胡蝶しのぶは家路を急いでいた。
その足取りはどう見ても焦っていて、額には薄ら汗まで浮かんでいる。
とはいえ、“呼吸”という特殊な身体増強術を身に付けているしのぶが全力疾走をしばらくした程度で疲労するはずがない。
彼女を焦らせているのはひとえに、今家で自分を待つとある人物が原因だった。
(早く早く早くっ! もうっ、もっと早く走れないのこの足は!? 任務のせいで一週間も会えなかったし、一刻も早く顔が見たいのに……!)
舗装されていない山道を、木々の隙間を縫って駆けていく。
そのスピードは常人のソレをはるかに凌駕しており、もし通りすがった人がいたとしてもただ強い風が吹いたのだと感じてしまうほどの速さだった。
山を越え、小さな村を横目に通り抜け、そしてまた山を越え……とそんなことを何度も何度も繰り返すこと丸二日。
ついに、任務地であった青森から東京へとしのぶは帰還を果たした。
流石に速度は最初より落ちたものの、本来長い道中には利用するべき藤の家にも立ち寄らず、ろくに休みもせず走り続けた結果である。
辿り着いた家――“蝶屋敷”の門の前で、しのぶは懐から小さな手鏡を取りだして乱れた髪を整え始める。そして、僅かに頬に付いた血を見とめると顔をしかめた。
無論しのぶが怪我を負ったわけではない、任務の際に浴びた返り血だ。
だが、いつもならしのぶは返り血など一滴もつけない。
この任務期間中ずっと、自分の動きに精彩を欠いていたことはしのぶも気が付いていた。
それもこれも、今もしのぶの頭のほとんどを占拠している“彼”のせいである。
「……よし」
汗と風で乱れた前髪を手櫛で可能な限り直し、返り血は布でしっかりとぬぐって、いざ屋敷の中へ。
正面の門からではなくこっそり屋敷に入ったのは、誰よりも一番最初に“彼”に会いたかったから。
目的の部屋の前に着いてゆっくり襖を開けると、“彼”は壁にもたれて読書をしていた。
ここを発った時とほとんど全く同じ体勢をしていたことにしのぶは思わず笑みを浮かべてしまう。
襖が開いたことに気が付いた“彼”がこちらを見るよりも早く、しのぶは“彼”の胸に飛び込んだ。
「ああ、久遠! 会いたかった! 本当に本当に会いたかった!」
“彼”――久遠と呼ばれた青年の胸に自分の顔を押し付けながら、しのぶは自らの喜びを全力で表現する。
まさに飼い犬が久々に主人に会ったかのごとき喜びよう。
ブンブンと揺れる尻尾が幻視できそうな勢いだった。
対する久遠は、キョトンとした顔で飛び込んできたしのぶの後頭部を見る。
「……あれ、しのぶだ。
随分と早かったね。確か青森の方で二つ任務があるから二、三週間くらいかかるって言ってなかった?」
「うん……でも、ここを出てからもうずっと寂しくて。何をしてても久遠の顔を思い浮かべてたの。二週間なんて絶っっっっっっ対に無理よ! 耐えられない! だから任務は二日で終わらせて、あとは休まずここまで走ってきたの!」
「休まず……? あ、だからちょっと汗とか土の匂いが――」
そう言った途端、しのぶは恐るべきスピードで久遠から距離を取った。
「ち、ちがうの! えっと、その……軽い水浴びくらいはしたの! でもやっぱり少しでも早く久遠に会いたくて、その、あの……」
しどろもどろになりながらなんとか説明をするしのぶ。
しのぶも18歳の少女なので、異性に自分の匂いのことを指摘されればそれは当然気になってしまうというもの。
実のところ、蝶屋敷に入る前にどこかでちゃんと湯につかって汚れを落とそうとも考えていたのだ。
勢いのままにこの部屋に向かってしまったのは、一週間以上会えなかった久遠の顔をいち早く見たいという欲求の方が遥かに大きかったからだった。
(最悪最悪最悪! なんでこんなことに気づかないのよ私のおバカ! こ、これで久遠に不潔な女だなんて思われたら……私、生きていけない……!)
しのぶの頭の中はもうしっちゃかめっちゃかである。
一体どうやってこの場を上手く切り抜けようか、なんてことすら考えられなかった。
そんな絶賛大混乱中のしのぶの耳に、柔らかな声が響いた。
「ごめんね、しのぶ。さっきのはちょっと女の子に対してあんまりだった。俺は全然気にならないから、ほら……おいで」
そう言って久遠は両腕を広げてしのぶに微笑む。
「あ、あぁ……」
もはや思考停止しているかのように、しのぶは久遠の胸に向かってふらふらと引き寄せられていく……が、そこでハッと我に返る。
「だ、ダメです! ちゃんと湯あみもして、しっかり身だしなみを整えてからまた来ます!」
「え、でも俺はホントに気にしてないよ?」
「そ、それでも! その……久遠にはやっぱり一番きれいな私を見て欲しいので……」
本音を言うならしのぶは今すぐ彼の胸に再度飛び込み、そのまま他愛のない話をしたり、一緒に本を読んだり、そしてそのまま一緒に眠ったり、そして……まあとにかく色々したいのである。
しかし、それを鋼の精神でぐっと耐えた。
やはり女子たるもの、好いた異性には万全の状態で会いたい。
当人が気にしないと言ってもしのぶ自身が気にするのである。
「そっか……。じゃあ、ここで待ってるから行っておいで」
「はいっ! ちゃんと待っててくださいね! どこにも行っちゃ嫌ですよ!」
「はいはい、分かってるよ」
非常に勢いのあるしのぶの言葉に、久遠が苦笑しながら頷く。
そしてしのぶが少しでも早く身支度を済ませるために部屋を出て行こうとすると、後ろから「しのぶ」と自身を呼び止める声がかかった。
しのぶが振り返ると、久遠は微笑みながら言う。
「言い忘れてたけど……おかえり、しのぶ」
その言葉に、しのぶは花が咲いたような笑顔を浮かべて返した。
「……はいっ! ただいま、です」
なんか今読み返して思ったんですけど、鬼って死んだら蒸発して消えていたような気がする……。
なら返り血もつかない気がするけど、そこはまあこの鬼滅世界はどっかに付着した血は残るという設定でお願いしまむら。
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ヒモ男としのぶさん
気が付いたら大正時代にタイムスリップしていた。
何を言っているか分からないかもしれないが俺にもよく分からない。
俺は21歳で高校を卒業してから3年経っていたが、大学には行かず、かといって就職するわけでもなく、ただ日々をのんべんだらりと過ごしていた、そんな人間だった。
バイトすらしていない。働きたくなかったのだ。
まあ所謂ニートをやっていたわけだが、親のすねを齧って暮らしていたわけではなかった。女の子のヒモをやっていたのである。
特に頭が良いわけでもなく、運動ができるわけでもない、人間としての能力自体が高いとはいえない俺だったが、顔だけは良かった。
物心ついた時から女の子にはとにかくモテたし、その事実に気づいてからは常に自分の顔の良さを利用しまくって生きてきた。で、その結果面白いように女の子に好かれた。
特に高校生になったあたりからは、町を歩いているだけでも通り過ぎる女性がうっとりとした目で自分の顔を見てくるので、流石に怖くなったくらいである。
自分の顔を鏡で見ても、まあいい顔だとは思うが正直そこまでだろうか、と思う。
女性と男性では感覚が違うのかもしれない。
とにかくまあ、その日も俺はいつものように新台を打ちに街へ出たのだ。
そして財布の中に1000円しか札が入っていないことに気づき、俺は電話をかけた。
かけた先は現在の寄生先であるミサちゃん(23)。昼は中小の事務として働き、夜は歓楽街でバイトをしたりしている、そんな女性である。
ミサちゃんは5コールくらいで電話に出た。
「もしもし?」
『あ、もしもし久遠君? 今仕事中だったんだけど、どうしたの?』
「いや、実はさ……バンドの活動にかかるお金が足りなくなっちゃって……。ミサに助けて欲しいんだよね」
「え、また……? 今月もう5万も渡してるし、これ以上は私も生活できなくなっちゃうよ……」
「いつもミサに迷惑ばかりかけて本当にごめん。でも、俺がどれだけバンドに本気なのか知ってるでしょ?」
「それは……うん……」
「お願い、ミサにしか頼れないんだ。ここで活動ができなくなったら、今まで頑張ってきた分も全部無駄になっちゃうんだ……」
「…………分かった。じゃあ、お昼休みの時間頃に会社に来て。それまでにコンビニでお金下ろしてくるから」
「ミサ……! ありがとう!」
「私、信じてるからね。久遠君なら絶対に成功するって。だから……頑張って!」
「うん! いつか絶対にミサを武道館まで連れて行くから!」
……と、まあそんな会話があり。
13時ごろにミサちゃんの会社へ行って、見事3万円をゲットしたわけである。
しかし俺はバンド活動なんてしていなければメンバーすらいない。
ついでにギターもベースもドラムもできない。できるのといえば鍵盤ハーモニカとリコーダーくらいだろうか……いや、それもぶっちゃけ怪しいものである。
つまりミサちゃんに語った話は全部嘘っぱちなのだった。
すまんミサちゃん。君を武道館まで連れて行くのはどうやっても無理そうだ。
そうやって手にした3万を2時間ほどでものの見事に全てすり、とりあえず遅めの昼食をとろうと牛丼屋に歩を進めたところで――、急激な眩暈に襲われた。
それはおよそ立っていられないほどのもので、崩れ落ちながら「あ、俺このまま死ぬのかもしれないな……」なんてことをぼんやり考えた。
グラグラと揺れる頭、遠のいていく意識。
そして、次に気が付いた時にはどっかの森の中にいた。
……なんというスピード感だろう。まったく訳が分からない。
混乱したままとりあえず歩くと森はすぐに抜けられたようで、そこには町が広がっていた。どう考えても現代日本ではない街並みが。
街並みだけではない。道行く人の服装も、なんというか……コスプレちっくだった。
ここでまさかと思い、通行人の一人に今は何時代ですかと尋ねる。
すると、不思議そうな顔で「元号は大正ですが」と返された。俺は愕然とした。
――――で、冒頭に戻ってくるわけである。
「うーん、どうしようかな……」
街道の真ん中に突っ立ったまま独りごちる。
これは完全に巷で噂の異世界転生というやつではないか。
いや、別に生まれ変わったわけじゃないから転移か。ん? そもそも昔の日本なんだから異世界ですらない……?
まあともかく、問題は本来この世界線に俺は存在していなかったわけで、そんな中これから俺はどうやって生きていけばよいのかということなのだ。
さしあたっては金銭が急務の問題である。
お金さえあれば食事だけでなく宿なりなんなり泊まって住居も確保できるだろうが、大正時代のお金なんて持っているわけがない。
そうなれば当然……働かなくてはならないということだ。
労働をして日々の糧を得なくてはならない。
バイトがそこかしこに溢れている現代日本と違って、大正日本ではどんなところで働くのが普通なのだろうか。
というかまずこんな戸籍なし、この時代の常識なし、服装もどう考えてもおかしい俺のような人間を雇ってくれる人はいるのか?
……………………いや、そもそも大大大大前提として――
「……働きたくないよ…………」
そう、俺は働きたくなかった。
あっちの世界で一度も働いたことがないのに、こっちでえっちらおっちら労働に励むなんてそんな自分の姿は想像ができなかった。
しかも大正時代にデスクワークなんてまずないだろうし、少なからず肉体労働系になるのは間違いない。というかデスクワークですらやりたくない。
そして最初に戻るのだ。
「うーん、どうしようかな……」
そこで俺ははた、と気が付いた。
通りすがる婦女子たちの俺を見る視線に。
頬を赤らめながらジッと見つめてくる者、同じく恥ずかしそうにしながらチラチラと盗み見る者、艶めかしい捕食者のような目で見てくる者。
これら全てを、俺は前の世界でも知っていた。
「……なるほど、ね」
別に言葉の通じない外国や異世界に来たわけじゃない。
コミュニケーションが取れるんだったら別にあっちでもここでも俺のやれることは変わらないはずだ。
なら、始めよう――――俺をヒモにしてくれる女の子探しを。
◇
しのぶが最初にそれを聞いたのは、治療をしたとある男性鬼殺隊士からだった。
曰く、「最近町で何人もの女を誑かして、貢がせまくってる奴がいる」と。
別にどうでもいい、としのぶは思った。
その男性のあり方自体は好ましくないが、結局のところ当人同士の問題だ。
当の女性たちが納得してそうしているのなら外野がどうこう言うことではない。
その隊員が血涙を流さんばかりの悔しそうな表情だったことに苦笑いしつつも、その時はさしてしのぶの記憶に残るようなこともなかった。
それから数日後、今度は別の男性鬼殺隊士が治療中、陰鬱な表情でしのぶに語った。
曰く、「その男に恋人を奪われた」と。
これはよくない、としのぶは思った。
男女の恋愛においては別れも当然あるものだが、それが略奪愛、しかも他に何人も女を囲っている男が、となれば話は少し違ってくる。
それでも全く自分と関係ない所で噂に聞く程度ならば、不快感を覚えることはあってもこうは思わなかっただろう。
しかし今回は自分と同じ組織に所属する者が実際にそれに巻き込まれているのだ。
さらに、涙を流しながら元恋人との思い出を語るその隊員の姿はあまりにも痛々しく思えた。
だからしのぶはその隊員に言った。
私が一言文句を言いに行ってきます、と。
「……この宿に滞在してると聞いたんですけどね」
そしてしのぶは今、件の男が泊まっているという宿の前に立っていた。
別にことさら糾弾したりするつもりはない。
究極的にはあくまで当人たち同士の問題であるからして、しのぶにできることといえば、あなたが今囲っている女の一人は自分の同僚の恋人だったんだという事実を彼が知っていたのか確認し、それが知・不知どちらであっても、軽く窘める言葉を言うくらいのものである。
実のことろ元々しのぶは激情家のきらいがあり、この1年でそれなりに自分の心を落ち着ける訓練をしてきたものの、感情が高ぶればいつ爆発してしまうか分からない。
件の男性の女性関係自体には嫌悪感しかないしのぶであるため、間違っても本心をそのままぶちまけることのないよう、宿に入る前に深く深呼吸をして心を静めた。
2、3度ほどそれを繰り返し、よし行くぞと扉へ手をかけたところで後ろから声がかかる。
「えーっと、そこの御嬢さん。どうしたのかな」
「え?」
振り返る。
そして息を飲んだ。
(な、なに……これ…………)
今、しのぶの目の前にいる五尺七寸ほどの体躯のその男は、なんというかそう……物凄く顔が良かった。
ものすごく安直な表現だが、しのぶにはそれを上手く言葉で表すことができなかった。今までこれほどの美形に出会ったことなどなかったからだ。
そう、美形。
間違いなく美男子という言葉がしっくりくる。
それも絶世の、という枕詞が付いて。
目、鼻、口、眉など顔面を形作るすべての部位が最高の黄金比で配置されているとしか思えない、あまりにも美しすぎる
しのぶの存在に少し困惑しているのか、眉をちょっと下げて微笑んでいる表情には、もはや眩い光すら幻視して見えるほどであった。
しのぶ自身、自らの顔は悪くないどころかそれなりに美人であると自負しているし、同僚にだって顔の整った者はいる。それこそ、身内である姉のカナエも相当の美人だったと思っている。
だが目の前の男はなんというかもう、そういう段階にいなかった。
美しさもある程度までいけばあとは個人の好みである、というのはしのぶも同じ考えだが、しかしこの男と比べれば十人が十人「この男の方が美しい」と答えるだろう。
一目でそう思わされる圧倒的な『美』。
それが今、しのぶの眼前にあった。
「あ……あ、えと……あの……その……」
何か返答をしなくちゃいけないことは分かっているのに、言葉が出てこない。
完全に予想外の出来事に思考停止してしまったのだ。
どもったままでいると男が「大丈夫?」と顔を覗き込んできたため、しのぶはサッと顔をそらした。
頬が熱い。間違いなく今自分の顔は真っ赤になっていると思った。
「もしかして体調が悪いとか? 近くの医院まで連れて行こうか」
「ぁ……、いや、その……」
「うん?」
「……だ、大丈夫、です……はい」
大丈夫、大丈夫だ……さあ落ち着け自分。
今は亡き姉のように穏やかな心でいる訓練を一年間してきたではないか。
そうしのぶは心の中で自分に語り掛け、一度深呼吸をする。
(……よし! これで普通に喋れる、はず……!)
しのぶが気を取り直したところで、丁度男から声がかかる。
「なんともないなら良かった。それで、俺ここに泊まってるんだけどさ。通してもらえるかな」
「……ここに宿泊してらっしゃるんですか?」
「うん、そうだよ」
これは都合がいい、としのぶは思った。
宿の中の誰かしらに、件の男の情報を聞こうと思っていたしのぶにとってはまさに渡りに船。さっそく尋ねることにした。
「あの……実は今私、『天川 久遠』という人物を探していまして、もし知っていたら教えて頂きたいのですが……」
「うん? それは俺だね」
「え?」
「俺がその天川久遠だよ。何か用があった?」
男のその言葉の後、しのぶは何秒か思考停止した。
そして思い至る。
確かにそりゃそうか、と。
女を何人も誑かして貢がせまくる、なんて事そんじょそこらの男にできるわけがない。
人心をつかむ話術、経済力、社会的地位、家の格。女性を惹きつける要素といったものは様々あるだろうが、まず何と言っても容姿が良くなくては話にならないだろう。
その点、目の前のこの男の容姿は圧倒的である。
むしろそれだけで他の何がなくとも女性が寄ってくると思われる。
だからしのぶは心の底から合点がいったのだ。
まあこの男なら、それは女も絶えず寄ってくるだろうなと。
だがしかし――。
それとしのぶが今回ここに来た件は別である。
故意かどうかは置いておいても、事実として目の前の男――天川久遠は一人の男性の恋人を奪っている。
貢がせている、というのはまあ女性が勝手にやっているだけかもしれないが、少なくともこれに関しては一言言わなくてはならない。
しのぶはそのために今ここにいるのだから。
「あの――」
「何か用があるなら俺の泊まってる部屋まで来る?」
「…………え? へ、部屋……ですか……?」
「うん、落ち着ける所の方が話もしやすいんじゃないかな。丁度お団子も買って来たからお茶でもしながらさ」
その言葉で、しのぶは大混乱に陥った。
(こ、これはどういうこと……!? いや、どういうことってそういうことよね、多分……。こんな会ったばかりの私をすぐに宿に連れ込もうとするなんて……やっぱり噂は本当だったんだわ。なんていう悪い男なの……。それに、そんな誘いにホイホイ乗る女だと思われてるのも腹が立つし……ここは一発ガツンと言ってやらないと!)
しのぶは決意した。
そうだ、毅然と断るのだ。
自分はそんな軽薄な誘いに乗るような女じゃないと。今まではそうやって上手くいっていたのかもしれないけど、あまり女を舐めるな、と。
一言ぶちかましてやろうと男の顔を見て、そのあまりの耽美さに考えていた言葉が一瞬で吹き飛んでしまった。
頭が真っ白になって、ただじっと顔を見ることしかできない。
引いたはずの熱がまた顔にじわじわと戻ってくるのを感じる。
(ちょ、ちょっと……いくらなんでも格好良すぎるでしょう……!)
若くして鬼殺隊士の中でも幹部といえる柱になり、一年ほど前から落ち着いた言動を心がけ、最近ではそれも板についてきてまさに淑女の鑑ともいえる女性を体現しているしのぶであるが、実際はまだ齢17の生娘である。
そも男性に対する免疫自体が少なく、そこにこんな常識外の容姿を持った男に出会ってしまえばさもありなん、といったところだろう。
「あ……えっと、あの……あの、その……うぅ……」
「あー……もしかして嫌だった?」
「ぇ……、あ、嫌とかそういうのじゃないんです! そういうのじゃ……」
「そっか、良かった」
良かった、と。そう言って微笑んだ天川久遠の顔を真正面から見たしのぶは今度こそ思考が完全に真っ白になった。
そして気が付いた時には宿の一室で一緒にお茶をしていた。
(あ、あれ……? なんかここ数分の記憶が飛んでいる気が……なんで私はこの人と一緒にお茶をしてるのかしら)
混乱した頭で、とりあえず久遠に勧められるがままお茶と団子を口に運ぶ。
どこのお茶屋で買って来たかは分からないが、どちらも非常に美味しかった。
その間、2・30分ほど久遠としのぶは他愛もない雑談をした。
別にここに来た本来の目的を忘却していたわけではない。
いや、若干混乱気味であったことに加え、男性と近しい距離で会話するのがほとんど初めてでそれに浮かれていたというのは確かにあるが……。
ともかく、久遠との会話はしのぶにとって楽しいものだった。
それというのもこの男、会話が非常にうまかったのだ。
話題は基本的に振ってくれるものの、ベラベラ一方的に話すわけでもなく、しのぶに色々質問するような形で話を進める。そして、しのぶが話すことに対してもとても聞き上手で、こちらが気持ちよくなるように応対してくれる。
しのぶは久遠と共に話しているのがなんだかとても心地良かった。
とてもつい30分ほどの前に出会ったとは思えないほどに。
それは、久遠の柔らかで温かく、優しい声のせいだろうか。
(ああ……誰かとお話してこんなにホッとしたのはいつぶりだろう)
いつの間にか、しのぶは自分の様々なことを話していた。
幼少の時、両親を鬼に殺されたこと。
生き残った姉と二人でずっと生きてきたこと。
そしてその最愛の姉も3年前、鬼に殺されたこと。
そして……今自分はその仇を討とうとしているということ。
流石に自分が鬼殺隊に所属しているということは言わなかったが、それでも出会ったばかりの人に話すようなことではないことはしのぶも分かっていた。
それでも、何故か彼には話してしまいたくなったのだ。
「姉は……私が鬼と戦うことを望んでいないようでした。今際の時だけでなく、平時からもずっと。女の子らしく普通に生きて欲しい、と」
「うん、俺がそのお姉さんの立場でもそう言うだろうね。家族っていうのはそういうものだよ」
「でもっ……! じゃあ姉の仇は誰が取るんですか! 鬼にまで優しさを持って、最後はその鬼に殺された姉の無念は誰が晴らすんですか!」
感情が爆発し、声を荒げてしまう。
しかし久遠は微動だにせず、しのぶの目をじっと見つめていた。
しのぶの激白は続く。
「……分かっています! 私にはその鬼を殺すための力が足りていないことも! でも、許せないんです! そうやって憎しみを糧に動いていなきゃ生きていけないんです!」
「…………」
「女の子らしくなんて、無理……私はもうずっとそんな風に生きてない。鬼は心の底から憎いけど、その鬼から目をそらしたら生きる理由がなくなるほどに私の人生は空っぽなんです」
言い終わると同時に涙が滲んでくる。
おかしい。最近はこんなに感情が暴れることなんてなかったのに。
今日はこの人に会ってからずっとおかしくなってる、としのぶはどこかのぼんやりした頭で考えた。
久遠はというとしばらく黙ったまましのぶを見つめていたが、やがておもむろにしのぶへと手を伸ばし、目の端の涙を指で掬う。
「お姉さんはさ、自分の妹に危ないことをして欲しくないんだよ。それはさっきも言ったけど家族なら当然のこと。外野の俺だって、君みたいな可愛い子に危険なことをして欲しくはない。でも、最後に決めるのは結局君自身だ。例え今お姉さんが生きていて同じことを言ったとしても、結局どうするか決めるのは君自身でしょう? 君はお姉さんの言葉に従って生きているわけじゃないんだから。
だからまあ、なんというか……極論何をしようとアリだと思うよ正直。今から仇討ちをやめて普通に生きたって、仇討ちに専念したって、君の人生は君の物だからね」
問題は――、と久遠は続ける。
「自分の人生が空っぽだって思っちゃってることかな。生きる目的が仇討ちそのものなのがダメ。お姉さんの仇を討つのはそれ、これはこれ、だからね。生きていくうえで目的、というか何か楽しいことは必要だと思うよ、うん」
「で、でも……私そんなもの、ないです。ずっと鬼を殺すことだけ考えてきて、姉が死んでからはさらにそれしか頭になくなって……」
「じゃあこれからゆっくり見つければいい。人生はまだまだこれからなんだから。それこそ仇討ちが終わった後もね」
「仇討ちが終わったら……。でも、私……どうしたらいいのか……。そもそも生きて戻ってこれるかも分からないし……」
そう言ったところでしのぶは額をぺチンと叩かれる。
驚いて顔を上げると、そこには困ったような顔をした久遠がいた。
「それが一番駄目。相討ちでも相手を殺す! とか考えてるでしょ」
「だって、そうでもしなきゃ……相手はものすごく強くて……」
「全く、お姉さんの言葉をすごく引きずってるのにどうして分からないかな。自分を犠牲に、それこそ死んでまでなんて一番お姉さんがやって欲しくないことのはずだよ。
結局のところお姉さんの言葉の真意は、君……しのぶちゃんに生きていて欲しいってことなんだから」
「あ……」
分かっていなかった、はずはなかった。
姉・カナエの気持ちは痛いほど伝わっていたと思う。
だけど、どうしても許せない、仇を討ちたいという気持ちがあまりにも強くて、姉の言葉を言葉尻でしか見ていなかった。
「ただ、生きて欲しい」という強い思いを見ないふりしていた。
姉を倒すほどの鬼に、たたでさえ筋力の足りていない私が五体満足のまま勝てるはずがない、だから相討ち程度で殺せるのなら御の字だと。自分の身一つを犠牲にして倒せるのなら、とずっとそんなことを考えていたのだ。
その結果として今行っている、自身の身体に藤の花の毒を少しずつ馴染ませるという行為も、もし姉が生きていたら絶対にさせなかったはずのことだ。
久遠の言葉は、まるで今まさに姉にそれをとがめられているかのようで、少し胸がチクリと痛んだ。
「だから生き残ることが最優先。仇討ちだって、しのぶちゃん一人では無理でも2人、3人、それこそ10人でかかったら余裕で勝てるかもしれない。しのぶちゃんは力が足りないって言ったけど、もしかしたらしのぶちゃんを強くする方法が何か見つかるかもしれない。自分を犠牲にして玉砕覚悟の特攻、なんてダメだよ。
だって……しのぶちゃんが生きてなきゃ、お姉さんのこと、ご両親のことを覚えている人はいなくなっちゃうんだから」
今度こそしのぶは言葉を失った。
そんなことを考えたことはなかったからだ。
「誰が言ったか知らないけど、人はその人を知っている人に忘れられた時にもう一度死ぬんだってさ。ちょっとかっこつけた言葉になっちゃうけど、今しのぶちゃんの記憶の中に生きているお姉さんやご両親も、しのぶちゃんが死んじゃったら死ぬことになっちゃうと思う」
姉のことを知っている人自体は自分の他にもいるだろうと思う。
それでも、あの無垢に幸せだけを信じていれたころの記憶を。
姉と共に庭をかけまわって遊び、ちょっとしたことで喧嘩しては両親に怒られ、家族一緒に眠ったあの頃、幼い頃の記憶。涙が出るほど尊い記憶を――。
それを覚えているのはこの世で自分しかいないのだ。
『人は二度死ぬ』。
なんと今の自分に響く言葉だろうか。
そうだ、今自分の記憶の中に生きている、あの頃の父や母、そして姉たちを……もう一度死なせるわけにはいかないのだ。
しのぶは今初めて、心から「生きなきゃならない」と思った。
姉が死んでからというものの、何か面白いことがあった時も、美味しい物を食べた時も、可愛い妹分のような子の成長をみて嬉しく思った時も、心の底にある自分の人生に対する諦念のようなものが消えることはなかった。
それがなくなったとは言わない。
だがしかし、それを上回るほどに、生きたいと強く思った。
しのぶの顔つきが変わったことに気が付いたのだろう、久遠は見る者すべてを安心させるような柔らかな笑顔を浮かべた。
間近でそれを見たしのぶは顔を一瞬で朱に染めて思う。
(生きる意味も……ちょっと見つかりそう、かも)
その後はまたいくらかとりとめのない話をして、しのぶは久遠のいる宿を出た。
ここを訪ねた時より、いや姉が亡くなってから感じたことがないほどすっきりした気持ちだった。
なんだか何かを忘れているような気がしたが、恐らく気のせいだろう。
しのぶは今日会った不思議な男の人、天川久遠のことをずっと考えながら、帰路に着いたのだった。
しのぶさんを顔だけで惚れさせるのはアレだからま、多少はね?
まだヒモっぽいエピソードはあんまり書けてないんですが、次回プロローグの時間軸に戻ってきてからやりたいと思います。エタるのはそれからだな……
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プレゼントだって他人のお金でですよ。だって、ヒモだから!
確か師範って呼んでたのはカナヲちゃんだけだと思うんだけど。
あと若干、というか結構しのぶさんがキャラ崩壊してます。……今更かな。
しのぶが湯あみをしている間、久遠は自分がこの世界に来てからこれまでのことを回顧していた。
突然大正時代の日本に来てしまい、そこでも変わらずヒモ生活をしていたら、なんかこの世界には鬼という存在がいることが発覚した。
伝承の妖怪とかそういうものではなく、実際に人を襲う脅威として存在しているらしい。
だが、それを聞いた久遠は特段動揺することもなかった。
まあ普通に暮らしてる分には大丈夫だろ、と思っていたからである。もっというなら「俺は大丈夫だろう」という謎の自信があった。
で、実際にこちらに来てから2ヶ月ほど経っても、特に襲われることもなく平穏なヒモ生活を送っていた。
そんな折に出会ったのが胡蝶しのぶという少女である。
パッと一目見た時に、町にいる他の女たちとは一線を画す美人であることに気付いた。
とはいえ寄生対象にするには幼すぎる。そう思ったのだが、彼女の身なりや佇まいを見るに結構良い所の御嬢さんであることが見受けられた。
じゃあとりあえずキープしておこう、くらいの軽い気持ちで声をかけ、いつものように宿に連れ込んでお茶をする。
時間が経ち段々と打ち解けていくと、彼女はぽつりぽつりと自分の身の上を語り始めた。
一言でまとめると、どうやら彼女は鬼に家族を殺されその仇討ちをしようとしているらしかった。
多少の同情は感じたが、有体に言ってしまえばそこまで興味はなかったので、久遠は適当にペラを回してその場は切り抜けた。
しかし、しのぶは次の日も久遠の下にやって来た。
そしてまた次の日も。
さらにその次の日も、次の日も……、時間の長短はあれど少なくとも一週間は毎日通い詰めてきていた。
そうして訪問回数が5度、6度、7、8、9、10……とどんどん増えていくにつれ、しのぶの久遠に対する態度もどんどん気安いものになっていく。
遂には部屋にいる間は常にベッタリとくっついてくるようになり、やれ頭を撫でろやら、やれお菓子を食べさせて欲しいだの、様々な要求をしてくるようになった。
久遠はエリートヒモ男なので、この程度のことでことさら面倒くさがったりはしない。ボディタッチを使ったコミュニケーションはヒモ男にとって必須のスキルである。
しかし、このままずっとこのような関係が続くのも久遠にとって旨味がない。現状、久遠の時間と労力だけを消費している形だからである。
久遠は胡蝶しのぶという少女を見極めるタイミングを伺っていた。
そして、その時は訪れた。
ある日、しのぶがとても言いづらそうな顔で「久遠は、その……お仕事はしないんですか?」と聞いてきたのだ。
ここだ、と思った。
久遠はすかさず困ったような苦笑いを作り、「働きたくないんだ」としのぶに告げる。
この発言で自分を切り捨てるならそれはそれでよし、しかし上手くいけば――。
しのぶはちょっとの間逡巡していたようだったが、やがて顔を上げ、久遠の目を見つめてはっきりと言った。
「じゃあ私があなたを養います」と。
その後、しのぶは実は鬼を殺すための組織『鬼殺隊』の隊士で、しかもその中の幹部である『柱』という存在であること、普段は蝶屋敷という所で傷ついた隊士たちの治療などを行っていることを教えてもらった。
そして、その蝶屋敷に来てそこに住んで欲しいと。
ついでに今繋がっている女たちとの縁は全部切れ、とも言われた。
しのぶの経済力と自分への好意は既に知っていたので全て言われた通りにし、今現在、久遠はしのぶのヒモというわけである。
――と、外を眺めながらそんな風にこれまでを回顧していたら、廊下をパタパタと走ってくる音が聞こえた。
「久遠! お風呂あがってきましたよ!」
「うん、でもまだ髪ビショビショだよ?」
「じゃあ、久遠が拭いてください!」
そう言ってしのぶは久遠に背中をもたれかけさせる。
そして久遠がしょうがないなと言って布でしのぶの髪を優しく拭う。いつものことだった。
しのぶの艶のある綺麗な黒髪を、櫛で梳かしながら布で水気を拭っていく久遠。
この世界には当然ドライヤーはないので、ある程度拭いたら後は自然乾燥に任せるしかない。しかし髪がぐしゃぐしゃのまま乾いてしまってはいけないので、こうして櫛で髪の流れを整えているのだった。
そんな久遠の丁寧な髪のケアに身を任せ、上機嫌な様子のしのぶ。
湯あみを終えた後は毎回これをしてもらっており、しのぶにとっては至福のひと時であった。
「はああぁ……幸せ……」
「大げさだなあ、ただ髪拭いて梳かしてるだけだよ」
「それで良いの。久遠とこうやってくっ付いて、久遠にお世話されてるのが良いんだから。……あー、任務の疲れもどこかに消えてっちゃう…………」
「……あのさ、しのぶ。ちょっとお願いがあるんだけど」
髪のケアをする手は止めないまま、おもむろに久遠は言う。
「んー? どうしたの?」
「ちょっとこれから町に遊びに行こうと思ってるだけど、お金くれない?」
日がな一日家でダラダラしてたくせに、仕事を終えて帰ってきた18歳の少女に対し金の無心である。控えめに言ってクズだった。
しかし、しのぶは全く逡巡することなく即答する。
「うん、いいよ。いくら?」
「25円*1くらいかな」
「分かった、じゃあ後であげるから……今はちゃんとこっちに集中してね」
「あはは、お安い御用だよ」
さらに追加サービスとばかりに久遠は空いた片方の手でしのぶの頭を優しく撫でる。
なでりなでり、と久遠の手が頭を行き来するたびにしのぶは蕩けた声を漏らした。
幸せいっぱいなしのぶに対して、久遠はといえば既にこれから町で何をしようかということを考えているわけだが……、まあしのぶが知らなければ全く問題のないことだろう。
すっかりへにゃへにゃの甘えモードに突入していたしのぶであったが、突如ハッと身体を起こして久遠を真正面から見据える。
「え、どうしたの?」
「久遠、町に出て遊ぶのは全然構わないですけど……間違っても女の子をひっかけたりしないでくださいね。久遠を信用してないわけじゃないですけど、何もしなくても女は久遠に寄って来るし、久遠もあんまり強く言わないので……。
もし万が一、女の子と遊んだなんてことがあったら…………一か月外出禁止です」
「…………気を付けるよ」
本当に気を付けなくてはならないな、と久遠は思った。
◇
神崎アオイが蝶屋敷に到着したのは日も若干暮れ始めた頃だった。
今日は薬の材料を少し遠方まで調達しに行ったため、こんな時間になってしまったのだ。
(今日はしのぶ様もいないから、早く帰ってお夕飯の支度しないと……あの3人だけに任せるのはまだ不安だし)
蝶屋敷の主である胡蝶しのぶは、任務の内容を考えるに少なくともあと1週間は帰ってこない。
しっかりした働き者とはいえ、すみ、きよ、なほの3人だけに料理を任せるという選択肢はなかった。ちなみにカナヲは最初から除外している。普段の手伝いの様子を見ても確実に料理は不得手であるからだ。
(まあ、もう一人いるんだけど……あの人が主体的に動いてくれるわけないし……)
アオイは、ここ1年ほど生真面目一徹の自分を悩ませているあの男の顔を思い浮かべる。
頼めば手伝ってくれはするのだが、あの人物が自分からテキパキ料理をする姿は想像できない。
毎日働きもせずに屋敷でダラダラと過ごすその姿は、この神崎アオイという少女にとってはなんとも受け入れがたいものなのである。
(まあ、嫌いな人じゃないけど……カッコいいし、優しいし、気遣いはできるし、それに……カッコいいし)
なぜ2回言ったのかはさておき、駆け足で帰路をたどったアオイは、想定していたよりも早く屋敷に到着した。
とりあえず薬の材料だけ部屋に置き、炊事場へ向かう。
真っ暗だろうと思っていたそこには、何故か既に明かりが灯されており、鍋からは料理の湯気がモクモクと――。
と、そこでアオイは気が付いた。
「し、しのぶ様!?」
なんと、まだ任務中のはずのしのぶが上機嫌で鍋をくるくるかき混ぜているではないか。
あまりの驚きにアオイは大声を上げてしまう。
側で手伝いをしていた3人娘やカナヲもびっくりしたのか肩を跳ねさせた。
「……あら? あ、ただいま帰りましたアオイ。それともおかえりの方がいいですかね」
「ちょ、え、なんでここにいるんですか? 青森で任務があるはずじゃ……」
「ああ、それですか。それはすぐに終わらせて全力で帰ってきました。久遠に会いたすぎたもので。おかげで想定より1週間は巻けましたよ……これも愛の力がなせる業ですね」
久遠、という言葉がしのぶから出てきたことでアオイのこめかみがピクリと動く。
久遠、久遠、久遠……1年前に突然「この人をこの蝶屋敷で住まわせます」と言って連れてきてからというものの、しのぶはずっとこうだった。
それまではもっと誰にでも分け隔てなく優しく、厳しい、そんな人だったのに。
……いや、今も別にそれ自体は変わっていない。
ただ、とりわけあの人に激甘すぎるだけだ。
一応、久遠がやって来て良かったこともあるにはある。
しのぶの表情が普段からずっと柔らかいものになり、それまでどんなに笑顔でもずっと見え隠れしていた、どこか疲れたような雰囲気もなくなったのだ。
その時は、「恋をすると人はこんなに変わるのか」とどこか他人事のようにアオイは思っていた。
「……それで、その久遠さんは今どちらに? みんなで食べるお夕飯ですし、お手伝いくらいはお願いした方がいいと思うんですが」
「久遠なら今町に遊びに行ってますよ。夕飯までには帰ってくるように言っていたので、そろそろだと思うんですが……」
「遊びに……? まさか、またお金をあげたんですか?」
「? そうですけど?」
その言葉と、さも不思議そうな顔をしているしのぶに、遂にアオイの感情は爆発した。
「お金ってそれ、1週間前もあげてたじゃないですか! 今回は一体いくら渡したんです!」
「今日は25円だったかしら」
「25っ……!? ちょっといい加減にしてくださいしのぶ様! 普通の人が立派に勤め人としてもらうお給金の半分近くをそんなにポンと渡すなんて!」
「ちょっとアオイ、声が大きいですよ。少し落ち着きなさい」
窘めるようなしのぶの言葉にさらにアオイの神経は逆なでされる。
あんたのせいでこうなってるんだ、とは流石に言わないが、全部ぶちまけたい気持ちでいっぱいだった。
「大体毎回毎回そんなお金を何に使ってるんですかあの人は! 町に出たって普通に過ごしてれば大してお金なんて使わないでしょう!」
「お金……最近は賭場で遊ぶのにはまっているとか聞きましたけど」
それを聞いてアオイはもう眩暈がしてきた。
「……あのですね、しのぶ様。はっきり言いますけど、そんな風に久遠さんがいっつもだらしなくて、公序良俗に反したことに傾倒しているのも全部全部、しのぶ様がそうやってあの人を甘やかすからなんですよ!」
「心外ですね、私が一体どれほど久遠を甘やかしてるっていうんですか」
「どれほどって、もう全部ですよ全部! 生活の全てに至って甘やかしてるじゃないですか!」
朝は寝たいだけ寝、みんなが洗濯やら薬の調合の手伝いやらで働いている時にものんべんだらりと本を読み(たまに手伝う時もある)、お小遣いをせびってはふらふらと町に出ていき賭け事に興じる。
その全てをしのぶは咎めることなく、全面的に許しているのだ。これが甘やかしでなくてなんというのだろうか。
「言っておきますけど私はこれでも結構久遠に厳しいですよ。甘やかすだけではよくないこともちゃんと分かっているので」
「はあ……じゃあしのぶ様は一体何をしてるんです?」
アオイが尋ねると、しのぶは得意げな顔で言った。
「まず、久遠が嫌いな物を残そうとしたときには厳しく叱ります。食は身体を形作る重要な要素ですからね。苦手な物でも栄養があるなら健康のために食べなくちゃいけません。
お金だって、久遠が2日連続でお小遣いを求めてきたときには無駄遣いはいけません、と叱ってから渡しました。
そして、久遠が女遊びをしようとしたときにはそれはもう強く叱りましたよ。あの時は2週間は外出禁止にしましたからね」
「…………」
アオイはもう呆れて何も言えない状態であった。
(最初のは完全に子どもへの教育だし! 2つ目は結局普通にお金あげてるし! 最後のはもうただの嫉妬じゃない!)
ふつふつと溢れ出る怒りを何とか抑え込み、ふーと息を吐き出してからアオイは言う。
「しのぶ様、はっきり言ってしのぶ様のやり方は全く久遠さんのためになりません。それではただあの人は堕落していくだけです。しのぶ様は人を教え導く立場にいるんですから、もっとあの人のことも正しい方向に導いてあげないとダメなんですよ」
「あら……ならアオイはどうすればいいと思っているんですか?」
「まず、好きな時間に寝て好きな時間に起きるのは駄目です。叩き起こしてでも規則正しい生活をさせるべきです。そしてここに住んでいる以上この屋敷の雑務は手伝わせるべきだし、お金は町で使う最低限の分を渡せばこと足ります。
私たちが生活で普通にしていることと同じことを、彼にはさせるべきなんです。無理やりにでも」
アオイがそう言い切るとしのぶは困ったような顔をする。
「うーん、でも久遠を無理やり叩き起こすなんて……そんな可哀そうなこと……」
「別にしのぶ様がやれないのなら私がやりますので問題ありません」
「…………今、なんて言いました?」
「しのぶ様が厳しくできないようであれば、私が厳しくしますと言ったんです。ああいうだらしない人には本来、私のような人間の方がいいんです。ちゃんと指導して真人間に戻すのでご心配なく」
そう言い放ちながら、アオイはすでにどうやって久遠の性根を叩き直そうか既に計画を練り始めていた。
(……あの人だって、そういう所をきちんとすればもう完璧なんですから、うん、やっぱり私がやった方がいい)
小さくうんうんと頷き、明日からの決意を固めていると、目の前のしのぶがぷるぷると震えながらアオイを指差していた。
「つ、つ、ついに馬脚を現しましたねアオイ! そうやって久遠に近づく算段なんでしょう!」
「ば、馬脚ってなんですか! 私は純粋にあの人のことを案じてですね……!」
「私はこの前見ましたよ! 『アオイの作る御飯はいつも美味しいね、ありがとう』なんて言われながら頭を撫でられていた時のアオイのあのだらしない顔を!」
「ちょっ……! なんでそんなものを見てるんですか! しかもだらしない顔なんてしてません!」
そうだ、別にそんな顔はしていない、とアオイは思う。
自分の作る料理を褒められればうれしいし、多少は喜んでいたかもしれないが、だらしない顔などと言われるのは心外だった。
「いーえ、してました! その後もしばらくニヘニヘと笑って上機嫌だったし、その日のお夕飯は気持ち久遠の分を多くしていたような気もします!」
「それは完全に気のせいです! ……もうっ! そうやってしのぶ様があの人のこととなると、急におバカになってしまうから心配なんですよ! やっぱりあの人は私が矯正してあげないとダメなんです!」
「お、おバカって……そんなことありません! 久遠の教育は私がやります! 久遠の側にずっといられる立場はいくらアオイとは言えど譲りませんよ!」
お互いに啖呵を切ってにらみ合う。
どう考えてもこの場で論理的に正しいのはアオイであったが、しのぶの有無を言わせないと言わんばかりの謎の圧を見るに、場は拮抗している……かもしれなかった。
3人娘やカナヲが一体どう収拾をつければよいのかとオロオロしていたところに、ひょっこりと件の男が現れた。
「どうしたの一体。廊下まで声響いてたけど」
「久遠っ! おかえりなさい!」
久遠の姿を見つけるや否や、その胸に飛び込んで頬ずりをするしのぶ。
さっきまでのピリついた雰囲気はどこへやら、である。
自分の胸に押し付けられているしのぶの頭を撫でながら、久遠はこの場にいるメンツに再度尋ねた。
「で、結局何があったの? ここのみんなが喧嘩するなんて珍しいね」
久遠に視線を向けられたアオイはバツの悪さからさっと目をそらした。
代わりに、すみ、きよ、なほの3人娘が何があったかを説明してくれる。
そうすると今度は久遠の方がバツが悪そうに苦笑いした。
(……そ、そうよ。私は何も間違ったこと言ってないし、遠慮することなんて何もないじゃない! いい機会だからここでガツンと言わないと!)
アオイがそう思ってツカツカと久遠の目の前まで近づくと、久遠は手に持った袋から何かを取りだし、それをおもむろにアオイの首にかけた。
「え、これ……?」
「今日町で見つけたんだ。蝶をモチーフにした首飾り。あんまり高い物じゃないけど、アオイに似合うかなって思って」
「あ……、えっと、その……あ、ありがとう、ございます……」
「うん、アオイにはいつもお世話になってるし、感謝の気持ち。
……アオイの厳しい言葉も、俺のためを思ってのことだってちゃんと分かってるから。いつも本当にありがとうね」
その言葉と笑顔で、アオイはもう色んな感情がはちゃめちゃになりもう訳が分からなくなってしまった。
ただ一つ言えるのは、今顔がとてつもないほど熱いということだけだ。
(ずるい……本当にずるいですこの人は。こうやれば私が誤魔化されると思って……。まあ、実際に誤魔化されちゃうんですけど)
段々と冷静が戻ってきて、久遠にプレゼントをされた喜びをじわじわと噛みしめていると、後ろから駄々っ子のような声が響いた。
「ずーるーいー! ずるいです久遠―! なんでアオイにだけプレゼントしてるんですかぁー!」
この人も……、この人も1年前まではただ純粋に尊敬できる人だったのだ。それが今じゃなんというありさまだろう。
どこか諦念を感じながらアオイは思う。
久遠はそんなしのぶに苦笑を浮かべながらなだめるように言う。
「しのぶに用意してないわけないでしょ。ほら、手出して」
「これ……指輪ですか?」
「うん、しのぶはやっぱり隊士として動き回るだろうし、行動の邪魔にならないものがいいかなって思って」
しのぶは目を輝かせながらそれをすぐさま左手の薬指にはめた。
「うふふ……ちょっと気が早いかもしれないですけど、はめてみました。どうですか?」
「うん、すごく良いと思うよ。しのぶの清楚な雰囲気を邪魔しない装飾になってるんじゃないかな」
「……あーあ、久遠の分もあればよかったんですけど…………そうしたら――」
しのぶが言い終わる前に、久遠は自分の左手をしのぶの眼前に出す。
その中指にはしのぶのと同じ指輪があった。
「ペアリングにしようって思って自分の分も買ったんだ。薬指だと少し間があって抜けそうだったから中指につけたんだけどね」
「久遠っ! もう本当に大好きですっっ! なんでそんなに私のして欲しいことが分かるんですか? もう結婚しましょう! この溢れる気持ちを止められません!」
「あはは……結婚はちょっと早いかな。うん、とりあえず喜んでもらえてよかったよ。しのぶには誰よりも感謝してるからね。……いつも本当にありがとう、しのぶ」
久遠のその言葉にしのぶは遂に感極まって泣き出してしまう。
そしてそれを頭を撫でて落ち着かせる久遠。
一見すると、なんとも感動的な光景であると言える。
しかし、実のところこれらを買った金銭は全てしのぶのお金である、ということは言わぬが華ということなのだろう。
そんな、蝶屋敷での一幕だった。
カナヲと三人娘にもちゃんとお菓子を買って来ました。
しのぶさんが敬語と普通の口調入り乱れているのは、基本は淑女らしく丁寧な言葉を話そうとしてるけど、テンションが上がると制御できなくなるって感じでしょうか。
まあ、最初はその辺適当に書いてたらなんかごちゃ混ぜになっちゃったんで、ただの後付けですこれ。
後、評価と感想にはとても感謝しております。
感想はいつも何を返したらいいか分からなくて返せてないのですが、本当に嬉しく思っています。これからも応援いただけると幸いです。
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お館様、ヒモ男に会いたいってよ
それに伴い不穏なタグがいくつか追加されていますがまああまり気にしないでください。
今日も今日とてニート生活である。
好きなだけ惰眠をむさぼり、適当に読書したり、適当に散歩したりする。
アオイちゃんの圧に負けて、お洗濯の手伝いはしたものの、おおむね理想の不労生活を送っているといえるだろう。
そして時刻は現在午前10時半くらい。
小腹がすいたので炊事場に侵入し、余った米でおにぎりをこしらえてそれを食べながら蝶屋敷の廊下を歩く。
庭でも見ながら食うかーなんて思っていたら、ちょうど縁側にカナヲちゃんが座っているのを見つけた。
何をするわけでもなくボーっと庭を眺めているので、後ろから近付いて抱き上げ、俺の膝の上に乗せる。
するとカナヲちゃんはゆっくりと顔を上げ俺の顔を見て、それからまたゆっくりと庭に視線を戻した。
「あれ、あんまりびっくりしてないね。やっぱり俺がいるの気づいてた?」
俺がそう聞くと、小さく頷くカナヲちゃん。
うーむ、可愛い。
俺の身体にすっぽり収まるほど小柄なのもまたよし。
あっちの世界では例え顔が良かったとしても15歳の女の子を抱き上げたりしたらまあヤバいわけだが、こっちでは無問題である。いや、関係性は重要だけどね。
それはさておき、この栗花落カナヲという女の子を俺は気に入っている。
何故かというとほとんど喋らないからだ。
ヒモ生活も大分長いので、今更女の子とのコミュニケーションに疲れただのなんだのとは思わないが、やっぱり常にしのぶちゃんのような子の相手をしていると、たまには何も気遣わずに可愛い子を愛でたいという気持ちになるものなのである。
それに関してカナヲちゃんは非常にうってつけの人材だった。
最初の方は無口に加え警戒バリバリで全く姿すら見せてくれなかったが、外に出るたびお菓子を買ってきたり、何かとコミュニケーションを図った結果、今ではこうやって触れ合うことができるようになった。
無口なのは変わらずなので、俺がただ一方的にカナヲちゃんを愛でるだけというなんとも素晴らしい関係を構築することができたのだ。
「ここでのんびりしてたってことは、カナヲは今日はお休みかな?」
俺がそう尋ねるとカナヲは一瞬手の中の銅貨に目をやったが、やがてそれをしまい、小さく一つ頷いた。
「そっか、じゃあ一緒にここでのんびり庭でも眺めよっか。……おにぎり作って来たんだけど、食べる?」
おにぎりを差し出すとじっとそれを見つめた後手に取り、小さなお口で食べ始めるカナヲちゃん。
小動物のようで非常に愛らしい。
ところで、カナヲちゃんは銅貨を投げてその裏表で自分の意思を決めている。
元々孤児であった彼女は自分の気持ちを表に出すことがとても苦手らしく、そんな時にしのぶちゃんの姉であるカナエさんが、それを使って自分の意思を決めるようにと渡したらしいのだ。
だから、出会った当初は話しかけるたびにコインを投げ、裏が出ればその後は何を話しかけてもずっとダンマリということが何度もあった。
正直こういうタイプの女の子に出会ったことは今までになかったので、俺もなんだか面白くなってしまい、結構頻繁にカナヲちゃんに絡んでいたと思う。
そうやって根気強くコミュニケーションをとっていった結果として、今では軽い質問くらいならカナヲちゃん自身の意思で答えてくれるようになったのである。
そんで、20分ほどだろうか。カナヲちゃんを膝に乗せたままのんびり過ごしていた俺だったが、ちょっと町に散歩へ行きたくなってきたので、カナヲちゃんを降ろして腰を上げる。
……いや、賭場じゃないよ。
この前行ってお金を溶かしてきたばっかなので、流石にしのぶちゃんに怒られてしまう。アオイちゃんはさらに烈火のごとく怒るだろう。
純粋に散策するだけです、本当に。
「俺、ちょっと町に行ってくるよ。カナヲは久々のお休みなんだろうから、ゆっくりしてね。確か最終選抜も近いんだったよね、カナヲなら大丈夫だと思うけど頑張って」
そう言ってカナヲちゃんの頭を一撫でしてその場を去ろうとしたら、軽く後ろから引っ張られるような力を感じた。
後ろを振り向くと……、なんとカナヲちゃんが俺の服の裾を指でつまんでいるではないか。
「どうしたの、カナヲ?」
俺がそう声をかけると、カナヲちゃんはハッとした顔になって慌てて手を離した。
少し恥ずかしそうに頬を赤く染めている。可愛い。
カナヲちゃんの懐き度が順調に上がっているようでとても嬉しい俺である。
なんだか育成ゲームをしている気分だった。
「あんまり遅くならないように帰って来るよ。カナヲにもお土産買ってくるからね」
俺がそう言うと、カナヲちゃんは頬を染めたままコクンと小さく頷き、その可愛らしい姿に俺は頭をもう一撫でしてから、出発したのであった。
◇
藤の花咲き乱れる産屋敷邸。
鬼殺隊の現当主である産屋敷耀哉が住むこの屋敷に、鬼殺隊最高戦力である柱が全員集結していた。
半年に一度行われる『柱合会議』のためである。
膝をついて一列に並ぶ柱達の前で、当主・産屋敷耀哉はにこやかに言う。
「一人も欠けることなくこの日を迎えられて嬉しく思うよ。何か変わりはあったかい? 堅苦しい話を始める前にみなのことを聞かせておくれ」
本来鬼の情報についての共有や隊のもめごとの採決が主な目的であるこの柱合裁判。
しかし、今日の御当主はどうやら軽い雑談のようなものを所望しているようだった。
それを受けた一同は、少しの間顔を見合わせ何を話そうものかという雰囲気であったが、やがて音柱・宇髄天元が何か思いついたような顔で話し始める。
「そういえば、蟲柱のとこで男を一人囲ってるとか聞いたような。しかも大分前からじゃあなかったか」
その言葉に、ほぼ全員の顔が蟲柱・胡蝶しのぶへと向けられた。
当のしのぶはというとキョトンとした顔である。
耀哉はしのぶに向かって優しく微笑んだ。
「しのぶ、どうやら最近は特に頑張ってるみたいだね。単純な討伐数もそうだし、この半年で下弦を三体も倒しているとか」
「はい、ここのところずっと調子が良いんです。今なら上弦がでてきてもよほど上位じゃなければ倒せる気がします」
「ふふふ……それは頼もしいね。それも、今の話に出た『彼』のおかげかな?」
しのぶはそれにとても幸せそうな笑顔で大きく頷く。
「はいっ! 彼がいれば何も怖くないし、何でもできそうな気がするんです。どんなに苦しいときでも彼の顔を思い浮かべると頑張れます」
そんなしのぶの言葉に、柱達は各々違った反応をした。
炎柱・煉獄杏寿郎は「それはとても良いことだ」とうんうんと頷く。
音柱・宇髄天元は「あの堅物女がマジか……」と驚いた顔。
岩柱・悲鳴嶼行冥は「……信じる力というものは人を強くするもの」と手を合わせながら。
蛇柱・伊黒小芭内「その男もとんだ腹黒女に捕まったものだ」とその『彼』を憐み。
恋柱・甘露寺蜜璃「しのぶちゃん、すっごく可愛くなってる……やっぱり恋は人を綺麗にするのねぇ」と恋愛脳全開。
風柱・不死川実弥は不快そうに顔をゆがめる一方でどこか眩しそうにしのぶを見つめ。
水柱・冨岡義勇だけは興味がなさそうで、ずっと耀哉の方を見ていた。
そして耀哉も微笑みをたたえたまま満足そうに頷いた。
「しのぶが鬼狩り以外で生きる意味を見つけたのはとてもいいことだね。カナエがいなくなってからは何かにずっと急きたてられているようだったから」
「はい……あの人に会うまではそうでした。でも分かったんです、私が今なりふり構わず鬼に挑み、死んでしまっては、私の記憶の中で確かに生きている姉、そして両親たちをもう一度殺すことになってしまう。
だから、私は生きます。そしてただ自分の命を犠牲にするとかじゃなく、あらゆる手段をもってあの上弦の鬼を殺して見せます」
耀哉は驚きに少し目を開く。
しのぶは強くなった――本当に。
命をかけて戦うという本当の意味を知ったのだ。
以前花柱であった姉の胡蝶カナエが鬼に殺されてから、しのぶは「自分の命をかけてでもその上弦を殺して見せる」と何度も何度も言っていた。
しかし、その「命をかけて」という言葉ほど軽いものはない。
なぜならそれは最初から自分が死んでしまうことが前提だからだ。
「自分を犠牲にして」「相討ち覚悟」、どれも聞こえはいいが、しのぶのそれはただ復讐の念だけに駆りたてられた激情そのものでしかない。
心の奥に憎しみがあっても良い、だが原動力がずっとそれではだめなのだ。
私たちは確かに今を生きる人間なのだから。
今のしのぶは「命のかけどころ」をちゃんと知っている。
それは憎しみにかられて命を無駄に投げ捨てるようなものでなく、そういった感情を冷静に処理し、必要な場面で最大の力をふるうためのものだ。
(これは……予想以上にすごい人だね、その『彼』は)
カナエを失くしてからずっと続いていたあの状態のしのぶを、一体どうやって変えたのだろうと耀哉は思う。
あの時のしのぶは、こういったことを教え説いたとしてもそれを飲み下せるだけの心の余裕を持っていなかった。
だから、ただ口が上手かったりするだけではだめなのだ。
その彼にはきっと何かがある。
「しのぶ、その彼の名前はなんて言うんだい」
「久遠です。天川久遠」
「天川久遠……か。しのぶ、今度久遠君をここに招きたいと考えているんだけど、どうかな?」
「……え? 御館様が、久遠にお会いになるんですか?」
耀哉の言葉に、しのぶだけでなく柱達はみな驚いた顔をした。
先ほどまで興味のなさそうだった義勇もである。
「そう、彼は鬼殺隊に所属はしてないけれど、しのぶも蝶屋敷に置いている以上ある程度の説明はしているんだろう?」
「は、はい。一応鬼殺隊についてと、私が柱であるということなどは」
「それなら全くの無関係という訳じゃない。もしかしたら鬼狩りの事情を知っているが故に、これからよからぬことに巻き込まれないともいえないからね。鬼殺隊の長としては一応話をしておきたいんだ」
「ええまあ、そういうことでしたら……」
しのぶに語ったのは建前で、実際にはしのぶをここまで変えた人物を一目見てみたいという気持ちだった。
あえてそれに理由づけるとするなら、鬼殺隊最高戦力の柱の精神安定にここまで関わっているとなればそれはもう鬼殺隊の戦力の一部ともいえる……とかだろうか。
そんな風に話がまとまりかけていたところで、甘露寺蜜璃がパッと手を挙げた。
「はいはーい! 私もその久遠さんに会ってみたいです! 御館様、私もその時にご同席してもいいですか?」
「……おい、ふざけたこと抜かすな色ボケ。御館様がお会いになるのはそいつを見極めるためなんだよ。そんなお茶らけた場じゃねェんだ」
「えー? でも結構前からその久遠さんがいたって割には、私なんど蝶屋敷に行っても会えなかったし、こういう機会でもないとどんな人か見れないしー」
しのぶの口角がぴくっと動く。
まずい、と思ったからだ。
蜜璃が久遠に会えなかったのは、しのぶが彼女の訪問時、久遠を必死に隠していたためである。
数は少ないものの女性隊士が治療のために来たときも久遠は部屋の奥にねじこんでいるが、蜜璃の場合はさらにもう徹底してた。
そこまでするに至った理由である蜜璃の女性らしさの象徴を、しのぶは横目でじっと睨みつける。
そして願った。お館様お願いします断ってください、風柱もああ言っておりますので、と。
しかし無情にも耀哉は蜜璃の言葉に微笑んで返す。
「いいよ、それじゃあその時は蜜璃もおいで。まず万が危険はないだろうと思うけれど、一応護衛という名目でね」
「やったー! ありがとうございますお館様!」
飛び跳ねんばかりに喜んでいる蜜璃とは対照的に、しのぶはずーんと沈んでいた。
(終わった……これまでの私の努力は一体……。好色な久遠のことだから、絶対蜜璃さんにも粉をかけるに決まってるし、惚れっぽい蜜璃さんのことだから……ああもう!)
そんな風にテンションガタ落ちのしのぶに、逆にテンションの高い蜜璃、そして蜜璃が他の男に興味を示していることに嫉妬する小芭内、それらを面白そうに眺める天元、と柱合会議の始まりは、なんともカオスなものであった。
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ヒモ男と鬼
でもどっかで原作時間軸には合流させなきゃいけないんで、その辺を見極めつつこれから改稿していきます。
しのぶちゃんが任務でいない日。
それはアオイちゃんが蝶屋敷における全権をふるう日と言ってもいい。
どういうことかというと、俺にとっては非常に厳しい日ということだ。
いつもの如くぐーたらしようとしていたのに、朝っぱらから叩き起こされ、朝ごはんの仕込み、洗濯と手伝わされ、挙句の果てには薬の材料を採集するための山登りに付き合わされる始末である。
厳しすぎる……アオイちゃん、厳しすぎるよ……。
手伝いの時も、ちょっとダラダラしてるとお怒りが飛んでくるし……。
その後不安そうな顔して「さっきはちょっと強く言い過ぎました……ごめんなさい……」ってこっそり言いに来るのは可愛いんだけどさ……。
山を登る距離自体はそこまでじゃないと言われたものの、そこは元鬼殺隊士であったアオイちゃん基準である。
運動なんかしないヒモニートの俺にとっては凄まじく長い道のりに感じられた。
で、そんな風に材料採集をアオイちゃんがしている間、俺はといえばちょっと離れたところでぶらついていた。
材料の目利きができるのはアオイちゃんだけだし、俺はその材料を持ち帰る人手要員でしかないからだ。
鬼が出ないとも限らないのであまり離れるな、という有難い言いつけをいただいていたので、とりあえず適当に散策をしていたところ――突然一人の女の子が目の前に出てきた。
俺が驚いていると、なんか向こうも驚いているみたいですごく目を見開く。
聞くと、どうやらこの山を越えたところにある村の娘らしくちょっと散歩に出かけてここまできたとのことだった。
俺がヒーコラ言いながら来たこの山道を散歩気分で来れるって、女の子でも昔の人の体力はやっぱりすごいんだな……なんて思いつつ、ここは鬼が出るらしいから危ないよ、と一応教えてあげる。
するとその女の子は鬼のことは心配いらないから大丈夫だ、と返してきた。
たくましすぎる、大正時代の村娘……。
まあ少しの間雑談をしていたら、やがて女の子の方が「できればまた会いたい、次はいつここに来るのか」というようなことを聞いてきた。
え……いつというか、できればもう来たくはないんですが……。
とはいえそう言ってしまうのも可哀そうだし、どう答えようものかなと迷っていると、後ろからアオイちゃんが慌てた様子で駆けてきた。
それはもう血相を変えて、というか若干青ざめてというか、とにかく必死な様子である。
どうしたのかと俺が声をかけるより早く、アオイちゃんは俺の前に出てその女の子と対峙する。
そうすると女の子の方も雰囲気が変わり、不穏な空気を漂わせ始めた。
な、何故だ……この二人は知り合いで何かしらの因縁があるのか……?
俺のような終身名誉エリートヒモは女の子の表情から感情を読み取るのは得意だ。
アオイちゃんの表情からは、怯え、焦り、敵意、などが。
そして女の子のほうからは、苛立ち、不安、そして同じく敵意が読み取れた。
しかしなんでそんなことになっているのかがさっぱり分からなかった。
一触即発の空気だったので、俺はアオイちゃんにこの子は山の向こうの村娘だということを教えてあげる。ついでに知り合いか、とも聞いた。
知り合いかという質問には何とも濁した反応のアオイちゃんだったが、村娘だという説明には訝しげな顔をした。
そして、数秒考え込んだ後、その女の子と話をさせて欲しいと言い出したのだった。
喧嘩する前に絶対俺を呼ぶようにとしっかり言い付け、二人を俺の見えないところに送り出してから10分ほど。
何やら話し合いが付いたようで、その女の子は満足そうな表情で、アオイちゃんはまだ若干浮かない表情で戻ってきた。
話を聞くとどうやら、この女の子が町の方まで来て俺と会うということで話がまとまったようだった。
え、あの……俺に会う云々を決める話し合いなのに、俺が関わっていないんですが……?
というかそんなくだらないことを巡って揉めていたのか、と俺は嘆息した。
アオイちゃんの表情とか若干疑問の残る部分はあるが、とりあえずは万事解決ということである。
めでたし、めでたし。
◇
その女――いや、鬼はその日恰好の獲物を見つけた。
日も暮れた山の中を一人でぶらついている男がいたのだ。
その後ろ姿を見て思った、今日の食糧はあいつにしようと。
その前にまず、鬼は鬼としての特徴である角を隠し、可能な限り人間に見せかけるように姿を変えた。
姿だけ見れば、もうただの純朴な娘にしか思えない。
少なくとも普通の人間が見て、これが鬼だと気づくようなことはないだろう。
それこそがこの鬼の狙いで、こうやって油断させた後に人間を喰らうというのが常套手段なのだ。
しかし一体なぜ、人間よりはるかに身体能力に勝り、血鬼術という超常的な力を使う鬼がこのような慎重なマネをしているのか。
この鬼は臆病だった。
常に自分の命を惜しみ、自分より強い人間がいた場合は脱兎のごとく逃げるほどに。
だからこそ、最初から襲わず見極めるのだ。
これで騙されるようならただの人間か、鬼殺隊の者だとしても全く大した者ではない。
しかし、一目で気が付くようならば相応の実力者だ。
例え実際には実力が上回っていようとも、いちかばちかに賭けようとはとは思わない。
戦い始めてから、こいつは強すぎる……階級が相当上の奴だ、などということが起きては困るからである。
そうやって慎重に慎重に人を喰らっていった結果、この鬼は十二鬼月の下弦を賜るまでになった。
振るえる力も格段に増え、そんじょそこらの隊士などには負けないはずなのに、それでもこの鬼は決して迂闊な行動を取ろうとはしなかった。
かつて柱に殺されかけた経験がトラウマとして心の奥底に強く根付いていたからである。
ともかく、その鬼は今日の狙いを眼前の男に定め、よきタイミングを見計らって男の目の前に躍り出た。
そして男の顔を見た瞬間、身体が固まった。
(…………え? ちょ……ちょっと……何よ、これ……)
その男は、あまりにも美しすぎた。
鬼がその長い年月をかけて様々出会った中で、比較ができないほどに。
それぐらい圧倒的な美を体現していたのだ。
突然現れた自分に驚いているその表情すら、精巧な芸術品のような気品が感じられる。
この男は今まで自分が殺してきた人間と本当に同じ種類の生物なのか、と鬼は割かし真面目に考え始めていた。
(……こ、こんなカッコいい男、見たことない……ど、どうしよう……)
鬼は混乱していた。
もう騙して喰らうとか、今日の獲物がどうとかそんな考えは遥か彼方へ吹き飛んでいた。
この男を見てから、心の臓が早鐘のようにずっと鳴り続けている。
頬が熱く上気しているのがはっきりと分かり、足も微かに震えている。
どう考えてもまともな状態じゃない。
しかし、それを鬼は不快には感じなかった。
ただ、もう少しでも長く、この男を見ていたいと思った。
何も言葉を発せない鬼に対して、男――いや、久遠の方はといえば幾分冷静さを取り戻したのか、鬼に向かって言葉を投げかける。
「こんな時間に山の中でどうしたの? どこから来た子なの?」
それを聞いて、声もカッコいい……とうっとりしていた鬼だったが、ハッと気を取り直して返答する。
「……わ、私この山の向こうにある村の娘なの。この辺は私の庭みたいなもんだから、別に平気よ……」
「そっか、でもあんまり遅くならないうちに帰らないとダメだよ。この辺りは鬼が出るかもしれないし、危ないからね」
まさに自分がその鬼なのだが、そんなことは当然言えるはずもなかった。
しかし、鬼の心配などはこの女鬼にとってはありえないことである。
どれだけ臆病とは言えど下弦の鬼、そんじょそこらの木端鬼に負けるわけがないし、この周辺が自分の縄張りであることは他の鬼も知っているのか基本的には入ってこない。
だから久遠の心配は杞憂なのだが、それをどう伝えたものかとこの鬼は悩んでいた。
「……えーっと、まあその、鬼については心配ないわ。大丈夫よ」
「そうなの? 鬼は人を喰うし、人よりずっと強いって聞いたよ。しかも君みたいな可愛い子だと鬼以前に悪い大人に狙われそうで心配してたんだけど……まあ大丈夫っていうなら大丈夫なのかな?」
「そ、そ、そそそそ、そうよ! そんな鬼とか悪い奴が来てもぶっ飛ばしちゃうしっ! もう、全然! 全然、大丈夫!」
(か、可愛いって言われた……! 私!? 私のことを言ったんだよね!?)
久遠の言葉に鬼は大層浮かれていた。
普通の人間に可愛いなどと言われても嬉しいなんて思う訳がないのに、それが目の前の男だとこんなにも心が躍る。
不思議、だとは思わなかった。
もう久遠という男がその他の人間とは完全に別種の存在であると認定していたからである。
そしてその後、久遠と鬼は軽い世間話に興じた。
久遠と話している時間は、鬼にとって夢のようであった。
こんな温かい時間を、鬼になってから感じたことはない。
話も面白く、時折見せる笑顔はとても綺麗で、何より浮かれに浮かれていた鬼が、石に躓くという普段ならあり得ないことをしてしまった時、サッと自分を抱き留めてくれたあの温もり。
出会ってからまだ十分ほどの短い時間だというのに、鬼の頭の中は久遠で一杯だった。
そして、考える。
この男を連れ去って自分だけのものにしてしまいたい、と。
だが少し考えてそれが無理だということに気付いた。
それをするためには、当然自分が鬼だということを明かさなければいけない。
自分のことをただの村娘だと思っているであろう彼が、それを知った時にどのような反応を見せるのか……考えるだけで怖かった。
要するに、鬼は久遠に嫌われたくなかったのである。
久遠を鬼が連れ去り、自分の所にずっと置いておくことは容易だ。
それだけの力をこの鬼は有している。
しかし、それで久遠に嫌われてしまっては鬼にとって何の意味もなかった。
可愛いと言われて嬉しかった、抱きしめられた時は心が温かくなった。
だから鬼は、久遠に自分を好きになってもらいたいのである。
連れ去るのはなし、代わりに定期的に会いたい、と鬼は思った。
「……あ、あのさ。あんたって、どれぐらいここに来るの?」
「ん? どうして?」
「い、いや……まあ次はいつ会えるのかなって……」
鬼が一世一代の勇気を振り絞ってそう言い、久遠が何やら思案をしていたところで――、鬼は何かを感じ取った。
何者かの気配。
それも、少なからず殺気を感じる。
もし木端鬼であれば簡単に殺すが……。
やがて二人の目の前に凄まじい駆け足で現れたのは、額に汗を浮かべ息を切らしているアオイだった。
鬼は自分を見るアオイの表情を見た瞬間、自分が鬼であることに気づいている、ということを理解した。
まずい……と思った。
命の危機は確かにある。しかしそれ以上に、目の前の女に自分が鬼であるとばらされたら……。鬼は身も凍る思いだった。
(クソ……邪魔しやがってこのクソ鬼殺隊士が……! もしこの人にばらしやがったらただじゃおかないからな!)
そして一方のアオイは、こちらはこちらでとてつもなく憔悴していた。
まさかこんなところで鬼、しかも明らかに雑魚鬼とは格の違う鬼に出会うなんて思っていなかったからである。
アオイは元々鬼殺隊士であったが、鬼と戦うのがどうしても怖くて、鬼狩りを続けることができなかった。だから実力もさして高いとはいえない。
しかし、鬼の強さというものを何となく感じ取れるという特徴があった。
それによれば、目の前の鬼は巧妙に擬態しているものの、アオイが今まで出会ってきた鬼の中では群を抜いた力を持っている鬼だったのだ。
アオイは自分の顔が青ざめていくのが分かった。
今の自分に勝てるわけがない。当然隊士時代より力も落ちていれば、鬼の頸を切ることができる日輪刀も所持していないのである。
しかし、ここで脱兎のごとく逃げるという選択肢はなかった。
ここには久遠が一緒にいるのである。
久遠はといえば暢気なもので、「この子、山の向こうから来た村の娘らしいんだよね」なんて言っているが、そんなもの鬼が人をだますための手口に決まっている。
鬼の残忍さは、アオイも当然良く知るところであるからだ。
――自分が無理にここまで連れてきてしまった、戦う力のない久遠を。
だから、自分が守らなければならないのだ。
大切な人を置き去りにしておめおめと逃げることなどできるはずがない。
震えそうな心に鞭を打ち、なんとか打開策はないかとじっと鬼を観察する。
すると気づいた。
緊迫した場面だというのに、その女鬼は頬を赤らめていて、チラチラと久遠に視線を送っているのである。
(ま、まさか……いや、流石にまさかでしょう……?)
しかし一層観察すると、鬼の久遠を見つめる目を見てまた気が付いてしまった。
完全にしのぶが久遠を見ているときの目と一緒だということに。
アオイは思った。
この可能性にかけるしかないと。
いや、なんとなくもうある程度の確信はあったのだが、未だに心のどこかにはまさか鬼が……という気持ちもあったのだ。
「……そこの村娘さん、ちょっと二人でお話をしませんか? そこにいる男性に関わる大切なお話です」
「…………ふーん、じゃああっちの奥の方で話そうじゃない」
「え、二人で話すの? そんな雰囲気で大丈夫?」
心配そうに見つめる久遠に、アオイはニッコリと微笑む。
「大丈夫です、ほんのちょっと話すだけですから久遠さんはここで待っててくださいね」
そうして二人で久遠から離れたところまで歩いて行く。
ちなみにここでようやく久遠の名前を知ったその鬼は、久遠っていうんだ……と頭の中で何度も何度もその名前を反芻していた。
久遠からは声が聞こえないであろうところまできた二人は、向かい合う。
アオイは糸口を見つけたとはいえ未だ決死の覚悟であるが、この鬼は久遠の視界に入っているところでアオイを殺すつもりは毛頭ない。
若干のすれ違いが起きているがそれはさておき、決意したような顔のアオイが口火をきった。
「単刀直入に言います。あなた、久遠さんに好意を寄せていますね?」
「…………はあああああああっ!? ちょ、え、なんでっ! いや、なんでじゃなくて……ああもうっ!」
「……やはりそうでしたか。ではまず本格的な話に入る前に聞きたいんですが、あなたは久遠さんを害するつもりはないんですか?」
「そ、そんなつもりないわよっ! あ、あんなカッコよくて、優しい人を傷つけるなんて、そんな……」
その言葉を聞いて、アオイは安心するというより若干呆れてしまった。
(鬼まで惚れさせるって……あの人のすけこましっぷりは本当にとどまるところを知らないというか……)
とりあえず最初にして最大の確認は取れたので、アオイは話を進める。
「久遠さんが好きということは、久遠さんを自分だけのものにしてしまおうとか考えたりしています?」
「……それは、考えたけど。でもそれしたらあたしが鬼だって分かっちゃうし、そしたら絶対嫌われちゃうし……」
「(いや、ベタ惚れじゃないですか……)なるほど、それではあなたの望みは一体なんですか?」
「それは……できれば毎日、無理なら時々でもこの山にきてもらって会いたい……」
もじもじと恥ずかしそうに体を揺らしてそう言う女鬼。
その言葉を受けたアオイは、少し逡巡したが意を決してこう言った。
「それは不可能です。あなたは鬼で、鬼は基本的に人を喰らい、弄ぶ存在。そのような存在がいる所に久遠さんを行かせることはできません」
そして今度はその言葉に、鬼が怒りの表情を見せた。
「……あんたさあ、さっきから偉そうに上から目線で話してるけど、あんたは一体何者なわけ? あの人の一体なんなの?」
「私はあの人と一つ屋根の下で共に暮らしています。そして同時に私にとってとても大切な存在です」
「…………な、な……」
「一つ屋根の下」「大切な存在」、そのワードが凄まじい力で鬼に突き刺さった。
あわや致命傷というところだったが、鬼はなんとか持ち直して反撃をする。
「ふ、ふん! 今、恋人だって言わなかったところを見るに、どうせあんたの一方的な想いなんでしょ! だったらまだあたしの付け入るすきはあるわね!」
「……久遠さんはみんなを大切にする方なので」
アオイはそう答えながら、誰が付け入る隙はあっても鬼は無理だろ……と思ったが口には出さない。
彼女は賢い子なのだ。
そしてアオイはようやく本題に入る――その前に自身が今持っている切り札を切った。
「実はですね、私の住む屋敷の主なんですが……柱なんですよ。この意味、お分かりですか?」
瞬間、鬼は反射的にアオイを殺すために動こうとしたが、寸前で思いとどまった。
久遠が自分を見ている。
自分が鬼だとばれる訳にはいかない……。
「そう、あなたはここで私を殺すことはできない。だけどこのまま私を帰してしまっては、後日柱がこの山に到達してきてしまう」
「…………何が言いたいのよ、あんたは」
「しかし、私としてもここでただあなたの恨みを買って、それこそ柱が来る前に私だけ報復にあってしまうのは嫌です。
だから、交渉をしましょう。私がこれから言う条件を飲んでいただければ、久遠さんとあなたが会うことを認めます」
「相変わらずその上から目線が腹立つけど、なんなのよその条件ってのは」
ここだ、とアオイは唇をしめらせ、一呼吸おいてから語りだす。
「まず、久遠さんが山に来るのではなく、あなたがこちらの町まで来ることです。あなたの方が会いたいと思っているんだからそうすべきです。人間に擬態できるなら別にむずかしくはないでしょう?」
「……それは、まあ」
本当は町に行くのは避けたかった。
単純に人が多い所にいけば、それだけ自分に気づく人間がいる可能性も増えるからである。
しかし目の前の女の話は一理ある。
鬼は続きを促した。
「そして二つ目はこれから人を食べないことです。人を食べないことでどうしても死んでしまうというのであれば、死体を食べてください。間違っても生きている人を殺して食べないように」
「ちょっ、あんたねえ……!」
「もし知られたら久遠さんに嫌われますよ? 万が一鬼だということがばれなかったとしても、人を食べているところを見られでもしたら? 血の匂いを漂わせていたりしたら? 久遠さんはあなたと普通に接してはくれないでしょうね」
その言葉で鬼は黙るしかない。
もはや今この状況はアオイが支配しているといって間違いなかった。
「…………でも、人を食べないと力が……」
「鬼としての力と久遠さんどちらが大切か天秤にかけたらいかがでしょう。
もし、これから絶対に人を喰らわなければ、私はあなたに協力しましょう。なんなら柱に見つかった時も、それをもとに庇ってあげないこともありません」
「…………」
鬼は悩んだ。
確かに鬼としての力と久遠どちらかといえば圧倒的に久遠に傾く。
心の奥底に植え付けられていたような自分の主への畏怖や敬愛の念も、彼に出会ってからは嘘のように消え去っていた。
つまるところ、今自分を縛っているのは自身が鬼であるということ一点のみでそれに関して協力してくれるという目の前の女の言葉はとても魅力的なように思えた。
が、しかし疑問が残る。
「なんであんたはそこまでするわけ? あんたも鬼は憎いでしょ?」
「それはもう……とても憎いですよ。それでもあなたが直接的な私の仇というわけではないし、もしこれから人を食べないのであればあなたは人にとっての脅威ではなくなるわけで、それなら別にこの程度はいいかなと思っただけです」
「そ、そう……」
実際のアオイの考えはもっと打算的だった。
ここで完全に突っぱねることは可能だがそうやって恨みを買った場合、後日と言わずむしろ帰り道にでもこの鬼に殺されるという可能性を考えていたのだ。
例え久遠と並んで歩いていても、久遠が目を離した一瞬の間に、もしくは久遠と少しでも距離が離れた瞬間に殺される可能性がある。
自分と目の前の鬼の実力差なら容易にありえることだとアオイは確信していた。
だからこそ、ある程度はこの鬼の機嫌を取る必要があったのである。
しかしあくまで今この場においてはアオイが優位である。
そのため、条件をつけることで久遠に会うことを許す、という運びとなったのだ。
(まあ、本当は少しだけ協力しようって気持ちが、ないこともないですけど……)
久遠を見つめるあの女鬼の目。
それは本当にただ恋をしている少女の目だった。
鬼が人に恋するなんて聞いたことはない。
だが相手が久遠ならありえそうだとも思ってしまう。
そして、久遠のために人を食べることをやめ、ちゃんと命というものの尊さを思い出すことができたのならば……もしかしたらこの鬼は、やり直せるかもしれない。
甘い考えだ。これまでに奪われた命が戻ることはない。
アオイにしたってさっき言ったように、自分の身内がこの鬼に殺されていたのなら、許すことはできなかっただろう。
でも、もし本当に人を襲わない鬼という存在ができたなら。
それはこの長い鬼殺の歴史の中ですごいことなんじゃないかなとも思うのだ。
アオイは話をまとめるために、口を開く。
「それで、どうですか? この条件をのんでくれますか?」
「…………気に入らないけど、ほんっとーーーーに気に入らないけど、それであの人に会えるんならその条件をのむわよ。人を食べないのも、まあ……頑張ってみる」
「頑張るんじゃなくて絶対です。一人でも食べたら交渉決裂ですよ」
「わ、分かってるわよ!」
そうして話はまとまった。
アオイはここまでの緊張からか顔には極度の疲労を滲ませ、鬼はといえば条件は気に入らないが、これからも久遠に会えるということでウキウキ状態である。
二人そろって久遠の方へ歩いて行き、アオイは今しがた決まったことを久遠へと伝える。
勝手に決めてしまったのは申し訳ないがこちらも命がかかっていたので許して欲しい、とアオイは思った。
「えっと、それじゃあ久遠……またね。機会を伺って会いに行くから」
「うん、楽しみに待ってるよ。もう暗いから帰り道は気を付けてね」
「う、うん……心配してくれてありがと。……あと、そこのあんたも、まあこれからよろしくってことで」
「あんたじゃありません、アオイです」
「そ、じゃあアオイ。また」
そう言って、鬼は山の向こうへと歩き出す。
しかし、何歩か歩いたところで後ろから呼び止められた。
久遠の声だった。
鬼は爆速で久遠のほうへ振り向く。
「君の名前、聞いてなかったよね。教えてくれないかな」
「む、零余子……」
「そっか、じゃあ零余子ちゃん。またね」
「…………うんっ!」
鬼――零余子はもう天にも昇る心地だった。
幸せだ。
今私は間違いなくこれまでの生で一番幸せだ、と思った。
久遠から言われたまたね、という言葉を頭の中で何度も繰り返す。
「また……会えるんだ」
にやける顔を隠すことなく帰路に着く。
次にあったらどんなことを話そうか、なんてことを考えながら。
恋に浮かれる零余子は一つ、失念していた。
自分の主・鬼舞辻無惨は、眷属である鬼の視界をそのまま見ることができるということを。
ちなみに下弦が鬼の特徴を隠して擬態できるというのはまあ独自設定です。
堕姫ちゃんが姿を変えてたのはなんとなく覚えてるから上弦はできると思うんですけどね……。
まあそうしないと話が進められないんで許してください!
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ヒモ男と鬼のボス
それはほんの気まぐれだった。
全ての鬼の頂点に立つ原初の鬼――鬼舞辻無惨は、眷属である鬼の視界を見ることができる。
しかし数多いる雑魚鬼の日常を見ても仕方ないし、例え十二鬼月だとしても自分が何か命令を授けたような場合以外は見ることもない。
しかし、このところ下弦の鬼が立て続けに鬼狩りに殺されているということもあり、無惨は酷く不機嫌だった。
上弦ほどではないとはいえ、他の木端鬼よりはるかに自分の血を与えているというのに何たる体たらくか、と。
こんなに役に立たないのならば、もはや下弦は解体してしまおうという考えが、無惨の頭の中ではほとんど固まっていた。
だからこそ、その時下弦の肆の視界を覗いたのは気まぐれだった。
情けない下弦の様子を監視しようという気持ちですらなく、ただなんとなく覗いてみた、それだけ。
――それが、鬼舞辻無惨という鬼にとって大きな転機になることを知る由もなく。
下弦の肆の視界に映ったもの。
それは人間の男だった。
鬼の視界に人間がいる。それはつまり、鬼が人間を捕食するシーンということだ。
人を喰らうということは鬼にとって腹を満たすことであり、そして力を得るための糧でもある。
大事なことではあるが、鬼にとっては当たり前の日常である。
そんなもの見るまでもない……と、普通なら無惨はすぐに視界を覗くことを止めていただろう。
だが、それはできなかった。
視界に映っているその男から、目が離せなかったからである。
美しい顔だった。
永い年月を生きてきた無惨が今まで見てきたどんな美男美女や至高の美術品も、まるで敵わないほどに。
いや、それ以前に常から無惨は何よりも自分が頂点であると考えている。
当然美しさという点においても、自分がこの世で一番優れていると思っていた。それは普段と違い女性の身体に変化させている今の自分であっても。
だが、違ったのだ。
目の前のこの男に、美という点では勝てないと無惨ですら思ってしまった。
そして無惨は、それを特に不愉快には感じなかった。
それどころか、この男を少しでも長く見ていたいと思っていたのだ。
完全にいつもの精神状態ではなかったが、無惨はそれに気づきもしない。
男の表情の僅かな移り変わりや、柔らかな声、そして時折見せる眩しい笑顔を、一つも見逃さんとばかりに見つめていた。
心臓がおかしいくらいに高鳴っているのが分かる。
かつて命の危機に瀕した時ですらこんなことはなかった。
熱に浮かされたような目でボーっと視界を覗いていた無惨だったが、何やら下弦の肆が視線をそらし、男が視界から外れたときにハッとする。
そのまま慌てて視界を覗くことをやめた。
未だにドクドクと激しく脈打つ心臓、顔に手を当ててみればはっきりと分かるほどに熱を持っていた。
なんだこれは。
こんな状態を自分は知らない。
だが、間違いなく今の自分はあの男のせいでおかしくなってしまっている。無惨はそう思った。
まずはこの状態を落ちつけようと一息入れたものの、頭の中にはずっとあの男の顔が浮かび、その度に気持ちが乱れに乱れる。
長い時間をかけてなんとか多少落ち着いた頃、もう一度視界を覗くと丁度下弦の肆とその男、いつの間にか増えていた鬼殺隊士の女が別れるところであった。
そこに鬼殺隊士がいるのに何をやっているだとか、鬼なのに人間を喰らわずに談笑して普通に別れるなど言語道断であるとか、そんなことは今の無惨の頭の中にはなかった。
別れ際の会話により、その男の名前が『久遠』だと知れた。
もうそのことで頭が一杯だったからだ。
「久遠……」
そう声にして小さく呟いてみる。
無惨が認めるほどの美しさを持つあの男にふさわしい、綺麗な名だと思った。
そしてそれからも下弦の肆は何度も久遠に会っており、その度に必ず無惨は視界を覗いていた。
というより、いつまた久遠と遭遇するか分からないので、あれからというものの無惨は一日の内5分おきくらいに下弦の肆の視界を覗いては何もなければすぐやめる、ということを繰り返していたのだが……。
そして、何度も覗くことで久遠という男の情報も色々と知ることができた。
好きな食べ物や本、町に出たらよく行く店などの小さな情報から、蝶屋敷という所に住んでいること、そしてそこの主である胡蝶しのぶという女に養ってもらっているということなど。
久遠が他の女の話をしている時、無惨は何故かとても不愉快であった。
彼を養っているらしいしのぶという女には殺意すらわいた。
普段感じている人間への嫌悪というそれとは何か違う。しかし無惨はその感情を未だ測りかねていた。
まあともあれ、そうやって視界越しの逢瀬を重ねていくうちに無惨の気持ちはどんどん高まっていった。
彼の何気ない仕草や表情が、一日中頭から離れない。
もう日がな一日久遠のことしか考えられなかった。
それこそ、下弦が鬼殺の隊士と繋がっているのであればそこから鬼殺隊の情報を少しでも……ということも平時ならすぐに実行させただろうが、今の無惨には一片たりとも思いつかなかった。
それほど浮かれていたのである。
しかし、ここ最近の無惨は不満だった。
何故か視界を覗く力の精度が悪くなっているのである。
他の鬼は問題なく覗ける、しかし下弦の肆の視界だけが靄のかかったように見えづらくなっているのだ。それも刻一刻と悪化している。
まずい、と無惨は思った。
これはまずい。この際なぜ見られなくなっているのかというのはどうでもよく、見れなくなってしまうことが大問題だった。
このままでは彼に(視界越しで)会うことができなくなってしまう。
下弦の肆が久遠に会わない日があるというだけでその日はイラついて何も手につかないほどだというのに。
しかしそこで無惨ははたと気づく。
これは逆にいい機会ではないかと。
今まで見てきた久遠の全ては、視界の主である下弦の肆に向けられていたものであって無惨にではないのだ。
久遠の優しい言葉を聞くたび思っていた、これが自分へのものであったらと。
久遠の微笑みを見る度思っていた、その笑顔を自分に向けて欲しいと。
――ならば、自ら会いに行けばいいのだ。
無惨は天啓を得たようだった。
そうと決まれば早速行動である。
町に出るために、無惨はいそいそと準備を始めた。
下弦の肆はもう用済みであるから折を見て処分するか、などということを考えながら。
◇
久遠は夜の町を一人、歩いていた。
賭場でお金を見事にすっ飛ばし、失意の中帰路についているところである。
このことを知られたらまたアオイに怒られるだろうというその光景を想像するだけで、久遠はまたがっくりと肩を落とした。
そんな時、不意に建物の間から出てきた誰かとぶつかってしまう。
「きゃっ」という女性らしい声。
よろめいて倒れかけたその身体を久遠はとっさに支えた。
「大丈夫ですか? すみません、あまり周りを見ていなかったもので」
「いえ……周りを見てなかったのは私も一緒ですから。急に飛び出して申し訳ありません」
美しい女だった。
久遠はそれこそ美少女に囲まれている生活を日々送っているわけだが、目の前の女はまた違ったタイプの女性だと感じた。
キリッとした目に、綺麗に通った鼻筋が表情に凛とした雰囲気を与えており、顔の感じからしてなんとなく20代半ばくらいかな、と久遠はあたりを付ける。
「どこか落ち込んでいる様子でしたが、どうされたのですか?」
「ああ、いや……賭場で有り金をすってしまったんですよ。それで、同居人にまた厳しく怒られるだろうなーと」
「あら、そんなに落ち込まれるほど恐いのですか、その同居人の方は。遊びでお金を使ってしまうなんて、男性にはよくあることでしょうに」
「まあ、養ってもらっている立場なんでそれに文句は言えないです。それに、その子も俺のためを思ってくれてる優しい子なので」
「……そうですか」
久遠の言葉を聞いた女は顔を伏せ、久遠に見えないように唇を噛んで憎しみ一杯という表情を作った。
しかし、それも一瞬のこと。
すぐに顔を上げて笑顔で久遠へ問いかける。
「せっかくこうやって出会えたのも何かの縁。お名前を教えて頂けません?」
「ああ、俺は天川久遠と言います」
「久遠さんというのですね、私は浅霧灯子と申します。家が商家でして、そこの一人娘なんです」
「浅霧というと、あの外国貿易などをしているという?」
「ええ、そうです」
その姓はニートでダメ人間な久遠でも聞いたことがあった。
この町の奥の方にある巨大な豪邸。確かそこが浅霧家の邸宅だったはずだ。
ということは……目の前の女は相当な金持ち……?
久遠の目に闘志が宿る。
「じゃあ浅霧さんはお嬢様なんですね」
「お嬢様などと言われる年ではありませんが、浅霧についてはその通りです。……それと、私のことは灯子とお呼びください。敬語も使わなくて結構です」
「え、いやそうは言っても……」
「お願いします、あなたに畏まられてしまうと私の居心地が悪いのです」
久遠は先ほどから少し疑問に感じる点があった。
目の前の浅霧灯子なる女性の反応が、今までに会った女性のそのどれともちょっと違うのである。
こうやって女性の方から距離を詰めてくるということも今まで何度もあったことだ。それ自体は良いし、灯子から感じられる好意のようなものも本物であると思われた。
しかし――、初対面にしては妙に落ち着いている。
今まで久遠の顔を見た女性は例外なく露骨な反応を見せてきたし、久遠もそれはもうルーチンのようなものだと思っていた。
灯子の反応は、なんというかそう何度か会ったことがある女性のそれなのだ。
だが、間違いなく久遠の記憶に浅霧灯子という名の女性はいないし、本人も初対面であるという感じである。
とりあえず久遠は思考をそこらで一旦ストップさせた。
「うん、じゃあ灯子さんで。灯子さんはもう結婚してるの? なんとなく俺より年上に見えるし、商家のお嬢様ならもうお相手もいるのかなって思って」
「いえ、それがまだなのです。25にもなるというのに浮いた話もなく、すっかり行き遅れてしまいまして……久遠さんがもらってくれますか? なんて」
「あはは、灯子さんなら喜んで……と言いたいところなんですけど、もう少し俺は独り身でいたいかな。それに、こんな俺を養ってくれてる優しい女の子もいるからね」
「…………そうですか」
そして再度灯子はうつむき、久遠に見えないような凄絶な表情を作る。
まさにこの世の憎しみが凝縮されているといってもいい、禍々しい顔だった。
ここまでくれば言うまでもないことかもしれないが、この浅霧灯子という女は何を隠そう無惨である。
あの後結局すぐに出発はせず、服装や化粧、その他諸々の準備をしてから久遠との邂逅に臨んだのだ。その準備には、久遠と会う際のシミュレーションも含まれる。
つまり、久遠にぶつかったのもタイミングを見計らった故意であるし、その後よろめいたのは久遠に抱き留めてもらいたかったからだし、敬語を禁じたのも名前で呼ばせたのも自分が視界で覗いた時のままの久遠で接して欲しかったからだった。
要するにここまではほとんど全て無惨の狙い通りに事が進んでいたといたのである。
久遠が働かずに養われているという話も聞いていたので、金持ちの女の方がいいだろうと、わざわざ実在する浅霧家を乗っ取ってその一人娘という設定まで作り上げたのだから。
まあ唯一、たびたび他の女の話が久遠から出るということ以外は、であるが。
それを久遠から聞くたびに憎しみを隠しきれない無惨だったが、久遠が好色な男であることも知っているため、これから自分の所に引き込めばいいのだ、と考えてなんとか心を落ち着けていた。
とにもかくにも、無惨にとって久遠との実際の対面は素晴らしいものだった。
眷属の視界越しに何度も見ていたというのに、実際にその顔を間近で見ると心臓がまた激しく脈を打ち、身体中に熱い血が巡るのを感じる。これが初対面で生の対面であれば、自分はどうなっていたのかと無惨は少し恐ろしく思った。
「あの……久遠さんは帰りを急がれておりますか?」
無惨の計画の内、上手くいけばこの後自分の家(本当は赤の他人の家だが)に招待して夕食を共にしようと考えていた。
だが、これは恐らくダメだろうと予測もしていた。
そしてその予想通り――
「あーうん、夕飯を作ってくれてるから帰らなきゃ。あまり遅くなると怒られるし。すねるとちょっとご機嫌を取るのが大変だから」
「そうですか、残念です……まだもう少し久遠さんとお話したかったのですが」
「また別の日にでもできるよ、だからそんな悲しそうな顔しないで」
そう言って無惨の頭に手を置いて優しく撫でる久遠。
こんなこと他の何者がやったとしてもその次の瞬間肉塊に変えているが、久遠だと不快に思わないどころか心が浮つき、喜びが抑えきれないほどこみ上げてくる。
しかし、蝶屋敷で久遠を養っているという女はなんと面倒くさい奴なのだろう、と無惨は思った。
夕飯なんてたまには外で食べてくるものだろうし、そんな程度のことを許容できず、機嫌を損ねるなどどうしようもない女である。
それに、先のお金を使ってきたら怒られるというのも気に食わない。
なんと器の狭い女だろう。自分ならどれほど使おうと怒らないどころかいくらでもお金を渡すというのに。
そんなとりとめのないことを考えながら、無惨はとりあえずその日は大人しく久遠と別れた。
あの男は自分の物にしたい。だが、焦りすぎてはいけない。
機が熟すのを待つのだ。
そして、また別の日に久遠と夜に会っては話をし、そこでまた次に会う約束を取り付けては何度もそれを繰り返す。何度目かの夜、ついに浅霧灯子としての自分の邸宅へと招待することに成功したのだった。
時間は夜ではなく昼だったが、屋内であるなら問題はない。
無惨は心を躍らせてその日を待つ。
そして、ついに久遠がやって来た。
召使いが扉を開け、その先に久遠を見つけると、無惨はすぐさま彼の側に駆け寄る。
「ここまで来て頂いてありがとうございます。上着、お持ちしますね」
「いや、そんなの悪いよ灯子さん」
「いいえ、私が勝手にしたいのですからさせてくださいませ」
そう言って久遠の羽織を預かり、居間へと案内する。
居間はとても広かったが、昼だというのに窓を厚いカーテンで閉め切り、灯りで部屋を明るくしているというなんとも異様な空間であった。
しかし、既に久遠には自分が太陽の光に弱い体質である旨を伝えているため問題はない。
まさか性質が似ているからといって鬼だとは思いもしないだろう。
それから、無惨は軽い茶会を開いた。
「これ、どうですか? 今日の為に作ってみたんですけど」
「あ、これは……クッキーか! うわー嬉しいな、こういう洋菓子は市井では結構高いから。っていうか作ったってこれ、灯子さんの手作り?」
「は、はい……料理自体、最近始めたもので不作法があるかもしれませんが、久遠さんのために頑張ってみました」
「ありがたくもらうね……うん、おいしい! 始めたばっかりなんて信じられないくらいだよ」
「ほ、本当ですか? 嬉しいです……」
無惨は喜色が顔に出るのを我慢できなかった。
赤く染まった頬を隠すように両手で押さえる。
手料理はよろこんでもらえた……、これからも練習はするとして次は何をしよう。無惨は考える。
女性らしいといえば、裁縫や家事全般だろうか。
お嬢様という設定だと何を発揮できるかは分からないが、いつ振るうタイミングが来るかもわからない。全部練習しておこう。もっと色んなことで尽くして、久遠の喜ぶ顔が見たい……。
『尽くす』。
そう、無惨はとにかく久遠に尽くすのが喜びになっていた。
これまでは全ての鬼を束ねる頂点に君臨し、尽くされるのが当然の立場だったというのに、自分が下となって奉仕しようとするだなんてよもや夢にも思わなかった。
しかし、今はそれでいいのだ。無惨がそうしたいのだから。
とにかく、久遠に喜んでもらえるのならばそれでよかった。
やがて宴もたけなわとなり、無惨は召使いにあるものを持ってこさせる。
そしてそれを久遠の目の前に置いた。
「え、灯子さんこれって……」
「これ、久遠さんに差し上げます。お好きに使ってくださいな」
「いやいや急にもらえないよこんなお金! どうしたの灯子さん?」
そう、無惨が久遠の目の前に置いたのはお金。
しかも250円にもなろうという大金である。
「私が久遠さんに勝手にあげたいんです。久遠さんはどうやら今いる所ではあまり自由にお金を使えていないご様子ですし、私がそれをお助けできたらと思いまして」
「い、いや……それでもなあ……」
「何も気にせずにお使いになってください。私、別にこれと引き換えに何かを要求しようだなんて思ってませんよ?
そうですね……こうやってまた時々一緒にお茶会をしてくれればそれで十分です」
「う、うーん……」
久遠は悩むようなそぶりを見せているが、さっきからずっと金をチラチラと見ている。
後ひと押しだ、と無惨は確信した。
「久遠さん、私このお金はあなたにお渡しするつもりでしたから、もらっていただけないと困ってしまいます。それに、この程度はうちの家にとって大したお金ではありませんし」
「……そ、そう? じゃあ、ありがたくいただこうかな」
嬉しそうにお金を手に取る久遠を見て、無惨は「久遠に喜んでもらえた……」と心が温かくなる。
完全に貢ぎ女の境地に達していた。
そして帰り際、ダメ押しとばかりに無惨は久遠の耳元でささやく。
「またお金が欲しくなったらいつでもうちに来てくださいね。久遠さんが望むだけ、差し上げますので。私はどんな使い方をしても怒りませんから。高い宝石を買おうと、賭場で全て使おうと。ですから――、安心して私を頼ってください」
無惨は思う。
これが、久遠をあの蝶屋敷とやらから引き離す第一歩だと。
まずはこうやって経済的な余裕を見せ、久遠の意識を徐々にこちらへ惹きつけていく。
それと並行して久遠に甲斐甲斐しく尽くして、自分の良さもしっかり刷り込み、気が付いた時にはもうここから離れられないという寸法だ。
自分は久遠に尽くせるし、久遠は堕落した生活が送れてうれしいだろうし、まさに一挙両得といえた。
無惨はこの完璧な計画の成功に向けて、一層力を入れていこうと決意したのだった。
貢ぎ女無惨様。
この後も、高い茶菓子やら洋服やらを貢ぎまくってます。
ホントはTSメス堕ち要素をちゃんと入れたくて、一回男状態になってから「でもあの女の状態で感じた気持ちが忘れられない……」みたいな展開もやろうと思ったんですけど尺の都合上カットしました。
感想、評価、共にめちゃくちゃ感謝してます。
感想は何度も読み返すほど嬉しいです。続けるうえでとても励みになっております。
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ヒモ男と柱合裁判
じゃないとお館様と主人公を会わせる意味なくなるんで……
俺は思っていた。
流石にそろそろ“お館様”とやらに会いに行かなければならないのではないかと。
それをしのぶちゃんから聞いたのは、恐らくもう二か月は前のことだった。
しのぶちゃんの所属する鬼殺隊という組織のボスが何故か俺に会いたがってるらしく、俺の好きな時でいいから会いにきてくれないか。そういう感じの話だったと思う。
なんでわざわざ得体の知らない偉い人に会いに行かなきゃならないんだとか思った俺は、その好きな時でいいという言葉にかこつけてずるずると時間を引き延ばしていた。
しかし、それももう限界だろう。
そのお館様がこちらに派遣してきた鎹鴉とかいう人語を喋るカラスが、最近すごい圧でこちらをずっと見ているのだ。
言いつけられているのか急かすようなことは言わないが、「今日もまた町へ出かけられるので?」とか「久遠様はとても時間があるようで羨ましいですね」とかいう嫌味ちっくな言葉を最近では投げつけられる。
いやまあ二か月も放置してた俺が悪いといえばそうなんだけど……。
で、もし行くとしたらしのぶちゃんが任務で家を空けているこの時しかないかなと思う。
しのぶちゃんが帰ってきたらまたずーっと俺と一緒にいたがるのは確定だし、そうなるとそれで手一杯だからだ。
そして、しのぶちゃんが任務から帰ってくるだろうと言っていたその前日くらいにようやく、俺は鎹鴉にお館様のところに連れて行ってくれと頼んだ。
カラスがそのまま案内してくれるのかと思いきや、そいつは凄い速さで飛び去って行き、やがて黒子みたいな恰好をした人たちが二人、俺の目の前に現れた。
聞くと、どうやら隠という鬼殺隊士たちのサポートを行う人たちらしい。
その人に目隠しをされ、えっちらおっちらと運ばれる俺。
お館様の居住地は大分厳重な機密であるようだった。
そうやって1、2時間ほど運ばれて、目隠しを外された俺の目の前にあったのは結構大き目の邸宅だった。
まあ俺から見て大分お金持ちであるしのぶちゃんのボスなわけだから、そりゃあもうさぞ金持ちなのだろう。
お館様というのは一体どんな人なのか、と俺は考える。
そもそも男なのか、女なのかも分からん。多分、男なんじゃないかなとは思っているが、しのぶちゃんにそこら辺は聞かなかったからなあ。
まあ、もうすぐ会うんだし別にいいか。
つーか早く俺を中に入れてくれ。
なんかさっきから俺の前で隠の人たちがヒソヒソと何やら話し合ってて一向にここから先に進めないんですが。
「あの、中に入れてはもらないんですかね? ここに着いてからそこそこ経ってますけど」
「す、すみません……実は現在重大な会議というかそういうものを行っていて、私たちの勝手で入れるわけにもいかないのです……」
「重大な会議、ですか」
「お館様がおっしゃっていた大事な客人をお待たせするのは本当に申し訳ないのですが、ただいま確認をとっていますので、もう少々お待ちください」
隠の人たちが非常に申し訳なさそうな顔をしていたため、俺もこれ以上言及するのはやめた。
が、しかし……なんで客と会う日に会議開いてんだよ、と俺は思う。
最初から会議があるなら今日は無理だと断ってくれればいいだけの話なのに、ここまで来させておいて待たせるって、ちょっとというか大分酷くないですかね……。
とはいえそれから5分ほどで、邸宅からまた別の隠の人がやって来て、入っていいという旨を伝えられた。
え、本当に?
重大な会議、5分で終わったの?
まさか会議中に俺と会おうとしてないよね……?
そんな疑念を抱きながらも隠の人に邸宅内を案内され、辿り着いた広い庭の先。そこには――
「あれ、しのぶ?」
「く、久遠っ……!?」
何故か任務にいると思っていたしのぶちゃん、そしてその横には数人の謎の威圧感がある人たちが勢ぞろい。その正面の縁側部分には顔が痣?のようなもので浸食されている青年が座っていて、その青年としのぶちゃんたちの丁度真ん中あたりに、拘束された傷だらけの少年が倒れていた。
なあに、これえ……?
◇
柱合裁判は紛糾していた。
鬼化した妹・禰豆子を匿っていた隊士、竈門炭治郎とその妹自身の処分を如何にするかという場であったが、炭治郎は妹は人を喰わないと主張。
ほとんどの柱はまともに取り合わなかったが、そこに風柱・不死川実弥が禰豆子の入った箱を持ってやって来たことで一層場に緊迫感が増した。
実弥が刀で禰豆子の入った箱を刺し、それに激怒した炭治郎が拘束されたまま実弥に向かって頭突きをするという展開がありつつ、当主・産屋敷耀哉が場に現れたことで一応の鎮静は見せたものの依然としてその場には様々な感情が錯綜している状態であった。
そんな時、そこに一人の隠が現れた。
そのまま何やら輝哉の方へと近寄る。
「……おい、てめェこの場がなんだかわかってんのか。隠が入ってきていい状況じゃねえんだぞ」
額に青筋を浮かべて怒りを露わにする実弥を耀哉は手で制し、隠と話し始める。
「あの……いいんですか? この状況で呼んでしまって」
「うん、彼がどんな対応をするのかも気になるしね。試すようなことをして申し訳ないとは思うけれど」
「分かりました、それでは」
そして、隠は去っていった。
ごく小さな声で話していたため、側にいる耀哉の子どもたち以外には聞こえていない。
柱達の大部分は一体何を話していたのか気になっていたものの、お館様にわざわざ詮索をするなんてありえないと尋ねることはしなかった。必要ならばご自身の口から語られるだろうと。
しかしそんな中、空気の読めない柱が1人、恐る恐るではあるが耀哉に向かって問いかける。
「えっとー……お館様? 裁判中に隠の人が来たってことは何か重要なことがあったりしたんですか?」
「ん? ふふ……そうだね、重要といえば重要だ。きっと驚く人もいるんじゃないかな」
そう言ってしのぶを横目で見ると、彼女は不思議そうな顔をした。
「……来たみたいだね」
その耀哉の言葉と同時に一人の男が場に現れた。
瞬間、誰もがその男に目を奪われた。
基本的には何事も無関心なような冨岡義勇や、時透無一郎でさえも。
それだけ圧倒的な造形美だったのだ。その男の顔は。
どこか気怠そうな憂いを帯びた表情は、もはや彼にある種の神秘性すら与えているように思われた。
そして、あの無一郎が「綺麗な顔だなー」と目を奪われるほどであるならば当然、あの少女――甘露寺蜜璃の反応は火を見るより明らかである。
蜜璃はといえば、現れたその男のことを熱に浮かされたような目でじーっと見つめていた。
それが気に食わない伊黒小芭内は、男の美貌を目の当たりにした衝撃からいち早く立ち直り、蜜璃の反応を苦々しく思いながらも思案する。
それは同じく早々に冷静さを取り戻した悲鳴嶼行冥や実弥なども同じで、それはつまり「一体この男は何者なのだろうか」ということだった。
それを知っているであろう耀哉に尋ねるより前に、その男が口を開く。
「あれ、しのぶ?」
「く、久遠っ……!?」
蟲柱・胡蝶しのぶの名を呼び、かつしのぶの方もその男のことを知っているらしい。
いや、それよりも……『久遠』。
この男の名前は久遠と言うらしい。
久遠……どこかで聞いたその名に柱達はみな頭を悩ませる。
そんな時、先ほどからずっと驚愕の表情で男――久遠を見ていた音柱・宇髄天元が大声を上げた。
「あー! 久遠ってお前、胡蝶の家で飼われてるっていうあの天川久遠か!」
天元の言葉で、気づかなかった者たちも全員思い出した。
二か月ほど前の柱合会議で、耀哉が会いたいといっていた者の名だった。
ようやく合点がいった柱たちと、未だにぼーっと久遠を見つめている蜜璃をおいて、久遠は天元の方を見る。
「そういうあなたは?」
「俺は音柱、宇髄天元だ。あの胡蝶が男を囲ったっていうから一体どんな奴なんだと思っていたが……くくくっ、これなら納得だぜ。そんな派手派手な面は見たことない」
「派手……俺よりもあなたの顔の方が派手なような気もしますけど、そうか。つまりあなたたちがしのぶと同じ、柱の方々なんですね」
久遠は納得したように頷きながらぐるりと柱たち全員を見渡す。
そこでこちらを見ていた蜜璃と目が合い、笑顔で軽く手を振ると蜜璃は顔を瞬時に真っ赤にしてパッと目線をそらした。
そしてそのまま柱たちの前で倒れ伏している炭治郎に一度目をやり、その後耀哉の方を見た。
「あなたが俺を呼んだ方ですか?」
「そうだよ、わざわざ呼びつける形になってしまってすまない。私は身体が弱いからこちらから訪ねに行くことができなかったんだ」
「いえ、お気になさらず。ですがわざわざ俺を呼んだ理由は気になりますね」
「それはね――」
そう耀哉が語りだそうとしたところで、実弥が食って掛からんばかりの低い声色で久遠に向かって唸る。
「おい、お館様の御前だぞ。何を偉そうに立ったまま喋ってやがんだ、あァ!?」
「……うーん、といっても別に俺にとってのお館様じゃないしね。人として最低限の敬意は払うけど、君のように跪く必要性が俺にあるとは思わないな」
「てめェ……マジで一度教育し直す必要があるみてえだなぁ!」
そう言って飛びかかろうとした実弥をしのぶが止めるより早く――
「実弥」
その一言で、実弥の動きは止まった。
憎々しげな顔で久遠を睨みながらも、また元の場所に戻って膝をつく。
その姿を見とめ、耀哉は久遠に向かって微笑んだ。
「すまないね、私の剣士が迷惑をかけた」
「ええ……まあ、気にしてませんよ」
如何にもサラリと答える久遠だったが、気にしてないというのは真っ赤な嘘だった。
久遠はとにかく……もうとにかく、口より早く手が出るような暴力男が嫌いなのだ。
それは、久遠が16歳の頃。
高校に入りたての久遠はその大人と少年の両面を併せ持つような幼さを残したルックスで、今と同じように無双していた。
しかし、それが1人の上級生の怒りを買ってしまった。
久遠がひっかけた女のうちの一人がその上級生の彼女だったのだ。
あまり偏差値も高くなく、治安もいいとはいえない久遠の高校において、その上級生は端的に言うと暴力で学年を取り仕切る番長のような存在だった。
だから自分の女が奪われたとなればもう、暴力による徹底的な報復である。
久遠はそれを受けた。
そして、その上級生やその多数の舎弟たちにそれはもうボコボコにされ、全治2か月という怪我を負ってからというものの、自分に暴力を向けてくる者への憎悪は凄まじいものになったのである。
加えて今回ダメ押しになったのは……実弥の顔がその時の上級生にそっくりであったということだった。
まあつまりは完全なる私怨なわけだが、久遠の実弥に対する感情は地の底まで下落していた。
「君は私が招いた客人だし、君の言うとおり鬼殺隊に属しているわけじゃないのだから、畏まる必要はないよ」
「じゃあ……とりあえず本題、の前にお名前を聞いても?」
「産屋敷耀哉、だよ。産屋敷家は代々鬼殺隊の当主を務めていて、まあ現在は私が当主というわけだね」
「ふむ、つまりは産屋敷家が鬼殺隊を作ったということですか」
耀哉は首肯する。
久遠はそれに対して少し考えるような素振りを見せた後言った。
「疑問なんですが、産屋敷家が鬼殺隊を作った理由は何なんでしょうか。あなた自身は身体が弱いそうですが、初代の産屋敷家当主はとても強くて、そういう実力者を束ねる主導者だったとか?」
「いや、一族の中にとりたてて剣を持ち鬼と渡り合えるほどの実力者がいたとは聞いていないね」
「なるほど、ではなぜ産屋敷家が鬼殺隊をまとめる立場になったんです?」
その久遠の質問に対して何故か耀哉は答えに窮しているようだった。
「……その理由を話すと、かなり深いところまで入り込むことになってしまうね。それは鬼殺隊ができた理由の根本なんだけど」
「あ、もしかして組織内部でしか知らない重要な機密だったりしますか? ならここら辺で詮索はやめておきますが」
「うん、機密といえば確かに機密だ。だけど君は少なからず鬼殺隊に関わっているし、話しても良いかなとは思っているんだ。ただ……」
そして耀哉はチラリと一度しのぶの方に視線をやる。
「これは少し君をここに呼んだ理由にも関係するんだけど、聞いてくれるかな」
「ええまあ、そもそもその理由を聞きたくて来たところもあるので」
「ありがとう。……君は一年ほど前のしのぶの状態を知っているよね?
姉のカナエが亡くなってからというものの、しのぶはずっとある種の妄執に急きたてられているようだった。死に急いでいると言っても良い。だから、以前の柱合会議でしのぶを見た時は驚いたよ。そして思った。一体誰が彼女をこんなに変えたんだろう、とね」
「あー……つまり、しのぶが変わったであろう原因の俺にただ会ってみたかったという感じですか」
「そうだね、そのためにわざわざ呼びつける形になったのは申し訳ない」
それを聞いた久遠は一気にげんなりした。
そんなことで呼ぶんじゃねえよ、とすら思った。
まあ逆に言えば、柱という鬼殺隊の要にちょっかいかけて養わせてるということに対するお叱りとか制裁でなくて良かったとも考えられる。
しかし久遠はといえば、じゃあもうさっさと帰らせてくれとしか思っていないわけであるが。
「そして君に会って、こうやって話をしてみて、しのぶがああまで変わった理由もわかったよ。うん、ここまで突き抜けたものだと確かに人の根本まで変える力を持っているかもしれない」
ただ、同時に久遠の持つその“美”は毒だとも耀哉は思う。
心の弱い者ではそれにとりかれてしまえば最後、きっと正気に戻ることなく抜け出せない。きっと彼が望むことを全て叶えるためだけの、自分の意思を持たぬ人形に成り果ててしまうだろう。
柱として凄絶な死線を潜り抜けたしのぶだからこそ、いや……もしかしたらしのぶもまともな状況とはいえないのかもしれない。
それこそ、今まで男の影すら見せず鬼狩りだけに注力していたというのにこれだ。
たまたましのぶの場合はそれが良い方向に働いただけともいえる。
幸いなのは久遠という人間が善性の人であること。少なくとも悪人ではないだろう。
彼がその気になれば、間違いなく文字通り“傾国”という事態になりかねない。もはやそういう領域の人物なのだから。
鎹鴉の報告によると、たまに散財する程度で生活自体は荒れてもいないようだし、しのぶの好意を利用して横柄にふるまうということもなく、養ってもらっているという立場なりにしのぶの言うことは聞いているようである。
この際、働かずに女性に養われている、ということはどうでもいいと耀哉は思っていた。
天川久遠という人物にはむしろ、何か高い野心など持たずに平凡に暮らしてもらうことこそが世の為であるからだ。
そこで耀哉は多少脱線した思考を戻し、久遠へと話を続ける。
「恐らくしのぶはそういったことを話していないだろう? 鬼殺隊の成り立ちや、その最終的な目的などは」
「そうですね、最低限の情報くらいしか」
「それはね、多分君をあまりこちらの世界に関わらせたくないからじゃないかと思っているんだ。もしくはあまり鬼殺に関わる自分という面を説明したくなかったから。……そうじゃないかな、しのぶ?」
いきなり自分へ水を向けられたしのぶは、わたわたと慌てながら答える。
「え、えっと……まあ、概ねはそうです。久遠の前ではあまり血なまぐさい話はしたくないのもあるし、あまり深い情報を知ったとしても、久遠の力でどうこうできるものでもありませんから……知らないことは知らないままでいいと思って話しませんでした」
「うん、しのぶの気持ちはよく分かるよ。だけど、彼はもう毎日蝶屋敷で暮らしていて、しのぶのような柱を含む鬼殺の隊士たちと会っているのが日常だ。ここまで鬼殺隊に関わっている以上、彼も知る権利があると思うんだ」
「…………私は、お館様の判断に従います」
「ごめんね、少し無理強いする形になってしまったかな。だけど最終的に決めるのは彼自身だからね」
そして耀哉は久遠の方へと向き直る。
「君はどうだい? もしかしたら余計なことを知ってしまうということで、君が危険にさらされる可能性がないとはいえない。それでも知りたいかい?」
「あ、はい。教えて欲しいです。むしろ今知りたいことを知れない方が気になって精神衛生によくないです」
「そうか、じゃあ――」
それから耀哉は語った。
鬼という存在ができたきっかけ、鬼舞辻無惨という原初の鬼のこと、そしてそこから始まり今でも続く産屋敷家の短命の呪いのことなどを。
「鬼殺隊を発足したうえでの最終的な目的は、鬼舞辻無惨を殺すことだ。そうすれば眷属である他の鬼たちも死ぬはずだからね」
「へえ、そういうものなんですか?」
「鬼舞辻は眷属たちに呪いのようなものを付けることができる。鬼舞辻が決めた呪いに反した行動をしたとき、その鬼は死ぬ。そういう繋がりある以上、鬼舞辻が死ねば他の鬼も一緒に死ぬだろうと私は考えているんだ」
「その、鬼舞辻無惨の繋がり? というか呪縛がない鬼というのはいないんですかね。平安時代からいて、そのボスに反骨心を抱かなかった鬼がいないというのも考えづらいような」
久遠のその質問に、耀哉は逡巡する様子を見せつつも答えた。
「私の知っている限り2人、いる。自分の力で無惨の手から逃れた者たちが」
「へえ……、中々気概のある人たちですね」
「そうだね、少なくともそのもう一人はとても気概のある子だ。何せ鬼になってから、飢餓状態で2年も人を喰わずに生きてきたんだからね。
……そうだろう、炭治郎?」
炭治郎? と久遠が頭に疑問符を浮かべながら耀哉の視線をたどっていくと、先ほどチラリと見た、拘束されて地に伏せっている少年がいた。
久遠はそれを見て思う。
(今更だけどなんでこいつ拘束されてるんだろう。なんか悪いことしたのかな)
本当に今更すぎることである。
その炭治郎なる少年は、耀哉に声をかけられるや否や身体をなんとかおこしながら大声で叫んだ。
「そ、そうなんです! 禰豆子は……俺の妹は人を喰いません! 信じてください!」
「そうだね、私は信じているよ」
「え……」
禰豆子? 人を喰う? とさらに疑問符だらけになった久遠を置いて、耀哉は柱達の方に向き直って言う。
「炭治郎と禰豆子のことは私が容認していた。そして、みんなにも認めてもらいたいと思っている」
その言葉で、場は混乱を極めた。
お館様の言葉でも認められない派が声高に自分の意見を主張し、お館様の言葉なら従います派が何人かポツポツと。そして黙ったまま何かを思案している者もいた。
ここに至って久遠も段々と分かってくる。
つまり、この炭治郎という少年が鬼になった妹を匿いながら過ごしていたが、何らかのきっかけでそれがばれた。
で、この場に引っ立てられ、炭治郎自身は鬼を匿った罪で、そして妹――それらしき姿は見えないが――は単純に鬼であるということで、処断を受けようとしているのだと思われる。
しかし、そこで炭治郎少年は「妹は鬼だけど人を喰わない」と主張。
さらにお館様からの容認コメントもあって、こういう状況になっているのだ。
と、久遠はそこまで考えて、「これ俺は帰ってもいいんじゃないの?」と思った。
(組織のごたごたに俺を巻き込まないんで欲しいんですが……早く家に帰って寝たい……)
もう完全に飽きてしまった久遠がぼーっと事の成り行きを見ていると、突然耀哉から声がかかる。
「久遠、君はどう思う?」
「はい? 何がですか?」
「炭治郎の妹、禰豆子は鬼だ。しかし、飢餓状態であっても人は喰わないと炭治郎は主張している。君なら、彼らをどうする? あくまで参考程度に聞かせて欲しい」
なんで自分に聞くんだよとか、鬼殺隊の隊士でもない奴の意見を参考にするなよ、とか色々思ったがとりあえず久遠は考える。
別に妹鬼は殺して炭治郎は鬼殺隊追放とかでもいいんじゃないかと思ったが、それもちょっとあんまりかもしれない。
とりあえず自分は無責任な立場なんだから適当にやろう、最終的に久遠はそう結論付けた。
「まあとりあえずその禰豆子っていう子に会ってみないと分からないですね。えーっと、炭治郎君だっけ」
「は、はい!」
「禰豆子ちゃんって今どこにいるの? できれば実際に会いたいんだけど」
「あ、えっと……禰豆子はその……そこの箱の中にいます。でも、あの……今、禰豆子は怪我を負ってて……もしかしたらいつもより凶暴になってる、かもしれないです……」
炭治郎はシュンと肩を落としながら言う。
妹が人を喰わないと主張しておきながら、こんなことを言ってしまえば心象がよくないことは確実だ。しかし炭治郎自身、信じてはいるが禰豆子の鬼としての情報が完全ではないため、万が一の久遠の安全のことを考えると言わない訳にはいかなかった。
(うーん、正直な子だなあ……大分生きづらそうだ)
久遠はそう思いながら、優しく声をかける。
「ま、大丈夫だよ。何か起こってもここには頼りになる人たちがいるしね。それに……信じてるんだろう? 妹さんのこと。なら、きっとうまくいくさ」
「は、はい……!」
炭治郎は明るい顔になり、箱に近づいて中に声をかける。
すると、箱の中から竹筒を咥えた小さな女の子が出てきたのだった。
そして疲労なのか、それとも別の要因なのか、とにかくその少女は苦しそうに息を乱していた。
「君が禰豆子ちゃん?」
声をかけると、禰豆子は久遠の方をしばらくじっと見つめる。
そして何やら首をかしげていた。
「えっと、もしかしたら混乱してるのかも……禰豆子で間違いないです」
「ありがとう炭治郎君。……じゃあ、禰豆子ちゃん。禰豆子ちゃんは人を食べる?」
その質問に、禰豆子はしばらく久遠の方を見つめてから、やがて首をふるふると横に振った。
「食べないんだね、分かった。じゃあ、食べたいとは思う? お腹が空いた時とか」
そう聞くと、禰豆子は困ったように眉をひそめて黙っていた。
なるほど一応人を食べたいという欲求自体はあるのか、と久遠は思う。
それでも人を食べないというのは、一体何がそうさせているのか。
やはり人であった時の記憶が同族を食べることを忌避させているのだろうか。
久遠はそこまで考えて、とりあえず禰豆子への質問を続ける。
「例えば今、禰豆子ちゃんはとてもお腹が空いているように見える。そして目の前に俺という美味しそうな人間がいるんだけど……それでも食べない?」
「……ムームー!」
何やら竹筒の間から可愛らしい唸り声をあげつつ、禰豆子はぶんぶんと首を縦に振った。
それを見て、久遠は耀哉の方へ向き直る。
「まあ……、俺は禰豆子ちゃんが人を食べないっていうのは信じられると思いました。鬼のボス、鬼舞辻無惨の呪いのかせが外れてる鬼っていう希少性から見ても、処分ではなくうまいこと使うべきでしょう。当然、その手綱を握れそうな炭治郎君も」
久遠の言葉を聞いて嬉しそうに顔を明るくする炭治郎。
耀哉も微笑みながら頷いていた。
しかし、そこへ鋭い声が響く。
「……俺は認められねェ。人間ならいいが鬼は駄目だ、お館様のお言葉といえどこればかりは従えない」
久遠はその言葉を発した実弥の方を見て、またこいつかよ、とげんなりした。
「……何故鬼は駄目だと?」
「当たり前のことだろうが! 鬼はこれまでに散々人を喰い散らかして、たくさんの人から大切な物を奪っていきやがった! 鬼が鬼である以上許すわけにはいかねえだろうが!」
「うーん、君の感情自体は理解できるけど、鬼が鬼である以上――ってところは賛成しかねるな」
「あァ!?」
(マジでただのチンピラじゃんこわ……)
久遠はなんで俺がこんなことをしなければいけないんだろうと思いながらも話を続ける。
「君たち鬼殺隊士たちはなぜ鬼を狩っている? 鬼が人間より遥かに身体能力が高いから? 鬼の寿命が人間のそれよりずっと長いから? そうじゃない、鬼が人を喰うからだろう。つまり言い換えれば、人を喰わない鬼ならば何の問題もないわけだ。
今回の件もそう、禰豆子ちゃんが人を喰わないのであれば君たちが狩る対象であるところの“鬼”ではない。だから禰豆子ちゃんが人を食べるのかどうか以外に、感情的な論点をさしはさむ必要はないと思うけどね」
久遠の言葉を聞いた実弥は、怒りと喜色が入り混じった奇妙な表情を作った。
「なら、丁度いい! 証明してやるよ! こいつが人喰い鬼だってことをなあ!」
そう言って自らの腕を切りつける実弥。
傷口からは血が滴り落ち、地面を赤く汚す。
そしてそのまま禰豆子の方へと近づき、腕を顔の前に差し出した。
「ほら、お前ら鬼の大好きな稀血だぜェ! 飢えてる状態で我慢できんのかあ!?」
久遠はもうあまりの急展開にドン引きである。
稀血とかよく分からんけど少なくともこいつは頭がおかしい、と結論付けた。
そして血の流れる腕を差し出された禰豆子は、明らかに先ほどよりも息を荒げていた。
血走った目で腕を凝視している。先ほどまでは見えなかった角なども現れており、鬼化の兆候も見てとれた。
(うーん、大丈夫かな。一応声かけておくか……)
「禰豆子ちゃん」
「……フー! フー!」
声を荒げて聞こえていないようにも見えたが、久遠は語り掛ける。
「さっき俺を食べないって決めた時、どういう理由で食べないって決めたのか俺には分からない。でも、その理由が君にとって大切なものならここでもそれをちゃんと思い出すんだ。稀血だかなんだか知らないけど、こんな口より先に手が出そうな奴に負けちゃダメだよ」
なんだか最後の部分に個人的な感情が見え隠れしていたようだが、その久遠の言葉を聞いた禰豆子はしばらく実弥の腕を見つめた後……ぷいっと顔ごと視線を外した。
それを見た当の実弥やその他の柱達は驚愕の表情になり、炭治郎や久遠は笑顔を見せる。
「なっ!?」
「これで決まり。……ですよね?」
「そうだね、少なくともこの場においてこれ以上禰豆子を追及できないほどの証明はしたと思うよ。
みんなもまだ納得できたわけではないと思う、しかし禰豆子は普通の鬼ならばありえないことを目の前で見せてくれた。これは、信ずるに値するものではないだろうか」
大部分の柱たちは考え込んだように押し黙る。
唯一未だ納得がいかなさそうな実弥だったが、これ以上の食って掛かるための何かを持っているわけではないのだろう、他の柱たちと同様に黙っていた。
「では最後に……炭治郎」
「は、はいっ!」
予期していなかったのだろう耀哉からの呼びかけに、炭治郎はすぐさま出来る限り背中を伸ばした。
「この場はこういう裁定になったけれど、未だ心から納得できている者が少ないのは炭治郎も気が付いていると思う。禰豆子が本当の意味で認められるためにはこれからが重要なんだ。それは分かるね?」
「……はい」
「だから二人で助け合っていきなさい。鬼になっても失われないその絆は、いつかきっと鬼舞辻にも届きうる力になるかもしれない。私はそう信じているよ」
「はいっ! 頑張りますっ!」
耀哉が良い感じにまとめ、久遠もようやく帰れる……なんて考えるほどに終わりを感じつつある――その時だった。
不意に炭治郎が放った一言が場の全ての人間を凍りつかせた。
「あの……久遠さん、でしたよね。さっきからずっと気になっていたんですが……あなたから鬼舞辻無惨の匂いが微かにするのはどうしてですか?」
少し投稿が遅くなりました。
1万字もあるのに内容がめっちゃ薄いです……なぜ……?
会話が冗長すぎるのかな……
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ヒモ男と柱合裁判②~閑話
「あなたから鬼舞辻無惨の匂いが微かにするのはどうしてですか?」
炭治郎のその言葉に、場にはしばし沈黙が降りた。
久遠の頭の中は完全に「こいつ何言ってんだ?」状態である。
当然だ、久遠自身は鬼舞辻無惨なんて単語は先ほど聞いたばかりであり、会ったことなんてあるはずないと思っているのだから。
しかし周りはそんな事情は知らない。
その場の誰よりも早く動いた実弥は久遠の首に刀を当て、動けないように牽制する。
「……おい、今のはどういうことだてめえ。何か言いたいことがあるならとっとと吐けや、もっとも……内容によってはすぐにこの首が吹き飛ぶけどなあ」
久遠は黙ったままチラリと横目で実弥のことを見る。
冷や汗一つかかず非常に冷静なようだったが、実際内心はめちゃくちゃ焦っていた。
そしてそんな風に凄む実弥の首に、今度は別の刀が添えられる。しのぶだった。
「それを早くどかしてください。久遠に傷一つでもついたら殺しますよ?」
「おい胡蝶……お前も聞こえただろ、こいつから鬼舞辻の匂いがするってよぉ。鬼に与してるなら人間だとしても殺されて当然なはずだろうが」
「あら、さっきまで竈門隊士の言葉なんて信じてなかったくせにこういう時は違うんですね。単に自分に都合がいいからそうしているだけでは?」
「自分の都合で動いてるのはてめえの方だ! こいつが鬼舞辻に通じてたとして、お前どう責任とるつもりなんだ、あァ!?
「久遠が鬼に通じてるなんてありえません。いいから早くそれをどかしなさい、野蛮人」
一触即発どころかいまにも大爆発しそうなその空気を打ち破ったのは、まさにこれを作り出した原因の炭治郎の声だった。
「ちょ、ちょっと待ってください! 違うんです! その人が鬼舞辻無惨と通じてるなんてことはないです! その人は鬼じゃないし、悪い人の匂いもしません! なのにその、どうして鬼舞辻の匂いがするんだろうって、不思議に思ってつい聞いてしまって……」
額に汗を浮かべながら必死で訴える炭治郎だったが、実弥はそれを一笑に付す。
「はっ、こいつが悪人かどうかなんてどうでもいいんだよ。問題は鬼舞辻と接触していたということ、この一点だ。鬼の親玉が人間に会って普通そのまま生きて帰すか? こいつが少なからず鬼殺隊に関わってるってことから考えても鬼舞辻に通じてるって可能性は消えねえな」
「そんな……で、でも……」
炭治郎がはこれ以上返す言葉を持たず、このまま久遠が話すのを待つしかないのか、と諦めていたその時、この場における絶対者の声が響いた。
「実弥、刀をしまって。しのぶもね」
「お館様、それはなりません。今からこいつに鬼舞辻についての情報を尋問する必要があります。鬼殺隊にとっての鬼舞辻の重要さはお館様に今更語ることではないと思いますが」
「うん、だから今から私がそれを聞こうと思う。そうやって実弥が威圧していたら、彼も喋りづらいだろう。私も彼が鬼舞辻と通じているとは思っていないんだ、ただ一応何か知っていれば聞かなければならない。尋問ではなく、質問という形でね。実弥、頼むよ」
自身のお館様からこうも言われては実弥も引かないわけにはいかない。
非常に不服ではあったが、久遠の首から刀を離し、自分の鞘にしまった。
それを見てしのぶもようやく刀をしまう。ただし、未だ冷たい殺気を実弥にぶつけたままではあるが。
ようやく場が落ち着きを取り戻し、耀哉が久遠に問いかける。
「久遠、まあ今までの会話で大体分かっているとは思うけれど……君は鬼舞辻無惨に会ったことがあるのかい?」
「いえ、その名前は本当に今日初めて知りました。俺が認識していないような形で会ったという可能性はありますけど、鬼の親玉なんでしょうそいつ? そばにいて分からないもんなんですかね」
「強い鬼の気配というのは、それなりの修練を積んだ人にしか分からないからね。それに鬼舞辻……というより強い力を持つ鬼は自分の姿を変えられるらしい。鬼舞辻のような原初の鬼ともなれば、自分の姿なんて自由自在に変えられるかもね」
「はあ……じゃあどこかで会ってたん、ですかねえ……?」
久遠はというと未だに全くピンときていない。
鬼のボスに会ったとか言われても、久遠としては何ら変わりない日常を過ごしていたわけなのだから、そこに鬼がいたなどと言われてもどうも信じられないのだ。
「あの……久遠さんは嘘を言っていないです。本当に鬼舞辻の名前を今日知ったということで間違いないと思います」
他人が嘘をついたどうかも分かる炭治郎が久遠の援護をする。
炭治郎は自分たちの危機を救ってもらえたということもあって、なんとか久遠の潔白を証明していたいと思っていた。
「……炭治郎君、さっきから匂いがどうとか言ってるけどそういうのが分かるの?」
「あ、はい。俺昔から鼻が良くて、普通の物の匂い以外にもなんとなくこの人は悲しんでるなとか怒ってるなとか、そういうのが分かるんです」
「す、すごいなそれは……」
久遠はこいつの前で絶対下手に嘘はつけないな、と炭治郎のことを恐ろしく思った。
「炭治郎、その久遠についている鬼舞辻の匂いはいつぐらいのものか分かるかい?」
「……正確な日にちは分からないですけど、結構最近だと思います。それこそ2、3日前とか」
「ふむ……それじゃあ2、3日前に鬼舞辻が君に何らかの形で接触していたわけだ、それも匂いがつくくらいには。久遠、それぐらいの日に会っていた人を覚えているかな」
そう問われて久遠は考え込む。
確かにこの3日くらいはしのぶが任務でいないのをいいことに連日町に繰り出していたが……
「あーいや……そもそも俺あんまり男と喋らないんですよね。正直関わってる男っていえば、行きつけの茶屋の主人とか、賭場を取り仕切ってるおっさんとかぐらいですよ。まあ賭場にいる人たちとは結構近い距離なんで、そこにいたとしたら……って感じですね」
「いや、久遠。鬼舞辻は姿を変えられるんだ。もしかしたら女にもなっているかもしれない」
「…………女、だとちょっと接してる数多すぎてよく分からないですね……」
その久遠の言葉に反応したのはしのぶだった。
「……久遠? 町に出るのはいいけど他の女の子にちょっかい出さないでって私、あんなに言ってましたよね……?」
「い、いや……雑談ぐらいはね、するでしょ?」
「数えきれないくらいの女とですか」
「…………すいません」
実際に女の子に声をかけられれば大体こたえているので、久遠は返す言葉もなくがっくりと肩を落とした。
「まあ久遠の女癖の悪さへの対応は家に帰ってからやるとして……お館様、これでは結局結論は出ないのではないですか?」
「いや、元々久遠が鬼舞辻と繋がっているとは思っていないからね。私が懸念しているのは別のことだよ」
「別のこと、ですか」
耀哉が思っていたのは、久遠が鬼舞辻に一方的に目を付けられたのではないかということだった。
久遠の持つ常識外の美貌は先ほど分析した通り。それを町のどこかで見かけた鬼舞辻が何かに利用できると踏んで接触を持った。これが可能性としては高い。
何に利用できるかといったらそれこそいくらでも使いようがある。
こと女性に取り入るという点では久遠に勝る人物などおよそこの世に存在しないであろう。実際に鬼殺隊の女性柱のうち1人はもう骨抜き状態だ。そこから鬼殺隊についての情報を抜いたり、内部分裂を図ったりするかもしれない。
これはあまり良くない状況だ、と耀哉は眉をひそめて考える。
悪の道に使ったら大変なことになると思ったばかりのそれが、まさに鬼舞辻によって利用されてしまうかもしれない。
――しかし、もし本当に耀哉の予想が当たっているのならそれはまたとない好機でもあった。
「久遠、恐らく鬼舞辻は何らかの目的を持って君に接触を図った可能性が高い。姿を人間に変えてね。だから、このままの状態だと君は危険だ」
「なるほど。では、どうしましょうか」
「蝶屋敷にずっといてもらうのがいいだろうね……本来ならば」
「…………お館様?」
しのぶが何かを察したのか、顔色を変えて耀哉の方を見る。
「だけどね、私はようやく掴めそうなこの鬼舞辻の尻尾を逃したくないと思っているんだ。だから君には今後も同じように生活をしてもらいたい。鬼舞辻の目的が君であった場合、確実にまた接触を図ってくるはずだ」
その言葉に、しのぶが大声で叫んだ。
「ダメです! そんなの絶対ダメです! お館様! なぜそんなことを仰るんですか!? それでもし、久遠が鬼舞辻に殺されたりしたら……!」
「しのぶの心配はもっともだ。勿論、護衛は付けるつもりだよ」
「護衛!? 鬼を統べる鬼である鬼舞辻に何人かの護衛がいたところで意味があるんですか!? そんなのはただ久遠を守ったという形を取ったにすぎません!」
「……胡蝶、お館様への言葉が過ぎるぞ。少し落ち着け」
「冨岡さんは黙っていてください!」
「……」
今までに見たことがないしのぶの剣幕に、声を上げた義勇もすぐに黙らされてしまう。
それは他の柱達も同じようだが、目はちゃんとしのぶの挙動を見ており、このまま万が一耀哉に食って掛かっていくようであれば止める腹積もりだった。
「……しのぶ、どうか分かってくれ。鬼舞辻の打倒は鬼殺隊ができてからこれまでずっと続いているたった一つの願いなんだ。それを成すために今までどれだけの人が死んでいったか分からない。私は、彼らの遺志に報いなければならない」
「分かりません! 分かりたくもありません! 私には久遠しかいないんです! ここで彼を失ったらもう……生きていけません……!」
「そんなことはない。彼が君にもたらしたものはもっと大きいはずだよ。それは彼に依存する心などではなく、しのぶが前を向いて歩いて行くための強い心のはずだ」
そこで何を言っても耀哉が自分の意思を曲げないことを悟ったのだろう、しのぶはがっくりと項垂れた。
しかし眼だけはジッと耀哉の方を向いていた。
それはしのぶが鬼殺隊に入って以来……いや、今までの鬼殺隊士たちも絶対に見せたことのない種類の目だった。
そこに浮かぶのは苛立ち、そして敵意。
それを目ざとく察したのだろう実弥や無一郎がしのぶを取り押さえるために動く、その前に――久遠が言葉を発した。
「あの……なんか盛り上がってるようで申し訳ないんですけど、俺鬼殺隊士じゃないのでその要望聞く必要ないですよね? 勝手に話を進められても困るんですけど」
「……その通りだよ。でも、鬼舞辻を殺すことは人々の安寧、ひいては君の平穏な生活に繋がっているといえる。そのために、どうか君の力を貸してはもらえないだろうか」
「平穏な生活も何も、その前に俺が鬼舞辻無惨に殺されたらそこで終わりでは?」
「…………」
耀哉は悩んだ。
ここで強権を発動するのは簡単である。
しかし、それをしてしまっては恐らくしのぶとの溝は相当深い物になってしまうだろう。
もしかしたら鬼殺隊をやめるなんて話にもなりかねない。
また、本人の言うとおり久遠はただの民間人である、というのも確かな事実だ。
鬼殺隊に所属もしていない彼をこちらの理屈で無理やり動かすというのは、少なくとも普通やっていいことではない。
鬼舞辻を倒すためなら、というお題目で他の全てが許されるとは当然耀哉も思ってはいなかった。
しかし――やはり、『しかし』という思いがある。
永い永い間、成しえなかった打倒鬼舞辻が目の前にあると思うと、耀哉としてもすんなり引き下がれるものではなかった。
耀哉がそのように苦々しい思いで思考を巡らせていると、思いがけず久遠が言葉をつづけた。
「まあ……とはいえ別に、協力できないこともないですよ。鬼の親玉が死んで、鬼がこの世から消えるなら生きやすくなるのは確かですから。
ただ、そんな危険な生活をしなくちゃいけないわけなんで、俺の方もお願いがあるんですよね」
「私にできる範囲ならなんでも聞こう。それこそお金なら望むだけあげたっていい」
「いえ、お金は…………それももらっとこうかな。まあお願いというより、提案みたいなものです。あのですね――」
◇
我妻善逸は暇を持て余していた。
蜘蛛毒で手足が小さくなったのが元に戻るまでもう少しかかり、その間に同期の炭治郎と嘴平伊之助は機能回復訓練なるものへと旅立ってしまったからである。
毎日ひどく疲れた顔で帰ってくる二人を見ていると訓練に行かなくていいのは嬉しいと思ったが、いかんせんこの時間は暇すぎた。
善逸が現在ご執心の禰豆子も基本的には箱の中で眠っているだけなので、一緒に何かをすることもできない。
「あー……暇だなあ……」
「お暇なようでとても羨ましいです。その時間をわけてもらいたいくらいですね」
「わあっ!?」
なんとなしに虚空に呟くと声が返って来たことに大声で驚きを表現する善逸。
見ると、部屋の扉の前にアオイが立っていた。
なにかとよく怒られるため苦手としていた女の子に、善逸は恐る恐る質問をする。
「あ、あれ……? 今日も機能回復訓練なんじゃ……」
「そうですよ。でも今日はちょっと蝶屋敷全体でかからなきゃいけないお仕事があるから早めに切り上げたんです。ほら、あなたのお友達も来ましたよ」
その言葉と共に、アオイの後ろから炭治郎と伊之助が部屋に入ってきた。
「おー炭治郎に伊之助、お帰り。……なんか伊之助はイラついてるみたいだけど、なんで?」
「あはは……多分訓練が厳しくて中々思い通りにいかないからだと思う。俺もずっと負けっぱなしだから悔しいよ」
「それずっと気になってたんだけど一体なにやってんの? 機能回復訓練ってそんなにつらいのか? 俺、今からすごい嫌なんだけど……」
「あ、それは――」
炭治郎が訓練の内容を話そうとした時だった。
「アオイー? この材料ってどこに運べばいいんだっけ。しのぶの部屋?」
「あ、久遠さん。えっと……」
アオイの後ろから入ってきた人物は久遠だった。
手には薬草のような何かが入った箱を持っている。
久遠の姿を見た瞬間、炭治郎は駆け寄って声をかけた。
「久遠さん! お久しぶりです!」
「お、炭治郎君か。久しぶりってほどでもないだろ、一週間くらい?」
「いえその、久遠さんは蝶屋敷に住んでるっていうからどこかで顔あわせるかなって思ったのに全く会わなかったので……」
それは久遠がずっと部屋に引きこもっているだけである。
それから、炭治郎は少し声を落として久遠に尋ねた。
「……あの、そういえば久遠さん。あの話は進んでるんですか?」
「ん? あーあれね。うん、あれはばっちり進んでるよ。丁度炭治郎君の機能回復訓練が終わる頃くらいには準備できるんじゃないかな。その時はよろしく頼むよ」
「は、はいっ! 任せてください!」
そこで話は終わり、自分の話を途中で遮られてて少々ご立腹だったアオイに気づいた炭治郎は苦笑いしながらベッドへ戻った。
そして改めて久遠がこの荷物の置き場所をアオイに聞こうとしたところで、今度は部屋中に絶叫が響き渡る。
「なんだこのイケメンはああああああああぁぁぁぁあぁあぁぁぁああああ!?」
あまりの声量に部屋にいる全員が手で耳をふさぐ。
アオイの視線はもう絶対零度になりつつあったが、それに気づかない善逸は指をプルプルさせたまま久遠を指差してなおも叫んだ。
「ちょ、なんなんだこのとんでもないイケメンは! いやおかしい、何かがおかしいよ! こんなのが人間の男として存在していいわけがない! だってこんなのずるい! こんなに顔が良かったらそれだけで女全員かっさらえるじゃないかああああああ!」
「善逸! いきなり初対面の人に指をさすのは失礼だぞ! それに声もうるさいし」
「殴って大人しくさせるか?」
なんかえらいキャラ濃い奴らだなー、と久遠は善逸と伊之助を見ながら思っていた。
とりあえず今はまずアオイの頭に手を置き、ポンポンと軽く撫でることで爆発寸前の怒りを沈静化させるのが久遠の急務である。
アオイを落ち着かせた後、久遠は善逸の方を見て口を開く。
「こんにちは、善逸君? だっけ。炭治郎君の同期?」
「こ、声もイケメンだ……じゃなくて、は、はいっ!」
「そこの隣の君も?」
「…………」
「こら、伊之助! すいません、こいつ結構人見知りなんで。嘴平伊之助って言って、俺たちの同期です」
「ふーん、そっか……まあ俺はこの蝶屋敷に住んでるからこれからも会うことあるかもしれないし、よろしくね」
炭治郎からは律儀に返事が返ってきて、遅れて善逸も返す。伊之助は無言だった。
そしてその間も、善逸はずっと思っていた。
このイケメン、マジでイケメンすぎる……と。
こんな顔してたら常に女の子がわらわら寄ってくる無双状態なんだろうなあ、と半分憧憬半分嫉妬の入り混じった気持ちで、久遠の顔をみていた。
そこでハッと気づく。
「炭治郎! この人に禰豆子ちゃんを会わせちゃダメだぞ!」
「え、どうして? というかもう――」
「禰豆子ちゃんは外見だけで人を判断することのない、心の清らかな子だと信じてるけど万が一があるだろ! 顔の良さもあそこまでいくと呪いみたいなもんだし、女の子が吸い込まれるように好きになってもおかしくない!
……え? っていうか蝶屋敷で暮らしてるって言った? こんな女の子だらけの場所で? 毎日?」
「ああ、というかここの主で蟲柱の胡蝶しのぶさんは久遠さんと良い仲みたいだぞ」
「ぐああああああああああああああ! あ、あの天女様のようだったあの女の人も、既にこのイケメンの虜だったなんて……」
うおおおおおおおおお、とベッドの上で頭を抱えてうめく善逸。
久遠はといえば、本当に愉快な奴だなこいつ、くらいの感想を善逸に抱いたものの、それよりも別の言葉が気になった。
「ここに禰豆子ちゃんがいるの?」
「あ、はいそこの箱に……」
「よせ、炭治郎! 止まれ!」
「あ、ほんとだ。あの時の箱がある」
「でも今、というかあの日から一日の大半は寝てるみたいで……。昼間なんかまず起きないと思います」
「そのとーーーーり! 禰豆子ちゃんとは夜も深まったころに俺がしっかりと愛を育むの、あなたはどうぞお引き取りください!」
善逸が嬉しそうにそう言い放ったのとほぼ同時に、禰豆子のいる箱からガタンと音が鳴った。
「起きた……みたいですね」
「お前の声がうるせえからだよ、アホ」
「いーや違うね! これは俺の声を聞いて俺とお話したくなった禰豆子ちゃんが起きてきたんだ! 間違いない!」
ワイワイ言ってる三人は放っておいて、とりあえず禰豆子が起きてくるならばとアオイと一緒にカーテンを閉め切って部屋を暗くする。
部屋の人間全員の視線が集まる中ガタガタと箱は揺れ続け、やがて上の蓋が開いたかと思えば中から禰豆子がのっそりと眠そうな顔をして起きてきた。
そのまま箱から出てくると、キョロキョロと辺りを見渡し始めた。
「禰豆子ちゃーーーーーん! ここだよ! 俺はここにいるよーーーー!」
「……ムームー!」
全力で歓迎の体勢を整えている善逸をガンスルーし、禰豆子は一直線に久遠の所までとてとてと歩いてきて足にしがみついた。そしてそのまま久遠のズボンのすそを引っ張る。
「え、抱っこするの?」
「ムー! ムー!」
久遠が微笑みながら抱き上げると、禰豆子は満足げな顔をした。
「禰豆子……久遠さんに懐いたみたいですね」
「ぷぷっ……おい、ここにクソだせー奴がいるぞ」
伊之助が指をさして笑う先には、禰豆子を待ち構えた体勢のまま、固まっている善逸。
そのまましばらく呆然としていたが、やがて段々と状況を理解したのか身体がプルプルと震えていき……
「…………な、な、な、なんでだああああああああああああああああ! なんで禰豆子ちゃんまであの人の所へ! イケメンは何もかもをかっさらうっていうのか! そんなことが許されていいのかああああああああああああああああああああああ!」
善逸はまたしても心からの大絶叫をぶちかました。
それに対してついに――
「いい加減にしなさあああああああああああああああああああああい!」
アオイの不発弾が大爆発したのであった。
久遠がお館様に何を提案したのかは次回分かります。
蜜璃ちゃんとの絡みを期待してくれていたかたすいません……それも次回か次々回です。多分……。
あと原作のあの部屋にはカーテンついてたか覚えてないし、多分付いてないと思うけど、そこはまあこの世界では付いていたということで一つ宜しくお願いしまむら。
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ホスト、始めました
なんかもう僕のいつもの、『時間があいて飽きて投げ出してエタって消す』というパターンになりそうだったので気合で仕上げました。
日もとっぷりと暮れ、夜の帳が降りた町。
ほとんどの店はすでにのれんを下げており、民家からも薄い灯りがちらほら見える程度だった。
もう大分いい時間であり、人によっては寝床につく者も当然いるだろう。
しかしそんな中、ある建物だけが異彩を放っていた。
隙間から漏れ出る煌々とした灯りにどんちゃんと騒がしい音。
音はさておき、この圧倒的な光量はランプや行灯などではなしえない。
全て電気を使った電灯の明かりによるものに違いなかった。
大正時代には既に東京では電灯が完全に普及していたとはいえ、そもそも農村部の民衆の未だ行灯、よくても灯油を燃やしたランプを使っているし、例え東京の人間であったもこんなに派手に使えるわけがない。
理由は言うまでもないことかもしれないが、高いからである。
だというのにこの件の建物の輝きといったらどうだろう。
優美さを感じる煉瓦造り。その窓から道を眩く照らすほどに光が溢れているのである。
一体どれだけ中を電灯で照らせばこうなるのだろうか。
そして――一、一体この中では何が行われているのか……。
そんな時、1人の女性がその建物の前で足を止めた。
高級な和服に身を包んだ、どこか気品を感じるその女性は迷うことなくその扉を開け、中へと身をくぐらせる。
「お、いらっしゃい里美ちゃん。久しぶりだね、会いたかったよ」
そこかしこに飾られた豪華な電灯に、過度とも言えるくらいの内装。
その中心のソファにゆったりと腰かけながら微笑みを浮かべている人物は、我らがエリートクズヒモニートの久遠だった。
里美と呼ばれた女性は久遠を見るなり駆け寄って抱きつく。
「久遠君っ! 私もずっと会いたかった!」
「あらら……そんなに焦らなくても俺は逃げないよ。それよりもどうしてこんなに時間があいたの? ちょっと前まで三日と空けずにきてたのに」
「……お父様に一月も外出禁止にされたの。そのせいでこんなに長い間久遠君に会えなくて……すっごく寂しかったわ!」
「俺も寂しかったよ。大丈夫、これまでの時間は今日埋めていけばいいさ。……それじゃあ、色々と積もる話はお酒でも飲みながら、ね?」
「うんっ!」
久遠のその言葉を受けて、里美は近くに控えている少年に酒を注文する。
その料金はというと、庶民の半年分の稼ぎがとんでいきそうなほど高いものだった。
「あー炭治郎君、ついでに軽く食べられるものを何かお願い。いいよね、里美ちゃん?」
「全然気にしないで! 今日は久遠君のために一杯使うつもりでお金を持ってきたんだから、私に聞かないで頼んでいいのよ!」
「ありがと、……じゃあよろしく炭治郎君」
「はい! ただいま!」
小奇麗な燕尾服に身を包んだその少年――炭治郎は、そのまま店の奥へと注文を伝えるために走って行く。
もはやここまでくればお分かりだろうが、ここは何を隠そうホストクラブである。
ホスト・久遠、従業員・炭治郎、その他軽い調理などのための人員一名(これも鬼殺隊士)で構成された超小規模ホストクラブだった。
ことの発端はあの柱合裁判にさかのぼる。
あの時、久遠の頭の中では様々な考えが巡っていた。
鬼の親玉である鬼舞辻無惨という存在は確かに脅威だとは思う、しかし身の安全のために蝶屋敷にずっとこもるという選択肢はなかった。
久遠はニートだが、ヒキニートではなくどっちかというと遊び歩きたいタイプのニートなのだ。
外遊びを禁止されるというのは久遠にとって耐えがたいことだった。
かといって、産屋敷耀哉に協力して表面上普通の暮らしをするというのも無理だった。
なぜなら耀哉はあの時こう言っていたのだ、「護衛は付ける」と。
それはつまり、外を歩いていようと誰かしらが必ず後を付けているということだ。
久遠にはそんなの耐えられなかった。
いや、もっと現実的な理由として、町で女性と話をしているところでも見られてしのぶの耳にそれが入ったら……。想像するだけで面倒くさいことこの上ない。
久遠は女遊び、とまではいかなくても可愛い女の子と普通に戯れたいのである。
そんなことを一々監視付きでできる訳がない。
そんな久遠が苦悩の末に導き出した答えが、このホストクラブの建設、及び自分がそこで働くことだった。
まあホストクラブじゃなくても別によかったのだが、これは後述の『建前』に加え、単純に久遠が自分に向いてるんじゃないかと思ったからである。
普段久遠が女にやっていることなど完全にホストが女をだまくらかす所業そのものであるし、それなら労働といってもそう面倒なことはないだろうと久遠は考えたのだ。
そして、これの最大の目的は面倒な監視なしで町に出ることである。
町をふらふらと出歩く、とうのではなく一所にとどまっているのであれば、護衛はごくごく最小限でいい。
それなら護衛を自分の良く知るものであり、なおかつしのぶに口を割らなさそうな炭治郎にすればよいのである。
実のところ、久遠は町へ出たからにはそのついでにふらふら遊ぶ気満々だったし、炭治郎一人ならなんとか誤魔化せるだろうとも思っていた。
そしてここまでは久遠側の論理では完璧(だと本人は思っている)だとして、もう一つ――鬼殺隊側に提示するためのメリット、つまり建前が必要だった。
だから久遠は耀哉にホストの概要を説明した後、言った。
「そこで全国の鬼の情報を収集しましょう」と。
ついでに「その時は日本全国に『東京のある店に信じられないほど絶世の美青年がいる』と宣伝してくれ」とも。
要するに久遠は、その広告につられた女たちを使って全国各地の様々な情報を東京にいながらにして集められる、という主張をしたのだ。
例え来るとして遠方にいる女が東京に来るまでにどれぐらいかかるんだとか、そいつらが鬼の情報を持っている可能性はどれぐらいあるんだとか、そういう効率的な面の杜撰さは一切久遠の頭になかった。この男も大概頭が良くないのだ。
しかし、そこはまあ久遠の必死なアジテーションが功を奏したのか。
しのぶがぎゃーぎゃー反対意見をわめいたりもしていたものの、最終的に認められる運びとなったのである。
まあ実際には耀哉の頭の中で、町に出るという事実は変わらない以上鬼舞辻の接触可能性は十分あるという判断があった。さらに護衛に炭治郎を推したのも、鬼舞辻の匂いが分かるという点で相当都合が良かったのだ。
だから、鬼の情報云々という点はほとんど当てにしていなかったわけだが、まあ結果良ければ全てよしというものであろう。
と、そんなわけで始まった久遠のホスト生活だったが――まさに無双といってよかった。
それもそのはず、やってることはいつも通り女性と話しているだけなのだから。
高い酒や料理を頼ませるところまで、全てが通常運行のヒモムーブである。
それは向こうのテーブルを見れば一目瞭然だった。
「はい、久遠君。あーん」
「あーん……うん、里美ちゃんに食べさせてもらうとすごく美味しい。もっと食べさせて欲しいなー」
「もちろん、何度だってしてあげるわ! ……って、もう無くなっちゃってる。えーっと……すいません、さっきのと同じものをもらえますか?」
「あ、あと俺ちょっと喉がかわいちゃったな。これ、ちょっと高い奴なんだけど頼んでもいい?」
「いいよいいよ。いくらでも好きな物頼んでよ。久遠君のして欲しいことが私のしたいことなんだから」
まあ終始こんな具合である。
ちなみに久遠にベッタリと引っ付いているこの里美という女性は、東京の少し外れの方という生まれではあるがそこの大地主の娘である。つまりお嬢様だ。
蝶よ花よと育てられてきたわけだから当然、同年代の男と関わったこともほとんどない。
女学校を卒業したら決められた許嫁と結婚する。そういう自分の人生に特段不満を抱いていなかった里美だが、数か月前『絶世の美男子がいる』という噂を耳にして、観光ついでの物見遊山でこの店を訪れたのが運の尽きである。
久遠という男と出会い、里美という無垢な少女は変わってしまったのだ。
それからは久遠の気を少しでも引こうと、高いメニューをばかすか注文するだけでなく、様々な高価なプレゼントを持ってくる、典型的なホス狂になった。
許嫁との結婚もやめると言い放って両親と大喧嘩をした挙句、あまりにお金を使いすぎるので外出を一か月禁止にされた後でも、すぐに店に来る始末。もう完全に久遠に人生を滅茶苦茶にされたと言っていいだろう。本人はそう思っていないだろうが……。
とまあそれはさておき、ホストクラブ自体の話に戻ろう。
ホストが久遠一人である以上、店の回転率が良いはずはない。
本来キャストであるホストは何人もいて、同時に複数の女性を相手にするのがホストクラブの基本形態なのだから。
しかし、そこはエリートヒモ男久遠である。一日に相手できる女の数が少なければその分一人の女に多く貢がせればいいでしょ戦法で、太客に思いっきりお金を落とさせていた。
そして反面、お金持ちのお嬢様にばかり来てもらっても、普通の町娘と戯れたいという久遠の本心と情報収集という建前の両面から見てよくないということで、庶民の子には値段をワンランク下げたメニューを用意したりもした。
……まあ、とはいっても普通に庶民が使うような額ではないことは確かであるあたり、しっかりと久遠の儲け根性が出ているのだろう。
また、久遠という美青年がいるという広告をうちまくったせいか、東京にいるまだ久遠を知らない女性たちは勿論だが、遠く地方から東京観光ついでに久遠を一目見ようという女性などもいた。
そのためか、建前であったはずの鬼の情報収集が意外とはかどっているのだ。
この数か月で集まった情報だけでも、「広島のとある村が何者かに支配されているらしい」とか「長野のとある山地に宗教団体が居を構えていて、その教祖がどうも怪しい」などなど。
鬼殺隊がそうなのだが、どこどこで鬼がいるから行く、というように被害者が明確になっている場合だけでなく、状況的に怪しいから鬼なんじゃないかという情報をもらえるのは値千金といえるだろう。
鬼殺隊で情報を掴むよりも早く、鬼にたどり着けるかもしれないのだから。
「いやー、今日もお疲れ炭治郎君」
里美が帰ったのを見届け、久遠は炭治郎に声をかける。
「お疲れ様です……って、今日はもうおしまいですか?」
「うん、今日は早めに店閉めちゃうから。常連の女の子たちにもそう言ってるし」
「へー、なにか用事があるんです?」
「用事はないけど連日朝方までやって帰るとしのぶがね……」
「な、なるほど……」
久遠としてはホスト業なんてただ女の子と話していればいいだけだから、正直めちゃくちゃ楽だった。
生活リズムは狂ってしまうものの週5でも全然苦ではない。
しかも出勤前に町で遊べるわ、給料の他に女の子からの直接貢ぎでお金もがっぽりもらえるわではっきりいって良いことしかなかった。
唯一の問題と言えば連勤を続けるとしのぶが不機嫌なことぐらいだが、もはや久遠はしのぶに金銭面で依存していることもないので、ご機嫌取りに奔走する必要もあまりない。
(お金の心配は最早なし。あのお館様がスポンサーである以上すぐに鬼殺隊と縁を切ることはできないけど、折を見て蝶屋敷を出るのもありか。ふっ、来ちゃったかな俺の時代……)
そんな風に考えながら店じまいをしていたところで、正面の扉が開いた。
そこに立っていたのは、しのぶでも蝶屋敷の面々でもなく、はたまた常連の誰でもない一人の女性だった。
◇
「とてつもない絶世の美男子がいる」という噂はここ、遊郭にも流れてきていた。
いや、遊郭に流れてきたのはある意味当然かもしれない。
噂の詳細によると、どうやらその絶世の美男子は店を構えそこで女性たちを接待するということをしているらしいのだ。性的なサービスがないとはいえ、根本は遊郭で行っているそれとよく似ている。
加えて、男性が女性に対してそういうサービスを行う、というのが今までにないことでそういう珍しさもあったのだろう。
ともかく、その情報は遊郭にいる花魁たちも知る所になり、誰もがどのような男性なのだろうかと想像に翼をはためかせた。
こんなところまで噂が流れてくるなど、ちょっとやそっとの美形ではありえない。
だからこそ一目見てみたい。が、それは不可能なのだ。
彼女たちはこの遊郭から出ることはできない、籠の中の鳥。
身請けでもしてもらわない限り、普通の町を出歩くことすらできなかった。
――しかし、何事にも例外はあるもので。
その話を聞いたとある花魁――蕨姫はその男にいたく興味を抱いた。
なにしろ、客として来たある商家の小金持ちが実際にその男を見たらしく、それによると「もうちょっと信じられないくらいの美貌だった」とまで言うのだ。さらには娘もその男にくびったけなのだとか。
そうまで聞いては蕨姫は気になって気になって仕方なかった。気になりすぎていつもの仕事が全く気もそぞろなくらいに。
そして思った。じゃあ確認しに行けばいい、と。
しかし、遊郭を出られないはずの花魁がどうやって出るのか?
答えは簡単で、この蕨姫という花魁は人間に扮しているだけの鬼。しかも鬼舞辻無惨の血を濃く与えられた上弦の陸なのである。
門前の警備に気づかれずに外へ出ることなど全くもって容易だった。
もう深夜といってもよい時間帯。
蕨姫――いや、上弦の陸『堕姫』は店の者がみな寝静まったのを確認してから吉原を出た。
目的は件の美青年に会う、そして場合によっては喰らうためである。
堕姫という鬼は偏食で、年寄りと不細工を決して喰わず、見目麗しい人間しか食べないのだ。
人々の間でこうまで絶賛されている男なら容姿は間違いないだろう。
それが自分の想像をどれぐらい超えてくれるかで、食らうかどうかを判断しようと堕姫は考えていた。
美男子といっても今までに見たことある程度の者であれば喰らう、想定よりも容姿が良ければ見逃して時々愛でてやろう、という具合に。
しかし堕姫の想定を超える、ということは起こり得ないのだ。
何しろ、堕姫は何よりも鬼舞辻無惨を敬愛しており、そして最も美しい存在だと思っているからである。
つまり堕姫自身そんなことを考えつつも、実際のところもう件の男の死は決定されたものといえた……本来ならば。
なんの気負いもなく扉を開けると、燕尾服に身を包んだ少年が1人と、こちらに背を向けている男が1人いた。
間違いなく、その背を向けている方だろうと堕姫は確信する。
少年の方も不細工ではないが、絶世の美少年というには大分足りていない。
「あれ? お客さん来ちゃいましたよ、久遠さん」
堕姫の姿を見つけた少年が、未だ背を向けたままの男に声をかけた。
そして、男――久遠が振り向く。
「…………ぁ」
その瞬間堕姫は言おうとしていた言葉を失った。
行動も、思考も全てが固まる。
ただ、じっとその男の顔を見続けることしかできなかった。
「おや、初めての子かな? ごめんね、今日はもう閉める予定なんだけど」
「ぁ……あ、その、ごめんなさい……まだやってると、思ってて……」
「いやしょうがないよ。いつもならやってたはずだしね。
うーん、どうしようかな……じゃあ特別に君が最後のお客さんにしようかな」
「……え、い……いいの……?」
その久遠の言葉に炭治郎が反応する。
「久遠さん、早く帰らなくていいんですか? 遅くなるとしのぶさんが怖いんじゃ」
「そりゃそうだけど、せっかく俺に会いに来てくれた可愛い子をこのまま帰すのもね。後一人だったらいいでしょ。炭治郎君、もうお店おしまいの看板だけ表に出しといて」
「あ、はい。分かりました」
炭治郎が看板を持って外に出ていくが、堕姫の頭の中は久遠の「可愛い子」という言葉で埋め尽くされていた。
普段から人気最上位の花魁として君臨する堕姫にとって、「可愛い」なんて言葉は聞き飽きたを通り越して最早聞かないほどである。歯の浮いたような気障で迂遠な褒め文句を日常的に浴びている。
だというのに、目の前の男から「可愛い」なんていう子どもにでも言うような言葉を聞いただけで、堕姫の心は初心な乙女のように高鳴っていた。
堕姫はもう自覚していた。
一目見た時点で、既に久遠という男に自分の心が奪われていたことを。
そして鬼舞辻無惨という存在が心の中から完全に消し飛んでいることも。
ついでに言えばこの瞬間に堕姫に付与されていた無惨の枷も外れた。
まだまともな会話を交わしたわけでもないのに、自分の頭も心も久遠で一杯になっていた。
それを、堕姫は不思議にも不快にも思わなかった。
ただあるのは目の前の男をもっと知りたいという欲求のみ。
「じゃあこっちおいで。軽くお酒でも飲みながらお喋りしよっか」
「う、うんっ! あ、でも……」
「どうしたの?」
堕姫はそこではたと気づいた。
そういう店であることは知ってここに来たのだが、本来客として接待を受けるつもりなどはなく、見極めてそれで食うかどうかという腹積もりだったのだ。
そのため十分な金子を持ってきていない。
堕姫は懐に入っている有り金を確認する。
(ぎりぎりで……足りる、かな……?)
「あ、あの……お品書きをもらってもいい?」
「はい、どうぞ」
「…………う、うぅ……ダメだ……」
想定以上にどれも値段が高かった。
酒類などは一番低いものですら、一つ頼めば堕姫の持ち金全てが吹き飛ぶほどに。
流石に小料理は頼めないこともなかったが、こういった店で酒も頼まず料理だけというのがあまりに無粋であることは堕姫も理解していた。
(ど、どうしよう……)
悩み、焦りをつのらせる堕姫の耳に久遠の優しい声が響く。
「もしかして、お金足りない?」
「ご、ごめんなさいっ! こんなにすると思ってなくて……でもあの、お金自体がないわけじゃないの! ちゃんと、えーっと……家にはあるのよ! 本当に!」
堕姫はそう力説する。
家と呼ぶにはちょっとどうなんだという場所ではあるが、実際に金があるというのは本当だった。
何と言っても吉原で1、2を争う人気花魁である。
金は相当額もらっているし、特に使う場面もないということもあり、相当貯め込んでいた。
「でも、今持ってるお金じゃここのモノはほとんど頼めないの……ごめんなさい、せっかく私の為にお店開けてくれてるのに」
そう言って堕姫は項垂れた。
久遠ともっとたくさん話をしたいというのに、こんなんじゃその始まりにすら立てない。
自分以外にも大勢の女が彼に夢中になっているのは間違いないだろうし、今日を逃せばこのままずっと自分の『次』はまわってこないかもしれない。
当初の目的なんてどこへやら、堕姫は久遠ともう会えないかもしれないと考えて涙をじわりと浮かべた。
「じゃあ、今日は特別にツケでいいよ」
「…………え?」
そんな堕姫の耳に飛び込んできたのは予想外の言葉だった。
顔を上げると久遠の微笑んだ顔が近距離で映っており、堕姫は瞬くまに顔を朱に染めて視線をそらす。
そして、恐る恐る尋ねた。
「い、いいの……? だってあたし、ここに来るの初めてなのに……」
「うん、君は可愛いから特別にね。次俺に会いに来てくれる時にまとめて払ってくれればいいよ。次も会いに来てくれるでしょ?」
「行くっ! 絶対行くわ!」
「ありがと、ちゃんと君のことは信じてるから大丈夫だよ。会ってすぐに言うのもあれだけど、俺もまた君に会いたいしね」
久遠の言葉で、堕姫はもう天にも昇る心地だった。
また、会える。
しかも可愛いから特別に、という言葉までもらえた。
無惨に褒められた時の少なくとも万倍は嬉しい、と堕姫は思った。
「じゃあ好きなお酒注文しちゃっていいよ、えーっと……名前を教えてくれるかな?」
「あ、わらび……じゃなくて堕姫! 堕姫っていうの!」
「そっか、もう知ってると思うけど俺は久遠。今日はよろしくね、堕姫ちゃん」
久遠の笑顔を真正面から受け止めた堕姫は思った。これは運命だ、と。
自分のこれまでの生は久遠と出会うためのものだったのだ。
乙女思考が大暴走である。
そんな堕姫は、その後も久遠のさりげないボディタッチなどがある度に爆発しそうなほど興奮しつつも、確かな幸福を感じていた。
この世にいる女の鬼の中で、こんな幸福を手にしているのは自分しかいないだろうと確信するほど幸せであった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、やがて別れの時がやって来る。
名残惜しさで久遠から少しも離れることができない堕姫だったが、そんな久遠が言った。
「またすぐに会えるよ、明日もやってるから。明日、最後のお客さんが帰るころにまたおいで。堕姫ちゃんは俺の特別だから、最後に会う人は俺も堕姫ちゃんがいいな」
その言葉で堕姫の幸福ゲージはマックスを振り切った。
(あたし、今なら死んでもいい……いや、死んだら明日久遠に会えないからやっぱりダメ……!)
そんな意味不明のことを考えつつ、堕姫が店を出ようとすると後ろから優しく抱きしめられた。久遠だった。
久遠は堕姫の耳元にそっと顔を寄せて優しい声でささやく。
「俺も本当はここでお別れは寂しいんだよ。……また、明日。待ってるからね、堕姫ちゃん」
――それからのことはもうよく覚えていない。
堕姫はいつの間にか吉原に戻って来ていて、自室の布団の上にいた。
ハッと気を取り直した後、堕姫はすぐに明日のことを思い描く。
明日は何を話そうか、何かプレゼントを持って行った方がいいだろうか、そしてお金はもう使いきれないほど持っていこうだとか、そんなことを。
そして同時にこうも思った。
(あの人を自分のモノにしようとか、そんな考えは駄目ね。久遠はそんな誰かの所有物になっていい人じゃない。だから、そう……あたしが久遠のモノになっちゃえばいいのよ!)
堕姫の貢ぎ女としての方針が完全に固まった所で、彼女は今日の幸せと明日の幸せに包まれて柔らかな眠りにつくのだった。
炭治郎君が堕姫ちゃんに対して目立った反応しなかった理由は次回で。まあもうみなさま分かっているとは思いますが。
堕姫ちゃんは多分面食いだと思うので、ここの主人公にかかれば顔を見せた瞬間無惨様のかせが外れるくらいは余裕ですね。はい。
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ヒモ男と恋柱と女鬼と
今回はガチでモチベが保てなくて、本当に気合のみで書きました。
キツイ……書こうと思っている話同士の間を埋める話書くのキツすぎる……。
俺のホスト生活は順調に順調を極めていた。
しかしいくら順調といっても、まさか鬼も来店してくるとは思わなかった。
事前に炭治郎君に教えておいたサインによって分かったのだが、俺の目にはただの可愛い女の子にしか見えなかったので、驚きである。
というか今でもにわかに信じがたいのだが、あの嗅覚という範囲を超越したヤバイ識別能力を持ってる炭治郎君がそういうのなら間違いないだろう。
その時の炭治郎君は平静を装って普通に接客していたが、表情に焦燥がにじみ出ていたことに俺は気づいていた。つまりそれなりに危険な鬼だったようである。
しかし、当のその鬼『堕姫ちゃん』はどう見ても、普通に俺に好意を寄せてくれる女の子にしか見えなかった。
こういうことに関して俺は炭治郎君の嗅覚なみの自信がある。
なので俺は、もっと仲良くなったら鬼舞辻無惨の情報とかくれるんじゃね? と思った。炭治郎君に言ってみたら流石に無理でしょうと言われた。
しかし何事もやってみなくては分からない。
お館様への報告はちょっと待ってくれと炭治郎君に言い含めておき、堕姫ちゃんがウチに通い始めて一か月後くらいの時点で突っ込んでみた。
「堕姫ちゃんって鬼だよね?」と。
堕姫ちゃんは大層動揺していたようだったが、すぐに殺されるようなことはなかった。
というか顔を青ざめてなんかめちゃくちゃ怖がっていた。
いつものように慰めながら話を聞くと、どうやら鬼であるとばれたことで俺に嫌われたんじゃないかと怯えていたらしい。
あ、これいけるやん。と、俺はその時に確信した。
頭を撫で甘い言葉をささやきながら、君のボスの鬼舞辻無惨ってやつの情報が欲しいんだみたいなことを言ってみたところ、堕姫ちゃんはそれはもうペラペラと喋ってくれた。
躊躇した時のために、「俺と無惨、どっちが大事なの?」という技を残していたというのに実に拍子抜けである。
聞くと、どうやら堕姫ちゃんは俺と出会ってから無惨の呪いというか枷が外れたらしい。
無惨に行動を縛られることもないし、名前を呼んだだけで死ぬこともない。
ということで本当に色々なことを話してくれた。
上弦の鬼の名前や容姿、そして能力、無限城という無惨の拠点のこと、無惨が今は耳飾りを付けた鬼殺隊の少年を殺せと命令しているということ。
耳飾りを付けた鬼殺隊の少年って……と、そこで俺は炭治郎君とお互いの顔を見合わせた。
どうやら、なんか知らんけど炭治郎君は無惨に狙われているらしい。
その中で俺を探したりはしていないのかと聞いてみたが、そういう話は聞かなかったと言われた。
もう堕姫ちゃんは無惨の配下から外れているので確かめようはないが、やはり俺を探しているというのはなんかの間違いなんじゃなかろうか。
いくらちょっと顔が良いとはいっても俺は普通の人間だ。俺を捕まえたりしたってどうしようもないだろう。
まあそれこそ上弦の陸だったらしいめちゃ強い堕姫ちゃんみたいな鬼を使えば無理やりにでも捕獲することはできたはずで、それをしない理由もない。
つい最近までは一人でふらふら町を出歩いてたわけだし。
そして、一応そろそろ話が一段落した感じのところで、俺は堕姫ちゃんに「これからは人を食べないようにね」と言っておいた。
ずっと隠しておくわけにもいかないし、堕姫ちゃんがこっちの味方をしてくれるとしてもお館様にいずれは報告しなくちゃいけないだろう。
その時今もまだ人を喰ってるとなれば流石のお館様でも協力者としては認めない気がする。
逆を言えば、これまでたくさんの人を喰らっていようとも、もう人を食べることをやめていて、なおかつ元上弦の陸という立場にいた鬼ということであれば、お館様は受け入れるんじゃないかと俺は思っている。
この前の柱合裁判で感じた鬼舞辻無惨への執念は相当なもののはずだ。
最低限の筋を通していれば、有用なものは使うんじゃないかと思われる。
結果的に、堕姫ちゃんは少なくとも生きている人間を食べはしないということで納得した。
炭治郎君は少し複雑そうだったが、まあそれも仕方ない。
しかし俺はまだ鬼の被害を受けたこともないので、復讐心とかそういうものがないのだ。許してくれ。
そんなこんなでまたそれから一か月ほど経ったが、今も普通に堕姫ちゃんは店に通ってきている。
人を食べていないという約束もちゃんと守っているようだし(炭治郎君調べ)、もう少ししたらお館様に報告でもあげとくかーなんて俺は思い始めていた。
「……久遠さん、また賭場でお金使いまくってたけど大丈夫なんですか?」
とある日の事。
いつものように昼間町で遊んできたその足で店に入ると、炭治郎君が心配そうに問いかけてくる。
俺は気持ち胸をはりながら明るい顔で答えた。
「だいじょーぶだいじょーぶ! この程度の負け、今の俺の懐具合を考えれば痛くもかゆくもないからね!」
「いや、そうではなくて……しのぶさんに怒られるんじゃ……」
「……まあ言わなきゃばれないでしょ。というか金もかなりたまってきたし、別に無理して蝶屋敷に帰る必要もないからね」
「そ、それは駄目ですよ! しのぶさんだってアオイさんだってカナヲだって! みんな久遠さんを大切に思ってるんですよ! そんなことしたらみんな悲しみます……!」
「むぅ……とはいえ俺も自分の食い扶持を賄えるようになったわけだし、いつまでも居候を続けるのもねぇ。まあこれに関してはもうちょい考えるよ」
炭治郎君の異様な圧に押されてしまったが、ぶっちゃけ俺は蝶屋敷に住むこと自体にこだわりがあるわけじゃないし、むしろ今の生活スタイルを考えると町のどっかに住むのがいいんじゃないかと思ってる。
しのぶちゃんとか蝶屋敷の面々は嫌いじゃないけど、俺の気が向いた時に会いに行く感じのほうが気楽で良いのだ。
まあ確かにしのぶちゃんなんかは、今俺が出てったらメンヘラ一直線になりそうな気もするし、様子見はしなくちゃいけないだろうなぁ。
そんなことを考えていたら不意にお店の扉が開く音がした。
まだ開店時間には少し早い。常連の子ならそれくらい知ってるし、そもそも店前にはまだCLOSEDの看板があるわけだし、一体誰だろうか。
そう思って視線を向けると、そこにいたのは俺が見たことのある人だった。
「あ、久遠さんいた! こんにちはー!」
「あれ、君は確か……そうだ、蜜璃ちゃん」
扉の前で嬉しそうな笑顔を浮かべている桜色の髪をした女の子は、以前柱合裁判の時に会った甘露寺蜜璃ちゃんだった。
こんなに可愛い子なのに鬼殺隊の中でもめちゃくちゃ強い柱なんだから不思議である。
まあそれはしのぶちゃんも同じなんだけど。
「どうしたの? まだお店は開いてないんだけど……」
「あ、えーっと、その……久遠さんに会いたかったの。ここに来れば会えるのは分かってたけど、あれから私ずっとお仕事が忙しくて。ようやく時間が取れたから遊びに来ちゃったんだけど……迷惑だったかしら?」
「ううん、全然迷惑じゃないよ。俺も君とは一度ちゃんとお話したかったからね。お客の子が来るまででよければ、お相手するよ」
「わっ、やった!」
蜜璃ちゃんはパッと明るい太陽のような笑顔を浮かべ、こちらへ駆け寄ってきた。
「せっかくだから何かお菓子でも食べながらゆっくりお話ししようか。炭治郎君、なんか茶菓子ってあったかな?」
「えーっと、多分あると思いますよ」
「あ、大丈夫! 私、ちゃんとお土産にお菓子とお紅茶を買ってきたの! 炭治郎君、厨房ってどこかしら。お茶は私が淹れるから」
ややあって、テーブルには紅茶の入ったティーカップが3つとクッキーの入った皿が並べられた。
俺と蜜璃ちゃんはソファに隣同士で、炭治郎君は少し離れたところに座った。
「で、蜜璃ちゃんはわざわざ俺に会いにきたんだよね。嬉しいんだけど、どうしてかな?」
「だって久遠さん、すっっっっっっっごくカッコいいんだもん! こんなにカッコいい人、私今まで見たことない!」
「あはは、俺の顔を気に入ってくれたんだ」
「ううん、それだけじゃないよ。あの後しのぶちゃんから色々お話も聞いたの。しのぶちゃんがお姉さんを失った悲しみから抜け出すことができた時の話とか。それを聞いて、久遠さんって優しい人なんだなー、もう一回会ってお話したいなーってずっと思ってたの」
あの時はとりあえず場を収めるために適当言っただけだし、俺が優しいというのは普通に間違いである。まあ人非人ではないと思ってはいるけども。
「あ、そうだ。俺からちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なになに? なんでも聞いて! うちの家族のこととか猫ちゃんたちのこととか何でも話しちゃう!」
「蜜璃ちゃんのその髪って地毛? それとも染めたの? 前見た時に、すごく綺麗な桜色だなーって思ってさ」
そう聞くと、さっきまで元気一杯だった蜜璃ちゃんが途端に元気をなくして言いづらそうにしている。
え、なに。俺はそんなにヤバイ地雷を踏んだのか?
確かに女性の身体に対する質問は基本NGかもしれんが、髪くらいはいいんじゃないのか。
「え、えっと、あのね? 笑わないで聞いてほしんだけど……」
「大丈夫、笑わないよ」
「う、うん。その……私、桜餅が大好物で……」
「うん」
「さ、桜餅を食べすぎてたらいつの間にかこうなってたの……」
うん?
桜餅を食べすぎて髪が桜色になった?
そんな馬鹿な。
蜜璃ちゃんなりのジョークなのかと思ったが、彼女の顔や反応を見るに別に冗談で言っているわけじゃないらしい。
確かに、よく見る全体的に桜色な髪の毛先は薄緑色をしていて、桜餅のようにも見える。
つまり、桜餅を食べすぎると人は髪の毛が桜餅色になる……?
「それはまた……すごい可愛らしい理由なんだね」
「……笑わないの?」
「笑うっていうか、まあ驚きはしたけど……。その髪色は蜜璃ちゃんにめちゃくちゃ似合ってると思うし、いいんじゃないかな。少なくとも俺は好きだよ、蜜璃ちゃんの髪」
俺がそう言うと、蜜璃ちゃんは真っ赤になった顔を伏せ、隠すように手で覆う。
「う、嬉しいよぉ……男の人にそんなこと言われたこと、ほとんどないし……。久遠さんに言われると、なんかすっごく嬉しくて、ドキドキして、恥ずかしくなっちゃう……」
もじもじと身体をくねらせる蜜璃ちゃん。
なんか……こういう風に自分の感情を全部素直に表現する子は初めてだから新鮮だな。
いや、しのぶちゃんとかもはっちゃけると凄いんだけどね。
でも蜜璃ちゃんは本当に純粋で素直な女の子なんだなーと思う。
「蜜璃ちゃんはすごく可愛い女の子だよ。今まで蜜璃ちゃんを褒めなかった男は本当に見る目がない」
「う、うぅ……そんなカッコいい顔で甘い言葉を囁かないでぇ……。恥ずかしくて顔見れなくなっちゃう……」
「それに、見た目はそんなに可憐な女の子なのに、鬼殺隊で柱として頑張ってるのもすごいと思う。俺なんか男のくせに貧弱だからさ、そうやって誰かを守るための強い力がある蜜璃ちゃんが羨ましいよ」
さりげなく蜜璃ちゃんの肩を寄せ、頭を撫でながら耳元でささやく。
俺の必勝法であり、常勝法である。
まあ蜜璃ちゃんに力があることを羨ましいとは思っていないが、多分この子は人からの評価を結構気にするタイプのようなので、強い=女の子らしくない、ということを俺が考えていないんだよと伝えるための言葉である。
すると蜜璃ちゃんは予想通りパッと顔を上げて俺を見た。
「わ、私……男の人より強いけど、それでもちゃんと女の子らしいかな?」
「勿論、蜜璃ちゃんが女の子らしくなかったらこの世のほとんどの女子は女の子らしくないよ」
「……私、小さいころからすっごく力が強かったの。普通の人間じゃありえないくらい。それでも、ちゃんと可愛い女の子でいれてるかな?」
「当然。蜜璃ちゃんが強いことと、蜜璃ちゃんが可愛い女の子であることは別の話だしね。むしろ可愛いのに強いってことはその辺の女の子よりもすごいよ」
「私……すっごい大食いなの。女の子どころか男の人よりもずっと。初めて見た人はびっくりするくらいに大食いなの」
「俺はご飯をいっぱい食べる子、好きだよ。今度一緒にどこかに食べに行きたいな」
俺が言い終わるや否や、蜜璃ちゃんは俺にギュッと抱きついてきた。
「……久遠さん、優しい。そんな言葉をかけてもらったの、お館様に会った時以来だもん」
「そう? でも鬼殺隊の人たちとは結構仲良くしてるってしのぶから聞いたけど」
「仲良くしてると、私は思ってるんだけど……。
私、自分からすごく話しかけちゃう方だから、人からみたら仲が良さそうに見えてももしかしたら空回りしてるだけかもしれないなあって。柱の男性陣って宇髄さん以外はみんな口数少ないし、伊黒さんなんかよく私と一緒にご飯食べたりするけど、いつもホントは引かれたりしてないかなってちょっと不安だったの」
伊黒さん?
それが誰のことだかはよく分からんが、蜜璃ちゃんに好意を持っている男としてはあの小柄な蛇男が思い浮かぶ。
あの柱合裁判の時、明らかに俺に嫉妬の念を送って来てたからだ。
もし奴が伊黒さんなのだとしたら、それは普通に蜜璃ちゃんが好きで一緒にいるんだと思うし、今更蜜璃ちゃんの悩んでいることなんて気にしていないのは間違いない。
まあしかし、こういうのは言葉でちゃんと伝えないと届かないってところもあるからな。
積極的にアピールせずとも想っていればいつか伝わるはずなんてのは、漫画や小説だけの話だ。
実際はうじうじダラダラとしている間に、とにかくアピールをしていた者が意中の女の子をかっさらっていく。それがリアルな恋愛の常である。
だから……すまん、伊黒君。
別に君の恋愛を邪魔しようとする気は更々ないんだけど、今回は君の内心のフォローとかはしないでおきます。
「他の人がどう思っているかは分からないけど、少なくとも俺はどんな蜜璃ちゃんでも受け入れるし、好きになれるよ」
「久遠さん……」
そして俺は顔を赤くした蜜璃ちゃんと見つめ合う。
自然と互いの手を握り締めて指を絡ませ、どこのベタな恋愛シーンだよという感じの構図である。
近くで炭治郎君が気まずそうにしているがスルーだ。
蜜璃ちゃんは完全に恋愛世界に入り込んでるし、俺は別に人目があっても気にしない。
さあ、ここから俺の女の子堕としテクニックにおける必勝コンボを――
「す、すいませーん……」
突然ガチャリと扉が開く音と共に誰かの声。
俺と蜜璃ちゃんはその驚きで飛び跳ねるようにパッと距離を離した。
え、誰……? もう開店時間だったっけ?
そう思って時計を見ると、まだ30分ほど時間はあった。
つまり常連の子じゃない。とすると、マジで誰なんだ。
逆光でよく見えないそのシルエットに俺は目を凝らす。
「あ、久遠。こんなとこでお店やってるって聞いて、私急いで来ちゃったよ」
「その声……零余子ちゃん?」
「そ、久しぶり。久遠」
扉が閉じ、逆光が消えるとその人物の姿がよく見える。
本日突然の来訪者二人目は、町でちょくちょく会っている零余子ちゃんだった。
「いや、本当に久しぶりだね。どうしたの最近? ここ二か月くらい会えなかったけど」
「あー……仕事してたのよ、結構忙しくて大変な仕事。それがようやく安定してきて、時間もできたから久遠に会いに来たわけ」
「へー、どんな仕事?」
「それは――って、二か月も会えてなかったのに久遠、全然嬉しそうじゃないし! しかもなんか隣にはまた違う女いるし! 私がどんな思いで……って、え…………」
零余子ちゃんが突然言葉を切って、顔をサッと青ざめさせる。
視線の先にいるのは蜜璃ちゃんだ。
蜜璃ちゃんの方はといえば、こっちも大分険しい顔で零余子ちゃんを見ていた。
……これはどうも痴情云々って感じではなさそうだ。
蜜璃ちゃん側の視線はさておいても、零余子ちゃんが蜜璃ちゃんを見て『怯え』を顔に出すのはおかしい。
じゃあ一体何が……と思っていると、俺の前に出た炭治郎君が背中に手をまわしてサインを作った。
事前に取り決めておいたそのサインの意味するところは、『鬼舞辻ではない鬼』。
…………ふむ。
「え、零余子ちゃんって鬼だったの?」
「っ!」
「ちょっ、久遠さん!? 何のためのサインですか!」
あ、やべ。
つい口に出してしまった。
いやでもなぁ……。いくらなんでも数か月くらいの付き合いになるというのに、今更零余子ちゃんが鬼と言われても中々信じられない。
だって本来鬼は人を喰うもののはずだ。
零余子ちゃんが鬼だったとしたら普通に喰われるだろう場面は何十回もあった。
それでも俺はこうして生きているし、零余子ちゃんとも仲良くしていると思っている。
で、当の零余子ちゃんはというと、より一層顔を青くし、俯いたまま身体を震わせていた。
「炭治郎君、間違いないの?」
「はい、間違いなくその女性は鬼です」
「しかもそれなりに力を持ってる鬼ね。恐らく下弦の鬼くらいあるはずだわ」
炭治郎君の言葉に蜜璃ちゃんが補足する。
なるほど、強者は強者の気配が分かる的なアレか。
しかし、下弦の鬼かあ……。
最近よく会う堕姫ちゃんがそれより上の元上弦で、下弦の何かもちょっと前にしのぶが討伐してきたらしいし、正直あまり怖さが実感できない。
いやそこら辺の鬼より強いんだろうけどさ。
そもそも、俺はこの世界に親兄弟も誰もいなければ、鬼に誰か大切な人を殺されたという経験もない。
だから鬼への復讐心とか憎悪とかそういうものがまずないのだ。
零余子ちゃんが鬼だったと聞かされても、別に俺が被害を被ったわけでもないし「へーそうなんだ」で終らせてしまえることである。
とはいえ、ここに鬼殺隊の隊士がいる以上、そういう訳にもいかないのだろう。
「……あー、お二人さん。ここは俺に任せてもらっていいかな?」
「ダメ! 危険だよ! 様子を見るに知り合いだったんだろうけど、頭のいい鬼は目的の為ならそれぐらいするの! 鬼だと分かった以上、鬼殺隊として民間人を近づけるわけにはいきません!」
ついさっきまでのぽやんとした雰囲気は全くなく、毅然とした顔つきで蜜璃ちゃんは俺に向かって諭す。
言っていることはまあ正しい。
正しいんだけど……ここで蜜璃ちゃんの言うとおりにしたら零余子ちゃんはきっと碌な目に合わないだろうし、堕姫ちゃんという前例がある中、零余子ちゃんだけを見捨てたらなんだか目覚めも悪くなる。
どうしたものかと考えていると、炭治郎君が難しそうな顔をしたままポツリと言葉を漏した。
「……俺は、久遠さんに任せます。この人からは敵意とかそういう攻撃的な感情がないんです。ただ、とても怖がっていて、悲しんでいます。話ぐらいはしてもいいんじゃないかなと思うし、もし話をするなら久遠さん以外に適任はいないんじゃないかなって」
ここで炭治郎君からの心強い援護である。
匂いで他者の感情なども分かる炭治郎君が、零余子ちゃんの害意のなさに言及してくれたのは大きい。
「ありがとう、炭治郎君。……そういう訳だからさ、蜜璃ちゃん」
「う、うぅ……でも、万が一久遠さんの身に何かあったら本当に大変なことになっちゃうんだよ……?」
「分かってる。でも、この場の誰も悲しまないような結果に持って行けるのは俺しかいないしね。俺がやらないと」
そして、俺は二人の前に出ていき、零余子ちゃんの正面に立つ。
「零余子ちゃん」
声をかけると肩をビクッと揺らし、恐る恐るといった感じで俺の顔を覗き込んだ。
「……ごめんなさい。騙すつもりじゃなかったの。でも、私が鬼だって知ったらきっと嫌われちゃうって思ってずっと言えなかった。初めて会ったあの時から、久遠を食べようとなんて思ってなかったし、ただ時々一緒にお話しできればよかったの。本当に、それだけで……」
「いや、俺は全然気にしてないよ」
「……へ?」
俺のいかにも軽い調子の答えに、零余子ちゃんは間の抜けた声を上げた。
「気にしてない……?」
「うん、びっくりはしたけど。俺は、鬼は怖いなあと思うくらいで特に思うところがあるわけじゃないし、零余子ちゃんがどういう子なのかはもうちゃんと知ってるしね。そうなったら鬼も人も関係ないよ」
「…………久遠っっっっっ!」
言い終わると同時に零余子ちゃんが俺の胸に飛び込んできた。
そのまま胸に顔をうずめて声を殺して泣いている。
俺はそれを慰めるように優しく、丁寧に、頭を撫でてあげた。
……ミッションコンプリート。
ふっ、いやあイージーゲームですね。
零余子ちゃんは普段からちょっと褒めるとデレデレになるチョロツンデレみたいな子なので、こうやって一言不安を解消する言葉を言ってあげればいいのだ。
で、慰めもそこそこに、とりあえず零余子ちゃんから色々と詳しい話を聞くことにする。
すると分かったこととして、
①俺にスムーズに会えるように、アオイちゃんの力を借りていた。(どうやらアオイちゃんは零余子ちゃんが鬼であるということ知っていたうえで助力したらしい)
②俺と会ってからは人間を殺して食べていないらしい。たまに死体を食べることはあるが、基本的にはまず食べていないとのこと。(これが、アオイちゃんが力を貸す上での条件だったようだ)
③鬼舞辻無惨の枷はいつの間にか外れていた。堕姫ちゃんと同じように名前を口にしても問題ないし、もう支配下にもないんだとか。
④零余子ちゃんは下弦の肆。
⑤最近は鬼の体力をいかして、個人で配達サービスのようなことをしている。
こんな感じだった。
アオイちゃんが力を貸しているというのは知っていたが、まさか鬼だと分かったうえでの行動だとは思わなかった。
まあ賢い子だからその時色々考えてのことなんだろうけど。
で、人を食べていないというのは非常に良い情報だ。
炭治郎君に確認したところ嘘もついてなかったようだし、その計算なら堕姫ちゃんよりもずっと長い間人食いをしていないことになる。これはお館様に向かってアピールする点としてはかなり高ポイントだと思う。
さらには無惨の枷が外れている鬼で、なおかつ下弦という十二鬼月であるというのも、有用性はばっちりなんじゃないだろうか。
あと、さっき言ってた仕事っていうのがこの運び屋みたいなものらしい。
鬼の脚力なので速さは折り紙つき、しかし個人でやっているので結構危ないモノを運ばされることもあって、評判がついてきて仕事が安定するまで時間がかかったのだとか。
でも、人間の仕事をして、社会に溶け込んで暮らしていこうというその姿勢もまた良いのではないかと思われる。
ていうか零余子ちゃん、鬼がどうとかというよりも、なんか俺よりもまっとうに働いている社会人な気が……。
「仕事で色んな人と触れ合うの。老若男女、本当に色んな人と。
そうやって自分が『人』として人と関わってると、鬼としての自分の今までをすごく突きつけられるんだ。
今まで殺して、食べてきた人はたくさんいるし、もう覚えてもない。でも今になって、これまで何にも感じなかったそれが、すごく重いことに感じられるようになったの。それは自分の心が少しでも『鬼』じゃなくなったのかなあって……最近は思うんだよね」
そう語る零余子ちゃんを、蜜璃ちゃんは複雑そうな顔で、しかしどこか眩しそうに目を細めて見ていた。
蜜璃ちゃんの説得は多分、大丈夫そうだ。俺はそう思った。
当初はこの後無惨様視点を入れようと思ってたんですが、流石に話がごちゃごちゃしすぎてるのと、零余子が出て以降を書くのが苦行過ぎて(零余子ちゃんが嫌いなわけではないです)、体力が残ってませんでした。
あと1万字超えそうだったからってのもあります。
しのぶさんもそろそろ出したいけど、まずは次、無惨様からですかね……。
というかここからはしのぶさん出てもそんなに平穏な空気じゃないと思われます……。
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それぞれの思惑
しのぶはここのところずっと機嫌が悪かった。
理由は単純、久遠と一緒に過ごす時間が少ないからだ。
久遠が「ホストクラブ」なる所で働き始めてからというものの、連日朝帰りは当たり前。それにより生活リズムもずれ、仕事でない日でもゆっくり話す時間すら取れない、なんていうことが日常になっていた。
しかも、あろうことか久遠のしている仕事は女を接待するというものなのだ。
連日連夜、久遠が様々な女たちと戯れているなんてことを想像するだけで、しのぶの心にはふつふつと怒りが湧きあがる。
なぜ市井の女が久遠と自由に交流できて、自分は駄目なのか、という不満は日ごとに高まっていた。
そして、これもしのぶのストレスになっている要因なのだが、しのぶは上記の不満を久遠本人にぶつけることができなかった。
このホストクラブを巡る全ての事柄は産屋敷耀哉による承認と命令に基づくものであるからだ。つまり、鬼殺隊の方針として久遠の仕事を支援するという形になっているのである。
重大な任務ともいえる仕事に励んでいる久遠を、自らの私情で責めたりするのは許されない。それはしのぶ自身も分かっていた。
分かってはいるのだが……。
(…………納得、できるかは別の話……)
夜、灯りのない真っ暗な自室にて。
しのぶは爪を噛みながら、表情のない顔で虚空を見つめる。
(……昨日も色んな女の匂いを付けて帰ってきた。あの淑やかさを勘違いしたような品の欠片もない香水の匂いには本当に腹が立つ……よくもまあその女磨きの浅さで久遠の前に立てたこと。本当に忌々しいったらない……)
平時のしのぶではありえないような思いが心の底からどんどん溢れ出てくる。
それを止めようとも思わなかった。
きっと自分は少しずつおかしくなっている。それはしのぶにもはっきりと分かっていた。
久遠に出会うまでは、亡き姉のようにどんな時も笑顔を絶やさず心を平静に、そして誰にでも優しく。そんな風にずっと生きてきた。
だから今みたいに他の女性を下に見るようなことはなかったし、ましてや――――そんな女性たちに全員死んでほしい、なんて――
(…………本当に殺そうなんて思ってるわけじゃないし、別にいいでしょう? 死んでほしいと願うことくらい)
それは果たして誰への言い訳なのか。
久遠か、はたまたカナエか。
しのぶは爪をガリガリと噛みながら、久遠に群がる女たちが1人、また1人と倒れていく様を空想して口角を持ち上げる。
「しのぶ、起きてる? 夕飯できたけど食べれるなら……」
その声でしのぶは我に返った。
一瞬で背筋をピンと伸ばし、口元にあった手を膝の上にのせて正座の体勢をつくる。
戸が開けられて後ろの気配も感じているが、振り返らずとも誰かは分かっていた。
ずっと待ち望んでいた声。
どんな時でも自分を安心させてくれる声。温かくて優しくて、それに包まれると思わず眠ってしまうような……そんな、しのぶの大好きな久遠の声だ。
それと同時に思い出す。
自分は少し具合が悪いと言って自室に引っ込み、夕飯の準備も他の人たちにしてもらっていたことを。
つまり、蝶屋敷の面々はしのぶが今寝ている、少なくとも布団に横になっていると思っているはずであり、そうすると部屋のど真ん中で正座している今の状況はあまりに不自然だった。
案の定久遠はしのぶの姿に驚く。
「え、しのぶ……どしたの?」
「え? な、何がですか?」
「何がって、なんで部屋のど真ん中でただ座ってるのかなって。具合悪いんじゃなかったの?」
「あ、もうそれは大丈夫です! ばっちり治りました! だからその、えーっと……考え事をしてたんです。座って、ボーっと」
「……部屋の灯りもつけないで?」
「は、はい……」
久遠は当然いぶかしげな顔をしていたが、やがてパッと笑顔を浮かべると、「体調が良くなったならよかった」と言った。
ああこれだ、としのぶは思う。
この笑顔を向けられるだけで、今抱えているあれこれ全部がどうでもよくなってしまう。
久遠に不特定多数の女が群がっているということも。
同僚である甘露寺蜜璃や継子であるカナヲまでもが最近は久遠への距離感がぐっと近くなっていることも。
鬼殺隊と協力体制をとる鬼ということで、突然元下弦の肆と元上弦の陸とかいう女鬼がやって来て、そいつらの久遠への好意があからさますぎることも。
今この瞬間。
彼の笑顔が自分に向けられている瞬間だけは、何もかもを許せる気持ちになれた。
堪えきれずに久遠の胸に飛び込む。
「おっと……どうしたの? 急に甘えたくなった?」
「……うん」
久遠の胸に頭をグリグリと押し付けながら、身体全体でその温もりに包まれているしのぶは、ここのところ一番の幸福を実感していた。
なにせ今まで当たり前にしていたこんな触れ合いすら、しのぶにとっては本当に久しぶりなのだ。
自分が一体どれだけコレを求めたことか、としのぶは思う。
どんなに多忙な時でも、久遠を欲しない日などなかった。つまり、それだけ自分は我慢し、耐え忍んできたということだ。
(ああ……久遠……久遠……ずっと側にいたい、ずっと側にいて欲しい……もうこのまま離したくない…………)
じんわりと心が温かくなる。
胸を覆っていた黒い霧も一気に晴れていく。
さっきまでの陰鬱さはどこへやら、しのぶは最高に上機嫌だった。
しかし――
「あ、そうだしのぶ。俺、町中の空き家一軒借りたから。これから遅くなる日はそこに泊まるかもしれないからね」
「…………え」
まさに急転直下。青天の霹靂。
しのぶは身体の一切の動きをピタッと止めて固まった。
「いやー、やっぱり店が町の中心にあるから蝶屋敷は少し遠いんだよね。ここを出ていくわけじゃないんだけど、あっちに泊まった方が効率も良い時もあるしさ」
「……………………そうですか」
しのぶは、一気に覚め冷え切った頭で思考をまわす。
やはりこのままでは駄目なのだ。
今の状況が続いては久遠がどんどん離れていってしまう。
半ば確信のような思いがしのぶにはあった。
では、自分から離れていく久遠が悪いのか? 久遠本人をどうにかすればいいのか?
否、久遠が気ままで自由に生きる人間であることなど分かっていた。
だからこそ、久遠の意思を変えさせるのでなく、この状況を変えなくてはならないのだ。
(……やはり目下一番の問題は鬼舞辻無惨の所在が未だしれないこと。なんとか、なんとか尻尾でも掴まないと、このままじゃまずい)
そんな風に焦る内心とは裏腹に、思考は驚くほど怜悧だった。
しのぶは一つずつ丁寧に推測を積み立てていく。
(鬼舞辻が久遠に目を付けているという、お館様の予想が外れてた場合のことは考えたくない……そうなったらもうお手上げ。だから鬼舞辻が久遠に目を付けているとして、一つずつ可能性を考えていこう。
鬼舞辻が相応の距離からでも鬼殺隊の気配を察知できるとすれば、今現在久遠に接触しないのは当然ね。そばには炭治郎君がずっと付いているわけだし。本当に鬼舞辻が久遠と接触を図ろうとしているなら、今の状況には奴もそれなりに苛立っているはず。
なら、どうする……? 久遠に会いに行こうにも会えない、だけど会いたい。そうなれば、そう――久遠の方から来てもらうしかない)
そこまで考えて、しのぶはハッと思い出す。
「……手紙」
「うん?」
「久遠の店のお客様やそれ以外の町娘たちから、大量に届いているあの手紙。ありましたよね」
「あーそうだね、ざっと目を通しはしたんだけど、あれだけの量だと扱いに困っちゃって。今は全部箱の中に入れて押し入れの奥に置いてるよ」
「あの、それ……私が見てもいいですか?」
「しのぶが? どうして?」
「ちょっと気になることがあるんです。勿論、よくない行いだということは分かってはいます。でも……もしかしたら鬼舞辻に繋がる何かがそこにあるかもしれないので」
少し困ったような顔をしていた久遠だったが、しのぶの口から出た『鬼舞辻』という言葉に反応して真面目な雰囲気になる。
「女の子たちからの手紙に鬼舞辻に繋がる何かがあるの?」
「勿論、今の段階ではただの推測ですけどね。少なくともそこに私の予想していたようなものがなければ、私の仮定が一つ消えるっていう話です」
「そっか……じゃあまあ、好きに見ていいよ。しのぶがそこまで真剣になるなら何か理由があるんだろうし」
「久遠っ! ありがとうございます!」
久遠に抱きつきお礼を言った後、しのぶは早速久遠の部屋に行き、大量の手紙を片っ端から見ていく。途中、夕飯を食べないのかと何度か聞かれたものの、全て断って一心不乱に手紙を読み込んでいった。
そのほとんどが久遠への愛をこれでもかと囁く、非常に気色の悪い文面であり、しのぶの気分は否応なく悪くなっていったがそれでもぐっと我慢して読み続けた。
可能性が少しでもあるなら、これにかけるしかないのだ。今のしのぶにできる最大限がこれなのだから。
そして夜も明け、空が白み始めてきた頃、ついに――
「見 つ け た」
連日の過労に加え、今日の寝不足により真っ赤に充血してしまった目を見開いて、しのぶは口を大きく釣り上げた。
「久遠への異様な執着が分かるこの文章、はまあいいとして……久遠の店には何故か行けず、久遠から自分の所へ来てもらおうとしていること、そして会うにあたっての不自然なまでの条件付け。
浅霧灯子……徹底的に洗うべき女が見つかった。……ふふふっ、うふふふふふふっ! あはははははは!」
体も頭も疲れ切っているのか、昏い笑い声が喉から溢れ出るのをどうにも止められなかった。
やがて笑いが収まると手紙を横に置き、ようやく就寝――とはならない。
しのぶは箱から次の手紙を取り出す。
「まあ予想通り最近寄りの手紙でこれがありましたけど、他にないとも言い切れないからちゃんと見ないとダメですね。
で、他にはなかったら次は、浅霧灯子とかいう女をどうやって調べるかを考えないと……」
ぶつぶつと呟きながら手紙を開くしのぶ。
どうやら、しのぶが床に就くのはまだまだ先の事になりそうだった。
◇
無惨はここのところ酷く不機嫌だった。
理由は単純、久遠に会えていないからである。
……なにやら既視感を感じなくもないがそれは置いておこう。
ホストクラブなる場所で久遠が働き始めたことを知った無惨は、当然自身も足を運ぼうとした。
しかし、そこで気付いたのだ。久遠の側にあの耳飾りをつけた鬼殺隊士がずっと付いていることに。
こうなっては迂闊に久遠に近づくわけにはいかなかった。
あの耳飾りの隊士は自分のことを識別する何らかの術を持っているからだ。
なので、久遠が1人になる隙を見つけようと機会をうかがっていたのだが、待てども待てどもそんな時は訪れない。
久遠が町を歩く時、店にいる時はずっと側に付いていて、ようやく離れたと思えばそこは蝶屋敷である。接触する隙などあろうはずもなかった。
ここで無惨も流石に気づく。
間違いなく意図的に、久遠の周りに人を付けていると。
もしかしたら自身の存在に勘付かれたのかもしれない、そう思うと動きに慎重さが増すのも仕方のないことであった。
仕方ないこと、ではあるのだが……
(納得、できるかは別の話……)
灯り一つない真っ暗な自室にて、無惨は憎々しげな形相でガリガリと爪を噛む。
久遠に会いに行くことが全く叶わず、もう2か月近く言葉を交わせていない。
どうにか会いたいが、こちらから出向くことは不可能である。
ならば久遠の方から会いに来てはもらえないかと、1人で自分の屋敷に来て欲しいということ、できれば夜がいいということ、久遠の都合が空いている時でいいのでいつでも来てほしいということを記し、ついでに久遠への思いもありったけ綴った手紙を送ったが、久遠からの返事は「時間が取れなくて難しい」というものだった。
ところで、無惨は久遠宛に他の女たちから大量の恋文を寄せられていることは知っていたため、それに紛れれば特段あらためられることもないだろうと考えての行動であったが、とはいえ送り先は蝶屋敷である。
リスクマネジメントをしっかりするならば、足が付く可能性のあることはするべきではない。
しかし、もう無惨も我慢の限界だったのだ。
どうにかして久遠に会いたかった。久遠に会うための可能性ならば、多少の危険を犯してでも掴みたかったのである。
まあそれも結局は空振りに終わったため、今無惨はこうしているのだが。
そして、さらに無惨を苛立たせている原因がもう一つあった。
それは、下弦の肆・零余子と上弦の陸・堕姫、妓夫太郎とのつながりが完全に切れたことである。
零余子の視界を覗く力の精度が悪くなっていたことには気が付いていたが、まさか自分のかけた呪いまで外してしまうとは無惨も思っていなかった。それを成したのはこれまでで珠世という女鬼のみであった。
心当たりはある。ほぼ間違いなく久遠だ。
零余子が久遠と接していたことには気が付いていたし、非常に忌々しいことであるが『強い想い』とやらが自身の課した呪いを外すのであれば、久遠への想いというのはそれはもううってつけだろう。それは無惨自身が身を持って感じたことだった。
堕姫が久遠と接触していたことには気付かなかったが、他の可能性は考えにくい。
少し前までの、堕姫の無惨への心酔ぶりを考えれば、それを遥か上回るほどの存在に出会ったとしか思えないのだ。
まあこれらのことも、久遠に出会えばさもありなんと思ってしまう自分がいる一方で、裏切られたことへの怒りに身を震わせる自分もいる。
乙女無惨と支配者無惨の葛藤である。
ともかく、2か月近く久遠に会えず、これから会える目途も全くもって立たない。
無惨の苛立ちはもうピークに達しており、とりあえず今すぐ蝶屋敷を襲撃して女たちを皆殺しにし、久遠を連れ去りたいなんて考えてしまうほどだった。
現実的にはそれは不可能だ。
鬼だとばれないために散々手を尽くしてきたのだから。
いや、ともすれば――
(彼なら、受け入れてくれそうな気も……する)
実際に久遠が、無惨が鬼であることを受け入れてくれるならば、いくらでもやりようはあった。
それこそ久遠にも鬼になってもらい、他の鬼たちを全部消滅させた上で二人静かに暮らすというのもありかもしれない。
人を喰らわなければ鬼殺隊に見つかることもないし、日本中からたった二体の鬼を探すのは至難の業だろう。
だからせめて、そう……太陽を克服して普通の人間と同じように生活できるようになれば……。無惨はそう強く思う。
太陽さえ克服すれば、鬼は完全に人間より優れた種族になるのだ。
力を強めるならば人を喰う必要があるが、喰わなくても死にはしない。
久遠が嫌がるならば自分もしないだけだし、最悪は二人の身を守れるだけの力が残っていればいいとすら思っていた。
つまり唯一にして、最大の問題。それが太陽だった。
無惨は今まで生きてきた中で間違いなく一番だといえるほど、切実に太陽を克服したいと願っていた。
だから青い彼岸花を見つけるために、今も全国で鬼を走らせているのだが、どうも期待は薄そうである。
そもそも本当に存在しているなら、この1000年以上見つからないのはいくらなんでもおかしい。どの学者の文献にも全く書いていないというのも、その現実感のなさを際立たせていた。
結局のところは手詰まりなのだ。
何もかもが停滞した状態。だからこそ無惨はこうやって爪をガジガジ噛みながら、やり場のない怒りを溜めこむしかない。
そんな時である、自室の戸をノックする音がした。
恐らく屋敷の使用人だろうが、今まさに機嫌最悪である無惨は額に青筋を浮かべながら入るように促す。
くだらない内容だったらどうしてくれよう、そんなことを考えて――
「あの、天川様がお越しになられているそうですが……」
「すぐに行く!」
久遠が屋敷を訪ねてきたと聞いて無惨は部屋を飛び出した。
一秒でも長く久遠を待たせたくない。
いや、それよりも自分が一秒でも早く久遠に会いたい。
先ほどまでの陰鬱さはどこへやら、顔に喜色を浮かべ、頬を上気させながら居間へと急ぐ。
ちなみに、無惨はいつ久遠が来ても良いように毎日ばっちり化粧をしているので、会うための準備などはいらなかった。
凄まじい速さで居間の扉の前まで辿り着き、そこでようやく一度落ち着く。
このままの勢いで入りそうなところだが、久遠の前では完璧な淑女としてありたい。
多少乱れた服装や髪を整え、息を一つ吸ってから扉を開けた。
「やあ、灯子さん。こんばんは。夜遅くに尋ねちゃってごめんね」
「……久遠様っ!」
そこにいたのは毎日毎晩、心の底から待ち望んでいた人。
その顔を見て、声を聞いた瞬間、自分を取り繕うことすら忘れて無惨は久遠に抱きついてしまう。
久遠はそんな自分を拒むことなく、優しく抱きしめ返してくれた。
「中々会いに来れなくてごめんね、手紙でも書いたと思うけど色々忙しくてさ」
「いいえ、お仕事なら仕方ありません。私のわがままで久遠様に迷惑をかけるわけにはいきませんし……。今日こうして会えただけでもう十分です」
「そう言ってもらえると助かるよ。なんか今日は丁度お店がお休みで、しかも同居人がほとんど出払っててね。いつもなら止める人もいないからこうやって夜に出歩けたんだ」
「そうだったんですね……」
そこで、無惨は一度久遠から離れると深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。本来なら私が会いに行けば済む話だというのに、わざわざ久遠様にご足労いただく形になってしまって」
「あー、別にいいよ気にしなくて。大した手間じゃないし、灯子さんが太陽の光を浴びれないっていうのも分かってるからね」
「ありがとうございます……」
そして居間での話もそこそこに、無惨は久遠と共に外へ出た。
元々、手紙で夜を指定したのも久遠と共にある場所へ行きたかったからだった。
屋敷の裏手にある小さな山。
少し歩けばすぐに頂上へとたどり着くことができ、そこにはまさにおあえつらえむきといった風にベンチが置いてある。
「灯子さん、ここは?」
「うちの敷地にある裏山なんですが、ここから見る星がとても綺麗で、ぜひ久遠様と一緒に見たいなと」
「星、ね……」
「……あまりご興味ないかもしれませんが、どうか私のわがままに付き合ってはいただけませんか? 久遠様と共に星を見ながら語らうのが夢だったのです」
少し気落ちしたように、上目使いで懇願する無惨。
それを見た久遠は困ったように頬を掻き、苦笑する。
「……そんな風に言われたら断れないって。いいよ、たまには外で星を見ながらお喋りするのもいいかもね」
久遠の言葉を聞いた瞬間、無惨はパッと華やかな笑顔を浮かべ、いそいそとベンチにハンカチを敷いたりと座るための準備をし始める。
ちなみに、どうして無惨が突然このような行動に出たのかというと、ごく最近読んだ恋愛小説の一節にそういうシチュエーションがあり、どうしてもそれを実現したかったのだ。
それまで星を美しいなどと思う心は一ミリも持ち合わせていなかったというのに、いつか久遠と共に星を見る日の為に、何度も予行練習をしては、星についての勉強までしたというのだから健気なものであった。
そして、それから二人は会えなかった時間の空白を埋めるかのように言葉を交わした。
そのほとんどはお互いの日常を語るというだけの他愛のない話。
しかし、無惨はそれだけで本当に幸せだった。
久遠と顔を合わせて話をするということ、それこそが無惨がこの二か月どれだけ欲してもずっと手が届かなかったものだったのだから。
そうやって話をしているとあっという間に夜は更けていく。
久遠が寒さに身震いしたのを見とめ、無惨は「そろそろ戻りましょうか」と言った。
今度またいつ会えるかは分からず、それを思うとこのまま一生ここに久遠といたい気持ちだった。
しかし現実的に朝はやってきて、無惨は日の光を避けねばならず、久遠はまた元の日常に戻らねばならない。
名残惜しさは胸から溢れんばかりにあれど、今日の逢瀬はこれで終わりだと無惨は自分に言い聞かせた。
ベンチから立ち上がり、さあ帰ろうというところで、久遠が何気なく言った。
「お、あんなところにすごく綺麗な花がある。あれって灯子さんが育ててるの?」
「えっと……どの花でしょうか。暗くてよく……」
「ほら、あれ。あの青い花だよ。月明かりに照らされてすごく綺麗だと思わない?」
久遠の指差す方を見て、無惨は唖然とした。
「え、あ……う、嘘…………」
それは、とてもとても美しい花だった。
月光の下で青い輝きを放つそれは、見る者の目をつい奪ってしまうような妖しい美しさに包まれていた。
しかし、ただ美しいだけの花に無惨がここまで驚愕するはずがない。
無惨は一目見た瞬間に分かったのだ。目の前にあるものが、自分が1000年以上にわたって追い求め続けた花であることを。
そう、久遠が見つけたその花は、まさしく無惨が渇望していたあの『青い彼岸花』だったのである。
「あれ、灯子さんが育ててたわけじゃないの? じゃあこれ自然にここに生えたってことか、すごいな」
久遠の言葉に何かを返さなきゃと思いながらも、無惨は未だに固まったままで口が動かない。
育てる? そんなことができていれば1000年もの間苦労するなんてことはない。
自然に生えていたにしても、それなら無惨が見落とすはずがないのだ。ここには事前に何度も来ていたのだから。
久遠と会う今日この日までの少ない時間でいつの間にか生えていた、なんていう確率はあり得ないに等しいだろう。
しかし今はそのありえないことが起こっているとしか思えない状況だった。
(ふ……くふっ、くふふふふふふふっ!)
じわじわとやってきた喜びを実感するとともに、無惨は心の中で笑う。
(天啓、運命――論理的でないけれど、そんな言葉しか浮かばない。間違いなく、久遠様と私は天に祝福されている。……いや、天に愛されているのは久遠様だ。私はそのおこぼれにあずかれただけ。
でも、その結果として1000年間追い求めたものが手に入った……しかも、まさに絶好の状況下で……これを運命と呼ばずして何と呼ぼうか!)
青い彼岸花が手に入る、それはすなわち太陽の克服に一気に迫ったということ。
つまり……ついこの前まではただの無惨の夢想でしかなかったのが、現実的な実際の計画になりうるということだった。
(蝶屋敷襲撃、これが視野に入るということだ。くくく……上弦たち全員に召集をかけるか。万が一にも失敗は許されないからな)
無惨は急速に思考をまわして計画を練り上げつつ、久遠に向かって嫋やかな微笑みを浮かべて頭を下げる。
「久遠様、ありがとうございます」
「え、何が? どうしたの急に」
「久遠様のおかげで私の昔からの願いが叶いそうなのです。本当に、どれだけ感謝の言葉を尽くせばよいのか分かりません」
「え、うーん……よく分からないけど、まあどういたしまして、と言っておくよ」
「今は分からないでしょうけれど、そう遠くないうちに全てお話ししますわ。その時は、きっと――」
――久遠は自分の側に、自分だけの側にいるはずだから。
(久遠様にまとわりつく女ども……一人残らず殺してやろう。せいぜい残り少ない余生を楽しむがいい)
久遠の周りにいる邪魔な女を全て排除し、その隣にいるのは自分だけ。
彼から笑顔を向けられるのも、優しい言葉をもらえるのも、温かい手で触れてもらえるのも、自分だけ。
そんな甘美な未来の妄想をするだけで、歪んだ笑みが溢れ出そうだった。
巻きでいきます。
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