アビス・カラー・デイズ (たこ輔)
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愉快の少女と残酷の少女:1
なんでも頭が半分つぶれてしまうという凄惨なもの。しかし警察は事故として終わらせてしまったらしい。
その猟奇的な死に、ファニーは『アビス』が関係していると考えた。
そこに幼い少女、クルーエルも加わって調査に向かうと……
「はぁ、あたしは情報屋であって探偵じゃないんですけど……。たかが人が死んだくらいで頼られても困りますよ」
夕暮れ時の喫茶店。カウンターで頬杖をつきながら、ファニーという少女はぼやいた。
いつもは人を小バカにしたような笑みを浮かべている彼女だが、今は顔をしかめて大きなため息。
情報屋を営む彼女は先ほどまで、この店の奥でとある女性と話をしていた。
その内容は女性が望む情報を提供してほしいというもの。つまりは仕事の依頼だ。
しかし受けたはいいものの、ファニーとしてはあまり気が乗らないと言った様子。それが一目でわかるくらい、カウンター席に戻ってきた彼女は仕方なくの雰囲気を醸し出していた。
「そう言うなよ。依頼しに来たってことは、ファニーにしか頼めないってことだろ?」
男性が宥めるような口調でカウンター越しに声をかけてきた。彼はこの喫茶店のマスター。
ファニーとは顔なじみ……というよりは腐れ縁に近い。
彼の言葉に、ココアを飲みながらファニーは肩をすくめる。
「それはそうなんですけどね……。どうにも面白そうな話じゃないので。正直やりたくないです」
「お前、最低だな」
マスターの冷ややかな視線を気にする様子も見せず、ファニーは生意気に笑った。
「そりゃあたし、ファニー(愉快)ですから」
彼女は名前の通り、愉快なことが大好き。常に楽しいことを求め、楽しいことを優先に行動。退屈なことはノーサンキューを信条に生きている。
「じゃあなんで受けたんだ。断ればよかっただろ」
「それはもちろん、前金としてここの支払い分いただいてしまっているので」
そう言ってファニーはテーブルの傍らに置かれた封筒を指さす。彼女が依頼主の女性から受け取ったという前金。
「お前、最低だな」
再び冷ややかな視線。ファニーは気にする様子もなくサンドイッチをつまんでいた。これももちろん、支払いは依頼主。
「まあいいや。それで、どんな依頼だったんだ」
何を言っても意味がないと、諦めの雰囲気を含んだため息を吐くマスター。彼はファニーに問いかける。
ファニーは手に持った一枚の紙をペラリ、見せびらかすように揺らした。依頼主と交わした契約の内容が書かれたもの。
守秘義務も何もあったものではないが、この二人にとってはいつものこと。
加えて逢魔が時特有の茜紫の光に包まれた店内は他に客もいないため、ファニーは抵抗なく口を開く。
「恋人を殺した犯人を捜してほしいって話です」
「なるほど、それは確かに探偵……もっと言えば警察の仕事だな」
「はい。ですが依頼主が言うには、恋人さんの死を警察は事故として処理してしまったみたいですね」
「なんでまた?」
首を傾げるマスター。
ファニーは紙に視線を落とし、いつもと変わらない調子の声で要約した内容を読み上げた。
「死因は頭部に強い衝撃を受けてとのことです」
「そうなると撲殺か転落が原因と言ったところだが……」
「そうですね。ですが状況的に不可能と判断されたようですよ」
どこからかファニーは封筒を取り出す。開封して、中に入っていた数枚の紙を広げた。
「これ、警察の捜査記録なんですけど」
そう前置きを口にする彼女。
「相変わらず、どうやってそんなもの仕入れてきたのか……」
「情報屋ですので」
感心半分、呆れ半分なマスターの言葉に自信満々な笑顔で答えるファニー。彼女は手の紙に視線を向けながら言葉を続ける。
「――まず、事が起こったのは数日前の深夜。日付が変わってすぐですね。現場は路地裏です。人どおりはそれほど多くはありません。数時間に一人か二人通るくらいです。ですが、建物一つ挟んだすぐ隣には大きな道があります。昼間ほどではないですが、人の通りは確かにある場所です。こんな場所で人が死ぬようなことが起きればさほど時間を空けずに騒ぎになるはず。ですが実際発見されたのは夜が明けてから。しかも目撃者が誰一人としていませんでした。なにより……落ちて死に至るような建物が周りにはありません」
添えられた現場写真にファニーは見覚えがあった。
何度か通ったことはあるが、確かに背の高い建物はほとんどない。高くて四階建ての建物しかなかった。
「打ち所が悪ければ死ぬな。一応……自殺、他殺、事故。どの可能性もあるが……」
考察を口にするマスター。そこまではファニーも同じことを考えた。
しかし問題は次の情報。
「ですが転落も撲殺もあり得ないと判断されました。あー、これは……でしょうね」
ファニーは一枚めくる。次の紙にはいくつかの写真が添付されていた。目にした瞬間あっけないと言わんばかりの表情をして、言葉を続ける。
「なんせ頭の半分がつぶれてしまっていますから」
写真には被害者の状態が写されていた。
とてもじゃないが見て気分のいいものではなかった。男性の頭部がまるで高所から落としたスイカのように砕け、破裂している。種のように飛び散る脳漿。容量の開いた頭蓋の中までしっかりと見えてしまっていた。
地面に広がる赤黒い血だまりと、崩れていながらもしっかりと伝わってくる男性の苦悶に歪む表情が不快感をより煽る。
「これは酷いですね。確かに人の力でどうにかできるもんじゃないですよ。顔の判別なんてほとんどできなくなってるじゃないですか。これ目撃した人は本当にご愁傷様ですよ」
しかしファニーはまるでさほど興味のない……悪趣味な現代アートを見ているかのような調子で写真の内容を語った。口端もやや吊り上がっていて意地が悪いことこの上ない。
そんな彼女にマスターは顔を思いっきりしかめ、嫌悪を示す。
「お前、よくそんなこと平然と話せるな」
「マスターも写真、見ますか?」
「いい。というか見せるな。ここは飲食店だぞ」
カウンター越しに手を伸ばし、ファニーの持つ写真を抑え、直視しないように目を逸らすマスター。
彼の様子をイジワルそうに、そして心底楽し気な笑みを浮かべるファニー。彼女の反応に対し、さらに嫌な顔をするマスター。
猟奇的な死について話す彼女たち。マスターが薄暗くなる店内の明かりをつける。人の影が一つ、二つ、三つ。できた。
マスターと、ファニーと、あと……。
「……なに、見てるの?」
いつからそこにいたのか。まるで最初からそこにいたかのような雰囲気で幼い少女がカウンター席に座っている。
唐突な登場。しかしファニーは驚くどころか嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「おや、クルーエルさん」
ファニーの隣に座る白いワンピースの少女、クルーエル。
よく言えば無垢、悪く言えば何を考えているのかわからない、ぼんやりとした表情でファニーたちのやり取りを不思議そうに眺めていた。
「今、人が死んだから依頼を受けたっていう話をしていたんです。被害者の写真もありますよ。見ますか?」
「見るな見せるな。クルーエル、いつものやつ出してやるから向こうに行ってろ」
マスターはファニーの手から写真を奪う。その際、一瞬写真の中身を目にしてしまったようで、顔をしかめていた。
マスターの言う通りに、クルーエルはファニーたちからやや離れた席に座りなおす。
「お優しいことで」
そう口にするファニーの表情は実に愉快そう。マスターが写真を見た反応があまりにも面白かったということは口にしなくてもわかるぐらい。
マスターは無視して、クルーエルの前に山盛りのクレープを出した。
クルーエルは無表情で黙々とクレープを食べる。
「……で、どうやっても人間の力で殺すことは不可能というのが警察の見解みたいです」
マスターが戻ってくるのと同時に話を再開させるファニー。彼女は最後の紙を読み終えると、テーブルに放るようにして置いた。
「言いたいことはわかるが、それを事故扱いで終わらせるのはどうなんだか……」
「仕方ないですよ。彼らは人間の領域のことしかわからないんですから」
ファニーは言いながら笑いを浮かべる。明らかに警察を下に見ている、小ばかにしたような笑み。
しかしその言葉を聞いたマスターの反応は違った。それまで呆れた様子だった彼の表情は、一瞬にして渋いものになった。
警戒、という言葉が似合うほど、露骨に姿勢を構える。
「おいそれってもしかして……」
「はい、『アビス』が絡んでいると思います」
実に楽しそうな……悪魔のような笑みを浮かべながら頷くファニー。
彼女の言葉にマスターは大きくため息を吐いた。とても沈痛な面持ちで額を抑える。
「それでか……。『アビス』が絡むとなれば確かにこれはお前向きの案件だ。依頼主は意図していないだろうけど、なんだかんだお前が受けたのも納得だよ」
『アビス』。それは人知を超えた力の総称。見た目、特徴、持っている力。中には生きているものいるなど、その存在は様々。しかし一つだけ共通していることがあった。
――『アビス』は人を狂わせる。
ファニーは主に『アビス』に関する情報を扱う。そして同時に『アビス』に至上の愉しみを見出していた。
しかし『アビス』が絡む時間だというのに、ファニーはあまりやる気を出しているように見えない。ぼんやりとあくびをしながら、暇つぶしのように警察の情報を読み直している。
その様子にはマスターも気になっていたようだ。意外という言葉がぴったりな表情。
「お前が興味を示さないのは珍しいな。『アビス』と聞けば真っ先に飛びつくイメージなのに」
「どうせ大したことないですからね。こんな事件になってようやくあたしに情報がくるぐらいですから。もうちょっと派手な『アビス』がいいですよ」
「『アビス』に大したことないって言えるのはお前くらいだ」
ファニーの物言いに困惑した表情を浮かべるマスター。
ファニーは薄く笑って肩をすくめる。
「ま、ちゃんとやりますけどね。今月も厳しいですから」
「お前はいつも金欠だな」
両手を開いて財布すら持っていないアピールをするファニー。呆れたようにマスターはため息を吐く。
彼の反応をクスクス笑いながら、ファニーはデザートのティラミスを口にした。自分の物ではないお金で食べるデザートはとてもおいしい。
マスターの軽蔑した表情なんてもはや見飽きて気にならない。
「……この人、死んだの? ファニー」
彼女たちにとっていつも通りのやり取りをしていると、あの山盛りだったクレープを食べ終えたクルーエルが再び会話に入ってきた。
彼女はカウンターの上に放置されていた写真を拾い上げる。
「クルーエルさん。やっぱり興味がおありなんですね」
クルーエルが食いついたことに目を輝かせるファニー。
彼女は『アビス』と同じくらい、クルーエルに興味を抱いていた。底が知れない彼女はきっと、とても面白い人材に違いないと。
一方でクルーエルが写真を見てしまったことに、しまったという表情で頭を抱えるマスター。
「あー……クルーエル、その写真は置こうな」
マスターに言われた通り、クルーエルは写真を置く。彼女は写真の中身を見たというのに、顔色一つ変わっていない。
ファニーは楽しそうに頷く。
「そうですね。あたしはこれから調べに行きます」
「そう。……ねえ、痛かった、かな?」
「そりゃ、痛いでしょうね」
クルーエルの問いに、なんでそんなことを思いながらもファニーは答えた。
「愛は……あった?」
「いや、ないと思いますけど……」
クルーエルの妙な質問に今度は困惑を示すファニー。逆に、愛のある痛みなんて存在するのかと、ファニーは心の中で疑問を浮かべた。
「そう……」
途端にクルーエルの興味が薄れているのを感じた。
それではつまらない。席に戻ろうとする彼女を引き留めるため、ファニーはすかさず提案。
「それなら、確かめに行きます?」
クルーエルは動きを止め、再びファニーの方を向く。その瞳には相変わらずどのような感情を宿しているのかわからない。
それでも興味を抱いてくれたことは確か。これでもっと彼女のことを見れる。愉しいものを見せてくれる。
「おい、あんまりあの子を引き込もうとするな」
ファニーの思惑に難色を示すマスター。
クルーエルを『アビス』に関わらせることはしたくないという彼の気持ちはわかるが、ファニーは軽く笑い飛ばした。
「過保護ですね。別にあたしは無理強いしていないですよ。どうするかは彼女の意思です」
「それでも……」
食い下がるマスターを無視して、ファニーはニッコリと笑顔を浮かべてクルーエルの方を向く。店内の明かりが彼女の顔に影を作った。
「それじゃあ行きましょう、クルーエルさん」
影に隠れたクルーエルは小さく頷いた。
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愉快の少女と残酷の少女:2
なんでも頭が半分つぶれてしまうという凄惨なもの。しかし警察は事故として終わらせてしまったらしい。
その猟奇的な死に、ファニーは『アビス』が関係していると考えた。
そこに幼い少女、クルーエルも加わって調査に向かうと……
「ここが現場みたいですね」
ファニーたちは情報にあった現場までやってきた。
すっかり日が暮れてしまい、照らしてくれる明かりは近くの街灯からのみ。現場散策には向かない条件ではあるが、ファニーは気にしていない。
事前の情報で知っていた通り、背が高いとは言えない建物に囲まれた路地裏。すぐそばからは大きな道を行きかう人々の喧騒。漏れ出すネオンの明かりがこちらにまで届く。
数日前に人が死んだという痕跡がほとんど感じることなく、すっかり日常の風景を取り戻している。
「誰もいない……」
「もう撤収してしまったようですね。ま、これなら調べ放題なので好都合です」
口にしながら、ファニーは辺りを物色する。彼女が求めるのは『アビス』の痕跡。人の領域外の力は必ずその足跡を残す。
街灯しかない夜道での探し物は面倒極まりないが、人目につかないことを考えれば文句は言えない。
「うーん。今回の話を聞く限り、残る痕跡のタイプとしては……」
可能性を口にしながら地面に視線を向けるファニー。
クルーエルも彼女をマネして辺りをうろうろ。目についたものを気まぐれに呟いていた。
「赤……」
「血の跡ですね。広がり具合から、かなり惨憺な光景だったのでしょう」
舗装された地面に残る赤いシミ。消しきれなかった血の跡。
しかしこれからは『アビス』の痕跡を見つけることはできなかった。
ファニーは興味がないと、大して見向きもしなかった。
「お、これは……被害者の肉片ですかね?」
道の隅に落ちていた、黒くなった何か。ぶよぶよとして柔らかいそれはおそらく飛び散った脳漿の一かけら。
『アビス』の痕跡かはまだわからないが、重要な手がかりだ。全部警察に回収されなくてよかった。
彼女は肉片を小瓶に入れる。
「これは何?」
再びクルーエルが呟く。今度は何か持ってきた。
彼女が持ってきたのは何かの肉片だった。しかしファニーが見つけたものとは違い、つるっとした表面に細長い。まるでゲソのようなフォルム。
しかもただの肉片ではない。わずかながら蠢いていた。まだ、生命の反応が残っているかのように。
明らかに不気味な代物。それを手にするクルーエルは顔色一つ変えることない。
それどころかファニーに至っては満面の笑みを浮かべていた。それもそのはず。
「あ、これですね。『アビス』の痕跡。どこにあったんですか?」
「いつの間にか……足元にあった」
「そうなんですね。警察はこんなの見逃すなんて……いえ、意図的に見えないフリをしたんでしょう」
彼女はクルーエルから『アビス』の痕跡というゲソを受け取ると肉片と同じ小瓶に入れた。
すると先に中に入っていた肉片が、少し動いた……ような気がした。
「んー……」
ファニーは目を細めてビンの中を凝視する。しかし肉片が再び動く様子はなかった。
「今は気にしないでおきましょう」
ファニーは小瓶をしまう。
その後も痕跡探しをしたが、最終的に『アビス』の痕跡として見つかったのはゲソ一つ。しかしこれさえあれば十分。
小さな情報を積み重ねていけばやがて大きな情報になる。情報とはそういうものだ。
「ま、こんなことはどうだっていいんです。些細とはいえアビスの痕跡を見つけることができたので、後はその筋の人を当たれば誰が使ったかはすぐにわかります。ホント、簡単なお仕事で愉しくないですね」
依頼完了の目途が立ち、ファニーは大きく背伸び。もうここに興味はないと言わんばかりに立ち去ろうとする。
しかし彼女の歩みをクルーエルが止めた。
「ねえ、わかったらどうするの?」
クルーエルから投げかけられた疑問。彼女からの感情は相変わらず何もわからない。
ファニーは躊躇うことなく答えた。
「もちろん依頼者に教えますよ」
「その人は……どうするの?」
「さあ? そこまでは興味ないので。でも、警察を頼ったところで相手にはされないでしょう。だからあたしに依頼が来たわけですし。依頼主的には復讐、でも考えているんじゃないですか?」
まるで興味のない調子で答えていくファニー。
自分の仕事は情報を教えることで、その情報を使って何をするかには全く興味がない。だって、面白くないから。
ファニーの態度に構わず、クルーエルは質問を続けてきた。
「死んじゃう?」
「仮にあたしの言った通りだったとしたら、そうなるでしょうね。『アビス』に普通の人がかなうはずありませんから。それこそ被害者と同じことになるだけだと思いますよ」
ファニーの言葉に、重みは全くない。ただ結論を淡々と述べているだけ。
クルーエルの質問はそこで止まってしまった。ファニーの言葉に不満がある様子もなく、ただ黙っている。
「さ、帰りましょう」
再び立ち去ろうとするファニー。ネオンが漏れ出す大通りの方へ。
「……たぶん、近くにくる」
しかしクルーエルはそう呟くと、ファニーが向かおうとしていたのは真逆。人通りが多い道とは反対の、路地裏の更に深くへと歩いていってしまった。
「え?」
あまりに唐突な行動に、呆気にとられるファニー。彼女の言葉に気になる点がいくつもあった。
しかしそれを確認する前にクルーエルは歩いて行ってしまう。街灯の明かりが届かない、夜の暗さに紛れていこうとする。
「あ、ちょっと待ってくださいよ」
彼女は慌てて深い夜闇に消えていくクルーエルを追いかけた。
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愉快の少女と残酷の少女:3
なんでも頭が半分つぶれてしまうという凄惨なもの。しかし警察は事故として終わらせてしまったらしい。
その猟奇的な死に、ファニーは『アビス』が関係していると考えた。
そこに幼い少女、クルーエルも加わって調査に向かうと……
「もう、どこまで行くんですか」
先を歩くクルーエルにファニーは尋ねた。しかし言葉は返ってこない。スタスタと歩いていく。
幼い少女の歩幅についていくことはなんてことないのだが、ずっと歩きっぱなしでファニーとしては飽きてきた。
「……あの、これ。さっきから同じところグルグル回っていません?」
彼女は辺りを見回しながら困惑の表情を浮かべる。
人目が絶対につかないであろう路地裏の深く。どうにも先ほどからクルーエルは同じところを歩いている。見える景色が変わらない。
目的をもってというよりは、ただ悪戯にさまよっているという表現が似合う。
なぜ彼女はこんなにも無駄なことをしているのか、ファニーには理解できない。
その真意を問おうにも答えてはくれず、ただ後ろをついていくことしかできなかった。
「……『来る』って、どういうことなんでしょうね」
クルーエルが口にした言葉を反芻させる。
まるで猟奇的な死の犯人が……『アビス』が向こうからやってくるような言い方。どんな根拠を持ってクルーエルは言ったのか。
もちろんただの勘である可能性もあるが、ファニーとしてはどちらでもよかった。
クルーエルが愉しいことを見せてくれる予感があったから。
「いずれにしても、ついていきますけどね。ただ……これは明日、確実に筋肉痛ですね」
脚に溜まっていく疲労。ファニーは翌日来るであろう痛みを確信し、苦笑する。
そして彼女の予感もまた、確信に変わる。
唐突に、クルーエルは歩みを止めた。合わせてファニーも立ち止まる。
「来た……」
呟くクルーエルの視線の先、街灯の明かりが届かない夜闇の向こう。何かがやってくるのが見える。全体のシルエット、重い足音から察するに、かなり大きい。
それはやがて、明かりが照らす場所までやってきて、その姿を露にした。
「うわ、なんですかあれ……」
視線の先にいるモノを目の当たりにして、ファニーは思わず顔をしかめてしまう。
一言で表すなら、気持ち悪いくらいに肥大した人であった。いや、人と表現していいのだろうか。
物語に出てくるトロールにその見た目は似ていた。もっと言ってしまえば今にも破裂しそうな風船。もしくは今にも溶けだしてしまいそうな、腐った肉の塊。
濃い赤紫のぶよぶよとした肌は焼けただれたように荒れている。どこが間接だかわからないほど厚い肉をその身にまとっており、浮かび上がった血管は別の生き物のように脈動を繰り返す。
一目で異質だということが分かるほど醜い肉塊。ふらふらとおぼつかない足取りでこちらへと近づいてきた。
「あれが……そうだっていうんですか? クルーエルさんが探して……いた」
冷や汗を垂らすファニー。間違いなく『アビス』である。だが、まさかあんな醜悪なものが出てくるとは思わなかった。
彼女の問いかけにクルーエルは頷いた。
腕が丸太のように膨れ上がっており、確かにあんなもので殴られれば人の頭はスイカのように簡単に割れてしまうだろう。
被害者の男性なんか、抵抗する間もなく潰されてしまったことが容易に想像できる。
間違いなく、あの『アビス』が今回の猟奇的な死の犯人。
だが、ファニーはまだ何かあるような気がしてならなかった。現場で見つけたゲソ……『アビス』の痕跡と、あの肥大した肉体の関連性の説明がつかない。
肉塊とゲソでは肉の性質がまるで違う。となれば別の『アビス』の可能性もあるが……
しかしファニーがこの思考をまとめるには、目の前の肉塊があまりに脅威。落ち着いて考える余裕はなかった。
「『アビス』に遭遇できたのは嬉しいのですが……。あいつ、意思とか感情が読み取れませんね。話が通じるとは、到底思えませんよ」
苦笑を浮かべながら、ファニーは肉塊から距離を取ろうと後ずさり。
『アビス』と遭遇して、普通の人間がかなうはずがない。彼女は隙を見て逃げるための算段を考える。
一方のクルーエルはファニーとは逆方向。肉塊に一歩近寄った。
「ちょ、クルーエルさん。何しているんですか?」
彼女の行動が全く理解できないと、ファニーは焦りの声。あんな巨漢に指一本でも触れられたら、華奢なクルーエルの身体は簡単に折れてしまう。
しかしクルーエルは耳を貸す様子は全く見せない。いつもと変わらない、ぼんやりとした瞳で肉塊を見据えていた。
それどころか彼女は自身のスカートをたくし上げた。その行為に恥じらいの感情は一切見えてこない。
露になる彼女の下半身。病的なほどに白く細い脚。下着と……枝のような太ももに巻き付けられた革製のバンド。
そしてバンドにはナイフが一本ぶら下がっていた。
クルーエルはナイフを引き抜く。幼い少女が持つにはあまりに武骨な鈍い鋼。
彼女はどこからか取り出した白いホッケーマスクを被り、その顔を隠す。
瞬間、そこにいた少女は、少女の形をした得体のしれない何かに雰囲気を変えた。
「………」
固唾を飲むファニー。
街灯がぼんやりと照らす夜の路地裏。吹く風がクルーエルのワンピースの裾をはためかせる。それと共に彼女の胸元、そこに刻まれたⅩⅢの文字が見え隠れした。
「クルーエルさん、危険ですよ。あんなの、親指姫とトロールの体格差ですからね」
クルーエルはファニーの忠告を聞き入れる様子は見せない。
彼女はナイフを逆手に持ち、そして……構えるでもなくただそこに立つ。それだけだった。
見るからに隙だらけ、無防備な姿。
「え……何もしないんですか!?」
何をする様子を見せないクルーエルに焦るファニー。そうこうしているうちに肉塊は容赦なくこちらへと近づいてきた。
距離はもうすぐそこ。数歩の位置まで来ている。
距離が縮まる度、その醜悪さがより鮮明に。否が応でも顔をそむけたくなる。
「ん~……」
しかしファニーは目を細めて異形を凝視した。気になることがあった。
醜く膨らんだその顔だが、どこか見覚えがある。しかもつい最近だ。
だが彼女がその引っ掛かりを解消するよりも前に、肉塊が目の前に。
肉塊の視線はクルーエルの方へ向く。
「クルーエルさん、来ます!」
ファニーが叫ぶのと同時に、肉塊はクルーエルに手を伸ばした。彼女につかみかかろうと勢いよく、ウインナーのような五本の指を広げて。
しかしクルーエルがナイフを持つその手を振り上げることで、肉塊の腕を振り払った。……いや、切り払った。
たかがナイフ一本。それを持つのは小さな少女。だが、彼女の一振りは肉塊の腕を深く傷つけた。
ボタボタと腕から流れ出る黒い血はまるで漏れ出したオイルのよう。ドロドロと滴り地面を汚していく。
あんな見た目ではあるが、ちゃんと痛覚はあるらしい。腕を抑え、痛みに呻く肉塊の咆哮。
身体の芯まで揺さぶるような重低音に、たまらずファニーは耳を抑える。
しかしクルーエルの方はまるで音なんか聞こえないと言わんばかり。平然な様子でそこに立っていた。
よろめき後ずさりをする肉塊。小さな少女からの予想外の反撃に身の危険を感じたのか、距離を取ろうとする。
クルーエルは体制を低くし、苦しみに悶える肉塊に向かって駆けだした。そして……跳ねた。
クルーエルと肉塊の体格差は天と地ほど。彼女が背伸びをして手を伸ばしたところで肉塊の頭には届かない。
しかしクルーエルの跳躍は、肉塊の頭上をはるかに超えるもの。羽のように軽やかに、高く。
異常な身体能力を見せつけるクルーエル。跳躍の頂点に達した時、彼女はまるで祈るように手を組み、ナイフの切っ先を地面に向けるよう握りなおす。
跳躍の勢いがなくなった彼女は自然の摂理に従い地面へと落下。しかしその先は地面ではなく……肉塊の頭部。
そして……落下の勢いを乗せたまま、肉塊のうなじに辺りにナイフを突き立てた。
短い悲鳴を上げる肉塊。
クルーエルは肉塊の肩を踏み台にもう一度跳躍。その勢いでナイフを引き抜いた。
同時に重油が噴き出したかと思うほど、真っ黒な液体が噴き出した。
肉塊は声を上げることなく、その鈍重な身体を地面へと、小さな地響きと共に倒れ伏す。
「……お見事」
軽やかに着地をするクルーエルに、ファニーはそうとしか言えなかった。
振り向くクルーエルは仮面を外す。その表情はいつもと変わらず、どこを見ているのかわからないぼんやりとしたもの。およそ今しがた生き物を殺したとはとても思えない。
「クルーエル(残酷)の名前の通りですね」
地面に転がる文字通り肉塊に視線を向けながら、ファニーは小声でつぶやく。
『アビス』を相手にしたというのに返り血一つ浴びていない、白いままのクルーエル。少女としてその力はあまりに異質であり、そのためらいのない心はあまりに残酷。
だからこそファニーは彼女に興味を持つ。
もっと彼女のことを見ていたいが、今は優先順位が違う。
「……で、これが今回の『アビス』ですか」
ファニーは肉塊を確認する。ブクブクに膨らんだその姿はまるで水死体のようにも思えた。異臭はしないはずなのに、醜さのあまり腐臭が漂っているように錯覚してしまう。
彼女は顔をしかめながら、つま先で肉塊の頭部を小突く。
原型が分からないくらいに肥大した顔をもう一度よく見る。先ほどから感じる引っ掛かりの正体を探ろうとして……。
その正体はすぐに分かった。
「あ、この顔。被害者の男性です」
ファニーは声を上げると同時に、ポケットにしまってあった写真を取り出す。依頼主の恋人、猟奇的な死の被害者である男性が、頭を潰されて死んでいる写真。
肉塊も写真の男性も顔が別々の意味で崩れてしまっているが、重ね合わせてみてみれば一つ一つのパーツの作りがよく似ていた。特に目の形なんかは未だに面影が残っている。
偶然として片付けてしまうにはあまりにそっくり。
「どうしてこんなことが……双子とか、兄弟というには……ちょっと無理がありますね」
ファニーは顎に手を当て思考を巡らせた。しかも彼女の疑問はそれだけではない。
「それからもう一つ、コイツが犯人だとしても、やはり『アビス』の痕跡とは結び付かないんですよね……」
小瓶に入った、未だ蠢くゲソと肉塊を見比べる。双方『アビス』が絡んでいることは明らかだが、別物にしか思えない。
「ちょっと、詳しい人に確認を取ったほうがいいかもしれま――」
しかし、ファニーの言葉は途中で止まった。
肉塊の頭が蠢いたのだ。まるで内側に何かいるかのように。
「……!」
反射的にファニーは飛び退いた。
肉塊の頭部の蠢きは徐々に大きくなり……爆ぜた。飛び散る肉片。ビチビチと水揚げされたばかりの魚の群れのように。赤紫色が辺り一面に散らばる。
なにより、写真で見た男性の猟奇的な死の写真とそっくりな光景が、目の前に広がった。
それと同時に、ファニーが抱いていたそれまでの疑問のほとんどが、まるでくみ上げたパズルが一枚の絵を示すかのように解消されていくのを感じる。
「なるほど、前提が違いましたか」
ファニーの口元は笑顔を浮かべていたが、額に冷や汗が垂れる。
「てっきり外部からの力によって潰されていたと思っていたのですが、まさか内部からの破裂とは……」
目の前の光景を目の当たりにして、ファニーは顔をしかめる。
男性の猟奇的な死は、目の前の肉塊が男性の頭部を潰したせいだと思っていたが、本当は違った。男性の内側にいた『アビス』が、外に出てきたため爆ぜたせいだったのだ。
「で、これが今回の『アビス』。その本体……ですか」
肉塊の頭部から這い出てきたのは人の形をしていた。
しかし血と粘液にまみれたその身体は人というにはあまりに不完全。黒い瞳だけの目、血管の透けた毛が一本も生えていない皮膚。小さな身体に対して異様に発達した頭部。何となく胎児を彷彿とさせる見た目だった。
しかしファニーは瞬時にその胎児が『アビス』としていかに危険かを悟る。身体の芯が一瞬にして凍るような寒気。
「なんか呟いて……いますね」
耳を澄ませれば聞こえる。呻くように低く、それでいて賛美歌のように高い呟きの声。
知らない言語体系の言葉を延々と口にし続ける胎児。
何を言っているかはわからないが、単語を紡ぐ速度が以上に早い。それに呼応するかのように胎児の頭上の空間が歪んでいった。
「えー……あたしの想像と全然違ったんですけど。だいぶやばいですね、コレ」
歪みは徐々に大きくなり、空間に黒よりも深い穴をあけてく。このままいったらどうなってしまうのか。ファニーの背中に冷たい汗が流れる。
「どうしますクルーエルさん。逃げます?」
どうにか平常心を保とうと、のんきな口調で隣にいるクルーエルにファニーは問いかけた。
「だめ」
しかしクルーエルは断りの言葉を口にすると同時に、前に駆け出していた。再び仮面を付ける。
「あ、クルーエルさん!」
ファニーが制止する間もなく、クルーエルは胎児に肉薄。首筋めがけてナイフを握る手を伸ばした。
しかしすんでのところでクルーエルはその手をひっこめる。すぐさま後ろに飛び退き、胎児との距離をとった。
胎児が歪めた空間から、何かが飛び出してきたのだ。
それはゲソのように細長い触手だった。
「これですか、『アビス』の痕跡として残っていたものの正体は」
ファニーは叫んだ。彼女が小瓶の中に入れた『アビス』の痕跡と特徴が一致している。
あの胎児が呼び出したものだったようだ。
空間から伸びる触手は鞭のようにしなり、クルーエルへと伸びる。
クルーエルは姿勢を低くし、触手を右へ、左へと避ける。空振り、触手が地面を叩くとその場所に小さくひび割れができていた。
不規則な触手の動きに怯む様子もなく、クルーエルは再び胎児へと接近。
もう一度、クルーエルは胎児めがけて腕を伸ばした。抵抗するかのように、触手も彼女へと鋭く向かう。
しかしクルーエルのナイフの方が一瞬早い。触手が彼女の目の前で動きを止めた。わずかに、クルーエルの髪が切れ、落ちた。
胎児の首にナイフはあっさりと突き刺さる。声を上げる間もなく数回痙攣したのちに胎児は動かなくなった。
それと共に頭上にあった空間の歪みは急速に収束していく。触手もまた、空間の歪みに呑まれ消える。
クルーエルはナイフを引き抜き、振り払う。ナイフについた血が半円状に飛び散り、地面に弧を描いた。
とどめと言わんばかりにクルーエルが胎児の頭を踏み潰すと同時に、歪みは完全に消失。何もないが残る。
「うわ、容赦ないですね」
クルーエルの念いりっぷりに苦笑を浮かべるファニー。
言われたクルーエルは気にする様子を見せない。仮面を外しナイフと共にしまっている。
スタスタとファニーの方に歩いてきて、
「終わった……」
「お怪我は?」
「痛くない」
ファニーの問いかけにそうとだけ答えるクルーエル。
彼女の身体には本当に傷一つついていない。『アビス』を相手にして、まずありえない結果。
「ねえファニー。わたしは、生きてる?」
自身の身体を見回しながら質問するクルーエルに、ファニーは笑顔で答えた。
「ええ、ぴんぴんしてますよ」
「そう……」
なぜか残念そうなクルーエル。
そう言えば彼女は痛みを求めていることをファニーは思い出した。しかもただの痛みではなく、『愛のある痛み』。
なんだそれはと首を傾げたくなるような曖昧なものを求める少女、クルーエル。
ああ、だから彼女は最初、猟奇的な死に『愛のある痛み』があるか聞いてきたのか。
ファニーは納得したと同時に、肩をすくめる。
「相変わらず変わった人です。ま、あたしが言えた口じゃないんですが」
胎児の返り血で汚れたワンピース。赤黒く染まったそれを眺めている。その顔は生き物を殺した罪悪感というよりは、遊んでいたら服を汚してしまい、悲しむ子供のように思えた。
本当に何を考えているのかわからない。だから彼女は愉しいのだ。
「帰る……」
汚れた身体のままクルーエルは街灯が照らす夜闇の中を歩く。
ファニーもついていこうと一歩踏み出したが、立ち止まった。
振り返って、
「さて、この状況。どうやって誤魔化しましょう」
血と肉塊が散乱する辺り一面を見回して、ファニーは大いに苦笑した。
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愉快の少女と残酷の少女:終
なんでも頭が半分つぶれてしまうという凄惨なもの。しかし警察は事故として終わらせてしまったらしい。
その猟奇的な死に、ファニーは『アビス』が関係していると考えた。
そこに幼い少女、クルーエルも加わって調査に向かうと……
「で、どうなったんだ?」
「適当に嘘の情報流して隠蔽しましたよ」
数日後、いつもの喫茶店、いつものカウンター席でマスターの質問にファニーは答える。
あの後ファニーは警察だけ呼んでその場を後にした。きっと警察の方は大混乱になっただろうが、ファニーが流した嘘の情報も合わさって上手く世間には誤魔化してくれたようだ。
騒ぎになったという話は聞こえてこないのが何よりの証拠。
「お前が出会ったのは結局何だったんだ?」
「さあ? あたしもよく分かりません。知っている人からの情報によりますと、人の脳に寄生して成長するタイプみたいですね。高度な知能を備えていて、人の身体から脱皮を繰り返すみたいです」
ファニーたちが最初にあった肉塊は被害者男性から脱皮したものが成長した結果らしい。だから顔が似ていたという。
あんなに膨れ上がっていたのは更なる脱皮の前兆というのが、知り合いの『アビス』に詳しい人の見解であった。
そしてあの胎児が何をしようとしていたのかはわからない。何か恐ろしいものを呼び出そうとしていたことは察しが付くが、今となってはどうでもいい。
「そんなものと被害者にどんな繋がりが……」
「知りませんよ。どこで寄生されたのか。それとも被害者が発端だったのかはあたしの知るところではありません」
本当に興味がなさそうに答えるファニー。彼女にとってあの『アビス』は終ったもの。それに被害者の男性がどのように関わっていたのかはどうでもいいことだった。
マスターもそれをわかってか、『アビス』関してはそれ以上聞いてこなかった。
「依頼者にはなんて?」
「ありのまま伝えましたよ。見つけましたが既に死亡と」
「それで納得したのか?」
「さあ? そこまでは知りません」
ファニーは依頼主との女性のやり取りを思い出す。
女性の表情は悔しさや悲しさ、やるせなさの感情が入り混じっていた。しかし同時にどこか安心したような……解放されたような感情が伝わってきた。
ただやはり、ファニーにとってはどうでもいいことだった。
彼女はココアを飲み、一息つく。それからぼんやりと天井を眺めながら言葉を続けた。
「なんにしても、これで解決ですよ。クルーエルさんのおかげで」
「あの子のおかげで解決か……」
解決したというのに、マスターは渋い表情をしている。クルーエルを『アビス』に巻き込みたくないマスターからすれば、当然の反応だろう。
「あの子は特別なんでしょうね。だから面白いんです」
ニヤリと、意地の悪そうな笑みを浮かべるファニー。
「なんの話してるの?」
噂をすれば、いつの間にかクルーエルがファニーの隣の席に座っていた。彼女はファニーたちの様子を不思議そうな表情で首を傾げて見ている。
「クルーエルさん。頑張ったクルーエルさんにマスターがクレープおごってくれるそうですよ」
「あ、おまえ! ……まあ、いいけどな」
肩をすくめながら、マスターは後方の冷蔵庫を開ける。いくつかの材料を取り出し、クレープを焼き始めた。
焼いた生地を皿に置き、その上に生クリームを塗っていく。その上に焼いた生地を重ねて……彼は手際よくそれを繰り返した。
「ほらよ」
そうしてできあがったクレープはまるで山のよう。間に挟まる生クリームもたっぷり、甘いミルクとバニラの香りを漂わせている。
「相変わらず繊細さの欠片もない、豪快なお菓子作りですこと。しかも死ぬほど甘いですからね、これ」
「うるさい、ほっとけ」
言いたい放題なファニーに、マスターは不機嫌に唇を尖らせた。
彼はクルーエルの前に山のようなクレープがのった皿を置く。
ファニー曰く死ぬほど甘いと言われるクレープを、クルーエルは黙々と食べ始めた。
相変わらず何を考えているのかわからない、ぼんやりとした表情の彼女であったが、心なしか幸せそうに見えた。
終
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