恋の駆け引き after OPENING (しおり@活字は飲み物)
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《1》研究会 in 801号室
秋の気配を感じるある日の午前、俺は今、付き合い始めたばかりの彼女の部屋に向かっている。
三段リーグが終わり、イベントやら取材やらがやっと落ち着いてきたので、今日は久しぶりに銀子ちゃんの研究部屋で研究会をする予定だ。
一度は取り上げられた合い鍵もその約束をした時、返してもらえた。急に行かない、行く時は事前に連絡するという条件付きで。
封じ手を開いて大分経つが事前に約束をして研究部屋で会うのは今日が初めて。こ、これが初のおうちデート…になるのかな?
デートなら色々なところに遊びに行きたいところではある。でも、連日の報道で今まで以上に世間からの注目を浴びている『浪速の白雪姫』が街中を不用意に歩くのはデートでなくても非常に危険だ。その為、近場で落ち着いてデートできるのは今のところ銀子ちゃんの研究部屋くらいしかない。
最初に研究部屋に行った時を思い出して、途中でお昼用に寿司と飲み物を購入。あの時は銀子ちゃんを膝に乗せて寿司を食べさせたんだっけ。「あーん♡」もいいけど、研究をしながらなら、あっちの方がいい。
彼女の部屋にお呼ばれしたからには必要になるかもしれないオトコの
しかしである。
がっつき過ぎは良くない。
不用意に序盤から急戦を仕掛けて寄せきれなかったら勝ちを逃す。
同様に、初のおうちデートでがっつき過ぎれば二度と呼んでもらえなくなるかもしれない。
それは困る。非常に困る。
恋人らしいことをしたい気持ちも山々だが、帝位戦が近づいている今は将棋の研究も重要。
プロになったばかりとは言え、三段リーグを突破する中で棋力が飛躍的に向上したと評価され、しかも奨励会での最新研究に精通している姉弟子と研究会ができるのは俺にとっても有益だ。
天使みたいにかわいくて、一緒に将棋ができて、タイトル戦の研究の手伝いまでしてくれる、かわいい彼女………
銀子ちゃんが俺にとってどれだけ稀有な存在かは十分理解しているつもりだ。下手を打って一時的にでも嫌われたくない。絶対に。
よって、本日の作戦は受けを重視した持久戦を選択。銀子ちゃんからの明確な戦法明示がない限りは清く正しく研究会を終えるつもりである。
まあ、それでも封じ手の一つや二つやもう少し先まで…したいところではあるけど…ぐふふ……
*****************
そんな決意と妄想に思いを馳せていたら、あっという間に目的地に到着。合い鍵を使ってオートロックを抜け、エレベーターで八階へ。
ピンポーン!
もうすぐ着くと連絡してあったから、インターホンで確認もせずパタパタと廊下を進んでくる足音が聞こえる。
ガチャ
ドアが開いて、白い子猫が顔を出した。
「どう………も?」
「うん」
銀子ちゃんは俺の顔を確認すると、そのまま踵を返して部屋の中に戻っていった。けど、俺は開けてもらったドアを辛うじて押さえたまま一歩も動けなくなっていた。
なぜなら、銀子ちゃんが見慣れない服を着ていたから。
あの服はなんだ?
ルームウェア?
なんだか白くてモコモコして柔らかそうなパジャマみたいなの着てるけど。もう秋口だからか上着は長袖だけど、下は見えるか見えないかの丈のショートパンツだよ?靴下もモコモコしたのはいてるけど膝上までのニーソックスだよ?
つまり太ももだけ生足だよ??
俺あのふわふわしたかわいい生き物膝に乗せるの?
しかも彼女なの?
確実に死ぬよ、理性が。
即死魔法じゃん。
部屋に入る前からすでに詰んでない!?
中々入ってこない俺を不審に思ったのか、廊下の途中まで進んでた銀子ちゃんがくるっと振り返る。反動でフードの紐の先のポンポンが揺れる。
なんだこのかわいい子……
萌え殺す気か!?
「なに?」
「い、いえ」
「入って。早く」
「お、お邪魔します…」
入室を促されてギクシャクと玄関で靴を脱ぐ。廊下をのろのろ歩いて時間を稼ぎながら考える。
これはあれだ。
『ロリコンを殺す服』と同様の破壊力だ。でも銀子ちゃんはその手の服をリサーチして買うキャラじゃないと思ってたんだけど……
か、彼氏ができて変わったの?変わるの早すぎでは!?
部屋に入っても動揺を隠せない俺は、不審に思った銀子ちゃんに問い質されてしまった。
「八一、さっきからどうしたのよ?」
「そ、そういう服、初めてみるなと思って…」
「ファッション雑誌の対談取材受けたらくれた。ルームウェアで有名なブランドの最新作なんだって。肌触りいいから部屋着にしてる。……似合わない?なら着替え…」
「めっちゃ似合ってる!かわいすぎて目のやり場に困ってるだけ!!」
「ふーん……」
しまった!!
先手を取られた上に、序盤の主導権を握られてしまった。しかもこのふわモコ銀子ちゃんを膝に乗せずに済む千載一遇のチャンスを逃したっ!!
*****************
話題を変えねば…
とりあえず持ってきたビニール袋を床に置いた。
「お昼に食べれる様に寿司買ってきましたよ。とりあえず飲み物も」
「ありがと。気が利くじゃない」
「それにしても未だに何もないんですね」
「三段リーグ終わってからは取材やイベントばっかりでこの部屋にも全然来れてなかったから…」
「確かに連日テレビに出まくりですもんね。毎日見てるから久しぶりな感じがしないくらいですよ」
「……ずるい。私はやいちに会えなくて…その……寂しかったのに……」
や、やめて!!
シャツの裾つまんでうつむきながらそんな素直な感じのこと言わないで!
「いや、俺だって寂しくなかった訳じゃないよ?だからこの時期だけど研究会しようって誘った部分もあるわけだし…」
「それは、分かってるけど…」
い、いかん。
これじゃあ、研究会を始める前からそういう雰囲気になっちゃう!
「な、何にしても、将棋に集中する為にも冷蔵庫位あった方がいいんじゃない? 食べ物は出前で済むかもしれないけど、飲み物一々買いに行くの面倒でしょ」
「確かにそうね」
「これからここで一緒に研究会するなら俺も使うことになるし、必要そうな物買ってあげるから」
「さすが金持ち。気前がいいわね?」
「いや、15でマンション買ったやつに言われたくねーし」
「せっかくだから、高〜い家具とか買ってもらおうかしら?」
「ここは将棋の研究部屋でしょ?ちゃんとした家具買うなら住む場所決まってからでいいんじゃない?ここのは長時間研究しても体の負担にならない程度の必要最低限のものがあれば」
「へ!? す、住む場所って……気が早いわよ………まだ……」
ん? なんで赤くなってるんだろ?
「でもなぁ〜今姉弟子と家具屋とか家電量販店なんか行ったら即バレするだろうしなぁ……とりあえず冷蔵庫だけでもネットで注文するか〜」
今はなんでもネットで注文、家まで配達してもらえる時代。有名人な女の子の一人暮らしで配達員さんを部屋の中に上げるのはちょっと心配だけど、受取りの時俺が立ち会えば問題ないかとあれこれ考えつつ、手元にあった銀子ちゃんのタブレットの画面を無意識に立ち上げた……ら、ロック画面に俺がいた。
「????」
俺が将棋指してる。
おれ?
俺だな。
なんで???
「キャーーーーーー!!!!」
画面を凝視していると悲鳴と共にすごい勢いでタブレットを引ったくられた。
「こ、これは!!その……将棋!将棋が強くなるジンクスで!!」
タブレットを抱き抱えながら、耳まで真っ赤になる銀子ちゃん。
「俺の写真が??」
何かの写真を待ち受けにすると願いが叶う的な?竜王ってそんなご利益あるの??
「な、なんでもない!忘れろっ!!」
「忘れろって言われましても…」
そう言えばさっきの写真、俺が駒持って打つ瞬間だったけど、もしや俺の右手コレクションを待ち受けにしてたの?それが将棋強くなるジンクスって、この子どんだけ俺のこと好きなのさ?まぁ俺だって人のことは言えないけど。
そんなことをつらつらと考えていたら、あたふたとタブレットの設定を変更していた銀子ちゃんと目があって、頭の中で考えてることがバレた。
「に、にやにやするな〜!!」
*****************
先手のミスで序盤の劣勢は挽回できた。これは攻撃の主導権を握るチャンス!
「とりあえず、研究始めましょうか」
「そ、そうね」
俺はあぐらにした足の位置を整えると銀子ちゃんに向かって両手を広げて言った。
「はい、どうぞ」
「な、なによ?」
「何ってここで研究会やる時は俺を椅子にするんでしょ?早く座ってよ」
「っ!! 〜〜〜うう〜!!」
お、恥ずかしがってるな。
もじもじしてるふわモコ銀子ちゃんはそれはそれで破壊力抜群ではあるけど、自分から誘導する分には受けきれる自信がある。
と言うか、向こうから不意打ちで来られたら詰んじゃうから!
何が詰むかって?
俺の理性だよ!!
銀子ちゃんはしばらく
うーん、じれったいなぁ〜〜
ええい! もう付き合ってるんだし、これくらいは許されるだろう。
試しに後ろからお腹の辺りを両手で抱きしめてみた。
「ひゃっ!」
は〜〜癒される〜。
久しぶりの銀子ちゃんの感触と香り。会えても中々ぎゅっとまでは出来なかったからすごく久しぶりに感じる。元々ほっそりしてるのに、何だか前より細くなった気がするのが心配だけど。
抱きしめた時に触れたルームウェアは想像以上に滑らかで柔らかくて、ずっと撫でていたくなるような心地よさだった。猫を飼ったことないけど、こんな肌触りなのかな?
もうちょっと力入れちゃお。
「ちょっと!」
「胸には触ってないでしょ?」
「で、でも、触りすぎ!」
「これくらいいいでしょ?」
「だ、ダメったらダメ〜〜!!」
銀子ちゃんはジタバタしながら俺を振り払おうと手を伸ばしてきた。手と手が触れ合った瞬間、今まで感じたことのない衝動が電流みたいに流れて、俺は思わず抱きしめていた手を離した。
銀子ちゃんも俺の反応にビックリしたようで固まっている。
何だかよくわからないけど、肌が直接触れ合うのは危険。
理性が詰んじゃう…
将棋! 今日の本題、将棋の研究に切り替えよう!
「ほ、ほら前回はこの辺りまでやったから、とりあえずその続きから始めましょ!」
「う、うん」
この後は二人とも無理やり意識を切り換えて、将棋の研究に集中した。
*****************
「ふぅ〜。大分進みましたね。こんな時間か」
「お腹すいた」
「はいはい。寿司食べますか」
「うん」
銀子ちゃんはさっきの椅子の件で学習したのか、俺が寿司を食べさせようとするのにはあまり動揺を見せなかった。むしろ主導権を奪い返そうと思ったのか、しなくてもいいネタの指定までしてきた。
「マグロ」
「分かってますよ。その次はサーモンでしょ」
俺はちょっとカチンときたので、強気で攻めてみることにした。前回はなるべく接触しないように、寿司を放り込む感じで食べさせてたけど、今回の方針はあえての「あーん♡」のスプーン無しバージョンだ。ギリギリまでちゃんと口に入れてやる!!
「はい、あーん♡」
俺は寿司の真ん中辺りを摘んで口の中に入れて、銀子ちゃんが口を閉じる前に指を離す作戦でいた。
ところが……
「あ………む??」
銀子ちゃんの方も
その結果、引き抜くタイミングもなく寿司を持つ親指と人差し指の先が生暖かいもので包まれる。
寿司と一緒に指まで食われた。
歯には当たってないけど口内の温かさと柔らかさがダイレクトに伝わってくる。
やばい!!
慌てて寿司を離して指を口から引き抜いたけど、それはそれで別の問題を発生させた。
チュッ
「「っっ!!」」
唇をすり抜ける感触と共にキスした時みたいな音が聞こえてきて……
二人揃って悶絶した。
詰むとか詰まないとかとは別次元の問題。恥ずかしくて頓死するレベル。
肌に触れたら詰む危険性が高いのに、まさかの口の中、唇だったからか理性も気絶していたのかギリギリセーフだったけど、非常に危なかった。
銀子ちゃんは銀子ちゃんで俺の右手が好きって言ってたのにその右手が口の中に入ってきたわけだから平静でいられるはずもないだろう。
*****************
プロにあるまじき初歩的ミス。盤面の優劣が判断つかない混沌状態に陥ってしまった。
この状況は今の俺たちには刺激が強すぎた…けど、一度始めてしまったことを途中で止めるわけにもいかず、お互い前回よりなるべく触れ合わない様に注意しながら、研究そっちのけで黙々と食べ進めることに……
そんでまぁ、お互い遠慮しあってたら、いつかはこうなるよね。
「「あっ」」
食べかけの鉄火巻きを落とした。
幸いタブレットの上にもショートパンツの上にも落ちなかったんだけど、俺的には最低最悪の場所に落ちた。つまり銀子ちゃんがぴったり閉じた太ももと太ももの間…
しかもとっさにどこに落ちたか確認しようとして銀子ちゃんの肩越しに足元を覗きこんだから顔がめっちゃ近い。
悪手だ。
やっちまった。
心臓がドクドク鳴る音を感じながらも、次の一手を高速で考える。
1、俺が取る。
どう頑張っても取る時太ももに触っちゃう。詰みだ。
2、銀子ちゃんに取ってもらう。
でもどうやって頼む?太ももに触ったら詰みだから自分で取って? 言えるわけない。
どっちが最善手なのか、他にいい手はないかと無意識に長考に入っていたら。
「ち、ちょっと、ちゃんと口に入れてよ」
銀子ちゃんが自分で拾ってくれた。
やれやれ、助かった。なんとかこの危機的局面を打開したぞと気を緩めたのが運の尽きだった。
「八一、今度は私が…」
銀子ちゃんが急に俺の方に振り向こうと体の向きを変えたせいで、元々近くにあった銀子ちゃんの頬に俺の唇が当たってしまった。突然飛び込んできたふにっとした柔らかい感触とすべすべした肌触りに驚いて息を飲んだ瞬間、鼻腔いっぱいに銀子ちゃんの甘い香りまで飛び込んできて、頭の中が真っ白になる。
あ…………………詰んだ。
まごうことなき一手詰みである。
俺の理性は潔く投了した。
「銀子ちゃん………参りました」
「へ?」
翌朝俺は、冷蔵庫とセミダブルのベッドを注文した。
ふわモコ銀子ちゃんが着ているルームウェアのモデルは『ジェラート・ピケ』というブランドです。
二話は銀子ちゃん視点。
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《2》おうちデート in 801号室
秋の気配を感じるある日の午前、私は今、付き合い始めたばかりの彼氏が部屋に来るのを待っている。
三段リーグが終わり、イベントやら取材やらがやっと落ち着いてきたから、今日は久しぶりに私の研究部屋で八一と研究会をする予定。
一度は取り上げた合い鍵もその約束をした時に、もう一度渡した。急に来ない、来る時は事前に連絡するという条件付きで。
封じ手を開いて大分経つけど、事前に約束をして研究部屋で会うのは今日が初めて。こ、これが初のおうちデート…になるのかな?
やっと名実共にデートができるようになったんだから、遊びに行きたい場所ややりたいことはたくさんある。でも、連日の報道で今まで以上に世間からの注目を浴びている『浪速の白雪姫』が街中を不用意に歩くのはデートでなくても非常に危険。八一のアパートは未だに小童の占領下に置かれているし、近場で落ち着いてデートできるのは今のところ私の研究部屋くらいしかない。
『初めてのおうちデート』と言っても、メインはタイトル戦に向けた研究会。
帝位戦が近づいている今、八一は本当だったら将棋の研究に集中しなければいけない時期に入っている。普段なら過保護なくらいに面倒を見ている弟子の引率すら桂香さんに頼むほどだ。
そんな重要な時期なのに、プロになったばかりの私と研究会をしたいと言ってもらえて、その場では素っ気なくしちゃったけど、本当は涙が出そうなくらい嬉しかった。私に差し出せるものなんて奨励会での最新研究くらいなものだけど、少しでも八一の役に立ちたいと思う。
でも、やっぱり恋人らしいことも少しはしたい。あの鈍感で唐変木の将棋バカは、放って置いたら普通に将棋の研究だけして誰もいないアパートにさっさと帰りかねない。少しでも長く一緒にいられるように、研究会の邪魔にならない程度に今までとの違いをアピールしないといけない。
その為に、今日はとっておきの研究手を用意した。すごく恥ずかしいけど、がんばるつもり。
あ、あと、せっかくの機会だから、キスの一つや二つやもう少し先まで…できたらいいなとは思う。
そういえば、キスの少し先って何するんだろう?
ディ、ディープキス?? それもキスか。
それより先ってなに?
ともかく、今日の作戦は先手必勝、研究手で序盤の主導権を握って、そのまま長期戦に持ち込みたい。
それと、いざと言う時の為に一応、明日も小童の邪魔が入らない日程を指定しておいた。い、いちおうだもん。
*****************
ピンポーン!
もうすぐ着くと連絡があったから、インターフォンを鳴らした人は決まってる。パタパタと廊下を進んで玄関に向かった。
玄関にはすぐ着いたけど、そのまますぐにはドアノブに手をかけられない。ドアを開けるだけなのにすごく緊張する。深呼吸を一つしてからドアを開けた。
ガチャ
ドアを開けると待ち人が立っていた。
「どう………も?」
「うん」
『いらっしゃい♡』とかかわいく言えればいいんだけど、本人を目の前にするとどうしても言葉足らずになる。次回以降の課題にしよう。
早く二人っきりになりたくて、ドアを押さえた八一を置いて踵を返して廊下を戻る。
けど、いつまで経ってもドアが閉まる音がしない。
どうしたんだろう?
振り返って八一を見ると、ドアを押さえたまま、ぽかんと口を開いてこっちを見てる。
「なに?」
「い、いえ」
「入って。早く」
「お、お邪魔します…」
ギクシャクと玄関で靴を脱いで、のろのろ廊下を歩いてくる八一は、部屋に入っても私の方を見ない様にしてる。なんでだろう…
渾身の研究手が刺さらなかったんだろうか。
「八一、さっきからどうしたのよ?」
「そ、そういう服、初めてみるなと思って…」
今日の服装はフードの紐の先にポンポンがついたパーカー、パーカーの裾から少ししか見えない丈の短いショートパンツ、膝上まであるニーソックス。三つともホワイトのふわふわモコモコした肌触りのいいルームウェア。
今日の研究手だ。
一応、研究手に反応は示してくれた。素直に褒めてくれれば、肌触りいいんだよって触らせてあげなくもなかったけど。
仕方ない、プランBでいこう。
ふわモコなパーカーの裾を引っ張りながらこう言ってみる。
「ファッション雑誌の対談取材受けたらくれた。ルームウェアで有名なブランドの最新作なんだって。肌触りいいから部屋着にしてる。……似合わない?なら着替え…」
「めっちゃ似合ってる!かわいすぎて目のやり場に困ってるだけ!!」
「ふーん……」
よし、刺さってた。
恥ずかしいけどがんばった甲斐はあった。おかげで真っ赤になって素直な感想を捲し立てる珍しい八一が見られた。
先手は取れたし、研究手が刺さって序盤は優勢。
*****************
ファッション雑誌の対談取材なんて普通なら絶対受けない。今回は親会社が棋戦のスポンサーで断りづらくて、桂香さんにお勧めされて読んだことある雑誌だったから仕方なくOKした。
でも、対談相手も編集者も数分話せば私のこと、将棋のことをきちんと事前に調べてきてくれたことが分かった。ここ最近取材やインタビューを受けまくってたせいで、いい仕事をするかどうかは大体分かるようになってたから。
対談相手はハイティーン向けのファッション雑誌で人生相談的なコラムを書いている人。「高飛車」とか「先手必勝」とか将棋から生まれた慣用句を、普段の生活や恋愛に絡めて話すと言う企画で、将棋のことを話していればよかったから初対面の人でも比較的楽に話せた。前に研究会が恋愛に似てるなって思ったことを話したらなんだか盛り上がってくれた。
将棋と恋愛なんてかけ離れた物だと思っていたけど、恋の駆け引きなんかに案外応用できそうな気がした。
モデルをしないかと言うお誘いは丁重にお断りしたけど、こんな対談ならまたやってもいいかも。
カメラマンの到着が遅れて、待たせて申し訳ないからと倉庫の様な部屋で好きなものをあげると言われた。発売前の商品なんかが販促のためにたくさん送られてくるらしい。スタイリストもすると言う編集者がどんどん私に似合いそうな服を持ってきてくれて、今日着てるルームウェアもその時もらったものだ。取材ばかりで大変だろうけど、お家の中でくらいはリラックスしてねと。
貰った服は原稿と一緒に自宅に送ってもらい、対談相手が出版した中高生の人生相談コラムをまとめた本だけ持ち帰って、帰りの電車で読んでみた。
そしたら、私が今八一との関係で悩んでるようなことに、さっきの対談相手が答えてる!
熟読しすぎて電車を降り過ごした。
例えば…
Q 部活の後輩と付き合うことになりました。二人の時も、先輩モードが抜けず、素直に甘えられません…(ミサ・17才)
A 二人の関係が今のままで心地いいならいいけど、ミサさんは変えたいのよね? じゃあ、二人の時だけ彼を年上だと思って接してみたら? 自分も甘えやすくなるだろうし、メリハリがついて彼も喜ぶかもね。
確かに、あいつは何だかんだ言って要領いいから『姉弟子』と『銀子ちゃん』を上手いこと使い分けてるのよね。じゃ、じゃあ私も『八一』と『やいち』を使い分ければいいの?でも、ど、どうやって!?
Q がんばっておしゃれしても彼が全然褒めてくれません。他の子にはかわいいとか簡単にいうのに…(なお・16才)
A 男心的に好きだから言えないのかな?「似合う? 似合わない?」とかYESかNOで答えられる質問するといいわ。後は、会ったら毎回聞くこと! 習慣化させれば自分から言ってくれるようになるわよ。
そういえば、八一のお母さんも『好きな子のことは隠したがる』って言ってたっけ。確かに唐突に「どう?」とか聞くよりも「似合う?」って聞く方がハードル低いかも…毎回聞くのは恥ずかしいな…
絶対できないけど、私も質問してみたい…多分こんな感じになる。
Q 彼が自宅にJSを住まわせてて彼宅デート出来ません…(銀子・16才)
A ロリコン!? 別れなさい!!
こうなるよね……
何にせよ、今日は可能な限りアドバイス通りに年上の『やいち』に素直な気持ちを伝えてみようと思う。
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気を取り直したように、八一は持ってきたビニール袋を床に置いた。
「お昼に食べれる様に寿司買ってきましたよ。とりあえず飲み物も」
「ありがと。気が利くじゃない」
お寿司。最初にこの部屋に連れて来た時一緒に食べたな。でもその後当分会えなくても大丈夫って言われたんだっけ…
「それにしても未だに何もないんですね」
「三段リーグ終わってからは取材やイベントばっかりでこの部屋にも全然来れてなかったから…」
今日の約束をしてからも忙しくて何も準備できなかった。
八一が最初に来た時から、この部屋に新しく導入された家具なんて、押し入れに入ってる夏休みに泊まれるように買った安物の布団一式位だろうか。すごく薄っぺらいから、寝て起きると背中が痛くなる。夏の間はそれでもよかったけど、もうすぐ寒くなるから追加するなり、買い直すなり考えなきゃ。
「確かに連日テレビに出まくりですもんね。毎日見てるから久しぶりな感じがしないくらいですよ」
また、『しばらく会えてなくても全然平気』みたいなことをあっけらかんと言われて噛み付きたくなるけど、それじゃ今までと同じ。
素直な気持ちを必死で絞り出す。
「……ずるい。私はやいちに会えなくて…その……寂しかったのに……」
いくら素直になろうとしてたって、寂しかったから抱きしめて欲しいなんて、そんなこと言えない…まだ…。でも少しでも繋がっていたくて八一のシャツの裾を摘んでみる。
「いや、俺だって寂しくなかった訳じゃないよ?だからこの時期だけど研究会しようって誘った部分もあるわけだし…」
「それは、分かってるけど…」
会えないのを寂しいと思ってほしい。でも会いたかったから研究会するんじゃ八一の役に立てない。それはそれで悔しい。欲張りなのは分かってるけど…
しんみりした雰囲気を振り払うように、八一は話を戻した。
「な、何にしても、将棋に集中する為にも冷蔵庫位あった方がいいんじゃない?食べ物は出前で済むかもしれないけど、飲み物一々買いに行くの面倒でしょ」
「確かにそうね」
「これからここで一緒に研究会するなら俺も使うことになるし、必要そうな物買ってあげるから」
私と継続的に研究会をしようと考えてくれてることが分かって、少し気分が軽くなる。
「さすが金持ち。気前がいいわね?」
「いや、15でマンション買ったやつに言われたくねーし」
「せっかくだから、高〜い家具とか買ってもらおうかしら?」
冗談を言ったつもりだったのに、八一は至極真面目そうな顔して、唐突に角を成り込んできた。
「ここは将棋の研究部屋でしょ?ちゃんとした家具買うなら住む場所決まってからでいいんじゃない?ここのは長時間研究しても体の負担にならない程度の必要最低限のものがあれば」
「へ!?す、住む場所って……」
二人の新居ってこと!?こいつそんなことまでもう既定路線で考えてるの!?し、しかも、『家決まったらちゃんとした家具買おう』って、下手したらプロ、プロポーズしてるようなものなのに……
そもそもまだ未成年だってこともあるけど、女はともかく、酒もタバコも博打も興味のない将棋バカのお金の使い所なんて将棋盤位しかない。
私がこの研究部屋を買えたくらいなんだから、八一の有り余る貯金を考えればファミリータイプのマンションでも、一戸建てでもポンと買えてしまうだろう。八一の中では『いつでもできるけど、まだしてない』位の感覚なのかもしれないけど…
思っていたよりも二人のことを現実的に考えてくれているのが分かって、嬉しいけど恥ずかしい。体温が上がって頬が真っ赤になっていくのがわかる。
そんな爆弾発言にも受け取れることを言っておきながら平然としてるところを見ると自分がプロポーズもどきをしたってことは自覚してなさそう。
バカやいち……
私は弱々しくこう呟くしかなかった。
「気が早いわよ………まだ……」
「でもなぁ〜今姉弟子と家具屋とか家電量販店なんか行ったら即バレするだろうしなぁ……とりあえず冷蔵庫だけでもネットで注文するか〜」
そんなことを呟く八一の声を聞きながら、買ってきて貰った飲み物をビニール袋から取り出していたら、喋っていた八一が急に静かになった。
ふと見ると、いつの間にか八一が床に置いてあった私のタブレットの画面を凝視している。
タブレットのロック画面を。
ロック画面。
画面。
ん?
『八一が、タブレットの画面の八一を見てる???』
見られた?
見られた!?
見られた!!!
「キャーーーーーー!!!!」
悲鳴を上げながら速攻でタブレットを引ったくった。
やだやだやだ!!
恥ずかしくて頓死しちゃうぅぅ!!!!
パニックになりながらも、苦し紛れにとっさに思いついた言い訳を並べ立てる。
「こ、これは!! その……将棋!将棋が強くなるジンクスで!!」
タブレットを抱き抱えながら必死で言ってみたけど、自分で言ってても説得力がない。
「俺の写真が??」
当然だけど、冷静に突っ込まれたら反論できない!
「な、なんでもない! 忘れろっ!!」
「忘れろって言われましても…」
なんで変更しておかないの!
私のバカバカバカ!!
己を罵りながら、あたふたとタブレットの設定の変更を終えて、恐る恐る八一の様子を伺ってみたら……
『分かってますよ。俺のこと好きなんでしょ?』って考えてる顔をしてこっちを見てる。
私はもう、こう叫ぶしかなかった。
「に、にやにやするな〜!!」
*****************
せっかく築いた序盤のリードはまさかの悪手で脆くも崩れ去り、あっという間に劣勢立たされてしまった。しかもまだそのショックから回復できてない。
「とりあえず、研究始めましょうか」
「そ、そうね」
主導権を取り返して余裕そうな八一は私に向かって両手を広げて、にっこり笑って言った。
「はい、どうぞ」
久しぶりに見た大好きな笑顔にドキドキして、一瞬何を言われているのか分からなかった。
「な、なによ?」
「何ってここで研究会やる時は俺を椅子にするんでしょ? 早く座ってよ」
「っ!! 〜〜〜うう〜!!」
しまった!
やられた!!
自分で言い出したことだから反論できない!
私、このカッコでやいちの膝の上に乗りにいくの?
自分から??
恥ずかしすぎる!!
しかも密着して研究会なんて集中出来ないじゃない! そりゃ前の時は夏で半袖短パンだったけど、今とは全然状況が違うぅぅ〜〜!!
私はしばらく逡巡したけど、覚悟を決めてタブレットを抱えたまま、八一の膝にストンと腰を下ろした。でも前みたいにもたれかかったりするのは恥ずかしい…だって自分から密着させにいくみたいで負けてる気がする。
それでもバランスよく座れる体勢を探っていたら…
後ろからお腹の辺りを両手で抱きしめられた。
「ひゃっ!」
八一に包まれてるドキドキと安心感。でも前より遠慮がなくなって一体感が増した気がするし、顔も近くにある。
ルームウェアの肌触りがいいのか、お腹の辺りを優しく撫でられてムズムズする。
八一は調子に乗って、さらにぎゅっと力を入れてきた。
「ちょっと!」
嬉しいけど、恥ずかしい!
なのに、八一は余裕そうにこう曰う。
「胸には触ってないでしょ?」
そう言う問題じゃない!
「で、でも、触りすぎ!」
「これくらいいいでしょ?」
『彼氏なんだから』と言外に言われた気がして、それはそうなんだろうけど、まだ心の準備が出来てない。
「だ、ダメったらダメ〜〜!!」
私はジタバタしながら八一の手を振り払おうと手を伸ばした。手と手が触れ合った瞬間、八一の体が静電気が起きたみたいに震えて、バッと抱きしめていた手を離した。
恥ずかしかったからダメって言ったけど、本当にやめて欲しかったわけじゃないのに。
何だかよくわからないけど、嫌がり過ぎた?
また、私がやいちのこと嫌いだって勘違いさせちゃった?
すごく不安になる…
「ほ、ほら前回はこの辺りまでやったから、とりあえずその続きから始めましょ!」
八一が、から元気みたいに明るい声でそう言うので、私も頷くしかなかった。
「う、うん」
この後は二人とも無理やり意識を切り換えて、将棋の研究に集中した。
*****************
「ふぅ〜。大分進みましたね。こんな時間か」
「お腹すいた」
「はいはい。寿司食べますか」
「うん」
さっきの椅子の流れから八一が前みたいに二人羽織で寿司を食べさせようとしているのは容易に推測できた。
これ以上調子に乗らせてはいけない。主導権を奪い返そうと、私が命令して食べさせてる感をアピールする為、しなくてもいいネタの指定をしてみる。
「マグロ」
「分かってますよ。その次はサーモンでしょ」
ちょっとムッとしたみたい。言わなくったって八一は私の好きな物を覚えてくれてる。長年の教育の賜物だ。
「はい、あーん♡」
案の定、八一は右手でマグロの握り寿司の真ん中辺りを摘んで私の口の前まで持ってきた。
そこで私ははたと我に返ってしまった。
右手。
みぎてだ。
やいちのみぎて。
ほんもののやいちのみぎて。
『本物の八一の右手が目の前にある』
ちょっと待って!
むりむりむり!!
なんで前は平気だったのか分かんないけど、気づいちゃったんだから無理なものは無理!!!
でも、もう止めようがない。ほんとに目の前まで右手が迫ってきて、耐えられなくて私はギュッと目を閉じてしまった。前は口を開けて待っていれば、八一がお寿司を口に放り込んでくれたし、お寿司が入ってきたら口を閉じればいいはず!
「あ………む??」
お寿司が入ってきた感触を感じたから、落とさない様にと少し前のめりになって口を閉じた。
でも、なぜかお寿司以外のものも口の中に入ってきた。
「??」
閉じていた目を開けてみると、視界の下にまだ八一の手がある。
なんで??
え???
お寿司と一緒に指までくわえちゃったの!?歯には当たってないけど口内に八一の指があるのが分かる。
八一が慌てたように指を口から引き抜こうとしたけど、口の中で何かが動く感触にびっくりして、反射的に口を閉じてしまった。そのせいで…
チュッ
「「っっ!!」」
唇をすり抜ける感触と共にキスした時みたいな音が出てしまって……
二人揃って悶絶した。詰むとか詰まないとかとは別次元の問題。恥ずかしくて頓死するレベル。
口の中に残ったお寿司をもぐもぐするけど、味なんて一切分かるわけない。
*****************
プロにあるまじき初歩的ミス。盤面の優劣が判断つかない混沌状態に陥ってしまった。
この状況は今の私たちには刺激が強すぎた…だけど、恥ずかしいから自分で食べるとは言い出せなくて、お互い前回よりなるべく触れ合わない様に注意しながら、研究そっちのけで黙々と食べ進めることに……
そんな感じで、お互い遠慮しあってたら、いつかはこうなるよね。
「「あっ」」
食べかけの鉄火巻きを落とした。
幸いタブレットの上にもショートパンツの上にも落ちなかったんだけど、私的には最低最悪の場所に落ちた。つまり私の太ももと太ももの間…
しかも八一はどこに落ちたか確認しようとしたのか、私の肩越しに足元を覗きこんできたから顔がすごく近くにある。左耳に八一の髪の毛が触れて、くすぐったい!!
ショートパンツにニーハイなんてふわモコしてる割には攻めた格好をしたことを死ぬほど後悔した。
ふ、太ももをじっと見るのやめて〜〜!!
八一はなんでかじっと動かず固まってる。もう恥ずかしくて我慢出来ないから自分で取って食べるしかない。
「ち、ちょっと、ちゃんと口に入れてよ」
前と同じ様なことを言ってみたけど、また食べさせてもらうなんて、むりむりむり。もうお腹いっぱいでなんにも食べられない。
むしろ、今度は私が食べさせる番になろう。向き合って食べればこれ以上事故は起きないだろうし。「あ〜ん♡」をしてあげればきっと主導権も取り返せるし…
「八一、今度は私が…」
そう思って八一の方にくるっと振り返ったんだけど、思った以上に八一の顔が近くにあったみたいで、私の頬に八一の唇が当たってしまった。突然飛び込んできた少し温かい乾いた皮膚の感触。
そういえば、まだほっぺちゅーはしたことなかったな〜と場違いな感想が頭の片隅を横切るけど、それ以外のことは何一つ考えられない。びっくりし過ぎて固まってしまった。
「銀子ちゃん………参りました」
八一がその唇を私の頬に触れさせたまま、いつもより低い声でそう囁いたけど、何を言われているのか分からず私はマヌケな返事をしてしまった。
「へ?」
『参りました』って言われても、今は将棋を指していた訳ではないし、それ以外で明確な勝負をしていた訳でもない。
何を言っているのか聞き返そうとした時には、気づいたら八一の右腕が私の肩を掴んで彼と向かい合わせになるように抱き寄せていて。
いつの間にか八一の左腕が私の膝裏を攫って彼の方へ引き寄せていて。
瞬きしている間にぎゅっと抱きしめられて唇を覆われていた。
何がどうしてこうなったのか。
全く分からないけど、私は勝負に勝って想像以上の戦果を挙げた。らしい。
とりあえず、キスの少し先に何があるのかは、分かった。
翌朝私は、男物のルームウェアとセミダブルのベッド用寝具を注文した。
次回は「キスの少し先」です。
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《3》感想戦 in 801号室【前半戦】
「銀子ちゃん………参りました」
八一がその唇を私の頬に触れさせたまま、いつもより低い声でそう囁いたけど、何を言われているのか分からず私はマヌケな返事をしてしまった。
「へ?」
『参りました』って言われても、今は将棋を指していた訳ではないし、それ以外で明確な勝負をしていた訳でもない。
何を言っているのか聞き返そうとした時には、気づいたら八一の右腕が私の肩を掴んで彼と向かい合わせになるように抱き寄せていて。
いつの間にか八一の左腕が私の膝裏を攫って彼の方へ引き寄せていて。
瞬きしている間にぎゅっと抱きしめられて唇を覆われていた。
え?
え?
八一の顔が目の前にある。
八一の唇が私の唇に覆いかぶさるようにぴったり塞いでいて、体は八一の腕の中に閉じ込められてる??
なんで??
どうして??
混乱状態のまま固まっていると、目の前にいる八一の目がふと開いて、ものすごい至近距離で見つめ合った。
八一はまるで、腕の中にいる恋人に笑いかけてるみたいに優しく目を細めたけど…
この目に似てるの、昔見たことがある…三段に昇段した頃の死にものぐるいで
その瞬間、雷に打たれたみたいに自分が白雪姫なんかじゃなくて赤ずきんだったことを悟った。自ら狼を家に招いた赤ずきんなのだと。
だって、八一の目が『かわい過ぎて、食べちゃいたい』って言ってるから…
それからはもう怖くて、恥ずかしくて、唇が触れ合っている間は一瞬も目を開くことができなかった。
どうしよう、
どうしよう、
どうしよう、
どうしよう…
体はぎゅっと抱きしめられてるし、
目は怖くて開けられないし、
口は塞がれてて声が出せないし、
頭は真っ白で何も考えられないし…
ふと、唇が離れた。
「はぁ、はぁ…」
「ふぅ……」
自分と八一の呼吸音が耳に入って初めて、口づけられている間、自分が呼吸を止めていたことに気づいた。
一息ついた八一は、さっきと同じ低い声で囁いた。
「続けて、いいよね?」
「っ!………」
目を開けて、何かしゃべらなきゃと思ったけど、おでこが触れ合ってる感触があって、目を開けてまた目が合ってしまうのが怖くて躊躇している間に、沈黙を肯定と受け取られて、第二局が開始されてしまった。
最初はあの星空の下でした封じ手の時みたいな触れ合って、熱を移しあうような口づけを繰り返していたのに、段々と早く、強く、深くなっていって。
急に顎を掴まれて、首を傾けられて、反対側に首を傾けた八一の唇が強く押しつけられた。今までよりぴったりくっついた八一の唇の奥から舌がやってきて、ゆっくりと私の唇を舐める。まるで、味見をするように…
首の角度を少しずつ変えて、私の唇を味わいながら、時折私の下唇だけかぷりと咥えて、舐めたり、微かに歯を当てたりする
ああ、きっと『食べたら、美味しいだろうな』って思われてる…
息苦しさと恐怖心から無意識に首を振って八一の口づけから逃れようとするけど、八一は右手で私の頭を抱いて、口づけをやめようとはしなかった。
「っ〜〜!!」
段々と口づけが深くなって、息ができないと抗議の声を上げようとしたけど、唇が覆われてるから言葉にならない。それどころか声を出そうと口を緩めたのを察して、八一の舌が私の口の中に入ってきた。私の舌を見つけると即座に絡めてくる。逃げても逃げても追いかけてきて、強く吸われる。
これも、ディ、ディープキスなの??
前に八一からの求めに応じて一度だけした大人の封じ手とも全然違う。あの時は触れ合って優しく交わす感じだったのに…
息ができなくてもう限界。必死で声を出してみる。
「んんっ!!」
鼻にかかった甘ったるい声が出て、自分の声じゃないみたい。しかもそれを聞いた八一は離してくれるどころか、
わ、私ほんとに食べられちゃうの!?
ああ……でもいま、私、やいちに求められてる…そうなりたいとずっとずっと願ってた…
自分の体の柔らかい部分が凶器を目の前にしていることへの本能的な恐怖と好きな人から情熱を傾けられているという歓びが
声を出した反動で鼻から息を吸い込むことができた。鼻で呼吸出来ることは思い出したけど、だからと言ってそんなの簡単には出来ない。
だって八一の顔がすぐそばにあるんだよ?鼻息荒くするなんて恥ずかしくてできない。
でも苦しい。酸素が足りない。
頭の中が真っ白に染められていく…
息は辛うじて出来るものの、唇を、口内を、舌を八一の思い通りにされて、脳がとろけ始めたみたい。逃げられないように頭を抑えられ、髪の毛をかき分けて頭皮を八一の右手が弄っている。……少し乱暴に。
ゾクっとした何かが頭から背中を伝って足の指先まで駆け下りた。
今のなに?なんなの?
もう無理。とうとう耐えきれなくなって回らない頭で思いつく最後の手段を取る。
ドンッ
ずっと八一の胸の辺りを掴んでいた両手で胸を叩いてストップの合図を送る。これでダメならもう打つ手がない。
八一の舌は名残惜しそうに私の口内をぐるりとなぞってからやっと離れてくれた。
チュッ
さっきのお寿司の時と同じ音が出て、羞恥心でカッと体が熱くなる。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
またすぐに唇を奪われないように八一の胸に顔を埋めながら、懸命に新鮮な空気を吸う。でもその空気も結局私を抱きしめている八一の腕の中のもので、少し落ち着いてきたら八一の体温と匂いを感じてしまい、はっと息を止めた。少し遅れて肺の中まで八一で満たされていることに気がつく。
ずくんと体の奥が熱くなる。
いまの、なに?
キスをやめたのに、呼吸が出来るようになったのに、鼓動の早さが元に戻らない。
私を包み込んでいる八一の体温は私より熱くて、心臓の音もいつもより早く強く脈打っている。
*****************
理性が投了したとは言え、がっつき過ぎた…
なるべくゆっくり深呼吸をして息を整え、まだ荒い呼吸を繰り返す銀子ちゃんの背中を撫でながら、若干反省する。
気持ち良すぎて、銀子ちゃんから肉体言語で静止されるまでキスをやめられなかった。朝まででもしていられそうなくらい。まあ、そんなにしてたら別の我慢が限界になるだろうけど。
誕生日プレゼントに『大人の封じ手』を所望すると決めた時から、キスの仕方とか流れとかそれ以上のこととかを色々研究しておいたけど、実際してみると想像の何倍も気持ちが良くて毎回新鮮な驚きがある。
とろけるように柔らかい唇と、熱くてしっとりした口内、俺に抱きしめられて動かない体とは別の生き物みたいに俺から逃げ惑っていた舌。
俺だって初めて聞く、他の誰も聞いたことがないだろう銀子ちゃんの『甘い声』、今までで一番強く抱きしめたせいで感じた柔らかい体の奥にある細い骨の感触。いつもより濃く立ち昇る香り。
今しているマラソンした後みたいな荒れた呼吸音と胸にかかる吐息ですら俺を無自覚に煽ってくる。
俺の胸に顔を埋める銀子ちゃんを見下ろすとうなじとルームウェアの間の隙間から、白い背中と下着が垣間見えた。たぶん、黒か紺…今日はあそこまで到達できるだろうか。到達……したい。
それこそ定跡ではこのまま上着の中に手を入れてブラのホックを…って感じなんだろうけど、この子の初心さ加減を考えると攻め過ぎな気もする…
攻め過ぎれば、終盤戦に至る前に投了されて試合終了な事くらいは理性が効かなくなっていても分かるから、慎重にならざるを得ない。
これからどうしよう?もう一度キスするか、靴下から行くか。それとも同意を取り付ける為にもシャワーを提案すべきか?
何にしろこの冷たいフローリングに押し倒す訳にはいかないから、敷くものを準備してもらわないといけない。
確か、夏休みはここに篭って将棋三昧だったって桂香さんが心配してたから、布団一式くらいはあるはず。俺は見たことないから多分押し入れの中か…
ふと、視界の端に放り出されたタブレットが入り、やりかけの研究のことを思い出した。
でも今だけは、
そして、去年の竜王防衛戦の時、銀子ちゃんが『タイトルなんていらない』と言っていたことを思い出した。あの時は彼女と釣り合うようになる為にしてきた自分の努力を全否定されたように感じてキレてしまったけど、あの時銀子ちゃんが言いたかったのは、もしかしたらこんな気持ちだったのだろうか。
これからの中盤戦をどう進めるか、一通り候補を洗い出したけど、どれが最善手かは判断がつかない。
それでも何より今は、この腕の中に収まる愛しい存在を一瞬でも離したくない。
膝の上で出来るところまでやってみるか。
*****************
やっと呼吸が落ち着いてきて、今更ながら八一が背中を優しく撫でてくれていることに気がついた。
おちつけ、わたし。
なんでこうなったんだっけ。
そうだ、じこで「ほっぺちゅー♡」しちゃったんだ。
なんで、じこったかとゆうと、わたしがきゅうに、ふりむいたからで。
それは、やいちにおすしを「あーん♡」しようとしてたからで……
………………………………からで?
改めて振り返るとただのバカップルじゃない! は、恥ずかしすぎる!!
そもそも今日は何してたんだっけ…そう! 将棋! 研究会!!
この雰囲気に呑まれてたら、全然研究出来ずに行くところまで行っちゃいそう。い、行くところってどこだろう??
じゃなくて! 話題! 話題を変えなきゃ!!
私はまた急にキスされるのを警戒しつつ、八一の胸からおずおずと顔を上げて事態の打開を図った。
「や、やいち、お、お寿司食べないの?」
「寿司?ああ、大丈夫、いらないよ」
「じゃ、じゃあ、け、研究! 研究の続きは!?」
「今日はもうむり。銀子ちゃんで頭がいっぱい。」
「い、いっぱいって…」
「どうせむりに研究しようとしても、駒の「銀」が銀子ちゃんに見えて手につかないから」
「っ……!?」
「だから、今日は研究は置いといて、めいっぱいイチャイチャしよう?」
八一ににっこりしながら言われて、なんだかすごく魅力的な提案に聞こえるけど、それでいいの?
「え、でも、だってまだこの前の続きしかしてないから、帝位戦の対策は出来てないよ?」
「そっちは自分で出来るから。今日は銀子ちゃんを堪能する。」
「はぁ??」
なにそれ!?
私の棋力じゃタイトル戦の手伝いなんて出来ないって言いたいの!?
それじゃあ、去年の竜王位防衛戦の時と変わらないじゃない!!命がけで三段リーグ突破して
何のために少ない時間をやりくりして三段リーグの記譜を集めたり、昨日ほとんど寝ないで奨励会の最新研究まとめたと思ってるのよ。ほんとは今日会うからそわそわして眠れなかっただけだけど!
ムカつく。
許せない。
新四段だからってバカにして!
腹が立って、私を抱きしめてる八一の手を振り払い、膝から立ち上がって二、三歩離れる。
さっきの余韻でふらふらしそうな足を必死で踏ん張って、八一を振り返ってなるべく威厳たっぷりに宣言する。
「これからイチャイチャするか、研究するか、将棋で決めるわよ!」
宣言した内容は威厳もへったくれもなかった。
pixiv版には『ふわモコ銀子ちゃんと八一』のファンアートを挿絵として使用させて頂いております。
次回、将棋対決の行方やいかに。
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《4》感想戦 in 801号室【後半戦】
さっきまで俺の腕の中で素直に抱きしめられていた銀子ちゃんが、一瞬で『姉弟子』になっちゃった。
昔から『女と遊ぶなんて十年早い』って態度取られてたけど、まさかその女が当の本人でも許されないなんて…
銀子ちゃん、改め姉弟子は押し入れから木製で折りたたみ式の将棋盤と対局時計を取り出してきて黙々と将棋を指す準備をしている。すでに目の色が真っ青になっていて、殺気まで放っている。
「銀…姉弟子、どうしたんですか?」
「三本勝負、持ち時間十五分、秒読み三十秒、盤外戦術有り」
「えっと…」
「始めるわよ。先手は譲ってあげる。早く来て」
「……」
こうなった銀子ちゃんは勝負が終わるまでテコでも動かなくなることは、経験上俺が一番よく知っている。
俺は内心やれやれとため息を付きながら立ち上がって、盤の前にあぐらをかいて、姉弟子が対局時計のスイッチを押す音を聞いてから、飛車先の歩を突いた。
序盤は相掛かりから定跡を辿り、中盤をほとんど省略して俺が若干優勢を保ったまま、もうすぐ終盤になりそうな局面で、姉弟子の長考が入った。
それにしても、銀子ちゃんは一体何にこんなにも怒ってるのだろう。がっつき過ぎたのを怒ってる訳ではなさそうだから、研究をしないって言ったのがいけなかったんだろうか。
俺としては、タイトル戦前の俺以上に忙しい銀子ちゃんと一緒いられる時間を優先したかったんだけど…
俺とイチャイチャしたくないのか?でも俺と将棋で勝負しても十中八九、負けるのに…
そんなことを考えていたら姉弟子が長考を終えて一手指した。角を成り込んでの王手!
ここで王手!?まだ終盤に備えての守備に時間をかけると思っていたのに、守備を手抜いての無理攻めか!?それとも自玉が詰まないことを今の長考で読み切ったのか!?
思わず姉弟子の顔を見る。姉弟子は盤面に集中していて、視線は合わない。
姉弟子の王手が油断している俺に、『私を舐めるな。腑抜けた将棋を指してたら、即詰みに打ち取るわよ』と主張している。
これは、今までの姉弟子と同じだと高を括っているとあっという間に
「それ、度は入ってないんだったわよね」
普段、対局中には滅多に話しかけてこない姉弟子が、急に声をかけてきた。
「まあ、伊達眼鏡ですけど」
「そう…」
そして俺がかけたばかりの眼鏡をさっと取り上げて、一瞬眺めると自分でかけてしまった。
「な、何するんですか!? 返してください!」
「いいじゃない。さっきまでしてなかったんだし」
そういうと姉弟子は歩を進めてと金を作り包囲を狭め、対局時計を叩き押した。俺の手番だ。でも次の一手なんて考えられない。
ただでさえ、姉弟子の眼鏡姿はレアなのに、その眼鏡がいつも対局の時に自分が使っているもので、その眼鏡をかけた姉弟子と対局してる…どうしたって平静じゃいられない。
新手の盤外戦術か!? それにしても効果が強すぎだよ!?
しかも、改めて今置かれている状況を俯瞰で見ると色々非現実的過ぎてついていけない。
首から下はふわモコウェアを着たリラックスモードの銀子ちゃんなのに、首から上だけ俺の眼鏡をかけた本気対局モードの『浪速の白雪姫』って、スフィンクスとかケンタウロスとかみたいで違和感満載。
しかも、将棋盤がいつも使ってる七寸盤じゃなくて折りたたみの木製盤だから、普段は見えない正座をした時の膝や太ももが見えてることに気がついてしまった。さっき抱き寄せた時に触った太ももの柔らかさが自分の意思とは関係なく脳内で勝手に再生されて集中力を削いでいく。
さらに言えば、姉弟子は長袖のパーカーを着ていて熱いのか、しきりと首元をパタパタしていた。そのせいでいつの間にか前を止めているジッパーが数センチだけど下がってきていて、その状態で床に置いてある木製将棋盤をいつもより前傾姿勢で覗き込むものだから…
見えそうなのである。
谷間はなくてもその先にある黒か紺のブラに包まれた何かが。それがあることを俺はすでに知ってしまった。今まで約五万局も向き合って対局してきて一度も気にならなかったのに、そこにあると分かってしまえば、もう二度と元へは戻れない。その数センチの隙間が、まるでブラックホールのように俺の視線を吸い込こんでいく。
まさか、こ、これも盤外戦術なのか!?
そんなことを考えていたら、将棋なんて指せる訳がない。気づいた時には持ち時間が尽きて、秒読みになっていた。
当然だけど、そんな状況になってしまえばさすがの俺も、三段リーグで鍛えられた姉弟子に勝てるはずはなかった。
*****************
一局目は盤外戦術でもなんでもして、今の私の将棋でなんとしても勝つ。
二局目は多分本気を出されて勝てないだろうから諦める。
三局目が本番。勝負に出る。
想定以上に眼鏡強奪に効果があったらしい。まともに打ってもらえなくて悔しいけど、ちゃんと勝ったし今までとは違うんだってとこを見せつけられたから良しとする。
こちらの思惑通り、一局目に先手番の相掛かりで負けたから、リベンジの為に三局目も相掛かりを選ぶだろう。これで一つはクリアできるはず。
それにしても、このルームウェアは対局には向かない。肌触りはいいけど、汗を吸わないから蒸れて熱い。汗臭くないといいけど…
まだ季節的に着るのは早いことは分かってたけど、一番効果がありそうだったから採用したの、失敗だったかな?
熱くなりそうだったから、中は下着しか着てないし、脱ぐわけにもいかない。対局を中断して着替えにいくのもカッコ悪いし…
八一は一局目が終わると、私に手を差し出して悔しそうに言った。
「次から本気でやるんで、眼鏡返してください」
「むぅ…」
仕方ない。本気でやってもらうのはこっちも望む所だから、渋々返した。
それから八一は至極言いづらそうに、私から目線を外しながら切り出した。
「それと、わざとじゃないのかもしれないけど、目のやり場に困るんで…戻してもらえますか。」
「なんのこと?」
「パーカー…」
「??」
「……ジッパー……」
「??……ひゃあ!!」
二局目は予定通りではあるけど、予想よりほとんど良いところが無いまま負けてしまった。
*****************
三局目は、初戦で気を抜いて負けてしまったから、さっきのリベンジの為にも再度相掛かりを選んだ。
序盤互いに定跡通りに進んでいったけど、銀子ちゃんは一度手を止めて、少し迷うような気配を見せた後、意を決したように力強く歩を打った。
「!?」
ここで8七歩!? せっかく飛車先の歩を切ったばかりなのに!?
なんでこんな、将棋の歴史を踏みにじるような手を!?
二局目だって、なんかわざと負けようとした感じだった。一体何を考えてるんだ?
こんなの、銀子ちゃんの将棋じゃない。
ふつふつと怒り似た暗い感情が湧いてきた。
銀子ちゃんの将棋のことは俺が世界で一番分かっている。だって、この世で一番一緒に指してきたんだから。それが紛れもない独占欲だったことに、今気づいた。
俺が一番よく知っているはずの、銀子ちゃんの将棋が俺の知らない間に急激に強くなっていた。それはいい、喜ぶべきことだ。問題は強くなっただけでなく俺の考えつかない、今までの銀子ちゃんなら絶対指さない手を指してきたこと。
他の男達と指したからだ。他の将棋の強い男達と…この暗い感情、そうかこれは『嫉妬』だ。
なぜこんなことをしたのか、これはどの男の将棋なのか…でもこの手は明らかにソフトの影響を色濃く受けている。
そう、いうこと…か……
銀子ちゃんは素直じゃないから、こんな形でしか教えてくれないし、普通に質問しても答えてくれないだろうな…
仕方ない、
「くっくっく…」
「な、何がおかしいのよ!?」
急な笑い声に動揺する銀子ちゃんに、俺はなるべく軽薄で悪いヤツに見えるような笑みを浮かべて言った。
「姉弟子、あんたほんとは俺に抱かれたいんじゃないの?」
「!? はぁ!!?」
「だって負ける気満々じゃん。俺に先手持たせて相掛かりで急戦仕掛けて勝とうなんて、名人だって考えませんよ」
「ぐっ……」
「大体、この8七歩は明らかに銀子ちゃんの手じゃないよね? ソフト発の手っぽいし…最近の対戦歴を考えると創多、かな?」
「っ!!」
「負けるの覚悟で『対局で研究』をしようってんでしょ?」
「……もうバレちゃったか」
「バレますよ。俺を誰だと思ってるんです?」
銀子ちゃんの将棋を一番よく知ってる男ですよ? そう言うのは、恥ずかしいから心の中でだけ、呟いた。
でも、銀子ちゃんは別の意味にとったのか、悔しそうに唇を噛みながらぽつぽつと話し出した。
「この8七歩は創多が八一との公式戦で使う為に温めてた手なんだって。負けたからもう使わないかもしれないけど、ソフトの影響を感じたし、教えておいて損はないかなと思って…」
「なんで、こんなことしたんです?」
「……五種類中三、せめて二種類出せればいいと思ってた。でも一種類で終わっちゃった」
「? なんの数字です?」
「今期の三段リーグで出た、相掛かりで今後有望な可能性のある研究手。今日の研究会に間に合うようにまとめておいたの。他の戦型のは間に合わなかったし、乗り気のしない練習将棋で先手を渡せば相掛かりを選ぶと思って」
「え??」
奨励会の最新研究に興味あるとは言ったけど、そこまでしてくれてるとは思ってなかったし、銀子ちゃんにそんな暇があったとは思えないのに…
「今期昇段した、創多と坂梨さんの記譜も集められるだけ集めた。坂梨さんは途中から期待されなくなっちゃったから意外と熱戦譜が少なくて、関西で会える人には頼んで個人的に付けてた記譜とか感想教えてもらった。欲しがればサインの一つでもあげて、同期昇段で気になるからって言えば、案外快く協力してもらえた。」
銀子ちゃんは将棋盤を見つめながら、どこか寂しそうに話を続けた。どれだけ、今日の研究会の為に、なにより俺の為に準備をしてきたかを。
「八一、坂梨さんには注目してたし、創多は今後確実にタイトル戦とかに関わっていくだろうから…私に今できることはこれくらいしかないから」
銀子ちゃんは窓の外に視線を移して、すごく遠くを見つめるような目をしながら、付け足した。
「今の私のレベルじゃあ、何をすれば八一の役に立てるのかも、もう分からないから」
せっかくある研究部屋にも来られないくらい時間がなかったのに。
四段に昇段した時より痩せてしまうほど忙しかったのに。
それなのに、俺は……
こぼれそうになる目の熱さを隠すために、自分から誘っておきながら反故にしようとした非礼を詫びるために、そしてなにより尊敬すべき一人の将棋指しに敬意を示す為に、俺は改めてきちんと正座をして、深々と頭を下げる。
「参りました。俺の完敗です」
「え?」
「ソフトの考えた手を実践で使えるレベルに落とし込む為には人との研究が必要なんです。帝位戦に向けて、俺と研究会して下さい」
「わ、私なんかで良ければ」
俺たちは将棋盤を挟んで、改めて礼を交わした。
「「よろしくお願いします」」
*****************
「そうだ、教えて下さいよ。どうしてこんなに一気に強くなったんです?」
「ああ。三段リーグで創多との対局中に駒の利きが掴めるようになったの。脳内将棋盤もびっくりする程クリアになったし」
「なるほどね」
「駒の利きが掴めるってやっぱりすごく有利だなって思う…私ももっと早く分かるようになりたかった…」
「駒の利きとか感覚とかも万能じゃありませんよ。俺は姉弟子とずっと一緒に研究してたから、自分の感覚を論理的に補完する習慣がついてたけど、駒の利きが分かるヤツ同士だと感覚で『なんとなくこっちの方がいいよね』って共通認識を共有してるから、研究が浅いというか、他の可能性を考えることをサボってる感じがするし」
「ああ、それはなんかわかる」
「元々姉弟子の研究って超論理的なんですよね。理詰めの研究があるからメンタルや体調に左右されないし、常に安定してるし、それこそ駒の利きが見えてなかったのに女流棋戦勝ち続けるって、どんな化け物かよって話ですよ」
「感覚にだけ頼ってると、歳を取った時に棋力が衰えるスピードも早くなりそうね」
「そうでしょうね。超感覚派の生石さんが、言っちゃなんだけど明らかに格下の奨励会員の姉弟子と研究会をする価値があるって思ったのも、論理的な補完を求めてたからだろうし」
「……そうか、地球人生まれにも価値はあったのか…」
「?」
「ねえ…私との研究会って、八一の役に立ってる?」
「へ? 当たり前じゃないですか。そうじゃなきゃ今日だって最初から単にデートしようって誘ってますよ。そもそも俺、自分に得るものがない人と研究会する程、暇人でも
「そっか…」
銀子ちゃんはなんだか噛み締めるように
「あーあ、小学生名人に続いて、三段リーグも一期抜けで記録は抜かされちゃったし、
「あのさ、前から釣り合うとか世間の評判とか、なんでそんなくだらないこと気にしてるの?」
「くだらないことって…」
「世間の人なんて将棋のことよく分かんないであれこれ言ってくるんだから、そんなの気にする必要ないのに」
「それはそうなのかもしれないけど…」
「将棋が強ければいいのよ。棋士なんだから」
「あ……そっか」
「そうよ」
封じ手を開ける前は、帝位戦に『さっさと負けて銀子ちゃんとデートしまくる』妄想とかしてたけど、俺の彼女は史上最強の女棋士であると同時に将棋の女神様でもあったらしい。些末な人の世のことは気にしなくても、将棋を疎かにするのは許されないようだ。
自分にうつつを抜かして、将棋が弱くなるくらいなら捨ててやるとか言い出しかねない。本当に俺にとっては最高の彼女だ。
俺は改めて銀子ちゃんを正面から見て言った。
「銀子ちゃん、将棋しよう」
「うん」
「その前に! 男に見返り与えて、個人的に何か頼むの禁止!」
「え? なんで??」
「危険すぎるでしょ!?」
*****************
「ふう、事前にまとめておいたのは一通り終わったわね」
「今は…夜の11時過ぎか…いつの間にこんな時間に…」
「あっという間だったね」
すごく久しぶりに長い時間、何も気にせずに二人だけで研究をした。途中で、夕飯の買い出しにコンビニに行ってもらったけど、それ以外はずっと一緒に将棋のことを話していた。八一が弟子を取る前、時々していたように。師匠の家で一緒に暮らしてた時、いつもしていたみたいに…
今から新しいことをするにしては時間が遅すぎるし、さすがに私も八一も集中力が切れてしまった。
夜ももう遅いし…か、帰っちゃうんだろうか? もっと一緒にいたいのに…でも今引き止めたら、その…誘ってるみたいにならない? ただでさえ自分の部屋に招いて、イチャイチャしたいって提案断って、一日中満足するまで私が一緒にやりたいことしてもらったのに、これ以上何したいのって聞かれても答えられないし…
でも、でも、まだ一緒にいたいし…
はぅぅ……
立ち上がって窓の外の景色を見ながら大きく伸びをしていた八一は、振り返って何もない壁の方を見ながら、今後の方針を切り出した。
「銀子ちゃん。今日、泊まっていい?」
「え?」
「あいは名跡戦の挑決リーグで東京だからいないし…」
一応付け足すように言われたけど、そんなの知ってるに決まってる。だって約束する前から、桂香さんが小童を引率して行くのを聞いて知っていたから。だからこの日を指定したんだもの。
「う、うん……」
恥ずかしいけど、私の希望通りの提案を八一からしてくれたんだから、同意するしかないけど、緊張して蚊の泣くような声しか出ない。
部屋の中に気まずい沈黙が流れる。
八一は私を見ないように、なんだか赤くなった顔をそらしながら、こう言ってバスルームの方に行ってしまった。
「とりあえず、シャワー浴びてくるから、布団敷いといて」
「ふぇぇ!?」
将棋の駒の動きしか分からない将棋ど素人が書いた対局シーンなので、不備がありましたら申し訳ありません。
次回の《5》後夜祭 in 801号室【前半戦】は、
R-18指定の為、恋の駆け引き after OPENING【大人編】に掲載しております。
https://syosetu.org/novel/242250/1.html
R-18と言っても八銀の初夜ラブコメなので、それなりです。
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《7》告白
https://syosetu.org/novel/242250/
告白の日記念に書いた短編です。
原作に勝る告白はこの世に存在しませんが、別の「告白」を書いてみました。
「ねえ、銀子ちゃん。そういえばさ」
「なに?」
「ずっと前から好きだったって言ってたけど、いつから俺のこと好きだったの?」
「ちょ、ちょっと、こ、こんな時に急に何言い出すのよ!」
「だって、気になるじゃん。俺がその…異性として特別だなって自覚したのは最近だけど、前からずっと特別ではあったし。銀子ちゃんはいつからなのかなって…」
「ううぅ…い、異性として特別?」
「そう。異性として特別」
「な、内緒!!」
「え〜教えてよ〜」
「そ、それじゃあ、八一はいつから、その…私のこと特別だって思ってたのよ?」
「うっ…え〜っといつからかなぁ?」
「八一が教えてくれないなら、私も教えないもん!」
「なら、教え合いっこして、相手より昔から『特別』だった方が勝ちで、明日の予定を決められるってのはどう?」
「え、でも私が『異性として特別』で八一は『普通に特別』だったら不公平じゃない?」
「う〜ん…だったら、歳の差考慮するとして、差が二年以内だったら銀子ちゃんの勝ちでいいよ」
「むぅ…まあいいわ。それで妥協してあげる……じゃあ、始めましょ?」
「「…………」」
「銀子ちゃん、どうぞ?」
「言い出しっぺの八一が先でしょ?」
「「…………」」
「これ、後手必勝ね」
「先手の時期を聞いてから、それより遅い時期適当に言えばいいからね」
「「…………」」
「じゃあ、紙に書いて見せ合うのは?」
「交換して、『いっせーので』見る感じ?」
「そう」
「いいよ」
「紙とペン……いたっ」
「大丈夫?」
「へいき……あった。はい」
「ありがと」
「「…………」」
「覗かないでよ」
「覗かないよ」
「「…………」」
「書けた?」
「うん…まあ…」
「嘘、書いちゃダメよ?」
「いや、なんかこれ、勝った方が余計に恥ずかしくない!?」
「!! じ、自分で言い出したんじゃない!」
「そ、そうだけど!」
「じゃあ、交換しましょ」
「う…はい」
「「いっせーので」」
カサッ
「「…………」」
「や、やいち、ズルイ!! 『清滝家の二階で初めて会った時』って!! そ、それじゃ勝てるわけないじゃない!!」
「ぎ、銀子ちゃんこそ『初めて会った年の花火大会』って4歳でしょ!? そ、そん時から『異性として特別』って、マセすぎじゃん!?」
「はぅ!? だって! あの時八一に何が欲しいか聞いたら、私が欲しいって言ったから!」
「へ? 俺そんなこと言ってたの?」
「覚えてないの!? ばかばかばか! 6歳の時から思わせぶりなんだから!!」
「記憶にないんだから、責められたってどうしようもないし!!」
「「はぁ、はぁ……」」
「ふぅ……まぁ、勝負は差が二年以内だから、銀子ちゃんの勝ちだね。明日、何かしたいことある?」
「……アフタヌーンティー」
「……梅田のリッツ・カールトンの?」
「そう。前に奢ってくれるって言ってたのに、すっぽかしたでしょ?」
「そ、そんなこともあったような…じゃあ、明日…っていうか、もう今日か。何時くらいに行けばいいんだろ?」
「アフタヌーンティー自体は確か、11時から19時くらいまでやってるけど? 生演奏してるとこの近くのいい席取りたいんだったら事前に予約しておく方がいいらしいわよ。でも今はあんまり目立ちたくないし、午前中に電話で端っこの目立たない席予約してから行けば、たぶん3時か4時くらいには席に着けるんじゃないかしら」
「詳しいっすね…それじゃあ、午前中には起きないといけないし、もう寝ますか」
「そうね」
「ほら、もっとこっちおいで? 布団も毛布も一枚しかないんだから、離れてると風邪ひくよ?」
「そ、そうだけど…やいちに腕枕してもらうの初めてだし…なんか、恥ずかしい…」
「そうだっけ? 子供の頃はよく手を繋いで寝たりしたけど。ああ、桜ノ宮では抱き枕だったし、指一本でも動かしたら通報されるから、したことなかったか」
「そ、その割には、頭撫でたりしてたじゃない!」
「うぐっ…」
「夜中とかに起きると、なぜかいっつも抱っこされてたし!」
「き、気付いてたのに、黙ってされてたのは銀子ちゃんでしょ!?」
「はぅ!? ううっ……」
「はぁ…俺が言うのもなんですけど、桜ノ宮ん時はお互いどうかしてたんですよ…」
「そ、そうね…」
「とりあえず、もう遅いし、こっち来て…早く寝よう…」
「ん…おやすみ……」
「おやすみ……」
fin
関東で「いっせーのせ」は関西では「いっせーので」なんだそうです。
「花火大会」は11巻発売直前に白鳥先生がTwitterで公開されていたショートストーリーより。
「アフタヌーンティー」はガンガンオンラインで公開中の『関ケ原人間将棋(リハ)前編 』より。
https://www.ganganonline.com/contents/ryuou/
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《8》前夜祭 of 帝位戦第二局
長いようでいて。あっという間に来てしまいそうですね。
神戸で行われた帝位戦第二局の前夜祭には銀子ちゃんも参加してくれた。
明日から二日間全く連絡が取れなくなるから、今夜一度でもいいから隙を見て、キスの一つや二つだけでもしておきたいと思っていた。
指し直し局が開催できるように、御守り代わりに。
開会の挨拶が終わると、於鬼頭さんはさっさと自室に引っ込んでしまったけど、そんな理由で俺は銀子ちゃんと二人きりになれるタイミングを図ろうとグズグズしていた。
そこに、例のあの人がやってきてしまったのだ。
シューマイ先生である。
かの人は今年のお正月の指し始め式で大暴れした結果、将棋界から出禁を言い渡されていた。ただ、ついに四段に昇段できたお祝いを、どうしても直接銀子ちゃんに伝えたかったらしい。
棋院と将棋連盟の協議の結果、両職員に監視され、酒をかなり抜いた状態で、今日の神戸での前夜祭に参加することを許可されたらしい。
シューマイ先生は会場に入るなり、銀子ちゃんを見つけて駆け寄り、思い切り抱きしめながら、四段昇段の祝いの言葉を述べた……はずだった。
「銀子! おめでとう! よくやった!!」
「先生…ありがとうございます…」
尊敬する先達からの祝福に感動して、思わず抱きしめ返す銀子ちゃん。
そんな美女二人の感動的なシーンを会場中が暖かく見守る中、シューマイ先生は全く予想外の手を打ち込んできた。
「それで、相手は誰だ?」
「え?」
「顔を見れば分かる。処女喪失したんだろう? よくヤった! 相手は誰だ? やはり八一か!?」
「しょ!?」
ボンッ! とさっきまで真っ白だった肌をリンゴを通り越してトマトばりの真っ赤に紅潮させた銀子ちゃんは、お正月の時みたいに即座に否定すればいいものを、パニックになってしまったらしい。
アワアワしながら助けを求めて、無意識に振り向いて、目を合わせてしまったのだ。
壇上にいる俺と。
そして、俺は俺でそんな真っ赤に紅潮した銀子ちゃんを見た瞬間、無意識に思い出してしまったのだ。同じように彼女のあの柔肌が紅く染まった、あの夜の
カァァァっと自分の顔が火照って真っ赤になるのが分かり、慌てて右手で口元を覆ったけど、多分全く隠せていなかったんだろう。
会場全体、それどころか今後この話を聞くであろう将棋界全体が、
「あっ…………(察し)」
という雰囲気に包まれたのは言うまでもない…
「やはり八一なんだな! うらやましいっ!! 十代の〜〜〜(以下略)」
などとまた卑猥な単語を並べ立て始めたシューマイ先生は、棋院および連盟職員と会場の警備員に取り押さえられ、再度、長期の出禁を食らったらしい。
頓死した方がマシと思うほど恥ずかしい状況の中で、結局この日は夜が明けるまで、俺は壇上から降りることを許されなかった。
なぜなら『浪速の白雪姫』ファンおよび隠れ『白雪姫』ファン(つまり、会場にいたほとんどの男)に次から次へとからかわれ、嫌味を言われ、絡まれ続けたから。
タイトル挑戦者なのに…
タイトル戦の前夜なのに…
全く寝かせてもらえなかった…
ちなみに、銀子ちゃんはあのままフラフラになって、なぜかいつもより冷たい態度の桂香さんに付き添われ、早々に退席してしまったから、結局二人きりになれずに第二局を迎えることになった。
眠いし、恥ずかしいし、銀子ちゃんとイチャイチャ出来なかったし…とコンディションもメンタルも最悪な状況の俺は、タイトル戦にも関わらず、ヤケを起こして八つ当たり気味に序盤から急戦を仕掛け、於鬼頭さんもソフトも盤面の優劣が判断つかない混沌状態にまで陥し入れ、それでも指し直し局のことが頭を過ぎるから負けられないし! とがむしゃらに指していったら…
大天使の予言が当たったのか、二日制の対局なのに、封じ手の前に投了を受け、一日目で勝利してしまった…
歴史的短期決戦になり、ネットは盛り上がったらしいんだが、タイトル戦という『イベント』としては大問題が発生した。二日目に見せるべきものが、何もないのだ。お客さんは来るのに。
その結果、俺は二日目で行われる予定だった大盤解説に責任を取って出演することになった。それなのに、自分の帰宅後に起きた前夜祭での師匠の醜態を知った、聞き手役の天衣には同じ壇上にいるのに完全に無視され、針の
見るに見かねたスタッフに依頼されて、たまたま来ていた鹿路庭さんが聞き手役を交代してくれたんだけど、混迷を極めた上に一日目で終わってしまった、昨日の対局の解説を長引かせるのには将棋界随一の聞き手であっても限界があったらしく、後半ではネタが尽きてしまった。
それでどうしたかと言うと、昨日の事件を詳しく知らされていなかった鹿路庭さんは、いつもの調子で前回の帝位戦の裏話として、終局後に俺が三段リーグ最終局を戦っている銀子ちゃんに会う為に、東京の将棋会館に駆けつけた話を披露してしまった。クズ竜の女性問題をイジるのは定跡だからね。テッパンの定跡。
ただ、今回は、シャレに、ならなかった…
後日、前夜祭で俺と銀子ちゃんが真っ赤になってる写真と大盤解説の様子を撮っていた動画、第一局で月夜見坂さんのバイクから飛び降りて将棋会館に駆け込む俺の写真がどこかから流出して週刊誌とネットで公開され、『前夜祭での赤面カミングアウト』とか『大盤解説で惚気全開』とか書き立てられ、週刊誌とネットでは今も大炎上中だ…
ん?
指し直し局はどうなったかだって?
朝から晩まで記者やらリポーターやら白雪姫ファンやらに追いかけ回されてる、こんな状況で二人きりで会えるわけないだろ!?
お預けだよ!
お・あ・ず・け!!
せっかく頑張って勝ったのに…
研究部屋がバレるのが怖くて、研究会すらできやしないよ…
なに?
今後の予定?
こっちが聞きたいよ!!
とりあえず、
今は、ほっといてくれ!!!
13巻でシューマイ先生が出てきた時はビビりました。
きっとテレビ出演では調子に乗って、何かしらやらかしてくれたでありましょう…
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《9》登龍花蓮の言い訳【前半戦】
【前半戦】に八一は出てきませんが、次回八銀になります。
ちなみに登龍花蓮ちゃんは、5・9・12巻に登場する僕っ子な女性奨励会員です。
今この時ほど、離島暮らしを恨んだことはない。
僕は
八丈島出身の高校生二年生。
奨励会所属の初段。
プロ棋士を目指す、将棋指し。
僕の目下の懸案事項は、僕の最推しであり、千四百年の将棋の歴史上、最も強く美しい女性棋士である空銀子女流二冠が、ついに
今思えば、空先生が四段に昇段してから熱愛報道を知るまでの僕の幸福感とテンションの高さは、控えめに言っても
それが一転、ネットニュースで『将棋界にビッグカップル誕生!!』とか『浪速の白雪姫、熱愛発覚!!』とかが流れてきてから状況が怪しくなってきた。
またいつものガセネタだろうと最初は気にも留めてなかったけど、週刊誌やテレビでも報道され始めて、証拠と言われる動画や写真が掲載されるようになり…
その内容も、当人達を直接知ってる僕から見ても無視できないくらい、なんだか『ありそうな展開』だったから真剣に情報収集を始めたんだけど…
これは…ガチかもしれない……
週刊誌とネットとテレビのワイドショーの情報で分かることは、神戸で行われた帝位戦第二局の『前夜祭で赤面カミングアウト』とやらをした上、九頭竜先生が鹿路庭先生と二日目の『大盤解説で惚気全開』のトークを展開したこと。
そしてそのトークの中で明かされたのが、三段リーグ最終日、帝位戦第一局に早々と勝利した九頭竜先生が、最終局を戦う空先生に会う為に、東京の将棋会館にバイクで駆けつけたってこと……
『赤面カミングアウト』って何をカミングアウトしたの!?
どうして『大盤解説で惚気全開』にしちゃうの!?
そもそも、なんでこんな一番目立つタイミングで、そんなことやっちゃってんの!?
九頭竜先生!!あなた、将棋界最高位の竜王の癖に、空先生の歴史に残る
大体、竜王とは言え、まだ十代なのに弟子を二人も取って、しかも一人は礼儀の『れ』の字もなってないし…
いやいや、一介の奨励会員が将棋界最高位の竜王に対して、こんな
ブツブツブツ……
一体全体、本当は何があったのか。
誰にどう聞けば、コトの真相が分かるのか。
なんで僕は直接確認ができないこの島にいるのか…
僕の知り合いにも会場にいた人はいるんだろうけど、こんな事、電話やメールでわざわざ聞くのはさすがに『ゴシップ好き』と思われそうで
週末本土に渡るから、その時まで考えないようにしようとは、している。
それなのに、島のじじばば達はみんな僕が空先生推しだって知ってるから、誰も彼もすれ違うたびに、まるで僕自身に彼氏が出来たみたいに大騒ぎしてくる。
しかも、僕がいるせいで将棋部はなくても、多分他の普通の高校よりも将棋界の話題に詳しい八高でも、『浪速の白雪姫』と『最年少竜王』の恋愛模様は関心が非常に高くって…
同学年のクラスメートだけじゃなく、普段あまり話さない他学年の人まで、僕を呼び止めてはアレコレ聞いてくる…
「二人って、いつから付き合ってたの?」
「告白は、どっちからしたのかな?」
「それでさ、もう…えっちなことはしたと思う??」
そんなこと、知るか!!
それを本当に知りたいのは僕の方だよ!!
空先生と九頭竜先生がお付き合いしてるらしいって噂は、前々から定期的に流れてきてはいた。僕が女流タイトル戦の記録係とかで、お二人をお見かけする機会があった時も、なんだかんだとイチャついてるようにしか見えない時もあった。
でも、ご本人達はあくまでも姉弟弟子の関係だと否定してたし、クズ竜…じゃなくて、九頭竜先生にはロリコン疑惑も根強くあったから…
自慢じゃないが、僕は最推しである空先生だけでなく、九頭竜先生にも比較的詳しい。
空先生は
だから、お二人が恋愛関係は抜きにしても『特別な関係』であることはよく知ってるつもりだ。お二人が幼少期から内弟子として二人で
別にお二人がお付き合いするようになったとしても、僕にとっては特に問題はない……はずだ。
でも、推しに迷惑をかけない範囲で、可能な限り最新状況を把握しておくことは、ファンとしては必要不可欠な行動だ。出来る限り調査していかねばならない。
そう、こんなに焦ってるのはファンとして推しの近況が分からない不安のせいなんだろう……たぶん……
そんなことを考えながら、身の入らない授業を終えて、帰宅した。
*****************
実は今週末、東京で空先生と会う機会がある。
空先生が雑誌の対談相手に指名してくれたらしい。前回空先生が載った対談の記事が好評で、
空先生が晴れてプロ棋士になった後、僕のテンションが異様に高かったのも、『次の女性プロ棋士候補』として空先生と一緒に仕事をさせてもらえることが決まったからでもあった。
初仕事が対局でなかったのは、正直悔しい部分もあるけど、今の僕と空先生では手合違いもいいところだし、これからも精進していくしかない。
ファッション雑誌なんて全然ガラじゃないけど、制服でいいって話だったし、参考にと送られてきた前回の対談記事を読んでみたら、大体将棋のことから派生した世間話をすればいいみたいだったから、なんとかなると思う。
さらには日程も僕の東京での対局前日に併せて、連盟経由の仕事だから取材料も貰えて、しかも交通費支給という太っ腹さ加減。
往復飛行機で移動できて、対局終わった日に自宅の布団で寝られるなんて久しぶりだし、ありがたい。
それより何より、遂にガラスの天井を抜けて、史上初の高みへ登ったばかりの推しからの逆指名だよ!?
断わるなんて、そんな恐れ多いこと、できっこないし!!
そんなことを考えながら、日課である帰宅後のネット対局が一区切り着いたところで、背伸びをしていたら、ブブッブブッとスマホが震えて、電話の着信を伝えてきた。
将棋連盟から?
「もしもし。登龍さんですか?土曜日の雑誌の取材の件なんですが、空先生のマスコミ対策で会場を将棋会館に変更したいんですが…よろしいでしょうか?」
「あ、はい。僕はどちらでも問題ありませんが…」
「ご協力ありがとうございます。使用する部屋は、当日事務室に来て頂ければ分かるようにしておきますので」
さっき『マスコミ対策』って言ってたな…こ、これは、連盟から今回の熱愛報道の詳細を聞き出す
正確な情報が手に入るんなら、この際ゴシップ好きと思われても構うもんか!
「あの…先程『マスコミ対策』って仰ってましたが…ちなみに、その、帝位戦の前夜祭で…何があったんですか?イマイチよく分からなくて…」
「ああ…マスコミには伝わってないことも多いんですが、登龍さんにはご迷惑をかけてますし、お伝えしておいた方がいいですね。くれぐれも内密にして下さいね?」
「はい…」
「その…シューマイ先生が会場で例の如く問題行動を起こしまして、空先生と九頭竜先生が…まあ、男女の関係になったと、決めつけまして。それで…突然のことで、お二人ともうまく否定できなくて…」
「あっ……(察し)」
それで『赤面カミングアウト』なのか!
って言うか、シューマイ先生!
なんてことしてくれるんですか!!
「さらに、二日目の大盤解説で飛び入り参加して頂いた鹿路庭先生は、前夜祭のことをご存知なかったので、普段通りのからかい半分で九頭竜先生と空先生の仲が良いエピソードをファンサービス気分でしてしまって…」
「ああ……」
ノリノリで九頭竜先生をイジる鹿路庭先生と、真っ青になって止めに入るけど、結局止められない九頭竜先生が目に浮かぶ…
「
「なるほど…」
「今回の取材も、当初は出版社で行う予定でしたが、他部署が空さんに恋愛絡みの独占取材したいと言い出して揉めたので、将棋会館で行うように変更させて頂きました…」
「そういうことでしたか。よく分かりました……」
「ご協力、よろしくお願いします」
通話の切れたスマホを、
これはガチだ…
職員さんは各方面に気を遣って、オブラートに包んだような言い方してたけど。
つまり、空先生と九頭竜先生は交際してて、えっちなこともしちゃってて、それをシューマイ先生に言い当てられて、真っ赤になっちゃったからみんなにバレちゃったってこと!?
なんだよそれ!?
かわいいかよ!?
どんだけウブなの二人とも!!
別に空先生が恋愛対象として好きなんじゃない……んだと思う。
そんな対象として見れないくらい、空先生は高嶺の花で、至高の存在で、尊敬の対象だ。うん、これは確実!
でも、実際に空先生に『彼氏』が出来て、しかもその相手が雲の上の存在とは言え『知人』ならば、どうしても二人のことを想像してしまう。
さらには、なぜだか分からないけど色々な感情の混ざったフクザツな気持ちになる…
悩んでいても、時は経つ。
最推しとの初仕事に浮かれたい気分と最推しが彼氏持ちになっちゃった…かもしれないショックが混在した、モヤモヤした状態のまま平日が終わった。
*****************
土曜日は朝9時発の飛行機に乗り、羽田に10時頃到着。預け荷物はないからナップザックだけ背負って、そのまま千駄ヶ谷へ向かう。
品川で乗り換える時にいつもは通り過ぎる駅ナカで、ちょっと奮発してお昼用のパンを購入。鳩森神社の境内の人気のない石段に座って手早く食べた。一口サイズのカツサンドが想像以上に美味しい。
船だと竹芝に着くまで10時間はかかるから、1時間で移動できる飛行機は天国だ。早くいつも空路で往復できるくらい稼げるようになりたい。
まぁ、海路も慣れてしまえば、詰将棋を解いたり記譜を読み込んだりに集中できるし、気合いで寝ればあっという間なんだけど。
約束の時間まであと30分。あまり早く行きすぎると誰かと二人きりとかになった時に、話題に困りそうだから避けたい。でも、取材に使う部屋の机とか椅子を移動したりするかもしれないし、早めに行っておこうかな…
将棋会館に入って、事務室を目指しながらオレンジ色の名札を胸につける。
事務室に顔を出したら、職員さんから使用する部屋と取材用の設営が済んでいること、空先生が先程到着して既に部屋で待機していることを教えてもらった。
うわー! めっちゃ緊張するっ!!
部屋の前に着いたものの、すぐに入る勇気が出ない。深呼吸を二回して、掌をスカートで拭ってから、恐る恐る扉を開けた。
扉を開けて室内を覗くと、椅子に腰掛けて俯いてスマホの画面を見ていた空先生が振り返った。
身動ぎしたせいで、照明を反射して輝く銀色の髪。
澄んだ冬の空みたいに蒼い瞳。
初雪みたいに透き通った白い肌に、うっすらと朱に染まった頬。
悲願だったプロ入りを決めて、ますます美しくなった僕の憧れの人が、そこにいた。
前にも思ったけど、白を基調とした高校の制服もよく似合っている。
「そ、空先生…こ、こんにちは…」
「こんにちは。あの…」
「は、はひっ!!」
「今回の取材、引き受けてくださってありがとうございました。会場の変更もすみません…」
「い!いえ!! こちらこそ、僕なんかにお声がけ頂いてありがとうございました!」
「初段に
「とんでもないです! むしろ僕の対局日程に合わせて頂いて、助かりました!!」
「私も、こっちで午前中に別の仕事があったので」
「空先生こそ、四段昇段おめでとうございます!! ああ、これを最初に言うべきでした! すみません! テンパっちゃってて!」
「いいえ、ありがとうございます」
柔らかく笑いかけられて、一瞬頭が真っ白になった。遅れて、心臓がバクバク鳴っていることを自覚した。
空先生、綺麗になった上に、なんだか今までより優しい雰囲気になった?
でもよく考えたら、今まで僕が空先生と直接お目にかかれる機会なんて、タイトル戦か公式戦の対局前後の緊迫した状況ばっかりだった。
対局以外の状況の空先生と接することも初めてなんだと気づいたら、なんだか不思議な気分になった。
ファンを自称して遠くからでもずっと見てきて、空先生のことは詳しく知ってるつもりでいたけど、僕は彼女のことを本当は何にも知らないのかもしれない。
その後すぐに出版社の方々が来て、取材が始まったんだけど、なんだかふわふわしている間に終わってしまった。
大丈夫だったかな?
変なこと、言ってないよね?
取材が一通り終わって、対談相手と編集者が何やら打ち合わせをしていたら、空先生が鞄から何か取り出して、対談相手のところに持っていった。
「あ、あの!」
「どうしました?」
「あの、前回頂いた著書なんですが…さ、サイン下さい!!」
対談相手に向かって顔を伏せて、本を突き出す空先生。緊張しているのか、声が上ずっている。
対談相手はちょっと驚いた顔をしたけど、にっこり笑ってこう言った。
「もちろん、喜んで!役に立った?」
「は、はぃ……」
いつも透き通るように白い肌の空先生の顔が、耳まで真っ赤になっていた。
照れてる!?
か、かわいい!!!!
最後に荷物になっちゃうけどお土産だと言って、紙袋いっぱいのポーチやらコスメやらをくれた出版社の方々は、連盟の職員さんに付き添われて先に退出していった。
使用した部屋を空先生と二人で片付ける。僕が一人でやると言ったけど、まだ帰りの新幹線まで時間があるからと言って聞いてくれなかった。
ほとんどの机と椅子を定位置に戻し終わったところで、空先生のスマホがメールの着信を知らせたようだった。
スマホを確認した空先生は、はっとしたように表情を変え、猛烈な勢いで返信らしきものを打ち、送信が終わったら慌てて荷物をまとめ始めた。
「すみません。急用ができて…後をお願いできますか?」
「はい。もう鍵を返してくるだけですので…」
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
空先生は慌てたように、ぱたぱたと部屋から退出していった。
は〜〜。今日は空先生と直接たくさんお話ししちゃったし、かわいく照れる顔まで見れちゃったし、いい日だな〜と思いながら、最後の机を整えて椅子をしまっていたら、座面に本が一冊落ちていた。
先程空先生がサインを書いてもらっていた本だった。慌てていて鞄に入れ忘れたみたいだ。今から追いかければ間に合うかな?
僕はナップザックを背負って、鍵と本を抱えて部屋を後にした。
八丈島のことや移動手段を調べるの楽しかったです!いつか行ってみたい…
花蓮ちゃん、まだイラスト出てないけどすごく好きなキャラクターです。今後もっと活躍してくれると信じてます。
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《10 》登龍花蓮の言い訳【後半戦】
事務室で部屋の鍵を返しながら、空先生を見ていないか確認した。帰る時はマスコミ対策の為に職員さんが東京駅まで付き添う予定だけど、まだ事務室に来ていないとの回答。まだ会館を出ていないようだった。
どこにいるのかと、目ぼしいところは大体見て廻ったけど、どこにもいなかった。
もしかして、あそこかな?
空先生は、女性という少数派である上に、アウェーな東京の将棋会館で休息を取る時、五階の隅にある女流棋士室を利用されている。
ダメ元で五階まで登ってきて、廊下の端の女流棋士室の扉をノックをしようとしたら、扉が数センチ開いていて、中から空先生らしき人の声が聞こえてきた。
「もう!ばかやいち!!」
やっぱりここにいたんだ。でも、声がするってことは、誰か他にも人がいるのかな?今『やいち』って聞こえたような…
でも、次会う機会なんていつ来るか分からないし、申し訳ないけど三段リーグ最終日のように部屋の外で待たせてもらおう…
すると、室内から何やら言い争いをする空先生と九頭竜先生らしき人の声が聞こえてきた…
「バカバカ、ばかやいち! へんたい!! あの時、一体何思い出してたのよ!」
「え、それ聞いちゃう? 言っていいの?」
「え? …ふぇぇ!?」
「バスルームで恥ずかしがってた銀子ちゃんでしょ。俺の膝の上でどう攻めるか悩んでた銀子ちゃんでしょ。それから、俺に組み敷かれて息も絶え絶えになってた銀子ちゃ…」
『バシッ! バシバシッ!!』
「ほ、ほんとに言うな! ヘンタイ!! え、エロ魔王!!」
「いてて…なんか新しい罵倒の名称増えた気が…」
ひ、ひえぇ…
や、やっぱり、そーゆーゴカンケイなんですね!?
っていうか、九頭竜先生がどうして東京に? 空先生のことで頭いっぱいで九頭竜先生の対局までチェックしてなかったけど、もしかして昨日順位戦だったかな?
「と、ところで、小童はまだ師匠の家に家出してるの?」
「うぐっ! 家出とか人聞きの悪いこと言わないでよ! アパートにマスコミが押しかけて危険だから、避難させてるだけだし!」
「どーだか。桂香さんから聞いた感じだと、テレビのワイドショーで知って、かなりショックだったみたいだけど? 第二局終わった時点で、観念して早く自分から言えばよかったのに、嫌われたくないからって最悪のバレ方して…」
「うう…反論できない…」
「帝位戦の三局目は小童が聞き手なんでしょ? それまでにちゃんと話をつけておかなきゃ、また大盤解説が成り立たなくなるわよ?」
「た、確かに…」
「黒い小童は? 二日目の大盤解説では聞き手の癖に、解説者をガン無視したらしいじゃない?」
「……あれから会えてません…」
「先が思いやられるわ…」
そ、それにしても、なんか会話の内容ほとんど聞こえちゃってるよ!?
僕の今の状況って、声だけだから『立ち聞き』になるんだろうけど、なんか『覗き』をしてる感じになってる!?
そういえば、覗きをするヤツのこと『
でも、本返さないといけないし…
もう少し離れたところで待つ? いや、中の会話が気になり過ぎて、正直動けないや…
「とりあえず、明日、空家に挨拶行くのは大丈夫なんでしょ? お父さん、出張から戻るんだよね?」
「今日の夜には帰ってくる予定だから、だ、大丈夫だけど…」
「空家に挨拶済ませなきゃ、公式発表できないし。もうそろそろ将棋連盟もマスコミ抑えるの限界になってきてるみたいだし」
ええ!?『娘さんを下さい』的なイベント!? でもまぁ、高校生の娘が週刊誌に取り沙汰されて、それが全部嘘でもないなら、大人として責任を持って挨拶に行くか…
いや待てよ? 九頭竜先生、僕より一歳年上なだけだから、まだ十八歳の未成年じゃん。将棋界の常識で考えると竜王だし、プロだから『社会人』って印象が強いけど。まだ学校に行ってたら、高三か…
「それと、師匠に報告もしないとだけど、清滝家も見張られてるしなぁ…銀子ちゃんが昇段したお祝いで飲み過ぎて、体調崩して病院に運ばれてから、桂香さんが外出禁止にしてるし」
「本当に、肝心な時にいつも使えないのよね…」
「来週は? なんかうちの親父がニュース見て、喜び過ぎて繁忙期だってのに、早く両家顔合わせしたいって言ってきてるんだけど」
「り、両家顔合わせ!?」
り、両家顔合わせ!?
それって、婚約とかが決まったらするイベントだよね!? そんなところまで進展しちゃってるの? 早くない!?
空先生、僕より年下だし、十六歳になったばっかだよ!? そりゃ、女性は十六歳になれば結婚出来るけどさ…
「き、気が早くない!? まだ付き合い始めたばっかりなのに!? さ、指し過ぎじゃないの!?」
「当然、銀子ちゃんと空家の意向次第だけど。一応この前うちには挨拶に来てもらった訳だし。俺としては帝位戦に続いて竜王防衛戦が始まるまでには、ハッキリさせておきたいところだね。銀子ちゃんの隠れファンがどんだけ将棋界にいるのか、前回の前夜祭でよーーく分かったから。一晩眠れないくらい…」
「うう…」
「どうせ、中途半端に報告したってマスコミは満足しないんだし、寄せ切っておいた方がいいでしょ?」
うわぁ…
付き合い始めたばっかりって言ってたのに、この畳み掛けるような寄せのスピード感。さすが竜王だよ。
今まで、空先生の方が九頭竜先生に気があるのかと思ってたけど、九頭竜先生、ベタ惚れじゃん…
ロリキングの設定、どこいったの。
ここまで聞いといてなんだけど、どうしよう…このままここにいるのは良くない気がする。出てきて鉢合わせた時、多分お互い気まずいし…
でも、本返さないといけないし!
そ、それに、ここにいるのが事情を知ってる僕だからいいけど、他の人がここに来て立ち聞きしちゃったりしたら、マスコミにリークするかもしれないし!
そう! 監視! 他の人が近づかない為の監視役が必要だよね!
「帰りの新幹線の時間は? 俺のより一本早いので帰るんだよね。」
「まだ大丈夫だけど…」
「そう…」
『ガタッ』
「ちょ、ちょっと…近い!」
「もう少し、触らせてよ。キスだけで、我慢するから…」
「ば、バカ!! し、神聖な将棋会館で、き、キスだけだってダメに決まってりゅでしょ!?」
「じゃあ、どこならいいのさ?」
「へ?ど、どこって…」
「大阪じゃ、無理じゃん? 連日あの大騒ぎだし。マスコミだけならまだしも一般の『浪速の白雪姫』ファンまで紛れてて見分けつかないし。東京だって、将棋会館の外に今も報道陣がチラホラいるでしょ?」
「うぅ…まあ、そうね」
「明日空家に挨拶に行くから会えるっちゃ会えるけど、さすがに二人きりになるのは無理だろうし」
「確かに、無理でしょうね…」
「その次、いつ会えるか分かんないし。指し直し局だってお預けなんだよ? 俺、頑張って勝ったのに……」
「そ、それは…分かってるけど…」
ん? 「指し直し局」って言ってるように聞こえたけど、いつの対局のことだろう…
「そんなに、イヤなの?」
「ち、ちがっ! ……え? はっ!!」
「ふーん。イヤじゃないなら、いいよね?」
「ちょ、ちょっと! ……んんっ!」
ちょ、ちょっと待って!!
今ここで始めちゃうの!?
む、無理だよ!! 音だけとは言え、推しのキスシーンなんて!
ココロの準備! いや、準備しようがしまいが、無理なものは無理だ!!
動揺した僕は、うっかり手に持っていたサイン本を床に落としてしまった。
バタンッ
「「「……………」」」
あわわわっ!!
し、しまった!!
外にいるのがバレちゃう!
せっかく今日空先生と一緒にお仕事ができて少し距離が縮まったのに、こんなデバガメみたいなことするヤツだなんて、絶対思われたくない!
慌てふためいた僕は、女流棋士室から二人が様子を伺いに出てくるより前に、一目散にその場から逃げ出した。
*****************
はぁ〜
今日はなんだかものすご〜〜く疲れた気がする…
明日の対局に備えて、早く寝よう…
ナップザックを背負って、トボトボと今日泊まる予定のカプセルホテルを目指して歩いていたら、ポケットに入れてあるスマホが揺れた。
登録されてない番号からの電話?
誰だろう?
無視したいけど、明日の対局関連だと困るし、とりあえず出るか。
「もしもし?」
「あの、登龍花蓮さんの携帯電話でよろしいですか?」
「はい、そうですが…」
「あの、そらです」
「?? そらです?」
そらです?
ソラデス?
空デス…?
空です……??
『空』????
「空先生!?」
「は、はい! あの、突然お電話してすみません。番号は連盟の方に特別に教えて頂きました」
「ふぉ!? そ、空先生から、推しから生電話がかかってきてる!?」
「おし? それで、あの。今日は対談お疲れ様でした。それで、連盟の方に聞いたんですが…登龍さんが届けてくれようとした本が…その…五階の廊下に落ちてたんですが…」
「ふぁ!?」
ああ!!
動揺し過ぎて、本のことすっかり忘れてた!
ば、バレた!?
そりゃバレるよね!
「「ご、ごめんなさい!!」」
「「…………」」
「「へ?」」
「あ、あの、空先生、その、立ち聞きするつもりはなかったんで…」
「し、神聖な将棋会館で、本当にすみません…」
「い、いえ…一応、取材場所の変更で、一部事情は把握してたので…」
「ら、来週には公式発表する予定なので、それまで内緒にしておいてもらえませんか?」
「も、もちろんです! 誰にも言いませんよ! 内緒にします!!」
「はぁ〜。ありがとうございます。助かります…それと…」
「はい?」
「今日言い損ねてしまったんですが…三段リーグ最終日、エールを送ってくれてありがとうございました。女流タイトルを獲ったこと、廻り道だったんじゃないかと思う時もありましたが、登龍さんの為になっていたと言ってもらえて、嬉しかったです」
「え……?」
「最終戦の前に、勇気をもらえました。ありがとうございました」
「そ、そ、そんな!! とんでもないです!!」
「これからも、お互いがんばりましょう。……大阪に来る機会、あまりないと思いますが…時間があれば、声かけてください。VSしましょう」
「は、はい!! 喜んで!!」
それからその日は
日曜日の対局も、なんだか気持ちはふわふわしてたのに、肝心の将棋の読みだけは冴え渡っていて、危なげなく全勝だった。
*****************
翌週の水曜日、将棋連盟ホームページのニュース欄に九頭竜・空両先生が、空先生の高校卒業後の結婚を前提に真剣交際(ニュアンス的にはほぼ婚約)をしている旨が掲載された。
報道が過熱しているが、お二人とも未成年であり、空先生は高校生なので節度ある対応を求めるとの注意書きを添えて。
正直、空先生には幸せになって欲しい。これは、本心だ。
でも、まだ高校生であんなにカワイイ空先生を今からずっと独り占めできるなんて、できるなんて、羨ましすぎる!!!!
これからの女流タイトル戦は、規定通りに空先生が出場資格を失うなら、タイトルが二つ空く。
他の現タイトルホルダーはもちろん、あの夜叉神天衣もタイトル争奪戦に参戦してくるだろう。
内弟子だという雛鶴あいは直接対局したことはないけど、終盤力が驚異的で、あの岳滅鬼さんの必至すら跳ね除け勝ち星を挙げたというバケモノ級の天才だ。
二人とも、さすが西の魔王である九頭竜八一竜王の弟子。
でも、女将棋指し空銀子の後継者はこの僕、登龍花蓮だ。
空先生が今まで守ってきた女王と女流玉座は、他の誰にも渡さない。
別に、八つ当たりとか嫉妬なんかじゃない、ただの女性奨励会員の意地だ!
でもでも、九頭竜門下にだけは、ぜ〜〜〜〜ったいに負けない!!!!
リア充爆発しろ!!
花蓮ちゃんには、女流タイトル戦でも九頭竜門下の前に立ちはだかる強敵になって活躍してほしいです。
次回、例の『指し直し局』の為、
R-18指定の『恋の駆け引き after OPENING【大人編】』に掲載しております。
https://syosetu.org/novel/242250/3.html
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《15》アクセサリーの贈り方【その一】
『指し直し局 in 高級旅館【その四】』の続きです。
https://syosetu.org/novel/242250/6.html
ジュエリーブランドの接客は天職だと思う。特に、人生の節目を記念して贈られる物を選ぶ『お手伝い』をさせてもらえる時が好きだ。
平日の遅番シフトは比較的楽なことが多い。でも、気を緩めるのは禁物。関東からこの大阪のデパートに入っている支店に転勤になってまだ日が浅いけれど、一応店長扱いだから細々した事務仕事も多いし。
木曜日の午後、比率は少ないものの一定数は定期的に現れる『男性一人客』が入店。物慣れない様子で店名を確かめ、接客をしながらも挨拶をするガラスケース前の店員に会釈を返しながら、店内奥で売り場全体の様子を観察していた私の方へ近寄ってきた。
彼のオブザーバーは優秀らしい。今込み入った相談をするなら私が適任だろう。
「いらっしゃいませ。何かご相談事ですか?」
彼は少し虚をつかれたような顔をした後、教えられてきたであろう『最初のセリフ』を口にした。
「あの、明日彼女を連れてこちらのお店にお邪魔しようと思っているのですが、事前にご相談したいことがありまして…」
「明日の10時以降でしたら、私がこちらにおりますので承ります。よろしければこちらへどうぞ」
さりげなく店舗奥の椅子とテーブルがある接客スペースへ誘導しながら、隠れた趣味である『お客様の職業当て』を開始した。
歳:10代後半から20代前半
体格:中肉中背、やや猫背
服装:既製品のダブルのスーツ、そこそこ良い革靴、着慣れてる
装飾品:特になし
カバン:その若さでセカンドバッグ?
顔:そこそこ良い方、どこかで見たことある気がする…
言葉遣い:敬語慣れして丁寧
総合評価:若いけど社会人。
サラリーマンではなさそうだから、自営業?
デスクワークっぽいから、IT関係?
それにしては全体的に古めかしいし、キッチリしすぎてるんだよね…
そして謎のセカンドバッグ…
「えっと、こちらで何か買おうと思っているのですが。本題は指輪のサイズを知りたくて…」
「サプライズで婚約指輪を?」
「あ、はい…とりあえず、サイズだけでも知っておきたくて…」
「かしこまりました。では、ある程度候補を絞っておかれた方がよろしいですよね…お相手の方は普段どのようなアクセサリーを身につけていらっしゃいますか?」
「それが、基本的に何にも身につけてないので、何が好きかとかも全然分からないんですよね…」
「左様でございますか。では、ピアスはされていらっしゃいますか?」
「ピアス!? してないと思います…多分、穴開けるの怖いからできないと思うし…」
「では、イヤリングでしょうか?」
「イヤリング…してたことあったかなぁ?」
これは中々の難題。
プロの腕の見せ所ね!
という感じで、明日の本番に向けて作戦会議が決行されたのであった。
一日の仕事を終え、最寄りの駅前で慌ただしく買い物を済ませて、家路に着く。
今日は午後来た男性のお客さんのおかげで、接客スペースで座れた時間がいつもより長かったけど、一日働くとやっぱり足がパンパンになる。ジュエリーブランドの接客は天職だとは思うけど、ヒールの高さまで指定しないで欲しいよなぁ〜と思いながら、自宅のカギを開け、靴を脱ぎ、帰宅後のルーティンでパソコンを立ち上げ、電子レンジで温めた夕飯を掻き込みながらホーム画面のネットニュースをチェックしていたら……
『将棋界にビッグカップル誕生!! 浪速の白雪姫と最年少竜王が婚約宣言!?』
という見出し記事と共に、最近毎日ニュースを賑わせている、初めて将棋の女性プロ棋士になったという銀髪の美人女子高生とお相手であろうスーツの男性の写真が並んで掲載されていた。
んんん??
あれ、この写真の中の男の人、見たことある? さっきまで喋ってた、今日の午後来て、明日の予約していったお客様??
でも、他人の空似だよね。よくいる感じの顔だし。「クズリュウ」なんて珍しい名前だったら絶対忘れないし。予約の名前、キヨタキ様って言ってたはずだし…
あれ? このネットニュースの本文に書いてある文章…
『清滝一門で、弟子としては姉弟の間柄』
清滝一門って、読み方は「キヨタキイチモン」だよね。
もしかして……同一人物??
えーっと、明日連れてくる『彼女』って、もしかして、もしかしなくても『浪速の白雪姫』だったりするの!?
ちょっ、ちょっと待って!?
エリアマネージャーに連絡!?
いや、デパートの外商部!?
でも、大阪に来たばっかりだから、ローカルルール分かんないし!!
でも……
名乗らなかったし、偽名使ったってことは、当然だけど『知られたくない』ってことだよね…
事実上婚約宣言したって言っても、本人と話してた感じ、付き合い出したばっかりでちゃんとしたプレゼントあげるの初めてっぽかったから…
あんまり騒ぎ立てるのはよくないよね?
えっと、どうしよう…?
*****************
金曜の放課後、高校のホームルームが終わったらノータイムで席を立って、クラスメイトが声をかけてきた気がするけど聞こえないフリをして、速攻で自宅に帰る。
家に帰り着いたら、ダッシュでシャワーを浴びて、ドライヤーで髪を乾かしてたら、八一からメッセージが来てた。
内容は、待ち合わせ時間の確認。
今から準備すれば間に合うから、『了解』とだけ送信した。スタンプも押そうかなって思ったけど、どれを押せば今の気持ちを適切に伝えられるのかよく分からないし、悩んでる暇があれば早く会いたいから、そのままにする。
スマホを手に取ったついでに、昨日話したけど母親に一応『夕飯は食べない。今日は研究部屋に泊まる予定』と連絡。何するかとか誰と会うかなんて母親には言ってないけど、多分なぜかバレている気はしてる。
い、いちおう、だもん…!
今日の夜どうするかなんて、あいつから言われてないし、そんな、直接的なことなんて聞けないし…
明日は珍しく土曜なのにオフだし、来週から竜王戦も始まっちゃうし、だから、だから…いちおうだもん…
バスタオルを巻き付けたまま自室に駆け込んで、昨日の夜に悩みに悩んで準備してあった私服に着替える。
トップスは襟ぐりが少し開いた白いニットにベージュのハーフコート、ボトムスはプリーツの効いた
前に対談取材を受けたファッション雑誌を参考にして、全体的に秋の色合いでまとめてみた。
鏡を見ながらキャスケットって名前だと桂香さんから教わった帽子を被って、最終確認で一回転。うん。多分、大丈夫。
研究部屋の鍵を忘れてないか、斜めがけバッグの中の銀将のストラップを念の為に確認して、家を飛び出した。
数日前、八一から急に電話で今日の予定を聞かれた。
てっきり久しぶりに研究会をしたいんだと思って、学校のある日だったから放課後なら大丈夫と伝えたら、外で私服で会いたいと言い出した。
『梅田駅で待ち合わせよう』
『ちょっと人目につくところを通るから、私服に着替えて帽子かぶってきて』
『でも、夕飯は個室のあるところ予約しとくから、ちょっとおしゃれして来て』
状況が飲み込めなくて生返事をしているうちに、これから予定があるからと通話を切られてしまった。通話を終えた後も、色々意味が分からなくて、スマホを
八一が? 私を? 梅田に?
ででで、デートに誘う!?
しかも、ディナーで個室予約しとくってそんなスマートなことできるヤツじゃなくない!?
おちつけ、わたし。
もしかしたら、オレオレ詐欺かもしれない……
念の為にスマホの着信履歴を確認したけど、表示されているのは電話帳登録してある八一の名前だったし、番号も暗記している八一の電話番号だった。
声も口調も八一だったよね?
話も噛み合ってたし…
じゃ、じゃあ、やっぱり八一だったの!?
ま、まあ?
私たち、付き合い始めたんだし?
むしろ、マスコミにバレちゃったから、八一がうちの実家に挨拶に来てくれたし?
その後すぐ、なぜか八一のご両親が挨拶したいって、わざわざ福井から大阪まで出てきてくれて?
師匠にも報告しなきゃってことで、清滝家に集まったら…なんかテレビで見たことがある『お見合い』とか『両家顔合わせ』みたいな雰囲気出ちゃったし?
公式発表だってしちゃったんだから!
むしろ、今までマスコミやファンに追いかけ回されるからしたくてもできなかったけど、お出かけデートくらいしたってバチは当たらないわよね!?
でも、付き合い始めたからといって、今の時期は八一の二度目の竜王防衛戦が始まる直前だから、私と会ってる暇ないんじゃないかと心配していたんだけど。
確認してみたら、むしろ『会わない期間が長過ぎると、駒の銀将が銀子ちゃんに見えて、将棋に集中できない』という謎の将棋星人発言をするから…
だから、仕方ないんだもん。
これも、将棋に集中してもらう為の、姉弟子として、研究会のパートナーとしての勤めなんだから!
あ、あと…いちおう、か、彼女としてのおしごと? になるのかな??
梅田の駅で待ち合わせて八一と落ち合ったと思ったら、そのまま目の前で考え込まれてしまった。
なに!?
私服、変だった!?
一応目立ち過ぎない程度に、オシャレしたつもりだったのに!
私服の中では割とかっちり目なジャケットを着た八一は、顎に手を当てて無言で考え込んでいたけど、おもむろにセカンドバッグから対局用の眼鏡を取り出して、私にかけさせた。
「うん。ないよりはマシかな」
「え?」
満足したらしい八一はさっと私の手を取って、気づいたら駅の外に向かって歩き出していた。八一は私の手を握ったまま、スタスタと大阪駅を出て横断歩道を渡り、目の前のデパートに入って行ってしまった。
え?
ええ??
デパート!?
「ね、ねえ、どこいくの?」
「うん? 五階だよ」
聞きたいのは階数じゃないのに!
八一は仕事帰りのお客さんで混み合う夕方のデパートの中を迷う様子もなくスイスイ歩いてエレベーターホールまで進んで行ってしまった。
え? なんで?
八一って、デパートで買い物したりしたっけ?
あ、でも、昔はこども将棋大会とかで通ったりしたけど…
でもなんで、今日デパートなの??
たまたま地下から上がってきた手前のエレベーターにノータイムで乗る。階数ボタンをパッと押して奥の方まで進んだら、繋いでいる手を引かれて壁際まで誘導された。
角に背中をつけたら、なぜか人目から隠すように目の前に立たれて、視界が八一でいっぱいになった。
な、なんか、いわゆる『壁ドン』みたいな体勢なんだけど!?
「ねぇ、やい…」
顔を上げて、呼び掛けようとしたら、唇に人差し指を押し当てられた。急に八一の指の感触が飛び込んできてビックリして、思わず息を止めてしまった。
「しー。名前でバレちゃうといけないから」
そう耳元で、小声で、囁かれた。
コクコク頷くと、人差し指は離れていったけど、ドキドキし始めてしまった心臓の高鳴りは止まらない。
そ、そうか、公表したとはいっても、周りの人にバレて取り囲まれると困るしね。うん。だから、眼鏡かけさせたのね。変装の為に。
でも、不意打ちで唇に触るのやめて〜!
5階でドアが開いたら、手を引かれてエレベーターを降りた。この階の案内表示には『インターナショナルブティックス』って書いてある。『ディ○ール』とか『ブ○ガリ』とか高級ブランドのお店が並んでるけど、なんでこの階なの!?
「ねぇ、どこ行くの?」
「うん。もう少し奥の店」
「な、何するの?」
「何するのって、買い物でしょ? デパートなんだから」
「そ、それはそうだけど…」
なんだか、なんでデパートに来たのかとか、何を買いに行くのかとか聞き出しにくい雰囲気…
だって、会ってからずっと上の空だし、何か時々小声でブツブツ言ってるし、話も噛み合っているようでズレてる。何か他のことに気を取られてるみたい…
長手数の詰将棋でも解いてるの?
デートしながら!?
これ、デートよね??
少し前を歩く八一の顔を見上げながら通路を進んでいったら、突き当たりにあったアクセサリー店にそのまま吸い込まれるようにして入ってしまった。ガラスケースの前にいる店員を会釈でスルーしてお店の奥に進み、奥の方に立っている店員の方に向かっていく。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
「お世話になります」
「こちらへどうぞ」
ええ!?店員と知り合い!?
今までにここで誰かにアクセサリー買ってあげてたってこと!?
誰よ!?
こんなちゃんとしたアクセサリー、弟子だからって小童たちにあげるわけないし…
もしかして、あの女狐達が罰ゲームとか交換条件とかで無理矢理ねだったりしたとか?夜中に三人でドライブして賭けがどうとか言ってたこともあったし、あいつらならやりかねない……
せっかくの初お出かけデートなのに、他の女の影らしきものを匂わされてムカムカするけど、店員もいるし今ここで問いただすわけにはいかない…
後で絶対問い詰めてやる! と思いながら二人の後についていった。
通された接客スペースの机の上には、なぜか既に銀色のアクセサリー各種が並べられていた。
「へ?」
なに?
これから何が起こるの!?
次回は、11/19 0:00投稿予定です。
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《16》アクセサリーの贈り方【その二】
銀子ちゃんとの初の『お出かけデート』はデパートでのアクセサリー選びになった。
なぜそうなったのかというと、話は数日前に
発端は帝位戦第三局が終わった二日後に送られてきた、大阪のプロ棋士と結婚している女流棋士、花立薊さんからのメールだった。
『ニュース見たわよ〜 やっと腹をくくったのね〜 おめでとう!(忙しいだろうから、返信は不要です)』
タイトル戦真っ最中の俺に気を使って返信不要と書いてくれたんだろうけど、彼女には折り行って相談したいことがあったから、渡りに船だと思った。
メールを受信してすぐ読んだから、今なら電話をしても大丈夫かもしれない。子育て中の主婦に相談するタイミングなんて、いつがいいか全く分からないから、もし今忙しそうならまた改めればいいと思い切って電話をかけた。
「八一くん?ごめんね! 忙しいだろうけど、ついメールしちゃったわ! ニュース見たわよ〜色々おめでとう!」
「花立さん、ありがとうございます。それでその、折り入ってご相談があるのですが、今お時間はよろしいでしょうか?」
「あら、私に? 今子ども達が二人揃ってお昼寝してくれたところだから大丈夫よ! 何かしら?」
「そ、その…花立さんが婚約…とかした時って、やっぱり旦那さんから何かもらったりしたんですか?」
「そりゃあ、もらうわよ〜」
「やっぱり、振袖ですかね?」
「…………はぁ?」
「え、違いました? でも、女性の棋士に贈る高価な物って言ったらやっぱり振袖じゃないかと! 姉で…空はもう何着も持ってるし、女流棋戦出なくなったら着る機会減るかもしれませんけど、イベントとかで着るかもしれないし、何着あっても困るものじゃありません…し……はなだち、さん?」
リアクションが不機嫌そうだったから、焦ってずっと喋っていたけど、電話越しにもなんとなく花立さんの
「……八一くん? 今どこにいるの?」
「はい? 自宅ですけど…」
「和室ある?」
「はい…隣の部屋ですけど…」
「ちょっと、移動して畳の上で正座しなさい」
「ええ?」
「早く!!」
「は、はい! ……移動して、正座…しましたけど…」
「す〜は〜す〜…… なんで! 将棋界の男どもは! みんな! そんなに! 常識がないの!? なんで結婚の約束する時、ミコン女性が着る服を贈ろうとするのよ!?」
ミコン女性が着る服?
『ミコン』って『未婚』か!?
「ええ!? 振袖って既婚者は着ちゃいけないんですか!? てっきり、若ければいいんだと…」
「一般的には、袖の長い振袖は未婚の女性、既婚者は袖が短い
「返す言葉もございません…」
あっぶね〜〜!!
花立さんに相談しないで、うっかり銀子ちゃんに振袖渡したりなんかしてたら、『なんで振袖!? 私と結婚なんかしない、ずっと未婚でいろってこと!?』とか誤解されて、15歳の誕生日の時みたいな大惨事になるところだった…
「まぁ、
「はい…」
「大体ねぇ、銀子ちゃんだって、棋士である前に女の子なんだからね。婚約する時に贈るのにもっと『普通で、一般的で、オーソドックスなもの』があることくらいは知ってるでしょ!?」
「婚約…指輪ですかねぇ…」
「そうよ!」
「でも、姉弟子はアクセサリーとかチャラチャラしたもの興味ないと思うんですよ」
「……付き合い始めてから、本人がそう言ったの?」
「い、いえ」
「じゃあ、八一くんの思い込みかもしれないじゃない? そりゃ、世の中には金属アレルギーで付けられない人とかアクセサリー自体が苦手な人とかもいるけど。銀子ちゃんだって普段着けてなくても彼氏から貰ったものなら、着けたいかもしれないでしょ?」
「確かに…」
「大体、私から女王のタイトル奪った時から着けてる雪の結晶の髪飾り、八一くんがあげた物なんでしょ? あれだけ大事にしてるんだから、普通に考えて他の物だって喜んで着けると思うんだけど 」
「そ、そうですね…」
なんか、その件を改めて人から指摘されると、『あなた達二人がラブラブなのは、ずっと前からみんな知ってましたけど?』って言われてるみたいで、
「まぁ、プロポーズしたんなら、何が欲しいか世間話感覚で聞いてみればいいじゃない? 女性側だって男性に『お返し』を贈ることだってあるんだし、意見のすり合わせは大事よ?」
ぐっ…!!
そ、そうなるよな、普通…
さらに怒られそうだけど、今後のアドバイスを貰うためには隠している訳にはいかないし…
「そのことなんですが……してないんです。まだ…」
「……何を?」
「その、プロポーズ的なこと……」
「????」
「なんか、タイミングを逃したというか、気づいたら
「タイミング? 外堀?」
「この前、清滝家で両家顔合わせみたいなことをしたら、両親同士が盛り上がっちゃって。銀子ちゃん病弱だったから結婚式なんて見られないと思ってたとかで、銀子ちゃんのご両親泣き出すし…うちの両親も師匠も桂香さんももらい泣きし出すし。その勢いで、するなら早い方がいい、高校卒業したらでいいんじゃないかみたいな感じになって……まぁ、俺たちもそのつもりではあったので、いいんですが」
「はぁ…」
「そしたら、事情を知ったらしい月光会長が公式発表する時『結婚前提』って寄せ切っちゃった方がマスコミも静かになるんじゃないかって。男鹿さんもご丁寧にそんな感じの
「……ま、まぁ、二人が納得してるんなら今の時代、絶対はっきりプロポーズしなきゃいけないってことはないと思うけど。でも、デートでお出かけした時とかにアクセサリー店の前通って、欲しい物ないかくらいは聞いてもいいんじゃないかしら?」
「…………」
「え? 今度は何の沈黙?」
「……してないんです…まだ…」
「何を??」
「その、いわゆるお出かけデート的なデート……付き合い出してからは一度も……」
「…………」
「言い訳みたいですけど! 連日マスコミやら白雪姫ファンに追いかけ回されて、出かけたくても出られなかったんですよ! しかも、俺はタイトル戦中だし、銀子ちゃんは取材三昧で高校もあるし…」
電話越しにも、花立さんの深〜〜い溜め息が聞こえてくる。
うう…気まずいけど、仕方がない…
俺だってこのままじゃいけないとは思っているから、一番銀子ちゃんに立場が似ていて、話を聞きやすい花立さんに恥を忍んで教えを
「つまり、話を要約すると、八一くんの私への質問内容は、『まだお出かけデートもしたことないけど、結婚前提でお付き合いしているって公表しちゃった幼馴染みの彼女に改めてプロポーズする時には何をどうやって贈ればいいか?』であってる?」
「そうです! さすが花立さん!!」
「これは、難題ね…」
初代女王『茨姫』が長考に入ったのが分かる…
これは、正座で待つしかない…しかし正座慣れしているとはいえ、こんなに長時間正座させられるんなら座布団くらい敷けばよかった…どうせ見えないんだし。
かと言って、子ども達がお昼寝している貴重な休息時間を割いて相談に乗ってもらっている手前、見えなくても今更少し離れたところにある座布団を持ってきて座るのは礼儀に反する気がする……
「今スマホで通話してるのよね? じゃあ、紙とペン用意して!」
「は、はい!」
そんなこんなで、俺は畳の上に直で正座をしたまま花立先輩からデートとプロポーズ準備の徹底指導を受けたのである。
まずは相手の好みを聞き出し、指輪のサイズの確認をする為にもアクセサリー店に連れていくこと。
その際はスムーズに確認できるように、事前に店員さんと打ち合わせておくこと。
素材はゴールドかプラチナの二択。シルバーはくすんできてメンテナンスが大変だからNG。
平日夕方から誘うなら夕飯の予約をしておくこと。出来れば相手の好きなジャンルで、有名人なんだから個室でプライバシー守れるところ。などなど…
今後の作戦の詳細と膨大な注意事項に、久しぶりに紙とペンでメモを取る手が追いつかない。
普通の人達はこんなにたくさんのことに気を使いながらデートしてるのか!?
こんな面倒くさいこと、相手が銀子ちゃんだから、やる気になるけど。普通はちょっと気になるくらいの女性とのデートとかでもやらないと、そのあと付き合ったりできないのか? そんなことしてる暇があったら詰将棋の一問でも解いていたいと思うだろうな。そもそも、将棋以外の話題で雑談なんてできないし…
そう考えると、銀子ちゃん以外の女性が『俺の彼女』になってくれる可能性なんて、無いのかもしれない…
そして今はその作戦の第二段階、『左手の薬指のサイズ確認&アクセサリーを買ってあげて好みを把握』の真っ最中なのである。
それにしても、銀子ちゃんの私服姿はかわい過ぎて破壊力がヤバい。危うく暗記してきた今日の作戦と注意事項が全部吹っ飛ぶところだった。
制服の時よりスカート丈短いし、いつもの黒ストッキングにローファーじゃないよ。
ブーツに生足!?
いや、ストッキング履いてるの!?
どっちだ!?
しかも、今通り過ぎた男、銀子ちゃんの脚をチラ見してたぞ!?
念の為に帽子は被って来てもらったけど、それだけじゃ銀子ちゃんの芸能人みたいなオーラは全然隠しきれてなかった。
とりあえず俺の対局用の眼鏡をかけさせてみたけど、それはそれで眼鏡萌えにはたまらない
今度どこかに出かける時はいっそのことウィッグでも着けてもらった方がいいのかもしれん…
黒髪ロングとかどうだ!?
うん、より目立っちゃうかもしれないけど、絶対似合う。
ウィッグってどこで買えばいいんだ!?
といった感じで、身バレ防止対策をあれこれ考えながら、銀子ちゃんの手を取って駅からデパートに向かった。エレベーターホールの前でも銀子ちゃんをこっそり見てる若い男がいた。同じエレベーターに乗り合わせたけど、これ以上見られるのもなぜだかムカつくし、正体がバレるのも危険だ。
銀子ちゃんを奥の壁際に誘導して、目の前に立って他の人からの視線を防ぐ。
いわゆる『壁ドン』みたいになってしまった。なんか恥ずかしいけど、銀子ちゃんも思いの外文句も言わずに大人しくしてくれてるし、背に腹は変えられない。
しかも、銀子ちゃんが俺の名前を呼びそうになった時、
何あの柔らかさ!?
マシュマロみたいだったよ!?
この前は、あの唇に、何度も……
ごくん。
い、いかん!
作戦に集中せねばっ!
でも、指で触ったのは初めてだったけど意外と怒られなかったし、今度もうちょっとじっくり触ってみるか…
とか考えながら歩いていたら、あっという間に昨日協力を依頼したアクセサリー店に到着した。
*****************
本当に来ちゃったよ。
『浪速の白雪姫』が。
昨日気づいてなくて、突然今日来ていたら、さすがに動揺が顔に出てただろうな…と思いながら、営業スマイルで今大阪で一番、いやもしかしたら日本で一番かもしれない有名なカップルを出迎える。
一応、事前にエリアマネージャーとデパートには報告しておいたけど、デパートの古株スタッフはこども将棋大会の担当をしてたこともあったらしく、「そっか〜あの子たちが〜僕も歳を取るわけだ〜」といった感じで、親戚のおじさんみたいにニッコニコだった。
接客スペースに誘導しながら彼女の方を観察するけど、写真で見るより小柄で美少女なのに、すごいブッスーとして不機嫌そうなんですけど……
なんで??
とりあえず、接客スペースに誘導したらめっちゃ驚いてるじゃん!
ちょっと、彼氏!!
もしかして、アクセサリーを選びに来たってちゃんと説明しないで連れて来たの!?
そりゃ、指輪のサイズ測るのは内緒にしたいんだろうけど、アクセサリーをプレゼントすることまでサプライズにしなくていいのよ!?
でももう、しょうがない。
彼女がびっくりしているうちに色々調べちゃおう!
*****************
なんだか訳の分からないうちに、にこやかな店員にうながされて椅子に座らされ、金属の輪っかがたくさんついた道具みたいな物で指を何本も測られた。
「3号! 細いですね〜」
とか褒められたのか何なのかよく分からないけど、そんな呪文みたいなことを言われた。
「サイズに合ったリングを持って参りますので、いましばらくお待ち下さい」
店員が席を離れた隙に、隣に座ってニコニコしてる八一に食ってかかる。
「ちょっと!どうなってるのよ!?」
「どれか欲しいのないの?」
「きゅ、急にそんなこと言われても…」
「やっぱり、アクセサリーとかは嫌い?」
「そうじゃなくて! なんで急に?」
「特に理由はないけど…」
「けど?」
「付き合い始めたばっかりなのに、これから忙しくなって、今年中はあんまり一緒にいられなくなるし。なんかあげときたいなと思って…」
「なんのよ……もう……ばか…」
「今日は特別に好きなもの何個でも買ってあげますよ。ほら、これとかイヤリングとネックレスセットになってるらしいですよ」
「一つでいいわよ。その…せっかく買ってもらうなら…」
指輪を色々並べたトレーを持って帰った店員に進められるままに指輪やらイヤリングやらブレスレットやらを次々と試着させられるけど、どれも綺麗は綺麗だし、『これがいい』って基準がないから選びようがない…
「こちらのネックレスはいかがでしょう?試しに、彼氏さんに着けて頂いては?」
「「え!?」」
『着けて頂く』ってどういうこと!?
え、あれなの?
キザな男が女の後ろに立ってネックレスを着けてあげるやつ!?
「お、俺が付けるんですか!?」
「せっかくですので。これから付けて差し上げる機会もあるでしょうし。ここの金具を押して頂くと開きますので、反対の輪になっている部分に通してから離していただければ大丈夫です」
「は、はい…」
店員に指導されて、勢いでネックレスを手に取った八一が椅子から立ち上がって私の後ろに回る。それだけでなぜか緊張する。
ネックレスの両端を持った八一の両腕が私の頭の横を通過していく。銀色のチェーンが胸元にかかって、金属特有の冷たい感触が首筋を伝う。
八一の視線が、自分のうなじに向けられているであろうことを意識してしまったら、真夏の太陽に
はっ、恥ずかしい〜!!
何度も失敗されると余計に恥ずかしいから、着けやすくなるようにと思って、髪の毛を触ってうなじが見えるようにした。少し首を前に傾けたら、真後ろにいる八一の手がピタッと止まった気配がした。
「??」
なんだろう。うなじに視線は感じるのに、首に半ば掛けられているネックレスは全然動かない。
様子を伺いたくて視線を上げてみるけど、目の前にいる店員さんも困った顔をしている。
私の首にネックレスを回した状態で急に微動だにしなくなった八一をゆっくり振り返ってみたら、あの帝位戦第二局の前夜祭の時みたいに顔を真っ赤にさせて固まっていた。
「やいち?」
次回は、11/20 0:00投稿予定です。
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《17》アクセサリーの贈り方【その三】
なんでこんな抜き差しならないことになったかというと、それはもう自業自得としか言いようがない。
事前の打ち合わせも功を奏し、銀子ちゃんも戸惑いながらもアクセサリー選びに協力的になってくれていたところだった。気を利かせてくれた店員さんにうながされ、銀子ちゃんにネックレスを着てあげようとしたのが、想定外の大悪手だった。
他の誰にも分からない、俺の中でだけ、大問題が起こっていた…
それはちょっとした出来心だった。
首筋と背中の境目辺り、ここなら銀子ちゃん自身を含めて誰にも見られないだろうと、試しに付けてみた所有の証。
小さい頃、庭に積もった初雪に最初に足跡を付けるみたいに、無意識に証拠を残したいと、そう思ったのだったと思う。
彼女が恥ずかしがって後ろを向いて寝てしまった後で、自分も猛烈な睡魔に襲われながらも、なんとなく彼女の白い首筋と背中をぼんやりと見つめていたら、ふとやってみたくなってしまったのだ。
いわゆる、その……キスマーク……
付けてみた時は、銀子ちゃんは疲れ果てて熟睡していたから、気づかなかっただろうし、俺自身も
なんでそんな数日前の恥ずかしい過去の遺物を、金属や宝石や、特に女性の肌が映えるように、計算された照明の下で眺める羽目になったのか…
この前、公衆の面前で赤面して一晩中延々とからかわれ続けるという生き恥を
「やいち?」
動揺してネックレスを持ったまま動かなくなった俺を不審に思ったのか、ゆっくり振り向く銀子ちゃん。
俺の眼鏡の奥に見える灰色の瞳が俺を見つめる。
『やい、ち…?』
アノ時の銀子ちゃんの潤んだ瞳とその前後の情景が脳内で勝手に再生されていく……
ネックレスを着けるためには、首元を見なければならない。
首元を見るとキスマークが見えちゃうから、アノ時を思い出しちゃう。
アノ時を思い出して動揺すると、ネックレスが着けられない。
ネックレスが着けられないと、この悪循環は終わらない……
集中だ! 集中!!
今は、この金具を留めることにだけ集中しろ!
それだけに意識を集中しさえすれば、ものの数秒で金具は留まった。
やり切った! と思って金具から手を離したら、当然だがネックレスは吸い込まれるように銀子ちゃんの真っ白な首筋を流れてピタリと止まった。
そして、その様子と首筋の下に秘められたキスマークが、マトモに目に入ってしまった。
完全に自業自得の頓死である。
「ちょ、ちょっと、トイレに行ってきます!」
*****************
クールダウンして、エレベーターホールのベンチで相談の電話をかける。
このままアクセサリー選びが長引けば心臓がいくつあっても足りない。早く目星をつけなければ!
「花立さん、花立さん、お忙しいところすみません!」
「八一くんどうしたの? 今子供達お夕寝中だから大丈夫よ!」
「あの、今銀子ちゃん連れてデパート来てまして、指輪のサイズは測れたんですが、何をプレゼントしたらいいんですかね? 指輪はこれからあげるし、それ以外のものがいいんですが…」
「う〜ん。指輪以外かぁ。銀子ちゃんってピアスの穴開けた?」
「いや、開けてないです」
「私が銀子ちゃんの追っかけしてる時から開けてなかったしね。イヤリングだと落とすの怖がる人もいるし…ブレスレットも腕時計しないタイプだし除外すると、消去法でネックレスがいいんじゃない?」
「ありがとうございます! さすが花立さん! 姉弟子のことよく分かってる!」
「ははは…君のそういう鈍感なところ嫌いじゃないけど、そうじゃなかったら、あの頃あんなに悩まずに済んだのかもしれないな…」
「ん?? 電波悪いのか声がよく聞き取れなかったんですが…」
「なんでもないよ〜ネックレスなら対局時も身につけられるし、いいんじゃない?」
「でも、さっきネックレスも色々見てたんですけど、どれもこれも銀子ちゃんに似合い過ぎて、全然選べないんですが…」
「今度は
「いや、せっかくだし、一つでいいって言われてて…」
「はぁ。ごちそうさま。じゃあ、ダイヤが一個ついたシンプルなヤツでもあげとけば? 店員さんにそう言えば、テキトーに見繕ってくれるから、高い方あげれば?」
「なんか急に投げやりになってません!?」
「あ、さーちゃんが起きた! あとは自分で頑張って!! じゃあね!」
ぶつっ
「き、切られた…」
*****************
八一が中々帰ってこない。
店員さんも仕事の電話が入ったらしく、一旦アクセサリーを持って裏へ引っ込んじゃったし…
ずっと一人でここにいるのもつまんないから、気分転換にお店の外に出てうろうろしてみよう。
帽子を被って、貴重品だけ持って、お店の外に出てみた。すぐ向かいにも高級ブランドのお店が並んでいた。さすがの私も知ってる、今入ってるところよりもっとお高いお店。
店内に入るなんて気遅れしちゃうから、店舗の外にあるショーウィンドウをなんとなく順番に眺めてみる。大きな宝石がついたピアスに何十個も宝石が付いたネックレスがキラキラ輝いている。
あ、ブライダルのブースだ…
足を止めたブースには、結婚指輪と思しきペアリング以外に、大きめのダイヤモンドが付いたエンゲージリングが3種類飾られていた。展示用のショーウィンドウだから値段なんて書いてないけど、どれも高そう…
でも、真ん中の大きなダイヤが一個ドンと立体的についてるのとか、かなり出っ張ってるから着け慣れてないとどこかにぶつけたり、ひっかけたりしそうで怖いな…
棋士は対局相手の目につくと失礼だからって、対局の時にはわざわざ指輪を外す人もいるくらいだけど。普通の時でもこれをするのは私だったらちょっと目立ちすぎて恥ずかしいと思ってしまうかもしれない。
そうね。右側の、大きめのダイヤの両脇にも小さなダイヤが付いてるリングの方が、
そんなことを考えながらショーウィンドウの中をのぞき込んでいたら、不意に真後ろから声をかけられた。
「どれが好きなの?」
「わっ!? なんだ八一か。遅いじゃない」
「ああ、うん。ごめん。ねぇ、その中だと、どれが好きなの?」
「え? ああ、右のやつかな? あんまり上に出っ張ってるデザインだとぶつけそうじゃない? これはそうでもないし…」
「そっか」
「ねぇ、それより早く戻ろ?」
置いてきぼりにされて、少しさみしかったから、袖の裾を摘んでちょっと引っ張って言ってみた。
さっきは唐突だったから恥ずかしかったけど、せっかく八一がアクセサリーを目の前で選んで買ってくれるんだから、満喫しなきゃ。
*****************
花立さんのアドバイス通りのネックレスを店員さんに出してきてもらったら、銀子ちゃんも気に入ってくれたらしく、スムーズにそれに決まった。
接客ブースで銀子ちゃんを待たせて、ガラスケースの方で包装と会計手続きをする。
個人事業主にありがちな習慣でいつものように領収書を切って貰おうとして、宛名を聞かれて、はたと固まってしまった…
そういえば、昨日この店員さんには『清滝』って偽名を名乗ってたんだった!!
どうしよう…今から本名名乗る!?『九頭竜』なんて珍しい名字、近くにいる他のお客さんに聞かれたら、一発でバレないか!?
どうしよう…と動揺していたら。
店員さんがサラサラとメモ用紙に何か書きつけてこちらに見せてくれた。
「お宛名はこちらで、よろしいでしょうか」
そのメモには『九頭竜 八一様』と書かれていた。
ば、バレてたのか!?
まぁ、あれだけニュースになってて、変装してるとはいえ銀子ちゃんを連れて来てるんだからバレるか…でも気を使って、知らないフリしてくれてたのかな?
「はい。それでお願いします。ありがとうございます」
気づいてたのに、黙っててくれてありがとうございますという気持ちを込めて言うと、店員さんもにっこり笑って答えてくれた。
「とんでもないです。永く使っていただけるといいですね」
*****************
夕飯は駅ビルの最上階にある鉄板焼き屋に連れてきてもらって、和食とステーキを食べた。17階にあって夜景の綺麗な店みたいだけど、個室からはさすがに見えない。
でも、人目を気にしないで外食出来るのは久しぶり。合流した時に掛けさせられた眼鏡は、出る時はもう暗くなってるだろうし、食事の間まで掛けてるのはなんか変な気がしたから、食べ始める前に返しておいた。
「あ〜 食った、食った!さすが鉄板焼き屋で食べるステーキはうまかったね」
「そうね」
お肉はすごく柔らかかったから、多分美味しかったんだと思うんだけど、食べてる間中、向かいの席で八一が私のことを目を細めて微笑みながらじっと見てるから、後半のステーキを食べる頃にはなんだか緊張して全然味を感じられなかった…
デザートのシャーベットをシャリシャリ崩しながら考える。
今日はずっと主導権を取られっぱなし…狙い通りに行動しちゃってる気がして、なんだかくやしい。
そもそも、どう考えてみても付き合いだしたからって、八一が一人で急にこんなスマートなデートプラン考えられるはずないのよね…
のんきに食後のお茶を飲んでいる八一に奇襲をかけてみることにした。
「ねえ、誰に相談したのよ」
「ゴホッ!! え? そ、相談!?」
「さっきのアクセサリー店とか、この鉄板焼き屋とか、八一が一人で選んだとか不自然じゃない? まさか、誰かと来たことあるとか? 供御飯さんとか、月夜見坂さんとか……」
「はぁ? なんでここで供御飯さんと月夜見坂さんが出てくるのさ!?」
「だって! 店員さんと知り合いみたいだったし! 前に…あのお店で他の人に…何かあげたのかなって……」
「他の人にアクセサリーなんて買わないよ。店員さんを知ってたのは、その…昨日下見に来たから…」
「下見!?」
こいつ、竜王防衛戦の直前だってのに、何やってるのよ!? 今日会ってくれるだけでも、研究の時間を削らせちゃって申し訳ないのに、下見までしてくれてたなんて…女狐達に貢いでたとかは無さそうだし、邪推しちゃって申し訳なかったな。
しかも、私のカマかけに対して、八一はバツが悪そうにこう返してきた。
「そりゃまぁ、確かに、さっきのアクセサリー店とかこのお店とかは、花立さんに相談して決めましたけど」
「はぁ!? なんで、花立さんにデートの相談なんてするのよ!?」
「いや、その! たまたま、この前メールくれたから……」
「ふーん……」
なんか歯切れが悪くて怪しいけど、今はすごく忙しいはずなのに色々準備してくれてたみたいだし、不問にしておこう。
私だって、貴重なデートを楽しみたいから、まずは溶け始めたシャーベットに集中することにした。
食事を終えて、念のため帽子だけかぶって、鉄板焼き屋を出る。廊下を歩きながら、どちらからともなく手を繋いで、エレベーターホールで下ボタンを押して、到着を待つ。
八一は、この後、どうするつもりなんだろう?
もっと私と一緒にいたいと思ってくれてる? でも、研究の邪魔しちゃわない?
私は、この後、どうしたいんだろう?
実家に帰るなら、このビルを出たら別れることになるし、研究部屋に行くなら、とりあえずは八一のアパートと同じ最寄り駅まで行けばいいけど…
チン!
エレベーターの到着を知らせるベルが鳴った後、静かに扉が開く。誰も乗っていないエレベーターに二人きりで乗り込む。
確認するなら、今しかない。
エレベーターを降りた後、人目があるところで話すのは、もっと恥ずかしいから、意を決して声をかけることにした。
「「あのさ!」」
ひぁ!!
かぶった!?
「な、何よ」
「銀子ちゃんこそ」
「八一が先に言ってよ」
「……あのさ、今日は、その、研究部屋と実家のどっちに帰るのかなって…」
「あ、明日は、久しぶりにオフだから? その……研究部屋に泊まろうと思ってるけど?」
ふと、指を絡めあったお互いの掌が汗ばんでいるのに気がついた。多分二人とも同じ気持ちなんだろうけど、それを確認する方法が分からない…
最初の時もこの前の時も八一が先手で、私は勢いで同意した感じだったし。
今日もまたずっと主導権を握られたまま、流れに身を任せるのって、シャクに触るというか、なんというか…
研究部屋に一緒にいってもいい、口実…
何かいい口実はないかな……
そうだ。
「ネックレス…」
「え?」
「さっき箱に入れてもらったけど、八一がプレゼントしてくれたんだから、最初はちゃんと八一が着けてくれなくちゃ…」
繋いだ指先にぎゅっと一瞬だけ力を込めてみたら、返事みたいに同じように握り返された。
「うん。そうだね。さっき練習したばっかりだし……」
そうそう。
外で箱を開けるわけにはいかないし? 私の研究部屋か八一のアパートで開けないとね。
ちなみに、マスコミ対策と八一をタイトル戦に集中させる為、小童は引き続き清滝家で生活してることは調査済みだったりする。
もう一押しすれば、とりあえず、同じ場所に帰るのは既定路線に出来るかも…
私がなんて言えばいいか悩んでいたら、八一はチラリとエレベーターのドアの方を確認すると、繋いでいる手を引っ張って、デパートのエレベーターの中でしたみたいに壁際に誘導してきた。
今乗ってるエレベーター内には誰も乗ってないし、バレるはずないのになんでだろう? と思っていたら…
壁に体を押し付けられたのと同時に、左手でグッと顎を持ち上げられて、八一の唇が降ってきた。
「え?……ん!」
最初から深い口づけになって、混乱している間に、口内に八一の舌が侵入してきて、私の舌を捕らえる。
ちょっと待ってよ!?
人目はないけど、ここ外なのに!
しかも、こういうホテルのエレベーターって、監視カメラとか付いてるんじゃないの!?
「んんっ!」
無性に恥ずかしくなって抵抗を試みるけど、左手は恋人繋ぎをしていてギュッと握られたままだし、右手で押し返そうとしてもキスが気持ち良くて全然力が入らない。
そして、気がついてしまった。
今から、別々の場所に帰るなんて、そんなの無理に決まってた。
だって……ご飯を食べている時から、もしかしたらそれよりもっと前から、もう『始まって』いたんだから…
私の顎をとらえていた八一の左手はいつの間にか頬を伝って、後頭部に添えられた。うなじに八一の掌の感触を感じて、ゾクっとした。
頭が真っ白になって、気づいた時には抵抗するどころか、八一のジャケットを掴んで、不慣れながらもたどたどしくキスを返していた。
チン!
エレベーターの停止階を知らせるベルが、私達のしていることを
一階に着いたらしくドアが開いたけど、息が荒くなってるし、混乱してるしで二人ともすぐに動き出せない。そうこうしているうちに、再びドアが閉まりそうになったから、急いでエレベーターを出た。
エレベーターを出ちゃったら、後はビルを出て電車に乗るのが定跡なんだけど…
こんな赤い顔で、しかも手を繋いだまま、電車になんか乗れないよ……
「あ…」
遠くを見渡した八一が何かを見つけたみたいだったから、同じ方向を見たら、出口の方にタクシー乗り場の案内があった。
「タクシーで、帰る?」
「うん」
私と八一はお互いが今まで一番一緒にいた相手で、これからもずっと一緒にいようと思ってる。だけど、性別も性格も好みも違うから、言葉にしなきゃ分からないこともたくさんある。
でも、今だけは言葉にしなくても分かる。
二人で『帰る』んだ。
801号室へ。
fin.
架空のデートコースを考えるのはすごく楽しかったです。
一応設定としては…
・デパート:阪急百貨店大阪うめだ本店
アニメのオープニングにも出てくる横断歩道を渡って向かってもらいました。
・アクセサリー店:ティ◯ァニー
ネックレスはソレストペンダントでプラチナだと30万弱ってところです。
・鉄板焼き屋:有馬
コースのデザートがシャーベットだったので、10巻特装版小冊子にあやかり出してみました。
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《18》キスと身長差
八一と銀子ちゃんの身長差が判明した時に勢いでTwitter上にあげたSSを加筆しました。
「ん〜!」
俺が銀子ちゃんの研究部屋で研究会の準備の為にタブレットを立ち上げていると、冷蔵庫から飲み物を取り出そうとしている銀子ちゃんが、何やら苦戦している声が聞こえてきた。
『身長低めの女の子が高いところの物取ろうと背伸びしてる後ろ姿って、妙にえっちぃな…』とか思って、しばらく眺めてたけど、どうも取れそうにないみたいだから、助けに行くことにした。
俺が170㎝で、銀子ちゃんが確か154㎝だから、身長差は約16㎝。
『カップルの理想の身長差は15㎝』らしいけど、こんなに身長差がつき始めたのはいつ頃からだったんだろう。
俺が中1の頃くらいかな。あの頃は身長も棋力も伸び盛りで、毎晩のように節々が
こんなに背丈に差があることすら気づかないくらい、ずっと近くにいて。
でも、いつの間にか彼女は俺より小さくて華奢な『女の子』になっていた。
お互いを一番大切な人だと言い合えるようになった今は、この差を少しでも縮めたいと思ってしまう。
「ん〜! はぁ、取れない…」
「どうしたの?」
「八一が前に買ってきて、冷蔵庫に入れてくれたお茶が一番上の棚にあって取れない…」
「冷蔵庫の棚に手が届かないってあるんだ?」
「自分がちょっと背が高いからってバカにして!」
「いや、170㎝なんて男子の平均なんだけど…銀子ちゃんは平均より低いのか」
「そうよ! 悪い!? 電車の網棚の上とか、ちょっと高いところのものは取れそうで取れないんだもん! しかも、八一が調子に乗って、必要以上におっきい冷蔵庫を買うから!」
「だって、冷蔵庫なんてそう頻繁に買い替える物でもないし、4人家族用のにしたんだけど…」
「!? ……ばか! いいから早く取って!」
ん?? なんで怒られてるんだろう?
まあ、照れ隠しみたいだから、とりあえず謝っとこう…
「ごめん、ごめん。これ取ればいいの?」
冷蔵庫の前にいる銀子ちゃんの背後に立って、さりげなく左手を細い腰に回しながら、一番上の棚に入っている緑茶のペットボトルを下ろす。
一本は銀子ちゃんに手渡して、残りの二本は一段下の棚に移す。
俺が自分用に買ってきたミネラルウォーターはどうしよう? と思ったら…
「もう! これからは、一番上の棚は八一のだから。私の物は入れないでよ!?」
ドキッとした。
銀子ちゃんは照れ隠しにプンプン怒ったフリをして、上目遣いで俺を見上げながら言ってるけど、一緒に使うために自分で買った冷蔵庫とはいえ、
『彼女の部屋にある俺の棚』
ってなんだ!? その特別な感じ!?
あ、ヤバい。変なスイッチ入った…
でも、これから研究会だから、軽いので終わらせとかなきゃ…
冷蔵庫の扉をパタンと閉じて、銀子ちゃんの体を反転させて冷蔵庫の扉に軽く押し付ける。銀子ちゃんはペットボトルを手に持って、きょとんとした顔で俺を見上げてくる。
くそぅ……超絶かわいい…
研究会、研究会と頭の中で唱えながら、少し腰をかがめて顔を近づける。
俺の影に隠れて明るさを失った、彼女の無防備で柔らかな唇を奪う。
「んん!?」
チュッ
重ね合わせて、一度
「ちょっ! 急に何するのよ!?」
「だって、かわいいこと言うから」
「か、かわいいことなんて、言ってないのに…」
真っ赤になって
研究会を始めようと声をかける為に、一歩後ろに離れた。
そしたら、赤い顔をした銀子ちゃんがペットボトルを左手に持ち替えて、右手で俺のシャツの端を引っ張りながら、俺の顔を見ないで、
「ねえ」
「ん?」
「もう、おしまい?」
「!?」
そんなことを言われてしまえば、続けざるを得ない。
「あっ…!」
左手を腰に、右手を首の後ろに回して抱き寄せて、さっきより強めに冷蔵庫に体を押しつける。
首を少し引き寄せて、顔を見上げるようにさせた。
視線が合うと、続きをねだったけど、こうなることまでは想像してなかったって感じの表情だった。
驚いた拍子に少し開いた彼女の唇を捕らえて、『大人の封じ手』をする。
「……んんっ!」
だって、ここは俺の彼女の部屋で、ここには俺と彼女しかいなくて、俺の彼女はこんなにもかわいい。
今日やる予定の研究も大事だけど、それを後回しにしたからって、誰が俺達を責めるっていうんだ。
ドコッ
「ッ!!」
鈍い音と共に俺の右足の甲に衝撃と痛みが走った。
さすがにキスを続けるような余裕はなく、唇を離して被害状況を確認すると、足元に銀子ちゃんが持っていたペットボトルが転がっていた。原因が分かったら、途端に痛みが増してきた。
「いっつ〜〜」
「ご、ごめん!! 手が滑って!」
「だ、だいじょうぶ……」
将棋の神様、大丈夫です。
ばっちり、目が覚めました…
その後?
ちゃんと予定通りにしましたよ?
もちろん。
完
冷蔵庫は『研究会』の最後に買ったという噂のやつです。
多分「自動で氷作れる方がいいよな…」とか調子に乗って大きいサイズを買ってしまったんでしょう。
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《19》年越し
『肩を抱いたら、怒られるかな?』
普段は将棋のことばかり考えている俺の、今の思考の大半を占めているのは、『そのこと』と『この後のこと』。
腹に響く鐘の音が定期的に聞こえる中、俺と銀子ちゃんは今、真冬の深夜に屋外で長蛇の列に並んでいる。
今日は大晦日。あと数十分で年が明ける。
到着が遅れたから、除夜の鐘突きは諦めて、年を
俺が約束を破ったせいで人混みの中、二人きりですぐ隣にいるのに大変気まずい状況である。
神社で年越ししようと誘ったのに遅刻した挙句、実家まで迎えに行くはずが、神社の最寄り駅で待たせることになってしまったのだ。
付き合い始めて約4ヶ月。最近は今までよりも頻繁に会って一緒に過ごす機会が増えて、油断していたのが敗因だと思う。
後は、『この後のこと』に気を取られていたから…
毎年年越しは銀子ちゃんは実家で、俺は清滝家で迎えて、元旦の昼頃に銀子ちゃんも清滝家に来て、桂香さんお手製のお雑煮を食べるのが恒例だった。
去年はあいも一緒に清滝家で年越しをしたし、今年も清滝家に泊まっている。
ただ、今回の年越しはどうしても『二人きり』で迎えたかったから、夜遅くなってから待ち合わせて、この神社へ来たんだけど…
「は、はくしょん!!」
「何よ。コートの下、薄着じゃない」
「風呂ん中で、いい感触の手を思いついちゃって、気づいたら待ち合わせの時間過ぎてて、慌てて着替えて出てきたら厚着するの忘れてた…」
「また?しょうがないわね…」
とっさにそれらしい嘘を言うと、銀子ちゃんはため息をつきながらも、赤くて長いマフラーを途中まで解いて、俺の首にも巻き付けてくれた。今まで銀子ちゃんに触れていたマフラーは、それ自体がほんのり温かかった。
急に手に入れた温もりは、逆に全身の寒さを思い出させた。
「ふぅ…」
無意識に出たため息が白い息になって、俺と銀子ちゃんの間の空間に浮かんで、幻の様に消えた。
少し列が進んだから、半歩先にいる銀子ちゃんの歩調に合わせて、付かず離れず進む。お互いを繋ぐマフラーが引っ張られて苦しくならないように、今までより近い位置を保ちながら。
普段だったら、手を繋ぐなり、肩を抱き寄せるなりすることなんて、訳ないくらい『恋人らしいこと』には慣れてきたつもりだけど、なんだか今日は出だしで
肩を抱いたら、怒られるかな?
マフラー貸してくれるくらいだから、もうそんなに怒ってないと思うけど…
でも今、拒否られたら『これから』をどうすればいいか分からなくなるし…
でも、触りたい…
結果的に俺は、銀子ちゃんの真後ろに立って、右手を彼女の肩から10センチ位離れた空中でウロウロさせながら、今日何度目かの無意識の長考に入っていた…
*****************
今日はどうして触ってこないんだろう?
最近は私が恥ずかしくなるくらい、人前でも手を繋いだり、肩を抱いたり、腰に手を回したり、ベタベタしてくるのに。
遅刻してきたこと、注意はしたけど、別にそんなに怒ってないのに…
いつもだったら、こういう待ち時間は目隠し将棋して待ってたらあっという間なのに、今日はなんだか提案しづらい雰囲気…
付き合い始めて約4か月。私達が付き合い出したことは、あっと言う間に将棋界だけじゃなくマスコミにまで知れ渡り、最初の頃は連日、記者やリポーターに追いかけ回されて、二人きりで会うことさえ、ままならなかった。
でも、報道も落ち着いた今となっては、逆に知れ渡っていて地元では二人で歩くのもコソコソせずに済むようになったから、まぁ良しとしよう。
それにしても、今年は激動の一年だった。四段昇段もそうだけど、八一が私のか、かれち…彼氏になるなんて…
しかも八一から『大晦日の夜中に待ち合わせて、神社で年越しをしよう』なんて、恋人らしいイベントに誘ってくれるようになるなんて、半年前なら想像もつかなかった。
恋人らしいイベントと言えばクリスマスだけど、竜王防衛戦は例年12月後半までかかるから、それどころじゃないし、元々期待してなかった。でも、竜王戦が終わったら何かしらプレゼントをくれるのかと思ってたのに…
だって、竜王戦が始まる前に急にデパートのアクセサリー売場に連れて行かれて、ネックレスやらイヤリングやら指輪やらをたくさん試着させられたんだもん…
あの時も今日と同じ感じで自分から誘ってきた割には、上の空だったな…
結局、今も着けてる小さいダイヤがついたシンプルなネックレスを買ってもらった。私にとっても大事な物だけど、八一にとってはすごく思い入れのある物らしい。
だって、貰ってから会う時は必ず着けるようにしてたんだけど、一度着け忘れて、その…シてる最中に気付かれちゃったら、ものすごく不機嫌になって、お、お仕置きされちゃったから…
でも、せっかく貰うなら指輪にしておけばよかった。最近なぜか東京の若手プロ棋士から食事のお誘い受けることがよくあって、断るのが面倒だから。指輪をしてれば男よけになるかなって思うし。
一緒にいるのに八一はまた上の空。
マフラーも巻いてあげたし、遅刻されたこっちからの譲歩は十分してあげてるつもりなのに。
時々私がスマホの画面を自撮りモードにして、後ろにいる八一の顔や右手の位置を見てるのに気づきもしない…
もう5分くらい、肩を抱こうかやめようかとうだうだしてる。
早くいつもみたいに触ればいいのに。
ばかやいち。
クズ……
そんな悪態を心の中で呟いていたら、私達とは逆方向に進む、参拝を終えた人達の列に酔っ払いがいたらしい。
「「!!」」
ぽすっと背中が真後ろにいる八一に当たる感触を感じると同時に、酔っ払いから庇うように、ずっとすぐそばにあった八一の右手が、私の肩をいつもより力を込めて抱き寄せた。
たまにはいい仕事するじゃない、酔っ払い。ほんとにたまにだけど。
私は斜め後ろを見上げて、後頭部を八一の肩に押し当てた。
「ありがと」
「うん」
八一もいつもの調子を取り戻したのか、柔らかく微笑むと私のおでこにキスを一つ落とした。
*****************
無事年を越す前に、参拝を終えることができた。銀子ちゃんの手を引いて帰宅する人の列を離れて、事前に下調べをしておいた人通りの少ない場所に移動して、今年が終わるのを待つ。
定跡から言えば、もっと前、具体的に言えば1週間前くらいに行っておくイベントだろうけど、その頃は竜王防衛戦にかかりっきりになることは前々から予想ができてたから、仕方がない。
あと、こういった高価な物を手に入れるのに、こんなに時間がかかるとは思わなかった。でも、将棋盤も高ければ高い程、完成まで年数かかるし、そういうものなのかもしれない。
それにしても、経験者に早めに相談しておいて正解だった。向こうはただニュースを見て、からかいたくて連絡してきたんだろうけど。
こればっかりは、いつも相談に乗ってもらっている桂香さんや供御飯さんに聞くわけにはいかないから…
銀子ちゃんが史上初の女性プロ棋士になって少ししたら、色々あってマスコミに俺達が付き合っていることを嗅ぎ付けられた。すったもんだ紆余曲折あって、最終的には『結婚を前提にしたお付き合い、結婚するのは銀子ちゃんが高校を卒業した後』ということで対外的にも話がまとまった。
結果として、両者の同意は十分取れているんだが、普通その前にするであろう『プロポーズ』というイベントをすっ飛ばしたまま、竜王戦が始まってしまい今に至るわけだ。
さすがに俺だってこのままじゃいけないとは思っていたから、プロ棋士と結婚している女流棋士、花立さんから連絡があった時相談してみたんだけど…
この業界の女性への高価な贈り物なんて、将棋盤以外だったら基本は振袖なんだろうと思って、花立さんに聞いてみたら電話口で小一時間正座で説教されるくらい怒られた。
曰く、なんで将棋界の男は常識がないのか、普通とか一般的とかオーソドックスとかを知らないのか、さらにはタイトルホルダーとして和服を着る機会が多いくせに、和服の知識が足らなすぎると…
返す言葉もございません…
だって知らなかったんだから。
振袖は『未婚女性』しか着られない着物だなんて…
そりゃ、結婚を考えてる相手からプロポーズのタイミングでそんなものだけ贈られたら、
「ボク、君をキープしてるけど、結婚はしないヨ!」
って言ってるようなもんだよな。
花立さんの旦那さんも同じ過ちを犯したらしい…結局、もらった振袖は結納の時に着たし、袖を短くして既婚者でも着られるようリメイクをしたそうだけど。
あとは、俺の場合は実際に結婚するまで時間があるし、使う機会もあるだろうから、それはそれとして相談したけど。
当然だが、花立さんは改めて普通で一般的でオーソドックスな婚約指輪を買ってもらったそうだ。
指輪をサプライズで贈るには、まずサイズを自然と聞き出す必要があり、花立さんのアドバイスで、デパートで適当なアクセサリーを物色しつつ、指輪のサイズを確認した。
その時プレゼントしたネックレスを銀子ちゃんは俺と会う時いつも着けてきてくれてるんだけど、そういえば一度だけ着け忘れて来た時があった。
その時は竜王戦の途中で気が立っていたのと、東京の若手プロ棋士の中で銀子ちゃんを食事に誘って断られるかどうかを賭けてるという噂を聞いてしまった直後だったから…
やっぱり安物でも指輪にしておけばよかったという後悔と他の男への嫉妬と謝る銀子ちゃんの態度が俺の平常心をかき乱して…
お仕置きと称して、普段させないことを無理強いしてしまった…今までシた中で一番燃えたし、銀子ちゃんも感じてくれてたと思うけど、やり過ぎた感は否めない。でも、機会があれば、またシてみたい気もする…
そんなこんなで、なるべく早く渡したいとは思ったけど、基本的にそういう透明な石のついた錆びない銀色の指輪はセミオーダーメイドと言うヤツらしい。
だから、お店に行った当日買って持って帰れるようなものではなく、デザインやら石の大きさやら内側に文字を入れるのなんのって、購入までにも竜王戦の合間を縫って何度もお店に足を運ぶ必要があった。ようやく注文できてからも、手元に届くまで1ヶ月位はかかった。
結果、クリスマスも竜王戦も通り越して、このタイミングになったわけなんだが……
ゴーン……
108回目の鐘の音が響いて、激動の一年が終わり、また新たな一年が始まった。
「あけましておめでとう」
「うん。今年もよろしく」
歩夢なら、赤い薔薇の花束でも添えて、嬉々として
おもむろに銀子ちゃんが巻いてくれた赤いマフラーを外して、ポケットに入れていた正方形の
「銀子ちゃん、これ…遅くなったけど…」
「なに?」
「まぁ、クリスマスプレゼント…みたいなもの…かな?」
箱を開けて、息を飲む銀子ちゃん。
開かれた箱から指輪を取り出して、銀子ちゃんの左手を手に取る。
用意していた言葉を口に出そうと思ったら、一瞬早く銀子ちゃんに先手をとられた。
「か、片膝ついて…」
「え?」
「片膝ついて、指輪はめて!」
「こ、ここ、神社だよ!?」
「こ、この場所選んだのは八一でしょ!?」
「そ、そうだけど…」
恥ずかしいけど、お姫さまのご要望だから仕方ない…
銀子ちゃんの左手を取ったまま、その場で片膝をついて彼女を見上げる。
神社の
思わず見惚れて、言葉が出ない。
「な、何か言ってよ」
「な、何かって…」
「こ、このシチュエーションで言うことなんて、決まってるでしょ!?ばか!」
「わ、分かってるよ!きれいだから見惚ちゃってただけだし!」
「っ!?」
俺は呼吸を整え、覚悟を決めると用意していた言葉を口に出した。
「……空、銀子さん…高校を卒業したら…俺と結婚して下さい」
「はい……お願いします」
俺がはめた指輪は、元からそこにあったかのように、ピタリと彼女の細い左手の薬指に収まった。
左手を目の前にかざして指輪を見つめていた銀子ちゃんが、ハッとしたのが分かった。
「こ、これって、前行ったデパートでお店の外に展示されてた指輪じゃない!?」
そう、俺が花立さんにアドバイスをもらうために、トイレに行くと嘘をついて離れていた時、通路で待っていた彼女がたまたま眺めていた高級ブランド店の外のショーウィンドウに飾られていた指輪。それをそのまま婚約指輪にした。
「うん、だってこれきれいって言ってたし、こういう石だけ出っ張ってない方が好きって言ってたから。いや〜どのデザインがいいか分かってほんと助かったよ」
「な、眺めてただけなのに!?た、高かったんじゃないの…?」
「そんなでもないよ。そういえば、店員さんに予算の目安は給料1ヶ月分位って言われたから年収の12分の1位を言ったら、なんでか奥の部屋に通されちゃったよ。うっかりシャンパン飲まされそうになるし、迫力ある男性店員がゴテゴテしたもっと高い指輪勧めてきてさ。銀子ちゃんの細い指には似合わないと思ったから断って、最初の店員さんに戻してもらったけど。やっぱり、慣れない高級品店は緊張したよ〜」
「……いいカモだと思われたのね…」
「ん??そういえば、店員さんが、彼女さんに結婚指輪もよろしくって言ってた」
「……分かった」
「そうだ。あと、四段昇段のお祝いも兼ねて、振袖仕立ててるから。いつも使ってる呉服屋さんが、今度採寸に来て欲しいって」
「振袖も!?」
「師匠からも貰うだろうけど、俺との公式戦で着てほしいから。あ、一応結婚したら袖を短くして使えるようにもしてもらってあるから」
「プ、プレッシャーかけないでよ…」
「負けず嫌いな銀子ちゃんには、これくらいのプレッシャーがあった方が張り合いがあるでしょ?待ってるから…」
「分かってるわよ。もう……ばか…♡」
俺が贈った銀色の指輪を着けた、銀子ちゃんの左手を握り締めながら帰宅を促す。
「さてと。寒いし、帰ろうか」
「同歩……7六歩」
「!……8四歩」
「2六歩……」
今日からまた、今までと同じようで、少し違った新しい一年が始まる……
fin.
せっかく調べたので一応、設定紹介…
・初詣の神社:大阪、四天王寺
私はまだ行ったことがありませんが、有名な初詣スポットとのこと。
・婚約指輪:カル○ィエのバレリーナ ソリテール リング
まあ、100万は超えます。
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《20》デート・アラカルト【合宿編】
銀子ちゃんと付き合い始めてから、あっという間に半年以上経った。
子どもの時からずっと一緒にいて、銀子ちゃんのことなら、なんでも知ってるつもりでいたけど、恋人になって改めて知ったことも結構あった。
俺が思ってたより銀子ちゃんは甘えたがりだし、誰もいないところで二人きりの時は結構自分からも積極的にイチャイチャしてくるし、将棋以外には興味ないんだと思ってたけど『恋人らしいこと』をするのに憧れてたらしい。
それから…
俺が思ってたより、俺のことが好きみたいだ。
次のデートで何するかは大体銀子ちゃんが決めるんだけど、例えば雑誌で行きたいデートスポットが特集されてるページを指差して…
「今度のオフはここに行くわよ! ……八一はあんまり興味ないかも知れないけど、ずっと一緒に行きたかったんだもん……ダメ?」
な〜んて、最初は照れ隠しでツンツンしてる癖に、急に上目遣いで甘えた声出してかわいいこと言うんだもん、断れっこないよね。無理ムリ!! ふふふ……
そんな感じで、二人での将棋の研究会や練習将棋もきちんとやりつつも、いわゆる『恋人らしいデート』にも時々行っている。
そうは言っても交際してることを公表しちゃった俺たちは、今やワイドショーや週刊誌を賑わせる芸能人みたいになっているから、気楽に外出するのは難しい状況だ。特に駅での待ち合わせや電車での移動中は人目につきやすいらしくて一度バレるとデートどころじゃなくなることもある。
そもそも芸能人レベルに知名度が高くて、人一倍目立つ外見で、しかも超かわいくて超美人な銀子ちゃんと公共交通機関でデートスポットに向かおうとすること自体が無理・無茶・無謀な話なのかもしれない。
そうなると『唸るほど金あるんだから毎回タクシー使えよ』って話になるんだろうけど、噂話好きなタクシー運転手さんにうっかり乗り合わせるとそっちの方が後々厄介なのだ……
一度デートの帰りに《浪速の白雪姫》ファンの運転するタクシーを引き当てちゃって、移動中ずっと根掘り葉掘り質問され続けたから慌てて研究部屋に着く前に降りたんだけどさ。その人に適当に返事した内容が回り回って週刊誌に掲載される……なんてこともあった。それからは研究部屋の場所も特定されないようにタクシーを使う時でも離れた場所から乗り降りするという防犯対策を取らざるを得なくなったりと、ほんと、いちいち面倒なんだよね……
*****************
八一と付き合い始めてから半年以上経った。
子どもの時からずっと一緒にいて、八一のことならなんでも知ってるつもりでいたけど、恋人になって改めて知ったことも結構あった。
私が思ってたより八一は甘えたがりだし、人前でも隙を見て所構わずイチャイチャしてくる。将棋以外には興味ないんだと思ってたけど、私のしたかった『恋人らしいデート』も意外と満喫してるらしい。
それから…
私が思ってたより、私のことが好きみたい。
おしゃれなカフェでケーキを食べてる時とかに、向かいの席ですごくニコニコしてるからなんでか聞くと、
「うん? 俺の彼女、めっちゃかわいいな〜と思って。ほら、こっちの苺のタルトも美味しいよ。あーん♡」
とか言って、人前でもイチャイチャしてくるんだもん。ほんと、困っちゃう。えへへ……♡
でも、『空銀子と付き合ったせいで、九頭竜が弱くなった』なんて、冗談でも絶対に言われたくない。だから今まで以上に二人でいる時はVSや研究も積極的にして、その息抜きに外でデートするようにしてる。
とはいえ『恋人らしいデート』をしようにも、意図せず芸能人みたいになってしまって、気軽に外出できなくて困ってるのよね。
梅田とかいわゆる人通りの多いデートスポットに行く時は一応帽子を被って変装っぽいことはしてる。でも電車で移動して目的地の最寄駅に着いた途端にうっかり「銀子ちゃん」って八一が名前で呼ぶのを周囲の人に聞かれてバレてしまい、ギャラリーに取り囲まれて目的地まで行けずにお出かけデートを諦めてタクシーでトンボ帰り。結局いつも通り研究部屋で将棋三昧……みたいなことも何度かあった。
まぁ? 八一が私のカレシだってたくさんの人に見せびらかせるのは、むしろ望むところだから? 人目なんか気にせず行きたい所に行くようにしてるし、デートしてる写真をこっそり撮られても正確に報道してくれる分には週刊誌に載ったって別に問題ないし? むしろよく撮れてるツーショットはこっそり集めて保存してるし、私としては願ったり叶ったりなんだけど?
大体もう、将棋連盟のホームページで公式発表しちゃったし? 確かにその時は凄い勢いで週刊誌だのワイドショーだのが騒ぎ立てたけど、マスコミなんて『疑惑』だから騒ぎ立てるんであって『事実』だって確定しちゃえばネタとしての鮮度が落ちるみたいで二、三ヶ月で落ち着いてきたし。でも、根拠もないのに破局説を展開する週刊誌には超ムカつくから毎回厳重抗議しなきゃいけない。
それから、最近厄介なのはマスコミよりもいわゆる《浪速の白雪姫》ファンなのよね……デート中なのにサインだの握手だのは状況によってはまだ我慢できるとして、あまつさえ本人は聞こえないように言ってるつもりなんだろうけど、『クズ竜とまだ付き合ってたんだ!?』だの『早く別れてオレと付き合ってほしい…!!』だの勝手なことを言ってくるから、聞こえないふりして直接反論しないように我慢するのが大変。腹に据えかねて楽しいデートの気分じゃなくなったから、予定変更して研究部屋に戻って将棋で憂さ晴らしするってことも、実はある。
そんな感じで、タイトル戦が終わって年が明けてからはお互い忙しいながらもデートにも彼氏彼女らしいことにも慣れてきていたんだけど…
2月の後半に入ると私は高校の期末試験で一応テスト勉強もしなくちゃいけなかったし、八一は順位戦が終盤に差し掛かって、今度こそ全勝で昇級しなくちゃって意気込んで珍しくピリピリしていたから、二週間くらい会えない日が続いた。
新四段の私が順位戦に参加できるのは去年の9月に昇段していたとしても今年の6月からだから、せっかく必死の思いで
でも、今出来ることをするしかないし、追試なんかで時間を取られるのは無駄でしかないから期末テストまではさすがにテスト勉強に集中した。
英語の勉強はまぁ、頑張った。
今後の将棋界の発展を考えれば、日本以外への普及も視野に入れていかなきゃいけないじゃない?
それに、ハネムーンとかはやっぱり海外とかに行きたいし。日本だと人目が気になって満喫出来なさそうだし。この前初めての竜王防衛戦で一緒にハワイに行ったけど、あれは仕事だったしアイツは全然観光できなかったから、ハワイにもう一度行ってもいい。でも、日焼けは嫌だからビーチじゃないリゾートに行ってもいいな……
って言うか、ビーチじゃないリゾートってどこ?
無事期末テストが全部終わったら私は春休み。あとは八一の順位戦さえ終われば閑散期に入るからやっとのんびり二人で過ごせる! と思ってたんだけど……
春休みに入る前に将棋会館に呼び出されて、追試がないかどうか会長直々に確認されて、ないってバレたら最後、各地で開催される春休みの子ども将棋イベントを中心に地方出張をぽんぽん入れられてしまった。確かに地方の将棋イベントを盛り上げるのも普及という棋士の仕事の中では重要な位置を占める。私は高校に通っているから、普段は要望が来ていても断っていると言われてしまえば、拒否することなんてできない。それでもなんとか春休みは将棋の個人研究に専念するつもりだったって猛抗議してかろうじて数日に一度は休みの日をねじ込んだけど、全然のんびりって感じじゃなくなってしまった……
そんな状況だったから、八一の順位戦の最終戦の日は八一は東京遠征、私は地方の出張先に泊まっていた。ネットの速報で結果は分かったけど、インタビューとか色々忙しいんだろうからこちらから連絡したりはしない。それでも今晩八一から連絡してきてくれるって確信があったから、ホテルのベッドに横になって、うとうとしながらもスマホが震えるのを今か今かと待っていたら……
私の予想通り、八一が電話をかけてきてくれた。
「もしもし。銀子ちゃん?」
「うん」
「終わったよ」
「お疲れ様」
「うん。そうだ! 急なんだけど、来週からガッシュクに行ってくるから」
「は? 合宿?」
「そう。急に思いついたんだけど、今しか時間が取れないから二週間くらい行ってくるね」
「はぁ!? 二週間も誰と……はっ! 待って。これって詳しく聞いちゃダメな話よね。絶対言わないで!」
「うん? あっ! そ、そうだね……」
「じゃあ、明後日会ったら、また当分会えないんだ……」
「ゔっ……そ、それが……さっき調べてみたら、銀子ちゃんが大阪に帰って来る時乗るって言ってた新幹線より前に、俺は出発しなきゃ間に合わないみたいで……入れ違いに、ナリマス……」
「えっ? 明後日会えないの?」
「う、うん……そうなるね……ごめん……」
「…………じゃあ、次どうする?」
「とりあえず、合宿終わった後の日曜はどう?」
「その日なら一日オフだけど……」
「よかった! あっ!ごめん、供御飯さんが打ち上げが始まるって呼んでるから行かなきゃ! また連絡する!!」
ポロロンって軽い音と共に通話が切れた。
大阪に帰ればすぐに会えると思って頑張ってたのに、さらに二週間も会えないって言われた。『合宿に行く』っていうからには将棋の合宿だろう。
恋人とはいえプロになったからには同じ土俵の上で戦う対戦相手同士。
いつか敵になる相手だ。
お互いに明かせない手の内は当然あるし、それこそ誰とどこで合宿するかなんて超重要な企業秘密みたいなもの。むしろ『九頭竜八一が誰かと将棋合宿をする』って情報自体が、相手が前みたいにJSでもない限りはトップシークレット。『JS合宿』の方が超トップシークレットな気もするけどね!
八一が自分から教えてくれないなら、それ以上追求するなんて礼儀に反するし、八一は良くても相手の棋士の情報を間接的に聞き出そうとするような卑怯なマネはできない。研究仲間から口止めされてる可能性だってある。八一は今東京にいるし、もしかしたら相手は歩夢くんで一対一でのVS合宿なのかもしれない。
だけど……
八一のタイトル戦が終わってからも、お互い忙しかったから言い出せなかったけど、今年の春休みは付き合い始めてからやっと来た初めての閑散期だし……
やっとゆっくり二人で一緒にいられるんだと思ってたし、八一とお花見とか、その…イッパク、リョコウ…とかだって行きたいと思ってたのに……
そうは言ってもいくら女性初のプロ棋士になったからって、新四段なんかじゃ超トップ棋士の仲間に入れなくて当たり前。むしろ私の立場じゃ、そんな超トップ棋士である八一と普段から研究会ができてることこそ、有難がらきゃいけないんだって事を痛切に思い知らされた気がした。
仕方がないことだって、理性では十二分に理解しているつもりではある。
あるんだけど……
高校が春休みに入ってクラスメイト達はウキウキと青春を謳歌してるのに、私は地方の将棋イベントにばっかり駆り出されて、自分の研究も中々出来ないし、私との研究会やデートよりその合宿の相手を優先されたみたいで、なんだか、将棋でも恋人としても置いてけぼりにされたような気持ちになってしまった。
付き合って半年くらい経つし、もしかして八一の方は倦怠期に入ってて、飽きられ始めたんじゃないかとか、将棋のレベルが違いすぎて愛想を尽かされたんじゃないかとか不安になって、夜一人ベッドでぐずぐず泣いてみても、答えは出ないし。
桂香さんに相談してみたけど『大丈夫、心配ない。ノロケ、ウザい』的なことしか言ってもらえなくて……
それまでは会えなくてもほとんど毎晩電話してたのに、かけてこないし。
メッセージアプリには連絡が来てたけど、下手にこっちから八一の様子は聞けないし、何話せばいいか分からないから。
『銀子ちゃん、今何してるの』
『将棋』
『元気?』
『普通』
こんな感じのツンケンした返事しか返せなかった。
せっかくの春休みなのに、彼氏がいるのに、何で私は暇さえあればひとりぼっちで研究部屋に篭っているのか。一頻り悲しくなった後はだんだんイライラしてきて、その苛立ちを将棋の研究にぶつけることにした。
とは言っても公式戦は当分ないし、八一との研究会もできないお陰で、最近疎かになってた個人での研究がすごく捗った。
ほんと、もう、すごく。
この二週間で考えた研究手を来期何としても八一との公式戦で使って憂さ晴らししてやる!
*****************
東京での順位戦の最終局が比較的早く終わって、インタビューまでの間が空いて一人でぼーっとする時間ができた。長かった順位戦も終わったし、これから三月の閑散期に入るから銀子ちゃんとデートしまくれるぞ!! せっかくだし、一泊くらいなら旅行に行くとかも許されるかな……ふふふ……未成年同士だけど一応親公認なんだし……ぐふふ……とかアレコレ妄想が捗りまくる。
でもまたデート中にファンサを求められたり、タクシーの運ちゃんに根掘り葉掘り聞かれたりするのはヤダだなぁ〜と今までのデート中のゴタゴタまで思い出してしまって、それなら、やはり今しかないのではと思い立って急遽二週間程、自動車教習合宿に行くことに決めた。
元々夏休みにJS研の思い出作りができるよう、18歳の誕生日前に教習所に通って免許が取れるようになったらすぐに取ろうと思ってたんだけど……
運良く帝位戦に勝ち上がっていけたから教習所に行く時間が作れなくてズルズルと遅くなってしまった。
一応トラックとか農耕用の車を運転する可能性も踏まえてマニュアルで取った。棋士になった以上は農家になるつもりはないけど、小さい頃にじいちゃんと『運転免許取るならマニュアル』って約束したからね。親父が米作りを再開したし、急に助っ人として駆り出される可能性もなくはないし。
早速予約を取ろうと何件か問い合わせしてみたけど、春休みシーズンでどこも混んでるらしくて4月以降の予約しか空いてなかった。ダメ元で夏頃検討していた教習所にも連絡してみたら、運良く数日後から開始の日程にキャンセルが出たばかりだと言われたので、その場合で予約することにした。
その場の勢いで決めちゃったから、あいやあいを預かってもらう予定の桂香さんには事後報告になっちゃったけど、今後の移動が楽になるならと歓迎してもらえた。
せっかく銀子ちゃんも学校が春休みでゆっくりデートをできる時期ではあったけど、年間通して見ると対局が落ち着いていてまとめて時間が取れる時期は限られてるから仕方がない。
それに銀子ちゃん自身は学校の長期休み中こそ忙しいらしい。子ども向けの普及イベントが各地で多数開催されてるから、イベントに来て欲しい棋士No. 1の呼び声も高い《浪速の白雪姫》も、普段は学業優先で免除されてる地方のイベントに引っ張りだこみたいだ。
俺の順位戦が終わった日もまさに地方に出張中だった銀子ちゃんには予約ができた後電話で『合宿に行く』って話したら、なんか『将棋合宿』だって勘違いしたっぽいけど、誤解は解かないでそのまま話を合わせておいた。
免許取り終わった後のデートの約束は取り付けたから、その時に車で迎えに行って銀子ちゃんをビックリさせようと思ったかったから。
清滝家に預かってもらうあいや桂香さんにも、なるべく内緒にしてもらうように頼んでから免許合宿に出発した。
免許合宿自体は一日中座学・実習・座学・実習・復習・テスト勉強で息つく暇もなかったけど、将棋以外のことをこんなに長く真剣に勉強したり、屋外での技能実習に集中したりしたことはなかったからすごく新鮮だった。
合宿所の食事も美味しかったし、同年代の人達が多くて、お互い名前なんか名乗り合わないけど毎晩ワイワイ学科試験の勉強をしたから、高校生とか大学生気分が体験できたのも楽しかった。
それでもふとした時に自然と将棋と銀子ちゃんのこと考えちゃうのは職業病というか、多分もう俺にとっては①空気 ②将棋・銀子ちゃん ③水、くらいの優先順位で、なくなったら生きていけないものなんだろうなと思った。
教習所は田舎の山の方だから合宿所に帰るとスマホの電波が通じにくくて、電話もうまく繋がらなくて正直困ったけど、日中教習所内ではメールの確認やメッセージアプリの送受信はできたからなんとかなった。付き合い始めてから会えない日は毎晩のようにしていた銀子ちゃんとの電話が出来ないのはもどかしかったけど。
合宿中はあまり連絡が取れないことはメッセージで銀子ちゃんにもぼかしつつ伝えていたんだけど、いつもよりもそっけないのが気になった。でも多分地方イベントに駆り出されてない空き時間は将棋の研究に夢中になっているんだろう。最近個人研究の時間が足りないってボヤいてたし。
合宿所の仲間と励まし合いながら毎日毎晩、学科試験の勉強をして、なんとか無事最短日数で運転免許を取ることができた。
合宿から帰って来た翌日に、銀子ちゃんとの久しぶりのデートをする予定を立ててたから、免許が取れたらレンタカーを借りて練習がてらドライブに行こうと思ってたんだけど……
彼女と長期間離れるのに、『どこで・何をする』のかなんて重要なことを下手に隠すのが、大悪手であるということを身をもって思い知る羽目になるのだった……
*****************
八一の合宿期間が終わって、久しぶりのデートの日がやって来た。
デートの時は大体私がどこで何するか決めて会う前日に待ち合わせの約束をするんだけど、昨日は八一の方から連絡してきて、待ち合わせ場所を私の実家の前にするって言い出した。しかも、行き先は八一が決めてあるそう。わざわざ実家まで来て、デートプランまで考えてくれるなんて今まではしたことなかったのにどんな風の吹き回しだろうと思ったけど、もしかしたら今まで忙しくて出来なかっただけで、閑散期で余裕ができたからかもしれない。あとは、会えなかった分の埋め合わせにエスコート、してくれるつもりなのかも……
私がしたいデートプランを一緒に楽しんでくれるのも嬉しいけど、こういう感じで全部相手にお任せするのもなんか理想の『デート』っぽくてドキドキして、昨日の夜は中々寝付けなかった。
それでなくても久しぶりのデートだし、一ヶ月ぶりくらいに会えるからワクワクしながら支度をして待っていたら、スマホが震えて『家の前に着いたから出てきて』ってメッセージが来た。
はぁ!?
なんで家の前まで来といて玄関まで迎えに来ないのよ!?
弟弟子のくせに、ちょっとカレシになったからって偉そうに!!
でも休日で両親も家にいるし、親公認とはいえ一々挨拶だなんだで時間が取られるのももったいない。イライラしながらも靴を履いて、家の玄関の扉を開けたら、目の前に赤い車が停まっていた。
こんな住宅街の民家の前に堂々と路駐? もしかしてまたマスコミじゃないでしょうね……って不審に思ってたら、その車の窓が開いて中からすごく久しぶりに見る八一が顔を覗かせてニヤニヤしながら手を振っていた。
運転席に座って。
うんてんせき??
「久しぶり。お待たせ」
「……くるま?」
「うん。レンタカーだけど。合宿で免許取ってきた。びっくりした?」
「めんきょ??」
事態が飲み込めていないうちに、家の中から様子を伺っていた母が私の後ろから顔を出したから、八一も車から降りてきて、私をそっちのけで二人で挨拶を始めてしまった。
八一がいつもと違ってよそ行きな口調で母と話しているのをぼーっと聞いていると、
「お久しぶりです。先日はありがとうございました」だの、
「そうなんです! 免許合宿に行ってたんですよ〜ほら、私と銀子…さんが一緒に電車に乗ると、余計目立ってファンに囲まれた時に危ないじゃないですか? タクシーは別の危険があったので。 自分の車で移動できればもっと自由がきくかな〜と思って」とか、
「いえいえ、もっと早く取りたかったんですが、この時期しか時間が取れなくて。お花見とかも一緒に行きたいんですが、この辺はまだみたいですね〜」なんて明るく話してる。
そして気づいた時には車の助手席の方に誘導されて、ドア開けてもらって座らされていた。
閉めるよ〜って声とバタンとドアが閉まる音で我に返ると、既に私は車の助手席に収まっていて、フロントガラス越しに八一が母に会釈をしつつ運転席の方に向かっていくのが見えて。一瞬見えなくなった後運転席のドアがサッと開いて小慣れた様子で私の『彼氏』が乗りこんできた。
『車の助手席に座ってたら、運転席に彼氏が乗り込んできた』
テレビドラマのワンシーンか何か??
「ほら、銀子ちゃん、シートベルト締めて。それじゃ、行ってきます。帰りはここまで送ってくる予定なので、ご安心ください!」
若葉マークの初心者にしては柔らかい動き出しで車を発進させて、大通りに出たところで八一に話しかけられて、再度我に返った。
「ふぅ。やっぱ、カノジョの親御さんへの挨拶だと思うと緊張するね。俺、変じゃなかったかな?」
「がっしゅく…」
「うん?」
「将棋の、合宿だと……」
「ごめん、ごめん。隠すつもりはなかったんだけどさ。合宿って言っても将棋じゃなくて、運転免許を取るほうの合宿に行ってきました!」
徐々に『合宿』の意味が分かってきて、さっき八一が母に話していたことと付き合い出してからずっと困っていたこと、今の状況がジグソーパズルの最後のピースがパチッとはまった時みたいに全部繋がって見えてきたら。
八一が長かった順位戦が終わった直後に、貴重な閑散期の二週間を何の為に使っていたのかが理解できたら……
そしたらもう、止められなかった。
「久しぶりのデートで急に車に乗って迎えに行ったら驚いてくれるかな〜と思ってさ。桂香さんやあいにも軽く口止めしてたけど、怒んないでよ? どう? ビックリした? ……ってええええ!? なんで泣いてるの!?」
交差点の信号待ちで停車して、ようやく私の方を見た八一が目にしたのは、多分ぽろぽろと目から水滴をこぼす私の姿だったんだと思う。
「え!? ちょっと待って!? 泣くほど怒ってるの!?」
「ぐすっ…だって…やいちが…」
「なんで!? 何がいけなかったの!? やっぱり内緒にしてたのがダメだった!?」
「ずずっ…あゆむくんと、ひみつの、がっしゅく……」
「はぁ!? なんで今歩夢!? 全然関係ないよ??」
「すん…分かってるわよ! 私とのデートの為に…くるま……でも……うう…ぐすっ…」
「あ、青になっちゃったよ! でもこんな状態で運転なんて無理だし! わぁ!? 後ろの車、クラクション鳴らして急かさないでよ!!」
「やいちの、バカバカバカ!!うぇ〜ん!!」
結局、路肩におっかなびっくり一時停止して、宥めようと触ってくる八一を振り払ってボカスカ殴ってはみたけれど、自分でも八つ当たりだって分かってる。
勘違いして、勝手に嫉妬して、寂しがってた自分が恥ずかしくて、腹が立って、それが自分で分かっていても、そんなにすぐには切り替えられなくて。
最悪の出だしで泣いたせいで目も腫れてるだろうし、ドライブデートを満喫なんて気分じゃないから、とりあえず八一には私の研究部屋に向かうよう命令した。
*****************
本当は運転の練習がてら桜が咲いててお花見ができそうな近場の公園に行こうと思って、カーナビに目的地登録までしていたんだが、全くそれどころではなくなってしまった。
騙されていたと怒り心頭に発している銀子ちゃんは、狭い車内でも暴れるし、謝っても許してくれないし。
結局、銀子ちゃんの命令でドライブデートは諦めて、銀子ちゃんの研究部屋に向かうことになった。電車や徒歩でなら目を瞑っていても行けるくらい何度も通っている慣れた場所だけど、いざ車で向かうとなるとどうの道を通ればいいか分からなくて、カーナビの音声案内に頼ってはみたものの住宅街だから道幅は狭いし、一方通行もあるしで、結構大変だった。
流石の銀子ちゃんも、若葉マークの緑と黄色も眩しい免許取り立ての初心者がビクビクしながら運転している時に、あえて殴りかかるような自殺行為には出なかったものの、ハンドルを握っている間中ずっと俺の上着の裾を掴んだまま、涙を溜めた目で俺を睨んでは、「バカやいち」、「最低」、「頓死しろ」をループしてた。
研究部屋のあるマンションの駐車場に車を置いてから801号室に辿り着くまでも、ずっと「騙された」とか「嘘つき」とか言いながらドスドス脇腹とかを突いてきて、それなのに繋いだ右手はぎゅっと握って絶対離さないんだから、本当に困った。かわいすぎて。
研究部屋に入って完全に二人きりになってからも、それこそ一か月ぶりくらいご無沙汰なのにチューも俺からのハグすらさせてくれない。それなのに手は繋いだままだし、殴ったりつねったり、要はどこかしら触ってくるという新手の拷問方法を編み出したらしい。
あまりにもかわいいから、もういっそ俺に文句を言う為にとがらせてる柔らかい唇をキスで塞いで、すぐそこにあるベッドに押し倒しちゃいたい衝動に駆られたけど、流石に今回は俺の対応に問題があることは確かだから自重した。
そんで、結局いつも通り、二人で将棋をした。
何局も、何局も。
途中でレンタカーを返しに行くついでに夕飯を買ってくる以外は、昼前から日が暮れて、夜になるまで。
十何局も、何十局も。
俺が免許合宿中に疎かになっていた分を取り戻すくらい。
銀子ちゃんが眠気に勝てずに駒を取り落とすまで。
完全に船を漕いでるのに「もう寝よう」って言っても「まだ指す」って子どもの頃みたいに駄々をこねる銀子ちゃんを宥めながらベッドに連れて行って。
そこでやっと抱き枕役として抱きしめることを許されて、銀子ちゃんが完全に寝入ったのを見計らってお休みのキスをひとつだけ頂いた。
一ヵ月ぶりくらいのデートなんだから当然ですがモチロンそのつもりでいたわけだけど、俺自身も免許合宿で疲れてたし将棋を指し過ぎてへとへとだったから、そんな下心はすっかり忘れて熟睡した。
師匠の順位戦が終わるのを一緒に見届けてから寝落ちした、子どもの頃みたいに。
初めて桜ノ宮で泊まった、あの時みたいに。
俺の謝罪が渋々受け入れられて仲直りが出来たのは、結局翌朝起きてからまた銀子ちゃんが満足するまで将棋をした後で、許すにあたって銀子ちゃん的には俺が前にしたのを参考に『お仕置き』をしたつもりらしいんだけど……
「さ、さみしかったんだから……バカ……」
やっと本音を口にできた銀子ちゃんの、俺を見下ろしてくる潤んだ青い瞳も、薄明かりに照らされて際立つなめらかな曲線を描く肢体も、それはそれは美しくて、めっちゃエロかった。
『お仕置き』の目的を果たせてたかはともかく、癖になりそうなくらいヤバかった。
どうヤバかったかは…………
ご想像にお任せします。
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