 

 思えば遠くまで来たものだ。今の状況は半年前には考えもしなかったものだった。

 

「俺っちも信じられないっスよ。まだお家騒動の最中だから、こういう言い方をすると皮算用になるんスけど、あの姫さまが今川の屋形になったんスよね。何の冗談っスか、これは」

 

「無職は勝って当然だと思っているようですが」

 

「そりゃ勝つでしょ。天地人いずれも福島にはないんスから。あと無職言うな」

 

 時間、地の利、人材、いずれも福島に味方をしていない。

 

「気を付けておくべきなのは売国ぐらいっスよ。土地や利権を餌にして他国軍を呼び込まれれば厄介なことになるんじゃないスかね。北条とか三河の豪族とかが敵に付けば、天秤はわずかながらに向こうに傾くっスから」

 

「いいえ、その心配はいりませんよ」

 

「ですよねー。あの鬼畜坊主が手を打っていないわけがない」

 

 真っ当な意見だったが、氏満の発言だと思うとどうにも納得できなかった。

 誰かの受け売りではないのか、何か変なものでも食ったのかと怪訝な目を向けてしまう。

 

「無職のくせに生意気な……」

 

「だから無職じゃねぇっスよ!」

 

 氏満が唾を飛ばしながら食ってかかってきたので、氏広は今度こそ三浦兄を呼び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 東海道には幾つかの難所がある。その一つが大井川だった。

 

 雨で増水しただけで渡れなくなる、川幅の広い激流である。橋をかけても流されてしまうため、物資の輸送は主に小舟を使って行われていた。

 

 福島正成が最前線に兵糧を運び込む際には、大井川か海路の二つしかない。だが海路は義元側の海賊衆が掌握しており、福島正成には海戦での勝ち目はなかった。

 

 海路はない。ゆえに福島正成の輸送部隊は必ず大井川を通る。

 

「……高天神城の兵糧を焼くよりは危険は少ないのでございますですが」

 

 楯岡道順は渡河の支度をしている敵軍を眺めていた。

 

 高天神城から出発した小荷駄隊を追跡し、味方にその場所を伝えるのが今回の道順の仕事である。前回と比べれば生温いにもほどがあった。今のところ道順配下の伊賀衆は一人も死んでいないのだから。

 

 雪斎の優しさ――ではない。それだけは絶対にない。

 

 敵城に忍び込んで兵糧を焼くよりも、こちらの方が成功率が高かった。それだけのことだった。

 

「楯岡殿と言ったか。お役目ご苦労。あとは我らに任せよ」

 

「はい。それではお願いします」

 

 義元側に付いている孕石元泰や由比正信などの駿河先方衆が対岸に伏せていた。

 

 道順が忍であることは彼らには伏せられていた。興国寺城で所領を得ている武士、楯岡家という肩書きがなければ、彼らは口を聞くことすら許していなかっただろう。下賎な忍には従えないと言われ、命令を無視されることも有り得た。

 

「それにしても隙だらけだな。男を知らぬ乙女がごとき無防備さだ」

 

「どうやら罠もないようだ。楽な仕事だな」

 

「渡河を済ませて、敵が疲れ切ったところを叩くとするか」

 

 甲州兵には及ばないが、戦国乱世によって鍛え上げられた戦闘民族である。敵の小荷駄隊はさしずめ血に飢えた獣に目を付けられた草食獣だった。

 

 これで福島正成は兵糧が不足し、決戦までの時間に制限をかけられた。

 戦場を誘導され、時間を制限され、兵力を削り取られ、虫の足を一本ずつ千切るように、ありとあらゆる主導権が福島正成の手からこぼれ落ちていく。

 

「頭領。街道を走る早馬を狩ったところ、このようなものが」

 

「密書でございますですか」

 

 道順の配下である楯岡家の郎党が、血に濡れた巻物を差し出していた。受け取って中身を確認すると、乾いた血が粉になってこぼれ落ちる。

 

 それは福島正成が出した、援軍要請だった。

 流石に宛名は書かれていないが、すでに遠江は敵味方にわかれている。遠江朝比奈家、飯尾家などは義元側に。堀越家、井伊家などは福島側である。膠着した戦線から兵を引き抜けば、福島が破滅するのは自明の理。

 

 ――ならば。

 

「三河ですか。奥平か吉良への書状でございますですね」

 

 福島正成の最終手段――売国である。

 

 別働隊を撃破されただけの福島正成が、何時の間にか絶体絶命の窮地に陥っていた。形振りを構わないほど追い詰められている。

 

 頃合いだった。決戦の時は近い。

 雪斎ならそのことはすでに理解しているだろうが、この情報は耳に入れておくべきだろう。

 

「この書状はご主人さまの所へ……いえ、私が手ずから渡すと致しますですよ。あなたは小荷駄隊の壊滅を見届けた後、郎党五人を率いて三河との国境を張るように」

 

「承知」

 

 道順は配下に命令すると、地を蹴って走り出した。

 

 気付けば道順は笑っていた。かつてない充実した日々だった。

 雪斎は忍の使い方を知っている。

 情報収集や破壊工作を蔑むことはなく、過分な報酬を与えてくれる。

 

 優しさはなく必要があれば死ねと命じる男だが、あれはあれで良き主だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 花沢城は駿河湾付近の街道を見張るために建てられた城だった。

 

 城主は関口氏広の義父である関口氏録だったが、この人物は槍働きには向いていなかった。関口家は事務官僚や外交官の家柄である。

 そのため朝比奈泰朝が暫定的に城番として赴任していた。

 

 最前線である。

 

 片上城との距離は二十町(二キロメートル)。二つの城は街道を挟んで睨み合っていた。

 

「なぜ片上城を捨てた?」

 

 朝比奈泰朝は思案していた。

 

 疑問だった。片上城と花沢城は連携して防御できる位置関係にある。

 何よりも片上城は高草山を押えるための拠点である。みすみす敵に渡して高所を捨てる利点が思い浮かばない。

 

 軍師殿のことだから、これも策の一つなのだろうが、果たして信じていいものか。

 まさかとは思うが泰朝の父、泰能のように囮にされているのではあるまいか。

 

 そこまで考え、泰朝は首を横に振った。

 

 泰能には死ねと命じた。だが泰朝はまだ命じられていない。

 

 それに、たとえ囮にされていたとしても、むしろ本望である。

 父子ともに今川の礎として散れば、朝比奈の武名は不朽のものになるだろう。

 

 泰朝が密かに決意を新たにしていると、関口氏録が現われた。

 

「大殿が到着されたようだ。出迎えねばならん」

 

「アタシも参ろう」

 

 関口家の実質的な当主である男が、義元のことを大殿と呼んでいる。

 あのうつけ姫と呼ばれていた義元が、一門衆から大殿と呼ばれる日が来るとは世の中とはわからないものだ。

 

 外に出ると、駄馬がいた。

 ……まだ乗馬が上達していないようだ。

 

「あらあら、泰朝さんではありませんか。わざわざわたくしを出迎えに参るとは、その殊勝な態度、まことに大義ですわ。おーっほっほっほ!」

 

 呆れ顔になる泰朝に気付かず、今川義元は機嫌よさそうに笑っていた。

 

 義元の背後に、僧服の上に甲冑を帯びた男がいる。黒衣の軍師、太原雪斎である。

 

「お待ちしておりました、軍師殿」

 

「……お主もそう呼ぶのか」

 

「はい。それが何か?」

 

「軍師のつもりはないのだが、誰もがそう呼んでくる。不思議なものだが、まぁよかろう」

 

 雪斎は肩をすくめていた。泰朝も苦笑する。

 

 義元の家老である。本来ならご家老と呼ぶのが正しいのだろうが、泰朝にとってはこの男は軍師以外の何者でもなかった。

 

「到着したばかりで申し訳ありませんが、片上城のことをお伺いしたいのです」

 

「お主の疑念は尤もである。私も説明の労苦を厭うつもりはない」

 

「あ、あの、わたくしの話も聞いて頂きたいのですけれど……」

 

「義元様万歳。では参りましょう、軍師殿」

 

 泰朝のあんまりな態度に義元が落ち込んでいたが、義元に含みがあるわけではない。

 目と鼻の先に敵城があるのだ。見張りこそ行っているが、一瞬でも油断をすれば奇襲をかけられる状況だった。

 義元への挨拶よりも先に、雪斎からの説明が最優先されていただけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 片上城の戦いでの敗北によって、福島正成の戦略は大きく狂っていた。

 

 片上城に置いていた二千の兵は壊滅。千人が討ち取られ、生き残った千人は花倉城に逃げ込んでいたが、お陰で福島方の兵士たちは士気を落としている。おまけに想定以上の兵が花倉城に入ってしまったため、兵糧の備蓄は減る一方だった。

 

 しかしそれも領地からの補給が届いていれば問題ないはずだった。

 

 三回に分けて送り出した小荷駄隊の全滅。

 渡河を終えたところを襲撃され、輜重兵たちは大井川に突き落とされて溺死していた。

 

「北条からの援軍はまだか!? 三河からは!?」

 

 評定の間に甲高い声が響き渡る。

 

 堀越貞基が狼狽えていた。

 遠江今川家の後継者を自負している初老の男だ。名門意識のため話し合いではいくらでも強気になれるが、戦場に出れば途端に役立たずになっていた。

 

「河東をやれば北条はこちらに付くのだろう!? 三河の田舎者どもは、安倍金山の小判で懐柔できるはずだろう!?」

 

「早馬が戻って来ないのだ。狩られたと見るべきだろう」

 

 癇癪を起こしたかのように叫んでいる貞基に、井伊直宗が冷たく答えた。

 感情の色のない声だ。可能なら今すぐにでも福島正成を見限りたいのだろうが、時すでに遅し。この状況で義元側に降ったとて、一族もろとも皆殺しにされるだけである。

 

 福島正成は思った。直宗はわかっておると。

 

 戦うしかない。

 たとえ敗北したとしても、井伊家の強さを敵に見せ付ければ家名を残せるかもしれないと考えているのだ。

 信用してもいいだろう。正成にとっても信用するしかない状況だ。

 

「出るか」

 

 正成は言う。

 もはや決戦で勝利する他に活路はない。

 

 幸いと言うべきか、どういうわけか敵は片上城を放棄している。

 あの坊主がとうとう馬脚を現したのか、これも策の一つなのか。……やはり罠なのだろう。

 

 それでも今となっては、高草山の高さを生かして花沢城を押し潰す以外に策はなかった。

 

「同数の兵力で武田を破った軍略家か。強敵と相対するは武士の誉れという。此度は名を上げる好機に恵まれたことを言祝ぐとしよう」

 

「直宗殿、何処へ?」

 

「一族を集めて酒宴を行う。末期の酒だ。邪魔をしてくれるなよ、福島殿」

 

 井伊直宗が去っていく。正成はその背に声をかけることができなかった。

 

「なんですか、あれは。戦う前から辛気くさいことを言うのが武将のお仕事なんですの?」

 

 長い黒髪の少女が、苛立たしげな顔をして扇子を握り締めている。

 井伊直宗の悲壮なる覚悟も、戦場を知らない小娘には理解できないようだ。

 

「明日の夜明けに、わしらは出撃する。今川義元の首さえ上げれば我らの勝利よ」

 

「流石はお祖父さま。その意気や良しですわ。さぁ、共にあのうつけ姫を討ちましょう!」

 

「お主は花倉城を出るな」

 

「……お祖父さま?」

 

 福島正成は孫娘の前でかがみ込んだ。

 愚かな娘だった。御輿としてしか使えない娘だった。それでも孫である。

 

「我らが敗北すれば、お主はすぐさま花倉寺に入って剃髪せよ。お主は義元の姉じゃ。出家して尼になれば殺されることはあるまい」

 

「何を言うのですか、お祖父さま! わらわも戦いますわ! 侮らないで下さいませ!」

 

「ならぬ。弓も引けず、馬にも乗れぬお主に何ができよう。大人しくしておれ」

 

「――っ、ですが!」

 

「愚か者が!」

 

 正成は右手を振り上げた。

 ひっ、と小さな悲鳴を上げる孫娘に、その手を振り下ろして頭を撫でた。

 

「いや、愚かなのはわしの方か。恨むならわしを恨め」

 

 何を思ってこう言ったのか、正成にはよくわからなかった。

 

 老人は孫娘の頬に触れると、おもむろに立ち上がった。それから振り返りもせずに部屋から出て行った。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 師走の末頃。

 

 福島正成が高草山を制圧。

 福島弥四郎、堀越貞基、井伊直宗、近藤康用、菅沼忠久、安西三郎兵衛など、総勢四千を引き連れて着陣する。

 

 長かった。

 ようやくここまで辿り着いたと言うのが俺の感想だった。

 

 半月に渡って、あらゆる謀略によって福島正成の手足をもぎ取り、高草山まで誘引したのである。

 

「福島ごときに贅沢すぎる策だな。数の差で押し潰せばよかろうに」

 

 朝比奈泰朝は笑っていたが、俺には笑えなかった。

 勝負は水物。必勝を期してなお敗北することもある。

 

 決戦場は焼津(やいづ)である。

 

 地名の由来は日本武尊(やまとたけるのみこと)が賊に襲われた際、草薙剣で草木をなぎ払い、火を放ったという伝承に基づいている。

 

「師匠。いよいよ始まるのですわね」

 

「ああ。打てる手はすべて打った。あとは神頼みだな」

 

「……あ、神頼み! 戦勝祈願をするのを忘れていましたわ! どどどどうしましょう!?」

 

 寺社で祈祷をしたわけではないが、打ち鮑、勝ち栗、昆布を食ったのだから、それでいいだろうと思ってしまう。

 

 武士が出陣前に食するこれらには「討つ、勝つ、喜ぶ」の意味が込められていた。鮑と昆布は消化に悪く、出陣前に食すと腹の調子を崩すかもしれないのだが、それでも験を担ぐのが武士である。

 

「ならば念仏でも読んでやろうか。毘沙門天の加護を得られるかもしれんぞ」

 

「……師匠に読経されるとお葬式みたいになりそうですから遠慮させて貰いますわ」

 

 あまりにも失礼な物言いだった。それではまるで俺が死神のようではないか。

 義元の額にデコピンを放って「あうっ」と鳴かせてから周囲を見回してみると、近習たちまであからさまに目を逸らていた。

 

 やはり死神に見えるのか。建仁寺で徳を積んだ坊主なのに、どうしてこうなった。

 

 俺たちは現在、花沢城にいた。

 流石に城内で寛いでいると言うことはなく、具足を着込んで屋外に出ているが、安全地帯に引きこもっていると言われれば否定はできない。

 

 だが、大将が前線に出るというリスクはあまりにも重い。

 義元の祖父、今川義忠は流れ矢に当たって死んだ。結果が氏親の代に起こったお家騒動だ。

 

 安全地帯から指示を出して、すべての責任を取る。これが大将の役割である。

 采配を振り、伝令を走らせる。これだけだ。

 

「あっ、あああ、あの、師匠!」

 

 両軍の緊張が高まり始めていた。

 

 花沢山から見下ろすと、義元軍は弓の弦を引き絞っているのに対し、福島軍は槍を構えて突撃を狙っている。相手側は古式ゆかしい舌戦や矢合わせはするつもりはないらしい。乾坤一擲という気迫がにじみ出ている。

 

「師匠! もし負けたら、わたくしたちはどうなるんですの!?」

 

「北条にでも亡命するか……と言うとでも思ったのか?」

 

「あううぅぅ! 弱気な発言をしてすいませんでしたー!」

 

 義元の頭をつかんでぐりぐりしていた俺は、彼女の身体がまったく震えていないことに気付いてしまった。

 悪ふざけ……いや、構って貰いたがっていたのだろう。

 勝てば姉が死に、負ければ己が死ぬ。素面ではやっていられないという気持ちはわかる。

 

 俺は軍配を握り締めた。

 

 今川義元を戦国大名に押し上げるための戦いが始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 先に動き出したのは福島側の軍勢だった。

 

「者ども! 今こそ決戦の時ぞ! われに続けぇー!」

 

 左翼を先頭に、自軍を巻き込むように引き連れて突撃を開始する。

 弧を描きながら突き進むような動きである。

 

 平凡な横並びの陣形が、突撃によって偃月(えんげつ)の陣に変化する。

 その陣形の別名は背水の陣。後には引けない戦いで用いられる、超攻撃的陣形だった。

 

 目標は敵右翼、そちらに目がけて鏑矢が放たれる。矢に開けられた空気穴から鋭い音が鳴り、義元軍の上空に音響が生じた。

 

「東が手薄ぞ! まずはやつらを敗走させる!」

 

 先頭の部隊を率いるのは福島正成。

 総大将自ら最前線に立ち、福島家の精兵を義元軍の東端に叩き付ける。

 

「父上! 一番槍はそれがしにお任せを!」

 

「敵は戦巧者の岡部美濃だ。ゆめゆめ油断するでないぞ!」

 

「はっ! ご配慮ありがたく!」

 

 福島正成の長男、福島弥四郎が大薙刀を頭上で振り回す。

 

 敵の弓足軽がすかさず応射を行うが、勢いは福島側にあった。数本の矢を放ったところで、弓足軽が下がり、入れ替わりに槍足軽が前に出る。

 

 弥四郎はひるまずに馬を突っ込ませ、大薙刀を一振りした。

 

 鮮血が飛び散り、絶叫が上がる。幾つもの首が空を飛んだ。

 

「天晴れ! 流石はわしの息子じゃあ!」

 

 普段は不仲な親子でも、戦場に出れば諍いを忘れるらしい。

 親子二人は血に酔って楽しげに笑っていた。

 

 優勢だった。

 高所から駆け下りた勢いと、そして福島隊の士気の高さがあればこそだ。

 

 ひと当てで岡部隊を崩壊させ、二町も後退させていた。このまま岡部隊を敗走させてしまえば、彼我の形勢は完全に逆転する。

 

「父上! やつらは仕切り直しを目論んでいるようです!」

 

「うむ。阻止せねばならんな。頼めるか、弥四郎」

 

「ご心配なく。これでも今川最強の後継者ですぞ」

 

「そうだったな」

 

 正成は喜んだ。息子は強い。福島の将来は安泰である。

 

 

 

 ――破裂音がした。

 

 

 

 福島弥四郎の身体が、馬からドサリと落ちていく。

 

「……ちぃっ! 種子島か!?」

 

 敵が潮が引くように後退していく。

 敗走した味方を立て直すための時間稼ぎに鉄砲を使ったのだ。

 

 周囲に散っていた岡部兵が再び一つに集まっている。足軽は知っているのだ。バラバラに逃げるよりも、一つにまとまった方が生き残る可能性が高いと言うことを。

 

 何時までも岡部久綱一人に関わっていられるわけではない。

 時間が経てば岡部隊を支えるために援軍がやって来るだろうし、横槍を入れられる危険も高まる。

 

 ……いや、むしろ、なぜまだ敵が来ないのか。

 

 予想以上に手応えがなさすぎる。敵は岡部久綱だ。片上城の戦いの立役者である。

 

「福島殿! 背後を御覧あれ!」

 

 井伊直宗の叫び声がして、正成は振り返った。

 

 敵軍左翼、朝比奈隊が片上城に攻め込んでいる。

 

「……やりおったな」

 

 正成は憎々しげに呟いた。

 仕掛けられてようやく、こんな策があったのかと驚かされてしまった。

 

 元々の数は義元軍の方が多い上に、背後を守っているのは堀越貞基だ。やつの無能を埋めるために武将を付けているが、焼け石に水でしかなかった。

 

 ――岡部は囮だ。

 

 わざと右翼を手薄にして敵の目を引き、高草山が手薄になったところでそれを強奪する。それから本隊、朝比奈隊、岡部隊で包囲殲滅するつもりなのだろう。

 

 読まれていたのだ。

 

 一世一代の攻撃だった。福島正成の人生において、これ以上ないほどの突撃だった。

 

 それがすべて敵の手の平の上だったのだ。

 

「このままでは敵軍に包囲されるが如何に!?」

「無論、突撃する!」

 

 正成は言った。もはや岡部を倒すしか道はない。

 超然とこちらを見下ろしている軍師の手の平から逃れるには、やつの想定以上の武勇をしぼり出さなければならない。

 

 配下が大薙刀を差し出した。息子の形見だった。

 

 正成はそれを握り締め、その重さに顔をしかめた。老骨には重すぎる得物だった。つくづく惜しい息子を亡くしたものだった。

 

 正成は突撃する。

 周囲の兵士たちが、主を討たせぬと身を盾にするように後に続いた。

 

「近藤康用さま、菅沼忠久さま、お討ち死に!」

 

「堀越左京が敗走しております!」

 

「高草山から矢の雨が降り注いでおります! お味方の被害は甚大!」

 

 目眩がするような報告ばかりが入ってくる。

 

「――負けた、か」

 

 正成たちの突撃に合わせて、岡部隊の先頭にいた足軽が縄を引き上げた。地面に倒されていた逆茂木が持ち上がり、槍衾と合わせて二段構えの防御ができあがる。これすらもあらかじめ備えていたのだろう。

 つまり最初の敗走も想定の範囲内だったと言うことだ。

 

 それでも越えなければならない。二段構えを越えて、岡部を討たなければならない。

 

 だと言うのに、ぞろぞろと鉄砲部隊が前に出て来る。黒い穴が福島隊を見詰めている。

 

「無粋なやつめ。やはり坊主か。戦の作法と言うものがわからぬらしい」

 

 胸に衝撃が走り抜けた。

 バタバタと倒れる味方に脇目も降らず、吐血しながら、それでも怯まずに突き進んだ。

 

 逆茂木に激突し、愛馬が絶命する。

 落馬し、槍を身体に浴びながら、それでも前に進んだ。

 

 敵の足軽たちは正成の壮絶な姿に萎縮し、取り囲んで槍の穂先を向けているだけだった。

 

「これなるは大将級ぞ。誰か、わが首を欲する者はおらんのか」

 

「もはやこれまででありましょう。すぐに場を設けますので、一句詠んでから腹を召されますよう」

 

「……ふん。岡部の小娘か」

 

 足軽たちをかき分けて現われたのは、十二歳ばかりの小娘だった。

 

 強い。相対した瞬間に理解させられる。全盛期の正成でも勝てないだろう。

 

 それがわかった瞬間、正成の腰から力が抜けた。

 

「長くは持たぬ。一句詠んでいる間などないわ。福島上総介正成の最後を目に焼き付けよ」

 

 正成は兜と甲冑を捨て、諸肌を脱ぐと、小太刀を抜いて腹に押し当てた。ゆっくりと小太刀を動かして腹を割いていく。

 脂汗が滝のように流れ、目が血走った。

 

「――ふ、ぬっ!」

 

「お見事にございまする」

 

 福島正成が腹を十文字に切った直後、岡部五子元信が背後に回って太刀を振り下ろした。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 勝ち鬨が上がる。

 

 三方から包囲された福島勢は抵抗もむなしく壊滅。

 

 井伊直宗は降伏、自害することで一族の助命を求めていた。直宗は義元の前で切腹。その場で井伊直盛への家督相続が許されているが、所領の一部は没収となった。

 

「師匠。本当に、姉上を殺めなければならないんですの?」

 

 俺たちは降伏した井伊直盛を先陣にして花倉城を包囲していた。

 

 すでに福島正成の首を敵城に送り届けている。今頃は大将の死に動揺して、篭城するどころではないはずだ。

 

 花倉城には三百ばかりの小勢しか残っていない。対する義元側は六千の大軍である。

 

「ねぇ、師匠! 聞いていますの!?」

 

「……ああ、そうだ」

 

 今川義元は姉を殺すことで完成する。血の洗礼によってより強くなるのだと、そう思っていた。

 

 そう思っていたのだ。

 

 だが、いざその時が来ると迷ってしまう己がいた。われながら情けない。大量の敵兵を虐殺しておきながら、少女一人に甘さを見せてしまうのだから。

 

 結局のところ、義元に殺れと言えないのだ。

 

「敵側から使者が参りました。今川良真(玄広恵探)の身柄を差し出すゆえ、城兵の助命を許されたしとのことです」

 

 使番の報告に俺は頷いた。

 

 義元の顔が青ざめていた。

 攻城戦が発生しなかったのだ。カウントダウンが早まったのである。

 

 今川良真は『味方』に引きずられて現われた。

 

「ちょっと、あなたたち! 高貴なる今川の姫であるわらわに許可なく触れるとは、一体何様のつもりですの! 打ち首にされたいようですわね!?」

 

「……姉上」

 

「あら、菊ではありませんか。どうしてここに――ああ、お祖父さまに敗北して捕われたのですわね! おーっほっほっほ! 無様に這いつくばって許しを請うなら、出家するだけで許して差し上げてもよろしくてよ?」

 

 完全に空気が読めていない、哀れな娘だった。

 義元と似た雰囲気の少女だ。一歩間違えれば義元もこうなっていたのだと思うと、胸が痛まずにはいられなかった。

 

「……義元を下がらせよ」

 

「うむ」

 

 岡部久綱が頷いた。貞綱が顔を背け、元信が義元の手を引いた。

 

 朝比奈泰朝が良真の身体を押さえ付ける。

 

「なっ、なんですの? これから菊を切腹させるんでしょう? ねぇ、あなたたち?」

 

「御免」

 

「ひっ! なっ、なにを!? わらわに何をするのです!?」

 

 今川良真は歯をガチガチと鳴らしていた。

 

 暴れているため、首は落とせそうになかった。だから刀で少女の胸を突いた。

 

「わらわは今川の……姫である……ぞ……」

 

 すまないと心の中で謝るが、それを言葉にする資格は俺にはなかった。せめてもの償いとして首は落とさずそのまま荼毘に付してやろうと思った。

 

「あっ、ちょ、姫!」

 

「師匠! これは、何なのですか!」

 

 義元が元信の手を振り解いていた。逃がすなよと咎める目を向けると、元信は口笛を吹いて誤魔化そうとする。

 

「そのような気遣い、わたくしには無用ですわ! わたくしは今川義元! 駿河と遠江の二カ国を有する戦国大名ですわよ!」

 

「ああ、そうだな。だが……」

 

 今川義元が泣いていた。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしていた。

 

「そなたを、泣かせたくなかったのだ……」

 

「な、泣いてなどおりませんわ。わたくしはただ、師匠がわたくしに黙って手を汚していくのが悲しくて……うぅ……ずびび……」

 

 俺の法衣で鼻をかまれる。最悪だった。

 

「……わたくしの見ていないところで、師匠に傷付いて欲しくはありません。鬼のような行動ばかりしていたら、いずれ心の底まで鬼と化してしまいますわ」

 

「善処しよう」

 

「善処とは何ですか! ここは男らしく確約するべき場面ですわよね!?」

 

 すでに楯岡道順に逃走中の堀越貞基を暗殺せよと命令しており、ぶっちゃけ手遅れである。

 要はバレなければいいのだ、バレなければ。

 

「ともあれこれで、お主が今川の屋形だ。大殿と呼ぶべきか?」

 

「今まで通りで結構ですわ。今までも、そしてこれからも、あなたがわたくしの師匠であり、今川の軍師であることは変わりないのですから」

 

 義元は不機嫌そうに言い放つと、最後に俺の法衣で顔を拭いてから姉の遺体に歩み寄った。息絶えた少女に何を思ったのか。

 

 まだ後始末が残っているが『花倉の乱』はこれにて幕引きだ。

 だが戦乱はこれからも続いていく。今はまだスタートラインに立っただけである。

 

 これから武田、北条、松平、そして織田とやり合うことになるのだ。

 

 それでも今だけは戦国大名、今川義元の誕生を祝福することにしよう。

 

 

 



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番外2

【番外4 義元のシェフ】

 

 睦月の初日、正月は関口氏広の土下座から始まった。

 

「申し訳ございません! かくなる上は切腹してお詫びいたします!」

 

「……はぁ? いきなり何を言うんですの、氏広さん?」

 

 義元がキョトンとするのも無理はない。それはあまりにも唐突だった。

 

「正月の料理が出せなくなりました。これはひとえに私の失態です」

 

 正月。それは主君が家来を招くという、格付けのためのイベントである。

 

 新年の挨拶から宴会をするという、傍目から見ればセレブなイベントだったが、その現実は上司を接待するサラリーマンのごとし。武士にとっての正月とは休日ではなく営業日なのだ。

 

 この宴会の準備を担当していたのが関口氏広だったのだが。

 

「料理役が倒れたと?」

 

「……はい」

 

 説明を受けて、俺は事情を把握した。

 氏広には切腹をするほどの過失はないのだが、何事もそつなくこなしてきた少女にとっては痛恨の至りに思えるようだ。

 料理人が倒れたというのはインフルエンザだろうか。季節特有の流行病である。

 

「病人は陰気を溜め込んでいると言う。料理人どもが病を押して出て来られてもむしろ迷惑。自宅療養二週間は強制させておくべきだろう」

 

「療養……いえ、謹慎と言うことですか。それでは雪斎さま、私はどうなるのでしょうか。覚悟はしております。いかなる沙汰であっても受け入れますから……」

 

 刑場に引き渡される罪人のごとく、死の恐怖に怯えている氏広だった。

 

「師匠! 氏広さんは普段からよく働いてくれています! たった一つの失態をあげつらって責めを負わせるのはあまりにも理不尽ですわ! どうか氏広さんを許してくださいまし!」

 

「……お主ら、私を何だと思っている」

 

「泣かずに馬謖を斬りそうな人」

 

 俺の頬が引きつった。

 義元が純粋な目で俺を見ている。嘘偽りなく「師匠? 外道ですわ」と目が語っていた。

 

 当然のように俺を外道扱いする弟子たちに異議を申し立てたくなったが、話が進まないのでひとまず置いておく。

 

「氏広さんが腹を切るのは論外ですが、料理人が居ないというのは問題ですわね。新当主としての威信を示すために、豪華絢爛な料理を出させるつもりでしたのに。この場合、師匠はどうするべきだと思われます?」

 

「料理一つで浮き沈みするほどの威信ではあるまい。お主の好きにすればよかろう」

 

 ぶっちゃけどうでもいい。

 接待に失敗して謀反が起こったとしても、最終手段の暗殺があるため、俺はそれほど事態を重く見ていなかった。

 

 それがまさかあのようなことになるとは、この時の俺は想像すらしていなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「新年あけましておめでとうございます」

 

「めでとうですわ」

 

 おめでとうの『お』は敬称なので、目上の者はそれを付けずに『めでとう』と言う。

 

 駿府の今川館には重臣や旗本がぞろぞろと並び、主君に年始の挨拶を述べていた。

 花倉の乱の論功行賞からまだ一週間も経っていないのに、正月になって再び一同集結という面倒臭すぎる状況である。

 

「あけおめっ!」

 

「……あけおめ? ま、まぁ五子さんも今年もよろしく願いますわ」

 

 岡部元信が時代を先取りした挨拶をしていた。

 

 師である俺としては今すぐ折檻しておきたい場面だったが、ここでは他人の目がある。

 

 公家の冷泉為和などが参列しているため、俺まで恥をさらすわけにはいかなかった。公家の日記に『太原雪斎、正月に岡部五子を仕置きする』と残されては困る。

 

 どうせ後で岡部久綱が教育(物理)してくれるだろうから、俺の出る幕はない……と言うことにしておこう。

 

「さて、本日は皆さんに話があります」

 

 重臣たちが挨拶を終えて席に戻ると、タイミングを見計らって義元が切り出した。

 おそらくは料理の件だろう。俺は義元がどのような沙汰を下すのか、師として期待しながら見守っていた。

 

「まことに残念極まりないのですが、料理人たちの間で病が広がっていますの。例年ならば今から宴会を開くところなのですが、今年はそれもままなりません。……と言うわけで」

 

 代わりに土産でも渡すのだろうと思っていたのだ。

 

 義元はうつけでも、氏広は常識人である。

 義元が馬鹿なことをしようとすれば氏広が止めるのが常だった。

 

 だから俺は見落としていた。氏広は切腹を考えるほど混乱していたことを。

 

「これより料理対決を行いますわ! わーい! ぱちぱちー!」

 

 …………………………はぁ?

 

 冷泉為和が。公家が見ているのに、こいつは何を……。

 

 ……と、とりあえず、戦国時代の正月のことをまとめてみよう。

 

 主君が家来に料理を持て成すというのは江戸時代に生まれた形式であり、それ以前は家来が主君に料理を持て成すことになっている。

 

 これを『椀飯(おうばん)』という。大盤振る舞いの語源である。

 

 鎌倉幕府では北条得宗家が将軍を持て成し、室町幕府では元旦に管領、二日に土岐家、三日に佐々木家が将軍に椀飯を振る舞っていた。

 

 改めて言うが、家来が主君にである。主君が家来にではない。

 

 だから義元の発言はそれほど型破りなものではなかった。

 予定していた料理役が倒れたため、代わりの者を任命する。これだけならば形式的には特に問題はない。

 

 だが、あまりにも急すぎる話だった。

 

 料理スキルを持っている重臣がどこにいる。ネトゲではあるまいし、ついでに料理スキルをカンストさせたぜという武士が居たなら俺はこう言おう。身体を鍛えろと。

 

「そして賞品は今川八龍具足ですわ!」

 

「ちょ、姫さま!?」

 

 高らかに宣言する義元に、家臣たちがどよめいた。

 

「八龍とは源氏八領の一つ。武田の家宝である楯無と同じぐらい貴重なもの――ではないが、それでも今川家の家宝だ。お主は正気か?」

 

「正気に決まってますわ。今川家の文化を諸国に知らしめ、威信を高めるための行事を主催する。その結果、京からはますます貴人たちが下向して、今川家の文化がさらに押し上げられる。名付けて今川家文化大躍進政策ですわ!」

 

「その政策名はやめろ。不吉すぎる」

 

 苦言を呈する俺に義元が不満げな顔をするが、そんな顔をされてもそのネーミングだけは受け入れられない。なんかもう死亡フラグしか感じられない政策である。過程を省略して今川家の領土を焦土化させてしまいそうだった。

 

「そもそもお主は八龍を何と心得る」

 

「本物ではないのですから、そう口を尖らせることはないと思いますのに」

 

 八龍とは源氏の秘宝なのだが、今川家にある八龍とはただのレプリカにすぎなかった。

 現在では源氏八領の大半が失われているのだ。唯一本物だと言えるのは武田家にある楯無だけである。

 

 しかしレプリカと言えども今川家の家宝。

 龍をあしらった鎧はそこはかとなく威厳に包まれていた。これを下賜するなんてとんでもない。

 

「さぁさぁ、みなさん。誰が一番このわたくしの舌を楽しませることができるのか、期待して待っていますわよ。おーほほほ!」

 

 唐突な豪華賞品に重臣たちの目が欲望でギラつき始めている。

 

 俺は溜息を吐いた。こんなことになるなら義元に任せるなんて言うんじゃなかった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この時代の調理場には女人禁制の聖域だったのだが、そんなセオリーは早くも破られていた。

 

「今回ばかりはお師匠といえども容赦しないからね! 源氏の秘宝は五子のものだー!」

 

 腕まくりをした岡部元信が包丁でまな板をガンガンと殴っている。意味不明な行動だったが、あえてツッコミを入れる気すら起きない。

「……穀潰しがよく言うものです。毒味役を殺さないで下さいよ、姉上」

 

「大丈夫だよ。毒味役より先に忠兵衛が死ぬから」

 

「前から思ってたんだけど、あんたボクに恨みでもあるのか!?」

 

 周りの者は弟君に気の毒そうな目を向けるものの、誰一人として救いの手を差し伸べようとはしなかった。誰だってわが身が可愛いものである。

 

「どうやらアタシの花嫁修業の成果を見せる時が来たようだな」

 

「うえっ!? 朝比奈の姉御って料理できたンすか? 行き遅れてるから、てっきり料理なんてできないと――」

 

 鈍い音がして振り返ると三浦氏満が頭から血を流して倒れていた。

 地面には『としま』という血文字が書かれている。ダイイングメッセージだった。

 

「椀飯とは白米に打ち鮑、くらげ、梅、塩、酢を添えたものです。そう、大名の食事においてもっとも優先されるのは作法なのです。今川一門たる私は奇策ではなく王道によって汚名を挽回するとしましょう」

 

 汚名は挽回するものではないのだが、関口氏広は未だに混乱から立ち直っていないようだ。

 

 俺は彼らの様子を観察してから、おもむろに調理場に立った。

 これでも寺では炊事をやらされていたし、義元の家老になる前は自分で食事を用意していた。

 

 今川家の秘宝を流出させるわけにはいかない。

 どうやら太原崇孚雪斎の本気を見せる時が来たようだ。

 

 さらに――。

 

「お待たせしました! 食材を仕入れてきたのでございますですよ、ご主人さま!」

 

 その時、調理場に電流が走る。

 

 戦慄のロリ巨乳が俺の味方に付いていた。潜入工作のために料理スキルを修得している忍者、楯岡道順である。

 もはやまったく負ける気がしなかった。

 

「鳥兜(トリカブト)の扱いなら任せてくださいでございますですよー!」

 

「やめろ」

 

 と言うか、敵がいないのだ。

 どうせなら本膳料理の家元である大草流や進士流の料理人でも連れて来ればいいものを。

 

 案の定、調理場はカオスと化した。

 

 岡部元信は肉を焼いているだけだった。まさかのマンガ肉である。

 火に薪をくべさせられていた貞綱の目が死んでいた。

 

 朝比奈泰朝がかき混ぜている鍋からは有毒ガスが発生している。周囲の者がバタバタと倒れていた。武器を持たずに敵を倒す、常在戦場の女である。流石は行き遅れ。非の打ち所がないポイズンクッキングだった。

 

 関口氏広はブツブツ言いながら地味な料理を作っていた。なんか地味だった。

 

「忍者の非常食でも勝てそうでございますですね、ご主人さま」

 

 俺は道順の言葉に無言で頷いた。

 本番前に勝利を確信するのは負けフラグだと言うが、それでもまったく負ける気がしなかった。

 

 正午、いよいよ料理対決が始まったのだが。

 

「肉ですわ」

 

「毒ではありませんか」

 

「地味ですわね」

 

 圧倒的だった。俺の料理は。

 伊勢湾の幸を惜しみなく使った膳で、汁物は鰹節をかけた静岡風のお雑煮である。

 

 もはや敵なしとばかりに対戦相手を蹴散らし、これには冷泉為和も大絶賛。

 後にこの料理が将軍家に献上されることになったのだが、これも内政チートなのだろうか。

 

 そしてこの日、俺たちは貴重な教訓を得ることになった。

 

 ――素人は台所に入るな。

 

 

 

 

 

 

 

【番外5 リア充自爆した】

 

 史実では鉄砲が伝来したのが1543年である。花倉の乱が1536年なので、この時点で今川家に五十丁もの鉄砲があるのはおかしいのだが、エロゲやラノベっぽい不思議時空にツッコミを入れるのは無駄である。

 

 ここで重要なポイントが一つ。

 

 時系列の狂いは、南蛮貿易にも現われていた。

 

 ポルトガルがマカオを獲得し、その地を拠点にして貿易や布教に勤しんでいる。スペインがフィリピンをコロニー(植民地)にしており、ヨーロッパでは今まさに大航海時代が始まっていたのである。

 

「うわぁ、あれが異人ですか」

 

 関口氏広が感嘆の声を上げていた。

 彼女の視線の先にはビロードの帽子を被り、南蛮傘をさした南蛮人がいた。膨らんだズボンをはいて、派手な赤いケープを羽織っており、襟巻きは円盤のような奇妙な形をしている。

 

 この日、駿府の東、清水港には南蛮船が寄港していた。

 

 今川家を掌握したことだし、そろそろ南蛮との関係を決めなければならないと思い、とりあえず見物しておくことにしたのだ。俺が供回り数人を引き連れて城を出ようとしたところを氏広に呼び止められ、なぜか彼女が付いて来ていた。

 

 なお案内は御用商人の友野次郎兵衛宗善である。彼に台詞はない。

 

「うわー、ほんとに身体が大きくて顔が真っ赤なんですね。鬼みたいだと小耳に挟んだことがありますけど、言い得て妙とはこのことです。一体何を食べたらあのようになるのでしょうか」

 

「我らよりも肉を食っているからだろう」

 

「肉ですか。やはり鬼のようですね」

 

 タンパク質の摂取量からして違う。

 南蛮人は牧畜をしており、粗悪なエサでもすぐに大きくなる豚を食っていた。対する日本人は畑の肉と呼ばれる大豆までもが牛馬のエサだ。

 

 南蛮船から降ろされた物品が、港町に運び込まれていく。水夫の行き先にはごくありふれた日本風の建物があった。

 

 南蛮商館だった。派手な洋風建築だと思っていると、肩すかしを食らう外観である。

 

「異人が買い取った建物ですか?」

 

 氏広が不快げな顔をする。経済支配をイメージしたのだろうが、これはさほど問題ではない。

 

「気にすることはなかろう。最悪の場合、やつらの建物を取り上げて、異人どもをなで斬りにすることもできる。南蛮との関係を悪化させ、攻め込まれる口実を与えてしまうことになるが、それはその時に考えればいいだけだ」

 

「いえ……誰もそこまでは言ってないんですけど……」

 

 スペインのフィリピン総督は警戒する必要があるが、放っておけばオランダと八十年戦争をやり始めるやつらだ。それにやつらも日本人と全面戦争をするよりも、南北アメリカを切り取った方が利益があると理解しているはずである。

 

「南蛮人は法の外にいると言うことですか」

 

「左様。いずれ南蛮人どもは交易の許可を大名に願い出るはずだ。やつらが真に求めるのは許可ではなく保護だろうがな」

 

「許可ですか。大陸との貿易ならば幕府の認可が必要になりますが、南蛮との貿易は……」

 

 当然、無許可である。

 基督教に改宗する大名が出て来るほど南蛮貿易は儲かった。力なき幕府はもはや南蛮貿易を取り締まることができなくなっている。

 

「それにしても、雪斎さまは僧侶なのに南蛮に対して物分かりがよすぎるかと。やつらは基督教なる邪教を信奉しているのですよ?」

 

「文句があるなら本猫寺にも言え。『にゃむにゃみにゃぶつ』とは何なのだ」

 

「……そう言えば、あれも邪教でしたね。しかも三河にも広まり始めているとか」

 

 南蛮人にどうしても排他的になってしまう氏広の気持ちはわからないでもなかった。民族も宗教も違うのだから。

 

 しかし南蛮商館に入ると、ぶつくさと愚痴っていた氏広が急に静かになる。

 

「……うわぁ」

 

 氏広がうわぁと驚くのは今日で何度目だろうか。

 

 星が散りばめられたかのように輝く空間がそこにあった。

 まず目を引くのがパイプオルガンである。楽器はラッパのようなものから、フルート、手回しのオルガンが並んでいた。

 床には細かい模様が編み込まれたペルシア絨毯が敷かれており、壁には立派な角を持つシカの剥製が飾られている。

 宝石細工や硝子製品、ダマスカスのナイフやアラビアの湾曲刀もあった。

 

「南蛮人、侮りがたし……」

 

 南蛮渡来の眼鏡をかけている氏広が言うとシュールに思える。

 

「実際、大したものだ。世界の裏側から帆船でやって来たのだからな」

 

 俺は置かれていた地球儀を回しながら呟いた。

 

 測量技術も羅針盤もキャラベル船も、ヨーロッパの方がはるかに優れている。イスラムに圧迫され、宗教改革の嵐が吹き荒れていても、それでも世界に乗り出した南蛮人のバイタリティには舌を巻くしかない。

 

 ひとしきり商品を見物してから、俺は氏広に声をかけた。

 

「折角の機会だ。土産でも買うとするか」

 

「雪斎さまって何だかんだで姫さまには甘いですよね」

 

「……ふむ」

 

 なんだか誤解があるようだが、さて、どうしたものか。

 

 俺は目に付いた指輪――ではなく、色付きの硝子が埋め込まれた文箱を手に取った。

 

 ……ヘタレって言うな。

 

 中国語の通訳を通して値段を聞くと、手持ちでは足りない。友野次郎兵衛に金を借りて支払いを済ませると、氏広が羨ましそうにそれを見ていた。

 

「まぁ、たまにはな」

 

「はい? え、ちょ、はい!?」

 

 俺は氏広の手を取って文箱を押し付けると、さっさと踵を返した。

 女子に物を贈るなど初めてのことなのだ。あまりにも恥ずかしくて、もう二度とやりたくないと思ってしまうほどだった。

 

 それでも、たまには。

 

 自分を省みず、身を粉にして頑張っている少女を労りたくなった。

 

「あの、雪斎さま……」

 

 氏広は何か言いかけて、黙り込んでしまった。

 

 彼女がどのような顔をしているのか、振り返って確認する勇気は俺にはなかった。

 

 ……ヘタレって言うな。

 

 

 

 

 

 

 

 

【番外6 利休にたずねられない】

 

 史実では桶狭間で討たれた今川義元は御輿に乗っていたという。

 これは決して義元の無能を表しているわけではない。デブっていたため御輿に乗っていてそのまま戦死した肥前の熊は別として、海道一の弓取りには御輿に乗る理由があったのだ。

 

 今川家は幕府から御輿に乗ることを許されていたのである。義元が御輿に乗るのは、権威を誇示するという意味があったのだ。

 

「おほほほ! そう言うわけで、わたくしには御輿に乗る資格があるのですわ! いいえ、資格云々言っている暇があるなら積極的に乗るべきでしょう! 今乗らなければ何時乗るのです、今ですわ!」

 

 うぜぇ。

 

 この日、室町幕府に当主交代を伝えに行った関口氏録が帰還し、将軍から書状が下賜されていた。その内容は要約すると『今まで通り御輿に乗ってもいいから金くれよ。官位に推薦してやるから金くれよ。あと金くれよ』であった。

 

 うぜぇ。

 

 で、関口氏録は金を持ってUターンしている。社蓄の鑑である。

 御輿はどうでもいいのだが、官位は氏親と同じ治部大輔に叙任させておきたかった。

 

「わたくし、なんだかこの子が乗って欲しいと言っているように思えてきましたわ!」

 

「幻聴だ。寝ろ」

 

「いやですわ! 義元号が発進するまで、梃子でも動きませんから!」

 

 何がそこまで義元を駆り立てるのだろうか。

 

 御輿に腰を下ろし、扇子を振りかざして「発進!」と号令をかけている残念姫がいたが、今川家の宝物庫には俺と義元、数人の近習がいるだけだ。近習とは下級将校なので、御輿を担ぐのは当然のように嫌がっている。全員から「こいつめんどくせぇ……」という目を向けられているのに、義元は気付いていない。

 

「そこのあなた。あそこにある安っぽい器を上げますからわたくしを運びなさい!」

 

「やめろ。頼むからやめろ」

 

 義元が扇子を向けた先にあるのは白くて美しい茶器である。

 

 先日も八龍具足を賞品に出していたが、たぶん義元は物の価値がわかっていないのだろう。お金持ち特有の金銭感覚というやつである。

 

「お主はもっと目利きを覚えろ。あれは志野茶碗だぞ」

 

「あら、あれは貴重なものでしたの? ひび割れていて、歪んでいて、素人が作った失敗作にしか見えませんわよ?」

 

 そもそも貴重でなければ宝物庫に入っていないのだが。

 

「そう言えば、師匠は京で茶の湯を修められたそうですわね。よろしければ、ここにある茶器を使ってわたくしに茶の手ほどきをしてくれません?」

 

「まぁ構わんが」

 

 茶の湯を知れば、おのずと茶器の価値を理解できるようになるかもしれない。

 

 ……なればいいなぁ。

 

 俺は手近にあった茶器を手に取り、思わず溜息を吐いてしまった。

 志野茶碗。そう言えば、これと似た器をどこかで見た記憶があったが。

 

 ああ、そうだ。

 あれは三年前のことだったか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の少年期が終わり、青年になり始めていた頃。

 建仁寺の門前で掃除をしていると、石段を上がってきた壮年の男と目が合った。

 

「おお、ちょうどよかった。常庵はんのところに案内してくれまっか」

 

 現代の関西人でも絶対に言わないだろう、コテコテの関西弁だった。

 

「どちら様でしょうか?」

 

「ああ、すまん。それがし、納屋の今井宗久って言うねん」

 

 男の自称でなければ、堺会合衆の一人である。

 

 師匠や高僧から来客があるとは聞いていなかったが、連絡ミスと言うこともあり得る。

 

 あるいはアポなしの訪問かもしれないが、豪商が相手だから機嫌を損なわないようにしておくべきだろう。

 

「これは失礼を。すぐに上の者にうかがって参ります」

 

「ええよ。石段上がるのに疲れたから、ゆっくり待たせて貰うわ」

 

 御堂に入って上役に話をしてみるも、そんな話は聞いていないし、おまけに常庵は留守であるという返答だった。

 

 さらに常庵が戻るまで待たせろと言う、何のためにいるのかよくわからない高僧である。

 

 俺は肩をすくめ、今井宗久のところに戻った。

 

「まことに申し訳ありませんが、常庵龍崇は所用で席を外しておりまして、今しばらくお待ち頂きたく」

 

「なんや、聞いてた話とちゃうみたいやな」

 

「よろしければ客間にご案内いたします。粗茶ぐらいならばお出しできますが」

 

「粗茶ってなぁ」

 

「一応、禅寺なので」

 

「ああ、そうか。日蓮宗を基本に考えてたみたいや。気を悪くせんといてな」

 

「いえ」

 

「なら待たせて貰おか」

 

 俺が先導して、今井宗久を客間に通す。

 

 それから一度退室して、別室で茶を入れる。

 緑茶の粉を湯に解かしている最中、ふと思い付いてしまった。

 

 相手は歴史に名を残す人物。

 そんな人物が、俺のことをどう評価するのか。これは試金石になるのではないだろうかと。

 

「失礼します」

 

 俺は客間に戻り、今井宗久に茶を出した。

 おおきにと言いながら受け取った宗久は、一口付けて不思議そうな顔をすると、一息に茶碗を飲み干した。

 

「もう一杯」

 

「すぐにお持ちいたします」

 

「もう一杯くれへんか」

 

「はい」

 

 数回客間を出入りする。

 三杯目の茶を飲み終えた今井宗久は楽しげに笑っていた。

 

「あんさん、おもろい人でんな」

 

「お褒めにあずかり光栄です」

 

「どうして最初にぬるいのを出したんや?」

 

「石段を上がって来られたので、最初は喉が渇いておられるかと思ったのです」

 

 佐吉のパクリだった。あのエピソードは創作らしいが。

 まぁ、俺のこの行動は史書には残らないだろう。ちょっとした茶目っ気である。

 

 結局この日は、今井宗久との約束を常庵龍崇がうっかり忘れていたというオチが付いた。「金くれよ」「しゃーないなぁ」と言っていたところですっぽかされた宗久はキレてもいい場面だったが、俺の機転でどうにか首の皮一枚が繋がっていた。

 

 それから俺は今井宗久に気に入られたらしく、宗久が茶会の会場に建仁寺を指定するようになってしまった。その度に俺はパシリ(茶坊主)としてこき使われ、パクリはよくないと後悔する羽目になる。

 

 さらに時が流れ、半年後。

 

 建仁寺で修行に明け暮れ、学問に勤しんでいると、またしても今井宗久から茶会を開くと連絡が入った。

 

 俺は溜息を吐きながらも、内心では満更でもなかった。

 

 当代随一の豪商であり、茶の達人たちが集まる場である。彼らの優れた見識は聞いているだけで刺激になったし、小僧である俺が小間使いとはいえ同席を許されていると思うと、自分が特別な者になったような気がしたのだ。

 

「…………」

 

 そこには女の子がいた。

 堺会合衆の新入りで、寡黙な少女だった。

 

 黒い服に身を包み、黒っぽいフードを被った――有り体に言えば、ゴスロリである。

 

 知り合ったのは二ヶ月前。会うのはこれで三回目だった。

 

 俺は一度も彼女の声を聞いたことがない。それなのに商人としてやっていけるのか心配になったが、彼女にとっては大きなお世話だろう。

 

「…………」

 

「お久しぶりです、田中様」

 

「……(こくり)」

 

 囲炉裏に火を入れて下準備をしていると、少女が物言いたげな顔をしていたので、俺は当たり障りのない挨拶をした。

 

 相手は田中与四郎。後の千利休だった。

 後世において茶聖と呼ばれる人物が、いたいけな少女である。よくわからない世界だった。

 

「九英承菊はんも、茶の湯の作法が板に付いてきたみたいやな。与四郎はんは天才肌やから、あんまり下手なもんを見せられると、顔には出さんけど嫌そうにするねん。それがないと言うことは、誇ってええと思うで」

 

「ありがとうございます。これも皆様方のお引き立てのお陰です」

 

「……(ふるふる)」

 

 首を横に振っている与四郎が「謙遜しなくていい」と言っているように思えた。

 

「先日のことやけど、ええ焼き物が手に入ったねん。美濃焼なんやけどな、これがいい具合に焼けとるんや」

 

「……(こくり)」

 

 今井宗久が取り出したるは志野茶碗。

 

 ぐにゃりと歪み、ひび割れた青磁だった。素人が土をこねて焼いたような茶碗である。言葉にするのが難しいが「物足りない」と思えるところが魅力に思えた。

 

 田中与四郎は茶碗を指でなぞりながら頬をゆるめている。

 

 今日の茶会もなごやかに進みそうだと思える風景だった。

 

「そや、与四郎はん。今日はあれ、やってくれへんか」

 

「……(こくり)」

 

 ――この日が決別だった。

 

 田中与四郎がおもむろに取り出したのは硝子瓶だった。

 俺はまさかと思い、腰を上げそうになる。

 

 それは赤ワインだった。

 与四郎はドボドボと志野茶碗に赤ワインを注ぐと、南蛮饅頭――パンをちぎって参加者たちに手渡していく。

 

 基督教のミサを模しているのだと誰かが言っていたが、俺はほとんど聞いていなかった。

 

 俺はそれを呆然と眺めていた。

 

 頭の中が真っ白になり、それからちくりと刺すように胸が痛んだ。怒りはなかった。俺は勝手に期待して、勝手に失望しているだけだった。田中与四郎にとっては迷惑な話だろう。それでも俺はその光景を受け入れることができなかった。

 

 これが茶の湯なのか。これが千利休なのか。

 

「申し訳ありませんが、ここは禅寺。基督教の風習はどうかお控えくださいますよう」

 

「あー、そうか。気付かんかったわ。ま、今回だけってことで固いことは言わんといてな。建仁寺はんには少なくない寄進をしてるさかいな?」

 

「……はい」

 

 俺はかろうじて頷いたが、ワインの回し飲みは拒否させて貰った。

 先ほどまでは何ともなかったのに、今ではこの場にいるのがひどく苦痛だった。

 

「…………」

 

 与四郎が悲しそうに俺を見ていたが、俺はもう彼女の目を見ることができなかった。

 

 空気が悪くなっていた。明らかに俺の所為なのだが、こればかりはどうにもならない。

 

 元現代人の俺は戦国時代の人間よりも革新的な思考を持っていると自惚れていたが、とんだお笑い種だった。作法一つで目くじらを立てて、折角築き上げた人脈をぶち壊そうとしている。建仁寺で茶会が開かれることはもうなくなるだろう。

 

「南蛮のお酒はうまいなぁ! なぁ、与四郎はん。そろそろあれを見せてくれへんか!」

 

 今井宗久はことさらに明るく振る舞っている。

 

 田中与四郎が茶碗に謎の液体を投入して、茶筅でそれをかき混ぜる。しばらくすると、そこに黄金の輝きが現われ始めた。

 

 物理法則を無視した不可思議な現象に参加者たちが興奮の声を上げているが、俺の心は冷え込むばかりだった。

 

「これや! いつ見てもすごいで、ほんま! 与四郎はんは錬金術師やからなぁ!」

 

「……茶の湯で黄金ですか。すごいですね」

 

「……(ふる、ふる)」

 

 俺の乾いた感想に、与四郎が泣きそうな顔をして首を横に振っていたが、もはや俺には少女が何を伝えようとしているのかよくわからなかった。いや、わかろうとしなかったのだ。

 

 俺は黄金の小粒が浮かぶ志野茶碗から目を逸らす。

 

 一人の友を失った瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 政務の後、俺たちは茶室に集まっていた。

 

「うまい! もう一杯!」

 

「阿呆、これでは回し飲みできないだろうが」

 

「いだだだだ! だって、師匠のお茶って飲みやすいんですもの!」

 

 それは飲みやすいように点てているからだ。

 泡立たせて苦みを丸めているから、抹茶にしては飲みやすい。茶菓子の甘みを流すのにちょうどいいように計算しているのだ。侘び茶のもてなしの心である。

 

「ところで師匠。このお菓子、お代わりを所望しても構いませんの?」

 

「貴様というやつは……」

 

「ねーねー、お師匠。喉かわいたんだけど。あと五子もお茶菓子のお代わりが欲しいなー」

 

「こやつら……」

 

「あ、あの。すいません。私もよければ、その……」

 

 少女たちは南蛮商会から買い付けたカステラがお気に召したようだ。ホスト冥利に尽きる場面なのかもしれないが、まったく嬉しくない。

 

 関口氏広は許す。控え目にお願いされれば否やはない。

 だが義元と元信。テメーらは駄目だ。客人だとしても、ふてぶてしすぎる。

 

「茶の湯もいいものだね、お師匠!」

 

「……果たしてこれを茶の湯と言っていいものか」

 

 まぁ、あまり口うるさく言っても楽しくはないか。

 

 ある程度の寛容さは必要だ。友人を一人失ったことで、俺はそれを学んでいた。三年経った今でも彼女の茶の湯を受け入れる気にはなれないが、少女たちが作法を守らない程度で目くじらを立てるのは狭量すぎるだろう。

 

 志野茶碗で茶を点てる。

 この茶碗には嫌な思い出しかないのに、なぜかこれを選んでいた。俺はやり直したいと思っているのだろうか。まさかな、と思う。

 

「あの、ご主人さま。田中様からお手紙が届いているのでございますですが」

 

「何時も通り、机に置いておいてくれ」

 

「……はい」

 

 茶室の外から声をかけてきた楯岡道順に、俺は声を固くする。

 

 時折、田中与四郎から手紙が届いていた。

 畿内の情勢や商売の話、こちらの近況を気遣うような内容である。

 

 返事は未だに書けていない。

 

 

 







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9.松平の姫君

二年ぶり更新
作風変わってるけどお兄さん許して


 花倉の乱で討ち死にした井伊直宗には直盛という嫡子がいた。

 

 嫡子が健在なのだから家督の相続は問題なく行われるはずである――というのは江戸時代以降の考え方だろう。

 

 重臣たちによる合議の結果。

 

 井伊の総領を先代当主の弟である直満の息子、亀之丞が襲ったのである。この亀之丞が幼少だったため父親の直満が補佐する形を取ったのだ。

 

 先代の息子、井伊直盛は四十代半ばの男だった。

 

 本来なら大過なく井伊家を継いでいたはずである。だが、父親が花倉の乱に参加するという政治的な失態を犯したため、直盛にその責任が着せられたのである。自らも花倉に参加して、命からがら逃げ延びた直盛は、重臣の合議を押し切れるだけの発言力を持っていなかった。

 

 この決定に憤ったのが家老の小野道高だった。

 

 彼は駿府まで馬を飛ばし、今川義元との面会を取り付けたのである。

 

「話はわかりました」

 

 駿府城にて御簾越しに対面した今川義元は十代半ばの姫君だった。

 

 少女特有のきんきんと響く甲高い声をしており、その見た目はおおよそ武人という言葉から縁遠い人物。箸よりも重いものを持ったことがない、という比喩がよく似合っている小娘である。

 

 小野道高はこのような小娘に二カ国の太守が勤まるのだろうかと訝しむ。

 

「花倉では今川家に弓引いた当家なれど、反逆した先代直宗は戦死しております」

 

「そうですか」

 

「これより井伊家は心を入れ替えて誠心誠意お仕えいたす所存。過去の遺恨は水に流して頂きたいと伏してお願い申し上げます」

 

「信じるに値しませんわ」

 

 当然だろう。

 言葉でどれだけ誠意を述べたところで、事実として井伊家は敵だったのだ。

 

 まだ花倉の乱の戦後処理が終わっていないため捨て置かれていた井伊家だが、いずれ今川家は本腰を上げて井伊家の内紛に介入し、都合のいい傀儡当主を送り込もうとするだろう。

 

 今川家にとっては、これが既定路線なのだ。

 だからこそ小野道高は今川家に利益を示さなければならない。

 

 今川義元が言外にそう告げたことで、小野道高は心胆を寒からしめた。

 

 畳の上でのことだが、手慣れている感があった。

 何よりも、威があった。駿州と遠州を統べる王たる気迫が広間に満ちている。

 

「……質を出します」

 

 一瞬、義元が何かを探るような気配がして、小野道高は身体を硬直させた。

 人質では足りなかったか、いやしかし……と冷や汗を流している彼を余所に、姫の視線は列席している重臣たちの中に向けられている。

 

 その人物は僧形の出で立ちである。男は正座をして黙考していた。少女の目線が男の言葉を求めていることに気付いてないわけがないのだが、戦国大名になったからにはこれぐらい自分で考えて結論を出せと、あえて突き放している様子である。

 

 少女が雑念を抱きまくっていることに気付いた関口氏広が咳払いを一つする。

 

 これでは義元の機嫌を損ねてしまったのではないかと顔面蒼白になっている小野道高があまりにも哀れだった。

 

 小野道高に、気を取り直した義元が問いかける。

 

「それは、誰の娘です?」

 

「直宗の妹にございます」

 

「先代の妹ということは、次代の叔母ですか。不足しているのではありませんの?」

 

「しかし当家には他に質に出せそうな女はおりませぬ」

 

 義元が視線を横に向けた。

 

 関口氏広が頷いた。偽りではない、と言うことである。

 

「よろしいですわ。ならば井伊の娘はわたくしの養女にしてから、関口さんの妹にします。家来のみなさんもよろしいですわね?」

 

 今川家の重臣たちに異論はない。

 

 ちなみに、もし関口氏広が男だったらこの井伊家の女に『瀬名姫』を産ませていたかもしれない。しかしこの世界の氏広は女である。後の徳川家康の正室になるはずの女は、この世界では生まれ落ちることはないようだ。

 

「では井伊家の総領は直盛に与えます」

 

 異議は出なかった。

 

 話は次に移る。

 

 井伊直盛が臣従することは決定したが、今の井伊家は分家の直満が牛耳っている。まずはこれを排除しなければならないのだが、内乱が終わったばかりの今川家には外征を行う余裕がない。

 

「問題は井伊を乗っ取ろうとしている連中の排除ですわね」

 

「最悪、井伊を攻めなければなりませんが、まずは重臣一同で審議してみましょう」

 

 関口氏広が話を振るが、重臣たちが頭を捻っても妙案が出てこない。次第に重苦しい空気になってくる。今川義元は退屈そうに己の爪を眺めていた。

 

「よろしいか」

 

 ここでようやく僧形の男が声を出した。

 

 瞬間、広間の空気が張り詰めた。

 小野道高はただでさえ圧迫されるような空気だったのに、それすらまだ序の口だったということを、きりきりと痛む胃袋から思い知らされることになる。

 

「あら、師匠ですか。どうぞ、お気の済むまで存分にお話くださいな」

 

 義元の声が弾む。ああ、これではまるで、ただの女ではないか。

 

 だが、黒衣の僧侶は一顧だにしない。

 

「井伊直満を駿府に呼び寄せ、斬るべきかと」

 

 激震が走った。

 

 小野道高は腰を浮かせた。

 

 非情にもほどがあった。

 

 これは騙し討ちである。悪名を背負うことになる所業だった。だが、男の口調に迷いはない。そして今川家の重臣たちも異論を唱えず、むしろこれが最善とばかりに納得したように頷いていた。

 

「雪斎禅師の策こそ、今川家が取るべきものと思われる」

 

「異議なし」

 

「戦わずして敵を屈服させる。これこそ孫子の極意なり」

 

 重臣たちは口々に賛意を述べた。

 

 結果、井伊直満は駿府城に呼び出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

『井伊家当主、井伊直満は速やかに駿府に参上して弁明せよ』

 

 そう書かれていた文に目を通して、直満は何としても所領安堵を勝ち取るぞと意気込んでいた。

 

「今川殿は俺を当主と思うておるようだが、井伊の当主は息子の亀之丞なのだがな」

 

 直満は歪んだ笑みを浮かべた。

 

「しかし兄者。井伊家はまたしても今川家に屈服しなければならんのだな」

 

「言うな、直義」

 

 直満は信頼できる弟の直義を引き連れて駿府城に入った。

 

「服従するといっても形だけだ。守護使不入は守らせる」

 

「兄者がそう言うなら俺は従うが……」

 

 地方豪族の独立性を守っていたのが守護使不入である。地方豪族は幕府御家人となり、中央の威光を盾にして、守護からの徴税などから身を守っていた。

 

 この特権を破壊または簒奪することが、守護大名が戦国大名に生まれ変わるための必須条件で、今川家では義元が制定する今川仮名目録追加二十一条によってこの特権を否認することになるが、まだこの法律は施行されていなかった。

 

 駿府城で井伊の兄弟を対応したのは、関口氏広という小娘だった。

 

 いい身体付きをしている。

 教養がありそうで、所作も優雅だった。

 

 いずれはこういう女を近くに侍らせたいものだな井伊直満がにやけていると、関口氏広が足を止めた。

 

 見晴らしのいい渡り廊下だった。

 池のある風流な庭園が見る者の心をなごませる。

 

 氏広は帯に差していた扇子を抜いて、柱にカンッと当てて音を鳴らす。

 

 瞬間、渡り廊下の下から得物を手にした男たちがぞろぞろと現れた。

 

 直満の顔が、サッと青ざめた。

 

「謀ったか、今川義元!」

 

「騙し討ちとは卑怯者のすることぞ!」

 

 関口氏広は振り返りもせずに歩き去った。

 

 井伊の兄弟は顔を真っ赤にして怒鳴り付ける。まだ刀は預けていなかったため、抜刀して応戦しようとするが、無数の槍に囲まれてはどうにもならない。

 

 直満は血達磨になりながら、かろうじて一人に手傷を負わせることができたが、自分の血で足を滑らせて転んだところを槍で突かれて絶命した。弟の直義は兄が死したのを見ると刀を捨てて命乞いを始め、岡部貞綱に「見るに堪えぬ醜さよ」と吐き捨てられて斬首された。

 

 兄弟二人は首桶に入れられて井伊谷城に送り返された。

 

 井伊の総領は今川家の後ろ盾を得た井伊直盛が継ぎ、ここに井伊家の騒動はひとまずの落着を迎えたのだった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 さて、花倉の乱の後始末の続きである。

 

 玄広恵探に荷担した福島氏は族滅。わずかな生き残りは諸国に散った。

 

 その中には後に地黄八幡と呼ばれることになる北条綱成も混じっていたのだが、雪斎はあえてこれを捕えようとはしなかった。今川家で飼い殺しにしたところで忠誠心など期待できるべくもないだろうし、川越夜戦の鍵となる北条綱成を横から奪ってしまうと、後の三国同盟が成立するかどうか怪しくなるからだ。

 

 堀越貞基は撤退中に謎の死を遂げ、表向きには落ち武者狩りにあったとされた。嫡子の堀越氏延は駿府で軟禁状態に置かれた。

 

 最終的に堀越家は所領のほとんどを今川家に没収され、かろうじて家名だけは存続した。

 

 また福島正成の死後、無主の城になっていた高天神城は小笠原氏興に与えられることになった。

 

 小笠原家の当主、氏興は信濃守護の庶流である。

 家格は充分であり、今川氏親の娘を母親に持つ。さらに息子の氏助と揃って今川家の通事である『氏』の字が与えられていた。史実では武田信玄から高天神城を守り抜いた人物であり、その実力は申し分ないと思われた。

 

「では、これより評定を始めましょう!」

 

 井伊家の臣従の後、今川義元は私室にお気に入りの家臣を集めて高々と宣言した。

 と言っても関口氏広や岡部元信のような何時もの顔ぶれに、朝比奈泰朝を足しただけである。

 

「アタシも参加して構わないのだろうか」

 

 泰朝は生真面目な性格をしているため居心地が悪そうだった。

 

 こいつら、茶菓子を広げているのである。

 

 これで真剣な話ができるのかと泰朝が救いを求めるように部屋の隅に目を向けると、黙々と茶を点てている黒衣の男と目が合った。

 

 が、男は何も言わずに作業に戻る。

 

 何だ。何なのだ。何か言えよ。泰朝は苛立った。

 

「評定って?」

 

「内患を取り除くことに成功した今、これからどうするべきなのかということですわ。各々の意見を聞かせてくださいな」

 

 茶菓子を手づかみで頬張っていた茶髪ポニー、岡部元信が「めんどくせー」という顔になる。

 

 一方の関口氏広は楊子で切り分けて賞味していた。

 

 これは育ちの差というよりも性格だろう。どちらも名門のお嬢様である。

 元信も最低限の礼儀作法は身に付けているのだが、それをまったく活用していないだけだった。

 

「そうですね。何事においても最初が肝心と言いますから」

 

 最初に口を開いたのはやはりと言うべきか関口氏広だった。

 

「ここで失敗すると再び内乱が起こるかもしれません。慎重に事を運ぶべきでしょう」

 

「え、そうですの?」

 

 まったくわかっていない義元だったが、もはや誰も呆れた視線を向けることはない。

 義元の頭が残念なのは、今川家の重臣たちには周知の事実であった。

 

「新当主とは侮られやすいですからね。私たちが何もせずとも井伊家がお家騒動で満身創痍になり、当家を頼ってきたことは幸運としか言いようがありません。井伊を征伐している間に武田が攻めて来れば最悪ですから」

 

「……お、おーほっほっほ。こ、これもわたくしの威徳あればこそですわ!」

 

 義元は冷や汗を垂れ流しながら、取り繕ったような高笑いをしている。

 どうやら氏広に指摘されるまで自分の立場が盤石だと思っていたらしい。

 

 それに気付いた元信が意地の悪い笑いをする。

 

「ねぇねぇ義元さま」

 

「なんですの?」

 

「今度はこっちから武田を攻めてみない?」

 

「ええっ!?」

 

 義元はビクリと飛び跳ねると部屋の隅まで後ずさった。

 

 早速ヘタレている義元である。

 

「いいい、五子さん、な、なにも武田家でなくとも、もうちょっと戦いやすそうな相手がいるのではありませんの?」

 

 本当に今川家をこいつに任せていいのかと、思わず泰朝は半眼になった。

 

 もちろん元信の発言は冗談である。

 

 議論とは多くの意見を並べることに意味があることを、雪斎の薫陶を受けていた元信と氏広はよく心得ていた。

 

 故に関口氏広は反論を口にする。

 

「私は外征に討って出るのは反対です」

 

「ふーん、氏広っちは反対なんだ」

 

「猪武者のあなたとは違って、私には考えがあるんです」

 

 ふふんと鼻を鳴らして自慢げな感じで口上を述べる氏広。

 

「今は内乱の傷を癒すのが先決。内政を充実させるべきです」

 

 泰朝は声にせず、なるほどと頷いた。

 最近の今川家は戦争続きである。そろそろ立ち止まって後ろを見ることも必要だろう。

 

 元信は少し考え込み「一理あるか」と呟いた。

 流石の脳筋でもこれぐらいは考えられるようだ――と他の者たちが思った直後。

 

「しかし、一理しかない。おまけに一害もあるよね」

 

「一害?」

 

 泰朝は首を傾げる。

 

「停滞は新しい風をせき止めてしまう、と言うことです」

 

「なるほど」

 

 元信の発言を補足したのは氏広だった。口を開けば言い争いをしているという印象がある二人だが、互いのことはそれなりに認めているらしい。

 

 そこで話が途切れた。

 意見を出し合っている全員が、僧形の男を気にしているからだ。

 

 だが男は茶釜を無言で見詰めている。

 

「あの。師匠?」

 

 おそるおそる義元が声をかけると、雪斎は目を閉じてしまった。

 

 その間、ずっと無言である。

 

「やべーよ、やべーよ。お師匠すげぇ不機嫌だよ。これは話しかけたら死ねるって」

 

「いや、不機嫌か? 少し違うような感じだが」

 

 泰朝の見たところ、これは機嫌が悪いというには少し違う。

 

 火をかけた茶釜じっくりと眺めている姿は、そう――何かを待っているようだ。

 

 ちょうど思い至った時。

 

「失礼しますです」

 

 天井から少女が振ってきた。

 

 すわ曲者かと腰を上げた泰朝だったが、よく見れば雪斎の近くにいた忍びである。あの巨乳は忘れたくても忘れられない。泰朝は自分のまな板を見下ろしてちょっとだけ泣きたくなった。

 

「かの姫君は懸塚(かけつか)の港にございますです」

 

「ふむ。そうなったか」

 

 雪斎はようやく口を開いた。

 

 そこでようやく雪斎の機嫌が悪くないことがわかった。

 

「どうやら姫には天運があるようだ」

 

 むしろ、声には弾みがある。

 

「天運とは? 一体どういうわけですの?」

 

「敵国の争乱につけ込むための、格好の口実が手に入りそうだ」

 

「ねぇねぇ、お師匠。五子あんまり賢くないから、もっと分かりやすく言って欲しいんだけど」

 

「松平広忠が駿河に来る」

 

 困惑する元信を余所に、泰朝は膝を打った。

 

 三河だ。

 

 泰朝は静かな感動に打ち震える。

 

 雪斎の冷静な口ぶりから、計画はすでに練られているのだと察した。今でも充分に強大な今川家に、さらに一国を加えようというのである。それをいとも容易いことのように語るこの男の頭は一体どうなっているのだろう。

 

「折角だから、一つ講釈を垂れておこう。今川家の人間ならばすでに知っている話かもしれないが、ここで語ることに意味があるだろう」

 

「あ、五子ちょっとお花を摘みに行ってくるから」

 

 雪斎は腰を上げる。

 話をするのになぜ立ち上がる必要があるのかと疑問に思うまでもなく、彼は逃げようとした元信の首根っこをつかむと頭突きをぶち込んでいた。

 

「ひぎぃ! お師匠の鬼畜! 人でなし!」

 

「……っ、この石頭が」

 

 雪斎は顔をしかめていた。何をやっているのか、この二人は。

 

 おまけに義元も氏広も顔色一つ変えていないのだから、よくあることなのだろう。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 かつての今川家の軍師の目は三河に向けられていた。

 

 三河は海産物が豊富で、石高も高い。加えて三河は小勢力が割拠しているだけで武田家のような強力な勢力が存在していない。当時の松平家は分家が乱立していてまとまりに欠けていた。今川家にとってこれほど格好の獲物は他にいなかったのである。

 

 今川家の軍師、伊勢宗瑞。

 後の北条早雲が三河攻略に着手したのは、遠江を平定してからのことだった。

 

 宗瑞はまず遠江を切り取った。

 

 応仁の乱で西軍の細川勝元側についた今川家は、東軍の斯波義敏と交戦状態に入っていた。斯波義敏は尾張、越前、遠江の守護である。余談だが室町幕府管領である斯波義廉は西軍に属しており、斯波家は一族内でも争っていた。

 

 遠江の守護職はかつては今川家の分家、今川了俊のものだったが、了俊が幕府中央で失脚してからは斯波氏に与えられていた。宗瑞は斯波家を遠江から叩き出して、遠州を今川家の版図に加えた。

 

 次に宗瑞は一万の兵を率いて三河に討ち入った。

 斯波家を追撃するというのもあるが、それ以上に肥沃な三河を欲したのである。

 

 今川軍はまず今橋城の牧野古白という人物を血祭りに上げた。

 その武威に震え上がった東三河衆は一戦もせずに今川に下った。

 

 唯一、渥美半島の戸田家だけは今川家に恭順しなかったが、戸田家は独自の水軍を持っており、攻めても海に逃亡されるだけであるため、宗瑞はこれを捨て置くことにしたのである。

 

 宗瑞は軍を西に向けた。

 東三河の兵を加えた今川家の大軍が矢作川に迫ったのだ。

 

 しかし、奇跡はそこで起こったのである。

 

 安祥松平家の松平長親が西三河の兵を糾合し、五百人の兵だけで今川軍の快進撃を止めてしまった。たかが松平の分家にすぎないはずの男が同族争いを続けてばかりの一族をまとめることに成功し、三河の救世主になったのだ。

 

 松平長親が率いる西三河衆は矢作川だけは決して渡らせまいと決死の抵抗を続け、奇襲をかけて戦意の低い東三河衆を敗走させた。

 

 今川軍の足が止まった。

 

 やがて戦線が膠着すると、宗瑞は背後の戸田家が気になってきた。この状況で戸田家に襲いかかられると、思わぬ敗北を喫するかもしれない。

 

 宗瑞は攻勢の限界に達したと判断して、軍を返したのである。

 

 松平長親は英雄になった。

 

 長親は分家の安祥松平家の者だったが、この戦いによって安祥松平家の勢いは本家を凌ぐようになった。言わば分家が本家に取って変わったのである。

 

 だが、どういうわけか長親は今川軍を撃退した翌年に隠居してしまう。

 

 家は息子の信忠が継いだのだが、英雄の息子というのは偉大な先代と比べられがちになるものだ。

 

 松平信忠は三河物語に『不器用者』と記され、『武勇、情愛、慈悲のいずれも備わっていなかった』とまでこき下ろされている。もっとも三河物語は作者が大久保一族のため、大久保を持ち上げまくり、松平家のことすら悪く書くことが多いから、疑って読む必要がある。

 

 真偽はともかく、松平信忠は暗愚であると思われていたようだ。

 

 最終的に信忠は家臣たちによって強制的に隠居させられた。

 

 後を継いだのが松平清康。長親を超える大器だった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 阿部大蔵定吉は胸に決意を秘めて遠江の懸塚に上陸した。

 

 懸塚は天竜川の河口近くにある、遠江の貿易港だった。

 遠州灘海運の中心であり、天竜川水運によって集められた木材が、太平洋航路に乗って全国に輸送されるという。

 

 ようやく陸地に降りることができて、定吉は一息つくことになった。船旅は何度も経験しているが、未だに慣れないものである。

 

「ここが、今川家の領国ですか」

 

 そう言って定吉の背後に降り立ったのは、十代半ばの少女である。

 

 黒髪を三つ編みにしており、眼鏡をかけている少女だった。田舎くさい雰囲気というべきか。素材はいいのだが、いかんせん地味で、侍女の中に紛れると探すのに苦労しそうな容姿である。

 

 そんな地味な少女だったが、一つ目を引くものがあった。

 

 狸の耳と尻尾である。

 

 松平家には始祖が狸だったという言い伝えがあり、宗家の者は狸の飾りを付けることを家訓で定められていた。

 

「う~、気持ち悪い~」

 

 小舟の上でぐったりしている少女が家臣たちに運ばれていた。

 

 少女は広忠の妹で、まだ元服していないため、竹千代と名乗っている。広忠よりもさらに地味な眼鏡っ子だった。こちらも頭に狸の耳を付けている。

 

「ここから陸路で駿府に向かいます」

 

 阿部定吉は松平宗家の姉妹に向かって言う。

 

「歩くのですか?」

 

「姫の分だけ、馬を調達するつもりです」

 

 定吉と数人の側近は歩く予定である。全員分の馬を調達するだけの金がない。

 

 もとより三河侍だ。主に尽くすことに喜びを覚える者ばかりだから、一国を横断するぐらいでは苦にはならないだろう。

 

 だが、姫は首を横に振った。

 

「私も歩きます」

 

「え゛」

 

「いえ。それはなりませぬ」

 

 定吉は諫めた。

 広忠は駿府に到着してから大事を為さなければならないのだ。先のことを考えると、旅の垢にまみれるのは好ましくはない。

 

「いいえ、歩きます」

 

「ですが姫さま」

 

「お姉さま、大蔵(定吉)さんの言うとおりにしましょうよ~」

 

「頼みます、大蔵」

 

 だというのに広忠は何度言っても聞かなかった。

 

 最終的に定吉が折れざるを得なくなった。

 

 定吉は溜息を吐く。

 

 空は快晴である。不吉な気配は感じない。

 

 だが、定吉は己の予感をまったく信じていなかった。あの時も定吉の予感はまったく反応しなかったのだから。

 

 浜名湖の綺麗な景観を楽しむ時間も取らず、一同は駿府城へと出発する。

 

「うぅ~、わかりましたよ~、歩きますよ~」

 

 半泣きで付いてくる竹千代に、広忠と定吉はひそかに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 森山崩れという事件があった。

 

 三河を統一した英雄、松平清康が斬殺された事件である。

 

 清康は尾張に攻め込み、森山に陣を敷いた。

 

 織田信秀の弟、織田信光が兄を裏切って清康を森山に招き入れたのである。

 

 その時、定吉には謀反の噂が流れていた。根も葉もない噂だったが、三河衆の多くがこれを信じていた。

 

 ――阿部大蔵は織田弾正忠と通じている。

 

 その風聞をもって定吉は周囲から裏切り者のように扱われたのである。

 

 定吉は「いずれ斬られるだろう」と覚悟した。

 とは言えここで逃亡すれば噂が真実だったと思われるだけである。定吉にも武士としての意地があったから、槍働きで身の潔白を証明しようと決意した。だが、同輩からの疑惑の眼差しは定吉の想像を超えていた。

 

 定吉は次第に精神的に追い込まれていった。

 

 そしてそれは定吉の息子である正豊も同じだった。

 

 ある時、陣中で馬が暴れていた。

 それを見た正豊は「ついに父が斬られたのか!」と勘違いをしてしまった。

 

 ちょうど近くに清康がいた。

 

 正豊の頭の中では、これまで松平家のために身を粉にして働いてきた父が、根も葉もない疑いによって誅殺されたことになっていた。

 

 正豊の目がカッと憎悪に染まった。彼にとっては父の敵討ちだった。

 

 清康は護衛に守られていたが、正豊はすかさず「父の仇!」と叫びながら接近して刀を抜いた。

 

 驚くほどあっさりと、清康は斬られた。清康を斬った刀は村正だった。

 

 正豊は清康の側近にその場で斬られたが、すべては後の祭だった。

 

 松平清康の躍進はここで終わった。

 森山に集結した三河の軍勢は一戦もせずに敗走し、織田信秀の追撃を受けて大量の死人を出した。松平家の没落が決定付けられた敗戦だった。

 

 松平家の家督は清康の娘である仙千代が継いだものの、仙千代は大叔父の信定(桜井松平家)に幽閉されてしまう。

 

 それから定吉は仙千代を岡崎城から脱出させ、東条吉良家の吉良持広の庇護を受けて伊勢の神戸(かんべ)に亡命した。

 

 そこで仙千代は元服し、烏帽子親になった吉良持広から一字を貰って広忠と名乗った。

 

 広忠はしばらく無聊を囲っていたが情勢に変化がないため、やがて三河に帰国することにした。岡崎城に戻りたいところだが、大叔父に乗っ取られているため、仕方なく長篠の地に潜伏する。

 

 このままでは松平家が分家の信定に完全に簒奪されてしまう。

 

 定吉は暗い想像に身を沈めた。

 この男は息子が主君殺しになってからも、未だに松平家の重鎮という立場にいる。松平家には定吉ほどの外交能力のある家臣がいないのである。そんな定吉の頭脳が未来を描くと、いつも最悪の光景が目に浮んだ。

 

 松平信定は織田信秀の妹を貰っている。

 

 織田から姫を貰うあたり、松平信定は暗愚なのか、あるいは剛胆なのか。

 ともあれ信定は松平宗家の地位と引き替えに三河を売り払うつもりにしか見えなかった。

 

 ――もはや今川を頼る他ない。

 

 その思いが定吉を立ち上がらせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「今川では内乱があったようですが」

 

 駿府への道中で、ふと思い出したかのように少女――広忠が言った。

 

「内乱を征して家督を継いだのは義元という十代半ばの小娘だと聞きます」

 

 そう言えば、その義元は広忠よりも年少である。

 自分よりも若い少女が血で血を洗う家督継承を乗り切り、二カ国の太守として君臨している。一方の広忠は一族に家を奪われ、支援者を求めて各国を放浪する有り様だ。広忠は表向きは平然としているが、内心では義元のことを羨み、口惜しさに胸をかき立てられているのかもしれない。

 

「姉妹の争いですよね~。怖いです~」

 

 竹千代が身を震わせている。

 例えるなら広忠と竹千代が争うようなものだ。まさに末法の世だなと定吉は溜息を吐きたくなる。

 

 今川義元は、姉を斬った。実際に斬ったのは家臣だが、それは些末である。

 

「私も大叔父を斬らなければならないのでしょうか」

 

「……姫さま」

 

 広忠は溜息を吐いた。

 定吉は何も答えられなかった。

 

 数人が街道を進む。

 ここに至っては話題もなく、一同の足取りは淡々としていた。

 

 夕暮れになると旅籠に入り、夜明には出発する。

 

 そして昼過ぎに駿府に到着した。

 この主従は、いきなり駿府城の門戸を叩いたわけではなかった。

 

 定吉は知っていた。

 こういう時は、しかるべき手順を踏むべきだと言うことを。

 

「義元公より先に、太原雪斎なる人物に会わなければなりません」

 

 定吉は言う。

 

 彼の分析は正確だった。今川家の本質を見抜いていたのである。

 

「雪斎ですか?」

 

「はい。今川家の宰相とも言うべき人物です」

 

 広忠は怪訝な目をしていた。

 初耳なのだろう。雪斎の名は三河まで聞こえてこないからだ。

 

「義元公の守役のようなお方です。将を射んと欲すればまず馬を射よと言います。我らはまず太原雪斎を口説き落とさなければなりません」

 

「心の支度はできています。道すがら、ずっと考えていました」

 

 雪斎の居場所を探し回っていると臨済寺という場所にいることが判明した。

 

 臨済寺の前で、二人は頷き合った。

 竹千代は何のことかよくわかっていない顔をしている。

 

 三人はほとんど待たされることもなく寺内に通された。

 

 瞬間、定吉は「あっ!」と叫んでいた。

 すぐに口を押さえたが、してやられたという思いが強い。

 

「おーっほっほっほ! 三河から遠路はるばるご苦労なことですわね! わたくしが今川治部大輔義元ですわ!」

 

 定吉から見て左側で正座している男が、太原崇孚雪斎なのだろう。

 

 黒衣をまとい黒頭巾を被った陰気な男だった。抹香臭い坊主の見た目をしており、存在感はどっしりと重たい。

 

 意識せず定吉は平伏していた。それは広忠も同じだった。

 

「ここは公式の場ではありません。楽にして構いませんわ」

 

「……はっ」

 

 上座にいる姫君にそう言われても、二人ともまだうまく頭が動かない。

 なお竹千代はよくわからないという顔をしていて、広忠が竹千代の頭を床に叩き付けていた。

 

 これほど鮮やかな奇襲があるだろうか。

 

 雪斎と面会し、根回しをしてから義元を動かす。

 そのつもりが、初手で何もかもを止められてしまった。

 

 ――これが本物の外交か。

 

 定吉の肌が泡だった。自分も所詮は三河の田舎者だったのかと思い知らされた。

 

「あなたが松平清康の娘ですの? 存外凡庸な顔をしていますわね」

 

「――っ、松平次郎三郎広忠と申します」

 

 名乗るまでもなく、相手にはこちらの素性は筒抜けのようだった。

 

 慌てて名乗りを上げた広忠の判断は間違いではない。もはや手遅れの感は否めないが、取り返しの付かない失敗ではないだろう。

 

 見方を変えれば今川義元と謁見できているのだ。

 

 これを奇貨にできれば松平家の再興が叶うはず。

 

「此度は私どものために謁見の場を設けて下さったことに感謝します」

 

「それくらい大したことではありませんわ。過去には二度に渡って行き違いがあった両家ですが、戦国の世ですから昨日の敵が今日の友になることもあるでしょう」

 

「は、はぁ……?」

 

 訝しげに片目を細めてしまう広忠に、義元は閉じた扇を口元に当てて、記憶を掘り起こすようにして語り始めた。

 

「たしか松平家は新田義貞の末裔だとか。やまと御所が南北に分かたれた時代には、わたくしたちの先祖は陣営を別にして争ったわけですが、それも大昔の話。同じ源氏であり、名門の末裔ともなれば、手厚くもてなすのは当然のことですわ」

 

「は、はぁ。ありがたき仰せにございます」

 

 新田義貞の末裔というが、ただの自称である。

 広忠にしても大声でそのことを公言するのは憚っているほどだ。

 

「当家はかつて道閲殿(松平長親)に苦汁を飲まされたことがありますが、わたくしは道閲殿を賞賛こそすれ、恨みに思うことはありません。なぜなら名将は名将を知るからですわ。おーっほっほっほ!」

 

 もしやこの姫君は我らを皮肉っているのではあるまいか。

 いや、ただの馬鹿なのでは。

 

 場違いにもほどがある高笑いに定吉は疑念を抱いてしまう。

 

「それで、えっと……師匠。何の話でしたか?」

 

「……話の種が尽きたか」

 

 太原雪斎は広忠たちに目をやると、嘆息混じりに言葉を放つ。

 

「義元公はこう仰られている。必ずお手前を岡崎城に戻れるよう手配するだろう」

 

「何と! それはまことですか!?」

 

 広忠は思わずと言ったように中腰になっていた。

 

 定吉も耳を疑った。こうまで容易く事が運ぶのかと。

 

 彼らは何年も幽閉され、亡命先で雌伏していたのである。

 

 それがこの一瞬で切り開かれた。

 

 ――未来が拓けた。

 

 広忠の瞳が涙に濡れる。定吉も同じように感動していた。

 

 三河人は情の人である。自分の感情に正直で、とにかく純朴なのだ。

 

 すすり泣く二人に、義元が優しげな眼差しを向けていた。

 

「えと、えと、どういうことですか~?」

 

 竹千代は二人が泣いている意味がわからず首をひねっていた。

 

 それと、去り際に竹千代の名前を聞いた雪斎が、なぜか驚いた顔をしたのが定吉には不思議だった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 面会の後、広忠たちは今川館に案内されて歓迎された。

 

 宴であり、諸処のことは家老の三浦範高が手配している。

 

 俺たちは臨済寺で座禅を組んでいた。両目を閉じて瞑想していると、義元が鈴を鳴らすような声を出す。

 

「次は三河ですわね、師匠」

 

 瞑想の最中である。

 俺が視線で義元をいさめるも、彼女は浮かれた様子で気にしていない。

 

「ついに今川家の旗が他国に翻る時がやってきたのですわ」

 

「何を言っている」

 

「まずは地を埋め尽くさんばかりの大軍で三河を平らげ、その武威によって尾張までもを切り従えることができれば、その時こそまさしく、わたくしは海道の覇者を名乗ることができるのですわ! おーほほほほ!」

 

 俺は警策(けいさく 木の棒)を取ると、気合いを入れて義元の肩に振り下ろした。

 

「小国、文徳なくして武功あり!」

 

「ひぎぃっ! 禍いこれよりも大なるなし!」

 

 乙女にあるまじき、濁点ばかりの汚い声でわめき始める。

 

 だがまぁ詰め込み教育の成果が出ていたのはよしとするべきか。

 

 なお「小国、文徳なくして武功あり。禍いこれよりも大なるなし」とは春秋左氏伝の引用で、鄭(てい)という国の名宰相、子産の言葉だった。子産は世界で初めて成文法を作った人物である。

 

「いきなり何をするんですの、師匠!? あ、でも、ちょっと気持ちよかったかも……」

 

「鄭は蔡(さい)を攻めて勝利を得たが、大国の晋と楚に幾度も攻められることになった。それと同じように三河に大軍を繰り出せば、武田と北条に背後から襲われて、今川家は没落の道を辿るだろう」

 

「むむむ。それではどうやって三河を取ろうと言うのです?」

 

「そのための松平だ」

 

「なるほど。広忠さんを岡崎の城主にして今川家の徳を示すというわけですわね。傀儡にするにはちょうどいいぐらいの地味な娘でしたし、妥当なところでしょう。でも結局は軍を使うことになりませんの?」

 

 なるだろう。流石の義元もそれはわかるようだ。

 

 だから、俺は言った。

 

「兵数は二千とする」

 

「……は?」

 

 義元は目を丸くしていた。

 

 その反応も当然だろう。二カ国の太守であり、現時点でも家を破滅させる勢いで限界まで募兵すれば二万もの兵を繰り出せる今川家が、わずか二千しか兵を出さないと言うのだ。

 

 下手をすれば義元は物惜しみをしたとして諸国の笑いものになる。

 

「い、いえ、何を言っているんですの、師匠。せめて八千は出さなければ、わたくしの面目が立ちませんわ」

 

 八千など論外だ。駿河を空っぽにするつもりか。

 

「織田が出てくるまでは二千でよい。とにかく急がなければならないのだ」

 

 織田信秀は西三河に攻め込む気配を見せている。

 

 やまと御所に大金を献上して三河守の官位を貰ったらしい。

 

 西三河が完全に信秀のものになる前に、三河を取っておかなければならないのだ。大国化した武田、北条、織田に囲まれるなど洒落にならん。

 

「それでも二千というのは……」

 

「ちなみに、お主は駿府で留守番だ。せいぜい内政に励んでおくように」

 

「内政ですか。わかりましたわ。大船に乗ったつもりでいて下さいな」

 

「やけに素直だな」

 

「わたくしの手にかかれば駿河の街は極楽浄土のごとく大発展するに決まってますわ!」

 

 ああ、なるほど。

 俺の留守中に自由を満喫するつもりなのだろう。

 

 構ってやらないと寂しそうにするくせに。どうせ三日ぐらいで自由にも飽きて家来たちを困らせるのだろう。

 

 俺が出征している間、何人もの家臣たちの胃袋がきりきり舞いするのだろうが、頑張ってくれと心の中でエールを送ることしかできない。主に氏広とか氏広とか氏広とか、本当に大丈夫なのだろうか。俺は激しく不安になった。

 

 

 



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10.三河攻略

 尾張の最大勢力といえば織田信秀だが、彼は尾張の国主だったわけではない。

 

 尾張の国主は建前上は斯波武衛家だった。

 

 この家はかつては尾張足利家と名乗っていたことがあった。

 足利家の分家であり、足利本家に匹敵するほどの勢力を誇っていたのである。

 

 ところが室町時代に入ると足利尊氏が天下を取ってしまう。

 この頃に尾張足利家は「斯波」を名乗るようになったようだ。名前の由来は先祖が陸奥国にある斯波郡を拝領したからだと思われる。

 

 そんな斯波家の当主が代々任命されてきた官位が左兵衛督や左兵衛佐である。

 左兵衛の官位は唐名では「武衛」になるため、斯波武衛家と呼ばれることもあった。

 

 斯波家は細川家、畠山家と交代で幕府の管領職を担ったため三管領家の一つとされ、越前や加賀、奥州に領地を得たが、加賀守護は幕府の不興を買ったため没収され、越前はやがて朝倉氏に下克上されてしまう。

 

 さらに遠江を今川家に奪われた斯波家は、最後の領国である尾張に逃げ込んだ。尾張では守護代である織田家が力を付けており、織田家は斯波家を担いで尾張を共同経営するようになったのである。

 

 織田家は応仁の乱によって分裂し、伊勢守家が上四郡を、大和守家が下四郡を治めるという形に落ち着いた。

 

 織田信秀は尾張下四郡守護代、織田大和守家の分家にして家臣であり、清洲三奉行(三家老)の一人だった。

 

 信秀のかつての本拠地は尾張の勝幡(しょばた)である。

 

 先代の信貞が商業都市である津島を屈服させて支配下に組み込み、さらに信秀の代で今川家の庶流である尾張今川家から、謀略で那古野城を奪い取っている。斯波家や大和守家を凌駕する実力によって尾張の軍事的な指導者にまでのし上がっていたのだ。

 

 また信秀は風流人でもあり、山科言継を招待して連歌や蹴鞠を主催したという。文化面で最先端を行っていることを前面に押し出し、他家に格の違いを見せ付けることで、尾張での存在感を増していったのだ。

 

 さらに信秀はやまと御所に七百貫文を献上して三河守に任じられていた。

 

 三河を征服するための大義名分を整えたのである。

 

 同じく三河を欲している今川家と激突するのは、遠い未来の出来事ではなさそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 織田信奈は人差し指で地球儀をくるくると回していた。

 

 髪は茶筅髷に結っており、着物は諸肌に脱いでいた。さらに南蛮渡来の黒い下着を胸に着けており、誰の目からも奇異に映る格好をしていた。家中からは「うつけ姫」と呼ばれている少女である。

 

「勉学をすっぽかして何をしているのかと思っておりましたが、こんなところにいたのですか。探しましたぞ、姫さま」

 

 かけられた言葉に、信奈は億劫そうに顔を上げた。

 

「なによ、また説教でもしに来たの?」

 

 織田家の家老である平手政秀だった。

 

 平手政秀は信奈の傅役、つまり教育係である。

 

 政秀は老人という年齢だった。痩せた身体が汗だくになっている。

 信奈が城下に遊びに出たと思い込んで外を探しに回ったのだろうが、信奈は自室で宣教師に貰った南蛮の渡来品を眺めていただけだった。

 

「わざわざご苦労さま。骨折り損ね」

 

「勘弁してくだされ、姫さま。爺は心臓が止まるかと思いましたぞ」

 

「デアルカ」

 

 信奈の言葉は素っ気ない。少女はこの老人にも心を開いていなかった。

 

 少女が信頼を寄せたのは、父親の信秀と、南蛮からやってきた宣教師だけである。しかし父は多忙であり、宣教師は他界している。

 

 宣教師からは色々なことを教わった。

 

 世界が丸いということ。南蛮人は地球の裏側からやってくるということ。南蛮では種子島という兵器が開発され、強大な軍事力を持っていること。南蛮の王は植民地の獲得を目指しているということなどである。

 

 なのに弾正忠家は尾張一国すら支配できていない。

 

 室町幕府が強ければ、足利義満のような強力な王がいれば、外国からの侵略に対抗できるかもしれない。鎌倉幕府が蒙古を撃退できたのは、北条時宗が九州の領主に号令できたからだ。だからそれこそ全国すべてに手が届くほどの絶対的な権力がなければ、日の本は南蛮に屈服させられることになる。

 

 わかっていても何も出来ないのが歯がゆかった。

 

 信奈がふて腐れている理由である。

 少女は尾張守護の家来の家来の娘でしかない。信秀は娘を婚姻の道具として考えていないことだけは救いだったが、自分ごときが天下を語ったとしても物笑いになるだけだった。

 

「何の用なのよ? 用件があるなら早くして。わたしは暇じゃないんだから」

 

 勉強をサボって、おまけに部屋で暇そうにしているのだが、平手政秀は空気を読んでそれには触れなかった。

 

 これでも信奈の態度はマシな方である。

 本当に嫌いな人物が相手なら、信奈とは会話が成立しない。それでも相手が引き下がらなければ刀を抜いて排除しようとする。

 

「火急の用事というわけではないのですが、戸田家から人がやって来たので、お耳に入れておこうと思った次第ですぞ」

 

「戸田家? 知多の方にいる奴らよね?」

 

「あいや、戸田家は尾張にも領地を持っておりますが、此度は三河の話ですぞ」

 

 戸田家は独自の水軍を持っており、沿岸に勢力を伸ばしてきた一族である。

 本拠地は三河の田原城だが、尾張にも進出しており、知多半島に河和城を築いていた。

 

 今回、戸田家は織田信秀を頼ってきたらしい。

 

 松平家が清康という英雄を失った後、西三河の国人たちは織田信秀を頼り始めていた。尾張と三河の国境にいる水野家や、松平の分家である桜井松平家などである。戸田家も同じように父を頼ってきたようだ。

 

「三河は父上の威光にひれ伏すことになりそうね」

 

 織田は戦わずして三河をその手に収めることができるわけだ。もちろん信秀の謀略の手はしきりに三河に伸びているのだろうが、それは言わぬが華だろう。

 

 しかし政秀の顔は暗い。

 

「どうしたの、爺」

 

「信奈さま。どうやら眠れる獅子が巣穴から出てきたようなのです」

 

「……それって」

 

 信奈は唾を呑み込んだ。まさか。

 

「戸田は援軍を求めておるようなのですぞ」

 

「援軍? 何のための援軍よ?」

 

「攻めてきた相手は――今川。ついに治部大輔が動き出しましたぞ」

 

 三河の山河が荒れようとしていた。

 

 今川軍、総大将、太原崇孚雪斎。

 二千人を率いて東三河に侵攻し、電撃的に今橋城を攻め落とす。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 天野景泰は困惑していた。

 

 今川義元からの書状には三河を攻めるための兵を出すようにと書かれていたが、彼の目の前にいる軍勢はたったの五百人だったのである。

 

 天野景泰は千五百人の兵を持っていた。

 この戦では今川は天野だけに骨を折らせるつもりなのか。今川は天野を侮っているのかと眉をひそめてしまう。

 

 二カ国の太守が出した兵がこれだけとは思えなかったし、思いたくもなかった。あるいはこれは侵略ではなく、ただの示威行為なのかもしれないが、それでも五百人というのは少なすぎるのではあるまいか。

 

 あるいは他の領主も参集するのだろうか。

 

 遠江の最強勢力と言えば遠江朝比奈家である。富士川合戦で壮絶な討ち死にをした朝比奈泰能の家であり、現在は娘の朝比奈泰朝が当主にいる。泰朝は単独で二千人の兵を持っており、これを足せば今川軍は四千人になる。

 

 だが、景泰の推測は外れ、今川軍は朝比奈家の本拠地、掛川城を素通りした。

 

「雪斎禅師」

 

 とうとう景泰は総大将に直談判を行ってしまった。

 

「どうか掛川に引き返し、朝比奈備中と合流なさって下さい」

 

 太原雪斎は武田を討ち、福島を討ち、義元を当主に就けている。伝聞だけだが、その軍略はかつての北条早雲を彷彿させるものだ。彼が大将ということに不満はない。だが景泰が率いている兵をすり潰されるとなると話は別だった。

 

 天野家は藤原家を遠祖としており、源頼朝の側近である天野遠景から興隆した。彼の一族は全国に散らばっており、戦国時代には各地で優れた人材を排出することになった。毛利家で活躍した天野隆重や、三河三奉行の一人である天野康景などである。

 

 天野景泰の遠江天野家は犬居城を本拠としており、遠江では朝比奈家に次ぐ精強を誇っていた。

 

「安芸守(景泰)の懸念は一々もっともだ」

 

 雪斎は同意した。それだけだった。

 

 景泰は我慢できず、さらに食ってかかった。

 

「大体、二千の兵でどこを攻めるのですか」

 

 二千で取れる城など、たかが知れている。その程度ならわざわざ踏みつぶすまでもなく、その土地の要になっている大きな城を攻め取れば、勝手にこちら側に服従してくるものである。

 

「攻める城は、間もなくわかるだろう」

 

 総大将は自分の考えを変えるつもりはないようだ。

 

 天野景泰は不安を募らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで東三河には様々な領主がいる。

 

 奥三河に勢力を張る奥平家や、尾張の知多半島と三河の渥美半島に領地を持つ戸田家、三河だけでなく遠江にすら分家を持つ菅沼家、伊奈の本多家などである。他にも鵜殿家や、西郷家、設楽家などがあった。

 

 余談だが、鵜殿家は今川氏親の娘を妻にしていた。この世界では氏親の実の娘ではなく養女を貰い受けたようだ。鵜殿家は今川家を忠烈に信奉しており、今川家もまた鵜殿家を準一門格として遇していた。

 

 さて、東三河に踏み込んだ今川軍に対して、周辺の小領主たちの反応は静かだった。

 

 東三河には北条早雲の侵攻に屈して今川家に属していた家が多い。だが松平清康という稀代の英雄が現れたことで、彼らは今川家と手切れして松平家に属していた。ところが松平家が衰退すると、勝手に独立してしまっている。

 

「今川家を裏切った連中ってことだよね?」

 

 元信が舌なめずりしている。

 東三河衆に血の粛清を行えばどうかと暗に提案しているのだろう。

 

 だが裏切りに対して仕置きをするには、いささか時間が経ちすぎていた。

 

「強きになびくだけの弱小勢力ばかりだが、捨て置くわけにもいかんのが厄介だな」

 

「お師匠。とぼけられるのって、五子あまり好きじゃないんだけどなぁ」

 

「阿呆。東三河すべてを敵に回すつもりか」

 

 今川が強ければ今川に従い、松平が強ければ松平に従う。

 武田が攻め込んでくれば武田に寝返り、武田が衰退すれば今度は徳川に従う。

 

 その程度の奴らだ。

 だが、奴らが身内を大事にするという性質を忘れてはいけない。史実では今川氏真が東三河から預かっていた人質を処刑したせいで、東三河がごっそりと松平に寝返ってしまったのだから。

 

 天竜川を船で渡り、井伊谷を越えると、そこはもう三河だった。

 

「で、どこを攻めるの、お師匠」

 

 うずうずと、待ちきれないという様子の元信である。

 

「早雲公の先例に倣うべきか否かだな」

 

「先例?」

 

「牧野古白のことだ」

 

 出発前にした講義が、もう頭から抜け落ちているらしい。

 かつて伊勢宗瑞が三河入りした際に牧野古白を攻めたように、俺たちもそうするべきかどうかという話である。

 

 言っている間に、使者の早馬が戻ってきた。牛窪城の牧野家に送っていた使者である。

 

 首を傾げる元信に、俺は仕方なく説明しておくことにした。

 

「牧野家の現当主は牛窪城を本拠とする牧野保成という」

 

「ふーん。牛窪の牧野ねぇ」

 

「牧野家はかつて伊勢宗瑞に攻められて一族が血祭りに上げられ、今川家に服属することになった。それから松平清康によって攻められ、やはり血祭りに上げられた」

 

「どんだけ血祭りに上げられてるの?」

 

「牧野保成は血祭りに上げられる兄たちを尻目に、己一人だけ清康に内通していたため助かり、牧野家を存続させることに成功したわけだが、流石に血祭りに上げられすぎたのだろう。勢力が衰え、戸田家に今橋城を横領されている」

 

「あ、なるほど。読めてきた。あれでしょ。牧野保成を旗印にして、今橋城を攻め取るってわけでしょ?」

 

 人には向き不向きというものがあるが、元信の頭脳は極端すぎるようで、戦になると動き出す仕組みになっているらしい。

 

「いかにも」

 

「よっしゃ、正解! えへへー、五子もやる時はやるでしょ。ねぇねぇ」

 

 褒めて褒めてと、すり寄ってくる元信が少しばかり煩わしい。

 

 猫みたいな奴だった。

 猫が鼠の死体を持ってくるように、こいつは敵将の生首を持ってきそうだが。いや、冗談ではなくやりそうだ。

 

「でもさ、何で戸田家を攻めるの? 逆に弱ってる牧野家を叩いてもいいんじゃない?」

 

 首を傾げる元信に、俺は言った。

 

「牧野など、どうでもいい。海を持っている戸田こそを叩くべきなのだ」

 

 駿河と遠江、そして三河を繋ぐ交易路を確保したい。

 太平洋航路を牛耳ることこそが、今川家の天下取りに最も重要な方法である。

 

 そんな会話をしつつ今川軍は牧野保成の手勢二百人と合流すると、すかさず今橋城の包囲に取りかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今橋城を守るのは戸田宣成である。

 戸田家は渥美半島を支配しており、仁連木城や田原城などを持っていた。

 

 戸田宣成は自分の手で今橋城を攻め取った人物だった。今橋城は自分の城だという意識が強く、何があっても城を手放さないだろうと思われていたため、戸田家からも信頼されて城を預かっていたのである。

 

「いきなりの侵攻とは解せぬ! 今川家は欲の皮が張った熊のごとき家よ!」

 

「まさにまさに!」

 

「今川のやつらは、何の名分があって三河に攻め込んできたのか!」

 

「牧野の援軍と言うが、まさか牧野は今川の家来になったのではあるまいな?」

 

「他国人に寝返ったというのか?」

 

「おのれ、牧野め! そこまで腐抜けたか!」

 

 城に詰めている戸田の家臣たちが口々にわめいている。

 

 牧野家の今橋城を横領しておきながら、自分たちのことを棚上げしての批難だったが、反今川に染まりきっている家臣たちは何度も今川のことを罵っていた。

 

 田原城にいる宗家の当主、戸田尭光は宣成の甥だった。

 

 親族の宣成を見殺しにすることはないだろう。とは言え、気は休まらない。

 

 現在、今橋城は二千人ほどの今川軍によって包囲されている。

 鼠一匹逃がさないほどであり、これでは援軍の使者を出すこともできなかった。

 

 いや、すでに駄目元で出しているのだが、宣成も凡愚ではないため、包囲を抜けられずに捕殺されていることは理解している。

 

「ふん。援軍などいらぬわ」

 

 宣成は内心気落ちしていたが、家臣たちにはそれを見せないように虚勢を張った。

 

「我らだけで持ち堪えれば、田原にいる甥御殿が尾張や甲斐から援軍を引っ張って来るだろう。ここは雌伏の時ぞ」

 

 今橋城には六百人の兵が篭もっており、一朝一夕には落ちないと信じたい。

 とはいえ二千人もの今川軍を前に平静を保てる自信がなかった。三倍の敵に攻められれば、城は落ちるものである。

 

「このままでは宣成叔父が殺される!」

 

 泡を食ったのは、戸田家の当主であり、田原城主の戸田尭光である。この年若い当主は突然やってきた一族存亡の危機に全身から脂汗を噴き出させた。ともかく戦っても勝てないなら降伏するしかない。そう思って田原城を飛び出した。

 

 尭光は今川家の本陣に入り、恥も外聞もなく平伏した。

 

「戸田家は今川家に何ら含むところはございませぬ。どうかご寛恕を賜りたく」

 

 総大将は驚くべきことに袈裟をかけた僧形の男だった。

 

 これから戸田家は今川家に従うことにすると宣言したわけだが、総大将の太原雪斎は感情の色をひとつも見せない。

 

「今橋城をすみやかに明け渡して退去すれば兵を引き上げると約束しよう」

 

「ご無体な」

 

 だが、尭光はそれを受け入れることができない。すかさず言い訳する。

 

「今橋城は戸田家が血を流して手に入れたものです。それを理由もなく明け渡せとは、貴殿は何様のつもりか」

 

「ならば今川家も血を流して奪い取ればよいのだな」

 

「そうではございませぬ! 我ら戸田家は今川家に従うと言っているのです! ですから城攻めをやめて下さいと、何度申せばご理解を頂けるのですか!? 私の提案はそれほどおかしなものでしょうか?」

 

「今川家は家来になった牧野家に今橋城を返還すると約束している。お主らの提案に乗っては筋が通らなくなるのだ。我らの言い分も、理解して頂きたいものだ」

 

 尭光は大きく首を横に振った。

 

 理解できるが、理解したくない。

 今橋城は戸田家の生命線だ。これを奪われると、戸田家は渥美半島に閉じ込められて、時代に取り残されてしまう。没落した松平家に代わって戸田家が三河の大名になるという野望も、夢に終わるだろう。

 

「どうかご寛恕を。禅師。雪斎禅師。どうか。どうか」

 

 尭光はすがるように何度も頭を下げたが、雪斎の考えは変わらないようだ。

 

 雪斎は脂汗を流している尭光を見詰め、ふとこぼした。

 

「野心が見える。心当たりはお有りかな、戸田殿」

 

「……まさか」

 

「そなたから今川に降ると言われても、何一つ信ずるに値せんのだ」

 

 何を言っているのかよくわからないが、一つだけわかることがある。

 

 尭光は恐怖で震えが止まらなくなっていた。

 目の前の僧侶が怖ろしくて仕方がなかった。

 

 この男の口から「戸田を滅ぼす」という言葉が放たれれば、まさしく戸田は滅ぶだろうということがわかったからだ。

 

 尭光は言葉を続けることができず、交渉の席から追い出された。

 

 今川家は内乱で肉親を殺し、井伊家の人間を誅殺した非情の家だったが、今回はその場で尭光を捕らえて首を刎ねることはしなかった。

 

 それだけが幸いだったが、状況は一つも改善されていなかった。

 

 尭光は失意の内に田原城に戻った。

 何はともあれ、叔父の宣成は救わねばなるまい。彼の武威がなければ戸田はただ萎れていくだけだ。尭光は決心した。

 

 尭光は重臣を集めて胸中を打ち明けた。そこである人物が口を開いた。

 

「織田に救援を願ってみてはどうか」

 

 尭光の父である戸田康光である。康光はすでに当主を尭光に譲っていたが、年若い尭光を後見しており未だに影響力を持っている。史実では竹千代誘拐事件を引き起こす老人である。

 

「織田ですか」

 

 尭光は思案した。戸田家は松平家が没落してから、反今川の家風もあってか、尾張の織田家と通じようと画策している。織田弾正忠が今川と事を構えてくれるかどうかは不明だが、織田にとっても今川が三河に侵入するのは面白くないだろう。

 

「それでは織田への使者は父上にお願いしても構いませんか」

 

「いや、わしは仁連木城に入り、今川軍を牽制しようと思う」

 

 尭光は少し考え、首を横に振った。

 

「それは困ります。仁連木城には弟の宣光でも入れておけばよろしいのです。当家には織田弾正忠と渡り合える者は父上しかおりませぬ」

 

「……そうか。そうじゃな」

 

 息子に説かれた康光は戸田水軍に護衛されて尾張に向かった。

 

 それから尭光はすぐさま千人の軍をかき集めると、今川軍の背後を襲うべく出陣した。

 

 陣形は使者として潜り込んだ時に確認している。今川軍の多くは犬居の天野家が占めていた。反面、今川家の旗本はほとんど見ていない。

 

 ここから取るべき行動は――。

 

「我らは全力で本陣を攻め破る」

 

 備えの将たちのどよめきを見ながら、尭光は強く宣言した。

 

「本陣が失陥したとなれば、天野は戦わずして兵を引くだろう」

 

 天野家は今川家の手伝い戦に借り出されているだけだ。自家の兵をすり減らしてまで戦おうとはしないだろう。

 

 形勢不利と見れば及び腰になるのは間違いない。

 

 そして包囲されている今橋城の兵と呼応して挟撃できれば勝機は見えてくる。痛み分けであっても戸田は手強いと思わせることができれば、有利な条件で和議に持ち込めるだろう。

 

 ところが背後を取ったはずが、今川軍はまったく動じずに対応していた。

 

 左右から強烈な銃撃を浴び、戸田軍は瞬く間に士気を崩壊させた。銃撃は最初の一発だけだったが、突撃の勢いを削がれてしまった戸田軍が立ち往生している間に、天野軍に乗り崩されて総崩れになったのである。

 

 ほどなくして戸田勢は潰走を始めた。

 

 今橋城の宣成との連携も上手く運ばず、宣成が城門を開けて兵を出そうとした頃には、援軍が敗走を始めていた。こうなっては宣成も城外に打って出ることもできず、甥御の敗北を歯がみして眺めることしかできなかった。

 

 尭光は追撃を必死に振り切って、田原城に入ったところでようやく我に返った。

 

 手元に残った手勢はわずか三百まですり減っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれれ。あれぇ?」

 

 岡部元信もこの展開には困惑顔だった。

 

「いやいやいや。何で馬鹿正直に突っ込んでくるの? どう考えても罠でしょ?」

 

「最初から城攻めの布陣ではなかったのだが、それすら見抜けぬとはな」

 

「ねぇねぇお師匠。格好付けてるところ悪いんだけど、五子つまんない。もっと戸田侍をたくさん射殺しようよ、ぶーぶー」

 

「阿呆。鉄砲で同士撃ちする気か」

 

 天野景泰は目を見張っていた。

 

 何と鮮やかな戦運びだろうか。

 最初の大事な一戦だというのに本陣を危険にさらすという博打のような一手を打ち、それなのに危なげなく野戦に勝利して兵の士気を鼓舞ししていた。これからの攻城戦が有利になるような流れを意図的に作っているのである。

 

 これが本物の軍略なのかと、景泰は目が覚める思いだった。

 

「それにしても天野家の犬居勢は強いな。これなら城もすぐに落とせるだろう」

 

 そう言って城攻めの布陣に変更している総大将の頼もしさに、景泰は心が晴れていくのを感じていた。

 

 この大将ならば天野の兵をすり潰すことはないだろう。逆に、天野の名を天下に轟かせてくれるはずだ。

 

「さて、我らはこれから外構えを落とすことにするが、安芸守には少数の精鋭を率いて払暁に乗り入れて頂きたい」

 

「あ、五子が一番槍ね。ねぇ聞いてる?」

 

 払暁とは朝方のことで、つまり城に奇襲をかけるということである。

 

 今川の本軍が夜通しで城攻めを行い、敵兵に睡眠を取らせず、疲れ切ったところを景泰が攻めろということだろう。

 

 敵将の戸田宣成も当然、今川軍がそれぐらいのことをしてくるのはわかっているだろうが、指揮官が気を張っていても、兵はそうではない。交代で休憩を取るという手段もあるが、果たしてこの今川軍の総大将がそれを許すだろうか。

 

「安芸守は百ほどの主力、つまり決死隊を温存しておき、我らが一の郭を落とした頃合いに――」

 

「すかさず一気に攻め落とすと?」

 

「いかにも」

 

「なるほど、理にかなっている」

 

 景泰は頷いた。それから笑顔を浮かべる。

 

「武功は禅師と私で山分けですな」

 

「あのー。五子は? ねぇお師匠。五子は?」

 

 皮算用をしてにやけ笑いを浮かべる景泰だったが、雪斎が同調して笑わないことが、かえって景泰の雪斎に対する信頼を増すことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、今橋城は陥落した。

 

 払暁に天野景泰が本丸に突入し、一刻後には制圧が終わっていた。

 昼前までは小規模な戦闘が起こっていたが、正午になると抵抗は完全に収束した。

 

 本格的に城攻めに取りかかってから、たった一日のことである。

 

 今川軍はそこまで強いのかと、三河の諸将は震え上がった。

 

 戸田宣成は城内で自害した。首は家臣が密かに持ち去り、戸田尭光に届けられた。

 

 尭光は叔父の首を見て号泣していたが、悲しむ間もなく今川軍が瀬木城に迫っているという報告が入ってきた。

 

 瀬木城は今橋城の支城で、籠っている兵も少ない。

 

 わずかな守備隊がいるだけだったため抵抗は無意味だった。今川の軍使を受け入れて降伏開城することになり、城から退去した兵が仁連木城に移動したのだが、間もなく仁連木城が今川軍に包囲されたという。

 

 つまり、瀬木城の兵は今川軍の道案内をさせられたのだ。

 

 仁連木城は尭光の弟である戸田宣光が守っていたが、今川軍が城に接近すると逃亡兵が相次ぎ、やむなく宣光は城を捨てて田原城に逃げ込んだ。

 

 今川軍が本拠の田原城に押し寄せるのも時間の問題だった。

 

 これほど世の無常を感じさせることが他にあるだろうか。

 松平清康や北条早雲すら警戒させた戸田家が、わずか三日で三河から追い出されようとしているのである。

 

 渥美半島の失陥は目前に迫っていた。

 

 水軍で尾張に逃げれば、この地には戻れなくなるだろう。海に逃げるという策は、敵軍が引き上げることを前提にしているのだ。大国の今川家が新領地を守るために兵を送り込んできたら、戸田家にはもう打てる手はなくなるのである。

 

「……もはや、これまでか」

 

 戸田尭光は憔悴し切っていた。

 

 後見人の父親は尾張に向かっており、頼れる叔父は今川に殺されている。

 頼りになる身内がいない中で一族の命運を左右する決断を強いられ、年若い当主は精神的に追い詰められていた。

 

「今橋城一つで手打ちにしておけばよかったのか。私は暗愚だな。歴代の当主たちに顔向けができぬ。できるならこの場で腹を切ってしまいたいが、そうはいかぬのが当主の務めか」

 

 尭光は今川家に使者を出した。

 降伏開城と引き替えに、尾張への退去を妨害しないことを約束させると、尭光は城を引き払って船に乗った。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 東三河の領主たちは今川家の二千の兵が張り子の虎ではないことを確信すると、大慌てで巣穴から飛び出してきた。

 

 まずやってきたのが伊奈城の本多隼人佑忠俊である。

 

 この一族は本多家で最も有名になった本多忠勝とは別の家である。

 

「我ら伊奈の本多は一族を上げて今川家にお味方致す!」

 

 豪快な声だった。

 ざんばらな髪を適当に結っており、古めかしい鎧をまとった四十前の女である。

 

 本多忠俊は三河の武闘派として名が知られていた。

 

「これは俺の息子の光忠、光典。従弟の重正、その娘の重次だ。いずれも剛の者だぞ。上手く使ってやってくれ」

 

 俺は内心でうめき声を上げた。

 よりにもよって一人称が『俺』である。これは女傑だった。

 

 居並ぶ武将たちも、忠俊の気の強さを揃って受け継いでいるようだ。

 

 中でもこの場にいる本多重次は、史実では『鬼作左』と呼ばれる人物である。目付きが悪く、頬に大きな傷跡がある少女だった。

 

 それから菅沼織部正定村がやってきた。これは定村と書いて『さだすえ』と読む。

 田峯菅沼家の分家である野田菅沼家の者で、織部正(おりべのかみ)を名乗っていた。

 

 定村は先に到着していた本多忠俊を見つけると、先を越されたかと悔しげな顔をした。

 

 ただし、定村には忠俊とは違う点があった。

 

「人質として娘を連れて参りました。どうぞ、お好きに使ってやって下さい」

 

「菅沼織部正の娘、定盈と申します」

 

 無言で頭を下げたのは短い黒髪の少女である。意志の強そうな瞳をしており、俺のことを値踏みするように見ていた。

 

 少女は定村の娘で、名を定盈(さだみつ)という。

 

 年齢は十代前半で、小学生のような身体の小ささだった。女性らしい着物など着ておらず、茶色い具足を身にまとっている。

 

 ……武装した女の子の人質か。どう扱えばいいんだ、これは。

 

「有り難い申し出です。丁重にお預かり致します」

 

 俺が社交辞令で誤魔化してみると、菅沼定村はそれで満足したようだ。本多忠俊に得意げな顔を向け、悔しげな顔をさせている。

 

「ぐぬぬ、やりおるな、織部殿」

 

「一番に到着した隼人佑殿には及びませぬよ」

 

「褒めておるのだ。素直に喜んでおけ」

 

「喜んでおりますとも。その目は節穴ですか」

 

 こいつらは何を競い合っているんだ。

 

 これが三河人の気質なのだろう。相手の気持ちを考えずに、思いのままに感情を吐き出してしまう。なるほど、阿部定吉が異端視されるわけだ。

 

 それから野田菅沼家の到着には他にも副産物があった。

 

 野田菅沼家と昵懇の間柄である西郷家と設楽家も菅沼定村に同行しており、定村と一緒に恭順したのである。ちなみに西郷家の当主である西郷正勝は菅沼定村の姉を娶っており、定村と正勝は義兄弟になる。

 

 もちろん今川家に臣従している鵜殿長照、長持の父子も顔を出していたが、鵜殿家はあらかじめ軍役免除の書状を受け取っており、軍を率いての来訪ではなかった。こちらが恐縮するほど挨拶されてから領地に戻って貰っている。

 

 鵜殿長照は出陣したがっていたが、今回は我慢して貰った。鵜殿家の領地は松平家や織田家の壁となる位置にあり、西側の見張りのため動かしたくないのだ。西三河に攻め込む時には嫌でも活躍して貰うが、今回はお留守番である。

 

 続々と集結する東三河の諸将に、岡部元信は白けた目を向けた。

 

「うわー。ないわー。強きになびくって言っても、こうなると恥知らずじゃね?」

 

 居並ぶ諸将の反感を買いそうな岡部元信の言葉だったが、東三河の者たちは苦笑気味だった。竹を割ったような元信の性格は、三河人とは相性がいいらしい。

 

 これが小勢力の生存戦略である。一概に馬鹿にすることはできない。史実の岡部家も今川家が衰退した後は、武田家に身を寄せることになるのである。最後まで今川家に忠誠を捧げたのは朝比奈泰朝ぐらいだった。

 

 ここで今川家の顔色を窺いに来た者は、まだ時勢を見るだけの目があった。

 問題はこの期に及んでも城に引きこもっている者である。台風が過ぎ去るのを家の中でじっと我慢しているつもりなのだろうか。

 

 この台風はちっぽけ家など吹き飛ばす威力があるのだが。

 

「次はどこを攻めるの? まさか、これで解散ってことはないよね?」

 

「当然だ。この場にいない東三河衆を征伐しなければならんからな」

 

 元信の質問に答えると、場の空気が凍り付いた。

 

「それは長篠や田峯のことでしょうか?」

 

 菅沼定村が不安げに声を出す。

 

 どちらも菅沼一族である。田峯が本家で、長篠と野田が分家だ。

 今川に味方することを約束した菅沼定村だったが、流石にいきなり同族を攻めるのは気が進まないらしい。

 

「織部殿の気持ちはよくわかる。なればこそ、先鋒は俺たち本多にお任せあれ!」

 

 すかさず本多忠俊が大声を上げた。

 

 自分を売り込むのに必死になっている忠俊だが、不思議と見ている者に見苦しさを感じさせない。カラッとした気持ちのよさを感じさせる女だった。

 

「いいえ、隼人佑様。それには及びません」

 

 口を挟んだのは小柄な少女――定村が連れてきた娘だった。

 

「同族と戦うことすらできぬ輩が、どうして今川治部大輔様の信頼を得ることができるのでしょうか。ここは野田勢が先鋒となって長篠を攻め滅ぼし、改めて野田の誠意を雪斎禅師に示すべきです。そうではありませんか、父上」

 

「……う、うむ、そ、そうだな」

 

 俺はしどろもどろになっている菅沼定村ではなく、淡々と持論を展開している小柄な少女――菅沼定盈をじっと眺めた。

 

 表情がぴくりとも動いていない。

 小さな女の子が気を張っている――と言うには少し違う感じだった。

 

 この娘は何歳なのだろう。

 十歳を少し過ぎたぐらいの年齢なのに、しっかりとしたものだ。

 

 それなのにうちの姫は――いや、考えるのはやめておこう。悲しくなってくる。

 

「加えて野田勢は設楽郡の地理に明るいです。今川軍の道案内もこなせます」

 

「いいや、小娘。先に大将殿にご挨拶したのはこの俺だ! 早い者順ならば俺が先だろう!」

 

「笑止。順番などに何の意味があるのです。私の父上は長篠城に何度か足を運んだことがあり、城の構造も熟知しております。合理的に考えれば、私たち野田が選ばれるのは必然であると言えるでしょう」

 

「……いや、熟知しているほどでは」

 

「ふんっ! 大口を叩いたものだな! そこまで言うならやってみるがいい!」

 

 本多忠俊が腕組みをして鼻を鳴らしている。

 

 一方、菅沼定盈は無表情ながらドヤ顔っぽい雰囲気を出していた。なお少女の父親は落ち着きのない目をしている。

 

 本当にこいつらに任せて大丈夫なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川軍は伊奈街道を北上して設楽郡に入った。

 

 まずは野田菅沼家の野田城を通り過ぎる。ここからは長篠菅沼家の勢力範囲だった。行軍中に奇襲されることを警戒して物見を増やし――物見からの報告を聞いた俺は全軍に号令を放って行軍を止めた。

 

 何という間の悪さだ。

 

 しばらく待っていると前方から五騎ほどの武者がやって来る。

 

「我らは長篠の者である!」

 

 菅沼貞景、正貞の親子だった。

 

「今頃になって、どの面を下げてやって来たのか!」

 

「我らは一戦仕る覚悟で馳せ参じたのだ! 貴様らも城に戻って戦支度をするがよい!」

 

 本多忠俊が怒鳴り付けると、その意をくみ取った本多重次が馬をぶつける勢いで前に出し、唾がかかる距離で罵った。

 

 機転が利いている。それだけで伊奈の本多がやり手なのは充分にわかった。

 

「禅師」

 

 人質として預かっていた少女、菅沼定盈が無表情を俺に向ける。

 

「長篠城は堅城です」

 

「そうだな」

 

 俺は頷いた。

 

 長篠城は豊川と宇連川が交わる断崖上にあり、おまけに山城である。

 

 別所街道に沿っているが、奥三河に至る街道を掌握する必要はあまり感じない。沿岸部でもあるまいし、わざわざ今川家が直接支配するほどの土地ではなかった。

 

「本多殿には悪いが、長篠からは人質を取って先に進むとしよう」

 

「それでよろしいと思います」

 

 定盈はすまし顔で頷いた。

 

「えー」

 

 文句を上げたのは岡部元信。

 

「せっかく三河まで来たのに、ぜんっぜん戦できてないじゃん! 戦ったのは天野のおじさんだけだし! 五子もっと戦いたい!」

 

「岡部様」

 

 鉄面皮少女に声をかけられ、フリーダム小娘はビクリと震えた。

 

「小さいです」

 

「え、なに? 私の胸のこと?」

 

 元信のふざけた返答に、定盈は一瞬白けた目をしたが、すぐに無表情に戻った。

 

「長篠菅沼家など今川家にとっては取るに足らないものではありませんか。そのような小者をいちいち殺し回って喜んでいるようでは今川家の程度が知れますよ」

 

「……なに? 喧嘩売ってんの? 買うよ。五子買っちゃうよ?」

 

「そこまでにしておけ」

 

 このままだと元信が手を出しそうだったので、口を挟ませて貰う。

 

 と言うか元信って喧嘩ばかりしている気がする。

 三河人とは相性がいいと思っていたが、定盈は他の三河人とは毛色が違うようだ。

 

「雪斎禅師。ですが――」

 

「犬には犬の生き方がある。理解しろとは言わんが、放っておいてやれ」

 

「え? あれ? 五子もしかして馬鹿にされてる?」

 

「犬ならば躾が必要です。飼い主に手を噛む恐れもあるのですから」

 

「躾なら今やっている。犬とは構って貰いたいから騒がしくするのだ。放っておけばいずれ静かになるものだ」

 

「いや、あの、お師匠。ちょっと待ってよ! 五子、犬じゃないよ! 美少女だよ!」

 

 定盈はどこか満足げに頷いた。

 

「それでよろしいと思います」

 

 何がよろしいのかよくわからなかったが、元信がうるさくて追求できなかった。

 

 さて、長篠菅沼家が挨拶にやってきたわけだが、菅沼の本家である田峯菅沼家は一向に姿を現さない。同じく奥平家もまだだった。

 

 そこで俺は楯岡道順に命じて奥平の情報を集めさせた。

 

 概略が届いたのは二日後のことだ。

 

「奥平家は二つに割れているようでございますです」

 

「貞勝と貞能か」

 

「親子で争うのは伊賀でもよくあることなのですよ。どちらかが生き残れば家名が残せるのです。ですが奥平にそのような考えはなさそうでございますですよ」

 

「……うむ」

 

 道順の巨乳が大きく揺れる。

 無垢な顔をしているが、仏の弟子を誘惑する魔性の娘だった。

 

 たしか奥平家は史実では武田家が侵攻してきた時も、家中が二つに割れたのだったか。

 

「奥平貞勝を廃して、貞能を操るとするか」

 

 何にせよ奥平家も屈服させておくべきだろう。この一族は花倉の乱の際、遠江に攻め込む気配を見せていたのだから。

 

「調略でございますですか」

 

「話が早いな。頼めるか」

 

「はい。勿論なのですよ」

 

「東三河衆に文を書かせる。申の刻に取りに来るように」

 

「承知しましたのです」

 

 道順が音もなく消える。あの気弱そうなおっぱい忍者も今では伊賀衆筆頭だなと思いながら、俺は東三河の諸将を集めることにした。

 

 議題に乗せるのは奥平家と田峯菅沼家のことだ。無論、征伐するか否かを議論するためである。不服そうな顔をする者は一人もいない。長篠で肩すかしを食らって気が抜けているかもしれないと心配していたが、戦の熱気はまだ引いていないようだ。

 

「今度こそ先陣は俺たちにお任せ下され!」

 

「いいえ。長篠で戦えなかった分、次こそは野田が先手を担うべきです」

 

 菅沼定盈と本多忠俊だった。

 

 なお菅沼定村は力のない笑みを浮かべて状況を見守っている。当主は彼なのだが、果たしてそれでいいのだろうか。

 

 ともあれ俺は思案した。

 

 今川軍は渥美半島の守備に三百人の駿河衆を置いてきていた。現在の今川軍は天野家だけと言っても過言ではなかった。しかし東三河衆を糾合したため、兵数は四千人近くまでふくれ上がっている。

 

「本多殿には日近城を攻めて頂く」

 

「総大将殿のご命令とあらば否やはありませぬ! 俺たち伊奈本多家の力、その目をかっぽじってご覧くだされ!」

 

 忠俊の大音声に、耳がキンキンする。女傑だな。

 

 それから俺はどこか不満そうな定盈に声をかけた。

 

「奥平の本城である作手城を攻める際には、野田、西郷、設楽で一軍を形成し、先陣を担って頂きたい」

 

「あっ、か、必ずや、奥平を打ち倒してご覧にいれます」

 

 定盈の無表情が一瞬だけ崩れて年相応の幼さが現れるが、すぐに元に戻ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川軍を発見したのは日近城の奥平貞直だった。

 貞直は当主である奥平貞勝の弟である。

 

「大変なことになった!」

 

 奥平家は今川に従うべきか否かで議論していたが、もはやそういうことを議論している状況ではなくなってしまったのである。

 

 貞直は日近城を飛び出すと、奥平の本家がある作手城に急報を知らせた。

 

 なお、日近城は貞直が留守の間に本多忠俊に攻められて落城している。

 

「我らが織田に通じようとしていることが露見したか」

 

 うなり声を上げたのは奥平貞勝である。

 

 奥平は落ち目の松平家を見限って独立しているが、貞勝は「三河はいずれ織田弾正忠のものになろう」と見込み、ひそかに誼を通じようとしていた。今川はそれに気付き、奥平が織田に染まるのを阻止しようとしているのかもしれない。

 

 いずれにしろ四千人の軍が迫っているのである。

 

「今川に攻められれば、奥平は滅びます。ここは今川に頭を下げておくべきです」

 

「いや」

 

 息子の貞能が冷や汗を垂らしながら進言するが、貞勝は首を横に振った。

 

「今川は戸田から城を取り上げたのだ。一つや二つではない。渥美郡の城すべてだぞ」

 

「存じております。それが何か?」

 

「今川は強欲よ。我らの城もすべて奪い取ろうとするはずだ」

 

「父上。そうして強情を張ったからこそ、戸田は三河から追い出されたのではないですか。城一つを差し出してでも降伏するべきです。我らは戸田と違い、他国に領地を持っていないのですから」

 

「……お主、よもや今川に通じているのではあるまいな」

 

「それならよかったのですが」

 

 貞勝は眉をひそめた。

 

 すでに今川家と密約ができていれば奥平が滅ぶことはないだろうが、そうではないと言うことか。ふてぶてしい言い草だが、それぐらい頭が回らなければ奥平の次の当主は任せられないと言うことだ。

 

「我らだけでは今川と対決することはできん。急ぎ田峯に使いを出せ」

 

 貞勝は織田家にすり寄る際に、奥平単独では相手にされないかもしれないと思い、田峯の菅沼定継に声をかけていた。ちなみに定継の妹は奥平貞勝の室に入っており、両家は縁戚関係にあった。

 

 田峯勢を含めても千五百人にしかならず、四千人の今川軍と戦うにはいかにも心許ない数ではあるが、ないよりマシだった。

 

 奥平家は作手城で籠城した。

 支城が次々に今川軍に陥落させられていく報告が舞い込んでいる。しかし貞勝はそれを歯がみしながら見ていることしかできない。戦力を分散して各個撃破されるよりも、一つの城に集結して迎え撃つのが正しいのだと何度も自分に言い聞かせていた。

 

 ――まずは半年、耐えてみよう。

 

 長引けば織田が助けに来てくれるか、武田が駿河を攻めてくれるかもしれない。あるいは奥平が勇気を奮って抵抗を続けることで、三河人たちの意識が目覚め、他国人に侵略されていることに反感を抱いてくれるかもしれない。

 

 敵は烏合の衆である。

 半数は東三河の兵であり、奥平と彼らは同郷だ。この戦は血縁関係が多い。貞勝の妹が野田の先代である定則に嫁いでいる関係で、貞勝と定村は親戚同士であり、他にも田峯の定継と野田の定村は父親が兄弟であるため、この二人も従兄である。

 

 こう書くとわけがわからなくなるが、とにかく血縁者が多いのである。

 

 城攻めが続けば東三河衆の心が今川から離れてくれるのではないか。

 同族同士の争いなど戦国時代の常なのだが、貞勝は自分を慰めるために言い聞かせた。

 

 いよいよ今川軍が作手城に押し寄せてきた。

 

 まずは野田家の者が鏑矢を城に目がけて打ち込んだ。見事に飛んでいく矢に「あっぱれ」という声が敵味方からわき上がる。

 

 作手城からも同じように鏑矢が返されると、今川勢が大声を上げながら一斉に作手城に攻めかかってきた。先頭にいるのは野田の菅沼だ。

 

 貞勝は半年の籠城戦を計画していた。支城から兵をかき集め、備蓄してあった兵糧もすべて作手城に集中し、一年は食っていけるだけの体勢を整えていた。

 

 その目論見は初日に外された。

 

 野田勢は矢盾を抱えてじっくりと押し寄せてくる。まずは様子見のために距離を詰めようとしているのだろう。

 

 貞勝は訝しげな顔をした。今橋城を攻める時は、援軍を叩き潰して城兵の士気を下げてから、払暁に一気に攻め込んで城を落とした。それは城攻めの手本とすべき見事さであったのに、これはどういうことか。

 

 ありきたりな普通の城攻めである。今川の大将ならもっと手の込んだ戦をするように思えるのだが、貞勝の考えすぎだろうか。

 

 あるいは総大将が変わったのだろうか。

 

 そう思いながら敵勢を眺めていた貞勝は、城門側から上がってきた悲鳴を耳にした。

 

 瞬間、目を見開いた。

 

「城門の閂(かんぬき)がなくなっている!」

 

 貞勝の声が届いたわけではないだろうが、異変に気付いた近くの者が機転を利かせて持っていた槍を差し込んで閂の代わりにしようとした。しかし城門に押し寄せた敵が数人がかりで押し出すと、無残にも槍は折れて、敵軍を迎え入れ始めた。

 

「内通者か!? まさか、貞能が!?」

 

「拙者はここにおりますよ、父上。まぁ、内通であるのは間違いないでしょうが」

 

「どうしてそれがわかるのだ!」

 

 貞能は嘆息すると、気だるげに指を向けた。

 

 槍で城門を閉じようとした兵が、死体になって倒れている。

 

「背中を切られています。果たして敵の侵入を阻止しようとした者が、敵に背を向けるでしょうか」

 

「……味方に斬られたのか」

 

「この戦場では血縁者が敵味方に分かれて戦ってます。父上はそれによる東三河衆の離反を期待していたようですが、逆に言えば敵の調略の手も伸びやすいということです」

 

「……まさか。このようなことが」

 

 初日にして二の丸は敵に奪われ、いきなり本丸が狙われることになった。

 

 貞勝は茫然としており、次の手が打てないでいる。

 

 それを眺めていた貞能は、初めて父親に失望感を抱いてしまった。

 

 奥平貞勝は松平清康に従い、多くの武功を上げてきた男である。貞能はそんな父をひそかに尊敬していたのだ。

 

 だが、この無様な姿は何だ。これが憧れていた父か。

 

 人を見限るということは、こういうことなのかと、腑に落ちるような感覚だった。まだまだ打てる手は残っているのに、どうしてこの人はそれをしないのだろうと呆れてしまったのである。

 

 例えば奥平家は曹洞宗だったが、改宗を餌にして三河の本猫寺から援軍を引き出せばいいのだ。もっとも、貞能は本猫寺の教えに抵抗を覚えていたので、それを父に教えることはしないのだが。大体お猫さまってなんだ。

 

「父上。兵たちが動揺しております。この分だと夜中に逃げ出す者が出てくるでしょう」

 

 貞勝は何も答えなかった。

 

 結局、奥平家は十日間の籠城を行ったが、内通や逃亡が相次いで、最終的に隣にいる者すら信用できない状況になった。貞勝はにわかに沸き上がった降伏論を押さえることができなくなり、十一日目に開城した。

 

 降伏の使者は貞能が行った。

 奥平貞勝は隠居させられ、当主になった貞能は息子を人質に差し出すことになった。

 

 こうして奥平と田峯が今川に屈服することになった。

 

 東三河は完全に今川一色に染まることになったのである。

 

 

 



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11.広忠帰還

 東三河の征伐が完了したのは太原雪斎の出征から一ヶ月後のことだった。

 

「快・進・撃! ですわ!」

 

 今川館の城主の間にて、義元公はご満悦のようである。

 

 雪斎は東三河を勢力圏に組み込むことに成功していた。北条早雲が切り従え、松平清康によって失陥していた土地である。それはすなわち今川義元が先代に劣らぬ器量を持つことを内外に示したことになる。

 

「たった一ヶ月で東三河を平定してしまうなんて、流石はわたくしの師匠ですわ。師匠の軍略と今川家の圧倒的すぎる武威に、三河の田舎者たちも、さぞ震え上がっていることでしょう! おーほっほっほ!」

 

 雪斎不在の間、長らく不機嫌だった義元が久々に笑みを浮かべているのを見て、関口氏広は胸を撫で下ろした。政務に飽きた義元が「自分へのご褒美」とか言って大量の着物を買いあさっていたが、それでも機嫌が直らなかったのである。

 

「それで、師匠は何時頃お戻りになられますの?」

 

 義元の期待の視線に、氏広は言葉に詰まった。

 

「えっと……私見になりますが、戦後処理を終えてからになるので、ここからさらに三ヶ月ほどはかかるものかと」

 

「そんなに、ですの?」

 

「はい。東三河の利権を今川家のものとしなければ、何のために出兵したのかわからなくなりますから。雪斎様が不在でも富を集積する仕組みを構築するまでは、帰るに帰れないのでしょう」

 

「それは師匠でなければ出来ないことですか?」

 

「姫さま」

 

「わかってますわ。ええ、わかっていますとも。銭の重要さは骨身に染みるほど師匠に叩き込まれていますから。今のはただ愚痴っただけですわ」

 

 氏広から見ても、いじけている義元は可愛らしかった。

 

 雪斎から送られてきた文には、東三河衆の所領の安堵状や褒賞などの要求、活躍した駿府衆の将を東三河の城主に推挙、預かっている人質を吉田城に集めて管理していることが書かれていた。

 

 それらの処理で最低でも一月はかかるだろう。さらにそこから二ヶ月で新領地を整備して戻ってくるというのが氏広の見積もりだった。それでも非常識な速さである。雪斎が三ヶ月で戻ってくると考える氏広も、どこか頭がおかしかった。

 

 なお吉田城は牧野家から領地交換で得た城で、城下には渥美半島の貿易港である吉田湊があり、今川家にとっては東三河支配の重要拠点になっていた。

 

 雪斎は吉田城に入って各方面に指示を出しているようだ。

 

「まったく。これでは師匠を三浦のお爺さまの後任にできないではありませんか」

 

 先日、義元の自分へのご褒美を耳にした三浦範高が卒倒してしまったのである。

 

 義元の仕打ちも鬼畜すぎたようで、老骨に鞭打って今川家を支えていた宿老は、命に別状はなかったがふて腐れてしまい、布団の中で「もう全部雪斎に任せればいいんじゃないかな」と口にして、現実逃避して孫を可愛がっているという。

 

 氏親は二人の宿老を置いていたが、片方の朝比奈泰能は富士川で戦没し、三浦範高は老齢である。範高の息子たちも無能ではないが、これからも今川家を背負い立つには不足を感じた。朝比奈泰朝も武将としては有能すぎるぐらいだが、政治や外交は苦手としている。

 

 もはや今川家の両輪体制は崩壊していたのだ。

 

「いずれにせよ、耕作が始まる春頃までには師匠はお戻りになりますわよね。ならばわたくしは師匠のお叱りを受けないよう、政務に励むだけですわ」

 

「着物の件で、まず間違いなく叱られるんですけどね」

 

「うっ。あ、あれは貨幣を現物に交換しただけですわ!」

 

「それなら売っても構わないですよね?」

 

 猿知恵を駆使して言い訳をする義元に、無情にも氏広は宣告する。

 

 義元は「うっ」とうめき声を上げ、畳に崩れ落ちた。

 

「……せめて師匠にお披露目するまでは、手元に置いておきたいですわ」

 

 氏広は内心で溜息を吐いた。

 

 いじらしい。これは断れそうにないなと氏広が思ったその時である。

 

「あの、ちょっといいっスか?」

 

 襖の向こう側から声がかかる。

 

「誰か」

 

「未来の宰相、三浦氏満っス」

 

 氏広はそいつの物言いにイラっとした。

 

 未来の宰相は太原雪斎が内定している。間違っても三浦の元穀潰しなどではない。

 

 たしか今では雪斎の傘下で祐筆をやらされていたはずだ。東三河で馬車馬のごとくこき使われているはずの少年が、どうして駿府にいるのだろう。

 

「あの鬼畜坊主から――」

 

 三浦氏満が口を開いた瞬間、彼の後ろ首に鉛色に輝く刃が押し当てられていた。首筋に触れる金属の冷たさに、氏満の膀胱が緩んで、ちょろちょろと黄色い液体が畳を湿らせている。

 

「発言には気を付けるのでございますですよ」

 

 伊賀衆筆頭、楯岡道順が忍者刀を握り締めていた。

 

「雪斎禅師から文を預かってきたっスよ」

 

「いや、何事もなかったかのように続けないで下さい。主君の前で粗相をするというのは切腹物の大失態ですよ」

 

「ここは見なかったことにするのが、器の見せ所っスよ?」

 

 なんだろう。

 荒事は苦手なはずの氏広だが、今は猛烈にこの男をぶん殴りたい。

 

「雪斎様からの文ですか」

 

 まず先に氏広が内容をあらためた。

 

 氏広は文面を頭に入れると、文を義元に差し出した。義元が一通り読み終えるのを待ってから、眼鏡をくいっと指で押し上げる。

 

「松平広忠が雪斎様に直談判したようです」

 

「そのようですわね」

 

「糸を引いているのはお付きの阿部定吉でしょう」

 

 思えば最初の時も阿部定吉は雪斎に接触しようとしていた。今回も同じように、義元への直訴ではなく、雪斎に根回しを行おうとしたらしい。

 

 雪斎が東三河を落とした。次は西三河である。

 このまま今川家が単独で西三河を攻略してしまえば、何もしていなかった松平広忠たちの立場が宙に浮いてしまう。

 

 しかし、今川家の手を借りて岡崎城を奪還するというのも面白くない。今川家に借りを作ってしまうと、家来のように扱われるのではないかと危惧している。その心配は的外れではなく、実際に雪斎たちはそうするつもりだった。

 

 今川家が西三河を切り取って、西三河の利権を根こそぎ奪い取ってから松平広忠を岡崎城に入れる。

 

 こうすることで松平広忠は今川に頼らなければ何もできない傀儡と化す。

 

 阿部定吉も有能な男なので、今川がやろうとしていることを察したのだろう。故に広忠たちは今川に先んじて岡崎城を奪還すること決めたようだ。だが、単独では如何ともしがたいため、今川家に武器や兵糧などの支援を求め、万が一の時には後詰めになって欲しいという。

 

「都合のいいことを言いますわね」

 

「お互いさまですけどね。万が一というのは、おそらくは織田弾正忠でしょう」

 

 西三河は織田信秀の勢力圏だった。

 今川が手を突っ込むのを、黙って見守っているはずがない。

 

「そういえば、かの御仁は三河守に任官されたそうですわ」

 

「やまと御所に七百貫文を献上したそうですね」

 

「銭の力を知る強敵というわけですわね」

 

 織田信秀は尾張の守護や守護代を上回る軍事力を持っていた。

 

 商業都市を押さえており、銭で雇っている兵も多い。そんな信秀が西三河に狙いを定めているのは、やまと御所から貰った官位を見れば明らかだった。

 

 松平広忠が西三河に攻め込むには今しかないと思うはずである。今川や織田に先んじて岡崎を取らなければならないのだ。広忠は織田や今川に制限時間を設定されたようなものだった。

 

「師匠は……」

 

 広忠たちの提案に乗るべきだと文に書いている。

 

 その上で、必ず織田弾正忠が出てくるだろうとも断言していた。

 

 楽観しているわけではないようだ。

 つまり、織田弾正忠と渡り合うための腹案を抱いているということである。

 

 ならば氏広は雪斎に任せてみてもいいのではないかと思った。

 

 義元もそう思ったのだろう。

 

「……氏広さん。返書を書くので、少しの間、一人にさせて下さいな」

 

「承知しました」

 

 義元が漆塗りに金箔を散らした文箱を開けて筆を手に取った。

 

 余談だが、義元は達筆である。

 

 東三河衆、野田菅沼家の定村が義元の書状を受け取った時、あまりに達筆すぎてまったく読めなかったらしい。定村は家臣たちに文字が読めないから教えてくれとも言えず、寺に駆け込んで和尚から読み方を教わったのである。

 

 後日、やはり学問はするべきだなぁと改めて思った定村は一念発起して筆を取り、やがて三河の高名な能書家と呼ばれるに至るのだった。

 

 あと、最後に一つ疑問が残った。

 

 使者としての役目も果たせそうにない三浦氏満に、わざわざ腹心の楯岡道順を付けて送り込む理由がよくわからなかった。

 

「どうしてあなたが文を持ってきたのですか?」

 

「あの鬼畜坊主、どういう風の吹き回しか、爺さまの見舞いに行ってやれって言いやがったんスよね――って、刺さないで! あっ、俺っちの玉のお肌に傷が! あっ、ちょ、チクチクする痛みが、段々と気持ちよく……」

 

「忍者刀に塗ってある痺れ薬が効いているだけでございますですよ」

 

 氏広は溜息を吐いた。

 

 あの雪斎も時には優しくなることがあるようだ。だが、なにも三浦氏満ごときにその優しさを向けなくてもいいのにと思ってしまう。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 桜井(松平)信定は松平長親の三男だった。

 

 兄の信忠は人望がなくて隠居させられ、後を継いだのは信忠の息子だった。わずか十二歳の少年である。信定はまた失敗するだろうと笑っていた。若すぎる頭領に誰が従うというのか。松平の頭領は自分にこそ相応しいと何度も思ったものである。

 

 しかし松平清康への侮りは、あっという間に無くなった。

 

 山中城を攻撃し、足助城を攻撃し、どちらも屈服させてしまったのである。吉良家とは盟友関係であり、西三河に敵がいなくなった。

 

 東三河の牧野を攻めると、奥平や本多などが松平の援軍にやってきて、牧野の城が落ち、戸田は戦わずして屈服した。

 

 誰もが思い知らされたのだ。松平清康は不世出の英傑だった。

 

 桜井信定も清康ならば松平を任せられると安心したのだ。これからは分家として、また清康の叔父として宗家を支えていこう。そう思っていた。

 

 亀裂は東三河攻めの最中に起こった。

 

 牧野、奥平、伊奈本多、戸田、菅沼、西郷、設楽。

 東三河の領主たちが次々に松平に従う中、時勢を見極められず、清康のもとに出仕しなかった家があった。

 

 宇利城の熊谷家である。

 熊谷直実の末裔と称している一族だった。

 

 清康は手下に命令して宇利城の大手門と搦め手を攻めさせたが、それは清康らしくない稚拙な城攻めだった。三河武士は勇猛だったが、走るだけというのは軍略ですらない。

 

 それを見ていた桜井信定は呆れきった。

 

 松平軍を迎え撃つは、宇利城の城主である熊谷兵庫頭だった。

 彼は大手門の強度を信頼していなかったため、逆に敵を迎え入れて限界まで引きつけるという作戦を練っていた。

 

 松平軍は不自然に開いた城門に違和感を覚えることもなく、我先に城内に飛び込んでいったが、待っていたのは兵庫頭の槍だった。松平軍は一瞬の油断を突かれて倒され、兵庫頭が猛烈な勢いで逆落としに襲いかかった。

 

 攻撃を受け止めたのは松平親盛だった。

 

 松平清康の甥であり、福釜松平家の当主である。

 三河物語には「戦については凄腕で他に超す者はいない」と書かれているが、実際には忠誠心以外の取り柄はなさそうだった。とはいえ清康はその忠誠心を愛しており、親盛はお気に入りの家臣だった。

 

 信定は白けた目をした。

 

 阿呆めが。言わんことではないと、大声で叫んでやりたかった。

 

 清康の作戦も悪かった。熊谷家が小勢力だったため、大軍で攻めれば負けることはないと慢心していたのだろう。

 

 結局、親盛は死んだ。味方の助けがなかったことに「甲斐なき味方の振る舞いかな」と歯がみし、壮絶な討ち死にを遂げた。

 

 熊谷勢の狂気的な突撃はやがて限界を迎え、兵の過半を失って城に引き上げた。戦の幕は菅沼定則(定村の父)が下ろした。調略していた者を使って城に火をかけさせたのである。熊谷備中頭は城から落ち延び、歴史から消えた。

 

 とにかく戦は終わった。

 

 ようやく領地に戻れると安堵していた信定は、清康から思いがけない言葉を浴びせられることになった。

 

「なぜ左京亮(親盛)を見殺しにした!」

 

 衆目の中で面罵したのである。

 

 清康の目にはこう映っていた。

 お気に入りの家臣が敵に襲われているのに、信定は見ているだけだったのだと。

 

 信定にとって熊谷勢の突撃を受け止めるのは愚策だった。

 狂った兵は適当に受け流して、疲れさせてから弓で射殺すればいいのである。実際、熊谷勢は疲弊して撤退したのだ。

 

 それなのに、どうして清康に責められなければならない。

 

 信定は清康を深く恨んだ。

 

 以降、信定は病気と称して出仕しなくなり、森山攻めにも参加しなかった。松平家の者たちは、信定はいずれ裏切るのではないかと噂するようになる。

 

 やがて噂は大きくなり、阿部定吉が信定に内通していると疑われ、定吉の息子に清康が斬られた。森山崩れである。

 

 織田信秀は敗走する松平家を追撃し、安祥城まで追い詰めた。信秀は松平家の勇者を大勢討ち取ったが、城を落とすことはできず撤退する。

 

 新たに当主になったのは清康の娘だった。十代半ばの少女である。

 

 ――話にならんな。

 

 清康は特別だった。信定もそれを認めている。

 だが、清康の娘はどう見てもただの小娘だった。

 

 信定は清康の弟である信孝に声をかけ、岡崎城を横領した。何のことはない。落ちていたものを拾っただけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 松平広忠は今川から後詰めの約束を取り付けると駿府を発った。

 

 今川義元からは兵糧や矢銭を支給されている。

 さすがに兵を借りれば今川家に頭が上がらなくなるが、これぐらいなら問題ないだろうという判断で、阿部定吉が受け取っていた。

 

 とはいえ広忠たちは三河に寸土も持たず、わずかに数人の郎党を引き連れているだけだった。それでも広忠の顔色は以前よりも改善している。一歩ずつだが着実に状況が好転しているように思えたのだ。

 

「竹千代様は駿府に置いていきましょう」

 

 定吉の進言に、広忠は迷っていたが、やがて頷いた。

 

 竹千代は保険である。

 

 もし広忠たちが失敗しても、竹千代さえ生き残っていれば宗家の血が絶えることはない。竹千代は今川家の援助を受けて、おそらくは傀儡になるだろうが松平家の当主に就けるだろう。

 

 広忠たちはまずは今橋城に向かった。

 

 今橋城主である牧野保成は先日の雪斎の軍事行動によって今川に降っている。

 広忠たちが今川家の支援を受けていることも知っていたらしく、広忠のために瀬木城を使ってくれと快く申し出ていた。

 

「まずは人を集めなければなりませぬ」

 

「果たして今の私たちに付いてきてくれる者がいるのでしょうか」

 

 不安を隠せない様子の広忠に、阿部定吉は優しく言い聞かせた。

 

「我らが今川の支援を受けていることを耳にすれば、桜井信定に嫌々従っている者たちの何人かが必ずや助勢してくれるでしょう」

 

 ほどなくして急報が入った。

 

 雪斎からの使者で、名を小原鎮真といった。

 

 十代半ばの陰気そうな少女である。

 前髪で両目が隠れており、黒無地の着物を着ているためか、幽霊のような不気味さすら感じられた。

 

「雪斎禅師は手が離せませぬゆえ私が参りました」

 

 鎮真は挨拶もそこそこに言い放った。

 

「一つ。牟呂城と連絡を取るべし。

 二つ。大久保を信じよ。

 三つ。織田と独力で戦うべからず」

 

「それは?」

 

「禅師からの言伝です」

 

 広忠は不快を覚えた。

 

 大久保家は松平家の重臣である。

 総帥、大久保忠俊、弟に忠次、忠員、忠久という蒼々たる顔ぶれだった。

 

 たしかに大久保が味方についてくれれば心強いどころか、桜井信定を岡崎城から追い出すことも可能だろう。大久保家はそれだけの力を持っていた。

 

 逆に言えば大久保が敵に回れば、広忠たちは岡崎を奪還できないということである。

 

 しかし、雪斎ほどの男がそんな当たり前のことをわざわざ伝えるのだろうか。

 

 それに織田と勝手に戦うなと指図するのも納得できない。たしかに万が一のために後詰を依頼しているが、それは同盟国に対する援軍であるべきだ。松平は今川の家来になったわけではないのだから。

 

 今川から支援を受けている身ではあるが、それだけは頷けない話だった。

 

「それと、こちらが本題なのですが、船団を用意しております。私はしばらく牧野殿の牛久保城に逗留するので、必要ならば一声おかけ下さい」

 

 鎮真はそれだけ言うと、さっさと瀬木城を後にしてしまった。

 船を貸してくれるという好意は嬉しいが、それにしても鎮真は愛想のない少女だった。

 

 やがて瀬木城に松平の譜代家臣が集まり始めた。

 

 二百の小勢まで膨れ上がったところで、広忠たちは瀬木城を牧野保成に返還して牟呂城に入った。牟呂城の富永忠安が広忠たちの支援を約束してくれたのである。牟呂城と岡崎城は目と鼻の先の距離しかなく危険は大きかったが、ここは危険を冒してでも岡崎の松平家臣を調略するべきだと阿部定吉が進言したのだ。

 

 広忠たちは牟呂城から岡崎城への調略を始めた。

 

 何としても大久保を口説き落とさなければならない。

 

 しかし事態は、そんな広忠たちの決意をあざ笑うかのように急変した。

 

 桜井信定が兵を出して牟呂城を攻めたのである。

 

 信定が攻めてくるのは想定しており、防衛の準備も入念なく行っていた。信定ごとき追い払ってやると意気込んでいた者たちは、敵軍の旗印に上り藤に大文字の家紋を見付けて目を疑った。

 

「そんな」

 

「……おお。このようなことがあっていいのか」

 

 阿部定吉が唖然としている。

 

 桜井軍の先陣にいるのは、大久保の兵だった。

 

「情けなや! お主らは広忠の小娘に籠絡されおったか!」

 

 大久保勢の先頭に現れた大柄な男が、牟呂城に向かって大声で口汚く罵っている。

 

 大久保忠俊。大久保党の総領だった。

 

「広忠は乱世に生きる器にあらず! ただの小娘ではないか! おまけに、器量も凡庸だぞ! なぁお主ら! 広忠のどこに惚れたのだ? 顔か? 身体か? 具合がよいのか? はははははっ!」

 

 大久保忠俊のあまりにも広忠を馬鹿にした発言に、広忠はわっと顔を覆って泣き出してしまった。

 

 阿部定吉は木戸に拳を叩き付ける。

 

「おのれ、大久保! なんと下品な!」

 

「ハッハッハ! 松平に衰運をもたらした阿部のジジイがいるぞ! 息子が清康公を斬ったというのに、恥知らずにも生きておる! なぜ切腹せぬのだ、阿部大蔵!」

 

「貴様らが……貴様らが頼りになるなら、私の役目など無くなるのだ! 誰も広忠様を支えぬから、私が支えておるのだ! 恥知らずは貴様の方だ、大久保忠俊! 清康様から受けた恩を仇で返すとは、大久保は畜生にも劣る一族だ!」

 

「言ってくれるな、大蔵。その口、黙らせてやろう」

 

 大久保忠俊は定吉に向けて矢を放った。

 

 矢は寸分違わず定吉に向かって突き進み、頬をかすめて木戸に突き刺さる。定吉の頬から血が垂れたが、定吉は気にせず大久保忠俊に怒鳴りつけた。

 

「腕が落ちたのではないか、大久保忠俊! 桜井信定に骨を抜かれたか!」

 

「我が矢が当たらぬとは呆れるほどの悪運だな。お主は間違いなく、松平家から運気を吸い取っておるよ」

 

 大久保忠俊は馬首を返す。

 

 定吉がまだ言い足りぬと空気を吸い込んだところで、広忠が「あっ」と呟いた。

 

 矢には文が結われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 大久保勢は苛烈な城攻めを行い、敵味方の双方に多数の死傷者を出した。

 

 しかし牟呂城を陥落させるに至らず、大久保勢は日没前に城攻めを切り上げた。

 

 桜井信定は訝しんだ。

 

 大久保忠俊ほどの者が、あの程度の小城に手間取るだろうかと疑問を持ったのだ。相手が松平の姫君だから手を抜いたのかもしれない。

 

 信定は忠俊を呼び出して問い質した。

 

「我ら大久保を疑うというのか」

 

「いや、そうは言っていない。だが、相手は松平の姫君だ。大久保殿も自覚はないが気が引けているのではあるまいかと心配しておるのだ」

 

「そのような気遣いは無用だ。拙者は何度も言っているが、松平家は男子が継ぐべきだと思っている。昨今は姫武将なるものが流行っているようだが、そもそも戦とは男子がするべきもので、女人が入っていい場所ではないのだ」

 

「うむ。それは聞いているが」

 

 大久保忠俊は牟呂城に向かって、広忠を悪しざまに罵っていた。

 

 曲がりなりにも清康公のご息女だというのに容赦がなさすぎると、忠俊の罵声を聞いていた信定も思わず苦笑してしまったが、改めて考えてみるとあれも演技ではなかったかと疑ってしまう。

 

 いかんな、と信定は首を横に振った。疑心暗鬼になっている。

 

「大久保殿の気持ちは察して余りあるが、家臣たちが貴殿に疑いを抱いている。ここは神仏に誓いを立てて貰えないか」

 

「拙者を疑っているのは家臣ではなく信定殿であろうが」

 

 大久保忠俊は思いきり顔をしかめた。

 

 本心を暴かれて面子を潰された信定は、内心で忠俊を激しく憎悪した。だが、ここで忠俊を斬っても何の解決にもならないどころか、逆に大久保が大手を振って広忠に助力してしまう。

 

 信定は大久保忠俊に七枚の起請文を書かせた。これは信定ではなく神仏に対しての誓いだった。熊野牛王の誓紙七枚を継ぎ合わせて書いた起請文で、誓紙の中でも最も厳格な形式のものである。

 

 信定は八幡に奉納された起請文に、ひとまずの安堵を得た。

 

 それからも信定は牟呂城を攻めたが、城は一向に落ちそうになかった。大久保忠俊は陣の後ろに引っ込んでしまい、要請を出しても「なぜ大久保ばかりに血を流させるのか」と言い返される。

 

 初日に大久保勢に犠牲を強いたのは事実である。それに起請文を書かせたせいで、へそを曲げられたようだ。広忠に内通することはないにしても、これで大久保勢は役に立たなくなってしまった。

 

 他の家臣たちは宗家の姫を攻めるのに及び腰になっている。

 

 潮時だった。

 

 信定は追撃を避けるために、夜闇に紛れて静かに兵を引いた。

 

 岡崎城に戻った後も信定は不安になり、大久保忠俊を呼び出して何度も起請文を書かせた。忠俊は合計で三回も起請文を書かされたが、特に不満顔を浮かべず、それがかえって信定を不安にさせたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 桜井信定は岡崎城を乗っ取ったといっても、形式上では広忠の後見として岡崎城の政務を代行している立場だった。

 

 これは信定が当主になれば、他の松平家臣たちが離反すると思われたからである。

 

 嫌われ者の信定はあからさまに宗家を乗っ取るわけにもいかず、甥の信孝を誘って岡崎の城代に付けていた。そうすることで自分への反感を避けようとしたようだ。

 

 信孝は三木松平家の当主である。

 

 当初は我が世の春を楽しんでいた信孝だったが、次第に桜井信定の専横に危機感を抱き始めた。もし広忠が殺されでもすれば、松平宗家は完全に信定のものになるだろう。そうなれば信定の下で甘い汁を吸っていた信孝は、果たして今までのように厚遇されるだろうか。むしろ利用価値がなくなり、失脚させられるのではないか。

 

 大久保忠俊は三木信孝がそう考えていることを見抜いていた。

 

 広忠を岡崎城に戻すためには、信孝を利用するしかない。

 信孝に声をかけて反応を確かめ、寝返りそうなら広忠派に引き込み、信定に付くようならその場で斬り殺す。

 

 忠俊は覚悟を持って信孝と面会した。

 

「……大久保殿か。何用か、とは聞くまでもないようだな」

 

 信孝は忠俊の顔を見て、すぐに何かを察したのだろう。

 

「わしは湯治に行く。あとは好きにせよ」

 

 広忠に付くとしても、失敗されれば自分の立場は危うくなる。

 だが、広忠と全面的に敵対してしまうと、広忠が勝った時に立場がない。

 

 それならあえてすべてを投げ捨て、何も見なかったことにするのが一番得になる。

 

 信孝の無責任な考えに忠俊は見下げ果てた。

 松平宗家を簒奪するような器ではない。だから信定ごときに操られるのだろう。

 

 忠俊は弟の忠員を使って再び牟呂城に矢文を撃ち込ませた。

 

 決行は桜井信定が自身の居城に戻る日である。

 

 城は取れるだろう。

 だが、異変を察した桜井信定が兵を引き連れて岡崎城に押し寄せるのは間違いない。

 

 当たり前だが、奪ったばかりの城は守りにくい。

 

 広忠の手勢が牟呂城を守り抜けたのは、万全の準備をしており、城主の富永忠安が城の構造を熟知していたからに過ぎない。

 

 話は変わるが、ここでちょっとした小話がある。

 

 大久保忠俊が兄弟たちと密議をしていた時のことだ。

 

「忠次、忠員、忠久。我々はこれから大事を成す。たとえ寝言であっても一言たりとも漏らしてはならぬ。一切の気を抜かぬよう心せよ」

 

 兄からそう言われた弟たちは決意を新たにした。

 親しい者、それこそ自分の妻にも打ち明けてはならぬと。

 

 だが、ここで忠久は不安になった。

 

 どうも自分には寝言の癖があるらしい。万が一、それを妻に聞かれたら。そしてそれを井戸端で他人の奥方に伝えてしまったら。大久保家の秘事が漏れてしまい、桜井信定に一網打尽にされてしまう。

 

 忠久は知恵を絞り、誰も考えないようなことを実行した。

 

 寝る前に自分の顎を布で縛ったのである。そしてこれでもう安心だと爆睡したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 決行の日がやってきた。

 

「兄者。内膳(信定)が城を出た。桜井城に戻るようだ」

 

 弟の忠次が告げる。

 

「蔵人(信孝)も湯治に発った。頃合いぞ」

 

 一番下の弟、忠久も戻ってきた。

 

 大久保忠俊は最後の決意をした。必ずや広忠を岡崎に戻すと。

 

 事前に話を通していた林家や成瀬家、大原家などに使いを出した。

 

 いずれも松平家の古参である。

 忠俊が彼らに声をかけたのは、信頼できるからというわけではなく、彼らに話を通さずに事を成してしまうと、後の禍になると思われたからだ。

 

 松平の重臣には他にも酒井家があるが、酒井家の忠尚はあまり信用が置けなかった。大久保忠俊には人を見る目があったようで、史実では酒井忠尚は松平家から離反したり、三河一向一揆に参加して松平家を悩ませている。

 

 事を秘密裏に進めるためには、酒井は避けた方が無難だろう。

 

 やがて大久保家の上和田城に兵が集まり始めた。

 

「広忠様に本懐を遂げさせる。各々、覚悟はよいか」

 

 忠俊の号令に、郎党たちは静かに頷いた。

 

 忠俊たちが少数で奇襲をかけ、岡崎城の門を開き、すみやかに牟呂城の広忠たちを岡崎城に移す。そして信定の兵を野戦で撃退する。

 

 岡崎城の城門を守っているのは石川康利、康定の兄弟である。

 

 忠俊たちは闇夜に紛れて城門に近付いた。足音もなく近付いたが、篝火に照らされて見付かってしまう。

 

「誰ぞ」

 

 誰何の声が上がるが、答えずに斬った。二、三人が倒れた。

 

 石川康利は刀に手をかけたところを、大久保忠員に短槍で突かれた。

 

「く、くせも――」

 

 大久保忠次が石川康利の首に刀を押し当て、一気に引き抜いた。

 

 石川康定も喉に刀を突き込まれ、虫の息になっていた。

 

「……大久保忠俊、裏切ったか。熊野牛王の罰が下るぞ」

 

「起請を破れば地獄に堕ちるが、起請を守れば主に背いたとして七逆罪になる。どうせ罰を受けるのだ。ならば主を立てて、思い残すことなく咎を受ければよい」

 

 忠俊は石川康定に止めを刺し、二の丸に入った。

 

 番兵たちは慌てふためいていた。城代の信孝は湯治に行ってしまっており、石川兄弟が斬られたせいで誰に指示を仰げばいいのかわからず、敵が大久保忠俊と聞けば降伏するか転げ落ちるように逃げ出した。

 

「兄者。本丸を取ろうぞ」

 

「うむ。忠員。お主が先導せよ」

 

「承った!」

 

 槍を振りかざす忠員だったが、三木信孝が湯治に行っているため、ほとんど抵抗らしい抵抗にあうこともなく大久保勢は城主の間まで突き進んだ。

 

 城を取ったと見ると、大久保忠俊はすかさず牟呂に使いを出した。

 

 広忠を迎え入れるためである。

 

 この日、広忠はついに長年の悲願を遂げた。

 

 大久保兄弟が大手門で出迎え、広忠は数年ぶりに岡崎の土を踏んだ。

 

 広忠は気が抜けたような溜息を吐いてしまう。

 

「まるで夢の中にいるようです」

 

 家来たちは滝のように涙を流している。

 

 大久保忠次は感慨にふけっている主君に声をかけていいのか戸惑っていたが、やがて意を決して声をかけた。

 

「内膳が駆け付けるまで時がありません。城主の間にお入り下さい」

 

「……大叔父上が攻めてくるのですね」

 

 広忠の目に悲しみが宿る。

 

 戦いはまだ終わっていなかった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 那古野城にて、その男は肉食獣のごとき笑みを浮かべていた。

 

「どうやら義弟が困っておるようだ」

 

 尾張の守護又代でありながら、事実上の尾張の主催者になっている男。

 

 織田弾正忠信秀だった。

 

 評定の間に列席しているのは信秀の連枝衆(一門衆)、家老衆、城持衆、奉行衆、馬廻衆である。

 

 つまり織田弾正忠家の総力が結集している会合だった。

 

「このままでは西三河が松平広忠に奪われかねん」

 

 信秀の発言の後、口を開いたのは織田信康だった。

 犬山城主であり、信秀の弟である。

 

「松平広忠という小娘の器量は存じていないが、あの清康の娘だ。百に一つは往時の勢いを取り戻すことも有り得るだろう。ならば小さい内に潰しておくべきではあるまいか」

 

「信康兄上はそう言うが、西三河を内膳に任せると決めたのは信秀兄上ではないか」

 

 話に割り込んだのは森山城主、織田信光。こちらも信秀の弟である。

 

「内膳信定は下手を打ったと見えます。このままあの御仁に任せるのは不安ですぞ」

 

 ここで白髪の老人が意見を述べた。

 信秀の腹心、宿老の平手政秀である。

 

 信奈のわがままに振り回されている健気な老人の面影は消え失せていた。

 公卿の山科言継や飛鳥井雅綱らを接待し、御所料を献上した切れ者である。

 

「このままでは内膳は負けるか」

 

「不運な御仁ですな」

 

 信光の問いに、平手政秀が答えた。その返答がすべてだった。

 

 戦国の世では、運のない者から消えていく。桜井信定に肩入れすれば、運気が傾いて共倒れしかねない。

 

「では内膳は助けぬと?」

 

「そうするべきでしょう」

 

「信定が岡崎城に戻る手助けをしても、織田に得るものは少ないですぞ」

 

「では内膳とは切るのか」

 

「捨て置けばいい。広忠にとっては抱えても使えぬ駒だ」

 

 家老の林秀貞も加わり、議論が高まっていく。

 

 信秀は脇息にもたれかかって眺めていた。表情は楽しげだ。

 

 信秀の娘である信奈は議論に参加できなかった。

 初陣も済ませていない小娘である。許可なく口を開けば父の目が凍り付くだろう。

 

 異母兄の信広は真面目な顔をしているが、たぶん何もわかっていない。ただ礼儀正しいため一部の家臣たちからは一目置かれていた。

 

 弟の勘十郎信勝は歯を食いしばって俯いていた。

 場の空気に押し潰されそうになるのを、賢明に耐えている。気弱な信勝にはこの空気は毒だろうなと信奈は少し心配になった。

 

「今川はどうか」

 

 信秀が問うと、一同が一斉に静まりかえる。

 

「広忠は今川家の後詰を得ているというが、まことであろうか?」

 

 織田信光が若干の不安を声に含める。

 

「出てくるだろう」

 

 断言した織田信康に視線が集まった。

 

「だが、今川は駿河を空には出来まい。武田の脅威があるからな。遠江も内乱から立ち直っておらず、動けるのは朝比奈ぐらいだろう」

 

「どうして言い切れる。詳しく話してくれんか」

 

 弟の信光に問われ、信康は少し考え込んだ。言葉を選ぶようにして説明する。

 

「高天神城は福島の代わりに小笠原が入ったばかりで、とても兵など出せる状況ではない。井伊は内乱で兵を失い、家を割って争っていた。天野は先日に動員を解かれたばかりで、すぐには動かせぬ」

 

「井伊が動かないという見通しは甘いだろう。それに飯尾や久能も兵を出せる。朝比奈だけということはあるまい」

 

「そうかもしれんが、我らとて単独で戦うわけではない。水野や佐治などに助勢を頼めばよいのだ。今川が相手とはいえ臆することはない。我らでも戦える相手だ」

 

「二人とも、そこまででよい」

 

 信秀は笑いながら立ち上がった。

 

「義弟には頼らぬ。三河は我ら織田家で収めるとする」

 

 おお、と一同から喜びの声が上がる。

 

「三河を攻めるぞ。者ども。戦支度をせよ」

 

 信奈は迷った。

 自分も出陣したいと言うべきか否か。

 

 迷っている間に、口を開く機会を逃してしまった。

 

「信広。今回はお前も連れて行く」

 

「はっ! この信広、槍働きにて父上をお助け致す所存!」

 

「後方で見物するだけだ。くれぐれも前に出るな」

 

「……は」

 

 信広の目に反感が通り抜ける。

 

 信秀はそれを見て取ったのだろうが笑顔は崩さない。

 

 やはり信広は凡庸だった。

 目だけが笑っていない、あの獣のごとき表情を見ても何とも思わないのだろうか。

 

「あ、姉上。ぼ、ぼく、早く帰りたいです……」

 

「アンタも凡愚よね。父上の血が流れているとは思えないわ」

 

「そんな。ひどいです、姉上」

 

 しくしくと泣いている弟に、信奈は呆れた眼差しを向けた。

 

 

 



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12.安祥の戦い

 三河出兵にあたって、織田信秀は二千の兵を組織した。

 

 事前に各方面に声をかけ、水野家が話に乗って千の兵を出している。さらに旧領奪還を賭けて戸田家も五百の兵を集めてきた。知多半島を領する二家が立ち上がると、乗り遅れてなるものかと佐治家も腰を上げ、こちらも五百の兵を出している。

 

 総勢四千人である。

 

 信秀は沓掛城で近藤景春を迎え入れると三河に入った。

 

 沓掛城の近藤景春は元松平家の家臣である。森山崩れ以降は織田に従っており、三百の兵が新たに傘下に加わった。

 

 三河に入った織田軍は永見家の知立城を包囲した。

 

 永見家は知立神社の神主も兼ねており、こちらも清康の頃から松平家に従っていた。

 

 知立城は森山崩れの追撃戦では捨て置かれた城だったが、信秀は今回はここから攻め始めた。松平広忠の出方を窺うためである。

 

 永見家では当主の貞英が水野忠政に降伏した。

 

 永見貞英にとっては領地が近い水野家の方が話がしやすくて安心ということだった。

 

「水野にも褒美が必要だろう」

 

 知立城のような小城ぐらいならくれてやってもいいと信秀は言う。

 

 しかし永見貞英の弟、永見貞近は武人としての死を選んだようだ。貞英の決定に異を唱える家臣と共謀して籠城してしまったのである。

 

 とはいえ小城だった。

 百人程度が籠城しているだけで援軍の見込みもなく、織田軍は容赦なく知立城を攻め落とした。

 

 そして落ち延びた兵が岡崎城の広忠に窮状を訴えたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 広忠の方も織田軍の侵攻は把握していた。

 積極的に物見を放ちつつ、岡崎城に家臣を集めて対策を練っているところだった。

 

「安祥城が危険です」

 

 阿部定吉が発言する。その通りだと広忠は頷いた。

 

「安祥城に兵を入れなければなりませんね」

 

「お待ちを」

 

 大久保忠俊が制止する。

 

「それでは岡崎城が手薄になります。未だに桜井信定めはこの城を狙っており、我らが隙を見せるのを虎視眈々と待っておるのですぞ」

 

「……大叔父上ですか」

 

 広忠が疲れ切った溜息を吐いた。

 何度も頭を悩ませてくれる御仁である。親族であり互いに歩み寄る余地があったはずなのに、今や信定は完全に宗家の宿敵であった。

 

「兵はどれぐらい集まりましたか」

 

「千五百人ほどですな」

 

「まだ増え続けておりますので、いずれは二千人にはなるでしょう」

 

 松平清康の全盛期には五千から七千の兵を出したというから、それには全然及ばないが、これだけあれば桜井信定に備えることができるはずだった。

 

 だが、織田家が相手では話は別である。

 

「今川家に助勢を求めなければなりませんね」

 

 広忠の言葉を聞いた家臣たちは固まってしまった。

 

 家臣たちの意識では今川家は敵国だった。伊勢宗瑞を大将に攻め寄せ、松平長親がいなければ滅亡するところまで追い込まれたのだ。広忠が今川家の援助を受けたことは知っているし感謝もするが、家来になるつもりはないというのが家臣たちの本音だろう。

 

「……松平家だけで撃退できないだろうか?」

 

 控えめに発言したのは本多忠豊である。

 

「織田は四千の大軍だぞ。如何にして戦うのだ」

 

 大久保忠俊に問われた本多忠豊は困り切った顔をした。

 思ったことを言っただけで、代案はなかったらしい。

 

 しかし、酒井忠尚は違った。

 本多忠豊の発言から閃きを得たようである。

 

「我らを援助したのは今川家だけではない。吉良家や富永家なども手を貸してくれたではないか。それに加えて湯治に行っている蔵人(信孝)殿を呼び戻せば、兵力は三千にもなる。戦えぬことはないと思う」

 

 自信に溢れた声である。

 重臣たちも、戦えるのではないかと希望を抱き始めたようだ。

 

「いや、それでも桜井の備えに千の兵を岡崎に残さねばならぬ。結局は二千で織田に立ち向かうことになるぞ」

 

「……内膳か」

 

 大久保忠俊と阿部定吉が苦り切った顔をした。

 

 膝を突き合わせて話し合っても、行き着くところは桜井信定だった。

 

「申し上げます」

 

 その時、評議の場に旗本の少女が現れた。

 

「あ、と、その」

 

 だが、その少女の歯切れが悪い。

 己の役目すらこなせないのかと重臣たちが苛立っていた。いくら城主が入れ替わったからといって、程度の低い者が旗本に混じるようでは困ると言うことだ。

 

「早くせんか! 我らには貴様なぞに構っている時間はない!」

 

「ひっ! いえ、その。あう、あう、ご、御一門の、さ、桜井さまが来られたので……お伝えしなければと……あうあう、ふえぇぇぇん」

 

「なにぃ!?」

 

 大久保忠俊が腰を上げる。

 

 なお、泣いている少女は無視されていた。

 

 桜井信定の来訪。一大事である。

 

「兵はいかほど連れて参ったのだ?」

 

「はうぅ。ご、五十人ほどですが、いずれも軽装でした」

 

「……解せんな」

 

 阿部定吉が唸り声を上げている。

 

 桜井信定は松平家の不倶戴天の敵である。そして信定は用心深い男でもあった。信定に丸腰で敵地にやってくる度胸などないというのが、重臣たちの総意だった。

 

「内膳め、どういうつもりだ」

 

「ここで内膳の首を取っておけば、後顧の憂いが消えるが、さてどうしたものか」

 

「拙者としては斬っておきたい。多分に私怨が入っているがな」

 

 忠俊は信定に何枚も誓紙を書かされているため、感情的にも信定を許せないと考えているようだ。

 

「いいえ、斬るべきではないでしょう」

 

 広忠は阿部定吉たちの議論に口を挟んだ。

 

「岡崎城の奪還には正当性がありましたが、大叔父上を騙し討ちするのは流石に卑劣すぎます。私には大叔父上がこちらに歩み寄ってくれたのだと思えてならないのです。そんな相手を有無を言わさず殺してしまうのは人道にもとるのではありませんか」

 

「……うむ。広忠様の言う通りだ」

 

 大久保忠俊は頷いたものの納得していない顔だ。

 

 とはいえ我慢して貰うしかないだろう。

 

「では、信定を連れて参れ。共の者は三人まで。武器は取り上げよ」

 

「くれぐれも見落としのないように気を付けよ。どこぞの痴れ者がご主君を斬ってしまうかもしれんからな」

 

 本多正豊が皮肉を飛ばす。明らかに阿部定吉を揶揄した発言だった。

 

 定吉は唇を噛んでいた。森山崩れの一件がまだ尾を引いているのである。定吉も悔しいのだろうが、重臣たちの誰もが彼を庇おうとしないことが、定吉の立場を明確に現していた。定吉の能力や実績は認めても、感情では納得できないのだ。

 

 険悪な空気の中、桜井信定が現れた。

 

 松平内膳正信定。松平長親の三男、桜井松平家の当主。

 広忠を軟禁して宗家の乗っ取りを企てた、松平家の獅子身中の虫だった。

 

 年齢は五十代半ば。とうに老人である。

 

「久しいな、広忠殿」

 

「ええ。大叔父上こそ息災のようで」

 

 重臣たちに睨まれているのも気にせず、信定はどっしりと腰を下ろして胡座をかいた。

 

 あまりに不貞不貞しい態度に、大久保忠俊が腰のものに手をやった。何時でも抜刀できる体勢である。

 

 信定はそんな忠俊を憎々しげに睨み付ける。

 

 大久保忠俊が裏切っていなければ、岡崎城はまだ信定のものだった。

 

「小賢しい小娘だ」

 

 信定は忠俊から視線を戻すと、開口一番に悪態を吐いた。

 

 広忠は呆気に取られるが、もとより予想していた一言である。すぐに気を取り直して言葉を返した。

 

「貴方ほどではありませんが」

 

 痛烈な皮肉である。

 

 肌に貼り付くような緊張感の中、会談が始まった。

 

「今川から力を借りたようだな。その意味、わかっておるのか」

 

「大叔父上の方こそ、織田の支援を受けておられるようですが」

 

「織田弾正忠は強い」

 

「今川治部大輔よりもですか?」

 

「織田殿はわしに西三河を任せるおつもりだ」

 

「今川様は私に西三河を任せると仰っております」

 

 意見は交わらなかった。それぞれの思想が正反対なのだ。

 

 これでは議論にもならないだろう。広忠と信定は二人揃って嘆息した。

 

「わしにはわかる。お主では織田弾正忠には勝てまい」

 

「勝敗は兵家の常と言います。大叔父上の言葉は武士にあるまじきものかと」

 

「議論をするつもりはない。ただ、負けると思ったまでよ。故にわしは岡崎城に逃げ込んできたのだ」

 

「織田への降伏の仲介でもしてくれるのですか」

 

「やれと言われればやるが、お主は織田に下るつもりはないのだろう?」

 

 広忠は会話しながら、自分の心が冷えていくのを感じていた。

 

 血縁者なのだから、必ずわかり合える部分はあるだろうと根拠もなく信じていたのだ。なのに実際に顔を合せてみると、嫌悪感しか沸いてこない。

 

 相性が悪いのだろうか。

 それとも、これが信定が嫌われ者たる理由なのだろうか。

 

「お主らが織田に負ければ、今川に援軍を請うのは間違いない。そうなれば今川の大軍が行きがけに桜井城を踏みつぶすのは目に見えておる。そしてわしは、織田との決戦前に血祭りに上げられるだろう」

 

「……まだ私たちが負けると決まったわけではありません」

 

「何度も言わせるな。議論するつもりはない。それに、お主らが勝っても同じなのだ。お主らが織田を倒した勢いのまま、わしの城に攻め寄せるのは目に見えておる。勝っても負けてもわしが助かる道はないのだ」

 

 信定が人を馬鹿にするような顔をした。

 そんなこともわからないのかと言いたげだ。

 

 広忠は感心した。信定の言うことは、まさにその通りだろう。

 理屈では正しいのだ。だが、あまりに小賢しすぎて見苦しく映る。

 

 これでは三河人から嫌われるものよくわかる。

 何度も宗家を奪える機会がありながら、そのすべてを取りこぼしてきたのも、この小賢しさが原因なのだろう。

 

「戦が終わるまで、叔父上には不自由をさせてしまいます。よろしいですね?」

 

「それでよい。手厚く遇されてしまうと、織田殿への言い訳ができなくなるからな」

 

 桜井信定が別室で軟禁され、その配下の兵が桜井城に追い返される。

 

 何にせよ、これで後顧の憂いは無くなった。

 

 今こそ全力で織田家と戦える好機である。

 兵数こそ二千に満たないが、織田軍は烏合の衆。対するこちらは松平家が一つになっている。戦いようはあるだろう。

 

「広忠様」

 

「はい」

 

 大久保忠俊に促され、広忠は頷いた。

 

「皆さん。出陣しましょう!」

 

 おお、と家臣たちが大声で応じた。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 安祥城には松平長家や、松平家の一門五人が入っていた。

 城兵はおよそ千人である。広忠も馬鹿ではないため、織田の来襲と同時に安祥城に兵を入れていた。

 

 安祥城はかつての松平家の本拠地であり、西三河の要の地と言える。

 

 重要拠点である。安祥を落とせなければ、すべてが片手落ちに終わる。

 

「さて、どう攻めたものか」

 

 織田信秀は安祥城を見上げた。一度、攻略に失敗した城だった。

 森と沼地に囲まれており、土塁が積み上げられ、空堀もあった。台地に築かれた平山城であり、曲輪は三の丸まで造られていた。力攻めが難しいことは以前の失敗で身をもって思い知らされている。

 

「城を取ってから広忠の本隊を迎え撃つか、広忠の本隊を撃破してから城を取るか。どちらも一長一短だな」

 

「後詰の計を取るべきだと思うが」

 

「信光。ここは安全策を取るべきところではないぞ」

 

「む、そうか?」

 

 織田家は安祥城の攻略にこそ失敗していたが、その経験によって攻め方を覚えている。城の構造もある程度は把握しており、兵数もこちらが多い。ここで攻めない理由はない。

 

 無論、危険はある。

 

 松平広忠の本隊が城攻めの途中で襲いかかってくれば、下手を打つと織田軍が総崩れになりかねない。

 

 だが、その程度の危険も犯せないようなら、戦国大名に名乗りを上げるべきではない。

 

 信秀は部隊を二つに分けた。

 

 半分を北側に、残り半分を南側に配置する。

 

 北側は信光に、南側は水野に任せた。

 

 松平側も部隊を分けて応戦し、何度も織田軍を撃退したが、やがて疲労が積み重なって劣勢になっていった。

 

 激戦だった。両軍合わせて千人以上の死者が出た。

 

 最終的に安祥城は陥落。織田家の物となった。

 

 

 

 

 

 

 広忠の本隊が到着した時、すでに安祥城からは煙が上がっていた。

 

「くっ。遅かったようですね!」

 

 広忠が歯がみしている。

 

 直感的に、大久保忠俊は拙いと思った。

 

「撤退するべきです!」

 

「何を言う! 大久保は腰抜けの集まりか!?」

 

 周りから罵声が飛んでくる。本多忠豊だった。

 

 だが、忠俊は意見を翻す気はなかった。

 

「戦には期というものがある。相手は城を落とし、勢い付いている。こちらは城を奪われ、勢いが落ちた。これは百戦して百回負ける状況だぞ!」

 

「臆病風に吹かれたか、大久保忠俊! ええい、黙れ! 貴様の発言が、我らの士気をいたずらに下げているのがわからんのか!」

 

 それもそうだ。

 忠俊もそれは理解していた。その上で諫言したのだ。

 

「広忠様。拙者は決して臆病風に吹かれたわけではございませぬ。ですが、ここで戦端を開けば織田弾正忠の手の上で転がされるだけでしょう。ひとまず後退して安祥城の敗残兵を収容してから迎え撃つべきです」

 

「大久保。あなたの言い分はわかりました」

 

 広忠は納得してくれたらしい。忠俊は安堵した。

 

 その直後だった。

 

 敵陣から縄を打たれた集団が押し出される。

 

 白装束を着せられた男女、およそ十人だった。

 

「……あれは」

 

 松平長家。その他、松平の一門衆だった。

 

 忠俊はゾッとした。無心で叫んでいた。

 

「やめろ、織田弾正忠! それが武士たる者のすることか!」

 

 主君への忠誠心のため、最後まで城を守ろうと戦い続けた武士たちだ。尊敬するべき者どもであり、切腹ぐらい許してやるべきではないか。まさか織田弾正忠にはそれがわからないのか。

 

 松平長家たちは猿ぐつわを噛まされていたが、断末魔を敵軍に聞かせるために猿ぐつわが外された瞬間。

 

「我ら冥府にて織田を呪い続ける所存! 広忠さま! さらばです!」

 

 松平長家が大声を上げる。

 

 織田兵がそれ以上は喋らせるものかと槍を突き出した。

 

「やめろぉ!」

 

 叫んだのは忠俊だけではない。松平の全軍が悲鳴を上げていた。

 

 だが、それもむなしく、織田兵の繰り出した槍が彼らを串刺しにした。

 

 血祭り。

 合戦前に敵の捕虜を処刑して士気を上げる儀式である。

 

 織田軍が鬨の声を上げている。えい、えい、おう。何度も大声が上がり、戦意をこちらに示していた。

 

 松平の兵たちは無言だった。憎悪に燃えていて今にも爆発しそうだった。

 

「忠俊。残念ですが……」

 

「そうですな」

 

 もはや後に引けなくなってしまった。

 

 ここで広忠が撤退すれば、彼女は家臣たちからの信望を失ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 松平軍が突撃してくる。

 

「若いな、広忠。やはり小娘か」

 

「清康ほどではないようだ。あれは強かった」

 

「お主が寝返るほどだからな」

 

「言ってくれるな。俺はもう二度と兄者を裏切れん。怖すぎるのだ。兄者は」

 

 織田信秀、信光の会話だった。

 

 松平清康は強かった。何せ、織田信光が松平に内通したほどである。信秀はそんな信光を許して、重要な地位に付けて用いている。裏切った親族を重用するなど、並の者に出来ることではない。

 

「無策か。ならば戦いようもあろう」

 

 信秀は敵軍の陣立てを眺め、誰ともなく呟いた。

 

「父上。敵が攻めてきております」

 

 当たり前のことを言うのは、息子の織田信広である。

 

 凛々しい若武者だ。敵軍を間近に見て緊張を浮かべていた。

 

 使えぬ――と内心で思った。

 何もかもが凡庸である。旗本の子息ならこの程度でも構わないが、信広は織田の連枝衆なのだ。信奈のためにもせめて信光程度には育てたいが、実戦で磨いてみなければ玉石は判別できない。まだ見限る時ではないため、信秀は気長に付き合ってやることにした。

 

「どう思う?」

 

「松平勢は士気が高そうです。尾張の弱兵では正攻法では勝てぬでしょう」

 

 たしかに尾張兵は弱兵と言われているが、指揮官は有能を揃えている。信秀が選び抜いて育てた精鋭である。

 

 それを息子が理解していない。信秀は溜息を吐きたくなった。

 

「貴様ならどうする」

 

「後退して松平勢の勢いを受け流す、でしょうか」

 

「うむ、そうだな。だが、それだけでは足りぬ。おい、造酒丞に伝令を」

 

 織田信秀が指示を出した。

 

 織田造酒丞信辰。

 菅屋家の出身でありながら、織田姓を与えられた人物である。その序列は信康や信光などの舎弟たちに次ぐ、連枝衆の一人であった。

 

 信辰は伝令の姿を見るや、内容を聞く前にすべてを理解したらしい。

 

「信辰さま! 本陣からの――」

 

「よかろう。我らこれより伏兵と化す。兄者に伝えてくれ」

 

「え、それは」

 

「急げ! 寸刻たりとも無駄にするでないわ!」

 

「は、はい!?」

 

 伝令は何も言っていないのに返答を受け取らされて信秀のもとに戻らされた。

 

 信辰の返答を受け取った信秀は大声で笑い声を上げた。

 

「ふはははは。流石は造酒丞。よう心得ておるわ」

 

 敵軍と最初に衝突したのは、佐々成吉、成経の兄弟だった。

 二人は馬廻衆であり、今回は最前線で与力衆の指揮を任されている。

 

 松平家の先陣は本多忠豊。

 

 勢いはあったが、足並みは揃っていない。矢を射かけられても怯むどころか直進するのは敵ながら天晴れだったが、勢いだけで突撃したところで長続きするものかと、織田兵たちは嘲笑った。

 

 佐々兄弟は敵軍を受け止めながら後退し始める。

 

「猪のごとき突進だな。矢面に立たされる我らにとってはたまらんわ」

 

「もう暫くの辛抱よ。なに、信秀様もそこのところは考えてくれておるわ」

 

 すぐに家老衆、平手政秀が後詰に入り、前衛の後退を支援してくれた。

 

 入れ替わるようにして佐久間盛重が前に出る。

 佐久間盛重は岡田重善、中野一安などの馬廻衆を引き連れ、本多忠豊の突撃を受け止めた。

 

「平手様。助かり申した」

 

「あいや。そなたたちこそ、ご苦労であったな」

 

「少し休んでから前に出るつもりです」

 

「うむ。お主らの働きは私から殿に伝えておこう」

 

「かたじけない」

 

 佐々成吉が平手政秀と会話している途中に、平手政秀は何かに気付いたように敵陣の後方に目を向けた。

 

「どうやらお主らの活躍の場はなくなってしまったようじゃな」

 

「そのようですね。一番槍だけで満足しておきますか」

 

 茂みから出現した織田の軍勢が、松平軍の南側から襲いかかる。横槍である。

 

 それと同時に酒井忠尚の軍勢二百が、一戦もせずに後退し始めていた。

 前線が戦っているのに、後衛が逃げ出してしまうことを裏崩れと言う。酒井の離脱によって、松平軍の士気が崩壊してしまったのである。

 

 おそらく信秀が事前に根回しをして酒井忠尚と内通していたのだろう。

 

 やがて松平勢は総崩れになり、凄惨な追撃戦が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦況はあっという間に入れ替わってしまった。

 

 勇猛果敢に槍をぶつけていたはずの松平の兵が、次々に討たれている。

 

「酒井忠尚が返り忠しました! ここは危険です!」

 

 だから酒井は討ってでるべしと抗戦論を述べていたのだろう。

 広忠たちを信秀に献上するために甘言を弄したのだ。

 

「姫さま! 今は何も考えず撤退して下さい! 大将たるもの、まずは生き残ることです! 考えるのは後でいくらでも!」

 

 広忠は小原鎮真――正しくは雪斎の言葉を思い出していた。

 

 一つ。牟呂城と連絡を取るべし。

 二つ。大久保忠俊を信じよ。

 三つ。織田家と独力で戦うべからず。

 

 広忠に味方してくれたのは牟呂城の富永忠安だった。

 

 裏切ったと思った大久保忠俊は、本当は広忠の味方だった。

 

 そして織田に独力で挑んだ広忠は、織田に大敗した。

 

 最前線にいた本多忠豊は討ち死にしたらしい。

 

「……大蔵。私は間違えたのですか」

 

「姫さま。今はそのようなことは」

 

「いいから答えて下さい!」

 

「織田弾正忠がこれほど強いとは思っておりませんでした。それは誰も知りうることではございません。姫さまは何も悪くはございませぬ。すべては至らぬ我らが悪いのです」

 

「……あなたたちに甘えるつもりはありません」

 

 阿部定吉の慰めも耳に入ってこない。

 未来ある将兵を討ち死にさせてしまったのだ。

 

 松平一門を処刑されたという一時の激情にかられ、無策で突撃してしまった。君主たるものの行動ではない。対する織田信秀は何もかもを入念に仕組んでいた。広忠たちの到着前に城を落とし、捕虜を血祭りに上げ、伏兵を使い、酒井を調略した。

 

「今川に、援軍を」

 

 振り絞るような声だった。

 

「……はっ」

 

 阿部定吉の声も震えていた。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

「じゃじゃーん! 見て見てお師匠! 仕留めたばかりの牡丹肉だよ!」

 

 岡部元信が仕留めたばかりの猪を引きずっていた。

 

 何をやっているのかと思えば、こいつは俺が吉田城で内政に明け暮れているのを横目に「鷹狩りに行ってくる」と脱走しやがったのである。

 

「軍法に照らし合わせて、獄門に処すべき」

 

「そんな軍法ないよ! 何なのこの娘! 怖すぎるんだけど!」

 

 俺と一緒に帳簿を付けていた小原鎮真がボソリと呟いた。

 

 前髪で目元まで隠した少女である。黒無地の着物姿で、洒落っ気の一つもない。丑の刻参りでもしてそうな不気味な少女だった。

 

 有能なのだが個性が強すぎて引き取り手に困っていたところを、何かの役に立つだろうと拾ってみたのである。すると計数に強く有能な奉行になれる人材だったため、東三河支配のためのノウハウを叩き込んでいる最中だった。

 

「ねぇお師匠。たしか商人が八丁味噌を献上してたよね」

 

「ああ。だが、それを聞いてどうするつもりだ」

 

「わーい! 今日は牡丹肉の味噌焼きだねっ!」

 

「禅師に肉食を勧めるとは。味噌火あぶりの刑にすべき」

 

「味噌火あぶりの刑とは何だ」

 

 人間の味噌焼きを作るというのか。カニバリズムでもやりたいのか。

 

 内心で戦慄していると、鎮真が書き付けをしていた筆を置いた。

 帳簿の数字を指でなぞり、納得したようにコクコク頷いている。

 

「見付けたか」

 

「相川村、名主が年貢の私曲をしている。速やかに死刑にすべき」

 

「前年のことだ。今はまだ捨て置け」

 

「手ぬるい。死刑にすべき」

 

「我らの支配下でも同様のことをすれば、名主を呼び出して罪に問えばよい。それまでは手出し不要。くれぐれも早まるな」

 

「……はい」

 

 鎮真が肩を落としている。前髪のせいで表情はわからないが悲しそうだった。

 

 現在、俺たちが取りかかっているのは帳簿の洗い直しである。今川家が新たに手に入れたこの領地は、元々は戸田家のものだった。戸田一族が最後まで籠城していた仁連木城や田原城などにある文書は当然のように持ち出されていたが、それ以外の城には帳簿が残っているところもあった。

 

 で、最近になって今川家の支配も安定し始め、俺にも時間的な余裕が出来たので、やっとこさ汚職の洗い出しを始めたのである。

 

 とはいえ俺たちが汚職の捜査をしていることが外部に漏れると、汚職をしていた者たちが出奔したり、罪を隠蔽しようとするだろう。と言うわけで機密性を高めるために小原鎮真と二人きりで罪人をリストアップしているわけだ。

 

 元信はしばらく俺たちの仕事を眺めていたが、途中で飽きて床を転がり始め、何時の間にか姿を消していた。猫のような奴だった。

 

 なお猪の死体は放置されていた。

 

 俺は溜息を吐いて女衆を呼び出した。

 吉田城に詰めている女衆とは駿河出身者の家族が多く、一部東三河衆から預かったお手伝いという名の人質も混じっている。

 

「お呼びでございますですか、ご主人様」

 

「出たな、牛乳女」

 

 別に特定の人物を呼び出したつもりはないが、楯岡道順が侍女の格好で現れた。

 

 小原鎮真が忌々しげに吐き捨てている。この時代は未来のように巨乳がもてはやされているわけではなく、ほどよい大きさが好まれていて、道順のような巨乳はむしろ気味悪がられることもあった。

 

 いや、俺は好きだけどな、巨乳。おっと、煩悩退散。

 

 彼女は大きすぎるおっぱいを揺らし、部屋の隅に鎮座する猪の死骸に目をやった。

 

「最低限の血抜きはしているみたいですが、内臓はそのままでございますですね。と言うか不浄なものを置いていくとは、あれはご主人様を呪殺するつもりでございますですか。ぷんぷん、なのでございますですよ!」

 

 道順は顔をしかめながら、軽々と猪を持ち上げた。

 あの細い身体でどうやって持ち上げたのだろう。忍者だからなのだろうか。こわい。

 

「重くないのか」

 

「はい、忍びの嗜みでございますです」

 

「……流石だな」

 

「うふふ。お褒めにあずかり光栄でございますですよ」

 

「それは夕餉の材料に。残りは家来たちに振る舞ってやれ。ああ、家来というのは伊賀者のことだ」

 

「あ、えっと。あ、あの、ありがとうございますですよ」

 

 道順が頬を染めて去っていく。それを見ていた鎮真が「女を惑わせる仏僧。地獄に落ちるべき」と呟いていた。

 

 それから俺たちは黙々と仕事に取り組んでいたが、昼下がりの陽気のせいか鎮真が何度も欠伸を堪えていたため休憩を取ることにした。

 

「雪斎禅師。お時間よろしいでしょうか」

 

 鉄面皮の小柄な少女、菅沼定盈だった。

 

「ちょうど小休止を取っていたところだ。気にせず入りなさい」

 

「はい。失礼します」

 

 定盈は野田菅沼家から預かっている人質だったが、俺は彼女を武将として育てるべきだと考えていた。野田菅沼家との関係は良好だったし、彼女の真面目な性格にも好感を覚えたからだ。

 

 定盈はいずれ野田菅沼家を継ぐことになる。

 それなら今川家で洗脳もとい教育しておくのは当然だろう。

 

「少しお時間を頂きたいのですが」

 

「構わんが、それは?」

 

 定盈は小脇に巻物を抱えていた。

 

「実家の倉にあったものです。おそらくは田峯からお祖父様が持ってきたものかと」

 

 巻物を受け取ってみると、予想以上に状態が悪いことがわかった。

 

 湿気の多いところで放置されたのだろう。崩れているところがあり、一部の文字が読めなくなっている。

 

「戦国策か。一冊しかないようだが」

 

「それしかございませんでした」

 

「私が所持しているのも五巻ほどだが、建仁寺で修行していた頃に写本したものが駿府にある。こちらに運び込ませておくから、好きな時に読むといい」

 

「有り難き仰せにて。それと、一つご教示願いたいことがあるのです」

 

 定盈は巻物の中程に指を置いた。

 

 戦国策は大陸の春秋戦国時代について書かれた歴史書である。いにしえの名将の事績が書かれているため兵法の教科書にもなる書物だった。

 

「長平の戦いで、白起は趙軍を完全包囲して飢えさせてから決戦で破り、四十万の趙軍を捕虜にしたとあります。しかし孫子には欲擒姑縦(よくきんこしょう)といって、敵軍を窮鼠にしないよう逃げ道を用意しておくよう説いております。これはどちらが正しいのでしょうか」

 

「どちらも正しいと言える。白起の策を関門捉賊(かんもんそくぞく)といい、これは敵軍が弱小であり士気が低い場合、または敵将を取り逃がすと後の禍根になるとわかっている場合に仕様する計である」

 

「それでは、この場合は敵将の捕獲を優先したのでしょうか?」

 

「いや、四十万の趙軍も白起にとっては弱小だったのだろう」

 

「なるほど。白起とはそれほどの将だったのですね」

 

 しばらく定盈と兵略について語り合う。

 

 これほどやる気のある生徒は初めてだった。岡部元信は戦の話を好むが、政治が絡んでくると途端にやる気を失う。氏広は元信ほど極端ではないが、戦は苦手で政治を好む。義元はたまに鋭くなるが普段はポンコツだ。

 

 気付けば夕刻になっていた。

 

 小原鎮真が恨めしげな目を向けている。

 

「すまん」

 

「死刑」

 

 俺が鎮真に何と言い訳するべきか考えあぐねていると、近習がやってきて客人の来訪を伝えた。

 

 俺は腰を上げた。鎮真が涙目になった。

 

 廊下を歩きながら近習から話を聞く。

 どうやら客人は商人らしい。吉田湊から来たのだろうか。

 

 吉田湊は豊川と三河湾を繋ぐ港町である。

 今川家は吉田湊の商人座を支配し、権益を保障すると同時に収入の一部を上納させる仕組みを構築していた。

 

「遅くに申し訳ありません。お久しぶりでございます、雪斎禅師」

 

「友野殿ではないか。三河まで来ていたのか」

 

 友野次郎兵衛宗善。駿府の町年寄で、清水湊を地盤にしている商人だった。

 初老の男で身体は細身だが、肉体的な衰えを感じさせない雰囲気があった。

 

「はい。禅師のお陰様で手広く商売をさせて頂いております」

 

「それは重畳。どうだ。茶室で話さぬか」

 

「ぜひとも。こちらからお願いしたいところでした」

 

 二人で茶室に向かう……ことなく、俺一人で先に茶室に入る。

 

 場所は吉田城の一の丸に作らせた庭園だ。俺の趣味が入っているが、無駄遣いというわけではない。文化を推奨している今川家ならではのものだろう。

 

 庭園には侘び寂びを意識した草庵がある。傍には小さな池があり、水のせせらぎが聞こえてきた。青竹がそよ風に揺れる。

 

 茶室に入ると、中では岡部元信が爆睡していた。

 

「ぐーぐーぐー。ああん、だめだってお師匠。五子まだ心の準備が」

 

「誰か」

 

「はいっ! なのでございますですよ!」

 

 神出鬼没な楯岡道順が岡部元信を引きずっていった。

 

 俺は気を取り直して茶室に入る。壁には水墨画が飾られていたが、今回は主張しすぎているかと思ってそれを仕舞った。

 

 友野宗善は名物好きである。

 俺の持つ酸漿文琳(ほおづきぶんりん)の茶入れなどを見たがっていた。

 

 名物の観賞を楽しむなら、他の要素は邪魔になる。

 

 茶碗は珠光にしておこう。天目や青磁は派手すぎる。

 

 頃合いになり、俺は友野宗善を出迎えた。

 

「お待たせ致した、友野殿」

 

「禅師のお招きに預からせて頂きます。どうぞよしなに」

 

「こちらこそ。では参ろう」

 

 草庵に入る。

 狭い入り口を前屈みになって入るという、本来の利休流ではないが、それでも狭い入り口だった。茶室も書院風の四畳半でこれも狭い。

 

「おお。四畳半茶室ですな。これは狭い。ううむ、よいですな」

 

「お褒めにあずかるほどのものではないが、喜んで頂けたなら何よりだ」

 

「最近は派手な茶室が好まれるようになっていると聞きますが、元々は派手な茶をやめて侘びを追求しようとしていたはず。しかし豪商たちはそれを忘れて豪華な飾りに走っている。困ったものだ。おお、これが噂に聞く酸漿文琳ですか。それにこれはいい色合いの珠光茶碗ですな。丸く切り抜かれた窓も風流だ。おっと、失礼」

 

 言っていることとやっていることがまるで逆だ。

 

 友野宗善の名物好きに苦笑させられる。

 

 俺が茶碗に茶を点てて差し出すと、友野宗善はそれを受け取って一口。

 

 じっくりと味わってから溜息を吐き、茶器を俺に返す際に小さく呟いた。

 

「織田弾正忠が軍を起こしたそうですな」

 

 いきなり核心に切り込んできたのである。

 

 俺は内心で身構えた。これは話術だ。

 

 大げさに長話をして、意識の空白を狙って本題を切り出す。友野宗善はこうして主導権を握り、商売を拡大してきたのだろう。味方の俺にまで仕掛けなくてもいいのにと思うが、長年の癖か、それとも俺を試してのことか。

 

「耳がいいな。それがどうした?」

 

「同時に、関東がきな臭くなっておるのですよ。駿府のお屋形さまだけで乗り切れるとはとても思えぬので」

 

「武田かな?」

 

「いかにも」

 

 予想できる話だった。

 

 さて、武田が攻めてくるか、それとも――。

 

「攻めてくるのではなく、逆でして。どうも和を請うておるようですな」

 

 武田家の方針転換か。あり得るだろう。

 

 甲斐統一を遂げた武田信虎だが、対外作戦には失敗し続けている。諏訪と組んで大井を潰し、次は小笠原と組んで諏訪を潰そうとしているのだが、昨年の秋から冬にかけての遠征に失敗して甲斐に撤退していた。

 

 武田信虎は次の収穫が終わる秋まで出陣できず、手が空いたため外交を行う気になったらしい。信濃攻めに本腰を入れるために、背後の安全が欲しい。そこで宿敵関係にある今川家と今更になって和睦するということだ。

 

「となると、北条が許さぬか」

 

 武田との同盟を蹴り飛ばせば武田が攻め込んできて、武田と同盟を結べば北条が怒り狂って攻め込んでくる。これが三国間外交の厄介なところだった。まぁ、何時も通りのことなのだが。

 

「間違いないのか」

 

「違っていたら私の立場がございませんよ。今川家で商売ができなくなってしまう」

 

「この話、他にも持って行ったか」

 

「雪斎禅師だけでございますよ」

 

「なぜ、拙僧の耳に入れた?」

 

「禅師が一番高く買ってくれそうなので」

 

 友野宗善は微笑んだ。流石は商人。情報すら売り物なのだろう。

 

 今、伊賀衆の諜報網はほとんどを三河に投入している。

 情報面では関東が手薄になっていた。距離の問題もあって俺のところに情報が入ってこないのも仕方がないところがあった。

 

 しかし困ったな。

 下手をすれば東西二つに戦線を抱えることになる。三河戦線は俺と東三河衆だけでも対応できるが、関東戦線には人材がいない。岡部や朝比奈が無能というわけではない。しかし北条氏綱や武田信虎と対等に渡り合えるとは思えなかった。

 

 俺が三河切り取りに夢中になっている間に駿河が落ちたとなれば洒落にならない。今川家が滅亡する。

 

 そして、あのお姫さまが独力でこの危機を乗り越えられるかというと。

 

 ……激しく不安だった。

 

 松平広忠は未だに援軍を頼んでこない。おそらく織田信秀と決戦するつもりだろう。勝つ見込みはまったくないと言うのに強情を張るものだ。

 

「友野殿」

 

「何でしょうか」

 

「その珠光は持って帰ってくれ。それと駿府の主に伝言を頼めるだろうか」

 

「おお、この珠光を私に! して、内容は?」

 

「一ヶ月で戻る」

 

「他には?」

 

「それだけだ」

 

 俺は腰を上げた。

 

 問題は時間だ。

 

 短期的に西三河の戦闘を終わらせる。

 そして駿府に戻って武田か北条と一戦する。

 

 松平を見殺しにすれば天下が遠のく。ならば、救うしかない。

 

 織田と戦う、か。

 

 尾張の虎、織田信秀と雌雄を決する時が近付いてきていた。

 

 

 



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