東京喰種:VENOM (ワンちゃん二世)
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序章


 これは最初、一話限りの短編のつもりで投稿したものです。


 

 

 

 

 

 

 俺は流れ星を見た。

 

 

 街明かりのせいで星の見えなくなった、真っ暗な夜空を切り裂く鈍い光の一閃。

 

 その切っ先は、街角を二つ曲がった先の公園に差し込まれている。

 

 流れ星を見ること自体は特段珍しいことではない。

 

 しかし、それが地面に刺さった瞬間を見てしまうなんてことは珍しいどころの騒ぎではない。

 

 俺は公園の柵を越え落下地点まで歩みを進めた。

 

 流れ星──(もと)い隕石は丁度公園の砂場に落下したようで、この公園の売りである大型砂場がクレーターと化してしまっている。

 

 そしてそのクレーターの中央にそれはあった。

 

 プスプスと煙をまだ若干吐き続けているそれは身長約170cmの俺が両手で抱えれるほどの大きさの卵型。

 

 外観は、流石空から降ってきただけのことはあると言わざるを得ないほど、どこをとっても岩石。

 

 

 不思議だ。

 

 いかに隕石とて、ここまで綺麗な卵型になるだろうか。

 

 それに落下した瞬間だって隕石にしては爆発も小さかったというかほぼ無かったし、普通の流れ星のように眩い光を放っているわけでも無かった。

 

 さらに、周辺住民が誰も様子を見にきていないことも不思議だ。いや、もしかすると誰も気がついていないのだろうか。

 

 不思議であり、不気味である。

 

 

 

 ボコッ

 

 

 突如、夜空の落とし物から石が割れるような音がした。

 

 俺は思わず一瞬身構えるが、隕石は煙を一服吐いただけで特に変化は無いように見える。

 

 いや、少し変化している。隕石の側面の岩板が一部分剥がれており中の様子が見えそうになっているではないか。

 

 

 覗くか。いや、辞めておくべきか。

 

 無用心に中を覗いて何か得体の知れないものが潜んでいたら──

 

 そこまで想像してすぐに馬鹿馬鹿しいと思考を中断する。

 

 このご時世宇宙人なんてものを信じるのはよっぽどのオカルトマニアかバカだ。

 

 あいにく俺はそのどちらでもない。……後者はそうでないと信じる、だが。

 

 そもそも猫サイズの隕石に何か生物がいる可能性なんてごく僅かだ。

 

 

 

 そう結論付けて俺は隕石の穴の中を覗いた。どうせ中身は空っぽだろう。そう勝手に判断して。

 

 しかし、そこには────

 

 

 

 何か、黒いスライム状のモノが飢餓状態のアメーバのように蠢いていた。

 

 

 ソレは、まるで生きているかのように波打ち、それでいて機械のように無機質であった。

 

 

「──え?」

 

 

 そして

 

 

 それは

 

 

 俺の顔目掛けて

 

 

 獲物を見つけた捕食者のように

 

 

 襲い掛かった。

 

 

 

 そこからの記憶は、無い。

 

 

 

 気づいたら俺は日光が建物に遮られて下まで届かない暗い路地裏に立っていた。

 

 そして眼下に────死体。

 

 それも原型を留めずただの肉の塊と化してしまっているほどグチャグチャの。

 

 辺りには生臭い血の臭いが充満しており、それは自身の口からも発せられていることに気がつく。

 

 口に手を当ててみると何かヌメっとしたものが指に付いた。

 

 それらの状況証拠が示すもの。それは一つである。

 

 とにかく、ここを離れなければ。

 

 臭いを嗅ぎつけて、飢えた "鳩" が寄って来る前に。

 

 

 

 

 

◇  ◇  ◇

 

 

 

 

 

 

 『あんていく』。

 

 それは20区にある喰種(グール)が経営する変わった喫茶店。

 

 同時に20区に住む喰種達の貴重な社交の場でもある。

 

 

 

 そのカウンターの内側に一人、壮年の男性がコーヒーカップの汚れを丁寧に拭いとっていた。

 

 男性の名前は芳村(よしむら)。この『あんていく』の店長であり、喰種である。

 

 時刻は夜も更けて午後10時ごろ。この時間帯は普段から客も少なく店員も割りとのんびりできる時間である。今だって店内には芳村ただ一人。だから一人物思いに更けることもできる。

 

 芳村には近頃、一人の青年について心配事があった。

 

 その青年の名前は赤時(あかとき)(かける)。彼もこのあんていくに身を寄せる力無き喰種の一人だ。

 

 彼の昔からの知り合いでもある四方(よも)蓮示(れんじ)によれば、赤時は戦闘を得意としないひ弱な喰種であり、そのため他の喰種のように満足に狩りができず、食事はあんていくの供給に頼りきっていた。

 

 彼は義理堅く正義感の強い喰種でもあり、あんていくに食事の面で頼りきりなことに罪悪感を抱いているようであった。なので食事が世話になっている代わりとしてなのか、供給用の人肉を人間の自殺死体から回収し、あんていくに率先して寄付してくれていた。

 

 そんな彼からの肉の寄付が先月から途絶えている。

 

 あんていくで働いてくれている霧島(きりしま)董香(とうか)は「どうせどっかで野垂れ死んでんじゃないんスか?」と、あまり気にしていない様子だが、芳村の中ではそう単純な話ではなさそうな予感がしていた。

 

 もちろん根拠なんて無い。ただ、長年の勘のようなものがそう告げている。そんな気がした。

 

 四方が彼の自宅を知っているので一度訪ねたことがあるようだが、まるで応答が無かったのだと言う。

 

 つまり、寄付が途絶えた時期から家に帰っていない可能性がある。

 

 仮に白鳩(ハト)──喰種捜査官に殺されてしまった場合でも、少なからずこの20区の喰種達の社交場、あんていくまで噂話が届くはずだ。「○○でどこぞの雑魚喰種が鳩に処理されたらしい。お前らも気を付けろ」という具合に。同じ喰種に殺された場合も同様だ。だが、それも今のところ無い。

 

 自分達に黙って20区を離れた可能性も、彼の性格から皆無だと推測される。

 

 つまり、完全な行方不明なのだ。

 

 そして、芳村には同時に別の心配事も存在していた。それは高際は姿を消したのと同時期に現れたという20区に隣接している区での無差別殺戮事件のことである。

 

 事の概要はこうだ。

 

 先月から主に路地裏などの喰種の棲家で一般人や捜査官、さらにはそこの(ヌシ)である喰種までもが相次いで死体で見つかっているのだ。

 

 死体は個人の判別が不可能なほど損傷が酷く、総じて頭部が喰い千切られていた。さらに死体には喰種の、もしくは人間のものとは異なるもっと巨大な歯形が残されていたという。

 

 喰種ではない何かの歯形。芳村はこの殺戮者の正体を赫者ではないかと睨んでいた。

 

 喰種は共食いを続けることで体内のRc細胞の濃度が向上し、赫子が自身を覆うほど巨大に、そして強力に成長を遂げる。その姿は元の人形からかけ離れていることが多くそれはさながらフィクションの怪物のようになってしまう。今回見つかっている歯型も赫者のものだとするならば話は早い。

 

 共食いを続ける過程で自我を失なってしまう哀れな喰種もいるが、今回がそのケースであれば非常にまずい事態である。

 

 何せ正体不明の赫者が20区周辺を彷徨いているということなのだから。いつ20区に入ってくるかまるでわからない。

 

 

 チリンチリンッ

 

 

 店の扉が開かれたことを表す玄関の涼しげな鈴が芳村の思考を一旦断ち切る。どうやら客が来たようだ。

 

 

「いらっしゃ────」

 

 

 芳村は入り口に目を向けて、そして息を飲んだ。

 

 

 入ってきたのは一人の青年。ボサボサの黒髪、少し汚れたジーパンによれよれのYシャツ。顔はやつれ、目の下には隈を作ってしまっている。

 

 この見るからに具合の悪そうなこの青年こそ、件の行方不明者。

 

 

 

「カケル君……」

 

「……こんばんは」

 

 

 

 

 

 赤時翔その人だった。

 

 

  ◇  ◇

 

 

 カウンター席の座る青年───(かける)の目の前には湯気立ち込める一杯のコーヒー。

 

 芳村が彼のために淹れたものだ。だが、翔はそれには手をつけずにずっと見つめたままである。

 

「……飲んでもいいんだよ?」

 

「──え? あ、すいません。では頂きます」

 

 彼はカップを両手で抱えるように持ち、そのまま口を付ける。

 

「熱ッ」

 

「ハハハ、そういえば君は猫舌だったね。少し配慮が足らなかったようだ。すまない」

 

「いえ……、淹れてくれるだけありがたいです。それに……こんなにも美味しい。俺にはもったいないくらいだ」

 

「コーヒーに『もったいない』なんてものは無いよ。コーヒーを飲む権利は誰にでもあるのだから」

 

「フフッ、そうですね」

 

 翔は一旦カップを置き、服のシワを延ばし姿勢を正して芳村を見る。芳村も彼の真剣な気配を察したようで石のように堅い表情を作る。

 

「芳村さん。俺、20区を出ようと思います」

 

「……理由を聞いてもいいかい?」

 

「詳しくは言えないんですが、食事の目処がついた……というところです。それに、いつまでもここのお世話になりっぱなしではいけませんし」

 

「そうか……」

 

 芳村は磨いていたステンレスのフォークを仕舞い、新たに同じステンレス製のスプーンを取り出す。

 

「せめて最後くらい、嘘は辞めようか」

 

「……!!」

 

 眼下のコーヒーが揺れる。翔は目を見開いた。

 

 やはり、この人の前では何もかもお見通しのようだ。

 

「すいません。実は……鳩に……顔を見られました。一月ここに顔を出さなかったのもそれが理由です。ずっと20区の隣を転々としていました。ヤツらをここに連れてくるわけにもいかなかったから……」

 

 酷く歯切れの悪い答えになってしまったが正直どうだっていい。

 

 如何に問われようとも()()のことは話せない。例え今言ったことも嘘だとバレていようと、アレのことなんて話せるわけがない。

 

 得体の知れない生物に寄生されているなんて。

 

 芳村は表情を変えない。まるで懺悔を見守る仏のようだ。

 

「そうか……」

 

 芳村は細められた目蓋の隙間から闇を見つめるような赫眼を覗かせる。

 

 やはり、バレている。翔は確信した。

 

「どうしても言いたくないのなら、私もこれ以上深入りはしない。だが───」

 

 芳村の赫眼は依然として翔を見つめたまま。

 

 その眼光は、翔を見定める仏の眼か。行く末を導く灯籠か。

 

 しかし、その鋭い眼光はすぐに柔和な細い眼に戻った。

 

「困ったことがあったら、いつでも戻って来なさい。ここはそのために存在している」

 

「……はい。ありがとうございます」

 

 翔はコーヒーを飲み干し、席を立つ。

 

「では、そろそろ行きます。古間さんと入見さん、それから董香ちゃん、あと蓮示さんに宜しく伝えてくれませんか?」

 

「ああ、もちろん承知した。しかし、皆君のことを心配していたよ? 直接言うのがいいと私は思う」

 

「はい、そうしたいのは山々なんです。でも、そうもいかなくて……」

 

 翔は少し悲しげに顔を背ける。

 

「それも、嘘をついてまで隠したい事情かい?」

 

「ヴッ、……すいません」

 

 芳村は「いいんだ」と軽く手で制す。

 

 翔は店の扉まで静かに歩みより、ドアノブに手を掛ける直前、ゆっくりと最後のあんていくを堪能するかのように振り返った。そして───

 

「芳村店長。今までお世話になりました」

 

 深く、深海よりも深くお辞儀をした。

 

 芳村はそれに右手を差し出すことで応える。翔もそれに会わせようと右手を出した。

 

 

 老人の岩のような右手と青年の震える右手が重なる。

 

 

 

「次の場所でも、精一杯、生きなさい」

 

 

 

「────はい」

 

 

 

 青年のコーヒー豆より小さな宣誓はコーヒーの残香とともに天井に吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 あんていくを出た翔は小走りで街を駆けていた。

 

 額に浮かぶ幾つもの玉のような汗、荒い息づかい、震え続ける手。明らかに健康体ではない。

 

 それもそのはず。彼は耐えていた。芳村との会話中も、そして今も。

 

 体の中心から湧き上がる異常な食欲に。

 

「ハァ……ハァ……クソッ、もうダメだ……」

 

 翔はおぼつかない足取りで人気(ひとけ)のない路地裏に入る。

 

 しかし、彼が自分の意思で身体を動かせたのはそこまでだった。

 

 

「うぐっ……!」

 

 

 突如、彼は膝を突き胸をかきむしり始める。

 

 

「く……っ!ハァ…ハァ…」

 

 

 口からは唾液が滝のように流れ、眼球は赤黒く染まる。

 

 

「うぅぅうるさい!うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいッ!!」

 

 額が割れて血が出るのもお構い無しに地面に何度も打ち付ける。

 

 

「ヴヴヴウウゥぅぅぅ………!!」

 

 

 小刻みに頭が痙攣しだし、それを契機に体全体が地震のように震え始める。

 

 翔はその時、闇夜より黒い煙に頭が支配されていくのを感じていた。

 

 

「……は…………」

 

 

 変化は佳境を迎え、胸から、腕から、足から、黒いナニかが彼の体を覆い始める。ギチギチと不快な粘着質な音を立てて。

 

 

「……は……へ……た……

 

 

 黒いナニかは彼の四肢を飲み込み、新たなものを形成する。だが、それは人間のものとは到底かけ離れている。まるで怪獣だ。

 

 

『はら……へ……た……

 

 

 

 さらに、ナニか止まるところを知らず、遂には彼の頭部をも飲み込んでしまう。

 

 

 彼の全てを飲み込し尽くし、やがて変化(進化)を完了する。

 

 

 

 

 

 

 

 

はらへった!!!

 

 

 

 

 邪悪な産声が路地裏で人知れず上がってしまった。

 

 

 

 

  ◇   ◇

 

 

 

 

 暗い、暗い、夜の高架下。

 

 消えかかったランプがチカチカと点滅する古いトンネルを一人のOLが走っていた。ただ、少し様子がおかしい。脇腹からは赤い液体を垂らし、眼球は赤黒く染まっている。

 

 喰種。人に溶け込み人を喰らう人ならざる者。

 

 ヒールが折れているのも構わず、ゴミ箱に躓きながら走る様は、まるで何かから逃げているかのよう。

 

 否、 "まるで" ではない。彼女は本当に何かから逃げている。

 

 

「逃げ足だけは速いんだね、君。フヒッ」

 

 

「ヒイィッ!!」

 

 

 彼女の後方から男のねっとりとして覇気のない声が響いてくる。

 

 トンネルを抜けてくるのは黒髪のオールバック、更に額の傷痕が特徴的な一人の男性。それもただの人間ではない。

 

 灰色のコート、右手にはシルバーのアタッシュケース。

 

 CCG。喰種捜査官。通称『鳩』。そんな化け物(天敵)に彼女は追われていた。

 

 

 ───なんでッ? なんで? 今まで全て上手くいっていたのに!

 

 

 彼女は人間社会に上手く溶け込めていた。それはそれは他の喰種が羨望の眼差しを向けるほどであった。社長の秘書に就き、職場での信頼も厚く、将来が約束されていた。食事も "あんていく" の肉で平和的に済ますなど喰種としても安定した生活を送っていた。

 

 しかし、そんな平和な日々も崩れ去るのは一瞬である。

 

「キャアァ!!」

 

 彼女の左足に残ったヒールも遂に折れてしまい、バランスを崩してそのままゴミ袋の山に突っ込む。

 

「フヒヒッ、鬼ごっこはもう終わりみたいだねぇ。俺はもうちょっと続けてもよかったけど。いい運動にもなるし」

 

「ごめんなさい……許して……許してください……」

 

 女喰種は両目から化粧を崩しながら涙を流して命乞いをする。しかし、目の前の捜査官はその行為にいまいちピンと来ていない様子。

 

「許す? 許すだって? ハッ! 喰種が何言ってんだか」

 

「……はぁ……?」

 

「今までてめぇらに何人殺されたと思う? 何十人てめぇらは罪もない善良な市民を喰ってきた?なのに今さら『許して』だぁ? 全く反吐が出る」

 

「わ……私は生きている人間は食べたことない! 一人も殺したことない! 本当よ!」

 

「喰種が人を殺したことないだって? あり得ねぇ。そうやって言ったヤツは俺の経験上大体100人くらい喰ってんだよなぁ」

 

 そう言って捜査官は手に持っているアタッシュケースのスイッチを押す。

 

「もういいや。こんな雑魚さっさと処理して真戸(まど)でも誘って夕飯食いに行こ」

 

 ケースが独特な機械音を立てて展開し、一筋の鍔の無い日本刀の形に変形する。刀身は赤く染まり、バチバチッと細かな静電気のようなものをスパークさせている。

 

 

 

 『ミヤモト』1/2 [鱗赫] A+

 

 

 

「もう……もうやめて……」

 

「じゃ、さようなら」

 

「ヒィィッ!!」

 

 女喰種は咄嗟に目をつむり、捜査官はその刀で彼女の首を跳ね────

 

 

 

 その瞬間、鈍い轟音と瓦礫が崩れる音が高架下に響いた。

 

 

 

「あ……れ……?」

 

 じきに自分を襲うはずの痛みがなかなか来ないことに気づき、喰種は閉じていた目を恐る恐る開ける。

 

 するとそこには予想外の光景が広がっていた。

 

 

 

 目の前に黒い、黒い、塊。それも人型。

 

 2mか3mにまで達しそうな黒い巨人が、彼女の首を刈ろうとしていた捜査官を、電柱よりも太い腕で壁に押さえつけていた。男が押さえつけられている壁は円形にヒビが入っておりその衝撃を物語っている。

 

 筋肉の塊のような体に三日月のような白い目、さらに耳があるであろう場所まで裂けた獰猛な口。

 

 その姿、この世のものとは到底思えない。

 

お前、悪いヤツだな。弱い者虐めがそんなに楽しいか?

 

 まるで地の底から響いてくるような、低い、空気を震わす声。

 

「くそ……ッ! なに……しやがる!」

 

 男は必死にもがくが強大な怪物の腕の前では所詮人間の力などまるで無力。ピクリとも動かない。

 

なんだ? 正義や復讐がそんなに大事か? コイツらにもな、それなりの命とか家族とかあるんだ。それをお前らは考えたことがあるのか? いや、無理だろうな。その芯まで腐った脳ミソじゃそんな馬鹿真面目なこと考えられないだろうなぁ

 

 怪物はその長い舌で男の顔を舐め回す。唾液が顔の目や頬、額にべっとりとつき、徐々に滴っていく。

 

今度何の罪もない喰種を必要以上にいたぶってみろ。お前やその仲間もみんなみんな見つけ出して手足をモいで頭引き千切って、それを使ってボウリングでもしてやる。人間が作った遊びだ。なかなか面白そうだろう?

 

「あぁ……!?グゥッ!」

 

 巨体は男を押さえつけている腕にさらに力を入れる。その圧倒的な筋力に男の肋骨が折れ、口から血が吹き出す。その拍子に握っていたクインケも手を離れる。

 

チッ、あぁーあ、カケルが変な意地張ってやがるせいでもう五日も何も食ってない。腹の皮が背中に引っ付きそうだ。なぁ、やっぱりコイツ食っていいよなぁ。お前の言いたいこと全部言ったしもう食っていいよなぁ

 

「……お前は一体……なんだ……? 喰種なのか?」

 

 男は血反吐を何回も吐きながらやっとの思いで言葉を絞り出す。

 

 その台詞を聞いた怪物は、口角を上げ、目を細め、舌を鳴らす。

 

 何者かと聞かれたら答える以外の選択肢はない。当たり前だ。

 

オレは────

 

 

 

 

 

 

       VENOM(ウ"ェノム)

 

 

 

 

 

 怪物──ヴェノムはその大きく獰猛な口を一杯に開け、そのまま男の頭にかぶりついた。

 

「やめ、ヤメ──ギャぁッ!──」

 

 煤汚れた高架下に何回も響く肉を潰し、切り裂く咀嚼音。そしてその隙間に入り込む男の断末魔。

 

 段々とヴェノムの下には血の海が広がっていき、その上に男の骨や食べ損ねた肉などが積み重なっていく。

 

 女喰種はあれだけ自分が恐れていた存在がいとも簡単に解体される様をただただ見ていることしかできなかった。

 

 

 

 数分後、満足したヴェノムはもうただの肉の塊となってしまった捜査官をすぐ傍でヘタりこんでいる女喰種に向かって放り投げる。

 

「キャァッ!!」

 

 再度喰種は悲鳴を上げ、咄嗟に顔を手で覆う。直後、全身に感じる水を被ったような感触。だが、それっきり何かが起こることはない。

 

 勇気を振り絞ってゆっくりと顔を覆っていた手を退ける。

 

 

 

 

 怪物はもう、そこにはいない。

 

 

 

 寂れた高架下に残るのは、捜査官だったものの残骸と血を被った女性。そして、残骸が誰だったのかを示すクインケという墓標のみ。

 

 

「何なのよ……アレ……」

 

 

 女喰種の微かな呟きは上の線路を走り去る電車の甲高い音にかき消された。

 

 




 状況によっては続きを書くかも……


 ※書きました。



 誤字報告感謝します。



 


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寄生

 
 お久し振りです。

 次話投稿に伴い、第一話をほんの僅かに修正させて頂きました。ご了承下さい。


 

 

 

 翔があんていくを訪れる半月ほど前。

 

 

 つまり、彼が隕石を見つけてからすぐのこと。

 

 

 

     ◇

 

 

 

 とある夕暮れ。

 

 

 四方はとある分厚い扉の前に立っていた。

 

 普通の住宅のものとは違うそれは「ここから先は断固として通さん」とでも言わんばかりに固く冷たく閉ざされている。

 

 20区の端の端。とあるコンテナ街の一角。そして所狭しと積み上げられた深緑色のコンテナのひとつ。四方はそこを訪れていた。

 

 ここは翔が住んでいるコンテナ。彼が4区から20区に移る時に四方はここを紹介した。喰種にとってコンテナは生活の場として割りと重宝される。万が一逃げなくてはならなくなった時でもコンテナなら荷物を整理するのも比較的楽であるし、普通の住居と違って面倒な手続きも必要ない。なので次の場所に住み着くのもコンテナなら簡単なのだ。

 

 今日四方がここを訪れた理由は、翔と食料調達に行くためであった。

 

 翔はあんていくでバイトをしていない。代わりにあんていくに集まる "非力な喰種" に配給する肉を集める役割を任されていた。彼がその役目を自分から志願したという情報はおそらく蛇足だろう。

 

 四方がコンテナの扉を2回軽くノックする。滅多に人が寄り付かない忘れられたようなコンテナ街に金属質な音が響き渡る。

 

「……翔、時間だ」

 

 四方が中に居るであろう人物に手短に呼び掛ける。しかし、返ってきたのは健康的な成人男性のものとは到底思えない(しわが)れた声だった。

 

『……蓮示さん。すいません、今日俺行そうないです……。一日中()()()()()ので……』

 

 どうやら本当に深刻なようだ。所々声に違和感を感じる上に語彙力まで低下している。

 

「……どうして連絡しなかった」

 

「起き上がるもキツくて……携帯に手が届きせんでした」

 

 それはお前が少しサボっただけだろう──。そう口から出そうだったが相手は仮にも病人。流石に自制心が働いた。

 

「……そうか。代わりは董香に頼んでおく。今日は休め」

 

『すいません蓮示さん。本当に』

 

 

 四方は翔の返事を最後まで聞くことなくその場を後にした。

 

 ──頭痛だと? 肉を喰っていないのか? それとも変なもの(人間の食べ物)を食べ過ぎたのか?

 

 だとしたらなぜ。そんな答えが出そうにない小さな疑問を抱きながら四方は側に停めてあった自身の車に乗り込んだ。

 

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

「……すいません蓮示さん。本当に……本当に……」

 

 四方の遠ざかる足音を耳に通しながら口から溢す。

 

 明滅を細かく繰り返すランタンの光だけがコンテナ内の彼の住居スペースを照らす薄暗い室内。翔はその部屋の隅にヘタリ込んでいた。瞳は紅く染まり、そこから赤い水滴が何筋も垂れている。

 

 彼の対角線上には明日にでもあんていくに届けるはずだった食料が入っていたはずのタッパーが転がっている。

 

 

 そして、部屋の至るところに散乱する血の付いた薄茶色の包み紙と、赤黒い染み。

 

 

 

「……どうしてこうなったんだろ……」

 

 彼の口もとにも赤黒い液体が付着しており、彼の着ているパーカーも白一色から赤黒い斑模様に変わってしまっている。

 

 

 グリュリュウウウウゥゥゥゥゥ……

 

 

 当然、翔の腹から猛獣が間抜けに唸るような音が発せられる。それを聞いて彼はまたひとつ深いため息を吐いた。

 

「腹減った……。どうなってんだこれ……」

 

 そうボヤいて自身の腹を擦る。

 

 肉はさっきから食べっぱなしだった。だが、彼の腹に住み着いたヤツはまだ足りないと仰せのようである。

 

 食欲が変化した、というよりむしろ、異常なほど腹が減るようになったのはどう考えても一昨日からだった。それもあの隕石から出てきた黒いスライムに襲われた直後。原因は絶対あのスライムだ。どうやら今の状況を見るにあのスライムは一種の寄生虫のようなものらしい。

 

「このクソ虫が。我が儘な野郎だ」

 

 いい加減ストレスが溜まってきていた翔はつい言葉を荒らしながら吐き捨てる。

 

 

 その時だった。

 

 

うるさい。さっさとさっきの肉寄越せ

「ッ!?」

 

 突如聞こえてくるドス黒い声に思わず部屋中を見回す。しかし、声の主らしきものが見つかる気配は無い。

 

あとオレは虫ケラなんかじゃない。ちゃんと名前がある

 

 再度声が聞こえてきた時、翔は声の発生源を理解した。しかし、その答を翔の理性及び脳ミソは一瞬理解するのを拒んだ。

 

 当たり前だ。声が()()()()()()()()()()()()なんて理解できるはずがない。それにおそらくこの声は外には聞こえていない。自分にしか聞こえない声だ。

 

「な、名前?」

 

ああ、ウ"ェノムっていう名前がな

 

 頭の中に声が響くと同時に翔の胸辺りから黒いスライム状の何かが翔の着ているパーカーを貫通して滲み出てくる。

 

「何……こ……へ?」

()じゃなく()と言え

 

 スライムは止めどなく体外に放出され、そのまま人型の顔面を形作った。目は吊り上げられ、口は獰猛に三日月状に耳があるであろう場所まで裂けている。たった今人型と表したが、やっぱりそれは訂正しよう。

 

 これが人な訳がない。

 

 顔面は振り返り翔と向かい合う。

 

「お前は……?」

だからオレの名はウ"ェノムだと言っただろう。何度も言わせるな

「ち、違う。そうじゃない。お前は何なんだ?」

何だっていいだろう。オレはオレ。お前はお前だ。それ以上もそれ以下もない

「じゃ、じゃあ目的はなんだ?なんで俺の中にいる?」

ハッ、強気でいるつもりだろうが声が震えてるぞ

 

 ヴェノムは身体を左右にゆっくり揺らしながら翔の身体を睨み散らかす。

 

なんだっけか。ああ目的か。そうだな、オレの目的自体はもうほとんど達成されている。今この星にいることがオレの目的だった。お前の中にいるのはあの時たまたま近づいて来たのがお前だった。ただそれだけだ

「たまたまってそんな……。ていうか今この星いることが目的ってお前宇宙人かよ!」

 

 予想はしていたが実際に "そうだ" と答えられるとどうしても驚愕を抑えきれない。

 

うるさい喚くな。だいたいオレにとっちゃお前だって宇宙人だ。野暮なこと言うな。さぁ、もう聞かれたことは答えてやった。早く肉を寄越せ

 

 そういえばコイツは肉をご所望だった。ということはこの異常な空腹はコイツのせいということだろうか。ならとんだ大迷惑だ。

 

 頭の中で軽く考えを回しひとつの残念な回答に辿り着く。しかし、翔はそれを口には出さなかった。それは抗議したところでおそらく受け入れて貰えないという消極的な予想に基づく判断だった。

 

「……肉はもうここにはない。さっき喰ったヤツで全部だ。もっと喰いたければ外へ出て調達しないと」

じゃあ調達しに行け。腹が減って仕方がないんだ

 

 そう言い残してヴェノムは翔の胸の中に戻っていった。調達云々は完全に翔任せのようだ。こいつ肉のことしか頭にないのか。

 

 四方や翔がいつも調達に訪れる場所は車を使わないとかなり時間が掛かる。ヴェノムはそれをおそらく知らない。もしかするとそれを知ってて "行け" と言ってるのかもしれない。もしそうだとするならとんだ悪代官だ。

 

「──はぁ、簡単に言ってくれるな」

 

 翔は渋々その重い腰を上げた。

 

 

 

    ◇

 

 

 日暮れの時刻をとうに過ぎた東京だが、たかが日暮れ如きで明かりが消えるはずはない。路地のネオン街は今なお輝きを放ち、遠くに見えるビル群も残業という次なる戦地で戦う兵士がその灯火を掲げている。

 

 翔は食料調達のため、そんな明るい町を歩いていた。といっても目的地は人気(ひとけ)の多い町を通り越して、いつも食料調達に使う自殺者の多い町外れの峠だが。

 

「そういえばなんで会話が成立するんだ? お前宇宙から来たんだろ?」

 

 翔は少し疑問に思ってたことを聞いてみた。この時、すれ違った中年の女性がこちらを怪訝な顔で見つめていたがそれは見なかったことにする。

 

お前の頭の中を覗いた。言語はそこから学んだ。あとお前らの環境についてもな。人間、喰種、白鳩(ハト)。お前らなかなか面白い世界で生きてんだな

「お前そんなことできるのか……」

 

 さらっととんでもない発言をするヴェノムに思わず引いてしまう。

 

 しかし。

 

 ──()()()、ねぇ。

 

 本当に面白い世界ならどれほど良かったか。この世界を面白いと思えたならどれほど楽だったか。そう思わずにはいられなかった。

 

おい、()()()。いつになったら肉が喰えるんだ? もういい加減涎が垂れてきそうだ

「ふん、自己紹介もいらないってか。……あと30分くらい歩けば着くんじゃないか?」

はぁ!? そんなに待てない! 早く歩けカケル! ていうか走れ!

「お前が無理矢理たくさん喰わすからもうそんな体力ないンだけど……」

文句言うな! お前を内側から喰ってやってもいいんだぞ?

「やめてくれ。冗談じゃない」

冗談を言った覚えはないぞカケル

「……え?」

 

 ヴェノムの恐ろしい発言に思わず足を止める。

 

まさかオレがただ寄生するだけの雑魚だとでも思ったか? それとも人間の肉にしか興味がないとでも?

「……そんなまさか」

それにしては必死さが伝わってこないなぁ。こうなったら、オレ様がどんな力を持ってるか、一体何ができるのか。一度わからせたほうが良さそうだな

「ッ待て、そんなことしても時間の無駄だろ」

 

 すかさず抗議する。が、しかし。

 

いいや待たない。それに時間の無駄にもならない

「それってどうい──ぅお!?」

 

 突然、すぐ横のコンクリートの壁まで勢いよく身体を引きずられ、その勢いを保持したまま壁に叩きつけられる。

 

「ッいったッ! ──てちょっとまてまて待ってッ」

 

 頭を揺らす鈍痛に呻く間もなく、今度は身体が上へ強く引っ張られる。左右に眼球を転がせば、両肩から飛び出す真っ黒なスライム状の触手が、5階建ての建物の屋上へ逆バンジージャンプの如く引っ張っていた。

 

 迫り来る屋上の縁。徐々に大きくなる夜空。翔の身体は何一つ抵抗できず、パチンコのように紺色の夜空に打ち上げられた。

 

「ぅんンンンッッ!!!???」

 

 だが、空中旅行もほんの一瞬。いつの間にか翔の腹から触手が1本、屋上のど真ん中に伸びており、上昇の際の勢いをそのまま、腹の触手を支点に翔の身体は中世の投石機(カタパルト)のように、明かりの存在しない郊外の暗い森へ────

 

 

 ()()された。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 サブリミナル効果のようにチカチカ点滅する古く錆びた街灯のある峠道を、黒い普通車が低いテノールのエンジン音を奏でながらタイヤを転がせていた。

 

 車は都市方面から峠の深みに向かっているようで、これまでいくつもの坂を上り、何度も急カーブを曲がってきていた。

 

「あの、ヨモさん」

 

 その車の助手席に座る霧嶋董香は、左で静かに運転する四方蓮示に先ほどから頭のなかで引っ掛かっていたことを聞いた。

 

「……なんだ」

「さっきから気になってたンですけど、あのガリ……赤時さんは? まさかサボり?」

「……いや。体調不良だと聞いた」

「えっ、アイツが体調不良? 珍しいッスね。風邪すら引いてるトコ見たことないのに」

「……ああ。だが、相当参っているようだった」

 

 今日、董香は四方から臨時で『食糧調達』を頼まれたのみで、肝心の理由までは聞いていなかった。というのも、普段その役割を担っているのは今横で運転している四方と、『あんていく』の常連客で四方の友人だという赤時(カケル)だった。

 

「チッ……たく。何でよりにもよって今日なんだよ……」

 

 董香は窓の外の茜色がうっすらと残る夜空に向かって小さくボヤいた。車はさらにU字カーブを曲がる。軽い遠心力で体がドアに押さえつけられる。

 

「……そういうお前はどうした。傷だらけだ」

「あッ、えっと、これはですね……」

 

 四方の手痛い指摘に董香は頬の滅菌ガーゼを隠すようにそっぽを向いた。頬だけじゃない。手首や足、二の腕など、肌が見えるほとんどの箇所に包帯や絆創膏が見える。常人からすれば満身創痍と言える状態だ。

 

「……また揉め事に首を突っ込んだのか」

「あー、揉めごとっていうか……その……人助け?」

「?」

「ああ、店長は把握済みです」

「……ならいいが。遅れたのもそれが原因か?」

「まァ、そんなトコです」

「……そうか」

 

 車はまた左に急カーブする。董香はドアの上の手すりに掴まって、迫りくる遠心力に耐えながら、今日の出来事を思い出す。

 

 飢えに理性がトんだ喰種を鎮静化するだけのはずだったのだが、予想以上に傷を負ってしまった。幸い、()()()は今(あんていく)にいるので何時でもどうこうできる。焦る必要はない。

 

「……フン」

 

 ──あの()()()()。どうお返ししてやろうか。

 

 そう邪悪に思案した時、突然体が軽い慣性力によって前に押し出された。横を見れば、四方がサイドブレーキを引いていた。

 

「……着いた。行くぞ」

 

 

 

 ……

 

 

 ‥‥

 

 

 

 喰種の食糧調達は人間のそれとは大きく違う。多くの喰種の場合は生きた人間を補食するのだが、『あんていく』はそれとも異なる。

 

 

 『あんていく』の喰種は死んだ人間の肉を頂戴する。

 

 

 『あんていく』に客として訪れる喰種の中には一人で人間を狩ることができない者もいる。力不足だとか、そもそも人間を狩ることに嫌悪感を示すなど理由は訪れる客の人数だけ存在するが、『あんていく』はそんな喰種に食糧(人肉)を分け与える活動をしている。今日ここにいるはずの赤時翔も、その肉を受け取る喰種の一人である。

 

 しかし、非力な喰種に肉を与える度に人間を襲ってしまえば、いずれ『捜査官』達に目を付けられてしまうことは明白。そして、『あんていく』が存在する20区は比較的穏やかな区であり、そんな場所に捜査官を呼び込んでしまえば、20区中の喰種は全て狩り尽くされてしまうという大惨事になりかねない。

 

 そこで『あんていく』が利用しているのが、人間の自殺者の肉だ。

 

 董香と四方は今日もそれを調達しに来た。

 

 車から降りた董香は黒色の絵の具をキャンバスに塗りたくったように真っ暗な眼下の森を、錆びたガードレール越しに覗き込む。すぐに近くには二台の車。一つは今しがた乗ってきた黒い普通車。もう一つは持ち主のいないミニバン。鍵も掛かっていない。

 

 今日ここでまた一人、身を投げた人間がいる。

 

 自殺というものは、人間特有の行動だと董香は思っていた。少なくとも、董香は喰種が自殺したという話を今まで一度も聞いたことはなかった。元々体が頑丈なので自殺手段が限られているというのもあるだろうが、そもそも喰種には『今日という日を生き残るために今を生きている』者が多く、『いつ死のう』という世迷言を考えるほど余裕がある者は少ない。もっとも、喰種の自殺手段の中で一番手っ取り早いのは区内を徘徊する捜査官にちょっかいを掛けることなので、死んだという情報が耳に入っても自殺かどうかまるで分からないが。

 

「じゃ、四方さん。先行ってるんでバッグお願いします」

「あ、おい」

 

 董香は四方の静止を無視して夜空へ踊り出る。そして、そのまま重力に素直に従ってブラックホールのように暗い森へ吸い込まれた。

 

 生い茂る木々を掻き分けて、膝を車のサスペンションの要領で曲げながら、勢いを殺して静かに着地する。

 

 が、そこに()()()()()()()は無かった。

 

「あれ? おっかしいな」

 

 死体だ。上の車の一から身を投げたのなら丁度今いる場所に頭が割れた死体が転がっているはずだった。だが、何も無い。代わりにあるのは、さっきまでここにあったであろう死体の残り香と、()()を森の奥へ引きずった跡のみ。

 

 嫌な予感がした。こめかみに脂汗が浮き出てくるのをハッキリと感じた。少なくとも、何者かに先を越されたのは確実だ。

 

 

 

 

 

 ブチャッ

 

 

 

 

 突如、奥の暗がりから聞こえてきた、水気を含んだ嫌な音に、思わず董香はその方向に首を向けた。

 

 森の奥に何かがいる。何かは全く見当がつかないが、影だけ見える。

 

 喰種(同種)か? いや、それにしては影がデカい。何をしている? おそらく、ここにあった死体を喰ってる。

 

 頭の中で問いと答えが出現しては消えていく。こめかみの脂汗はいつの間にか冷や汗に変わっていた。

 

 

 グチャッ

 

 

 また、咀嚼音らしき怪音が森に響いた。

 

 四方を待つべきか。いや、待っている間にも今日の収穫は目の前の正体不明の胃の中に収まっていってしまう。ここは自分がいくしかない。

 

 意を決して暗がりの奥へ一歩足を踏み出す。

 

 

 

 

 そして、すぐにハチ切れんばかりに目を見開いた。

 

 

 

 

「なッ……ん……?」

 

 

 

 

 見つけてしまったのだ。

 

 

 

 

 夜の森より黒い怪物を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 次の投稿はまたもや未定です。気長に御待ち頂ければ幸いです。


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