アンデルセンは笑っている (小千小掘)
しおりを挟む

序章・ドラマツルギー
影巣食う、人の幸


面倒くさがりにして好奇心旺盛かつトラブル体質な青年、浅川恭介(あさがわ きょうすけ)。
悔恨を抱え、彼はかの実力至上主義の教室へと踏み入れる。

今日も彼は、程々な幸福を求めて奔走もとい逃走する。
いつどこでどんな不幸に遭ったとしても、傷つかず、傷つけず、受け止められるように。

その姿は、時に前向き、時に後ろ向き。

彼が目指すのは、安寧なる生と死。満たされるのなら、他人は疎か、自分の身さえどうでもいい。

彼は案外欲張りである。


 「人は平等であるか否か」

 

 

 なかなかに哲学的かつ形而上的な問いではあるが―――これに答えを求めるのは無意味である。

 理由を簡潔に述べるなら、それは生産性がないからだ。

 

 仮に平等であったとしよう。すると大抵の人々は「どれだけ努力しても無駄だね」だの「どれだけ手抜きでも問題ないね」だのとぼやくに違いない。怠惰で満ちた世界の訪れである。

 

 では逆に不平等であるとしたら? それはすなわち強者と弱者の証明、には留まらない。その先に待ち受ける理不尽にたどり着いた者たちは気づいてしまう。ならば自分は、やはりどこまでもあの人に劣っているのだと。常人であれば「自分は決して一番ではない」という、謙遜を超え自嘲にも似た固定観念が付きまとう。窮屈な世界の予感である。

 

 嗚呼、面倒くさいことこの上ない。無駄もいいところだ。

 

 ただ、それでもなお回答を要求されるのであれば―――人は間違いなく「平等」だ。

 

 人が他人との優劣を測るとき、大まかな基準となるのは「幸福度」だ。人はその生で幾度となく満たされ、渇き、永続的な波にさらされている。それにはきっと個人差があって、前者を多く感じる人もいれば、後者を多く感じる人もいるだろう。

 

 ―――しかしその差は、最終的に「死」をもって清算される。

 

 具体的には、死に対する渇望だ。長くも短くも錯覚する生において、多くの幸福を勝ち取ってきた者たちは、その財産に執着する。死を恐れ、不幸だと忌み嫌う。一方不幸にまみれた人生を強いられた者たちは、その生き地獄からの解放を求める。死を望み、幸福だと称賛する。

 幸福な生には無慈悲な死を、不幸な生には安寧な死を。人は、そのつり合いの中で一生を終える。

 

 いかなる人生であろうと、平等性は維持される。

 

 現世から冥界に至るまでに、過不足は調整される。

 

 どれだけ愉悦であろうと残酷であろうと……諦めざるを得ない。安心せざるを得ない。

 

 嗚呼、なんて虚しく儚いのだろう。ウジ虫のように足掻くのは面倒だ。

 

 

 

 僕らは既に、大団円(平等)を約束されているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――おっと悪いな、まだ問いは終わらないんだ。寧ろここからが本題……ん? 最初の問いは無意味だと言っただろう。あくまで無理矢理答えを出すのだとしたらの話だ。では、先の話を踏まえて、第二問。

 

 

 「かのアンデルセンの死は、幸か不幸か」

 

 

 ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、デンマークの有名な作家だ。

 彼は貧しい家の出身であったが、合理的な思考を持つ父親と、働き者で情の深い母親にこよなく愛され、想像力に富む子供だった。

 ある日、アンデルセンの父はお金と引き換えに、徴収命令がきた近所の農家の子供の代わりに従軍に出ることになった。しかし、その後まもなく国の財政は破綻し、支払われるはずだった給金を得られず、彼は失意の内に亡くなってしまった。父方の祖父も発狂死してしまっていたため、アンデルセンは自分も同じ末路をたどるのではないかと、心底怯えていたそうだ。

 その後山あり谷ありで、結局彼は死を迎えるまでに数多の童話を発表し続け、七十歳で癌で亡くなった。

 

 ここで、先程の問いについて考えてみよう。

 

 実のところ、彼の恐怖は少し度が過ぎている。不気味な噂話に感化され、毎晩枕元に「死んでいません」という書置きを残してしまう程だと言えば、皆も容易に理解できるだろう。

 また、初期のものを中心に、彼の作品で主人公が悲惨な末路を遂げる例も枚挙に遑がない。これは、死以外に幸福となる術を持たない貧困層の嘆きを筆に乗らせた産物なのではないかと言われている。

 さらに、そんな中で彼の出世作となった『即興詩人』。これが発表されたとき、彼はおよそ三十歳。つまり彼の父が亡くなった歳とほとんど同じなのだ。

 極めつけに、彼の恋路は失敗の連続。容姿の醜さ故に孤独な人生を送っており、苦い初恋について書き連ねた自伝を送るという変人よろしくな癖まであったそうな。

 

 貧しくも真っ直ぐな愛を与えられて育った幼少時代と、父の享年と近しい齢にして、孤独に苦痛を味わいながらも出世を果たした作家時代、彼にとってどちらのほうが幸せだったのだろうか。

 

 因みに、晩年のアンデルセンは初期に比べて悲劇的な結末を迎えるものは減っていったという。これは、彼自身が死以外の幸せを見出せたからなのだろうか。それとも、死以外の幸せを望めなかった彼が、せめて自分の描く空想の世界だけでもと、自身に対する諦めの境地に至ってしまっていたからなのだろうか。

 

 答えは勿論本人にしかわからないが、皆が何を持って幸福となし、何を持って救いとするのか。そこには個人の本質や価値観の差異が大きく作用することになるはずだ。

 そして何より、この問いは君たちが自分の核を見つめその上でどこへ向かうのか、それを示す礎となることだろう。知己せよ、人間。見据えよ、人間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、そうだ、最後に一つ。

 

 

 

 生前の彼の父親は「神は自分たちと同じ人間で、悪魔は自分の胸の中にいる以外にない」と口にしていたらしい。

 加えて、アンデルセンを可愛がっていた一人である父方の祖母には病的な虚言癖があり、彼もその悪癖を継いでしまっていたそうだ。彼の場合は、その空想癖が作家としての創作力に貢献してくれたようだが。

 

 

 

 なら、アンデルセンの場合、神とは一体、誰のことだったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、本当に悪魔は自分の中にしか宿らないというのなら、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼の中の悪魔は、一体いつから、棲み憑いていた(嗤ってい)んだろうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あ、ほら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 君にもちゃんと憑いているよ、『悪魔(笑う影)』が。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

前途は多難か洋々か

オリ主は、変声期は過ぎてる割には声は高めなくらいで、覇気のない若々しい顔をしています。身長は、清隆くんと堀北さんの間くらいかな? こんな風に小出しするかもしれないのであしからず。




「忘れ物はー……よし、大丈夫かな」

 

 頭の中で確認してから、玄関の扉を開ける。優しい日差しが差し込み、視界に色彩を与える。まだ陽が視認できる位置まで昇っていないため眩しいとは感じないが、少し肌寒いかもしれない。

 本日は晴天なり。最高の入学日和だ。

 見上げていた視線を前に戻すと、通勤中の会社人の姿がちらほらと窺える。子供の姿が見えないのは、通学するにはまだかなり早い時間帯だからだろう。小規模な住宅街では車通りも疎らで、柔らかな風のそよ吹く音がよく聞こえる。

 これから三年間、こののどかな景色ともおさらばなのか。

 そう思うとどこか未練がましい気持ちになるものの、未知なる高校生活だ。少し心躍ってしまうのは、自分が幼稚過ぎるからというわけでもないだろう。とは言え教室でわんさかと騒ぎ立てるつもりは毛頭ない。せめて安らぎある健やかな学校生活を送りたい所存だ。

 大きく背伸びをしながら、朝の空気を一気に吸い込む。柵をはじき飛ばし、希望と言うには名ばかりな淡い匂いを確かめるように。

 

 ……うん、問題ない。大丈夫だ。大丈夫。

 

 振り返ると、廊下からリビングまで、そのがらんとした様子を窺い知ることができた。そこに人が残っている気配は、ない。

 今から跨ぐのは、一つの境界線だ。それこそ、僕にとって些細な転機に過ぎないが、確かな意味を持つ再出発の狼煙。進学先が全寮制だったからこそできる、思い切った心機一転だろう。

 風が一瞬、僅かに勢いを増す。「そろそろ頃合いだ、早く行け」とせがんでいるみたいだ。この程度で不快になるわけがない。寧ろ心地よく感じられる。

 確かにそろそろかな。初日から遅刻なんてしたら、後々面倒くさそうだし。

 

 ――よし、行こうか。

 

 満喫しよう。スクールライフ(まだ見ぬ新たな教室)を。

 このそよ風は、きっと僕の背中をそっと押してくれるはずだ。

 もう一度、今度はゆっくりと深呼吸をして、

 

「……行ってきます」

 

 返事は来ないと知りながら、それでもできる限り明るい声で、旅立ちの言葉を置き土産にして。

 僕は、確かな第一歩を踏み出す。

 笑えているだろうか。晴れやかな顔でいられているだろうか。

 まあいい。今気にしても無駄なことだ。

 なぜならその答えは、これからの僕が証明していくものなのだから。

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 登校初日。

 

 バスに揺られてゆらりゆらり。窓を覗くと、先程まで僕らをポカポカと温めてくださっていたお日様が、やっと地平線から抜け出たのが確認できた。一応お日様の「様」にはちゃんと敬意を込めている。あのお方がご健在でないと、僕ら普通に死んじゃうからね。

 家から二時間も歩いてバス停に辿り着いた時には、出発時の決意も期待も早々に砕け散りそうな程くたびれてしまっていたが、幸い座席は確保できた。これからまた一時間半程の旅。立ちっぱなしはかなり堪える。あの時のシートは玉座さながらの輝きを放っているように見えたものだ。

 それにしても――視線を反対側に移すと、それはもうぎゅうぎゅうぱんぱん。外の景色は空より下なんてとても見れたものではない。

 最初はすっからかんだったというのに。もっと早く出るべきだったか? いやでも、あれ以上早くとなると前日の夕飯を食べていた時にはもう寝てなきゃいけなかっただろうから、仕方ないか。

 かてて加えて、ちゃっかり席を勝ち取ったご身分であるからして人が密集している不快さくらいは妥協すべきだろう。

 それからは、持参した本を読もうとして酔って気持ち悪くなったり、スマホをいじろうとしたら昨日しっかり充電できていなかったことが発覚してしょんぼりしたりと散々な目に遭っていた。

 そしてちょうど、道のり半分を越したあたりかなと思い至った時だった。

 

「席を譲ってあげようとは思わないの?」

 

 車内の話し声がどこも小さめに抑えられていたこともあってか、その声はやたら印象的にみんなの鼓膜に響いた。

 何があったのかと人波の隙間をどうにかのぞき込むと、優先席を我が物顔で支配する頑丈そうな体をした金髪の男と、OL風な恰好をした女性が見えた。男の方は僕と同じ制服を着ているので同じ高校生だ。

 

「君、お婆さんが困っているのが見えないの?」

 

 ――お婆さん?

 よく見ると、女性の隣にいかにもな腰の曲がりようをしている老婆の姿。

 こんなにも早くからせっせと足を運んでいるなんて……お疲れ様です。「ご苦労様」とは言わないぞ。あれ本当は目下の人とかタメとかに使う言葉らしいから。

 

「実にクレイジーな質問だね、レディー」

 

 そんなとりとめもないことを思っていると、男は鼻につくような態度で女性のお咎めを受け流す。

 

「なぜこの私が席を譲らねばならない? 理由を聞かせてくれたまえ」

「君が座っているのは優先席よ。年配の方に譲るのは当然でしょう?」

「理解できないねえ。優先席とはあくまで優先席であって、法的義務などはどこにも存在しない。この席を譲るかどうかは座っている私が決めることなのだよ。若いから譲る? ははは、実にナンセンスな考え方だ」

 

 優先席とは言うが「専用席」とは言わない。あくまで「優先」であって、別に強制ではない、か。筋は通っているな。僕のお家芸の屁理屈というやつだ。

 男の言葉は続き、チップどうこう、目上どうこうと言い争っていたが、どうやら男のほうに軍配が上がったみたいだ。女性が涙目になっている。あ、圧倒的じゃないかあ……。

 

「あの……私も、お姉さんの言う通りだと思うな」

 

 すると颯爽と現れた救いの女神は、これまた同じ制服を纏い、ザ・カワイイな風貌をした少女だった。

 しかし、少女は社会貢献という建設的なメリットを提示して男の説得を試みるも、自分は興味がないと一蹴。挙句の果てには、お年寄りへの気遣いを考えるなら我関せずを貫く他の人たちを放っておいていいのかといちゃもんをつける始末。

 ……ん? いや待て。待ってくれ。

 どうしてこっちにまで飛び火している。そもそも優先席は特定の人が乗り合わせた際に、他の席が埋まっていた場合にまず明け渡されて然るべきだ。君が槍玉にあげられるのは別におかしくないだろう。こっちにまで責任転嫁ができてしまうものなら何のための優先席なんだ。譲る義務どうこうの話は共感できたが、最も譲るべき人間は誰かと問われたらまさしく君だ。

 ……とはいえ、だ。

 このまま放っておくと話がさらに面倒くさい方向に行く恐れがある。着くまではあと……半分弱か、あと四十五分。譲るにしては少し億劫になりそうだな。

 籠城を決め込むか、大火事を恐れて早々席を譲るか。ああ、今だと社会貢献男子という称号のオプション付きか……。

 ……悩むこと、三十秒。僕の選択は「籠城」だった。

 やはり立っていると疲れそうだなというのが一番の理由。おまけけに自分はバスに乗る前に二時間も歩いたという免罪符があり、件の老婆が立っているのは通路を挟んで僕の反対側。譲るにしてもこの大所帯を通過するだけで老婆にとってはさぞかし苦行だろう。

 もっと言うと、僕もそこまで社会貢献に関心がない。学校が成績を上げてくれるわけでもないし、大人になれば嫌でも社会に虐げられるのだ。だから自分はこの中で席を譲る必要性も、譲らないことを直接咎められる正当性も極めて低い。

 よし。これで僕がこの席を立つ道理は微塵もなくなった。完璧なロジックだ。

 まあ老婆の近くにも座っている高校生はうじゃうじゃいるようだし、態々僕がしゃしゃり出ることもないだろう。あそこのいかにも自分は席を譲りませんって顔をしている男女カップルなんかよりはマシだ。

 

 ――また、こじつけで逃げるのか?

 

 ……自分の奥底でチクリと突き刺すような声に気付かないフリをして、僕はこの騒動から意識を外した。

 残りの時間は、仮眠でも取って過ごそうか。

 最終的に、少女の呼びかけに応じてくれた女性が席を譲った。

 彼女は、通路を挟んで老婆の反対側に座っていた。

 老婆は多少苦労しながらもその席に着き、女性に心からの謝辞を贈り、事態は静かに解決した。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 バスが目的地に着きドアが開く。

 全員ここで降りるようで、僕は人波は避けて一番最後に降車した。

 目の前にそびえ立つのは天然石でできた巨大な門。奥にはこれまた威厳を感じるような校舎が待ち構えている。

 ――でか。

 高校だとこれが普通なのか? それとも、やはりこの学校が特殊なのだろうか。家の近くには高校がなかったから普通がどの程度のものなのかはわからないが、これは……校内を把握するだけでも骨が折れそうだな。

 ふと、門の前の立て看板が目に入る。でかでかと「入学式」と書かれた横には、この高校の名前があった。

 

『東京都高度育成高等学校』

 

 なんでも、日本政府が直々に創立した、未来を担う我ら少年少女たちを本格的に育成するための、絵に描いたようなスンバラシイ学校だそうだ。何かと訳ありな気もするが、お国の事情に関わることかもしれないので、表立って怪しいだなんて指差せない。

 さて、玄関を出るときにも決意表明はしたが、長旅で心身ともに疲弊した今だからこそ、改めて高らかな理想とともにこの門をくぐろうではないか。

 大丈夫だ。僕は、大丈夫……。

 っし、行こうか!

 

 

 

 

 

「ええと……お、あった」

 

 途中道に迷いかけたが、なんとか自分のクラスにたどり着きいざ入室。すぐに自分のネームプレートを見つけて席に着く。窓際の後ろ側……ふむ、どうやら早速、授業中の睡魔襲来という高難度ゲリラクエストが確定してしまったようだ。

 教室を見回すと、既に半分以上の生徒が登校を済ませていることが確認できた。恐らく家が近隣だったり交通の便が良かったりしたのだろう……羨ましい。僕は五時起床だったのに。

 しかしここは全寮制。そんな心配はご無用だ。持ち前の目覚めの良さを活かして、今度教室に一番乗りしてやるか。

 そんな企てを密かにしていると、不意に後ろから声がかかる。

 

「――なあ。お前確か、さっき同じバスに乗っていたよな?」

「ん?」

 

 コイツは確か……バスで席譲らないって顔をしていたカップルの片割れだったか。

 僕に負けず劣らず地味な風貌だな……って、あれ? よく見ると、彼の隣はもう片方の子じゃないか。何たる確率。

 とりあえず妥当な返しをしておこう。

 

「僕も思い出したよ。隣の子も一緒だったよな? 奇妙な偶然もあったもんだなあ」

「ええそうね。本当に、嫌な偶然だわ」

 

 黒のロングヘアーの少女がにべもない返しをする。クールな美人って感じな見た目だけど、ここまで冷徹な物言いをするのか。何か理由でもあったり?

 

「何か彼女にひどいことでも……?」

「なぜ真っ先にオレを疑う……」

 

 明らかに不機嫌そうな女子と初日から接する男子――しかも察するところ「唯一の」がつくとなれば、第一候補になるのは当然だと思うが。

 

「不快に感じたのなら謝るよ。ごめんなあ」

「問題ない、わかってくれるなら大丈夫だ。念のためはっきり言っておくが、オレのほうからは特に何かした覚えはないぞ。何せオレは、生粋の『事なかれ主義』だからな」

「事なかれ主義?」

「面倒事に関わって目立つのが嫌い、だそうよ。私からすれば、友人を作ろうと躍起になってズケズケと話しかけてくるあなたへの対応が一番面倒なのだけれど」

 

 うおー、ひどい言われようだ。男の方意気消沈しちゃってるよ。最初は付き合ってるのかとも思っていたけど、これはさすがに違うっぽい。もし本当に付き合っているのなら、男はこれからは事なかれ主義なんかよりドMと名乗っておいたほうがいい。

 僕が彼をドMと呼ぶことにならないよう、ここで自己紹介をしておこうか。

 

「ところで二人共、名前を教えておくれよ。席もこんなに近いんだし話す機会も多いだろうから。僕は浅川恭介」

「オレは綾小路清隆だ。よろしく、浅川。その……よければ、オレと友達になってくれないか?」

 

 友達になろう、か。偶に「友達はなろうとしてなるのではなく自然と成っているもの」などと言う輩もいるが、僕はそうは思わない。あれは社交性のある人が人見知りに悪意なくぶつける皮肉のようなものだ。親しい間柄になってから互いを知っていく。そんな関係だって素敵じゃない。

 

「もちろん構わんさあ。僕もコミュニケーションが苦手だから助かる。よろし、く……うーんと、清隆って呼んでもいい?」

 

 即答がてら相手に確認を取ると、少し喜色の滲んだ表情をされる。何か機嫌が良くなることでも言っただろうか。

 

「お、おう。もちろんいいけど……意外だな、名前呼びなんて。浅川はあまり、こう、グイグイと距離を詰めてくるやつには見えなかった」

「あー、そういう……。残念ながら、『清隆』の方が『綾小路』より呼ぶのが楽だってのが一番の理由かなあ」

「そ、そうなのか……」

 

 今度はあからさまな落胆。情緒の忙しいやつだ。

 なるほど、仲良くなろうとしてくれていると思って嬉しかったのか。少し申し訳ないことをしたかも。余計なことを言うべきではなかったかもしれない。

 

「僕も君と似て面倒なことが苦手なんだ。それこそ、主義として掲げたいくらいにね。ただ、高校初めての友達なんだし、清隆とはこれからももっと仲良くなりたいって思っているよ」

「……! よし、それじゃあ似た者同士、仲良くしていこうな」

 

 僕は頷き、彼が差し出した手を握った。似た者同士、か。微妙な共通点ではあるものの、温厚そうだし清潔感もありそうだ。高校初めての友達にしてはなかなか気の合いそうなやつと巡り会えたな。

 やったな清隆。僕らはたった今、強固な友情で確かに結ばれたぞ。お、微妙にニヤついている。なんというか、コイツの拙いながらも友達づくりに励む姿は、シンパシーを感じているこっちの身からすると応援したくなるな。

 

「良かったわね、綾小路君。この学校で初めての友達ができて。いえ、ごめんなさい。生まれて初めて、だったかしら?」

「どうしてオレが今まで天涯孤独の人生を送ってきたと思うんだ?」

「さっきまであなたが晒していた恥を目の当たりにすれば、誰だってこの結論に至るわ」

「……ぐうの音もでません」

 

 ほぼフェードアウトしていたはずの少女が、このタイミングで清隆に容赦ない猛攻を仕掛ける。残念ながら僕は彼女の言う恥を目撃していないため何とも言えないが、余程のやらかし具合だったのだろう。……いや、話がかなり脚色されているだけの可能性もあるが。

 とはいえこのまま盟友が言われっぱなしで終わるというのはどうにもいただけない。早速僕らの熱い友情を見せつけてやる良い機会だ。

 ――それに、この三人でなら深い繋がりになっても面倒なことにはならなそうだ。仲良し小グループというものにはけっこう、いやかなり好意的なのだ。

 

「なんだ、嫉妬でもしてるのかい? 君も僕らと仲良くお話をしたいんだろう。最初からそう素直になってくれれば、その可愛いらしい容姿にも劣らない魅力を感じられるんだがなあ」

「いつ私があなたのような男と話したいなんて言ったのかしら? それと、気安く可愛いだなんて言われても微塵も嬉しくないわ。むしろ不快ね」

「おい清隆、コイツ全然可愛くない」

「五秒前と真逆のことを言っているぞ」

 

 一体なんなんだこの子は。沈黙はせずとも、照れたりムキになったりはしてくれてもいいだろうに。取り付く島もないとはまさにこのこと。そろそろ僕の面倒メーター、略してメンターが基準値を超えてしまうぞ。

 こっちも相手の嫌がることはしたくないが、これから少なくない言葉を交わすであろう相手と冷めた関係にはしたくない。周りは早くもグループを形成しつつあるし……。

 つまり――彼女と仲良くならない方が、面倒くさくなる可能性が高い。

 

「せめて名前くらいは教えてくれても」

「教える必要を感じないわ。よろしくするつもりなんてないもの」

「なんでぇ……。他のクラスメイトにも同じ態度を貫くつもりかい? 人のことは言えないけど、友達できないぞ」

「あなたたちとは違って私は一人が好きなの。何も問題はないわ」

 

 頑固だな……。独りが好き、か。明確な拒絶――。

 哀愁を含んだ()()()()を、表に出さず話を続ける。

 

「そう言われてもなあ。僕は君と仲良くなりたいわけだし……あ、キラキラネームだから恥ずかしい、とか?」

「馬鹿げているわね」

「違うかあ。名前にコンプレックスとか持っているタマでもなさそうだし」

「……あるわけないでしょう」

 

 ……あれ?

 急に歯切れの悪くなった彼女の言葉に、訝しげな顔になる。

 まさか、本当に自分の名前に不満を抱いているのか? だとしたら「活路」が見出だせるかもしれない。

 形式的・社会的な人間関係は全て「形成→理解」と「理解→形成」のどちらかに分類される。群を「形成」してから身内の性質を「理解」するのか、互いをある程度「理解」した後関係を名づけ「形成」するのか。

 清隆とは「友達となることで立場的な壁を払い、今後さらにお互いを知っていく」ことになったが、彼女に対しては逆に「仲良くなるために彼女を知る」という方法をとるのが有効かもしれない。

 他人にはあまり知られていないデリケートな悩みを理解してもらっている相手には、自然と特別感が出る。選択を誤るとマズイが、もともと好感度は高くないようだし地雷覚悟の突撃を試す価値はある。

 ……。

 しかし少し逡巡して、僕は撤退の決断をした。

 ()()()()()()()()

 梃子でも動かなそうなこの子のことだ。もし堪忍袋の緒が切れたら、彼女は二度と口を聞いてくれなくなるだろう。

 そもそも「名前」とは普通親が付けるものであり、家族の問題である可能性が高い。攻め込むには重すぎるテーマだ。

 逞しそうな彼女のことだ。そういうのは独力で答えを見出すなり誰かをこき使うなりして乗り越えることだろう。態々お節介を焼いて僕が踏み込む必要なんてない。

 

 ――本当にそれだけか?

 

 ……再び聞こえた、僕だけに届く声。

 本当に、反吐が出る程()()()()()な。自己嫌悪に塗れた負のスパイラルだ。

 自ら築いた墓石に沈み込んでいくようなおぞましい感覚は、もう……懲り懲りだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あまり意地の悪いことをするものじゃないぞ、()()

 

 思考が止まる。

 静かに援護射撃を繰り出したのは、出来たばかりの盟友だった。

 急にどうしたのだろう。……まさか、僕が彼女の態度に傷ついていると思って心配してくれたのか? 君は、優しいやつなんだな。なんだかとても凛々しく見えるよ。

 これが彼の真の姿なのだろうか。堅物女に何度も会話を試みる果敢さといい、随分な主人公気質を具えている。

 

「綾小路君、あなた……」

「どのみち一年間は同じクラスなんだ。嫌でも恭介は、お前の名前を知ることになるだろうな」

「なら、尚更私から教えてあげる必要は、」

「どうせ知られるなら、今ここでちゃんと名乗るのが礼儀ってもんだろう。人としてそれくらいの誠実さは示すべきだと思うぞ。――それに、オレにとって『初めて』の友達がこんなにも無下にされているのを、黙って見過ごせるほどオレは薄情じゃない」

 

 一度発言するごとに三度罵倒を食らう勢いだった哀れな少年の影は、もうなかった。

 やたら饒舌だった上にサラッと僕のことを名前呼びか。最後の一言なんて王道な主人公のようだった。なかなか熱い友情を演出してくれる。僕からの名前呼びがそんなに嬉しかったのだろうか。

 やれやれ、君はやはりとびきり素晴らしいやつなんだな。羨ましいぜ。

 

「……はあ、わかったわよ。私は、堀北鈴音よ」

「おお! そっか、清隆にも劣らずいい名前だなあ。これから一年間よろしくなあ、鈴音」

「……下の名前なのは、やはり楽だから。なのかしら?」

「いいね、わかってるじゃないかあ」

 

 彼女も少しは僕という人間を理解してきたみたいだな。そう、まずはそれでいいんだ。少しずつ、ゆっくりと理解していけば。

 

「そもそも私はよろしくするつもりはないと……」

「いいや、してもらうしさせてやるよ。案外心地よかったりするかもしれないぜ?」

「必要を……」

「感じないか? やってみなければわからんよ、そんなことは。やる前から全て正しく切り捨てられるほど、君は成熟した人間なのかい?」

 

 心当たりでもあったのか、僕の返しに彼女は口ごもる。

 話は終着点にたどり着きつつある。流れをこちらに引き寄せてくれた清隆には感謝しないとな。

 

「……溜息が深まる一方ね。わかったわ、いいわよ。ただし、できるものならね」

 

 ほう、あくまで自分からはしないってか。どこまでも捻くれてやがる。しかし彼女とのファーストコンタクトはまずまずだろう。会話が成立したどけ万々歳な気がする。

 ありがとな、清隆。

 やはり君となら、最高の高校生活というものを送れそうだ。鈴音は刺々しい時もあれど、思春期特有のお茶目さとして見れば愛着が持てる。

 そしていつか、彼女の尖りに尖った角もここでの日々でそぎ落とされるはずだ。川を下る岩石のように。

 

「全く、二人揃ってとんだ物好きがいたものね。私に話しかけても面白くないわよ」

「いや、そんなことはないと思うぞ。それに一番の理由は――決まっているよな。恭介」

「……ああ、そうだ清隆。僕らがここまでするのは――鈴音、単に君と話すのが楽しいからってだけじゃない」

 

 彼となら、証明できるのだろうか。

 その隣人も、この先もっと仲を深められたら、手を取り合うことができるのだろうか。

 ああ、心地いい感覚だ。これが、絆が芽生えるということなのかもしれない。

 さあ盟友よ。共に彼女へ突き付けようではないか。僕らの分かち合った紛うことなき共通理念を。これは、宣誓だ。

 僕らが彼女と話す理由、それは……!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一人でも多く友達が欲しいからだ」

 

 

 

 

 

 

 

「ちんけな信念ね」

 

 おいやめろ。一刀両断するんじゃない。

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『盟友』…固く誓い合った友人。同志。

 

 そこに果たして、純粋な「信頼」はあるのだろうか。

 




バスの様子、原作やアニメだと意外と人いなさそうでしたよね。ここではかなり満帆にしました。

シリアスは一応ある予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

美酒も過ぎれば毒酒となるか

正直どうしようか悩みましたが、恭介くんには少し後に違和感に気付いてもらうことにしました。
ただ……単に完答、という風にはさせません。あれだけで完全に仕組みを理解するのって、ぶっちゃけハードすぎませんか? というわけで、少し勘違いが混ざったり、遠回りをしたりしながら、なんだか胸騒ぎがする、程度にしようかなあと。まあ温かい目で見守ってください。

来るべき五月までは、クラスの様子はそう原作と大差ないものにするつもりです。

HR終了まで一気にいきます。


 そろそろ始業のチャイムが鳴る頃だ。残りわずかな時間、静かに待っているとしよう。

 ――とも思ったが、先刻の会話で一つ気になることがあったので、当の本人に尋ねることにした。

 

「あのさ」

「ん、どうした?」

「君、もともと鈴音の名前知ってたの? なら初めから教えてくれてもよかったと思うのだけど」

 

 清隆のおかげで鈴音とお近づきになれたのは確かだが、鈴音が最初に名乗りを拒否した時点で教えてくれていたら拗れなかった。

 もしや、ヒーローが遅れてやってくる熱い展開を再現してみたかったのだろうか。

 

「すまん。実は()()に脅されていたんだ」

「ちょっといいかしら綾小路君。色々と突っ込みたいところがあるのだけど」

「なんだ、脅されていたのかあ。まあ鈴音だから仕方ないかあ」

 

 そりゃあ女王様の命令には逆らえない。清隆は何も悪くないな。

 

「人聞きの悪いことを言わないで。浅川君、この男の虚言を真に受けては駄目よ。私は()()彼を脅したことなんてないわ」

「どうだか。他人と関わる気はないから気安く教えるなって話だったから、最初は黙っていたんだぞ。恭介と話し始めた時は、オレの時みたいにすぐ名乗るだろうと思っていたんだがな」

「なるほど、合点いった。変に疑うような形になってごめんなあ」

 

 コミュニケーションを極端に嫌う鈴音のことだ。そういうことを言うのは容易に想像できる。

 清隆も事なかれ主義の下、下手に口を挟みたくはなかったのだろう。悪気はなかったはずだ。

 

「気にするな。――ところで鈴音。さっきの言葉、これからは脅すかもしれないってニュアンスが含まれていたような気がしたんだが……?」

「根拠のない言いがかりね」

「まだって言ってただろ。まだって」

「空耳でしょう。あなたが無意識に、自分が脅される未来を期待してしまっているのではなくて?」

「どんなマゾフィストだよ……」

「あなたの穢れた特殊癖なんて興味ないわ」

「オレは至ってノーマルだっての」

「君たちは……仲がいいんだなあ」

「そう見えるか(しら)?」

 

 うん。これまでのやり取りとたった今起きたシンクロを聞く限り心底そう思うよ。表情が真逆だったことには目を瞑っておくけど。

 

「それよりも――綾小路君。さっきのはどういうつもり?」

「ハッ、どうもこうも、オレたちの信念はちんけなものなんかじゃ、」

「遡りすぎよ」

 

 急にボケるじゃん、やるね。確かにちんけな信念だなんて言われたのはいただけないけども。

 

「呼び方。さっきあなた、私のことを名前で呼んだでしょう?」

「確かに呼んだが、何か問題あったか?」

「あまり馴れ馴れしくしないでほしいのだけど」

「そこまで気にすることか? 恭介だってお前を名前で呼んでいるし、隣人としてこれくらい砕けた感じでもいいかと思ったんだが」

 

 僕だけが彼女の名前呼びが許されるのは不公平、そう言いたいらしい。どうやら僕と友達になれたことで、清隆の士気が上がったようだ。同志として応援するぞ。頑張れ清隆。

 

「私は願い下げね。浅川君はもう今更止めさせようとするのも変でしょうし、あなたのような下心と違って本当に苗字で呼ぶのを面倒くさがっていたようだから」

「いや、オレも下心なんてないし面倒事は苦手なんだが」

「浅川君が来るまでずっと苗字で呼んでいた癖に、何を言っているのかしら」

 

 オーウ、ジーザース。

 そうだったのか。となるとこの必要性至上主義の女を説得するのはけっこう骨が折れるかもしれない。

 ふむ……よし、今度は僕が盟友を救う番だ。

 

「まあそう言いなさんなあ。折角だしこの三人で仲良くしたいし、いっそみんな名前呼びでいいんじゃない?」

 

 どうだ。「みんなで渡れば怖くない赤信号理論」、自分以外も対象に含まれると警戒心は多少なりとも和らぐものだ。さあ、みんなまとめてハッピーエンドだ。

 

「必要を感じないわ。よろしくするつもりはないもの」

 

 おい、またそれか。恐れていた通りというか期待通りというか、ブレないな。

 ――だがまあ、そう簡単に引き下がるほど無策というわけでもない。

 

「そっか……。でもせめて、清隆が君を名前呼びするこのくらいは許してやっておくれよ。彼なりに努力しているわけだし、これは多分そう簡単には引き下がらないぞ? 無理に意地張って断って、変に粘られる方が余程疲れることになると思うよ。ほら、この通りだから」

 

 両手を合わせて軽く頭を下げる。

 これこそ僕の本命。君の大好きな必要性とやらを述べつつの「ドア・イン・ザ・フェイス」、譲歩的依頼法だ。名前呼びを許すメリットを突き付けた上で、譲歩による交渉術で鈴音が首を縦に振りやすいように誘導する。

 彼女は少し悩む素振りを見せてから、目を閉じ無愛想に言った。

 

「……はあ、許可すればいいんでしょう。あなたたちとやり合っているとため息も通り越して胃薬が欲しくなりそうね」

「おお、ありがとう。よかったね清隆」

「助かったよ恭介。――鈴音、改めてよろしくな」

「よろしくするつもりはないわ」

 

 そこは是が非でも譲らないのか……。これだけ話しているのだから、もうよろしくしてしまっているような気もするが。

 正直なところ、最終的に鈴音が僕らを名前呼びできるくらいにまでは仲良くなりたい。が、今日はこれで十分だろう。入学日から異性の友人というだけでも大きな成果だ。

 ……この子は絶対に、「友」などとは認めないのだろうけど。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 始業のチャイムと同時に、長い髪をポニーテールにまとめたスーツ姿の女性が教室に入ってきた。

 あ、あれは、先生、なのだろうか……? 疑問に思わずにはいられない。何を隠そうその女性、まだ若々しく真面目な顔つきをしているのだが……丸見えなのだ。ん、てことは隠していないのか?

 ……もしや、高校だとこれが当たり前!?

 周りの生徒の表情を窺ってみる。HRが始まるから真面目に振る舞おうと努めているのか、違和感すら持っていないのかはわからなかった。……いや、いるな、二、三人ほど。鼻の下伸びちゃってるやつらが。ということはやはり、僕が非常識だったわけではないようだ。

 そうこうしているうちに先生が話を始める。彼女はDクラスの担任にして日本史の授業を務める、茶柱佐枝という名前らしい。珍しい苗字だ。

 そして――学年ごとのクラス替えが存在しない!? 席替えがないならまだしもクラスまで変わらないとなると、今この場にいない人と交流する機会が限られてしまう。

 この学校は他人との交流にあまり力を入れていないのだろうか。何とも物悲しい……。

 次に、と、見覚えのある資料が回って来る。主にこの学校特有の情報が載せられた資料だ。取り挙げるべきなのは三つ。

 

 一.全寮制。在学中における学校の許可なしでの外部への連絡及び学校の敷地からの脱出は禁止。

 

 二.一つの街を彷彿とさせるほどの数多の施設が存在する。

 

 三.学生証カードと呼ばれる端末を媒介としたSシステムによるポイント制度。 

 

 この中で一番特殊さを醸し出しているのはやはり三つ目だろう。カードの使い方はシンプルだとは言っていたが、名前に反して用途が多いらしくアナログな僕としては不安がある。何か困ったことがあれば、清隆や鈴音に教えてもらおうか。

 その後の茶柱さんの話から概要だけ取り出すと、

 

 一.Sシステムにおいて扱われるポイントを使って学校内で買えないものはない。敷地内にあるものならなんでも購入可能。

 

 二.生徒にはすでに平等に十万ポイントが支給されており、ポイントは毎月一日に自動的に振り込まれる。

 

 三.ポイントは卒業後に全て学校が回収する。現金化はできない。

 

 四.ポイントは譲渡できるが、カツアゲ等のいじめに繋がる問題には敏感である。

 

 そして、

 

 五.この学校は実力で生徒を測る。入学を果たした僕らには、十万ポイントを支給されるだけの価値と可能性がある。

 

 最初はここら辺の物価が高いだけかとも思ったが、みんなの反応からしてそうではないらしい。やはり高校生には大金だったか、十万は。

 ポイントは他人(ひと)に渡せるようだ。やり方とかどうなんだろう。機を見て二人と一緒に検証してみるか。だけど、これに限ってはさすがに小銭とかのほうが楽なのでは? 手渡しで終わるのに。

 あれ、というかそもそも、何のためのシステムなんだこれ?

 

「質問のある生徒はいるか?」

 

 茶柱さんが話の終わりに確認を取る。折角だし聞いておこう。

 ――疑問を疑問のまま放置しておくと、後々面倒くさそうだ。

 

「浅川、言ってみろ」

「はい。このSシステムって、そもそも何のために導入されているんですか?」

「……ほう」

 

 彼女は鋭い目付きでこちらを射抜く。いや怖いよ。取っ付き難そうな担任だ。こういう相手は鈴音だけで十分……待て、何を感じ取った!? 右後ろから負けず劣らずな視線を感じる。

 

「僕、機械が苦手でして……どうして自前の現金が駄目で、共通のデジタルウォレットにしなければいけないのかよくわからなくて」

「……なるほど。そうだな、学校側としては、紙幣を持たせないことで生徒間の金銭トラブルを未然に防いだり、ポイントの消費具合を確認することで消費癖に目を光らせたり、といった意図も含んでいる」

 

 あくまで合理的な理由があると。しかし、よもやポイントの消費が監視されているとは。学校のネットワークとかで一括管理でもしているのかもしれない。もし何を買ったかまで筒抜けになるのだとしたら、ちょっと恐いな。

 

「そういうことでしてか。他にもいいですか?」

「構わん。言ってみろ」

「自分の貯金をこのカードに移して使えないのはどうしてですか?」

「人によっては経済的に豊かだったり貧しかったりする者がいるだろう。さっきも言ったが、このシステムは外部とは独立しており、この敷地内においてのみ衣食住含む全てのものが購入できる。初めからその残高に差があっては、決して平等であるとは言えんからな」

 

 ああ、確かに言っていたな、平等に支給されるって。でも妙だ。たかだか未成年の財産なんて底が知れている。その誤差まで考慮して平等を掲げるのは、やけに律儀な気がする。一高校としてお金よりも先に平等にすべきものはあるように感じるが……意外とボンボンが多いのだろうか。政府運営の進学校ともなればあり得なくはない。

 その後二、三個ほどとりとめのない質問に答えてもらい、今の段階での疑問は解消された。

 

「他にはなさそうか?」

「……はい、もう大丈夫です。ありがとうございました」

「礼には及ばん。他の生徒たちも浅川のように、疑問があれば放置しないようにすることを勧めておく。――では、良いスクールライフを送ってくれたまえ」

 

 茶柱さんはそう言い残し、そそくさと教室を出て行った。

 彼女の言うとおり、疑問を蔑ろにしていると思いもよらない形で不満や行き違いの火種になり得る。そんなのは御免だな。

 

「思っていたほど堅苦しい学校ではないようね」

 

 自由時間に入るなりクラスメイトらが再び集まり十万円の小遣いについて騒ぎ始めたのを見て、鈴音が口を開いた。

「確かに、何というか物凄く緩いな」清隆が相槌を打つ。

 

「それくらい期待されているってことじゃない?」

「……でも、優遇されすぎて怖いくらいね」

 

 言いたいことはわかる。他の連中は既に浮かれてしまっているようだが、一介の高校生にとって十万円はなかなかの大金。何かしら裏を感じても不思議ではない。

 ただ、その疑問を追究するにしても根拠は曖昧で情報も少ない。徒労は気が進まないな。

 二人も同じ意見らしく、悩ましい顔をするだけでこれっといった名案は浮かばないようだ。

 後回しにするしかない。そう判断したところで、騒めき収まらぬ生徒たちの中一人の青年がスッと手を挙げた。

 

「みんな、少しだけ話を聞いてもらってもいいかな?」

 

 よく通る声だ。見たところ残念な頭をしたウェイ系というわけでもなさそうだが、委員長気質といったところか。

 

「僕たちは今日から同じクラスで過ごすことになる。だからお互い少しでも仲良くなれるように自己紹介をしようと思うんだ。いいかな?」

 

 コイツ、できる……!

 彼に続いて「いいねそれ!」や「さんせーい!」と支持する声が次々とあがる。

 

「僕の名前は平田洋介。スポーツが好きで、サッカー部に入るつもりだよ。洋介って呼んでくれると嬉しいかな。お互いまだわからない部分も多いと思うけど、みんな、これから三年間よろしくね」

 

 かー、イケメン、高コミュ力、運動神経抜群の三倍(トリプル)役満。おまけにサッカー部というダメ押し。プリンスよろしくなステータスだ。

 さり気なく名前呼びを求めるあたり、距離を縮めるのは得意なのだろう。陽キャってみんなこんななのかな。

 しかしお生憎様。平田、僕はこっちのほうが呼びやすいんだ。

 このクラスはきっと彼を中心にまわることになるんだろう。割れんばかりの拍手がそれを証明している。女子中心のものだけど。

 クラスの顔になるであろう男があのような温厚篤実な少年なのは幸いだ。僕らの高校生活がまた一歩、安寧へと近づいた。

 

「それじゃ、前の方から順に自己紹介をしてもらってもいいかな?」

 

 彼の提案に従って、一人ひとり自己紹介が行われていく。生真面目そうなやつからおふざけの過ぎるやつまで、個性溢れるクラスだなと思っていると、次に立ち上がったのは見覚えのある少女だった。

 

「櫛田桔梗です。できるだけ早くみんなの顔と名前を憶えて、全員と友達になりたいなと思っています。良かったら自己紹介が終わった後、連絡先を交換して欲しいです。一緒にたくさんの思い出を作りましょう」

 

 最後に満面の笑みを浮かべて、彼女の自己紹介は終わった。

 ……ああ、同じバスだったいい子ちゃんか。

 あの子は男女両方から人気が出そう。平田は自己紹介のときの反応からして池や春樹あたりからは妬まれそうだが、櫛田の場合は他の同性の子ともすぐに打ち解けられそうだ。学年全員と友達になるのはもはや夢でなく目標、なのかね。

 くっそー、僕も何かインパクトのある自己紹介をしたいな。性格も顔立ちも地味な分初手で接しやすさをアピールしたいところだ。後ろの二人はどんな自己紹介をするつもりなのだろうか。

 振り返ってみると、鈴音は我関せずといった様子だ。自信があるように見えるけど、まさか名前だけ言ってお得意の「よろしくするつもりはないわ」で締めくくったりしないよね? ……いや、あり得る。むしろ名前すら言わないまである。僕にもあんなに言おうとしなかったくらいだし。

 清隆は少し焦った表情で悩んでいた。わかるよその気持ち。ただ、こうして悩んでいること自体、友達作りが下手な原因な気がする。平田も櫛田も予め言うことは考えていただろうが絶対ここまで頭を唸らせてはいないはずだ。

 自己紹介は途中まで着々と進んでいたが、赤髪の男に出番が回ると彼は平田を威圧するような目で睨みつけた。

 

「ったく、俺らはガキかよ。自己紹介なんざやりたいやつだけでやってろよ」

「強制するつもりはないよ。少しでもクラスが仲良くなれたらと思ったんだ。不快にさせてしまったのなら、謝りたい」

 

 赤髪の無愛想な態度とそんな彼にすら誠実な対応を見せる平田の様子を見て、女子の一部が赤髪に野次を飛ばす。

 あちゃー、早速できあがってるよ。平田&取り巻き女子対嫉妬や反感を抱く男子の構図。この先さらにこじれると面倒そうだ。

 

「チッ……こっちは仲良しごっこしたくてココに入ったんじゃねえんだよ」

 

 そう吐き捨てて赤髪は教室を出て行った。一部の生徒も彼に続いて席を立っていく。おや、鈴音も出て行ってしまうのか。

 

「止めなくてよかったのか?」

「人付き合いの仕方は個人によるからなあ。鈴音が誰とも接するつもりがない以上今は止めてもしょうがないだろう。清隆こそよかったのか?」

「オレも同意見だ」

 

 正直今の僕らは自分の人付き合いで精いっぱいだ。鈴音の協調性のなさはこれから気にかけていけばいいだろう。

 

「次の人、お願いできるかな?」

「フッ。いいだろう」

 

 そう言って立ち上が――らずに机の上へ足を乗せ、俺様な姿勢を取ったのは、これまた見覚えのある男。

 彼は一流企業の跡取り息子で、高円寺六助と名乗った。

 「醜いものが嫌い」、か……。一瞬()()()()()()()()()()()。醜いという点なら心当たりがあり過ぎて困るくらいだが。

 それからも滞りはなく――そろそろ自分のことを考えないといけないな。

 さっきはインパクトやら接しやすさやらとあれこれ模索していたが、良くも悪くもここまで個性派揃いなんだ。自分のセンスじゃ限度がある。

 となると、いっそありのままを語ってみるか。変人の巣窟に紛れ込んだ一般人として逆に印象に残るかもしれない。

 それに、三年間同じメンツだからやり直しもきかない。変なキャラづけをしてそれ前提で付き合わされると疲れるだろう。

 

「よし、次は――君、お願いできるかな?」

 

 方針が決まったところで指名がかかった。できるだけはきはきと言わなければな。

 

「浅川恭介です。あまり自信を持てるものがなくて少し人見知りですが、話すことは嫌いじゃないというか、むしろ好きな方なので気軽に話しかけてくれると嬉しいです。三年間よろしくお願いします」

 

 それだけ言って座ると拍手喝采、とまではいかないが、どうやら悪い印象は与えなかったようだ。ホッと安心する。

 平田からお礼の言葉を受け取って一息ついた僕は清隆の方を見る。やはり緊張が抜け切れていないようだ。

 

「大丈夫そう?」

「え? ああ、いや、全くだいじょばないな。思い切って気張った自己紹介でもしようと思ってるんだが」

 

 おいおいガッチガチじゃないか。そもそも気張った自己紹介とは? 少なくとも清隆はそんな柄じゃないように見える。

 こっちは既に第一戦を終えた身。助言の一つでもしてあげよう。

 

「もっと肩の力を抜いたらどう? 得意なこととか好きなこととか語ってみようぜ。何かある?」

「……ピアノと書道なら習っていたな」

「おお、意外だなあ。じゃあ、あとは自分の思っていることをそのまま添えておけば何とかなると思うよ」

「なるほど……よし、やってみよう」 

 

 話がまとまったところで、ついに平田が清隆を指名する。

 一斉に向く視線に少したじろぐ清隆だが、意を決して立ち上がった。

 

「あー、えーっと……ゴホンッ……、綾小路清隆です。……えっとー、ピアノと書道を習っていたので少し得意です。その、わからないことだらけですが、皆のことを少しずつ理解していけたらなと思います。三年間、よろしくお願いします」

 

 ぎこちない動作で清隆が座る。さて、結果は……?

 

「ピアノと書道か、すごいね。いざとなったら頼りにさせてもらおうかな。僕らもまだ不束なところはあると思うから、一緒に頑張ろうね」

 

 平田の言葉とともに、純粋な歓迎の込もった拍手が起こる。よかった、まずまずな結果だったみたいだ。

 

「ありがとな恭介。お前のアドバイスがなかったらオレは最低な自己紹介をすることになっていたかもしれない」

「気にすることはないさあ。にしても、ピアノと書道ねえ。言われてみれば、歌も字も綺麗にこなしそうな顔をしているかもなあ」

「そんな顔に見えるのか?」

「多分。よくわからんけど」

「わからないのか」

 

 僕が何も言わなかったら清隆がどんな気張った自己紹介で皆を困らせていたのか気になるところだが、友人が難しい場面を辛くも乗り切ったのだ。素直に喜んでおこう。

 彼が得意だというピアノと書道の技量も気になるが、それは追々仲を深めればわかることだ。いつか見せてもらいたいな。

 その後間もなく入学式の時間となり、僕らは体育館へと移動した。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 今日は授業もなく午前中に解散となり、多くの生徒は今朝出来上がった新生隊で早速敷地内の施設へ駆り出すようだ。

 お偉いさん方の話のせいですっかり寝ぼけ眼になった僕はというと、興味があるからとコンビニへ寄りたがっていた清隆に付き添っていた。隣には鈴音もいる。

 

「コンビニに行ってみたいだなんて、あなたの好奇心はどこへ向かうのかわかったものじゃないわね」

「いやほら、これからも何度かお世話になるかもしれないだろう。その下見だ」

「別に明日とかにしてもよかったと思うけど。まあここまで来ちゃったし、とやかく言う気はないけどなあ」

 

 それからは各自必要な物を籠に入れていく。

 

「鈴音、君が入れてるの安物ばかりじゃないかあ。女子はもっとそういうのにこだわるんじゃないの?」

「教室での会話を忘れたの? ポイントの支給に裏があるかもしれない以上、むやみやたらに使うのは危険よ」

「そりゃそうだけど……まあ君がそういうなら何も言わんよ」

 

 こういう時の鈴音は退かないと、短い付き合いでもわかる。

 

「こんなに種類があるのか……」

 

 僕らのやり取りそっちのけで、清隆が興味津々に呟いた。

 

「カップ麺……? もしかして君、それが目的だったのかい」

「ああ、まあな。……なあ、二人はこの商品の値段に関してどう思う?」

「え、値段? い、いやあ……僕はちょっと何とも言えないかなあ。何せ田舎の出だから」

 

 まあまあ高いとは思うが、当てになるかわからない。

 

「私は普通に思えるけど、何か気になることでも?」

「いや、一応聞いてみただけだ。ありがとな」

 

 なんだかやはり、不思議な少年だ。無機質な目をした地味なやつかと思えば急に毅然とした態度になるし、コンビニの商品に興味を示す程非常識なところがある。実は俗世と離された隠れボンボンだったりするのだろうか。

 

「これ、すごいな。Gカップって」

「ん、ギガカップの略らしいなあ」

「……綾小路君?」

「ぁ……ど、どうした? オレは何も考えてなんかないぞ」

「ふぇ?」

 

 ゴミを見るような目をする鈴音と冷や汗を浮かべる清隆。ほらな、やはり可笑しな友人だ。

 

「それよりも、買うの? それ」

「……一つくらい買ってみるか」

「あ、じゃあ僕も」

 

 清隆はシーフード、僕は醤油のカップ麺を籠に入れた。

 その後清隆が髭剃りを持ってデリカシーのない下ネタを放ち鈴音に再び白い目を向けられたが、僕はそれを温かい目で見守りレジへ向かった。「あまり自分を『卑下』するなよ。『髭』だけにな」なんてくだらないネタが思い浮かんで一人で嫌な気分になっていたのは内緒だ。

 すると、視界の隅に妙な物が映った。

 

「――無料で売ってくれるなんて気が利くなあ」

 

 一つのワゴンに一緒くたにされている日用品。点数に限りはあるが無料で手に入るらしい。

 

「救済措置、なのかしら?」

「それにしてはだいぶ減っているように見えるぞ」

 

 確かに、ポイントが支給される月初めにしては多くの生徒が購入しているようだ。

 

「倹約家が多いんじゃないか? 一応進学校なんだし、僕ら一年生は一人暮らしに不安を感じている人も多いだろうから、極力お金を使いたくないのかもしれん」

 

 ちょうど、さっきの鈴音のように。

 

「そう、かしら……。今朝のクラスの様子を見る限り、とてもそういう人が多いようには見えなかったけど」

「他のクラスもそうとは限らないぜ?」

 

 あんな奇抜な連中しかいなかったら、さすがにこの高校の面接の評価基準や進学実績を疑いたくなってくる。驚異的な指導法でめっきり更生されるという線もあるにはあるが、偶然必然問わずDクラスにそういう人らが偏っていると考えたほうが自然だ。

 

「それにしても、よ。先生曰く毎月十万円ももらえるのに、いくらなんでもこれは……」

 

 どうしても違和感を拭えない鈴音。だが今は、生憎買い物中だ。

 

「とりあえず続きは会計を済ませてからにするかあ」

 

 無料品のワゴンからいくつか商品を手に取ってレジに並ぶ。必要最低限のものだけを入れていたため、会計は手早く済む。――はずだったのだが……。

 

「えーっと……これを使えばいいんですよね?」

 

「え、かざす? こう、ですか……?」

 

「あれ、えーっと、お釣りは……あ、そうでしたね。全部機械がやってくれるんでしたね……」

 

 穴があったら入りたい……。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

「ごめんお待たせ」

「やけに遅かったな」

「デジタルは苦手なんだよ……」

 

 待ってくれていた二人に謝罪をして店を出る。

 

「――ハッ、惨めな不良品のお前をあんまりいじめちゃ可哀想だからな、今日はこのへんにしておくぜ」

「あ? 逃げんのかオラァ!」

「精々ほざいてろよ。どうせお前らDクラスは地獄を見ることになるんだからな」

 

 何やら一悶着あったようだ。

 

「クソッ!」

 

 赤髪のクラスメイトは、ゴミ箱を蹴り飛ばしてその場を去る。

 この学校にあそこまで露骨な不良がいるとは。面接はどうやって潜り抜けたのだろう。相当拗らせていると見えるが。

 それはそうと、相手の男――恐らく上級生――は『惨めな不良品』だの『地獄を見る』だの侮蔑の言葉をやたらDクラスと結び付けていたが、何か知っているのだろうか。

 両隣を窺うと、鈴音は赤髪に侮蔑の意の込もった目を向けている。関わると品位が落ちるなどと思っているのだろうが、今回ばかりはその辛口採点に同意だ。

 一方清隆はというと、そのぼんやりとした目で見つめているのは赤髪の背中でもゴミ箱でもなく、もっと、上……。

 

「……君、良く気付いたなあ」

「ん、何にだ?」

「監視カメラ」

 

 気づきにくいが、清隆の視線の先、こちらからも確認できる位置に小型のカメラが設置されている。確かにいじめに敏感とは言っていたが、いくら何でも厳しすぎないか? まさか寮や部屋の中にまであったり……しないか。個人の私生活まで丸見えでは、プライバシーの侵害も甚だしい。女子に至ってはさらに色々問題になりそうだ。

 

「ああ、本当だな」

「え、いやいや、その誤魔化し方は無理があるだろう」

「天井のシミを数えていただけだって」

「確かにシミ同然の綾小路君ならあり得なくはないけど、今回ばかりは浅川君の言う通りね」

「そこまで汚れてないわ!」

 

 サラッととんでもないことを言いやがる。清隆も通常の会話からは想像できないキレでツッコミを入れているぞ。

 はてさて彼は、どうしてそこまで目ざといことがバレたくないのだろう。囃し立てられたり担がれたりするのが面倒とか? こういうときくらいは素直に受け止めてもいいと思うが。

 

「……でも、これはお手柄よ、綾小路君」

「ん、どういうことだ?」

 

 これには僕もびっくりだ。まさかあの鈴音が他人を褒めるだなんて。明日は雪かな、春だけど。

 

「あそこ以外にも満遍なくカメラが設置されているわ。普通の学校と比べてあまりに厳しすぎる」

「確かに、小中学校ではそんなものなかったもんなあ」

 

 鈴音の言う通り、今までなら数人の教師が生徒とふれあいつつ見渡す程度だったはずだが、この学校では校庭の隅々までばっちり監視の目が行き届いている。他の高校も同じとは正直考えにくい。

 

「うーん。とすると、どうなるんだ?」

「少なくとも、この監視には意味があると見ていいわね。それが私たちの疑っているSシステムに関わっているかは不明だけど」

「あり得るんじゃないか? 安直かもしれないが、どちらもこの学校特有のものなら何か繋がりがあってもおかしくない」

 

 この学校は特殊な進学校ではあるもののその特殊の色が強すぎる。はっきり言って異常なくらいに。それらが密接な関係を持っていても何ら不自然ではないということだ。

 

「視られているのは……やっぱり素行や態度かなあ」

「監視、となればその線が現実的ね。それにしても――この学校、まだわからないことが多すぎる。Sシステムの裏に何が隠されているのか。あまりに多い監視カメラの理由と二つの繋がりは何なのか。他にも気掛かりなことはあるけど、どの答えも大きな意味を持っている気がする」

「そう言われると、何でもかんでも繋がってるように見えてきちゃうなあ」

「案外そうかもしれないぞ。あの茶柱先生だって胡散臭かったからな」

「それただの悪口じゃね?」

 

 軽く茶化したものの、彼の言っていることは強ち的外れではない。もしSシステムに裏があるのだとしたら、教師の言葉にも裏があったということになる。それは延いては学校全体の思惑なんてものに繋がってくるかもしれないのだ。

 ふと、今朝のHRでのある言葉が思い浮かんだので呟いてみる。

 

『―――疑問があれば放置しないようにすることを勧めておく』

 

「……! そうも言っていたわね。あれは先生なりの助言だったということかしら。とりあえず今日はこれで解散にして、明日考えを共有しましょう」

 

 そう言って彼女はメモ帳を取り出し何やら書き込み始めた。

 

「そ、そんな焦らなくても一緒に帰ればいいんじゃ――」

「これ、私の連絡先。何かあったら電話なりチャットなりしてちょうだい」

「え? は、ちょっ、待っ……」

 

 僕に紙を押し付けて、彼女は足早に帰路へと就いてしまった。

 まだ今のうちに共有しておきたいこと、あったんだけど……。

 

「ねえ、清隆」

「……やるしかないだろう」

 

 そして佇む僕らの視線の先には――ある種きっかけとなってくれたゴミ箱。

 監視カメラどうこうと思索しておいてこの惨状を放って行くとは、鈴音って天然なのだろうか。……これを本人に言ったらどんな目に遭わされるかわからん、心の底にしまっておこう。

 ともあれ、善良な一般高校生である僕らが取るべき行動は一つだ。

 

「……はあ」

 

 二つの溜息の後、ガサガサと散らかったゴミを集めガタガタと元の位置にゴミ箱を戻す無機質な音が、暫く響くこととなった。

 全く。学校も担任も、傲慢な姫様もその他のクラスメイトも、呆れてしまうほどに個性的で、今のところ波長が合うのはこの盟友くらいか。

 ――どうやら僕は、至極面倒な教室に足を踏み入れてしまったらしい。トホホ……。

 




いかがでしたか。ここでまさかの清隆くんが堀北さんへの名前呼びが決定。賛否分かれそうなことしちゃったかなあ。
理由としては、恭介くんが名前呼びしているのを見て「あ、もうちょい気軽に名前で呼んでもいいものなのか」と思って、少し勇気を出してみたってところですかね。ここら辺の心情は、今後の展開の中で書くつもりです。

先生への質問は、僕自身わからないことがあったらすぐ聞いてしまう性分なので、今回は僕だったらこれを質問するだろうなあっていうのを、できるだけ自然に書いてみました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

未完のコウカイ

いやー、ギリギリ二週間以内にできました。ストックがなかった+今作初の思考シーン(公式チート清隆君との掛け合い)だったせいで余計に時間かかった、申し訳ないです。宣言は破ってないから許して。

予定してたより間違えてくれなかったなあ恭介君。細部は清隆君に補強してもらいました。

さすがに日常パートの会話のほうが書きやすいですね。今回のも前半ら辺は間延びしてそうでしたし、頭脳戦は先が思いやられる……。


「おお、けっこう広い」

 

 侘しくゴミ箱を直し、店員に謝罪を述べてから清隆と寮まで共にした僕は、自分の部屋のドアを開けて思わず感嘆の声を漏らした。

 まともな一人暮らしなど初めてであるからして一般的にどう見えるかはわからないが、想像よりずっと広々としている。

 早速、コンビニで購入した日用品の設置や、キッチンや浴室といった設備の確認を済ませてベッドに腰を下ろす。

 椅子は少し硬かったから、もっと柔らかいのを買うか座面に何かを敷くかしたいところだな。

 今後長らくお世話になるであろう自室のレイアウトについてあれこれ考え、したいことや買いたいものをメモしていく。消費はなるだけ抑えたい、優先順位もきめておこう。

 

「ふいー」

 

 思い返してみると、登校初日で授業無しの半日だった割にはかなり疲れたな。バスでの揉め事からコンビニでの一件まで、衝撃的なものばかりだった。それでいて、刺激的だった。

 ――賑やかだったなあ。

 ここでなら、苦労は絶えずとも飽き飽きしない日々を送れるかもしれない。微かな期待を抱き、ベッドに(くずお)れる。

 何より僥倖だったのは、後ろの席に座る二人と親しくなれたことだ。

 どこか聡いところを感じる事なかれ主義の盟友。独りを好むクールビューティーもといクルーエルビューティーなその隣人。二人なら、僕の新たなスクールライフに未知なる色をもたらしてくれるかもしれない。

 

『――オレにとって『初めて』の友達がこんなにも無下にされているのを、黙って見過ごせるほどオレは薄情じゃない』

『……はあ、許可すればいいんでしょう。あなたたちとやり合っているとため息も通り越して胃薬が欲しくなりそうね』

 

 ――二人とも、なんだかんだで優しいなあ。

 清隆とは三年間良好な関係を続けられそうだし、鈴音に関しても普段は冷たい態度が鼻につくが、去り際には「また明日」だなんて言ってくれた。まずまずな結果だろう。

 ……あれ?

 

『明日考えを共有しましょう』

 

 ……そうだった。

 うわ、くっそ。何で前向きな回想で悪魔の呟きまで思い出しちまったんだよちくしょう。何がまた明日って言ってくれただ。面倒事の兆しに気づけよ僕。

 ……ま、まあいい。もし忘れたまま明日鈴音と顔を合わせていたらと思うと身の毛がよだつ。態々考えてやる道理もないように感じるが、折角だし暇つぶしに考えてやろう。

 さて、慣れた感じに。集中集中――。

 

 まずは焦点をどこに当てるかだが――これは茶柱さんの言葉だな。コンビニでも言ったが、仮定に従えばあの人の言葉は怪しい。

 HRでの説明で、僕が最初に違和感を抱いたのはここだ。

 

『この学校は実力で生徒を測る。入学を果たした僕らには、十万ポイント支給されるだけの価値と可能性がある』

 

 実力で測る……引っ掛かるのは表現のしかただ。僕らは実力を測ってもらった上で認められて入学したはずなのに、「測った」ではなく「測る」。まるでまだ実力測定は終わっていないかのような言い回しをされたのだ。――僕らは今もこれからも測られ続ける?

 でも、おかしくはないのか。進学や就職の際、学校からの評価は有利不利に影響する。向こうは常に僕らの態度や成績を見て……。

 ……いや、やはりおかしいな。

 この学校ではほぼ百パーセント希望する進路が認められる。態々あのセリフを強調する必要はないはずだ。

 なら……学力や生活態度さえ弁えていれば認められるような一般的な学校ではないのかもしれない。だったら一体、何をもってして「実力」となる?

 いや、そもそも、ほぼほぼ進路が思い通りにいくのだから、そんなことを気にしなくても……。 

 ――駄目だ、逃げるな。思考を止めるな。

 どこかに潜む本能が、そう訴える。

 もし間違っていても元々だ、何事もなければそれでよし。

 この学校は傍目からでも特殊で、色々とおかしな点があるのは確かなんだ。物は試しで視点を変えてみよう。

 前半で行き詰ったのなら、後半はどうだ? 入学した僕らには、十万ポイントの価値――。

 もしかしてこれ、学校は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ってことになるのか? でもそんな目に見えないものまで買うことなんて可能なのだろうか。

 ……あ、可能だったわ。「敷地内にあるものならなんでも購入可能」。十万ポイントが振り込まれたとき、僕らは確かに「敷地内」にいた。あのタイミングで支給されたのはこういうことだったのかもしれない。

 待てよ。つまり僕らへの投資は既に済んでいることになる。なら、今後毎月の支給はどうなってくる?

 僕らの実力が期待以上なら投資額が増え、期待外れなら減る、あるいは違約金として生徒が払わされる、ということか?

 思い返してみるとと、茶柱さんは毎月十万ポイントが支給されるとは明言していなかった気がしなくもない。なんて理不尽な話だ。教師が生徒を騙すマネをするなど……。

 ……いや、それが狙いだったとしたら?

 明確な意志を持って彼女が僕らを騙そうとしているのだとしたら、それはすなわち「図る」ということ。

 あの言葉は測定するという意味だけでなく、「この学校は(我々の)実力で生徒を『図る』(から気をつけろ)」ということでもあった? こんなの程度の低い言葉遊びじゃないか。でも、それが本当だとしたら……。

 「存在しない学年ごとのクラス替え」、「到底買えるとは思えない概念」、「一般の学校で判断される実力の常識」、「毎月平等な支給」、「十万ポイント」、「現金化できない」、「ほぼ百パーセント叶う進路」、そして、学校は実力で生徒を「図る」。

 点と点が、線で次々に繋がっていく。

 結論が出るまでに、そう長くはかからなかった。

 

――――――――――――――――――――――――

 

 時刻は8時半。いくら何でも高校生が寝るには早い時間だ。

 風呂や歯磨きなどを終えて一息ついた僕は、帰路で連絡先の交換を終えていた盟友に電話をかけることにした。

 

「恭介か。どうした?」

 

 え、出るの早くない? ワンコールで出やがったぞ。ちょうどいじっていたのだろうか。

 

「おう。今日コンビニでSシステムについて考えるように言われただろう? 僕なりに少し考えてみたから、二人で意見交換しとておこうと思ってなあ」

「……あ」

「……え?」

 

 まさか、君も僕と同類だったか。命拾いしたな、明日の君は僕が救ってやったぞ。

 

「ま、まあオレとて少しも考えていなかったわけではない。とりあえず、お前の見解から聞かせてくれ」

「案外ズルいなあ君も」

「……事なかれ主義だからな」

「それ関係ないだろう」

 

 僕が意見を伝えて清隆が修正するというやり方にすれば、然程問題はないか。

 

「じゃあ、僕の答えから話すかあ―――」

 

 かくかくしかじか、清隆に出来立てほやほやの回答を伝えた。

 

「……なるほど、学校が生徒を「図る」か。少々無理があるかもしれないが、面白い考えだな。それで、どうなるんだ?」

「茶柱さんの言葉や僕らの先入観と常識を疑うなら、いくつか推測が立つ。

一つ、クラス替えは学年ごとではなく別の基準で行われる。

二つ、進路は必ずしも叶うわけではなく一定の条件がある。

三つ、ポイントで購入できるものには権利や意思といった不可視で概念的なものまで含まれる。

四つ、支給は毎月ではない、あるいは平等ではない。

五つ、ポイントの現金化は何らかの形であれば可能。

そして六つ、学校が視る『実力』は総合的なもの。

 こんなところだなあ」

「筋は通っているかもな。ただ、そもそも教育機関で働いている公務員がオレたち生徒にそんな重大な隠し事を許されるのか?」

「さあ。でも当の学校が方針として先生にそういう指令をだしているのなら、問題以前の話だ。あくまで教師陣は組織の一員として全うな働きをしているに過ぎないんだからなあ」

 

 僕も最初はまさかと切り捨てたくなったが、政府運営であるなら多少大がかりな思惑があっても容認される可能性は無きにしも非ずだ。度が過ぎればもうなんでもありになってしまうが、理に適っている範囲なら許容され得る。特に六つ目なんかは、問題視されがちな学力主義からの脱却には効果がありそうだ。

 

「そうか。……ところで、外部との接触が不可能ってことについてはどう思う?」

「それは本当じゃない? 僕の推測が正しいなら、この学校は賛否両論な手法を取っている。外部に漏れたら間違いなく物議を醸すだろうね。これまでそんな話題を小耳に挟んだこともなかったし、今まさにシステムにどっぷり浸かっている子が管轄下から出ようものなら、向こうも気が気ではないだろう」

 

 他にも、茶柱さんの語った「財布の残高など、ポイント以外を媒介にはできない」や「いじめ問題に敏感である」などは、恐らく学校が念頭に置いている社会秩序や倫理に関わるものなので、そこに嘘や詭弁を挟むわけにはいかないはずだ。

 にしても清隆のやつ、外部との接触を気にするなんて、余程会いたい人や会いたくない人がいるのだろうか。

 

「なら一応そこは安心してよさそうか……。ああそうそう、実はオレも引っかかっていたことがあったのを思い出したぞ」

「おお、さすが清隆。言ってみそ」

 

 僕は君の洞察力を高く買っているからな。一体全体何に気付いたのか、聞かせてもらおうか。

 

「HRでお前がSシステムの成り立ちについて質問した時の先生の答え、覚えているか?」

「ん? えーと、確か……」

 

『――学校側としては、紙幣を持たせないことで生徒間の金銭トラブルを未然に防いだり、ポイントの消費具合を確認することで消費癖に目を光らせたり、といった意図も含んでいる』

 

「そうだ。あのとき先生は、トラブル防止や消費監視の意図『も』含んでいる、という言い方をした。まるで他にもこのシステムに目的があると言いたげじゃないか?」

「言われてみれば、確かにそうかもしれないなあ」

 

 あの時は何となく自分の中で納得して済ませてしまったが、どこか隠したい「別の意図」が潜んでいるかもしれないのか。

 

「でもどうして態々違和感を与えるような言い方をしたんだ? 最初から含みのある表現なんかしなきゃ、こうして感づかれることもなかったのに」

「理由は二つ考えられる。一つ目はお前の推測を借りるが、オレたちを試したんだろうな。わずかな違和感や言葉の綾に気付くことができるのか、さしずめ腕試しといったところだ。揚げ足取りだなんて呼ばれるかもしれないが、客観的な事実を正確に見抜く能力は紛れもなく測る価値のある『実力』の一つだろう」

「敢えて濁したってことね。どうもあの人の話だけじゃ合点いかんと思っていたが、これですっきりした。二つ目は?」

「純粋に学校としての誠意だ。出鼻の説明から嘘八百であっては、そこで過ごす生徒からの信用なんてとても得られたものじゃない。どれだけの事情があろうとここはあくまで教育機関。教師と生徒の間に生まれる溝は最小限に留めておきたいはずだ」

「今の僕らのしていることはもう微塵も信用していないやつのそれだけどな……」

 

 疑うことになるきっかけを作ったのは鈴音だけど。

 

「もし誠意があるのなら、僕の『図る』説はやっぱ無理があるか」

「的外れではないさ、嘘とブラフは違う。騙そうとしているのは疑いようがないだろうな」

 

 相手に間違った解釈も誘導したり、話して問題ないことだけ話して隠したいことを隠したり、嘘を用いないやり方はいくらでもある。僕も偶にお世話になっているな。

 

「そういえば、コンビニの前で赤髪ヤンキーと言い合ってた人たちもおかしなことを言っていたなあ」

「それはオレも気になっていたんだ。『惨めな不良品』、『Dクラスは地獄を見る』。素直に受け取るなら、Dクラスに配属されたオレたちは学年の中で格下で、今後何らかの不利益を被るということだな」

「だから僕らのクラスは三枚目みたいなやつらが多かったのかもね、これも合点いった。ここまでくると、クラス替えの予想は益々信憑性が高まってきたなあ。個別かクラス毎かはともかく、定期的に実力順で入れ替わるってところか」

 

 「惨め」だの「地獄」だのと表現するくらいだから、余程痛い目に遭うのだろう。しかし一切の説明もなく「お前ら事前に不良品って評価されたから三年間地獄みたいな生活送れよ」なんて鬼畜なことをさすがの我が校も言わないと信じたい。テストや行事などの節目毎に査定を控えているはずだ。

 ふむ、大方結論はまとまったと見える。一番ミソなのは、この学校は実力至上主義でありそれによってクラス替えと境遇の変化が起こるということ。境遇というのは恐らく支給ポイントの量や受けられるサービスの質だろう。

 しかし、疑問が綺麗さっぱりなくなったわけではない。

 

「まだ合点いかんことがあるんだが、Dクラスが落ちこぼれだとしたら、平田や櫛田はどうなるんだ? 教室での様子からして、性格に難ありってことはなさそうだけど」

「そこまではわからないな。ただ、あの手のタイプはストレスが溜まりやすいと聞く。それが祟って何か問題行動を起こした可能性はあるだろうな」

 

 やはり根からの善人はいないというわけか。そりゃそうだ、何かを取り繕ったところで、必ずいつかどこかで綻びは出る。――そうして、演じることに疲れていくんだ。よくもまあ、そんな面倒な生き方を進んで選ぶ。

 何かになるということが、元の何かから離れて行くことと同じだという簡単な事実を、どうして蔑ろにしてしまうのだろう。

 

「もしもし、恭介?」

「ごめん、己との闘いに没頭してた。そういえば、僕らは不良品扱いされた可能性があるわけだけど、君は動揺の一つもしてなさそうだね。不満とかはないのかい?」

「逆にあると思うか? オレがこれといった取り柄のない平凡で地味な高校生なのは、今日一日だけでも理解できただろう」

「万が一そうだったとしても、学年最下層かもしれないってなったら多少はショックを受けるものじゃないか?」

「自分の技量がどの程度なのかはわかっているつもりだ。己を知らざれば戦う毎に必ず危うしと言うくらいだからな」

 

 まさか論語を持ち出してくるとは。孔子様の教え、意外と響く言葉があって好きだったな。

 

「そういうお前こそ、当然のように受け止めていなかったか?

「僕はどちらかと言うと興味がないって感じかなあ。進路が通るかわからなくなったのは痛いけど、逆に言えばそれくらいかもしれないってことだろう?」

 

 僕らの想定している害は精々進路とポイント程度。他の点で他校との違いはない。

 うちの高校の評価基準が特殊だったとしても、最終的に合否を決めるのは大学や企業だ。過程がお陀仏にでもならない限り、最後の最後で結果を出せば何ら心配することはないだろう。

 ポイントの支給が0になったとしても、救済措置であろう無料商品で乗り越えられるはずだ。後日確かめるつもりだが、食堂の方にも無料で食べられるものがあるだろう。

 生存権は万人が持つものだ。困窮した生活になろうとある程度は耐えていける自信がある。

 ただ、僕らなんかよりも気に掛けるべきやつがいる。

 

「懸念すべきは鈴音だなあ」

「あいつはプライドが人に化けたんじゃないか思えるくらいの少女だからな。伝えていいものか迷うところだ」

 

 クルーエルビューティー最大の特徴にして致命的な短所たるあの傲慢さ。他人を人として見ているかも怪しい言動の数々。無自覚かはさておき、彼女の自意識が異常なまでに高いのは理解に難くない。

 そんな彼女に「僕らの予想だとお前不良品だぜ(笑)」なんて言ったらどんな顔をされることやら。どれだけオブラートに包んだとしても、眉間の皺が深まることは不可避だろう。

 

「だけど……言うべき、なんだろうなあ」

「他に筋の通るでっち上げはできそうもないしな」

 

 逃げ道無し、()()ってやつだ。そもそもあの時鈴音を見逃してしまったのが()だったのかもな。

 それに、彼女の数少ない交友相手としてできるだけ誠実でありたいという気持ちもある。隠さなくていいものを隠すのはあまり賢くない選択だ。

 

「陰口みたいにはなるが、あいつの性格には困ったもんだな。高校生活初日から人様の御機嫌取りを考えなければならなくなるとは思わなかったぞ」

「あっはは……ちょっと度の強めな反抗期と思って見れば、可愛いく見えてくるかもよ? きっとあの子は素直になれないだけだと思うんだよなあ」

 

 僕は教室での彼女との会話で「取り付く島もない」と感じたわけだが、何も冷たい態度だけでそう判断したわけではない。

 「取り付く島もない」の語源は、航海中に立ち寄れる島がなく怯んで困り果ててしまっている状況からきている。頼れるものがないということだ。

 鈴音を見ていると、どこか孤独で怯えているように感じるのだ。僕なんかに同情されるのは癪かもしれないが、可哀想だというのが最大の理由だった。

 かつての彼女には心から尊敬したり頼ったりすることのできる人がいたのではないだろうか。今の彼女が周りを見ようとしないのはその反動なのだと思う。あるいは、見えなくなってしまったのかもしれないが。

 

「骨が折れそうだな……物理的にも」

「否定しきれないのが恐いところだけど……まあ人間関係なんて行き当たりばったりなものさあ。誰にだって成功や失敗とか、結果の良し悪しというのはある。少なくとも、僕らなら程々に上手くやっていける。そんな気がする」

 

 鈴音が誰かに歩み寄れるようになるために必要なのは、目的地となる島、帆、そして羅針盤だ。

 島は僕では力不足だ。面識も浅いし、そこまで出来た人間じゃない。

 帆にも向いていない。壊れがたくとも不安定だ。

 

「……きっと大丈夫さ」

 

 そのために、

 

「――僕が、彼女の羅針盤になるよ」

 

 小さなきっかけくらいなら与えられるかもしれない。僕にとって最も面倒なのは、それさえ逃げてしまうことだ。

 今はまだ、前向きな期待を抱けている。それが善い方向へ繋がることを、密かに願った。

 




次回はもしかしたらtipsを出すかもしれません。恭介君の出生辺りの掘り下げをするかも、しないかも。投稿は一週間以内が目標です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

餞別・混迷・胎動

いつから次がtipsだと錯覚していた?(昨日)

よく考えてみると、まだ過去編だすのはさすがに早いですよね。出さないかもって言っといてよかった……。

まあ別の理由として、最後にアンケートがあるので答えてほしいです。前のより結果がだいぶ今作に影響すると思います。


 学生寮の一室。

 朝の匂いを嗅ぎつけ、男は覚醒する。

 目覚ましをセットせずとも、彼は毎朝この時間に自然と目が開くのだ。朝寝坊などという低俗な過ちは勿論、万が一を危惧した念入れすら似合わない。そもそも、相手が時間という概念であっても、何かに支配される生活を善しとしない。

 尻込みせずにベッドを抜け洗面台へ向かう。長時間の美容ケアを行い、髪のセットも欠かさない。一連のルーティンは常に自分が最も美しい存在であるためだ。

 居間に戻り部屋を見回す。入学直後にして自身の必要とする物が全て揃ったその根城に、彼は満足げに頷いた。彼の場合、自分の地位をひけらかせばこれからの財源の算段は整うため、困ることはない。

 本来であれば、このまま荷物を(こしら)えて鼻歌交じりに往路へとつく。――しかし今日は珍しく、本当に珍しく、突発した出来心に誘われて部屋の奥へ歩んだ。

 そして悲哀な表情のまま手に取ったのは――一つの写真立て。

 フレームに収まる五人の影。その全員が穏やかな笑みを浮かべていた。そこには勿論、自分も含まれている。

 

『僕もなってみたいなー、最強で最高の自由人ってやつに。そうだ、ちょいと側で学ばせてくれよ。邪魔はしないから』

 

『えへへ、やっぱり六君は面白いなぁ。一緒にいるのすごく楽しい!』

 

『唯我独尊、皆等しく尊き人類ってねぇ。いやぁいい言葉じゃねえか、がーっはっは!』

 

 在りし日の青き思い出が心を撫でる。彼にとって大きな価値を持つ言葉の数々が、昨日のことのように甦る。

 ずっと独りでも良かった。完璧かつ美徳を追求し続ける彼にとって、あらゆる点で劣り切っていた他人と関わる時間は、無感情や嫌悪感を呼び起こすだけのはずだった。

 しかし少年は、彼らに出会った。

 隔たりをもろともせず、排他的な態度すらも受け容れてくれる。それでいて自分に近しく優秀であった彼らは、有象無象などという言葉では決して括ることのできない、確かな「友」だった。

 もう還ることはない遺産に思いを馳せ、最も親しかった()の名をポツリと呟いた。

 

「――恭介……」

 

 懐古か諦観か、男はフッと微笑み写真を戻す。

 そして、発起と哀愁を乗せた大きな背中を向けた。

 

 ――ここからはまた普段通り。唯一無二、最強で最高な私を、今日もご覧に入れようではないか。

 

 その雄姿の送り先は、現在(いま)に非ず。

 彼は今日も、「唯我独尊」であり続ける。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

「そんな……」

 

 翌日。事前に約束していた通り清隆と共に登校した僕は、鈴音が教室に入ってくるや否や昨日の結論をありのまま伝えた。

 

「根も葉もないけどなあ。鈴音はどう見ているんだい?」

 

 今の彼女にどんな言葉をかけても癇癪を引き起こすだけだ。彼女の答えが気になっているのも事実なので、無理にでも続けさせてもらう。

 

「……大体はあなたたちと一緒よ。だけど、実力順でクラスが決まっているなんて、簡単に認められるわけがないわ……」

「本当に憶測でしかないからな? オレたちが特殊な環境下で神経質になっているだけで、実は何もなかったなんてこともあるかもしれない」

 

 清隆の気持ちはよくわかる。もしこれが当たっていたら相当面倒くさそうだから。よもやそうであってくれと儚い願いを抱いてしまうのも無理はない。

 鈴音の口ぶりからして、彼女もこの可能性には行きついていたのかもしれない。感情が容認できないという具合か。

 そうなると、彼女は一人でそこまで考えを巡らせられたということになる。やはり彼女、見た目や言葉の節々から感じ取れる通り頭脳明晰なようだ。

 だが昨日の天然っぷりは頂けない。ギャップ萌えを狙うなら他人に迷惑をかけない程度で――

 

「浅川君?」

「いかがなさいましたでございましょうか」

 

 ええい、我らが姫のセンサーは化け物か……! 彼女の前では心中であってもふざけてはならないと悟る。

 

「いずれにせよ、何らかの査定によって毎月の支給額が変化するというのは確実と見ていいわね」

「い、いや、まだそうとも言い切れないんじゃ……」

「往生際が悪いわね。あなた、単に認めたくないだけでしょう?」

「……はい」

 

 おい、特大ブーメランだぞ。さっき君も酷くショックを受けていたじゃないか。写真にでも撮っておきたいくらいだと思っていたが、本当に撮っておけばよかった。

 

「次に考えるのは、どう対処するか。ということか?」

「正解よ。推測できたのだから、今のうちに動かない手はないわ」

「と言われても。僕らだけで何ができる? 個別ならまだしもクラス別となれば、Dクラス全員に忠告を届かせなきゃならんよ」

「それだけじゃない。カースト下位のオレたちの言葉をどれだけ真面目に受け止めてくれるかって話だ。Dクラスはどうやら能天気なやつらが多いようだから、事の重大さを理解してもらえなきゃ意味ないぞ」

 

 個別ならポイントを無駄遣いしない、授業や生活の中での態度に気を付けるなど、凡事徹底をするくらいでいいのだが……問題だらけ、前途多難だな。現に鈴音もすっかり考えあぐねてしまっている。

 無益な会議になるよりはと、僕は助け船を出すことにした。

 

「僕らにできることがないなら、できることがあるやつに任せればいいんじゃない?」

「……どういうこと?」

 

 イマイチ要領を得ていないようだ。彼女の性格からしてなかなか思いつく案でもないだろうし仕方ない。お、清隆はわかっているみたいだな。

 

「今行動を起こす上で一番問題なのは、どうすればクラスメイトが話を聞いてくれるかってことだろう? ただ、現状どう足掻いても僕らが支持を集めるのは無理だ。万が一できたとしても最短一か月ほど。その頃には恐らく最初の支給額変動は起こっていてポイントは大幅ダウン。やっと全員が真実を突き付けられるも手遅れでジ・エンドってところかなあ」

「そこまではわかるわ。それで?」

「ならどうするか。僕らは確かに人気者になる方法は知らないけど、人気者が誰かくらいは知っている」

「……平田君と櫛田さんね」

「二人のどっちか、あるいは両方を経由してみんなに連絡してもらえば、ある程度は変わるんじゃないか? 僕の中ではこれが精一杯」

 

 不利な環境下においてはこれが最善手だろう。自分に掛かる負担が少ないし、早急な先手を狙うなら纏め役になりつつある二人に任せてしまうのが一番手っ取り早い。

 僕としては、櫛田を推薦する。

 平田は既に一部の男子からの反感を買ってしまっている。恐らくあの場を少しワンマンな形で仕切り過ぎてしまったせいだ。あからさまに女子に懐かれていたのも原因だろう。

 かてて加えて、清隆の言う「能天気なやつ」は男子に多かった。櫛田の発言は彼らにとって鶴の一声となるだろうし、反感を抱く女子も同調圧力に屈して渋々頷いてくれるはずだ。

 ところで、どうして両方に任せる案に否定的なのかというと、それは大掛かりな派閥や対立を生まないためだ。

 二人の忠告が正しいものだと証明されると、彼らはほぼ同等の発言力を得ることになる。すると、それぞれを中心とした派閥が生まれ拮抗する恐れがある。

 船頭多くして船山に上る。頭は二つも要らないということだ。

 しかし、鈴音の答えは、僕の考えとは相反するものだった。

 

「……任せるしかないというのなら、平田君にしましょう」

「ほうほう……その心は?」

「二人とも、櫛田さんの様子を見て何か思うことはない?」

「うーん、清隆は?」

「いや、オレは特に」

「……そう」

 

 何やら思いつめた表情をする鈴音。本当、そういう仕草は様になっているよな。

 僕としては自分から何かしようとは思わないし、鈴音がそう言うのならそうすればいい。

 

「君の中で理由があるのなら僕は尊重するぞ。ほら、行ってきな」

「は? 何か勘違いしていないかしら。行くのはあなたたちよ」

「ふぇ?」

「え、オレもか?」

 

 なんてこったい、とんだ解釈違いだ。というか清隆、君こっそりフェードアウトしようとしていただろう。まさか君のメンターも振り切れてしまったというのかい?

 

「やだよ。君が行けばいいじゃないか。巻き込まないでおくれ」

「そもそも昨日も議論する義務はなかったんだけどな……。さすがにオレたちがそこまでしてやる道理はないぞ」

「普通なら同性であるあなたたちが行ったほうが話を進めやすいはずでしょう。普通ならね」

「変に煽るなって。今後のことを思えば、やはり君が直に言いに行ったほうがいいんだよ」

 

 君の意見も一理あるが、僕らは例外なのさ。自分で言っておいて悲しくなるが、性別が同じなだけで仲良くできるものなら僕も清隆も友達百人できている。

 

「私自身の発言力を稼いでおく、ということかしら?」

「わかってるなら話は早い」

 

 リーダーに信頼されるためのチャンスだということは承知しているらしい。

 

「というわけで。はい、勇気を出して、レッツラゴー」

「あやすような言い方が癪に障るわね……。わかったわ」

 

 そう言うと鈴音は渋々といった様子で立ち上がり、平田の席に向か――う途中でこちらを振り返った。一体どうしたんだ?

 

「ねえ、その……さっきの口ぶりからして、あなたたちは一連の件には不干渉を貫くということなのよね?」

「あ、ああ。そのつもりだけど」

「……そう」

 

 ……なんだ? らしくもない、変に口籠って。

 

「何か心配事か?」

 

 清隆も疑問に感じたようで鈴音に問う。

 

「……い、いえ、何でもないわ。それじゃあ―――」

 

 行ってくるわ、とでも言おうとしたのだろう。しかし、その言葉は始業のチャイムによって遮られた。

 

「鳴っちゃったなあ。まあ焦らず放課後にでも言えばいいんじゃないか?」

「そうだな。助言無しで各々がどんな態度で授業に臨むのか、気になるところではある」

「……そうね。また後にしましょう」

 

 僕と清隆がフォローし、鈴音は僕らの提案に従う。紛れもない本心からの言葉だ。

 しかし、一瞬彼女が見せた表情。不安、困惑、悲哀、寂寥、色んな感情が覗いていた気がした。清隆もきっと気付いたはずだ。

 別に忘れていたわけじゃない。僕から見る彼女の人間像は、孤独で、冷酷で、賢くて、どこか抜けていて――怯えていた。先程垣間見えたのは、もしかしたら彼女の隠す本質……。

 だけど、気付かないフリをした。踏み込むことへの恐怖が、僕を逃げへと追いやった。

 心は許しているはずなのに、どこか一歩、遠くにいる。きっと届かないと不安になって、怯んで諦めてしまう微妙な距離を感じる。

 反吐が出るような、他人という関係の延長線。これを面倒な関係と言わずして、何と表現すれば良いというのか。

 そっと、二人の顔色を窺う。

 いつもは浮き沈みの小さい表情であるが、彼らも僕と同じなのだと、今はとてもわかりやすかった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 時所変わり、春芽吹く某日、東京某所。

 

 下界を照らす暖かな光は既に東へ、同時に暗闇の監視者はうっすらと西の空で顕わとなる。

 帰路を往く子供たちの姿も疎らになった黄昏時、とある一軒家に影法師が四つ。

 その内、()()活動を続ける少女は、自身の置かれた状況に全く沿わない晴れやかな笑顔を浮かべていた。

 右手に握られた硝子の欠片。そこから滴り落ちる禍々しい鮮血は、夥しい真っ赤な水溜まりに淡々と吸い込まれていく。

 少女はその淀んだ双眸を一人の少年へ向けた。正常な呼吸を刻むも反応の一つも示さない様子を窺い、一瞬表情を曇らせる。

 しかしそれは、雪崩れるように押し寄せる愉悦によって塗り潰される。

 何かに解放されたような清々しさに身を委ね、二人の亡骸へと視線を移し、嗤った。

 今度は口角だけでは足りない。甘美な気色が、壊れた笑声となって溢れ出す。

 少女の可愛らしい顔立ちには似合わないヒステリックな音色は、まさしく魂の咆哮だった。

 近隣の住民が通報したのだろうか。無機質なサイレンが近づいてくる。

 しかし少女は、慌てる素振りを見せるどころか一層けたたましい笑みを深めていく。

 まるで、この幸福に水を差すな、ここは今自分の歌い踊る独壇場なのだと主張するように。

 相反する感情はどちらも脆弱な心に傷をつけ、その口から儚き血糊が流れ出るが如く、頬に湿った道を垂らす。

 昏い痛に飲まれた彼女には、もう歔欷に身を任すことでしか、己の像を保てなかった。

 

 

 

 哀れな少女は地に堕ちた。

 焦がれ、追いかけ、迷い、失い、それでも諦めずもがき続けた末路。

 ここに、悪魔()に魅入られた者がまた一人。彼女に許されるのは、欠陥に塗れた狂気のみ。

 救いの希望たり得る()は、もうどこにもいない。

 




悪魔が増えたね、6666字(本文)。

なんて格好つけようか迷ったんですけどやめときます。偶然ですねはい。

というのも、今回のアンケート次第では字数大幅に変わるかもしれないんですよね。

今回ある原作キャラ(皆さんお察しですけど敢えて名前は伏せます)がオリキャラとの関連を匂わせる描写があったと思うんですけど、ぶっちゃけオリキャラだけで掘り下げられます。
一応予定としては今後原作との致命的な矛盾は生じることはないような繋がりに抑えるつもりなんですが、原作に思い入れのある方とかだと「オリ設定で原作キャラの設定変えんでや」って思うかもなんで、教えてください。ちなみに関わらせる予定なのは彼だけです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

赤き蝶は、未だ青きロベリアを飛び立てない

前回の内容、深夜テンションだったのか、見返すとどうしてこんなにアンニュイな雰囲気になってしまったんだろうって、ちょっと反省しています。仕方ないのでこのまま突っ切りますけど。

今まで九割方三人でけで話進めたという事実……モタモタもいいとこですねホント。申し訳程度に終盤でちょろっとあのキャラだしときました。


「なあ清隆。これは……」

「……さすがに想定以上だな」

「とりあえず前を向いてちゃんと受けなさい……」

 

 時計の針が正午を指す目前、僕らはこの教室の惨状に絶句していた。

 授業は大変高品質で教師らの解説はわかりやすい。学校側に問題は微塵もないのだが……。

 初めの方はまだよかった。異変が起こったのは二時限目の後半から。一部の男子が睡魔に屈し始めたのである。

 オイオイ冗談きついって、授業初日だぞ。まだガイダンスしかしていないって。ページを繰る教材がなく話を聞いているだけだから眠くなるという意見は理解できなくもないが、緊張感がないにも程があるだろう。

 そして、事はそれだけに留まらなかった。男子の怠慢を全く咎めなかった教師に気が緩んだのか、今度は何食わぬ顔で私語を連発する女子まで増え始めた。お淑やかであれ。まさかあの鈴音を見習えだなんて思う時が来るとは……

 

「ギャフンッ!」

 

 突如右肩に激痛。刺すような痛み。

 僕の悲鳴に教室中が驚き、束の間の沈黙が流れる。

 

「どうした浅川? 急に大きな声を出して」

「あ……いやぁ、ペンを落としそうになっちゃって、焦って叫んじゃいました」

「そうか。授業に支障をきたす行動は慎むようにな」

「……はい」

 

 あれだけ真面目に授業を受けない生徒を静観しておいて、今のは指摘するのか。受けるも受けないも自由だが、受けられない状況は作るなよってか?

 そんなことより――ジト目で振り返るも、鈴音は何事もなかったかのように黒板に顔を向けていた。――机の上にコンパスを置いて。

 

「あの、鈴音さん。シャレにならないですよ……?」

「何のこと?」

「いや、だからそれ」

「証拠は?」

「ふぇ?」

「証拠はあるのかしら」

「……今は日本史の時間なんだがなあ」

 

 清隆も顔を青くしているじゃないか。殺傷能力のある道具を彼女に持たせてはならんな。強大な力を持った未熟者は力に溺れるぞ。

 まあ茶番はこれくらいにして、授業中の今は矛を収めてやるとしよう。

 

 

 

 

 

 昼休み。

 一応自炊はできるが、あまり器用ではないし面倒くさいし気になるしの3C(スリーシー)に従い今日は学食を食べるつもりだ。

 

「よし清隆、学食行こうぜえ」

「わかった。いやーしかし、なんだか楽しみだな。どんな料理が出るのか」

「こういうのは意外と美味いって聞くからなあ。百聞は一見に如かず、行ってみっかあ」

 

 ああ楽しみだとも。中学校にもあったらしいが使うことはなかったからな。本当、()()()()()なんていつぶりだろう。

 僕らの予想通りなら、救済措置の無料メニューがあるはずだ。ケチな僕としてはそちらにも大変興味がある。少しワクワクしてしまうな。

 同じ考えの生徒も多いだろうし、混む前に並ぼうと足早に向かう。

 案の定、食堂に着くとなかなかの大所帯が待っていた。もたもたしていたら落ち着いて食べる時間もなかっただろう。

 

「……あの」

「清隆は何にする?」

「ちょっと、いいかし――」

「オレはー……そうだな、定番のカレーにでもしようかな」

「ねえ、人の話を―

「一番人気って書いてあるなあ。辛いのはちと苦手だけど、どんくらいなもんなんだ――」

「あら、コンパスが疼いているわ」

「疼いているのは君の右手だろう。なんだその中途半端な中二病は……」

 

 魔力がコンパスに宿ってしまっているじゃないか。あれか、自分はもう既に使いこなしていますよってか? ……でも意外と強そうだな。凄まじいオーラを纏ったコンパスが軽快な動きで自分の懐に突き刺さる絵図を想像してしまった。

 

「で、何か文句でもあるのかい?」

「文句も何も、どうして私まで連れてこられたの?」

「まあいいじゃないか。別に独りで食べなきゃいけない理由があるわけでもない」

「あなたたちと一緒に食べなきゃいけない理由もないわ」

「頑固だなあ、もう諦めなさいよ。折角ここまで来たんだし、態々今この場から離れる方が面倒くさいと思うけど?」

 

 一々合理的に説明してやらないと君は大人しくしてくれないのか。半ば強引に連れてきたのは事実だが、そうでもしないと絶対に平然と独りで食べに行っていただろう。それに、嫌ならその場で振り解いていればよかったはずだ。

 未だ不満げな顔をしている彼女を微笑ましく眺める。可愛げのない愛嬌だな、全く。きっと彼女は、自分が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことに気づいていないんだろうな。

 

「全く……あら? これは――」

「おお、我発見せり(ユリイカ)! やはりあったか無料のやつ」

 

 鈴音と同じメニュー欄に目を向けると、『山菜定食:0円』とある。これだこれ、これを探していたんだよ。一気にテンション上がってきた。

 

「面舵いっぱい。これにすっか」

「いいのか? 写真を見る限り大分質素に感じるが」

「見かけによらずってこともあるかもしれないし、物は言いようさ。『山の幸の盛り合わせ』なんて言い方にしてみれば、なんだか食欲をそそられるだろう?」

 

 山菜って本当は海浜とかにある植物も含むらしいけど、そこはご愛嬌ということで。

 

「でももしもの時は、鈴音にお慈悲を乞うかなあ」

「何故私なの? イヤよ、綾小路君に当たりなさい」

「あっはは、冗談さ。ほら、そろそろ順番が回ってくる。行こう」

 

 手短にご飯を受け取り三つ並んで空いていた席になんとか座る。清隆が真ん中だ。

 受け取った料理――というにも名ばかりな緑溢れる皿を見る。思いの外ボリューミーだ。もっとひもじさ満点のちまっとした量かと思っていたからちょっと得した気分。

 何よりデカいのは米と味噌汁が適量で付いていることだ。定食であることを失念していた。

 

「それじゃ早速、頂くとするか」

「ええ、そうね」

 

 それでは、両手を合わせて。

 

 パンッ

 

「いただきます」「いただきます」「いただきマウス!」

「え?」

 

 いざ尋常に、味わわせてもらおう……!

 記念すべき一口目。タラの天ぷらを一つ、ゆっくりと口に入れる。

 ムシャ、ムシャ、ムシャ――。

 ほう、これは……。

 僕はサッと、清隆の前に皿をずらした。

 

「えっと、いいのか?」

「無料だからね……食ってみ」

「あ、ああ……」

 

 僕の真剣な表情を見て、清隆は息をのむ。

 恐る恐るといった様子で、彼はもう一つ残っていた同じ天ぷらを口に運んだ。

 

「……どうよ」

「これは……美味い、のか?」

「美味いわい!」

 

 歯切れの悪い答えに突っ込む気持ちが先走っておかしなテンションになってしまった。ゲフンゲフン……。

 多少の苦味は山菜ならではの個性。衣に用いた材料の配分から揚げ加減まで絶妙だ。味付けもしっかりしている。

 これが無料だって……? なんてコスパのいいことか。さすがは政府運営の進学校。雇う料理人も伊達じゃない。

 

「ど、どうやら満足だったようね」

「ここまで感極まっている恭介は、なかなか見れないかもしれないな」

 

 よし、これで平日の昼食は無問題と言って差し支えない。少し肉の濃い味が欲しいものだが、我慢できないこともないしスーパーで何か買えばいいだろう。心配なさそうだ。

 それに――一つアイデアが閃いた。いつか試してみるとしよう。

 

「……そうね、そこまで言うなら……浅川君、私の生姜焼きを分けてあげるから、あなたのそれ、少しだけ頂いてもいいかしら?」

 

 おやおや、さっきはあげないとかなんとか言っていたのに、鈴音とて食に対する好奇心には敵わなかったか。

 咎める気はない。今肉にありつけるのは絶好のタイミングだったし、僕は絶賛気分上々だからな。

 

「ん、色んなメニューの味を知っておきたいしなあ。清隆のも一口でいいから恵んでおくれよ」

「構わない。分け合いっこってことだな」

「よし決まり。そんじゃ鈴音、ほれ」

「ええ。――って、浅川君、それはどういうつもり?」

「ふぇ? 何って、君にも分けてやろうとしているだけだが。さあほら、口をお()け」

 

 箸で掴んだ食材を鈴音の口元へ突き付けると、彼女は動揺し何とも言えないような表情をする。

 

「……綾小路君、彼に悪意はないのよね?」

「……ああ、恭介が天然なだけだと思うぞ」

 

 なんだなんだ、珍しく意気投合して。ただ食べさせてやろうとしているだけじゃないか。君も手を使わなくて楽だろうに。

 

「説明するのも面倒ね……。浅川君、私が適当な量だけ移すから大丈夫よ」

「まあ君がそう言うなら、別にそれでもいいぞ。ほら、もってけ泥棒」

 

 そうして、僕の目の前に一口量の生姜焼きが置かれる。どれどれ、山菜であの味だったのだ。正直期待しかない。

 ――パクリ。

 

「旨味しかない……!」

 

 ああ、これが真心の籠った味というやつか。作り手の僕らに対する慈しみを感じる。海馬に残るような刺激が癖になってしまいそうだ。ある意味食べなければ良かった。無料の山菜で満足出来ていたはずなのに。

 

「……悪くはないけど、正直微妙ね」

 

 一方の鈴音はあまりお気に召さなかったようだ。なんでや、美味しかったろう、山菜。どちらを先に食べるかで印象が変わるのかもしれない。

 その後清隆のカレーも一口もらい、僕は再び幸福に浸るのだった。

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 午前中のような地獄絵図にもう二時間も浸かるのはさすがに堪えた。これからも長らくこんな日々が続くのかと思うと億劫だな。

 課業を終えて疲れた心身に鞭を打つように伸びをしつつ、放課後の行動を考える。候補は三つだ。

 

 ①部活動の説明会に参加する

 ②図書館に行く

 ③校内散策

 

 今日中に全部済ませるのは難しい。かと言って優先順位があるわけでもない。ただ、一つ目に関しては時間が待ってくれない。早く決めなければ。

 こういうときこそ頼るべきは友。二人はどう考えているのだろう。

 

「なあ二人とも、この後の予定は決まっているか?」

「オレは部活動の説明会に行くつもりだ」

「お、何か興味のあるやつでも?」

「いや、そういうわけではないが、そもそもオレは部活というものに縁が無くてな。説明会の中で何か目ぼしいものが見つかればと思っていたんだ」

 

 中学のころは帰宅部だったのか、別に珍しいことでもない。高校生になって新しいことに挑戦してみたいという気持ちもわかるしな。

 

「うーん、僕も具体的な希望はないけど行ってみるかなあ。鈴音は?」

「私は――その、朝の件を済ませようと思うわ」

 

 浮かない顔をする鈴音の言葉は、若干の重みを帯びていた。

 問題はきっと彼女だけではない。僕も清隆を安寧に縋りたいから、歩み寄れずにいる。

 嫌な予感がしてしまうのだ。穏やかな日々からの乖離と待ち受ける苦痛を想像したら、耐えられる自信がない。

 心地良かったはずの距離を重々しく遮る壁はそれだ。普通の学校なら絶対に起こり得ない意志の相反。入り乱れる感情に混迷して、投げ出してしまいたくなる。

 

「生憎だけど、平田も多分サッカー部目当てで説明会に行くだろうし、そのまま取り巻き女子ちゃんたちと帰っちゃうんじゃないかなあ」

「それは……そうかもしれないわね」

 

 だから僕は、今回も彼女を()()()()()()()()()()()。先延ばしにしか成り得ない惨めな抵抗だというのに。

 まことしやかな言葉をかける僕と、それを真に受ける鈴音。互いにこじ付けがましい理由を見つけては、正当化して踏み出しかけた足を止めてしまう。

 

「なら、鈴音もオレたちと一緒に説明会に来るか? 何か得られるものがあるかもしれないぞ」

「……そうね。部活動に入る予定はないけれど、どうしてもと言うのなら仕方なく付いて行ってあげるわ」

 

 上から目線な言い方であることに変わりはないものの、清隆の気遣いに対する彼女の返答は、意外にも素直だった。

 

 

 

 所変わって体育館。入学式の時と遜色ないくらいの大人数で、ほとんどの新入生が参加するようだ。

 クオリティの高い勧誘動画やネタに全振りしたコントさながらな活劇など個性溢れる部活紹介に感心していると、隣に立っていた清隆が少しだけこちらに寄って耳打ちしてきた。

 

「どうするつもりなんだ?」

「何のことだ?」

「わかっているだろう。さっきの件だ」

 

 まさかこのタイミングで清隆の方から触れてくるとは。教室でも特に何も言わなかったのに。

 

「どうするも何も、僕らはもう御役目御免って話だったろう? 僕も君も、面倒くさいことに首を突っ込むのは――」

「今のお前が本当にそう思っているとは思えない」

 

 予め用意していた回答を清隆が遮る。珍しい語気の強さに少し驚いてしまったが、図星を突かれた僕は言葉に詰まってしまう。

 

「迷っているんだろう? システムの詮索に前向きな鈴音とそれに対して消極的なオレ、態度は正反対だ。お前がどちらかに賛同すればもう一方は最悪孤立することになる」

「それは、そうかもなあ」

 

 どちらかと言うと僕も清隆側だが、もし清隆も乗り気になっていたら鈴音に同調していただろう。二人の意志のすれ違いが僕の悩みの種だという見立ては間違ってはいない。

 

「今回の選択は大きな分岐点だ。これほど特殊な学校なら特有の大規模なイベントがある可能性は否定できない。鈴音の積極的な態度に釣られれば平穏とは程遠い生活に身を置くことになるだろう。葛藤する気持ちはわかる」

 

 僕らの友情は所詮一日そこらのものだ。僕がどちらかに肩入れすれば、遅かれ早かれこの関係は瓦解し得る。今朝僕と清隆が不干渉の意を表明した時も、もしチャイムが鳴っていなければあのまま鈴音と僕らの関係は希薄なものになっていたかもしれない。

 

「オレのことを気にかけてくれるのは嬉しいが、無理に合わせなくてもいいぞ。鈴音も危なっかしいところがあるから、お前がいた方が心強いはずだ。だから――」

「違うよ」

「何?」

「僕はそんなできた人間じゃないってことだ」

 

 だけど、そうじゃない。そうじゃないんだよ、清隆。

 僕の悩みは、そんな崇高なものではない。もっと自己中心的で愚鈍な思考。

 彼女に手を差し伸べたい。しかし、僕はそれ以外を求めていないのだ。

 手を差し伸べたい。自分や他人の傷を感じたくない。自分本位な二つの思いが矛盾を孕み、嫌悪と葛藤が湧き上がる。

 ――それは、君も同じだろう?

 そこでふと、体育館を包む空気の異変に気付いた。

 辺りの様子を見回すと、ついさっきまでガヤガヤとお喋りをしていた連中がいつの間にか黙って壇上に視線を向けている。

 立ち尽くす先輩は少し細身で、クールな印象を与える眼鏡が良く似合っている男だった。これまで群衆の前で発表していた誰よりも凛とした佇まいで威厳を感じる。

 どうやら、みんなが静まるまで黙して待ち続けていたようだ。

 

「生徒会長の、堀北学です」

 

 ――堀北?

 思わず斜め前にいた鈴音の方を見る。すぐに彼女の少し青く強張った顔を確認し、過った考えが間違いではないことを悟った。

 偶然にも彼女が抱えている一物――学校初日のHR前にも垣間見えていた――の取っ掛かりを得た。奇貨可居(きかかきょ)とはまさにこのこと。

 しかし今の僕には、それが自分に一種の強要をしているような気がして、心苦しさが募るだけだった。

 一歩引いた態度を装う盟友、無愛想で協調性に欠ける少女、一貫性のない優柔不断な僕

 そんな状況に情けなく思う一方、自分一人ではないという安堵が紛れている事実に、僕は更に辟易するのだった。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 説明会を終えた僕は図書館にいた。この二日間で施設内を清隆と鈴音と一緒に行動しなかったのは、これが初めてかもしれない。少し、独りになりたかった。

 まだ開館初日であり、遅い時間になってしまったのもあって人気はない。閉館まであと一時間を切っているため、下見程度になりそうだ。

 今の状態では真面目に本を見繕う気にはなれそうもない。何の気なしに本棚をグルグルと廻る。朧気に記憶している題名の本を取り出しては、適当にめくって元に戻しての繰り返し。

 頭を空っぽにしようとするがなかなかモヤモヤが晴れず、意味のない反復動作にも飽き、僕はハアと溜息をつく。閑散とした空気は幾分か心を鎮めてくれたが、それでももどかしい気分は抜けなかった。

 ……折角だから、少し読んで行くか。

 十数分の周回の中でいくつか心に留まっていた本がある棚を再び巡り、窓側の奥から二番目のテーブル、一角の席に腰を下ろす。

 取ってきた本のジャンルにこだわりはない。純文学、SF、推理小説、啓発本など多岐に渡る。

 さて、どれを読むか……。

 寸分悩んで手に取ったのは――推理小説だ。タイトルは『予告殺人』。アガサ・クリスティが書いた「マープルシリーズ」の一作だ。

 『殺人お知らせ申し上げます』という最初の一節には、僕も当時興味を引き寄せられたものだ。既に一度読破済みではあるが、曖昧になっている部分もあるだろうしこの機会に再読してみよう。

 パラパラと、できるだけ物語の展開に集中して読み進める。

 そのまま無為な十五分が経過した。

 ……全く、これじゃあ「熟読」と言うよりは「卒読」だ。

 どうしても雑念がちらつく。これでは意味がないと姿勢を更に前のめりにし、文字だけが視界に映るようにする。

 何かに憑りつかれたように、ひたすらページを繰る。繰る。繰る。

 しかし理性に反して本能が想起させるのは、清隆の顔、鈴音の顔、旧友の顔、家族の顔、顔、顔、表情(かお)

 とても集中ができない。去来する雑念から目を逸らしたくて、必死に虚無な一点を見つめる。

 僅かに呼吸が乱れていることを自覚できる程に、眼前の黒点に食いつく。

 痒いくもない頭を掻きむしって、無機質な文字列を只管追い掛ける。

 ――だからだろうか。()()の呼びかけに気付けなかったのは。

 

「あの!」

「オウェイッ⁉」

 

 不意を突くその声は柔らかさを持ち、すぐ側から聞こえてきた。奪われかけていた意識が、思考が、不意に自分のもとに帰って来る。

 

「え、えっと……?」

「あ、やっと気づいてくれましたね」

 

 いつの間にか隣に座っていた少女は、安堵と、小さな歓喜の表情を浮かべていた。

 ――だ、誰?

 少なくとも僕の記憶の中に彼女は存在しない。そもそもこの高校において真面に印象に残っているのは清隆と鈴音だけだ。

 

「いつからそこにいたんだい?」

「えっと、三十分くらい前からですね」

「へー。……って、僕が読み始めてすぐじゃない」

 

 自分が血眼になって読書もどきをしているところを半時間も見られるってどんな恥晒しだ。君も他人の読書をそんな長時間眺めているなんて、言ってしまえば変人だぞ。

 

「その、随分と辛抱強いんだなあ」

「そうでもありませんでしたよ。覗き込んだり肩をつついたりもしましたし。寧ろあそこまでされて全く気付かずにいられたあなたが鈍いと思います」

 

 酷い言い様だな。と言おうとしたが――え、つつかれてた? 嘘、何それ知らない。もし彼女の言っていることが本当なら、悔しいが返す言葉もないな。

 結局、この少女は何者なのだろう。突っ込みどころが多すぎ状況だが、漂う雰囲気からして悪人ではなさそうだ。となれば、さては天然か? 正直そのキャラはもう鈴音だけで十ぶ……悪寒がしたのはもう偶然とは思うまい。

 変に無言の時間が生まれるのも気まずいかと思い、焦りを滲ませながら口を開く。

 

「恐らく僕らは初対面のはずなんだが、一体全体何の用だい?」

「そうでした。それで声を掛けたんでした」

 

 これが()()だった。興味本位や流れに屈して、それを聞いてはいけなかったのだ。多少の無礼は承知で、ぶっきらぼうにそそくさとここを出て行けば――。

 燻ぶりを加速させる新たな出会い。だが、後悔しても遅かった。

 

「あの。本、お好きなんですか!」

 

 それは、僕のメンターをぶっ壊すのに十分な一言だった。

 




シリアス書くの大変だなって思うのに進める度にオリ主が独り善がりに突っ込んでいきやがる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

初色

切り良く収まったので、少し短いかもしれませんが丸一話彼女との会話です。

この二人の掛け合いは想定通り緩くなっていきそうです。


「と、とりあえず、ちょっと離れてくれないか? 流石に近過ぎる」

 

 これでもかと間近まで乗り込んできた少女を、やっとの思いで引きはがす。

 今の反応だけでわかった。彼女は間違いなく相手にしてはいけない人種だ。別にマニアやオタクに対して悪い偏見を持っているなんてことは断じてないが、特定の趣味にはやたら饒舌になる人への対応程疲れるものはない。そんなグイグイ来られても困る。

 

「すみません。つい昂ってしまって」

 

 そりゃそうでしょうよ。

 

「まあ、共通の趣味を持っているかもってなったらテンション上がるのはわかるけどなあ。だけどごめんなあ。生憎僕は読書家を名乗れる程本と触れ合ってきたわけじゃないんだ」

「え、でも、こんなに取って来ているじゃないですか」

 

 彼女が指したのは、僕が当てもなく選んだ六冊の本だ。

 

「ええとこれは、何となく聞き覚えのあった本を漁ってきただけだ。有名どころばかりでジャンルもバラバラだろう? 実際ここで読んでいたのはこの一冊だけだったし」

 

 そう言って僕は『予告殺人』をひらひらと見せる。

 運の悪いことに、適当に万々と本を持ってきてしまったせいで読書家紛いな様相を醸し出してしまっていたが、ここはできるだけ関心の薄さを強調しておかなければマズイ。この窮地を脱するには形振り構ってなどいられないのだ。

 

「では、こんな遅い時間までここで読んでいたのは?」

「成り行きだなあ。部活の説明会が騒がしかったから静かなところに行きたくて、今日から空いてるって聞いたから閉館までいさせてもらう腹積もりだったんだ。そもそも読んでいた時間もちょびっとだったって言ってるじゃないかあ」

 

 嘘の一つを吐いているわけでもない。騒がしかったのは主に僕の心の内だった気もするが、本当のことしか言っていないのだから、後は彼女の解釈次第だ。

 

「そうでしたか……」

「お、おう」

 

 シュンッ、という効果音が聞こえてきそうな落ち込み具合だな。

 若干の申し訳なさと気まずさを覚えた僕は、話を続けてみることにした。

 

「ええと、君の名前は? 僕の名前は浅川恭介って言うんだけど」

 

 清隆たちとの時と同じ轍は踏まない。名前も知らない人と真面なコミュニケーションを取ろうとするのは悪手だ。

 

「申し遅れましたね、椎名ひよりです」

「椎名……ひより……ふむ、椎名は確か同じクラスじゃなかったよなあ」

 

 楽な呼び方を判断しつつクラスを問う。他クラスの生徒との会話は今回が初めてだが、熱さえ入らなければ物腰柔らかい人に見える。いずれにせよ僕の認識の中ではDである自分より基本的なスペックは格上ということになるわけだが、どうなのだろうか。

 

「はい、私はCクラスです。浅川君は?」

 

 ほう、Cか。言葉遣いも丁寧で知的な印象を受けるが、この時間に独りで図書館にいるあたり、運動や友達づくりが苦手なのかもしれない。

 

「僕はDだ。椎名はいつから図書館に? 放課後になってからずっとかい?」 

「そうですね。それで、切りの良いところで帰ろうとした時にあなたが来たんです。やっと同志が現れたと思ったのですが……」

 

 ああ、この様子だと僕以外にここを訪れた人はいなかったみたいだな。かてて加えて、僕の初々しい挙動から同級生だと察して余計親近感を覚えたのだろう。でも、だったら見かけた瞬間に声を掛けてくれたら良かったのに。

 

「誰かと一緒に来たりはしなかったのかい? クラスにもう一人くらい仲間がいてもおかしくはないと思うけど」

「それが、うちのクラスは血の気の多い方ばかりで少し殺伐としているんです。あまり話の合う人はいなさそうでしたね」

「ああ、そっちはそんな感じなのねえ」

 

 Dが愚者の隊列かと思えばCは猛獣の巣窟か。やはりクラスによって結構な偏りがあるみたいだな。鈴音には悪いがDクラスは落ちこぼれの集まりで決まりだろう。となると、AとBがどんな優等生オーラを放っているのかが気になってくるな。

 

「浅川君のクラスはどんな感じですか?」

「うーん……一言で表すなら、騒がしい三枚目集団、かなあ。僕は近くの席のやつとは気が合いそうだったから仲良くさせてもらってるんだけど、クラスに溶け込めているってわけではないなあ」

 

 そんな二人とも今は微妙な空気になってしまっているが、それをここで話す必要はないだろう。

 

「良い巡り合わせがあったんですね。私も、気が合うとまではいかなくとも本について語り合えるような方と出会えれば良いのですが……」

 

 彼女は寂しそうな表情で溜息を吐いた。

 ありのままの自分が周りと合わないことを知っているから、曝け出せない。

 それでも取り繕うことはせず、受け入れてくれる誰かを探している。

 これが自分なのだという確かな事実を見失わずに真っ直ぐ向き合う。

 その勇ましいとも取れる姿には、どこか見覚えがあった。

 本来他人である彼女に何か施しをしてやる道理はない。しかし、郷愁めいた親近感が、自然と彼女のささやかな願いに惹き寄せられる。

 ――僕にも、できるだろうか。

 この小さな手は、彼女を引き上げるのに足りるのだろうか。

 これは完全に僕個人の気まぐれ。悪く言ってしまえばワガママだ。

 鈴音の時と同じ問いかけ。しかし決定的に違う事実が二つあった。

 一つはクラスが違うこと。そしてもう一つは、この少女は彷徨っている途中だということ。

 僕らを引き寄せたのは、クラスでも座席でもなく、図書館だ。清隆とは違い、Sシステムという難しい問題とは無縁な関わり。

 そして椎名は、鈴音と違い自ら独りを選んでいるわけでもない。確かなSOSが、そこにはあった。

 だからかもしれない。僕の心が揺れたのは。

 足が前に出た。いつの間にか、手が伸びていた。

 

「……そんなときは、あれだ――君の『灰色の脳細胞』を使いなさい」

「え?」

 

 僕の急な発言に、彼女はキョトンとした顔をする。

 

「ほら、エルキュール・ポアロの口癖だよ。推理小説が好きな君なら知っているだろう?」

 

 僕はどちらかと言うとマープル派だが、同じくクリスティの書いたポアロの方がメジャーなはずだ。

 

「そ、それは確かに知っていますけど。あれ、そもそも私、推理小説が好きだなん言いましたっけ?」

「君が我も忘れてガツガツと言い寄ってきた時、その血走った目を向けていたのはほとんどこれだったからなあ」

 

 そう言ってひらひらとさせたのは、再び登場、『予告殺人』だ。

 机上の本を指差すときも、未だ見ぬ読書仲間に思いを馳せていた時も、度々彼女はこれに意識を向けていた。おまけに、そもそも彼女が僕に近づいたのは、偶々読んでいたのが推理小説だったという事実も大きかったのかもしれない。

 

「目線だけでですか? 随分と雑把な……いえ、この場合は敏いのでしょうか?」

「まあね。犬じゃあるまいし、物に縋って必死に地を這いながら証拠を探すのは柄じゃないのさあ」

 

 そう言ってやると、彼女の目はまた一層輝きを増した。このセリフが、律儀に証拠品集めに徹する他の探偵たちを小馬鹿にするポアロの考え方を意識したものだと気づいたからだろう。

 しかしその直後、彼女は少しムッとした表情になった。

 

「やっぱり、本好きだったじゃないですか」

「いやあ、君程ではないよ。別にポアロの名シーンは知る人ぞ知るというわけでもないだろう?」

 

 本が好きか嫌いかで聞かれたら確かに好きとは答えるが、椎名の言う好きは多分マイスターの領域だ。とても胸を張ってイエスとは言えない。

 それに、最初は関わるつもりなんてなかったのだ。気が変わったからこうなっているだけで。

 とはいえ、アピールタイムはこのくらいで良いだろう。

 

「まあこんな感じで、人並くらいには本の話はできると思っている。推理小説もなあ。――だから、偶には付き合ってやるぞ」

「え、本当ですか?」

「おうさあ。まあほとんど僕が聞き手になりそうだけどなあ」

 

 グイッと身を乗り出す椎名を退けながら応える。

 これからこの関係がどうなっていくかはいつも通りわからないが、奇妙な偶然だったのだと思う。

 もし僕が悩んだまま説明会に行っていなければ、今日のこの時間に図書館へは行かなかったかもしれない。椎名が同じクラスに友だちをつくれていたり、僕が偶々『予告殺人』を読んでいなかったりしたら、この会話は起こらなかったかもしれない。

 僕らが同じクラスだったとしても、お互いの性格からして、会話の一つもないまま三年間を終える可能性さえあっただろう。

 彼女がSシステムの裏を知れば、僕を遠ざけようとするかもしれない。同じクラスに新しい友達ができたら、そっちの方に離れて行くかもしれない。だけど、それでも良かった。

 どんな変化があろうと、その瞬間の彼女が僕との時間に価値を見出してくれるのなら。僕の存在が、彼女自身の努力の成果となるのなら。既に伸ばされている手を掴み上げてやるくらいはしてあげたいと思った。

 これが、彼女にとっての「良い巡り合わせ」となることを願うばかりだ。

 そうすれば、僕が抱えている物にも多少なりとも意味があったと言えるだろう。

 

「それでは、お言葉に甘えさせてもらいますね。これからよろしくお願いします、浅川君」

 

 そう言って彼女が浮かべた笑顔は、一点の曇りもない純粋な喜びからくるものだった。

 ――気持ちの良い笑顔だな。

 この清々しい表情を何度も拝めるのなら、僕が勇気を出したお駄賃としては申し分なかろう。

 

「ん、よろしくなあ椎名」

 

 その時、まるで狙っていたかのようなタイミングで、閉館の合図が鳴った。

 

「――お、もう時間かあ。まあ定期的にここにはお世話になるつもりだから、次見かけた時なんかは気軽に声でも掛けてくれよお」

「はい、ぜひそうさせてもらいます」

「ん、それじゃあさっさと本を戻して、僕はお暇させてもらうかなあ」

 

 僕は机の上の本と自分の荷物を持って立ち上がった。

 

「そうですか。では、出たところで待っていますね」

「はいよお」

 

 彼女はそそくさと図書館を後に……って、え?

 

「ん、あれ? ちょっ、椎名……」

 

 振り返ると、彼女は既に大声で呼ばないと届かない距離にいた。

 おい、今さらっと一緒に帰る流れにならなかったか? 別に僕は気にしないが、男女ペアで帰るという行為に思うところはないのだろうか。まあ、彼女はある意味浮いた話とは縁が浅い気もするし、本人が構わないなら問題ないか。態々独りで帰るのも寂しいしな。

 僕は前を向き直り、記憶を頼りにさっき廻った本棚を再び周回する。

 

「これはここで……これはー、お、ここだなあ」

 

 本当に広いなここ。しっかりと構造を把握するまで大分時間がかかりそうだ。あまり遅いと椎名を待たせてしまうから急がないと。

 いそいそと片付けていき、終わりに差し掛かったところで……。

 ……。

 逡巡してから僕は――来た時より一つだけ荷物を増やして、出入り口の方へと向かって行った。

 

 

 

 

 

 図書館を出ると、椎名がすぐ見える位置に立って待っていた。まだこちらに気付いていないのか、先程までとは違い落ち着いた表情をしている。

 澄ました顔だと、案外美人寄りなんだな。

 花が満開になるかのように笑うからあどけなさが前面に出ていたが、こう見ると淑女とも言えるような佇まいだ。

 

「あ、浅川君」

 

 彼女の意外な一面を実感していると、こちらの姿を認めて寄って来た。

 

「待たせたなあ」

「随分と遅かったですね。何か借りたんですか?」

「ん、まあちょっとなあ。早く帰ろうぜえ」

 

 別に言っても良かったのだが、少し照れくさかったために誤魔化してしまった。

 僕がスタスタと歩き始め、椎名がそれに付いてくる。

 

「はぐらかさなくても良いじゃないですか」

 

 バレテーラ。女は皆鋭い生き物なのだろうか。

 

「あっはは、そうだなあ。読み終わったら教えてやるかあ」

「うーん、私、気になります」

 

 気になるな。拒否する度に自分が意識しているみたいになってくるじゃないか。おかげで余計に答え辛くなる。

 

「やっぱり辛抱強いじゃないかあ。しつこい女は嫌われるって聞いたことあるぞ?」

 

「本のことについてだけですから心配ご無用です。別に恋愛に興味を持っているわけでもありませんしね」

 

 やはりそうだったか。思春期が過ぎたのかまだ来てないのか。言っては悪いが、彼女の場合そんな時期は後にも先にも来なさそうだ。

 

「そういうもんかあ」

「そういうものです」

 

 ……随分と間延びた会話だ。まさか自分に匹敵するテンポを熟せるやつがいたとは。

 何もない時間というのも趣はあるかもしれないが、それはある程度同じ時を過ごした間柄での話。出来立ての関係でこれはどうなのだろう。

 僕らの間に、正体不明な沈黙が流れる。

 

「……僕は、案外ロマンチストなんだよ」

 

 それを破ったのは、なんと自分だった。会話を繋げようと思ったのか、答えない罪悪感からだったのかわからないが、それは自然と口を衝いて出た言葉だった。

 

「どういうことですか?」

 

 正直、知らないよと言いたかった。しかし、それではあまりに椎名が可哀想だ。かと言って、今更直接的に答えるのも恥ずかしい。

 

「出会いも別れも、運命は知ることができないから信じられないが、人の繋がりは信じたいってことさあ」

 

 なんとか紡いだ曖昧な答えを受け、椎名は顎に指を当てて少し難しい顔をした後、ハッと納得した表情に変わった。なんとか伝わったみたいだな。

 

「なるほど、理解しました。でも、どうしてそんな遠回しな言い方を?」

「手厳しいねえ。言ったろう、僕はロマンチストなのさあ」

「それは面倒くさい人の間違いでは?」

 

 急に抉るじゃん。まさか僕が面倒くさい認定される日が来ようとは。こんな言い方しかできなくなったのは半分は君のせいだからな。全く、本当に手厳しい……あ。

 

「椎名だけに、手厳()()()ってか?」

「もうさっきの言葉が台無しですよ」

 

 彼女はやれやれといった様子で微笑んだ。これは完全にからかわれているな。確かに、変にキザなセリフを吐いた後にこんなしょうもない駄洒落を放つ男なんて僕くらいかもしれない。

 だが、さっきの詩的な表現に対する評価は強ち低くはなかったようだ。

 

「……まあ、僕はロマンチストだが、締まらない方が僕らしいだろう?」

「どうでしょう。私はまだ浅川君のことをほとんど知りませんから」

 

 それもそうか。出会ってまだ一日も経ってない人間の性分を理解するのは簡単ではない。

 

「――でも」

 

 しかし、彼女の言葉はそこで終わらなかった。

 

「あなたとの時間は、きっと楽しくなるんだろうなとは思いますよ」

 

 そう優しく語りかけ、十八番の如く彼女は無垢な笑顔をこちらに向けた。

 僕はその表情に、しばらく何も言えなくなってしまった。見惚れてしまったのだ。恋に落ちたとかときめいたとか、そういう意味ではない。

 驚いてしまった。彼女の純粋さに。人はこんなにも鮮やかな色を、笑顔に乗せることができるのかと。

 ……これはもう、羨ましいの一言に尽きるな。

 春のそよ風が、心を撫ぜる。

 

 その時僕は、初めて彼女を()()

 夕日に煌めく銀色にも見紛う髪、情愛を宿した温かな瞳、そして、聞く者全てが毒気を抜かれてしまうような柔らかいソプラノ声。

 僕の心に刻まれた彼女の存在はとても幻想的で、間違いなく()()()()()

 

 ……久しぶりだな、他人に色を視たのは。

 僕はフッと息を漏らし、彼女に応えた。

 

「僕も、君と出会えて良かったって、これから何度も思うんだろうさ」

「そう言ってもらえるなら、嬉しいです」

 

 椎名の微笑みに、僕も思わず顔を綻ばせる。和やかな空気が流れた。

 ああ、彼女はなんて強かなのだろう。出会って間もないが、尊敬の念を隠せない。

 違うクラスだったからこそ、本が引き寄せてくれたからこそ、結ぶことができた絶妙な関係。

 清隆たちに出会ったときと、同じような心地良さ。

 彼らとの関係は今、歪なものとなってしまっているが、椎名を見ていると、これからゆっくりと取り戻していけるのではないかと思えた。決して楽観的なものではない。すれ違ったとしても手を伸ばす限り、あるいは伸ばされた手に気付ける限り、いつかはまた届くかもしれない。僕自身が、椎名の手を見つけられたように。

 ――彼らの色を、僕は見ることができるだろうか。

 ただ、少なくとも、僕と椎名の関係はしばらく簡単には変わらないのだろう。強固な友情とはまた違う、ぬらりくらりで続いていくような、マイペースな波長。だけどきっと、僕らにはそれがお似合いなのだ。寧ろ、そうであってほしいと思う。

 僕は、椎名の隣に並んで帰路を往く。

 地平線に沈みかけた夕日が、いつもより少し、儚くも綺麗に見えた。

 その景色に対する感動か、右を歩く彼女との時間に対する幸福か。僕は今確かに、この学校へ来て()()()の屈託なき笑顔を浮かべていた。

 

 こうして始まった、僕の、憧れの真似事。

 弾力性のある関係。それが崩れた時、誰かが傷つくことはわかっていた。にも関わらず、僕は再び繰り返す。

 それは、密かに終わりの約束されている、傲慢な罪の始まりだった。

 




今までオリ主の他キャラへの第一印象が描かれなかったのは、こういうことです。

因みに、クリスマスのタイミングでこのサブタイになったのは全くの偶然なんです、ホントに。

そもそもの話、ヒロインを作るか自体ちょっとまだ決めてませんね。一周回って清隆が友情ヒロインまである。希望か何かあれば書いてみてください。採用するかは流石にはっきりとは言えませんけど。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

発色

読み方は「はっしょく」ですけど、頑張れば前回と同じ読み方できますよね。どう頑張るんだ。

前回がまあまあ力作だった分今回ちょっと自信ないです。

始めて恭介くんでてきません。


 恭介が椎名との邂逅を果たした頃。

 彼の盟友綾小路もまた、素晴らしい出会いを遂げていた。

 ――そう、スバラシイ出会いを……。

 

「……オレに務まると思うか?」

「うん。寧ろ綾小路君にしか頼めないの、お願い」

 

 そう言って目の前の少女は、彼の左手を両手で包む。

 しかし、その温もりは却って彼の心労を募らせるだけだった。

 勘弁してくれ……。

 周囲からの視線に内心ビクビクしながら、過ちを探しに過去の旅へ。

 どこで選択を誤ったのかと言えば、それは間違いなくあの時だったのだろう――。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 説明会を終えた後、綾小路は堀北と二人教室へと向かっていた。

 

「何か興味を引くような部活はあったか?」

「別に。そもそも私は部活動に入るつもりなんてないもの」

「え、じゃあ何で来たんだ?」

 

 彼の素っ頓狂な発言に、堀北はあからさまに顔を顰める。

 

「あなたが誘ったんでしょう。忘れたの?」

「あ……そうでした」

 

 いつもと違い――普段から盛んなわけでもないのだが――イマイチ活気に欠ける会話に、物足りなさを感じずにはいられない。

 

「この後予定は?」

「決まってはいないわ。寮に戻ろうかと思っているけど」

「……そうか」

 

 話題を変えるも彼女の素っ気ない一言ですぐに会話は途切れてしまう。綾小路は心の内で大きな溜息を吐く。

 違和感の正体は明白だった。浅川の不在。

 てっきり今日も彼と一緒に帰るものだと思っていたのだが、解散となるなりそそくさと体育館を出て行ってしまったのだ。

 辛うじてできた会話からして、恐らく今頃図書館へ向かっているのだろうが、綾小路はそこに自分も連れ添うのは野暮だと判断した。

 去り際に彼の見せた物憂げな表情が、頭から離れなかったからだ。

 普段とは異なるどこか儚げに思いつめた様子に、掛ける言葉が見つからなかった。そんな状態で無理に付いて行っても、余計に拗らせるだけだろう。

 能天気なだけに見えてその実二人の仲介的な立ち位置でいてくれていた彼への有難さを、綾小路はしみじみと感じていた。

 まだ教室まで少し距離がある。とりあえず今は堀北との会話を繋げようと思索する。

 ……地雷かもしれないが。

 本当なら避けた方が良い話題かとも思うが、この何とも言えない空気を塗り替えたかったのと、単純な興味があったため、恐る恐る切り出すことにした。

 

「……なあ、さっきの説明会で最後に話していた生徒会長、名前が堀北学って、お前の兄か?」

「……っ」

 

 堀北の歯噛みした表情を見て、綾小路は案の定かと失敗を悟る。

 しかし、彼女の発言は、彼の危惧に多少反するものだった。

 

「……ええ、そうよ。別に隠すことでもないし。兄さんがどうかしたの?」

「あ、ああ、いや……すごいな、生徒会長って。ましてやこんな学校なんだし大変そうだ」

「そうね、自慢の兄よ。とても尊敬しているわ」

 

 その言葉に綾小路は首を傾げる。

 堀北があの時兄を見て湧いた感情は、本当に敬意だけだったのだろうか。どこか畏怖も混ざっていたようにも感じる。

 

「自分も生徒会に入ろうとかは考えていないのか?」

「それをあなたに言う必要があるのかしら」

「確かにないが……」

 

 教えてくれてもいいだろうに、と言いたかった。しかし、喉まで出かかった言葉を彼はこらえる。

 恐らく答えてくれない。

 堀北が自分のことをどう思っているのかはわからなかったが、今の好感度ではこれ以上のことを尋ねても彼女の機嫌を損ねるだけだと直感した。

 いや、或いは――今彼女が無愛想なのは、別の原因もあるのかもしれない。

 自分がどこか気まずさを覚え気落ちしているのも、彼女の表情が一層険しいのも、きっとこの場にいない彼を憂いてのことなのだから。

 

「……なあ、気にしているのか? 朝のことを」

「……! そんなわけないでしょう」

 

 バレバレな反応だった。あからさまに苦い顔をして、よくもまあそんな虚勢を張れたものだ。

 こればかりは見過ごせないと、彼は問い詰めることにした。折角自分が溶け込めた人間関係を、蔑ろにしたくなかった。

 

「あいつも、きっと迷っているんだ。本当なら動きたくないところを、重い腰を上げようか葛藤しているだけ、十分お前のことを想ってくれているはずだぞ」

「そう? 二人揃って随分と怠惰な様子だったと思うけれど」

 

 相変わらず棘があるなと思いつつ、言葉を返す。

 

「お前は向上心が高いからわからないかもしれないが、実力を測るなんて胡散臭い文句に、この学校特有の複雑な制度。なおかつそこに面倒な裏事情があるかもしれないとなれば、関わることに後ろ向きになるのは仕方のないことだろう。恭介は機械に疎いようだから、そういうものには尚更ストレスを感じてそうだしな」

「向上心って……普通の学生なら自分の評価を上げようとすることは当然でしょう? まさか社会に出てからも『面倒くさい』だなんて勝手な都合で奥手に生きていくつもり?」

「話をすり替えるなって。ここは社会ではなく学校。今話しているのは恭介やSシステムのことについてだ。寧ろ勝手な価値観を押し付けているのはお前の方なんじゃないのか?」

 

 朝の件を掘り起こそうとしたにも拘らず「向上心」というワードに反応を示した堀北に疑問を抱く。

 二人の会話は徐々にヒートアップしていく。

 

「自由奔放甚だしいわね。そうやって色々なことから逃げて廃れていくのだと思うと哀れだわ」

「お前に哀れまれようが知ったことではないが、何でもかんでも全力では疲れるだろう。時には戦略的撤退も大事だからな」

「ただの怠慢じゃない。休んでいる間に置いていかれるわよ。――やはり、いつまでもウジウジしているあなたたちとは解りあえないようね」

 

 その言葉には、明らかな怒りと軽蔑が乗っていた。

 しかし、綾小路には視えていた。そう呟く彼女の表情には、失望と寂寥が見え隠れしていたことを。

 だからこそ、()()()()()()()()()()()()()()

 

「……それは、お前のことだろう」

 

 今まで一度も見せたことのないような剣幕に、堀北は一瞬言葉に詰まる。

 

「……どういうこと?」

「迷って逃げて、それに理由をこじ付け正当化しているのは、お前の方だと言っているんだ」

 

 綾小路とて理解はしていた。自分は出来た人間ではないと思っているし、特殊な事情とは言え目立ちたくないという意志の下、怠慢であることは否定できないという自覚はある。

 だが、浅川は違うだろうと訴えたかった。

 今日何度か垣間見えた彼の表情。周りがあっけらかんとしたコミュニケーションを取っていることから、彼が他人よりも重い何かを背負ってこの高校に進学してきたのは朧気ながら察せる。

 そして、自分とは違い積み上げてきた軌跡があって、それと照らし合わせて悶えながらもしたいことやすべきことを選ぼうとする彼に敬意を抱き、羨ましいとさえ感じていた。

 そんな浅川の姿――生き様とも取れるかもしれない――を全面的な形で否定した堀北を認めたくなかった。

 葛藤しながらも誠実であろうとする彼に対し、たった一度のすれ違いで理解することを諦めようとした彼女に、()()()()()()()()()()()()()

 そう、()()初めての友をあしらわれたことに、綾小路は……。

 だからこそ、暗に咎めた。浅川だけでなく尊敬と畏怖を向ける兄にまでも、向き合おうことを恐れ足踏みしているのは堀北なのではないかと。

 しかし、それを知ってか知らずか、堀北の返しは予想外のものだった。

 

「それは……あなただって同じでしょう?」

 

 今度はこちらが言葉を失う番だった。

 オレも、同じ……?

 自分の消極的な態度のことを言っているのだろうか。しかし自分は船を下りる紛うことなき意思表明をしたつもりであって、逡巡の仕草を晒した覚えはない。

 

「悪い、何のことを言っているのかさっぱりだ。オレはちゃんと始めから協力しないと――」

「違うわ」

 

 綾小路の言葉を、堀北は遮る。

 違う?

 ならばいつのことを言っているのだろう。そう疑問に思うより先に、頭の中には別の光景が蘇る。

 それは、自分が浅川の苦悩を察し、励ましの言葉を贈ろうとした時。

 

『オレのことを気にかけてくれるのは嬉しいが、無理に合わせなくてもいいぞ。鈴音は危なっかしいところがあるから、お前がいた方が心強いはずだ。だから――』

『違うな』

『何?』

『僕はそんなできた人間じゃないってことだ』

 

 あの言葉の意味だけは、まだわかっていない。

 あの時も自分の推測に従って言葉を選んだ結果、それは違うのだと遮られた。まるで、掛ける言葉以前に()()()()()()()()()のだと仄めかすように。

 自身の考えが正しく届いていなかっただけかもしれない。相手の気持ちを相手以上に理解できていた可能性だってあったはず。

 しかしこの時の綾小路は、()()()()()()()()()()()()()と自然に悟った。

 何故そう思ったのか。その事実を簡単に受け入れられたのか。自身がかつて置かれていた環境故に洞察力も思考力もある程度の自負はあったが、どうしてもわからなかった。

 浅川の悩みは「三人の関係の変化」を恐れてのことだ、と綾小路は解釈していた。彼も自分と似て友達づくりを苦手としていた節があったし、彼は面倒くさがりながらも誰かを無造作に突き放したりはせず、寧ろ情が移って絶縁を躊躇う人種だと分析していたからだ。良くも悪くも優しいのだと。

 しかし、それは間違っていたという。

 答えの纏まらない命題に対し、綾小路はアプローチの取り方を全くと言っていい程見いだせなかった。

 刹那の思考の後、困惑しながらも次に発した言葉は、自分でも意外に思える一言だった。

 

「……だったら、何が違うのか教えてくれ。オレはいつ、どこで、何を迷っていたのか――お前なら、わかるのか?」

「……っ」

 

 堀北は、最初よりもずっと険しい表情になり、背を向けた。

 

「……そんなこと、自分で考えなさい……」

 

 それだけ言い残して、彼女は足早に去って行った。

 ポツンと、独り残された綾小路。

 彼は隣人の落ち着かない背中を、無機質な瞳で見送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 綾小路が教室に戻ったのは、既に堀北が帰路へ就いた後だった。

 独り、か。

 寂寥感を覚えつつも、自分の性格からして昨日からぼっちだった可能性もあったと思うと、寧ろこれまでの時間のほうが本来珍しいものであったような気がしてきた。

 夕日を背に颯爽と、いや、トボトボと帰ろうかとのんびり支度をしていると、

 

「あの。綾小路君、だよね?」

 

 後ろから声を掛けられた。

 振り返るとそこには、見覚えのある天使が。

 

「ああ、合っている。よく覚えていたな。えっと、櫛田だったか?」

「自己紹介してたじゃん、当然だよ。綾小路君の方こそ、ちゃんと私の名前覚えててくれたんだ」

 

 まさかあの自己紹介を覚えていてくれたとは。心の中で盟友へのお礼を忘れず、綾小路は用件を問う。

 

「それで、クラスのマドンナがオレなんかに何の用だ?」

「や、やだなあ、マドンナなんて。ちょっと恥ずかしいよぉ」

「事実だろう。まだ二日目あというのにあれだけ人気者なんだからな。見たところ、性別問わず好かれているようだったし」

 

 謙遜も過ぎれば皮肉になるとは言ったものだ。櫛田でマドンナになり得なければ、綾小路など差し詰めクラスのミジンコ程度の存在だろう。

 

「まあ好きな呼び方をしてくれればいいんだけどね。それで、用なんだけど、綾小路君って堀北さんと仲良いよね?」

「鈴音と? ……まあ、それなりには話すけど」

「……えー、それなりなんてレベルじゃないように見えたけどなあ。浅川君も入れて三人で楽しそうに話してたじゃん。今だって下の名前で呼んでるしさ」

 

 綾小路は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のを見逃さなかった。

 しかし――今は、それどころではない。

 状況的にも自分の気持ち的にも、ここでそれを追究するのは得策ではないと判断し続きを聞く。

 

「実は、もうクラスのほとんどの人とは連絡先の交換してあるんだけど、三人だけまだなんだよね」

 

 そう言いながらこちらの表情を窺ってくる櫛田の様子を見て話を理解する。

 

「なるほどな。だがそれは、オレたちが三人でいる時に交換しにくれば手っ取り早かったんじゃないか?」

「そういうわけにもいかないよ。変に水を差すようなことしたくないし」

「それにしたって、どうしてオレなんだ。鈴音に直接行けばいいだろう」

 

 口調からして、彼女が真に連絡先を交換したい相手は堀北だけで、自分らはついでなのだろう。本人に求めるのが常套手段、というより礼儀の一種であるはずなので、態々綾小路にコンタクトを取るのはお門違いと言うものだ。

 

「それが、何回かお願いしてみたんだけど断られちゃって……」 

「押して駄目なら引いてみろと言うだろう。少し期を置いてからまた試してみたらどうだ?」

 

 今の時期からそう易々と連絡先を教える人ばかりではないだろうし、堀北自身親交を広めたいという願望があるわけでもなさそうだった。比較的仲良くさせてもらっているという自覚のある綾小路としては、彼女の望まない展開を無理強いするような行為をあまり快く思わなかった。

 

「それも一応考えたんだけど、やっぱり心配なんだよね、堀北さんのこと」

「心配?」

「うん、男子と比べると女子ってけっこう仲間意識が高いから、どのグループにも入っていない堀北さんが悪い印象を持たれてるって話を時々聞くの。だから、なんとかしてあげられないかなって」

 

 これで一つ謎が解けた。緊急性のあるような事情ならば、クラスの均衡を維持している彼女が躍起になることは十分理解できる。

 ただ、それでも疑問が残る。

 

「……佐倉は?」

「え?」

「井の頭は? 王は? 鈴音以外にも交友関係に奥手な女子はちらほら見かけるぞ。そっちを先に解決したらどうだ」

 

 先程も言ったが、まだ二日目。大人しめな女子はまだ真面なコミュニケーションができていないような印象を受ける。そんな現状で何故堀北にだけこうも執着を見せるのか。

 ここまでくると、流石に疑うしかなかった。

 ――何か鈴音に個人的な感情を向けている。

 清純であれ邪であれ、思惑を隠したまま接してくる時点で彼は櫛田の相談に見切りをつけた。

 

「そもそも、鈴音の気持ちも少しは考えたらどうなんだ? 彼女もお前の言っていることに気付かない程鈍くはないはずだ。その上であの態度を取っているんだから、そこへお前がズケズケと――しかも何度か断られておきながら――押し寄ろうとするのは却って失礼だろう。あいつのためにも、悪いがその相談には乗れないな」

 

 それだけ言って、足早に櫛田から離れようとする。

 

「あ、待って!」

 

 しかし教室を出たところで、彼女にガシッと腕を掴まれてしまった。

 廊下はまだ帰宅を始める生徒で溢れており、多少なりとも視線を浴びる。

 綾小路は僅かに焦りを感じ、何とか逃げ出そうと試みる。

 

「……なんだ。話はもう終わったはずだろう」 

「え、えっと、ごめん。でも、私……」

 

 そう言って櫛田は目をウルウルさせる。

 ……しまった。

 どうやら知らない内に威圧的な表情をしてしまったらしい。感情が表に出にくいはずの綾小路にしてはらしくない失態だった。

 ここで強引に断ると恐らく翌日には話題になっているだろう。「大天使を泣かせたクソ野郎」として。

 

「……オレに務まると思うか?」

「うん。寧ろ綾小路君にしか頼めないの、お願い」

 

 そう言って彼女は両手で綾小路の手を包む。退くつもりはないようだ。

 勘弁してくれ……。

 参ったなと頭を掻いて考える。

 せめて何か、見返りを得ることができるなら、多少なりとも彼女の懇願に耳を貸す価値が生まれる。

 彼にはまだ、慈善的に人助けを名乗り出る程の善意を持ち合わせていなかった。

 

「……わかった。協力はできなくとも、相談には乗ってやるから、そんな顔をしないでくれ」

「本当?」

「ああ、その代わりと言ってはなんだが、一つ話を聞いてもらえるか?」

 

 高コミュ力を具えた友達多き櫛田なら、あの疑問にも答えを出せるかもしれないと光明を見る。

 

「少し長くなる。場所を移そう」

 

 

 

 

 

「そんなことがあったんだね……」

 

 人気のないベンチに移動し、綾小路は櫛田にかいつまんで話した。Sシステムなどの件は隠しつつ、説明会での浅川とのやり取りも含め朝の出来事から語った。

 彼女はこうやって色々な人の秘密を握っていくのだろうとは思いつつも、背に腹は代えられなかった。

 

「ああ。だから、今オレがお前に協力したところで余計拗れてしまうというわけだ。本当はあまりしたい話ではなかったんだが」

「ごめんね、何も知らずに。軽率だったよ」

「いいんだ。オレが今まで渋っていたのが悪い」

 

 何とか自分の態度に理解を示してくれたようで一安心する。しかし態々この話をしたのはそんなことのためではない。

 

「それでなんだが、どうにもオレでは二人の気持ちを理解できなくてな。大勢と交友関係を築いている櫛田なら、何かわからないか?」

「うーん。私自身がその場にいたわけじゃないし、二人と直接話したこともないから、大層なことは言えないかな」

「……やはりそうか」

 

 別に絶対的な信頼を寄せていたわけではないし、櫛田の発言は優に想像がついていたので、そこまで落ち込みはしなかった。ただ、このままではかなり不本意な結果となってしまう。折角妥協したのに無益に終わるのはあまりにやるせない。

 そんな胸中を察したのか、櫛田が再び口を開く。

 

「だけど、ちょっと安心したかなあ」

「え?」

「綾小路君って、けっこう優しいんだなあって」

 

 今一つ要領を得られず首を傾げる。

 

「今の話を聞いて、どこにオレの優しさを感じる要素があったんだ?」

「だって、堀北さんに理解できないって言われて、言い返したんでしょ?」

「そうだな」

「じゃあ、綾小路君はどうしてそんなことをしたのかな? まだ少ししか話せてないから何となくだけど、綾小路君ってあまり感情的にはならない人だと思うんだね」

 

 どうして、と言われても、自分でもわからなかった。兎も角浅川のことを悪く言われるのがどうにも解せなかった、と言うのが正しいか。

 綾小路は、その旨をそのまま言葉にした。

 

「……納得できなかっただけだ。オレは確かに、目立ちたくないだなんてちんけな内心だったがあいつは、恭介は迷っていた。自惚れでなければこの学校で一番親しんでいたからわかる。あれは単に面倒くさがっていたわけじゃない。きっとオレには想像できないような葛藤があったはずだ。その上でああまではっきりと言われてしまえばさすがに、な」

「うん、嫌だよね。友達のことを悪く言われて不快にならない人なんていないよ。でも、それを隠さずに示せる人はなかなかいないと思う。だから凄いんだよ」

 

 そう優しく語り掛ける櫛田の言葉の続きは、彼を動揺させるものだった。

 

「綾小路君は、()()()()()んだよね。浅川君のことを酷く言われて」

「……怒って、いた?」

「うん。友達のことを想ってちゃんと怒ることができるのって、とても素敵なことだと思うな」

 

 彼女は天使らしい華やかな笑顔でそう告げた。

 オレは、怒っていたのか?

 よくわからない。何かに対し何かを思ったことなどなかった綾小路には、あまりに縁の無いものだった。

 彼は、他人の心は分析できても、自分の中で揺れ動くものの正体を理解することはできなかった。だから、感情についてはいつも()()()()()()()()()()()()()。囲まれた枠の中で方程式を解くことしか、術がなかった。

 ――どう、なんだろう。オレは……だがやはり、お前たちとなら……。

 これが怒りなのか、はっきりと断定することまだできなかった。でもいつか、あの盟友と、隣人と、過ごす日々の中で知っていけたらなと願った。

 しかしそれが、人生で初めて腹の底から沸き上がってきた「意志」であったことに、彼自身は気づけなかった。

 

「――綾小路君?」

「……ああ、すまん。少し考えていたんだ」

 

 あの時堀北は、何を思っていたのだろう。その答えも、これから知っていくことができるのだろうかと、密かに期待する。

 一寸先が闇であることに変わりなくとも、その何寸か先に光の予感があるのならば、心に余裕は生まれてくるものだ。

 

「ありがとな、櫛田。気が楽になった」

 

 誰とも打ち解けられる彼女のコミュ力は、決して眉唾ではなかったようだ。綾小路の中で櫛田の株が少し上がった。

 

「ううん。結局綾小路君の質問にはちゃんとした答えを出せなかったから、ごめんね」

 

 櫛田は至極申し訳なさそうに俯いた。

 

「とんでもない。オレの方こそあまり協力できそうにないから、お釣りをもらってしまった気分だ」

 

 我ながら都合の良いやつだとは思いながらも、実際胸の内でつっかえていたものが取れた気がするのでその本心を伝える。

 

「えへへ、そう言ってもらえて良かったよ。――あ、そうだ。綾小路君、連絡先交換、お願いしてもいいかな?」

 

 櫛田の提案に迷う仕草を見せるが、答えは決まっていた。感謝の印としてそれくらいはしてあげたかったし、彼の連絡帳に三人目の名前が登録されることは単純に喜ばしいことだったからだ。

 

「ああ、俺からも頼む」

「やった! これからよろしくね、綾小路君」

 

 櫛田は心から嬉しそうに朗らかに笑った。

 なるほど、クラスの男子が熱中するわけだ。

 恋心などというものは未だ理解し難いものであるが、少なくとも今の彼女の笑顔は魅力的なものであることは理解できた。

 

『――Dクラスが落ちこぼれ集団だとしたら、平田や櫛田はどうなるんだ?』

 

 昨晩の電話で浅川が口にした疑問が頭を過る。

 今回の彼女との会話を経て、それは更に膨れ上がることとなった。

 これ程までに社交的で優しい少女が、どうしてDクラスに選ばれたのか。その答えには何か大きな闇が纏わりついているように感じる。

 しかし綾小路は、別段それを咎めようとは思わなかった。

 胸の内に秘めた思いや後ろめたい事情などは誰にでもあるものだろうし、彼女の裏を覗こうにも、まだあまりに櫛田という少女を知らな過ぎる。

 故に、

 ――今は、目に見えているものが真実だ。

 目の前にいる「天使」を信じる選択をした。

 これからなのだ。これから少しずつ理解していって、ようやく抱えているものに触れ、受け入れられるようになるのだ。

 同じように、浅川と堀北とも……。

 ――まだまだ知らないことだらけだな。綺麗なものも、汚れたものも……。

 自分の憧れた世界にあったのは、決して眩しいものだけではなかった。

 飛び出した大空には翳りがあったことに、少し寂しい思いを抱く。

 しかしそれと同時に、自分から何かを学ぼうとすることがこんなにも心躍るものなのだと初めて知った。

 

「よろしく。これから櫛田のことも少しずつ知っていけたらと思う」

「うん。私も綾小路君のこと、もっといっぱい知りたいな」

 

 彼女は相も変わらず、本当に()()()()()()()可愛らしい笑顔を向ける。

 いつかは笑う以外の表情も拝みたいものだと、綾小路は陰ながら願った。

 




こんなの清隆じゃないって方もいるかもしれませんけども、個人的な解釈ですね。

原作序盤の彼を見る限り、最初から彼にしっかり寄り添ってくれる、それこそ正真正銘友達と呼べるような同性がいれば、これくらい青春に前向きになれたと思うんですよ。原作だと、冷たい隣人に皆仲良く主義のせいで清隆一人だけと向き合う余裕のない平田と櫛田、くらいしか関われませんでしたから。

清隆に限っては、そういう存在の有無がかなり大きな影響を与えるんだろうなと思います。特に無人島試験より前の段階までは。

恭介くんの存在で少し好奇心高めになった清隆くんが今後どう変化していくか、温かく見守っていてくださいね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

美しく強かな蒲公英であれ(前編)

前々回以来のオリ主視点ですが、今回で黒い部分を少し出そうかと思ってたのに普段のキャラを忘れるっていうね。おまけに収まらなくて前後編になっちゃいました。

そんなこんなで、遅くなってすみません。では、どうぞ。


 寮の一室。

 必要最低限の物しか置かれていない生活感に欠けたその部屋で、彼は目を閉じて考える。

 自分の出自――白い部屋のこと、自分が持たされてしまった有り余る能力のこと、自分という人間を作り上げた憎き(かたき)のこと。

 思い出と言うには名ばかりな無色の記憶が甦る。

 そして次に浮かぶのは、空虚な過去を経たその先。

 こんな自分を避けることも見限ることもせず、誠実に向き合ってくれた初めての「友達」の姿が、彼の目には思いの外大きく映っていた。それこそ、自分の中で未知なるものが込み上げてくるほどに。

 それは、自身の勝利だけが絶対であると刻まれていた心にもたされた未だ小さな灯。

 されど、独りで完結されていたはずの世界で他人という価値が芽生えた、確かで温かな福音だった。

 三人で過ごした二日間。そして、クラスの中心人物へと成り上がった優しい少女からの啓示。

 短くとも十分であったその時間が、そっと背中を押す。

 願わくば、これからも穏やかな一時を()()歩めますように。

 いつからか脳裏にこびり付いた呪いの言葉をさて置いて。

 淡い期待を胸に、綾小路は携帯を手に取った。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 欠伸を噛み殺しながら朝支度を済ませる。

 危なかった。昨日寮に着いて椎名と別れた後、気安く読書を始めたらすっかりのめり込んでしまい、深夜に寝落ちする羽目になってしまった。目覚まし、かけておいて良かったな。

 あれは駄目だ。話が面白いくせにあの探偵ばあやの醸し出すまったりさに釣られてしまって通常の三倍のスピードで時間が過ぎていく。しっかり余裕があるときに読むべきだった。

 愚痴っていても仕方がないので、昨日と同じ時間に出られるように急ぐ。清隆をあまり待たせるわけにもいかない。

 昨日は少し情緒が不安定になって避けるような形になってしまったが、昨夜の電話の様子からして杞憂だったようだ。一応独りにさせて欲しいという旨を手短に伝えていたはずだから、変に引きずってやることもないだろう。

 戸締りを確認してから慌ててロビーへと向かうと、案の定彼の姿が見えた。

 

「おはよう。悪いなあ、少し寝坊してしまった」

 

「おはよう。大丈夫か? 何だか目元が青い気がするが」

 

 およよ、鏡を見た時には気づかなかったが、指摘されてしまうほどの変わりようだったのだろうか。我が盟友は今日も回りのことが良く見えている。

 僕らはいそいそと学校へ歩き始める。

 

「白状すると、ちと夜更かししちゃってなあ。まあ心配いらないさあ。いざとなったら好きなことでも考えて授業中は乗り切るから」

「本当に大丈夫なのかそれ……。てか好きなことって、一体何だ?」

「お、それ聞いちゃう?」

 

 敢えて含みを持たせた言い方をしてみる。が、残念なことに全く妙案は浮かんでいない。特にこれと言った物がなかったから少しでも面白くしてやろうと思ったのだが、ご飯どうしようとか、友達少ないなとか、トイレ遠くて面倒だなとか、そんな下らないことばかりしか思いつかないぞ。くそ、もはや自分の存在そのものまで下らないんじゃないか?

 お願いだ、引き下がってくれよ清隆。聡い君なら察してくれるだろう? さあ、言うんだ。「いや、やめておこう」と。さあほら、早く言ってくれ、言って、言え、言えよ。

 

「聞いちゃう」

「おっふ」

 

 聞いちゃうかあ……。もしや悪意があったのではないだろうな? 僕の冷や汗塗れの顔が見えているだろうに。

 兎に角、これで何か面白い返しをしなければならなくなった。ぶっ飛んだ感じなやつ、ないだろうか。

 ……ええいままよ。こうなったらヤケクソだ。派手に行くとしよう。

 

「それは……あー、えーっと。え、えっ、えー……」

「え?」

「え……えっちなこと、とか……?」

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

「ごめんなあ。軽い冗談も上手くできない僕なんか、ゴミ取りもできない掃除機みたいなものだ……」

「その例えは良くわからんが……お前のせいじゃない。魔が差して揶揄おうとしたオレが悪いんだ」

「やめて、善意が痛い……。君が真面目に悪びれてしまうと自分が余計惨めになってくる」

 

 君に全く以て非はないんだ。そして僕も悪くない。悪くなんか、ないんだからな。

 はあ、合点いかん。やはり慣れないネタはかますものではないな。ソッチ系は明るくないんだよ。

 何だか恥ずかしさで顔が赤くなってきた気がする。暑い暑い。

 

「実際好きなことよりはこれからどうしようかなあって適当に考えているだけだなあ。ぼーっとしていれば時間なんてちゃちゃっと過ぎていくだろう」

「なるほどな。まあ無難にやり過ごせればそれでいいんじゃないか? テストとかで赤点でも取らなければ問題さ。鈴音が何て言うかは心配だが」

「うっ……彼女にコンパスを持たせてはいけないよ。鬼に金棒じゃないかあ」

 

 たかが文房具一つであれほどの脅威になるんだ。ナイフなんか握らせたら百戦百勝の傭兵にでもなれそうだ。体術とかも心得ていそうだし肉弾戦だって遅れは取らないはず。

 おっと。鈴音と言えば、確認しておきたいことがあったんだった。

 

「なあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、あの後鈴音はどうだった?」 

「どう、とは?」

「なんていうか、その、あれだ。結局平田のところに行ったりはしたのか? 昨日二人で帰ったんだろう?」

 

 鈴音本人に聞くのは少し気が重かったので、清隆と二人きりのこのタイミングで話題に出来たのは幸いだった。

 説明会の後に話をつけに行っていた場合、僕としては随分と消化不良なままで終わったことになってしまう。放課後に自分の感情を優先し過ぎた行動にでてしまったのが祟ったか。

 元はと言えば、僕がウジウジしているのが悪いのだろうけれど。

 

「あー、それなんだがな。実は色々あって、一緒に帰ったわけじゃないんだ」

「あれ、そうなのか」

 

 一緒に帰っていないということは、僕の知らないところで何か一悶着あったのかもしれないな。となると、清隆は昨日独りで帰ったのか。これは悪いことをした。すまない清隆、君が虚しく歩いた帰り道を、僕は新しくできたお美しい友達と仲良く辿っていたよ。

 

「だがまあ、当分は心配要らないと思うぞ」

「何故だい? あの子がそこまで待てのできる少女だとは思えないが」

「説得したんだ。しばらくは動く必要がないんじゃないかとな」

 

 ふむ、あまり釈然としないな。あれほど勇み足だった鈴音をどう説得したら引き下がらせられたのか。詳しいことは省いているのだろうが、話してくれてもよかろうに。

 口下手なコイツのことだからわかりにくい思いやりという可能性もあるな。説明するのは面倒だから知りたければ直接本人に行け、と言いたいだけかもしれないが。

 

「まあ詳細は問わんよ。ありがとなあ」

「礼には及ばん。オレのためでもあったからな」

「君のため? どういうこと……ああ」

 

 また考えなしに答えを求めかけたが、ふと二つの可能性が浮かんできた。

 一つは、彼が純粋にこのギクシャクした関係を修理したかったということ。

 彼とは面倒事嫌いだけでなく人見知りという意味でもシンパシーを感じていたのだ。周りが和気藹々としているのも見ているから、自分が折角築けた関係を悪化させたくないのは理解できる。

 そして恐らく二つ目は……彼自身のことかもしれない。

 これまで接してきて感じるのは、清隆が賢く敏いのは確かなはずなのだが、どうも()()()()()()()()()()()()()()()ということだ。

 簡単な例だと、「複雑な心境」や「矛盾した感情」と呼ばれている状況なんかは、彼にとって理解しがたいものなのだろう。

 他人の心を分析できるということは、その正体を把握しているということ、あるいは()()()()()()()()()()()()()ということだ。

 なら、いざそれが自分の中で起こったとしたら?

 生憎だが、人間そんなにシンプルな生き物ではない。本人ですら測りかねて脈略の無い行動を取るくらいなのだ。もし一問一答ができてしまうのなら、仲違いもしなければ苦悩することもないはずだ。

 今まで一つ事に執着して生きていたり、逆に完全に無頓着で生きていたりした人間は、その処理に置いていかれてしまうことだろう。正体不明な存在には、誰だって怯えるものだ。清隆の場合は後者なのだと僕は睨んでいる。

 その時取れる選択は二通りあるというのが僕の見解だが……それは後に語る機会があるだろう。今の僕には、それを諭す資格が無い。

 まあ、反面教師になれという話ならわからなくもないが。

 

「君も、大変なんだなあ」

「……ああ、そうだな」

 

 清隆を信じるなら猶予が延びたのだ。一時は焦ったが、これならもう少しゆっくりと考えられるかもしれない。

 ――嘘だ。

 僕は不意に立ち止まった。

 ――清隆が心配要らないと言ったとき、どう思った?

 ――本当に有難いと感じたか?

 ――()()()()()()()、これが本心だろう?

 

 誰の声なのだろう。深層心理? 悲観的な側面? いずれにせよ、それは僕に不快感を押し付ける雑音にも近しいものだった。

 不愉快に感じるのは、いつもその声を堂々と否定することができないからだ。

 どうせならあのままで良かった。いつの間にか鈴音がどこかへ行ってしまった方が、未練が生まれる暇もなくて助かったのかもしれない。

 先延ばしされてしまうほど、その決断は、その言葉は意味と重みが増す。清隆のお節介によって、妥協案はほぼ潰えた。

 正直、もうこの悩みについて思案することが()()()()()()()()()()のだ。

 だから、あと少しで楽になれると思っていたのに……。

 間違えたくない。あの時のように何かを背負い込もうとして失敗するのが恐い。

 ――嗚呼、こうして悩んでいること自体が、過ちへと一歩ずつ近づいている何よりの証に思えてくる。

 こんな状態で、やはり僕に何が出来るというのだろう。

 

「恭介? お前顔色が……」

「問題ないよ。空の色を映しているだけだ。澄んだ顔だろう?」

「……学校でヤバそうになったら、無理せず保健室に行くんだ」

 

 清隆、もし君らと友達になっていなかったら、もし教室の席が離れていたら、もし同じバスに乗り合わせていなかったら、どうなっていたんだろうな。

 こんな風に悩まずに済んだのかな。また自分を嫌いにならずに済んだのかな。

 とても未来なんて見据えられそうにない。

 解っているのは、愚かな過去と、まだお互いを何も知らない君と盟友であるという現在(いま)

 今は、目に見えるものが真実なのだ。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 昨日の如く二人で教室へ一番乗り――したつもりだったのだが、どうやら今日は先客がいたようだ。

 

「あ、おはよう。二人共」

「お、おはよう。えーっと、櫛田で合ってるよな?」

 

 確かバスが同じだったいい子ちゃんだ。こんな早くから登校する少女だったのか。

 

「おはよう、櫛田」

「綾小路君、昨日はありがとね」

「あ……ああ、こちらこそ」

 

 ん、何だ何だ? 二人は知り合いだったのか。昨日、ということは、まさか清隆はこの子と一緒にいたのか。どこか気まずそうな顔をしているぞ。案外隅に置けない男だな君も。

 

「……おーい清隆、昨日は本当に何があったんだ。鈴音といざこざがあったかと思えば櫛田と逢引かね? 随分なスリリングライフを送っているじゃないかあ」

「変な言い方はよせ。まあ、色々あったと言っただろう」

 

 ほう、色々というのは櫛田のことだったのか。クラスの人気者に何か助言でも求めたといったところか。

 清隆に耳打ちで懸念を訴える。

 

「そもそも僕らの関係のあれこれを打ち明けているのが合点いかんが、Sシステムのことは言ってないよな?」

「さすがに隠した。あと、話したのは成り行きだったんだ。すまなかったな」

「なになに、何の話かな?」

 

 グイッと、櫛田が僕らの懐に踏み込んできた。

 くっ、近い……。この学校のやつらは距離感がチグハグすぎるぞ。鈴音は地球と月レベルに一定の距離を取ろうとするのに椎名と櫛田はお構いなしに接近してくる。

 

「いや、こっちの話だからノープログレム。ところで、櫛田は本当ならこの時間なのかい? 学校に来るのは」

「ううん、違うよ。今日は二人に用があって待ってたんだ。昨日は一番に教室にいたって聞いてたから」

「聞いたって……すごいなあ、君の情報網は」

 

 クラスで目立っている存在でもないのにそんなことまで広まるのか。下手な言動が命取りになりかねないな。

 

「……昨日の話か? 協力は難しいと言ったはずだが」

「正解だよ。やっぱり私、諦めきれないの。今度は浅川君にもお願いしたくて」

「ふぇ?」

 

 昨日は清隆が櫛田に相談した、というだけではなかったのか。なかなか話についていけない。受け身になるのは合点いかん。

 

「鈴音と友達になりたいんだそうだ。力になれそうにないとは言っていたんだが」

「ふーん。……まあ、やってみればいいんじゃないか?」

 

 僕が軽い調子で言うと、二人は驚いた表情になる。

 

「え、本当?」

「いいのか? 余計に事態が悪化するかもしれないぞ」

「うーん……櫛田、ちょいと清隆を説得するから待っていてくれないかい?」

 

 櫛田は「うん、いいよ」と快諾してくれたので、くるりと身を翻し清隆とコソコソ話を始める。

 

「どういうつもりだ?」

 

 少し焦りの滲ませた顔で、清隆が僕の真意を問う。

 焦り? 一体何を焦っているんだ。いや、今はとりあえず後回しだ。

 

「君は、鈴音と櫛田の初対面が本当にこの高校だと思うかい?」

「さあ、どうだろ――」

「思わないよな、よし」

「おい待て」

 

 何だね。どうせ君も気づいているだろうに。惚けても無駄だぞ。

 

「僕でさえ鈴音の言葉で疑問を抱いたんだ。櫛田とも話をしておいて――しかも鈴音関連の内容だったらしいなあ――君が何も思わないわけがないじゃないかあ」

 

 昨日の朝の会話で、鈴音はクラスへの忠告係に平田を推薦していたが、「平田が良い」というより「櫛田では駄目だ」というニュアンスだった。

 傍から見ればどちらも優劣つけ難い人気を博していると思うが、あそこまではっきりと答えたのだ。何か櫛田との因縁がある可能性が高い。それを間近で聞いていた清隆が気付かないはずないのだ。

 

「……はあ、わかった。オレも少なからず引っ掛かってはいた。これでいいか?」

「まあまあ、そう不貞腐れなさんなあ」

 

 他の人の前でなら兎も角、僕にはもう誤魔化さなくても良い気がするが。

 

「お前は二人の関係性を知りたいのか? そんなことをして何になる」

「友達のことを知りたいと思うことがおかしいかい? 鈴音が自分から話そうとするとは思えないからなあ。取っ掛かりだけでも得ておきたい」

「今でなくてもいいだろう。お前の知りたいことを知れる確率もそれほど高くはない。時間制限があるわけでもないのに態々見ず知らずの船に乗り込む必要はないはずだ」

「他に渡る船が見当たらないから仕方がないじゃないかあ。それに、リミットならある。君が延ばしてくれたようだがなあ」

 

 いつやってくるかもわからないポイントの変動までしか猶予がない。自分の答えをまとめるためにも、僕は君らのことを少しでも知っておかなければならない。

 ――僕の怯えをかき消してくれるくらいに、踏み出したいと思える理由が欲しいんだ。

 

「……わからない。お前は、何がしたいんだ。面倒くさがり屋なんじゃなかったのか?」

「まあね。ただ僕は動きたくないわけじゃないんだよ。――いざ駄目だったって時に納得ができるくらいには、関わらないといけないんだ」

「それは意志か? それとも、責任か?」

 

 彼の問いに、僕はニヒルな笑みを浮かべて答えた。

 

「両方だ」

 

 したいことでもあるし、しなきゃいけないことでもある。これは好奇心であると同時に罪悪感なのだ。

 

「それに、ちゃんと打算的な理由だってある」

「それは――オレも理解した」

「さすがだなあ。僕らのシンパシーは伊達じゃないってわけだあ」

 

 やはり一番の理由は結局「面倒くさい」に帰結するということだ。

 櫛田はクラスの人気者という体裁があるため、そう何度も僕らに近づくわけにはいかなそうだが、鈴音への執着心が過ぎれば案外根気にせがんでくるかもしれない。一度失敗という形をはっきり示せば諦めてくれることだろう。成功したらしたで、繋がりの輪が広がって万々歳だ。

 

「お前の考えはわかった。だが、一つだけ聞かせてくれ。お前は鈴音の気持ちを考慮した上で、この話に乗るんだな?」

「というと?」

「あいつが他人と、ましてや櫛田と関わりたくないと思っているのはわかっているはずだろう」

 

 なるほど。鈴音の意志に反する行動に乗り気ではないということか。

 

「清隆。思い遣りというのは、一方通行でも成立するんだよ。真面に理解もできていないのに、晒してくれてもいないのに、輪郭も朧気な他人の気持ちなんて虚影を盾にしてはいけない。自分がどう思うかさ。誰かの力になりたいとか、手を差し伸べたいとか、そういう想いが乗った時点で、それは思い遣りと言えるんだよ」

「……そうか」

 

 清隆は何も返さなかった。恐らく咎めることを躊躇ったのだろう。

 ()()()()()()()、と。

 僕が本気でそう信じているのなら、問題は既に解決しているはずなのだ。鈴音のことを想う気持ちに従って、勇気を出せば済む話になるのだから。

 だけど僕は、それも違うのだと吐き捨てる。それは僕の中の「しこり」を解消するに値しない。

 所詮口先だけの言い逃れだ。僕の答えはその実清隆の問いかけと論点がズレている。彼は僕の鈴音に対する想いを問うていたが、僕が返したのはただの普遍的なものに対する見解であって限定されたものではない。

 はぐらかしたのは、自分の行動が鈴音を不快にさせることをわかっているからだ。 

 心中は説明会の時の通り。僕は今、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。欲しいのはもっと別の鍵だ。

 その齟齬が、椎名や櫛田には――櫛田の方は打算的ではあるが――手を伸ばし、鈴音の件には踏み出せないという食い違いを起こしている。

 友達に手を貸したい。一緒に進みたい。その意志と矛盾している感情は、単に力量不足による失敗への恐怖ではない。僕は――

 

「浅川君!」

「――っ! な、なんだい?」

 

 思考の波に攫われていたところを櫛田に引っ張り上げられた。急にどうしたんだ?

 

「本当に協力してくれるんだよね? ありがとう」

「ん。まあそんなに期待しないでくれよ。僕ら平民にできることなんて大してないんだからなあ」

 

 どうやら固まっている間に清隆が了承の旨を櫛田に伝えていたようだ。視線がどことなく眩しい。

 

「そんなことないよ。頼りにしてるからね」

「僕はハードルを上げられると潜ろうとしちゃうタイプなんだがなあ」

 

 やめろ。それは嫌いな言葉ベスト10の一つだ。頼りにされる資格なんてないし、僕なんかに頼み込む君には見る目がない。

 

「そうだ、浅川君、連絡先交換しようよ。浅川君とも仲良くなりたいからさ」

「こんなつまらない男と仲良くなっても何の意味もないと思うが、まあわかったよ」

 

 本当は断りたかったんだがな、色んな意味で。

 その後、櫛田からグループチャットや○○ランキングの存在を教えてもらい、清隆と共に自分たちのクラスへの無関心さを痛感していると、四人目、五人目と、教室に生徒が集まり始めた。

 

「それじゃあ私はそろそろ失礼しようかな」

「おう。それにしても櫛田は変わっているなあ。鈴音とそこまで仲良くなりたいだなんて。何か惹かれるものでもあったのかい?」

 

 すると彼女はどういうわけか不満げな顔になった。

 

「ねえ。やっぱり二人とも堀北さんとは下の名前で呼び合うくらいに仲良いの?」

「え、別にそういうわけじゃないけど。というか鈴音は僕らのことを苗字で呼んでいるぞ」

 

 これは、櫛田は鈴音の人間関係に不快感を持っているのか。

 鈴音のことが大好き過ぎて独り占めしたいのか、鈴音よりも自分が好かれていないことが認められないのか。

 やはり二人の間には何かがある。

 

「その、良かったら私のことも名前で呼んでくれないかな?」

「やだ」

「即答!?」

 

 嫌に決まっているだろう。上目遣い如きで僕のガードが割れると思うなよ。

 

「どうしてなのかな?」

「自分で口にしてみるのが一番理解できると思うぞ。『櫛田』と『桔梗』、どっちが言いやすいかは明白じゃないかあ。毎回『桔梗』なんて呼んでたら、いつか舌でも噛んじゃいそうだ」

「そ、そんな理由なんだ……」

 

 彼女は拍子抜けした様子を見せる。名前を呼ぶ機会は一度や二度では収まらないはずなのだから、楽な方を選ぼうとするのは何も可笑しな話ではないと思うが。

 

「清隆はそういうのじゃないから、頼めば呼んでくれるんじゃないか?」

「おい、オレに押し付けようとしてないか?」

「全然してない。事実を言ったまでよ」

 

 君は距離を縮めたくてそうしているのだろう? 折角クラスの人気者とお近づきになれたんだから願ったり叶ったりじゃないか。ほら、櫛田も期待の眼差しを向けているぞ。

 

「仕方がないか……わかった。これからは桔梗と呼ばせてもらう」

「うん、ありがとう。改めてよろしくね――えっと、私も二人のこと、名前で呼んでいいかな?」

「遠慮しとく。胃がもたん」

 

 この子、自分がクラスの男子にどれだけ慕われているかわかっているのか? 他の奴らも呼び始めてから出直してこい。

 

「まあそういうわけだから。ほら、行った行ったあ」

「うう……もしかして私、煙たがられてる?」

「違う。そろそろ池や春樹たちが入ってくる頃合いだ。名前呼びも、こうして長らく話し込んでるのも、知られると詰め寄られそうで面倒なんだよ。わかってくれ」

 

 事情を説明してやると、何とか櫛田は納得してくれたみたいだ。

 

「そっか、確かにそれもそうだね。じゃあ今度こそお暇させてもらうよ。ありがとね、二人とも」

 

 彼女は元気に去って行った。

 

「随分嫌っているんだな」

 

 見送るなり清隆が話しかけてくる。あらら、そう見えてしまっていたか。

 

「別に嫌っているわけじゃないさあ。そもそも、クラスの女神と汚れたコソ泥が釣り合うとでも?」

「コソ泥というのはお前のことか? まだ何も盗んでいないだろう」

「あっはは、ほら、幼い頃は貧しくてね。生計を立てるには致し方なかったのさあ。だから、コソ泥」

 

 清隆は複雑そうな顔をしている。信じていいものか困っているのだろう。

 

「よくあるこわーい話だよ。『信じるか信じないかはあなた次第』ってなあ」

「ま、まあその話は兎も角、お前がくし――桔梗に対して抱いている感情は、それだけではないだろう」

 

 先程よりも幾分か厳しい目付きでこちらを見つめてくる。やれやれ、誤魔化しは無用だということか。

 

「……彼女には悪いけど、あまりいい子ちゃんとは接したくないんだ。知り合いに善人がそう何人もいては、その偉大さが霞んでしまうだろう?」

「お前の周りには善人がたくさんいたということか?」

「黙秘権を行使する」

 

 僕の唐突な拒絶に清隆は僅かに目を見開く。「何か地雷を踏んだのなら、謝る」

 

「まだ話したくないだけさあ。これからもっとお互いのことを知っていけたら、話せる時がくるかもなあ」

 

 適当なことを言っているが、その時が来るなんて思っていない。この話は、墓場まで持っていく所存だ。

 

「そういう君はどうなんだい? 僕は君の生い立ちというものををまだ微塵も知らないが」

「それは――すまない、オレも言いたくはないな」

「だろ? 僕らにはまだ、それほどの信頼関係がないってことだ」

 

 予想通りの答えだったので驚くことも不審がることもない。淡々と結論を述べる。

 清隆も薄々気づいていたからか、残念そうに俯いた。「そう、だな」

 喧騒が勢いを増していく。櫛田との会話があったため、昨日ほど時間の余裕は残っていなかった。

 そんな中、僕は神妙な顔で静かに訊く。

 

「……なあ清隆。君は、この世界には本当に善人がいると思うかい?」

「――? それは……どうだろう。ただ、きっとその問いは、真の善人にしか答えられない」

「…………そっか」

 

 まるで自分自身に問いかけるような呟きだったが、ある意味では望んでいた、期待通りの回答が返ってきたので、少し安堵する。

 僕は大きく伸びをし、意識を切り替えた。

 

「ま、ビターな話はこれくらいにして、我らが姫様のお話でも聞かせてもらいますかねえ」

 

 先のない話ばかりしていても埒が明かない。たった今到着したクルーエルビューティーガールに、一体どんな心境の変化があったのか問いたださせてもらおうか。

 




後編も仕上がっているので近々揚げます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

美しく強かな蒲公英であれ(後編)

※物語の都合上、五話と十話で描写の修正を行いました。
(五話:『連絡先「堀北鈴音」の入手』を追加 十話:二人目の連絡先→三人目の連絡先)

※章タイトル変更しました。

最初は展開の遅さを気にしていましたけど、ここまでなのは今までなかったよなって思ってからは、まあ新しくてアリなのかなってことで、この調子で続けることにしました。気長に楽しんでくれると嬉しいです。


 鈴音と挨拶を交わしつつ一緒に席に着く。

 

「元気かあ鈴音?」

「え、ええ。私は大丈夫だけど、浅川君の方こそ酷い目をしているわね」

「……僕そんなヤバい目になってるの?」

 

 清隆が鋭いというだけではなかったのか。確かに夜更かし自体初めてだったからな。存外僕の肌には合わなかったみたいだ。ちょっとした背徳感のようなものがあって楽しい気持ちもあったのだが、これからは不必要にやるのは控えよう。

 

「いんやあ、最近の目まぐるしい日々に疲れちゃったかなあ」

「大して忙しくないでしょう。最近と言ってもまだ三日目じゃない」

「じゃああれだ、新生活に慣れてないんだろうなあ」

 

 ついつい軽い冗談が飛び出してしまったが、早速本題に移らせてもらおうか。

 

「まあ僕の体調は置いといて。昨日は何かあったのかい? 清隆から聞いたぞ」

「聞いたのなら私の口から話すことは何もないわ」

「詳しくは教えてくれなかったぞ」

 

 事実を述べると、鈴音は清隆の方をキッと睨んだ。おお、ヤンキーのガン飛ばしすら生温く感じそうだ。

 

「綾小路君……」

「酷いよなあホント。言われてるぞ清隆」

「べ、別に悪戯心があったわけじゃない」

 

 ならば一体どんな意図があるというのか。悪気でもなければこんなマネしないのでは?

 

「オレが恭介に全部話してしまったら、お前たちは気まずいままになってしまうかもしれないと思ったんだ。一度しっかりと二人で話をするべきだろう」

「いやそれは――まあ、確かに、そうかもしれなくもなきにしも非ずだが」

 

 そんなことはないと言いたかったが、彼の言う通り、鈴音への説得も僕への事情説明も一から十まで清隆が担ってしまったら、僕と鈴音が真面な会話のできるタイミングがなかったかもしれない。面と向かって話す機会を用意してくれたのだと捉えれば、清隆なりな気遣いだったという風にも納得できる。

 

「説明自体が面倒だったという線は?」

「お前じゃないんだ。別にクラスで目立つようなことでもなければ、オレだって積極的に動くさ」

「揶揄って悪かった。ディスらないで」

 

 皮肉籠ってたなあ。意外と引きずるタイプなのかい? 一番親しい君にまでそんなことを言われてしまったら、この学校で僕を肯定してくれる人は一体どこにいると言うんだい。

 

「――まあ、そういう話らしいから、できれば教えてくれないかあ、鈴音」

「……仕方ないわね。今までの状況からあなたにだけ伝えないのも、筋が通らない気はするから。だけどそんな大層な話でもないわよ」

「ん、おなしゃす」

 

 鈴音が軽く襟を正すのを見て、僕も少し気を引き締める。

 

「清隆が言うには、今月辺りは静観する方針に変えたらしいじゃないかあ。どういう風の吹き回しだい?」

「昨日、綾小路君から電話があったのよ」

「電話? 一体全体どんな話をしていたんだ」

「それは――」

 

 続きを促すと、鈴音は昨晩のあらましを語り始めた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 耳元で響く無機質な呼出音。六回目の途中でそれは途絶えた。

 

「もしもし、鈴音」

『……』

「鈴音?」

『…………』

「えーっと………………」

 

 早速沈黙が流れた。つい先程の虚しい音色でさえ若干恋しくなる。

 

「あー、悪かった。あの時は、その、少し熱くなってしまったんだ。変なことを言ってすまなかった」

『……用件は』

「え?」

『用件は何かしら。手短に』

 

 ぶっきら棒な応答。やはりまだ不機嫌は治まっていないようだ。出直すべきかとも考えたが、思い立ったが吉日。また足を引っ込めてしまう前にと、話を続けることにした。

 

「Sシステムのことについてだ。オレの考えを話したい」

『面倒だから動かないのでしょう? あなたたちの腐った性根はもうわかったから』

「まだ言っているのか……。あれは御託を並べていただけだ。建設的な理由もある」

『後付けの言い訳でも思いついたの?』

「後でも前でも大して変わらないだろう。言い訳だって事情説明であることに変わりないしな」

 

 いつものように簡単にへたれて退くわけにはいかない。やっと踏み出せた一歩を大事にしたい一心で、綾小路は食らいつく。

 

『……一応聞くわ』

 

 一時の間を置いて、堀北は了解の反応を示した。

 僅かでも自分たちのことを認めてくれているのだろうか。昨夜の浅川との議論が少しでも実を結んだのかもしれない。

 堀北の考えが変わらない内に話してしまおう。

 

「まず――」

『待って』

 

 と思ったが、口を開いたところで堀北に遮られてしまう。

 

「まだ何か問題が?」

『どうせなら、会って話しましょう。長くなるかもしれないから』

 

 ……真面目なやつだ。

 自分に関心のあることなら正面から向き合おうとするその姿勢は、綾小路も尊敬していた。機嫌が悪くとも根はブレない彼女に少し顔を綻ばせる。

 

「わかった。そんなに会いたいのなら会ってやる」

『馬鹿ね。あなたが窮して途中で逃げ出さないようにするためよ』

 

 こういう可愛くないところもブレないのは考え物だが。

 

 

 

 

 

「まず前提として、オレは平田にも櫛田にもこの件を伝える必要がないと思っている」

「怠慢、ではないのよね?」

「ああ」

 

 寮から少し離れたベンチで、二人は落ち合った。

 自販機で選んだのが揃って無料のミネラルウォーターだったので「なんだかオレたち気が合うね」と冗談でもかまそうかとも思ったが、今回は彼女の御機嫌取りを優先することにした。

 

「お前の目標は、学校から高い評価をもらうことなんだよな?」

 

「ええ、そうよ。私たちの推測が正しいのなら……きっと実力順でクラス分けがされている……」

 

 言葉が語尾につれて弱々しくなっていくのを黙って聞く。

 学年ごとのクラス分けがないことや、たった二日間だけでもわかる程にクラスメイトが他クラスよりも態度が悪いことから、自分たちDクラスが底辺であるというのは堀北の中でも事実として定まりつつあるはずだ。過去の彼女を知っているわけではなかったが、今までとは打って変わってそんなお粗末な評価をもらったことが、未だ認めがたいのだろう。

 

「そうだな。そして恐らく、定期的にクラス変動が起こるはずだ。先生はこれからもオレたちを実力で測ると言っていた。基準はやはりポイントの支給額が主だろう。差し詰め、クラス対抗戦、といったところか」

「そうね。だからこそ早くに手を打って――」

「鈴音、()()()()()()()()んだ」

「え……?」

 

 割って入るような発言に堀北は呆然とする。

 

「この戦いは三年間も続く。今勝ったところで、うちのクラスは勢いづくより有頂天になる可能性の方が高い。その後負けても『最初は上手くいったんだから次は勝てるだろう』という楽観的思考が残り得る。現にシステムに疑問を抱いている生徒すら真面にいなかった」

 

 能天気でないのは精々クラスのリーダー格である平田や、真面目で学力も高そうな幸村辺りだけだろう。彼らにしても、答えを見出せずに「疑問を疑問のままにしてしまっている」はずである。

 綾小路は、今よりずっと先の「結末」を見据えた見解を鈴音に伝える。

 

「最後だ。最後にオレたちが勝者であるために、最初に勝つことは推奨できない」

 

 彼の結論に、堀北は顎に手を当てて考える。

 

「……あなたの言いたいことは分かった。でも、ヒントを与えるくらいならしてもいいのではないかしら」

「と言うと?」

「平田君にお願いする時に、システムのことを隠して注意するようにしてもらうのよ。それで変われたら、Dクラスにはもっと可能性を見出すことができる。変われなかったとしても、平田君はよりリーダーとして認められるし、彼の中での私たちへの信頼も上がる。違う?」

 

 堀北の意見もまた、至極筋が通っていることは理解していた。しかし、それを容認するわけにはいかない。

 彼の真の目的は、S()()()()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 

「確実性がない。平田の性格からして、勝手なお節介で全部話してしまうかもしれないだろう。あいつがクラスのリーダーであってもオレたちとの信頼関係が皆無な現状では、何をしだすかわからない。――それに、これは全く根拠のない憶測だが、クラスが手遅れになるまで平田は危機感を抱かないと思う」

「どういうこと?」

「今知らせても、平田自身が事の重大さを理解できない可能性もあるということだ。あいつはどこか盲目的に身内を信じようとするような、過剰な平和主義が感じられる。見ず知らずのオレたちからの警告なんだ。下手したら、ポイントの支給がゼロになる程に減点されるまで、厳格な注意をしないかもしれない。そういう意味でも、態々お前が今動くことでのメリットは薄い」

 

 一番の利益になるはずのポイントさえ大して獲得できないのであれば、恩恵は激減する。

 今様子見をするメリットを唱えるのでなく、今行動するメリットがないことを主張することで、彼女の説得を試みた。

 堀北は何も言わない。彼の言葉を一つひとつ噛み砕いている。

 その様子を横目に、綾小路はダメ押しに掛かる。

 

「お調子者な奴らは、一度どん底に突き落とされた方が、きっと真面目な顔をして立ち上がれる。過剰にプライドの高い生徒もまた、反省する機会になるはずだ。小遣い0の生活は辛いものがあるだろうが、ホームレスじゃないんだ。最低限の生活は学校側が保証してくれるはずだから問題はない。平田にリーダーとしてより重い責任感を持ってもらうためにも、寧ろこの腕試しで一思いに惨敗を喫しなければ、曲者揃いのDクラスは一つになれない。オレたちは必ずどこかで崩壊して、負ける」

 

 「負ける」。その言葉を最後に、長い沈黙が流れた。目を閉じて思考を巡らす堀北に、綾小路は生唾を飲み込む。

 一分程が経過しただろうか。いや、本当は十秒程度だったのかもしれない。それだけ思わせるような緊張感の中、彼女は遂に口を開いた。

 

「……あなたは、意外と人を信じていないのね。平田君のことも」

「会話の一つもしていない相手をどう信じろと?」

「そうね、私も同じよ。クラス対抗でもなければ、死んでも他人を頼ろうだなんて言い出さないわ」

「辛辣だな……意外、というわけでもないか。お前の場合は」

 

 彼女の言葉に要領を得られずにいながらも応えていく。彼女が自分のことを意外だと言うのは、浅川といる時の態度しか見てこなかったからだ。そもそも浅川、堀北、櫛田の三人としか交流のない綾小路だが、自分が他人を簡単に信じるような質ではないという自覚はありつつも、彼女の言葉に反応を示すことはしなかった。

 

「正直な意見ね。コンパス、持ってくれば良かったわ」

「今は取り繕うべきではないと思っただけだ。誠実さに免じて許してくれ」

「そうね。私も綾小路君のことを正直に毛嫌いしているもの。許してあげるわ」

「今の言葉に何一つ納得できる部分がなかったんだが」

 

 意趣返しの如き罵倒も上から目線に許す態度も気に食わないが、このような気の遣わない会話を、綾小路は悪くないと感じていた。決してマゾフィスト的な考えではないが、それが二日間での感想だった。

 

「……一か月よ」

「え?」

「一か月、あなたの言葉に乗せられてあげる。だから、()()()どん底に落ちて、反動をつけて這い上がるのよ」

 

 堀北の真剣な眼差しを見て、綾小路は理解する。

 あなたの言う通りにするから協力しなさい。そう言いたいのだと。

 「仲良く」という部分を強調していたのは、この戦いにお前も参加しろという意味を含んでいるのに他ならない。

 その命令は、事なかれ主義である彼ならば即断っていたはずの勧誘だ。

 しかし今は、主義よりも優先したい「意志」がある。

 ――――目的は達成された。

 

「仲良く、だぞ。決して踏み台にはしないでくれ」

「時と場合によるわね。ちょうど足元をうろついていたら、誤って踏んでしまうかもしれないわ」

「随分と行儀の悪い足なんだな」

 

 軽い応酬を行ってから、堀北が立ち上がった。

 

「そろそろ遅い時間ね。日も暮れてしまったわ。まだ夜は冷えるから、とっとと帰りましょう」

「ああ、そうだな」

 

 彼女に倣ってベンチを離れる。

 顔を上げると、何故か怪訝な顔で見つめられていた。

 

「どうした?」

「……気持ち悪いわね。今度は何が面白かったのかしら」

「え」

 

 間抜けな顔になっていると、彼女は溜息を零して振り返る。

 

「あなたがそんな顔をするのが、少し意外だっただけよ。放課後も急に怒りだしていたから」

 

 思わず自分の顔に触れる。僅かだが、口角の上がっている感触があった、ような気がした。

 放課後の櫛田との会話は、確かに間違っていなかったのかもしれない。

 

「……そうか。あの時はやはり、怒っていたんだな、オレは」

「自我の芽生えたロボットみたいね」

「面白いジョークだな。案外的を射ているかもしれん」

 

 自分の変化に少し気分の上がった綾小路は、堀北の軽口に言い返すことはしなかった。

 その後は、二人共黙って寮へと向かって行った。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「え、じゃあ清隆。君はまさか……」

「ああ、仕方ないが、鈴音に協力することにした。積極的に動くわけではないとはいえ、頼まれたら無理に拒否はしないつもりだ」

 

 なんてこったい。これはたまげたな。一番乗り気でなかったはずの清隆が、まさかこんなにも急に旗色を変えるとは。

 

「……清隆、昨日は何があったんだい?」

「え、いや、今鈴音が説明し――」

「違う、その前だ。君はどうして、鈴音を説得しようと思った? やはり、櫛田か?」

 

 二人の間であった大筋のことは理解できた。しかし、そもそも清隆が彼女の説得に動き始めた動機が判然としない。きっかけになり得るのは昨日の清隆の動向で未だ謎がある櫛田との会話だ。鈴音に関わること以外にも何か話していたのかもしれない。一体どんな話をしていたのだろう。

 

「綾小路君、あなた櫛田さんと知り合っていたの?」

「つい昨日な。お前が先に帰ってしまった後に」

「……何か唆されたりしたのかしら」

 

 鈴音が清隆に疑いの目を向ける。

 自分が信用していない少女と、二人で密会をしていたのだ。もし櫛田が執着心を抱いている相手である鈴音とコンタクトを取っていた場合、清隆が仲介役として近づくために話をしに来ていた可能性を想像しても可笑しくはない。

 

「……確かに言われた。お前と友達になりたいから、力を貸してほしいとな」

「そう、だったの……」

 

 鈴音はどこか悔しそうに俯いた。

 一度でも心を許してしまったことか。まんまと櫛田にパイプを作られてしまったことか。或いは……。

 

「――だが、」

 

 しかし清隆は、それでも言葉を紡ぎ続けた。

 

「そんなことよりもオレは、本当に思っていたことをお前に伝えた。自分の意志で、お前に協力しようと決めた。櫛田が教えてくれたことをしっかりと考えて、俺は、選んだんだ」

 

 盟友の真剣な表情に呆気に取られ、僕は何も言えなくなってしまった。

 ()が、見えたのだ。

 僅かだが、無機質だったはずの瞳に何かを感じた。一瞬、彼の瞳は、確かに灰色ではなかった。

 ――何色、だったんだ。今のは。

 気付いた時にはもう見えなくなってしまっていたため、どんな思いが宿っていたのかを確信することはできなかった。しかしそれで、清隆の心に大きな変化があったのだと察するには十分だった。

 

「それに、既に一度断っているからな。心配要らない」

「……わかった。柄ではないけど、とりあえず今は信じてみることにする。測らせてもらうわ」

 

 「信じる」、普段の彼女から発されることはないと思っていた言葉を聞いて、鈴音もまた何かしら考えを改めるきっかけがあったのだと悟る。

 二人共、僅かだが、確実に変わっていた。前進、と称することができるような変化が起こっていた。

 

「それと――浅川君。あなたも、できたら協力してくれないかしら」

「え? な、なんで……」

「あなたたち二人は、初日からSシステムの違和感に気付き、答えを見出せていたわ。少なくとも、私よりずっと劣っているなんてことはないと思う。周りの不甲斐ない様子を見る限り、少しでも真面な人材が欲しいと思うのは不思議ではないでしょう?」

 

 ……なるほど。鈴音が清隆の意見に耳を傾けたのも、僕らに対する姿勢がほんの少しだけ軟化したのも、多少なりとも認めてくれていたからなのか。

 ……いや、買い被りすぎだ。清隆は兎も角、僕にそんな優秀さはない。所詮は()()()なのだ。

 どうして、君らはそこまで強くいられるんだ。怖くはないのか?

 個人戦じゃない。クラスごとということは、僕らだけの問題ではないということなんだぞ。

 

 ――他人を背負うということを、あんたらは本当に理解しているのか?

 

「……あっははー、まあ考えてみるかなあ」

「ああ。じっくりと決めてくれ」

 

 僕の強張った顔に、清隆だけが気付いた素振りを見せたが、確証を得られなかったのかその場で追及はしてこなかった。全く、聡いというのも時には罪なのかもな。

 

「事情は良くわかった。ありがとうなあ。そろそろチャイムも鳴りそうだし、ちょいとトイレにでも行ってくるよ。清隆もどうだ?」

「え? あ、ああ、そうだな。オレも念のため行くとしよう」

 

 彼はアイコンタクトにも反応し、僕らはトイレに向かう。

 

「……なあ恭介。お前は――」

「ほら、あまりに急だったからさあ。心の準備ができていないのよ。僕、マイペースだから」

 

 盟友が控え目に問いかけようとするのを、誤魔化しの言葉で制した。

 僕個人の問題であって彼は何も間違ったことはしていない。勇敢な一歩を無下にしたくない気持ちは当然あった。だから余計な心配をかけたくない。

 それに今話したかったのは、目下に生まれてしまった問題についてだ。

 

「ダブルブッキング、どうする?」

「櫛田の件か」

 

 今の清隆は板挟みと言えなくもない状況だ。鈴音との仲介を求める櫛田と櫛田を嫌っている鈴音。相反とは言わずとも、二人の申し出を同時に対処するのは梃子摺るだろう。

 これはどちらかが悪いという話ではない。清隆は僕らのために鈴音との一件を隠していたし、僕も鈴音のことを知るために櫛田からのお願いを承ったのだ。善意によるすれ違いだ。

 幸いだったのは、清隆はまだ嘘を言っていないということ。先程の会話でも、彼は櫛田からの頼みを「一度断っている」とは言っていたが、二回目以降どうしたかは言っていない。鈴音はまだ気づいていない様子だったから、一応ブラフは成っているはずだ。櫛田の件も――こちらは偶然かもしれないが――清隆自身が協力すると誓ってはいない。彼女が勝手に話の流れから解釈したに過ぎない。

 だが、本人たちがどう思うかは別問題だ。

 

「……僕がやるしかないなあ」

「大丈夫なのか?」

「大丈夫も何も、昨日約束したばっかなのにいきなりそれは鈴音を裏切ったみたいになるじゃないかあ。僕はまだ答えを出していない。船に乗っていないのなら、寄り道していても構わないだろう?」

 

 僕一人でやったことにすれば、鈴音も櫛田も、違和感や疑問は抱こうとも裏切られたという感覚は薄まるはずだ。これが最適解だろう。

 

「……わかった。櫛田の件はお前に任せる。鈴音の方とは違って、そう長くかかるものでもない。だが、寄り道には気を付けるんだぞ。何があるかわからないからな」

「おう、任されたあ」

「ただ――」

 

 その続きは予想できていた。しかしそれは、僕を茨の道を引き込もうとする、悪魔の誘いだ。

 だけど、やめろだなんて言えない。君は、優しい人だから。僕は、その善意を踏みにじられる程酷い性格に振り切れることすらできなかった。

 

「オレは、お前とも一緒に協力出来たら良いなと思っているぞ」

「……そっか、ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――

 

「タンポポって知っているか?」

「何よ突然。新手の侮辱?」

 

 寮へ向かう途中、どこまでも続く沈黙に我慢できなくなった綾小路は唐突に尋ねた。

 

「いや、ついさっき隅で咲いていたのが見えてな」

「同族が見つかって嬉しかったのね。良かったじゃない」

「誰が惨めな陰キャだ」

「誰もそこまで言ってないわよ、本質が顔を出したわね」

「馬鹿にしてはいただろう。なめるなよ、タンポポ」

「タンポポを庇うのね……」

 

 数時間前とは流れるように行われる会話の応酬。

 ――これが青春か!

 俗に言う「良い感じな雰囲気」というのはこういうことを言うのかもしれない。

 少しズレた認識が定着しつつある綾小路だったが、隣を歩くのは恋愛とは無縁の堅物女。哀しいかな、修正してくれる存在はこの場にいなかった。

 とは言え、タンポポの話題を切り出したのは、何も会話を繋げるためだけではない。

 

「本気で言っているんだ。知っているだろう? タンポポは何度踏み倒されてもしぶとく起き上がる。根さえ残っていれば、何度引きちぎられても花が息を吹き返す。そんな強かな花が、オレたちの入学する時期に合わせて咲き誇るというのは、不思議な因果だよな」

「……案外キザな男なのね。花が好きなの?」

「まあ、ちょっと知っているんだ」

 

 大抵の知識は身に着けているが、今回の事情を話すわけにもいかないので適当にはぐらかして置く。

 

「因みに、花言葉は?」

「『誠実』と『別離』だ。『幸福』というのもあるぞ」

「まるで関連が無いわね。……二つ目は、少し身に覚えがあるかもしれないけど」

 

 堀北は少しと声のトーンを落とし、俯いた。最近のことを憂いているのだろう。

 オレたち三人のことか、将又……。

 浮かんだ二つの可能性。判断材料はなかったため、彼は早々に考えを打ち切った。

 

「他にはないの?」

「ある――が、それは自分で調べてみると良い。兎も角、オレは一つ目と三つ目の言葉を信じてみたいんだがな」

「あら、今度はロマンチストのつもり?」

「知らなかったのか? オレはロマンチストなんだ」

 

 奇しくも盟友と似通ったセリフを吐いた綾小路だが、そんなことは露知らず話を続ける。

 

「誠実に向き合い続ければ、幸せに貪欲であり続ければ、いつかは手に入るんじゃないかって思ったんだ。お前と今日こうして話そうと思ったのは、それが理由だ」

 

 切り捨てようかとも思った。諦めようとも思った。憧れと期待を胸に飛び出した世界で、苦しむ自分が哀れに感じられた。

 しかし、それで得られたものは確かにあった。そしてその兆しが芽生えたのは、他でもない二人に出会えたから。気付けたのは、あの可憐な少女と出会えたから。

 ――出会いの季節、か。良いものだな、「春」は。

 無駄にしてはいけない、一度きりの高校生活。普通とは程遠い学校ではあったが、目指す場所は定まった。

 

「…………浅川君、でしょう?」

「……何の話だ?」

「珍しくわかりやすいのね。彼が考える時間を作るために、態々あんなことを言い出したのでしょう」

 

 反応は最小限に抑えたつもりだったが、驚きを隠しきれなかったようだ。思いの外鋭かった堀北への評価を改める。

 

「わかっていたのなら、どうしてさっきは何も言わなかった?」

「言ったじゃない、『乗せられてあげる』って。彼が悩んだままだと、あなたも気が気ではないでしょうし」

「……悪いな、恩に着る。――なあ、あいつは一緒に来てくれると思うか?」

「さあ、彼次第だと思うわよ。今度私の方からも提案してみるけど」

 

 堀北の提案には素直にありがたいと思った。浅川はどこか理由を欲しがっているようにも感じられたからだ。彼女自身からの誘いは、彼が一歩踏み出す理由の一つとなるだろう。

 自分が堀北に協力の姿勢を見せたのもそのためだった。自分が意見をひっくり返せば、また一つ彼の背中を押すことになるだろうと思ったのだ。

 それにしても――まさかここまで影響されるとは。

 自分の像が壊されていく。あるいは、空っぽの像に中身が埋まり始めていく感覚が、少し嬉しかった。

 

「オレは、来ると思う。あいつはきっと、最後には来てくれる。オレたちならできると思うんだ。オレたちが、良いんだ」

「根拠は――あるわけないわね」

「ああ。これは、オレたち三人の『信託』なんだ」

 

 ――見つかった居場所の中で、確かに結びついていく絆がある。

 そんな予感が、今の綾小路にはあった。

 

「全く、困り物ね。ウジウジしている男は嫌われるらしいわよ」

「そう言ってやるな。お前が兄妹関係や恭介のことで迷っていたように、あいつも自分の納得出来る道を必死に選ぼうとしているということはわかってやってくれ」

「……善処するわ」

 

 堀北は自分の心を見透かされたことに刹那驚いた表情を見せるも、また俯いてしまった。

 お互い無言の時間が続く。しかし、さっきと違いこの時間をあまり気まずくは感じなかった。

 花言葉、か。

 自分から切り出したタンポポの話を思い出す。

 タンポポは英名で「ダンディライオン」と呼ぶらしい。ギザギザした葉をライオンの歯に見立てたのだそうだ。

 美しくも強かな意味が込められているその花に、人知れず敬意を表する。

 ――見ているか。お前が作り上げた最高傑作は、こんなにも脆く絆されようとしているぞ。

 自分は本当に変わったのかしれない。それがこれからを見据える希望となる。

 この先待ち構えているであろう試練の数々に一途の不安は残るが、今は目を瞑っておこう。

 堀北には教えなかった、タンポポの別の花言葉。彼女がこの後調べるのか、そもそも覚えているのかもわからないが、彼は自分の願いをそこに乗せた。

 寮に辿り着くまで、二人は黙ったまま、それでも並んで歩き続けた。

 




清隆が最後に思い浮かべた花言葉、一応本文にわかりやすく書いたつもりですけど、もしわからなかったら調べてみてください。それですぐにわかると思います。

今回は鈴音の変化について説明させてもらうんですけど、これもやはり、原作で認知していなかった存在が本作では初期からいてくれたというのが大きいんですよね。オリ主もそうですし、清隆も原作よりは苦悩や思考をしています。本文でも若干語られていますけど、考察が早くに進展したのもあって、彼らへの信頼も自分がDクラスになったという自覚も少しだけ芽生えているって感じです。まあ、やっぱりまだまだ認められないんですけどね。堅物なプライドの塊は伊達じゃないということです。

あと三話、いや、保険かけて五話くらいで五月に入る予定です。tips更新は別枠扱いですけど。「くらい」なのでもしかしたら少しオーバーするかもしれません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

空虚な優しさ(前編)

今回はクラスメイトと関わる回です。どうぞ。


「おはよう山内!」

「おはよう池!」

 

 あれから一週間、これと言った変化はないまま時を過ごし、今日からいよいよ水泳の授業だ。

 ……嘘やろ、早くね? まだ四月じゃないか。お日様が隠れればまだまだ薄ら寒ささえ感じる時期だぞ。何もこんなところまで特殊じゃなくてもよかろう。冷たいのヤだな、水ヤだな……いや、そこら辺は我慢できるけど、別の問題が……。

 それは置いといて、どういうわけかいつもなら始業ギリギリで駆け込み入室してくるはずの二人が、今日は真ん中ら辺の順位で登校してきた。楽しみで夜も眠れなかったのかな? まあ僕と清隆は特別な思い入れなどはなくいつも通りワンツーエンターを果たしたわけだが。

 耳を澄ませば、どうやら女子のスク水目当てらしい。別に珍しい物でもないのでは? 小中学校でも散々見かけていたはずだが。

 

「なあ清隆。君はスク水好きなのか?」

「え……い、いや、特にそんなことはないが。どうしたんだ、急に邪な感情の滲んだ質問をして」

「いやなに、あそこの連中が普通なのか、僕らが普通なのか、常識が揺らぎ始めていてなあ」

「……周りを見てみろ。答えは明白だ」

 

 清隆に言われた通り視線を巡らせてみると、二人の駄々洩れな会話を耳にした女子たちがゴミを見るような目をしている。おおう……鈴音以外にもこんな表情ができ――

 

「ルンダァッ!」

「お、おい鈴音。どうして急に刺した?」

「さあ。彼の心がうるさかったからかしら?」

 

 いるならいると言ってくれ……無駄か。どこにいようと心に唱えた時点で彼女は知覚できるんだったな。もはやエスパーの領域じゃないか。まずはコンパスの使い方を小学生から学び直せ。

 

「冤罪だって。僕が心の中で何を考えていたって言うんだい?」

「知らないわ。目付きが悪いと思われているだなんて全く予想してないわよ」

「……何故わかった」

「本当だったの? なら躾が必要かしらね」

 

 そう言って彼女は再びコンパスを掲げ……

 

「ちょっ、ウェイトゥウェイトゥ! 暴力反対だ!」

 

 躾って……君は僕をどんな目で見ているんだい。平等で行こうよ。ほら、君の目の前で必死に訴えかけているのは人畜無害な優男だぞ。可哀想だとは思わないのかい? 思え。

 

「冗談よ。さすがの私もそこまで鬼じゃないわ」

「どの口が言う……」

 

 冗談ってのはされた側も笑顔になれるから冗談なんだよ。今のが冗談なら世界のユーモアがどれだけ人を苦しめていることになるか……。 

 

「――おーい、綾小路も浅川も来いよ」

 

 鈴音の残念なギャグセンスにげんなりしていると、男子の群衆からのお呼び出しが掛かった。声の主は、池か。

 

「……どうする、清隆」

「悩みどころだな」

 

 典型的なジレンマだろう。同性の卑猥な友情を取るか、異性に対する体裁を取るか。どちらにせよ、片側から非難の目を向けられる可能性が高い。

 恨むぞ池……。

 バレないように言い出しっぺを一睨みし、どうするのが一番面倒な事にならないか思考する。

 瞬間的に答えを出し、清隆とアイコンタクトで互いの考えが一致していることを確認する。

 ガタリ、と、僕らは勇気を出して立ち上がった。

 

「まさか、行くつもり?」

「仲間入りするわけじゃないさあ。寧ろ慈善活動、救出作戦だあ」

「同志を保護する。善良な市民は守られるべきだ」

 

 「訳の分からないことを」と肩を(すく)める鈴音を後にし、僕らは戦場へと向かう。

 

「やあやあ、一体全体どうしたんだい?」

「おう、実は今、女子の胸の大きさで賭けをやってるんだけどさ」

「オッズ表もあるやで」

 

 春樹と博士――と呼ばれていたが、名前は確か外村だったはずだ――の言葉を聞き机の上を見ると、何やら名前と数字の書き込まれた表が置いてあったが、すぐに目を逸らして群がる男子の顔色を窺う。

 なーるほどねえ。

 言ってしまえば、性に纏わる欲は思春期男子の象徴の一つ。乗り気な者と自制心によって嫌悪感丸出しになっている者の区別は非常に容易だった。

 隣を向くと清隆と目が合う。どうやら向こうもターゲットを見定めたようだ。

 

「いんやあ、僕は遠慮しとくよ。あんまり興味もないし。なあ健?」

 

 該当する生徒の中で呼びやすい名前をわざとらしく響かせる。自己紹介はしてくれなかったが合っているはずだ。

 

「あ? お、おう。俺もあんま興味ねえからパスさせてもらうわ」

「はあ? なんだよーお前ら、釣れねえなあ」

 

 僕の恨みの矛先である池がつまらなそうに喚く。誰もが君のように下衆な考えを持っているとは限らないのだよ。見ろ、今からその事実が浮き彫りになるぞ。

 

「オレも、あまり同調主義は好まなくてな。沖谷もそう思うだろう?」

「え? う、うん。僕、こういうのはちょっと苦手かな……」

 

 沖谷と呼ばれた生徒の方に目をやると、何とも中性的な見た目だ。少々失礼かもしれないが、可愛らしいと言われても文句はつけられないだろう。

 周りの数人の生徒の様子からして見ても、やはり同性のコミュニティを意識して(たか)っていた者も多かったようだ。

 

「な、え、お前らもか!? 何だよチクショー!」

 

 今度は春樹が悔しそうに叫ぶ。この二人、意図せず結構な数の男子を取り纏めかけていたな、悪い意味で。場合によっては平田に匹敵するカリスマ性かも……いや、撤回だ。こんな汚れたカリスマがあってたまるか。

 

「てなわけで、他にも乗り気じゃないやつがいたら気にせず下りなよ。別に彼らも強制したいわけじゃないだろうしさあ」

 

 それだけ言い残して僕と清隆はその場を後にする。健と沖谷を半ば強引に引っ張って。

 すると、他の一部の男子もぞろぞろと群れから離れ始めた。残ったのは最初の半数くらいってところか。

 今度は二人揃って嘆きの叫びをあげている。君ら仲良いな。類は友を呼ぶということか? これまた穢れた友情なことで。

 

「作戦成功、だな」

「ざまあみろってねえ」

 

 互いの健闘を称え、盟友とグータッチをする。ああスッキリしたとも。本格的な共同作業は今回が初めてだったからな。僕ら、いいコンビになれるかもしれないぞ。

 

(わり)いな、正直助かった。俺もさすがにあれはって思ってたんだ」

 

 素直に謝辞を述べる赤髪ヤンキーこと健に僕は内心拍子抜けしていた。とてもコンビニの前で先輩に数で劣っているにも関わらず噛みついていた人間とは思えない。ヤンキーと言うともっと性的な悪意を秘めがちな印象だったが、評価を改めなければいけないようだ。

 

「偏見かもしれんが、君はもっと我の強いタイプだと思っていたよ。一方的に離れることもできたんじゃないのか?」

「あー、普通ならそうしたかもしれねえけどよ。あいつ等――池と山内な――は入学してすぐ仲良くしてくれたんだ。あんま突き放すマネしたくなかったんだよ。そりゃあランキングとかオッズ表とか出てきた時には引いたがな、退き際を失っちまったってわけだ」

「なるほど、友達想いなんだなあ」

 

 あれか、義理は果たす系の真面目ヤンキーだったりするのか。ワンチャン何の意味もなく「ンだテメェ!」ってブチ切れられるかもとビクビクしていたのだが、杞憂だったみたいだな。さっき僕の考えを察してくれたくらいには話の通じる人で安心したよ。

 少なくとも春樹辺りよりかは真面な人間だろうな。彼、何の躊躇いもなく女子の名前を挙げては、大声で告られたと(うそぶ)いたりブス呼ばわりしたりしていたし。えっと、誰だったっけ? 確か佐倉って呼ばれていた気が……。

 

「でも、いけないことだって思ったならちゃんと指摘してやるべきだったと思うぞ。本当に大事にしたい友達なんだったらなあ」

「おう、今度は気を付けるぜ」

 

 しない後悔よりする後悔とは言ったものだ。繋がり自体を優先して周囲から嫌われるのと間違いを正すことを優先してより良い繋がりを目指すのと、どっちがいいかって話だ。規模の大きい話にでもなれば変わってくるが。

 

「えっと……あの、僕も助かったよ。ありがとう」

「礼には及ばない。オレたちも、自分たちの体裁を守るためにやったことだからな」

 

 次に感謝の言葉を発したのは、清隆が連れてきた沖谷だ。近くだとつぶらな瞳が良く見える。鈴音よりもよっぽど愛嬌を感じるな。……よし、聞こえてないな。

 清隆の発言で頭にクエスチョンマークが浮かんでいるようだ。君は匂わせるような話し方が癖なのかい? 「困っているやつを見ると放っておけない」とかもっと簡単なこじ付けでもすれば良いのに。

 

「にしても……沖谷は、恭介と似たタイプだな」

「え、どんなところが?」

「名前、二人共『きょうすけ』だろう?」

 

 ああ、確かに自己紹介で言っていたような。滅茶苦茶シンプルな共通点だったのに忘れていた。

 

「漢字はどうなんだ? 僕は『恭』しいの字と紹介の『介』なんだけど」

「僕は『京』都の字だよ。『介』は一緒」

「一文字違いかあ。全部同じだったら面白かったんだがなあ。まあそれでもレアな同名なんだし、奇妙な縁だ。仲良くしようなあ」

「うん、よろしく」

 

 差し出した手が握られる。ちゃんと男らしさを感じる少し硬めな手だ。

 なんか、こう、落ち着くな。清隆の言う通りどこか自分と波長が合いそうな節がある。話すとほのぼのしてきていつも以上にまったり口調になってしまいそうだ。

 

「他にも何かあったりする? 見た目とか中身とか」

「それは……その、あれだ……」

 

 何気ない問いのつもりだったが口籠る清隆。言いにくいことなのか? 僕と沖谷の顔を交互にまじまじと覗いている。

 

「…………女々しいな、と」

「……中性的って言え」

「僕、そんなに男らしくないかなあ……」

 

 君は確かに女々しいぞ、僕とは違って。まずははきはきと喋る練習をすることをお勧めする。ゴモゴモと喋りながらの上目遣いは女子のテクニックだ。君が自然と身に付けるべきものではない。

 というか清隆、君そんな風に思っていたのか。もしかして鈴音も? あり得るな。さっきもコイツ言い淀んでいたし、多少なりとも気遣っていた部分があるのかもしれない。

 

「あ、そうだ。綾小路も浅川も、二人してグループ入ってねえだろ?」

 

 自分の外見を気にしていると、徐に健が話題を振った。

 

「グループ? 確かにオレたちははみ出し者かもしれないが」

「あー……そういうことじゃなくてよ。実は、うちのクラスの男子だけのグループチャットがあるんだ。もし良かったら、俺の方から招待しとくか?」

 

 おい清隆。余計なことを口走るんじゃないよ。おかげで一瞬憐みの目を向けられたじゃないか。僕も勘違いしていたのは内緒だが。

 男子のグループチャットか。ありがたい提案だ。こうも自然な形で輪に加わる機会に恵まれるとは。今まで会話という会話は四人としかしていなかったからな。内一人は他クラスだし。クラス全員のグループは平田の鶴の一声でどうにかなったが、ついに僕らにも新天地への道が開拓される時が来たみたいだ。

 

「ぜひ入らせてくれ。いいよなあ、清隆?」

「ああ、願ってもない戦利品だ。よろしく頼む」

「お安い御用だぜ。恩返しのつもりだからな」

 

 こうして、僕らは思いがけない形でDクラス男子の一員となった。なんだか圧倒的に遅れを取った気もするが、僕らが三人でずっと排他的でいたのが悪かったのかもしれない。

 

「ええ、どうしよう。僕も何か恩返ししないと……」

 

 僕らの様子を見て急に焦りだす沖谷。ああ、確かに今の状況だと彼が気まずくなってしまうか。仕方がない、フォローだけでもしておこう。

 

「心配するなあ。僕らはそもそも慈善活動のつもりだったんだ。見返り目的じゃないから安心しなあ」

「うう、でも――」

「でも、どうしてもって言うなら、また今度僕らが困った時に、頼らせてもらってもいいか?」

 

 そう言ってやると、沖谷は一瞬ハッとした表情になり、「うん!」と朗らかな笑顔を浮かべた。

 僕らが何と言おうと、きっと沖谷は負い目を感じてしまうだろう。こっちの励まし方の方が正しいはずだ。見るからに優しそうだもん。

 それから、二人との連絡先交換を済ませ、少し雑談をして親交を深めた後、再び自分の席へ戻った。

 

「お勤めご苦労様。長かったわね」

「お、僕らのことが恋しくなったかね?」

「たった今恋しくなったわ。一人の時間が」

 

 冷たすぎるだろ。君がさっきかました冗談よりはよっぽど平和的なものだったろうに。いや、逆か? もっと物騒なものでないと君はビクともしないのかい?

 それと君の返し、どうして棘を仕込む時に限ってちょっと上手いんだ。ある意味罵倒が得意な君らしいよ。もっと他人の笑顔のためにそのポテンシャルを活かせ。

 

「にしても、頑張ったじゃない。面倒事の嫌いなあなたたちが、一体どういう風の吹き回し?」

「簡単な話さあ。男子にも女子にも極力敵を作らない方法、妥協案を取ったんだよ」

「あんな身の毛もよだつような視線を浴びないために、あの賭け事に参加しないことは必須条件だった。しかし一方的に拒否すると、群がっていた男子からは反感を買ってしまう」

 

 何だかんだで三分の二くらい集まっていたからな。いなかったのは平田のようなリーダーシップのあるやつか、幸村や明人などの真面目メンツくらいだ。僕らが今後関われそうな人員は皆、本能に塗れた獣の巣窟の一部となってしまっていたわけだな。

 

「だからこそ僕らが取った作戦は、できる限り男子に敵を作らないようにすること。流石に思春期の男子と言っても、あそこまで汚れた本能に染まっている阿呆ばかりではない。同調してしまっている何人かを引き離してやれば、僕らは圧倒的少数派ではなくなり、向けられるヘイトも薄まるって寸法さあ」

「なるほど、結局全部自分たちのためだったと。それを慈善活動だなんてとんだ偽善ね」

「でも結果的に誰かのためになっただろう? 情けは人の為ならずとはこのことだなあ」

 

 細かいことは気にしない。僕も周りも救われた、それで良いではないか。

 

「だけど、一つだけ解せないわね。どうしてよりにもよって、あなたが連れだしたのはあの須藤君だったの?」

「あー、まあそれは、ただのお節介だなあ」

「お節介?」

 

 呼びやすくて印象にも残っていたからというのもあるが、一番の理由は別にあった。

 彼は入学日早々やらかしている。折角クラスがまとまる第一歩になるはずだったのをぶち壊したのだ。あの日の放課後での一件からして、その態度は教室だけには留まらなかったはず。同級生の中での鬱憤は測り知れない。

 それが少しでも和らいで欲しかった。彼もある程度の倫理観を持ち合わせているのだということを知って欲しかった。あわよくば、仲良しごっこを嫌う彼でも、親しくなった友人には自分を抑えてでも繋がりを取り持とうとする優しさを見せるのだということも。

 悪い所だけで全て知ったような気になられて切り捨てられて、秘めたる善意に目も向けてくれないだなんてあまりに残酷だ。時としてそれは、大きな歯車の掛け違いに発展する。だからせめて、その魂に問いかけて、選んで、その果てに切り捨てて欲しいんだ。

 ちょうど、この前の清隆のように。

 実の所、あの群れに飛び込んで初めに彼の顔を見た時から、僕は既に驚いていたのだ。あんな顔をするものだとは思わなかった。

 それでも、あの時衝動的に彼の名を呼ぶのには十分な理由だった。蓋を開けてみれば、きちんと感謝を伝えられる男だったしな。今回の判断は功を奏したようだ。

 

「……まあ、あなたにも考えがあったのでしょう。私には到底理解できないような考えが」

「理解しようとしていないだけさあ。視野を広げてみなさい。障子を開けてみよ、外は広いぞ」

「諭すような態度がムカつくわね」

「この程度でムカつくようじゃ、まだまだ視野が、いや、器が小さいねえ」

 

 一層不満気になった彼女を傍目に、僕は分析する。

 変わったようで、変わっていない本質がそこにある。

 自信と慢心は紙一重だ。彼女は、自分の実力を正しく把握できているのだろうか。

 今の彼女が、未だ自惚れで反発しているのか、それとも角ばった態度が染み付いてしまっただけなのか。

 それは誰にもわからない。

 僕には祈ることしかできない。これからの彼女自身にしか証明できないことなのだから当然だ。

 ……証明、か。

 もう既に、僕が言えた話ではないか。

 

 

 

 

 

 HRを終え、いよいよ(男子だけ?)待望の水泳の時間だとプールへ移動する生徒たち。

 しかし僕は、そこから遠く離れた場所である人物に話しかけていた。

 

「あの……できれば僕、水泳の授業は全て見学にしたいんですけど、できますか?」

「別に構わんぞ。だが、まさか全部とはな。何か事情でもあるのか?」

 

 相手は教師の中でも比較的ガタイの良い男、この後の授業でお世話になる人だ。勿論場所は職員室。

 

「えっと、一応入学前に提出した書類には書いてあったと思うんですけど……」

 

 そう言って僕は、制服を少し捲り上げて横腹を見せる。次の瞬間、彼は驚愕の表情に変わった。

 

「それは……! そうか、君が例の生徒だったのか」

「え、どこかで噂にでもなってるんですか?」

 

 だとしたらあまり良くない展開だ。これは他の生徒にはあまり知られたくないことなのだが。

 

「いいや、把握しているのは教師陣だけのはずだ。君の書類には、周囲に知られたくないと書いてあったからな」

「そうですか、安心しました。それで、構いませんか?」

「ああ、わかったよ。その辺りは色々と工面しといてやろう」

 

 ……工面? 工面しないと融通が利かないのか? 結構重い事情のつもりだったが、そこまで評価の増減には厳粛なのか。

 下手な発言をして僕らの推測を悟らせてやることもない。素直にお言葉に甘えさせていただくことにしよう。

 

「ありがとうございます。それでは、失礼します」

 

 

 

 

 

 見学席に着くと、既に多くの女子が座っていた。先の一件を気にしているのだろう。

 何だか騒がしいなとプールを見下ろすと、賭けに躍起になっていたやつらがこちらを向いてギャンギャン喚いている。わー、底無しだな。

 

「キモッ……」

 

 朝話題にされていた一人である長谷部が幻滅だといった顔で呟く。うん、あれは同性の僕の目から見てもどうかと思うよ。

 さてどこの席に座ろうかとぼんやり見回すと、気になる生徒が目に入ったので隣に腰を下ろす。

 珍しい機会だし、一時間丸ごと無言なのは興が乗らん。暇つぶしついでに交流を深めておこう。心にもない言葉で傷ついていないかも心配だ。

 

「やあやあごきげんよう」

「え? えっと……」

 

 急に話しかけられて委縮してしまう少女。一度も会話したことのない異性が相手なのだから当然か。

 

「ああっと、浅川恭介だよ。さっきのことを気に病んでないか心配でなあ」

「佐倉愛理、です……。あの、大丈夫ですから……」

「そっかあ。……」

 

 ……やっべ、他の話何も考えてなかった。早すぎる沈黙だ。

 焦りを紛らわす癖で思わず前髪を弄る。人前では控えているが、なかなか直らないものだな。

 ちと世間話でもしてみるか。

 

「楽しんでるかい? 高校生活は」

「はい、まあ……」

「……この高校を選んだのはどうして? 大分変わってるとこだと思うけど」

「家から近くて……」

「へえ、そっかあ……」

 

 ……合点いかん。

 コミュ障どうしの初対面はこんなものなのか。それとも僕の潜在能力が低レベルなだけなのか。清隆も鈴音も饒舌ではないが、ここまで話が途切れることはなかった気がするぞ。

 今度は視線を前に移す。どうやらタイムを計って競うようだ。二人はどこに……って、サイドでしゃがみこんでいるじゃないか。まあ仲良しこよしは良いことだ。

 

「……あの、すごかったですね。朝の」

「え?」

「みんなを、助けてあげてて」

 

 あの時の行動のことか。傍からは小さなヒーローにでも見えたのかもしれない。そんなつもりではなかったから、何だか申し訳なくなってくるな。

 

「それほどでもないさあ。我ながららしくないことをしてしまったって思ってるくらいだからなあ」

「それでも、すごいと思います。私はあんな風に、堂々と自分の意見なんて出せないから……」

 

 手放しに称賛してくるな。言い回し的に、控え目な性格がコンプレックスなのか。

 

「それに……須藤君を連れ出したのも、優しさ、ですよね?」

「っ、へー、よくわかったなあ。嬉しいよ」

 

 少々驚いた。意外と周りのことをちゃんと見えている。

 顔色を窺い慣れた成果ということか。単に口下手というわけでもなかったんだな。

 

「でも、別に我を通せることばかりが長所になるというわけでもないさあ。健のことも、お節介だったかもしれないしなあ」

「そう、ですか?」

「ああ。だって、自分を隠すのだって優しさだろう? 他人の気持ちを察して、不快にさせないように動けることも十分すごいよ。TPOってやつだ。貫徹も同調も、優劣をつけようとするのは無い物強請りに過ぎないのさあ」

 

 いつだって反発して衝突することが偉いわけじゃない。何度も例に挙げて悪いが、自己紹介での健の行動がそれだ。何を言うにも、環境を捉えて、自分の頭で考えて、選び抜かなくてはならない。

 同様に、何を聞き、嗅ぎ、見るのか、そして、するのかも。

 失敗は成功の基なんて、取り返しのつかない失敗をしたことないやつの常套句だ。

 一度の失敗がドミノ倒しのように、次々と物事をダメにしていく。

 それは、何も社会に出てからの話というわけでもない。

 だから、踏み出せない気持ちはよくわかる。

 

「……浅川君は、私と似てるんですね」

「似てる?」

 

「あ……いや、違うんです! ……ごめんなさい、何でもないんです」

 

 ……彼女は見かけによらず目敏いようだ。

 見透かされているのかも、しれないな。

 君も僕も、どこかで一線を引いてしまう癖がある。

 そして、このままではいけないと葛藤を繰り返している。

 

「……いいや、違くないと思うぞ。確かに似た者同士かもなあ」

 

 傷の舐め合いじゃあ、面白くないよな。

 

「なあ愛理、変わりたいか?」

「へ?」

「今の自分、好きって言えるか?」

 

 答えはわかっているが、彼女の口から聞きたかった。

 ――――君の心に、聞いているんだ。

 

「……好きじゃ、ないです。あまり」

「そっか。じゃあさ、お互い励まし合って頑張っていこうよ。一人でってなるとちょっと心細いかもしれないけど、仲間がいれば気休めくらいにはなるだろう? 自己革新同盟ってとこだ」

 

 僕の言葉と、優しさという皮を被せた()()()()笑顔に、愛理は刹那キョトンとした顔を見せ、すぐに綻ばせた。

 

「そう、ですね……」

 

 清隆とはまた別の意味での同志が見つかった。

 例え僕が変われなくても、変わりたいと願っているこの子の手伝いくらいは……。

 ……いや、違うか。

 椎名の時とは、全く状況が違う。

 僕が鈴音の船に乗る乗らないに関わらず、Dクラスの一員として働くことは恐らく避けられない。そして何より、曖昧だったタイムリミットは定められてしまった。

 既に一段階、退路は断たれているのだ。

 変わらなければならない、か。僕も、一緒に。

 ……だが、安心してしまっている辺りまだまだだな。

 

「あの、浅川君……」

「ん、なんだい?」

「あれ、あの人、浅川君のこと見ていませんか?」

 

 そう言って徐に愛理が指したのは、プールサイド。

 気付けばレースは全て終わり、優勝者が決まったようだ。

 しかし、結果にガヤガヤとしている連中には目もくれず。

 僕の意識は、彼女の指の先にいる、ただ一人に釘付けになっていた。

 ……アイツ……。

 

「何だか、睨んでませんか? ……()()()()

 

 それは、圧倒的な実力差で優勝をもぎ取った少年だった。

 




沖谷との名前被りの件、正直に言うと、この話書くときに調べるまで全く気付いてなかったです。アニメ見て判断しましたけど、原作でも一応この名前なんですかね?
まあやってしまったものはしょうがない。今後の沖谷の出番は未定ですが「きょうすけ」仲間ということで、ご愛嬌ですね。漢字も違うから許して。

佐倉の口調が上手く書けない難しい。次回予定の高円寺との会話も不安です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

空虚な優しさ(後編)

先に謝っときます、ごめんなさい。

難産過ぎた。何度も練り直したんですけど、僕の文才ではこれが限界です。

一応キャラの芯はブレないようには書けているつもりなので、物語としては崩壊してないはずです。


「浅川君」

 

 水泳の授業を終え、いつもの三人で合流するやいなや、鈴音が話を切り出した。

 

「どうして?」

「何がだ?」

「しらばっくれないで。どうして見学したの?」

 

 そりゃそうなるか。事前に伝えていなかったし。

 

「わかっているわよね? 適当な理由で見学なんてしたら、評価に――」

「わかってるよ。だからちゃんと説明して、『工面』してもらうことになったんだ。まあ、そういうことだなあ」

 

 心配無し。と言ったつもりだったが、鈴音は訝し気な表情を緩めなかった。

 

「特殊な事情を抱えているって言うの?」

「そうだなあ。他の女子みたいに、身体をまじまじと見つめられるのが恥ずかしくて――」

「ふざけないで」

 

 一蹴された……怖いよ顔が。僕は見ていたんだからな。君が清隆の体を舐め回すように見つめていたのを。当事者に反抗する権利があるのかね?

 とは言え追究されるのは旨い話ではない。頼みの綱として清隆にアイコンタクトを送る。

                                         

「鈴音、それくらいにしておけ。前もって教えてくれなかった時点で、オレたちにも言えない程の事情だということは少し考えればわかるだろう。そもそも恭介の普段の授業態度を見る限り、余程のことでないとサボるとは思えん」

「それは……そうね」

 

 鈴音自身も頭では理解していたようで、すぐに矛を収めてくれた。

 

「ごめんなあ。もっと信頼関係を築けたらってことで」

「お前も、それさえ言っておけばいいと思ってないか?」

「まあなあ。でも事実だろう? 実際問題、僕らお互いのこと何も知らないし」

 

 言っておけばいいと言うより、そう言う他ない。僕だって隔たり0枚にでもなればありのまま話すさ。基本伝えられることは伝えたい主義だからな。

 

「まあ君らの危惧していることは起こらないから心配するなあ。ほら、とっとと教室に戻りなあ」

「え、お前は一緒に来ないのか?」

「工面してもらうって言ったろう? その手続きとかで教師と会わなきゃだから」

 

 僕は二人の背中をトンと押して、先に行くように促す。

 

「それなら仕方ないか。行こう、鈴音」

「言われなくてもわかってるわ。それじゃあ浅川君、また後で」

 

 二人は渋々といった様子で歩き出す。

 その影が曲がり角で見えなくなるまで待ってから――僕は後ろを振り返った。

 

「……それで、何の用だ?」

「――フッ、今日も君たちは三人揃って愉快だねぇ」

 

 現れたのは、僕よりもずっと大柄で、鼻に付く口調の少年だった。

 

「久しぶりだなあ――――六助」

 

「ごきげんよう、オールドフレンド。良い高校生活を送れているようで安心したよ」

 

 彼は僕の過去を知る人物の一人だ。どこまでも変わらないふてぶてしさには、僕も当初呆れ気味だった。

 

「よく僕だってわかったなあ。大分見た目変わってたと思うけど」

「名前が一致していたからねぇ。元々君からここに進学すると聞いていて、そこまでくれば間違えようもないだろう」

 

 お互い飄々とした態度で会話を始めるが、六助はすぐに神妙な顔つきになる。みんな今の彼を見れば仰天するだろうな。

 

「大丈夫なのかね? まだ痛むのかい?」

 

 彼が指したのは僕の右脇腹。僕が水泳を見学することになった理由だ。心配してくれたのか。

 

「大丈夫さあ。みんなを怖がらせたくなかっただけだからなあ」

 

 当たり障りのない回答をしたつもりだったがどうやら気に食わなかったようで、六助は表情を曇らせる。

 

「……やはり変わってしまったようだねぇ、君は」

「だから変わったって言ってるだろう? 髪を弄る癖がついちゃって大変だよ」

「ジョークのセンスは相変わらずのようだ。だが、私がしているのは内面の話だよ。以前の君なら、そんな体裁は気にしなかった。他人と関わることに躊躇いも後ろめたさも感じず、心から楽しんでいたじゃないか」

「それは仕方ないなあ。諸行無常ってやつだ」

 

 人間小さなきっかけだけでもガラッと変わることはある。ましてや彼は、僕の身に遭ったことを知っているはずだ。

 

「本質はそう簡単には変わらないものだよ。今の君はかつてと正反対だ」

「そうか? 元々こんな態度だったろう」

 

 僕の記憶が正しければ、これくらい砕けた口調だったと思うが。他人との関わり方は、まあちょっと違うのかもしれないけど。

 

「醜いねぇ、惚けるつもりかい? 君の本質はそこではない。もっと起源的なものだ」

「…………言い切るんだな」

「親友を理解できない私ではないよ。尤も、今の君を友と呼べるかは怪しいがねぇ」

 

 言ってくれる。だからオールドフレンド(かつての友)、か。

 一つ疑問が浮かぶ。それは入学日の一幕のこと。

 

「醜い者が嫌いなんだろう? どうして無理して関わろうとする?」

 

 彼は僕のことを醜いと評価しているようだった。先の授業での視線といい、正直見限られたものだと思っていたが、どういう腹積もりだ。

 

「確証がないからだよ。私が君に向けているのは嫌悪ではない。()()だ」

 

 そうして彼は一歩、また一歩と、詰め寄ってくる。

 

「君の変化を感じたのはあの日以降だ。そして私はあの日のことを何も知らない。何も、ね」

 

 そうだ。彼はあの日、僕らと同じ場所にいなかった。駆け付けた時には、事は過ぎた後だった。

 この自由人は、その事実にどれだけ心を傷めたのだろう。

 今もなお独りを誇りとする彼が認めた者たちのことを、どれだけ悔いたのだろう。

 

 僕には測ることはできない。あの人ならば、できたのだろうか。

 

「だから、それを確かめるためにここへ来たのだよ」

 

 気付けば、僕らの距離は二歩分程にまで迫っていた。

 やはり僕は、自分を守ることで精一杯なのだろうか。

 知られたくない。理解されたくない。幻滅されたくない。

 全てを悟った時、君は僕を受け入れられなくなる。

 六助は、僕の眼を覗き込むように顔を近づけた。

 

「敢えてかつての君の言葉を借りよう。――君の心を聞かせたまえ」

「君に僕は測れないよ」

 

 交錯する視線。互いに外さないまま、長い沈黙が流れる。

 せめてもの虚勢を(まなこ)から発し、絶対的な強い瞳に微力な抵抗を見せる。

 張り詰めた緊張感を破ったのは、高らかな笑い声だった。

 

「ハッハッハ! それが今の君なのか。面白いねぇ。その方がずっと君は美しい」

 

 彼は満足したのか、僕を横切り教室の方へ向かい始めた。

 

「他の者にも、道化を気取らずにその素顔を晒せばいいものを」

「醜い素顔は晒しても美しくはないだろう?」

「本質の話ではない。それを踏まえた上での生き方の話さ」

 

 彼は足を止め振り返る。真剣な眼差しだった。

 

「変化に寛容でありたまえ。君が窮屈な生き方をするのは、見てられない」

「僕の変化を残念がっていたのに?」

「諸行無常なのであろう? 私が真に好いていたのは、本質ではなく生き方さ」

 

 今度こそと言わんばかりに、六助は勢いよく身を翻した。

 

「収穫はあった。今回の会話で確信したよ。私の親友だった恭介はもう、()()()()()()()。今は、君が私のグッドフレンドになれる日を心待ちにしておくとしよう。――そうだ。ここを無事に卒業したら、共に(しずか)(じゅん)のもとへ挨拶にでも行こうではないか」

 

 手をひらひらと振って、彼は去って行った。

 独り残された僕は、しばし呆然とするしかなかった。

 一体、どこまで見抜かれている?

 あの日のことを何も知らない君が、どこまで僕を理解できるというのか。

 せめて、悟られた仮面は一枚で合ってくれ……。

 恐らく彼が公にすることはないだろうが、知られること自体に強い抵抗がある。拭いようのない不安が募る。

 しかし次に考えたのは、六助が最後に残した言葉。

 ――二人共、元気にしているかな。

 あれが、六助の期待している希望の糸だと信じるしかない。

 彼の葛藤を、ひしひしと感じる。

 今はただ、彼が僕を友として認めたいと願っていることが嬉しかった。

――――――――――――――――――――――――――

 

 さらに一週間が経ち、今から日本史の授業が始まる。

 しかし今回はいつもと違い、開始の五分前には茶柱さんが入室し、その手には書類の束が握られていた。

 

「おーいお前たち、静かにしろ。今日は少し真面目に授業を受けてもらうぞ」

「え、どういう意味っすか? 佐枝ちゃんセンセー」

 

 日頃からお粗末な態度で授業を過ごす男子生徒が尋ねた。「佐枝ちゃんセンセー」というのはいつの間にかついた渾名だが、随分と舐めたネーミングだ。

 

「月末も迫って来たということで、今からお前たちには小テストを受けてもらう。後ろに回してくれ」

「えー、聞いてないよぉ。ちょっとずるくなーい?」

「あくまで参考用だ。成績表には一切反映されないから安心して取り組むといい。ああだが、カンニングだけはするなよ? そんなことをしたら問答無用で退学処分だからな。」

 

 抜き打ちであることに不満を零す生徒を茶柱さんが宥める。

 この場合は、どっちだ? 成績に評価やポイント云々は含まれるのだろうか。いや、どちらにせよ、か。これまでのクラスの様子からして、恐らく既に評価は0かマイナスの領域に踏み込んでいるだろう。お言葉に甘えて気楽にやるか。

 蓋を開けると、どうやらテストは主要の五科目であり、全体で百点満点のようだ。形式は「空欄に答えを埋めなさい」や「――は何でしょう?」といった一問一答がベースとなっている。数学は「計算式や過程を書き込みなさい」というのもあるが。

 なるほど、これは面白い問題だな。

 問い自体の難易度はそこまで難しくはないようだ。僕は自分の『感性』に従って答案用紙を埋めていく。

 最終的に一つの空欄も残すことなく、僕は小テストを終えるのだった。

 

 

 

「手応えはどうだった?」

 

 全ての科目が終わるなり鈴音が切り出す。なんか三人での会話っていつも鈴音からだな。僕と清隆が話している時は彼女が参加してこないからか。

 

「ばっちしだ。ふんだんに時間が余っちゃったなあ」

「おお、すごいじゃないか。オレはあまり解けなかったかな。特に最後の三問なんて全くペンが進まなかった」

「中学生レベルの問題だったじゃない。解けて当然よ。でも、確かに後半は、少なくとも高一で習うようなレベルじゃなかったわ。浅川君はそれも全部解けたの?」

 

 素直に感心した様子を見せる鈴音。嘘、あれ高校生じゃ解けないの? 話を合わせそびれたか。

 

「僕の読解力を以てすればこんなもんさあ。つまらない引っ掛け問題だったよ」

「意外な特技ね。人は見かけによらないのかしら。綾小路君も一つくらいは取り柄を作ったら?」

「僕ってそんなに勉強苦手に見えるの?」

「オレが魅力ゼロみたいな言い方をするな」

 

 男子双方から突っ込みが入る。コイツついに二人同時に貶す技まで身に付けやがったか。しかも鈴音の場合は見るからに勉強出来そうだし、見てくれは長所と呼べる程に優れているため強くは言い返せない。食えない女だ。

 

「まあそんなことは置いといて」

「置き場がないんだわ」

 

 そもそもそんなことって言うな。

 

「問題は、今回のテストが一体どんな意味を持つのかということね」

「参考用、と言っていたな。成績表には反映されないとも」

「『には』という部分が強調されていたのが気になるわね。まるで他の何かには影響すると言いたげな。やはり今回のはクラス評価に反映されるということかしら」

 

 確かに、成績表とは別枠として捉えればそういう見方になる。だけどあの人、「安心して取り組むといい」とも言っていたぞ。嵌める気満々じゃないか。相変わらず生徒に対する態度が合点いかん。

 

「過ぎたことだし今更な話なんじゃないか? ポイントに影響するんだとしても、今の段階で既に大幅に減点されちゃってそうだし、対策考えようにも抜き打ちだったんだ。できることは少なかったと思うぞ」

「その通りね。でも、だからこそ気になるのよ。これからに関わるような別の意味も含まれている可能性は捨てきれない。最後の三問の明らかに授業の進捗に沿わない難易度といい、今回のことは心の片隅に留めておいたほうが良さそうね」

 

 おお、盲点だった。難易度の意味か。あまり異質さを感じなかったせいで違和感として残っていなかった。

 難易度、と言うよりは出題範囲か。既習の範囲に収まった内容で発展的な問題なら、疑問を抱く必要はなかった。しかし鈴音曰く、僕らの学年では到底習うとは思えないらしい。これでは「実力を測る」という趣旨とは些かズレを感じてしまう。

 普通なら解けない、か。なら、普通ではない解き方か、そもそも解く以外の方法があるのか。

 いずれにせよ、この学校は隅から隅まで普通であることを嫌うらしい。異常が大好きな進学校、思うところは一つだ。

 ――我が国の政府は正常か?

 

――――――――――――――――――――――

 

「うーん」

 

 放課後を迎え、現在地は図書館。

 

「ウーン」

 

 僕は名案が見出せずに困窮していた。

 

「フーンモッフ!」

「図書館ではお静かにですよ」

 

 お淑やかな友人を隣に添えて。

 

「いやねえ、事件なのだよ。全く大事件なのだよワトソン君」

「何か問題発生ですか?」

「僕にはキューピットになる素質がないのかもしれない」

 

 頭を抱えて突っ伏す僕を困ったような薄ら笑いで見つめる椎名。やめろ、その笑みは僕をどんどん哀れにしていく。

 

「恋愛相談でもされたんですか?」

「いや、違う。依頼人は女子でターゲットも女子だ。どうにかして友達になりたいんだと」

 

 何を隠そう今僕が悩んでいるのは櫛田の件だ。

 あれから度々良い作戦はないかと思索しているものの、現状ハードルが高すぎる。僕が人付き合いを苦手としていたり当事者が異性だったりという問題を差し置いてもかなりハードだ。

 清隆にああ言ってしまった手前、ある程度見込みのある策を講じたいところだが、完全に滞っている。

 

「よく引き受けましたね。今のところ状況は芳しくないように見えますけど」

「ちと下心があってなあ。無理に引き受けてしまった」

「下心? 恋心ですか?」

「してると思うかい?」

「ないですね」

「嘘でも可能性は残して欲しかった……」

 

 色気がないってか。お互い様だよ。

 たまに抉るようなことをズバッと言うからなこの子。気をつけていないとクリティカルで一発KOだ。

 

「そもそも、もしあなたが本当に恋をしていたら、今こうして私と二人でいること自体どうかと思いますよ」

「うぐっ、確かに、節操無しみたいになるかあ」

 

 時々忘れかけてしまうが、男女二人で親し気に放課後の図書館で談笑していると、何か、こう、そういう関係に見えなくもないのかもしれない。想い人がいながらこの行動は色々とマズイだろう。

 

「ですが、私は浅川君が優しいことを知っています。だから自信を持ってあなたは恋をしていないって言えるんです」

「何だか複雑だなあ」

 

 恐らく純粋に褒めているつもりなのだろうが、思春期男子としてどうなのこれは? 胸を張ってそこまで言われるとさすがに自分も恋をしてみたく、はならないな。だから駄目なのか……。

 にしても、優しい、か。

 

「……君は時々、思いもよらないことを言ってくるなあ」

「そうですか? なら良かったですね。自分では気付かなかった長所に気付けたじゃないですか」

「君の勘違いだとは思わないのかい?」

 

 出会って一か月も経っていないのだ。まだまだ知らないことだらけだと思うが。

 少々意地悪な質問になってしまったかもしれないが、自分のことは自分が一番良くわかっていると言う。そのあたりについてはどう思っているのだろうか。

 

「思いませんよ。思い遣りのできる人が優しくないわけないじゃないですか」

「ただの気まぐれかもしれないぞ?」

「だったら尚更、あなたの本質は優しいんでしょうね」

 

 ……やれやれ、そんな当たり前のように言われても困る。

 思い遣りと優しさはイコールなのだろうか? 打算的なものも蔓延っているのに?

 

「椎名、思い遣りなんて一方通行でも成り立つんだよ。前のは偶々君の望みに適っていただけで、人を傷つけること前提だったり、意図せず傷つけてしまうようなものだってある。だから、例え僕が思い遣りのできる人だと言っても、それが優しくて良い人という風にはならないんだ」

「想ってくれるだけ幸せなんじゃないんですか? 世の中優しくしない優しさだってあります」

「優しくしない優しさ?」

「はい。悪いことを叱ったり、未練を諦めさせたり、本当にその人のことを想ってしたのなら、きっと誰かが見つけて肯定してくれるはずです。仮に相手には伝わらなかったとしても、傍からは別の形で映るでしょうし、いつかはその人も自分が施してもらった優しさに気付くでしょう」

 

 誰かが、か。その誰かの声を聞いてみたいよ。

 だって、あまりに虚しいじゃないか。見ていてくれても、認めてくれても、今度は僕らがそのことに気付かないままかもしれない。しかもその誰かが知っている人とも限らないし、いつかの時を待とうにも途方もない。

 そう思っていた時だった。次の彼女の言葉は、僕の疑問に対する答えだった。

 

「私がいます」

「え?」

「私が、浅川君の優しさをしっかりと見ていますから。あなたの想いがその人に届くまで、私があなたを肯定しますよ」

 

 「嫌でなければですけどね」と笑う彼女に、僕は面食らってしまう。

 強かというか真っ直ぐというか、彼女の方こそ、お人好しのような優しさを持っている。僕なんかよりも、余程純粋な優しさだ。

 でも、わかってきた。それを口にしたところで、彼女はきっと「浅川君こそ、あの時私に優しくしてくれたじゃないですか」とか言って返すのだ。

 これは手強い少女に手を差し伸べてしまったらしい。

 

「嫌なわけないじゃないかあ。この学校で僕を受け入れてくれる人は、そう多くないんだよ」

「寂しい人ですね、仕方ありません」

「人のこと言えないだろう」

 

 そもそものきっかけが君の寂しげな顔だったんだが。

 しかも、僕にはクラスメイトにあの二人がいる。寧ろ君よりか数センチ先にいると言ってもいい。

 しかし――

 

「はい。ですから浅川君も、これからも私のことを受け入れてくれると嬉しいです」

「……ズルいなあ」

「知らなかったんですか? 私は、案外策士なんですよ」

 

 いつしか僕が自分を語った時と対比になるようなセリフを彼女は吐いた。

 全く、本当にズルいな。その笑顔込みで。

 ――やはり、彼女に頼るべきではない。

 

「それで、依頼は上手くいきそうなんですか?」

「まあ、何とか頑張ってみるよ。一つくらい得るものがあれば良いんだけど」

 

 意気込みの言葉を最後に、僕は再び本の世界へと引き返した。

 理由は色々ある。クラスが違うからとか、Dクラスの面々と面識がないからとか、僕の承諾理由が決して崇高なものではないからとか。何より勝算が低すぎる。彼女の助言を得られたところで、活かせる自信がない。

 兎も角、そんな私利私欲な事情に純粋無垢な椎名を巻き込むのは気が引ける。頼らせてもらう機会は今後どこかであるはずだ。クラス抗争どうこうの懸念はあるが。

 ――――だから、椎名。

 僕の死角から、不安気に横目で見つめてくるのはやめてくれ。




序章の関門ってとこですね。こんなに苦しむとは。正直櫛田からの依頼の件はそもそも展開の仕方を間違えちゃった気がしています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

秩序は無限であろうと輪廻しない

少し短いですけど、切りが良かったので。

時系列の移動が今回難しくて、上手くやれば一話に収められたかなあ。ここにきて構成で付け焼刃なところが出始めた気がします……。


 時刻が9時を回った頃。

 僕は震える体を抑えながら、携帯片手に自室の前で待機していた。

 

「うえ~、さっむ……」

 

 完全に誤算だった。上着、持ってくれば良かったな……。

 

「自業自得だろう」

「仕方ないじゃないかあ。まさか五月間際にもなって冷え込む夜を体験することになるなんて思わなんだ」

 

 電話の相手は清隆だ。案山子(カカシ)になってぼーっとしているのも良いが、不安や罪悪感から気を逸らしたかった結果だ。

 

「上手く行きそうか?」

「さあ、どうだろう。神のみぞ、じゃないか。二人にしかわからんよ」

 

 扉の方を振り向き、今まさに行われているであろう件の少女たちの会話に思いを馳せる。内容は想像もつかないが。

 

「中にいなくて大丈夫なのか?」

「いるべきでないと判断した。折角場を整えてやったんだからなあ。この方が二人共気兼ねなく話せるだろう。鈴音とは後で話をするよ」

「大目玉だろうな」

「違いない」

 

 僕らは揃って苦笑する。強引な形になるのは避けられなかった。冷え切った瞳でこちらを射抜く姿が容易に浮かんでくる。今回ばかりは甘んじて受け入れるしかないな。

 

「それにしても、随分と遅い時間にかけてきたな。明日が土曜日で良かったじゃないか」

「人目に付くと僕が変質者みたいになるだろう。それに、あまり早い時間だと予定が狂う可能性があったからなあ」

 

 この時間帯になってしまったのもちゃんと理由がある。でなければ以前の夜更かしで教訓を得た僕が今外にいることはないだろう。

 

「まあ暇潰しくらい付き合ってやるさ。面白い話を聞かせてくれるんだろう?」

「退屈な子守歌になっても文句言うなよ? まあ急かしても夜は逃げないさあ。沁みるコーヒーでも添えてのんびりお聞き」

「生憎オレは紅茶派だ」

「やめなさい、雰囲気崩れる」

 

 締まらないやり取りを片付けて、僕は一連の経緯を話し始めた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 三十分前。

 習慣化しつつあった読書に耽っていた僕の意識は、無機質なインターフォンの音で引き戻された。

 時間厳守か……。

 これまた可愛げのない真面目さだ。僕は端末を取り出しある人物へメッセージを送りながら玄関へ向かう。ドアスコープを覗くと予想通りの姿が確認できた。

 

「今開けますよーっと」

 

 僕はゆったりとした動作でロックを開ける。時間に余裕がないわけでもない。

 

「いらっしゃあい」

「手短に済ませるわよ」

「のんびり行こうぜえ……」

 

 寸分前の胸算用を打ち砕く台詞にげんなりする。

 ズカズカと奥へ突き進んでいく鈴音。異性の部屋だというのに緊張のきの字もないのか。慣れているのではなく無関心なのだろう、彼女の場合は。

 そう思っていると、何だかんだで彼女も内装が気になったのかキョロキョロと見回し始めた。

 

「びっくりしたか?」

「……そうね。本当に大丈夫なの?」

「心配してくれるのかい? 嬉しいねえ。まあ罷り成ってるから問題ないよ」

「三秒前の言葉を後悔したわ」

 

 僕は入学日から予め設置されていたカップを手に取り水を入れる。一応形だけ戸棚を確認するが……。

 

「ごめんなあ。真面なもてなしはできそうにない」

「期待してないわ」

「冷たいなあ」

「そういう意味じゃない。()()()()()()()

 

 だったら勘違いするような言い方はしないで欲しい。繊細なんだぞ、僕は。

 

「私の部屋で合流できれば良かったのだけど」

「仕方ないよなあ。時間が時間だし」

 

 既に8時を過ぎている。男子が女子寮を訪ねることは不可能だ。尤も、今回はそれを利用させてもらったのだが。

 にしても、女子が男子寮に行くのはOKってのは合点いかんな。不純異性交遊の防止ならどちらも禁止すべきではなかろうか。

 

「綾小路君は来ていないの?」

 

 確かに彼がいないのは違和感になる。適当に誤魔化しておこう。

 

「電話したけど出なかったぞ。風呂かあトイレかあ就寝かあ……逢引だったりしてなあ」

「そんなわけないでしょう」

「おや、嫉妬かい?」

「今すぐにでも出て行こうかしら」

「問い詰めに行くのか? 協力するぞ」

 

 綽々(しゃくしゃく)な態度を装うが、内心ヒヤヒヤした。ここから出られてしまうと計画が根底から瓦解してしまう。

 

「彼がそんな度胸のある人だとは思えないと言っているのよ」

「君はそういうの全く興味なさそうだなあ」

「事実ね。そういうあなただって似たようなものでしょう」

 

 彼女の返しに、僕は答えに窮する。

 恋、と言っても色々ある。

 複雑かつ矛盾した想い。愛憎は互いに置き換えられるのか。どちらも恋心に繋がるのか。

 答えが正なのだとしたら、僕は――

 

「……あるよ、()()()()。どちらも叶わなかったけどなあ」

「そ、そう、意外ね。あなたにも浮いた心があったなんて」

 

 印象からかけ離れた答えだったようで、鈴音は目を丸くする。失礼な、誰にだって春は来るさ。勿論君にも。ただ、それがどんな結果を招くのかは保証してやれないとは言っておく。

 

「何も一目惚れってわけじゃない。犬猿の仲だったのに新たな一面やギャップに惹かれたり、憧れや尊敬から始まる恋だってあるだろう。君はどちらかというとそっちじゃないのか?」

「ドラマやアニメにありそうな御伽噺ね。……でも、そうね。確かに、そういう人は私にもいるわ」

 

 彼女は少し寂しそうに呟いた。

 なぜ、そんな顔をする……? 言葉のニュアンス的に、死別したわけでもなければ対蹠点にいるわけでもないはずだ。

 それに、僕と清隆の推測通りなら、彼女が今想い浮かべているのは……。

 

「……なら、いつか正面から届けないとなあ。後悔してからじゃあ、遅いぞ?」

 

 君は、僕と同じになってはいけない。

 歪んで、迷って、右往左往している間に、相手はいなくなってしまった。

 いや、僕が消してしまったと言うのが正しいか。

 

「……考えておくわ」

 

 悩ましい顔をする鈴音だったが、すぐにはっとした表情に変わる。

 

「こんな話をするためにここへ来たわけじゃないわ。とっとと本題に移りましょう」

 

 まあ呼び出した内容が内容だし、良い時間稼ぎにはなっただろう。少しはこの場所に馴染んでくれたはずだ。

 

「小テストについて話し合いたい。随分と急な相談ね。こんな時間になって呼び出すなんて、余程重要なことなのかしら?」

 

 さすがに疑われているか。確実にこちらへ呼び込める時間を選んだが、僅かながらに疑念を与えてしまったようだ。

 

「いんやあ、気づいたのがちょうど微妙な時間だったんだけど、早めに伝えておくに超したことはないと思ってなあ。クラス抗争に参加するかはまだ保留な分、こういう時くらい少しでも力になりたかったし」

 

 本当はテスト後の会話の中で気づいていたことだが、辻褄合わせの嘘を吐く。

 

「まあいいわ。聞かせて頂戴」

「ほいさあ」

 

 まあ気楽に行かせてもらいますか。僕の中で肝心なのはこの件だけではないのだし。

 

「テストの後、君、言ってたろう? 『これからに関わるような別の意味も含まれている可能性は捨てきれない』って」

「ええ、確かに言ったわ。何か思いついたの?」

「まず、君の違和感は間違っていないと思う。君の言葉を信じるなら、学校側は僕らにあのテストで満点を取らせるつもりはなかったということだ。一定以上の進学校ならそういうところもあるって聞くけど、初回かつ抜き打ちでそんなことをする必要性は皆無。純粋な学力測定が目的とは考えられない」

 

 鈴音は黙って続きを促す。ここまでは確認のようなものだ。僕も気に留めることなく話を進める。

 

「次に注目すべきなのは問題の中身そのものだ。あの問題は超高難易度ではなく、既習範囲外だった。つまり、普通の解き方ではクリアできなかったということ。――さて!」

 

 僕は手をパチンと一叩き。すっかり聞き込んでいた鈴音の体がビクンと跳ねる。どんだけ意識囚われてたんだ。

 

「ここで問題でーす。パンパカパーン!」

「へ、問題?」

 

 あまりに想定外だったようで、彼女は未だ心ここに非ずといったご様子。ほれ、折角息抜きのタイミングを作ってやったんだ。ノリ合わせろ。

 

「自分の持てる力では絶対に倒せない敵を、一体どうやって倒すでしょうか?」

「持てる力では、絶対に倒せない敵……?」

 

 僕の提供してやった遊び心はどこへやら。深刻そうに首を捻る鈴音。哀しいかな、今のところ一番君に優美さを感じるのはその仕草だよ。

 やれやれと視線を下ろすと、彼女は未だ眼前の水に口一つ付けないでいることに気付く。早く飲んでくれ。こっちが欲しくなってくるよ。

 すると僕の目線で察してくれたのか、鈴音は溜息混じりにコップを手に取り――僕の前に差し出した。

 

「ふぇ?」

「喋っているのはあなたでしょう? 喉を潤しなさい」

「…………あらやだ、助かるわあ」

 

 本当、自分の関心事に取り組んでいる間はこうやって針をしまい親切心を見せるんだから。普段からこれくらいの柔軟さを発揮してくれるとありがたいんだがな。

 ご厚意に預かり、見え隠れする優しさの結晶を受け取る。心なしか、いつもより美味しく感じられた。勢い余って一気に飲み干してしまったな。

 

「いんやあ、うしまけたあ」

「いつも飲んでいるただの水じゃない。それに、満腹になったわけでもないでしょう?」

「それは『牛が寝た』だ。何も食っとらんわい。飲食への感謝の呪文みたいなもんさあ」

 

 鈴音は嘆息を零し額を押さえる。冗談を働いたのは君も同じだろうに。ジョークの責任を僕に押し付けるんじゃない。

 かてて加えて、ユーモアは心の余裕の指標となる。自分の感情のみならず、他人に対しても敏感でいられるということだからな。割と本気で誇りを持って良いと思っている。

 

「それで、さっきの問題の答えだけど」

 

 彼女は姿勢を直し襟を正した。しかし、その表情は先程よりも幾分か柔らかく見える。やはりユーモアはどの場面にも効果覿面、料理で言うところの砂糖だな。

 

「力を強化する、のは駄目なのよね。即効性も確実性もない」

 

 ほう。正直鈴音ならそれに留まるものだと思っていたが、思考継続か。まあ急に出題したから何かしら意図を感じたのだろう。

 正攻法というのも悪くはない。凡事徹底の精神や日向を突っ切る真っ直ぐさもまた武器だ。しかし、彼女はその存在を把握できるだろうし、それを高いレベルで熟す力も持っているはずだ。

 

「駄目とは言わんがなあ。今回の戦力差を覆すのは無理があるだろうなあ」

「なら……チートを使うとかは?」

 

 …………お、おう。まさか鈴音からそんな言葉が飛び出すとは。印象とチグハグで面白いじゃないか。

 

「あっはは、カンニングでもするのかい? 常識の範囲で考えなさいなあ」

「笑わないで、気に障る。あなたに常識を語られたくないし、こっちは真剣に考えているのよ?」

「ごめんなさい……」

 

 真面目な面して「チート」なんてネタをかました君にどうして怒られて委縮せねばならんのだ。僕の指摘が頓珍漢というわけでもなかろうのに。あと、誰が非常識じゃ。君の罵倒癖も非常識レベルだ。

 

「……ねえ、それは必ずしも戦わなければいけない相手なの?」

「試験を受けずにどう乗り越えろと? 大方、そもそも()ければいいとでも言いたかったんだろうが、生憎必須イベントだあ。勝たずして僕らはトゥルーエンドにはたどり着けんよ」

 

 浮かんだ意見が僕に見抜かれていたことに、鈴音は歯噛みした表情を見せる。善いぞ善いぞ、傲慢な人間が悔しがっているのを見ることほどの愉悦はない。……逆に必須でないことに関しては有効だということは内緒にしておくか。

 まあ意地悪は程々にしておいてやろう。さすがに哀れだ。お節介かもしれないが、出題者は進捗の無いシンキングタイムを好まない。

 

「……戦闘ってのはなあ、『たたかう』以外にもコマンドがあるんだよ」

 

 判然としないヒントに彼女は眉間の皺を一層深める。よせよせ、跡が残るぞ。綺麗な顔が台無しじゃないか。

 

「私がその手の話に疎いのをわかっていてやってるでしょう……?」

「い、いや、お堅い空気を少しでも和ませようとしたんだよ。実際僕、ゲームなんてやったことないし。ほら、クイズって楽しいじゃん?」

 

 本心で語ったつもりだったのだが、下らない冗談を重ねられたと思われてしまったらしい。完全に不貞腐れてしまったようだ。

 

「まあまあ、正解を見出せずとも、思考し続けることにだって意味はあるのさあ。人間は考える葦ってねえ」

「パスカルの言葉ね。人の無限性と有限性を同時に説いた不可思議な言葉、矛盾しているわ」

「矛盾はお嫌いかい? 人の思考の極致にこそ存在するのが矛盾だと思うんだが」

 

 どうして正解が明瞭にして唯一だと信じてやまないのだろう。矛盾という現象そのものが正しいことなんていくらだってあるだろうに。

 それは、悩み、惑い、苦しんでいる何よりの証に近しい。

 とはいえ……今ので鈴音の偏狭さが露呈してしまったな。

 精神の論説に向き合えない君が、その先を理解できるわけがない。

 それが、君が孤独である所以であり、そんな君のことを気にかけてしまったのが愚かな僕ってわけだ。

 鈴音が食らいついて言い返そうと、口を開いた時だった。未だ鼓膜に残響している無機質な音が、再び鳴った。

 もう時間か。だが、ジャストタイミングだ。

 困惑を隠せない鈴音を置いて、僕は玄関へと向かう。

 

「鈴音。実は先の問題の答え、必ずしも一つじゃないんだ。そして今、その一つがご到着ってわけさあ」

「……どういうこと?」

 

 嫌な予感を察知したのか、彼女は表情を曇らせる。

 もう遅い、諦めるんだ。舞台は整った。

 

「『たたかう』とは別のコマンド。その一つは、『いれかえ』だ」

 

 もはやスコープを確認するまでもない。臆することなく、僕は扉を開けた。

 僕の目的の達成と同時にできるだけ君たちのご要望に寄り添った作戦、それが()()だった。

 嫌いでもいい。受け入れられなくてもいいんだ。

 だけどそれは、君が関わることを投げ出していい理由にはならない。

 君が本気でDクラスとして勝ち上がりたいのなら――特に序盤の今の時期では――彼女との交流は避けるべきではない。どんな事情があったとしても。

 

「僕が君のことを想ってした選択であることはわかってくれ。実際、今までしてきた話も用件の一つだった。だから、君の話はあとで聞かせてもらう。恨むなら、今まで何も話さなかった自分を恨むしかないなあ」

 

 強い想いが本当に人々にとって善いものとして公言される時、いつだって用いられるのは愛だ。憎しみは非難の対象か負の美学として扱われる。

 けれど、その本質は表裏一体。輝かしく見えるから前者で、汚れて見えるから後者である。たったそれだけの違い。

 愛か憎かどちらにせよ、()()が響かせたのが新たなきっかけを呼ぶ『鈴』の『音』となるかは、二人に懸かっている。

 

「こんばんわ、堀北さん」

「………………()()()()

 

 今の僕は仲介役(キューピット)ではない、看視者(オブサーバー)だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あらゆる物体の総和も、あらゆる精神の総和も、またそれらのすべての業績も、愛の最も小さい動作にもおよばない。――あらゆる物体と精神とから、人は真の愛の一動作をも引き出すことはできない。

La somme de tous les objets, la somme de tous les esprits, et toutes leurs réalisations, ne s'étendent pas au moindre mouvement d'amour.――De chaque objet et esprit, on ne peut tirer ne serait-ce qu'un seul mouvement d'amour véritable.

 

ブレーズ・パスカル『パンセ』

 

 

 

 

 




申し訳程度に伏線は挟んどきました。一部ハテナになった部分はそれのはずです。序章の間には明らかになります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

目標も計画も一丁前

かなり重要な問題が発生してるんですけど、前回で書いた「女子は男子寮に行ける」というルール、もしかして原作にはないやつですか? いくつかの二次創作で見かけていたのでてっきりあると思ってたのですが……。原作詳しい方、至急感想の方で教えてくださると嬉しいです。やらかしてたら修正します。オリ主関連以外に独自設定は作りたくないので、マジでお願いします。

前回短かった分、今回かなり長いです。お付き合いください。

サブタイはダブルミーニングです。


「――ほう。それで、今お前の部屋には鈴音と櫛田が二人きりというわけか」

 

 清隆は僕の話を最後まで興味深そうに聞いていた。尤も、「ああ」や「なるほど」といった相槌がほとんどだったが。

 

「一体どんなユニークな会話が繰り広げられているか、気になるねえ」

「あの組合せでそこまで弾んだ会話ができるとは思えんが」

「だからこの作戦にしたんだ。逃げようって魂胆ならそうはさせない。鈴音(向こう)だって僕に聞きたいことはあるはずだから、軽率な判断をしないよう祈るしかないなあ。それに一応、ボチボチ話は積もっていたみたいぞ」

 

 内容まではわからないが、扉越しに籠った話し声のようなものが度々聞こえてくる。お通夜状態なんてことにはなっていないようだ。

 それなりな時間話していたつもりだったが、端末を見るとまだ十五分程しか経っていなかった。確かに夜は逃げないとは言ったが、冷気も逃げてはくれないんだよ……こういう時に限って時間の進みが遅く感じるのは合点いかん。

 

「それにしても、ゲームで例えるとはな。好きなのか?」

「やったことないって言ったろう? ちょっとした縁で、知人から熱い教育を受けたことがあるんだよ」

「娯楽に富んだ教師か。職務と照らし合わせるとチグハグだな」

 

 別に誰も教職の人間とは言ってないのだが……不要な説明をしてやることもないか。

 空を仰いでみるも、美の四大要素の一つであるはずのお月様は見当たらない。今日は昼から曇り空だった。梅雨でもないのにジメジメするのは適わん。

 

「ところで、結局問題の答えは何だったんだ?」

「ふっふっふ、それはなあ……」

「それは…………?」

 

 心の中で「ドゥルルルルルル……」とドラムロールを唱える。清隆が固唾を飲む気配が端末越しに伝わって来た、ような気がした。心して聞くがいいさ。君は次の瞬間、ガタリと転げ落ちることだろう。

 

「それは…………僕にもわっかんねえやあ!」

 

「……っ」

 

 ガタリ、と盛大な音が鼓膜に届いた。想定通りの流れだ。君の醜態をこの目でしかと楽しめなかったことだけが残念だよ。

 

「わからないのか……」

「正確には唯一解じゃないってことだなあ。ズバリと一言では答えられん。まあほら、禅問答みたいなもんさあ。言葉は解釈、だろう?」

 

 僕の言葉に対して清隆が溜息を零す。呆れ半分、入学初日の他愛もない会話への懐かしさ半分といったところか。

 

「確かにそうだが、それを知ったら鈴音が怒り心頭だぞ」

「補足はしたつもりだが、頬を膨らませる姫様も可愛いもんだねえ」

「後出しだったろうに、怖いもの知らずだな……あいつの場合は頬を(はた)くと言った方がしっくりくる」

 

 うん、いや、それはその通りなんだけど、ちょっとくらい夢見たっていいじゃない。ああいうタイプの子がそういう一面を見せればきっと映える。思考する仕草が一番画になるだなんてもったいない。万人笑顔が一番なのさ。君もその顔で朗らかに笑えば、案外多くの女子が見惚れそうだぞ。

 

「というか、君はもう僕に聞くまでもなく答えが出ているんだろう?」

「……やけに自信を持って言うんだな。オレは中学生レベルすらも怪しい学力なんだぞ」

「今まで散々誤魔化してきておいて今更それを真に受けると思うかあ……」

 

 それはどうせ君が手を抜いたからだろう? 感性が優れているだけで文武はイマイチというやつもいるが、これまでの言動からして君が能力を隠そうとしているのは大して想像に難くない。

 

「まあ今は君のことは置いといて、この問いが今後の彼女のためになるのは、君も理解しているところだろう」

「勿論だ。お堅い彼女にとって、良い頭の体操になるのは言うまでもない。奇想天外ではあったが、クイズ形式なら助言も与えやすいし、悪くなかったと思うぞ」

 

 自分の目的の為なら多少教えを乞う形になっても甘んじて受け入れられるみたいだからな。僕らを少しは認めてくれているのも相まって、その辺の心配はご無用だったようだ。

 その時、ドテドテと響く足音が聞こえてきた。どうやら話は終わったようだ。

 

「お、向こうのお茶会が終わったみたいだ」

「お茶は準備してなかったろう」

「あっはは、確かに。それじゃあまたなあ」

 

 鈴音たちに訝し気に思われてしまう前にと端末をポケットにしまったところで扉が開き、先に出てきたのは――櫛田だった。

 

「終わったのかい?」

「うん、ありがとね、浅川君。できたら今度、お礼させてもらうね」

「善意に見返りは必要ないんだが、君の気が済むのならぜひお願いするよ」

 

 予定調和のようなやり取りを終えて、櫛田がエレベーターに入るのを見届ける。

 ……あれ、おかしいな。鈴音が出てこない。血相を変えて掴みかかってくるものだと思っていたが。

 部屋の中へ戻ると、件の少女は腕を組み、目を閉じたままその場に座っていた。

 

「帰らないのか? 良い子は寝る時間だぞ」

「……ええそうね。でも、とても寝付けそうにないわ。誰かさんに怒れてしょうがないもの」

「まだ嫉妬中なのか? あれは冗談だよ。清隆はきっと寝ているだけだ」

「今回ばかりは惚けず答えてもらうわよ」

 

 君の憤慨など想定済みさ。開き直っていつも通りぬらりくらりさせてもらうぞ。

 

「ここは僕の部屋なんだ。逃げることはせん。だが、同時に君も逃がさんよ。僕だって君に聞きたいことがあるからね」

 

 僕はコップに再び水を入れ、鈴音の向かいに腰を下ろす。

 

「今度は君も必要になるぞ、これ」

 

 視線が交錯する。鈴音の突き刺すような瞳。普段の彼女自身の言葉遣いにも引けを取らない鋭さだ。一方僕の眼は、彼女からは間抜けで覇気のないものとして見えているのだろうか。

 

「……私から質問させてもらうわ」

最初(はな)からそのつもりだよ。まずはこれでも飲んで体から冷やしたらどうだい?」

 

 コップを掲げると鈴音は嘆息を漏らす。あくまで至言を吐いたつもりだ。君の熱を冷まさなきゃ、僕の問いにも答えてくれなさそうだからね。僕から尋ねようとしたところで絶対に「あなたが先に話しなさい」と言っていたはずだ。

 

「では、そうね……事の発端はいつ?」

「部活の説明会の翌日だなあ」

「そんなに前から?」

「おう。清隆からは良い返事をもらえなかったから、今度は僕にもお願いしようと思ったらしい」

「どうして月末まで何もしなかったの?」

「良い案が出なかったんだよ。考えが纏まったのはついさっき。即日決行って感じだったぞ」

 

 鈴音の質問攻めに淡々と答えていく。何だか食い気味だな。ストレス発散の意も籠ってない?

 

「じゃあ、その案というのは一体どんなものだったのかしら? 女二人を自室に連れ込むなんて大胆なことをしたあなたの考えを、ぜひ聞かせてもらいたいものね」

「僕自身はご退室させて頂いたんですけど……えっと、それはなあ」

 

 人聞きの悪いことを言うな。その不名誉を恐れたのも、自らが部屋を出て行った理由の一つだったと言うのに。

 にしても、振り返ってばかりで忙しいな。清隆との時よりも過去に遡るのか。

 数時間前の思考錯誤をぼんやりと思い出しながら、僕は鈴音の疑問に答え始めた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 図書館から帰ってくるまで、結局精良な策は浮かばなかった。おかげで帰り道の椎名との会話も上の空になってしまったな。至極申し訳ない。彼女にこれ以上心配を掛けさせないためにも、今日中にケリを付けなければ。

 部屋に入り、手洗いを済ませてからベッドへダイブし仰向けになる。時計を見ると、まだ六時、夕飯には少し早い。

 ………………。

 

 ――よっしゃ、いっちょ本気でやりますか。久しぶりだな、頭働かすの。

 こういう時に大事なのは、地に足を着けて一から軌跡を踏み歩くことだ。どんな時も、論理的思考は王道だ。

 まずは僕の中の大目標、最低限叶えたいノルマを設定する。櫛田からの依頼か、鈴音の意志か、僕の意志か。

 今回は……僕の意志だ。後ろめたさがないと言えば嘘になるが、依頼を承諾した時点で鈴音の意志には反しているし、清隆に打ち明けた通り櫛田への善意で引き受けたわけではなかった。その考えは揺らいでいない。

 次にどうやって鈴音から話を聞くかだが、突き詰めたこと、まして櫛田についてともなれば無理矢理にでも逃げだす可能性が高い。

 だから考えるべきなのは、『鈴音が逃げられない』状況に追い込むことだ。

 候補は……ケヤキモールのカフェは? 入学当初は一部の女子の溜まり場でしかなかったようだが、最近は男女共に多くの愛用者がいるのだとか。小難しい話をする時に周りの雑音で掻き消されるし、強引な行動は悪目立ちするはず……。

 いや、駄目だ。そもそも僕と鈴音はそんな人気の多い場所に行ったことがないから、大袈裟な話地の利がない。おまけに彼女の場合、他グループの出鱈目な会話はノイズとなって耳に障るだろう。却下だ。

 そうなると、密会ができるような場所がいいな。カラオケ……鈴音を誘い込む口実が作れない。特別棟……校内そのものに他人とエンカウントする可能性がある。寮……そうだ、個人のプライベート空間なら、確実に監視の目がなく、腹を割って話せる。

 なら、今度は誰の部屋が良い? 櫛田の部屋、はカラオケと同じ理由で論外だ。鈴音の部屋は……追い返されないか? 少し不安だ。僕だけでなく櫛田もとなると、とても部屋に入れてもらえそうにない。

 よし、消去法で僕の部屋に決定だ。鈴音をおびき寄せ、後から櫛田に合流してもらおう。……女子が二人、僕の部屋に、か。明らかに事案になるな。申し訳程度に自分は途中退席しようか。二人に対してお邪魔虫になってしまうかもしれないし、妥当な判断、のはずだ。

 段々とプロセスが整ってきた。何だか楽しいな。このままゴールまでまっしぐらと行こうか。

 次に問題になってくるのは簡潔明瞭、鈴音を僕の部屋へ呼ぶ方法だ。

 単純なのは何かで釣るというものだが……料理、は駄目か。あの子相当な腕前だった。弁当をちょびっともらった時もかなり美味かったし。ポイントも賄賂みたいで良い気はしない。友人同士で金の貸し借りは好ましくないし、根本的な話()()()()()()()()()からな。いっそ土下座でも決め込むか? いや、あの無慈悲な少女がそう簡単に陥落するとは限らない。利益無一文の土下座程情けないものはないだろう。

 くそ、ここで足止めか。そもそもの話、彼女が骨を追う犬のように目先の何かに振り回されるとは思えん。趣味も読書と料理くらいしか心当たりのない彼女が興味を寄せるものなどそう多くはない。

 ……いや、待てよ。だったら、()()()()()させれば良いのでは?

 『鈴音を引き寄せる方法』じゃない、『鈴音が今引き寄せられている物』を考えるんだ。関心事が少ないのなら、それをズバリ選んでしまえば良い。

 しかも僕は、最近彼女が思索に囚われているものをこの目で見ている。体験している。

 大筋は決まった。まずは『小テスト』について話がしたいという口実で鈴音を呼ぶ。こちらへ確実に呼ぶためにも、念のため男子が女子寮にいられなくなる時間を選ぼうか。

 予め三十分くらい経ったら来てもらうよう櫛田に連絡するのを忘れないようにしなければ。恐らくそれくらいあれば僕からの話は終わらせられるはずだ。そして彼女が来たら僕は退室し、内外の監視をしながら待機する。

 ………………。

 

 ――ほいっと、お休みしますか。

 結果的に、鈴音と櫛田に配慮のある計画にできたんじゃないか? 話題も鈴音にとって価値のありそうなものだし、櫛田も彼女とは一対一で話したいだろうしな。まあ櫛田の場合は執着心の強さ故に本気で僕のことを邪魔に思っていそうだ。

 最善かはさて置き優良解は導き出せただろう。時間は……ありゃ、二分も経ってしまったか。それなりに集中していたつもりだったが、やはり鈴音を呼ぶ流れを考える部分で時間をかけ過ぎてしまったか。

 清隆なら……あいつ一分足らずでできたりしないよな? ふざけなければ頭の回転にはそれなりの自負はあるが、簡単にコケにされてしまっては悲しいぞ。

 とは言え、これなら即日決行も十分可能なはずだ。早速二人にそれぞれメッセージを送って、のんびりディナーでも嗜みますかね。

 尤も、ディナーと呼ぶには些か質素が過ぎるのだけど。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「悔しい程にあなたの思惑通りね……」

「あっはは! それなら寧ろ計画し甲斐があったってもんだなあ。ほれ、水お飲み」

 

 鈴音はムスっとした表情のままコップを一口。――変ないちゃもんをつけられないように、念のため彼女の前でちゃんと洗うか。

 

「一応ありのまま話したつもりだけど、何か聞きたいことはあるかい?」

「そうね……最初に私としていた話は、ただの口実に過ぎなかったの? それとも――」

「いつかは話そうって思ってたからなあ。どちらかと言うと都合が良かったって形だなあ」

「……そういう風に解釈しておくわ」

 

 疑い深いな。そんなに信用されていないのか? こんなに物腰柔らかく温厚篤実な雰囲気を晒しているというのに。

 

「じゃあ、あなたが出て行く前の発言、あれはどういう意味?」

「どれのこと?」

「入れ替え、と言ったわよね?」

「ああ、それかあ」

 

 恰好良く捲し立ててその場を上手く締めたつもりだったが、そう上手くは伝わらないものだな。

 

「簡単に言ってしまうと、適材適所さあ」

 

 明かせば本当に大したことないものだ。

 鈴音は基本感情に流されない落ち着いた判断ができる少女だ。学力も高く、知力だって決して低くはないだろう。

 だが、足りないものがあることもまた事実。その代表例が協調性だ。実際今の彼女にとって最も足枷となっている。

 一方櫛田においてそこは最大の長所となっている。男女問わず好かれる彼女の才能は希少価値がある。それこそ、天賦の領域では不可能ではないかと疑える程に。

 思索は鈴音、統制は櫛田――と平田か――といった感じで分担できるというわけだな。

 その旨を説明してやると、鈴音は合点がいったように頷く。

 

「そうだろうと思ったわ」

「おお、気付いてくれたかあ」

「最初は面食らっていたけど、冷静になってからあなたの言葉を思い出せば、辿り着くのに難くなかったもの」

 

 ほらね。早速彼女の潜在能力が発揮されたわけだ。

 だが、そうなると少し疑問が浮かぶ。

 

「なあ鈴音。櫛田は何て?」

「……連絡先は交換したわ。必要以上の交流はしないという条件で」

「おお、よくできましたあ。君が他人と関わりを持つ気を起こせたとは」

「そこもあなたの思惑通りだったというわけよ。逃げられない状況で、櫛田さんは食い気味に迫ってくる。更に彼女の能力の必要性を諭されてしまったら、さすがに断り続けるのは難儀だったわ」

 

 なるほど、彼女の発言を噛み砕くと、自分のお眼鏡に適わない人材なら接しないということか。未だ協調性には変化なし、と。防御の堅い女だ。

 

「それで、入れ替えの意味ははっきりしたけれど、あなた、答えは一つじゃないと言ったわよね? 説明してちょうだい」

「仲間との役割分担程度で、件の敵は突破できると思うかい? そういうことだよ。それに、これは君自身がしかと考えて答えを出したほうが良い。クイズの醍醐味はそういうところにあるのさあ」

 

 未だ納得し難いと言った表情で鈴音は首を傾げる。まあ今すぐわかれとは言わない。わかるんだったら真面な答えの一つくらいは捻りだせるだろうからな。――それよりも。

 ゴホン、と一つ咳払いをしてから、僕は一番の本題へと話を移す。

 

「まあ自主トレ感覚でやってみんさい。――じゃあ次は、僕から質問させてもらおうかなあ。まあ既に感づいてると思うけど」

 

 そう言ってから僕は体一つ分一気に近づき、顔を少し引き締めてから問うた。

 

「櫛田との関係、教えておくれよ」

「……っ、別に、何もないわよ」

「これ以上ベラベラと声を出すのは面倒なんだけど……」

 

 追及されたくない気持ちはわかるが、言い逃れできないのはもうわかり切っているだろうに。

 

「僕はずっと部屋の外で待っていた。その間約ニ十分。連絡先交換だけであそこまで時間がかかるわけがない。僕や清隆に隠れて会っていたのなら、その時に交換できたはずだからそれもない。高校で少しも会話をしたことがなく、密室での邂逅だったにも関わらず、二人きりで長話ができる間柄なんて一つしかない。――同じ中学の出身だろう?」

 

 実の所、今回の計画のミソは、『二人だけの時のやり取りを知れる』ということだった。鈴音が反応に出す程の知り合いであるなら、第三者の影もない部屋では必ず会話は発生するはず。もし物音一つないまま事が済んでいたら今日問い詰めるのは渋っていたところだが、二つ返事で終わっていたらまだしもボロが出過ぎてボロボロだったぞ。

 

「……普段は飄々としているかと思えば、急に策士になるのね」

「僕よりもよっぽど優秀な策士が身近にいるがなあ」

 

 僕の中では椎名を思い浮かべたつもりだが、鈴音は清隆のことを言っていると捉えたのか何も言わなかった。

 

「温くなったろう。おかわり欲しい?」

「……お願い」

 

 彼女は観念したのか、素直に提案を呑んだ。長らく語ることを覚悟したようだ。

 僕からの手渡しに応じ、一口付ける。

 

「……正直なところ、私自身も最初は、櫛田さんが同じ学校の生徒だったことには気づなかったのよ」

「ほう。しかし、今回面と向かい合って話をして気付いたと」

 

 つまりはその程度の交流だったというわけだ。意外と面識が浅かったんだな。素直に受け取れば、他人に無関心な鈴音が知らない内に櫛田の中に何かを植え付けたということになるが、裏を返した場合、その事実だけでも接触する理由になる事情を櫛田が抱えていたという風に考えることもできる。

 

「ええ、そうね。ついでに、彼女は私のことが嫌いだということもはっきりわかったわ。本人は隠しているつもりだったようだけど」

「君が心にもない言葉を浴びせたって線は? 女子はそういうの根に持つみたいだぞ」

「この期に及んで冗談言うならやめるわよ?」

「え、本気で言ったんだけど……」

 

 普段の自分を思い出してみろ。同性から嫌われても何らおかしくはないぞ。以前櫛田が言っていたことも一理あると思ったくらいだし。

 まあいい。鈴音を信じるなら、正しいのは後者だったというわけだ。少しずつ雲が晴れてきたようだが、次に気になってくるのは――

 

「でも、コミュニケーション皆無で嫌われるなんてこと、普通あるのか?」

「それが……」

 

 彼女は続きを語る際に少し険しい顔つきに変わる。自分でもその真偽を吟味しているのだろうか。

 

「卒業間近の二月の末頃、三年のあるクラスで集団欠席が起こったの」

「インフルエンザ?」

「一斉に、よ」

 

 なるほど、それは確かに不自然だ。……睨むなよ。可能性を(しらみ)潰そうとこっちも真面目にやっているんだ。

 

「その時囁かれていたのが、一人の女子生徒による事件がクラス崩壊を引き起こした、というものよ」

「ほーん、それはまた物騒な。それで、その女子生徒というのが櫛田ってことかい? マドンナの経歴がその肩書とは真逆の所業とはねえ」

 

 果たして改心して今の彼女があるのか、その罪をひた隠しにするための仮面なのか。十中八九後者だろうな。

 

「事件の詳細は?」

「……わからないわ」

「わからない?」

「ええ、学校やメディアからの情報統制も厳格だったし、勿論当のクラスではなかったから。けど、生徒の間では色んな噂が立っていたみたい」

 

 噂、か。その類の一番恐ろしいところは玉石混合。掠りもしないホラと的の中心を射抜いた真実が一緒くたになっていることだ。有象無象の語る内容であるため、性格や表情からの分析なんて妙技もできない。

 

「耳が肥えてるんだなあ。輪に加わってもいないのに」

「決めつけないで」

「じゃあ一度でも加わったのかい?」

「黒板や机、壁にまでも誹謗中傷が書き連ねられていたり、木材やガラスの破片も散らばっていたりと、教室内は酷い惨状だったそうよ」

 

 ガン無視かよ……図星もいいとこだぞ。威張って意味の無い反論をするものではない。

 冷や汗でもかいたのか、ここで鈴音は水を口に含んだ。

 

「話の軸が噂頼りなのが少し弱いなあ。櫛田が君を狙っているってことは信憑性が高そうだけど」

「確かにそうね。虐めとか暴力とか、誰がやったやられたとか、どんな理由だったとか。噂は多種多様で曖昧だったみたい」

 

 キリのない話だが、最悪女子生徒が原因という根っこの話までデマだったなんて可能性もある。シュレディンガー理論だな。くわばらくわばら。

 

「それにしてもあなた、大して動揺もせずすんなりと受け止めていたようだったけど、まさか櫛田さんの裏に感づいていたの?」

「寛容なだけさあ。君が至って真剣に話すからね。信じようか迷う間もなかったわけだ」

「また本当か出任せかわからないことを……」

 

 ふむ、どうやら大筋は掴めたみたいだな。二人の関係性や、櫛田の秘めている本性の一端について。

 ……嘘、だろ。これは『大失敗』だ。

 色々知った体になっているが、僕が計画通りに得られた情報は――

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

 本来の目的を忘れる程落ちぶれてはいない。僕はてっきり、鈴音に関する情報の在り処を櫛田が握っていると思っていた。

 彼女の鍵は、そこにはなかった……?

 

 僕はいつからクラスのマドンナに惹かれていたと言うのか。今は彼女のことなんてこれっぽっちも興味ないよ。

 

「話は理解したよ。ありがとなあ。櫛田との邂逅が多少強引な形になってしまったことは、改めて謝らせてもらう」

「仕方ないわ。私も得るものがなかったわけでもないし、どうにか納得してあげる。――話は終わりね、これで失礼するわ」

「おう。――あ、ちょっと待ってくれ。コップ洗うから」

 

 慌ただしく厨房へと向かう僕を見て、彼女は心底不思議そうな顔をする。

 

「何故あなたの洗い上げを待つ必要があるの?」

「君が根も葉もない濡れ衣を掛けてこないようにするために決まってるだろう?」

「するわけないじゃない」

「どうして言い切れる?」

 

 生憎そういう悪意に関して君への信頼はゼロだよ。

 

「私がそれを言いふらせば、私が浅川君の部屋に入って食器まで使ったということを明言したことになるのよ。面倒なことになるに決まってるでしょう」

「……ああ、確かに」

 

 あの集団なら訳のわからん囃し立て方をする可能性は否定できない。清隆でさえ時々揶揄ってくるかもしれない。こういうところは鋭いな。

 

「じゃあ今すぐ洗う必要もなかったかあ。()()だけに()()()()ングだぜえ」

 

 「帰るわ」と言って、鈴音は立ち上がり玄関の方へと向かって行った。くそ、彼女最近僕に対するスルースキルが著しく向上している。

 見送りに出るも、心中穏やかではない。想定外の残念な結果に悲壮感、焦燥感、喪失感、虚しい感覚が次々と沸き上がってくる。

 

「浅川君、最後に一つだけいいかしら」

 

 だからこそ、帰り際の彼女の問いに一瞬たじろいでしまった。

 

「今日の話、あなたはクラス抗争に協力するということでいいの?」

 

「……っ、……未定だなあ」

「そう……もうあまり、時間はないわよ」

「ああ、わかってる」

 

 鈴音は足早にエレベーターの方へ歩いて行った。

 ある意味一番利益を得たのは彼女ではないだろうか。僕から助言をもらい、懸念要素はあれどクラスの中心人物とのコンタクトも取れた。やるじゃないか、この僕を手玉に取るだなんて。

 心の内でトホホと嘆き、――――僕はポケットから端末を取り出した。

 

「で、どうだった、清隆?」

「お前の企みが頓挫して爆笑していた」

「感情を乗せてから言い直してみろ」

 

 簡単な話だ。僕はあの時、通話を切っていなかった。鈴音とのやり取りをダイレクトで提供するために。

 鈴音の話を清隆にも知ってもらうには、これが最善だったのだ。

 彼女の中で、この一件は全て彼の預かり知れぬところで起こったということになっている。後に清隆の方から彼女に話を聞くのは不自然だ。態々僕が櫛田からの依頼を一人で請け負った意味が薄れてしまう。

 となれば僕経由で知るしかないのだが、それなら鈴音の口から語られるありのままをリアルタイムで聞かせてやる方が間違いもないし、僕自身説明の手間が省けて良いこと尽くめだったというわけだ。

 

「本来の目的とはズレてしまったが、櫛田のことについて、どう思ったか聞いてるんだよ」

「僅かだが、心当たりならある」

「え、まじかあ」

 

 彼は櫛田と既に二回会話を行っている。しかも初回はサシでだ。さっき得た情報と関連のありそうな何かに気付いたのかもしれない。

 

「櫛田に相談事をした時、彼女は確かに人気者に相応しい輝きを放っていたんだが、どこか他人の秘密を抜き取るテクニックのようなものを具えていたように思う」

「テクニック?」

 

 清隆が言うには間違いないのだろうが、なるほど、僕が入学日に鈴音に対して試みようとしたことを、櫛田は相手に不快感を与えないシチュエーションを正確に測って実行できるというわけか。

 

「初めから相談目的で話し始めたから、別に喋らされたという形になったわけではないんだが、その後の言動からそういう節があった。加えて、下校中の彼女の発言は、既にクラスの何人かの秘密を握っているかのようだった。流石に人名や内容は伏せていたがな」

「そいつあ……バケモンだなあ」

 

 学校二日目で秘密を握る? 恐ろしい才能だ。一か月経とうとしている今じゃ、他クラスにまでその手が届いている確率は非常に高い。まあそれに気づいた清隆も何だか化け物じみている気がするが、黙っておこうか。

 

「そう考えると、櫛田は同級生の秘密を暴露して学級崩壊を起こした、ってことか?」

「可能性は高い。人を陥れる上で一番効くのは『真実』だ。口先だけの戯言を並べたところで、一クラス全員の心を同時に壊すには弱い気がする。最悪嘘だとバレたら、狼少女として孤立するかもしれないしな」

 

 なかなか酷なことをする。特殊癖、コンプレックス、恋、中傷、数多の秘め事を掌握した女神が実は既に堕天していて、ついには暴走を始めたともなれば、僕なら堪ったものではないな。

 

「じゃあ、一体トリガーは?」

「鈴音は、櫛田にはきっと裏があると言っていた。何かの拍子で誰にも見せてこなかった本性が露呈して、非難の的になったってところじゃないか?」

 

 なるほど、僕らが得た情報だけを結び付けるとしたら、それが一番あり得そうだ。自分のことを慕ってくれていたはずの友達から手の平返しを受ける。普段の自分を押し殺して良い顔してきた人間が、豹変するのには十分なきっかけだ。

だけど、それって……。

 ――――何か、可哀想だな。

 過った感情を自分の胸中に留め、僕は話題を切り替えた。

 

「大体わかった。ところで清隆。君、結局『櫛田』呼びのままなのかい?」

 

 何だかんだであの朝櫛田と話して以降、清隆が彼女を『桔梗』と呼ぶのを一度も聞いていないのだが、鈴音に続いて彼女まで不機嫌になってしまっては胃もたれが酷くなるというものだ。

 

「あー、それは……やはりクラスメイトが男女揃って苗字で呼び合う中、オレだけが彼女を呼び捨てするのは抵抗があってな。鈴音はクラスで目立っていたわけでもないしお前が先に呼び始めてくれたから勇気を出せたが、櫛田については二人きりの時だけにしようかなと」

「…………あっはは、う、うん。ぷっ、き、君が、はは……それで良いなら、あは、僕は何も言わなっふふ…………言わないよ、ははっ」

「な、何だよ。そんなおかしなことを言ったか?」

 

 どうやら本気で言っているようだ。尚更笑えてくるな。二人きりの時だけ呼び捨てとか、その方が余程怪しい関係に感じられてしまうということをわかっていないらしい。人付き合いに関しては本当に初心だなコイツ。可愛いものだよ。いざその時になって恥ずかしい思いをする君をぜひとも見たいものだ。

 

「……まあ、いいか。なあ恭介。オレからも一つ聞いていいか?」

「え? ああ、いいけど」

 

 この流れで清隆から質問か。一体何だ?

 

「お前は――――――()()()()()()()()()()()()()()()()んだ?」

「――耳掃除でもしたらどうだ? 鈴音と話していた時に一言も気づいただなんて――」

「気づかなかった、とも言わなかったろう。一言で否定しなかったのは、気付いたことを隠したいが鈴音に嘘を吐きたくもないという葛藤の結果だ。違うか?」

 

 あまりに突拍子の無いことを言うものだから驚いたぞ。そんなところにまで注意して聞いていたのか。鈴音の発言にだけ耳を傾けていれば良いものを。言葉選びが下手で偶然言わなかったという可能性を考えないのかい?

 

「どっちも言ってないならどっちもありだなあ。僕が言ったのは『()()()()()()()()()()()()()』という事実だけ。真実は闇の中ってわけさあ」

「ふっ、そうだな。良くわかった。迷う間もなかったんだよな。――ああ因みに、後から追及されないように先に言っておくが、オレも()()()()()()()()()()()()()()()()()()ぞ」

「へえ、君もねえ。まあ櫛田とは多少親しくしていたみたいだから、知っていることの一つや二つはあるんだろうなあ」

 

 僕らはクスリと笑い合った。

 「茶番だ」、お互いその思いで一致していることだろう。

 だが、これくらいでちょうど良いのかもしれない。自分の深淵を隠し、お互いそのことに気付きながらも善しとしている。その生活を楽しめているのならなお、後ろめたさは不要だ。今はこれが、僕らに最適な距離なのだろう。椎名の時と同じように、近づこうが離れようがそういう距離が心地良く感じるのは、毎度変わらない。

本来子供同士の関係など、これくらいであって然るべきなのだ。

 ――少しは、落ち着いたのかな。

 

「だが、良かったのか?」

「ん?」

 

 感慨に浸っていると、清隆に突然意識を引き戻される。水を差すことをするじゃないか。何だね。

 

「お前の鈴音に対する言動は、今後のクラス抗争に対し協力的な姿勢を取ったとも取れる。テストは学力にしろそれ以外にしろ実力を測る上で重要なファクターだ。別の思惑があったとはいえ、こうもあっさりと彼女の前でアクションを起こしたことには、少し驚いたぞ」

 

 なるほど、確かに清隆の発言は的を射ている。思い返してみると、Sシステムだのポイントだのの話は全て鈴音が先導していたし、清隆もこの前彼女に協力する姿勢を示していた一方、僕が進んで行ったのは入学日放課後の考察くらいで、それも鈴音の指令を思い出したからに過ぎない。

 そんな僕が、小テストに対する見解のみならず今後の戦いに繋がるアドバイスまでしたのは、清隆の目には奇妙に映ったようだ。

 ただ、当の本人としては、何も不合理な行動だとは考えていなかった。

 

「……僕が君と初めて電話した時に言ったこと、覚えてるか?」

「ああ、覚えている」

 

 僕はあの時、鈴音の『羅針盤』になると言った。今回の行動を自分で容認できたのは、その宣誓に従った結果だ。

 次に来るであろう清隆の反論は予想できた。

 

「だが、それではやはり、オレたちに協力するということに――」

「いいや清隆、それは違う。僕は鈴音個人に手を貸しただけだ。そこから逸脱する行動を取ったつもりはないよ」

 

 彼女の力になることと彼女の戦いに協力すること。この二つには、決定的な違いがある。それが未だなお、僕を縛り付ける最大の楔となっている。

 

「――部品の欠けた羅針盤なんて、誰もが愛着をもって使い古してくれるわけじゃないだろう?」

 

「――? …………! そうか、お前は……」

 

 やはりわかったか。そういうところだぞ。惚けていれば、君の実力にもまだ隠しようがあるというものを。

 

「それは……何だか複雑な気分になるな」

 

 漏らしてしまった、本音の一部。今まで隠してきたのにな、どうしてこのタイミングで。

 盟友のことを信じていたから? 彼のことを、親友だと認め始めているのだろうか。

 怖くなったから? 独りで恐怖を抱え込むことに、耐えきれなくなったのだろうか。

 申し訳なかったから? 罪悪感で、少しでも明かしてやろうと思ったのだろうか。

 どれも、違う気がする。

 近いのは、『疲れた』だろうか。

 迷っても悩んでも、それが必要な事だとわかっていようと答えが出せないのではどうしようもない。進めなければ、意味がない。

 最後に前を見据えられてこその価値なのに、僕の意思も行動も、向けられた先は過去ばかりだ。

 だからこそ自分を嫌いになって、そんな自分に見切りを付けたくなって。

 かなぐり捨てたくなった。

 ()()なら、今の僕を見て何と言うだろうか。きっと、鼻で嗤うんだろうな。

 これ以上考えても、どんどん悪い方向に行くばかりだろう。打ち切るか。

 

「まあ、湿気た話も混ざっちゃいたが、総括すれば愉快な夜だったと僕は思うぞ」

「同感だ。なかなかに良いティータイムだった」

 

 何はともあれ、最終的にはこの盟友と楽しい一時を送れたのではないだろうか。依頼の件もどうにか丸く収めることはできたし、及第点は越えられたと見ていい。

 一件落着、だな。

 

「外で体感したが、今夜もまだ良く冷える。体を温かくして寝たまえよ。――さて、今宵同じ月を拝めなかったのは惜しいが、夜明けに美しく輝く太陽の下、君と並んで歩けるのを心待ちにしているよ。それじゃ、おやすみなさい。良い夢を」

 

 痛々しいくらいのあざとく格好つけた言葉で、僕は彼との長電話を締めくくった。

 厨房へ向かい、清隆との会話がてら準備をしていた白湯を一口、喉に通す。ざわついていた心が鎮まっていくのを感じた。

 ……ふぃー。

 …………。

 「明日は土曜――」と聞こえてきたのは、恐らく空耳だろう。

 




白湯は睡眠導入に効果があるそうですよ。寝る前に心を鎮めてくれるみたいです。不眠症の方はぜひお試しを。

さて、ちょいとデカめな改変。サシで話した結果、鈴音さんのお気付きが早くなりましたとさ。正直言って、今後予定してる脚本的にあまり意味のない改変だと思ってるんですけども。

恭介と清隆の関係、できるだけ良好な感じを描いてやりたいんですけど、難しいものですね。

次回で五月に突入です。やっとだぜ。宣言通りにいきそうで一安心。

再び学業の方がヤバいので、次は少し空くかもしれません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夕闇に沈む意志(前編)

序章最終話前編です。五月突入です。

ここにきて、序章と二章の区切りどこにしようか問題。結構線引きが曖昧になっちゃうんですよね。

アンケートが思いの外バラけちゃったんですけど、多数派を採用して、長くても当初のプロットのままで過去編創ります。なので、今後少しだけオリキャラや学校外の話が増えます。なかなか癖の強いお二人なんですけど、気に入ってくれたらいいな。




 この一か月、色んなことがあった。

 思えば、最初から僕は、前を向けてなどいなかった。

 あらゆる現実に背を向け、(こら)えて留まるべきだった場所から逃げ出した。本当に乗り越えたいと願うのなら、僕はあの都会の偏狭に残り、過去の清算に尽くすべきだったのだ。あそこでなくては、できようもなかったのだ。

 志を掲げ、家を発った日のことを思い出す。

 あの時僕の背を押してくれたのは、心をかき乱す荒風だったのだろうか。

 ……いや、違う、逆だ。また自分以外に失敗も葛藤も押し付けようとしているではないか。

 僕は、あの弱々しいそよ風にでも押してもらわなければ、踏み出すことができなかったのだ。

 鈴音に一度歩み寄ったのも、清隆が手を差し伸べてくれたからであって、自分の中の葛藤に独力で答えを導き出すことはできなかった。

 あれは決して、初めの一歩などではなかった。結局僕は、誰かに連れられるか付いていくかでしか、足を前に出せなかった。

 では、椎名の時は?

 これも、元を正せば僕の意志などではない。彼女の心が聞こえたからだ。彼女の願いに木霊する形でしか、僕は動くことができなかった。

 一度たりとも自分の心を叫ぶことがないまま、温もりを増した()が、僕らを朧気に照らし始める。

 既にここまで来てしまった。シリアスを司る賽は投げられてしまった。

 では、既に間違えてしまった今、僕にできることは何だ?

 失敗が決定付けられた中で、どれだけの幸福を求めることができる?

 ――僕はこれから、どうすればいい?

 ――僕の意志は、どこにある?

 ――僕は……何者だ?

 自問するまでもない。答えなど、ありはしないのだから。いつにもどこにも、僕の在り処はもう残されていない。それは決して覆しようのない、僕だけが知る、真実。

 舞台の上で姿形を変える演者ですらない。僕は、忘却の彼方で微動だにしない不人気なマリオネットだ。

 大いなるドラマツルギーに、未だ僕は、入り込めないままでいる。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 五月一日。

 目覚ましの音で覚醒し時刻を見る。五時。

 寝ぼけ眼を擦りカーテンを開ける。晴天。

 深呼吸とともに大きく伸びをする。快調。

 いつも通りゆったりとした動作で顔を洗い、水で喉を潤してから、前日準備した持ち物を確認する。

 次に、清隆に待ち合わせの連絡を取るために端末を開く。充電はしっかりと完了していた。慣れた手つきで簡潔な一文を送る。

 ……。

 偶には余裕を持って出るのもいいか。待ち時間が手持無沙汰になるのは面倒だが、月初めだ。一つの小さな区切りを迎えた新鮮な空気を、一足先に堪能させてもらうとしよう。

 ふざける相手もいないので、無言でエレベーターに乗る。写る自分の澄ました顔が、いつもより無表情に感じた。

 言い表せぬ嫌悪感で目を逸らし、意味もなく端末を弄り始める。

 出発前にチャットのついでで開いていたメニューアイコンを、再び押した。

 次の瞬間、その画面には、昨日から全く増えていない所持ポイントが表示されていた。

 

 

 

 

 

 ぼんやりと窓の外を眺めていると、青色の蝶が、同じく(くら)い青色をしたロベリアの花に留まっているのに気付いた。どうしてだろう。二つのシルエットが、互いに溶け合い境界線を失っていくように見えた。

 優雅な他の蝶に倣って快活に飛んでいれば良いものを。いや、勝手な押しつけか。何か思うところがあってそうしているのだろう。あるいは、いつの間にか心の根が張って無意識に吸着してしまったのかもしれない。だとしたら、あの蝶は二度とその身を浮かばせることなく、虚しい最期を迎えるのだろうか。飛んでなんぼな生き物であろうに。誰かさんにそっくりだ。

 上の空で太陽の温もりを感じていると教室のドアが開き、茶柱さんが入ってきた。その表情は普段よりも一層険しかった。

 ここからの流れはある程度予想がついていたため、意にも介さず筆箱を開ける。幼少期からの名残で今も鉛筆が三本入っているが、どれも先端が折れていた。淡々と削る。

 次に二つ入っている消しゴムを取り出す。片方は新品の如く純白で、もう一方は頭の方がかなり黒ずんでいた。総入れ替えしていた鉛筆とは違い、こちらは中学時代からの愛用品だ。カバーを付けられない程にまで小さくなってしまっているが、構わず使い続けている。机に擦り付け、汚れをできるだけ落とす。

 他に時間を潰せるものはないかと軽く漁ると、奥の方で文房具とは異なる感触があった。掴んで取り出すと、それは紐付きの小袋、御守りだった。少し煤けているのはずっと底で眠っていたから、ではない。寧ろその逆、どこにしまうこともなく握りしめていたからだ。失意の内にいた僕を回復するまで支え続けてくれた先生からの唯一の贈り物。動けるようになってからも不安で手放せなかった。

 かつてのように、中身まで感触を確認するくらいの強さで握ってみる。受験が終わったからか、時の流れか、もう神聖な力などは欠片も残っていないようで、あの頃のように何かが湧き上がってくる感覚はなかった。

 短い溜息を吐いて黒板を一瞥すると、茶柱さんが持ってきていた二つの紙が貼り出されていた。

 一つ目はAからDのクラスが上から順に並び、横にはそれぞれ940、650、490、0の数字が対応して記されていた。clという単位を添えて。

 二つ目はDクラスの全生徒と数字の書かれた表。先日の小テストの結果のようだ。六助と鈴音は上位層、清隆は50点だった。

 

 そこまで把握し意識を逸らすと、クラスの中心人物である平田と櫛田、点数の悪い生徒たちによる質疑応答が巻き起こっていたが、興味をそそられる内容には思えなかった。このHR全体で挙がった話題は、Sシステムの正体、態度・意欲で加点はない、赤点で退学、進路の確約はAクラスのみ、エトセトラエトセトラ……大して反芻する価値もない。

 その後は頬杖をつき、再び視線を喧騒の外へと戻して黙っていた。

 茶柱さんが去った後、幸村や他のプライドの高い生徒たちがクラス分けに不満を爆発させる。

 ――見苦しいな。そうやってすぐ感情的になってギャンギャン喚いている時点で、キミらにはこのクラスがお似合いだよ。

 幸村たちを平田が宥め、クラスメイトに協力を呼び掛ける。まずは遅刻欠席と私語をやめることから始めよう、と。

 ――無駄だ。これ以上減点されない上に行動が加点に繋がらないのなら、それはボクたちが努力する理由にならない。

 案の定健が噛みつく。挽回のチャンスもマイナス要素も全て平田たちの解釈に過ぎない、と。

 ――キミは見た目通りバカだったようだな。茶柱さんは遅刻欠席と私語をしないのが当たり前だということとそれが少なからず減点の原因だったということを明言していた。つまり、あいつらではなく学校側の解釈だ。枠組みに組み込まれている以上、学校が凡事だと認識していることを生徒が徹底することは責務だ。

 愚痴るにしても外に吐き出さずに自分の中で毒吐けよ。無意味な阿鼻叫喚など、耳障り極まりない。

 

 纏まりもクソもない。平田には悪いが、このクラスが今後真面な躍進ができるとはとても思えない。かと言って僕がどうこう変えることができるわけでもない無能であることも否定しない。六助は我関せず。鈴音も未だ発言力は低い。清隆も表立って動く気はない。櫛田は緩衝役に徹するしかない。本来優秀さを具えているはずの人間までもがクラスに貢献できない状況にある。嗚呼、本当にこのクラスは――

 

「――恭介?」

「……え?」

 

 漠然と冥い思考に支配されていた意識が引き戻される。しまった、何を考えていたんだ僕は……。

 振り向くと、心配そうな表情を滲ませる清隆と目が合った。

 

「どうかしたか?」

「大丈夫か? 呼びかけてもなかなか返事が返ってこなかったものだから」

 

 彼がここまで感情を見せるのは珍しい。相当辛抱強く呼んでくれていたのだろう。

 

「……寝不足かもなあ。ウトウトしていて気付かなかったよ」

「本当に? それにしてはやけに酷い顔をしているけど」

「寝相が悪い人もいるだろう? 僕は寝顔が酷いんだよ」

 

 何とか冗談を返すが、正直気力はギリギリだ。周りの雑音に対する嫌悪感は和らいだが、ざわつきが収まらない。

 

「ちょっとトイレ行ってくるかなあ。目覚ましてくる」

「ならオレも行こう。道中お前が倒れてしまわないか心配だからな」

 

 うっ、予想していなかったわけではないが、できれば独りが良かった。まあ清隆は煩わしいやつではないから妥協しよう。

 廊下に出たところで、間髪入れずに清隆が口を開いた。

 

「……本当に大丈夫なのか?」

「まあなあ」

「……恐らく今日中に、鈴音はお前に答えを求めるだろう。せめて、悔いのない選択をしてくれ」

 

 あの時切に僕の参戦を願ってくれていた彼にここまで言わせてしまうか。だいぶ弱っているのかな、僕。

 

「君には、迷惑をかけてばかりだなあ。情けなくてしょうがないよ」

「気にするな。別に途中で意思変更できないと決まっているわけでもない。悩み過ぎて潰れるなよ」

「あっはは、悔やまないようにと言ったり考えすぎるなと言ったり、一貫性がないなあ」

「……難しいんだよ。気を遣った言葉を掛けるのは」

「そうだなあ。だからこそ伝わってきたよ、ありがとう」

 

 僕を想ってくれるからこその君らしくもない言動なのだろう。ならば感謝することはあれど、咎めたり批判したりするわけがないじゃないか。

 ……だが。

 僕の中で、一つの答えが過った。

 

 

 

 

 

 模範生徒の如く真面目に授業を受けては、机に突っ伏しながら休み時間を過ごしての繰り返しで、ほぼ虚無な一日だった。昼休みも食欲が湧かず、かと言ってその場に居座るのも心苦しく校内を彷徨っていたが、どうやら他クラスには椎名に引けを取らない癖の強さの持ち主がまだまだいるようだという感想を抱いただけである。

 惨めな感情を隠すように下校の準備をしていると、校内放送が流れた。

 

「一年D組、浅川恭介君、綾小路清隆君。担任の茶柱先生がお呼びです。職員室に来てください」

 

 淡々とした音声が二度響く。こう、なんか、公に自分の名前を出されると小恥ずかしいな。

 

「あなたたち、何か共謀して働いたの?」

「事実無根だ」

「記憶にございません」

 

 鈴音からの全く不名誉な疑惑を全否定して、僕らは一緒に職員室へ向かう。

 

「僕ら、何かしちゃったのかなあ」

「さあ。だけど、お前の方は心当たりがあるだろう」

「……確かに」

 

 もはやそれしかないんだろうなと言えるような失態がある。でもそうなると、清隆とは別件ということなのか?

 目的地に着いたが、件の女性は見当たらなかった。あの人、呼び出して置いて自分が遅れるのかよ。社会人の見本であれ。

 とりあえず、近くの大人に尋ねてみようか。鼻歌交じりに書類作業をしていてやたらノリノリそうだけど。

 

「あの、茶柱さんはどちらに?」

「ん、サエちゃん? あれ、さっきまではいたんだけど……」

「サ、サエ、ちゃん? 随分と親し気ですね」

「まあねー。高校からの親友なの」

 

 そう答えるのは、髪の長さはセミロング、って言うんだっけ? で、ウェーブの掛かっている女性だった。印象はまるで違うが、確かに茶柱さんと同年代な雰囲気がある。

 

「うーん、今はちょっと席を外してるみたい。応接間で待ってる? お茶も出すけど」

「いえ、お構いなく。そう長く待つこともないでしょうし、廊下にいます」

 

 それだけ言い残して二人で廊下に戻る。が、何故か相手の先生も一緒に付いてきた。

 品定めするような視線に、僕も清隆も少し訝し気な顔になる。

 

「あの、何か用ですか?」

「ううん、用って程でもないの。折角だから自己紹介でもと思って。私は、一年B組の担任の星乃宮知恵です。君たちの名前は?」

 

 どことなく怪しいが、名前くらいなら教師と生徒のやり取りとしては何ら問題はない。誤魔化しは不要か。

 

「浅川恭介です」

「綾小路清隆です」

「……へー、教えてくれてありがとね」

 

 僕の名前に対して僅かに反応を見せる。あ、そうか、書類に書いたこと知られているんだっけ。清隆もいるんだからちゃんと隠しておくれよ。

 

「君たち、クラスで人気だったりしない?」

「いえ、特には」

 

 口を揃えて答える。紛れもない事実だ。誠に遺憾ながら。

 

「えぇ、そうかなぁ。綾小路君は結構恰好良い顔してるしー、浅川君も可愛い顔してるから、結構チヤホヤされてるのかなあって思ったんだけど」

 

 彼女は自然な動作で僕らに詰め寄ってくる。

 やっていることが面食いのそれじゃないか。メンターが久しぶりに危険信号を発しているよ。

 にしても、この人まで僕を女々しい扱いか。可愛いと言われて喜ぶ男子なんてそういうのを売りにしているアイドルくらいなものなんじゃないのか?

 

「全然ですよ。まあ清隆が格好良い顔をしているってのは同感ですけど」

「ちょ、裏切るなよ恭介。それを言ったらお前が可愛い顔してるというのも否定できないだろう」

「可愛くないわ! まだ成長期が来とらんだけじゃい。そういう君は、自分が格好良いのを否定しないんだなあ」

「態々言ってやるまでもないだろうと判断しただけだ。そういうお前の方こそ、この前中性的って認めていたじゃないか。思い当たる節はあるんだろう?」

「苦し紛れの言い訳だなあ。僕は可愛くなくて君は恰好良い。それでこの話は終いだよ」

「お前が可愛くてもオレは恰好良くなんかない」

 

 気付かぬうちにかなり幼稚な言い争いになってしまった。ハッとして星乃宮さんの方を見ると、ムフフといった感じでニヤついていた。

 

「君たちすごく仲良いんだね。言ってることもカップルみたい」

「…………はい?」

 

 二人揃って間抜けな声が出る。僕と清隆がカップルだって? 下らない冗談を吐かないで貰いたい。友情と恋慕をごっちゃ混ぜにされるなど合点いかん。

 僕より先に気を取り直した清隆が彼女に反論する。

 

「確かにオレたちは良い友人同士ではありますけど、そういう気は全くないですから」

「えぇホントかなぁ。実はこっそり付き合っちゃってたり――」

 

 彼女がこれまた不謹慎なことを言いだそうとした時、その頭上に制裁が下った。茶柱さんがクリップボードで叩いたのだ。思いっきり角が脳天にぶっ刺さったな。ドンピシャだぜ!

 

「何やってる、星乃宮」

「いったーい! 何するのサエちゃん」

「お前がうちの生徒に絡んでいるからだ。すまんな二人共。コイツのお粗末な態度については諦めてくれ」

「お粗末って何よ! サエちゃんがいない間応対してあげてただけじゃない」

「相手は高校生だぞ。一人というわけでもないんだから、要らんマネはするな」

 

 僕らのことそっちのけで漫才を始める二人。何が悲しくて指導者たちのいざこざを見届けなければならないのか。

 だけど、これは……。

 

「二人こそ、まるでカップルみたいなやり取りじゃないですか」

「え!? うふふー、でしょ?」

「それ以上言ったら退学にするぞ、浅川」

「んな横暴なあ……」

 

 星乃宮さんへの意趣返しのつもりだったのに。何て不憫な僕……。

 

「それで、茶柱先生。用件は何ですか?」

 

 見かねた清隆が本題に移るよう促す。有難いファインプレーだ。

 

「ああ、そうだな。お前たち、生徒指導室に来い」

 

 え、どういうことだ。ここでは話せない内容なのか? 確かに星乃宮さんは邪魔者かもしれないが、そこまで厳重にに避ける必要があるのだろうか。

 

「……わかりました」

 

 もし万が一のことがあったら、大声出しながら部屋を出ていけばいい。口塞がれそうになったら、まあその前に逃げよう。

 Dクラストリオで歩き出すが、何故かまたしても星乃宮さんが僕らに付いてくる。鬱陶しいな。

 

「お前は付いてくるな」

「冷たいなぁ、昔からの付き合いなのにー。だって気になるじゃない? 男の子二人を密室に連れ込もうだなんて怪しさ満点だよ。――――もしかしてサエちゃん、『下剋上』でも狙ってたり、する?」

「何を言う。私がそんなことできると本気で思っているのか?」

「全然全くー。サエちゃんにはやっぱ無理だよねぇ」

 

 人の交友関係にケチつける気はないが、この二人の関係性、何だかただの同級生や友人とは一風変わった匂いがする。

 

「どう思う、清隆?」

「何だか、ギスギスしているようにも見えるな」

「だよなあ」

 

 呑気にひそひそと感想を言い合っていると、背後から声が掛かる。

 

「あの、星乃宮先生。少しお時間よろしいですか? 生徒会の件でお話があります」

 

 振り向くと、一瞬少女と目が合った。

 少し身長が高く、髪もロングなため、櫛田より幾分か大人びた印象を受けるが、醸し出す雰囲気は酷似している。

 つまりは、いい子ちゃんの気配だ。

 果たして彼女は、()()()()()()()なのだろう。

 生徒会関連ということは、きっと同じ一年生だ。これから関わる機会がないとも限らない。ぜひとも測らせていただきたいものだ。

 

「ほら、お呼び出しだぞ。早く行け」

「ちぇ、サエちゃんのケチー。しょうがないなぁ、またね、二人とも。それじゃあ一之瀬さん。話は職員室で聞くわ」

 

 少し改まった態度になり、一之瀬という生徒を連れて職員室の方へと戻って行く。最初からそれくらい僕らにも真面目に接してくれ……。

 移動距離に見合わない気疲れを感じながらも、生徒指導室に着き中に入る。

 

「そこのドアから給湯室に入っていてくれ」

 

 言われるがままに室内のドアを開けると、確かにコンロやヤカンが設置されていた。

 

「気が利くじゃないですかあ茶柱さん。清隆、紅茶もあるぞ。淹れようか?」

「おお、いいな。のんびりティーブレイクにでも洒落込もうか」

「当たり前のように使おうとするな。物音一つ立てずにじっと待っていろ」

 

 僕らの行動に茶柱さんは突っ込みを入れる。え、僕ら客人じゃないの?

 

「ここに招いた時点で運の尽きですよ。何もあなたが淹れろと言っているわけじゃないんですから、これくらい許してくれませんか?」

「……絶対に音は立てるなよ。守れなければ、退学だ」

 

 観念したのか、相手の方が折れて扉を閉めた。

 

「これで、僕らが別件の呼出という線は薄まったなあ。――アイス?」

 

 用意しがてら会話を始める。

 

「アイスで。――そうだな。でなければオレたちがここに纏められている示しがつかん。しかし、喋ってていいのか?」

「彼女一人にそんな権限があるとは思えん。向こうは説明義務を果たせていないし何とかなるだろう」

 

 それに、彼女は野心のために()()()()()()()()()()()()()()はずだ。

 僕の手元にコーヒー、清隆の前に紅茶が用意できたタイミングで、ドアの外で動きがあった。

 

「入ってくれ。――それで、私に一体何の用だ? 堀北」

 

 (ギョ)ッ。

 思わず清隆の方を向くと、彼も予想していなかったのか少し難しい顔をしていた。彼女は一体何をするつもりなのだろう。

 というか、このメンツを揃えたということは僕らの交流は知られていると見ていい。となるともしかして、あのことも……?

 緊張を和らげようと、清隆と息ぴったりに水分を含む。

 

「……先生は今朝のHRで、実力順によってAクラスからDクラスにかけて選出されていくと仰いました。Dクラスはクズの集まり、不良品の掃き溜めだとも」

「そこまで言った覚えはないが間違ってもいない。それで?」

「筆記試験は、殆ど解けたと自負しています。面接でも、特に目立つようなミスをした覚えはありません。まずはここまでの認識が正しいのか、確認していただけませんか?」

 

 確か鈴音は、小テストは未修の問題以外全て解けているような物言いをしていた。面接の態度も同年代への当たりが強いだけで、今まさに茶柱さんに対してやっているような振る舞いなら問題はないように感じる。いかがなものか。

 

「善いだろう。ちょうどここに入試結果がある。見てみようか」

「……用意周到なんですね。少し憎たらしいです」

「ん、何かトラウマでもあるのか?」

「最近同じようなことがあって、思い出していただけです」

 

 かなり戦慄を覚えた。嘘だろ、この前のことまだ根に持ってたのかよ……。

 目の前で清隆が必死に笑いを堪えている。普段表情が薄いせいで逆にムカつくな。零すならもっと清々しい笑顔を零せよ。

 

「それは災難だな。まあいい。えー、堀北鈴音。お前の言う通り筆記の順位は一桁、十分優秀だ。面接の方も問題点はなく高評価、文句なしだな」

「……っ。では、少なくとも最低限の適正はあり、学力は申し分ないと?」

「その通りだ。何だ、自分がDクラスであることが不満か?」

 

 茶柱さんのほくそ笑む顔が浮かぶ。鈴音が評価に納得していないことを予測してこの状況を作ったわけか。鈴音だけではない、恐らくクラス全員のデータを把握しているな。

 だが、きっとあの人は、彼女が僕らとどのような交流を経てきたのかを把握しきれていない。彼女が一方的に憤慨せず堪えていることに対して二の句を継げなくなっているのが証拠だ。

 

「……潔く認められるかと言われれば、正直まだ難しいです。けれど、情報の整理は多少なりともできています」

 

 鈴音に変化を与えるような出来事は全て茶柱さんの管轄外で起こったはず。ならばこの食い違いは必然だ。

 

「私は、突き付けられたものをただ漫然と愚痴りにきたわけではありません。正当な評価の下でDクラスに選ばれた私には、一体何が欠けていたのかを教えてください」

 

 それは、僅かながらも確かな、彼女の成長を示す言葉だった。

 




ちょっと堀北鈴音精神過剰成長疑惑が僕の中で生まれています。漢字多いな。

期末課題ヤバいのにYouTube見てしまう始末。因みに最近ではIGLOO(特に重力戦線)に感銘を受けましたね。何のことを言ってるのか、わからない人はぜひ調べてみて。いや、原作から見てみて、僕ももう一度見たいから(謎のお勧め)。わかる人、ああいう雰囲気いいよね。ワンチャン原作より好きだわ。これまた胡散臭いくせに有能なコレマッタ、なんつって。

まあよう実見てる世代はわかる人少ないっすよね。いたら嬉しいって思えるくらいだもん。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夕闇に沈む意志(後編)

序章ラストです。

ラスト、なのですが、やってしまいました……。行き当たりばったりでやってる弊害が出た……。

本作は序章で入学してからの三日間、二週目と三週目のどこか一日ずつ、五月一日を描いていたんですが、当初の予定だと四月の間にもっと他クラスの原作キャラと仲良くなるはずだったんです。完全に失念していた……。今後の展開に大きく影響してしまう。

構成練り直してなんとか整合性を保つか、オリ主たち三人のクラス対抗戦への意気込みの変化というテーマから外れるって理由で無理矢理tipsに持ち込むか。いやでも、さすがに二章に入った時点で仲良くなってるキャラとの馴れ初めを本編でなくtipsで片付けるって駄目かなあ。ちょっとこれを悩んで二章の更新は遅れるかもしれないです。

今回オリ主の能力ちょい見せです。


「……ほう」

 

 入学当初の鈴音なら、恐らく評価の正当性を頑なに認めず、自分の非の打ちどころを探そうとは決してしなかっただろう。弱さを飲み込み、他人からの評価に理解を示そうとする今の彼女の姿勢は、僅かながらも確かな成長を感じさせるものだった。

 

「学力以外で自分に足りない能力は何なのか、そう聞きたたいんだな?」

「はい」

「……実の所、意外だった。お前のことだ、てっきり配属ミスだとか採点基準のミスだとか言って、見苦しいこじつけでもしてくるのかと思っていたんだがな」

「茶化さずに答えてください。私は、何としてもAクラスに上がらなければならないんです」

 

 ここで「Aクラス」という限定した表現をするあたり、並々ならぬ執念を感じる。

 

「大きく出たな。不良品のお前たちが頂点にたどり着くまでの道のりは、相当長いものだと思うが」

「不可能でないのなら、絶対に勝ち上がってみせます。それに、Dクラスと言っても、ただの無能だけが集るスラムではないと、私は感じていますから」

「ふっ、そうか。して、その貧民たちにパンを与えるイエスたり得るのは、彼らのことか?」

 

 「え?」と呆然とした声を漏らす鈴音。この流れ、やってくれたな。避けられる可能性があったかと言われると厳しいが、したくもない盗み聞きをさせられた挙句即ネタばらしまでされるのは合点いかん。

 

「出てこい、浅川、綾小路」

 

 籠城という選択肢もあるが、出るまでこの戦況は動かないだろう。今回は僕らが白旗を揚げるしかないようだな。

 清隆と頷き合い、扉を開ける。

 

「いやあ茶柱さん、至高のティーブレイクでしたよ。あのインスタントコーヒー、いくらかもらって行ってもいいですか?」

「BGMがお二方の言い争いだったことだけが残念だけどな」 

「あ、あなたたち……」

 

 僕らの登場に鈴音は絶句し、額を押さえる。

 

「どうしてこうも、現れて欲しくない人ばかりがタイミング良く……これからは急に開くドアには用心した方が良いかしら」

「……ごめん、許して」

 

 櫛田の件、本当に引きずっているみたいだ……。どうしたものか。こうなると時間が忘れさせるのを待つ以外手立てがない気がする。

 気を取り直した鈴音は、茶柱さんの方を向き直った。

 

「どうしてこのようなことを?」

「何が足りないのか。それを知りたいなら、この二人が必要になるはずだと思ったまでだ。――そもそも既に、お前たちは共謀して何やら面白いことをしているな?」

 

 不意を衝く発言に、鈴音だけは表情に出てしまった。質問に答えてもらっているつもりだったからポーカーフェイスが間に合わなかったのだろう。致し方ない。

 

「確かに、三人だけで結託してクラスの輪から離れてみようなんてこと、企ててたような企ててないような」

 

 清隆が惚けるも彼女は鼻であしらう。だから君、どうしていつも自虐ネタに僕らを巻き込むんだい。一緒に哀れまれるんだよ、よしておくれ。

 

「それが成功したら実に滑稽だな、嗤ってやるぞ? だが――綾小路清隆、125061、堀北鈴音、133030、何の話をしているかわかっているな?」

 

 初日のHRでの説明で詳細を把握されること自体は覚悟していたが、まさか追及されることになるとはな。しかもこれ、単なる面白半分で目を付けられたってことじゃないか?

 

「周りへの態度の冷たさ、とかですかね?」

「浅川君、それはどういうつもり?」

「オレと鈴音とで10000しか変わらないのか……」

「綾小路君?」

「何でもないです」

 

 こんな状況でも呑気に茶番を繰り広げる僕らに茶柱さんは苦笑する。

 

「お前たちは本当に仲が良いんだな。私は嬉しいぞ。はみ出し者の印象だったが、最低限の良好なコミュニティは築けていたようだな」

「おかげさまで、退屈していません。本当に、退屈していません」

 

 わかりやすく「悪い意味で」と暗に訴えている……。

 

「だがな浅川。そうなるとお前は、大変社交性に優れた生徒になってしまうな?」

「スロースターターなんですよ。見ててください。これから劇的な速さで友達が増えて――」

「浅川恭介、0()p()r()。お前、入学早々この一か月を無一文で乗り越えたな?」

 

 決定的な一言に、僕らは三人揃って溜息を吐いた。

 やれやれ、ここは言い出しっぺだった僕が対応するか。

 

「ほんの出来心だったんですよ。何のメリットもない動きだって、あなたも理解しているでしょう?」

「どうだろうな。だが、行動そのものが興味深い。お前たちはポイントの支給が毎月十万ではないことに気付いていた。違うか?」

 

 確信を持って言う茶柱さん。まあそうなりますよね。だが、簡単に認めるわけにもいかない。

 

「根拠は?」

「根拠も何も、毎月十万もらえると思っているやつが一か月でも0円生活をしようなんて思うか? 単なる節約や浪費防止ならわからなくもないが、初めの一週間で他人へ全額譲渡したやつは本校始まって以来初と言ってもいい」

 

 ……この女、意外と熱心にポイントの動きを見ていたんだな。もしや、最初から僕らに目を付けていた? 考えすぎだろうか。

 でも、初か。いいねなんか。金字塔を打ち立てたとなるとどことなく胸を張りたくなる。特に名誉でも不名誉でもないんだけど。

 

「茶柱さん、僕はこう見えて慈善活動に明け暮れる日々が大好きなんですよ。まずは親交の深いこの二人に幸せをお届けしようと思いまして」

「屁理屈で逃げるか。私は素直に感心しているんだ。お前も素直にお褒めに預かったらどうだ?」

「屁理屈だって臭いだけで十分理屈です。それに、もし預かってしまったら何かで返さなきゃいけなくなる気がするんでね。要らないものは気安く受け取れませんよ」

 

 彼女は何が面白かったのか、ここで初めて声に出して笑った。相変わらず抑揚は感じないが、素だなこれ。

 

「要らない、か。堀北、Dクラスにも彼のように現状の評価を気に留めない連中がいる。綾小路もその一人だろう。それについてはどう思う?」

「精神的に向上心のないやつは馬鹿だ、とだけ言っておきます」

 

 失敬な、向上心はあるわい。あれだ、君にとっての上と僕にとっての上は別のところにあるんだよ。……自分でも何言ってるかわかんねえや。やはり僕は馬鹿だったか。

 

「過去の文豪も真理を悟っていたというわけか。だがどうやら、向上心が見られずとも決して才能がないとまでは言えないようだぞ」

 

 ……この人、まさかあれを晒す気か!? 教師としてあるまじきだぞ。

 

「あなた、その机の上にある四枚の紙、今の話のために用意したんじゃありませんよね?」

「目敏いな、浅川。その通りだが、一体何を焦っている? 二人に知られたくないことでもあったか?」

「……君、指導者に向いてないよ」

 

 僕の咎める声を鼻嗤いで一蹴し、彼女は僕が指した書類の内二枚を手に取った。

 

「まずは綾小路からだ。お前は浅川にも負けず劣らず面白い生徒だな」

「先生の苗字に比べれば大したことないですよ。少なくとも友達と誇れるのが二人しかいない程度にはつまらないです」

 

 矛先を向けられた清隆が冷静に返す。後半自虐になっていたぞ。最近卑屈だね君。

 

「筆記試験の結果は五教科全て50点。加えて今回の小テストも50点だ。これが何を意味するかわかるか?」

 

 答案用紙を見て鈴音が驚きの表情を見せる。正味僕も同じ気持ちだ。すごいな、全テスト50か。50好きなのかな。

 

「いやー、偶然って怖いっすね」

「惚ける気か? 意図的だろう」

「証拠もないのに決めつけられても。そもそもそんな中途半端な点数狙うメリットがないでしょう」

「お前も頑なに否定するか。お前たち二人は気が合いそうだな」

 

 僕と清隆を交互に見比べてそう言われた。おお、それは言われて悪い気はしないな。

 

「だがな綾小路。お前は正答率の高い問題を間違えておいて、それを足掛かりにしなければならない高難度の問題は正解している。これについてはどう説明する?」

「偶然としか。隠れた天才だったみたいな設定はありませんよ」

 

 なるほど。正誤の詳細に違和感があるというわけか。でもおかしいな。あの清隆が迂闊に実力を悟らせるようなことを……。

 

「……なあ、清隆。君、もしかして遊んじゃった?」

 

 導き出した結論を直接問いただす。彼は呆れた表情をするが、僕にはそれが「余計なことを言うな」と訴えているように見えた。ごめんて。今からフォローするから。

 

「偶然って考えた方が寧ろしっくりくるんじゃないですか? ヤマが当たって正解して、50点なのも本当に偶々。配点も知らずに狙って揃えただなんて考える方が非現実的ですよ。――可哀想だなあ清隆。在らぬ濡れ衣を着せられて」

「全くだ。自分の低い学力がこうしてお前らに露呈して、心底恥ずかしいよ」

 

 強ち僕の言ったことは間違っていないだろう。彼の実力をある程度把握していなければ、この結果に疑問を抱く可能性は非常に低い。何を正解して何を間違えたかなんて、採点者でさえ一々気にして丸バツ付けてなどいないはずだ。二人の会話の様子から察するに面接官だったわけでもなさそうだから、茶柱さんが清隆の佇まいを予め目にしていたわけでもない。

 なら、彼女はいつどこで清隆に一目置く機会があったのだろう。初めから綾小路清隆という人間を知っていなければ、こんな大胆な行動は取れない。彼女に裏事情があるのか、清隆に裏事情があるのか、将又その両方か。いずれにせよ、この人はまだ僕らに隠していることがあるのかもしれない。

 

「まあいい。今はお前の自供が欲しいわけでないからな。次は、お待ちかねだな、浅川」

「僕この後用事が……」

「そうか。では早く済ませなくてはな」

 

 くそ、逃げ場がない。何でアンタこんなことをするんだ。いや、自分のためだってのはもうわかってるけど、僕の事情も考えてくれたまえよ。腐っても教師だろう?

 

「先日の小テスト、お前は良くやってくれたよ。採点中に大笑いしてしまったくらいだ。――――まさか、『0点』を取るなんてな」

 

 清隆の憐みの視線と鈴音の冷たい視線が刺さる。性質は異なるのにどうしてどちらも胃を痛めつけてくるのだろう。

 そう、僕はあれだけ自信満々な態度を取っておいて赤点どころか学年ビリを勝ち取った。いやはや、あっぱれだよね。

 しかし、本当に話にされたくないのはその先であるわけで……。

 

「だがな、私がどうして笑ったかというと、お前がただの間抜けではなかったからだ」

 

 そう言って彼女は僕らの眼前に答案用紙を突き付けた。は? 公開処刑かよ。職権乱用で訴えられないのかこれ。

 それは兎も角、二人の呆然とした表情を見て僕は頭を抱える。だから嫌だったんだ。

 

「……浅川君、これはどういうことかしら?」

「一休さんが世に認められる世界だと信じたかった」

「ふざけないで。とんちにも限度というものがあるわ。解答欄に『答え』を埋める一休さんなんて淘汰された方がマシよ」

 

 ぐうの音も出ません……。

 何を隠そうこの浅川恭介、解答欄に埋めた文字は『答え』、『計算式』、『過程』、『記号』、『何ではありません』の五つのみである。

 

「いやほら、ここって普通の学校じゃないじゃん? だから解き方も普通じゃないのかなって……」

 

 僕の発言に今度は鈴音が頭を抱える。あっはは、お互い苦労するねホント。

 

「無論学年でこんなにも遊び心に溢れた回答をしたのはお前だけだ。さて、そうなると次に気になってくるのは、本来の学力だな?」

 

 皮肉たっぷりな笑みを浮かべて、茶柱さんは未だ伏せられていた最後の紙を掴み僕らに掲げた。もうどうにでもなれだ……。

 

「国語を除いた四教科は全て満点、その国語もたった一問ケアレスミスをしただけで98点、堂々の二位だ」

「な……」

「マジか。恭介、お前頭良かったんだな」

 

 鈴音は言葉を失い、清隆は……わかりにくいが、驚いているのか? 二人共想定内の反応だった。後で鈴音からの追及が恐い……。

 変に手を抜いて不合格になんてなりたくなかったから全力でやったのに。まさか友人の前で結果を公表されるだなんて誰が思うだろうか。しかも担任の手によって。

 

「浅川、何か言うことはあるか?」

「い、いんやあ、偶然って本当に怖いんだなあって……」

「偶然でそんな点数取れるなら大抵の努力は虚しくなるわよ……」

 

 どうやら怒りや悔しさよりも先に困惑と呆れが込み上げているらしい。鈴音の当たりが思っていたよりキツくない。が、小テストの話の時より少し焦りや動揺が強く出ていた。当然だな。誇りを持っていたはずの学力で負かされたのだから。

 

「冗談が過ぎたなあ。ちゃんと努力したよ。君なんかには負けないと自信を持って断言出来るほどの、それこそ()()()()()()()()()をね」

 

 僕の急な真面目な表情で、鈴音は返答に窮してしまったようだ。ふざけてもどうせ火に油を注ぐだけだろうからな。それに、こればかりは譲れない。本当に頑張ったんだから。()()()()()()()()()()けど。

 

「狙って50点を取り続ける男と学年二位の学力を持ちながら小テストでは頓智を聞かせて0点を取った男。今年のDクラスは例年と比にならない程にユニークな生徒で溢れているようだ。お前たちがこれからどんなスクールライフを送るのか、楽しみにしているぞ」

 

 総括を述べ、茶柱さんは部屋の扉を開ける。

 

「話は以上だ。私は片付けをしてすぐに出る。お前たちも早く帰れ」

 

 呼んだのはあなたなのにそんな雑な形で追い出さなくても。言ってくれればちゃんと出るからもっと物腰柔らかくいてくれよ。鈴音とそっく――

 

「リンダッ!」

「言葉には気を付けなさい」

「リンダリンダァ……」

 

 心の言葉にどう気を付けろと……? 鳩尾入ったぞ。何か習っていたやつの攻撃の仕方だったな、完璧に。

 茶柱さんは何故指摘しない。まさか戯れだとでも思われているのか? 心外だ。圧倒的暴力だろう。監督不行届だな。一つ意趣返しでもしてやろうか。

 

「茶柱さん、僕らにここまで恥をかかせたんです。何かお詫びがあっても良くはありませんか?」

「内容によるな。言ってみろ」

 

 僕は――給湯室の方を指差した。

 

「僕と清隆に一箱ずつ、プレゼント願います」

 

 彼女は一瞬拍子抜けした表情を見せ、短く息を吐いた。

 

「駄目だ。本来ポイントで購入しなければいけないものだからな」

「もてなしで菓子を出す時にお金を取りますか? これくらいはしてくれないと割に合いません。最悪理事長辺りに直談判しますよ。プライバシーを侵害されたって。――それに、どうやらあなたは僕の貧しさを調査済みなようですし」

 

 捲し立てるように反論した僕に、彼女は呆れた様子で目を閉じた。

 

「器の小さいやつだ……好きにしろ。一箱ずつだぞ」

「その器の大きさだけは教師らしいですね。褒めて称えます」

 

 軽い捨て台詞に彼女はこちらを一瞥するが、すぐに自分の事務作業へと戻って行った。

 得るものさえあるならいくらでも器を小さくしてやろうじゃないか。伊達に貧乏生活していないんだよこっちは。

 戦利品を取りに行って清隆に片方渡す。

 

「無益な時間、でもなくなったなあ」

「そうだな。これで千ポイントくらいは浮いたんじゃないか?」

「おう。水以外を飲むのはここに来たから初めてだ」

「本当に頑張ったんだな……尊敬する」

 

 余程遠い目をしていたらしい。視線に同情と敬意が含まれている。まあこの生活自分から始めたんだけどね。

 実のことを言うと、僕は一度もポイントを使わなかったわけではない。お気づきだろうか。清隆に便乗する形で購入したカップラーメンである。恐らく茶柱さんが調べる前に僕が0prになったためにそこまで知られていなかったのだろう。あの時はまさか数日後の自分の思いつきのせいで最後に有料で食べるのがカップラーメンなるだなんて思わなかったよ。

 そんな漫然とした振り返りをしながら廊下を進み始める。

 

「二人共、ちょっと待ちなさい」

 

 待ちたくない。

 

「歩きながら話せないのか?」

 

 僕の隣で清隆は足を止めずに返す。

 

「あなた、さっきの点数は本当に偶然なの?」

「何度も言わせないでくれ。恭介もそう結論付けただろう」

「浅川君があなたの肩を持つことなんて目に見えてるわ。二人揃って後ろめたい隠し事があったのだから」

「誰だって知られたくないことの一つや二つある。呼び止めてまで言いたかったのはそれだけか?」

「そんなわけないでしょう。何より、言いたいことがあるのは――」

 

 ガシッ、と。鈴音は僕の腕を掴んだ。

 足が止まる。

 

「浅川君、あなたによ」

「…………何だ」

 

 彼女が僕に言いたいことなんて、二つに絞られる。

 でもそれは、答えたくなければ触れたくもない内容だ。

 

「どうして、実力を隠していたの?」

 

 一つ目。

 

「見せる機会がなかっただけだ」

「……小テストの最後の三問、あなたならいくつ解けるの?」

「……それを聞いて何になる? 君自身学力だけが実力ではないことを受け入れ始めていたじゃないか。追及する意味を感じない」

 

 僕が例え学力が高かったとしても、それが鈴音が軽く僕に信を置いていい理由にはならない。今の彼女なら、それがわからないわけでもないはずだ。

 

「それでも、指標の一つであることに変わりはないわ」

 

 彼女は僕を真っ直ぐ見据える。本当に、真っ直ぐな目だ。

 かつて好きだった、憧れた目。だけど今では、逃げ出したくなるような忌み嫌う目。

 眩しくて、自分の目を覆いたくなる。無力を突き付けられて、膝を折りたくなる。

 

「少なくとも、私が今まで思っていたよりもずっと、あなたは優秀なのだと思う。綾小路君にしてもそうよ。胡散臭い悪知恵が働くだけの冴えない男だと思っていたけど、まだ底を測りかねてる」

「酷い言い草だな……」

 

 蚊帳の外だった清隆から突っ込みが入る。

 それも無視して、鈴音は言葉を続ける。

 

「けど、私は今こうして浅川君にだけ話をしている。何故だかわかる?」

 

 僕は何も返さない。話の向かう先がわかっているからこそ、進めたくなかった。

 

「綾小路君はもう、私がAクラスに上がることに協力すると誓ってくれたわ。後はあなただけなのよ、浅川君。――私たちに、協力する気はあるかしら?」

 

 これで、二つ目。

 始まったばかりなのに、やけに濃密に感じた一か月。クラス抗争が表面化した今、これから更に刺激の強い生活が待っているのだろうか。

 この一か月、色んなことがあった。

 思えば、最初から僕は、前を向けてなどいなかった。

 あらゆる現実に背を向けて、留まるべき場所から逃げ出した。

 家を発った時のこと、清隆と鈴音と初めて話した時のこと、椎名と初めて話した時のこと、櫛田の依頼に取り組んだ時のこと。

 照らし合わせて考えて、いつまでも整理がつかなかった。

 だから、諦めてしまった。

 

「…………ない」

 

 少し怯えた目で、目の前の少女を捉える。

 恐らく、向こうからは決意の籠っていないやつれた目に見えたことだろう。だけど、そのこと自体が一番の理由だった。

 

「ごめん、無理だ」

 

 震える手を握りしめる。

 迷いを、自力で解くことができないのなら。

 何者であるのかも、見出すことができないのなら。

 

「無理、なんだ」

 

 ボクはキミらに、協力すべきではないと思ったんだ。

 




衝撃の恭介協力拒否で、序章完結です。次回は幕間になりますけど、ある意味本作全体としては大きな転機になるんじゃないかなと、期待と不安が入り混じってます。2月に更新予定です。

さて、お気付きでしょうかみなさん。各話見返してみると(正直例外はあるんですけど)著名作のセリフやワンシーンのオマージュをいれてあるんですよね。二章でも続けるとなるとガ○ダムネタが度々でてきちゃう気がする。

ボソッと言わせてもらうと、実は序章で訳あって回収できなかった伏線が一、二個あって、二章のどこかで明かすことにします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

tips
『悪魔の女使殺傷事件』


 四月某日、とある朝の報道番組にて

 

 

『――えー、それでは次のニュースです。昨日の午後七時頃、東京都○○区在住の女子高校生が、××区の一軒家にて、そこに住む夫婦の殺害及び少女の友人と思われる男子高校生への傷害の容疑で現行犯逮捕されました。亡くなったのは、浅川文哉さん四十二歳とその妻、理恵さん三十九歳。どちらも全身に数十箇所にも及ぶ刺し傷が見つかっており、ガラスの破片が凶器であることから、衝動的な犯行だったとされています。現在中継の準備が整っているので早速現場と繋いでみましょう。リポーターの青山さん?』

 

『はい、こちら青山です。只今事件のあった住宅前に来ているのですが、見ての通り現場は住宅街に位置しており、時間帯から見ても、事件当時多くの住人が家に籠っていて物音を聞くことは難しかったように思えます。また、今はこのようにブルーシートで隠されてしまっていますが、私たちが到着した頃にはまだ規制が完了しておらず、窓ガラスが粉々に砕け、その破片やカーテンに夥しい量の血が付いていたのが確認できました。恐らく室内はかなり凄惨な状況になっていると思われます。』

 

『なんと、そうだったんですか。それは確かに荒々しい様が想像できますね。警察の現場検証はまだ真っ最中というように見受けられますけども、事件について、何か新しくわかったことはありますか?』

 

『はい。警察が通報のあった住民に話を聞いたところ、昨晩六時半頃から何か言い争うような怒鳴り声が次第に聞こえ始め、その後間もなく大きな破砕音が聞こえる程にまで発展したとのことです。被害者夫婦につきましては、普段から特別仲が悪かったり喧嘩が多かったりした印象はなかったため違和感に気付くことができた、と証言していたようです』

 

『なるほど、言い争う声、ですか。一体どんな会話があったんでしょうか。事件当時、近くを通りかかった目撃者などは見つかっておらず、この事件には謎が多いとされていますが、容疑者とされる少女について、何か明らかになったことはありますか?』

 

『どうやら被害者夫婦には二人の息子さんがいたらしく、傷害を受けた少年も含めた四人が同じ中学校を卒業していることから、過去にこの事件のきっかけとなるような出来事があったのではないかという疑いがあるみたいです。特に、例の中学校は彼女らの在校中に放火事件も発生していて、そちらとの関連性も示唆されていますね』

 

『放火事件ですか! それは穏やかじゃありませんね。たった十五歳の少女がこのような猟奇的な事件を起こしたというのは少々現実味の薄いことですが、一体何が彼女を駆り立てたのか、昨晩なぜ二人の子供が被害者夫婦の家を訪れていたのか、過去との奇妙な関連も含め、疑問は尽きません。――警察の今後の方針はどのようになっていますか?』

 

『少女の同級生や担任だった方々に話を聞いて回ってみるそうです。中でも、当時彼女と特に親交が深かった三、四人の生徒との交流関係について詳しく調べていくとのことです。』

 

『なるほど、わかりました。それでは、また詳しい情報が入り次第――』

 

『あ、高須さん高須さん、待ってください! つい先ほど新しい情報が入ったみたいです』

 

『なんですか?』

 

『容疑者はこれまで事情徴収に対し沈黙を保っていたのですが、たった一言、「誰が悪かったのかわからない。今も悪魔に憑りつかれている気分だ」とだけ供述していたらしいです』

 

『ほう、興味深い発言ですね。どこか迷信めいたものを感じますが、これはまたネットとかで話題になるんじゃないですか? 現場の方からはこれで以上ですね?』

 

『はい。新しい情報が入り次第、追って連絡します』

 

『わかりました。ありがとうございます。――えーさて、未だ明かされている事実は多くありませんが、今回の話だけでも事件の複雑さは窺えそうです。華やかな高校生活を目前に控えていたはずの少女に一体何があったのでしょうか? 彼女は一体どんな闇を抱えていたのでしょう? 早く真相が明らかになって、晴れやかな新年度を迎える他の学生たちやご家族の方々の心境が少しでも楽になることを願うばかりです。続報を待ちましょう。

 えーそれでは次は、天気予報のコーナーです。最近は空を覆う雲が多く見られ、少し不安定な天候が続いているのが気になりますが――』



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スナップショット~予感の詩~

清隆との連絡先交換のシーン、修正版です。大幅に内容を変更しております。

彼の行動のルーツの一つであることには変わりありません。


「あ、蝶だ」

「仲良く飛んでいるな」

 

 コンビニを後にして清隆と並んで歩いていると、二頭の蝶を見つけた。綺麗な白は、夕日で茜がかった景色の中で少し目立っていた。

 

「わーい」

「童心に返るのか、可愛いやつだ」

 

 何となく無心で蝶を追い掛ける僕と、それを微笑ましく――でもないか。無表情で眺める清隆。残念ながら抑揚のない君の話し方にそのセリフは似合わないぞ。

 

「童心を恥だの勇敢だのと大袈裟に扱う今の世の中が哀れだよ。もっと悠々自適に生きてみればいいものを」

「それもそうか。……わーい」

「ごめん、限度ってものがあるかも」

 

 何だか無理をしている気がする。先刻の鈴音の言う通り、平和ボケも程々にすべきかもしれない。君がそれで快楽を感じるのなら僕は止めないが。

 

「ちょっと楽しくなってきたな」

「……ぐっじょーぶ」

 

 結局二人揃って両手を上げて、蝶との追いかけっこを再開した。

 

 

 

 

 

 数分後、僕らはベンチでのんびり水を飲んでいた。体の火照りは一度起きたらなかなか収まらない。少々はしゃぎ過ぎたようだ。

 

「やつらの体力は底が知れんなあ。この老いぼれた体には結構応える」

「言う程衰えてもいないだろう。もしオレたちのように汗でもかけば、蝶も羽が重くなって疲れるかもな」

 

 おお、確かに。水をぶっかけてやれば、人とは違って簡単に移動手段を奪えるな。そんな残酷なことは絶対にしないけど。

 蝶たちは僕らとの戯れが気に入ったのか、視界の中を延々と飛び回っている。春を祝う桜とのコントラストに風情を感じる。

 

「桜、か。確か花言葉は、『純潔』」

「出会いの季節を象徴するにはズレを感じるな。にしても、良く知っているな。花が好きなのか?」

「花自体に興味はないよ。だけど、解釈という性質には少しそそられるものがある。花言葉も誕生花も、国や種類によって違ったり複数あったりして、存外面白いんだ。童話なんかも、未だに読み返すことがあるからなあ」

 

 偏に『桜』と言っても、冬桜、八重桜、枝垂れ桜などがあり、いずれも異なる花言葉を持っている。誕生花としての日付もてんでばらばら。国境を越えれば更にばらばら。十人十色は無限に広がるというわけだ。

 

「解釈か。そういえば、イギリスだと桜の花言葉は『独立』だったな。歴史や伝説と紐づけるという意味では、興味を持つ気持ちもわからなくはない」

「君の方こそ博識じゃないかあ。外国の花言葉なんて、普通は調べないだろう」

「ほら、桜好きなんだよ。なんか、こう、スピリチュアルで」

 

 なんだそりゃ。夜桜とかなら霊的なものや超自然的なものと結び付くとは思うが、イマイチピンとこない。心に沁みるもの、ということなのだろうか。上手くはぐらかされてしまっているような気もする。

 休憩はもう十分だろうということで、僕らはまた歩き出した。奇妙な偶然か、蝶たちも同じ道を往くようだ。

 

「……『私を忘れないで』」

「メンヘラの常套句か?」

「あっはは、一途で素晴らしいじゃないかあ。フランスではこれが花言葉なんだよ。ますますイメージからかけ離れていくよなあ」

 

 純潔とはまるで正反対だ。いや、寧ろ同じ意味だと捉える人もいるのかもしれない。それもまた個人による解釈なのだろう。どちらにしても、国境を一つ越えただけでまるで変容する。これだから言葉の解釈は面白い。

 尤も、この手の話題に前傾になるのは、自分の優柔不断さの表れでもあるのだが。自覚しているだけマシ、というのも、自分で言っていては世話ないな。

 

「君、誕生日は?」

「十月二十日だ」

「なら、ええと……確か竜胆(りんどう)が誕生花だったなあ。花言葉は『悲しんでいるあなたを愛する』。んん、何ともセンチメンタルだねえ」

 

 英語圏だと『唯一無二』というものもある。群生することの少ない竜胆だからこそ用いられた言葉だろう。悲しみを謳うようにひっそりと、されど凛と咲く青紫の花。日本の精神である『わびさび』にも通じるものがあるな。

 

「本当に色々と知ってるんだな」

「たまたま十日刻みで覚えているんだ。あとは、僕の誕生日の花もね」

 

 河川敷に合流し、川の流れに沿って歩く。日光の乱反射で水面がダイヤモンドの如く輝いているのを、僕はぼんやりと眺めていた。

 

「どんな花だったんだ?」

「それは――まあ気が向いたら調べてみておくれよ」

「焦らすことないじゃないか」

「宿題だ宿題。明日までに考えてくるように。あ、文明の利器に頼るのは禁止だぞ。人に聞いたり図書館に足を運んだり、アクティブな調査を心掛けなさい」

 

 桜の樹のアーチから舞い落ちる花びらで、少し歩きづらい。光が遮られて意外とロマンスを感じられないな。初めて知った。生憎隣にいるのが、今日できたばかりの男友達だからというのもあるだろうけど。

 

「……僕は、タンポポの方が好きかなあ」

「タンポポ?」

「おう、タンポポ凄いんだぞ。強いんだぞ。魂にしたがる詩人がいるくらいだからなあ」

 

 至る場所に有り触れていて無意識に忘れられがちなのに、簡単には倒れない図太い根性を持っている。これほどギャップを具えている花はなかなかいない。太陽や喜びを象徴する黄色をしているのもまた、大勢から好印象を持たれる所以だろう。

 

「確かにそうだな。桜より幾分か、人間の深淵にスポットを寄せた言葉が多いような気がする」

 

 深淵か。本質、と言い換えられるものかもしれない。僕にも清隆にも、どこか冷たい深淵を潜めているように感じるのは気のせいなのだろうか。折角なんだし、お互いこれから理解を深めていきたいものだ。

 

「ただね、この際何が重要なのかというとだね、人は時に言葉を当てにし過ぎてしまうということだよ」

「当てにし過ぎる?」

言葉(欠片)物語(全体)を生み、物語は感情(真実)を生む。そのどれもが解釈であり、相互関係にあるんだ。自分や他人のことを理解した上で、そこに事象をなぞらえさせるなら何ら問題はない。だけど、予め用意された無機質な文字列から――選択肢とも言えるね――選び取り、そこに自分をなぞらえてしまったら、いつか間違いなく喪失に陥る。それは自分自身のことなのかもしれないし、或いは身近にある大事な何かかもしれない」

 

 良くある話だ。生き方を定める上で楽な方法を見つけると、次第にその方法そのものに依存し始め支配されることがある。そしていつしか、全く別の物を求められたり完全な独立を促されたりした時に、抜け殻のように立ち尽くしてしまう。それを恐ろしいことだと憂えている内は、まだ正常なのだろう。

 

「だから僕は、事を解釈の範囲だけに収めようとするんだ。例え話や補足のソースにはしても、自戒の教訓には決してしない。人の精神は鶏と違って、必ず卵から始まる」

 

 僕は一度立ち止まり、清隆の眼を視る。彼もこちらの様子に気付き、視線が交錯する。

 

「――自分のことを自分の言葉で語ろうとしない奴は、きっとどこまでも生きづらいんだ」

 

 誰にだってそういう場面は訪れるはずだ。本心だろうが一時の出来心だろうが、生きるのを面倒臭いと思う時もあれば今を生きるって最高だなんて思うときもある。お調子者だとか都合の良い奴だとか揶揄されることもあるが、それは至極真っ当な揺れ動きだ。肝心なのは、どれだけの価値をどれだけ生に見出せるかだ。だからこそ、その一瞬一瞬に、自分が首を縦に触れるような『名前』を付けてやれたら、その人は幸せ者なのだと思う。

 上手く生きるというのは、きっとそういうことだ。

 これは僕の本当だから、真っ直ぐ訴えようと思ったのだ。

 

「自分の言葉で、か。考えてみれば、案外難しいことなのかもしれない。ふとした時に、委ねるように比喩や挙例へ逃げてしまうのは、万人共通悪い癖だ」

 

 軽く微笑む彼の表情は、しかと胸の内から宿ったものがあったからだろう。僕は満足げに頷いた。

 

「とすると、急にタンポポの話を出したのは、お前が自己分析した結果の表れということか? しかし、釈然としないな。どれもお前の本質に適応するかは微妙なところだが」

「そりゃあ合わないだろうさあ。『黄色』じゃね」

 

 既に僕らの帰るべき寮が顔を見せ、初回から遠回りを決行した下校もそろそろお開きといったところだ。気付けば蝶たちは川辺へと移り、優雅に飛び回っている。

 

「どういうことだ?」

「今の僕に相応しいのは、もっと褪せた色のタンポポさ」

 

 そう言って僕は――自分の端末を取り出し、清隆の前に差し出した。要領を得なかったようで、彼は首を傾げる。

 

「その意思表明だと思ってくれていい。言葉を当てにしない最も簡単な方法は、『まず動く』ことだよ」

 

 呆けた顔を刹那見せ、清隆は嘆息を漏らした。

 

「遠回しにも、程がある」

「アオハルなんて、多少回り道した方がちょうどいいのよねえ。今の僕らのようにさ」

 

 具体的な感情までは測り切れなかったが、その緩んだ頬は、彼の色の存在を実感させるものだった。

 これからどんな日々が待っているのだろう。遠い未来に思いを馳せる。

 ちょうど、あの川のせせらぎのように穏やかなのだろうか。それとも、快活な蝶たちのように心弾むのだろうか。

 いずれにせよ、この自由は僕に新たな気色をもたらしてくれるはずだ。

 そこには、君もいるのだろうか。全くもって根拠のないエキセントリックな自信だが、これくらいの楽観視は天も見逃してくれるだろう。

 今はもう、僕自身に何かを求めるなんておこがましいことはできないけれど、この新天地なら、この男なら、それこそ僕の深淵を包みこんだ暗闇を照らす、星のような瞬きを見せてくれるかもしれない。

 

 ――君は、どんな色を見せてくれるんだい?

 ――君は、どんな色を与えてくれるんだい?

 ――すぐ側で測らせてもらうよ、綾小路清隆(盟友)

 

 かくして、僕の連絡帳に、一人目の名前が登録された。

 

「改めてよろしくなあ、清隆」

「ああ、こちらこそよろしく、恭介」

 

 出来立てホヤホヤの友情を、宝石のようにじっくりと確かめ合い、僕らは各々の部屋へと足を向けた。

 高いところから見える景色はどんなものだろうかと、不意に途中で振り返る。

 自宅の据える住宅街と違い、しばらく途絶えそうにない人の往来や、嫌でも目に付く幾つもの高台、そして華やかな自然は何とも壮観で、初心な僕には真新しいものだった。なるほど、確かに一つの街だと誇るには十分だ。

 今日一日の収穫を噛み締め、新居の扉をゆっくりと開ける。

 踏み入れる直前、どうしてか、先よりも一頭増えた蝶たちの、キラリと飛んでいく音が聞こえたような気がした。

 それは(まさ)しく、安らぎと希望を謳う(うた)だった。

 




2月28日の誕生花――『月桂樹』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スナップショット~枯樹生華~

日常寄りなこのシリーズが一番書くの楽しいのは内緒。


「連絡先を交換しましょう」

 

 彼女の色を垣間見た後、折々会話を重ね帰り道も後半に差し掛かったところで、椎名が問いかけた。

 横目で表情を窺うが、初更の夕日が眩し過ぎてすぐに目線を戻してしまう。やれやれ、君は下界を上手く照らしてこそ芸術的価値が生まれるものを。視界で一番に輝いてしまっては鬱陶しいだけじゃないか。全く画にならん。

 

「藪から棒だなあ。まあ喜んで交換させてもらうけど」

 

 彼女なりな一歩だったのだろう。どこか安堵した表情に変わった。どこぞの鈴っ子とは違って僕は堅物ではないのだが……距離のあるやつだとでも思われているのだろうか。短時間とはいえそれなりにお近づきになれたつもりでいた故に合点いかんな。

 

「やり方はわかるか?」

「いえ。教えてくれますか?」

「オーキードーキー」

 

 二つ返事で了承し、お互いに端末を取り出して肩を寄せ合う。この距離は……イマドキの思春期男子ならドキドキしたりするのだろうか。何だか悔しいが、今の僕には少し理解し難い。僕の『シシュンキ』は疾うに過ぎ去ってしまったようだ。

 椎名の場合は……やはりまだ来ていないのだろう。将来読書が恋人だなんて言い出さないように陰ながら祈っておこう。せめて本は友達程度であってくれ。

 よしなし事を思いながらレクチャーしていると、途端に彼女の指が止まる。何故だ? 今の言葉が声に出ていたわけでもないし、出ていたとしても気にするような質ではないと思っていたが。

 

「どうかしたかい?」

「その、このお二人は、浅川君が図書館で言っていた友達ですよね?」

 

 椎名は僕の端末の画面を指す。そこには連絡帳が映っていて、『清隆』と『鈴音』の名前が登録されている。

 

「ん、そうだけど」

「……下の名前で呼ぶんですか?」

 

 ……おや? 何だか僕のメンターが痙攣しているぞ。

 

「い、いやほら、僕は面倒くさがり屋でさあ。他人のことは楽な呼び方をしていきたいんだよ」

 

 咄嗟に真実で弁明するも、この状況では簡単に信じてくれないようだ。椎名の目が細くなる。

 

「普通そんなところにまでこだわりを持ちますか?」

「滅茶苦茶持つ。実際『椎名』と『ひより』だと『椎名』の方が呼びやすいだろう? 何なら清隆と鈴音に証言させてもいい。初対面の時から堂々と口にしていた言葉だ」

 

 少し補足を加えたものの……クソ、何故か発言する度に自分の言葉が薄っぺらくなってきている気がする。彼女は相変わらず頬を膨らませている。

 どこで間違えたっていうんだ。やはり連絡帳の画面さえ見せなければ……いや、元を辿れば彼女のためを思って連絡先交換の云々を教えてやろうとしたのが始まりだ。余計な善意は見せるものではなかったか。

 

「こういうのは受け取り手がどう思うかですよ」

「寛容になれ。読書と同じだよ。読解力を働かせるんだ」

「作者の文章力が不足していれば、読解以前の問題です。浅川君の考えが理解し難いと思うのは、私だけじゃないと思いますよ。友達のお二人も難しい顔をしていたんじゃないですか?」

 

 うぐっ、彼女の趣味に沿った返しをしたつもりが、逆に丸め込まれてしまいそうだ。確かに清隆も鈴音も微妙な表情をしていた。これは不利な土俵に上がってしまったかもしれない。

 

「え、えっとー、隠れた名作ってあるだろう? 奇怪な偉人と似て僕の感性は凡人に理解し難いのさあ」

「自分で言ってる内はどうしようもないですね。浅川君は私にとっては記念すべき高校一人目の友達なんです。せめて平等に扱って欲しいなと」

 

 まさかのダブルパンチ。感情にまで訴えてくるとは。そうまでして僕に下の名前で呼んでもらいたいのか。確かに状況を考えれば無理もないと言えるが。

 

「さあ、呼んでみてください。『ひより』って」

「う、うーん……」

「さあさあ」

 

 偉くせがんでくるじゃん。何と言うか、普段とは勝手が違うからな。呼称に親しみを込めた経験がないせいで、今まで感じたことのないような恥ずかしさが込み上げてくる。苗字が『高円寺』とかなら簡単に『ひより』呼びができたのに。

 

「ひ、ひよ、ひ、よ……」

 

 何とか頑張って呼んでみようとするが、椎名が期待の眼差しを向け始めたおかげで言いにくさが倍増する。心なしか瞳に眩しいひし形が見えるような。勘弁してくれよ、胃がもたない。ドキドキが止まらないじゃないか。焦りの意味で。

 ……よ、よし、ここまでお膳立てされてしまえば応えてやるしかあるまい。心して聞くがいいさ。僕渾身の特別待遇を!

 

「ひ、ひよ……ひより(日和)が良かったよなあ今日は!」

 

 ……やっちまったー。

 僕の滑稽な失敗に椎名はがっくりと肩を落とす。僕もしょげる。ごめん、無理……僕の方が日和ってしまった。根性無しと罵ってくれてもいい。そもそも出来上がっちゃってんのよ。呼ぶのが恥ずかしい空気ってやつが。

 何か報酬があれば、もう少し頑張れるかもしれない……。

 

「そういう君こそ、僕のことを苗字で呼んでいるよなあ」

「私ですか? 私は浅川君と違って誰にでも等しく苗字呼びですから」

「いやいや、自分から言うのもおかしいが、君の友達は今のところ僕だけなんだろう? だったら他の人と区別してくれたって良いじゃないかあ」

 

 君が『恭介』と呼んでくれるのなら、僕も勇気を出せそうだ。卑怯だという自覚はあるが、向こうから頼んできた案件なのだからある程度は妥協していただきたい。

 どうやら椎名にとってはそれなりに魅力的な提案だったようで、結構本気で考え込んでいた。

 

「……もう少し時期を置いてからで」

「だろう? そういうもんさあ。果報は寝て待っていなさい」

「むう……」

 

 どうやらぐうの音は出ずともむうの音は出たようだ。正論だから言い返すことはできないだろう。

 とは言え、気落ちしたままの友人と残りの帰路を共にするのは忍びない。何か代案はないだろうか。

 ……そういえば、彼女の態度にずっと気になっていたことがあったな。

 

「じゃあ、タメ口にしてみるのはどうだ?」

「タメ口、ですか?」

「ああ、いつまで経っても敬語だったから、律儀過ぎないかと思ってたんだよ」

 

 親しくなっても『です』や『ます』を付けて返されるのは少々合点いかん。男子は勿論のこと、鈴音も櫛田も初対面から堅苦しい口調ではなかったし、僕の性格上、もう少し砕けてくれた方が接しやすい。

 しかし、僕の提案も虚しく椎名は首を横に振る。

 

「尚更難しいですね。既に染み付いてしまったものですし」

「無理かあ。なら今は様子見だなあ」

「浅川君は初日から他の友達を下の名前で呼んでいるみたいですけどね」

 

 根に持ち過ぎだろう。さっきよりも少しそっぽを向いてしまっている。

 呼び方とはそこまで大きな意味を持つものなのだろうか。アイデンティティーや存在観念としての重要性はあるのだろうが、人との交わりに意味を求めるのはお門違いな気がする。結局は自分が何を思い何をするかというところに帰結するはずだ。

 

「嫌味か。そう拗ねるでない。苗字だろうが名前だろうが、僕は君をめんこい友人だと思っているよ」

「意外ですね。浅川君が他人の容姿を褒める人だとは思いませんでした」

「不必要にはしないさあ。でも余計な取り繕いもしない主義でね。本当に綺麗だと思ったときにはちゃんと言う。花は咲き誇っている時にこそ美しさを語るべきだとは思わないかい?」

 

 何も喜ばせようってつもりで言葉にするわけではない。どちらかと言うと自分の心で噛み締めるという意図が強い。態々自分の感性を何でもかんでも隠すことはないだろう。

 

「そうでしょうか。幼げなつぼみや枯れる暮れにも美は見出せると思いますが」

「そうかもなあ。でもそれは取るに足らない美しさだ。全て列挙して等価値にまとめてしまったら、花が種から始まり、満開になり、やがて地に還るという顛末に芸術的な意味が失われてしまう。だから、つぼみはどこまでいっても未完成で、枯れるとは確かに衰えるということなんだよ」

 

 こうやって形而上的で哲学的な話にも興味示してくれるのは彼女の善い所だろう。思わず勢いづいて自分だけがペラペラと喋ってしまいそうだ。こうも聞き上手なのに友達ができないなんて、この世は図らずも理不尽だ。

 

「それは……それだと、あまりに悲しくはありませんか?」

「案外人の世だってそんなものさ。働き盛りな世代が躍進して、僕らは事ある毎に『これだから若い子は』と呆れられ、年配者は『上げ膳据え膳の年金暴食者』と貶される。いやーまっこと世辞辛いものだよ」

「芸術に現実を持ち込むのはナンセンスでは?」

「写実主義さ。美を語るだけでなく、不美を美しく語ることもできるのが人の真価だ。さっきの花の話もそういうことだよ」

 

 僕の持論に椎名はふむふむと頷く。芸術云々は高校で習う内容だったはずだから、こういう話は珍しかっただろう。

 しかし、彼女はしばらくしてハッとした表情になる。お、やるじゃないか。僕の誤魔化しに対応できるなんて。

 

「って、話をそらさないでくださいよ」

「逸らしたのは君だぞ? おかしな皮肉をぶつけてくるから」

「浅川君が私をめんこいだなんて言うから悪いんです」

「えー、僕?」

 

 君が余計な皮肉を発さなければ僕が弁明することもなかったと思うんだがな。こういうときは男の方が大人しく引き下がるべきだと聞いたことはあるが、生憎男だからとか女だからとか決めつけるのは好きじゃない。

 

「そもそも、別に僕は話を逸らしたわけじゃないからな」

「どういうことですか?」

「僕らの関係は言わばつぼみ。そして君曰く下の名前呼びは友好の証だと来た。となればやはり、まだ機は熟していない。そうだろう?」

 

 どうにかして言葉を紡いでいく。行き当たりばったりな発言だが、それを上手く紐で繋いでいくのは僕の十八番だ。

 

「いかにも浅川君らしいセリフですね。段々わかってきましたよ」

 

 およ、嬉しいね。僕のノリをちゃんと理解してくれる人が身近にできるとは。やはり君は僕にとって貴重な存在だ。

 と言っても、僕がそういう風に作為しているというのも否めない。堂に入れば、大抵のキャラは受け容れてもらえるようになるものさ。

 

「でも、だからこそ悲しいと思ったんです」

「何故だい?」

「私たちの関係も、いつかは枯れてしまうものなのでしょうか……?」

 

 俯く椎名に僕は息を吐く。予想通りの返しだ。ここまで落ち込むのは想定外だったが、存外彼女は人間関係に敏感なのかもしれないな。

 そろそろこの談義もフィナーレといこう。何とか丸く収められそうだ。

 

「ふむ。君は、『枯樹生華』という言葉を知っているかい?」

「い、いえ、わかりません」

「困難の最中で突破口を見出すという意味や、転じて老人に生気が戻ることを表す。何ともご都合主義な話だよな」

 

 突拍子もないことや可逆の事象は画にしにくい。だが、人類の浪漫として扱えば、それを描くことも一種の美学と成り得よう。

 ただ、僕が言いたいのはそんなことではなく……。

 

「でもね、これは元々別の例えの言葉だったんだ。それは文字の通り、枯れたはずの樹に再び花が咲くということ。人と人との繋がりは、何度枯れても元通りに直る可能性は残されている。あわよくば、今まで以上に綺麗で、優しいものになることも……。楽あれば苦ありとか塞翁が馬とか言うのと同じで、人間関係も恒久の波に晒されているのさ」

 

 椎名は黙って聞いている。僕が真面目な表情で語るのを見て、今の僕が本当を話していることを悟ったのだろう。

 

「そうして生まれた意味は、『最上の真心が相手へと届く』こと。絆っていうのは確かに、長い時間をかけて深まっていくものなんだ。それまではまだ、敢えてこの距離でいるべきだと僕は思うよ」

 

 僕の思いを聞き遂げて、彼女は頬を緩ませる。彼女は頭が良いからな。僕の二つの意図をわかってくれたようだ。

 一つは、僕はまだ清隆とも鈴音ともあまり深い信頼関係を築けていないということを真に伝えることだ。僕だって人付き合いが上手いわけではない。呼び方だけで仲の良さを確認しようとするほど単純ではないのだよ。

 そしてもう一つは、約束だ。いつかはきっと、僕が躊躇わずに『ひより』と呼んだり、椎名が僕にタメ口で話せる日がくる。僕らなら、ぬらりくらりでそうなれる気がするんだ。

 

「……今回はしっかり締められましたね」

「人は学び、成長する生き物だからね」

 

 僕は最後に、連絡帳に三人目の名前を登録する。

 『椎名』、この二文字は他の二人の名前と同じ価値を持っている。これがもし別の文字に変わったら、それは大きな意味を持つはずだ。

 椎名の連絡帳にも、『浅川』という表現で僕の番号が登録されている。

 互いにそれを見つめ、ふっと微笑む。

 再び歩き出してから横目で隣を窺うと、夕日は既に地平線に隠れ始め、彼女の顔が良く見えた。

 ……自然体、か。綺麗なもんだよ。

 僕らの肩は、触れる距離ではないものの、さっきよりも幾分か近くなったような気がした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スナップショット~ヨシエ~

サブタイはこんなんですが、今回は何というか、恭介の行動の当時を描いた感じですね。


「どれを押すんだ?」

「これよ」

「ほうほう。それで、この後は……?」

「こうするんじゃないか?」

「えーっと……お、できた。ありがとうなあ」

 

 入学から一週間経ち、学校の雰囲気にも少しずつ慣れてきた頃、僕は清隆と鈴音から学生証カードの使い方をレクチャーしてもらっていた。

 通話やチャット程度なら元来愛用していた携帯で履修済みなのだが、機械に疎い柄はそのままであるため、GPSの位置情報云々や残高照会云々はさっぱりだった。

 

「本当にからっきしなのね。コンビニの会計ですら躓くだけのことはあるわ」

「そうは言っても、具体的な説明も無しに支給された端末だからな。特にポイントのやり取りについては、梃子摺っても仕方ないだろう」

 

 呆れる鈴音とフォローを挟む清隆。今まで散々繰り返されてきた構図だ。その渦中に僕がいるということも含めて。

 

「ごめんなあ。老いぼれにはチンプンカンプンなのだよ」

「同い年でしょう……デジタルが発展してきた現代社会で、それは致命的よ」

「肝に銘じておきます……」

 

 自分の無知加減はわかっているつもりだ。事実、これからはITの学習もしてみようかなんて思ったりもしている。高校生になるまではなかなかそんな時間は取れなかったからな。『新しきを知る』ことには強い関心がある。

 

「にしてもこのポイント譲渡ってやつ、意外とセキュリティはガバガバなんだなあ。パスワードくらい設定させても良かったと思うけど」

 

 どうやらお互いの端末が揃っていれば、その場で簡単に譲渡ができるらしい。もしどこかで落として偶然他の誰かが拾ったら、知らない内に破産してしまうかも。

 

「オレたちのクラスでは、案外頻繁に利用されるかもしれないな」

「頻繁に?」

「ああ、確かにねえ」

 

 鈴音はピンときていないようだが、僕は清隆が言っている意味を理解できた。

 ここ一週間のクラスの様子は、はっきり言って最悪だ。クラスの評価がポイントの支給に反映されるとしたら、恐らく来月から鮮少な額で生活をする羽目になる。

 大抵の生徒は切り詰めた消費に専念するだろうが、中にはそれでも事足りない連中はいるだろう。そいつらは何かを対価にしてポイントを手に入れたり、友情を盾にポイントをせがんだりするはずだ。更に言うなら、前者は娯楽に惹かれがちな男子に、後者は同調意識やヒエラルキーに敏感な女子に多いだろう。

 なるほど、ポイントのやり取り、そう考えると色んな用途に使えそうだ。何らかの交渉に用いられるケースも起こり得る。

 ――ふむ、ならば……。

 

「なあ二人共、ちょいとそれ貸してくれ」

「え? だが……」

「悪いようにはしないから、ほら」

 

 戸惑いを隠せない清隆だったが、僕を信じて渡してくれた。

 

「……何をするつもり?」

 

 依然訝し気な態度を取る鈴音だが、同じように宥める。

 

「機械音痴の僕にできることなんてたかが知れてるだろう? すぐに返すから」

 

 自虐の混ざった真っ当な意見に、渋々彼女も了承してくれたようだ。

 二人の端末を並べ、自分のものと交互に操作すること三十秒。動作完了の音声が鳴ったのを確認し、持ち主に返した。

 

「何をしたの?」

「さあ、何をしたんだろうなあ」

 

 意味もなく惚ける僕に鈴音は青筋を立てる。そういうところだぞ。ベースは優れているんだから、後は日頃の努力。頬を膨らませるなりして愛嬌を身に付けなさい。

 

「……恭介。これは、どういうことなんだ?」

 

 どうやら清隆はすぐに気が付いたようだ。訳が分からないといった顔で僕らの目の前に端末の画面を突き付ける。

 そこには『140143pr』と表示されていた。

 目を見開いた鈴音は、自分の端末の方も確認する。そこにも同じように、直前よりも五万弱増えたポイントが映っている。

 

「あなた、どうして……?」

「うーん、信頼の証みたいな? 老いぼれからの入学祝ってやつだなあ」

「御託はいらないわ。聞きたいのはそこではないし」

「御託でも何でもないんだけど……他人の親切は素直に受け取っておくべきだぞ?」

 

 実際、信頼しているからこそこうしてお金を預けようとしているわけだからな。嘘は言っていない。

 ……ん、聞きたいのはそこじゃない?

 

「あなた、この一週間で1ポイントも使っていないの?」

「そんなことない。カップラーメン買った」

「それ以来使っていないのね……」

 

 呆れた顔をする鈴音だが、何がそこまで疑問なのだろう。生活に必要なものは全て無料の物で賄えるのだから、全く以て普通のことだと思うのだが。

 

「衣食住に支障が出そうだな」

「ところがぎっちょん、案外何とかなるんだよなあこれが」

「何か秘訣でもあるのか?」

「いや、電気、ガス、水道の三銃士全て学校側の負担だし、衣服は制服と自前の部屋着でどうにかなる。食事も最低限は保証されるからなあ。強いて言えば、最大の秘訣は『我慢』、だなあ」

 

 尊敬か心配かわからないような目をされた。いやいや、本当にそうとしか言えないのよ。我慢さえすれば人間何とでもなる。ホームレスじゃないんだからな。生きている限り、打たれ強さには自負があるのだ。

 

「倹約も過ぎればただの甲斐性なしよ。周りから気味悪がられた暁には、それはもう救いようがないでしょうね」

「何故そこまで言われねばならん……。僕の消費事情なんて誰も興味持たないさあ。それに、君らは受け容れてくれるんだろう?」

 

 思わぬ返しに、鈴音は少し照れくさそうに「まあね」とだけ言った。隣を見ると、清隆はあからさまに嬉しそうに頷いている。止めとけ、鈴音に気持ち悪がられるぞ。

 

「だとしても、全額預けられるこっちの身にもなって欲しいものね。私でさえ罪悪感を覚えるわ」

「もらえるものはもらっておけ。後で後悔するかもしれないぞ」

「ならあなたは、使えるものを使える内に使っておくべきよ。端末をよこしなさい。返すから」

 

 そう言って彼女は僕の机の上に置かれた端末をぶんどろうとするが、それよりも先に僕が手に取りポケットに入れる。

 

「使い道を見出せないものを持っていても宝の持ち腐れってもんだろう? 君らなら()()()()()()使()()()ができるはずさあ」

 

 僕が梃子でも考えを変えないことを悟ったのだろう。彼女は一つ溜息を吐き、それ以上の追及はしなかった。

 清隆の方はと言うと、少しムッとした顔をしている、ように見える。一瞬眉をピクつかせたし、多分意図を理解してくれたのだろう。瞬きで謝罪の意を示すと、鈴音とは別の意味の込もった溜息を吐いた。僕は吐息製造機か。合点いかん。

 確かに余計な好奇心でパンドラに踏み入れることのある僕ではあるが、今のところは生粋の面倒臭がり屋として堅苦しい取引は全力で避けたいのだ。もしも僕が君らと同じ航路を往くと決めた時は、返してもらう時が来るかもしれないな。

 

「それで、今日もあなたたちは食堂で食べるの?」

「僕はそのつもりだけど、二人は?」

「お前が行くならオレも行こうかな。残念ながら、他に一緒に食べる相手がいないもんだから」

「悲しい友情ね。互いにしか頼れないからこそ一緒にいるだなんて」

「ズッ友ってやつだなあ。……ごめん、そんな白けた目しないで。君は一緒に来ないのかい?」

「ええ、弁当を持参しているから。昨日行ってみた感じだと、きっとうるさくて敵わないでしょう?」

 

 なるほど、確かに彼女の言う通りだ。往来する人々のやたらハイなテンションからして、新入生が多いように見えた。今日もその興奮が冷め止まない可能性は十分にある。半ば無理矢理連れてきてしまうことも多かったし、今回は彼女の好きにさせてやろう。

 

「なら、僕らだけで行こうか。早速祝い金の使いどころだなあ清隆」

「そうだな。お前がそこまで言うなら、一度くらいはありがたく使わせてもらうぞ、ズッ友」

「……悪かったって」

 

 鈴音の気持ちがよくわかった。僕らがそんなワードを使うと、妙に痛々しい。

 

 

 

「今日は何にするんだ?」

「折角だからな。スペシャル定食でも頼んでみるか。お前は?」

「愚問だぜえ」

「……ボリューム満点そうだから、オレのを少し分けてやるよ」

 

 僕が進んで渡したポイントなのだから、それで得たものを態々僕にくれてやることもないだろうに。彼の心遣いに感謝する一方、多少の歯がゆさを覚えた。

 今日も変わらず盛況している列に並び、職員の顔が視界に映る。

 僕は厨房で作業する大人たちを、向こうに悟られないよう気を付けつつ観察し始めた。

 

「最初にここへ来て以降やたら見つめているな。気になるものでもあるのか?」

「いやあ、ちょっと考えていることがあってなあ。まあそろそろ前段階に入るかあ」

 

 首を傾げる清隆そっちのけで、僕はそそくさと席を探しに動いた。

 もう少し時間を置いて、列が空き始めたら話しかけようか。

 程なくして、二人でいただきますの挨拶をし、注文した料理を食べ始めた。

 途中清隆が宣言通り僕にハンバーグを半分分けてくれたが、この時はもう躊躇わなかった。清隆が僕に分けようとしたのは、無料の定食とスペシャルな定食を食す二人の構図を見る周囲の視線を恐れてのことであると気付いたからだ。対極的な食事を取るペアは確かに奇妙に見られる。

 

「へえ、もう付き合ってるのかあ、あの二人。どっちもカースト上位って感じだし、お似合いなのかねえ」

「櫛田が言うには、べったりってわけでもないらしい。まだ初々しさがあるからかはわからないが、一定の距離は維持しているんだと」

 

 他愛もない話を広げていくうちに皿の上は綺麗になり、のんびり立ち上がりトレイを返却しに行く。

 こちらの動きに気付いたようで、厨房の方で女性が一人返却口の近くに移動し待っていてくれた。

 

「ごちそうさまでした」

「はいねえ。お粗末さま」

 

 辺りにはもう生徒はいないため、職員も余裕を持って話せるだろう。僕はこの学校で初めて、自分から大人に話しかけた。

 

「学食ってこんな美味しいんですね、知らなかったです。さすが政府運営の学校ですね」

「あらそう? 満足してくれてるなら嬉しいわあ」

 

 そう言って朗らかな笑顔を見せる彼女は、僕と鈴音の中間くらいの背丈をしている。顔立ちからして三十路前後だろうか。

 

「ええ。山菜定食だって無料だとはとても思えないくらいで、苦味と旨味のアクセントが抜群で食べやすかったですよ」

「金欠で困ってる生徒でも利用できるようにって言う学校側の方針だからねえ。そこまで褒めてくれるなら、毎度毎度丹精込めて作っている甲斐があるってもんだよ」

 

 やはり彼女は、()()()()()()()()()()()()()()だったようだ。一つの安堵を覚え、僕は話を続ける。

 

「他におすすめとかってあるんですか?」

「そうねえ。どれも腕に縒りを掛けたものばかりだけれど、チキン南蛮やオムライスなんかはおすすめかしら。――ところで、口振りからして、あなた一年生よね? どう? ここでの生活は」

「えっと、浅川恭介です。浅川で結構ですよ。――そうですね、全寮制とかSシステムとか、まだ慣れないことだらけです。ただ、新鮮で面白いなとは思ってます」

「うんうん、そうでしょそうでしょ? 他の高校とは違うところが多いから、最初の方はあたふたしちゃうと思うわあ。もしわからないことや聞きたいことがあったら相談に乗ってあげるから、遠慮なくいらっしゃい」

 

 ほう。向こうからそう言ってくれるとは、想定以上に柔らかい性格だったようだ。純粋に話していて心地いい。

 

「ぜひお願いします。あ、でも、偶には雑談にも付き合って下さると嬉しいです。その、あまりクラスに馴染めなくて、友達も多くないので」

「ふふっ、いいわよ。なかなか私たちに話しかけてくれる生徒もそういないから、寧ろ私の方こそ楽しんじゃいそうねえ」

 

 心から発せられた言葉に、僕は素直に感心する。厨房の職員と話そうとする生徒がいないことは事実なのだろうが、それでも相手の我が儘を快く受け入れてくれる彼女のことを、僕は『善人』だと判断した。僕の人生で未だ片手の指に収まる人材の仲間入りだ。

 

「できれば、お名前を教えていただいてもよろしいですか? 次に話しかける時にやりやすいんで」

「ヨシエさんって呼んでくれればいいわよ。それと、そんな堅苦しくしなくてもいいわあ。拙い敬語は会話の熱を下げちゃうものよ?」

「い、いやあそれはさすがに……でも、じゃあ少しは肩の力を抜かせてもらいますかねえ、ヨシエさん」

 

 僕の答えに、ヨシエさんは満足げに頷いた。そして次には、完全に蚊帳の外になっていた清隆にも目を向ける。

 

「あなたは、浅川君のお友達?」

「え……えー、はい。綾小路清隆です」

 

「そう。綾小路君も何か困ったことがあったら、気軽に話しかけてねえ」

「……はい。よろしくお願いします」

 

 清隆もヨシエさんの声に毒気を抜かれたようだ。表情を緩めて応える。

 

「ヨシエさん、すみません! ヘルプいいですか? これの使い方がわからなくて」

 

 話が一区切りついたところで、厨房の奥から慌ただしい声が響いてきた。どうやら設備に慣れていない新人が助けを求めているようだ。

 

「はーい、すぐ行くわあ。――それじゃあそろそろ戻るわね。二人共、仲良く楽しいスクールライフを送ってちょうだい。高校も青春も一度きりなんだから。応援しているわあ」

「ええ、また来ます」

「ふふっ、待ってるわ」

 

 優しい微笑みを浮かべて、彼女は作業場へと戻って行った。

 

「いい人だったな。何だかふわふわしていたが」

「ああ、将来あんな人と添い遂げたいもんだあ」

「ほう。恭介はああいう人がタイプなのか」

「あっはは。どうだろうねえ」

 

 タイプ、と言うと少し違うような気もするが、少なくとも大いに好感を持つだろうな。

 ……それにしても。

 一度きり、か。

 確かに、この青の時代にこそ最大の自由が秘められているのだろう。そう思うと、例えどれだけ異常に塗れた学校だったとしても、こういう変哲もない時間の価値が垣間見える。

 

「……清隆」

「何だ?」

「……僕ら、ヨシエさんの言ってたようなスクールライフを送れるといいな」

「……そうだな。応援に応えてやらないとな」

 

 初めは賄いという利益を求めて立てたプランだったが、それよりも大きな何かを得られたような気がする。

 その後幾たびの会話の中で、僕の近況を伝えたり、彼女のことを知っては揶揄われたりを繰り返すことになるのだが……。

 何はともあれ、これがヨシエさんとの邂逅の顛末だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スナップショット~トップ4~

自分もしかしたら、キャラの欠点描くの苦手かもしれない。


「それじゃあお二人さん。準備はいいか?」

「ああ、勿論だ」

「おう、いいぜ!」

 

 僕の問いかけに根気強く応える二人。僕は彼らの勇姿を見届けるべく、片手を前に掲げる。

 

「どっちが勝つのかな?」

「さあ。でも、ちょっと楽しみだなあ」

「そうだね」

 

 傍らに立つ少年も、これから始まる一戦に興味深々なようだ。

 

「よっしゃあ行くぞー。位置について……」

 

 号令に従って、二人は目付きを鋭くさせ、姿勢を低くして構えた。二人の醸し出す気配に釣られ、こちらも視界の縁が朧気になって行く。

 

「よーい――ドンッ!」

 

 僕が掲げていた手を勢いよく天へ振り上げるのと同時に、走者たち――清隆と健は、矢の如く軽快に走り出した。

 

「がんばれー!」

 

 隣から黄色い声援が上がる。尤も、その主は女子でも児童でもない。可憐な外見を具える少年――沖谷は、近所迷惑にならない程度の声量で二人を応援する。

 

「……いんやあ、青春だねえ」

 

 遠ざかっていく二人を眺めながら呟き、僕は事の経緯を回想する。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「へー。すると君は、将来はプロのバスケットボール選手になるわけかい?」

「そうだな。この前の部活でも、先輩たちが俺のプレーを褒めてくれたし絶好調だ」

「崇高な夢だなあ。尊敬するよ」

 

 健と沖谷と連絡先交換を済ませ、僕ら四人は暫し雑談に興じていた。

 僕と沖谷の中性的な見た目に反して、随分とガタイがよろしい健に話が回り始まったのが、現在のバスケ談義である。

 

「見上げた向上心だな。オレはそんな風に目指しているものがないから羨ましいぞ」

「僕も運動はあまり得意じゃないから、力持ちな須藤君が羨ましいな」

「へへっ、そうか?」

 

 僕らからの尊敬の眼差しに、健は満更でもなさそうな顔をする。どうやら彼、バスケのことに関しては偉く素直になるようだ。とても自己紹介で声を荒げていた少年には思えない。

 

「でも、あれだなあ。見たところ体つきもしっかりしているから、他のスポーツも熟せそうだなあ」

「運動全般、得意だし好きだぜ。今日の水泳も一番速く泳げる自信があるからよ、見ててくれよな」

 

 「そいつは楽しみだあ」と返したものの、仮にレースが行われたとして、彼が一位を取ることはまず無理だろうと考えていた。

 最有力候補は勿論六助だ。あの純と肩を並べられる運動神経を誇る彼に、そう易々と対抗できるとは思えない。

 そして恐らく、清隆も頑張れば健に負けず劣らずな能力を発揮できるはずだ。見た目だけで他人の能力を分析するだなんて超人的なマネができるわけでもない上、正直盟友補正が掛かっているかもしれないが、少なくとも平均よりは上だろう。

 

「そういえばお前ら、いつも何時ごろに登校してんだ?」

 

 すると突然、話の矛先が僕と清隆へと向けられた。どうしてそんなことを聞くんだ?

 

「大体七時くらいだな。それがどうかしたのか?」

 

 僕の疑問を清隆が回答を添えて代わりに投げかけると、沖谷は目を見開き、健は納得のいった表情をした。

 

「じゃあやっぱ、あの時見えたのはお前らだったのか。どうりで見覚えのある顔に感じたわけだ」

「え、君、あの時間に起きてたことがあったのかい?」

「そりゃ当たり前だろ。あの時はちょうどランニングしてる途中だったんだ。たまに朝練で早めに出る時もあるぜ。何もしねえ日はギリギリまで寝てるけどよ」

 

 なるほど、合点いった。確かにコイツ、寝ぼけ眼を擦りながら入室する時とキリッとした目付きで入室する時が交互にあった気がする。毎度毎度遅刻寸前まで惰眠を貪っていたわけではなかったのか。

 

「お前らの方こそ、一体何のために早起きしてんだよ?」

「いや、別に何かあるってわけでも……なあ清隆?」

「そうだな。初めは恭介から『教室に一番乗りしてみないか』って聞かれて、数回繰り返す内にいつの間にか染み付いていった感じだ」

「マジかよ……。俺はちょっと朝が苦手だから早く起きんのも苦労するんだけど、目的も無しにそんなこと続けられるんだな」

 

 今度は健が僕らを称賛する。なんだなんだ、褒め合い合戦でもおっぱじめようってか?

 

「もしよかったら、偶には起こしにでも行ってあげようか? その、誰かと一緒だと、少しは目覚めも良くなるかもしれない」

 

 清隆がチラッとこちらを一瞥し、健にそんな提案をする。恐らく問題ないかの確認だったのだろうが、拒否する理由もない。寧ろ仲を深める良い機会になるし、喜んで乗らせてもらおう。

 にしても、まさか彼が積極的に他人と関わるアクションを起こすとは。四月も半ばとなったが、まだまだ友達づくりに貪欲なようだ。よしよし、お互いめげずに励んでいこうな、盟友よ。

 健は清隆の提案に迷う素振りもなく目を輝かせて承諾した。

 

「本当か!? マジで助かる。これで朝のトレーニングも一層精を出せそうだ!」

 

 彼の嬉しそうな表情からは、年相応な純粋さが見て取れた。殊、運動に関しては驚くほどに真っ直ぐだな。ある意味一番『青春』というものを謳歌しているのは彼なのかもしれない。無論、恋愛ではなく友情・努力・勝利の方向ではあるが。

 そんな健にうんうんと感心していると、クイクイと袖を引っ張られる感覚がした。

 

「ん、どうした、沖谷?」

「えっと……それ、僕もお願いしていいかな?」

 

 ……だから君、無意識な上目遣いはやめてくれよ。普通に頼んでくれれば快諾するんだからさ。別に強面ではないだろう? さっきも清隆に中性的な顔だって言われてしまったし。

 

「オフコース。そんじゃあ四人で仲良く学校へ一番乗りと行こうかあ。うーんと、名付けて、『トップ4』なんてなあ」

「ハハッ、何だよそれ! でも、やっぱトップってのは響きがいいな。スポーツマンの血が騒ぐぜ」

 

 早くに登校する意味と何となく強い感じの意味を掛けて付けた単語だったが、如何せん健には好感触だったようだ。

 

「『四天王』という表現の方がカッコイイかとも思ったんだが、変に堅苦しいのよりもそっちの方がいいかもな」

 

 い、いや清隆。『四天王』なんて名乗れる程大層なものでもないし、何よりちょっと痛々しさが過ぎるだけな気もするんだが……まあ気に入ってくれたならいいか。

 

「他の人がいる前で言うのは、ちょっと恥ずかしいかもしれないけど……」

 

 安心なさい沖谷君。この四人の関係を態々他人に自慢気に語る機会なんてそうないから。小恥ずかしかろうと、内輪ネタとして僕らだけで楽しんでいればいいのさ。……健が池と春樹辺りに言わないように釘は刺しておこうか。

 しかし、何だかいい雰囲気になってきたじゃないか。バスケもそうだが、趣味や好きな事から話を広げていくのは、定石なだけあって上手くいくものだ。僕のオリジナリティ溢れるネーミングセンスを笑いもとい嗤い飛ばせる程度には、この短時間で肩の力を抜けたらしい。

 

「ね、ねえ! ちょっと提案したいことがあるんだけど……いいかな?」

 

 早速四人の合同イベントが出来上がったことに喜んでいると、沖谷もおそるおそる手を挙げる。あまり堂々と発言するのが得意ではないのだろう。このグループではぜひともバンバン発言してくれたまえ。

 

「折角だから、須藤君のトレーニング、迷惑じゃなかったら僕も一緒にやってみたいな」

「おお、確かにそれもいいかもなあ。僕も最近体の訛りが甚だしくて、運動不足を実感していたんだよ。大丈夫か? 健」

「俺は構わねえぜ。ただ、あまりペースは合わせてやれないかもしれねえぞ? それでもいいなら大歓迎だ」

 

 元々彼がバスケ目的で励んでいるものなのだ。後から続こうとする僕らに態々構ってもらうわけにもいかないのは承知の上。こういうのは『一緒』であることに意味がある。

 

「よーし、ほんじゃあ早速、明日から実践していこうかあ」

「よろしく頼むぜ、浅川。綾小路もな」

「任せてくれ。トレーニング、楽しみにしている」

 

 その後一限目の開始が近いことに気付いた僕と清隆は、世間話はまた明日ということで、ひとまず席に戻ることにした。

 

「意外な一面を知ったな」

「確かになあ」

 

 健は第一印象に反して人情味があり、溢れんばかりの情熱を好きなことに注ぐ真っ直ぐさを持っていた。はじめは反抗期の延長線を歩んでいるのかと思っていたが、我の強さが如何せんあの集団意識と噛み合わなかったのだろう。

 沖谷にしてもそうだ。単に表情を曇らせがちなか弱い少年――こう見ると健と正反対なのかもしれない――というわけではなかった。自分の苦手なことに挑戦したり、ちょっとした憧れに対して前向きになれる明るさを持っていた。

 やはり、他人のことを知ることには大きな価値がある。もし知らなかったらと思うと戦慄することもあるが、距離を縮める上で欠かせないものだ。

 初めは自分たちの体裁を守るという陳腐な動機だったが、今はこの喜びを素直に受け止めるとしよう。

 

「明日が楽しみだなあ」

 

 Dクラスの南東トリオはきっかけが席が近いというものだったため、こういう形で小グループなるものが形成されたのは初めての経験だ。一種の親睦会とも言えよう明日への胸の高鳴りは決して小さなものではなかった。

 そしてそれは、清隆も同じようだ。

 

「そうだな」

 

 最小限の言葉で肯定した彼の表情は、ほんの少し穏やかに見えた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「ゴルゴルゴルゴルゴール」

 

 事前に付けておいた目印の直線が踏まれたのをこの目で確認し、僕は抑揚の少ない声で宣言した。

 

「よっしゃあああっ!」

 

 勝利を掴み取り、力強いガッツポーズと共に控えめな雄叫びをあげたのは――健だった。

 寸分の差で遅れて線を踏んだ清隆の方はと言うと、全力で走っていたかは怪しい息遣いだった。咎めたところで折角の雰囲気を台無しにしてしまうだろうし、清隆自身も不満があってそうしているわけではないので黙っておこう。

 今やっていたのは1on1の徒競走だ。予め決めておいたルートを辿る何の変哲もないものだが、高校生になってもこういう対戦要素があるだけで案外やる気はみなぎってくるものだ。これより前には四十分程のランニングを終え、僕と健、清隆と沖谷、僕と沖谷、という組み合わせの順で徒競走を済ませていた。

 

「やはり速いな、須藤は。オレなりに頑張ってみたが、とても敵わない」

「さすがに帰宅部に負けちゃ話にならねえからな。でも綾小路だって凄いじゃねえか。走り出した時は思ってたよりずっと速くてびっくりしたぜ。フォームもしっかりしてたし、何か習ってたのか?」

 

 健の問いかけに少し動揺してから、清隆はボソッと答えた。

 

「……ピアノと茶道くらいしかやってなかったな」

「あれ? 君、前は茶道じゃなくて書道って……」

「……どっちもやってたんだよ」

「へー、そういうもんかあ」

 

 これまた意外、清隆はいわゆる文化系種目に興味が強いようだ。そんなに好きなら部活の一つくらいやってみればよかったのに。確か椎名は茶道部だったから、そこでコミュニティを繋げるのもアリだったし。

 

「何にせよ、楽しかったぜ。闘争心が出てやりがいもあったし、何でもやってみるもんだな」

 

 そう言って健は汗で煌めく頬を拭い、スポーツドリンクの蓋を開けた。

 

「学校でもそれを飲むのかい?」

「あー、残しちゃもったいねえから、そうすることもあるな」

「糖分と塩分の過剰摂取になると危ないぞ?」

 

 僕の懸念を、清隆が代わりに訴えた。傍にいた沖谷が首を傾げる。

 

「そんなに危ないの?」

「ペットボトル症候群ってのがあってなあ。代謝が追い付かなくて、体がダル重くなったり、喉が渇いたり、最悪、嘔吐や腹痛から死に至ることもあるんだ」

「そうなんだ、怖いね。――でも、喉が渇く?」

「ああ、その症状を給水不足だと勘違いして再び摂取して、更に喉が渇いてまた飲んでしまうという悪循環が発生するわけだ」

 

 良く知っているな……。僕は純や『先生』との会話で覚える機会があったが、清隆はどこでそんな知識を身に付けているのかやら。

 僕らの解説に沖谷は感心し、健は頷きながら質問を重ねる。

 

「じゃあ何で水分補給すりゃいいんだ?」

「トレーニング中なんかはスポドリがいいんだけど、その後は普通に水を飲んだ方がいいなあ。因みに、お茶なんかはあくまで嗜好品で、飲み過ぎると睡眠の質が落ちたり、貧血の原因になったりするから気をつけなあ」

「もしかして、カフェインのせい? 脱水症状が出るとかって聞いたことあるけど」

「いや、確かにカフェインが原因の一つだが、シュウ酸やタンニンも体に悪影響を及ぼすんだ。それに、最近じゃカフェインが脱水症状を引き起こしているのかどうかは疑われつつあるから、それだけが全てというわけでは決してないぞ」

 

 一通り質疑応答を終えると、二人はどこか引き攣らせたような顔になった。

 

「お前ら、何でそこまで知ってんだよ……」

「シュウサンとかタンニンとか、僕たちまだ習ってないよね……?」

「まあその手のことについて博識な大人から教えてもらってなあ。特に健なんかは、今後バスケで躍進する上では多少こだわりを持ってみるのもいいんじゃないか?」

 

 体調管理や栄養管理に気を遣っているプロの選手は多い。専属の栄養管理士をつけることだって珍しくはないが、本人もある程度基礎知識を身に付けておいて損はないだろう。

 それに直近的な意味で言えば、健の浪費防止にも繋がる。糖分、塩分、脂分、要らないものに限って高くつくのだ。話を広げれば娯楽関連もそう。食生活を健康的な範囲に留めたり、毎日の飲料物をミネラルウォーターに変えるだけでも、大きく消費を節約できるだろう。

 

「そうだな。体調崩してパフォーマンスが落ちるだなんてダセぇ目には遭いたかねえし、偶には気を付けてみるわ」

「早寝早起き、そんでもって生活習慣丸ごともなあ」

「オカンか何かかよ、お前は……」

 

 僕の過保護な態度にげんなりとする健だが、彼相手ならこれくらい献身的にでもならなければ直せるものも直らない気がする。その内やるか? 『須藤健生活習慣改造計画』とか銘打って。

 

「でも、これから朝はお前らが起こしてくれんだろ? あんま規則正しい生活ってのは自信ねえけど、だったら心配要らねえと思うけどな」

「頼ってくれるのは嬉しいが、最後は自分でできるようにならなきゃだめだろう」

「一緒に頑張ろうよ、須藤君」

 

 清隆の尤もな意見と沖谷の切磋琢磨な激励に、健は困ったように頭を掻き、やがて小さく頷いた。

 

「そう、だよな。こういうのはやっぱ自分でやれるようにならないといけねぇよな。悪い、こんなことで弱音吐いちまって。――沖谷、頑張ろうぜ!」

 

 「うん!」と朗らかに笑う沖谷と、それに対して元気そうな笑顔を浮かべる健。彼のスポーツマンとしての向上心が、正の方向に働いてくれたみたいだな。

 それにしても、共通点から生まれる友情、シンパシーか。何だか、僕と清隆の初対面と似たものを感じる。傍から見れば接点の持ちにくそうな二人だが、思わぬところから絆は芽生えてくるものだ。

 

「よっし。じゃあ今度は俺と沖谷、浅川と綾小路だな。どっちからやる?」

 

 感慨に耽っていると、健が次の組み合わせに進むよう催促する。確かに、これ以上は少々休憩が過ぎるかもしれない。

 

「おー、じゃあ僕らからやろうか。行けるよなあ清隆?」

 

 出来心の湧いた僕は、少し揶揄うような眼差しを清隆に向ける。彼は(ギョ)ッとした表情で僕を見返した。

 

「お前……オレは見ての通り、古新聞みたいにくたくたなんだぞ」

「あっはは、ちょいと強めな負担を掛けた方が鍛錬になるってね」

 

 僕は清隆の背中を押してスタートラインへと向かう。沖谷だって連続で走ったのだから、これくらい張り切ってやって欲しいものだ。それに――。

 健と沖谷に声が届かない距離になったところで、清隆に小声で話す。

 

「いっちょ全力疾走してみようかあ。蝶と遊んだ時は加減してたろう?」

「……! い、いや、オレは目立ちたくは――」

「この場にいるのはあの二人だけだぜ? 二人で何とか誤魔化せるって。きっと風が気持ちいいと思うからさ、やってみやってみ」

 

 ポンッと優しく彼の背中を叩き、健に「準備オーケーだあ」と知らせる。

 僕としても、少し不思議な気分だった。まだ底が深いかもしれない清隆の全力を一度見てみたいという好奇心とか、それこそ彼をちょっと困らせてやりたいという悪戯心とか、色々あるけれど……何より、ただ単純に、この盟友と一緒に走りたかったという願いが一番な気がする。言い様の無い合理性皆無な欲が珍しい僕にとっては、驚くべきことだった。

 清隆は未だ逡巡する仕草を見せ、辺りをキョロキョロと見回していたが、やがてフッと息を漏らし、前を見据える。

 

「少しあつくなってきたなと思っていたんだ」

「それは暑いのか? 熱いのか?」

「どうだろうな。どっちもなのかもしれない」

「はっきりしないなあ」

「お前に似てきたのかもな」

 

 そう、なのか? 適当だったりはぐらかしたりすることは確かに多いのかもしれない。こんなところばかりうつっても仕方がないと思うのだが――存外悪くないと思っていそうな彼の顔を横目で確認し、そんな考えは早々に引っ込んだ。

 

「なら、どうする?」

「少し風で涼むのも、いいかもしれないな」

「オーライッ! 楽しんでこうかあ」

 

 僕らのやり取りが終わったタイミングで健の掛け声が耳に届く。彼の隣には、先程と同じように健気な応援の眼差しをこちらへ向ける沖谷の姿があった。

 スポーツマン、可憐な少年、無機質男、そしてマイペースな僕。こう見ると、何ともバラバラな四人組だ。なのにこうも自然な心地良さを感じるのは何故だろうか。

 

 ――青春だなあ。もしかしたら、あの頃よりもずっと真っ直ぐな。

 

 それを隣で構えるこの奇天烈な盟友と最も近くで送っているのだから、性格とか柄とかは案外関係ないのかもなんて、思ったりもする。

 スタートの合図とともに、僕らは寸分の誤差もなく同時に一歩目を踏み出した。

 心の底からとか、屈託のないとか、そういう感情的なものともまた違う、無意味で自然な微笑みを、僕は浮かべていた。

 川のキラキラとした反射光が、視界の隅で風に揺られ、いつもよりやけに眩しかった。

 




須藤をここまで良いやつ感出させるつもりはなかったんや。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

綾小路清隆――恋愛観察

いやあ二か月って早いものですね。お久しぶりです。小千小掘です。

色々挨拶する前にまずお伝えしたいことが。僭越ながら、今までの話(特に序章)の描写をかなり修正しました。大まかな流れは変わっていませんが、ところどころ丸っと変わっている部分もあるので、気が向いたら確認してみてください。(一つ具体的に言うと、きよぽんがオリ主の苦悶に気付くタイミングが大分減っています。)


さて、どうして久しぶりに投稿する回がtipsなのかと言いますと、これまで長らくお待たせしていた原因と関係がございまして……普通に難航しています。

やはり原作キャラを再現するのがムズイ。本作の展開のための舞台装置感が否めない。という気持ちが拭えず頭抱えていたらいつの間にか二か月半経っていました。なので実質エタっていません。オリ主の性格も多分きっと恐らく見失っておりません。(ちょくちょく様子見に来てくれている方が万が一いるなら、各話の更新履歴を見て薄々まだ活動は続いていると気づいていらしたかもしれませんね)

妥協、と言うと言い方が悪いですが、そろそろ自分の力不足を大人しく認めて本編の続きも投稿できたらなと思います。

実は今後の展開についてお伝えしたいことや取りたいアンケートがあるのですが、それは本編の方で書きたいと思います。


「今から何人かで食堂に行こうと思うんだけど、誰か一緒に来ない?」

 

 その提案は、当たり前として定まりつつあった穏やかな騒めきに投じられた、刺激と言える一石だった。

 教室中に行き届いた声に、多くのクラスメイトの視線が一点に集まる。

 中でも、他人と関わることに内心鼻息が荒くなってしまいそうなほど必死になっている少年――綾小路は、人知れず猛烈な勢いで振り返った。

 尿意に従いトイレへ行き、戻って来た矢先の願ってもいなかった蜘蛛の糸。垂らしているお釈迦様はクラスのリーダー、平田洋介だ。もしかしなくとも、親睦会の意味を込めての発言だろう。

 早くも餌に群がる鯉のように、半数近くの女子が彼を囲み始めている。が、彼の困り顔から察するに、多少は同性とも食事を共にしたいと暗に嘆いているようにも感じられた。間違いない、間違いなくそのはずだ。

 大抵は浅川と堀北と昼休みを過ごしているものの、予め伝えておけば一方はやんわりと了承してくれるだろうし、もう一方は無愛想に催促してくるはず。

 ともなれば、これから自分の取るべき行動は決まっていた。

 これはまさしく、好機……!

 綾小路は、無駄に洗練された無駄のない無駄な動きで音もなく最速でメシアたる少年のもとへと接近する。

 

「ひら――」

 

 名前を呼ぼうとした、その時。

 平田は無惨にもこちらに背を向け、廊下を出て行ってしまった。

 ピタリと足を止め、その場で固まる綾小路。

 クソッ!

 あと一歩だったのだ。あと一歩で、束の間の至福な一時に漕ぎつけられそうだったのに……。

 平田は確実に自分の存在に気付いていた。現に一瞬、彼は自分と目が合っていたのだ。何なら口も開きかけていた。

 なら一体何がいけなかったのか。そんなもの一目瞭然だ。

 異性の集団に臆することなく突撃できるほど勇敢であれば、今の綾小路は既に交友関係に悩むことなどなかっただろう。

 特にあの軽井沢とか言う少女。女子カーストにおいて櫛田と双璧を成している彼女はやけに平田と親し気で、今しがたも急かすように彼の腕を引いて退室していた。あれは突如として現れた異物である自分への牽制に他ならない。「あんたなんかが平田君と一緒にご飯を食べようなんて思わないで、邪魔だから」と貶された気分だ。

 オレは、無力だ……。

 ともあれ今の綾小路がクラスで真面な権威を持っているはずもなく、自分が平田に釣り合わないというのは一概に否定できないことであるため、尚更肩を落としてしまう。

 思わず膝をつきそうになっていると、今度は背後から名前を呼ばれた。

 何だか前にも似たシチュエーションで似た声で呼ばれた気がすると思いながらゆっくりと振り返ると、予感した通りの人物が目に映った。

 

「桔梗……?」

「こんにちは。元気なさそうだね?」

 

 周りに人がごった返している中で彼女と話すのは初めてだ。池や山内など彼女の虜になっている一部の男子から突きさすような視線を向けられているのも、これまでになく冷や汗の滲む経験だった。

 

「ああ、たった今高度な駆け引きに敗れて苦汁を飲まされていたところだ」

「カケヒキ? クジュー?」

 

 櫛田は綾小路の目線を辿り、やがて「ああ」と納得した。

 

「平田君は人気者だからね。王子様に夢中になっている女の子ほど、押せ押せな人はいないと思うよ」

 

 なまじ慰めとも取れる対応をされたが、綾小路は意にも介さず自己嫌悪を重ねていく。

 

「押せ押せだと……? オレの方が、あいつに近づきたいと思っているはずだ。オレが、一番、あいつのことを……」

「あ、綾小路君……?」

 

 どんよりとした雰囲気を醸し出す彼に彼女はたじたじだ。

 受け取り方によっては特殊な恋心と間違われそうだが、友達づくりに難航している様子から単に友情を渇望しているだけだということは理解してもらえているようだ。

 彼女は苦笑しつつも会話を続ける。

 

「勇気を出して声を掛けれたら、平田君なら応えてくれるんじゃないかな?」

「まさに応えてくれそうだったんだが、女子の圧というのは凄いものだな。足がすくんでしまった」

「あはは……まあしょうがないかな。軽井沢さんに至っては平田君と恋仲だから、少しでも一緒にいたいって逸る気持ちがあるのかも」

 

 「え」綾小路は目を丸くした。「そうだったのか?」

 

「うん、結構有名な話だよ? 早くも学年きっての美男美女カップルの誕生だーって」

「……初耳だ」

 

 無関心というわけでもないのに、どうしてこうも自分は情報に遅れてしまうのだろう。密かに精神に追い打ちを喰らった。

 

「でも、何だか不思議なんだよねぇ」

「ん、どういうことだ?」

 

 左手の人差し指を顎に当て可愛らしく首を傾げる櫛田に問いかける。

 

「うーん……私の勘違いってこともあるから、ちょっと言えないかな」

 

 濁されてしまった。どうやら彼女の中でもまだ確信には至らない疑問だったようだ。

 ただ、今の一言で推測できることもある。広義には平田と同じ穴の貉である彼女が態々口にするのを渋るということは、恐らくあのカップルについて良くない言い方をする意見だったのだろう。

 それが何なのかイマイチよく理解できないのは、自分が『コイナカ』というものに関して単に無知だからなのか、感受性が乏しいからなのか。少なくとも、自分が櫛田より劣っている何かに起因するはずだ。

 

「……オレには、よくわからないな」

「綾小路君はやっぱり、そういう経験はないの?」

 

 思わず率直な感想を零すと、そんなことを訊かれた。

 

「いや、ないな」

「そっか」

 

 「やっぱり」という部分に妙な傷心を覚えつつ、きっぱりと答える。

 ――が、すぐに思い直す。

 

「……だが、特別な存在はいた」

「ふーん。…………えっ、そうなの!?」

 

 過去一番の驚きようだった。

 あくまで昔の視界に映った有象無象ではない一人を思い浮かべての発言だったが、第三者が聞けばそういう誤解をするのも無理はないだろう。

 

「別に恋心じゃないぞ。何せ顔も覚えていないんだ」

 

 もっと言うと性別も背丈も記憶にない。ただそこに存在していたという事実だけが、脳裏にこびりついて離れない。そんな粘着性のある感覚。

 櫛田は困惑の表情を浮かべている。それもそうだ。「特別」なのに外見すらもはっきりしないなどおかしな話だ。

 

「じゃあ、その人とはもうずっと長いこと会ってないんだ」

「ああ。向こうもきっと、オレのことなんて覚えていないさ」

 

 自分ですらこの曖昧具合なのだ。同じ環境で育った他の子供が似た芸当をできるとは考えられなかった。

 とはいえ、だから寂しいと嘆くわけでも、感慨に耽るわけでもない。

 「自分はその人に関心があった」、それだけだった。

 

「お前はどうなんだ?」

「私?」

「やはり高嶺の花がどんな恋愛譚を秘めているのか、気にならないやつなんていないだろう」

 

 「えー、そうなのかなあ」納得しがたいという風に苦笑する櫛田だが、思春期とは往々にして嗅覚が敏感だ。煙の臭いを嗅ぎつけ、好奇心に従って火を探すのも仕方ないというもの。

 綾小路としては、数多ある恋愛模様を僅かでも知っておきたいという一般高校生から些かズレた目的であったが、それを彼女が看破できる道理はない。

 

「私も、ないかな」

「マジか」

「どういう意味……?」

「い、いや、お前も平田と同じくらい異性にモテるから、てっきり一人か二人くらいは経験があるものかと思って」

 

 自分が軽い人間だと思われていると感じたのか櫛田は不快感の滲んだ声音で返してきたので、慌てて訂正した。

 

「興味がないわけじゃないよ。でも、私はきっと誰とも付き合わないと思う」

「……そうか」

「どうしてかは聞かないんだ」

「脈ナシだとわかっただけで十分だ」

 

 「ふーん」彼女はこちらの表情を窺うようにしながら相槌を打つ。思ってもないことを言っているのは見透かされているかもしれない。

 この問答で綾小路は二つ得るものがあった。一つは櫛田桔梗という人物の分析だ。「きっと誰とも付き合わない」。その言葉で、彼は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それによって、平田たちに向けた彼女の疑惑も察することができた。恐らく彼の根幹にある平和主義が今現在の状況で恋人をつくったことに噛み合わないのだ。それはまさしく、櫛田だからこそ容易く気付くことができた違和感だろう。

 ――恋、といっても、色々あるのか。

 

「そうだ。綾小路君、急かすつもりじゃないんだけど……この前の件ってどうなってる?」

 

 ここで櫛田は話の方向をごっそりと切り替えた。もう広がらない話題だと判断したのか、これ以上自分が追及されないために避けたのか。いずれにせよ、彼女の会話の流れに付いていく他ない。

 

「一応恭介が主導で良い方法を模索している。すぐにとはいかないが、今月中にはどうにかするつもりだから、今はあまり鈴音(あいつ)を刺激しないようにしていてくれればいい」

「うん、わかった」

 

 当たり障りのない回答をしていると、「櫛田さん」と一人の少女が櫛田に近づいてきた。

 

「みーちゃん? どうしたの?」

「えっと、一緒にお昼食べないなって思ったんだけど、いいかな?」

 

 みーちゃんと呼ばれた少女――名前は(ワン)美雨(メイユイ)と記憶している――は、若干控え目な態度で櫛田に提案した。彼女の隣には井の頭心もいる。もしかしたら、見慣れない異性である自分の姿を見て委縮してしまっているのかもしれない。

 

「うん、いいよ! すぐ行くから、ちょっと待っててね」

 

 櫛田が快く頷くと、二人は顔を綻ばせこちらに一礼してから去って行った。

 

「……オレって、そんな怖い顔をしているのか」

「初対面で緊張しちゃったんじゃないかな。確かに、根暗そうな人ランキングでは上位だけど……」

 

 以前櫛田と初めて話した際に教えてもらった、生徒間ネットワークで密かに行われている種目別ランキング。その内、根暗そうな人としてランクインしたのはまさかまさかの自分だった。因みに可愛い人ランキングではDクラスから浅川と沖谷がランクインしている。

 

「世の中不公平だぜ、全く」

「少なくともあの二人は、ちゃんとよく話せば友達になってくれると思うよ」

 

 そうは言うが、今後いつどこで会話にありつける可能性があるというのか。きっとあの二人は「綾小路君って人、何か根暗で恐そうだね」という気持ちのまま三年間を終えるに違いない。

 

「よし、私そろそろ行かないと」

 

 櫛田の声に気付くと昼休みももうじき半分が経過しようとしていた。たった今彼女も約束を取り付けてしまったし、無理に引き留めているわけにもいかないだろう。

 ……それに、池と山内の視線があまりに鬱陶しくなってきたからな。

 

「憐れな根暗男の雑談相手をしてくれてありがとな」

「ううん、そんなことないよ。またね、綾小路君」

 

 「ああ、また」彼女の否定が感謝の言葉に対する謙遜なのか将又こちらの自虐に向けられたものなのかは怪しいが、そんなことはさておき自分の席へと戻る。

 日常の一ページとも捉えられる一時だったが、今日もまた、人間関係の何たるかについてほんの少し知ることができたような気がする。

 ――やはりまだ、オレに恋は早すぎるな。

 そもそも友情さえまだほとんど確立できてないのだ。異性とのコミュニケーションだってものにしていないのだし、おいそれと試せるものではない。

 ただ――。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 漫然とした疑問は、瞬く間に脳内で溶けていった。

 自分の席にたどり着くと、二人の「友人」が目に留まる。一人は窓の向こうを飛ぶ蝶を物憂げに眺め、一人は黙々と読書に浸っていた。

 半ば放心状態に陥っていた少年――浅川がこちらに気付き軽く微笑む。「おー、清隆。おかえりんさい」

 彼の声で本の世界から帰還した少女――堀北もこちらを向く。「やけに長かったわね」

 

「櫛田とばったり会ってな。世間話をしていた」

「そっか。トイレで気絶したのかと思って心配していたんだけど、良かったよ」

「あなたが語り合えるほど世間を知っていたなんて驚きね」

 

 二人の返しには各々の個性が宿っていた。今更咎めるまでもない。いつも通り言葉を交えるだけだ。

 

「今日はどうする?」

「決まってらー。定番イチオシ、山菜定食を頬張るぜー」

「またそれなの? 二度も食べたいと思うような味ではなかったと思うけど……まあいいわ。勝手に行ってらっしゃい。私は今日は――」

「食堂か、じゃあ早速行こう。ほら、鈴音も」

「ちょっと、私の話を――」

「おーし行くぞー鈴音。清隆、今日は一体何を注も――」

「コンパスで刺すわよ」

「直球じゃないか!」

 

 つい先日と似たようなやり取りをしつつも、浅川と二人なし崩しで堀北を食堂へ連行する。無論、傷跡残さずコンパスで刺されながら。

 そんな時間も、やはり悪くないと心中頷く綾小路であった。

 




これから語り手以外の視点の三人称視点でのtipsはこのようなエピタイでやっていきますのであしからず。因みに既存の清隆の一人称視点は言わばその章のサブ視点という扱いです。何言ってっかわかんねえと言う方は二章の終わりごろにわかると思うので待っていてください。

一応話のジャンルごとに目次を並べていますが、時系列順や他の並び順にしてほしいという意見があれば言ってください。多数届いたり至極ごもっともだと思ったりしたら変えるかも。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

椎名ひより――独りじゃ読めないモノ

今回の話もそうですが、tipsは全て話の中身からどの時系列の出来事なのかがわかるようになっています。さてさて、今回は一体いつのお話なのでしょうか。


 放課後の図書館。

 静寂が優しく身を包み安息をもたらす、言わば『聖域』。

 薔薇色の高校生活を望む青二才は安易には立ち入らないため、一際その神聖さが漂っている。

 清潔を絵に描いたようなその空間は、麗しい銀色の髪をかきあげ物語の世界を堪能する少女――椎名に十分すぎるほど似合っていた。

 儚い容姿は間違いなく異性の心を惑わすに値するものであったが、そもそもそのような相手がいないこの場所において、彼女を振り向く鬱陶し気な視線も存在しない。

 かれこれ小一時間同じ体勢のままでいるが、今の彼女にとってそれは何ら苦に感じないことだった。

 ――――ふと、空気の揺れる気配を感じる。

 決して彼女が敏感だからではない。寧ろ周囲への意識が酷く疎かになっていた彼女ですら気付けるほど、ここに「人が来る」という変化は至極わかりやすいものなのだ。

 数えられる程度の人数しかいない館内を遠慮なく、しかしそれでも慎ましさの窺える足音が木霊する。

 それがこちらに近づいていくに従って、ああ、今日も彼は来てくれたのかと小さな期待が膨れ上がる。

 間もなくして、その時は訪れた。

 

「おー、いたいた」

 

 間延びした第一声を聞き、ようやく椎名は顔を上げ、彼の名前を呼んだ。

 

「こんにちは、浅川君」

「久しぶり」

 

 「一昨日会ったばかりですよ」浅川はゆったりとした動作で自分の隣に腰を下ろす。本はまだ取ってきていないようだ。

 

「よくここだとわかりましたね」

「他の席に座った試しがあったかい?」

「浅川君が困ってしまうかと思いまして」

「気にする間柄でもないさー。新鮮な景色にご興味は?」

「ここがお気に入りなんです」

「なら僕のためじゃないじゃない」

「理由は一つとは限りませんよ」

 

 出会い頭の砕けたやり取りに満足したのか、浅川は肩をすくめ徐に立ち上がった。

 「本を選ぶんですか?」問いかけると、彼は短く答える。「うん」

 

「選んで来れば良かったでしょうに」

「今日は趣向を変えてみたくてね。君が読んでいる物を見て決めるつもりだったんだ」

 

 何とも彼らしい博打だ。そう思った。

 なぜなら自分たちは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。今回に限らず今までもそうだ。つまり、彼がここへ来た今日自分がいなかった可能性もあったのだ。

 にも関わらず先の発言。打算も無しにするとは大した度胸。

 ただ、気の向くまま、何となく面白そうだという胸高鳴る予感に従うその姿勢は、彼に相応しい奔放さに思えた。

 しかし、たった一つだけ浮かんだ疑問を、彼女は口にする。

 

「それでは結局、同じ枠組みの物が選ばれませんか?」

 

 自分が読んでいるのは例の如く推理小説。こちらにインスパイアを受けたところで、ミステリーというジャンルからは抜け出せないのではなかろうか。

 予想はしていたが、彼は首を横に振った。

 

「実はジャンルは決まっている。決まっていなかったのは『誰にするか』だよ」

 

 伝わっただろうと言わんばかりに、彼はそれだけ残して行ってしまった。

 「著者」、ということでしょうか。

 本に纏わる「誰か」と言えばそれくらいしか浮かばない。きっと合っているはずだ。

 にしても、彼のそういう「雑な信頼」のようなものは、なかなかに独特だ。

 あわよくば意図が伝わらなさそうな遠回しな言動が多いものの、なんだかんだでギリギリ理解できるラインは毎度超えない。狙ってやっているのなら何とも器用なことだ。

 そして同時に、自分と彼が少しでも心の距離を近づけられているような気がして嬉しくもあった。将又、この心情も彼に上手い具合に引き出されたものなのだろうか。

 そんなことを考えていると、件の少年は新書を両手で大事そうに握りながら帰って来た。女子にも引けを取らない愛らしさが滲んでいる。

 

「いやー、やっぱここは品揃えが豊富ですなー。こんなものまで」

 

 そう言って見せてきた本の表紙には、椎名の知らない題名が載っていた。

 しかしその著者の名前を、彼女はよく知っている。

 

「『詩の原理』……?」

「君がマリー・ロジェを読んでいるのを目にしてね」

 

 正確な邦題は『マリー・ロジェの謎』。作者はかの有名なエドガー・アラン・ポーだ。推理小説の原型とも呼ばれる『モルグ街の殺人』から続く続編であり、現実に起きた殺人事件を扱った世界初の作品である。彼は金字塔博愛者なのかもしれない。

 それはさておき、椎名は『詩の原理』などというタイトルのミステリーを読んだことがない。もしや自分の探求眼から逃れてきた隠れた名作というやつなのだろうか。

 

「どういったあらすじなんですか?」

「あらすじ? あらすじかー……」

 

 何やら困った表情をする浅川。頓珍漢なことでも言ってしまっただろうか。

 刹那の思案の後、彼は口を開いた。

 

「タイトルの通りかなー。詩の本質とは? 美とは何か? 価値のあるもの、ないものはどれか? 端的に言えば、教訓主義なんざクソくらえって代物さー」

 

 またでた。イマイチよくわからないが、およその言いたいことは伝わってくる。

 少なくとも彼が宣言していた通り、それは決してミステリーという作品群には該当しない。

 哲学的な問答が繰り広げられるそれは、まるで――

 

「論考、のようなものですね」

 

 自分とはあまり縁の無い世界だ。推理小説一筋を貫くつもりではないが、ストーリー性のないものには全くといっていいほど手を出したことがない。故にその本について知らなかったのは当然の帰結であった。

 

「浅川君はやはり、そういう類のものに興味があるんですね」

「まあね。同じ事柄について他人がどう考えどんな答えを出すのか。身近な人間にでさえ気になるのだから、世界に名を轟かせる才人の思考に好奇心を抱かないなんて粗末な話があるわけないだろう?」

 

 どうということのない問答、のつもりだったが、彼は次に「ん?」と愁眉をつくる。

 

「やはり? よくわかったねー。僕がそんなセンチメンタルな人間に見えたかい?」

「見えますよ?」

 

 彼は表情を困惑から驚愕に変える。

 どうしてそこまで驚くのだろうと思いつつ、彼はそういう男だったかという感情も伴って芽生える。

 

「伊達にあなたの友人をやっていませんから」

「あー……そうかい。いやはや、参ったなー」

 

 そう言って冷や汗と頭をかきまくる浅川のことを呆れ半分、微笑ましさ半分で見つめる。

 初め彼は、とても感受性が豊かで、他人の心に理解を示せる人間だと思っていた。寂しがっていた見ず知らずの自分に、ああも優しく手を差し伸べてくれたから。

 しかしどうやら、それは思い違いだったのかもしれない。と、最近そう思うことが増えてきた。

 躊躇いなく隣に座った彼――このアングルの彼にももう大分慣れてきた――は性別に似合わないその長い髪を弄んでいる。

 

「何か君に言い返せることがあるとするならば、僕はそんな自分のやわさを許容できるほど器の大きい人間じゃないってことくらいかなー」

「なら、どういった表現が適切だと思うんですか?」

「うーん、夢幻論者(ロマンチスト)、かな? いや、適切ってなると、平等主義者(リベラリスト)か。ああ、これもしっくりこないな。何だろう……」

 

 必死に脳内で検索をかけ続ける浅川は、普段と打って変わってしかつめらしい表情だ。

 先程晒した間抜け面や随分と調子の良いジョークを披露する彼とは違い、単なる繊細さだけではない何かを感じられる。

 彼は自分のことを語る時、決まって重苦しく思案する。まるで語れないことこそが自己喪失だと捉え、そうなることを恐れているかのように。

 あるいは、この時間の中で彼は自分が何たるかを探し出そうとでもしているのだろうか。

 椎名が浅川への印象を改めるべきかと思い至ったのは、その違和感が無視できないところにまできてしまったからだ。

 故に――わからなくなる。彼が何を考えているのか。どういう人なのか。何を、見ているのか。

 ……もしや、彼自身にもわかっていないのでは? なんて馬鹿げた考えまで浮かぶ始末。

 ただ、それほどまでに彼のことが不思議だった。

 こんなにも、知りたいと思っている。

 しかしまだ、自分は彼のことを何一つとして知らない。それくらいのことに気付けないほど、彼女は鈍感にはなれなかった。

 

「――『ペシミスト』」

「え?」

「んん、これだ。強いて言うなら、僕はペシミストだね」

 

 満足げ、とまではいかないものの、やっとこさといった表情で彼は言った。

 ペシミスト。聞き馴染みはないが、確かそれは――

 

「悲観主義、ですか?」

「ご名答」

 

 「その心は?」彼のことを掘り下げるべく尋ねる。

 返って来たのは、予想通りあまりに抽象的な回答だった。

 

「どうやっても重力には勝てないものだよ」

「はあ」

 

 本を取りに行った時と同じく、もう十分だとでも言うように、彼はこちらに向けていた顔を戻した。

 こんな具合にヒントのようなものは与えられるのだが、肝心な答えが見出せない。嘘を嫌う彼のことだから、きっと重要な鍵にはなっているはずだ。

 しかしどこか、分析する上でのパーツがいくらか欠けているような気もする。差し詰め推理させる気のない推理小説のような歯がゆさだ。

 このままでは一向に彼を理解できない。近づくことができない。そんな友人関係はさすがに哀しすぎはしないだろうか。

 そうして生まれた気概が、彼女を一歩進ませた。

 

「――なら、私も読んでみましょうか」

「え? 読むって、こういうのを?」

「はい」

「へー、よもやよもや、君も新境地を開拓とは」

 

 君『も』、という表現が引っ掛かるが、今は別段追及することでもない。

 基本ミステリーにしか関心を向けない椎名から飛び出た発言に、浅川は思わず目を剝いた。

 

「折角ですから、本で繋がることのできた友人が好んでいるものにくらいは触れてみたいなと思いまして」

「なるほど、そいつは結構。なら手始めに何を読むんだい?」

「あまり明るくはないので、浅川君が読んでいるのを終わったら私にも貸してください」

 

 「いいね」嬉しそうに彼は言う。

 彼の好きなものに触れることで、今まで見えてこなかったものが少しでも見えるようになるかもしれない。本には人の内面が映るのだとしたら、読む人にだって通じている何かがあるはずだ。

 それは純粋な優しさだろうか。人間特有の儚さだろうか。それとも、もっとおぞましい何かだろうか。ぺミニストを自称した彼ならあり得るかもしれない。

 いずれにせよ、読まないことには始まらない。それが自分に最も向いているやり方だ。

 今日も穏やかな時間が過ぎていく。

 一日の中で最も愛すべき一時が流れていく。

 それを誰かと共に経験することの悦びを、以前の彼女は知らなかった。

 今では、その相手が彼で良かったと心から思う。

 ――――もうあまり、時間は残されていないのでしょうが。

 不安はあった。そう遠くない内に起こる悲劇。この高校特有の、残酷なまでの隔たりとなる壁が生まれる予感が。

 それでも、終わりの時まで、ただ隣にいることを望んだ。

 識ることを、望んだのだ。

 彼に対して過る『疑念』も、自分の中で芽生えつつある『ワガママ』も、全てを呑んで。

 恩義に準じて、彼女は彼に()()()()

 

「――それでさ、実は今日うちのクラス、水泳があったんだよ」

「私のクラスもありましたね」

「そっか、上手く泳げた?」

「いえ、カナヅチというわけではないのですが……浅川君は?」

「泳げるよ。運動はそれなりにできるんだ」

 

 やんわりとした表情をする彼に、ありがとう、と心の内で呟く。

 彼と出会えなければ間違いなく読めなかったものを、読みたいと思わせてくれたから。

 




これから少しずつ、椎名のオリ主への印象の変化が明かされていく予定です。彼女、実は意外と拗らせちゃってるんですよね。本編では最近露わになり始めていますけど。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Artificial Kindness

お待ちかね、綾小路視点です。最初は総括的な纏め方にしようと思っていたのですが、文才不足で一から時系列を辿る形にしました。二、三話構成です。見どころは
①キャラ迷走が拭えないけど元気に楽しんでいる綾小路
②オリ主の存在で原作より良好な清×鈴の関係と、オリ主不在時の会話
③綾小路から見たオリ主
ってところですかね。本当はもっとあるんですけど。あとがきの方も読んでみてください。


 掴みどころのない、マイペースな美少年。

 それが、浅川恭介という男の第一印象だった。

 

 

 

 ほんの些細な出来心。偶々バスで見かけた顔だったから。偶々席が前後だったから。偶々その時友達づくりに難航中で焦っていたから。

 偶然も重なれば必然と言うが、彼に声を掛けた時のオレには無論、そんなことを気にする余裕はなかった。

 こちらには完全に背を向けていたため振り向いてもらうまでわからなかったが、彼の中性的な顔立ちは一見女子と見紛う美しさを具えていた。髪も男子にしてはだいぶ伸びていて、制服でなければ判別は難しかったかもしれない。

 そんな感想をおくびにも出さず話しかけ、オレの鼓膜に届いた第一声は――、

 

「あー、僕も思い出したよ。隣の子も一緒だったよなー? 奇妙な偶然もあったもんだなー」

 

 何とも拍子抜けする音だった。

 声質そのものは何てことはない。変声期を迎えたのかわからない可憐な響きは、その顔によく釣り合うものだった。ただ、口調が緩い。とにかく緩い。まるで往く川の流れに従うかように、何も考えず適当な言葉を吹っ掛けているだけにも感じられた。

 彼は次に、オレの隣人である堀北鈴音にも目を向ける。止めておいた方がいいぞ。彼女は堅物どころの騒ぎじゃない。善意を悪意で反射させてしまう残酷な少女だ。

 「嫌な偶然ね」と応えた堀北に、恭介は首を傾げ再びこちらを見る。好奇と懐疑の混ざった目だ。

 

「何か彼女に酷いことでもしたのか?」

「何故真っ先にオレを疑う……」

 

 思わぬ嫌疑にげんなりしつつ否定する。

 オレを見境無しの暴食者だとでも思っているのだろうか。生まれてこの方、同級生と会話するというイベントすら熟したことはなかったのだが。

 

「あー、いや、不快に感じたのなら謝る。ごめんなー」

「問題ない。わかってくれるなら大丈夫だ」

 

 恐らく性根は良いやつなのだろう。向こうが素直に謝罪してくれているのに咎める道理はない。

 その後オレの事なかれ主義についても触れられ、堀北に二度も貶されて落胆するという流れを挟み、浅川の発案で自己紹介をすることになった。先の堀北とのファーストコンタクトでは、突然の自己紹介で不快感を与えてしまったようだから控えていたが、あれは狭量な彼女限定だったのかもしれない。

 ――浅川恭介、か。

 色々思うところはあるが、兎も角この学校で二人目に名前を知った人物だ。オレは温厚そうな彼にリベンジの望みを掛ける。教室を漂う空気と現在時刻から察するに、もはやこれがラストチャンス。

 頼む……どうかお前は、空のように澄んだ心の持ち主であってくれ……!

 

「その……よければ、オレと友達になってくれないか?」

「ああ、もちろん構わんさー。僕も少しコミュニケーションが苦手だから助かる。よろしくなー」

 

 オレの祈りを知ってか知らずか、即答で快諾してくれた彼にホッと安堵する。どうやら初戦の相手を間違えてしまっただけだったようだ。かてて加えて、浅川もオレと似て他人との交流が苦手だと言う。類は友を呼ぶという迷信はなかなかどうして、当てにできるものなのかもしれない。逆に堀北との関係は、先が思いやられるが……。

 何はともあれ、これで記念すべき生涯初めての友達、ゲットだぜ! 晴々とした達成感を覚える。席を離れて話しかけるなんて業がとても恐れ多くてできなかったオレにとっては、大変目出度いことだ。心の中で万歳三唱を忘れない。

 感動に耽っていると、今度は浅川の方から伺うようにして尋ねてきた。

 

「うーんと、清隆って呼んでもいい?」

 

 不意な申し出に呆けてしまう。おっと、これは……喜んでもいいのだろうか?

 名前呼びというのは親睦を深めた間柄で行われるものだと思っていたが、まさかこうも早く、最初期の段階で提案されるとは。そんなことのできるペアは、きっと超仲良しだと思われるに違いない。

 期待を膨らませたオレだったが、蓋を開けてみればただ単に呼びやすい方を選んだだけなのだと言う。表情を見るに照れ隠しというわけでもないようだ。オレとの仲を切に願っていた、というわけじゃなかったのか。何とも言えない、少し物悲しい気分になる。

 ただ、

 

「僕も君と似ていて面倒なことが苦手なんだ。それこそ、主義として掲げたいくらいになー。――清隆とはこれからももっと仲良くなりたいって思っているぞ」

 

 本心からであろう彼の言葉には、大きなシンパシーを感じた。

 ――よし、折角の友達第一号だ。オレの方からだけでも親しみの意を込めて、彼のことは『恭介』と呼ぶことにするぞ……!

 

「似た者同士、仲良くしていこうな!」

 

 そう答えながら握りしめた手は、男子にしてはあまりに小さく柔らかくて……。

 だけど、とても温かいものだった。

 

 

 

 どうやら恭介は、存外感受性が豊かなようだ。

 初めのあっけあかんとした口調に流されそうだったが、今の彼を見ればよくわかる。隣人の頑なな態度には彼もほとほと苦戦しているようで、酷く落ち込んだ表情になっていた。どこか葛藤が見え隠れしているような気もするが、今のオレが推し量れることでもないだろう。

 これはもしや、恩返しのチャンスなのでは……? 恭介が入室するよりも前に受けた彼女からの洗礼に対する意趣返しの意も込めて、癖も特徴も何もないオレを見捨てず友達になってくれた彼に加勢することにした。

 

「あまり意地の悪いことをするものじゃないぞ、堀北」

「綾小路君、あなた……」

 

 突然の横槍に一瞬目を見開いた堀北だが、すぐにオレの方を睨みつける。まあ、確かに他人に気安く教えるなとは予め言われていたけどさ……オレには何だかんだで教えてくれたんだから別にいいだろう。変に頑固なやつだ。

 

「どのみち少なくとも、一年間は確実に同じクラスなんだ。嫌でも恭介は、お前の名前を知ることになるだろうな」

「なら、尚更私から教えてあげる必要は……」

 

 いや、知るまでは恭介が困ることになるだろう……。

 それに、彼女の言っていることが真理なのだとしたら、一人ひとり改まって自己紹介をする意味が薄れてしまう。現にオレと恭介は、互いに自己紹介をした勢いそのままに、晴れて友達になれたわけだし。恭介だって、彼女が心を開いて自分から名乗ってくれることを望んでいるはずだ。

 

「普通は逆だろう。――先祖代々受け継がれてきた苗字と、親が愛情を込めてつけてくれた大事な名前なんだ。それくらいの誠実さは、示してやってもいいと思うんだがな」

 

 友情を糧にそこまで反論を述べたオレだったが、自分の発言に我ながら感心する。尤も、完璧な理屈だと自画自賛したわけではない。

 ――よくもまあこんなセリフを、ペラペラと並べ立てられるものだ。

 親が愛情を込めてつけた? 過去を振り返ってみても、そう思い当たる節など欠片もない。

 物心ついた頃から、既に鳥籠の中だった。愛されたいという欲すら、湧き上がることなんてなかった。ただ、決して『普通』ではなかった。それだけは紛れもない、事実。

 普通の子供なら、温かい料理を作ってくれる母親がいて、仕事から帰ってからも一緒に遊んでくれる父親がいて、思い悩んだ時に身近で支えてくれる兄弟や姉妹がいたりもして。

 

 ――そして、他愛もないことで笑い合える友人がいる。

 

 そんな当たり前のような自由を求めて、オレはあの籠から抜け出した。

 未知の世界に、外の景色に、そして何より、普通の生活に憧れて……。

 飛び出した大空は、驚きを避けられない程に澄んでいるのだと、そう信じている。

 そんな開放的な視界への喜びと、地に足を着けない不安の狭間で、オレは奇しくも、浅川恭介と巡り会った。

 運命という言葉を、信じていいものかわからない。奇跡は起きるものなのか、起こすものなのかも、知ったことではない。

 ただ、この時のオレは、どうすることが自分に幸福をもたらすのか。それだけが、大事だった。

 停滞しがちな、空想だらけの頼りない翼でも。

 もし、明日に希望を見据え続けられるだけの日々を、この美しい少年と送れたなら。

 きっと、飛べるようになるはずだ。

 そんな予感が、オレにはあった。――こんなオレに、優しく寄り添おうとしてくれた彼だからこそ、そう思えた。

 

「――それに、オレにとって初めての友達なんだ。それがこんなにも無下に扱われているのを、黙って見過ごせるほどオレは薄情じゃない」

 

 期待するような、縋りつくような、儚い願いを胸に宿し。

 口を衝いて出た、他人を心から想う言葉。

 ハッとして堀北の顔を見ると、彼女は困惑と驚きの混ざった表情を浮かべていた。そこでようやく、自分が柄にもない発言をしたことを自覚する。

 気まずさから目を逸らすと、今度は恭介と目が合った。彼も意外だと言いたげな顔をしていたが、その瞳の揺れ動きからは、羨望の感情が伺い知れた。

 一体何が羨ましかったのだろう。オレはそんな偉いことを語れる程、人情味のある人間ではないというのに……。

 ……いや、しかし。と、頭を振る。

 予想だにしなかったその言葉には、オレの中で微かに残された可能性が、確かに眠っているような気がした。

 オレが『俺』になるための、たった一本の蜘蛛の糸。よじ登った先に何が待っているかわからない。されど、今のオレがこれからの行く末に期待を抱くのには、十分な兆しだった。

 彼の存在は、オレを変えてくれるのかもしれない。彼ならば、オレの欠陥を埋めてくれるのかもしれない。

 脳裏を掠める打算的な考えは、決して小さな野望ではない。ただ、それ以上に……。

 不安は山ほどある。何せ、この美味しい空気を吸うこと自体が久しぶりなのだ。目指す場所も定まらなければ、目印も道標もわからない。左右どころか、前進後退、上昇下降も覚束ない。そんなオレが、どう胸を張って生きて行けばいいと言うのか。

 それでも、人知れず妙な高揚感を得ていたことは、認めざるを得ないだろう。

 

 ――これが、『友達』というものなのか。

 ――なるほど、悪くない。

 

 そう実感したのは、「一人でも多く友達が欲しい」という偉大なる信念が、彼と一致した時のことだった。

 

 

 

 

 先生からの説明を受けた後、平田洋介の主導でクラス全体での自己紹介が行われた。鈴音は相変わらずの協調性の無さで、他の反乱分子共々教室から出て行ってしまったが、今は他人よりも自分のことを顧みるべきだという判断で放置することにした。

 因みに、オレが突然彼女を『鈴音』と呼ぶようになったのは、恭介が自分のポリシーに則って彼女を名前呼びしたことにあやかった賜物だ。慣れてしまえば何てことはない。――と思っていたが、この考えは後に桔梗から名前呼びを求められたことで覆されることになる。人目を寄せ付けない鈴音だったからこそ、オレでも名前呼びに漕ぎ着けることができただけだったようだ。

 そんなことはさて置き、どうみんなに自己紹介したものかと考えあぐねていると、ついさっき出番を終えた恭介がそっと声を掛けてくれた。

 

「清隆、大丈夫そうか?」

「え? ああ、いや、全くだいじょばないな」

 

 見栄を張るようなことはしない。この一大イベントを無事に乗り越えられようものなら、つまらないプライドなんぞ潔く切り捨ててやるよ。

 

「もっと肩の力を抜いてもいいと思うぞ? 得意なこととか好きなこととか、何かあるかー?」

 

 その助言は、彼の口調も相まって、焦っていたオレの心を幾分か鎮めてくれた。

 得意なこと、か。器械的な作業は大抵卒なく熟せる自信はあるが、普通の高校生がどの程度のものか測りかねるし、どれを取り挙げればいいのやら……とりあえず、

 

「ピアノと書道なら習っていたな」

「おお、意外だなー」

 

 意外だったかー。

 まあ世の中ギャップのある男も受けるものだろう。平田からの指名も受けたことだし、あとは恭介の言う通り、オレの思っていることを添えておけば……。

 ……今、オレが思っていること、か。

 

「綾小路清隆です。……えっとー、ピアノと書道を習っていたので少し得意です。その、わからないことだらけですが、皆のことを少しずつ理解していけたらなと思います」

 

 ――恭介とも分かり合えたんだ。他のやつらとだって、きっと……。

 三年間よろしくというテンプレを最後に着席すると、平田の肯定的な言葉に続いて、決して盛り上がる程ではないものの、温かい歓迎の拍手が送られてきた。辛勝といったところか。よかった。

 小さな達成感を覚えつつ、紛うことなきMVPである友人に謝辞を述べる。

 

「恭介、ありがとな」

「気にすることはないさー。それにしても、ピアノと書道かー。言われてみれば、歌も字も綺麗に熟せそうな顔をしているかもなー」

「そんな顔に見えるのか?」

「多分なー、よくわからんけど」

「わからないのか」

 

 不思議な少年だが、友達想いの良いやつであることは間違いない。

 

 

 

 

 入学式を終えて解散後、この学校の敷地内にはコンビニもあるという耳寄りな情報を手に入れたオレは、早速友達である恭介と鈴音を引き連れ下見に向かった。恐らく鈴音は認めないだろうが、これまでのデコボコなやり取りを経てそれなりに親交を深めることができたはず。友達作り隊の第一人者であるオレは、彼女を友達だと断定した。

 

「あなたの好奇心はどこへ向かうのかわかったものじゃないわね」

「別に明日とかにしても良かったと思うがなー」

 

 ブツブツと愚痴を零す二人を宥めながら入店する。ほとんどの生徒が入学早々カフェやカラオケを集団利用している中で、孤独を晒してコンビニに寄るというのは何とも味気なく、肝が冷えるというものだ。何だかんだで付き添ってくれたことに心底感謝する。

 適当に商品を物色していると、インスタントラーメンが並べられている棚にたどり着いた。お湯を入れて三分待てば出来上がりという優れモノ。三分クッキングの代表格だったか? 果たしてお味はいかがなものなのか、大変興味がある。

 

「お前はこの商品の値段に関してはどう思う?」

 

 値札を見るだけでは高いか安いか判別できなかったので、それとなく聞いてみる。

 

「い、いやー……僕はちょっと何とも言えないかなー。何せ田舎の出だから」

 

 恭介は意外にも戸惑った様子で答えた。

 なるほど、田舎の出身か。確かに彼の間延びした口調は、喧騒の染み付いた都会にはあまり似合わない印象を受けるが、しかし……。

 ああ、田舎と言うと、オレが昔過ごしていた場所も木々に囲まれてひっそりとした山奥だったな。……いや、あれは田舎と言うより野生と言うべきか。――やせいのオレがとびだしてきた! お慈悲を賜るのは今のところ二人だけ。おまけにその片割れは安全保証が不備だらけ。心もとないにも程がある……。

 値段は普通だろうという鈴音の意見を参考にし、二人にお礼を言う。――お? こっちのカップ麺は特徴的だな。

 

「これ、すごいな、Gカップって」

 

 Gか……鈴音はまあ、小さくもなければ大きくもないってところかな――。

 

「……綾小路君?」

 

 ……フッ、なるほどな。どうやら彼女は『読心術』なるものを会得しているらしい。勘のいい友人は好ましいぞ。……これくらいにしておこうか。次いつ無言でひっぱたかれるか、わかったもんじゃない。

 結局、オレと恭介はカップ麺を一つずつ手に取り各々のカゴに入れた。彼も興味本位だったのだろうか。てっきりこういうのは何個かまとめ買いして貯蓄しておくものだと思っていたのだが。

 その後オレが渾身の髭剃りネタを披露したり三人で無料商品の棚を拝見したりしてから、会計に梃子摺っている恭介を鈴音と一緒に外で待っていることにした。

 

「彼、不思議な人ね」

 

 不意に鈴音が口を開いた。彼女から会話を始めるのは珍しいな。

 

「そうだな。だが良いやつだぞ。お前は途中退席してしまったが、オレを助けてくれたんだ」

「どうだか。この時期はまだ、誰だって上手く本性を隠せるわよ」

「誰だってそうなら、それを受け止め合えてこその友達だろう?」

「その相手が全くいない癖によくそんな大口を叩けるわね」

 

 なかなかカッコイイ返しをしたつもりだったが、思いっきり正論でねじ伏せられてしまった。強いて言えば二人、目の前の少女を除いてしまえば一人しか相手がいないとなると、説得力に欠けるのはオレにも理解できる。

 恭介との共闘だったとはいえ、教室にいた時はよくもまあこの堅物少女を二度も説き伏せられたものだな。

 

「お前は、そういう相手はいらないのか?」

「必要ないわ」

「どうしてだ?」

「なら逆に、どうして友達をつくる必要があるのかしら?」

 

 確かに、鈴音の言っていることは尤もだ。彼女の質問に答えようにも、オレでは精々曖昧な精神論しか語れない。一緒に遊ぶと楽しいとか、困った時に相談できて心強いとか、そんなところだ。

 だが、彼の言葉を借りるならば――、

 

「それは、お前自身がいざつくってみなければ、見えてこないものなんじゃないか?」

「……無駄よ。意味のないことだってわかるもの」

「決めつけるのは構わないが、そういう人ばかりじゃないことは確かだぞ。オレが証拠だな」

 

 何故そこまで頑なに独りを好むのか。事情があったとしても詮索しようとまでは思わないが、友達づくりの成功体験を持つオレには少し疑問だった。

 

「証拠? そこまで言うなら、あなたはどんな意味を感じたの?」

 

 意外にも関心を示してくれたようだ。単なる興味本位だったのかもしれないが、彼女相手なら今のところ会話が成り立つだけでも上出来だ。

 友達づくりの意味か。どう答えたらいいのだろう。オレがもし恭介と友達になれなかったときのことを考えると……。

 

「……勇気が湧いてくる」

「は?」

 

 あからさまに嫌悪の視線をぶつけてくる。待て待て、まだ続くから。

 

「恭介がいなかったら、オレはきっとあのまま誰とも仲良くなれず、自己紹介も失敗していたはずなんだ。お前のことを親しげに名前で呼ぶこともなかったし、今よりもずっと距離のある会話になっていた。人付き合いの下手なオレだから、その差は余計に顕著だったと思う」

 

 彼女はこちらに目を向けないまま黙って聞いている。オレはそれを一瞥してから、コンビニ店内のレジの方を向く。恭介はもう少し時間がかかるようだ。何をそんなに手間掛かってているのだろう。

 

「友達っていうのは、自分を変えてくれる存在のことなんじゃないのか? 独りじゃ決して成し得なかっこととか、見出せなかったことを可能にしてくれる、そんな綺麗な関係なんじゃないのか?」

「絵空事ね。要は他力本願ってことでしょう?」

「絵空事でもいいじゃないか。結局オレたちの前にあるのは現実で、向き合わなければならないのも現実だ。他力本願っていうのも少し違う。今までの行いは全て、最後に実行したのはオレ自身なんだからな」

 

 オレの紹介を恭介に任せきりにしたわけではない。鈴音を名前で呼ぶのも、彼の発言を受けて自分で思いついたことだった。

 与えられたタスクを淡々と熟すことしかしてこなかったオレ独りでは、決してできなかった。けれど確かに、オレ自身が生み出した結果なのだ。人間関係の綺麗でない部分がどこなのか、そもそもあるのかもわかっていないが、その事実は揺るがない。

 

「オレは期待しているんだ。アイツのおかげで、少しは変われるんじゃないかって。お前が他人を拒むのは、他人によって自分が変わることが恐いからなんじゃないのか? その勇気で一歩踏み出せるようになるためには、寧ろ友達が必要なんだと、オレは思う」

 

 自分からシャットアウトしているくらいだ。彼女も他人との交流は苦手なんだろう。でも、オレと同じように、お前も変わることができるはずだ。他に真面な人付き合いができていないオレでは、やはり重みはないのかもしれないがな。

 

「……知ったような口利かないで。別に私は、変わる必要なんてない」

 

 嫌われてしまったか……? 少々出過ぎたことを言ってしまったかもしれない。だが、彼女の質問に対するオレの答えとしてはこれが本当だった。

 お、どうやら恭介がようやく事を終えたようだ。こちらに向かってくる。小話も幕引きだな。

 

「まあ、思い立ったら試してみるといい。きっとアイツは受け入れてくれる。勿論オレもな」

「どうしてそう言い切れるの?」

「さあな。何となく、信じているからかな」

「非合理的ね」

「友情なんてそういうもんだろう」

 

 大きく伸びをして身体中の空気を入れ換える。今日一日では飽きない旨さだ。

 オレもまだまだ初心者だ。鈴音に悠長に偉そうなことを語れるほど、心のなんたるかを理解しているわけじゃない。

 だけど、この半日の実体験で語れることは確かにある。

 

「合理性で友情が築けるなら、オレはこうも簡単に変われない」

 

 自動ドアが開く、その直前の言葉だった。

 

 

 

 

 コンビニでの一悶着、及びその後処理を終え、オレは恭介と二人、まだ見ぬ新居への帰路を辿っていた。

 その中間ら辺に差し掛かったところで、途端に恭介が声を上げた。

 

「あ、蝶だ」

 

 彼が指差した方を見ると、確かに白い羽の蝶が二頭、黄昏の空を漂っていた。

 

「仲良く飛んでいるな」

 

 オレもあれくらい自由に飛びたいな、なんて――。

 そう思っていると、恭介は肩に掛けた荷物を持ち直し、のんびりと蝶を追い掛け始めた。ほう、これが若さか。

 

「わーい」

「童心に返るのか、可愛いやつだ」

 

 男子の中では格別美人や可愛いの部類に分けられてしまうであろう顔をしている彼が、純粋無垢に蝶と戯れる姿は実に画になる。

 オレの言葉に、彼はやれやれと目を瞑って応えた。

 

「童心を恥だの勇敢だのと大袈裟に扱う今の世の中が哀れだよ。もっと悠々自適に生きてみればいいものを」

 

 おお、確かにそうだ。敏感に揺れ動く感情に身を任せることの何が悪いと言うのか。ましてやオレたちは二十歳にも満たない高校生。咎められるいわれはないか。

 なら、オレも先程の願望に従うとしよう。

 

「……わーい」

「ごめん、限度ってものがあるかも」

 

 真顔で言われた。

 悲しかった。

 

 

 

 数分後、オレたちはベンチで給水して休んでいた。

 楽しくなってきたというオレの言葉を聞いた恭介が、親指を立てて「グッジョブ」と告げた瞬間、オレたちと蝶たちによるかけっこのピストルが鳴ってしまったようだ。

 長い時間休みなく走っていたため、少し汗を掻いてしまった。

 

「この老いぼれた体には結構応える」

「言う程衰えてもいないだろう」

 

 何気なく会話を広げるが、オレの中ではこの時恭介に対して一つの『疑念』が生まれていた。まあ、それについては後に語ることとしよう。

 ともあれ、実際この時のオレはその疑惑について思案していたわけなのだが、その最中、恭介が不意に口を開いた。

 

「桜、か。確か花言葉は、『純潔』」

「出会いの季節を象徴するにはズレを感じるな。にしても、良く知っているな。花が好きなのか?」

 

 すぐに切り替え違和感なく反応する。今時花言葉に興味を持つ男子高校生は珍しいのではないだろうか。『イマドキ』をオレが語るのもおかしな話なのだが。

 

「花自体に興味はないよ。だけど、解釈という性質そのものには少しそそられるものがある。花言葉も誕生花も、国や種類によって違ったり、複数あったりして、存外面白いんだ」

「解釈か。――歴史や伝説と紐づけるという意味では、――わからなくはない」

 

 なるほど、彼はただ飾られた言葉に酔いしれているわけではなく、多種多様な価値観が見え隠れする象徴として、花に興味を持っているわけだ。確かに、言葉も誕生日も当てられているという点で、花は彼の言う解釈とそれなりに縁が深く感じる。

 

「『私を忘れないで』」

「メンヘラの常套句か?」

「あっはは、一途で素晴らしいじゃないかー。フランスではこれが花言葉なんだよ。ますますイメージからかけ離れていくよなー」

 

 ……ジョークのつもりだったんだが、流されてしまった。

 一途、なのだろうか。少々重い気もするのだが、普通はそんなものなのかもしれない。

 だがそうすると、イメージからかけ離れるというのも若干違う気がする。寧ろ真っ直ぐな思いという意味では似ているような……将又、これこそ解釈違いというやつなのだろうか。

 一概に花と言っても、恭介の言う通り存外奥が深いようだ。

 

「君、誕生日は?」

「十月二十日だ」

「確か竜胆が誕生花だったなー。花言葉は『悲しんでいるあなたを愛する』」

 

 ……おお、意外と的を射ている、かも?

 オレは今まで何の感想もなしに日々を過ごしてきたが、ある程度情緒の育った人間がかつてのオレと同じ環境に放り込まれたら、さぞかし苦行だと思うに違いない。そう考えると、オレは『悲しいあなた』に当てはまるんだろうな……。

 ……愛、か。両親からも真面な愛情を注がれなかったオレに、誰かを愛する心なんて持ち合わせているのだろうか。資格すらあるのかも怪しい。はあ、センチメンタルな言葉というのも、言い得て妙だ。

 

「本当に色々と知っているんだな」

「たまたま十日刻みで覚えているんだ」

 

 見かけに寄らず博識なやつだ。雑学全般の知識が豊富なのかもしれない。

 

「あとは、僕の誕生日もね」

「どんな花だったんだ?」

 

 何の気なしな問いのつもりだったが、彼は答えるのを渋る素振りを見せた。 

 

「まあ気が向いたら調べてみてくれよ」

「焦らすこともないじゃないか」

「宿題だ宿題。明日までに考えてくるように」

 

 あまりに強引にはぐらかされてしまった。何か後ろめたいことでもあるのだろうか。自分で調べろとのことだから、知られたくないということでもないはずだが。

 

「僕は、タンポポの方が好きかなー」

 

 一時の間を置いて、今度はそんなことを言いだした。

 

「タンポポ?」

「おう、タンポポ凄いんだぞ。強いんだぞ。魂にしたがる詩人がいるくらいだからなー」

 

 あれか、タンポポ魂、というやつか。

 何度踏み倒されても起き上がり、何度引きちぎられても、根さえ残っていれば元通り花が咲き直す。随分としぶとい花だ。

 根さえあれば、と言うが、言わば根すら生えていないようなオレは、どう花を咲かせばいいというのだろう。――なんて、少々ロマンチックが過ぎるか。

 ……いや、きっと恭介なら「生えてないなら試しに種を植えてみればいいんだよ」とか言ってきそうだ。彼は他人を肯定するのが上手い。相手に猜疑心を与えないのは恐らくその性質故だ。

 そんな勝手な分析を行っていると、「ただね」と彼は付け加えた。

 

「この際何が重要なのかというとだね、人は時に言葉を当てにし過ぎてしまうということだよ」

「当てにし過ぎる?」

 

 今一つ釈然としない。何が言いたいのだろう。

 

「言葉は物語を生み、物語は感情を生む。そのどれもが解釈であり、相互関係にあるんだ。自分や他人のことを理解した上で、そこに事象をなぞらえさせるなら何ら問題はない」

 

 ここまでの言葉の意味を、反芻させながら理解する。

 言葉によって数多の物語が生み出されていき、それに魅了された人間たちには十人十色な感想が浮かぶ。ミステリーやサスペンスなどでは考察なんてものまであがるほどだ。

 しかし、人々の感情が必ずしも満場一致するわけではない。明言されない限り、そこには無限の可能性が転がっていて、その洪水の中自分の考えで選択したものが、その人にとっての真実となる。彼が相互関係と銘打ったのはそういうことだろう。感情や価値観が個人の頭の中で勝手に物語を補完乃至(ないし)創造し、そこに独自の言葉が反映されることもあるということだ。

 だが――どうやら彼の話はまだ終わらないようだ。

 

「だけど、予め用意された文字列から――選択肢とも言うね――選び取り、そこに自分をなぞらえてしまったら、いつか間違いなく喪失に陥る。それは自分自身のことなのかもしれないし、或いは身近にある大事な何かかもしれない」

 

 その時オレは、彼の言いたいことをようやく理解できた。

 ○○のようにとか、○○みたいだとか、人はよく人を別の何かで比喩しようとする。自分の特徴や考えを伝える上でそれは確かに楽な方法のはずだ。

 ただ、(てい)のいい言葉や気に入った物に頼っていく内に、いつかそれが自分を表す表現ではなく、自分の性質が言葉の方に引きずられてしまうことがある。先の話で出た竜胆を例にしよう。もしも竜胆が一番好きな花だと言い張る人がその花言葉を知った時、頭の中で反芻させている内に段々と傷心的な性格になっていってしまう可能性がある、ということだ。まさかと思うかもしれないが、感受性が豊かな人であればそんなに珍しい話ではない。

 しかし、オレが気になったのはそっちよりも――喪失に関する話だ。

 今の話から真っ先に導き出されるのは自己喪失だと思うのだが、彼は身近な何かを失う危険性もあることを示唆した。それがあまり上手く理解できない。

 他人と関わること、心(かよ)わすことに不慣れなオレでは、まだ掴めないところにあるものなのかもしれない。

 安らぎと傷みをオレに教えてくれるのは、やはりこの少年なのだろうか。

 

「だから僕は、事を解釈の範囲だけに収めようとするんだ。例え話や補足のソースにはしても、自戒の教訓には決してしない。人の精神は鶏と違って、必ず卵から始まる」

 

 確かに、空っぽな人間に精神が宿ることはあれど、精神によって人の皮が形成されるなんてことはない。情緒とも呼ばれるそれは、人が生きていく中で少しずつ成長していくものだ。ならばオレは、まだ差し詰め生まれたばかりの雛鳥なのだろう。

 自虐に走っていると、恭介が徐に足を止めた。気付いて振り向くと、普段の彼とは違う、力強い目と視線が交わった。

 

「――自分のことを自分の言葉で語ろうとしない奴は、きっとどこまでも生きづらいんだ」

 

 その言葉には、確かな重みがあった。

 それこそ、自分自身の本当の言葉で、自分を戒めているような。

 その上で、オレに理解して欲しいというささやかな願いが、聞こえた気がした。

 自惚れではないはずだ。今のはオレに対する一種の激励。不思議と、そう思えた。

 

「自分の言葉で、か。考えてみれば、案外難しいことなのかもしれない」

 

 オレはこれから、自分のことをどれだけ語ることができるようになるのだろう。

 今はまだ、中身の空っぽな、何もない虚像に過ぎないけれど。

 この高校生活を終える頃には、自分のことを忌み嫌わずにいられるといいな。

 生きづらい在り方なんて、あまりに虚しいものだ。

 自分にできる精一杯の肯定を表情で訴えると、それに呼応するように彼も満足げに頷いた。

 

「とすると、急にタンポポの話を出したのは、お前が自己分析した結果の表れということか? ――どれもお前の本質に適応するするかは微妙なところだが」

 

 既にオレの新たな住まいが顔を出しているが、何となく気になったので聞いてみた。タンポポの花言葉は知っているが、どうにもそれが、基本ぼんやりとしている恭介に当てはまるようには感じなかったからだ。

 だが、

 

「そりゃあ合わないだろうさー。『黄色』じゃね」

 

 オレはこの質問をして、本当に良かったと思う。

 その言葉がなければ、オレはきっと、一方的に彼を求めることしかできなかったから。

 

「今の僕に相応しいのは、()()()()()()()()()()()()さ」

 

 その言葉を聞けたから、オレは()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことを、止めた。

 彼はオレが思っていた以上に強かで勇敢だったが、同時に、とても脆弱で臆病だった。

 

 ――オレたちの志は、そう大差ないのかもしれない。

 

「その意志表明だと思ってくれていい。言葉を当てにしない最も簡単な方法は、『まず動く』ことだよ」

 

 差し出された端末を見て、フッと息を漏らす。

 

「遠回しにも、程がある」

 

 本当に、あまりにも遠回し過ぎる。不器用なんだよ、お前は。

 オレでなかったら察することはできなかったと思うぞ。割とガチで。

 これも、彼なりな信頼の証なのだろうか。だとしたら、尚更不器用だ。

 

「アオハルなんて、多少回り道をした方がちょうどいいのよねえ。今の僕らのようにさ」

 

 確かに、悪くない回り道だった。

 文字通り羽を伸ばして飛び回る蝶たちも、穏やかに流れる川も、オレにとってはひどく新鮮で、自然と胸が高鳴った。これも恭介なりな距離の縮め方なのだとしたら、なかなか上手いものだ。

 オレがスクールライフに光を見出すことになったきっかけ――浅川恭介は、間違いなくオレの『盟友』と呼ぶに相応しい少年だった。

 お前となら、理解できるような気がするんだ。まだ見えない何かに、辿り着けるような、気がするんだ。

 浅川恭介――――。

 人の心に温かさがあると言うのなら、いつかオレに教えてくれ。

 オレもいつか、お前を見つけてみせるから。

 そして、変わることのできたオレが、必ず受け入れてみせるから。

 

 ――――『白い』タンポポ。

 

 その花言葉は、『私を探して、そして見つめて』だ。

 




今話は入学日の出来事を描きました。

基本自分は思いつきで進めているんですけど、原作では自己紹介の利便性を証明できない証拠だった清隆が、自分を友達の意義を証明する証拠として語った場面は、いい対比になったんじゃないかなと思います。因みに、コンビニ前での会話が、今後鈴音が二人にある程度接したり、悩んだりする伏線になっていたりもします。

おまけに、オリ主のルーツに繋がる伏線もこの時点で三か所くらい含めています。主に清隆が疑問を抱く場面ですね。そこら辺は今後の彼視点の話で纏める予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Affective Knot

清隆視点、第二弾。やっぱり収まらなかった……次で纏められるはずです。


 蒼と茜の混ざった不気味な空。

 吹き抜ける冷ややかな風が、オレの体をブルブルと震わせる。

 

「この時間だと、まだ少し寒いんだな……」

 

 部屋を出てからの第一声がそれだった。

 春の盛りだから日が昇ればすぐ暖かくなるだろうと高をくくっていたが、全然そんなことはなかった。地球温暖化が危惧されている現代社会も、まだまだ捨てたものではないのかもしれない。

 時刻は六時過ぎ。当たり前だが、ほとんどの学生は起床前で、恐らく今も新調のベッドでスヤスヤと眠っていることだろう。

 そんな中、どうしてオレは既に登校しようとしているのかと言うと、原因は昨日できた盟友にある。

 

 昨夜、恭介との電話を終えた後、夕食や入浴、荷物整理まで済ませ、この寮のベッドの寝心地を堪能しようと意気込んだ矢先だった。

 一通のメール受信通知。

 感動的な友人獲得イベントを迎えたと言えど、依然コミュニティが井の中レベルなオレの端末に登録されている連絡先など二人しかいない。加えて、その片割れは迂闊に他人にメッセージを送ってくる確率が天文学的数値である堅物少女。となれば、可能性は一つだ。

 端末を開き確認すると、画面に映った文面はごく短い簡潔なものだった。

 

『何時起床』

 

 ――漢文かよ。

 実際に彼と話した経験があるやつなら目から鱗だろう。宙に浮いたようなジョークと間延びした語尾。柔らかすぎて骨組すら失っているようなゆったりとした口調が特徴の彼からは想像もつかない。必要最低限の情報だけが込められた無感情な文字列。

 せめて疑問符くらいは省略しなくてもよかったのでは?

 やはり彼は、デジタルの世界でも魔訶不思議な少年のようだ。

 とは言え彼の聞きたいことははっきりと伝わっているので、妥当な返事をする。

 

『大体七時くらいに起きようと思っている』

 

 数十秒待つと更に返信が届いた。

 

『六時?』

 

 ――お前は平仮名を使えない呪いにでもかかっているのか?

 何だろう、凄い違和感。これを打っているのが鈴音だと言われればまだ納得ができる。

 これはきっと、六時に起きることはできるのかと聞いているのだろう。

 

『六時に一緒に登校したいということか? 別にいいけど、どうしてだ?』

『是。別に』

 

 ――いや、『是』って……。

 一般男子高校生ってチャットで肯定の意を示す時に『是』なんて打つのが当たり前なのか? オレが所謂チャットマナーを理解していないだけ?

 それに、申し出の理由も『別に』だけとはこれ如何に。

 痺れを切らし、真意を確かめるべく電話を掛ける。

 

「ん、どした?」

 

 応答したのは数刻前に聞いたのと確かに同一人物の声だった。良かった、精神異常や乗っ取りの類ではなかったようだ。

 

「恭介、お前の送ってきたメッセージについてなんだが……」

「おー、簡潔明瞭、実にわかりやすかっただろう?」

「いや、それはその通りなんだけど……他の高校生もみんなああいう文体なのか? オレはこういうのには疎くてあまりよく知らないんだが」

 

 これを肯定されてしまうといよいよこの先の高校生活が心底恐ろしくなってくる。放課後や休日の連絡のやり取りがオレにとってかなり難儀なものとなるだろう。

 

「いんやー、そんなことはないんじゃないか? 僕はただフリック入力に指動かすのがメンドイなって思っただけだから。君なら多分伝わるだろうし」

「どこからそんな信頼が湧くんだ……」

 

 素直に喜んでいいのか判断しかねる信頼だ……それに、指の労力すら抑えたいって、流石恭介、省エネに余念がない。だが、今はそれよりもオレがチャットについて非常識というわけではなかったことに安堵するべきか。

 

「それで、どうして六時に登校したいんだ?」

「特に理由はないけど、毎朝教室に一番乗りするって何だか気持ちよくないか? 早起きは三文の徳って言うしなー」

 

 なるほど、まあ言いたいことはわからなくもない。簡単な例を挙げると、早起きの習慣がついていれば目覚めもよくなり、朝イチの授業も集中して受けられる。授業態度もある程度Sシステムの評価に響く可能性が否定できない点で、得はあるのかもしれない。

 

「わかった。じゃあ六時頃にロビーで落ち合おう」

「オーケイ! ほんじゃまた明日なー」

「ああ、また明日」

 

 初めて交わした、約束。打算や思惑のない未来への行進。

 普通の子供なら全く他愛のないやり取りだったのかもしれないが、オレにとってはひどく新鮮で、この日何度目かわからない高揚感を覚えていた。

 

 話を現在に戻そう。そういうわけでオレは、自分の体を軽くさすりながらエレベーターに乗り込んだ。

 ブオオオオンと、重い機械音だけが、狭い箱の中で反響する。あの忌々しい無音無色な箱と、どちらの方が心地良いか。自問するまでもないな。

 やがて液晶に『一階』の文字が表示され、ロビーと接続された扉が開く――。

 

「……っ!」

 

 目の前に広がったのは、白い床と壁と、そして天井だった。

 どういう、ことだ? 何故、どうして……?

 あまりに非現実的な体験に動揺する。これは、夢? 回想? 幻覚?

 ハッと気が付くと、自分の正面に堅く閉ざされた扉が現れた。

 現実で開くことなど、逃げ出すまでには一度たりともなかった、開かずの扉。

 ……一度も?

 漫然と思い浮かべた言葉に疑問を持つ。何故疑問に思ったのかわからない。

 その時だった。ウィイイインと、直前に聞いていたエレベーターのものよりずっとあっさりとした機械音が鼓膜を通る。扉が開いた。

 眩しい光に思わずたじろぎ、手の平で遮る。

 何だ。何が、見える……?

 期待、不安、好奇、恐怖。珍しく、感情が複雑に入り混じる。

 ……そういえば、この感情は、元々オレに宿っていたものだったか?

 あの完全閉鎖の環境で芽生える情緒など、あり得るのか?

 オレはもしかして、()()()()()()()()()()を――。

 

「おはよう、清隆」

 

 酷い頭痛と間延びした抑揚のない声にハッとする。そこでようやく、オレは自分の意識がはっきりと現実に戻ったことを悟った。

 エレベーターの扉は、既に開いていた。

 

「どうした。開所恐怖症にでもなったか?」

 

 目の前には、シンパシーによって(えにし)が結ばれた友の姿があった。昨日のように奇天烈なジョークを息の如く吐いている。

 

「……それを言うなら、広場恐怖症だろう?」

「あっはは、博識だなー」

 

 そう言って、彼はこちらに近づいてくる。

 

「まあどっちにしたって心配ないさー」

 

 躊躇うこともなく、エレベーターに入り込み、オレの背後に回る。

 

「君がそうやって独り怯えて出られなくなっても」

 

 ちっとも格好つけない調子で飄々と言葉を紡ぎ、オレの背中を優しく押す。

 

「――こうやって僕が、側で君の足を支えるからさ」

 

 その言葉と共に、オレたちは二人揃って箱から降りた。

 

「なーんてなー」

 

 間もなくして、無人となった昇降機の扉は閉じ、再び上昇していった。

 思わず呆然としてしまう。自分の身に一体何が起こったのか、生憎オカルトは専門外だ。

 ただ、恭介が物怖じせずこちらの懐に踏み込んできた時、オレの背中に手を添えてくれた時、そして何より、寄り添うような言葉を掛けてくれた時、間違いなくオレの心は弛緩した。

 同時に、どこか懐かしい感慨を覚える。自分の中にある何かが共鳴するような、奇妙な感覚。

 判然としないが、オレはこの事実を喜ばしいことなのだと直感する。

 

「……そうか、ありがとう」

 

 だからオレは、今はまだ中身の薄い、感謝の言葉を吐き出した。

 この時のオレは、自分がどんな顔をしていたのかわかっていなかったが、オレの返しを受けて恭介がとても嬉しそうにしていたことだけは、とても印象に残っている。

 

 

 マズイことになった。

 いや、偏にマズイと表せる状況かはわからないが、何となく気まずい。

 あの後オレたちは見事トップツーで教室にたどり着き、小さな優越感に浸りながら鈴音を待っていた。

 彼女が到着し次第手短に伝えるべきことを伝え、そのまま話は今後の方針へ。最終的に平田へ委託(という名の押しつけ)を試みることになったのだが……。

 

『……鳴っちゃったなー。まあ焦らず放課後にでも言えばいいんじゃないか?』

『……そうね、また後にしましょう』

 

 あの時感じた違和感は、何とも形容しがたいものだった。

 オレには事なかれ主義という崇高な信条がある。ほんの少し知恵を貸してやることは致し方なしと甘受するが、目立つ行動はNGだ。

 ただ、恭介の歯切れの悪い反応には少々驚いた。

 オレはてっきり、彼は鈴音に協力するものだと思っていた。昨夜の電話での羅針盤宣言があったからだ。羅針盤は知っての通り方角を指し示す物。視野の狭い鈴音に別の道を指摘する役割を担うという意味だったはず。

 それに、断るにしてももっとキッパリと断るだろうとも思っていた。彼はオレと似て面倒事を嫌う。クラス規模の抗争ともなれば、最前線に立っているだけでもかなり精神を削られそうだ。おまけに盟友であるオレが協力しないと宣言している。こちら側に賛同する可能性も考えていなかったわけではない。

 しかし結果はそのどちらでもない、半ば先延ばしという形だった。恐らくチャイムが鳴っていなければ、鈴音はあのまま平田の下へと向かっていたことだろう。その場合どうなっていたか……。

 中国の小説に『故郷』という作品がある。1900年代に活躍した魯迅の代表作だ。

 その物語の主人公は、生家の家財の引き払いという目的で二十年ぶりに帰郷する。かつての見る影もない荒廃してしまった景色や人々の様子に失意の念を覚えるが、やがて兼ねてより楽しみにしていた旧友との再会にありつける、という一幕がある。しかし彼らには地主と小作人という身分の差があり、大人になってしまった旧友はその壁の存在を悟ってしまい、昔のような無邪気な付き合いが出来なくなってしまっていた。

 立場の違いは、意図せず人と人との間に溝を掘っていく。今は些細なことだと吐き捨てられても、気が付いた時には元の関係に戻れなくなっているなんてケースはざらにあるだろう。

 恭介はもしかしたら、それを恐れていたのかもしれない。柄にもない行動は、その優しさ故だったのだろう。

 ……しかし、どうしてこんなにも胸がざわつくのだろうか。

 初めは恭介に気を遣わせてしまった罪悪感か何かかと思ったが、どうにも納得できない。

 何かを嫌悪するような、悲しみに近い感情。

 ――オレは、何かを迷っている?

 存外オレは、恭介たちの気まずい空気に飲まれてしまっているらしい。

 しかし――。

 ある意味思春期らしいとも言えようその苦悩を、どこか嬉しく感じる自分もいた。

 

 

 

 それからは昼休みに学食という新体験を果たしたこと以外取り挙げる事柄もなく、オレたち三人は部活動の説明会に足を運んだ。

 隣には恭介が立っており、鈴音は少し離れた位置にいる。彼女の耳に触れないこのタイミングなら、彼が何を考えているのかもう少し詳しく教えてくれるのかもしれない。

 意を決して、オレは話を切り出した。「どうするつもりなんだ?」

 

「何のことだ?」

 

 惚けているのか本当に察せていないのか、彼はケロッと応じる。

 

「さっきの件だ」

「どうするも何も、僕らはお役目御免って話だったろう?」

「今のお前が本当にそう思っているとは思えない」

 

 本心を伝える。あくまでそう思うというだけの話だ。勿論本当に彼女に協力するつもりがないという可能性も否定はできない。

 

「迷っているんだろう? ――お前がどちらかに賛同すればもう一方は孤立することになる。――板挟みになって葛藤する気持ちはわかる」

 

 友人として、ましてやオレの人間関係を思って気遣っているのであれば、大変申し訳ないことだ。たった一日とは言え、彼はオレに大きな勇気を与えてくれたのだ。本人に自覚はないのかもしれないが、これ以上迷惑をかけたくないし、オレ自身負い目を募らせたくはなかった。

 

「オレのことを気にかけてくれるのは嬉しいが、無理に合わせなくてもいいぞ。鈴音も危なっかしいところがあるから、お前がいた方が心強いはずだ。だから――」

「違うな」

 

 ――しかし、オレの言葉を遮った一言は予想だにしないものだった。

 

「何?」

「僕はそんなできた人間じゃないってことだ」

 

 そんなできた人間じゃない? どういうことだ。Dクラスに配属されたことを言っているのだろうか。

 少なくとも、彼の人間性に問題があるとは思えなかった。ボッチルートまっしぐらだったオレに寄り添ってくれた時点で、寧ろ優れているはず。平田や櫛田に対してなら兎も角、オレに打算的な理由で近づくことはまずないからだ。

 身体能力も申し分ないことは既に把握している。となれば、学力か? いやしかし、頭が悪いだけでそこまで卑屈になるものだろうか。オレがそんなことで軽蔑するような心ない人間には見えるのであれば話は別だが、これまでの対応からしてそれはないとわかっているはずだ。

 そもそも、『違う』とはどういうことなのだろう。全く以て理解できない。

 恭介は、オレたちの関係について悩んでいるわけではなかった……?

 ならば彼は、何をどうして迷っているのだろう。

 刹那の思考の中、オレは終ぞ答えを見出すことはできなかった。

 これも、オレに欠けているものが原因なのだろうか。

 そこまで思案したところで、体育館の空気が一変する。壇上に視線を移すと、細身だが威厳を感じる佇まいをする眼鏡を掛けた男が見えた。

 

「生徒会長の、堀北学です」

 

 その自己紹介を聞き反射的に鈴音の方へ目をやると、後ろ姿で表情はわからなかったが、足がすくみ小さく震えているような気がした。隣で物憂げに彼女を見つめる友人を見るに、オレの分析は正しいはずだ。

 ――二人にあって、オレにないもの……。

 突然自分だけが取り残されるような感覚に襲われた。頭を振って、思考を切り替える。

 悩んでこその思春期と言うのであれば、それを解決する手段はどこにあるのだろう。パッと思いつくのは自力で模索することだが、オレはつい昨日恭介と手を取り合う形でミッションを達成している。

 そして、今朝の恭介の発言。

 

『――僕が、側で君の足を支えるからさ』

 

 彼がオレに新たな兆しをもたらしてくれたように、オレにも、誰かを支えることはできないだろうか。他人に触れたことのなかったオレなんかに。

 彼がオレにそう思わせてくれたように、オレも、誰かに心からの『ありがとう』を言ってもらうことができるだろうか。虚無な本質しか持たない、オレなんかに。

 いずれにせよ、オレの中には、たった一つの確信があった。

 今の自分に欠けている何かを見出す時、そして、それを手に入れようと願った時。

 きっと、恭介の存在が不可欠だ。

 

 

 

 その夜、オレは自分の部屋で、今日の出来事を昨日と照らし合わせながら思い出していた。

 あの後も、鈴音と口論になったり櫛田と初邂逅&お悩み相談をしたりとイベント三昧だった。

 昨日の終わりは、あんなにも期待で満ち溢れていたのに、たった一日で、雰囲気も感情もガラッと様変わりしたものだ。

 だが、何もそのことを偏に忌み嫌いはしない。

 彼女たちのおかげで、自分の中に芽生えたものの正体を垣間見ることができたのだから。

 オレはどうやら、恭介のことを貶されて『怒り』を覚えていたらしい。

 他人に対してそれ程強い感情を抱いたという事実に、我ながら驚きを隠せなかった。

 自分が何かを識る時、そこには必ず恭介の存在があった。基本一緒に行動していたのだから当然なのだが、例えばこれが鈴音であったら、これ程までに揺れ動くことはなかっただろう。彼だったからこそ、オレに変化の兆しが生まれた。そのことについて、感謝しかない。

 しかし忘れてはならないのは、決して恭介だけのおかげではなかったということだ。彼を通じて鈴音と触れ合い、彼らとのズレを櫛田に相談したことで気づきを得たのだから。

 人と人との繋がりが、理性では測り切れない結果をもたらす。

 昨日のように鮮やかなものもあれば、今日のようなわだかまりに近いものもあるのだろう。

 しかしそれさえも、オレは識らなかった。

 ……そうだ。あの時胸につっかえていたもの――オレは、羨ましかったんだ。

 今日彼の思いつめた表情に気付いた時、オレは一つの悲しみを覚えたのだ。

 あの時オレは、恭介はオレたちと無縁の何かによって思い悩んでいるということを理解した。

 彼にはきっと、積み上げてきたものがあったのだ。だから今も苦悩している。

 だけどオレには、何もない。自分を戒める過ちも、後押ししてくれる功績も。

 人はそれを、『思い出』と評するのだろう。

 オレが思い出だと誇れるのはこの二日間だけ。たったそれだけで、オレに何ができる? これからの高校生活に光を見出せるのだろうか? 途端に不安になり、自分のことが虚しく感じられた。

 彼らのことを理解したい。自分の中で沸々と湧き上がってくるものの正体を理解したい。一種の知識欲や好奇心のような、不思議な感覚。自分から何かを学ぼうとすることなど、これまで一度もなかった。

 そのためには、恭介と、そして鈴音の存在が必要だ。他の選択肢があったとしても、それが最適解、だと思う。

 しかしオレたちは、Sシステムという不可解極まりない仕組みによってギクシャクし始めている。

 恐らく鈴音は、オレたちが何を言ってもクラス対抗戦でリーダーを張る意志を曲げないだろう。それこそ、孤独を選ぶことも覚悟しているかもしれない。

 更に言えば、オレ自身が目立つことを好んでいない。明らかに彼女と相反する考えだ。

 ここで一つ、疑問が生じる。

 『すべき』ことと『したい』ことが噛み合わない時、人はどうすればいい……?

 きっと、答えなど誰も教えてくれない。こればかりはオレに限らず、万人に言えることなはずだ。

 行動に移せば、オレの安寧にヒビが入るかもしれない。しかし静観すれば、手繰り寄せたものは急速に離れて行くだろう。

 オレは一体、どうすれば――。

 初めての苦悩を前にして行き詰まり目を閉じた、その時だった。数少ない、過去の記憶が瞼の裏に映ったのは。

 

『力を持っていながらそれを使わないのは、愚か者のすることだ』

 

 色も、言葉も、心もない、無機質な世界で、『覚えろ』と命じられたから覚えていただけの言葉。

 マイナスな感情すら抱いていたはずのそれが、何故か今この瞬間、ストンと胸に落ちた感覚がした。

 ――ここで何もしなければ、オレは本当に愚か者になる。

 この機を逃せば、オレは次第に元に戻っていてしまうような気がした。恭介と鈴音との関係は歪になり、惰性で続くだけの哀れな繋がりになるような気がした。

 嫌だ。

 いいようのない嫌悪。受け入れがたい仮定。

 それが自分の中で明確なものとなった時、オレは改めて、失いたくないものができた、手に入れたいものができた、と強く実感した。

 ああ、何だ。忌避していようと、あの部屋での日々が『ルーツ』であることには変わりないということか。

 やはりオレは、変わりたいと願っている。

 事なかれ主義を掲げていたついこの前と、明らかにオレの心中は変化している。今思えば、その事実にどこか怯えていた節があったように思う。

 しかし、それももう終わりだ。

 僅かに残されていたオレのルーツを照らし合わせて、オレは……。

 オレは、『選択』した。

 ――今だけは、お前の言葉に乗せられてやる。

 自分の端末をポケットから取り出し、連絡帳を開く。

 柄にもなく、不安定な希望を信じて、ゆっくりと、足を前に。

 

 少しずつ、光を掴み取るんだ。

 変化はもう怖くない。

 この先期待する道のりは、きっとオレにとっての進化になる。

 無機質なコール音が途切れるのに合わせて、オレはこれから向き合う相手の名を呼び掛けた。

 

「もしもし――鈴音」

 




冒頭から新規カットを入れておきました。

「なんちゃって」って言ってたからマシだけど、二章のオリ主見ていると全くこの時の言葉と反してるやん。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ablaze Key

久しぶりにここまで難産だったなあ(遠い目)。

一応これで序章の清隆視点は完結です。


 男子の喧騒が耳に障る。

 ある者は今から始まる授業はどんな内容なのかと。そしてある者は女子のご登場はまだかと。挙句の果てには胸やらスク水やらの単語をモロで引き出し下心全開なトークをかます者までいる。

 とてもそんなはっちゃけたノリに付いていけないオレは、ここに来て改めて自分の初友達が恭介で良かったと実感する。彼でなければ逆にこの雰囲気に事も無げに便乗できた可能性も僅かにあるが、朝の冷ややかな目をした女子たちを思い返すと、そんな思考は一瞬で霧散する。

 

「なあなあ綾小路。やっぱお前は堀北ちゃんの水着姿にキョーミあるのか?」

 

 先程まで櫛田――あー、桔梗の水着姿を妄想して鼻の下を伸ばしていた池に話しかけられた。

 

「いや、別にないけど……どうして鈴音の名前が出るんだ?」

「な、名前呼び、だと……! 怪しい……やっぱりお前ら怪しいぞ!」

 

 池の悲痛な嘆きに呼応して山内もこちらへやってくる。

 

「入学してからすぐ仲良さげだもんなぁお前ら。確か浅川も一緒だよな? 羨ましいぜ、あんな可愛い子と毎日仲良くてさ。ま、櫛田ちゃん程じゃないけど!」

 

 「それな!」勝手に盛り上がり勝手に鈴音と桔梗に優劣をつけて大笑いする二人。山内に至っては朝の一件で特定の女子を貶す発言をしていたことからも、なかなかに性根が腐っている。

 

「俺たちも櫛田ちゃんと何とかお近づきになりてぇ!」

「そうだ、綾小路、お前何か良いアドバイスとかねえのかよ!」

「アドバイス?」

 

 前触れもなくそんな話を振られても困る。真面に他人と話すのでさえ手馴れてないというのに。

 

「……とりあえず、まずはさっきみたいに下心丸出しな表情をするのをやめるべきなんじゃないか?」

「た、確かに……でもそりゃあ難しいぜ。なんたって、櫛田ちゃんが可愛すぎるんだからな!」

「そうだよな! てか、うちの学校って女子のレベル高くね? 胸のデカいやつも多いし。ああ、長谷部たちの登場が待ちきれねえ!」

 

 これはもう、何を言っても無駄かもしれない……。

 かと言って、放っておくと今にも女子更衣室へ飛び込みかねない形相をしている。さすがに自分のクラスメイトから犯罪者を生み出したくないので、どうにかして予備軍と化している二人を宥める。

 こういう性に偏った会話も、思春期男子には日常茶飯事なのだろうか。内容が内容なだけあって他人に確認するのも気が引けるが、少々もどかしい。鈴音にでも相談したら絶対にゴミを見る目をしてくるはずだ。あるいはゴミを見る『ような』目を通り越して、オレをゴミとして扱ってくるかも。一日中無視なんてされた暁には号泣不可避だ。

 程なくして、男子待望の女子入場の瞬間が訪れた。しかし現れたのは彼らの想定の半数程度。残りの女子は皆、上の見学席で構えている。そこには話題に挙がっていた長谷部と佐倉の姿もあった。

 だが、これでもマシな方だろう。自分で言うのも小恥ずかしいが、オレと恭介の功労によって男子の汚れた団結を崩さなければ、もっと多くの女子が見学へ逃げていたに違いない。

 参加者全員が着替えを終え、先生の号令と共に集まると、あることに気付いた。恭介がいない。

 暫し辺りをキョロキョロと見回すと、どういうわけか見学席に座っていた。男子で唯一の見学者だ。

 普段の彼の授業態度からして、サボりというわけではないだろう。何か事情があるのだろうか。

 そう考えている内に活動が始まり、自由時間に入るまでは特に思うところもなく時は進んだ。

 一緒に水に浸かってはしゃぐ相手もいないのでプールサイドでボーっとしていると、桔梗の姿が目に留まる。

 これだけだとまるでオレが彼女に邪な視線を送っているように捉えられかねないが、ちゃんとした理由がある。彼女はここでも相変わらずクラストップの人気を誇っているということだ。ほとんどの時間大人数の女子に囲まれてキャッキャウフフな空間を形成しているため、傍観者としては嫌でも目に付く。

 にしても――山内の言っていたことも強ち間違いだらけではない。確かにこのクラスもとい学校全体の女子は少なくとも平均より優れたプロポーションを具えているように思う。表現を変えているだけに過ぎないが、桔梗たちがその発育した身体を話題のタネにされるのも、致し方ないのかもしれない。

 ――内も外も完璧、か。

 耽っていると、隣に一人の少女が腰を下ろした。目を向けるまでもない。鈴音だ。

 

「何をしているの?」

「……己との闘いに没頭していたんだ」

 

 いつしか盟友が答えたような言葉で適当に返す。

 

「誰からも声を掛けられなかったのね。哀れだわ」

「それはお前も同じだろう」

「私は好きで一人でいるのよ」

「それまだ言ってるのかよ……」

 

 オレと恭介とはある程度話すようになってきていたから勘違いしていたが、どうやら彼女は他の同級生への対応は全く変わっていないようだ。初期にお誘いをしてくれていた女子たちも、もう彼女に声を掛けようという気配はない。

 

「お前はオレを貶すためだけにこっちに来たのか?」

「まさか。私が問い詰めたいのは――」

 

 鈴音は左斜め上を指した。その先に見えるのは、お察しの通り恭介だ。何やら佐倉と話をしているようだ。彼のことだから、朝のことについて慰めでもしているのかもしれない。

 これまで二人が会話している場面は見たことがなかったが、いつから知り合っていたのだろう。今が初対面なのだとしたら、そんなにも気軽に話しかけられる彼の度胸を少しでも分けていただきたい。

 

「あれはどういうこと?」

「オレは何も知らない」

 

 オレのにべもない返しに彼女は少し不機嫌になる。

 言いたいことはわかる。同性のオレなら事前に事情を聞いていただろうだから止めることができたはずだと咎めたいのだろう。

 だがお生憎様。オレは本当に彼から何一つ知らされていない。

 きっぱりと言い放ち口を閉ざしたオレを見て、どうにか諦めてくれたようだ。

 

「……あとで話を聞かなければ気が済まないわ」

「無駄だと思うけどな」

 

 珍しくきっぱりとした口調で返したオレに、鈴音はこちらを一瞥するが、すぐに前方へ視線を戻した。

 もし教えてくれるのなら、それこそ予めオレに何か伝えてくれていたはずだ。それをしなかったのは、どこか言いたくない後ろめたさのようなものがあったから。

 自惚れでなければ、オレは鈴音よりも信頼されている。オレに何も言わなかった時点で、彼女の追及に対して彼が口を割るとは考えられなかった。

 数十秒無言な時間が続いたが、再び鈴音が口を開く。

 

「あなたたちは、少し不気味だわ」

「どうした急に」

「浅川君はあんなに間抜けな態度を取ってばかりなのに、時々変に真面目くさった顔を見せる。あなたも訳のわからない主義を掲げていたかと思えば、友情一つで意見をひっくり返す。一体どんな育ち方をすればそうなるのか、理解不能ね」

 

 合理性に欠ける、と言いたいのか? 別に誰しもリスクリターンを測りながら行動しているわけではないと思うが。

 

「人間何を大事にするかなんてまちまちだろう。信念とも言うな」

「一人でも多くの友達が欲しい。相変わらず莫迦ばかしい思想を抱いているのね。――そういえばあなたたち、朝の一件で連れ出した二人とやけに長く話し込んでいるようだったけど、それもそういう下心に基づいたものだったの?」

「賭け事と比べれば全然下衆ではないと思うが……まあ、その通りだな」

 

 言葉に棘はあるが、他人とよろしくしたくて話をしていたのは事実なので否定はしない。現に須藤と沖谷とは早速翌朝から親交を深める予定だからな。

 鈴音は少し顔を俯かせる。大開口の窓から差し込む光が、水を滴らせる髪を照らし、優美さを際立たせている。

 

「……変わったって言うのね」

「え?」

「初日の自分を忘れたの? あの時は、友人の一人も暫くはできないだろうと思っていたのに、あなたはいつの間にか他人と触れ合う意志と術を手に入れつつある。――浅川君の存在が関係しているの?」

「……どうだろうな」

 

 あの瞬間の感覚はあまり明瞭に振り返ることはできないが、少なくとも一歩踏み出す腹積もりではあった。そういう意味で、彼によって自分の中で生み出された気概のようなものではあったのかもしれない。

 それにしても、どうしてそんなことを唐突に話し始めたのだろう。単に沈黙を気まずく感じる彼女でもないはずだ。

 

「彼、不思議な人ね」

 

 コンビニ前での会話の切り出しと同じ言葉を彼女は吐いた。しかしそれは、ただの疑問には収まらず、他人への関心も示しているように感じられた。

 

「アイツに興味が湧いたのか?」

「どちらかと言うと、あなたたちによ。あなたたち二人は、互いが互いを影響し合っている、ように見える。それがあなたの言う変化なのかは知らないけど、それよりも――」

 

 彼女は自分の思っていることをどう口にすればいいのか、手探りのまま言葉を紡いでいるようだった。我慢できなくなったのか、途中で顔を上げこちらを見る。

 

「それを『成長』と呼ぶべきものなのか、判断しかねているわ……」

 

 あの時の彼女は、一方的に友人は必要ないと切り捨てる発言をした。そのイメージが崩れかけているといったところか。

 

「浅川君と接していく中で、あなたは少しだけ表情を緩ませることが多くなった。自分自身の幸せを願う上で、他人と関わることも一つの可能性であることを否定していいのか、あなたを見ているとわからなくなってくる」

 

 彼女が思い浮かべているのは、授業初日の夜、オレが呟いた言葉のことだろう。

 

『誠実に向き合い続ければ、幸せに貪欲であり続ければ、いつかは手に入るんじゃないかって思ったんだ』

 

「友達の必要性を、理解したということか?」

「そこまでは思わないけど、無意味と切り捨てるのは早計だったのかもしれない、とは思わなくもないわね。幸せの形なんて人それぞれだから、私に当てはまるとは限らないけど」

 

 鈴音の膝を抱えるその腕に力が入る。

 彼女には野心がある。恭介も察しているようだが、生徒会長である兄に関してだろう。

 優秀と評価されAクラスに君臨する兄と、落ちこぼれのDクラスに配属された妹。その歴然な差をどうにかして補うためだと思えば、彼女も形振り構ってはいられないのかもしれない。それこそ、自分の信じていたものに疑いの目を向けてでも。

 なぜなら――、

 

「少なくとも、こうしてうずくまって悩んでいる内は、私は何かが欠けている未熟者なのでしょうね……」

 

 「彼の言う通りだったわ」と珍しくしおらしい態度で語る鈴音を見つめ、オレは盟友の言葉を頭の中で反芻させる。

 

『やる前から全て正しく切り捨てられるほど、君は成熟した人間なのかい?』

 

 彼女の過去など知る由もないし無理に知ろうとも思わないが、今までの人生――兄の背中を追いかける生の中で、彼女はきっと周りにある多くのものを切り捨ててきたのだろう。良く言えば自分自身を絶対の位置に置き、悪く言えば他人を自分の道の外へ追いやってきた。

 しかし、そこには彼女を応援してくれる存在があったのではないだろうか。支えてくれる存在や、間違いを咎めてくれる存在がいたのではないだろうか。

 こうなる前の彼女にはいたはずだ。そして彼女はそこから目を逸らした。恭介のあの言葉は、そんな彼女を糾弾する意味が込められていたのかもしれない。将又、自分自身を戒める言葉だったのかもしれないが。

 いつしか出来上がった固定観念というのは、なかなか崩しがたい。なぜならそれが、積み上げたものによって形成された個人の『常識』であり『世界』だからだ。そこには正しいも間違いもない。ほとんどが0と1に見えてしまう自分には、縁の浅いことだ。

 

「でも、悪いことではないんじゃないか?」

 

 だからこそ、オレは識りたい。識るために、一歩前へ。

 若干呆けた顔でこちらを向いた鈴音を真っ直ぐに見つめ返す。

 

「オレたちを見て、自分の中で疑念が生じたんだろう? まずはそこで沸き上がった感情から逃げない自分を誇るべきだ」

 

 オレは一日目に期待し、二日目に不安を覚え、それでも識るために決断した。

 独りでは行き詰るかもしれない。間違うかもしれない。オレだって、殊人間関係においては解釈違いを引き起こさない自己保証など全くできない。

 

「やりようはいくらでもある。見たり聞いたり触れてみたり――それは独りで完成するものじゃない」

 

 そういう時に見えないものを見えるようにしてくれるのが、他人なのだろう。

 他人が幸せを教え与えてくれることもある。他人の幸せによって自分の幸せに気づくこともある。他人と同じところに幸せがあるなんて奇跡もある。形は様々だが、些細な違いだ。

 

「考えなしに切り捨てたものをもう一度拾い上げて、今度はしっかり吟味しようとしている時点で、お前は既に未知なる一歩を踏み出しているじゃないか」

 

 オレたちのような孤独という概念に近しい人間にとって、それは何とも難儀なことなのだろうが、不可能ではない。どちらか一方が歩み寄るだけで、劇的な変化は起こり得る。

 オレが恭介に影響されたように。そして、それを見て鈴音が僅かでも揺れ動いたように。

 彼女は深く考える素振りを見せ、目を閉じる。

 

「そう、かしらね。確かに考えたこともなかったわ。他人のことなんて」

 

 自分の中で合点がいったのか、再び目を開けた時の彼女は、少し澄んだ顔をしているように見えた。

 

「だけど、やっぱり疲れるわ」

「台無しだな」

「ええ、台無しね」

 

 相も変わらず、他のクラスメイトたちはプール開きの興奮そのままに、バシャバシャと水を弾いている。

 その音に紛れて、ポツリと聞こえた言葉――。

 

「……無意味ではなかったかもしれないけど」

 

 果たして、照れくさがりながらもオレに向けられたものだったのか、ただの独り言だったのか、判断しかねたので反応はしなかった。

 ただ、だからこそその一言は彼女の本心だと確信できたし、オレはそれを嬉しく感じた。

 ――何だ、お前も大概変わっているじゃないか。

 

「この前の料理大会、楽しかったか?」

「いいえ別に。……でも――美味しかったわ」

 

 恐らくあの日が、彼女をここまで悩ませたきっかけだ。表情を見ていれば、想像に難くない。

 また彼女に気持ち悪がられてしまわないよう、ニヤけるのは我慢しなくてはな。

 

「……ねえ、綾小路君」

 

 名前を呼ばれて再び隣を向くと、先程とは違いしっかりと顔をこちらに向けた鈴音と目が合った。不思議といつも以上に凛々しく、綺麗な顔に見えた。もしやこれは、恋に落ちる瞬間なのかもしれ――

 

「あなた、何か運動を習ってた?」

「……え?」

 

 世界が切り替わったように、数分間訳のわからない時間が続いた。

 

 

 

 

 

「うえー、さっむ」

「自業自得だろう」

「仕方ないじゃないかー」

 

 あれから一週間と少し経ち、今オレは自室で恭介と通話を繋いでいる。暇だから相手をして欲しいらしい。かまちょか。

 彼の震える声と時々聞こえる轟音から察するに、恐らく外に出ているのだろう。まだ冷え込む時期だというのに、ご苦労なことだ。

 

「上手く行きそうか?」

「さあ、どうだろう。――二人にしかわからんよ」

 

 進捗具合を聞くと、そんな答えが返ってきた。他人任せ、ということではないのだろう。

 暇の相手と言っても、一応用件はあるようだ。彼は桔梗の依頼を熟している真っ最中らしい。呑気に電話していて大丈夫なのか聞いたところ、ちゃんとした理由はあるのだと言う。音沙汰がなかったために難航しているのではないかと頭の片隅で心配していたが、妥当な策を講じることはできたようだ。

 

「それにしても、随分と遅い時間にかけてきたな。明日が土曜日で良かったじゃないか」

 

 現在時刻は九時を過ぎている。夜に弱い恭介がこんな時間に活動しているのは珍しい。いや、タフさを自負している彼ならあり得なくもないのだが、意味もなく起きていることはないはずだ。

 

「人目に付くと僕が変質者みたいになるだろう。それに、あまり早い時間だと予定が狂う可能性があったからなー」

 

 なるほど、やはり訳ありなようだ。あまりに分が悪い状況で、彼が一体全体どんな手を打ったのか、興味をそそられる。

 

「まあ暇潰しくらい付き合ってやるさ。面白い話を聞かせてくれるんだろう?」

 

 そう言いつつも、そろそろ新鮮味の薄れてきた高校生活に新たな刺激を求めたオレ自身の、他愛もない暇潰しでもあるわけだが。

 

「退屈な子守歌になっても文句言うなよ? まあ急かしても夜は逃げないさー。沁みるコーヒーでも添えてのんびりお聞き」

 

 お前の武勇伝が子守歌なんて範疇に収まるわけがなかろうに。まあそれも話を聞けば明らかになる。

 まだ夜は長い。彼の言う通り、至高の一杯と共に優雅な一時を嗜もうか。よくよく考えてみると、こんなに遅い時間を誰かと共有するのは初めてだ。心なしかテンションが高まる。

 勢いそのままに、オレは揶揄いの言葉を返した。

 

「生憎オレは紅茶派だ」

「やめなさい、雰囲気崩れる」

 

 馬鹿を言え。オレたちのノリはこうあって然るべきだ。

 

 

 

「――てなわけで、今の僕はキューピットではなく見守り役、つまりはオブサーバーってわけさー」

「ほう。それで、今のお前の部屋には鈴音と櫛田が二人きりというわけか」

 

 相槌をしながら、彼の話に注意深く耳を傾けること十五分。事の顛末を大まかには理解できた。意外にも上手く纏められていてわかりやすかったな。

 

「一体どんなユニークな会話が繰り広げられているか、気になるねー」

「あの組合せでそこまで弾んだ会話ができるとは思えんが」

 

 鈴音はどうやら桔梗のことを特別嫌っているらしい、というのは、オレたち二人の間で暗黙に共有されている事実だった。オレがもしそういう相手と密室に閉じ込められたら――想像の域は出ないが、軽く死ねる。

 あれ、この男、可愛い顔して相当鬼畜じゃね……?

 

「だからこの作戦にしたんだ。逃げようって魂胆ならそうはさせない。向こうだって僕に聞きたいことはあるはずだから、軽率な判断をしないよう祈るしかないなー。それに一応、ボチボチ話は積もっていたみたいぞ」

 

 ほう、意外だ。鈴音のことだからてっきり針を縫ったように口を噤むものだと思っていたが――イヤよイヤよも何とやらだな。

 ……ないか。アイツは良くも悪くも素の態度を崩さない。彼女があらかさまに避けているというのなら、つまりはそういうことなのだろう。

 

「それにしても、ゲームで例えるとはな」

「ちょっとした縁で、知人から熱い教育を受けたことがあるんだよ」

 

 世の中そんなものを教え込もうとする教師もいるのか。茶柱先生や他の先生を見る限り、その人がだいぶ変わり者なのだろう。なるほど、どうりでこの盟友も変人になったわけだ。まあ一般高校生からすればオレや鈴音も大概変人なのかもしれないが。

 

「ところで、結局問題の答えは何だったんだ?」

「ふっふっふ、それはなー……」

「それは…………?」

 

 息を呑む程の唐突な沈黙。心なしか、重苦しいドラムロールの音が聞こえてくる。

 一体恭介は、どんな答えを用意していたと言うのか。

 紅茶を口へ運ぶ手を止め、期待を隠し彼の返答を待っていると――――ついにその時が来た。

 

「それは…………僕にもわっかんねえやあ!」

 

 ――いって。

 思わず椅子から転げ落ちた。無言の時間を返せ。ほんの一瞬だったけども。

 

「わからないのか……」

「正確には唯一解じゃないってことだなー。ズバリと一言では答えられん。まあほら、禅問答みたいなもんさー。言葉は解釈、だろう?」

 

 彼の返しにオレは呆れて溜息を吐くが、同時にちょっとした感慨も覚える。学校初日の帰り道、花言葉云々について語っていたのが懐かしい。まだあれから一ヶ月も経っていないのか。充実した時間は早く感じるというのは本当だったな。

 その生活の片棒を担いでいるとも言える鈴音について、恭介への揶揄を込めて話をしていると、今度はこんなことを言いだした。

 

「君はもう僕に聞くまでもなく答えが出ているんだろう?」

「……やけに自信を持って言うんだな。オレは中学生レベルすらも怪しい学力なんだぞ」

「今まで散々誤魔化してきておいて今更それを真に受けると思うかー……」

 

 困ったものだ。親しくなった弊害なのか、彼は出会ってから間もなくオレを優秀な人間だと決めて掛かっている。――懐いているという表現の方が正しいか。いずれにせよ、彼の前ではもはや変に取り繕う方が不自然なのかもしれない。これからは『平均よりちょっとできるけど埋もれちゃう系男子』を目指そうかしら。それならまだクラス内では目立ちにくいし、鈴音に協力する約束もしてしまったことだしな。

 

「まあ今は君のことは置いといて、この問いが今後の彼女のためになるのは、君も理解しているところだろう」

「勿論だ。お堅い彼女にとって、良い頭の体操になるのは言うまでもない。奇想天外ではあったが、クイズ形式なら助言も与えやすいし、悪くなかったと思うぞ」

 

 恭介の言う通りだ。彼が今回取ったリゾートは案外理に適っている――と言うのも、鈴音の特性を正確に踏まえた上で、王道なロジックを展開していた。

 無意味なことを忌避する彼女を自然な形で呼び出すために小テストの話を持ち出す。彼女が桔梗を避けないように逃げられない密室状態を作る。そして、彼女のプライドを利用しクイズ形式を取ることで思考を促す。何てことのないように見えるが、その実一つひとつのフェーズを見誤らずに最適な選択肢を取っていた。

 それに、彼は今回の問いかけを禅問答のようなものと称していたが、恐らくそんな生半可なものではない。彼は『唯一解ではない』と言っていた。つまり、恭介の中には『いれかえ』以外にもいくつか明確な答えが浮かんでいる。

 彼は見かけに寄らず合理的な時があるんだよな。ホント、見かけに寄らず。

 

「お、向こうのお茶会が終わったみたいだ」

 

 と、向こうで動きがあったようだ。そろそろ通話も幕引きといったところか。

 

「お茶は準備してなかったろう」

「あっはは、確かに。それじゃあまたなー」

 

 慌ただし気に恭介は別れを告げた。

 やけに雑に切ったなと思いつつ、そろそろ寝ようかと就寝前の一杯を注ぎに行ってから元の位置に戻る。

 端末を充電しようと手に取ると――違和感に気付いた。

 

「――? ――は寝――ぞ」

「――うね。でも、――さんに――いもの」

 

 無音であるべき空間にひっそりと響く話し声のようなもの。いや、話し声か。紛れもなく、手に握られた機械から発せられたものだ。

 ――まだ、通話は切れていなかったのか。

 機械音痴の彼のことだから切り忘れただけかもしれないが、ご立腹であろう鈴音がどんな罵詈を恭介にぶつけるのか気になったので、好奇心に従い放置することにした。

 しかし、その浅はかな計画はすぐに溶解する。彼らの会話を聞いている内に、恭介はわざと通話を繋げたままにしていることを悟ったからだ。

 恭介が立てた作戦やクイズの詳細、鈴音が桔梗と二人きりの時に起こっていたこと、そして二人の因縁もとい桔梗の本性(真実)

 彼が自分の広げている話をオレにも聞かせようとしていたことは容易に理解できた。

 全く、案外抜け目のない男だ。きっと、情報がダイレクトに伝わるしオレへの説明の手間も省けるしで一石二鳥、だとでも思っているのだろう。普通はその精神一筋でこんな妙策は浮かばないと思うが、そうであってこその変人浅川恭介という認識が芽生えつつあるのが不思議なところ。段々と彼のことをわかってきた気がして、こちらとしても嬉しい限りだ。

 三十分程経って鈴音は部屋を出て行き、それを見送った恭介が――案の定意図的に話を聞かせていたオレに話を振って来た。

 とりあえず、まずはいの一番に抱いた感想を述べさせてもらおうか。

 

「お前の企みが頓挫して爆笑していた」

「感情を乗せてから言い直してみろ」

 

 さすがに彼も本来の自分の目的を忘れてはいなかったようだ。彼は桔梗からの依頼を請け負った際に『鈴音のことを知りたい』と言っていた。今回桔梗に関するビッグニュースを得ることができたために霞みがちだが、彼のノルマに目を戻せば一概に収穫ありとは言えないだろう。正しく、あの日オレの訴えた懸念が現実のものになったというわけだ。

 その後は予定調和のように意見交換を行った。結果がいまいち振るわなかったからか、そもそも桔梗に関心がないからか、恭介は一貫してこちらへ意見を求める受動的な態度だった。

 

「――大体わかった。ところで清隆。君、結局『櫛田』呼びのままなのかい?」

「あー、それは……」

 

 彼の声音からして、本当に何の意味も持たない素朴な疑問なのだろう。

 鈴音のことはすぐに下の名前で呼び始めたのに、どうして桔梗に対しては他人の前でできないのか。その違いは偏に二人の人気の差からくる。

 それを詳らかに説明した。つもりだったのだが……

 

「…………あっはは、う、うん。ぷっ、き、君が、はは……それで良いなら、あは、僕は何も言わなっふふ…………言わないよ、ははっ」

「な、何だよ。そんなおかしなことを言ったか?」

 

 珍しく噴き出しそうになっている恭介に冷や汗が滲む。何か嘲笑の的になるようなことを口走ってしまっただろうか。考えても答えは出なかったので、万が一にも揶揄ってくる相手は彼か鈴音かのどちらかだろうと割り切ることにした。

 

「……まあ、いいか。――なあ恭介。オレからも一つ聞いていいか?」

 

 自分の失態についてはよくわからなかったが、何だか莫迦にされていることだけは察しが付いたので、意趣返しとしてさっきまで自分から口を開かなかった彼にはっきりと答えてもらうことにしよう。

 

「え。あー、いいけど」

「お前は、いつから櫛田の本性に気付いていた?」

 

 まさかこれまでの流れからそんなことを聞かれるとは、さすがの恭介も思わなかったのだろう。それ故僅かに見せた沈黙によって、オレは自分の推測がほぼ間違いなく合っているのだと確信する。

 

「耳掃除でもしたらどうだ? 鈴音と話していた時に一言も気づいただなんて――」

「気づかなかった、とも言わなかったろう。一言で否定しなかったのは、気付いたことを隠したいが鈴音に嘘を吐きたくもないという葛藤の結果だ。違うか?」

「どっちも言ってないならどっちもありだなー。僕が言ったのは『信じようか迷う間もなかった』という事実だけ。真実は闇の中ってわけさー」

 

 オレの発言は概ね予想が付いていたのだろう。今度の反論は明らかに用意されていたもの。不自然な間もなく言い放った。

 彼が桔梗の裏を見透かしていたのは恐らく――()()()だ。全く根拠のない憶測だが、今までのことを振り返るとその可能性が最も高い。

 ただ、恭介の狙い通りと言うべきか、確かに彼が表向きに白状した事実はなく、鈴音も渋々彼の言い分に納得していた。

 それならばなぜ、オレたちはこんな牽制紛いなことを態々繰り広げているのか。

 ――今のオレになら、わかる。

 

「ふっ、そうだな。良くわかった。迷う間もなかったんだよな。――ああ因みに、後から追及されないように先に言っておくが、オレもさっきの話の最中に驚くことはなかったぞ」

「へえ、君もねえ。まあ櫛田とは多少親しくしていたみたいだから、知っていることの一つや二つはあるんだろうなあ」

 

 前までのオレなら、意味のないことだと切り捨てて、僅かでも尻尾を出すようなマネはしなかっただろう。

 だけど――オレは嬉しいんだ。こういう「茶番」であっても、他人と関わる美酒をオレは知ってしまった。

 無論、自分の深淵を明かすような間抜けになるつもりはない。寧ろそうならない調節ができる絶対的な自信があるからこそだ。

 築き上げた壁に触れさせることで、少しでも分かり合えるのなら。

 たとえ『自分の積み上げた無色透明な世界』だったとしても、心地良さを手に入れるためのチップとなるのなら。

 オレはやはり、未知の幸せに、手を伸ばしてみたくなったんだ。

 果たして自力で届くのか、誰かが掴んでくれなければ届かないのか。

 少なくとも、その誰かがお前であることを、オレは望んでいる。

 疑惑はある。彼のことについて、根本的に知らない部分も山ほどある。しかしそれは、オレの置かれている状況には害を為し得ないものだ。だからオレは目を瞑る。

 この怠惰な手を伸ばさせたんだ。その責任、取ってくれよ?

 ささやかにしてかけがえのないオレの願い。きっと、恭介は薄々気づいてくれる。そしてしどろもどろになりながらも、最後には必ず来てくれる。

 

 ……そう、思っていた。

 

「――――部品の欠けた羅針盤なんて、誰もが愛着をもって使い古してくれるわけじゃないだろう?」

 

 オレはその言葉の真意を悟った時に、彼の抱えているものの重さをもっとよく理解するべきだったのだ。

 初めて抱いた意志を自ら破ってしまっていたことに、オレは気づくべきだった。

 ――飛び出した大空は、驚きを避けられない程に澄んでいるのだと、そう()()()()()

 

「ごめん、無理だ……無理、なんだ……」

 

 だから、その言葉を聞いた瞬間(とき)、オレは自分の目を閉じることしかできなかったんだ。

 




二章も清隆視点をやるか、他のキャラをやるのかは未定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『A reads A』

 奇妙な夢を見た。

 そこは、何もない部屋だった。何も感じさせない部屋だった。

 問いを解く、肉を働かせる、芸を熟す。それ以外のためのものは何一つ存在しない。

 周りにちらほらと見える影も、老若男女問わず空間に溶け込むように真っ白だった。

 だから、それを反映させるように、オレの中に生まれる情緒も一つとして存在せず、空っぽな像であり続けることもまた必然だった。 

 そして、生まれも育ちもこの場所だったオレにとって、当時はここがオレの『世界』の全てで、『常識』だった。

 ならば何故、自分の居合わせた幻もとい『回想』が、奇妙なものだと感じたのか。

 その答えは偏に、ある『一人』の存在による。

 静止した世界に突如として現れた異物は、無機質な常識に当てはまらない子供だった。

 今となっては性別も朧気なものとなってしまったが、それは唯一オレの感覚に触れた、まさしく色と呼べるモノ。

 目と目が合う。歪みをきたしたその瞳は、真っ直ぐにオレを射抜く。

 その薄気味悪さにオレは戦慄することこそなかったが、存在そのものに疑問を抱き首を傾げる。

 その行為でさえも、何かに関心を持ったという事実の証明に他ならない。

 興味、好奇心、恐怖……言葉にできない衝動に駆られ、オレはそこから目を逸らすことができない。

 やがてその深い闇の中に、オレの意識は吸い込まれていった――。

 

 

 

 

 

 そこでようやく、意識が覚醒した。

 カラカラになった喉を労わるべく、手早く水を注ぐ。

 酷く曖昧な記憶。しかしあれは、オレが確かに体験した感覚だった。それだけはわかる。

 そしてふと、オレはあの夢から連想して、何故か恭介のことについて思考が巡った。

 彼と暫く過ごして、オレは彼に大きな『期待』と『疑惑』を抱いている。

 

 まずは『期待』。これはオレが恭介にもクラス対抗戦に協力して欲しいと願う建設的な理由だ。

 勿論友人として同じ道を進みたいという感情的な思惑はあるが、それを差し引いたとしても、恭介にはDクラスで唯一具えている才能が二つある。

 一つ目は『個人そのものに影響を与える』ものだ。

 真っ先に挙げられるのは心の変化。これまでのオレと鈴音を見ていればおよそわかるだろう。延いては、須藤や佐倉――水泳の授業以降偶に一緒にいるところを目撃していたが、回数を重ねるごとに彼女の表情は明るくなっていったように思う――も、彼との関わりによって決して小さくない変化が起きている。

 心を開かせる、信用させるという意味でなら、他にも人材はいる。桔梗なんかはその代表例だろう。しかし、恭介はいつの間にか他人に前を向かせ、成長させるきっかけを与え、時には自分自身がそのトリガーとなることができる。何より、彼はそれを()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 二人の違いを明確にするには、アメリカの文化人類学者、エドワード・ホールが提唱した四種の対人距離を持ち出すのがいいだろう。

 最も縮まった距離――密接距離。櫛田はその範囲に相手を不快にさせることなく踏み入るテクニックがある。しかし恭介は、そもそも自分から入りに行くようなことをしない。ただ、()()()()()

 恐らく時間をくれと言われれば、彼はいつまでも一歩離れた距離――個体距離あるいは社会距離で辛抱強く見守るに違いない。そしていつの間にか、彼の先天的な毒気皆無の容姿と物言いによって相手は自然と密接距離を開放してくれる。これは簡単に見えて非常に難しいことだ。

 二つ目は『他者どうしの関係に影響を与える』ということ。これは一つ目に挙げたものから派生して生まれてくるものだ。

 平田はクラスの纏め役、桔梗はクラスの仲介役を担当すること多いが、恭介はそのどちらでもでもない。

 例えば、クラスの中で意見が分かれることがあった時、平田は妥協案を提示するなりして全体の仲を取り持つはずだ。そして、それに不満が残る生徒を宥めるのが桔梗の役目。

 恭介の場合は、その後腐れを残さないような信頼関係を予め築くことができる。オレがここまであいつに強い期待や関心を抱いていることも含め、今までの出会いのほとんどが、そういう彼のそこはかとない能力の作用によるものだ。そこに宿るのは俗に『絆』と呼ばれるもの、なのだろうか。オレにはよくわからないが、どこか温かさを感じるような関係は何となくいいものだなとは思う。

 ただ、『絆』などという曖昧な表現を用いたあたり察せると思うが、彼の才能は()()()()()()()()()()()()だ。誰かの前に立つ要素でもなければ、全体に呼び掛けられる程の影響力も伴わせない。暗躍と言う形にも役立ちにくい。

 そもそも、彼の才能の根源にある本質は、『一人ひとりと誠実に向き合う』という行動原理。真っ先にオレと仲良くなり、鈴音や佐倉とも積極的にコンタクトを取る姿はその表れだ。ここが一番、ただコミュニケーション力に優れた平田と桔梗との違いが浮き彫りになる部分だろう。

 しかしそれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということだ。全員が恭介のことに関して共通理解を示すことができるようになるまでには、少し時間が必要になってくる。

 彼なしでも罷りなえるが彼がいれば確かな変化が後に効く。恭介はそういう絶妙な場所に位置する存在だ。

 だからこそ、小グループどうしに溝が感じられやすく隅々で団結力の欠如が伺えるこのDクラスにおいて、彼は大きな役割を果たすことができるはずだ。

 

 浅川恭介は、人と人とを繋ぐ架け橋になる。その気になれば半年もかからずにクラスの団結力を嵩増しできるだろう。

 

 

 ――さて、ここまで手放し気味に恭介のことを称賛してきたが、次はオレが彼に抱いている『疑惑』についてだ。

 まず前提として、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。きっかけは――そう、『初日にコンビニへ行った時』のことだ。

 オレはあの時恭介が指摘した通り、確かに監視カメラの存在に気付いたところだった。ただ、偶然見つけてしまったとは言え、オレはしっかりと()()()()()()()()()()()()はずなのだ。現に鈴音は、恭介が口を開くまでオレの動きに気付かなかった。

 元々オレに親しみを覚えていた彼が偶々こちらを見ていただけの可能性もあるが、疑惑はそれだけに留まらなかった。次に事が起こったのはその後間もなく――『蝶と戯れていた時』。

 さすがにあんな場面で全力で走るようなマネはしなかったが、調子に乗っていたオレは息が切れるくらいには本気で走っていた。それに対して――何度か置いていかれかけていたものの――恭介は何とか食らいつくことができていた。須藤と沖谷と一緒にトレーニングをした時のことを思い返してみても、その運動神経は決して眉唾物ではない。

 入学試験や小テスト、桔梗の依頼でのアクションは、彼が存外頭の回る人間でもあることを証明している。

 そんな彼を、オレは初め『ホワイトルームからの刺客』である可能性を疑った。しかし、すぐにそれはないだろうという結論に至った。友達であるという情を抜きにしても、明らかに彼はオレに差し向ける人材として『不適格』だったからだ。

 第一に、そもそもの出会い方に問題がある。恭介はオレに声を掛けられるまでこちらを向こうともしなかったし、自己紹介をするまでオレが綾小路清隆であることに気付いているようには見えなかった。まして、その後の鈴音とも仲良くなろうと必死になる姿や、須藤、沖谷、佐倉とも積極的に交流を図る様子、そしてそこにオレも伴わせる行動は、策を講じようと模索する上であまりに遠回り。いっそオレを他人から切り離し、関係を自分のみに限定させた方がまだ効率的だろう。

 そして次に疑問なのが、俗世に対する無知さの問題だ。恭介はオレにも負けず劣らず現代社会に疎いところがある。例を挙げるなら――これもコンビニでのことだ。

 彼はオレに倣ってカップラーメンを一つだけ購入した。後に鈴音に聞いてわかったことだが、あれは市販でも売られているごく一般的なものだったらしい。そんな代物を彼は貯蓄せず、オレと同じく興味本位で購入した。

 商品の値段について聞いた際も、彼は「田舎者だからわからない」と答えたが、それも何らかの事情があって普通の値段の基準がわからないことを隠そうとしているのだと捉えることはできる。

 余談だが、水泳の授業の日の会話であまりに男子特有の欲求に対して疎かったり、そもそも日常生活に浸透している機械の扱いですらオレ以上に梃子摺り過ぎていたりすることも違和感である。

 ならばその事情をどうしてホワイトルーム生であることだと考えないのか。理由は単純明快――()()()()()()()()()

 刺客として送り込むなら、もっと周りに溶け込めるように『普通』をある程度教え込まれているはずだ。敢えてオレと似た価値観を持たせるというのも、メリットとデメリットが釣り合わない。

 他にも、あまりに感受性が高すぎることや、口調が独特過ぎることなど、様々な理由を加味して、オレは恭介がホワイトルーム生ではないと断定した。

 何より彼は――いや、よそう。一番の理由であるとはいえ、別に『これ』を頭の中で思い浮かべる必要はない。兎も角、この時点で彼がオレに害を与える存在ではないことがほぼ確定的なものとなった。

 

 ……だからこそ、()()()()()()()()()

 どちらかと言うと、興味なのかもしれない。

 ホワイトルーム生でもない彼が、一体どうしてそこまで俗世を知らずに育ったのか。そして、何故そこまで世間知らずなのにも関わらず、他人に対して敏感であるのか。

 その答えを求める上でヒントになるのかはわからないが――オレはある時、事ある毎に「ただの嘘とユーモアなジョークを一緒くたにするな」とぼやく恭介にこんなことを言ったことがある。

 

「お前はジョークをかますことは多いが、嘘を吐くことはないのか?」

 

 ほんの些細な興味から出た質問だった。しかし、彼は途端に真面目な顔になってこう答えたのだ。

 

「いや、僕が嘘を吐く瞬間は二つある。『絶対にバレるとわかっている時』と、『大事なものを守るために必要だと判断した時』だ」

 

 「どっちにいしても忌み嫌うべきものなんだけどね」と語りつつも、その時のどこか冷えきったような表情は、今も脳裏にこびり付いている。

 オレは、その言葉を留めながら、今までの彼の言動を振り返る。

 

『自分のことを自分の言葉で語ろうとしない奴は、きっとどこまでも生きづらいんだ』

 

 なあ恭介。お前はそんなにも、()()()()()()()()()()()()のか?

 

『僕はそんなできた人間じゃないってことだ』

 

 お前の()()は、一体どこにある?

 

『ほら、幼い頃は貧しくてね。生計を立てるには致し方なかったのさー。だからコソ泥』

 

 お前は一体、()()()()()()()()っていうんだ?

 

 オレには知りようもないことなのかもしれない。だが――その胸の中に秘めているものだけは、知りたいと思う。

 それが、()()()()()()()()()()()()()。そして、()()()()()()()()()()()()()

 気付けば、既に恭介との待ち合わせの時刻が迫っていた。

 オレは眠気の取れた目を瞬かせて、部屋を出て行く。

 そろそろ五月。初めの頃と比べ、太陽はしっかりとオレの身体を照らし、温めてくれている。

 ――少しだけ、熱くなってきたな。

 今はただ、今日も友達と会える喜びを噛み締めようと気を持ち直し、ロビーへと向かう。

 生温い風が、いつもより騒々しくオレの頬を突き抜けていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間
凸凹コンビ、始動


ちょっとフライングで投稿。二章が気になる状況からの……まあとりあえず読んでみて下さい。


「せんぱーい、終わりましたー」

 

 深夜三時、都内某所。

 書類の山を絶妙なバランスで抱えながら、男はオフィスに飛び込んできた。

 三十路を過ぎているか怪しい艶やかな顔立ちだが、ボサボサに生え散らかした髪の毛が清潔感をグッと下げている。スーツの着こなしも、やっと慣れてきたといったところだろうか。

 「先輩」と呼ばれた女性は茶色いボブヘアーで、男と違いスーツは慣れを通り越して着崩している。本来なら清楚さを感じるはずの顔立ちは、今は苛立ちでデコに皺が寄り台無しになっていた。

 

「そこ、置いといて」

「りょーかーい」

 

 男がデスクの上に忌まわしいペーパータワーを下ろすのを傍目に、女はキーボードを只管に叩く。画面では文字列が踊っては紡がれ躍っては紡がれの繰り返し。彼女はこの作業を約三時間休むことなく継続していた。

 

「……全く、お偉いさんは気楽でいいよなホント。……大体、これあたしらのせいじゃなくてあのバカ上司の怠慢でしょうが。……それにあのハゲ、同じこと何度も確認してきて、抜けるのは髪だけにしろっつうの」

 

 また愚痴のストッパーが外れている。それが女のストレスがオーバーフローしている合図であることをこれまでの経験で理解している男は、彼女を刺激しないよう引き気味に見守っている。

 このドスの効いた性格のせいで異性がおっかなく感じて近づこうとしないんだと、男は内心溜息を吐く。ガサツさで自分の美貌を相殺してしまっている彼も人のことは言えないのだが、本人が気付くはずもない。

 男が呑気にブラックの缶コーヒーを飲みながら女の作業している様子を眺めていると、ようやく彼女は書類の山に手を付け始めた。

 ――仕事はできるから凄いんすよねえ

 こうして悲劇の残業に直面しているのも――彼女が愚痴っていた通り――その優秀さ故に「バカ上司」から半ば押し付けられる形で仕事を任されたせいなのである。その「バカ上司」もまた一筋縄ではなく相当な食わせ者なのだが、締め切り間近で寄こしてきた辺り明らかな揶揄であり、彼女は事ある毎に発狂しては呪詛を唱えているのだ。

 果たして、女は並の生業人なら二時間はかかるであろう書類確認をものの三十分で済ませてしまった。

 トントンと机の面で紙束の端を整え、男に差し向ける。

 

「一箇所」

「え?」

「一箇所間違ってる。ここ、この一文だけ被害者と加害者が逆になってる」

 

 指差された部分を覗いてみると、彼女の言った通り。単純なミスだ。

 

「あ、ホントっすね。直しときます」

「ん、それで今日は終わり。お疲れサンマ」

 

 大きく伸びや捻りをして体を解しながら、女は立ち上がった。

 

「よっしゃ、この微塵も面白くねえクソクエストをやり遂げたフジにはとっておきの褒美をやろう」

「え、褒美? 何すか何すか」

 

 期待でキラキラと目を輝かせる男。因みに「フジ」という呼称は、彼の本名「風見喜助(かざみ きすけ)」の真ん中を抜き取った「見(ル)喜(ー)」で連想される某キャンディを発売した食品メーカーから取ったものである。彼女曰く「あれ富士山の富士と唯一無二の不二がモチーフらしいから、あんたの名前よりよっぽど格好良いっしょ」とのこと。

 そもそも始点が本名の真ん中であることが気掛かりだが、そこからが遠回りし過ぎて原型が全く残っていない。あまりに奇想天外である。初見初耳でこの本名と渾名が同一人物のものであるとは、誰も看破できないだろう。

 風見が興味津々に寄ってくる様子を見て、女はニヤリとほくそ笑む。

 

「それは…………明日あたしにパシられる未来でぇーす!」

 

「やったー! ……って、え? 何でですか!」

 

 女の煽り全開な発言に、風見の咎める声が室内で反響する。

 

「一箇所間違ったじゃんあんた。それで減点された結果」

「オールクリアだったら?」

「ダッツ奢ってやった」

「うわあああぁぁぁ! 僕のダッツがあああぁぁぁ!」

 

 床に手をつき絶望の叫びをあげる風見。二人きりの今だからこそできる大胆な感情表現だ。

 

「ミスの有無で対応変わりすぎっすよ! 先に言ってくれたら絶対間違えなかった……」

「0か1かはデカい差よ。そもそも報酬知らなきゃ本気になれない時点でまだまだだっつうの。甘ったれんじゃないよ」

「鬼! 悪魔! 独身!」

「独身は正義じゃボケェ!」

「はぐぼぅ!」

 

 鬼と悪魔はまだ許されたものの、最後に絶対に発してはならない単語を口走ってしまった風見は、左頬にモロで鉄拳制裁を喰らう。

 

「それに言っとくけど、ダッツ奢ったとしてもあんたが明日パシられるのは確定だったかんね?」

「え、マジすか?」

「マジよ。だから実質ペナルティ無し。あらやだ、あたしったら良い先輩ねぇ」

 

 そう言ってうんうんと頷く女。何が恐ろしいかと言うと彼女、本気で自分が慈悲深く優しい先輩だと思っているのである。陰で「孤高の女鬼」と囁かれていることを理解しているにも関わらず。

 

「あれ、でも、明日って僕たち非番じゃなかったっすか?」

「非番じゃなきゃあたしといたくないって言いたいの?」

「滅相もない」

 

 普段なら彼女も貴重な休日は極限までだらけて過ごしているのだが、今回はその気持ちを押し切ってでも足を動かしたい理由があった。

 

「……今月の頭であった殺傷事件、あんたも知ってんでしょ」

「ああ……なるほど」

「あの子は、少なくとも私が最後に見た時にはあんな残虐なことをするような子じゃなかった。聞けば、今も取り調べ受けてるけど何も喋らないみたいだし」

 

 女の思い悩む表情に、風見は思わずふっと息を漏らす。彼女の情に厚く他人を想える性格は、彼が一番尊敬している部分だった。

 

「事情はわかりましたけど、じゃあどこに行くんすか? 留置所行っても通してもらえるか微妙だし、現場行こうにも手がかりとかは押収済みかもしんないっすよ?」

「わかってる。だから行くのは――彼女の母校よ」

「母校……やっぱり、去年の事件と関連があると考えているんすね?」

「そりゃね。ただ、少し気になることもあったもんでね。それを改めて見に行くんだよ」

 

 「気になること?」と首を傾げる風見を気にも留めず、彼女は帰宅の準備を整え部屋を出ようとする。

 

「あ、待ってくださいよ先輩。僕も帰ります」

「トロいんだよ。考えながら手足動かせ」

「考える前じゃなくって?」

「マルチタスクは社畜の基本じゃい!」

「んな無茶苦茶なあ!」

 

 それからは他愛もないやり取りを経て、駐車場に着く。

 

「――――()()()、元気にしてますかね」

「さあね。今度会いに行く時にわかるっしょ」

「だけどあの学校、かなり閉鎖的らしくて、入れてくれるかわかんないっすよ?」

 

 車に乗り込みながら、女は驚いた顔をする。

 

「え、マジ?」

「マジっす」

「警察権限使っても?」

「五分五分っすね」

「ジーザース!」

 

 頭を抱える女を見て、風見は苦笑する。無鉄砲な彼女がどう出るのか、期待半分不安半分だった。

 

「ま、なんとかなるっしょ。あたしら実質保護者みたいなもんよ? 経過観察とかこじつければ行けんじゃない?」

「彼が書類に何て書いたかによりますよ」

「……生意気なこと書いてたら鉄拳制裁ね」

 

 コエエ……。

 風見は内心怯えながら車を発進させる。車が振動しているのか、将又風見が振動しているのか。

 

「それに形式的な話、関係者の事情徴収ってことにすれば例外として認められる可能性は高いと思う」

「余程心配なんすね」

「悪い?」

「まさか。それが先輩の取り柄でしょう」

 

 車通りは少なくスイスイと道路を進んでいく。

 

「会えたら、きっと喜びますよ、彼」

「あたぼーよ。泣いて喜ぶわね」

「恐怖に染まった泣き面にはさせんでくださいよ……」

 

 赤信号で止まり、風見は少し体を女の方に向ける。

 

「でも、今更過去を漁る意味なんてあるんすか?」

「……フジ、私はね、こう見えて推理小説も嗜むんだけど」

「ホントに意外っすね」

「うっさい」

 

 ペシンと一発、風見の額に平手打ちが入る。「あいたっ!」と呻く声が聞こえるが意にも介さない。

 

「私たちだって人間なら、一番大事にすべきなのはフーダニットじゃなく、ホワイダニットだと思うのよ」

 

 それを聞いて、瞬時に復活した風見は穏やかに笑う。

 

「それが、先輩の流儀っすもんね」

「おうよ。雨宮由貴(あまみや ゆき)さんの絶対的捜査理念だぜい」

 

 Vサインを作る雨宮を見て、この人が先輩だとやはり退屈しないと風見は改めて実感した。

 




今回の話は大きな転換点です。二人の特別試験への介入は予定してないのでそこは安心してください。

と言うのも、この二人は最終的に恭介を完全に救うためのキーパーソンになります。直接的ではありませんが、きっかけという意味で彼女たちなくしては、『恭介の精神的には99%永遠にバッドエンド』になりますね。

一つ迷ってるんですけど、本作がついに序章終わったので他の作品の二次創作もできたら書いてみたいなと。その際オリキャラの設定だけは共通にしてみようかななんて(例:Aの作品の二次創作に出たオリ主の親友/親/師弟が、Bの二次のオリ主)。もちろん片方読んでないともう片方が理解できないなんて風にはしませんよ。

何かオススメとか要望とかあったら感想の方で書いてみてください。ファンタジーとかだと多分設定把握できないので学園系みたいな難解でない世界観だとありがたいです。自分がある程度知ってる原作だったら採用させてもらうかも。

まああくまで漫然とアリだなって思ってるだけで、のめり込んでる作品も少ないので、実行するかは半々ってとこですけど、もしやるってなったとしたら基本更新は本作優先になります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

✕✕小学校放火事件現場調査

ここの展開はあまり間隔空けずに揚げます。どうぞ。


 翌日、○○区の廃校前にて。

 

「大きい……」

「下ネタっすか?」

「あたしの指をあんたの口にぶち込もうか。上下どっちがご所望だ?」

 

 目的地に着いて早々この会話。

 雨宮がカンチョーの手を作ったのを見て、風見は顔を青ざめさせる。言わなければいいのに。

 

「と、とっとと中に入りましょう」

「あいよ」

 

 逃げるようにして校門を跨ぐ風見に続く。

 ――恭介君たちの母校、か。

 建物は北館、南館、体育館の三つであり、北館が南館と体育館を結ぶ中継地となっている。北館と南館を結ぶ連絡通路は二階に東西一つずつある。

 

「前来た時も思ったけど、あたしらの頃よりもずっと充実してんのね、今時の学校は」

「それもあるっすけど、その中でもここは良い方だったんだと思いますよ。進学実績とかもなかなかだったらしいですし」

 

 確かに、と雨宮は思った。浅川は勿論、彼がつるんでいた友人たちも文武両道社交的で、そのことを知った当時は彼女も大変感心したものだ。若干一名憎たらしい態度をするクソガキが混ざっていた気もするが。

 加えて、何も優秀だったのは彼らだけではなかったというのも聞いていた。総合的には彼らに劣るものの、素行が悪い生徒は極めて少なく、かと言って単に従順なだけにはならずに率先して正しく動ける集団だったと。

 設備だけでなく生徒の質も、裏で煙草や酒やらが横行していた荒くれ者蔓延る自分たちの時代から、よくもここまで向上したものだ。雨宮は感心半分、嘆き半分な気持ちになった。

 南館の昇降口から入り、まずは一階を廻る。

 

「こっちは、特に取り挙げるものはなかったわね」

「そうっすね。因みに、一階は第一、第二理科室、木工室、給食室っす」

 

 木工室か。そういえば授業中にノコギリを振り回している輩がいたな、なんて物騒なことを平然と思い出しながら、雨宮は二階へと上がる。

 

「えーっと、ここは一年教室と、図書室ね。って広っ! 中学校でこんなデカい図書室もあんのねぇ。もはや図書館じゃない」

「え、まあちょっちデカいっすけど、こんくらいのは普通にありそうっすよ」

 

 年の差は勿論、田舎と都会で育ちの差も甚だしかった二人の感想はまるで異なっていた。実際平均と比べて少し大きい程度のため、今回は雨宮の方が認識がズレていた。彼女の場合はズレている方が平常運転とも言えるのだが。

 引き寄せられるように中へ入るが、当然どの棚も一冊として本は入っていなかった。

 

「フジは何か読むの?」

「そうっすねぇ、SFとか哲学とかオカルト系とか、現実から少し離れた内容のは結構好きっすよ」

「あー、わっかるわー。あんた現実に飽き飽きして見切りつけてそうだもん」

「そこまでじゃないっすよ……まあでも、現実離れした友人は多かったっすよ。おかげで大学生活はスリル満点でした。命からがらな時もあったっすけど」

「……ふーん」

 

 「なーにおかしなことを」という言葉は、風見の神妙な表情を見て引っ込んだ。彼の打たれ強さを僅かながら認めている雨宮は、きっと自分と出会う前にも色々あったのだろうと割り切ることにした。仕事の付き合いで無理に過去の詮索をする必要もない。

 

「ほんじゃ、も一個上に行きますか」

「え、なんでっすか? 事件があったのは北館っすよ? こっちの三階に用はないんじゃ……」

「気になったことがあるって言ったっしょ。ちょっちそれを見に行くの」

 

 火事が起きたのは風見の言う通り北館の三階であり、当時捜査の目が注がれていたのも北館であった。事件を紐解く上で重要性は低いと思われるが、雨宮はそのままスタスタと西階段を上っていく。

 

「一体何を知りたいんすか?」

「大したことじゃないんだけどね。『教室の配置』だけパパッと確認すんの」

「配置? 何でそんなことを……」

 

 矢継ぎ早に質問を重ねる風見に対し、雨宮は呆れたような溜息を吐いて足を止める。

 

「あのなー、昨日から思ってたんだけど、何処にとか何をとか何でとか、わかんなきゃ聞くってのは見習いまでにしんさい。少しは自分で考えて自分で予想を立ててみい」

「それはきちいっすよ。先輩は自分の破天荒さをわかってないんすよ」

「人を脳筋みたいに言うな! そんな難しいこと言ってるわけじゃねえっての。どうせ質問するなら『答え』じゃなくて『考察の正誤』を聞けって言ってんだよ。ゆとりが過ぎるわ」

 

 「へいへい」と生返事をする風見だが、正論だと認めたのかそれ以上尋ねようとはせず、考える素振りを始めた。

 三階は二年教室。事件そのものとの関連は薄いとはいえ、当時恭介たちが過ごしていた場所だった。

 雨宮たちは上り切った目の前に見える教室へ入る。

 

「2-5、ってことは、()()()()()のクラスね」

 

 持参してきた資料をペラペラと捲りながら風見は答える。

 

「はい。この放火事件での唯一の死亡者、慎介(しんすけ)君っすね」

 

 浅川慎介。

 恭介の双子の弟であり、小中学校ともに度々恭介たちと一緒に行動する姿が目撃されていた。

 他のグループとの交流にも問題を抱えている様子はなく、教師からは恭介たちに近しく優秀だと評価されていたようだ。

 

「恭介君たち、かなり参ってましたからね。学年の中でも一際仲の良さが知られていたみたいですし、仲間の一人を失ったショックは相当なものだったと思いますよ」

「あのクソガキでさえ心を傷めてたからねぇ。余程結束の固いコミュニティだったんだろう。にしても……」

 

 雨宮は風見の補足を適当に流し、廊下の反対側を見通す。4、3、2、1とクラスが続いている。

 

「向こうの端、一組が恭介君のクラスで、一個手前の二組が静ちゃんと純君のクラスか」

 

 風見は無言で肯定した。可笑しいところは何もない。片側から順に組の数字が大きくなっていくのは当然のことだ。

 

「……」

 

 この配置に気になるところがあったのだと言う。説教された通りに考えてはいるものの、イマイチピンとこない彼は雨宮の次の言葉を待つ。

 

「…………()、ならわかるんだがねぇ」

「逆?」

「ん、後で言う」

 

 疑問に解を見出せてない時に話を焦らすのは彼女の癖だ。まだ思考中なのだと察した風見は、眉間に皺を寄せて下へ降りる雨宮に黙って付いていく。

 

「とりま、現場の方に向かって行くよ」

 

 二人は西連絡通路を通って北館へ向かう。事件の影響で黒焦げになった床や壁が視界の中で目立ち始め、やがてところどころ崩壊した部分も見えてくる。まるで未解決な闇が濃度を深め手厚い歓迎を施しているようだ。

 そのまま職員室を横切り近くの階段を上る。右手の扉から部屋に入ると、広がる惨状から発せられる重い空気が二人を支配した。

 

「調理室、学校の火元の定番ナンバーツーね」

 

 西端に位置する調理室が、今回の放火事件の発生源だった。因みに、雨宮の中でナンバーワンは理科室である。

 ただ、発火の原因はコンロの火が点いた状況でガス管に強い衝撃が加わるという少々珍しいものだった。恐らく硬い金属か何かが使われたのだろうが、物は判明していない。

 

「確か、ここら辺で屋根の下敷きになったのよね、慎介君」

 

 そう言って彼女は、一つのコンロのすぐ手前を指差す。

 

「そうっす。台上の様子やコンロが点いていた状況から、料理中に誰かに背後から襲われたのではないかと考えられてます」

 

 そう、これが決定的に「放火事件」と認定されるに至った原因だ。

 ガス管の破損だけなら、何かしらの意図しないミスや事故という可能性も否定できなかったが、慎介は仰向けに倒れ顔面に屋根を受けたにも関わらず、後頭部に明らかに人為的と取れる傷跡が見つかったのだ。つまり、一連の悲劇は誰かの悪意によって引き起こされた可能性が高いということ。

 ――どうして、料理なんて……。

 一般児童が私情で調理室で料理をするなんて余程のことだ。考えられるのは……。

 

「『バレンタイン』、か……」

 

 事件発生日は奇しくも二月中旬。雨宮が特別な事情として考えられるのはそれくらいだった。

 日本では女子から男子へチョコを送る日として定着しているバレンタインだが、米国などでは男子が女子へ愛の告白をしたり互いにプレゼントを渡し合う日という認識が強い。博識な彼がそれを知らなかったとは考えにくく、可能性としては十分成り立つ。

 そして、他にも判然としない疑問があった。

 

「明らかに()()()()

「そこは鑑識の方も引っ掛かってたみたいっすね。一応こじ付けの見解は纏めたみたいっすけど」

 

 慎介が倒れていたのは発火したガス管のすぐ側。この位置だとモロで爆発を浴び、遺体の損壊はもっと酷くなっていたはずだ。

 鑑識はこれを「襲撃によって慎介が倒れた後に、犯人が何らかの証拠隠滅のために火災を起こしたため、床にあった彼の体は損傷軽微となった」と結論づけたが、あまり納得がいかない。

 まず、証拠隠滅というのが頂けないのだ。そもそも調理室を燃やすという大掛かりな行動でないと隠せない物が思い浮かばない。大層な物でなければコンロの火でも消すことはできるだろうし、持ったまま外に出てどこかでこっそり捨てることもできたはずだ。

 加えて、低位置にあったとして、万が一火を浴びなかったとしても熱は少なからず浴びるため、遺体の形から服の状態まであれ程保たれているのはやはり不自然だった。

 となると、この矛盾を解消する単純な答えは『二つ』。

 爆発した瞬間に、()()()()()()()()()()。その後何かの拍子で例の位置に立ち、屋根の下敷きになった。

 あるいは、()()()()()()()()()()()()()。偶発的か何者かの意思か、爆発と彼との間に何かが割り込んだために、遺体の損傷は免れた。

 証拠はないため検証はできないが、雨宮はこのどちらかの方が可能性は高いと考えていた。

 ただ、そうなると別の問題が発生する。

 ――襲撃は失敗したのか?

 二つの可能性が当たっていたとすると、爆発の起きたタイミングではまだ慎介に抵抗の余地があった可能性が高い。前者は勿論、犯人と二人きりの状況で微動だにしない彼を爆発から何かが守る奇跡が起こるとは思えないため、後者に関しても慎介が行動可能だったと大いに考えられる。それなら何故、すぐに部屋の外へ逃げなかったのか。

 犯人が出入口を塞いでいたのだとしても、すると今度は慎介の遺体の位置と辻褄が合わない。

 ――第三者の存在は……いや、現場には当時恭介君がいた。

 第三者が移動させた可能性も考えたが、弟を助けに駆け付けた恭介に目撃されてしまうはずだ。恭介本人が移したとしても理由がない上、()()()()()()()()()()()()()()()彼にそこまでする余裕があったとは思えない。

 正味、ここは手詰まり。いくら推理を巡らせても、手がかりも証拠もほとんど残っていないため情報が足りなすぎる。満足のいく答えを出すのは困難だった。

 

「比較的保存状態だった去年でも犯人すら捕まらなかったんです。事件解決は困難を極めるでしょう」

「そりゃわかってるよ。おかげで動機も有耶無耶なんだから」

 

 実質未解決事件であるため、全てどうとでも結論づけられてしまう。先の雑に感じる鑑識の見解も、それが原因だろう。一縷の望みである恭介も、犯人の姿を見ることは叶わなかったと言う。

 とは言え、当初の目的は疑問の確認。胸の中の渦巻きは加速するが、何とか飲み込み次の論点へ移ることにした。 

 

「次は生徒会室ね」

「生徒会室? 生徒会室って、ちょうど反対の端っすよね?」

「ええ。事件発生当時、恭介君がいたって証言していた場所、確認するよ」

 

 恭介は二年次の後期に生徒会役員に選出されていた。当日も事務作業を済ませようと、個人的に生徒会室を利用していたらしい。

 息の詰まるような空間から抜け出し、漆喰の白色が多めに残っている東端の部屋へ移動する。これまで渡り歩いたどの部屋よりも窮屈で、密会に向いていそうな雰囲気がある。

 今度は一体どんな疑問を追究するのだろうと風見は雨宮を注視するが、彼女はサラッと流し見するのみに留まり、すぐに廊下へ出て部屋と階段、そして先程までいた調理室を繰り返し見比べ始めた。

 そもそも全ての部屋が既にもぬけの殻となっているため、収穫はほとんど得られないとは思っていたものの、これには少し拍子抜け――しかけたのだが、彼女の様子を眺めている内に、彼はその意図に気付く。

 ――ここでもまた配置の確認か。

 もぬけの殻、というのは彼女も理解しているはずだ。その上で「確認」と称してこの廃校を訪れたのだから、強ち今日一番の目的はこれだったのだろう。

 十分観察し終えたのか、雨宮は顎に手を当ててしばし固まったまま考える。

 数分の沈黙の後、久しぶりに、彼女ははっきりと口を利いた。

 

「一度当時の流れを追ってみっか。ついでにあんたにも説明してやる」

 

 

―――――――――――――――――――――――――

 

「まず、証人の恭介君の行動から振り返るよ」

 

 2-1の教室に戻り、雨宮は風見に解説を始めた。

 

「彼は生徒会関連の作業のために、職員室で鍵を受け取ってから生徒会室へ向かった」

 

 彼女の言葉に伴い、二人は教室を出て階段を下り、図書館を通ってすぐの西連絡通路の奥を見通す。

 

「その後ずっと同じ部屋で小一時間程作業をしていた。そして十八時前後になって唐突に爆発音が響いてきた」

 

 パソコンに意識を囚われていただけでなく焦燥感に駆られたのも相まって、爆発の際に三階に人通りがあったかどうかはわからなかったと言う。ただ、既に部活動や会議の時間に入っており、事件発生当時の生徒たちはパニック状態にあったと思われるため、犯行の目撃についてはあまり期待はできなかっただろう。

 

「慎介君が料理していることは本人から直接聞いていたため、慌てて彼は調理室の方へ向かった」

 

 生徒会室も調理室も、大して壁や扉は厚くなかった。少なくとも同じ階の部屋から出た音であることは判断できただろう。

 

「既に火は満遍なく回っており、倒れていた慎介君を見つけて駆け寄るも、寸前で屋根が崩れ落ちて巻き込まれ、右脇腹に深い傷を負った」

 

 彼女たちが知る由もないが、彼はその見るに堪えない傷跡を同級生に見られないように水泳の授業を見学している。病院へ見舞いに行った時に二人も見せてもらったが、くっきりとした火傷の跡には目を見開いたものだ。

 

「意識が遠のく中、せめて自分の命だけでも守ろうとできるだけ火元から離れ、職員室前まで転げ落ちたところで伸びてしまった」

 

 一区切りついたところで、彼女は西端に移り再び三階へ上り始めた。

 

「事件当日に何か気づいたことや知っていることはないか聞いた際、恭介君は、慎介君が何やら思いつめた表情をすることが多くなっていたことくらいしかわからないと証言していた。けど……」

 

 着いた先は――――2-5だった。

 

 

 

()()()()()()、それ」

 

 

 

 雨宮の確信めいた発言に、風見は思わず首を傾げる。

 

「おかしい? どうしてっすか」

「これは、学校に残っていた数人の生徒に話を聞いてわかったことなんだけど」

 

 次は慎介の軌跡をなぞるのだと言わんばかりに、彼女は再び廊下に出て二階へ戻る。

 

「恭介君が教室へ向かうのとほぼ同時刻、慎介君は図書室を訪れていたの。しかも、『白い髪に青色の目をした女の子』と二人で」

「白い髪に青色の目の、女の子……? なんだか妖艶な外見っすね」

 

 高校生なら兎も角、中学校で髪の染色やカラコンが許されるのだろうか。少なくとも、この学校でそこまで自由度が高かったという情報は出ていなかったはず。

 となれば、風見が()()()()に至るまでにそう長くはかからなかった。

 ――これは、今度調べる必要があるっすね。

 

「にしても、慎介君も隅に置けないっすねぇ。逢引っすか?」

「それはわかんない。それとなく恭介君や友人たちに聞いてみても心当たりはなさそうだったし。ただ、当番だった図書委員曰く彼はその子と一定の距離を置いて接していて、あまりカップルのようには見えなかったそうよ」

 

 親交の深い人間に対しても隠し事があるのは不思議というわけではないが、二人きりの状況を見た第三者ですらそう言うのだから、少なくとも慎介がその少女に恋愛感情を抱いていたとは断言できそうになかった。

 

「その後三十分も経たずに慎介君だけが出て行った。女の方も間もなく荷物を持って下校したみたいだけど」

「なるほど。でも、それの何がおかしいんすか? 別に兄弟一緒にいたわけでもないっすから、恭介君が知らなくても無理はないと思いますけど」

 

 まして先の話から、恭介が慎介と件の少女との交流を把握していた可能性は低い。予想していなかったという話で済む気もする。

 しかし、雨宮は躊躇わずに首を振った。

 

「同時刻って言ったっしょ。恭介君は職員室に向かい、慎介君は図書室へ向かった。そして思い出すべきなのは、2-1が東端で2-5と職員室が西端、図書室は二つの連絡通路に挟まれている、というこの配置。本来なら二人はエンカウントするはずなんだよ」

「……あ、確かに」

 

 そう、恭介は西連絡通路を通り、慎介は横切らなければならない。何か事情でもなければ、態々これよりも大きく遠回りになるような別道は往かないだろう。

 

「いやでも、そうとも限らなくないっすか? 恭介君が東連絡通路を使った場合、二人が遭遇しない可能性はありますよ」

「残念。良いとこ突くけど、生憎証言があんのよ。資料見てみ。その時間帯、担任の先生が西連絡通路のど真ん中で教室の戸締りを恭介君に頼んでいる。彼は間違いなく、西連絡通路を通って職員室へ向かった」

 

 それはすなわち、恭介が慎介の交友関係を把握していようとなかろうと、必ず西階段か図書室前で遭遇ことを意味する。彼の証言と食い違っているのだ。

 

「もし2-1と2-5の配置が逆だったら、慎介君は西連絡通路を横切らずに図書館へ入れるから、すれ違わなくても問題なかったんだけどね」

「なるほど。だから『逆ならわかる』ってことっすか」

 

 心に引っ掛かっていたものが解消され、風見はポンと右拳を左手の平に打つ。

 しかし、雨宮の方はと言うと、未だ難しい顔のままで歩みを止めない。

 

「そして」

「まだあるんすか?」

「こっちが本命。さっきのはタイミングのズレだとか、女連れだったから弟だと思わなかったとかで言い訳できるけど、これは決定的」

 

 二人は西連絡通路を歩き、中間より少し北館側に寄った辺りで足を止めた。

 

「ここら辺で、重要な手掛かりが見つかったんだよな?」

「えーと待ってください……あ、ありました。()()()()()()()っすね」

 

 風見の言葉に、今回は頷いた。

 事件後の念入りな捜査の末、見つかった物品はこの一つだけで、かつ恭介の学ランのボタンが事件当日に紛失していたことから、これが恭介の物である可能性は非常に高いという結論になったのだ。

 

「イエス。んでもって、それは恐らく()()()()()に落ちた」

「え、え? 何でっすか。恭介君の証言だと、十七時過ぎからは事件が起きるまでずっと生徒会室にいて、その後は事件に巻き込まれて動けなかったんすよ。事件後の二階とは無縁じゃないっすか。普通なら慎介君とすれ違った十七時くらいに落としたって考えません?」

 

 彼の反論に雨宮は目を細め、少し口調を強めて返す。

 

「あんた、気付いてないの? あんたがどういう気か知んないけど、今あたしは恭介君の証言に疑って掛かってんのよ。恭介君が生徒会室に小一時間も籠っていた、この証言は『虚偽』だよ」

 

 雨宮は自分の考察に私情は挟まない。例え自分が慈しみを持って寄り添ってきた相手であっても、そこに疑惑があれば迷わず追究する。証言が矛盾しているのなら、その真偽を吟味するべきだ。

 

「そもそもボタンが取れるなんてこと、それなりな力が加わらない限り起こり得ない。それに、さっき引き合いに出した担任の証言に恭介君の学ランのボタンが取れていたなんて内容はなかった。勿論、職員室で恭介君に気付いた先生たちについても同様よ。このことから、恭介君がボタンを十七時頃に落としたとは考えにくい」

「それじゃあ、どうして事件後?」

「唯一西連絡通路でボタンが取れる程の衝撃を与える可能性があった時間帯がそこだからだよ」

 

 要領を得なかった風見は黙って続きを聞く。その様子を見て雨宮は、偶には彼に考えさせてみようという先輩心――と言う名の悪戯心――が湧いてきた。

 

「当時は運の悪いことに、校舎外への避難が滅法しにくい状態だった。これでわかる?」

「避難がしにくい? えーっと…………あ、そうか!」

 

 資料を何枚か漁り、いくらか睨めっこした彼はやっと答えにたどり着いた。本来は馬鹿じゃないんだからもっと自分でやってみればいいのに。褒めているのか貶しているのかわからない感想を、雨宮は抱いた。

 

「北館の裏口玄関は十七時半以降締め切られていた。しかも当時は小雨が降っていて、文化部だけでなく多くの運動部も教室でミーティングを行っていた。その最中に職員室のすぐ真上で爆発が起きたとなれば、教師たちまで冷静さを欠き、大量の人数が無秩序に南館の階段になだれ込む。そうして生まれた大きな波が、ボタンの落ちた原因、てことっすね」

「グッジョブ」

 

 風見の分析に、雨宮は親指を立てる。合格点を満たす答えだろう。

 

「……あれ、でもそれだとおかしくないですか?」

「ん、ん? 何でい、言ってみんさい」

 

 これは合格点から満点まで伸びるかもしれんぞと彼女は期待する。

 

「南館になだれ込むってことは、当たり前だけど北から南に流れるってことっすよね。ボタンが取れる程の衝撃なら、恐らく波に逆らったということになる。つまり南から北へ…………まさか、生徒会室に籠ってなかったって、恭介君は……」

「だっはっは、だいせいかーい」

 

 粘り気のある口調と乾いた拍手。されど普段の彼女を知る風見にはそれが素直な称賛であることがわかっていたので、純粋に喜ばしかった。

 

「恭介君は()()()()()()()()()()。用事があったのか、将又作業を終えて帰り際だったのか、そこまでは確信を持てないけど、彼は南館で爆発音を聞いたのよ。それで弟の危機を悟り、ボタンが千切れながらも西連絡通路を逆流して調理室へ入った」

「……何だか不気味っすね。慎介君のことといい、どうしてそんな嘘を吐いたんでしょう。実際僕たちが導き出した答えが何か重大な意味を持っているようには感じないっすけど」

 

 風見の言う通りだった。確かに恭介が嘘を語った線は濃厚になったが、だから何だと反論されると強く言い返せないように思う。

 しかし、雨宮にとって今の段階においてはこれで十分だった。

 

「言ったっしょ、疑問の確認だって。収穫は十分だよ。あんたなんか最初微塵も彼の証言疑ってなかったでしょ」

「それはまあ、はい」

 

 ここでやれることは概ねやりきった。雨宮としては情報の整理ができた時点でノルマ達成だ。

 

「ここから先は、人から引き出すしかないみたいね」

「行くんすか? 恭介君のとこに」

「あたぼー、明日にでもね。恭介君だけじゃない。クソガキにも静ちゃんにも純君にも、みんなに聞く。――あたしのポリシーに従って」

 

 ノルマクリアはしたものの、雨宮の中では新たな疑問が浮上していた。

 ――もうちょい情報があってもいい気がするんだがねえ。

 現場は焼き切れてしまっているため証拠があがらないのは仕方のないことだが、浅川兄弟は事件の中心にかなり近しい人物だ。警察が本腰を入れて捜査すれば、もう少し詳細がわかっていてもおかしくない。

 まるでパンドラを避けようとしているかのような態度に、妙なきな臭さを感じる。

 しかしいずれにせよ、地道に情報収集を重ねる他ない。雨宮は潔く思考を打ち切り、「んあーつっかれたぁ」と大きく伸びをしながら昇降口へ向かい始めた。

 

「今度はどこに寄るんすか?」

「は? あー、んじゃあ寿司でも食い行っか」

「え、終わり?」

 

 今まで散々振り回されてきたと思いきや帰りまで突然である。この調子に少しずつ慣れてきた自分にまでも呆れ始めている風見だった。

 

「今日は非番よ? 何で必要以上に堅っ苦しいマネし続けなきゃならんのさ。それにほら、喜べ、ゲン担ぎも込めて今日のは回んねぇぞ?」

「え、マジっすか。でも僕お金ないっすよ、なけなしっすよ」

「阿呆、あたしの奢りに決まっとろうが」

 

 思いもよらぬ気前の良い一言に、風見は自分の耳を疑った。

 

「せ、先輩、どうしたんすか。急にそんな太っ腹になって」

「見合った報酬を寄越すのは当然でしょうが。最後のあんたの推理は、あたしん中じゃ満点だった。昨日逃したオールクリア達成よ。ダッツはまたの機会だが、優秀な後輩は贔屓しねぇとな」

「先輩、あなたって人は……いざとなったら僕が嫁にもらってあげますよ」

「尻に敷かれたいってか? ドM根性、上等だねぇ」

 

 健康的な白い歯を見せ獰猛的に笑う雨宮を見て、風見は迂闊な発言を即刻全力で撤回するのだった。

 




次回で幕間は終了です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

設定資料室

〇高度育成高等学校学生データベース《入学時点》

【氏名】浅川恭介(あさがわ きょうすけ)

【クラス】1年D組

【学籍番号】S01T00....

【部活動】無所属

【誕生日】2月28日

<評価>

【学力】A

【知性】B

【判断力】B⁻

【身体能力】A

【協調性】C⁺

<面接官からのコメント>

全体的には自己の長所と短所を的確に分析できる生徒である。しかし、発言の節々に自分を卑下する場面が度々見られ、必要以上に塞ぎ込む癖やコンプレックスの一種を抱えている傾向がある。将来に展望を持ち合わせていないことも不安材料である。

当初は総合的な評価がトップクラスであったことからAクラスへの所属を検討していたが、中学三年を目前にして放火事件に巻き込まれ、心身共に後遺症によるものと思われる著しい能力低下が見受けられた。別途資料による事情等も踏まえ、異例の措置として全面的に評価を改めDクラスへの配属とする。今後の高校生活で元来の能力を取り戻し、中でも対人コミュニケーションが克服できることを望む。

 

〇オリジナルキャラクターの現時点で閲覧可能なプロフィール

・浅川恭介(あさがわ きょうすけ)

中学校時代は文武両道かつ学年の人気者で、中学二年の後期から生徒会に携わっていた。静と純とは小学校、六助とは中学校からの友人。双子の弟である慎介のことをかけがえのない宝物のように思っていると同時に、親から寵愛を受けていることに軽度な嫉妬心を抱くこともあった。

放火事件当日の動向について一部虚偽の証言をしていた。事件後は周りを自然と惹きつけるような明るさがなく、表面的な接し方は変わらずともどこか一線を引いたような雰囲気を醸し出している。一時真面な会話もできなくなる程にまで陥ったが、雨宮の厳しくも献身的な介抱やリハビリによって想定よりも早くに回復する。

彼たっての希望で高度育成高等学校への進学を目指し、病床での療養と並行して雨宮から中学三年の学習内容の指導を受ける。外を出歩けるようになってからは彼女の提案に乗って武道も習い、身体能力の回復・向上に努めた。その姿は事件前よりもずっと積極的で、ひた向きな努力は冬の終わりまで続いた。

 

・雨宮由貴(あまみや ゆき)

警視庁に勤める女刑事。年齢非公開だが、勤務期間は約十年。彼女の中で失敗や挫折といった惨めな経験は一度もない、らしい。強気な性格や破天荒な態度から「孤高の女鬼」と陰ながら渾名づけられていた過去を持つが、風見と仕事を共にする三年間で先輩としての威厳を多少身に付け軟化していった。

放火事件の後は彼女なりな信念に基づき恭介たち四人の精神ケアに努めた。その際六助の鼻に付く態度だけは気に入らず、以降は「クソガキ」と呼んでいる。冷酷な判断を二の足踏まずに下すこともあるが情に厚い一面を持ち、落ち込む恭介から証言を引き出すことを躊躇う様子を見せることもあった。

ホワイダニットの精神を掲げ、心を解き明かしかた上での解決を理想としているが、これは彼女が幼少期の頃に故郷の岐阜で出会った現在の「師匠」からの教えが影響している。表向き事ある毎に文句を垂れているが、その実彼女がいの一番に頼ろうとする尊敬の対象である。彼女と邂逅するちょうど前後の時期には苦楽を共にした仲間と死線を潜り抜けてきた、という話をされたことがあるが、詳細は語ろうとしないために雨宮は強く興味をそそられている。ただ、警察で働くと宣誓した際に怪訝な顔をされたため、政府の事情が関わっているのではないかと睨んでいる。

 

・風見喜助(かざみ きすけ)

現在二十八歳の刑事。初めは雨宮の厳しい指導に難色を示していたが、彼女の現実との向き合い方を知っていく内に敬意が芽生え、雨宮自身の内面の改善も相まって信頼を寄せ始めていった。今では彼女から「フジ」というひねくれた呼称を付けられているが、意図を知らされてからは大いに気に入っている。

彼の緩い態度は時々周りから問題視されることもあるが、度々ペアで活動する雨宮のキツイ性格と上手く釣り合いが取れており、実際に成果もあがっているため、注意喚起の範囲に収まっている。

実は文系の道に進んだにも関わらず理系の分野も意外と知識を蓄えており、雨宮もその隠れた博識さに驚いていた。彼曰く、「僕たちみたいにベストマッチな科学者が友人にいたから」らしい。因みに当然のことながら、この発言の直後雨宮から華麗な鉄拳制裁を喰らっている。

サブカルチャーにも関心が強く、最近は若手のアイドルグループのライブに行く時間がないのが悩みなのだとか。

 

・浅川慎介(あさがわ しんすけ)

故人。恭介の双子の弟であり、度々静と純と六助とも交流を重ねていた。

放火事件当日は特徴的な謎の少女と密会した後、何らかの事情(雨宮はバレンタインと予想)で調理室にて料理の練習中に事件に巻き込まれたと見られている。

 

・深山静(ふかやま しずか)

恭介の友人の一人。活発でクラスに元気を与えるような存在だった。しかし、雨宮と風見が同級生たちに話を聞いた際話題として挙がったのはどれも小学三年生以降のもので、その頃に恭介たちと知り合ったようだ。

 

・新塚純(にいづか じゅん)

恭介の友人の一人。静とは異なり小学校入学から間もなく恭介と二人きりでいる姿が頻繁に見受けられていた。

大胆不敵な性格で身振り手振り口振りも豊か。学校は一部例外を除いてほぼ毎日始業前五分以内に登校するというマイペースなのか真面目なのか測りかねる一面もある。

 

・???

放火事件当日、慎介と共にいた謎の少女。わかっているのは中学生なのにも関わらず白い髪をしていて目も灰色であるという外見のみ。雨宮と風見はこれ以上の情報に少なからず心当たりを持っている。

 

・???

未だ不明な、放火事件の犯人。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二章・親指姫のワルツ
クオリア


お久しぶりです。

なんか、歌詞使用のガイドラインに抵触していたって話らしいんですけど、良くわからなくてとりあえずその回は一旦消して作り直しています。

あのガイドラインって著作権切れてる歌も対象になるんですか?間違いなく著作権は失われているので大丈夫だと思っていたんですが。

できるだけストックしとこうと思ってたらなかなか纏まらなくて、結局断念してプロローグだけ載せときます。ちょっと長くて申し訳ない。


 ある日、独り暮らしの女性は願いました。可愛い子供が欲しいと。

 

 それを聞き入れた魔法使いのおばあさんは、お金を対価に魔法の種を渡しました。

 

 女性がそれを植えると、間もなく赤と金に彩られたつぼみが顔を出しました。

 

 その美しさに魅了された女性が愛情を込めてキスをすると、チューリップの花が開きました。

 

 そこには小さな小さな女の子が一人、ちょこんと座っていました。

 

 『親指姫』と名付けられたその少女は、甲斐甲斐しいお世話を受けましたが、その優美な姿故に、波乱に溢れた顛末を迎えます。

 

 ヒキガエル、メダカ、モンシロチョウ、コガネムシ、ネズミ、モグラ、ツバメ、そして、花の妖精の王子様。

 

 苛まれては逃げ苛まれては逃げ。休みの無い数多の出会いと別れを重ねて、ついに哀れな子供は幸せを手に入れたのでした。

 

 

 ――この時までは、幸せなのだと信じていました。

 

 

 ところが数年後、親指姫は自室で人知れず泣いていました。

 

 尤も、そこはある種の鳥籠のようなものでした。

 

 不当な境遇を与えられていた、というわけではありません。

 

 寧ろ王子様の愛情は、衰えることを知りませんでした。ただ、あまりに過保護だったのです。

 

 親指姫の経緯を知ってからというもの、王子様は彼女が常に自分の目の届く範囲にいることを強要しました。

 

 お食事も、一流の料理人が二人に毎日健康に気を遣ったフルコースを提供しました。

 

 お召し物も、選りすぐりの技巧派たちによって優良のを当てがわれました。

 

 初めの方は、それは大変心地の良いことでした。危なげな動物たちに遭遇することもなく、恵まれた環境に身を置くことの幸せを噛み締めていました。

 

 しかし、どうしてでしょう。人の情緒や知識は自然と身についてしまうものです。

 

 ある時、窓の外にお洒落に並び往く比翼を見かけました。優雅な自然との戯れに憧れた少女は王子様に申し立てますが、またおぞましい害虫に襲われてしまうよと宥められてしまいます。

 

 またある時は、偶々手に取った本に、感謝の念を伝えるには手料理や編み物をプレゼントするのが良いとありました。こんな自分を選んでくれた王子様に少しでも想いを伝えたいと、厨房や仕立て屋へ赴きますが、恐れ多くてとてもできませんと断られてしまいます。

 

 来る日も来る日も、自分のささやかな願いでさえ、叶う兆しは見えませんでした。その時初めて、親指姫は幸せだと思い込んできた安寧に、疑問を抱くようになりました。

 

 井の中の蛙が大海を知らなかったように、王子様が親指姫の意志を知らなかったように、親指姫は『識る』ということを知らなかったのです。

 

 ――どうしてわかってくれないの?

 

 ――私の中身は理解してくれないの?

 

 ――この外見だけが、王子様にとっての価値だったの?

 

 一度愛したはずの男への疑惑。もっと自分の気持ちを理解してから判断して欲しいと願ったときでした。

 

 ――私は、どうだった?

 

 そう。彼女はようやく、あの冒険での自分の業と向き合いました。

 

 ヒキガエルに攫われ、親子を一目見て湧いてきたのは気味悪さでした。しかしそれは、未知の人外の姿と鳴き声を知覚した際に直感したものであって、本当にあの親子が邪な本質を具えていたとは限りません。

 

 コガネムシに攫われた時、自分を運ぶ小さな葉っぱに、チョウを括りつけたまま置いていってしまいました。今頃、川の水流や滝の落差に巻き込まれて取り返しのつかないことになってしまっているかもしれません。

 

 自分を匿ってくれたはずのネズミに何もお返しをすることなく、モグラから逃げ出したい一心で、ツバメに乗って家を抜け出してしまいました。優しいネズミは酷く悲しんでいるでしょうし、モグラは盲目にも関わらず、自分の歌声に最初に気を向けてくれた稀有な存在でした。他の者がわかっていなかったことも、もしかしたら気づいてくれたかもしれません。

 

 ――私こそ、あまりに自分勝手だった。

 

 彼女の美貌に唆された動物たちにも多少の非はあるかもしれません。しかし、今の彼女にとって、そんなことはどうでも良かったのです。

 

 自分の意志を優先して、他人を同じ道に巻き込んだ。その事実だけが、彼女の中で重くのしかかりました。

 

 僅かでもみんなの感情と向き合っていれば、幾分か救いのある旅路になっていたかもしれない。辿る場所が同じでも、それぞれに与える結末は、変わっていたかもしれないのに。

 

 償いようのない罪の意識が、少女を襲います。

 

 そして、他にも犯してしまったことはないかと記憶を辿り、その壮大な物語の最後の最後、彼女は気づいてしまったのです。

 

 ――ツバメの、別れ際の涙に。

 

 思えば、最も長らく旅のお供でいてくれたのはツバメでした。

 

 お日様が最も綺麗に見えたのも、ツバメと空を共にしていた時のことでした。

 

 追憶を終えた少女は、ツバメが自分を愛してくれていたことを知りました。

 

 愛していた故に、自分と王子様の仲を誰よりも祝っていたことを知りました。

 

 そこで遂に、彼女は大粒の涙を零しました。

 

 不細工な嗚咽は、誰の耳にも届きません。

 

 ただ、愚かな自分自身への糾弾と、ツバメや今まで巡り会ってきた動物たちに対する懺悔を胸いっぱいに広げ。

 

 哀れな子供は、誰にも明かすことなく、ひたすらに泣きわめくのでした。

 

 

 

 

 

 かつて、外を歩けなかった親指姫は、全てを書物のみで理解することに期待しました。それは彼女の現実との乖離を深めます。

 

 ふと、彼女は『名前』というものについて興味を持ちました。言葉の意味が記されたページを黙々と繰ると、『親指』と『姫』の欄を見つけました。

 

 

 ――『親指』は、『男』を意味する。

 

 

 その文字列は、不思議と彼女の妄想を掻き立てました。

 

 もし、自分が少年だったらどうなっていただろう、と。

 

 しかし、その他愛もない思考は、シャボン玉の如くあっという間に弾けました。

 

 意味のない仮定だから、というのもありましたが、それだけではありません。

 

 どちらにせよ当時の身勝手な本質が変わらなければ、きっと同じ結末になると理解できたからです。

 

 

 

 なぜならこの物語は、自分の外面(うつくしさ)に呪われた生き物によって紡がれたわけなのですから。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ディスコード

二章本格的にスタート。オリ主の精神が限界。誰か助けてあげて。

ズバリ今の彼の心情を表すのに最も適しているのは、この言葉ですかね。

「大いなる力には、大いなる責任が伴う」
(『スパイダーマン』ベン・パーカー)

こんな感じで、ちょくちょく格言引っ張てこようかな。完全に気分任せです。


 視界に炎が灯る。

 

 瞬く間に景色を紅く彩り、やがてそこが自分の過ちを象徴する場所であることを理解する。

 当時と寸分の差もない。目の前には、生命の鼓動を失ってもなお重りに圧迫される少年と、傍らにへたり込み焦点の合わない目でそれを見つめる少年がいた。

 どこからともなく聞こえてくる、耳に障るような高笑い。この惨状を作り出した悪魔のものだろうか。いや、それはないだろう。悪魔は、こんなにも悲痛に満ちた叫びをあげない。考えるだけ無駄だ。どうせ自分には関係ない。

 暑苦しい暴虐的な煌めきの戯れ(カーニヴァル)から視線を落とし、揺らめく影をぼんやりと眺める。

 綺麗だ。無理に何かを削りながら照らす、真上の輝きより余程心地良い。

 嗚呼、安寧だ。この黒衣(くろご)に身を潜めれば、楽になれるのだろうか。

 自然と足が前に出る。烈火の渦に興味はない。直下に構える無限に閉ざされた闇を追って、吸い込まれるように進んでいく。可視の領域にある薄汚れた空気が行く手を阻むが、お構いなしに進んでいく。塞がれようと、同じ場所に還り留まることを恐れて進んでいく。

 解放の近づく足音に胸が高鳴り、自然と笑みが零れる。安堵と焦りが混在し、歩みを速める。

 どれくらい進んだのだろう。汗をぬぐい、再び軽やかな足取りで棒になりかけた足を動かし、

 

 肩と脚を、掴まれた。

 

 奪われかけていた意識が引き戻される。振り向くと、屍の腕が伸び、抜け殻は既に立ち上がっていた。困惑と恐怖に苛まれ見回すと、景色は初めから微塵も移り変わっていなかった。辿って来た道は全て、幻想だった。

 

 ――どうして、逃げるの?

 ――そっちじゃ、ないよ?

 

 声も出なかった。いや、出せなかった。驚いたからではない。()()()()()()()。触れられた部位から徐々に燃やされ崩れ落ち、抵抗することも体勢を直すことも叶わず、刹那の内に目線が地に堕ちる。頭の半分だけが、無惨に転がる。

 嗚呼、そうだった。誰も逃がしてはくれない。自力で払い落すこともできない。敵わないと知っていても、死力を尽くし踊らされるようにして藻掻かなければならないのだ。

 諦めようと目を閉じかけた時、二つの他に人影があることに気付く。唯一感覚の残っている眼球だけを必死に回すと、やがてその正体が映る。

 

 ――きよ、たか?

 

 彼は本来ここにいるべき存在ではない。時間も場所も、何一つ噛み合わない異物だ。どうして、ここにいる。

 止めろ、見るな、見下ろすな。哀れな僕を、醜い僕を、そんな黒い目で覗くんじゃない!

 必死の懇願も虚しく、状況は更に加速する。彼の背後に影が増えた。鈴音、椎名、櫛田、まだ出てくる、健、沖谷、愛理……。

 今までに触れ合った人たちが、虚ろな眼差しでこちらを射抜く。

 一瞬の恐怖の後、生気を吸われる感覚が駆け巡り、昇天する魂に最大の快楽を覚える。存在証明などという曖昧な世界観から逸脱した、古今東西不在の自覚、それだけが今の自分に救いをもたらすのだと直感した。

 下界から聞こえる彼彼女らの嘲笑が、もはや祝福の交響曲(シンフォニー)にさえ感じる。釣られて自分も笑みを作る。口もえくぼも持たぬ故、目尻に皺が寄るばかりだった。

 頭上の気配に上を見ると、随分と昔に親しみ慣れた輪郭たちが出迎えた。

 天下五剣たる顔ぶれに、破顔したまま固まる。この上ない快楽から抜け出せず、制裁も救済も全てを委ねたくなる。

 五人の中の一人が前に出る。そっと自分を包み込む手の平が、酷く暖かく感じ……

 

 あっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 熱い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアヅイアヅイアヅイアヅイアヅッ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が、開いていた。

 

 指で顔をなぞると、笑っていた。この高校に来て三度目の自然な笑顔。しかしそれは、至極怠惰な気味悪い生命感の表象(アルカイックスマイル)

 焦げるような体温を感じ、急いで洗面所へ駆け込み水を出す。

 満遍なく浴びる。手、腕、肩、首、顔、頭、浴びる、浴びる、浴びる。

 

 ――ああ、足りない。まだ熱い。

 

 服を脱ぎ捨て浴室に飛び込む。水温ノズルを雑に回してから、全身に冷水を巡らせる。

 罪悪感が、後悔が、未練が、吸着力を失い洗い落とされる感覚。しかし同時に、ついこの前まで抱いていた期待や羨望までもを犠牲にしてしまっているような気がした。

 真面に体も拭かずに部屋へ戻ると、四半時経過していた。

 いつもの如く貧しい朝食を済ませると手持無沙汰になり、ベッドに伏す。二度寝はしない。今日は意識を失う度に魘され疲れてしまうに違いない。あまりに早い起床だったため、登校まで一時間程ある。

 脳裏から離れない景色に思いを馳せる。地獄のような箱の中にいたのにも関わらず、後半は何とも形容し難い幸福感に満たされていた。危険な薬物と紛う程に。

 特に最後、あの己の核までを焼き殺し我が物にせんとする狂気に近い欲望。覚えのある情熱に辟易する一方、あの甘美なる誘惑に屈しようとする自分がいる。

 思い浮かべるのは、呪縛のように感情を向けてくる、吸い込まれるような瞳。底抜けた穴のように純粋すぎる空っぽな瞳。

 恐怖の対象であるはずのそれに、何故か慈愛と安穏を覚え、強張っていた精神が解けていく。

 結局、汚れてしまった過去から抜け出すことなど無理なのだろうか。思わず顔を覆い、呻く。喚く。呪う。

 顔面に漂っているのは、明確な気色と湿った曲線。

 

 間違いなく、あの夢の中での自分は、官能的な快感の奴隷だった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 眩しい日差しに目を細める。

 空は心を写すだとか、心は天気に感化されるだとか良く言うが、やはり迷信だったようだ。

 お日様こんにちは。その灼熱でボクの心を焦がし尽くしておくれよ。

 蒼天にお届けすれば、あわよくば叶えてくれるのかい?

 

「何か珍しいものでも見えるのか?」

「願い事してた」

「朝からか。風情に欠けるな」

 

 (すさ)んだ心など露知らず。我が盟友、綾小路清隆は今日も変わらずダル絡みをしてくる。こういう他愛もないやり取りですら、今のボクにとっては精神安定剤だ。

 

「そういうのは普通、月夜の中でする事じゃないのか?」

「仮初の光を我が物顔で大盤振る舞いしているやつなんて信用できん」

「そんな浅はかなことを言って、神様に見放されても知らないぞ」

「生憎ボクは無神論者だ」

「じゃあ何に願っていたんだ……」

 

 表面上いつも通りのボクの返しに、清隆は深い溜息を吐く。別にいいじゃないか。オカルトに縋る程落ちぶれてはいないというだけだ。言わばこれは心の整理、自己満足の範疇だ。

 

「君も何か願ってみるといい。五月に入って、なかなか太陽も調子づき始めている」

「オレは――今はいいかな。願い事なんて七夕にもクリスマスにもできる。生憎現実を憂えるので精一杯だ」

「どっちも夜が真骨頂じゃないかあ。まあ気持ちはわかるけどなあ」

 

 祝い事は多い方が良いとは言うし、ボクもどちらかと言うと賛成派だが、必ずしもというわけではない。特別感が薄れてしまうという言い分も理解できるからな。ましてプライベートではなくパブリックなのであれば尚更だ。

 クリスマスとお正月なんかが代表例だろう。ネオンマシマシな街並みが乙だと耽っている内に、何時の間にか落ち着いた和服や鏡餅が流行るのだ。顧みてみると結構目まぐるしいし、方向性もチグハグ。人類がエキセントリックを極めていく過程には、こういう柔軟さというか、気まぐれさのようなものが関わっているように感じる。

 尤も、『わかる』という受けごたえは何もそのことだけを指したものでもない。

 ぬらりくらりで容認しかけていたが、ボクらは純粋にコミュニティが狭すぎる。鈴音も混ぜて三人でつるむことが多かったおかげで気づくのが遅れてしまった。

 何だかんだでもう一か月。にも関わらず、充実していると胸を張るにはあまりに心もとない交友関係だ。他のクラスメイトはボクらより少々先を行っているかもしれない。櫛田に至っては、案の定他クラスまで勢力を拡大しつつあるらしい。無理矢理にでも混ぜてもらいたい。

 そしてボクらが共通で抱えている問題は、それだけではないわけで……。

 

「同情されるくらいなら、見捨てないで欲しかったんだがな」

「ごめんなあ。ボクだって心苦しかったんだ。でなきゃ昨日の今日でこうして君と歩いたりしてないさあ」

 

 ボクは昨日、真っ向から鈴音の要請を拒絶した。清隆は軽い皮肉のつもりでぼやいたのだろうが、正直本気で咎められても無理もないと思っていた。場合によっては一種の裏切りに捉えられてもおかしくはないからだ。

 救いだったのは、どうやらボクとこの盟友との友情は、此れしきのことでは砕けない頑丈さを持ち合わせていたということだ。 無論彼の聡明さ故な部分もあるにはあるが、これに限ってはお互いの顔の狭さが味方したところが大きいように思う。

 だが、鈴音に関しては話が別だ。

 そもそもあの堅物様にそんな温情が宿っているとはとても思えない。軟化していた態度も、今回の一件で恐らくある程度逆戻りしてしまったことだろう。仲直り、などとと言って今までのように気安く近づこうとすれば、余計に神経を逆撫ですることになってしまうかもしれない。

 最初の最初はボクが二人を繋ぎとめようと動いていたつもりだったんだがな。段々と、そして今ではすっかりと立場は逆転してしまったようだ。

 

「ボク、スズネトトモダチデイタイ……」

 

 突然項垂れ始めたボクに清隆はオロオロしだす。

 

「ま、まあアイツもそこら辺は割り切ってくれるんじゃないか?」

「清隆、彼女の本来の姿を思い出すんだ。嫌悪や冷酷さにおいて、公私混同を避けたことが四月中に一度でもあったか?」

 

 どんな場面であっても――茶柱さんの前でもそうだった――ボクらに嫌味や溜息を隠さなかった彼女のことだ。げんなりせずにはいられない。

 

「否定はしない。おまけにお前、あの時はかなり鬼気迫る表情だったからな」

「それは……その、つい感情的になっちゃって」

 

 思わず前髪を弄る。あの状況であの言動は不味かったかもしれないが、ボクとしては仕方なかった。

 どうせなら、意思が定まっていなくても、表向きではきっぱりと答えておきたかったから。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 長い沈黙だった。

 永遠とも感じられる時間、ボクと鈴音は互いの瞳を見つめることで、魂の交信を図った。

 しかしそれは、突然の終わりを迎える。ボクが堪らず視線を下ろしてしまったからだ。

 

「……理由を聞かせてもらえないかしら」

 

 張り詰めた緊張感の中、彼女はボクに問いかけた。今ので多少なりとも胸の内を感づかれたか。

 

「戦いなんだろう? ウジウジと迷っている人間なんて足手まといに違いないよ」

「それはあなたが決めることじゃない。他人が評価することよ」

「なら尚更だ。学校からは不良品という扱いらしいぞ?」

「Dクラス全員同じ立場じゃない。少なくとも、その中では優秀な方でしょう。あなたは」

 

 鈴音はあくまで合理的に説き伏せる。否定するつもりはない。幹事を張るとなると、ボクはあの集団においてまだ適正はある方だろう。迷い、と言っても一時のものだと思えば、徐々に環境に慣れることで払拭されるという希望的な観測も可能だ。

 ただし、感情がそれを許すかは別問題。キミ程簡単に割り切れる人間ばかりではないことをわかって欲しいものだ。それに、理由は他にもある。

 

「……平田は、クラスのためを思って旗振り役を買って出た」

 

 ボクの唐突な発言に、鈴音は視線を鋭くする。清隆は、ボクが拒絶の言葉を発してから黙って目を瞑ったままだ。恐らく既にボクの考えを理解しているのだろう。

 

「櫛田は、みんなに慕われたい一心で、クラスのマドンナへと上り詰めた。そして鈴音、キミは誰かに憧れて、こうしてAクラスに執着している。そうだろう?」

「……そうね」

 

 自分のことを挙げられて動揺を見せるも、彼女は肯定した。事情は詳しく知らないが、清隆もたった一夜で手の平を百八十度返したのだ。強い意志を窺える。

 

「皆がみんな、炎のように燃え上がる志を糧に動いている。――でも、ボクにはないんだ。その役割を請け負う理由が、見つけられなかったんだ」

 

 正確には、見失ってしまった。いつしか両手から零れ落ち、記憶と感情の残骸に溶け込んでしまったそれは、かつて確かにあったのだ。だけど今のボクに、その整理ができるとは思えない。

 

「誰だってそういう時はあるわ。思い通りにいかなくて、途中で苦悩や葛藤に苛まれながら、それでもがむしゃらに進むのは、仕方のないことよ。あなたが言ってくれたように、私たちは決して成熟した人間ではないのだから」

「感動的だな。覚えていてくれたのか」

「茶化さないで。真剣に話しているのよ」

 

 煽っているように思われたらしい。嬉しくて薄笑いを浮かべただけだったのだが、案外彼女も焦ってピリピリしているようだ。

 あの言葉も、思えば自虐的なものだった。同じようになって欲しくなくて、訴えかけるようにそう言った。どうやら最初から、ボクは典型的な反面教師を勤めていたらしい。その甲斐はあったようだ。

 しかし、その感慨も今は抑えなければならない。今から吐き出すのは、ボクの本心に関わることなのだから。

 

「キミの言う通りだ。猪突猛進の精神は気難しい時期では大きな原動力となるだろう。――でもそれは、等身大の道のりならの話だ」

 

 ついさっきとは打って変わって、ボクは睨むように目の前の少女を強く見つめる。変化を察した彼女は一瞬驚いた表情を見せるが、すぐに凛々しい顔に戻る。窓から差し込む黄金の光が、その厳格な佇まいに拍車をかけていた。今の鈴音になら、問いかけることができるかもしれない。

 

「今後頭角を現していく先導者たちは、文字通りクラスのみんなの前に立ち、導いていかなければならない。それはつまり、他人の未来を背負うということだ。その責任の巨大さを、キミは本当に理解しているのか?」

「馬鹿にしないでちょうだい。生半可な覚悟で言っているわけではないわ。さっき先生と二人でしていた会話を聞いていたのでしょう? どんなに辛い道のりでも、私は――」

「その道のりを往く背後に、他人の姿は見えているのか?」

 

 鈴音の反論を遮るボクの問いが、無人の廊下でこだまする。

 一度質問した程度では、彼女がそう答えることなどわかっていた。だけど、それが結局は酷く曖昧なものであるのだと、ボクは知っている。

 社会に出ればきっと良くある話だ。部下の横領で責任を問われる社長、選手が敗けてばかりいてメディアからバッシングを受ける監督、店員の不手際で客から直でクレームを浴びる店長。世の中、下に付く者たちの不幸が上に立つ人間たちのせいだと咎められ、恨まれることなど茶飯事だ。有り触れているからこそ、テレビや新聞で情報として頭に入っていくというだけであり、実際の当事者たちにとっては人生を揺るがす程のハプニングに他ならない。

 小グループという枠組みですら、事を測れずに間違えることがある。その悔恨がクラス規模にでもなれば、重圧に押しつぶされてしまうことだろう。だからこそ、改めて彼女に問いかけた。キミが、誰かを背負うことの意味を、本当に理解しているのかどうかを。

 

「生き急いで、他人の未来を踏みにじってしまった時、その一人ひとりに、キミはどんな言葉を掛けるんだ? 何をしてやれる?」

 

 今の今まで孤独を愛してきた彼女のことだ。他人という存在に対する配慮が欠如していることは明らかだった。ボクと清隆にはそれとなく向き合えるようになったものの、その本質はやはり変わってはいない。現に彼女は、こうして返答に窮してしまっている。

 

「未来なんて……そこまで大袈裟な話でもないでしょう」

「そんなことはない。ここでの生活から進路まで、たっぷりと今後の人生に響いてくるぞ。青春に夢を持つ者から将来に思いを馳せる者まで、もれなくだ」

 

 次第に追い詰められていき、表情を険しくする鈴音に罪悪感を覚える。だがこれは必要なことだ。ボクの本当を伝えるために。そして、彼女の心を聞くために。

 

「……でも……だったら、誰がやるっていうの?」

 

 その時だった。彼女から感情が漏れ出たのは。

 

「誰かが、やらきゃならないじゃない。私は、その誰かにならなければいけないの……Aクラスに上がって、認めてもらうためにはそれしかないのよ! あなたたちも先生も、私には足りないものがあると言ったわ。だけど、その事実を認めたとして、じゃあどうすればいいって言うの? 悔しいけど、今の私にはそれがわからなかった。それなのに、他人だの責任だのと言われて、考える余裕なんて、あるわけ、ないじゃない……」

 

 それは悲痛な叫びだった。一度たりとも外に溢れ出たことのないであろう彼女の言葉は、熱を増した空気の中に、淡く吸い込まれていった。

 何かに怯えるように、縋るように小刻みに揺れる瞳は、辛うじて張り続けている虚勢の裏に潜んだ、取り繕いのない本当の彼女の姿なのだと直感する。

 しかし、その事実はボクに一つの悲しみを与えた。期待があったわけではない。ただ、もしもボクの胸のわだかまりを解く呪文を、彼女が唱えてくれたなら、定まっていたはずのボクの答えを、ひっくり返してくれたかもしれないと思っていたから。

 

「……誰か、だと?」

 

 愚かなことに、その自分勝手な落胆を、ボクは飲み込むことができなかった。

 

「その誰かになろうとすることに、一体何の意味があるって言うんだ? 事を成し遂げたところで、得られるのは一時的な称賛や謝辞、後は自己満足くらいだ。逆に間違えれば、背負ったものも含めて全部自分に返ってくる……善意の行動であってもだ。背伸びしたところで、足攣って立てなくなるだけなんだよ」

 

 捲し立てるように、ボクは先の鈴音の本音と相反する本音をぶつける。

 

「自分のせいで他の何かを傷つけてしまうなら、初めから何もしない方がマシだ……! 人の傷みを知ることが、何よりもこの首を絞めることだから。静観している奴らや現実に気付きもしないでのうのうと生きている奴らなんて山ほどいるぞ。誰かがいる、誰かが来てくれる、誰かがやってくれる、誰か、誰か、誰か誰か誰か誰か誰か……そうやってすぐ無意識に押し付けて目を逸らすくせに、損の一つもかきやしない! 何かを失うのは、いつだってその誰かなんだ。何もしなかった大多数は、変わらず平凡な幸せの中にいる」

 

 そこまで発したところで、体中の熱の高まりに気付いた。何とか心を鎮ませて一息つき、握り拳の力をゆっくりと緩める。あと、一言だけだ。

 誰かを傷つけ、そして自分自身も傷つけてしまうと言うのなら……

 

「だったら、ボクも『大多数』(そっち側)が良い……」

 

 その暴露を最後に流れた沈黙は、この高校に来てから間違いなく、最も永いものだった。

 他の階の生徒たちの曇った騒めきも消え、茜色の空を飛び交うカラスたちの低音な鳴き声だけが響き渡る。普段よりずっと耳障りだった。

 鈴音は、ついに何も言い返さなくなった。もう自分の言葉では、ボクは動いてくれないということを悟ったのだろう。或いは、俯く姿を見るに、気力がなくなっただけかもしれない。隣にいる清隆が心配そうに見つめている。

 もどかしさから逃げるようにして踵を返そうかと思い始めた時、彼女はやっと顔を上げた。怒りと悲しみの入り混じった表情。感情の整理が追い付いていないことは明白だった。

 

「そう、わかった」

 

 鈴音はボクよりも先に背を向けた。

 

「よく、わかったわ……」

 

 それだけ言い残して、彼女は若干覚束なさのある足取りで階段へと向かって行ったが、降り始める頃にはもう元の姿勢に戻っていた。

 その後の沈黙を察してか、間髪入れずに清隆が発言する。

 

「あんな顔、見たことなかったな。かなり意外だった」

「同感。流石に悪いことしちゃったな……」

 

 感極まっていたからこそ驚きは見せなかったが、ボクも今まで見せたことのなかった鈴音の剣幕には、何度か呆気に取られていた。何だかんだで彼女も、清隆と同じくボクの協力を強く願っていたようだ。再び罪悪感が押し寄せてくる。

 せめてもの救いは、去り際の彼女の表情だ。何かを無理矢理飲み込み、これからの航海を決意したような強い目に見えた。あれならきっと、そう簡単には折れないだろう。

 しかし、彼女よりも謝らなければならない相手が今目の前にいる。

 

「ごめんな。キミの希望に添えなくて」

「そう理解していた上で決めたんだろう。オレも、お前の意見を尊重しようと予め決めていたんだ。気に病むことはない。別に二度と会えないわけじゃないしな。話そうと思えばいつでも話せるさ」

 

 それでもどこか残念そうな表情を覗かせる清隆は、鈴音が姿を消していった階段の方を見やる。

 

「とは言え、鈴音との約束をできるだけ破らないようにしないと、鬼の角が更に立ってしまわないか心配だ」

 

 珍しく口数の多い清隆だったが、その意図はボクにも理解できた。拙いが、彼なりの気配りのようだ。

 ただし、彼もボクと似て口下手なことに変わりない。ロクに会話が引き伸ばされることもなく、恐れていた沈黙が訪れてしまった。

 

「……まあ、帰るか。そろそろ日も暮れる」

「……ああ、そうだな」

 

 短いやり取りを終え、ボクらはそそくさと帰路についた。

 夕日に彩られる視界が、やけに朱く感じた。

 無論、この日のボクらの会話は、ここ最近で一番弾まなかった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「まずは出会い頭に謝ってみたらどうだ?」

 

 昨日の一幕を思い出し、嘆きの表情を浮かべていると、盟友からそう提案される。

 

「そうは言っても、あの発言を撤回するつもりはないしなあ。『何に対する謝罪なのかしら。平謝りなんて不愉快よ』、とか言われそう……」

「あり得なくはないか。難儀なものだな」

 

 そう言いつつも無機質な表情を崩さない清隆だが、内心ボクの中で彼の評価はうなぎのぼりだ。いや、元々高かったんだけど。

 何より、ボクの事情をとやかく問い詰めないでいてくれるのはありがたかった。彼のことだからほぼ間違いなくボクの裏を感じ取っていたはずだからな。

 

 ……鈴音は今、ボクのことをどう思っているだろうか。やはり彼女の中では、既に解り合えない愚者リストに登録されてしまったのだろうか。

 ボクからすれば、冷静になってみるとあのすれ違いは必然だった。彼女は何としてもAクラスへ上がらなければならない事情があった。内容は概ね察しがついているが、クラスの雰囲気がよろしくない時点で、彼女自身がアクションを起こそうとするのは至極真っ当な流れだろう。ボクに関しても、後ろめたい事情があったからこそ、譲れないものがあったからこそ、柄にもなく語気を荒げてしまったのだ。

 ただ問題なのは、すれ違いが加速してしまったことだ。ボクはあの時、鈴音に一つの問いかけをした。今後彼女の道を阻むことになるであろう壁。その存在を仄めかしたのだが、終ぞ彼女は答えを見出せず、腹の奥でつっかえていたものが顔を出した。

 今なら確信を持って言える。本心を聞けたのは嬉しかったが、あの場面でボクが本当に聞きたかった言葉は別にあったのだ。

 押しつけがましいのは百も承知だ。だけど、その言葉が彼女の最も叫びたかった願いであったような気がしてならない。臆病なボクは、実際に彼女の口から聞きたかったのだ。

 あれ程苦しげだったのに。弱々しい目をしていたのに。表情で露わになっていたはずなのに。

 

 ――――どうして彼女は、ボクに助けを求めてくれなかったのだろう。

 

 そのことがとても心苦しくて。

 無意識にSOSを求めてしまった自分が情けなくて。

 ボクは今、本当に自分を見失いかけている。空虚な像に変わり果てる一歩手前だ。

 そうこうしている内に校舎が見え始めた。

 不意に向かう先と反対の方で言い争う声が聞こえたので振り返ると。校門を隔てて揉めている大人たちの姿があった。一人は警備員で、残りの二人はスーツを着こなした男女のペアだ。あ、女が連れの男を殴っている。何やってんだ……。

 呆れた表情をすぐに戻し、校舎の方を向き直る。

 

「まあ、因果応報ってことだなあ。根気強く頑張るしかないか」

「適度にアシストしてやろう。応援しているぞ」

 

 優しい友人の声援を胸に留める。彼の存在は貴重な心の支えだ。

 そんな彼のことについて前々から思っていたのだが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。綾小路、清隆……あやの、こうじ……うーん、よく思い出せない。そもそもこの一か月慌ただしかったおかげで、引っ掛かりを覚えたのもごく最近だ。まあ記憶の洪水に埋もれる程度の些細な出来事だったのだろう。勘違いという可能性の方が高いし、今後何かしらのきっかけで思い出せるかもしれないから、今は気にする必要はないか。過去に出会っていたなんて運命的なドラマでもあれば面白いのにな。

 不安は拭えないが、時間は不可逆に流れて然るべきもの。鈴音の信頼を回復する以外に道はない。まずは話せないことには、和解の糸口は掴めないないだろう。ベストなのは彼女が既に矛を収めているパターンなのだが、三十分も経てば嫌でもわかるはずだ。

 一つ深呼吸をし、覚悟を決めて、いざ行かん。

 

「にしても、さっきの声真似上手だったな。まさか女々しい声も出せたとは」

「……中性的って言え」

 

 今度髪でも切ろうかしら。




この章で一度オリ主吹っ切れます。序章いいとこなしの彼がやっと真面に主人公ムーブを見せてくれるのでお楽しみに。

ところで今回の話、実はオリ主はちょっとした病気にかかっているんですよね。ある程度博識な方なら知っている名前です。

試しに段落替えの間隔少し狭くしてみたんですけど、このままいって大丈夫ですかね?前くらいの方がよかったら全然応えるので、気軽に書いてください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

リフレクション

「明日からがんばるんじゃない……。今日……今日だけがんばるんだっ……! 今日をがんばった者、今日をがんばり始めた者にのみ……明日が来るんだよ……!」
(『賭博破戒録カイジ』大槻太郎)


 いつも通り、優等生らしく程よく早い時間に、鈴音は教室に入って来た。傍から見る限り、特に雰囲気や表情に異変はないように感じる。

 ロボットのようなぎこちない仕草で体を後ろに向け、まずは控えめな挨拶を――

 

「おはよう」

 

 したのはなんと鈴音の方だった。思わずボクも清隆もポカンと固まる。あの鈴音が、こうもあっさりと自分から挨拶を? 昨日の今日で、まさかそんな……。

 

「二人して何よその目は。変わり映えの無い服装のつもりだけど、可笑しなものでもついているかしら?」

「え、あ、いや、その、何というか、ええと……」

 

 予想外の展開にたじろいでしまう。彼女の方から仕掛けてきた場合の動きはシミュレーションしていなかった。本来喜ばしく思えるはずの出来事に啞然とする。

 慌ててふためいていると、鈴音は訝しげな顔をする。

 

「今朝、恭介がお前に嫌われてしまったんじゃないかと落ち込んでいてな。それで蓋を開けてみれば、とんだ想定外だったというわけだ。正直オレも驚いたんだが、一体どういう風の吹き回しだ?」

 

 すかさず清隆が、有言実行と言わんばかりに助け舟を出す。結構ストレートにボクの内心を明かしてくれたな。別にいいんだけど、少しくらい濁してくれても良くない?

 一方の鈴音は呆れ顔。何を言っているんだとでも言いたげだ。

 

「確かに昨日の一連の会話は、到底受け入れがたい内容だったのは事実よ。だけど、何もそれだけで絶交の理由にはならないでしょう。そこら辺の踏ん切りくらい付けられるわ」

「本当か? 所構わず罵倒や暴力を喰らっていた記憶があるから、てっきり冷たくされるんじゃないかと思ってたんだけど……」

「そ、それはあくまで不可抗力よ。頭を冷やす時間さえあれば、あなたを避けるこれと言ったメリットがないことくらいわかるわ」

 

 心当たりは間違いなくあったはずだ。羞恥心によるものか、背けた顔が少し赤くなっている。

 しかし、今の鈴音の発言には感動を覚えた。彼女は、あたかもボクが彼女の柔軟さを甘く見ていたかのように語ったが、入学当初を振り返れば彼女の精神的な成長の表れであることは明白だ。やっと少しは可愛らしい表情を見せるようになったじゃないか。

 

「全く心外ね。私がそんな短絡的で傲慢な人間に見えるかしら」

「勿論だ」

「寧ろそうにしか見えない」

 

 二人の哀れな少年たちの即答を受け、彼女は慣れた手つきでコンパスを取り出し――

 

「やめろやめろ! そういうとこだぞ……」

「制裁を与えることの何が悪いの?」

「それをわかっていないことが何よりの証拠だ!」

 

 ボクらの必死の抵抗によって、何とか鈴音が早まらずに済んだようだ。いつの間にか刺しても傷跡を残さないという妙技にまでたどり着いた彼女のコンパスさばきだが、刺される当の本人としては痛いことに変わりはない。今回は事なきを得たな。

 

「兎に角、それとこれとは話が別ということよ。元々席が近いというだけの偶然から始まった関係なのだし、変化は誤差の範囲で済むでしょう。心配し過ぎよ」

「……そっか。それは、嬉しいなあ」

 

 彼女にしては温かいを通り越して火傷してしまうくらいの言葉を受け、ボクも穏やかに微笑んで返した。

 だけど、どうしてだろう。心中を支配するのは安堵ではなく、どこかモヤモヤとした胸騒ぎだった。

 根拠のない慰めは、時に裏切り牙を剥く。油断したところを見計らい、瞬時に喉ぼとけを裂いていくのだ。

 

『大丈夫よ。それでもあなたのこと、ちゃんと大事に想ってるから』

 

『これからはお前と、しっかり向き合っていくつもりだ』

 

 あの時見せてくれた決意は嘘だったのかと。交わした約束は何だったのかと。問い詰める間もなく堕とされる。

 鈴音や清隆を信じていないわけではない。だが人間である以上、同じことが起こらないとは言い切れない。声に出したその瞬間では、誰一人保証してやれないのだから。

 その可能性があるという事実だけで、ボクが不信になるには十分だった。

 

 

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 昼休み半ばの食堂で、三人仲良く手を合わせる。

 清隆は南蛮チキン、鈴音はオムライスを注文した。ボクは勿論お決まりの山菜定食だ。まるでサプリメントのように毎日欠かさず摂取している。ここ最近はずっとイツメンで昼食を取っていた。

 

「本当に飽きないのね……言ってくれればいくらか分けてあげるって言っているのに」

「いやあそう何度もお零れに与るのは忍びないよ」

「何言ってるんだ。オレたちの端末に入っているのは元々お前のポイントなんだぞ。そういう限界生活送っているのを目にする度、返金したくてしょうがないんだが」

 

 悪事を働いたわけでもないのに双方から責め立てられる。こんな悲しいことがありますか?

 そりゃ時たま頂く分にはありがたいが、頻繁に施しを受けていてはそれこそボクがポイントを渡した意味がなくなってしまう。キミらは見かけに寄らずお人好しだな。

 

「ほら、衝動買いとかしちゃうかもしれないからさあ。後で後悔する消費をするくらいなら、予め親しい人たちに預ければいいじゃんって思って」

「信頼の置き方が極端なんだよ。せめて半額に抑えても良かったろうに」

「まあ本人が大丈夫って言ってんだから心配すんなあ。それとも、軽い銀行役ってことにしといた方がいいかい?」

 

 口元を拭きながら清隆を宥め、トレイを手に取り徐に立ち上がる。

 

「今日も()()()()()()の?」

「ああ、こういう発見が0円生活の醍醐味なのさあ。地を這ってこそ見える景色もあるってことだなあ」

 

 未だ多くの利用者が席で食にありついており、各々が和気藹々と団欒を楽しんでいる。おかげで既に、厨房の辺りに人影は疎らなものとなっていた。――ボクの足はそこへと向かう。

 

「ヨシエさーん」

 

 名前を呼ぶと、暖簾の向こうから姿を現したのはおっとりとした顔立ちの小柄な女性だった。仕事柄なのか元々彼女のファッションなのか、髪を上の方で縛っている。

 

「はいねえ。あら、浅川君じゃない。調子はどう?」

「おかげさまで。ヨシエさんも元気そうで何よりです」

「一か月も経てば、新しい物見たさに足を運ぶ新入生も飽き時でしょう? 自然とここの活気も収まって楽になるのよお。浅川君みたいに毎日のように来てくれる子もいるんだけどねえ」

 

 お隣りさんと玄関口で小話でもするかのように、まったりと話し始める。

 調理に携わるヨシエさんと初めて会話をしたのは、入学二日目の昼休み。人混みが健在な中だったが、喧騒に埋もれたおかげで大して目立つことはなかった。名前はその時に知ったものだが、漢字の表記や苗字は未だわからない。何でも、「いくつになってもね、女の魅力を引き立てるのはミステリーなのよ」ということらしい。合点いかん。

 彼女は見た目通りマイペースで優しい性格をしていたため、とても話しやすくすぐに打ち解けることができた。

 と言うのも、ボクがそういう人を狙ってコンタクトを取ったからなのだが。

 

「こんな学校ですからねえ。ヨシエさんのような気立ての良い方とは、ついお話したくなってしまうものですよ」

「あらあら、おだて上手だこと。中年盛りの女性を口説いたって何も出てこないわよお」

 

 そう返すヨシエさんだが、ボクも後ろにいる二人も微妙な顔になる。

 ――中年? これで?

 垢ぬけた清潔感のある顔。可愛らしい小柄かつスラリとした体型。時々発せられる――先に挙げたような――魅惑的な発言の数々。逆サバを読んでいるとしか思えない。精々壮年期といったところではないだろうか。

 人のプライバシーに触れるわけにもいかない、というか少し怖いので、そのまま本題に入る。

 

「ところで、どれくらい余ってますか?」

「はい、どうぞ。来ると思ってたから、パックに纏めておいたわあ」

 

 彼女は透明な容器をこちらに差し向ける。中に見えるのは――コシアブラ、ふきのとう、セリ、たら……どれもあの山菜定食に使われる食材だ。

 

「ありがとうございます。いやあホント助かりますよ」

「いいえ、こちらこそよ。なかなか頼んでくれる子がいないから、どうしても少し余っちゃうのよねえ。廃棄するのも忍びなかったし」

 

 心から嬉しそうに語るヨシエさんを見て、ボクは話しかけたのがこの人で良かったと改めて実感する。

 事の発端は、ボクが山菜の素晴らしさを噛み締めた時だ。あの時の周りからの侮蔑や憐みの視線。風貌からして上級生のものが多かったが、ボクもまた周囲の様子には気づいていた。

 皆無ではないものの、昼食にしては質素で味気ない山菜定食を注文した生徒は僅かだった。実力がポイントという形で反映される我が校において、生活水準は一種のステータスなのだろう。同じDクラスと見える暗い顔をした先輩方も、なけなしのお金を切り詰めて有料食を口にしていた。

 ボクとしては全く合点いかん事実であったが、みんなが要らないものであるなら漏れ出た分を誰が頂こうが問題なかろう。かてて加えて、うちの高校は政府主導で経済面に苦労は少ないはず。となれば、食材は多少余ってもいいくらいの量蓄えている可能性は俄然高かった。

 問題はどうやってそのお慈悲を賜るかであったが、ボクは約一週間、配膳待ちの列に並ぶ間に職員たちの顔色を観察することにした。人柄によって親切心の度合いは変化するもの。注文を承った直後や俯いて調理している間の表情から、優しい人格者や生徒への慈愛を持って働く人――真心を込めて料理を作る人は多くないことくらい察しが付く――を何となく分析した。規律を重んじる人や給料のためにしか働かない人だと便宜を図ってくれない恐れがあるからだ。

 

 そういった過程で厳選した結果――選ばれたのは、ヨシエさんでした。

 

 いきなりズケズケと余分をせがむのは印象を悪くするだけだということと、年度が始まってすぐはまだ余りの出ようがないという推測があったので、まずは親交を深めるためにそれとなく挨拶をし、以降度々世間話をするようになったというわけだ。実際にそれとなく食材を求めたのは、二週目の半ばと三周目の末。よって本日は三度目の支給日となる。

 

「それにしても、今日は何だか多いですねえ。こんなに余るもんなんですか?」

「月の跨ぎだしねえ。――それに、聞いたわよ。浅川君のクラス、今月は0ポイントだったんでしょう? 浅川君の言ってた通りになったじゃない。だから、困るかなと思ってねえ」

 

 月の跨ぎであることがどう関係するのかはわからないが、素直に恩情を受け取っておくとしよう。

 因みに、ボクがDクラスであることと恐らく五月は0ポイントになるであろうことは予め伝えていた。彼女なら自分の境遇に同情してくれるだろうと思ったからだ。現にこうして効果は現れている。

 

「それはその、滅茶苦茶ありがたいんですけど、これは……?」

 

 一つ予想外だったのは、パックの中身にはもう一種――ミカンが二つ入っていたことだ。

 

「まけといたわあ。嫌いだったかしら?」

「いえ、滅相もない。果物はここに来てから食べてなかったですし。遠慮なく頂戴します」

 

 正直他の食材も調達することは考えていたのだが、万が一に備えて無料の範囲に収めていた。何かの拍子にこのことが発覚した際に学校側が問題視してしまうと言い逃れが難しくなるかもしれなかったからだ。恐らくそんなことは起こらないだろうが、善意の塊であるヨシエさんに責任問題を問われる可能性は確実に排除しておきたかった。

 だからこそ今回のラインナップには少し躊躇いを覚えてしまったが、監視カメラの視界に入ってもいないし、そもそも一生徒の食生活を追究する事態は想像し難いので、ご厚意に甘えることにした。これからも、彼女の方から授かりものがあれば気前よく頂くことにしようか。きっとその方が彼女にとっても喜ばしいだろう。今だってすんごい笑顔だもん。

 

「それじゃ、そろそろお暇しますね。次は体育なんで、早めに準備をしないと」

「はあい、またおいでね。お友達とも、仲良くね」

 

 本当に献身的なお方だ。保育士にでもなれるのではないだろうか。目指していたころがあったりして。

 彼女に敬意を抱きながらその場を後にすると、鈴音が声を掛けてきた。

 

「クラスメイトにもあれくらいフレンドリーでいれば、もっと友達もできるでしょうに」

「目上の人の方が接し方をイメージしやすくて付き合い方が楽なんだよ」

 

 逆に年下が相手なら、委縮させないように目線や口調を柔らかくするとかな。同級生が相手だと、アプローチの仕方が絞れなくて寧ろ困ってしまうのはボクだけだろうか。

 

「今日の夜は、もしかしてそれだけなの?」

「一応スーパーやコンビニにも無料のはあるから、それと組み合わせてかなあ」

 

 山菜調達計画が頓挫していたらそちらだけで我慢しようとも思っていたが、そこに関しては杞憂だったようだ。

 

「偏食は健康に響くわよ? ……最悪、また料理大会でもしようかしら」

「ああ。あれ何だかんだでお前も楽しんでたしな」

「そんなことないわ。返させてくれない浅川君のポイントを少しでも清算するために行っただけだよ」

 

 「ふーん」と適当にあしらうと、彼女はムスッとした顔になり話を切り止めた。

 先月の中頃に急遽催された、三人規模の料理大会。清隆と二人、彼女が部屋に殴り込みに来た時は腰を抜かしたものだ。

 初日は鈴音が作ってくれたのだが、ボクにも多少の心得があることが発覚したために翌日作らせれる羽目になり、流れで三日目には清隆の料理を食べることになった。

 三者三葉の出来栄えで、結果的にはなかなか面白かったし、確かに腹の中が適度に満たされた三日間だった。ポイントは大丈夫なのかと聞いたところ、「最低限のものしか買ってないから問題ないわ」とのこと。

 どうやらボクの食生活を改めて憂え、再びそれを開こうと言う。何てありがたく、嬉しく、心苦しい話だろうか。

 

「やるにしても、もう少し落ち着いてきてからだなあ。今日だって、放課後にあるんだろう? 話し合い」

「そうね。有意義と言えるかは、正直微妙なところだと思うけど」

 

 昨日Sシステムの正体が明かされたわけだが、平田はクラスの方針を決める会議を一日待つ号令を発した。これには鈴音が一枚嚙んでいる。

 

「まさか、オレたちがトイレに行っている間に平田とコンタクトを取っていたとはな」

「案外他人に関心を持つようになってきたのかい?」

「あんな騒ぎ立てた状態で当日中に話し合いをしようだなんて、無謀にも程があるでしょう。打算的な考えで一言述べただけよ」

 

 昨日のHR後、平田はボクらの方に態々足を運び、放課後の会議に参加してもらえないかを確認しに来たらしい。

 しかしボクと清隆は既に席を外してしまっており、鈴音のみで応対したそうだ。

 その際彼女は周りの浮足立った様子を顧みて、最低限クラスメイトに気持ちの整理をする時間を与えるべきだと彼に提言した。

 彼女が自分の行動を打算的だと称しているのは、恐らく彼女自身の立場のことだろう。平田は他人の厚意を無下にできないやつだ。あの喧騒の中で冷静に分析を行い判断を述べたという事実だけで、現段階では彼が今後鈴音に意見を求める根拠に成り得る。

 ただ、一つだけ解せなかったのは……。

 

「それなら、ちゃんと参加してやればいいじゃないかあ」

「有意義とは思えないと言っているでしょう。あのメンバーで浅知恵を出し合って、導出される結論なんてたかが知れているわ」

 

 助言した割には行動がチグハグで、鈴音は話し合いには参加しないと伝えたらしい。

 平田は目を丸くしたそうだが、有意義かは怪しいという鈴音の意見には、ボクもどちらかと言えば賛成だ。クラスの連中がそういった案件に真面な意見を見出せるかは、ボクの目から見ても期待できそうになかったからだ。

 頭が回りそうなのはかなり少数だろう。平田と櫛田は間違いない。次点で挙げられるのは、ボクの見立てでは五人いるが、今は割愛するとしよう。

 ともあれ、今挙げた人物以外は冷静な分析や的を射た発言が得意とは思えない輩が多かった。そもそも思慮深い人間なら浪費癖が付くこともないはずなので、この状況はある意味必然と言える。

 

「それに、私たちの見解も簡潔に説明しておいたから、何も全面的に拒絶したわけではないわ」

「まあ、平田ならそれでも十分感謝してくれそうだもんなあ」

 

 きっとぶっきらぼうな鈴音の発言に、彼は朗らかに笑って謝辞を述べたことだろう。義理堅く仲間想いだからな、彼。

 

「私たち、と言ったが、オレと恭介の名前も挙げたのか?」

「あなたは協力するのだから自然な流れでしょう? 浅川君に関しては、適当な理由を付けて表立った参加はしない趣旨を伝えといたわ。承諾しない彼でもないだろうし」

「……そうか。まあいい」

 

 どこか渋った表情をする清隆。元々事なかれ主義を掲げていた彼としては、クラスのリーダーに自分を認知されることに未だ後ろめたいところがあるのだろう。優しい彼のことだから、明確にボクのことが伝えられたことに反応したのもあるかもしれない。

 

「それで、今後の方針はどうするんだい?」

「直近にある中間テスト。恐らくそこで一度クラスポイントの変動が起こるはずよ。最低限の目標として、まずは赤点予備軍の更生が必要ね」

「勝算は?」

「まだ何とも。赤点を取る人の神経なんて到底理解できないもの。ある意味末恐ろしいわ」

 

 悩ましい表情をする鈴音だが、ボクの中では、最初に赤点集団を切り捨てるという考えに至らなかっただけマシだろうと思っていた。

 思考を巡らしたところで、それは本人の常識の範疇までしか行き届かない。学力に少なからず誇りを持つ鈴音が、あの小テストであんな点数を取る人間たちのことを理解するには限界があるはずだ。正直なことを言うと、ボク自身も赤点組を掬い上げるのが正しいかと聞かれて、胸を張って肯定できる自信はない。

 

「特に池、山内、須藤は一際曲者だろうな。事実を突き付けられてからも真摯に勉強に取り組むかどうかは怪しい」

「そうね。平田君のことだから勉強会は開かれるのだろうけど、彼らは反乱分子の代表格だし難しいわ。本来なら自発的に取り組んで然るべきだけど、まごつくようならその時が私たちの動く潮時ね」

 

 彼女の性格上、かなり荷が重い仕事になりそうだ。本来なら寧ろ向いているはずのステータスではあるんだがな。願わくば途中で投げ出さないように祈っておこう。鈴音が想像している以上に、ああいう類の男子は灰汁が強いものだ。

 そう思っていると、不意に彼女は伏し目がちにこちらを見た。

 

「あなたはどうするの?」

「ああ。自慢じゃないけど、勉学は問題ないからなあ。図書館なり自室なりで個人的に勉強するさあ」

 

 事も無げにそう答えると、彼女は顔を顰めた。

 

「私への当てつけかしら……?」

「不快にさせる気なんて毛頭ないよ。まあ陰ながら応援しているさあ。池と春樹はよく知らないけど、健は何度か話してみた感じ根は悪いやつじゃないからなあ。もしもその時が来たら、根気強く指導してやってくれ。頼む」

 

 彼女は困った顔をするが、やがて溜息を吐き「出番があったらね」とだけ応えた。

 あの下衆な賭け事に纏わる一件以降、健と沖谷とは度々話す仲になっていた。清隆は水泳の授業中に池と春樹とも話している姿も見えたが、少しずつコミュニティを広げていくのは良いことだ。

 押しつけがましいのはわかっているんだ。臆病なボクを許しておくれ。もしこれで三人の誰かが退学になってしまったとしても、鈴音、キミを責めるだなんて酷いことはしないよ。

 

「さあ、そろそろ行きましょう」

 

 その言葉を合図に、例の如く鈴音が先陣切って足を動かし始めた。

 清隆もそれに倣い続――こうとするが、ボクがその肩を引き留める。

 

「どうした?」

「キミら、ここの『本屋』に行ったことはあるかい?」

 

 脈略の無い問いに彼は首を捻る。

 

「まだないが」

「鈴音を一度そこに連れて行ってやれ。あの子の独力だけで健たちを育てるのは少々心もとないだろうから、()()が欲しくなるかもしれん」

「……ああ、わかった」

 

 どうやらボクの意図を察してくれたようだ。一瞬の間を置いてから彼は了承した。

 

 鈴音を視野に入れたまま、二人並んで歩き始める。

 

「……もしも気付く気配がなかったら、その時はオレの方からも手を加えてみる」

「そこら辺は任せるさあ。ボクが口を挟める領域じゃない」

 

 清隆も、極力鈴音の成長を促す形を取るというスタンスはボクと同じはずだ。前にも述べたが、彼女自身への手助けなら今のボクにだってできることがある。

 データベースは、結論の一歩手前にまでなら漕ぎ着けることができるのだ。

 

「察してくれて助かるよ、清隆」

 

 素直に感謝を伝えると、彼はほんの少し口角を上げた。

 

「この前の問いの答えの一つだろう? 『どうぐ』も戦闘中のコマンドだ」

 

 彼の言葉に思わず瞠目する。

 

「ほう、どうやって知った?」

「風の便りに混ざっていたんだ」

 

 本日も、我が盟友は絶好調のようだ。

 




今回は序章で回収し忘れていた内容の解説をしました。因みにヨシエさんの今後の登場は今のところ予定していません。名前の漢字すら決めてないですからね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

アルカディア

勢い任せに書いたら詰め込み過ぎになっちゃった……。今回は長めかつ多少の伏線が含まれています。


「今読んでいるのは何ですか?」

「これかい? 啓発書だよ」

 

 覗き込もうとする彼女に見えやすいように、手元の本の表紙を掲げる。

 

「『学問のすゝめ』ですか。珍しいですね」

 

 言うほど珍しいか? とボクは思う。

 『学問のすゝめ』は、戊辰戦争の最中で刀を捨てた福沢諭吉が、文明開化の時代に書いた自己啓発本だ。確か、岩倉使節団があちこち飛び回っている時期だったな。

 彼は言わば、スタディホリックを地で行くような男だ。『諭吉』という名は、儒学者であった父がかねてより所望していた法令記録を手に入れた夜に、息子が生まれたことに因んで付けられた。彼の学問に対する敬意と執着心は、血筋の産物だったのかもしれない。

 無論彼自身の勉学に対する情熱も凄まじい。武士を辞めるや否や、かの有名な慶應義塾での教育活動に専念したことは有名だろう。晩年も、半日にも及ぶ学習を心掛けていたようで、ゆとり世代であるボクらにとって至極模範とするべき偉人である。

 ただ、意外にも彼が主戦論者だと知った時は、自分の耳を疑ったものだ。

 

「別にミステリーばかりを読んでいるわけじゃないからな?」

「それはわかっていますけど、啓発本というのが少し――浅川君が教育めいたものに興味を示すのが意外に感じただけです」

「まあ、確かにそれもそうだ。過去からの啓示など取るに足らん。時代が移ろう中で、価値観も常識も変化していくわけだからね」

 

 何も彼や彼の記述から何かを受け取ろうと思って読んでいるわけじゃない。それが目的なら、もっと『今風』に触れて俗世を理解している人間の本を読むし、何なら手軽なビジネス本を読んでいても大差ないのではないか、とまで思う。

 

「なら、一体何のために――?」

「逆にキミは、どうしてミステリーを読むんだい? それと同じさ」

 

 ふむふむと頷く彼女に若干の申し訳なさを感じる。ぶっちゃけ適当に答えたからだ。ただ何となく、彼女のそれと似た理由な気がした。

 感動する。教訓が得られる。誰かと共有ができる。世界が広がる。エトセトラエトセトラ……独特なものでもない限り、大抵こんなもんだろう。

 ただ、その中でも一番にボクが関心を寄せるのは――、

 

「どれほど俯瞰した書かれ方をしていたとしても、必ずそこには『主観』が混ざる。或いは、読者の主観を利用した書物も存在する。ミステリーで言ったら、叙述トリックなんかがそうだろう」

「確かに、今となってはあまり珍しいものではなくなりましたが、私たちを騙るという点では間違いありませんね」

 

 あれも事件を解決する探偵というイメージを読者に植え付けることで、語り手が犯人であるという真実をひた隠しにする。ボクらの先入観の隙を突く巧い手法だ。

 

「客観的な視点に立つ、というのは案外難しいものだ。何故なら、舞台に上がる登場人物たちは本来合理性を持ち合わせていないはずだからだ。無意識に思考のプロセスに先入観や偏見、感情などを挟み込み行動する。対象が散乱や矛盾をはらんでいるというのに、どうやってそれを客観的に分析できよう」

「そうかもしれませんけど、普遍的に認知されている事柄もありますよ? 俗的には常識という言い方になりますが」

「それこそ実に忌々しい。常識という定義そのものが曖昧なんだよ。真実と虚構が混在している。だからこそ人は、情報に踊らされる生き物でいるんだろうがね」

「浅川君は、そういう人の価値観を紐解くことに興味があるんですね。繊細なあなたらしいです」

 

 ボクは柔らかい表情を変えずに頷き、手にしている本を軽く小突く。

 

「この本に記されているのは、福沢諭吉の世界観の一部だ。学問こそが人の平等を不平等へと塗り替える後天的な要素だと謳われている。しかし彼という人間やこの本について何の知識も持ち合わせていない人間が『天は人の上に人を造らず』という言葉だけを知ると、その多くは平等を語る詩だと誤認する。何かしらの事実を取りこぼせば、それだけで真実が見えなくなるんだ」

 

 その延長線上で生まれる罪を、痛みを、ボクはよく知っている。

 

「常識を真実だと疑わず、正否の不明瞭な物にさえ答えを決めつける。哲学者が概念に法則や定義を求めようとするのも、恐らく『未知』に対する『恐怖心』からくるものだ」

 

 人は知らないということに漫然とした不安を抱いてばかりだが、その実知ろうと努力する姿勢をなかなか見せない。うろ覚えな知識や既に更新されたはずの古い解釈を当てはめて知った気になる。それで満足してしまう。

 

「聖ヨゼフの螺旋階段は建築可能か? 57を素数と公言した数学者は存在しないのか? お札に載る人物の姿は永劫歳を取らないのか? お雛様は誰を指す言葉なのか? 光合成をする動物は存在しないのか? 死後名声を得た偉人たちは幸せなのか? 身近なことも含め、ボクらは知らないことが多すぎる上に、その間違った常識を活用し過ぎる。それが何よりいけないことだ」

 

 知らないこと自体が罪なのではない。知らないことについてそれを善しとしたまま大胆不敵な行動に移してしまうことが愚かなのだ。善意や悪意だけで収まる世の中なら、ボクらはずっとあっさり分かり合える。

 

「実用的な雑学はそう多くありませんよ。かのシャーロック・ホームズも、不要な知識として地動説を忘れる程ですし」

「勿論だ。だが心構えくらいなら確かめられる。一つは、知るべき事柄を間違えないこと」

 

 建築、数学、歴代女王、伝統芸能、生物学、その他各方面の専門には、それぞれで求められる知識がある。これは狭い範囲で言えば個々人の間でも同じなのだ。協調、敵対、友情、恋愛、憎悪……人の気持ちを考えようという言葉が度々肝に銘じられるのも、人間関係にもつれを生み出さないためだ。

 

「――そして二つ目は、領分をはき違えないこと」

 

 自分の持つ情報量には有り余る行為を試みたところで、上手くいくはずもない。根性だけで事は為せるのだとしたら、男子なんか総出で叫ぶことだろう。冷静に分析したつもりでも失敗する可能性まである辺り、余計質が悪い。

 

「難儀なものですね。だとすると、私たちはどうするべきなのでしょう? さすがに全てを正しく理解できるほど、人は万能ではありませんよ」

 

 その通り。だからこそ、途方もない作業に生を注いだ哲学者の中で、別の答えを見出した()は至極尊敬できる人物なのだ。

 

「そんなの決まってる。『動かない』ことだ」

 

 いつしか吐いたのと真逆の言葉を、ボクは呟いた。

 

 

 

人は語りえないことについて、沈黙しなければならない。

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

 

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 『論理哲学論考』

 

 

 

「浅川君」

「ん?」

「動きましょう」

「ええ…………」

 

 それっぽく決まってたじゃない……。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 いつの間にやら曇り空、されど雨音は耳に届かず。

 どうやら、ようやく天はボクの心に追いついてくれたらしい。

 

「雨、降りそうですね。天気予報では晴れだったのに……」

 

 ジメジメとした室内では本のページはめくりにくく、紙の手触りもあまり好きではない。読み進める速さがグッと落ちる。

 

「傘、持ってくれば良かったです」

 

 だが、どこか重量感を持つこの空気は嫌いじゃない。自分は一つの座標に身を置いているのだということを、確かに感じられるような気がするから。

 

「浅川君は大丈夫なんですか?」

「葉っぱでも集めて傘にしよっか」

 

 しかしながら、ボクの隣で本をお供にくつろぐ彼女にとって、そんなものは関係ないようだ。

 

「雨水で萎れて身を守ってくれなくなると思いますよ?」

「大丈夫。めっちゃ強い葉っぱ見つけるから」

 

 ボクの全く面白くないジョークに椎名が真面目に返すという図は、これまで度々再現されてきた。しかしこれほどシュールなやり取りは恐らく初めてだろう。

 放課後の図書館。怪しい雲行きに慌てて直帰した生徒が多かったようで、いつも以上に人影が少ない。それが一層、この場の静寂を際立たせていた。

 

「…………なあ、椎名」

「はい。……まさか、浅川君は傘を持ってきていたんですか?」

「おう、実は長傘も携帯傘もバッチリ持ってき――じゃなくて」

 

 ボケなのか天然なのかわからない発言に肩透かしを食らうが、何とか気を保つ。

 折角だし、兼ねてから提案しようと考えていた話題を切り出そうと思ったのだが……絶好調なのはあの盟友だけではなかったようだ。

 

「ですが、さっきは葉っぱの傘を作ると……」

「自分は傘を忘れたなんて一度も言った覚えがないんだが?」

「私を謀ったんですね。同志として応援していたのに……」

「本気なわけあるかっ! ボクを何だと思っているんだ……。まあ何とかなるだろう。幸いまだ雨粒は雲に収まっている」

 

 葉っぱの傘なんて、となりの怪物じゃあるまいし。身軽な恰好で駆け抜けた方が濡れる量は減りそうだ。

 窓の向こうを覗くと、冥い灰色に塗りつぶされた空がまるで街を飲み込もうとするモンスターのように見える。あれ? 何だか本当に例の怪物に見え始めてきた。

 

「では、やっと動く気になりましたか?」

「無理だなあ。尻に根が張った。ここでぐったりまったりぐっすり過ごしている方が、精神的健康に効果が見込めそうだ」

「最後は寝ているじゃないですか……でも、心が落ち着くという意味では、至極共感できます」

 

 彼女は苦笑いをしつつもボクの意見に賛同した。動揺と言うか呆れと言うか、そんな顔をする彼女は少し珍しい気もする。

 ……そもそも、さっきのは別に肉体労働の意味で答えたわけではなかったのだが。それがわからない彼女でもないはずなので、恐らくユーモア指数が足りていないのだろう。

 物思いに耽るのもいいが、とりあえず本題に入ろうか。

 

「その、マズイんじゃないのか……? ボクと一緒にいるのは」

 

 顔色を窺いながら尋ねたが、当の本人はきょとんとした表情で首を傾げる。

 

「どうしてですか?」

「どうしてって……キミも知ったんだろう? これからはAクラスの座をかけた闘いが始まるんだ。ボクらがこうして会っていることが知られたら、クラスメイトのみんなにあらぬ疑いを掛けられるかもしれないぞ?」

 

 普段言葉足らずな茶柱さんがあんなにもはっきりと饒舌に語ったのだ。他クラスで同じ内容が伝えられなかったはずがない。読書に耽っていて聞いていなかったと言うなら仕方ないが。

 しかし、椎名は悩む素振りもなくキッパリと答えた。

 

「私はクラス抗争なんかに興味はありませんから、やりたいように過ごすだけです」

 

 ……ああそうだったよ。彼女はこういう人間だった。

 周囲の様子も環境の変化もお構いなし。ちゃんと理解している上で、それでも自分の我を貫く強さがある。それは決して傲慢なものではなく、折れない心の強さ。そう、彼女は芯が強いのだ。

 ボクはその姿に憧れて、彼女に接しようと決めたんじゃないか。

 

「浅川君の方こそ、大丈夫なんですか? 昨日はやたらと隣の教室が慌ただしかったように思いますけど」

「まあ、キミさえ迷惑じゃないって言うなら、このまま変わらず付き合わせてもらうよ」

 

 少しはぐらして答える。

 考えが纏まっていないのに、いや、纏まらなかったからこそ、鈴音からの誘いを断ってしまったわけだが、実際にボクと椎名の関係を知ったら相当な憤慨を起こすかもしれない。他クラスと比べて、『不良品』という響きにショックを受けたり苛立ちが募ったりした生徒も多いはずだ。

 そのことを思うと、椎名のようにはっきり「大丈夫だ」と答えるには、二の足を踏んでしまう。

 

 ――拒絶されないから、一緒にいる。

 

 今は多分、そんな状況だ。約束を盾にして、ボクが彼女に甘える立場になってしまっている。

 余計なことへ思考を回すことから逃げるのに、椎名との時間は、あまりに都合の良すぎるものだった。

 現に、クラス間のやり取りどうこうと言っておいて、ボクは自らここに足を運び、椎名の隣に座っている。

 ボクはあの日「見かけた時に気軽に声を掛けてくれ」と言っただけであり、決して「会いに行く」ような関係ではなかったはずだ。偶然や気まぐれに導かれて続く関係。単に浅いというわけでもない、ちょうどいい距離。

 それを心地いいと思っている内に、いつの間にか拠り所は『避難所』にすり替わってしまった。

 彼女は僕に、何かを求めることも、問い詰めることもしないとわかっていたから。

 ここにいるだけで、疑問も持たずにボクを肯定してくれるとわかっていたから。

 その安らぎに縋りついてしまっている。きっとそれは、彼女の言う落ち着くとは別物だ。

 だから、

 

「――――本当にそう思っていますか?」

 

 何の変哲もないはずのその問いに、ボクは何も返せなかった。

 

「え……」

「あ、いえ、別に何かを咎めようだなんてつもりはありませんよ。ただ、私に気を遣っているのでしたら、無理に合わせなくてもと思いまして――」

 

 椎名は慌ててそう補足した。しかしその表情には、どこか陰を感じる。

 ……やめてくれ、そんな顔をしないでくれ。キミに悲しい顔をさせないために、ボクは手を差し伸べたはずなんだ。なのに今は、ボクのせいでキミが気を落としているって言うのか?

 あの日孤独という檻から解放してあげることが、キミにとって大きな価値になると思っていたのに、それはボクの自己満足だったのか? 

 ボクでは相応しくないはずの手を、また掴んでしまったのだろうか。ボクは、また同じ傲慢を繰り返すのか? 

 やはり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、のか……?

 

「……無理なんかしていないよ。キミとの時間は、とても楽だ」

 

 励ますつもりで掛けた言葉だったが、どうしてだろう。その答えは、とても的外れであるような気がしてならなかった。彼女の思考が全く読めないのは、その天然さ故なのだろうか。

 

「そう、ですか。……ええ、私も楽しませてもらっています」

 

 ――そう寂しそうに呟く椎名の方こそ、無理をしているのでは?

 喉まで出かかった問いは、外の空気に触れる寸前で霧散してしまった。本来ボクの広げたかった話題は、そのことではなかったからだ。

 それに、知りたかったことは既に知れた。たとえ建て前だったとしても、椎名はボクを悪いようには思っていないようだ。腐ってもかけがえのない友人、思い入れがあるのだろう。

 埒の明かない問答は無益な結果を招くだけだと割り切り、話の路線を切り替えることにした。

 

「それ、ホームズ?」

「はい。『緋色の研究』です。読み直していたところなんですよ」

 

 先程のボクのように、椎名は読み進めていた本の表紙を見せる。

 シャーロック・ホームズ。ミステリーを語る上で、彼の存在は欠かせない。相棒であるジョン・H ・ワトソンの現実的な性格も好ましく、バディものとしての価値も非常に高い。尤も、事件の外で繰り広げられるユーモア溢れるやり取りの方が、案外ボクは楽しんでいたりもする。

 

「何周目?」

「四周目です」

「飽きないねえ」

 

 ボクは両手を広げて呆れて見せる。しかし本当のところ、定期的に読み返す気持ちはよくわかる。何せ、

 

「浅川君は?」

「六回」

 

 ボクの回答に彼女はクスッと笑う。「飽きませんね」

「飽きないねえ」ついさっきと同じセリフを吐く。

 少ない単語で広げられる会話。こんな感覚は初めての経験だが、存外悪くない。

 

「出会い頭にワトソン君の出自をズバリ言い当てる場面は痺れるよなあ。憧れるよ」

「私の目線だけで一推理やってのけた浅川君なら、惜しいところまで出来るんじゃないですか?」

 

 おっと、突拍子もないことを言う。初めて会った時のあれが思いの外強く印象に残っていたようだ。

 

「そうかなあ。なら――今からちょいとやって見せようか?」

「おお、ぜひとも見せてください」

 

 目には目を、冗談には冗談を。あのホームズと同じ芸当ができるだなんて奇天烈なジョークをかましたキミには、ボクのなんちゃって推理でお返ししてやろう。ユーモアは受け取るだけで終わらせない、それがボクの流儀だ。

 ただ一つ、椎名がこんなにも目を輝かせていることだけが誤算だった。変な期待を持たせてしまったのかもしれない……。

 

「うーんと、じゃあ……ゲフン。えー、君はどうやら、その本を手に取るまでにそれ相応な紆余曲折があったようだ」

 

 一つ咳払いをしてから、探偵物真似あるあるのきな臭い口調で切り出す。

 

「まず君は、普段とは違いすぐに図書館へは行かなかった。と言うより、()()()()()()()()()()()()()()。そうだろう?」

「当たっています。どうしてわかったんですか?」

 

 まさか当たるとは……!

 自分が声を掛けた時に()()()()()()()()ように見えたから、外へ走りにでも行ったのかと心にもないことを浮かべただけだったのに……。

 ……ああもう、仕方ない。何とかしてやる、何とかしてやるよ。今からでもこじ付けを極めてやろうじゃないか。

 

「……考えるまでもなかったよ。何せ君の足には、湿気高い空気特有の『ザラ付いた土』が付着しているんだから」

 

 記憶を頼りに事実を並べる。今日の彼女の違和感は一つではなかった。白のソックスだったから余計わかりやすい。

 

「それは放課後とは限らないのでは? 登校中や昼休みにでも――あっ」

「気づいたか。この曇り空は、()()()()()()()()()()()()()ものだ。放課後まで待たなければ、土が付着する程の粘り気を手に入れることはできない」

 

 空を雲が覆ったのは、ちょうどボクがいつもの二人と食堂へ行く少し前。今朝なんかはボクの心境に抵抗するかのような晴天だった。

 

「すると次に問題になってくるのは、君は何のために外へ出たのかだが……これもそう難しくはない。『本屋』へ行くためだ」

「待ってください。確かに私はこの通り読書好きで、書店に入ったこともありますけど、必ずしもそうとは言い切れないのでは?」

 

 これについては椎名の言う通りかもしれない。だが――ボクは彼女の言葉に対し首を横に振った。

 

「君は確か、学食すら利用したことがないと言ったね。となれば、やはり他の施設にも足を運んだことはないのだろう? 本屋以外に」

 

 椎名は迷う素振りもなくコクリと頷く。よかった……これで否定されたら早速ボクのショーは幕を閉じる羽目になっていたぞ。

 

「そんな未知の空間に、しかもこの微妙な悪天候の中で、女子が一人で下見に行こうだなんて思いつき、普通はしない。現に君はさっき、雨が降らないかどうかを心配していた。では、寮に向かったのだろうか? これも違う。君はこうして未だ荷物を持ち歩いているし、何より携帯傘を持って来ていないことがおかしい。よって、図書館よりも前に足を運ぶ可能性があるのは、本屋だけなんだよ」

 

 ボクの滑稽な演技に、彼女は結構聞き惚れているようだ。案外板についてきたのか?。

 

「しかし……不思議なことに、君はそこにたどり着くことなく引き返したようだ! バッグが揺れる時にビニールのガサガサ音は聞こえなかったし、もし本屋までたどり着いていたら、恐らく君は少しの余裕も持ってここで待つことはできなかったはずだからね」

 

 今はまだレジ袋が有料化される前だ。本を購入したのであれば、包んでいた袋のバッグに擦れる音が聞こえるに違いない。目ぼしいものが見つからなかっただけという線も、ボクが声に出した考えで否定できる。

 そして次が、ある意味一番の関門――。

 

「なら、一体どうして君は学校に引き返したのか。それは――呼ばれたからだ」

 

 これしか考えられない。今の段階で、彼女が自主的に引き返した可能性はほとんど除外される。それは、逆説的に外的要因が作用していたことを証明しているのだ。その上で最も単純にして起こり得そうなのが呼び出しだった。

 

「……誰に、呼ばれたと?」

 

 彼女の固唾を飲む音が、静寂に緊張感を上乗せする。ここは……間違えられない。

 

「それは……たん、にん、だ」

「え?」

「……そう、担任、担任だったんだ。君は大事な忘れ物があったことを担任にメールで告げられ、慌てて引き返した。勘違いでなければ、君はまだボク以外の生徒とは連絡先を交換していないはずだからな。消去法だ」

 

 椎名は暫し呆然としていたが、すぐに元の表情に戻った。

 

「……なるほど、筋は通るかもしれませんね」

「ああ。結果君は、本屋へ行く算段に見切りを付け、図書館(ここ)で何か借りようと思い立った。そしてそこに偶然僕が通りかかった。あの時机の上で本が数冊積まれていたことが証拠だ。長かったが、ここまでがフェーズ1。――ねえ、まだ聞きたい?」

 

 ここでボクは予め備えていたミネラルウォーターを口に含む。大分話したので撮れ高はもう十分だと思うのだが。

 しかし彼女は、最後まで聞き届けたいようだ。

 

「はい、お願いします。浅川君も何だかノリノリみたいなので」

 

 あららー、見透かされちゃってんねコレ。じゃあお言葉に甘えて。

 

「――ここに来てすぐ疑問に思ったのが君の様子だ。静謐さが求められる図書館で、何故君はあんなにも息を切らして待っていたのか……その答えは、この図書館の構造そのものにある」

 

 ボクが椎名を見つけた時、彼女は平然を装っていたが明らかに肩の揺れ動きが顕著だった。見たところ体調が悪いわけでもなさそうなので、運動による呼吸の乱れだと考えられる。

                

「確かにここは広いですし、私は運動が苦手ですけど、図書館を歩き回るだけで息を切らすほど落ちぶれてもいませんよ?」

 

 ごもっとも。しかし、それは()()ならの話だ。

 

「いいや。ここで行われる動作は何も移動だけじゃない。言ったろう? 構造だって」

 

 ボクは人差し指で――天井を差した。

 

「恐らく『緋色の研究』は()()()()()()にあったんだ。人一人の身長では届きにくい位置にね」

 

 これまでの行動と大気の重さを合わせて考えれば、図書館で疲弊している状態の彼女と出会う理由はこれくらいだ。

 

「なるほど。あの高さにある本を取ろうとすれば、私の背丈だとそれなりに苦労するかもしれません。でも、一番大事なことを忘れていますよ」

「ほう! 僕が一体何を見落としていると?」

「『動機』です。飽きないと言っても四回読み込んだ作品を、態々そんな手間をかけて取ろうとするのは不自然ではありませんか? 他にも興味をそそられる推理小説は山ほどありますよ」

 

 良いところを突いてくる。ただ――それは想定内だ。

 

「それは何ともおかしな話だな! 椎名、君の方こそ忘れている。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 椎名の眉がピクリと反応する。目的を忘るるべからず。彼女を満足させられれば、ボクの挑戦は成功なのだ。今の言葉は、ボクの紡ぐエンターテイメントのボルテージを嵩増しさせる。

 

「不可解だろうがエキセントリックだろうが関係ない。僕はただ、君の小さな活劇の模様を検証しているに過ぎないのだよ。君が『高い位置の本を手に取った』。それを証明する鍵は、既に手の平の中に眠っている」

「証拠があるということですか。それはどこに?」

「だから言っているだろう。『手の平』だ、とね」

 

 僕の指摘に椎名は首を傾げるが、自分の両手に視線を移して間もなくあっと声を漏らした。

 

「僅かに灰色がかった輝き、『金属光沢』だよ。湿気でわかりにくいけど、稀に鉄の匂いも鼻に届く。か弱い文学少女が両手を使ってそれ程の時間運ぶ可能性のある金属――一つしかないね。館内の隅に放置されていた『脚立』を、君はえっさほいさと運んだんだ。おまけに道端のゴミと比べたら、光沢なんて大した汚れには感じにくいから、洗い落とさなかったことも納得できる。極めつきには、件の本が少し埃かぶっていることも、それがあまり掘り出されることのなかった代物であることを示している」

 

 脚立を持って移動したことと、その不安定な足場でバランスを保ちながら頭上の物を取り出すこと。二つの行動は彼女の息切れの原因に尚更直結するものだろう。

 さて、最後に総括を述べて締めくくろうか。

 

「君は放課後、本屋へ向かっていた。しかし途中で学校へ呼び出され断念。仕方なく図書館へ行き、脚立を使って『緋色の研究』を手に取った。――君の思考までは推理できないが、今の君に『お疲れ様』と言わなければならないことだけは確かだろうね」

 

 なんちゃってのつもりで始めたにわか推理。調子に乗った結果段々と本格的になっていってしまった。辺りを支配する無音の空気も相まって、恥ずかしさが沸々と込み上げてくる。

 耐えられなくなる寸前で、ようやく椎名が口を開いた。

 

「概ね、正解です」

「概ねかあ。まあボク程度じゃこんなもんさあ」

「それでも凄かったですよ。多少キザなところも含めて、西洋かぶれな探偵って感じでしたし。演技、意外と上手なんですね」

 

 彼女がそう言ってくれるなら本望だ。意外と、というのが引っ掛かるが。大根役者のような(なり)をしているつもりはないぞ。

 

「演じるのは得意だし好きだよ。何というか、その時の自分の生き様に責任を感じなくて済む気がするから。――ところで結局、キミがそれを選んだのはどうしてだったんだい?」

「ふふっ、ただの気まぐれですよ」

「気まぐれ? じゃあ推理のしようもなかったじゃないかあ」

「ちょっと意地悪しちゃいました。でも、その甲斐はありましたね。まさかホームズの名言で返してくるとは」

「正直その場しのぎだった。閃きがないこともなかったんだが、如何せん論理性に欠けるものだったんでね」

 

 ただの思いつきだったが、あれはカッコよく決まったなと自画自賛しても罰は当たらないだろう。

 すると椎名は、ボクの返答に疑問を抱いたようだ。

 

「何を閃いたんですか?」

「ああ、『サブリミナル効果』だよ。図書館の出入口にはミステリー特集のポスターが見えやすく貼ってあって、ホームズの名前は一番目立つように書かれていた。それをキミが無意識に視界に入れたために、偶発的に『緋色の研究』が選ばれた。みたいな感じでね」

 

 サブリミナル効果の影響は、人間乃至(ないし)本人が肯定も否定もすることができない。自分が認識しなくとも確かに拾い上げている景色や音に、無意識に作用を受けた結果だからだ。ただしその性質もあって、効果そのものに懐疑的な意見も多々あり、推理をする上で用いていいものかは測りかねた。だったらせめて椎名の喜びそうな展開をと思い、あのセリフを引っ張ってきたのだ。

 

「他に何か質問とか、逆に補足したいところはあるかい?」

「……いえ、特にはありませんね。楽しませていただいてありがとうございました」

 

 そう言って朗らかに笑う彼女を見て、思わずボクも頬を緩めた。

 だが――ボクにはわかっていた。その笑顔には、安堵も含まれていることに。

 一連のボクの推理ショー。実は()()()だけ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。嘘を嫌うボクが、必要だと判断して吐いた嘘。

 キーワードは、茶道部、クラスポイント、統率者、悪天候、不自然な『緋色の研究』、椎名ひより(彼女)の表情、そして、浅川恭介(ボク)の存在。

 以上の分析から浮かび上がる真実は……。

 

「…………椎名」

「どうしました?」

「急なんだけど、大事な話だ」

 

 あまりに脈略のない流れに彼女は困惑気味だが、ボクの表情を見てすぐに口を結ぶ。ボクも体を彼女の方へ向ける。

 

「キミは友達として、ボクとこうやって話すのは楽しいんだよな?」

「勿論です」

「なら、一つ提案がある。ボクらのこれからについてだ」

 

 上手くいくのかは半々といったところだが、念には念を入れておいて損はない。

 時機を見て提案しようと思っていたことだが、事態は想像以上に進行しているのかもしれない。予定より早いが、今までの軌跡を顧みれば、現状ではこの選択が妥当だと言えよう。あとは彼女の返答次第だ。

 

 

「――――キミ、これからはうちで会わないか?」

 

 

 

 

 

 

 

 空模様が幾分か明るくなったのを見計らって、ボクらは帰り支度と片付けを始めた。

 『学問のすゝめ』を棚に戻した後、ボクは椎名のもとへと向かう。何か手伝えることがあるかもしれない。

 見つけた時には、彼女が例の脚立を設置しているところだった。

 

「大丈夫かい? 何ならボクが代わりにやるけど」

「お気遣いありがとうございます。でも、やはり自分で取り出したものは自分で片付けるべきだと思うので」

 

 断りながらよっこらせと脚立を登る椎名だが、ちょっと恐いな。彼女の運動神経の低さは眉唾ではなかったようだ。

 しかも問題は彼女だけではない。年季が入っているのか、思いの外おんぼろな脚立はガタガタと不安定に揺れている。これでは手に光沢もつくだろうし、体勢維持にも苦労するわけだ。頑張れよ、ポンコツ。

 

「気を付けてなあ」

「はい。わかっています」

 

 ボクの顔の位置に椎名の腰がくるあたりまで来たところで、ボクは若干目を逸らす。彼女の鈍感さは困り物だが、それ関係なくここは紳士的な対応をすべきだろう。ボクの人畜無害さに対する信頼もあるのかもしれないしな。

 間もなくして、『緋色の研究』をしまい終えた椎名が降り始める。視線を戻して彼女を見守っていると――何だか可愛がっている孫を微笑ましげに見つめるおじいちゃんの気分だ。

 そんなぼんやりとした感慨を片手間に、椎名が最後の一段に足を置くのを見届けようとした、その時だった――。

 

「あっ」

 

 無拍子にぐらついた足場にバランスを崩した彼女が、ボクと反対の方へ仰向けに倒れかけた。

 

「椎名っ……!」

 

 ――言わんこっちゃない!

 瞬時に行動を選択したボクは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、素早い動作で彼女の後ろへ回り込み、それをあてがうことで椎名の背中を受け止めた。

 

「ふう、危ない危ない。ケガはないかい?」

「は、はい、ありがとうございます。すみません、迷惑をかけてしまって」

「骨董品に頼るのはやっぱ心もとなかったなあ。キミは悪くないから謝りなさんなあ」

 

 ペコリと一礼する椎名を宥める。危険だと思いながらも結局彼女に任せてしまった自分にも非はある。寧ろ椎名は最初の時によく踏み外さず取り出せたものだと感心すべきだ。

 しかし、彼女はいつまでも曇った表情を崩さなかった。

 

「……どうしたんだい? 何か悩み事があるなら聞くけど」

 

 クラス抗争云々の話をした時から何かを引きずっているような重い表情に、ボクはこれといった心当たりがない。教えてくれると助かるのだが。

 俯きがちな椎名の視線を辿ると、ボクが手に持っている二冊の本に焦点が合った。別に変り映えのない新刊だと思うが――要領を得られずに思わず首を傾げると、椎名が口を開いた。

 

「……今の私は、多分さっきと同じなんです」

 

 妙に遠回しな言葉だった。

 

「そこにあるとわかっているのに、その高さにまで手が届かなくて、だけど、諦めようにも諦め切れない。あると知らなければ、出会うことがなければ、このようなもどかしさと向き合うことにはならなかったのでしょうか……」

 

 寂しそうな表情に、ボクは何も言えない。

 

「届くはず、ないですよね……今となっては尚更難しいんだと思います。でも、悲しいですよ。読みたい、触れ合いたい、理解したいという想いが叶わないのは」

 

 訴えるような目。それは間違いなくボクに向けられたものだとわかった。しかし、それだけだ。それ以上のことを、ボクは悟ることはできなかった。

 彼女が今しがた本の出し入れをした本棚を見上げる。確かにあの高さの本は、足場の一つでもなければどう背伸びしても届くことはないだろう。それが彼女の好きな本なのだとしたら、軽い執着心を覚えるのも無理のないことだ。

 ――椎名はボクに、一体何を望んでいる?

 

「……すみません、変なことを言いました。本の話ですよ。読みたい本があったんですけど、手に取る機会がなくて」

「椎名、キミは……」

 

 何を伝えたいんだ? そう発する前に、人差し指を立てた右手を眼前に突き付けられた。

 

「浅川君のやり方を真似してみました。もしあなたの中で答えが出たのなら、ぜひ答え合わせをしてみてください」

 

 ボクを揶揄うような言葉には、自嘲めいたものが覗いているような気がして、何故か幻想的な美しさがあった。今まで見たことのなかった彼女のセンチメンタルな一面を目の当たりにし、奇妙な感覚に襲われる。

 

「さて、そろそろ出ましょうか。長居は無用です」

 

 元のあどけない笑顔に戻ったはずの椎名の顔からは、どこか諦観に近い儚さが感じられた。

 ボクは言われるがまま、無言で頷くことしかできなかった。 

 




前半でオリ主が並べた問い、ぜひ調べてみてください。意外な知識が見つかるかも……?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

プログレッシブ

先日投稿した回、実はまだ載せるつもりじゃなかったんですよね。まあ本文出来上がってたから妥協したんですけど。てなわけで、ここで久しぶりの挨拶をさせてもらいます。

簡潔に言えば、実家に帰省してまったりしていたら数週間経ってたわってオチですね。
最近のビッグエピソードと言うと、シンエヴァ見に行ったことですかね。宇多田さんのあの歌はもう涙腺キラーですよ。今でも聞くたびに「ああ、エヴァ終わっちまったんだな」ってウルウルしちゃう。


 今日からゴールデンウィークの連休がスタート。テクマクマヤコンの呪文を唱えてお洒落な変身を飾り、愉快痛快な五日間を過ごそうかしら!

 なんて乙女チックな空想を描く心の広さを持っているボクでもなく……、

 

「なあ、浅川」

 

 朝の河川敷。太陽の頭だけが僅かに覗かせる薄明るさと、未だ肌を軽く突き刺す薄ら寒さの中で、健がボクの名前を呼んだ。

 

「何?」

「お前、何かあったのか? その、あんま元気ないっつうか」

 

 彼の素朴な疑問に、ボクは虚ろな瞳のまま答える。「目覚めが悪かったんだよ」

 

「あ? 意外だな。浅川もそういう時があんのか」

「然程珍しいわけじゃないと思うけど。でも、今日もこうして動いていれば、きっと本調子に戻るさあ」

 

 「そういうもんか」流れるような会話と共に、ボクらは各々体をほぐす。すぐ近くでは、清隆と沖谷が同じように雑談をしつつストレッチに取り組んでいる。

 先月の中頃、水泳の授業が始まる日に起こった賭け事事件。そこでの一件から縁が生まれたボクら四人は、よく朝のトレーニングを共にする仲になっていた。

 健と沖谷の早起きの習慣づけやボクらの体力づくりが目的で始まったものだが、段々と型にはまってきたようで、ボクと清隆で二人の部屋に出迎えると元気そうな挨拶と共に顔を見せてくれるようになってきた。継続は力なり。シンプルだが的を射ている言葉だ。

 多くの生徒が現を抜かして惰眠を貪ったりアミューズメントに勤しんだりしている中、ボクらは今日も変わらず爽やかな汗を輝かせるという素晴らしき青春を送っている。

 

「今日のメニューは?」

「五月に入ったし、少しキツくしてみようかって思ってる。だから体調聞いたんだよ。ぶっ倒れちゃマズイからな」

「なーるほど。お気遣いどうも」

 

 「あいよ」とだけ言って、清隆たちの方へ向かって行く健を眺めて、ボクは一つ溜息を吐いた。

 目覚めが悪かったのは嘘ではない。しかしその原因は寝不足であり、寝付けなかったのは昨日の図書館での椎名との会話があったからだ。

 彼女ははぐらかしていたが、あれは恐らく何かを仄めかしている発言だ。ボクのやり方と言うのだからきっと間違いない。本来そこまでこだわっている方法ではないのだがな。

 届かない高さの本、か。何かを追いかけていた? 目指していたものがあったとか……彼女の願い? うーん、本のこと以外で彼女が望むようなこと……。それに確か、諦めようにも諦められないとも。あ、今は尚更難しいとも言っていたな。今更、ということはクラス抗争か? でも、椎名とそれを結び付けてみても……。

 ――ああ、クソ。集中できない。

 最近ずっとこんな調子だ。思考しようにも頭の中で浮かぶ考えや情報がとても処理できる量じゃない。ノイズのように絡まって、頭痛がする。

 そんなこんなで、昨日は何とか寝付くのにかなり時間をかけてしまった。

 突然「浅川」と呼ばれて俯いていた顔を上げると、健が他の二人を引き連れて立っていた。

 

「とりあえずまずは、いつも通りランニングからだ」

 

 

 

 

 先程は『未だ肌を軽く突き刺す薄ら寒さ』と言ったが、一応四月と比べて随分と日の出も早くなったし、じわじわと温かさも増してきてはいる。そのため、程よく顔面に当たる風が更に心地良さを与えるようになる。

 

「気持ちいいね」

 

 隣を走る沖谷がそう声を発した。走りながら発声するのは呼吸が乱れるので控えたいところだが、無愛想な態度を取るのも気が引けたので短い言葉で返すことにした。「そうだなあ」

 

「僕、今まで特別運動が好きだなんて思ったことはなかったんだけど、こうやって四人で走るようになってから少しずつ楽しさをわかってきたのかなって、偶に思うんだ」

「確かに、これを独りでやるとなれば、日に日に退屈になっていって続かないかもしれないな」

 

 清隆が相槌を打つ。

 いくら朝早く起きることができたとしても、半日以上の授業日程よりも前の時間帯から運動で汗水垂らすという習慣は、一朝一夕の努力では身に付けにくい。それを朝が苦手なのにも関わらず何とか日々罷り成っていた健は、案外凄いやつなのかもしれない。学生の本分と俗に言われる学業を怠っているのは、何とも合点いかん話ではあるが。

 ああ、そうそう、健と言えば、

 

「彼、何となくわかってはいたけどやっぱ速いよなあ」

「一年の中では間違いなく最速レベルだろうな」

 

 どの口が、と内心思ったが、遥か前方を行く健を傍目に無言の肯定をする。したのだが……、

 

「二人だって、だいぶ速く走れていたと思うよ? 初日の時は、本当にびっくりしちゃった」

 

 沖谷の言葉に僕らは苦笑するしかなかった。

 彼が言っているのは初日の徒競走トレーニングのことだろう。 あれ程必死に走ったのはいつぶりだろうか。中学初期の体力テスト以来かな。

 

「やっぱああいう一対一の形式だと燃えるからなあ」

「前も言ってたけど、それだけであんなに速く走れるものなのかなあ」

「短距離型なだけだ。スタミナがないから、ランニングはこれくらいでないと持たないんだよ」

 

 とまあこんな感じで言い訳している。初めは健も沖谷も半信半疑だったようだが、それからというものボクらは『適度』な走りを楽しく続けていたため、段々と気にしなくなっていった。所詮そんなものだ。一々他人の潜在能力について根掘り葉掘り知ろうとなんてしないのが普通だろう。

 

「何だか羨ましいなあ。二人共凄く仲良しだから」

「おお、そう見えるかい? 嬉しいねえ」

「いつも一緒にいるって感じだよね。前から知り合いだったりするの?」

「いや、高校が初対面なはずだ」

 

 確かに、きっかけがシンパシーだったこともあって息の合う場面はまあまああったような気がする。高校からの縁の割には。

 

「親友ってやつ?」

「シンユウ? あー、親友って言うのかなあ」

「違うの?」

「あまり考えたことなかったな。一番頻繁に話しているのは恭介で間違いないが」

 

 こうして四人で集まるようになる前から、毎日のように一緒に登校していたくらいだ。交わす言葉が多くなるのは必然だろう。ただ、『親友』という表現を他人に当てたことはこれまでなかった。

 ……そうだ。ボクには、友達はいたんだ。完璧な健康管理をしてくれる『親』という存在も、どうしようもなく愛しい兄弟も、いたにはいた。だけどその人たちが誰かの代わりになることは決してない。

 唯一無二の存在を自分の意思で判断するのは思いの外難しいものだ。家族は生まれた瞬間に決められてしまっているが、選択の権利があったらあったでそれも結局は悩ましく感じてしまう。

 清隆はボクの『シンユウ』なのだろうか? そもそも、友達と親友の境界線は? 気が小さいにも程があるような思案かもしれないが、気になったものを気にしないようにするのはそう簡単ではない。

 

「僕もそういう気の置けない存在が欲しいなあ」

「なかなかできないもんだよなあ。だからこそ『かけがえのない』って思えるんだろうけど」

 

 見た目も中身も大分控え目な印象の強い彼のことだ。同調圧力にも弱く我を見せることに難儀を感じているのもあって、余計にそんな存在を渇望しているのだろう。

 

「――ボクらは違うのかい?」

「え?」

「ボクも清隆も、きっと健も、十分キミのことを良く思っているし、かなり気を許していると思うけどなあ。現に一か月ほぼ毎朝一緒に運動していたわけだし」

 

 拳で語り合う、なんて熱血漢ではないが、やはり体を使ったり苦難を共にしたり言葉以外で解り合う材料が多いことは、男子の特権のような気がする。早起き練習と体力づくりトレーニング、これだけでも続けているだけで最初のころよりかなりほぐれてきただろう。

 

「包隠は友情の成長を阻害する癌さ。少しずつでもボクらが絆を深められているのは、それだけ自分を曝け出せるようになっている証拠だよ。キミは既に、キミの望みを見つけられたんじゃないか?」

「そう、なのかな?」

「きっとそうさあ。な、清隆?」

 

 盟友の方を向くと、彼は穏やかな顔で沖谷の後ろ姿を見つめながら「そうだな」と応えた。

 気が付くとコースの終わりごろに差し掛かっており、呼吸を整えながらボクらを待っている健の姿が見える。今日は一段ハードなメニューにすると言っていたので、トレーニングはこの後も続くのだろう。

 

「沖谷。走るの、好きか?」

 

 ボクの問いに、彼はキョトンとした顔を見せた後、にこやかに答えた。

 

「うん、大好き!」

 

 その純粋な表情に、僕も思わず破顔する。

 相変わらず冷気を纏っている柔らかな風が、ほんの少し勢いを増す。長い髪が荒くたなびき視界を鬱陶しく遮る。

 掻き揚げると幾分か視界が明るくなり、三人の顔が良く見えた。最近の悪夢で見たのとは全く別の、晴れやかな表情。

 いい友人を、持ったものだ。

 ……それにしても――。

 喋りながら走るのって、めっちゃ辛いやん……。

 この後のトレーニングで筋肉が悲鳴を上げることになるのだった。

 

 

 

 健は部活、清隆は鈴音と落ち合う予定があったため、その後は沖谷と適当に辺りをぶらついていた。

 

「ポイントがあれば、カフェとかブティックとかもっと回れたかもしれないけど……」

「あっはは、贅沢を知った次には質素を知れってことだなあ。案外楽しめるぞー」

 

 そもそも前の一ヶ月が異常だったことを理解しておくべきだ。謙虚な面のある沖谷ならそう時間もかからずに今の環境にも適応できるだろう。

 

「やっぱり浅川君も、先月はたくさんポイントを使っちゃったの?」

「ん、いやあ、ゼロだ」

 

 事も無げに答える。

 

「え、ゼロ?」

「おう――あ。いや、ズィルォだぜえ」

「発音の問題じゃないよ……」

 

 ありゃ、違ったか。ボクのボケに一々突っ込んでくれる人材はなかなかいない。考えてみれば鈴音は既にスルースキルを身に付けているし、清隆は悪ノリしてしまうことがあるし、椎名はお得意の天然返しを発動してしまう。沖谷や健みたいな純粋な反応の方が珍しいって、これ如何に……。

 

「でも、それじゃ今も十万近く残っているんだね」

「いんやあ、それもズィルォだなあ」

「え、どうして!?」

 

 今度は本気で驚いた反応を見せる。表情も声音も忙しい少年だこと。

 ボクは困惑気味の沖谷に簡潔に成り行きを伝えた。

 

「……ちょっと前から思ってたんだけど、浅川君って不思議な人だよね」

「褒め言葉かい?」

「多分そう。普段フワフワしてて、突拍子もない言動をする時があるけど、しっかりとした優しさを持っているって感じもするから」

 

 それを聞いてふと、以前椎名に言われた言葉が脳裏を掠める。

 

『私は浅川君が優しいことを知っています』

 

 ボクが優しい、か。見る目がないよ、本当に。

 本当に、みんなして見る目がないんだから。

 

「ほら、他人に優しく出来る人は素敵じゃん? そういう芯は曲げたくなくてね」

 

 だけどボクは、微塵も思っていない言葉を返す。返さなくてはならない。自分から背負った鎖のせいで、演じなければならない。

 

「ま、お金がなくても飯は食わなきゃなあ。いい頃合いだろう」

「そうだね。僕、友達と一緒に食べる予定があるから、そろそろ行かないと」

「およ、友人付き合い順調じゃないかあ。走っている時の話じゃないけど、キミの方こそ羨ましいよ」

「あはは。でも、遠慮し過ぎちゃうこともあって、やっぱり朝のメンバーが一番気が楽かも」

「そりゃあなんたって『トップ4』だからなあ」

 

 「それじゃあ、またね」大通りの交差点で、沖谷は足早に曲がって行った。

 いやー、独りですなー。

 そういえば、独りで外を出歩くのは初めてだな。時間の使い方がわからない。

 沖谷の言っていた通り、ポイントがなければ施設利用も真面にできない。かと言って寮に直帰するのも何だか勿体ない気がする。

 今の懐事情に適う、未開の地と言えば……。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 温かな日差しにウトウトしながら、ベンチに座り柵の向こうで延々と続く水平線を眺める。

 耳に淡々と響くカモメの鳴き声は、印象の薄い景色の一方で知覚にアクセントをもたらしている。

 蒼と白と、隅々に映る灰や茶の色だけで構成された単調な視界は、ここが如何に人をリラックスさせてくれる場所であるかを証明していた。

 

「……歳を取ってもこうしてたい」

 

 何となく呟いた小言は、当たり前ながら虚空の彼方へと吸い込まれていく。

 次に嗜むのは当たり障りのない思考だ。空と海、濃淡の異なる二つの蒼のどちらが好みかな。あそこを飛んでいるカモメたちは誰が一番高いところまで飛べるのかな。ベンチの高さはこれが最適なのかな。潮風で髪が傷まないかな。漫然と思い浮かべたり、深く考え耽ったりを繰り返す。

 それにも飽きたら、今度は目を閉じ、耳に意識を集中させてみる。

 波のざわめき、木々草花の囁き、柵の揺らめき、ボク自身の髪のたなびき、人の足音、無機質なシャッター音……。

 …………。

 シャッター音?

 

「ふぇ?」

 

 間抜けに開眼し周囲を見回すと、この空間では少し浮き目立つ桃色の髪をした少女、それもよく見慣れたシルエットが目に入った。

 

「愛理……?」

 

 彼女の手元には、先の機械音の発信源だったのであろう使い古されたカメラがあった。前々から話には聞いていたが、こうやって独りで繰り出して撮影している姿を見るのは初めてだ。

 アングルの調節を念入りに行いながら、ボクがついさっきまで意識を巡らしていた対象物たちに焦点を当てていく。その度に二、三度「カシャ、カシャ」という乾いた音が届く。

 すると突然彼女はキョロキョロと周囲を確認し、視界の裏に隠れてしまっているボクに気付かないまま眼鏡を――

 

「おーい、愛理」

「ほわああああああああああっ!」

(うお)っ!」

 

 一種の予感を覚え歩み寄りながら声を掛けると、耳を(つんざ)くような叫び声でカウンターパンチをもらった。

 びっくりした……普段の彼女からは想像できない声量だったぞ。

 

「悪い悪い、驚かせちゃったかあ」

「あ、浅川君。……いえ、ごめんなさい。私の方こそ、気付かなくて」

 

 未だ動揺を収められずアタフタと応じる愛理。

 

「謝ることじゃないよ。まあ落ち着きんさい。ほら、深呼吸」

 

 「は、はい」短く応えると、彼女は言われた通りに大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。一連の動作をボクはのんびりと待つ。チラッと上を見ると、心なしかカモメたちは慌ただしく宙を旋回しているように見えた。もしかしてあの子らも仰天したのか?

 

「にしても奇遇だなあ。てっきりこんな端の方にまで足を運ぶ人はいないと思っていたよ」

 

 暫し間を置いてから尋ねる。

 埋立地のようになっているこの高校の敷地は、外側まで行くと当然綺麗な水面を一望できる。ただ、大抵の学生は娯楽施設に入り浸るか部屋に籠るか、散歩であっても手前の公園辺りまでしか進まないため人気(ひとけ)がない。所謂穴場というやつだ。まさか愛理がそんなところにまで活動範囲を広げていたとは。

 

「えっと……休日は偶に来るんです。ホント偶に」

「へー、いいとこだなあここ。ボクは初めて来たんだけどのどかで落ち着く」

 

 図書館の閑散とした空気とはまた違う。あそこよりも穏やかさや温かさを感じるような場所。勿論室内か外かの差はあると思うが。

 「そうですね……」と小声で応える愛理は俯きがちにカメラをモジモジと触っている。何だか御守りみたいだ。

 

「目当てはそれ?」

「あ、はい。折角、いい天気だったから……」

 

 写真のことについて触れると、彼女はほんの少し明るさを滲ませた。初対面の時のお粗末な会話を思い返せば、何とかここまで進展できたといったところだな。

 愛理と会話するのは今回で四度目だ。二回目は初対面から数日後、三回目は五月に入る直前。ボクにとって「その他大勢」の枠組みに含まれない人間の中では、残念ながら一番量は少ないだろう。他クラスである椎名以上に。

 尤も、極度な口下手である彼女のことを思うと、別に会話の濃度が比較的低いというわけでもない。

 

「浅川君は、どうしてここに……?」

「それは――まあ座ってまったり話そうぜえ」

 

 立ち話も何なので、自分が座っていたベンチに再び腰を下ろす。愛理が委縮しないようにできるだけ端に移動し、彼女が心に余裕を持って座れるように誘導する。

 

「あの……大丈夫ですよ? そこまで気を遣わなくても……」

 

 あ、そうだった。一挙一動に敏感なんだった。普段の態度のせいで忘れがちだが、本当に鋭いな。

 

「なら良かった。念を押すようだけど、避けるなんて意図は全くなかったからなあ」

「い、いえ、元はと言えば、私がこんな性格なのがいけないんです……」

 

 おいおい、ちと卑屈になり過ぎやしないか? 心を開いてくれたと一瞬でも期待したボクの自惚れだったとでも言うのかい?

 ただそれこそ、更に元を辿るとボクらを引き合わせたのはそういう自己嫌悪じみた性質なのだろうけど。

 ようやく彼女はボクの隣に――それでも人一人分は間隔がある――腰を下ろした。すんごい背筋がピンと伸びている。間違いなく天使の羽付きランドセルを背負っていたな、これは。

 

「ボクらが初めて話した日にさ、健と沖谷と団欒していたの、見てたろう? あの時以来、よく一緒に朝トレする仲になったんだよ」

「じゃあ、今日も?」

「うん。でもみんなその後予定があったらしくて、ボッチの時間をどう消費しようかと思い、フラフラと導かれたってわけさあ」

 

 我ながら悲しいことだ。予めその事実を知っていれば、昼からの過ごし方に算段を付けられたかもしれないのに。寧ろ向こう見ずだったからこそこうして愛理と遭遇して話せたんだけども。

 

「何だか、意外ですね……須藤君、クラスでは孤立しているイメージだったのに」

「イメージどころか実際そうなんだろうよ。自分に合わない同調圧力が嫌いでスポーツは大好き。意外さの欠片もない。彼はただ、自分に正直なだけだ」

 

 言い換えると、たかがそれだけで腫れ物扱いされるようになってしまったということだ。トップ4のメンバーだけは彼の良き理解者でありたいものだ。将来的には、鈴音や平田辺りも。リーダー格においては健の方からも寛容になってもらう必要があるが。

 

「好きな運動を一緒に楽しんでいるから、浅川君たちには優しい……そういうことですか?」

「大雑把に言えばなあ。キミも、写真のことになると嬉しそうに語ってくれるじゃないかあ」

「えっ!? そ、そうでしたか……?」

「おうさあ。聞いてるこっちも愉快になるよ」

 

 ボクの肯定的な言葉に愛理は首を捻る。

 

「本当、ですか……? 迷惑だったり……」

「ほら、好意的に接すると相手も自分に好意的になるって言うだろう? そんな感じで、好きなこととか共感できることがあると、きっと自然に引き寄せられるんだ。それを素敵だと思うことはあれど、邪険に扱うことはないよ」

 

 「そう、ですか。良かった……」おどおどしつつも、何だかんだでホッとしてくれたようだ。

 

「でも、そういえば浅川君って、あまり自分のことを話したがらないですよね……」

「あれ、そう?」

 

 記憶を辿ってみると、なるほど、確かにないな。自分から好んで話さないのと、元々機会がなかったのと、どちらもある。

 

「なら、この際一つ答えてやるよ。何を知りたい?」

「え? えっと、その……えー……」

 

 唐突な提案に再び愛理はどもってしまう。いくらでも待つさ。キミのそういうところは織り込み済みだからね。

 三十秒程考えあぐねてからようやく彼女はその重い口を開いた。

 

「…………好きな、こと」

「え?」

「す、好きなこと! って、何ですか……?」

 

 短いコミカルな沈黙。空間全体の雰囲気も相まって、余計シュールに感じられた。

 気まずさに耐えられなくなったのか、彼女は焦りの表情を浮かべ「あっ……えっと……」と手をワシャワシャさせ始める。

 まさか、これだけ溜めに溜めて絞り出した問いがそれとは。

 

「ぷっ、あっははははは! そんな質問でいいのかい?」

「お、可笑しな質問でしたか……?」

「い、いや、ぷふっ。全く、キミらしいよ。ふふっ」

 

 恥ずかしさで顔を真っ赤にする愛理を見て、更に笑い声が漏れる。流石にここまで矮小な人間は見たことがない。癒されるというか、心の洗われる感覚だ。

 彼女が羞恥心でノックダウンする前に、しかと回答をせねばな。

 

「そうだなあ。趣味って言うには名ばかりだけど――人と話すことかなあ」

「人と話すって……こういう時間のことですか……?」

「うん。身の上話から世間話、とりとめのない雑談まで」

「じゃあ浅川君は、本当は平田君や櫛田さんくらい、話せる友達が欲しかったりするんですか?」

 

 「違う」それについては断固反対だ。僕は人気者になりたいとか、話すこと自体に快楽を求めたり寂しさを紛らわしたいわけではない。

 

「僕はさ、マンツーマンで話すのが好きなんだ。誰とでもだなんて身の丈違いな欲深い願いじゃなくて、僕が気を許した人と、僕に寄り添ってくれた人と、時間を共有して楽しいと思える人と、互いのことを知っていきたい。自分の目の前にいるただ一人を大事に見つめて、心と関わりたいんだ。――そんな小さな願いなら、偶には叶ってくれそうだと思わないかい?」

 

 僕の真剣に紡ぐ言葉を、彼女は落ち着いた態度で聞き入っていた。

 

「わ、わからないです……でも、素敵な願いだなって、思います」

「はっはは、だろ?」

 

 いつもと比べて少し穏やかな表情を浮かべる愛理にほんの少し救われる。こちらが丁寧に語れば、やはりちゃんと向き合おうとしてくれる少女なのだ。

 不器用だという自覚はある。だからこそ、これくらい誠実に、そして慎重に向き合うべきなのだと思う。『先生』風に言うと、これが僕のポリシーなのだろう。

 

「さてと、じゃあお返しに、ボクからもキミに質問しよっかなあ」

「え、え? な、なんでしょうか……」

「身構えなさんなあ。近況報告みたいなもんさあ。最近の生活はどうだい? 良い友人と出会えた?」

 

 この質問は天啓の如く閃いた思いつきではない。度々気にかけていたことだ。

 三度目の邂逅の際に、今日のように愛理の趣味を聞いている流れで、面と向かって会話のできる友人が欲しいという悩みを聞いていた。確か、それならまずは同性からという結論で一時収まっていたはずだが。

 

「向こうがどう思っているかはわからないですけど……最近はみーちゃんや心ちゃんと話すことが多いです」

「え、なんて? み、みー、ちゃん?」

 

 少なくともクラスメイトで思い当たる名前は記憶にない。あだ名か何かか?

 

「は、はい。(ワン)さんです。王美雨(メイユイ)さん」

「ああ、合点いった」

 

 名前からも察せる通り、中国出身の少女だったはずだ。流暢な日本語だったため全くわからなかった。問題文が日本語のはずの小テストで高得点だったことも踏まえると、グローバルの方面に賢いのかもしれない。

 自己紹介でしどろもどろだった心もそうだが、小グループにイマイチ溶け込み切れていない女子どうしで惹かれ合ったのだろう。悪く言えばはみ出し者という分類に含まれてしまうが……きっかけなど些細なことだ。仲良くなれたのなら、それは素直に祝福すべきことだろう。

 ……あれ? でも彼女らの出会いって、何だかデジャヴが……。

 

「良かったなあ。これでキミも、一歩前進ってところじゃないか?」

「そう……?」

「そりゃそうだろう。お世辞にも他人慣れしているとは言えないキミが『仲良し』と認識するほど、信頼できる相手なんだろう?」

「それはまあ、確かに……敬語を取り払って話せるようにもなりましたし」

 

 そうだ、ボクと清隆の時と少し似ているんだ。友達つくれない同盟として始まった友好な関係だし、茶柱先生にも(誠に遺憾ながら)鈴音共々はみ出し者と認定されてしまった。すると、ボクと愛理がぬらりくらりで会話を続けていられるのも、そういう微妙なシンパシーが根底に潜んでいたからなのだろうか。

 それに、何よりも驚いたのが、

 

「タメ口で話せる仲なのかい!? 随分と上手くやれているじゃないか、すごいなあ」

 

 椎名の例があるから、愛理も敬語で話す姿勢が板についてしまっているのかと思っていたが、ボクの解釈違いだったようだ。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 ボクが思わず自分のことのように喜んでしまったからだろうか。愛理は照れくさそうにポツリと零した。

 だけど、一つだけ合点いかないのが……

 

「……あ、あのさ、愛理」

「はい?」

「ボクは……?」

「…………へ!?」

 

 異性だから、と言われてしまうなら頼みようもないのだが、初対面で少しは心通わせたつもりでいた身としては、親しい口調ができると知ってしまった以上やはり自分にもそうして欲しいと願ってしまう。

 

「えっと……が、頑張ってみま……みる、ね……」

「あ、あっはは。無理にとは言わないよ、キミのペースでいいから。ある程度距離感が近い方が話しやすいなって思っただけだしね」

 

 「頑張ってみる」と言ってくれたのだ。その意志だけでも、四月の半ばより十分成長しているだろう。

 

「よーっし。キミから吉報を受け取ることもできたことだし、そろそろお暇しますかねえ。楽しい一時だったよ」

「帰るんですか?」

「まあね。愛理は?」

「私は――もう少し、ここにいます……」

 

 そう儚げに呟き、彼女は数分前のボクと同じように、大人しい波の揺れる様をぼんやりと眺めた。

 

「そうか。撮影の邪魔もしちゃったからなあ、ごめんよ」

「い、いえ! そんなことは……」

 

 愛理はベンチから飛び上がりつつ必死に否定した。彼女の急なオーバーリアクションにもやっと慣れてきたかな。

 ふと、彼女は何かを思いだしたように「あっ」と声を漏らし、窺うようにボクに尋ねた。

 

「あの、浅川君……」

「ん?」

「もしかして、()()()()()……?」

 

 何かを恐れるように震える瞳に、ボクは戦慄を覚える。

 ……ここで、嘘を吐く必要はない。

 

「いや、見てないよ」

「そう、ですか……」

 

 一抹の不安を抱えながらも、彼女は一先ず胸を撫でおろす。

 そう、優しい嘘ですら、一つとしてボクは吐いていない。『決定的瞬間』を目の当たりにしたわけではないのだから。

 だけど――。

 愛理の中に、今の彼女ではない何者かを垣間見た時、ボクは一体彼女をどう見ればいいのか、どんな言葉をかけてやればいいのか。その答えはまだ、心の内で定まりそうになかった。

 




久しぶりの執筆でも相変わらず、間延びというか、ゆっくりテンポで進んでいきます。一応無駄話の回はなくどれも意味のある話になっているつもりなのであしからず。序章tipsもまだ描ききっていないですしね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ミーティング

いやー、ウマ娘いいっすねー(唐突)。アニメもゲームも面白い。

最近思ったんですけど、本作のペースって、何だかノベルゲームとかでありそう。


「鈴音と会いに?」

「ああ、悪いな」

「中間テストについてだろう? 気にせず行ってらあ」

「行ってくる。またな」

 

 浅川たちと別れた綾小路は、すぐさま端末を取り出し、堀北にメッセージを送る。

 

「今から行く」

 

 小走りで寮へ向かうと、何故か入口の前で彼女と遭遇した。向こうもこちらに気付き、渋った顔をする。

 

「え、どうして外にいるんだ?」

「なんだっていいでしょう。そっちこそ、どうしてそんなに汗塗れなの? あまり近寄らないでもらえる?」

 

 一言話しかけただけでこの反応である。確かに運動後であるからして多少汗臭いのかもしれないが、せめてもう少し慈悲のある対応を施して欲しいものだとげんなりする。

 

「漢の友情を育んでいたんだ。この輝きを刮目しろ」

「わけがわからないわね」

 

 遊び心を加えた答え方をすると、それきり彼女は関心を失ってしまった。

 伏し目がちに落ち込むと、堀北の手にレジ袋が握られていることに気付く。中に入っているのは――

 

「本屋に行っていたのか」

「政府運営と言い張るだけあって、なかなか品揃えは良かったわ」

 

 自分が連れるより先に独りで入ってしまったのか。弱ったなと思っていると、スタスタと彼女はエレベーターへ向かって行く。

 

「目ぼしい物はあったか?」慌てて追いかけながら問うと、堀北はぶっきらぼうな態度を変えることなく答えた。「まあね」

 

「参考までに、何を買ったのか教えてくれないか? オレも何か読もうと思っているんだが、決められなくてな」

「どうしてあなたの素朴な悩みのためにプライベートを明かさなければならないの?」

「プライベートって程のことでもな――」

「断固拒否よ」

「……はい」

 

 押しつぶされる形で身を引くことになったが、あまりに強情な受け答えに若干の違和感を覚える。いつもの堀北なら一度断るだけで後はシカトを決め込むはずだが……何だか焦っているように見える。あまり触れて欲しくない内容だったのだろうか。

 無理に掘り下げることでもないので、これ以上踏み込むのはやめておこう。

 

「それで、一体どうして今日会う必要があったんだ?」

「決まっているでしょう。中間テストの対策よ」

「そうじゃなくて、今日でなければいけない理由だ。一応恭介たちと用事があると言っていたのに、お前が半ば強引に決定したろう」

 

 綾小路は以前から今日は予定があると訴えていた。しかしそれをどういうわけか堀北が許さなかったのだ。事情を聞いても答えてくれなかったので、彼の中で疑問は膨らみ切っていた。

 

「テストまであと三週間もあるんだぞ。些か動くのが早すぎじゃないか?」

「あの唐変木たちにはそれくらいの時間が必要だと思うけど?」

「コンディションというのがあってだな。調子の善し悪しは山あり谷ありなんだよ。もう一週間くらい腕を温めておいた方が……」

「運動とは違うわ。今のあなたみたいに不潔な汗を掻くこともないし」

 

 突然先の話を掘り返され、心を抉る発言が飛び出す。文武の性質が根本的に違うのだと言われてしまったら反論のしようもない。そもそも精神的にする気も起きない。

 綾小路は深い溜息を零す。

 その様子を憐れに思ったのか、堀北は再び口を開いた。

 

「今日は平田君も合流して話し合うのよ」

「は? 聞いてないんだけど……ああ、そういうことか」

 

 彼女の一言で、綾小路はその意図を察した。

 要は、消去法だったのだろう。

 平田には軽井沢(かるいざわ)(けい)というガールフレンドがおり、彼はサッカー部での活動にも励んでいる。詰まる所、『リア充』だ。この連休中ずっと部活が休みなわけがないし、恋人とやり取りの一つも行わないはずもない。恐らく彼の多忙なスケジュールで、都合が合ったのが今日だけだったのだ。

 ――リアルが充実している、という意味なら負けていないつもりなんだがな。

 人知れず対抗心を宿す綾小路だが、当の平田は当然そんな意識は皆無。その違いが既に二人の環境の差を示してしまっていることに、綾小路自身が気付くことはなかった。それどころか――

 ……いや、待てよ。『リア』を『rear(後ろ)』と捉えれば『後ろ向きな充実』。フッ、やはりオレたちの方が相応しいようだな。

 何とも無駄な知識の活用をし、勝手に誇っている始末。彼の中で丸く収まっているのであれば問題ないが、密かに巻き込まれてしまった浅川と堀北には、誰かが南無阿弥陀仏を唱えてあげてもいいのかもしれない。

 二人の乗り込んだエレベーターが上昇を始めた。

 

「やれやれ、青春を謳歌せし者に振り回されるとは、何とも哀しいものだな。オレもお前も」

「私を同じ穴のムジナにしないで。――でも、不快な流れなのは事実ね。退学やらポイントやらがかかっていると言うのに、彼らはあまりに緊張感に欠けるわ」

 

 「部活動については仕方ないんじゃないか?」と、普段の綾小路なら返したことだろう。しかし、その指摘が外に放たれることはなかった。

 

「……本当に疲れるわ」

 

 そう零す堀北の目に、仄暗い隈ができていたことに気づいたからだ。

 これは……一日二日でできたものではない。

 綾小路が彼女と間近でやり取りをするのは大体一週間ぶりだ。二人きり、という意味だと水泳の授業の自由時間以来だろう。異性の顔をまじまじと見つめるのも不自然で失礼だと弁えていたのもあり、今まで見つける機会がなかったのだ。現に、彼はエレベーター内の密室に入るまで彼女の様子に気付けなかった。

 心当たりは――あるにはある。

 そもそも、堀北は元来孤独一筋な少女だったのだ。綾小路と浅川が棘の無い性格であるとはいえ、唐突に始まった二人との会話の日々に、無意識ながらストレスを感じていた可能性がある。浅川に至っては、持ち前のユーモアで堀北を振り回すこともあった。合間合間に見せる表情や日に日に緩和される態度から、本能的には凝り固まった精神が解されていることを綾小路は察していたが、思い込みが昇華して心神に影響を及ぼすケースは少なくない。結果的に彼女の気疲れの原因になっている可能性は十分にあった。

 それに加えて、この前は櫛田と、今からは平田と、そしてこれからは赤点筆頭たちとコミュニケーションを取らなければならなかった。他人との関わりに言い様の無い不安を抱いていた記憶が新しい綾小路には、堀北の疲弊がよくわかった。

 それもこれも、堀北自身が他人を許容すれば解決できる問題だが、彼女が今のままでいいのか迷っていることもまたれっきとした事実なので、横槍のように咎めることは憚られた。代わりに、綾小路は労いの言葉を掛ける。

 

「こうやって奔走しているだけでも、頑張ってる方だろう」

「過程に意味はないのでしょう? 何一つ事を為していないのに、根を上げてなんていられないわ」

「そういう意味で言ったわけじゃなかったんだがな……」

 

 因果応報とは正にこのこと。かつての自分の言葉で返され、綾小路は落胆する。

 重苦しい音と共に、ドアが開く。

 

「まだ、何も始まってなんかいないのよ……」

 

 彼女の覇気のない呟きが、一体誰に向けられたものなのか、綾小路にはわからなかった。

 

 

 

 数分後。

 

「で、どうしてこうなった?」

 

 綾小路にとっては平田との初邂逅の意味も持つ今回の話し合い。堀北から一切の詳細を教えてもらっていなかった彼は、その会場となる移動先で心底納得のいかない表情をして座っていた。

 向かい合っているのは勿論――

 

「あはは。ごめんね、綾小路君」

「謝罪は不要よ。困ることがあるわけでもないだろうし」

「どうしてお前の口からその言葉が出てくるんだ……」

 

 本来なら自分が遠慮して発するべきことなのに、よくもまあぬけぬけと主犯がおっしゃる。

 平田の柔らかい物腰に多少溜飲は下がったが、それでも綾小路はしかめっ面を隠せなかった。

 

「全く以て納得いかないんだが」

「それはあなたの頭が足りていないからよ。当然の帰結じゃない」

「クラスの要二人の話し合いの場が一構成員の部屋になることの、一体どこが当然なんだ?」

 

 そう、今三人がいるのは綾小路の部屋。浅川ほどではないものの、生活必需品以外に置かれている物はほとんどなく、彼とは違い平凡かつ質素な部屋であり、感想を聞かれても答えにくい。そんな空間だった。

 椅子も一人分しかないため来客には向かない場所なのだが、どうしてここである必要があったと言うのか。

 綾小路の疑問に、堀北は嘆息を吐く。

 

「いい? まず私の部屋を選ぶのは論外よね?」

「あ、ああ」

 

 女子の部屋に男二人が上がるというのはなかなかに厳しいシチュエーション。これで平田が浅川だったならまだしも、大して親交の深まっていない彼を招くのに抵抗があるのは真っ当な意見だろう。

 

「そして、平田君には彼女がいるのでしょう? 恋人のいる男子の部屋に上がり込む女子なんて、いくら私でもデリカシーのないことだってわかるわよ」

「そ、そうなのか……?」

「僕は構わないって言ったんだけどね」

 

 今度は今一つピンとこなかった。男女間での気配りだとか暗黙の了解だとかは、雰囲気に乗じる形で何となく理解している。ただ、恋愛が絡んでくるとなると話は別だ。対応が多少変わってくるのは承知だが、恋模様を見たことも経験したこともない彼にとって、具体的なことはあまり判然としなかった。

 そういうわけで平田に意見を求めたのだが、反応を見るにやはり堀北の強硬による決定だったようだ。

 

「そうだったわね。恋愛と無縁な綾小路君には理解しようもなかったわ」

「待て。お前だけには言われたくないぞ。まるで経験があるかのような言い回しをして」

「そうね。あなたの考えている通り私も無縁だし興味もない。あら、だとすると、綾小路君に足りないのは経験というより常識ということになるわね。勘違いをして悪かったわ」

 

 勝手に根城に踏み込まれ、あまつさえ遠慮知らずな罵倒を浴びる始末。軟弱者の精神を壊す才能はピカイチな彼女に呆れるも、寧ろ本調子に戻ったとみるべきかと思い直し、自衛専用の矛を下ろす。

 

「もうこうなってしまったからには何も言うまい」

「物分かりはよくなったようね。安心したわ」

 

 盟友さえいればこの状況を打開することも難しくないのに。負け惜しみとも捉えかねない感想を抱いていると、クスッと笑う声が響いた。

 

「どうした平田?」

「いや、本当に二人は仲良しなんだなと思ってね」

 

 微笑まし気にそう答えた平田に、当然堀北は反論する。

 

「冗談じゃないわ。誰が好き好んでこの男と馴れ合うって言うの?」

「でも、教室ではいつも浅川君と三人で話しているよね? クラスでは結構話題になっているんだよ」

 

 当の本人たちにとっては寝耳に水な事実に、二人は目を丸くする。特に堀北に至っては若干顔色も悪くなってきている、ように見える。

 

「差し支えなければ、どんな風に話題にされているのか教えてくれないか?」

「えっと、幼馴染なんじゃないかとか、腹違いの兄妹なんじゃないかとか、三角関係じゃないかとかまで言われているね」

 

 なんて正確性のないデマなのだろう。綾小路と堀北のリアクションがシンクロした。

 席が近いから話すようになったというだけの関係に対して、どれだけの想像力があればそんなこじ付けができるのか。幼馴染は兎も角、同い年で苗字も違うのに兄妹と決めつけられる思考は理解し難い上、極め付きには三角関係。勿論恋愛感情など皆無であったため、さすがの綾小路も難色を示した。

 

「飛躍しすぎじゃないか?」

「あはは、僕も全部鵜呑みにしてはいないよ」

 

 どうやら平田も同じ意見なようだ。案外苦労人なんだなと同情する。

 

「ただ、もしかしたら幼馴染くらいの仲ではあるんじゃないかとは思ってたんだ。君たちの反応を見るに、どうやらそれも違ってたみたいだけどね」

 

 堀北は信じられないと言いたげな顔をしているが、これに関しては綾小路は仕方がないと思っていた。自分たちの狭いコミュニティを顧みると、それほどの仲だと認識されてもおかしくはない。

 

「はっきり言うと、友達の範囲に収まる関係に過ぎないぞ。対して目立っていたつもりもなかったが、どうしてそんな噂されることに……」

「ほら、うちのクラスは男女間の付き合いがあまり多くないだろう? だから、その中で君たち三人の様子は結構珍しく映ったんじゃないかな」

 

 そう言われてみると確かにそうだ。女子たちが平田以外の男子と親しく過ごしている姿を見かけることはほとんどなかった。男子も綾小路たち『トップ4』や池、山内、須藤の三馬鹿など、同性のみの小グループでつるむことが多く、男女の不可視の壁は先月の水泳の授業日に顕著に表れていた。

 堀北においては他の女子との関係も希薄であり、そんな彼女が男二人と度々会話しているのを目の当たりにすれば、最悪恋愛絡みと見られても一理あるのかもしれない。

 これは思いもよらぬ形で目立ってしまっていたなと、少し反省する。

 

「まあ、悪い風に見られていなかったなら良かったよ」

「僕らの年頃だと、女子はめっぽうそういう話を広げたがるからね。特に、堀北さんの周りを避けてしまう部分は最初気味悪がられていたようで心配だったんだけど、最近だと年相応の乙女心があるんだって親近感が湧いてきている子が多いみたいだ」

「…………それは……都合のいい勘違いだな」

 

 サラッと飛び出した新情報に大爆笑――しかけたが、堀北の制するような白い目に気付き、何とか堪えることができた。

 彼女はわざとらしく咳払いをし、再び表情を引き締める。

 

「与太話はもうたくさんよ。とっとと本題に入りましょう」

 

 確かに、アイスブレイクもそろそろ十分だろう。彼女の言葉に応えるように、綾小路と平田は襟を正す。

 

「そうだね。先生の言う通り、今のDクラスはお世辞にも学力がいいとは言えない。もし中間テストがポイントを上げる方法の一つなのだとしたら、しっかりと連携を取って、みんなで協力して乗り越えないと」

 

 平田の相槌を皮切りに、勉強会やらテストの内容やらについての話し合いが始まった。

 尤も、綾小路はその様子を内心冷めた目で見つめていた。

 見出せるものは、だいぶ限られているはずだからだ。

 そもそも昨日の段階で今後の生活態度の方針等は話し合いが済まされている。まして堀北と平田は初めから模範となるような過ごし方をしていた生徒。その辺りを改めて確認する必要性はない。

 ならばテスト自体についてはどうか。これは学校側お得意の意地悪な情報規制のせいで全貌を窺うことは難しい。小テストでは赤点が8人、一教科でも赤点で退学、真面な説明を受けたように見えるが、その実肝心な『赤点そのものの説明』がされていない。具体的に言うと、『赤点の判断基準は何か』。何点以下? 全体の何位以下? 将又平均点の半分以下? 推測しようにも不確定だ。Sシステムの説明の仕方が悪趣味だったことを顧みると、今回も向こう側の作為的なものである可能性が高い。

 できることがあるとすればやはり、勉強会の打ち合わせくらいであろう。Dクラスは曲者揃いで身内以外との連携に消極的な生徒が多い。となれば、先導役がどれだけ上手く取り纏められるかが鍵になる。今後のことを考えると、その意味は尚更大きいはずだ。

 しかし、あくまで中間テストは『自クラスのみで完結する』戦いである。他クラスからの謀略や干渉の起こり得ない現状では、然程綿密に話し合えることも多くはない。

 そして――それをわかっていない二人でもないはずだ。

 綾小路の中で、一つの疑問が生まれる。

 案の定、事は滞りを感じることもなく三十分程度で終わった。

 

「それじゃ、僕は行くよ。今日はありがとう、二人共」

「何か用事でもあるのかしら? やけに急いでいるように見えるけど」

「軽井沢さんと約束していてね」

「はあ、呑気なものね。現を抜かすのも程々にしなさい」

「わかってる。部活の方ももうじきテスト週間で休みになるしね」

 

 平田はいそいそと玄関の方へ向かって行く。

 

「ちょっと待て。平田」

 

 それを呼び止めたのは、他でもない綾小路だ。

 

「どうかしたかい、綾小路君?」

「最後に一つだけ聞きたいことがある」

「いいよ。何でも聞いて」

 

 平田は落ち着いた動作で振り向く。

 話し合いが始まってから一度たりとも発言していなかったのにこの余裕ある反応。まるで聞かれることをわかっていたみたいだ。漫然とそう思いつつ、綾小路は頭の中にある疑問を口にした。

 

「どうして、会う必要があったんだ?」

「だからそれはさっき――」

「鈴音、今は平田に聞いているんだ」

 

 目線を以て堀北を黙らせ、再び平田に向き直る。

 

「堀北さんから事情は聞いているみたいだけど?」

「それを聞きたいんじゃない。って、お前はわかっているだろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 先に述べた通り、今回の話し合いはあまり重要性のない案件だ。電話なりチャットなりで済ますことは造作もなかったはず。それを時間がないにも関わらず対面で行ったのには、何らかの意図があるのだと綾小路は推測した。

 視線が交錯し、暫しの沈黙の後、平田は穏やかな笑顔を浮かべた。

 

「それは――君と話すためだよ」

「オレと、話す……?」

 

 「うん」と平田は肯定の意を示す。

 

「折角協力関係になるんだ。少しでも君の人となりを知っておきたくてね」

 

 一見『親睦を深めたい』というだけに捉えられる言葉。しかし、綾小路は彼の言葉に違和感を抱いた。

 綾小路たちの学校での様子はクラスで一目置かれている、と彼は言っていた。堀北のことを気にかけていた彼がその最中で綾小路という人間を目の当たりにしなかったわけがない。

 かてて加えて、彼は既に堀北と一度会話をしており、綾小路のことについても話が出ている。その好機を彼がみすみす逃すとは思えなかった。

 となれば、平田がこのタイミングで綾小路とコンタクトを取り、彼のことを知ろうとした意味は――

 

「……案外、人を信じない質なんだな」

 

 彼の返しで、自分の意図が伝わったことを理解した平田は満足そうな顔をしつつ応える。

 

「そんなことはないよ。疑っているから話すんじゃない。信じるために話すんだ」

 

 要領を得なかった綾小路は首を傾げる。「それは、同じなんじゃないのか?」

 

「ううん、違う。全然違うよ。僕は仲間を初めから疑って掛かるようなことはしない」

「マイナスを払拭したいのではなく、ゼロをプラスにしたい、ということか?」

「まあ、そんな感じかな」

 

 頬を掻きながら答え、今度こそ平田は玄関のドアを開けた。

 

「そして、それだけの収穫はあった。君はきっと頼もしい仲間になってくれる」

「序盤の雑談くらいしかしなかったんだが……」

「それだけで十分だったってことさ。浅川君と堀北さんのことを話す君の表情を見ていれば、君が善い人だってことはよくわかった。堀北さんから予め聞いていた通りね」

 

 思いもよらぬ言葉に反射的に隣の少女を向く。刹那ぎょっとした表情を見せた堀北はすかさず否定する。

 

「平田君、おかしな話を捏造しないで」

「おかしなことなんてないよ。人付き合いに奥手な堀北さんが日頃からあんなにも仲良く接している時点で、君が二人のことをよく思っているのは十分わかるから」

 

 曇りのない笑顔で確信を持って語る平田に無駄だと判断したのか、堀北は額を押さえて溜息を吐いた。

 

「お互い頑張ろう。絶対にうちのクラスから退学者なんて出させないようにね。二人共、頼りにしているよ」

 

 その言葉を最後にガチャリ、と扉の締まる音が響き、空気の揺れすら肌で感じることのできるような長い沈黙が訪れた。

 

「……鈴音」

 

 数十秒経っただろうか。恐る恐るといった様子で彼女の名前を呼ぶ。

 

「……何かしら」

「さっきのあれ、どういうことだ?」

「……あなたに関係な――」

「ありまくりだろう」

 

 追及する度に堀北の顔に冷や汗が滲み出る。

 柄にもないことを言った、というわけか。

 もう一押ししようかと口を開いたタイミングで、先に堀北が言葉を紡いだ。

 

「本当に、大層なことは言っていないわ。戦力には成り得ると言っただけよ」

 

 「それじゃ」堀北は逃げるようにして、足早に部屋を出て行ってしまった。

 果たして本当にそれだけだったんだか。

 ポツリと独り取り残された綾小路。元々自分の部屋であるからして普段と変わりないことなのだが、先程までとの差のせいで孤独感が若干強まる。

 無音な空間に手持無沙汰となり、彼はベッドへダイブする。

 ――大分、変わったな。

 今日一日、学校があるわけでもないのに誰かと一緒にいてばかりだ。入学当初の不安はもう見る影がないと言っても差し支えない。

 そして極め付きには、さっきの堀北の言葉――。

 頭の中で反芻しながら仰向けになり、綾小路は呟いた。

 

「『リア充』、か」

 

 胸中に宿った思いは一つ。

 この土産話、きっと恭介は喜ぶだろう。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 別の一室に、少女が一人入り込む。と言っても、そこは彼女の自室であり、根城へ返り咲いただけに過ぎない。

 慣れない人付き合いを一段落終えた疲れを吐き出すように、ハアと一つ溜息をする。

 先程漏れ出た冷や汗を補うべく、彼女は取り出したカップに水を一杯入れ、テーブルに持っていき腰を下ろす。

 

「全く。疲れるわ……」

 

 一口飲んでから、そう呟く。

 ここのところ精神的疲労は募るばかり。寝不足も祟って体のだるさも実感する。

 大きく伸びをしてから、柄にもなく床に寝そべる。普段は品行方正な彼女も、プライベートな空間では襟も緩むものかもしれない。

 すぐ側に置いていた荷物――本の入ったビニル袋――が不意に目に留まり、自然と手が伸びた。

 見られて、ないわよね……?

 中身を取り出し、点けた電気にかざしてみる。

 影になって暗くなった表紙には、彼女の変化をいかにも象徴するような題名が――。

 

「……ムカつくわね。あれもこれも、思惑通りな気がして」

 

 浮かび上がるのは、二人の少年の姿。

 一人は無機質な瞳と無感情な態度が表立ち、もう一人は覇気のない口調と性別に似合わない可憐な容姿をしている。彼らに共通しているのはどちらも底が知れず、幾度もこちらのパーソナルスペースに踏み込んでくるということ。

 ()()()()()はあるものの、今はそんなことに気を掛ける余裕はない。戦いは既に始まっている。自分のことを考えるべきだ。

 ただ、それでも、気苦労の中で頬を緩ませる何かがあって、

 

「本当に、疲れるんだから……」

 

 それに気付かないまま、堀北はゆっくりと目を閉じる。

 その口角には、彼女の感情を描く曲線が浮き出ていた。

 




話し合いの内容は原作と大差ないです。と言うのも、この回で伝えたかったことは別にあるので。
全部挙げると五個くらいあるんですけど、特にオリ主たち三人が周りに認知されていたことと、本作では二つの勉強会がちゃんとした連携の下で行われることの二つが伝わればいいかなと。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エンカウンター(前編)

多少強引ですけど、サブタイ通りここらで他クラスとの邂逅ラッシュと行きましょうか。
長いので前後編です。

「考えてみりゃ、出会いなんていい加減なもんだ。砂漠で別れた女にでくわすほど偶然に左右されるくせに、時にはゲームみてえにそいつの人生を変えちまう……」
(『ルパン三世』次元大介)


 メーデー、メーデー。

 誰か助けてはいただけないだろうか。

 今現在、目の前には一人で涙ぐんでいる女の子。クラスどころか学年も判別しようがないため、声の掛け方がわからない。

 ぼーっと突っ立っているだけだと非難の目に晒されかねないので、近くの水道で手を洗う動作をしておく。

 ジャー、ジャー、と。一定の速さで真下へと流れる一筋を、ボクはジーッと見つめる――わけでもなく、顔を明後日の方角へ向けながら、自分の小さな不運を呪う。

 一体全体、どうしてこんなことになってしまったんだか……。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 静寂が支配する部屋で、慎ましやかに響く音が、二つ。どちらも紙に作用が働いたことによって生まれているものだ。

 

「何を作っているんですか?」

 

 およそ一分刻みで片割れの音色を編み出していた少女が尋ねる。

 

「何だと思う?」

 

 もう片方の不規則な音波を生み出しているボクはそう返す。

 

「鶴、とか?」

「惜しい!」

「なら、烏?」

「それはなんかムズくない?」

 

 音源の一つであった本を読んでいた少女――椎名は栞を途中のページに挟んで閉じ、ボクの隣にグイッと身を寄せてきた。角度は違うが、何となく初対面の時の身を乗り出し気味だった彼女を思い出す。

 

「何だか不思議ですね。浅川君がそんなものを置いていただなんて」

「子供っぽいかい?」

「いえ、そうではなくて、この部屋はほとんど何もないじゃないですか」

 

 皆さんお察しであろう。ボクらが今過ごしているのはボク自身の部屋だ。

 先日のボクの提案に彼女は特に躊躇うことなく同意してくれた。それでいて今日の予定は綺麗さっぱりすっからかんだったので、ボッチ回避を試みた結果がこの状況である。

 さすがの椎名も、最初にこの部屋を見た時はポカンとした表情をしていた。一ヶ月経ったのにもかかわらず初期レイアウトのまま一つも変化のない部屋を見せられたら、本当に真面な生活をしているのか疑ってしまうのも無理はないだろう。

 

「大抵はなくて困らないからねえ」

「それもなくて困るものではないですよね?」

「これ?」

「これです」

 

 二人揃って指差したのは、ボクが音を響かせていた代物、またの名を『折り紙』と言う。

 

「紙ってすげえよな。最後まで用途たっぷりだもん」

「娯楽のために買ったんですか?」

「買ったよ、()()で」

 

 正確には折り紙として使っているわら半紙だ。恐らく授業でノートを取れるようにするための救済措置なのだろう。十五枚セットで売られていた。

 

「よっし、できた」

 

 山折り谷折り、色塗りまで終えて、ボクは完成品を彼女の前に掲げた。

 

「コケコッコー」

「鶏でしたか」

 

 さも当たり前のように納得する椎名だが……鶏折るの大分大変だったんだけど。

 

「どうしてよりにもよって鶏を?」

「ただ今絶賛干支生産中なんだよ。長い道のりだったが、これでようやく十個目だ」

 

 机の上には既に子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申までが、複雑に折られた真っ白な紙に淡い塗装を施されることで生み出され、並べられていた。

 

「全部この時間で作ったんですか。随分器用ですね」

「ネットで作り方ガン見してたけどね。ともあれ、これで少しは我が狐城にも遊び心が宿ったんじゃないかね?」

「ああ、それが目的だったんですね」

 

 このあまりに無機質な部屋にも、いい加減せめてもの「色合い」というやつを与えてやるべきだろう。今回の椎名の時のように、急な出来心で誰かを住処にあげることがあるかもしれない。ましてやそれがDクラスの人間なら、多少ポイントを消費しているような様子を示しておいた方がいい。

 ……まあそう思い立って始めたのが折り紙というのも、何だか陳腐な気はするが。

 そうだ。物を生み出すというこの感慨深い行為を、彼女にも体験してもらおうか。決して手作業に飽きたわけではないぞ。

 

「物は試しと言うが、やってみるかい? 次は戌だ」

 

 サッと袋から一枚取り出し椎名の前に差し出す。

 一瞬呆けた表情を見せる彼女だったが、まるで初めて紙に触れるかのようにゆっくり丁寧に受け取った。

 

「いいんですか? 自信はありませんけど……」

「歪な出来栄えもまた一興。ボクは猪をやるから、君の手際を見せてくれたまえよ」

 

 「とりあえずやってみますね」椎名は徐に端末を取り出し、サイトに載っている作り方を参考にしながら黙々と紙を折り始める。

 再び無言の時間、というのもさすがに面白くないので、世間話でもしてみようか。

 

「そういえば、中間テストまであと三週間を切ったけど、調子はどうなんだい? ――ちょっとここ押さえててもらえる?」

「えっと、待っててください。――ぼちぼちです。こまめに復習はしていたので、今のところ特に困っていることはありませんよ」

 

 「せんきゅ」彼女は見かけ通り、学力は申し分ないようだ。こまめな復習とか、絶対頭良い人じゃん。

 あ、ここ山折りじゃなくて谷折りだった。

 

「浅川君は?」

「無問題」

「やはり人は見かけによらないんですね。――ここってこれでいいんですかね?」

「うーんと、多分だいじょ――待って。見かけだとボクっておバカなの?」

「学力が高い、といった風には見られにくいと思いますよ」

「……マジかよ」

 

 まあこんな人となりだから、真面目に勉強をするようには見えないのかもしれない。何とも合点いかんが、致し方なし。

 ……痛え、足痺れてきた。椎名はよく正座のままでいられるな。茶道部は伊達じゃないってか。

 

「何なら教えてやろうかとも思っていたけど、進捗を聞く限り問題なさそうだなあ」

「勉強会でも考えていたんですか? どうせ教えるなら私よりもクラスメイトに教えるべきでは?」

「ちと訳ありでね。とんとん拍子に教師役はやれないんよ」

 

 入試成績や小テストの点数云々の話は説明が面倒くさいから割愛しておく。

 要は何が言いたいのかと言うと、

 

「それに、憧れるんだよ。仲良しどうし並んで勉強を教え合うって、何だか青春っぽくない?」

「中学校ではしなかったんですか?」

「……うちは、親が厳しくてね。そういう時間を他の子と一緒に共有するっていうのは、したことがなかったなあ」

 

 あまり気のいい話ではないが、もうそこまで引きずっていることではない。余計な嘘は吐かずに答えた。

 ……いや、少々緩み過ぎていたか。家庭事情を口走る必要はなかったな。

 

「ま、ラビットホーン、今しかできないと思うと好奇心は湧くものだよ。子供の特権だからね」

「確かに、大人になったらできないことですものね」

 

 そこで一旦話は途切れ、カサカサ、シャッ、カサカサ、シャ、と紙の擦れる音だけが鼓膜に響く。

 「あとどんくらい?」時計を見ながら尋ねる。まだ正午も回っていない。これ以上時間を潰せるものは、残念ながらもう室内には残っていない。

 

「もう少しです。浅川君は――浅川君ももうすぐですね」

「何だかんだ楽しかったろう?」

「偶にはいいかもしれませんね。紙ですし」

「え、そこ?」

 

 確か前にも言っていたな。電子書籍も便利だけど、やっぱり紙媒体の方がのめり込めるだとか何とか。

 人間何でもかんでもこだわりを共有できるわけじゃない、哀しいけど。ボクらがこうして折り紙を楽しんでいるのは、椎名は紙だから、ボクは童心をくすぐるからという、ただそれだけの違いだ。

 

「……よかったら」

 

 不意に椎名が手を止めた。反射的に彼女の方を向くが、彼女は俯いたまま、あとは色塗りを残すのみとなったであろう無色の造形を見つめている。

 

「よかったら、今度一緒に勉強しましょうか?」

「……あ、ああ、いいね。いいけど、キミは学力に問題はないんじゃなかったのかい?」

「はい。ですから、私も好奇心に委ねてみようかと。特権は有意義に使うべきですからね」

 

 なるほど、それもそうだ。一瞬気を遣わせてしまったかと思ったが、彼女の表情を見るにそういうわけでもなさそうだ。そもそも気遣いだったとして断るわけがないので、ありがたく乗らせてもらおう。

 

「じゃあ今度やろうぜえ。図書館――は駄目だったわ。やるとしたらこの部屋だなあ。変わり映えしなくて申し訳ないけど」

「いいですけど、どうして図書館は駄目なんですか? 一応ここ一週間あそこで会ってませんけど」

「ん、まあちょっとしたことだから気になさんなあ」

 

 理由は二つだ。一つは清隆たちについて。もし鈴音たちが勉強会をすることになった場合、恐らく開催場所は図書館になる。できればそんな形で遭遇したくはない。

 もう一つは――まあ今語ることでもないから追々だな。椎名にも今言うべきではない。()()()()()()()()、というやつだ。

 ただ、今日は少し、その事情とやらが変わってくる日ではある。

 

「よっしできた」

 

 話が一区切りついたところで、渾身の一作が遂に完成した。得意気に椎名に見せつける。

 

「ブヒブヒ、フガフガ」

「それ、豚じゃないですか?」

「え……いやほら、鳴き声似ているし」

「でも、そこはかとなく形も……」

「……あれだ、中国とか他の国だと豚で合ってるから」

「結局豚じゃないですか……」

 

 何が悲しくて猪のつもりだった力作を即豚認定されなければならん。苦し紛れの言い訳を再びする羽目になったではないか。

 

「椎名もできたかい?」

 

 「はい」彼女もボクと同じようにして、軽く仕上げた作品をボクに見せた。

 

「ワンワン、ですね」

「……やるやん」

 

 マジかコイツ。犬の全身を作り上げやがった。線の入れ方もなかなかに技巧的だ。ボクと同程度だったら揶揄ってやろうと思っていたが、これは……何も言えねえ。

 

「ありがとなあ。あとはこの精鋭たちを適当に飾ればコンプリートだ」

 

 とりあえず、当初の目的だったインテリア制作のご協力には感謝を述べておこう。親しき仲にも何とやらだ。

 机の上に乱雑に並べられた十二体を眺めてみる。こう、自分の手で生み出したものを一遍に視界に入れると、何だか眼福だな。特に鶏なんかは結構上手くできた気がする。主に鶏冠のあたりが。

 ――さて。

 これでもう本当にやることはなくなった。この時期の休日、まして連休はどうも手持無沙汰になりがちだ。折角だから、椎名ともう少し何かして過ごしたいものだが。

 ……ああ、一個あるじゃん。いいのが。

 

「椎名はこの後予定あるかい?」

「いえ、一日中空いていますよ」

「おお、よし来た。んじゃあ今から図書館にでも行くかあ」

「え、さっきの会話があって、そこに行くんですか?」

「平日でもないし、人も少ないだろうからなあ。お世話になった拠り所へ、心の里帰りをしたくてね」

 

 ゴールデンウィークもなんのその。図書館は今日も変わらず営業中だ。見事に『ボクら二人で足を運べる条件』が揃っていることだし行ってみよう。

 説明不足は百も承知。彼女の頭にはいくつかクエスチョンマークが浮かんでいることだろう。しかし、ボクには手に取るようにわかるぞ。その疑問を置き去りにしてしまう程に本の憑りつかれてしまうのは、読書家の性だ。

 

「相変わらず気分屋ですね」

「どんな逆風が来ようがお構いなしさあ。差し詰めボクは――」

 

 ボクは完成品の鶏を眼前に掲げ、力強く叫ぶ。

 

「ウィンドルックチキン!」

 

 ……あら不思議。密室だというのに、一陣の風が吹いた。なぜか櫛田の依頼を熟していたあの夜以上に寒い。

 要領を得なかったようで暫し首を傾げる椎名だったが、すぐに理解してくれたようだ。

 

「もしかして、『風見鶏』ですか?」

「ザッツライッ」

「……自分から日和見主義を名乗り上げますか? 普通」

「違う、それはこの国の政界の誰かさんのせいだ。元々風見鶏は勇敢だったんだぞ?」

 

 元来風見鶏は強い風にもめげずに悠然と立ち続ける姿から生まれた名だったはずだ。今では確固たる意志の持たないフラフラ人間を揶揄する言葉になってしまったけど。

 

「そうだったんですね。……待ってください。まさか、先程のラビットホーンって……」

 

 どうやらようやく彼女はとんでもない事実に気が付いたようだ。目を見開き言葉を失ってしまっている。何だ、スルーされたのかと思っていたけど、一応気になっていたのね。

 

「イエス。『兎に角』だ。あ、『兎も角』でも『兎角』でもいいか」

 

 今度は兎の形をした折り紙を手に取る。もしや干支だけで大抵の言葉網羅できるのでは? あ、無理だわ。猫は干支じゃないから手を借りられないや。

 

「さて、支度もあるだろうから、十分後にロビーで落ち合おうかあ」

「五分で大丈夫ですよ。確かいつもより閉館が少し早かったはずなので、急がないといけませんね」

「あ、そうだっけかあ」

 

 臨時営業といったところか。職員もこういう時くらい早く帰りたいもんな。

 それきり各々動き始め、男子故に準備するものが少なかったボクは、早速一階へ向かうことにした。

 ――一枚の荷物を携えて。

 

「え……浅川君、それを持っていく必要ありますか?」

 

 椎名の問いにボクは得意気に答えた。

 

「自信作なんだ。言ったろう? ボクはウィンドルックチキンだって」

 

 この時見せた彼女の苦笑いは、長らく脳裏に鮮明に残ることだろう。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 そんでもって取り挙げる事柄もなく図書館での読書タイムが始まり、何の気なしにトイレに向かう道すがら、この空間に遭遇してしまったというわけだ。

 ああ、どうしよう。泣いている女の子を素通りするのは忍びないが、急に声を掛けたところで向こうに怖がられたら、それはそれで旨い展開ではない。

 鶏さん鶏さん。どうかわたくしに天啓を授けては頂けませんでしょうか。お告げの書かれた紙が入っている卵とか産んでくれたら嬉しいです。

 ポケットにしまってある力作にピトッと触れるが、当然妙案が浮かぶことはない。くそ、実物だったら可能性はあったが、さすがに『紙』頼みでは休すだったか。

 ……よし、決めた。あと三十秒待って誰も駆け付けなかったら、恐れながらお声掛けさせてもらおうじゃないか。

 ――ジャバジャバジャバと、水を垂れ流したまま、無為な十秒が経過する。

 ――気まずさからくる心の騒めきを、ステンレスに落ちる水音に耳を傾けることで紛らわし、更に十秒が経過する。

 ……じゅーう、きゅーう、はーち、なーな、ろーく、ごーお。

 ……よーーーん、さーーーん、にーー……。

 

「大丈夫かい?」

 

 ええい、望み薄な援軍なんぞに期待できるか……!

 意味もなく自分の首を絞めることの面倒臭さに嫌気がさし、カウントダウンを打ち切って飛び出した。定番を地で行く妥当な第一声を掛ける。

 

「え!? あ、ええと、あの……」

 

 少女はビクッと反応した後、困惑の表情を浮かべ言葉に詰まってしまった。気持ちはわかるが、ボクだって一部始終を見ていたわけではないし、無策で踏み込んだ身であるからして、何の対処のしようもない。どうしたものか。

 やはり彼女の知人が到着するまでの見守り役に徹するべきだったかと後悔が過った――その時だった。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 ……あらやだ、イケメンじゃない。

 

 

 

 場所は移り、保健室。厳密に言えば保健室の前。と言うのも、保健室の担当がまさかまさかの星之宮さんだったために、発見し次第脱兎のごとく逃げ出してきたのだ。何だか酔ったような声音で「あれ? 浅川君だー」と口にしていた気もするが、メンターからの警告に素直に従うことにした。

 そういえば鈴音と言い合いになった時もこんな濃い茜の空だったなと、ぼんやり外を眺めていると、数分経って良き働きをしてくれた少年が部屋から出てきた。あの後少女の容態を確認し、保健室どうこう、保健医どうこうと動いてくれたのは全て彼だったのだ。お察しの通り、ボクは紛うことなき傍観者を決め込んでいた。

 

「いやはや助かったよ。キミが来なければ危うく変質者になるところだった」

「別に感謝されるようなことはしていない。気にするな」

 

 そう言って少年はボクの隣に腰を下ろす。

 

「にしても、何でこんな時間にあんなところに?」

「友達と図書館に。トイレへ行くところだったんだ」

「なるほど、それは災難だったな。態々気にかけてやってくれてありがとう」

 

 終始影のようにひっそりと佇んでいただけだったというのに、逆にボクの方が感謝されるとはな。この学校は顔も性格も良いやつで溢れているようだ。

 

「そういえば、キミはもしかして一年B組かい? 星之宮さんとやけに砕けたやり取りをしているようだったけど」

「ああ、自己紹介をしていなかったな。お前の言う通り俺はBクラスだ。名前は、神崎(かんざき)隆二(りゅうじ)だ」

「Dクラスの浅川恭介だ。よろしくなあ隆二」

 

 友好の証として握手を交わす。『Dクラス』という単語に対して特に侮蔑的な表情をしなかったし、気軽に接しても問題はなさそうだ。

 

「あの子は大丈夫そうかい?」

「軽い擦り傷だったらしい。騒ぎ立てる程のことでもなかったようで安心したよ」

 

 すると彼は、不思議そうな顔でボクの方を向いた。

 

「友達のところに戻らなくていいのか? こっちはもう心配する必要はないと思うが」

「あー確かに。でも、もちっと話したいからこのままで」

 

 たった一つ、気になることがあった故に飛び出た発言だったのだが、意図を測れなかった隆二は訝し気な顔をする。それを傍目にボクは端末を取り出し、念のため椎名に連絡を入れておくことにした。

 

「わり、用で遅れる」

 

 数秒で返信が届いた。

 

「どこですか?」

「保健室」

「今からそちらに行きますね」

 

 え、何で?

 

「え、何で?」

 

 頭の中で浮かんだ疑問をそのまま文面にするも、返信の来る気配はない。どうやらもう動き出してしまったようだ。

 

「……それでさあ隆二。さっきの女の子のことなんだけど」

 

 別に彼女を待ってから話を始める必要はないかと判断し、一先ず話題を持ちかける。

 多少真面目な話に切り替える自覚があったからか、少し視界に黒みが差したような気がした。

 

「どうかしたのか?」

「いや、大したことじゃないかもしんないけど――もしかしてあの子、何か『トラブル』に巻き込まれたんじゃないか?」

 

 ボクの推測に彼はあからさまに顔を強張らせた。およ、何か事情を知っているのか?

 

「どうしてそう思った?」

「だって、おかしな話じゃないかあ。軽い擦り傷でシクシク泣いてしまう程、ボクらはやわな齢じゃないだろう? だとすると、精神的に傷つくようなことでもあったんじゃないかなと思って」

 

 当然の疑問だ。いくらか弱い女子だったとしても、その程度のケガで涙を流すことはそうないはず。

 「言いたくないなら言わなくてもいいよ」と断ってはおいたが、隆二は答えるのを渋る素振りを見せた後、噤んでいた口を開いた。

 

「いや、手を貸してくれた恩もあるから、それくらいは話そう。実は、五月に入ってからのこの一週間で、他にもうちのクラスの生徒が数人、立て続けにトラブルに巻き込まれているんだ」

「ほう、それは穏やかじゃないねえ。その言い方だと、Bクラス側が進んで起こしているというわけではなさそうだなあ」

「勿論だ。寧ろ、相手の方が意図的に絡んできているんじゃないかと思っている」

「何故だい?」

「トラブルの相手が全て、同じクラスの生徒だったからだ」

 

 それは何とも奇妙な話だ。つまりはクラス抗争の構図が表面化した直後から、既に何らかの攻防、あるいは因縁が働いているということになる。

 そんな悪質なことをするクラスなんて、まあ、一つしかないか。

 

「Cクラスかい?」

「そうだ。よくわかったな」

「友達から聞いたんだ。Cクラスは如何せん、バイオレンスな集団だとね」

 

 うちのクラスの間でそういう話は聞かなかったし、一番上のAクラスが自ら他クラスにちょっかいをかけるようなマネはなかなかしないはずだ。

 

「全くはた迷惑な話だ。どうしてうちのクラスがこうも標的に……」

「それは、一つ上のクラスだからなんじゃないのか? 単純に妬みとか僻みが発端のちゃちなイタズラだと思うけど」

「……いや、その線は薄いと思っている」

 

 自分から口にしておいてなんだが、ボクも恐らく違うだろうと思っている。上位クラスの人間がどう思考するのかという好奇心からきた短絡的な発言だった。

 

「言い切るねえ。根拠はあるのかい?」

「明確なものはないが、違和感がある。――あのクラスが暴力的だということは、既に学年である程度知れ渡っている。クラス内で闘争が勃発したなんて話が出たくらいだからな」

「お若いねえ。随分と血の気が盛んなことで」

 

 クラスメイトどうしでそこまで過激な揉め事があったのは初耳だ。思いもしないところで情弱性を突き付けられる。

 ともあれ、Cクラスの様子は一応椎名から聞いていた評価と一致していた。

 

「だが、確かに浅川の言う通り、あまりにちゃちなんだ。予め聞いていたイメージと齟齬がある」

 

 隆二の見解は続く。

 

「これまでの嫌がらせはどれも先生や生徒会などの監視の目が薄い場所で起こっていた。にも関わらず、こちらが酷い傷を負ったことは一度もない。今回のように心を抉られることはあってもだ」

 

 人目に付かない場所、ということなのだろう。特別棟、寮の裏や付近、屋上……。今回は課外の校舎だった。

 

「それでも許せないことに変わりないが、どこか慎重に石橋を叩いて渡るような感じが、気味悪いな」

 

 目敏いことだ。普通クラスメイトを案じるに留まってしまうものだと思うが、彼は冷静に状況を分析している。

 

「そういえば、Aクラスには何にもしていないというのも、ただ単に逆恨みだと捉えようとすると矛盾するなあ」

「そうだな。加えて、絡んできた生徒たちからはっきりとした悪意が感じられなかった、と言っているやつもいた」

「本心からの行為じゃなかったってことかい?」

 

 不可解な情報が連続する。

 不気味さを演出するように、飛翔するカラスの影がボクらの体を通過した。鳴き声は聞こえない。

 

「キミはその事実から、一体どんな結論を導き出した?」

「……わからない。わからないが、もしかしたらCクラスは、まだ俺たちには見えていない何らかの思惑があってそうしている。そんな気がするんだ」

 

 ふむ、どうやらあと一歩といったところのようだ。

 

「今はまだ、情報が少なすぎるってとこかあ」

「ああ。だが、いかなる理由があろうと、やはり他人を執拗に追い詰めるような行為を認めることはできない。こういうことが起こる度、腸が煮えかえる思いになる」

「同感だなあ。さすがのボクも……」

 

 聞きたいことも聞けた。これ以上の収穫を期待することはできないだろう。

 BクラスとCクラスの間で起こっているいざこざ。これは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()かもしれない。

 本題は済んだ。ここから先は普段通りのコミカルトーンに戻るとしようじゃないか。

 ボクは、ポケットの中の『秘密兵器』を素早く取り出した。

 

「チキンクラウンにカムバーック!」

「――鶏冠に来た、ですね」

 

 ボクの力強い声に隆二は瞠目したが、続いて響いたソプラノ声に、今度は二人揃って目を剥き、ボクの背後を見る。

 

「持ってきて正解でしたね、それ」

「……クックドゥードゥルドゥー」

 

 あたぼーよ。ここぞという時、『神』なんて『紙』程役には立たないんだから。

 

 

 

 現在の状況をわかりやすく説明しよう。

 ボクは不思議な因果によって謎のクールイケメンこと神崎隆二と邂逅。二人仲良く向き合い『世間話』をしていた。

 しかし、そこに漂っていた空気は不意に姿を現した美少女、椎名ひよりによって動揺する。

 結果、ボクを挟んで初対面の少女を呆然と見つめる隆二、ボクの背後を取り何の意図もなさげに声を掛けた椎名、そして――

 

「いつまでそのポーズで固まっているんですか?」

 

 一片の光もない真っ黒な目をした鶏の紙を、おでこの前に掲げたままフリーズしているわたくし、浅川恭介という奇妙な構図が生まれてしまった。

 

「鶏のマネ?」

「いや、鶏って気性が荒いんじゃなかったか?」

「いえ、多分茶色い鶏のことを言っているんだと思います」

 

 椎名よ。何だかんだでボクのことをわかり始めてきたじゃないか。清隆にも匹敵する理解度だ。

 

「浅川、彼女がお前の言っていた友達か?」

「うん、そうだよ」

 

 椎名に自己紹介してもらうよう目線を送ると、彼女はコクリと頷いた。

 

「Cクラスの椎名ひよりと言います」

「……っ、Bクラスの神崎隆二だ」

 

 (ぎょ)っ、そうだった。

 ボクはそっと隆二に耳打ちする。

 

「Cクラスにも一応心優しい人はいるんだ。一ヶ月関わって来たボクが保証する」

 

 彼は反応こそ示さなかったものの、実際ボクと椎名が柄の悪い付き合いをしている人には見えなかったからだろう。警戒を解き、さっきまでの態度に戻ってくれた。

 

「それで、浅川君」

「何だい? と言うかそもそもキミ、どうして態々こっちにまで駆けつけてきたんだ?」

「え、私はあなたがケガでもしたのかと思って、念のため足を運んだんですけど……」

「……なーるほどねえ。心配かけてごめんなあ」

 

 簡潔な文面が裏目に出た。確かに保健室にいるという情報だけではそう捉えるのが普通か。素直に謝っておこう。

 そのあと、ボクは図書館を出てから起こったことを彼女に説明した。

 

「そんなことがあったんですね。軽傷と聞いて安心しました」

 

 因みに、Cクラスが主導だという話は意図的に省いた。クラス抗争に興味がなく、そういう行為を好まない彼女に必要以上のことを話さなくてもいいだろう。無駄に気負いさせてしまうかもしれないしな。

 

「でも、どうしてこの時間帯にそんな場所に?」

「部活が終わった後だったらしい」

 

 隆二が答えた。

 今は午後二時。部活後や昼食後の生徒が多いこの時間帯なら、他に生徒がうろついていても不自然ではない。

 

「そういえば、二人はどうして今日図書館になんて行っていたんだ。テスト勉強でもするつもりだったのか?」

「ボクがそんな真面目ちゃんに見えるかい?」

「……ああ、人の話は真摯に聞いてくれるな。さっきみたいに」

「おい何だよ今の間は」  

 

 変にはぐらかしたろう。一瞬彼の脳内で良いとこ探しが行われていたようだった。

 だがまあ、彼の疑問は頓珍漢でもないか。同じクラスでもない異性の二人組が祝日に学校の図書館を利用するなど、『良い雰囲気』というやつを勘繰る人もいるだろう。

 だから、ボクらがある種の例外だということは否定しない。

 

「ただの気まぐれだなあ。お互いそこまで顔も広くないし、偶々予定が空いていて、図書館も偶々開いていた。それだけ」

「そうか。気持ちはわからなくもない。俺もあまり人付き合いが得意ではないからな。クラス全体の仲が良いおかげで、上手くコミュニケーションは取れているが」

 

 第一印象に違わず、隆二もこちら側の人間だったようだ。雰囲気がどこか清隆に似ている感じがしたから、彼ほどではなくとも会話下手なのだろうとは思っていた。

 ――ん、待てよ?

 友達が少ない。温厚篤実。他クラスどうし。

 三拍子揃っている。彼は『適格者』だ。

 

「隆二。キミ、本は好きかい?」

「え、ああ、偶には読むけど」

 

 何の脈略もない問いに隆二は動揺しながらも答える。

 ボクは次に――椎名の方を見た。彼女もボクが何を考えているのかわからず可愛らしく小首を傾げていた。

 ボクは自分のヒラメキの赴くままに、言葉を紡いだ。

 

「ならさ、これからもこうして皆で会おうじゃないかあ。幸いにもボクら三人、そこまで相性は悪くなさそうだ」

 

 ボク自身いい加減椎名以外にも他クラスと関わりを持っておきたいと思っていた。それも、クラス対抗関係無し、打算無しの友人関係を。

 正直今となっては諦めざるを得ないかとも感じていたが、彼ならあるいは見込みがあるかもしれない。

 隆二は恐らくボクや清隆と似た状況だし、椎名も本を語れる友達が増える。オールハッピーだね。

 

「私は構いませんよ? 本が好きな人に悪い人はいませんから」

「え、何その偏見」

 

 そういうものなのか? 絶対的信頼の域を超えているような気もするけど、ボクの望んでいた肯定的な反応だったし目を瞑っておくか。

 

「それは、友達になろう、ということか?」

「え、ボクらまだ友達じゃなかったの?」

 

 三秒目を合わせて話せたらうんたらかんたらと聞いたことはあるが、そこまででなくともこれだけ話せば十分仲良し扱いでいいと思うのだけど。

 

「他愛もない時間の共有者だよ。今日のボクと椎名のように、暇だなあ、退屈だなあって時に何となく会うのさあ。キミも一人の時間を持て余すなんて経験、したことあるだろう? ――最近じゃ中間テストの勉強でもしようかって二人で話していたから、良ければご一緒してみないかい?」

 

 隆二は、まだ悩んでいる様子だった。あまりに急な提案だったのだから無理もない。それに、見た目に反してクラスの幹事でも勤めていた場合、こういう関わりは仲間に不審に思われてしまうことだろう。

 そういった意見に対する反論は一応考え済みではあるのだが。

 

「俺は……少し考える時間をくれ。一之瀬にも相談しておきたいからな」

「一之瀬? もしかして、生徒会にキョーミのある女の子かい?」

「そうだ。知り合いなのか?」

「いや、偶然耳にする機会があったんだ。その言い草だと、クラスで委員長の立ち回りでもしているようだねえ」

 

 隆二は無言の肯定を示した。

 一年の時点で生徒会を意識するだけのことはある。クラス全体が仲良しとも言っていたし、そんな集団を引っ張っている人材は重宝されることだろう。

 

「それじゃ、ボクらはそろそろお暇しますかねえ。ほい、コレ連絡先。気が向いた時にいつでもどうぞ」

「ぜひまた会いましょう。神崎君」

 

 これで話は十分だ。もうここに用はない。

 ボクは立ち上がり、椎名と共に隆二に背を向ける。

 しかし彼はそれを呼び止めた。「浅川」

 

「何だい?」

「お前たちがクラス抗争に興味がないのは察した。だが、他の生徒がピリピリしている中、どうしてそんなにも柵なく一緒にいられる?」

 

 その問いに、ボクと椎名は顔を見合わせた。彼女も同じ意見だったようで、優しく微笑む。

 ボクはゆっくりと振り返り、隆二に柔らかな視線を送った。

 

「答えはシンプルさ。それが僕らにとって幸せだからだよ」

 

 堂々と答えてやると、彼はフッと笑い、満足そうに「そうか」と呟いた。

 どうやら納得のいく回答だったみたいだ。彼はそれきり再び保健室の中へと戻っていき、間もなく星之宮さんと会話する声が聞こえてくる。

 

「戻ろうか」

「はい」

 

 短いやり取りをし、ボクらは並んで元来た道を歩き始めた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「思わぬ幸運でしたね」

 

 図書館の入り口が見えてきたあたりで、椎名が口を開いた。

 

「確かに。やっぱ偶には、こうして外に出てみるもんだなあ」

 

 気まぐれが導いた出会いだった。もし隆二が加わってくれれば、それだけでも小グループって感じがして大分賑やかになるだろう。

 

「これはまさしく――」

 

 急に彼女はごそごそとバッグを漁り、見覚えのある()()を取り出した。

 

「犬も歩けば棒に当たる、ですね」

「それは災難を表す言葉じゃないのかい?」

「幸福を表す意味もちゃんとあるんですよ」

 

 ほう、それは知らなかった。また一つ教養が身に付いたな。当たった棒に好きな物が入っていることもある、ということなのだろうか。

 

「キミも持ってきていたんだな、それ」

「自信作なので」

 

 思い出の詰まった御守りのようなものか。

 それはまたいいものを与えてやれたなと独りでに満足しつつ、図書館の中へ入る。

 ――ん? 何だか話し声がする。

 

「誰かいるんでしょうか?」

「今日は出会い運がいいのかもしれん」

 

 自分たちが元々座っていた席に向かうと、

 

「おや?」

 

 お相手さんと近い机だったようだ。意外にも向こうから声を掛けられる。

 

「どうやら先客がいたようですね」

 

 数は四人。どことなくただの仲良しグループとは違った雰囲気を感じた。それもそうだろう。何故なら他の三人はまるで女王に従う騎士であるかのように、声を出した少女を囲んで構えていたのだから。

 件の彼女は、雪のように幻想的な色をした髪とその上に被せた小綺麗な帽子、そして横に立てかけられていた杖が印象的だった。

 何より、女子とは言えど高校生にしては明らかに低い背丈。例えばこの場に六助がいたら、きっと彼女をこう呼ぶだろう。

 

「リトルガール?」

「……今、何と?」

 

 ……オイオイ、青筋が目立つくらいに透き通った肌なんて、全く美しいにも程があるぜ。

 




改めて伝えると、オリ主は現在純粋に友達との愉快な高校生活を望んでいます。クラス抗争関連の戦略とか計画とかは全く考えないようにしています。クラス抗争関連だけは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エンカウンター(後編)

そういえば坂柳たち四人の口調とか態度とか、アニメ勢だからあまりよく知らないんだった……。特に鬼頭なんてからっきしですもん。このキャラはこんなやつじゃねえわ!ってところがあったらご指摘お願いします。


 『運命の出会い』、という言葉がある。誰もが一度は聞いたことがあるであろうそれは、『運命のイタズラ』という名前の方が聞き馴染みのある人がいるかもしれない。

 タイミングだけではなく、人や物の縁までありとあらゆる偶然が導く非科学的な現象。

 ボクで言うなら、清隆と鈴音、椎名が対象だ。運命論者にでも転身すれば、健、沖谷、愛理もそうかもしれない。

 ただ、忘れてはならない。それは必ずしも青い鳥のように幸せを運ぶわけではなく、時にこめかみを意地悪く打ち付けられるような、最悪のサプライズになることもあるのだということを。

 例えば、そう――。

 今まさに、ボクの身に降りかかった恐ろしい奇跡なんかが値するだろう。

 

 

 

 『リトルガール』。

 何の変哲もないその単語に、一体誰が憤慨すると想像できよう。

 別にボクはノロマだのマヌケだのと罵られても構わないし、タイムリーな小テスト0点事件のことを揶揄われてもどこ吹く風だ。

 だからこそ、今目の前でコワーイ笑みを浮かべている彼女は間違いなく、ボクの思う中で限りなく少数派なのだ。

 故に、ボクは全く以て悪くない。

 だから、決して謝ろうなんて思わない。

 ……ホント、何で謝るべきムードが出来上がっているのか、訳が分からない。

 

「今、私のことを何と呼びましたか?」

「利口ガール」

「嘘ですよね」

「理取るガール」

「嘘ですよね」

 

 クソッタレが……!

 二つ目に関しては発音まで間違っていなかったと言うのに、何故気付けた。コイツ絶対に全てわかった上でボクにもう一度呼ばせようとしているだろう。ドSここに極まれり。

 いや、怒りの琴線に触れるようなことを何度も言わせるのは、いっそドМなんじゃないか? 上等だねえ。

 兎にも角にも、彼女に会話の主導権を握らせてはいけない。手綱を委ねてしまったら最後、ボクは極めて合点のいかん目に遭うことになる気がする。

 

「そ、それにしても――その杖とベレー帽、センスがいいな! 君の魅力を引き立てるのにぴったりだぜ」

「露骨に話を逸らさないでください」

「……特にそのベレー帽! 被っているのは、日本での印象通り画家でも意識しているのか? それとも起源通り日よけか風よけ?」

「日本語通じてます?」

「……後ろの三人は友達か? 随分と品が良さそうだな! ぜひ僕もお近づきになりたいもんだ」

「最初に質問したのは私なのですが……」

 

 何故だ。今までのように流されてくれない。

 こういう時に頼るべきなのは友だ。ボクは椎名に望みを掛ける。

 

「椎名、もうじき閉館の時間だな。とっとと身支度を済ませて帰るか」

「まだあと一時間は開いていますよ?」

「……職員もいい加減楽をしたいはず」

「さっきカウンターで爆睡していました」

「職務怠慢!?」

 

 助け舟を求める相手を完全に間違えた。身内に追い詰められるなんて最悪な気分だよ。

 四面楚歌のこの状況、万事休すか。これ以上抗う方が面倒臭そう。ボクのプライドなんて所詮は紙一枚の代物さ。

 

「……不快にさせたならすまん。悪気はなかったんだ。ここでは見たことないような可愛らしい背丈だったから、思わず口に出しちまった」

「別に怒ってはいませんよ。悪意はなかったようですし」

 

 嘘つけぶち切れてたやん。

 

「ほら。大人しく白状してやったんだから、君も僕の質問に答えてくれよ」

「あれはただの虚しい抵抗だったのでは?」

「折角だからいいじゃねえか。まあ少しはマシな内容に変えるけど」

 

 無慈悲に謝罪だけさせられて終わりなのは合点いかん。向こうから接してきたのだからこれくらいしてもらってもよかろう。

 

「それじゃあまず、君らも僕らと同じ一年生?」

「はい、その通りです」

「ならこの話し方のままで行かせてもらうわ。その杖は……」

「くれぐれもファッションなどではありませんよ?」

「わかってるって。持病か何かか?」

「はい。先天性心疾患を患っています。おかげで一人で歩くのも一苦労です」

 

 「そっか」声音を変えることも、慰めや憐みの言葉を掛けることもしない。必要以上の気遣いはかえって相手を不快にし得る。彼女はそっちの部類だろうと判断した。

 

「すると後ろの三人は、ヘルパーさん?」

「そういうわけでは。三人は……真澄さん、あなたは私にとって何なのでしょう?」

「え、私に聞かないでよ」

「ふむ……『お友達』ですね」

 

 ……ボクは見逃さないからな。『お友達』というワードで後ろの少女がこの世の終わりを見たような顔になったのを。よくもそんなしっくりきたと言わんばかりな笑顔で応えられたものだ。

 ボクは『お友達』と称された三人を見る。まだリトルガールとしか真面な会話をしていないが、この三人とも会話をしてみようか。

 まずは手前の飄々とした容姿の少年に声を掛けてみよう。同性だしコミュ力も高そうだ。

 

「よう」

「ん、俺か? 何だ」

「おう、君だ。君は……あれだ、その……金髪似合ってんな! カッコイイよ」

「……お、おう、サンキュー」

 

 ちょっと待って。仕切り直しさせて。

 今のは絶対にボクが悪い。無策に話しかけて絞り出した言葉が金髪イジリはさすがに酷い。

 標的変更。今度は後ろに隠れてしまっている根暗そうな少年に声を掛ける。

 

「き、君!」

 

 どうやら彼は見た目通り人見知りなようだ。無言で会釈を返してきた。

 

「君は……あれだ、その……長い髪だな! 切ったらどう?」

「……お前に言われたくない」

「……ハハッ! 確かに」

「髪しか見てねえのな」

 

 違う、髪しか話を広げるタネが浮かばないだけだ。

 少年二人から一遍にツッコミを受けてしまった。仕方がない、最後の一人に望みを掛けるか。

 今度は「真澄」と呼ばれていた少女の方を向いた。

 

「何?」

 

 不意に、先の苦労人さながらな表情が思い起こされた。

 

「君は……うん、あっはは」

「何で私だけ同情の目を向けられたの?」

 

 ボクはこの四人と絶望的に相性が悪いのかもしれない。

 ここまで会話に難儀を感じたのは高校ではおろか人生で初めてだ。

 困ったなと頭を抱えていると、四人が囲む机の上に置かれている物が目に留まった。

 

「それは……」

「『チェス』に興味がおありですか?」

「へえ! これがチェスってやつか。随分とシンプルな幾何学模様だな」

 

 ボードゲームは明るくないが、いつぞや見たオセロの盤とそっくりだな。

 興味深々といった風を醸し出し、椎名を連れてチェス盤に近づいていく。

 

「名案を思い付いたぜ! いっちょこれで語り合おうじゃねえか」

「チェスでですか?」

「駒を取る毎に質問をするんだ。互いのことを知るいいきっかけになるだろ?」

 

 一期一会という言葉がある。隆二との一件があった故、今日は自分の運勢に身を任せて人と関わってみたい気分だ。

 

「いいのですか? さっきの発言からして、経験はほぼ皆無のようですけど」

「ルールだけは把握している。何とかなるって」

 

 少女は軽く思案する素振りを見せた後頷いた。

 

「確かに、一方的な質疑応答というのもぞっとしませんからね」

「お、乗り気だねえ。問答合戦と行こう」

 

 交流を図るならその方が適しているだろう。できれば少女の取り巻きも椎名も参加して欲しいものだが。

 しかし、彼女は「ただし」と付け加えた。

 

「何か賭けるものがないと面白くありませんよね」

「つまり……?」

「負けた方が勝った方に一つ、何でも言うことを聞くというのはどうでしょう?」

「……そいつは魅力的だな。――だってよ椎名、どうする?」

 

 思いもよらない提案をされたボクは、逃げるように椎名に顔を向ける。

 

「え、どうして私に振るんですか」

「あ? ボク負けて言うこと聞くの苦手だし。キミに任せたいなって」

「私だって嫌ですよ。それに、言い出しっぺだったのは浅川君じゃないですか」

「こうなるなんて思わなかったんだ。同性で話を弾ませるチャンスを与えてやるってのに無下にする気か?」

「もっといい条件であれば乗りましたけど、お断りします」

 

 こうなってしまったらもう何を言っても無駄だろう。

 ボクは渋った表情をしつつ目の前の少女に向き直った。

 

「……しゃあねえな。だが、君のルールだけを通すのも不公平だ。僕からはいくつか条件を提示させてもらう」

 

 そう言ってボクは左手の指を立てた。

 

「一つ、内容はその場で明確に定めなければならない。

 二つ、あまりに道徳的でないと判断されれば内容を変えてもらうことは許される。

 三つ、このゲーム全体の参加者はこの場に居合わせた者に限る。

 これでどうだ?」

「二つ目の条件が疑問ですね。それでは罰ゲームの趣旨から逸れませんか?」

「そんなことはない。この場には裁定者が四人もいるんだぜ? 第三者に判定してもらった方がいいだろ。そこの三人が君に偏った采配をする程酷い人間には見えないしな」

「それもそうですね。では、三つ目の条件の必要性は?」

「別にあったっていいだろ? 君は椎名に命令してもいいし、僕は君以外の三人に命令してもいい。二つ目の条件のおかげで、誰かがとばっちりで理不尽な目に遭うなんてことも起きない」

 

 尤も、この少女はボクにしか命令しないのだろうけど。

 

「……わかりました。それでいきましょう」

「質問には正直に答えろよ?」

「勿論です」

 

 ボクと椎名は並んで彼女の向かいに座り、三人で盤を整え指定の位置に駒を並べた。

 途中で椎名がボクの肩をツンツンとつつく。

 彼女の方を向くと、かなり不服そうな表情をしていた。小声で訴えかけてくる。

 

「……()()()()()()()()()()()()()?」

「そうしてくれるとありがたい」

 

 ボクの肯定に彼女は渋々といった様子で理解を示してくれた。

 悪いね。ボクだってちょっとくすぐったいと感じているんだ。辛抱しておくれ。

 

「先攻はお譲りしますよ」

 

 にこやかに有栖が言った。確か先手側が有利と聞いたことがあるが……。

 

「余程自信があんだな。お言葉に甘えさせてもらうけどよ」

 

 強者の余裕というやつか。おお恐い。やはり相性が悪い相手なのかもしれないな。 

 

「お手柔らかに頼むぜ。えーっと……」

「ふふっ、自己紹介がまだでしたね。私は坂柳(さかやなぎ)有栖(ありす)。Aクラスです」

「浅川恭介、Dクラス。よろしくな、有栖」

 

 最高位とド底辺。あまりにミスマッチな対戦表だ。

 正直勝負は目に見えているが、できるだけ質問できるように相手の駒を倒すことだけにこだわろうか。

 こうして、ポケットの中に収まってしまうような小さな戦争が幕を開けた。

 ……椎名、「名前呼び……」と名残惜しそうに呟くんじゃない。

 

 

 

「――あーっと、まずはコレだ」

 

 右から二番めのポーンを二つ前に進める。

 有栖はそれに応えるように無言で自分の駒を動かす。

 

「次はー、コレ」

「適当に動かしていませんか?」

「そりゃな。何がいい手かなんてわかんねえし」

 

 二ターン目が過ぎる。

 

「それに、今はまだそこまで悩むことでもないんじゃねえの? 知らんけど」

 

 キングサイドのビショップを右上の限界まで運ぶ。

 相手は別のポーンを進軍させた。

 ボクはキングを二つ右へ、キングサイドのルークを二つ左へ移動させた。

 

「キャスリングですか。一応ご存じなようですね」

「初心者あるあるってやつだな。特殊行動にはついつい手を出したくなっちまう」

「ですが有効にはなり得ますよ。一概に侮れる一手ではありません」

 

 そう言いつつも有栖は何食わぬ顔でナイトを前に進めた。恐らく自分の型が出来上がっているのだろう。

 

「よし。早速一つ目だ」

 

 ボクは躊躇うことなく黒のポーンをどかし、そこに白のポーンを置いた。

 

「三人の名前を教えてくれ」

「そんなことでいいのですか?」

「初回なんてそんなもんだろ」

 

 彼女は一人ずつ指しながら答えた。五本指全て伸ばして指しているあたり、椎名以上に丁寧な敬語を踏まえるとやはり育ちがいいのかもしれない。

 

「サイドテールの彼女が神室(かむろ)真澄(ますみ)さん。金髪の彼が橋本(はしもと)正義(まさよし)君で、髪を切った方が良さそうな彼が鬼頭(きとう)(はやと)君です」

「……ユニークな回答をどうも」

 

 有栖はクスリと笑った。良い性格をしているなホント。決して髪フェチなどではないのだけど。

 

「では、次は私から」

 

 ボクと同じようにして、有栖が白のポーンを倒した。

 

「お連れの方について教えてください」

「Cクラスの椎名ひよりと言います。趣味は読書です」

 

 椎名が自ら回答して応じた。

 

「違うクラスだったんですね。どのような経緯で知り合ったのですか?」

「質問は一つずつだろ?」

 

 「ふふっ、そうでした」楽しそうに笑う有栖を傍目にしながら、ボクは駒を動かした。

 数手経ち、今度は再びボクが質問の権利を得た。

 

「椎名。キミは何か聞くか?」

「いいんですか?」

「いいのが浮かばなかったからキミに譲ってやるよ」

 

 やれやれといった顔で彼女は了承した。小さな気遣いだということくらいバレてしまうか。

 

「四人の中で本が好きな人いますか?」

「私は偶に嗜む程度には読みますね。日によっては真澄さんにも付き添ってもらって一緒に過ごします」

「彼女は嫌がったりしねぇんだな。あんまし読書と縁のあるようには見えねえけど」

「満更でもなさそうにしていますよ」

「なるほど、素直になれないってわけだ」

「私に対する認識おかしくない?」

 

 所謂『ツンデレ』というやつなのだろう。普段は嫌そうなツラをしておいていざその時には少し嬉しそうに口元を緩ませる。俗に言う『ギャップ萌え』の一種だ。

 

「同性で二人も同志が見つかってよかったな」

「はい。これからも仲良くできたら嬉しいです」

 

 若干目を輝かせる椎名を微笑ましく見つめ、ボクはすぐに盤上へと意識を戻した。

 続けてもう一つ相手の駒を取り質問を重ねた。

 

「それぞれの出会いは? ――あー、どう思っているかでも構わねえぜ」

「随分と利益のないことを尋ねるのですね」

「初対面の子と仲良くなろうとする心意気はそんなにも無価値か?」

 

 有栖は肯定も否定もせずうっすらと笑みを浮かべる。思わず言い返してしまったが、今のは()()()()()()な。

 

「……真澄さんは、私のお気に入りです。手癖の悪いところもありますが、そこもまた可愛らしいんですよ」

「へえ、愛されてんねえ」

 

 チラッと真澄の方を一瞥すると、彼女は怪訝な表情でこちらの方を見つめていた。滅茶苦茶不服そうだけど、ボクには勿論有栖にもあまり親しみを覚えていないみたいだ。

 

「君は有栖のことをどう思ってる?」

「質問は一つずつじゃないの?」

「誰が誰をどう思っているのかを聞きたいか、明言した覚えはねえぞ」

 

 甘いな。口先だけの勝負でボクが遅れを取るわけなかろう。

 彼女はわざとらしく溜息を吐いてから答えた。

 

「……ちょっと事情があって、泣く泣く一緒にいるの」

「そうか」

「聞いてきた割には追及しないんだね」

「僕の質問は出会いか印象かのどちらかだけだ。何より、今掘り下げようとしても君がいい思いをしないだろ」

「変なとこで律儀なんだ……」

 

 弱みか何かを握られているのだろうというところまでは予想できるが、そこまでだ。どんなものだったのか、彼女自身が有栖のことを本当はどう思っているのか。無理矢理答えてもらうマネはできない。

 

「橋本は?」

「俺は坂柳を信じているからこうしてるんだ」

「お、言い切るねえ」

 

 短い回答からは何だか大事な内容を隠しているように感じられた。あまり『信じる』という言葉が似合わなそうな男に見えるが、純粋な信頼だったら申し訳ないな。清隆が口にした方が鵜呑みにできそうなのが正直なところだが、親交の深さの問題だろうか。

 

「鬼頭は?」

「俺は……自分にできるやり方で坂柳を支える。それだけだ」

「ハハッ! 見上げた忠誠心だ」

 

 今時一高校生が異性の高校生にここまで信頼を寄せる趣旨の言葉を発するだろうか。ますます橋本の『信じる』が疑わしくなってきた。……ごめんな橋本。

 とは言え、一通り話を伺って感じたことは一つだ。

 

「何だかんだで団結力はありそうだな」

「何だかんだと言ってしまったら失礼なのでは?」

「自分のクラスを見た上でそう言えんのか?」

「……仲は良さそうですね」

 

 彼女がCクラスだったからこそできた論破かもしれない。結果オーライだ。

 まあ仲良しと言ってもDクラスの南東トリオ程じゃないけどね。あ、Bクラスの方が雰囲気良いのかな。気が向いたら今度見に行ってみるのもいいかしら。

 

「私の番ですね」

 

 有栖がボクの駒を取った。これで二つ目か。

 

「お二人はどういったご関係で?」

「ただの友達です」

「この手のことについてはいつも食い気味に否定するよなキミ」

 

 もしかして思っていたより好感度低い? だとしたら悲しい。

 

「浅川君だと余計な冗談であらぬ誤解を招きかねないので」

「まるでボクがホラ吹きかのような言い回しをしないでくれよ」

「見えますけど?」

「バレやすい嘘も得意ですよね」

「なあ、面と向かって言うなら否定できる悪口にしてくれる?」

 

 キミら二人からボクがどう映っているのか、未体験な不安を覚えたんだけど。

 いや、椎名の場合は冗談と嘘の境界線を朧気ながら理解しているだけマシか。

 

「にしても、有栖も結局生産性のないことを聞いてきたじゃねえか」

「『仲良し』になりたいのでしょう? ならば私も興味本位な質問をしてみようかと」

 

 殊勝な心掛けだな。しかし――程々にしてほしい、というのは過ぎた願いだろうか。

 

「もう少し、あなたのことを聞いてみましょうか」

 

 獰猛な笑みを浮かべてクイーンを持つな。本当に嫌な予感がする。

 

 

 

 

「……なあ有栖」

「何でしょう」

「君、よく強いって言われね?」

 

 数十分後。

 ボクの駒の数は見事に半分を下っていた。

 「多少の自負はありますよ」と答えた有栖だが、時に弄び時に怒涛の強襲を仕掛ける彼女のプレイングはまさしく猛者のそれだ。

 

「お手柔らかにと言ったのを忘れたのか?」

「それはただの社交辞令でしょう」

「決めつけはよくねえな。僕は本心で口にしたってのに」

 

 一方的な質疑応答は面白くないって言ったのは誰だよ。あと問答合戦だとか言ってたやつ。

 

「――ここは名高い進学校ですが、あなたはどこからやってきたのですか?」

「練馬」

「微妙に距離がありますね。――この学校へ来た動機は?」

「一番は進学率と就職率だな」

「なら残念ですね。Aクラスを目指して頑張ってください」

 

 さっきからずっと矢継ぎ早な質問攻めを浴びている。

 このままだとボクの情報があんなことやこんなことまで丸裸にされてしまう。勘弁してくれよ。

 

「僕と仲良くする気ないだろ?」

「そんなことはありませんよ。こんなにも積極的にお尋ねしているではありませんか」

「相手が知られることに及び腰なのをわかった上で執拗に聞き出すことを仲良しとは言わねえんだがな」

 

 念のため弁明すると鈴音の件は別だ。彼女のことを知ろうとしたのは一定の段階を踏んで最低限の理解がされていたからだ。こんな初対面からガッツリ内面を土足で荒らされて、許容できる心の広さを持っている人はそういないだろう。

 すると、有栖は顎に手を当て何かを考える素振りを見せた。

 

「そうですか。では――」

 

 ボクの駒がまた一つ失われた、その時――空気が揺れた。

 

「少し遠回りをしてみましょう」

 

 ボクは息を呑み、冷や汗を掻く。

 一体どんな質問がとんでくるのだろう。

 

「Dクラスは、小テストで何人か赤点候補者が出ていたそうですね。中間テストはどのようにして乗り越えるおつもりですか?」

「……!」

 

 驚愕と困惑の表情を浮かべる。

 

「きゅ、急に質問の流れを変えてきたな」

 

 予想していなかったわけではない。他クラスどうしで嘘を許さない質問のチャンス。情報を得ようとすることは寧ろ当然と言える。

 故に……故に――。

 

「……予見されていたのではないですか?」

「予見? あ、ああ、まあ考えてなくはなかったわ、うん」

 

 ()()()()()()()

 

「詳しいことは聞いてねえけど、残り二週間になったら勉強会を始めるっぽい。あ、予備軍たちはまた別で開催するかもって言っていたな」

 

 ボクの回答に、有栖は懐疑的な眼差しを向ける。

 

「本当に詳しくは知らないんですね?」

「僕をクラスのリーダーか何かと勘違いしているようなら悪いけど、そんな大それた人材じゃないぜ。それに、予め言ってたはずだ。嘘偽りなく答えるってな」

「……そうでしたね。ですが、私が聞きたいのはあなたのことですよ。浅川君」

「どういうことだ?」

「あなた自身はどうするおつもりなのですか?」

 

 先程ボクがしたのと同じことだ。自分はボク個人のことを聞いているのだからクラスのことを知っても質問はできるのだと。

 

「個別で勉強するよ。ちょうど椎名とも一緒に勉強する算段を立てようと話しているんだ。あ、有栖も一緒にどうだ? 両手に花でやる勉強会って楽しそうだ」

「折角ですけど遠慮しておきます。先約があるので」

「マジかよー。残念だなぁ」

 

 見定めるような有栖の瞳に、ボクは目を逸らす。

 彼女はゆっくりと盤面に手を伸ばし、ついにボクのクイーンを下した。

 

「チェック」

 

 無音の空間に響いた澄んだ声。残る駒は五つだけ。また一歩、追い詰められたことを実感する。

 

「小テストの点数をお伺いしても?」

「ゼロ」

「あのテストで0点ですか。変に勘繰りたくなってしまいますね」

 

 張り詰めた空気が収まる気配はない。まるで濃密な蜘蛛の糸に絡まってしまったように、ボクは身体を動かさない。

 

「入学試験の点数は?」

「学力には自信があるんだ。二位だったらしいぜ」

「あら、意外にも実力がおありのようですね。小テストは手を抜いていたということでしょうか」

 

 一人くらい頭よさそうとか言ってくれないかな。有栖以外の三人も今までで一番びっくりしているし、小テスト0点という事実の方が疑問視されない自分が不憫だ。

 

「まあな。ホント、何で僕がDクラスなのか理解に苦しむぜ」

「自分の配属されたクラスが不服ですか?」

「当たり前だろ。学力社会のご時勢なんだぜ?」

 

 余裕綽々に思ってもいないことを口にするが、実際のゲームは終盤。間もなくボクの敗北だ。

 一通りやることを終えたといった感じに先程までの雰囲気に戻った有栖は、どこか退屈そうな眼をしているように見えた。

 

「ふむ。そろそろ終幕といったところですね。寄り道はもう十分でしょう」

「お、また僕自身のことを聞いてくれるのか?」

「ええ、もっと仲良くなりたいので」

 

 あまり熱の感じない響きで有栖は言う。

 

「――――しかし、どうやらあなたは()()()()()()()()()()()ようですね」

「え、いやいや、どうしてそう思うんだ? 言い出しっぺは僕だったってのに」

 

 不意を突く一言。ここはあからさまな動揺も飄々とした態度も適切ではない。心外だと言いたげな反応をアピールする。

 

「気づかないとでも思いましたか? 簡単な話です。途中からはほぼ私のワンサイドゲームでした。しかしその最中でもあなたは質問をする機会を手にしてはいた。にも関わらず、数少ないと察せるはずのチャンスをあなたは全て()()()()()()()()()使()()()()()()。あなたは自ら私に苦手意識を抱いていることを示していたんですよ」

「おいおい、急に饒舌になるじゃねえか」

「ここまで言わないとあなたは半端なこじ付けで言い逃れをするでしょう?」

 

 実の所彼女の言う通りだ。ボクがこれまでにした質問は有栖以外の三人や学校全体についてのことばかり。事前に教えてもらったフルネームとクラス以外、今握っている坂柳有栖についての情報は一つもなかった。

 それにしても恐れいった。この一ゲームの中でそこまで見透かされてしまったか。だがまあこの事態を想定していなかったわけじゃない。彼女の様子を見る限り、最終防衛ラインは保たれているようだ。

 

「さあな。答えて欲しいなら盤上の白い精鋭たちを仕留めてからにしたらどうだ?」

 

 せめてもの皮肉を返すと迷わずに有栖はボクの駒を殺した。

 

「どうぞ?」

「……oh」

 

 もう大人しく第一線からは退いた方がいいだろう。面倒くさい。

 

「『嫌い』、だな」

「……フフッ、そうですか」

 

 ボクの正直な答えに、何故か有栖は堪えられないとでも言うように昏く笑った。彼女が本当に笑って見えたのはこれが初めてかもしれない。

 

「やけに嬉しそうにするんだな。ドМ根性か?」

「まさか。愉快だっただけですよ。あなた、誰かに真っ向から嫌悪を訴えたことがないでしょう」

 

 「ねえ? 浅川君」とこちらの表情を窺う有栖。SとMは紙一重。彼女は今、ボクの中の『何か』を探すために、自分が嫌われることを厭わないでいる。知的好奇心万歳といったところか。

 しかし――いや、だからこそ、ボクが取るべき態度は変わらない。

 

「嫌いな相手も嫌われる相手もいて当たり前だろ。可愛い子とは仲良くなっとくに越したことはないって思って隠していたんだが、バレちまったか」

 

 ただの一般論を述べる。有栖は何も返さなかったが、依然ボクを試すような表情で見つめている。 

 ボクは抗うようにして、相手のポーンを取った。

 

「君にはいないのか? 情動を向ける相手が。家族、友人、想い人、誰であってもいいぞ」

「私ですか? ……いるにはいますよ」

「珍しく歯切れが悪いじゃん」

「一度しか目にする機会がなかったので、素直に答えて善いものか憚れただけです」

 

 一度しか?

 一度きりの対面で感情を一番強く向ける相手に成り得るものなのだろうか。興味深いが……やはり、嫌いな彼女にこれ以上聞く気が起きないな。

 次に有栖がボクのビショップを下した。

 

「私のどこがお嫌いですか?」

「そんなに嫌われたことが珍しかったか? 確かに君の美貌には目を見張るものがあるけれど、普通は誰かしらから嫌われるもんだろ」

「御託は要りません。ただ質問に答えてください」

 

 鈴音といい、こういう人種はいつも容姿を褒めたところで意に介さない。言われ慣れているのだろうか。贅沢な悩みだ。

 

「あーっと――大体全部?」

「フフッ、正直にありがとうございます」

 

 もう為す術はない。ボクは最後の足掻きに彼女のビショップを取った。

 

「気まぐれから始まった勝負だったけど、楽しかったか?」

「ええ、それはもう」

 

 有栖は目を細めこちらに笑いかけて、答えた。

 

()()()退()()()()()()()()()。勝負と呼ぶにはあまりにもお粗末です」

 

 ボクの最後の守り人が殉職した。

 

チェックメイト(王手)。あなたはどうでしたか?」

「ハハッ、聞かなくてもわかるだろ? ()()()()()()()()()()

 

 戦いが終わってからも暫く静寂は続いた。次に言葉を発するべきなのは、目の前の少女だ。

 沈黙は十数秒程で終わりを迎えた。

 

「さて、それでは何をお願いしましょうか」

「無理難題はやめてくれよ?」

 

 嫌な笑みを浮かべながら有栖は考える。引き伸ばされた時間が、何を命じられるのだろうという不安を増大させる。

 

「……決めました。私があなた方にお願いするのは」

 

 彼女はゆっくりとこちらを指差した。

 

「『連絡先』の交換です」

「……え、そんなことでいいのか?」

「はい。あなたの連絡帳に嫌いな私の名前が登録されるだけでもそれなりな嫌がらせになるでしょう?」

「案外器の小せぇことをすんだな」

「なら更に酷な内容に変更しましょうか」

 

 今のタイミングで皮肉を言っても通じないか。ここは黙って彼女の言うことを聞いておこう。

 

「ソイツは勘弁。椎名は問題ないか?」

「私は大丈夫ですよ。連絡先を交換している相手も全くいないので寧ろありがたいです」

 

 椎名の了承を得て、ボクら二人は躊躇いもなく端末を有栖に貸した。

 

「プライバシーに関して無防備が過ぎるのでは?」

「機械に疎くてな。そこまでの個人情報を詰めてはいないつもりだ」

 

 僅かに不審に思いながらも、有栖はボクらの端末を受け取った。

 

「いやー、敗けちまったな」

「その割には悔しそうではありませんね」

「あそこまで実力に差があっちゃな。椎名はボードゲームとかやんないの?」

「私も浅川君と同じで、ルールを把握している程度ですね」

「マジか。じゃあ今度やってみようぜ」

「つまらなかったのでは?」

「別にチェス自体を否定したつもりはねえよ?」

 

 待っている間、椎名と暫し雑談に興じていると――ガシャン、と何かが落ちる音がした。

 見回すと、音の発信源は有栖の足元だった。

 

「大丈夫か? 有栖」

 

 彼女の顔を見ると、未だ見たことのないような驚きの表情を浮かべて固まっていた。そんなに珍しい物でも映っていただろうか。椎名の方に何かあったのかな?

 

「え、ええ。取り乱してしまってすみません」

 

 有栖は慌てて落とした端末を拾い上げる。一瞬だったが何の変哲もないボクの連絡帳が映っているのが確認できた。ボクと高円寺のように旧知の仲の名前でも見つけたのかもしれない。

 

「お返しします。ありがとうございました」

「おう。――っと、そろそろ閉館の時間になっちまうな。後片付け手伝おうか?」

「お気になさらず。椎名さんと仲良く帰路を往ってください」

 

 こうして、ボクと彼女の最悪の出会いは虚しい余韻を残して幕を閉じた。

 

「そんじゃあ椎名、帰ろうぜ」

「はい。あ、待ってください。本を返却していませんでした」

「おけおけ、それやってから行くか」

 

 ボクらは荷物を持ち颯爽とカウンターへ向かって行く。

 姿を消す直前で、ボクは有栖の方を振り向いた。

 

「またいつか再戦しよう。できれば『将棋』がいいな」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 数分後の図書館。

 坂柳は、先刻体験した稲妻の迸るような衝撃を思い返していた。

 浅川恭介の連絡帳の一番上――何気なく登録されていた、一人の少年の名前。

 ――綾小路、清隆君。あなたもいるというのですか……? この高校に。

 晴天の霹靂な可能性に、さすがの彼女も実感が追い付かず困惑が拭えない。

 作られた天才の象徴である彼がここにいるのだとしたら、ぜひ会いたいものだ。

 そして、必ず自らの才能を以て打ち砕く。己自身に課した使命と、父への誓いに則って。

 この高校は恐らく、その舞台に相応しい場所だ。

 そこまで思いを巡らして、ようやく溢れんばかりの情熱が込み上げ胸の中を満たし火照らせた。

 

「珍しかったな。姫様があんな表情を晒すなんて」

 

 水を差すように橋本に声を掛けられ、坂柳はハッと我に返る。

 

「そういう風に見えましたか?」

「端末を落とした時なんか、神室も目を見開いてたぜ。何かびっくりすることでもあったのか?」

「……そうですね。値千金な情報を得られました」

 

 今の彼女にとって、彼が近くにいるという事実だけでも文字通り値千金なことだった。

 しかし、橋本の話はそこで終わらなかった。

 

「でもそれだけじゃない。浅川恭介、アイツのことがそんなに気に食わなかったか? ただのありふれたDクラスの生徒って印象だったが」

「……さあ、どうしてでしょう。自分でもよくわかりません」

 

 「坂柳でもそういうことあるんだな」意外そうな表情をする橋本を傍目に、彼女は浅川のことを思い起こす。

 五月のこの段階ではあまりにソースが少ない故、正確な分析ができているかは怪しいところではあるが……。

 期待外れ。それが正直な感想だった。

 突然の来訪者に、最初こそ自分の退屈を紛らわしてくれるかもしれないと予感したものの、蓋を開けてみれば橋本の言う通り視野の狭い三枚目あるいはひょうきん者程度の人間に感じられた。

 チェスも彼自身が宣言していた通り確かに初心者の手つき。実力を隠していたようでもなければ、光るセンスが見えたわけでもない。

 入学試験二位というステータスも、そもそも学年一位であった彼女からすれば取るに足らないことだ。

 故に――僅かに引っ掛かる。

 確かに、少々の『疑問』があることは事実だ。入学試験から小テストへの落差、端末に映っていた0ppの表示、去り際に零したセリフなど、気掛かりな点はいくつか挙げられる。しかし、それら全ては能天気な彼の気まぐれあるいはただの偶然として片付けることができる。そもそもの話、そこに思惑や策略を差し込める程の人間がああもずさんな手の内の隠し方をしない。

 そんな中、唯一坂柳の中に疑惑を持たせたのは自分自身の『見る目』だ。

 彼女は観察眼にある程度の自負がある。そのスカウターは()()()()()()()姿()()()()()()()()()に反応した、ような気がするのだ。

 ただ、『ような気がする』という表現から察せる通り、それ以降の彼からは一瞬たりともそのような仕草も気配も感じられなかった。

 自分の思い過ごしだろうか。綾小路という存在を認識したことで多少敏感になりすぎているだけなのかもしれない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()を浅川に向けているのも、きっと早々に『リトルガール』などという不名誉極まりない名前で呼ばれたらだろう。彼が去った後もなお気に食わないと感じるのは、あんな男が綾小路と親しくしているという事実に対する憤りに他ならない。

 万が一にも彼に何か秘めているものがあるのだとしたら、それは『待ちわびる情報』と共に()()が持ち帰ってくれるはずだ。

 今はただ、あの少年の存在に幸福を感じていたい。そう、願った。

 いずれにせよ、決して浅川恭介に遅れを取ることはない。坂柳はそう暫定した。

 

「しがない男です。実に面白くない」

 

 

 

 

 

「――とか思っているんだろうなあ今頃」

「何とかなりましたね」

 

 帰り道。ある種の一仕事を終えたボクは、椎名に労いの言葉を掛けられた。

 

「意図せずこんなにも精神的にくる午後になるとはなあ」

「運は山あり谷ありなので仕方のないことですよ」

 

 ここまで角度の急な山も谷も、実在したら堪ったものではない。願わくばあんな場面に二度と出くわしたくはないものだ。

 ボクは大きく伸びをしながら欠伸をする。空が昏くなってきたのもあって、少し眠気が主張を極め始めている。

 

「それにしても驚きました。本当に他の『演技』も得意だったんですね。てっきりこの前のようにユーモラスを気取ることしかできないものだと」

「様になってたろう? 間抜けなチンピラって感じで」

「初対面の人はまず間違いなく騙されてしまうでしょうね」

 

 親しい仲ならとっくに違和感を感じていたであろう。ボクはあの四人の様子を見てからずっと生意気なお調子者に成り代わっていた。言葉や口調までもを切り替えて。動揺する素振りや緊張する仕草なんてハリウッド級だったろうね。

 一つだけ椎名に否定しておきたいことがあるとすれば、ボクは厳密には『演技』をしていたわけではない。似て非なるものなのだが……そこは個人の認識に依るところが大きいから咎めないでおこう。ネチネチ細かいやつとでも思われたら癪だ。

 

「言われた通り合わせておきましたけど、どうして態々あんなマネを?」

「彼女、絶対クラスのリーダー格だろう」

「風格は感じましたね」

 

 風格だけではない。あんな凸凹な四人組が祝日の午後を図書館で過ごそうなんて無理がある。裏があるとすればやはり中間テストやクラス対抗戦のことについてだろうか。

 

「有栖に至っては性格噛み合わなそうだったし、変に目を付けられることはしたくなかったんだ」

「だから当たり障りのない質問ばかりだったんですね」

 

 その通り。

 もっと突き詰めたことも聞いてみたかったが、それを口走ってしまうと僅かでも頭の回る男として興味を引いてしまう可能性があったので、その芽は潰しておきたかった。まだこの時期なら分析するソースも少ないだろうから、考えが筒抜けだったなんてことにはなっていないだろう。本当はAクラスのことを探ろうかとも考えていたが、向こうがDクラスのことを聞いてくるまで我慢しようなんて思っていたらそんな余裕がなくなってしまったというオチだ。

 とは言え、ボクが有栖以外のことを聞いていたのにも()()()()()()()()んだけどな。

 ただ、ボクが有栖を嫌っていたのがバレたのは素直に驚いた。あれでボクの中の彼女に対するメンターは大分跳ね上がった。

 そのことを椎名は察していたのだろう。彼女は疑問を発した。

 

「でも、どうして最後にあんなセリフを吐いたんですか?」

「あれは、その……ミスった」

「ふふっ、思わず言ってしまったんですね」

「ご名答。皮肉と願望のダブルミーニングってやつさあ」

 

 さすがは椎名。ボクの愛すべきポンコツ属性を理解してくれているようだ。

 ボクが去り際にあの一言を放ってしまった理由は、二つある。

 一つ目は鈴音と言い合ったときとほとんど同じだ。ボクは有栖の態度や性格に対する不快感を抑えることができず、暗に仄めかす形でそれをぶつけた。余程博識でなければ『隠された意味』を気付かれることはないだろうから、あまり心配することではないだろう。と、言いたいが、有栖のことを思うと少し不安だな。

 もう一つの理由というのは、ボク自身と有栖自身のことについてだ。彼女がどう思っているかは別として、あのゲームにおいてボクらは一度も()()()()()()()()()()()()()()()()()はずだ。ボクは自分を偽ってまでいたのだから当然のことなのだが、向こうはAクラスの坂柳有栖として問答を行っていたように思う。だからこそ、今度は建て前なしの、互いの本当で語り合いながらゲームを楽しみたい、なんていう馬鹿げた願いを零してしまったというわけだ。

 実は他にもいくつかボクのプランから逸れた言動をしてしまった。例えば有栖の提案したルールに待ったをかけて出した条件。命令権を後に引きずるなんて恐ろしいことは避けたかったために致し方なかったとはいえ、有栖に違和感を与える鍵になってしまったことだろう。

 ただ、それもまた一種の間抜けと判断される材料になってくれるだろうと考えた結果、集中ぜずにユルーくタノシーく役者を熟すことを善しとしたのだ。あ、その点だと確かに『演技』の領域に収まるか。

 

「そもそも、目を付けられないことが目的ならそのままで良かったのでは?」

「え?」

「浅川君の外見は『間抜け』なので」

「……メンタルブレイク」

 

 笑顔で言われた……そんな酷い言われようある? 仮にも一ヶ月仲良くしているのに。

 あ、いや、一ヶ月も一緒にいるからここまで言えるのか。それなら悪い気はしない……?

 

「……まあ、それでも意味のあることだったと思うよ」

「そうなんですか?」

「ボク、()()()()()()()()()()()()()

 

 少なくとも今回の邂逅で、有栖は()()()()()()()()()()()()()()()()()。これは確信だ。最も危険なのは六助だが、今の彼女はその点()()()()()()()()()だろう。

 『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている』、か。強ち間違いではないのかもしれないな。

 

「それなら、恐らくあの四人には悟られていなかったと思いますよ」

「そう願っておくことにしよう。ボク自身、及第点は超えられたと思っているからね。今回のボクは――」

 

 本当に今日は、『コイツ』にお世話になりっぱなしだな。

 

「ツリーチキン、だったってことだなあ」

「言い得て妙ですね」

 

 答え合わせはしなかったが、ボクが何を言っているのかは彼女にちゃんと伝わったようだ。

 今日だけで二クラスの人間と出会ってしまった。これで全クラスの誰かと真面な会話をしたことになる。そう考えると随分と刺激的な一日だった。

 ……折り紙、一緒にやってよかったな。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 親し気に会話をしながら並んで歩く男女を、背後からひっそりと見つめる影が、一つ。

 こんなこと、本当は望んでしているわけではないのだが、事情がある故この指令に従う他なかった。

 酷な人使いに人知れず溜息を吐くが、それでも与えられた任務を熟さなくてはと、彼女は二人の姿を追う。

 曲がり角で姿が隠れてしまった二人を追いつくべく、電柱の側を通りすぎようとした、その時――。

 クシャリと、何かを踏んだ音がした。彼女は訝しく思いながらもそれを拾い上げる。

 ……折り紙?

 そう、折り紙だ。それも一目で何を折ったのかがわかる程によくできた、鶏の顔をした折り紙だ。鶏冠が印象的だった。

 政府運営のこの敷地内に自分ら以上の若年層はいない。とすると、自分と同じ生徒の代物だろうか。

 刹那の思考の後、すぐに自分の目的を思い出した彼女は、ポイ捨ての如く折り紙を軽く放り投げて再び歩き出す。

 見失っていないだろうかという一抹の不安を抱えながら曲がり角を曲がる。すると――、

 

「おっと」

 

 頑丈な体と鉢合わせになり、正面からぶつかってしまった。

 

「大丈夫か?」

 

 声の正体は――なんとターゲットの少年だった。

 「お怪我はありませんか?」と近寄ってくる少女が、彼女の顔を見て目を丸くし、その名前を呼んだ。

 

「神室さん……?」

 




名前だけでオリ主の魂胆をアシストする清隆くん。さすがは公式チート(?)。

坂柳がオリ主に騙されるオチが意外だと感じた方もいると思うんですけど、彼女が清隆病発症中だったからなのは勿論、実は今回オリ主がやっていたことは彼の『得意分野』の一つだったんですよね。

さて、超絶消化不良となった二人の勝負でしたが、今後の二人の関わりや清隆くんを巡る争い(?)はどうなっていくのか、お楽しみに。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

デトックス

 ゴールデンウィークが明け、綾小路は早速、池、山内、須藤の三人に堀北から勉強会のお達しがあることを伝えに行くことにした。しかし……

 

「やだ」

「無理」

 

 池と山内からは即刻拒否されてしまった。げんなりしつつも最後の望みである須藤の下へと顔を出す。

 

「須藤」

「あ? おう、綾小路じゃねえか。どうしたんだ?」

「その、鈴音が勉強会を開くらしくてな。須藤は確か、小テストかなりヤバかったよな? だから、オレと一緒に参加してみないかと思って」

 

 そう言うと、須藤は「あぁ……」とあからさまに渋った表情を見せた。これは三連敗かと綾小路は落胆する。

 

「正直嫌だな。誰かに教えを乞うってこと自体性に合わねえし、相手がよく知らねえ女じゃ尚更だ」

「まあ、そうかもしれないけど……鈴音の勉学の腕は小テストの結果を見る限り確かだろう?」

「そりゃそうだけどよ……てか、小テストって言やぁ浅川はどうなんだよ? アイツ0点だったろ」

「恭介は名前を書き忘れてしまったらしいんだ。確認してみたら、平均より上の点数だったぞ」

「ま、マジかよ。あいつ勉強できたんだな……」

 

 咄嗟に嘘を吐いたが、疑うこともなく信じてくれた須藤は心底意外そうな表情をしていた。

 

「他に参加者はいねえのか?」

「い、いや、池と山内にも声を掛けてみたんだが、真っ先に断られてしまった……」

「……そうか」

 

 綾小路は内心疑問に思っていた。勿論須藤が参加してくれれば嬉しいのは事実だが、恐れていた程彼は勉強会に否定的ではなかった。最悪聞く耳持たずにその場を去るかどつかれるかするかもしれないと予感していた綾小路からすれば些か拍子抜けだった。

 

「……意外だな。頼んだ身で言うのもあれだが、お前はもっと嫌がるかと思っていた」

 

 ここで正直な感想を伝えてしまうあたり、彼も他人への気遣いはまだまだなのだが、それを何度か目の当たりにしていたからか須藤は一瞬眉をひそめるだけで憤慨することはなかった。

 

「他でもない綾小路だから即答しなかっただけだぜ。普通だったら掴みかかってたかもしれねぇ」

 

 やはり自分の懸念は間違っていなかった。あの時彼と仲良くなっていてよかったと、胸を撫でおろす。

 

「自分でもわかっていないわけじゃねぇんだ。赤点取れば退学。俺はその予備軍ってことだろ。けどよ、今まで一夜漬けとかで何とかしてきた身分からすりゃぁ勉強会つってもあんまピンと来ねぇんだ。――何より、俺はバスケを蔑ろにしたくねえ」

 

 悩んだように頭を掻く須藤を見て、綾小路は言葉に詰まってしまった。

 自分がどうするべきかはわかっている。が、したいことがあるために迷ってしまう。似たような苦悩を以前にし、かつ最終的にしたい『意志』を優先した彼には、掛ける言葉が見つからなかったのだ。

 代わりに、別の角度から須藤を説得できないかを模索する。

 

「……須藤。お前さっき、他に参加者がいないか聞いたよな?」

「お、おう」

「もし他に参加者がいれば――例えば、池と山内が参加してくれたら、お前も来てくれるのか?」

 

 先刻須藤は迷っている最中で別の参加者がいないかを尋ねてきた。それに対して現段階でゼロだと答えたために彼は黙ってしまったが、あそこで是と答えることができていたら、もう少し前向きに考えてくれたかもしれない。

 

「できんのか? 断られたんだろ?」

「何とかしてみせるさ。お前がそれで参加してくれるのなら、お安い御用だ」

 

 本当のところ、最終的な目標は赤点予備軍の三人全員の参加であるため、どうせなら三人の参加条件ができるだけ一遍に達成できるようにしたいという軽い下心に基づいたものだった。 

 苦肉の策ではあったが、一応効果はあったようで、須藤は渋々ながらも応えてくれた。

 

「……わかった。二人が参加するってなったら、俺も参加してやるよ」

「須藤……ありがとう」

「そこまで懇願されちゃ断れねえって」

 

 いつしか浅川が言っていた通りだ。彼は殊友情に関しては少し脆くなる。今回はそれを利用するような形になってしまい申し訳ない気持ちになるが、これで首の皮一枚繋がった。

 「また今度連絡する」一つの達成感を覚えながら別れようとする綾小路だが――須藤がそれを呼び止めた。「綾小路」

 

「どうした?」

「浅川の名前で思い出したんだが――俺たち四人、あれから一度も集まってないだろ?」

「……っ、そうだな」

 

 五連休の初日以降、『トップ4』は一度も集まっていない。スケジュールが合わなかったわけでもないし、早起きがなおざりになっていたわけでもないのだが……理由は何となく感じ取っていた。

 

「お前と浅川のおかげで、早起きもだいぶ板についてきた。そこんとこ結構感謝してんのは勿論だけどよ。それだけじゃねえ、やっぱ四人で運動すんのは独りでやるより気持ち良いんだ。だから、またやろうぜ。楽しみにしてっから」

 

 晴れやかにそう語る須藤は決して原因ではない。問題なのは……。

 

「…………おう、またの機会にな」

 

 純粋な須藤の眩しさに追いやられ、罪悪感から逃げるように綾小路は去って行く。

 ……今は、池と山内を参加させる方法を考えなくては。

 その意気込みがただの使命感なのか、大事なことから目を背けようとしているだけなのか、徐々に曖昧になっていくのを綾小路は人知れず感じていた。

 

 

 

 昼休み。綾小路は堀北を誘い食堂で食事を取っていた。

 

「櫛田さんの力を借りる?」

「えんぼうぼえばあいえんあぼおぼっえいう」

「あなた一人では力不足だと言いたいの?」

「おあえぼわばっべいうはぶあ。……池と山内にやる気を出してもらうには、櫛田の呼びかけが一番効く」

 

 矛盾が生じてしまうため表向きには話さなかったが、浅川も先日堀北に『いれかえ』の話をしている。それを忘れていないのなら、適材適所に則り二人の説得を櫛田に依頼するのが最も効率的だと堀北も理解しているはずだ。

 案の定、彼女は一概に否定せず悩む素振りを見せる。

 正直綾小路からすればこの策が認められなければお手上げなので、呑気に唐揚げを頬張りながら彼女の回答を待つ。

 

「けど、それって櫛田さんも勉強会に参加することになるわよね?」

「え、どうしてそうなる?」

「櫛田さんに釣られて顔を出して、いざ彼女が来ないと知ったら絶対とんぼ返りするでしょう。そんなことになれば、二度と彼らは顔を見せなくなるわ」

 

 ――バレたか……。

 そこに関しては綾小路も理解していた。簡単な話、誘った人物がそのイベントと無関係でいること自体不自然なのだ。社会一般的な会合でも同じことが言えるあたり、その意見は尤もだった。

 かてて加えて、櫛田も何かしらの要望を持ち出してくる可能性があることも考慮していた。事情を話す上で、堀北の名前を出すことは避けられない。となれば、この機を見逃さず彼女に近づけるような条件を提示してくるかもしれない。例えば、自分も堀北の勉強会に参加させてくれ、といった具合だ。

 もう一つ唐揚げを口に放り込みながら、綾小路は応える。

 

「そのほおいあが……あいにうほがいふあんはあいほ」

「ちゃんと飲み込んでから喋りなさい……。全く、こういう時は使えないのね……いえ、この場合はその二人があまりに愚かなのかしら」

 

 櫛田を混ぜなければならないかもしれないという事実に辟易する堀北を傍目に、口の中を空にしてから話を続ける。

 

「……本当は事前に言おうかは迷ったんだけどな。後々文句を垂れられるのはごめん蒙るからこうしたが、その様子を見る限り正解だったみたいだ」

「当然よ。事後報告だったらただでは置かなかったわ」

 

 おお恐いとおののく傍ら、厨房を眺めているとヨシエさんと目が合った。向こうが小さく手を振ってきたのでこちらも会釈する。

 

「それで、どうなんだ。他の手を考えるとなると、今すぐには厳しいぞ」

 

 眉間に皺を寄せ、堀北は数十秒沈黙する。

 やがて――

 

「…………甚だ遺憾だけど、仕方ないわね」

 

 苦虫を嚙み潰したような表情で了承した。

 

「料理が口に合わなかったか?」

「気が合わないだけよ。わかってるくせに」

「なんだ、もらってやろうと思っていたのに」

 

 調子を戻してもらおうと敢えて揶揄ってやると、堀北はムッとした表情になる。

 

「絶対嫌よ。寧ろ奢ってもらいたいくらいね」

「は? 何で」

「譲歩してあげた私には何の見返りもないのかしら?」

「……今回きりな」

 

 金輪際いかなる理由があろうと彼女を煽るなんて愚行は犯さない。

 綾小路は密かにそう決心するのだった。

 

 

 

 

 放課後。

 予定通り綾小路は櫛田と話をするべく呼び出した。

 場所は四月のあの時と同じ校庭のベンチだ。

 

「何かな? 話って」

「実は、どうしてもお前に頼みたいことがあるんだ」

 

 何だか告白みたいな雰囲気だなんて場違いな感想を抱きながら、綾小路は切り出す。

 

「池と山内と須藤が、中間テストで赤点を取りそうだっていうのは知っているよな?」

「うん。酷い話だよね……一度でも赤点を取ったら退学だなんて」

「ああ。そこで、鈴音が主催して勉強会を開く予定なんだ」

「え、堀北さんが?」

 

 堀北自身はもっと自分本位な目的なのだろうが、櫛田に乗り気になってもらうためにクラスメイトを助けるためというニュアンスを含める。

 狙い通り彼女は身を乗り出して反応した。

 

「すごいなあ、堀北さん。クラスの人たちのためにそこまで頑張るなんて」

「桔梗も負けてはいないと思うぞ。うちのクラスの活気は、お前に影響されている部分が大きい」

「え! そ、そうかなぁ?」

 

 謙遜するも満更ではなさそうにする櫛田。これから彼女にお願いをする時はまず煽てるところから始めようかと思いつつ、綾小路は本題に入る。

 

「それに、お前にも今からクラスのために尽力してもらいたいと思っている」

「頼みがあるって言ってたよね?」

「オレみたいな陰者が誘っても、三人は来てくれそうになくてな。人望の厚い桔梗も参加するとなれば、もしかしたらと思ったんだ」

 

 厳密には池と山内だけに限った話なのだが、ややこしくなるので須藤も一辺倒に扱うことにした。

 彼の提案に、櫛田は暫し迷う素振りを見せてから笑顔で答えた。

 

「わかったよ、ぜひ協力させて!」

「ありがとな。前の時といい、桔梗には助けられてばかりだ」

「ううん、友達のピンチなんだもん。私にできることなら何でも協力するよ」

 

 実に勿体ない言葉だ。彼女の頼みに対し大したこともできずに見返りを考えていた自分と比べると月とすっぽん程の違いがある。

 しかも、追い打ちを掛けるように櫛田は言葉を重ねた。

 

「綾小路君も、遠慮しなくていいんだよ? 困った時はいつでも相談して。力になるから」

「……そうか。ありがたく頼らせてもらうよ」

 

 現在進行形でとある悩みを抱えている綾小路にとって、彼女の寄り添うような言葉は一つの小さな光に感じられた。

 たとえ、それが純粋な善意ではなく堀北へ向けた感情からくるものなのだとわかっていても。

 今の彼は、自分の苦悩に少しでも理解を示してくれる言葉に対して、あまりに弱かった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 翌日の放課後。

 あの後無事に池と山内は櫛田になびかれ、そのことを伝えると須藤は渋々参加の意思を表明してくれた。

 片や下心、片や乗り気ではないという状況。未だ上手くいくか不安を拭えない綾小路は嘆息を漏らす。

 

「行くわよ。綾小路君」

「そう急かすな。言われなくてもそのつもりだから」

 

 同じ魂胆の生徒が多いと予想されるため、早く図書館にたどり着くことが望ましい。席が確保できなければ勉強会以前の問題だ。

 参加者を連れて目的の場所へ向かう。

 

「沖谷も参加するんだな」

「うん。平田君のグループの方には参加しづらそうだなって思ってたんだけど、ちょうど綾小路君たちが別で勉強会をやるって聞いたから」

 

 どうやら偶々情報を耳に入れた沖谷も参加してくれるようだ。奇しくも『トップ4』の三人が居合わせるという事態に小さな喜びを感じる一方、一名だけ欠けていることに対する寂寥感が過る。

 館内は思っていた程混んでいなかった。そういえば以前、浅川が図書館の人気(ひとけ)の無さを絶賛していたなと思い出し、ならばそこまで急ぐこともなかったかと耽りつつ他のメンバーと共に長机を囲んだ。

 

「確か沖谷君もあまり点数が良くなかったわね。参加を許可するわ」

「ありがとう、堀北さん」

「ただし、やるからには真面目にやってもらうから、覚悟しておきなさい」

「うん、勿論だよ。頑張るね」

 

 堀北の厳格な態度に、沖谷も闘魂を注入されたようだ。四人でのトレーニングの件から、こういった場面で彼は少しやる気を強く見せるようになった。善い変化だろう。

 

「櫛田さんも……参加するのよね?」

「うん。私もうろ覚えになっちゃってるところとかあるから、堀北さんに見てもらいたくて」

「……あくまで赤点候補の三人を優先するつもりだから、そこは弁えておいてちょうだい。場合によってはあなたにも教える側に回ってもらうわ」

 

 綾小路が記憶している限り、櫛田の小テストの点数は他のメンバーと比べてもほとんど問題はないはずだが……今は須藤たちをこの場に留まらせるストッパーであるからして、咎めることでもない。

 

「てかさ、浅川のやつはいいの? 0点だったよな?」

「仲良いからって贔屓して強制しないのはひでえんじゃね?」

 

 池と山内の双方から、何も知らなければ至極真っ当であろう疑問が飛ぶ。綾小路は須藤にしたのと同じ回答を伝えた。

 

「なんだよぉ。てっきりアイツも俺らと同じ苦労人なのかと思ってたのに」

「でも名前書き忘れるあたり、見た目通り抜けてんだな。本番でやったらヤベエじゃん」

 

 実際茶柱からの呼び出しがあるまでは、綾小路も堀北も浅川の学力を平均前後と見積もっていたため、腑抜けた印象を与えやすい彼に対して無意識に仲間意識を抱く彼らの認識は決してズレているわけではなかった。

 

「他人のことをとやかく言う暇があるならまず自分の心配をしなさい。あなたたちには最低でも50点は取れるようになってもらうんだから」

「えっ、は? 50点!? 50点って、半分ってことか?」

「嘘だろ……俺そんな点数取ったことねえぜ」

 

 唐突に発表された最終目標に三人は阿鼻叫喚といった様子だ。

 

「ボーダー越えれば十分じゃねえのかよ。確か、31点未満だったよな?」

「いいえ、正確な赤点の条件は明言されていないはずよ」

「え? でも先生は、今回は31点未満は退学だったって……」

「『今回は』でしょう? 点数を基準にするなら少し中途半端だし、赤点ラインは変動する可能性もあるかもしれない。ギリギリで満足するのは危険よ」

 

 これに関しては堀北の言う通りだ。全てを小テストと同じ基準で考えるのは短絡的過ぎる。

 しかし――50点は高すぎはしないか、というのが正直な感想。安牌を提示するにしても、今の彼らの学力を考慮すると40点くらいでもいいはずだ。目標は本人が現実的だと思えてこその目標。やる気を出せるものでなければ意味が薄れてしまう。

 

「早速始めるわよ」

 

 そんなこんなでヌルッと始まった勉強会。不満そうな顔で道具を取り出す三人に不安を掻き立てられながらも、綾小路はノートを広げた。

 彼の案じた通り、堀北の厳しい物言いを前に三人はものの数十分程度で集中を切らしてしまった。

 

「そういえば綾小路、お前買ったの? アレ」

「え、アレ?」

「アレって言ったらアレだよ。ドラクエだよ」

「ああそうじゃん、ドラ焼きクエスト! この前興味深々に色々聞いてきてたよなぁ。戦闘のしかたとかさ」

「あー……ポイントが勿体無くて買えてないな」

 

 ご飯の話、ゲームの話、男女仲の浮いた話。学習とは無縁な会話へ何度も脱線し、隣に座る堀北の表情は徐々に険しいものとなっていく。段々といつも綾小路たちの前で見せる――いや、それ以上かもしれない無愛想さが露わになり始めた。

 その上、彼女の心労に気付いているのは綾小路だけのようで、彼女の琴線に触れる言動は留まることを知らない。

 堀北の顔色を窺いながら、綾小路は三人に勉強へ意識を戻してもらうよう促す。

 

「それよりできたのか? ここの問題は」

「うっ、メンドイなぁ」

「そもそも連立方程式って何なんだよ」

「普通の方程式だって怪しいのにな俺たち」

 

 基礎さえあやふやな彼らには、何を教えようとしても別の土台が出来上がっていないために伝わらないという悪循環が生じていた。

 こういう時、一番困ってしまうのは勉強が比較的出来る者だ。所謂『何がわからないのかわからない』というもの。堀北は頭を抱えるようにして酷く思い悩む。

 

「……駄目だ。やってらんねえよ。やっぱ俺らには無理だぜ」

 

 須藤がそう吐き捨てるのに合わせて、池と山内もペンを机の上に放り捨てる。

 それを見た堀北は溜息を吐き目を閉じた。

 さすがに櫛田と沖谷も雰囲気の悪さを察したのか、不安そうに彼女の様子を見つめる。

 だが、この場で一人、未だ状況を見限っていない男がいた。

 ――まだ、踏ん張れるな。

 

「……諦めては駄目よ」

 

 その呟きは、自分に言い聞かせているようにも感じられた。

 綾小路の意識に呼応するように、澄んだ目を開けた堀北は三人を鼓舞する。

 

「もう一度最初から教え直すわ。一旦手を止めてよく聞きなさい。一通り説明した後に質問は受け付けるから」

「うげ、最初からかよ。やる気でねぇ」

「まあやってやらねえこともないけどさぁ」

 

 何の変化もない彼女であれば、既に憤慨を爆発させ、須藤あたりと衝突していたことだろう。しかし綾小路は、彼女の人との関わり方における心の持ちように変化が生じている証拠を()()()()()()()()。だからこそ、確信を持ってまだ彼女が堪えられることを予想していた。

 強張っていた空気が、元の適度な緊張事態に戻る。何とか勉強会は続行だ。

 ……ただ、いつまで持つか、だな。

 しかしこのギリギリな状況も、そう長くは続かないだろう。

 綾小路はそんな予感にもまた、確信に近いものを抱いていた。

 

 

 

 その後水曜を挟み三日目に突入したが、進展具合は決して芳しいとは言えなかった。

 昨日も三人は堀北の指導に付いていけず、微力ながら櫛田と綾小路、沖谷までもがアシストをし、堀北本人にも綾小路からフォローを入れることがしばしば。勉強会と称するにはその他の点で気に掛けなければならないことが多すぎた。

 

「……今日はここまでね」

「はー終わった終わった。とっとと飯行こうぜー山内」

「おーう。はぁ、ポイントないと真面なものも食べらんないな。須藤のやつ、今日は部活でいないけどどうやって食事済ませてんだろうなぁ」

 

 終了の合図早々、呑気にこの後の予定について話しながら図書館を出て行く池と山内からは、とても退学が懸かっているとは思えない程危機感に欠けていた。

 

「堀北さん……」

「綾小路君……」

 

 櫛田は堀北を、沖谷は綾小路を心配そうな目で見る。

 綾小路自身はその場の雰囲気に合わせて神妙な表情を作っていただけだが、彼が堀北の精神状態を憂慮していることは事実だった。

 彼女はやがて俯きがちだった顔を上げると、徐にこちらを向いた。

 

「……綾小路君。私は……」

 

 胸焼けを誘うあの五月の始まりを彷彿とさせる、どこか縋るような瞳だった。

 ここが一つの頃合いだろう。彼はそう判断した。

 

「――鈴音。気分転換でもしようか」

「え?」

 

 突然の提案に彼女は目を丸くする。

 綾小路はそれに構うことなく、櫛田と沖谷にも声を掛ける。

 

「良ければお前たちもどうだ?」

「え、私もいいの?」

「綾小路君がいいなら……」

 

 ようやく我を取り戻した堀北は真っ先に彼に反論する。

 

「ちょ、ちょっと綾小路君。今はそんな気の抜けたことをしている余裕は……」

「息抜きも大事だぞ。今あれこれ言ったところであの三人がいない以上不毛だ。寧ろお前には余裕が無さすぎるんだよ」

 

 一応彼の言い分は尤もなのだと理解してくれたのか、彼女は押し黙り目線を外した。

 

「ケヤキモールの方へ行こう。今まで足を運んだことがなかったから楽しみにしていたんだ」

 

 

 

 思惑はあった。堀北のメンタルケアやら、この後行う予定の啓示やら仕込みやら――だがそれ以上に、自身の好奇心が彼をそこへ引き寄せた。

 そして、彼のそういった探求的な行動に、三人も付き添いがいてくれるのは何とも喜ばしいことだった。

 ここが、カフェ……。

 イメージよりも騒々しい。店内に足を踏み入れた最初の感想はそれだった。

 

「ねえ綾小路君。ホントにいいの? 奢ってもらっちゃって」

「ああ。お高いスイーツばかりを選りすぐったりしない限りはな」

「も、もう。そんなことしないよぉ」

 

 同じDクラスであるからして、なけなしのポイントで無理をしていると思い心配してくれたのだろう。遠慮がちに櫛田が聞くが、浪費ゼロかつ浅川から譲り受けた五万弱のポイントのおかげもあり、こういった体験のための必要経費ということで綾小路は割り切った。

 殊の外女子グループや男女混合グループが多かったため、偶然とは言えこの組み合わせで来て正解だったかもしれないと安堵を覚えながら、綾小路と沖谷、堀北と櫛田が向かい合う形で丸机を囲む。

 

「……それで、どういうつもり?」

 

 カフェラテを一口ストローで吸い、いかにも不服そうな顔で堀北が問う。カチンコチンに角ばった氷がプラスチックカップに敷き詰められているのを見て、飲みにくくないのだろうかと疑問に思いながらも彼は応じた。

 

「別に裏なんてない。頭を冷やすにはここがいいと思っただけだ。ほら、空調もちょうどいい具合に効いているだろう」

「勉強会の話とかをするわけじゃないの?」

「今ここですることじゃないな。周りの生徒のように、のんびり雑談にでも興じようじゃないか」

 

 彼が本心からそう言っていることを理解し、櫛田と沖谷は表情を緩ませた。しかし、堀北はジト目になって一層強くこちらを睨む。

 

「……あなた、浅川君みたいなことを言うのね」

「え、そうか?」

「意味があるのかないのかわからないことを胡散臭く語る態度がまさしくそれよ。口達者二人に絡まれるなんて、頭の痛い話だわ」

 

 愚痴を零す堀北だが、友人に似てきたと揶揄われるのは何だか相性が良いと言われているような気がして悪い気はしなかった。

 綾小路は皮肉の応酬はせずに素直な返しをする。

 

「おべおぼばおいえうべおっおぶお」

「ケーキを飲み込んでから喋りなさい……」

 

 つい先日と同じやり取りに、堀北は心底呆れた様子を見せた。

 その様子を眺めていた櫛田が、不意に堀北へ問いかける。

 

「ねえ堀北さん。堀北さんって、どうして綾小路君と浅川君とそんなに仲良しなの?」

「……どういうこと?」

「えっとね、他の子とは全然関わらないのに、二人とは嫌がってても何だかんだ一緒にいるから、ちょっと不思議だなって思って」

「確かに。僕も少し気になってたよ」

 

 沖谷も櫛田の考えに賛成なようだ。

 堀北はその美貌故に男女問わず何度かお誘いを受けることがあった。しかしその全てを彼女は断固拒否。入学後間もなく声を掛けられなくなった。

 その中で――席が近いとはいえ――綾小路と浅川に対してだけは、邪険に扱うことが多いのに変わりはないものの、学食や部活動説明会に同伴したり会話に応じたりすることが少なくなかった。

 Dクラスは男女の交流が少ない、と平田は言っていた。櫛田の目からも、三人の関わりは稀有なものとして映っていたようだ。

 

「そ、それは……」

 

 上手い答えが見つからなかったのだろう。彼女は珍しく言葉に詰まる。

 しかし、綾小路はその答えに一応の目星は付いていた。

 

「――わからないからだろう?」

 

 そう、わからない。堀北が心情を表現できていないこと自体が答えなのだと彼は推測した。

 

「オレはあいつにあやかる形だったから微妙なところだが、恭介のようなやつと接するのは少なくとも初めてだったはずだ」

 

 堀北に話しかけてきた他の生徒と浅川との違い。その違いはあまりに単純なものだが、確かなものだった。

 

「お前の一方的な言葉にすらすらと言い返す。拒絶されてもペースを乱すことなくめげずに関わってくる。そんな恭介とどう向き合えばいいのかわからなくなっている内に、気付けば会話が重なっていた。そんなところだろう」

「え、そんな理由なの……?」

「オレは鈴音じゃないから正解かは知らないけどな。そもそも人は皆結構類型的なんだし、ほんの些細なきっかけで大きく変わることなんてざらにあるさ」

 

 ただ、ほとんど正解に近いだろうという自信はあった。

 例えば二人の初対面。他人との馴れあいは必要ないと言い切った彼女を前にした際、彼はそれに対して黙ることも不機嫌になって否定することもなく「やってみなきゃわからない」と返した。

 ある時は、独りで食事をしようといていた彼女を、お試しにと言って彼は食堂へと連れ出した。

 またある時は、料理大会において誰かと共に暮らすことの価値を彼女に説いた。

 人によってはありふれた日常の一ページなのかもしれないが、それとは縁のない世界に身を置いていた彼女にああも飄々と関わり続ける浅川の姿勢は、誰にでも取れるものではない。

 そしてそれは、綾小路にも同じようなことが言えた。

 堀北と最初に出会ったときにも感じていたが、彼女と自分は他人との関わり方においてそういう部分は似通っていた。だからこそ、少しは彼女の気持ちが理解できる気がしたのだ。いつしか浅川はそれを『シンパシー』と呼んでいたが、案外馬鹿にできる質のものではない。

 堀北も否定も肯定もしないということは、多少の心当たりはあるのだろう。

 暫しの沈黙を以て、彼女は口を開いた。

 

「もしそれを言うのだとしたら、あなたも大概よ」

「オレも?」

「ええ。前にも言ったでしょう? 私が困っている時はいつも、彼でもあなたでもなく、『あなたたち』にだ、とね」

 

 確かにそんなことも言っていたなと、先月の会話を振り返る。

 自分が浅川の影響を受けていたとはいえ、それは堀北自身には何ら関係のないことだ。綾小路と浅川、二人の姿を見て彼女の中で何かが起きた。それだけのこと。

 ならば自分も、結果的には誰かが変わるきっかけになることができたと言えるのかもしれない。そう思うと、少し嬉しかった。

 ――オレにも、他人に何かを与える資格があるのだろうか。

 何かを与えられる驚きを前に味わったが、こうして逆の立場になってみるとあまり実感が湧かない。だが、それもきっと後に知ることができるのだろう。

 もしも自分に、それだけの感性が存在しているならの話だが。

 

「――僕、もっと三人の話聞きたいな」

 

 急に沖谷がそんなことを言いだした。そういったセリフは櫛田から出てくるものだと思っていたため少々意外に感じる。

 

「随分と藪から棒だな」

「折角綾小路君がこの場を設けてくれたから。――それに、勉強って言うと堅いイメージがあるかもしれないけど、どんな縁だって大事にすべきだなって思ったんだ」

 

 その言葉にハッと目を見開く。

 個人どうしでは何度か関わっていたが、この四人で集まることができたのは勉強会という繋がりがあったからだ。その点今の構図は確かに奇妙な縁が生み出したものと言える。

 須藤とも浅川とも予想だにしない巡り合わせから始まった関係であったからこそ、沖谷はその言葉を口にしたのだろう。

 さらに、ここへ誘ったのは他でもない綾小路だ。彼は知らず知らずの内に一つのきっかけになっていたことに気付く。

 

「だったら私、綾小路君と沖谷君のことも知りたいな。最近ちょっと気になってたんだけど、二人って元々須藤君と知り合いのような感じがしたからさ」

 

 今度は櫛田が、沖田の言葉に便乗する。

 綾小路は無言で頷き、堀北の方を見る。彼女は困惑と怠惰の混ざった表情をしていたが、やがてそれを溜息に乗せて吐き捨て無愛想に呟いた。

 

「……勝手にしなさい」

 

 その後小一時間、綾小路が提案した通り他愛もない話が続いた。

 途中彼は、堀北の手元を盗み見る。

 飲み干されたカップの中の氷は、いつの間にか解けてなくなっていた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 カフェを抜け出て解散し、綾小路はある場所へ堀北を誘うことにした。

 

「今度はどこへ私を誘拐する気?」

「人聞きの悪いことを言うな」

「帰らせてもらうわ」

 

 さすがにこれ以上は付き合ってられないと、彼女は踵を返す。

 

「――息抜きはもう終わったというのにか?」

「……何ですって?」

 

 無為に隠す必要もないかと思い、彼は次の目的地を打ち明ける。

 

「一度行ったことがあるんだろう? 本屋の場所を教えてくれ」

 

 

 

 

 日もそれなりに暮れ、店内に人は疎らだった。

 堀北が以前言っていた通り、一般の書店と比べると明らかに広いのだが、その事実に彼が気付くはずもない。

 

「おかしな話ね。前に来てからまだ一週間しか経っていないのに」

「結局あの時は何を買ったんだ?」

「あなたに話す必要はないわ」

 

 小言と向き合いながら、二人奥へ進んでいく。

 

「それで、ここに何があるっていうの?」

「難しいことじゃない。道標を見繕うんだ」

 

 綾小路の返しに要領を得ず、堀北は首を傾げる。

 

「いくらお前が頭脳明晰だと言っても、他人に勉強を教えるのには限度がある。まして相手は赤点候補。もしかしなくても初めての経験だろう?」

「……そうね」

 

 暗に揶揄されている気もするが、否定することのできなかった彼女は肯定した。

 当然のことながら、店内の棚にはベストセラー、雑誌、漫画、推理小説……幅広い区分けによって無数の本がぎっしりと埋め込まれている。

 

「教師でさえオレたちに授業をする時に教材を使うんだ。お前が自作の問題集とノート、口頭を用いて解説したところで、いずれは行き詰る」

 

 背表紙の大群を素通りし、やがて一つのコーナーにたどり着いた。

 ここまでくれば、さすがの堀北も彼が何を言いたいのか理解したようだ。

 

「……新しい『道具』を使う、ということね」

「いや、違う。『どうぐ』だ」

「何が違うの?」

 

 嫌味、でもなくただただ純粋な疑問をぶつけられ一瞬動揺したが、咳払いをすることで立て直す。

 

「オレ程度じゃ中身の善し悪しはわからないからな。お前のお眼鏡に適うものを選んでくれ」

「まさかこれもあなたがポイントを出してくれるの?」

「須藤と沖谷とは特別仲が良いのはさっき知ったろう。面倒を見てくれている感謝の印とでも思ってくれ」

 

 本当は『別の意図』がないわけでもないのだが、今ここで明かすことでもない。

 早速彼女は棚に埋め尽くされている参考書を手に取り見定め始めた。

 ――――まずは、()()

 手持無沙汰に待機していると、不意に堀北が口を開いた。

 

「盲点だったわ。中学だと、何かを買ってまでして勉強する必要はなかったから」

「まあ、高校生になると色々変わるからな」

 

 彼女の認識は間違っていない。確かに高校受験までなら先生への質問や独学でもある程度対応できるし、塾に通っていれば向こうから教材を配布される。能動的にアイテムを求める行動は、高校に上がる前だとメジャーとは言い切れない。

 かてて加えて、当の少女は元来勉学に優れている。物に頼ることには、あまり慣れていなかった。

 とは言っても、そんな俗世などに対しては無知な綾小路は、表面上話を合わせておくに留まるしかないわけなのだが。

 

「中学、高校と行くと……お前は大学に進学しようと考えてはいるのか?」

「まあね」

「ならこれからお前自身もそういう代物にはお世話になるかもな。あっちだと特集なんかにもなっているし」

 

 綾小路が指差した方を堀北は反射的に向く。彼の言った通り、センター試験や有名大学の二次試験の対策本などがズラリと並べられている。さすがは進学校、この時期から見えやすいところに堂々と纏められていた。

 

「Aクラスに上がれないものなら、地道に勉強しなければいけない、か」

「絶対に上がるのよ。そもそも、どのクラスであろうと怠っていいことではないわ」

 

 それだけ言って、彼女は話を打ち切り元の作業へ戻って行った。

 能事終われり。

 もうここに突っ立っている必要はない。待っている間は適当に文庫本でも漁ろうかと、彼はその場を離れる。

 今できることは全てやり終えた。ここからは自由時間だ。

 既に、賽はささやかに投げられている。

 




ぶっちゃけ原作見てると、クッシーダが参加するっていうよりは他の二人が参加するってことの方が須藤くんが来る動機になりそうだなってことでこうしました。
本作では予め堀北先生に許可もらおうとするあたり、きよぽんは原作よりかは彼女に親しみを抱いているんだと思っていただければ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ジーニアス

 参考書の効果は少なからずあった。

 想像通り堀北の指導に安定感が増し、問題児の三人も比較的正確な理解が捗るようになった。

 意外だったのは、池と山内がほんの僅かだがやる気を見せてくれたことだ。何でも、「女子がポイントを費やしてまで自分たちのために何かをしてくれている」という事実が影響しているらしい。元々は綾小路のポイントで購入されたものだが、態々指摘する必要はないだろう。

 特に池は、そういう浮かれた感情だけでなく「誠意」じみた仕草も感じられた。

 相も変わらずダラダラと文句を垂れる三人と度々傲慢な部分を晒してしまう堀北への不安は未だ残るものの、多少はマシになったようだ。

 ただ一つ、須藤だけは変わらず眉間に皺を寄せている点が気がかりではあるが……。

 彼らが去り、自分も帰り支度をしようとのんびりした手つきで片付けをしていると、堀北に呼び止められた。「綾小路君」

 

「どうした?」

「少しいい?」

 

 動きを止めて彼女の方に顔を向けることで肯定を示す。

 声を掛けたものの話す内容が纏まっていなかったのか、若干モジモジとした態度で彼女は切り出した。

 

「その……今のままで、いいのよね?」

「……? すまん。ゆっくりでいいからはっきり言ってくれ」

「……正直、まだ迷っているの。こうして参考書を教材代わりにして教えることで、確かに少しは効率が良くなったわ。けどその分、彼らの未熟さが余計露呈したように思う」

 

 自分が直接彼女の指導を受けていたわけではないため、表面上の善い点しか見えていなかったが、彼女がそう言うのであればその通りなのだろう。

 

「意欲があるならまだしも、積極的に勉強に取り組む姿勢の見えない彼らをこうまでして助ける価値があるのか、疑問だわ」

「赤点スレスレにも関わらず危機感を持たないやつらは退学になるべきだと?」

「酷な言い方をするならその通りよ。自分の置かれている状況すら理解できないような人に今後の活躍を見込むのは難しい。『彼らを見捨てる』――選択肢の一つとして、考えていなかったわけではないもの。それはあなたも同じではなくて?」

 

 堀北の言い分も筋違いというわけではない。まだ自分たちは出会ってから一か月しか経っていないのだから、誰がどんな性格でどんな長所と短所を持っているかを把握するのは精々小グループ内が限界だろう。どこかに光るものを持っている可能性はあるが、彼女の言う通りてんで役に立たない人間だって勿論いるはずだ。

 この短期間で他人の素質を見抜いた上で、一種の取捨選択をさせる。学校側はそういう意味の試練も兼ねてこの赤点制度を設けているのかもしれない。

 

「まあ、選択肢の一つには過ぎないけどな」

 

 言葉を若干濁しながら肯定する。

 

「この学校における実力は学力だけとは限らないというのは、頭ごなしに否定しようとは思わないけれどあまり釈然としないわ。一定の能力を満たせていない生徒は足手まといになると考えて切り捨てる。そうして最後にに優秀な人材だけを残す。多少の非道さはあれど、Aクラスを目指す手段としては幾分か効率的な気がする」

「それが、お前の結論なのか?」

「断定はしないわ。一概に正しいと決めつけているわけじゃない。けど、真っ先に浮かんだ考えはそれよ」

 

 そこで綾小路は、堀北の神妙な顔つきの意味に確信を抱いた。

 彼女はずっと迷っていたのだ。今までの自分があっさりと導き出した『見捨てる』という回答と、変化の兆しがもたらした『助ける』という選択肢の板挟みになりながらも、留まることを恐れ進んできた。

 ただ、元来他人の感情に敏感でもなければ堀北程傲慢でもない綾小路には、彼女の葛藤を推し量ることは難しかった。

 故に、彼にできることは――

 

「鈴音。悪いが、オレはお前の疑問に答えることはできない」

「……どうして?」

「薄々気づいているはずだ。須藤と沖谷がいる時点で、オレはあいつらに手を貸すことに価値を見出せてしまう。いまだ濃い関わりを持たないお前とは違ってな」

 

 されど一か月。何度も朝の登校を共にしていれば、せめてもの情は湧く。二人の友人である綾小路がこれしきのことを拒む要素がないのだ。

 浅川や櫛田の姿勢を見た彼は、そうあるべきなのだと判断したのだ。

 

「なら、池君と山内君は?」

「二人は須藤の友達だ。それも、オレや恭介より前からの付き合いだ。どちらか一方でも退学になれば、きっと悲しむだろうな」

 

 思うような回答が得られなかったのだろう。堀北は難しい表情をして黙り込んでしまった。

 それを見越していた綾小路は続ける。

 

「――だから鈴音。それはお前が決めることなんだ」

 

 彼の諭すような口調に、彼女は思わず顔を上げた。

 

「オレが今何かを言うことで、お前は簡単に納得できるのか? お前の常識に、何かを打ち付けることができるのか? お前は、自分の不安の埋め合わせを、他人に求めているに過ぎないんじゃないのか?」

 

 単に堀北が頑固者だからという話ではない。日常にありふれた話だ。これでいいのかと問いかけている時は大抵意見を求めているのではない。自分の考えに自信を持ちたいという理性に欠けた感情論だ。

 

「オレは選択したぞ。お前に協力し、須藤たちのための勉強会に尽力したのは命令でもなんでもない、オレ自身の意思だ。恭介も、苦悩し疲弊しつつも最終的には自分の中で答えを見出し、この船を下りる選択をした。今度はお前の番だ」

 

 揺れ動く瞳を真っ直ぐに見つめる。それは糾弾などでは決してない。寧ろ自分も()()()()()()()()()()()()()のだという事実を押し隠すためだった。

 

「最後に頼れるのは自分だけなんだ。それすらもかなぐり捨ててしまったら、きっと納得できる結末にはたどり着けない」

 

 明確な回答を提示できない今の自分には、そう語るので精一杯だった。

 堀北は交わっていた視線を外し、思い悩む表情を緩めることはせず俯いた。

 

「私は……」

 

 間がいいのか悪いのか、このタイミングで閉館の合図が室内に響いた。他に人影のない図書館で、その音は空っぽな色として二人の鼓膜に届く。

 十秒程の気まずい沈黙を経て、徐に堀北が口を開いた。

 

「……ごめんなさい。おかしなことを聞いて」

「別にいい。気にするな」

 

 その後は無言で後片付けを済ませ、堀北が先に出口へと向かうが、彼女は直前で振り向いた。

 

「綾小路君。最後に一つだけいい?」

「何だ」

「質問のしかたを変えるわ。あなたは、『見捨てる』という選択肢は間違いだと思う?」

 

 一時の間を置いて、彼は答えた。

 

「間違っているとは、限らないな」

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 翌週の初め。

 教室の外へ向かう堀北に続こうとすると――反対側のドアの近くで浅川と茶柱が話している姿が目に留まった。

 

「――あるか? し――しつにき――」

「――ちょうし――。どうし――」

「こう――もしょう――ばわか――なしらし――」

「……した」

 

 あの先生が自分から生徒に話しかけるなんて珍しいこともあるものだ。

 綾小路は流し見してその場を後にした。

 

 

 

「ふわぁ、ねみぃ」

 

 池がそう呟いた。隣に座る山内も同じように目を擦っている。須藤に至っては何度も船を漕いでしまっている。

 土日を挟み三日ぶりの勉強会だが、どうやら前日に夜更かしでもしてしまったようだ。休日を跨いだせいで少し気が緩んでいるように見える。

 想定外の懸念要素が加わり、堀北は一層厳しい表情になりながらも勉強会は進んでいく。

 三十分くらい経っただろうか。綾小路が今日のノルマに一区切りつけられそうだと思った時だった。

 

「――ねえ、ちょっといい?」

 

 その声は間違いなく、彼らが鎮座する席に向けて放たれたものだった。

 七人が一斉に顔を上げそちらを向く。

 声の主は、髪をサイドテールに纏め、堀北にも負けず劣らずなしかめっ面をした少女だった。

 彼女はメンバーの顔を見渡し――やがて綾小路と目が合った。

 

「あんたが綾小路?」

「え? あ、ああ。そうだけど……」

「ちょっと付き合ってもらえる? 少し話があるから」

 

 どうやら綾小路に用があるらしいという事実に一同は驚愕の表情を見せる。

 

「なっ……! お、おい綾小路。これは一体全体どういうことだよ!」

「おおお前、こんな可愛い子とも仲良くなってたのか?」

「い、いや。別に知り合いでも何でも……」

 

 櫛田と沖谷も声には出さないが、見たところ他クラスの生徒である彼女が綾小路に話しかけている状況に困惑を拭えていないようだ。

 しかし、当の本人である彼も当然動揺している。何せ一度も会ったことのない少女に名前を知られていて、あまつさえこれからまるで告白でもされるのではないかというような呼び出しを受けたのだから。

 だからこそ、次に込み上げてきた感情は疑惑。彼女は何か思惑があって声を掛けたのではないか。人知れず警戒心を抱いた。

 そしてそれは、隣で彼の表情を目にしていた堀北にも同じことが言えた。そもそも綾小路に他クラスの友人がいること自体到底信じられなかった彼女は、彼を見て確信に至ったのだろう。

 綾小路は少女の方に視線を戻す。こちらが従うまで離れるつもりはないようだ。

 

「……鈴音、悪い。少し席を外す」

「大丈夫なの?」

「取って食われるわけではなさそうだ。お前の方こそ、頼むぞ」

 

 実の所、よりにもよって今日この日に来てほしくないイベントだったが、ここで応じない方が更に勉強会が拗れてしまうだろうという判断で、この場を堀北に一任することにした。

 野次を飛ばす池と山内をシカトし、「こっち」とだけ言って先導する少女に付いていく。

 

「なあ。どこへ行くんだ?」

「特別棟」

 

 最小限なやり取り。彼女が自分に好意を抱いているなんてことはまずないだろう。

 しかも、「特別棟」と言う単語で彼は一層警戒心を強めた。確かあの場所には監視カメラがない。学校側にすら痕跡を残したくない会話でもあるのだろうか。

 程なくして目的地へたどり着くと、「ここで待ってて」と言い残して奥の曲がり角へと向かって行く。

 まさかの放置。もしや自分は現代女子高生の低俗なイタズラに巻き込まれているだけなのかもしれないという予感が過ったが、それはすぐに霧散し、まだその方がマシだったかもしれないと言えるような出来事が降りかかる。

 

「もう帰っていい?」

「ふふ、余程あそこが気に入っているんですね」

「違うから。面倒事はさっさと済ませるに限るってだけ」

 

 短い会話が聞こえ、次に姿を現したのは、別の少女だった。

 

「あんたが、オレを……?」

 

 こちらの問いかけに、少女が応じる気配はない。しばらく無言な時間が続く。

 先に口を開いたのは当然、杖を頼りに近づき始めた少女だ。

 

「本当に来ていたんですね。ここに」

「……? どういうことだ」

 

 全く以て脈略のない受けごたえに彼は首を傾げる他なかった。

 カツン、カツン、と乾いた音が周期的に木霊する。

 

「実に、八年と二百四十三日ぶりですね。綾小路清隆君」

「……新手のナンパなら他所で頼む。オレはお前と会ったことはない」

 

 つい一か月前まで人と関わることすらできなかったのだ。彼女が嘘を吐いていると結論づけるのは造作もないことだった。

 

「そうでしょうね。私だけがあなたを一方的に知っているに過ぎませんから」

「それは何とも奇妙な話だな。フランスに行って桜の花でも買ったらどうだ?」

 

 言葉そのものに危険を感じ取った綾小路は適当な返しをし、戦略的撤退を試みる。

 しかしその足は、次に放たれた言葉によって止まることとなる。

 

()()()()()()()

 

 否、止まらざるを得なかった。

 どうして彼女が、その単語を知っている。自分の過去に纏わる禁句とも言えるその言葉を、一体どうして……。

 

「……アメリカ大統領の小規模住宅か何かか?」

「フフ、あなたらしくもありません。動揺が隠しきれていませんよ」

 

 冗談をかませるだけ、今の彼にしてはマシなものだ。普通な高校生活を満喫することで生まれた余裕が思わぬ方向で功を奏した結果だろう。下手したら何も返すことができなかった可能性もあった。

 

「折角の再会なんです。挨拶もしないのは失礼かと思いまして」

「何度も言わせるな。オレはお前と初対面だ。挨拶などせずとも失う礼なんてどこにもない」

 

 必死に言い逃れするも、彼女は冷ややかな笑みを崩さない。相手は自分の素性にある程度の確信を持っている。この時点でそう判断した。

 彼女の持つ情報の出どころは依然不明だが、一先ず白旗を揚げるしかなさそうだ。

 

「……お前は、刺客か?」

「いいえ、安心してください。私はあなたのことを告げ口するつもりなんてありません」

 

 数歩の距離で二人は対面する。少女の背丈はかなり小さいが、これほど悪寒のする上目遣いはないだろう。

 ここで初めて、彼は目の前の少女を観察する。

 何かしらの障害を抱えているのか、移動に使う杖はトレードマークと言えるような特徴だ。可愛らしく被っているベレー帽も、彼女の気品に上向きの補正を掛けていた。

 しかし今は、好戦的な性格を想起させる獰猛な瞳が彼女の愛嬌を帳消しにしている。

 そして何より、雪のようなしっとりとした印象を与える髪は――。

 

「……お前、名前は?」

「申し遅れました。坂柳有栖です」

「坂柳、有栖……お前はまさか、()()()()()()()()()()()()()か……?」

 

 突拍子も無い彼の発言に、今度は坂柳が驚く番だった。彼女とて、自分が綾小路に認知されているなどとは思っていなかったようだ。

 しかし彼女は、動揺を抑え努めて冷静に返す。

 

「ええ、その通りです。どうしておわかりに?」

「……よく、覚えていない。何だか、あの時は視線のようなものを感じて、心のどこかに引っ掛かっていた……」

 

 そこまで答えた瞬間、綾小路の脳裏に()()()()()がフラッシュバックした。

 

「……『()()()()()()()』」

「……? それは一体……」

「いや、何でもない。ただの独り言だ。忘れてくれ」

 

 どうしてそんな言葉が口から出たのか、自分でも定かではなかったが、それは確かに自分の過去の中に眠っていたもの。確信に近いものがあった。

 今はとりあえずそのことを胸にしまい、改めて坂柳と対峙する。

 

「お前は、オレをどうするつもりだ」

「挨拶と言ったでしょう。今アクションを起こすのは時期尚早です。ただ、いずれは必ず、一切の邪魔の入らぬ場で雌雄を決したいと願っています。偽りの天才を葬る役目は、私にこそ相応しい」

 

 ここまで言うのだ。一目見た時から察していた通り――運動は兎も角――彼女は相当な実力者なのだろう。それも、慢心ではなく正確に自分の能力を理解し自負している。今後何らかの競いの場において、確かに厄介になるかもしれない相手だった。

 

「退屈になるものだと思っていた高校生活ですが、存外楽しいものになりそうです」

 

 そう愉悦する彼女だが、一方の綾小路はある危機感を覚えていた。その胸の内は、漏れ出るようにゆっくりと絞り出されていく。

 

「オレは……オレは、()()()()()()()()()()()()」 

 

 その言葉を予想していなかったのか、坂柳は興味深そうに彼へ意識を戻す。

 

「それは、どうしてですか?」

「……やっとなんだ。やっとオレは、自分の望んだものに辿り着けるかもしれないんだ。『普通』と呼べる人生に」

「ご冗談を。この学校においてそんな絵空事が叶うことはないと、周りの生徒の慌ただしい様子を見ていればご存じでしょう?」

 

 悲哀な瞳をする彼に対し、彼女は冷酷なまでに現実を突き付けようとする。

 確かにここは一言で表すならば『異常』だ。実力順のクラス分けやら赤点一つで無条件退学やら、そしてそれらの根底に存在するSシステム。何から何まで普通とかけ離れている言わば別の『箱庭』で、どれだけの普通をまっとうできると言うのか。寧ろ生徒全員に普通であることを許さない心意気まで感じられる。

 しかし、綾小路はその事実の前に口を閉ざすことはしなかった。

 

「絵空事か……本気でそう言っているのか?」

「異常な環境で正常に生きることなどできませんよ。ましてあなたのような平凡からかけ離れた才能の持ち主が――」

「オレだから、なんだ」

 

 彼は現実を真っ向から塗り潰すように、坂柳の言葉を遮る。

 

「オレだから、他のみんなが――お前でさえ忘れてしまっている日常の尊さに目を向けられる。その可能性は、どこかに眠っている」

 

 『解釈』――自分や他人を結び付ける上で不可欠な物と、『憧れ』――軌跡を糧に迷い足掻き選択する者を目にすることで芽生えた感情。どちらも、ここへ来て何度も存在を認識していたものだ。

 真っ白だと思い続けてきた過去も、確かな足掛かりとすることができるのではないか。それが、彼の中で渦を巻く問いだった。

 そして、その答えは、これから自分自身で証明していくのだ。

 

「笑ったり、怒ったり、泣いたり、驚いたりして、他人と他愛もない関わりを持って、普通に生きる。そんなささやかな願いさえ、オレは抱いてはいけないのか……?」

 

 拳の握る力が、無意識に強くなっていく。

 

「自分だけが全てだった。他人を道具としてしか見ることができなかったオレの手は、きっと冷たかったんだ。だからあの時、この手を握ってくれたあいつの手が、あんなにも温かいと感じたんだ。――羨ましいと、思ったんだ」

 

 あの時、自分にこの温もりを少しでも分けてもらいと思った。そして今では、いつか自らの手によって誰かを温めてあげられたらとまで思っている。きっとその心地良さは万人が望んでいるはずで、それこそが慈しみの結晶、すなわち自分に満足な像を与えてくれるものなのだと直感した。

 

「才能にこだわる意味をオレは見失ってしまった。お前と戦うことで、オレは手繰り寄せてきたものを、自ら手放してしまうような気がするんだ」

 

 坂柳と争うことになったとき、自分は恐らく持てる力の全てを尽くして向き合うことになる。それはつまり、自分の勝利だけのために力を振るうということ。それでは今追い掛けているものとは逆の、元来た道を引き返すことになってしまうのではないか。彼はそう危惧していた。

 

「それはただの怠慢なのではありませんか? あなた自身が抱えている矛盾と向き合い解消するために、作られた才人として私と競う必要がある。あなたもわかっているはずです」

「確かにそうかもしれない。オレはあらゆる分野において自分の勝利を絶対なものとして教育されてきた(生かされてきた)。だから、自分の根幹を否定するためにはお前のような生まれながらの才覚と相まみえ、葬られなければならない」

 

 『力を持っていながらそれを使わないのは、愚か者のすること』。この忌まわしい言葉はいつまでも頭の中に残るノイズ。今まではずっと、そう決めつけていた。

 そう、今までは。

 

「ただ、それはあくまで一つの選択肢に過ぎないと、オレは思う」

 

 しかし彼は、この一か月で変わった。()()()()()()()()()を見つけることができたのだ。それは偏に、ある盟友との日々があったからだ。

 

「もしかしたら、お前に負ける(救われる)ことで復讐の成就を望む未来があったかもしれない」

 

 自分が敗北することは、間接的にあの父親が敗れたことにも繋がってくる。それは綾小路にとって、確かに旨味のあることではあった。

 

「だけど、オレはまだ諦めたくない。捨てたくない」

 

 だが、そう考えるのは早計だ。自分はまだ、誰かに微笑むことができる。誰かのために怒ることができる。誰かと近づけないことを残念がることができる。

 一縷の望みを抱くのには、十分な時間だったのだ。だからこそ、彼は初志貫徹を決め込んだ。

 

「『俺』は、()()()()()()()()()()()()()()。お前は間違っているのだと突き付けたい。――それが、『今』のオレの願いだ」

 

 受動的に求めるだけで上手くいくかはわからない。何より、上手くいかなかった時にきっと後悔する。だからせめて、最後まで自ら足掻き続けたい。そうすれば、万が一叶わなかったとしても、その苦汁を飲み込むことができるはずだ。

 偽りだらけの天才であろうと、偽れないアイデンティティーを失うことなく普通の尺度と共存し、他人を想う生き方ができる。彼はその可能性を信じることにした。

 永遠と紛える沈黙が流れる。床の軋む音も、鳥の鳴く声も、時の針の音も、一切存在しない。真に無音の空間が、そこに生まれた。

 途中坂柳は静かに目を閉じ考える素振りを見せた。それすらも綾小路は黙って見つめ続けた。まるで両者の間を流れる静謐をもわかりあった、旧知の仲であるかのように。

 

「……それは、浅川恭介君の影響ですか?」

 

 ポツリと、彼女は呟いた。

 浅川の名前が出ることで動揺するも、どこかで知り合っていたのだろうとすぐに思い直し、答えた。

 

「そうだな」

「一体彼の何が、あなたをそこまで変えたんです?」

「言葉にするのは難しいが……オレとあいつはどこか似ていて、どこか正反対なんだ」

 

 浅川との時間を振り返りながら、ゆっくりと話す。

 

「俗世に疎いところや、自分自身に苦手意識を持っているところはかなり似ている。好奇心に弱いところなんかも……平凡な日々を望んでいるところなんかは、特にな」

「では、正反対というのは?」

 

 そこで彼は逡巡する。正反対な部分については、ある程度推測が混ざるからだ。

 

「……オレはまだ、誰かのことを想うフリをするので精一杯だ。他人への情けを自分ためにと考えることが多い。だけど恭介は、その『()』なんだ、と思う」

 

 確証はなかったが、浅川の最近の佇まいからはそのような性質を感じていた。一度もそれが露わになる瞬間を見ていないため断言はできないものの、そう考えると自分がどうしてこうも彼に感化されやすいのかが納得できた。

 

「互いに補い合い、与え合うことを望んでいるから、オレたちはやっていけているんだ」

 

 彼も自分に何かを求めている。それが自分と良好な関係を築けた最たる理由なのだろう。

 だから、今の自分たちの関係は、その均衡が崩れているからであるわけで……。

 それを坂柳に話したところで、何も解決はしない。それ以上のことは語らなかった。

 彼女は綾小路の答えに対し微妙な表情をする。

 

「あなたと彼が正反対、ですか……」

「何か心当たりがあるのか?」

「あなたも理解しているでしょう。彼は本来あなたを推し量れる程のポテンシャルを持っていない。なぜなら彼は……」

「いや、いい。それならわかっている」

 

 質問したのはこちらだが、彼女の答えが予想できてしまったためにそれ以上は言わせなかった。代わりに反論を述べる。

 

「だがな、お前はあいつを少し甘く見ている。あいつの持っているものは、オレやお前の持っているものとは明らかに異なる。一度や二度話したくらいじゃ気づかないぞ」

「ほう、あなたがそこまで言うとは、興味深いですね。つまりはそこに、あなたの期待する何かが秘められていると?」

「どうだろうな。ただ、あいつのそういう部分は長所だと思っている」

 

 そう豪語する綾小路を見て、坂柳は神妙な顔つきになって思案する。

 

「……なるほど。でしたらあれは……」

 

 恐らく彼女らしくないのであろう歯切れの悪い口調で話し出した。

 

「実は、私が浅川君と会った時、彼があなたの語っているような男にはまるで見えなかったんですよ」

「人によって誰かに対する印象が異なるのは別に可笑しいことじゃ……」

「いいえ、ネタは割れています。彼は間違いなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、私と対面していたんです」

「…………何が言いたい?」

 

 嫌な予感がした。柄にもなく焦りと怒気の混じった声音で問いただす。

 

「あなたが入れ込んでいる彼は、本当に浅川恭介君なのでしょうか? そもそも、彼の中に本当の自分など残っているのでしょうか?」

 

 不気味な感覚が、背筋を駆け巡る。

 彼女が言いたいのは、浅川の言動、仕草、性格まで全てが精巧に作られたものかもしれないということだろう。

 それは、とても悲しいことだ。さすがの綾小路もそれくらいは理解できる。

 しかし一方で、その事実は一つの鍵になるのだとも解釈していた。

 

「だったら、探し出すまでだ」

 

 自分に言い聞かせるように、彼は言葉を紡ぐ。

 

「『約束』があるんだ。あの時のオレたちは、間違いなく互いの本音で語り合っていた。例え口調や外見が作られたものだったとしても、あの時の恭介は本当だったのだとオレは信じたい」

 

 思えばあの約束が、全てのきっかけだった。自分が願いを向けていたはずの彼から願いを託され、綾小路の中で何かが変わる種となった。

 聞きたいことは全て聞き終えたようだ。僅かな間を空けて、坂柳は口を開いた。

 

「非常に、残念です」

「悪いな。お前の期待に応えてやれなくて」

「それは勿論ですが、それだけではありません。人と触れ合うことの温かさをあなたに教えてあげられるのが、よりにもよって彼かもしれないということがです」

 

 そう言うと彼女はそっと綾小路の手を自分の小さな手で包み込んだ。

 

「あなたが望んでいるものは、確かにとても大切なものです。人肌の温もりは、決して悪いものではない。ただ、それに対して悪意を抱くことがあるのもまた事実です。これから先、あなたはその道の途中で幾度も苦悩することになるでしょう。しかし、それもまた他者と関わる上で向き合わなければいけないものであることに変わりありません。そのことを、どうか覚えておいてください」

 

 彼女の真剣な表情からは、その言葉の重みがしかと伝わって来た。綾小路は出来る限りの誠意をもって受け止める。

 

「ああ、肝に銘じておく」

 

 彼の返しに満足した様子を見せた坂柳だが、すぐに元の表情に戻る。

 

「できればその役目を請け負うのが、あんな歪みをきたしている男でなければいいのですが……」

「お前は、恭介のことが嫌いなのか?」

「ええ。どうしてか彼には言い様のない腹立たしさを覚えます。その答えに仮説が生まれたので、また今度お会いしてみようかと考えていますが」

 

 至って素直に言ってのけた彼女に対して、綾小路は少しおかしくなって顔を綻ばせた。

 

「どうかしましたか?」

「いやな、やはりあいつは不思議なやつだと思っただけだ」

 

 要領を得なかった彼女は首を傾げる。

 

「お前も結局、恭介に興味を抱いているじゃないか」

「……違います。これはあくまで嫌疑の範囲です」

「いずれにせよ、そういう関心を引き寄せる体質があいつの特長なのかもな」

「……好きの反対は無関心、ということですか」

 

 悔し気な表情をするあたり、あながち本気で嫌っているのだろう。知性に溢れた彼女にこうまで言わせる浅川はある意味さすがだなとしみじみ思う。

 話が一段落つき、坂柳は踵を返した。

 

「もういいのか?」

「今の時点であなたと対決するには障害となる要素があまりに多すぎる。今日は久しぶりに楽しいお話ができたということで満足しておきます」

「……ありがとな」

「礼を言うのはこちらの方ですよ。ただ、近い内に必ずあなたを葬って差し上げますので、楽しみにしていてください」

 

 その言葉を最後に、彼女は廊下の奥へと歩いて行った。

 しかし、曲がり角で見えなくなる直前、不意に綾小路は彼女を呼び止めた。「坂柳」

 

「何でしょう?」

「二つだけ聞きたい」

 

 自分の過去を、あの部屋のことを知っている坂柳なら、ずっと引っ掛かっていた疑問について何か知っているかもしれない。小さな思いつきで、綾小路は尋ねた。

 

「恭介は、()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「ええ。少なくとも私の記憶に彼の顔はありませんよ。整形でもしているなら話は別ですが」

 

 何てこともなさそうに即答する彼女にホッとする。彼女がそう言うのであればきっと間違いはないのだろう。代わりに新たな疑問が浮かんだが、一先ずは恐れていた事態が起こらなかったことに安堵することにした。

 

「二つ目は?」

「ああ。それはもっと他愛のないことだ」

 

 その妙案が浮かんだのはほとんど偶然だ。彼女が綾小路を見に来たのが偶々あの日だったこと、それを綾小路が思い出したこと、そして、浅川たちとの日々によって他者と関わる術を僅かでも身に付けていたこと。兎も角、それは彼にとってまさしく天啓と呼べるものだった。

 

「もしよかったら、今度時間がある時に『チェス』でもどうだ?」

「……っ! 覚えていて……」

 

 彼女は一瞬感慨に浸りながらも、嬉しそうに表情を緩ませて応えた。

 

「はい、ぜひともよろしくお願いします」

 

 そうして今度こそ、特別棟の人影は一つになった。

 相も変わらず無音の空間。まるで自分が気体となって溶け込んでしまいそうだ。

 これまでで一番心を許してきたのは浅川だったが、それでも外しきれない枷があった。坂柳はそれを取っ払って話すことのできる生涯初めての相手だった。

 故に、彼女と会話を終えた彼の表情は、少し清々しいものになっていた。

 人肌の温もり、か。

 図書館へと足を向けながら、彼女の言葉を振り返る。

 彼女は、人との関わりは悪いものばかりではないと言いつつも、悪意を抱くこともあると言った。今浅川との間に生まれている溝――いや、それだけではない。今まで堀北との間にも生まれたことのあるぎこちなさも、それに類するものなのだろうか。

 あれは確かにモヤモヤとした不快感を与えるものだった。それに対して悲観的にばかりなっていたが、向き合うことで何かを得られるというのだろうか。自分の求めている何かを……。

 やはりこの手の難題は、自分一人で考え抜くのには限界がある。あの盟友となら、多少の進展が起こるかもしれない。

 またもや一つの意思が芽生えようとしていた綾小路だったが――図書館の門戸を開いた時だった。

 

「こんなことやってられっかよ!」

 

 次から次へと巻き起こるイベントに、今日は厄日かと嘆かずにはいられなかった。

 




あれ、お二人さん、なんかだいぶ先の巻の会話しちゃってない?

個人的な意見ですけど、事なかれ主義のままの彼ではなく、しっかりとした理想像を持って対決を拒む彼であれば、11巻の彼女の台詞からして理解を示してくれるんじゃないかと思ってこうしました。

と言いつつも、ちょっと原作での二人の考え方をあまり理解できていないので、もしかしたら矛盾しているところがあるかもしれませんが、余程のことでない限りは偶々本作ではそういう世界線なんだな程度に思っておいてください。

因みに、一番オリ主のことを理解できているのは当然清隆くんです。坂柳が人間性の部分、椎名が感性の部分において、清隆くんに次いで理解しています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

アルゴリズム

「おい、何があったんだ?」

 

 険悪なムードに臆さず踏み込み、堀北の胸倉を掴む須藤を宥めるようにしながら綾小路は問うた。

 突然現れた友人に一瞬動揺するも、すぐにギラリとした目付きになって須藤は言った。

 

「コイツ、人を愚鈍とか言って罵った挙句俺のバスケを侮辱しやがったんだ」

「私は……事実を言ったまでよ」

 

 語気の荒れている彼とは対照的に、堀北の口調はやけに大人しめだった。心なしか俯いているようにも見える。

 

「勉強ができないから何だってんだよ。頭良いだけで偉そうな口叩いてんじゃねえ」

「あなたたちを無知無能だと貶しているわけじゃないわ。それを直すための勉強会だもの。ただ、何度も何度も集中力を欠いてばかりでやる気を感じられないことに呆れているだけよ」

「ハッ、大体勉強なんざ何の役にも立たねえんだよ」

「バスケに明け暮れるよりかは余程堅実なことだと思うけど」

「そりゃ進学とか就職とかの話だろうが。バスケでプロ目指してる俺には関係ねぇよ」

「そんなに簡単な世界だと思っているの? 日頃の本分すらまっとうできない今のあなたが将来そんな大それた選手になれるだなんてとても思えないわ」

 

 まるで水と油。根本から価値観の違う二人が仲良くできるわけがない。割って入った綾小路そっちのけでヒートアップしていた。

 

「どうせバスケットの練習も上手く行かないことがあったらすぐに逃げていたんでしょう。そんな人間がプロになるだなんて幼稚な夢物語を実現できるわけが……」

 

 ついに堀北が須藤のバスケへの想いにまで中傷しようとする。――が、そこまで口にしたところであっと何かに気付いた様子を見せ、上げたはずの顔を再び俯かせてしまった。

 

「い、いえ。それとこれとは話が別ね……」

「あ? 何が言いたいんだよお前は」

「現実を見なさいということよ。あなたの好きなバスケットも赤点一つでできなくなるかもしれない。退学という二文字の重さをあなたは本当に理解しているの?」

 

 間を置かずに元の威勢に戻ったのはさすが堀北といったところだろう。飛び出た正論を前に須藤とてたじろぐ他なかった。

 至極真剣な表情で彼女は言った。

 

「誰のためでもない、自分のためよ。あなたのバスケのために、今は苦汁を飲み込んで精進しなさい」

 

 どこか冷静さを取り戻したような毅然とした態度での発言だったが、相手はそういうわけにもいかなかった。

 完全に頭に血が上ってしまっていた須藤は舌打ちをし、不機嫌な態度を隠さず乱暴な手つきで荷物を持ち上げて去って行く。

 

「お前の施しなんざ受けてらんねぇ。部活も惜しんできたってのにイライラさせやがって、時間の無駄なんだよ」

 

 吐き捨てながら退出しようとする須藤だが、それを黙って見届けるわけにはいかない男がこの場にいた。

 

「須藤」

「……っ、綾小路……」

 

 ハッと目が覚めたかのように動揺する須藤と目が合う。

 

「いいのか? 本当に。鈴音の言ったことはあながち嘘というわけでも……」

「……わりぃ、じゃあな」

 

 歯がゆさから背を向けるようにして、須藤は一目散に出て行ってしまった。

 それに倣うようにして、池と山内も席を立つ。

 

「俺もやめよ。確かに勉強できない俺らも悪いけどさ、みんながみんな堀北さんみたいに頭良いわけじゃないんだよ」

「参考書まで買ってくれたのは嬉しかったけど、そんな上から目線な物言いされちゃ勉強する気もなくなるってもんだぜ」

 

 ぞろぞろと、二人も出口の方へ歩いて行く。

 

「ふ、二人共、本当に良いの?」

 

 彼らをこの場に引き留める役目を負っていた櫛田が不安げに聞くが、既に事は手遅れなようだ。

 

「ごめんな櫛田ちゃん。――沖谷も、早く行こうぜ」

 

 おどおどしていた沖谷は山内からの呼びかけに迷う素振りを見せる。

 

「えっと、僕は……」

 

 彼は無言のままでいる堀北と綾小路をそれぞれ一瞥し、小さな声で答えた。

 

「……僕、もうちょっとだけここにいるよ」

「お、おう、そっか。じゃあ先に行ってるわ」

 

 予想外の返答だったのか少し歯切れの悪いセリフを吐いて、二人一緒に去って行った。

 

「ねえ、堀北さん。どうしてあんなことを……」

 

 消え入りそうな声で櫛田が聞いた。蓄積されていたものがダムの決壊の如く一気に溢れ出たために、突然の出来事だったのだろう。綾小路は危惧していた事態が訪れてしまったことに落胆する。()()()()()()()()()()()()()()()、彼は先刻の呼び出しに乗り気でなかったのだ。

 一番痛かったのは土日を挟んでいたことだ。勉強会のない二日間で三人の意欲は逆戻りしてしまっていた。そこに綾小路への呼び出しイベントが重なり、堀北を宥める役割を熟していた彼がいなくなったことが決め手になった。堀北自身に精神的な限界がきていたことも、懸念要素の一つだったのだ。

 自分が席を外した際の池と山内の阿鼻叫喚な様子からして、大方あの後も自分と自分に声を掛けてきた少女のことにばかり意識を削がれていたのだろう。言い争う中で出てきた堀北の発言からもその一面を窺うことができた。一概に彼女を責めるというのも、正当ではないように思える。

 櫛田の問いかけに対し、彼女はいつまでも俯いたまま何も言わない。ただ、その拳が固く握りしめられているのが、綾小路からは見えた。

 答えるつもりがないことを察したのか、櫛田は彼女に背を向け、赤点候補の三人の後を追おうとする。

 

「……私が何とかして見せるよ。こんなに早く友達とお別れになるなんて嫌だし、何より綾小路君に頼まれたことだから」

 

 その背中には哀愁が見え隠れしているようだったが、堀北は彼女の言葉に違和感を覚えたようだ。

 

「櫛田さん。あなたは、本気でそう思っているの?」

「クラスの仲間を助けたいって思うことがそんなに変?」

「その心意気を疑っているのよ。あなたが本心から彼らを救おうとしているようには思えない」

「何それ……意味わかんないよ。どうしてそんな酷いことが言えるの? ……じゃあね、三人共。私、今から須藤君たちのこと探してくる」

 

 穏やかではないやり取りを終え、櫛田は図書館から姿を消した。

 次にやってくるのは当然、深い静寂だ。何をすればいいのか、何を言えばいいのかわからない。そんな時間が引き伸ばされていく。

 居心地の悪くなるような沈黙を破ったのは――紙の擦れる音だった。

 

「沖谷は、どうして残ったんだ?」

 

 きっかけを得た綾小路は、音の主である少年に声を掛けた。

 

「今までの僕だったら、きっと流されて池君たちと帰っちゃってたと思う。でも、偶にはそういうの、やめたいなって」

 

 彼は周りに流されてしまう自分の性格を、コンプレックスとまではいかないが気にしていた。かつての自分のことが脳裏に浮かび、思いとどまらせたのだろう。

 

「綾小路君と浅川君のおかげで、ちょっとは変わりたいって思えたんだ。例え須藤君たちが勉強をやめちゃっても、僕はやるべきだと思うからやる。もしかしたら、僕が勉強しているのを見て焦って戻ってきてくれるかもしれないからさ」

 

 間違いなくその言葉は、彼の成長を裏付けるものだった。

 そしてそれは、綾小路と、その盟友である彼の行動によって始まった変化……。

 

「……お前は、強くなったな」

「あはは、そうかな。だったら嬉しいかも」

 

 短い会話ではあったが多少はざわついていた心が落ち着きを取り戻した。綾小路は再び堀北と向かい合う。

 

「……鈴音」

「……何かしら」

「それが、お前の下した決断か?」

 

 先週末に彼は「選択しろ」と念を押した。その結果がこれなのかと、純粋に問いただした。

 

「……違うわ」

 

 しかし彼女は、肯定しなかった。

 綾小路は言葉の続きを待つ。

 

「いつもの私だったら、とっくに投げ出していたわ。それをここまで粘っただけでも褒めて欲しいくらいね」

 

 普段通りの高飛車なセリフだが、その声は若干震えているように聞こえる。

 

「でも、自分が切り捨てようとしているものが正しいのか、確信を持てなかった。あなたの、言う通りだった……」

 

 垂れた髪で見えづらいが、彼女は唇を噛んだ表情で語っていた。

 

「迷いながらやってきた。思えば、自分の葛藤を誤魔化そうとしていたのかもしれない。そして結局どっちつかずのまま、気が付けば抑えていたものが全部溢れ出ていた」

 

 すると彼女は、一転して自分に失望するかのように脱力する。

 

「とんだお笑い種ね。私は最後まで何も選べず、納得のできる結果を臨むことができなかった……」

 

 そこにあったのは、今の彼女の弱さだった。誰かに頼る方法を知らなかった彼女は、自己解決する手段を見出せない中、それでも独りで足掻いていた。その事実を軽く見てしまっていた三日前の自分を、綾小路は恨んだ。

 そして同時に、()()()()()()()()()()()()()()を理解した。

 慰めの言葉はいらないだろう。かと言って、叱責など己の中で完結しているはずだ。

 今綾小路が、目の前の少女に言ってやれることは決まっていた。

 

「……つまり、お前はまだ勉強会をやめると決めたわけじゃないんだな?」

「え……?」

「どうなんだ」

「…………決めてはいないわ」

 

 「わかった」その言葉が聞ければ十分だ。自分の荷物を携え図書館を出て行こうとする。

 

「何をするつもり……?」

「櫛田を探してくる。あいつ一人では三人見つけるのに時間がかかるだろうからな」

 

 行為は正直に、目的は嘘を吐いて答えた。

 彼は勉強会に纏わる一連の出来事を経て、一つの可能性に至った。これからの行動はその布石となるはずだ。それも、主に自分のことに関して。

 

「ま、待って。私は――」

「お前はここにいろ」

 

 戸惑いながら呼び止めようとする堀北を制し、彼女を見る。

 

「自分の責務を果たせ。今日の勉強会は、まだ終わる時間じゃないだろう?」

 

 彼女はハッと息を呑み目線を下げる。

 そう、まだこの場に生徒は残っている。沖谷は梃子摺りながらも黙々と参考書を頼りに勉強を進めていた。

 今の彼女は意識を向ける先があまりに曖昧だ。当てのない未来に翻弄されているよりかは、目の前の現実に対応させるべきだろう。彼はそう判断した。

 

「…………わかったわ。――沖谷君、勉強会の続きをしましょう」

「うん、お願い。堀北さん」

 

 彼女は沖谷の隣の席に腰を下ろし、指導を再開した。

 それを見届け、綾小路は廊下へと出て行く。

 ――大丈夫だぞ、鈴音。お前はちゃんと進めている。

 彼は決して先刻の堀北を咎めようとも、まして嘲ろうとも思わなかった。

 勿論ここまで何とか勉強会を続けられたことは立派だが、それだけではない。

 彼女は苛立ちに身を任せ、須藤のバスケ――大切な夢を馬鹿にしようとした。しかし、すんでのところで気が付いたのだろう。()()()()()()()()()()()()()()()と。

 『Aクラスを目指す』。その言葉を聞いて、今のDクラスでどれだけの人が嗤いださずにいられるだろうか。

 茶柱も言っていた。今年のDクラスは本校初のゼロポイントスタートを決めた愚か者たちだと。そんな集団が今まで一度もなかったとされる一大下剋上を達成するなど、夢物語もいいとこだ。

 それこそ、堀北が須藤のプロ選手という夢に対して過った思いと同じように。

 何かに盲目になっているとき、人は案外自分のことがわかりにくくなるものだ。にも関わらず他人に指摘されるよりも前に自分の過ちに気づき律することができた。その時点で、堀北が何も成せなかったなど、あるわけがない。それが、綾小路の考えだった。

 それを言葉にせずに彼女の前から去ってしまったのは、彼の不器用さ故だろうか。あるいは、彼女はいつかそのことを自覚するはずだという過信からだろうか。

 いずれにせよ、今の綾小路はその思考を程々に打ち切り、脳裏に浮かんでいる一つの可能性を確かものとするべく校内を駆け回っていた。

 五分程小走りで櫛田を探したが、彼女の姿はどこにもない。電話は通じず、GPSも人気者の彼女が位置情報をオンにしているわけがなかった。

 あと探していない場所は……。

 彼は次に屋上を探そうと階段へ向かう。すると――

 

「あれ、綾小路君?」

 

 対象と鉢合わせになった。

 

「……屋上まで探しに行っていたのか?」

「うん。なかなか見つからなかったから。でもダメ、屋上にもいなかったよ」

「……そうか。じゃあもう帰ってしまったのかもしれないな」

 

 怪しい、とうのが正直な感想だった。

 本当に三人を探すためだけに屋上へ行っていたのだろうか。密会やら憂さ晴らしやら、表向き天使な彼女が後ろめたいと感じるものは多く挙がる。

 無論詮索することは憚られるが、そもそも今の綾小路にとってそんなことはどうでもよかった。

 

「綾小路君も、須藤君たちを探しに来たの?」

「いや、オレが探していたのは桔梗、お前だ」

「え、私?」

 

 キョトンとする彼女だったが、すぐに心当たりが浮かんだのか合点のいった顔になる。

 

「あ、もしかして……」

「相談したいことがあるんだ」

 

 予想通りだったようで、彼女は躊躇わずに快く頷いた。

 

「うん、いいよ。聞かせて」

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 話はそのまま屋上ですることにした。

 これまでとは違う場所であることに若干馴染みのない感覚がする。

 隣に座る少女を見て、女性は風にたなびく髪を鬱陶しく感じないのだろうかと疑問に感じながらも切り出した。

 

「勉強会、散々なことになってしまったようだな。すまない」

「綾小路君が謝ることじゃないよ。寧ろ私の方こそ、綾小路君がいない間にこんなことになっちゃって……力になるとか言っておいて、ごめんね」

 

 客観的に物申すなら、誰が悪いというわけでもないだろう。櫛田はその場にいるだけで池と山内の引き留め役になっていたのは確かだったし、綾小路もさすがに自分の居ぬ間に事態が動いてしまったら手の施しようもなかった。

 

「これからどうなっちゃうのかな。このままじゃ三人共退学になっちゃうよ……」

「一応勉強会は再開を考えているらしいぞ」

「そうなの? じゃあ尚更みんなを説得しないといけないね」

「ああ、そうだな。……実は、相談というのはそのことについてなんだ」

 

 「え?」櫛田は目を剥いてこちらを向く。

 

「用件は主に二つだ」

 

 二本指を立てて、綾小路は問いかけた。

 

「まず、池と山内の説得に協力してくれないか?」

「それはいいけど、どうして二人だけなの?」

「順を追って説明する」

 

 彼は襟を正し、櫛田に詳細を語り始めた。

 

「池と山内は、須藤に便乗する形であの場を投げただけだ。須藤が勉強会に復帰すると言い出すだけで考えを改めてもおかしくはない。参考書のおかげで多少鈴音に対する印象は和らいだようだし、やり方を考えればお前に協力してもらうことで引き戻すことは難しくないだろう」

「そこまでは理解したよ。でも、須藤君は違うってこと?」

 

 綾小路は無言で頷いた。

 

「あいつのヘイトは鈴音自身に強く向いている。彼女が開く勉強会であること自体が苦痛になってしまっているんだ。しかもあいつは我が強く、女子になびかれる質でもない。池と山内が戻ると言っても意固地になって聞かないかもしれないし、お前の説得による効果も薄いだろうな」

 

 参考書を持ち出した際に他の二人とは違ってあまり好感を示さなかったのも、須藤への説得が一筋縄ではいかないことを予感させる原因の一つだ。事前に馬が合わなそうだと思われていた堀北とここまで険悪な関係になってしまったために、連れ戻すのは困難を極めるだろう。

 

「確かに、須藤君はあまりそういうところを見せない人かも。じゃあ、一体どうやって須藤君を説得するの?」

「それは……」

 

 綾小路が至った一つの可能性。今までの軌跡を辿れば必然だった。

 

「オレは、()()()()()()()()()()()()と思っている」

「浅川君? でも、浅川君は堀北さんの勉強会に一度も参加していないんだよ?」

 

 櫛田の言う通り、彼はこれまでの経緯に全くと言っていい程関与していない人物だ。

 しかし、綾小路はこれが最善の手段だと言う。

 

「そもそも、須藤が良好な関係を築いている相手はかなり限られている。池と山内は論外として、バスケ部の先輩を除くとオレ、沖谷、そして恭介の三人くらいだ」

 

 『トップ4』というこの場においてはそぐわない単語は伏せて事実を述べた。

 

「それに、あいつは恭介に助けられた経験がある」

 

 水泳の授業日、賭け事に忌避感を抱いていた彼に恩を売った過去が浅川にはある。一応男子のグループチャットに入れてもらうという形で恩返しはされているが、須藤が人知れず浅川に恩義を感じている可能性は高い。

 

「他の誰かが試すよりも、恭介が動いた方が見込みはある」

 

 そう断言した綾小路だが、この考えに従うことにしたのはついさっきのことだ。

 勉強会残留を宣言した沖谷の心の変化。そこに彼は、再び浅川の持つ可能性を見たのだ。

 

「綾小路君は、浅川君のことを信頼しているんだね」

「……まあな。言っておくが、勿論オレも一緒に説得するからな?」

 

 こればかりはそういう感情的な部分よりは本当に合理性を考慮した上での意見だったのだが、話を合わせておくことにした。

 どちらかと言うと、感情的な部分があるのは『もう一つの理由』の方だ。

 

「……何だか羨ましいなあ」

 

 すると、何かを思い起こしたかのような、ポツリとした呟きが虚空に放たれた。

 隣を見ると、櫛田はどこかアンニュイな雰囲気を纏い、温もりの欠けた目で空を仰いでいた。

 

「羨ましい?」

「うん。そこまで気を許せる相手がいるんだなって思うと、綾小路君には勿論、信頼してくれる人がいる浅川君にも嫉妬しちゃうかも」

「そうは言うが、お前にだってたくさん友達がいるじゃないか」

「あはは、そうなんだけどね。ただの友達ってだけじゃ、話せないこともあるんだよ。他のみんなも、きっとそうなんじゃないかな」

 

 尻つぼみな発言からは、不安は感じられない。どちらかと言うと、哀しい摂理を悟り諦めを抱いている。そんな口調だった。

 

「それはまあ……オレにだってある」

 

「あはは、でしょ?」いつもと変わらないはずの笑い声は、少し乾いて聞こえた。

 彼女に何と返すべきかわからなかった。返せないと直感したというべきかもしれない。櫛田の胸の内を熟知しているわけでもなければ、自分自身いまだ感受性に欠ける。同意するので精一杯だった。

 だから、きっと彼女が求めている言葉は――救いとなる言葉は、そんなものではないのだろう。

 向き合うとは決めたものの、こういう時に上手いことを言ってやれない自分を歯がゆく思い、無力感を誤魔化すように、櫛田を真似て頭上を眺めた。

 傷心的になっていたせいか、今にもこの真っ青な空に吸い込まれてしまうのではないかという錯覚に陥る。

 

「そしてね、いつしかわかりあえないものや嫌なものばかりが浮き彫りになって、理想の形を取り戻せなくなっちゃうの」

 

 「変な話だよね」と困り顔で話す櫛田の声を聞き、もしかしたら隣の少女は密かにそれを望んでいるのかもしれないと思えた。

 人と人とが繋がるのは些細なきっかけから、というのはこの短い期間で何度か思い知らされてきたことだ。ただ、そうして始まった関係は終わりまでもが突然で、まるで複雑に絡み合う歯車のように途端にぎこちなくなる。コミュニケーションの機会に恵まれている彼女はとりわけそれを痛感しているのかもしれない。

 

「……無理を、しているのか?」

 

 自嘲気味な発言をする櫛田のことを考える内に、ふとそんな言葉が零れ落ちる。予想だにしていなかった彼女は一瞬目を見開き、先程と同じ笑顔を見せた。

 

「ううん、全然。ただ、それくらい脆い年頃なのに、何度掛け違えても元の形を取り戻そうとする綾小路君たちはきっと強いし、だからこそ幸せを掴めるんだろうなって思ったんだ」

「……幸せ、か」

 

 そう言われると、幸せとは何だろう、なんて哲学的な問いが頭の中で浮かぶ。考えたところで誰も具体的な答えは出せないのだろうが、一度は漫然と考えてしまうものなのではなかろうか。実際綾小路も、ぼんやりと意識を天に預けたまま思いを巡らせていた。

 『青』からイメージされるものには『幸福』、『冷静』、『正義』、『悲哀』、『安寧』などがある。もしも自分が一つだけ選ぶとするならば、それは『解放』もしくは『純粋』だ。

 ちょうど彼が抱いていた外の世界の理想像――憧憬は、今まさに自分たちを覆う雲一つない青空のようなものだった。

 決して無色ではなく、翳りもない、どこまでも高く遠くを見渡せる世界。期待とまではいかずとも強い興味があったことは事実だ。

 この一か月でそんな生活にも少しは慣れてきたが、同時に現実はそこまで綺麗なものではないと知った。

 澄んだものが自然界にばかり溢れているのは、人の生きる場所にはそういうものが宿らない表れ。そんな気がしてならなかった。

 晴れ時々曇り、あるいは雷雨や雪化粧。コロコロと浮き沈みや揺れ動きを起こす人間関係は、寧ろ余計に気まぐれな空模様と重なるが、きっと自分たちはあんな高いところまでたどり着けないのだという諦観を抱く。

 それこそ、イカロスに勇気と慢心を与えた翼を以てしても、存在するはずの幸せすら掴めないということなのかもしれない。

 だとすれば、自分は決して幸せを運ぶ鳥にもなれないのだろうか。そう考えると、自分の幸せも他人の幸せも、アプローチについては大差ないように思える。

 幸福を知らなければ、誰かに幸福を与える資格も術もない、といったところか。

 故に、彼女に言ってやれなかった。坂柳との会話で改めて立志できたはずの「変わる」ということの可能性を、示してやることができなかった。

 櫛田の抱えている闇の片鱗を垣間見ることで再び不安に還ってしまった彼には、とても堂々とそれを説く勇気が湧かなかったのだ。

 

「……今はまだ、わからないな」

 

 苦悶に近い表情で、答えを返す。

 

「あと、オレは別に強くなんかなっていない。寧ろ弱くなったとまで思う」

「そうなの?」

「何となくだけどな。ほんの少し寂しがり屋になってしまった気がする」

「ふふ、何それ。でも、それって弱さって言うのかな。ただ単に、他人のことが好きになったっていうような気もするけど」

 

 彼女の内面に触れるのを恐れるかのように、自分のことを曖昧に語る。

 そもそも、答えなんてどこにも存在しない難題ばかり。人付き合いに関して天下の櫛田でさえわからないことがあるのだ。まだ自分は十分な領域にまで至っていないのだろう。そう何とか割り切ることで、綾小路は気力を保つ。

 しんみりとした空気と終わりの見えない議論を察したのか、櫛田は気を取り直して本題に戻るよう促した。「そういえば、二つ目の相談って?」

 

「話が逸れたな。実は、恭介は既に一度鈴音の勉強会に関わることを拒んでいるんだ」

「え!? じゃあ浅川君に頼めないってこと?」

「まあ、そうなる……」

 

 ボトルネックとなるのがそこだ。浅川は既に保留の段階を過ぎてしまっている。堀北に啖呵を切ってしまったあたり、彼をこちら側に引き寄せるのは容易ではないだろう。

 例え浅川がまだ迷っていたとしても、責任やケジメについて重く捉えている彼にとって、気安く戻ることには抵抗を覚えるはずだ。

 その点について一応の『解』は見出せてはいるものの、綾小路が求めているのは別の視点だった。

 

「だが、この状況で何もしないわけにはいかない。あいつを説得するのに適任なのは、その……多分オレだ」

 

 自分で言うのが照れ臭かったためにしどろもどろな言い方になってしまった。さすがにおかしかったのか、櫛田はクスリと笑う。

 

「つまり、綾小路君の二つ目の相談事は、浅川君を説得するアドバイスをして欲しいってことだね?」

「そういうことだ。少々任が重いかもしれないが、大丈夫か?」

「うん、大丈夫。でも、前の時と同じで上手く答えられないかもしれないよ?」

 

 前、というのは、入学翌日の時のことだろう。あの時はSシステムのことを伏せたためにほとんど情報を開示することができなかった。故に彼女は回答に困ってしまっていたが、今回は違う。

 

「必要なことは話す。だから頼む」

 

 話したくないことまで話す気はないが、最低限のことを語るだけでも、今の自分よりはマシな考えが出るかもしれない。あの時とは異なり小さな期待を胸に、彼女にお願いした。

 

「……うん、わかった」

 

 それから語ったことのほとんどは五月を跨ぐ前後のことだ。浅川がどんなことを言っていたのか。それに対して自分はどんな言動を取ったのか。内容を選びながら、慎重に伝えた。

 一通り説明し終えると、暫く櫛田は思い悩んだ表情で、何を言おうか考えているようだった。

 次に彼女が口を開いたのは、数十秒後のことだ。

 

「……綾小路君は、浅川君にも一緒に協力して欲しかったんだよね?」

「ああ」

 

 彼は一度、浅川に「お前にも参加して欲しい」という趣旨の発言をしている。その時彼は「ありがとう」とだけ言っていたはずだが……。

 

「でも、綾小路君のその思いって、本当にちゃんと伝わっていたのかな?」

「どういうことだ?」

 

 意外な指摘に思わず目を丸くする。

 

「うーんと、例えば……」

 

 彼が要領を得られずにいると、櫛田は顎に指を当てて考えてから彼に体を向けた。

 

「私は、綾小路君のことが好きです」

「……え?」

 

 あまりに唐突な発言に、どう反応すればいいものかわからず何も言えなかった。

 

「今の言葉を聞いて、綾小路君はどう思った?」

「えっと……それは、友達として良く思ってくれている、ということだよな?」

「ふふ、綾小路君はそう思ったんだ」

「違うのか?」

「どうかな。もしかしたら、『違う意味』で好きなのかもしれないよ?」

 

 イタズラな笑みを浮かべる彼女からは、先程とは打って変わり――教室でも見せるような――年相応のガーリーな印象が見受けられた。

 

「私がどういう思いで好きって言ったのか、はっきり言わなかったから綾小路君は解釈に困っちゃったんだよね。それは、今の二人にも言えることなんじゃないのかな?」

「……解釈違い、ということか」

 

 ここ数日、彼は浅川と真面な会話を一度もできていなかった。そこには不快感の混ざった気まずさが見え隠れしているような気がしていたが、今の状況はそうした歯車のズレが重なった結果なのかもしれない。

 

「以心伝心な関係ってとても素敵だと思うよ。でもね、通じ合っているって信じてばかりだと、小さな掛け違いに気付かないことがあるの。だからどれだけ仲良くなれても、『言葉』には価値があるんだ」

 

 彼女は真っ直ぐにこちらを見つめる。大事な事を教えようとしていることが、よく伝わって来た。

 

「言葉ってね、魔法みたいなものなの。間違った使い方を恐れがちになることもあるけど、どうしてもって時にはきっと頼れる力になる」

 

 自分は、多くを語らずとも彼は自分の思いを察してくれる。それだけ自分たちの仲は深まっているのだという、言わばレスイズモアの精神を貫いていた。

 否、そのつもりになっていただけだった。

 

「言わなきゃわからないことは勿論、言わなくてもわかることだって、言った方が絶対に伝わる。どれだけ拙い言葉だったとしても、話す時の仕草や表情が、ちゃんと足りないものを届けてくれるから」

 

 胸が高鳴る時、息が詰まるように苦しい時、浅川や鈴音と一緒にいる時――これまで何度も、未知の感覚が自分の中を駆け巡った。心地いいと安心することもあったし、不快感で俯いてしまうこともあった。

 そんな時、自分は一体どうしていただろうか。その不思議な感情と、上手く向き合えていただろうか。

 

「二人がどれだけ互いのことを信頼し合っているか、私にはわからないけど――もう一度、今度はしっかりと伝えるべきなんじゃないかな? 綾小路君がどう思っているかを」

 

 「ありきたりなアドバイスかもしれないけどさ」と言って微笑む櫛田に呆然としつつ、綾小路はいつしか聞いた盟友の言葉を思い返す。

 

『自分のことを自分の言葉で語ろうとしない奴は、きっとどこまでも生きづらいんだ』

 

 自分は、怯えていたのだ。自分の中で完結することなら、妥協せずに時間をかけてでも見つめ直すことができた。しかし、もし自分が願いを零すことで、それが彼の惑いを悪化させる元凶になってしまったらと思うと、途端に不安が押し寄せてきた。だからこそ、あの時胸中を中途半端に明かすだけに留まり「お前の意見を尊重する」という口実で逃げ道を作ってしまっていたのだ。

 他人に直接影響を与える時に限って、自分の想いから目を背けた。その結果がこの有り様だ。現に今の生活に対して、綾小路はどこか窮屈さを感じている。

 

「綾小路君がそこまで信じているんだもん。真っ直ぐに伝えることができれば、浅川君も応えてくれるんじゃないかな?」

 

 ――自分が、思っていること。

 自分は彼に、何を望んでいるのだろう。どうして彼を求めているのだろう。その答えが、まさしく自分が伝えたい、伝えるべきことだ。

 今はまだ朧気で、正体を掴むことはできていない。しかし、それでも向き合い、どうにかして自分なりに表現するべきだ。櫛田の助言を聞き、そう思い直す。

 

「そう、だな。もう一度だ。もう一度、あいつと互いの本当で語り合ってみるよ」

 

 彼の脳裏には、坂柳との会話も過っていた。

 もし自分と相対する盟友が何らかの仮面を被っていたとしても、全てが偽物というわけではないはずだ。

 彼が小さな願いを託した時――あの時の目は確かに真っ直ぐで、彼の心の中にある淡い光を映していたように見えた。それこそが、自分たちが歩み寄り前進するための鍵に違いない。

 

「ありがとう、桔梗。おかげで少し吹っ切れた」

「今度こそ力になれたかな?」

「勿論だ。こういう時、一番頼りになるのはお前かもしれないな」

「や、やだなぁ。ちょっと照れちゃうよ」

 

 素直な賛辞に櫛田は頬に手を添えこそばゆいといった反応を見せる。

 彼女の言葉は間違いなく綾小路の中に大きな兆しを与えてくれた。最近の自分の変化を喜ぶ彼が、そのことについて感謝しない道理などあるわけがなかった。

 

「ところで、浅川君とはいつ話すの?」

「善は急げだ。できれば今日にでも連絡を……」

 

 そう言って端末を取り出した時だった。シリアスな雰囲気に合わない単調な着信音が鳴り響く。

 

「あれ、浅川君から?」

 

 あまりにタイムリーな出来事に一瞬困惑するも、意を決して応答する。

 

「……もしもし」

「…………清隆」

 

 普段の気の抜けた態度とは少し違う、真面目な声音だった。

 

「この後時間あるか? 話があるんだ」

「……構わない。オレもちょうど、お前に話ができたところだったんだ」

「それは、その……奇遇だな」

 

 彼の声をしっかり聞くのは久しぶりかもしれない。一週間も経っていないが、ここまで二人の間に会話がなかったのは初めてだったため、妙な緊張感が漂っていた。

 

「いつどこで会う?」

「できるだけすぐに。場所は……」

 

 浅川が指定した場所を記憶し、別れの挨拶と共に通話を切った。

 

「……悪い。急用ができた」

「うん。頑張ってね、綾小路君」

「ああ、行ってくる」

 

 彼はゆっくりと立ち上がり、階段へ繋がる重い扉を開けた。

 しかし――出て行く寸前で振り返る。視線に気づいた櫛田は小首を傾げ、愛らしい仕草で彼の言葉を待っていた。

 恩返しと言うには浅はかなのかもしれない。もしかしたら、全くの見当違いでお節介なことなのかもしれない。それでも、途中で見せた昏い瞳とそれを写した『言葉』は、奥底に眠る何かの存在を示しているような気がした。

 だから彼は、早速()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――桔梗。人は、変われるぞ」

 

 今はまだこれだけ。これだけしか表すことができない希望だけれど、いつか、もっとちゃんと伝えるために。せめてもの布石になってくれるよう、祈りの込めた言葉だった。

 この一言で櫛田の中身にどれ程の変化を与えられるかは想像もつかないが、足りないのだとしたら、これから少しずつ重ねていけばいい。

 そうして全てを届け終わった時、何を思い何をするかは彼女次第だ。

 ただ、その選択に自分の言葉が僅かでも響いていればいいなと、密かに願う。

 自惚れでなければ、彼女の告白は相手が自分だからしてくれたのだと思うから。

 いたたまれない思いが芽生えるより前に、綾小路はその場を後にした。

 ステップを踏むように階段を駆け降りていく。

 電話越しの態度から察するに、浅川の方でもきっと何かあったのだろう。随分とはっきりした口調だった。

 いずれにせよ僥倖。心の準備は整った。やるべきことをやるだけだ。

 これから始まるであろう任務に思いを馳せる。

 前へ前へと動かす足は、思いの外軽かった。

 




さて、不定期開催、解説パートのお時間です。パンパカパーン。

まずは勉強会崩壊の場面について。ここは原作通り一度潰れる予定ではあったんですが、堀北さんいいやつになりすぎると、須藤たちが帰らないor支離滅裂なことだけ言って勉強やめるヤベエやつになってしまうんですね。原作では一応彼女のキツイ性格のおかげで彼らの言い分も一理あったわけですから、地味に塩梅を付けるのが難しかったです。結果、正当な理由(やる気がねえ!ってやつ)とはいえ抑えていた憤慨が爆発してしまった、という展開に改変。その上で執拗な罵倒はやめさせました。原作程一方的な物言いになっていないのは十分伝わっていると思います。因みに、そもそも彼女がどうしてここまで勉強会を頑張れたのかは近々明かされます。
多少須藤たちのワガママ感が大きくなっているのは、まあここまでで須藤がいいやつ感出し過ぎていた帳尻合わせだとでも思ってください。そこまで酷い行動とはなっていないと思いますし。

次に櫛田とのパート。ここで悩んだのも、彼にどこまで言葉を紡がせるかでした。言い方を変えるなら、成長をどこまで発揮するかです。
正直、彼女の闇には今後も踏み込んでいく予定があるので、ここで全部彼が言ってしまうと、もうそれ以上のことを伝えられなくなくなってしまうんですよね。
なので、最終的に彼が彼女に伝える内容の土台を提示するというところまでで抑えました。ちょうどまだ感情的な部分を彼は学習できていない段階にあるので、これからだぜって感じで。あとの心情変化は本文でこれでもかと描かれているんで、態々説明するまでもないでしょう。
あ、因みに櫛田がどうしてあんなんなったかというのは――かなり先になると思いますが――彼女視点やら何やらで描写できたらなと思っています。

さて、体感長らく綾小路清隆視点でこの作品の主人公は一体誰なんだって感じになってきていますが、次回ようやくオリ主視点です。君最近出番無さすぎ。何やってんのさ。
まあ今話の最後で察せる通り、彼も壮大な一週間を送っていたので、顛末を楽しみにしていてください。
え、四十話も使って一か月半しか進んでないの?(今更)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

アークワード

ここでコソコソ話。ゴールデンウィークとか何曜日とかって表現がちらほらあると思うんですけど、実は各話時系列のどの部分なのかは厳密に決めていたりします。何なら、現実での西暦〇〇〇〇年〇月〇日ってところまで。

逆算すれば、この物語が何年の出来事なのかわかるかもしれませんよ? まあさすがにそこまで調べようと思う人はいないと思うので、自分のちょっとした遊び心って感じなんですけどね。


「じゃあ、また後で」

「ああ、後でな」

 

 短いやり取りを終え、通話を切る。

 恐らく彼はまだ校舎内にいる。向こうが焦って全力疾走でもしない限り、指定の場所にたどり着くのはこちらの方が早いだろう。

 ゆっくりと歩き出し、のどかな景色を通り過ぎていく。はためく風はあの時と同じように背中を撫でるが、もうそんなものに縋りつく自分ではない。

 これから起こる展開はあまりに予想がつかない。しかし、たった一つの確信に従って、躊躇うことなくその足を進めていく。

 俯く日々は過ぎ去った。悔恨も罪も形を変えることはないけれど、これからは薄汚れた泥ではなく煌びやかな星を見て行こう。

 今なら、そんな昏い空の中でも見失わずにいられると思うから。

 大丈夫。次はきっと上手くいく。

 

「『僕』はもう、大丈夫だ」

 

 一か月前に口にした時とは明らかに違う前向きな感情を乗せ、僕は晴れやかな表情で呟いた。

 

 

 

 

二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。 一人は泥を見た。一人は星を見た。

Two men look out through the same bars: one sees the mud, and one the stars.

 

フレデリック・ラングブリッジ

 『不滅の詩』

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 一週間前。

 

 連休明けの放課後は、初仕事を終えた解放感と同じ日があと四日も続く倦怠感がせめぎ合う時間帯だ。とは言え先のことを憂えていても仕方ないので、頭を空っぽにして帰路を黙々と進む。

 清隆はどうやら明日から始まる勉強会の下準備をしなければならないようだ。大方、赤点候補の三人を訪ねているのだろう。健は兎も角、あとの二人を上手く誘えるのか少し不安なところだが、ボクの関与する余地のあることではない。

 五日ぶりの孤独感。日に日にこの感覚を経験することが増えてきたなと寂寥感を抱いていると、端末からメールの受信音が鳴った。

 手慣れた動作で内容を確認すると、椎名からだった。

 

「この後、そちらにお伺いしてもよろしいですか?」

 

 相変わらず堅い口調だ。普段の彼女に慣れていなければ大分距離を感じてしまうことだろう。

 

「ほん?」

「今日は勉強でもしようかと思いまして」

 

 なるほど。先日話していたことを早速実行に移してくれるようだ。今までのように本を読んでいるだけなら、無理してこちらに来ずともお気に入りの図書館で過ごして構わないと言うつもりだったが、これは断りたくない案件だ。

 

「まつ」

 

 二文字だけ送信し、すぐに端末をしまう――ことはせず、そのまま別の画面を開いた。

 

「今日いい?」

 

 程なくして返信が来た。

 

「今日からやるなら俺も行こう。場所は?」

「うち」

「了解。この後行く」

 

 メールの相手は隆二だ。つい昨日、一之瀬に相談した結果ボクらの勉強会に参加することにしたらしい。椎名が今日からと言いだしたのでたった今急遽誘ってみたが、快諾してくれた。

 そういえば、一之瀬って下の名前何なんだろうな。結構呼びにくいから、場合によっては呼び方を変えたいのだが。後で隆二に聞いてみようか。

 ()()()()からは……未だ連絡無しか。まあいい。向こうもそういうキャラではないのだろう。

 あと数十分もすれば多少身の回りは賑やかになる。独りでいることには慣れっこのつもりだったが、頬が緩んでしまうあたり、結局自分は他人を求めずにはいられないのだろうか。

 まあある意味、自分の性を考えれば必然なのかもしれない。

 己の脆弱さを嗤いながら、ほんのりと黄色が差した空の下をくぐって行った。

 

 

 

 それから椎名がボクの部屋の呼び鈴を鳴らしたのは、ちょうど三十分後のことだった。

 

「いらっしゃあい」

「お邪魔します」

 

 数回繰り返されているやり取りだ。さすがの彼女もここまでくれば遠慮せず気軽に過ごしてくれるようになった。

 

「隆二も参加してくれるみたいだけど、大丈夫だったか?」

「え、そうなんですか? まあ、いいですけど……」

 

 あれ、予想していた反応と違う。彼女は青みの薄い心を持っているのもあって性別どうこうよりも人柄で判断することが多い。隆二のことを煩わしく思っているようには見えなかったから問題ないだろうと高を括っていたが、さすがに心の準備ができていなかったか。

 まさかボクと二人きりじゃないから残念がっているなんてこともないだろうし、もう少しデリカシーというものを考えるべきだったのかもしれない。何とも合点いかん話だ。

 

「あー、すまん。事前に聞いておくべきだったなあ」

「あ、いえ。そういうことではなくて」

「え、違うの?」

 

 答え辛そうに口を噤む彼女だったが、そのまま不安そうな顔で室内を見回す。

 

「このある意味異様な空間を前にして、どんな反応をされるのかと」

「……まあ、なんとかなるっしょ」

 

 ほら、こういう時のためにボクらで完成させたペーパーゾディアックが威風堂々と並べられているわけで……。

 言いたいことはわかるが、そこは何とかくみ取ってもらう他ないだろう。

 

「やはり何かしら買っておいた方が良かったんじゃないですか?」

「そうは言うけどねキミ、生憎ボクは人並な物欲を持ち合わせてなどいないのだよ。それこそ、生きてるだけで丸儲けなんて真顔で言い切れるくらいにね」

 

 暫し困り顔をするも、何を言っても無駄だと判断したようだ。軽く溜息を吐いて、椎名はバッグを開けた。

 

「目標は何点だい?」

「うーん、九十点くらいでしょうか」

「ほう、そりゃすごい。それだけ取れればクラス一位は間違いなしだなあ」

「どうでしょうね。一応勉強のできそうな人はいそうでしたけど。浅川君は?」

「ボクは、まあ、適当に?」

 

 中身のない返答をするが、正味絶賛尻込み中だ。変にクラスで浮かないためには手を抜くのもいいが、別に周りの目を気にする質でもないしそれは本来の『僕』にそぐわない行為だ。安易に選ぶ手段としては抵抗がある。

 あるいは……いや、やめておこう。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ま、お互いクラスのことも退学のことも考えるような身分じゃないし、ユルークやろうぜえ」

「はい。もしわからないことがあれば聞きますね」

「勿論。ボクもそうするつもりだよ」

 

 そのまま自然とボクらは各々のタスクに取り掛かり始め、すぐに無言な空間が生まれた。

 Dクラスであるボクに躊躇うことなく「勉強を教えてもらう」可能性を考えているのは、思慮深さ故なのか天然さ故なのか。いずれにせよ、それが前々から思い知らされている彼女の美徳の最たる表れだろう。

 暫く会話のない時間が続くが、ボクは時折今自分が身を置いている状況を噛み締めていた。

 オーナメントに欠けた部屋は確かにロマンスを感じるには惜しいが、風情まで欠けているとは思わない。何かを共有する相手がいる時、色の濃い背景はその人と見つめ合い触れ合う上で邪魔になる。

 こういう何もない真っ白な部屋では、思わずその場にいる他人のことや自分のことに思考を巡らしてしまうもの。持論ではあるが、ボクはそういう時間が好きだ。

 だからこうして、決して下心によるものではなく、ただ自分が今していることに対して感慨に耽る目的で、目の前の少女を盗み見る。ノートと向き合っている彼女の真面目な顔つきからは、ボクらが出会ってた日の待ちぼうけを喰らっていた時と似た大人びた印象が見受けられた。

 そんな風に思っていると、不意に椎名が顔を上げ、机を挟んで目が合った。

 

「……? どうしました?」

「ん。こういう時間は、きっといつまで経っても愛おしく感じるものなんだろうなって」

 

 彼女は目を瞬かせ、頬を緩ませた。

 

「確かに、どんなものかと思っていましたけど、存外心地良いものですね」

「うん、そうだね……」

 

 ボクが深い余韻に浸るのを彼女は微笑まし気に見つめ、少しして自分の手元へと視線を戻していった。

 やはり四方を染める鮮やかな純白は、ゆったりとボクの心を包み、安らぎと喜びに敏感にさせてくれる。今、ここは一つの幸せな空間と言えるのかもしれない。それを形作る人間が後に一人か二人増えるのだから、少しは惚けてしまっても罰は当たらないだろう。

 ……真っ白、か。

 

「……()()()()()()()

「何ですか? それ」

「いやあ、ここに名前を付けるならそんな感じかなって」

「確かに、寧ろそれしか名付けようがないくらいですものね」

 

 苦笑する椎名を前にボクも似た感情を乗せて薄く笑う。全くもってその通りだ。

 それから数分経ち、再び音質の悪い呼び鈴が鳴った。

 

「お、来た来た」

 

 ボクは足早に玄関へ向かい扉を開ける。

 

「いらっしゃあい」

「こんにちは、浅川」

「上がって上がって。さっき始めたばっかだぞー」

 

 隆二は遠慮がちに中へ入り、脱いだ靴を揃える。

 

「これ、手土産だ。よかったら召し上がってくれ」

「ふぇ? おお、律儀なやつだなあ。そこまでしなくてもよかろうに」

「まあそう言うな。この前のお礼も含めている」

「なるほどなあ。じゃ、大事にするよ」

「ちゃんと食べてくれよ……」

 

 まあ食べざるを得ないだろうね。無料商品以外を口にする貴重な機会だ。

 軽いやり取りを交わしながら二人で椎名の座るリビングへ移動する。

 

「こんにちは、神崎君。今日はよろしくお願いします」

「こんにちは椎名。こちらこそ、よろしく頼む」

 

 手早く挨拶を済ませると、案の定彼はキョロキョロと室内を見回す。

 

「言っていいものかわからないが、だいぶ殺風景な部屋なんだな」

「落ち着けるいいところだろう? さっき椎名とホワイトルームって命名したところなんだ」

「何もないのはかえって落ち着かない気もするが……名前は結構的を射ているな」

 

 それなりに気に入ってくれたようだ。よしよし、これからボクらがここに集まる時はそう呼ぶことにしようか。

 その後唯一と言ってもいいインテリアである折り干支にも触れ、程なくして隆二もノートを開き始めた。

 

「――小説で登場人物の気持ちを答えなさいってナンセンスだと思わない?」

「微妙なところですね。人それぞれで解釈が分かれるような場面を問題にするのはどうかと思いますけど、基本は作者が明確な答えを示唆させることだってありますし」

「ああ、確かに。時々解説とか見るとどこどこの部分が手がかりになって下線部の心情がわかるって書かれていることもあるけど、実際その通りに狙って作られているもんなのかねえ。だとしたらすげえやあ」

「そう考えると、小説も案外論理的な要素が絡んで奥深いな」

「そういう角度から読むとまた違った楽しさを感じられるかもなあ。あ、論理的ってなると、数学なんかとも重なるなあ」

 

 なんていう他愛もない会話を時折咲かせながら、それでも着実に各々のタスクが進んでいく。この二人、やはり学力も知性も事足りているようだ。ボクも普段以上に勉強が捗っているような気がしてくる。

 

「そういえば、もう一人誘っているんじゃなかったか?」

「ん、まだ迷ってるみたいだなあ」

 

 不意に挙がった話題だが、何のことを言っているかはすぐにわかった。

 

「名前を聞いてもピンとこなかったが、知り合いだったのか?」

「いや、キミと出会ったその日に知り合った」

「数日しか経ってないじゃないか。よくもまあ軽く誘えたものだ」

「まあねえ。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ボクの返しに首を傾げる隆二。そりゃ最初(はな)から全て赤裸々に語るつもりなんてないのだから当然の反応だ。

 

「まあそっちの方は次回までには自ずと結果がわかるだろうさ。そんなことより、Bクラスはどうなんだい? 勉強会でもするの?」

「それは……」

 

 何の気なしな問いのつもりだったが、彼は口を噤んでしまった。ボッチで殊更内情を把握していない、というわけでもなさそうだ。

 

「あー、言えないんだったら別にいいよ。変に探っているって思われたくない」

「……いや、問題ない。うちは一之瀬を中心にして全体で勉強会をやる予定だ」

「よかったのかい? 言ってしまって」

「まあ、テスト勉強の進捗どうこうを明かしたところで、他クラスが干渉するのはほとんど無理だろう」

 

 「だなあ」同感だ。そもそもこの質問を世間話の如く繰り出したこと自体、その考えがあったからなのだ。問題を作り合うだとか点数をクラス対抗で競うだとか、直接対決となる要因でもなければ今回限りの方針を知ったところで無益に等しい。

 

「そっちはどうなんだ?」

「うちはユーモアに欠けるやつが多いからなあ。小人数で分かれて色々やるっぽいけど、上手くいくのかどうかって感じ」

「ユーモアが基準なのか」

「ふっ、知性なくしてユーモアの真髄には触れられないのさあ」

 

 決して冗談やおふざけではない。対応は称賛だったり便乗だったり受け流しだったりで十人十色だが、どれもある程度どこにユニークさが秘められているかを理解した上でできることだ。健なんかにやってみろ。馬の耳に念仏を唱えた方がまだいい反応が返ってくるぜ。

 

「そんなに危機的な状況なら、お前も教えに行ってやったほうがいいんじゃないか? 見たところ、できる方だろう」

「そいつぁできない相談だなあ。ボク、クラスでは学力底辺で通ってるから」

「底辺? ……もしかして、創立以来初の抜き打ち小テストで0点を取った生徒って、お前のことか?」

「あれ、言ってなかった?」

「それ、私も初耳ですよ」

 

 椎名もか。

 言われてみれば、Dクラスに0点が出たという情報が出回ったとして、それがボクだということまで知れ渡る可能性は低いか。

 

「何か事情があったんですか? 少なくとも、絶対に本気ではなかったですよね?」

 

 椎名が甚だ疑問だと言わんばかりに身を乗り出してくる。隆二も興味深げにボクの答えを待っている。

 

「……二人共、肝に銘じておくといいさあ。どうやら『頓智』はこの学校で言う実力には入らないらしい」

「とんち?」

「んでもって、一休さんは決して賢人ではなかったんだと」

「一休さん?」

 

 なおも頭上にクエスチョンマークを漂わせる二人にボクはうんうんと頷く。

 ボクの言葉を噛み砕き、双方が口を開いた。

 

「……つまり、悪ふざけをしてしまったと?」

「悪意はなかったんだけどね」

「肝が据わっているんだな。俺にはとてもそんな度胸はない」

「至って真面目だったんだけどね」

 

 二人して酷い言い草だな。強いて言えば頭のお堅い教師陣と感性が合わなかったというだけの話なのに。

 しかし、次には柔らかな目付きをこちらに向けてきた。

 

「ですが、それでこそ浅川君だと思えてしまうのが不思議なところです」

「出会って間もないが、俺も何となくお前らしいなと思ったぞ」

 

 ボクらしい、か。貶されているのか褒められているのか怪しいが、表情を見るにそこまで悪い意味を込めているわけではないのだろう。

 

「あっはは、そりゃどうも」

 

 だから、軽くお礼だけ言って、再び机の上に意識を戻すことにした。

 

 

 

 

「よし。そろそろ今日はお開きにしますかあ」

 

 二時間程経過し、大きく伸びをしながら言った。

 今日は主に小説文の読解を中心に練習したが、想像以上に捗ったな。

 

「そうですね。私もキリがいいところなので、これくらいにしておきます」

「集中していると時間が経つのも早く感じるものだな。明日もやるのか?」

「んー、いや、明後日にしよう。各々のプライベートもあるだろうし、新参者が来る前に回数を重ねてしまうのも悪いだろうからなあ」

 

 あの後一件の連絡が入った。どうやら保留中だった彼女も次回から参加してくれるようだ。ただ、明日は先約があるため明後日からにさせて欲しいとのことだったので、そうしてくれるよう二人にも折り入って頼むことにしたのだ。

 二人も新メンバーを心待ちにしてくれているようで、快諾してくれた。椎名に至っては「そもそも私はプライベートからして暇なんですけどね」なんて自虐を放ち少し心配したが、そこまで卑屈そうには見えなかったし淡々と事実だけを述べたつもりなのだろう。

 

「それじゃあ、俺はお暇させてもらおう。また明後日な、二人共」

「はい。また明後日」

「ん、鼻歌鳴らして待ってるよ」

 

 入って来た時よりもどこか力の緩んだ動作で、隆二は玄関のドアを開けて出て行った。

 進んでああ言ってくれたあたり、感触はよかったみたいだな。ちょっと安心。

 

「椎名はまだ帰らない?」

「どうしましょうね。どうせ自室に戻っても一人惰眠を貪ることくらいしかできませんし……」

 

 考え込む様子を見せる椎名だが、ボクは少し訝しく感じた。彼女が悩んでいるのはこれからのことではなくもっと別のことのような気がしたのだ。

 そう、まるで自分の思っていることを打ち明けるべきか躊躇っているような――。

 

「……浅川君」

「……なんだい?」

 

 弱々しく名前を呼ばれ、ボクも静かに応答する。

 

「一つ聞いてもいいですか? 勉強会のことです」

 

 何となく、ただ何となく聞きたくない気がしたが、今の時点で無下に断る選択をするのは憚れたので、耳を貸すことにした。

 

「今回のは、あなたが本当にしたかったことなんですよね?」

「……前にも言ったろう。ボクはこういうのに憧れて――」

「あなたは、本当に『私たち』と勉強会をしたかったんですよね?」

 

 思わず息を呑んだ。

 瞳を震わせながらもこちらを真っ直ぐに見つめようとする彼女と目が合う。怯えるような眼差しに耐えられず、すぐに視線を逸らしてしまった。

 

「……親しい友人と、とも言ったはずだぞ? キミのことをよく思っているからこそ、ボクは一緒に時間を過ごしているんだ」

 

 きっと彼女はこう咎めたいのだろう。ボクは『勉強会そのもの』に憧れているだけで、相手は誰でもよかったのではないか、と。

 その点についてははっきりと「そんなことない」と答えられる。例えば相手が櫛田や有栖だとしたら、胃を焼かれるような思いになってしまうはずだ。椎名と隆二だったから、ゆったりと楽しめたとは本気で思っている。

 ただ、それにも関わらず困ってしまっているのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 この勉強会の最大の目的は、決して『ボクの憧れのため』ではない。それはあくまで主目的に付随する価値、言わばおまけのようなもの。

 本来の目的まで見透かされていなかったことには安堵したものの、僅かに尻尾を覗かせ、彼女にさせたくない表情をさせてしまったという事実が、ボクの心を強く苦しめた。

 「そう、ですか……」椎名はいまだ素直に言葉を飲み込むことができなかったのか、俯きがちに言って玄関の方へと向かって行く。

 

「帰るのか?」

「はい。今日はありがとうございました。また明後日」

「うん、明後日」

 

 ガチャン。

 扉の締まる音が、胸の中に重く響いた。

 そこでようやく一つ、溜息が零れた。人前では見せない、真に嘆きや疲れを乗せた吐息だ。

 抱えきれないような矛盾をはらんだ行動に精神を尽くすことほど、自分を見失い虚しさに苛まれることはない。

 だが、それでもやめるわけにはいかない。もう既に賽は投げてしまった。

 精々一、二か月の辛抱だ。そうすれば、楽になれる。

 その頃には、()()()()()()()()()()()()()()()はずだから。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 少し休息を取り多少の落ち着きを取り戻したボクは、朧気な足取りで箪笥まで歩く。

 そして一番上の右側の引き出しを開け、『ある物』を取り出した。

 それの表面をボクは別珍を使い優しい手つきで拭き、時に息を吹きかけて掃除をし始めた。

 別にあの二人がいる時にやってもよかったのだが、勉強会という趣旨には関係ないし、信頼度が足りない人間にはちょっと見られたくない。清隆にはギリギリ見せられないくらいだ。

 

「廻るー、廻るー。弧線を右にー」

 

 オーディエンスのいない箱の中を、アルトボイスの波が充満する。

 

「希望を奏でる秒針はー、まだ見ぬ未来をとーもーすー」

 

 ゆったりとした曲調は自然と手の動きを鈍らせる。

 

「あーなーたーとの記憶(とき)がー、教えてくーれたー」

 

 目を閉じ歌詞を噛み砕きながら口ずさむ。

 

「それはーまさーしくー、私のー色ー」

 

 瞼に映るのは過去にして憧憬。もう戻れない、輝かしい景色。

 

「なーりたーいー自分があるー。今しかできない、ことがあーる」

 

 ついに手を止め、意識が完全に回想と歌唱のみに向いた。

 

「形にーしたーくーてー、だから手ーを、伸ばしつーづけたんだー。信じていたんーだー」

 

 頭の中のBGMが一瞬壮大なものとなり、反動の如く水を打ったような調子に変わる。

 

「でーもー、いつしか思ーい出ーす」

 

 この背を見つめる瞳が存在していたとしたら、そこには悲壮感が映っていたことだろう。あるいは、突然歌いだしたボクをおかしな人を見る目で眺めているかもしれない。

 

「空ー、にはー、届ーかーないと」

 

 だけど、そんなことを気に掛ける思考はすぐに霧散した。この歌を歌う時は、決まって途中で止めることが憚れた。

 

「つーいーぞー手を下ろしてしまったー」

 

 一体、いつからこびり付いているのだろうか。

 

「心だけ止ーまるー。愚ーかなー、私。深く深く、おーちーるー」

 

 ただ、それ程までに、これはボクにとってかけがえの思い出で――、

 

「何をー嘆いてもー、仕方ーなくー。何度ー悔いーてもー、繰り返すー」

 

 怠ってはならない、『鎮魂歌』。

 

「ああ、あまりーにー、あまりーにー無慈悲にー」

 

 ついに、終盤を迎える。

 

「廻るー廻るー。弧線を右にー」

 

 それからは暫く、何の音も生まれなかった。自分のいるこの部屋が外から隔離されたような錯覚を覚え、頬に手を当てると、生温い湿った感触があった。

 ボクはあの日以来、乾いた顔のままこの歌を終えられたことがない。忘れないために、思い出すためにこうして唱えているが、毎度毎度気持ちが還り、感傷に浸ってしまう。

 その度に、自分はあの人たちのことを今も想っているのだと実感する一方、他の人たちに対してこれといった情緒を向けられていないという事実も共に突き付けられるのだ。

 ゆっくりと、目を開ける。真っ暗だった視界は少しチラチラと歪んでいたが、次第に順応しいつも通りになった。

 この詩が生まれた時、あの人は何と言っていただろうか。忘れたくない、本来忘れらないことであるはずなのに、曖昧な記憶からは思い出すことができなかった。

 辛うじて覚えているのは、この詩で紡がれる言葉には何か『秘密』があるということ。

 しかし、考えても考えても、その正体はわからない。

 だからいつしか、いつまでもわかりっこないことを悩んでも仕方がないと諦めてしまった。

 以降この詩は、ただただ自分の後悔や罪悪感を形に残しておくための十字架のような役割を持つようになった。

 それが酷く悲しく思える時期もあったが、今となってはそれくらいがボクにはお似合いだと自嘲している。

 針の動かない『懐中時計』。それはまるで、自分の心を写しているようだった。

 元に戻せたらいいのに、と何度叶わない願いを抱いたことだろう。

 当たり前なことだ。人生は時計のように定まった円を描くことなんてないのだから。

 浮いては沈んでひん曲がって、最終的に出来上がるのは名前のない非幾何学的模様。

 だから敢えて、ボクはやけくそのように強引に――。

 自分の幸福なんて顧みず、この手で針を進めることにだけ意を注ぐ。

 いつも通り、流した涙は拭かなかった。

 




念のため言っておきますと、オリ主が歌っていた歌は完全にオリジナルです。現実には存在しませんので、ガイドラインもクソもございません。

歌詞を改めて載せておきます。

廻る廻る 弧線を右に
希望を奏でる秒針は まだ見ぬ未来を灯す
あなたとの記憶(とき)が 教えてくれた
それはまさしく 私の色
なりたい自分がある 今しかできないことがある
形にしたくて だから 手を伸ばし続けたんだ 信じていたんだ
でも いつしか思い出す 空には届かないと 
終ぞ手を下ろしてしまった
心だけ止まる 愚かな私 深く深く 堕ちる
何を嘆いても仕方なく 何度悔いても繰り返す
嗚呼あまりに あまりに無慈悲に
廻る廻る 弧線を右に


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

セカンダリ(前編)

一話に纏めると長くなってしまったので、ぶつ切りで前後編です。

すみません。正直今回普通にオモロくないかもしれません。元々中弛みしちゃうかなって予見していた部分ではあったんですけど。


 二日後。

 今日も一昨日と同じ時間に勉強会を始める予定だが、椎名は茶道部の方に急用ができたらしく、少し遅れて参加するようだ。恐らく隆二が一番最初に来るだろう。彼、前回遅れた分今回は早めに行くなんて言っていたし。健気なやつだ。

 案の定、間もなく呼び鈴が鳴った。

 

「おかえりー」

「こんにちは、浅川――ん、おかえり?」

「あっはは、第二の家とでも思ってくれたらなって」

「そういうことか。――ただいま、浅川」

 

 少しでもうちに馴染んでくれたらこちらとしても嬉しい。アットホームな環境を推奨していく所存だ。

 一昨日と寸分変わらぬ動作で彼はリビングまで移動する。肩の力が抜けていないというよりは、これが元来の彼の仕草なのだろう。

 

「これ、手土産だ」

「おお、前のやつの別フレーバーじゃないかあ」

「まるっきり同じじゃあれだからな」

「うむ。大事にするよ」

「……前のは食べてくれたんだよな?」

 

 当然。

 二日目にして定位置の如く、彼は机の側に腰を下ろした。「俺が一番乗りか」

 

「そりゃ十五分も前に来ればなあ」

「お前だって既にノートを広げているじゃないか。フライングはお互い様だ」

 

 とりとめもない話をしがてら、隆二にコーヒーを用意する。そう、なけなしのコーヒーだ。

 「悪いな」と言いながら彼はゆっくりと口に漱ぐ。クールな外見も相まってだいぶ様になっている。

 

「それにしても、改めて考えると突拍子もない話だな」

 

 熱を逃がすように息を吐いて、彼は会話を始めた。

 

「勉強会かい?」

「ああ。お前とまだ一度しか会話をしていなかったと言うのに、こうしてあっという間に足を延ばせる空間に居座っている。きっと今日から参加するやつも、すぐにここを気に入ってくれるだろうな」

「どうかねえ。馬は合うかもなあ。何せここはホワイトルーム。超優良物件だからなあ」

 

 大仰な表現をしてやると隆二は「そうだな」と軽く微笑んだ。

 

「それに、四人全員クラスがバラバラというのも不思議なことだ。狙ったのか?」

「なわけ。偶々だよ」

 

 確かに彼の言う通りだ。Dのボク、Cの椎名、Bの隆二、そして新メンバーはAときた。正直理想の組み合わせの一つであったことは事実だが、意図して出来上がったものではない。

 

「クラス対抗戦の構図が浮き彫りになった現状で、俺たちみたいなのは珍しく映るだろう」

「前にも言ってたなあキミ。ボクと椎名の関係が稀有だって」

 

 少なくとも後ろめたさのようなものは、生まれてもおかしくないのかもしれない。ボクだって最初はそれを気にして椎名に問いただしたくらいだし。

 それを踏まえると、この勉強会が成り立っている所以は、寧ろクラスがバラバラなことにあるのだろう。これがDクラスの集団に混ぜてもらう椎名、という状況になっていたら、かなり話が違っていたはずだ。各クラスに一人ずつだったからこそ、均衡が取れている節は無きにしも非ずだ。

 

「ところで、お前はいつ椎名と知り合ったんだ? 初対面の時の様子からして、かなり前から親しんでいたようだったが」

 

 ここで話の内容が椎名に関する方向に枝分かれした。彼女との馴れ初めか。確かに話したことがなかったな。

 

「登校二日目にして悩み事ができてしまってね。物思いに身を任せて図書館に足を運んだら、運命の出会いに導かれたってわけさあ」

「それは、何ともドラマチックな巡り合わせだな。しかし、案外塞ぎ込みやすいタイプなのか? 入学早々悩み事なんて」

「ああ……まあなあ。友達と気まずくなっちゃって」

 

 隆二の前で悩む姿は一度も見せていない。ここ最近の自分がひどく参っているということには気づいていないのだろう。

 それはそうと、飛び火のようにして清隆と鈴音との現状が脳裏を過った。無理に隠す程のことでもないが、話題に触れるだけでも遠のく距離を実感し、やるせない思いになってしまう。

 

「そうか。第一印象ではもっとお気楽なやつかと思っていたが、意外と他人に対して敏感なんだな」

「あっはは。そう見えるかい?」

「でなきゃ一日二日の関係にそこまで苦悩を抱えないさ」

「気が合わない、というだけかもしれないぞ?」

 

 本当はそんな風に思っていない。少し投げやりになってしまった結果出た、他人を肯定しがちな自分にしてはらしくない言葉だった。

 しかし、隆二は気にも留めず否定した。

 

「それはないな。大事だって思うから、繋ぎ留めようと藻掻くんだろう? 寧ろそんな短時間で合わないと感じるくらいなら、お前は今の時点で関係を断ち切っているだろうし、そもそも最初から親交を深めようとしないはずだ」

「およ、ちょっと驚いたなあ。ボクが薄情な人間に見えたかい?」

 

 本当に驚いた。自分は周りから他人との関わりを拒む人間ではないと認識されているつもりだったが、まさかいまだ縁の浅いはずの彼にバレていたとは。

 素直に感嘆を吐いたが、彼の次の言葉でいとも簡単に納得できた。

 

「自分で言っていたじゃないか。『幸せだから一緒にいる』。あの時、きっとお前はしっかりと人を選ぶやつなんだと思ったよ。決して悪い意味ではなくな」

「……なるほどねえ。まあ基本は嫌わないけどなあ。何せ他人の長所を見つけるのは得意だし」

 

 今のところ嫌悪感が勝っていると断言できるのは有栖と山内くらいなものだ。本来苦手意識が芽生えるはずの櫛田にでさえ、一概に嫌っているとは言い切れない。故に自分が情に脆いのだという自覚はあるのだが。

 それが度を越し、気を許してしまったことで自分が拒絶しなければならない部分に盲目になってしまったことも、過去にはあった。ただ、今後の人生で当時を上回る間違いは犯さないだろう。

 

「例えばキミみたいな察しのいい人は好きだよ。時々察し過ぎてしまうことがあるのは玉に瑕だが、そこもまたご愛嬌だね」

「だから俺のことを勉強会に誘ってくれたのか?」

「半分正解。残りは勘だ。キミは適格者だと思ったんだよ」

 

 無論余程な見込み違いであれば関係が自然消滅するのを待つのみだが、彼は想像通りかそれ以上の人材だった。語ればボクの目的にも理解を示してくれそうだし、嬉しい限りだな。

 

「それはありがたいな。口下手な俺は最初あまりいい印象を持たれにくいと思っていたが」

「人の善悪は存外わかりやすいものだよ。感情なんかよりもね。普段から偽ることに慣れてでもいない限り、本質を滲ませずにいられるやつなんてそういないさあ」

「なるほど、確かにそうかもしれない。うちの一之瀬も、誰が見たっていかにも善人な(なり)をしている」

 

 次から次に話題になる人物が切り替わる。帆波――下の名前は一昨日知ったが、やはり苗字よりも呼びやすかった――が善人というのは、彼の言う通りなのだろう。以前一目見た際にも実感している。

 ただ、偏に『善人』といっても色々ある。

 

「真面に会話をしたこともなしに疑うのも忍びないが、一種の偽善者だったりはしないのかい?」

 

 当時から興味を持っていたことだ。彼女がどちら側の人間なのか、自分よりは確実に理解しているであろう隆二に問いかける。

 

「偽善者という表現だと、少々曖昧過ぎないか?」

「うーんと、例えば――一度でも悪行に手を染めたことがあるとか、他人に咎めたことが自分にも当てはまるとか、かな?」

「それだとさすがに判断のしようがないな。あいつの高校以前の経歴を知っているわけでもないし、彼女は誰かに指を差すような人間じゃない」

 

 「ただ」と彼は続ける。

 

「普段の教室では、この前も言ったが自ら委員長の役割を買って出てくれたり、多少の揉め事も丸く収めようと動いてくれたりしている。もれなくクラスメイトの素行が良いというのもあるが、Bクラスの秩序がいい雰囲気で成り立っているのは、間違いなく一之瀬のおかげだ」

「ほうほう、べた褒めじゃないかあ。でもそれ程までとなると、周りがイエスマンになる危険もありそうだなあ」

「確かに、特に困っていることがない現状彼女に頼りきりになっている節はないと言い切れないが、その時がくれば俺も力になるつもりだ。彼女の長所である優しさや素直さだけで勝ち上がれる程、楽な道のりでもないだろうしな」

 

 腑抜けた仲良しこよしは厳格な独裁にも劣る集団に成り得る。その点が気になったが、彼の決意みなぎる言葉を聞き、杞憂だったかと安堵する。彼が客観的な視点に立つ術を持っていることは前々からわかってはいたが、彼の提示した体制――一之瀬が火付け役となり、足りない部分を補ったり参謀を担ったりする裏方役を隆二が熟すというのは妥当と言える。

 Bクラスはきっと、一般の高校では殊理想的な集団なのだろう。自分の配属がそこだったら……なんて考えが過るが、生産性のない仮定をするのは好きじゃない。それに、清隆や鈴音たちに出会えた喜びを自ら霞ませているような気がして嫌だった。

 

「つまり、彼女は清廉潔白な善人だと?」

「ああ。……ああいや、少し違うかもしれない」

 

 簡潔に隆二の分析をまとめたつもりだったが、自分の言葉を改めて嚙み締めた結果思い直したかのように、彼は答えた。

 

「一之瀬は少なくとも、努めて表向きは典型的な善人だ。もっと言うと、心からクラスのために行動しているように見える。だが、浅川の言う通り、もしかしたら何か後ろめたい事情を隠しているのかもしれない」

 

 あくまで中立的な見解を彼は語る。誰にだって話したくないことがあるというのは、これまでの人生で皆理解していることだ。

 どうやら彼は、そこに答えを見出しているようだった。

 

「あいつを見ていると思う。受け取る側からすれば、純粋な善意か偽善かなんて些細な違いなんだ。人の善意の性質なんて、一人ひとり正確にわかるわけがないんだからな」

「そういうものかい?」

「ああ。考えてもみろ。『偽善』というのは、『人の為の善』であって初めてそう呼ぶことができる。俗に批判される程、穢れたものではないのかもしれないぞ」

「なるほどなあ。そんな考え方もあるかあ」

 

 それは、他人がおいそれと否定することのできない確固たる持論だった。

 『人の為の善』。そう捉えると、抽象的な『善』よりも余程わかりやすく扱いやすい代物に感じる。――そうか。だからこそ人は何度も偽善を働いてはその本質を命題に置きたがるのかも。

 本当であること、相手を知ることに重きを置く自分とは相反する考え方だが、非常に尊敬できる素晴らしいアプローチ法だ。

 ただ、相手にだけ語らせて自分だけ語らないのを嫌うのがボクの性。折角だから、ボクの感性を端折ってお届けしようか。

 

「でも、それが通ってしまうと、偽りでなければ人の為にならないと言われているような気がして哀しいなあ。寧ろ人の為と主張すること自体が偽りで塗り固められていると悟ったから、そういう成り立ちになったと考える方が、ボクはしっくりきてしまうよ」

「一理あるな。だが俺からすれば、そっちの方が哀しいような気もする」

 

 彼を真っ向から否定するつもりの発言ではないことは察してくれたようだ。優しく笑って返した隆二にボクもフッと息を漏らす。

 その時、会話を打ち切る合図のように甲高い呼び鈴が鳴った。

 どうやら隆二との親交を深める絶好の機会もここまでのようだ。やはり二人きりでないと話せないことや見えてこない人間像はあるもの。それを交わす時間は何とも心地いい。

 

「キミをここに誘って、本当に良かったよ」

「そうか。俺も、お前と椎名に出会えて良かったと思っている」

 

 よっこらせと腰を上げながら、隆二と一連の会話の感想を述べ合う。

 Cクラスとの問題もあって、多少なりとも他のクラスの情勢に不安を抱いていたのかもしれない。それを拭ってやれたという意味では、彼にとって大きなきっかけだったのかもしれないな。

 

「勉強会が終わっても、ちょくちょく仲良くしてくれるかい?」

「ああ、勿論だとも」

 

 約束と呼ぶにはあまりにちっぽけなやり取りを交わし、ボクは玄関へと足を運び始めた。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「こんにちは」

「おかえりんさい」

「ただいま戻りました」

 

 錠を外して扉を開けると、幼気な表情をした椎名の挨拶が飛んできた。隆二とは違って「おかえり」というワードに違和感の欠片も抱かないのはやはり彼女が風変わりだからなのだろうか。ボクの態度を理解しての便乗であったなら嬉しいが。

 しかし今日はいつもと違い、椎名の隣にはもう一人、別の少女が立っていた。

 

「やあやあごきげんいかがかな? ――真澄」

「普通」

 

 そっけな。え、そっけな。

 鈴音に勝るとも劣らない冷たさだ。キャラ被りは合点いかんな。まあ彼女のおかげで多少勝手はわかっているんだけども。

 それにしても、まさか二人一緒に姿を見せるとは。予め取り決めていたのだろうか。それとも偶然?

 事の経緯を尋ねると、椎名が答えた。

 

「ロビーの辺りでソワソワしていたので連れてきちゃいました」

「ソワソワ? あっはは、変質者じゃないかあ」

 

 場所はしっかり伝えておいたはずだが、なんだってまたそんなおかしなことに? 

 当の本人に説明を求めようと目をやると、どうやらボクらのやり取りに不満があるようで、訝し気な顔と退屈そうな瞳をこちらに向けていた。

 

「あんたのせいでしょ……」

「え、ボク?」

「ん」

 

 そう言って眼前に突き付けられた端末の画面に目を向ける。

 表示されていたのは、彼女とボクのメッセージでの会話だった。

 

『どこでやるの?』

『うち』

『部屋はどこ?』

『4右3』

『え?』

 

 因みに『え?』の字面は未読だ。

 

「ふぇ、なまらわかりやすいべや?」

「何語? それ」

「簡潔明瞭にして一切無駄のない文面だと思うけど?」

 

 ちょっとふざけ過ぎたわ、ごめん。

 だが、ボクの答え自体は全く偽りのない本心だ。それを察したのか呆れかえった表情で目の前の少女は溜息を吐く。

 

「じゃあどういう意味だったの?」

「四階の右から三番目の部屋」

「いや、わかるわけないでしょ」

 

 ありゃりゃ、椎名と隆二だったらわかってくれると思うんだけどな。

 

「今回はさすがに浅川君が悪いですよ。初見でそんな文面を噛み砕くのは無理があります」

「うーん、まあキミが言うなら……」

 

 椎名までそっちの味方か。ここまで言われてしまったら謝るべきなのかもしれない。

 そう思った矢先、彼女の言葉は真澄にも向く。

 

「でも、変質者とまではいかずとも少し面白かったですね」

「え、何でよ」

「キョロキョロ見回している姿が微笑ましかったですよ」

 

 ほう、意外。椎名がそんなことを言うなんて、余程傑作だったのだろう。見たかった。

 思わぬ一言にさしもの真澄も返答に窮してしまったご様子。醜態を晒してしまった羞恥心と「微笑ましい」と言われた照れくささが重なったが故と見た。

 ふむ。二人の関係、スタートダッシュはまずまずなようだ。安心安心。

 

「まあ気楽に過ごしなあ。勉強会なんて言うけどそう畏まったり堅苦しくしたりしなくていいから」

 

 寮の構造は大してどこも変わらないはずだ。指示をすることは特にない。椎名も付いているし問題はないだろう。ボクはゆったりとリビングへと引き返した。

 間もなく二人は顔を出し、隆二とも対面する。

 

「神室真澄、だったか?」

「あんたは……神崎隆二ね」

 

 面と向かって話すのは初めての組み合わせだが、ボクからある程度互いの紹介やら人相の説明をしてあったため、すぐに認識できたようだ。

 

「今日からよろしくな、神室」

「……よろしく」

 

 向こうが特に敵意を持っていないことを察したらしく、真澄もそれなりに警戒心を緩めてくれた。

 

「言ったばかりだろう真澄。別に腹の探り合いをしようってわけじゃないんだ。ユルークいこうぜえ」

「ああはいはい、わかったから」

「ふふ、一緒に楽しみましょうね。神室さん」

「……うん」

 

 天然で大らかな椎名には幾分か素直にならざるを得ないようだ。案外二人は相性がいいのかもしれないな。

 彼女の表情を一瞥してから、ボクは間延びした声で宣言した。

 

「そんじゃあ今日も始めますかあ」

 

 それからは前回と同じように、四人共時々世間話に興じては行き詰った部分を教え合ったりの繰り返しになった。追加メンバーの真澄が上手く溶け込めるか若干の不安はあったが、四人というごく少人数であることと基本全員が除け者なく会話を広げられる面子だったこともあり、然程気にすることではなかったようだ。

 するとそんな最中、真澄がボクに素朴な疑問を投げかけた。

 

「浅川、それって学校で習ってなくない?」

「ああ、これ?」

 

 そう言ってボクが持ち上げた書籍には『よくわかる! IT社会の全て~入門編~』と書かれている。

 これは以前清隆に折り入ってお願いしていた代物だ。ボクの絶望的な情弱さを目の当たりにしていたのが効いたらしく、渋々了承してくれた。その時何ポイントか返そうとしてきたのだが、今回きりの特例だと言って丁重にお断りさせてもらった。実際ここまででボクはいまだあのカップラーメン以外で一ポイントも消費していなかったので、一応の説得力があったのだろう。

 

「老いぼれには機械の知識が著しく不足していてね。まずは基礎から学ぼうと――」

「そうじゃなくて……いいの? テスト勉強しなくて」

「まあ、多分問題ないな」

 

 重ねた質問に代わりに答えたのは隆二だった。

 

「前回での様子を見る限り、少なくとも浅川が赤点を取ることはないだろう。俺と椎名も、時々質問に答えてもらったりもしているし」

「そうなんだ。本当に頭良かったんだね」

「あっはは、もう慣れたよ。阿呆な見た目だって遠回しにディスられるのは」

「卑屈すぎない?」

「本人は結構気にしているみたいですよ。皆に言われるらしくて」

「それは仕方ないね。見た目の問題だし」

 

 どんどん自分が惨めに思えてくる会話が続いたところで、思いついたように真澄が再びボクに問いかける。

 

「そういえば見た目で思い出したんだけど、浅川って何でそんなに髪長いの?」

「切るの面倒臭い」

「目にかかったりして邪魔じゃない?」

「でも髪縛るのって男っぽくなくない?」

「そもそもその長さの時点で男っぽくないと思うけど」

 

 別に長髪の男子やベリーショートの女子なんて他に溢れる程いると思うが。

 どの道、無一文の自分が床屋や美容院に行くことは暫くないだろう。ここでまた清隆にせがみだしたら今度こそポイントが返ってきてしまいそうだし。

 

「声も高めだから、こう近くで見てるとけっこう女子っぽい」

「女装でもしたら似合いそうですね」

「高校生で声変わりしていないのもなかなか珍しいな」

「……これでも低くなってるんだけどなあ」

 

 オイオイ、記念すべき四人揃った初日のテーマは『浅川を瀕死のまま弄り倒すチキンレース』ってか? ボクの打たれ強さを存分に活かした企画だな。上等……じゃないわ。ボディが鋼鉄でもハートは硝子細工なんだよ、ボクは。

 

「でも……なんか凄いね。そういうの」

「切るのが面倒なだけだぞ?」

「髪の話じゃなくて」

 

 会話が収まりかけたところで、またもや真澄が口を開いた。

 今までの流れからすると髪の話だと勘違いしてもおかしくはないと思うが。あたかもボクがボケているかのように扱うんじゃない。

 

「そうやって自分から新しいことを学ぼうとするのって、案外できないことだと思うから」

 

 彼女は持っているペンでボクの手元の本を指す。なるほど、ITを自主的に勉強していることに対して言っていたのか。

 

「どうだろうなあ。人によるとしか言えないけど。ただボクは、楽しいなって思うことをしているつもり」

 

 イマドキ勉強に快楽を求める人なんて多くはないとは思っているが、それでも能動的に自分が興味を持ったことについて深く知るのはいつだって高揚感を得るはずだ。それは他人だったり物だったり事だったり、色々ある。

 

「ありきたりな日々も大事だけど、それもちょっとだけ寄り道をしてこそ輝くものだよ。互いに価値をもたらしているんだ。だから、平坦な学生生活に多少のスパイスやスリルを加える上で、関心事に触れるのは有効な手段なのさあ」

「……スリル、ね」

「何か心当たりでも?」

「ううん、別に。それもそうかなって思っただけ」

 

 そう言うなり、彼女はそそくさと自分の学習に戻ってしまった。

 もしかしたら、真澄なりに今の生活に退屈を感じているのかもしれない。気怠げな表情がデフォルトな彼女からは十分想像できることだ。

 だとしたら、彼女は延々と流れ埋没していくこの日常をどう克服しているのだろう。軽い興味程度ではあるが、少々気になった。あわよくば、ここでの時間が冷たい胸に何かを灯してくれると喜ばしい。

 ボクは再び、苦手なITとの闘いに意を注ぎ始めた。

 




しばらく更新ペースがかなり遅くなると思います。モチベの問題ではなく時間に余裕がないせいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

セカンダリ(後編)

更新遅くなるとか言っておきながら、現実から逃げるように執筆に走ってしまう今日この頃。嫌なことから逃げ出して、何が悪いんだよ!(某シンジ風)

なんて言い張ってますけど、書き終わっていた話が一度消えてしまってめっさ心抉られました……。

まあ一応完璧こじ付けな理由をあげますと、実はこの作品、けっこう後の方で明かされるような伏線が既に張られてまして、その中身を忘れてしまいそうなんですよね。まあだいたい二章までで一区切りつくんですけど、自分のペースだと時間がかかりそうですし。


「――ところで、浅川君」

 

 今度は椎名が徐に口を開いた。

 嫌な予感がしたボクは恐る恐る応答する。「な、なんだい?」

 

「私は今、甚だ不満に思っていることがあります。わかりますか?」

「……やだなあ。いくらボクの見た目が中性的でもキミ程の美貌は――」

「全然違います」

 

 平生の彼女とは違った強い圧で詰め寄ってくる。

 冷や汗が噴き出るが、それこそがボクの予想をより一層確定づけていた。

 

「……神室さんも名前呼びなんですね」

「……だって、呼びやすいんだもの」

 

 隆二だけならまだしも、同じ女子である真澄まで名前呼びされたことで我慢の緒が緩んでしまったようだ。ホワイトルームのメンバーで唯一苗字で呼ばれているという事実も彼女の感情を嵩増しさせる要因となったのかもしれない。

 

「ねえ、呼びやすいってどういうこと?」

 

 ボクの性をまだこれっぽっちも知らない真澄が問う。隆二が代わりに答えた。

 

「浅川は、どちらが呼びやすいかで名前呼びか苗字呼びかを決めているんだ」

「ああ、変に距離感近いなって思ってたけど、そういうことだったんだ」

 

 どうやら彼女も名前呼びには精神的な近さを感じてしまうらしい。地元の母校ではそういう人はいなかったのだが、都会と田舎のギャップだとでも言うのだろうか。

 

「椎名がそこまで言っているんだし、もう名前で呼んであげればいいじゃん」

「うーん、でもなあ。そう簡単な話でもないのよねえ」

 

 わけがわからないといった感じで首を傾げる真澄。しかしこれは本当の話だ。

 四月の頭の初対面の時点で、ボクはいつか自分の意思で椎名を名前呼びすると本人に向かって宣言している。

 「うう、そうですよね……」それを覚えていないわけでもない椎名は肩をすくめるしかなかった。

 

「今ここで呼んでもらえても、それは望んだ形ではありませんものね」

「そういうこと。無意味になってしまう」

 

 やはりちゃんとわかってくれてはいるようだ。彼女の要請に折れて「ひより」と呼んだとしても、そこに親しみや情愛の意味が含まれなくなってしまう。椎名にとってもボクにとっても、それは全く以て救われない。

 

「いつまでも待っていますからね、浅川君」

「ん。今年中には頑張ってみるよ」

 

 こういう抱擁感のある彼女の温かさは好きだ。普通の人ならどれ程簡単なことなのかは知らないが、少なくとも今までの自分からは逸脱した行為。それを何とかしてやろうと言うのだから、椎名の寛容さはありがたかった。

 すると、その様子を眺めていた真澄が口を挟んだ。

 

「……やっぱりあんたたちって、仲良いんだね」

「お。そう見える?」

「前見た時から思ってた。二人して物腰柔らかくて腑抜けてそうなイメージがあるけど、何だかんだ解り合っているような気がするから」

 

 それはどうなのだろう。椎名の天然さ加減にはボクも置いていかれそうになることがあるのだけど。

 まあ、『仲良し』と言われて悪い気はしない。

 それは椎名も同じようだ。

 

「ふふ、ありがとうございます。――ですが、それは神室さんも同じですよ」

「え?」

「私は、神室さんも神崎君も、かけがえのない友人だと思っています」

 

 愚直な言葉と共に笑う彼女を前に、真澄は照れくさそうに目を逸らし「そう」とだけ応えた。隆二は穏やかな表情で彼女の告白を受け止めている。

 ボクは――椎名らしいなと思った。こう言うとまたお得意な駄洒落になりかねないが、他に言いようがない。心を開いた相手には素直に好意を伝える。Cクラスの面子に埋もれてしまっているのが勿体無いくらいな魅力だ。

 本当に、勿体ない……。

 

「ま、これだけの時間狭い部屋で共に過ごせば、気の許せる友人くらいなれるものさあ」

「そうだな。最初はどうなるものかと心配しないわけでもなかったが、今ではけっこう気に入っている」

 

 男子二人で口を揃える。それ程までに、ここには確かな温もり――『色』があった。

 嗚呼。やはりホワイトルーム(真っ白なキャンバス)の上でこそ、人の紡ぐ(物語)が際立つ。改めて、三人を誘って良かったと実感する。

 和やかなムードと視界に映る表情を見て、人知れず息を漏らす。

 他人が自分の懐に優しく踏み入ってくれている。その感覚がこそばゆく、心を委ねたくなる程に愛おしかった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 黄昏。茜色の空はほとんどその灼熱を潜め、間もなく長き昏さに包まれようとしていた。

 

「で、話って?」

 

 既に椎名と隆二は各々の部屋に帰った。残っている客はただ一人――。

 

「わかってるでしょ。何あれ? 色々びっくりしたんだけど」

「なかなかいい出来栄えだったろう。折り干支」

「違うって。――あ、でもそれもそう。私はあの時鶏しか見てなかったから」

 

 真澄は話があるとだけ言って、片付けもせずこの場を去ろうとはしなかった。

 あの時、というのは椎名との帰り道でのことだろう。

 

「いやあ、落し物を探している最中にばったりでくわすなんてなあ」

「まさかあんな迂闊なことで尾行がバレるなんてね」

「有栖の差し金かい?」

「他にあると思う?」

 

 失踪した我が相棒、ペーパーチキンを捜索すべく、椎名と元来た道を引き返していたところ、真澄と曲がり角でぶつかってしまったのだ。

 幸いにも彼女が見つけてくれていたため、事件はすぐさま解決した。彼女を勉強会に誘ったのはその時だ。

 

「彼女に目を付けられるようなことをした覚えはないんだけどなあ」

「わからないけど、坂柳があんたを特別視していたようには見えなかったよ。でも、端末を落とした時の顔は、見たことなかったから驚いた」

 

 有栖のお眼鏡に適う存在などと自惚れるわけではないが、彼女はたとえ相手が劣っていようと娯楽(おもちゃ)としての価値を見いだせれば興味を持ってしまう少女だ。万が一が起こってしまったかと危惧していたが、真澄の言葉を信じるなら問題はないだろう。

 ただ、すると次に疑問となるのが、有栖が真澄を差し向けてきた理由だ。

 ボクと連絡先を交換している仲で、彼女にああも情けない顔を晒させられる人物……。

 

「……なあ、真澄」

「なに?」

「もしかしてキミ、こう頼まれているんじゃないか? 『清隆という少年の情報を手に入れろ』って」

 

 ボクの唐突な指摘に、彼女はあからさまに動揺した。「何でわかったの?」

 

「えー、勘?」

「え、それだけ?」

「あいつ一番仲いいし」

 

 厳密に言えば、一番凄いやつだと思っているからだ。彼が有栖と対峙してどちらの方が優れているかなど知るわけないし興味もないが、もし彼女が関心を抱くのだとしたら、清隆が最も可能性があると踏んだだけのこと。

 …………いや、だがしかし、そうなるとどうにも()()()()()な。

 一人になったら少し考えてみるか。

 

「じゃあ最初からこっちの魂胆は全部お見通しだったってわけね。残念」

「ん、何が残念なんだ? さっきまで一緒に過ごしていた仲なんだし、普通に聞けばいいじゃないかあ」

「いいの?」

「やぶさかではない」

 

 友達のよしみ、ということにしておくが、実際ここで拒否するメリットはゼロだ。有栖が清隆を認識してしまった時点で、遅かれ早かれ二人の邂逅は免れない。強いて言えばボクが考えなしに端末を貸してしまったことが失態だが、ボクが二人の関係を知る由もないので、客観的に見て責められることではない。

 ボクは真澄に、清隆の性格や人となり、鈴音の勉強会に参加していることなどをかいつまんで説明した。

 

「――こんなところだなあ」

「ん、ありがと」

「もう聞きたいことはないなあ」

「うん。――って、そんなわけないでしょ」

 

 お、いいじゃん、ノリツッコミ。ボクの冗談に対する新たなリアクション担当の発掘だな。

 

「最初はあんたのこと、勉強ができるだけで驕ってるお調子者程度にしか思ってなかった。でも今日の浅川は全くの別人。口調も仕草も、語彙まで変わっていて違和感が凄かった」

「あれくらいの演技お手の物さあ」

 

 要らぬ誤解を隆二に与えぬよう努めていたようだったが、ボクの第一声を聞いた時の、真澄の呆気に取られた顔は面白かった。

 

「坂柳でさえ出し抜く技術。あんたの実力ってどれ程の物なの?」

「偶々得意分野だっただけだよ。実際チェスはボロ負けだったろう?」

「じゃあ帰り際に言ってた将棋なら勝てる?」

「どうだろうなあ。まあ『得意』とだけ言っておくよ」

 

 有栖の将棋のお手前を知っているわけではないので、断言するのは気が引ける。ただ、恐らく勝てるだろうという自信がある。チェスとの決定的な違いが、大きな差異をもたらすはずだ。

 真澄は疑うような眼差しを向けている。どうやらはぐらかされたとでも思われたらしい。

 これ以上の追究は無駄だと判断したようで、彼女は話題を切り替えた。

 

「それと、この伽藍堂な部屋はどういうわけ?」

「片付いてるよなあ」

「0ポイントなんじゃなかった?」

「物を買ったなんて一度も言っていないぞ」

 

 部屋に招き入れているのだし、隠し立てする内容でもなかったので、ボクの十万ポイントの行方を手短に話した。

 

「……あんた、変わってるね。普通全額渡そうとなんてしないでしょ」

 

 あり得ないといった表情で真澄は言った。あの常識人の領域である沖谷にまで言われているのだから、やはりおかしな行為なのだろう。

 しかし、次に彼女が見せたのは少し物憂げな顔だった。

 

「それだけ綾小路って人たちのこと、信頼してるってこと?」

「まあそう捉えることもできるなあ」

「ふーん。ちょっと凄いかも」

 

 『凄い』、か。曖昧だが、悪い感情を抱いていないことだけは確かだ。自分の有栖たちとの関係と比較しているのだろうか。一目見た時から、一般の友達付き合いとはズレを感じてはいたが。

 

「……キミは、どうして有栖と一緒にいるんだい?」

 

 以前と同じ問いをする。しかし今回は、前とは違い神室真澄という人間への興味から出たものだった。

 ボクは、真澄は有栖に何かしらの弱みを握られているためにこうして嫌々ながらも協力しているのだと見ている。その事情とやらが、単純に気になった。

 「それは……」ただ、彼女にとってそれは相当後ろめたいものらしい。「……言いたくない」

 

「……そうか。まあ気長に待っているよ。キミが自分自身のことを語ってくれる日をね」

 

 ありきたりな言葉を返す。

 誰でも言えるようなことだけ言って会話を切るのは、あまり好きじゃない。物足りなさを感じたボクは、何か他に掛ける言葉がないか模索する。

 そうして脳裏に浮かんだのは、勉強会を通して生まれた取っ掛かりだった。

 

「また来なよ。今度は情報収集とか、有栖の指示とか抜きにさあ」

 

 俯きがちになっていた顔を彼女は上げる。こうやって間近で真っ直ぐ向き合うのは初めてだが、思いの外瞳は澄んでいた。

 

「少しは楽しかったろう? 気の置けない仲どうしで過ごす時間って、気がついたら馴染んでしまっているものなんだよ。それはとても幸せなことだ」

「でも――」

「椎名と隆二も歓迎していた。二人共キミを必要としているのさあ。自分の幸せのために……。だから、今度はキミ自身の心の穴を満たすため――自分の幸せのために、ここにおいで」

 

 真澄は「スリル」という単語に反応を示していた。やはり心のどこかで、平らな人生に刺激を求めている節があるのだろう。

 なら、その空白をどう埋めるのか。簡単な話、自分独りで補えないのなら他人にそれを求めても罪はない。

 押しつけがましいとは思わない。他人に関心を持たない人間は、その価値に気付く上で結局他人を必要とするしかないのだから。鈴音がいい例だ。ボクと清隆がいなければ、今頃勉強会なんてクソくらえな状況だっただろう。

 真澄は一瞬目を見開いた後、暫し虚空に視線をやりむつかしい表情をしていたが、やがてこちらを見つめ直しぶっきらぼうに答えた。

 

「…………まあ、気が向いたら」

「おう、どーんと構えておくよ。『おかえり』って言って出迎えてやらあ」

「……それも気になってたんだけど、どうしておかえりなの?」

 

 彼女の前で椎名に対しても使っていた挨拶だ。

 どうしてと言われても、至極単純な理由だ。

 

「帰る場所で誰かが待っててくれているって、とても素晴らしいことだとは思わないかい?」

 

 独りで生活している人は決して少なくない。ただ、『おかえり』と微笑んでくれたり『ただいま』と伝えられる相手がいるというのは、きっと誰であれ望ましいと感じることだろう。

 ボクが本心でそう言ったことを悟った彼女は、そっと表情を緩めた。

 

「悪い気は、しないかもね」

「はっはは、だろう?」

 

 聞きたいことは全て聞き終えたようで、僅かな余韻を経て真澄は帰り支度を始めた。

 初めは鈴音と似て堅物なのかと思っていたが、そんなことはなかった。真澄は他人を拒絶しているのではなく、触れ合い方を知らないあるいは積極的でないだけなのだろう。先までの彼女の様子を見て、ぼんやりとそう思った。

 ふと、彼女は手の動きを止め、こちらを見る。

 

「そういえば、良かったの? 私が坂柳に言われてここにいるって知ってたなら、あんたの演技や人付き合いがバレちゃうっていうのも想像できたと思うけど」

「ああ、それかあ」

 

 現に勉強会に誘うまでは、彼女に対して同じ演技を再び行っていた。にも関わらず今日は終始普段通りの態度で彼女に接したことに、疑問を抱くのはおかしいことではない。

 ただ、ボクからすれば、何ら矛盾のないことだった。

 

「確かに有栖に色々知られるのは痛いけど、それが他人と交流を深めること以上に大切なことだとは思わないよ」

「天秤にかけた結果ってこと?」

「言い方は好きじゃないけど、間違ってはいないなあ」

 

 他の子らがどう考えるのかはわからないが、ボクは前者より後者を優先する人間だったというだけのことだ。そもそも、ボクが有栖を騙したことがバレようと正直もう()()()()()()()()()()なので、あの時真澄を誘わない方が後悔するだろうと思いこういう選択をしたのだ。

 真澄はボクの回答にこれまた不思議そうに首を傾げていた。

 

「あんた、やっぱり変わってるよ。他人と関わるために隠し事を諦めるなんて」

「そこまで変わってる?」

「うん。前会った時のあんたの方がまだ常人らしかった」

「辛辣な褒め言葉をどうも」

 

 因みにあの演技の土台は健だ。それも、人情を抜き取った健。すなわち残念な不良だ。

 真澄は残り僅かとなっている片付けを再開し、その傍ら口を開いた。

 

「でも、どちらかって言うと今のあんたの方が好きだよ」

「愛してくれてありがとう」

「話してて気疲れしないから」

 

 あ、スルーされた。

 ネタだとわかっているのならもう少し慈悲のある返しをしておくれ。ノリツッコミ枠として期待しているのに。

 にしても、今の方が話しやすい、か。この子は気付いているのだろうか。遠回しに「自分は変人の方が話しやすいです」と言ってしまっていることに。

 まあここでそれを言ってやる程ボクは無粋な男ではない。

 

「…………ボクは元々、あの四人の中ではキミが一番好きだったよ」

「は、なんで?」

「さあ、何ででしょう?」

 

 両手を広げておどけてみせると、彼女は溜息を吐くだけで何も返さなかった。少なくとも、ボクも恋愛感情を込めて言ったわけではないということはわかってくれているはずだ。

 間もなく真澄は荷物を持って立ち上がり、部屋の境界線を挟みボクと対峙する。

 聞くまでもないのかもしれないが、一応伺ってみようか。

 

「今日、どうだった?」

「普通」

 

 わかりきっていたやり取りに、思わず笑みが零れる。真澄も同じ気持ちだったのか、若干口角が上がっているように見えた。

 彼女ならきっとそう答えるだろうと思っていた。

 だからボクは、敢えてこの言葉を送るのだ。

 

「そっか。じゃあ――()()()()、真澄」

「……うん、()()

 

 ゆっくりと閉まる扉で少女の姿が見えなくなるまで、ボクは両手を小さく振り続けた。

 そして――側の壁にもたれかかる。

 何とも楽しい時間だった。隆二に続いて、真澄も期待していた通りの人物だった。

 あの日四人の中で、真澄と最も交流をしたかったのは紛れもない事実だ。

 彼女が具えていた要素は、三つ。

 『Aクラス』であること。『女性』であること。そして、()()()()()()()()()()()()()こと。

 三つ目に至っては正直賭けだったが、今日の様子を見る限り問題はなさそうだ。

 故に、一つだけ冷や汗のでることがあったのだ。

 有栖は何故あのタイミングで真澄をボクに差し向けてきたのか?

 即日決行の時点でだいぶ事を急いていたのはまず間違いない。恐らく清隆に対して並々ならぬ思い抱いていたのだろう。どんな感情かは置いておく。

 だが、ボクが疑問を抱いたのは、そもそも何故『尾行』という手段だったのかということだ。

 もしボクが真澄の尾行に気付かなかったとして、それで清隆に関する情報をそこまで多く掴めるだろうか。正確性は勿論早急性にも欠ける。寧ろ、ボクと進んでコンタクトを取り悟られずに情報を聞き取る方がやりやすい。

 ――まさに、今日の勉強会のような状況だ。

 ここで一つ恐ろしい推測が浮き上がる。有栖は真澄の尾行がバレ、ボクが勉強会に誘い、そこで清隆のことを教えるという段取りを全て見据えた上で、真澄に『尾行』の任を与えたのではないだろうか。

 根拠はないが、そのロジックを組み立てるためのパーツは確かに存在していた。

 ボクは彼女に、椎名と勉強会を開くという情報を与えた。その際、隆二が参加する可能性があることは伝えていない。そして更に、有栖も参加してみないかというお誘いした。極め付きには、「両手に花の時間を過ごしたい」とも騙った。

 おまけに、ボクは純粋にあの四人の中で真澄と積極的にコミュニケーションを取ろうとしていた。

 以上を踏まえると、有栖が「浅川恭介は女子が自身の勉強会に参加することを拒まない」ことと「真澄が最も受け入れられやすい」ことを推理するのは全く不可能ではないのだ。

 ただ、そうなるとまた一つ新たな疑問が浮かぶ。そもそものきっかけとなる箇所だ。

 どういう風に説明を受けていたのかまでは聞けていないが、真澄は恐らく本気でボクらを尾行していたのだろう。すると、ボクが彼女に気付ける程の察知能力を持っていなければ有栖の計画は始まることすらない。

 ――有栖はボクが演技していたことを見抜いていたのか?

 真澄が言うには、有栖はボクに興味を持っていないらしい。だが、ボクの演技に気付いた上でそれを取るに足らないと判断していた場合、矛盾は発生しない。

 確定づける材料がないため、これが的を射ているのか深読みなのかを断定することは不可能だ。できれば後者であって欲しいものだ。

 いや、もし前者だったとしても特に問題はない。それでも有栖は二つ間違いを犯しているからだ。

 一つ目は、真澄が差し向けられたことで得られる利益は有栖よりも()()()の方が圧倒的に大きいこと。そして二つ目は、()()()()()()()()ということだ。

 そのことについて整理を終えたボクはようやく集中を解き、ゆっくりと目を閉じる。壁に備えられた時計の秒針が嫌にけたたましく刻まれている。

 そういえば、あの人数で時を過ごすのはトップ4を除いて経験したことがなかった。今回は寮と言う密室だったのもあって、余計に濃密に感じられた。

 幸せだった。本当に。

 あんな時間がずっと続けばいいのに。何度もそう願った。

 体の中を温かいものが駆け巡る。それは決して、不健康な血の流れだけが原因ではないはずだ。

 目を閉じれば、心が安らぎ、喜色で満たされていくような感覚に陥る。

 大丈夫だと信じている。幸せなのだと噛み締める。

 ……しかし、そのどれもが、自分にそう言い聞かせているような気がしてならなかった。自分自身を疑わずにはいられなかった。

 どこか心の片隅で、埋めることのできない隙間がある。

 その存在も、正体も、本当はもうとっくに気付いていた。

 ――こんな時間も、きっと長くは続かない。そう悟る自分が消えることは、決してなかった。

 




いやー、我ながら、オリ主と坂柳のすれ違いが酷いっすねー(他人事)。偶然が重なっただけでここまで無駄な推測をするなんて。以前の描写の通り、あの男に夢中な彼女は特にオリ主のことを考えていません。そもそも、『取るに足らない』と思っているならまず君のために刺客なんて送らないでしょ、という矛盾にオリ主は気づけていませんしね。それも、滅法気に入っている人材を。

今の所の目標は、100話までにバカンスへ旅立つことです。え、無理?いやいやそんなまさか……ありえそう。頭脳戦はちゃんとするつもりだから許して……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ライアー

地の文が多めの時は、大抵筆が乗っている(調子に乗っているとも言う)時です。

「世の中にはいい嘘と悪い嘘がある、それは認める、私は知っている。 だけどね――許される嘘なんてものはないんだよ」
(『鬼物語』臥煙伊豆湖)


 消灯まで終え、後は床に就くのみとなったところで思わぬ人物から着信が入った。

 

「平田……?」

 

 クラスのリーダーが突然自分に何の用だろう。

 思わず首を傾げるが、自分の置かれている立場と平田との面識の浅さを顧みてすぐに察した。

 まだ時間に余裕はあったため、尻込みせずに応答する。

 

「しもしもー」

「もしもし、浅川君。こうやって二人だけで話すのは初めてだね」

「そうだなあ」

「本当は直接話したかったんだけど、どうしても都合が合わなくて……こんな形になってしまって、すまない」

「あっはは、気にするなあ。人気者はそれくらいがちょうどいい」

 

 教室での彼はカースト上位の女子たちに引っ張りだこで、他のクラスメイトに声を掛ける余裕が無い。更に言うと、ボク自身心が落ち着かずに席を外すことが多かったため、彼の行動を不快に思う要素は何一つなかった。

 

「今から話す時間はあるかな?」

「キミは運がいい。あと五分遅かったら、夢の中にでも侵入しなきゃキミの声はボクの耳に届かなくなるところだったよ」

「寝るところだったのかい? 邪魔になってしまうなら日を改めて――」

「ぞんざいに扱おうってんならそもそも出ないさあ。偶々早く寝る支度が整っただけだよ」

 

 「そうか。ありがとう」気前よく答えてやると、どこかホッとしたような声音で感謝された。お人好しな一面が電話越しに滲み出ている。

 ともあれ月の浮かぶ小夜の時間帯。できるだけ手っ取り早く本題に入るべきだろう。ボクは早速切り出した。

 

「テストなら問題ないぞ?」

「あはは……さすがにわかっちゃったか」

「キミが話しかけてくる理由なんてそれくらいなものさあ」

 

 彼、いや、クラスのほとんどが、ボクを赤点最有力候補と見ているはずだ。あの時の多方からチラチラと視線を浴びる感覚からして、三馬鹿で通っている三人よりも低い点数、というより0点を取るやつがでるだなんて誰も思わなかったのだろう。

 そう考えると、自分が無関心なだけで案外教室では噂されているのかもしれない。勿論悪い意味で。

 

「やっぱり話題になってたりする?」

 

 コミュニティが広い彼に問いかけると、苦笑とともに返事が返って来た。

 

「そう、だね。僕の周りでも、意外そうな顔をしている人が多かったよ」

 

 仲間外れやら陰口やらを嫌いそうな彼のことだ。ボクのいないところでそういう会話が交わされていることは理解しているものの、どう対応することも叶わない心苦しさのようなものを感じているのかもしれない。少なくとも、その事実に対して不快感を覚えているのは窺えた。

 

「気にしなくていいさあ。ボクだって、テストで断トツビリの人間がいたら不思議には思ってしまうよ」

「それは……うん。確かにその通りだ」

 

 ボクが気を遣っていると思ったのか、それを無下にしないように彼は同意した。本当のところ、万が一好奇ではなく侮蔑の目を向けられようとも大して傷つく性分でもない。そのあたりは六助を筆頭に地元で共に過ごしていた仲間たちから影響を受けていた部分が多い。有象無象の戯言など聞くに足らん。

 話はこれで終わり――と思っていたのだが、平田はなおも通話を切る様子がなかった。

 

「まだ何か?」

「……もしかして、浅川君はあの小テストを本気で受けてはいなかったんじゃないかい?」

 

 なるほど、こっちが本題だったか。

 確かにあの難易度で0点というのも、表向きただの進学校で通っている(しかも四月時点では全貌が伏せられていた)うちでは逆に怪しくなるか。現にこの前有栖も引っ掛かっていたようだった。

 しかしどうやら、根拠はそれだけではないらしい。

 

「前に堀北さんと綾小路君と話をしたんだ。テスト対策についてね」

 

 すぐに思い当たるのは先の連休初日だ。清隆は鈴音と会うとしか言ってなかったが、あの日は平田を混ぜて議論でもしていたのかもしれない。

 …………知らなかった。

 

「その時の二人は、浅川君のことを心配しているようには見えなかった。だからあれが君の正確な学力だとは思えないんだ。違うかな?」

「それはー……」

 

 彼の問いに対してどう答えようものか、ボクは迷った。

 本当のことを伝えたとして、聡明な彼なら信じてくれるだろう。先日清隆と鈴音とも話したのなら、ボクに対する印象もある程度正確に認識しているはずだ。

 加えてなまじお人好しな一面を具えている彼は、ボク一人の名誉のためにクラス全体に訴えかけてくれるかもしれない。普通ならそれは大変ありがたいことで、教室で肩身が狭い思い――をしている仕草――をする必要もなくなる。

 だが、それが今のボクにとっての『利益』になるとは思えなかった。

 寧ろ今自分が考えている通りに物事を進める上では、その要素は不都合をもたらす可能性さえある。

 だから――、

 

「…………いや、買い被りすぎだよ。ボクの実力なんてあの程度さ」

「え……で、でも、君は二人の開いている勉強会には参加してないんだろう? それは二人が信じているから――」

「ボクの方から言ったんだ。こっちに割くリソースを他のやつらに回してやってくれって。二人共ボクの気持ちを汲み取って渋々了承してくれたよ。君を心配させたくなくて、はぐらかさざるを得なかったんじゃないか?」

「じゃ、じゃあ……君はどうするんだい?」

 

 段々と弱々しい物言いになっていく彼は、恐る恐る聞く。

 

「独力、かなあ。やれるだけのことはやってみるよ」

「そんな……本当に大丈夫なのかい?」

「みんなにも煙たがられてしまうだろうからね。雰囲気を乱したくもないし、クラスメイトに縋りつくのも気が引ける。ボクの自業自得だよ」

 

 これで「なら自分が開く勉強会に来てくれ」と誘う手段も失われた。彼に無力感を与えてしまうかもしれないことに関しては申し訳なく思うが、ボクは堪えて拒絶した。

 嗚呼、よく鈴音はあんなにも人を突っぱねておいて澄ました顔でいられたものだ。もしも対面でのやり取りだったら、ボクならどうにかなってしまいそうだ。

 掛ける言葉が見つからないのか、暫く平田は何も言わず、しかし焦っているように感じられた。

 

「な、なら……そ、そうだ!」

 

 思考の波間で必死にオールを漕ぐ平田。話すのも初めてなのにどうしてそこまで助けようとするのだろう、と行き過ぎた優しさに疑問を抱いていると、彼は何かを思いついたようだ。

 

「僕が個別で教えるよ。そうすれば、他のクラスメイトの目を気にする必要もないだろう?」

「……ふぇ!?」

 

 さすがに予想外だった。クラスを束ねる器である彼が個人単位で手を差し伸べるとは。

 突拍子もなくなかなか大胆なことなのだが、これがまたボクにとっては()()()()()()()()

 

「え、遠慮しとくよ。心配しなくとも――」

「仲間が一人、退学の瀬戸際なんだ。見捨てることなんてできないよ」

 

 すかさず拒否しようとするが、勝手に彼の中で決意が固まりつつあるらしい。数秒前よりも毅然とした口調で言い切った。

 確かに今までの会話で出た情報を繋げると、彼の提示した答えはかなり理に適ってしまっている。

 上手く反論する要素もでっち上げも難しい、か。片意地を張る方が面倒くさそうだな。

 ボクはフラフラと白旗を揚げる。

 

「……悪かったよ、ごめんなあ。嘘を吐いた」

「え?」

「キミが期待しているほどじゃないけど、0点を取るような阿呆でもないよ。あの二人よりはずっと下だけど、ボクの学力を考慮した上で健たちを優先すべきだと判断したんだ」

 

 あたかも今までのは作り話で、その謝意表明として真実を吐露しているかのように、ボクは全く別の作り話を披露した。

 狙い通り、平田の安堵した声が聞こえてくる。

 

「よかった……信じて大丈夫なんだね?」

「ん。ボクよりも自分の勉強会のことを考えてやってくれ」

「わかった、そうさせてもらうよ。ところで、浅川君は一体どうして――」

 

 彼が付け足しに何かをボクに問いかけようとしたところで、端末の向こうで機械音が響く。この音は……メールの受信音だ。

 

「誰からだい?」

「軽井沢さんからだ。今から電話したいって……」

 

 二人の交際は四月の中旬には始まっているらしい。櫛田からトレンドニュースを授かった清隆が教えてくれた。確か、ヨシエさんと初めてちゃんと会話をした日だったな。

 恋人からのお誘いか。平田は平等主義。こちらを蔑ろにしたくない気持ちもあってどうすべきか判断しかねているのだろう。ここはこちらから気遣いをしてやるべきだ。

 

「出てやんな、平田。ガールフレンドを待たせるのは、紳士としては半人前だぞ?」

「……ごめんね、浅川君。ご厚意に甘えさせてもらうよ」

「おう。そんじゃあ――さよならだ、平田」

「うん。じゃあね、浅川君」

 

 プツリと通話が切れる。

 半ば雑に端末を握っていた腕を下ろし、ベッドの上に寝そべり目を閉じる。

 清隆から話を聞いた際、二人はまあまあな距離の置いた付き合いをしているということだったが、五月を迎えた今も大して進展していないように見える。あまり関心を持っていなかったからというのもあるかもしれないが、周りの反応も似たようなもので、決してズレた意見ではないはずだ。

 お互い所謂カースト上位の存在なので『お似合い』だとは思うが、強いて言えばボクの中で平田の見る目が僅かに変わったと言うべきだろうか。

 そもそもクラスメイトに優先順位をつけないはずの彼が特定の誰かと付き合い、あまつさえ公衆の面前にお構いなく晒しているという事実が驚きだった。彼なら体裁を気にしてもっとプライベートな場所に限定するものだと思っていたが。

 それに加え――これも彼の性格と照らした結果だが――入学して間もなくという『時期』も意外だ。一か月も経たずに付き合う関係は大抵一目惚れやらフィーリングやらがきっかけで、恐らく内面の分析は十分にできていないのが常。それを彼がやったと考えるには合点いかない。

 極め付きには水泳での恵の見学。生理的な事情があったのかもしれないが、普段ベタベタと平田にくっついている彼女があの時平田の方に目を配る素振りは一度も見せなかった。普通交際相手の水着姿となれば、筋肉なり泳ぎっぷりなりに興味を覚えるものではないのだろうか。

 まあとはいえ、二人には二人のペースがある。そこに邪推を挟むなどあまりに無粋だ。真面な恋愛経験というものが皆無なボクに、他人の色恋沙汰をあれこれと咎める資格などない。

 いずれにせよ、恵には感謝せねばなるまい。

 もし彼女がワガママを訴えなければ、ボクはきっと、平田が最後にしようとしていた問いかけに上手く答えられなかったと思うから。

 先までの彼との会話を振り返り、罪悪感が過る。

 そこでようやく、自分が変わってしまっている事実に気が付いた。

 元来嫌いだったものにこうも呆気なく頼ってしまったことが、酷く悲しかった。

 自分自身を裏切ったことを自覚するのに、こんなにも遅れてしまったことはなかった。

 ふと、鏡に『悪魔』の如く不気味な影が浮かんだような気がして目を向ける。

 要領の得ない感覚にぞっとするが、すぐにその正体を理解し、力なく笑う。

 いとも簡単に『嘘』を吐いてしまった自分の姿に、嫌悪感を抱かずにはいられなかった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 曇天は好きかと聞かれれば、ボクは笑って誤魔化してしまうことだろう。

 以前空模様が心を写すか否か自問したことがあるが、主観に還ってみると、結局はその時その時の気分次第だ。気が舞い上がっている時に青空が広がっていれば尚更上々になるし、暗澹たる思いの最中で今のような灰の空を眺めれば余計に胸中がざわついてしまう。

 とどのつもり、現在の心境を照らすとボクは間違いなく億劫だという結論になるわけだ。

 独りで道を歩いていると、ついつい縋りつくように視界の端に向けて目玉を回してしまう。そこに天空が含まれる意図もまた、前向きな決起だったり物憂げな仰ぎだったりと極端に気まぐれだ。

 「浅川」と声が掛かる。振り返ると赤髪の大柄な男の姿が映った。相変わらず、この学校でもそれなりに目立つ色だ。

 

「健じゃないかあ。どした?」

「俺はランニングだよ。聞いて驚くな? 目覚まし無しで五時半起きだぜ!」

「おお、立派に成長しているじゃないかあ」

「へへっ、まあな」

 

 五月の頭の茶柱さんによる説教を経て、見返す心意気さながらにクラスの授業態度は改善されている。ちょうど同時期に早起きの習慣化の努力の成果が表れ始めた健もまた――沖谷もそうだが――登校の時間帯や授業中の居眠り癖もかなり快方に向かっていた。

 ランニングと称しジャージ姿で小さく足踏みする彼は、今日もクラスメイトの目を瞬かせる早さで教室に入ってくることだろう。当の本人はそのことに気付かないか鬱陶しく感じるかだということも目に見えているが。

 

「浅川は――いつも通りだな」

 

 呆れたような笑顔でそう言う健に微笑で返す。何だかんだで、櫛田から依頼を受けたあの日を除いてボクは一度も席に荷物を下ろすトップバッターを譲ったことがない。

 そう、『ボクだけ』は。

 

「そういや綾小路のやつはどうした?」

「鈴音と朝の逢引だってさあ。彼もついに好色めいてきたのかもね」

「ハッ、池や山内じゃあるまいし、アイツにそんな思考回路が備わってるとは思えねぇな」

「人は見かけに寄らないぞ。ボクがこんなにきっちりとした生活を送る男だとは初め誰も思わなかったろう?」

 

 「それもそうだな」と声を上げて笑う健に「否定しろよ」と抗議する。その意外な性に助けられているということは心に留めておいて欲しいものだ。

 この一週間、清隆はほぼ毎日鈴音と往路を共にしているらしい。彼曰く、「自分には爆弾の導火線に水をかける使命がある」のだとか。察してはいたが、苦労人宜しくの立ち回りに徹しているようだ。

 それを理解しているから、ボクは今独りなのである。

 事の原因である勉強会について、進捗を知る目的で触れてみようか。

 

「そういえばキミ、二人の勉強会に参加しているそうじゃないかあ。調子はどうだい?」

「あー、それは――ボチボチ、だな」

 

 歯切れの悪い反応は、言わずもがな事態の悲惨さを物語っていた。

 

「遅れた分は他より努力を積まなきゃ取り戻せないぞ」

「わってるよ。ただ、どうしても気乗りしないだけだ」

 

 バスケに精を注ぐ彼のことだ。それくらいのことは感覚的に理解しているはず。とすると、単なる苦手意識が枷となっているのだろう。

 あるいは……、

 

「それにあの女――堀北もイマイチ気に入らねえ。お前らよくあんなやつと付き合えるな」

「そんなにか? 同じ自己紹介を拒んだ仲なんだし、キミとの相性も存外悪くないと思うけどなあ」

「んな偶然程度で親近感湧く程ガード緩かねえって」

 

 現場の空気を肌で感じたわけではないが、やはり鈴音の気難しい部分は赤点候補たちも不快に思っている。なおもボクらくらいとしかプライベートで話さない様子から、予想するのに難くはなかった。

 

「一日一日緒を締めて励みなさいなあ」

「いや、今日は部活だ」

「オイオイ、大丈夫なのかい?」

「うっせぇよ。ノートに俯いてだんまりする暇あるなら、バスケに打ち込んでる方がずっと身になるんだ」

 

 確かに個人的な事情で部活を休むというのもあまり明るいことではないが、そもそも最低限のことができる上で取り組んで然るべきなのでは、と思う。健の提唱した考え方には些か不安が過った。

 

「……バスケじゃなければ、ちょっとはマシなのかもなあ」

 

 ふと漏らした発言に彼は訝し気な顔をする。「あ? 何でだよ」

 

「例えばサッカーとか野球とかなら、雨さえ降ればきっと休みになるだろう? そしたらキミが勉強会に気を取られている間、ライバルが先を越すなんて歯がゆいことにはならないじゃないかあ」

「けどよ、他のやつらだって同じ時間に勉強してるかもしれねえだろ? だったら結局変わらなくねえか?」

 

 そう思うなら部活外の時間で遅れを取らないよう真剣に勉学と向き合って欲しい。と愚痴るのは果たして野暮だろうか。

 

「キミは部活の仲間より先に自分自身か学校と競うべきだろう。赤点回避が目標なんだから」

「うっ、それもそうか……」

「ボクが言いたいのは、バスケに悪影響が出るかもって気にしているキミを見ての感想だよ」

 

 「……気づいてたのか」伏し目がちに頭をポリポリと掻く彼に強く頷いた。「木曜に走っている時点でお察しさあ」

 ボクの言葉の意図は当然健の勉強時間の話ではない。勉強で割かれるバスケの方に焦点を当てた話だ。ライバルも練習できない状況なら自分が何をしていようとバスケのポテンシャルに差がつくことはない。

 とは言え、全く以て意味のない仮定だ。健のバスケへの熱意はダイヤモンドにも負けず堅いだろうし、学業を疎かにしていた自業自得と言えど彼が勉強会と部活の板挟みになっていることもまた事実。後の祭りだ。

 

「まあ程々になあ。こうしているところを鈴音が見たら、朝イチに一問でも多く解けって言われるぞ」

「あー、クソ。マジでだりぃぜ。なあ浅川、お前が教えてくれたりとかはできねえのかよ?」

「は、ボク? 冗談きついなあ」

 

 小テスト0点のボクに何とも見当違いなご依頼だ。清隆か鈴音から何か根も葉もないことを吹き込まれたのか?

 詳細を尋ねると、案の定二人が口裏を合わせてボクを「平均以上」の学力として通しているらしい。一切合切真実を語られなかっただけいいが、余計なことをしてくれる。単にボクが断固として参加の意思を示さなかったということにしておけばいいものを。昨夜の平田への説明とも齟齬が生じてしまった。

 

「そもそもお前、何で綾小路たちと一緒じゃなかったんだ?」

「まあ色々あるのよ。フクザツなジジョーってやつ?」

 

 「ほーん」野生の勘というやつか、触れて欲しくない内容なのだと察したようで、彼はそれ以上の追究はしてこなかった。

 

「なんつうか、何かあったら言えよ」

「まさかキミにそういう気遣いを受けるとはなあ」

「バカ、友達なんだから当たり前だろ」

 

 真っ直ぐな言葉がスラッと出てくるあたり、彼の人情味ある性格が伺える。彼の厚意をどう受け取るか決めかねたボクは「そっか」と返す他なかった。

 

「なら、言うより前に退学なんてならないように精進しておくれよ?」

「それを言われると痛ぇな……」

 

 「わかった」の一言は無し、か。これはもしかしたら相当差し迫った状況になっているのかもしれない。

 しかし今のボクには何かをしてやれる力がない。勇気がない。立場がない。あらゆる面で、不足している要素が多すぎる。

 その時、突然視界の明度が上がった。健との距離が離れたわけでも、意識が外の方に向いたわけでもない。勿論急にボクの心が晴れやかになったというのも違う。

 健がその方向を見て「おお」と声を漏らす。恐らくボクがこの場にいなくとも呟いただろう。それくらい、自然な感動だった。

 層の薄い雲の隙間から、太陽の輝きが放射状に差し込み、下界(こちら側)に滲み出ている。その神秘的な光景は、意識を凝らしていれば大してレアなものでもないが、どこか人の目を惹きつける力を秘めていた。

 教養の無い人なら、「日光のカーテン」とでも名付けるだろうか。しかし生憎、ボクはその正式名称(正体)を知っていた。

 

「――ヤコブの梯子」

 

 時に、『天使の梯子』とも呼ばれる自然現象だ。起源を辿ると、旧約聖書の初め――創世記にその名が登場する。

 そこに記さている、悲哀を敷いた階段の何たるかを把握しているボクからすれば、それはとても息を呑む程の高揚感を与えるものではなく、寧ろ自身の境遇に嘆きを抱かずにはいられなくなるのだ。

 故に、眩しさに思わず目を瞑るようにして光線を視界から外し、背を向け、健の正面に身体を向ける。

 

「綺麗なもんだな」

「ボクは眩しくて敵わないかなあ」

「でもいいじゃねぇか。『栄光』ってのはそういうもんだろ?」

 

 スポーツマンである彼ならではの見解だろう。大方、高みまで昇り切った先に輝かしい功績やら絆やらが待っている、といった具合か。

 栄光なんてものとこれっぽっちも縁のないボクには合点いかないが、特にふざけた顔もせずに豪語した彼の回答を蔑ろにはできない。然程広い視野を持っていない彼の場合、ボクの考えを聞いたら不機嫌になってしまうことも考えられた。

 

「そうだなあ」

 

 だからボクは、ポツリ、と。

 本当にただ、何の変哲もなく何気なく。

 己の中で禁忌と定めていたはずの行為に、再び人知れず走ってしまった。

 そう気づき小さく絶望したのは、そのたった四音を発した直後のことだった。

 

「……まあ頑張っておくれよ。応援してるから」

「ん? お、おう」

 

 逃げるようにその場を去ろうとするボクを、健は首を傾げるだけで引き留めようとはせずそのままランニングに戻っていった。

 すぐに振り返り彼の姿が小さくなっていく様を暫く見届けていたボクは、目を逸らしたばかりの光を横目に見る。

 もしボクが、健にあの『夢』に似た景色の根源を語ったなら、彼は理解を示してくれただろうか。ボクの望む会話に漕ぎつけただろうか。

 ――それは否、だ。決して解り合えないとか、親愛度が足りないとかの話ではない。そこに存在する、現時点で覆しようのない差異は、偏に……。

 ならば一体、誰が適任なのだろうか。誰なら、ボクとの『意義ある語り合い』を実現させてくれるのだろうか。

 ……そんなもの、決まっている。真っ先に一人の男の影が浮かんだ。肯定してくれるのか否定されるのかは別問題であって、互いの世界をより正確な形で交わし、認識できる関係は、今のところこの学校において彼以外いない。この溺れるかのような信頼は、まるで自分の中で彼を『神格化』しているようにも感じられる。

 それは、ボクらにとってどんな意味を持つのだろう。恐らく、()()()()()()()()善いことではある。核を共有できる、共通理解の成る相手というのは、とても貴重な存在だ。

 ただ、同時に、ボクらを眺める誰か――あるいは世界、あるいは客観に立つボクら自身――からすれば、非常に哀れで残酷なことだと思う。

 この世界にありふれている哀しみも、切なさも、儚さも――感情をしっとりと揺らす数多の淡々とした事象や知識は、時として必要のない絶望を突き付ける。そこに感情の否応を挟む余地は残されていない。流れることなく、ただ忽然と事実のみが浮上する。

 その存在を知覚してしまったボクらは、どれだけ理解されようと滑稽で、どれだけ突き詰めようと空虚なのだ。

 知らなかった頃には戻れない。

 健のように、無知な方が希望を持てることがある。それは決して愚かなことではない。賢愚を分かつのは、何かが欠けたまま抱いたその希望を糧に如何なる結末を迎えるかに依る。

 ボクは自分の中の後悔と恐怖に従って、他人を知ることに執着している。その自覚はあるし、それが間違いだとは思わない。幾度となく傷つき、挫折してしまうとしても、そこから逃げて罪悪感と共に歩むよりかは可能性という温かさの中で果てた方がマシだ。

 しかし、その外に位置するものは別なのかもしれない。大事なものを知らないと過ちを誘うのと同じように、余計なものを知っていると要らぬ苦しみを背負うことは否定できない。だとしたらそれは、非常に辛く、にも関わらず無意味なことだ。

 ――空を、仰ぐ。

 そうすることで真っ先に過る一つの()()もまた、誰もがさも当たり前のように受け入れている『真理』故のもの。それでいて、人の生において実は微塵も引き出す必要のない『知識』。かの名探偵が言い放ったように、それは地動説に匹敵する程の無価値さだ。

 そして、その悲劇を分かち合いたい相手は、徐々に疎遠になっている。

 

『――気に病むことはない。別に二度と会えないわけじゃないしな。話そうと思えばいつでも話せるさ』

『――元々席が近いというだけの偶然から始まった関係なのだし、変化は誤差の範囲で済むでしょう。心配し過ぎよ』

 

 ボクの遠慮と、彼らの後ろめたさ。たったそれだけで、あまりに不確かな約束は脆くも崩れ去ろうとしている。

 わかっていた。わかっていたのに、ボクは何故か再び期待してしまった。

 後悔をするつもりはない。ただ、未練が大きすぎた。その負担はとても耐えられるものではない。

 だからもう、声を上げることも、手を伸ばすこともできないと知りながら――。

 ボクは心の中で、密かに叶わない願いを抱き続ける。

 そうすることが、ボクの贖いと共に救いであるかのように。

 独り善がりだとわかっていても、それが唯一繋ぎとめるのだと知っているから。

 ボクは、一方的な願望で、彼らの心に接続する。

 ――――会いたい。

 『ウソツキ』に成れ果てたボクには、その望みさえも罪だった。

 




『ヤコブの梯子』。ほんのキーワードの一つに過ぎませんが、覚えておいてください。少し後の話で再び登場する名前です。

お待たせしました。ようやく次回から、底辺続きだったオリ主の心に「きっかけ」がたたみかけてきます。今まで本作を読んでくださっているみなさんからすれば案外ビッグニュースかもしれませんね。ここからちょっとずつ、ホントちょっとずつ彼が揺れ動いていく様を見届けて下されば嬉しいです。
気が向いたら、この前言っていた正確な年月日について、次回少し載せてみようかなと思ったりもしています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

セルフィ―

さて、問題の本編、進んでいきましょう。

本当は色々語る前にまず読んでもらいましょう、と言いたいところなのですが、あとがきの方に今後の展開についてのアンケートの説明をするので、ここで少しだけ解説という名の言い訳をさせてもらいます。

以前tipsの更新の際にも話しましたが、大きな問題が原作キャラの再現です。今回の話で登場するキャラの口調や性格が圧倒的に曖昧な認識で自信がない。というのと、佐倉んぼが物語の都合上めっちゃ饒舌になってしまった。この二点が作者としてはものすごく困っておりました。なのでそこのところ、大目に見てもらえると嬉しいです。

まあ残りはあとがきに回して、とっとと本編入りましょうかね。


 空調の恩恵を受けない特別棟は、夏の到来を待たずして客を拒まんとする熱気で包まれていた。

 

「あっつい……」

 

 思わず苦痛が漏れる。こういう時に誰もいない空間で声が零れてしまうのは、ボクだけではあるまい。

 今まで授業のために数回移動したことはあるが、その程度でこの暑さに慣れろなどとは無理な話だ。

 夏服でも売っていたりしないのだろうか。あ、ポイントないや。そもそも今の時期でこれだと、二か月もすれば服装如きでどうにかなる話ではなくなるかもしれない。

 授業以外では放課後の部活動でしか使われることのない特別教室。今日は活動する団体はないらしく閑散としていた。

 むんむんとした世界に一人隔絶されてしまった感覚が膨れていく。まるで生き地獄の登竜門を潜り抜けた気分だ。

 階段を上り、踊り場で徐に足を止めて窓を覗く。壁一面に張られており解放感はあるものの、格子状に区切られているため一層閉じ込められているかのようなパラドックス的錯覚に陥る。

 ――いつまでそうしているつもりだ?

 ガラスに映る影がそう問いかけてくる。

 ――怯えたところで何も変わらない。過ちから逃れられたとして、それは成長したと言えるのか?

 冷酷に事実を突き付けてくる幻影に、言い返す言葉はなかった。

 ――そうやって心を脆くしたままだったから、あの時も間違えたんだろ?

 ――何も変わっていない……どこまでも『無関心』である自分に、何も思うことはないのか?

 ――本当に今のままで、『後悔』しないのか?

 まるで自画像のように、それでいて別人のような雰囲気を纏う、ボクと同じ外見の『それ』が糾弾する。

 葛藤、なのだろうか。しかし、安直にそう考えるには少し違和感がある。過去の亡霊、怨嗟の声か? いや、もっと身近にあるようなものの気がする。

 その正体にはどこか、懐かしい感覚が――

 

「あの……」

 

 意識が朦朧としていたせいで全く気配に気づかなかった。反射的に後ろを振り向くと、二人の少女の姿が目に映る。片方はよく見知った人物だった。

 

「愛理じゃないかあ。どうしたんだい? こんなところに」

 

 今までの思考を即座に打ち切り、()()()()()()()()()で言葉を返す。

 どうも彼女とは人気のない場所で遭遇してしまうようだ。その方が彼女も会話がしやすいだろうから困りはしないのだが、そういう点ではどこか似た習性を感じてしまう。

 

「五月に入ったから、そろそろ校内のフォトスポットを探索してみようかなと思って……」

 

 流汗滂沱の苦手な彼女のことだ。高校の内装に慣れるまではあまりうろつく気概を持てなかったのだろう。今日ここを訪れたのも、まずは人の往来が少ない場所をと考えてのことだったのかもしれない。

 

「そいつあ邪魔したなあ。どうぞ、心行くまで楽しんでおくれ」

 

 前回と同じシチュエーション。今回は彼女の付き添いの時間も奪ってしまうので、早々退散した方がよさそうだ。

 しかし、愛理はボクを呼び止めた。

 

「い、いえ、大丈夫ですよ?」

「でも――」

「浅川君は、見守ってくれる人だと思うから……」

 

 恥ずかしがりながらもそう言い切った愛理に頬が緩む。

 彼女が信頼してくれている通り、ボクは言われればいくらでも黙っていられるし、人様の行為を面白がって指を差すようなド畜生ではない。本人がそう言ってくれるのなら、強引にこの場を去る理由はなかった。

 

「そりゃそうだけど、そっちの子の迷惑にはならないかい?」

 

 一つ気になったのが、初対面の少女がボクに懐疑的になってしまわないか、ということだ。すぐに敵意をむき出しにする子が愛理の友人になれるとは思っていないが、少なくとも見知らぬ異性を前にすれば委縮はしてしまうだろう。

 

「私は気にしませんよ。浅川恭介君、でしたよね?」

 

 ボクの懸念に反して、少女は物怖じせずにそう言った。

 

「浅川君。この人がみーちゃんです」

「なるほど。――よろしくなあ王。名前、憶えてくれてたんだなあ」

「佐倉さんが何度か話してくれたんです。優しい人だって聞いています」

「い、言わないでよぉみーちゃん……恥ずかしいから」

 

 彼女がみーちゃんか。心がいないが、予定が合わなかったのだろう。

 微笑まし気な表情をする王と取り乱している愛理を眺めていると、こういう一般女子高生らしい関係性を見るのは初めてだなという感慨が湧き上がる。ボクと交友関係を持つ人たちはクセが強すぎると改めて認識した。

 

「浅川君はどうしてこんなところに?」

 

 落ち着きを取り戻した愛理が問う。こんなところに事情も無く足を運ぶのは、確かに不自然だ。

 

「気分転換かなあ。こっちの方でゆっくりくつろいだことはなかったからさあ」

「そうですか。でも……こんなに暑いと、くつろぐのも大変そうですね」

「あっはは、大変だったらくつろぐとは言えないなあ」

 

 もう少しすれば梅雨に入る。居心地の悪さはより酷いものになることだろう。人通りが少ないわけだ。

 ボクらは二階のベンチに並んで腰を下ろす。面積が広くないため、前とは違い間隔は握り拳分くらいだ。

 

「そういえばボクは、二人の出会いを知らないなあ。良ければ聞かせてもらえるかい?」

「えっと……五月に入ってすぐです。小テストのこととか、色々……」

 

 上手く伝えるのに苦労しているようだが、恐らく王の小テストの点数が高かったことを最初のきっかけにしたのだろう。他人の長所から話を切り出すのは、コミュニケーションの手段としては適している。尤も、愛理が狙ってそうしたわけではないのは想像に難くない。

 王が続きを継ぐ。

 

「それから段々話す回数が増えていって、よく私の出身のことについても教えてあげたりしているんです」

「ほう! チャイニーズカルチャー、ボクも興味があるよ」

 

 いくら知識として仕入れていたとしても、やはり百聞は一見に如かず。現地人の体験談には奥深さや説得力がある。一番興味があるのはヨーロッパ――中でもアイスランドだが、ボクの海外旅行経験はたったの一度しかないしあまり関心のない国だった。ただ、日本の外の話となると何だか壮大な感じがして、興味をそそられる。

 

「よかったら、今度浅川君もみーちゃんに教えてもらったらどうですか?」

「いいのかい?」

「勿論いいですよ。私、日本で異性の友達は少ないから、その……仲良くしてくれると、嬉しいです」

 

 とても今の彼女はそんな風に見えないが、目を合わせて話していられるのは愛理がボクのことを良く語ってくれていたからかもしれない。

 

「なら、機会があればぜひ同席させてもらうとしよう。また三人で愉快な一時を楽しみたいものだね」

 

 ボクの肯定的な返しに二人は嬉しそうに頷いた。

 あくまで本心を述べた。しかし、ここでもやはり、ボクは他人を騙すようなマネをしてしまっている。

 愛理は勿論、初対面にも関わらず好意的に接してくれる王に対しても、申し訳ない気持ちになる。

 耐えられず、ボクは愛理に別の話を振った。

 

「撮影が目的じゃなかったのかい? ボクは適当にのんびりしているからさあ」

「あっ、そうだった。――それじゃあ、みーちゃん」

「うん。前みたいに近くにいるよ」

「……ありがとう」

 

 安心したように笑って、愛理は立ち上がりカメラを携えて辺りを廻り始めた。

 人一人分空いた距離を埋めないままにして、ボクはなおも同じ場所に居座る王に話しかけた。

 

「いつもこんな感じ?」

「はい。あまりくっつき過ぎちゃうと、怒りはしないだろうけど、さすがにやりづらいと思うから」

 

 愛理の趣味を尊重してのことだったようだ。彼女に善き理解者ができたのだと内心喜ぶ。

 

「ありがとなあ。愛理と仲良くしてくれて。心配していたんだ」

「それ程でもないですよ。寧ろ私がお礼を言いたいくらいです。――浅川君にも」

「ボク?」

「出会ってすぐの頃、佐倉さんに聞いたことがあるんです。何で話しかけてくれたのかって」

 

 王は柔和な眼差しを愛理に向けたまま語る。そこには、彼女のことを心の底から友達だと信頼している気持ちが表れていた。

 

「そしたら、浅川君が勇気をくれたからだって答えたんです。浅川君が寄り添ってくれたから、少しでも変わろうと思えたって」

「……へー、彼女がそんなことを」

 

 「本人の前では、卒倒しちゃうだろうからとても言えないんですけどね」王の言葉を傍耳に、ボクも彼女に倣い愛理の方を見る。僅かに口角を上げて、カメラに表示されているであろう写真を見つめていた。

 思いの外彼女はボクに信を置いてくれていたようだ。校舎で他人と話す姿を見なかったし、彼女にとってボクはそれなりに大きな存在だったのかもしれない。

 

「あの時の佐倉さんの顔、見せてあげたかったなあ」

「そんなにいいものだったかあ」

「正直、人のことを嬉々として語る子だとは思っていませんでした――『自分』のことも含めて。だから、浅川君のことを話す表情を初めて見た時は、少し驚いちゃったんですよね」

 

 普段の愛理は、周囲に蔓延る『他人』という存在に対してあまりに閉鎖的だ。殊、打算や建前を潜めて近づく連中は、顔色を窺うことに慣れ極まっている彼女にとっては敬遠すべき対象の典型例と言っていい。

 そして愛理自身も、心中で波打つ海の底に、何か――その正体をボクは知らないが――を押し隠しているという事実を自覚し悩んでいた。そんな彼女が人そのものに苦手意識を抱くのは、全く大層なことではない。

 

「私たちが友達になれたのは、元を辿れば浅川君のおかげなんです」

「大袈裟だよ。結局は愛理が踏み出した一歩だ。そしてその勇気に応えたのはキミだ。キミらはなるべくしてなった、お互いで完結する友達どうしってわけだ」

 

 だとしても、なのだ。ボクの言葉をたとえ受け止めていたとしても、それでも彼女が尻込みしてしまうのなら、王に話しかけることはなかった。王ももし心を閉ざしていたり、他の友人に満足していたりしたら、愛理の気持ちに存分に応えてやることはできなかった。二人の関係の行く末に、ボクの言動が挟み込まれる余地など微塵もない。

 「そんなことは、ないと思います」しかし、次に飛んできたのは、ボクの否定を打ち消す言葉だった。

 

「佐倉さんの気持ち、少しわかるんです。私、中学生になってすぐこっちに来たんですけど、すごく心細かったし、話しかけようと思っても何となく怖くなって遠慮しちゃったり……」

 

 日本人でも転校先で上手くコミュニケーションが取れないという話は多かれ少なかれある。その跨ぐ仲立ちが国境ともなれば、心的疲労は決して小さいものではないはずだ。彼女の不安、完全な理解はできなくとも、合点はいく。

 彼女は彼女なりに、愛理に共感できる部分を見出していた。それが彼女自身の性格によるものか、将又愛理の友達としての善良な矜持によるものなのかはわからない。

 

「そういう時って、何かしらのきっかけがあるかどうかで大きく変わるんだろうなと思います。浅川君は、私たちが友達になる『きっかけ』になってくれた人……私たちを繋いでくれた浅川君が、無関係だなんてことは絶対にないと思います」

 

 気が付くと、王はついさっきまで愛理に向けていた目をこちらに移していた。一瞬たじろぐが、真剣かつ柔らかな瞳を()()()()()見つめ返す。

 

「どうか、否定しないであげてください。謙遜なんかで、佐倉さんの思いを裏切らないであげて欲しいんです」

 

 ボクの中でチリチリと呼び起こされる熱。それは、外から差し込む黄金(こがね)の光とは別なものだ。

 過去の残骸がひっそりと顔を覗かせ、目の前の少女の言葉から背けるなと痛い程に訴えてくる。

 

「まだ浅川君のことはよく知らないけど……それでも私は、佐倉さんの信じる浅川君はきっと善い人なんだと信じています」

 

 ――だから、ありがとう。

 今まで何度か聞いてきた。この高校で初めて言ってくれたのは清隆だったということは、なおも良く覚えている。確か次は椎名だったはずだ。

 だけど、そのどれとも違う。彼女の感謝の言葉は、ゆっくりと染みわたるような感覚があった。

 決して一方的ではなく、それでいて譲る気はないと言わんばかりの明確な信念じみた感情の提示。絶妙な配分で思いが乗せられた真っ直ぐな言葉は、恐らくボクが最も受け入れやすく、最も突き崩されやすい類のものだ。

 それは、まさしくボクが好きだった人と同じ性質を持っていたから、なのだろうか。

 

「……まあ、キミがそう言ってくれるなら、こんな老いぼれでもあの子の助けになれたのかなと嬉しく思えるよ」

 

 意味があった、とまでは言わない。

 ただ、目の前の少女の言葉が、その天真なる微笑みが、どうしてかボクの中でストンと落ちる音がした。

 人はその温かさをもって冷たい哀しみを引き寄せるのだとわかっていても、血脈にジンワリと浸透していく心地良さを、久しぶりに思い出す。

 最後に感じたのは、いつだったろうか。

 

「やっぱり、浅川君は善い人です」

「ボクが、かい?」

「はい。まるで、助けたいと願っていたかのような言い回しだったから」

「……いやあ、どうだろうねえ」

 

 真に善人と呼べる存在を――崇めるべき存在を知っているボクとしては、素直に頷きたくないことだった。しかし、そんなことを知る由もなく、感覚的なもので漫然とそう思っているであろう彼女に対して、違うとは言えなかった。

 暗に指摘された優しさを、否定することができなかった。

 

「これからも、愛理と宜しくしてやっておくれ。不安な時に寄り添ってやれるのは、キミだから」

「浅川君は?」

「彼女が立っているのはキミの隣であり、ボクの前だ。今のボクは、ただ後ろから見守ってやることしかできない。それを寄り添うとは言えないよ」

 

 ボクはもはや、傍観者に過ぎない。観測者にすら値しない、愛理の成長をぼんやりと眺めていたに等しい臆病者だ。

 愛理は、ボクなんかよりもずっと強かだった。

 すると今度は、ふふっと密かに笑う声が届いた。

 

「何か可笑しなことを言ったかい?」

「本当だって思ったんです。何だか浅川君、佐倉さんのおじいちゃんみたい」

 

 思わぬ一言にすかさず真意を問う。「そう?」

 

「だって、おじいちゃんおばあちゃんが孫に寄り添うっていうのはちょっと違くないですか? 親より少し身を引いたところから優しさを送っているような距離が、まさに今の浅川君だなって」

 

 彼女の答えに目を丸くしたのは、自分の老いぼれ発言が初めて肯定されたから、ではない。正確にはそれも無きにしも非ずだが、一番の理由はすぐに納得し共感した自分自身だ。

 他人である彼女の言葉に、こんなにも容易く動かされるのは何故だろう。

 最初は過去の面影を重ねたからだと思っていた。でもそれは間違いだったのかもしれない。

 

「……ボクのこれは、弱さではないと。君はそう言いたいのかい?」

「そ、それはわからないです……。浅川君が自分のことを老いぼれって言っていたから、何となく思っただけで……」

 

 当然彼女はボクと初対面だ。だから、ボクがどういう人間なのかというのは自らの尺度のみで語ることしかできない。そんな彼女を前にして、ボクが旧知の誰かを想起する道理など、あるわけがないのだ。

 正体は――寧ろ逆だ。

 以前沖谷との会話で触れたように、家族、友人、師弟など、関係性は様々だが、選べるものと選べないものが存在する。

 

『唯一無二の存在を自分の意思で判断するのは思いの外難しいものだ。家族は生まれた瞬間に決められてしまっているが、選択の権利があったらあったでそれも結局は悩ましく感じてしまう』

 

 そして、それぞれの立場には曖昧ながらも役割や意義が与えられている。その様相はちょうど王が挙げた両親と祖父母の違いからも感じ取れる。

 同じようにして「他人」にも何かしらの価値を求めるとするなら――それは「客観」に他ならない。

 もし王と同じ言葉を清隆や椎名が放ったとして、ボクは素直に受け取れなかったはずだ。どうしても自分に対する特別な感情を予感してしまって、それが事実なのか判別できなかったかもしれない。

 他人である彼女だったから、鵜呑みにしてもいいと思えた。取り繕いのない周りから見たボクがそれなのだと僅かでも認めることができた。

 『岡目八目』。ボクはこの学校で、「他人と会話をする」という行為があまりに足りていなかった。親しい者たちと、親しくなるのが早すぎたのだ。

 それを悟ることができるくらい、王との会話は刺激的で、実りのあるものだった。

 

「…………ありがとう」

「え?」

「そんな風に言ってもらえたのは、初めてだったから」

「そう、ですか……? 浅川君のことを同じように想っている人はたくさんいると思いますけど……綾小路君、とか?」

「何はともあれ、だよ。お礼を言ってくれたお礼みたいなものさあ」

 

 もしかしたら、王の言う通り清隆たちも贔屓目無しにそう思ってくれていたのかもしれない。ただ、事実ボクがきっかけを自覚した相手が彼女であることに変わりはない。何となくで貰ったもののお返しは、何となくで施して然るべきだ。

 一時の和やかな沈黙を挟み、当たり心地の悪い温風に肌が慣れてきたタイミングで、王が口を開いた。

 

「――そうだ。私のことは『みーちゃん』って呼んでください。友達からはそう呼んでもらっているので」

 

 どうやらボクを友人と認めてくれるらしい。呼称は差し詰めその証といったところか。

 離れた立場だったからこそ授かった恩恵があったため少し躊躇いはあるものの、人間関係は得てして流動性を具えているものだ。名残惜しいが、今後機会があればお茶会したいくらいの好意は抱いているこちらとしても、賛成すべき提案だろう。

 しかし困った。主義に反する呼び方は容認しがたい。初対面で目の前の少女の肩を落とさせるのは合点いかんが、何かいい方法はないだろうか。

 

「……じゃあ、『みー』と呼ばせてもらうよ」

「みー?」

「ボク、楽な呼び名が好きだからさあ」

 

 これなら苗字に引けを取らないコンパクトさ。彼女の要望にも上手く答えられる。

 ボクが本心でそう言ったのだと察した王は嫌な顔せず応えた。

 

「いいですよ。これからよろしくお願いします」

「ん、よろしく。――ああ、こちらからも注文をさせてくれ。友達だと思ってくれるなら、愛理にしているように砕けた話し方に変えてくれるとありがたい」

「え、えっと――わかったよ。よろしくね、浅川君」

「うむ。よろしゅうよろしゅう」

 

 ここで是と答えられるあたり、愛理よりは社交的なのだろう。心の壁が薄いとも言うべきか。

 ボクと彼女の関係が形式的にも昇華した、ちょうど良いタイミングで、愛理がこちらに戻って来た。

 

「あれ? 二人共、何かあった……?」

「およ、どうしてそう思った?」

「何だか、さっきより楽しそうな顔をしてたから」

 

 人の表情や仕草に敏感な彼女らしい回答だった。

 

「そうだなあ。キミはボクらの(かすがい)だなあって意気投合していたんだよ」

「へ、私……?」

「善い人に出会えたんだね、佐倉さん」

「あ、ありが、とう……?」

 

 オドオドしつつ謝礼を述べる愛理に、ボクらは一層微笑ましさを覚える。

 

「良い写真は撮れたかい?」

「まずまず、です。また今度、来てみようかなと思います」

「本当!? 見せて見せて」

 

 少しだけ気持ちを昂らせて、王は愛理のすぐ隣に駆け寄りカメラの画面を覗き込む。愛理は身を引くことなく受け容れ、二人で一緒に閲覧し始めた。

 きっと、日頃からこうして過ごしているのだろう。あの愛理があそこまで接近されることを嫌がらないことからも、本当に仲が良いのだということが伝わってくる。

 嗚呼、彼女も『成長』したんだな。

 この成長に、ボクが貢献しているのだと、みーは言った。

 もしもその通りなのだとしたら、ボクは……。

 

「愛理」

 

 二人のやり取りが一段落し、それではとこの場を立ち去ろうとする時機を見計らって、ボクは静かに声を掛けた。

 目と目が合う。

 

「キミは、さ……どうして踏み出せたんだ?」

「どうして……?」

「同盟仲間として気になったと言うべきかな。単純な興味で……」

 

 そこまで紡いで、ボクは口を止めた。

 ――嘘だ。

 違う、そうじゃないだろ。強がるな。見栄を張るな。

 幸か不幸か、彼女は目が鋭い。ならば、感情を偽ることに意味はない。

 ボクはもう、これ以上自分の格を下げたくない。

 六助も言っていた。『泰然自若』、それはきっと、浅川恭介の本質じゃない。相応しい言葉は……。

 

『本質はそう簡単には変わらないものなのだよ。今の君はかつてと正反対だ』

『君の本質はそこではない。もっと起源的なものだ』

 

「……ボクは、わからないから」

 

 重い顔色を察した愛理は不安そうにしながらも据わった目で聞いていた。

 

「変わることだって怖いじゃないか。嫌な自分から逃げた先も、また好きになれない自分だったらって思うと、不安じゃないか」

 

 その眼差しに耐えられず目を伏せてしまう自分は、今の彼女とはまるで対照的だ。

 

「心を開くことは義務でも何でもない。今まで通り殻にこもってやり過ごしていても、前に出した足を引っ込めても、自分さえ飲み込めれば文句を言う人なんていないはずだ。にも関わらず、どうして君は歩み寄れたんだ」

 

 額を流れる汗を拭うことも忘れ、愛理の答えを待つ。

 彼女は手に持ったカメラを大事そうに見つめ、優しく撫で始めた。

 

「……私は、写真が好きです。好きなものとか、綺麗なものとか、自分だけの思い出のアルバムに残すことがとても楽しくて……。でも――『自分』を撮ることだけは、どうしても苦手でした」

 

 やはり印象通り、彼女が普段撮影していたのは景色や周囲の環境がほとんどだったようだ。

 いや、もしかしたら『最初』は違ったのかもしれない。

 

「人と触れ合うことも、人の目を見て話すことも、人が集まっているところで過ごすことさえ苦手でした。段々と色々なことが恐くなっていって、()()()()()()自分自身にも真っ直ぐ向き合うことができなくなっていたんです」

 

 人は必ずどこかで無理をする。自分という理を無くせば、ふと見回した時には既に映る世界が一変してしまっているものだ。これは、前に清隆に語った『解釈』と『喪失』の関係とも少し似ている。

 愛理は完全に失ってはいないものの、『自分』で在り続けることの『意義』の認識が薄れてきていた。

 

「どうにかしたくて、私なりに工夫して、その場しのぎの『方法』は見つかりました。でもそれは、本当にその場しのぎに過ぎなくて、結局は、ただの逃げだったんだろうなと、思います」

 

 彼女の言う『方法』がどういうものかはわからないが、それが彼女の中で合点がいっていなかったのは確からしい。

 

「それは……別に、悪いことではないんじゃないのか?」

「どう、なんだろう。私にははっきり答えられないことだけど……。ただ、みんなにとって当たり前な矛盾を、私は重く捉えてしまっているんだと思います。何となくだけど、浅川君も……」

「もしかして、『他人』……」

「きっと世界は綺麗なことばかりじゃないって、誰もが知っているんです。だけど、それでも心のどこかで綺麗な世界を望んでいる……。そんな真っ暗で寂しい世界の中で、人との繋がりを持たない私は、臆病になることでしか生きていけませんでした。他の方法なんて、考える余裕がありませんでした」

 

 愛理は優しく微笑み、こちらに視線を戻した。

 

「そんな時だったんです。浅川君に出会ったのは」

 

 ここでみーの話してくれたことが真実であることが、当人自らの告白によって明らかになった。しかし、ボクは未だに要領を得られていない。

 

「ボクが、キミに何をしたって言うんだ?」

「浅川君は、孤独でも大丈夫だって言い聞かせていた私に初めてちゃんと声を掛けてくれた人でした。必要以上に踏み込まず、私が心を開くのを待ってくれたのはよくわかっていたから、話しやすい人だなと思ったんです」

「だけどキミは、安易に他人の言葉に揺さぶられる子でもないだろう」

「そうかもしれません。だから、私が伏せていた目をもう一度起こすことができたのは、浅川君の言葉を聞いたからじゃなくて、()()()()姿()()()()()()です」

「ボクの、姿?」

「最初は半信半疑だったけど、浅川君は本当に私と同じだってことに気付いたんです。浅川君も、他人の前では偽りの仮面を被っているんですよね?」

 

 「それは……」ドキリとした。まさかとは思っていたが、彼女もボクがありのままの自分で過ごしていないことを理解していた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()だろうが、それでも如何せんいい思いはしない。

 愛理については確証は持てていなかったが、清隆たちと同じ側だったようだ。

 恐らく否定すれば、彼女はそれ以上を語らないだろう。しかし、きっと彼女はその瞬間のことを哀しく思うだろうし、再び塞ぎ込む原因にまで成り得る。何よりボクは、話の続きを聞きたかったので、素直に認めることにした。「その通りだ」

 

「それがわかった時、少し安心したんです。素顔のままじゃなくても、心を通わすことができるんだって。たとえ弱くても、藻掻いていて悪いことばかりじゃないんだって。――それはまるで、私にとって希望のようにも感じられたんです」

「それは――そうかもしれないけど……でも、とても辛いことだよ。そうも感じられるのなら、ボクが怯えているということにも気づいていたはずだ。他人の醜態を自信に還元できる程、キミの性根は周りに冷たくはないだろうに、どうして……」

「わかっています。わかっているんです。だけど、それだけで十分だったんです」

 

 知らない内に決意を宿していた少女の瞳は、薄くとも真っ直ぐで、優しく――美しかった。

 

「私は、認めたかった。自分は変わることができる。そして、変わらないままでいるのは決して良くないことなんだって。それが正しいことだって、納得するための『きっかけ』が欲しかったんだと思います」

 

 さっきみーも言っていた。大事なことのほとんどは『きっかけ』ありきで始まるものなのだと。

 何もしてやれなかったつもりでいた。人混みで泣き喚く子供を気に掛けながらも声を掛けられない有象無象の如き歯がゆさ。

 自分にはできない。きっとできない。でも何とかしてあげたい。どうしよう。わからない。恐い。怖い。コワイ。

 そうやってうずくまっていたつもりだったのに、どうやら、彼女に必要だったのはそんな大袈裟なものではなかったようだ。

 触れると触れないの境界線。独りじゃないという、『疑わなくていい他人』の存在証明のみをしてくれる誰かがいる。たったそれだけで、愛理は強くなれた。

 

「じゃあ、どうして今だったんだ? 変わらなきゃって思うことや、変わるチャンスは今までに何度もあったはずなのに、よりにもよってボクと出会ったその機会を選んだ理由は……?」

「それは……偶々、です。多分……いや、ええと」

 

 愛理は自信なさげに俯いたが、すぐに言葉を選び顔をあげた。

 

「私はやっぱり、ずっと怖かったものを少しだけ好きになれたのが大きいんだろうなって思います。でもそれは、きっと人によって違うだろうから……」

 

 「ただ」と彼女は続ける。

 

「みんな、そんなものなんじゃないでしょうか。何度もやってくるきっかけには大なり小なりあるのかもしれないけど、その時その時で掴むかどうかは変わってしまうような気がします。だから、最後まで変われない人もいるんだと、思います」

 

 全ては偶然。努力や研鑽が無駄に思えてしまう程、気まぐれに左右される結果が幾つも存在する。人が思っているよりずっと、決断は一時の環境や感情に作用されるのだ。受け入れるに堪えないことだが、その業を形にしているのは他でもないボクら自身。やり場のない苛立ちに支配されるのも無理はない。

 だけど――だからこそ難しいのだろうな、生きるというのは。思い通りにいかないことばかりで、心を閉ざしてしまう者や投げ出してしまう者がいる。今の愛理を見れば、自ずとわかる。

 理不尽な喜劇と悲劇の狭間で、人は醜くとも抗うということか。

 偏に、自分自身を救済し得る唯一の拠り所を信じて……。

 愛理がどうして勇気を出せたのか。いかにしてボクの存在を糧にしたのか。そのおおよそは既に掴めた。だからもう、知りたいことはあと一つだ。

 思えば、そんなものに今まで一度も関心を持ったことがなかった。ボクがかつて間違えたのは、それが原因の一つだったのかもしれない。

 

「愛理は――僕と出会えて良かったのか?」

 

 気遣いも誤魔化しも許さない。漂う空気と、自分の顔に張り付けた険しい表情で、その旨を送る。

 愛理がそれを確かに受け取ったことを悟ったボクは、次に発せられる彼女の言葉を一字たりとも聞き逃さなかった。

 

「うん。浅川君のおかげで、諦めかけてたほんの小さな幸せに近づけたと思うから」

 

 伏し目がち、オロオロしがち、ぎこちない言動や仕草をしがちな少女が初めて見せた、あまりに自然な表情は、その言葉を信じるに値する十分な根拠だった。

 大きく鼓動していた心臓を落ち着かせ、目を閉じてそっと息を吐く。自覚していた以上に緊張していたようだ。

 他者から見る自分の姿。聞き届けてしまえばあっという間だが、とても恐ろしく、心臓の鼓動音がはっきりと聞こえてしまうような体験だった。

 だけど、今は大丈夫だ。今ならもう、ちょっとだけ信じられるから。

 

「――ありがとう。折角巡り会えた友達、大事にしなよ」

「うん。あ……その、浅川君も、友達がいいな、って……」

「……ああ、そうだね。僕らはとっくに友達だよ」

「……! よ、よろしくお願いします、浅川君」

「ん。よろしく、愛理」

 

 何だか少し照れくさいようなやり取りを交わしていると、愛理の横で黙って見守ってくれていたみーがクスリと笑った。

 

「よかったね、浅川君。佐倉さんは、浅川君のことをもっと身近に感じてくれていたみたいだよ?」

「はっはは、何だか背中がむず痒くなるような話だなあ」

 

 あまり馴染みのない感覚だ。他人への好意は包み隠さず伝える主義の自分にしては、らしくない。

 しかし、悪くない。というのが正直な感想だ。

 長らく引き留めてしまったことを詫びると、二人は構わないと笑いながら許してくれた。

 また話そうという他愛もない約束も、改めて――。

 去って行く二人の少女は、とても仲睦まじげで楽しそうだった。

 

 

 

 再び閑古鳥が鳴き始めた棟内で、ボクは最初と同じように窓の外へ視線をやる。

 傍から見れば痛々しいやつとでも思われるのかもしれない。だがそんなものは言わせておけばいい。ただ思案に耽りたいときにやる癖のようなものだ。今はいもしないが、周囲の冷たい視線もひそひそ声も気に留める道理はない。

 自分と同じ顔をした、しかし()()の『悪魔』がうっすらと写る。

 ――どんな気分だ?

 開口一番曖昧な問いかけだった。

 無機質な瞳にはどこか見覚えがある。どこで認識したものだったのかは、もう思い出せない。

 君は、一体何なんだ…………?

 ――何、と言うと?

 ボクは初め、君はボクを糾弾し追い詰める存在だと思っていた。あるいは深層心理、ボクの心のどこかに眠っている感情。でも、いつも違和感がついて回った。

 ただ打ちのめそうとするわけではない――そう、まるで諭すような物言いは、君がボクの『純粋敵』ではないとうことを示唆しているような気がする。

 君はボクに、何を求めている?

 君は一体、何者なんだ……?

 ――それは……お前が一番よくわかっているはずだ。

 なぜ? それは君が、ボクの一部だから?

 ――嫌でもわかるようになるさ。お前が逃げないでいるうちは。

 ……なら、今わかっていないのは、つまりそういうことかい?

 ――それを塗り替えるために、『俺』が()()()()()

 ――お前の幸せなど知らん。今のお前に幸福を与えても、猿に札束をばらまくようなものだ。

 ――俺はあくまで、お前が求めているものの道標を示しているに過ぎない。

 やはりそうだ。幾度となく胸中に響く雑音は、決してボクを殺すものではない。トラウマを抉りながら鞭をはたいて鼓舞するようなその態度は、一種のスパルタにも思える。

 ――俺がいることを忘れるな。どれほどの悲劇が起ころうと。この声が聞こえなくなった時、お前はもう救われない。

 最後にそう吐き捨てて、ガラス越しにも伝わって来た不吉な感覚がふっと消えた。

 今写っているのは、まさしく等身大の自分自身だ。

 何とも情けない顔。こんなだらしない目、なりたくてなったわけではないのに。

 もう少し、別の目をするつもりだったのに。

 ここにいてももう何かが起こることはないだろう。()()()()()()()()()()も今日は十分やり終えた。

 微塵の憂いも残さず、ボクは階段を下りて屋内を出て行こうとする。

 ふと、先程の会話が脳裏を過った。

 ――どんな気分だ?

 ……。

 …………そうだな。

 

『まだ浅川君のことはよく知らないけど……それでも私は、佐倉さんの信じる浅川君はきっと善い人なんだと信じています』

 

 まだ、枷は残っているが。

 諦めるつもりであった『それ』を、『保留』にしようとは思った。

 

『浅川君のおかげで、諦めかけてたほんの小さな幸せに近づけたと思うから』

 

 まだ、自分を好きになるなど無茶な話だが。

 ほんの少しだけ、信じてもいいのかなって、思えたよ。

 




どうだったでしょうか。まさかオリ主の『きっかけ』が彼女になるとは、意外だったでしょう。私もです。彼の心情を自然に書き連ねていたらいつの間にかこうなっていました。

因みに、どうしてこんなにも佐倉んぼがオリ主に心を開いているのか、疑問に思っている方がいるかもですが、それは二人のやり取りをほとんど描いていないことによる食い違いです。理由は二つあります。一つは、本作はあくまで「オリ主(語り手)の機微を描いている」のが本質だからです。もう一つは、すぐ後の回でお伝えします。もっと後には彼女の視点で補足もいれるのでお待ちくださいな。
あと、佐倉んぼの言葉、記憶にある方もいるのではないでしょうか。彼女の原作での独白を、今作では外に吐き出してもらいました。これもオリ主の影響、だと個人的に解釈しております。

他にここはどうなんだという質問があればなんなりと。恐らく描き切れてないだけな部分があるので。伏線として後に明かすつもりの内容は内緒にしますが。

さて、それではアンケートの話を(長くてごめんね)。実は三章から更にオリキャラが参戦する予定です。ただ今後の本作の方針によって介入のしかたや展開を変えるつもりです。
その方針はというと、ズバリ、『どこまでやるか』です。そろそろ決める時が来ました。
作者は船上試験までは概ね把握、体育祭とペーパーテストはまあまあうろ覚え、それ以降は大まかな出来事を知っているだけで細かい駆け引きはほとんど知らない(やるとしたらオリジナル過多になりそう。既に原作乖離が始まっているので)。という前提のもと、本作をどこまで見たいかお答えください。お察しかもしれませんが、けっこう大きな意味の持つアンケートです。
気が変わればさらに先を第二部と称してやる可能性が微レ存ですが、少なくとも展開は今回でほぼ決定します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

メンター

話に合うエピタイ探してたらまさかまさかのこの単語に行きつきました。我ながらびっくり。今回は決して怠惰な意味合いではないですよ。

ここから数話、区切りが難しく分量が急に減ったり増えたりするかもしれません。今回は若干少なめです。


「何を読んでいるの?」

 

 蠱惑な声が鼓膜をくすぐる。

 感情の乗っていないはずの一言は、脳内に蔓延るよしなしごとを一遍に霧散させる。

 俯きがちになっていた顔を戻すと、声音相応な機械じみた顔と目が合った。その表情はある意味で純粋無垢であり、幼気(いたいけ)と呼べるものだった。

 

「物語、かな?」

 

 自分でもあまりわからないまま読んでいたので、はっきりと答えることはできなかった。ただ、壮大な世界を跨ぐ冒険譚に近い印象を受けていたため、とりあえず『物語』と称したのだ。

 

「どんな物語?」

「どんな……? うーん…………哀しい。あ、ええと、違うかも。多分これは、寂しいだ」

 

 迷いながらも言葉を紡ぐと、()()はコテンと小首を傾げる。

 

「哀しいじゃなくて、寂しい? 何が違うの?」

「それは……共感できるから」

「共感?」

 

 何となく、黙ってしまうのが恐ろしかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という得体の知れない恐怖に従って、拙い日本語を必死に編む。

 

「哀しむだけだと、それで止まってしまうような気がするから。寂しい人は、きっと誰かを、何かを求めることができるんだと思う」

「誰かを求める……その方が、善いの?」

「どうだろう。人によるかも」

「……そう」

 

 曖昧な回答に飽きがきてしまっているようだった。恐れていた事態に内心たじろぐ。

 するとどうやら、彼女の方から話題を広げてくれるらしい。

 

「内容は?」

「貧乏な男の子のお話だよ。恋をして、家族が死んで、才能に恵まれて――色んな場所を巡るんだ」

 

 だいぶ端折ってしまった。しかし全てを語るにはあまりに膨大な長さ。好きなものの少ない自分にとって貴重な趣味を詳らかに伝えられないなど、本来己の矜持が許さない所業なのだが、そんなちっぽけなプライドは彼女に対して無力だった。

 

「彼は、どうなったの?」

 

 彼女は問う。瞳に揺れはない。「恋は叶った?」

 

「………叶わないよ。だから寂しいお話なんだ」

「あなたと同じ?」

 

 ドキリ、と心臓の跳ねる音がした。

 彼女はどうして、自分の理解者であってしまうのだろう。憎たらしくて仕方がない。主に、彼女を拾ってしまった自分自身が。

 

「そうだね、同じだ。だから苦しくもある」

「なら、どうして読むの?」

 

 どうして……趣味や道楽に真っ当な理由なんてあるのだろうか。強いて言えば、

 

「…………安心、したいんだ」

「安心?」

「他人の不幸を見て、コイツよりはマシだって思いたい。それだけ」

 

 「ふーん」彼女は至極どうでもよさそうな反応を示す。また会話の中身に飽きてしまったのだろうか。それとも、つまらない人だとでも思われてしまっただろうか。

 しかしその憂いと慈愛の滲んだ瞳を見て、すぐにその不安を振り払う。

 

「寂しいのは、イヤ?」

「うん、イヤだよ」

「私も、寂しい」

 

 華奢な指がゆっくりと浸食し、やがてこちらと合わさり絡んでいく。だが、自分はよく知っている。彼女にはその肉の柔らかさに似合わない、強靭な力が備わっているということを。

 自分はそれで、狂わされてしまったのだから。

 身も心も、半ば彼女のもので同然だった。

 

「寂しいは、なくせる?」

「うん、なくせるよ」

「どうすれば、なくなる?」

「……一緒に、なること」

「本当に? 私とあなたは『一緒』なのに、私もあなたも、とても寂しい」

 

 至極残念そうな顔。最近出せるようになった表情だ。この前は震える声さえ、真顔のままやってのけた。

 互いにニュアンスが僅かにズレている『一緒』にも聞こえたが、強ち間違いではないかもしれないと思い直し、指摘するのをやめる。

 すると――

 

「……そっか、足りないんだね。もっと近くじゃないと、ダメなんだ」

 

 そう言うなり彼女は何の躊躇いもなく、こちらの両肩を鷲掴みにして押し倒した。

 初めての経験ではないものの、突然の出来事に今回も驚く間がなかった。

 一つのフィルムに収まるかのように時が止まり、儚い視線が交錯する。

 

「これは、どう?」

「……何も。だって、求めている相手じゃないんだもん」

 

 自分は確かに彼女の虜だ。もはやそれを否定する筋合いはない。

 しかしそれは、決して愛しているというわけではない。共に在ることを喜び、触れ合うことを望む人ではないのだ。

 なら自分は、どうして彼女といるのだろう。どうして、今の状況を受け入れてしまっているのだろう。

 

「わかってる。だから――『あの人』だと思って」

「……っ」

「私を私と思わないで。あなたの望む人だと思って、感じて欲しい」

 

 馬乗りされたまま、頬を両手が包む。その慎ましやかな情熱を秘めた瞳は、恐らく自分のものととても似ていた。

 鼓動が加速する。間違いなく、今自分の目の前には、()()()()()姿()が映っていた。

 

「それじゃずっと、哀しいままだよ?」

「大丈夫。今は、これで――」

 

 互いの息が届く距離にまで顔が近づく。

 こうなってしまっては、今更抗うなどできるわけもない。

 後は野となれ山となれ。感覚を支配する幸福に、全てを委ねてしまおう。

 

「今は何にだってなってあげる。だから――()のことを、愛してよ」

 

 愛する人へと成り代わった彼女を前に、()()()()()()()()無理矢理本能を起動させる。

 嗚呼、なんて幸せなのだろう。こんな時間が永遠に続けばいいのに。

 この時間が本物の状態で手に入るなら、他に何も要らないのに。

 

「――そしていつか、私を、見て」

 

 その言葉はもう、この心には届かなかった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「もしもーし、浅川君?」

 

 意識が覚醒する。何とも呑気なアラームだが、それとは裏腹にボクはダイナマイトの爆発でも聞いたかのように飛び起きた。

 

「ふぇ!? お、おお? よ、ヨシエさん」

 

 訳がわからず辺りを見回すと、秩序皆無な喧騒で埋め尽くされていた。よく知っている場所、ヨシエさんの存在からもわかる通り食堂だった。

 

「え、えっと、ボク……」

「ずっと寝ちゃってたのよ? 最初はうたた寝程度かと思ってたんだけど、寝言まで飛び出し始めたものだからびっくりしたわあ」

「寝言? 何か聞こえていたりは……」

「盗み聞きなんて野暮なことはしないわよ。リラックスできたのなら、良かったわ」

 

 頬に左手を当て嬉しそうに語るヨシエさん。反対の手には掃除用具が握られていた。どうやら床の清掃がてら様子を見守ってくれていたらしい。

 とは言え、実際に見ていた夢は最悪もいいとこ。まさしくナイトメアだ。

 何だか今日は、嫌な予感がするな……。

 

「何か悩み事?」

 

 ふと、そんなことを訊かれる。苦悶が表情に出てしまっていたらしい。心配そうな顔でこちらを見つめている。

 

「いや、特には――」

 

 無事を訴えようとし、突然口が止まる。

 刹那の思考。ボクはある考えが過り、予定を変更し所謂「お悩み相談」をしてみることにした。

 

「――人生って、何だと思いますか?」

「…………あらあらまあまあ」

 

 暫し唖然とした表情をするヨシエさん。異議の唱えようもない当然の反応だ。まさか一介の高校生が「人生とは?」なんて哲学を語ろうとするなど、普通は思わない。

 さすがに言葉足らずだったので、もう少し詳しく説明する。

 

「上手くいないことばかりで、不安だけが降り積もって、どうしようもなく塞ぎ込んでしまう。そういう時って、どうすればいいんでしょう?」

 

 ボクの思い悩む表情を見て深刻さを察したのか、彼女は思いの外真面目にこの問いかけと向き合ってくれているようだった。

 「……浅川君」やがて彼女は、徐に口を開いた。「あまり考え過ぎちゃダメよ?」

 

「え?」

「人生なんてあなたが思っているよりずっと単純で、難しくも何ともないことなんだから」

 

 正直予想外の返答だった。普段ミステリアスなレディー(と彼女は自称しているが、その実あどけなさの方が際立っている)を繕っているはずのヨシエさんにしてはらしくない。そう思った。

 

「その心は?」

「人それぞれに生きる道があるのは当然だけど、何が大事かはある程度決まっているものだからねえ。他のもので例えられちゃう時点で、大したことじゃないわあ」

 

 「他のもの?」ボクが首を傾げると、彼女は朗らかに笑う。「ええ、他のもの」

 

「例えば?」

「そうねえ。なら、料理に例えてみましょうか」

 

 閃いた。と言わんばかりにヨシエさんは意気揚々と両手を合わせる。一挙一動が可愛らしい。

 

「基礎調味料って知ってる?」

「はい。『さしすせそ』でしたよね?」

 

 「よくできましたあ」目を細めて褒めてくる。これくらい自炊のできる者なら迷う問題ですらないと思うが、純粋な称賛を嫌がるマネはしない。ただ、それがどうしたというのか。

 

「じゃあ、その五つには入れる順番の基本があるっていうのは、知ってるかしら?」

「順番の、基本?」

「そう。そして、一番最初に入れるべきなのは砂糖なの。どうしてだと思う?」

 

 「んー」イマイチ要領は得ないが、言われるがまま思考する。しかし上辺の知識しか仕入れておらず半ば感覚に頼った料理しかしてこなかった自分には、自信を持てる答えが浮かばなかった。「わかりませんねえ……」

 

「聞けば単純よ。大抵の食材は、甘味がとっても染み込みにくいの」

「甘味が、染み込みにくい……」

 

 ボクが復唱するのを、ヨシエさんは微笑まし気に見つめる。迷える子羊を慈悲深く可愛がるような眼差しだ。

 

「他の苦味や酸味にいとも簡単に埋もれて感じられなくなっちゃうのが、砂糖なのよお」

「……なるほど」

「そしてそれは、私たちにも同じことが言えるわ」

 

 きっかけとなった自分の質問と照らし合わせればおよそ言いたいことは掴めてきたが、彼女はお構いなしに進めていく。

 

「人は大半、やりたくないことを余儀なくされる。惰眠を貪ったり暇を持て余したりすれば後ろ指を差されることもある。でもね、そうやって必要な材料を欠かしたまま出来上がるものは結局、後味の良くないものなのよ」

 

 いつもの温厚な顔であるが、そう語るヨシエさんの纏う雰囲気は真剣そのものだ。

 

「自分に甘くしろ、とは言わないわあ。大人でさえ難しいことなんだもの。子供がそこまで器用に生きるなんて無理な話よ。ただ、これから少しずつ加減を知っていけば、きっと美味しく仕上げられるようになるはず。レシピはいつだって、試行錯誤の賜物なんだから」

 

 上出来なウインクで締めくくった彼女に、自然な笑みが零れる。もしかしたらこの人は話し上手なのかもしれない。

 一通り聞き終え、ボクは軽く思案する。

 彼女の言葉には、妙な説得力があった。確かにボクらは思いつめている時に限って心の中に粘着性の強い燻ぶりを抱え込む。そうしたまま事に当たって結果が善くなる試しはあまりない。

 例え、客観的には善いと言えるものであったとしてもだ。

 その考えは、究極的に「幸福」を求める自分とどこか通じるものがある。だからこそ、素直に納得できたのだろう。

 いや、それより何より、恐らく――。

 

「いかにも、ヨシエさんらしい考えですね」

「あら? うふふ、そうかしらあ」

 

 ある程度纏まりかけていた思考を切り、正直な感想を述べる。

 ついでに、一つ気になっていたことも聞いておこう。

 

「ところで、他に何か例えられるものってあるんですか?」

 

 先の発言からして、ヨシエさんの中では料理以外で人生を例える方法を見出しているようだった。完全に興味本位であるが、一体どんな回答が返ってくるのか。

 

「ふふ。他で言うと、植物なんかもそうじゃないかしら」

「植物?」

「水や日光だけじゃなくて、肥料だったり土壌だったり、色んな条件によって最後に完成するものは変わってくるわあ。そういう意味では、不安定な生活と重なる部分があるわねえ」

 

 特に迷うこともなく答えたあたり、ヨシエさんは本当に人生をあらゆるものに置き換えられると思っているのだろう。

 それくらい、他愛のないことだ、とも。

 

「要は、酸いも甘いも匙加減なのよ。結局」

 

 「どう、助けになったかしら?」と尋ねるヨシエさんに心からの礼を述べる。「はい、とっても。ありがとうございました」

 自分が最近までより幾分か良好な精神状態になっていたおかげか、案外すんなりと胸の内に落とすことができた。鵜呑みするほどではないものの、留めておくには十分な言葉を授かった気がする。

 

「また何かあったら、ぜひ相談させてください」

「勿論よ。『余裕』と『貫禄』は大人としての質に繋がるもの。いつでもいらっしゃーい」

 

 「今後とも御贔屓にー」と言い残して去って行くヨシエさん。御贔屓にしているのは果たして食堂なのか彼女の厚い懐なのか。少なくとも、彼女に多大な謝意と敬意を抱かなければならないのは間違いない。

 そう思った時には、既に彼女は数メートルも離れていた。

 一口水を含んで、ゆったりと立ち上がりトレーの返却口へと足を運ぶ。

 ……酸いも甘いも匙加減、か。

 今のままだと、ボクの生という名のフルコースは万人が鼻をつまみたくなるほどの悪臭を放つことになるだろう。

 そんな悲惨な事態から逃れるためには、どうすればいいのか……。

 考えは纏まらないが、新たなとっかかりを一つ得て、食堂を後にする。

 ……ああ、やはり、本来こうあるべきだ。ぼんやりとそう思う。

 ――『余裕』と『貫禄』を具えた大人。

 ボクら青二才は、そういう人たちに支えられて、少しずつ前に進むものなのだ。

 

 

 

 

 

 嫌な予感、というのは、良い予感より何倍も的中率が高い。そう相場は決まっている。

 だから、放課後に入るや否や茶柱さんに呼び止められた時、内心この身の不幸を呪い安寧な時間に対する諦めを抱いた。

 

「浅川、このあと時間はあるか? 至急『理事長室』に来てくれ」

「理事長室?」

 

 何とも突拍子の無い単語が飛び出した。以前生徒指導室に連れ去られたことはあるが、今回はいかにも魔境じみた場所へ招かれているようだ。

 何かやらかした、という自覚は正直ない。

 

「どうしてですか?」

「高円寺にも召集がかかっている。と言えばわかる話らしいが?」

 

 六助?

 どういうことだ。ボクと六助はあの水泳の授業後を除いて会話すらしていない。ボクらを結び付けられるものなんて過去にしか――。

 ……いや、まさか、そういうことか。

 確かに、だいぶ前に()()()()()()()()()()()を見かけたような気がする。あまりに遠くて服装程度しか認識できていなかったが、あの時既に今回のお呼び出しは決まっていたようなものだったのだろう。

 ここで渋っても仕方がない。二つ返事で了承する。「……わかりました」

 「付いてこい」言われた通り彼女に倣って教室を後にし廊下を渡る。珍しい光景に時々周りから好奇の視線を向けられるが、別に面白いものでもなかろうに。……ああ、もしかしたら、小テストで0点を取ったやつがまた悪行を働いたとでも思っているのかもしれない。

 道中、どうして前回のように放送での呼び出しを行わなかったのかと尋ねると、「用件が用件だからな」という返事が返って来た。つまりは秘匿されるべき内容だということ。やはりボクの予想は当たっていると見て間違いない。

 やがて、一目で偉い人が身を置いている部屋だとわかる豪奢な扉の前にたどり着いた。「ここだ」

 

「六助は?」

「既に中で待機してもらっている。アイツは一瞬目を離した隙にいなくなるからな」

 

 嘆きの表情をする茶柱さんに若干の同情の念を抱く。優に想像がつくことではあるが、教師としては確かに困りものだろう。

 茶柱さんが大扉をノックし、自分の名前を名乗る。そして――

 ついに、さび付いていた過去へと通ずる、不吉な門戸が重々しく開いた。

 

「連れてきました」

 

 中に入り、半ば反射的に室内を観察する。特にめぼしいものはない。荘厳さすら感じさせるアンティークの時計、細かに手入れされている観葉植物、校庭を一望できる大開口の窓、エトセトラエトセトラ。どれも『そういう部屋』に置かれていそうなものだった。

 そして――その中央、ガラス製のローテーブルを挟み対面式になっているソファーの片側。

 とても一生徒とは思えないほどこの空間に溶け込み、余裕綽々な態度で紅茶を啜る少年が、そこにいた。

 

「温い。この学校の品位が知れる」

 

 悠然とした面持ちでそう毒づいたのは、六助だ。相変わらず、この男はどこであっても唯我独尊でいらっしゃる。そんな一面が、少し羨ましい。

 すると今度は、幾分か歳を重ねたであろう、やや貫禄のある声が放たれた。

 

「すまないね。何分、ここに客人が来るのは滅多にないことだから」

 

 立ち尽くすボクの真正面。部屋の奥で瀟洒な机の上に両肘をつく男が、その主だった。

 

「浅川。彼が今現在この学校を運営している、『坂柳理事長』だ」

 

 茶柱先生の紹介に、ボクは頷いた。

 対する理事長は、温かささえ垣間見える笑みでボクを迎える。

 当然、先に口を開いたのは向こうからだ。

 

「そう畏まらないでいいよ。説教を受けてもらいに来たわけでもないからね」

「は、はあ」

 

 先程までの印象をする払拭するような、物腰柔らかな態度。

 寧ろクラスを受け持つ担任らの冷たさに疑問を抱いてしまう程に、フレンドリーな男だった。

 そんな人が畏まらなくていいと言ってくれたのだ。ボクもあまり堅苦しいのは好きではないので、お言葉に甘えるとしよう。

 「どうぞ座って」と促されるまま、六助の隣に腰を下ろす。「やあアグリーボーイ。久方振りだねえ」と呑気な挨拶を受けたので、「今日も元気そうだなあ」と返しておいた。

 やり取りが一段落ついたからなのか、彼は再び理事長との雑談に興じ始めた。

 

「一介の高校とてこれほど優れた施設であればビジネスは付き物だろう? 及第点以上の対応はして欲しいものだねえ」

「最低限の努力はしているのだけど、さすがに手厳しいお言葉だ。あまり淹れるのは得意ではないものでね――よければご教授願いたいよ。一流企業の跡取り息子ともなれば、確かに上級な礼儀作法を学べそうだ」

「ハハッ! 努力は最大限施して然るべきだよ。だが、生徒に教えを乞うてでも高みを目指す貪欲さは悪くない。いいだろう、今度この私が直々にアドバイスをしてあげようじゃないか」 

 

 まるで友達のように会話を弾ませる両者に唖然とする。茶柱さんもこれには溜息を抑えられないようだ。

 無論理事長の接しやすさもあるのだろうが、六助の物怖じしない開口振りもまた会話に勢いを与えているように感じられた。次期社長も伊達ではないということか。

 そんな彼を見ている内に、いつの間にかこちらの心も弛緩してくる。彼の飄々さに助けられるのは何とも合点いかん。

 肩の力を抜くと、思考も段々と働くようになってきた。真っ先に浮かんだ疑問を携え、ボクも理事長に声を掛ける。

 

「あの、理事長」

「ん、どうかしたかな、浅川君?」

 

 彼は柔和な微笑みをこちらに向ける。その細かい動作から、彼は聞き上手でもあるのだろうと察する。

 

「理事長の苗字を聞いて思ったんですけど、もしかして、有栖の父親ですか?」

 

 「おや」彼は目を丸くし、そして嬉しそうな顔をする。「有栖と知り合いなのかい?」

 

「ええ、まあ。一度話した仲に過ぎませんけど」

「そうか。あの子も豊かなスクールライフを送れているようで安心したよ」

 

 今のボクの台詞のどこをどう解釈してその結論に至ったのだろう。ただ少なくとも、この束の間のやり取りで確信した。この人は多分愛娘にそれ相応の家族愛を持っている。それも、揶揄されれば笑顔にどす黒いオーラを乗せるくらいには。

 だからボクは、「親とは違って大変いい性格をしていらっしゃいますね」なんて失言は心の中で留めておくことにした。

 

「坂柳理事長。そろそろ本題に入った方が宜しいかと」

 

 ここで、痺れを切らした茶柱さんが物申した。彼女の指摘に、理事長は納得のいった表情をし「それもそうだね」と相槌を打つ。

 

「二人共、実はここに足を運んでもらったのは他でもない。察しが付いているかもしれないけど、一昨年の頭に君たちの母校で起きた『事件』についてだよ」

 

 横目に六助の顔色を窺うが、特に反応は示さない。ボクとセットで呼ばれていることから、彼もその結論に至るには難くはなかったようだ。そうでもなければ、そもそもこの招集に応じてすらいなかったかもしれない。

 

「と言っても、僕も事の詳細についてはあまり聞かされているわけではないんだ。だからもうじき、使者(メッセンジャー)が到着するはずなんだけど――」

 

 その時だった。先刻入って来た扉の向こうから、何やらドテドテと無遠慮な足音が響いてきた。

 

「これはこれは……噂をすれば、だね」

 

 理事長が確信を持った様子で言った。ボクも六助も同じ気持ちだ。

 これはまさしく、()()()()()()()()なのだから。

 

「紹介は、するまでもないね。彼女たちはかつて、君たちに証言を求めてきた刑事さんだよ」

 

 間もなくして、乱雑な音と共に勢いよく扉が開かれる。

 次に鼓膜に届いたのは、あの日ボクの枯れていた心を、奮い立たせてくれた声だった。

 

「おじゃまパジャマサイコジャマ―」

 

 変わらないふてぶてしさを前面に出し、『先生』は姿を現した。

 




さて、今回から次々回あたりまでは恐らく作者が一番楽しい回です。何故なら自作のキャラがめっちゃ喋るので。と言いつつも、オリ主が立ち直る上で必要な回であることに変わりはありません。

今回と次回は半ば繋がっているのですが(今までと比べてかなりわかりやすいテーマだと思います)、次回は当てたいエピタイが別で決まっているので、分量も考慮して分けることにしました。よって、解説は次回纏めてしようかと思います。

原作読んでないので毎度の如く坂柳パパの口調や性格にあまり自信ありません。ぶっちゃけこれからも何度か喋るのに。
高円寺と坂柳パパって会話したことありましたっけ?個人的に結構楽しかった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ノスタルジア

さて、今回はオリ主が立ち直るお膳立て+彼の掘り下げという中身てんこ盛りな回です。情報過多で疲れちゃうかもしれません。自分は疲れました。

前回の反動でクソ長いです。気長にお付き合いください。

「いい教師は迷うものです。本当に自分はベストの答えを教えているのか、内心は散々迷いながら……生徒の前では毅然として教えなくてはいけない。決して迷いを悟られぬよう、堂々とね。だからこそカッコいいんです。先生っていう職業は」
(『暗殺教室』殺せんせー)


「おじゃまパジャマサイコジャマ―」

 

 艶やかな声で紡がれたセリフが、穏やかな室内で反響する。

 新たに部屋に現れた人影は、二つだ。

 

「ここにユニコーンはいないっすよ」

 

 今度は二人目が声を発した。

 「半年経ちゃお台場にできるよ」二人はそのまま能天気なやり取りを開始した。

 ここで割り込むのは当然――仲介者だ。

 

「遠路はるばるご苦労様です。雨宮刑事、風見刑事」

 

 坂柳理事長に名前を呼ばれ二人は同時に彼の方を向く。片割れはあからさまに顔を顰めズカズカと奥へ進んでいく。

 バン、と、両手で思いっきり机の表面を叩いた。

 

「ホ・ン・ト・に、はるばるお越しですなー。でも知ってます? これ実は()()()なんすよ、二回目」

 

 二本指を立てて彼女は詰め寄るが、理事長はどこ吹く風で受け流す。

 

「仕方がない、としか言えませんね。我が校は外部との隔離には大変厳格ですから。寧ろこうして賓客扱いで入校できているあなた方が例外なんですよ?」

 

 「ハッ!」彼女は吐き捨て、部屋中に響き渡るように舌打ちする。

 「行儀悪いなあ」と、相棒の彼も苦笑いを隠せていないご様子だ。

 

「それで、持ってきてくれましたか?」

「あったぼーよ。でなきゃ二週間も空けてここになんか来るもんですか。ったく、あの時の警備員、よくもネチネチと戯言並べて追い返してくれたなぁ……」

 

 ひとしきり独り言(という名の呪詛)を唱え終えると、彼女は何やらスーツのポケットから一枚の紙を取り出し、理事長へ突き付けた。

 

「ちゃんと段階は踏んだよ。まどろっこしくて面倒くせぇ手続きは全部済ませました」

 

 相手の無愛想な態度を気にもせず、書類に書かれている内容に眼を通した理事長は満足げに頷いた。「確かに確認しました」

 

「そんじゃ早速、二人は預からせてもらいますんで」

「どちらにお連れするおつもりで?」

「防音は最低限されてないと困りますね。何せ機密案件ですから」

「わかりました。でしたら生徒指導室をお使いください。生徒に聞けばわかると思いますので」

「ご協力感謝致しまーす」

 

 一連のやり取りを終え、女性はこちらに呼び掛けた。

 

「浅川恭介君、高円寺六助君。二人にはこれから事情徴収及び経過観察をさせてもらいます。生徒指導室に場所を移すので案内してください」

 

 畏まった形式的な声音。普段の彼女とのギャップには毎度面食らってしまう。

 ボクと六助は立ち上がり、流れるように理事長室を後にする。どうやら茶柱さんと坂柳理事長はまだ話すことがあるらしく、閉じた扉の向こうですぐに話し声が聞こえてきた。

 数分程して、つい先週訪れたばかりの生徒指導室に足を踏み入れる。

 またしても乱暴な手つきで、女はガタンと扉を閉めた。

 数秒の沈黙――そして、

 

「ひっさしぶりだねぇあんたたち。元気してたかー?」

 

 親戚のお節介なおばさんのようにニシシと笑い、子供二人の頭をぐりぐりと撫でまわした。

 

「お久しぶりです、先生!」

「先生言うな、教師じゃないんだよあたしは」

 

 いいじゃないの。敬意を込めて呼んでいるのだから。

 ボクは先人として心から尊敬している人にしか「先生」とは呼ばない。雨宮さんはボクの人生の中で唯一先生と呼ぶに相応しい人だ。

 

「ごきげんよう、ディテクティブレディー。見ない内に額の皺が増えたのではないかね?」

「ぶん殴るよ赤ん坊が。あと名前で呼べってんだよクソガキ。雨宮由貴って名前を忘れるほどてめぇの脳味噌はちゃちなんか?」

 

 鬼の形相で握り拳をつくる先生を見て、さしもの六助も「これはすまなかったよ、雨宮刑事」と軽く謝罪をする。

 そう、あの六助が頭を下げ、あまつさえ呼称を訂正させられてしまうほどに、この人はおっかない部分があるのだ。現に彼は一度、彼女の鉄拳制裁を喰らい涙目になった経験がある。

 ただ、同時にノリがいいだけあって、こうして揶揄い合いをすることはやめられないというわけだ。

 ……ね、親戚のおばさんみたいでしょ?

 

「ミルキーさんも、お久しぶりです」

 

 ボクは次に、先生の背後に控えていた青年にも声を掛ける。

 「ミルキーボーイ。相変わらず紳士としての身だしなみがなってないねえ」六助もまた彼なりの挨拶をする。

 

「二人共久しぶりっすねえ。あ、念のため確認しますけど、僕の名前も一応憶えているっすよね?」

「……やだなあミルキーさん。お世話になったミルキーさんの名前を忘れるわけないじゃないですかあ。ねえミルキーさん」

「相手の名が記憶するに値するかは私が決めることだよ」

「え、嘘でしょ……? せめて先輩みたいにフジって呼んでくださいよ」

「今更でしょう」

「僕はママの味じゃないんすよ!」

 

 ミルキーさんにはこれくらいの扱いがちょうどいい。ボクら三人の共通理解だ。

 再会の喜びを共有したところで、先生は大仰に手を鳴らした。

 

「ま、かるーく場を和ませたところで――と、そうだ。恭介君、ちょっと」

「……? なんですか――」

 

 何かを思い出したように名前を呼ばれ、反応する。

 ――いや、しようとした。

 しかしそれより先に腕を掴まれ、制服の左袖を捲り上げられた。

 

「ふーん……おっけ、センキュー」

 

 暫く凝視した後、彼女は急に興味を失ったようにボクを解放した。

 

「痛てて……あ、あのー先生、診るなら診るってちゃんと言ってくださいよ……」

「はあ? どうせあんた渋るでしょうが。無駄な時間をかけないってのはいかにも効率的だねぇ」

「別に、すぐ見せましたよ。()()()()()()()()()()()んですから」

 

 「ならいいのよ。なら」大して悪びれもせず、先生はどさりと椅子に腰を下ろした。彼女に倣い、ボクらも着席し机を囲う。

 

「それで? 藪から棒に押しかけて、一体何用で会いにきたのかな?」

 

 意外にも、話を切り出したのは六助の方だった。

 まあ彼の心境を踏まえれば、ある意味当然と言えるかもしれない。

 刑事二人はすぐさま神妙な面持ち――スイッチを切り替えた時の仕事顔だ――になって語り始めた。

 

「まずは、事実だけを話す」

 

 しんと静まり返った室内で、先生の凛とした声だけが木霊する。

 

「練馬区のある一軒家で、四月の頭――あなたたちが入学したすぐ後に、一人の未成年による殺傷事件が発生した」

 

 練馬区の一軒家?

 確かにボクらの住まいも母校も練馬にある。しかしそこで起こった事件にボクらが関わっているとはとても思えない。まして入学後なのだとしたら尚更だ。

 あの日の放火事件と、何か関連でもあるのだろうか。

 次の言葉を待っていると、告げられたのは予想だにしない事実だった。

 

「殺害されたのは――浅川文哉さんとその妻、理恵さんよ」

 

 晴天の霹靂。

 何を言っているのか、理解するのに数秒かかった。

 どうして、そんなことが……?

 一体、何があった……?

 心臓の音が大きくなる。それはこれから起こるであろう、過去を掘り起こす波乱の前触れだった。

 

「父さんと母さんが、死んだ…………?」

 

 

 

 

 静寂が満ちる。

 しかしそれは、先刻まであった緊張感とは別のものだった。もっと過酷な、驚愕とも言える空気。

 

「……当時の、状況は?」

 

 呼吸を何とか整え、先生に尋ねる。彼女はこちらの表情を真っ直ぐに捉えながら、答えを返す。

 

「現場は二人の別荘と推定。つまり、恭介君たちが元々住んでいたのとは別の家だよ。どちらも刃物による刺し傷が原因の失血性ショック。凶器に使われたのは家屋の窓ガラスであることから、衝動的な犯行だったと見られている」

 

 「そして」と、そこで途端に彼女は口元を歪ませた。生業人としての彼女は基本そんな風にならないはずなのだが、余程言いにくいことらしい。

 

「遺体の状況は――原型から少し変化していた。何度も何度も、体の至る所を刺されたみたい」

 

 ……なるほど。

 

「恨み、ですか」

「一番考えられるのが、それね」

 

 両親が犯人を家の中へ招き――この時点で、ある程度交流のあった相手であろうことは想像がつく――その後のやり取りで犯人の中で急激に憎悪が膨らみ、事件は起こった――。

 ……()()()()()

 

「御託はいいよ、雨宮刑事」

 

 突然六助が口を開く。その表情には少々じれったさが浮き出ていた。

 

「私と彼を呼んだということは、本題はもっと先にあるのだろう? 身内の無念な姿について延々と聞かせても、本当に知りたいことを吐かせる口を重くしてしまうだけだ」

 

 言っていることはかなり残酷だが、合理的という意味では六助の意見は正しいものだった。

 無理もない。呼び出しを受けて顔を出してみれば、今のところ全く自身に関係のない殺人事件の話をされているのだから。

 先生はムッとした顔になるも、溜息を吐くことで落ち着きを取り戻し、再び話を始める。

 

「実はね、今回の事件にはもう一人被害者がいるの――さっき殺傷事件って言ったっしょ? その人物の名前は……『新塚純』」

「なっ……純、だって? 純が、ボクの両親の家で、襲われた……?」

 

 ボクはここで、ようやく冷静さを保つことができなくなった。

 訳が分からない。どうして純は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を訪れ、誰かに傷害を負わされなければならない?

 六助もこの情報に眉をピクリと反応させている。それ程までに大きなニュースだったのだ。

 しかし、悲報の発表会はまだまだ始まったばかりだったようだ。次に与えられた情報は、ボクらに更なる衝撃を与えるものだった。

 

「そして、浅川夫妻を殺害し、純君に怪我を負わせた容疑者は……」

 

 聞いてはいけない。ような気がした。

 だが逃げ場はない。たとえ耳を塞ごうとも、物音一つ立たないこの部屋では意味のないことだ。

 だから、ボクはそのあまりに悲しい事実を、ただ耳に入れることしかできなかった。

 

「容疑者は――――――『深山静』ちゃんよ」

「……………………は?」

 

 ボクと六助の、呆然として漏れ出た声が重なる。

 誰、だって? 誰が、人を殺したと言った?

 

「う、そだ。そんな…………静が、人殺し……?」

 

 信じられなかった。認められなかった。

 あの人が、そんな人道から悖る行為をするなんて。

 ボクが()()()()()()()()が、『善人』ではなくなったなんて、到底受け入れられなかった。

 

「…………証拠は、あるのかね?」

 

 どうやら六助は、二人が縁起でもない冗談を放つ人間ではないと理性が辛うじて説き伏せてくれたようだ。

 

「証拠も何も、現行犯よ。通報を受けて駆け付けた警察が現場で凶器を握りしめ錯乱している容疑者の身柄を確保。あの子は、哂っていたんだと……」

「……っ、何故、また……!」

 

 既に彼も、いつもの堂々たる態度ではいられなくなっていた。苦虫を噛み潰したような表情で、彼は拳を固く握る。

 今回も自分がいない間に事が起こった。そのことを酷く悲しんでいるのだろう。

 ミルキーさんが説明を継ぐ。

 

「逮捕後、何度か取り調べを行っているみたいですけど、静ちゃんはまるで口を利かないみたいです」

 

 「ただ」と彼は続ける。

 

「一度だけ、たった一度だけ、『悪魔に憑りつかれた気分だった』と」

「悪魔……?」

「居合わせたやつら揃って頭にハテナだってさ。隠語、ってわけでもないだろうし、何かしらの比喩って考えるのが妥当だね」

 

 確かにあの人には変わり者な部分はあったが、それは周りを笑顔にできる愛嬌の範囲に留まっていたはずだ。不気味で宙ぶらりんなセリフを言う少女ではない。やはり何かがおかしい。

 …………そうだ。

 あの日から、何かが狂ってしまったんだ。

 

「……ボクのせい、かもしれません」

 

 三人の視線がこちらに注がられる。一瞬怖気づいたが、それでも言葉を紡ぐ。

 

「ボクがあの日、間違えなかったら……」

「恭介、何を知っている?」

 

 柄にもなく差し迫った態度で、六助が問い詰める。

 

「六助……」

「何故隠そうとするんだい? 解明に繋がるヒントを得ているのであれば、ここで明かせばいい」

 

 わかっている。ボクだけが知っている、現在(いま)過去(あの日)を結び付ける手がかりは、本来共有して然るべきだ。

 だけど……そうもいかない『理由』がある。

 

「……言うと、不利になるのか?」

「……!」

「君自身が何か良くない事情を抱えているというのかい? 君は一体、あの日何をしたんだ?」

「……っ、それは……」

「答えてくれ恭介。私はただ、知りたいだけなのだよ」

 

 縋るような目。こんな彼を見るのは初めてだった。

 すると、彼に感化されるように先生も声を発する。

 

「実はね恭介君。今日の事情徴収の半分は、彼が知りたいことについてなの」

「え?」

「被害者があなたの両親と当時の友人。容疑者も同じグループの友人。疑わない方がおかしい。この事件は、あの悲劇の続きかもしれない。クソガキ(コイツ)を一緒に呼んだのは、あくまで真実を聞く権利があると思ったからよ」

 

 冷徹な瞳が、ボクを射抜く。誤魔化しは許さない。そう言われている気がした。

 

「あなたは二年前の事件について嘘の証言をした。そうでしょ?」

「……バレていましたか」

「その様子だと、可能性としては考えていたみたいだね」

「寧ろそれくらいなものだと思っていました。ふたを開ければとんでもないことを知ってしまいましたけど」

 

 そう、予感はしていた。完璧な嘘を吐くにしては、あの時は明らかに時間が足りなかった。周りの人間の行動すら正確に把握できていなかったのに、矛盾なく証言することなど不可能に近かった。

 ただ、それでも……それでも知られたくないことだったから。

 

「当該事件に直接的な関連を見込めないあなたに聞きたいのは、二年前のあの日、本当は何があったのか。それがきっと、この謎を解く鍵になる」

 

 力の籠った目で懇願される。彼女の言っていることは、きっと間違っていない。

 だけど……それでもボクは――。

 

「…………白い髪と、青色の目」

「……! 恭介君、それは――」

「やっぱり、調べはついているみたいですね」

 

 恐らく矛盾が生じていたとすればこの情報だろうと思っていた。反応を見る限り当たりだったみたいだ。

 

「あの日、ボクは会っていたんです。図書館に入る直前の慎介とその女の子に」

 

 ボクがこのことを隠していたのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。しかしそれが水泡に帰した今、もはやここで嘘を吐く意味はない。

 

「彼女と面識は?」

「……いえ、特には。ただ、慎介とはだいぶ距離があるように見えたから、恋仲とかではないんだろうなと――あいつにもクラスに友達ができたんだと喜んだ程度でした」

「そこは確かに、他の生徒と証言が一致していますね」

 

 ミルキーさんが手元の資料とにらめっこしながら反応する。

 

「それ以前に、件の少女について尋ねてもほとんどがよく知らないの一点張り。理由は簡単です。彼女はそもそも、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 淡々と真実を言い当てられる。警察の捜査能力がこれほどとは、恐れ入った。

 

「――先天性白皮症、その少女は『アルビノ』だった」

 

 アルビノとはまさに、先程からボクらが話題にしている少女の特徴がそのうちの一つとして当てはまる個体だ。

 アルビノは一般の人と比べてメラニンの色素が顕著に不足している。そのため遮光性が不十分となり紫外線への耐性が極めて低くなる。

 だから――夏場は特に――外出すらも困難になる人は決して少なくないのだ。

 

「あなたのことだから、薄々気づいていたんでしょ?」

 

 ボクは無言のまま俯いているが、先生はそれを肯定と見なしたようだ。

 

「それで、恭介君は彼女が怪しいと思ってるの?」

「それは……いいえ、違います」

 

 「え?」ボクの否定に、彼女は目を丸くする。「じゃあ、一体……」

 

「実は当時、純も静も、当然六助も知らなかっただろうけど、慎介は『虐め』に遭っていたんです」

「虐め?」

「はい。あの学校は全体的に優秀な生徒が多いって話なのは知っていますよね?」

 

 刑事二人は素直に頷いた。

 

「だからこそ、なんです。だからこそ、そういう悪趣味なことをするやつらも狡猾で、残虐で、巧いやり方をするんです」

「つまり、慎介君が殺されたのは、クソ野郎共(ソイツら)の行き過ぎた行為によるもの、と?」

「かも、しれません。現場ごと燃やしたのも、それに内包されるものだとしたら――」

「撲殺の後に燃やされたことと、辻褄は合う、か……」

 

 ボクの証言一つひとつを、先生は念入りに吟味していく。

 そして、彼女は――

 

「解せないねぇ」

 

 なおも納得しなかった。

 

「と言うと?」

「確かに今の証言自体に不審な点は見当たらない。そもそも欠けている情報が多い事件だから仕方ない部分もあるけど、矛盾は解消された。でも恭介君、だったらどうして、あなたは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の?」

 

 ……全く、この人はどこまでも抜け目がない。だからこそ至極尊敬しているわけなのだけど。

 ただ、返す答えは何てことの無いものだ。

 

「…………あまり言いたくないことだったんですけど、実はボク、()()()()()()()()()()んです」

「覚えて、ない……? それって、事件当時のこと? それとも……」

「『ほとんど』、ですよ」

 

 一同唖然とする。

 これは嘘偽りない真実だ。ボクは本当に、あの日のことはおろか()()()()()()()()()()()()()()()()()()。まるで、「記憶の彼方」なんて場所が実在して、自分の脳を飛び出て行ってしまったように、ごっそりと。そこにはきっと、宝物であるはずの思い出だってたくさん含まれているはずだ。

 もう今更、それを哀しむこともないのだが。

 

「ボクには二つの恐怖がありました。一つは最後に慎介を見た人間である故の重要参考人としての恐怖。そしてもう一つが、最も現場付近まで居合わせた有力な証人としての恐怖です」

 

 わからないからと言ってぼかした証言をしたり、それこそ「覚えてない」なんて間抜けなことを正直に話せば、自分が犯人であることを隠していると疑われてしまう。

 あるいは、もし最後の頼みの綱に成り得る証人である自分が記憶がないなんてことがわかれば、いよいよ()()()()()()()()()()()がなくなってしまう。それは強制的に事件が闇に葬り去られることと同意義なのだ。

 そんなことにはなってほしくない。その旨を、彼女に伝えた。

 

「……わかった。あなたの証言、覚えておく」

 

 どうやらようやく、ボクの証言を認めてくれたようだ。

 

「クソガ――六助君、何かまだ聞きたいことはある?」

 

 先生は話の矛を六助に向けた。

 

「……言っただろう。非常に残念なことに、私が把握している情報はこの耳を以て得たもののみだ。今の状況で私が追加で新たな情報を求めることは不可能と言って差し支えないねえ」

 

 元の調子を取り戻しつつあった六助はそう答える。それは暗にお手上げだと言っている風にも聞こえた。

 それから暫く、先生は目を閉じ思考の海へとダイブした。どんな状況だろうと、彼女が頭の中を整理する時は決まってこうなる。

 やがて彼女は目を開いた。

 

「ヨッシャ、仕事終ーわり」

 

 つい数秒前とは打って変わり、能天気な声が届く。

 

「え、えっと、終わり、ですか?」

「ん、おう。今回の話を基にまたもうちょい捜査してみる。進展がありゃまた来るよ」

 

 気付けば重苦しい雰囲気は霧散していた。一見強引な切り替え方だが、巻き込まれている本人からすれば何とも自然なことで、ありがたかった。

 前にもこんな風に、救われたことがあったっけ。

 案外そういう、いっそ振り回すくらいの姿勢の方が、ボクとは相性が良いのかもしれない。

 

「あんたたちの方から、他に何か話しておきたいことはない?」

「愚問だね。私を誰だと思っているんだい?」

「クソガキ」

「ハッハッハ! 清々しい程に辛辣だねえ」

 

 「そういうとこだっての!」我慢できずに飛び出た先生の足蹴りを、六助はいとも容易く回避する。座っている姿勢からあの豪速の攻撃を難なく躱すのだから、身体能力は相変わらず凄まじい。

 

「用が済んだのなら、私はそろそろ退席させてもらうよ。今日は麗しいレディーたちを待たせてここにいるからねぇ」

「レディーだぁ? どうせ子供のままごとでしょうが。ませてんじゃないよ全く」

「君が何と言おうが、女性との待ち合わせに遅れるなど紳士としては三流にも劣る。また来るのであれば、態々名残惜しさを感じる必要もないだろう? 続報を期待しているよ」

 

 「それでは、オ・ルボワール。諸君」と別れの挨拶だけを残して、彼は一目散に去って行った。

 

「はぁあ。折角このあたしが来てやったってのに、薄情なんだから」

「ま、まあ彼なりな激励だったと思いますよ」

「えー、あれのどこが」

「六助は余程のことでないと、他人に期待しない人間なので」

 

 「ほうほう」ボクの見解を聞き、先生はほんの少し上機嫌になって納得する。「なーるへそ」

 

「それじゃあそろそろ、ボクも失礼しますね。また会える時を楽しみにしています」

 

 どうやら本当に事情徴収は終わりのようなので、六助と同様に来るべき再会の時を願って席を立とうとする。

 しかしそれを呼び止めたのは、ミルキーさんだった。「ああ、ちょちょっ、待ってください恭介君」

 

「ん、まだ何かありましたか?」

「いえ、事情徴収はもう終わりっす。先輩も満足のいく収穫だったみたいなんで。ただ――」

 

 彼の移る視線に合わせてボクも視界をスクロールする。

 強く優しい瞳と、焦点が合った。

 

「バーカチンが。経過観察は終わってないっての」

 

 彼女はミルキーさんが引き留めることまで、織り込み済みだったようだ。

 

クソガキ(アイツ)はどうせ悠々自適に暮らしてるだろうからねぇ。自分で自分を豊かにできるやつぁ何だかんだで羨ましいもんだよ」

 

 去り際の台詞からもわかる通り、六助は周囲から見られる自分というのを全く度外視した生活を送っている。それ故日常において窮屈さを感じることもないのだろう。「この小さな箱庭は私にとって狭すぎる」なんて言い出したら別かもしれないが。

 更に言えば、彼の素行を目の当たりにした生徒が白い目をすることも、きっと二人は察しているはずだ。

 

「ただねえ、あんたはそうもいかないってことも重々承知しているつもりだよ」

「……別に何も、悩んでいることなんてありませんよ」

「Sシステム、なかなかに面倒くせぇ仕様だろう?」

 

 「え」予想外の言葉を浴びる。「知っていたんですか?」

 

「この学校の特徴を言ってみなさいよ」

「それは、若者の育成に力を入れた政府直営の……あ、そうか」

「全容はともかく相当だりぃ代物だってのは把握済みさ」

 

 考えてみれば当たり前のことだ。運営している集団の一人がその施設に関する情報を入手できないわけがない。理事長が特例の処置で二人を通してくれたのも、裏にはそういう事情がんでいたのかもしれない。

 

「だから、あの時止めたんですね?」

「あんたにここは向いていない。特に、まだ立ち直り切れていないあんたじゃ、ね」

 

 寧ろこちらが本来の目的だったんだとまで思える程、彼女の表情は真剣だった。

 

「それでも何とかやっていけてますよ。友達だってできました」

「そんなのどこの学校だろうが大して変わんないってば。あたしが言いたいのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()ってことだよ」

 

 核心を突くような発言に、ボクは押し黙ってしまう。完全に図星だ。

 追い打ちをかけるように、ミルキーさんも話に加わる。

 

「恭介君、独りで呑みこむことばかりが強さじゃないっすよ。それはこれまで、散々思い知って来たことっすよね?」

 

 彼の言う通りだ。

 放火事件の直後、どれだけ静と純、そして六助の存在のありがたさを痛感したか。リハビリの際、どれだけこの二人の支えに助けられたことか。

 ……そうだ。ボクはちゃんとわかっていたじゃないか。

 そう思った途端、ふと固く閉ざしていたはずの口が緩んだ。

 

「…………努力は、してきました。この学校に入るために、ボクはどんなことでもやってきた。文字通り、血反吐を吐いてでも……。その日々を乗り越えられたのは、間違いなく先生たちのおかげです」

「ああそうさ。あんたは確かに頑張ったよ。それは他でもないこのあたしが保証する。でも――心は弱くなったままだった。そう言いたいわけ?」

 

 「はい」ボクは力なく頷いた。

 

「いざ進学してみれば、待っていたのは実力なんて曖昧な格付けで差別される訳ありスクールライフだった。本当、わけわかりませんよ……」

「……そうだね、ここの方針にはあたしも思うところがある。だから最初は反対した」

 

 覚えている。大抵こちらの意思を尊重してくれていた彼女が急に頑として譲ろうとしなかった時は、とても驚いたものだ。

 

「だけどね恭介君、別にそれは責任でもなきゃ義務でもない。我関せずと下を向くやつらはごまんといる」

 

 意外にも彼女は、後ろ向きな姿勢に対して真っ向から否定しなかった。

 

「……はい。ボクは怖かったんです。あの日から、見えない重圧がのしかかるようになった。ボクは知らず識らずの内に大きな何かを賭けてしまっているんじゃないかって、そう思う度に動けなくなった」

 

 赤の他人を背負うという不気味さに、めっぽう敏感になってしまった。ボクが鈴音たちと一緒に協力することができない理由はそれだ。

 

他人(ひと)のために行動する勇気は、養うことができなかった」

「……これはあたしの勘だけど、あんたをそうせたのは、あの事件から続く悔恨かい?」

 

 この期に及んで取り繕うつもりはなかった。ボクは素直に肯定する。真実を語る気にはなれないが、募る思いを吐き出すことに、もう躊躇いはなかった。

 

「ボクには、呪いがあるんです」

「呪い?」

「ボクが望むより先に、相手の方からやってくる。最初は喜んで関わるけど、段々と距離感が見えなくなる。わからない内に、取り返しのつかない過ちを犯してしまう」

 

 思えば昔からそうだ。

 この学校でも、清隆に話しかけられて、初めての友達ができた。椎名との会話も、読書をするボクに彼女が興味を示したときからだ。

 話しやすい人だった。居心地がよかった。だから『絆』を深めようとした。

 でも、結局生まれたのは『傷』だ。線引きがつかなくなって、自分の像が曖昧になって、『な無し』となってしまったボクには随分とお似合いだ。

 

「ボクは、自分の持っているものにすら踊らされて他人を傷つける、憐れで愚かな『親指姫』だ」

 

 最もしっくりくる自己表現が、これだった。

 沈黙が流れる。

 十数秒ほど経ち、ようやく先生が立ち上がった。彼女の様子を見たミルキーさんが小さく溜息を吐く。

 先生はゆっくりとこちらに近づき、そっとボクの肩に手を置いて――

 

「甘ったれんなこのバカタレがあああぁぁぁっ!」

 

 全身全霊を以て体をふっ飛ばした。

 瞬く間に壁に激突し背中に激痛が走る。ボクは体勢を立て直すことも忘れ、ただ呆然と先生の方を見た。「な、何を……」

 

「親指姫だぁ? なぁに女々しいこと言ってんだ!」

 

 起き上がらせまいと、彼女はボクの胸倉を掴み馬乗りの状態になる。

 

「自分は悲劇のヒロインだってか? だから怖いです動けないですすみません? ただ大事なもん見えなくなっちまってるだけの表六玉が、いっちょ前な例えしようとすんじゃないよ!」

 

 耳を劈く怒声を眼前からぶつけられる。あまりに距離が近いせいで、数滴唾も浴びたような気がする。

 

「ヒロインだって戦えんだ。間違えたなら、傷ついたなら、今度こそって気概くらい見せんかい!」

「……っ、だ、だからそれが怖いんだって――」

「いるんだろ! あんたの周りに」

 

 反論しようとする言葉が止まる。先生の迫真の表情に気圧されたからではない。理解が追いつかず、次の言葉を待つことしかできなかったのだ。

 

「逃げ腰になっていたあんたを葛藤って形で繋ぎ止めてくれた、大事な友達がいるんだろ!」

「……!」

 

 ハッとした。瞬間的に、独りの少女の姿が浮かぶ。

 

「あんたはいつだってそうだ。いや、あの事件からなのかもしれない。あんたは他人を気遣うフリしているだけで、()()()()()()()()()()()んだ。だから優しい言葉もかけられるし、わかったつもりになっていられる」

 

 容赦のない言葉はボクの心を抉り、棲みこむ癌を浮き彫りにしていく。

 

「その根底にある問題は――自分さ。あんたは誰よりも()()()()()()()()()()()()と思ってる。だからこそ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それが、あんたの恐怖の正体だよ」

 

 今のボクにとって、核にすらなっている、自分自身の真の本質。

 それを言い当てられ、ボクはもう、込み上げてくるものを抑えられなかった。

 

「臆病になりなさんな。あんたが怯えているより、ずっと世界はあんたに親切だよ。数えてみな。んなみっともない(ナリ)してるあんたにも、寄り添ってくれる物好きはたくさんいるさ」

 

 次に脳裏を過ったのは、生粋の読書家と写真家、そしてまだ会って間もない他人だった少女の姿だ。

 閉ざしていた心が、ゆっくりと開いていく。

 

「…………あなたに、今のボクの何がわかるんですか」

 

 抵抗するように、嫌味ったらしい質問が口から出る。

 その裏には、先生ならこの難儀な問いかけにも答えてくれるかもしれない。という手放しの期待があったように思う。

 

「知らないよ。そんなもん」

 

 しかし返って来たのは、あまりに冷たい回答だった。

 

「何で…………あなたが教えてくれなかったら、一体誰が……!」

「だから言ってんだろ? それを教えてくれるのは、今あんたのことを見ているやつだ」

 

 ボクの懇願をばっさりと切り捨て、彼女は啓示にも似た助言をする。

 

「本当の意味で罪を許せるのは自分だけさ。一緒に幸せを探してくれるやつらのこと、もちっと信じてみたらどうなんだい?」

 

 厳しくも、優しい響きのある叱責だった。

 この学校に来てから関わって来た全ての人たちが、瞼の裏に映る。

 皆どこか欠けていて、だけど確かな温もりがあった。

 偽物なボクとは違う、本物の温かさ。

 そうだ。皆初めから、真心でボクに接してくれていた……。

 

「………………『俺』は」

 

 自分に言い聞かせるように呟いた。先生は黙ってこちらの表情を見守っている。

 

「…………俺、は……知らなかったんです。心を預けたことのない他人に、優しくされる感覚が、わからなかった。すごく不気味で、歪に見えて……まるで本当は、俺のことなんてどうでもいいと思っているように見えた……でもそれが、本当は綺麗なものだって、ずっと前から知っていたから、向き合うフリをしていたんだ…………」

 

 時折嗚咽を漏らしながら、ポロポロと言葉が零れ落ちる。

 頬を伝う湿度は、まだこの心が枯れていない証なのだろうか。

 

「絶対に応えなきゃいけないものじゃない。だけど、きっと応えた方が、ずっと安心できるんだ」

 

 それは、過去の亡霊と一緒に忘れ去ってしまっていたことだった。

 後悔や恐怖といった負の感情に流されて、いつの間にか見えなくなっていた、けれど確かに残っていたもの。

 

「ああ。皆、あんたが望む前に来たんじゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んだよ。ちゃんと向き合えば、相手も同じように応えてくれる。人は、他人と無関係には生きられないのさ」

 

 先生は徐にポケットからハンカチを取り出し、こちらに差し向ける。

 

「泣きべそが整っているやつなんかいないっての、だらしない」

「……先生の暴力が痛くて、つい」

 

 「お、威勢も戻って来たね」簡単に目元を拭い持ち主に返す。今生の別れのつもりはないので、そのまま貰い受けるようなことはしない。

 

「男のヒステリーなんてみっともないよ」

「さっきのセリフといい、明らかに男女差別発言ですよね、それ」

「区別だって。統計からして男性の方が力持ち、女性の方が手先が器用ってのはわかりきってんのよ」

「そのアンチテーゼの体現者が、何を仰いますやら」

「あたぼーよ。男は度胸、女は愛嬌、そしてあたしは最強つってね」

 

 人当たりのいい笑顔が、ボクの表情まで晴れやかにする。

 一連のやり取りをひっそりと見守っていたミルキーさんも、ようやく声を掛けてきた。

 

「まあ恭介君、あんまり気落ちし過ぎないようにするには、何か趣味を持っておくといいっすよ」

「趣味?」

「そうっす。『癒し』とも言うっすね」

 

 彼は携帯を取り出し、何やらネットのページを漁り始めた。

 

「漫画もよし、アニメもよし、最近なんかは僕、アイドルにもハマってたりするんすよー」

「は、はあ」

「ほらほら、このグループとか、見てくださいよ」

 

 押しつけがましくミルキーさんは画面を見せつけてくる。

 そこに映っていたのは、どうやら九人組の高校生アイドルグループのようだ。

 

「この子たちの大会優勝の裏には数多の苦難や試練がありまして、学校存続のために努力する姿はお涙ちょうだいなんすよねえ」

 

 「他にも色んなジャンルのアイドルがありましてですねえ」と、オタク特有の早口で捲し立てている。

 そんな彼の様子にらボクは感謝の念を抱く。彼は仕事柄か元々の性格か、自分の趣味を押し付けるマネはしない。今こうしてペラペラと口を回しているのは、ボクを元気づける意図があるのだろう。

 尤も、それがお見通しである時点で半分彼の魂胆は瓦解しているようなものなのだけど。

 

「さてと、経過観察はこれにて完了。恭介君、最後になるけど、何か思い出したこととかはない?」

 

 ミルキーさんの滑稽な姿を白い目で眺めていた先生が気を取り直して話を向ける。

 思い出したこと、か……。

 

「……じゃあ、一つだけ」

 

 あくまで流れ作業のつもりで、まさか本当にあるとは思っていなかったのだろう。二人は意外そうな顔で耳を澄ます。

 

「昔、父さんと母さんが二人で話しているのを聞いていた時に、机の上に雑多な書類が並べられていたんです」

 

 それが何だったか、実際に見たような気もするが、中身は思い出せない。

 

「確かその時、父さんは『知識は本からから得るものではなく、更にその奥に眠っている』と言っていたんです」

「それの、どこに気になる部分が?」

「そもそも、あの時父さんたちが漁っていたのは書類であって本ではありません。それに、うちには書斎なんてない。何か別の意味があるのかもしれません」

 

 「詳しくはわかりませんけど」と付け足すと、先生は吟味するように考え込んでいたがすぐに顔を上げた。

 

「わかった。さっきの証言に加えておく」

 

 気付けば三十分以上が経過していた。感覚的には随分とあっという間な問答だった。

 改めて終了の号令が先生の口から発され、ボクは今度こそ部屋を出て行く。

 

「――恭介君」

「何でしょう?」

「あんたがここへ進学するのに反対した時のこと、覚えてる?」

 

 「え、ええ」さっきも話題にあがったことだが、鮮明に記憶している。

 

「だけど最後には認めた。それはね、あんたにはちゃんとした『目的』があったからだよ」

「……」

「一応忘れてはいなかったみたいだね。これからもあの時の自分の言葉を、絶対に忘れないようにしなさいよ」

 

 「約束ね」と微笑む彼女にボクも頬が緩む。「はい」

 

「それじゃ、頑張ってね、恭介君」

「予定では夏休み前にはもう一度来る予定っすから、お楽しみっすよ」

「バカ、フジ、それサプライズにするはずだったでしょうが!」

「え、そうでしたっけ? あ、待って、先輩! お願いだから殴らないで!」

 

 凸凹コンビは再び息のあった漫才を開始する。本当に相性の良いことだ。

 ……また、来てくれるのか。

 

「……ありがとうございました」

 

 その声は、二人の耳に届いただろうか。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「長話お疲れ様、とでも言っておこうか。アグリーボーイ」

 

 生徒指導室を出るや否や、聞き馴染んだ鼻に付く声が届く。

 

「六助!? キミ、何で……」

「私がいては君が本心を語らなくなる予感がしてね。舞台を下りて観客に徹させてもらったよ」

 

 彼が出て行く直前、妙にこちらへ視線を向けていたのは気のせいではなかったということか。

 

「彼女も言っていたが、まさか涙まで流すとはねぇ。女性の涙は美しいと言うが、男が流せばただの生き恥。君はまだまだ脆いようだ」

 

 やれやれと彼は肩を竦める。今までの一連の会話を聞いた上での感想がこれなのだから、随分と薄情なことだ。

 

「ボクは、辛い時にまで笑顔でいられる程強くはないよ」

「ほう、わかっているじゃないか」

 

 「え?」急に感心し始めた彼に豆鉄砲を喰らった顔をしていると、彼は懐から見覚えのある品を取り出した。

 

「…………キミも持っていたのか」

「我ながら女々しいと思うが、私には認めた友情を自ら穢すような趣味はないからねぇ」

 

 彼の持つ懐中時計は、10時10分で止まっていた。

 

「君にはこれが、どのように見える?」

「……キミも、止まったままなのか?」

 

 「まさか」ボクの予想は一蹴された。

 

「店頭や広告で目にする時計は概ねこの時刻に固定されている。理由は二つだ。一つはロゴが隠れないようにするため。そして二つ目は、『笑顔』だよ」

「笑顔……?」

「二つの針が左右対称の美しい笑顔をつくる。いつしか様式美となった、店員の粋な計らいさ」

 

 確かに、記憶の隅を掘り起こしてみると、当時これを買いに行った時には針がどれも同じ角度をしていたような気がする。

 そんな意味が、あったのか。

 

「それほどまでに大事なものなのさ。どんな苦境に立たされようとふてぶてしく笑うことのできる者は、強い」

 

 彼はボクの醜態を咎めつつも、暗に激励しようとしてくれているのかもしれない。本心は見えないが、そう信じることにした。

 

「ならキミは、今日の悲報に対しても涙を零さずにいられるのかい?」

「…………恭介」

 

 そう、今回聞かされた内容は、正直まだ実感が湧かないほど、衝撃的で悲しいものだった。

 彼はそれでも、笑顔を見せ続けるとでも言うのだろうか。

 哀愁を漂わせながらも、彼は応える。

 

「一流の男が、涙を許されるのはどんな時かな?」

「え……そ、それは――」

()()()。そんな時は」

 

 彼は身を翻し、ボクの前から去って行く。

 

「自分にさえその綻びを悟らせない。そうすることで、人はようやく強くなれる」

 

 「私の持論さ」と言い残していった六助。

 彼は、本当に強い少年だ。

 ……でも、いくら強くても、友人の悲劇を悲しまずにいられるだろうか。

 本当に彼は、一滴の涙も流さずに、ボクの前から姿を消すことができていたのだろうか。

 その疑問が芽生えた時には、もう彼の姿は見えなくなっていた。

 




今回で滅茶苦茶オリ主の核心に触れたつもりです。ただ、事件や過去の謎については謎が深まるばかりですね。くれぐれも弁えておいて欲しいのが、『オリ主は必ずしも真実だけを語ってはいない』ということです。実は今回の話をよーく読んでいれば既に矛盾が見つかるんですよね。他にも偽証している部分はありますが。

解説したいことが二つ。一つは前回にも言いましたが、この二話は作者の中で一貫したテーマを設けています。それは「頼れる大人」の存在です。
この学校、まだまだ青い高校生に対して頼れる大人、導き手となる大人がさすがに少なすぎると思うんですよ(清隆のWR事情による保護は別問題)。自分たちだけで考え行動し結果を出すというのも、相応なものが身についてからなはず。それを分析し、助言する存在=メンター(mentor)が必要です。全て子供だけで解決できてしまうなら、それこそ大人は何のために子供の側に控えているのか、ということです。『教育者』なら尚更、ですね。

二つ目は、『セルフィ―』で触れたことです。オリ主の寄り添う態度は、実は戸惑いや罪悪感からくるものであって、結果的には自分のことがどうでもいい存在であり、それにより他人のことが見えなくなっていました。だからこそ、彼の視点(認識)では他のキャラの機微をなかなか描けなかったわけです。それらを補うためにtipsがあるということですね。
実はわかりにくいかもしれませんけど、これ『初色』での描写であった、相手の外見すら意識が向かなくなりがちな部分にも繋がっていたりします。

予定では次回で『アルゴリズム』に時系列が追い付くはずです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

インディケーター

アンケートの状況に絶賛困惑中。作者の原作履修状況やら構想の状況やらを知って尚一年生編の終わりまでを望んでくれているのは、そういう二次が少ないからなのか、本作にある程度期待してくださっているからなのか……ポジティブに受け取っておくとします。

「人間には三つの顔がある。一つは自分の知る自分。二つ目は他人が知る自分。もう一つは、本当の自分」
(『高校教師』羽村隆夫)


 浅川恭介、高円寺六助両名の事情徴収及び経過観察から十分後。

 高度育成高等学校・理事長室にて。

 

 二人の――と言っても形式的なもので、実際は全て浅川のものだ――新たな証言を頭の中で整理し、次の行動を考えている内に理事長室に着く。

 これから再び始まるであろう頭痛不可避な時間に溜息を零し、雨宮は乱暴に扉を開けた。

 

「終わりましたか?」

 

 迎えるのは当然、この胡散臭い男の顔だ。

 

「はい、おかげ様で。この学校は過ごしにくいって話で盛り上がっちゃいましたー」

 

 明らかな風評被害だが、それでも尚柔和な笑みを崩さない彼に、雨宮の中で一層不快感が募る。

 

「確かにうちは特殊性が強いですが、慣れればそう窮屈なものでもないかと思いますよ」

「どうだか。そもそもあたしはここの在り方に納得がいかないよ」

 

 「ほう」どうやらきちんとした理屈を以て否定しているらしい雨宮に、坂柳理事長は僅かに興味を示す。「例えば?」

 

「ここに来る途中――サークルか何かかねぇ――教室からワイワイ騒ぐ声が聞こえてきたよ。『一万賭けよう』、『五万勝った』、『十万負けた』。天下の進学校は、将来闇カジノの常連さんでも育成する気なのかい?」

 

 敵意まで感じるお咎めに、彼は淡々と耳を傾ける。

 

「監視カメラの死角なら何でもありって? そもそもありあまる資金と資材があるくせに態々死角を作っていること自体、あんたらの悪意が丸見えさ。てか杜撰な連中は普通に見張られてる部屋でも良くない方法でポイントの取引を――」

「それに何の問題が?」

 

 「は?」突然遮るように問いをぶつけられ、困惑の混じった間抜けな声が漏れる。

 

「実際の社会でも行われていることですよ。正義の目を搔い潜り巨万の富を築く場所は多かれ少なかれ存在しています。ここで行われていることを追及するのであれば、まずそちらの方を取り締まるべきでは? 何せ我が校は、限りなく現代社会の構図を再現し、将来その舞台で生徒が高みへ昇るための実力を測っているのですから」

 

 彼の言うことは、その実間違ってはいなかった。

 警察の手に負えない事件。追ってはいけない事件。追われる事件。本来模範となり悪を糾弾しなければならない立場の人間が、法に触れないグレーな範囲で悪行を働くことがある。その数は雨宮や風見のような善良な役人が対応するにはあまりに枚挙にいとまがない。

 ただ、それでも彼女は反論する。

 そもそも彼女がつけたい『いちゃもん』は、そんなところにはないのだから。

 

「……私がガキだった頃はねぇ、今よりもっとゆるゆるな規制だったよ」

「……?」

「先公の目だけがセキュリティ。見張りさえ立てときゃ酒も煙草も安心して嗜める。私の肌には合わなかったが、確かに横行していた『犯罪』だった」

 

 意味のないことだとはわかっている。だが、意味がないからこそ、堂々と直談判しようが何ら問題はない。

 雨宮は、そういう卑怯とも取れる大胆さを持っていた。

 

「それが段々今みたいになっていって、昔の波にさらされたままだった連中は少しずつ生きづらくなっていった。――生きる社会が変わったからさ」

 

 雨宮は無意識に固く握っていた拳の力をフッと緩める。

 

「社会風刺? 大いに結構。だけどね、私からすればここにそれ以上のものはない。もしここで優秀だってもてはやされた生徒が、いざ表舞台に上がって俗に言う『悪いこと』ばかりをし始めたら――あんた、責任取れんの?」

「それは自己判断ですね。そういう社会を学んだ生徒が自制心に欠けてしまった。ただそれだけのことですよ」

 

 社会の裏を知ったのなら、その毒に浸からないようにすればいい。一見正当な意見だ。

 しかし、と雨宮は思う。この学校で最も手軽に利益を得られるのが毒を振るう者となってしまっている時点で、やはり容認できないのだ。

 聞けば、三年間の中で幾度にも回数を重ねる『試験』とやらで異常に厳しい条件によって退学を命じられる生徒もいるのだとか。

 事前に知らされていない情報のせいで将来を潰される。それを一つの『教育機関』に過ぎない場所が体現するのは、あまりに理不尽で、無責任ではないだろうか。

 

「あんたは勘違いしているようだね。ここはあくまで、『社会』じゃなく『学校』だよ」

 

 社会の縮図の中で生活を送らせるのみで、教育とは事足りるものなのだろうか。

 淘汰され排除されるという残酷さまでそのまま再現させてしまったら、それはすなわち教育を受ける機会の剥奪だ。

 いつからこの場は、子供たちのささやかな権利を乱暴に踏み躙られるほど偉くなったというのだろう。

 

「――本来教育者が示すのは、『今の社会を生き抜く悪知恵』なんかじゃないでしょう。『より良い未来をつくる可能性』なんじゃないの?」

 

 時代は常に変遷する。同時に正義や風潮も。

 それは決して悪いものばかりではない。善い変化もあったからこそ、過去より優れた今がある。歴史がそう証明している。

 ならば、そういう未来を型作り、豊かに生きる術こそ、最も教育させるべきものであるはずだ。

 

「……『練馬の女鬼』と呼ばれたあなたが、案外綺麗ごとを吐くのですね」

「ケッ、廃れた渾名で呼ぶんじゃないよ。赤の他人が付けた二つ名なんて勲章にもなりゃしない」

 

 正直、琴線に触れるレベルの発言だった。ただ、恐らく彼はそんなことを露にも知らないのだろうとギリギリ理性を働かせる。

 しかし、代わりに言ってやらなければならないことがあった。

 

「いいじゃない、綺麗なんだから。不可能でもない限り、貫きゃ立派な信念よ」

 

 否定する言葉が見つからなかったからだろうか。理事長は暫しむつかしい顔をしていた。

 

「…………心得ておきましょう」

 

 

 

 

 外へ出た時には、もう日の入りが始まるところだった。

 今日は近くの店で腹を満たそうかとプランを決めたところで、風見が話しかけてきた。

 

「ヒヤヒヤしましたよ。まさかトップに楯突くなんて」

 

 セリフの割には飄々としている。それだけ、彼は何度も彼女のそういう部分を見てきているのだ。

 彼もまた、随分と毒されてしまっている。

 

「どうせ何言ったって変わらないでしょ。規模がデカけりゃデカい程、あたし一人の言葉なんて大した影響力も持ちゃしないよ」

 

 「あたしゃしがない臆病もんさ」とふてくされる彼女に、風見は「どの口が」と返す。当の本人としても、さすがに自分がそこまで気の小さい女だとは思っていなかった。

 

「案の定でしたね、恭介君」

「世話の焼ける小僧だねぇ、全く」

「でも驚きました。先輩、今までとスタンスを変えてきたんですから。ああいう関わり方もできたんすね」

「……うっさい」

 

 軽く小突くと、彼は「あべしっ」と苦悶の声を漏らす。

 ――急に敏くなるんじゃないよ。

 蓋し彼の言っていることが事実なだけあって、雨宮らしくもない照れ隠しだった。

 

「難しい時期だよ。あの年にもなれば、頼ることと背負うことの塩梅を考え始めなきゃならない。今の時代じゃ、特にね」

 

 以前までの彼女――放火事件後の彼女なら、浅川にはもっと具体的なプロセスを提示していた。正しいか間違っているかはこの際問題ではない。そうでもしなければ、恐らく何も選ばなくなると感じたからだ。

 だがそろそろ、次のステップへと上がらなければならない。

 

「高校ってのは、間違えながら識る場所さ」

「先輩も、何度も間違えてきたんすか?」

「んなわけなかろう」

 

 「デスヨネー」雨宮は基本的に一度たりとも失敗という失敗をしたことがない。無論、『成功の途中』と言い訳する経験さえ。

 持ち前の嗅覚とセンスは、天賦の才としか言いようがないだろう。

 

「大人になるってのがどういうことなのか。あの子はそろそろ学ぶはずだよ」

「当然でしょうね。あなたの意志を継いだ彼なら、いつか自ずと理解してくれるはずっすよ」

 

 伊達に一年間つきっきりでスパルタな指導をしてきていない。文字通り身体にまで雨宮の教えが叩きつけられている浅川なら、きっと最後には上手く乗り越える。

 彼と、自分の手腕には、絶対的な信頼があった。

 

「ところで、この後どうするんです?」

「飯」

「捜査っすよ……」

 

 「ああ」イマイチ考えは纏まっていないが、取っ掛かりはある。

 それらを紐で繋ぎ、当たる場所を絞っていく。

 ……どうすっかなあ。

 候補は二か所。しかしどちらも収穫を得られるかは五分であり、片方に至っては――。

 雨宮は懸念を抱きながら、風見の間抜け面を見る。

 

「ん、どうしたんすか?」

「……フジ。もしかしたら今度は、あんたの力が必要になるかもしれない」

「え? おお、マジっすか! 腕の見せ所ってやつっすね」

 

 意気込みは上等。後は彼が本当にそれ相応の力量を具えているかに懸かっている。

 

「で、僕の活躍の場は一体どちらに?」

「それは――――『病院』だよ」

「へ、病院?」

 

 雨宮は頷いた。

 

「恭介君の証言にあった、記憶が抜け落ちているってやつさ」

 

 記憶喪失自体には今疑惑の目を向けても仕方がない。こればかりは浅川の感覚と物の言い様に委ねるしかないからだ。

 しかし、もし自身の過去――事件のことを覚えられていないのだとしたら。

 咎めるべきなのは、その事実を診断できなかった連中だ。

 

「あんたには、恭介君の『診断記録(カルテ)』を検証してもらう」

「なるほど、僕の出番っていうのはそういうことっずね」

「できそうか?」

「任せてください。殊、脳においては得意なんで」

 

 記憶の障害なら、異常をきたしているのは脳の可能性が高い。

 風見は理系の知識が豊富だが、中でも脳科学については優れていた。

 

「何だってあんた、そんなもんに詳しいのよ……。マッドサイエンティストでも目指してるの?」

「違うっす――あ、でも、影響は受けましたよ」

「え、マジか」

 

 ちょっと引いた。

 以前にも同じ人物について話を聞いたことがある気がする。確かその時はノリノリな中二病だとも語っていたはずだが……類は友を呼ぶらしい。風見のマッド気質な友人とやらには、金輪際出くわさないことを密かに願った。

 

「他には?」

「あとはー……浅川夫妻の別荘、かな」

「ついに現場検証っすか?」

「いや、どっちかって言うと情報収集の一貫だね」

 

 恐らく現場検証は既に他の人員が済ませているだろうし、もうとっくに証拠品などは回収されて規制は解除されているはず。

 雨宮の目的は別にあった。

 

「浅川夫妻には、何か秘密がある」

「恭介君が最後に言っていたやつっすか」

 

 それも勿論だが、やはり全体を通して謎が多いというのが正直な意見だった。

 浅川兄弟と深山の交流は認知していたはずだ。だからこそ屋内へ招き入れた――。

 そこから深山が暴走するまでに、一体何が起きたのか?

 放火事件直後の様子からして、深山の方に何か問題があったようには感じられなかった。彼女を豹変させる何かがあるのだとしたら、それはやはり浅川夫妻の方なのではないだろうか。

 それに、雨宮の疑問はもう一つあった。

 

「あとね、多分だけど恭介君(アイツ)、両親のことがあまり好きじゃない」

「……やっぱそうっすか」

 

 これには風見も気付いていたようだ。

 最初に両親の死を告げられた時、確かに浅川に動揺は見られた。ただ、もう少し錯乱なり嗚咽を漏らしたりしてもいいのではないだろうか。

 実感が湧かなかっただけという可能性もある。だが、深山と新塚のことを聞かされた時の反応や経過観察での感情の起伏を見る限り、やはり両親に対する思い入れの薄さが感じられた。

 雨宮としては、いっそ恨んでいるのではないか、とまで考えている。彼が恨みによる犯行という線を自力で考察した(その冷静な思考をした事実にも、多少ながら驚いた)際に信じられないというよりは合点のいったような表情をしていたからだ。

 

「彼が立ち入ったことのないあの場所なら、何か手がかりが残っているのかもしれない」

「刑事の勘ってやつっすね。ドラマの見過ぎっすよ」

「それはあんたでしょうが」

「褒めてるんすよ。先輩の勘は、ドラマ並に当たりますから」

 

 それで褒めているのだとしたら相当褒め下手だ。雨宮は今日何度目になるかわからない白い目を彼に向けるが、鋼の精神故かあまりの鈍感さ故か全く気にも留めない。

 

「親に愛されたことのない少年っすか。それで最愛の弟を失い、大切な友人が手を血に染めたともなれば、あんなに脆くもなりますよ」

 

 言葉にすれば、相当悲惨な環境だ。

 恨む程の親嫌いというだけでも心の痛むことであるのに、彼の経験は同い年の間では極端に起こる確率の低い出来事だ。

 そんな彼の傷ついた心を、一体誰が癒せると言えよう。

 故に、恐ろしくもある。

 

「だから不安なのよ」

「何がっすか?」

「本来離れなきゃいけないはずのものに、今更甘え始めちゃうような気がしてね」

 

 そう、必要であったはずのものを、彼は得ることができなかった。

 それを見抜くことができたから、雨宮は今まで何とかその代わりを担ってきた。

 しかし時間は待ってくれない。無情にも高校生となってしまった彼は、誰よりもその立場に似合わず赤子なのだ。

 一見心地良く、正しいもののように見えて、決して呑まれてはならない毒酒。

 何より恐いのは、与える側もその愚かさに気付けないということだ。

 

「願わくば、誰もその『役』を引き受けないで欲しいものだねぇ」

 

 彼女の嘆きは当然、届くべき人の耳には届かなかった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 今の時間帯、人の姿が確認できる場所は限られている。

 テストに備えたい勤勉家は教室、図書館、寮。部活動に励む努力家は特別教室、グラウンド、体育館。気分転換や現実逃避を実行する浮浪者は施設の並ぶ街中。各々が目的に沿った場所に身を置いている。

 故に、ボクと同じように帰路を辿る高校生は一人もない。

 遠くからの喧騒すらも聞こえない道を気怠げに進んでいく。

 部屋にたどり着くまでの十数分は、やけに長く感じられた。

 鍵を開けて中へ入ると、何故か人の気配がした。

 

「お邪魔しています。浅川君」

 

 そこで初めて、今日がその日だったことを思い出す。

 

「お疲れ様、椎名。隆二と真澄は?」

「部屋に帰りました。二人共、前と同じ時間まで浅川君のことを待っていたんですよ」

 

 無垢なふくれっ面からは怒気を感じない。手のかかる子だと呆れられているような気がする。

 椎名の手には『盗まれた手紙』が握られていた。『マリー・ロジェの謎』から続くエドガー・アラン・ポーの作品であり、推理小説界の最高峰としても名高く、例にもれず後世の多くの推理作家に多大な影響を与えている。

 

「キミは帰らないのか?」

「はい……何となく、いるべきかと思いまして」

 

 どこか哀愁を乗せた表情で彼女は答える。

 本当にただの漫然とした判断だったのだろうか。思いつきにしては大分儚げなご様子だ。

 もしかしたら、自分がいつまで経っても現れないことに対して何か予感めいたものを抱いていたのかもしれない。

 

「どこへ行っていたんですか?」

 

 水を用意し始めると、そんなことを訊かれる。

 さすがに「警察と話をしていた」なんて物騒なことは言えない。折角あの茶柱さんでさえ内密にしてくれているのだから、態々ボクから明かすことはないだろう。

 当たり障りのない答えを返す。「先生と相談事」

 

「何か悩み事ですか?」

「大したことじゃないよ。もう問題ない」

 

 事実だけを淡々と述べる。ボクは確かに自分にとっての『先生』に『相談』に乗ってもらっていたのだ。

 喉を潤してからキッチンに向いていた体を彼女の方に翻すと、未だ晴れない表情が視界に飛び込んできた。

 

「そう、ですか……」

 

 震えるような声が、鼓膜を揺らす。

 その時、つい先刻この胸に留めた先生の言葉が脳裏を過った。

 

『あんたが怯えているより、ずっと世界はあんたに親切だよ』

 

『あんたにも、寄り添ってくれる物好きはたくさんいるさ』

 

 ……ああ、そうか。やっとわかったよ。

 キミも、ずっとボクのことを見ていてくれていたんだな。

 なら、これからボクがどうすべきか。今はもう、その答えは知っている。

 

『絶対に応えなきゃいけないものじゃない。だけど、きっと応えた方が、ずっと安心できるんだ』

 

 最初は怯えながらでもいい。だからまずは、ゆっくりと一歩近づこう。

 そうすればきっと、この人なら応えてくれるから。

 

「…………なあ、椎名」

 

 名前を呼ばれ、彼女は俯いていた顔を上げる。

 悲しみを映す目が、今はよく見えた。

 彼女にこんな顔をさせたのは、他でもないボク自身。ならそれをやめさせるのも、ボクであって然るべきだ。

 

「俺の話を、聞いてくれるか……?」

 

 俺は、この学校で初めて、『友達』に助けを求めることにした。

 

 

 

 

 

「聞かせてください」

 

 椎名は一瞬だけ目を見開いたが、こちらの表情を見るなり真剣な表情で――しかしどこか嬉しそうに耳を傾け始めた。

 

「と言っても、まあ他クラスの人間に相談するのは本来憚れることなんだけど」

 

 そう、これは見方によってはクラス規模の話になる。

 ただ、椎名があまりクラス対抗戦に熱意を抱いていないことと、ボク自身この問題をそういう目で見るつもりがないことから、彼女を相談相手に選んだのだ。

 

「実はさ、中間テストやこれからのイベントに積極的に関わるか、ずっと迷ってるんだ」

 

 これまでずっと独りで抱え込んできた――清隆にさえ真面に打ち明けなかった苦悩を、赤裸々に語る。

 

「ボクのことを必要だと言ってくれた友達がいるんだ。最初は独りが好きだと言って他人を遠ざけていたのに、やっと頼ろうとしてくれた人が。その人の言葉がなければ、きっとこうやって悩むこともなかったと思う」

「……きっとその人も、あなたと関わっていく内に変わったんでしょうね」

 

 否定はしない。ボクは頷いた。

 ただ、ボクだけではないのではとも思う。一番最初にボッチルート一歩手前な姿を晒していたらしい清隆の言動もまた、鈴音に少なくない影響を与えていたはずだ。ボクのいないところでも――今なんかも――そういうやり取りが行われているのかもしれない。

 いずれにせよその変化でさえ、ボクは今まで他人事のように思ってきたのだ。

 

「しかしあなたは、尚も踏み出せないままでいる。一体、何があなたをそうさせているんですか?」

 

 椎名が続きを促す。ボクは躊躇しながらも、ゆっくりと胸の内を明かしていく。

 

「完璧な人間なんていない。この三年間で、きっとどこかで間違える。そうなった時、ボクには四十人分の責任を取る勇気なんてないよ」

 

 少しだけ前向きにはなれたかもしれない。だが、それとこれとは別問題。失敗が他人のこれからに響くということに、変わりはないのだから。

 

「なら……浅川君は、どうしたいんですか?」

「ボク、は…………」

 

 黙り込んでしまったが、わかっていた。ボクは彼女に協力したいと思っている。投げやりになっていたにも関わらず心のどこかで引っ掛かりを感じていた、今までの自分自身が証拠だ。

 ならば、相反する『したい』が存在する時、人はどうすればいい?

 

「――浅川君は、優しいんですね」

「は……?」

「なかなかいないと思いますよ。『責任』なんて曖昧なものをそこまで真剣に考えて、他人のために悩める高校生は」

 

 そう、かもしれない。

 でもそれは、高校生だから褒められることに過ぎない。大人になるに従って誰もが感じ取り、抱えるようになっていくものだろう。

 それに――、

 

「違うんだ。椎名」

 

 きっぱりと否定したボクの顔を、彼女は見る。

 

「ボクは怖がりなだけだ。ボクにとって、自分を否定されることは無視されるより辛い。だって、自分すら肯定できていないんだもの」

 

 存在証明が他人に依るなら、不存在の証明だって自分以外の誰かにされるはずだ。

 先生の言葉で整理がついた今だからこそ、はっきりと答えられる。

 自分のことを見つめられないから、他人のこともわからない。同じように、他人が自分をどう思っているかもわからない。それが筆舌に尽くしがたい不安となる。

 その弱さにすら、向き合おうとしてこなかった。

 

「椎名、ボクはどうすればいいんだろうね。どちらを選んでも、きっと不幸だ……」

 

 やはり知らない方が幸せなことはあるのだ。他人のことを気にも留めずに(かしら)を名乗れる無鉄砲さを持つ人が羨ましい。他人を道具や駒としてしか見れないやつが羨ましい。

 感じられない人も、感じぬフリができる人も、酷く妬ましい。優しさに満たない臆病さが、心を蝕んでいく。

 不幸しか選べないなら、人と関わりながら生きる意味は何だ?

 

「……浅川君」

 

 燻ぶる思い、蔓延る疑問、癒えない傷。

 ボクの中で主張を続けるそれらに何か一石を投じてくれるかもしれない彼女の呼びかけに、ボクは縋るような目を向ける。

 

「――『詩は詩のためにのみ書かれたものこそ至高である』」

「それは……」

 

 唐突なセリフに面食らってしまったが、ボクはそれがどういう言葉であるかよく知っていた。

 彼女よりも前から、知っていた。

 

「『詩の原理』、拝読しました。自分が好きになった本を書いた人がどんな考えを持っているのかを識るというのも、面白いものですね。少しだけ、良さがわかったような気がします」

 

 半月ほど前のことだ。ボクは椎名からポーの評論『詩の原理』を読みたいというオーダーをもらっていた。回してから一週間ほど経つが、知らない内に読了していたようだ。

 して、その内容はと言うと、

 

「いかなる道徳的なものも排除し、ただ己の魂のみに委ね、詩の探求はそれ自身で正当化されなければならない。そこには、信仰も憐憫も――愛すらも溶け込まず、独り立ちしたものである。過激ではありますが、間違いなく一人の作家としての熱意が感じられました」

 

 彼女の説明はまさしく要点のほとんどを抑えたものだ。

 そして、彼女は知らないかもしれないが、この考え方は案外広い分野で知られている。

 「芸術のための芸術」という標語を掲げたテオフィル・ゴーティエ(一時画家を目指しこの言葉を生み出した彼が最終的に小説家に収まったというのも奇妙な因果だ)、耽美主義の代表として名高いジェームズ・マクニール・ホイッスラーなど、文学という枠組みを超えて共有されている信念だ。

 そのパイオニアを担っているあたり、ポーの文学に対するアプローチの斬新さも極まっているというものだろう。

 そこまで理解していたボクだからこそ、椎名の伝えたいことを察しハッとした。

 

「人生は、一つの物語です――あなたの、物語です。そこで第一に考えなければならないのは、あなた自身の心なのではないでしょうか」

 

 そう語り掛ける彼女の優しさは、確かにボクに向けられたものだった。

 

「人は自分の物語の主人公だと言う人もいますが、私はそうは思いません。誰もが等しく作者なんです。ストーリテラーは、その魂に従い物語を書き連ねるべきだと、私は思います」

「でも……誰からも愛される作者はいないよ。とても大勢の前で見せびらかせられる代物にはできない」

「前に言っていたじゃないですか。あなたの感性は凡人には理解し難いんですから、仕方のないことです」

 

 まさか過去の何気ない会話で零した失言を拾われるとは。やはり彼女は恐ろしい。

 ただ――そんな一幕まで覚えてくれていた彼女のことを、少し嬉しく思う自分がいた。

 

「――それに」

 

 だから、次に届いた言葉を、今度はちゃんと信じて受け入れようと思えた。

 

「あなたにどんな不幸や逆境が訪れたとしても、私があなたを肯定します」

 

 前にも聞いたことのあるはずのそれは、今回も、ボクの中で渦巻く全てに応えるアンサーだった。

 安心させるように優しく手を包む彼女と目が合う。

 

「だから、あなたの心を隠さないでください。自分と向き合うことを、恐れなくてもいいんです」

 

 伝わる体温がわだかまりを溶かし、冷めきっていた何かに熱を与える。

 知らない感覚はとても心地良く、身を委ねたくなるものだった。

 ――肯定する、と言ってくれた。

 その想いを、もう無視するマネはしない。

 躊躇う必要なんてない。

 ボクはもう――大丈夫だ。

 

「…………ありがとう、椎名」

 

 顔を綻ばせ、恩人に礼を言う。「ありがとう」

 

「当然です。私は浅川君の友達ですから」

 

 素直にそう答える彼女の表情に羞恥心の影はない。こういう純粋さもまた、魅力の一つなのだろう。

 一つの決心がついたボクは徐に立ち上がり、玄関へと向かう。

 

「今から動くんですか? もうだいぶ日は落ちていますけど……」

「善は急げさ。今のこの思いを、できるだけ忘れない内に伝えたいんだ」

 

 「なるほど」ボクの判断に、早速彼女は賛成してくれるようだ。「いいと思いますよ」

 ドアノブに手をかけたところで、ボクはもう一度椎名の方を振り返った。

 

「じゃあ、行ってくる。今日はもう、帰って大丈夫だよ」

「長くなるかもしれませんからね。浅川君の言う通りにするつもりです。次会える時まで、良い報告を待っています」

 

 そうだ、次がある。彼女が支えてくれている。

 心配要らないさ。

 玄関を飛び出し、エレベーターは使わず階段を下りる。

 駆け足気味になりながら端末を取り出し、手慣れた動作で連絡帳を開く。

 一番に、心を聞かせたい相手――。

 話をしたいのは、やはり盟友()だ。

 指定の欄をタップし、通信を開始する。

 一回、二回、三回……と規則的に流れるコール音は、少々じれったい。

 

「……もしもし」

「……! 清隆」

 

 抑揚のない声が鼓膜に届いた。どうやら相手は外に出ているようで、風の音が混じっている。

 

「この後、時間あるか? 話があるんだ」

「……ああ、構わない。オレもちょうど、お前に話ができたところだったんだ」

 

 「それは……」予想外の返しに言葉に詰まる。「その、奇遇だな」

 お互い声音には僅かな緊張が乗っていた。彼とこうして言葉を交わすこと自体一週間と空けていないが、状況が状況であるだけ気まずさがある。

 「いつどこで会う?」清隆が無言の時間を避けるように訊いてきたので便乗する。「できるだけすぐに。場所は――」

 必要なことだけ通達し、すぐに通話は切れた。

 清隆がボクとしたい話。どことなくその内容を察してはいるが、それが事実なら、彼の方でも決意を固める何かがあったのだろう。

 互いに万全。僥倖もいいところだ。これで心おきなく向き合える。

 前へ前へと動かす足が、自然と速度を上げる。

 さあ、あと少しだ。あと少し。

 吹き抜ける風は追ってこようが向かってこようが関係ない。悠々と、昏く沈んだ景色の中を進んでいく。

 悔恨も罪も残り続けるのだとしても、もう自分の物語を描く『責任』から逃げたりなんかしない。

 

「『僕』はもう、大丈夫だ」

 

 見上げた星は、闇の中で美しく輝いていた。

 




僕、ボク、俺の使い分けはお察しの通り重要な要素です。因みに自分という呼び方もある程度使いどころを考えています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ドーン

今回はいつもとかなり違う形式です。あとがきで軽く説明しますが、拙さが目立つのであしからず。あと、今までで一番と言っていいほど短いです。

オリ主のある情報がサラッと飛び出しますよ。

「大概の問題は、コーヒー一杯飲んでいる間に心の中で解決するものだ。後はそれを実行できるかどうかだ」
(『ガンダムX』テクス・ファーゼンバーグ)


 逢魔時とは、妖怪や幽霊などの魑魅魍魎に遭遇し得る、黄泉と現世の境目だと言われている。

 魔物たちの本領発揮。酷くおぞましい時間帯だ。

 しかしそれは、大禍時と表されることもある。著しく不吉な時間。どう捉えようが、人々の身体を小刻みに震わす薄暗闇であることに変わりはない。

 そんな不幸な座標で、呑気に木製の椅子(シート)へ腰を下ろす少年が一人。

 たなびく()()の髪は、淑女と紛う程に妖しく煌めいていた。

 仄かな湿り気を纏う潮風が吹き抜ける音を除き、鼓膜に刺激を与えるものは一切存在しない。

 ――いや、しないはずだった。

 唐突に現れた足音は、淀みがなく規則的なリズムを刻んでいる。

 亡霊の如くひっそりと浮かぶ影に、少年は振り向かなかい。その正体は、彼にとって唯一であったからだ。

 だからこそ、脳内に描いた通りの相手ならきっと応じてくれるであろう一節を、徐に唱える。

 

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なば――」

「――死なば、それは多くの実を結ぶべし」

 

 そうしてようやく、少年は髪をかきあげながらゆっくりと振り返る。

 視線の交錯する相手は無論、彼にとって最大の友だった。

 

「お前は、麦か?」

「いいや、実の方さ」

 

 その再会に、二人は薄く笑い合った。

 

 

 

 

 身一つ分窮屈になったベンチに座る二人の視線は、どちらも奥に構える水平線に注がれている。

 既に沈んだ夕日の光が昏い海から微かに漏れ出ているのを、ぼんやりと眺めたまま数分が経過していた。

 その間、二人はまたしても無言だった。

 

「…………勉強会、調子はどうだ?」

 

 不可視の均衡が突然崩れる。

 長い静寂を破ったのは、浅川の方だ。

 

「愚問だろう。明るい顔で答えられるものなら、今日を選びはしなかった」

 

 宙に浮いた問いかけに応じたのは綾小路。

 今の彼の表情からは、一切の感情も露わになっていない。

 彼の言葉をある程度予想していた浅川は、前かがみになっていた体を起こし足を組んだ。

 

「参考書は買ったんだろう? それでもダメだったのか」

「彼女もだいぶ健闘したんだがな。やはり水と油は混ざらないらしい。――お前はどうなんだ?」

「出会い運に恵まれてね。クラスの枠を超えて切磋琢磨していたよ」

「こっちよりも随分と雰囲気が良さそうじゃないか、羨ましいことだ。今度オレも混ぜてくれよ」

「みんなが許してくれたらな」

「断られたら三日は寝込む」

「はは、それは大事だ。そのまま伝えとくよ」

 

 始まった会話にテンポをもたらすなど、もう二人の間では造作もないことだ。一週間の空白などものともせず、他愛もない冗談が差し込まれていく。

 しかし、互いに理解していた。浅川は、綾小路が出会った頃と同じような無表情になっていることから。綾小路は、浅川の乾いた笑い声に普段の柔らかさがなかったことから。

 今回はお遊びではないということは、共通認識だ。

 

「で、今後の動きはどうするんだ?」

「続行、らしい。彼女の中で算段はついていないだろうが」

「なら――君は?」

「……櫛田に任せようと思う」

 

 暫く合っていなかった視線が、綾小路が首を右に回したことで再び合う。浅川は当然、彼の動きに応じて左を向いていた。

 

「そして恭介。お前にも来て欲しいんだ」

 

 前触れもなく飛び出した、核心を突く発言。

 二人は微塵も表情を変えないが、漂う空気は僅かながら緊張したように見える。

 

「……何故?」

「勉強会を投げ出した面子には須藤もいる。アイツの説得には少々骨が折れることだろう。そこで最も適任なのがオレと、そしてお前だ」

 

 綾小路は自身が屋上で櫛田に語ったことを伝える。

 その内容は概ね、浅川の予感していた通りだった。

 彼の中で、答えは既に決まっていた。綾小路も、彼の話を聞く態度――いや、出合い頭の顔つきから、その胸中を察知していた。

 しかし、そうではない。ここで二人が語らいたいのは、そういう表立ったことではないのだ。

 互いにそのことを、十二分に理解している。

 故に、浅川が次に吐き出したのは、過去の自分の言葉だった。

 

「前にも言ったろう。自分は羅針盤だ――部品の欠けた、羅針盤。有象無象にまで扱われることには忌避感がある」

 

 そこに込められていた思いは、二つ。

 一つは、綾小路と堀北になら心を許し、思う存分働けるのだということ。

 そしてもう一つは、他のクラスメイトにまで自身の選択が影響を与える恐怖だ。

 劣等感、と呼ぶほどのものではない。しかし、自身が完璧だと思ったことは浅川にはなかった。

 だからこそ恐怖した。間違いが、過ちが、自分だけでなく周りも不幸にするのではないのかと。

 あの日と同じ悔恨を、繰り返してしまうのではないかと。

 それが『責任』という形になって、彼自身を追い詰めた。

 一方の綾小路は、彼の不安に最初から気づけていたにも関わらず、その重大さを失念していた。

 踏み込むことを、恐れてしまった。

 そう、それは優しさにも似た、二人の臆病さによる行き違いだったのだ。

 

「重量オーバーだよ清隆。自分がその船に乗るには、あまりに荷物が重すぎる」

 

 目線を逸らし俯く彼の恐怖は、盟友にさえ隠してきたものだ。

 綾小路が気付いていたかどうかは特別問題ではない。自分がはっきりと打ち明けずに誤魔化したことこそが、今回の浅川にとっての間違いだった。現にそれによって、彼の苦悩に気付けたはずの綾小路は声を掛けようとしてこなかったのだから。

 しかし、今まさに状況は変わった。なれば今度こそ、綾小路も彼に応えるべきなのだ。

 

「……お前は、その責任から目を逸らせなかったんだな。背負ったものを、悪い目でしか見ることができなかった――。だけど、オレはそれだけじゃないと思うんだ」

 

 拙いながらも言葉を紡ぐ綾小路を、浅川は硬い眼差しで見つめている。

 

「嫌なものに引けを取らないくらい、お前の抱える荷物には綺麗なものが積まっているはずだ。だってそれは、本来これからのために必要なものなんだろう?」 

 

 遠足やピクニックのために準備する荷物は、思い馳せる内にいつの間にか重くなってしまうもの。しかしそれは――地図だったりパンフレットだったり、お菓子や飲み物だったり――どれも不可欠なもので、道すがらを楽しむためにある。

 本当は思っているよりずっと善いものであるはずだと、綾小路は説いた。

 だが、それで折れるくらいなら、浅川はもうとっくに立ち直れていたことだろう。

 ついこの前までの自分はそれほど廃れてしまっていたのだと、彼は自覚していた。

 

「そうかもしれない。だけど、だったら自分は、楽な道で小さな幸せを求めるよ。その方が、辛い思いをしないで済む」

 

 一体目の前の少年はどう返すのか、浅川は固唾を呑んで答えを待つ。

 その意図に応えるべく、綾小路は再び慎重に言葉を選び取る。

 

「……オレは、違ったよ」

「清隆……?」

「オレは、自分の変化の兆しを忌み嫌いはしなかったから。ここに宿るものの正体は、まだ不確かだけど、悪くないと思えたから」

 

 そう言って、彼は胸に手を当てる。

 決して見当違いではない。これこそが最適解なのだ。

 彼の決意は、今まで抑えてきた自分の心を伝えることにあったから。

 そして、それを浅川は嬉しく思った。

 彼の心を、ようやく聞くことができたような気がしたから。

 しかしそれでも、敢えて弱さを引きずり出す。

 

「善いものばかりじゃないさ。殻の中はとても温かくて、安心する」

「……お前は一つ、勘違いをしている」

 

 それに対し、綾小路はここで予め『理性』が用意しておいた回答を以て浅川を説き伏せる。

 

「もうお前は、引き返せないところまで来ているんだ。オレを変えた。鈴音を変えた。須藤も沖谷も、佐倉も、色んな人を変えてきた。この一か月でお前は既に、決して少なくない人たちに対して向き合う責任を抱えている」

 

 強い眼差しが、浅川を射抜く。

 

「お前は背負うことを恐れがちだが、一度背負ったものは絶対に下ろさない。そうだろう?」

 

 櫛田からの依頼を最後まで熟した姿。単なる心配から声を掛けたはずの佐倉と関わり続けてきた姿。そして、堀北と手を取り合う道を最後まで諦めきれなかった姿。今までの浅川をよく見てきた彼に、わからないはずがなかった。

 当の浅川も、その情熱は一つのポリシーであるという自覚があった。そもそも責任に対して敏感な彼が、引き受けたものに対して手を抜くことなどあり得ない。

 殻は既に破られた。

 悲劇のベールを纏った生は与えられている。

 ならば全うする以外に、いかなる道理も存在し得ないのだ。

 まさしく浅川の足掻きを潰す一石――しかし、

 

「わかっているはずだ、清隆……。そうじゃない。そうじゃないんだよ」

 

 そこで終わらせるわけにはいかなかった。

 浅川は、自分がその先を問いたださなければならないことを確信していた。

 今まで互いに踏み出すことのできなかった一歩は、きっとここにある。

 

「君一人でも解決できる問題だ。君と、鈴音だけで乗り越えられる壁だと知りながら、それでも見限らずに誘う理由は何だ?」

 

 綾小路であれば、独力で須藤を連れ戻すことは可能なはずだ。彼が戻ってくる動機付けをしてあげてもいい。戻らざるを得ない状況に誘導してもいい。最悪、多少の『荒療治』を施しても目的自体を達成するのに難くはない。

 それは本人も自覚しているはずだ。にも関わらず、こうして浅川と足並みを揃えようと遠回りな行動を取っている。

 その非合理的な判断は、一体どこから沸き上がって来たものなのか。

 綾小路は――既にその答えを見出していた。

 なぜならそれが、この場で最も伝えたかったことだからだ。

 

「…………お前とが、いいんだ」

 

 今まで一度も打ち明けず、されど最大の基盤となりつつあった思いが、ついに絞り出される。

 

「オレが、望んでいる。気遣いも、合理性もない。ただオレが、お前たちと一緒がいいと願ったからだ」

 

 ここからは『本能』。

 彼を手の鳴る方へと導き得る「彼女」によって編み出せた、別の答え。

 宛てのない砂漠を狼煙を頼りに進むように、綾小路は確かに胸の中に宿っているものを、拙いながら無理矢理言語化していく。

 その様を、浅川は何も言わずに見届ける。

 

「気づいていた。自分の機微も、お前の異変も。でもオレは目を瞑った。瞑ってしまった。お前の意志を尊重すると言い訳して、遠慮しているに過ぎなかったんだ」

 

 膝の上に置かれていた両手が、キュッと握る力を強める。

 

「あの日初めてお前と歩んだ帰路で、沸き上がった決意があった。オレはそれを、いつの間にか蔑ろにしていた。自ら反故にしてしまっていた……」

 

 学校初日の帰り道。

 確かに綾小路は、ここでの生活を送る上で一つの意志を立てた。

 

『人の心に温かさがあると言うのなら、いつかオレに教えてくれ』

 

『オレもいつか、お前を見つけてみせるから』

 

 一方的に求めることをやめる誓い。

 櫛田との会話の最中で、彼は当時のことを思い浮かべていた。

 あの時願った通りに日々を過ごせていたのなら、少なくとも今の状況にはなっていなかったはず。

 彼を裏切ったのは、他でもない彼自身だったのだ。

 

「だけど、それはもう終わりだ。出し惜しみしていた一歩を、オレは二度と間違えない」

 

 綾小路は浅川を見た。浅川も、綾小路を見る。

 似た意思を差す数多の言葉は、未だバラバラに頭の中で浮遊している。

 そこから彼は、今の自分の思いを示す最も優れた言葉を探し出す。

 欲望を探して、必死に藻掻く。

 そうしてたどり着いた場所は――とてつもなくシンプルだった。

 

「……『シンユウ』」

 

 歪んでいた口元が、はっきりとした軌道を描き始める。

 

「お前が、俺にとっての『親友』だから――これからも、隣を歩きたいと思ったんだ」

 

 誤魔化しのない言葉が、浅川の心に突き刺さる。

 深い静寂を噛み締めるように、彼は暫く瞳を閉じた。

 やがて再び開いたその目には、先よりも落ち着きの色があった。

 

「……自分は、怖かった」

 

 固く閉ざされていた口が開き、凛とした声が発される。

 

「自分の善意で、他人が傷つくことが嫌だった。それが自分の首を絞めることにもなるって知っていたから」

 

 彼の悔恨の起源はそこにあった。

 よかれと思って起こした行動が、結果的に助けたいと願った相手を陥れた。そんな自分に絶望した。

 ならばいっそ、自分が何もしない方が――世界なんて計り知れない規模でなくとも――周囲は上手く回るのだろう。

 思い込みではない。確かな実体験があったからこそ、浅川はより鮮明な恐怖に苛まれた。

 そしていつしか、自ら何かを起こすことをやめたのだ。

 

「だけど、観測者のままでは得られないものがある」

 

 かつて、自分に言い聞かせるように語ったことを思い出す。

 大切なのは、『まず動く』こと。

 盟友と初めて歩いた帰路で(あの日)、わかっていたはずのことだった。

 

「誰かに何かを与えてもらうのは簡単だ。でも、こちらからも手を伸ばさなければ、『共鳴』することはない」

 

 思い出せば、最初から彼は自ら求めることを諦めていた。

 

『今はもう、僕自身に何かを求めるなんておこがましいことはできないけれど――この男なら――星のような瞬きを見せてくれるかもしれない』

 

『すぐ側で測らせてもらうよ』

 

 彼の希望は、憐れにも矛盾から始まっていたのだ。

 人は他人と無関係には生きられない。自分が止まったままでは、何も起こり得ない。

 

「十人十色。なら綺麗な色は――景色は、きっとそれらを上手く混ぜ合わせてできるものだ」

 

 与える・貰うの一方通行では、そこで終わってしまう。その先の『未知』へと踏み入ることはできない。

 本当の始まり――彼が高度育成高等学校への入学を決意したその時には、ルーツとして確かに(そこ)にあったもの。

 

「自分には二つの願望がある。前向きなものと、後ろ向きのもの。どちらもかけがえのない人から影響を受けたものだけど、片方は不幸への片道切符だったよ。そしてもう一方は……れっきとした憧れだ。それを叶えるためには――ここで踏み出さなければならない」

 

 あまりに遅い一歩。しかし、それがなければ永遠に望みは叶わない。確信に近いものが、浅川にはあった。

 

「優しいと言ってくれた人がいる」

 

 先刻ようやく見始めた人たちのことを思い浮かべる。

 

「肯定してくれる人がいる」

 

 恐れるようになっていたものは、かつて信じていたものだった。

 

「必要としてくれた人がいる」

 

 最初から、ずっと温かいものだった。

 

「そして――」

 

 脳裏に心地良く広がる表情と言葉は、

 

「一緒に探してくれる人がいる」

 

 まさしく、晴れやかな『予感の詩』だった。

 

「正直まだ、自分を縛り続ける枷は外れていない。諦める理由は残ったままだ。けど……進む理由は見つかったよ」

 

 彼にとって重要だったものもまた、非常に単純なものだった。

 恐れていたものと向き合うことを決めた彼は、本当に見なければならなかったものを思い出す。

 今の彼の周りには、既に信念を貫く意味で溢れていた。

 過去と切り離された今を見つめ始めた彼は、やっと星空を眺める余裕ができたのだ。

 泥はもう、踏みしめるだけで十分だ。

 

「ねえ、清隆。いつか教えて」

 

 浅川はついに手を伸ばした。

 

「他人で飽和するこの世界で、それでも自分を見つめる方法を」

 

 華奢な指が、親友の手にピトっと触れる。

 

「……ああ、そうだな。なら、オレにも教えてくれ」

 

 応えるように、綾小路は自分の指を絡めた。

 

「他人と溶け合うことのないこの世界で、それでも他人を見つめる方法を」

 

 もう、互いを見ることはしなかった。いつの間にか光すら覗いていない海と空を、黙って眺めている。

 しかし――確認するまでもない。

 今、彼らは互いに、より近く心を感じている。

 それは言葉にできない喜びであると同時に、言葉にすべきでない幸福でもあった。

 外に吐き出せば、それだけで薄まってしまうことだろう。

 怯えながら踏み出した少年の震える左手を、未熟な情緒を働かせようとする少年の落ち着き過ぎた右手が、そっと握る。

 互いの体温が伝わり、やがて混ざり合っていく。

 一つの末端は今、全く同じ温もりを宿している。

 自分と他人の境界線が曖昧になる感覚――。

 感想は、特になかった。

 

「一緒に、探そう」

 

 二人だけの、かたい約束。

 彼らの間には、それはまるで『鎖』のような絆だった。

 




いかがでしたか。ここにきてようやくオリ主の外見がまた一つ明らかとなりました。「女子と見紛う長い藍色の髪」ですね。

今回オリ主視点と綾小路視点で分けるか迷ったんですけど、さすがに膨大になってしまうということで、初の完全三人称視点で描かせてもらいました。代名詞の使い方がわからなくなって、正直二度とやりたくないレベルです。
二人の心情はどちらも描くべきだとは思っていたので、苦渋の決断でしたね。

釘をさしますけど、決してオリ主×清のBLではありませんよ? 今までのオリ主を見てきてくれた方なら、理解してくれていると信じていますが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

カラマーゾフ

「――よくあんな場所を見つけたな。滅多に足を運ぶものでもないと思うが」

「のんびりするには海沿いかなと思っていたらたどり着いたんだ。ちょっとした思い入れもあったことだし、今回の場に決めさせてもらったよ」

 

 十三夜月の照らす舗装道路(ペーブメント)を、二人で歩く。人影は僕らを除いて一つもない。

 錦の御旗を示し合わせた後、僕らはしばらくその場で黙っていた。心通わせたことに安心したのか、緊張で疲れてしまったのか。恐らくどちらもだ。清隆が「そろそろ行くか」と切り出してくれなければ、もう十分くらいはそのままでいただろう。

 時刻は八時を回る頃だろうか。既に夜は更けており、周囲には固い地面を小突く足音が響くのみである。

 別に彼との無言の時間に気まずさは感じないが、単に積もる話――さっきまでの時間、世間話はほとんどしていなかった――があったので、口を一文字に結んで帰路をなぞることにはならなかった。

 

「夕暮れを過ぎてから落ち合ったのも初めてだな。どうしてまたこんな時間に?」

「……理由は、二つかな。一つは、湧きあがった思いをできるだけ忘れない内に伝えたかったから」

 

 これは椎名に対しても言ったことだ。その場その時にしか語れないことや、乗せられない思いがある。相手にも自分にも齟齬を生まないためには、早急かつ正確に表現すべきものだろう。

 

「それじゃ、二つ目は?」

 

 すると次に返ってくるのは、当然の疑問だ。

 僕は徐に空を仰ぐ。

 

「……夜だから」

 

 「夜?」清隆もつられて視線が上に行く。

 

「夜にはさ、()()()()()()()があるんだ。それも、普段見えない部分に対してね」

「月の魔力、というやつか?」

 

 「それはちょーっと違うかなあ」稀にそんなまことしやかなロマンを耳にすることもあるが、生憎月は信用していない。彼もそのことを覚えていたようで、あまり驚いた反応はしなかった。

 闇に紛れる隠密性故だろうか。腹を割った話をしたり思いのたけを伝え合ったりする機会は夜に多い。他にも大人の飲み会や恋人の待ち合わせなどと、人はその不思議な現象を暗に理解しているのかもしれない。無論風流という理由もあるのだろうが。

 

「夜は人を感傷的にさせる。シリアスは、本心を吐き出すのに打ってつけってわけさ」

「……なるほど、そういうものか」

 

 何か思うところでもあったのか、やがて彼は納得した表情をした。すぐに考えつくのは、鈴音を説得した放課後のことだ。

 初めは視線の先の昏く沈んだ景色に、一つの『諦観』を抱いていた。今もそれは、拭えたなんてとても言えない。僕は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()だから。

 だけど、それだけではないと――別の意味を見出せた。泥に囚われていた視界を星へと向け始めて、やっと気づけた可能性だ。

 そして、そのきっかけを与えてくれた()()との、小さな思い入れのある場所が、今回の場として真っ先に浮かんだのだ。

 僕は、親友の顔を見る。

 共有したいことがある。交わしたい言葉がある。しかしそのどれもが、これからいくらでも時間のあることだと確信していた。

 だから今は、ただ彼と一緒にいる喜びに浸りたかった。

 この感情が色あせない内に、噛み締めたかった。

 

「…………ありがとう、清隆」

 

 自然と、感謝の言葉が出る。

 彼はこちらに目を向け、バツが悪そうな顔をした。

 

「別に、オレは思ったことを言っただけだ」

「それが一番だったんだよ。君もそれをわかっていたから、僕に打ち明けてくれたんだろう?」

「……まあな」

 

 随分と理性的な振る舞いの多い清隆のことだ。ああいう感情論めいたものを吐くことには、あまり慣れていないのかもしれない。

 

「……お前の言う通りだな。確かに夜は、どことなく人を素直にさせるのかもしれない」

「そうでもなきゃ、僕らは気難しい生き物なんだろうさ。捌け口がないだけで窮屈に感じてしまう矮小さからは、逃れられないものだよ」

 

 反例に成り得るのは六助だろう。あれ程の自由人になるのは気が引けるが、弱さを見せないどころか自分自身を絶対に疑わない精神力は、自分からすれば敬意すら抱いている。でもなければ、かつて同じグループでつるもうなどとは思わなかっただろう。

 

「君はどうして気付けたんだ? 何を伝えるべきなのかを」

「教えてくれたやつがいるんだ。言わなくても伝わるのだとしても、言えばその想いも届きやすくなるってな」

「――櫛田かい?」

「ああ。あいつから学ぶことは多いかもしれない。オレとは対極的な立場にいる彼女なら、オレにはない視点を持っている」

 

 確かに、『処世術』を習得しているという面で彼女は学年最高峰と言っても過言ではない。彼女自身が異性であることだし、人との付き合い方に難を感じている清隆には打ってつけの相手かもしれない。

 櫛田は清隆にとっての先生、とでも呼ぶべきだろうか。ただ、彼の彼女に対する信の置き方はどこか違和感があるようにも思えるが……相応しい表現がいまいち浮かばない。一種の『人格形成』や『情緒発達』を起こす人材。一体何と表すのが正しいか……。

 答えを出す前に、清隆に質問を返された。「お前はどうなんだ?」

 

「僕は……色々あるよ。色んな人に貰った物があるから。でも、強いて言うなら、何があっても支えてくれる人――優しく包み込んでくれる人がいるって、安心できたからかな」

 

 人は『作者』だと、彼女は言った。あの表現が、自分の中で綺麗に収まったのだ。

 僕は確かに『主人公』なんかにはなれないけれど、それとは全く異なる物語を描くことはできる。その事実を認め信じることで、ようやく僕は自分が『どうすべきか』を見つめ直し、実行する決意を抱くことができた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()。今僕が、そうすべきだと思っていることが全てだ。

 

「お互い、同じような存在と出会えたみたいだな」

「そうだね。一期一会って言葉がどうしてあんな頻繁に持ち出されるか、少しだけわかったような気がするよ」

 

 恐らく、僕が彼女に向けている感情と清隆が櫛田に向けている感情は似たようなものだ。今は上手く言い表せないが、何となく、そんな気がした。

 それからはまた、他愛もない雑談に戻っていく。

 どうやら、寮まで口が減らない程度には、僕らの土産話は溜まっているようだった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 楽しい一時にも終わりは付き物。昼と夜が否が応でも繰り返されるのと同じだ。

 程なくして、僕らは寮の前までたどり着いた。

 

「喉が渇いてないか? ちょっち水分補給して行こうよ」

 

 名残惜しさを感じていたのは事実だが、割と本当にしゃべり過ぎて喉を潤したかったので清隆に提案してみる。彼は「そうだな」とだけ答え、二人ですぐ側の自販機へと歩んだ。

 

「――たはずだ。お前に――ない」

「そうでな――――さんに認め――です」

 

 何だ――?

 当然清隆も違和感に気付いたようだ。顔を見合わせ、忍び足で音源へと近づく。

 

「昔からお――――なじよう――ないとその――きないようだな」

「兄さん――しは」

 

 目的地は曲がり角の先にあるようだ。バレないよう、顔だけを覗かせて状況を窺う。

 見えたのは――

 

「恥を知れ」

 

 はっきりと見えるより先に、ドンという鈍い音を知覚する。

 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。しかしいつまでも放心してしまうほど落ちぶれているわけでもない。

 よく知っている、何度も言葉を交わしてきた彼女と、だいぶ前にその示威を目撃した彼――。

 ――()()()()()()()()()()()()のだと、誰がどう見ても明らかだった。

 肺から空気が漏れ出しせき込む鈴音を、生徒会長は能面のような顔のまま冷徹な瞳で見下ろしている。

 この距離ではどんな会話が行われているか詳細はわからない。僕は耳打ちで清隆と話し合う。

 

「どうする。二人で割って入るか?」

「まだ続きそうならそれしかない。だが……お前はここにいろ」

「何だって?」

「カメラを構えておけ。もしオレや鈴音に暴行を仕掛けてきたら、決定的な証拠になる」

「仕掛けてきたらって……一人で対応できるのかい?」

 

 軽く見回したが、現場は寮の裏なだけあってギリギリ監視カメラの死角だ。それをわかっていたから二人はここにいるのだろう。

 しかし今は、証拠がどうと言っている場合ではないのではなかろうか。はっきり視認したわけではないが、生徒会長は鈴音を本気で付き飛ばしたように思う。そこに見ず知らずの目撃者が乱入したところで飛んで火にいる夏の虫、口封じにかかるに違いない。そうなった時、いくら清隆とて捌き切れるのだろうか。

 彼は表情を一切変えることなく答える。

 

「別にやり合おうってわけじゃないんだ。大怪我しないように立ち回るから心配するな」

 

 そうは言うが、と、更に反論しようとした時だった。

 視界に捉えた状態を維持していた生徒会長が鈴音の胸倉を掴み、壁に叩きつけた。

 さすがの清隆も焦りが垣間見え、「頼んだぞ」とだけ言い残して飛び出そうとする。

 

「ああもう……どうにでもなれだ。分が悪そうなら僕も行くよ」

「それでいい。――そうだ。念のため言っておくが万一の時は――」

「わかってるよ。()()()()()()()()()()()から大丈夫さ」

 

 彼は薄く笑いかけた後今度こそ飛び出し、振りかぶった生徒会長の腕をガシッと掴んだ。その間に僕も端末を取り出し録画を開始する。

 

「……何だお前は」

「誰でもいいでしょう。寧ろこっちのセリフです」

 

 ぎらつく視線が清隆へと移る。彼は欠片も臆することなく墾然と言葉を返した。

 

「生徒会長が新入生の女子に暴行。野次馬大好物なスキャンダルだ」

「盗み聞きとは感心しないな」

「自販機寄ったら偶々会話が聞こえたことを盗み聞きと言うならそうでしょうね。ただ、あんたの方が感心できないことをしているのは明白だろう?」

「いいからその手を放してもらおうか」

「あんたが彼女から手を離したらな」

 

 双方決して引くことなく睨み合いが続く。何だかそれを遠くからボーっとカメラを向けて突っ立っている自分が場違いな気もするが、固唾を呑んで見守っておく。

 すると、次に声を発したのは鈴音だった。

 

「綾小路君、どうして……」

「それは何に対する疑問だ?」

「あなたがこんな時間に出歩いているなんて――」

「おかしいか? オレからすれば、今こうして密会をしているお前も大概だと思うが」

 

 清隆の正論に返す言葉はなかったようだ。彼女は言葉に詰まる。

 清隆はその様子を一瞥し、生徒会長に再び厳しい目を向けた。

 

「鈴音はオレの友達なんです。これ以上虐めるのは勘弁してくれませんかね?」

「ほう、鈴音の……」

 

 生徒会長は感心したような声を零す。

 一方鈴音は弱々しく俯いたまま何も言わない。やはり彼女、兄のことになるとめっぽう女々しくなるらしい。女子としては珍しい挙動ではないが、鈴音の場合かなりレアだ。

 

「妹なんでしょう? 何故そこまで傷つけるマネを――」

「お前はよその家庭事情に首を突っ込めるほど偉いのか?」

「躾と称して暴力を振るう家族の有り様を看過すべきではないことぐらい誰でもわかる」

「出来損ないを甘やかして優秀な妹に育ってくれるとは思えないがな」

 

 二人は微動だにしないまま弁舌を繰り広げるが、その間鈴音は悲し気に兄の方を見つめていた。やがて彼女は力ない声で清隆に訴える。

 

「やめて、綾小路君……」

「鈴音?」

「お願いだから……」

 

 意外だ。清隆もそう思ったのか、訝し気な顔をしながらも従い生徒会長からゆっくりと手を放す。

 その時だった。恐れていたことが起こったのは。

 目で追えるかわからないくらいの速さで、相手の裏拳が清隆の顔面に襲い掛かる。スレスレで回避したのはさすがの反射神経といったところだ。

 続いて飛んできたのは半開きの右手。鈴音と同じように掴んで投げ飛ばすつもりなのだろう。当然清隆は手の甲で払いのける。

 その反動を利用し、生徒会長は体を回転させ右回し蹴りを放った。ここで遂に体の動きが付いて来れなくなった清隆は、ダメージを最小限に抑えるべく両手をクロスし衝撃を緩和した。一メートル程後ずさったものの、体勢は全くと言っていいほど崩れていない。

 生徒会長はそれを瞬時に理解すると、次にこちらへ目を向け急接近し――

 

「ってマジかよ……!」

 

 間違いない。彼はこちらの存在に気付いたことを悟らせずに、攻撃を仕掛ける機会を窺っていたのだ。

 まんまとその策がハマり、僕は反応が遅れてしまった。画面越しに状況を見届けていたのも原因の一つだ。

 端末を手にしていなければまだ回避のしようはあったが、今の状態の僕には一歩後ろに下がり蹴りの届くタイミングをずらすので限界だった。

 あまりの衝撃に端末が宙高く飛ばされ、近くの茂みに落下した。

 

「いっつぁー……」

 

 痛みが左腕にまで伝わり、思わず右手で抑える。

 

「そんな隠れ方でバレないとでも思っていたのか?」

 

 そう貶しながら、生徒会長は僕の端末を拾い勝手に操作する。何をしているのかは、確認するまでもない。

 

「一年坊主の技量じゃこれで精一杯ですわ。あ、ありがとうございます」

 

 端末を返され、僕はそそくさと清隆と鈴音の方へ駆け寄る。最初の僕らと生徒会長の立ち位置が入れ替わった状況になった。

 

「浅川君まで……」

「やあ鈴音。水臭いじゃないかあ。僕らにもあれくらいしおらしい態度を見せておくれよ」

 

 目を白黒させる鈴音に普段のような口調で挨拶する。返事がないのは寂しいな。

 

「二人揃っていい動きをする。何か習っていたのか?」

 

 生徒会長が徐に問いかけた。関心は多少清隆に偏っているようだ。僕は一回きりの行動だったが、清隆はたて続けに彼の攻撃を凌いでいる。偶然を疑う余地はないというわけだ。

 

「まあ、武道は一通り?」

「チェロと華道なら」

 

 相手はなおも興味深そうに、観察眼をこちらに向ける。張り詰めた空気が和らぐ気配はない。

 

「綾小路清隆に、浅川恭介か……やはりお前たちは、名実共に新入生の中でも極めて特徴的なようだ。」

「何か問題を起こした覚えはありませんけどね。オレたちはどこにでもいる平凡な一生徒ですよ?」

「片や入試も小テストも全て五十点、片や入試で学力二位でありながらDクラス。興味を持たないやつがいると思うか?」

「……今、図書館の国語辞典を確認して『個人情報』と『プライバシー』の項目が消えていないか確認したい気分になりました」

 

 衝撃的な事実だ。生徒会ともなれば新入生のデータを把握するなど造作もないということか。僕の古傷の件も、あるいは知られてしまっているのかもしれない。

 彼は視線を妹へと移す。相変わらずその瞳には、いっそ敵意まで映っているようだった。

 

「鈴音、まさか彼らがお前の友達だったとはな」

「二人は友達じゃ……偶に話す仲では、あります」

 

 煮え切らない回答に、彼は鼻を鳴らした。

 

「その様子だと、やはりお前は孤高と孤独をはき違えているようだ。言ったはずだぞ。今のお前にはAクラスに上がるなど到底無理な話だと」

「そんな、こと……」

「聞き分けのない……不肖の妹が同じ学校だと要らぬ恥をかく。お前は今すぐにでもここを去るべきだ」

 

 容赦のない一言一言が、鈴音の心に突き刺さっていく。盗み見ると、瞳が震えていた。

 とても兄妹とは思えない、冷たい会話だ。僕の知っているものとは、全く違う。

 家族の形は人それぞれ。確かにそうかもしれないが――果たしてそれだけなのだろうか?

 涙を流す子供を見て愉悦を読み取ることがあり得ないように、たとえ唯一解でない問いにも絶対に間違っていると言えるものがあるはずだ。

 今までの話を聞く限り、生徒会長は少なくとも『昔のままの鈴音ではAクラスへの導き手にはなれない』ことを体に叩き込むためにここにいる。

 僕はそれを、黙認していていいのか?

 

「ここはお前が考えているほど甘くはない。俺を追い掛けてきたのは、失敗だったな」

 

 そう吐き捨てて、彼は身を翻し帰ろうとする。

 何も言い返せない悔しさ? 兄に見放された悲しさ? 惨めな自分への怒り? あるいはもっと別の――。

 いずれにせよ、感情が飽和した鈴音は耐えられずへたり込み、

 ――――ついに、一滴の涙が頬を伝った。

 

「待ってください」

 

 もう、迷いはなかった。

 決めたのだ。自分は、『僕』の物語を描くのだと。

 ならば、絶対にここで黙ってはいけない。言ってやらねばならない。

 かつて幸せだった頃にずっと感じ取ってきた、知り尽くしている信念から、僕はもう目を背けない。

 振り返った生徒会長に、僕は言った。

 

「謝ってください」

「何だと……?」

「さっきから鈴音に対して取っている言動の全てを、ここで謝罪してください」

 

 鈴音は呆然とこちらを見つめる。清隆は、何も言わなかった――しかし、あの時とは違う。僕のしたいことを理解し、後押ししてくれているように感じられた。

 

「なぜ俺がそんなことをしなければならない?」

「家族なら、兄妹なら、どうして少しも関わってやれないんですか?」

「お前まで、赤の他人の家庭に口を挟む気か」

「なら言い方を変えます。あなたは、今の自分のやり方が本当に正しいと思っているんですか?」

 

 生徒会長の視線が一層険しいものになる。虚勢だ。

 

「悪いけど、今のあなたは間違ってる」

「……言い切るな」

「当たり前です。あなたのそれは、誰にだってできることなんだから」

 

 家族、友達、他人……全ての関係には意味がある。

 友達がいたから、僕は変わることができた。他人がいたから、自分がどんな姿をしているのかを信じることができた。

 なら、『家族』は――『キョウダイ』は、一体何をしてやれる存在なのだろう。

 鈴音は兄を慕っている。これまでの言動も、今のこの状況も、全てがそれを証明している。

 その情愛を向けられた者として、『兄』はどうあるべきなのか。

 正否を分ける手がかりは、傷みを代償に握ったものだ。

 

「一番近しい人だったはずのあなたが、いの一番に拒絶した。だから鈴音はわからなくなってしまった――独りになってしまった。孤独を間違いだと咎めるのなら、まずあなたが彼女を見てあげなきゃいけなかったんだ」

「俺が鈴音のことをわかっていないと、そう言いたいのか?」

「当然」

 

 既に彼の表情には、興味の感情は残っていなかった。明らかに彼は、僕の言葉に苛立ちを感じている。

 それこそが、今の彼が間違っているのだと思える理由だ。

 

「たかだか一か月の付き合いのお前に、何が理解できる」

「たかだか一か月来の友人の方があなたよりも今の彼女をわかってるって言いたいんだ。でなきゃあんな酷いことを、今の鈴音に言えるはずがない」

 

 僕と清隆も、鈴音も、揃ってコミュニティが狭かった。だから一緒にいる時間が多かった。嫌でもわかる。入学したての、自己紹介すら拒否していた彼女とは、少しずつ変化していっている。

 

「彼女がこの学校に来てから、どれだけ僕や清隆と会話を重ねてきたと思ってるんですか。どれだけ、心を開いてくれたと思ってるんですか。その軌跡を、否定しないでいただきたい」

「詭弁だな。人はそう容易くは変われん。今まで一番近くで鈴音を見てきた俺にはわかる」

 

 過去を知っているからこそ、どういう人間なのかわかっている。確かにごもっともだ。

 しかし、それは違う――。

 言い返そうとした時、別の人物から横槍が入った。

 

「『会話が苦手な人にオススメ。コミュニケーション10のコツ』」

 

 その場にいた他の人間が一斉に彼を見る。

 当然、声の主は――、

 

「清隆?」

「話を濁さないでください生徒会長。恭介が言いたいのは、あなたがその観念に縛られていることに対してなんですから」

 

 訳のわからない単語に続いて、彼は堂々と啖呵を切る。言葉の綾からは、本の題名といったイメージが浮かぶが……。

 呆けていると、鈴音は何か思い当たることがあったのか顔を赤らめ、焦りの滲んだ表情に一変した。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい綾小路君! あなたまさか、あの時……」

「悪いな鈴音、盗み見するつもりはなかったんだ」

「本当、あなたって人は……」

 

 呆れ果てたように額を押さえる鈴音を傍目に、清隆は再び生徒会長と向き合う。

 

「確かにあなたは、鈴音がどういう人間だったのかは知っているのかもしれない。でもそれはこの際関係ないんですよ。大事なのは、鈴音は当時のままなのかどうか。彼女は――変わろうとしていますよ。ずっと必死に」

「…………」

「簡単に変われないからこそ、ここで成長する機会が与えられているのでしょう? その兆しはとっくに現れているんだ。兄であるはずのあなたの、全く知らないところで」

 

 僕が言おうとしていたことをそっくりそのまま言ってくれた清隆に内心感謝し、続きを継ぐ。

 

「どんな事情があるのかまでは、僕らにはわかりません。何か考えがあってのことだとしたら、厳しい態度を取るのも一つの形として認めるべきだと思います。でも、今のあなたには、既に彼女の可能性を否定する資格はないんですよ。鈴音と関わることから、逃げてしまっているあなたには」

 

 僕は初めから言っている。決して「優しくしろ」とか「寄り添え」とかではない。手を施さず「関わってやらなかった」ことを咎めている。

 たとえ愛情が潜んでいたのだとしても、それで「関わる」ことからも逃げてしまっては尚更間違っているのだ。

 僕の言葉に対する反応の数々は、どう考えても妹を大事に想っている兄としての矜持によるものだ。それを確認できたからこそ、僕は今の彼の態度に合点がいかなかった。

 

「彼女の言葉に、耳を傾けてあげてください。何を考えているのか、どんなことをしているのか、知ってください。関わり方を決めるのは、その後でも遅くはない。もしこのままでいて、鈴音が大事な何かを諦めてしまったら、間違いなくあなたは後悔する」

 

 先程までの責め立てるようなものとは違う、誠実に懇願するような口調で彼に語り掛ける。

 僕の最愛の兄弟は、もうこの世にはない。最も近しく、最も支えである存在のかけがえなさを、僕は痛いほどに知っている。

 この間までの僕なら、所詮エゴだと言い聞かせて何も言わずに鈴音の兄の背中を見送ることしかしなかっただろう。だが、彼もまた妹に愛情を抱いているのだとしたら、お節介だとしても疑問を投げかけるべきだと思った。

 たとえそれで、何も変わらなかったとしても。

 

「…………お前たちは、どうしてそこまで鈴音に肩入れする」

 

 沈黙を経た次の言葉は、静かだった。

 

「理由は、特にありません。偶然から始まった友達に過ぎませんから」

 

 正直に答える。無理に理性的な回答は捻出できなかった。

 

「友達が少ないからですかね」

 

 清隆は冗談か本気かわからない答えだった。真面目な表情からして後者なのだろう。

 

「……そうか。お前たちなら、Aクラスに勝ち上がることも不可能ではないかもしれないな」

「さあ、どうでしょう? 少なくとも、僕らはその担い手があなたの妹さんであればいいなと思っていますよ」

 

 彼は徐に眼鏡をクイッと上げる。動作を終えた表情に変化はないが、手で顔が隠れていた時の口角は僅かに緩んでいたような気がした。

 

「……鈴音」

「――! はい」

「良い友達を持ったな」

「兄さん……」

「今のお前の力では到底これからの試練を乗り越えられるとは思えん。その考えは変わらないが――それが覆される日を諦めるのは、保留にしておこう」

 

 期待とも取れる言葉を聞き、鈴音は愕然とする。

 その腑抜けた姿に近づき、彼は素早い動作でメモを書き込み一枚の紙を差し出した。

 

「あまり込み入った話に答える気はない。が、一応渡しておく」

 

 恐らく、勝ち上がるための具体的なアドバイスをするような贔屓はご法度だと言いたいのだろう。

 しかし、兄として――鈴音の家族としてなら、ほんの少し前向きになろう。そんなささやかな意思が垣間見えた。

 鈴音はおそるおそる手を伸ばし、疎遠に感じていた兄と自分を久しぶりに繋ぐ鍵を受け取った。

 能事畢れり。彼は今度こそ僕らに背を向け、その場を後にする。

 

「死に物狂いだ。それでもと足掻き続けることこそが、Aクラスへと辿り着く唯一の方法だと肝に銘じておけ」

 

 激励の言葉を最後に、彼の姿は見えなくなった。

 長い沈黙が、流れる。

 何も言う必要はないと思うし、何かしら言った方がいいかとも思える、絶妙な間。

 最終的にそれを破ったのは、他でもない自分だった。

 

「大丈夫かい、鈴音。ケガはない?」

 

 未だ尻餅をついたままの彼女に近づき問いかける。

 

「え、ええ。私は平気。浅川君は大丈夫なの?」

「あー、わかんない。当たり所が悪かったみたいでさ。今もあんまし動かせない」

 

 そう言って僕は左腕をぶらぶらさせる。痛みで力が入らないのだ。

 

「その、ごめんなさい。迷惑をかけてしまって」

「こういう時は『ありがとう』だろう?」

「そ、そうね。ごめんなさい」

「はあ……やれやれ」

 

 不器用な一面に難色を示していると、彼女は再び口を開いた。

 

「……驚いたわ。まさか兄さんにあんな風に啖呵を切るなんて」

「まあ、思ったことを言っただけだな」

 

 先刻二人で話していた時にも聞いたセリフが清隆の口から飛び出し、僕は苦笑する。その通りなのだから他に答えようがないのは事実なのだが。

 

「君にだってできないことじゃないだろう? 僕らに対してやっているみたいにすればいい」

「それは……そんなこと、できるわけないわ……」

 

 いつしか清隆が言っていた。鈴音が兄へ向ける感情には、尊敬と畏怖が混ざっていると。決して他の人間には抱かない思いが湧きあがることで、緊張で頭の中が真っ白になってしまうのかもしれない。

 ただ、それ以上に感じられるのが、

 

「君は、お兄さんのことが大好きなんだなあ」

「な、何でそうなるの?」

「初対面の人相手に罵詈雑言ぶつけるやつが急に大人しくなるなんて、そうとしか考えられないよ。おまけにあんなやりとりを聞いちゃねぇ」

 

 兄の背中を追い掛けて進学先を決めるなど、余程の情がなければできないことだ。大方、今回の密会も鈴音の方から生徒会長に持ちかけたのだろう。それに曲がりなりにも応じてあげたあたり、やはり兄の方も彼女のことを忌々しく思っているわけではないはずだ。

 

「お前は、兄に憧れて、認めてもらうためにAクラスに執着しているんだな」

 

 僕らの間では既に予想がついていたことを、清隆はついに本人に確認した。

 鈴音はさえない顔のまま、コクリと頷く。

 

「……兄さんは、凄い人よ。何でもできた。この学校でAクラスにいることを知った時だって、微塵も驚きはしなかった。そんな兄さんのようになりたくて、私は、私なりな努力を続けてきた」

 

 彼女は壁にもたれ、膝を抱え込みながら話し始めた。

 

「だけど君の兄は、それを喜ばなかった」

「……ええ、段々と兄さんは、私を遠ざけるようになっていった。今日ほどじゃないけど、叩かれたこともあったわ」

 

 昔と変わらない鈴音に呆れている彼ならば、当時も同じような対応をしていたとしてもおかしくはない。その頃から、恐らく生徒会長は妹との関わり方に悩んでいたのだろう。

 

「全部、否定された気分だった。でも諦めきれなくて、私は兄さんと同じ学校に行って、近くで認めてもらおうと思った。そしたら、配属されたのは最底辺のDクラス……」

「焦っただろうな。だからお前は、職員室へ殴り込みに行くほどに必死だったわけだ」

 

 憧れを追い求めたら、その相手自身に否定される。さぞ辛かったはずだ。にも関わらず背中を追いかけることができるなら、それはもう執念と呼んで差し支えない。

 

「初めはどうしてそんな評価を下されたのかわからなかった。何が足りないのかわからなかった。――あなたたちのことを見るまでは」

 

 彼女は俯いていた視線を上げ、僕らの顔を見た。

 

「綾小路君、あなた、言ったわよね? 友達は、自分を変えてくれる存在だって」

「ああ、確かに言った」

「あの時は馬鹿々々しいと思っていたけど、その考えはあなたたちを見ている内に少しずつ変わっていった。あなたたちは、本当に影響を与え合っていたから」

 

 清隆はどうやら、僕と関わることで友達づくりに積極的になったし、冗談を交えることも増えていった。僕も、自分の中で彼の存在は非常に大きいものとなっている。その様を第三者の視点から間近で見続けてきた彼女には、思うところがあったようだ。

 

「兄さんも、変わらない限り私はAクラスに上がれないと言っていたわ。その通りなのだとしたら、私に足りなかったのは……」

 

 自分を呪うような険しい目付きは、実に痛ましい。

 

「そして、それを痛感する時がきた」

「中間テストか」

「切り捨てるか、救うか。独りだった私には、選ぶ勇気も持てなかった。迷っている内に、勉強会は崩壊してしまった。もし私が変われていたら、こんなことにはなっていなかったのでしょうね」

 

 そんなことはない、と返すことは今はしない。

 変化の始まりは、自分では気づきにくいものだ。今の迷いこそが成長している証であるのだと、彼女はまだ簡単に認めようとはしないだろう。

 彼女の内心の吐露の意味は、彼女自身の中にあるのだ。

 

「私は、他人と関わる術を持ち合わせていなかった。それが良くないことだって、今なら痛いほど理解できるわ」

 

 誰からも慕われる兄と、孤独を貫いてきた自分。

 その決定的な差を、彼女はようやく気付くことができた。

 ヒントはそこかしこに転がっていたのかもしれない。しかし、それをきちんと拾い上げて自分の中で見つめることができたなら、それだけで十分誇れることだろう。

 

「私は今まで、ずっと間違っていたのね…………」

 

 彼女の告白は、自責の念を示すことで終わりを迎えた。

 再び、重い沈黙が場を支配する。

 鈴音は兄の幻影に囚われ、自分自身を締め付けてしまっている。生徒会長もその歪さに気付いたから、今まで通りでいるわけにはいかなくなってしまったのだろう。

 今の彼女に、どんな言葉をかけるべきだろうか。将又、何も言わないべきだろうか。

 独り整理する時間を設ける? ――既に終えた段階だ。

 答えにたどり着けたことを褒める? ――そんなの僕でなくともできることだ。

 自分が今最も彼女に送るべき言葉、それは――

 

「――間違っていない」

 

 拳を握りしめ、凛とした態度で僕は言った。

 彼女は涙を拭うことも忘れて顔を上げる。

 

「君はまだ、何も間違ってなんかいない!」

 

 咎めることなんて誰にでもできる。

 慰めも、清隆がやってくれるはずだ。あるいはもうやってくれていたのかもしれない。

 ならば、僕にしか言えないことを。

 僕だから言ってやれることを、絞り出そう。

 

「どうして……だって、私は――」

「兄に憧れたことも。その背中を追ってこの学校へ来たことも。何一つ間違いなんかじゃない!」

 

 恐らく彼女は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから近づこうと願う程に、遠く離れて行ってしまった。悔しさを糧に努力を重ねる度に、認めてもらえなくなっていった。

 その道理を経て、彼女は後悔に苛まれている。このままでは、自分自身を否定してしまうことだろう。

 しかし、それよりも前に、忘れていることが『一つ』ある。

 

「君の想いが、誰かの心を傷つけたか? 不幸な結末をもたらしたか? 違うだろう。だってまだ、何も終わってなんかいないんだから」

 

 僕は過去に間違えた。それはあの日々がもう戻ってこないことを確定づけてしまったからだ。

 でも、幸せだったあの頃を、否定することだけは絶対にしなかった。したくは、なかった。

 

「大切な物は、一つとして失われていない。それを本当に失ってしまうのか――間違っていたのかどうかを決めるのは、これからの君だ」

 

 静かに、思い出させてあげよう。

 彼女が、()()()()()()()()のかを。

 それがきっと、救いの言葉になるはずだから。

 

「お兄さんに憧れたから、君は強くなろうと思ったんだろう? その気持ちが嘘でないなら、君が前に進む意志を持つ限り、君を間違っていたなんて誰にも言わせない!」

 

 憧れている内は理解には遠く及ばないと言われるが、憧れがなければ始まらないこともある。

 それはまさしく、大いなる『原動力』だ。

 

「だからさ、そんな哀しいこと言うなよ。かつてのひた向きな君が、あまりに可哀想だ」

 

 拙いながらも必死に努力してきたことを、鈴音は今まで誰にも認めてもらえなかった。それが自分自身が認められなくなることに繋がった。

 だからそろそろ、近くにいる誰かが認めてやるべきだ。それで初めて自分を許し、肯定できるようになる。

 ――そうだろう?

 ――()()

 本当はその最初の人間が兄であれば最高なのだが、生憎時間は待ってくれない。

 これからを戦う上で、鈴音には『きっかけ』となった情熱を忘れないで欲しかった。

 

「どう、して……?」

 

 彼女の瞳が再び潤む。

 

「どうしていつも、あなたたちは優しいのよ……」

「それは、これから君自身が気付いていくはずさ」

 

 顔を俯かせて腕で覆い、小さく嗚咽を漏らし始めた。

 今、ようやく彼女の中で整理がついたのだろう。

 無駄ではなかったのだと、間違っていなかったのだと、初めて他人に言ってもらった。その安心感は、然るべきものだ。

 儚い旋律が止んだところで、今度は清隆が彼女に声を掛ける。

 

「鈴音。実はな、オレたちがこの時間に外にいたのは、勉強会について話していたからなんだ」

「勉強会の?」

「ああ。延いては今後のことにもなってくるが――恭介も一緒に協力したいと、そう言っている」

 

 一連の会話の中で、どことなく僕の変化を感じ取っていたのだろう。僅かに目を見開いたが、大きな反応はなかった。

 清隆は穏やかな顔と声音で問いかけた。

 

「どうする?」

「……許可、するわ」

「おいおい、違うだろう?」

 

 未だ震えたままの鈴音の回答に、彼は軽く笑ってあしらった。

 彼女は気まずそうな顔をし、彼を一睨みしてから僕の方を見る。

 

「……浅川君、お願い。私に力を貸して」

 

 『お願い』と、彼女は言った。

 僕と同じだ。初めて鈴音は、他人に素直に助けを求めたのだ。

 それはあの時――僕が鈴音を拒絶した時に、密かに求めていた言葉だった。

 

「こちらこそ。よろしくな、鈴音」

 

 僕はやっと、長いこと出し渋っていた手を差し伸べた。驚くのを忘れてしまう程、衝動的な動きだった。

 彼女は一瞬ポカンとした顔を見せたが、最後にはゆっくりと握ってくれた。

 

「泣きべそが整っているやつはいないらしいぞ?」

「……うるさいわね。デリカシーのない」

 

 引き上げながら揶揄ってやると、恥ずかし気にしながら怒られる。いつもの調子が戻って来ただろうか。

 

「何はともあれ、良かったな。丸く収まって」

「僕のせいで随分と遠回りしちゃったけどなあ。申し訳ない」

「問題自体は解決していないわ。気を緩めているわけにはいかないわよ」

「そう肩を張りすぎるなって。前に言ったばかりだろう?」

「いつまでも腑抜けているのとは違うでしょう」

 

 確かに目先の問題が進展したわけではないが、先刻清隆からおおよその状況は聞いている。そう遠くない内に回復の兆しが見えることだろう。そうなれば、後は鈴音の裁量次第だ。

 

「――それに、忘れたとは言わせないわよ? 綾小路君、あなたやっぱり見ていたのね」

「え! い、いや……だから覗くつもりじゃなかったって」

「見たことに変わりはないわ」

「さっき言ってたやつか。清隆、何を見たんだ?」

「コミュ力を鍛えるための本を買っていたんだ――いって! 脛を蹴るなよ……」

「これでチャラよ」

「良かったなあ清隆。キック一つで許されたぞ」

「お前……鈴音に毒されてないか?」

 

 テンポの良いやり取りが始まる。ついさっきまでのシリアスが嘘のよう――。

 

「そ、そうだ。恭介、お前武道なんかやってたんだな。驚いたよ」

「ん? おお、まあなあ。この身を守る術くらいは身に付けとこうかと思って」

「私も多少の覚えはあるけど、気になるわね。どれ程のものか」

「誇示するものでもないさあ。僕からすれば清隆の方が意外だったかな。ピアノにチェロ、書道茶道に華道まで。なかなかいないよ、そんな芸達者は」

「疑っているのか? コンクールで賞だって取ったことがあるっていうのに」

「マジか! だったら明日、早速音楽室の使用許可を取りに行こう」

「え、いや、ちょ――」

「そうね。余程腕に自信があるみたいだから、悦に浸らせてあげましょう。これから暫くは忙しくなるけど、どんな演奏をするのか楽しみにしておくわ」

「……駄目だ。あまりの心地良さで寝落ちして先生に怒られてしまう」

「くぅ……なら、寮で」

「ポイント、勿体なくないか?」

「…………じゃあ、枝と葉っぱで楽器を作って」

「どんだけ聞きたいんだよ……」

 

 こういう時間が一番愉快なものだと悦びながら、人知れず会話が弾んでいく。

 ――夜はやはり、本心を語るに打ってつけなようだ。

 三人の間に蔓延っていた歪な何かが、ようやく溶けてなくなったような気がした。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 ――それでいい。

 ――お前の歩みは、往く川の流れに逆らうが如く。

 ――オールを漕ぐ手を止めれば押し戻され、動かすことでようやく現状が維持される。

 ――休めてはいけない。

 ――お前はまだ、進めていないぞ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

リブート(前編)

シリアス過多は胃を痛めるぜ、もちろん作者もなぁ……。

ちょいとお久しぶりです。ここ数話コメディタッチを挟む隙間がなくて発作を錯覚している小千小掘です。
単に細かい展開が浮かばなかったり学業が追い詰められていたりというのもありますが、シュールなギャグを挟めないのが辛い。おかげで本編に無理矢理ねじ込まれている箇所が散見されていますとも。パロディチックになっているところなりくどい程のダジャレなり。

長くなったので前後編です。ちょっと弛み具合が酷かったので間髪入れずに二つとも出したかったのですが、埒が明かないと思い前編だけ先に載せることにしました。


 自室で独り正座する。

 閉じた瞼の裏には、これまで知覚してきたありとあらゆる情報が曖昧な輪郭のまま漂っている。

 己の意識を、限界まで主観から切り離し俯瞰する。既に、ノイズは収まっていた。今なら何の問題も無く集中できる。

 敷かれた紙の上に置かれている鉛筆をゆっくりと手に取った。

 大きく深呼吸をし、鍵となる言葉を脳裏に整頓する。

 暫しの刻を経て出来上がった隊列は、うるさいほどに主張を始めた。

 その全てを頭の外に再現すべく、直感が導く(しるべ)をありのまま書き記していく。まるで演奏に酔いしれる指揮者のように、穏やかに閉眼した状態で指揮棒を振るう。

 やがて完成した、十枚前後の作品。

 静かに眼を開き、羅列な文字群が満遍なく見えるよう一つ一つ丁寧に並べた、

 どれが重要で、どれが必要か。今度はそれを吟味しつらつらと選び取っていく。

 一枚、二枚、三枚、四枚……五枚の「マスターピース」が最終的に残った。

 次は、未だ散らばったままの欠片を一つに纏めるステップ。かき集めてくしゃくしゃに丸め、それなりな密度を誇る依り代に変形させる。

 思考を継続したままデコに当て、そこに宿る何かを授かるように、あるいは何かに祈るように、もう一度目を閉じ三回小突いた。

 トン、トン、トン。

 ただの事実に過ぎなかった点が急速に線で繋がっていき、徐々に徐々に、無から有が――そこになかったはずの「これから」が形を帯びていく。

 ――そして。

 俄かに開眼し、用済みとなった供物をヒュッとゴミ箱へ投げ入れた。

 解を見出したことで集中が解け、一気に脱力する。吐き出した息には、一つとして感情は乗っていない。

 さて――。

 すべきことは、定まった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 昼休みを知らすチャイムが鳴った。

 予定調和に従い、クラスメイトたちはすぐさま各々の行動に移り始める。

 友人同士並んで机に座り弁当を広げる者、学食や他の開放されたスペースを食卓にしようと出て行く者、或いは食事を後回しにし読書やら勉強やらを先に済ませる者。

 定着した日常が周囲に溢れている中、一方僕ら三人は――、

 

「へー、じゃあ二人の説得はできたんだなあ」

「ああ、櫛田様様だ。ただ、案の定須藤は――」

「頑として、か」

 

 人気の少ない廊下を、僕と清隆の声が反響する。

 今は()()()()()を聞いている最中だった。

 烏滸な三人組を改めて説得するという、作戦と呼ぶには正面突破の過ぎる手段。櫛田というカードを切った結果、池と春樹はどうにかなったが健はやはり折れなかったようだ。

 聞けば、沖谷が独り残ってでも勉強を続けていた事実を知り、池が進んで復帰を決意したらしい。清隆曰く、彼はそれなりな誠実さを持つ少年だから驚くことでもないだとか。春樹についてはよくわからないとも語った。大方、その場で断ってしまったら今度こそ櫛田に幻滅されてしまうとでも思ったのだろう。褒められた理由ではないが、今に限っては復帰の意思を表明してもらえただけ御の字ということにしておこう。

 ところで、こうして事実確認をしているのは、勿論僕が当時現場にいなかったからである。

 

「痛むのか――?」

「違和感程度さあ。すぐに治るってお墨付きも賜ったしね」

 

 話題が移り、僕は徐に左腕をさする。

 一昨日生徒会長から受けた蹴りのダメージの程度を診てもらいに行くため、一日安静し学校を休んでいたのだ。念のためということであったが、医者の方も微笑みながら答えてくれたので特に心配する必要はないだろう。

 とは言え、何も僕らは雑談を添えた散歩だけをして過ごすつもりではない。

「ねえ」不機嫌な女声が割って入った。

 

「どこへ行くつもり?」

「百聞は一見に如かずだ」

「またそれ……腹立たしい真似はお手の物ね」

「沸点が低すぎるんだよ。ワクワクして待つくらいの精神でなきゃストレス魔人になっちまうぞ?」

 

「余計なお世話よ」鈴音は深い溜息を吐き、僕らの一歩後を重い足取りで続く。

 元はと言えば、今の歩みは彼女にとってためになる場所へ向かうものだ。

 

「全く、テスト対策について考えるつもりだったのに」

「それに関わることだって最初に言っただろう?」

「だからこうして付いて行ってあげている、と最初に言ったわ」

 

 中間テストのみならず、これから激化するであろうクラス抗争に向けて大きな意味を持つことだ。ふたを開けてしまえば大して時間のかからない些細なことなのだが、彼女にとっては特別重要である。

 

「変に焦らすことでもないでしょう。いい加減教えなさい」

「一昨日みたいに素直にお願いしてくれたら……」

「なら綾小路君と同じ目に遭うところまでがセットよ」

「……一応ケガ人なんですけど」

 

 脛はやられた後も暫く痛みが残るから忌々しい。腕も脚もボロボロになてしまってはさすがにやるせないだろう。やはりこの少女はどうにもあくどい性格をしているようだ。

 気を取り直し、僕はコホンと一つ咳払いをする。

 

「君は、お兄さんのようになりたくて頑張って来た。そうだろう?」

「……ええ、そうね」

「その意思は間違いじゃない。前を向く活力として、その情熱は忘れないことだ」

 

 『誰かと同じになる』、その志が悪いことだとは微塵も思わない。ほとんどの場合、目指す過程で自然と修正が重なり最後には自分の色が仕上がっていくものだ。人生は試行錯誤の賜物、受け売りだが至言だ。

 なら、どうして今までの彼女はこうも上手く行かなかったのか。問題は――『方向性』だ。

 

「ただね、僕が君に問いたいのは、『本当になりたいものが見えているのか』ということだよ」

「……どういうこと?」

「君たち兄妹は似た者同士ということさ。良かったね、血は争えないというのは本当らしい」

 

 彼女の兄は、妹がどれだけ変わったのかということに気付くのが遅れた。それは彼女を遠ざけることで見えなくなってしまったからだ。

 そして、逆もまた然り。

 

「もしも等身大の兄を目指せていたなら、今君はそんなにも孤独にはなっていないはずだし、孤独を望もうともしなかったはずだよ。だってそれこそが、今の君と彼のギャップを示す一番の要素に他ならないのだから」

 

 なりたいと願っているものと実際になろうとしているものが齟齬をきたしていれば、自分の中で噛み合わなくなってしまうのは当然だ。これから行うのは、その掛け違いの調整。

 目的地が近づくにつれ、困惑気味だった鈴音の表情に焦りが見え始める。自分らがどこに向かっているのか、徐々に察してきたようだ。

 

「まさか……」

「改めて、刮目するといい。君が一体、どういう存在を目指しているのかを」

 

 やがて僕らは、一つの教室の前にたどり着いた。

 

「君のお兄さんは、凄い人だよ」

 

 ドアを隔てて、視界に飛び込んできた景色は――

 

「堀北! この問題なんだけどさ――」

「学、後で俺の方も見てくれないか? ちゃんと理解できているか怪しくてな」

「堀北君、前教えてくれた通りにやったら凄いわかりやすくなったよ、ありがとね」

 

 テスト勉強の話だろうか。多くの生徒に囲まれ信頼の目を一身に受けているのは、生徒会長その人だった。

 彼はクールに眼鏡を指で押し上げ、淡々と応じる。

 

「霜田、それはこの公式を利用すると前にも言ったはずだぞ。――櫻井、その単元はすぐに理解するのは難しい。まずは教科書を読み直して基礎を固めろ。――梁瀬、どうやらお前にはそのやり方が合っているようだ。そのまま続けてくれ」

 

 厳かな態度には変わりないものの、クラスの『仲間』故か僅かながら愛想のある様子で応えていく。

 そして――

 

「これは……橘」

「どうかしましたか、学君?」

「この内容はお前の方が上手く指導できる。あっちのグループはお前が担当してくれ」

「――! わかりました。任せてください」

「ああ、頼んだぞ」

 

 一連のやり取りを見届けた後、僕は隣で固まったままの鈴音に声を掛ける。

 

「いいかい鈴音。君はこれから、ああいう存在になっていくんだ」

 

 『仲間』から慕われ、時に自分も『仲間』を頼る。お手本のような『信頼関係』は、未だ彼女が得ていないものだ。自惚れでないなら、辛うじてその糸が繋がっているのは僕と清隆くらいだろうか。

 

「私の、追う背中……」

「痒いところを掻くくらいの手伝いはできるが、こればかりはお前次第だ。今お前の目に映っている姿を見た上で、どう変わっていくか自分で決めろ」

「……わかったわ。私は、間違えない」

 

 瞳の震えは緊張か、不安か、恐れか。

 しかし、その裏に微かな熱意が宿ったことを確認できた。

 たどり着けるかどうかは誰にもわからないが、今の彼女は靄のかかっていた島をようやく鮮明に認識した状態。視界良好、準備完了だ。

 彼女の佇まいを一瞥し、僕と清隆は顔を見合わせ頷いた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 放課後の体育館は、思っていたよりずっと閑散としている。

 と言うのも、僕らがここへ足を運んだ時にはもうだいぶ遅い時間で、活動していた団体のほとんどが身支度を済ませ下校を開始していた。

 そんな中、手元のボールを見つめ立ち尽くす少年が一人。

 彼は晴れない表情のままフォームを取り、ゆっくりとゴールに向かって獲物を投擲する。

 しかし無情にも、放った球は縁に跳ねられ虚しいバウンド音を刻みながら彼の下から遠のいていく。

 彼は深い溜息と共に音源を追い始めるが、そのリズムは不自然に途切れてしまった。

 訝し気に俯きがちだった視線が上がり、そこに映ったのは――

 

「やあやあ御機嫌いかがかな? 健選手」

「浅川…………」

 

 僕らは陽気な顔で健に近づいていく。彼はバツが悪そうに首をポリポリと掻いているが、無理に付き放すつもりはないようだ。

 

「選手なんて付けるのはやめてくれ。煽られてるみたいであんま良い気がしねえよ」

「そういう意図はこれっぽっちもないけど、君が言うならそうするよ。悪かった」

「ああいや……別にいい」

 

 ここまで歯切れの悪い彼を見るのは初めてだ。今までのような快活奔放な姿は見る影もない。

 自分のだらしない見栄えに気付いているのか、悟られまいと彼は僕の隣に視線を移した。

 

「綾小路に、沖谷まで……一体どうしたんだ?」

 

 そう、この場にいるのは三人だけではない。清隆だけでなく沖谷にも予め声を掛け一緒に来てもらっている。イツメンともなれば、寧ろ呼ばない方がおかしいはずだ。

 健の問いかけに、先に口を開いたのは沖谷だった。

 

「え、えっと、二人からは、まずは来て欲しいとしか言われてないんだけど……最近の須藤君、あまり元気がなかったから、多分そのことなんじゃないかな」 

 

 彼には「健の様子を見に行こう」とだけ伝えてある。一見内容の薄いように感じるが仕方ない。僕がここに来た一番の目的は、本当にそれだけに過ぎないのだから。

 心当たりがあるようで、健は窺うように僕と清隆を交互に見る。

 

「……勉強会の件か? それなら昨日断ったはずだぜ」

「だが須藤、このままでは本当に、お前は退学になってしまう。プライドを守り続けても無益だということくらいわかっているだろう?」

「……うっせ。お前に何がわかんだよ。お前のことは良いダチだとは思ってるが、何でもかんでもわかった口利かれたってちっとも嬉しかねぇっての」

 

 彼が勉強会を断った時の心境、シンプルに考えてしまえばあまりに固いプライドが鈴音と衝突したというだけにも思えるが、そうだとしたら昨日()()()()()()()()()際に柵は解消されているはずだ。少なくとも、翌日であるこのタイミングになっても考えが変わっていない時点で、単に頭に血が上ったというわけではないのだろう。

 健の真意は、()()()()()()()()()()()()

 

「浅川も、綾小路たちから話は聞いてんだろ。とっとと帰ってくれ」

「およ、僕? いやあ、あっははー」

 

 困ったように頬を掻く仕草を見せるが、正直なところ今ここで何をするかは決めていた。

 でなければ、恐らく()()()()()()()()()()()()

 

「早とちりしないでおくれよ、健。僕がいつ、君に『勉強会の話をしに来た』と言ったんだい?」

「え――は? 違うのかよ」

 

 豆鉄砲を喰らったように呆然とする健を傍目に、僕は両手に抱えていたバスケットボールを拙い手つきでバウンドさせ始める。

 

「よっ、ほっ――難しいなあこれ。プロはよくもまあ身体の一部のように操る」

 

 次に、ゴールの周りに引かれている曲線の前まで通常の三分の一倍の速さで進み、先程の健と比べるまでもない崩れた体勢でシュートを放つ。

 当然、ボールは板に鈍い音を立てるだけだった。

 

「――ふむ」

 

 これは想像以上だ。サッカーもそうだが、自分の身体以外のもの――まして触れる離れるを繰り返すものをコントロールしながら滑らかに動くというのにはセンスや慣れが必要らしい。

 何ともやりがいがありそうではないか。

 

「健、独りで滅入り続けてそろそろ寂しい頃合いだろう?」

 

 僕は拾い上げたボールを、彼に差し出した。

 

「教えてくれよ、バスケ」

 

 

 

 

 シューズの擦る音が小刻みに響く。

 同時に、ボールが手元と床を往来する鈍い音も不規則に生まれ、まるで歪な演奏会のような旋律が奏でられている。

 

「――こんな感じ?」

「違えよ。ちゃんと肩まで使って、大きく押し込むイメージだ。あと、また体勢が高くなってるぜ」

 

 曲がりなりにも、感覚だけでなく理屈でもある程度バスケをものにしているらしく、健の指導は思いの外具体的でわかりやすかった。

 

「ほい、ほい、ほいっと」

「おお! いい感じだったぜ今の。朝トレの時にも匂いはしたが、やっぱ浅川は筋がいいな」

「あっはは、そうかい」

 

 照れくささから顔を明後日の方へ向けると、シュートの練習をする沖谷と目が合った。

 

「沖谷は調子どうだい?」

「最初はてんでダメだったけど、だいぶ慣れてきたよ。須藤君の教え方が上手だからだね」

「よせよ、こんくらいどうってことねえって。多分先輩の方がもっと上手くやれる。俺は、その、言葉選びが下手くそなんだ」

「現にこうして成果は出ているんだ。謙遜しなくてもよかろうに」

 

 僕は「よっ」とシュートを放つ。ボールは綺麗な放物線を描き見事にゴールポケットへ吸い込まれた。

 ボールは指で支えるイメージ。そして投げる時は手首のスナップを利かす。後は肘の固定位置に気を付けるだけでも射程は伸び正確さも上がった。初心者の僕らにも簡単に改善できるありがたいアドバイスだ。

 

「どうだかな。アイツなんて見てみろよ」

 

 すると不意に、健がある方向を指差した。沖谷と二人、視線を移す。

 

「あれが全部俺の功績だとしたら、スポ根漫画にあるみたいな弱小チームを優勝に導く監督も夢じゃねえよ」

 

 清隆は両手を巧みに使い華麗な動作でドリブルをし、そのまま流れるようにレイアップを決めていた。

 僕らを完全に置いて行く成長ぶりに苦笑し、軽く拍手する。

 

「なるほど。面白いな、バスケ」

「なあ綾小路。お前今からでもバスケ部入らねえか? レギュラー待ったなしだと思うぜ」

「――いや、そのつもりはない。偶々球技と相性がいいだけだし、こういうのは趣味程度の範囲にしといた方が吉だろうから」

 

「そういうことなら無理強いはできねえな」趣味は仕事にするものではない、という話も聞く。清隆の言っていることは一理あると思ったのか、健は粘ることなく引き下がった。

 

「健も初めから清隆くらいにはできたんじゃないのかい?」

「俺は――どうだったかな。もうあんま覚えてねえけど、上手くいかなくて必死だった時期はあるぜ。先生とか先輩とかに色々聞いたり見てもらったり、居残りで摸擬戦とかもしたっけな」

「そうなんだ、ちょっと意外。でも、それで今の須藤君があるっていうなら、納得かも」

 

 好きこそものの上手なれという言葉がある通り、今の彼の実力は間違いなくバスケを好きだったからこそたどり着けた領域だろう。そういう時、意図せずプライドなんてものは消え失せてしまうものだ。懐かしむような遠い目で語る彼を傍目に、そんなことを思う。

 無論、僕にはなかった情熱だ。

 

「羨ましいな。本気で好きで、それをいつまでも追い掛け続けられるなんて――」

「あ? どういうことだよ」

「いやあ、君はやはり尊敬に値する男だと思ってね」

 

 素直に褒めてやると、健は何やら物憂げに俯いた。

 

「……そうか」

「ああ、そうさ」

 

 僅かな沈黙。しかし、そう長くは続かせなかった。

 

「……よし。なら僕らも君と同じようにやってみよっか」

「あ? 何言って――」

 

「おーい清隆」僕の思いつきに健が疑問を挟むより先に、離れた位置にいた清隆を呼び寄せる。

 

「僕も沖谷も最低限様になってきたからさ。試しに2on2をやろうじゃないか」

 

 誰も拒否する理由はない。健を含め全員同意した。練習をしていた三人は自分がどれくらい上手くなったのかという興味ありきだ。

 パワーバランスを考え、僕と沖谷、清隆と健でじゃんけんをし勝ち組と負け組でチーム分けをした結果――

 

「締まってこーかあ、健」

「おう」

 

 特別なルールはない。十点マッチ以外に本来のバスケと異なる点は人数くらいだ。

 ただ、

 

「本気だぁ?」

「ん、励みたまえよ」

 

 手抜きは許さず常に全力。

 健にたった一つだけ、そう注文しておいた。

 

「なんだよ、楽したいのか?」

「いやいや、()()()()()()()()からさあ。上手な君ならそれに対応したプレイくらい朝飯前だろう? 相手だって初心者だ」

 

 要は、

 

()()()()()さ」

 

 ピンとこない顔をしているが、普段やっているようにやればいいと解釈したであろう彼は「まあ任せとけよ」と言い残し配置についた。

 僕は遅れて彼の前に付き、相手を見据える。

 きっと、この後の展開は……。

 適当に先を見通し、僕は自分の行動方針を定める。

 間もなく、ささやかに戦いの火蓋が落とされた。

 

「綾小路君!」

 

 最初にボールを持っていた沖谷が清隆にパスをし、彼は一直線にゴールへ駆けていく。どうやら清隆を軸にして攻撃を仕掛けるのが二人の胸算用のようだ。

 僕は意気揚々と彼の手元から獲物を掠めとる――ことができるわけもなくいとも簡単に(見える軽やかな動きで)いなされてしまった。

 

「正面突破たぁいい度胸だ!」

 

 しかし陣地には巨壁が構えている。

 健はその身に違わぬ気迫で清隆の前に立ちふさがりボールを奪取した。

 

「おお、さっすがあ」

 

 思わず称賛が漏れるが、その刹那に試合が止まることはない。

 健はボールを取るや否や凄まじい初速でドリブル。ディフェンスに回っていた沖谷をものともせずダンクシュートを決めた。

 ガコン、とゴールの軋む音が響く。

 

「ハッ、どうよ!」

「ナイスだ健!」

 

 幸先の良い先制点にガッツポーズを取った健とグータッチをする。出だしはまずまずのようだ。

 ここまで、予想通り。

 得点後のオンボールは失点側からということで、再び清隆たちの攻撃からスタート。

 そこから僕が抜かれるまでの流れはほぼ先程の再現だ。

 

「あちゃー」

「オイオイしっかりしろよ」

「そんなこと言われてもなあ」

 

 マジで速いのよ、彼。とても追いつけないという至極想定内の状況だ。

「しゃあねえなぁ……!」しかしそれで窮してしまう程、やはり健の実力は伊達ではないようだ。前回より幾分かテンポの速い清隆の動きをまたしても凌駕し、彼は同じようにゴールを狙いに向かう。

 俊敏な動作で沖谷を抜き、そして――

 

「なっ」

 

 ()()にボールを奪われた。

 

「は……? なんで――」

 

 一体何が起こったのかわからず健が放心している間に、清隆は目もくれず僕の守備するこちら側へと突っ込んでくる。

 

「任せろ健! ここで取り返してこそ僕のいる意義という――」

「悪いな」

「ものおおおぉぉぉ……」

 

 気合だけは一丁前だった僕を懲りずに躱し、彼のお気に入りとなりつつあるレイアップが炸裂した。

 ごめんね、健。

 

「あ、綾小路。お前、今の動き……」

 

 沖谷とハイタッチを交わす清隆に信じられないといった顔で健が声を掛ける。自分が出し抜かれたという事実が未だに認められないようだ。表情を見る限り、しかと本気で取り組んだ結果なのだろう。

 ただ、事実はそこにある。僕と沖谷も文句無しに肯定できてしまう程明らかであった。

 

「別に、ボールを奪られたから慌てて戻っただけだ」

 

「同じ轍を踏むわけにはいかないだろう?」と続けた彼の表情は、いかにも淡々としている。沖谷も、そして健も、彼の飄々とした態度に呆然とする他ない。

 僕は――確かに、と思った。

 今更彼の身体能力に驚くこともないし、彼の言動そのものに支離滅裂な要素は一つもない。当然の帰結だろう。

 

「……ハ、ハハッ」

 

 思わぬ好敵手の出現に、驚愕以上のものがようやく込み上げてきたようだ。健は冷や汗を混じらせながら笑みを浮かべた。

 

「面白くなってきたじゃねぇか……!」

 

 さあ、試合はまだ始まったばかりだ。

 




薄々感づいている方もいると思いますが、できるだけ原作キャラの初期状態(この章で言うと勉強会の顛末といった物語の大筋もですね)はそのままに、物語の経過やその中での心情変化などはかなり差異を与えています。特に今話では、堀北さんの目標は明確に原作と乖離したんじゃないでしょうか。最終的にどう着陸するのかは……自分にもわからない。個人的には各キャラ原作+αの苦悩を用意しているつもりです。折角二次として書いているんですからね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

リブート(後編)

「行くぜぇ!」

 

 僕からのパスを受け取り、健はすぐさま進軍を開始する。

 そんな彼の前に立ちはだかるのは沖谷だ。

 

「へ、悪いがお前に鎌ってる暇はねえぞ沖谷」

 

 そう言って健は悠々と抜けようとするが、沖谷も負けじと食らいつく。

 

「あれは……君が教えたのかい?」

「少しアドバイスをしただけだ」

 

 二人の攻防を傍目にマーク相手の清隆へ問いかけると、瞬時に返事が来た。

 

「どうりで。君、教師向いてるんじゃないか? 茶柱さんよりかは」

「聞かなかったことにしておいてやるよ。悪戯にチクってクラスにペナルティとか、あの人ならやりかねない」

「だろうと思って言ったのさあ」

「お前……」

 

 呆れたような声に続いて彼の体が俄かに動き出す。が、さすがにそれすら許す程僕は昼行灯ではない。

 

「かけっこなら()()()()()にはさせないよ。前もそうだったろう?」

「ほう、だがいいのか? このままではアイツが()()()()()だぞ」

 

 『アイツ』が誰のことか。聞くまでもない。

 代わりに僕はこう返す。

 

「あっはは、困りはしないさあ。レフェリーはここにはいないからね」

 

 その時、ようやく健が沖谷を抜き去りシュートを決めた。

 

「そっちはどうするんだい?」

「お前たちとは真逆だ、とだけ言っておく」

「ありがたい情報をどうも」

「有効活用するつもりもないだろうに」

「いやいやするよ」

「それは()()()()()()だろう」

 

 僕の返しを待たずに、彼は持ち場へと戻る。

 やれやれまんまと逃げおおせられた。弁舌戦では分が悪いということをよく理解している。

 僕は軽い調子で溜息を吐き、健の数メートル前で身構えた。

 今度は沖谷のドリブルから始まるようだ。こちらも先程とは違い僕が前に出てボールを奪いに行く。

 

「僕ら今のところ見せ場ないなあ」

「それは言わないお約束っ!」

 

 あ、気にしてたのね。まあ僕とは違いさっき健に対して粘りのあるプレイをしていたあたりマシだろう。

 だが、

 

「粘り強さなら負けないぜえ。君が納豆なら、僕はハチミツだ」

「び、微妙な例えだね……」

「そんなことはない。君は()な男だろう?」

 

 持ち味であるタフさを活かし常に相手の行く手を阻む立ち回りをし続けるが、向こうもいつまでも付き合ってくれるような阿呆ではない。

 隙間を縫い、沖谷は清隆にパスを繋いだ。

 

「あらまあ」

「そうおめおめとやられるわけにもいかないからね」

「これはこれは、僕は()()男だったってわけかあ」

「ちょっとでも上手いって思っちゃったのが悔しいよ……」

 

 一方ボールを受け取った清隆は再び健と対峙していた。

 

「今度は絶対譲らねえ」

 

 二人は僕らよりずっと激しい攻防を繰り広げる。進む清隆を阻む健、ボールに伸びる健の手を躱す清隆。どちらも一向に道を開ける気配はない。

 しかしその均衡は唐突に崩れる。

 

「あっ……!」

 

 不意に清隆が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そのまま脇を通り抜ける沖谷にパスを出した。あまりにスムーズなコンビネーションに、さしもの健も対応できなかったようだ。

 教科書の如く綺麗なその動き。僕は知識として覚えがあった。

 

「嘘、だろ……」

「ビハインド・ザ・バックパスなんて、これまた妙技を」

 

 颯爽とゴールを決める清隆を眺め、技名をそのまま口に出す。

 

「クソッ…………」

 

 健は歯噛みし、硬く拳を握る。

 ……果たして、その表情に宿るのは()()()()なのだろうか。

 その後も、清隆の超人的なセンスとアクセントの如く差し込まれる沖谷とのコンビネーションによって一方的に近い展開となっていく。

 数十分後。

 

「ハア、ハア……」

「大丈夫かい?」

 

 息を切らし気味の健に声を掛ける。彼の運動量が僕の何倍にも及んでいるのは、自他共に認めるところだ。

 ただ、その理由は僕が置いてかれてしまっていることだけではない。

 

「……心配すんな。お前は俺にボールを回してさえくれりゃいいんだよ」

「そうは言うがねぇ」

「次も頼むぜ」

 

 こんな調子で、気付けば既に6対8。負けが近づいている。

 今から8点目を取られた後のこちらの攻め。僕は健からボールを受け取った。

 

「……おい、浅川」

「…………」

「おい! 何してんだよ」

 

 ――そろそろ、頃合いだろう。

 

「なあ、健」

「あ?」

「ヒーローはどうして遅れてやってくると思う?」

「何わけわかんねぇこと言ってんだ。早くボールを……」

「その方が盛り上がるからさ」

 

 焦燥に満ちた声を制すように、大袈裟にバウンドを開始する。

 

「まあ見てなよ。僕の持ち味は――」

 

 力強い足で、踏み出した。

 

「タフネスなのさぁ!」

 

 健や清隆とは数段劣るぐちゃぐちゃなフォームだが、それでも速さは今までと十分に違う。と言うよりそもそも、僕はこれまであまりドリブルをさせてもらえていない。

 

「行かせないよ!」

 

 すぐさま沖谷が立ちふさがる。バスケ自体の能力は大して変わらないため、清隆のご教授を賜った彼相手だと相当に苦しめられる。

 やがて、僕の手元にあったボールに指が触れ弾かれてしまった。

 しかし、そこで主導権を譲らないのが僕の強さだ。

 沖谷が転がるボールに手を伸ばすより先に、体を割って入れる。

 

「そうは問屋が卸さないってね」

 

 動いた戦局に乗じて、ようやく僕は沖谷を抜く。

 次に待っているのは、

 

「何気に初めてだな。この状況は」

 

 一連の試合の中で、初めて僕と清隆が一対一で対面した。

 

「手加減してちょうだいな!」

「この期に及んでか?」

「加減は好きじゃなかったのかい?」

「口車には乗らないぞ」

「なんて血も涙もない……」

 

 他愛もないやり取りをしている間にも、僕は必至に彼の強襲に耐え続ける。

 しかし、単純なポテンシャルの差は明白だ。

 

「あら?」

 

 一瞬の隙をついて彼は僕からボールを奪い、素早い切り替えと共に駆け出

 

「――タフネスだって言ったよなぁ?」

 

 させなかった。

 それよりもワンテンポ早く僕は戻り、抜けたはずの彼の体の正面に食らいつく。

 

「しかしボールはもらった」

「だからどうしたと言わせてもらおう!」

 

 僕の粘り強さが活かされるのは何も攻めだけではない。清隆が相手だろうが――寧ろ今はボールを持つ清隆の方が動きづらいはずだ――簡単に突破させるようなマネはしない。

 

「さっきと動きが変わったな」

「元からこんなもんさ。ただ、頑張ってるだけだよ」

 

 余裕のない中、たったそれだけ言葉を交わすと、彼は遂にフリーになっている沖谷へパスを出す。

 彼が余力を未だ残してくれているのもあるが、こうもへばりつかれていてはさすがに痺れを切らしてしまうものだ。

 

「ほいさっ」

 

 だから、予期してカットすることなど造作もない。

 僕はそのまま、ガラ空きになっている相手のゴールへと突っ込んでいく。

 

「さーてもらっ――」

 

 阻むものもなく丁寧にシュートを放とうとした、その時。

 

「知ってるか?」

 

 向こうの初得点の時と同じだ。彼は再び凄まじい速度で戻ってくる。

 

「うちは案外鉄壁なんだよ」

 

 最後の壁だ。清隆はラスボスのような佇まいで立ちふさがる。

 だが、悪いねぇ。今くらい僕の独壇場にさせておくれよ。

 僕は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、リズムを変えることでその堅塁を抜いた。

 

「知ってるかい?」

 

 最後は焦らず、僕はつい健に教えてもらったばかりの正確な動作でシュートを放つ。

 

「ハチミツは鉄だって溶かせるんだよ」

 

 こちらの七点目は、僕一人で勝ち取った。

 

 

 

 汗を噴き出しながら、健の下へと戻る。動けば動くほど発汗はするものだな。

 

「浅川、お前まであんな動き……」

「冷静に考えてみたまえよ」

 

 唖然とする健に僕は優しく諭す。

 

「清隆は兎も角僕の動きは、君から見て大したものでもなかったろう?」

「そりゃ――そうだけどよ」

「所詮本職様たちに混ざれば一たまりもないシンプルな芸当だよ」

 

 実の所、さっきの僕のプレーには本当に技といった技がない。拙い動きながらもひた向きにボールを奪われないように進み、奪おうと食らいついた。それだけのこと。

 強いて言えば最後、ゴール直前の一幕だけが別物だ。

 

「そんなわけで」

 

 気を取り直して、僕は微笑んで言う。

 

「僕ともやっておくれよ。バスケをさ」

「――! 浅川……」

「寂しかったぜ? フリーのまま君の苦悶の表情を指くわえて見ているのは」

「え? …………あ! そうだ、そうだった。お前はずっと……」

 

 ようやく思い出してくれたようだ。僕が何度も、彼のパスを受けるのに適した位置をキープし続けていたことに。

 

「クソ、俺としたことが不甲斐ねぇ……。これは2on2だってのに」

「さあさあ見せてやろうじゃないかあ。バスケガチ勢としがないタフガイのコンビネーションってやつを」

「おう!」

 

 さて、遅ればせながらこちらも準備完了だ。

 試合が再開すると、僕は沖谷のマーク、健はボールを持つ清隆へと向かう。

 完全な一対一の状況で、本来なら体格と経験の差で健に軍配があがる。

 努めて冷静に、それでいて情熱の込もった動きで彼はボールを奪い取った。

 

「おっし……!」

「こっちだ健!」

 

 彼に託して相手の陣地に待機していた僕は、沖谷から距離を取り合図を送る。

 

「行けぇ浅川!」

 

 健の剛腕から放たれたロングパスは、精密なコントロールによって僕の元へ届く。

 

「一点なのが惜しいけど……!」

 

 その場で軽く飛び、スリーポイントラインの外側からシュートを放つ。さっきと二倍程の距離はあるがしっかりとゴールに収まった。

 

「しゃあっ!」

「いぇーい」

 

 笑顔でハイタッチを交わす。久しぶりに爽快感のあるプレーだった。

 傾いた流れは止まらない。僕らは怒涛の追い上げを見せ、九体九にまで勝負は持ち込まれた。

 苦しい戦況の中辛くも清隆がもぎ取った一点を経て、僕らのオンボール。

 

「ここにきて君か!」

 

 今度は開始早々清隆にマークされる。パスを出そうにも、健には沖谷が付いている。

 

「さ、さすがにこれは……」

 

 僕が無双した時にもそうだった。彼をサシで打ち破る実力は有していない。

 ほとほと呆気なくボールが弾かれた――。

 

「そのための俺だ!」

 

 上手くポジションを取っていた健が機を見て飛び出し、零れ球を即時回収する。

 

「回せ!」

「任せろ!」

 

 ボールを取りに前へ出ていた清隆とは裏腹に、反対方向の相手ゴールへと向かっていた僕の呼びかけ。健はこれに応じ、その膂力を以て今日一番の豪速球をこちらに送る。

 重っ……!

 手にビリビリとした感覚が伝わるが、絶好の機会にもたついているプレイヤーはいないはずだ。

 

「二度目も決めるっ!」

 

 七点目の時と同じモーションに入ると、最後の一点を取らせまいと相手は二人係でブロックを試みる。

 ――ここだ。

 この瞬間を待っていたんだ。

 

「なーんてね」

 

 跳躍した状態で、僕はボールを左にバウンドさせた。

 いるのは当然――

 

「やっちまいなあ!」

 

 これで詰み(チェックメイト)だ。

 パスを受け取った健は初速を維持したまま駆け抜け、豪快に跳ぶ。

 

「俺らの勝ちだ……!」

 

 その宣告と共に、決着は訪れた。

 ゴールをくぐったボールのバウンド音と、四人の荒い呼吸だけが室内に木霊する。

 ダンクに始まりダンクに終わる。綺麗に締まったゲームの立役者の表情を窺うと、そこに滲んでいるのは喜び――と言うより、どこか満ち足りた解放感のようなものだった。

 そんな彼に、

 

「やったなー!」

「だぁあおおぉ!?」

 

 歓喜に身を任せ飛びつく。遠心力で両足が宙に浮き、体勢を崩した健諸共床に倒れ込んだ。

 

「いい勝負だったな」

 

 仰向けの視界に清隆が覗き込む。側には沖谷の顔も見える。

 

「全くだ。健が独り善がりから抜け出してくれたおかげさあ」

「凄かったよね。最後のロングパスとか、僕なんかにはとてもできないよ」

 

 三人からの称賛に、いつの間にか身を起こし胡坐をかいていた健が照れくさそうに笑う。

 

「ありがとよ。俺も何だか久しぶりにのびのびとやれたような気がするぜ」

 

 勿論歓声や喝采があったわけではない。しかし、ここにいる全員が闘争心を燃やし熱くなれるほどの接戦だった。誰一人顔に影を落とす者はいない。

 

「君の運動神経を改めて拝見せさてもらったよ。またぜひとも一緒にプレイしようじゃないか」

 

 最後に矜持を見せつけてくれたパートナーを再び称え、試合後の興奮に区切りをつけた。

 片付けは当然、四人で行う。

 雑談を交えながら手足を動かしていると、ふと健が何かを言いたそうにしているのが目に映った。そういえば、片付け中徐々に表情が暗なっていたような気もする。こちらを度々窺ってもいた。

 

「浅川、お前は何で……」

「ん?」

「ああ、いや、何だ、その…………」

 

 目が合い向こうの声掛けに応じるが、言葉が纏まっていなかったようで俯いてしまう。

 しかし耐えられなくなったようにすぐに顔を上げる。

 

「良かったのかよ。勉強のこと、問い詰めに来たんじゃなかったのか?」

「言ったはずだぜ? 僕は勉強会の話をしに来たわけじゃないって」

「……いいんだよ、しらばっくれなくても。今の時期に態々俺のところに来るなんてそっちの方が普通だろ」

 

 後ろめたさを与えないために予め伝えたというのに。これは予想以上に……。

 僕は素直に回答する。

 

「いや、精々御の字程度に思っていた。君が何も言わないなら、言われたくないなら、今日は本気でバスケだけして帰るつもりだった」

 

 少なからず自分の想像していたのとは違う答えに、彼は小さく目を見開いた。

 

「でも、そうだな。折角話題に出してくれたんだ。偶にはしけた話をするのもいいかもね」

 

 それから僕らは残り僅かだった片付けを終え、体育館を出てすぐのベンチに四人で腰を下ろした。

 狭い。

 

「何をとやかく言うより先に、まずは君がどうするつもりなのか聞かせてもらおうか」

「それは前日徹夜で――いや、もっと前からか? それで自分で……」

「ほう! 十点台が独力でどれだけの逆転劇を成せるのか見物だな」

 

 明らかな煽りに健は顔を顰めてこちらを睨む。しまった、つい悪癖が……単細胞相手にはおふざけをかます猶予はないらしい。

 

「まあ、お前一人では早々に頭打ちなのは事実だろう。赤点を避けられるか、五分五分(フィフティフィフティ)どころか劣勢ってところだな」

 

 清隆が努めて理性的に、横からフォローを挟む。

 

「わ、わかってるよ。……だから、堀北の勉強会に参加しろってんだろ?」

 

 そう、彼はわかっている。今のままではこの状況は打開できないことを。そしてその突破方法として最も理に適っているのが鈴音の勉強会に参加することだということも。

 だが、それでも彼は断った。周りが迎え入れる手筈が整っているにも関わらず断ったのだ。

 ならば、それに起因する感情は何なのか。

 

「須藤君、確かにあの時は、堀北さんも少し言いすぎちゃったかもしれない。でも、堀北さんはちゃんと反省していたよ。まだ怒る気持ちはあるかもしれないけど、もう一度一緒に頑張ってみようよ」

「沖谷……」

 

 必死に励まそうとする沖谷に、健は罪悪感の滲んだ表情をする。

 その様子を見て、僕はここで核心を突くことにした。

 

()()()()()()()()?」

 

 三人の視線が集まる。

 僕はたった一人の眼を真っ直ぐ見つめて言った。

 

「プライドなんてものは既にない。寧ろ()()()()()()()から、君はバスケに『逃げた』んだ」

「……っ! お前……」

 

 図星をさされ、彼は瞠目し唖然とする。

 バスケを逃げ道にしたという指摘に一瞬不快感を露わにしたものの、次第に握り拳の力が弱まっていく。

 

「綾小路がアスリートかと思えば、浅川は凄腕の心理カウンセラーだったってわけかよ――」

「難題ではなかったさ。人の足を最も竦ませる感情は『恐怖』だからね」

 

 何とも最近覚えのある理屈だ。体験した、と言うべきかもしれないが。

 僕は襟を正し、長話に付き合う旨を示す。

 

「さあ健、君の(コタエ)を聞かせてくれ」

 

 彼もまた、覚悟したようにゆっくりと胸の内を明かし始めた。

 

「……やらなきゃなんねぇってのはわかってたんだ。だから渋々でも参加したんだ」

「でなきゃオレの言葉一つで動くはずもないだろうからな」

「いや、前にも言ったが、お前が提案してくれたから足が軽くなったのは本当だぜ」

 

 赤点を取れば退学。その重圧が理不尽ながらも今まで勉学を怠ってきた彼に焦燥感と意欲を掻き立てていたのは否定できない。

 

「だけど、やっぱ上手くいかねぇもんだよな。俺には『実力』も『才能』もねえ。綾小路(お前)堀北(アイツ)が頑張ってるのはわかっちゃいたが、何ら手応えがなかった」

 

 実力も才能も平等に与えられるわけではない。彼が伸び悩んでしまうのは、偏に努力不足と決めつけるには安直過ぎるだろう。

 健は天を仰ぎ続ける。

 

「それで段々イライラしちまった。だからあの時は堀北に堪忍袋の緒を切られたわけだが…………それよりも俺は、自分のことが『情けねえ』って、思っちまったよ」

 

 清隆によると、参考書を使い始めてから池と春樹には多少進歩の兆しが見られたが、健はその間もずっと頭を抱えていたらしい。やり場のない苛立ちも相まって、自分の及ばなさをより一層実感してしまったのだろう。

 

「弱気になるなんて君らしくもない。食い掛るくらいの気概は持ち合わせていると思うが」

「何なんだろうな。多分、申し訳ないって気持ちがあったんじゃねぇかな。池と山内だけじゃない、沖谷も綾小路も、みんな一生懸命なのに俺だけが……って。足引っ張ってるってわかってんのにどうにもできないもどかしさは、バスケでだって慣れるもんじゃねえよ」

 

 芯は太いのに、消え入りそうな声だ。

 友達として一定の信頼を向ける相手の迷惑になるかもしれない。メンタルに傷を負った状態でその思考が過れば、決して無視はできなかったはずだ。彼は見かけによらず弱っていたのだ。

 

「君が勉強会を拒むのは、鈴音への反抗心だけじゃなかったてわけだ。でも、君はもっと周りを見るべきだよ。君が勉強会を投げ出した時の清隆や鈴音たちの顔は、少なくともお邪魔虫が消えて清々したそれではなかったはずだ」

「それは……」

「それとも、何か他に理由があったんじゃないのか? 例えば、君自身に向けたものとか」

 

 健は再び吃驚(きっきょう)する。ビンゴだったようだ。

 彼は自分のプライドの喪失が一連の言動の決め手だと認めた。その苦痛は究極的には彼自身で完結して然るべきものだ。

 そして、その一番の要因となった出来事は『彼』が知っている。

 

「……そうか。須藤、お前は()()()()()()()()()と思ったんだな?」

 

 答えを悟った清隆が、健に尋ねる。返って来たのは首肯だった。

 

「アイツと言い合いになった時、俺はただ不満や文句をぶちまけることしかしなかった。でも後で冷静になって――気づいちまったんだよ。アイツは、()()()()()()んだよな?」

 

 僕は現場に居合わせなかったため詳細は把握していないが、彼の語る内容について清隆から話に聞いていた。

 鈴音は生徒三人の体たらくに耐えられず健と同じく鬱憤を爆発させてしまった。しかし、健の真剣な夢までもを否定しかけたところで踏みとどまったらしい。遠い理想を抱く者どうし、彼を愚弄する資格はないのだと自分で気づいたのだろう。

 自分を律することを覚えた彼女と、最後まで身勝手だった自分との差に、健は更なる劣等感に苛まれたのだ。

 

「勉強だけじゃなく人として、負けた気分になったぜ。そんなまるで取り柄の無い俺に残っているのなんて、バスケしかないだろ……?」

「須藤君……」

「俺は、駄目かもしれねぇ……無理に勉強会に入って、それでも退学になってお前らにまで迷惑かけちまったら、マジで救われねえよ。そんなのは、嫌だ……」

 

 彼の告白は、そうして終わった。

 誰に対してでもない。自分自身に向けた疑念が、失望が、彼の大きな枷となった。それに付随する形で、周囲に対する劣等感や後ろめたさが余計に感情を負の方向へと追いやった。

 さて、そんな彼に、僕は今からどんな言葉を掛ければ善いのか。

 当然、己のポリシーに従うのみだ。

 

「健。バスケは、独りではできないよ」

「え……?」

 

 突拍子のない発言に、彼は目を丸くする。

 

「困難や試練にぶつかった時、決まって人は誰かの手を借りなければならない。なぜなら、それこそが最善だとわかりきっているからだ」

「……まさか、勉強もバスケと一緒だって言いたいのか? ありきたりな説教だぜ。どこが同じだってんだよ」

 

 ぶっきらぼうな返事が来る。

 彼の言う通りかもしれない。勉強は汗をかかないし、バスケは眠くならない。表面的にはどこにも共通点は見当たらない。

 しかし、

 

「さっきの2on2、僕が独りで一点を決めるまで、君は一体何を思った?」

「……っ」

 

 僕の返しに、健はハッとした表情をする。

 

「その歯がゆさや無力感は、この前身に沁みたばかりだろう?」

「……ああ」

「そして、今日君をドツボから引き上げたのは何だった?」

「…………お前だ」

「な? 一体何が違うって言うんだよ」

 

 多少ロジカルに欠けるが、今の彼に言い返す術はないだろう。ついさっき本人も、「足引っ張ってるってわかってんのにどうにもできないもどかしさ」をバスケと紐付けていた。殊感情において、『何かと対峙しなければならない』という条件に変わりはないのだ。以前の勉強会も先程の試合も、彼はプライドに傷を負い劣等感を味わった。

 唯一違ったのは、その際誰かの肩を借りたかどうかだ。

 

「鈴音だけじゃない、清隆だって君に教えられる。沖谷や、池に春樹も戦友だ。そしてお察しだと思うけど、これからは僕もそこに加わる。何だかドリームチームみたいだなあ」

「浅川……」

「信じてみなよ、みんなを。そして、みんなが見限らないでくれている自分自身を」

「……何で、どうしてそこまでするんだよ。俺にはこれっぽっちも才能なんてないのに」

「決まってるだろう。君の善いところを知っているからさ」

 

 鈴音や櫛田に関しては断言できないが、少なくとも男性陣は健のことを好ましく思っているからこうしている。それを伝えたなら、言うべきことはあと一つだ。

 

「そんなの、俺にはわかんねえよ……バスケとか、運動とかか?」

 

 僕は首を横に振った。

 

「君という人間に対してさ。例えば僕は、君の真っ直ぐなところが好きだ」

 

 破顔したまま、赤裸々に語る。

 

「行き過ぎてしまうこともあるけれど、それは若気の至りのようなもの。自分の気持ちに嘘を吐かず、異様なマジョリティに臆さずにいられるのは、誰にでもできることじゃない」

 

 僕はどこまでも穏やかに、彼の瞳を見つめていた。

 

「だから僕は、君にこのままでいて欲しくないんだ」

 

 優しく、その手を握る。

 

「君は、常に正直だった真心を、最も大事にすべき自分に対して隠してしまうのかい?」

 

 最後に必要なのは、もうわかっている彼を後ろから支えてあげることだけだった。

 『きっかけ』さえあれば、誰だって立ち上がるチャンスはある。それを僕は、こうしてあからさまに提示する。

 果たして――彼はその機会を、今度は決して逃さなかった。

 

「…………随分と言ってくれるじゃねえか」

「当然さ。僕は君の『友達』だからね」

「ハッ、そうかよ。……なあ、浅川」

「何だい?」

「ダチにそこまで言われてよ。それでもまだうずくまって逃げてるやつのことを、どう思う?」

「最ッ高にダサいね」

「ハハッ……だよな」

 

 少年は徐に立ち上がる。

 その背中は、心なしか先程とは見違えるようだった。

 

「不安がなくなったわけじゃないぜ。あんだけ打ちのめされちまったんだ。けど――」

 

 振り向いた顔は、大層凛々しい微笑みだった。

 

最初(ハナ)から自分に負けてるようじゃ、それこそ救われねえ。男が廃るってもんだよな!」

 

 彼の言葉が、表情が、佇まいが、結果の全てを物語っている。

 僕ら三人はそれを確信し、揃って弛緩する。

 どうやら、霧は晴れたようだ。

 

「――やれやれ全く、そんなことくらいとっとと気付いて欲しかったものだねえ」

「なっ、バカッ、てめぇそれを言うんじゃねぇ!」

「これからが試練だぞ。ここまで丁重なお膳立てをさせておいて退学になんてならないでくれ」

「物騒なこと言うなって、わかってるよ」

「大丈夫だよ須藤君。多分綾小路君は『また一緒にバスケをしたいから寂しい思いをさせないで』って言いたいんじゃないかな」

「とんでもない翻訳だな……」

 

 オレンジの背景に紛れて、四人の笑い声が響き渡る。

 他のグループとはまた違う、絵に描いたような青春の1ページ。刻む仲間として、やはり彼を失いたくはない。

 その気持ちは、この場にいる四人全員が同じはずだ。

 テスト当日は個人戦になる。それでも、今後のクラス抗争や目先のテスト勉強では話が別だ。

 団体戦なら、僕らはほんの少しだけ強くなれるかもしれないな。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 初めて四人という大所帯で帰路を往き、寮室に入ろうとした時だった。

 

「恭介」

 

 清隆に呼び止められ、僕は足を止めた。 

 

「今日はどうだった?」

「ああ、楽しかったぞ。今度また時間があれば、もっと()()()ことに挑戦したいものだ」

「あっはは。確かに、()()()いよ」

()()()()な……」

「それが売りだからね。()()だけに」

 

 当たり前だ。僕からユーモアを抜き取ってしまったら残るのはこの無駄に伸びた髪と見た目に違わぬどんくささだけになるだろうが。

 にしても、色んなことか。本来なら大抵の球技は中学までに一度は体験しているはずなのだが、彼も登校を控える質だったのだろうか。

 すると、清隆がこんなことを言う。

 

「ただ、できれば打算無しでその時を迎えたいものだな」

「打算だって?」

 

 彼は淡々と説明を始める。

 

「だってそうだろう? 全てはオレたちが体育館に入る前から始まっていたんだ。――お前が沖谷に声をかけたのは2on2を行うためだったはずだ」

 

 僕は無言で肯定する。初めからバスケをやるつもりだったことは事実であり、隠すつもりもないことだ。

 

「時間帯が放課後だった理由は三つ。一つはバスケをやる時間が取れるから。二つは須藤のいる場所を確信できるから。そして三つが、()()()()()()()()()()()()()()ためだ」

 

 彼は詰まることなくはっきりと告げた。

 

「お前は『勉強会の話をしに来た』んじゃない。友人とバスケをしに来たら『偶々向こうから勉強会の話を振られた』んだ」

 

 僕は彼から視線を外し手すりに寄りかかる。これは長くなるなと予感したからだ。

 

「言葉遊びだったってのかい。そんな回りくどいことをする意味は?」

「当然、アイツが意固地になって口を開かないと思ったからだろう。お前はまず異例(イレギュラー)な訪問によって須藤に勉強会のことを頭に過らせた。その状態のまま焦らされれば、それは徐々に不安や焦燥感となって膨れ上がる。後は実が熟すのを待つだけでいい」

 

 彼は反論を待つように間を空けるが、僕は黙って続きを促す。

 

「そしてお前は、2on2にもこだわりを残した」

 

 清隆は僕の部屋の玄関にもたれかかり、こちらの背後を眺める構図となった。

 

「須藤が本気になれば独り躍起になってしまうことは想像に難くない。オレたちがチームワークを軸に戦うことを知っていたお前は、敢えてアイツを放置した。結果、アイツはオレに得意分野で個の力で屈し、無力感を突き付けられることになった。そしてダメ押しに、満を持してお前が手を差し伸べることで仲間の価値も諭したんだ」

「君も大概人を買い被るねえ。僕を軍師か何かと勘違いしている」

「おお、かっこいいじゃないか。平成の黒田官兵衛なんてどうだ?」

「絶妙にダサいなあ。僕は死に際まで後進のためを思うお人好しではないよ」

 

 少なくとも彼の前で頭の良い部分を曝け出したつもりはないのだが。精々茶柱さんの呼び出しで匂わせをされたくらいだろう。

 彼の推理、どうやら筋は通っている。しかし、まだ足りない。今の説明では辻褄の合わないことがある。

 僕は意地悪く、煽るように返した。

 

「君の答えは、それで決まりかい?」

「……正直なところ、抜け目だらけだとは思った」

 

 予想通り、自覚しているようだ。

 

「そもそも須藤が体育館にいるとは限らない。部屋で塞ぎ込んでいたり道草を食っていたりすればバスケどころじゃない。2on2も、組合せによっては――俺とお前がペアになっていたら試合展開も大きく変わっていただろう。そして――アイツの心意気次第で、いくらでも説得は失敗し得た」

 

 彼の疑うような眼差しは、未だその先が見えていないように窺えた。

 

「何かカバーできる策でもあったのか? あるいは上手く行くと確信できる要素でも」

 

 放たれた疑問に、僕は澄ました顔で答えた。

 

「ないよ、そんなものは」

「ない?」

「初めに言ったはずだぜ? 健の様子次第では、僕は本当にバスケだけして帰るつもりだったよ」

 

「え、あれマジだったのか……」微妙な顔をしているのが想像できる。

 

「……だが、そうか。お前は()()()()()()だったな。――つまりはほとんどが『偶然』と『気まぐれ』だけで成り立っていたと」

「まあそうなるように工夫を拵えていたのも事実だけどね」

 

 そう、あくまで確実性が欠けているというだけで、僕の言動に秘められていた意図は全て清隆の推測通りだ。

 

「もし博打が失敗していたら、きっとお前は『待つ』んだろう?」

「ああ。何度だって訪ねて話をして、いつかその時が来るのを信じるだけだよ」

 

 何か明確な目的を以て黙秘している相手でもなければ、辛抱強くいることが何より大事だ。後ろめたさを感じている者や理性の弱い者には特に効く。雨垂れ石を穿つとはそういうことだ。

 ただ、それでも心を閉ざしてしまう可能性を抱えているのが頑固者の性。

 

「なら、タイムリミットが来てしまったら?」

 

 その疑問にも、僕は迷わず答える。

 

「僕が思いつくのは二つかな。一つは、最後までスタンスを変えないこと。こちらのアプローチに最後まで応えないくらいなら、きっとそれで失敗して退学になった方が、彼にとっての幸せだったということだ」

「それは、薄情なんじゃないか? 後から後悔することだってあるだろう」

「そうかい? 君がそういうなら二つ目の手段を取ろう。僕ら直々に指導するというシンプルなものさ。トップ4の勉強会ならアイツも断る理由はない」

 

 健のヘイトが鈴音に偏っていたのもあるが、僕ら四人なら多少の迷惑もなんのその。申し訳ないと感じながらも手を掴んでくれるはずだ。その場合彼が鈴音の勉強会に参加することはなくなってしまうが、既に彼女は善い変化を見せている。今後彼が信頼を寄せるきっかけは見込めたはずだ。

 

「――って、君も野暮な男だなあ。試すようなマネをして」

「そんなつもりじゃないさ。ただの興味だよ」

 

 どうだか。少なくとも彼は、僕の気まぐれを理解した際にその選択肢を認識した上で問いかけている。

 

「……ただ、一つだけ解せないことがある」

「ほう? よもや君にもわからないことがあるとは」

「オレを何だと思ってるんだ……」

 

 文武両道頭脳明晰陰湿根暗。

 

「お前はどうして、そんな回りくどいことをした」

「回りくどい?」

「須藤の退学を回避するための手段として最も確実かつ簡単だったのはオレたち四人の勉強会を開くことだったはずだ。にも関わらず鈴音の勉強会に参加するよう説得することを優先した理由は何だ」

「君、悪い癖だよ。さっきからどうして察しているはずのことを僕に訊く?」

 

 どうにも本題が曖昧な気がした。僕がその選択を取った建前を清隆が理解できないはずがない。彼が優秀だから以前に、共有しているスタンスから優に想像できるはずだ。

 彼はやはり、僕の指摘に頷いた。

 

「そうだな、合理的に考えればそれが鈴音のためだという答えを出すのは容易だ」

「今は少しでも彼女の支持を集めておいた方がいい。健はアンチだったようだしね」

「……だが、本当にそれだけなのか?」

 

「どういうことだ?」突然の問いかけに目を剥く。

 

「お前は本当にそのためだけに、『面倒な』手段を取ったのか?」

 

 ――なるほど、そういうこと。

 

「逆だよ清隆。僕からすれば一番面倒くさくない方法がこれだったんだ」

 

 僕の回答を吟味しているのか、相槌はない。

 

「要はね、この会話の最初に出た君のセリフが答えなのだよ」

「最初だと?」

 

「ああ」僕は徐に振り返った。

 

「楽しかったよなあ、今日は」

「――! お前というやつは……」

 

 彼はほとほと呆れたように目を閉じる。

 

「お前は自分たちの快楽のために、運に身を任せたということか」

「運だって? とんでもない。成功しかあり得ないと思ったから最高な『結果』を求めただけだよ」

「だから、それがどことなく恐ろしいんだよ」

 

 何が恐ろしいか。健の赤点を回避するという最低目標は達成が約束されているようなものなのだから、出来る限りの幸福を求めるのは当然の心理だろうに。

 ただ、僕らの「面倒くさい」の定義の食い違いは確かにここで表面化したのかもしれない。清隆は目立つことや労力をかけることを苦手とするが、僕にとって面倒なのは退屈でつまらないものだった。初対面の会話にあった違和感はそういうことだ。

 

「共に楽しい一時を過ごし、仲も深まり、須藤も鈴音の勉強会に復帰した。適宜テコ入れをした甲斐あって、結果的には理想通りになったわけか」

「自分のポリシーに則った産物さ。君ならもっとシンプルかつスマートに済ませられたろう」

「……かもな」

 

 色々と戯言を並べたものの、僕のしたことが不安定だったのは事実。彼ならこうも時間をかけることなく――下手すれば昨日のうちに解決する方法を編み出すことも不可能ではなかっただろう。

 しかし、返ってきたのは歯切れの悪い返事だった。

 

「――だが、オレのやり方ではきっとこうはならなかった」

 

 その声音は何故か哀愁の震えを伴っているように聞こえる。

 

「少なくとも今日のような日は生まれなかったし、その輪に沖谷が混ざることもなかった……」

「清隆……?」

 

 彼は僕の隣まで歩み、同じように手すりにもたれる。

 とても、遠い目をしているようだった。

 

「人は意図の有無に関わらず遠回りの多い生き物だ。時に無駄と判断される付属品――。オレは今まで、そこにどんな価値があるのか考えようともしなかった」

「関わりが少なければ、そうなっても仕方ないことだよ」

「そうかもしれない。しかしな、それがもし欠陥を埋める重要なパーツだとしたら、やはり見つけなくてはならないものだと思う。違うか?」

 

 俯きがちな顔から読み取れる感情はないのに、どうして寂しそうに感じるのだろう。

 

「……なあ、恭介」

 

 こちらに戻した瞳は、どこまでも暗く冷たかった。

 

「お前は、一体()()()を選ぶんだ?」

 

 大きな分岐点というわけでもない、雑談の延長。しかしどこか、何かを望んでいるように見えた。その正体がわからないのは、まだ僕が彼のことを知らないからだろう。

 だから今回も、思いのたけを包み隠さず打ち明けるしかない。

 

()()だよ」

 

 笑顔を、添えて。

 

「最高の過程を辿り、最高の結末にたどり着く。『みんなまとめてハッピーエンド』が、何よりの幸せに違いないんだから」

「……完璧主義か。茨の道だな」

「道は道だよ、歩けるさ。それとも、意外だったかい?」

「全く。寧ろお前らしい」

 

 真剣な表情が和らぎ、彼は踵を返す。

 

「今日はありがとな。善い体験をさせてもらった」

「ん、また明日」

 

 親友が去った後も、僕は暫くそのまま黄昏ていた。

 すぐに過るのは会話の冒頭。清隆の全身全霊の真剣勝負を望む気持ちはわからなくはない。彼が本気でなかったのは勿論のこと、僕も自分の持てる全てを出し尽くしたわけではないのだ。いや、僕自身の能力的には限界ではあったのだけれど……。

 対象はいくらでもいる。六助でもいい、純でもいい――何なら試合中の健や清隆でもいい。彼らの動きを可能な限りトレースすれば、互角に近い勝負ができただろう。現に独りで七点目を取った間際の動作は、清隆が二点目を取る際に健を翻弄した動きそのものだった。

 できることなら使いたくはない力だが、今の自分がそれを願うには高望みが過ぎる。

 今更振り返る必要もない。もう進むと決めたのだ。そういう独り善がりはこれからの邪魔でしかない。定めた目的地へと辿り着くために、自分の中の使えるものは全て使う。

 たとえ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。頼るしかないなら頼る、それだけだ。

 それより今は、目先の課題に目を向けよう。

 僕は大きく伸びをする。

 

「明日は何を学ぼっかなあ」

 

 空の映す藍と茜のグラデーションを眺めながら、新生勉強会の算段を立てることにした。

 




ようやく須藤くんが戻ってきました。
オリ主の不確実に見える策は賛否両論あるかと思いますが、これは彼の2つのスタンスの表れでもあります。1つは作中にある通り「できるだけ」幸福を得ることです。もう1つも今話にヒントがありますし、今後触れる予定です。多分清隆くんが言ってくれるんじゃないかな。
つまりはその姿勢を維持できなくなった時、オリ主の中で変わるものがあるかもしれませんね。今回はある程度余裕があったわけですから。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

リファイン

「堀北」

 

 放課後に入り暫くして、健が鈴音に声をかける。

「何?」酷く無愛想な返事だ。

 

「勉強会のことなんだけどよ。……あーっと、その、なんつうか」

 

 ほんの出だしだけは良かったものの尻つぼみになり、彼は弱ったように後頭部を掻く。

 ついに視線を逸らしてしまった彼と、僕と清隆の目があった。

 清隆は片拳、僕は両拳をあげることで静かにエールを送る。

 

「……この前は断っちまったけど、やっぱり俺も参加させてくれ」

「――どういう風の吹き回し?」

 

「は?」即座に疑問で返され、健から間の抜けた声が漏れる。

 

「もう一度挑戦するにしても、最初の時と同じような体たらくでは越えられる壁も越えられないわ」

 

 ずっとそっぽを向いていた鈴音の鋭い眼光がようやく彼を射抜く。

 

「あなたはどうして、もう一度挑もうと思ったの?」

 

 差し詰め入門審査。鈴音は健に覚悟を、成長を問うている。

 つまり、十全な志を得ていれば答えられる質問。

 なればこそ、結果は瞭然。

 

「……わかってるとは思うが、俺は今まで勉強から逃げてきた。だからこんな状況になってもちゃんと向き合えなかった」

 

 真っ直ぐ、見つめ返して堂々と言葉を紡ぐ。

 

「だけど、言ってくれたんだ。俺を見限ないでいてくれてるって。自分に嘘を吐かないで欲しいって。そこまで言われてまだ逃げるなんてマネ、さすがにできねえよ」

 

 そして――ゆっくりと、頭を下げた。

 

「堀北、俺に勉強を教えてくれ。友達を、自分を、裏切りたくないから」

 

「頼む」という懇願を最後に沈黙が流れた。

 既にほとんどのクラスメイトが退室した室内は――勉強会のメンバーは黙して待っている――深い静寂に包まれる。

 それを破ることのできる人物は今、一人しかいない。

 

「……あの時とは逆ね」

「……そうだな」

 

 鈴音は俄かに起立し、それでもなお上向きの眼が健と近くなる。

 

「テストまで二週間と少し。それでどれだけの抵抗ができるかはわからない。でも――全力で指導するわ」

「――! 堀北……」

「そのためには当然、あなたたちの協力も必要になる。しっかりついてきなさい」

 

 張り詰めていた空気が弛緩する。厳しめな言葉を掛ける鈴音も含め、場にいる全員の表情が和らいだ。

 

「ありがとな堀北。俺らのために」

「勘違いしないで。一度やると決めたら妥協は許せない性分なの」

 

 本当にそう思っているのか単なる照れ隠しなのか、言い放った彼女に続いて、僕と清隆の野次が飛ぶ。

 

「素直に言ってやればいいのにさあ。『あなたたちを助けたい』って」

「自分で勉強会を開いて壊すなんて盛大なマッチポンプを働いた癖に、よく言うよ」

「二人共……?」

「ごめんなさい」

 

 呆れたような溜息と共に、重い空気は完全に失せた。

 一部始終を見届けていた四人――沖谷、櫛田、池、春樹が健のもとに歩み寄る。

 

「よかったね、須藤君」

「ああ。お前にも感謝してるぜ、沖谷」

「ま、精々赤点取らないように気を付けろよな」

「言われなくてもそのつもりだっての。てか池だってそんな変わらねぇだろ」

「何はともあれ、これで全員集合だね。みんなで頑張ろう!」

「任せな櫛田ちゃん。俺が本気を出せば学年トップだって余裕だからさ」

「嘘は良くないよ、山内君」

「嘘じゃないって! 俺、中学では神童なんて呼ばれ――うぐっ、沖谷、その冷たい目はやめてくれぇ……」

 

 活気のある会話が始まり、みんなの笑顔が見える。その微笑ましい眺めに、釣られて笑みが零れた。

 

「耳に障るわ」

「元気があっていいじゃないか」

「猿のように騒がれても困るもの。ここは動物園ではないのよ」

「え? ああ、学校だな」

 

 一方ズレたやり取りに耽る二人。(ほう)ける清隆とジト目の鈴音。うむ、やはり相性の良いことで。あ、コンパス。

 間もなく鈴音が手を鳴らし、僕らは図書館へと向かい始めた。

 

 

 

 

 新生勉強会の幸先は悪くない。

 旧勉強会には一度も参加していなかったので比較はできないが、少なくとも実りのない時間ではないし、かといって雰囲気も暗いものではなかった。

 

「浅川、聞いたぜ? 名前書き忘れたんだってな」

「ん? ああ! そうそう、うっかりだったよ」

 

 池の発言で清隆たちの誤魔化した内容を思い出し、咄嗟に辻褄の合う反応をする。

 

「まさか名前に六十点もの価値があったなんてね」

「ははっ! 何だよソレ。でもそれだったら超楽だよな」

「みんなの点数も上がっちゃうけど」

「あ、そうじゃん」

 

 まあ、存外悪くない。

 どうやら僕が受け容れられないのは異性が絡んだ時の池なようだ。コミュニケーションはこのグループで櫛田に匹敵する上手さではなかろうか。クラスに話し相手が多いわけだ。

 

「二人共、私語は慎みなさい」

「まあまあ堀北ちゃん、俺たち一応テストの話をしてたからさ。な、浅川」

「そうだぞ」

「ほら、コイツもこう言って――」

「真面目にやらないとダメじゃないかあ」

「そっちの味方かよ!」

 

 当たり前だろう。鈴音先生の言う通りだ。黙って勉強できないやつなんて本当どうかしている。

 

「君がそうやって無為な時間を過ごす内に、ほれ、一問先に進んだ」

「あ、ズルいぞお前! ちくしょうすぐに追いついてやるからな」

「そうかい? 寧ろ戻ってみてはどうかな、連立方程式とか」

「そ、それはもう理解できたって。何となくだけど」

 

 何となくなんかーい。

 言い草からは不安を覚えるが、時たま様子を窺う限り特に致命的な要素は見当たらない。着々と力は身に付けているようだ。

 

「それにしても堀北さん、本当にいいの?」

 

 すると少しして、沖谷が声を発する。

 

「何のこと?」

「こう言うのはあまり良くないかもしれないけど、テスト範囲外まで勉強する余裕なんてあるのかなって……」

「それ俺も思った。どうせ無駄になっちゃうんじゃね?」

 

 春樹も彼に賛成なようだ。

 範囲外の学習、これは僕、清隆、鈴音の三人で決めたことだ。

 

「全てが無駄というわけではないわ。ある単元の内容が別の単元の理解を深めることは少なくないし、今後のテストで範囲に入る可能性もある。損はないでしょう」

「なるほど、因数分解なんかは基礎中の基礎だろうしな」

 

 もっとも、表向きでは鈴音一人の判断ということにしているため、清隆は今納得したように相槌を打つ。僕も乗っておこうか。

 

「漢字なんて日常生活でも使うよなあ」

「あなたは黙ってなさい」

「辛辣ぅ」

 

 清隆と比べて扱いがぞんざい過ぎる。慣れてきたようだね、お嬢ちゃん。

 とは言えこの場において彼女よりも指導能力を有している人材はいないため、疑問が重ねられることはなく各々学習に戻っていく。

 勉強会最大の利点とも言える「切磋琢磨」、どうやら良い方向に機能しているようだ。

 

「浅川、これなんだけどよ」

 

 健が至極真面目な顔で質問してくる。先程は鈴音から指導を受けていたが、今は池を教えていて手が空いていないようだ。それどころか彼女、まだ一度も自分の学習に取り組めていない。

 健が指を差した部分を見ると、ある人物と関連する事柄を記号で答える問題だった。

 

「ああ、これね。そんじゃまず、この人が活躍していたのはいつ頃だったのかってところから確認してこっかあ――」

 

 付きっきりで教え込むこと三分。ようやく彼の表情に明るさが見えた。

 

「カタカナ多くてややこしいな……でもちょっとはわかった気がするぜ」

「そりゃ良かった。時系列も把握できたろう?」

「おう――お? あれ、確かにそうだな」

「語句や知識を問われる問題は『紐付け』が大事なんだよ。この人はこういう状況だったからこうしたとか、この年はちょうどあそこがああいう時期だからここではこうだった、とかね。覚えやすくもなるし一度に吸収できるものも増える、一石二鳥さあ」

 

 巷では暗記系だのと言われるらしいが、一つひとつ覚えていくのは地道とは言え面倒だ。出来事や文化などの時系列、人物関係、その他諸々、これで忘れにくくなる。

 僕の助言に、彼は感心するように言う。

 

「あれか、コウリツテキってやつか」

「そうそう、略してコリテ」

「略せんのか!」

「コンパクトイズベスト!」

「コンタクト椅子セット?」

「そこ、静かに」

「ごめん」「悪い……」

 

 コワイ……。

 昂ってしまった声音を抑えて健は再び話す。

 

「お前、教えるの上手かったんだな」

「ふっふっふ、頑張ればもっと高品質な授業を提供してやれるよ。まあリラックスはこのくらいにして、次行っかあ」

「おう、ありがとな」

 

 そうして彼はすぐにノートへ顔を向ける。

 僕も同じようにするが、頭の中にこびりついて離れない疑問が一つだけあった。恐らく解決することのない難題だ。

 ――――コンタクトと椅子がセットの商品って、何?

 

 

 

 

 図書館が閉まり、日も暮れた頃。翳りに紛れて極小の光だけが差し込む寮室。

 この場には、六人の大所帯が出来上がっていた。

 

「おお、誰かの部屋に入るのは初めてだなあ」

「オレがお前の初めてだったか」

「お前ら何て会話してんだよ」

 

 健が真顔で突っ込む。いやホント、正直僕も吃驚(ビックリ)した。他意はないのだろうけど。でも僕まで同じ括りに纏めないでおくれよ。

 

「なあ、マジでやんの?」

「図書館でやる分だけじゃ足りないってか?」

 

 池と春樹はあまり乗り気ではないようだ。

 お察しの通り、僕らはこれから延長戦に突入しようとしていた。

 

「まあ、まだまだ置いてかれてるのは事実だからね」

 

 沖谷が何とかして二人を宥める。否定し難いということは本人たちも理解しているようで、不満な顔をしたままそれ以上言い返すことはしなかった。

 

「だけど堀北ちゃんがいないってなると、そんなに捗らないんじゃないの?」

 

 腰を下ろすや否や、池が疑問の声をあげる。

 鈴音と櫛田は今頃自室のはずだ。鈴音は先の勉強会で最も労力を費やしていた。翌日以降疲れを残してもらうわけにはいかない。男女の割合を考えて櫛田にも外れてもらった。

 それに、僕の算段だと二人には多少精神的負担がかかる恐れがある。

 

「――にしても、何でオレの部屋なんだ」

「だって俺の部屋ちらかってるし」

「俺も」

「俺もだ」

「僕はもてなしすらできないからなあ」

 

 各々が自室を会場にしたくない理由を述べる。

 

「沖谷は……駄目か」

「沖谷は駄目だって」

「駄目だな」

「駄目だろ」

「駄目だねえ」

「駄目なの?」

 

 駄目に決まってる。

 

「ということで、始めて行きますかあ。さっきとは違って授業形式で補強するぞー」

「えぇ、授業かよ……眠くなりそうだな」

「安心しなあ、僕の授業でイビキかけるやつは多分耳にクソが詰まってる」

 

「へ、クソ?」参加者が揃って首を傾げるが、僕はお構いなくノートを広げるよう促す。

 

「よーし、じゃあ……」

 

 僕は目を閉じ、頭の中に理想の『指導役』を浮かべる。

 今こそ、先生から培ってきた『スパルタ教育』を活用する時――!

 

「よく聞けウスノロ共ぉ!」

「――!?」

 

 ()()()の急変した口調に、一同目を見開く。

 

「あんたら落ちこぼれがすぐに物の道理も覚えられない間抜けな猿だってことは百も承知だ。ただそんな頓珍漢共をこのまま教室に野放しにしておくわけにもいかない。だから――完璧に(ココ)に収めるまで終わらねえぞ?」

 

 パラパラと手元の本をめくり、あるページを見せる。

 

「教科書23ページ、とっとと開きな。合わせてこの参考書、57ページも。――こら春樹君!」

「は、はい!?」

「呑気にしてんな! だからあんたはいつまで経ってもウスノロなんだよ」

「ひぃ……」

「いいか、この単元の後半は複雑な癖して他では役立たねえゴミ燃費。だが前半は真面に理屈を理解できなきゃ何も始まらんつう代物さ。まずはそこから叩き込む。良かったねぇ、あんたらこれでようやく始められるよ。――特に寛治君」

「へ?」

「あんた図書館でもここはボコボコだったねぇ。徹底的に見てやるから、覚悟しとけよぉ?」

「あ、はい……」

 

 寮は全体防音がしっかり施されている。隣室に迷惑が掛からない程度の加減をして、あたしは豪語する。

 

「どうせ空っぽな脳味噌なんだ。せめてクソみてえな『常識』くらいたっぷり詰め込ませてやんよ。いやぁあたしったら、何て慈悲深いんだろうねぇ」

 

 一人ひとり顔面蒼白という滑稽な様子が確認できる。清隆だけは動揺から冷や汗を垂らすに留まっているが。

 まあいい、損はさせないよ、現に自分は得をしたのだ。先生の通りにやれば間違いはない。それほどまでに彼女を尊敬している。

 

「おっかねぇ……」

「何か言った?」

「な、何でもないですっ!」

 

 さて、鈴音ちゃんがやりきれなかった分はあたしが埋め合わせをしてやるか。

 

「精々死に物狂いでついてきな。万が一置いてかれそうになっても安心せい。――――引きずってでも連れていくよ」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

「今日はここを重点的にやっていくわよ」

「イエスマム!」

 

 未だ二日目の新生勉強会は、早くも初期の面影を喪失していた。

 生徒の忠実を超えて従順さまで感じられる返事に、堀北は開始早々身を一歩引いてしまう。

 そそくさと筆記用具を用意するメンバーたちを訝し気に見つめた後、当然彼女は唯一真面に口を利いてくれそうな少年に話しかける。

 

「これは一体全体どういうこと?」

「……訊かないでやってくれ。こいつらが発狂して注意されたくなければな」

 

 昨夜浅川に教育もとい調教された四人に、綾小路は憐憫な目を向ける。

 あれはまさしく『スパルタ』と銘打つことのできる指導だった。一問解けなければ問答無用な叱責を皮切りに懇切丁寧な解説と説き直し、加えて類題の提示。解けたところで間髪入れずに次の内容を催促される。眠気など訪れるはずもない。一息つく間も許されない一時には、習得すべきであった知識が高濃度に凝縮されていた。

 その効果というべきか被害というべきか、結果的に構築されたのが彼らの目の前に広がる惨状である。浅川の気遣いにより現場を免れた櫛田もまた、動揺を隠せずにいる。

 

「……まあ、(おとがい)にも向上心が備わったと思うことにしておくわ」

 

 一先ず自分自身を納得させ、彼女は昨日のように学習及び指導を開始する。

 

「いい? この問題は――」

「――なるほど。ありがとう堀北先生!」

 

「あなたは多分前の内容が理解できてないわ。後ろに戻って確認してみて」

「あああぁぁ! 嘘だ、昨日あんだけボロクソ言われたのに……あいつにバレたら何されるかわかんねぇ……!」

「……」

 

 一つ事を教える度に相手の反応に違和感を抱く堀北。その光景は面白ささえ感じさせるものだった。

 しかしそれでも彼女が言葉の一つも漏らさないのは、曲がりなりにも各々に成長が見られるからであろう。

 あの体験が余程なトラウマだったようで、伴って昨夜彼らが授かった知識も強烈に海馬に刻まれている。須藤も余裕のない中「高品質って、こういうことかよ……」と嘆きを零していた。

 そんなこんなで通してスムーズだった今日の勉強会は、終盤に差し掛かる。

 終始真面目だった四人に対する堀北の感想を、綾小路は問う。

 

「どうだった?」

「不気味、の一言に尽きるわ。人が豹変するのには一日も要さないという教訓を悟ったところよ」

「態々お前が怒声や罵声を浴びせることもなくなって、随分と穏やかになったものだ」

「私が平穏を脅かしているとでも言うの? 安心しなさい。あなただけは特別待遇でいつも通りにしてあげる」

「普通は特別に優しくするんじゃないのか……」

 

 いつから自分はマゾフィストになったというのか。受け流してもいいが後々否定しなかったからとエスカレートされるのは癪なので懲りずに否定する。

 すると、途端に彼女の表情がしおらしくなった。

 

「……それに、私だって努力はしているのよ?」

「努力って、須藤たちに教えること以外にか?」

 

「ええ」ぶっきらぼうな顔を頬杖に乗せ、ペンを弄ぶ。

 

「『闇雲に怒ることは控えましょう。全てあなたの自己満足に還り、周りには何も生みません』。真偽はともかく試行中よ」

「……殊勝だな」

 

 影なる努力の賜物に感心する。助言というものは聞き入れることはあれど行動に持っていくことはなかなかどうして難しい。蓋し親しみを覚えていない相手ともなればだ。

 そう思ったところで、彼の中で一つの提案が浮かんだ。

 

「なら、今日という日を乗り越えたあいつらに労いの一言でも掛けてやったらどうだ?」

「それは本番を終えた時にすることではないの?」

「頻繁にとなると過剰かもしれないが、お前の場合今まで散々厳しい言葉をかけてきたじゃないか」

 

「む……」心外だと言わんばかりに不快感を醸すが、少なくとも例の書籍を買う以前の彼女が綾小路の言う通りだったことは否定しようがないため、言い返すのが得策ではないということは理解しているようだ。

 

「…………確かに、あの本にも書いてあったわね。『相手の悪いところよりも良いところを探しましょう』って」

 

 やがて渋々了承の意を示し、彼女は学習者に呼び掛ける。

 

「えっと、その、聞いて欲しいのだけど……」

 

 さすがに慣れない言葉を発することには羞恥心を覚えるようで、彼女は少し視線を下げ両手を結ぶ。

 一同が見守る中、徐に台詞を編んでいく。

 

「……あなたたちの今の学力は、本分を怠って来た自己責任よ。でも以前と違うのは、どう向き合うか。教える側の私から見て、今日のあなたたちはとても意欲的だった。欠けているものを取り戻そうとする真摯な努力が見えたわ。現にこうして学習も進んでいる。だから――」

 

 そこで途切れた。厳密には、続く言葉が見当たらず詰まってしまっている。

 あと一言、相手を肯定する精一杯を求め、堀北は脳内に検索をかける。

 そして――

 

「だから……ほ、褒めてあげても、いいわ…………」

 

 沈黙。図書館という場所を考えれば全くおかしなことではないのだが、このグループに流れたそれは明らかに館内全体を覆うものとは異なる。

 誰も何も言わない時間と、つい零したばかりのらしくない自分の言葉に、堀北は徐々に頬を紅潮させる。

 次に声を発したのは、

 

「……堀北ちゃん」

 

 池はうるうると瞳を震わせて、彼女の名前を呼ぶ。

 

「俺……俺、今の堀北ちゃんが仏様に見える……!」

「え、え……?」

「最初は無愛想で取っ付き難いなとか思ってたけど、今はとてもそんな風に思えねえよぉ!」

 

 山内も同じ気持ちらしい。

 

「あはは……二人共、昨日の浅川君が余程堪えたんだね」

 

 二人を見て苦笑する沖谷に、綾小路は同意する。

 堀北の初めて見る照れ顔込みの褒め言葉。その時点で恐らく大半の男子はドギマギしてしまうだろうが(綾小路も驚きに目を見開いた)、彼らに限っては脳裏に鮮明に残る悪魔の如き鬼教師の影が、より堀北の放った淑やかさに拍車をかけていた。

 

「そ、そんなにも嬉しいものなの……?」

 

 彼らの裏事情を察していない当の本人は小首を傾げることしかできない。

 困り果てた顔でこちらを見つめてくるが、肩を竦めることでお手上げの意を示す。

 

「ねえねえ、綾小路君」

 

 すると横にいた櫛田から声が掛かる。つぶらな瞳は愁眉をつくる堀北へと注がれたままだ。

 

「堀北さん、どうしちゃったの?」

「『ツンデレ』の波動にでも目覚めたんだろう」

「ふーん」

 

 無機質な相槌に聞こえたのは、関心が引き寄せられてしまっているだろうか。それとも――。

 慈悲深な先生に群がる少年たちは、なおも涙ぐみながら彼女を崇める。

 その側でひっそりと、そして短く交わされたやり取りは、対照的なまでに冷たかった。

 

 

 

 

 

 

「そういえば、浅川君は?」

 

 途切れかけた会話が、櫛田によって継がれる。

 

「昨日張り切り過ぎたから、今日は英気を養いたいんだと」

「昨日――ホントに何があったの? 気になるなあ」

「男どうしの秘密だ」

 

「えー、何それー」適当に受け流すと、彼女はいつもの調子で頬を膨らませる。

 浅川がどうして欠席なのか。気疲れは事実なのだろうが、恐らく彼はただ自室で独り惰眠を貪っているわけではない。

 綾小路は、人知れずげんなりする。

 ――――オレもいつかは、クラスの壁を越えたいものだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 小さな一室には、互いに一人として同胞はいない。異色の四人が集っていた。

 それは決して、本日限りの催しではない。それなりに打ち解け合った関係において、既に心の隔たりは極薄となっている。

 その異様かつ温かな空間で――。

 僕は思わず、今しがた突き付けられた衝撃的な事実を口にする。

 

「テスト範囲が、変わったって――?」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ラストリゾート

期末シーズンに追い詰められるほど逃げるように筆が進む。不思議。


「おかえり」

「ただいま戻りました」

 

 椎名を迎え入れると、僕はすぐに水を用意する。

 

「ありがとうございます。――あれ、今日は水なんですね」

「切らしてしまってね」

「それは、申し訳ないことをしてしまいました」

「気にしなさんなあ。なんて、態々言ってやらなくともわかってるかあ」

 

 彼女は何も言わず、ただ麗らかな微笑みを浮かべるだけだ。

 どうしてか、二人きりの空間にむず痒さを感じる。思わず目を逸らすと、それに乗じて椎名は部屋の壁を見回し始めた。

 

「それにしても……これは、触れてもいいのでしょうか?」

「堂々とぶら下げているくらいだからねえ。達筆だろう?」

 

「はい、すごく」そう言って興味深そうに、()()()()()()一つひとつを手に取り見つめる。

 

「内容も独特ですね。『帝王が言っていた、夢は掲げるものなのだ』、『権力よ、弁えろ』、『第一回月末定例教師研修』……大層なセンスをお持ちで」

「僕の感性は一点物だと、君は既に存じていたはずだが?」

 

「そうでした」たった一言で納得し、彼女は残りの二つも読み上げる。

 『異郷で気張っても気づかんわ』、『金の尊さ、身に沁みてます』、どちらも言うまでも無く僕が書いたものだ。

 

「いつか()と筆で書いた作品も見てみたいです」

()で満足しておくれ」

()まで気にしてしまう性分でして」

 

「おお!」気持ちの良い応酬に少々昂る。「そいつぁ()()ませんってね」

 

「またしても歪なインテリアが増えてしまいましたね」

「自作ともなれば仕方がないさあ。ロマンの源泉は(ここ)にあってこそだよ」

「ハンドメイドでもここまでの独創性は……」

「誰もが持っているものを皆形にしようとしないだけだろう」

 

 温和なムードのまま話が弾む。正直もうこのままでいい気もするが、本来開口一番こんな雑談をするつもりではなかった。

 彼女が次の句を継がないのを確認してから、僕は恐る恐る口を開く。

 

「……あ、あのさ、椎名」

「はい? 何でしょう」

 

 返事を受けて本題に触れる。――触れようとした。

 しかし、

 

「あ――え、えっと、あれ……?」

 

 言葉が、出ない。

 言語化ができない、という話ではない。言いたいことは決まっているし、台詞も頭の中で出来上がっている。なのにどうして……。

 …………恥ずかしい?

 体の熱が急激に上昇する。今まで素直な感情を届けることにこんな不思議な感覚を抱いたことなどなかった。

 

「どうしました?」

 

 椎名はその澄んだ双眸を以てこちらを正面から窺う。

 慈愛に満ちた瞳が安心感をもたらすと同時に胸の奥を高鳴らせる。

 

「あ……」

 

 瞬間、未知なる体験にぞっとする。

 脳裏に反芻する疑問と目の前の抱擁感を宿す女性に、どしようもなく意識が囚われて――、

 

「あ、あの、浅川君……?」

「――っ! な、何?」

「えっと、これは一体……」

 

「え?」珍しく動揺する彼女の視線を辿り――驚愕した。

 自分の胸に当てていた左手に対して、僕の右手は控えめに前へ出され小綺麗な彼女の指を握っていた。

 あまりに無意識だったために声も出せず、放すこともできず、呆然と接触する肌と肌を見る。

 

「ご、ごめん」

「い、いえ、構いませんけど」

 

 形だけでもと謝罪をするが、どうにもぎこちない。時間が止まったような、とは今のことを言うのだろうか。

 おかげでなおも、彼女に触れたままでいる。

 彼女とこの距離で見つめ合うのはこれで二度目だ。しかし、決定的に何かが違う。些細な変化が、僕の呼吸を乱してくる。

 今回は自分から触れに行ったから、なのだろうか?

 相手に聞こえかねない確かな鼓動を感じながら、僕はやっとの思いで話を再開する。

 

「……この前の件だけど、ありがとう。上手く行ったよ」

「浅川君の気持ち、受け止めてもらえたんですね」

「うん、君のおかげだ」

「大したことはしていません。最後に動いたのは、浅川君自身なんですから」

 

 ありあまる優しさが伝わり、弱々しい手にキュッと力が入る。

 

「ううん、君がいなければ、僕はその最後を踏めなかった。君という安らぎを認められたから、前を向けたんだよ」

 

 気が動転しているものの、理性で己を冷却し事実だけを口にした。 

 

「…………ごめん。もっとたくさん、言いたいこと、あったんだけど……感謝だけは伝えなきゃって」

 

 情けない。ここまで必死に捻っても言葉を紡げないなんて、いつもの『僕』らしくない。

 力なく、項垂れた。

 そして――やはり、彼女は慈しみを以て、

 

「――――大丈夫ですよ、浅川君」

 

 僕を躊躇わずに包むのだ。

 

「あなたの努力は、私が見ています。あなたがどれだけ自分のことを迷ったとしても、私は待ちますし、離れません」

 

 接続が途切れようとしていた指先が、柔らかく温かい(たなごころ)に覆われる。

 

「それが、私なりなあなたへの『誠意』です」

 

 もう、彼女の瞳の機微など頭になかった。

 彼女が何を考えているのか、どうでも良かった。

 彼女の言葉だけが、今僕が向き合える全てだった。

 

「………………うん」

 

 刹那葛藤を経て、また一つ、信頼の一線を越える。

 心を委ね、徐に体を傾ける。

 僕は――――。

 

「っ!」

 

 突如意識の中に飛び込んできた足音で我に還り体が跳ねる。

 忘れていた、今がどういう時間か。これから予定されている時間のことなど、寸前まで考える余裕がなかったのだから仕方がない。

 僕は椎名の様子を意に介すこともなく慌てて身一つ距離を空け姿勢を正す。

 間もなく、軽快な音を立てて扉が開いた。

 

「ただいま」

「おかえり。早かったね」

「……? いつも通りだと思うが」

「あ、ああ、そうかもね」

 

「椎名ももう来ていたか」隆二は僕の態度に違和感を覚えることなく定位置に座る。何気なく交わされる挨拶も平生と変わらない。この場において、僕だけが取り乱している。

 大体ホワイトルームに集まる四人の順番は決まっている。僕は清隆と鈴音と行動を共にしない日は速攻寮に向かうし、椎名も放課後に与太話をする相手がいない。隆二は恐らく多少クラス内での会話に興じているのだろう。真澄は、多分、有栖から寵愛を受けているはずだ。可哀想に。

 ……そう、いつも通りだ。その、はずだ。

 そうあるべき、はずなんだ。

 いつの間にか準備を終えていた隆二に倣い、僕も椎名も追い掛けるように勉強を開始した。

 

 

 

 

 

 火照った体は、気が付けばもう元通りになっていた。

 椎名と二人きりでないから? それとも、さっきのような会話をしていないから? 結局理由はわからずじまいだ。

 

「なんか、気持ち悪くない?」

「そうか? 俺はユニークでいいと思う」

「感性ぶっ壊れてるの?」

「えぇ……」

 

 隆二と真澄が五つの掛け軸を眺め各々の感想を零す。真澄さん、まるで陰口のように僕の前でディスらないで。

 この四人の関係もだいぶ深まってきた。初め勉強会という縁で出会い、取るに足らない話、或いは足る話を合間合間にするに限っていたが最近は違う。もう少し距離の近い、身近なことに関する雑談をも楽しむ仲になってきた。こういった休憩時間でも今のような会話が起こったり、心を許し合う故の脱力した独り作業がなされたりした。

 本を黙読する椎名を傍目に、興味本位でみんなの学習の痕跡を覗く。

 ……うーむ、意外にも個性が出るものなのだろうか。筆跡のみならず、三冊とも別の人間が書いたものだとわかりやすかった。

 

「ん――?」

 

 と、そこで僕はある違和感を抱く。

 

「ねえみんな」

 

 僕の呟きにも聞こえる呼びかけに、三人一斉に視線を向ける。

 

「君らもテスト範囲外を勉強する趣味だったのかい?」

「え?」

 

 何の気なしの質問に、何故か三者三葉の目に変わる。椎名は純粋な疑問、隆二は動揺、真澄は軽蔑だ。

 

「ど、どうしたの?」

「い、いや、何というか」

 

 隆二は一度二人の少女と顔を見合わせてから、告げた。

 

「テスト範囲なら、今日変更されたぞ?」

「…………ふぇ?」

 

 微塵も考慮していなかった可能性に困惑する。

 

「あんたのところも今日だったんだ」

「平等に全クラス同じタイミングの発表だと思いますよ」

「なんだびっくりした……内のクラスだけ先生の意地悪を喰らったのかと思ったぞ」

 

 僕を蚊帳の外に会話が流れる。

 先生の意地悪……もしや、それを喰らったのは僕らの方では?

 何てこった。

 

「テスト範囲が、変わったって――?」

「先生の話はちゃんと聞いておけ」

「あんたが忘れてただけでしょ」

「もう物忘れの年頃なのでしょうか……」

「…………酷くない?」

 

 ここぞとばかりに貶すなよ。特に椎名、本気で心配するんじゃない。怒るにも怒りきれないだろ。

 いや、そんなことはどうでもいい。……どうでもよくはないが、まずは情報を共有すべきだ。

 すぐさま端末を起動し鈴音に電話を掛ける。が、不在着信。律儀なやつだ、恐らく向こうの勉強会で通知を切っている。

 清隆に相手を変えると、長いコールを経て繋がった。「もしもし?」

 

「清隆、鈴音に代われるか? 伝言を頼まれてもいい」

 

 急を要する案件であることを察した彼は待ってろとだけ言って物音を立てる。やがて「何かしら」

 

「単刀直入に伝える。テスト範囲が変わった」

「何ですって?」

 

 予想だにしなかった情報に彼女の声が一回り大きくなる。図書館にいる生徒から視線を集めたことだろう。

 

「今日の話らしい。僕も至急そっちへ向かうから、茶柱さんに確認しに行こう」

 

 相手の返事を待たずに通話を切る。

 

「悪い、ちょっと行ってくる」

 

 三人の頷きをもらい、その場を後にしようとする。しかしその足は玄関で止まった。

 

「あ……ごめんな三人とも」

「何がだ?」

 

 代表して隆二から意図を問われる。

 

「この関係はクラスの戦いとは無縁だって言いだしたのは僕なのに、こんなことになって……」

 

 図らずも僕らDクラスは彼らに救われたことになる。この場がなければ平田やその他部活動などで話が挙がらない限り大きく後手に回ることになってしまっていたかもしれない。

 

「気にするな、お前にそういう狙いがあったわけじゃないのはわかっている」

 

 しかし、それを必要以上に咎めないから、その人徳さが周りに認められているらしい。

 

「こういう時は、謝罪よりも感謝ですよ」

 

 椎名はいつしか僕が放った言葉で慰める。場面は違うが、その通りかもしれない。

 

「と言うかDクラスだけってなると、先生の伝達ミスってこともあるんじゃない? だったらこれくらい大したことじゃないと思うけど」

 

 真澄も真澄なりに気を遣ってくれるようだ。

 

「――ありがとな、三人とも」

 

 温かい関係に破顔し、礼を述べる。

 ようやく部屋を抜け出し、道中平田にも連絡をして職員室へと向かった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 職員室に着くと、既に一際目立つ集団が出来上がっていた。

 阿鼻叫喚なご様子の小童三人を宥め、鈴音を先頭に職員室へとなだれ込む。直前、彼らがこちらを怯えるような目でチラ見してきたのは気のせいだろう。

 件の問題を問い詰めると、茶柱さんは事も無げに自分の不手際を認めた。

 取ってつけたような謝罪だったこともあり、何とか鎮まったはずの健たちは再び声を荒げてしまったが、何をしたところで無に帰すと判断した鈴音が強引に制し、三人を連れて図書館で待っているよう櫛田と沖谷に頼んだ。

 

「他のクラスメイトには伝わっているのね?」

「平田に連絡済み、何とかしてくれるさあ」

 

 茶柱さんとのやり取りを終え、職員室を出るや否や議論が始まる。

 

「まずいわね……」

「そんなにか? 勉強会ならだいぶ改善されたと思うが」

「今だけじゃなくてこれからが恐いってことだろう? 精神的に堪えるやつがいるかもしれないしなあ。学習意欲に響かなきゃいいけど」

「初めよりマシ、というだけだもの。まだ不安定で安全圏とは言えないこの段階では、痛い情報だわ」

 

 せめてもの救いは変更されたテスト範囲の一部が学習済みだったことだろう。それがなければ絶望的だった。

 しかし、かなり危険な状態であることは目を背けようのない事実。となると、そこで欲しくなってくるのが、

 

「何かないの、打開策は……」

「そこまで焦るほどのことじゃないさあ。自分の腕を信じてみ」

「わかってる。私たちが無理矢理彼らを勉強漬けさせれば、きっと問題はない。……きっとね」

「しかしより強固にする『武器』が欲しい、か」

 

 清隆の発言に頷き、鈴音は深く思案する。

 

「……」

 

 僕らはその様子をただ見つめていた。

 

「……須藤たちの意識は改善された。お前もお前なりな努力を重ねている。参考書まで買った。他に何ができるって言うんだ?」

「茶柱さんに泣き寝入りでもしてみるかい?」

「そんな馬鹿なことするわけないでしょう」

「ダメ元でやってみるのもいいかもな。今月の初めのように『良い報せ』をしてくれるかもしれない」

「あの人の言葉なんてアテにならないわよ。全く………………いえ、待って」

 

 ついに呆れ果てて毒づこうとしたの彼女の口が、止まった。

 

「綾小路君、今何て言った?」

「え、今月の初めみたいに良い報せをくれるかもって」

 

 彼の返答を受け、彼女はより一層悩ましい表情になる。

 

「今月の初め――先生がしたのはSシステムの話だけじゃないわ」

「テストについても触れていたな」

 

 当時は意識の矛先が散漫だったため記憶がぼんやりしているが、Sシステムの衝撃的な正体にクラスが騒然とする中、茶柱さんはほとぼりが冷めるのも待たずに小テスト、中間テストの話もしていたはずだ。

 

「あの時、何か引っかかる言葉があった気がする。……そう、確か、『赤点を回避する方法があることを私は確信している』って」

「へー、そんなことを。でもそんなもの本当にあるのかい?」

「い、いや、さすがに現実的ではないわ……」

 

 疑問を投げかけるとすぐに顔に影が差す。普通はそんな言葉はまやかし、あるいは冗談か比喩と捉えるものだが。

 

「だろうな。小テストと同じ問題が出るというなら、可能性はあるが」

「そんな馬鹿な話……そういえば、あの時最後の三問について話し合ったわよね」

「――? ああ」

「思えばそれ、今の私たちと同じ状況じゃない?」

「どういうことだ?」

「『学習していない箇所が出題される』ということよ」

 

 多少無理はあるが、類似点と見ることは可能だ。

 常識外れな出題にどう対応するか。確か僕の中で浮かんだ考えは、

 

「『普通ではない解き方』か『解く以外の方法』があるのか」

「それは最近やったことじゃないか?」

 

 前者は僕が小テストでやったことだ。どうやら学校側の思惑とは噛み合わなかったらしいが。

 そして後者は――清隆の言うように――『どうぐ』という手段を実行済みだ。

 

「八方ふさがり、か」

「何か、何かあと一つだけピースが足りない……そんな気がするわ」

「僕にはさっぱりだよ。君らが買った参考書のすぐ側に答えも並んでいた、なんてこともないだろうし」

 

 せめてもの極論を、軽い冗談のように吐く。それこそ現実的ではない、馬鹿げた考えだ。

 

「書店にそんなもの売っているわけないでしょう。誰だって高得点を、取れ、る……」

 

 しかし予想どおり反論が飛ぶと思われた途中、自分の台詞に何かを気付かされたように鈴音は目を見開く。

 

「『書店』…………? 誰でも、『高得点』を取れる……」

 

 僕らそっちのけで独り思考の沼に沈み、

 

「………………!」

 

 そして、這い上がった。

 

「上級生にコンタクトを取りましょう」

「上級生? 何でまた」

 

 その疑問に、彼女は悠然と答えた。

 

「『過去問』を入手するの。それが私たちの最後の『武器(どうぐ)』よ」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「そっちの方はどんな調子かな」

「ぼちぼちかなあ。鈴音のおかげだよ」

 

「良かった!」その日の夜、僕はいつしかのように自室で平田と通話をしていた。

 

「堀北さん()()には助けてもらってばかりだ」

「過去問の提供かい?」

「うん。アドバイス通り、本番の三日前を目処に全体で共有するつもりだよ」

 

 鈴音は発案したその日に行動し、先輩から過去問を手に入れることに成功したらしい。

 その際小テストの問題も授かり僕らが受けたものと照らし合わせたところ、ほとんどの問題が一致したそうだ。

 彼女はそれをただちに平田へと報告した。今の彼女にはもう、随一のカリスマ性を誇る彼を頼ることに躊躇いはないようだ。

 三日後、という指示はクラスメイトの学習意欲を損なわないためだろう。実質解答を知っているという状況は、どうしても自分の中に甘えを生んでしまうものだ。

 

「中間テストも去年と同じ問題になるとは限らない。でも、きっとこれは大きな武器になると思うんだ。先生の言葉を信じるならね」

 

 先生の言葉、とは鈴音が言っていたのと同じものだろう。彼も違和感を抱いていたとは、その優秀さはリーダーシップに留まらないというわけか。

 

「それにしても意外だったな。まさか堀北さんが()()()()と協力するなんて」

「君の目にも、そう映ったかい」

「陽の目を浴びて目立つ人とは、あまり関わらない人だと思っていたからね」

 

 ここで割って入ってくる要素が、鈴音が櫛田を連れて実行に移したことだ。

 

「……まあ、彼女なりに考えを改めたんだろうさあ」

「この調子でクラスのみんなともっと仲良くなってくれたら嬉しいんだけど……」

「思春期を見守る老いぼれのつもりで待っているといいよ。気長にね」

 

 変わろうという意志を持つ今の鈴音なら大丈夫だ。下手に横槍を挟むべきではないだろう。

 

「それと……浅川君は、どうかな」

「ん、無問題さあ。期待していなよ」

 

 憂慮のこもった声で訊かれるが、以前とは既に違った考えになっている自分はそう答えた。嬉しそうに安堵の言葉を零している。

 

「安心したよ。この前はかなり自信なさげだったから」

「そんなにかあ」

「堀北さんの努力の賜物かな」

「そうかもなあ」

 

 あれから僕の学力については触れていなかった。いつか鈴音の勉強会に参加するメンバーと認識の齟齬が露わになるかもしれないが、正直気に掛けるようなことではないので適当に流しておいた。

 

「結構話し込んじゃったなあ。そろそろ寝るよ」

「あ――もうこんな時間か。いつも遅くに掛けてしまってごめんね」

「人と話すのは嫌いじゃない。いつでもどうぞ」

「ありがとう。浅川君も、何か相談したいことがあったら力になるから、いつでも頼って欲しい」

「ん。……あ、じゃあ早速一つ良い?」

 

 そう気を遣われてしまっては、寧ろ何かしら持ち掛けてこその誠意。思いつきを平田に提案する。

 

「今度、一緒にご飯でも食べようよ」

「え! いいのかい?」

「うん、男どうし、ささやかにね。清隆とかも一緒でいい?」

「勿論だよ! わかった。ならテスト明けに慰労会を開こう。約束だよ」

「あっはは、約束なあ」

 

 約束。恐らくそこにはテスト結果への祈願も込められているのだろう。

 平田は主に女子からの支持は高いが、男子には一部反抗勢力がいる。その二つの要素が相まって、彼は会食のほとんどを大勢の女子と過ごしていた。僕はそんな彼の時折垣間見えた寂しそうな表情に、同性だけで肩の力を抜いて過ごす時間を求めているのではないかと感じたのだ。

 最低限善い(ツラ)をしなければならない異性に囲まれて、ストレスの溜まらない人間なんていないのだから。

 近い未来の希望を語り合い、僕らは互いの顔が見えない会話を終了した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

アドバンス

 翌週になりテスト範囲変更によるほとぼりも冷めた頃。

 相変わらず鈴音主導の下、僕らは着々と勉強会を進めていた。

 

「あれからさ、真面目に授業受けるようになって思ったんだけど、意外と簡単なところもあるよな」

「確かに。テスト範囲が変わったってなった時はマジで焦ったけど、このままやればいいトコ行けるんじゃね?」

 

 池と春樹が口を揃えて、最近の自分らの上達具合を評価する。

 

「油断大敵よ。自惚れる暇があるなら一つでも多く知識を蓄えなさい」

「時事問題にも気を付けないとね」

「ジジイ問題?」

「時事問題。最近起こった社会や政治の動きを訊かれるってことだ。簡単に言うと、教科書や参考書には載っていない問題が出るってわけだな」

 

 そういえば、小テストにも何問かその類の問題があった。あまり得意ではないんだよな、時世には弱い。

 

「どうせ出ても数問さあ。君らは勉強しやすいところを極めた方が賢明だと思うよ」

 

 そうフォローすると、三人は潔く納得した。

 少しして、互いに出題し合い確認をする時間になった。

 

「――じゃあ次は私から問題。ルネサンス期に活躍し、『君主論』や『戦術論』を書いたのは誰でしょう」

 

 櫛田の出題に、健らは顔を歪ませる。因みについ先日授業で習ったばかりの内容だ。

 

「え、えーっと、誰だっけ……フランシス・ベーコンって人なら覚えていたけど、テスト範囲じゃなかったしなぁ」

「確かー……マキャベリズム、なんちゃらマキャベリズムだった!」

「そうだそうだぜ! それで上の名前はー……あー、何か幸せそうな名前だったはずだ」

 

 何だよ、幸せそうな名前って。

 だが、案外いい線をいっているかもしれない。

 やがて池が「あっ!」と閃いた。

 

「それだ! ニッコロだよ、ニッコロ・マキャベリズム!」

「正解!」

 

「よっしゃ!」櫛田の溌剌とした宣告にガッツポーズを取る。

 

「だぁちくしょう! あと一秒早けりゃ……」

「ま、今回はお前に花持たせてやるよ」

「これで満点も夢じゃない!」

「遠い夢よ。儚いわね」

「酷いぜ堀北ちゃんっ!」

 

 一問ごとに一喜一憂していては時間が勿体無い。ただ、諦めずに思考するということすら、最初の彼らには難しかったはずだ。ハードルが低かったとは言え、やはり成長しているようだ。

 すると、

 

「おい、うるせぇぞ。図書館でギャーギャー騒ぐなよ」

 

 後方の席からキツめなお声掛けをされた。

 上機嫌だった池は気を悪くすることなく軽い謝罪をする。

 

「あー悪い悪い、感極まっちまって。君主論と言ったらニッコロ・マキャベリズム。ニッコリじゃないからな、覚えとくといいぜ」

「おお、池だけに、いけしゃあしゃあと」

 

「しっ」便乗して冗談を呟くと、鈴音は鋭い視線を向けてくる。いいじゃない、相手には聞こえてないんだから。

 どうやらなかなか『良い』性格をしているようだけど。

 

「あ、お前らひょっとしてDクラスか?」

 

 嗤うような台詞に、周辺の生徒がピクリと肩を揺らす。

 意図的な発言を直感した健が眉を顰め言い返す。

 

「何だよ。俺らがDクラスだからどうしたっつんだ」

「いやいや、別に何も? ところで俺はCクラスの山脇って言うんだ。よろしくな」

 

 Cクラス、を強調しながら自己紹介をする。良いやつだな、初対面で自己紹介を忘れないあたり、僕ら南東トリオよりずっと社交的だ。

 

「それにしても良かったぜ、この学校が実力でクラス分けしてくれてて。おかげでお前らみたいな不良品と一括りにされなくて済む」

「……喧嘩売ってんのか」

「本当のことを言っただけで怒んなよ。今にも殴りかかってきそうな勢いだがいいのか? こんな目立つところで暴力でもしたらポイントに響くぜ」

「――ッ」

「そんなこともわからないとはな。――ああ、でもそうか。お前らには失うポイントもないんだったな!」

「……! 上等だテメェ!」

 

 易々と挑発に乗り、健は本気で殴り掛かろうとする。マジかよ、予想外だ。

 先生に成り代われば強気で割り込むこともできるが、場所を考えると悪手になりかねないため却下だ。

 

「待て待て健」

「うるせぇ!」

「今うるせえのは君だ」

 

 少々意地悪い言い方をしてやると、容易く意識がこちらに向いた。よしよしいい子だ。

 

「文句あんのか」

「あるよ。――――鈴音がね!」

「は!? 何言ってるのよ」

「ないの? ありそうだったじゃん」

「それは――そういう問題ではないと思うけど……」

 

 面倒事は回避するに越したことはない。楽しみようのないことに自ら首を突っ込むなど御免だ。

 健を止める役目に適しているのは鈴音であり、彼女自身不満を露わにしていた。であればこの行動に問題はないはずだ。

 渋々彼女は健と向かい合う。

 

「須藤君、確かに癇に障る言い方だったけど、先に騒いでしまったのはこちらよ。今は抑えなさい」

「けどよ……」

「ならここで暴力を振るって、更に他クラスから馬鹿にされたいの?」

「――! それは……」

 

 一層多い量の苦汁を吞まされる。その未来を指摘され、ようやく健は冷静さを取り戻したようだ。

 

「……悪ぃ」

「オイオイ考えなしに殴り掛かる猿かと思ったら、一度命令されて従う能無しだったとはな。傑作だぜ」

「くっ……お前!」

 

 下がりかけた溜飲が再び上昇し、ついに我慢できなくなった健は拳を振り上げる。その状況で鈴音に残された選択肢は――二人の間に割り込むことだけだ。

 

「そこどけ堀北!」

「殴ってスッキリするなら私を殴ればいいでしょう」

「んだと……」

「綾小路君でも浅川君でもいいわ」

「巻き込むなよ」

 

 意趣返しが物騒至極だ。健のパンチは絶対重い。

 

「馬鹿言うんじゃねえ、ソイツじゃなきゃ意味ねえだろ!」

「そのデメリットは言ったばかりよ。同じ問答は時間の無駄」

 

 鈴音はなおも毅然と言い放つ。

 

「あなたが今握るべきなのは拳じゃない。ペンとノートだと弁えなさい」

 

 正論で連打され、健は沈黙せざるを得ない。

 

「ハッ、結局揃いもそろって臆病者かよ。笑えるな」

「……」

 

 それでも罵倒を止めない山脇を、鈴音はギロッと睨みつける。彼は一瞬たじろぐがすぐに虚勢を張り直した。

 

「な、なんだよ。何か間違ったことでも言ったか?」

「……いいえ、何も間違っていないわね。ただ、折角だから誠意を以て私も自己紹介をしてあげようと思って」

 

 彼女は襟を正し――冷ややかな笑みを浮かべて言った。

 

「堀北鈴音よ。()()()()()()()()()()()の生徒」

「あ……?」

 

 その意図を理解した山脇は呆けた顔に怒りを滲ませる。

 

「底辺のくせに、生意気なこと言ってんじゃねえ」

「あら、本当のことを言っただけで怒ってしまうあなたは、やはり同じ穴の貉かもしれないわね」

「……! コイツッ!」

 

 血相を変え掴みかかろうとする彼を、彼と同じ机を囲んでいたCクラスの生徒たちが必死に引き留める。

 

「ちょっと顔がいいからって、調子に乗ってんじゃねえぞ!」

「罵倒に褒め言葉を混ぜてくれるなんてお人好しね、ありがとう。でも残念、私はあなたのその胡散臭い顔には反吐が出るわ。だから何一つ褒めてあげられないの、ごめんなさいね」

 

 苦し紛れの返しも意に介さず、鈴音は表情を崩さない。上がっている口角が獰猛的にまで感じられた。

 

「お、おい山脇、俺らから仕掛けたなんて噂になったら……」

「ぐっ……クソ!」

「ふん、考えなしに殴りかかる猿かと思えば、たった一言で威勢を失う臆病者だったの?」

 

 健に放った罵詈雑言が全て返って来たことによって、山脇は歯ぎしりすることしかできない。

 そんな彼を見下ろし、彼女は満面の笑顔で締めくくった。

 

「――傑作ね」

 

 名前も目的もないこの勝負。勝敗は明らかだった。

 

「ふざけんなあぁ!」

 

 健の非にならないほどの不快感を露わにし、山脇は仲間の静止を振り払う。

 彼が一歩踏み込み鈴音の顔面に拳を振るう。誰もがそう予感した。

 その時だった。

 

「ストーップ!」

 

 今まで挟まれた記憶のない高い声が轟いた。

 Cクラスの生徒たちには心当たりがあるようで、その少女に気付くや否や顔を青くする。

 

「い、一之瀬……」

「これ以上続けるつもりなら、学校に報告させてもらうよ」

「わ、悪かったよ。そんなつもりじゃなかったんだ」

「……どうだか、今回も君たちから何か吹っ掛けたんじゃないのかな?」

「うっ……な、何のことかさっぱりだぜ」

 

 彼らは帆波の登場によって、手を引くことを決めたようだ。

 

「こんなとこに残るなんてこっちから願い下げだ。馬鹿が感染っちまう」

 

 そんな捨て台詞を残して。

 

「感謝するわ。一之瀬さん、でいいのよね?」

「うん、一之瀬帆波だよ。よろしくね、堀北さん」

 

 代表して真っ先に鈴音が礼を述べると、帆波は愛想よく応えた。

 

「図書館はみんなが使う場所だから、堀北さんたちもあまり挑発するようなことは言わないように!」

「……私は、それ相応の対応をしただけよ」

「それでも限度ってものがあるからね。気を付けてもらえると嬉しいかな」

「……善処するわ」

 

 赤子のような言い訳に優しく諭す姿からは、隆二の言う通り人柄の良さを感じさせる。櫛田と似ているな。

 

「あれ……? もしかして、君が浅川君?」

「ふぇ? ああ、そうだけど」

 

 突然矛先を向けられ、たどたどしい態度になってしまった。

 

「神崎君から話は聞いてるよ。善い関係を築いているみたいだね」

「彼から君のことも聞いてるよ、善い人だとか」

「にゃはは、照れちゃうなあ」

 

 何だ、にゃははって。純にも負けない癖笑いだ。

 

「一ノ瀬さん、浅川君と知り合いだったの?」

 

 櫛田が僕らの関係を問う。

 

「初対面だよ」「初対面だ」

「え? でも……」

「友達の友達って感じでね。お互いどういう人かっていうのは知っていたんだ」

 

「なるほど」前情報があって未邂逅。高校という環境においてありそうでなかった関係性だ。

 

「そういう君も、帆波とは既知の仲のようだけど」

「うん、入学してすぐかな? Bクラスに顔を出した時にお話して以降仲良くなったんだ」

 

 恐ろしい。『学年全員と友達になる』という目標に恥じない行動力だ。クラスのリーダーと関わりがないわけがない。

 僕は再び帆波とのやり取りに戻る。

 

「Bクラスは特別仲が良いらしいね。お互い善い結果を残せるように頑張ろうなあ」

 

 サッと右手を出すと、彼女は躊躇わずに握手してくれた。

 

「うん、誰一人退学になんてならないようにね!」

 

 そうしてその場にはDクラスの面子だけが残った。

 

「おい浅川! お前、あんな可愛い子と仲良かったのか!」

「ふぇ? い、いや、話すのは今回が初めてだよ」

「嘘だ!」

 

 池と春樹が血眼になって問い詰めてくる。首まで掻いている姿が痛ましい。

 

「他のクラスなのにあんな風に……綾小路といい、羨ましいことこの上ねえよぉ」

「君らには櫛田がいるだろう」

「当たり前だ馬ッ鹿野郎!」

 

 情緒が狂ってやがる。櫛田のいる場でしていい発言と表情ではない。本人もドン引きしている。

 

「うるさいわ。また厄介事に巻き込まれるわよ」

「でもよ堀北ちゃん――」

「それとも、さっきの無様な少年と同じ目に遭いたいのかしら……?」

 

 有無を言わさぬ冷たい笑顔に、二人は「ひっ」と声を漏らす。

 とぼとぼと席に戻る彼らを憐みを以て眺めていると、沖谷が僕と清隆の方に寄って来た。

 

「ねえ、堀北さんのことなんだけど」

「良い性格しているよなあホント」

 

 山脇を理屈ではなく皮肉で煽り倒す彼女の表情は、加虐的と評するべきだろう。愉悦の滲んだ余裕ある笑顔は、有栖を彷彿とさせるものだった。

 

「うん、浅川君と綾小路君に似てきた」

「だよな。……え、オレたちに?」

「そうだよ?」

 

 おい嘘だろ。あれが僕らに似てるって? 冗談じゃない。

 だが、確かにあの時の彼女の行動は、以前ならあり得なかった。クラスポイントを引き合いに出して差の度合いを指摘するなり、Dクラスの下剋上を高らかに宣言するなりしていたはずだ。そう考えると、影響を与えうるのは僕らくらいしか……

 

「いや、ないなあ」

「えぇ、そうかな」

「あってはならない」

「願望!?」

 

 今しがた鈴音の言動を有栖に例えたばかりだ。沖谷の意見が正しいとなると自分まで有栖と似ていると認めることになってしまうような気がして非常に不快だ。

 僕の言葉を受け、清隆は必死に笑いを堪えている。前にもあったな、こんなこと。恐らく既に有栖に接触を受け、その際僕と彼女の両想い(笑)を知ったのだろう。

 そうこうしている内に鈴音もようやく精神が落ち着いたようだ。

 

「最高だったよ」

「腕を上げたな」

 

 揶揄い目的で褒めてやると、溜息を吐かれる。

 

「私が拒みたい会話をする時は、いつだってあの本を参考にしているわ」

「なるほど。闇雲に怒らず、愛想笑いを振りまいたと」

「あっはは、上出来じゃないかあ。楽しかったかい?」

 

 素晴らしい。なかなかどうして、面白い方向にもすくすく育っている。

 彼女はこちらを向き、やはり『良い笑顔』で答えた。

 

「ええ、スッキリしたわ」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 その後は取り挙げるような出来事もないまま、過去問が配られる日になった。

 

「みんな、帰る前に少しだけ時間をもらえないかな」

 

 いそいそと支度をする生徒たちの手が止まる。

 静かになるのを見計らい、平田は紙束を掲げた。

 

「中間テストに向けて、各自一生懸命頑張ってきたと思う。そこにもう一押し、最後の武器を配りたいんだ」

 

 彼の手によって各列の先頭へ、そして後ろに回されていく。

 

「これはー、プリント? 平田が作ったの?」

 

 池が懐疑的な眼差しを平田に向ける。

 彼の返答はノーだ。

 

「違うよ。実はこれ、中間テストの過去問なんだ」

 

 室内がざわつく。

 中でも動揺を見せていたのは、平田の勉強会に参加していた女子一同だ。

 

「平田君、こんなもの用意する時間があったんだ」

 

 彼はそれに対しても首を振る。

 

「それも違うんだ。これを手に入れてくれたのは、堀北さんと櫛田さんだよ」

 

 平田に集中していた視線が二方向に分かれる。

 

「二人が勉強会の合間を縫って、先輩から譲り受けたのがこの過去問だ」

「櫛田ちゃん!」

「堀北先生!」

 

 勉強会のメンバーが揃って尊敬の眼差しを功労者に向ける。二人共心なしか眩しがっているように見える。

 

「そして、一番重要なことなんだけど――もしかしたら、毎年同じ問題が出題されているかもしれないんだ」

「え!? ど、どうしてそんなことがわかるの?」

「二人は小テストの過去問ももらったらしいんだけど、僕らが受けたものと同じ問題だったんだって」

「待て、平田。確かに例年同じ問題が小テストで出されていたとしても、中間テストもそうとは限らないんじゃないか?」

 

 平田の解説に割り込み、幸村が疑問を投げる。少なからず同じ意見の者がいるようだ。

 

「そうかもしれない。でも可能性は高いと思うよ」

「どうしてそう言い切れる?」

「根拠は二つだね。一つは先生の言葉だ。五月の頭――この学校の仕組みを知らされた日の先生の話を思い出して欲しい。赤点を確実に回避する方法、それがきっと、僕らに出題する問題と同じものが記された過去問なんだ」

「……な、なら二つ目は?」

「それはこの過去問が、どういう形で手に入ったかというところにある。どうやら過去問はかなり慎重に、ポイントによって取引されているらしい」

「ポイント!? まさか、過去問を買ったということか?」

 

「そういうことになるね」驚愕する聴衆に穏やかに頷き、平田は続ける。

 

「あまり想像のつかない人はいると思うけど、普通後輩に直接過去問が欲しいと頼まれてお金を要求するかな? 善意で無償で提供してくれてもおかしくないはずのものが高値で取引されている。それだけで、この紙束に見た目以上の価値が見えてこない?」

 

 彼の力説に、初めは微妙な顔をしていた生徒も合点のいった表情に変わり、明るいものになっていく。

 

「みんな、テストまであと僅かだ。各自ある程度は仕上がって来たと思う。あとはこの過去問の力を借りて、最後まで頑張ろう!」

 

 その締めくくりに続いて、池と春樹を筆頭に教室中が盛り上がりを見せる。

 

「へー、ナポレオンの栄光を目の当たりにした気分だなあ」

「言葉は選んだ方がいいぞ。ナポレオンの本性、知らないわけじゃないだろう」

「まあねえ。でもわからないよ」

 

 どうだろう。カリスマと言っても二種類ある。帆波のような自然な快活さが周りを惹きつけるパターンと、弱さを隠しみんなの前に立ち続ける勇姿を見せることで周りをたきつけるパターン。

 平田がもし後者だとしたら……。

 後ろから掛かった声に振り向くことなく、僕は呟く。

 

「彼は、Dクラスなんだから」

 

 

 

 

 自信と安堵の表情を醸しほとんどの生徒が退室した後。

 

「堀北さん、櫛田さん、本当にありがとう」

「私たちは出来ることをしただけよ」

「その通りだよ、平田君」

 

 僕、清隆、鈴音、櫛田、平田の五人が残っていた。

 

「ううん、テスト範囲が変更された時、正直もうダメかと思ったんだ……二人のおかげで、退学者0も固くなった。それは紛れもない事実だよ」

 

 褒められ慣れていないのか、鈴音は気まずそうに目を逸らしている。櫛田は謙虚にしながら笑顔を崩さずにいる。

 

「これなら、あいつらも高得点を取れるかもしれないな」

「寝落ち・寝坊さえしなければあるいは、ね」

「心配するなあ。僕らに任せなさい」

 

 努力の中身は彼ら次第だが、努力という領域へ運ぶ手助けならできる。問題はない。

 

「じゃあ、そろそろ私たちも帰ろっか」

「そうだね、今日も勉強会はある。手を抜いてはいられないよ」

 

 人気者二人の号令によって、その場は解散の兆しを見せる。

 その途中。

 

「ちょっといいかしら」

 

 鈴音が不意に流れを止める。

 

「この際だから、一つだけ確認しておきたいことがあるの。――――櫛田さん」

「え……な、何?」

 

 予想していなかった指名に、櫛田は動揺しつつも耳を傾ける。

 

「このクラスが勝ち上がっていくために不可欠な確認よ。綾小路君に浅川君、平田君もいるこの場においては尚更ね」

 

 やたらと重い雰囲気を演出しようとする鈴音に首を傾げる。何を訊こうとしているんだ?

 

「あなた……私のことが嫌いよね?」

 

 僕と清隆の指先がピクリと動く、それだけに抑えた。平田は意図が理解できず目を見開き硬直してしまっている。

 僕も清隆も櫛田の陰湿な一面は知らないということになっている。本人の前で、鈴音の質問の意味を理解している反応を見せるわけにはいかない。

 

「…………どうして?」

「一対一で話せば嫌でも感じるわ。あなたの必死に押し殺していた私への悪意が」

「……そっか。困ったなあ」

 

 暫く悩ましい表情で机の上を指先でなぞっていたが――やがてその少女は、清々しい笑顔で答えた。

 

「教えてあーげないっ!」

「……! あなた……」

 

 絶対に正直な返答が来ると疑っていなかったのだろう。鈴音は突き刺すような視線で彼女を射抜く。

 その威圧に気付いているにも関わらず、恐ろしいまでに飄々と言葉を紡ぐ。

 

「だって、ここで私が答えちゃったら、それで堀北さんとの関係は決まっちゃう気がするの」

「……あなたは、何を望んでいるの?」

「何も? ただ、全部諦めるのは待とうかなって思っただけ。私は堀北さんのことをよく知らないし、まだ高校生になったばかりなんだもん」

 

 冷たく、遠い目だ。清隆とは違う、触れ続け、求め続け、そうして壊れてしまった瞳。

 誰かに、似ている。

 

「何かが変わるかもしれない。だから今は、まだその質問には答えられないかな」

「……そう」

 

 いつの間にかカワイイエガオを見せる櫛田に、冷や汗を浮かばせながら鈴音は納得した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エマージェンシー

 テスト当日。

 いつものメンバーが早くから教室に集まり、最後の確認に励んでいた。

 

「みんな大丈夫そうだね」

「当ったり前よ。昨日の夜まで追い込みかけてたんだから」

「おかげで寝落ち寝坊なんて下手こくことにはならなかったぜ」

 

 前日の夜は再び男子だけで集結し各教科復習をしていた。英語の途中で健が船を漕ぎ始めた時は心底やってよかったと安心したものだ。こっぴどく(はた)いたら怯え切った顔をされたけど。

 やがてクラスメイトは全員揃い、定刻通りに茶柱さんが入ってくる。

 

「欠席者は――いないようだな。さて、お前ら不良品にとって最初の関門がやってきたわけだが、自信の程はどうだ?」

「問題ありません、僕らは真剣に努力を重ねてきました。このクラスから退学者は絶対に出ません」

 

 真っ向から答える平田だけではない。例外なく全員が肝の据わった表情をしている。見違えるような凛々しさだ。

 

「ほう、大した自信だな。いいだろう。もしお前らがこの中間テストと来月の期末テストで一人も退学者を出さなかった暁には、夏休みにはバカンスへ連れて行ってやる」

「ば、バカンス、ですか……?」

「ああ、優美な大海原に浮かぶ島で、夢のような生活を送らせてやろう」

 

 思ってもみなかった餌に、生徒たちは目を輝かせる。特に男子は、どこか邪な光まで垣間見えた。

 枷が外れた池が、狼煙のように声を張り上げる。

 

「おいお前ら、気合入れて行くぞおぉ!」

「うおおおおおぉぉぉ!」

 

 耳を劈く喧騒に思わず顔を顰める。Aクラスの教室まで届いてそうだな。

 そんな団結からは離れた隅っこで、僕はいつもの二人に話を振る。

 

「バカンスだってさあ。何が待ってるんだろうなあ」

「海水浴とかして、のんびりくつろいでみたいものだな」

「どうかしらね。あの先生の言うことよ? 額縁通りに受け取ってもいいものかしらね」

「夢がないなあ」

「悪夢なら待っているかもしれないわね」

 

 なるほど、その可能性は考えていなかった。だが大海やら島やらと言われると神秘的というか、非日常的なイメージがあって心が疼く。今は楽しみにしておこう。

 教室中に放たれたプレッシャーに、茶柱さんは一歩退いて慄いている。

 自然と教え子たちが収まるのを待ち、彼女はしかつめらしい表情をつくった。

 

「覚悟は決まっているようだな。…………」

 

 不意に言葉に詰まる。何を語るか迷っているような様子に、一同困惑に近い疑惑の目を向けた。

 暫くして、彼女は顔を上げた。

 

「…………進学してから早二か月。各々様々な苦労があったと思う。Sシステムのことやテスト範囲の変更などは勿論、底辺という扱いに並々ならぬ苦悩を強いられることもあっただろう。そして今、退学のかかった大一番が始まるわけだ」

 

 その目には、らしくもない色が宿っていた。

 

「私は、お前たちがこの壁を誰一人欠けることなく越えることを望んでいる。健闘を祈っているぞ」

 

 バカンスという報酬を提示された先刻と打って変わり、やってきたのは静寂。

 今まで散々自分たちをこけ下ろし冷たい態度を取ってきた担任が、遠回しに「信じている」と言ってくれたのだ。

 その絶大なる効果は、堀北兄妹の例からも明らかだった。

 

「さ、佐枝ちゃんセンセー! やってやりますよ」

「先生、あたしたち頑張るから、期待しててください!」

 

 今度の表情と返事はとても温かく誠実なものだ。クラスの雰囲気は最高潮。これで本当に、あとは本番で己の持てるポテンシャルを発揮できるかに懸かっている。

 問題用紙が最後の一人、清隆にまで行き渡り、運命を告げるチャイムが鳴った。

 

「始め」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 数日後、教室の雰囲気はXデーと同じただよらぬものとなっていた。

 例の如く、平田が代表して茶柱さんに問いかける。

 

「先生、今日ですよね? 中間テストの結果発表は」

「よく覚えているな。やけに表情が堅いのはそのせいか」

 

 彼女は室内を見回す。気怠げな表情から感情は判断できない。

 

「まあいい。喜べ、今から発表する。放課後だと諸々の手続きで忙しくなってしまうからな」

「手続き、ですか……? それはどういう……」

 

「そう慌てるな」会話をよそに、彼女は大きな紙を五枚、黒板に張り付ける。

 

「感心したぞ。小テストと比べて一回りも二回りも点数が伸びている。満点も数人いるな」

 

 彼女の言う通り、各紙の上方に記載された名前の横には100の数字が堂々と記されている。

 

「おっし!」

 

 健が感極まってガッツポーズをするのも確認できた。池と春樹もだが、総じて三十点前後上昇している。

 

「どうすか先生! 俺たちだって、やればできるんですよ」

「ああ、素晴らしい大健闘だった」

 

 乾いた拍手をする彼女の顔は――物悲気だった。

 

「――だが、『退学者』は免れなかったようだな」

 

 その致命的な一言に、明々としていた喧騒が一気に冷める。

 平田が冷や汗を滲ませながら、どっと重くなった口を開いた。

 

「ど、どういうことですか……?」

 

 それは、決定的な回答だった。

 

「言葉の通りだ。本人がその意味を最も理解しているはずだが? なあ――――――()()

 

 瞬間、視線が一斉に僕へと集まる。

 

「う、嘘だろ……? 何で、浅川が……」

「何かの間違いっすよね? アイツは俺らに勉強を教えてくれてたんすよ!」

 

 健たちから擁護が飛ぶが、当然受け入れられるはずもない。

 

「さあな。体調が悪かったのか、解答欄がズレていたか、いくらでも『まさか』は考えられる。いずれにせよこの点数表が全てを物語っているぞ」

 

 点数表。そこに記されている各教科の平均点は国語が84.5、数学が82.6、英語が79、理科が82.2、社会が81。

 それに対し僕の点数は国語が90、数学が94、英語が38、理科が87、社会が90だ。

 

「赤点の算出方法、薄々気づいていた者もいるだろうが説明しよう。平均点を二分の一にし小数第一位を四捨五入した値だ。英語の平均点が79、二分の一をすれば39.5、それを四捨五入した40点未満が赤点ということになる。つまり浅川は二点、英語の点数が足りないことになるな」

「そんな……」

「言っておくが、採点ミスは一切存在しない。真っ当な救済措置も存在しない。ルールは絶対的なものだ、諦めろ」

 

 淡々と言い切り、彼女は踵を返す。

 

「浅川は放課後、退学の手続きをしてもらう。これでホームルームは終了だ。各自授業の準備をしておくように」

 

 生徒のみになった教室には、誰がどう見ても明らかな暗雲が漂っている。

 意外だ。僕が赤点を取ったことにそこまでショックを受けてくれるなんて。

 

「……どうして、何も言わないの?」

 

 ようやく、声が掛かった。

 振り向くと鈴音と目が合う。他のクラスメイトとは違い、絶望的というより懐疑的な眼差しだった。

 

「……いや、正直僕も心の整理ができてなくてね」

「どういうこと? 私はてっきり、赤点のボーダーを少しでも下げるためにわざと点数を落としたと思っていたのに……」

「……さあ、どうだろうねぇ」

「今はそんな悠長な戯言を吐く猶予はないでしょう……!」

 

 キッと鋭い視線を向けられるが、僕はこの態度を崩すつもりはない。

 否、貫くしかない。

 なぜなら僕は、()()()()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 それは恐らく、真後ろの少年も同じはず。

 

「…………もういいわ」

 

 鈴音は徐に立ち上がる。

 

「どこへ行くんだ?」

「決まってるでしょう、先生のところよ」

「無駄だ、と言われたはずだが」

「大丈夫、秘策があるから」

 

 そう言うなり、そそくさと廊下へ出て行ってしまった。

 

「恭介、ちょっといいか?」

 

 僕を恭介と呼ぶのは彼しかいない。

 清隆の方を向くと、難しい顔をしていた。

 

「トイレ、付いてきてくれ」

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 茶柱の後を追い掛けると、たどり着いた場所は屋上だった。

 彼女は堀北の姿を認めるもお構いなしに――ここを選んだのは最低限の配慮のつもりだろうか――煙草を取り出す。

 

「どうした、間もなく授業が始まると言ったはずだぞ? それとも、みすみすマイナス評価を重ねに来たか?」

 

 慣れた手つきで火をつけ、酷く冷たい目で見下ろしてくる。

 しかし、臆することなく口を開いた。

 

「先生、一つだけ質問をしてもよろしいでしょうか」

 

「質問?」自分の突拍子のない発言に、茶柱は背を向けフェンスを眺めながら反応する。

 

「今の日本は――社会は、平等だと思いますか?」

「……随分と飛躍した話だな、お前らしくもない。その問いに意味があるのか?」

「極めて重要なことです。答えてください」

 

 手元の筒を吸い、白い息を吐く。

 

「私の見解を語るとすれば、当然平等ではない。残酷なまでにな」

「……ええ、そうでしょう。――単純に考えるなら」

 

「何?」含みのある返しに、茶柱は振り向いた。

 

「しかし、ならば人は何故平等を願うのでしょう? 何故遠く儚いものを、理想とし続けるのでしょう?」

「哲学は専門外だ。語るならよそで――」

「欲です、先生」

 

 ここはもう、相手の声を遮った彼女の独壇場だ。

 

「なりたいものや手に入れたいものがあるから、人は決まって誰かと自分を比べ、そうありたいと願ってしまう。そんな人々の薫陶こそが平等なのです。見せかけではない本当の平等から、私たちは目を背けてしまっているだけなのかもしれません」

 

 静かに、孤高に進軍する。

 

「人間は不幸にも考える生き物です。だから誰にでも望みがある。希求と原動力は、平等に存在する。その理屈を突き付ける相手がルールであり社会だと、私は思います」

「……何が言いたい?」

 

 待っていたと言わんばかりに、鈴音は一つ深呼吸をし、言った。

 

「私のポイントで、テストの点数と取引をお願いします」

 

 一見通るはずのない、非現実的な提案。

 それに対し高らかに笑う彼女の表情は、嘲りより感心に傾いているように見えた。

 

「面白いことを言うな、堀北。二人の入れ知恵か?」

「いいえ、私の策です」

「ふっ、まあそうだろうな」

 

 にわかに首を傾げる。一体茶柱は何を判断材料にして自分が独力で答えを編み出したと考えたのだろう。こういう悪知恵はあの二人の方が働くと思っている堀北としては甚だ疑問だった。

 結局、その偏見もとい二人への理解度が今の彼女たらしめている要因であることに、彼女自身は気づけなかった。

 

「影響を受けたということか。やはりお前たち三人は……」

 

 暗にそれを理解していた茶柱はもう一度、形を持たない煙を吐く。

 

「まさか金で点数を操作しようとはな」

「いいから答えてください。できるのか、できないのか」

「前例はない。だがお前の言う通り、今回の中間テストに限っては可能だ」

「――! じゃあ」

「その前に」

 

 見えた孔明に手を伸ばそうとしたその時、不意に茶柱が遮る。

 そして――空気の変わる音がした。

 

「疑問に思うことはないか?」

「――どういう、ことですか?」

「浅川恭介、英語38点。このシンプルな事実に、お前は何も感じないと?」

 

 含みを持たせた言葉に、首を横に振ることができない。

 内心気付いていた。状況の打開を最優先にしていたため目を瞑っていたが、納得のいかない部分が多すぎる。

 真っ向からの指摘を受け、さすがに意識せざるを得ない。

 取引は可能、その言質は既に取れた。今は彼女に素直に従おう。

 

「……私は初め、彼がわざと点数を下げたのだと思っていました」

「赤点候補の連中のためか。特に須藤は、例の英語に関して相当苦戦していたようだからな」

 

 前日の詰め込みでも眠気に襲われるほど、なかなか上達しなかったという話は浅川と綾小路から聞いていた。しかし結果的に、彼は試練を乗り越えた。

 

「……ただ、それでは中途半端なんですよ」

「というと?」

「英語以外の科目は軒並み上位に食い込んでいました。そして、これは私の勘ですが……彼はそれすらも手抜きだった」

 

 入試の成績を信じるなら、過去問という武器もある中彼が満点を取ることなど造作もなかったはずだ。

 

「自分の点数を加減することも可能な浅川君が、たった一教科だけ致命的な点数を取った。あまりに不自然です」

「つまり?」

「そこには理由があったはずです。彼自身とは関係のない、何か別の要因が……」

 

 そこまで言った時だった。

 不意に茶柱は口角を上げる。

 よく気が付いた、そう言わんばかりに。

 

「お前の言う通りだ、堀北」

 

 それで確信する。やはり自分に知らされていない大きな情報が隠れている。そしてそれは、浅川や綾小路すら把握していない。

 

「まずは、そうだな……浅川の()()()()()から教えてやろう」

 

 

 

 

 

 

 

「何があった?」

 

 歩みを止めず、清隆は問いかける。

 

「野暮なことを聞くなって。僕は何も知らないよ」

「……わかってる。あまりに冷静だったものでな」

「君もそうじゃない」

 

 表情や言動から見るに、どうやら一応の動揺はあるようだ。肝心な君にどうでもいいような反応をされたら、堪ったものではないよ。

 

「前日に約束していたはずだからな。オレたちは鈴音の一回り下の点数を取る手筈だった」

 

 その意図は二つ。

 一つは能力の高さを露見させないため。傍から見て異様な能力の上昇は目立つ。クラス対抗戦も考慮すると、僕らが何食わぬ顔で満点を量産するメリットはほとんどない。

 そして二つ目は、鈴音の指導者としての立場に現実性を持たせるためだ。僕らの学力が元から鈴音以上であるというファクターは勉強会のメンバーすら把握していない。身体的なものならまだしも、勉学において教わる側が結果的に教える側より優秀になることは滅多にない。彼女のおかげでここまで成績が伸びた、そう示すのに最も適した位置が、「一回り下」という絶妙なラインだった。

 だから、本当にあの時は混乱した。

 

「誤りはなかったんだよな」

「ああ。――僕は確かに、8()0()()()()()()()()()()だ」

 

 

 

 

 

 

 

「これは……」

 

 一枚の紙を呆然と見つめる堀北を一瞥し、茶柱は説明する。

 

「これが採点時点での浅川の点数だ。捏造も改ざんもない」

 

 受け取ったのは浅川の英語の回答用紙。点数欄には赤で86と記載されている。

 それは言うまでもなく、浅川が優に赤点ラインを越えている証拠だった。

 

「英語は私の担当ではないが、答え方からしてお前の予想は間違っていないだろうな」

 

 綾小路のオール50点事件と同じ理屈だ。高難度の和訳、読解問題を正解している一方単純な並べ替えや穴埋めの問題が空欄になっている。

 

「で、では何故、38点なんて嘘が……?」

「嘘、か。肯定も否定もしにくい表現だな」

 

 はっきりしない発言に、すぐに堀北は思考を巡らせる。

 

「なるべくしてなった点数だと?」

「そういうことだ」

 

 茶柱は管の先端を赤く点滅さる。

 

「そして――お前ならわかるはずだ。全ての真実が」

 

 そしてゆっくりと、白い息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

「――ポイントによって点数が下げられた、それしか考えられない」

「まあ、そうなるよなあ」

 

 清隆の見解に同意する。

 敷地内のものは何でも購入可能。ということは、学校のテストの点数も対象の一つと考えることはできなくはない。

 しかし、それでは二つ問題が発生する。

 

「でも、そんな大量なポイントを持っているかね?」

「何かしらの方法があるんだろう。秘密裏に行われている賭けや取引……この学校は何でもアリが過ぎる」

 

 点数を買うともなればそれ相応に高いポイントが必要になってくるはずだ。一点買うだけでもDクラスの生徒にとっては大きな負担となるに違いない。となれば合法的とは言えない手段で稼ぐ場所があるのかもしれない。

 ここで重要なのが、現段階でその可能性にたどり着き実行した者がいるという事実だ。頭が切れる、というと煽て過ぎな表現な気もするが、柔軟性の高さは認めざるを得ない。

 

「だが……そんなことよりも重要な問題がある」

 

 彼は一度足を止め、厳しい視線を向ける。

 

「そうだね、さすがに僕も、この事態が意味するとんでもない危険は理解しているよ」

 

 僕らは同時に、その『結論』を口にした。

 

誰の策謀か(フーダニット)

 

 

 

 

 

 

 

「まさか……誰かが浅川君を陥れようとした、ということですか?」

 

 信じられない自分自身の答えに、無情にも茶柱は頷く。

 

「取引の内容はこうだ。『浅川恭介の赤点に最も近い科目の点数を、赤点の二点下まで落とす』」

 

 わけがわからない、というのが正直な感想だ。なまじ優秀であるが故に頭では何とか理解が追い付いているものの絶句してしまう。

 浅川恭介が狙われている……? 全く現実味のない事実だ。

 

「誰がやったんですか?」

「残念だがそれは言えない。本人からの口止めが入っている上、私自身事後報告だった。理事長本人が対応したらしい」

「り、理事長、ですか?」

 

 どうして担任を取引相手にしなかったのだろう。その方が圧倒的に楽なはずだが。

 しかし茶柱の推測を聞き、自分はあまりにも動揺してしまっていることを自覚する。

 

「どのクラスの人間か、知られないようにするためだろうな」

 

 退学を企てる事情として真っ先に浮かぶのが恨みつらみ。一体どこの馬の骨が悪意を抱いているのか知れたらと思ったが、これはかなり悪い状況だ。

 誰がやったかわからない。それはDクラスの人間が根回しした可能性があることを意味しているのだ。

 わざわざ回りくどい方法をしてまでクラスを隠したことから余程知られたくないことなのだと捉えると、その懸念はより現実味を帯びてくる。

 所在も性別も悟らせない、正体不明な亡霊。本当に存在するのかも疑ってしまうような不気味さが、堀北の背筋にぞわりとした感覚を惹起させる。

 

「私が把握している情報は、これが全てだ」

「……ありがとう、ございます」

 

 この教師はよくも飄々と煙草をふかしていられるものだ。しかし彼女がまだ何かを隠しているということはないだろう。わざわざ話の腰を折ってまでして自分から話題を持ちかけたのだ。

 自分たちへの警告、堀北はそう捉えることにした。

 

「それで、取引には応じてくれるんですよね?」

「勿論だ。だがお前の手持ちで足りるかはわからんぞ?」

 

 息を呑む。Dクラスの生徒は軒並み所持ポイントが低い。いくら浅川からの預金があったとしても点数を買うとなれば難しいかもしれない。

 

「一点につき十五万ポイントだ。それで手を打つ」

「……意地が悪いですね」

「なに、これもルールだ」

「まけてくれてもいいのでは? 担任なら」

「平等だろう? 贔屓はできない」

 

 どうやら譲らないようだ。一点=十五万ポイント、全く足りない。

 そもそも点数を買うという発想自体、裏口を使おうとしているようなものだ。ある程度覚悟はしていたが、あまりに想定を超えていた。

 万事休すか、そう思われた時――。

 

「待ってください」

 

 空気に溶けてしまいそうな、力のない声が鼓膜を揺らす。

 

「あ、綾小路君!? どうして……」

「用を足そうとしたら道に迷ってしまってな」

「……これは、ナンセンスよ」

 

 頭が痛い。いつもそうだ、この少年たちは毎度毎度自分の思い通りにいかない奇天烈な行動で困らせてくる。最近は振り回されることも減っていったが。

 なによりうんざりしてしまうのが……と考えたところで、茶柱が綾小路に訊く。

 

「何をしに来た。トイレならお前の教室と同じ階だぞ? 迷子の子猫はこれだから困る」

「あなたにはオレがそんなに可愛らしく見えているんですか、結構評価高かったり?」

「愚鈍な動物は好まなくてな、お生憎様だ」

「愛嬌も不便っすね」

 

 こういう妙に胡散臭さを醸すアイロニカルな態度、元々彼自身具えていたように思えるが、最近は浅川の影響でより顕著なものになっている。

 尤もその余波が自分にまで及んでいるということに、彼女は半信半疑になっているのだが。

 

「だが、嘘は方便と言う。本当の用件を言え」

「すみません、調子に乗りました。――オレも払いますよ、ポイントを」

「ほう、お前まで同じ考えか?」

「なんのことですか?」

 

 真っ直ぐ、彼女は綾小路に問いかける。

 

「大事なポイントを払ってまでして『他人』を救う意味は本当にあるのか?」

「……オレは」

 

 正論、なのだろう。人の根幹は利己主義。無償で、あるいは自分が損を抱えてまで他人に手を差し伸べる価値は果たしてあるのか。苦し気な目をする彼も、茶柱の言うことには合理性があると感じたはずだ。

 しかし、

 

「オレは、まだ鈴音と同じものを信じ切ることはできません。でも、信じたいとは思っています。だからまだ、その可能性を切り捨てるわけにはいかないんです」

「非論理的だな」

「だから迷うんですよ、人は」

 

 その目には、濁りがあった。安直には穢れと呼べない、己の闇と光が拮抗する瀬戸際で踊らされているような危ない心が垣間見え、堀北は冷や汗を浮かべる。

 

「……いいだろう、お前の意見はわかった。だがわかっているな? これでようやくお前たちが買えるようになるのは一点だけだ。あと一点、どうする?」

 

 本題に戻り、再び堀北は渋面をつくる。このままでは浅川は退学になってしまう。ポイントで点数を買うという手段は既に手を尽くした。最悪平田や櫛田に泣きつくこともできるが、二人は引く手数多な交友関係のせいで聡明さと裏腹に消費が大きい。加えて、この場で打開策を講じることができなければ茶柱が時間切れを宣言する可能性もあった。

 今度こそ、道は塞がれた……?

 思えば犯人はこの状況を見越して『赤点より二点下まで下げさせた』のかもしれない。自分のポイントを無駄に消費せず、かつDクラスの人間が抗っても払えないギリギリのラインを読んで……。

 本当に、隙がない。

 初めは独りでどうにかしようと思った。決して独り善がりのつもりではない。綾小路と浅川に付き纏われ何かを与えられることがなくとも、成し遂げられるものがあると示す、言わば自立の証明をしたかったのだ。

 しかし、その結果は失敗だった。

 

「これ以上なければ、私は失礼する。放課後のHRで、退学者に通達させてもらうぞ」

 

 無慈悲な宣告。

 能面のような顔と抑揚のない声のまま、茶柱は去ろうとする。

 やはり裏技には大きな代償が伴う。点数を買う分には、落ちこぼれに課せられたハンデは厳しすぎたのだ。

 ――――そう、買う分には。

 

 

 

 

 

 

 

「待った!」

 

 

 

 力強いアルトボイスが、開放的な屋上に轟いた。

 三人の視線が、一点に集中する。

 その中で最も大人びた容姿をする彼女が、名前を呼んだ。

 

「そろそろ授業だぞ。それとも、お前まで無力な子猫を気取るか? ―――浅川」

「僕は風見鶏です、茶柱さん」

 

 僕はゆっくりと茶柱さんの前へ歩を進める。

 

「話は聞かせてもらいました。あなたとの取引で退学を回避する」

「ああ、だがその努力は今水泡に帰したところだ。残念だったな」

「いいえ、まだ終わっていません」

 

 諦めを推奨する彼女に首を横に振る。それを認めるつもりがないから、僕は今ここに立っている。

 退学なんて冗談じゃない。もう先日までとは違うのだ。やっと歩む道を見据えることができたのに、踏みしめることなく降りるなんてできるわけがない。

 自分のもとに降りかかった火の粉くらい、自分の手で振り払ってみせる。

 

「改めて確認します。点数とポイントは一対十五万で取引ができる、そういうことでいいですね?」

「その通りだ。お前の所持ポイントは0だがな」

 

 煽るような一言を無視し、僕は――()()()()()()()()()()()

 反応が、二つに割れる。

 

「何のつもりだ? 人の話を聞いていなかったのか――」

「あなたの方こそ何を言っているんですか? 早く払ってくださいよ、ポイントを」

 

 ふてぶてしく笑う僕とは対照的に、女性陣の顔が驚愕に染まる。

 

「清隆の点数を、十五万ポイントで売らせてもらいます」

 

 平均点が79、つまりDクラス全員の点数の合計は人数の40をかけて3160点。ここで誰かが一点売った場合、合計点3159で平均は78.9点となる。つまり赤点は39点未満、先程鈴音たちが持ち掛けた取引に重ねれば僕は退学にならない。

 茶柱さんは動揺をすぐに押し隠し、言葉を返す。

 

「馬鹿を言うな。そんなことが許されると思っているのか?」

「自分で言ったはずですよ、点数とポイントの取引は可能だと。つまりは売買どちらもできるということです」

 

 彼女があの時認めたのは僕らが点数を買うことだけではない。売ることだって当然取引だ。

 

「それならあれか、お前の理屈を知った生徒たちは皆点数を売り飛ばせるとでも言うつもりか? うちは破産まっしぐらだぞ」

「誤魔化さないでください。取引は今回に限った話だったはずです。それに、五十点も動かされたんですよ? たった一点が許されないはずないじゃないですか」

 

 一矢報いる、とは言えないものの、誰かさんのおかげで今回のみに限られている取引にはほとんど制限がないことが知れた。僕の行為が物言いをくらう道理はない。

 

「全て、あなたが堂々と言い放ったことですよ。教師らしく、潔く応じてください」

 

 多少の屁理屈は混じっているが、説得力はあり反論は難しい。

 それを理解している茶柱さんは、やっと頷いた。

 

「……わかった、点を買ってやろう。綾小路、異論はないな?」

「よろしくお願いします」

 

 彼は即答した。僕が清隆の端末を最初から持っていたのは二人で予め意思疎通を行っていたからだ。因みに僕だけ遅れて登場したのは他意のない演出に過ぎない。清隆からは「こんな時にまで……」と微妙な顔をされてしまったが、勝算がある状況なのだし許して欲しい。結果的になかなか様になっていただろう?

 

「ただし、払うポイントは五万だ」

「どうしてですか?」

「売買が同じポイントで行われるわけがないだろう。質屋と同じ、売るより買う方がかかるものだ」

 

 今回仲立ちとなっているのはテストの点数。それを商品と置き換えるなら、本来学校側が提供しているものだ。確かに理屈は通っている。素直に了承した。

 胸がざわついてしまったのだろうか。茶柱さんは最後の一服をしてから、煙草の火を消した。

 

「本校始まって以来、Dクラスが上に勝ち進んだことは一度もない。それでもお前たちは足掻くつもりか?」

「二人は兎も角、私は絶対にAクラスへ昇りつめます。そして、この小さな箱庭(社会)が平等であることを、証明してみせます」

「不良品、そう見放されているお前たちにも、活路が用意されていると?」

「お言葉ですが」

 

 清隆も茶柱さんの問いに答える。

 

「不良品には不良品なりな成長のしかたがあります。欠けているものを突き付けられ、自分を見つめ直し改良を重ねる。そうすることで変わるものは確かにあると、オレは信じています」

「今のお前たちのように、か」

「……はい」

 

 一連の問答に満足したようで、彼女はあくどく笑い空を仰ぐ。

 

「なら、楽しみにしようじゃないか。――担任として、な」

 

 そう言って遠い目をする彼女。既に瞳の正体は知っていた。

 何かを、懐かしんでいる――。

 

「授業は始まっている。いいか? お前たちとは進路相談をしていた。正当性のある遅刻でクラスポイントのことは心配しなくていい」

 

「早く行け」、そう促されるまま、僕らは階段を下りて行った。

 その間――「恭介」

 

「ん?」

「心当たりはないのか? お前の退学を望む黒幕(フィクサー)に」

 

 ふむ、フィクサーか。言い得て妙だ、今後はそう呼ぶのがいいかもしれない。

 

「全く。思いもよらない強敵出現ってところだね」

「あと一歩で、本当に手遅れになっていたな」

 

 僕は頷いた。

 正攻法以外でポイントを稼ぐ手段を利用したと仮定すると、一つだけ問題が生じる。悪足掻きの許される『赤点の二点下』という条件だ。

 本人に敢えてそうする理由は思い浮かばない。自然なのは別の要因の存在、すなわち「せざるを得なかった」という答えだ。

 ポイントの動きは常に学校側に見張られている。急激な変動は何かしらの不正を疑われてしまうはずだ。恐らく監視の目を掻い潜れる程度に抑える制限が設けられているのだろう。社会と照らし合わせても、摘発されずにグレーな範囲で活動しようとするのは当然の発想。故にそこまで贅沢ができる程のポイントを蓄えることはできなかった。今回はその事情にからがら助けられたというわけだ。

 しかしこれは、単なる問題の先延ばしにしかならない。

 今後もクラス対抗戦に紛れて退学の懸かる試練が訪れるかもしれない。そうなった時、同じような危機を避けるのはやはり難しい。困ったものだ。

 僕には二つ選択肢がある。一つはこのまま後手後手に回り防衛に徹すること。

 そしてもう一つは、()()()()だ。

 この学校で希望を抱き続けると決めた今、そこから引き剝がそうとする侵略者が存在するなら戦うしかない。

 ()()()()しか、ないのだ――。

 

「……清隆」 

「どうした?」

「さっき君が言ってたことについてなんだけど」

 

「さっきの?」彼は僕の方を見るが、僕は目を合わせなかった。

 でないと、喉まで出かかっている問いが引っ込んでしまいそうだった。

 

「『不良品も改良を重ねて優れていく』、本気で思っているか?」

「……何とも言えないな。ただ、そうだといいなと思う」

「……そっか、僕も同じ気持ちだよ」

 

 努めて穏やかにそう言った。

 本心だった。欠陥品とも呼ばれるそれは、何かが足りないから不良なのであって、それを埋めることができれば当然優良に変貌する。

 清隆も、鈴音も、みんな平等にその権利が与えられている。

 しかし、それならばと、僕の中には別の疑問が生まれた。

 

「……」

 

 不良品が優良品に変われるとして――

 

 贋作は、どうすれば真作になれるのだろう。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

フィナーレ(前編)

最近一話が短いけど、区切りの問題です。今回も前編と後編で滅茶苦茶量に差があります。


「かんぱーい!」

 

 大人数の意気揚々とした声が、小さな部屋で反響する。

 結果的に、中間テストは一人の退学者も出ることなく終わりを迎えた。ならば次に待っているのは何か?

 当然、ポジティブな会合だ。

 

「いやー、それにしてもお前は災難だなぁ浅川!」

「本当だぜ。小テストは名前を書き忘れたと思ったら。中間テストじゃ採点ミスを受けるなんてよ!」

 

 真相を知るものにとっては失笑ものだ。どちらも全く以て存在しない記憶なのだから。

 あの後僕の退学を取り消す言い分として用いられた理屈が採点ミスというものだった。簡潔な朗報を受けクラス全体が一瞬硬直したものの、真っ先に勉強会のメンバーが駆け寄ってくれたのだ。ああいう時に軽率に声を掛けてくれるのは大変ありがたいものである。

 

「あっはは、終わりよければすべて良しだなあ」

 

 適当な返しをして見せると清隆は苦笑い、鈴音はジト目になる。

 

「――ところで、今回もオレの部屋なのか……」

「もうちっさいことは気にするなって。しっかしいつも思ってたけど、本当に何もないよなあこの部屋」

「だよな。櫛田ちゃんはどう思う?」

「私はいいと思うよ。清潔感があるって素敵じゃない?」

「……だよなー! 褒めてもらえて良かったな、アハハハハ」

 

 そう強く叩いてやるなよ池。清隆が口に入れたポテトチップスを吐きそうになっているぞ。

 

「何はともあれ、今回は鈴音の功績が大きかったよなあ」

「本当だね。最初は慣れなかったけど、途中からは何て言うか、この人なら信頼できるって感じがすごかったもん」

 

 沖谷に続いて健らも彼女を褒めちぎる。

 

「感謝してるぜ、堀北」

「言ったでしょう。私は自分がすべきと思ったことを最後までやり遂げただけ。礼を言われる筋合いはないわ」

 

 どこか高飛車な態度を装っているが、彼女の発言は謙遜と捉えることもできる。僕らからすれば相当丸い性格になったと言えるだろう。

 更に――彼女はそれにと付け加える。

 

「あなた自身の紛れもない努力の成果よ。驕りは禁物だけど、誇っていいものだわ」

 

 ふっと表情を緩める彼女に、僅かな沈黙を挟んで男たちは感動の渦に巻き込まれた。

 

「くぅっ! 一生付いていきますぜ、堀北先生!」

「迷惑よ。あと、前から思ってたのだけど先生という呼び方はやめなさい」

「何でですか堀北先生?」

「…………来るべきじゃなかったかしら」

 

 そう言ってチョコを一つ口に放る。初めは隅に逃げ込んで読書をしていた彼女だったが、僕らが総動員で部屋の真ん中へと押しやったことにより輪に加わってもらえている。こうして吐いている溜息にもあまり重いものは感じないので問題はないだろう。

 

「これで俺たち、来月からポイント入んのかな?」

「もうちょい早くにテストがあったら、今月には0円生活から抜け出せてたのになあ」

「でも早かったら早かったで、もっと余裕がなくなってたかもしれないよ」

「ああ確かに。じゃあしょうがないか」

 

 中間テストは六月の上旬。もう一、二週間早ければ六月のクラスポイントに反映させることができた。これまた学校の悪い性格が出たと思う。アホ面ぶら下げてきたお前らにはもう一か月苦行を与えてやるという悪意を感じる。

 だがその日々も七月に入れば終わる。僕もようやく自分の端末に0pp以外の表示が刻まれるようになるというわけだ。

 

「安心しなさい。最終的にはずっと生活が楽になる程のポイントが手に入るようになるから」

「え、どういうこと?」

 

 唐突な発言に櫛田が疑問を投げる。

 

「Aクラス」

 

 それに対し、鈴音は堂々と言ってのけた。

 

「私たちはこの三年間で、必ずAクラスに勝ち上がる。私だけじゃない、綾小路君や浅川君だけでもない、あなたちの協力も頼りにね」

「え、Aクラス? お、俺たちがかよ」

「それに、俺たちのことも頼るって……」

「今後の戦いで必要になってくるのは学力だけではない、と私たちは踏んでいるわ。あなたたちの尖り過ぎた個性が役に立つ時はきっとくる。期待しているわよ」

 

 どうやら鈴音にも纏め役というものをものにし始めているようだ。士気を上げる言葉に、テストで赤点の二文字が目前に迫っていたはずの三人は大きく舞い上がる。

 

「任せろ、恩は絶対返す主義なんだ。難しいこと考えるのは苦手だが、力仕事じゃ誰にも負けねぇ!」

「あの堀北先生に期待してるなんて言われたら、頑張らないわけにはいかないよな!」

「よっしゃぁみんな、やってやろうぜぇ!」

「おおー!」

 

 よく声の出る連中だ。老いぼれには眩しいねえ。

 櫛田も沖谷も、三人の姿を微笑まし気に眺めている。

 清隆と鈴音も、いつもは硬い表情筋が程よく働いているようだ。

 ――知らなかったな、この景色は。

 また一つ、好きな色ができた。

 その高揚感に、今日はきっと酔いしれてもいい日だ。

 

「浅川も、もっと話そうぜ」

「たくさん食ってたくさん飲んで、盛り上がるぞ!」

 

 気持ちのいい呼びかけに、僕はにっこりと応えた。

 

「はいはい」

 

 

 

 

 

 

「合点いかん」

「まあそう言うなって」

「面倒なのは苦手なんだよぉ……」

 

 片付けという絶対的に必要かつ好む可能性皆無な作業。誰か捌き方を教えてくれ。

 幸いなのは女子二人と沖谷が手伝ってくれていることだ。

 

「三人も、ありがとな」

「こっちこそ、部屋を使わせてもらって、ありがとね」

「ホント、感謝しなさいよね。私にこんなことをする義理なんてないのだから」

 

 驚くほどに差異のある返答だ。かたや女神、かたや冷酷鬼姫。その立場の違いが前面に出ている。

 

「須藤君たちもきっと疲れてるんだよ。テストは過ぎてるけど、結果が気になって緊張してたんじゃないかな? 最近そわそわしてたし」

「沖谷は優しいなあ。でも緊張は僕だってしてたさあ」

 

 苦笑いをする彼に感心する。気遣いのよくできる子だ。

 

「さて――沖谷君、あとはコレを下に持って行って終了よ」

「あ、わかったよ堀北さん」

 

 鈴音と沖谷がパンパンに膨らんだゴミ袋を回収スペースのある一階へと運んでいく。

 その場には、僕と清隆と櫛田の三人が残った。

 

「綾小路君も浅川君も、お疲れ様」

「君もね」

「大変だったろう。過去問まで手に入れるために奔走してくれたって話だったな」

 

 互いに労いの言葉を掛けていると、途端に櫛田の表情が強張る。

 

「あの、さ……そのことなんだけど」

 

 言いにくそうにする彼女だったが、意を決して問いかけた。

 

「過去問って、本当に堀北さんだけで思いついたものだったの?」

「――そうだぞ。なあ清隆」

「ああ、オレたちもあの時は驚いたよ」

 

 そう答えると、「そっか」と俯きがちになってしまう。その反応を見る限り、根拠のない勘だったのだろうか。

 詰まる所、彼女の予想は半分当たっている。

 手がかりは合間合間に挟みこまれていた。僕の『どうぐ』という存在の指摘、『書店』とそこに並べられていた大学受験の『過去問』、清隆の『五月の頭の先生の言葉に意識を向けさせる』発言、結論にたどり着いたのは鈴音自身だが、僕らのアシストがなかったかと聞かれると難しいところだ。 

 すると、櫛田は元気のない声で話を続ける。

 

「…………やっぱり、二人は堀北さんみたいな子が好き?」

「え――?」「うん」

「よく即答できるな……」

「嘘は嫌いだから」

 

 そんなことないよ、なんて言うわけないだろう。そもそも清隆とは違って僕は鈴音の方が圧倒的に櫛田よりやり取りの量が多いのだ。親近感という点でも勝負は火を見るより明らかだろう。

 彼女は乾いたように笑う。

 

「あはは、ホント、清々しいくらいな即答……」

「どうしてそんな質問を?」

「いやね、二人も薄々気づいてるかもだけど、三人ってけっこうウワサになってるんだよ? 仲が良いとか、堀北さんはどっちを選ぶんだ、とか」

 

 前に清隆から土産話として聞いた内容だ。知らない内に僕らは三角関係にされていたらしい。おかげで鈴音に向けられる目が厳しいものから温かいものになるという思ってもみなかった大変化が巻き起こっていたらしいが。

 

「綾小路君は、どうなの?」

「オレはー……最初はただの隣人程度だったけど、今はどうだろうな。だいぶ向こうも気を許してくれるようになったとは思うが」

「……そっか。それって凄いことなんじゃない? 本来堀北さんって、そんなにクラスの人と関わらない人だったはずだから」

 

 今となってはだが、櫛田の言う通りかつての彼女にコミュニケーションという概念が存在していたのかは微妙なところだった。

 しかしどうして、今そのことについて話をする必要があるのだろう。

 それを問いただそうとした時、不意に彼女は顔を上げた。

 

「ありがと、答えてくれて。もう遅いから、そろそろ私も失礼するね」

「――ああ、お疲れ様」

 

 逃げるように、出て行ってしまった。

 入れ替わりで鈴音が入ってくる。

 

「櫛田さん、あまり元気がなさそうだったけど、あなたたち、何かしたの?」

「お前が考えているようなことは起こってないから安心しろ」

 

 この期に及んで僕らを獣か何かだと思っているのか? 蔑んだ目を向けないで欲しい。

 

「沖谷は?」

「帰らせたわ。楽しかった、それからありがとうとも言っていたわよ」

「可愛いやつだな」

「……あなたたち、やけに沖谷君には甘いわよね?」

「お、君も僕らに甘やかされたいかい?」

「甘い考えね」

「苦い思いを味わったよ」

 

 ちょっと冗談を言うとすぐこれだ。慣れてきた今それもまた一興と思うようになってきてしまっている自分が哀しい。

 

「忘れ物はなかった?」

「ああ、チェック済みだ」

 

 清隆が自信満々に答える。――が、僕はふと妙なものを見つけてしまった。

 

「ねえ、アレ誰の?」

「え? ――あ」

 

 ベッドの上、それなりに目立つ位置に一台の端末が置かれていた。

 呆ける少年を一瞥し、鈴音の深い溜息が木霊する。

 

「何やってるのよ……」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 学校の敷地の外れ。そこには穏やかな園とくつろぎのための木製ベンチが設置されており、胸元程の柵の奥に遠く広がる水平線を一望することができる。

 浅川や佐倉など、喧騒を得意としない者たちが時たま訪れるそこに、今はあまり沿わない性格の人物が立っていた。

 闇の中で打つ波の音は、ゆっくりと精神に乱れを助長させるような怪しさを秘めている。

 何もない方向を、少女は冷徹な瞳で眺める。

 そして――

 

「アー……ウザイ」

 

 ()()()()、呪詛を唱え始めた。

 

「マジでムカつく。ホント死ねばいいのに……」

 

 監視の目が存在しない空間で、人知れず天使の罵詈雑言が放出される。

 

「自分が可愛いと思ってお高く止まりやがって! あー最悪、ホントにウザい。ウザいウザいウザイウザイウザイ」

 

 悪意を制御できず、彼女の感情は四肢にまで滲み出る。金属が蹴られる鈍い音が響いた。

 

「どこまでも私をイラつかせて、何なんだよ一体……! アンタは女王様気取りの自惚れ屋だったはずだろ!?」

 

 両腕を全力で柵に叩きつける。伝わる痛みなどどうでもいい、寧ろこの苦悶を誤魔化す良い薬になる。

 何度も、何度も何度も何度も――彼女は胸中に蔓延る憐れな感情を具現化させる。

 

「勉強以外に能がなくて、誰からも信頼されなくて、ずーっと孤独で惨めな存在だったはずだったのに、どうして……」

 

 病を患っているかのように、寄生虫にでも蝕まれているかのように、雑に頭を掻きむしる。

 みすぼらしい見た目になり果てるのもお構いなしに、彼女はもう一度、今度は大きく腕を振り上げる。

 

「どうして――!」

 

 一際大きなノイズが生じる、その直前だった――。

 

「……!」

 

 軽い調子のメロディーが鼓膜を刺激する。聞きなれた音――端末の着信音だ。

 

「誰!」

 

 驚きと、焦りが急速に心を支配し、音源と思われる茂みを振り返る。

 あの裏にいる。誰かが――自分の決して見られてはいけない秘密を見てしまったヤツがいる。

 観念したのだろうか。暫しの沈黙を経て、ついにその正体が姿を現した。

 

「お前……」

 

 

 

 

 

「なあ、一つだけ聞いてもいいか?」

 

 二人きりになった寮室で、その声は唐突に放たれた。

 

「実はな、お前と屋上へ向かっている途中に聞こえたきた言葉があるんだ」

「聞こえてきた?」

「他のクラスからな」

 

 僕は彼との会話に夢中になっていたが、彼は僕よりずっと視野が広いようだ。

 

「それで、内容は?」

「――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 不意を突く言葉だったが、動揺は見せない。

 

「へー、他のクラスでも過去問を手に入れた輩がいたんだねえ。目敏いこって」

「……オレは、違うと思う」

 

 違和感のないはずの答えに、彼は首を振った。

 

「ニュアンスがおかしいんだ。『手に入れられて』とか『もらえて』とかならわかる。だが『くれて』という表現は不適切だ」

「偶然だろう。感極まってる中で口を開けば、適切とは言えない言い回しの一つや二つしてしまうものさ」

「違うんだ、恭介」

 

 再び、首を横に振られる。

 

「これは、一之瀬帆波の台詞なんだ」

「ほう」

「クラスメイトに囲まれ賛辞を受ける中、謙遜のつもりで放った一言。だったら譲り受けた相手を立てるような表現を選ぶはずだ。善人にしてリーダーを張っているという彼女ならな」

 

「それに」と彼は続ける。

 

「自分から過去問を求めたのなら、やはり『ギリギリでくれた』なんて表現はしない。本番直前になってBクラスに外部から過去問が持ち込まれた。そう考えるべきだ」

「根拠はないね」

「ああ、だからこうして、正面から確認するしかなかった」

 

「確認?」敵意ではなかった。僅かな疑惑と、それを大きく上回る興味が、その目には宿っていた。

 彼は、問いかける――。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「どうしてあんたがここにいるの…………()()

 

「お前、()()()()()()()()()()()()な?」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

フィナーレ(後編)

あと1,2話で二章が終わり、五話少しの幕間を挟んで三章に入ります。いつもの如くtipsは別枠です。


 一陣の風が、二人の間を吹き抜ける。

 何も言わない時間は、永遠に感じられる程重かった。

 

「……私の杞憂だったようね」

 

 黒いロングの髪をはためかせる少女が、沈黙を破る。

 

「大層元気が有り余っているようで安心したわ」

 

 相対する藁色の髪の少女に、例の物を投げ渡した。

 

「忘れ物よ。気を付けなさい」

 

 反応を待たずしてその場を去ろうとする。

 しかし、彼女がそれを許すはすがない。「待って」

 

「何かしら?」

「見たの?」

「何を?」

「だから! ……さっき、私がやっていたこと、見てたの?」

 

 櫛田は鬼気迫る表情で問い詰める。

「ええ」それに対し、堀北は何食わぬ顔で簡潔かつ明確な返答をする。「見たわよ?」

 

「――っ」

「それがどうかした? 私があなたのそのおぞましい本性を把握していることくらい、既に知っているでしょう」

「それは……そういう問題じゃない。まさかクラスに言いふらしたりなんかしないよね?」

「言ったところで誰も信じないわ。メリットもないもの」

「少なからず疑いを持つ人は出てくる。その可能性があるってだけで、あんたと敵対する理由が生まれるんだよ」

 

 嘘偽りない敵意を前に、堀北の中である疑惑が生まれた。

 

「敵対…………櫛田さん、あなた、テストで何か企てたりした?」

「は? 何のことを言ってるの。あんたに面倒なことに付き合わされたあの日以外何もないけど」

 

「……そう」どうやらアテは外れたようだ。自分を嫌う彼女ならその周囲にいる人間のことも狙うかもしれない、そう考えたのだが。

 

「とにかく、この際だから言っとくよ。私はあんたをこのまま自由にさせるつもりはない。私の過去を知っているあんたをね」

「だから私に近づいたのね。綾小路君と浅川君にも度々コンタクトを取っていたのは、少しずつ私との物理的な距離を縮めるため。そういうこと?」

 

 さすがに二人が気の毒だと思わざるを得ない。櫛田の私怨に巻き込まれてしまったということなのだから。

 

「かつて一つの学級を崩壊させた少女が、再びその引き金を握ってしまうとはね」

「人間なんて所詮そんなものだよ。この人は優しい、だから信じられる。そうやって簡単に心を開いて弱さを見せるんだから。――例外はいるけどね」

 

 例外。堀北は勿論、綾小路と浅川、加えて佐倉たち日陰者と王のような表裏がほとんどない者たちのことだろう。

 しかし思春期を迎える中高生では、寧ろそちらの方が少数派だ。どこかで拗らせ、後ろめたいとわかっているはずのものを膨らませる。

 わかっているのだ。実際は堀北も同じようなものだった。兄への憧れという鎖が自身を縛っていたのだから。

 そして、歪んでしまった舵を正常に戻してくれた少年がいた。

 

「あなた、人の善意を無下に扱うつもり?」

「共感も慰めもしてあげてるよ? だからみんな私を信じて疑わなくなっていくわけだし」

「でも、そこに本心はないのでしょう」

「本心? あはは、他人を受け入れたことのないあんたが言う? ――ううん、取り繕わないあんただから言えるのかな」

 

 小馬鹿にするような口調で、櫛田は言う。

 

「……わからないわ。どうしてそこまでして人に好かれようとするのか」

「……わかるわけないよ。わかってもらおうとも思ってない」

「だからって、はいそうですかとあきらめるわけにはいかないのよ」

 

 予想外の返しだったのか、彼女は目を丸くする。

 

「あなたをこのまま放置すれば、いずれクラスを蝕み腐らせる。毒は回れば回る程厄介になるわ」

 

 今はまだ、彼女が実害を与えてくる可能性は低い。中心人物としての立ち回りは、ただの一人でさえ陥れる余裕を許さないものにする。

 しかし、『もしも』はいついかなる時にも起こり得る。彼女の地位が絶対的なものとなれば――例えば平田や軽井沢を圧倒的に凌ぐ信頼を獲得すれば、もはや誰も疑いの目など向けなくなるだろう。あるいは追い詰められやけくそにでもなれば、迅速かつ徹底的に結束を壊しにかかるだろう。

 ちょうど、堀北の母校で起きた悲劇のように。

 櫛田と同様、こちらにも火元の狭間に導火線が引かれているのだ。

 

「毒、ね。じゃあ何、あんたがしたいのは私の排除、つまりは解毒ってわけ?」

「…………私は」

 

 今までなら即答で肯定していた質問。

 なのに、何故か詰まってしまった。何かが思いとどまらせた。

 ふと、疑問に思ってしまったのだ。

 もし、だ。もし、目の前の少女が秘める裏切りの危険性を排除したとして――

 その時、彼女はどうなってしまうのだろう? 

 

「いいえ」

 

 迷っている間に、答えが出ていた。

 矛盾とも取れる不可思議な回答に、櫛田も訝し気だ。

 しかし、仕方がなかった。

 

「私、は、そんなこと、しない」

 

 自分の憧れを、目指すべきものを確かめた今、

 

「仲間は、見捨てない」

 

 あの人ならばと考えたら、もう止まるわけにはいかなかった。

 

「は、はぁ? な、何バカなこと言ってんの」

「あなたは他の人には真似できない能力を持っている。平田君がみんなを纏めているように、須藤君が運動が得意なように、綾小路君や浅川君が悪知恵を働かせられるように、あなたにはあなたの価値がある」

 

 竹の割れ目から現れたかぐや姫のような突発的な意思を、どうにか理性と言葉で形として成り立たせる。

 

「私はあなたを、止めたいだけよ」

 

 人によっては――それこそ綾小路が聞けば「生温い」と一蹴されかねない一言が最後だった。

 故に、櫛田がそれを真に受けることはない。

 

「……はっ、はは」

 

 意表を突かれた顔を元に戻し、彼女は余裕を持って堀北に近づく。

 

「そんなことできるわけないよ。私はみんなにとっての『一番』なんだから」

 

 あっという間に彼女は懐まで踏み込み、その距離は鼻と鼻が触れる寸前まで縮まった。

 かつて、エドワード・ホールが提唱した四種の対人距離の一つ。

 人を拒むことで知られている堀北に、当てつけの如く密接距離――ごく親しい者のみが許される距離に接近してみせた。

 

「あんたに私は葬れない」

 

 近い将来に向けた宣戦布告、文字通り眼前に突き付けられた。

 しかし堀北は、動揺も憤怒も示さなかった。

 対人距離、その分類には別解がある。

 エドワード・ホールは、密接距離の一歩手前である個体距離を相手の表情が読み取れる範囲と定義した。

 その個体距離までを全て『排他域』として括り、絶対的に他人の侵入を忌避し会話を望まない距離と捉えた人物がいる。

 その者は、日本人だった。

 

「そうかもしれないわね。でも、私の望みはあなたが思っているものとは違う」

 

 人の深淵が覗く距離、それでもなお退かない。

 決して屈さず、そして相手の闇を受け止めるという意志表示だ。

 

「私は、あなたを救うのよ」

 

 対峙する二人は微動だにせず、夜を映す目を瞬かせる。

 人知れず、郷を共にする少女たちの間に迸る火花が散った。

 

「…………あは、あっはははははは!」

 

 他を寄せ付けない間合いを解いたのは、櫛田だ。

 

「あんたに救われるなんてまっぴらごめん。一番そんなことされたくない人だもん」

 

「それに」と続け、彼女は一度背を向ける。

 

「私に救いなんて要らないよ、堀北さん」

 

 振り向いた表情は、誰がどう見ても『エガオ』だった。

 

「今のままで、私は十分幸せだから!」

 

 

 

 

 

 澄ました顔で、舗装された道の端を往く。

 かつて心通わせた二人の少年が並んだ道。堀北は反対の結末を携えて歩いていた。

 小走りで先に帰ってしまった櫛田のことを思い浮かべる。

 ――人間なんて所詮そんなものだよ。この人は優しい、だから信じられる。そうやって簡単に心を開いて弱さを見せるんだから。

 ――共感も慰めもしてあげてるよ? だからみんな私を信じて疑わなくなっていくわけだし。

 ――わかるわけないよ。わかってもらおうとも思ってない。

 彼女は結局、一貫して自分とは解り合おうとしない、対立の姿勢を取り続けた。

 しかし、どうにも納得できない。

 この二か月、辿って来た軌跡を振り返れば、自ずと違和感は見えてくる。

 時には優しさや温かさを呼び起こす良心、それを利用する彼女は「弱さ」だと称したが……。

 ――――あなたも、()()でしょう?

 いずれにせよ、今何を言っても徒労に終わるのは目に見えている。自分がこうして思考を巡らす間にも、櫛田はエレベーターに乗り込んでいるのだろう。

 自分の端末を開くと、だいぶ時間が経過していたことに気付く。綾小路と浅川には当然何も言わずに出て行ってしまった。彼らのことだから心配しているかもしれない。

 ……丸くなったものね。こんなにも当たり前に他人のことを考えるなんて。

 何かを思うことはない。喜ぶつもりもないし、かといって忌み嫌うつもりもない。強いて言えば、善い結果が生まれた事実に安堵するくらいだ。

 そうして寮のすぐ側までたどり着いたところで、ふと違和感に気付く。

 誰か、いる……?

 櫛田だろうか。訝し気に思いながら近づくと、

 

「え?」

 

 意外な人物だった。

 

「綾小路君……?」

「……鈴音か」

 

 歩きづらそうにする綾小路と――

 

「悪いが、手伝ってくれないか?」

 

 その背で苦悶の表情を浮かべながら眠る浅川の姿が、そこにあった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 数十分前。

 

「お前、過去問を他クラスに渡したな?」

 

 波を打つような静けさが訪れた。

 彼の目に、僕を咎めるような意思は感じられない。あくまで知りたいというだけのようだった。

 それを悟ると共に安堵するが、敢えて認めてやらないことにした。

 ……無論、向こうも既に察しているようだが。

 

「冗談きついぜ? 理由がないって」

「わかりやすい利益があるだろう。考えられるのは二つ」

 

 彼はピースサインを作る。僕も真似る。

 

「利己的な人間であれば、過去問を提供するかわりにポイントを要求する。――だがこれはあまり賢くない。折角貸しをつくれるならとっておくべきだ」

「おまけに僕はそんなにあくどい人間ではないしね。鈴音に協力するという意志に反するつもりはないよ」

「ああ。だからお前は、クラス間での協力関係を要求したんだ」

 

 確信を持って彼は告げる。僕は二本指をくいくいと曲げ伸ばしする。

 

「大したものだ。この時点で他クラスと手を結ぶなんてな」

「いやいや勝手に話を進めないでね。認めてないから」

 

 概ね彼の言う通り。僕は帆波に過去問を渡すことで、()と協力する価値が僅かでも存在することとその権利を手に入れた。

 

「大事な問題があるだろう? いくら理由を見出せたとしても、実行できなければ机上の空論さ」

「いくつか考えられる。その前に、お前の連絡帳を見せてくれ」

 

 言われるがまま、僕は彼に端末を渡す。

 登録されているのは勉強会のメンバー、平田、愛理、みー、ホワイトルームのメンバー、他には有栖の名前が記載されている。

 一通り眺め、清隆は顔を顰める。

 

「……羨ましい。オレは同クラス以外に連絡先を持っていないのに」

「あっはは、有栖くらいなら許されるんじゃないか? 時が来たら、椎名たちのも渡したげるよ」

 

 ホワイトルームのメンバーならきっと清隆とも馬が合うはず。悪い関係にはならないだろう。

 彼は落胆を抑えて本題に戻る。

 

「……てっきり連絡先を持っていると思ったんだが」

「何のことか見当もつかないけど、残念だったねえ」

「白々しいことを言う」

 

 べーっと舌を出してやったが意にも介さない。冷たいな。

 

「となると…………………!」

 

 暫し悩む素振りを見せていたが、すぐに考えは纏まったようだ。

 

「あの時か」

「どの時?」

「図書館だ」

 

 図書館で起こったCクラスの生徒とのいざこざ。あの場には確かに帆波もいた。

 

「お前、別れ際に握手したろう。メモか何かを忍ばせたんだ」

 

 ほぼ正解だ。

 僕はそのタイミングで帆波にメモを渡すことで、その後のコンタクトの機会を得た。

 ただし、書かれていた内容は連絡先ではない。

 

「ならどうしてここに帆波の名前がない?」

「答えは簡単だ。連絡先ではなく待ち合わせの時間と場所を書いたんだ」

 

 これも正解。

 しかしまだ疑問は解消されないはずだ。

 

「連絡先にしなかった理由は?」

「それは……オレたちに知られないようにするためじゃないか?」

「あっはは、どうだろうね」

 

 半分正解、と言ったところだ。

 今からそれを証明する。

 

「ならこうしよう。君のいるこの場だけなら認めてやってもいい」

「ただし外では絶対に否定する?」

 

 僕は頷いた。これで誰にも知られたくないという線は消える。

 暫く見守っていると、彼は結論を定めたようだ。

 

「……データが足りない、か」

「降参かい?」

「生憎情報不足でな。他クラスの事情が絡んでいるんだろう。だからオレには隠すメリットがないわけだ」

「君は、本当に賢いなあ」

 

 さすがだ。確かに今彼が把握している情報だけで完答するのは不可能だ。寧ろ他クラス絡みというところまで行きつく思考力が伊達ではないと思えるくらいだ。

 

「AクラスやCクラスに取引をしなかった理由は?」

「無法地帯に首を突っ込む勇気はないよ」

 

「それもそうか」()()()()()()()()()()()、僕の答えに納得した。

 仕方のないことだ。情報がなければ分析も推測もできない。

 

「鈴音が知ったら、何て言うだろうな」

「証拠はないからねえ。バレる頃には効果が証明された時さあ。万が一咎められたら、『チョーさん』とのことを打ち明けるよ」

「まあそれで溜飲も下がるか」

 

 僕らには鈴音に打ち明けていない努力が()()ある。その片方は鈴音がしたことにも関わることだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それが肝となっている。――兄よりは生徒会長と呼ぶのが適切か。

 これで、今のところ可能な清隆との情報共有は完了だ。

 ……さて、ここでいよいよ気になってきていることがある。

 清隆の顔を窺うと、ちょうど彼も同じことを考えていたらしい。

 

「遅くね……?」

「……ああ」

 

 端末を取り出し鈴音の端末のGPSを辿る。

 

「寮の外だと?」

「僕らが前話してたとこに向かってるね」

「行ってみるか」

 

 櫛田と一緒でない場合、夜中に女子が一人というのも危険だ。どっかの会長の時のように襲われるかもしれない。

 特に迷うことなく、足早に部屋を出た。

 

 

 

 

「忘れ物よ。気を付けなさい」

 

 そう言って端末を櫛田に投げつける鈴音の姿。僕らは茂みに隠れて微妙な顔のまま見つめていた。

 探していた人を見つけたと思ったら何やら真面目腐った表情で誰かと向かい合っていて、その誰かが櫛田ともなれば思わず隠れてしまうものだろう。

 

「清隆、念のため――」

「もうやってる」

 

 僕が頼むまでもなく彼は既にカメラの機能をつけていた。ここにたどり着く少し前に届いていた大声や今の櫛田の様子からして、恐らく何かが見れるはずだ。

 

「――私がやっていたこと、見てたの?」

「ええ、見たわよ? それがどうかした? ――」

「――まさかクラスに言いふらしたりなんかしないよね?」

「言ったところで誰も信じないわ」

 

 やはり櫛田の本性に関わる話のようだ。

 心の中で頷く間にも二人の会話は続く。

 

「――この際だから言っとくよ。私はあんたをこのまま自由にさせるつもりはない。私の過去を知っているあんたをね」

「――かつて一つの学級を崩壊させた少女が、再びその引き金を握ってしまうとはね」

「人間なんて所詮そんなものだよ。この人は優しい、だから信じられる。そうやって簡単に心を開いて弱さを見せるんだから。――例外はいるけどね」

 

 だいぶ込み入った話をしている。彼女の忌まわしい過去にまで触れ、今後の敵対関係についても示唆されていた。

 そして、佳境に入る。

 

「――私はあなたを、止めたいだけよ」

 

 はっきりと、自分に誓うように放った言葉を、櫛田は一蹴する。

 

「はは、そんなことできるわけないよ。私はみんなにとっての『一番』なんだから」

 

 そう言いながら、一歩ずつ鈴音のすぐ側まで近づいていく。

 その物怖じ気のない様子――躊躇いなく深淵に踏み込もうとする姿。

 それを眺めている内に、僕の中で嫌な感情が沸々と込みあがってきた。

 

「…………はぁ、はあ」

「……? 恭介?」

 

 清隆が呼吸の乱れに気付き訝し気にこちらを見てくる。

 

「……いい、から――そのまま、続け、て……ハア、ハァ…………」

 

 努めて意識を保ち、二人の少女のやり取りに目を配る。

 5メートル、4メートルと、着実にその距離は埋められていく。

 

「ハア………うっ、ハァ、あぁっ……」

 

 3メートル。思いがけぬ吐き気と頭痛に襲われる。

 2メートル。脳が、この瞳が写すものとは別の視界を映し始める。

 1メートル。眼前に、意を逸らしがたい懐かしい幻想が浮かび上がる。

 そして――

 

「あんたに私は葬れない」

 

 一線を越えた。

 

 ――やっぱり言った通り。これでも嫌がらないのは、それが本当の願いだから。

 ――何も考えなくていい。私に委ねて。どうせ拒めない。

 ――僕と君は、一緒だよ。

 

 鮮明な情景がありありと映し出される。

 

「おい恭介……! しっかりしろ」

 

 清隆の必死な呼びかけが微かに届く。鈴音と櫛田の方からも怒鳴るような声が聞こえている気がするが、意識を回す余裕が無かった。

 目の前で両手を伸ばし、僕の頬を包み込むその人は、僕をいつまでも虜にする。

 

「それで、幸せでしょ……?」

 

 その幻聴を最後に、体から力が抜けた。

 倒れる寸前、何かに支えられる。清隆で間違いないだろう。

 

「ちっ……」

 

 惜しむような、哀しむような表情が、僅かに見えた。

 意識が暗転する、直前の光景だった。

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

「うぅっ……んぁ」

 

 目が覚めると、寮室だった。

 一瞬清隆の部屋で夢でも見ていたのかと思ったが、身を起こすと同時に頭痛が走りそうではないことを悟る。

 

「体調はどうだ?」

 

 傍らから声が掛かる。清隆が心配そうな目で見守ってくれていた。

 

「あぁ……二日酔いってこういう感じなんだなと」

「飲んだこともないくせに、良く言うわ」

「この無遠慮な台詞、鈴音かい?」

「判断の仕方が遺憾ね」

 

 振り返ると鈴音の姿も確認できた。

 どうやら二人で僕をここまで運んできてくれたらしい。

 

「……ごめんな、急に倒れちゃって。多分貧血だ」

「無理がたたったってことか?」

 

 いまいち合点いかんようだが、呑んでもらうしかない。他に説明のしようがないのだから。

 

「安静にしてなさい。最悪、明日は休んだ方がいいわ」

「そういうわけにはいかないよ。大勢でわんさかやった挙句、翌日には患者さんにジョブチェンジ? 過保護を注文した覚えはないね」

 

 僕は平衡感覚が曖昧なのを誤魔化しながらベッドを下りる。四肢の筋肉の伸縮を、まるで手に入れたばかりの肉体の質感を確かめるかのように試す。やはり力がうまく入らない。回復までは暫くかかりそうだ。

 

「……そう。でも無理はしないで。より悪化するかもしれないから」

「嬉しいねえ。これからも献身的にお世話しておくれよ」

「あなたなんか一生ここでくたばってればいいわ」

「そんなに怒る?」

 

 おかげで意識が覚醒してしまった。出会って以降一番過激な暴言だったろう。

 

「……目覚めが悪いだけよ。時間をかけ過ぎてしまった私にも責任がないわけじゃないから」

「――ありがとな」

「……どういたしまして」

 

 僕は冗談は言うが他人の厚意を踏みにじることはしない。素直に礼を述べると、瞳の揺れ動きから恥ずかしさを悟らせないためか目を閉じて返事をされた。

 そのまま話は本題へ移っていく。

 

「それで、全部見てたのよね?」

 

 僕が眠っている間に、清隆の方から彼女に暴露があったのだろう。コクリと頷く。

 

「櫛田の裏切り、もし形になれば、今のDクラスは間違いなく崩壊するな」

「ごめんなさい。私、彼女に火を点けてしまったかも……」

「いや、あの状態じゃ大した時差は生まれなかっただろう。強いて言えば、君に行かせるべきじゃなかったね」

 

 本当に鈴音との先刻のやり取りが櫛田の気を逸らせる原因になったとするなら、恐らく鈴音が何を言おうと結果は変わらない。つまりは彼女に忘れ物を届けさせたことが失態になる。

 ……いや、もしかすると、

 

「それに、こうなる予感がしたから名乗り出たんだろう?」

「……お見通しと言うわけね」

 

 浮上した可能性が清隆の口によって告げられ、首肯を受ける。避けがたい櫛田との対立。それをはっきりさせる行動は、何とも鈴音らしい。

 

「まあいいさ。君の勇気によって得られたものは、確かにあるからね」

「得られたもの?」

「だろ、清隆」

 

「ああ」僕らが例の動画を見せてやると、鈴音は目を見開き唖然とする。

 

「ま、全く気付かなかったわ……」

「そりゃ誰かに見られているかなんて普通気にしないって」

 

 アニメやドラマでよくある展開だが、外出中に気配だけで「いるんだろう」と確信できる人間の察知能力など明らかにぶっ飛んでいる。

 

「……これで脅して、彼女を抑えこむってこと?」

「んー……まあ、それでもいいけどなあ」

 

 煮え切れない反応であることはすぐにわかったようだ。首を傾げ続きを待っている。

 その前に、確認しなければならないことがある。

 清隆が代わりに口を開いた。

 

「鈴音、お前は、櫛田を見捨てるつもりはないんだな?」

 

 これも一つの決断、分岐点だ。

 勿論途中で迷いが過るだろう。挫折や絶望を味わう可能性だってある。

 しかし、聞かないわけにはいかなかった。

 

「君の(答え)を、聞かせてくれ」

 

 この『どうぐ』を、敵を殺す刃とするのか。将又、絆すための依り代とするのか。

 全ては、彼女が決めること。

 現時点での回答を、鈴音は真っ直ぐな目で告げた。

 

「ええ、私は櫛田さんを救ってみせる」

 

 その決意を、僕らは穏やかに受け取った。

 

「わかった」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

カーテンコール

「人間だけが神を持つ。今を超える力、可能性という名の内なる神を。
 ――恐れるな。信じろ。自分の中の可能性を。信じて、力を尽くせば、道は自ずと拓ける。
 為すべきと思ったことを、為せ」
(『機動戦士ガンダムUC』カーディアス・ビスト)



 ケヤキモールの一角。大盛況という程でもなければ、閑古鳥が鳴くわけでもない、平凡な賑わいを見せる店内。

 僕らは各々の皿に自由に料理を取り分けていた。

 

「これが、バイキング……‼」

「バイキングは初めて?」

「ひ、平田、これ全部、好きなだけ取っていいんだよな?」

「そうだよ」

「よし、たらふく食べるぞ恭介」

「モチのロンよ!」

 

 平田の温かい目に見守られながら、両手に添えた二枚の皿一杯に彩りを盛り付けていく。

 

「そ、そんなに食べられる……?」

 

 沖谷の引き気味な問いに勢いよく頷くと「最初もあれだけ取ってたのに……」と嘆きが返ってくる。合点いかん。

 初めて来てみたが、いいものだな、バイキング。どれだけ食っても金額が変わらないとは。清隆でさえ心なしか一挙一動に元気を感じる。

 席に着き一目散に食にがっつくと、平田は極めて穏やかに声を掛ける。

 

「お疲れ様、浅川君、綾小路君」

「おふはへー」

「飲み込んでから喋りなよ……」

 

 今日ばかりは許してくれ。でなきゃこの店を出るまで真面に会話ができなくなる。

 

「須藤君たちの勉強、堀北さんだけじゃなくて二人の頑張りもあったって聞いてるよ」

「大したことはしてないさあ。やれることをやっただけ。――これもーらい」

「あ、おい! ……ああ。一番の功労者は鈴音、そしてあいつらを集めてくれた櫛田の功績も大きいことに変わりはない」

「そんなことないよ。僕じゃ彼らと歩み寄ることさえまだできてないんだ。君たちはそんな僕より余程貢献してくれていたと思う」

「平田、そのポテサラもらっていい?」

「自分で取りに行けばいいんじゃないかな」

 

 そう冷たいこと言うなって。時間がもったいないんだよ。

 平田も誉め上手なものだ。僕らが否定できない事実だけを語ってくる。純粋な感謝を抱いているのだろうし、素直に受け取っておくのが吉だな。

 

「ありがとな。でも君だって、僕らよりずっと大勢を率いて勉強会を成功させたんだろう? 立派なリーダーシップじゃないかあ」

「どう、だろうね。みんなの協力があったから乗り越えられただけだよ」

「そういうところが、お前が慕われる所以なんだろうな」

 

 照れくさそうにする平田。すると沖谷も会話に混ざる。

 

「二人共凄かったんだよ、平田君。とても上手で、浅川君なんてとんでもない音響かせてたんだから」

「へえ、やっぱり思ったとお――え、音?」

「ホームラン間違いなしなスイングだったよな」

「スイング……?」

「ちょーっと言葉で殴るだけで可愛い声出しちゃうんだもん。虐めたくなってしまうのも仕方ないというものさ」

「……僕、何だか予想外の不安に駆られたよ」

 

 どうして怯えているんだ? おかげで彼らは従順かつ情熱的に学習に取り組んでくれたというのに、合点いかん。

 それからは入学直後のこと、五月初めのことなど、何てことの無い思い出話が繰り出され、巡り巡って過去問の話になった。

 

「気付くべきだったよ。確かに小テストにはとても解けないような問題が出てた。その時点で正攻法以外の道は示唆されていたんだね」

「あれは鈴音が鋭かっただけだと思うけどな。普通それで過去問が鍵だなんて発想には辿りつかないだろう」

 

 清隆が相槌を打つと、平田は何やら難しい顔になった。

 

「……ねえ、やっぱり、過去問は堀北さんだけで生まれた策じゃ……君たちの言葉あってのものだったんじゃないかな」

「そんなことはないぞ」「まあそうだなあ」

「え?」

「え?」

 

 躊躇いなく正直に答えると、何故か誤魔化そうとした清隆と声が重なった。

 彼と、そして沖谷がそれぞれ驚愕の表情を見せる。

 

「そ、そうだったの!?」

「言っちゃうのか」

「あれ、駄目だったっけ?」

「い、いや、まあ平田になら別にいいが」

 

 ガヤガヤとやり取りしている間にも、平田は真面目腐った顔で話を続ける。

 

「やっぱりそうだったんだね。言って良かったのかい?」

「他には絶対に打ち明けないって約束してくれればね。君のリーダーとしての責任感と、人の懇願に耳を傾けてくれる人徳さを見込んでのことだから」

「……うん、わかった。約束するよ」

 

 中でも一番明かしたくない相手は鈴音と櫛田だ。鈴音には僕らのスタンスがバレない方が都合がいいし、櫛田は来るべき時まであまり尻尾を見せるべきではない。

 平田ならきっと大丈夫だろう。少々人を信じやすい癖があるが、裏を返せばそれだけ人を裏切る行動を嫌うということだ。ここまで律儀に頼み込めば、固く口を閉ざしてくれるはずだ。

 

「あ、あの、僕もいるんだけど……」

「沖谷はー、まあ、なあ?」

「大丈夫だろう」

「え、何その反応」

 

 沖谷も平田と同じく簡単に口を割りそうにないし、一度隠したことについて咎めるやつでもない。現に彼は今も戸惑うばかりでとやかく言ってこない。健や池らと偉い違いだ。

 

「そうか、じゃあ尚更頭が上がらないよ。君たちがいなかったら、Dクラスはいよいよ本当に絶体絶命だったわけだ」

「あくまでダメ押しだっただけだろう。お前たちの努力だけでもきっと事足りたさ」

「…………いや、そんなことない」

 

 珍しく、後ろ向きで弱々しい返事だった。茶柱さんに堂々と退学者は出ないと啖呵を切った少年とは思えない。

 

「きっと、かなり危険な状態だったよ。須藤君たちは勿論、その次に赤点の可能性を含んでいた人たちも、下手したら……」

「平田君……?」

「テスト範囲の変更だって、浅川君が他クラスから情報を得たから何とか対応が間に合った。それがなかったら、絶望的な結果に……」

 

 その表情を見るに、ずっと気にしていたことだったようだ。

 教室では決して見せない、ただの一人の少年の等身大(本音)が、露わになっている。

 

「僕の力だけじゃ、この試練は乗り越えようが……」

「平田」

 

 しかし、それではいけない。

 僕の強い呼びかけに、平田は我に還り顔を上げる。

 

「君はさ、リーダーの最大の特長は何だと思う?」

「え? そ、それは……」

 

 急な質問に窮してしまう彼だが、答えは至ってシンプルだ。

 

「かっこいい、だよ」

「え……」

「君が過去問をみんなに配って演説する姿、なかなか様になっていたぜ。あの時のみんなの君を見る目は、確かに君を慕っているものだった」

 

 ナポレオン、と僕は称した。多少の皮肉も混ぜてはいるが、仲間から絶大な支持を得ているというのもまた事実だ。

 

「リーダーは色んなものを背負わなきゃいけないと思いがちだ。故にリーダーたるのかもしれないけど、何もそこまで多くを任される必要はない。一番求められるのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()力だ」

「みんなが、自分を……?」

「細かいところは任せなよ。人が全知全能ではあり得ない、君の目が届かないところは絶対にある。だから仲間が必要なんだ」

 

 軽く肩をポンと叩く。

 

「思い上がるなよ、平田。君は望んだかどうかに関係なく、既にDクラスのリーダーだ。そして君は、その役目を確かに全うした。それ以上なんてありはしない」

 

 喧騒に紛れて、僕は優しく宥めた。

 

「ありがとう、お疲れ様」

 

 彼は呆然と僕を見つめ返した後、顔を背け俯いた。

 

「…………そ、っか。うん、そう、だね。ごめんよ、浅川君」

「君には散々気に掛けてもらったんだ。慰めくらい任せたまえよ」

 

 そう、これは些細な恩返しでもある。色々――本当に色々あったが、彼はその最中何度も電話で進捗を聞いてくれた。テストの点数自体に不安はなかったものの、彼の温かさというものを感じた身として、何も思わないわけにはいかなかった。

 

「……不思議だね。君たちといると、何だか自然体でいられるような気がする」

「やっぱりクラスでは、無理をしているのか?」

「無理という程ではないけど、僕は別に、本来リーダーに向いている人間じゃないから」

「それでも君はなった。その責任は果たさないとね」

「うん、勿論だよ。任せて」

 

 膨れていた憑き物が落ちたように、清々しい顔をしている。今のところはこれで大丈夫だろう。また何かあれば、きっと相談してくれるはずだ。

 彼の心を、聞けたのだから。

 だから今は、彼が表情を隠す直前に見えた潤んだ瞳は気のせいということにしておこう。

 平田は次に沖谷の方を見る。

 

「沖谷君、ごめんね。らしくないとこ見せちゃって」

「ううん。何て言うか、その、平田君も僕たちみたいに不安があったんだって安心したよ」

 

「あはは」少し照れくさそうに、彼は笑う。

 

「――よーししけた話はここまでだ。料理が冷めない内に食べまくるぞー!」

「バイキングなら頼めば出来立ても出てきそうだが」

「そんなの向こうに悪いだろう。平田も沖谷も、最近のストレスをここで全部帳消しにしようじゃないかあ」

「そうだね。折角の会食なんだ。とこたん楽しむよ」

「浅川君たちほどは食べられないよぉ……」

 

 たった四人の慰労会、各々羽を伸ばし過ぎていく。

 新たに少年との思い出が、また一つできた。

 

 

 

 

 夜、僕らは鈴音を呼び昨日のように三人で過ごしていた。

 

「……やっと独りになれると思っていたのだけど」

「まあまあ、この面子で団欒することは暫くなかっただろう?」

 

 食卓の上にはいつしかのように手製の料理が並んでいる。隅に置かれたパック詰めの山菜が余計に悲壮感の塊に思えてきた。

 今回は料理大会ではない。三人で分担し一緒に作った。おかげで若干多めになってしまったが、今日は腹の調子がすこぶる良い。問題なく完食できるはずだ。

 味噌汁を啜り、彼女はふくれっ面で言う。

 

「それはそうだけど、頻繁にあなたたちの顔を見ても嬉しくなんかないわ」

「頻繁じゃなきゃいいのか?」

「……! あ、揚げ足取りはやめてもらえる?」

 

 清隆の素朴な疑問にあからさまに動転している。少なくとも彼女の場合、こうやって態々時間を共有している相手にそんな悪感情を抱くことはまずない。

 

「いやあ、よろしくするつもりがなかった頃がひどく懐かしく感じるよ」

「人付き合いをするメリットがあると考えを改めただけよ」

「いずれにせよ大きな変化だと思うぞ。今のお前の方が、話しやすいし楽しいからな」

「…………そう」

 

 乱暴にたくあんを口に入れる。慣れない感情なのか、ほんのり顔が赤くなっているようにも見える。

 

「君にはお礼も言っとかないとと思ってね。ありがとう。健を、みんなを助けてくれて」

「……言ったでしょう。私は――」

「すべきと思ったことをしただけ。と言うなら、オレたちもオレたちの都合でお前に感謝しているんだ。それを伝えることに間違いはないだろう?」

「っ、調子が狂うわね」

 

 こうして可愛い反応も示すようになった。晴れて僕がかつて期待した通りになったわけだ。清隆もそのことを覚えているのか、僕と目が合い表情を緩める。

 ……うん、今が丁度いい頃合いだろう。

 

「実はさ、鈴音、そんな君に僕らから渡したいものがあるんだ」

 

「え?」予想していなかった流れに、鈴音は更に動揺する。

 清隆は部屋の隅に置いてあった袋から、ある物を取り出した。

 それをさっと彼女の前に差し出す。

 

「これは……」

「お前には偶に無理をさせてしまうこともあったからな。せめてこれで、一人の時間を楽に過ごして欲しいと思って」

 

 呆然としたまま鈴音が受け取ったのは、アロマ加湿器だ。平田と沖谷との慰労会の後、ストリートに寄って買ったのだ。

 

「あ、あなたたち、ポイントを使って、こんなものを……?」

「お前じゃきっと散財だとか言って渋るだろう?」

「それに、僕らからの日頃の気持ちってところかなあ。良ければ愛用しておくれよ」

 

 半ば放心状態でプレゼントを眺める鈴音。その仰天振りからして、もしかしたらこういう経験は初めてだったのかもしれない。

 やがて、彼女は大事そうにそれを抱え、そして――

 

「ありがとう、綾小路君、浅川君」

 

 今度は僕と清隆が言葉を失う番だった。

 

「………………」

「…………あ、あの、二人共?」

「………………」

「……だ、黙ってないで、何か言いなさいよ」

 

 彼女の声とその後の沈黙で、僕らはようやく正気に戻った。

 

「……なあ、清隆」

「……ああ、オレも初めて見た」

「な、何よ。何なのよ」

 

 僕らが驚いたのは、彼女の言葉ではない。最近までの変化を考えればもう大して狼狽えるようなことではないだろう。

 僕らがここまで無口――いや、感動してしまったのは、表情だ。

 

「最高な笑顔だったよ、鈴音」

「へ?」

「お前、とんだ隠し玉を秘めていたんだな」

「……わけがわからないわ」

 

 あれを自覚無しにやってのけたと言うのか。恐るべし。例の本を参考にした結果だとでも言うのだろうか。

 

「全く……早く食事に戻りましょう。冷めてしまうわ」

 

 隠すつもりもないらしく、彼女は露骨に話を切りかえ箸を持つ。

 

「そうだな。いいものも見れたし」

「あなたねえ……」

「一層美味しくいただけそうだなあ」

「少しは黙って食事をしなさいよ。…………ゴフッ!」

 

 誤魔化すように雑に唐揚げを頬張ると急にむせ始めた。見た目以上に一番動揺しているのは他でもない鈴音自身のようだ。

 背中をさする清隆に礼を述べる鈴音。その様子を微笑まし気に眺める。

 ……ああ、あの頃も、こんな風に出来たらな。

 叶うはずもない願いを即座に打ち消し、僕も唐揚げを一つ丸ごと口に入れる。

 

「ゴフッ! ご、オッフェオッフ!」

「お、お前もか……!?」

「あ、綾小路君、コホッ、私はいいから、浅川君のほ、っ、浅川君の方をお願い」

「……今度はちゃんと一口サイズで作ろうな」

 

 どうしても上手く締まらない、妙に慌ただしい夕飯だ。しかしこんな状況でも、やはり愉快だと浮かれる自分がいる。

 かつて渇望し最後まで手に入れられなかったもの。それが諦めた後になって近い形で実現しようとしているなど、皮肉な話だ。

 戻れない過去に思いを馳せながらも、確かに今ある空間を噛み締める。

 涙目になっているのは、きっと気管支が苦しいからだろう。

 

 

 

 鈴音が去った後、清隆と余韻に浸っていた。

 

「今日は一日一緒だったな」

「そうだね。久しぶりだったけど、楽しかったよ」

「ああ、オレもだ」

 

 悦に浸る僕らが飲んでいるのは、当然水だ。何とも恰好がつかない。

 

「君と出会って二か月――二か月かあ」

「とてもそんな短さとは思えない、か?」

「君も同じだろう?」

「――まあな」

 

 無音の空間は、かえって互いの存在を実感させる。

 

「鈴音があんな風に笑うとは思ってもみなかったが、君もけっこう変わったよなあ」

「そうか?」

「ああ、良く笑うようになったと思うよ。あと、楽しそうな顔も増えた」

「………なら、良かった」

 

 短い言葉だったが、どこか含みを感じる。

 彼もまた、何かを望んでいる。それに近づいたと思い嬉しいのだろう。

 しかしそういえば、僕は彼のことを今もまだよく知らなかったな。きっと何か事情があるのだと割り切っていたが、ここまで続いた仲だ。密かに願ってしまうのも無理はないはず。

 そう思った矢先、突然彼は口を開いた。

 

「――オレはな、恭介。オレは、自由な鳥になりたかったんだ」

「鳥?」

 

 僕の考えていることを読み取ったのだろうか。彼は遠い目をしながら語り始める。

 

「ここに入る前、オレは後先なんて考えてなかった。考える余裕なんてなかった。ただ、大空へ飛び出してみたかっただけだったんだ」

「……」

「だから初め――お前と握手を交わした時、その温かさに驚いた。お前だけじゃない、鈴音や櫛田、須藤や沖谷たちと出会って、飛び出した大空は驚きを避けられない程に澄んでいるのだと信じ始めていた」

 

「だけど」と続ける彼は寂しそうだった。

 

「決して、澄み切ってはいなかった」

 

 落胆。憧れていたものが期待と反していたことを知れば、誰だってその感情に行きつく。

 憧れは憧れのまま、そう言い聞かせてしまう人を憐れには思うまい。

 

「オレは本当に、何も知らない。一体何が普通なのか。オレ自身のことも――どうしてあの時お前に声を掛けなかったのか。どうしてあの時鈴音を引き留めたのか。どうして、長らく苦しいという感覚がココに残っていたのか」

「……君は――」

「恭介、お前ならわかるのか?」

 

 まさしく迷子の子猫。自由であるはずなのに、その自由に振り回され戸惑うことしかできない。今彼の瞳は、小刻みに震えている。

 そんな彼に、僕は――

 

「知らん」

「……え、知らんって、今のは教えてくれる流れだったろう」

 

 無慈悲にも否定する。彼は肩透かしを食らっているようだが、至って真面目な回答だ。

 何故ならそれは、僕にも確かではないことなのだから。

 

「そんな簡単にわかるものじゃないんだ。僕も、自分のことさえわからなくなる時があるよ。大体他人に教えられる程にまで理解できてるなら苦しくならないし、間違えない。喜怒哀楽、期待と不安、果ては愛憎なんて歪んだものまであるのが感情だ。そこに畏怖を抱くのは知らないからで、知らないと思うのは輪郭を掴めないからだ」

 

 諭すような物言いを、彼は黙って聞いている。

 

「君は、空の穢れを知って哀しかったかい?」

「……ああ」

「でもね、僕からすれば、それは寧ろ幸せなことだと思うよ」

「幸せ、だと?」

 

 要領を得ない彼に頷く。

 彼は、自分を鳥だと言った。空に羽ばたいたばかりの雛鳥だと。

 だから、

 

「雲の一つでもなきゃ、僕らはすぐに迷子になってしまうよ」

「――! そう、か。そうだな。忘れていた。一面の青空は、不安をあおるだけだ」

 

 何かに納得するように呟く。彼の身近にいる、情緒を揺さぶる存在――鈴音ではない、恐らく櫛田との間に心当たりが過ったのだろう。

 

「物事は決して平面ではない。僕もつい最近、それを思い知ったばかりだ」

「お前も?」

「ああ。――前に『夜』の話をしたの、覚えてる?」

 

 黙して肯定するのを確認して続ける。

 

「実はね、あの考えはあの日まで浮かばなかったものだったんだ」

「じゃあ、前は……?」

「夜は真実を照らす。だけど考えてもごらんよ。昼間は太陽なんて壮大な灯が地球を包んでくれるのに、渺茫な宇宙(そら)は常に真っ黒だ。海だって日光の反射ありきな群青で、底まで沈めば三センチ先も見えなくなる。全て、この時間帯になれば地上でも味わえる真実だ」

 

 そう言って僕は窓の外を見る。当然、世界は暗かった。

 

「何の光もなければ、全て黒に還る。真っ黒だ。それが真実だなんて、とても寂しいことだよ」

「でも、今は違う……」

 

 優美な星々を眺めながら、冷めたような、穏やかな顔をつくる。

 

「光がなければ人は生きていけない。でもそれは、光さえあれば人は生きていけるってことだ。僕らは恒久的に光を浴びている。そう思うと、人生が途端にロマンチックなものに見えてこない?」

 

 『あの日』も、こうしていた。

 自分が初めてその機微に触れた、運命の起点。

 恐らく自分の情緒は、その時大きな捻れを生んだんだ。それが巡り巡って心を嬲り、一度前を向くまでの軌跡を決定づけた。

 そして、あの時確かにあった希望を思い出せたから、僕は今こうして清隆と鈴音と足を並べている。

 自分の本質など、とうに関係ない。今更な話だ。

 かけがえのない『約束』がある限り、僕はロマンチストで在り続ける。

 それが僕だ。

 浅川恭介なんだ。

 

「何度も傷ついて、立ち直って、また転んですりむいて、それでも立ち上がる。自分の中の矛盾に、正々堂々抗うんだ」

「矛盾に、抗う……オレは、どうすれば抗えるって言うんだ? どうすればたどり着ける?」

「清隆……」

 

 表情に影を落とす彼に、その弱さに同調する。

 いくら悲しもうと、彼は自分の見出した道理を否定することはできない。何故なら彼は、いつだって正しいから。

 知る必要のないことまで知れてしまうのは、やはり不幸でしかない。

 

「断言する。君の予測を超えるものは、この先も現れることはない。君の渇きを満たすものは永劫訪れない。そう遠くない内にそれを悟ることになるだろう」

「…………っ」

「でもそれは、あくまで現れないというだけの話だ。転がっていない可能性は自ら創造することができる」

 

 それでもなお光を求めるというのなら。抗い続けるというのなら。

 唯一残される希望は、自分の中にあるのだろう。

 それを信じているから、僕は彼に諭すのだ。

 

「だから清隆、()()()()()()()()()

「救う……?」

 

 深く頷いた。

 

「君にとって善悪の違いなどあってないようなものかもしれないが……その方が、きっと素敵だ」

 

 この際どうして君がそれ程までの才能を持っているのか、今はまだ知れなくても構わない。だが、ただ一つだけ言える。

 人の叡智の賜物と言うのであれば、害するものであってはならない。

 持つ者として、持たざる者を救って見せろ。 

 

「…………何故だ? 何故、そう言い切れる」

「敏い君のことだ、既に気付いているんだろう?」

 

 僕はここで、決定的な『真理』を告げる。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 清隆は再び唸るように歯噛みする。非凡な才覚を持つ彼にはよくわかっているはずだ。普通との差異を、嫌でも感じている。

 僕で言う最近の例は有栖かもしれない。なまじ知り合ってしまったが故に、互いの決裂を直感した。交わることがないと理解してしまった。

 過去にはそれで、究極的な矛盾をきたしてしまったことがあった。

 

「……ならオレたちは、いつかはすれ違ってしまうのか? それは避けようのない必然だと……?」

「…………自分は」

 

 深淵に迫る質問に、僕は秘めていた思いと共に応えた。

 

「自分は、信じたいんだ。人はそれでも、解り合うことができるって。心の距離がなくなっても、受け入れることができるんだって」

「恭介……」

「僕は、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 この隔絶された新天地で、確信したい。

 あの幼気な理想は、やはり間違いではなかったのだと。

 あの日自分は、やはり間違えてしまったのだと。

 この学校を希望した理由――。

 一度は諦めかけた、かつて先生に語った目的だ。

 

「君が動くんだ。君が変えろ。そうして生まれる何かが、きっと――」

「きっと、青い鳥を呼び寄せるから……」

 

 そっと、彼の手を握る。

 あの時とは逆だ。

 

「清隆、君は何も知らないと言ったね。一体何が幸せか。君の中に芽生えたものが何なのか。それは目に見えないものだ。だから――()()()()()()()()

「名前を、付ける……」

「君は知識として色んな名前を知っているはずだ。まずは当てはめてみろ。それでズレを感じるのなら手直しして、納得できるまで追究しろ。心っていうのは、答えが用意されているものなんかじゃない。求める中で生まれ、変わっていくものなんだ。だから考え続けろ。たった一度できなかったからって諦めちゃいけない、それが当たり前なんだ。一朝一夕でたどり着くどころか遠のいてしまうから、何時まで経っても他人や自分を知ろうとすることをやめられない。―――綾小路清隆。『ク=セ=ジュ(君は何を知る)?』、だよ」

 

 独り善がり上等だ。自問自答を繰り返せ。そうして何かを思う(識る)度に、一つずつ間違わないようになるはずだ。

 

「…………わかった」

 

 暫し間を置いて、彼ははっきりと答えた。

 もう揺れはない。意思を固めた、真っ直ぐな目だった。

 

「オレも、信じてみるよ。オレが信じたいと、思ったものを」

 

 僕はただ微笑むだけだ。それだけで、十分だと思った。

 清隆もふっと表情を緩め、口角を上げる。

 大丈夫だよ、清隆。大丈夫。

 僕も、君という初めての親友ができたからこそ、今の自分になれたから。

 もしも全知全能な存在――すなわち『神』がいるのだとすれば。

 今の僕にとって、それは君のことなんだろうな。

 嗚呼、憐れな私のアンデルセン――。

 巣食う『悪魔』は、いつまで私を呪うのだろう。

 永劫だと言うのであれば一向に構わない。こうして絶えず滑稽なワルツを踊り続けよう。

 雌雄の意味を具える『親指姫』は、きっと何者にもなれる百面相だ。

 だから、君が僕と対等であることを望むなら、僕も君と対等な自分に成り代わろう。

 例え自分が、本来君らの足元にも及ばない存在だったとしても、それくらいなら朝飯前だ。

 この物語にはもう主人公はいない。既に、バッドエンドは終えてしまった。

 だけど、ここには僕と、そして君がいる。

 それだけで価値のある、最高の後日談になる気がするんだ。

 こうして幕を開けた、小さな箱庭で繰り広げられる大いなる冒険譚――。

 これは、僕らが互いを見つけるまでの、長い旅の物語だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひっそりと、影。

 誰にも悟られることなく、少年少女たちの住まう岳の峰にそびえ立つ。

 

「……………あっはは」

 

 嗤う。

 喜びも、悲しみも、怒りもない。

 平坦な音は、寂れた楽器よりも冷たかった。

 

「また繰り返すんだね。変わらないな、君は」

 

 闇に浮かぶ遠き魔都を眺め、そう呟く。

 

「そんな君だから、僕は好きで好きでたまらないんだ」

 

 唯一その影に実体を強調させる白い髪は、彼と対照的なのにも関わらず、同じように妖しい。

 

「君と僕となら、きっと幸せになれる。だから手始めにこうするよ」

 

 強く吹き荒れる風にさえ微動だにせず、ただ伸びた髪を揺らす。

 

「会える時が楽しみだね。――――浅川君」

 

 隠れた瞳が、青く光った。

 




いやー長かった。ようやく二章『親指姫のワルツ』完結です。お付き合いありがとうございました。tipsの更新もありますが、勿論幕間やら三章やらを優先するつもりです。
実は色々悩みどころがあって、体育祭までで話を一区切りつけて第一部完→亀更新で第二部、とするか不定期更新覚悟で一年生編の終わりまで区切りを付けないかでまず迷っています。前者にすると第一部でオリ主の因縁がほとんど解消されることになります。おまけにそれによって新キャラの介入具合にも変化が生じてしまうため三章も細かいプロットが出来上がっていない始末……。
もしかしたらtips、あるいは完全オリジナルの番外編に逃げたりするかもしれませんが、これからも首を長くして待っていてくださると嬉しいです。

次章・マッチ売りは灼熱を知らない




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

tips2
『白箱』


短いけどだいぶ情報量が多い、かも。


 とある山奥の施設にて。

 

「――これ、頼まれていた資料まとめておきました」

 

「おお、ありがとう。――大分骨が折れたろう」

 

「そうですね。多少落ち着いてきたと言っても、異常事態でしたから」

 

「皮肉なものだ。創設者の息子である最高傑作が、このような暴挙に出てしまうとは」

 

「でも、あれは普通の親子ではありませんよ。端的に言ってしまえば、狂っている」

 

「その狂人の下についているのが我々なんだがな?」

 

「それは否定しません。あの方の思想自体は尊敬していますから。――そういえば、彼の行方はわかっているんですか?」

 

「何でも、政府運営の特殊な学校らしい。異様な程閉鎖的だから、干渉するのにかなり梃子摺っているみたいだ」

 

「随分と都合の良い場所に逃げ込みましたね。確か、裏で手回しした人がいたんでしたっけ」

 

「執事の松雄氏だ。相当酷い報復にあったらしい」

 

「反逆者は徹底的に潰す、ということですか。私達ももう引き返せませんね」

 

「かもな。まあ辞めるつもりは微塵もないが」

 

「ですが、不思議な話です。ここまで厳重に管理された施設なのに、協力者がいたとはいえどうして脱走できたんでしょう?」

 

「それが、これはオフレコなんだが……最近までの一年間、ここは閉鎖されていただろう?」 

 

「はい、諸事情でとのことでしたけど。やはりその混乱の最中で? いくらそれでも……」

 

「実はあの時、上はかなり荒れていたらしいんだ」

 

「荒れていた……? 一体どうして?」

 

「『脱走者』だよ」

 

「え? 彼が脱走した時にはもう閉鎖中だったんじゃ……」

 

「違う、()()()()()()()()()()()()()()()んだ。施設が万全な状態で稼働していたにも関わらず、まんまと逃げおおせた切れ者が」

 

「そんな……!? でも、そうか。だから緊急対処で閉鎖になったんですね。彼も脱走できたわけだ」

 

「最近じゃ職員の間でも良くないことが続いているからな。祟りだなんて阿呆なことまで言い出すやつもいる。正しく異常事態だな」

 

「そんな話も聞きますね。おかげで『例の件』も頓挫してしまったらしいです」

 

「そうだな。数年前から凍結状態で空中分解寸前だったらしいが、今回の一件で完全に潰えただろう。まああっちはここのとは違って現実性に乏しかったから、続行していたとして上手くいったかは微妙だが」

 

「ところで、その脱走者は?」

 

「残念ながら、そっちは行方すらわかっていない。どうやら協力者の痕跡もなかったようで、手掛かりがほぼないんだと」

 

「そんなことがあり得るんですか? これではまるで、あの最高傑作をも凌ぐ賢人だ」

 

「狡猾さ、という意味では、あるいは間違っていなかったのかもしれない。ここですら育成に力を注がれなかった能力を持っていたんだろう」

 

「その脱走者のデータは?」

 

「プロフィールは覚えていないが、基準点スレスレを延々キープ。大して目立つこともなく、当時担当だった職員も脱落までは時間の問題だと思っていたそうだ」

 

「あまり重要視されなかったから、我々に届く情報がなかったんですね」

 

「そういうことだ。そして、検体が脱走すること自体前代未聞だった故、お偉いさん方は慌ててふためくしかなかったというわけだ。……ただ、根拠はないが、今思うとそれすら演技だったのかもしれない」

 

「本当の実力をひた隠しにしたまま、我々の設けた基準を超え続けていたと? さすがにそれは行き過ぎた考えでは?」

 

「根拠はないと言っているだろう。そう思える程に不気味な存在に感じるだけだ。他の子供と違って、自発的な言動も稀に見受けられたようだしな」

 

「確かにそれは不気味だ。本来情緒が育つより前の段階で、そんな傾向を見せた例は限りなくゼロに近いでしょう」

 

「ああ、だからこそ肝に銘じておいたほうがいい。――本当の狂人というのは、もしかしたらそういう、どこまでも得体の知れないやつのことを言うのかもしれない」

 




もしかしたら今後の展開次第では消したり大きく変更したりするかもしれません。それくらいな伏線回です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『教育者』

 チクタクチクタク。

 秒針の刻む音だけが室内を充満する。先程までの喧騒が嘘のようだ。

 しかし、無人というわけではない。現に長い沈黙を経て、年季の入った男性の声が空気を震わせた。

 

「気の毒な子供たちです。あの年であのような不幸に見舞われるなど……」

 

 坂柳理事長は、各々のスクールライフを満喫している生徒たちの様を鳥瞰しながら呟く。その目には僅かながら憐みと憂いがこもっている。

 その言葉に返すことのできる人物は一人――同じ場に居合わせた者だけだ。

 

「そうですね。初めて耳にした時は驚きました。まさか、警察がお見えになるとは」

 

 雨宮が生徒二人を連れて出て行った後、茶柱は部屋を出て行かずに仁王立ちで残っていた。

 当然、話したい内容があったからだ。

 

「ですが、大丈夫でしょう。彼らは優秀だ。この三年間で少しでも心の傷が癒えることを願う他ありませんね」

「……お言葉ですが、優秀だと判断していらっしゃるのであれば、どうして彼らをうちのクラスに?」

「おや、把握していませんでしたか? 高円寺君は遠目からでもわかる自己肯定感の強さと協調性の低さ、そして浅川君は事件のショックとそれに伴う能力の著しい低下を考慮した結果ですよ」

 

 担任である彼女が試験(及び事前の測定)の結果を確認していないわけがない。まして己の野心に忠実な彼女は二人の能力を確認して期待できる駒だと一目置いた程だ。

 しかし、それとこれとは話が別。理事長の説明では全く納得できないことがあった。

 

「そういえば、茶柱先生。困りますね」

「何の話です?」

「私はあなたに言ったはずですよ。綾小路清隆君と浅川恭介君、二人には必要以上の干渉を一切禁じると」

 

 恐らく、Sシステムの真実が公になった日の呼び出しのことを咎めているのだろう。

 茶柱は綾小路と浅川を担任に持つに当たって、二人にはタブーな事情があるのだということを知らされていた。

 その詳細までは教えてもらえなかったが、入学から一か月経ったこの段階で、既に二人の特殊性は認識している。

 

「あくまで生徒指導の範疇ですよ。それに、興味を持つなという方が無理な話では?」

「何故ですか?」

 

 理事長は厳しい目を彼女に向ける。やはり、あまり掘り下げたくはない話のようだ。

 それでも口が減らないのは、貪欲さからか、将又純粋な好奇心からか。

 

「前例のないことばかりなんですよ。『座席まで指定される』なんて前代未聞です。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そして()()()()()()()調()()()()()()()()配置する。ここまで指示された上で無関心でいられる人間は、ロボットくらいなものでしょう」

 

 そう、坂柳理事長は初めから綾小路と浅川を引き合わせるつもりだったのだ。

 いや、厳密には少し違う。二人に何かを期待している、と言うべきだろうか。何せ与えられた指示には『協調性の低い女子』という一見何の関係もない人物が巻き込まれているのだから。

 これに関して、理事長はある程度の覚悟はしていたのか、諦めの感情を乗せた溜息を吐く。

 

「私は今回の件で更に疑惑を抱いています。綾小路と浅川は表向き、過去にこれといった接点がない。実際彼と共に事情聴取を受けたのは高円寺であり、綾小路は同中ではなかった。性格も異なる。綾小路は俗世に切り離されていたかのように寡黙ですが、浅川はある程度の情緒と社交性が育っている」

 

 そもそも、いくら能力低下を加味しても浅川の能力なら最低でC、下手すればAクラスに所属されることになったとしても野次が飛ぶことはなかっただろう。

 更に、綾小路とは違い素性に謎がない。ありきたりな小学校を卒業し、高円寺と同じ中学校に進学。他の経歴を漁っても、気になる項目はなかった。

 故に、寧ろ解せない。

 何故理事長は、二人を引き合わせようとしたのか。

 

「…………浅川君は、言わば特異点なのですよ」

 

 ついに重い口を、彼は開いた。

 

「彼はあまりに多くのものを持ち過ぎた。そういう意味では、最も不幸なのは彼なのかもしれません」

 

 雲を掴むような、ふわっとした表現だった。

 

「あなたの言う通り、私は期待しています。彼ならあるいは、空っぽである綾小路君に、本来必要であったはずの色を分け与えられるのではないかと。逆もまた然りです。ある意味で澄んでいる綾小路君の内面を目の当たりにし、カオスに汚れてしまった浅川君のキャンバスが洗われるのではないかと」

 

 「全ては彼ら次第ですけどね」と話す理事長は、どこか不安も入り混じった表情をしている。

 

「……それは、あなたなりな善意ですか? それとも、一種の研究心ですか?」

「前者です。……と答えられたらどれだけ良かったか。両方ですよ。私自身も二人に干渉しないのは、その罪悪感でもあります。代わりに、二人の関係が止まらぬよう作用を促し、見守るべき存在が必要でした」

「……! なるほど、それが堀北ですか」

 

 点と点が繋がった。協調性がないということと異性であることの意味はそこにあったのだ。

 協調性が高ければ、平田や櫛田のようにクラス全体で関わるケースが発生し、二人との関わりが薄れる可能性がある。確実に二人との交流を重ねることを望んでいたのだ。三人という人数は、小グループとしてはだいぶ適している。

 性別を女子にしたのも、当人自身が二人の内片方と仲を深め過ぎないため、もしくは第三者としての立場を誘導するためだ。最も関わり合う組み合わせは、綾小路と浅川でなければならない。

 

「……茶柱先生。あなたがパンドラに片足を踏み込んでしまった今、完全に止めることは難しい。ですから、せめてこれだけは守って欲しい」

 

 背を向けていた体を翻し、茶柱と正面から向き合う理事長の目には強い意志が乗っていた。

 

「もしも二人が、あなたを信頼して訪ねてきた時には、彼らのため、誠心誠意向き合って下さい。これは命令ではない。私の、お願いです」

 

 頭を下げ、懇願する坂柳理事長。

 そんな姿を初めて目にした茶柱は彼の真意が読めず、ただ固唾を呑んで見つめることしかできなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スナップショット~相合~

ただただ甘い話にはしない。自分はそんな作者です。


「これは……」

 

 椎名が深刻そうな顔で呟いた。彼女の視線の先には仄暗い空が広がっている。

 

「急ぐ?」

「走るのは得意では……」

「え、おぶるよ?」

 

 彼女は驚いたようにこちらを見た後、困り顔で断った。「それはさすがに」

 

「そっか。効率的だと思ったんだけど」

「スカートですからね。それに、重いだなんて思われたら、女子たるもの傷つきはしますし」

 

 ああ、なるほど。それは考えが及ばなかった。ズボンならまだしも直に足を触れられると嫌な人もいるか。ボクは()()()()()()()()()()()()()()()()()から気付けなかった。いつも気にするのは()()()()()()()()だから。

 しかし、後者は問題ないだろう。

 

「ボクが体重なんかで見る目を変える質ではないと知っているだろうに。腕力には自信があるから、キミを三人同時に持ち上げることくらいはできそうだ」

 

 袖をめくりあげながらそう言うと、彼女は苦笑して再び空模様へと意識を戻した。

 もしかしたら密着することに躊躇いがあるのかもしれない。ボクだって不可抗力でもなければ必要以上に異性と物理的な距離を詰めようとまでは考えないし、無理強いすることではないだろう。折角中学時代に六助主導のトレーニングで培った筋肉を人の為に活用する機会が来たと思ったんだが……残念。

 「あっ」それから数分歩いたところで、不意に椎名が声を上げた。「降ってきました」

 

「ありゃ、頬に落ちた?」

「はい。――あ、また……」

 

 すると次第に周囲のオブジェクトから水の打つ音が響き始め、ついに見上げた自分の顔にも水滴が付き始めた。

 

「……一雨くるな」

 

 こういう時は本降り前にと思って急ぐ矢先に土砂降りになってぐっしょり濡れてしまうのがオチだ。実際まだ寮までは時間がかかるし、間に合わない可能性は高い。

 ボクはすかさず椎名に提案する。「あそこで雨宿りしよう」

 

「え、いや、浅川君は傘を持っているんじゃ……」

「いいからいいから」

 

 有無を言わさずボクが先導して物陰に移動する。椎名も仕方なく付いてきてくれた。

 

「傘があったって濡れるものは濡れるものさあ。たとえキミの身体が悲鳴を上げずとも、そこに入っているブツは堪ったもんじゃないだろう」

 

 落ち着いたところで椎名のバッグを指差した。

 雨の中では当然自分の身体を優先して傘に入れる。そうなると肩掛けしているバッグはある程度濡れてしまうはずだ。防水が並程度では中にしまってある本も多少傷んでしまう。

 もし生粋の読書家である彼女が本を優先させたとしたらそれはそれで椎名自身が濡れてしまうのでよろしくない。

 

「そこまで気遣ってくれたんですか。何だか申し訳ないです……」

「気遣いはいつだって好意から生まれるものだよ。受けて感謝することはあれど罪悪感を覚える必要はない」

 

 そこを理解していない人って意外といるよね。「こういう時は『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だよ」ってセリフを偶に聞くけど強ちその通りだと思う。

 その旨を理解してくれたかはわからないが、笑いながら「そうですね。ありがとうございます」と言ってくれたのだから大丈夫だろう。

 

「ですが、よかったんですか? 本当に」

「ふぇ、何が?」

「浅川君なら、『相合傘』なるものに興味がおありなのではないかと思いまして」

 

 「ああ」言われてみれば確かにそうだ。「なくはないけどなあ」

 

「では、どうして?」

「どうしても何も――ボクだって濡れたくないし」

 

 しょうもない理由だ。たとえ女々しいと嗤われようと、自分の身体や物を濡らしたくないのだ。

 しかも、噂には「相合傘は男子が女子を庇って外側の肩を濡らす」という暗黙の了解があるのだとか。ああやだやだ。確かにタフさが売りなのは事実だが、プライド底辺のボクはそんな格好つけのためなんかに健康を損なうマネをしたくない。

 かと言って椎名が濡れることを厭わないのかと言われればそんなわけないので、結果的に相合傘はしないという結論に至るわけだ。

 

「まあ、軽い憧れのために窮屈な思いをする必要もないですしね。先程話した勉強会の方が余程理に適っています」

「おうおう。わかってくれるじゃん」

「勿論ですとも」

 

 エッヘンとでも言うように胸を張る椎名。何を誇りたいのかは判然としないが、上がり調子な気分を害する発言はしない方がいいだろう。

 そこでようやく、無言の時間が生まれた。もう気まずさを感じるような間柄でもないし、今はとっておきの天然BGMがある。

 ポツ、ポツポツ。ポチャン。ポツポツ、ポン、ポチャン。

 道路のアスファルト、手すりや柵の金属、できたばかりの水たまり。あらゆる物体から別々の音色が奏でられる。聴覚に集中しようと目を閉じていると、うっかり聞き惚れてウトウトしてしまいそうだ。

 もしも自分がこのジメジメとした幕の中でダンスでも踊るとしたら、なんて妄想をしてみる。きっと今の小綺麗な波に大きなノイズが加わるはずだ。

 ポツポツジャバン。ジャバジャバ、ポツ、ジャバン。――こんな具合に。

 ある意味芸術的な角度から見れば邪道なのかもしれないが、純粋無垢な少年少女が音源なのだと考えると、それもまた微笑ましいワンシーンなようにも感じられる。

 

「雨、(つちくれ)を破らず、か」

「平和ですね」

 

 こうしていると、自分たちの学校の異常性もどこか別の世界のもののように思えてくる。――なんて言ってしまっては、地球のあちこちで戦争が絶えないにも関わらず、それとは全く無縁の世界でのうのうと暮らしているという事実の縮図になってしまうか。

 

「面倒臭いなあ。Sシステム」

「ふふ、今更じゃないですか」

「よしなしごとに早いも遅いもありゃせんよ」

 

 椎名は端末で現在時刻を確認し、少し伸びをしてから立ち上がる。「そろそろ帰りましょうか?」

 

「えー。まだ屋根から水が滴っているじゃないかあ」

「それは止んだ後も暫くは残りますよ」

「ほら、雨垂れは三途の川って言うだろう?」

 

 「さっきとはまるで逆な意味の言葉ですね」苦笑する椎名を傍目に、屋根の下から雨空を覗き込む。うーん、確かにこれは最悪今日中に止まない可能性がある。

 だけど――全く根拠のない話だが、素直な理由を答えた。

 

「ここから出たら、何だかこの平和な一時が終わってしまうような気がしてね……」

 

 ボクが実家の玄関を跨いだ時。一年D組のドアを開いた時。図書館に足を踏み入れた時……空間を超える様々な場面で、目には見えない決定的なきっかけがあったように感じる。

 特に思い入れのないと認識しているこの場所すら、そういう重大な転換点になるような気がしてしまったのだ。それも、極めてボクにとって不利になるような。

 しかし、椎名はどうやらボクとは相反する持論を抱いていたようだ。「心配要りません」

 

「どうして?」

「簡単な話です。この時間を育んでいるのは、雨でもこの建物でもありません」

 

 雨の届くスレスレまで歩んでから、彼女は朗らかな表情で言った。

 

「私たちがこうして一緒に過ごしているからこそ、生まれた安寧なんですよ。それは決して、易々と崩れ去るものではありません」

「……それは、合点いくなあ」

 

 これは一本取られた。そう言われては、雨粒如きで揺らぐものではないと言い切れてしまう。

 彼女はやはり、ボクの悲観的な考えをいとも容易く塗り替えてしまう恐ろしく素晴らしい友人だ。

 キミは何度もそうやって、意図せずボクを支えてくれるんだな。

 そういう存在を――優しさや温もりで包み込んでくれる存在を、人は何と呼ぶんだったか。

 ボクはゆっくりと立ち上がり、椎名に()()を手渡した。

 

「ただ、これがないと平和より先に身体が壊れてしまうよ」

 

 ボクの返しに、彼女はにっこりと笑う。「そうですね」

 ボクは手早くバッグから携帯傘を取り出し、椎名の隣に並んで雨の降りしきる外へ出た。

 すると、先まで鼓膜に届いていた音楽に、ボト、ボトと言う鈍い音が加わり始める。

 ――ああ。こんなところにもあったんだな。

 頭のすぐ上で紡がれる音色に小さな喜びを感じながら帰路を往く。

 隣の少女となら、これからも綺麗なものを――いや、汚れてばかり見えていたものでも、確かに秘められている綺麗な部分に気付かせてくれるような気がした。

 その点ではボクらは相性がいいと言えるのかもしれない。それがちょっとだけ嬉しくて、こそばゆかった。

 安らぎを与えてくれていた雨音がほんの少し勢いを強める。

 それはまるで、ボクの中に広がった幸福を、細やかに祝福しているようだった。

 

 

 しかし――『今』になって思う。

 やはり自分の予感は間違っていなかったのだ、と。

 決定的なきっかけ。それは既に起こってしまっていた。

 振り返る度に実感する。根拠はないが、ただ一つ言えることがあった。

 

 この日は結局、雨が上がることはなかった。

 ――空に、虹はかからなかった。

 




ワンチャンこの話で、オリ主が椎名に抱いている想いが、誰かが誰かに向けている想いとかなり似ていることがわかると思います。それくらい大事な回です。
まあそこは二章で焦点を当てる予定なんですけどね。そういう意味では伏線回なのかもしれません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スナップショット〜泳げ、浪漫〜

お久しぶりです。
リアルが忙しかったり他の執筆だったりでだいぶ経ってしまった上、明けの投稿がSSなのはすみません。生存報告がわりです。


「暇だなぁ」

 

 ゴールデンウィークは早くも折り返し。予定が皆無のボクは更地に等しい自室の床面に大の字に寝そべっていた。

 一昨日はトップ4、昨日は椎名と過ごした。今日はどう豊かに過ごそうか。

 適当に端末で余暇潰しの方法を探していると、ある項目に目が留まった。

 

『今日は端午の節句! 男の子の健やかな成長を祈願する日です』

 

 おお、今日はそんな日だったな。

 端午の節句って、元々男子だけが対象だったのか。それを女子を除け者にしないために定められたのが「こどもの日」という祝日名らしい。

 そうだ。今日は何か端午の節句にちなんだことをしてみるか。

 定番は、やはり鯉のぼりだろうか。

 検索ワードを『鯉のぼり 作り方』に変更すると、素材はナイロンやポリエステルが主流。折り紙でも作れるらしいが、折角だからちゃんとしたもの、デカいものをつくってみたい。丈夫な素材を選ぶべきだ。

 問題は多々ある。そもそも無一文のボクがどうやって素材や道具を調達するのか。もし手にれられたとしてどこで制作するのか――サイズによってはこの部屋は狭すぎる。そして最終的にどこへ飾るのか。時間的な猶予も気にしなくてはならない。

 だがまあ、今日という日を怠惰に過ごすよりかは得策だろう。

 まだ早朝。とりあえず外に出てから考えますか。

 

 

 初めてこれといった理由なく、単独でケヤキモールを回る。往く人々はグループばかりで、自分のような生徒は少々浮きがちだった。

 あれこれと目ぼしい物がありそうな店に手あたり次第入ってみるものの、端午の節句を話題にする場所すらなく、一度日にちを確認してしまったほどだ。

 店棚に並んでいたところで買えるわけでもないのだが、これでは幸先不安もいいとこだ。

 誰か人を呼ぶか迷ったが、こういう時に気兼ねなく連絡できるのは一昨日、昨日会ったメンバーと鈴音くらいしかいない。しかしこう短いスパンで誘うのもどうかと思うし、清隆と鈴音に至っては――バツが悪い。

 やはり打算無しで動いて丸く収まることはあり得ないか。計画性のある人間でもないしな。

 溜息を置き土産に寮へ戻ろうと思い至った時、思い浮かべた中にいない人物を発見した。

 珍しいこともあるものだ。ボクは衝動に駆られ声を掛ける。

 

「ヨシエさーん」

「あら、浅川君じゃない」

 

 茶色のブラウスにスキニーを身に付けたヨシエさんは、雑貨店に入る直前だった。

 振り向いた顔は普段食堂で働く時とは違い控え目ながら化粧が施されており、薄い唇には柔らかな印象にぴったりな桃色の口紅が引かれている。

 とても中年とは思えない。やはり逆サバなのでは?

 

「買い物ですか?」

「そうよお。これ、だいぶ使い古してきたから、そろそろ新しいのにしたいと思って」

 

 そう言って見せてきたネイビーのバッグはところどころ刺繍がほつれていたり色が褪せていたりと、大事にされていた分相当年季が入っていることが伝わってきた。

 

「浅川君は何を買いに来たの?」

「ああっとそれが――」

 

 ボクはここへ至るまでの経緯をヨシエさんに話した。

 

「なるほどね、鯉のぼりを。楽しそうねえ。――でも、このあたりじゃ適った物は売ってないかもしれないわ」

「え、どうしてです?」

「端午の節句って、もっと小さい子たちが対象だから」

 

「え!?」まさかと思い軽く調べてみると、およそ七歳くらいまでの催しで、精々祝われるのは中学生までらしい。「ホントだ」

 

「知られているようで知られていないことよねえ」

「じゃあ確かにこの敷地内では、それっぽい物は並びませんね……」

 

 基本高校生とヨシエさんのような社会人――しかも子持ちでない人しかいないこの空間において、そういった物が置かれていないのは自明の理。勝算は初めからなかったわけだ。

 

「五月人形とかはどう? あれなら年齢問わずに飾られるものだからどこかにあるかも」

「うーん……アリっちゃアリですけど、やっぱ欲しいです、鯉のぼり」

 

 手をウネウネと泳がせながら嘆く。折角自分で思いついた物なのだし、欠かせたくはなかった。

 

「そうねえ――とりあえず、この店入ってみない? 私の用はここだし、浅川君のお眼鏡に適う雑貨があるかもしれないわあ」

「……そうします」

 

 どの道アテがないのだ。一人で途方に暮れるよりかは望みがある。

 店内に入ると、ヨシエさんが探していたであろう単調色のバッグ、他には鉢や食器が豊富に並んでいた。

 彼女に倣い、適当に物色する。

 ブランド物の黒を基調としたバッグ――たかが荷物の入れ物に拘りを持つ大人の気持ち、ちょっとわからないな。機能性や拡張性を重視するなら理解できるけども。

 木を彫って作られたスプーン――銀食器もいいが、苦手な人もいると聞く。風情という観点からも、ブランドなんてものを気にするより余程賢明に思える。

 植木鉢はー……形状の違いしかないものもあるのか。植物の育ち方が変わったりするのだろうか。

 一概に雑貨といっても、色々あるんだな。高いものから安いものまで。さっきとは別のえんじ色のバッグは女性が持つのに便利な軽いナイロン素材で、見栄えも性能も優秀だとか。

 …………ん? 待てよ。

 

「ヨシエさん」

「どうかした?」

「見つけた、かもしれないです」

 

「あら、本当?」目を大きくし嬉しそうに彼女は反応する。「どれかしら」

 

「これです」

「えーっと、このバッグが、浅川君のお目当ての物?」

「はい。ナイロンを使って、けっこうな上玉を完成させることってできませんかね?」

 

 ヨシエさんは思案する。

 

「なかなか聞かないけど……上手く切り貼りすればできなくは、ない?」

 

 ボクも聞いたことがない。雑貨を分解してまでして鯉のぼりを作ろうとする物好きなどボクくらいなものだ。

 しかしこれ以外に名案があるかと言われると、難しいところだ。

 

「でも浅川君。必要な量だけ手に入れられるポイントはあるの?」

「あ……」

 

 失念していた。素材を探すことばかりに夢中になっていて、そもそも手に入れる手段を考えることを忘れてしまっていた。

 

「ふふ、心配しないで」

「何か方法が?」

「私の方で要らなくなった上着を譲るわ。バッグよりも工作しやすいでしょうし」

 

「おお!」確かに、衣服にもナイロン製のものは多い。「ありがとうございます」

 原則(というか暗黙の了解に近いが)生徒と教師以外の職員は深い交流は認められていない。これもパパ活のようなゆすりを防ぐためなのだろうが、ヨシエさんのプライベートスペースを踏むのは良くないはずだ。

 なので、景気よく持ってきてくれると言って去ったヨシエさんをベンチで待つことにした。

 再び賑やかなグループたちが、五感に鬱陶しく刺激してくるようになる。

 Sシステムのことを知らされて一週間も経たずに何食わぬ顔で日常に励める根性は無神経だからか、根が図太いからか。いずれにせよ大した順応性だ。

 そんな風に耽っていると、最近見た顔がボクの前を横切った。

 

「浅川君?」

「愛理。と、そちらは――?」

 

 一昨日会話をした愛理の傍らには、うっすら見覚えのある影があった。

 

「この子は心ちゃんです。この前話した」

 

 やはりそうだったか。

 

「こんにちは、心」

「こ、こここ、こんにちは!」

 

 めっちゃ緊張してんじゃん。

 そういえば入学日の自己紹介でも、彼女あがり症だった気がする。

 

「お、落ち着いて心ちゃん。浅川君は優しいから、焦らずゆっくり、ね?」

「う、うん、ありがと」

 

 愛理の方が連れを宥める。何とも異様な光景だ。

 

「二人は買い物?」

「はい。浅川君は?」

「ボクは――」

 

 事の経緯を話すと、二人揃って不思議そうな顔をする。

 

「高校生にもなって、ですか」

「あっはは、やっぱそういう感想になっちゃうかあ」

 

 一般的な家庭ではいつの間にか行われなくなるものなのだろう。ボクはそんな経験なかったから、イメージが湧いていないだけだ。

 

「それで今、ツテの人が材料を持ってきてくれるのを待っているんだ」

「誰とつくるんですか?」

「え、独りだけど」

 

 すると愛理は心と顔を見合わせ頷きあう。

 

「それ、私たちも手伝っていいですか?」

「ふぇ?」

 

 まさか愛理から提案してくるとは思わなかった。一昨日会ったばかりなのだし迷惑かと思って遠慮していたのだが。

 

「心はいいの?」

「はい。何と言うか、楽しそう、ですし」

 

 うむ、二人がそういうのであれば、お言葉に甘えるとしよう。

 

「じゃ、よろぴく」

 

 

 

 ヨシエさんが持ってきたのはカットソーだけではなかった。他にも使えそうなものをいくらか――よくぞここまで。

 ボクが女子二人といるのを見て意味深に「あらあら」と笑ったが、何がおかしかったのか。

 彼女にお礼を言い、二人とこの後の動きを決める。

 

「できれば人気のないところがいいなあ。場所も取るし」

「なら、ここがいいかもってところ、私知ってます」

 

「賑やかなのが苦手だから」と自虐的な言葉を吐く愛理の表情に翳りはない。自分の習性が思わぬ場面で役立ったことが嬉しそうに見えた。

 

「いつもはみーちゃんって子と三人でいるんだっけ」

「はい。今日は、その、少し体調が悪いみたいで」

「おや、大丈夫なのかい? お見舞いでもしてきた方が」

「だ、だだ大丈夫ですよ! えっと、女の子は定期的にあるものですから……」

 

 やけに慌てたような心のフォローに首を傾げる。が、一拍置いて理解した。

 大変だな、女の子も。

 他愛もない話――心と打ち解けるための時間に等しかった――を繰り返す内に、目的地に着いたようだ。

 

「おお、ここなら静かだしのびのびやれそう」

「ですよねっ」

 

 今日の愛理はいつもより元気そうだ。

 

「じゃあやっていきましょー」

 

 基本色は素材そのものの着色を利用するため、目玉や鱗の溝を塗るための黒以外ペンは必要ない。

 

「私はどうすればいいですか?」

「心は裁縫が得意だったなあ。ボクらが切り取ったパーツを縫い合わせる作業、お願いできる?」

「わかりました。って、覚えてたんですか!?」

「え? うん」

「すごい……私の自己紹介、どうせ誰も気にかけてないと思ってた」

「根性あればイケる」

「意外と雑!?」

 

 言うて家庭的なアピールしてたのは心だけだったから、それなりに印象に残っていた。池や春樹じゃあるまいし、他人を浅はかな目で判断したりはしない。

 ハサミや糸などの用具は、趣味目的で買っていた心に持ってきてもらった。何気に一番の問題になっていたかもしれなかったので、彼女がいなければけっこうピンチだった。両手を擦り合わせてください深くお辞儀すると、再び慌ててふためいていた。

 今回の作業は三段階に分かれる。切る、縫う、塗る。

 用意した素材の色は白、黒、赤、青の四色。全て白をベースにし、異なる三色の鯉のぼりを完成させるのが目標だ。ちゃんと真鯉を一番大きく、青鯉を一番小さくつくる。

 

「心、これ青のやつ、よろしく」

「うん。筒状にするとこまでやった方がいい?」

「いや、細かい色塗りがしにくくなるから、後でいいよ」

「色塗り、私がやりましょうか?」

「任せるよ、切るか塗るか愛理の自由、残った方をボクがやる」

 

 比較的少人数なのもあり、滞りなく連携が取れている。

 三時間程集中を続け、真鯉以外が形になったところで昼休憩に入った。

 

「そういえば、これを届けてくれた人って」

「ヨシエさん?」

「はい。どこかで見たことあるような……」

「食堂の人」

「ああ、そうだ! すっごく綺麗な人で、びっくりしちゃった」

「……あれが四十超えてるって言ったら、キミら信じる?」

「え……」

 

 適度な雑談を挟み、頃合いを見て制作を再開する。話し合った末、先に真鯉を完成させてそれぞれ細微修正を加えるということになった。

 

「……何だか、ちょっと楽しい」

「そりゃ良かった」

 

 静かに感想を零す心に、それだけ返す。

 

「あまりこうやって、誰かと何かをつくるって経験をしたことがなかったから」

「あっはは、いいもんだろう?」

 

 目の前のタスクに集中する傍ら、強く頷いた。

 愛理もその様子を視界に入れていたようで、ふっと微笑む。

 

「――よっし、おーわり!」

 

 高らかに宣言する。

 制作時間、約六時間。三人だけで即興でつくりあげたホン角的鯉のぼりが、ボクらの眼前に横たわっていた。

 

「今にもピチピチ跳ね出しそうだぜ!」

「と、塗装がリアル……」

「浅川君、思ったより器用なんですね」

 

 本気出せばこんなもんよ。椎名にコテンパンにされた悔しさが昨日のように脳裏に焼き付いているからな。いや、あれホントに昨日だったわ。

 

「あとは吹流しだけど、これは適当に余ったものを繋げるかあ」

「吹流しまで自作って、すごい拘るね」

「ここまでやったんだからねえ。心もありがとなあ、さおに括り付ける紐まで付けてくれて」

 

 拘っていたのは僕だけでないはずだ。愛理も鱗を一枚一枚丁寧に切り抜いていたし、心の裁縫もほとんどほつれが見えない。上出来だ。

 

「でもこれ、どこに飾るんですか?」

「そこなんだよねえ」

「決めてなかったんだ……」

 

 最大の真鯉で三メートル強。寮室に置くには少しデカい。

 

「さおをどうするかという問題もあるよね」

 

 鯉の大きさによる弊害がもう一つ。これらを括り付けるのに適した長さのさおに心当たりがないことだ。

 

「細長いポールがあって、人目につかないところ……寮の裏とか?」

「あんな窮屈なところだと可哀想じゃない? できれば優雅に泳いでもらいたい」

 

 愛理の言った場所なら監視カメラの存在もないが、あそこの人目のつかなさは開けてない場所だからだ。飾る意味を感じない。

 

「あっ――」

 

 程なくして、ボクと愛理が同時に閃いた。

 

「あそこだ」

 

 

 

 

「へー、こんな綺麗なところがあったんだ」

 

 心が感嘆の声を漏らす。

 ボクらが選んだ鯉のぼりの放流所は、一昨日愛理と会った海辺だ。

 ここなら開放的だし人目も少ない。大木に紐を括り付けることもできる。

 茶柱さんにチャットで懇願したところ、渋々といった感じの許可がおりた。

 

「よーしやるぞー」

 

 ボクは軽くルートを演算し、作品を片手にひょいひょいと木々をよじ登る。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

「ん。落ちてもクッションがあるし」

 

 この高さなら落下しても生い茂る草が衝撃を緩和してくれるはずだ。無問題。

 吹流し、真鯉、緋鯉、青鯉と上から順に紐をきつく結ぶ。

 

「これで出来上がり、っと!」

 

 勢いよく飛び降りると、足を挫いた。「あいったぁっ!」

 

「浅川君っ!?」

「つぁー……」

 

 昔からこうだ。最後の最後で雑になる。周りからも詰めが甘いとよく言われたものだ。どうにか直さなくては。

 心配そうにする二人を宥めていると、そっと風が吹いた。

 三人揃って、鯉のぼりを見る。

 

「……はは、気持ちよさそうだなあ」

「私たちでつくったんですよね、これ」

「ああ、一からね」

 

 万全な調子を訴えんばかりに元気よくうねる姿はのびのびとしていて、安らかだ。

 それを材料から何まで自分たちで積み上げてきたともなれば、充足感の一匙くらい得てもおかしくない。

 いつまでも置いておくわけにはいかないだろうということで、連休明けには撤去して一匹ごと各寮室で保管することに話は纏まった。

 

「あー! 肩凝るぅ、どっと疲れが押し寄せてきた」

「こんなに長く集中したの、初めて」

「ちょっとだけ休憩して行きませんか? しばらく鯉のぼりも見ていたいですし」

 

 愛理の提案に頷き、三人でベンチに並ぶ。

 愛理とは勿論、初対面だった心とも、砕けた態度で接せられるようになった。

 目的もなく散策するのも、偶にはいいかもしれない。

 結局日暮れまで暖風に晒されながら和やかに過ごし。

 帰りの間際、ボクはもう一度大魚を見た。

 

「たんと楽しみな。また迎えに来るよ」

 

 大丈夫さ。

 今日を越しても、ボクらがしたことはなくならない。

 役目を終えても、キミは思い出と同じように大事にする。

 だから目一杯泳ぐんだ。

 この景色だけは、きっと見れなくなるだろうから。

 それだけ心に呟き、ボクは帰路へと就いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スナップショット〜スマブラ〜

今回はけっこうはっちゃけている、とだけ言っておきます。


「ハア!? マジかよおおぉぉ!」

 

 春樹が悲痛な叫びをあげる。

 

「いいい今の一体どうやった綾小路!」

「え? どうって、お前らに教わった操作で戦っただけだけど」

「そんなコンボ教えてないって! くぅ、初心者いびりしてやろうと思ってたのにぃ……!」

 

 池も同じく、清隆のプレイスキルに衝撃を受けたようだ。

 

「最近のゲームはやたらハイスピードねぇ」

「浅川君はこういうの、あんまやらない?」

「専門は一昔前のやつかなあ、レトロってやつ? ――健は?」

「やると思うか?」

「須藤君はシューズとかにポイントかけてそうだね」

 

 珍しく、というより初めて、勉強会の男子勢は池の部屋に集合していた。現在はゲーム枠と雑談枠で分かれている。

 清隆はこういった娯楽は初めてだと無垢な目を輝かせていたが、池と春樹曰く『清い悪魔』が降臨したらしい。度々断末魔が聞こえてくる。

 一方僕は健と沖谷とベッドに腰を下ろし、適当な会話を嗜んでいた。

 

「なあ浅川。本当にいいのかよ? こんな感じで」

「メリハリというのはこれから先も重要になってくるステータスさあ。全力で休めなんて思わないけど、極限に休みなさい」

「浅川君らしい考え方かもね」

「でしょ?」

 

 再始動した勉強会。鈴音主導のメインラーニングに加え、先生に扮した僕のスパルタ復習会によって、赤点候補の三人と沖谷は着実に学力を伸ばしつつある。

 そうして上手い具合に軌道に乗ったと判断した僕が提案したのが、日曜日の羽休めだ。

 

「俺はさっきまでみたいに何も考えず走ってる方がまだ楽しいぜ」

「その爽快感は理解できるよ。とは言えまちまちさあ、僕なんかはこうして他愛もない会話をしているのが好きだし」

「僕も浅川君と同じかな」

 

 午前中は全員でかけっこやらボール遊びやら――トップ4でやってきたトレーニングをよりカジュアルな内容にした運動に取り組んでいた。一旦解散し各々シャワーと昼食を済ませ、この場に再集合している。

「ぐごぅおおおぉぉっ!」と池の擦り切れるような声が轟く。清隆にノーダメージで敗北したようだ。素人目からだと、清隆が上手いのか池が下手なのかわからない。

 

「お前強すぎだろ、イカサマ使ってたりしないよな?」

「どこにインチキを挟みこめる……」

「待てよ池。綾小路ならもしかしたら、アレを倒せるかもしれねえ」

「ま、まさか、アレを……?」

 

 二人が生唾をのむ音が聞こえる。

 

「やい綾小路! お前を見込んで、これからミッションを与える」

「ミッション?」

「おうよ。この『スマブラ』においてクリア者0.001%を下回ると目される究極の高難度クエストに挑戦してもらうぜ」

 

 正式名称は『スマイルブラザーズ』。「笑い合えたら、みんな兄弟だ」をキャッチコピーに、中高生を中心に絶大な人気を博している3Dアクションゲームだ。今ではその爆発的な勢いが収まりつつあるが、相変わらずこうして多くのユーザーをごっそり獲得しているらしい。

 そんな子供に親しまれるゲームに、二人曰く製作者の遊びだと豪語される難易度のソロ専用クエストがあるとのこと。

 流されるまま、清隆の手にコントローラーが託された。

 

「コイツをクリアすれば実績コンプなんだよ。望みはお前にかかっている!」

「最後の華くらいは弟子に譲ってやるってもんだぜ!」

「嘘吐くなってお前。あの時『無理ゲーだろこんなん!』って台パンしてたじゃん」

「ば、馬鹿! 能ある鷹は爪を隠すんだよ」

「お、知ってるんだなその言葉」

「舐め腐りすぎだろ!」

 

 賑やかな二人を尻目に、清隆は画面と向き合う。

 操作するキャラは、池と春樹の単純な性癖が込められた女性に作られている。端的に言って、胸と尻がデカい。こういうキャラメイクの自由さが、顧客を子供だけに留まらせない一因なのだとか。

 

「何で女々しい見た目にすんだよ。強え感じにすりゃいいのに」

「他人のロマンを理解するのも大変なのさあ」

「二人共、女子のことになるとわりとコワイよね……」

 

 三者三葉意見を発する。過去に教室で堂々と女子の胸の大きさで賭けをしようと仕切っただけのことはある。

 そんな呑気なことを言っている間にも、清隆は順調にクエストを進めているようだ。

 

「おお、中ボス倒した! まだMPも残ってんじゃん」

「ここまでの時点でもう表のラスボスよりムズいんだよなぁ」

「その表とやらをオレは見たことすらないんだけどな……」

 

 微妙な顔はしているものの、キャラを操る指の踊りは、心做しか楽しそうだ。

 そうしていると、

 

「――!」

 

 途端にムービーが差し込まれた。

 

『よもやここまで辿り着くとは……。いいでしょう、きみたち兄弟の絆とやらを、私に証明してみなさい』

 

 ……誰?

 

「出た出たついにお出ましだぜ、コイツが例のチート野郎だ」

「チート野郎って……何か顔がリアル過ぎないか? 実写みたいだ」

「当たり前よ。これ製作者の顔なんだから」

 

 清隆は多分グラフィックの凄さに触れていたのだろうが、春樹がそんことを言う。へー、イマドキのゲームって制作陣も参戦するのか。映像がリアルになったからこそできる、確かに遊び心だ。

 

「……」

 

 悪戦苦闘し、段々と表情に余裕がなくなってきた清隆を傍目に、僕ら観客は変わらず適当に過ごす。

 

「健、そのチョコちょーだい」

「お前チョコ好きだよな、食い過ぎじゃねえか?」

「いいのいいの、中年過ぎたおじいちゃんだって職場に忍ばせるくらいだから」

「おじいちゃん?」

「僕じゃないよ」

「知ってるよ……」

 

 あの人元気かな。人柄けっこう好きだったけど一、二回しか話したことがなかったっけ。先生が苦手意識を持つ理由がよくわからない。

 

「二人は何か食べる?」

「え? ああ、ツリップくれよ。――あんがとな」

「俺はカットキット」

「浅川が全部食べちまったわ」

「へ!? 嘘だろ、二袋あったろ」

「飴ちゃん舐める?」

「浅川ぁぁあああ!」

 

 やっぱ彼らはこういう扱いをしていた方が輝くかもしれない。

 他愛もない談義に興じていると、清隆が唐突にコントローラーを置いた。

 

「ま、負けた……」

「マジか、綾小路をもってしても……!」

「いやでもHP半分まで削ってるじゃん、次は行けるって!」

 

 あれ、何だろう、二人が良き戦友のように見えてきた。どうやら娯楽への熱意は真っ当かつ純粋なものらしい。

 声援を受けた清隆は再び顔を上げ、リベンジを試みる。

 

「……大丈夫だ、パターンはほとんど覚えた。次は勝つ」

 

 鋭い目だ。何が何でも勝利を手にして見せるという、頑なな執念が、珍しく、彼の瞳を爛々と輝かせている。

 ……おい、それでいいのか清隆。その色をこんなところで発してしまって。

 僕の内なるツッコミに気づくはずもなく、清隆は先よりも余裕のある状態でボスにたどり着く。――チェックポイントがないというのも、このクエストの鬼畜要素のようだ。

 

「……」

「あ、あいつ、あんなキリッとした顔しやがって。この前のバスケの時の比じゃねえな」

「頑張れ綾小路君……!」

 

 傍らの二人が呆気にとられながらも、戦士を応援し始めた。

 

「いける! あと少しだぜ綾小路!」

「油断すんなよ! このまま押し切れ!」

 

 懸かっているものがあるだけあって、池と春樹も自分の戦いのように叫びだす。なかなかに熱い展開――。

 ……なんコレ。

 

「……!」

 

 すると突然、画面に動きが起こった。ボスの身体が七色に発光する。

 

「何が来る……?」

「い、いや知らねえ。何だよこれ?」

「ある程度削るとこうなるんじゃね?」

 

 画面の前に座る三人の動揺。清隆は緊張の面持ちで身構える。

 次の瞬間、

 

「――! 馬鹿な……」

 

 池らが再三謳っていた「弾幕ゲー」だという文句。その本領発揮といったところか。

 立体的なフィールドに余すことなく気弾が放出され埋め尽くす。

 当然主人公は対処する間もなく、一気に大ダメージを喰らい沈黙した。

 

「おいおい、冗談キツイって……」

「クリアしたやつはどうやったんだよこれ……!」

 

 二人の落胆の声を最後に、物悲しげな空気が流れる。圧倒的戦力差を前に、誰も言葉が出ない。

 ……いや、ホントなんコレ。

 

「あんなのクリアできる気がしないよ……」

「そもそもクリアさせる気がないんじゃねえか? クリアしたやつらも結局チートとか使ってたんだろ」

 

 当のプレイヤーは地面に手をつき顔を俯かせている。

 ――が、その目はまだ燃えていた。

 

「いや、何かあるはずだ……。絶対に、何か――」

「清隆」

 

 気付けば僕は、震える彼の背中に声を投げかけていた。

 

「恭介……?」

「フレコンとかサガセターンとか、昔のゲームはそういう鬼畜なやつが多かったんだけど、」

 

 今では小さいお子様に対象を合わせ親切なガイドやルートが用意されていたり難易度も抑えられたりするゲームが多いが、かつてはそんな設計はされておらず子供泣かせな難易度が序盤から立ちはだかることも珍しくなかった。

 その要因はグラフィックの粗さやバグの問題、単純な敵の強さだけではない。

 

「こういうのは敵のデータを伏せてくるのが定石だ」

「データ……そうか。オレとしたことが、またしても情報に振り回されたってわけか」

 

 さっきの攻撃はどう見ても逃げる隙間――安置のない弾幕だった。ならば突破の方法が隠されているはずだ。

 

「有効な武器やアイテム、探してみな。僕の知ってるゲームの醍醐味ってやつは、そういう試行錯誤の賜物さあ」

 

 何が敵の弱点なのか。どこに秘密が隠されているのか。攻略本なんてものはどこにもない。未開の領域に松明を道標に置いていくようにして、手探りで発見に至るのもまた面白いところだ。

 

「……ありがとう。お前の助言、必ず活かしてみせる」

「君ならやれるさ。何たって、ブレイバーなんだから」

「フッ…………ああ、そうだな」

 

 信頼を受け取った彼は、勇気の御旗を掲げ前を向く。

 ええい、ままよ。ここまで場が温まってしまったのなら、僕もその船に乗ってやる。老いぼれの知識が如何程の役に立つかはわからんが。

 

「浅川君、さっきまで遠目にしか見てなかったのに、どうして……」

「さあな。熱気に当てられちまったのかな――」

 

 さあ行け清隆。この場にいる全員が、君の勝利を待ち侘びているぞ。

 

「……」

 

 もはや道中に彼を阻む壁はない。あっという間にボス戦だ。

 

「まさか……そうか、そういうことか」

「な、何かわかったのか?」

「ああ。コイツは戦う前から、勝利へのヒントを与えてくれていたんだ」

「どういうことだよ」

 

「まあ見てろ」彼は慣れた手つきでインベントリを開き、装備変更の画面に切り替える。「こういうことだ」

 

「なっ、御守りだと!? 最強の装備を外してまで入れるのがそれだって言うのか?」

「……いや、池。こいつはもしかすると、ビンゴかもしれねえ」

「山内……? もしかして、お前……」

「俺にはわかったぜ。綾小路の考えていることがなあ!」

 

 僕にもわかった。一瞬見えた御守りの詳細文。そこに答えは隠されていた。

 戦闘に戻るとすぐ、ボスが覚醒する瞬間が訪れる。

 

「だ、大丈夫なのか? あれが来るぞ!」

「心配すんな、このゲームのストーリーを思い出すんだよ。笑い合えればみんな兄弟、その最初の『同胞』だって言われていたのは?」

「実の、弟……あ! そうか、ストーリーの始まりから終わりまで主人公が肌身離さず持っていた御守り、これはそいつが丹精込めて自作した一点物だ」

「そういうこと。だからちゃんと見せつけてやるのさ。俺たち兄弟の――」

 

 暴力的にまで放たれる光弾に、清隆は臆することなく突っ込んでいく。

 そして、剣を振り上げた。

 

「『絆』ってやつをよお!」

 

 次に映ったのは――――道が切り拓かれた瞬間だ。

 

「よっしゃぁあ綾小路! このままトドメだ!」

「チャンスだぜ、仕留めろっ!」

「頑張れ!」

「やっちまえ!」

 

 仲間の声が彼の背中を押し、最後の一撃へと駆り立てる。

 静観するはずだった僕も、はは、思わず拳に力が入ってしまうな。

 

「清隆……!」

「これで終わりだ……!」

 

 鳴り響く、終焉を告げる鈍い音。

 時が、止まった。

 全員が固まったまま、きっと同じ一点を見つめている。

 敵のHPバーが消滅した、その様子を。

 

『ハハハ、これがきみたちの……! なんて温かい……私の見たかったものを今、ようやく見ることができました。ありがとう。本当に、ありがとう……』

 

 遅れて、ボスの影も光の粒となって消えていった。

 

「……や、やった」

 

 最初に声を漏らしたのは、春樹だ。

 

「やったぞおおおぉぉおお!」

「うおおおおおおぉぉぉ!」

 

 四人の歓声が室内を埋め尽くす。僕は一気に解けた緊張に脱力し、止まっていた呼吸を再開させる。

 なるほど、最近のゲームは、なかなかどうして……手に汗握る大迫力だな。

 

「お前ならできるって信じてたぜ!」

「……あー、ありが、とう?」

 

 純粋な言葉に、清隆はたじろぎながらも返事をする。

 

「……へー、良いもんだねぇ」

「浅川君?」

「いやね、やっぱこれも青春の形なんだなと」

「わかるぜ浅川。この昂ぶる感じ、悪くねえ。ゲームって自分がやるでなくてもこんな熱くなれんだな」

「チョコ食べる?」

「嘘だろお前」

 

 うーん鋭いツッコミ、調子良いねえ。思わずカラカラと笑ってしまう。

 

「清隆、楽しかったかい?」

 

 薄い表情の彼に訊く。

 返っきたのは、大変望ましい答えだった。

 

「――ああ、このカタルシスがゲームの醍醐味なんだな」

「あっはは、自分のも買ってみたらどうだい?」

「ありだな」

「え」

 

 冗談のつもりだったのだけど、普通に肯定されてしまった。気分が高まっているのか、本気で考え込んでいる。

 

「冗談だ」

「…………こりゃやられた」

「でも、それくらい楽しかったよ。多分お前らが見ていてくれたからだな」

 

 全く、この男は。

 だが、彼の言う通りだ。今日で僕らの心の距離はぐっと縮まった気がする。やはり男どうしだからこそ通い合えるシンパシーはあるということだ。

 ……狙い通りの結果だった。けど、その先で触れた感情は少しだけ――。

 

「どうしたんだよ浅川」

「――いや、息抜き後の指導について早速ね」

「おいおい、そんな堅っ苦しいことは」

「山内君……?」

「ひ、ひぃっ!」

「おっかねぇ、マジでおっかねえよこのドS教師!」

「ドSのSはスパルタのS!」

「え、サディストのSだろう?」

「あはは、まあ綾小路君が正しいんだけどね」

 

 やれやれ、自分に対して照れ隠しをするのも、随分と慣れたものだ。

 




まあギャグ回に見えますけど(何ならほぼギャグ回のつもりで書きました)、言うて一般男子のインドアの遊びってこんな感じじゃねっていうのを誇張気味に書いてみました。何でだろう、よう実だとそんな一コマが新鮮に……。

一つだけ含めている意味があるとすれば、勉強会の男性陣が仲良くなる過程をちょっとでも描きたかった、ですかね。恐らくみなさん察しているであろう『(特にきよぽんが)原作より仲が深まっている』ことの根拠とでも思っていただければ。これもオリ主の提案による変化ですね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

神崎隆二――前座

 保健室の扉を開けると、もう随分見慣れた女性の姿が出迎えた。

 

「あれ、まだいたの? 神崎君」

 

 Bクラスの担任であり保健医も担っている星乃宮が、フランクな態度で神崎に応対する。

 

「ええ、まあ。少し与太話を」

「さっき一緒に私を呼びに来てくれた子? えーっと、確か……」

「浅川です。浅川恭介ですよ」

 

 「ああ、そうそう」一か月程度ではさすがに学年全員の名前と顔を一致させておくのは難しいようだ。平生から不真面目さを晒している彼女なら尚更覚えようとしないのだろう。

 ついさっき言葉を交わした「彼」の名を告げると、どういうわけか彼女はむつかしい表情で悩む仕草を見せる。

 

「へー、浅川君ねぇ。ふーん……」

「何か気になることでも?」

「いやね、この前のことなんだけど――確か彼、サエちゃんから呼び出しくらってたでしょう?」

 

 サエちゃん、というのは浅川の所属するDクラスの担任、茶柱佐枝のことだろうか。以前日本史の授業を受けたことがあるが、寡黙であまり社交的な印象は受けなかった。傍から見れば星乃宮の方が人気を集めそうだが、元々会話が得意ではない彼からすれば、どちらも接しやすさという観点ではどっこいどっこいに感じられる。

 茶柱が浅川を呼び出したという件に関しては、よく覚えている。何せ校内アナウンスだったのだ。記憶が正しければ、確か『綾小路』という少年も一緒に呼ばれていたはずだ。

 

「それがどうかしたんですか?」

「あの時は上手くはぐらかされちゃったけど、何かあるんじゃないかなあって」

 

 中身のない表現に首を傾げる。その「何か」の部分が重要であるというのに、教えてくれるつもりはないのだろうか。

 疑問に思いながらも、妥当な意見を伝える。

 

「生活指導の一環では?」

「えー、まだ五月なのに? 何だかなあ」

 

 確かに入学したばかりの高校生に早速生活指導というのもおかしな話だが、進学校という側面のあるここにおいて、将来に展望を持ち合わせていない生徒なら手厚く心配されても無理はないように思える。

 浅川の背景について詳しく知っているわけでもないので何とでも言えるが、顔見知りに過ぎない神崎からすればそれが考え得る精々だった。

 別に大した答えを望んではいなかったのだろう。彼の言葉に適当な相槌を打ち、星乃宮は話を切り替えた。

 

「まあいっか。それで、結局君は何用で来たの?」

「それは――」

 

 彼は言葉に詰まり、星乃宮の右手側――カーテンで遮られたベッドの方を見る。

 曇った表情に、彼女は呆れたように溜息を吐いた。

 

()()()()なら、大丈夫よ?」

「……そうですか」

 

 白波(しらなみ)千尋(ちひろ)

 無論、神崎と同じBクラスの生徒である。浅川が発見した「泣いている少女」とは彼女のことだった。

 

「本当に心配性だね、神崎君は」

「……先生の方こそ、冷たいこと言わないでください。最近俺たちがどんな目に遭っているか、知らないわけではないでしょう?」

 

 「それはそうだけどねぇ……」肩を竦める星乃宮だが、彼の怒気まで滲んだような表情を見て同情するあたり、思うところはあるようだ。

 Sシステムの真実が明らかとなった五月一日。その翌日頃から、度々Bクラスの生徒がトラブルに巻き込まれるようになった。

 被害にあった生徒の証言によると、相手は全てCクラス。意図的なものであることは疑う余地もない。

 モラルを重んじ人徳を具えている彼が、それに対して決して小さくない苛立ちを抱くのも当然のことだった。

 

「話はできますか?」

「ひとしきり泣いた後だからね。本人さえ良ければ、問題ないよ」

 

 浅川と、途中から会話に参加したCクラスの生徒――椎名と三人でやり取りを始めた頃には扉越しの嗚咽が止んでいたことに気付いていたので、あくまで形式的な確認を取った。

 椎名、と言うと、彼女の存在は初対面ながら珍しく映ったものだ。

 浅川も言っていたが、彼女からは全くと言っていい程敵対心や悪意が感じられなかった。かなり親し気だったので、恐らく二人は本当に今まで穏やかに仲良くやってきたのだろう。実際に話してみても、Bクラスのメンバーに引けを取らない誠実さが窺えた。

 『暴力的』という噂が独り歩きして初めはCクラス全体に憤怒を向けていたが、もしかしたら一枚岩というわけでもないのかもしれない。神崎は相手のクラスへの認識をほんの少しだけ改めることにした。

 とは言え、今まで起こった悪行が消えるわけではない。今回も勿論、咎められるべき事例の一つだ。

 拭えない静かな怒りを抑えながら、彼はカーテン越しに「入るぞ」と呼び掛け、返事を受けてからゆっくりと開けた。

 

「具合はどうだ?」

「えっと、大丈夫、です……」

 

 白波はやや俯きがちに応答する。

 確か彼女は異性が苦手だ。いくら神崎が人格者とて、早々肩から緊張は抜けないだろう。

 ただ、同性ともなれば話は別らしい。クラスで『委員長』として皆を引っ張る一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)を筆頭に多くの女子と絡む姿を偶に見かける。その点自分よりは幾分か社交的だろうか。

 

「そうか。……あー、落ち着いて早々悪いんだが――」

「…………」

「……安心してくれ。もうじき一之瀬も到着する」

 

 こういう時、どういう気遣いを施すのが正解なのか。全く慣れる見込みがないのが、我ながら非常に残念なことである。

 気休めになるかはわからないが、彼女が最も信を置いているであろう一之瀬の名前を挙げ、どうにか気を鎮めてもらう。

 

「ゆっくりでいい。何があったか、聞かせてくれないか?」

「……はい」

 

 急かすつもりがないことは察してくれたようで、一つ深呼吸をしてから白波は口を開いた。

 

「部活が終わって、帰る途中でした。そしたら、向かいから三人組の女子が歩いてきて、すれ違いざまに呼び止められたんです」

 

 話しぶりからして、やはり面識のある相手ではなかったようだ。となると、白波を呼び止めたのは完全に向こうの特殊な事情――つまりは、

 

「……傷つけるため、か」

 

 浮かない表情のまま、白波はコクリと頷く。

 

「一体、どんなことを?」

「それは……うぅ……」

 

 当時の状況を思い出してしまったのだろう。感情が再度湧き起こり、彼女の口から嗚咽が漏れる。

 むせびを何とか堪え、彼女は説明を再開した。

 

「一之瀬さんのことを、バカにしたんです。仲良しごっこしたいだけの偽善者だとか、頭の中がお花畑だとか……最初は何度か言い返したんですけど、途中から囲んで悪口言われたり、どつかれたりもして、私、悔しくて……」

 

 質が悪い。

 真っ先に浮かんだ感想だ。白波のようなあまり自己肯定感の高くない人間は、敬愛する人間を貶されることを自分自身が悪く言われること以上に嫌う。先程も述べたが、白波はクラス内でも特に一之瀬に対する距離が近い。普段内気な彼女にとって一之瀬の悪口は一層許せないものだったに違いない。

 しかし、神崎の思考はそこで途切れなかった。

 

「……他は?」

「ほ、他……?」

「あっ……す、すまない。ただ、とても重要なことなんだ。頼む」

 

 話を急ぎ過ぎてしまったようだ。詰め寄る態度に目を潤ませた彼女に弁明する。

 が、嘘というわけでもない。考察を進める上で、彼にとって確かに重要な問いかけなのだ。

 

「…………他は、特になかったです」

「容姿や細かい人間関係については、何も言われなかったんだな?」

「……はい」

 

 確認を終え、神崎は顎に手を当てて考える。

 今の問答でわかったのは、恐らく相手――今回もCクラスと見て間違いないはずだ――は極論B()()()()()()()()()()()()()()()ということだ。

 これまでの証言でもそうだった。痕の残らないような接触はともかくそれに伴って行われる悪口は、どれも「中身がない」。廊下から窺い知れる程度の教室の雰囲気に纏わるものばかりだ。

 一之瀬の名前は生徒会の件でも噂になっているだけあって、クラスの内情を把握しているには値しない。それもあって、Bクラスをターゲットにするのが意図だと捉えてしまうとどうも辻褄が合わないのだ。

 ならば目的は一体何のかというのも、それを逆に考えてみれば推測できる。要は、上っ面の悪口でも十分事足りるのだ。

 わかりやすく言い換えると、()()()()()()()()()()()()()。その先に何を得られるのかは判然としないが、今のところたどり着ける結論がそれだった。

 これで浅川が安直に導き出した逆恨みという線はほぼ潰えた。しかし、どうせなら彼の予想通りであって欲しかった、というのが正直な意見だ。

 簡単な話、余計に気味悪く感じてしまう。

 いくら暴力的といっても(自分とは相反する倫理観故に理解できないのかもしれないが)、暴力自体を目的に突っかかる生徒などいるのだろうか。まして本当にいるのだとしたら、それこそもっと過激なものになるはずだ。

 何かしらの思惑があってそうしているが、正体だけがわからない。この燻ぶりの増していく疑問が、何とももどかしい。

 いずれにせよ、碌でもない計画に巻き込まれているクラスメイトが不憫でならないという事実は根幹に残っている。その時点で看過できることではないし、これからも厳重に注意しなければならない。

 随分と捻りのない対策かもしれないが、現段階ではそれが精一杯だ。して、その旗振り役を買って出てくれる存在は、やはり――

 

「千尋ちゃん!」

 

 と、時機良く脳裏に過った姿が目の前に現れた。

 普段は快活な、しかし今は少し焦燥の感じ取れる声を聞き、次の瞬間白波は喜色を浮かべた。

 

「一之瀬さん!」

「千尋ちゃん、大丈夫? どこか怪我は……」

「ううん、平気だよ。心配してくれてありがとう」

「当然だよ。寧ろ肝心な時に一緒にいてあげられなくて、ごめんね……」

「そ、そんなことないよ。こうやって来てくれただけでも、凄く嬉しい」

 

 クラスのリーダーにして信頼に足る人物のご登場に、彼女は先よりもあからさまに明るい声に変わる。

 ……なるほど、これが正解だったのか。

 自分の足りない配慮を今まさにそのまま証明してもらった気分だった。他人行儀な挨拶を一言交わしすぐさま本題に入ろうとした自分とは雲泥の差だ。

 白波の性格を考慮すれば、神崎が一之瀬と同じアクションをしたところで効果は薄いものかもしれないが、これから友人を励ましたり慰めたりする機会があれば彼女のアプローチの仕方は大いに参考になる。処世術の一端として弁えておくことにした。

 

「神崎君、何か事情を聞いていたりする?」

 

 すると、会話を一段落つけた一之瀬が自分に事実確認を求めてきた。恐らく白波をそこはかとなく気遣っているのと、状況から既に神崎が証言を取っていることを察したからであろう。

 彼はついさっき聞き遂げた情報と、それを基にした考察を簡潔に伝えた。

 

「……そっか。懲りないね、Cクラスも」

 

 浮かない表情からは、神崎と同じCクラスへの敵意と仲間の心情を憂う気持ちが読み取れた。彼と比べると、若干後者の方に偏りが窺える。

 

「やつらは何らかの明確な目的があってそうしているように思える。一之瀬、お前は何か考えつくことはないか?」

「うーん――手がかりがあるわけでもないから、難しいところだね」

 

 情報統制、なのだろうか。向こうがこちらの詳細を把握できていないのと同様、Cクラスの実情はあまり定かではない。

 ただ、裏を返せばそれだけ迅速な行動かつ全体で一貫した行動を取っているということ。それは一連の動きを取り纏める統率者がいるということと同意義で、単に無法者の集いではないという裏付けになる。なるほど、やはり一筋縄ではいかないものが潜んでいるらしい。

 そこまでは神崎自身もおよそ理解できていることだ。一之瀬は別の角度から見解を語る。

 

「でも、Bクラスを狙ったことに意味を見出すなら、わかることもある」

 

 神崎が思考の始点として切り捨てた「Bクラスを標的(ターゲット)にした意義」、彼女は彼と対照的にそこに意識を向けた。

 

「私たちが平和主義なのは既に知られている。多少のイタズラ程度じゃ無理に訴えられることはないないだろうと踏んで、的を絞ったんじゃないかな」

「狙いやすかった、ということか」

 

 「多分ね」神妙な面持ちのまま、彼女は頷く。

 憶測の域を出ないとしても、現に手を出したり事を荒立てたりしたら相手の思うツボだということで忍耐という手段を取っているため、その意見には説得力があった。

 しかし、素直に同意できない部分はある。

 

「それだけでBクラス一点に狙いを定めるものか? Aクラスはともかく、Dクラスには付け入る隙があると考えても何ら可笑しいことではないと思うが」

 

 あまり他人を下に見る発言はしたくないものだが、名目上BクラスはCクラスより「格上」、一方のDクラスはやつらにとって「格下」である。今月のクラスポイントが0だったことから授業態度や生活態度などが根本的に悪かったと考えるのは容易であるため、そんな「ボンクラ集団」を差し置いてBクラスがターゲッティングされるのは、少々合点がいかなかった。

 彼の疑問は想定済みだったのか、一之瀬は淀みなく答えた。

 

()()()、神崎君」

「逆?」

「Dクラスはそれほどまでに向こう見ずな人たちだって判断したから、手を出すわけにはいかなかったんだよ」

 

 それを聞いて真っ先に浮かんだのが、『須藤』という名の生徒の良くない噂だった。

 学校初日からクラスのムードを壊した。学年問わず喧嘩を売る。敷地内の施設でも大人に対して失礼な態度を取る。――挙げればキリがないほど、彼の素行は悪いらしい。

 本人を観察したことはないため耳寄りな情報のみだが、五月を迎えた今Dクラスの落ちこぼれ具合を認めるには十分な要素だ。

 そんな連中がちょっかいを出されたら、穏便の「お」の字も過ることはないだろう。

 つまり、お構いなしに学校側へ訴えようとするわけだ。

 今までのCクラスの悪事はどれも物理的な被害は出ていない。安直に理由を推測するなら、それは向こうも大事(おおごと)にはしたくないからだ。真意はわからないが、今のところ他の可能性は見出せない。

 Cクラスからすれば、Dクラスの欠陥品故の不確定要素は計画の邪魔に成り得るのかもしれない。

 

「……なまじお人好しなのが、災いしたのか」

「もし私たちが強硬策にでも出ていたものなら、ここまで長引いてはいなかったかもしれないね……」

「いや、そうとは限らないさ。もうじき中間テストだ。今揉め事を肥大化させれば、皆の集中力が削られるかもしれない。それにCクラスだって、いつまでもこんなことをしてはいられないはずだ。退学が懸かっているんだからな」

 

 そう、条件は同じ。こちらへ攻撃することに夢中になってクラスから退学者を出すなど本末転倒。粘っていればさすがに身を引いてくれるだろうという期待が、神崎にはあった。

 

「でも、今まで被害を受けた人たちの傷は、しばらく残るよ……」

 

 彼の意見は認めるも、一之瀬の愁眉が開くことはない。それは偏に彼女の善良な性格からくるものだが、残念ながらこの場においてその憂いの意味は薄い。

 

「……過ぎたことはどうしようもない。時間が解決してくれるものもある」

「……そう、かもね」

 

 自分の感情が現状に何の意味も持たないことは、重々承知しているはずだ。クラスのムードメーカーでもある一之瀬と理性的な神崎、二人が早くもクラスの代表的立ち位置となっているのは、双方の性格のバランス故でもある。

 

「Aクラスだけが特権を得る、玉座の争奪戦。それがこんな惨状を巻き起こすなんて、困ったなぁ」

「Sシステムなんてきな臭い単語が出てきた時点で疑わしかったが、混乱する生徒も多いだろうな」

 

 二人は飲み込みが早く適応力もあるためこうしていられるが、今までとは一変した生活を送らされるとわかり落胆したり憤慨したりする生徒も決して少なくない。Bクラスでさえ何人も度肝を抜かれた顔をしていたのだ。DクラスやCクラスはさぞ大騒ぎだったに違いない。

 そう思ったところで、神崎の中で二人の姿が浮かんだ。

 

「クラスというと、そういえば学校はどういう基準で生徒を振り分けているんだろうな」

「え? それは、単純に考えれば学力とかじゃないのかな」

 

 確かに試験内容は学力測定と面接のみだったので、そう捉えるのが普通だ。

 しかし、引っ掛かったのは先刻会話した浅川と椎名の存在。

 浅川は間の抜けたポンコツといった印象であったが、椎名からは隠し切れない知的さが感じられ、その落ち着き払った態度は愚鈍とはまるで異なっていた。そんな彼女が好んで一緒にいるのだから、恐らく浅川にも見た目とは裏腹な優秀さが潜んでいるのだろう。

 更に、Bクラス内には以前行われた小テストで高得点を取っている生徒もいる。試験本番で力を出せなかった可能性を鑑みても、逆に点数の芳しくなかったメンバーとの差が激しいことが気がかりだ。

 そこから察するに、

 

「……総合力、なのかもしれないな」

「総合力?」

「運動神経とか社交性とか、そういったものも評価の対象だと考えれば、日頃の態度がクラスポイントに影響することやCクラスの生徒がこぞって暴力的であることも合点がいく」

 

 大方、椎名の場合は運動があまりできないのだろう。振り返ってみると、図書館からここに来た際に僅かに疲弊していたような気もする。

 Bクラスで学力の高い生徒の中でも、コミュニケーションが苦手で消極的な者が多々いる。神崎もその一人だった。

 ただ、そうなると解せないことが一つ――いや、二つある。

 神崎は、バレない程度に一之瀬の方を盗み見る。

 彼女は彼と違いコミュニケーション能力は抜群で、学力も申し分ない。運動の程はわからないがAクラスに抜擢されてもおかしくない人材だ。

 更には、Dクラスの聖人として学年でも知られている平田や櫛田についても評価が不相応に思える。

 疑問が過った神崎だが、すぐにある答えを見出す。

 クラス対抗戦ということは、BからDの全てのクラスにも「平等」にAクラスへ上がる可能性があって然るべきだ。

 ならば、最低限のつり合いが取れるように一つ下位に配属されている優等生も、一定数存在しているのかもしれない。

 彼の思考はそこで止まることとなったが、それでは『下位に配属された生徒が不憫である」という矛盾に気付けなかったのは、一之瀬を信頼するあまりの隙だろうか。

 彼は、()()()B()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を考えることができなかった。

 そして当然――()()()D()()()()()()()()()()()()を推察することもなかった。

 しかし、その答えを垣間見る機会は今後あり得る。なぜなら彼には保留となっている事項があるからだ。

 

「うーん、私は櫛田さん以外に他クラスで頻繁に話す人はあまりいないから、何とも言えないかな。もしかして、神崎君は何か心当たりがあるの?」

「……それについてなんだが、少し確認を取りたいことがあるんだ」

 

 神崎は、浅川に提案されていたことをそのまま一之瀬に伝える。

 クラスが異なるという事実が想定以上の壁を孕んでいることが発覚したばかりで、大なり小なりピリピリしている生徒は多い。そんな中で別の二クラス――まして片割れはあのCクラスだ――と交流を重ねるともなれば、念のためリーダーを張っている一之瀬に理解してもらっておいた方が好ましいだろう。

 暫し思案顔をしていた彼女であったが、やがて柔和な表情で口を開いた。

 

「――神崎君はどう思ってるの?」

「俺がか?」

「うん。神崎君から見て、二人はどんな風に見えた?」

 

 唐突な問いかけだった。

 自分が例の二人と出会ってからはまだ一時間すら経過していない。それを察していないわけでもないはずだが、どういう意図があるのだろう。

 訝し気に思いながらも、どうにか答える。

 

「……悪いやつには、見えなかったな」

「なら良し! 全然行っていいよ」

 

 あまりな即答ぶりに動揺する。

 それは差し詰め、訳のわからない文字列の翻訳を頼まれ「わかりません」と答えたらそれが正解だった時のような感覚。

 神崎は肩透かしを食らい、帰って来たはずの答えをもう一度尋ねる。

 

「えっと、本当にいいんだな?」

「勿論。君が信じられる相手なら、きっと大丈夫だと思うから」

 

 過剰な信頼にも聞こえるが、それも仕方のないことだ。

 神崎は心境に関わらず、あまり他人への評価を口にしない。故にそんな彼が初対面の相手を「悪いやつではない」と見るのなら、少なくとも早々に悪巧みを実行する人間ではないのだろう。一之瀬はそう判断したのだ。

 更に、理由はもう一つあった。

 

「それにね、ちょっと心配だったんだ」

「心配?」

「神崎君、あんまりBクラス以外の人と話しているところを見なかったからさ。少しでも交流を広げられるなら、その機会は逃さないで欲しいなって」

 

 どうやら純粋な気遣い込みらしい。神崎は彼女のお人好しな一面に眉をㇵの字にして笑った。

 確かに自分は他クラスとの関わりが極端に少ない。それは決してクラス抗争の性質が表面化したからではなく、彼の社交性の欠如が招いた必然だった。

 周りのことがよく見えている一之瀬にとって、彼の粗末な状況は一目瞭然だったようだ。

 

「わかった。気ままに行かせてもらおう」

「にしても、その浅川君って人はなかなかに変わり者だね。今の時期に進んで他のクラスの子と関係を持とうとするなんて」

 

 小首を傾げる一之瀬だが、神崎も同じ気持ちだった。

 Cクラスのように策略として接触を試みた可能性も無論考えたが、椎名の存在がある時点で単に神崎もといBクラスを陥れる意図によるものとは判断し難い。となると、本当にただ「己の幸福」のためだけに自分を求めてきたのだろう。

 部活動などでは比較的クラスの壁は薄いと聞くが、浅川が無所属であることは椎名が合流するまでの雑談の中で確認済みだ。

 Sシステムによる重い隔たりをものともせず、ひたむきに平凡な高校生活を全うせんとする彼の姿勢には、僅かながら感心というか、どことなく羨ましく感じた。

 

「……アイツはきっと、根っからそういうやつなんだろうな」

「ほうほう。どうしてそうわかるの?」

 

 そんな彼と自分がこれからどんな付き合いをしていくことになるか、期待半分、不安半分といったところが、成るようになるだろう。

 

「俺はアイツの、『他愛もない時間の共有者』だからだ」

 

 彼がどういう人間なのか――信頼に値する人間なのか、それは自ずと見えてくるはずだ。

 浅川と椎名を繋いだのが『本』なのだとしたら、彼と神崎の仲立ちとなったのは『悪意』と『悲劇』。まさしく哀しみの種から芽生えた(えにし)である。

 しかし、今はまだ奇天烈な味わいの実を宿す前座。

 その開花の時を露にも予感していない神崎は、自分の交友関係が開拓された事実を、ただ小さく喜ぶのみだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

池寛治――せめて一度は向き合いたくて

今回は筆休めみたいな回です。特に物語の根幹とは関係ないと断言しておきます。


 ピンチ……。

 実にシンプルかつ絶望的な感想を抱きながら、池は()()の前で立ち尽くしていた。

 愛しき天使、櫛田の呼び出しにまんまと誘われ屋上へ来てみれば、そこには予め話になかった三人の姿。

 薄々おかしいとは思っていた。今まで自分の方から散々熱烈なアプローチを吹っ掛けていたものの、櫛田の方から個別に密会を提案してきたのは初めてのことだった。にも関わらず直前まで鼻の下を伸ばして有頂天になってしまっていたのは、最早男の性と言う他ない。

 そう、後悔とは先に立たないからこそ後悔なのだ。

 神様は理不尽だなどという理不尽な責任転嫁の真っ最中だった焦りだらけの思考は、自分を死地へと誘った張本人である櫛田の声によって停止した。

 

「三人共、急に呼び出しちゃってごめんね? 実は、堀北さんからお話があるの」

「な、何……? 俺たちなんかした……?」

 

 介したメンバーに心当たりしかなかったため察しはついていたが、せめてもの抵抗に惚けてみせる。

 当然真面に取り合ってくれるはずもなく、櫛田と沖谷は苦笑い、綾小路はいつも通り何を考えているかわからない表情だった。

 そして、今一番恐れるべき目の前の少女は、やはり厳しい顔つきで仁王立ちしている。

 

「……三人共、よく集まってくれたわね。感謝するわ」

 

 それが、第一声だった。

 自分の中の堀北像は、無愛想で親切心というものを知らない悪魔の如き少女だったはずだ。だから今回も、何を言うでもなく早急に勉強会に戻ってこいと命令されるものだと括っていた。

 確かに自分たちを粘り強く指導し参考書まで購入して活用してくれたという事実はあるが、所詮それも彼女自身のため。自分は到底受け入れられないだろうという、遠回しな諦めがあったのだが……。

 いつの間にか疑惑と関心によって耳を傾け始めていた池は、次に発せられた堀北の言葉に再び驚くことになる。

 

「まずは、その……昨日のことを謝罪させて欲しいの。ごめんなさい」

 

 目は、合わなかった。

 それもそのはず。今彼女は、自分たちに対して()()()()()()()のだから。

 

「いくら腹が立ってしまっていたとはいえ、もっと言葉を選ぶべきだった。あなたたちはあなたたちで苦しみながら勉強と向きあわされていたのに……教わる側の理解が上手く行かないときは、教える側にだって責任があるということを、失念していたわ」

 

 相手をとやかく言う前に、自分自身の非を認め反省する。

 池の目に、その姿は昨日の自分たちと対照的に映った。

 

『お前の施しなんざ受けてらんねぇ。部活も惜しんできたってのにイライラさせやがって、時間の無駄なんだよ』

『――確かに勉強できない俺らも悪いけどさ、みんながみんな堀北さんみたいに頭良いわけじゃないんだよ』

『参考書まで買ってくれたのは嬉しかったけど、そんな上から目線な物言いされちゃ勉強する気もなくなるってもんだぜ』

 

 あの時は須藤に流されてしまったとはいえ、自分も虫の居所が悪くぶっきらぼうな発言をしてしまったことは事実。故に今の彼女を見て、自分は間違ったことをしてしまったという罪悪感が込み上げてきたのだ。

 思えば参考書だけではない。短慮のままにペンを投げ頭の後ろに手を組む自分たちを、彼女は何度負の感情を抑えながら解説し直してくれただろうか。

 それに対して、自分は一度でも応えようとしただろうか。

 いたたまれない気持ちが胸の中に広がっていく間にも、堀北の「お話」は進んでいく。

 

「あなたたちが今、私にあまりいい感情を持っていないことはわかっているわ。でも、もう一度私にチャンスをちょうだい」

「……うっせえよ。テメェには関係ないことだろうが」

 

 未だに彼女を認める気になれない須藤が反発する。その声は少し投げやりで、彼女への敵意以外の何かが感じられた。

 しかし、そんなことは大して重要ではない。

 何となくだ。何となくだが、堀北は今誠意を以て自分たちに語り掛け、歩み寄ろうとしている。そんな気がした。

 その不思議な予感を無視できる程、池は薄情で無粋な少年ではない。

 そこはかとなく空気を読み取ることだけは、他人に引けを取らないものであった。

 

「あるわ。あなたたちが退学になれば、クラスにより大きなマイナスが発生する可能性がある。何より、私はあなたたちを見捨てたくないもの」

「は? 何でだよ」

 

 明らかに独り善がりでは片付けられない意思が垣間見え、池たち三人は目を見開く。

 

「間違えたままで、終わって欲しくないから」

 

 間髪入れずに、返答が来た。

 

「もし今逃げてしまえば、目の前に迫っていた退学の二文字が現実のものになる。何が正しいかは決められないけど、それが間違っているということだけは、絶対に言えるわ」

 

 決して上っ面ではない。どんな背景があったかは知らないが、確かな実感があるからこその言葉なのだと直感する。

 

「だからお願い。私にもう一度、あなたたちが退学を回避する手助けをさせて」

 

 強い目で、そう言われた。

 息を呑み、窺うように隣の二人を見ると複雑な顔をしていた。傷つけられたプライドや、首を縦に振ったところで上手くいくのかといった不安など、色々な感情が酷く混ざり合っているのかもしれない。

 かく言う自分も、例外ではなかった。

 しかし、つい昨日までと僅かに違ったのは――そんな自分にそれでもと言い放つことのできる、目を逸らしてはならない自分に気付けたかどうかだ。

 

「……なあ、堀北さん」

「――何かしら」

「どうしてさ、そうまでして俺らを見捨てないの? やっぱ、自分のため?」

 

 問いかけると、彼女はきっぱりと答えた。

 

「私が、間違えたくないと思ったからよ」

「……」

「自分が納得のできる結末を迎えるために、私は絶対、あなたたちを見捨ててあげないわ」

 

 簡潔明瞭な意思表明は、頭の足らない自分にもよく伝わった。

 どうしてだろう。つい昨日の彼女より、どこか威厳と余裕を感じる。

 彼女の変化に、本能だけが気付いていた。

 

「も、もしだぜ……? もし、俺たちがまた投げ出しちゃったら、堀北さんはどうするつもり――?」

「大丈夫だよ、池君」

 

 重ねた質問に応えたのは、堀北の斜め後ろに控えていた沖谷だった。

 

「池君たちが帰っちゃった後もね、堀北さん、一生懸命僕の勉強を見てくれたんだ」

「え、沖谷、お前ずっと残ってたのかよ」

 

 山内が驚愕に顔を染める。頷く沖谷に「マジか……」と絶句していた。

 堀北の決意は確認できた。その表れもこうして証明された。なら、他にあるだろうか。自分がこの要請――もとい懇願を拒む理由は。

 いや、本当は初めからなかったのだ。ただ気に食わないから、自分への当たりが強かったから。ワガママに近い形で、心許す勇気が持てなかっただけだ。

 そして何より――、

 次に誠意を見せなければならないのは、果たしてどちらなのかという話だ。

 

「…………俺、やるよ」

 

 ぼそり、と、微かに零れ出た声に一同目を向ける。

 

「堀北さん、俺頑張るから――だから、頼むよ。退学になんて、なりたくないからさ」

「……! ええ、任せて」

 

 少なくとも、今の彼女は信頼に足りる。独力で挑むよりかはよっぽど善い結末を期待できそうだ。

 

「ちょっ、ちょちょちょちょっと待ってくれよ!」

 

 すると、やたら大袈裟な調子で山内も声をあげる。

 

「お、俺も! 俺もやるよ。そろそろ本気ださなきゃなって思ってたところだったんだ」

 

 どうやら遅れて復帰の意思を固めたようだ。心なしか目線が櫛田に寄っている気もするが、体裁を気にしてのことなのだろうか。

 普段の池であれば、彼も大して変わらない体たらくなのだが、本人がそのことに気付くのは相当に難しいこと。

 たった今見せた志だけでも、彼にとって十分な変化だと言えるはずなのだから。

 

「須藤はどうするんだ?」

「……っ、俺、は……」

 

 綾小路もここで初めて口を開く。その矛先は須藤へと向けられていた。

 須藤はなおも躊躇う様子を見せている。

 

「…………俺は、やらねえ」

「お、おい須藤、お前まだ意地張って――」

「お前らは勝手にやってろよ。俺は遠慮しとく、じゃあな」

 

 俯きがちに足早で去って行ってしまった。

 その後暫く、誰も何も言わない時間が生まれた。

 沈黙を破ったのは、またしても綾小路だ。

 

「やはり、駄目だったか」 

「……できれば私の言葉で戻ってきてほしかったのが、本音ね」

「でも池君たちは戻ってきてくれたよ。私はホッとしたかな」

 

 一人欠けているものの、表情はあまり暗くない。堀北が綾小路に「任せたわ」と何かを託したあたり、何かしらの勝算があるのかもしれない。

 それに、きっと須藤(アイツ)は最後には戻ってきてくれる。自分では根拠を語ることなどできないが、短い付き合いでもわかった。

 奇しくも綾小路たちと同じような信頼を、池は須藤に抱いていた。

 堀北は改めてこちらを向いた。

 

「二人共、ありがとう。明後日から始めるから、準備しておきなさい」

「じゅ、準備? 何を?」

 

 勉強のいろはを存じていない自分たちからすれば、イマイチピンとこない。

 しかし、

 

「覚悟よ」

 

 ニヒルに笑う彼女を前に、食らいつく限り問題はないだろうと池は思った。

 ここで密かに、『きっかけ』を掴んだ少年がまた一人。

 彼が向き合おうとしたのは、もしかしたら勉強や堀北との確執だけではないのかもしれない。あるいはもっと身近な――。

 そんな彼が、彼女だけでなく飛び入り参加した可憐な少年にまで痛烈な教鞭を受け、悪戦苦闘するのはもう間もなくの話だ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Hearing Youngsters

さあ、2章tipsの一人称視点担当はこの人です。今回は当人の物語での立場のおかげもあり、自分がtipsに託したかった役割を忠実にこなしてくれているような気がします。


 僕は本来、リーダーなんかには向いていない。今だってそう思っている。

 だからあの時、彼の言葉はじんわりと、何故か胸の中に沁みたんだ。

 

 

 

 僕の発案で行われた自己紹介。少しでも早く、たくさんのクラスメイトが仲良くなれたらと思っていたのだけど、なかなかどうして上手くいかない。何人かの生徒はくだらないと言って出て行ってしまった。難しいな……逸り過ぎた僕の浅慮だと反省する。

 そんな中、終盤に差し掛かったところで、彼は立ち上がった。

 

「浅川恭介です。あまり自信を持てるものがなくて少し人見知りなのですが、話すことは嫌いじゃないというか、むしろ好きな方なので気軽に話しかけてくれると嬉しいです。三年間よろしくお願いします」

 

 この時は正直、特にこれといった印象は持たなかった。確かに外見だけで言うと長い髪や小綺麗に整った顔は女子かと疑うものではあったけど、制服でおよそ男子だとわかるし、染髪している他の生徒に対して藍色の髪は大きく目立ちはしない。

 個性派だと薄々感じていたDクラスにおいて、良く言えば温厚で誠実そうで、悪く言えば地味な――ちょうど直後に自己紹介をした綾小路君も、無難な言葉選びを心掛けているようだった。

 少なくとも、「良識はある人たちなんだろうな」というのが、第一印象だったのかもしれない。

 

 それから最初の一週間は、色々あった。授業態度や生活態度の劣悪さに驚いたり、訳あって軽井沢さんとの交際が始まったりなど、とても中学時代とは似ても似つかない日々。単純に進学による変化というだけではなく、僕自身が変わろうとした結果に違いなかった。

 それによる弊害もあった。何人かの男子――主に自己紹介を渋った人たちだ――が、僕に対して軽い悪意を抱き始めたのだ。彼らがあまり良くない言動が目立つのもあって、僕が女子から一定の人気を集めてしまったことによる妬みが原因らしい。

 当然、そんなつもりはなかったのに……。

 ただ、それでも前よりはマシだ。精々僕が我慢すれば終わるだけの話。暴力で物を言わせるわけでもなく、根深いイジメも起こらない。多少グループ間の牽制があったとしても、完全に一同が平等に受け入れられる輪を作ることは不可能に近いことくらいは感受している。そういう意味では今のところ、それほど悪い状況とは感じなかった。

 ……まあ、態度は本当に直して欲しいけど。

 そして、僕がその傍ら気にしていたのは、東南の角に座る三人だった。

 堀北鈴音さん。自己紹介に参加しなかったのは勿論、それ以来誰とも関わる姿勢を見せない少女だ。同性にさえ心を開かず、あまつさえ突っぱねるような態度は、難しい問題に感じていた。現に早くも学年随一の人気を誇ろうとしている櫛田さんからの対話にも、一切取り合おうとしない。

 ただ、そんな彼女にも、徐々に会話が増えてきた相手がいた。それが浅川君と綾小路君の二人だ。

 遠目からの意見で正確性はないけれど、三人の関わりに一番積極的なのが浅川君だ。彼の中性的な容姿と声音、穏やかな態度は、相手に親しみを持たせやすい。それでいて他人との交流を大事にする彼は、きっと仲の深い友人関係が多くなるのだろう。

 綾小路君は、正直最初は人との関わりが得意ではないと思っていた。……少し違うな、消極的だと思っていた。本当の初めの時は他人に対してしどろもどろな部分もあるように見えたけど、浅川君と堀北さんとの交流をきっかけに友達作りに果敢に励み始めた。

 席が近いから、というだけでは説明の付かないような雰囲気が、三人にはあった。きっとあの二人じゃなかったら、堀北さんは孤独を貫き通していたように思う。

 話術に長けているのだろうか。でもそしたら、もっと多くの生徒と交流していてもおかしくないはず――。

 一体何が、三人を良好な関係たらしめているのか。いずれにせよ、浅川君と綾小路君には感謝しなければならない。堀北さんの孤立具合には、他の女子も悩ましげに思っていたり、悪い印象を持ったりする人がいたから。最近話に出た時なんかは、恋話に強い関心を抱いている子が「どっちを選ぶんだろう」と嬉々として口にしていた。

 堀北さん自身はどう思うかわからないけど……僕にはとてもできなかったであろうことをやってくれた二人には、密かに感心した。今日も仲良く、堀北さんのコンパスに翻弄される少年二人という戯れが、微笑ましい。

 それぞれ、等身大の姿で波長が合っているような――『理想』の関係に見える。周りの生徒以上に三人の様子が記憶の縁に引っ掛かったのは、そういう理由なのかもしれない。

 ……最初は僕にもあったのに、失ってしまったものだから。

 

 

 

 今日は初めて水泳の授業があった。あまりに多くの女子生徒が見学するものだから、さすがに何かあったのだとすぐに察した。

 

「男子が女子の胸の大きさで賭けをしてたんだって。ホントキモいよね」

 

 軽井沢さんに聞いたところ、サラッととんでもない情報が飛び出した。

 僕と軽井沢さんはその時席を外していたため遭遇していなかったのだが、池君と山内君、それから外村君が主導でオッズ表まで用意されていたのだとか。

 ……僕はもしかして、気安く教室を出る油断も許されないのだろうか。

 

「止めてあげられたら良かったんだけど……」

「ううん、一応ほとんど解散してたらしいよ」

「え、どうして?」

「やめたい人はやめた方がいいって誰かが言ったんだって。確か……浅川、君と綾小路君……? だったっけ。日和見な目立たないやつだと思ってたから、ちょっと見直しちゃった」

 

 僕も意外に感じた。これまでクラスに馴染めず堀北さんとのやり取りばかりだったはずの二人が、そのような勇断に走るだなんて。何だか、少し嬉しかった。

 同時に、二人がどんな人となりで、どんなことを考えているのか少し知りたくなった。誰かに手を差し伸べるという行為には、善悪問わず事情ある。人の役に立ちたいとか、見過ごすことに抵抗があるとか、ただモテたいだけとか――二人には、一体どんな心境の変化があったのだろう。将又、僕が全く理解できていない意志が元々あって、それが今回顕現しただけなのだろうか。

 この時初めて、僕は二人に対して明確な興味を持った。

 

 しかし、五月に入りその身勝手な好感に翳りが生じることになる。

 突如突きつけられたSシステムの実態。茶柱先生には相当な辛口評価を賜ったけど、彼女の正論には為す術もなかった。そして、ダメ押しとして掲示された抜き打ち小テストの点数表には、

 

『浅川恭介:0点』

 

 一番下の名前を見て目を剥いた。い、いや、確かに人は見かけによらないけども……さすがに想定外が過ぎる。

 ただ、すぐに別の考えが及んだ。曲がりなりにも――クラスの雰囲気を見ると忘れそうになるが――ここは進学校だ。担任に底辺と貶されるクラスとはいえ、あのテストに正々堂々取り組んで一問も正解できない人がいるとはとても思えなかった。

 何か、学力不足以外の理由があるのではないか?

 クラス会議の出席催促のついでにそれを確かめようとしたのだが、時機悪く浅川君は綾小路君を連れて用を足しに行っているらしい。堀北さんが無愛想に教えてくれた。

 

「堀北さんも、放課後の話し合いに参加してもらえないかな? 綾小路君と浅川君も」

「……嫌」

「え?」

「嫌、と言ったのよ。意味を感じないわ」

 

 予想していなかったわけではない。自己紹介も渋ってしまう人だ。ある種賑やかになりそうな場に、彼女が乗り気とは思えなかった。

 しかし、それだけではないらしい。

 

「周りを見てみなさい。今の状態で、本当にこの後マトモな会議ができるとでも思っているの?」

「それは……」

「一日でいい、頭を冷やす時間を与えるべきだわ。最も、それで足りない頭が絞れるようになるとは思えないけどね」

 

 酷くぶっきらぼうで刺々しい言い方だけど、的は射ている。ちゃんと周囲に目を配っている人の発言だった。単に周囲と隔絶しているだけというわけではないのかもしれない。

 

「確かに、堀北さんの言う通りだ。話し合いは明日に回すことにするよ。アドバイスありがとう」

「率直な意見を述べただけよ」

「だからこそさ。じゃあ明日――」

「お断りよ」

「え?」

「さっきも言ったわ、そもそも意味を感じていないの。既に理解していることをあたかも珠玉の言葉のように再三語られたら、あなただってうんざりするでしょう?」

 

 どうやらかなり期待されていないらしい。他のクラスメイト以上のことが現時点で推測できていると仄めかしているようにも聞こえる。

 無理に連れ出すわけにはいかない。残念だけど、引き下がるのが吉か。

 

「……わかった。ごめんね」

「……代わりと言っては何だけど、情報共有くらいはしてあげるわ」

 

 気分を落としたことを察されてしまったのだろうか。バツを悪そうにしながら、堀北さんは言う。普段は他人を突き放す傾向がある彼女にしては、意外な姿だ。

 それから教えてもらったのは、堀北さんと綾小路君は五月以前はおろか入学後すぐにSシステムの実態のほとんどを看破していたこと、クラス一人ひとりが自分の行動の責任を重く受け止められるよう敢えて伝達しなかったこと、そしてこれから何が起こり得るのかということだった。

 僕もこの学校に来て早々の待遇には驚き以上の猜疑心を抱いていたけれど、その先まで考えることはできなかった。問題を問題のまま放置してしまっていたのだ。

 極め付きには今後の展望まで推察が回っていた。諸恩恵がAクラスのみというのなら、その玉座に座る権利は全クラス平等になければならない。つまりDクラスにもAクラスへ上がるチャンスが与えられるよう何らかの催しが予定されているはずだと。その直近がこれから始まる中間テストと見て間違いないということまで、丁寧に説明してくれた。

 もはや疑いようがない。浅川君については不明なものの、二人はDクラスで最上位の頭の回転率を誇る。もし僕の手に負えないような案件があれば、頼ることを惜しむ意味がないほどだろう。堀北さんは渋ることも多いかもしれないが、綾小路君にはある程度期待したい。

 

「私は、Aクラスを目指すつもりよ」

「Aクラス……堀北さんには何か、叶えたいことがあるのかい?」

「あなたには関係ないことよ。浅川君は少し事情があって積極的にはなれないけど、綾小路君は協力してくれる。――あなたはどうするつもりなの?」

「僕は……そうだね。上に行ける可能性があるのなら、昇ってみたいかな」

 

 堀北さんと全く同じ理屈ではないかもしらない。しかし、クラスの昇格はクラスポイントが上がることで実現することだ。各々の生活水準が上がるという意味で、他のクラスメイト共々価値を見出だせることだと思う。

 それよりも、

 

「堀北さんは本当に、二人のことを信頼しているんだね」

「はあ?」

 

 物凄く嫌な顔をされた。

 

「馬鹿なことを言わないでちょうだい」

「だって僕は、一度も二人の名前は出していないよ」

「聞かれたら面倒だから先に答えただけよ」

「聞かれるかもって思うくらい交流をしているってことだね」

「……あなた、案外意地悪ね」

 

 思わず笑ってしまった。視線の鋭利さが増す。

 

「別に、二人を友人だのとは思っていないわ」

「だとしても、二人は君のことを友達だと思っているはずだよ。心做しか、楽しそうだ」

「あくまで利用価値があると思っただけ。でなければ応じてやるものですか」

 

 拗ねたように目を閉じる堀北さん。しかし思い直したように再び口を開く。

 

「でも、そうね……強いて言うなら、関わらない方が面倒だったのよ」

「……?」

「……わからないならいいわ。話は終わりよ」

 

 イマイチ要領を得ないでいると、手で払われてしまった。

 うーん……折角なら。

 

「堀北さん、明日の話し合いには参加しなくていい。だけど今度、クラスのこれからの動きについて僕と話をして欲しい」

「……なるほど、そう来るのね」

 

 堀北さんは意味のない話し合いには応じないと言った。けど自分の野心たるクラス対抗戦のことを、僕個人と議論するのであれば、最低限意味を見出だせるはずだ。

 

「特に、喫緊の中間テストのことについてだね。堀北さんは小テストの点数も高かったから、尚更意見を聞かせて欲しいんだ」

 

 短い思案の後、返事が来た。

 

「……わかったわ、乗りましょう」

「良かった――」

「スケジュールの調整はあなたに合わせる」

「じゃあ3日の午後にしよう。場所はどうする?」

「煩わしい場所は御免蒙るわ。かと言って私の部屋は当然却下だし、あなたの部屋もよくないわね」

「え、別に打ち合わせ程度だからそれくらいは、」

「悩ましいわ……」

 

 恐らく僕と軽井沢さんの関係を察してのことだろうけど、雑談や娯楽を共有するわけでもない。しかも本当のところ、僕らはその程度のやり取りを気に留める必要がない間柄だ。堀北さんの部屋を避けるのは十分理解できるが、他に選択肢がないなら僕の部屋でも問題ない。

 すると、さも妙案が思いついたように彼女は言う。

 

「綾小路君の部屋にしましょう」

「あ、綾小路君――?」

「どうせ彼も暇でしょうし、私の手足となって動くのだから打ち合わせに来てもらえば万事解決よ」

 

 ちょっと待ってくれと口を挟みたくなる展開ぶりだ。どうせ暇だとか手足となるだとか、存外綾小路君も振り回されているのかもしれない。日頃は逆な印象だったのだけど。

 ただ、これは僕にとって美味しい名案だ。綾小路君と話すきっかけになる。周りの目がない空間なら尚更自然体で会話ができそうだ。

 

「堀北さんがそう言うなら、構わないよ」

 

 簡単に盲信するわけにもいかない。基本みんなのことは信じるつもりだけど、僕自身が個人的な依頼をするに至っては慎重でなくてはならない。

 自分のように、友人を見捨ててしまうようなやつがいるくらいだ。綾小路君も同じ人種なのか、それとは異なる人格なのか、少しでも知っておきたかった。

 

 そうして無事綾小路君との邂逅を果たしたわけだけど、簡潔な結果は、『予想通り見かけに寄らなかった』。

 初めて堀北さんとのやり取りを間近で見たが、互いに打ち解けあっているからこその揶揄の応酬は確かに微笑ましいもので、穏やかだった。

 思わず笑いが漏れてしまい、綾小路君に指摘される。僕は素直に思っていることを口にした。案の定堀北さんはムキになって反論し、綾小路君はどことなく嬉しそうな顔をする。表情に乏しい印象のある彼だから、寧ろわかりやすかった。

 ただ、クラスでぼちぼち話題にされていることは二人も――恐らく浅川君も――全く知らなかったようで、揃って呆気にとられていた。その様子も何だか面白可笑しい。

 関心を唆られたらしい綾小路君が、仔細を問う。

 

「差し支えなければ、どんな風に話題にされているのか教えてくれないか?」

「えっと、幼馴染なんじゃないかとか、腹違いの兄妹なんじゃないかとか、三角関係じゃないかとかまで言われているね」

「……飛躍しすぎじゃないか?」

「あはは、僕も全部鵜呑みにしてはいないよ。ただ、もしかしたら幼馴染くらいの仲ではあるんじゃないかとは思ってたんだ。君たちの反応を見るに、どうやらそれも違ってたみたいだけどね」

 

 苗字が違うのだ。最初のよそよそしい感じからして、さすがに入学前から関係を持っていたとは思っていない。

 しかし大事なのは、傍からはそう見られるほどの仲であるということだ。 

 

「はっきり言うと、友達の範囲に収まる関係に過ぎないぞ。対して目立っていたつもりもなかったが、どうしてそんな噂されることに……」

「ほら、うちのクラスは男女間の付き合いがあまり多くないだろう? だから、その中で君たち三人の様子は結構珍しく映ったんじゃないかな」

 

 本当のことだ。半ば僕にも一因はあるのかもしれないけれど……男女混合で明確に良好な関係を形成しているグループは0に近い。男子からの注目が熱い櫛田さんも、立場上の問題もあるのか特別親しげな異性はいないように見える。

 比較的クラスを見渡している僕からも、三人の関係は希少に感じていた。

 

「まあ、悪い風に見られていなかったなら良かったよ」

「僕らの年頃だと、女子はめっぽうそういう話を広げたがるからね。特に、堀北さんの周りを避けてしまう部分は最初気味悪がられていたようで心配だったんだけど、最近だと年相応の乙女心があるんだって親近感が湧いてきている子が多いみたいだ」

「…………それは……都合のいい勘違いだな」

 

 感情の起伏の見せない綾小路君が、俯きがちに肩を震わせる。堀北さんのこと、そんなに面白かったのかな。

 

「……与太話はもうたくさんよ。とっとと本題に入りましょう」

 

 わざとらしい咳払いの後、堀北さんは表情を引き締める。

 確かに本題を忘れてはならない。目下に迫る中間テストを乗り越えるのは必須条件だ。

 誰一人、退学者を出してはならない。仲間外れにしてはならない。

 僕がこの高校に来るのに、新たに誓った意志なのだから。

 そして、それを最後まで実現するために、きっと綾小路君たちの力は大きなものとなるはずだ。

 この短い会話でよりその確信が強まった。他愛もない話にほど、その人の性質が出る。

 強いて言えば、それが元来固有のものなのか、そうあろうと志しているからなのかはまだわからない。でも、それは些細な問題だ。

 少なくとも今の彼なら、依頼を望まれた形で解決することができる。その素質がある。

 何より、

 

「――どうしてオレたちと直接会って話す必要があったんだ?」

 

 賢い。あくまで勘だが、聡明とか狡智とか、あらゆる意味で賢いのだ。

 時が止まったような視線の交錯を経て、改めてそう判断する。

 

「それは――君と話すためだよ」

「オレと、話す……?」

「うん。折角協力関係になるんだ、少しでも君の人となりを知っておきたくてね」

 

 再び彼は、僕の意図を察してくれたようだ。

 

「……案外、人を信じない質なんだな」

「そんなことはないよ。疑っているから話すんじゃない。信じるために話すんだ」

「それは、同じなんじゃないのか?」

「ううん、違う。全然違うよ。僕は仲間を初めから疑って掛かるようなことはしない」

 

 そこを間違えてもらうわけにはいかない。僕らは仲間だ。信じてもらうにはまず信じることから始めるべきだ。こうして綾小路君に仄めかす言動を取っているのも、ある程度関心を持ってもらうため。こちらの本心に、善き応答をしてくれることを待つのみだ。

 

「マイナスを払拭したいのではなく、ゼロをプラスにしたい、ということか?」

「まあ、そんな感じかな。――そして、それだけの収穫はあった。君はきっと頼もしい仲間になってくれる」

「序盤の雑談くらいしかしなかったんだが……」

「それだけで十分だったってことさ。浅川君と堀北さんのことを話す君の表情を見ていれば、君が善い人だってことはよくわかった。堀北さんから予め聞いていた通りね」

 

 おっと、少し口が緩んじゃっかな。反射的に堀北さんの顔を見る綾小路君と動揺する堀北さんを見てそう思う。

 

「平田君、おかしな話を捏造しないで」

「おかしなことなんてないよ。人付き合いに奥手な堀北さんが日頃からあんなにも仲良く接している時点で、君が二人のことをよく思っているのは十分わかるから」

 

 ――口止めはされなかったんだから、許してね。

 弱ったように額を押さえる堀北さん。なるほど、綾小路君たちが何度コンパスと暴言に苛まれても揶揄うことをやめない理由が、ちょっとだけわかったような気がする。最も、二人が彼女をここまで丸く変えたのかもしれないけど。

 

「お互い頑張ろう。絶対にうちのクラスから退学者なんて出させないようにね。二人共、頼りにしているよ」

 

 定型文かもしれないけど、心底の感想を乗せて言葉を残した。

 ガチャリ、と扉の締まる音が響く。

 満足の行く結果に、弛緩と高揚が同時に渦巻く。

 堀北さんはすぐに腕の見せ所が訪れる。須藤君、池君、山内君を救うのは、悔しいけど今の僕には難しい。任せるしかないのが心苦しいけど、信じることにしよう。

 そして綾小路君は――これからが楽しみだ。もっと関わる機会があれば、是非逃さないようにしたい。

 ……さて、あとは一人か。

 二人と関わって、彼とは関わらないという選択肢はとっくになかった。そうでなくとも、万が一のことを考えると声を掛けるべきだろう。

 小テスト最下位の少年――浅川君にいつコンタクトを図るか。僕は既に、次の問題に意識を向けていた。

 




平田視点その1です。本当は候補がもう一人あって、どちらを2章、3章に割り振ろうか悩んだんですけど、この形に落ち着きました。

序章tipsでは原作主人公が担当したこともあり、物語のテーマに踏み込み過ぎていた気もしましたが、今回は物語の『補完』というポジションに収められたのかなと思っています。ただ、3章tipsではまた負担が肥大化してしまうかもしれません……本編に収められない情報が多くなりそうなので。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Hello Yearner

平田第二話。第三話やるとしたら三章tipsになると思います。二章のtips一人称第三回は多分別のキャラです。


 ゴールデンウィークを終え五月も二週目に突入、その半ばのこと。僕はようやく浅川君とコンタクトを取る時間を作ることができた。

 というのも、夜の僅かな時間で無理矢理通話させてもらっただけなのだけど……。

 結果として、やはり予想通り彼は本気で0点を取ったわけではないらしい。最初は是が非でも退学者を出したくないと焦ってしまったが、杞憂だったようで安心した。

 ただ、学力が今一つであるのは本当なようで、その点は今後を考えると少し心配だ。堀北さんの勉強会には参加しないそうだから、せめて僕がこまめに面倒を見た方がいいかもしれない。

 

「――それでさ、って平田君聞いてる?」

「え? ええと、ごめん。佐藤さんと篠原さんのことだっけ」

「違うよそれは二つ前。珍しいね、考え事?」

 

 こう言っては何だけど、軽井沢さんは周りから思われているよりは周囲に気を向けられる人だ。事情を知っているからかもしれないけど、繊細な部分があるのはこれまでのやり取りでわかっている。

 別に隠さなきゃいけないことでもないし、言ってもいいかな。

 僕は浅川君とのことについて軽井沢さんに打ち明けた。

 

「ふーん。平田君、最近何かと浅川君のこと気に掛けてるよね。あと綾小路君」

「そう、かな」

 

 言われてみれば、そんな気がしなくもない。

 

「クラスのリーダーって、やっぱり大変?」

「でも、望んでやっていることだから」

「……そっか。まあそれで私も助けられてるんだし、ありがとね」

 

 僕らの関係を、クラスメイトはどう思っているのだろう。やはり歪なものに見えてしまっているだろうか。鋭い人なら既に、あるいはもう少し経てば察してしまうかもしれない。

 みんなを取り持つ役割を担うことが多いくせに、一人の女子に偏るような行為をする矛盾。櫛田さんが調停者としての働きを幾分か果たしてくれていなかったら、もっと厳しいことになっていただろうな。

 

「…………いいよ、平田君」

「え?」

「私に使ってる時間、浅川君に割いてもらってもいいよ」

 

 驚きの発言だった。この関係は軽井沢さん自身を守るためのものであるはずなのに、彼女の方からそんなことを打診してくるとは。

 

「この前聞いちゃったの。0点を取った浅川君が一番の落ちこぼれだとか、クラスポイントが0なのはアイツのせいだとか。挙句には女っぽい見た目していてダサいなんて言ってる人もいて……それって何かもう、ただの悪口じゃん? まるで――虐めみたい」

「……」

 

 ちょうどSシステムのことが明かされ、退学まで仄めかされたことでみんなピリピリしている。責任転嫁の矛先を無意識に求めてしまっている生徒や学力至上主義の生徒からは、恰好の生贄だったのだろう。僕は軽井沢さんの言う程の陰口は聞いたことがないけれど、男子以上に女子がそういう不満を人知れず零していてもおかしくはない。

 なるほど、どうりで軽井沢さんが突拍子も無いことを言い出したわけだ。

 

「本当にいいの?」

「だ、だって、ここまで知って放置してたら私も同類になっちゃうじゃん……」

 

 難しい顔でそう語っているであろう軽井沢さんに、どことなく違和感を覚える。

 確かに彼女は「気付ける」人間だ。でも、そこから何かを実行するのかというと、少なくとも全く接点のない浅川君に対しては否であるはずだ。

 要は自分が害を被らなければいい。そこに異常に拘ったからこそこの『偽物』の関係を作るにまで至ったわけなのだ。

 一体何がいつ、そこまで軽井沢さんの同情を誘ったのだろう――。

 ……真偽はわからないけど、こうして軽井沢さんから許可が下りたことだし。お言葉に甘えてもう少し彼と関わることにしよう。そう気概を持つことにした。

 

 

 

 

「……懲りないね、君も」

「嫌だったらやめるよ?」

「ズルいなー」

 

 それから数日というもの、何とか時間を見つけては浅川君とコンスタントに連絡を取り続けた。帰宅後すぐという時もあれば、前のように夜遅くになってしまうこともあったが、浅川君は気が進まないような態度を取りながらも毎度応じてくれた。

 

「調子はどう?」

「あっはは、やっぱこれからの社会を考えるのならと思ってね。最近は情報技術の勉強に明け暮れているよ」

「え、必修科目の方は?」

「それも勿論取り組んでるけどね。ただ、自分の趣味は疎かにしたくないから」

 

 趣味か。僕にとってのサッカーのようなものなのかもしれない。蓋しこの学校や今の自分の立場上、気分転換という側面が色濃くなっている。

 

「大丈夫、なのかな?」

「うーん、五分五分?」

「本当に、困った時はいつでも声をかけてほしい。連絡先もわかっているんだし」

「いやー申し訳ないって」

「でも――」

「うちのクラスで一番負荷がかかってるのは君だろう」

 

 勉強については、ずっとこんな調子だった。自信がないと言っては一人で頑張るの一点張り。二言目にはこちらを気遣っているという理由で、そう言われてしまっては僕も無理に干渉し辛い。

 

「君もよく頑張るよなー。あんな惨状を束ねようだなんて、余程の決心でもなきゃ思わないよ」

「でも、誰かがやらないと」

「誰かが……うん、そうだね。だから凄いんだよ」

「え?」

「僕も苦手なことだからさ。本当は得意でなきゃいけないんだけど」

 

 隣の芝は青い、ということなのかな。少し遠回しな言い方な気もするけど。

 

「何かあるのかい? 君がそんなことをする理由でも」

 

 思わず言葉に詰まってしまう。もちろんある。僕が自己を刷新してまで今の立場にいる、そのきっかけとなるつまらない過去が。

 でも、やはり軽々と打ち明ける勇気は……

 

「ま、いいさー。答えたくなかったら」

「浅川君……」

「君は偉い! 君は凄い! 今はそれだけわかっていれば十分さー」

 

 気を、遣わせちゃったかな。

 小さな罪悪感を覚えていると、次の言葉に目を剥いた。

 

「ここでは、ゆっくりしてくれればいい」

 

 人気者とか、クラスのリーダーとか、そういうものを一切挟まない。ただの僕自身に向けられた優しさに感じた。

 

「なんで……」

「うちのクラスを引っ張って気疲れしないわけがない。僕は君にお疲れ様を、君は僕に愚痴を零す。それで少しでも、君の心は軽くなるんじゃないかな。まぁ相手は所詮1点を取る頭もない木偶の坊だけど、だからこそこれくらいはね」

 

 何となく、綾小路君と堀北さんがこの人と関わり続ける理由がわかったような気がする。特に堀北さんが、他の生徒と違い浅川君を突き放さない理由。

 浅川君は、二人がほんの少し足りないと思っているものを、持っているのかもしれない。

 感情移入という、たったそれだけのことを。

 そしてそれだけのことに詰まっている大きな意味を、二人はこの少年から知ったのだろう。

 

「…………あはは、嫌嫌やっているつもりはないけど、そうだね。二人だけの時は、ちょっと肩の力は抜こうかな」

「うむ、いつでもこの老いぼれに相談しなさい」

 

 元々は、僕が浅川君の面倒を見るつもりだったんだけどな。

 こうして僕と浅川君の関係が少しだけ変わった翌日。浅川君は電話に出なかった。

 更にその翌日、僕は彼の圧倒的な変化を知る。

 

「堀北さんの勉強会に入る?」

「やっぱりこのままじゃ不安だと思ってね。最近少しずつ伸びてきた自覚があったし、期待しといてよ」

 

 あんなにも頑なに独学を貫いていた彼の掌返しに違和感はあるものの、嘘というのはあり得ないだろうし、素直に喜ばしい変化と受け取っておくことにした。

 加えて、堀北さんと綾小路君とも情報共有を行ったらしい。「謙虚過ぎだって怒られちまったぜ」と苦笑いしていた。どうやら須藤君たち三人への教師役が出来る程度には学力があったようだ。

 良かった、これならいよいよ、退学者を出すことなく試験を終えられるかもしれない。

 

「じゃあもう心配は要らない感じかな」

「ああ、高得点間違いなし!」

 

 元来の穏やかさに加え、今日はやたら調子が高い。もしかして、何かきっかけでもあったのかな。

 

「ありがとなー、今まで散々気に掛けてくれて」

「……ううん、気にしないで。これでもう、この電話を繰り返す理由もなくなったね。堀北さんならきっと、浅川君を助けられる」

 

 感謝に返した言葉が、何故か少し詰まってしまった。

 

「…………そうだな。この時間は、僕が大丈夫になるためだけに繰り返してたんだから」

「――うん、遅い時間に邪魔しちゃうのも忍びないと思っていたし」

 

 打つ相槌は本心のつもりだ。特に言葉を選ばず、クラスのリーダーとして――。

 

「あっはは、そうなんだけどさ。実はお願いがあって」

「お願い?」

「僕も最近疲れ気味で、ゆっくり他人と雑談する時間が欲しいんだ。君との時間はそれに打ってつけだった、だから」

「それって……」

「何も会話に理由は要らない。そうだろう?」

 

 浅川君の突拍子もない提案は、僕にとっても喜ばしいものだった。

 彼も少しは僕に心を開いてくれたのかな。

 

「浅川君さえ良いなら、ぜひそうしようか」

「ああ! 僕と君の、ナイショな関係だよ」

 

 優に笑顔が想像できる声音だった。語弊を招きそうな言い方だけど、確かに僕にとって特別な時間になりそうな予感があった。

 その後通話を切り、ふうと一息つく。

 テストが心配という接点だけで始まったやりとりだったから、金輪際これといった関わりはなくなってしまうのかと落ち込む気持ちがあったが、意外にも浅川君のおかげでそうはならなかった。

 残念なことにあまり仲の良い同性のクラスメイトも多くないから、彼の存在はかなりありがたくて……。

 と、そこであることに気付く。

 

「あれ?」

 

 ありがたい……。僕はどうして、何時の間に浅川君に感謝の念を抱いていたのだろう。

 

『僕が浅川君の面倒を見るつもりだったんだけどな』

『何故か少し詰まってしまった』

『僕にとっても喜ばしいものだった』

 

 ああ、そうか。

 僕も、彼との時間が好きだったんだ。だから名残惜しく感じて。

 習慣化している内に、驚くほど親しく思うようになっていたらしい。きっと、彼が他の男子とは違ったからだ。

 

『だから凄いんだよ』

『ま、いいさー。答えたくなかったら』

『ここでは、ゆっくりしてくれればいい』

 

 僕が『頑張って』この役割を担っていることを理解してくれた人はいなかった。

 ありがとうだけじゃない。お疲れ様さえ、誰にも言ってもらっていなかった。

 そのこと自体を嘆く気など元々なかった。そもそも僕が自ら選んだことだから。でも、それで労いの言葉に何も感じないわけではない。

 彼の敏感さに、驚きと誤魔化せない喜びと、それに付き纏う疑念が芽生える。

 人の善意・良心という観点で、浅川君は綾小路君と堀北さん以上に信じられる人だった。しかし、僕のことを察した上であんな風に言葉を掛けられるのは、正直おかしいと思ってしまった。

 僕が「したい」と思っているのは嘘偽りない本心で、人前でもそれを全面的に醸し出していた自信もある。だからもし違和感を抱けたとして、無理に話題にしようとする人はいないはずなのだ。

 にも関わらず、浅川君は踏み込んだ。決して誤りのない距離のまま僕と向き合った。その感性を手に入れるには、何かしらのきっかけが必要だったはずだ。

 一体何が、彼をああも誠実にさせたのだろう。簡単で単純に見えて、その実様々な要素が交錯する難解な綾を解く……まさしく不思議な「能力」と呼べるものを、彼に与えたのは何なのか。あるいは誰なのか。

 明確な答えを知ることは、決してないのだろう。でも……。

 僕は人知れず、笑みを零しているのを自覚した。

 クラスで見せる澄んだものではなく、仄暗い感情を押し付け隠した自分としてでもない。弱くて、それでも信じ合いたいと望む一人として。

 僕は浅川君と、関わりたいと思ったんだ。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 そんな彼が退学という無慈悲な二文字を突き付けられた時は、背筋の凍る感覚がした。

 英語だけ致命的な点数。僕は冷静さに欠けていた中、にわかに疑問に感じたことがあった。それは、ある日の電話中の些細な内容だ。

 

「浅川君は苦手な科目とかないのかい?」

「イマドキ」

「あはは……テストの科目だよ」

「うーん……特には……?」

 

 言い淀む浅川君に、答えやすいように訊き方を変える。

 

「数学と英語はよく難しいって言われがちだけど、それはどう?」

「いや、僕の場合はせんせ――友達に帰国子女がいたから、英語は中学でちょっと嗜んでた。数学は元々苦手意識みたいのはなかったかなー」

 

 具体的な回答を以て、英語は得意寄りだと聞いていた。

 確かに茶柱先生の言う通り解答欄のズレって線もあるかもしれないけど、それにしては点数が高いようにも思う。

 何か、想像もつかないような事情があったんじゃ……。

 思考を巡らしている間にも、先生が退室する。堀北さんの勉強会に参加していたメンバーは勿論、他にも何人かがチラチラと――中には侮蔑や憐憫もあったが――浅川君に視線を寄こしている。

 当の本人は、なぜか悠然と座ったままだ。全く動じていない。動揺を押し隠しているようにも見えない。

 やがて、短いやり取りを終えた堀北さんが席を立ち教室を出る。――先生を追い掛けに行ったのだろうか。直談判は彼女らしい行動かも。

 すると程なくして後を辿るように、浅川君と綾小路君が外に出た。

 一体、何をしに……?

 詮索したい気持ちは山々だったが、騒めきやまぬクラスを鎮める役割は僕にしか担えない。三人に考えがあったのだとして、それを理解できていない僕が追い付いても助力できそうにない。今はここが僕の居るべき場所だ。

 ……しかし、事態が収拾した時、僕はそのことをひどく後悔することとなった。

 浅川君の退学取消し――。

 採点ミスだったという()()に、クラスメイトたちは深く言及せずただ彼の無事に対する反応を見せていた。自分のことのようにはしゃぐ者、ホッと胸を撫でおろす者、頭の出来が悪いやつが残ったと落胆し睨む者。

 でも僕は――僕だけじゃない。ある程度慎重な人なら訝しく思ったはずだ。

「採点ミスはない」と言い切った茶柱先生の口調は、それが真実だと確信しているものだったし、学校側も箔に泥を塗らないよう退学の懸かっている試験の採点には細心の注意を払っているはずだ。採点確認の担当がいても不思議じゃないくらいに。

 殊、この高度育成高等学校において、採点ミスなんてものはあり得るのだろうか。もし採点ミスではないとしたら、やはり本当なら浅川君は退学になっているはずだったという説が再び現実味を帯びてくる。

 そう、三人が教室を出て行く段階までは。

 過去問という盲点に気付くくらいだ。何かしら、退学そのものを覆す方法を見つけたのかもしれない。あれが堀北さんだけではなく二人の少年の知恵あっての解だとしたら尚更。

 

「おーい平田」

 

 ハッと我に還る。

 

「どうしたんだい、返事がないぞー」

「……えっと、ごめん。ボーっとしてた」

「あっはは、無理もない。ついこの間まで気張り詰めてたんだからねー」

 

 浅川君と通話している内に、いつの間にか思考の海に潜り過ぎてしまっていたらしい。

 

「――食事会、だったよね」

「そ。僕らは明日にでも行けるよ」

「僕もちょうど、明日は時間が作れそうだ。軽井沢さんたちにもゆっくりしたいって伝えてあるからね」

 

 ありのまま答えると、クスリと笑うのが電話越しに聞こえた。

 

「な、何か変なこと言ったかな」

「いやね――僕らと過ごす時間を羽休めと捉えてくれているのが嬉しかっただけさ」

 

 返答に、今度はこちらが苦笑する番だった。全く、この人は。

 明日の食事会(テストなんて本来祝うほどのことじゃないと言うので、この呼称になった)には沖谷君も同席するそうだ。あまり話したことはないけど、見かけ通り温厚な態度で会話しているのを傍目に見たことはある。

 ――ちょっと、楽しみだな。

 

「じゃ、明日。楽しみにしてるから!」

「うん。僕も」

 

 声が弾むのは恥ずかしいので慌てて抑えた。

 バイキングだと聞いた時の浅川君は心底楽しそうだった。どうやら初体験らしい。勧めた甲斐があった。

 ……なんて。浮ついているのは僕も同じか。

 初めてではない。ただ、男だけでのびのびと食事を共にするのは、確かこの学校に来て初めてだと思う。記憶が曖昧なのは、それだけ忙しない日々だったからだ。

 こんなにも明日を純粋に待ちわびるのも、久しいなぁ。

 

 その翌日。浅川君の美徳に再び感涙し、気を許せる仲が図らずもまた一人増えたのは別の話になるわけだけど。

 怒涛だったテスト期間は、意外にも前向きな気持ちで幕を閉じることができたのだった。

 




二章後半で平田がオリ主の言葉でお涙ポロリした理由、三章の随所で平田がオリ主に肩入れしていた理由が主な補完です。じわじわとオリ主に入れ込むようになっていったわけですね、良心主義な平田君ならわりかし影響受けるかなと。(ぶっちゃけかなり後の話に繋がる伏線が入っていますが、そこに辿り着くのがいつかは途方もないので気にしない。)
第三話があるとしたら二章含む本編の要所の平田視点って感じになりそう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『ゆりかごを眺めて』

この話、時系列上ここに差し込むことになるとは思っていたものの、やはり三章を書ききってから投稿したいなということで今まで描いてきませんでした。

一応これまで作者やメインの二人が提起してきた一つの問題の核心に触れたつもりです。答えを直球で書くつもりは今のところありませんが、時と場合ですね。


 ぼんやりと、果てのない青空に意識を囚われる。独りで黄昏れるのも、この学校に来て初めてのことだ。

 誰にも見せない冷徹な瞳は、世界を覆う天井と同じくらい透明で、虚しくて、乾いている。

 一羽のはばたきに、視線が動く。自慢の翼が傷ついているのか、覚束ない飛行だ。あるいは、不慣れなだけなのかもしれない。

 彼もさっきまで、魅入られたように見上げていた。不格好でも自由に飛びたいと願う雛鳥は、あまりに無邪気で恐れを知らない危うさが覗いていて。自分と同じようで、少し違う。彼は自ら向かうことを望んだが、自分は投げやりに吸い込まれることを期待してしまっている。

 あの少年には、それさえもお見通しなのだろうか。

 

「…………何よ、全く」

 

 喉に負担をかけない低い声で、恨みのこもった言葉を零す。

 綾小路がこちらの助言のお返しと言わんばかりに残した言葉が、頭の中を駆け巡る。

 

『――桔梗。人は、変われるぞ』

 

 何となく、それは本人の経験則から発されたものだとわかる。初めは根暗で陰キャで気持ち悪い男だと思っていたのに、着実に友人を増やし、進んで問題と向き合い、あの堀北もわずかとはいえ確かに心を開き始めている。

 ひとえに、浅川の存在のせいだろう。浅川と過ごす時の彼は一層楽しそうだった。表情ではわかりにくいが、これくらい察せなければ自分はクラスからの人気を保持できない。

 所詮は余計な押し付けだ。彼は自分の変化を良いものだと思っているようだが、そんな都合の良い話ばかりではない。それに……自分は十分幸せなのだ。

 

「……」

 

 ――変わる、必要なんて。

 そう心に唱えても、印象に残っているという事実に嫌気が差す。まるで図星を突かれたようではないか。

 ただちょっと、驚いただけだ。不意にあんなことを言われたから。

 …………前触れもなく、見透かされたようなことを言われたから。

 綾小路のことは決して好きではない。そもそも本当に好きな相手などほとんどいないが。ただ、負に偏った感情は大体堀北のせいであり、彼自身に対してそこまで不快感はなかった。

 自分に何度か深刻な相談をしてくることは、やはり信用されていると感じ悪い気はしない。しかしそれ以上に、彼がそうやって自分の助言した通りに育ち成長していくのを見て、込み上げる充足感は初めてだった。

 ただの友人と言うには少しだけ物足りない、不思議な感覚だ。

 そのせいか、段々と綾小路を個別に認識し始めた。そしてそれを無意識に誤魔化し、櫛田はあまり琴線に触れない綾小路を『他人に無関心だから』だと結論づけた。今の櫛田には、変わらなくていいと答えるしか、術を見いだせなかった。

 だから次に去来するのは、堀北への憎悪だ。

 綾小路と関わるために、堀北の存在は鬱陶しい。かと言って退学にさせる手段もない。なら、こちらが打てる手は一つだ。

 ――()()()()()()()()()

 彼の心を連れて行く。綾小路も自分と同様に本来の姿を隠しているはずだ。その一面は、堀北にも見せようとしていない。寧ろそうしないよう躍起になっている。付け入る隙があるならそこだ。

 ……ただ、もし彼が自分の過去を堀北から聞いているなら然るべき対処をするしかない。堀北が打ち明けているかどうかは五分五分といったところ。それを探るためにも、綾小路に接近する。

 黒い思考を終え、大きく伸びをする。

 焦ることはない、今のところは待つのが得策だ。恐らく人間関係の問題について、綾小路は自分を最も信頼している。彼がコンタクトを取ってきたタイミングがチャンスだ。

 そうして打算的な感情に逃げ込んだ櫛田だが、彼女はようやく気付いた。

 自分の一連の思惑は、綾小路の一言から始まっていることを。

 彼の言葉は、確かに彼女の心を揺らしている。

 

「……あぁ、やっぱムカつく」

 

 苛立ちが、彼女を勢いよく起立させた。

 変わった先に何があるのか、彼は教えてくれなかった。本人も知らなかっただけなのかもしれないが、変にはぐらかすような言い回しは腹立たしい。

 だが僅かに、自分が終わりのない偽りから抜け出して、それでどうなるのかは気になった。今までそのような可能性を、考えたことすらなかった。だって、あり得ないと切り捨てていたものだから。

 自分はずっとこのままでいい。このままがいい。みんなのことが好きで、みんなに好かれる人気者。それが私。

 けど、そもそも自分がその道を選んだのは、それしかないと思ったらからで……。

 相反する感情が混じり合い、ぐちゃぐちゃになる。それを何と呼べばいいのか、至極簡単な疑問に、櫛田は答えを出せない。それがちっぽけなプライドのせいであることもわかるはずがない。

 いよいよ脳内で処理しきれなくなった櫛田は、一度思考を放棄する。そうして導き出した結論は――。

 

「……今はまだ」

 

 夏すら見えていない。時間はある。堀北とてすぐに自分の過去を白日に晒す真似はしないはずだ。そのクラスへの悪影響を理解できないはずがない。

 自分がどうすればいいのか、何を選ぶのか、――何をどうしたいのか。整理して分別がつくまで、決定的な答えは待っておこう。

 階段を下りる櫛田の顔は、とても自問自答を終えたとは思えないほど曇っていた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 宿主が出て行くのを見届けて、椎名は手元の本に目を落とす。

『詩の原理』、そこに書かれた一節を提示することで、椎名は浅川を諭すことができた。

 ようやく願いが一つ、叶ったことに安堵する。さすがに嬉しさは誤魔化せない。

 もらってばかりだった。時間を共有する喜びも。ホワイトルームという居場所も。自分がこの学校で幸せを感じる瞬間は、いつだって彼のおかげだった。

 彼がいなかったとしても、きっと不都合はなかったのだろう。今まで通り程々に本の世界に耽り、静かな時間を嗜む。もしかしたら浅川ではない誰かと出会い、別の形で他人との幸福を噛み締めることもできたかも。

 だが所詮、『もしも』の話だ。今ここで何かを思う自分以外に知りようはない。幾重にも重なる帰路を経て、自分は確かに幸せだと――彼と出会えて良かったと心から言える。

 その恩を、何かしらの形で返したかった。自分が彼にしてやれることはないのかと考えた。そんな時だった。ふと、彼が思い詰める表情を見せるようになったのが。

 彼には申し訳ないが、都合がいいと思ってしまったのだ。少なくとも、椎名の方から浅川に「恩返しがしたい」と口にするつもりはなかった。きっと彼はそれを望まない、だから、正しく自分の、ただの『ワガママ』だという自覚があった。他人に対してそんなささやかな傲慢を抱いてしまうのは初めてのことで、人知れず動揺したのはごく最近のことだ。

 自分に手を差し伸べてくれた優しさで、彼が彼自身を傷つけて欲しくなかったから、椎名は決して、彼に甘えようとは思わなかった。

 クラスどうしの戦いが表面化した時点で、この関係は終わってしまうのだろうと嘆いていた頃が嘘みたいだ。寧ろ繋がりの輪が広がっていることに、やはり浅川の第一印象は間違っていたのだなと確信する。

 時折見せる、自分を見失ってしまったような虚ろな表情。それは幾度となく、椎名の中の浅川の人間像を歪ませた。何を抱えているのか、何を考えているのか。それもまた、彼への関心を膨らませる要因になっていたわけだが、それは浅川自身には不幸だったのだろうが、椎名にとっては哀しいことに僥倖だった。

 歩み寄るきっかけを得られたのだ。こうして、彼を救う一言をかけてやれたのだ。

 本の表紙を、慈しむように撫でる。

 

「――詩は詩のためにのみ書かれたものこそ……」

 

 浅川は疑問を挟まなかったが、自分が咄嗟にこの言葉を贈れたことには理由があった。単純な話、思うところがあったのだ。どうしてかとても、自分の心に響いた。

 人生という長い詩を、他でもない自身のために紡ぐ。そうでなくては娯楽にも劣る茶番だ。

 浅川はあまりに他人のことを想い過ぎる。自分の苦しみも厭わない。戒めるように「自分が幸せかどうか」と再三語る口調は、ただ己に言い聞かせているように感じていた。最初からではない、きっかけは五月に入ってすぐの図書館。

 

『君さえ迷惑じゃないって言うなら――』

『君との時間は、とても楽だ』

 

 今ならわかる。あの時の違和感が。それは、初め自分が浅川のことを誤解していた何よりの証拠だった。浅川ならそんなことを言わないはずだと思ってしまった。

 彼は他人の幸せを自分の幸せなのだと、()()()()()()()()()()

 本当はもっと、恐ろしい程に『利己的』な人間なのだ。

 ……本人がそのことを自覚しているかは知らないが。

 

「私は……」

 

 だからこそ、迷いもした。距離を置くべきなのか。クラスの隔たりを言い訳に、離れた方が彼は幸せなのかもしれない。自分の存在が、彼を傷つけることになるのなら……。

 だけど、そうしなかった。できなかった。

 自分のワガママを抑えられなかったのか、彼の何かがそうさせたのか。今はその選択が正しかったことを祈るしかない。浅川を諭した選択も。

 せめて後悔しないように、選んだ道を全うするしかない。

 彼が望んだことをしてあげよう。それが自分の幸せになるかどうか、疑っても意味がない。

 その決意に伴って、また一つ確信する。

 彼とはもしかしたら、生涯最高の友人になれるかもしれない。今後の関わり次第で、一生続く縁になるのかも。特に自分を褒めることはしないが、彼の十分な理解者だと誇れるようには――。

 しかし、少なくとも……。

 あの少年を体現したような――いや、正反対の。どこまでも白く、清々しい程濁りのない部屋の中。

 

「…………行ってらっしゃい、浅川君」

 

 少なくとも私には、()()()()()()()()()()()のだろう。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

end 『自慰』

※作品の情報更新のしかた、ちょっとだけ変えてみました

さて、バッドエンド第一弾です。三章のどっかの後書きでも書きましたが、今回はオリ主の立志のフラグ(特にみーちゃん)が一つでも回収されなかった場合に起こる結末です。

先に一言解説すると、オリ主自身にとってはかなり『幸せ』なバッドエンドです。他の細かい解説は後書きにて。


 長かった三年間も、ようやく終わりが見えてきた。

 ただ何もせず、責任という枷から逃げ続ける日々はとても快適で。一つとして意味のない死と同等の生だった。

 ふと、客観的な気持ちになって室内を俯瞰する。

 もはや誰も気にしない、当たり前になってしまった欠落が、ボクの目には嫌に印象的に映る。

 中でも深い傷を抉ってくるのが、愛理が退学になってしまったことだ。理不尽な試験によって、クラスの犠牲になった。彼女は最後まで優しく、笑って受け入れていたが、当然全員が容認していたわけではない。ボクは勿論、清隆含む何人かの小グループにおいて交流の多かった長谷部や、愛理とプライベートで仲が良かったらしい王と心は激昂した。

 他に、結末の変えようなどあったのだろうか。彼女を救うチャンスは……あるわけないか。どうせ、あの時できることなんて一つもなかった。これまで一度たりとも、尽力というものができなかったのだから。

 春樹の件もそうだ。あれは所詮彼の自業自得、こちらが何かしてやる義務はない。下手すれば、矛先が自分に集中していたかもしれないのだ。

 ただ、ほんの一瞬だけ八つ当たりを、最低な責任転嫁を許されるのなら、ボクは、清隆と鈴音を許せない。

 二人の退学にはどちらも最初の友人――今となってはその肩書も破棄すべきか――が加担している。春樹とは勉強会で、清隆については愛理とも親交は深かったはずなのに、いとも簡単に切り捨てた。

 少し、怖くなった。ボクの出会った二人は、こんなにも冷徹に、冷酷になれるのかと。もしかしたら自分も、容易くポイッと捨てられてしまうのではないかと。そう思うと、せめて及第点は越えなければと、影に徹しながらも必死だった。

 どうして自主退学しなかったのかって? しようと思ったさ、あの中間テストで赤点取って、即刻サヨナラしたかったさ。

 でも、出来るわけない。出来るわけがなかった。どうしても、先生との言葉が頭の中で響くから。

 もし退学しても、きっとあの人は黙って受け止めてくれるのだろう。本当に失意に沈む人に、酷いことはできないはずだ。だけど、そう思うだけで胸が張り裂けそうになる。

 だから残った。全部自分のために。それなりでいいから生き抜いて、ほどほどの明日を迎えられたら、それだけで十分だ。

 健が鈴音と楽しそうに、少しだけ頬を赤くしながら話しかける。それを無愛想ながらも邪険にはせず、鈴音は応答する。変わったな、清隆のおかげ、なのだろうか。

 そうだ、清隆とは……最後に話したのはいつだっけ。いつの間にか、多分一年生の内にはとても友人とは誇れない希薄さになっていたように思う。段々と彼も余裕がなくなっていったのか、元の冷たい一面が垣間見える機会が多くなっていたように感じる。まあどうでもいいことだ。兎に角、『約束』は果たされなかったのだ。記憶力の良い彼が忘れているとは、思えないけれど。

 平田がいつものように、ありきたりな鼓舞の一言をクラスに渡らせる。どうやら近々、何らかの試験がまたあるらしい。茶柱さんの話、聞いてなかったな。二年前の五月初頭のときもそうだが、あの人の話はどうも耳に入らない。

 Aクラスの座を懸けた戦い。そんなくだらないものへの興味はとっくに失われていた。

 今、何ポイントだっけ。Dクラスの下剋上、叶いそうかな。

 ……あれ? Cクラスだっけ。あ、Bクラスに上がって、いや、結局一気に落ちたんだっけ。もしかしたら既にAクラスになってたり……。

 ……まぁ、どうでもいいか。何位でも。

 ボクが関わる余地なんて、どこにもないのだから。

 …………面倒くさ。

 

 

 

 靴を履き替えていると、後ろから声を掛けられた。

 珍しい。誰かと必要以外な交流をするのは久しぶりだ。

 

「あ……」

 

 綺麗な銀髪に言葉を失う。こんなにも彼女は綺麗だったか。

 

「その、お久しぶりです」

「…………あ? ああ、えっと、久しぶり」

 

 何だか初対面よりもよそよそしく、緊張感がある。しおらしいというか、慎ましいというか。

 

「お元気ですか?」

「まあ、ぼちぼち。どうしたの? 急に」

「さっきすれ違ったので、挨拶しようと思いまして」

「すれ違った?」

「え、……気づきませんでしたか?」

 

 ……。

 

「ぼ、ぼーっとしてたから。というか、いいの? 一人じゃないよね」

「は、はい。真澄さんと隆二君と一緒でした。今は……待ってもらっています」

 

 だったらこっちなんかに構わなくてもいいのに。

 三人の仲は学年でもわりと知られているらしい。彼女が下の名前で呼ぶ相手は二人だけだし、隆二がプライベートで良好な関係にある異性も二人くらい。

 ……今は、隆二の部屋に集まっているんだったか。良かった、ボクがいなくても、やはり三人は幸せな関係を築けているようだ。

 ズキリと、正体不明の心苦しさに駆られるが、すぐに収まった。

 

「それで?」

「え?」

「何の用? それとも、顔が見たかっただけ?」

「えっと――」

「じゃあもう満足でしょ。さよなら」

 

 何かに苛立つように、いや、きっと逃げるように、急ぎ踵を返す。

 目を逸らした矢先だった。残っていた左腕が掴まれた。

 

「――っ!」

 

 反射的に、全力で振り払ってしまった。

 引っ張られるようにして態勢を崩した少女が、こちらに倒れてくる。

 ボクは……

 

「ひっ――」

 

 次の瞬間、淋しげな昇降口に乾いた音が響く。

 上身を床に強打した彼女を、ボクは唖然と見下ろしていた。

 

「ごご、ごめんっ! あ、違うえっと、大丈、夫?」

 

 動揺を隠せないまま、とりあえず心配だけしておく。

 膝を擦りむいたらしい。涙目になっている少女を前に、どうすればいいのかわからなかった。

 

「い、いや……」

 

 意味もなく、恐怖に染まった声が漏れる。

 

「わ、私は大丈夫ですから。浅川く――」

「そ、それじゃあっ!」

 

 脱兎の如く、少女を置き去りに飛び出してしまった。

 関わらないで欲しかった。もう、こっちにそんなつもりはなかったから。慰めも気遣いも、しないでほしかった。

 なのに、どうして優しいんだよ……。それで傷つくって、わからないはずないのに。何で余計な真似をするんだよ。

 真澄と隆二とで、満足できるはずだろうに。本当余計な……。

 ……あれ?

 そういえば、と、一つ違和感に気づく。

 真澄と、隆二と――、あの穏やかな目とソプラノ声。

 長らく呼んでこなかったから、忘れてしまった。

 

 あの子の名前、何だっけ?

 

 

 

 

 いつもは無感情に浴びるシャワーで、魔が差して思考が巡る。

 あの少女の涙は、確か、ボクが最初望んでいなかったものだ。あの顔をさせないために、隆二と真澄とグループを作らせて。

 ボクがいなくなっていなければ、あんな顔はしなかった? そんな自惚れが過ぎる。しかし一瞬で霧散した。

 ボクが誰か一人でも幸せにするなど傲慢な話だ。かつて大切な人を失ったときのように、自分もその近くにいる人も傷つけるのだ。

 ボクにできるのは精々、お膳立てくらいだ。今は遠くにいる愛理も、ギリギリまで王と心と笑顔の花を咲かせていた。清隆と鈴音も交流を広げ、クラスの動力源として奮闘している。平田や他のみんなも、各々問題を解決し葛藤を乗り越えてきた。その全てに、自分は一切関わっていない。

 この学校で自分が成せたことなど、一つもなかった。何か、何か目的があったような気がする生活も、虚無以外の何物でもない。

 着地点のない夢想を打ち切り、ノズルを締める。

 深い溜息と共にバスルームを出て、水気を落とし、寝巻に着替える。

 もういい、考えるのはやめよう。面倒だ。

 何を憂いようが、何を悔いようが、結局自分はこのまま、一度も奮起せずに卒業する。だったら苦しくなることに頭を使う意味はない。

 今は、ただ――

 

「お待たせ」

「うん、ドキドキしながら待ってた」

 

 数歩歩き、力が抜けたようにくずおれる。

 豊満な胸に、顔をうずめた。ゆったりと、だらしない身体が包まれる。

 

「何か、嫌なことでもあった?」

「……」

「慰めて欲しい?」

 

 コクリと頷く。甘い声に刺激され、真っ白な部屋で意識が一つに釘付けになる。

 やっぱ、他のことなんてどうでもいいや。

 ボクには、絶対的に永遠な安寧があるから。

 

「大丈夫だよ。君は委ねるだけでいいから。ただ気持ち良くなることだけ頑張って」

「うん」

「一人で脱げる?」

「ううん」

「今日はやけに甘えるね。……嬉しい」

 

 衣の擦れる音だけが響く。

 

「言ったでしょ。二人なら、きっと幸せになれるって」

「うん」

 

 一糸まとわぬ姿で、ボクは仰向けに倒れ四つん這いの相手に見下される。

 

「愛してるよ」

 

 これしか、知らないのだろう。極端な愛情表現に、拒否的な感情は全く湧かなかった。

 嗚呼、自分はなんてシアワセなのだろう。

 

「…………オレも」

 

 今はただ、盲目的に愛したい。

 




tips
①みーちゃんと出会わなかった→みーちゃんと心との関係値0、佐倉との関係値が本編未満
②勉強会に参加しなかった→勉強会メンバーとの関係値は0。平田からはただのモブクラスメイトの扱い
③ホワイトルーム残留を決心しなかった→当初の予定通り三人を避け始める→知り合い程度になった神崎と神室、それ以上に会話しなくなった椎名→神崎の部屋に集合している
④堀北の要請に応えなかった→堀北は勿論彼女に協力すると決めた綾小路とも関係が希薄に→二人の仲は原作以上+堀北の社交性、綾小路の積極性は原作以上本作本編未満+『ディスコード』『リフレクション』での二人の何気ない発言(=オリ主にとっては約束)が叶わなかった

⑤その他、全体
・序章で堀北の迷い、オリ主の迷い等フラグが未達成だと五月一日のやり取りが発生しない→このエンドに直行

・①の影響もあり、三章(佐倉の事件)からオリ主の干渉は0、以降は三章含めほぼ原作通りの展開→起こるのは暴力事件のみ、解決の過程も完全に原作通り+佐倉は三年間はグラドル休止(=原作通り)

・綾小路→同志を失い満足できない(原作よりかは良心アリ)+最初は気にかけていたが諦めと共に離れて行った→あらゆる葛藤(主に櫛田との交流による原作以上に複雑な)が解消できない

・堀北→綾小路と兄の出会いが原作通り→兄が咎められない+堀北へのケアが不足+他人の必要性の実感不足→はっきり欠点を認めるのが原作あたりになる+兄との関係もほぼ原作通り→兄を通過点にはせず今までの自分と決別(髪を切るイベント発生)

・このルートでは本編と違い、須藤は堀北に、佐倉は綾小路に明確な恋心を抱く

・龍園、葛城など、他クラスからのオリ主認知なし→坂柳は初対面の違和感を忘れる。一之瀬はいつの間にか忘れる。

・雨宮たちの捜査に全く協力しない→未解決確定+高円寺からは有象無象扱い、もう友人にはなりえない

・理事長→綾小路と離れたことを残念に思うものの気遣って何もしない+雨宮の捜査への抵抗心が増す

・茶柱→『カーテンコール』回想での出来事が消失→生徒への態度も思いも原作と変わらない+綾小路らが頑張っているためオリ主はもうどうでもいい

・櫛田→オリ主との交流0→つまらない陰キャ扱い
→二章もしくは三章までの綾小路の言葉により葛藤は蓄積しているがほぼ原作通りの行動→精神が原作より不安定+綾小路と堀北への敵意上昇
→退学はしていない

・オリ主がいてもいなくてもほとんどが同等の幸せを掴めている+オリ主の不干渉によって傷を免れた人はいる


以上です。いくつか気になる点があると思いますが、その違和感はこの先本編で解消されるはずです。

個人の偏見ですが、原作は学園ものなだけあって少年少女の成長を描いているため、生き残る生徒はみな何かしらの試練を乗り越えて卒業すると思っています。
なので、実はオリ主がいなくても当然全員の問題は丸く収まる。本作はそのメタ的な前提が土台にあります。それを示唆する上でも、この『オリ主が最初から諦めて不干渉』の世界線は描いておきたかったんですよね。

実は本編でもこの先、そのジレンマにオリ主が直面する展開を考えていたりいなかったり…?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間―箱庭―
両想いの二人


意外と短くまとまりそうで、幕間にそこまでかからないかも。ただ、けっこう内容詰まってます。
今回もまた、オリ主の掘り下げ回です。彼の能力について触れていきます。


 六月も中旬に入ろうという頃。

 視界の上部が塞がれたまま、浅川はとうに飽きてしまった道を通っていた。

 

「三日連続か……」

 

 次太陽を拝むのはいつになるのだろうか。湿度の本調子はもう少し後の時期だと思っていたのだが。

 寮のロビーで鍵を受け取りエレベーター――は誰かが使っているようなので階段を上る。

 自分の部屋が見えると、扉の前に小さな人影が確認できた。

 

「……誰から聞いた?」

「わかっているでしょうに」

 

 冷めた目で見下ろすと、相手は動じることなく笑みを浮かべる。

 

「いやー何のことかさっぱりだぜ。まあ入んな、可愛い子ちゃんがまた一人我が家にお見えになるなんて運が良いぜ」

「思ってもないことを口にするのはお辛いでしょう。肩の力を抜いてくださいな」

 

 一応取り繕ってみたが、やはりもう通用しないようだ。大仰な態度を切り止め嘆息を吐く。

 

「ならそもそも帰って欲しいんだけど」 

「あら、友達が遊びに来たというに、冷たいお方」

「……君にだけ特別だよ」

「それはそれは、嬉しいですね」

 

 どうせ無視したところで帰りはしない。風邪をひかれても困るので渋ることなく中へ入れた。

 

「貧民が出せるもてなしは無いぞ」

「それも聞いています。水でけっこうですよ」

「ストーカーかよ……」

「人聞きの悪い」

 

 一度も入ったことないはずの部屋の事情を把握しているなど、それくらいの不審者だろう。

 

「それで? 一体何の用だい。お嬢さん」

「年下扱いのおつもりですか?」

「おや、違ったのかい? てっきり迷子でやってきたのかと思っていたよ」

 

 肩をすくめて煽ってやると、案の定不機嫌になった。冷ややかな笑みを浮かべているが、この距離で向こうにできる仕返しはない。

 置かれたカップを上品に啜る彼女の隣には、見覚えのあるボードが添えられていた。

 

「どうしてそれを?」

「再戦が用件ですからね。私たちが互いを知る際には、これが最も効率的でしょう」

「自分で言っといて悲しくならない?」

 

 媒介がないと自分たちは真面なコミュニケーションができない。そう認めるらしい。噛み合わない関係では話が弾まないというわけだ。

 

「まあいいけどさ……」

「安心してください、今回はフェアに行こうと思います」

「フェア?」

「今日はもう一つ盤面を持ってきているのですよ」

 

 確かによく見ると、チェス盤の他にもう一つ茶色の板が目立っている。

 

「将棋か」

「約束は守る主義ですので」

 

 折角ならちゃんとした立体的な将棋盤が良かったが……簡易版で妥協してあげよう。

 前回とは違いこれといった挨拶もなく流れるようにゲームが始まる。まずはチェスからだ。

 

「テスト、お疲れ様でした。退学にはならなかったようですね」

「それが何と一悶着あってさあ。危なかったのよ」

「仔細をお聞かせいただいても?」

「いいけどその前に、よもや君の仕業ということはないよね?」

「愚問ですね。私にそんなことをする理由はありませんよ」

 

 彼女の言いたいことは何となくだがわかる。返事はせずに駒を移動させる。

 

「実は、ポイントで点数を落とされてしまってね」

「なるほど、しかしそう簡単に行くものですか? 腐っても学年二位のあなたを赤点にまで追い込めるとは――」

「まあ、ちょっとした『遊び』の産物だろうね。君もプレイヤーでは?」

「さあどうでしょう。少なくとも愉快な代物とだけ言っておきます」

 

 勝てないと諦めているゲームの退屈さに思わず欠伸が零れる。「真面目に抗って下さい」と叱られたが、手応えを感じないせいで向こうも面白くないのだろう。以前のチェスで浅川をつまらないと称した所以も、恐らくそこにある。

 

「そう仰るあなたは、どうやら活用していないようですね」

「さすがにポイントを見ていたか」

「何か事情がおありで?」

 

 先月の上旬に一度端末を渡した際に見られたのだろう。

 目の前の戦局にうーんと唸りながら、浅川は答える。

 

「悪いことはダメ、絶対。当たり前のことだろう」

「この期に及んで優等生の振りですか」

「実際優等生でしょ、僕」

「もし百歩、いえ、万歩譲ってあなたが優等生だとしても、失笑ものですね。ここにおいてその考えはいつか致命的な失敗を招きますよ」

「それでも、だよ」

 

 到底理解できない言い分だったようで首を傾げているが、わかってもらおうだなどとは思っていない。実際取引材料を手早く調達する手段があるのにそれを利用しないのは大損だとは承知の上だ。

 しかし、譲れないものがある。今までの努力――雨宮に教え込まれた精神は正義と呼ぶにはあまりに泥臭いが、賭博に身を落とし込む程廃れたものでもない。

 故に、彼は馬鹿げた道理に抗うのである。自分のポリシーに従って。

 

「愚かですね。また一つ、あなたの気に入らない部分が見つかりました」

「そりゃ残念、愛想を尽かしてどっかに消えてくれないかな?」

「使えるものは使う。至って単純な理屈のはずですが」

「あっはは、そうかもね。……なら、悪に手を染めた蛇が出し惜しみしている羊に負けた時、一体どれだけ惨めな気持ちになるんだろうねえ」

「……あなた、意外に良い性格をしていらっしゃるのですね」

「前の一件でご存じかと思っていたけど?」

 

 こちらが彼女を出し抜いたことは既に認めているはずだ。態々ここへ足を運んできたということはそれ相応の何かがあったからであり、その確認が暫く経過した後であることを踏まえれば、彼女が自分の演技に気付いたのは神室の報告によるものだと推察できる。何だかんだで騙すことはできていたようだ。

 

「そうでしたね。一つの能力だけで自惚れる滑稽な単細胞ではありませんでしたね」

「うむ、何たって灰色の脳細胞だからね」

「あなたにぴったりな表現ですね。その鼻につく態度とか、特に」

「僕より一級品な鼻付きが身近にいるんだけど」

「あなた以上の? ご冗談を」

「君をリトルガールと呼ぶのを絶対に止めないと断言できるやつでもかい?」

 

 彼女の額に青筋が浮かぶ。この少女、頭脳の割に意外と沸点が低い。高円寺にいともたやすくあしらわれそうだ。

 ハハハ! とふてぶてしい高笑いが頭の中で鳴り響いていると、坂柳は控えめに咳払いをし――纏う空気を変化させる。

 どうやら、やられっぱなしは余程気が済まないらしい。

 

「少なくとも、あなたのような小癪な()()をする人ではないでしょう」

「そりゃす()()え」

「Aクラスの内情に首を突っ込むとは思っていませんでしたよ」

 

 衝動に駆られて飛び出た小言をなかったことにされ悲しみに暮れるが、それよりも言及しなければならないことがある。

 

「一体何の話だい?」

「あなたでしょう。()()()()()()()()()()()()()()

 

 当然証拠などない。そういうように動いたのだから。

 にも関わらずよくもここまで確信を持って言い当てられるものだと感心する。

 

「過去問? 訳がわからないなあ。敵のクラスに武器を与えるなんて、損しかないだろう」

「内部の対立が加速する。その意味を理解できないあなたではないでしょう。あなたは葛城派に功績を上げさせることで私たちの台頭を防ごうとしている。違いますか?」

「あら、確かに利益はあったみたいだねえ」

 

 詰まる所、彼女の語っている推測は全て正しい。

 浅川は一之瀬と密会した際にAクラスの状況と葛城派の存在を知った。坂柳の力量を警戒していた彼は、葛城とコンタクトを取り武器を渡すことで坂柳派との権力抗争の戦力を補充させたのだ。

 ――実際会ってみても、とても康平が有栖を上回れるとは思えなかったしな。

 差し詰め彼は、葛城派の後見人とも言えよう。これからも機を計らい、Aクラス内に収まるいざこざであれば陰ながら葛城をアシストする腹積もりだ。その方が坂柳一強になるよりかは対策がしやすくなる。

 綾小路が先日把握できていなかったデータの一つが、Aクラスの実情というわけだ。

 

「でも、普通に考えてその葛城とか言うやつが自力で解を導きだしたってなると思うけど」

「彼には無理ですよ。勉強会に明け暮れていたのに前日になって突然持ち出してきましたから。綾小路君も候補でしたが、彼は残念ながら積極的に顔を広めようとはしませんからね。半ば消去法です」

「まあ君が合点いくならそれでいいんじゃない?」

「そうですね。強いて言えば、一体どんな話術で堅物な彼を口説いたのかは興味がありますが」

 

 彼女もこちらを追求できる材料がないと自覚しているのだろう。強く問い詰めてくることはなかった。単に興味がないだけかもしれない。

 思いの外粘れているのか弄ばれているのか、もう少し決着まで時間がかかりそうだ。一区切りついた話の中から新たなトピックを捻出する。

 

「清隆の名前、出して良かったのかい?」

「どうせ知っているのでしょう? 私があの時端末を落としてしまった理由は」

「確信を持てたのは真澄のおかげだけどね」

「奇遇ですね。あなたのカモフラージュに確信を持ったのも真澄さんのおかげです」

「君が気に入る理由が身に沁みたよ」

「ええ、そうでしょう」

 

 この場にいないにも関わらず二人に意気投合して揶揄われる彼女は不憫以外の何物でもない。今頃くしゃみに苦しんでいることだろう。

 一時の和みを挟み本題に戻る。

 

「あなたは綾小路君のことをどう思いますか?」

「聞いて驚くなよ、親友さ!」

 

 自信満々、誇らしい笑顔で言い切った。

 その途端に純粋な表情と言葉に、意外にも坂柳は意表を突かれたようだ。

 

「そ、そうですか。しかし私が言いたいのはそういうことではなく――」

「すごいやつだと思うよ、うん」

「……具体的な答えが欲しいですね」

 

 じれったそうにする彼女を見てさすがに憐れに感じた浅川は、大人しく真面目な回答をすることにした。

 

「今の彼自体はとても冷たい、哀しい少年、かな。でも志や目標、願い――彼の意思は眩しいくらいに綺麗だよ」

「……それは、あなたが与えたものではないのですか?」

「どうだろうね。いずれにせよ彼は決断した。自分自身に抗うことを選んだんだ」

 

 そう語る浅川の表情は、綾小路に思いを馳せているものだった。

 黙って彼を見つめていた坂柳は、水を一口含む。

 

「……かつての彼には、そんな人間らしいものはありませんでした」

「…………」

「未来予測的な思考はできても、それはあくまで状況や他人の行動パターンの分析の域を出ない。今より先を見据える心――自身に向けた願望がああも強い形で現出するようになったのは、間違いなくここへ来て変わったものがあったからです」

 

 今回も、彼女が何を考えているか測りかねた。しかしそれは、冷笑やポーカーフェイスで隠匿されたものではなく、自分の中で思いつめているから。そんな風に思えた。

 

「……君はどうして、清隆にそこまで執着するんだ? 彼の何を知っている?」

「彼は、そう、私にとって幼馴染のようなものです。唯一の」

「……そっか」

「納得していただけるのですね」

「これ以上踏み込むのは、きっと間違いだ」

 

 それらしいことを言ったが、本当は少し違う。苦い過去が過り、今目の前にある一線を越えることを反射的に恐れてしまった。それだけだった。

 誤魔化すように、彼は止まりかけていた話を繋ぐ。

 

「君はあいつを、どういう風に思ってるんだ?」

「彼は天才ですよ。常人には届かない境地にいる。しかしそれは作られたものであり、偽りです」

「偽り?」

「元々持ち合わせていたものではない、ということですよ」

 

「ああ」気になるワードに眉を顰めたが、期待していた返答ではなかったためすぐに乗り出していた身を引っ込めた。「そういうこと」

 もしかしたら自分と同じなのだろうか。そう思ったのだが。

 

「才能とは、一種のギフトです。生まれた瞬間から脳の原型は定まり、血が変容することはない」

「まさか、神からの贈り物だなんて言うつもりかい?」

「偶像の真偽は然程重要ではありません。それとも、共感できませんでしたか?」

 

 浅川は暫くチェスそっちのけで首をうならせる。

 自分のことにも纏わる、重大な問いだ。

 

「…………半分、かな」

「半分? 随分と煮え切らない返事ですね」

「なら、イエスでもノーでもない別解としようか」

 

 頭を整理し終えた彼は、クイーンを動かしながら持論を述べる。

 

「始点は君と一緒だね。大抵の能力は遺伝子によって偏りが生まれる。ただ、その後身を置く環境によって得られるものを否定するのも、また違う気がする」

「誤差の範囲では?」

「なら遺伝子も誤差だろうね。あんなにも微細な成分だぞ?」

「頓智に逃げないでください。物理的な話ではありませんよ」

「冗談さ。じゃあ逆ならどうだい?」

 

「逆、ですか?」首を傾げる彼女に頷く。

 

「もしも、君が信じて止まない()()()()()()()()()()()()()()()、それを君は本物と呼ぶのかい?」

「――!」

 

 思考の穴を突かれたようだ。一瞬固まったが、すぐに息を吹き返す。

 

「クローンや遺伝子組み換えの類ですか」

「遠かれ近かれ、将来人間に適用されることがないとも言い切れないだろう。クローンは既に現実的なものになりつつあるとも聞くからね」

「……その観点は、失念していました」

 

 一概にあり得ないと否定しない彼女の見識の広さ。生命のデータ改ざんという非常識的な行為に何食わぬ顔で向き合う彼女は、やはり高校生離れしている。

 

「だから僕は、たとえ清隆が後天的な才覚の持ち主だったとしてもそれを偽物だと咎めるマネはしないよ。偽物と言えるのは、そういう根底から偽られている存在だ」

 

 浅川の結論を坂柳は無言のまま吟味していた。

 やがて、何かに気付いたように顔を上げる。

 

「…………それは、あなたのことですか?」

「あっははー」

 

 矛先が不意に浅川に突き付けられた、その時だった。

 

「――とりあえず、チェックメイトです」

「続きはCMの後ってね」

 

 いつの間にやら訪れた呆気ない敗北。あの日からとりわけチェスの学習に励んだわけでもないため、当然の結果だ。

 そのまま坂柳は、将棋盤を広げる。

 

「さて、あなたが言ったのですから、加減は無しでお願いしますよ」

「えぇ、面倒くさ……」

 

 興が乗らない。嫌いな人と二人きりでゲームをして上機嫌になる人など、まして子供にはいないのが常。

 しかめっ面が余程気に入ったのか、坂柳は悪戯な笑みを浮かべて準備をする。

 嗚呼、気に入らない。ただ自分の愉悦を生み出すだけのためにいくらでも他人を蹴落としていいと考えているような、残酷な赤子の如き無邪気な欲望は、最も忌み嫌うものの一つだ。

 それさえも彼女はわかっているのだろう。だからこうして完璧なお膳立てを施している。

 ……仕方ない。

 

「乗りかかった船だ。無抵抗に振り落とされるのも癪だから付き合うよ」

「そう来なくては。操舵手がいなければ宛てのない航路。私は意味のないことを好みませんから」

 

 変に拗れを残すのも後が恐い。一度本気になった方が楽そうだ。

 思考時間は各ターン三分以内、という取り決めになった。

 浅川は姿勢を正し、正座で彼女と向かい合う。

 

「お願いします」

 

 対局開始後、すぐさま坂柳が口を開く。

 

「あなたの演技力は、確かに異常です。あの自然さはどこにでも転がっている才能ではない」

「珍しく素直に褒めるなあ」

「一番それらしい表現と言えば、メソッド演技でしょうか」

 

 メソッド演技法。米国発祥の技術であり、役柄の内面に焦点を当て、劇中の感情や状況に応じたリアリティの高い表現をするというもの。その最大の特徴は、対象となる役柄の異様なまでのリサーチ、そして自己の内面すら掘り下げ感情の疑似的な追体験を行うということだ。

 しかし、と彼女は自分の案を否定する、

 

「あなたの場合は、ある意味それさえも凌駕する。どのようなものであっても――イメージさえ内在していれば瞬間的に人柄を切り替えることができる」

 

 浅川は当然、役者が熟しているような分析などしていない。更にこの演技法の代償として、自身の精神的負担が蓄積しやすいために私生活に甚大な影響を及ぼすリスクがあるのだが、浅川にその兆候は全くと言っていいほど見られない。本職の人間でさえトラウマの掘り出しによる情緒不安定化や薬物・アルコール依存を抱えてしまうケースがあるというのにだ。

 

「明らかに歪んでいます。一体何があなたにそれを可能とさせたのですか?」

「回答の義務が僕にあるとでも?」

「今更本末転倒なことを言わないでください」

 

 嘆息を吐きながらも――勝手がわかっている種目であるため盤面に思考を巡らせ飛車を動かす。

 なおも全てを白状することが憚れた。というより面倒であった彼は、無愛想に回答を示す。

 

「ドラマツルギー、って知ってるかい?」

「アーヴィング・ゴッフマンが持ち出した観察法ですね」

「よくぞご存じで」

 

 どうしてこんなことまで知っているのかやらと呆れつつ頷いた。

 ドラマツルギーを極めて簡潔に語るとすれば、人間の社会的・文化的な存在観念を演劇で喩えるというものだ。

 

「その土台となっているシンボリック相互作用論では、対象の分析において三つの前提を定義している。――一つ目は、人間はある事柄が自分にとってどのような意味を持つのかによってそれを行動に移す。二つ目は、その事柄が持つ意味は、自身と相手との間にある社会的な相互作用によって発生する。三つ目は、その意味は相互作用の中で修正されることがある。というものだ」

 

 一つ目については、人の行いには大抵何等かの意味や目的が存在し、寧ろ理由に行動が引っ張られているというそう難しくない理屈だ。

 二つ目は一見難儀に見えるが、例えば一本の大木があったとして、それは山などにおける焚火という対象になるかもしれないし、住居に設置される机や椅子といった対象になるかもしれない。将又撲殺の凶器という対象になるかもしれない。という具合に、ある事物の意味がそれ自体に備わっているわけではなく人間の「我思う故に」の精神によって付与されるという考え方である。

 三つ目に関しては、要は人間の解釈によって物の見方は幾度でも大きく変わり得るということだ。

 

「……あなたはそれを自分だけで適確に用いることができる、そういうことですか?」

「結論を急ぐでないよ」

 

 こちらが相手の金を奪うと、歩を場に召喚することで玉将を守ってきた。一時撤退をし、布陣を固める。

 

「ドラマツルギーにおいて大事なのは、オーディエンスからのパフォーマンスの受容と、舞台という概念だ」

 

 重要な場面と踏んだらしく、ここで坂柳は長考に耽る。

 

「パフォーマンスは七つに分類されるんだけど、まあそれによってオーディエンス、つまりこうして対面している相手に自分の存在を認識してもらうんだ。あくまで相手から見た像のことだけどね」

「それを巧みに操るところまでが、あなたの得意分野ということですか」

「そうだね。ただ、それだけでパフォーマンスは成功しない。思わぬアクシデントは勿論、オーディエンスの推察が鋭いこともまた、失敗を招く原因となる。だから情報の漏洩を防ぐために役割が存在する」

「あなたで言うところの椎名さんがそれですね」

 

 あの日、椎名は浅川にとって「さくら」の役割を担っていた。一方神室は「密告者」の役割を担ったため、こうして坂柳に自分の演技が露見することとなった。他にもあらゆる方面に作用をもたらす役割が存在するが、いずれも裏舞台や表舞台でパフォーマーとオーディエンスの関係に変化を与えている。

 

「この理論が複雑に見えるようにできているのは、やはり相互作用の性質だろうね。演者と聴衆、二つの相対する意思が絡まり合うから混迷を極める」

 

 ゴッフマン本人も、度々人間は本性において気まぐれであると強調しており、本当にあるはずのものは当然に発見できないものとしている。

 重要なのは、人が役割の背後でどのような人間であるかについて、演じることを通じて生まれる意識に他ならない。つまりは、舞台の表と裏のことである。

 

「他者との対話の度にアイデンティティそのものを再構成し、アドリブを加え相手にいかにもそれらしい存在に見せる。あなたの才能の起源はそこにあり、舞台に立つ自分自身を俯瞰することで自律を保っている、ということですね」

「実に明白な要約、どうもありがとう」

 

 パフォーマンスの成功、それはすなわち演者が自分の見て欲しい姿を聴衆に見せることができていることを表す。それをハイクオリティに実現させているのが浅川の実態というわけだ。

 少なくとも表舞台での立ち回りを、彼は完全に理解している。故にパフォーマンスを誤ることはない。

 彼の異常さは、この社会的観察法(パースペクティブ)によるものなのである。

 

「――と、そろそろ終幕のようだね」

 

 拮抗を取り戻したかに見えた盤面であったが、ふと浅川がそう言った。

 

「これで、王手(チェックメイト)だ」

 

 躊躇う素振りもなく、英雄たる歩兵を一つのマスに配置する。

 

「これは……」

「非力な有象無象が敵将の首を狩る。んー、まさしくロマンチック」

「一時立て直したと思ったのですが」

 

 どうだろう、というのが正直な感想だ。坂柳がいかにしてゲームメイクをしていたかは不明だが、浅川としては大してピンチを感じる場面はなかった。得るべくして得た勝利と言えよう。

 

「な、言ったろう。将棋ならってさ」

「…………やはり、意図があっての台詞だったのですね」

 

 前回の別れ際の言葉、単に将棋なら経験があるというだけで発したわけではない。

 ついさっきまでは半信半疑だったようだが、浅川の中身のない言葉だけで確信を持ったようだ。

 

「君じゃ将棋で僕には勝てんよ。敵から味方に寝返る人間の対応は、僕の方が得意だろうからね」

 

 将棋は元々日本の外から伝来したものだが、今に至る過程で追加され、他のボードゲームでは一切存在していないルールがある。

 それは、取った相手側の駒を自分の駒として再び盤上に復帰させることができるというものだ。

 経緯は定かではないが、その特殊性について言及された場面がある。第二次世界大戦後、勝利国たちは「将棋はチェスと異なり、捕虜を自軍の兵として扱う虐待行為を容認する野蛮なゲーム」として日本に禁止を求めた。その際あがった反論が「寧ろチェスは捕虜を殺害するが、将棋では常に駒が生き適材適所という民主主義的思想を示している」というもの。これにより将棋は禁止を免れた。

 坂柳は少なくとも敵兵に情けをかけられる程緩慢な人間ではない。初めてチェスの加虐的なスタイルを目の当たりにした際、浅川はそう直感した。故に幾度となく敵と味方の入れ替わる攻防戦ならこちらに分があると踏んだのだ。

 彼は敵に容赦をすることを躊躇わない。警戒の切り替えの迅速さも、特有の演技法によるものなのかもしれない。

 

「楽しかったかい?」

 

 終戦宣言の代わりに問いかける。

 彼女はいつしかのように微笑み、答えた。

 

「ええ、とても。あなたは?」

「聞かなくてもわかるだろう? くそ楽しかったよ」

 

 互いを嫌っていることに変わりはない。そんなものは共通理解だ。

 しかし、だからといって見向きもしないのは違う。嫌いという感情に理由があるのなら、それだけ互いを意識し関心を向けているということなのだから。

 浅川が坂柳を嫌うのは、彼女の行き過ぎた愉悦への願望と、その残虐さを敢えて隠しているという外道さから。

 そして、坂柳が浅川を嫌うのは――

 

「ようやく確信できました。どうしてここまで、あなたの存在が癇に障るのか」

「ほう、その心は?」

「あなたは理不尽な道理で私や綾小路君と同じところにまでたどり着けてしまう。それが気に食わない」

 

 ただの嫉妬とは違う。と浅川は判断した。

 故に問う。

 

「それの、何が悪い?」

「綾小路君は理解していましたよ。そして恐らくあなたも理解しているはずです。あなたは本来、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 決定的な一言だった。浅川はその宣告に動じることなく聞いている。

 

「あなたはどういうわけか自分の内面を作り変えることができる。それだけでも不気味ですが、最も不可解なのは元来より上位の領域に自分を持っていけることです」

「つまり?」

「あなたは秀才止まりの頭脳で天才と同等の思考を実現している。普通は識ることのできないものを識ってしまっている。分析不可能な矛盾です」

 

 今度は好きも嫌いもないただの研究心を宿した瞳で、覗き込まれる。

 

「『非凡を識る凡人』――差し詰めあなたは、暗黙の真理に反旗を翻す特異点(イレギュラー)といったところですね」

「はっはは、これはまた上手く言ってくれたな」

 

 適当な拍手をしてやるが、彼女は意にも介さない。

 

「あなたがいかにして自分の矛盾と闘うのか、興味がないとは言いません。善悪問わずに利用することを求める合理性、人の傷を許容できない共感性、その両方に振り切れている存在は、あなただけなのですから」

「へえ、そうかい。なら――今の状況が君にとってどれだけ危険かわかってる?」

「何を――」

 

 目を瞬かせる間もなかった。

 浅川はボードを跨ぎ、目の前の少女の首元に左腕を、左腕に右腕を押し当てる。

 次の瞬間、華奢な坂柳の体を浅川が上から拘束する構図になっていた。

 

「ぐっ……あな、たは」

「別人に成り代われる。それって、今みたいにどんな酷いことだってできちゃうってことだよ」

 

 彼の能力にはもう一つ重大な要素がある。

 『想像力』。技術に頼ることのない、天性によるもの。

 浅川は自分をパフォーマーとして全く別の人物に書き換えるのと同時に、相対する相手のイメージさえもコントロールができる。例えば、やろうと思えば坂柳を恋人のように扱うこともできるし、逆に恋人を殺された憎き敵として見ることもできる。現に今、浅川は坂柳に対する嫌悪を超えた憎悪を放っていた。

 元々足に不自由を抱える坂柳には、ジタバタと抵抗することさえままならない。

 彼女を見下ろす浅川の目は、明らかに殺意に満ちている。

 

「私が、本当に独りでここに来たとでも?」

「んなわけないでしょ。橋本と隼は待機してるだろうね。でも、それで十分だなんて思ってないよね?」

 

 一層、締め付ける力を強めた。

 

「二人がかりだから何だ。制圧して、結局君をどうとでもできる」

 

 心の中で高円寺と清隆なら、と呟く。あの二人には正面から立ち向かっても勝てないはずだ。

 暴行の証拠を僅かにも残さないよう、浅川は坂柳の衣服に指を触れることなく拳で額を小突く。

 

「本当に歯止めが利かなくなったら、何をするかわかんない。それこそここで、強引にエッチなことして弱みを握ることもできちゃうね」

 

 ぐいっと、彼は顔を近づける。

 

「――怖い?」

 

 冷たい声音は、常人であれば間違いなく震えあがってしまうことだろう。

 しかし坂柳は、この状況でも平静を保ったままだった。

 

「ふふ、全く。あなたは私をどうすることもしませんよ」

「何で?」

「あなたにはまだ、守ろうとしているものがあるからです」

 

 拘束されたまま、彼女は毅然として言う。

 

「そう易々と強硬に走るくらいなら、あなたは平生からあのような役柄には徹しません。より効率的な人間に成り代わっていたでしょう。それをしなかったのは、あなたの中に何かしらの一線が引かれているからに他ならない。絶対に越えまいと決めている一線が」

 

 確信を持って告げる坂柳と、力を抜かずに固まっている浅川の視線が交わる。

 沈黙を破ったのは、浅川だ。

 

「わかってるじゃないかあ」

 

 フッと、寸前までの緊迫した空気が嘘であったかのように、彼は元の腑抜けた見た目に戻っていた。

 坂柳を解放すると、彼女は埃を払うように制服を軽く叩き整える。

 

「そもそも君とそんな長く触れていたら、きっと蕁麻疹が出てしまうしねえ。折角だから揶揄ってみたんだけど、さすがにちょっとは驚いてくれたみたいだ」

「ふん……良かったのですか? あのような一面を明かしてしまって」

「嫌いな人に対して好感度なんて気にしないだろう。思わず素で過ごしちゃうってわけだなあ」

 

 飄々と語る浅川だが、果たしてさっきの彼が本当の姿だったのか、将又それもまた成り代わった一人に過ぎないのかは彼にしかわからない

 ただ、少なくとも今の浅川は坂柳の言う通り無為に自分を狂暴化させることはない。必要である場面で出し惜しみをする可能性さえある。

 何故なら、その意志は多くの人を想って生まれたものだからだ。最愛の兄弟、恩師、最近では親友もその理由に加わった。今の彼には、間違った道を退ける要素がたくさんある。

 故に、先の行動も容易に茶番と言ってのけた。

 

「素、ですか。私もつい熱くなってしまいますね。拒絶反応で」

 

 冗談半分に彼女も応じ、彼に言い放つ。

 

「私があなたに向ける感情は、綾小路君に向けるものとは正反対です。愛情、慈愛、情愛、愛憎、その全てを彼に抱いているのだとしたら、あなたに抱いているのは一点の曇りもない嫌悪のみ。綾小路君の言う通りでした。あなたもまた、私の特別だったようです」

 

 彼女は再び、チェス盤を広げる。

 

「もう少し、お付き合いいただけますか? 相容れない者どうしがどれだけ歩み寄ることができるのか、試してみましょう」

 

 その提案は、浅川にとって非常にそそるものだった。

 互いを知る程解り合えなくなる。環境が異常だろうが正常だろうが、その摂理は彼の中で不動のものだった。そしてそうではないことを証明するために、綾小路と手を取り合うことを望んだ。

 一方彼女からもたらされたのは、全く別の視点に移り発想を逆転させたものだ。すなわち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことの証明。

 やはり彼女は、頭が良い。

 

「…………いいねえ、乗った」

 

 珍しく、獰猛的に笑う。

 

もっと楽しもうか(レッツ・ダンス)!」

 

 平行線な二人は、これからも近づくことはない。

 しかし決して、離れることもないだろう。

 




ドラマツルギーの活用、+αの『一部』として自身の想像力。簡潔にはこれがオリ主の成り代わりの成分です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

盤上の舞踏会/魂の昼下がり

幕間は後数話、三章もぼちぼち始めるつもりなんですけど、実はそれとは別で番外編の制作をしようか迷っています。tipsとは違いガチで本編との直接的な関連はない予定です。どこの時系列かなどはアンケートをご確認ください。


「特異点、か」

「あなたが惹かれるのも無理がない、ということですね」

 

 綾小路の部屋では今、彼と小柄な少女が会話を弾ませていた。

 浅川の部屋とは違いアンティークの椅子――生活を最低限豊かにするものであろう――が置かれており、彼女はそこに落ち着いた態度で鎮座している。部屋の主である綾小路はベッドに腰を下ろしていた。

 

「あなたと彼の共通点と相違点、少しだけわかったような気がします」

「……そうか」

 

 目の前の小机を見下ろすと、戦場が広がっている。とても小さな戦場だ。

 坂柳が訪れるや否や「逢瀬を楽しみましょう」と言って取り出したのが、このチェス盤。

 構わないが普通に雑談もしたいと訴えると、二勝差がつけば終わりにするという取り決めで開戦した。

 しかしなかなかどうして、二人の実力は伯仲している。坂柳が十勝目をあげたところで一度ティーブレイクに興じることとなった。

 ――精々五戦くらいで終わるものだと高を括っていたんだが。

 自分の考えの甘さにひとしきり嘆いた後、面をあげて会話に励む。

 

「あいつを見る目、変わったか?」

「変わったも何も、私たちの関係がようやく定まったといったところでしょうか。暫定とは言え、本当の彼と話したのは初めてでしたから」

 

 聞くに初の邂逅の際、浅川は別人のように振る舞っていたのだとか。坂柳に初対面から一泡吹かせるとはさすがだなと感心したものだが、彼女が事の真相を把握した経緯は推測済みだ。

 浅川の連絡先を確認した時に発見した真澄という名前。坂柳と彼を繋ぐパイプは彼女だったのだろう。

 

「良いやつだったろう」

「人となりは少なからず。ただ、やはり私とは交わりませんね」

「それは残念だ」

「残念?」

「三人で仲良しトークでもできたらと思ってたんだがな」

 

 軽い願望を語ると、どういうわけかポカンとした表情をされた。

 

「私と綾小路君と、浅川君でですか?」

「ん? ああ」

「……奇妙な三角関係なだけに興味深い提案ではありますが、気は進みませんね」

 

 あくまで対等な会話を交わしたに過ぎず、悪感情は大して変わらない。そういうことらしい。

 

「お前が何と言おうと、オレはあいつを信じるよ。それがオレが変わるための第一歩なんだ」

「……止めるつもりはありませんよ。私怨であなたの望みを阻むわけにもいきませんし、彼にそれだけの素質があることは認めます」

 

「ただ」と、次に見せた表情は憂えに満ちていて、昏かった。

 

「その航海の果てに何が待っているかはわかりません」

「あいつがオレに間違った結末を与えるとでも言うつもりか?」

「いいえ、綾小路君のことではありません。私が心配しているのは浅川君の方ですよ」

 

 思わず固まってしまう。真意を問うた。「恭介だと?」

 

「このままでは彼、壊れてしまうかもしれませんよ?」

 

 深刻な様子から大仰さは見て取れない。至って真剣に、自分の分析を伝えようとしている。

 

「あなたと正反対の要素の一つに、元来の自分と心掛けている自分の差異があります」

「……オレはあくまで普通を望んでいるが、あいつは」

「奇をてらっている、のでしょうね」

 

 綾小路は常人とは呼べない能力を有しているが、それとは無縁の、ありきたりな人生を目標としていた。

 一方浅川は――綾小路と坂柳からすれば凡人であるが――自分が特殊であることを演出している節がある。独特な口調や態度まで偽りかは定かではないが、冗談や茶番の延長で醸すポップでユニークな雰囲気は、敢えてそうしているように感じるのだ。

 坂柳はその観点から論理を展開する。

 

「そして、浅川君が成り代われるのは内面だけではなかった。あらゆる能力――身体能力までもを、自分と切り離すことができる」

 

 その点についても心当たりはあった。手がかりがあったのは須藤たちとバスケをした時。

 彼が独力で点をもぎ取る間際、思い返してみればあの動きは、自分が須藤を翻弄したものと瓜二つだった。

 そして、その事実が示す一つの可能性は、

 

「恭介が自覚している以上の負荷がかかっている……」

「浅川君は幾多の場面であなたと対等になろうとするでしょう。もし加減を誤れば、いつか破滅しますよ」

 

 それはあまりに残酷な末路だ。一人の少年の心あるいは体が灯を絶やし、自分は旅路の途中でリタイアを余儀なくされる。誰も救われない、味のない非劇。

 ならば回避する手立てはどこにあるというのか。

 

「大丈夫だ」

 

 彼の中には、確信があった。

 

「オレたちは、一緒だから。互いに見捨てることはない。もしあいつが何かを苦しんだなら、オレが何とかする」

「……あなたに、彼が救えますか?」

「その方が素敵だと、教えてくれたのはあいつだ」

 

 人は根拠もなく、信じることができる生き物だ。時に疑うこともあるが、自分の感性や直感を蔑ろにすることはできない。

 その不便さを最近実感すると同時に、面白いと思う自分もいた。今まで体験したことのなかった不思議な感覚は、他人と関わることのなかったあの白い部屋では絶対に得られなかったものだからだ。

 豊かな生き方は、やはりあそこでは学べないのだろう。

 

「他人を踏み台としか認識できなかったあなたが、足を置かずに手を添えることを知るとは。――認めるしかないようですね。あなたと彼には、他の人とでは芽生えない共鳴(シンパシー)がある」

 

 もし同じ経験を浅川ではない――平田や須藤としたとして、ここまでの変化が起こっただろうか。何となくだが、そんな風には思えない。

 単に相性が良かっただけだろうか。それとももっと別の――?

 ――情緒は伝染する、か。

 一体誰の言葉だったか。高校以前の記憶なのだから、父か松雄かのどちらかなのかもしれない。

 

「あなた方のそれを共依存だと蔑む人もいるでしょうが、私はそうは思いません。あなたは他人を識るために浅川君を、浅川君は自分を識るためにあなたを求めた。必然に値する理屈です」

 

 坂柳は慈愛を秘めた穏やかな表情で彼を見つめる。

 綾小路は浅川と、堀北や櫛田、多くの存在を思い浮かべる。

 彼だけではない、彼を通した人間関係が自分を変えた。決して世界は二人だけで完結しない。それを知っている自分たちが共依存であるはずがない。

 そして、彼女も――。

 

「……坂柳も、必要だよ」

「綾小路君……?」

 

 口を衝いて出た言葉。坂柳は驚きに顔を染める。

 

「お前はオレのことを知るたった一人だ。お前といる時間は、何というか、本当に取り繕う壁がなくなるように感じる。恭介にも見せていない、ホワイトルーム生であった自分を忘れずにいられる気がするんだ」

 

 変わろうとするということは、かつての自分から離れようとするということだ。

 自分の変化は喜ばしいと思う反面、あの日々も自分の存在を形成するルーツであるという自覚も持ちつつある綾小路にとって、坂柳はそんな自分を隠さなくていい相手だった。

 彼女の存在が、変わる前の、未だ残っている本質を再確認させてくれる。感謝すべきことだ。

 

「意外ですね。あなたが過去を大事にしようとするなんて」

「いつかは向き合わなきゃいけないものだろうからな」

 

 微笑む彼女は愛らしく、自分を映す瞳も純情を宿している。

 綺麗だ、と、漫然とそう思った。

 

「……嬉しいです。必要だと言ってもらえて」

「……思ったことを、言っただけだ」

 

 最近居たたまれない気持ちを誤魔化す口癖になってしまっているなという自覚はあるが、どうにも慣れない。

 素直な感情を伝える。それすらも、ここへ来て初めて遂げたコミュニケーションなのだ。無理もないことだと割り切る。

 加えて今の状況に恥ずかしさを与えいているのは、自分だけのせいではない。坂柳の妙にしおらしい、自分を恍惚として見つめる表情に、思わずどきっとしてしまう。

 すると次の瞬間、不意に体が震えた。

 温かい感触が頬を包む。

 

「私は、あなたをお慕いしています」

「……ああ」

「八年以上も、待ったのですから」

「知ってるよ」

「……これからも、会いに来ていいですか?」

「勿論だ」

 

 そっと、可憐な手に自分の手を添える。

 とても小さくて、柔らかい。何より雪のように白く美しかった。

 

「……まだ、今日は終わりじゃないだろう?」

「そうですね。盤上の戦線と同じ、私たちの距離はそう簡単には開かない。その限り、私たちの享楽(ワルツ)は終わりません」

「長い逢瀬に、なりそうだな」

「ええ、今夜は帰れないかもしれませんね」

 

 愉しそうに笑う彼女は妖艶で、蠱惑的で、気を緩めれば目が逸らせなくなる。

 自分の中に他の人間の存在がなければ、きっと空いている全てを彼女に埋められてしまっていただろう。なかったらなかったで結局他人が自分の心に付け入る隙が生まれないため、無意味な仮定なのだろうけど。

 堀北からは原点――他人と関わる術を知った。櫛田からは抱擁――受け止め寄り添う存在を知った。

 ならば、坂柳から教えてもらうのは――

 

「そこは帰ってくれ。夜は一人が楽だ」

「あら、折角良い雰囲気でしたのに」

 

 その答えを知るのは、もう少し先になりそうだ。

 

「寝巻でも準備して出直すんだな」

「なるほど、では次回からそうします」

「え」

「冗談ですよ。ふふ、いい間抜け面を拝めました」

「……恭介のユーモアが感染ったか」

「冗談でも言わないでください」

「理不尽だ……」 

 

 二人の幼馴染は、ようやく自分たちだけの安息を得た。

 その時間は心地良く、近い間合いを思い出させる。

 確かめて芽生えた感情の種は、きっと美麗な華を咲かせるだろう。

 正体は、関係性を示すタンポポだろうか。

 共同で再構成した戦場を一望し、薄く笑い合う。

 長い長い、二人きりの舞踏会が始まった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 そわそわと、柄にもなく体を小刻みに揺らす。

 かつてない緊張感に飲まれ、どうすればいいのかがわからない。

 ――じ、時間は合ってるわよね? 場所も……。

 重苦しい扉――ある生徒会室の前で、堀北は待ち合わせの内容を心の中で復唱していた。

 きっかけは兄からのメール。

 

『18時に生徒会室へ来い』

 

 さすがはクルーエルビューティーの兄。実に簡潔、無機質でよそよそしい文面だ。身内にも変わらないあたり、ポイントが高い。

 とは言えそれを受け取った堀北からすれば、もはや優雅なお茶会の誘い。精神をかき乱すビッグイベントに他ならない。おかげで今日は日中いつもの二人から様子がおかしいと指摘を受けていた。誠に遺憾である。

 またとない機会だ。何もしゃべれないなどという失態を犯すわけにはいかない。大きく深呼吸をする。

 端末の時計が予定の時刻を示すのを待ち、控え目に三回、ノックをする。

 

「堀北鈴音です。生徒会長からの招集に従い、参上しました」

 

 あくまで形式的な呼び出し、ということは文脈から察している。元々兄と砕けたやり取りをしていたわけでもないが、他人行儀とも言える第一声を室内に投げかけた。

「入れ」短くもはっきりと響いてきた返事を受け、ゆっくりと扉を開ける。

 彼女の視線は真っ先に、一つの影に釘付けになった。

 

「何を突っ立っている。座って待っていろ」

 

 書類と奮闘する生徒会長。デスクの上の惨状を見る限り、日々膨大な量を処理しているのだろう。その合間を縫って自分との時間を設定してくれたのだと思うと、少しだけ頬が熱くなる。

 言われるがままソファに腰を下ろし、散漫な意識のやり場を求めるようにキョロキョロと辺りを見回す。いつもの自分なら人形のように微動だにしないものなのだが、今はそうもいかないのは言うまでもない。

 二、三分程して、生徒会長が向かいに座った。

 不自然な沈黙が流れる。

 

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「………………あの」

「何だ?」

「い、いえ、その……」

 

 どうして兄はこの状況でさえ威風堂々としていられるのだろう。困惑と、少しばかりの敬意が胸中に広がる。

 しかしそれは間違いであり、本来こうしている間にも早急に本題を切り出さない彼に違和感を抱くべきである。今の堀北にはやはり無理な話なのだが。

 結果――またしても沈黙。

 

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「………………あの」

「何だ?」

「えっと……用件は?」

「……ああ、そうだな」

 

 兄は澄ました顔で眼鏡を押し上げ、指を組んだ。

 

「ここへ来て初めての定期テストだったが、Dクラスは一人の退学者も出すことはなかったようだな」

「……はい」

「お前も僅かながら貢献したと聞いている」

「それは――待ってください。どうして知っているんですか?」

「ここでお前との共通の知人と言ったら、限られているだろう」

「まさか、綾小路君と浅川君が?」

 

 その沈黙は先程と違い、肯定というれっきとした意味を持つものだった。

 

「二人は、何も言っていませんでしたけど……」

「……なるほど、彼らが友人だというのは、どうやら本当のようだ」

「ど、どういうことですか?」

「事情を話してくれるのが当たり前、そう思っているんだろう?」

「あっ……」

 

 思わぬ指摘に冷や汗が零れる。最近あの二人のことになるとどうにも調子が狂う。実際に姿がなくてもだ。

 

「二人とは、いつ会話を?」

「お前に教える義理はない。他愛もない世間話をしただけだ」

 

 相手にその気はないのだろうが、どことなく威圧感がある物腰に未だ緊張が解けない。お互い柔和な対応というものがあまり得意でないと、こういう憐れな必然も起こり得る。

 

「一体どのようにして、試験を乗り越えた?」

「兄さんなら、とっくにわかっているのでは?」

「お前の口から聞くことに意味がある」

 

 自分の予想に確信を持ちたいのか、拙いなりに妹との話題を模索しているのか、彼は堀北自身の言葉を待っている。

 変に誤魔化すことでもない。躊躇わずに答える。

 

「色々やりました。勉強会を開いたり、参考書を使ったり。でも一番の武器になったのは、過去問です」

「……」

「きっと、学校側によって仕組まれていた裏技だったんですよね?」

「答えることはできない、とだけ言っておこう」

 

 認めるのと同等な返事だった。

 

「過去問。手に入れるのには幾何かの苦労を強いられただろう」

「Dクラスの三年生を狙いました。私だけでは、その、取引が上手くいく保証はなかったので、社交的なクラスメイトにも同伴してもらいました」

「人に頼ることを、覚えたか」

 

 その根拠は、三つ。

 Dクラスの生徒の貯金が少ないことは自明の理。他のクラスよりかはこちらの値切りも通用する。おまけに三年生は二年生と比べて当然この学校での余生が短く、還元不可能なポイントへの執着は弱い。Dクラスともなれば一時の足しにさえできればと思う生徒もいないことはない。

 櫛田を連れたのは交渉を円滑に行うため。自分独りでやるよりずっと容易かつ好条件な結果が得られると踏んだ。実際の成果は言わずもがなだ。

 

「……兄さんを見て、変わったんです」

 

 その言葉に複雑な表情をする兄。自分を追う姿に苦い感想を抱いているのだろう。

 しかしそれでも、何も言わないのは、かつてと異なる部分があるからだ。

 ただ認めてもらうため、兄に固執していたころとは違う。

 自分のため。自分自身を高める一つの手本として、兄を尊敬している。

 心の方角を改めた彼女の、視界は良好だ。

 

「正確には違うだろう。俺ではなく彼らだ」

「…………二人は」

「お前は二人のことをどう思っている?」

 

 直球な質問に口を噤む。

 綾小路と浅川、それぞれにどのような思いを向けているのか。一度だけ聞かれたことがあったが、果たして上手く言葉にすることができず他でもない綾小路にアシストされる形となった。

 今なら、どうであろうか。

 

「よく、わかりません」

「……」

「口を開けば遠回しな台詞や戯言ばかりで、行動に一貫性もない、風が吹けば綿毛のように飛ばされてしまいそうな軟弱者。彼らが何を秘めていようと、その印象は変わりません」

 

 既にわかっている。二人はあらゆる能力――学力も頭一つ抜けていて、自分が勝てる要素と言えば勇敢さと強情さくらいなものだろう。

 しかし、それを彼ら自身ひた隠しにしていることは事実であり、その技量によって違和感ない交わりがなされている。

 だからこそ、彼女は――

 

「でも………………おいしかった」

「美味しかった?」

「はい。彼らとの食事は、筆舌し難いものがありました。何より、温かかった……」

 

 認めざるを得ない。あの時間が無色であって他の何が彼女を変え得るのだろう。

 自分を変えたのが二人だと言うのなら、それこそが答えだった。

 

「二人は、友人です。初めてできた、他人以外の関係。それが彼らです」

 

 いつの間にか拳に力が入っていたことも忘れ、強い眼差しを生徒会長へと向け言い切った。

 彼はそれに応えるように目を逸らさず、視線を交錯させる。

 やがて、重々しい口を開いた。

 

「ならば鈴音、今お前は、何を望む?」

「望み……?」

「答えを示せ。お前はこの先、一体何を目指す?」

 

 あの日――兄に突き飛ばされた時も、同じようなことを聞かれた。

 根底は変わらない。主目標は、

 

「Aクラスです。私はAクラスにたどり着きます」

「……そうか」

「全員と」

 

 しかしその全てが同じとは限らない。

 理想は形を変えることがある。結果が外面的な皮なのだとしたら、過程は内面的な果実。

 

「私は今まで兄さんを目指してきました。その志は今この時も変わりません。だからまずは、人に信じられ、人を信じることのできる人材になります」

 

 人は確かに表皮だけで物事を判断する傾向がある。それでも味わいを含むのは中身なのだ。

 それは当然誰でも見透かせるものではないが、自分と、そして自分と近しい位置に立つ人間は本質を覗くことができる。

 言うまでもなく、目の前の彼もその一人だ。

 

「兄さんへの尊敬は、信頼でもあります。兄さんに囚われなくとも、歩み、躓き、起き上がり、誰かの手を借り、誰かに手を貸しながら進めば、辿り着いた場所で認めてくれる兄さんがいる。だから私は、なるべき自分の足掛かりとして、あなたを目指します」

「……かつてのお前とは、違うと?」

「はい。私の航路には他人の存在があると、教えてもらいましたから」

 

 それを気付かせてくれたのが誰か、もはや明らかとも言えるだろう。

 

「…………俺を終着点(ゴール)に宛がうことは、もうやめたんだな」

通過点(チェックポイント)です。いつか自分の憧憬が、兄さんより遠いところに見える日が来るかもしれません」

「ふっ、大きくでたな」

 

 小さくだが、ここでようやく笑みを見せてくれたような気がした。

 自分の決意表明のどこが気に入ったのかは定かではないが、少なくとも彼の中では好印象だったようだ。

 

「………………そういう道もあったか」

 

 緊張は既に解け、決して弛み切ってはいない穏やかな空気が流れていた。

 浅川がこの場にいれば、恐らく言ってくれただろう。

 何だか良い兄妹だな、と。

 何かに納得し頷いた兄は、一つ息を吐く。

 

「証明して見せろ。お前の決意を」

「――はい」

 

 彼の一番話したかった内容はこれだったのかもしれない。

 妹がどう変わったのか。今、何を思っているのか。

 確かめ終えた表情は、ほんの少し緩んでいて、清々しかった。

 

「…………ところで」

 

 するとここで、兄は眼鏡を触ることで顔を隠し、話を切り替える。

 

「……鈴音」

「……はい」

「二人と食事をしたのか」

「はい。…………はい?」

「どこでだ?」

「え――」

「どこで食事をした?」

「……浅川君の部屋です」

「……………………そうか」

 

 食い気味な口調には、さすがの堀北も違和感を覚える。食事がそこまで特殊な習慣ということでもないはずだが。

 あるいは、と、彼女の中である推測が浮かぶ。

 

「に、兄さん」

「何だ」

「よかったら……こ、今度一緒に、食事でも、どうですか?」

 

「時間があればですけど」と付け加える声は尻つぼみで、後半はほとんど空調の音で掻き消えていた。

 だが、これで正解だろう。きっと彼は家族として自分と団欒の一つでもしたかったのだ。多少自意識過剰かもしれないが、家内より先に元々他人どうしだった者と食卓を囲んだともなれば、一種の寂寥感を抱いても不思議ではない。

 そういう僅かに本質からズレた分析の下、お誘いをした堀北であったが、その行為自体は彼には真新しく映ったようだ。

 

「……時間があったらな」

「――! た、楽しみにしています……!」

 

 悪くない手応えに体が浮きかけるのをじっと抑える。

 時間の無駄とあしらわれなかっただけ、今までの自分たちの関係値を顧みれば僥倖だ。

 早速一歩、互いの距離が縮まったことに喜ぶ。

 

「今日の話は以上だ。俺は次の予定があるのですぐに生徒会室を出る。お前も早く退室しろ」

「承知しました」

 

 入る前よりずっと良好な精神状態のまま、促された通り部屋を出ようとする――。

 

「鈴音」

「はい?」

「髪、長くなったな」

「……そう、でしょうか」

 

 思わず清潔な黒髪を弄る。

 

「……でも、切りません」

「何故だ?」

「失恋どころか恋もしていませんから。それに――」

 

 逡巡する堀北だが、最後にははっきりと答えた。

 

「私が好きなんです。他でもない、私が」

 




番外編の話になります。
二次創作内での番外編ということで、比較的原作の設定に忠実な本編と違い独自設定がポツリと出てきます。それ故本編等今後の展開で強く掘り返す予定はありませんので、あくまでエンターテイメントの一つとして楽しんでもらうことになると思います。

また、番外編による本編の制作ペースに関してですが正直大して問題ありません。と言うのも、今までもそうでしたが進む時は進むし進まない時は進まないあるいはtipsに逃げるという形、言わば不定期更新だからです。番外編を始めても筆が乗れば本編が進む(そもそも基本は本編優先)し、始めなくても難航すれば進まないということですね。

それらを踏まえた上で、オリ主たちの活劇を堪能したいかどうか、アンケートよろしくお願いします。番外編は三つ考えていますが、とりあえずまずは一つ目についてのアンケートです。

因みに今回の登場人物は各クラス主要人物の内数人と生徒会長+αの予定です。

*暴力事件の前後によってCクラスが関わるかが変わることもお忘れなく。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

始まりは整った

前回説明したアンケートですが補足を。暴力事件より前だとCクラス(主に龍園)が絡まず、後だと絡むという違いです。八月中旬だと他の番外編のプロットに支障が出る可能性はありますが第一弾は普通にできます。夏休み以降だとほんの少しですが手直しを加えなきゃってなりますね。

さて、今回で幕間―箱庭―は終わりです。


 三人だけの室内で、豊かなメロディーがのびのびと駆け巡る。

 紡がれる一音一音は優しく繊細で、それらが鮮やかな集合体を育み胸を打つ。

 流れ込んでくる感覚は程よい刺激と心地良さを与え、思わず目を閉じ耳のみに意識を委ねたくなるものだった。

 やがて、静かに蓋を閉めるように、旋律は終わりを迎える。

 次に空気を揺らしたのは、少年の細やかな拍手だった。

 

「ブラボー!」

「大袈裟な」

 

 伴奏者である綾小路に、浅川は興奮気味に賛辞を送る。

 

「感動したよ。得意と豪語するだけのことはあるね」

「まさかプライベートで友人に披露することになるとは思わなかったけどな」

 

 綾小路はピアノの側の窓枠に落とされていたタオルで鍵盤を拭く。

 ピアノ、の存在からわかる通り、浅川と綾小路、そしてもう一人の観客である堀北は音楽室を訪れていた。

 利用許可を求めると荒らさないならという緩い条件ですんなり通してくれた。授業で何度も足を運んでいたため、眺めにこれといった新鮮さはない。

 目的は勿論、兼ねてより約束していた綾小路による伴奏会である。

 

「正直驚いたわ。実践は素人だけど、あなたの技量がコンクールレベルであることは何となくわかるもの」

「素直なお褒めの言葉、ありがとな」

他人(ひと)のセンスにいちゃもんを付けるほど狭量ではないわ」

 

 ならば拍手くらいしてやればいいのに。小さく嘆く浅川だったが、そこまで要求するのはさすがに野暮だろう。

 

「しっかし三人となると、けっこう広く感じるものだなあ」

「声も音も響くわね。初めてのことだから、少し新鮮」

 

 眺めは変わらないとは言ったものの、それ以外の部分で違うことはある。堀北の率直な感想は、少年二人も同じだった。

 

「……こういう時間は、一体あとどれくらいつくれるんだろうなあ」

「夏休み前には期末テストがあるからな。また忙しい日々にとんぼ返りか」

「でも夏休みにはバカンスだろう? 待ちきれないねえ、何すんだろう。バーベキューとかビーチバレーとか、旗立てて追いかけるレースとかかなあ。あ、砂風呂もいい!」

「既に頭の中は愉快そうね……」

 

 すぐに試練は待ち構えているが、茶柱の蒔いたバカンスという娯楽の種に逸る気持ちが芽生える。浅川も綾小路も、各々の事情でそういう解放感のあるイベントには身勝手な期待を抱いてしまう。

 しかしそこに待ったをかけるのが、やはり彼女だ。

 

「浮足立つのもいいけど、程々にしなさい。いつクラスポイントの関わる行事が発生するかわからないんだから」

「そりゃそうだけど、その時になってみなきゃどう動くべきかなんてわからないだろう?」

「それまで自由な時間を有効に使うのもまた、高校生の重要な権利ってことだ」

 

 本分の全うは義務であるが、それと同じくらい見逃せないのが特権。大人になって削がれるものであるなら、子供である今のうちに行使するに越したことはない。

 最近ではそういった理屈を無視することも、堀北の中で減ってきてはいる。

 

「はぁ……まあ、こうして付き合ってしまっている私にこれ以上言える道理はないわね」

「お、羽の伸ばし方を知ったかい?」

「要らないわそんなの。邪魔で仕方ないもの」

「飛べるって気持ちいいぞ?」

「飛んだこともない癖に勝手なこと言わないで」

 

 飲めば翼を授けてくれるドリンクもあるらしいぞ、とまで言ってしまうとライン越えなのはこれまでの付き合いで弁えている。浅川もまた、多少退き際は理解し始めていた。

 中学でそれを考慮しなければならない堅物はいなかったのだけど。という愚痴は残るが。

 

「実際どうなの? Aクラス、上がる見込みはあるのかねえ」

「少なくとも可能性は残されているはずよ。なら後は掴むだけでしょう」

「お前がその気でも他のやつらはどうだろうな。真に受けないんじゃないか?」

「構わないわ」

 

 構わない。自分のことしか考えていない発言とも取れるが、決してそういう意味ではないのだろうと、浅川は彼女を信じている。

 

「希望を求めない人には、たとえそれが実在していたとしても見えない。だから、私たちが示してあげればいいだけよ」

「――へえ、そりゃすごい」

 

 面白そうに、彼は笑う。

 

「もしそれが実現すれば、間違いなくお前はDクラスの誇れるリーダーだな」

「……リーダーね。どうかしら」

 

 リーダーという響きに、堀北は表情に影を落とす。

 不安や迷いを感じられるものだったが、それは恐らく彼女の中で解決するべきもの。本当にどうしようもなく追い詰められるまでは、見守り役に徹するべきだと判断した。

 

「ま! 人から信頼されるようになりたいなら、人とくつろぐことに慣れとかないとなあ」

「人と、くつろぐ……そうかもしれないわね」

 

 空気を換えようと発した言葉に思うところがあったのか、彼女は納得したようにうなずく。

 

「綾小路君、あなた確か芸達者と言ったわね。他のも聴かせてもらえる?」

「え? あ、ああ、いいけど」

 

 まさか堀北からそんな提案が出るとは思っていなかったのだろう。綾小路は動揺を表に出して了承する。

 そして、ものの楽しみ方に一工夫加えるのは、自分のお家芸だ。

 

「あっはは、じゃあバイオリンで魅せておくれよ。その次は笛で」

「オレの負担多くないか……」

「なら僕は歌で合わせよう! 三人で愉快な演奏会だ」

「ちょっと、しれっと私を巻き込まないで」

「いいじゃないかあ。恥ずかしがるなって」

「べ、別に恥ずかしいとは…………仕方ないわね」

 

 立てかけられた楽器を手に取る綾小路と、それに駆け寄る浅川。

 少女は呆れながら席を立ち、二人のもとへ歩んでいく。

 その光景は、本当にただの高校生の集いだった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 もくもくと立ち昇る煙を、ぼんやりと眺める。

 向かう青空は、穢れた自分に嫌気がさすほどに澄んでいた。

 その憐憫を誤魔化すように、茶柱は紙巻をくわえる。

 風が吹き抜け、屋上に冷気が立ち込める。

 そうだ。そうだった。

 思えば『あの日』も、こんな肌寒さだった。

 身を凍えさせる、咎を突きさしてくるような、残酷な寒波。

 それに「後悔」という悲哀な形で慣れてしまった茶柱は、気怠げに煙を吐く。

 ただ一つ、疑問に思うことがあるとするなら、夏の近づくこの時勢に問い詰められていることだ。

 心当たりは、ある。

 フェンスから校庭を見下ろし、自分の過去から結び付く今を、彼女は回想する。

 

 

 テスト範囲の変更。それは予定されていたものだった。

 本来なら急変する状況にどれだけ迅速に対処するかを試すものだが、茶柱はそれを毎年品定めに利用していた。

 綾小路と浅川の存在、そして最近の堀北の様子からして、確かに今年のDクラスは一味違う。しかし全体を見れば、初月からクラスポイントを0にしたという負の珍味も含んでいる。

 その懸念要素を超える成果を生み出せるのか、茶柱は判断する必要があった。

 彼女はもう、希望を抱くことを忘れている。

 希望を見出し、失われる瞬間を知っている。

 どうせ諦めるなら、始まるより前がいい。そう思っている。

 結論から言うと、生徒は手遅れになる前にこちらに問い詰めてきた。経緯は然程重要ではない。展開についてきたという結果が全てだ。

 案の定降りかかった野次という火の粉を鬱陶し気に払いのけ、全員に退室を命じる。堀北はこういう時の理解は早く潔い。そそくさと出て行くようメンバーに促している。

 すると、

 

「茶柱さん、ちょっといいですか?」

 

 何となく、こうなるだろうという予感はあった。

 口の減らない少年と言えば彼、という印象は、たった一か月半で染み付いていた。

 腰巾着のように付き添っている綾小路と二人、他のメンバーの姿がいなくなるのを確認してから、話を切り出した。

 

「単刀直入に伺います。テスト範囲の変更、あなたは敢えて教えなかったんじゃないですか?」

「根拠は?」

「今オレたちを囲うこの状況ですよ」

 

 まるで自分の返しを待ち伏せしていたかのように、相手が綾小路に切り替わる。

 

「須藤たちは声を大にして言い放ちました。先生の過失を。にも関わらず室内に走らない激震。この学校の職員は、やけにサプライズに慣れているんですね」

「遠まわしな言い方はよせ、綾小路」

「毎年やっているんでしょう。同じことを」

 

 綾小路に起こっている変化と言えばこれだ。浅川のおかげかは知らないが、口数が増えた分要らない発言(すなわちユーモア)も多くなった。興に走る性分ではない自分からすれば迷惑極まりないことだ。

 

「……私が言いたいこと、わかるだろう」

「状況証拠に過ぎない。ですか?」

「お前たちに証明の手段はないはずだ」

 

 周囲をよく見ている。分析能力はやはりかなりなものだ。ただそれを認めるとしても、確実な証拠はどこにもない。追及を受ける言われはないのだ。

 しかし、彼女は失念していた。

 そもそもなぜ、彼らがこの話を始めたのかを。

 

「――つまり茶柱さん、あなたは認めないつもりなんですね? 何の意図も狙いもなく、単なるミスで僕らへの通達が遅れた。そういうことですね?」

「そうなるな」

 

 その時見せた浅川の笑みは、少し、普段の彼と違うような気がした。

 

「なら、やはりあなたは何かしらの形で責任を取るべきでは?」

「謝罪ならさっきしたぞ」

「でしたら僕らが退学になっても、謝罪で許してくれるんですか?」

「……」

 

 よくもまあアドリブでここまで言い返せるものだ。

 茶柱は八割の苛立ちと二割の感心を抱いた。

 

「僕らの確認が遅れたという罪は、退学が迫るという形で罰が与えられます。しかしあなたは? 子供一人の将来が揺らぎかねない罪を、四十人分も背負って、その罰がないなんてありえませんよ」

「では何だ。ここを辞めて責任を取れとでも言うつもりか? 生憎お前にそんな権限は――」

「辞めて何になるって言うんですか……迷惑をかけた相手は僕らなんですから、僕らに利益があることをしてください」

「……何が望みだ? 内容による」

 

 そう言ってやると微妙な顔をされる。主導権を握られている感が嫌なのだろう。

 だが茶柱は茶柱で、今の状況に難色を示していた。

 堀北がなぜ二人との関わりが多くなったのか、わかったような気がする。

 

「……大層なことは要求しません。僕らはただ、あなたに教師らしくいて欲しいんです」

「何だと?」

「指導者としての義務を果たせ、そう言ってるんですよこいつは」

 

 二人揃って何を言いたいのか、判然としない。

 

「オレたちがあなたに求めるのはたった一つです。これからあらゆる場面で、生徒に寄り添った言動を心掛けてください」

「……それに、何の意味がある?」

「やってみればわかります。あなたの言葉で、みんながどれだけ変わるのか」

 

 やればわかる。全く以て説得力のない。返せるロジックを持たない言い逃れにしか聞こえない。

 

「……大人は」

 

 その様子を察したのか、浅川が口を開く。

 

「大人は、どうして子供に付き添うと思いますか?」

「子供が弱いから、だろうな」

「いいえ。正確には、弱さを知っているからです」

 

 何が違うのか。当然その疑問への答えが続く。

 

「見るも聞くも、身を以て知るのもあるでしょうが、誰もが抱えている弱さを知っているから、理解してやれる。現実との向き合い方を示すことができる」

「理想を抱きすぎだ。そんなにも綺麗な大人ばかりなら、世界はもっと生きやすい」

「教師が担うべき役割じゃないんですよ、それは」

 

 現実を突きつけるが、退く気はないらしい。

 どうやら彼は、教育者である自分に物申したいようだ。

 

「あなたたちの姿を世界と結びつけるなら、寧ろあなたたちの無慈悲な大人像は僕らを堕落させる。そうして生まれる世界に、希望(ロマン)があるとは思えない」

「お前に何がわかると言うんだ? 未熟な子供が背伸びした言葉で大人を諭すんじゃない」

「僕は知ってるからですよ、茶柱さん」

 

 語る彼の目は、こんなにも眩しかっただろうか。

 

「素敵な大人が教えてくれたから、僕はこうして必死に抗えているんです。未熟な子供だから、大人の背中を見ているんですよ。人の強さを知ろうとしている」

 

 経験談があるからこそ、ここまで毅然と言い切れるのだろう。彼は決して一人では報われないのと同時に、子供だけでは成し得ないものがあることをわかっていた。

 

「……ここは自主性を重んじる学校だ。先人に甘えてもらうわけにはいかない」

「助けて欲しいんじゃない。支えてもらうことすら、強くは望みません。せめて、見守っていて欲しいんです。ちゃんと」

 

 そして、彼は静かに頭を下げた。

 

「お願いします。大人として、教師として、僕らに教育をしてください」

 

 その姿は、あまりに誠実だった。

 自分を咎めるわけでもなく、当然諭すわけでもない。

 まるで、そうあって欲しいという願いを投げかけるように、彼は言った。

 

「オレからも、お願いします」

 

 続いて加勢を入れる綾小路。浅川とは違い、目で訴えかけてくる。

 

「……綾小路、お前も同じ意見か?」

「……どういうことですか」

「お前も、浅川の言っていることに意味があると思っているのか?」

 

 浅川は決して広くはないものの他の生徒との交流は多く、コミュニケーションも罷り成っている。加えて先程からの問答には、熱意が滲み出ていた。

 対して綾小路はどうか。未だ人との関わりが少なく、冷たい何かを抱えている彼が、本当に浅川と同じ結論にたどり着けたのだろうか。

 他人に何かを期待する。それをできないのは、自分も彼も同じだと思っていた。

 彼は、なおも頭をあげずにいる友人を一瞥し、返答を述べる。

 

「……わかりません。大人とか子供とか――オレは深く考える機会なんてありませんでしたから」

 

 一般的な子供とは離れた重みが乗っていた。大人と触れ合ったことがないような言い草に、やはりこの少年はどこか異質な存在なのだと感じる。

 

「ですが」

 

 その間にも、彼は淡々と言葉を紡いだ。

 

「本当に何も知らない者は、それを知ろうという気も起きない。そんな時、知る者が教えるしかないんだと思います」

「……」

「もし、オレの知らない多くを知っているのが大人(あなた)だというのなら、オレはあなたに期待したい」

「……やけに実感の込もった発言だな」

「少し前にそういうことがあったからですかね。教え子は先人のありがたみに、後になって気付くものなんですよ」

 

 茶柱は考え込むように目を閉じる。

 正直な感想を言うなら、意味を感じない。自分自身がここの生徒だった当時を思い返しても、たとえ担任が温かい人格者だったとして何かが変わったとは思えない。

 何せ、結局は自分の過ちに直結するのだから。

 そう、ここは厚顔無恥な少年少女たちの集う実力至上主義。我ら大人がその戦いに直接干渉する余地はないし、あってはならない。

 しかし――――

 

「…………」

 

 他人によって変わるものがある、と、それを彼らは身を以て証明している。

 その点においては自分も同じだ。かけがえのない誰かの存在によって、元来起こらなかったはずの悪夢が実現した。

 この少年たちは、自分の轍を踏みぬくのだろうか。それとも、本当に真逆の結末をもたらすのだろうか。

 期待などではない。まして希望でもない。ただ、興味があった。

 今年のDクラスの有望株である二人がこう言っている。もしそれで下剋上、すなわち己の『野心』が叶うのであれば――。

 それに何より、浅川が頭を下げた時からずっと脳裏に浮かんでいた光景がある。

 

『もしも二人が、あなたを信頼して訪ねてきた時には、彼らのため、誠心誠意向き合って下さい。これは命令ではない。私の、お願いです』

 

 ――あなたは、この状況を予見していたんですか?

 果たして筋書き通りなのか偶然の一致なのかはわからないが、初めて見たあの姿に応えるべきだと茶柱は判断した。

 

「……いいだろう。要は物の言い方にさえ気を付ければ、お前たちは退いてくれるんだな?」

 

 

 

 自前の灰皿でシガレットの灯りを消す。

 天まで伸びていた淀んだ川が、ぷつりと流れを途絶える。

 途端に虚しさが押し寄せ、これだから現実逃避(喫煙)はやめられないと嘆息が零れた。

 浅川と綾小路、どこか似ていて、正反対な二人。

 二人の背景を知っているわけではない。しかし彼女なりな分析をするなら、浅川は本来平田側の人間だ。光の中で生きているにも関わらず人の仄暗い部分を知り、飲まれないよう藻掻いている。

 対する綾小路は元々自分や堀北と同類。人と関わることに消極的で闇に身を置く人間だ。しかし浅川と触れ合うことで光を見つけ浮足立っている。自分を引き留める蜘蛛の糸から逃れようと藻掻いている。

 対極に位置する二人が謎の因果で引き寄せられ、同じ方向を向いている。小さな奇跡と呼べよう。坂柳理事長の工作があったとはいえだ。

 つい先日と同じように、空を仰ぐ。

 あの時自分はDクラスの担任として、彼らを見守ると宣言した。無論浅川と綾小路の注文を聞き入れた故の言葉だったわけだが……所詮形だけだ。

 待ち焦がれていた瞬間が訪れるかもしれないというのに、今更生徒に慈しみを持てる温かさなど持っていない。生徒に見せる自分と悲願に貪欲な自分を乖離させる他、手段はなかった。

 結局のところ、彼女は自分のことしか考えられない。他人に優しくする理由を見出すこともできない矮小な人間だった。

 あの日――自分がクラスを破滅に導いたしまった時から、ずっと……。

 嗚呼、やはりいつになっても変わらない。それは偏に、自分の心が過去に止まったまま動かなくなってしまったからだろう。

 そう思うと同時に、彼の言葉が途端に的を射ているように感じられた。

 弱さを知り、後世に教える。たったそれだけのことすら満足にしてやれず、いまだ弱さに打ちひしがれる自分は、大人としても教師としても失格だ。

 子供のままでいる自分を、自嘲気味に嗤う。

 やはり浅川、彼は甘いとしか言いようがない。

 大人というものが、彼の語った理想通りなのだとしたら、

 

「人はそう簡単に、大人にはなれんよ」

 

 呪うような呟きは、再び吹いた寒風に攫われていった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 同じころ、茶柱と同様部屋の窓から黄昏る男がいた。

 

「…………因縁とは、恐ろしいものですね」

 

 彼は哀し気に言った。

 

「綾小路君だけでない、浅川君が自らの意志でここを選んだのはもはや運命としか言いようがない」

 

 一つ息を吐き、自分のデスクへと向かう。

 その内一番上の、鍵のかけられた引き出しを開けた。

 

「『ホワイトルーム』の最高傑作。そして『ダイダロス計画』の遺産。二つの化学反応の結末は誰にもわからない。身勝手ながら、楽しみに思う自分がいるのは事実――」

 

 厳重な管理とは裏腹に、取り出したのは一枚のスナップショット。

 互いにいがみ合う視線をぶつける二人と、それを微笑ましく見つめる自分の三人が映った写真に、綯い交ぜな感情が込み上げてくる。

 もう取り戻すことができない時間の大切さは後になって実感する。大人になってもそれは変わらない。()()()()()()()()()()()()()()()()。それを教えてくれたのもまた、友である彼だった。

 

「……しかし、私たちの誰も、手を出してはならないのでしょうね。全て、彼ら自身が紡ぐ物語です。ここで巡り会った以上、そうあるべきです」

 

 名残惜しそうに元に戻し、陽の沈んだばかりの水平線に目をやる。

 

「君たちが旅の終わりに何を得るのか、私にも見せてください」

 

 彼の思い馳せる先は、もうここにはない何か。

 嘆きは己の中でしか許されない。齢のせいか乾いた目から零れるものはなかった。

 二人三脚。二人なら、確かな実力として本当に大切なものを見つけられる。

 見せかけでもない。汚れたものでも、雑多なものでもない。誰もが権利を持つそれを、彼らなら周囲を巻き込んで示すことができる。

 坂柳理事長は、纏まらない感情を呑み、ただ一つ明らかな願いだけを口にした。

 

「ようこそ二人共。――ここは、『実力至上主義』の教室です」

 




一応更新の優先度は三章>幕間―??―>番外編=二章tipsの残りのつもりですが、気分や筆の乗り具合でけっこう変わると思うんでアテにしなくていいです。

余談に。お気づきな方もいますが、他の原作を元ネタとしたシーンがいくつか隠れています。時に露骨ですけど。
ガンダム、デジモン、氷菓、シリアスなシーンですら文ストやらサーヴァンプなど、けっこう広いジャンルにお世話になっております。知ってる作品なのにわからなかったという人はぜひ探してみてください。
三章以降ネタが尽きて頻度が減るかもですが、ちょくちょく挟んでいきたいなと思うんでよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間―魔都―
特殊事件専門監査署


「んあああぁぁぁだっっるうぅぅ」

 

 紙束の地獄と化したデスクに、雨宮は悲鳴をあげながら突っ伏していた。

 相棒である風見が、そっとコーヒーを差し入れる。

 

「根を詰めすぎっすよ。休んでください」

「こんなつまらん足止めくらってる暇なんてないんだよ。あれはあたしの――」

 

「ダメっす」いつもより真面目で厳格な声音で制される。「十五分だけでいいんで」

 

「ぐぬぬ……なんであんたなんかに指図されなきゃ……」

「頑張る人の健康管理は本人が一番下手だって相場は決まってるっす」

「自分が大丈夫かどうかくらい自分が一番よくわかってるって」

「そう言う時の大丈夫は手遅れの境界線と混ざりがちなんすよ」

 

 譲らないと決めている時の風見は雨宮以上に頑固だ。絶対零度な眼差しに思わず息を飲む。

 雨宮は舌打ちをしつつも大人しく従い、カップに手をつけた。

 無愛想にガブ飲みをしようとすると、どうやら淹れたてだったらしく吹き出しそうになってしまう。

 

「熱ッ! 湯加減どうなってんだ!?」

「えー、僕はそれでちょうどいいっすよ」

「鈍いやつにゃそうでしょうよ。あたしが猫舌なの知ってんでしょ」

 

 再び勢いのあるやり取りが始まるかという矢先。

 

「――静かにしろ。気が散る」

 

 怒気の滲んだ冷たい声が響いた。

 その主は眉間にシワを寄せ、マウスの上で指をコツコツと鳴らしている。

 

「すみません。一先輩」

 

 風見が彼の名前を呼ぶ。

 (にのまえ)十八(とうや)。誕生日は一月十八日。雨宮と同期の自称敏腕刑事だ。

 二人は何度か仕事を共にしたことがあるが、その度に雨宮は一をデスクに齧り付くだけしか能のない貧弱者、一は雨宮を待ても聞けない発情期の犬と罵り合っている。

 勿論今日も、その日課は例に漏れない。

 

「ハッ、この程度で集中が切れるなんて、お得意のタイピングもなまったもんだねぇ」

「お前みたいに無神経ではないものでな」

「風吹きゃ飛ばされる程度に軟弱なだけでしょ。ビビッてお偉いさんの言いなりになるわけだ。都合のいい犬だこと」

「犬はお前だ。今だって煩悩に塗れて鼻息荒くなっているぞ。汚いベロまで剥き出しにしてな」

 

 一触即発。この二人が絡む時、風見はいつも苦笑いだ。そうでもしなければ十中八九どちらかに文句をつけられる。

 そんな彼が唯一この不毛な争いに終止符を期待できるのが、

 

「ちょっとちょっとあなたたち、それじゃあ犬が可哀想でしょう」

 

 柔らかい声で斜めから二人を宥める彼女だ。

 

「近づくだけで俺を不幸にする存在に情けをかける理由が思い当たりませんね」

「ぷっ、ダッサ。アレルギーってだけで勝手な因縁つけんじゃないよ」

「こらこら喧嘩しない。ニーノ、顰めっ面で格好良い顔が台無しよ。マーミャはもっとお淑やかな言葉遣いをしてみて。きっと心も清らかになるはずだから」

 

 栗色の長いカールをフリフリさせ、上品に両手を合わせる笑顔の女性。

 因みにニーノは一の、マーミャは雨宮の呼称だ。

 

「……小池さん、まるであたしの心が穢れているみたいな言い様ですね」

「えー? だってそうでしょう。マーミャの心が綺麗だって思う人なんてきっといないわ。だから結婚だって――」

「ぐぁぁぁあああああっ!」

 

 この通り、彼女が雨宮をも常時圧倒できるのは単に先輩だからというだけではない。

 小池(こいけ)恵子(けいこ)。好きなものはおもちゃ遊び、嫌いなものはプライド。

 雨宮がこの「部署」へ入った時期には既にデスクワーク専門に回っていたが、かつては随分と現場での活躍が多かったらしい。噂には今の雨宮以上だとか。

 当時の度胸は健在なようで、こうして職場でも容赦なく身内の心を的確に抉ってくる。

 

「……あの、小池さん」

 

 すると一は鹿爪らしい顔で小池を睨んでいる。緊張しているのか、やたら険しい表情だ。

 

「今、何とおっしゃいましたか?」

「んー? 顰めっ面はよくないって」

「その前です」

「犬が可哀想?」

「その後!」

 

 堪えきれなくなった彼は思わず立ち上がる。

 

「俺の顔が、何と?」

「あ、格好良い?」

「…………なるほど」

 

 意味深な沈黙の後、一は硬い表情のままストンと椅子に腰を落とす。

 この場にいる誰も、彼が気持ち悪い笑みを滲ませていることにもう触れることはない。

 

「小池さん。小池さんは、そんな風に俺のことを見ていてくれてたんですね」

「けっこう()になってるのよ。凛々しいって」

()()()()()小池さんにそう思っていただけるなんて、光栄です」

()()()強面イケメンだって言ってるからねー」

 

 微妙にズレたやり取りに励む二人。小池にくびったけな一が、その狡猾な悪戯に気付くはずもない。

 滑稽と言わざるをえない光景に、雨宮も風見も毎度毎度笑いを堪えるので必死だ。

 そして、

 

「良かったら一つ、ご提案があるのですが……そ、その、今度一緒に食事でもどうですか?」

「食事? 御馳走でもしてくれるの?」

「はい。いいお店を知っているんですよ」

 

 これは勝てる。などという浅はかな判断に至ったのだろう。勝手に大一番だと決めてかかった一のお誘いに、小池の回答は定型通りだ。

 

「いいわね! 行きましょう」

「っし……!」

「マーミャ、カズ、やったわね。今日のニーノは気前がいいみたい!」

「何で!」

 

 反射的なガッツポーズをそのままデスクに叩きつける一の無様さに、雨宮はもう限界だと言わんばかりに「くふぅ……!」と声を漏らす。

 いつになっても良い気味だ。プライドに縋りつく人間の情けない姿ほど見ていて飽きないものはない。

 

「そうみたいですねえ。ありがたくご厚意に預からせてもらいます。懐の厚いに・の・ま・え・さん」

「先輩マジっすか! いやぁ僕、今月お金がキツキツでして、超ありがたいっす!」

 

 嫌味ったらしい雨宮の言葉に、ずぼらで単純故な風見の追撃。

 ただでさえ高いプライドが小池の存在によって極限まで上昇してしまっている彼には、もはや退路がなかった。

 

「……か、構わん。そろそろ改めて甲斐性な部分を見せてやろうと思っていたところだ」

 

 どこか悔しそうに言う一に勝ち誇ってみせる。特に自分が何かをしたわけではないが、屈辱を味わっているに違いない彼にはこの対応が適しているだろう。

 

「ただ小池さん。できたら次回は二人だけでというのはどうでしょう?」

「どうして?」

「あーいえ、えっと、積もる話とか、あると思うのですが……」

「うふふ、ちょっとイジワルが過ぎちゃったわね。食事にワケなんてないんだから、どんな食事をするかにだって理由はいらないわ」

「は、はあ」

「いいわよ。あなたが一人前になったら、いつか二人きりで行ってあげるかもね」

「……! ぜひ」

 

 盲目な彼は気づいていないのだろう。小池は決して食事を確約してくるたわけではないことに。勘違いを呼ぶ言葉を吹っ掛ける小池も小池だが、いとも容易く丸め込まれてしまう一の憐れさといったらない。

 しかも、一人前になったらという曖昧な条件。恐らく表向き達成される日が来ることはない。それは小池の裁量によるからというだけではなく、四人が籍を置くこの部署の性質にも原因がある。

 そのことを理解できないほど一は本来落ちぶれてはいないと思っている雨宮は、嘆息を漏らした。

 

「――おやおや、今日も賑やかだねぇ諸君」

 

 その時、唐突に粘着性のある低い声が室内に響く。

 

「しょ、署長、おはよう御座います」

「すまないね、近くで事故があったらしくてさ。あの道路の速度制限がもう少し緩ければ間に合ったんだけど」

「法にケチつけちゃ埒あかないでしょ……」

 

 制限の代わりにネクタイを緩める男に、げんなりと言葉を返す。

「覇蔵さん、お茶ですよ」いつの間にか一杯用意していた小池の差し入れに、彼は「いやはや悪いねえいつも」と感謝した。

 人当たりのいいおじさんにしか見えないこの男こそ、四人の直属の上司にあたる覇蔵(はぐら)桐満(きりみつ)その人である。

 

「申し訳ありません署長。のっけからうるさくしてしまって」

「いいっていいって。朝からみんなの元気そうな姿を拝めて僕は嬉しいよ。好きにやりなさい」

 

 堅苦しく謝罪する一にも柔軟な対応を見せる。

 四人は既に慣れてしまったが、彼のとっつきやすい穏やかさと、その中で見え隠れする威厳は特有の強さと言えよう。

 そんな彼にも、この女は食って掛かる。

 

「署長、お願いがあります」

「む? どうしたのかな、藪から棒に」

 

 真剣な表情のこちらに対し変わらぬ微笑み。この男は動揺を見せることがあるのだろうか。

 毎度弁舌でも負けてばかりな相手に顔を顰めるが、すぐに本題を切り出す。

 

「タスクの優先順位の変更を申請します」

 

 瞬間、場の空気が凍る。

 一も小池も手の動きを止めこちらを向く。風見は堂々と直談判する雨宮にヒヤヒヤしながら、固唾をのんで見守っていた。

 

「事務処理はどれくらい進んだ?」

「……三分の一」

 

 あまりにノルマに足りていないが、これでも頑張っている方だ。並なら精々五分の一しか終えられていない作業なのだから。

 

「ふーん……理由は?」

「練馬区で起きた殺傷事件の精査及び昨年の冬に発生した中学校放火事件の再調査です」

 

 二つの事件に対する彼女の熱意には、全員気付いていた。だから一も普段より過激な言い争いをしなかったし、小池も揶揄いの度合いを加減している。

 

「私たちは正式な捜査権限は有していません。しかし身内の不始末や過去の誤りを取り調べるという名目なら、その状況はひっくり返る」

「つまり、君は一課の対応に問題があると考えている。そういうことかい?」

 

「馬鹿な!」一が声を張り上げる。「無茶が過ぎる」

 雨宮たちが所属する特殊な部署。その素性は「内部監査」だ。

 あらゆる闇が覗くグレーな事件や、解決と判断されたものの新たな展開を見せた事件、警察が介入しがたい巨大な黒幕の息が掛かった事件。そういったものを専門に奔走するのが彼女たちの職務である。

 故に純粋な捜査は一切認められていない。雨宮があの放火事件を当時真面に調べることができなかったのはそのせいだ。

 しかし今は違う。過去のものとなってしまったからこそ、その杜撰さを無理矢理指摘し再捜査をしようというのが、雨宮の魂胆だ。

 監査はここにおいて、何よりも優先される事項なのである。

 

「……僕がそれを簡単に許可すると、思っているのかな?」

 

 口調は変わらない。表情も変わらない。なのに先程までと明らかに違う、威圧感。

 冷や汗が零れるが、威勢を崩すわけにはいかない。

 

「間違いは是正されなければならない。あなたのその志がこの場所を生んだと、そう聞いています」

「言うは易しだよ。根拠なく向けた疑いが誤りだった時、問題になるのは責任だけじゃない。相手を疑う行為一つで信頼関係は大きく揺らぐ。もたらす影響は計り知れない。まして公的な機関であるならね」

 

 合理的、という意味では軍配が上がるのは覇蔵だろう。権力を持つ組織が摘発されないのは、巧妙な隠蔽だけが理由ではない。もしも間違いが存在しなかったら? あったとしても暴くことができなかったら? そう言った懸念は常に付きまとう。

 この部署はそういう押し引きの絶妙なバランスの上で成り立っている――危険性と脆弱性の高い場所なのだ。

 

「そもそも僕、今だってだいぶ君のワガママを聞いてやってるんだけど」

「そ、それは……」

 

 雨宮のワガママとは、浅川の通う高度育成高等学校に立ち入るために令状を求められた際のことだ。

 厳粛な排他性を持つあの学校、本来彼女は入ることができないはずだった。それをどうにか許されるよう手配してくれたのは、他でもない覇蔵だった。

 

「ノルマが終わる見通しもたっていない。最低限行動の猶予は与えている。君、ここの基本業務がデスクワークだってこと忘れてない?」

「ぐっ、うぐぅ……」

 

 言い返せる要素がない。先程から触れている部署の性質上、実は雨宮たちが現場を回る機会はあまりないのだ。

 恐らく自分がしようとしているのは、論理で相手を説き伏せることができないことだ。

 ならせめて、彼女にできることは僅かだった。

 

「……私は、ここに入る前、色んな罪人(つみびと)たちを見てきました。救いようのない狂人から誰かを想う故だった同情を誘う弱者まで――でもみんな共通していたのは、自分の行動が誰をどうして傷つけるのかを、理解していないことでした」

 

 犯罪者の人格は十人十色だ。動機だってそう。しかし犯罪に至ったという事実と、その原因は誰だって同じだ。

 想像力が足りていない。それに尽きる。

 

「人を取り締まる人の取り締まり。理由をあげればキリがないけど、私があなたの下に就くと決めたのは、ただ事件が錆びないようにするためじゃない。事件が終わっても苦しんでいる人たちに、少しでも救いや慰めをしてあげるためなんです」

「…………」

「恭介君と六助君は、今も過去を引きずっています。静ちゃんは手を血に染めて、純君はそれを目の当たりにした。これが一体、何の解決と言えるんですか?」

「時間がどうにかしてくれることもある。それに、自分の力量を計り違えないことだ。彼らの傷を、君一人が癒すことができるなどと自惚れてはいけないよ」

「そんなことない!」

 

 いつになく必死に、心中を吐露する。

 

「逆ですよ、時間がないんです。この事件に踏み込むことができる人は私しかいない。成功は絶対ではないけど、私が動かなきゃ大勢がずっと消えない傷に悩みながら生きていくのは絶対です」

 

 珍しく彼女は焦っていた。

 それは偏に、私怨だった。

 

「紙と睨めっこしてキーボード叩いて、それで誰が救えるんですか!」

「…………気持ちはわかるよ。だけどね、やはり今のまま君に行かせるわけにはいかない」

「なっ――」

「僕が教えたことを忘れているよ。相手を説得する時、感情に訴える方法は確かに有効になり得る。だけどそれに飲まれるのが自分であってはならない。――君、『何か』と重ねてるでしょ」

「……!」

 

 図星を突かれ目を見開く。

 

「あと、さっきの発言は撤回してもらえるかな。自分の役目に誇りを持つことは大事だけど、他人の仕事を愚弄する資格は誰にもない。仕事に貴賤はないからね」

「……すみません。熱くなり過ぎました」

「謝ることじゃないよ。君はできる子だと思っているから、ここへの異動を認めたわけだし」

「……けど、私は」

 

 わかっている。自分の言っていることは無茶苦茶だと。

 しかしこのままでは、例の事件を次に調べられるのはいつになるのか見当もつかない

 浅川たちの事件は本来であれば優先順位がかなり低いものだ。権力の関わるものでもなければ、重要性や緊急性を認められる根拠もない。

 ただでさえ慎重に進める必要があったり元来の部署そのものの権威の弱さだったりで、進捗が遅くなることが免れない職務。それを他の莫大なタスクで封じられてしまっては、一体進展はいつになってしまうのだろう。

 やるせなさに、拳の力を入れることしかできず目を伏せる。

 

「――署長」

 

 すると、空気を読まない呑気な態度で、風見が割って入ってきた。

 

「どうしたんだい?」

「えー、僭越ながら確認させていただいてもよろしいっすか?」

「うんうん、どうぞ」

 

 彼は何食わぬ顔で言った。

 

「要は――――――行っていいってことっすよね?」

「………………え?」

 

 間抜けな声が漏れる。

 これまでの会話の流れを汲み取ってどうしてその結論に至るのか、雨宮は理解不能だった。

 しかし覇蔵もまた、何食わぬ顔で答える。

 

「うん」

「うん……? え、うん? いいの?」

「うん」

 

 絶句する彼女に、相棒は簡潔に説明する。

 

「らしくないっすよ先輩。署長一回もダメなんて言ってないじゃないっすか」

「………………あ」

 

 振り返って気付く。今のままでは許可できないとは言われたが、彼から決定的な一言は一度も告げられていない。

 まさかと思い視線を移すと、一は呆れ顔で、小池は悪趣味な笑顔でこちらを見つめている。

 

「うふふ、今日はマーミャの可愛いところも見れちゃったわね」

「何やってんだか、全く……」

 

 全てを悟り、先程までの言動の恥ずかしさから項垂れる他ない。

 

「だぁぁあああ嵌められたああぁ!」

 

 雨宮は八つ当たりのごとく風見を睨んだ。

 

「フジィィィッ!」

「ちょ、待ってくださいよ先輩! 先輩いつもだったらすぐ気づくじゃないっすか!」

 

 無慈悲にも華麗なチョップが彼の頭を割る。

「うぎゃぁあ!」と、耳に障る悲鳴が木霊した。

 

「まあまあ、パートナーを可愛がるのも程々にね」

「署長これパワハラっすよ!」

「でもそうでもされなきゃ真面目にやらないでしょ君」

「確かに!」

「否定してくれる日を期待してるんだけどねぇ」

 

「とはいえ」と覇蔵は再び雨宮を向く。

 

「虚言は一つも吐いてないことは、わかっておいてほしいな」

「――! わかりました」

 

 襟を正し返事をする。覇蔵の言う通り、さっきまでの自分はいつもと違いただの傍若無人な、かつての自分に戻ってしまっていた。彼の遊び心に遅れをとったということは、精神的な余裕が欠けていることを示す。

 覇蔵は一つ咳払いをし、形式的に告げた。

 

()()()()()()()()、覇蔵桐満より君たちに命じます。明日から当該再捜査及び監査の優先順位を一つ繰り上げてください。――そうだね。二、三割そっちにリソースを割いてもらって構わないよ」

「ありがとうございます」

「ただし、別件の捜査が割り込んできたら臨機応変な対応をしてもらうからそのつもりで」

「承知しています」

 

 現場での仕事の価値をついさっき説いていたのは他でもない自分だ。そこに私情を挟んではいけない。

 

「話は僕の方で通しておくから、令状は君たちが取りに行きなさい」

「諒解」

 

 二人はいそいそと部屋を出て行った。

 

 覇蔵はやれやれという具合に座ったまま伸びをする。

 足音が聞こえなくなったのを確認し、一が声をかけた。

 

「よろしかったのですか?」

「勿論。僕が言ったことさえ守ってくれれば大丈夫さ」

「本分を滞らせてでも、ですか?」

 

 厳しい眼を向け、彼は啖呵を切る。

 

「元々刑事という立場は大半の仕事が書類関連です。ドラマほどアクティブではありません。蓋しうちは特殊なのに、こういった甘い対応は――」

「心外だねぇ。僕は雨宮君を甘やかしているつもりはないよ」

 

 覇蔵はズボンのポケットからチョコの小包を一つ取り出し、中身を頬張る。

 

「僕が普段彼女に課しているノルマは、本来の倍だ」

「ば、倍!? 何故そんな……」

 

「もしかして」驚愕する一とは対照に、小池は納得気味だ。「今日を見越して?」

 

「いつか我慢できなくなるだろうと思ってね。例の殺傷事件以降、そろそろかなと薄々予感はしていたよ」

 

 上司の予測能力に、二人は感心せざるを得ない。

 要はいざという時に雨宮ができるだけ直向きに足を動かせるよう、予め時間にストックを作らせていたということだ。

 部下思いというか、扱いに長けているというか、やはり抜け目のない男である。

 

「自制心が崩れがちなのはまだまだだけど、能動的な姿勢は評価できるね」

「て、適当に処理してるのでは?」

「ムラはあるけど、及第点は毎度熟してくれてるよ」

 

 プライドに傷を負ったのか、一は悩ましげな顔をする。

 当然それも、彼は見逃さない。

 

「だけど君が仕上げてくれる物は、いつも見やすくて助かるよ。データも紙もね」

「……!」

「誰しも得手不得手はある。僕は他人を叱ることが苦手でね、ほら、こんな顔だから」

「話し方も一役買ってますよ。今後部下に舐められないか心配です」

「ハッハ、手厳しいねぇ小池君。ま、そんなわけだから、君には君の、今できること、すべきことがある。それを徹底するのが一番さ。いついかなる時もね」

「……はい」

 

 温かい言葉に、一は顔を綻ばせる。

 何だかんだ四人から慕われる、その所以が垣間見える一幕だ。

 

「覇蔵さん、ちょっと」

 

 会話が一段落したところで、小池がこっそりと隣のデスクの覇蔵に話を振る。

 

「なんだい?」

「無駄に格好つけなくてもいいんですよ」

「えー、イケてなかった?」

「人間誰しも自然体の時が一番イケてますから」

 

「あーらら」最近で一番の反応を見せる。「そういうものだったの」

 

「いざとなったら、私も少し負いましょうか?」

「いやいやそれは悪いよ。小池君は僕と違って、まだ先が長いからさ」

 

 虚言はなかった。つまり失敗――雨宮たちが芳しい結果を出せなかった場合、その重大な責任は確かに存在する。

 覇蔵はそれを全て負う腹積もりで、彼女の申し出をあのような形で受け入れたのだ。

 覇蔵桐満の命の下、雨宮由貴と風見喜助は監査せざるを得なかった。万一の時はそう説明するつもりだ。

 

「手のかかる部下でごめんなさいねぇ」

「ハッハ、可愛いものだよ。若造は年上の忠告なんてろくに聞かないものだからね」

 

「それに」と、覇蔵はもう一方のポケットから別のチョコを取り出し口に入れる。

 

「大丈夫だって思える根拠が二つもある。一つは鼻の利く雨宮君が疑っていることだ」

「ふふ、覇蔵さんはいつも私たちを信頼してくれますものね。二つ目は?」

「なぁに、簡単なことさ」

 

 彼は残りのコーヒーをゆっくりと飲み干す。

 

「――――僕が疑っているからだよ」

 

 衰えを感じさせない鋭い眼は、絶対的なものだ。

 やはり出会ってからというもの、彼には敵わない。

 もう何度目かわからない敬慕の念を抱き、小池は柔和に笑った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

診療録の検証

気分転換のノリで、久しぶりに感想の返信しときました。
そしてこちらも久しぶりに更新します。あと一話です。


 リノリウム特有の、微妙にペタつく足音。

 雨宮は病院が嫌いだった。きっかけは五歳の頃。治療の際何度もやり直しを受けた注射。元はと言えば自分がやだやだと泣きじゃくったせいなのだが、いつ終わるとも知れない鈍痛は苦手意識を植え付けるのに十二分だった。それ以来、予め医者の世話にならないようにと健康志向にシフトしたのは思わぬ僥倖だ。

 

「ど、どうして今更再捜査を?」

 

 苦い体験への忌々しい感情に横槍を挟んだのは、怯えて裏返った男の声だ。

 丸眼鏡のテンプルをくいと整える動作は何とも様になっておらず、緊張を誤魔化す時の癖なのだろう。

 

「念のためですよ。恭介君も病み上がりですし、改めて彼がどういう状態だったか確認する意図もあります」

 

 こういう時の受け答え――特に初動は風見に任せることがほとんどだ。柔軟な態度は彼のほうが得意、というより自分が不得手であることは自覚している。

 それよりも、と、雨宮は医師――佐合と名乗った――の様子を観察する。

 

「……何か困ることでも?」

「い、いえ、一年も経てばデータは膨れ上がります。古いものはどんどん保管の底へ行ってしまうので、あまり乗り気でないだけですよ」

 

 素人からすれば納得せざるを得ない回答だが、真偽のほどは不明だ。少なくとも、この男は隠し事が下手なのは間違いない。

 

「とはいえ――ここでは保管期間の長さで三つの保管場所にわかれていますが――浅川さんは退院後一ヶ月も経過していませんので、短期の保管場所にあります」

「一ヶ月ねぇ……」

 

 現行の法律では、患者のカルテは当人の治療完結から五年間の保管が義務付けられている。

 治療完結、実質的には退院を示すが、浅川は進学直前まで病床生活だったため、彼の診療録の保管状況自体はごく最近からとなっている。

 本当、本来なら一年の学習遅滞を抱えるはずだった彼を、我ながらよくもそのハンデを帳消しさせられたものだ。

 辺境の割にはやけに整った内装の中を進み、一室に入る。

 スチール製の棚にはぎっしりとファイルが詰められており、恐らくこれが例の短期保管されているカルテだろう。

 ご丁寧に頭文字までわかりやすく分類してくれているため、自分たちだけで探しても良かったのだが、さすがに他の患者の個人情報を脅かさない配慮の下佐合が漁る。お言葉に甘えてソファーに座らせてもらった。

 その合間、

 

「……あの、これはどうしても必要なことだったんですか?」

「はい。こうして物を言う書類だって装備してきたんですよ」

 

 苛立ちを抑えて応答する。この期に及んで何を。

 危なかったかもしれない。もし浅川のカルテが中期や長期の場所に保管されていたら、その膨大な貯蔵量から色々こじつけをされて滞りが発生していた可能性がある。

 よほど何かヒメゴトがあるらしい。俄然気になってきた。

 やがて、佐合が一冊をテーブルの上に置く。

 

「恭介君の手術を担当した当時から今まで、何か大きな変化は?」

 

 間髪入れずに質問。隣に着席する風間は阿吽の呼吸で一人カルテの拝読に入る。

 

「特には」

「じゃあ恭介君の治療の際に気づいたこと、不自然なことなどは?」

「そんなの……覚えてないです」

 

 多忙な佐合が記憶を曖昧にしているのは無理もない。しかし、

 

「ふーん、それは、口も利けないほど精神が壊れた患者はここだと珍しくないってことですか?」

「……! ち、違います」

 

 ただの勘違いにしては大仰な反応だ。

 

「……聞きましたよ。あなた、この前の事件――浅川夫妻の事件の時、患者受け入れを拒んだみたいですね」

 

 更に踏み込んだ問いをぶつける。

 浅川の母校は勿論浅川夫妻の別荘も最寄りの病院はここ。しかし佐合は満床を理由に浅川夫妻を突っぱねた。

 当時確かにデパート火災による大量な怪我人をさばいていたのは知っているが……。

 

「――何か『事情』があったり、するんじゃないですか?」

「…………っ、私は」

 

 所詮は鎌掛だ。何かある、嗅覚をもっての確信だけが頼りで追及する材料はない。

 ただ、今はそれを見つける時間だ。

 

「え………………?」

 

 隣から唖然とする声が漏れる。風見が疑問点を見つけたようだ。いつになく顔を引き締め、眉を顰めている。

 

「ここ、何か……先輩、ここおかしくないっすか」

「は? ……んーいや、あたしに聞かれても」

 

 医学はからっきしだ。しかし佐合の息を呑む様子からして、風見の言っていることは間違っていないのだろう。

 彼が見せてきたのは脳のレントゲン。指で差したのは右下の部分だ。

 

「不自然です。まるで無理矢理継ぎ接ぎしたような……これは、合成?」

 

 なるほどなるほど。そういうことか。

 

「どうなんですか? 佐合さん」

「そ、それは……」

「別に隠し立てがないのであれば構いませんけど、あるなら今白状することをお勧めしますよ」

 

 事実上の勧告。現時点で浅川の診断に問題があることは確定だ。偏に風見の目利きを信頼している故の確信だが、雨宮は攻めを緩めない。

 こういう相手には、それでどうにかなる。

 

「改竄の時点で大問題ですが、それはまた別件です。元のデータを見せてください。さもなくば……」

「お、横暴だ! そんな強引な捜査は――」

「と思うじゃん? 残念、特別な許可は取ってもらってある。拒否しようものなら無理矢理漁らせてもらうよ」

 

 彼のような小心者は自分の懐に物を隠しておかないと気が済まないタイプだ。おそらくPCに残っているはず。

 

「か、帰ってくれ! こんな茶番は終わり――」

「じれったいねぇ、いい加減にしな!」

 

 拳を机面に叩きつける。こちらが下手にでる必要はもはやない。一転攻勢と行こう。

 

「あの子の傷はまだ残ってんだよ。それを少しでも癒やすためにあたしたちはここに来た。あんたも医者なら、一度過ちを犯したんなら、その責務を果たしな」

 

 どのみち疑惑が浮上した時点で捜査は免れない。事実を淡々と突きつけてやっても良かったが、敢えて感情的に訴える。

 問題ない。理性さえ維持していれば失敗はない。

 

「……っ、わかりました」

 

 埒があかないと判断したようだ。佐合は渋々デスクに向かいPCをいじる。やがてプリンターから一枚の写真が印刷された。

 にわかに震えている手から、風見の元へと渡される。

 彼は先程の箇所を念入りに検証し、そして、

 

「――! こ、これは……」

 

 驚愕の表情を浮かべ、佐合を睨んだ。

 

「あなた、まさか………………側頭葉を……?」

 

 佐合は明らかに図星を突かれ、気まずそうに視線を逸らす。

 それを見て風見は、いつになく恐ろしい形相で迫る。

 

「ふざけるな……お前、人の記憶を!」

 

 今にも殴りそうな怒気を滲ませて胸倉を掴む直前、雨宮が慌てて引き留める。

 

「ちょ、おいフジ! 止まれ止まれ!」

「一番傷つけちゃいけないものだろ! 思い出に踏み込むなんてマネ、誰もがしちゃいけないことなのに!」

 

 声を張り上げる風見を平手打ちで抑える。「ガッ」と、鈍い音と共に呻き声が漏れ出た。

 

「一回落ち着きな。何を見つけた? まずはあたしに説明しな」

「…………すみません。取り乱しました」

 

 片頬に手を当て、俯きがちに風見は話す。

 

「先輩は、ロボトミー手術をご存知ですか?」

「名前、だけなら」

 

 当時は画期的で希望的な施術であったが、その代償が認められて以降禁忌と称されるようになった。と記憶している。

 正式名称は、前頭葉白質切截術。

 

「でもあんた、さっき側頭葉って」

「はい。脳の各部位には役割が定まっていて、前頭葉は知性や人格などを担っています」

 

 ロボトミー手術は精神障害の治療に用いられた。知性と人格を犠牲にすることで精神生活の複雑を軽減するのだ。

 しかし今回はどうやら、切除されたのは側頭葉らしい。 

 

「一方側頭葉の機能は――感情と、記憶です」

「なっ……! ……なるほどね」

 

 それは現在の浅川に触れる答えだった。

 暫く口を利けない状態が長引いていたこと。今までの記憶が欠けていること。それらは全て側頭葉の切除によるものだと考えれば辻褄が合う。

 

「精神ではなく記憶そのものに干渉することでトラウマを克服する、と言ったところでしょうか。ロボトミー手術の再現、あるいはそれ以上に残酷な処置です」

 

 この病院で起きた悲劇を、風見はそう纏めた。

 どうりで佐合がこうも怯えるわけだ。スキャンダルどころではない、一人の人間を実質的に壊す行為。

 

「……年貢の納め時だよ。全部吐いちまいな」

 

 鋭利な視線を罪人に向ける。

 

「仕方、なかったんです。私には、こうするしかなかった……」

「仕方なかった……? 本当にそうかい。んな酷いことしなくたって、恭介君をゆっくり救うことはできたと思うけどねぇ」

「素人の診断じゃわからないことなんて、たくさんありますよ」

「あの子は一人じゃなかった。失ったもの以上に支えてくれる人がいたんだよ。それで脳味噌弄られなきゃならんくらいにボロボロになるほど、弱くない」 

 

 根拠ならある。

 浅川は欠けたはずの感情で涙を流し、衰えた記憶を必死に残し続けている。そして今も、新たな思い出に励んでいるのだ。

 その精神力は、何も雨宮の助力によって鍛えられたものではない。彼自身が、初めから具えていた強さだ。

 

「少なくともあんたは、その誰かに言葉を掛けるべきだった。そして止めてもらうべきだった。それをしなかったのは、自分の咎をわかっていたからだろ?」

「けど実際に、手術で精神状態は改善された! 医者としての責任は果たしたことに変わりはない!」

 

 たらればの話ではないのは確かだ。佐合の言う通り、結果論として浅川が学生生活に戻れたことは事実。

 だが、

 

「外科医ってのはそんに視野が狭いのかい? 人は誰とも関わらずに生きちゃいない。あんたのしたことは、少なくとも心を救うには至らなかったと思うよ」

 

 佐合ははたと悔しそうな表情をする。それだけの良心が残っていなければ、こうしておどおどしていることもなかったはずだ。

 きっと、今まで何とか自分を正当化してきたのだろう。自分は正しかったと言い聞かせることでしか、自分を守れなかった。

 

「…………そう、ですよね。その通りです。私がしたことは、到底許されることではありません」

 

 重い口が開いく。

 

「私も、したくないと、すべきではないと思いました。でも、そうするしかなかったんです」

「そうするしか? それは」

 

 頷く佐合の諦めた様子から、裏を察した。

 

「一体、誰があなたを?」

「そもそも言いなりになる理由がわからないっすよ」

 

 気づけばフラフラとした調子に戻っていた風見を一瞥し、答えを待つ。

 

「すみません。それは言えません。この病院ごと消されかねない。それだけは私とて望まないことです。たとえ私自身が辞めることになっても」

 

 最低限の矜持なのだろう。そこまで言われては追及し辛い。ポリシーに反する。

 今の回答で、わかったこともある。

 

「個人か団体かは?」

「……三人です」

 

 人数だけ、か。

 

「改めて、恭介君の入院中に何か気になることは?」

「いえ――あ、確か一度、担当の看護師さんから報告があって、友達の女の子が酷く取り乱していたと」

 

 女の子……深山のことだ。

 思わぬ場面で現在の事件の情報を得たかもしれない。浅川が入院していた頃には、深山に異変があった。

 すると、

 

「残りの三人は、特になかったかな……」

「そうっすかぁ」

「……待って、三人?」

 

 新塚と、高円寺と、誰だ……?

 

「……まさか、その中に白い髪と青い目をした女の子は」

「多分、いたと思いますよ」

 

 戦慄が走る。関係者の一人にも悟られることのない、おぞましい何か。ここにも来ていた。目的は浅川で間違いない。

 どういうことだ。浅川自身は交流はないと言っていた。やはり、彼が嘘を……?

 実りはあった。しかし――何か底知れぬ闇を垣間見たような気がする。

 

 茜色の空が、胸騒ぎを起こす昏さを帯びる。

 ざわつく背筋を誤魔化すように、大袈裟に伸びをする。

 

「どうっすか先輩、収穫は?」

 

 傍らの風見が訊く。

 

「……朗報はあった」

 

 とてもそんな風には見えない苦い表情で答えた。

 

「恭介君の側頭葉切除を命令したのは、権力者だね」

「じゃあ」

「もうちっと踏み込んだ捜査、できるかもねぇ」

 

 権力が絡んでいる可能性が高まれば、自分たちに与えられる捜査権限も肥大化する。そういう意味では、確かに朗報だ。

 

「理由は……佐合さんの『消されかねない』という発言ですね」

「ああ。そしてその権力者は、少なくとも政府関係者じゃない」

「それは、どういう?」

 

 まあ、佐合の事情を理解しているだけ及第点か。

 寛大な採点をするようになってしまったものだと思いつつ、雨宮は説明する。

 

「まず、そもそも何で恭介君の側頭葉が切除されたかさ」

 

 脳の部位切除は人道的とは言えない施術。それを求めるとなれば余程の事情があったはずだ。

 

「……側頭葉は記憶を担っています。まさか本当の目的は、恭介君の記憶の消去?」

「思うに、あの子は何かを知ってたんだろう。あるいは、その可能性があった」

 

 この手の相手は手段を選ばないくせに念入りだ。彼の頭の中に実は重大なものが眠っていなかったとしても、然程重要なことではない。

 

「でも、どうして政府関係者じゃないんすか?」

「偶然にも恭介君は高度育成高等学校に在籍してる。あの子に接触や関与を仕掛ていないってことは、あそこが敵地だからだよ」

 

 政府の注力する環境には打って変わって手が出せなくなるということは、かなりな牽制状態にあるということ。的を絞る上でも、この要素は活かしがいがある。

 

「そうとは限らないっすよ。既にアクションを起こしていて、職員の間に監視の目を潜らせている可能性も」

「だとしても、一貫性がない。病院じゃ有無を言わさず脳を切り取ったんだ、今更慎重で回りくどいマネする必要はない。どのみち荒事起こせない時点で政府の人間じゃないってことさ」

 

 珍しく能動的に反論を編んだ風見の成長ぶりに若干頬が緩んだが、毅然と一蹴する。

 

「それに……っ」

「先輩?」

「いや、何でもない」

 

 雨宮にはその先の仮説もあった。

 佐合に命令を与えた三人。その内一人か二人は、浅川の親だ。

 こればかりは確証と言える根拠まではない。ただ、佐合の過剰な恐怖が違和感を与えてくる。彼が手術を行わざるを得なかったのは家族までもが強制したから、と考えられるくらいには。

 しかしだとすると、浅川夫妻も一連の黒い動きに一役買っていることに……。

 

「……調べることが目白押しだねぇ」

 

 謎が深まった、というのが総合的な結果だ。

 浅川自身のこと。浅川に施された陰謀。そして度々出てくる姿の見えない少女。まさしく闇が渦巻いている。

 とりあえず予定通り、次は浅川夫妻の別荘を検証するか。

 

「そういやフジ、あんた大丈夫?」

「え、なんのことっすか?」

「あんなブチ切れてるとこ初めて見たけど」

 

 確かに側頭葉切除は禁忌ではあるが、あの時は自分が荒れていた頃と似たものを感じた。ただ許せない相手にとことん罰を与えようとするような。

 

「……先輩は、かけがえのなかった仲間が誰も自分を覚えていないってわかっていたら、どうしますか」

「え?」

「自分自身さえその思い出が不確かで、経験したかが曖昧だったら」

 

 遠い目をする風見。それだけで、彼のルーツが原因なのだと直感する。

 

「……そりゃあ、デジャブって言うのさ」

「でも、偽物とは限らないっすよ。もしかしたらどこか別の――運命の石が告げる扉の先から、送られてきた宝物なのかも」

「なら、それでいいじゃないか」

 

 視線が向くのを感じる。

 急に詩的なことを言う。あまり得意ではないが、単なる格好つけではないことは察している。

 

「もらっちまいなよそんなもん。再演する義務なんて、ないんだから」

「どう、なんでしょう。偶に思うんすよ、会えるなら会うべきなのかなって。どこにいるかもわかってるのに顔も合わせないのは、何だか逃げてるみたいで……」

「それは選択って言うのさ。そうすべきだと信じたから会わなかったんだろう。なら、間違いなんかじゃない」

 

 肩を二度、強めに叩く。

 

「自分の立てる世界は一つさ。あたしと刑事やってる風見喜助だけが、現実だよ」

「……参っちゃいますね。先輩は強すぎるっす」

 

 それに付いてくるあんただって十分強いよ。という言葉は胸の内にとどめておく。

 

「あんたが弱ってるだけだって。シャキっとしんさい」

「はい。さっきは出過ぎたマネをしました、以後気をつけます」

「あのまま殴った世界線も興味あったけどね」

「傷害罪でバッドエンドっすよ!」

 

 カラッといつもの調子に戻る。

 しかし、ほんの少しだが後輩のことを知れたことに、浮かれる自分に呆れる雨宮だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

慎介の友人

 病院での一件から、およそ二週間後。

 

「ふざけんな! ちゃんとした理由を説明してくださいよ」

「そのような義務はありません。お引き取り下さい」

 

 穏やかな住宅街で、乱暴な怒鳴り声が轟く。

 

「お、落ち着いてください先輩」

「……っ」

 

 いつもは抑えられるはずの舌打ちが、我慢の盃から零れる。

 

「……予め聞いてた話だと、既に捜査は終了したはずですけど」

「とりあえず、ですよ。必要があれば、対応が変わることもありえます」

「それは、必要が生まれたってこと?」

「これ以上お答えをするつもりはありません」

 

 再度舌打ち――今度はわざと相手に聞かせるようにし、入口の門番に背を向ける。

 

「何だっていうのよ、全く……」

 

 さて浅川夫妻の別荘探索だと意気込んだ矢先の門前払い。つい数日前と真逆の状況だ。

 規制線の向こうを見る。慌ただしく動き回る警官たちは、誰も彼も覇蔵の派閥には見えない。あの胡散臭い上司のヘマではなく、本当に急な事態だったらしい。

 

「さすがに強行突破もキツイっすよ」

「わかってるよそんなこと」

 

 折角の行動日だというのに、収穫どころか捜査もできないのは……。

 一時期止んでいた音が再び聞こえるようになったためか、周囲にはいつしかのように野次馬が群がっている。

 そんな中、

 

「ん?」

「どうかしました?」

「いや、アレ……」

 

 指先の延長を辿る風見。眉を顰めた。

 まちまちな背丈に混じって、やたら不安げな顔をする少年が一人。この時間、子供は授業なはずだ。

 おまけに一見目立つところのないように見えるが、二人揃って違和感を覚える程度には異常に歪んだ表情をしている。

 目が合った。

 

「あっ……! 先輩!」

「――よくわからないけど、わかってる!」

 

 怯えて逃げ出す彼が、こちらの風貌にビビッたそれとは違うことを直感し、予備動作無しで追い掛ける。

 日々鍛錬を怠らない成人とひ弱な男子では、いくら何でも身体能力に差があり過ぎたようですぐに捕らえることができた。

 

「ひ、ひぃ……! ご、ごめんなさい許してください!」

「待って、何か勘違いしてる。別に酷いことするつもりはないから、話だけ聞かせて。お願い」

 

 自分の顔が威圧感を与えやすいことはキャリアの中で身に沁みている。その分出来る限り柔和な態度で、目線を合わせて声を掛ける。実は、と言うのもアレだが、雨宮は子供の臆病さには寛容だ。自分の姿と、重なるのだ。

 偶々近くにあった光が丘公園。そのベンチに腰を下ろす。――詫びを込めて好きな飲み物を買ってやった。

 

「あそこにいたの、偶然見つけて気になった。ってわけじゃないよね?」

「……はい」

「事情を話せるなら、お願いできるかな?」

 

 まるで浅川たち相手の時と違った対応に風見が苦笑する。仕事を共にする上で少なくない光景だが、第一印象が強烈過ぎていまだおかしさを感じてしまう。

 

「あ、あそこ、見たことがあるんです」

「そうなの?」

「はい。慎介君の両親の家、ですよね?」

「慎介、君……? まさか……あなたは慎介君のお友達?」

 

 首肯が返ってくる。

 確か去年の調査報告書にはなかった顔だ。またしても杜撰な捜査をやらかしたのだろうか。

 その旨を問いかける。

 

「……慎介君の不幸、あなたは何か証言したの?」

「いえ……自分は慎介君とは別の学校に通っていたので。と言っても、同じ地域ですけど」

 

 なるほど。実に簡単でご尤もな回答だ。同中ではなかったから、見落としてしまったということか。

 

「じゃあ、さっきあそこにいたのは」

「刑事さんの言った通りです。どうしても気掛かりで、ここに」

「あなた、学校は?」

「それが……自分、高校には通っていないんです。今はバイトで食いつないでいて」

 

 あははと、眉をㇵの字にして笑う少年だが、二人はそのケロッとした強かさに感心していた。

 中卒でバイトの収入を当てにするなど、生活の質はたかが知れる。それでも――前向きとまでは言えないが――折れずに生き抜いているとは。

 

「一体どうして?」

「まあ、色々ありまして。――男手一つで育ててくれた父共々、酷い有り様になってしまったんです」

「進学は考えなかったの?」

「と言うか、合格まではしていました」

 

 聞けば、有名な難関私立高校だった。何故そのような進学校を蹴って……。

 しかし踏み込み過ぎた質問だったようで、答えを教えてはもらえなかった。ただ、どうやら彼の父に原因があるようだった。

 

「父は父で、かなり落ち込んでいました。何度もごめんと謝って、段々やつれていって、挙句には死んで詫びるとか言い出して――けど、言ってやったんです。大丈夫だって、こうして家族と過ごしていられるだけでも幸せだって」

「あなたは、強い男の子だね」

「そんなことは……友達がいなければ、自分も正直生きてられないって思っていた時期がありましたから」

「友達……慎介君」

「慎介君だけじゃないんですけど、間違いなく支えの一人でしたね」

 

 慎介は少年が中学三年生になる前に亡くなっている。他にも、この少年を支えてくれた子がいたのだろう。

 少年は若干悲し気な顔をしながら、過去に耽る。

 

「……慎介君が虐められていたという話は、偶に耳にしていました。お兄さんも、それはご存じだったようです」

 

 以前の証言で、その裏は取れている。

 

「恭介君との交流は?」

「顔見知り程度ではありました。向こうが覚えているかはわかりませんけど」

 

 恭介は脳に欠陥を抱えている。もしかしたら、この少年の危惧は現実になっているかもしれない。

 

「そう。なら事件のことを詳しく知っているわけじゃないんだね。――慎介君のことについて、教えてくれる?」

 

 今まで見えていなかった側面に期待して、少年に問う。

 

「――自分と同じで、そこまで明るい性格ではなかったですね。あと、少しだけ卑屈そうにしていることがあったように思います。お兄さんに対する劣等感、なのかな」

 

 常に完璧であった兄(今は見る影もないが)、並大抵の弟なら至極当然な感情だろう。

 

「でも同時に、とてもお兄さんのことが大好きだったみたいです。お兄さんも慎介君のことを大事にしていて――大変仲が良かったと記憶しています」

 

 それは入院初期の恭介の様子を知っていれば優に想像がつく。命綱を失ったような意気消沈ぶりは、知り合いに見せてはならないと感じられるほど、憔悴しきっていた。

 

「あたしらは慎介君を見たことはないけど、確かに恭介君は家族を大事にする良い子だった」

「……そう、ですか」

「………? どうかしたの?」

「…………偏見かも、しれないんですけど。慎介君たちは、本当にただの兄弟だったのかわからなくなる時があったんです」

 

 何……?

 

「二人で話している表情を見ていると、何だか家族と接しているそれには視えなくて……それ以上の関係? と表現してしまうと、失礼かもしれないんですけど」

「それは……」

「一度彼らのご友人にも尋ねてみました。その時はいつもこんな感じだと言われたので気にしないようにしていたのですが……振り返ってみるとやっぱり違和感が」

 

 深山と新塚も特に疑問は抱いていなかった……とすると、あのグループが外からは異常に見えるものだった可能性がある。

 確か、母校の生徒の証言でも彼らの仲の良さが極めて目立っていたとはあった。その言葉を額縁通りに受け取っていたが、雨宮たちは廃校となる前の当時の環境を目の当たりにしてはいない。学校ぐるみ――前提を疑うことを、考慮すべきだろうか。

 思わぬ観点からの証言を得た。

 

「あなた自身との交流は?」

「慎介君は時々お兄さんたちと別行動することがあって、そんな時は大抵自分と、幼馴染と一緒に遊んでいました」

「幼馴染?」

「幼稚園の頃からずっと一緒で、よく懐かれているんです」

 

 懐かれている、ということは、今も関係は続いているのか。

 

「あなたを支えていた他の人っていうのが、その子?」

「はい。彼女いわく、憧れなんだそうです。そんなに優秀だという自覚はないのですが」

「……あんた、最後の期末テストの順位は?」

「……? 一位でした」

「運動は?」

「父の奨めで、武道を少々」

 

 いたいた、自分がいかに優れているのか本気で理解できていないやつ。

 別にこの少年を更生することが目的ではない。謙虚に生きているのなら指摘する必要はなかろう。

 

「でも、あの子だけだったら、きっとダメだった。全部投げ捨ててしまっていたと思います」

「それが慎介君ね」

「彼もですが、あともう一人」

 

 ぞわりと、その何気ない一言が背筋に嫌なものを駆け巡らせる。

 もう、一人……?

 

「…………その子の特徴、教えてもらえる?」

「綺麗な色をしていましたよ。アルビノだったらしくて、白髪と青い目が印象的でしたね」

 

 ……一体どこにいるというのだろう。未知なる少女の幻影、一連の事件のキーマンだと睨んでいるが。

 

「――刑事さん」

 

 不意に呼ばれ、思案に投じていた視線を上げる。

 震えている眼が、そこにあった。

 

「慎介君は、本当に優しい子でした」

「……」

「でもそれは、単に人に優しいとかじゃなくて……自分があまり善い人ではないと思いながら、それでも善い人であろうと、頑張っているような」

 

 必死に言葉を紡ぐ姿は、態々あの場所に足を運ぶ程に思い入れがあることが察せられた。

 

「だから、いつかほんの少しでも報われたらいいなって、密かに願っていたんです。……こんな些末な仕打ち、ないですよ」

「……そうね。若い内に死ぬなんて、誰であれ理不尽な終わりだよ」

 

 この少年は不幸になっても生きる気力を保ち続けた。そうして今ある小さな幸せは、友と出会えなかったもしも――早死になっていたらありつけなかったものだ。

 慎介の場合、それを選択することさえ許されずに命を落とした。 

 

「刑事さんは慎介君のことや、慎介君の両親のことを調べているんですよね? でしたら、どうかお願いします。彼の無念を晴らしてください。せめて誰があんな酷いことをしたのか解明して、犯人に謝らせてください」

「…………ああ、任せな。あなたの想い、託された」

 

 事件の傷の広がりは、こんなところにまで及んでいた。やはりいつだって、キリのない哀しみだ。

 絶対に、解決してみせる。

 

「あっ、そろそろ行かないと。父には内緒でここに来たもので」

「そうかい。バイトも頑張るんだよ」

「はい、ありがとうございます」

 

 慌てた動作で、駆け始める少年。

 

「あ、ちょっと待って!」

「え……?」

「念のため名前、教えてもらえる?」

 

 それくらいなら、と、軽くフルネームを教えてもらった。

 

「――ありがとう。幼馴染ちゃんと、お幸せにねっ」

「い、いや、ボクと翼さんはそんなんじゃ……!」

 

 大事にしなよ、自分を大事にしてくれる人を。

 自分にはできなかったことが為せるよう、祈った。

 

「――あーあ。先輩、また諦めない理由ができちゃいましたね」

 

 隣で黙っていた風見がようやく口を開いた。

 

「ふん、もとからそのつもりだっての」

「得られるものはありました。慎介君のこと、恭介君たちのグループのこと、登場人物の像を、洗い直す必要があるかもしれませんね」

「……そうだね」

 

 恭介への事情徴収から、その思いは幾分か強まっていた。さっきの少年の言う通り、『仲良し』の一言では片付けられない違和感が眠っている。グループにも、兄弟にも。

 

「どうします? 次の一手は」

「…………悔しいけど、頼るしかないか」

 

 とは言えこのままでは進展を望めるアクションが見えてこない。逡巡の末、雨宮は一つの決断をする。

 

「今度声を掛けるまで、あんたは休み」

「え、は? 何でですか」

「岐阜に行ってくる」

 

 その県名に風見は一瞬驚いた後、納得する。

 

「……わかりました。朗報を待っています」

「どうだかねぇ……あたしも渋るよ、『師匠』に泣きつくのは」

 

 情報整理のアシストくらいはしてもらいたいところだ。それに、挨拶もしておきたい。向こうは要らないと言っているが、こちらとしては疎遠にしたくないのだ。

 

「老人趣味なんて意外っすよ、先輩」

「は、はあ!? ちち違うっての!」

 

 なかなか見せない動揺振り。そういう感情ではないものの、明らかに特別な想いを向けていることは明白だ。

 

「……使える手段は全て使う。あの子にあんな風に頼まれたら、出し惜しみなんてしてらんないよ」

 

 卑しくも強かに生きる少年の名を、六月の湿り風の中で呟く。

 

「松雄栄一郎、か。真っ直ぐな名前じゃない」

 

 捜査はゆっくりでも、動いていく。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三章・マッチ売りは灼熱を知らない
焼憬


 ある始まりが到来する、前夜のことでした。

 

 こごえる雪景色のなか、ひとりの子供があてもなく歩いています。

 

 月明りのみが視界のたよりである街並みも、いまは恐怖をあたえません。ただ未知なる環境にたいする不安が、心をおおっていました。

 

 頭になにもかぶらず、足にはなにもはいていない。あきらかに季節にそわないかっこうをした子供を気にかけるものは、ひとりとしていません。

 

 両足が雪のつめたさで赤くなり、やがて青ばんできたころ、寒さと空腹につかれていた子供はおもむろに腰を下ろします。コインひとつ手に入れることができずにいた子供には、それ以外に苦痛をごまかす術がなかったのです。

 

 ああ、寒い。お腹が空いた。ストーブの火が欲しい。あつあつのシチューをひとさじ口に入れたい。

 

 窓越しの灯りのしたで楽しそうに食卓を囲む家族をながめながら、子供は自分の境涯をなげきました。

 

 ささやかな祈りは、パパとママといたときですら叶わなかったものです。二人はかたまって動かなくなりそうなこの手をつつむことすら、してくれたことがありませんでした。

 

 だからでしょうか。子供はすぐに、一箱も売ることができなかったマッチの火で自分を温めることを思いつきました。

 

 なれない手つきで小さな木の棒を箱の側面に擦ると、しばらくしてようやく火はつきました。

 

 何とも眩しく、温かい光でした。

 

 あたまのなかにあったストーブにも負けない温もりと、団らんする家族にも負けない明るさに、すこしだけ笑みが零れます。

 

 やがてそれはどんどんかたちをかえ、おおきくふくらんでいきます。

 

 雪のように白いクロスを敷いたごうかなテーブル。その上に用意されたぴかぴかの食器、ガチョウの丸焼き、リンゴやかんそうさせたモモまで、子供の目にははっきりと見えました。

 

 しかしそれも束の間。ふっと暗く冷たい世界に引き戻され、気が付くと燃え尽きたマッチが手元に残っていました。

 

 そう、現実はいつもこっち(さびれたもの)なのです。

 

 子供は何度も火を灯しました。にこにこと笑ってあそんでくれるパパとママ、装飾されたおおきなツリー、他の子がいとも簡単に手に入れている憧れが欲しくて、何度も何度も、何度も何度もマッチを使いました。そのたびにひとつ、またひとつと、夢を描く鍵が消えていきます。

 

 その時間も、そう長くは持ちませんでした。マッチの火を軽々超える寒さに子供の意識は少しずつ削られ、ぽすりと壁にもたれかかれました。

 

 どうしてこんなに、いつまでも冷たいのだろう。何をやっても温かくならないんだろう。

 

 自嘲の中で、命が深いところに落ちる。――その時でした。

 

 ――大丈夫かい?

 

 瞼を開けることもままらなくなった子供に、優しい声がかかりました。

 

 ――ふるえることもできないほど寒いんだね、かわいそうに。霜焼けでケガもしている。このままでは死んでしまうよ。

 

 あなたは、だれ?

 

 ――自分は、旅人だよ。

 

 その人は、色んなところをまわって詩をかき歩いていると言いました。吹雪がひどくなったから休もうとこの街を訪れたところ、自分を見つけたと言うのです。

 

 ――よかったら、一緒に来るかい? ここよりずっと明るくて温かいところだよ。

 

 わずかに残った気力をふりしぼり、子供はうなずきました。

 

 次に意識が戻ったとき、子供はベッドの上にいました。

 

 あたりをキョロキョロと見回すと、男が心配そうな顔で見守ってくれていました。ぼやけた視界で輪郭しか見ていませんでしたが、彼がさっきの旅人に違いありません。

 

 ――大丈夫かい?

 

 はじめと同じ質問に、子供はコクリとうなずきました。

 

 ――お腹がすいたろう。まずはこれをお食べ。

 

 そう言って彼は、ホクホクと湯気の立ったシチューを差し出してきました。

 

 いいの?

 

 ――もちろん。君のために用意してもらったんだ。

 

 彼は嘘を吐いていました。本当はそのシチューは彼のために用意されたものだったのです。

 

 旅人が子供をおぶって宿に入ったとき、宿主は汚い子供のお世話は嫌だと言って、彼の分しか料理をくれませんでした。

 

 そんな悲しいことを教える必要はないと思った旅人の、それは優しい嘘でした。

 

 当然子供はそれに気づくことなく、木のスプーンでシチューをすくい小さな口に運びました。

 

 舌先から喉へ、そしてお腹の中を温かいものがつたっていくのが自分でもわかりました。

 

 ……おいしい。

 

 今度はシチューと似た色をした野菜をいきおいよくほおばると、あまりのあつさにせきこんでしまいました。それでもこみあげてくる幸せなきもちは変わりません。旅人も一瞬あわてましたが、すぐに微笑ましそうに介抱してくれました。

 

 子供はそのうち、自然と涙をこぼしていました。

 

 うれしいはずなのにどうして泣いてしまったのか、子供にはわかりませんでした。旅人にたずねると、彼はにっこりと笑って言いました。

 

 ――人はかなしいから泣くわけじゃないんだよ。いっぱいにあふれた気持ちが、涙といっしょにこぼれるんだ。だから、今君はとても幸せってことだね。

 

 なるほど、と子供は思いました。またひとつ、知らなかったことを知れた。自分がおかしいわけじゃなかったと安心するのとどうじに、この人はとても優しくて温かい人なのだと思いました。

 

 自分を苦しめてきたこの街より、ずっと温かいと思いました。

 

 ここはイヤ。マッチの火じゃあったかくならないから。

 

 ――それはきっと、心が冷たくなってしまったからだね。そのシチューは温かかっただろう?

 

 そのとおりでした。何度もマッチを点けて近づけるより、たった一口のシチューのほうが子供にとって幸せだったからです。

 

 旅人さんは、どんなところを旅したの?

 

 ――いろいろだよ。木や葉っぱだらけなところ、水がたくさんあるところ、あついところも行ったね。

 

 そうして話してくれたのは、自分がまったく知らなかったものでした。一年中まっしろでつまらないこの街とは違い楽しいところもたくさんあるのだと知りました。

 

 だから子供は、願いました。

 

 いっしょに、行きたい。

 

 ――いっしょに? それはいけない。パパとママが心配するよ。

 

 ううん、たぶんしない。そしていつか、自分もこおりみたいにつめたくなっちゃうの。そのまえにあったかいものをいっぱい知りたい。

 

 その言葉をきいて、旅人はこの子をつれて行くことを決めました。きっとこの子はいままでずっと不幸だったのだとわかったからです。

 

 旅人もけっして、幸せな旅ばかりではありませんでした。きけんな動物におそわれたり、だれもいない森でまいごになったりと、苦難の連続でした。それでも子供をつれて行こうと決めたのは、それがこの子の幸せなのだと信じられたからです。

 

 こんなにもかわいらしい子供にひどいしうちをする親といっしょにいさせるより、たとえあぶなくても願いを叶えさせてあげるべきだと、男は思いました。

 

 そして次の日――おおきなはじまりとともに、二人のながい旅もはじまったのです。

 

 旅人との日々は、子供にとってとても楽しいものでした。

 

 川に浮かぶローレライ。色彩ゆたかな花の都。明媚のなかをそびえるバロックの宮殿。どれも子供のこころを魅了し、歩く足をとめました。

 

 旅人はそのうぶな反応を、ずっとおだやかに見守っていました。子供を見つけたときとかわらない優しさは、いままでひとりで世界を歩いてきたからこそみについたものでしょう。

 

 しかしその優しさはある日、子供の願いをさまたげることになってしまいます。

 

 南に行きたい。そう口にする子供に、旅人はかたく反対しました。

 

 りゆうをきいてもあぶないからというこたえしかかえってきません。なにがどうしてあぶないのかも……。

 

 優しい旅人の言うことです。きっと本当のことなのでしょう。ただ、それでも子供はなっとくできませんでした。

 

 だだをこねる姿に旅人はこまったかおをしています。彼は子供に、どうしてそこまで行きたいのかとききました。

 

 もっとあたたかいところにいきたいから。

 

 自分のこおったこころを、とかしてあたためてほしいから。

 

 はっきりとしたこたえに、旅人はうなずくしかありませんでした。

 

 そうしてはじまったあらたな旅は、ふたたび子供のむねをたかならせました。

 

 ぐんぐん南へおりるたび、自分たちをおおう空気の温度があがり、子供のきぶんもいっしょにあがっていきました。

 

 ただひとつ、旅人の顔色がすぐれないことだけがきがかりでしたが、まいあがっていた子供はすぐにそんなことをわすれ、ひたすら世界をくだっていきます。

 

 およそ、三か月たったでしょうか。

 

 ――大丈夫かい?

 

 三度目の質問に、子供はまたしてもこたえるよゆうがありませんでした。

 

 よわよわしくうなずくと、彼はちいさくわらいました。しかしそのほほえみはかなしそうで、なにかをあきらめようとしているようにも見えました。

 

 ――水をお飲み。

 

 いらない。

 

 ――フルーツは?

 

 食欲がわかないの。

 

 おなかはペコペコ。のどはカラカラ。なのに食べ物も飲み物も口に入る気がしません。

 

 あつい、よう……。

 

 ――あたたかいところを目指してたんじゃなかったの?

 

 うん。

 

 ――心はポカポカになった?

 

 ……ううん。

 

 たしかに楽しい旅でした。しかし、楽しいだけでした。

 

 子供が欲しいと思ったものは、手に入ることはありませんでした。

 

 すでに子供のこころは、冷えきってしまっていたのです。つよいお日様の光でいともかんたんにとけてなくなってしまうほど、子供は戻れないところまできてしまっていました。

 

 チリチリとはだが焼け始めるのを、子供は感じました。

 

 やがて指先から、ボッと火がつきました。すべてのきっかけだったマッチの火と、たいへんよくにたちいさな火です。

 

 自分のからだが燃えていくのを見て、子供はやっと旅人の思いがわかりました。

 

 彼は知っていたのです。ここは子供が生きていられる場所ではなかったと。このあてのない砂漠では、子供も同じようにちりになってしまうと。

 

 子供の憧れていたものがけっして思ったとおりではない、おそろしい灼熱であることを、旅人はわかっていたのです。

 

 そしてそれを教えてくれなかったのは、夢を守るためでもあったのだと、子供は思いました。

 

 命の灯がつきようとしていた子供から最後の希望をうばうことは、優しい旅人にはとてもできなかったのでしょう。

 

 ああ、やっぱり温かい人なんだ。

 

 この世でもっとも冷たいものが訪れようというのに、子供の心はとても温かくなりました。

 

 最後に見る景色が、何もない砂の海だったとしても。

 

 こんな素敵な人が見守ってくれるなら、それで十分。

 

 いちばん欲しかったものがずっとそばにあったことを、子供は最後に知りました。

 

 だからでしょう。

 

 マッチの火が身すべてをおおう間際、わずかに見せた表情は、とてもうつくしい笑顔でした。 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

変夏

アンケート引き続きよろしくお願いします。

3章の献立は
労働過多のオリ主、テンパる綾小路、またしても何も知らない堀北
の3本を予定しています。更新したあらすじを含め、もしかしたら急遽予定を変更するかもしれないのであしからず。


 視界を光が包む。

 

 不意を突く眩しさに、思わず目をすぼめ手のひらをかざした。慣れてくると、それが天井に設置された電気であることに気づく。

 マホガニーの天井。見たことのない、白くない空だ。

 先程から香ばしい匂いが鼻腔をくすぐっている。興味をそそられ、むくりと体を起こす。

 生存権に関わる代物以外で部屋に置いてあるのは本くらいだ。むつかしいものから軽快な文調のコメディまで多種多様。読んだことがあるようなないような――よく覚えていない。

 徐に扉を開け廊下に出ると、下に伸びる階段が見えた。なにやらそちらから物音や話し声が聞こえる。匂いの元もそこだろうか。

 スタ、スタ、スタ。一歩ずつ慎重に下る。段々とはっきり耳に届く声は、聞き覚えがあった。

 やがて一つの扉の前にたどり着く。警戒気味に開けてみると、

 

「おお、遅かったじゃねえか」

 

 大柄な体型の少年が言う。彼は――須藤だ。

 

「いつも通りじゃない。パッとしない寝起き顔も」

 

 そう辛辣な一言を挨拶代わりにするのは鈴音。

 二人共同じ食卓の席に着き、並んで朝食を食べていた。

 ――ああ、そうだった。

 ボヤケていた記憶を取り戻し、二人に倣い向かいの席に座る。

 間もなく目の前に、小さく切り分けられた肉が用意された。

 

「おはよう、綾小路君」

「おはよう、櫛田」

 

 エプロン姿の彼女は櫛田。

 そしてオレは、――オレの名前は、綾小路清隆。

 オレたち四人は一つ屋根の下、ずっと一緒に暮らしている。

 

「三人共、今日はどれくらいで帰ってくる?」

「俺は部活があるから遅くなるぜ」

「あなたに答える義理なんてないわ。プライベートだもの」

「そんなに冷たいこと言わなくてもいいじゃない堀北さん」

 

 いつも通りのやり取りだ。ありきたりの日常なのだから、何も感じなくて当然のこと。

 今度はオレに話が向く。「綾小路君は?」

 

「あー、えーっと、特にないから、早いんじゃないか?」

「煮えきらないね」

「あまり計画的じゃないんだ。鈴音と違って」

「どうせ計画をたてられるほどの用件がないだけよ。あなたの場合」

「酷いな。オレだって頑張ればクラスから引っ張りだこに」

「今の境遇に嘆いている時点で可能性はゼロよ」

「はいはい喧嘩しないで。二人共ホントに仲が良いんだから」

「ちょっと、これのどこが仲良しなのよ」

「今のは誰が見たってそう思うだろうよ」

 

 途中櫛田も朝食を齧り始め、四人の団欒の一時。

 

「――そうだ。今日も来るんでしょ? 坂柳さん」

「ああ、迎えに来てくれる」

「ふふ、綾小路君にも春が来たんだね」

「別に、ただの幼馴染だ」

「ホントかよ。だいぶ仲睦まじげだったと思うがな」

「こんな男のどこに魅力を感じるのか、甚だ疑問ね」

「堀北さん、綾小路君のこと大好きだもんね」

「違うわ」

 

 食事が一段落したところで、櫛田がもう一度オレの名前を呼ぶ。

 

「ごめん綾小路君。悪いけど冷蔵庫から飲み物出してもらえる?」

 

「わかった」素直に従い席を立つ。

 

 数メートル離れたところにある冷蔵庫へ向かう。家の中でも一際大きく、目立っていた。

 扉を開けると中に入っていたのは――――首だ。人の生首。

 真っ白な箱の中にぎっしり敷き詰められ、力無く開いた目をこちらに向けて乱雑に並べられている。

 続いて扉の裏面に配置されているボトルに目をやる。黒がかった赤の液体。櫛田が言っていたのはきっとこれだ。

 さっと取り出し、届けに行こうとした――その時だ。

 踵を返した背後から強い力で引っ張られ、冷蔵庫の中に引きずり込まれる。

 何だ、何が――。

 次にハッとしたとき、オレは白い空間に閉じ込められていた。

 ここは、冷蔵庫の中?

 ついさっきまでの出来事を顧みるとそれが最も納得できる。一体どうしてこんなことに……。

 

「ねえ」

 

 不意にすぐ後ろから声が掛かる。全く気配に気が付かなかった。

 反射的に振り向くと人影が見えた。精々人だと認識できる程度の情報しかなく、モヤがかかっていてシルエットしか確認できない。決して自分が寝惚けているからではない。

 

「元気にしてた?」

 

 感情の乗らない声でそう聞かれた。オレと、似ている。

 

「綺麗なものは見えた? 他人の声は聞こえた? 良い匂いはした? 美味しいものは食べた?」

 

 ただでさえ近かった間合いが少しずつ狭められ、一歩分にまで縮む。

 

「色んなものに、触れた?」

「お前は…………誰だ?」

 

 問うと、返答はすぐだった。

 

「誰でもない。何者でもない。私は、僕は、俺は、だあれ?」

 

 その影は静かにオレを指す。

 

「だあれ?」

「…………オレは」

 

 難なく答えられるはずの問いだ。でも、聞かれているのはそういうことではないような気がして、言葉に詰まってしまう。

 どんな私情があろうと、今までのオレはここが全てだった。そんなオレが全く別の環境で育ったとして、過去に価値があったと言えるのか。

 今変わろうとしているオレとかつてのオレ、どちらも否定せずにいられるのだろうか。

 目的に支配された憐れな船と、自分は似た状況なのかもしれない。

 葛藤に陥ると、徐々に視界が覚束なくなっていく。意識も遠くなっていく。

 沈黙の間際、微かに残っていた思考が、相手の最後の言葉を何とか認識する。

 

「大丈夫。だって人の情緒は――」

 

 頭の中にこびり付く言葉。

 精神の奥底で、ずっと反芻されている言葉だった。

 

 

 

「――――じくん。――のこうじくん。綾小路君」

 

 優しい声に意識が覚醒する。

 ゆっくりと瞼を開けると、先程とは違い見慣れた景色が出迎えた。どうやら寝てしまっていたらしい。

 壁にもたれて座る自分をトントンと起こしてくれたのは、目の前にいる少女だ。

 

()()?」

「そのままではあまり体が休まりませんよ。お互いそろそろ自室に戻りましょう」

 

「ああ……」時計を見ると、既に22時を回っていた。「そうだな」

 

「気に入ってもらえましたか? それ」

 

 彼女の視線を辿り、自分がこうして眠りにつく直前に何をしていたのかを思い出す。

 手元に握っている新刊。ささやかな葛藤や問題を経てある家族が結束を深めていく、温かい物語だ。

 さっきの夢、もしやこれの影響だろうか。少々曖昧になっているが、そんな気がする。

 

「椎名はこんな時間までずっと?」

「はい。キリが良くなったので、帰る前に一言掛けておこうと思いまして」

 

 三時間ほど前に自分がここへ来た時、椎名は既に本を読んで寛いでいたはずだ。途中休憩や雑談を挟んだとはいえ、さすがは本の虫。恐ろしい集中力だ。

 

「恭介は?」

 

 問うと彼女はベッドを指差す。

 丁寧に布団を被り、静かに寝息をたてる姿が確認できた。

 

「九時ごろにはこの有様です。『自由に過ごしてくれたまえよ』とのことでした」

「相変わらず早いな。それに無防備だ」

「ちょっと心配になるほどですね」

 

 自分の部屋なのに本人が真っ先に熟睡を始めて身内は放置なんてマネ、普通はしない。多分。

 おまけにオレたち全員に合鍵を進めてきたほどだ。「態々僕の許可を挟むのも面倒くさい」という理由らしい。

 

「ありがとな、歓迎してくれて」

「浅川君が信頼している時点で、悪い人ではないと思っていましたから。神室さんと神崎君も同じ理由だと思います」

 

 最近のことについて改めて礼を述べる。連絡帳に他クラスの名前が登録されることの感動たるや。七月を前にして喜ぶべきビッグイベントだ。

 やがて荷物をまとめた椎名が玄関へと向かう。

 

「綾小路君は泊まるんですか?」

「いや、やめておくよ。そういう椎名は?」

「さすがにまだ恥ずかしいので……神室さんと神崎君も一緒にお泊まり会という形でしたら面白そうですが」

 

 恋愛に疎い椎名――数回の会話で何となく察した――でも男女二人きりで同じ部屋に寝るという行為に思うところはあるようだ。決して浅川を信じていないというわけではないのだろう。

 その点恭介の方が不安かもしれない。何せこの部屋で夜を明かしてもらって構わないと最初に言ったのは彼自身なのだから。

 椎名の発言からもわかる通り、やはり四人には心許せるほどの絆があるらしい。

 

「ではまた。次は……」

「悪いな。不定期だ」

「わかりました。いつかを楽しみにしていますね」

 

 嬉しい言葉を残し、彼女は帰っていった。

 ふっと一息つき、恭介の方を見る。

 椎名ひより。神崎隆二。神室真澄。

 三人との交流は、彼の提案で先日から始まった。

 頻繁に恭介の部屋に集結する三人。そこに図々しく割り込もうとまでは思っていなかったが、全員快く受け入れてくれた。――いや、神室の場合はただ関心がなかっただけのうような気もする。

 とはいえ自分は新参者。さっき椎名にも言ったが、気が向いた時にお邪魔させてもらうくらいで十分だ。引け目とかではなく、純粋にそう思っている。

 いずれにせよこの三ヶ月間、人間関係についてはありがたいことに恭介に何度も助けられている。。

 鈴音。櫛田。須藤。沖谷。平田。あと池と山内。彼の存在がなければその全員と今ほど良好な関係を築けたか怪しい。

 坂柳に至っては、彼女が恭介と遭遇していなければオレたちが互いを認識するのは極端に遅れていただろう。

 こうして友達づくりの意欲を維持できているのも、そういう成功体験が後押ししてくれているからだ。やればできる、安直だが捨てきれない言葉かもしれない。

 ――さて、そんな状況整理に近い己への近況報告を済ませたのだが、まだ体を動かす気になれない。

 頭の中で引っ掛かる二つの疑問。生まれたのは、ついさっき。

 不思議な夢を見た。まるで三人と家族であるかのような、現実以上に心の距離が近い関係。

 それはまだいい。歪だがオレがあいつらを想っている故だと思えば頷ける。

 だが、最後に見たものは何だったのか。

 何かを忘れているような気がする。全てに無頓着だった自分がこうも意識した相手。

 ……駄目だ。自分がしてきたことは思い出せても、自分の周りのことは当時の人格のせいで全く記憶に残っていない。非常に気になるが、今は諦めるしかなさそうだ。

 そしてもう一つ。一つ目より遥かに明確で強い違和感――。

 オレは彼の顔を、もう一度よく見る。

 ――どうしてあの家に、恭介はいなかったのだろう。

 

 

 

 

 

本能。――家が燃えているときには、昼食も忘れてしまうものだ。ーたしかに。しかし家が燃えてしまったら灰の上でまた食べ始めるのだ。

Der Instinkt. ―― Wenn das Haus brennt, vergisst man sogar das Mittagsessen. ―― Ja: aber man holt es auf der Asche nach.

 

フリードリヒ・ニーチェ

 『善悪の彼岸』

 

 

 

 それに、何より今気掛かりなのは……

 

 コイツの鼻ちょうちん、一体どんな仕組みなんだ。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 正直舐めていた、と言わざるを得ない。

 いつも以上に気怠げな姿勢で道を歩く。滴る汗は、拭っても拭っても止まらないのでとっくに放置している。

 こんな暑さは聞いていない。いくら心身を鍛えようが気象に慣れる体をつくるのは難しいものだ。

 出発前に携えたミネラルウォーターを勢いよく飲む。あぁ、めっちゃ美味しい。紛うことなきベストドリンク。世界最後の日にあなたは何を飲みますかと聞かれたら水ですと答えよう。

 猛暑の中自分の手に握られたオアシスに感涙を流していると、珍しい人物とエンカウントした。

 

「外村?」

「やや、これは綾小路殿」

 

 彼とちゃんと話したことはほとんどないが、癖が強すぎて時々何を言っているのかわからないという印象はある。オレに殿を付けるのは生涯後にも先にもコイツだけだろう。

 

「今日は随分と早いじゃないか。どうしたんだ?」

「あっ! あ、いや別に、何もいかがわしいことなどありませぬぞ?」

「……」

 

 触れるべきだろうが。触れないべきだろうか。

 ……まあ、彼には特別な用事があるということだけわかればいいだろう。

 

「そうか。早起きもたまには悪くないだろう?」

「そ、そうでござるな――」

「おっはようごっざいまーーすっ!」

 

 突然後ろから元気な挨拶が発せられる。

 

「おはよう、恭介」

「あれ? 君は確かー、秀雄じゃないかあ」

「あ、ああ浅川殿。ご機嫌うるわしゅう」

 

 動揺のあまり一層不思議な言葉遣いになっている。どうにも不自然だ。いや、いつも不自然な気もするけど。

 

「どうしたんだい、こんな早くから」

「オレも聞いたんだが、歯切れが悪くてな」

「べ、勉強でござるよ! この前のテスト、あまりいい結果ではなかった故」

 

 確かに、赤点候補ではなかったものの外村の点数は全教科中の下といったところだった。

 しかし――ならばなぜ隠す必要が?

 

「と、とにかくっ! 拙者は失礼するでござる」

「おいおいそんなに冷たくせんでも――」

「ドロンッ!」

 

 そう言うなりあわあわと彼は学校へと走り出す。途中電柱にバッグをぶつけ、鈍い音と共に「わぎゃあっ!」と叫び声をあげていた。

 

「何だって言うんだ……」

「あ! おい清隆、このままじゃまずい!」

「は?」

「一番手、あいつに取られる!」

「ああ、お前はずっと続けてるんだったな」

 

 オレは目覚めが良い時や気が向いた時だけにしようと決めたのだが、恭介は相変わらずクラスで一番に登校しているらしい。あの日櫛田にしてやられたのが余程プライドに傷を与えたようで、こんな風にムキになることがあるほどだ。

 

「別に無理して急がなくてもいいだろう」

「あんたバカァ? トップをねらえ!」

 

 昂ったまま彼は馬鹿みたいなスピードで駆け抜けていく。あっという間に抜かされた外村が再び奇声を発していた。

 ……やれやれ。

 久しぶりに競走も悪くないだろう。今周囲にある目も外村以外にないようだ。

 多めに水を補給し、恭介に追いつくべく少しばかり強めに前へ踏み込む。

 須藤たちとのトレーニングは勿論今も続いているため、頬をはたく生温い風にもそろそろ慣れてきた。正直春先の頃の方が程よく冷たくて気持ちよかったが、これまた新鮮。

 外村の三度目の大声を傍耳に、オレはワンツーフィニッシユのウイニングロードをのびのびと駆ける。

 

 

 

 

「どうして汗まみれなの……?」

 

 鈴音が開口一番引き気味な声で言う。

 

「代謝がいいんだよ」

「大自然の恐ろしさを知った……」

「そっちはジャングルを彷徨ってきたみたいに満身創痍のようだけど」

 

 恭介はその顔面と同じくキラキラ眩い表情で言ってのけたが、オレはそうもいかなかった。

 体力の限界ではない。運動を怠っているわけではないので身体能力に致命的な低下はないはずだ。

 ただ、やはり暑さに敵わない。ここまでの疾走自体久しぶりだったのもあり、思わぬ痛手だ。

 ペットボトルの蓋を開けるが中身は数滴。もう一本手にしておくべきだった。今は買いに行くのも面倒くさい。

 

「朝から汚いわね」

「男の勲章――って前にもこんなことあったな」

 

 いい加減こいつも清々しい発汗を知るべきだ。今度恭介に頼んで無理にでも三人で運動をしてやろうか。

 

「おはよう堀北さん。綾小路君に、浅川君も」

 

 次なる来訪者は櫛田。満面の笑みで手を振っている。

 

「おはようくし」

「おっはようごっざいまーーすっ!」

「……今日はやけに元気だな」

 

 普段欠かさず挨拶をしているやつではあるが、端的に声がでかい。

 

「堀北さん、おはよう」

「……」

「挨拶は大事だよ? ほら、浅川君みたいにさ」

「…………はあ。おはよう、櫛田さん」

「うん!」

 

 オレたちそっちのけで、鈴音と二人の世界に没頭し始めた。

 ――気が気ではないのだろう。

 あの日、鈴音と櫛田が腹を割って話して以降、櫛田から鈴音への接触が極端に増えた。今まで半信半疑だった彼女の秘密の認識が事実だとわかったからに違いない。

 所謂監視。やはりあの毒づいた言葉の数々は本心だったようだ。

 それに対して何かを思うことは特にない。――特にないつもりなのだが…………やめておこう。誰かに明かすこともないし、自分でもあまり考えたくない。またしても本能が拒絶を訴えている。

 とは言え、こちらへの疑いも健在だろう。寧ろ深まっているかもしれない。鈴音と特別仲が良いと認識されているオレと恭介が、彼女から何かを聞いている可能性は十分にある。オレが櫛田の立場だったら、気を許すことなど当然できない。

 あくまでオレたちは素知らぬふりだ。彼女の深淵に触れるのは、まだ時じゃない。その下準備は慎重かつ着実に進める必要がある。第一歩として、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「それでね堀北さん――」

「おはよう櫛田ちゃんっ!」

 

 仲睦まじげ(笑)な二人の少女に割り込んできたのは、中間テストで赤点候補筆頭だった三人と、沖谷だ。

 

「今日も最ッ高に可愛いぜ!」

「ふふ、ありがと」

 

 いよいよ賑やかになってきた纏まりに、鈴音がわざとらしく溜息を吐く。

 

「勘弁してほしいものね……」

「そりゃねえぜ堀北。俺らは仲間だろ?」

「遺憾ながら、ね。馴れ馴れしくするつもりはないわ」

「あはは……。相変わらずなんだね、堀北さん」

 

 須藤と沖谷が苦笑するが、奇遇なことにオレも似た思いだ。

 

「もう諦めて慣れる努力をしたらどうだ?」

「いやよ。まるで私が負けたみたいじゃない」

「何と闘ってるんだ……」

 

 オレには理解しがたい「譲れないもの」があるようだ。さっきも櫛田に言葉の雨を浴びせられながら飄々と読書に耽っていた。

 

「――ホームルームを始める。早く席に着け」

 

 定刻通り茶柱先生が入室し号令を発す。

 今日もまた、日常が始まる。

 とっくに得た知識を再び習う日常が――。

 

 

 

 

 帰り道のことだ。

 今日は人と会う約束があると言って別れた恭介を抜きに、鈴音と二人で歩いていた。

 

「こうしていると、何だかオレたちカッ」

「……」

「プヌードル買った時のこと思い出すよなぁ……」

 

 怖すぎ。

 

「……そろそろ七月ね」

「湿り気が増えてきたな。今だって曇り空だ。ナイーブになる」

「そうね」

 

 梅雨も無論初体験だ。事前に調べていた通り、ジメジメというオノマトペがしっくりくる高温多湿。これなら米屋も繁盛しそうだ。

 だが、彼女が話したい内容はそれではないのだろう。

 

「ポイント、入るかしら」

「どうだろうな。入らなかったら、Dクラスの大半は今月中に無一文だ」

 

 いくら節約してきた生徒でも、四か月支給がなければ貯金の底は尽きるはずだ。この暑さだと余計出費も膨れるだろうし。

 ふとした違和感に宙を見上げると、数羽の群になっている鳥たちが飛んでいるのが見える。

 ――ん? 違う、違和感の正体はこれじゃない。背後の、音。

 振り向くと、見慣れない飛翔体があった。

 

「あれは何だ?」

「ドローン……」

 

 オレの動きに気付いた鈴音が同じ物を見て呟いた。

 ドローン。俗には大衆が開放的な趣味として愛用する小型機を指すが、本来は無人航空機全般を表す名称だ。交通や農業に用いられるものから軍用まで、あらゆる種類が当てはまる。

 それについては今はどうでもいい。俗に合わせた話ができる以上のことは必要ない。

 

「いいのか? 敷地内だぞ」

「さあ。許可を取った上での娯楽なのか無許可の放蕩なのか、興味ないわ」

「Dクラスのやつだったら最悪クラスポイントに響くかもしれない」

「ならどうするって言うの? どのみちあんなにも目立ってしまっては手遅れよ。それに」

「それに?」

「一年D組であれを手に入れられる経済力を持つ人に心当たりがないわ」

 

 なるほど、一理ある。

 少々気掛かりだが、追及する要素もないし態々鈴音との下校を放棄してまで見物しに行くほどの関心もない。

 足を動かそうとすると、快活な声が届いた。

 

「あれ、堀北さんと、えーっと……」

「綾小路清隆だ。よろしく、一之瀬」

 

「うん、よろしく!」一之瀬帆波。Bクラスの実質リーダー。――いや、確かクラス独自の役職システムで委員長に任命されていたはずだ。ならば名目上もリーダーか。

 恭介が過去問を提供した相手が彼女だ。どんな交渉が行われたのか興味があるが、生憎鈴音がいる。

 

「一緒に帰ってるんだ。もしかして、付き合ってたりする?」

「バッタリ遭遇した友人と無理に距離を取って帰ることもないだろう。目的地も同じことだしな」

 

 今の鈴音を前に調子の良いことを言えるほど無神経ではない。彼女を憂え、即座にバッサリと否定する。

 

「仲が良いんだね。この前図書館でも一緒にいたし」

「……要らない縁に捕まってしまっただけよ。あまりそういうことを軽々しく口にされると不愉快だわ」

 

 自分だけ無言なままなことに居たたまれなさを感じたのか、ここで鈴音が口を開く。心無い言葉だ。

 

「そういう一之瀬は一人なんだな。寧ろ囲まれて下校するくらいだと思ってたけど」

「部活がある人多いから。ずっとみんなでっていうのも疲れちゃうしね」

 

 部活か。南東トリオ揃って無所属だったために失念していた。Bクラスはそういうところも含めて優等生のようだ。

 

「やってる人からすれば有意義なものなんだろうな」

「実績を残せば個別にポイントも支給されるみたいだからね」

 

「何ですって?」重要な発言に、突然鈴音が前のめりになる。

 

「にゃ? 先生から説明なかった?」

「あの人、また……」

 

 懲りない担任だ。中間テストの範囲変更と同様、故意に情報を伏せていたのだろう。

 理由は――オレと恭介とで共有していた茶柱先生の裏事情と照らせば答えは出る。個人のプライベートポイントよりもクラス全体の成績を優先してもらいたかったからだ。

 

「なら須藤あたりは期待できるかもしれないな」

「うちだと柴田君がすごいみたい。あ、平田君と同じサッカー部なんだけどね」

 

 もしかしたら、各クラスある程度分野ごとに優れた生徒が配属されているのかもしれない。身体能力を活かすイベントの可能性は考慮済みだ。

 

「あいつを助けた意味、一つ形になったな」

「でなければ困るわ。タダ働きしたつもりはないもの」

 

 至極無愛想ではあるが、彼女の言っていることはごもっともだ。恭介やオレはともかく、こいつに須藤を助ける感情的な理由はない。

 

「そういえば、浅川君はいないんだね」

「人と会う約束があるらしくてな」

「そうなんだ。――あ、もしかして、神崎君たちかな」

「何か心当たりがあるのか?」

「うん。まあ大したことじゃないけど」

 

 それから短い雑談を挟み、一之瀬は帰路の先を往った。

 

「彼女のこと、どう思う?」

 

 意外にも鈴音から話を振られた。

 

「可愛い、善良、人気者。実に簡潔なステータスだ」

 

 容姿の善し悪しは生まれながらにして定まっているものだが、性格はそうもいかない。櫛田とは違い、一之瀬は心の底から人を想える少女といった印象だ。

 ……それを自分に課しているという意味では恭介に近い。

 

「……そう。綾小路君は、ああいう人が好みなのね」

「ん、どうしてそうなる?」

「随分とべた褒めじゃない」

「そうか? ありきたりなことしか言えなかったつもりだが」

 

 微妙に棘のある言い方だ。表情も心なしか曇っている。

 

「……嫉妬しているのか?」

「あり得ないわ」

 

 …………ふーん。へー、そういうことね。

 

「――行くか」

「ちょっと待ちなさい。何、そのにやけ顔」

「別に。我らが姫は可愛らしくなったものだと思っただけだ」

「茶化さないで。その呼び方、気持ち悪いわ」

「はいはい」

「……あなた、普段無表情で正解よ。笑っていると更に気持ち悪いから」

 

 今日も、オレたちの関係は良好だ。

 




さて、おやと思った方もいるでしょうが、本章の一人称担当は綾小路君です。メインで動くのは彼ですが、オリ主も同じくらいウヨウヨ動くため、展開の全てを明かさずミステリー色の強い章になると思います。最終的に全貌がわかるようがんばります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

予完

さり気なく幕間その2が追加されました。サブタイは「魔都」です。

番外編、もう少しアンケート集まるのを待ってから考えますが、やるとしたら今月中には始めてこうかなって感じです。


 七月三日。土日明け。

 模範的な生徒らしい振る舞いを身に着けつつあるDクラスであったが、今日はそわそわと焦れったさを滲ませていた。

 唯一いつも通りを貫く茶柱先生は、その違和感に気づいたようだ。

 

「どうしたお前たち。やけに落ち着きがないな」

 

 事情を分かった上で敢えて問う。

 声を張り上げるのは池だ。

 

「今日から七月、ってことは、ポイントが入る日っすよね! 朝確認しても変わってなくて……」

「案ずるな。学校側もお前たちの努力は十分把握している」

 

 宥める先生が、いつしかのように片腕に抱えていた筒状の紙を広げ黒板に貼る。

 

「つべこべ話すより先に、まずは今月のクラスポイントを発表しよう」

 

 喧騒を先読みした彼女は、結果だけを早々公表することを選択したようだ。

 書かれていたのは、Aクラスが1010cp、Bクラスが690cp、Cクラスが530cp、Dクラスが90cpという結果。一番伸びがいいのはDクラス、次にAクラス。BとCは同じ上がり幅だ。

 

「きゅ、90!? 俺たち90ポイントも増えたのかよ! すげえ!」

 

 湧き立つ教室。小遣いが増えるというより、今は純粋に自分たちの努力の成果が形になった事実を喜んでいるように見えた。

 そんな中、悲しいかな、オレたちは冷静な分析を行っていた。

 

「どのクラスも伸びてる……」

「でも少しは差が縮まった。いいことだね」

「…………そうだな」

 

 おかしい。真っ先に思った。

 一番内情を理解しているDクラスを基準にしてみよう。AクラスがDクラスより20cp少ないのは、独力で優れた学習をした集団と過去問という裏技を使った集団との差と見ることができる。Bクラスは過去問がもたらされたのがギリギリだったことと生真面目な生徒がそれでも敢えて正面突破を貫いたことを想像すれば頷ける数値だ。

 問題はCクラス。Cクラスは恭介から過去問をもらってはいない上、オレたちと同様下位クラスだ。椎名のように学力以外に問題を抱えている生徒が多いという線は、暴力的という特徴から消える。明らかな矛盾だ。

 簡単に答えを見出すなら、誰かが悪知恵を働かせ、Dクラスと同じように能動的に過去問を手に入れたのだろうか。

 

「安易に喜ぶんじゃないぞ。他クラスも大して変わらない量のポイントが増えている。これは中間テストを乗り越えた一年生へのご褒美のようなものだ。各クラス最低100ポイント支給されることになっていただけに過ぎない」

 

 そこから細かな生活態度、授業態度による減点が加味され今回の結果に至る、ということか。

 

「感想はどうだ、堀北」

 

 不意に先生が鈴音に問いかける。彼女の横顔はあまり明るくない。

 

「何故私に振るんですか?」

「学年一番の伸びだったというのに、随分浮かない顔をしているからな」

 

 先生の嫌味な笑みからして、注目を浴びることに慣れていない鈴音へのイタズラのようだ。幼稚な真似をする。

 

「綾小路君、説明を」

 

 一々語るのを面倒くさがる彼女が、綾小路に押し付けようとする。

 ………………ん?

 

「いやいや、何でだよ」

「大勢の前で堂々と喋る機会を与えようという気遣いよ」

「聞かれたのはお前だろう。それくらい自分で答えてやれって。てか、社交性って点じゃ大して差はないと思うんだが」

 

 反論を聞くつもりはないのか、固く口を閉ざし澄まし顔をしている。

 えー、いやだなー。オレだって不必要な注目は望んでいないのに。

 

「恭介、頼む」

「嫌な予感はしてたけどさあ」

 

 前の席に助けを求めると、何とも微妙な表情で振り向かれる。

 

「三人の中じゃ一番得意だろう。こういうの」

「鈴音のSOSは君に向けたものだろう? 今こそ一皮むける時だよ、ブレイバー清隆」

「売れない芸人みたいな呼び方をしないでくれ。面倒事は嫌いなんだ」

「僕らのシンパシーを忘れないでおくれよ」

 

 それはそうなんだけどさ。さすがにこの状況は困る

 すると突然、教室中がクスクスと小さな笑いに包まれた。

 ……ああ、しまった。オレたちのやり取り、完全に駄々洩れだったな。

 三人共々、結局視線を浴びることになってしまった。

 

「はは、お前たちは相変わらずだな。クラスに見せびらかすのも程々にしておけ」

 

 誰も言い返さない。ここで何か発しても燃料に薪をくべることになるだけだ。

 

「そうだな。だがやはり、私が質問した相手は堀北、お前だ。担任の指命を無下に断り続けるのは感心しないぞ」

 

 瞬間、オレと恭介はあからさまなガッツポーズを取る。

 暗にこれ以上の反抗にペナルティを設ける、と言いたげだ。それを察した鈴音は顰め面になりながら渋々答える。

 

「先生の言う通り、どのクラスも引けを取らずにポイントを伸ばしています。私たちが上へ昇るためには、今以上の努力が必要になってくるでしょう。全く以て気を抜けません」

「フッ、お堅いことだ」

「ただ、安堵もあります」

「ど、どういうことっすか、堀北先生」

 

 池が割り込んで問う。先生という響き、鈴音はいまだに気に入らないようだ。

 

「過剰なマイナスは存在しなかった、ということよ」

「僕たちの負債が見えないペナルティになっていたら、今月も0ポイントだった可能性があるからね」

 

 首を傾げる一部の生徒に平田が補足を入れる。こういう時にまで気の回るやつだ。羨ましい。

 

「あれ? でもさ、じゃあなんで1ポイントも振り込まれてないんだ?」

 

 歓喜のムードが広がる中、山内が一石を投じる発言をする。

 ホームルーム直前のガヤついていた空気の原因はそれだ。どうやらうちのクラスだけでなく学年全員がポイントを支給されていないらしい。

 茶柱先生曰く、少しトラブルがあったのだとか。それを聞いた瞬間、オレたち三人は顔を強張らせる。

 何かある。そうに違いない。

 一年生のみという時点で、学校側の不備とは考えにくい。あるとしたら、生徒側に何かしらの問題が発生したのだろう。

 そして――教室を出る間際の先生の言葉。

 

「トラブルが解消されれば追って支給される。残っていれば、だがな」

 

 当事者は、きっとDクラスにいる。

 

 

 

 放課後、オレは一人校舎裏へと向かう。

 用件は一之瀬からの呼び出しだ。まさか告白!? だなんて思ってはいない(最初は一瞬思ってしまったが)。

 オレは四割という多めな期待と五割の諦め、そして一割ばかりの興味を胸に角を曲がる。

 果たして、落ち着かない様子の一之瀬の姿がそこにあった。ほんのり顔が赤い。

 ……え、これって、マジなのでは?

 浮かれた気持ちが期待を二割嵩増しさせる。これでオレのマインドスペースはマックスが120%になった。

 

「話って?」

「えっとね、その、私…………告白」

 

 ああ、なるほど。

 どうやらこのクールな外見が彼女を惹きつけてしまったらしい。オレも罪な男だ。

 加えて誠実な態度もまた心を魅了してしまったのだろう。これは責任を取らなければなるまい。

 オレは悟られないように心の準備をし、

 

「されるみたいなの……」

「フッ、いい――え?」

「告白されるみたいなの!」

 

 とんだ肩透かしを食らった。

 

「……説明してもらえないか?」

「朝、自分の下駄箱を開けたら、これが入ってたの」

 

 そういって彼女が見せたのは、可愛いらしい桃色の封をした手紙だった。

 

「私、その子とそんなつもりはなくて、だからなるだけ傷つけないように断りたいんだけど……どうすればいいかわからなくて」

「それで、どうしてオレが呼ばれるんだ」

「綾小路君には、今だけ彼氏のフリをしてもらいたいの。ダメかな?」

 

 人畜無害かつ色恋沙汰と縁のなさそうなオレは都合がよかった。そんなところだろう。

 当然、簡単に頷くわけにはいかない。

 

「普通、一対一で話し合うべきなんじゃないか?」

「でも――」

「お前が逃げてどうするんだ」

 

「え?」一之瀬は呆然とオレの言葉を聞く。

 

「その手紙が一体どんな想いで綴られたのか、お前は少しでも考えたのか? 考えたならわかるはずだ。そいつがどれだけ勇気を振り絞ったのか」

「それは……」

「葛藤に苛まれても、自分の気持ちから逃げたくなくて、そういうのを託すのが手紙なんだ」

 

 関わったことのないものだが、直接言えないことをどうにか伝える手段の一つが文字だというのは、何となく理解できる。本来ならそれでも無理矢理面と向かって伝え合うのが理想であろうが、誰もができることではない。

 

「本当に傷つけたくないなら、嘘は良くない。当たり前のことだろう。今度はお前が逃げずに応えてやる番だ」

 

 責任というものは、望まずとも降って湧いてくることがある。

 一之瀬は愛された者として、その責を果たさなければならない。嘘を携えて向き合うのは、それを踏みにじる行為だ。

 それに、

 

「自分の貞操にも、もう少し気を遣ったらどうだ?」

「え?」

「本当に好きな人ができるまで、嘘でも彼氏を匂わせるようなことはしない方がいいと思うぞ。多分」

 

 余計なお節介かもしれないけどな。

 

「……うん、そうだね。ありがと、綾小路君」

「オレでなくとも言えることだ。頑張れよ」

 

 オレはその場を去り、近場のベンチで数分待つことにした。

 茜色の空を、ぼんやりと眺める。

 恋、か。初めて考えたのは四月の中旬。櫛田から平田と軽井沢のカップルの話を聞かされた時だ。

 やはりイマイチ、想像のつかないものだ。告白するもされるも、一体どんな気持ちなのだろうか。実際に体験してみないとわからないものなのかもしれない。

 やがて一人の女子生徒が嗚咽を堪えながら走り去るのが見え、続いて一之瀬がこちらへ歩んできた。

 

「上手くいったみたいだな」

「え、どうしてわかったの?」

「相手の泣き顔と、お前の今の表情を見れば何となくな」

 

 一之瀬がしっかりと断ったことは容易に察せるし、彼女が言葉を選べない人間ではないことは信じられる。

 

「……私、千尋ちゃんを傷つけないことばかり考えて、逃げようとしてた。――間違ってたね」

「いいや、最後には間違えなかったじゃないか。起こらなかった不幸を考える必要なんてない」

「……そう、だね。でも、泣いてるあの子を見て思っちゃった。これで良かったのかなって」

 

 優しい一之瀬は、自分の言葉が相手を傷つけたことを、まだ引きずっているようだ。

 しかし、人は傷つけず、傷つけられずに生きることなど到底できない。

 オレは、それを知った。

 

「カサブタと同じだ、一之瀬」

「え?」

「心を強く持つために必要な傷、乗り越えなきゃいけない悲しみはある。一之瀬が相手に与えた傷は、優しいものなんだとオレは思う」

「優しい傷……変だね。優しいのに傷だなんて」

「世の中そういうものはたくさんあるさ。よかれと思ってしたことが、かえって相手を追い詰めてしまうことだってな」

「……綾小路君は、そういう経験があるの?」

「最近な」

「そっか……」

 

 彼女は憂いのこもった目で空を見る。

 簡単に納得できないのは彼女の性格故だ。この学校では時に短所に成り得るかもしれないが――彼女にはそのままでいて欲しいと、漫然と思った。

 

「今日はごめんね、綾小路君。アドバイスまでもらっちゃって」

 

 謝罪をする一之瀬。オレが返すべき言葉は……、

 

「そういう時はありがとうでいい。謝られる覚えはないからな」

「――! わかった。ありがとね、綾小路君」

 

 これにて一件落着。お互い分かれ、帰路に就こうとしたのだが、

 

「ん?」

「お」

 

 意外なところで恭介と鉢合わせになった。

 しかもその傍らに立っているのは、

 

「ち、千尋ちゃん!?」

「い、いいい一之瀬さんっ!?」

 

 何とも奇妙な流れになってきた。

 

 

 

 

「あっはは、そっか、君は帆波に助言したのかあ」

「まさかそっちに恭介が付いていたとはな」

 

 先程のベンチに戻り恭介と会話に耽る。

 事情を尋ねると、彼と少女――白波千尋の縁はGWかららしい。

 その時助けてくれた彼に遅ればせながらお礼を言いたいということで、数日前に白波の方から神崎を介してコンタクトがあった。

 そして後日、物陰からひっそりと一之瀬を覗く白波の姿を発見。声を掛け、そのまま相談に乗る形となったそうだ。

 

「手紙はお前のアドバイスだったのか?」

「ううん。元々そのつもりだったらしい。僕は背中を押すことと、もしも上手くいかなかった時のフォローを担うつもりだったんだけど――あっはは、その必要はなくなったっぽいね」

 

 彼に倣い視線を移すと、一之瀬と白波が穏やかな雰囲気で会話興じるのが確認できた。短い空白だったが、お互い心の整理ができたようだ。

 

「お前は、止めなかったんだな」

「なんで?」

「その、色々あるだろう」

 

 気にしていないわけではなかった。一之瀬も白波も女性。同性どうしの恋路は、特殊と分類されることがある。

 加えて一之瀬自身があまり恋愛を考えているようではなかったことも、いい結果とはなりにくい根拠だった。

 

「止めてもいいことなんてないさ」

「だがもう少し後なら可能性はあったかもしれないだろう。より親密に仲を深めてからとか」

「何か勘違いをしているみたいだね清隆」

 

 オレの言葉を制して彼は言う。

 

「僕がしたアドバイスはこうだよ。『相手が嫌がらない限り、何度だって好きを訴えるべきだ』」

「……? どういうことだ」

「恋は戦と言う。なら一度負けても勝つまでリベンジをするのは当然のことさあ」

 

 なるほど、要は諦める必要などないということか。

 この一件で一之瀬はどんな形であれ白波に特別な認識を持たざるを得ない。一方白波は既に胸の内を明かしている。つまりこれから隠す後ろめたさが存在しないということだ。

 首を縦横どちらに振るかは一之瀬次第だが、それまでの時間は全て、白波がアタックを仕掛ける猶予となるわけだ。尤も、一之瀬に本当の意味で好きな人ができれば、彼女は恭介の助言に従い大人しく身を引くのだろう。

 

「でも、意外だったな。お前がこの手の相談に乗るなんて」

 

 恭介は面倒事は苦手だったはずだ。まして面白半分で人の色恋沙汰に首を突っ込む人間でもない。一体どういう心境だったのだろう。

 

「思うところがあったからねえ。例外さ」

 

 煮え切れない回答だ。特に理由がなかったのか、話したくないことだったのか。

 

「ん、向こうも一段落ついたみたいだね」

 

 白波が一之瀬にガバッと抱き着き、一之瀬は白波を困ったように、しかし満更でもなさそうに受け止めている。

 その様子を見て、これ以上見守る必要はないと判断したようだ。

 オレも特に彼女たちを待っているつもりはなかったので、話を切り上げることにした。

 

「これからもあいつらは、仲良くやれるのかな」

「きっとね。避けたい相手からのハグを拒否できないほど、帆波も優柔不断ではないよ」

「友好の証ってことか」

「おお、いいねソレ。僕らもする?」

「遠慮しとく」

「振られちゃったかあ」

 

 何の深い意味もない発言なのだろう。しかし、普段学校中見回せばわかるのだが、彼は親しくなった人間と異様に距離感が近くなる傾向がある。

 ある時は手を握ったり、ある時は頭を撫でたり撫でてもらおうとしたり。性別関係なく行おうとする。

 海外なら然程珍しくないことだが、かつての環境の差異によるものなのだろうか。

 求められるこちらとしては、別に悪い気はしなのだけど。

 

「そういえば清隆。昨日事件があったんだけど知ってる?」

「事件?」

 

 唐突な話題だった。

 

「グラウンドに近い校舎の窓が割られてたんだってさあ」

「ぶ、物騒だな」

 

「あそこらへんだなあ」恭介が指した方を見ると、確かに段ボールで応急処置を施された場所があった。立地上特別棟とも向かい合っている。

 

「風雨によるものか?」

「確か、野球部の不慮の事故だったと思う。すぐに報告したのもあってペナルティなく事は収まったから、あまり知られていないみたいだなあ」

 

 そんな情報、よく手に入れられたな。やはり恭介の方がオレより他生徒との交流は盛んなようだ。意欲はオレの方が高いはずなのだが。

 代わり、と言ってはなんだが、オレからも何か提供しようか。

 

「この前一之瀬と会った時に教えてもらったんだが、部活の成績によって別途ポイントが支給されるらしいぞ」

「え、マジかよ!」

 

 こちらがご満悦になってしまうほどの、大きな反応だった。

 

「僕らなら大抵の部活で小遣い稼ぎができたじゃないかあ」

「うちの担任がまたサボったらしい」

「僕、茶柱さんに『さん』付けするのが億劫になってきたよ」

 

「まあそう言うなよ」鼻息の荒い恭介を宥める。が、気持ちはわかる。

 正直彼の言う通り、オレたちの技量なら安定して収入を得ることは可能だったはずだ。本来オレたちが慣れるべきでない茶柱先生の蛮行には、オレも先生と付けるのをいい加減渋り始めている。

 ……オレが言うのもなんだが、本当に信用されない担任だ。信用されようとしない、とも言える。

 

「それにしても教室でのことといい、やっぱり何か起きそうだねえ」

 

 嘆きの声が虚空に響く。

 課業を終え解散という時に、茶柱先生は須藤を職員室に呼び出した。事の渦中に彼がいるのは間違いなさそうだ。

 ――救ってやらねばな。

 

 

 

 

 詰まる所、オレたちの予想は完全に当たっていた。

 朝のホームルームで先生から説明があったのだ。須藤がCクラスの生徒に暴行を働いたと。

 事件が起こったのは六月三十日の十八時頃の特別棟三階。相手は須藤と同じバスケ部の小宮と近藤、加えて石崎という生徒だ。

 あくまで須藤は正当防衛を主張し、自分に非はないの一点張り。しかし証拠は存在せず、数日後に審議が行われるらしい。

 それにあたって目撃者がいれば名乗るよう彼女は求めたが、そんな旨い話があるわけもなく一人の挙手もなかった。

 ただ、安直に残念がることではないかもしれない。話を聞く限り、須藤が殴った(とされる)物的証拠、つまり暴行による傷は確かなようだ。もし証人が現れたとして、証言の内容によっては相手側に有利に働く可能性がある。

 罪悪感がなく学校側の対応に不満を抱える須藤は終始憤慨していた。学校全体に話が広まり、バスケに支障をきたすことを免れなくなったことが一番効いたのだろう。

 先生が去った後、一人の生徒が言った。

 

「須藤の件、最悪じゃね?」

 

 そこから芋づる式に、あらゆるグループから暗い言葉が次々と飛び交い始めた。

 

「みんな落ち着いて! 不安になる気持ちはわかるけど、一度冷静になって欲しいんだ」

 

 ここでクラスを纏めずしていつリーダーの役目を果たす、と言わんばかりに平田が前に立つ。

 先生の話には、審議の結果によっては厳しい処罰が下るというものもあった。各々がやっとの思いで手に入れた90というクラスポイントを、初めからずっと素行が悪かった一人によって台無しにされてしまっては、感情的になるのも無理はない。

 

「これが落ち着いてられるか平田! 須藤の短絡的な行動で、クラス全員に迷惑がかかるんだぞ」

「やっぱり、中間テストのときに退学になるべきだったんじゃない?」

「そうとは限らないわ」

 

 意外にも、野次が蔓延る修羅場に鈴音は自ら飛び込んだ。

 

「退学者が出た時の説明はまだ何もされていないわ。須藤君が退学になっていたら、問答無用でクラスポイントを引かれていたかもしれない。今後クラスの人数で有利不利が大きく傾くポイントの争奪戦があるかもしれない。可能性はいくらでも考えられるけど、少なくとも今の段階で誰かを切り捨てるのは早計よ」

 

 三ヶ月を経て、彼女の方針も随分と定まったようだ。躊躇いなく、仲間を見捨てる行為はしないことを選んだ。

 

「でも、何度もこう問題行動ばかりされるとこっちだって堪ったもんじゃねえって」

「ちょっといいかな」

 

 いまだ眉をひそめる者が多い中、次なる一手を加えるのは櫛田だ。

 

「そもそも須藤君が本当に悪かったのか、まだ決めつけるのは早いと思うの」

「どういうこと?」

「さっき先生は審議って言ってたでしょ。それって、須藤君はあくまで否定しているってことだよね?」

 

 櫛田の問いかけに、須藤は無愛想に頷く。

 

「なら、仲間である私たちだけは、須藤君のことを信じてあげるべきなんじゃないかな」

 

 クラス想いな彼女の感情への訴えに、心が揺らいだ生徒が多く見られた。Dクラスは良くも悪くも直情的な傾向があるようだ。

 

「で、でも――」

「あたしもさんせー」

 

 ダメ押しの意見を発したのは、これまた意外、櫛田と女子カーストの双璧を成す軽井沢だ。

 

「須藤君は自分は悪くないって言ってるんでしょ? なのにみんな突き放して助けないなんて、イジメみたいであたし嫌い」

 

 普段はサバサバとしたギャルの印象が強かったが、どういう風の引き回しなのだろう。櫛田のように仲間意識を持っていたとは、正直考えにくい。

 とは言え、これでクラスのリーダー、人気者、以前の試験の功労者全員が須藤の無実を証明する船への乗船意思を見せた。こうなっては反論など述べようにも述べない。明言はないが、Dクラスはその方向で動くということで決定であろう。

 とりあえずすぐにできることとして、各人他のクラスや同じ部活に目撃者がいないか確認するよう合意がなされ解散に至った。

 直後須藤の席にはかつての勉強会のメンバーが集う。

 

「須藤、水臭いじゃん。何で先に教えてくれなかったんだよ」

 

 池が単刀直入に訊く。

 前の金曜の放課後から今に至るまで、彼は誰にも今回のことを報告しなかった。何か打てる手があったというわけではないが、池の言う通り水臭いと感じなくもない。

 

「……別に、何もねえよ」

「は? どういうことだよ」

「あれだ、そこまで考えが回らなかっただけだ。すまねぇな」

 

 バツの悪そうな顔でそう答える。何か隠し事をしているようだった。

 

「後ろめたいことでもあるのか?」

「……」

「須藤君、さっきは信じるって言ったけど、須藤君も私たちを信じて欲しいな。ちゃんと知ってることを全部話してくれないと、私たち簡単に負けちゃうよ?」

 

 櫛田にしては妙に現実的で脅迫じみた返しだ。しかしご尤も。彼もそれを理解しているようで、重たい口をようやく開いた。

 

「……バカにしてきたんだよ」

「え?」

「お前らのことを散々バカにしてきたんだ。それが許せなくて、だから殴っちまった」

 

 暫しの間、場が凍った。

 彼は仲間であるオレたちのことを想う故に、暴力事件に至ったと言う。

 暴力を振るったという事実は到底褒められることではない。ただ、みんなが思っていたよりずっと真面――他人想いな理由だったため、ほんの僅かだが空気が和らいだ。

 

「何だよお前! 俺らのためだったってのかよコノヤロー!」

「バカ! 違えって。それにお前や池はそこまで言われてなかったぜ。綾小路と浅川と堀北の三人が特に酷ぇ言われようだったんだ」

「僕らが?」

 

 驚愕の表情を浮かべる恭介と、同じ気持ちだった。

 他の面子より特段誰かを貶すということは、ある程度その人のことを他の人より理解していないと起こらない。

 大して広まっている話ではないはずだが、この勉強会グループを引っ張った鈴音とサポートに尽力したオレと恭介が強めな無辱を受けたのは偶然なのだろうか。

 思案している間にも、須藤への事情徴収は続く。今度は沖谷からの質問だ。

 

「でも、須藤君を呼び出したのってバスケ部の人だったんだよね? 一体どんな呼び出しだったの?」

「実は俺、夏の大会でレギュラーとして出場できるかもしれないって話が出てたんだ」

 

「レギュラー!?」櫛田が大仰に祝福する。「凄いじゃない!」

 

「まだ決まったわけじゃないんだけどな。――それで、一年で候補に入れたのは俺だけだったんだけど、その帰りだったんだ。小宮と近藤(アイツら)に呼ばれたのは」

「お前はそれでどうしたんだ?」

「すぐに着替えて特別棟へ向かったぜ」

 

 なるほど、この様子だと先輩に断って早めに抜けたとかはなさそうだ。証言があれば須藤の言い分に信憑性を与えることができると思ったが、そう上手くいかないか。

 

「そこにはなんでか石崎ってやつもいた。アイツは二人の友達だって言って、俺にレギュラーを降りろとか抜かしやがったんだ」

「でも、その時はまだ喧嘩にはならなかったんだね?」

「ああ。ムカつきはしたけど、ちょうど機嫌が良かったからな」

 

 須藤はオレを含めた四人、トップ4のメンバーを見る。

 

「お前らのおかげで部活の調子がずっと良くなってよ、その流れでレギュラーの朗報だ。正直舞い上がってたから、妬み僻みくらい勝手に言わせとけばいいと思ってその場から去ろうとしたんだ」

 

 相手はバスケの話だけで須藤を殴らせるつもりだったのだろう。しかし殊の外彼が落ち着いていたため予定を変更した。

 バスケの話で呼び出したのにクラスメイトを誹謗中傷した。これは須藤の暴力を誘発するために生まれた不自然な要素だ。向こうの悪意を証明する材料にできるかもしれない。

 

「とにかく、俺は誓って悪くないんだよ。喧嘩は向こうから吹っ掛けてきたことだし、そこまで激しく殴ったわけじゃねえ。これ、正当防衛ってことにはならないのか?」

 

 彼から得られる事件の概要は粗方聞き出せた。次に行われるのは、行動方針の決定だ。

 

「ま、櫛田ちゃんの言った通り、俺たちくらいは信じてやらないとな」

「勉強会の縁もあるし、今回はこの名探偵山内様に任せとけって」

 

 どうやら赤点候補としてのシンパシーを抱えていた二人は乗り気なようだ。櫛田も沖谷も頷くことで同意を示す。

 しかし、残りの二人の表情は硬いままだった。

 

「堀北さんも、一緒に協力してくれるんだよね?」

「…………その前に須藤君、あなたに聞きたいことがあるわ」

「な、何だよ」

「あなたは今回の件、本当に自分に反省すべき点はないと思っているの?」

 

 質問の意図がわからず、彼は顔を曇らせる。

 

「あなたの言葉を信じるなら、確かに自分勝手な理由で事件を起こしたとは決して言えないわ。けど暴力を振るったという事実は何ら変わらない。だからこうして大事になり、クラスに迷惑をかけた。その自覚はあるのかしら?」

「だけど――」

「だけど、で弁護できることではないことを知りなさい」

 

 彼女は続ける。

 

「暴力が正当化されることなんてないわ。それは現行の法律でも一緒。今の時点で、真っ当なやり方であなたの完全無罪を勝ち取ることは不可能よ」

「は!? 何でだよ!」

「それがわからないなら、私はあなたを助ける理由を捨てざるを得ない」

 

 大変厳しい物言いだが、鈴音の言っていることは事実だ。

 今までの情報から浮き出る答えは須藤は何等かの理由で他生徒を殴ったこと。ここで議論すべきなのは過程ではなく結果、すなわち殴ったかどうか。

 相手を殴ったことを認めてしまっている時点で――加えてその証拠が存在している時点で――残す議論は過程による罰則加減のみとなる。

 だが生憎、今輪を崩されてしまうのは困る。

 

「須藤、鈴音が言っていることはまだ理解できなくてもいい。だけどこれだけは理解してくれ。人を傷つけても良いことの方が少ない。実際今の状況には、お前も嫌気がさしてるだろう?」

「……ああ」

「だから約束してくれ。金輪際、絶対に暴力は振るうな。次同じことがあったら、オレたちはもうお前のことを庇わない。どんな理由があってもだ」

「――っ、わかったよ……」

 

 それなりに信頼関係のある友人からこうもはっきり言われれば、従う他ないだろう。この宣告を自ら破るつもりはない。もし彼が拳を振り上げれば、下ろされる前に何としてでも止めるし、間に合わなければオレは本当に彼を見捨てる。

 オレは鈴音を見た。

 

「これで、一先ずはいいか?」

「…………爆弾を抱えているようなものよ。参ったわね」

 

 本人の前で言わないでやってくれ。その深い溜息も抑えてもらえると助かる。

 これでようやく一同同じ方向を向けた。そう思ったのか、それぞれ気の抜けた空気を醸し始める。

 しかし、オレは彼を逃がさなかった。

 

「お前は? ――恭介」

 

 全員が顔を上げる。

 視線の先には、間抜けに驚く彼の姿。

 

「いやぁ困っちゃうなあ。どうして聞いちゃうんだい」

「重要なことだからな。どうするんだ」

「そんなの、決まってるんじゃないの? 一緒に須藤君のこと助けるんだよね」

 

 当たり前のように櫛田が言う。

 だがオレは、何となく予感していた。終始何も言わず聞き手に徹し続ける姿勢は、もはやオレにだけ暗に立ち位置を示そうとしているようにまで感じられた。

 彼は明後日の方を向き、のほほんとした顔で答えた。

 

「うーん。――――――無理」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

義論

「はぁ? なんでだよ浅川!」

 

 驚きのあまり机を強く叩きながら、須藤が立ち上がった。動揺は勿論、怒気だけでなくショックも感じられる。

 

「き、きっと何か理由があるんだよ。そうだよね浅川君?」

 

 櫛田も恭介の返答が信じられなかったようで、声に若干の震えがあった。

 

「理由か、理由ねぇ……そうだなあ、鈴音が言っていたこととかは、その通りだとは思ったよ」

「須藤が自分の非をわかってないってやつか?」

 

 山内の問いに彼は首肯する。

 

「僕は退学者の一人や二人じゃ致命的な差にはならないと思っているからね」

「その根拠は?」

 

 オレたちも初耳だった意見に、鈴音は興味深そうに訊く。

 

「この学校、しばしば現実の社会ではどうこうって照らし合わせたがるでしょ? だったらあるんじゃないの、リストラとか」

 

 反論は出なかった。まだ企業というものを深く学んでいない高校生にも、それは理解の及ぶことだったからだ。

 一流だろうが二流三流だろうが、会社の足を引っ張る人間を解雇することは誰もが知っていること。

 

「一人切り捨てたクラスはもう頂点には登れない。そんな仕組みをこの学校が看過するとはとても思えないんだよ」

「だから須藤君のことは助けないってこと?」

 

 恭介はただ眉をハの字にして、小さく笑った。

 

「と、いうわけで、まあ頑張っておくれよ。陰ながら応援してるからさあ」

「ま、待てって浅川。わかったよ、勝手なことしちまって悪かったって」

「上っ面だけなら何とでも言える。いっそ一度くらい痛い目見てみるのも悪くないかもよ?」

 

「じゃ」と言い残して、この場を去る。

 

「――――」

 

 振り返った時には、既にその姿が扉の向こうに消えてしまった後だった。

 

「何か、おかしくなかったか? 浅川のやつ」

「うん。いつもと違ってちょっと冷たいっていうか」

 

 山内と沖谷が口を揃えて言う。みんな、一連の彼の言動には違和感を覚えたようだ。ただ言っていた内容自体は否定できないため確証が持てない、そんなところか。

 しかしオレは――最後の言葉を無しにしても――理解できた。

 恭介と親しい者なら、オレでなくとも簡単な言葉遊び。

 恭介は嘘を吐かない男だ。友人が一同に介するこの場なら蓋し。だから――

 あいつは須藤のことを、見捨てて良いとは思っていない。

 

「良かった! まだいた」

 

 すると今度は、入れ替わりで平田が入ってくる。オレたちの顔を確認し、どこか安堵してそうだ。

 

「その様子だと、やっぱり君たちも須藤君のことを助けるつもりなんだよね?」

「ああ、そうだけど」

「なら今すぐ来てくれないかな」

「何かあったの?」

 

 櫛田の問いかけに彼は頷いた。

 

「目撃者が名乗り出てくれたんだ」

 

 

 

 

 平田の先導でたどり着いたのは生徒指導室。外部、特にCクラスの耳に届かないための念入りな対処だろう。

 そこに待っていたのは立会人である茶柱先生と、

 

「佐倉さん、みーちゃ――王さん、井の頭さん、この三人が、事件の起きた時間に特別棟にいたんだって」

 

 先程誰もいないと思われていたはずの目撃者が三人も現れたという朗報に、一同歓喜を帯びる。

 確かにこの三人は一緒にいることが多い。恭介から何度か話を聞いてはいたが、一応初対面になるので気さくに話しかけるのは難しい。 

 

「でもさ、なんで最初に名乗り出てくれなかったんだよ」

 

 池が率直な疑問を零す。

 三人の代わりに先生が応えた。

 

「視線を浴びたくなかったからだそうだ。ああいった場で委縮してしまう生徒も少なくない。私の配慮が足りなかった、責めないでやってくれ」

 

 呆気なく自分の非を認める発言にたじろぎ、「あ、そうっすか」とだけ言って池は引き下がった。

 

「それじゃ、当時何を見たのか、聞かせてもらってもいいかい?」

 

 平田が早速本題に入るよう促す。

 最初に口を開いたのは佐倉だ。

 

「はい……あの日は二人と一緒に、校内散策をしていました」

 

 特別棟を使う機会は少なく、環境の管理も絶望的だ。今の時期に散策というのも、おかしな話ではない。

 一応具体的な動機も存在する。「写真が好きなので」こんな具合に。

 ただ、女子三人がこんな暑い時間に? という疑問は残るが。

 

「そしたら急に怒鳴り声がして――ちょうど同じ階の向かい側の方でした」

 

 王が続きを継ぐ。

 

「角からこっそり覗いてみると、須藤君と、三人の男子生徒が言い争ってました。多分Cクラス、ですよね?」

「な、なんだかすごく怖くて、動けなくなっちゃって……しばらく隠れてじっとしてました」

 

 当時の記憶が鮮明に残っているのか、三人の中で最も怯えた表情をする井の頭。

 

「最後には取っ組み合いになって、痛そうな音がたくさん……っ、殴ったり、したのかな」

 

 拙いながらも必死に語る。

 

「音がやんだ後は、須藤君が『二度とあいつらのこと馬鹿にすんな』って怒鳴って、階段を降りていったんです。残った三人は、誰かのところに行こうって――リュエンさん? だったっけ……」

 

 概ね、須藤から聞かされていた通りの内容だ。互いの証言の信憑性が高まる。

 気がかりなのは最後に出てきた人物。誰だ? リュエンって。Cクラスの生徒だと仮定して、恭介なら何か知ってるか?

 次は質疑応答だ。「いいかしら」切り込み隊長は鈴音。

 

「あなたたちはどうして、その日を散策日に選んだの?」

「偶々です」

 

 オレと同じ疑問をするが、返答はすぐだった。そう言われてしまえば追及のしようがない。

 

「四人が取っ組み合いになった、と言っていたけど、そのあたりのこと、詳しく覚えてる? 例えば、一方的だったかどうかとか」

「先に挑発したのはCクラスの生徒です。でも多分、挑発に乗った須藤君が胸倉を掴んでそこから一気に、って感じだったと思います」

 

 これも辻褄が合う。合わない方が良かったかもしれないが仕方がない。

「次は僕からいいかな」質問者が平田にバトンタッチする。

 

「普段はどんな写真を撮っているんだい?」

「は? なんでそんな関係ないこと」

 

 池が疑問の声を発するが、オレ――と鈴音は止めなかった。

 

「ふ、風景とかをよく」

「じゃあ、特別棟に良い景色が見えるスポットがあったってことだね」

 

 佐倉はこくりと頷く。

 

「他に何か気になることはなかったかい? 何でもいい、些細なことでもいいから教えてほしい」

「何でも、ですか……うーん」

 

 各々思案し、王が何かを思い出した。

 

「……どこかから、音がしたような」

「音?」

「は、はい。でもそれどころじゃなくて、詳しくは……」

 

 はっきりしない。が、軽視するのも早計かもしれない。

 要は、他に刮目すべきことがあったのに認識に介入してきた音ががある、ということなのだから。

 

「証言とは別に、物的な証拠はないかな? 誰か何かを落としていったとか、写真に収めたとか」

 

 櫛田が質問を加えると、佐倉がカメラを取り出した。

 暫し操作し、画面を見せる。「これです」

 

「動画か」

 

 夕日が少々眩しく逆光もあるが、四人の姿は確かに確認できた。

 須藤たちが言い争っている部分から始まり、彼が階段を降りるところまで、度々画角が震えながらもしっかりと収められている。

 ん? 待て、今何か――

 眉を顰めたところで、佐倉のもとへカメラが帰ってしまった。……まあいい。どのみちあれ以上の分析は不可能だった。事件との関連も不明だし、追々調べればいいだろう。

 

「他にはないか?」

「……はい、以上で」

「ちょっといいか?」

 

 解散の流れを断ち切ったのは、他でもないオレだ。

 積極的な姿勢を意外に思ったのか、一同目を向ける。

 

「最後に一つだけ聞かせてほしい」

「は、はい」

「現場には佐倉たち以外に人はいなかったのか?」

 

 三人は顔を見合わせ、答えた。

 

「はい。いませんでした」

 

 

 

 

 事情聴取を終えたオレたちは教室に戻り、平田を混ぜて再び議論に耽る。

 

「なんか、もやっとするような証言だったな」

「曖昧って感じ?」

 

 池、沖谷が言う。

 須藤の証言以上の情報がなかったことと、全体的にタジタジであったことから、そういう感覚を抱いたのだろう。

 しかし、

 

「それは多分、隠してることがあるからじゃないかな」

 

 全員の視線が平田に注がれる。

 

「さっきは気遣って本人には言わなかったんだけど――はっきりすべきところがはっきりしていないんだ」

 

 首を傾げる者と縦に振る者、反応はニつに分かれた。

 

「そもそも、佐倉さんたちがどうしてあの場にいたんだろう」

「それは偶々だって」

「ううん、現場に居合わせたことじゃない。現場に居続けた理由だ」

 

「あっ」と気付く声が響く。

 

「男子生徒、それも血気盛んな人が四人。険悪な空気を感じ取って、それでも一部始終を記録しようなんて勇気、普通出せないよ」

「しかも三人は気が弱い。クラスの輪からも外れがちな印象があるし、そんな場面に遭遇したら一目散に逃げるでしょうね」

 

 鈴音は平田の疑問に賛成なようだ。

 

「でも、怖くて動けなかったって言ってたよ? 特別棟は音が響くし、足音を立てるわけにはいかなかったんじゃないかな」

「無理があるな」

 

 櫛田の反論を、オレは否定する。

 

「もし本当にそうなら、カメラを構える余裕もなかったはずだ。絶対に見つからない、悟られない。そう考えたら最後、目を閉じてうずくまる以外のことはできないだろう」

 

 足がすくむ程に緊張している女子がそのような勇気――というより頭を働かせられるというのは、どうにも違和感が残る。

 

「ほ、本当に佐倉さんたちが嘘をついていたとして、何でそんな嘘を?」

 

 沖谷が新たな疑問を提示する。

 これに答えるための材料は、今のところない。

 ただ、仮説を挙げることはできる。

 

「脅されている、か、庇っている……?」

 

 鈴音の発言だ。

 

「庇う相手なんざいないだろ。Cクラスのやつらがあいつらのこと脅したに決まってる」

 

 須藤が決めてかかるが、それに待ったをかけるのは池だ。

 

「えーそうか? あんま怯えてるようには見えなかったけど。どちらかと言うと不安? だったような気がする」

「てか脅されてんなら、今も名乗り出てくれなかったと思うぜ」

 

 山内の便乗に各々頷く。

 今回は庇っているという答えの方が辻褄が合う。理由は他にもあった。

 

「……これは、あくまで可能性の話だけど」

 

 鈴音が歯切れ悪そうに声を出す。

 

「先生が目撃者を募った時、大抵の生徒は他の生徒が名乗り出ないか見回しているか、無関心でいるかのどちらかだった。でも三人の挙動はそれとは違ったわ」

「どういうこと?」

「何度もこちらの方へ、視線を寄こしてきたのよ」

 

 なるほど。

 やはり鈴音も、気づいていたか。

 

「ど、どうしてお前をチラチラ見る必要があんだよ」

「……私じゃない」

 

「え?」櫛田が声を漏らす。

 

「恐らく、三人が見ていたのは、浅川君よ」

 

 オレ以外の全員が驚きに染まる。

 当然だ。あの瞬間誰がどこを見ているかなど気に留める人はなかなかいない。

 

「わ、わけがわかんねえよ。さっき協力しないって言ってた浅川が、何か知ってるってのか?」

「それってやっぱり、こちら側に不利な内容だから?」

「それならそう言ってくれないとおかしいだろ」

 

 困惑のあまり憶測が飛び交うが、統率者が一度宥める。

 

「堀北さん。念のため聞くけど、どうして浅川君がいる時に呼び止めなかったんだい?」

「それは……」

 

 鈴音は言いづらそうな顔でこちらを見る。

 それくらい答えてやればいいのに。

 

「きっと困らせるだけで終わるからだ」

「困らせる?」

「あいつは意味もなくこんな真似はしない。オレたちに何も言わずにいる必要があるということだ。そこまでわかっているのに追及したところで」

「無益、ってことだね」

 

 苦い表情で、平田は理解を示す。

 

「……まあ、ダメ元で今度聞いてみよう。何かしらの手がかりがもらえるかもしれないからな」

「……ありがとう。浅川君については君に任せるのが一番だろうから」

 

 とても事件のキーマンを見つけたとは思えない雰囲気だ。幸先が芳しくないのは須藤たちにも察しがついているらしい。

 

「明日からはどうするんだ?」

「そうだね。決まっていることは二つだ」

「一つは、現場検証かな?」

「うん。もう一つは関係者の話を聞きに行くこと。目撃者は、正直見込めないから……少し遠いところを攻めてみるつもりだよ」

 

 具体的にはバスケ部員、特別棟で活動する部活動の部員などだろう。初めの佐倉たちのように、アプローチの仕方によって対応が変化するかもしれない。

 

「厳しい状況には変わりないけど、だからこそ地道にやっていくしかない。みんな、頼りしているよ」

 

 せめてもの士気を維持するべく、平田がそう締めくくる。

 元々勝ちのない戦いだ。と鈴音に勧告されているのもあり、みんなの顔は重い。しかしそれこそ平田の言う通り、無理にでも行動を起こして活路を見出す他ないのだ。

 みんなに倣って下校の準備をしていると、櫛田に声を掛けられる。

 

「どうした?」

「ちょっと、これを見てほしいんだけど……」

 

 そう言って突きつけられた画像に目を見開く。

 

「これは……」

「さっきから何となく引っ掛かってて、調べてたら見つけたんだ」

 

 映っていたのは、普段とは違い天真爛漫な雰囲気を醸す眼鏡無しの佐倉の姿。

 SNSにあげられているもののようだ。

 

「……」

「あれ? もしかして、気づいてた?」

「点と点が繋がっただけだ」

 

 先の近距離で向かい合った時、櫛田が取っ掛かりを得たのと同じく、オレも彼女の眼鏡に違和感を持った。

 度が入っていないと気づけば、誰だって首を傾げる。

 それを説明してやると、

 

「……綾小路君って、意外と切れ者?」

「……目がいいだけだ」

「眼鏡の度なんて、普通気にしないと思うんだけどなあ」

 

 解せん。

 安易にこちらの考えをひけらかすのは、控えた方がいいかもしれない。

 

「グラビアアイドルの雫、か」

「意外、だよね」

「まあな」

 

 さすがの櫛田もこればかりは把握も予想もしていなかったようだ。

 そこでふと、あることに気付く。

 

「更新が……」

 

 途絶えている。つい最近まで投稿は勿論、ファンの応援に返事までしていたと言うのに。

 学校での生活ぶりに大きな変化は見られなかった。人知れず何かがあったのか?

 それに、雫の活動が止まって以降、彼女に宛てられたメッセージの中に異様な文面を見つける。

 

『今日も君の可愛い姿を見られないんだね、寂しいよ』

『体調が悪いのかな? 今度お見舞いに行ってあげるよ。きっと安心するよね』

『運命が引き合わせてくれた。僕たちは近いところで繋がっているんだよ』

 

「怖い……」櫛田が声を震わせる。女子は例外なく恐怖を抱くだろう。

 これを佐倉本人は見ているのか、見向きもしていないのかはわからない。今回の事件との関連、はさすがにないだろうが、心配にはなる。

 

「どうする?」

「……まだ、静観すべきだ」

「本当にいいの?」

「多分な」

 

 事が起こるまで対処しない。と言いたいわけではない。

 佐倉の矮小さは、他人に対して心の扉を閉じるものだ。この問題に触れるためには、僅かでも開いてもらう必要がある。

 その段階に今最も近いところにいるのは、王と井の頭、そして恭介。

 特に恭介は、いざとなればちゃんと彼女の問題に踏み込める人間だ。彼が動かない、あるいは動けない時機は、オレにできることがないのと同義だ。

 

「ところで、どうして他のやつには共有しなかったんだ?」

「ほら、山内君とかだと、アレだから……」

「ああ……」

「綾小路君なら、デリケートな話も大丈夫だと思って」

「平田は?」

「……うーん、これは勘なんだけど、平田君より綾小路君の方が、佐倉さんとは上手くやれそうな気がするの」

 

 勘か。世渡り上手な櫛田の言う事なら、多少鵜呑みにしてみるのもいいかもしれない。

 

「ありがとな、教えてくれて」

「うん。須藤君のことも、頑張ろうね」

 

 話を終えると、今度は鈴音がこちらへ歩んでくる。

 

「櫛田さんと何を?」

「大したことじゃない」

「むっ……そう」

 

 にわかに頬を膨らませるが、それ以上の追及はない。

 

「……浅川君、何を考えているのかしら」

「行動がちぐはぐだからか?」

「見くびらないで。態々協力を拒んだ事情、それだけが気掛かりよ」

 

 ほう。鈴音も恭介が須藤に失望したわけではないとわかっているらしい。

 

「お前に理解されて、あいつも大喜びだな」

「引っ叩くわよ」

「やれるもんならやっ悪かった。悪かったから腕を下ろしてくださいお願いします」

 

 鬼。

 

「彼は彼で動いているということかしら」

「それならオレたちくらいには何か言っていてもおかしくはない」

「そこ、なのよね……」

「逆に言えば、こうもあからさまにオレたちに疑われてでも、隠したいことがある」

「そしてそれに関わってほしくない。我儘もいいとこだわ」

 

 お前の事情に迫ることになるかはわからないが、このままいくと証言台に立ってもらうことは避けられないぞ。

 いずれにせよ、恭介が事件に関わっていることは確定と見ていい。

 突破口は見えない。だが、やるべきことはたくさんありそうだ。

 どの問題も、行く末はまだわからない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

捜作

今後は今回くらいの短さにしていくかもしれません。


「ここが……三階ね」

「あづい」

「須藤君はこの位置に立っていて」

「アヅイ」

「相手はこちら側に並んでいた」

「アーヅイ」

「聞いてる?」

「あっつい」

 

 顔面にペットボトルが飛んできた。

 直撃。

 

「帰らすわよ」

「オレ要らないだろ!」

「視点が一つであっては見落としの危険があるわ」

 

 その通りだけども。

 特別棟三階。まるで蒸し風呂だ。

 その端、窓際に呼び出された須藤が立ち、囲うようにCクラスの生徒が並んでいた。向かいの角が佐倉たちの隠れていた場所。

 

「状況だけで言えばおかしい箇所はない、と思う」

「同感だ。証言どうしに矛盾もなかったしな」

 

 そもそも殺人事件でもなければ検挙される事件でもない。現場の保存具合も当時そのままというわけにはいかないだろう。

 オレは無言のまま、須藤が背にしていた窓に寄る。

 

「何をたそがれているの?」

「何となく?」

「あなたの頭も黄昏時ね」

 

 何て清々しい返しだ。

 暫く眺めていると、平田が合流する。

 

「どうだった?」

「バスケ部に行ってきたよ。須藤君が努力家だったことはせめてもの救いだね」

 

 あらましを聞くと、どうやら須藤の部活への取り組みは模範的と呼べるものだったらしく、彼の印象を良くするにはうってつけな材料になりそうだ。元は大した見込みのないものだったため、思わぬ僥倖だろう。

 

「綾小路君も、やっぱり気になってたんだ」

「え、なんのことだ?」

 

 急に話を振られあたふたする。本当に何のことだかわかっていない。

 

「佐倉さんは風景を撮るために来たって言っていたけど、写真の好きな彼女があの時間帯にここを選ぶのは違和感がある」

 

「理由は?」鈴音が問う。

 

「動画でもわかる通り、事件当時は夕日が眩しく逆光が酷かった。しかも、窓から外を撮ると反射の影響もあっていいものは撮りにくい」

「技量でカバーするんじゃないのか?」

 

 素人のオレたちにはわからない良さがあるのかもしれない。

 

「……そうだね、言いたいことはわかるよ。何を言っても可能性に過ぎない。でも、動画を撮っていたことも含めて拭えない裏を感じる」

 

 随分と浮かない表情だ。教室では、きっと努めて見せないのだろう。

 

「そっちは何か、進展あった?」

「いいえ、特には」「ああ」

 

「は?」自分とは真逆の回答に、鈴音が顔を顰める。

 

「須藤は部活には真摯だったんだよな。なら、用具の手入れも念入りだった話も聞いているか?」

「言ってたね」

「Cクラスの二人は?」

「たるみ気味、とは言っていたよ」

 

「わかった」オレは壁のある箇所を指差した。「ここを擦ってみてくれ」

 

「ここ? ……あ! これは……」

「……少しベタついてる?」

 

 二人共気づいてくれたようだ。

 

「クリーナーワックスによるものだと思う」

 

 ボールの手入れに使われるものだ。これは、この壁に須藤が手を付けたことを示している。

 

「でも、それがどう繫がってくるんだい?」

「Cクラスの主張はこうだ。『自分たちは須藤に一方的に殴られた』」

「なるほど。一方的なら、ここに跡が残るのは不自然ね」

 

 壁に手を付ける体勢になれば、相手側に背を向け、更に追い込まれる状況にならざるを得ない。抵抗しなかった相手にそうはならないはずだ。

 

「それと」

「ちょっと待ちなさい。まだあるの?」

「ああ、悪いか?」

「……先に言いなさいよ」

 

 鈴音が思考する時間だと思って控えていたのだが、悪手だったか。

 

「今度は佐倉たちの方だ」

 

 何かと疑われている方にも触れていく。

 

「階段は一つだけじゃない。須藤たちが喧嘩したのと反対、佐倉ちが隠れていたいた側にもある」

「……やはり行動が不自然なのね」

 

 逃げ道はすぐそばだったのだ。猛暑で冷静な判断が難しいことも踏まえると、じっとするより一刻も早く離れようとするのが小心者の心理と言える。

 

「佐倉さんたちから、もっと詳しい話を聞く方法はないのかな」

「難しいだろうな。可能性があるとすれば、誰かが一人でいるところを上手く説得しに行くとかだが……」

 

 その材料がない。恭介ならどうにかなったかもしれないが、生憎彼も向こう側だ。

 

「明日は普段特別棟で活動してる人たちに話を聞いてみようと思うんだけど、堀北さんたちは?」

「…………二つ、考えがあるわ」

「わかった。いい結果を得られたら、報告してほしい」

 

 そう言って階段を降りようとする平田だったが、途中何かに気づいたように振り返る。

 

「そういえば、あまり事件に関係ないことかもしれないんだけど、どこかでサッカーのスパイクを見かけなかった?」

「スパイク?」

「柴田君が困ってるんだ。先週までは普通に使っていたはずなんだけど」

「見てないわ」

「そっか……柴田君、前の部活のあと怪我をしちゃったらしくて、余計落ち込んでるんだ。もし見つけたら教えてもらえるかな」

 

 今度こそ彼の姿を見届けた後、

 

「オレたちも行くか?」

「……まだ、少し」

「もう何も出てこないと思うぞ。気持ちはわかるが」

「……っ、そう、ね」

 

 正攻法な『調査』ではここで頭打ちと見るべきだ。

 正攻法ではない方法ならあるにはある。現場を見回して思い至りはしたが、鈴音に仄めかすのはまだ後でいい。

 それに、あまり使いたくない。

 嫌な予感がする。――ほんの微かな違和感。

 その思考は即座に打ち切ることとなり、下校を始める鈴音に付いていく。

 

「二つ、と言っていたな」

 

 鈴音の次の行動、興味はあったので、間を繋ぎつつ訊く。

 

「ええ、一つは捜査の続き。特別棟の周りに手がかりが残っているかも」

 

 事件自体は特別棟で完結しているが、当事者の動きはそうではない。寧ろ路端の方が誰の目にも触れていない何かが転がっている可能性がある。

 

「そして…………Bクラスにも話を聞きに行くわ」

「Bクラス?」

「折角一之瀬さんと面識があるんだもの。望みは薄くとも、試さない理由はないわ」

 

 Cクラスが獰猛なのと同様Bクラスが善良であることは周知の事実。相手が相手だし、協力的な姿勢を取ってくれる見込みはありそうだ。

 特別棟を出ると、最近見た顔が現れる。

 

「どぉおおわぁ!」

「――! あなたは」

「外村?」

 

 彼も帰宅部だったはすだ。どうしてこの時間にこんなところに?

 

「さ、散策でござるよ」

「……流行ってるのかしら」

 

 そんな話、聞いたことない。

 挙動不審に体を揺らす外村。

 

「散歩の割には落ち着きがないな」

「わ、わくわくしてるだけでありまするぞ。わっくわくのウッキウキでござる」

 

 大袈裟にステップしてみせる。

 

「……まあいいわ。念のため聞くけど、この前の金曜日に何か目撃していないかしら」

「えっ、………………ナニモシラナイデゴザル」

 

 ……。

 …………何?

 

 

「お前、何か知ってるのか?」

「し、しし知らないでござる。拙者、その時間に敷地内になんていなかったでござる!」

 

 嘘だ。顔に書いてあるくらいにわかりやすい。

 明後日の方を向き、笛の音がしない口笛を吹いている。

 

「どうして話せないんだ?」

「だから拙者は! そ、その……申し訳ないでござる」

 

 一転し、しおれた表情になった。

 

「こればかりは勘弁してほしい、一生に一度のお願いというやつでござる」

「何をそこまで――」

「ちなみに一度きりとは限らないですぞ」

 

 拷問して吐かせるのもありかもしれない。と思ってしまった自分にほとほと呆れてしまう。

 

「……わかった。今は須藤の事件のことについては聞かない」

「あなた、勝手なことを言わないでちょうだい」

「無理だ鈴音。多分ここで外村の口を割らせることは叶わない」

 

 しかし代わりに、二つだけ。

 

「もし本当に切羽詰まったら、お前に頼る以外なくなったら、待ってられないからな」

「…………わかったでござる」

「それと、先週とは関係ないことだが、落とし物を見てないか?」

「お、おおおとおとお落とし物ですと!?」

 

 忙しなく驚愕する外村。今後落ち着いている彼と会話をする機会はあるのだろうか。

 

「もしかして、お前も落とし物か?」

「いやいや何を申そう! 拙者、所有物は全て宝物のように厳重な保管をしますからして! ほら、この通り、端末もごついカバーとフィルムでがんじがらめでござる!」

 

 血走った目で、改造の領域にまで踏み込んだ機械を見せつけてくる。さすが機械オタクだ。

 

「……ところで、お二方に聞きたいのですが、前の金曜にどこかで気になるものでも落ちてなかったでござるか?」

「……落とし物まで流行ってるのかしら」

 

 そんな話、聞いたことない。

 やはり落とし物だったようだ。しかも事件当日。彼が当時敷地内にいた可能性は非常に高い。

 

「特徴を言ってくれないとな」

「いえいえ、心当たりが無いなら無問題。一目で『ああ、絶対あれのことだ』とわかる代物であります故」

 

「それでは」とそそくさと去っていく。ドロン、だったか。

 

「……どっと疲れたわ」

「お疲れ」

「彼、苦手なタイプよ」

「お前の場合はちょっと多過ぎだけどな」

 

 ただ、嵐のような存在だったことは否定しない。

 

 

 

 

「そういえば、アレ」

 

 オレはあることを思い出し、右後方を指す。

 

「窓が割られているわね」

「野球部の事故だったらしいぞ」

 

 恭介から聞いた情報をそのまま伝える。鈴音は興味なさげだ。

 

「いいのか?」

「とても関連性があるとは思えないけど」

「何でもいいと言ったのはお前だろう。特別棟に面しているし割れたのも事件当日らしいから、一応見ておいたらどうだ?」

 

 一理あると判断したのか、眉を寄せながら歩いていく。

 

「見たところ硝子の破片も片付けられているようだし、何か残っているとは思えないわ」

「……そうか」

 

 まあ、自然な結果だ。

 

「――あら?」

 

 突然鈴音が訝しげな声をあげ、壁面に手を当てる。

 

「ここ、少し削れてる」

「ん? 本当だな」

 

 彼女の言うとおり、不自然な傷跡がある。まるで引っかかれたような。今までこんなものあったか?

 グシャッ。

 

「――! 今の何?」

「す、すまん。破片を踏んだ」

 

 足元を確認すると、透明で鋭利な欠片が刺さっていた。

 ……いや、待て、おかしい。この位置は――。

 

「綾小路君……?」

 

 不意に後ろを見上げるオレの様子を咎める声がする。しかし――

 …………まさか。

 

「……何でもない」

「何なのよ……お手上げね」

 

 今は、無意味だ。

 どうしたものか。背水にまで追い詰められなければ切れないカードばかりが揃っていく。

 

「……困ったな」

 

 鈴音とは異なるであろう感情が、ぽつりと落ちた。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 カツカツと、鋭利な鉛筆が紙を通して机を小突く音が響く。

 三桁の数学の横に簡潔な説明――ステータスコードを纏めた表だ。

 それをひとしきり書き終えた浅川は大きく伸びをする。

 

「んはぁー、休憩!」

「お疲れ様です」

 

 傍らで読書に耽っていた椎名が顔をあげる。

 

「あとどれくらい残っているんですか?」

「ざっと三十ページくらいかな」

 

 前々から使っていた分厚い教材も気づけばあと僅か。夏休みまでには終わらせられるだろう。

 

「最近ホントに疲れるなあ」

 

 最近というが、浅川が行動した時間は大して長くはない。ただ、密度が濃かった。二度と経験したくないレベルだ。

 須藤や綾小路たちには気の毒だが、優先順位というものがある。浅川にとって今最も大事であったのは、椎名のことだった。誰にも知られていないのは、当然知られたくないことで、知られるべきでもないことだから。

 

「例の事件のこともありますからね。うちのクラスがご迷惑おかけして、すみません」

「なかなか思い切ったことをするもんだよ、全く」

 

 おかげで上手く事を進められたのだが。

 椎名は事件の仔細を知らないらしい。彼女自身の洞察によって作為的なものを察しているようだ。

 

「浅川君は何かしらアクションを起こしているんですか?」

「んー、まあぼちぼち?」

 

 半分真実で半分虚偽だ。浅川は既に一度Dクラスを不利にさせる行動を取っている。

 しかし裏切るつもりは更々ない。だから別の種を蒔くことでリカバリーをした。

 あとは綾小路が何とかするはずだ。こちらが散りばめた勝利への布石、彼なら余すことなく回収してくれることだろう。

 その点、勝負は既についている。Dクラスは損失を被らないし、浅川は個人で利益を得る。万々歳だ。

 ああ、この時間に眠気に誘われるのも珍しい。一つ欠伸をし、椎名を見る。

 

「少し休む」

「わかりました」

「……いい?」

「……構いませんよ」

 

 短いやり取りのあと、浅川は右にくずおれる。

 発されたのは、固い床に当たる鈍い音ではない。

 ぽすっ、と、椎名の膝上に軽い衝撃。

 

「ありがとう」

 

 もはや日課となりつつある行為だ。安らかに目を閉じ、心の鎮静に喜びを覚える。

 椎名に優しく諭され、中間テストを乗り越えて以降、次第に浅川は彼女に不思議な感情を抱くようになった。

 胸が異様に鼓動を早めるだとか、目を合わせられないとかはそう経たない内に収まった、恐らく戸惑いに近いものだったのだろう。

 今胸中を支配するのは、安寧だ。

 見守られ、包まれ、ただ和やかな時間が詰められた場所。それが今の彼にとっての椎名だった。それを認めてからというもの、躊躇うことなく甘えるようになった。

 偶には自分に優しくなろう。そういう意図もあった。これが自分を慰めるための一石になるのだと期待して。

 そっと、上から撫でられる。心地良い、彼女の手の感覚だ。嬉々として受け入れる。嫌なら嫌と、椎名なら言ってくれるはずだ。

 今は何も考えたくない。彼女の中でゆっくりと眠っていたい。

 幸せを守りたいと、願う君の。

 

 相手の顔は、今日も見えない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

繕日

「ごめん! 助けにはなれそうにない」

 

 Bクラスの教室前。

 再び鈴音に同行して向かった先で、告げられたのは無情な宣告だった。

 

「そう、よね」

「本当にごめんね。さすがにクラス規模となると」

「わかってるわ。虫の良すぎる話だし、望みは薄いと思っていたから。少なくとも私なら断ってる」

 

 両手を合わせる一之瀬に鈴音は淡々と言う。

 確かに期待はしていなかった。しかし……

 

「……一之瀬、それはお前個人の判断か?」

「え? えっとね――」

 

 彼女がその総意に真に賛成だとは、あまり信じられなかった。ただの、願望の押し付けかもしれないが。 

 言い淀む一之瀬。その背後から現れたのは、彼だ。

 

「俺の提案だ」

「神崎――なるほどな」

 

 神崎が打診したのなら納得だ。こいつは一之瀬と同じく人情を持ち合わせているが、リスクリターンに慎重な男だ。一之瀬も、彼の言うことならと判断したのだろう。

 

「すまない。俺個人としても、何かを目撃したわけじゃないから、力になれそうにない」

「いいんだ。恭介もクラス対抗に関係を持ち込みたくないと言っていたしな」

 

 友達のよしみをここにまで延ばすつもりはない。

 鈴音は一之瀬の気さくな態度に気圧されながらも会話を続けている。

 突然、神崎がこちらに耳打ちしてきた。

 

「調査の方はどうだ」

「進展はある。が、芳しくはない」

「……職員室には?」

「職員室?」

「念の為行ってみろ。巡回していた教師が何か見ていたかもしれない」

 

 なるほど、この学校のセキュリティは厳重とはいえ、それを補強するように教師の巡回も行われている。ピンポイントの時間と場所を回っていた可能性はゼロではない。

 しかし……また違和感だ。

 

「この後行ってみる」

「健闘を祈っているぞ」

 

 

 

 Dクラスの二人が去った後。

 

「何だか騙してるみたいで良い気はしないなあ」

 

 一之瀬がぼやく。

 

「悪いな。だがこれで、少しは確実性が増す」

「うぅ、わかってるんだよ? わかってるんだけどねえ……」

 

 本当のところ、Bクラスは――と言っても一部の人間だが――既に今回の事件に関与している。

 それをDクラスに明かさなかった理由。それは、

 

「作為の可能性を悟られないため。抜かり無いね」

「考えたのは、俺だけじゃない」

「にゃはは、まさかここまで行動力と知性を持ってる人だとは思ってもみなかったよ」

 

 何もなかったとしても、BクラスはDクラスにできる限りの協力はするという総意になっていただろう。しかし、彼にここまでお膳立てをされてしまっては致し方ない。これも勝利のため、と言うのなら、まして誰かを傷つけることにならないなら、甘受できることだった。

 一之瀬たちがサポートするのはDクラスではない。一人の少年だ。

 

「こんな大掛かりなことをして、一体何が目的なんだろう。本当に須藤君を救うこと?」

「…………さあな」

 

 言葉を濁したが、神崎はその目的とやらを本人から聞き及んでいた。信頼故の告白であったからして一之瀬に明かすつもりは毛頭ないが、問題は……。

 

「心配だな」

「上手くいくといいね」

 

 そういうことでは、ないのだけど。

 思い過ごしであれば、ただの杞憂であればと、複雑な心境を抱く神崎だった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 午後の課業を終え放課後に入るや否や、オレは一人職員室を訪ねた。鈴音は平田から話を聞いている最中だ。須藤と相対した石崎について、掲示板に情報が寄せられたらしい。

 

「お前が直々に単独行動とは珍しいな、綾小路」

 

 あまりうちの担任を頼るのもどうかと思うが、まずは彼女に話を聞くのが自然だろう。

 

「須藤が起こしたとされる事件当時、特別棟やその周囲にいた教師に心当たりはありますか?」

「ふむ……巡回の教師か。ちょっと待っていろ」

 

 二、三分程して、先生が帰ってくる。

 どうやら件の教師は、四月の水泳の授業で指導をしていた人のようだ。

 

「話はできますか?」

「勿論だ」

 

 示し合わせたように大柄な男が現れる。

 

「君は――覚えているよ。確か妙にセンスがあった生徒だ」

「人違いでは? 凡の評価が相応しい順位だったと思いますけど」

「曲がりなりにも国が誇る学校の教師だぞ。フォームや筋肉の付き方を見れば、君が手を抜いていたことくらい気付く」

 

 ……ああ、オレの浮かれポンチが酷かった時期だ。調子に乗ったツケがこんなところに回るとは。

 

「あー、っと、申し訳ないです」

「いいんだ。ちゃんと泳げるという結果を確認できれば十分だったからな」

 

 アイスブレイクを終え、互いに襟を正し本題に入る。

 

「六月三十日の午後六時頃、先生はどのあたりを巡回していましたか?」

「六時、というと、確か校門を通った先の大通りを歩いていたな」

「その後は?」

「特別棟の方へ向かった。お前達の学年で話題になっている暴力事件があった現場だ」

 

 まさか、ビンゴだって……?

 すると突然、茶柱先生が横槍を挟む。

 

「待ってください。本来の巡回ルートでは、そこを通るのはもう少し後では?」

「生徒から苦情が入ったんだ。やたらと耳障りな音がするとな」

「耳障りな、音……?」

「ああ。だから臨時で行ったんだが、着いた時にはそんな音しなかったから、その生徒の勘違いかちょうど鳴り止んだ後だったのかもしれない」

 

 音、か。この前聞いたな、似た証言を。

 

「では、着いた先で何か見ませんでしたか?」

「うーん……中にまで踏み込んだわけじゃないから、何とも言えないな」

「どんな些細なことでもいいんです。目を引いたものでも」

「………………あ、そういえば」

 

 先生は一度席を外し、何かを手に持って戻ってくる。

 

「こいつを拾ったんだ」

「これは…………」

 

 スパイク……!

 

「一体どこに?」

「特別棟を出てすぐのところだよ」

 

 事件現場の直下じゃないか。

 確か持ち主は柴田というBクラスのサッカー部だったはずだ。何故名乗り出なかった? 昼休みにBクラスに話を聞きに行った時は何も……。

 ……いや、焦りすぎだ。この証拠だけでは柴田が何かを目撃したことの証明にはならないし、もし何かを知っていたとしてもあの時名乗り出なかった時点でこちらの要請には応じるつもりがないということになる。

 強硬手段、はさすがにマズイか。本来の裁判では証人に証言を強制させることは証人威迫罪になる。この学校がそれに近しい処罰を審議に適用させないとは限らない。

 

「大丈夫か?」

「……はい、ありがとうございます。あの、これ、持ち主に心当たりがあるので、預からせてもらってもいいですか?」

 

 とりあえず、善良な一般高校生として、落とし物は持ち主に返しておこう。

 

 

 

「うへぇ、全然それっぽい情報集まらねえよぉ」

 

 池がへなりと机に突っ伏し、唸り声をあげる。

 Dクラスの教室には、綾小路と浅川を除いたお馴染みのメンバーが集まっていた。

 

「結局まともな目撃者は、佐倉さんたちだけだったね」

「明日の審議、これで勝てるのかよ?」

 

 沖谷と山内も、各々不安を零す。

 

「……難しいね、正直」

「平田……悪い、迷惑かけちまって」

 

 リーダーを張る平田の苦々しい表情。以前の浅川の言葉といい、須藤が罪悪感を覚えるには十分だったようだ。至極申し訳無さそうにしている。

 

「ある意味、必然的な結果よ。事件自体が仕組まれたものだとしたら、不確定要素は取り除いてあるだろうし」

 

 彼の精神的な一面に僅かながら変化があったことは認めるが、それで状況が好転するわけでもない。堀北は冷静かつ残酷に現実を口にする。

 

「完全無罪は不可能、だったよね……。このままじゃ須藤君に重い罰が……」

「こちらの手札は、佐倉さんたちの証言・証拠、バスケ部の実情、現場の不自然さ、そしてさっき届いた『石崎君が喧嘩強い不良だった』という情報。少ないわけじゃないけど、どれも曖昧で弱い」

「上手く言葉を並べて処罰を軽くするのが、関の山かしら。精々頑張りなさい」

 

「え?」平田と櫛田が目を見開く。「堀北さん、審議に出ないの?」

 

「は? 出るのは当事者の須藤君と、Cクラスの人数に合わせて二人でしょう。平田君と綾小路君に任せるものだと思っていたけど」

「僕は堀北さんと綾小路君だと思っていたんだけど」

「私も!」

 

 何で?

 自分が出るメリットが浮かばない。頭である平田が出るのは勿論、そこに添えるのは同性かつ頭と口の回る綾小路であるべきだ。

 しかし意に反して、他のみんなも同意見なようだ。

 

「堀北さんならって、多分みんな思ってるよ」

「俺もどうせなら、お前に託したいって思ってるぜ」

 

 えぇ……。

 気乗りしない、が、悲しいかな。世の中は民主主義、多数決が最も楽に回るものである。

 思い切り眉間に皺を寄せるが、それを揶揄う二人がいないこの場で軽々と指摘する者はいるはずもなかった。

 

「…………期待しないで」

 

 

 

「何でオレなんだよ」

「あなたが出ることにだけは誰も反対しなかったわ」

「こういう時だけ仲良い風を装って……!」

「良かったわね、信頼されて」

「……お前も良かったじゃないか。リーダーに一歩近づいたな」

「くっ……」

 

 電話の向こうでクスクスと笑う声がする。みんな気楽でいいな。どうして乗り気でない二人がよりにもよって出なければならない。

 

「はぁ……まあこういう時に断りきれないのが哀れな性分だが、お前はいいのか?」

「それは私だって」

「そうじゃない。わかってるのか? 生徒どうしのいざこざの審議、実質仲裁だ。そしてうちの生徒会は一生徒の入試結果を確認出来る程に強い権力を持っている」

「……っ」

「明日だぞ。行けるのか?」

 

 言いたいことは伝わっているはずだ。何と答える。

 

「……やるしかないわ。あの人ならこの土壇場で逃げないし、負けない」

「……わかった。明日、頑張ろう」

「あなたも発言しなさいよ。最近上がり調子のコミュニケーション能力で」

「嫌味か! ……報告ありがとな、切るぞ」

 

 状況が状況だ。あまり無駄な長電話は、彼に失礼になる。

 

「残念だったな。お前の細やかな願いは叶わないようだ」

「……明日、よろしくお願いします」

 

 堀北学生徒会長。今回の審議に生徒会が関わるという話は、今しがた遭遇した彼から得たものだ。

 

「勝てそうか?」

「兄妹揃って、嫌味が得意ですね」

「大方、Cクラスの計略だろうな。先手をまともに食らった時点で、難題だ」

「詳しいっすね。他学年のことなのに」

「嫌味か」

 

 単に権力を行使したというだけでは説明がつかない。己の頭脳を以て、彼なりに事件の様相を掴んでいるのだろう。恐ろしい男だ。

 

「……まあ、何とかなるんじゃないですかね」

「策でもあるのか?」

「いや、オレは特に」

「なら――浅川か?」

「あなたには何が見えているのかわかりかねます。あいつは一連の情報収集に関与していませんよ」

「……なるほど、面白い」

 

 待て待て何を察した。オレも確証がないからこそフワッとした回答をしたというのに。 

 

「お前達二人にしか通じ得ない、糸があるということだろう。それを阿吽の呼吸、俗的には『絆』と言う」

「……さあ。まだ手繰り寄せているところですから」

 

 もしかしたらこの人は、既に全てをわかっているのかもしれない。事件の真相、恭介の言動と心理、オレが吟味している取っ掛かり、その全てを。

 不意に「会長」と、彼の背後から橘書記が現れる。髪を纏めた二つの団子が、動物の耳のようで可愛らしい。

 確か以前、彼女は生徒会長のことを「学君」と呼んでいたはずだ。クラスやプライベートでの関わりと、生徒会での関わりとで分けているのだろうか。随分と律儀な……。

 どうやら生徒会室に向かうらしく、会長は踵を返す。

 

「明日、どれだけお前達が足掻けるか楽しみにしていよう」

「…………堀北学先輩」

 

 初めて、この呼び方をした。

 普段とは違うものを察したらしく、思わずといった調子で彼が僅かに身体をこちらに向ける。橘先輩は、目を瞬かせて今ひとつ察していないご様子。

 

「一個人としての興味で、あなたにお聞きしたいことがあります」

「……言ってみろ」

 

 あくまで会長と一般生徒ではなく、対等な個人として、オレは問う。

 

「――あなたたちは、お付き合いなさっているのですか?」

「………………え!?」

 

 応答したのは、橘先輩の方だった。

 

「な、ななな、何を言っているんですかあなたは!?」

「いや、学先輩にしてはやけに親しげで、信頼しているようですから」

 

 これは事実だ。正直ギャップというか、意外性がある。

 

「……嫌味か」

「嫌味です」

 

 これも事実。

 どことなく不機嫌さは覗いているものの、動揺した素振りすら見せないのはさすがの威厳だ。

 

「……誰も信じなくては得られない勝利は多い。優秀だから行動を共にしている、それだけだ」

「……へえ」

「お前もそう考えたから、浅川や鈴音たちと肩を並べようとするのだろう?」

 

 ………………。

 なんか、けっこう真面目な話になったゃった。

 

「あの、オレがしたいのはそういう話では」

「行くぞ橘、時間がない」

 

 嘘だろ、こんな形で逃げられるとは。

 

「綾小路、俺はお前の能力を買っている。だが、私的な会話は噛み合わないようだ」

「それは悪友って言うんですよ」

 

 というか、ぶった切ったのはあんたじゃないか。

 とても逃げているとは思えない堂々とした振る舞いで、彼は廊下を歩いていく。

 

「……生徒会長」

 

 今度はこっちの呼び方。彼は振り向かない。

 

「前のテストの件、ありがとうございました」

「……お前達が礼を述べる必要のない取引だった。鈴音から聞いた限り、上手く扱えたようだな」

 

 オレたちだけにしか理解できないやり取りだ。再び小首を傾げる橘先輩に、少しぎこちなさげに対応する会長の姿は、曲がり角に消えた。

 ……何だかんだ、似た者兄妹なのかもしれないな。

 

 

 

 恭介の寮室に入ると、そこに彼の姿はなかった。

 代わりに、儚い容姿の少女が出迎える。

 

「こんにちは、綾小路君」

「こんにちは。恭介は?」

「行くところがあるからと言って、学校に残っているそうです。珍しいですよね」

 

 確かに珍しい。登校程ではないにしても、大抵直帰していた印象だ

 

「気にならないのか?」

「――はい。必要ないので」

 

 ん……? 気のせい、か。

 

「いよいよ明日が審議ですね。自信の程は?」

「ないな」

「直球ですね」

 

 眉をハの字にして笑う。取り繕ってもしょうがないことだ。

 

「それは?」

「気分転換に、ミステリー以外にも手を出してみました」

 

 そう言って椎名が見せてきたのは本の表紙。タイトルは、

 

「マッチ売りの少女」

「アンデルセンの作品です」

 

 貧しい少女の淡い最期を描いた短い創作だ。確か、編集者から送られた木板画をモチーフに書かれたのだとか。

 

「稀に少女が助けられる結末が描かれることもあるらしいですよ」

「そうなのか。でも、俺は原作通りの方が好きかな」

 

 あの作品は少女が叶うはずのない理想を描きながら、ぽつりと命の灯火を絶やしてこそ完成される。可哀想だからと救ってしまっては、恐らく込められた意味を台無しにしてしまうはずだ。

 

「……」

「どうかしましたか?」

「……いや、確かに珍しいなと思って」

 

 言えるわけがない。こんな女々しい感情、反吐が出る。

 オレはもう、憐れなんかじゃない。憐れなままには、ならない。

 沈みかけた心を叩くように、躊躇いのない勢いで扉が開く。

 

「ただいま。――あれ、今日はあんたもいる日か」

 

 神室が驚いて言う。

 

「綾小路君も、今来たばかりですよ」

「ふーん」

 

 神室は椎名や神崎と違いこれといって交流が盛んではない。お互い話を広げるのが得意ではないからだろう。どことなく、鈴音の棘を良い意味でも悪い意味でも削ったような性格だ。

 加えて、彼女自身、立場上他のメンバーほど頻繁には恭介の部屋を訪れていなかったりする。

 

「今日はフリーなんだな」

「召使いじゃあるまいし、ずっと一緒にいるわけじゃない。あんたたちとは違ってね」

「え、オレと恭介もそういうわけじゃ……」

「傍からは見えるけど。浅川はともかく、あんたが他の人と話すところ、そんなに見ないから」

「……そうっすね」

 

 どうやら悪意はないようだ。それだけに、余計傷つく。皆どうやってトークデッキを手に入れているのだろう。

 

「……浅川は、今日も来てないんだ」

「最近は集まってないのか」

「うん。椎名や神崎とは学校で会ってるらしいけど、私はここでしかあいつと話さないから」

 

 何やら物憂げな表情をしている。彼に対して、思うところでもあるのだろうか。

 

「ていうかいいの? こんなところにいて。随分と余裕そうじゃない」

「できることが少ないだけだ。今回の件、坂柳は動かないのか?」

「答えるわけ、って言いたいとこだけど、多分何もしないよ」

 

 動かないのなら、それを明かそうが明かさまいがオレたちに影響はない。ということか。

 

「坂柳さん……真澄さん、坂柳さんはここへは来ないんですか?」

「え、何、急に」

「ぜひ一度くらい、お勧めの本を語り合いたいと思っていたのですが。坂柳さん博識そうでしたし、浅川君のように新たな発見をもたらしてくれるんじゃないかと期待しているんです」

「…………来ないと思う。坂柳は浅川のこと嫌いみたいだし」

「……」

「ちょ、ちょっと、そんな悲しそうな目しないでよ」

 

 坂柳が恭介のグループにね、まああり得ないだろうな。

 来てくれる見込みがないことになのか、坂柳が恭介を嫌っていることになのか、ショックを受ける椎名を神室が宥める。ほう、案外面倒見が良いんだな。椎名にだけか?

 

「やっぱ実行すべきだったんじゃないか? 追加メンバー」

「……ちょっと後悔しています」

 

 新メンバーを招くという提案は恭介から出されたものだ。目安は各クラス一人、かつ男女比率が等しくなるように。オレが関わりを持ったことを良い機会だと判断したのだろう。

 しかし元祖メンバーの三人は全員反対。まず挙がった意見は「合コンみたいで嫌だ」とのこと。他にも、パーティーのような人数で煩わしくなりそう、関係が希薄になって結局グループが分割されてしまうかも、などなど。

 正直合コンなるものはよく知らないしオレはどちらかと言うと賛成だったのだが、四面楚歌では抗う術などない。恭介はその日暫く部屋の隅で体育座りをしていて、その姿から漂う悲壮感ったらなかった。

 

「私は反対。これ以上賑やかなのは苦手だから」

「気持ちはわかります。綾小路君のように落ち着いた性格の人なら――うちだと伊吹さんなら、ありかもしれませんけど」

「……こっちはキツいかな。口数少ないっていうと鬼頭とかいるけど、あれは本当に最低限しか喋らないし、読書するとは思えないから」

「…………難しいか」

 

 別に今の関係が物足りないというわけでない。新参者の影がないのであれば、その分彼女らとの関係を大事にしていくだけだ。

 

「あ、そうです真澄さん。これ、見てください!」

「へ? な、何」

「先週まではなかった蔵書です。確か真澄さん、この作者の作品が好きと言ってましたよね? ぜひ」

「い、いや、それはそうだけど」

「ぜひ」

「だ、だから」

「ぜひ!」

「…………わかったよ」

 

 両手で持った一冊を神室の眼前まで突きつけていた椎名は満面の笑みを浮かべる。

 

「ありがとうございます。でしたら隣に来てください。今日も読書会やりましょう」

「……新メンバー、私も考えるべきかな」

 

 バツが悪そうに頭を掻く神室だが、その表情は少し穏やかだ。結局素直に従い、椎名の隣に腰を下ろす。

 オレ、もしかして邪魔だったかな。

 

「綾小路君もこちらに」

 

 そうでもなかったらしい。あるいは気遣いだろうか。

 

「さっき蔵書って言ってたけど、椎名は一人で図書館に行ったの?」

「この前まではそうでしたけど、最近浅川君がまた一緒に来てくれるようになって、その時に見つけたんです」

「ああ、そういえば最初の頃もあんたたちはそんな感じだったね」

「今度は真澄さんも一緒にどうですか? できたら神崎君も一緒に」

「多すぎじゃない? 図書館に行く人数じゃないと思うけど」

「そうですか……」

「……全員の都合が合う日、浅川にでも相談してみたら?」

「――! はい、そうします」

 

 平和だなぁ。

 明日が事件の審議なんて、嘘のようだ。南東トリオとはまた違う心地良さ。

 宿主のいない宿で、オレは新刊のページをめくった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

審疑

「段取り、把握してる?」

「一応な」

 

 相互相手は、端末の向こう。

 

「……なあ、タイミングだけは考え直さないか?」

「演出は大事だよ」

「またそういう……」

「おふざけのつもりはない。その場を支配することはれっきとしたテクニックだ」

「……今更他の機会を選んでも、違和感がでてしまうか」

 

 片方がしぶしぶといった声を発する。

 

「……ごめんよ。でもこれは――」

「わかってる、あいつのためだろう? これはクラスの戦いじゃない。たった一人の小さな自由を守ることで生まれた膿を、取り除くだけだ」

 

 その言葉を聞いて、もう一方は思わず破顔する。

 

「だがいいのか? 本人には言わなくて」

「……ああ、問題ないよ」

「……俺は間違っていると思う」

「あの子は多分、僕といて幸せなんだろうね。でも僕である必要はないんだ。そして――僕はあの子といると、きっと不幸になってしまう」

 

 そう言われては。言い返す術を持っていたとしてもまるで自分が悪人であるかのような気がして、何も言えなくなる。低いため息が電波に乗った。

 

「……お前はもっと、タフだと思っていたぞ」

「何を言うんだい。僕は見た目そのままの、華奢で貧弱なお子様だよ」

 

 プツリ。

 短い通話が切れる。時刻は二十二時を廻る、普段と比べて随分と遅い。

 更ける夜の中で、憂いな瞳の少年は呟いた。

 

「……幸せだから一緒にいる、か」

 

―――――――――――――――――――――――――

 

「頑張ってこいよ綾小路!」

 

 バンッと背中に重い衝撃。池に激励を貰う。

 

「困った時は俺を呼ぶんだな。カレイなる逆転劇ってやつを見せてやんよ」

 

 山内のホラ吹き。今は漂う緊張感をほぐすのにはもってこいだ。

 

「堀北さんも、しっかりねっ」

「……櫛田さん、やっぱりあなたが出」

「しっかりねっ」

「……ええ」

 

 女子二人は、大変仲の良いことで。

 

「綾小路君」

 

 平田からも応援――かと思ったが、その真剣な表情と妙に抑えた声が、少し違う意図を感じさせる。

 応えるように、耳を預けた。

 

「念の為、通話を繋いでおこう」

「え、けど……」

「言いたいことはわかるよ。確かに直接できることはない。でも、気持ちは一つだ。僕らはみんなで戦ってる」

 

 力強い眼差しだ。精神論に近いが、嫌いじゃない。と、『何か』を見出そうとするようになったのも、オレの変化の一つだ。躊躇わず了承した。

 

「勝ちは難しい、だったね」

「不可能に近いな」

「…………延長だ」

「何?」

 

 突拍子もない提案だった。彼は二本指を立てる。

 

「クラスポイントの剥奪、須藤君のバスケ部での活動への支障、どちらかが免れない限りは、どうかせめて、審議を後日に延長できるように持ちこたえてほしい」

「何か考えがあるのか? あまり意味を感じないが」

「……ううん、特には。でも、負けを確定づけるよりはマシだ」

 

 正直それすら難しい話だ。ここは裁判所ではない。議論の余地があろうと既出の情報のみで判決が言い渡される可能性だってある。――それ相応に口を回さなければならないか。

 

「……善処する」

「ありがとう。大丈夫さ、悪い結果になっても、誰も君のせいにはしないよ」

 

 それはどうだろう。お前のガールフレンドなんかは鶏冠に来てしまうかもしれないぞ。この場のみんなが庇ってくれるなら、それで十分だが。

 審議直前というところで、ようやく茶柱先生が到着する。彼女は立会人だ。

 

「準備はできているようだな」

「心構えだけですけどね」

「不足ない」

 

 この人は自分のクラスのポイントが懸かっていることをわかっているのだろうか。何ともふてぶてしい。

 

「須藤、今回のお前の行動、自分ではどう思っている?」

「俺は……初めは何とも思ってなかった」

「なら今は?」

「……こんな大事になっちまって、浅川にも見捨てられて、おまけに仲間が苦しい顔して頑張ってる。さすがに、反省したぜ」

 

 受動的ではある。しかしその改心は大きな意味を持つ、一つの結果だ。同じことを繰り返さないという意思を抱いたのであれば、何の問題もない。

 

「今お前にできることはない。精々無力を悔やみ、無知を恥じるんだな」

「……っ」

「ただ、そんなお前をそれでも救おうとする仲間とやらを、信じて待っていろ」

 

 はたと、須藤は俯いていた顔をあげる。

 

「……改めて悪かった。都合の良い話だってのはわかってるが、どうか助けてくれ。頼む」

 

 深々とお辞儀をする彼に、各々頬を緩め、揶揄で和ませていく。

 

「この前も似たことを言って、私に懇願してきたばかりなのだけど」

「そう言うなって。前回は頭、今回は体ってことだろう」

「不器用な男ね、苦手よ」

「他人と関わるのが苦手なだけだろ……事実を言っただけで睨むな」

「ふん……」

 

「お前達」と、先生がオレたちに呼びかける。

 

「クラスきっての問題児の不始末だが、連帯責任の世の中だ。尻拭いはお前達に任されている。――特に堀北、わかっているな?」

「――!」

 

 虚を突かれた鈴音だが、自分の頬を両手で叩き、己に闘魂を注入する。

 

「問題ありません。やれるだけのことはやってみます」

「よろしい。行くぞ三人共、信じてくれている仲間のためにも、一矢報いてみせろ」

「はい」

 

 先生がこちらに目配せする。「これでいいんだろう?」と。ホント、口達者という点では彼女も人のことは言えない。

 そうして、生徒会室への門戸が開く。

 鈴音の言う通りだ。覚悟だけが万端の戦いが、始まる。

 

 

 

「これより、先週の金曜日に発生した暴力事件について、審議を執り行います。進行は、生徒会書記の橘が務めます」

 

 昨日聞いたばかりの、雰囲気に沿わない柔らかな声が反響する。

 

「まさかこの程度のいざこざに生徒会長がお見えになるとは。珍しいこともあるのだな」

 

 開口一番、茶柱先生が余計な煽り文句を放つ。本当に余計だ。

 対する受け手は澄まし顔。意にも介さない。

 

「日々多忙故、参加を見送らせてもらうこともありますが、原則立ち会いますよ」

「フッ、それはそれは、此度は殊勝な心掛けに感謝しよう」

 

 こちらが訴えられているのだから、そう威圧するようなことを言わないでほしい。

 鈴音を見る。――やはり視線は兄に釘付けだ。しかし萎縮しているようには見えない。空回りしない程度のやる気が感じられる。

 よし、オレは雲隠れしておこう。席は一列であるため隠れ場所があるわけでもないのだが。

 その後橘書記が審議中の注意事項を述べ、いよいよ本題に切り込んだ。

 恐らくこの場の全員が把握しているであろう概要の説明――裁判なら検索側の行う冒頭陳述に等しい――が済まされ、議論が始まる。

 

「以上を踏まえ、須藤、小宮らのどちらの主張が真実か、またどのような処罰を取るかを判定します。基本形式としては、まずは被告側である須藤ら三名による反論、その後小宮らの応答。適宣生徒会長による質問を挟みながら進行していきます。各人、発言の際は挙手をしてください。それでは、被告側の主張からお願いします」

 

 橘書記が言い終えると同時、檻から放たれた獣のように須藤が声をあげる。

 

「俺は悪く……ねえとは言い切れねえが、それでも先に喧嘩吹っかけてきたのは――」

「須藤君」

 

 凛々しい声が場を制する。鈴音だ。恐ろしく鋭い目を、須藤に向ける。

 

「勝手な発言は控えて。あと、その粗末な言葉遣いも」

「けどよ!」

「けど……?」

「うぐっ、……何でもねえ、です」

 

 今日の鈴音、調子いいな。

 

「失礼しました。先程の無礼は大目に見ていただけると助かります」

「以後気をつけてもらえれば構いません」

 

 二人共、普段より堅い口調だ。ここがそういう場であることを再確認させられる。

 咳払いをし、鈴音は口を開く。

 

「――いくつか質問があります。まず、あなたたちは須藤君に呼び出されたと主張しているそうですが、間違いありませんか?」

「はい、勿論です」

「一体どんな内容で?」

「それは……当然バスケのことですよ。須藤君は普段から驕るような態度で僕たちを見下していたんです。その日も、きっとそれ関連のことなんだと思ってました」

 

 ここで、鈴音がこちらに視線を移す。Cクラスの三人とその担任――坂上先生が訝しげな顔をする。

 決まっていた手筈だ。片方が質疑応答をしている間に他方が次の手を考える。シームレスな質問攻めで向こうに余裕を与えないためだ。

 

「バスケ関連、ですか。ではなぜ、そこに石崎君の姿が?」

「彼は用心棒のつもりでした。暴力的な須藤君なら、もしかしたら急に殴りかかってくるかもしれないと思ったんです」

「用心棒と言う割には、須藤は無傷、あなたたちは一方的に大怪我を負ったようですが」

「僕たちの予想以上に、彼が凶暴だったということですよ」

 

 淀みがない。用意された回答だ。

 

「――私には多少、武道の心得があります。いくら運動能力に優れた須藤君とあれど、体育会系の部活に励んでいるあなたたちを同時に相手にすれば、負傷の一つくらいはあるはずです」

「僕たちには喧嘩の意思がなかっただけです」

 

「石崎君にも、ですか?」鈴音の目が、鋭さを増す。「用心棒であるはずの彼が、抵抗すら見せなかった?」

 

「……っ、はい」

「不自然だと、お解りですよね?」

「……い、いえ、石崎君には、確かに守ってもらうつもりでした。しかし彼が抵抗するより先に、須藤君が僕たちに暴力を振るったんです」

「そうですか。でしたら、初めから正確な答えをお願いします」

 

 今度は生徒会の二人に目線を送る。反応したのは進行役の橘先輩だ。

 

「確かにその通りです。回答はできるだけ齟齬のないようお願いします」

 

 最上級生にして優秀である二人のことだ。今のCクラス側の回答は、最初嘘だったことは理解したはず。僅かだが、相手の発言に信憑性が欠けたのは間違いない。

 

「須藤に振るわれた暴力、具体的にはどういうふうに? 経過を説明してください」

「……指定された場所に行くと、須藤君が待っていました」

「その時の須藤君の様子は?」

 

 立て続けの問いかけ、しかも内容の重要性が判然としないためか、Cクラス側は頭に疑問符を浮かべる。

 

「……僕たちを小馬鹿にするようにニヤニヤしていて、怖かったです」

「わかりました。――その後は?」

「少しだけ話を。僕たちは穏便に済まそうとできるだけ落ち着いた会話を心がけましたが、須藤君には通じませんでした」

「会話の内容は?」

「……僕たちを見下す発言とか、下僕のように扱おうとしたりとか、色々」

「他には?」

「……っ、さっきから何なんだ! 意味のないことばかり」

 

 こちらの狙い通り、小宮が冷静さを欠き苛立ちを露わにする。

 向こうは生徒会長に目線を送る。同意を求めているようだ。

 

「どうなんだ?」

「意味の有無は私達が判断することです。極めて重要な問いしか、しているつもりはありません」

「――だそうだ」

 

 簡潔なやり取りだ。恐喝や脅迫をしているわけではないので、尋問の善し悪しを相手側に決めつけられるいわれはない。

 

「…………他には、特にありません。そりゃバスケのことで呼び出されたんですから」

「――そうですか。そして会話がどんどんヒートアップし、殴り合いになった?」

「殴り合いじゃありません。一方的に殴られたんです。踏まれたりど突かれたり」

「ああ、そうでしたね。その時あなたたちは、避けることもしなかったんでしたね」

「そ、そうです。足が竦んで、逃げることも叶いませんでした」

 

「当時の位置関係を確認させて下さい」交互の尋問、鈴音の番。「窓際にいたのはあなたたちですよね?」

 

「その通りです」

「あなたたちは抵抗も逃亡もしなかったと言いました。つまり、窓際に追い詰められた状態のまま、位置が入れ替わることなく、須藤君に殴られたんですね?」

 

 いよいよ不安になってきたらしい。こちらが何を狙っているのか、どう答えるのが正解か――と考えている時点で奸計を行ったのは間違いない――疑心暗鬼になっている。

 

「…………い、一方的だったんです。そうだったと思います」

「やけに曖昧な回答ですね」

「暴力を振られてる時に、いちいちそんなこと気にしませんから」

 

 苦し紛れだが瓦解していない。自分たちの主張と矛盾しない返しだ。

 だが、ここからが仕掛けどころだ。

 

「――ありがとうございました。ここで一度質問を中断したいと思います」

 

 場の空気が動く。

 

「ここで私達が主張しておきたいのは、今までの彼らの回答のほとんどが虚偽であるということです」

「なっ……!」

「須藤君が拳を振りかざしたのだとしたら、彼らは欺瞞な嘘を振りかざした。それをこれから証明します」

 

 彼女の目は、兄――いや、裁定者の方へと向けられる。

 交錯する視線。やがて、彼は応えた。

 

「いいだろう。やってみろ」

 

 了承を得て、鈴音は再び話す。

 

「順を追っていきます。まず呼び出しが須藤君からであるという事実は存在しません」

「しょ、証拠は――」

「バスケ部主将、三年B組の石倉先輩の証言です」

 

 Cクラスの連中が目を見開く。何を驚くことがあろうか。こちらは小さくないペナルティが懸かっている。関係者に証言を聞いてまわるのは当然のことだ。

 

「審議の円滑な進行のため本日この場には招集しておりませんが、本人に確認していただければ簡単にご理解いただけるでしょう。小宮君と近藤君が先に体育館を出てすぐ後、慌ただしげにロッカールームを去る須藤君の姿を、何人かの部員が目撃しています」

「そ、それは、僕たちがたまたま先に特別棟に着いただけで」

 

「おかしいですね」すかさず、相手の反論をオレが制する。「自分の証言をお忘れですか? 須藤君が待っていたと、あなた達は既に証言しています」 

 

「あっ」

「こちらが得たのは複数人の目撃情報です。この矛盾を解消する方法は、あなたたちが嘘をついた、そう考える他ない」

「とすると、呼び出しの内容も真っ赤な嘘ということになります。そもそもバスケに関して須藤君は相応の熱意を以て取り組んでいます。そんな彼が、バスケの実力で他人を小馬鹿にするとは考えられません」

 

 これも他の部員から確認が取れる。という旨も伝えておく。

 

「また、石崎君が用心棒だったという話、一方的な蹂躪だったという話、その他当事者のやり取りの内容も、事実とは言えません。――生徒会長。予め提出した動画データをお願いします」

 

「橘」鈴音の合図を受けて、学先輩が橘先輩に指示を飛ばす。

 証言も証拠も、こちらが手に入れたものは生徒会側に共有されている。本来の裁判でも、それは同じだ。

 プロジェクターによって、佐倉が撮影した動画の映像が流れ始める。

 

「会話の内容からも、やはり呼び出しが小宮君たちからであることが察せられます。そして――ここからお聞きください」

 

 鈴音が「ここ」と指したのは、須藤たちの会話の途中からだ。

 

『お前に勉強教えてたやつらも高が知れてるぜ』

『……んだと』

『堀北だっけ? いかにも頭の堅そうで愛想のない女だよな。綾小路と浅川も冴えない顔した間抜けって感じだ』

『おい、てめぇ良い加減にしろよ』

『まさしくDクラスに相応しいお仲間さんだな、須藤』

『……ッ、それ以上俺のダチを馬鹿にすんじゃねぇ!』

 

 ピッ。

 映像が止まる。

 

「……さて」鈴音がふてぶてしく笑う。「これのどこが、バスケの話なのでしょうか?」

 

「うっ、……」

「明らかな侮辱行為、しかも対象はオレ達――こっちが訴えたいくらいですよ」

「更に、須藤君と言い合いをしている人物にも注目してください。これより少し前の段階から、ほとんどの会話は石崎君のみが行っています。まるで彼のお付きとして、小宮君と近藤君が控えているかのように」

 

「なるほど」あくまで中立の立場である生徒会長も、オレたちの言葉を継ぐ。「確かにバスケ部内のいざこざにしては度を超しているな」

 

「はい。先程彼らは自分たちの発言は穏便だったとも言いましたが、表現を間違えているとお見受けします。これは紛れもない挑発です」

「し、しかし、僕たちが暴力を振るわれたという事実は重要です! 抵抗の意思のない生徒をここまで負傷させる凶暴さは――」

「それすらも、オレたちは疑問の余地があると主張します」

 

 反論の隙は与えない。オレは一枚の写真を掲げた。

 

「これは現場のある壁の写真です。中央に粉が張り付いているのがわかると思います」

 

 使用した粉は食堂でヨシエさんから貰い受けたものだ。廃棄予定のもののため問題はない。

 

「ご覧の通り手の跡が残っています。当日、須藤は部活の休憩中に自前のボールを手入れしていました。その時のワックスが残っていたためだと考えられます」

「……そういうことか」

 

 さすが会長だ。いち早くこちらの言いたいことを察したらしい。

 

「ここで小宮君たちの主張を思い出してください。窓際に追い詰めれ、位置が入れ替わることもなく一方的に殴られた。もしそうだとしたら、ここにこの跡が残るのは明らかにおかしい」

「相手に背を向ける形になるからか」

 

 茶柱先生も納得した声をあげる。窓際の方を向き続けていたという趣旨の相手の発言と矛盾をきたす証拠だ。

 

「き、記憶違いだったのかもしれませんよ」

  

「それは虫が良すぎるでしょう」自分の生徒を庇う坂上先生に反論したのは、何と茶柱先生だった。「堀北たちは再三確認していたはずですよ。態々具体的な状況まで提示して。それを今更繕って許されるのなら、私達はあなたたちのどの証言を信じればいいのでしょうね?」

 彼女の言う通りだ。言い逃れをさせないために、こちらは意図的に確認を繰り返した。オレは『避けることとしなかったのか』と聞いたし、鈴音に至っては『窓際に追い詰められた状態のまま、位置が入れ替わることなく、須藤君に殴られた』のかとまで聞いている。これに首肯しておいて撤回などとは無理な話だ。

 

「加えて、こちらの掲示板に寄せられたコメントを見てください。石崎君は中学時代学内きっての不良少年で、今尚その乱暴さは健在だとか。尚更一方的にやられるのは不自然ですし、喧嘩慣れしている彼が逃げることも逃がすこともできないとはとても思えません」

 

 プロジェクターに掲示板のスクリーンショットを表示してもらいながら、鈴音は言う。

 

「以上、これで原告側の証言はほとんどがデタラメであると証明されたと思います。そしてその嘘は無論、須藤君を陥れ厳重な処罰にかけさせるために他ならない。非常に卑劣な意図を含む行為です」

 

 言い切る彼女だが、当然Cクラス側はこれにリアクションしなければならない。

 

「そ、それでもこの怪我は、正真正銘須藤君が暴力を振るった証拠です! この証言はまだ生きてる」

 

 一応動画は須藤が暴力を振るう直前までしか撮影されていないものの、相手側には強力な物的証拠がある。これを崩さなければやはり、須藤の完全無罪はあり得ない。

 話が平行線になるかと思われた矢先、スッと一人の手が挙がる。

 

「よろしいでしょうか」

「坂上教諭、どうぞ」

 

 橘先輩の指名を待ってから、坂上先生が発言する。

 

「このままでは平行線。と誰もが思っていることでしょう。そこで――茶柱先生、ここは落とし所を模索しませんか?」

「落とし所、ですか?」

 

 茶柱先生は鋭い目で応じる。懐疑的な眼差しだ。

 

「どうやらこちらにも非があったことは事実のようです。幾分か嘘をついてしまったことも。しかし須藤君が暴力を振るっていないという証拠を、あなた方は手に入れていないと見える。であるなら、現段階での問題行動の重大さで、処罰の重さを取り決めませんか」

 

 イヤミたらしい顔で、小宮らと須藤を交互に見る。

 

「須藤君は二週間の停学、石崎君は一週間の停学、これでどうでしょう?」

 

 須藤は当然振るった暴力、石崎は過剰な侮辱行為、といったところか。

 小宮と近藤に処罰がないことを咎めるより、須藤への処罰――最悪坂上先生の提案以上の処罰が下り、こちらが一方的な損害を被る可能性もあった。嵌められたとはいえ、客観的には相当な譲歩とも見える。

 だが、オレたちが気にすべきなのは責任の比重ではなく処罰の回避――相手の損害は度外視でいい。そう考えると……。

 茶柱先生は考える素振りのあと、坂上先生に返答――するのではなく、こちらを見た。

 ――お前たちはどうする?

 この場において代表者は鈴音ということになっている。彼女はオレの方を見ることなく答えようとする。

 

「…………わかりま」

「待ってください」

 

 遮るように、オレの声が部屋中に響いた。

 鈴音はようやくオレを見る。

 おまけに室内の全員も、オレを見る。

 

「何かありますか? 綾小路君」

「い、いえ、その」

 

 妥当な折衷案だとは思う。鈴音もだからこそ、苦虫を噛み潰しながら了承しようとした。

 しかし駄目だ。これでは駄目なんだ。

 

『クラスポイントの剥奪、須藤君のバスケ部での活動への支障、どちらかが免れない限りは、どうかせめて、審議を後日に延長できるように持ちこたえてほしい』

 

 クラスのリーダーから頼まれ事。違えるわけにはいかない。このままでは須藤の経歴に停学という黒歴史が刻まれてしまう。

 何でもいい。何かないか? 重大な疑問を指摘し、審議を延長する方法――。

 

「無駄なことですよ、綾小路君。気の毒ですが、恨むなら愚かにも凶行に走った須藤君を恨みなさい」

「綾小路君、発言はありませんか?」

 

 坂上先生と橘先輩が言う。

 

「ま、まだ、追及されていないことが残っています」

「どこにそんなものがある?」

 

「た、例えば……」生徒会長の圧に押されながら、言葉を絞り出す。「事件後の動き。当事者たちが分かれてからの各々の行動は、まだ議論されていません」

 

「本質とは無関係と見えるが?」

「それは……」

「この審議で重要なのは、被告人が暴力行為をとったかどうかだ。まさか忘れてはいまい」

 

 ご、ごもっともで……。

 

「……ここまでよ、綾小路君。今の手札では、これが限界」

 

 鈴音も悔しそうに、諦めの一言を発する。須藤も後悔や悲哀の綯い交ぜになった感情を顔に浮かべている。茶柱先生は、何を考えているのかわからない、無言で目を伏せている。

 

「これ以上の議論の余地はないと判断する。坂上教諭の折衷案か、現時点での情報を元に生徒会が処罰を裁定するか、二つに一つだ。異議はないか?」

 

 生徒会長からの勧告。

 万事休すか……。すまない平田。やはり正攻法で切り抜ける方法はなかったみたいだ。

 

「…………お、オレたちは、坂上先生の、提案を……」

 

 受け入れがたい結末を、飲み込むしかない。

 ――そう、諦めかけた時だった。

 

 

 

「異議あり」

 

 

 

 生徒会室の重い扉が、ゆっくりと開いた。

 

「その結論、少しだけ待っていただきたい」

 

 颯爽と現れたのは二人の男子生徒。片方は、知り合いだ。

 

「生徒会長。綾小路の言う通りです。この審議にはまだ、議論の余地が残っています」

「……まさか厳粛な審議の場に乱入とはな、前代未聞だ」

 

 生徒会長は眼鏡を押し上げ、冷酷な目を向ける。

 

「名を名乗れ」

「一年B組の、神崎隆二です」

 

 思わぬ援軍が、降臨した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

延潮

アンケートの状況にびっくり。正直上二つと一番下に票が偏ると思ってました。GW明けらへんにはアンケート締め切るつもりなんでよろしくです。


「頭を、撫でてほしい」

 

 高めな少年の声。

 その願いに応じて、寝そべる彼の頭の上に、そっと手が乗せられる。気持ちよさそうに目を閉じる姿は、あどけない。

 

「ありがとう」

「……」

 

 ふわりとした印象を与える髪を垂らす少女は、瞳を震わせて少年の顔を見つめている。

 

「……どうしたの?」

 

 不意を突く指摘に、瞳孔が揺れる。

 

「……いえ。今日まで、色々な変化があったなと思いまして」

「……そっか」

「あなたと出会ったのが大きかったのでしょうね。他の人との関係も、あなたのおかげで始まりました」

 

 そんなことは、と言おうとしたが、なまじ間違っていないことに気づき、少年は下手な謙遜はしなかった。

 

「幸せ?」

「……ずっと独りだったもしもよりは、きっと」

 

 短い沈黙が流れる。

 

「……ねえ、一ついい?」

「はい」

「その、できたら、抱きしめて欲しい――」

「……いいですよ」

 

 体勢が変わり、少女は優しく少年を包む。

 

「…………あったかい」

「……変わったのは、周りだけではありませんね」

 

 心音に混じって、柔らかな声が少年の耳に届く。

 

「最初の頃は、こんなことはしませんでした」

「イヤ?」

「……そういうわけでは。でも、少なくとも私からあなたへの印象は変わりましたし、あなたも恐らく、私を見る目が変わったのだと思います」

「……そうかもね」

 

 その通りだった。でなければ、少年はこんな無垢な要望も姿も、彼女に晒せない。

 

「…………あの、私からも一つ、いいですか?」

「なに?」

「あなたには今、私がどんな風に見えていますか?」

「それは……」

 

 刹那、少しだけ距離が開き、少年の頬を温かな両手が覆う。

 そのまま顔を持ち上げられ、少女と目があった。

 顔は、よく見えなかった。表情も、よくわからない。

 

「私は、――ですよ?」

 

 ダレカ、ヨクワカラナカッタ。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

「一年B組の、神崎隆二です」

 

 乱入者はそう名乗った。想定外の事態にこちらも向かいも唖然とするばかりだ。

 唯一、生徒会長だけは狼狽えずに応じる。

 

「ふん……神崎、この審議に議論の余地があると言ったな」

「か、会長。良いのですか?」

「本来であれば、裁判中の勝手な行動や発言は退廷対象だ。しかし生憎、ここは一学校の敷地に過ぎない。柔軟な対応を取るべきだ」

「……わかりました」

 

 御託を聞くくらいはしてやろう。そう言っているようにも聞こえる。

 

「神崎、説明しろ」

 

「はい」神崎は傍らの少年を指す。「彼はこの事件のもう一人の関係者、いや、被害者です」

 

「柴田颯って言います」

 

 小宮たち程ではないが、痛ましい包帯を巻いた生徒が言う。

 柴田、という名前は最近何度か耳にした。確かに以前平田が言っていた。怪我を負ったと。

 

「なぜ今まで名乗り出なかった?」

「須藤君と似た事情です。俺もサッカー部での活動に余計な支障をきたしたくなかったから――あと、告げ口したって知られたら何かされるかもって怖かったんです」

「では、今になって名乗り出たのはなぜだ?」

「今日が審議だという話は聞いていました。俺と同じように被害を受けた人がいるならと、勇気を振り絞ろうと思った次第です」

 

 取り合うべきか、そうしないべきかを計っているようだ。

 Bクラスが善良なクラスだと周知されている故か、やがて頷いた。

 

「いいだろう。当時何があったか、証言を許可する」

「ありがとうございます」

 

 これは、大変なことになってきたな。

 紛れもない助け舟。あのままでは間違いなく、裁定は下っていた。

 しかし何故、今になって? Bクラスは真っ向から協力を拒否したというのに、まるで盛大な演出のようだ……。

 ……まさか、な。

 

「部活が終わって帰ろうとした時でした。特別棟の方で物音がして、そっちに向かったんです。――するとCクラスの三人がちょうど出てきて、鉢合わせになりました。――『ちょっとツラ貸せ』って物凄い剣幕で言われて、胸倉を掴まれた時は怖くて思わず抵抗しました。――結局何発か殴る蹴るされて、その後はケヤキモールの方へ向かっていきました」

 

 一息に証言を終えると、場に沈黙が訪れる。

 破ったのは、石崎だ。

 

「ちょ、ちょっと待て! 何だよそれ」

「どうかしましたか?」

「あっ……し、柴田君が言っていることは大嘘です。俺らは彼に暴力どころか、会ってすらいませんっ」

 

 酷く取り乱した様子。一体どういう意味を含む焦りなのだろうか。

 生徒会長は毅然と考えを述べる。

 

「嘘か真か、それはこれから判断することだ」

「けど――」

「条件はお前達と同じ。柴田は一目瞭然の怪我をしており、お前達を告発している。少なくとも無視すべきものではない」

 

 冷静沈着に真っ当なことを言われ、彼らは黙るしかない。これ以上反抗しても印象を悪くするだけだと判断したのだろう。

 会長は柴田に話を振る。 

 

「つまり、須藤との喧嘩のあと、彼らはお前と遭遇し腹いせに暴力を振るったと?」

「その通りです」

「……なるほど」

 

 僅かな思案の後、会長はこちらを向いた。

 

「被告側、尋問を要請する」

「え?」

「どうやら二人の言い条は、須藤を庇い原告側を咎めるもののようだ。つまり、そちら側の証人ということになる」

 

 そういう風に捉えることも、できるか。

 

「前もって伝えておくが、俺はまだ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「と言うと?」

「今回の暴力事件とは別件として片付けるべき議題である可能性も考慮している、とういうことだ」

 

 確かに今の証言だけでは、須藤の件との関連性は確認できない。ただの情で彼を庇っているに過ぎないと結論づけても、寧ろ自然だ。

 

「この審議が新たな展開を見せるか、将又さっきの展開に逆戻りするかは、お前達の采配にかかっている」

「……わかりました。尋問をお願いします」

 

 鈴音が緊張の面持ちで承認する。が、動揺を抑えられていない。

 やむを得ないか。オレが口を開く機会は多くなりそうだな。

 

「――物音がした、と言いましたが、どんな音でしたか?」

「ドン、という鈍い音でした。空耳かとも思いましたが、もし人でも倒れていたら大事だと考え直して向かいました」

「鈍い音……? 間違いありませんか?」

「はい、間違いありません」

 

 鈴音がオレと目を合わせてくる。

 いやいや、オレに縋ってきても困る。不思議なことではあるが。

 

「……当時、暴力沙汰ではありませんが、もう一つ事件がありました。特別棟に面した建物のガラスが割られるというものです。改めてお聞きしますが、柴田君が聞いたのはガラスの割れる音ではなかったんですね?」

「勿論です。それを聞き間違えることはさすがにないと思います」

 

 疑問はある。だが今は今回の事件との関連性を見出すのが先だ。

 今度はオレが質問する。

 

「――Cクラスの三人と鉢合わせになった。その時の三人はどんな様子でしたか?」

「息が上がっていて汗をかいてました。あと――記憶違いでなければ、()()()()()()()()()()()()()()と思います」

「え、どういうことですか?」

「その傷は須藤君とのやり取りを終え、俺に暴力を振るった後のものだと考えられる、ということです」

「なっ……!」

 

 再び目に見える激震が、相手側に走る。

 

「柴田は須藤君が訴えられたと知った時、すぐにCクラスの連中が嵌めたと思ったそうです。須藤君はあくまで必死に抵抗しただけに過ぎず、彼らが軽い怪我を大仰に偽装したと。俺個人としても、Bクラス全体がCクラスから度々嫌がらせを受けていたため、あり得ない話ではないと思います」

 

 今回の問答は相手への心象を大きく下げるものだった。しかし、こう、……都合が良いとは思えなくもない。

 まあいずれにせよ、求められているものは得られなかったわけだけど。

 

「――柴田君は抵抗したんですね。それはどのあたりですか?」

「特別棟を出たあたりです。物音の原因を探し始めた時でしたから」

「抵抗の内容は? 具体的にお願いします」

「こちらが手を出したら負けだと思って、掴みかかった手を振り払ったり藻掻いたりしただけです。そしたら囲まれて、リンチに掛けられたんです」

 

 どっかの単細胞とは大違いだ。オレと鈴音、茶柱先生までもが同じ方を見る。バツが悪そうに俯く姿が哀れだ。

 

「――ケヤキモールの方、と言うと、特別棟を出て《右》に曲がりますね」

「そうですね。多分、病院に向かったのだと思います」

「なるほど。――小宮君、あなたたちはすぐに病院に向かいましたか? 後から調べればすぐにわかるので、嘘偽りなくお願いします」

 

 念を押してから聞くと、返答はノーだった。

 

「ぼ、僕たちは、()()()()()()()()()()()()。荷物も、あったので」

 

 どうやら完全に描いていた筋書きからは外れてしまったようで、一語一句がぎこちない。

 それはそうと、またしても矛盾が発生した。

 

「寮……特別棟を出て《左》ですね」

 

 柴田の証言と真反対。困ったことにどちらも嘘をつく理由が思い当たらない。真実を断定する材料は見えていない。

 

「…………終わりか?」

 

 質問が途切れたことを察し、生徒会長が問う。

 

「わかっているな。現時点で、須藤の事件と直接的な関連は見込めない」

「し、しかし、柴田君は特別棟から出たばかりの小宮君たちと遭遇しています。これは関連性を示す――」

「そう言っている、だけに過ぎない話だ」

 

 鈴音が食らいつこうとするが、まるで効かない。こればかりは向こうの理屈の方が正しい。

 

「柴田と小宮たちには決して誤差や記憶違いには収まらない証言の齟齬がある。これは柴田が須藤を庇うために話を誇張、あるいは捏造したと一蹴できる」

「けどそれは……!」

「向こうも同じ、じゃないんだ鈴音。小宮たちが原告で柴田が証人、この違いは大きい」

 

 関連性が認められていない限り、柴田を今回の事件の被害者として対立させたことにはならない。被害者としての証拠能力を持つ証言は依然相手の方にある。

 万一柴田の怪我がCクラス三人によるものだとしても、時間や場所にある程度の継続性・連続性があることを証明しなければ、それらが偽りである可能性が残ってしまう。例えば、『須藤の事件から数時間後に寮の裏で柴田が被害を受けた』としても、さっきの証言はできてしまうのだ。

 つまり、

 

「物的な証拠が必要だ。一つでもいい、柴田の証言の正当性を示し、この事件との関連性を示す証拠品が」

「……っ、そんなの、あるわけないわ。私達はずっと須藤君の事件しか調査してこなかった。今更新しい事件に関わる証拠なんて……」

「……いや、案外そうとは限らないぞ」

「な、なんですって……?」

 

 そう、オレならわかる。オレなら知っている。

 鈴音や他のメンバーが十分に把握していない、オレだけが掴んでいる証拠品――。

 きっとそれが、新たな展開をもたらすはずだ。

 

「生徒会長。被告側には、柴田君を被害者とする事件と須藤の事件、二つの事件の関連性をはっきりと示す証拠品を提示する用意があります」

「……ほう、面白い」

 

 彼はこちらの頼みの綱を一蹴できると言った。――突きつけてやるんだ。文字通り、そんな妄言を『一蹴する(蹴り飛ばす)』証拠品を。

 

「ならば示してみせろ。お前の言う、決定的な証拠品を」

 

「それは――――――サッカーのスパイクです」

 

「スパイクだと?」会長は眉を顰める。「どういうことだ」

 

「事件後、巡回の教師が特別棟を確認したそうです。その際サッカーのスパイクが片方だけ落ちているのを発見しました。持ち主は当然、柴田君です」

 

 証人は勿論巡回していた本人だ。スパイクも柴田のもう一方のスパイクを確認すれば同種であるとわかる。

 

「特別棟を出たところとなると、それなりに人目につく場所です。隅の方ではあったそうですが、須藤や小宮君たちが気づかなかったはずがない。つまり柴田君のスパイクは、須藤たちのやり取りの後、日没までの間に落とされたたことになる。彼は確かに事件当時、特別棟の前まで行き、そして小宮君たちと出会ったのです」

 

 スパイクが脱げたのは抵抗したから。放置したのは錯乱していた当時では発見できなかったあるいは小宮らが戻ってくるのを恐れたため探す余裕がなかったと説明できる。

 

「いかがですか生徒会長。これで二つの事件を別物として審議するには、横暴が過ぎるでしょう」

 

 最終確認を審判にする。

 彼は暫し思案を挟み、閉じていた目を徐ろに開けた。

 

「……俺の結論を述べよう。本来この学校で行われる審議に延長はない。何故なら、必要なだけの時間を想定して期日が定められているからだ」

「……」

「しかし。今回のような、全く別の、事前調査を想定できないような事例が新しく紐付けられた場合、その時点で裁定を下すには明らかに調査と議論が不足している。そう判断する」

 

 ……! ということは。

 

「十分な議論を経ないまま誤った処置をとるのは、名誉ある生徒会の箔に傷を与えることになる。それは我々とて望まないことだ。故に特例として――本審議は翌々の課業日、すなわち来週の月曜日まで延長することとする」

 

 決定的な一言が、告げられた。

 

「双方、相手の嘘若しくは自分の正当性を証明する用意をしておくように。以上」

 

 

 

「綾小路君!」

「堀北さん!」

 

 平田と櫛田がそれぞれ名前を呼びながら駆け寄ってくる。

 

「良かった、何とかなったみたいだね」

「辛うじてだけどな」

「でも凄いよ! 首の皮一枚繋がったね」

「あんな胃の痛くなるような思い、二度とごめんよ……」

 

 大いに共感する。しかもまた同じ感覚に陥らなければならないのかと思うと、億劫だ。

 

「やっぱり綾小路君に任せて正解だった」

「いいや、神崎の助太刀がなければ、完全に詰んでいた」

 

 確かにサッカースパイクの情報はDクラスでオレだけが把握していたものだった。審議の行き先を決定付けたとはいえ、そのきっかけを与えてくれたのはBクラスだと、誰の目にも明らかだったろう。

 

「あれは、僕も驚いたよ。急にやって来たと思ったら『今どうなってる?』って聞かれて、ピンチだって答えるなり部屋に飛び込んでいっちゃったんだから」

「そうだったのか」

 

 オレたちが通話を繋いでいなかったらどうなってしまっていたんだ……。

 

「大儀だったな」

 

 噂をすれば、か。

 

「神崎君……偶然だったとはいえ、君たちのおかげで助かった。ありがとう」

「あー、いや、実はな」

 

 平田の素直な謝辞に対し、神崎の歯切れは悪い。

 

「もっと前――綾小路たちが来た時には、この事件に首を突っ込むことは決めていたんだ」

「どういうこと? あの時ははっきり断ったじゃない」

 

 鈴音は要領を得ないようだ。

 

「断らなければならなかったんだろう」

「ああ。事前にクラスどうしで手を組んでいると、認識されるのは危険だった」

 

 やはりそれをわかっていての一連の行動だったか。

 

「……なんとなくだけど、わかったような気がするわ。柴田君の訴えが、私達の偽装だと思われないためね」

 

 例えば佐倉の情報提供が証言のみだった場合、その信憑性は大きく損なわれていたはずだ。なぜなら、同じクラスという須藤を庇う明白な理由が存在しているからだ。

 もしBクラスが表立って協調の姿勢を示していれば、こちらが用意した偽物の証人と見なされる危険があったわけだ。最初からではなくこの土壇場で名乗りあげたことも、その危険性を嵩増しさせていたことだろうしな。

 

「結果的に審議は延長になったわけだが、勝算はあるのか?」

「どうだろう。そっちの事件についてはまだわかっていないことも多いからな」

 

 振り出しとまではいかないが、一度捜査を洗い直しした方がいい。

 ……他にも、気になることがあるし。

 

「まだいたのか」

 

 遅れて、生徒会の二人が出てくる。

 五人の視線を浴びようとどこ吹く風だ。

 

「……綾小路、お前が表舞台に上がるとはな」

「え? いやちょっと――まあ、はい」

 

 わざとか。オレと彼が既知の仲であるということは、知られると少々面倒だ。現に平田や櫛田は目を見開いている。

 

「意外でしたか」

「勿論だ。故に何か隠し玉を潜めているかとも思っていたが……」

「まさか――」

「持ち主は、お前ではなかったようだな」

 

 …………何だって?

 

「そうだろう、神崎」

「――! …………俺には、何のことかわかりかねます」

「わからないな、何故この場で明かさない。本来それは愚策なはずだが……俺が知る由もない事情があるということか」

 

 短いやり取りの間に、神崎はあからさまな動揺を見せる。どうして図星をつけたのか理解できない、と言いたげだ。

 

「明後日がリミットだ。それまでに打開策を模索しておけ」

 

 そう言って、会長は去っていく。

 

「……今の含みのある言葉、どういう意味だろう」

 

 誰もが抱いた疑問を、平田が口にする。そして当然、それらの目は神崎に注がれる。

 

「…………やはり侮れないな、生徒会長は」

 

 ぼそりと呟き、神崎は踵を返す。

 

「折角猶予が伸びたんだ。どんな些細なことでも調べることをお勧めする。何が武器になるか、わからないからな」

 

 再び、Dクラスのメンバーだけが取り残された。

 

「神崎君、何か知ってるのかな?」

 

 櫛田が言うが、もうここにいる全員わかっているはずだ。あいつは何かを知っていて、それを隠している。

 ……いや、違うな。教えずに導こうとしている。

 柴田のことといい、この事件にはまだオレたちに見えてない側面があるのかもしれない。

 須藤と小宮たちの間で起きたCクラスの謀略、それ以外の何かが。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 一応調査に協力してくれた人たち、特に佐倉たち三人にはお礼を言っておこうということで、一先ず解散となった。

 ところがオレが会わなければならない佐倉は校舎のどこにもおらず、不可抗力として感受しGPSで追跡すると、彼女は既に寮へ向かっているようだ。

 これは帰りがてら用事を済ませられる。僥倖だ。

 いつもと同じ道を通り、ロビーまでたどり着く。すると、まだ佐倉の姿はそこにあった。

 あれ? オレが学校で確認した時の位置からして、とっくに部屋に戻っていると思ったのだけど。

 

「佐倉」

 

 何の気無しに、声をかけた。

 幸か不幸か、それは大きな意味を持つアクションだった。

 

「あっ……!」

 

 びくりと身体を跳ねさせる佐倉の腕から、バラバラと紙束が零れ落ちる。

 慌てて拾おうとすると、それらが何なのかがわかり、戦慄が走る。

 

「これは……」

 

 一枚の紙――写真を見る。

 制服姿の佐倉を、彼女の死角から写したスナップショット。

 

「……なあ佐倉、これ」

「あぁ……あ……」

 

 彼女にとってはとんでもない状況らしく、わなわなと唇を震わせ唖然としている。

 ……このまま逃げるように放置するのも、違うか。

 

「な、なあ、とりあえず、どっかで落ち着いて話さないか?」

 

 会話下手なりに絞ってだした一言だが、合格かどうかもわからない。

 オレの呼びかけにハッとし、佐倉は力なく頷いた。

 寮を出てすぐのベンチに座る。横に設置された自販機から、本人ご所望の緑茶を購入し渡す。

 

「ありがとう、ございます……」

 

 その後は、ひたすら沈黙だ。どちらが破ってもぎこちなくなってしまうような、気まずい沈黙。

 

「……」

「……」

「…………」

「…………あの、それで?」

「え?」

「何か話、あるんですよね?」

 

「あ、ああ」どうやら向こうは気まずさ以前の問題だったらしい。確かに声をかけたのはオレだ。普通ならオレから何か言い出すものだったかもしれない。「いいのか?」

 窺うように聞くと、どういうわけかクスリと笑われる。

 

「な、何がおかしいんだ」

「……いえ、ちょっとだけ、浅川君に似てるなと思って。仲良いですよね?」

 

 恐らく、恭介からオレのことを聞かされていたのだろう。でなければ、オレとばったり合うなり脱兎の如く逃げ出していたかもしれない。

 

「恭介もこんな感じだったのか」

「はい。最初の頃は基本、ほとんど話さずに待っていて、まるで自分は無害だよって伝えようとしているみたいで。――変ですよね。私、動物とかじゃないのに」

 

 いや、小動物のような警戒心を持っているとは思うが……ただ、恭介の対応は、いかにもあいつらしい。

 オレがしどろもどろになっている間を、じっと待っているのだと勘違いしたということか。何だか申し訳ない気持ちになる。

 

「……見ちゃいました、よね」

「……ああ。恭介はこのことを?」

「言ってないです。けど……多分、知ってるんじゃないかなと、思います」

 

 佐倉は遠くを見る。

 

「知っている? なら何かしら対応していても……」

「あの人は、余計なお節介が嫌いな人だから」

 

 そうだろうか。お節介とは思えない。

 なかなか差し迫っている問題だと感じたオレは、思い切って踏み込むことにした。

 

「あの写真は、雫が関係しているのか?」

「……! なんで……」

「悪いな。櫛田が教えてくれたんだ」

 

 いい気はしないかもしれないが、せめて経緯は正直に言おう。

 

「……多分」

「じゃあSNSの更新が途絶えたのも」

「い、いえ、それは違います。元々、やめるつもりだったんです。浅川君たちにも、伝えました」

 

 やめるつもりだった……?

 

「休業じゃなく、辞めるのか?」

 

 切なそうな表情で頷いた。

 恭介たち……王と井の頭にも雫のことは伝えていた。やめることも。それにも関わらずストーカーのことは話していない。このギャップはどこから……。

 

「どうしてだ」

「雫は、本当の私じゃありませんから。今まで作った虚像に身を逃してきたけど、それはもうやめます。ありのままの私で、他人と向き合わなきゃって、思ったんです」

「……そうか」

 

 なるほど、佐倉なりな成長の一歩のようだ。少なくとも、彼女にとっては。

 

「……佐倉の選んだことだ。長らく頑張ってきたことをやめることにはきっとそれ相応の勇気が必要だろうし、オレなんかがどうこう言う権利も資格もない。だから、尊重はする」

 

 今までのオレなら、それで終わりだ。無関心なオレには、佐倉の事情も問題もどうでもよくて、それを隠して当たり障りのないことだけを言って――。

 

「……だが、恭介は多分、お前の選択を悲しむと思うぞ」

「え…………?」

 

 佐倉がオレを見る。オレは、目線を応えなかった。

「お前は間違っている」とは言わない。佐倉の選択の重さは理解してあげられるし、実際それも新たな一歩にはなるだろう。

 これは恐らく、オレが解決できるものではない。一定以上の関係値が必要になってくるはずだ。精々疑問を植え付け、留まらせてやることしかできない。

 明らかに動揺する佐倉に、オレは質問を重ねる。

 

「ストーカーのことだけ話さなかったのは、あいつらに心配させないためか?」

「あ……はい」

「大丈夫なのか? 解決策とかは」

「……考えてはいます。そう遠くないうちに何とかするつもりです」

 

 静観を決め込むわけではないようだ。彼女がそう言うなら首を突っ込むのも野暮な気はするが……どうにも不安だ。どこか空回りを感じる、危なっかしさというか。

 

「……わかった、あまり無理はするなよ。助けが欲しかったら、できるだけ協力する」

「え、いいんですか?」

「当然だ、友達のよしみとしてな。あまり自分を低く見ても良いことないぞ」

 

 これは本心だ。前に須藤の友人である池と山内も助けようとしたのと同じ。もしかしたらきっかけとなって交流が広がるかも、という下心は無きにしもあらずだが、それは些細なことだ。

 

「ありがとう、ございます。あの、でしたら、私の方からも何かお礼をするべきなのかな……?」

「え? あー、えっと」

 

 思わぬご厚意。どうしたものか。

 

「…………じゃあ、もっとフランクに接してほしい」

「ふ、フランク?」

「敬語を取り払ってくれると嬉しい。無理にとは言わないが」

 

 椎名と違い敬語がデフォルトというわけでもなさそうだ。向こうが嫌ではないのなら、少しくらい親しくはなりたい。

 

「そ、それくらい勿論いいですよ! あ……いい、よ」

「……無理にとは」

「大丈夫! うん、全然大丈夫! 改めてよろしくね、綾小路君」

 

 まあ、そこまで言うならいいか。どちらかというと佐倉自身もそうしたいようだし。

 わたわたする佐倉に何となく可愛げを感じ、頬が緩む。

 

「こちらこそ、仲良くしてくれるとありがたい」

 

 オレは徐ろに席を立った。

 

「有耶無耶になってしまったが、今日はこの前の証言のお礼を言いたかったんだ。佐倉たちのおかげで、まだ抗戦の余地が残っている」

「そ、そっか。助けになれたなら、良かった」

 

 柔らかく微笑する彼女が抱える問題の行き先、気掛かりではあるがそうも言っていられない。須藤を助けることが優先だ。

 佐倉を救えるとしたら、やはり……。

 一抹の不安を抱きながら、オレは寮室へと帰った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

窮転

至急聞きたいことがあります。学生寮の何階から何階までが男子寮・女子寮なのかと、堀北鈴音の部屋が何階だったかを教えて欲しいです。最悪階層をオリジナルにしてしまうという手もありますが、意味のない改変はしたくないのでお答えしてくれると嬉しいです。

今日は区切りの問題で短めです。


「あづい……」

「全くだわ」

「あとぅい……」

「その流れやめてくれる?」

 

 だって、本当に暑いんだもの。

 特別棟の窓を開け放ち、生温い風に煽られる。

 

「スパイクのこと、隠していたの?」

「重要だと思っていたら伝えていた。まさか人様の落とし物が鍵になるだなんてわかるわけがない」

 

 柴田が特別棟まで来ていたことすら知らなかったのだ。致し方ない。それをわかっている鈴音はそれ以上愚痴は零さなかった。

 

「それで? 鈴音探偵、今後の方針は?」

「……」

「鈴音刑事?」

「……」

「……鈴音さん」

「調べ直しと言っても、とっかかりが少ないのが現状ね」

 

 やれやれ、ノリの悪いお嬢様だ。

 

「とりあえず、柴田君への尋問で浮き出た疑問や残っている疑問を粗方あげてみましょう」

「ああ。――え、ここで?」

 

 こんな蒸し焼き釜の中でなくともできることだと思うのだけど。

 

「まずは、相手側の怪我がどれくらいのものだったのか」

「病院に話を聞きに行ってみるか」

 

 病院と言うと、そこへ向かうまでの過程にも食い違いがあった。小宮たちは一度寮へ戻ったと、柴田はそのままケヤキモールへ向かったと言ったが、果たしてどちらが真実か、そしてそれがどのような意味を持つか、解明されていない。

 

「矛盾点と言えば、音も気になってきたわ」

「耳障りな音と鈍い音、ね」

 

 前者は佐倉たちと巡回の教師に報告した生徒、後者が柴田。いずれも本人が的確に時刻を確認していたわけではないため、時系列ははっきりしない。教師に報告した生徒も、そもそも音の正体や対処法がわからないから報告したわけで、有力な証言を得るのは難しいだろう。

 

「二つの音に、関連性はあるのかしら」

「何とも言えない。ただ――」

「ただ?」

「…………含みのある言葉を使いたかっただけだ」

 

 脛を蹴られた。

 心当たりはあるが、定かではない。今やるべきことは疑問の炙り出しだ。

 

「他は……」

「窓ガラスの事件も、視野に入れるべきだと思う」

「でもあれは、さすがに偶発的なものよ。いくらなんでも関連性は」

「偶然だから関係ない、は早計だ。予報外れの雨で足跡を残す犯人だってある。神崎の言葉を聞き入れた方がいい」

 

 何かを知っている彼のアドバイスだ。焦点の当たっていない場所も範囲に入れるべきだろう。鈴音の言う通り、できる調査も少ない。

 

「一度調べた時に気になったのは、壁の傷よ」

「何かで引っ掻いたような……人ではないな」

「ええ。膝くらいの高さに左袈裟の傷跡。鋭利な物か硬い物が落下中につけたと考えた方が現実的ね」

 

 しかもそれがボールではない。となると、一体何が落ちたのか。おまけに誰かが持ち去っている。

 そして、

 

「……もう一つだけ、疑問はある」

「そう?」

「破片だ」

 

「どういうこと?」鈴音が眉を顰める。「窓ガラスが割れて破片が散る。当たり前だと思うけど」

 

「オレが破片を踏む音を出したの、覚えているか?」

「ええ」

「あの位置に破片が落ちることは、物理的にあり得ない」

 

 ジェスチャーを取りながら説明する。

 

「ボールは外から飛んできた。窓を粉砕するほどの勢いでだ。そうなれば、ほとんどの破片は室内に飛ぶ」

「でも、全てがそうというわけではないわ」

「室外に零れる破片は衝撃が加わった部分から離れた部分になる。大して飛び散らず、割れた位置にかなり近くなるはずだ。――オレが踏んだ場所は?」

「……二メートルは離れていたわね」

 

 ちょうど壁の傷に気を取られて辿っていた時だった。窓からある程度離れた位置で、破片は見つかった。

 

「もしそうだったとして、あなたが踏んだ破片は窓ガラスとは別、ということ?」

「そうなるな」

「一体何だって言うのよ。校庭に存在し得るガラス細工なんて……」

 

 いや、これにも心当たりはある。案外灯台の下は暗いものだ。正しいなら、先程挙げた不気味な音とも繋がりが生まれるはず。

 

「さて、一通り整理したが、どうするつもりだ?」

「……いいえ、まだあるわ」

「それは……」

 

 言わずともわかる。Dクラスの人間――恭介と佐倉たちのことだ。

 

「後がないもの。良い加減白状してもらわなければならないわ」

「話してくれるか……?」

「……っ」

 

 彼のタフネスは鈴音も重々承知している。自分をある種陥落させた粘り強さを突破する自信は、やはりないようだ。

 このままでは刑執行を待つのみ。……仕方がない。

 

「――正攻法以外も、考えてみるのはどうだ」

「搦手を使うということ?」

「どのみち須藤の処罰は免れないのが現状だ。それを回避するためには、有利な証拠や証言を手に入れる以外の方法を取るしかない」

「例えば?」

「……問題が認知されたから審議が起きた。そして審議があるから処罰が決まる。きっかけは完成してしまっているが、別の工程に干渉する術はある」

 

 つまり、

 

「発想を逆転させるんだ。どうすれば処罰を免れるかじゃない、どうなれば審議されないかを考えろ」

 

 結末ではなく、その過程を破壊する。審議が完了していない今なら、付け入ることは可能だ。

 

「審議されない、方法……?」

「ああ。そもそもどうして審議が行われているのか、要点はわかっているな?」

「ええ、双方の意見が食い違っているからよ」

「なら、手っ取り早くそれを判定する手段は?」

「それは……」

「わからないか? ならこれも逆を考えていこう。審議が必要でないのはどんな時だ?」

「裁定者――生徒会が単独で判決を下せる時よ」

「つまり、生徒会が事件の全貌を把握しているということになる。確かこの学校はいじめや生徒どうしの問題には敏感だったよな?」

「………………! そういうことね」

 

 本当は『どうなれば審議されないか』の問いで辿り着いてほしかったが、まあいいだろう。

 鈴音はハッとした表情の後、咎めるような目を向けてくる。

 

「狡知の蓄積ぶりは相変わらずね」

「やめてくれ。形振り構ってられないから柔軟に考えただけだ」

 

 彼女は上から降りる階段の踊り場の直下にあるコードを見る。

 

「まさか、これすら学校側は織り込み済みとは言わないわよね?」

「さあな。お膳立てされているとは思う」

 

 それに、と、それ以上は言わなかった。鈴音には伝わらないであろう、初見から粘りつく違和感。

 

「やるとしたら今日の放課後しかないわね」

「……なあ、それ、オレも居合わせてもいいか?」

「……? そのつもりよ?」

 

 念の為、な。

 

――――――――――――――――――――――――

 

 石崎ら三人との連絡手段を持っているのは、Dクラスだと櫛田くらいだ。彼女に協力してもらい、灼熱に精神を焼かれる特別棟へと彼らを呼び出した。

 五分ほど待っていると、案の定浮かれた会話をする被害者たちが現れた。

 

「櫛田さんなら、ここには来ないわよ」

 

 はっきりと、鈴音が告げる。

 

「……何の真似だ」

「あなたたちに話があるの。今回の事件について」

「話だと? 俺たちは須藤に殴られた。過程はどうあれそれは事実だ」

 

 石崎がそう吐き捨て踵を返そうとする。

 

「あれ、なにかしら」

 

 背中に掛けられた声に振り返る三人。鈴音と同じ方を、監視カメラの方を反射的に向いた。

 あれはオレたちが自腹で購入したものだ。これでオレたちのポイントもからっきし。平田にでも言えばポイントを貸してくれたかもしれないが、そうする必要性はないし、オレの中で引っかかる何かが、この件の共有を鈴音だけに留まらせた。

 

「なっ、なんで……」

 

 近藤が声を漏らし、小宮も目を見開く。

 

「……おかしいぜそれは。そんな決定的なものがあったってのに、どうして生徒会は審議する必要があった?」

「この学校は実力で生徒を測る。学力や運動能力だけではなく、当然問題解決能力もその指標の一つよ。生徒会は初めから全てを把握していた上で、私たちがどうやってこの問題を処理するか見守っているに過ぎないのよ」

「……そうかよ」

 

 ……石崎は、至って冷静だ。

 

「でも、どうにも納得がいかないな」

「納得?」

「俺らが確認した時は、監視カメラなんてなかったはずだぞ」

「何故あなたたちが、そんなことを確認する必要があるの?」

「そりゃ当然、訴える上で重要な証拠になるからさ。お前らだけの味方じゃないんだよ、神様の目っていうのは」

 

 …………他の二人とは違い余裕のある表情で、言葉を返している。

 

「なら、あなたたちの記憶違いではないのかしら。現にこうして、特別棟の三階に監視カメラはある」

「見落としただけだって言いたいのか? 錯乱していたからって」

「この棟内はとても暑いわ。集中力や思考力が鈍ってしまうくらいに。頭の中の画像より目の前の現実の方が、圧倒的に信憑性が高いわね」

 

 ………………。

 

「へえ……じゃあお前らは、一体それで何を言いたいんだ?」

「決まってるでしょう。それは――」

「いや、特に」

 

 段取りになかったオレの介入に、Cクラスの三人だけでなく鈴音までもが目を剥く。

 

「ちょっと、綾小路君」

「念のため確認したかっただけだ。石崎、確かにお前はこの階の監視カメラの有無を確認したんだな?」

「……あ、ああ」

「そうか。ならオレはお前を信じよう」

 

 誰もこの流れに付いていけていない中、オレは淡々と言葉を続ける。

 

「となると、あの監視カメラの証拠能力も怪しくなってくるな。例えば、事件の時には外されていたとか、電源が切れていたとか」

 

 石崎の瞳孔が揺れた。

 ――なるほど、やはりそうか。

 作戦は、失敗だ。

 

「余計な時間を割いてもらって悪かった。オレたちは何とかして須藤の無罪を勝ち取るよ」

「……ハッ、本当だぜ全く。精々無意味な努力に励むんだな」

 

 つまらなそうに、石崎は二人を連れて去って行った。

 

「……説明してもらえるんでしょうね」

「帰りがてら話そう」

 

 

 

 日が長くなったというのに、裏腹な暗い空はオレたちの影をにわかに写す。

 どこからかチロチロと鳴く鳥の声は、少し儚げだ。

 

「違和感がなかったか?」

 

 開口一番の問いかけに、鈴音は首を横には振らなかった。

 

「小宮君と近藤君は明らかに動揺していたけど、石崎君は違ったわ」

「予見されていたんだ。オレたちの行動が」

「まさか……あんなずる賢い手を浮かんだ人が、Cクラスにいるというの?」

「そ、そうだ」

 

 ずる賢い、ね……。

 

「彼が先読みできたとは思えない。龍園という人の対策かしら」

「石崎が考えたなら早急に二人に共有していたはずだ。リーダーか参謀的立ち位置の生徒が構成員代表に伝達したんだろうな」

 

 一之瀬たちに佐倉たちの証言で出てきた名前について尋ねたところ、恐らくCクラスの先導者を名乗る龍園という少年のことだと返答がきた。今回の失敗が彼の知力によるものなのか、将又懐刀によるものなのかはわからない。

 

「予め現場の写真を撮っておいて、私達が決定的な一言を発したタイミングで突きつける。それが筋書きだったのでしょうね」

「端末の機能とは別に、ボイスレコーダーを携えるのも有効か」

 

 普通とはかけ離れた常識が定着しそうだ。全くもって望ましくない。正直持ちたくないな。

 

「あなたが遮らなければ、私たちが嘘の証拠をでっち上げて脅迫を行ったとして更に訴えを上乗せされていた。印象どうこう以上の問題、迂闊だったわ」

「反省するのはこっちの方だ。前もってお前に警戒しておくよう伝えるべきだった」

「……待ちなさい。前もってって……あなた、この展開を予想していたの?」

「…………ほぼあり得ないと、信じたかったんだけどな」

 

 本当に看破されるとは思っていなかった。やりにくささえ感じる、得体の知れない感覚は、かなり前から感じていた。

 

「一体いつから?」

「初めて特別棟へ来た時からだ。監視カメラを繋ぐケーブルもそうだが、この学校の敷地内でああもあからさまな跡が残っているのは不自然極まりない」

「誘導されていたって言いたいの? だとしたら……」

 

 重々しく頷く。

 オレたち――いや、オレがこの選択肢に気づくことさえ、向こうは了承済みだった。鈴音の危惧はそういうことだ。

 情報に踊らされたというより、真っ向から上をいかれた気分は何とも不愉快だ。

 ピンポイントに先回りされていた一手。抜かりない勝利への貪欲さは、まるで自分を相手にしているような…………。

 

「突拍子もない考えをするあなたに対応してみせるなんて、Cクラスにも同じ変人がいるのかしらね」

「そう……だ、な…………」

「……綾小路君?」

 

 自分を、相手に……

 同じ、変人…………

 ………………まさか。

 

「悪い。急ぎの電話ができた」

「え?」

「すぐ戻るから待っていてくれ」

 

 幸い寮の目の前だ。裏へ回れば監視の目耳はない。

 無意味な焦燥を抑え、オレはある人物に連絡を取る。

 

「もしもし……ああ、大事な案件だ。一つ確かめて欲しいことがある」

 

 迅速に用件を伝えると、相手は一時言葉を失うもやがて諒解した。さすがの飲み込みの早さだ。

 オレの考えすぎであってくれ……偶々オレと似た思考で、オレと同等かそれ以上の知力を持った人間で、ただ井の中の蛙が大海を知った。それだけの真実であってくれ。

 またも意味のない願いを抱きながら、角を曲がる。

 

「…………?」

 

 少し見廻してみても、人影一つない。

 

「鈴音……?」

 

 ロビーに入るも、あたりはしんとしている。階段を駆け上がるが、一階から十二階、どの階にも誰も見えなかった。

 一体……一体、何が……。

 困惑を拭えない一弾指の時間。呆然と立ち尽くす。

 ほんの刹那の隙に、鈴音の姿が忽然と消えてしまった。

 その後も何度か連絡を試みた。メール、電話、インターホン、何を試しても駄目だった。

 何が琴線かわからない彼女だ。知らずの内に不機嫌になってしまったのかもしれない。そう思い翌日の昼まで待ってみたが、それでも音沙汰一つなかった。

 さすがに、動揺を抑えることができなかった。

 ――厳粛な監視の中、一人の少女が、一分足らずの間に行方不明になってしまった。

 




なんか、予定以上に急展開になっちゃった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

分譚

自分が何を考えていたのか何度もわかりなくなっては思い出して書いています。ミステリーを書く人の構成力を思い知る次第です……。

※話の展開が明らかにおかしくなる部分に気付いたので、冒頭のシーンを何か所か変更。柚原医師の台詞も一つ(「十七時半」→「十九時半」)修正しました。


 嫌にませたミラーボールが目に毒だ。ロックなBGMも耳障りで、不快感を増幅させる。

 手元のグラスを見る。半透明なノンアルコールカクテルは、大して舌が好んでいるわけでもない。

 場所も苦手だ。自分のクラスが迷惑極まりない特色を持っていなければ間違いなくここにはいなかった。

 独り嘆息を吐いていると、開いた扉から三人の男が入室する。

 

「……すみません。もしかしたら、見られたかも、しれないです」

 

 一歩前に出た少年が肩を抑えながら申告した。

 相対するのは、どっしりとソファに構える長髪の男。

 

「……アルベルト」

 

 彼の呼びかけで指図の全てを理解した少年が、三人の前に立つ。縦横に大きな体格、男らしさを嵩増しする黒い肌、柄の悪さを感じさせるサングラス。

 

「I'll punish you」

 

 そこからはまた、見慣れた光景だ。大男にこれでもかと拳の雨を浴びる三人の憐れさといったらない。かくいう自分も、初めはその手厚い洗礼を受けた。

 ムカつく現状だ。沸々と湧き上がる瞋恚を、水分で誤魔化す。

 

「被害者らしさが足りねえな。もっと思う存分殴らせなきゃ駄目だろ」

「あ、ありがとう、ございます……」

 

 虫唾が走る。目の前の虐待も、それを日常と見なす周りの連中も、諦めに近い感情を抱いている自分自身も。

 すると突然、一度閉まったはずの扉が再び開いた。

 

「あ、あの……!」

 

 人の声が途切れる。乱痴気な音楽だけは一定で、今この瞬間から場違いだ。

 

「お前は……」

 

 威圧感のある王の問いかけに、突如乱入した少年はか細い声を漏らす。

 アイツは……知っている。最近()()()()()()()()()()()()()()()だ。平生と比べて異様に余裕が無い。

 

「み、見ました! 僕、見たんです、その人たちが須藤君を騙したの」

 

 華奢な外見から飛び出た大打撃の発言に、関係者の表情が動く。

 

「何か勘違いしているようだが、暴力を振るったのはアイツだぞ」

「でも、写真撮りました。須藤君が虐められてるところ」

 

 そう言って取り出したのは、確かにこちらのクラスの三人が須藤という生徒を囲んでど突く場面だった。恐らく相手に殴らせるため、過度な挑発を行ったのだろう。

 部下の失態に、王が不機嫌になるのを肌で感じ取る。面倒なことになったものだ。

 

「須藤君を嵌めて、訴えるつもりなんですよね? だったらその前に、今から先生にこれを送りつけます」

「……ハッ、態々それを言うためだけにここへ来たのか?」

 

 うちのリーダーを上回る長さの髪が、ピクリと揺れる。

 

「ち、違います! これをそちらに渡す代わりに、約束して欲しいことがあるんです。ちゃんと、書面にも書いてもらって」

 

 取引か。まあ当然だろう。それ以外の目的はあり得ない。

 

「クク……こいつは傑作だな。そうもあっさりクラスを裏切るとは、肝が座ってやがる」

「う、うるさい! あんまり余計なこと言うと、本当にこれを送りますよ!」

 

 腰の引けた脅しに、顔を顰めるのが見えた。あからさまな小心者のくせに、主導権が向こうにある感が気に入らないのだろう。更に言うと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、先手を打たれたのだ。

 だが、少年はここがどういう場所かを失念している。

 

「……なるほど。お前の目論見通り、そいつが外に出るのは致命的だ。ただ、何もお前にそいつを手放させる手段が一つとは限らねえ」

 

 その言葉に合わせて、数人の男子生徒がか弱い鼠を取り囲んだ。

 嗚呼、可哀想に。

 

「監視の目がない場所にみすみす顔を出すとは、少しばかり頭が足りないんじゃねえか?」

「ひっ――」

「証拠の運搬、ご苦労だったな」

 

 少年の正面にいたクラスメイトが殴りかかる。少年はそれに反応することもできずもろで喰らった。

 次に背後の生徒が、腹を抱える少年の髪を引っ張る。無理矢理自分の方を向かせ、更に殴る。

 派手によろけた彼の脇腹を別の生徒が蹴ると、衝撃と痛みで倒れ込んだ。

 地に手を付けたらもう終わりだ。そのまま食べカスに群がるアリのように、暴漢によるリンチが始まった。

 もはや動じることもない。単にその蹂躙への嫌悪感に目を伏せ、酔えない酒を口にする。

 どうせ間もなく泣きながら無条件に写真を提供するか、誰かに端末を奪取されるかのどちらかだろう。そんな推測を抱えながら。

 ……。

 …………。

 ………………。

 ……しかし、その宛は大きく外れた。

 

「……もういい、下がれ」

 

 静かに告げられた指示に、配下が迅速に従う。

 

「とんだバカがいたもんだ。うちのクラスにもお前ほどタフなやつはいなかったぜ、見かけに寄らないな」

 

 何度も苦悶の声をあげたにも関わらず、少年は降伏しなかった上、頑なに端末を両手に握りしめ続けた。その頑固さは、言葉の主がクラスの頂点に君臨するまでに見せた勝利への執念に匹敵するものがある。

 ――へえ、やるじゃん。

 しかしだからこそ、彼は「ただ粘り強い人間」がどれだけ厄介なのかを理解している。故に目の前の強かな鼠を暴力で屈服させるという考えは、既になかった。

 身体の傷は誤魔化せないのだろう。起き上がることのままならない少年に、言い放つ。

 

「いいぜ、お前の言う取引ってやつに乗ってやる」

 

 一見譲歩にも取れる言葉。しかしそれさえも怪しい。過剰な損失を被る条件や気に入らない条件があれば、お家芸で捻じ曲げようとするのだろう。

 

「……わかりました。僕が要求するのは――」

 

 藍色の髪に紛れた瞳は、微かでも力強い朱に光っている。

 ……この先の顛末など、どうでもいい。

 今はたった一つ、胸のすくような感情が胸中にあった。

 ――――ざまぁ見ろ、龍園。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 無機質なコール音が、右耳に響く。

 一定のリズムで続き、やがて途絶えた。

 ……これで十三回目、か。

 またインターホンを鳴らしに行っても無駄だろう。というより、一度管理人から注意を受けてしまった。危うく変質者扱いされると。確かに女子寮の一室の前で延々呼び鈴を鳴りし続ける男子生徒など、隣の部屋の住人が通報しかねない。

 膨れ上がる感情から意識を背けるように、溜息を零す。

 GPS機能を使ってみても、反応は間違いなく鈴音の部屋だった。z座標は表示されないため上空や地下の可能性も……さすがにないか。

 他の友人にはまだこの事態を知らせていない。事が大きくなるだけで、およそ進展の未来が見えないからだ。

 平田には連絡しておくのもありかと思ったが、問題はあった。

 今日は休校日。未だ冷たい印象を持たれている鈴音なら、こういう時の音信不通も致し方ないと考えるクラスメイトは少なくない。穏健な方へ思考が行きがちな彼が静観する可能性は高かった。

 須藤の件だけでも手一杯だと言うのに、ある意味それ以上の問題が起こってしまった。よもや敷地外に誘拐されたわけでもあるまいが、不安は拭えない。

 突然、端末が震える。

 慌てて相手を確認すると、恭介からだった。

 

「おー、おぱよ」

 

 昼だ。

 

「どう? 進捗」

「いやそれが……何から話せばいいか」

 

 とりあえず暴力事件について一通り説明してから、鈴音の失踪を打ち明けることにした。

 オレたちの仲だ。きっと恭介ならすぐに信じ

 

「ええぇ? まっさかぁあ」

 

 てくれないのがコイツだったか……。

 

「十三回だぞ? 不審者扱いされるまでインターホンも鳴らした」

「端末も本人の部屋。翌日の昼までやり取りゼロ。あっはは、役満だね」

「笑い事じゃ」

 

「笑い事のつもりはないよ」口調は間延びしているものの、語気には力があった。「笑い飛ばしているだけさあ」

 

「お前……」

「焦りは思考を鈍らせる。って、それくらい君ならご存知だろうに。珍しいこともあるものだね、君が落ち着きをなくすなんて」

 

 確かに、らしくはない。オレがこうも他人に関心を持ち、憂慮を抱くことになるとは思っても見なかった。しかし、今はその感慨に耽っている時でもないはずだ。

 極めつきにはオレ個人の都合もある。失踪が肥大化すれば間違いなく警察沙汰だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。万が一が起こった時、父親(アイツ)はその隙を逃さないだろう。

 

「どういう状況かもわからないんだ。最悪――」

「君の言う通りなら、もうこの時点で≪ゲームオーバー≫だ」

 

 存外、恭介は淡々としている。

 

「ユーモアを保ちたまえよ清隆。漢は不安な時こそ、ふてぶてしく笑うものだよ」

「…………はぁ、心得た」

 

 ここまで諭されて感情に飲まれる程落ちぶれてはいない……。まずは方針を決めよう。

 

「君らは捜査があるんだろう? 他の人に言ってないなら、鈴音は僕に任せなあ」

「いいのか?」

「健の方とは完全に別だ。問題ない」

「……やはり、須藤の事件だけは関われないんだな」

「うん」

 

 相手がオレだけの時はやけに素直で、口が緩い。そのまま何を抱えているかまで滑らせて欲しいのだけど。

 

「わかった。鈴音の捜索は、お前を信じる」

「信じられましたっ」

 

 後ろ髪は引かれるものの、そっちに気を取られて須藤を見捨てるわけにもいかない。オレのコミュニティの中では最も頼りやすく、力量のある彼に託さずして、他人に委ねることはできないだろう。

 

「そういえば、議論の後に生徒会長が神崎に含みのあることを言っていたが、関係あるか?」

「え? いや、チョーさんは何も……うぇ、まさか、お見通しってわけ……?」

「……事情まではわからないと言っていた」

「びっくりしたぁ……なら大丈夫。おっそろしいねぇチョーさんも」

 

 不思議な状況だ。こいつは隠し事があるとバレていることを、オレは隠し事の中身が全くわからないことをさも当然のように受け入れている。

 互いに害のないことだ。二人の間に蟠りがないのなら、何ら問題はない。

 

「君の方はどうするつもり?」

「ケヤキモールに行ってみる。色々と、()()()()()()調べてみるつもりだ」

「……そっか」

「それから、今日中にできるかわからないが――()()()()、Dクラスの証人に当たってみる」

「うん、いいと思うよ」

 

 段々と確信めいてきた。今まで胸糞の悪いものばかりだった中に紛れ込んだ、一筋の光になりうる希望的な観測が。

 オレが間違わなければ、きっと勝てる。

 

「君は健を、僕は鈴音を救う。大丈夫、僕らなら大丈夫さ。何だかそんな気がする」

「……そうだな、お互い最善を尽くそう」

 

 本当だ。どことなく何とかできるという、言い様の無い安心感を与えてくるのは、彼の性格故か、口調故か。恐らく天性のものなのだろう。

 そうだ。今はオレにできることをしよう。

 決して楽観視できる状況ではない。だが……

 今のオレこそが『らしさ』なのだと、みんなに認めてもらうために。

 

 

 

 

 

絶えずあなたを何者かに変えようとする世界で、自分らしく在り続ける。それこそが最も素晴らしい偉業である。

To be yourself in a world that is constantly trying to make you something else is the greatest accomplishment.

 

ラルフ・ワルド・エマーソン

 

 

 

――――――――――――――――――――――――

 

 設備が整っているとはいえ、ここは学校の敷地。受け入れる患者が限られているため、構える病院の大きさは然程ではない。

 

「な、何かさ、こういうとこくると緊張するよな……」

「……? そうか?」

「わかんない? やたら静かだったり真っ白だったりで、そわそわしちゃう感じ」

 

 静かで真っ白……ヤバい、幼少期は永らくそういう空間にいたせいで全然共感できない。慣れない場所だと言いたいのだろうが。

 すまないな、()

 

「てかさ、何で俺なの?」

「何でだろうな」

「えー……そこはちゃんとした理由とか欲しかったわ。数合わせってこと?」

 

 平田に連絡したら池か山内を同伴しろと言われたのだ。断りようもない。

 山内が静かにできるか怪しかったので、今回は池に来てもらった。今じゃこんな感じだが、中に入れば多分空気を読んでくれる。

 

「何を聞くかわかっているな?」

「えーと、多分……?」

「おい……」

「じょ、冗談だって! いや、冗談じゃないけど……わかってくれよ、あんま自信なくってさ。覚える努力はしてるから」

 

 まあ、いざとなったらオレが全部聞こう。

 じゃあどうしてオレ一人ではないのかと文句を言われるかもしれないが、学校という性質上踏み込んだ詮索は難しいのだ。

 これが企業間のやり取りなら自社の名を借りてアポイントを取れるが、オレたちの場合は『○年×組』になってしまう。できるだけ団体としての重さや案件の大きさを認めてもらうには、単純に人数で攻めるしかないし割と効果的だ。

 そんなことを露にも知らない池には、こう言っておくのが一番適切だろう。

 

「櫛田に良いとこ見せられるよう、頑張るぞ」

「……! お、おおう、やってやるぜ!」

 

 ほらな。

 

 

 

 受付の人に名乗ると、思いの外すんなり通してくれた。生徒への対応はお手の物である故、フランクな受け答えが適っているとわかっているのだろう。

 応接室には男性の医師が一人。石崎らを担当したという方だ。

 

「一年D組の、綾小路清隆です」

「お、同じく、池寛治です……」

 

 隣でガッチガチな自己紹介がする……。

 

「柚原です。――そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ、池さん」

「は、はい! 畏まらずにいかせていただきます!」

 

 患者として接する時とはまた違った感覚なのだろう。緊張した声音に柚原医師も苦笑している。

 

「それで、石崎さんたちについてでしたか?」

「はい。まず、彼らがいつ頃来たか教えてもらっていいですか?」

 

 学校の施設としての側面はあるものの、ある程度個人情報の管理は行われている。カルテや突き詰めた質問に応えてもらうわけにはいかないが、そうでないものならと、許諾を受けた。

 

「大抵の部活が終わって、暫く経った後――『十九時半ごろ』、ですかね」

 

 池から視線を感じる。マズイんじゃね? と。

 確かに、須藤の事件発生から一時間半後となると直接病院へ行くには時間がかかりすぎる。つまり、石崎たちの証言が正しく柴田の証言が虚偽――。

 やはりオレたちを助けるために、無理に庇っているだけなのか?

 

「……本人たちの様子はどうでしたか?」

「うーん……特段の事情がない限り憚れますが……」

 

 彼の言う『特段』に一身上の都合は入らないのは、無理もない。

 

「せ、先生から見た状態だけでもいいんで」

 

 拙いながら、池がフォローする。やはりいざとなれば動けるようだ。

 

「そうですね。ここへ来た時は、顔面だけでも数箇所、打撲の跡がありました」

「診察の時は?」

「服の下もかなり。丹青な跡が見られました」

「げっ、めっちゃ痛そうっすね……」

「はい。消毒の度に声を漏らしていて――ちょっと申し訳なかったですね」

「でもそうしないと、後々辛いんですよね」

「その通りです」

「いつもご苦労さまです!」

「いえいえ」

 

 ……あらやだびっくり。普通に雑談しちゃってるわ。

 池の社交性を称えたいところだが、生憎そんな時間ではない。

 

「どうすんよ?」

「そうだな。……」

 

 傷が浅ければ柴田の証言に天秤が傾いたが……分が悪いな。

 次の手は……

 

「他には何か?」

「……いえ、特には」

「なあ綾小路」

 

 渋々話を終えようとしたところを、池が止めた。

 

「傷のこと、もうちょい詳しく聞いてみるのは?」

「だが……」

「この際何でもいいから、有利な情報手に入れとかないとマズイだろ」

 

 ……池なりに、須藤の心配をしているんだな。

 

「……柚原さん。そういうことですので、傷のことについてもう少し詳しくお願いします」

「詳しくと言われましても……」

「部位に偏りがあったとか、殴られた以外の傷があったとか、何でもいいです」

 

 暫し首を唸らせる柚原さん。やがて、歯切れ悪く答えた。

 

「大体全身に渡ってでしたよ。ガーゼにも血がよく染み込んでいましたし、私の見落としというわけでもなければ全部人の拳や脚で打撃を受けたものだったと思います」

「…………そう、ですか」

 

 芳しい情報、あっただろうか……。

 

「以上でよろしかったですか?」

「……はい、ありがとうございました」

 

 

 

「どうよ綾小路。何とかなりそう?」

「……どうだろうな」

 

 どうもこうもない。最悪と言っていい。

 結果を纏めるなら『柴田の証言が間違っていると示す証言を得た』だけだ。

 

「まあ頑張ってくれよ。お前なら大丈夫だって」

「オレ、そんな信頼されるようなことしたか?」

「この前の審議、延期に持ち込んだのは綾小路のおかげだって平田から聞いたぜ?」

 

 脚色しすぎだ……神崎のおかげと言ったはずだが。

 

「それに中間テストの時、俺たちに色々教えてくれたじゃん」

「微力だったけどな。オレ自身勉強が得意ってわけじゃない」

「んな細かいことはいいって。こっちが助かったと思ってるのは本当なんだからさ」

 

 カラッと称賛する池。何だかむず痒い。

 

「……はっきり言って、逆転は難しいぞ」

「でも動いてるのは俺らだけじゃないだろ? 平田と山内は、何か収穫あったかも」

 

 噂をしていると、件のコンビが現れた。

 

「二人とも、お疲れ様」

「おっす平田。山内もお疲れ」

 

 早速近くのベンチに腰を下ろし、情報共有を始める。

 

「どうだった?」

「有力かはわからないんだけど――」

 

 二人が行ったのは柴田への徴収だ。平田は同じ部活で話しやすいだろうということだったが、山内を付き添わせていたようだ。

 

「音の件は、やっぱり聞き間違いじゃないって言っていたよ」

「そうか」

「逆に耳障りな音っていうのは、特に聞こえなかったらしい」

「……わかった」

 

 時系列が確定した。耳障りな音を佐倉たちが聞いた後、鈍い音がして、それを柴田が聞きつけた。――オレの推測と矛盾しない。

 

「小宮たちの向かった方角は?」

「それも間違いないって」

「……実は、病院で話を聞いたところ、Cクラスに有利な情報が出たんだ」

「それって……」

「寮に戻ってから病院へ向かった場合に適した時間に、診察を受けていた」

 

「マジかよ」と目を瞬かせる山内だが、平田は思案顔だった。

 

「…………いや、まだわからないよ。もしかしたら、ケヤキモールの方で何かあった可能性もある」

「は? ここで?」

「柴田君の証言通り小宮君たちは街に直行。それから傷を増やして病院に行ったなら、辻褄は合う」

「ケヤキモールでって、このあたりのどこでそんな物騒な目に遭うって言うんだよ」

「そ、それは……」

「いや、ありがとう平田。参考にさせてもらうよ」

 

 平田がオレを見る。ただの気遣いではなく本当に助けになったのだと察してくれたようで、表情が明るくなった。

 平田の推測が正しければ、あわよくばオレだけが入手している『鍵』が役に立つかもしれない。大いに感謝だ。

 

「そこまで言うなら色んな人に聞いてみる? 目撃証言ってやつ」

「ううん、善い結果にはならないと思う。もし本当に何かを見た人がいたとして、それを探すのは途方もないよ。それに今日はもう、人が疎らになってきた」

 

 各々昼ご飯を済ませてから集合し行動を開始した。少々早いが打ち切りだろう。

 

「――あ。綾小路君、一つだけ気になったことがあるんだけど」

「何だ?」

「浅川君って今、何してる?」

 

「え!」話題が変わり過ぎだ。しかもタイムリー。「急だな」

 

「ところどころ店を回っている姿を見かけた気がしたんだけど、見間違いだったのかな……」

「き、きっとそうさ。今頃寮室で惰眠を貪ってるんじゃないか?」

 

 相変わらず見た目に反した行動力だ。早速動き出したと思ったら街中で情報収集? つくづくあいつの「面倒くさい」がズレていると感じる。どうせ今回も「時間がかかって余裕がなくなる」だの「手遅れになった時の罪悪感」だのを面倒と称しているのだろう。

 今鈴音のことを悟られるわけにはいかない。申し訳ないが、騙されてもらおう。

 

「浅川のやつ、結局本当に須藤のこと見捨てちまったのかな」

「……僕はまだ信じてるよ。浅川君にはきっと、何か事情があるんだって」

「でもさぁ……」

「彼がそんな冷たい人だとは思えないんだ。実際テストの時だって、付きっきりで池君たちを教えてくれていたって聞いたし」

「うっ、それはまあ、そうだな……」

 

 話が都合の悪い方へ流れようとしている。オレはその腰を強引にへし折った。

 

「他に調べることはないか?」 

「うーん……」

「お手上げだ」

「浅川君以外に情報のアテはないかもね……」

 

 ……やむを得ない。全員で動くのは、これで限界か。

 

「……わかった。明日は何とかオレの方で、気になったこととか調べておこう」

「ありがとう。また手を貸して欲しいことが言ってね、協力する」

「ああ。今日も助かったよ」

 

 さて、明日は随分と忙しくなりそうだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

欲制

近々別の原作の二次小説を書こうかという気持ちとこれからめっちゃ忙しくなるからきっとできないという諦めの気持ちが入り混じる今日この頃。


 朝だ。

 悪しきネットユーザーになったつもりはないが、すぐさま端末を開きメールを確認する。

 着信は三件。どれも送り主は鈴音ではないが、一つは恭介から、昨夜届いたものだ。

 

『街学校だめ、寮。理事長たのむ』

 

 ほう、今日はわかりやすいな。ケヤキモールと学校にて収穫無し、今日は寮に目星を付け坂柳理事長に助力を乞う、か。

 坂柳理事長のことは娘から話を聞いていた。敵対は考えていないというのは、オレをここに入れてくれたことから信じられる。然るべき対処を取ってくれるはずだ。トップが味方というのは何とも心強い。

 しかし一体何を頼んだのだろう。と、次の着信の件名が目に留まる。

 

『重要:学生寮からの一時退去の通達』

 

 入学時のテスト送信以来二回目の学校側からのメールだ。中身を開く。

 

『本日正午より、大規模な設備点検のため学生寮が使用不可となります。自室待機も認められません。日曜日の休息に制限を与えてしまい申し訳ありませんが、14時まで各自室外への待避をお願いします』

 

 なるほど、恭介が言っていたのはこれか。

 全員を外に追いやりその隙にくまなく捜索。シンプルだがこの大掛かりな策はいくらかの条件が揃ってようやく成立するものだ。随分と大胆なことをする。

 最後の一件は山内から――これも確認し、オレは玄関を出る。

 寮の件は問題ない。今日も終日外出の予定だ。

 

 

 

 電話が鳴った。

 

「もしもし」

「あ! 綾小路君? もしかして事件のこと調べてた?」

「ああ、ちょうど一区切りがついたところだ。櫛田が電話なんて珍しいな、どうした?」

 

 ケヤキモールの一角、人でごった返す中、彼女の声をどうにか聞き取る。

 

「今からカフェのあたりまで来れる? 佐倉さんのことで……」

「……? とりあえずそっちに行くよ」

 

 佐倉が櫛田と? あまりイメージが湧かないな。

 寮にいるはずだった生徒のほとんどがこちらに流れているためか、大所帯になっている道の合間を縫うこと五分。わかりやすい後ろ姿が見えた。

 

「お待たせ」

「あ、綾小路君」

 

 先にオレの姿を認めた佐倉が名前を呼ぶ。

 

「それで?」

「実は……」

 

 用件は簡潔だった。新しいカメラに買い替えるので来てもらいたいと。どうやら買い先の店員に邪な感情が透けて見える人がいるらしい。自分独りで対応できなかった際のアシストをご希望のようだ。

 

「男子のオレに白羽の矢が立ったってことか」

「浅川君は今日、用事があるって言ってたから……」

 

 恐らく彼は今大労働の真っ最中だ。

 正直、まだ調査は終了していない。もう一つだけしておきたいことがあるのだが、これくらいなら夕方には解放されていることだろう。

 

「わかった。約束だったしな、喜んで引き受けさせてもらう」

「本当? ありがとう」

 

 俯きがちだった顔が和らぐ。何が根拠か、断られないか心配していたみたいだ。

 

「よしっ、そうと決まれば早速――」

 

「櫛田」無論三人でと思っていたであろう櫛田に、さっと耳打ちする。「お前は帰れ」

 

「え!? な、なんで?」

「雫について話そうと思う。同性どうしだからこそ話しにくいことも、あるかもしれない」

「――! そうだね、わかった」

 

 事情を察した彼女はすぐに了承してくれた。

 

「佐倉さん、何か困ったことがあったら相談してね」

「は、はい」

「綾小路君が失礼を働いたら、私が説教しておきます!」

「おい」

 

 恐ろしいことを言うな。佐倉が要領を得ていないのが救いだ。

 咎める視線を向けるとつぶらな瞳が応じ、小悪魔のように舌を控えめに出しウインクされた。

 思わぬ不意打ちに息を呑む。

 ……可愛いじゃん。ていうか、すげぇ色気じゃん。

 同じ学年なのに、幾分か年上と言われても納得するかもしれない。

 それほど、大人びた色気だった。

 去り行く背中を見届けた後、改めて佐倉を向く。

 

「これで少しは、緊張も解けたか?」

「――! す、すごい。よくわかったね」

 

 佐倉が自ら櫛田を呼ぶとは思えなかった。となれば遭遇。二人きりの状況を変えたくてオレを呼んだのだろう。無論櫛田に語ったことは虚偽だ。佐倉と既に雫の話を共有してあることを彼女が知らないのが功を奏した。

 

「ごめんね。私、櫛田さんには何だか慣れなくて……」

「謝ることはない。苦手な相手の一人や二人いるものさ」

「で、でも……綾小路君、櫛田さんのことも気に入ってるみたいだから」

 

「え!?」虚を突かれた。「オレがあいつを?」

 

「違うの?」

「…………いや、わからない」

 

 そう聞かれてみても実感は微妙だ。が、自分の動揺ぶりからして、そうなのか……?

 

「まあオレのことは気にするな」

「……ありがとう」

「じゃ、オレはこれで」

「え?」

「ん?」

「来てくれないの……?」

 

 ……あれ?

 

「カメラの件、ガチだったのか」

 

 コクリと頷かれる。

 

「いつもの二人は?」

「やっぱり、男の人がいた方が心強いから……」

 

 一理ある。無下に断ることもないか。

 了承し、喧騒の中を進む。本来は男女のペアであることを意識してしまうものだが、こんな状況じゃ気にする余裕も必要もない。

 やがて、目的地にたどり着く。

 現れたのは三十路四十路くらいの男性、中肉中背。彼が佐倉の言っていた男か。

 

「……そちらの方は?」

「え? え、えっと、この人は――」

「付き添いです。『仲の良い友人』ですので」

 

 ピクリと眉が動く。なるほど、ここまであからさまなら佐倉も嫌でも気づくだろうな。

 ふと、窓口の隅に置かれたサンプルに目が行く。点滅していた赤い光が気になった。

 ……さりげなく佐倉の隣に移動し、バレないようにカメラの電源を落とす。案の定、光は消えた。

 

「こちらでよろしいですね?」

「はい……」

 

 基本的に製品を買うにあたって個人情報を記入するような機会はない。修理の際は保証書提示に伴わせて書く場合もあるが、今回は新品を購入するに過ぎないためそういった事態にはならない。

 諸々簡単な手続きを済ませ店を出る。が、それまで粘着性のある不快な眼差しはなくならなかった。

 向けられる当の本人からしたら、終始堪ったものではなかっただろう。

 

「あれが例のストーカーか」

 

 自動ドアが閉まるなり訊く。

 

「た、多分」

「どうやって解決するんだ?」

「と、とりあえず話をしようと……」

「話? 話って、サシでか?」

 

 迷いのない首肯が返ってくる。

 これは……念を押して訊いておいてよかったな。

 反対するのは簡単だ。だが、果たしてそれで根本的な解決になるのかどうか。

 自分なりな一歩であり成長なのだと、佐倉は言っている。それを無下にしたくないという甘さのつもりはないが、確かにその行為をやめさせた場合、彼女が足を前に出す機会は遠のいてしまう気がする。

 

「いつ決行するんだ?」

「明日にでも」

 

 明日……オレは審議に赴かなければならない。

 となれば、取れる選択は一つだ。

 

「……わかった。気を付けるんだぞ」

「うん、ありがとう。心配してくれて」

「友達として当然のことをしたまでだ。寧ろあまり力になれなくてすまないな」

「そ、そんなことないよ! 今日だって、綾小路君にはお世話になってるし」

 

 本来意味のないやり取りだ。佐倉がそう返すことなどわかっている。それでも必要はある。

 

「この後はどうするんだ?」

「みーちゃんと心ちゃんと会う予定です。遅めの昼食を一緒に摂ろうって」

「そうか。なら待たせない内に行ってやったほうがいいな」

「うん。それじゃあ、またね」

 

 柔らかな表情でそう言い、去っていく。

 あどけない姿は、漫然と良い子だなという印象を与える。――オレなんかとは違って。

 善い人かどうかは兎も角優しい人になりたい時は、彼女を意識するのも、いいかもしれないな。

 ――さて。

 

「どうしたんだ?」

 

 右後方の柱の裏へ投げかける。

 

「うぅ……綾小路君に隠れんぼは敵わないかな」

「隠れるつもりもなかったろう」

「あったもんっ。絶対綾小路君って鋭いよね」

 

 周囲の雑踏に紛れていれば話は別だが、櫛田が身を潜めていたのはそこから明らかにズレた場所だ。

 

「佐倉が気付いたらどうするつもりだったんだ」

「大丈夫だよ。気付いてなかったから」

「どうしてそう言」

「わかるよ。当たり前じゃん」

 

 こちらの疑問を挟む余地のない言葉に違和感を覚える。有無を言わさない態度は、普段の彼女らしくない。

 

「……どっか座るか」

「席空いてるかな」

「待ってたなら取っといてくれよ」

「てへっ」

 

 実際可愛いから困る。

 

 

 

「本当は佐倉さんとどんな話をしてたの?」

 

 会話は本題から始まった。

 

「言ったはずだぞ」

「だったらどうして私を外す理由があったの?」

「それは……」

「別に佐倉さんに確認を取ってからでも、遅くはなかったと思うけど」

 

 これは、マズイ……。

 

「答え、当ててもいい?」

「……どうぞ」

「佐倉さんが私のことを嫌っている、でしょ」

「……仰る通りで」

 

「やっぱり」ガクンと肩を落とす。「悲しいなあ」

 

「心当たりでもあるのか?」

「私はあんなに話しかけたのに、敬語のままなんだもん」

 

 確かに。オレが合流した時にも佐倉は櫛田に敬語だった。一方オレは初対面だというのに許された。その差に気付くとはさすが櫛田、コミュニケーションお化け。

 そこでふと、あることに気付く。櫛田の言葉を受けるまで見落としていた違和感。……そうか、あいつは心のどこかで感じているんだな。自分でも気づいていないかもしれないが。

 

「誰にだって苦手なやつはいるんだ。悪気があるわけじゃないんだろうし、許してやってくれ」

「んー、佐倉さんはいいけど、綾小路君が私を騙そうとしたっていうのが癪なの」

 

 そんなこと言われても、と、惚けようとした時だった。

 

「もしかして、綾小路君も私のこと、苦手?」

「――え、何で急にそんなことを聞くんだ?」

 

 動揺を最小限に抑え、適切な反応をする。ここは回答に詰まってはならないし、即答も正解ではない。あくまで質問の意図がまるでわかっていない振りを装う。本来脈絡のない問いかけであることに気付かないほど、間抜けではない。

 

「……いやー、どことなく私を遠ざけてるように思ったり?」

「どこがだよ……けっこう個人的な話もしたと思うが」

「まあ、確かに」

 

 嘘は吐いていない。オレが彼女に重めな相談をしたことは事実だし、何ならその点に関しては本気で信用している。

 だから突けない。事実という強固な鎖で隠されている真実に、櫛田は触れることができない。

 

「オレにはお前ほど友達がいるわけじゃないんだ。そんなオレとこうやって快く話に乗ってくれている時点で、ある程度信頼を寄せるのは当たり前だろう」

「むむぅ……わかったよ、疑ってごめんね」

「本当だ。一体どうしたんだよ、らしくない」

 

 何気なくそう言うと、なぜだか少し神妙な顔をする。

 

「……どうしちゃったんだろうね、わかんないや」

「…………櫛田?」

「ねえ綾小路君。綾小路君と浅川君って、どうしてそんなに堀北さんと仲が良いの?」

 

 これまた唐突な問いだ。以前は似たことを鈴音に尋ねていたが。

 考えあぐねるものの、なかなか答えはでない。

 

「…………シンパシー?」

「え?」

「シンパシーだ。何となく、波長が合うんだよ」

 

「そうなの?」櫛田は目を見開く。「堀北さんと……」

 

「あいつとは一緒にいて、不快感のようなものは何故か感じない。少しきつそうだった性格も、マシになったしな」

「相性の問題ってこと……?」

「ああ。お前にだって、大なり小なり苦手な人はいるんじゃないか? いないにしても、仲の良さに差はあるはずだ」

 

 思案に耽る櫛田。間違いなく鈴音のことを思い浮かべているはずだ。

 

「じゃあ、綾小路君は私のことをどう思ってるの?」

「え、それは……えっと」

 

 歯切れが悪くなるのくらいは許してほしい。そんな質問はされたことがないし、良い答えが浮かばないものだ。

 

「友人、なんじゃないか?」

「……煮えきらないね」

「い、いやその……ちょっと違うのかもしれない。何て言うか、お前にはけっこう感謝している」

「……」

「人付き合いの苦手なオレに、お前は色んなことを教えてくれた。――向き合い方を」

 

 鈴音はもちろん恭介にも教わらなかったものだ。櫛田にしかできないことだったと、今でも確信は揺らいでいない。

 

「……温かいなって思ったんだ」

「え……?」

「抱擁感のある人だなって感じた。何となくだけど」

 

 あくまで演技なのかもしれないが、いずれにせよ櫛田がオレに対してそうであった事実は変わらない。少なくともあの時、オレは彼女の受容的な態度に安心感を得たことは確かだった。

 人格や情緒を人間らしく育ててくれるような存在。前にも悩んだが、どう表現したらいいのだろう。

 兎も角、オレにとって櫛田はそういう少女だ。だからこそ、恭介とのことに上手く向き合えたわけで――。

 

「……ふーん、私がね」

「……?」

「へー……」

 

 思考の海に沈んでしまったようだ。頭の中でどんな洞察が行われているのか、全くわからない。

 

「櫛田、お前は――」

「どうしたの?」

「…………」

 

 踏み込むべきか、迷った。

 不思議な感覚だった。まず間違いなく、今櫛田の闇に触れるメリットはない。しかしこのまま遠巻きにしていいのかと思う自分がいる。

 興味関心に過ぎない、とも思えなかった。ただ知りたいと、彼女がどんな経緯を辿ってどうして綺麗な仮面を被り続けているのか――そんなにも素顔が汚れているのか、無性に訊きたくなった。

 だが…………

 

「オレに興味があったりするのか?」

「……………え!?」

 

 もし今、その選択を取れば、何かが変わっただろうか。

 オレは、櫛田に何かをしてやれただろうか。

 救って、あげられただろうか。

 答えは、否だ。

 

「いや、前恭介といた時にもそうだったが、やたら鈴音に対抗心を燃やしているようだったから」

「ち、違うよそういうわけじゃ」

「本当か? 因みにオレは今絶賛彼女募しゅ」

「本当に違うからっ!」

 

 だから、これでいいんだ。まだ我慢だ。

 今は、ただの友達でいよう。いるべきだ。

 まだお前には、変わらぬ笑顔の博愛天使でいて欲しい。

 

「意外と綾小路君ってお茶目だよね……」

「最近は愛嬌のある男はモテるって聞くからな」

「どこ情報!? 程々にしないと嫌われちゃうよ」

「じゃあお前はオレのことを嫌いになったのか?」

「むぅ……ズルいよぉ」

 

 その答えも、本当のところはわからないが、イエスとは言わせない。

 

「言ったはずだよ、私は恋愛は考えてないって」

「乙女心は秋の空だ」

「そろそろ梅雨なんだけど」

「知ってるか? アジサイの花言葉は『無常』らしいぞ」

「え、ロマンチスト――じゃなくて! うぅ、なんで言い負かされてる感じになってるんだろう」

 

「誰とも付き合わないと思うだけで、興味はあるとは言っていただろう」とは返さずに、最近身に付け始めたユーモアを浴びせる。こんなやり取りも、本当はどう思っているのだろう、嫌だろうか。

 

「――悪かった、少し揶揄いすぎたな」

「何だかどっと疲れたよ……」

「盛り上がってきたところだが、生憎調査に戻らないといけない」

「え――あ、ホントだ。もうこんな時間」

 

 それら全ての真実を、オレは存在諸共無視をする。

 

「ごめんね綾小路君、時間取っちゃって」

「いいや、良い気分転換になった。ありがとな」

 

 別れの挨拶をし去って行く櫛田。

 ……悪いな。ここで歩み寄ってしまうと、無駄になってしまうんだ。あいつらを、裏切ることになる。

 恭介も言っていた。大丈夫と。

 楽観的だなどとは言わせない。上手くやるという決意だ。オレが変わったことの大きな証明を、叶えるための。

 そして――独りでは叶わないことがあるのだと確信するための。

 ……さあ、今はもう考える必要のないことだ。切り替えよう。

 次は大一番だ。今回の審議で勝利を手繰り寄せるためのリーサルウェポン。きっと手に入るはず。

 また一つ、オレが藻掻くための挑戦を成し遂げるんだ。

 重い足は、校舎へと動き出した。

 




「あれ?既視感」ってなる場面、あったでしょうか。実は原作1巻にある描写を意識した部分がささやかながら仕込まれています。2箇所です。わかりにくくて見つからないってことはないと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

確真

やっと書けた……いくつか真相には候補があったのですが、どれもどこかしら不自然になってしまって。一番マシなものにしました。
因みに事件構成の関係で、寮の構造がアニメとはかなり違っています(原作がどうなのかはちょっと存じ上げないので、それだけ伝えておきます)。
また、区切りの都合上今回けっこう長いですがお付き合いください。

※前話に重要な修正を行いました。「ロビーに入ると物音」→「無音」
 余計手がかりがなくなる形になって我ながら草生えました。


 心地悪い風が頬を撫ぜる。

 立っているだけで汗の噴き出る猛暑の中、浅川は仁王立ちを決め込んでいた。

 

「……」

「バスケですか。すごいですね」

「将来プロになるのが夢なんだ。今じゃそれもかなり危ういんだけどな……」

「それはあんたの自業自得でしょ」

「…………」

「でも羨ましいです。私なんてボールを持っているのだけで疲れそうですから」

「ひよりは運動音痴過ぎ」

「運動しねえのか?」

「読書ばかりでからっきしですね」

「………………」

「そうです、今度みんなでトレーニングしませんか? 勿論真澄さんも」

「えーやだよ、面倒くさい」

「いいじゃねぇか! 俺も浅川たちとよく――」

「シャラーーーップ!」

 

 気怠い暑さを吹き飛ばす大声量に、三人の視線がこちらを向く。

 

「うるさい」

「急に血が上ると熱中症で倒れますよ?」

「割と芯の通った声出せんだなお前」

「違うよね? ねえ、僕がおかしいわけじゃないよねぇ!?」

 

 全く想定していなかった状況に思わず頭を抱えた。

 

「やっぱ僕だけでやるべきだった……!」

「んな堅っくるしいこと言うなって。あっちじゃ何もできねぇから、せめてこっちで役に立ちたいんだ」

「う、うぅん……じゃあ健は善しとして、椎名と真澄は?」

「浅川君の友人の危機とあらば」

「私は悪くないからね。ひよりに連れてこられただけ」

 

「があっ!」こんなに連続で発狂するのは久し――いや、初めてだ。

 目の前の三人、本来接点はなかったはず。なのに、一体全体どうしてこうなった。

 経緯は確か、今朝早くからだ。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

「でぁぁあああぁ」

 

 疲労困憊の浅川は起床するや否や、抜けきっていない倦怠感に屈しデスクにひれ伏していた。

 昨日綾小路から引き受けた堀北の捜索。手始めにケヤキモールの店を全て回って尋ねたが、有力な情報は得られなかった。校舎もひとしきり――倉庫や物置の類も全て――確認したが、隠し通路や隠し部屋といったインチキでもない限りはいないと断言できる。

 綾小路曰く失踪は寮だったらしいが、誘拐されたならそこから遠くへ向かった可能性があると踏んで行動したところ見事不発。元々探し物は心当たりの遠方から近場へ順にする性分であるが、だいぶ堪えた。

 あの広さで敷地の一部というのだから驚きだ。どう見ても地元の倍以上の発展ぶりを受ける。

 そんなわけで。次に浅川が目を付けたのは「ここ」だ。

 堀北本人が見つからなかったとしても、暫定の事件現場であることに変わりない。検証だけでもしておきたかった。故に今日は坂柳理事長にも協力を要請している。

 自分にできることは、最後の一滴まで吟味する。その決意は、決して揺らいではいないのだ。

 ――本当に『これ』でいいんだか。

 変わると決めた。しかしその結果、初めに変わる前の、最初の自分に戻ってきているような気がして、その点迷いがないとは言い切れなかった。

 まあそもそも、今まで『自家発電』なんてしたことないのだけど。

 

「――おはよう」

 

 唐突に背後から声がかかる。

 

「んー……お? 珍しいじゃん」

 

 椎名かと思ったが、神室が相変わらずの無愛想顔でお出ましだ。

 

「ただいまと言えばいいのに」

「……ちょっと恥ずかしいし」

「思春期なのね……前は素直に言ってくれてたのに、お母さん悲しい」

「やめてよね、イマイチ否定しにくいこと言うの」

 

 実際初期は「ただいま」も「おかえり」も言ってくれていた。ある時から突然、口を籠らせるようになってしまったのだ。

 

「で、どした?」

「理由はいらないって言ったの、浅川でしょ」

「それはそうだけど、君が真に受けたのは初めてじゃないかあ」

 

 大抵椎名に巻き込まれる形か暇を持て余した時にしか姿を見せなかったはずだが、今日はこんな早い時間に独りで。何とも殊勝で不思議な心掛けだ。

 

「今日は寮が使えなくなるって話だったから、偶には誰かと羽を伸ばすのもいいかなって。椎名、じきに来るでしょ?」

「あらまあホームシックに駆られたのね」

「帰ろうかな」

「親離れには早いわよ」

「何でよりにもよって母親気取りを続けるの……」

 

 彼女とのユーモア劇場は密かに気に入っていたりする。出だしこそ堀北のようにスルーしたり酷い返しをしたりするものの、終いにはげんなりしつつツッコミをしてくれる。何だかんだで優しい子だと感心する傍ら、だから坂柳に良いように使われてしまうのだと憐憫も抱いてしまう。

 それはさておき、どうやら神室のお目当ては椎名のようだ。

 

「てことは君、今暇なの?」

「そうだけど」

「なら丁度いい。今から君に重大な任務を与えよう」

「坂柳で間に合ってる」

「ごめん友達としてお願いっ!」

 

 あからさまに顔を顰める神室に縋る声が漏れる。

 

「嫌な予感しかしないんだけど」

「……鋭い」

「パスで」

「今じゃなきゃ駄目なんだ! 頼む!」

 

 両手を擦り合わせて土下座のコンボを突きつけると、彼女は嘆息を零し腕を組んだ。

 

「……内容による」

 

 浅川は当然、目をウキウキと輝かせた。

 

「ありがてぇ!」

「で、何すればいいの?」

「マッサージ!」

「そのまま骨折ってあげる」

 

「ふぇ!?」物騒な返しはあまりに予想に反している。「こっちは大真面目なんだけど」

 

「イヤ」

「どうして?」

「人の肌触れるの苦手だから」

「減るもんじゃないじゃん」

「それ自分の肌には使わないでしょ」

 

 割と本気で身体が重いため、筋肉をほぐしてくれないのは痛手だ。

 項垂れていると、再び玄関が開く。

 

「あれ、真澄さん?」

「ひより……コイツどうにかして」

 

「まあ」椎名は屍のように床に倒れて動かない浅川を見て緩い驚き声を出した。「まるで理解の追いつかない状況ですね」

 

「この子ったら酷いのよ椎名。悲痛な叫びにも応えてくれないの」

「誤解を招く言い方しないでよ。あんたの横暴に反発しただけじゃない」

 

 ひとしきり説明してやると、ようやく椎名は合点のいった表情になった。

 ぽん、と、右拳を左手の皿に乗せる。

 

「では、私がやってあげましょう」

「おお、さっすがあ」「え、いいの?」

「問題ありません。経験はほとんどありませんが」

 

「じゃあ頼んます」意気揚々と、浅川はベッドによじ登りうつ伏せになる。

 

「真澄さんはどうしますか?」

「私にもやってくれるの?」

「お任せあれ」

 

 微妙な顔をする神室。それもそのはず、椎名の極度な運動能力の低さ、二人分のマッサージに足りるのかと言うと、答えは浅川と一致していた。

 

「…………いや、いいよ私は」

「そうですか? では――」

「私もひよりと同じ側にしとく」

「え?」「ふぇ?」

 

 二人の間抜けな声が重なる。先程とは打って変わった返答だ。

 

「気が変わった。ひよりを手伝う」

「え、マジ?」

 

 こちらに向けるあくどい笑みに、とんでもなく戦慄を覚える。

 

「や、やっぱやめとこっかなあって思ったり」

「ダメ。――ひより」

「諒解です」

 

 のそりと逃げ出そうとしたところ、あっという間に二人に拘束された。椎名に至ってはその俊敏さを普段もっと活かせばいいのにと、場違いな感想を抱くほどだ。

 

「あんたご所望のマッサージだよ。けっこう効くから覚悟してよね」

「…………御手柔らかにお願いします」

 

 それから数十分程、室内にやたら女々しい悲鳴が響いた。

 

 

 

 

「ふっかーつ!」

 

 めっちゃ効いた。超効いた。

 肩をぶんぶんと振り回し足首を回す。これなら今日の捜索もベストを尽くせるだろう。

 

「ありがとなあ二人とも、助かったよ」

「どこか行くの?」

「ちと野暮用、椎名と二人でごゆっくりー」

 

 軽くお礼と外出の報告を済ませ、足早に階段を降りる。

 ロビーを出て、振り返った。

 

「……」

 

 今この少年を見た者は、彼がついさっきまで苦悶に喘いでいたとはとても思えないだろう。

 完全に切り替え、細い目を寮に向ける。

 ――うん。やっぱ、ここかな。

 

「浅川?」

 

 今日に限って遭遇イベントが多い。さすがに溜息――は心中に留め応じる。

 

「どうしたんだい、健?」

「ランニングしてたら偶々見かけたから、声を掛けただけだぜ」

 

 どうやら被告人である須藤本人が調査に参加するのは良くないということで、今は手持ち無沙汰らしい。

 

「先生が信じて待ってろって言ったんだ。バスケが一番の取り柄の俺にできる『待つ』ってのは、万全な状態で部活に戻れるようにしとくことだろ?」

 

 それを聞いてひどく感心する。一匹狼を気取ろうとしていた彼が、そこまで言うようになったか。人情味というか、思慮の成長を感じる。

 ただ、

 

「大方、じっとしてらんないってのが大きいんだろう?」

「ははっ……バレちまうか」

「お察しするよ。気が気ではないだろうからね」

 

 互いに微笑んでいると、途端に須藤が真剣な顔つきになる。

 

「……安心したぜ。その感じだと、嫌われちまったわけじゃなかったんだな」

「え? ああ、勿論だよ。調査の件は申し訳なかった」

 

 あまりに自然に会話するものだから失念していた。表向き浅川は須藤を見捨てた形になっている。

 

「綾小路たちが、何か事情があるんじゃねえかって――やっぱそうなのか?」

 

 訊かれないのが一番であったが、こうなってしまっては仕方がない。致命的というわけでないので素直に頷く。

 

「信じてもらえないかもしれないけれど、僕なりに罪滅ぼしはしているんだ」

「罪滅ぼし?」

「うん。だから……」

「……バカ、信じるって。寧ろこんな俺のために、サンキューな」

 

 元々拗れていたわけでもないが、そうなる前に和解はできたようだ。空気が弛緩する。

 

「てこたぁお前が寮をじっと見てたのも、その罪滅ぼしってやつなのか?」

「ふぇ? あ、いやー、えーっと……」

 

 困った瞬間後悔する。頷いておけば良かった。何もこんな時にまで律儀に嘘を嫌わなくとも……己が忌々しい。

 

「違うのか?」

「あぁ、まあ…………大丈夫かな」

 

 すまん、清隆。

 

「絶対に誰にも言わないって約束できる?」

「お、おう」

「破ったら針千本刺すからね?」

「直球だな」

 

 親友に謝罪した後、打ち明けた。

 

「マジかよ! 堀北が!?」

「ちょバカ、しーっ!」

 

 慌てて口を塞ぐ。だから渋ったのだ。

 動揺がある程度収まるまで待ってから解放すると、須藤は大きな肩を揺らす。

 

「ぷはぁ……わりぃわりぃ。それで、お前は堀北がどこにいんのか搜してるってことだな?」

「そう。ケヤキモールの方は昨日行ったけど収穫なし」

「で今度はここってわけか。まさに、ええと、と、とう……あー、トウバイカリグラシ?」

「灯台下暗し」

「それだ」

 

 原寸大アリエッティじゃないか。

 

「なるほどな。……よし、俺も手伝うぜ」

「ん。………………ん? 今何て?」

「俺も一緒に堀北を探すっつったんだよ」

 

 待て待て、どうしてそうなる。ついさっき自分なりな『待つ』について熱弁していたばかりではないか。

 

「いいって。肉体労働は要らんぜよ」

「独りじゃできないこともあるかもしれないだろ」

「その時はまた呼ぶから」

「遠慮すんなって。仲間がピンチだってのに、呑気に走ってなんかられねえって」

 

 正直須藤の言う通り、堀北の誘拐が複数犯たった場合その検証に人数が欲しくなる。ただ、単純な身体を使う工程なら自分だけで事足りるため、余計な人員は望んでいなかった。

 しかしここで断れないあたり、良心が残っているのだろう。

 

「……好きにしな」

「おうよ、任せろ」

 

 任せた覚えはないのだけど。

 

「さて、じゃあ――」

「話は聞かせてもらいました」

「は!?」

 

 気を取り直そうとした矢先、聞いたばかりの声に目を剥いた。

 

「二人とも、何で……」

「心做しか急いでいたようなので、跡をつけさせてもらいました」

 

 失態だ。真面に集中できていない時の自分の愚鈍さったらない。

 得意気に胸を張る椎名。ご満悦な笑顔は何とも幼気で可愛らしいが、それを上回る億劫さが胸中に広がる。

 隣で眉間に皺を寄せる神室にアイコンタクトを試みる。

 

『止められなかったのか』

『追いかけるので精一杯だった』

『連れて帰れ』

『この状態のひよりを?』

 

「ぐぬぬぬぬ……」

「浅川?」

「なんでもない!」

 

 ええいままよ。こうなれば即席探偵団結成だ。

 手短に二人にも事情を話し、納得してもらう。

 

「それって結構やばくない? 先生に連絡した方が……」

「依頼人が課したノルマだ。僕――僕らだけで解決する」

 

 細かい事情は知らないが、綾小路からは事が大きくなる前に堀北を見つけ出してほしいとのこと。できるものなら叶えてやりたい。

 

「やったるよ。僕のロジック舐めなさんな」

 

――――――――――――――――――――――――

 

「だと言うのに何なのさこの体たらくは!」

 

 何度回想しても破茶滅茶な展開だった。それを甘んじて受け入れたというのに、解せない現状だ。

 

「待ってろって言ったのは浅川じゃねえか」

「うるさくしてろなんて言ってない」

「私は巻き込まれただけだし」

「椎名を連れて帰ってくれ」

「邪魔、ですか……?」

「い、いや邪魔じゃな――うん、ちょっと邪魔かな正直」

 

 まさか自分が坂柳以外を邪険に扱うことになろうとは。親交を深めるのはご自由だが、気が散る。

 

「――らしくないですよ、浅川君」

「は?」

「いつものユーモアが掻き消えています。暑さにやられてしまったんですか?」

「……使い所を見極めてこそだ。それに、部屋にいた時はこんなんじゃなかった」

 

 憤怒しても意味がないことくらいわかっている。平生はそれ故に寛恕を抱いていられるのだが、暑さにやられてしまっているのかもしれない。クソ、椎名の言う通りか。

 そうこうしていると、視界の端からこの暑さの中瀟洒な正装を見事に着こなす中年男性が現れた。

 

「おや、待たせてしまったかな?」

「いえ、今さっき来たところです」

 

 恋人どうしの待ち合わせか、などというツッコミを入れる余裕はなかった。

 

「浅川君、この方は?」

「ん、坂柳理事長」

「おー、理事長か。…………は、理事長つったか今!?」

「うん」

 

 三者三葉、驚きを露わにする。対する理事長は苦味走る顔をやんわりと緩めている。

 

「あまり生徒の前には顔を出さないからね」

「学校の長としてどうなんですか、それ」

「お恥ずかしい限りだよ」

 

 子供に対してここまでフレンドリーになれるのなら、逆に頻繁に表に出た方が良い気がするのだけど。この学校の特性上良くないのだろうか。

 

「坂柳って、まさか」

「想像通りっすよ真澄さん」

「……運がない」

 

 親子共々交流果たすとは、神室と坂柳には不思議な因縁でもあるのかもしれない。

 

「それで、浅川の言ってた協力者っていうのが、理事長?」

「そう。寮を一時的に空けてもらった」

「あれ浅川君の仕業だったんですね」

「まあね。――理事長さん、いいんですよね?」

 

 こちらの問いかけに、理事長は快く応じる。

 

「我が校の生徒が一人、最悪命の危機なんだ。僕が何もしてやらないわけにはいかないからね」

「だったら警察とか頼った方がよくないですか?」

「そうかもしれないけど、頼らずに見つけることは不可能ではないはずだよ」

 

 綾小路が言っていた通り、大事にするつもりはないようだ。一体どういう意思共有がなされているのか。はこの際重要ではないか。

 

「この埋立地に繋がっているのは車道一つだけ。必ず事前に厳しいチェックが入る。車内やトランクは勿論ボンネットの中まで念入りに調べて人一人見つけられないなんてことはあり得ない」

「つまり、俺らの住んでるこの敷地に絶対いる、ってことか?」

「僕はそう睨んでいる。――須藤君、一応教師だから、敬語くらいは使って欲しいかな」

「あ、すまねえっす。って、俺の名前知ってるんすか?」

 

 一同目を見開くが、当の本人は飄々としている。

 

「当然さ。そちらは椎名さん。君は……うちの有栖に随分と可愛がられているようだね、神室さん」

「……おかげ様で」

「生徒の顔と名前くらいは、一致しておかないとね。プライベートには踏み込まないけれど」

 

 総勢480名の生徒を全て。それ相応の記憶力がなければできない芸当だ。げんなりする神室の横で、浅川はひどく感心を覚えた。

 

「浅川君、まだ正午まで少し時間がある。よければ事件についてわかっていることを教えてくれないかな?」

「構いませんが、大したことは、」

「情報共有は大事だよ」

「……そうですね」

 

 行動を共にする生徒三人にも、ある程度把握してもらっておいた方がいいか。

 

「清隆の証言通りなら、事件発生は一昨日の十八時ごろ」

「おいそれ、俺の時と同じ……」

「奇しくもね」

 

 何やらある作戦を試した帰りだったらしいが、そこは割愛する。

 

「清隆と鈴音は寮の前――ちょうど僕らが立っているあたりまで歩いていた。そこで清隆は通話のため裏へ。鈴音にはその場で待っているよう伝えた」

「堀北さんの反応は?」

「は? ちょ――までだと」

「扱い雑過ぎじゃない?」

 

 失敬な。愛ある対応だ、多分。

 

「その間約一分。彼が戻った時には既に人一人気配がなかった」

「見落としって線はないのか?」

「気付いたはずだよ、あいつなら」

「僕も同感だね」

 

 あり得ないとは言わないが、表に出れば十分に視界が開けている。可能性は極めて低い。

 ……しかし、何だ。その域を超えた確信が、理事長の一言に含まれているような気がした。

 

「……先に中へ入ったのかと思った清隆はロビーに入り、急いで階段を上った」

「エレベーターは?」

「どちらも使用中でした」

「何階のあたりだった?」

 

「何階?」やたら細かいことまで聞くのだな。「そこまでは確認していなかったらしいです。監視カメラなら或いは……光の影響で見えない可能性もありますけど」

 

「ふむ……それで?」

「各階念入りに確認したものの、鈴音はおろか人の姿一つ見つからなかった」

「その後少し待ってから翌日まで、定期的に連絡を試したところ応答なし。でしたね?」

 

 椎名の確認に頷く。

 今となっては直後から応答可能かどうかを確かめるべきだったと言えるが、いくら何でも即刻行方不明を断定するのは無理だ。堀北の不機嫌に賭けた綾小路は、日が暮れるまでアクションを起こさなかった。

 

「いくら清隆と言えど、自分らの住まいをいちいち細部まで記憶していない。違和感や取っ掛かりをこの短期間で見つけることは叶わなかった。僕らでもできるかどうか……理事長は?」

「残念ながら、僕も同じ条件だ。学期ごとの正式な点検には立ち会うんだけど、それ以外はさすがにね」

 

 寧ろ点検にはちゃんと立ち会うのかと感心する。業者に任せっきりでも文句は挙がらないと思うが。

 

「堀北さんが寮にいると考える根拠は?」

「ないよ」

「ねえのかよ!」

「うん。ただ、タイミングからして今回の件はCクラスの仕業だと仮説しているから、下手に生徒が立ち入れない場所は除外してある。それに、僕らが真面な捜索をできる範囲は校舎とケヤキモール、そしてここ。前二つは既に僕が全域調べた。他の茂みとか――考えたくもないけど海とか――となると、それはもう大人に然るべき対処を取ってもらうべきだと思う」

 

 密かに理事長にアイコンタクトを取る。心得ているよ、と首肯が返って来た。

 事情を追究するつもりはないが、人命に関わる事態である以上に優先すべき理屈などどこにもない。一刻を争うという結論が出たら、その時点で自分らは退く。

 人海戦術はどうかという話も、結論は却下だ。そもそもそれ程の人数この件に関して信頼をおける相手がいないし、もし揃えられたとしても大規模過ぎて無関係な教師陣や部外者に事件が漏洩する可能性が高い。そうなれば結局警察に捜査を委託しなければならない状況に追い詰められる。

 

「……と、そろそろ時間か。始めて問題ありませんね?」

「構わないよ。何から始めるんだい?」

「まずは……誰もいないからこそできることをしましょう」

「どうすんだ?」

「全部屋調べる。何か見つけたら僕に連絡して」

 

 女性陣、主に神室の表情が引き攣る。

 

「それはあんま良くないんじゃ……」

「性的なもののこと?」

「……っ、まあ、それも」

 

 何に戸惑っているのか、神室が目を泳がせる。的外れな返しだったわけではないようだ。

 

「気にするな、見なかったことにしておけばいい。本人の許可無しで合鍵が作れるんだ。問題は問題にされなきゃ問題にはならない。――理事長も織り込み済みだしね」

「それで堀北さんが見つからなかったらシャレにならないからね、あくまで例外中の例外。それに、僕は浅川君がその手の不祥事を働かないと信じている。君たち三人も、その浅川君から信頼を得ているからここにいるはずだ」

「あ……まあ、そうっすね」

 

 ただの成り行きだったのだが……帰らせてよかったものをそうしなかった点で、強ち間違いではないか。

 

「折角五人いるから、階ごとに分担しよう。下から順に理事長、健、僕、椎名、真澄。僕と健は三階ずつ、他は二階ずつでやるよ。――質問は?」

「ないよ」「ありません」「大丈夫」「ねえぜ」

 

 反対はなし。早速始めよう。

 

「では、行動開始」

 

 

 

 

 

 調べる部屋数からして、要した時間はそれなりだった。

 長針が一周するほど経過した後、続々と寮の前に団員が集合する。

 

「……その様子だと、みんな駄目だったか」

 

 調べ漏らしはないと信じよう。……須藤は怪しいが。

 

「やっぱり寮も違ったんじゃない?」

「でもそうなると、私たちの手には負えない案件かもしれませんね」

 

 女子二人が言う。

 

「どうすんだよ」

「……理事長はどう思いますか?」

 

 顎に手を当て考える浅川。ここは大人の力にもう少し頼ってもいいだろうと、助け船を求める。

 

「捜索自体は、やれるだけのことをやったと思うよ。敷地の広大さ故に十分とは言い切れないにしても必要な限りは尽くした」

「…………捜索自体は、か」

「初歩的なことを忘れているんじゃないかな?」

 

 ふむ。つまり、『それ』も話を通してあるということか。

 

「……よし、続行だ」

「続行つっても、他に何がやれんだよ」

「強硬策でダメなら、次は地道な捜査。基本に立ち返るんだ」

 

 今までは急を要するということで段階をすっ飛ばしていたが、もはやそれでは突破口が見えない。結果的に遠回りしている感は拭えないが。

「なるほど」椎名だけが理解を示す。「理事長はそれも織り込み済みということなんですね」

 

「緊急事態に全て子供に委ねるのは無理強いというものだ。うちはさすがに、こんな状況を想定した訓練はしていない」

「男性陣と女性陣で分かれよう。僕らはもう一度寮を調べる。椎名と真澄は管理人に頼んで証言と監視カメラの検分をお願い。鈴音の姿だけじゃなく手がかりを探すんだ」

 

 簡潔な指示を飛ばす。理事長には椎名たちに付いてもらおうかとも迷ったが、寮の構造や些細な点は彼の方が知っている部分もあるかもしれないと判断した。椎名に負担をかけてしまうが甘受しよう。

 

「何を探せばいいの?」

「基本寮内は満遍なくカメラが構えているはずだ。事件前後のロビーの様子とか、誰かが出入りしていなかったかとか、全てのカメラを調べて欲しい」

「全てって……」

「諒解しました」

「ちょ、ひより。いくら何でも」

「大丈夫ですよ真澄さん。――何か気づいたら報告しますね。浅川君も、確かめて欲しいことができたら言ってください」

「ああ、ありがとう」

 

 人っ子一人なかった、ということは、もし監視カメラに捉えられていた人影があればそれが関係者である可能性が高い。

 

「頼んだよ、二人共」

 

 

 

 

 

 とりあえず堀北の部屋を調べてみようと、向かう最中。

 不意に理事長が話を振る。

 

「浅川君。君は、綾小路君を高く買っているんだね」

「え? そりゃ親友ですから」

「そうか。――これからも仲良くね」

「…………あの、さっきから妙な感覚だったんですけど」

 

 厳密には初対面の時からだ。特に業務的ではない砕けた会話の際、筆舌しがたい感慨の琴線に、何かが触れる。

 

「僕、あなたに会ったことありますか?」

「逆にあると思うかい?」

「……うーん」

 

 悩んでいる間に、堀北の部屋にたどり着いた。

 

「さて、始めようか」

「……はい」

 

 促されるまま、中へ入る。

 すぐに目に飛び込んできたのは、

 

「料理の痕跡がある……」

「どういうことだ?」

「昨日の夜、あるいは今日の午前中も、堀北さんは自室で生活していたかもしれないということだね」

 

 まだわからない。合鍵を作って侵入すれば、このような偽装は可能だ。

 リビングに移動するが、ここでも生活の痕跡がある。ベッドには皺が残っており、デスクにはノートが広げられ筆記用具も置きっぱなし、窓も鍵がかかっていない。

 全体を見回した感じ、綾小路程ではないが個人の特徴を表すような物は何も置かれておらず、それこそが堀北らしさと言えるようなレイアウトだった。

 

「健、学生証カードを探してくれ」

「学生証?」

「清隆曰く、鈴音の端末のGPSはこの座標で表示されている。多少の誤差があるにしても、寮の中かその周辺に落ちていると見て間違いない」

 

 発展した技術が用いられているとはいえ、寸分の誤差なく座標を表示することは難しい。概ね寮を中心とした直径五メートル以内を範囲と見るべきだ。その第一候補は当然本人の自室となる。

 曖昧に何かを探せというのも無茶な話。特に須藤なら、具体的な物を提示して探させた方が建設的だろう。

 

「全部探すぞ。クローゼットもタンスも、トイレもバスルームも、手あたり次第に」

「げっ……わかったよ」

 

 ここは九階。椎名が一度確認しているが、今度は別の対象を捜索する。

 しかし、どの隙間を漁ってみても、これといったものすら見つからない。

 ――やはり別の場所なのか……?

 困れ果てて頭を掻く。その足はリフレッシュ気分で窓際へと寄った。

 カーテンと窓を開け放つが、広がるのはカメラの死角――茂みや木々、室外機などが並ぶだけの殺風景。内外共に汚れの隙がない縁にもたれ掛かる。

 

「堀北さんは本当に、今も普通に生活しているのかな」

「さすがに私生活を監視しているわけではないのでわかりませんが、真面目な彼女なら登校前に片付けや整理は行っていると思います。これを偽装と捉える根拠がない以上、鈴音はしっかり下校して食事も摂っていた。という仮説は死にません」

 

 プライベートはずぼらというのも、部屋全体の整い具合を考えるとなさそうだ。

 

「確かめてみたらどうだい?」

「……」

 

 理事長の意図を察した浅川は端末を取り出し、椎名に通話を掛ける。

 

「何かありましたか?」

「二つ聞きたい。まず、鈴音は部屋に戻ったか?」

「――戻っていますね。時間帯からして、綾小路君が離れてすぐでしょう」

「そうか……じゃあ、鈴音の他に誰かが部屋に上がり込んだりは?」

 

「ちょっと待ってください――」数分PCを操作する音の後、返答が来る。「前後三十分を確認しましたが、堀北さん以外に入室していませんね」

 

「……」

「あの、浅川君」

「なに?」

「これを見て欲しいんですけど」

 

 そう言って送って来たのは動画――ロビーを映す監視カメラの映像だ。

 一目でわかる不自然な点があった。

 

「ポストが開いている……」

「堀北さんの、ですよね?」

 

 迷いなく向かう素振りからして間違いない。堀北のポストだ。彼女がロビーに入る前から開いていた。

 

「誰がやった?」

「それが……わからないんです」

「は? どういう――まさか」

「はい、顔が確認できません」

 

 帽子やらサングラスやら、いくらでも簡単な方法はある。向こうは犯行の痕跡を隠したいのではない、正体の痕跡を隠したいのだ。必要最低限の隠蔽をしている。

 

「管理人が表に出ていないタイミングか。……ポストに何か見える、紙か? なら内容は」

「俺の事件のことなんじゃねえか?」

 

 いつの間にか戻ってきた須藤が言う。念のためバスルームの状態を聞いたが、やはり使用の跡が残っていたらしい。

 須藤の暴力事件――自分が櫛田の依頼を熟した時と同じだ。堀北が注目している案件を餌にして行動を誘導したということか。現に映像の堀北は焦るようにエレベーターに乗り込んでいる。

 

「……なあ。自分で言っておいてなんだが、堀北がそんな簡単に騙されるか? 分が悪いってのはわかってるけどよ、俺でも罠だってわかるぜ」

「……今の鈴音なら、容易く動く」

 

 自分や綾小路と同じく、彼女も欠点を探し、受け容れ、変えることを心掛け始めている。そんな彼女であれば、時間や機会に条件を付けるだけで動かされてしまうはずだ。

 だが、一つだけ疑問がある。

 先読みしたように、椎名が窺うような声で聞いてくる。

 

「もう一ついいですか?」

「どうぞ」

「今日の午前中まで、堀北さんが部屋を出る姿が確認できないんです」

「ですよねぇ……」

 

 二連休一度も自室を出ないなんてことはよくある。アクティブではない堀北なら尚更だ。

 しかし綾小路からのコンタクトに堀北は一切応じていない。そして今不在であるという事実……。

 可能性は二つだ。堀北が何らかの事情で姿を隠さなければならなかったか、犯人による偽装。どちらも応答の皆無と部屋の状況に矛盾しない。

 だがどちらにしても、方法がさっぱりわからない。

 まさしく幽霊の如き消失。――などとオカルトに思考を囚われるわけにはいかない。浅川の中で一つ答えが浮かんだが、明らかに無理があるし、堀北本人と犯人どちらがその方法を取るにしても態々そこまでのリスクを冒す理由がはっきりしない。

 

「通気口は?」

「バスルームにあるけど、人の通れる面積はないね」

「合鍵を作った人は?」

「一人もいないらしいです」

 

 どちらもダメか……。

 結局決定的な証拠はおろか端末すら見つかっていない。いくつか違和感はあるものの、堀北の行方を推理する材料が足りなすぎる。

 この状況はまさに、

 

「完全犯罪、ってやつか――」

 

 いの一番に思考を放棄した須藤がそう銘打つ。

 

「ミステリーでもないし、あり得るかもね」

「そんなことはありません。犯行が為されたなら、どこかに紐解くヒントはあるはずです」

「解決できるかどうかは兎も角、僕たちが堀北さんを見つけなければ詰みだ」

 

 各々が所見を口にする中、浅川は一人思案に耽る。

 …………駄目だ。

 取っ掛かりがないため、お得意のロジックも組み立てられない。

 天を仰ぐように顔を上げると――理事長と目が合った。

 ……? 何だ。何かを訴えている――?

 

「――浅川君。解決できるかは、この際後だ」

「……」

「堀北さんを、()()()()()()

「………………!」

 

 そうか。そういう事か……! 今自分らのすべきことは――

 

「完全犯罪を、仮説する」

 

 生徒三人がこちらを向く。

 

「手がかりは残らなかった。決定的な痕跡は残さず、犯人は犯行を成し遂げた」

「で、ですが浅川君――」

「僕らのミッションは、立証じゃないんだ」

 

「どういうことだよ」須藤が真っ先に疑問を発する。「犯人は誘拐がバレたくないから、証拠も痕跡も残さないんじゃねえのか?」

 

「だったらロビーに映る行動自体避けたはずだ。相手は争点を完璧に理解しているからこそ姿を見せた。――犯人の告発は絶対条件じゃない。つまり証明の必要はない。証拠も要らない」

「情報と推測だけで十分、ということだね」

 

 唯一理解、というより実質発案者である理事長だけが話を合わせる。

 目標はずっと簡単だ。根拠がなくとも、堀北を見つけるだけでとりあえずの勝利。

 

「じ、じゃあどうするの?」

「情報が少ないのに視点を僕らのままにしておくと視野が狭くなる」

 

 パッシブではなくアクティブ。与えられた情報がないのなら、情報を与えない犯行を『想像』する。

 つまり、

 

「――()()()()()()()()()()()

 

 探偵役に徹しない。犯人なら――自分が正体をバレないまま堀北の姿を消すにはどう動くべきか。それでロジックを展開する。

 『暴く』のではなく『辿る』のが、今回必要なリゾート。

 その過程にあるのが、堀北の隠し場所だ。

 浅川はこれまでにない真剣な表情で、眉を顰める。

 

「さあ、本気でヤるぞ」

 

 そしてゆっくりと、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとな」

 

 少年の背中を見送る。にわかに昏くなった空を見ると、微かな星の瞬きがあった。予定ではおやつの時間には自由の身だったのだが、随分と寄り道をしてしまったものだ。

 今しがた手に入れた重要な情報。この機会のきっかけを与えてくれた()に、内心礼を言う。

 鈴音のことは考えない。あいつならやれると既に託した。

 そして――オレにできることは全てやった。これ以上を残りの時間で調べることは不可能だ。

 ……さて。

 『最後』の手がかりを思考に組み入れ、この事件を終わらせる結論を導き出そう。

 長い防衛戦の幕を下ろす装置に、ようやく手が伸びる。

 オレは、静かに目を閉じた。

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

『今日は随分と早いじゃないか』 『あれは何だ?』  『大したことじゃないけど』   『昨日事件があったんだけど知ってる?』 『写真が好きなので』  『偶々です』   『どこからか、音がしたような』  『待て、今何か』 『いませんでした』   『隠してることがあるからじゃないかな』  『一目散に逃げるでしょうね』 『三人が見ていたのは、浅川君よ』  『グラビアアイドルの雫、か』   『何をたそがれているの?』 『あの時間帯にここを選ぶのは違和感がある』  『やはり行動が不自然なのね』   『サッカーのスパイクを見かけなかった?』  『前の部活の後に怪我をしちゃったらしくて』 『一生に一度のお願いというやつでござる』   『ごついカバーとフィルムでがんじがらめでござる!』  『ここ、少し削れてる』 『破片を踏んだ』  『俺の提案だ』   『職員室には?』 『耳障りな音がするとな』  『こいつを拾ったんだ』   『前のテストの件、ありがとうございました』  『マッチ売りの少女』 『彼はこの事件のもう一人の関係者、いや、被害者です』   『暴力どころか、会ってすらいませんっ』  『鈍い音でした』 『軽い怪我を大仰に偽装したと』  『特別棟を出て右に曲がりますね』   『特別棟を出て左ですね』 『持ち主は、お前ではなかったようだな』  『何が武器になるか、わからないからな』   『知ってるんじゃないかなと、思います』  『予見されていたんだ』 『同じ変人がいるのかしらね』   『須藤の事件だけは関われないんだな』  『おっそろしいねぇチョーさんも』 『もう一人、Dクラスの証人に当たってみる』  『十九時ごろ、ですかね』   『服の下もかなり』 『傷のこと、もうちょい詳しく聞いてみるのは?』  『ガーゼにも血がよく染み込んでいました』   『間違いないって』 『寮に戻ってから病院へ向かった場合に適した時間に、診察を受けていた』  『ケヤキモールで何かあった可能性もある』   『最後の手がかり』 

 

『トウバイカリグラシ?』 『灯台下暗し』 『それだ』   『寮を一時的に空けてもらった』  『警察とかに頼った方がよくないですか?』 『頼らずに見つけることは不可能ではないはずだよ』  『事件発生は一昨日の十八時ごろ』 『清隆は通話のため裏へ』   『気付いたはずだよ、あいつなら』 『僕も同感だね』  『エレベーターは?』 『使用中でした』 『何階のあたりだった?』   『定期的に連絡を試したところ応答なし』  『自分らの住まいをいちいち細部まで記憶していない』   『Cクラスの仕業だと仮説している』 『全部屋調べる』   『本人の許可無しで合鍵が作れるんだ』  『階ごとに分担しよう』   『事件前後のロビーの様子とか、誰かが出入りしていなかったとか』 『料理の痕跡がある』   『自室で生活していたかもしれない』  『ベッドには皺』 『デスクにはノートが広げられ、筆記用具も置きっぱなし』 『窓も鍵がかかっていない』  『鈴音の端末はこの座標で表示されている』   『ここは九階』  『広がるのはカメラの死角』 『内外共に汚れの隙がない縁』  『真面目な彼女なら登校前に片付けや整理は行っていると思います』   『鈴音は部屋に戻ったか?』 『戻っていますね』  『誰かが部屋に上がり込んだりは?』 『堀北さん以外に入室していませんね』   『ポストが開いている』  『顔が確認できません』   『俺の事件のことなんじゃねえか?』  『使用の跡が残っていたらしい』 『堀北がそんな簡単に騙されるか?』   『部屋を出る姿が確認できないんです』  『幽霊の如き消失』   『通気口は?』 『人の通れる面積はないね』  『合鍵を作った人は?』 『一人もいないらしいです』   『材料が足りなすぎる』  『完全犯罪、ってやつか』   『僕たちで、見つけるんだ』 『完全犯罪を、立証する』  『情報と推測だけで十分、ということだね』   『チェス盤をひっくり返す』

 

 

 

   

『         「カラオケルーム」

 欠けた手がかりは、         に眠っている

          「事件前のカメラ」      』

                            

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「解は出た」

 

 別の場所、別の時間。

 終局を捉えた二人は、凛とした目で呟いた。

 




オリ主の発言に近いこと言いますが、ここまで読者に明かしている情報で暴力事件の勝ち筋、誘拐事件の真相を推定することは(論理的とは言えないものの)可能です。前者に至ってはわりと全部明かしているのでロジックでいけるかも? ただ、あくまで「勝ち筋を導くこと」なのがミソです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

裁開

7月10日 午後4時56分

生徒会室前

 

 

 

 うぅ……緊張するなあ。

 

「大丈夫? 綾小路君」

「人って不思議だな。どうして体調は万全なのに胃が痛くなるんだろう」

 

 審議まであと五分を切った。前回と同じように、戦場となる生徒会室の前には勉強会の面々と平田が集まっている。

 しかし二つだけ、違うことがあった。

 

「今日はよろしくね、柴田君」

「ああ、頑張ろうな平田。て言っても、俺は多分ほとんど座ってるだけになると思うけど」

 

 平田と親し気に言葉を交わしてるのは、彼と同じ部活に所属する柴田だ。神崎は事件の直接の関係者ではないため不在だが、柴田は同席を促された。つまり、裁定者が彼を実質的な被害者と認めたことになる。

 さすがあのBクラスの一員なだけあって、早速Dクラスの集団にいとも容易く溶け込んでいる。櫛田にも劣らない社交性だ。話しやすい快活さは、元来の外見故だろう。

 ただし、先程変化は二つと言った。当然二つ目は、

 

「説明してもらおうか、綾小路」

 

 背後からの声に振り向く。

 生徒会長だ。

 

「お疲れ様です」

「なぜ同席者に鈴音の名前がない?」

「失望はお門違いです。とだけ言っておきます」

「言わないのか、言えないのか。どちらだ?」

 

 時間が迫っているのもあり、余談を許さないと言わんばかりの追究だ。

 

「実は、あいつには追加の調査に出向いてもらっているんです」

「追加の? どういうことだよ」

「わかっていると思うが、風向きは決して良くはない。だからこの審議の間に少しでも有利な情報を手に入れられたらってことで、率先して動いてくれているんだ」

 

 苦しいが、これが現状最も理に適った言い訳だ。審議に顔を見せるより優先できる事情など、それくらいしかない。

 

「け、けど、だったら俺とか平田が行けばいいじゃん。何で態々前回同席してた堀北ちゃんがそっちに行かなきゃなんないんだよ」

「――ああっと、それがな」

 

 疑問を呈する山内を遮ったのは、当事者である須藤だ。

 

「堀北の奴、妙に責任感が強いだろ? 『誰かを顎で使う前に、私が何もしないわけにはいかないわ』つってた。ちょっと頑固なとこあるけど、ありがてえよな」

 

 須藤が件の問題を把握している一人であることは、今朝恭介からのメールで確認した。突然深夜三時の着信だったため少々心配だが、きっと全力で捜索しているのだろう。

 勉強会以降の鈴音の成長ぶりあって、Dクラスの仲間は渋々納得してみせる。が、当然目の前の男が受け容れるはずもない。

 

「何を隠している?」

「……あなたに二つだけ言うことがあります。まず、あなたにはちゃんと責務を全うしてもらいたいということ。そして、ここにいない人間も頑張っているということです」

「………………そうか」

 

 暫し視線を交わらせ、僅かに瞠目した後、眼鏡を押し上げ踵を返す。――まるで、らしくない動揺を押し隠すように見えたのはきのせいだろうか。

 どうやらあの反応からして、こちらの意図は伝わったようだ。

 一つ目の言葉は鈴音に予期せぬ事態が起こっていることと今はこの案件を優先して欲しいこと、二つ目はその根拠として現在恭介が対応していることを示している。聡明な彼だけに上手く伝えることはできたようだ。現に他の生徒には何かを察した素振りが見えない。

 オレは平田に話を振る。

 

「――さて。事前に詳細は伝えたが、理解できているな?」

「勿論だよ。一応この前だって、綾小路君の勇姿をこの耳で聞き届けていたからね」

「……今日はお前の勇姿を間近で見たいものだな」

「それはどうだろう」

 

 せめて任せきりなんてマネはしないでくれよ。平田ならしないと信じているけど。……あ、ヤバい、この笑顔は期待を裏切ろうとしている顔だ。 

 

「――と、そろそろ時間だね」

「行くか」

 

 今日、Dクラスに関わる事件が『三つ』動く。

 その中で最も大掛かりで、注目を寄せられている舞台に、これからオレたちはあがるのだ。

 ……。

 そりゃビビり散らかすってもんでしょう。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

同日 午後4時59分

学生寮

 

 

 

 

「……よし」

 

 打ち込んだ文面を見て、意味を持たない台詞が零れる。

 内容に間違いがないか確認。この一文は自分にとって大きな転換点となる、いわばきっかけだ。

 迷わない内に決定的なボタンを押そうとした。――が、やはり寸前で止まる。

 これでいいのだろうか。今までやってきたことに踏ん切りをつけることに、本当に躊躇いはないのだろうか。

 きっと、ない。いや、あるのかもしれないが、それに縋っていたらいつまでも変われないような気がした。本当の自分――内気な自分から逃げず周りと向き合うために、これは必要なことなのだ。前に、進むために……。

 だから――

 

「……っ」

 

 怯えるように、背けるように目を強く瞑り、「投稿」ボタンを押した。

 行動したら、あっという間だ。自分の葛藤が嘘のように、無機質な文字列が公の場に刻まれ、その内容は淡々と広まっていく。

 極度な緊張が解け、息が漏れる。止まっていた呼吸が再開した証拠だ。

 これでいい。これで自分は、一つ成長できたのだ。

 そう言い聞かせるのも、すぐにやめた。何だか必死に正当化しているような気がして、一層恐くなってしまうからだ。

 それに、もう一つやらなければならないことがある。

 軽く支度を済ませ、外に出た。

 向かう先はケヤキモール。そのはずれ。

 弱いままの自分とはもうおさらば。自力で問題を解決できるようになったと証明する。それだけが、今己に課している使命に他ならない。

 決意と、どうしても拭えない不安を誤魔化す感情が、足音を強める。

 その目は確かに真っ直ぐであったが、少しばかり逸り過ぎていた。

 ……。

 …………。

 ………………サヨナラ。

 

 

『重要なお知らせ:私、『雫』は、一身上の都合により活動を引退させていただきます。突然の報告となってしまい誠に申し訳ありませんが、ご理解のほど、よろしくお願いします』

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

同日 午後5時

生徒会室

 

 

 

 先週の再現かの如く、橘先輩による形式的な説明が入る。

 

「前回は、小宮らが柴田に暴行をはたらいたとする事件と須藤による事件との関連性が示唆され、その追究の準備を要請したところで審議が中断しました。その際挙げられた疑問点を中心に、本日は議論をし結論を提示したいと思います」

「改めて確認する。柴田、そこにいる三人に暴力を振るわれたというのは、事実か?」

「はい。俺は特別棟を出た小宮君たちに暴行を受けました。この傷はその時できたものです」

「いいだろう。では、原告側――Cクラス側としようか――とDクラス側は、それぞれ提出できる調査結果はあるか?」

 

 二つの事件で被害者側と加害者側が異なるため、クラス呼びに変えるらしい。

 用意しているのがこちら側だけとは限らない。食い気味に挙手した石崎たちに、先手を取られてしまった。前回がこちらから向こうへの尋問だった分、今回はCクラス側が優先された節もあるかもしれない。

 

「いいですか?」

「どうぞ、石崎君」

「証拠を持ってきました。俺たちの言っていることが正しくて、柴田君の証言が嘘だったってことを証明する証拠です」

 

 ……やはり、そうくるか。

 

「俺たちの通院記録です。担当してくれた柚原さんから貰いました」

 

 一枚の書類が提出される。そこにはCクラスの三人が確かに病院へ行っていたことととその詳細について記されていた。ほとんど、オレたちが取った証言の通り。

 つまり、

 

「俺たちは一度寮に帰ったんです。要らない荷物を置いてから病院に向かった。だからこの時間に診察された。柴田君の『ケヤキモールに直接向かった』という証言とは矛盾しています」

 

 元はと言えば、怪我を見てもらいに通院するという行為は須藤の事件の時点で予定されていたはずだ。これについてはある程度不自然な点がないよう計画されていたというのは当然の帰結である。

 

「どうなんだ、柴田」

 

 だが、退くことはない。

 

「いいえ。あくまで俺は、三人はケヤキモールの方角へ向かったと主張します」

 

 示し合わせはしていない。しかし、わかる。

 オレの推測通りなら。彼らがオレに頼っているのなら。柴田は絶対に証言を変えることはない。

 

「証言よりも物的な証拠の方が信憑性が高いことは言うまでもない。このままでは結論を出すのにそう時間はかからないが?」

 

 生徒会長の窺う一言に、オレは手を挙げた。

 

「その記録が示しているのは、三人が通院した時刻までです。どちらの証言が正しいかを判断するには説得力に欠けます」

「だが大きな怪我を負えば普通、早急に病院へ向かうのは当然のことだ。それを考えるならCクラスの主張は妥当だと認めざるを得ない」

「……判断材料が他にない以上、通院記録が大きく左右するということですね」

「そうだ」

「わかりました。では――」

 

 忘れるな。漢ならこういう時は、

 

「やはりその証拠は、明らかにCクラスの嘘を示しているようですね」

 

 ふてぶてしく笑うものだ。

 相手の驚愕を傍目に、会長に申請する。

 

「先日公開した動画を、もう一度流してもらってもよろしいですか?」

 

 滞りなく、橘先輩がプロジェクターを操作する。

 やはり須藤と石崎の口論の様子が流れ始めた。

 

「――止めて下さい」

 

 その後半。映像が静止する。

 

「ここ、窓枠の中を拡大してください」

 

 オレがこの事件に関する情報で初めて引っ掛かる感覚を抱いた場面。その正体だ。

 

「粒のようなものが見えますね?」

 

 坂上先生が言う。

 

「この影の正体は、最近生徒の間で密かに話題になっていたものでした」

「話題になっていたもの?」

 

「はい」オレは自分の端末を操作し、一枚の写真を見せた。「これです」

 

「なっ……それは」

「――なるほど、『ドローン』か」

 

 教師二人が、大きな反応を見せる。

 

「動画を撮影したグループの中に、耳に障る音が聞こえたと証言した生徒がいました。更に柴田君のサッカースパイクを発見した先生も、同じ種類の音を聞いた生徒が他にいたと証言しています」

「その音が、ドローンの浮遊音だったと」

 

 会長の確認に頷く。

 

「そう捉える根拠は?」

「改めて映像を見ればわかります。レンズの表面や大気中にある汚れではないこと、そして明らかに生物ではない挙動を取っていること――」

「それが一体、何だって言うんですか」

 

 石崎が神妙な面持ちで聞いてくる。

 まあ、変に焦らす必要もないか。

 

「神様の目は一つじゃなかったってことだよ」

「……! まさか」

「ドローンには、景色を撮影するカメラが取り付けられていたんです。ここにそのデータがあります」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

7月9日 午後3時24分

校舎裏

 

 

 

 櫛田と別れた後、オレは目立たない校舎裏――前に一之瀬に呼ばれた場所だ――で人を待っていた。

 気配に見回すと、角からひょっこりと顔を覗かせる少年の姿が見えた。

 

「よう」

「あ、綾小路殿」

 

 外村秀雄。彼がこの事件最後のキーパーソンだ。

 

「悪いな。日曜日に態々来てもらって」

「か、構わないでござるよ。どのみち今日の拙者は流浪人ですしおすし」

 

 お寿司? ……食べてみたいな。

 

「ところで、もしかして綾小路殿に呼ばれた理由は……」

「ああ。すまない、力及ばずだった。もうお前に頼るしかない」

 

 一応希望に添えなかったことは事実なので、深々と頭を下げる。

 案の定、外村は狼狽えだす。

 

「ああ頭を上げなされ! 謝ることではないでござる。寧ろその、クラスに協力的でなく申し訳ないというか何と言うか」

「…………駄目か?」

「……コワイのでござるよ。言えない事情は、ちゃんとあって……」

 

 ……やれやれ、仕方がないか。

 多少強引に行かせてもらおう。

 

「外村。悪いがこちらも形振り構ってはいられない。お前の隠し事、実はオレにはわかっているんだ」

「なっ! ななな、何ですとぉぉおおお!?」

 

 これまでの痕跡を思い出せ。今ある情報で彼の秘密を解明することは可能だ。

 

「まずお前は、事件当時現場にいたな?」

「ど、どうしてそう言い切れるので?」

「ヒントはこれだ」

 

 オレは佐倉の撮影した動画の一部を見せた。わかりやすく顔が引き攣る。

 

「こ、これが何か?」

「お前の所有物だよな」

「な、何のことやら……拙者そのような空飛ぶゴミなんて存じませぬぞ」

 

 声を上ずらせ、下手くそな口笛を吹く外村。確かに一目で断定するのは難しい。

 だが、

 

「お前、最近やけに登校が早かったよな?」

「……!」

「それと同じ時期から、よく見られるようになったものがあるんだけど、知っているか?」

「そ、それは……」

 

 反応を見るに、心当たりはあるようだ。

 

「でも、でもでも! そのドローンが拙者の物とは――」

「オレたちが偶然鉢合わせた日、お前のバッグが電柱に激突した時に重い音が聞こえた。まるで機械をぶつけたような」

「あ……あわわわわ」

「ドローン、持ってきてたんだよな?」

「ぎゃあああああ!」

 

 二人きりなのに驚愕を身体で表現する。これで、ようやく一つといったところか。

 

「認めてくれるな? 映っているのはお前のドローンだって」

「……否定しても、信じないでござろう」

 

 実はこの点に関して反論は可能だ。鈴音が言っていた、Dクラスの経済力――。答えは手に入れているが、その説明は割愛しても問題なさそうだ。

 しかしすかさず、外村は別の角度から食い掛かる。

 

「た、ただ、それで拙者が白状するとは思わないことですぞ」

「……と言うと?」

「拙者がドローンを使っていたから何だって言うんでござるか? 特別棟から離れた場所で遠隔操作していれば、現場にいる必要はないと思われ」

 

 あくまでドローンが現場に映っているだけで、自分は何も見ていない、か。

 

「しらを切るつもりだろうが、無駄だ」

「――っ!」

「お前がその場にいなくとも、現場の様子を見ることは可能だ」

 

 オレは――自分の学生証カードを取り出した。

 

「こいつをドローンに取り付けて、お前は上空から撮影を試みたんだ」

「うぐっ」

「おまけに証言もある。お前が撮影目的でドローンを使っていたってな」

 

 証言の話は本当だ。外村の関係者であるため提供者の名前は伏せておくが、オレの推測を確信させるものだった。

 

「そ、そんな証拠どこにも――」

「あるぞ、証拠は」

「えぇっ!?」

「これがその証拠だ」

 

 端末を入れていたのと同じポケットからもう一つ、更に小さな証拠品を取り出す。

 

「何、それ。ガラス?」

「ああ。落ちていたのは、特別棟に面した建物の袖だ」

 

 ここで彼の表情に一際大きな激震が走った。唐突に、最も触れられたくない話に跳んだからだろう。

 

「以前鈴音もいた時に、ばったり遭ったよな? あの時お前は知らない内に墓穴を掘っていたんだよ」

「……」

「私物は厳重に保管する。そう言って見せてきた端末は確かに頑丈にコーティングされていた。――だがそれは、失敗から得た教訓だったんじゃないか?」

「…………」

「お前は不慮の事故によって学生証カードを破損したんだ。そして同じ過ちを繰り返さないよう念入りな補強をした結果が、お前の言う『がんじがらめ』だったわけだ」

「………………綾小路殿は、探偵か何かでござるか? 拙者、恐ろしくてちびりそうでござる」

 

 本当に汚いからやめてくれ。でも、正解だったみたいだな。

 

「拙者が機械オタクというやつであるのは、御存じで?」

「小耳に挟む程度だが」

「勿論ドローンも例外ではない故、絶景を収めるべく日々奮闘しているのでござる」

 

 なるほど、彼には彼なりの、矜持を持って全力で取り組む事があるのだな。

 ……待て、絶景だって?

 

「なあ、野暮かもしれないが、その絶景って言うのは」

「フフ、決まっているであろう。雄大な自然、荘厳な街並み、そして――おなごのボデー!」

「ぼ、ぼでー?」

「いつか全く悟られずにフィルムに焼き付けられる機体性能と撮影技術を獲得するのが、拙者の到達点でござるよ!」

 

 ……コイツを野放しにしていて大丈夫なのか?

 曲がりなりにも関わりを持った人間が、将来下衆な犯罪者にならないことを祈るばかりだ。

 本題に戻ろう。わざとらしく咳払いをする。

 

「……兎に角、これではっきりしたはずだ。お前は事件当時、少なくとも証拠品として提出できるデータを手に入れていた。オレはそれがこの審議で勝利するための最後の武器だと思っている。協力してくれないか?」

「うぅ……せ、拙者は……」

 

 なおも決断を渋る外村だが……まあ、彼の気持ちはわかる。

 なぜならオレは、彼がここまで沈黙を保ってきた理由を知っているからだ。

 

「――まだ一つだけ謎が残っているんだ」

「え?」

「十分過ぎる追及を終えても、どうしてお前は尻込みしてしまうのか。簡単な話だ、お前の後ろめたい事情はドローンじゃない」

「まさか! 綾小路殿、そこまで調べてあるのでござるか?」

 

 頷いて見せると、いよいよ目を白黒させる。

 

「ガラスが落ちていたすぐ側の壁面には、固い物が擦ったような傷があった」

「あ……」

「端末が破損したのはドローンが墜落したからだ。あれはその時の傷。そしてその場所では、須藤のとは別のある事件が起きていた」

「ああ……」

「焦っただろうな。慌てて愛機の下へ駆けつけてみれば、ボロボロになった私物と粉々に砕けた窓ガラスが散らばっていたんだから」

「あああ……!」

 

 全てを看破された外村は、声にならない悲鳴をあげた。頭を抱え、そして項垂れる。

 彼の抱えていた秘密、沈黙の原因は自分の不注意による罪だったのだ。

 

「拙者……外村秀雄も、ここまでか……」

 

 始まった覚えはないが、何かを悟った外村は徐に天を仰ぐ。

 

「ああ、嫌でござる……このまま雲隠れしていれば、逃げ切れると思っていたのに」

 

 データを提出すれば、間違いなく自分が犯人だとバレる。そう思った彼は全てをひた隠しにしようとした。これまでの不安は決して小さくはなかったはずだ。

 しかし幸か不幸か、その不安を払拭することは造作もないことは言うまでもない。

 彼の口を閉ざす鎖など、初めから存在していないのだから。

 

「大丈夫だ外村。お前のデータが公になったところで、お前はこれといった処罰を受けることはない」

「な、なんで?」

「窓ガラスを割ったのは、お前のドローンじゃないからだ」

「え、――え?」

 

 惨状を目の当たりにした時、彼は相当焦ったはずだ。極度の思い込みに苛まれた上、情報収集もしていなければ、詳細には気づけない。

 

「あの事件は野球部のボールによるものだということで既に処理されている。すぐに解決したし、須藤の事件が重なったのもあってほとんど話題にならなかったから、知らなかったのも無理はない」

 

 簡潔に説明すると、安堵による放心状態を晒す。

 

「そ、そうだったんでござるか……」

「今度こそ、協力してくれるか?」

「勿論でござるよ! 今の拙者に阻むものなど何も無し! 選り取り見取りの持ってけ泥棒!」

 

 調子に乗った彼は適当に言葉を並べ立て、得意気に胸を張る。

 が、すぐに自分の状況に気付いたようだ。

 

「あれ? てことは拙者、何の意味もなく黙ってたってなる?」

「そうだな」

「須藤殿のピンチにみんな協力していた中、拙者だけが知らんぷり?」

「ああ」

「小生、もしかして……最低?」

「うん」

「…………ゴメンナサイ」

 

 目をうるうるさせ、泣きつくように突っかかってきた。

 

「ホンットに申し訳ありませんでしたあああ!」

 

 ……こんな惨め男には、なりたくないなと密かに誓った。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

7月10日 午後5時17分

生徒会室

 

 

 

 

「そのドローンで一体何が撮影されたのか、お前は確認してあるのか?」

「勿論です。提出します」

 

 佐倉の時と同じようにデータを送信し、プロジェクターによって出力される。

 離陸の瞬間から校庭を俯瞰するところまで、全て早送りすると、やがて特別棟の近くまでたどり着いた。

 

「あれは……」

 

 平田が呟く。映ったのは須藤たち四人の姿だ。ガラスの反射で解りづらいが、判別は出来る程度だった。

 

「よく見えないな」

「大事なのはここじゃない」

 

 須藤のぼやきに返し、オレは更に映像を飛ばす。

 すると唐突に画面が傾いた。風に煽られたのか、ドローンが体勢を大きく崩した瞬間だ。

 そのまま左前方に向かって落下していき、鈍い音と共に動きが止まった。

 

「これでは何もはっきりしないのでは?」

 

 呆れた坂上先生が言う。オレはまたしても薄い笑みで対応した。

 

「言ったはずですよ、事件後の小宮君たちの行動を検証しているんです。映像はここで終わりではありません」

 

 その内、映っていた景色に変化が訪れる。

 花壇の茂みで視界は塞がれているが、確かにCクラスの三人だ。

 

「窓越しに見えた様子では、須藤が階段を降りようとするところでした。そこから今の時点まで、約十分の誤差があります。この不自然な間で柴田君への暴行が起こったと見るべきです。そして、」

 

 カメラの向けられているのは側の建物に沿ったグラウンドの方。つまり、

 

「映っているのは、彼らが特別棟を出て《右》に進んでいる姿です」

「っ……!」

 

 顔色を悪くしていた石崎が歯ぎしりするのが、視界の隅で見えた。

 

「柴田君の証言は正しかった。小宮君たちは自分の行動について嘘を吐いていたのです」

 

 これで一つ、相手の壁を破壊した。

 裁定者の反応は……どうだ。

 

「……」

「…………」

「………………本来なら、『それで?』と言ってやるところだ」

「え」

「まさか彼らが実はケヤキモールに直接向かっていたから有罪だ、などと宣わるわけではあるまい。お前たちが証明したのは、あくまで彼らが病院へ行く際のモーションだ」

 

 あくまで嘘を看破しただけで、今の段階では決定的な矛盾とは言えない。ごもっともだ。

 

「ただ、先程のCクラスの発言を踏まえれば、その意味は大きく異なる」

 

 ――!

 

「診断記録は『寮に戻ってからケヤキモールに向かった』ことの根拠として提出されたが、カメラの映像は明らかにその主張が嘘であると物語っている」

「……っ、そ、それは」

「今回の矛盾点は前回の審議の時点で浮き彫りになっていたはずだ。ただの記憶違いであったなら、今まで告白していなければおかしい」

 

 あくまで第三者の姿勢を維持したまま、生徒会長はCクラスに圧力をかける。

 

「執拗に疑いの目を向けるべきでない立場からしても、お前たちは議論を間違った方向へ誘導しようとしているようにしか見えない。どういう事だ?」

 

 押し黙ってしまう三人。石崎だけが、辛うじて言葉を返す。

 

「で、ですが、もし嘘だったとして、何かが変わりますか?」

「と言うと?」

「俺たちが柴田君を殴ったという証拠はどこにもない! Dクラスはこちらの揚げ足を取って印象操作をしようとしています」

 

 明らかに無理のある主張だ。ただ一点、オレたちが暴行の決定的な証拠を持っていないことは誤魔化せない。

 

「――だそうだが、示せるか? Dクラス」

 

 鋭い視線が、こちらに向けられる。

 

「Cクラスの嘘がどんな意味を持つのか、何を変えるのか。立証することは可能か?」

「問題ありません、生徒会長」

 

 ここで初めて、反響する声。

 

「僕たちには、その疑問の答えを示す用意があります」

 

 穏やかだが芯の通った発言は、平田の口から放たれた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

率証

同日 午後5時15分

学生寮

 

 

 

 昨日と同じように、浅川は寮の外観をじっと見つめていた。

 

「浅川君の答えは、ここなのかい?」

 

 傍らの坂柳理事長が訊いてくる。

 

「間違いありません。――多分。きっと。恐らく」

「自信の程は?」

「20%」

「あはは、それはなかなか」

 

 笑い事にしていい話題か、理事長。

 とは言え20%というのはあくまで科学的な見立てであり、状況証拠や推測を込みで言うなら可能性は非常に高い。

 浅川は無言のまま裏へ回る。まずは茂みを確認。櫛比する木々まで観察するが、何もない。

 次に高く窓を見る。主に二か所――。

 

「……」

「浅川君」

「はい?」

「君はいつも、そんな感じなのかい?」

 

「え、いや、普段よりは硬いですけど」この人は偶に、脈絡の無いことを言う。「それが何か?」

 

「周りの生徒にはもっと明るい?」

「ええ、まあ」

「その心は?」

「心と言われましても」

「ただ良く見られたい、というだけではないだろう?」

 

 動揺は見せなかった。――つもりだが、心臓が飛び跳ねる感覚が走った。

 

「……何を考えているのか知りませんが、詮索し過ぎですよ。本当に初対面なのだとしたら」

「これは失敬。生徒と関わろうとする、教師の悪い癖だ。気を付けるよ」

「無関心よりはマシかと」

 

 部下には少しくらいその癖を移した方がいいのでは?

 ロビーに向かい、端末を開きながらエレベーターに乗る。

 必要なタスクを済ませてから、理事長に改めてお礼を言う。

 

「ご協力感謝します」

「それはこちらの台詞だよ。どのみち学校の代表として立ち会うべきだと思っていたわけだしね」

 

 昨日の調査の後、浅川は理事長に事件の終わる目処が立ったことを告げた。その際彼が立ち会いたいという旨を訴えてきたので、折角ならと役割をお願いすることにしたのだ。

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。元々誰かに頼むつもりでした」

 

 ただ、そもそもこの男が来ること自体は反対だった。他の生徒に頼んだところで理事長が来ることは変わらないと言うのであれば、余計な人員は必要ないという配慮故の承諾だった。

 この先の展開に不安と、諦めが過る。きっと彼は、これからの自分たちの行動について「不自然な点」を必ず追及してくる。ホワイトルームのメンバーなら気を遣って触れないことを期待できたが、理事長がそれを渋る理由はない。

 

「独りでは無理、か。一体どうやって堀北さんを見つけるつもりだい?」

「やってもらうことはシンプルです。鈴音の部屋の前で待機していてください」

「待機? それだけでいいのかな?」

「僕の合図に合わせて突入してください。一つだけ――絶対に音は立てないように」

「――わかったよ」

 

 上昇途中の九階で理事長は降りる。浅川はそのまま残り、十階で降りた。

 迷いない動作で、ある部屋の前まで進む。

 

「…………準備は?」

「できている」

 

 極力抑えられた返事が、通話越しに返ってくる。

 これで恐らく、この事件は解決だ。だが、そうなって欲しくない気持ちがある。もしこの推理が正しかったとしたら――。

 

「……じゃあ早速。3、2、1――」

 

 自分の手元と端末の向こうで、同時に鍵の差し込む音が響く。

 

「突入」

 

 緊張に似合わない金属音。ロックが外された。

 勢いよく室内に飛び込む。

 

「……」

 

 誰もいない。

 理事長に声を投げる。

 

「どうですか?」

「――お見事だよ、浅川君」

 

 返事はすぐだった。

 

「発見した」

 

――――――――――――――――――――――――――

同日 午後5時19分

生徒会室 

 

 

 

「……面白い」

 

 愉悦でも興味でもない、山の如く峻厳とした高見の態度で、生徒会長は言った。

 

「説明してみせろ」

「はい」

 

 平田は丁寧に言葉を並べていく。

 

「Cクラスの証言は虚偽でした。しかし一つだけ、正しかったことがあります。それが――綾小路君がCクラスを追い詰める証拠だとも言っていた――通院の記録です」

 

 相手の嘘がなければ――つまりドローンの映像の内容は、通院記録と矛盾してしまう。ここで大事なのが、生徒会長も語った『証言より証拠の方が信頼できる』という事実。

 つまり、

 

「『Cクラスはケヤキモールに直接向かった』にも関わらず、通院がこれ程までに遅くなった。この不可解な点に気付かれないために、彼らは証拠に沿うように証言を偽ったんです」

 

 答えを示された後なら納得できることだ。病院の処置が必要な怪我を負っている生徒が、たかが登下校に毎度ぶら下げているはずのバッグを寮へ置きに行くだろうか。大きな矛盾も追及材料もなかったために触れられなかったが、明らかに不自然だった。

 

「ほう……では、当然示せるのだな?」

「示す、ですか?」

「Cクラスは事実と証拠の矛盾に気付き、隠そうとした。そこには何か事情が存在していたはずだ。それを示せない限り、お前の答えは妄誕でしかないぞ」

 

 いかにも最もらしい考察だが、さすがに曖昧過ぎる。陰謀論に近い糾弾だろう。

 しかしこれも、既にロジックは構築済みだ。

 

「思い出してください。通院記録と証言の矛盾は『二つ』あったはずです。一つは通院時間、もう一つは、『怪我の重さ』です」

「怪我の重さ……柴田の証言か」

 

 会長の相槌が入る。

 

「暴力事件の時点ではそこまで酷い怪我ではなかった。そして診察の頃には今のような目立った傷が散見されている。これは事件発生から通院までの間に大きな怪我を新たに受けたと考えるのが自然でしょう」

「新しく、ですって? 一体どこでそんな……」

「決まっています。僕らが度々主張している、Cクラスによる策謀です。須藤君の暴行を誇張するために」

 

 質問を零した坂上先生の目が見開く。Cクラスは暴力的なクラスとして有名だ。恐らく事件のことを耳にした際に何かしら企みがあることは察しているはず。さすがに現場にいたなら止める義務を課せられていただろうが、そうでないなら態と気付かないでいることは罪ではない。

 

「過剰な暴力の証拠を捏造する。その時間によって、通院には不自然な遅延が生まれた。これを隠蔽するために、Cクラスには別の口実が必要だったのです」

 

 正直この点は運が良かった。もしCクラスが初めからケヤキモールで時間を消費していたと証言していれば、不自然さは残っていてもドローン映像との致命的な矛盾を指摘できず、ここまで話を持っていけなかった。

 ただ、三人の証言がこの形になるのは必然に近かったはずだ。偽装が行われた場所にいたことを認めるのは、心理的に避けがちになる。

 また、怪我の捏造が想定の内外問わず、石崎たちの証言は『事件当時』作られた。一方それに反発する柴田の訴えは『審議中』に突如起こったものだ。石崎たちの証言が用意されたものであるなら、統率者の統制・修正が効きないタイミング。その誤算が柔軟性を失わせ、証言を脆くした。

 

「……Cクラス、今のDクラスの主張を、お前たちは認めるか?」

 

 一瞬宣告とも聞き間違えてしまうような重い言葉に、三人はたじろぐ。

 論理的な考察だ。反論を述べるのは難しい。だが――

 

「い、いえ! 認めません」

 

 ここを譲ったら負けであることくらい、直感できるはずだ。

 ……どう出る。

 

「何か反論が?」

「は、はい。そもそも、柴田君の証言が正しいとは言い切れないと思います」

「なっ、嘘を吐いたのは小宮君たち――」

「確かに俺たちが嘘の証言を挟んでしまったことは認めます。でも暴力を振るわれたことや診察に行ったことについては正直に話しました。柴田君も、本当と嘘を混ぜているかもしれません」

 

 痛いところを突いてきた。

 ロジックはあるものの、要素が弱い。平田の語ってきたことはほとんどが推測の域を出ず、肝心な根拠もこちら側に有利であることが明白な柴田の証言くらいだ。その一部が嘘である可能性を示唆されてしまえば、当然正しいと確定できる証拠が必要になってくる。

 

「どうだ、Dクラス。柴田の『本来の怪我が軽かった』という証言、正しいと証明できるか?」

「それは…………綾小路君」

 

 勢いの止まってしまった平田が、頼みの綱と言わんばかりにオレの方を見る。

 想定していないわけではなかった。しかし、提示できる証拠に心当たりがない。

 客観的な事実だけでは、須藤の暴行の結果が目の前の三人の状況だと捉えるのが自然だ。それを打開する証拠か、完全な第三者の証言が必要になる。

 柴田の証言の正当性、あるいはCクラスの捏造。オレに証明できるのか?

 ………………いや、違う。

 

「勿論です。生徒会長」

 

 できるかどうかじゃない。証明するんだ。 

 

「Cクラスの怪我は捏造されたものであり、本来は全く大したものではなかった」

 

 みんなの努力を、無駄にしないために。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「Dクラスには、それを決定的に証明する用意があります」

 

 僅かな手がかりも見逃すな。

 きっとあるはずだ。反撃の一手が。

 

 生徒会長にはああ言われたが、『傷が浅かったことを示す証拠』は既に求め尽くしている。一番期待していたのはドローン映像だ。傷の浅い三人の姿が映っていれば簡単だったが、誰も気づかなかったくらいだ。植物に隠れて、捉えることは叶わなかった。

 そもそも浅い傷というもの自体が、念入りな捏造によって隠されてしまっている。これはBクラスが介入する以前、須藤の事件のみが認知されていた初期段階で計画されていたはずだ。一層抜かりはないだろう。

 ならどうすればいいか。……決まっている、発想を『逆転』するんだ。

『捏造によって消された事実』じゃない、『()()()()()()()()()()()()』を考えろ。

 隠蔽で生じたロジックの綻びが、必ずどこかにあるはずだ。

 

「では、Dクラスに回答を求める。――須藤によって小宮らに与えられた傷が、本来は軽いものであった証拠は?」

「それは、…………」

 

 これまで明らかになった怪我に関するあらゆる情報を早急に整理する。

 刹那の熟考の末、オレは一つの答えにたどり着いた。完全に想定外だった可能性に。

 口にする直前、心の中で呟く。

 ――ありがとな、()。お前のおかげで繋がった。

 

「それは、『柚原医師の証言』です」

「フフッ、何を今更。既にそれについての議論は――」

「当然、通院時刻の話ではありません」

 

 生徒会長を一瞥する。続けろ、と、リアクションが返って来た。

 

「坂上先生の言う通り、通院時刻の問題は先日疑問点に挙がっていました。なので勿論、オレたちも柚原さんに話を伺いました。これはその時に録音した音声です」

 

 オレは自分の端末を取り出し、音量を最大にしてデータを流した。

 

 

『柚原さん。そういうことですので、傷のことについてもう少し詳しくお願いします』

『詳しくと言われましても……』

『部位に偏りがあったとか、殴られた以外の傷があったとか、何でもいいです』

『…………大体全身に渡ってでしたよ。ガーゼに血がよく染み込んでいましたし、私の見落としと言うわけでもなければ全部人の拳や脚で打撃を受けたものだったと思います』

 

 

「――ここに、()()()()()()()()()()()()()()()()が記録されています」

 

 オレは突拍子もなく、ニヒルに笑った。

 

「肝心なのは、『ガーゼに血がよく染み込んでいた』という部分です」

「ど、どういうことだ。訳がわからな」

 

「あ……」石崎が虚勢で言い放とうとしたところで、平田が思わず声を上げる。「あああぁぁぁ……!」

 

「どうしたんだよ平田」

「そうか……これなら!」

 

 こちらの立場で考えたおかげだろうか。彼は気づいたようだ。

 オレは説明に戻る。

 

「ガーゼに血が染みこんだ。つまり、『診察の時点で血は全く乾いていなかった』ということになります」

「あ……! ま、まさか……」

「傷は診察の直前に出来たばかりのものだった。――重い怪我と言っても所詮は打撲の傷です。歩行が困難なわけでもない怪我の血が、一時間半経ってもガーゼに染みこむことはあり得ません」

 

 ただ血液が付着するのとはわけが違う。医師が態々取り挙げてまで『染み込んでいた』と表現したのだ。流血が止まっていなかったからだと考えられる。何より、後で本人に改めて証言を求めればはっきりと真実を告げてくれるはずだ。

 

「あなたたちは暴力事件の後ケヤキモールの方へ向かい、そこで怪我の捏造を図った。しかし」

 

 Cクラスを半ば睨むようにして、オレは言う。

 

「浅い傷を隠した結果、重いどころか致命的な傷を作ってしまったのです。こちらの主張を決定的に立証する証拠を」

 

 圧力にたじろぐ三人。石崎は悔しそうに「クソ」と吐き捨てている。

 

「いかがですか、生徒会長」

 

 視線を動かすと、彼は静かに指を組んだ。

 

「……なるほど。確かにそれは、『Cクラスは怪我を誇張した』証拠と認めるに十分なようだ」

「そうでしょう」

「これで晴れて、柴田の証言の正当性が示されたと」

「その通りです」

「それで?」

「――え」

 

 思わず間抜けな声が漏れてしまった。

 

「お前たちは必死に証明してくれたわけだ。暴力事件より後に関する、Cクラス側の矛盾を」

「……はい」

「しかしそれが、須藤の無実と同意義にはならない。ということは理解しているな?」

「…………」

 

 言葉に詰まる。危機を察した平田が、苦し紛れに口を開いた。

 

「で、ですが、今回の立証は須藤君が暴力を振るわなかった可能性も示唆したことになります。なら処罰は――」

「重大な争点を見落としているな、平田。今までの議論において、『須藤とCクラスのみの空間で何が起こったか』という問いに明確な答えは出ていない」

「……っ、どういうことですか」

「Cクラスが捏造を行う前の状態がどれほどのものかがわからなければ正確な判断は難しい。『須藤による怪我の程度が今の状態に限りなく近い可能性』も否定できない限り、やはり重い処罰は免れないぞ」

 

 要は、最初の状況からほとんど変わっていないということだ。……若干相手側に肩入れしているような気もするが。

 須藤の与えた怪我が『存在しない可能性』と『今とほぼ変わらない可能性』が両立しているなら、結局堂々巡り。最後に物を言うのが当初の被害者側の証言となってしまう。須藤を救うことは、できない。

 

「捏造の事実は証明されたと判断し、Cクラス側の処罰を重くすることにはなるだろうが、須藤への処罰の軽減は期待しないことだな」

「そんなっ」

 

 平田が絶望の表情を浮かべる。隣の須藤もさすがに限界を悟ったようで、少し俯いてしまった。

 だが、二人だけだ。

 

「……」

 

 生徒会長と、茶柱先生の視線。どちらも似た感情を、こちらに向けている。

 ――まだ終わりではないのだろう? と。

 ……あまり期待されるというのも、慣れるものではないな。

 

「一つだけいいでしょうか、生徒会長」

 

 溜息を挟み、オレは展開を動かす一声をあげる。

 

「何だ」

「Dクラスは、今回の立証には重要な意味があると確信しています」

 

 止まることは許されない。進むしかない。

 Cクラスが捏造を行ったと示されたことで、追及できるようになったことがあるはずだ。

 

「発覚したCクラスの捏造。これによって新たな問題が生まれたはずです」

「新たな問題? 一体何のことだ」

 

 癇に障る問いだ、この男は既にいくつか気付いているはずなのに。本当に聞いているのは、どの問題のことなのかだろう。

 捏造するまでの経緯? 捏造する時の状況? 捏造を主導した人物? 捏造されたタイミング? どれも違う。正解は、

 

「追及すべきなのは、一体『どこ』で捏造が行われたのかです」

「場所だと?」

「診察時の様子から考えると、捏造が行われたのはケヤキモールのどこかです。Cクラスの捏造を疑っていたDクラスは、事前にケヤキモールの全域を範囲に聞き込みを行ってきました」

「その答えに、重要な意味があると?」

「はい」

 

 石崎たち三人が暴走してこの事件を引き起こしたわけがない。暴力的かつ密かに統率されているような動きをするCクラスが組織的に計画を企てた。不足の事態にも捏造という形で臨機応変に立ち回ったことを考えると、どこかに人目に触れない拠点を構えていたはずだ。

 

「捏造の場所――お前にはそれが示せると言うのだな?」

 

 ここは重要なポイントだ

 オレは確かに、捏造が行われた場所を知っている。そしてそれこそが、この状況を逆転させ、一気に勝利を手繰り寄せる最後の一手になるはずだ。

 間違えなければ、オレたちの勝ち――。

 

「………………いいえ」

 

 オレの返答に、威風堂々たる裁定者の瞳に初めて動揺が走った。

 

「Dクラスは、捏造が行われた場所の立証を拒否します」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

勝離

同日 午後5時21分

???の部屋

 

 

 

「発見した」

 

 短い朗報を聞き、安堵の息が漏れる。

 しかしそれも束の間。浅川は慌てて思考を切り替え、即座に窓を覗く。

 もし予想通りならば――。

 

「……! いたっ」

 

 直下に見えた人影、五点着地を取りそのまま裏の雑木林に逃げ込んだ。

 

「――っ」

 

 最短ルートはこの窓から飛び降りることだが、ここは十階だ。普通ならエレベーターか階段を使う。

 だがそれでは、確実に相手を見失ってしまう。

 

「……やるしかない」

 

 迷う時間は少なかった。

 浅川は躊躇いなく窓枠から乗り出し壁を正面に垂直落下。各階の窓枠に指を掛け、勢いを適度に和らげながら降りていく。

 

「っし」

 

 じんわりと痛む十指を労う。

 地面に着いた頃にはかなり対象は遠のいてしまったが、幹の間に何とか姿は捉えている。当然全速力で追跡だ。

 

「待てっ!」

 

 聞くわけないとわかってはいるが、思わず怒声が飛び出る。

 距離の問題だけでなく、ちゃっかり扮装――監視カメラに映っていた姿――をしているため細部が確認できない。測れるのは背丈くらいだ。

 ……段々と、離されていく。こちらは落下に体力を使っているせいで尚更持たない。

 さらに、

 

「なっ――!」

 

 足元に違和感を感じ、咄嗟に後方へ跳躍。若干脚に負担が掛かったが息災だ。

 態勢を整え前を見ると、木にセットされていた網がにわかに土を掬い上げていた。これまた、古典的な罠だ。

 ただしそれは後になって気付いたことで、当の浅川は間髪入れず再び走り出す。同じ轍を恐れ、少々迂回した。

 その結果だろうか。そうしなくとも、いずれこうなっていたかもしれない。

 やっと木々の地帯を抜け細道に出た時には、もう人の姿は見えなくなっていた。

 

「……クソッ」

 

 気に入らない結末に舌打ちが零れる。

 相手の用意周到さったらなかった。まさか自分が追われる可能性まで想定していたとは。あの罠がその証拠だ。何より、先行したが向こうだとはいえ、まんまと望ましい追跡ルートに導かれていたのが腹立たしい。

 

「――浅川君」

 

 ほんの少し冷静さが戻ると、通話が繋ぎっぱなしだったことに気付く。

 

「大丈夫かい? 怪我は?」

「特には。……犯人を追っていました。けど逃げられた」

「そう、か。それは残念だ。でもとりあえず、怪我がないなら戻ってきてもらってもいいかな? 今は堀北さんが無事に見つかったことを喜ぶことにしよう」

「……そうですね」

 

 現状と、これからを憂い、どうしても気分が下がる。

 

「それと――――少し聞きたいこともあるからね」

「…………ええ、僕もです」

 

 さあ、まだまだ気は抜けないぞ。

 

―――――――――――――――――――――――――

同日 午後5時25分

生徒会室

 

 

 

 しんと静まり返る室内。

 その原因が、オレの発言であることは明らかだった。

 

「……それは、お前の抵抗はここまでだ、という認識でいいのか?」

「Dクラスには、提出できる証拠品はありません」

 

 平田と須藤、Cクラスの三人までもがどよめいている。

 

「そうか。ならこれ以上の議論の余地はない。現時点における生徒会の判決を――」

「待ってください」

 

 生徒会長を見る。彼も、オレを見た。意図を察し、わずかに口角を上げるのが垣間見える。

 ――誰が、いつ、終わりだと言った?

 

「最後の審判の前に、少しだけ時間をいただけませんか。一つだけ見てもらいたい証拠品があります」

「時間だと? 先程は提出できる証拠品はないと言っていたが」

「それはあなた方裁定者に対する言葉です」

 

 これは審議という空間では意味のなさない攻め手だ。だから、それとは無縁の時間を作る必要がある。

 

「俺たちの干渉を挟まず、誰かにそれを提示したいと?」

「はい。それで、この事件は必ず終わると約束します」

 

 固唾をのんで答えを待つ。

 瞬きも忘れていたことに気づいたところで、ようやく訪れた。

 

「……わかった。ただし」

「ただし?」

()()()()だ。それでお前の言う結果にならなければ、即座に審議を終了する」

 

 一度だけ……か。

 

「十分過ぎる猶予です。ありがとうございます」

 

 問題ない。必要な手番は一手だ。 

 

「では、Dクラス。お前たちに一度だけ、我々以外の人間に証拠の提示の権利を与える」

 

 さあ、一週間を超える長い戦いも、ついに終着点だ。

 また一つ――今回は予期せぬ舞台だったが――フィナーレに辿り着く。

 

「――石崎」

「……!」

「小宮、近藤。お前たちに見てもらいたいデータがあるんだ」

 

 もはや誰もが予感していたはずだ。ここまできて、この三人以外に攻撃対象はあり得ない。

 オレは自分の席を離れ、Cクラスの方へ向かう。

 坂上先生にも見えないように気をつけつつ、三人に端末の画面を見せた。

 それを見た、彼らの反応は、

 

「な…………に……っ!」

 

 期待通りだ。

 予定調和だった最後の切り札。それは、()()()()()()()()()()()()だ。放課後になってすぐからちょうど石崎たちが通院していた時間帯まで、Cクラスの生徒の名義で大人数が入店していたことが記録されている。

 本来なら偽名で素性を隠すことなど造作もないはずだが、この学校の最たる特色、Sシステムによって、支払いは全て学生証カードを通じたポイントで行われる。強制的に疑いようのない足跡が刻まれるということだ。

 まさか胡散臭いだの面倒だのと非難されていたものが、こんなところで味方になるとは。つくづく、運命というものは恐ろしい。

 

「ここがお前たちの怪我が捏造された場所。そうだろう?」

「……っ、だ、だったらどうして、それを生徒会長に見せない……?」

「質問しているのはこっちだ。どうなんだ?」

「…………さあな。クラスで騒ぎたかっただけだろ」

 

 あくまで認めない気のようだ。想定内ではあるが、そもそもコイツの是非などどうでもいい。オレが『知っている』という事実を認識してさえもらえれば、それで。

 

「まあいい。お前がどう答えようと、オレはこの答えに確信を持っている。――オレがこれを提出しなかったのは、お前たちを助けるためだよ」

「な、なん、だと……?」

 

 これにはDクラス側にも戸惑いが見られた。表面的には不可思議に聞こえるか。茶柱先生は興味深げに耳を傾けている。あの様子では、まだ真意は察していないようだ。

 

「どういう、ことだ……」

「仮に捏造の場所が立証されたとしよう。そうしたらオレは、次に『本当にそれだけだったのか』を追究する」

「……」

「この審議が、まだお前たちがCクラス全体で策を巡らせたことは証明されていないからこそ、拮抗していることは理解しているな?」

 

 審議において、今は石崎たち三人と須藤、柴田の個人的な揉め事という扱いになっている。故に、須藤の方が重い処罰を課せられるというのが大まかな結論となってしまっている。

 

「もし、他に関係者がいたら? そしてそれが悪意を持ったCクラス全体だと明るみになったら? この均衡は当然崩れる。お前たちは甚大な被害を受けることになるぞ」

「だから、助けよう、って……?」

 

 オレははっきりと頷いた。

 

「は、ハッタリだ! お前がそんなことまで知っているわけが……」

「それを吟味できる猶予は残されていない。お前たちの目的は須藤を陥れることだったはずだ。お前の独断で選択を誤れば、致命的な事実が立証され、処罰の重さは逆転する。結果的にCクラスの方がより重いペナルティを背負い、その責任は全てお前に回る。――お前の『王』が、黙ってないぞ?」

「――っ!」

 

 Cクラスの独裁政治、利用させてもらう。徹底的に石崎の精神を追い詰めるんだ。

 

「負けが込むのは目に見えている。何を渋る必要があるんだ」

「……っ、嘘だ。あの部屋でどんなことが起きてたかなんて、お前に知りようがない」

 

 どうやらまだ認めたくないらしい。こればかりは見上げた根性、いや、忠誠心だ。

 しかしオレたちは、それさえも捻じ伏せる理屈を用意している。

 

「少年が、一人」

「え……」

「入ってきたろう。確か、お前たちが失敗を報告してすぐだったな?」

「ま、待て。何で……」

「そしてCクラスは龍園の指示でそいつを――」

「ヤメロォ!」

 

 ダンッ! と、大きな物音が反響する。呼吸を荒げ肩を震わせる石崎が、動揺を露わに机を叩いた。

 

「……答えを、聞かせてもらおうか」

「……」

「……」

「…………どう、すればいい」

「どう、とは?」

「どうすれば、俺たちは助かる……」

 

 オレは、誰にも悟られることなく静かに笑った。

 ふてぶてしさなどない。ただ美酒に酔いしれる無邪気な子供の如く、嗤った。

 ――勝った。

 

「お前たちの立つ瀬がなくなる要因は、陥れた相手よりも大きな損失を被ることだ。それを帳消しにすればいい」

「なんだって……?」

「全部なかったことにするんだよ。これはお前たちだけが持っている『権利』だ」

 

 オレは淡々と告げた。

 

「訴えを取り下げれば、最悪の結果は避けられる」

「取り、下げ……」

「安心しろ。オレたちから何か反撃しようとは考えていない。全て、この事件が起こる前に逆戻りするだけだ」

 

 歯噛みし思案する石崎。無論わかっているのだろう、自分たちは負けたのだと。だが無駄なことだ。今の時点で、彼の頭の中には『取り下げ』こそが最適解だという思考が延々とこびり付いている。

 

「………………わかった」

 

 力の抜けた声だった。

 

「俺たちは、今回の訴えを取り下げる」

 

 決定的な一言が、全員の耳に届いた。

 

「――以上です。生徒会長」

 

 水を打つ静けさは長らく続いた。怒涛の展開に場全体が置いてきぼりな感覚。

 この雰囲気を破るのは、いつだってこの男だ。

 

「……改めて確認しよう。小宮、近藤、石崎、お前たちは今回の須藤への訴えを取り下げるのだな?」

「はい……」

「了解した」

 

 眼鏡を押し上げ、生徒会長は柴田を見る。

 

「お前はどうする?」

「え?」

「あくまで取り消されたのは小宮たちの訴訟だ。お前が三人に暴行を受けたということのみを審議することは可能だが」

 

 意地悪な質問だ。当然、目的が達成された柴田の返答はノーだ。

 

「元々訴えるつもりはなかったんで。向こうが嘘を引っ込めたのなら、とやかく言うつもりはありません。俺も訴えを取り下げます」

「……そうか」

 

 厳格な面持ちのまま、生徒会長は一瞬考える素振りを見せた後、堂々たる口調で言った。

 

「本校の審議において大変稀な例ではあるが、元の原告側の意思は尊重しなければならないだろう。――須藤によるものと目された暴行事件、小宮ら三人によるものと目された暴行事件、どちらも原告側の訴え取り下げにより、本審議の全てを『無効』とする」

 

「以上だ」という合図とともに、空気が揺れた。

 

「つ、つまりどういうことだ?」

「須藤君には何も処罰が課せられなくなったってことだよ」

「え、じゃあ、俺はまたすぐにバスケをやれんのか?」

「それどころか、メンバーとして出ることにもプロの道を目指すことにも、一切支障がなくなったんだ」

「マジかよ。……良かった、本当に良かったぜ……」

 

 大袈裟に喜ぶでもなく、感無量といった感じに、須藤は安堵する。

 すると今度は、別の方向からオレに声が掛かる。

 

「一体、何をしたのですか……綾小路君」

「オレは須藤を信じて、最後まで抗っただけですよ、これはその結果。三人は自分たちの意思でこの選択を取ったんです」

 

 相応の時間はちゃんと裁定者から賜った。その上で脅し文句は一切使っていない。規約の範囲で事実に触れたところ、向こうが自ら訴えを取り下げた、それだけだ。

 

「信じる、ですって? どう見ても彼は――」

「お言葉ですが、坂上先生。綾小路も須藤も、私が受け持つ生徒です。入学時点では兎も角、この短期間で彼らは大きく成長していると、私は感じています。――舐めてもらっては困る」

 

 勝ち誇るものだと思っていたが……妙に真面目くさった表情で、茶柱先生は言い放った。どこまでが本心なのかは、定かではないな。

 

「本日は解散だ。話が済んだなら、速やかにこの場を去れ」

 

 痺れを切らした生徒会長の鶴の一声で、ようやくみんな外へと動き始めた。

 

 

 

 

 

同日 午後5時32分

生徒会室前

 

 

 

「マジで助かったぜ、ありがとよ綾小路!」

 

 緊張が解けて早速、爽やかな笑顔で須藤は謝辞を述べた。

 

「オレだけで勝ち取った勝利じゃないぞ。平田も、池も山内も、みんながいたから掴み取れた結末だ」

「わかってる。池と山内もありがとな。平田まで俺のために頑張ってくれて――今まで酷えこと言ったりして、悪かった」

「気にすんなよ。無事で何よりだって」

「こりゃ何かの形で恩返ししてもらわないとな!」

「良いんだ。本当におめでとう、須藤君」

 

 もしかしたら仲間を立てるために言ったことだと思われているかもしれないが、オレは本当にこいつらに助けられた。独りでは決して、勝つことはできなかった。

 オレだけでは、できないことがたくさんあった――。

 沖谷と櫛田も輪に加わり、祝いを分かち合う会話に興じているのを、オレは遠巻きに眺めていた。

 

「綾小路」

「先生……?」

 

 背後からの呼びかけに振り向くと、神妙な顔の茶柱先生だった。

 

「堀北が見つかった」

「――!」

「意識はあるようだが、私は至急そちらに向かう。お前にも知ってもらっておこうと思い連絡した次第だ」

 

 そうか……お前もやったんだな、恭介。これで何とか、二つの事件は結果的に最高の形で幕を下ろせたようだ。

 残りは、一つか……。

 茶柱先生は数少ない事情を知る者の一人だ。担任たるもの、知らないわけにはいかなかったろう。

 そんな彼女はそそくさと出て行こうとするが――途中で足を止めた。

 

「まだ何か?」

「……」

「……?」

「…………よくやったな」

 

 え。

 呆然としている間に、その姿は見えなくなった。

 

「……参ったな」

 

 いい歳してデレるとか、どこ需要だよ……ソレ。

 でも、悔しいような嬉しいような、悪くないと思う自分がいる。

 きっと、あの人なりに思うところはちゃんとあったのだろう。だからこそ、今の言葉が出た。そう信じることにした。

 

「おーう綾小路」

「池?」

「この後さ、みんなで祝勝会やろうって話が出たんだ。お前どうする? 浅川と堀北も誘ってさ」

 

 彼の提案にみんなの方を見ると、各々優しい顔で返事を待っていた。

 嗚呼、何だか温かい……まるであるべき家族のような……。

 

「わかった。勿論行くよ。恭介と鈴音にも聞いてみる」

「よしきた! じゃあ早速――」

「ああちょっと、悪い。オレは今から生徒会長に挨拶に行こうと思っていてな。合流するから、先に行っててくれ」

「この前も知り合いって感じだったよね? いつのまに仲良くなったの?」

「ある時巡り合わせで勉強を教えてもらう機会があって、それ以来会えば話すくらいの関係になったんだよ」

「ならしょうがないね。僕たちは先に行って待っていようか」

 

 平田の号令でぞろぞろとDクラスの面々は退去していく。

 ひとしきりその様を見届け、オレは振り向いた。

 

「随分と溶け込んでいるようだな」

「とびきりの青春を謳歌しています。羨ましいですか?」

「どうだろうな」

 

 あれ、否定しないのか。

 

「見事な手腕だった、と言わせてもらおう」

「お褒めに預かり光栄です」

 

 手腕、か。オレが披露したショーのことを言っているのか、あるいは、

 

「お前たちの信頼関係も、伊達ではないな」

「どういうことですか?」

「示し合わせなどせずともこの連携。正直、驚いた」

 

 どうやら彼には、根拠のない確信があるようだ。

 

「お前たちは()()()()()()()()()()戦いに勝利した。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。違うか?」

 

 本当のことを言うと、オレが認識している事実は大差ない。しかし、オレもまた同じ確信を抱いていた。

 

「ええ、その通りです。オレたちは『嘘』の事件を立証しました」

 

―――――――――――――――――――――――――

同日 午後5時33分

堀北鈴音の部屋

 

 

 

「鈴音!」

 

 部屋に入るなり、顔色の悪くし寝そべる堀北の姿が視界に映る。

 

「……あさ、がわくんっ」

「無理に喋っちゃダメ。――食べて、元気が出る」

 

 ポケットからチョコの小包を取り出し、中身を堀北の口に突っ込む。ゆっくりだが、咀嚼はしてくれているようだ。

 

「食事を摂ることはほとんどなかったそうだ。生命維持のために一度だけ、『お粥』を口にした程度」

「お粥を……発見時の状態は?」

「四肢は当然がんじがらめ。関節につっかえ棒を当てられていて、藻掻くこともままらなかったろうね。ガムテープと紙袋で、防音の室内から叫びが漏れることもなかった」

「体力を消耗して以降は更に抵抗の余地が、ってわけですね」

 

 理事長は頷く。

 

「君が犯人を追跡している間に、病院と茶柱先生に連絡を入れておいた。茶柱先生は至急来るそうだ」

 

 自分が着いた時には、既に必要な処置は施された後だったようだ。水分も、発見早々補給させたらしい。

 

「……なら、今僕らにできることはありませんね。待つだけだ」

「そうだね。――ただ、手持ち無沙汰にしているのも忍びない。一体如何にして君がこの『解決策』に至ったのか、説明してもらえるかい?」

 

 予想通りの展開だ。嘘は……つくわけにはいかない。

 代わりに、皮肉が零れる。

 

「何故既に『わかっている』はずのあなたに、説明する必要が?」

「何のことかな?」

「鈴音がもし致命的な状態になっていれば、あなたは……!」

 

「落ち着きなさい。浅川君」こちらが頭に血が上っていることを察してか、理事長は努めて穏やかな声音だ。「あくまで事実の確認のためだよ。だから、教えてほしい」

 

「……わかりました」

 

 極論、拒否する明確な理由はない。

 堀北の容態を、理事長と憂慮の目線で見つめつつ、浅川は解明の経緯を語り始めた。

 

――――――――――――――――――――――――――――― 

同日 午後5時34分

ケヤキモール

 

 

 

 滔々と滾る血脈を感じながら、佐倉は歩く。

 極度の緊張が押し寄せるが、大丈夫だと言い聞かせる。これは兼ねてより彼が教えてくれていたコツだった。

 人混みの中であることが幸いし、何とか気持ちを落ち着かせられている。

 そんな折、ついに見つけた。

 

「……っ」

 

 思わず息を飲む。足が竦む。冷や汗が滲む。

 でも……逃げちゃ、ダメ。

 

「あの……!」

 

 邂逅の時だ。最後の事件が決着する。

 敵は、酷く気味の悪い邪悪な笑顔で返事をした。

 

「やっと会えたね。雫ちゃん」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

悔答

tipsの一人称視点、平田のを別の章にして他の人のに変えるか、2話に減らして二人描くかするかもしれません。
*結構加筆修正しました。


同日 午後5時36分

堀北鈴音の部屋

 

 

 

「やはり今回の事件で最も目立っていた謎は、犯人はどうやって監視カメラに映らず鈴音の部屋に侵入したのかです」

 

 たった一人のオーディエンスへ向けて、浅川は自分の見解を披露する。

 

「玄関から入ったのはあり得ない。通気口も人が通れるサイズではない。床、壁、天井に隠し扉のようなものは、健と探した時に発見されなかった。であれば、可能性は一つしか残りません」

「それは、『寮の裏』。つまり、」

「『窓』です。犯人は窓を出入口に使った。――そうだろう?」

 

 堀北に目線を送ると、小さく首肯が返ってきた。

 

「他の部屋と見比べて、鈴音の部屋の()()()()()()()()()()()()()。足を乗せた証拠です」

「となると――()()()()()()()()()()だね。窓の鍵が掛かっていないことを不自然にさせないためだったわけだ」

 

 さすが理事長。鋭い思考力だ。浅川も同じ認識だった。

 

「しかしね、浅川君。重大な問題が生まれてしまうよ」

「問題……」

「あまりに確実性に欠ける。堀北さんが窓を開けるタイミングを見計らうのは至難の業だ」

 

 この方法は堀北が窓を開けていることを確信できなければ成立しない。浅川もだからこそ、最後まで結論を渋った。窓以外に侵入経路がありえないという確信がなければ、切り捨ててしまっていたかもしれない可能性だ。

 

「なら、鈴音が窓を開けるように仕込めばいい」

「どういうことかな?」

「それは本人に確認してみましょう」

 

 浅川は再び堀北に訊く。

 

「君は事件直前、清隆を待っている時にポストに手紙が届いているのを見つけた。そこには急用と称して健の暴力事件について書かれていた。違う?」

 

 頷いた。

 ポストが開いていたのは、堀北が気付き疑問のまま手紙を確認するよう仕向けるためだ。

 

「だから君は真っ先に自分の部屋へ向かったわけだが……その時窓は開けたかい? あるいは、()()()()()()?」

 

 これも頷いた。

 

「じゃあ次だ。――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 理事長がわずかに眉を動かす。一方の堀北は――今回も頷いた。

 

「これが答えです、理事長。鈴音は自分の意思で窓を開けた。犯人はそれをわかっていたから実行したんです」

 

 エアコンが不調だからだとか、外出中に熱気がこもってしまうだとか、理由はいくらでも添えられる。違和感を与えることなく相手に窓を開けさせるには、これしか方法がない。

 痕跡を残さない手腕は見事だが、おかげでその方法はかなり幅が狭いため、推測しやすかった。

 やはり、今回のアプローチは正解だった。

 

「なら、別の問題についてはどうかな。堀北さんの部屋は一度椎名さんが確認している。まさか彼女が犯行に加担していると言うわけではないだろうね?」

「勿論です。僕らがここに入った時も姿はなかったわけですから」

 

 これについては、答えを出すのは難しくない。

 

「……正直、あの時は僕が指示を誤りました」

「と言うと?」

「犯人の部屋は十階でした。犯人は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、僕らの捜索から逃れたんです」

 

 九階も十階も椎名の捜索対象だった。彼女が片方の部屋を覗いて、移動を始めてから行動を開始すれば可能だ。

 尤も、そうならない可能性があったにも関わらずその手段を取ったということは、万一別々の人間が捜索したところで不足はなかったのだろう。屋上に上がるなりすればいいのだから。

 

「待ちなさい。君は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、そう言いたいのかい?」

「他に可能性はありません」

「無理が過ぎるんじゃないかな?」

 

 確かに身体的には須藤をも上回る能力がなければ難しい。あるにしても、人には恐怖心というものがある。それらをクリアして実行することは……。

 

「僕が犯人を追跡する際、犯人は壁面に捕まっていました。ギリギリまで鈴音を担いでいたからこそ生まれた状況です。おまけに見つかったとわかった瞬間、即座に飛び降りていた」

 

 事実はそこにある。犯人がその行動を取れたことは確かだ。

 

「他に質問は?」

「君がそこまで、自分の仮説を信じられた理由はなんだい? 辻褄は合っているとはいえ、見つからない可能性は十分にあった」

 

 再三言うが、決定的な証拠はどこにもない。窓の埃も、ただ堀北がマメに掃除していただけとも捉えることができる。

 そんな中どうやって、答えに確信を持てたのか。

 

「手掛かりは少なかった。だから僕は、()()()()()()()()()()()ではなく()()()使()()()()()()を探しました」

 

 残っている手掛かりがないのなら、消された手掛かりを浮き彫りにする。発想を『逆転』させたのだ。

 

「ここ一週間のロビーの監視カメラ映像を全て、確認しました」

 

 初めて理事長が動揺を見せる。それがどれだけ精神的負担を強いられるのか、想像できたからだろう。

 浅川は半ば徹夜で、食事や睡眠も忘れ、昨日独りになってからずっと映像と向き合っていた。そうして見つけたのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を。だから確信できた。犯人は事件よりずっと前から仕込みをし、堀北の行動を操作していたのだと。

 おかげで検証を終えたのは午前三時頃、大変眠い。そういえば、ついでに須藤たち生徒三人と茶柱先生が事情を把握していることを綾小路に送信しておいたが、確認してもらえているだろうか。

 

「君は……本当に無茶をする」

「体が凝りに凝ってますよ。あ、マッサージしてもらっても?」

「――後でね」

 

 言質は取った。内心ガッツポーズ。

 恐らく次に訪れるであろう瞬間のことを考えれば、これくらいの報酬はあってもいいはずだ。

 

「最後に、一つだけ聞いてもいいかな?」

 

 ほらきた。

 理事長はあっけらかんとした声と表情で、浅川に問いかける。

 

「君は、本当は犯人が誰なのかを知っているんじゃないかい?」

 

 場に沈黙をもたらす一言。しかし、狼狽えるロールの人間はここにはいない。精々意識の曖昧な堀北が顔に出せない驚きを感じているくらいだ。

 

「……どうして、そうお思いに?」

「君の推理には違和感がある。君はなぜ、さっき犯人の部屋にあがれた?」

「……」

「確かに学生寮の部屋の合鍵は、至極簡単に作れるようにはなっている。でも、最低限の要求はされるわけだよ」

 

 単なる興味なのか、彼に敵意はない。

 

「『名前』くらいは、知っていないといけない」

「……言う必要がなかったんですよ。事件解決のため、真上にいる住む生徒の部屋の合鍵をお願いしたら――」

「いいや。真上の生徒でなくとも、君の仮定した犯人像ならいくらでも窓を伝うことはできてしまう。そうだね、堀北さんと隣接している部屋ならどこでもできたんじゃないかな」

 

 申し訳程度の反論も当然潰される。

 

「君は誰が犯人かを知っていたからこそ、どの部屋に入るべきかがわかった。――教えてもらおうか」

 

 有無を言わさぬ物言いだ。しかしこちらとて、簡単に屈するわけにはいかない。

 

「焦りすぎですね。偶々そう気付かなかっただけですよ。僕は犯人は真上の生徒だと勝手に決め付けていた。いやー危なかった。あなたの言う通り、他の部屋の可能性もあったんですね」

 

 実際浅川が管理人に求めたのは「堀北の真上に住む生徒の部屋の合鍵」だった。管理人に証言をさせたところで、浅川が犯人の名前を知っていたことは立証できない。

 ただ、一つだけ言わせてもらうなら――弁舌戦で自分に勝とうなどとは思わないでいただきたい。

 

「それにもし僕が知っていたとして、あなたに教えることはありえませんよ」

「なぜ?」

「僕もあなたに、聞きたいことがあるからです」

 

 一転攻勢だ。

 

「あなたこそ、この事件に目星が付いていたのではありませんか?」

「……ほう」

「わざとらしく知らないフリを装っていましたが、どうやら本当にあなたは教え子に甘いみたいですね。その点尊敬はできます」

「何を言っているのか、わからないな」

 

 証拠はどこにもない。しかし捜索中の理事長の言動は、明らかに浅川の思考を正解への導くものだった。あれは、結論が出ていなければできない芸当だ。

 

「仮に君の言っていることが正しかったとして、僕がそうするメリットはないと思うが?」

「一つだけあります。あなたは事件の犯人を外部に漏らすわけにはいかなかった。それも、ただ学校の面子のためだけではなくもっと闇深い事情で」

 

 口を閉ざす彼の表情は、相変わらず微笑みだが、少しだけ冷たく感じた。

 

「どのタイミングかまではわかりませんが、あなたは犯人にある程度確信を持っていた。それがあなたか、()()()()()()()()()()()()()()()にとって調べられると不都合な生徒だった。だから警察沙汰になることを避けたんです。清隆の申し出によって雲隠れしましたけど」

 

 今思えば、寮の捜索に何の反論もなかったのは、犯人が生徒だとわかっていたからだろう。茂みや生徒立入禁止の場所は彼の中で既に除外済みだったわけだ。

 

「そして忘れてはならないのが、僕らが共有した犯人像です。あなた自身が認めていました、今回の犯行は並大抵の身体能力では実現できない。それを理解した上であなたは、僕より先に真相を捉えた。犯人が異様な身体能力を持っていることを疑わなかった。あなたが犯人を庇う事情と、何か関係があるのではありませんか?」

 

 ただ犯人の名前を知っていただけでは、犯行の模様を窺い知ることは不可能に近い。どういう素性で、どういう人間なのかを把握していたからこそ、昨日の捜索中には結論を導き出せていたのだ。

 

「もっと言えば、やはり一生徒に過ぎない僕らが主導で捜索することに異を唱えなかったのもリスキーです。恐らくこの敷地内における生徒の発言力が低かったからでしょう。大人が参加すれば、外部に委託すべきという意見はずっと大きくなっていたはずですから」

 

 生徒の私的空間であるなら、理事長が単独で踏み込むのは難しい領域だ。しかし学校の面子のためであるなら、別に職員にそのような旨を伝達した上で捜索させれば良かったはずだ。それさえしなかったのは、もっと個人的な事情があったからだと考えられる。

 

「直感ですが、あなたは学校の問題には誠実に向き合える人だ。そんなあなたがこうも非倫理的な動きをするのは、余程の裏があるのでしょう。僕が口を割る時は、いっそそのまま全て外部に漏らしますよ。僕には、その手段がある」

 

 逆に言えば、白状したところで意味がないのだ。どうせ事件は公になることはなく、浅川の後ろめたいことが理事長に知られるだけ。こちらの独り負けだ。

 

「僕らは対等なんですよ。僕に情報の提供を求めなければ、あなたの事情が悪化することもない」

「…………わかった、降参だよ。君のことについては、今は聞かないでおこう」

 

 今は、か。いつかの時などくるものか。あるいは、この男はその算段でもついているのだろうか。

 話が止まったところでタイミング良く、浅川の端末が鳴る。

 ――椎名……?

 メールの内容を確認する。

 

『至急会って話したいことがあります。浅川君の部屋で待っています』

 

 ……参ったな。随分と急な話だ。

 今の状況ではない。これから出向かわなければならない重要な用事と重なってしまっているのだが……仕方ない。別の人物にメールを送信した。

 

「椎名に呼ばれたので、そっちに行きます。任せてもよろしいですか?」

「話も一区切り付いたことだしね。茶柱先生もそろそろ到着するはずだから、ここは大丈夫だ」

 

 丁寧にお辞儀をして部屋を出る。

 目まぐるしい、最近多忙だ。柄にもなく目頭を押さえる。

 椎名の用件……一つだけ思い当たることがある。その通りだとしたら……。

 

「どうっすかなぁ……」

 

 悪癖の独り言が、ポツリと落ちる。

 選択の時が、刻一刻と迫っていた。

 

――――――――――――――――――――――――――――

同日 午後5時37分

生徒会室前

 

 

 

「あっさり認めるのだな」

「ここは審議の場ではありません。事件も、そのものがなかったことになりましたから、隠すこともないでしょう」

 

 渋る必要はない。答えられる限りの質問には答えておこう。

 

「柴田の負った傷というのは、Cクラスの三人が付けたものではない。()()()()()()()()()()()()()()()だな?」

「その通りです。恐らく柴田は、あの三人を見てすらいません」

 

 要は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。石崎たちはその点に限って、嘘を吐いていなかった。その証拠に、ドローン映像を筆頭とするほぼ全ての情報に柴田の痕跡はなかった。――ただ一つを除いて。

 

「俺がそれを指摘するとは思わなかったのか?」

「あり得ないでしょう、裁定者のあなたがやっていいことじゃない。それはCクラスが調査して然るべきことです。尤も、意味のないことですけどね」

「条件は相手と同じ、か」

 

 よく分析できている。『部活での怪我に上乗せされる形で暴力を受けた』と主張すれば良かった話だ。Cクラスの怪我が須藤との邂逅前であった可能性もあるのだから、向こうが追及できることではない。

 

「理由は無論、お前たちへの助太刀だろう。しかし、そこには何らかの事情があったはずだ」

「……」

「その反応を見るに、お前ではないようだな。だとすると、やはり浅川か」

「……少なくとも、オレもそう判断して行動しました」

 

 正直、ここから先は確信に限りなく近い推測だ。恭介が訳も明かさず別行動をとったことと、事前に協力を拒んでいたBクラスが前触れなく審議中に介入してきたこと。繋がりを予感してしまうのも無理はない。

 

「だが、ここで違和感となる証拠品がある。それが『スパイク』だ」

 

 柴田の存在を示す唯一の物的な証拠。これも()()だ。

 

「事件が仮初だったことを前提とするなら、あれはCクラスの三人が去ってから第三者が現れるまでの間に置かれたと考えるしかない」

 

 正確には、外村がドローンの様子を確認する時か、野球部が破壊した窓ガラスを確認した時、あるいは巡回の教師が現れた時より前。その短時間で、あの証拠品は出現した。

 

「なら、それを配置したのは誰なのか。それは――」

「……恭介、でしょうね」

 

 全く以て根拠のない憶測。しかし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だからそう結論づけた。

 

「一連の攻防には三つの勢力がありました。DクラスとCクラス、そして()()()B()()()()()()()()()()です。オレたちは、恭介たちが残してくれたパンくずを頼りに魔女の棲む家を追い掛けただけに過ぎない」

「ほう……なるほどな。烏に手がかりを食われようと、お前には彼の足跡が見えていたわけだ。それだけの信頼関係があるからこその芸当か」

「……恐縮です」

 

 案外この人もノリがいいのか……? 言わんとしていることはわかるが。

 

「お前はいつから、浅川が作った勝ち筋に気づいていた?」

「決まっているじゃないですか――」

 

 聡いこの人のことだ。直感どころか、何かしらの明確な根拠を以て、既に答えは浮かんでいるはずだ。

 オレは知っていた。全ては始まる前から決していたことを。

 

()()()()ですよ」

「……やはりか」

 

 全く驚いた気配はない。……はぁ、面白い反応を見えたのは審議中の一度のみか。

 

「格好つけ、というわけではないようで」

「当然だ。ピンポイントでカラオケルームに辿り着けた不自然さを見逃すわけなかろう」

 

 そういうことだ。

 オレは『Cクラスの生徒』が利用していたと言った。石崎ら三人のいずれでも、龍園でもない。本来であれば、たかが仲良しグループの娯楽で片付けられてしまう情報だったはずだ。

 それをオレは迷うことなく欠けた手がかりだと判断した。その根拠は単純なものだ。

 

「浅川が教えたな?」

「事件が起こってすぐにですね」

 

 彼が須藤を助けられないと公言し、教室を出る直前、オレにだけ届く声で言った。

 

『困ったらカラオケに行け』

 

 思えば態々あの伝え方をしたのも、自分が事件のヒントを吐いた痕跡を残さないためだろう。結果として、オレが恭介からカラオケルームのことを教えてもらった事実は証明できない。

 あいつが伝えた最低限にして唯一の情報がそれだったのは、ロジックで辿り着くことが不可能だと理解していたからだ。大したものだ、恭介には初めから、結末に至るほとんどが見えていた。

 

「素晴らしい連携だ」

「オレは何も……」

「謙遜するな。あいつの用意した材料をお前は使い方を誤らなかった。この戦いの勝敗を分けた最大の分岐点は、()()()()()()()()()。あの選択は非常に難しい」

 

 先程も言ったが、カラオケルームの利用履歴はあくまでCクラスの一生徒のものだ。そして忘れてはならないのが、あの時立証されていたのはどこまでかということ。

 

「あれではCクラスの組織的行動を立証できない。だから盤外戦術を取った」

「おまけに須藤の処罰がなくなるかどうかという懸念をありましたからね。一石二鳥です」

 

 数人でのんびり歌っていたと答えられてしまえばそれまでだ。だから態々あのような時間をもらい、Cクラスへ直接攻撃を仕掛けた。

 そもそも、オレは須藤が無傷のまま事なきを得るには訴え取り下げしか手段はないと結論づけていた。それは恭介も同じなはずで、だからこそこの連携にすれ違いはなかった。

 

「心理の誘導も見事だった。コールドリーディングの亜種といったところか」

 

 彼が言いたいのは、オレが『室内での出来事』をあたかもお見通しであるかのように語ったことについてだ。あれは全て、オレが認識している状況から推測を並べただけに過ぎない。

 暴力で支配されたクラスにおいて失敗は命取り。だがそれよりも恐ろしいのが、隠した失敗が後にバレることだ。だから真っ先に報告する。そして極め付きには恭介の乱入。あいつが事件発生と寸分の時差で取引をしたことは、事件直後にすら仲間の誰にも報告しなかった時点で察せる。これを指摘すればまず間違いなく石崎は動揺すると睨んでいた。それほど特徴的な出来事なのだから。

 乱入のタイミングは――あれもあいつの仕込みであろう――Bクラスが審議中に介入したことを踏まえて曖昧に語った。

 あとは冷静な判断ができなくなった石崎に『こちらはもう銃爪に指を掛けている』と思い込ませればゲームセットだ。

 一連の流れは、公式な審議では成し得ない。必ずどこかで行き詰まる。オレたちが実際に渡った橋も――まずそうならないように立ち回ったが――石崎が『オレが室内の出来事を立証できるわけかない』という思考を保ち続けていたら詰みだった。

 しかし懸念材料の全てがこの結果に収束するようになっていたのも事実だ。相手が別の怜悧な人間を駆り出せば、その時点でCクラスは組織性を認めたことになる。恭介が仕組んだであろうBクラスの介入もオレの盤外追及も審議中に行ったのは、石崎たちが絶対的な無援状態にあり、用意した筋書きを臨機応変に修正できないタイミングがそこだったからだ。独裁政治は独裁者がいなければ考えることを知らない人形も同然。龍園という王がいなければ、あの三人が上手いアドリブを効かせることなど不可能だ。

 

「だが、見えない側面が多すぎるな。いつどこで、どうしてBクラスは浅川と繋がっていた? そもそも浅川が裏工作をしたことも、お前にそれを伝達しなかったことも、意図が判然としない」

 

 それは……審議中にやっていたことと同じだ。今までの軌跡を振り返ればわかる。

 

「前者は、中間テストからです」

「そこまで早く……根拠はあるのか?」

「あいつはBクラスにテストの過去問を提供していた。その際取引したんでしょう。自分に協力してくれって」

 

 オレはあの時、僅かに考察が間違っていた。恭介はクラス間の同盟ではなく、恭介個人への協力を求めたのだ。

 

「ただ、恭介が裏役に徹した理由は……すみません、確証は、」

「それでもいい、続けろ」

「…………C()()()()()()()()()()()()だと思っています。スパイクの件で、恭介は現場に居合わせていたことが仮定できます。その時Cクラスが不利になる決定的な証拠を記録し、突き付けた」

「相手は口止めを条件に受け入れた、と?」

 

 相槌に頷く。この問いの答えには、一連の恭介の行動に秘められた事情の全てが詰まっている、はずだ。

 

「あいつは須藤の事件に関して黙認するしかなくなった。それは予感できたはず、でもだからと言って何もしないなんてことは許せなかった。そこで思いついたのでしょう。『別の事件をぶつけることで相殺する』という大掛かりな仕掛けを」

 

 何より驚くべきなのが、その発想に至るまでの早さだ。須藤の事件を目撃し、窓ガラスの騒ぎが起こるまでのごくわずかな間に、恭介はそこまで長期に渡る策を弄したということになる。

 結果的に、本来Cクラスの一方的な勝利になるはずだった先手をあいつが争ってくれたおかげで、こちらが勝つ結末を手繰り寄せることができた。

 

「浅川が行った取引の内容、お前は知っているのか?」

「……どう、でしょうね」

 

 最大の謎はそこだ。合理的な理由は当然浮かばない。これといった手がかりさえ。

 だが一つだけ、たった一つだけ候補がある。普通こんな学校でそれだけのためにここまで大きな計画を立てるとは考えられない。しかし恭介ならあり得る、と、思わずにはいられない。

 そんな曖昧過ぎる推理を、目の前の彼に提示することはできなかった。

 

「とは言え、全て正解とは限りません。これ以上の根拠は、無理な話ですね」

「わかっている。だからこそだ」

「どういうことですか?」

「綾小路、お前は合理的な人間だ。信頼よりも信用を重視し、感情を挟まない。本来そういう性であるはずだ」

 

 それこそ根拠のない。だが、有無を言わさぬ、確固たる己の直感を信じ豪語する姿に、返す言葉を失ってしまう。

 

「優秀な人間には確かに求められる能力だ。しかしそれを、仲間にまで常に向けてしまってはならない」

「……」

「お前たちの間にある絆、大事にするといい。あわよくば、鈴音もその輪に入れてやってくれると――な」

「……珍しいっすね。あなたが頼み事なんて」

「嫌味か」

「いえ、あなたへの印象、少しだけ変わりました。いい意味で」

 

「フン」と、無愛想に鼻を鳴らすのは、鈴音の態度を彷彿とさせる。

 絆、か。聞き慣れない言葉だ。とはもう言えないな。新しい世界で得た娯楽が、その面白さを大袈裟に教えてくれた。

 そうだ。オレには、まだ学ぶべきことがたくさんある。

 …………だけど、もしかしたらその展望に翳りが生じたかもしれない。

 

「……先輩」

 

 思いの外、かすれた声になってしまった。

 

「もし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、その時あなたはどう思いますか?」

 

 オレの問いに、彼は訝し気な顔をする。不可思議に思ったのだろう。

 

「……当然、悲しむだろうな」

「……」

「だが決して、俺の望み通りにならなかったからではない」

「え――」

「一度その価値に触れたにも関わらず、それでも切り捨ててしまったお前のことを、可哀想に思う」

 

 表情は最後まで変わらない。けれども何故か、憂いが感じられた。

 

「にわかにでも、お前の胸の中に宿っているはずだ、他人から受け取ったものが。それを良いものだと思ったから、お前はこうして表舞台に上がったのだろう? 俺が想像していた以上に、お前は貪欲になっていた」

「……オレは、確かめている途中ですよ。本当に大切なのかわからなくて――今はまだ、憧れの方が大きい」

「鈴音もそうだった。あいつも半ば盲目的に他人の背に憧れ、間違い、お前たちという他人によって再び新たな道を見出した。悪いことだとは言い切れない」

 

 先人が、拳をオレの胸に当てる。

 

「なりたいものがあるなら証明しろ。この三年間で、()()()()()()()()()()()()()ことだ。お前の理想の『らしさ』を、認めてもらうために」

「記憶に、残る……」

 

 今までとは違う重みがあった。齢二十にも満たない少年とは思えない積み重ねが、彼にそう言わせたのだと理解する。

 与えてもらうことだけを望むのではなく、自分も相手に与える。あいつと誓った約束――その具体的な方法を、この人は知っている。

 

「…………」

 

 それに加えて、オレ自身の証明も成せと言うのか、あなたは。

 ――無理だよ。

 

「オレは、そんな出来た人間じゃありません。粘着性の強い『本能』が、息吹く『理性』を飲み込もうとしてくる。この感覚は、誰にも理解してもらえない」

「その葛藤を乗り越えるために、他人が必要だとわかっているだろうに」

「いいえ、人は最期は独りですよ。か弱い哀れなマッチ売りのように、羨望と共にひっそりと息絶える」

 

 口を衝いて出る、自分を呪うような言葉。

 願いと裏腹に零れ落ちるこれは、果たしてオレの本心なのだろうか。

 

「それを現実にできる可能性がある点で、お前は違う」

「同じですよ。淡いマッチの輝点と微熱は、冷たい世界の中では弱すぎる」

「温めてくれる誰かが、お前の周りにいるはずだ」

「いなかったから、少女は死んだ」

「友という存在がいたとしてもか?」

 

 弱々しく、頷く。

 

「オレが浴びるには眩しすぎる太陽だった。明かりを灯すには熱すぎる灼熱だった。――知らなかったものを知ることで、オレは自分を傷つけた」

 

 違うな、わからないフリをしているだけだ。これから訪れるであろう未来の自分の姿を正当化するために、正常なまま表裏を、狂気さえもを理解して見せる彼に絶望を「八つ当たり」している。

 そんなことをすれば、当然気付かれてしまうと承知の上で。

 

「何故、自ら矛盾しようとする」

「――っ」

「お前は……」

「先輩、一つだけお願いを聞いてくれますか?」

 

 嗚呼、そうか。

 オレはこの人に期待しているんだ。

 学校を統べる者でも、優秀な人材でもない。

 先を往き、背中を見せる人間として。

 そんなあなたを信じて頼りたいと、願っている。

 自分でも驚く程誠実な懇願で、ようやく動揺は収まった。

 

「もしオレが、()()()()()()()()()()()()()()()()は、止めて下さい」

 

 親友である恭介にも託せない。細やかで、重大な役割。きっとこの人になら任せられる。

 オレが間違えないように繋ぎとめてくれる一番の適任者は、この男だ。

 

「……お前に施しを与えるのは、『二度目』になるな」

「――そうですね。先月、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、あなたと取引をした」

「虫が良すぎるとは、思わないか?」

 

 鋭い目はデフォルトだ。彼がどんな感情を以てオレを見つめているのか、わからない。

 今は、自分を語るだけで精一杯だった。

 

「思いません。オレはあなたと交渉をしたいんじゃない。あなたの善意に賭け、無償の救済を願っている。もしオレに何かを見出しているのなら、どうかお願いします」

 

 オレの方から彼に返せるものはない。強いて言えば、彼が期待しているものを見せてやれるかどうかという不確かなものくらいだ。

 それでも今この願望を口にするのは、もし恐れている時が来たら、()()()()()()()()()()()()からだ。瞬く間に喉を焼かれ、誰にも助けを乞うことなく蒸発する。

 一匙の水を恵んでくれるような、ほんの些細な優しさに、オレは縋らなくてはならない。

 しかし、答えはオレの望み通りではなかった。

 

「……いいだろう。ただし、一つだけ忘れるな」

 

 先輩は、オレに言った。

 

「お前が思っている以上に、お前と関わる者は敏感だ」

「……?」

「俺より先に、お前に待ったをかける者が現れるかもしれない。浅川か、平田か、須藤か、あるいは……。その時、その者の言葉を聞き逃してはならん」

 

 あくまで本心からそう訴えているようであったが、オレにはわからなかった。そのような可能性に心当たりがなかった。

 オレが誰か何かを知ることがあろうと、誰かがオレを知ることはない。その状態でオレに対する理解が最も深いのはこの男になるはずだ。

 途端に、その一言だけは全く理解できなかった。

 

「手遅れの寸前になるまで、俺は動くつもりはない。お前もそれを望んでいたからこそ、ただ止めろとだけ言ったのだろう?」

 

 見守れとも、繋ぎ留めろとも言わなかったのは、出来る限りはオレ自身でどうにかしたかったからだ。彼はどうにもならなくなりそうになった時の最後の保険。そのスタンスを咎めることはしない。

 

「この学校において推奨される容貌は多々ある。己の知力を娯楽のために行使する、民を取り纏めその結束力を武器とする、強引に戦力を我が物とし貪欲さと狡猾さで勝利を奪う――そのどれよりも理想的な、自身の幸甚を掴む生き方を、お前と浅川は志している。それは俺の……」

 

 先人は毅然としてオレに諭す。

 

「安心しろ。お前が求める心を失わない限り、その道が閉ざされることはない」

「……ありがとうございます。本当に」

 

 どうしてだろう、恭介の時と同じだ。何の根拠も材料もないのに、きっとこの約束が違うことはないと、無造作に信じられる。

 

「話はここまでにしておこう。戦友との祝勝会に向かうといい」

 

 生徒会長は一方的に背を向ける。今までと少しだけ、違って見えた。

 

「――あの」

 

 一瞬、追いかけるように呼び止める。

 

「何だ?」

「オレは、あなたが……」

 

 言い出してすぐ、躊躇ってしまう。

 別に今伝えても支障はないことだ。でも――その言葉の意味が軽くなってしまいそうで憚られた。決して照れくさいわけではない。

 ……よそう。

 

「いえ、鈴音とはどうかなと思いまして」

「……あいつに聞け」

 

 漫然とした想いが確信に変わるその瞬間まで、この言葉は取っておこう。あまり偏り過ぎてしまうのも、良くないだろうから。

 去り行く背中に、オレも同じように踵を返す。

 ――さて。

 あの人はああ言っていたが、まだ安易にみんなと合流するわけにはいかない。

 未だ終わりを認知できていない残された事件。その行く先がどうなったかを確認しなくては。

 端末のGPSを頼りに、オレはケヤキモールへと駆けだした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狂原

いやホント、こうするしかなかったんすよ…。
今まで本作の人間関係に入れ込んでくれていた読者には、少々心苦しい回が続くかもしれません。



7月9日 午後4時2分

河川敷

 

 

 

 一度の架電では恭介は出なかった。

 今日中に応答してもらわなければ困るので、少し時間を置いてからかけ直したところ、コール終盤で出てくれた。

 

「今大丈夫か?」

「え? あー……うん、さっきちょうど暇になったとこ」

「――鈴音の件か」

「まあね」

 

「それはすまなかった」頼んだ身で申し訳ないが、こちらの用件も見過ごせない。「今のうちに伝えとかなきゃいけないことがあってな」

 

「今のうちに?」

「佐倉のことだ」

「…………なるほどね」

「やはり感づいていたんだな。あいつが抱えている問題を」

「マジか」

「え」

「知ってる体を装ってみたけど、どうやらかなり深刻みたいだね」

 

 電話越しであることに感謝しろ。でなければお前の顔面は今鼻血塗れだ。

 

「僕が知っているのは、彼女がグラビアアイドルをやっていることと、何かしらの事情があってそれを辞めたことくらいだよ。思うに、その事情が関係しているのかな」

「そういうことだ」

 

 オレは佐倉がストーカー被害に遭っていることと、明日ケリをつけようとしていることを恭介に話した。

 

「あ、明日!?」

「上手くいくかどうか、正直信じ切れない。オレは明日審議だから、あいつと一番関わりのあるお前に頼みたい」

 

 と言うより、オレ以外の異性で心当たりが彼しかない。

 依頼を切り出された恭介はバツが悪そうに「あぁ……」と惑いを零す。

 

「それって何時ごろ?」

「多分放課後入って間もなくだと思うが」

「ですよねぇ……実は、こっちの方は解決の目処が立ってんのよ」

「――! 本当か?」

「おう、後は念のため確認しておきたいことを確認するだけだ」

 

 それはあからさまに朗報だ。手がかりがほとんどない中二日でそこまで――こちらの事件への関与といい、最近の恭介はやたら裏で重労働だな。オレも負けてはいられない。

 でもそうか、そうなると、恭介も明日は……。

 

「マズいな……」

「……清隆、愛理から何か注文があったわけじゃないんだよな?」

「あ、ああ、なかった」

「なら……わかった。彼女の件は、こっちに任せてくれ」

「いいのか?」

 

 直前の会話の流れを鑑みれば、やはり難しいと思うのだが。

 

「大丈夫さあ。一番確実で、一番あの子のためになる方法がある」

 

 

 

 

 

 

7月10日 午後5時38分

ケヤキモール

 

 

 

 人でごった返す街並みの中、佐倉は敵と対峙していた。

 

「雫ちゃんからDMが送られてきた時はびっくりしたよ。会いたいだなんて――僕の手紙、ちゃんと読んでくれてたんだね」

「……知ってますよね。雫は、もう辞めました」

「も、勿論知っているよ。あ、もももしかして、僕の想いに応えるためだったりするのかな」

「違いますっ」

 

 下手なことを言って刺激したり、勢いに乗せてしまったりしてはいけない。しかし、今はその呼び方をされるのがとてつもなく不快だった。

 佐倉が取った選択は大まかに言えば正面突破。真っ向から戦い、終わらせる。それこそが自分の証明に繋がると信じている。

 

「……とりあえず座りましょう」

「そうしたいのは山々なんだけど。ほ、ほら、生徒と職員が話していると、変に浮いちゃうよね? だから人目の付かないところに行こうよ」

「――! 駄目です。絶対ここにしてください。じゃないとすぐ帰ります」

「わ、わかったよ」

 

 さすがの佐倉も無鉄砲というわけではない。具体的なイメージは湧かないが、ストーカーが暴走しやすいことは何となくわかる。その時周りに人がいなければ非常に危険だ。王と井の頭と、浅川と過ごす時の安心感が、思わぬところで佐倉を深慮にした。

 適当なベンチに腰を下ろす。

 

「そ、それで、話って何、かな……?」

「はっきり言わせてもらいます」

 

 先手必勝。まずは簡潔に、言いたいことをぶつける。全てはそこからだ。

 

「今後私には、一切関わらないでください」

「え……え?」

「私の後を付いてくるのも、こっそり写真を撮ったり覗いたりするのも、全部やめてください」

 

 ストーカーや盗撮といった言葉は使わない。恐らく相手は自分の行為の悪徳さを自覚していない。慎重に言葉を選ぶ。

 

「な、何で……どうして、どうして僕のことを避けるかな? 僕は君のことが大切だから、いっぱい写真に収めているのに。ほら! 見てよこれ」

「――っ、こ、これ……」

「肌身離さず持ち歩いてるんだ。だって僕らは、いつも心で繋がり合ってるんだからね」

 

 写真は、そんなことのために撮るものじゃないのに……。

 鼻息荒く、得意気に盗撮写真を見せつけてくる名前も知らない男に、趣味を穢された気分になる。言い様の無い嫌悪感。

 

「そ、それが迷惑だって言ってるんです。私はそんなこと望んでませんっ」

「う、嘘だ。だって雫ちゃん、何度も手紙のやり取りをしてくれたし、僕のために頑張ってブログを更新してくれてたじゃないか」

「……違います」

「僕は君のファンなんだ。同じ学校に来てくれたのも、こうして直接巡り会えたのも、きっと運命だよ」

「…………違います」

「僕らは運命の糸で繋がっているんだ。だから――」

「違います!」

 

 抑えられなかった感情が語気を強める。周囲の通りすがりがちらちらと視線を寄こすが、まだ軽い口論だと思われているようだ。

 佐倉にしては珍しく、敵意のある目で真っ直ぐストーカーを睨んだ。

 ――だが、それが良くなかった。

 

「…………何で、そんな眼をするんだ」

「え――」

「何で!」

 

 狂気に塗れた人間がどれだけ常人の理解を超える暴挙に出るのか、佐倉はわかっていなかった。

 自分の体裁など露ほども気にせず、身勝手な行動に走るケダモノが存在することを。

 

「っ、い、痛ッ!」

「そんな風に僕を見るな! こんなに君のことを愛している僕を、まるでモンスターみたいに――!」

 

 こちらのことを全く考えていない力加減で、手を握られる。

 

「は、離してください」

「そ、そうだ。僕の愛がホンモノだってこと、今から教えてあげるよ」

「いい加減に――」

「そうすればきっと、雫ちゃんだって僕のことを」

「やめてっ!」

 

 何とかして振り解き、反射的に距離を取る。いよいよ通行人が異変を感じ、立ち止まりざわざわと波風を立て始めた。

 

「どうして逃げるんだ!」

「きゃっ――」

 

 大股で接近し掴みかかる手を避ける。が、足がもつれて体勢を崩してしまう。

 

「ひっ」

 

 恐ろしい瞳が嬉々としてこちらを見下ろしている。まただ、また鳥肌の立つ邪悪な表情。

 

「い、イヤ……」

 

 恐怖に支配され、身体が言うことを聞かない。

 大勢が遠巻きに眺めることしかできない中、動けない佐倉の下に一歩ずつ、男は近づいてくる。

 

「あ……あぁ……」

 

 間違いだった。綾小路の言う通りだった。

 自分には荷が重すぎたのだ。こんな得体の知れない怪物を独りでどうにかするなんて、土台無理な話だった。

 絶望的な状況に、佐倉の思考は徐々に一つに収束していく。

 誰か……誰か――。

 

「助けて……!」

 

 どこに届くともしれない叫び。にわかに少年の影が、閉じた瞼の裏に映る。

 彼なら、もしかしたら……。一瞬、願いの形が揺れた。

 しかしそれも虚しく、魔の手が佐倉の身体に触れる。

 ――かに思われた。

 

「おっと」

 

 緊張感の無い呑気な声が、確かに鼓膜に届いた。

 

「え――?」

 

 もしかして、浅川君――?

 そっと目を開けると、飛び込んできたのは誰かにぶつかられバランスを崩す男の姿。

 そして、

 

「危ないじゃない。ちゃんと前見て歩きなさいよ」

 

 見覚えのない女の子だ。

 整った顔つきに、特徴的なサイドテール。どことなくクールな雰囲気を放つ少女――堀北を少し緩めたような。

 

「な、何だお前は!」

「何だって、ただの通りすがりだけど」

 

 そう言って徐に取り出したのは、何と先程男が突き付けてきたはずの写真だった。

 

「うわっ、キモい……これは相当だね。あんた、同情するよ」

「え、えっと、どうも……」

 

 あまりにフランクに話を振られたものだから、胸の動悸も忘れ間抜けな返しをしてしまう。

 

「い、何時の間に……」

「あんたがよそ見してただけでしょ。ダメだよ、こっそり何かしようって時は、もっと周りの目に気を付けなきゃ」

 

 少女は写真をひらひらと仰ぎながら余裕の態度で話す。

 本当にそれだけだっただろうか。目を瞑っていてわからなかったが、恐らく少女は男とぶつかったタイミングであれを盗んだはずだ。それ以外に接触した瞬間はない。つまりはスリのテクニックになると思うのだが……。

 

「これを警察に突き出せば、逮捕まっしぐらだね」

「それに触るな! それは僕と雫ちゃんの愛の――」

「結晶、とでも言うつもり? 冗談でしょ、こんなのれっきとした犯罪の証拠。それをご丁寧に持ち歩いてるんだから、本当バカだね」

 

 焦りと怒りで逆上した犯罪者が、ついに矛先を変える。

 

「何、やる気?」

「そいつを返せぇ!」

 

 闇雲に突進しようとする男に対し、少女は避ける素振りを見せない。このままでは怪我を――。

 次の瞬間――佐倉の危惧は、またしてもあっさり裏切られた。

 

「おい」

 

 殴り掛かる男の拳を受け止めたのは、少女の横に現れた、これまた落ち着いた風貌の少年だった。

 彼は俊敏な動作で、体格とは裏腹な強い力で男を押さえつける。

 

「だから言ったでしょ。悪いことをする時は、周りに気を付けなくちゃダメだって」

 

 その様子を覗き込む少女が、煽るように言う。

 

「は、放せっ!」

「無駄だ、じきに警察が来る。監視カメラからこの場に居合わせた通行人まで、ありとあらゆる証人が揃い踏みだ。――お前はもう終わりだぞ」

 

 一方少年は憎むような目で冷たく男に言い放つ。正義感の強い人なのだろうか。無関心に近い少女とは対照的だ。

 すると、

 

「恰好付けてるとこ悪いけど、もっと余裕を持って割り込めなかったの?」

「酷いな」

 

 前触れなく始まるやり取りには、やはり緊張感が皆無。

 

「別にいいだろ無事だったんだし。そもそもお前余裕そうだったじゃないか」

「いやいやすごく怖かったから。早く来てよってビビッてたから」

「それを言ったら俺だって。だいぶ勇気を振り絞ったんだが?」

「ダッサ」

「は?」

 

 因みにこの会話の間にも、勿論少年が男を取り押さえたままである。

 

「そういえばお前、どうやってその写真盗った?」

「何よ、悪い?」

「初めてやったとは思えないしなやかさだったぞ。手つきがいいと言うより、手癖が悪い感じだった」

「あんたが不器用なだけでしょ」

「……そういうことにしておこう」

 

 あの空間に、入ってもいいのだろうか?

 助けてもらった身分で何も言わないのも失礼だ。黙っているより、とりあえずお礼の一言くらい述べるべきだと判断した。

 

「あ、あの……ありがとう、ございました」

「ん? ああ、怪我はないか?」

「はい、大丈夫です」

「それは良かった。…………」

「…………」

「……」

 

 え、なんだろう、この空気。

 やはり誤ったか。不自然な沈黙に、向こうも気まずそうにしている。

 我慢できなくなった少年は、相棒に助けを乞うようだ。

 

「お、お前も彼女くらい礼儀正しくなったらどうだ?」

「あんたの会話下手のツケをこっちに回さないでよ」

「お前もそう変わらないだろう」

「本当のこと言われてムキになってる」

「はぁ……もういい」

 

 この場にはとても似合わない、痴話喧嘩とも見紛う応酬だ。

 

「…………ありがとう」

「え、何だって?」

「絶対聞こえてたでしょ。これで満足?」

「わ、わかったよ。わかったからあんま怒るなって」

 

 ……やっぱり私、邪魔かな。

 こっそり後ずさりフェードアウトを試みる。

 

「えっと、確か佐倉だったっけ」

 

 失敗した。

 若干無愛想、と言うより不器用そうに、少女の方が声を掛けてくる。

 

「ど、どうして私の名前……初対面、ですよね?」

「あー……まあ、事情があってね。私たちはあんたの友達から頼まれてここに来たの」

「友達……?」

 

「浅川のことだ」少年が捕捉する。「俺たちもあいつの友人でな。GPSを頼りに尾けさせてもらったんだが……その、不快に思われていたなら、申し訳なかった」

 

「い、いえ! 寧ろ助けていただいて、ありがとうございます」

 

 気付かなかった。悪意がなかったために男の邪気に紛れていたというのもあるだろうが、恐らく尾行の手腕に長けているのだろう。ある意味恐ろしいことだが、今の佐倉にはそこまで考えが及ばなかった。

 

「……そっか、浅川君が」

 

 その名前を聞き、また少し落ち着きが戻る。

 異性で最も仲の深い少年。受けた思い遣りの積み重ねは、目の怖くなかった綾小路以上に浅川のことを慕わせた。

 でも――。

 

「そっか……」

 

 一つだけ、自分で驚いてしまう程冷静な理性が、悟る。

 今まで接してきた通りの彼なら、この場に友人を向かわせる選択を取るとは思えなかった。その違和感と向き合って初めて、彼女はずっと前から抱いていた別の違和感の正体に気付き、自分が本当は彼をどう思っているのかをはっきりと理解する。

 これからどう思っていくのかも――。

 

「……」

 

 私は、彼が………………苦手なんだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

同日 午後5時40分

浅川の部屋

 

 

 

 扉を開けると、ベッドに腰を下ろす椎名の姿があった。――浅川の部屋には備え付けの一つしか椅子が無い。彼女に限らず、皆自由に過ごす上で頻繁にそこに座るため、特別やましい意味がないのは共通理解だ。

 

「椎名……」

「お待ちしていました、浅川君」

 

 気のせいか、しおらしい態度の椎名に、浅川は更なる戦慄に苛まれる。

 いつも通り彼女の横に――は行かず、デスクに手を置き立ったまま話す。

 

「どうしたの?」

「あなたのことです。薄々気づいているのでは?」

「……勿体ぶることもないだろ」

 

 愁眉のまま、椎名は語り始める。

 

「……あなたは、相当無茶をしましたね」

「友達のためともなればこれくらい。無事に鈴音は見つか」

「堀北さんのことではありません」

 

 わかっている。けれでも誤魔化さなければならなかった。例えバレバレだとわかっていても。

 誤魔化さなければ、僕らは……。

 

「もう隠す意味はないはずです。根拠がなくとも、私自身が確信してしまっているんですから」

「……っ」

 

 その通りだった。彼女の言葉が、彼女の推測が正しいであろうことを裏付けていた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 決定的な一言だった。

 

「どうして、そう思った」

「きっかけは話題の暴力事件が発生してすぐです。渦中にあった須藤君とあなたは友達だったにも関わらず、あなたはあの事件に関与する素振りを見せませんでした」

「……それで?」

「当時もう一つ、私にとって大きな変化がありました。あれから浅川君は、今までの我慢が嘘のように、私と図書館で会ってくれるようになりましたよね」

 

 本当、綾小路といい、賢い友人はこれだから困る。

 

「取引、したんですよね? 恐らく何等かの証拠を掴んでいたのでしょう、あなたはそれを伏せる代わりに私の自由を要求したんです。途中から神崎君が動き出したのはもしかして、浅川君の策ですか?」

「……ああ」

 

 ぐうの音も出ない。やはり探偵役に相応しいのは彼女なのではないだろうか。

 

「そうだとしたら、更にある事実が浮かびます。浅川君が私に吐いた嘘についてです」

 

 間髪入れず、椎名は責め立てるように次の段階を踏む。

 

「今の私のように、浅川君が推理ショーを披露してくれたことがありましたよね?」

「そうだね、楽しかった」

「ええ、ほぼ全て正解だったこともあり、非常に印象的な思い出でした。しかしあの推理は一つだけ間違っていた。それも、()()()()()()()()()()()()()()()()()んです。私が負い目を感じないために」

 

 こうなってしまっては、かえって椎名を卑屈にしてしまう。彼女の鋭さを甘く見ていた自分を、酷く後悔した。

 

「私を呼び出した相手、本当は誰だったと思いますか?」

「…………先生ではない。特別重大な配布物もなかったし、君が教室に置いていくような荷物に心当たりも無い。茶道部という可能性もあるが、それなら間違っていたと教えて問題なかった。つまり、僕が気付いていないなら都合がいいから君が明かさなかった相手になる」

 

 真実を隠蔽したのは浅川だけではなかった。互いに別の思いが混じり、結果的に頭を覗かせていた事実を掘り起こさなかっただけに過ぎなかった。

 

()()()()()()()()()だ。君をクラス抗争の戦力として一目置いていた統率者が、君が他クラスである僕と交流していることを知り接触した」

 

 これが、真相――。そもそも椎名が最大の興味を向ける本よりも優先する用件など、それくらい急を要するものであって然るべきだ。

 それほどまでに自分のことを大事に想ってくれていた――その事実に今は、嬉しさよりも心苦しさの方が勝る。

 

「図書館にいる時や一緒に帰っている時、Cクラスであろう生徒が見張っているのが度々気にかかっていた。そんな中だったんだ。だから僕は、()()()()()()()()()()で会うことを提案した」

「監視には私も気づいていました。今回の行動を見るに、あなたは雲隠れだけするつもりではなかった。Cクラスが暴力的だと知ったあなたは、どこかで生徒の非行を材料に私を自由にしてあげようと考えていたんですね」

 

 関係を絶ってしまえば一番『楽』だった。しかしそれは、浅川にとって一番『面倒な』手段だった。

 一度手を差し伸べた相手に対して責任を全うする。他人に誠実でありたかった。初めて会った時、寂しそうにしていた彼女を再び孤独へ還らすことを、浅川は善しとすることができなかった。

 その最中降りかかった、白波と神崎との邂逅。BクラスとCクラスのいざこざを知った彼は、まさしくこれは『使える』と思ったのだ。案の定、その通りになった。

 偶然だったのかと言うとそれは違う。浅川は神崎の証言から、Cクラスは監視カメラの管轄外で事を起こすことはわかっていた。だから当然「見回り」をしていた。ある時それで佐倉たちと遭遇したこともあったが、あれはあれで僥倖だった。

 

「君は結局、何が言いたいんだ? 仲間を売ったことへの説教?」

「……いえ、その点に関しては特に心配していません。あなたは自分と親しい者は裏切れない。須藤君のことを何らかの形で救おうとしたのはわかっています」

 

 相手の顔は見ない、見たくない。見たところで、意味もなく負の感情が膨れ上がるだけだとわかっていた。

 

「私は……あなたに傷ついて欲しくないんです」

「……別に傷なんて、」

「服、めくってみてください」

 

 浅川には元々見せたくない傷跡がある。過去に縛り付けるような重い烙印が――。それがなかったとしても、今の浅川は椎名の言うことは聞けなかったろう。

 

「……Cクラスから受けた暴力の跡が、残っているんですよね?」

「……軽くなるように微調整はした」

 

 例えば頬を殴られる際、自分から顔を動かすことで勢いを弱めたり、蹴られる際には脱力し、筋肉を傷めないようにしたりもした。

 それでも集団で多方から攻められれば、残るダメージもある。髪を引っ張られた時なんかは痛かった。

 

「君に気にしてほしくなかった。僕らとの時間を心から喜んでほしかったから……だから言わなかった」

「わかっています。…………でも、私の気持ちも少しは、考えてくれてもいいじゃないですか」

 

 椎名の、気持ち……? 

 

「もらってばかりなんです。あなたには感謝しても足りないほど多くをもらっています。けどそれであなた自身が傷つくことは望んでいなかった。私のためを想っているのなら、そんな哀しいことをして欲しくなかったんです」

 

 望んでいなかった。それは浅川が動いた意味を失う一言だ。

 彼女のためにしたことが、彼女のためになっていなかった。

 

「でもそうしなきゃ……! 君は……」

「話してくれても良かったじゃないですかっ」

「――!」

「あなたにとって私は、ただ守りたいだけの存在なんですか? あなたが一方的に私に与えて、私は受け取るだけ。その関係を、『友達』と言えるんですか?」

 

 言葉が、でない。

 否定すればいい。自分もたくさんもらっていると。紛れもない友達だと反論すれば……しかしその全てが、口から出る前に霧散する。

 

「あなたが何を考えているのか、時々わからなくなることがある。私が歩み寄ろうとする度に、あなたは段々と『冷たく』なっていく……。人が持つべき温かさが、伝わって来ないんです」

「僕が、人でなしだって……?」

「またそうやって悲観主義を……あなたはそうやって怖がっているんじゃないですか?」

 

 椎名は我慢できなくなったのか立ち上がり、こちらに近づいてくる。

 ……やめろ。

 

「自分が本当は持っているはずの温かさを、隠そうとしているんじゃないですか?」

 

 来るな……。

 

「他人から何かを受け取るのが怖いんですよね? だから歪んだ形でしか、私が精一杯返そうとしたものをやりすごせない」

 

 気づけばもう、寸前まで迫っていた。

 

「浅川君」

「…………やめてくれ」

 

 前より強い力で――願いの表れだった。

 

「あなたには、私がどう見えているんですか?」

 

 とても寂しそうな、相手の顔が見えた。

 

「私は、()()()()()ですよ」

 

 初めて会った時と、ほとんど変わらない表情だった。

 沈黙の中、浅川の深い呼吸だけが反響する。

 こうなってしまっては、残された道は一つしかない。

 

「…………僕は、()()()退()()()()()()()()()()んだ」

 

 開口一番、椎名が目を見開く。こればかりはわからなかったらしい。

 

「自主退学、ですか?」

「いや、赤点だ。辞める理由を求めていた」

 

 堀北たちと協力する決意を固めるより前、浅川は本当に諦めかけていた。教育から棄てられることを待っていた。

 椎名がどこまで察しているかはわからないが、ホワイトルームの設立も、元は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だったのだ。

 

「その意思が変わったのは、色んな人の言葉があったからだ。勿論、君も含めて」

 

 佐倉と王から始まった。大人に本心と向き合わせてもらい、最後には椎名のおかげで志ざせた。

 あの時彼は、残るつもりではなかった場所に自分も入ることを決めた。

 

「あれからだ。君に対する感情が、歪み始めたのは」

 

 知らない感情だった。当然どう向き合えばいいのかなんてわからない。流されるまま、その歪みに溶け込んだ。

 今の椎名を見るに、それが間違いだったのだろう。

 

「僕は君を、友達以外の目で見るようになっていったんだ、多分。いつしか、ある記号でしか見れなくなって……それが君の言う冷たさだ」

 

 こちらが本能に身を委ねた時、決まって相手が誰かわからなくなった。異様な想像力が、椎名を認識できなくした。

 危機感はあった。しかし、どうしようもなかった。

 

「わからないんだ、君とどう関わればいいのか。初めて『家族』のように感じた君を、どう愛せばいいのかが」

「あなたは……」

 

 全く嬉しそうに見えないのは、浅川が言いたいことを曲がりなりにも理解している証拠だ。

 もう後に退けるとは思えなかった。いつまでもこの感覚は付き纏う。そう判断した浅川には、もはや『間違える』という選択肢しか残っていない。

 しかも、新たな別の危機が生まれた今となっては尚更だ。

 

「君は、椎名ひよりだ。僕の大切な――だから、僕は君といると幸せになれない」

「そんな、こと……」

「きっとこの幸せは不幸なんだ」

 

 次の瞬間、浅川は椎名の手を強引に掴む。

 

「――っ!」

 

 そのまま、ベッドにまで押し倒した。

 

「君は僕をどう思ってるの?」

「……、浅川、君」

「優しい人? 哀しい人? 好きな人? 嫌いな人? それとも」

「浅川君……!」

 

 今まで聞いたことのない掠れ声。その静止も聞かず、浅川は左手で椎名の両手を拘束する。藻掻こうとする脚も、彼女の股に自分の足を押し込むことで抑え込む。

 

「僕が君をそういう目で見たら、全うに愛したら――君はそれを受け入れられるの?」

「っ……」

 

 望んでいない、思ってすらいない。異常性を持つ言葉を並べていく。何一つ、自分何てものはなかった。

 正常なまま、異常を異常と理解した上で騙ることは、果たして異常なのだろうか。

 

「僕の愛し方を、きっと君は耐えられない」

 

 優しく、彼女の頬に右手を添える。暴走させる身体の中で唯一、本当を宿した手で――。

 目は逸らさない。傷つけている事実を焼き付けろ。これは天罰だ。大事なものを守るための代償だ。

 …………ごめん。

 嘘に塗れた狂気が、彼女を無造作に傷つけることを信じて。

 本当の自分は今、穢れを纏った悪魔を、冷めた瞳で眺めていた。

 




原作キャラにヘイトが向く内容は描けねえと思っていたら、オリ主には当然のように酷いことをさせていました。やっぱ虐めるなら自作のキャラですね。大事にしてないとかではありませんが、罪悪感なく業を背負わせられます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

嗚悦

5月10日 午後8時9分

浅川の部屋

 

 

 

「夕飯食ったか?」

「勿論」

「……量は」

「天ぷら一個と米一杯」

「足りてないだろ絶対」

 

 四人体制でのホワイトルームが始動した初日、風呂上がりの浅川は神崎に通話をかけていた。

 

「何の用だ? 態々電話なんてしてきて」

「別に今じゃなくてもいいんだけど、手持無沙汰だったから」

 

 それに、こうしてお構いなく会話を切り出せる関係値になった自覚が生まれたからというのもある。神崎初参加の一昨日では、少し気後れしていた。

 

「Cクラスの魂胆、確証はないけど仮説は立てられたよ」

「なっ――! 本当か」

「うん。君の言う通り、ただの悪巧みじゃないかもしれない」

 

 唐突な宣告に、身を乗り出す音がわかりやすく聞こえてくる。

 

「聞かせてくれ」

「この前生徒会長と会ったんだけど、生徒会の権力が滅茶苦茶強いことがわかったんだ」

「生徒会……? 例えばどんな具合だ」

 

 予想外の名前にたじろぎながらも、神崎は話を掘り下げる。

 

「抜き打ちのテストやら入学試験やらの点数を、新入生全員分閲覧する権利があったり、下手したら個人の経歴を閲覧する権利だったり」

「まさか……信じがたいな」

 

 個人情報まではわからない。高校生活に直接関わるものだけかもしれないが、いずれにせよ一般生徒にはとても許されない行為だ。敢えて少し、大仰に語った。

 

「教師陣以上に、僕らへの干渉力は大きいと見て差し支えないね」

「そうか。それで、一体Cクラスの意図にどう繋がるんだ?」

「Cクラスの狼藉は、監視カメラの死角で行われた。要は簡潔明瞭な検証が不可能ということになる。そういう問題はどう処理されると思う?」

「目撃者や関係者の証言、現場で発見された手がかりを元に第三者が、……! なるほど、引き出したかったわけか。上層部を」

 

 堀北が生徒会長に暴力を受けた件は全く公開されなかった。本来であれば公に咎められてもおかしくないはずなのにだ。つまり、生徒会長の独断で生徒会が関与しなかったということになる。

 その事実から、Cクラスは生徒会を筆頭とした権力の介入がどの範囲で適用されるのかを探っているという可能性に思い至ったのだ。

 

「となると、怪我をさせなかったのも……」

「表沙汰にならない程度というのは、言い換えるなら上が問題視するかどうかの瀬戸際を歩いていることと同義だ。そのシビアなラインを見極めようとしていたんだ」

 

 加減を間違えれば自分たちの非行が容易く証明され、そもそもの狙いが達成されなくなってしまう。だから派手な真似はしなかった。

 

「お前の言うとおりだとすれば、納得がいく。今回は攻撃ではなく寧ろ下準備の一環だった。アングラな手法をどれだけ大胆に、あるいは隠密に行使できるかを測る。……碌でも無い狡猾さだ」

 

 神崎もやっと、自分の中の疑問に区切りがついたようだ。

 浅川も、内心相手のやり口には舌を巻いていた。一つの仮説を検証するためだけにここまで危ない橋を渡り、かつ失敗していない。構成員の統率が取れている証拠だ。しかもそれによって得られる結論は、今後クラス対抗戦で見逃せない情報となっていく。

 ……やはりいるのだろうな。椎名以外に、頭の切れるやつが。それも恐らく一人ではない。 

 思考を巡らしていると、神崎が次なる論点に触れる。

 

「じゃあ、これからどうなっていく? このままギリギリな悪行を繰り返し、ゆくゆくは……」

「どこかで大きく動き出すだろうね」

 

 ほとぼりが冷めるなんてことはまずない。推測通りの目的であるなら、決定的なラインを実際に確かめようとするはずだ。つまりは生徒会が乗り出す事件を起こす。

 

「向こうがそこまで狙っていたのかはわからないけど、そろそろBクラスの鬱憤も溜まってきた頃合いだ。権力介入の一線を超えるついでに、そのツケを全部相手に押し付けようって魂胆だろう」

「……そうはさせない。こうなればいっそ、全て仲間に話して徹底的に耐え忍ぶ」

「…………確かに、一番確実かもしれないな、ソレ」

 

 ここぞという時のBクラスの団結力には信をおいている。というのも、今が一番結束の固い時期だろうからだ。

 クラス抗争が激化していない序盤で、纏まりの強いクラスを裏切ろうとする生徒はそう生まれないはずだ。一之瀬がリーダーという認識が定着したばかりなら、チームとしての士気もちょうど高まっている。呼びかけて意思を共有し実行するという手段なら、余計な工程を挟むこともない分Cクラスの思い通りにさせない上でうってつけかもしれない。

 

「ありがとう浅川。この件でよもや他クラスの人間に助けられるとは、初め思ってもみなかった」

「巡り合わせってもんさ。それに、僕にも得がある。これで椎名を助けてやれるかもしれない」

「椎名を? どういうことだ」

 

 暫く迷っていたが、彼には話しておいてもいいだろう。個人の信頼としては綾小路には一歩劣るが、ホワイトルーム内の関わりにおいて――今回対象が椎名だからというのもあるが――一番頼りやすいのは同性の神崎だ。

 不測の事態というものが起きたら、自分独りでカバーするには厳しいこともあり得る。諸々を鑑みて、神崎には自分の計画を赤裸々に明かすことに決めた。

 

「少し長くなると思うから、今度直接会った時に説明するよ。それより、一つ聞きたいことがあるんだけど」

 

 それに彼なら、思うところがあってもこちらの意思を尊重してくれるはずだ。

 

「グラビアアイドルについて詳しい?」

「は……!? な、何だ急に」

「いやね、――『雫』って子なんだけど」

 

 それから二ヶ月後、二人が導き出した答えの通りの事件が起こった。

 標的がDクラスの生徒だったという、「不測の事態」を伴って。

 

――――――――――――――――――――――――――――

7月10日 午後5時46分

ケヤキモール

 

 

 

 佐倉のGPSが指し示している座標へ向かうと、大きな人集りができているのが見えた。間違いない、何かが終わった後だ。警官もいる。

 野次馬をかき分け中心に入り込むと、途端に男の喚き声が聞こえてきた。

 

「ふざけるなぁ!」

 

 あれは……佐倉のストーカーか。警官が拘束したまさにその瞬間のようだ。

 

「僕と雫ちゃんの愛を馬鹿にしやがって……! お前たちなんかに、僕たちの何がわかるっていうんだ!」

 

 恨み節のように、彼は所謂自分と彼女の『仲』を力説している。

 

「毎日僕のためにお仕事頑張って、手紙のやり取りまでしてくれて、二人きりで会うこともできたんだ。なのにこんな仕打ち、あってたまるかよ――」

「黙れ」

 

 もういい。もう十分だ。

 お前の想いは伝わっている。ドス黒く、不幸しか招かないウイルスだ。

 ぐだぐだ喋るな、口を慎め。

 

「仕事がお前のためだと誰が言った? 手紙の返事が一度でも来たか? ――佐倉はお前に、一度でも笑顔を向けたのか?」

「な、何だお前。お前まで否定するのか――いいか、僕らは見えない糸で繋がっているんだ。だから口にしなくたって」

「好き、という一言さえもか?」

「へ……?」

 

 ……嗚呼、成程。今ならわかる。オレは、鶏冠に来ているぞ。

 佐倉の下へ歩み寄りながら、目線は男に向けてオレは言う。

 

「お前が愛と呼ぶものを散々こいつに押し付けて、何か一つでも応えてくれたのか?」

「そ、それは……」

「それとも、それも言わなくてもわかる、か? お前の好きになった彼女は、そんな好意さえ真艫に伝えられない女の子なのか」

 

 全部、伝わっているんだよ、佐倉にも。

 だから、こうして彼女は泣いているんだ。

 

「優しいこの子がお前に微笑まなかった時点で、お前の腐った恋は終わっているんだよ」

 

 佐倉自身のことを語られたからだろう、それでいて解釈を否定できない。そんな彼に残された希望は当然、たった一つしかない。

 彼は淀んだ瞳を佐倉に向けた。

 

「ち、違うよね雫ちゃん。ちょっと照れくさいだけで、上手く伝えられなかっただけだよね?」

「――!」

「いい言ってやってよ、このわからず屋に。僕らの心は一つだって」

「……」

「さあ!」

 

 涙ぐんだ顔が、強い色を発する。

 心当たりがある。これは、何か決意を固めた者の眼だ。

 

「さっきも、言いました」

「え?」

「私は、雫じゃありません」

 

 今度は、敵から目を逸らさなかった。

 

「佐倉愛里は、あなたのことなんて大っ嫌いです!」

 

 静かな喧騒の中、激情がようやく轟く。

 ――よく言った、佐倉。お前は強い女の子だ。

 

「あ……あぁ、そんな……何で、雫ちゃん。雫ちゃん……」

 

 相も変わらずその名前を口ずさむ男は、決定的な一言に完全に熱意を喪失したようだ。一切の抵抗なく、警官に連行されていく。最後まで、模範のようにダサい大人だった。

 

「佐倉っ」

 

 山場を超えたことを理解したオレは、すぐに佐倉の容態を確認する。外傷は無し、精神的な問題も、さっきの様子だと無さそうだ。

 

「あ、綾小路君ちょっと……」

「ん?」

「恥ずかしいから……」

 

「え」何か気に触れることをしてしまっただろうか。あんなことの後だ、あの男と同じように思われるのは御免だ。とりあえず離れる。「わ、悪い」

 

「いいの、大丈夫。綾小路君も、助けに来てくれたの?」

「ああ。恭介に任せたつもりだったんだが――そうか、あいつが言っていたのは、お前たちのことだったんだな」

 

 先程からひっそりと状況を静観していた二人に声を投げる。

 

「本当にありがとう。神崎、神室まで」

「感謝されることじゃない。助けない選択肢なんてなかった」

「神崎だけで十分だったと思うけどね」

「俺が浅川からの連絡に戸惑っている間に一目散に飛び出して行ったやつが、何を言っているんだか」

「ちょ――バカ、余計なこと言わないでよ」

 

 これだけ二人が仲良くなれたのも、あのグループの賜物か。

 

「恭介は何て?」

「佐倉が危ないから、自分が行くまで見張っていて欲しいと言われたんだ」

「見たところ、あいつの姿は見えないが……」

「それ、私も気になってたんだけど」

 

 鈴音の誘拐事件は解決したはずだ。発見者として事情聴取でも受けているのだろうか。神室も知らないようだし、緊急の可能性が高い。

 

「神崎は何か聞いてないの?」

「え!? ああいや――何も」

 

 ……オイオイ。

 

「何か知っているのか?」

「…………浅川には、後で土下座しなくてはならないな」

 

 やたら重い口を、神崎は開く。

 

「椎名に呼ばれた、とだけ」

「え、それのどこが、」

 

 後ろめたいんだ? と、言い切ることができなかった。

 彼の隣で明らかに血相を変えた神室を見て、思わず言葉が止まる。

 

「…………あんたそれ、止めなかったの?」

「あ、ああ」

「何で? 今のひよりに浅川と会わせたらっ……」

「――! 待て、神室お前、気付いていたのか?」

「当たり前でしょ、ひよりに相談されて……。あんたは?」

「浅川からだ」

 

 話の流れについていけない。恭介と椎名の間で、何らかの確執が生まれているということか? とてもそんな二人には思えないが。

 

「早く行くよ! 間に合わなくなる」

「だ、だが」

「ここは綾小路に任せた方がいいだろうから」

「……っ、わかった」

 

 そうして二人とも、全速力で寮の方角へ向かっていく。

 大丈夫だろうか。しかし神室の言った通り、オレはこの場にいた方が良さそうだ。

 

「あの二人って、やっぱり浅川君と綾小路君の友達だったんだ」

「二人から聞いたのか?」

「うん、浅川君に頼まれたって。でも、最初に言い出したのは綾小路君、だったのかな?」

「まあ、そうなるな。お前の問題を知っていたのは、オレだけだったみたいだし」

 

 冷静に思い返すと、あの時オレが話を持ち出さなかったらかなり危険な状態になっていたのかもしれない。恭介は本当に気付いていなかったのか?

 

「……ありがとう。須藤君の事件で、元々忙しかったはずなのに」

「そっちの方は何とか勝てたから大丈夫だ」

「本当!?」

「ああ。それに約束したからな、できる限り力になるって。尤も、全部終わった後だったわけだが」

「そ、それでも嬉しかったよ。私のために、怒ってくれたし」

 

 オレの脳裏に過ったのは、「怒ることで心が癒える者もいるのだな」という、場にそぐわないであろう学びだった。須藤の事件も仲間への情熱が裏目に出た結果だったため、考えが偏りかけていたかもしれない。

 

「……私、ダメだった」

 

 佐倉は性格以上の弱々しさで、そう語りだした。

 

「何とか自分を変えてみて、仕事も辞めて、それでもう大丈夫だって思い込んでた。自分のことくらい自分で解決して、成長したんだって証明したかったの。だけど……」

 

 自分は驕っていた。そう言いたいのだろう。部分的にはその通りかもしれない。この一件は、佐倉独りで背負うには重すぎた。だから実際、解決した場にはあの二人と、遅れて来たオレがいた。

 だが、それは決して間違いなどではない。

 

「お前は、空回りしてたんだよ」

「空回り?」

「オレたちの姿を見て、自分も頑張らきゃと思ったって、言ってたよな?」

 

 小さい首肯が返ってくる。

 

「もしそうなら、お前はまず誰かを頼るべきだった」

「な、何で……? 私も自分の力で、自分の問題は解決したかった。みんな頑張ってるのに。綾小路君たちも、浅川君も……」

 

 見えてこなかった違和感の正体。佐倉がそうまでして独力での解決を望む理由――原因はオレたちにあったようだ。

 

「確かに各々、須藤を救うために動いている。それは認める。だが、お前は一つだけ勘違いしているぞ」

「え?」

「オレたちは、みんなで戦っているんだ」

 

 嗚呼、やはりまだ、少し足りない。今はまだ、『言いたい』言葉ではなく『言うべき』言葉だし、それを思い浮かべる時はいつも自分ではない誰かがついて回る。

 審議に居合わせていたわけでもない佐倉は、首をどちらに振ればいいか、判りかねているようだった。

 

「今回の審議で、一度大きなピンチに陥ったんだ。その時、ある証言が突破口になった。それはオレ独りでは引き出せなかったものだ。――池のおかげだったんだよ」

 

 柚原医師に話を聞きに行った時、最後の最後で池が追及しようとしなければ、『傷がガーゼに血が滲むほど新しい』という情報は手に入れられなかった。あいつの努力が、Cクラスの捏造を証明する決め手に繋がった。

 

「山内にも助けられた。Cクラスの嘘を証明するためにある証人の力を借りたんだが、そこまで導いてくれたのはあいつだった」

 

 外村が最近ドローンを見せてくれたことがあること、機械系の部活からこまめに資材を譲ってもらっていたこと、全て山内から得た情報だった。

 

「そして神崎たちBクラスは、終わりかけていた審議を今日まで引き伸ばしてくれた。――オレ独りでは絶対に勝てなかったと断言できる」

 

 できるだけ優しく、諭すように。

 

「遠慮があるなら、敢えて強めに言おう。――もっと頼れ」

 

 恭介が鈴音を支えた時と似ている。佐倉も、全うな意志を向ける方角がズレていた。それを修正してくれる誰かがいれば、何ら問題はないのだ。

 受け入れる勇気が、本人にさえあれば。

 

「…………うん――うん、ごめんね。私……」

 

 きっと、緊張が今頃になって解けたのだろう。

 

「あれ? おかしいな……私本当は目悪くないのに、なんか今は、綾小路君の顔、よく見えないや……」

 

 感情を垂れ流す佐倉に、オレは何も言わなかった。それが一番の正解に違いないから。

 ふと、自分の違和感に気付く。

 いつの間にかオレは、彼女の頭に手を置いていた。多分、頼れと言ったついさっきだ。

 どうして、こんな挙動を……何を思ってこんな……。

 いつものオレなら、異性に触れること自体何だか恐れ多く感じて、これといった事情がなければできないはずなのに。

 反射的に、柔らかな髪から手を離す。

 しかし……

 

「…………」

 

 その手を、漫然と見つめてみる。

 ……これも、証なのかな。

 

「頑張ったな、佐倉」

 

 オレはもう一度、置くべき場所に温もりを置く。

 今度は自分のことも、宥めるように。 

 

 

 

同日 午後5時58分

学生寮

 

 

 

 逸り気味に駆ける神室に振り回されるように、神崎は後に続く。

 神室の言う通り、最近の二人は様子がおかしかった。見えない部分が掛け違えているような感覚は、浅川から今回の事件での行動方針を聞いてからというもの、膨れ上がるばかりだった。

 ただ、それが椎名と神室の間でも共有されていることは知らなかった。あの椎名が他人に重く相談するほど、思い悩んでいた?

 じきに寮が見えてくる。歩けば三十分前後かかる道だが、全力疾走の二人は十分少しでたどり着いた。

 胸騒ぎに付き纏われながらロビーに入り――エレベーターは使用中だ。四階までなら階段で登った方が早い。

 同じ選択をした神室を追い掛けようとし、人の気配に気付く。私服姿の誰かがポストに何かを入れている。帽子を深く被りオーバーサイズのパーカーとジーンズ、季節に対して少し暑そうだ。

 ポストの中にかなりの量が投函されているのが見えた気がするが、圧倒的に優先すべき事項があるため、そこで思考はキャンセルした。

 あっという間に、浅川の部屋の前。

 まるでお化けと戦うかのように、二人でうなずき合い恐る恐る扉を開ける。――鍵は基本開いている。

 

 

同日 午後5時59分

浅川の部屋

 

 

「ひより!」

 

 すぐに飛び込んできたのは、ベッドの上で壁に背を預けて座る椎名の姿だ。

 泣いている……。

 

「ひより、しっかりして……」

「真澄、さん……?」

「大丈夫だから。ひより、大丈夫――」

 

 反射的な行動だったのか、神室は椎名を抱きしめ徐ろに背中をさすり始めた。自分はその光景をただ見つめることしかできない。

 

「……私、取り戻したかっただけなんです」

「……うん」

「壊れてしまう前に、みんなで初めて集まった頃に戻りたくて……だから、」

「わかってるから――」

「……っ、初めてです、他人のことで、こんなにショックを受けたのは」

「ひより……」

「彼は、私にとって……本当、に……」

 

 再び感情が溢れ、むせび泣く椎名。神室は何も言わずに添い続ける。その表情は見えなかった。

 神崎は呆然としつつ、明らかな後悔に苛まれた。

 自分が何もしなかったからこうなった。もし浅川に何か言葉をぶつけていれば、こうはならなかったのかも――。

 だが一方で、どうすればよかったのだという諦念に近い感情も過る。

 自分の言葉で何が変わった? 浅川の胸を叩いたか? どのみちアイツは、これを決行してしまっていたのではなかろうか。ただ自分に何も教えないという要素が加わるだけで。

 そもそも自分が知らされた時には、全ての準備が整った後だった。降りられない船に乗らされていた。不幸しか約束されていない情愛の船に。

 できることなど、何もなかった。やり場のない無力感に、拳を握る力も湧かない。

 宿主のいない室内で、彼を想う少女の慟哭だけが、儚い旋律となって響いていた。

 

 

 

7月10日 午後6時

 

全事件、終了

 

 

 




今後も日時と場所を示していくかは未定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

周異

 

 雨降りしきる中、自分の不規則な足音と、お供の規則的な足音が響く。

 雨に特別苦手意識はないが、難儀だとは思う。荷物がないのに片手は杖、片手は傘で埋まってしまうのだから。

 

「何の用だったの? 理事長なんかに会いに行って」

 

 隣で寄り添うように歩く神室が訊く。彼女と『お友達』になって以来、徐々に自ら会話を切り出してくれることが増えてきた。少しは心を開いてきてくれているのかと、内に秘める無邪気さとは裏腹な柔らかな感情が湧いてくる。

 

「個人的な話ですよ。すみませんが、トップシークレットなもので」

 

 ただ、生憎掘り下げられる話題ではない。因みに個人的というのは、厳密には坂柳個人という意味合いではなく――。

 

「ふーん……。まあ親がそんなお偉いさんともなると、偶には肩書と切り離した話も積もるものなのかもね」

「おや、お父様だとご存知で?」

「挨拶程度は最近した。浅川たちと色々あった際に、ちょっとね」

「……」

「え、何、どうしたの?」

 

 言いたいことは、いくつかあった。

 神室はこちらが何も知らないと思い濁したのだろうが、彼女の言う機会というのは綾小路と浅川が入れ込んでいる堀北鈴音の拉致・監禁事件のことだろう。訳あって、坂柳も秘密裏に処理されたその事件について父から聞き及んでいた。

 先刻理事長室を訪ねてした会話も、実はそれが関係していたりする。

 しかし、浅川が関与していたのは初耳だった。解決した際のことまではあまり詮索していなかったからだ。確かに目星の付いている犯人のことを鑑みると、ある程度の思考力がなければ堀北を発見することは困難を極める。

 そしてもう一つ。

 

「……少しだけ後悔というものがありまして」

「は? あんたが?」

 

 最近の神室は浅川とその身内との交流がやたら多くなっているようだった。稀にポロッとそのグループでの出来事を雑談として語られるくらいにはだ。

 神室を浅川のもとへ送り込んだ時はまだ、浅川の手の内を知らなかった。正直彼女がここまで浅川たちと打ち解け合うのは想定外だったのだ。

 善いことではある。消極的な彼女にしては、そういった関わり合いが良い作用をもたらすことは言うまでもない。ただ、どことなくモヤモヤする感覚があった。

 ……決して嫉妬とか、寂しいとかではない。と、思う。

 

「相変わらず、浅川君たちとは仲が良いんですね」

「……っ、うん、まあね」

 

 おや……?

 基本的に神室はわかりやすい反応が多い。今回も、詰まり気味な返しに違和感を覚えた。

 関係に翳りが差しているのだろうか。どのみち自分には何ら関係ないことであり、大して興味を唆られる予感もないのだが。自分が出した指示を全うすることさえできれば、及第点だ。

 

「他クラスとの交流は自由ですが、程々にしてくださいね」

「わかってる、あんたに支障が出ないようにはするつもり。元々浅川だってそのつもりでホワイトルームを開いたんだから。…………坂柳?」

 

 神室が眉を顰め、そして困惑を浮かべる。

 それもそのはずだ。自分は今、とてつもなく唖然とした表情になっているだろうから。足も止まってしまった。

 

「い、今、何と?」

「え? だから、あんたに害がないようには気を付けるって」

「その後ですっ。浅川君が、何を開いたと?」

「はぁ、ホワイトルームのこと?」

 

 これは……偶然?

 確かにあの施設に足を運んだ時、綾小路に釘付けだったのは事実だ。しかし、当時検体だった子供の顔は全て記憶していたことにもまた自負がある。その中に浅川の顔は間違いなく含まれていなかった。

 途端に彼の存在が不気味さを帯びる。普通の経路でその名前を知ることはまず不可能だ。一体どこで、どうやって知った? 綾小路が打ち明けたのもあり得ないはず。

 

「浅川君は何故その名前に?」

「白いキャンバスがモチーフで、自分たちの時間が色を与えるんだとか何とか。あいつの部屋、最初は本当に何もなくて、その時は的を射ているなってみんな思ってた」

 

 少なくとも、自分の知るホワイトルームには全く掠らない由来だ。寧ろ明らかに好意的な解釈に偏っている。

 正直、今の段階で結論を出すことはできない。彼が綾小路を退学にするためにホワイトルームから送り込まれた刺客だとは思えない。彼が綾小路に見せる感情は嘘ではない、はずだ。お得意の演技という可能性が否定できないのが辛いところだが。

 今はまだ、保留ですね……。

 思考の海に沈んでいると、不意に神室が前に立った。

 

「神室さん……?」

 

 奥を覗くと、霧雨でぼやけた向かいから四人の人影が現れる。そのうちの一人は、既に認識している姿だった。

 

「あなたは確か、Cクラスの――」

「ハッ、坂柳か」

 

 龍園翔。学年を騒がせた事件の計画者。こんな風情のない邂逅になるとは。

 

「珍しいな。普段女王様気取りを怠らないお前が、女一人しか連れていないとは」

「そんなつもりはありませんよ。下のクラスにしてやられたどこかの王様気取りのようには、なりたくありませんので」

 

 相手の眉間に皺が寄る。それを察したかのように、手下の三人が一歩前に出た。一触即発の空気。

 

「お前の使えない身体を補うには、人手が少し足りないんじゃねえか?」

「御冗談を。例え今ここで暴れようと、損をするのはあなた方だけですよ」

「ククッ、そんなつもりはねえよ。どうせ近くに忍ばせてんだろ、別の従者を」

 

 この湿気でも、良く利く鼻だこと。直感ありきの返しだろう。神室以外に控えさせているのはその通りだが、存在自体を看破したわけではないはずだ。裏方という意味で自分が最も信を置く人間に任せている。

 

「そうですか。人を攫うことも厭わない野蛮なあなたなら、やりかねないと思いまして」

「人を攫う? 何のことだ。……まさかアイツか、勝手な真似を……」

 

 龍園の反応は予想通りのものだ。堀北の拉致がCクラスの画策ではないことには見切りがついていた。

 

「退屈な余興でしたね。外野の私からすれば」

「安心しな。DクラスもBクラスも、俺が潰す。そしたら次はAクラス、お前を潰す。最後に勝つのは俺だ」

「あなたにできるでしょうか? Dクラスに一度出し抜かれた、あなたに」

「問題ねえ、寧ろネタは割れた。あのクラスにも面白ぇやつがいるみたいだな」

 

 幹部を引き連れ、自分の側を通り過ぎていく。

 

「目下の遊び相手は――――綾小路だ」

 

 こちらの反応を待たず、足音は消えた。

 

「……フフッ」

 

 駄目だ、抑えられない。

 これからだ。これから、愉しみの絶えない日々が始まる。

 そう思うと、これが笑わずにいられるだろうか。

 彼がどう動くのか、何を見せてくれるのか、考えるだけで高揚感が押し寄せる。

 過去最大の愉悦を、坂柳は感じていた。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

「凄かったですね、綾小路君」

 

 生徒会室に、長らく聞き馴染んできた声が反響する。

 

「あの状況から須藤君を救うなんて、会長には彼の力量が最初からわかっていたんですか?」

「……見る機会があってな」

 

 初めはこちらの見る目を疑っていた橘だが、今ではその様子は微塵もない。一気に綾小路のことを優秀な後輩だと確信までしているようだった。

 無理もない。何も知らない二つ下のDクラスの一生徒など、少なくともこの早い段階で生徒会役員候補の素質があるなどとは信じがたいものだ。寧ろ安々と認める方がどうかしている。

 

「中間テストが差し迫っていた時期にも、態々ここで談笑していましたよね」

「…………」

「会長?」

「そうだな、有意義だった」

 

 彼女には何と言えばいいのかやら。このまま秘匿しておくのが吉だろう。

 不甲斐ないものだ。これまでの生涯で最も焦りを抱いた瞬間を、よりにもよってあの二人に突かれてしまったのだから。

 暴行の瞬間を捉えた監視カメラ映像をダシに「取引」をしたとを橘に明かすことはほんの少し、ほんの少しだけ嫌だった。子供っぽい惨めな見栄ではあるとわかってはいるが、これくらいのプライドは許して欲しい。

 二人も言っていたが、妹のために施しをしたわけではない。Dクラスである二人と対等な取引をした結果、クラスの躍進を志す妹を後押ししただけだ。

 そんなことも露知らず、橘は揚々と今回の一件について再度語る。

 

「会長のご判断にも納得です。あの思考力と問題解決能力、何より仲間である須藤君を信じて諦めず戦い抜く覚悟は、確かに生徒会に入って不足ないと思います」

 

 かねてより生徒会長は、綾小路を生徒会に勧誘するつもりでいた。単に本校最上位の優秀さを誇る人材として、そしてあはよくば、この学校を容認し難い形態へと変えかねない巨大な勢力に対抗する人手として、目をつけていた。

 だが、

 

「…………いや、あの話は無しだ」

「無しですか。……へ、ナシ?」

「書紀の席はまだ、空けたままにしておこう」

 

 あのような約束をしてしまった後では、な。

 守る義理などない。破ってしまったとしても、彼の言い条からして咎められることはないはずだ。

 しかし、あの真剣な眼差しに対して引き受けた以上それを身勝手に反故にするなど、自分が最も認められないことだ。

 彼の先輩として、学校を背負う生徒会長として、一人の漢として、どの自分も、自分を許せないだろう。

 だからこそ、その手前綾小路を生徒会に招くのは、彼の願いを裏切る皮切りになってしまう。彼が彼のしようとしていることにケリが付くまでは、手を出してはならない。そう判断した。

 

「そう、ですか……」

「不服か?」

「い、いえ、滅相もない! ただ、善き後輩が身近にできたら嬉しいなと思っただけです」

 

 恐らく本心だろう。しかし、綾小路と橘を引き合わせるのは別に望ましいことだとは思えなかった。相性がハマるかどうかは、やってみなければわからないくらいには運次第だと見ている。

 それに、自分と橘を男女の関係だなどと邪推した彼に、あれ以上調子に乗った発言をされたくないというのもある。

 

「でしたら、浅川君は?」

「……」

「会長が綾小路君と一緒に目をつけていた生徒でしたよね? 確か、筆記試験が二位の成績だったにも関わらずDクラスに配属された稀有な生徒だと。初めは彼の方が生徒会候補として理解はできました」

 

 橘の見解は一般的なものだ。全科目五十点より学年二位の方がわかりやすく優秀と判断される。この学校のクラス分け基準は学力のみではないが、学力も勿論一つの要素だ。普通の経歴であれば、浅川の学力でDクラスに配属されることはまずあり得ない。

 ……その事情が、触れるには躊躇ってしまうような重さを秘めているように感じるのは気の所為かは知らない。

 

「あれはダメだな」

「辛辣っ。何故です?」

「理由が明確であるなら、そもそも最初から候補に入れなかった」

 

 明確な理由、あるにはある。浅川を生徒会の抱える問題と、具体的にはその元凶たる人物と引き合わせてはならないと思うからだ。浅川と初めて会話をして、すぐに生徒会候補から除外した。

 しかし、それはあくまで直感であり、根拠がない。只者ではないが本質に混じり気がない綾小路と違い、彼には何か混沌めいたものを感じるのだ。まるで複数人の意思が内在しているようなチグハグな印象。もし本当なら、言語化が難しいのは当然だ。そのような人間と出会ったことなどないのだから。

 

「……そういうことか」

「会長?」

 

 改めて整理してみて、ようやく仮説が出た。

 もしや自分が危惧しているのは、浅川だけではないのかもしれない。あの危うさは人を巻き込みかねない。相手に伝染してしまう病のようなものだ。ということは……。

 こちらに仇なす存在だというのに、我ながらお人好しが過ぎるな。

 

「兎に角、席は一つ空けておけ」

「一之瀬さんや葛城君も、誰も入れずに、ですか?」

「ああ」

「……わかりました」

 

 いずれその時が来たら、直接彼に問おう。善き答えを期待して。

 引き入れたいという願いだけではない。それはまた約束にも似た――後輩への気遣いだった。

 そこに微々たる優しさが含まれていることなど、誰も知る由はないだろう。

 それほどまでに、この少年は厳格で、聡明で、不器用なのだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

意識が戻ったのは、病室だった。

 

「ん……」

 

 身体の気怠さと、僅かながらの痛みに、思わず息が漏れる。

 ゆっくりと身を起こすと、一人の影に気付いた。

 

「体調はどうだ」

「先生……特には」

 

 段々と状況を理解すると共に、自身がここに至るまでの経緯を朧気ながら思い出した。

 

「腹が減っているだろう。食べ物は喉を通りそうか?」

「ええ、軽いものなら」

「用意させる。少し待っていろ」

 

 そうしてすぐ、目の前にお膳が差し出された。栄養バランスを考えられた良好な献立だ。

 まずは一口。――ほっぺたが落ちるとはこのことか。額縁通り久しぶりの食事に、口内で激しく唾液が分泌されるのがわかる。

 ややはしたないかもしれないが、いつもよりずっと急いだペースで採り終えた。というのも、その間黙して部屋で待機し続ける茶柱に、色々と聞きたいことがあるのを気遣っているのだろうと察していた。

 

「今は、いつですか?」

「7月11日火曜日、午後1時23分。お前が姿を消してから四日後だ」

「そう、ですか……私がいない間のクラスポイントは?」

「……この件は理事長が重く受け止めている。当然減点はない。――全く、この期に及んでクラスの心配とはな」

 

 本当に呆れているらしい。深い溜息に、顔を顰める。

 

「うちのクラスで真相を把握しているのは、浅川と綾小路、須藤の三人だけだ。表向きお前は『事件の捜査中に熱中症で倒れた』ということになっている」

「……兄は?」

「知らないはずだ。知らせた方がいいか?」

「……いえ。大事には至っていませんし、必要ありません」

 

 どうして須藤まで知っているのかは判然としないが、情報規制がなされたことは理解した。「うちのクラス」ということは、他クラスには知っている人間がいるのだろうか。

 

「須藤君の審議は?」

「綾小路が勝ってくれた」

「綾小路君……」

「詳しくは聞いていないが、浅川も裏で動いていたらしいぞ」

 

 あの状況からどう逆転したのだろう。実績を出した綾小路には勿論、事件の対処と自分の救出を同時並行でやってみせた浅川にも目を剥いた。

 

「……堀北。その、すまなかった」

「え?」

「学校の一職員として謝罪する。この一件は学校側の、言わば不手際だ。管理体制が脆弱だったからこそ起きてしまった。お前には、訴える権利がある」

 

 学校の敷地内で起きた事件だ。確かに謝る道理はある。だが、仕方のないことだとも思う。

 自分は明らかな死角から襲撃を受けた。例え誰かが監視していたとして、自分の拉致が防げていたか怪しい。その上、監禁場所は寮室だ。これから対策しようにも、さすがにプライベート満載の空間にまで眼を置いておくのは、教育機関としては本末転倒だ。

 だから堀北は首を横に振る。

 

「そんなことをするつもりはありません。私が咎めるべきなのは、私を気絶させて監禁した犯人です」

「堀北……」

「みんなは、浅川君やあなたはどこまで把握しているんですか?」

 

 最後に意識があった時、浅川と成人男性――恐らく理事長だろう――が話をしていたこと、浅川が部屋を出て暫くして茶柱が現れたことは覚えている。ただ、どんな内容だったかは記憶できていない。

 茶柱は浅川から推理を聞いていたようで、その中身をきめ細かく教えてもらった。

 

「合っているか?」

「……さっきも言いましたが、私はほとんど気を失っている状態でした。犯人の特徴も視認できていませんし、どうやって移動していたかもわかりません。ただ、途中何度か担がれて揺れていた記憶は何となくあります」

「そうか。ならあいつの推理は的外れではなかったようだな。犯人がお前の行動を操作していたというのは?」

「……それも、全て合っています」

 

 寧ろそっちの方が驚きが大きかった。監禁中よりも実感があったことだから。

 

「ただ、一つだけ釈然としないことが……」

「それは……?」

「動機です。この事件を起こすには、あまりにコスパが悪いと思います」

「Cクラスが須藤の事件に追い打ちをかけたわけではない、と?」

「暴力事件は圧倒的に相手が有利なはずでした。なのに、態々それを盤石にするために更に悪質な事件を、それも今度こそ自分たち以外に非を押し付けられないものを起こすのは矛盾している」

 

 Dクラスの生徒が立て続けに巻き込まれいるため安易な結論を付けがちだが、多大なリスクを負うことと天秤にかければ、少なくとも拉致・監禁などという突飛な発想はあり得ないだろう。

 

「なら、犯人は別の目的があってお前を攫った?」

「犯人がCクラスだと決めつけるには、早計かもしれません」

「心当たりは、あるわけないか……」

 

 疑問を提示するのが精一杯だ。犯人の素性がわからない以上、当人自身の事情だったのか、堀北への感情による犯行だったのかさえわからない。恨みという点で一番疑わしいのは櫛田だが、彼女は当時王に謝礼を伝えに行き、そのままケヤキモールで時間を消費していたことが確認されている。アリバイがあるのだ。

 

「すみません。私が犯人の顔だけでも見ることができていたら……」

「何を馬鹿な。お前が謝るなど筋違いも甚だしい。お前がこうして無事に見つかった。おまけに須藤も無傷放免。ほとんど浅川と綾小路の手柄だが、最高の結果だ」

 

 悪い側面に当てはまるのは犯人が捕まっていないことだけだ。二つの事件はどちらも善い側面として結末を迎えている。

 それに、これから学校側が敏感になることを顧みれば、大胆ながらも賢明な犯人が二度も同じ真似をするとは考えにくい。

 少々、ナイーブになってしまっていたようだ。でも――

 

「……」

 

 どうしてだろう。なかなか気が晴れない。燻ぶる思いは身体の重さだけではない。自分を責めたくなるような感情が拭えない。

 直感的に、あの二人の少年に纏わるものだと認識する。

 

「聞きたいか? 堀北」

「はい?」

「綾小路がどうやって須藤を救ったか」

 

 動揺を隠せなかった。まるで心の中のしこりを見透かされたような。

 

「…………いえ、必要ありません」

 

 逡巡し、否定する。

 

「その様子だと、推測も浮かばないみたいだな」

「……私が拉致された日、彼は『審議されない方法』を提示しました。盤外戦術の類、でしょうか」

「何だ、そこまで答えられるなら上出来だ」

「そんなわけっ……。私には、自分の盤上のことしか頭が回りませんでした。ヒントを誰かに与えてもらって、それでやっと見えてくるのでは遅いんです」

 

 先生は再び溜息をつく。しかしそれは、ただ呆れているのではなくにわかな愛着を抱いているような、丸い感情が覗いていた。

 

「それができている綾小路が言っていたはずだ。不良品には不良品なりな成長の仕方があると」

 

 壁に預けていた身を起こし、彼女はこちらに歩み寄る。

 

「お前たちがAクラスへ上がるためには、いやそれ以上の意味が、綾小路を理解することにあるということは、もう疑ってはいまい」

「……」

「思うに、相乗効果だろうな。浅川の存在が、お前にその学びをわかりやすくした。綾小路の中にあるものを、僅かでも浮かび上がらせた」

 

 記憶に新しいのは、屋上で綾小路が現れた時だ。決意を述べる彼には、何かに抗おうとする濁りが見えた。

 

「何故、綾小路は事なかれ主義を掲げていたと思う? 何故途端にそれをやめ、お前たちに協力するようになったと思う?」

「それは……」

「私個人の見解だが、Dクラス最大の不良品は綾小路だ。それをあいつは自覚し、改善に励んでいる」

「彼のどこが、欠陥だと?」

「知ろうとするのは善い心掛けだ。――その答えは、私に意見を求めるべきではない。お前の眼を以て確かめ、自分がどうすべきかを決めろ」

 

 先生は来客用の椅子に座り――相変わらず鋭いが、ほんの少し柔らかな瞳をこちらに向ける。

 だからだろうか。不意に質問を加えてしまった。

 

「なら、浅川君は? 彼は、一体……」

「あいつは、どうなのだろうな。あいつといる綾小路は、比較的自分の成長や他人との関わりに愚直になる。その点においては優秀な付属品なのかもしれない。だがその通りなら、もしかすると、永遠に……」

「永遠?」

「……いや、忘れてくれ。兎に角、お前が見るべきなのは綾小路か、綾小路と浅川が生み出す化学反応そのものだ」

 

 彼女は慣れない動きで、堀北の頭に手を乗せる。

 突然のことに、思わず驚きの声が漏れてしまった。それほど、想像のつかない行為だった。

 

「ゆっくりでいいんだ、堀北。お前は変わっているよ、善い方向に」

「……どうして言い切れるんですか。私は今回、何もしていません」

「わかるに決まっているだろう。私は、お前の担任なのだからな」

 

 先生は徐ろに立ち上がり、扉を出る。

 

「見届けると言った。その約束に嘘はない。――今は、しっかり休め」

 

 そう言い残して、姿を消した。

 

「………………私は」

 

 虚力に押しつぶされるように、半身を倒す。

 色々な感情が入り混じる。どれも胸を圧迫し、ただ傷口を塞ぎようのない苦痛が拡がっていく。

 不甲斐ない。何とも不甲斐ない。自分は須藤を助ける手段を見出すこともできず、あまつさえ正体も碌にわからなかった人間に攫われ迷惑をかけた。とても、Dクラスの結果には見合わない凄惨さだ。

 もう、起き上がる気になれなかった。前に乗り出し俯くには、腺に溜めた水分が多すぎた。

 重力と、質量を錯覚する朽ちた自尊心がのしかかる。

 そこにトドメをさすように、先刻の先生からの慰めが鼓膜から脳に訴えてくる。いつもあんな言葉を聞かないからこそ、余計に海馬に焼き付いた。

 何の気もなく、左腕で視界を塞ぐ。

 少しだけ、何も考えなくていい時間が欲しかった。思う存分休める現状に、こんなに感謝したことはない。

 嗚呼、病院での休息が必要なわけだ。

 今は照明の眩しささえ、この脆い目には毒だった。

 




今後わざわざ回想にして細かく書くのも間延びしてしまうので、生徒会長の言う取引については今回で触れておきました。流し読みの人にもわかるように説明すると、
・『カラマーゾフ』でのオリ主の発言にある「一歩前でステイ」というのは、寮の表の監視カメラに映る一歩前のこと
・会長の攻撃を一歩後ずさって受けたことで、その暴行がカメラに映った
・それを交渉材料にして生徒会室に殴り込み。堀北鈴音が好条件で(具体的には安いポイントで等)過去問を入手できるよう取引
→つまり、堀北が過去問を買った相手は会長の手が加わった生徒
・最初は渋った会長だが、あくまでDクラスの生徒が自クラスの利益のために取引しているだけだと言われ、その口車に敢えて乗った
・それを橘に明かすのは敬慕を抱かれている身としてちょっとアレだった
てな感じです。当時のことを描写するとしたら、やはりtips行きですね。
本章での事件など、不明な点があれば何なりと。解説しきれていない部分があるかもしれないので。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

聖模

『嗚悦』にて、描写を一部追加しました。一部ですが、個人的には綾小路君の精神状態を示す部分ですので重要です。
他にもいくつかお伝えしたいことあったんですけど、ど忘れしたので思い出したら言います。


 奇しくも三つの事件が同時に解決して、翌日。

 騒動が嘘のように、前と変わらない日常が突然帰ってくる。

 

「完ッ全に忘れてたァ!」

 

 いかにも阿呆らしい間抜けな悲鳴も、その一つだ。

 

「また範囲変わったりしないよな? 先生わざと何も言わなかったりしないよな?」

「大丈夫だと思うよ。茶柱先生も自分の立場があるから同じことはしないはずだ」

 

 頭を抱える池と山内に、平田が落ち着いて諭す。

 慌ただしい一週間に隠れていたが、期末テストは目前だ。相も変わらず最下層の者にとって、当然の危機感だろう。

 

「過去問という最強の武器があったあの頃が恋しいぜ……」

「二度同じ手は通じんさあ。安心しなあ、最悪今回は範囲だけやっときゃあ君らならイケる」

「浅川がそう言うなら、ちょっとは希望も持てるけどさ」

 

 裏で徹底的に扱いていた恭介の言葉には説得力がある。尤も、三人に自覚があるかは兎も角、広範的な勉強のおかげで学力の底上げは十分にできている。きっと問題ない。

 ……鈴音の復帰が間に合うかは、わからないが。

 

「――て、あぁ! 健、それかけ過ぎ!」

「どぉわああとと、これでかよ」

 

 慌ててジョウロを取り上げた恭介に須藤がむつかしそうな顔をする。

 何を隠そう、今オレたちがいるのは校庭だ。周りの生徒の好奇な視線が、時々届く。

 

「案外難しいもんだな、水やりってのも」

「お前には似合わないもんなあ、脳筋だし」

「あぁ!? こんぐらい余裕だっての」

「本当かよ〜」

「舐めんなッ」

 

 山内との応酬に、場の全員が苦笑する。

 花壇の水やりを初めとし、恭介の発案で勉強会の男性陣は諸々の慈善活動に駆り出されることとなった。勿論生徒会長も承諾済みだ。

 

「目的は須藤の更生と悪印象の払拭。考えたな」

「何のこと?」

「あいつ多分、ただ自分がやりたかっただけだ」

「え、……ありそう」

 

 沖谷も否定できないようだ。

 事件はあやふやになってしまったものの、須藤の日頃の行いが学年を騒がせ生徒会に手間をかけさせたのは事実。それを名目とした今回の提案だった。

 因みにここに来る前は、生徒会長が仕上げた書類を職員室に運搬する作業に励んでいたりする。

 

「でも、こうした目に見える努力っていうのは大事だと思うよ。今朝のことといいね」

「……うっせえよ」

 

 平田の言葉に少し恥ずかし気に吐き捨てる須藤。確かに、今朝の須藤の謝罪は多くのクラスメイトを驚かせた。

 クラスでの須藤の印象には個人差がある。中には中間テストで見捨てるべきだったという声も少なくない。実際、謝罪に対して心無い言葉をぶつける者がいた。幸村を筆頭とする、学力が高い生徒に顕著だった。

 その一方で、須藤の姿勢を尊重する声も今回かなり増えただろう。軽井沢や彼女と同じグループに属する松下が許すべきだと公言したことで、好意的な流れが生まれたのだ。

 

「中間テストとは訳が違え。俺の行動で周りがあんな辛そうな顔をしたのは、初めてだったんだ」

 

 入学したての須藤は自己紹介を拒んだことからも、誰これ構わず気安く交流を広げる人間ではないことがわかる。性格に難があることを考えると、中学までの交友関係は案外少ないのかもしれない。

 

「なあ綾小路、堀北の体調はどうなんだ?」

「え? ああ、快方に向かっているそうだぞ」

「そっか。……あいつにも今度、お礼を言っとかないといけねぇな」

 

 グループの中で初期に最も険悪だったのは須藤と鈴音だ。更に今回の事件で一時は協力を拒んでいた彼女が、最終的には進んで助けようとしてくれたのだから、彼がそう言うのも納得だ。

 スコップで土を整えていた池が、不意に立ち上がる。

 

「とはいえこれで、一件落着だな。須藤がいなくなっちまったら、なんかやたら場所が余って落ち着かなくなりそうだし、良かったわ」

「よーし、折角晴れてポイントも支給されたんだ。また祝勝会やろうぜ!」

 

 特別須藤と仲の良い二人は、軽いノリで彼と肩を組む。

 須藤は若干迷惑そうにしていたが、にわかに嬉しさを混じらせ呟いた。

 

「……ありがとよ。寛治、春樹」

「ん? 今お前、名前で呼んだ?」

「……いや、悪ぃ、やっぱナシだ。慣れねえ」

「いいじゃんか別に。これから俺らも健って呼ぶからさ! なあ寛治」

「おうよ!」

 

 一連のやり取りを眺めていると、隣にいた恭介が微笑んでいるのが見えた。昨日色々あったのか知らないが、破顔する気持ちはわかる。

 

「改めてお疲れ様、綾小路君」

 

 後ろから、平田が労いの一言を掛けてくる。

 

「お前こそ」

「ううん、今回ばかりは、僕は本当に何もできなかったと思う」

「一度目の審議で手札になった証言はほとんど平田が集めたものじゃないか」

 

 後半は余裕がなかったことと恭介の暗躍に気付いたのがオレだけだったことが影響し、平田が活躍できたとは言いにくい。しかしそれ以前の、地道な捜査に最も尽力していたのは彼だった。

 鈴音も審議中はアドリブがよくできていたし、池と山内も無論――誰か一人でも欠けていたら、やはり勝利はなかった。

 

「……綾小路君。もしだよ? もし、僕が君や彼に差し迫った問題の解決を依頼したら、どうする?」

 

 唐突な問いかけだった。彼、とは、恭介のことで間違いないだろう。

 

「今回のように、直接クラスポイントに影響はしない個人的な問題だったら……」

「それは……」

 

 あまりにふわっとした表現で、どう答えたらいいものかわからなかった。向こうもそれは理解しているようで、ただの気持ちを求めているだけのようだった。

 

「……内容による。手に負えないと思ったら断るかもしれない」

 

 安易には頷けなかった。自信がないからではない。今後自分が向き合わなければならないであろう自身の『問題』のことを考えると、平田が望む形での解決が難しくなるからだ。

 平田は悲しむわけでもなく、当然喜ぶわけでもなく、淡々と相槌を打つ。

 

「そうか。ごめんね、おかしなことを聞いて」

 

 そこから先の話題はなかったようで、彼は沖谷と共に次の花壇へ移るようだ。

 

「これからもよろしくね、清隆君」

「ああ。………………え」

 

 今、何て?

 さり気なく差し込まれた違和感に気付いた時には、もう声を掛けるのに手遅れだった。

 ……あいつなりな距離の詰め方、なのだろうか。好感故なのだろうが……社交的な彼にしては奥手なような。

 やだ、どうしよう。暫く平田の気持ちが気になってしょうがないかも。

 どぎまぎしていると、今度は傍らから声が掛かる。

 

「清隆、今が最大のチャンスじゃないかな」

「……お前もそう思うか」

「今が一番、受け入れやすいと思う」

 

 恭介と二人、未だ楽しそうに団欒する三人を見る。雰囲気は最高潮といったところか。

 いつ実るか、オレたちにも想像のつかない種は一つじゃ足りない。きっといくつものフラグを乗り越えて発芽する。今となっては、その意味は一つだけではなくなった。

 自分を救済するだけではなく、一度捨てる場所に戻るために。これだけは諦めるわけにも、失敗するわけにもいかない。

 オレたちは頷き合い、彼らのもとへ向かう。

 

「これからについて、大事な話があるんだ」

「あ? 何だよ急に」

「今夜、オレの部屋に来てくれ」

 

 また大きな一歩を、進めることにした。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 全く予定になかった呼び鈴が鳴った。

 男子会を終え夢の世界にダイブしかけていたオレは、弱っている目をしばしばさせながら戸を開いた。

 

「くし――桔梗?」

「えへへ、来ちゃった」

 

 藪から棒に男の心臓を刺激することを言う。

 

「何の用だ? こんな時間に」

「ごめん、寝るところだった?」

「まあな。でも今で構わない」

 

 久しぶりに長時間行動していた疲れがあり、まだ九時を過ぎたばかりなのに睡魔に襲われていた。本来起きて談笑していても不自然な時間ではない、無下に断ることもないだろう。

 

「あがってもいいかな?」

 

 本当は外がよかったけど。

 

 

 

 客人には椅子に座ってもらうつもりで自分はベッドに回ったというのに、櫛田はどういうわけかオレの隣に腰を下ろした。無意識に警戒してしまう。

 

「須藤君のこと、助けてくれてありがとね」

「お前が感謝することじゃないだろう」

「私、何もできなかったから……。審議で戦ったのはほとんど綾小路君だったって聞いてるよ」

 

 ……マズいな。ここまで自分の名が広まるのはさすがに今後が不安になる。当初の予定では鈴音に主権を握ってもらい自分はその補佐という印象を持ってもらうのが理想だったのだが……どうにかあいつと口裏を合わせるか? あるいはいっそ……。

 柄にもなくクラスの戦いを見据えて思考していると、櫛田は密着寸前まで詰めてきた。

 

「鈴音と、恭介の積み上げてきた布石があったからだ」

「そうなの? ……確かに、堀北さんは最初の審議にも積極的だったね」

「あいつなりに答えは目前だったんだ。だからダメ押しの証拠を追い掛けたんだが、少し頑張り過ぎてしまったみたいだな」

 

 嘘と本当を混ぜる。鈴音が入院した表向きの事情が功を奏した。これで少しは、櫛田の中でオレの評価は落ち着くだろうか。

 

「ふーん……浅川君は?」

「裏で色々と動いてくれていた。Cクラスに悟られて対処されるのは避けたかったからな」

 

 これは話しても問題ない事実。恭介が行ったであろう取引はこちらから言及しない限り真相には思い至らないはずだ。

 

「そっか。やっぱり三人は、本当に何でも解り合っちゃうんだね」

「当然だ。何せオレたちは腹違いの兄妹だからな」

「え!? 本当にそうだったの?」

「……冗談だ」

 

 まさか真に受けるとは……というか「本当に」とは何だ。周囲の誤解は想定していたより酷いのかもしれない。下手なことは言わないのが吉か。

 恭介の言っていたユーモア指数、まだまだ足りないようだ。あいつには到底敵わないな。

 

「オレたちの付き合いが多いからというのもあるが、そもそも二人は性格に表裏がないからな」

 

 厳密には恭介は違うのだが、自分のことを客観視できるあいつはオレに対して一時の感情を偽ることは少ない。鈴音に至っては、言わずもがなだ。

 

「そうだね。真っ直ぐで、好き嫌いもはっきりしていて……そういう人だから、綾小路君も惹かれたのかな」

「大袈裟だな。……付き合いやすいとは、思っている」

「ほら。他の人なら多分、堀北さんとは距離を置いちゃうと思うよ。実際初めはそうだったし」

 

 大して長い髪でもないのに、垂れているせいで表情が確認できなかった。その横顔が、少し不気味だった。

 

「前から気になってたんだが、お前はどうして鈴音のことがそんなに気になるんだ?」

 

 これまでの会話を踏まえると、もうこの質問をしても自然だろう。どんな昼行灯も、鈴音についての話が多いことに気付く頃だ。二人の関係性と、鈴音から見た櫛田の印象は知っているが、櫛田が何を思っているのかは全く知らない。

 ――ああ、そうだ。いつも彼女は、『そう』だった。

 

「……凄い人だと思うよ。勉強も運動もできるし、勉強会とか今回の審議とか、他のこともいっぱい頑張って、今ではちょっとずつ人気者になってきてる」

「お前だって負けてないだろう。お前と比べてあいつの人気なんてあってないようなものだ」

「そうかもしれないけど、――あんな無愛想で最初は孤立していたのに、本質が変わらないまま信頼されるようになっていくのが……」

「羨ましい、か?」

「う、ううん。私が心配する必要はなかったんだなって、安、しん……」

 

 矛盾しないだけでオレからすれば明らかな嘘を吐こうとして、櫛田は言葉に詰まる。

 

「…………ちょっと違うかな。やっぱり綾小路君の言う通りかも」

「――珍しいな、お前がそんなことを言うなんて」

「綾小路君、何度も赤裸々に自分の気持ちを話してくれるから、私も偶には。ね」

 

 答えを先取りしたのはオレの方だが、まさか彼女がこの問いに素直な回答をするとは思っていなかった。

 

「綾小路君は、さ、私と堀北さんが敵どうしになったら、どっちの味方をするの? やっぱり堀北さん?」

 

 再び驚いてしまう。問いの内容ではない、なぜ今それを問うのかにだ。

 

「……さあな」

「……意地悪」

 

 それしか答えられない。戦慄を覚えている隙に、彼女はまた一つ接近する。身体と身体が触れた。

 

「……少なくともお前には、たくさん友達がいるだろう」

「かもね。でも――私そんなに強い女の子じゃないよ?」

 

 妖艶な雰囲気を纏い、櫛田は置かれたオレの左手を撫でる。

 

「く、櫛田……」

「桔梗って、呼んでよ」

 

 血脈をなぞり、次第にしなやかな指が、オレの鼓動を感じようとする。

 

「誤魔化せるのは、答えがないからでしょ?」

 

 反対の手を掴まれ、ゆっくりと引かれる。抵抗することを忘れていた。

 

「何となくわかるよ、綾小路君が他人に無関心なの。無理矢理関わろうとしているの。だから私のこと、ちゃんと見て欲しいな」

 

 蠱惑的な瞳に見惚れているうちに、オレの右手は着実に、櫛田の鼓動へと近づいていく。理解と共感を示し、全てを受容すると誓うような声音と、温かさ。

 そのままオレの手の平は、吸い込まれるように彼女の胸元に――

 

「――っ」

 

 押し当てられる直前、拳を握った。

 

「…………綾小路君?」

「……違うよ」

 

 悪いな、櫛田。『その手』には乗らない。

 お前の言う通り、確かにオレはその程度で心を奪われない薄情者だ。でもだからこそ、オレはそんなお前にも飲まれるわけにはいかないんだ。

 

「オレが答えなかったのは、どちらを味方しても喜べる結末にはならないと思ったからだ」

 

 拒絶か受容か、その決定的な二択を、櫛田は唐突に突き付けた。オレの手を握った時点で、退路を塞いだつもりだったのだろう。

 しかしそれでも、地雷原を誤らずに進むのが今オレのすべきことだ。

 この瞳に、この心に、他人をしかと映すために。

 

「――嘘」

「本当だ。オレはきっと、選んだだけで後悔する。だから何も選ばない」

「そ、そんなのダメっ」

「ならお前はどうなんだ?」

 

 接続されていた彼女の手を、オレは大仰に振り払った。

 

「言ったよな? 私は誰とも付き合わないって。あの時オレが理由を聞かなかったことを、お前は態々指摘した。敢えて今聞こうか」

「……っ」

「それとも、本当は答えられない。答えたくない、か?」

 

 黙ってしまった彼女に、オレは煽り続ける。

 

「それが答えだ。お前はそうやって、誰とも必要以上に交わらない。本当に大事な時は決まって自分を隠すし、他人を追究することを止める。だから誰も愛せないんだ」

 

 瞠目した表情が、僅かに翳りを露わにする。

 

「………綾小路君、私のこと、どこまで知っているの?」

「ほとんど知らない。そうだな、佐倉と似たような感じだ。何となく、お前はやはり『無理』をしているような気がする」

 

 半分嘘で、半分本当だ。オレは核心まで把握しているが、櫛田がそのような状態だと感じていることもまた事実。

 仕方のないことだ。ギリギリでも均衡を保つ必要がある。櫛田は明確な敵意を向けられないし、オレは地道な計画が頓挫しない。

 

「で、でも、もしその通りだったとして、それは綾小路君も同じでしょ?」

「オレも?」

「綾小路君だって、あの時は何も聞かなかった。私が付き合ったことないのを驚いた人とは思えなかった」

 

 今のオレには痛い指摘だ。ここは、回答を間違えるわけにはいかない。

 

「簡単な話だ。そんなことを聞けばお前はいい思いをしない。そう感じただけだ」

 

 押し黙ってしまった櫛田を見て、正しかったことを確信する。

 

「オレも無理をしているということに、嘘は吐かない。でもそれは、オレ自身が望んだことだ。――変わるために」

 

 触れることはない。零距離にまで近づくことはできないが、せめてその、虚しく冷めた瞳から逸らさない。

 ――お前が教えてくれたことだぞ。

 

「お前は何もわかっていない。鈴音のことだって、本質が変わらないままだなんてそんな風には思えない」

「……」

「確かにそう変わらないものなのかもしれない。それで良いこともあるかもしれない。だが、あいつはあいつなりな努力を重ねている。自分が良くないと認めたことを改める努力をな」

 

 意固地な鈴音が新境地に踏み込むための勇気と、今までの信じて疑わなかった自分から離れる不安たるや。それを克服しようと藻掻く彼女を、変わらないと評価するのはもはや失礼だ。

 その辛さを、オレは十分知っているから。

 

「そりゃわかるはずないさ。お前が見向きもしない可能性に、オレたちは賭けている最中なんだから」

 

 悪いことだとは言わない。価値観が違うだけだ。生まれも育ちも内面も外面もまちまちなのだから当然のこと。ただ、なのにわかったようなフリをして語られるのは、何だか違う気がした。

 

「賭け……どうしてそんな不安定なことができるの」

「なりたいものがあるからだ」

「……私には」

「ないならそれでもいい。今の自分がなりたい自分であるなら必要のないことだ。――でも、何かしらの苦痛を感じるのなら、それを善いものだと思えないのなら、時には別の姿をイメージしてみてもいいんじゃないか?」

 

 怯懦を覗かせる脆弱な瞳で確信する。

 そうか、彼女は……。

 

「…………無理だよ」

 

 力の抜けた身体が、こちらに寄りかかる。

 

「私には、無理」

 

 どうすればいいのか、わからなかった。

 佐倉の時とは違う。きっと慰めなど無意味なのだ。何かをしてやるより、何もしてあげない方が寧ろ彼女のためなのかもしれないと錯覚するほどに。

 結局オレの方からは、一度も櫛田には触れなかった。握ることも、撫でることも、抱きしめることも――今の櫛田には、その温もりは無駄な汗をかかせてしまう。

 詰まる所、オレと同じだ。いや、あるいはそう言い聞かせているだけに過ぎない。今更何かをしたとして、そんな自分を、これから裏切らなければならないのだから。

 今なら少しだけ、『あの時』の恭介の気持ちがわかるような気がする。

 

「……」

 

 汚れているとわかりきった結末へ向かう道すがらで、賢明に足を運ぶ労力の虚しさは、全く尊いものだとは思えない。

 やめよう。きっとこの罪悪感は邪魔になる。今まで理性を以て全てを実行してきたじゃないか。目を閉じるのは、得意なんだ。

 胸の中でうずくまる櫛田を見て、オレはようやく理解した。

 ずっと頭の片隅で悩んできた疑問の答え。オレへの影響の、ある種根幹を担ってきた彼女の存在。

 胎児に等しかったオレは、櫛田の言葉で目覚めた。まさしく彼女は、本来当たり前にあるべき存在だった。

 

「お前は、オレの――」

 

 答えは、初めから本能が導き出していた。

 全ては、あの『夢』に描かれていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

居無

まさかアニメに追いつく前に二期が始まるなんて思いませんでした。一話目から改変されてますが、どうなるんでしょうね。

この先なんですけど、三章終わったらキリが良いということもあり、今まで以上の亀更新になると思います。何年かけてでもとりあえずオリ主の問題が解決するところまでは描きたいと思っているのでよろしくお願いします。(最長で二年程更新途絶えます。そうでないなら、自分がリアルでやらなきゃいけないことから逃げていることになります)


「――うん。ありがとう、よろしく」

 

 頼み事をし、通話を切る。

 意外なことに、現状最も最適な相手が彼だった。なるだけ迷惑をかけないように気を遣った方がいいだろうか。あわや不毛な心配をされてしまうかもしれないが。

 さて目的地へと、エレベーターを降りたところで既知の二人と遭遇した。

 

「あ! お前はっ」

「おお、マチコ」

「弥彦だ! 掠ってもないし名前で呼ぶな馴れ馴れしい!」

 

 グッジョブツッコミ。

 戸塚は傍らの少年――葛城の前に庇うように立つ。

 

「相変わらずの忠犬振りだね」

「他人を犬呼ばわりするのは感心しないな」

「そりゃ犬に失礼だ。敬愛するご主人に健気に尻尾を振る子は醜いかい?」

「むっ……確かにそうだ」

 

 葛城はあくまでしかつめらしい態度のまま、浅川の意見もとい屁理屈に納得する。

 

「何やら災難だったようだな」

「ねー」

「ひ、他人事のように……お前は何も動かなかったのか?」

 

「ハッ、どうせそうに決まってますよ」前回と同じく、戸塚は貶すような眼差しをこちらに向ける。「いかにもクラスに関心なさそうで、ほら、いつもボケッとしてそうな」

 

「弥彦、あまり人を愚弄するようなことを言うな」

「だ、だけどアイツはDクラスですよ?」

「ならば尚更、Aクラスとしての人徳を身に付けろ。それに、少なくとも浅川が蒙昧な人間ではないことは以前理解できただろう」

「うぐっ……それは、そうですけど」

 

 不本意ながらも戸塚の溜飲が下がったところで、ようやく葛城はこちらと向かい合った。

 

「そちらに協力できることがあればするつもりだったのだが、すまなかったな」

「立場上しゃあない。ゴミ捨て場でじゃれあう猫と烏なんて、人間様にとっては日常茶飯事さあ」

「別の機会に、何かしらの形で恩を返そう」

 

 緊迫したAクラスの内情を顧みれば、葛城も安易にこちらの事情に首を突っ込むわけにはいかない。

 自分たちが接点を持つきっかけとなった取引も、彼の権力抗争のためのものだったのだし。

 

「過去問は上手く使ってくれたかい?」

「おかげさまでな。正直、全く考えが及ばなかった。危うく坂柳に遅れを取るところだった」

「勘違いするなよ。お前の用意したアレがなくたって、葛城さんの采配があれば坂柳なんて屁でもないんだからな」

「……お前が一番危なかっただろうに」

 

 こんなにもチグハグな意見をぶつけてくるのに、よくもまあ志を共にしていられるものだ。

 

「取引を持ち掛けられた時は驚いたぞ。敵に塩を送るマネ、裏を感じてしまった」

「前も言ったろう? 僕は有栖が嫌いなんだ」

「そのわりには名前で呼ぶ仲なんだな」

「呼びやすいからね、康平と弥彦」

「呼び方がなってないぞ。せめてコヘーじゃなくて康平さんと呼べ」

「ごめんなあ手塚」

「戸塚だ! わざとやっているだろう!」

 

 当たり前だ。強めな返しは何気戸塚が初にして唯一だったりする。

 因みに浅川と葛城の協調姿勢は、葛城派の地位が盤石なものとなるか今のDクラスとAクラスの差がある程度縮まるか、あるいはどちらか一方がこの関係に合意できないという意思を表明するまでということになっている。つまり、表向きDクラスとAクラスは協力関係ではなく、あくまで葛城派対坂柳派の内戦に向けた関係に過ぎない。この制約もまた、葛城が現時点での浅川を危険視しない要因となっている。

 

「あの子の残虐性は認めるわけにはいかない。一人の善良な人間としてね」

「態々アシストをしてくれたのは、差し詰めその意思表示というわけか」

「非道は許せない。君も同じだろう?」

「無論だ。今回の事件も、Cクラスの暴挙だという噂を聞いている。龍園というリーダーも坂柳に負けず劣らず仁義に悖る男のようだな」

「君も気を付けなよ。強靭な悪は隙だらけの善に容赦なく侵食する。――守るからには、徹底的になあ」

「ああ、心得ている。他でもないお前からの助言だ、有り難く受け取っておこう」

 

 ひとえに葛城が浅川を曲がりなりにも耳を傾ける価値のある相手と認識しているのは、自分と類似する志を共有し、それを自ら実行し示してくれたからだろう。恐らく彼の仲間で敬意を表明する者は居れど、浅川のように目に見える形で協調してみせた者はいないはずだ。

 しかし、自称彼の右腕は意固地のようだ。

 

「葛城さん、簡単に絆されちゃダメです。まるで何を考えているかも怪しいやつを信じるのは危険ですよ」

「弥彦、だが……」

「そもそも俺達は過去問なんて望んでませんでした。コイツの勝手な押し付けで――」

「いい加減にしないか、弥彦。お前のその傲慢な態度が、初対面の浅川と険悪な雰囲気になった原因だったはずだ。過去問で俺達が助けられたのは事実。その恩に報いるのもまた当然であり、礼儀だ」

 

 あくまで毅然とした口調で、葛城は警戒心丸出しの戸塚を宥める。

 それに対し、ムキになっているのか、自分より先んじて葛城に貢献した浅川を気に入らないのか、戸塚は引き下がらない。

 

「お、俺は、葛城さんを信じているから言ってるんですよ。葛城さんなら、Dクラスのやつなんかに頼らなくても、坂柳を抑えてAクラスを率いて、必ず勝ってくれるって」

 

 こちらそっちのけのやり取りを見届けていた浅川は、意外だという感想と共に少しばかりの感心が過った。

 ――なるほど、なかなかどうして相性がいいのか。

 

「そんくらいにしときなあ康平」

「浅川……すまない、うちの者が無礼を」

「いいや、寧ろ弥彦の言うとおりだと思うよ」

「何?」

 

 美徳も過ぎれば欠点だ。と、ただそれだけ伝えておけば足りるだろう。

 

「僕のことを信じてくれるのは嬉しい。実際そう祈って君と取引したからね。でも――僕らは別のクラスだ」

「――!」

「君は他人を尊重できる人を信じる癖がある。けど敵だと言うのなら情けをかけない者がいることくらい、百も承知だろう?」

 

 共感はできる。実質的な敵はクラス内にもいるのだ。本来信じ合って然るべき仲間を疑う前提から争いに参加しなければならないなど、窮屈もいいところ。そんな中助力が加われば、他クラスだろうが感謝の念は抱くものだろう。

 しかし、なればこそ大事に違いない。そこにいるやかましい忠犬が。

 

「時にはそこの右腕さんの言葉も聞いてみなあ。君のちょっとやそっとの甘さに、待ったを掛けてくれるかもしれないぜ?」

 

 彼ははたとし傍らの少年を見る。

 

「…………ああ、そうだな。傲慢になっていたのは、俺の方だったのかもしれん」

「自分を誇るのも大事なことさあ、驕りなんかじゃない。悪意を退ける勇気を持て」

「だが、それとこれとは話が別だ。やはり今のお前はある程度信用に値するし、取引を反故にするつもりもない」

「そりゃどうも」

 

 そろそろ時間だ。話に区切りがついたところで、浅川は歩みを始める。

 そして、二人の横を通過する際、戸塚の肩に手を置いた。

 

「……何だ」

「康平がこの先どうなるか、君にも懸かっている。頼んだよ」

「お前――、……」

「出しゃばるんじゃなく、しかし言いなりでは他の仲間と変わらない。――君にならできる、ちゃんと支えてやんな」

 

 真剣な表情でそう言ってやると、戸塚は息を呑んだ後、再びムッとした顔で返す。

 

「……お前なんかに言われなくてもわかっている。俺は葛城さんの右腕だ」

 

 浅川は満足気に頷き、その場を後にする。

 何だかんだ、手塚の存在は葛城の穴を埋めるに適しているのかもしれない。

 浮かび上がった可能性に期待を抱きながら、待ち合わせ場所へと赴いた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 ミネラルウォーターが沁みる。

 炎天下、浅川は海の向こうを黄昏ていた。

 

「四人で会うのも久しぶりかな?」

「一週間しか経ってないけど」

 

 介しているのは佐倉、王、井の頭という顔ぶれ。この外れに集まるのも、王は初めて、佐倉と井の頭は二度目だ。

 

「浅川君、最近忙しそうだったからね」

「ありゃ、わかっちゃう?」

「あ、当たり前だよ。浅川君が事件を見たこと、言っちゃいけないって、――そんなこと言われたら、何か考えがあるのかなって思っちゃうよ」

 

 井の頭がモジモジして言う。

 須藤が事件を起こした時、佐倉たちと同じく浅川は現場に居合わせていた。何なら四人で戯れていた。

 意図的に監視カメラの死角を回っていた浅川は、あの日たまたま特別棟へ行こうとしていた佐倉たちの予定を知り同行したのだ。事件を見届けた後はCクラスの三人を追跡、カラオケにたどり着いた。そこでリーダーであろう長髪の少年の主導で怪我を捏造されている様子を撮影し、乗り込んだ。佐倉たちに自分の存在を黙秘させたのは『須藤の事件に一切関わらないこと』を条件とした契約のため。初めから契約内容を先読みしていた浅川は事前に別の事件を捏造することで、須藤を救う手段を作り上げた。

 Cクラスの監視は椎名の一件で厳しくなることは予感していた。実際終日見張られて鬱陶しかったし、取引の際はいざとなれば監視カメラの映像まで確認して契約違反を追及すると言われた。しかし全て無駄だ、取引より前にこちらのすべきことはほぼ終わっていたのだから。

 自分の意図を仲間に伝えるのも、相手が親友であるなら造作もない。一度も須藤を見捨てるなどとは言わなかったし、櫛田からの決定的な問いにも苦笑ではぐらかした。綾小路ならそれで十分自分の関与を察せただろうし、退室際の助言で確信できたはずだ。

 一つだけ誤算だったのはDクラスの生徒が嵌められたことだ。あの時の神崎の憐憫な眼差し、今までで一番面白そうにしていたのが忘れられない。

 

「おかげでクラスの損害はなくなった。君らのおかげだ」

「私たちは何も……」

「君らの証言がなかったら、審議は延長できなかった。第三者としてはMVPさあ」

 

 最悪綾小路が独りで全部やってしまえば自分の用意した手札を最速で手に入れて勝利できただろうが、それを言及するのは無粋だ。

 

「そういえば佐倉さん、……辞めたって、本当なの?」

 

 王が佐倉に切り出す。三人の間で共有されていた事実、後腐れにしないために旗振り役を買って出たのだろう。

 グラビアアイドル、雫。ちょうど須藤の事件が起きる少し前、彼女の中の変化が一定まで達したのか、唐突に彼女は自分の仕事を打ち明けた。女子二人は驚いていたが、すぐに応援する姿勢を示して見せた。本当に、優しい女の子たちだ。

 

「聞いたよ。その、ストーカー被害のせい、だったんだよね?」

 

 井の頭が少し申し訳なさそうに訊くと、首肯が返った。

 ここに来る道中にも一度話は出ていた。佐倉がグラビアアイドルを辞めた事情。実の所今回こうして集まったのも、浅川がその話をするために主催したからだ。

 

「うん。……でも、良い機会だったんだと思う」

「良い機会?」

「私、今まで自分に自信がなくて、すごく人見知りで……そんな私を誤魔化すように始めたのが雫だったんだ」

 

 俯きがちに語る佐倉。王と井の頭は何を思いながら聞いているかはわからないが、少なくとも浅川には、その眼がどこか哀しそうに見えた。

 

「浅川君と出会って、みーちゃんと心ちゃんと出会って、ちょっとずつだけど変わりたいって――ううん、変われたの」

 

 間違っているわけではない。確かに佐倉は変わった。自分をほんの少しだけ好きになれて、他人と関わることに前向きになって――。

 けど、それだけで良かったのだろうか。

 

「もう、雫は必要ない。私はありのままの私を受け入れて、これから他人と向き合っていきたい」

「……それが、佐倉さんのしたいこと?」

 

 井の頭は相変わらず不安そうな眼差しを彼女に向けている。佐倉は、気付いていない……らしくないことに。

 

「いいの。私が変わるために、必要なことだと思うから」

「そっ、か。……本当に、大丈夫なの……?」

 

 王も心なしか、浮かない表情だ。佐倉は儚げに頷く。

 

「大丈夫。ちゃんとSNSにも投稿したし――」

「違うよ、愛理」

 

 見てられない。

 こんな色のない会話、見てられないよ。

 

「浅川君……?」

「みーが心配しているのは、君のことだよ。――君自身のことだ」

 

 初めて佐倉は、息を詰まらせた。

 

「だ、大丈夫に決まってるよ。私は……」

「大事なのは、どうすべきかだけじゃない」

 

 浅川は一旦言葉を止め、暗い顔をする二人の方に目をやった。

 自分だけでは駄目だ。二人の、佐倉の友達の言葉が、必要だ。

 

「言ってやんな。躊躇わないで」

 

 一瞬呆けた後、先に意図を察した王が口を開いた。

 

「佐倉さん、グラビアアイドルのことを話してくれた時、言ってたよね? 仕事が好きだって」

「み、みーちゃん……」

「私、凄いなって思ったよ。自分と同じ歳の人がそんな風に、好きなことに一生懸命になれるんだって」

 

「わ、私も!」王の思いに当てられたのか、井の頭も吐露する。「本当の自分を好きになれたって言ってたけど、それと同じくらい、お仕事のこと話してる佐倉さんは楽しそうだった」

 

「で、でも……決めたの。だってそうしなきゃ――」

「嘘は誰も救われないよ、愛理」

 

 努めて優しい声音で、浅川は語り掛ける。

 

「二人が言っているんだ、君の大事な二人が。好きだったんだろう? 雫のことも」

「それは……」

「今もその気持ちがあるのなら、大事にして欲しい」

 

 固い決意だったのは知っている。だから佐倉が安易に折れないこともわかっている。

 それでも問いたい。元々あった、自分自身の気持ちのことは、本当に考え尽くしたのかと。

 

「君が好きを貫くことと、自分を変えること。どちらかしか選べない不幸なんてないんだよ」

「けど私は! 私は、そんなに器用じゃありませんっ」

「何を言ってんのさ。ずっとできていたじゃないか」

「え――?」

 

 訳がわからないといった表情をする佐倉。

 

「本当の君が好きになった二人に、君は自分の好きを隠さなかった。それが何よりの答えなんだと、僕は思うよ」

「あ……」

 

 佐倉はようやく、二人の表情をしっかりと確認した。つぶらな瞳が震える。やはり自分と同じだ。独り善がりに取り憑かれて、自分を見てくれる周りがわからなくなってしまっていた。

 君にならできる。不器用な僕には、できなくなってしまったことだけど。

 

「でも今更だよ。一度辞めたのに、また戻るなんて……」

「そんなことない」

 

 今ならきっと見つめ直せる。自分の始まりを、突き付けてあげよう。

 

「これを見て」

 

 浅川は端末を開き、ある画面を佐倉に見せた。彼女は暫し中身を覗き、目を見開く。

 

「こ、これ……」

「君だけじゃないんだ。雫に救われていたのは」

 

 映っているのは、とある掲示板だ。題は、『雫様への純愛を語る会』。

 書かれているのは、あのストーカーのような穢れたものではない。雫の快活な雰囲気を推す者は勿論、健気に頑張る佐倉自身の姿勢にまで――。

 

『やっぱ我らが最推しよ。お気に入りは去年の秋に揚げてたコレ』

『同じ女の子だけど、可愛い恰好やポーズにいつも癒されてました!』

『辞めちゃったんだってな、寂しくなるなぁ……』

『お、俺の明日への活力があああ!!』

 

 内容は健全なものに偏っている。当然だ、これは浅川が純粋に雫を応援する生徒をターゲットに立てたスレッドであり、紛れ込んだ汚い言葉を意図的に省いた画面なのだから。佐倉を救うために神崎と連絡を取り合う合間、その先の救済まで浅川は考えていた。

 唖然とし眺める佐倉が、ある文面を読み上げる。

 

『もし帰ってきてくれたら超嬉しい!』

 

「……君のDMにも、今までたくさん届いてたんじゃないのかい? こういう言葉が」

「あぁ……」

 

 口元を押さえ肩を震わせる佐倉を見て、間違っていないことを確信する。

 

「狂った元ファンに傷つけられた身だ、無理にとは言わない。でもね、一度思い出して欲しかったんだ。恐らく君が初めて、グラビアアイドルを始めて良かったと思った時のことを」

「……」

「君は凄い子だ。会ったこともないこんなにも多くの人を救ってきた。その気持ちに、誠実に向き合い理解してきた」

 

 佐倉がファンからのDMにも律儀に返答していたことは知っている。気付かなかったなんてことはないはずだ。

 

「自分の気持ち、みーと心の気持ち、そして君に救われ、君の帰りを今も待ち望んでいる人々の気持ち。もう一度よく考えてから、改めて決断してみて。――僕から言いたいのは、それだけだ」

 

 既に、彼女の頬はひどく濡れていた。

 浅川はそっと手を伸ばし、眼鏡を外す。優しく涙を拭った。

 

「君は佐倉愛理だけど、雫は君にしかなれないから」

 

 どちらも彼女だ。相応の少女と、努力の少女。片方を否定するなど、勿体ない。

 折角今まで自分を支えてきた雫の存在を、無理矢理なかったことにはして欲しくなかった。

 かけがえのなかったはずの時間を、無為に扱って欲しくなかった。

 

「…………私」

 

 顔を覆う佐倉のもとに、王と井の頭が寄り添う。

 

「佐倉さんが本当に辞めても後悔しないなら、それでいいと思う。でも……」

「やっぱり、自分を騙していては欲しくないかな……」

「うん……ありがとう。もう大丈夫。本当に、大丈夫」

 

 ごしごしと目元を擦り、彼女は顔を上げた。

 ――うん。焦りのない、本来の優しい目だ。

 

「浅川君も、ありがとう。本当はね、不安だったの。これで良かったのかな、後悔しないのかなって。最初から答えは出てたんだ。――続けたい。私、もう一度頑張ってみるよ」

「…………なに、老いぼれのお節介さ」

 

 いけない、自分が照れ臭くなってどうする。わざとらしく格好つけてしまうのは悪い癖だとわかっているのに。

 

「潮風に当たりすぎるのも良くないな。話も終わったことだし、そろそろ戻ろう」

 

「そうですね」と井の頭が相槌を打ったのを皮切りに、四人帰路に就く。

 その最中。

 

「良かったね、浅川君」

 

 王が不意に耳打ちする。正直びっくりした。

 

「な、何が?」

()()()

「――気付いていたのか」

 

 自分はけっこう早い段階でひっそりと受け容れていたが、まさか彼女もわかっていたとは。一度立ち直るきっかけを与えてくれただけのことはある。

 

「私からもお礼言っておくね。ありがとう」

「目覚めが悪いから。佐倉が後先考えず諦めようとしていたのは僕も――」

「そうじゃなくてね。私たちに思っていることを話す機会をくれて、そこが浅川君らしくて良いところだなと思ったから」

 

 この少女といる時はどうしてか肩の力を抜いていられる。他の友人に緊張してしまうというわけではないが、例えば神室や平田、若干遠縁だが白波も――共有する志や悩みがないからだろうか。

 決して悪いことではないと思う。寧ろ浅川にとって好ましい時間だ。その中でも王との会話は和やかで、落ち着いていて、生涯初めての心地良さに駆られる。

 

「君だって、些細なことに気付いて尊敬できるところ、凄いと思うよ」

「そう、かな?」

「平田もきっとそう思っているさあ」

「へ!? ……あれは浅川君のせいだからね」

 

 ジト目で軽く愚痴を零す彼女に、肩を竦めておどけながら謝意を示す。以前四人でやり取りをしていた際、平田に釘付けになっていた王に浅川が気付いてしまったがために、彼女の恋慕が共有されてしまうこととなった。

 

「あれはー、ごめん、本当に悪かった。迂闊だったよ」

「まあ、いいんだけどね。隠さなきゃいけないことでもないし、佐倉さんも井の頭さんも変に揶揄うような子じゃないから。――それに、どうせ叶わない恋だもん」

 

 佐倉と心に置いてかれ気味になっていたことに気付き、共に足取りを速める。くっきりとした影が、雑木林に投じられ極度に歪んだ。

 

「そうと思いながらも諦められないなら、本物さ。まだチャンスはあるよ」

「どうなんだろう。軽井沢さんとは、けっこうお似合いだなって思うこともあるけど」

「良ければ相談乗るよ。君には感謝している身だからね」

「感謝? ありがたいけど、相談っていうのはもしかして慰めのこと? それとも……」

 

「慰めなんてまさか」思わず振り向き、愁眉の表情を向ける。「意味がないだろう?」

 

「じゃなきゃ佐倉さんには何も言わなかった、だよね?」

「参ったなあ」

 

 ――何となく、反りが合うなあ。

 笑顔を見せた後早足で先へと駆け寄る彼女を眺め、不快感のない感情が胸中に広がる。

 緩い三人の雰囲気はやはり、いつも浅川にとって癒しなのだろう。

 後をゆっくりと追う彼の表情は、幾分か穏やかだった。

 

 

 

 もう少し散策をすると言って三人に先に寮室へ帰らせた浅川は、暫し辺りを見回す。

 人の気配がないことを確信した彼はそのままロビーに戻り、ポストに向かった。

 これまでの軌跡から浮かび上がる嫌な予感に従い、徐に自分のを開ける。

 そして――

 

「…………」

 

 さらりと舞い落ちた紙片。それを震える手で拾い上げ、深く重い溜息を零す。

 Cクラスの人海にしてはやけに重厚に感じた監視。理由が不明な堀北の拉致。更に、この学校に来た直後からずっと感じていた、綾小路すら欺いた視線と、自分を退学させんとする計略。

 思えば手がかりだらけだった。ただ認めたくないという一心で、別の答えを盾にしていただけだった。あからさまなほどのそれは、まるで気付いて欲しいという熱烈さが垣間見える。

 それを発散するかのように、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()は、ますます自分の間違いが正しかったのだと思わせた。

 

「クソッ――」

 

 嗚呼、何故だ。何故こんなにも付き纏われなければならない。宿命を感じることなど、現実ではあり得ないだろうに。悲劇を象徴する戯曲と紛うような因果に辟易する。

 初めて、沸々と込みあがる激情を抑えられなかった。正面のステンレスを、力んだ拳で殴りつける。

 その一瞬、誰も見つけることのない場所で、見せた姿は紛れもなく本当だった。

 

「フザケンナ……」

 

 己の戦争を告げる鐘の音を、確かに聞き取る。

 友と過ごす自分を影から捉えた写真を、憎しみのまま握りしめて。

 




忠犬戸塚君。皆口を揃えて「彼が何故Aクラスなのか」という難題に頭を抱えていますが、本作では何とか彼をマシなキャラにしていきたいと思います。もはや戸塚がAクラスの一員になるための成長物語にでもしないと厳しい時点でお察しなところもありますが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

影炎

本作『アンデルセンは笑っている』ですが、初期に活躍させるキャラのアンケートを取ったのを覚えていますでしょうか。作者としてはいくつかのルートを考えており、足りない頭で今後を見据えた結果泣く泣く断念した展開もあったりします。例えば二章、もし櫛田√だった場合、端末を届けるのは綾小路君になっていました。三章では、三馬鹿√だった場合平田にも緊急事態が起こり三馬鹿の出番が増えていました。
各章BAD√もあります。二章はオリ主がみーちゃんと話さなければ『ドーン』で立志できず終了。三章ではオリ主が椎名より佐倉を優先した場合、彼かストーカーのどちらかが死にます。椎名を選んでもあの始末ですから大変ですよね。ん? と思った方いるかもしれませんが、わりとオリ主が酷い目に遭います。四章もBADだと最低でも二通りの死に方があります。
バッドエンドについては一話完結で書けそうなので、余程持て余してたら書くかもしれません。

ただ、一つだけ言っておきたいのが、「基本√」と称した今の展開は作者としましては最終的に最も多くの登場人物が救済されるものになる予定です。


 今は、『いつ』だろうか。

 日本には四季があり、寒暖を繰り返すそうだが、丁寧な空調が施されている室内には全く関係のないことだ。何月何日なのかも興味はない。たとえカリキュラムを熟す今が真夜中でも、一日二十四時間というサイクルがここでは当てはまらないのだとしても、与えられたタスクだけが、オレの生き方を示している。

 ふと、背後の呼吸が一際荒く、乱れ始めた。

 鉛筆を落とす音。むせ返る苦痛の声。身が床を叩く鈍い音。駆け寄る『成人』の足音。

 何が起きたのか、頭のほんの片隅で理解する。視線を机上の紙片に固定したまま。

 誰なのかも、初めからずっと知らなかった。そのまま活動不能になろうと、最悪死のうと、オレには一切影響はない。淡々と、解答欄を埋めていく。

 やがて天井からのアナウンスで、現在のカリキュラムの終了を通達された。この後は点呼、終えたら各自自室に戻るだけ。

 『成人』は名前の後、続けて成績を開示する。相も変わらずオレは一位らしいが、返事すら必要を感じない。中には「はい」やら「うん」やら相槌を打つ者もいるが。

 すると、

 

「――、今回も標準ギリギリだ」

 

 何も聞き流しているわけではない。感想というものが皆無なだけで、一言一句記憶はしている。

 だから、その台詞もここ最近何度も耳にしているものだった。

 

「――ごめんなさい、気を付けます」

 

 他の子よりも少しばかり口数の多い、その声も。

 

「……」

 

 成人は今日も訝し気な顔のまま、次の子供を呼んでいく。

 いつ頃からだろうか。あるいは最初からだっただろうか。はっきりとした物言いをする子供が独りだけいた。ただ、その事実だけを認識していた。

 異分子を含む日常が、今日も終わる。

 いつも通り、流れるままその場を解散となった。

 

 個室に帰る途中。

 しかし今日は、明らかに日常とはかけ離れた事態が発生した。

 

「ねえ」

 

 後ろで発せられた声が、よもや自分に向けられたものだとは思わなかった。やがて横から姿が現れ、歩幅が揃いようやく認識した。

 

「今日も凄かった。綾小路、清隆? だっけ」

 

 監視カメラを恐れてなのか、面と向かい合うこともなく会話を仕掛けてくる。

 

「見張られていると緊張する。なのにいつも頑張れて、偉い」

 

 拙い話し方だが、それ以上に話す内容が理解できない。一体どこに緊張する要素があるというのだろう。

 

「綾小路清隆は、何でも知っている?」

「……」

「ねえ」

「…………」

「おーい」

「………………」

「聞こえてない?」

「……………………」

「……ぐすん」

 

 嘘だろ、とは思った。悔しいことに生涯最大級の驚きだった。悲しい時は泣くという事実をそんな風に実行するとは。

 固く口を閉ざしていたオレだが、必要ないというよりどうすればいいのかわからないという方が正しかった。このまま無視しようとしても不要な会話の矛を向けられ続けるし、かといって応答しようにも何と返せばいいのかわからない。

 だから、とりあえず聞かれたことをオウムに近い形で返すことだけ試みた。

 

「……何でもは知らない」

「あ、やっと応えてくれた」

 

 少し嬉しそうに顔を緩めるのが見えた。器用なことだ、この環境下で表情筋を働かすことには慣れないはずだ。

 

「じゃあ――聖ヨゼフの螺旋階段は建築可能?」

「今は難しくない」

「57は素数?」

「違う」

「そうじゃない、57を素数と公言した数学者は誰?」

「アレクサンドル・グロタンディーク。――聞かれたことに答えたつもりだが」

「ジョークというやつだ。聞いたことある?」

「ある」

「ならわかって欲しい」

「……」

「返事は?」

 

 わりと悩んでしまった。わかってあげた方がこの子供との会話は円滑に進むのだろうか。今のように回りくどいやり取りに成り得る。しかし即興でジョークというものに乗るには少々経験が不足している。

 

「善処する」

「しない人の台詞だ、ソレ」

 

 何故?

 するつもりだから宣言しているというのに、どうしてそう決めつけられる? 理解不能だ。

 

「やはりたくさん知っている。綾小路清隆は何を知らない?」

「……」

 

 暫しの沈黙。真剣に考えている自分をおかしいと思うこともないまま、

 

「外」

「外?」

「日本の季節。春の草花、夏の猛暑、秋の木の実、冬の極寒。文字や写真で見るだけではわからない」

 

 例えば夏。暑いと人は汗をかくらしいが、オレにはその経験がない。その不快感というものは、見聞きだけでは理解できない。冬は身体が震え霜焼けもするらしいが、その痛みをオレは知らない。

 人が何かを識るためには、知識と経験の両方を求められることもある。とは薄々感じていた。

 すると、

 

「同じだ」

「同じ?」

「綾小路清隆は、外に出たい。――も外に出たい」

「出たいわけでは――」

「何故だ? 外に出ないと外は知ることができない。綾小路清隆は、外を知りたくない?」

 

 考えたこともなかった。ここで延々知識を吸収し続ける以外に、生き方を知らなかったから。

 

「知りたくない。わけではない」

「ほら」

「でもそれは不可能だ」

「できる」

「できない」

「できる」

 

 正論はこちら側であるはずなのに、やたらと有無を言わせぬ圧を感じた。

 

「思いがあるから」

「非論理的だな」

「――の話したい気持ちが届いたから、綾小路清隆は今――と話してる。初めてちゃんと聞いた、綾小路清隆の声」

 

 はっとした。曲がりなりにも、他の子供と会話をここまで続けたのは初めてだった。それは偏に、この子供の並々ならぬ熱意に当てられたからだ。

 

「――はここが嫌い。だから外に出る」

「そうか」

「それまでは綾小路清隆と話すことにする」

「必要ない」

「――は話したい。だから話す、それだけだ」

「オレは話したくない」

 

 意味のない問答だ。というのも、今回のように執拗に言い寄られたら無視する方が鬱陶しくなることが予想できたからだ。

 他人がどうこうしようが興味がない。外に出たいと願うのなら好きにすればいい。オレには一切関係ない。

 ……ただ、一連のやり取りで最も気掛かりだったのは、何故その考えが浮かんだのかだ。先程もそうだが、この施設にいる子供が外へ出ようなどという突飛な発想は普通しない。

 

「何故、外に出たいと思ったんだ?」

「……えへへ」

 

 え、えへへ?

 今のは照れくささや嬉しさを表現しているのか。ぐすんといい、本来感情を表現する時はこんな棒読みにはならないはずだが、そこはやはりこの施設の子供故か。

 

「何が嬉しかった?」

「やっと綾小路清隆が、自分から話を振ってくれた」

 

 なるほど、話し相手が会話を広げてくれたことが喜ばしかったと。到底理解できない感情だが、気を悪くしていないのなら別に何でもいい。

 

「思った通りだ」

「何が?」

「綾小路清隆。答える前に、覚えておいて欲しい」

 

 そうしてその子供がオレに語ってくれた――教えてくれた言葉は、今もずっと脳裏に残っている。

 そして、幾ばくかの月日、あるいは年月をかけて明かしてくれた真意は、やがてオレも外を渇望し、ここを抜け出すきっかけとなったのだ。

 

「――情緒は、伝染する」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「――そうだった」

 

 むくりと身体を起こしたオレの胸中は、衝撃と感慨でぐちゃぐちゃだった。

 懐かしい夢を見た。遠い記憶の底に埋もれ、忘却寸前だった淡い記憶。どうして忘れてしまっていたのだろう。

 多分、きっかけはあの日だった。あの日からオレは少しずつ、自覚のないまま変わっていった。あの子供の言葉があったから、オレは外の世界に憧れ、ホワイトルームを脱走するにまで至ったのだ。

 落ち着かなさを誤魔化そうと端末を開くと、着信が二件。一つは平田から、祝勝会のお知らせ。

 もう一つは――

 

 

 

 この敷地内でも一際大きく豪華な、観音扉の前に立つ。

 得体の知れない緊張。これもまた経験か。

 ぎこちない動作で小突くと、乾いた音が反響する。やがて「どうぞ」の渋い声。

 ゆっくりと開けると、二人の影が出迎えた。

 

「こうして顔を合わせるのは初めてだね。綾小路君」

「お待ちしていました」

 

 柔和な表情からひしひしと感じる大物な雰囲気は、親子共通なようだ。

 

「座っても?」

「勿論」

「こちらが空いていますよ」

「……いや、向かいでいい」

 

「釣れませんね」別段不機嫌になるわけでもなく、坂柳は言う。「二人きりではありませんしね」

 

「二人きりでも遠慮する。誤解を招きかねない言い方はよしてくれ」

「いくら綾小路君といえども、無節操なことは……」

「わかっていますよ。勘弁してください」

 

 初対面から遠慮なく揶揄ってくる理事長に嘆息が零れる。

 

「……今日はそんな、緩い空気で話す内容ではなかったはずですけど」

「――わかっているよ。僕の方から君を呼んだわけだからね」

 

 そう、坂柳を通して理事長から要請があった。用件は察している。オレの方から切り出そう。

 

「見つかりましたか? ()()()()()()()()は」

 

 さすがの二人だ。一瞬で真剣な、重々な空気が生まれる。

 

「……すまないね。僕も有栖も、当時のメンバーを全て覚えているわけではないんだ。すぐにとはいかない」

「お父様が施設の人間に掛け合って、どうにか名簿を確認できないかと動いていますが……難しいでしょうね」

 

 押し引きの塩梅が問題ということか。

 ホワイトルームは政府が運営しているわけではない。逆に政府直営のこの学校を治めている理事長は、閲覧に多少の制限がされているはずだ。その条件を突破したとしても、四期生の名簿を確認するのは困難を極める。オレに纏わる何かだと悟られて拒否されるのがオチだ。

 

「本当なのですか? ホワイトルーム生が潜んでいると」

「根拠はない。だが――」

 

 偽りの監視カメラを設置する作戦。あれを先回りされた際の、まるで自分と同じ思考をし綾小路清隆個人への対策をしてきたような感覚。的を一年C組に絞るのは早計だ、他クラスから提案してきた可能性もある。オレ自身確証はないため、杞憂であればという祈りもあった。

 

「君の直感は、強ち間違ってはいないと思うよ」

 

 しかし、理事長は良くない結果になると考えているようだ。

 

「堀北さんの拉致・監禁事件。あれは恐らく君の危惧している可能性に該当する人物だ」

「……! まさか」

「浅川君の推理通りだったと仮定すると、あの犯行はホワイトルーム生並の身体能力に加えて、『恐怖心の欠如』がなければ実行できない」

 

 なるほど、相手の素性が明らかとなっていないにも関わらず呼び出したのは、こちらが本題か。

 聞けば、犯人の行動は相当な荒業だったらしい。それでいて捜索側の盲点をつくトリックだったと。

 そこでふと、一つ疑問が過る。

 

「恭介はどうして、それを前提とした推理ができたんですか?」

「……詳しいことはプライベートだから話せないが、彼の友人には優秀な者が多かった。自然と不可能ではないという答えになったんだろうね」

 

 少し間のある回答に違和感を覚えるが、辻褄は合っている。恭介がホワイトルームの関係者であるならそれを隠す理由はないはずなので、やはり彼は無関係なのだろう。

 

「それに、根拠はそれだけじゃない」

 

 思案していると、理事長は更なる情報を提示する。

 

「数日前、ある男がこの学校に接触してきた」

「男……」

「綾小路君の、父が……?」

 

 明確な答えを、坂柳が継ぐ。

 目的は、一つしかないな。

 

「オレは退学なんてしませんよ」

「君の意思は尊重するつもりだ、当然門前払いをしておいた。ただ恐ろしいことに、『清隆は自ら退学を選ぶことになる』なんて捨て台詞を置き土産にしていたけどね」

 

 何のメッセージだ? オレが外の世界に絶望し、ホワイトルームを居場所と認めるということか、それとも……

 

「あなたは、刺客が潜伏しているとお思いで?」

「情報を結び付けるなら、そうなるね」

 

 機会を窺っていたかのように、あの男はここに乗り込んできた。悪意ある作為を疑うのも無理はない。

 だが、それでは判然としないこともある。

 

「鈴音を攫った理由がわからない。オレへの警告にしてはリスクが高すぎる」

「その点については、私たちの見えていない側面があるのかもしれません。結論の出しようがありませんね」

 

 矛盾はないのだ。オレが入れ込んでいる者に危害を与えることで、守るために自主退学を強要される、そう捉えることはできる。

 しかし、少なくともホワイトルーム生である綾小路清隆なら、その程度で怯むことがないのは十分知っているはずだ。もし、普通の子供であろうとするオレを理解しているなら別の話だが。

 そしてもう一つ。

 

「そもそも、オレを退学に追い込みたいのなら、あのタイミングで目立つ愚策は取らないはずだ」

 

 態々オレ提案の策に対抗するようなマネは明らかに余計だ。実際こうしてオレに存在を悟られている。

 尤もな疑問だったようで、二人は無言で考え込んでいる。

 ……一応ある。これまで上がった疑問を解消する答えが。

 

「理事長。『脱走者』はどうなっていますか?」

「脱走者?」

「ご存じありませんか? オレがあそこを抜け出せたのは施設の閉鎖によって身柄を松雄に預けられたからです。その原因は脱走者の発覚だと、彼から聞きました」

 

 当時は突然のことだったため状況に振り回されていた節があるが、最低限の情報は耳にしている。あの暮らしも悪くはなかった。執事の松雄と、その息子。何やら他にも数人同い年の友人がいたらしいが、果たしてその姿を見ることはなかった。

 

「まさか、その脱走者が君と同じように、この学校に逃げ込んだと言うのかい?」

「……確かに、それなら説明が付きますね。あなたを退学にする必要がない。あなたの言う先回りした一手も堀北さんの拉致も、単にCクラスを勝たせるために実行したに過ぎない」

 

 その通り。楽観的な観測は危険だが、現時点で最も可能性が高いのはそれだ。

 まあそれでも、やはり鈴音に対する犯行の意図は依然納得しがたいことに変わりはない。

 

「……その線なら、上手く確認できるかもしれない。現時点で綾小路君とその脱走者を直接結び付ける要素は公になっていない」

「お願いします」

「うん。吉報を待っていてくれ」

 

 まだ脱走者で確定したわけではないが、名前を知っておけるかどうかの差は大きい。当たっていた場合無害である可能性も浮上する。

 ――それに、もしここにあの子供がいるのだとしたら、やはり会話の一つはしておきたい。

 

「……とりあえず、現状は把握しました。父のことと、ホワイトルーム生のことと、何か進展があれば、今回のように迅速に連絡してもらえると嬉しいです」

「承知したよ。――どうかな? 三ヶ月経った、ここでの生活は」

「楽しいですよ、あの頃よりは色があって。ここに入れてくれたこと、とても感謝しています」

「なら良かった。一生徒として贔屓はできないが、万全なスクールライフを送る手助けならしてやれる。君も相談事があるならいつでも言いなさい」

 

 基本は後手に回るしかない。万一相手が明確な敵だったとして、オレはその正体をまだ確信できていないのだ。焦って無駄な一手を打つわけにはいかない。警戒心の有無だけでも、いざという時の反応には差が生まれるものだ。

 席を立ち、大扉に手を掛け――気掛かりだったことを思い出し振り返った。

 

「そういえば、松雄は今どうなっていますか?」

 

 オレの脱走に助力したことを既に施設は把握しているはずだ。あの男の冷酷さを考えると、随分酷い目に遭ったことが推測される。

 

「……聞かれなければそのままにしようと思っていたんだけどね。――解雇されたよ。齢六十を過ぎて職の無い身だ。その後の就職も悉く妨害されているらしい」

「……やはりそうですか」

「だが」

 

 予想していたのもあって、あまり驚きはなかった。ただ、理事長はその先の希望的な事実まで語ってくれた。

 

「息子と支え合って何とか生活しているそうだ。一時期自死まで考えていたそうだから、僕としても安堵の息が漏れることだよ」

 

 詳しく伺うと、息子も普通の子供なら許されるはずの進路すらも阻まれてしまったが、今はバイトでどうにか食いつないでいるらしい。

 自然と、肩の力が抜けるのを実感する。

 

「――ふふ、心配していたんですね」

「……まあな」

「善いことです」

 

 かつてのオレなら抱かなかった感情だ。罪悪感さえも。彼が過酷ながらも強かに生きていることを知り、それが紛れたことを悟る。

 最後に小さな朗報を聞き入れて、オレは理事長室を後にした。

 

 

 

 廊下を歩いてそう経たない内に、壁に寄りかかる神室の姿が見えた。

 

「坂柳を待っているのか?」

「うん。一昨日もそうだったんだけど、今日はあんたも一緒だったんだ。何の話?」

「鈴音の事件についてな。オレと恭介はあいつと比較的仲が良いから、こうして理事長と話す機会が多いんだ」

 

 大して疑うこともなく納得の表情を見せる。鈴音の事件についても触れていたため嘘ではないが、すまないな。

 

「なあ、恭介と椎名、何かあったのか?」

「それは……」

「佐倉に付き添っていたから詮索できなかったが、お前らとも赤の他人ってわけじゃないんだ。できれば話してもらえると……」

 

 恭介の場合話しても問題ないと思うのなら話してくれているはずだし、ああやって完璧に何もなかったようには過ごさないはずだ。――恭介の雰囲気だけでは、とても今問題を抱えているとは気付けなかった。

 

「……ごめん。私からは」

「……神崎と椎名は?」

「わからないけど、おすすめはしないよ。多分良い方向には進まないと思う」

「そ、そうか」

 

 何となく、四月の南東トリオと似た暗雲を感じる。余所者感のあるオレが横槍を挟むのが危険なのは一理あるか。

 

「……ねえ、念のためだけど、アドバイスとかある?」

「アドバイス?」

「今のままにしておくのは私も良くないとは思ってるんだけど……あまり慣れてなくてさ、こういうの」

 

 なんと。この手の相談を受けるのは初めてだ。一体どうしたものか。

 

「……やっぱり、自分の思っていることをぶつけなきゃ始まらないんじゃないか? オレと恭介はそれで歯車がかみ合った」

「思い、ね……」

 

 ピンと来なかったのか、相変わらずうーんと唸る神室。確かに彼女は自分の気持ちを隠し通すイメージがない。雰囲気の似ている鈴音以上に、素直な面が目立っているような気がする。

 

「人によるかもしれない。オレたちは独りで悩む癖があったからそれで上手く行ったわけだし」

 

 オレたちには幾分か共通点があった。だからこそ互いに誠実に向き合うことで次のステップに進むことができた。しかし神室と恭介という組み合わせでそうはいかないだろう。

 ――あ、そうだ。

 

「意外と押しに弱い」

「え――?」

「それに、あいつ自身とは違い竹を割った態度の方が好まれたりする」

 

 オレと恭介は親友であり同志だ。一方神室はあいつにとって純粋な友人関係。志どうこうは関係ない。そういう相手が胸の内を曝け出したところで、恭介は応じない可能性が高い。

 池や須藤、佐倉もそう。もっと言えば、そもそも席順に関わらず鈴音のことも気に入っていた。恭介はあいつらに対して『誠実さ』より『優しさ』を優先する印象がある。そこに自分という要素は薄く、相手を諭す傾向が強い。

 他人を導く時、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから相手に自分を知られることなく、それでいて重みのある言葉で揺れ動かす。今まで一番近くで見てわかってきた、オレとそれ以外との違いだ。

 そんな恭介にどうやって踏み込めばいいのか。オレとは異なるアプローチを採る必要がある。

 

「……なるほどね」

 

 固い表情は変わらないが、先程よりかはマシな意見だったようだ。自分の中で吟味し、頷いている。

 

「……ありがと。考えとく」

「お、おう」

 

 それきり彼女は再び俯き、思考のドグマへと落ちてしまったようだ。何か別の話を振っても野暮だろう。

 密かに、上手く行きますようにと祈っておこう。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 灼熱の空の下も、ようやく慣れてきた。

 滴り落ちる汗も、あの部屋に残っていたら体験できなかった感覚だ。こういった生活への感謝の念を、忘れないようにしなければ。

 ――さて。

 そんな穏やかな日々は今、着々と侵されようとしている。父は勿論、正体不明のホワイトルーム生の暗躍は用心するに越したことはない。

 なら今打てる手はあるのか。無論ある。

 来るべき時が訪れたら、今の状態では人材不足が目下の懸念要素だ。矛も盾もなければ攻撃はおろか自衛もままならない。

 前提として、オレは既に少々目立ち過ぎている。他クラスから見ても、今回の事件の審議によって鈴音に匹敵する認知をされてしまったことだろう。

 それら全てを踏まえると……必要になってくるな。有用な『駒』が。

 恭介や鈴音とは違う。平田や勉強会のメンバー程の友好度もない、ただ勝利のために使う・使われるだけの関係が。

 心当たりは、今は一つだけある。恭介も気づいていたようだが、他クラスには当然Dクラスでも知れ渡っていない、十分な働きを見込める駒が一つだけ。問題はどう協力を促すかだが……。

 不意に自分の身体を影が過り、視線が上がる。

 蝶が飛んでいた。

 

「……」

 

 頭上を浮遊していた蝶は居場所を見つけたように花の上に降りる。

 それを一瞥したオレは、再び歩き出した。待ち合わせ場所であるケヤキモールへ。

 ここまで全て想定内だ。全く喜べない想定内。肝心なのはこれからだ。

 少しずつ、己の闇が精神を蝕んでいくのを感じる。希望に縋り抗っていた心が、閉ざされていく。

 今は――今だけは、諦めさせてくれ。もう一度、翳りなく元の、オレが望んでいた場所へ返り咲くことができるために。

 近い内にまた戻れることを信じて、オレはこの灼熱から身を引く。冷たさを思い出す。

 歩を進める自分の表情が、徐々に無機質になっていくのを嫌でも感じる。

 嗚呼きっと、あの蝶も花を名残惜しく発つのだと、そうでなければ生きられないのだと、嘆きの中で。

 夏はまだまだ熱を極める。しかしもう、この暑さに汗を流すことは暫くないだろう。

 




これにて三章『マッチ売りは灼熱を知らない』、完結です。これから追加予定のtipsを考えるとギリ100話超えですね。tipsに回すとキツイなって話が多くなってきて結果的にtipsがけっこう減るかもしれませんが。
二章とは違いオリ主も原作主人公も完全に曇った状態で終わってしまいました。二人を救ってくれるのは果たして誰なのか、あるいは自力で救済するのか、そもそもまだ救われないのか。やっぱり作者も知らない。

次章・醜さに嬲られし家鴨の子の忘却を


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間―未恋―
或る雑談


 梅雨も明けが近いのか、次第に晴天も増えてきた。これまで雲に阻まれていた鬱憤を晴らすように、ギラギラと下界を照りつける。

 更に大きな変化と言えば、それに伴って蝉の啼き声が鼓膜を揺らすようになった。風物詩と称するだけある存在感に、向かいの少女も関心を示している。

 

「夏って感じがしますね」

「苦手」

「酷い!」

 

 だって本当に苦手なんだもの。

 対角の少女が堪らず身を乗り出す。

 

「そういう時は相槌打つのが普通なんじゃないかな」

「人の言葉でもないのに四六時中喚かれても苦痛なだけだよ」

「見解の相違だな」

 

 一方こちら、男性陣は対照的に冷静だ。

 

「善いか好きかは別問題だからねえ」

「浅川君、苦手なものとかあるんだ」

「僕を何だと思ってるんだい」

「んー、結構抜けてる?」

「隆二、どうぞ」

「一之瀬の方が辛辣だぞ」

「神崎君今、一之瀬さんのこと馬鹿にした……?」

「ひっ、白波……いや、勘違いだった。全く浅川は酷いやつだな」

「Bクラスって弱い者イジメも厭わないんだね……僕はとても悲しいよ」

「わああごめんって浅川君! ――そもそも何で蝉の話からこんな言い争いになっちゃったのさ!?」

 

 ツッコミ不在の恐怖は時として音もなくやってくる。温厚な一之瀬があと一歩のところで指摘しなければ収集がつかなくなっていた。

 ケヤキモールにおいて最も多くの生徒が足繁く通うカフェに、四人の姿はあった。Dクラスのような祝勝会の規模ではないが、折角だしお疲れ様の挨拶がてらということで、一之瀬の提案で集まることとなったのだ。

 浅川にとって、友人どうしのプライベートな会合の立案に自分が関わらなかったケースはここに来て初めてだ。別段変わった点はないものの、少し新鮮な感覚がある。

 因みに、もう一人呼ばれていた柴田は部活で欠席だ。「そうかあ」と五回にわたって強調したにも関わらず神崎と白波にはスルーされ、一之瀬に至っては一度も気付いてもらえなかった時は本気で涙が出そうだった。

 

「いやありがとね、手伝ってもらっちゃって」

「お礼なんていいよ、私たちも清々したからね! 最初は騙すのはちょっとって思ったりもしたけど……誰かを酷い目に遭わせるわけじゃなさそうだったから」

「今後のことも考えるとこれくらいは許容できないとな」

 

 浅川は堀北が入手した過去問を確認後、すぐにBクラスへの取引を思いついた。神崎との出会いと彼から聞いたBクラスの状況があったからだ。

 待ち合わせ場所に訪れた一之瀬に過去問の提供と、互いの事情の共有を行い、大まかな作戦を提案すると了承の返事が来た。

 事件当日、浅川は何とか現場に居合わせることに成功したが、嵌められたのが予想に反してDクラスの須藤だった。浅川は当時の状況と、特別棟を出た際に見つけた破損したガラスと落下したドローンから具体的な策を立案した。

 そうして一之瀬に要求したのは、怪我をしていた生徒。どれだけ軽度でもよかった。最悪自分か神崎に無理矢理傷を作ることも考えたが、運良く部活中に怪我を負った生徒がいた。それが柴田。

 彼に作戦を伝え、痕跡となるもの――他の人間であればペンやノートでもよかった――を借りれば後はほとんど浅川の仕事。一之瀬たちには表面上事件に関与しない姿勢を取ってもらい、神崎には綾小路たちの奮闘を間近で見届けてもらうよう頼んだ。その程度のことだったので、Bクラス全体に協力してもらう必要はなく、よりスムーズにやり取りは進んだ。

 

「これからDクラスとの関係はどうなっていくんですか?」

「そりゃ協調か不干渉かでしょ」

「いやいや、一之瀬と堀北次第だろう」

「だから、二人共そうしたいでしょってこと」

 

 三人の視線が一人に注がれる。

 

「あ、あはは……確かに浅川君の言う通り、私としては敵対行為は避けたいかな。堀北さんが何て答えるかはわからないけど」

「十中八九、今の彼女なら頷くはずさあ。今回の件は、お互いにクラス間の協力関係の意義を実感する機会になったんだから」

 

 後手――と言っても浅川が動いたが、それがなければ寧ろ打つ手がなかった――に回っても勝利できたのは実質ニクラスで攻め返すことができたからだ。折角生まれた流れを維持しようと考えるのは当然のことだ。

 

「他のクラスとは信頼関係の構築が難しいからな。手を取り合う相手としては、Dしかあり得ないか」

 

 頂点のAクラスは勿論、Cクラスは敵対したばかり。ポイント差や順位のことを考えても、神崎の意見は妥当だろう。

 

「僕としても、どうせなら君らのような集団と手を結びたいよ」

「仲が良いから、か?」

「普通の高校なら理想形だろう? 個人の相性はともかく、一番居心地が良いのは間違いない」

 

 一之瀬教という可能性を排除すれば、文句無しで。

 

「でも、別にみんながみんな輪に入っているわけじゃないから」

「へー、意外」

「姫野なんかは、少し心配になるレベルだな」

「君より!?」

「おい、白波よりマシだ」

「そ、そんなことないですっ! 神崎君、私の具合見に来た時すごくキョドってましたよね?」

「仲良いよね、二人」

「にゃはは……」

「やめてよ一之瀬さんその苦笑い!」

 

 確かに、彼女がお手上げだといよいよな感じがする。

 

「ま、入りにくい人がいて当たり前だよ。一人として同じ価値観を持つ人なんていないんだから」

「それはわかるけど、仲間外れを認めていい理由にはならないと思う」

「しかもこの学校じゃ尚更異分子は……か。本当碌でもないクソ高校だねえ」

 

 何の躊躇いも無しに毒づくと、三人揃って唖然とした表情をする。

 

「随分と辛口だな」

「浅川君はこの学校が嫌いなの?」

「先生がどうかは兎も角、Sシステムその他諸々はクソッタレだよ」

「そうですか? 実力主義と言い張るだけあるとは思いますけど」

「足りない知識を身につけるための学校なのに赤点一つで退学とか、監視カメラで見てくれは誤魔化すくせにいざ暴力沙汰になると解決能力がなかったりとか、挙げれば切りがない。それに、……あー、これ以上はいいか」

 

 学力だけでクラスポイントは大きく変わらないらしいが、それはつまり別の基準でクラスポイントがより大きく変動する予定があるということになる。ここまでは綾小路と堀北と共有済み。

 そして、運動も大差を生まないはずだ。部活を強制していないのだから、それでは公平性が害される。コミュニケーション能力や協調性――浅川が重要だと考える能力の一つだ――も、日頃の生活でのクラスポイント変動が小さいため違う。

 今回のCクラスの暴挙が学校側がすすんで対処していなかったことも踏まえると、わりと「碌でもない」部分が評価されてもおかしくない。

 が、根拠の薄いことだ。下手に他クラスへ伝えるほどのことでもない。

 

「僕からすればもっと技術的なことを教えて欲しいよ。パソコンの使い方とか」

「そういえばお前苦手だったな。覚えたのか? ステータスコードは」

「一応基礎は。404が未検出で、200がリクエストの成功、だっけ? サーバーからクライアントへの応答だとか何とか」

「うん。この前授業でもやってたよね。浅川君、機械には疎い感じかな?」

「まあね。だから本当はそういうこととか、お偉いさんへの媚び方とか、そのへんをもっとしっかりやって欲しいのよ」

 

 情報技術については、先生である雨宮が得意ではなかったため現在の有様だ。政府運営と謳うこの学校には少しばかり期待していたのだが、正直満足のいくものではなかった。

 幸いなことに『人』には恵まれたとは思えるが、逆に言えばそれ以外の価値がここにあるとは感じない。彼の望む証明に、場所は必ずしも重要ではなかったから残っているまでだ。

 

「なるほどね……、でも、もしかしたらそういう行事もあるかもよ?」

「だと、いいんだけどねえ……」

 

 坂柳や戸塚の性格でAクラスに配属されるくらいだ。悲しいかな、『真っ当』という枕詞はあり得ないだろう。

 

「やんなっちゃうなあ、ホント――」

 

 思わず零れた嘆きの声。どこに向けるでもなく霧散し。

 そこにどれだけの悲哀が込められているかなど、この場の誰も知る由もなかった。

 

 

 

 解散後、予想通り神崎に呼び止められた。

 

「おい浅川、お前……」

「どうした? そんな浮かない顔をして」

「……お前のユーモアは、人を笑顔にするものじゃなかったのか」

「不機嫌になるのは勝手だけど、それは僕がジョークを吐いている自覚がないからだよ。君が相手を硬直させるメデューサもかくやな眼差しを僕に向ける理由、本当に心当たりがない」

 

 再び眉をひくつかせるが、彼は努めて冷静だった。

 

「せめて、理由は聞かせてくれないか? 何故こんなことにならなければならなかったのか」

「残念ながら意味のないことさあ。君がそれを知って、一体何になる?」

「……そこまで、俺は信用されていないのか?」

「……違う、君のことが好きだからさ。君たちが好きだから、僕は……」

 

 嗚呼、クソ。余計なことを口走った。

 結局、まだまだなのだな。まだ自分は嫌われることを恐れている。今更後戻りなどできないと言うのに。

 

「まだ間に合う。すぐにでも椎名のところに行って、話し合えばきっと、」

「うるさいなあ」

 

 諭すように肩に手を添えようとする神崎を振り払い、声に圧を乗せた。驚きに顔が染まるのが、よく見えた。

 

「それが自己満足だってこと、理解してる?」

「……っ、俺はただ」

「椎名が本当に不満なら、今まで僕に声を掛ける機会は散々あった。僕も当然そう。――そして君も」

 

 ズルい男だとは思う。全てわかった上で、自分に都合のいい欺瞞と事実だけを選りすぐる。典型的な勝ち逃げ。

 

「後悔は伝わった。でもそれを僕の方にまで押し付けるのは傲慢だろう。幸運の女神には、前髪しかないんだよ」

 

 捨て台詞を吐いて、意気消沈してしまったであろう神崎に背を向ける。

 ただ一つ、返される可能性が僅かにあった反論も、既に潰す手立ては考えてあった。彼には、自分を止められない。

 

 ――前髪を見落としたのは、お前も同じだろう?

 

「女神に構っていたら、背後の嫉妬に刺されてしまうよ――」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

明瞭な夢現

「不干渉が妥当ね」

 

 堀北の復帰前、独りお見舞いに足を運んだ綾小路は、早速今後の方針を訊いた。

 

「いくら何でも協力までするのは難しいわ。私達は最終的に三クラスを越えなきゃならないし、Bクラスもいきなり相互扶助を望まれては疑ってしまうでしょう」

「対立はしないんだな」

「……多分それでやっていける力はない。まだね」

 

 大きめなベッドの柵に寄りかかり、堀北は率直な意見を述べる。

 

「散々だったな。怖かったろう、攫われた時は」

「……別に」

「悪かった。オレが迂闊に目を離さなければ」

「いいの。直前まで話していた相手が前触れなく拉致されるなんて、誰も予測できないわ」

 

 そうは言っても、だ。もしあの時自分が側にいれば、彼女を守り抜くことくらい十分可能だったはずだ。綾小路の抵抗を掻い潜り堀北に手を出すことなど、ホワイトルーム生とて至難の業。

 ……それも含めて理解していたから、まんまと誘導できたのだろう。明らかに相手は、自分があのタイミングで堀北のもとを離れることを確信していた。

 監視カメラを偽装する策を破られたことで、こちらがホワイトルーム生の可能性に気付く。迅速な情報収集のために連絡すべきは坂柳。会話の内容は聞かれるわけにはいかないのでその場を離れる。残された堀北は手持ち無沙汰に周囲を見回し、不自然に開いた自分のポストを発見する。

 ここまでの流れが、全て相手の掌の上だったわけだ。ポストに気付いた浅川なら、きっとそこまで察しているだろう。

 

「……ありがとう、須藤君のこと」

「気にするな。オレだってあいつを助けたかったんだ」

「でもそれはっ、私も同じだった。あなたたちのような情ではないけれど、兄さんのようになるためにはきっと必要なことだったのよ……」

 

 やけに今日はしおらしいと思っていたが、原因は体調だけではなかったか。

 

「あの人のことだけじゃない。クラスに貢献することさえできなかった。私自身が納得できる努力すら、できないで――本当に不甲斐ないわ」

「それが今回はしょうがないことだと、お前もわかっていたじゃないか」

「馬鹿ね。それで開き直れるなら、私はもっとおおらかよ」

「キツイ自覚はあったんだな」

 

 余計な指摘をしてしまった。鋭い眼差しにたじろぐ。

 

「……まあ、なんだ。あまり抱え込み過ぎるなよ。戻ってからもそんなんじゃみんな心配するぞ。お前も鬱陶しいのは御免だろう」

「それは……確かにそうだけど」

 

 ただの気持ちの問題だ。無理にでも前を向いてもらうしかない。

 あまり責任を感じられると、何だか守ってやれなかったこっちが罪悪感を覚えてしまう。

 

「こんなところで折れるお前じゃないはずだ。挽回のチャンスなんて、いくらでもあるさ」

「……そうね」

 

 苦虫を噛み潰したような顔のまま言われても、その同調には何ら説得力がない。

 今はこれ以上言っても無駄だろう。綾小路は静かに席を立った。

 

「ああ、そういえば」

 

 尽きたと思っていた話題に一つ新着があったことを思い出す。

 

「お前の知り合いで、学籍番号が同じやつっているか?」

「嫌味かしら」

 

 ……兄妹そっくりなことを言う。

 

「そんなものを共有する仲なんていないわ」

「そうか……」

 

 ゆっくりと扉を閉め、端末を開く。

 今まで触れてこなかった、けれど解消される兆しの見えない違和感。

 頼った偉い二人はどちらも、果たして善き回答は得られなかった。

 

「……一体どういうことなんだ」

 

 その疑問に終止符が打たれる日は、まだ先、呆気なく訪れることとなる。

 

 

 

〇高度育成高等学校学生データベース《7/1時点》

【氏名】綾小路清隆(あやのこうじ きよたか)

【クラス】1年D組

【学籍番号】S01T004651

【部活動】無所属

【誕生日】10月20日

<評価>

【学力】B

【知性】C⁺

【判断力】C⁺

【身体能力】B

【協調性】C

〈担任メモ〉

入学当初と比べ、総合的に成長していると思われます。クラスを纏める平田洋介や櫛田桔梗とも交流が多く、性格に問題を抱えていた堀北鈴音の更生にも貢献しており、自己研磨や対人コミュニケーションへの積極性が高いことも含め報告します。

 

 

 

 帰路を辿った綾小路は、櫛田の部屋を訪れていた。

 ……めっちゃ緊張した。

 初めて入る異性の部屋。男としての興味ではなく、純粋な好奇心もあった。

 内装は予想通りのガーリーな部屋で、友人と撮ったであろうプリクラと呼ばれる写真であったり、美容に力を入れているとすぐにわかる棚だったり、自分の部屋とは違いやけに良い匂いがするのも、単に女子だから、だけではないのだろう。

 中でも目を引いたのが、この、

 

「熊のぬいぐるみ……」

「それが気になるの?」

 

 何故この少女は自分に話しかける時は決まって背後を取りたがるのだろう。

 ベッドの上に置かれたぬいぐるみ。この部屋の小洒落た雰囲気に惑わされそうになるが、綾小路にそのカモフラージュは通用しない。

 これだけは、人付き合いに有効とはならないアイテムだ。

 

「好きなのか? 熊」

 

 そのようなピンポイントな指摘をするわけにもいかないので、適当な質問をする。

 

「うーん。普通かな」

「は? じゃあ何で」

「それ、貰ったんだ」

「貰ったって、誰に」

「浅川君」

 

 意外な人物だった。

 彼は無一文のはずだが、と思った矢先頭を振る。一時だけあった、彼が物を買える時期が。

 

「もしかして、ちょうど二ヶ月くらい前か?」

「え? そうだよ、良くわかったね」

「ポイントが足りていたのなんてその頃までだろうからな」

 

 それっぽいことを言って誤魔化す。

 

「いつの間に恭介と会っていたんだ」

「偶々出くわして。何だっけ、何かお話もした気がするんだけど、忘れちゃった」

 

 ……本当だろうか。

 不審に思ったのは櫛田にだけではない。お話というのは気になるが、別に自分の把握していない範囲で浅川が櫛田と交流しているのは咎めることではない。

 しかしだ。その頃は確か、彼が迷っていた時期。どことなくしっくりこない部分がある。まして、彼が人に物を買い与えるなど……てっきり堀北へのプレゼントが初めてだと思っていた。

 櫛田に誕生日を聞いてみても、まだ祝うには早すぎる。

 ――まさか、盗聴や盗撮の類か?

 そう疑ってみるが、今それを確かめる手段はないし、警戒心を持つ櫛田が気付き既に処理している可能性もある。一先ずは頭の片隅に保留しておくことにした。

 

「それで、一体何の用だ? 急に呼び出して」

「迷惑だった……?」

「……そう思ったら断っている」

 

 あくまで今日は一人の予定だった。櫛田は真逆だと思っていたが、いつしか一之瀬の言っていたことを思い出し、そういう日もあるかと納得する。

 

「実は特にないんだよね」

「えぇ……」

「そうだなぁ、一緒にいたいって思ったから?」

 

 まただ、男を魅了する声音と艶めかしい表情。これを自分にだけ見せる意図は……。

 

「何もないなら、帰るけど」

「――待って」

 

 こういう空間に慣れていないため、どちらかが会話の主導権を握れるよう誘導した結果、ぎゅっと袖元を掴まれる。

 

「……どうした桔梗」

「お願い。本当に、一緒にいたいって思ったの。だから……」

 

 何だ。一体何なんだ。

 彼女の考えていることがわからない。こちらをどうしようと言うのだろう。

 しかし、体裁的にもここは頷くしかない。きっとここまでされたら男は断れないものだから。

 

「……いるだけな」

 

 そうして手を引かれ招かれたのは、ベッドの上。

 数日前とは逆の立場だ。

 

「い、言っておくが、そういうことはするつもりないぞ」

 

 不安になってわけのわからない言葉が溢れる。

 

「え? ――ふふ、わかってるよ。だから許してるんだもん」

 

 発言とは裏腹に、誘惑するように横から覗きこんで言われた。

 

「知ってる? 私まだ、誰も部屋に入れたことないんだよ。女の子の友達も」

「……へえ」

 

 確かに、あれだけ親しく時間の共有も繰り返してきた堀北でさえ、綾小路や浅川を自室に招いたことがない。そう考えると、櫛田のこの行動も随分と思い切ったもののように感じる。

 

「どうしてだ?」

「……?」

「どうしてオレに近寄る? 自分で言うのも虚しいが、顔の広いお前の認識の中で、光るものを持っているとは思えないんだが」

 

 薄暗いものなら、あるいは。

 

「それを決めるのは、綾小路君じゃないんじゃないかな」

「だとしても」

「それに、そんな大層な理由は求めてないよ」

 

 それから暫く、お互い黙ったままだった。

 やがて空気が揺れ、櫛田はまるで日常のように活動を始める。

 

「前、オレにとってお前がどういう存在なのか、聞かれたことがあったよな」

「そうだね。佐倉さんと会った後」

「……少しだけマシな答えが、見つかったよ」

「……そっか」

 

 多分、間が耐えられなかっただけなのだろう。しかし口を衝いて出た言葉は、思いの外真面目くさったものになった。

 それを密かに理解しているのか、櫛田は内容まで聞かなかった。

 

「初めから、オレも直球で聞けば良かったな。――お前は、オレのことをどう思ってるんだ?」

 

 思えば一度も、この聞き方をしたことはなかった。最も簡潔な問いかけであるはずなのに。

 何となく、理由はわかる。今まで打算的なものばかり前提にしていたから。だから「近寄る理由」だの「何を考えている」だの、怪しむような言い方しかできなかった。

 櫛田は綾小路に何度かそう問いかけていた。彼女だけではない。各々が互いにその示し合わせをしてきたのを知っている。しかし綾小路が櫛田にその質問をしたのは初めてで、けれどどこか、この問い方なら答えてくれそうな期待があった。

 櫛田は洗い上げをしながら、徐ろに口を開く。

 

「……綾小路君と、似ていると思う」

 

 曖昧に聞こえて、二人にとっては決定的な答えだ。

 どうりで、ここに招き入れたわけだ。

 ここ最近、引き寄せあっているように感じたわけだ。

 なら、

 

「それは、良くないな」

「やっぱり、綾小路君はそう思ってたんだね」

「やっぱりって……わかってたのなら、」

「……」

「……いや、そうだな。すまない」

 

 この前の会話を顧みれば、櫛田が同じ考えでないことは察しがつく。

 

「ううん。これに関しては、綾小路君の気持ちもわかるから、本当に。でも私だけ、置いてかれちゃった」

 

 キュッと、ノズルを締める苦しそうな音。

 そんなことは。などと、無責任なことを言えるわけがない。

 言えるのは、慰撫とは真逆の言葉だけだ。

 

「悪い。オレは抜け出さないと。毒で仕上がったぬるま湯に、いつまでも浸かっているわけにはいかないんだ」

「知ってる。綾小路君はそういう人だもんね」

「……初めてそんな風に言われた」

「綾小路君が変わってるってことを、私達がわかり始めた証拠だよ。きっと」

 

 一通り家事を済ませた櫛田は、再び隣に戻る。

 今度はしっかりと、こちらを向いて。

 

「……親離れって、辛いね」

「慣れるさ。すぐに」

「痛みに慣れるなんて、不幸だよ」

「人は誰だって不幸だ」

「今の君でも?」

「ああ、結局はな」

 

「じゃあ一つだけ、お願いしてもいい?」しっとりとした、細い声で、「これからも、会いに来て欲しいな。気が向いたらでいいから」

 

「……わかった」

 

 拒否することもできた。拒否したほうが良かった。それをわかっていながら、綾小路は頷いてしまった。

 その理由は明白だ。

 

「……ズルいよね、私。大したこともしてないのに恩着せがましく」

「いいんだ。ただしオレも、それ以上のことはしてやれないから」

 

 彼女は恐らく知らないだろう。近い未来、自分にどんな罰が訪れるのか。その罰を、誰が与えるのか。

 この関係が、その時彼女に裏切られたと思わせることに繋がるのだとしても、それまでのささやかな慰めになる。そう信じて偽善に走る。

 露にも、あるいは露ほどだけ知っているかもしれない少女は、ポツリと言った。

 

「――ありがとう」

 

 

 

 

 

 翌日、退院した堀北の数日ぶりの登校。お節介もしれないと思いつつ、浅川と共に付き添うことにした。彼は「一番乗りが……」と逡巡していたが、何を閃いたのかすぐに同意した。 

 蓋を開ければ簡単なことだった。両手の開いている姿を見て、全て察した。

 

「こうやって、三人でゆっくりするのも久しぶりだな」

「そう? 高々二週間とかじゃない?」

「いいえ。三人揃って、は結構前よ」

「……よく覚えているな」

「――! ……あなたたちの記憶力が低いだけよ」

 

 須藤の事件が起こって以降は浅川の立ち回りや堀北の拉致の関係で落ち着ける時間もほとんどなかった。慌ただしさのせいで余計、過去が遠く感じる。

 

「期末を過ぎれば、夏休みか」

「いよいよ待ちに待ったヴァカンス!」

「よくもぬけぬけと待ち侘びれるわね……。絶対何かあるに決まっているわ」

「どうせ何があるかなんてわからないんだ。今の内にげんなりするより、期待に胸を膨らませておくのもいいかもな」

 

 少数派であることに不満なのか、にわかに頬を膨らませる堀北。今しがた膨らませた方がいいのは胸と言ったばかりなのだが。

 まあ確かに、櫛田や一之瀬などと比べると膨らんでは――

 

「ギャァッ!」

「清隆!?」

 

 馬鹿な。全く見えなかった。いつコンパスを取り出した? そもそも何故わかった?

 目を白黒させている間に、堀北は何事もなかったかのように矛を、文字通り収めた。

 

「仲が深まっていると思うのなら、そういうのも悟られやすいかもとは思わないのかしら」

「え、何考えてたの? 全然わからんのだけど」

「……何でもないです」

 

 気が緩みすぎていたということか。どれだけ打ち解け合おうと、この点は要注意のようだ。

 

「全く、男はケダモノという言葉も、強ち冗談ではないわね」

「お、オレなんてマシな方だぞ。この前池とか山内なんて櫛田をどうのって」

「その内容をこうして女子に聞かせようという時点で、あなたも大差ないわ」

 

 判断を誤った。どうもあの二人に基準を寄せると他人からの評価が下がる。初めは思春期の高校生はこんなものなのかと思っていたが、その点に限っては初期の友人選択を失敗してしまったかもしれない。

 

「……まあ、オレたち三人、そういうことは疎か恋愛すら考えるキャパがないもんな」

「キャパの問題ではないわ。必要を感じないだけ」

「ほう! 必要だと思えばすぐにでもできると?」

「慣れてきたわ。あなたのそのムカつくくらいな揚げ足取り」

「善いことだね!」

 

 浅川でなければ十中八九殴られていただろう。不思議と不快感を受けないのは、やはり彼の親しみやすさ故か。

 カラカラと笑っていた浅川は、次にこちらを見る。

 

「そもそも清隆、決めつけはよくないぜ」

「お前は恋愛したいのか?」

「いやあ」

「なんなんだよ……」

「好きな人がこの先できるとは思えないのよねえ。性行為も、やっぱそういう人とじゃなきゃ嬉しくないし」

 

 時が止まった。というより、綾小路と堀北の足が止まった。

 今、何て言った?

 

「何? どしたの、二人共。そんな大豆マシンガンヒットしたような顔して」

「豆鉄砲を喰らっただ。――じゃなくて。お前、経験あるのか?」

 

 あまりに自然な言い方だから、性行為というワードに何ら反応を示すことができなかった。しかもそれ以上に衝撃的な情報が飛び出たともなれば、そこに触れるのは寧ろおかしい。

 

「ん、あるよ」

「……」

「何だよ。別に変なことでもないだろう?」

 

 変ではない。変ではないが……この何とも言えないムズムズした感覚、筆舌に尽くしがたいが誰もが同じ気持ちになるはずだ。

 

「その、ごめんなさい。意外で……」

「そっか。にしても、池らは何であんなことに躍起なんだろうね。善いものでもないのに」

「……恭介。とりあえずお前、アイツらには絶対経験済みだって明かすなよ」

「勿論。無駄に騒がれるのは目に見えてる」

 

 一瞬ひりついた空気。何気ない会話の中で、浅川に秘められている闇の一端を垣間見てしまったような気がする。センシティブな話だったこともあり追究する機会を逃してしまった。

 ――性行為も、やっぱそういう人とじゃなきゃ嬉しくないし。

 ……『やっぱ』、か。

 浅川は一体どうして、何を思って、他人と身体を重ねただろう。

 思春期には似合わない、性に対する重い疑問が、綾小路の脳裏に過った。

 朧気な不安も、隠れて。

 




綾小路君との関係性で、櫛田と最も対照的なのは坂柳とだけ言っておきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

心地良い偽悪の富

急なんですが、みーちゃんってもしかして誰にでも敬語の子ですか?原作知っている方、感想とかで教えてもらえるとありがたいです。もしそうなら至急修正しようと思います。

幕間ラストです。tips優先したいけど、本編進めたくなっちゃうので試験開始あたりまではそのまま本編更新するかもしれません。今後どんどん亀になってまいります、よろしくです。


「こうかな?」

「ハハッ! もう一息だ。こうだよ」

「ふむ……こうかい?」

「エクセレント! 飲み込みが早いね。さすがだ、ミスター坂柳」

 

 随分と成熟した背丈の二人が、こまめな微調整に励んでいた。

 彼らの前には、傍からは何の変哲もないカップが紅茶を注がれた状態で置かれている。

 

「淹れ方にまで気を遣うとは。君は見かけに寄らず律儀だね」

「私がすべきだと信じたことには妥協しないだけさ。全ては完璧かつ美しい男であるため。この程度、義務教育に等しく『当たり前』だよ」

 

 別に構わない――寧ろ新鮮で愉しいものではある――のだが、予告もなくガバッと扉が開け放たれた時にはさすがに驚きを隠せなかった。「アポイントを取る手段がないのが悪いねぇ」と言われ、すぐにでも全校生徒に自分の連絡先を送ろうか迷ったほどだ。

 とはいえ、恐らくただ無礼を働くつもりではなかったのは本当だろう。坂柳がこの敷地を出ないはずであること、以前雨宮が来校した際真っ先に座して待っていた高円寺がこちらのデスクを洞察していたことを踏まえると、予め『暇』という解を見出していたことは察しがつく。

 

「何かこだわりはあったりするのかい?」

「当然だ。足の開き加減、腕の角度、魅せるアングル。私のレベルにもなれば、その全てを計算し洗練されたアクションを行わずにはいられなくなる」

 

 そう言いつつ、彼は自分のカップにも紅茶を注ぐ。なるほど、確かに様になっている。それでいて自然だ。

 

「跡取り息子も大変だね」

「世襲に諂っていると思われるとは心外だねえ。これはあくまで私の美学。言うなればポリシーさ」

「肩書で語るつもりではなかったよ。気分を害したら申し訳なかった」

「構わないさ。私は元より、この学校の見る目というものを信用していない」

「ほう、君ももしや、クラスの配属に不満を持っているのかな?」

「ハハハッ! 冗談はその髪色そっくりな一張羅だけにしたまえ」

「え、遊び心だって思われてたの?」

 

 そんな、酷い。結構お気に入りだったのに。

 年季によって白の増えた髪――ちょうど愛娘は近しい色に染髪しているが、やはりこう、どうにも活気の差が現れてしまうようだ――を弄りながら、自分の服装を一瞥する。

 

「違ったかな? 私の親友たちもさぞかし同じ感想を抱くと思うが」

「親友、浅川君のことかい?」

「――――ああ。まあ彼だけを言ったつもりはないのだがね」

 

 表情を見るに、触られて一概に嬉しくはない話題のようだ。無意識に名を出してしまったといった感じか。

 しかし、魔が差したと言えばいいのか、性分に反して話を延ばすことにした。

 

「浅川君とは、交流があったようだね」

「返答に困る確認だねぇミスター坂柳。確かに会話があったのは事実だが、彼と親しかったかについては半分正しく、半分間違いだ」

「おや、濁されてしまったか」

「それはノーだと断言しよう。私は醜い偽りを好まない。唯一かつ明白な答えをしたまでさ」

 

 正誤両方に余地を残す回答がはっきりしたものだとは、これ如何に。

 

「感心しないな。少々踏み込み過ぎではないかな?」

「すまないね、わかってはいたのだけど。肩の力を抜いて子供と話すのは久しぶりなものだから」

「歳の侘しさには敵わないということか。面白い、この私でさえ得難いものだ」

 

 意気揚々と納得し愉しそうにする高円寺。周りの生徒に対する協調性の低さが目立つ彼だが、その浮きがちな印象は何も彼自身の心意気だけが原因とは限らないのかもしれない。眼前の様子に、そんな感想が過った。

 やはり、直に接してみないとわからない一面は万人にある。

 

「ふむ、興が乗った。このままティータイムはいかがかな、ミスター坂柳」

「それは名案だ。君に教えてもらって淹れた一杯、折角だから一緒に堪能しよう」

 

 席を移動し、向かい合わせで座る。紅茶の香りを嗜み悦に浸る少年に、破顔する。

 その後は他愛もない会話が続いた。親の会社を継ぐことを疑わないだけあって、社会に揉まれてきたのかこちらの話にしっかり理解を示してくれる高円寺とは、自分でも驚くほどに話が弾んだ。

 

「――それで私はこう言ってやったのさ。『君は随分ほこりが大事なようだ。私も気になってしまうよ、例えば今この空間が』とね」

「はは、これはまた皮肉たっぷりなジョークだ。言われた相手はさぞかし一層得意気になっていたのだろうね」

「全く滑稽だったよ」

 

 恐らくこだわりがあるのであろう動作で高円寺は紅茶を啜る。

 

「ふむ……やはりそうか。ティーフォルテとはまた、いいセンスをしている」

「驚いたな、まさかご存知とは。トレイやカップで気付いたのかな?」

 

 勿論だとも、と示すように、高円寺はポットの蓋を開ける。

 中から覗いたのは、小洒落たデザインのピラミッド型のティーバッグ。見た目の美しさはさることながら、機能性にも拘られている。

 

「ニューヨークのデザイナー、ヒューイット氏が設立したラグジュアリーブランドだ。美に関心のある私が知らないわけにはいかなかろう」

「確かに、始まりは君が生まれる数年前。君がその革新的な成長と創造の旋風に惹かれるのも、無理ないね」

 

 五感に触れるようなティータイムを提供してくれる、言わば「紅茶の美術品」は、現地のビジネス誌で「ティーバッグのランボルギーニ」と称されるほど。

 

「…………『非日常を叶える紅茶』か」

 

 淡色な水面を物憂げに見つめていた高円寺は、瞳をこちらに向ける。

 

「ミスター坂柳。一つ、昔話でもしようか」

 

 唐突な宣言だった。断る理由もないし、自分の持つあらゆる立場が彼の話を黙して聞き遂げるべきだと直感する。

 

「私にもね、友と呼べる存在がいたのだよ。尤も、この敷地にも同等な存在になり得る素質を持つ者はいるようだが、まぁ若気の至りというやつだね」

 

 飄々とした態度で語る彼だが、ほんの僅かに感慨が見え隠れしていた。

 

「とはいえ私とて簡単に絆されたわけではない。初めはいつものように『興味がない』と一蹴したのさ。すると彼は何と返したと思う?」

 

 答える気にはならなかった。何となく、きっと自分が思いつきもしないものなのだろうと思った。

 それを理解した高円寺は、やがて言った。

 

 ――僕も君の反応に興味はない。気になっているのはその生き方さ。

 

「今なら多少なりとも上手い返しができる自負はあるがねぇ、当時はそれはもう眉を動かさずにはいられなかったよ。彼は的確に私自身への否定を避けつつ、私の拒絶をすり抜けたんだ」

 

 それを聞いて、成程と理解する。

 まだ甘い分析だろうが、高円寺は何よりも自分を尊び、信じ、優先している。その孤高さや強かさを咎めなければ、関わりを拒む彼の考えを翻せない。あるいは、自分はあなたを良く思っていると下から煽てるべきだと考えるのが普通だ。

 それを浅川は、皮肉を混ぜながら自分への対応のみにはっきりと言い返し、高円寺の態度や性格に好意的な姿勢を見せるどころかそれ自体が目的だと言い放った。

 何より同時に、浅川の発言は高円寺が拒もうと無駄であることも伝えているのだから、敵わないわけだ。

 

「それからというもの、来る日も来る日も付き纏われた。食事には相席したり、学校では物陰からこちらを観察したり――ティーチャーに見つかって尋問されていたのはよく覚えている。その気になればバレずにやれたものを、愛嬌のつもりなのかは知れないがね」

 

 そう語る彼には鬱陶しいといった感情は見受けられない。傍からのイメージとは違う穏やかさを錯覚した。

 

「彼の友人とも言葉を交わすようになったのは、それが何度か続いた後のことだ。その頃には幾分か恭介に心を開きかけていたが、果たして彼と関わる者がどうなのかという不安はあった。――杞憂だったよ。博愛主義の彼がそれでも親しみに優先順位をつけるような相手だ、彼ほどではないが聡明だった」

「その子たちは、君の自由奔放な性格のことを何と言っていたんだい?」

「唯我独尊、と」

 

 なるほど。と思ったが、

 

「――ハハッ、わかるよ、ミスター坂柳。だがそうではない。そうではないんだ。彼の、純の銘打ったそれは一味違う。あの言葉の意味を今一度見直すことをお勧めするよ」

「いいや、心得ているよ。どうやらその少年も随分知性があるようだ」

「これは失敬。しかしね、まさかそんな彼の最たる長所が身体能力だとは思わないだろう」

「ほう、それは興味深い。ぜひうちの高校に招きたかったものだね」

 

 会ったことない少年だ。しかし、()()()()()()()()()()()()()。苗字は新塚、そして彼には――。

 あの学校も、やはり呪われている。いや、同時に祝福も与えられていたのかもしれないが。目の前の男のように。

 そう思うと、『彼』のやってきたことも強ち無駄ではなかったというわけか。

 まだにわかに湯気の立ち込めるカップに手をつける。

 

「なら君が今の自分を貫いているのも、友人の言葉があるからかい?」

「それは――どうだろうね。無意識にそう思っている可能性はあるが、あくまでノーのつもりだ。彼らとは多くのものを与え、貰い合ったが、その残照に拘っていたいとは思わない」

「……難儀だね」

「そうでもないさ。『本心は自分自身にもわかりっこない。本心だと決めつけたものを信じ切れるかどうかだ』、かつて恭介がのこした言葉だよ」

 

 感慨に、あるいは感傷に耽る高円寺の表情には、珍しく悲哀が滲んでいた。ただの一人の、弱い少年がそこにいた。

 だが少年には、子供には、その弱さと真っ向から戦う気力がある。そこが大人との違いだ。

 

「恭介は私の自尊心に、私は恭介のユーモアに惹かれた。今後どれだけ私を理解し波長の合う者と出会おうと、彼が私にとって最も大きな意味を持っていた事実は、決して揺るがない」

「……」

「その顔、疑問に思っているようだね。今の様子を見る限り、とても私が彼に入れ込んでいるようには感じない、と」

 

 その通りだった。今の二人の関係は精々顔見知り。特に高円寺の方から、浅川のことを遠ざけているように見えていた。少なくともクラスメイトは、二人が知り合いであることにすら気づいていないだろう。

 

「簡単なことだよ、私がそうすべきだと思ったからさ。私の存在は、きっとアグリーボーイがすべきことの邪魔になる。だから干渉しない」

「じゃあ、その時が来たら」

「来たら、だがね」

「一体何を根拠に?」

「直感さ。ここぞという時に信じるべきなのは理屈じゃない」

 

 コト、と、向こうのカップが置かれる乾いた音。

 

「君は、浅川君が過去に抱えた問題を乗り越えるのを見守りたいと言うのだね」

「らしくないかい?」

「さあ。恥ずかしながら、僕の知っている君たちは表面的なものに過ぎないから」

 

「別に恥じることではなかろう」高円寺は足を組み直す。「だがまあ、私にしては厚情なことだとは思うよ」

 

「じゃあ、なぜ?」

「……『約束』があるからね」

「約束? 誰と――」

「当然、『彼』さ」

 

 今一つピンとこなかった。浅川自身が何かを頼み込んだ?

 疑念が筒抜けだったようで、彼は眉をハの字にする。

 

「些細なことだ、ミスター坂柳。守る義理のないことをしている。そのことに価値があるのだよ。無意味になる可能性がどれだけ高かろうとね」

 

 唐突にぼんやりとした言い方をされる。追究されたくないことだったのだろうか。この男の場合、それっぽいことを言っているだけのような気もしてしまう。

 

「おや、冷めてしまっているじゃないか。勿体ない」

 

 反射的に自分の手元を見る。いつの間にか側面から程よく伝わっていた熱は絶え、淡い白の湯気も消え失せてしまっていた。

 

「付き合わせて悪かったね。私のつまらない雑談はこれで終わりだ。また来るよ」

 

 あ、また来るんだ。

 

「もう少しゆっくりして行ってもいいのに」

「生憎この紅茶を飲み干すまでと決めていたのでねえ。これ以上居座るのは望ましくない」

 

 いかにも彼らしい返答だった。

 彼はそのまま呑気に扉を手を掛け開――

 

「ああ。そうそう、ミスター坂柳。一つだけ聞いておきたいことがあったのだが、いいだろうか」

 

 不気味な感覚が駆け巡る。

 背中のみでそれを演出するこの少年は、端的に言って「凄み」があった。

 

「……何だい?」

 

 何の根拠もない嫌な予感があった。それこそ、高円寺の言うとおり直感が訴えかけてきたものだ。

 不自然なほど長い沈黙。やがて、その単語は放たれた。

 

()()()()()()()、――というものを知っているかな?」

「……!」

 

 嗚呼、きっと、愛娘に初めて自分の正体を指摘された綾小路も、このような気持ちだったのだろう。体の底が電撃を喰らったような、頭を特大のハンマーで打ち付けられたような。

 どうして彼が、その言葉を知っている? 知っていてはならない言葉を。

 辿り着けるわけのない答えを探しあぐねていると、室内に高笑いが起こる。

 

「安心するといい。それが何なのかは知らないし興味もない。驚かせたお詫びに、一つ命題というプレゼントを贈ろう」

「命題?」

「『アグリーボーイは、本当に変わってしまったのかどうか』」

「……はぁ、やれやれ。やはり食えない男だよ、君は」

 

 彼は明らかに、ただの一御曹司というだけでは根拠の足りない力を持っている。学力や身体能力は然ることながら、知力も洞察力も思考力も、運までもを身に着けている。そういう者が実在するからこそ、この世は理不尽だと言われるのだ。

 全く、この怪物が生まれたのは母の腹か、それともあの学舎か。自分が浅川のことを知っているとまで、雨宮たちの来訪したあの僅かな時間で見抜いてしまったらしい。

 相変わらずふてぶてしい態度で去った少年の、閉じた扉の先にいる背中を眺める。

 とても、朗らかに。

 

「……僕も何か、『昔話』を聞かせるべきだったかなぁ」

 

 嗚呼、何とも。優秀な生徒には心躍らされるものだ。

 




この二人、多分今まで原作で話す機会なかっただろうけど、何だか気が合いそう。書いててちょっと楽しかった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間―未練―
或る師弟


幕間のサブタイですが、あまりしっくりきてないので帰るかもしれません。

完全に個人的な話ですけど、貫禄のある師匠キャラっていいですよね。師匠キャラが未熟な一面を出す相手の「師匠の師匠キャラ」なんかも大好物です。イケおじや強い女性とかだと特に。何なら一度も屈辱なんて味わわず余裕を崩さない存在でいて欲しい。師匠になる前の幼き過去については別ですが。

それを踏まえて、どうぞ。


 電車・新幹線を乗り継ぎ5時間。その後タクシーを頼ること1時間半。

 身体が鈍るような長時間をかけて、雨宮はある孤立した小さいテナントへと辿り着いた。

 ここはずっと変わらない。自分が初めてこの地に立った二十年前から見渡す限りの殺風景で、疎らな農家がせっせと草を刈っている。雨宮の目的地は、そんな平地にはぐれたように建てられた、喫茶店を下に構える二階建ての上階である。

 和やかな空気に当てられ、社会情勢だの政治だのは兎も角こういう場所も不可欠だなと感慨に耽り階段を上る。何でも、これから会う男の強い要望によって、場違いながらも拠点を置くことができたそうだ。おかげで大変みすぼらしい見栄えとなっている。

 しかし、叩く戸とその窓越しに見える内装はそれと異なる。やけに瀟洒な、西洋をモチーフにしたであろう景色が確認できた。

 返事はない。ただ、それこそ入室を促している合図だと、雨宮はとうに知っている。アポイントは取ってあるのだ。実に可笑しな男だが、こういったことに不真面目な対応はしない。

 躊躇わず、ゆっくりと開ける。心臓の鼓動の早さに気付き、恥ずかしさをどうにか抑える。

 

「少しはオトナのヨユウというものを身に付けたようだね、雨宮君」

 

 久しぶりに聞く、恩師の声だ。

 

「……耳にタコができるほど聞きましたから。淑女は相手を刺激しないって」

「脈拍を制御してから言い給え。緊張で何時もの調子が出なかっただけだろうに」

 

 ただの揶揄だったようだ。やはりこの男に、隠し立ては通じない。

 

「それと、其の嫌に畏まった敬語は止めてもらおうか」

「無理ですよ。あなたは私の先生――」

「弟子は卒業、と伝えたのは十年以上も前になるが」

 

 敬愛しているのだから仕方がない。と、自身を先生と慕う少年と似た意固地な感情を抱く。

 

「浅川少年は元気かね?」

「表面上は。ただ、取り繕っているのはあからさまです。だから私は、何としてもこの事件を解かなければならないんです」

「……ふむ。ようやっと私に顔を見せたと思えば、飽くまで専門家の見解を採りに来ただけと?」

「……あなたはそんな傷心、嬉しくも何ともないでしょう」

「何を言う。私とて愛着というものがある。君がこうして、凛々しく快活な華のようになって逢いに来てくれたのだ。仕事ですら整えない眉を仕上げ、薄い口紅を塗り、不快でないラインを守った香水まで嗜んできたことを、非常に愛らしく思うよ」

 

 不意を突く文句にドキッとしてしまう。変にかぶれた彼なら何ら特別でもない褒め方であるはずなのに、全くもう。

 おまけに――らしくないとは承知だが――背伸びして施したオシャレを全て気付いているときた。これも所詮彼の洞察力を以てして当然のことなのだが……口角を慌てて隠す。

 

「だが、化粧は少し甘いようだね。作った色だとバレバレだ」

「……女性は大変なんですよ」

「解っているとも。其の指先に付いた痕跡。何度かやり直して、不慣れなりに自分が納得できる程度にまでしたのだろう? 潔癖症の君なら、時間さえ許せば洗い落としていた筈だ」

「……はぁ」

 

 わかっているなら言わないで欲しい。乙女心は理解できないのか、理解しているからこそ揶揄っているのか。

 

「私は恭介君を助けたい。直接できることはもうないかもしれないけど、この事件を終わらせることで、僅かでもいい、彼の救いになるはずなんです」

「……ふん、善いだろう。だが其の前に――一つだけ出過ぎた助言をしておこうか」

 

 整理整頓された自分のデスクから離れ、雨宮の向かいのソファに腰を下ろす。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「え……?」

 

 意図がわからない。首を傾げるも、彼はその先を語るつもりはないようだ。

 

「事件解決とは無関係の話題だ。今は気にする必要はないよ」

「そんな、理由くらいは、」

「君の依頼は捜査協力だったと記憶しているが? 自身のプライドを懸けた大一番で人様を頼る姿勢は三流だよ」

「う……」

「私の教えを今も尚大切にしているからこそ、ここまで躍起になっているのだろう。――最後には私の言っていることも理解できるさ」

 

 恐ろしいことだ、どうやら彼は自分以上に浅川のことを分析できているらしい。たった一度、事件後間もなくの放心状態だった浅川と接見しただけだというのに。あるいは、それだけで得られる何かがあったと言うのだろうか。

 

「さて、そろそろ肩の力も抜けてきたかな。始めるとしよう」

「……敵いませんね」

「ふっふふ、そう思える程度には成長したようだね。劣等感を受け入れる懐の厚さも無い小童だった頃が懐かしい」

 

 やっと落ち着きを取り戻した雨宮は、深山が起こした事件を初め、現在進んでいる調査の状況を余すことなく説明した。

 

「彼女は浅川夫妻をそのまま殺害し――」

「そういえば君、ジャムは何を使っている?」

「じゃ、ジャム?」

「オススメはべジマイトだ。悪臭だと罵るジャパニーズは多いようだが栄養素は豊富でね。まあ個人的にはパンより白米にぶっかける方が食べやすいと思うのだけど――」

 

「恭介君の証言は矛盾しているということになり――」

「……」

「あ、あの」

「何だい?」

「急にどうしたんですか? 床にマットなんて広げて」

「ツイスターゲームを知らないのか!? いくつになろうと柔軟性は大事なのだよ。頭も体も」

 

「先日現場に行ったところ、何故か緊急閉鎖されていて――」

「カオラ! カオラ!」

「……恭介君たちのグループは私たちが思っているより歪な――」

「アウパネ! アフパネ!」

「……まだあの子たちについて知らない側面があるんじゃないかと――」

「ヒーーーィ……!」

「聞いてんすか!?」

 

 その間、目の前の男の全く緊張感のない空気と言ったらなかった。

 

「聞いているに決まっているだろう。見ろ」

「あたしに見えるのは奇声発して不気味な踊りする中年男性ですよ!」

「ハカを知らない……? 毎朝己を誇るためのルーティンだ、悪いが欠かせない」

「くぅ……!」

「ヒーーーィ……! だ」

「同じ趣味はしてませんっ!」

 

 大仰な溜息が響く。どうして自分がわからず屋かのように扱われなければならない。

 

「善し、何時もの調子が戻ってきたな。ありのままであってこそ、女性の魅力は輝くというものだよ」

「それっぽいこと言って逃げないでください」

「真理さ。栄えある芸術に描写される女性のほとんどは、身を包むベールが極限にまで薄い。自然体というものの素晴らしさと、其れがもたらす福音は太古から知られているごく当たり前のことなのさ」

 

 わかっている。先生は一度も嘘を吐いたことはない。だが今は雑談に興じている暇はない。さっき確認したはずだ。

 それを咎めるより先に、相手の声音が変わった。

 

「報告はもう終わりかな?」

「報告どころじゃ……」

「私が情報をみすみす逃すわけなかろうに。君から見て私はそんなにも老いてしまったか?」

 

 息を呑む。いつの間にか変化した目つきは、これが尋問であればこちらの黙秘を許さないような鋭さがあった。決して一片の真実も韜晦させない強硬的な。

 

「……これで全部です。この先どう展開していけばいいのか、助言をもらいたくて」

 

 納得したように頷き、先生は席を立ち窓に黄昏る。彼曰く、絵画のようで気に入っているのだとか。後ろに手を組む立ち姿には底知れぬ威厳と、余裕が感じられた。

 

「そうだね、一つ確認しておきたいのだが……」

 

 彼はそのまま、口を開いた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()は、理解しているな?」

「え――」

「おやおやまさか、正気かい?」

「しょう……っ、言われてようやく理解しました」

「ふっふふ、老いてしまったのは君の方ではないのかな?」

 

 相手がレディーと知っての狼藉か、この男。これが風見であったら確実に鉄拳制裁だ。

 

「前者は政府と無関係の権力者だと言ったね。現在の浅川少年に手を出せないのは其の所為と」

「はい。でも、もしそうなら現場の規制を促すことは不可能になる」

 

 警察など政府の息がかかった典型例。そちらに干渉できてあの学校に干渉できないわけがない。

 

「やり口と動機も一致しないからね。脳の切除を強要できる愉快な倫理観を持つ者なら、現場を燃やせば簡単だという思考に走る筈だ。一方が情報の抹消を目的としたのに対し、他方は隠蔽のみを図っている」

「た、確かに……いや! でも残虐性を語るのであれば、脳の切除などせず医療事故として処理しようと考えるのでは?」

「ん? 其れは勿論、対象が人か物かの差だ。況して浅川少年は――おっと。ふっふふ、此れ以上は無粋か」

 

 ……勿体ぶって。こうも歴然な実力差を見せつけられて呆然とするのも、久しぶりの感覚だ。

 とりあえず、二つの陰謀が別人によるものだということに疑いようはない。それだけ理解しておけば良いだろう。

 

「そして後者については、実行者の目星を付けることも可能だ」

「な、何だって?」

 

 まさか。どうして話を聞いただけでそこまでのことが?

 

「タイミングだよ。最初の現場検証で規制が行われたのは三か月前、其れから今月の一時的な解除に至る迄は自然な流れだった。元より詮索されないようにしたかったのなら二度目の規制はここまで遅れなかったし、そもそも解除されなかったとしても可笑しくない。つまり――」

「つまり、急遽行われたものだった?」

 

 振り向く先生の表情は柔らかい。その通り、と物語っている。

 

「じゃあ、どうして急に……」

「如何して? 有るではないか、至極単純な理由が」

 

 こちらに指を差して、彼は言った。

 

「あ、あたし?」

「考えてもみろ。隠す相手が一般人であるならそれこそ規制を解かなかった筈だ。後から調査に乗り出す姿勢を見せたのは君達しかいない。その上、捜査権限を有する組織を想定していたとして、普通なら捜査そのものを規制すれば善い。其れをしなかったのは、自分の力が及ばない独立した組織が相手だと解っていたからだ」

 

 抜け目のない推理に言葉に詰まる。特殊事件専門監査署は覇蔵によって設立された監査機関。その性質から明らかな通り、()()()()()()というものが存在しない。何かと不遇な扱いを受けることも多いが、今回は珍しく(覇蔵が敢えて独立させた狙い通り)善い方向に働いたようだ。

 

「……待ってください。てことは」

「ふっふふ、寝ぼけた脳も漸くお目覚めかな?」

 

 先生の見解を吟味して間もなく、一つの結論にたどり着いた。

 

「真っ先に或る問題に行きつく筈だ。独立している君の部署の行動方針、更に言えば君個人の動向を把握していなければ、此れ程迅速な対応は出来ない」

 

 雨宮が浅川夫妻の別荘を調査しようと決めてから実際に訪ねるまで、一か月も空いていない。公表していないことも考えると、雨宮の捜査状況を知るルートは限られる。

 

「つい最近、私が事件の調査をするという情報を間近で聞いていた人物が一人だけいます。その人は私の異名まで知っていた。警戒していたはずです、その相手が触れて欲しくない事情に踏み込もうとしていると知り、焦った」

 

 雨宮の二つ名は当然関係者だけが認識している。それに――

「練馬の女鬼」は、「孤高の女鬼」よりもマイナーだ。

 

()()()()。彼が、浅川夫妻の闇を庇おうとした張本人……」

 

 ねっとりとした拍手で称賛される。ゆったりとした動作で、先生は再び同じソファに座った。

 前のめりに覗き込まれる。

 

「此の程度の『人探し』にすら梃子摺るとは、未だ未だのようだね」

 

 あっという間に疑うべきポイントを一つ導いてみせる手腕、確かにご健在のようだ。

 

「本来君の持つ情報だけでももう二、三点は指摘出来るが、とりあえずは此れで十分だろう」

 

 坂柳が隠蔽したかったのは浅川の両親について。きっとそこには、浅川自身の問題に繋がる何かが秘められているはずだ。重要な手がかりを得られるかもしれない。

 

「ああそれと。君、まさかとは思うが、浅川少年についての調査は足りているなどとは思っていないだろうね?」

「そ、それは……」

 

「はぁ……全く」肩を竦め、いかにも呆れたような顔をされる。「何度も教えてきたろう。追究なき信用は盲目を招くと」

 

「す、少しばかり躊躇いがあるだけです。恐らくあの子を傷つける領域だ」

「其の憂いが不要だと言っている。本当に君の信じる通りの少年なら、白日の下に曝すことに何ら問題は無い筈だ。――善いか? 疑い続けた果てに信じることが出来なければ、意味は無いんだ」

 

 ああ、しまった。これは、説教だ。

 あまり多くはない彼の琴線に触れてしまったようだ。

 

「下らない保身の為に生半可な追究を行うのは、陽の目を待ち侘びている『真実』に失礼だとは思わんかね?」

 

 彼は分別が非常に上手い。自分に向ける情愛や友人との信頼関係は正しく本物だが、それは彼自身が志している通り「まずは疑ってかかる」という信念を全うしているからだ。だからこそ善い点も悪い点も全て寛恕を以て受け入れられている。

 そういう意味で、雨宮が弟子として半熟気味なのは否定しようがないだろう。未だに情に肩入れしてしまうことがある。

 

「……それでも私は、真心を以て向き合いたいんです。無情な尋問なんて、AIにでも任せておけばいい」

「ほう! 事物に向き合うべき心が宿っていると? 君が守りたいものは何だ。事件の真相か? 手掛かりか? 一体何処のパンドラを恐れているかは知らんが、報いも救いも与える相手は『人』であるという摂理を疎かにしてはならない」

 

 無慈悲なまでに正論を叩きつけられる。

 浅川を本当の意味で救済することは、彼の本質――傷口に触れなければ叶わない。先生はそれを確かに信じられているからこそ断言している。いつもならこちらの裁量に委ねてくれることも多かった。

 雨宮とて厚顔無恥なわけではない。自分が余計な心配をし、無駄に怯んでしまっていることは自覚している。先生がこうも強い語気で諭すのは、それさえもわかっているからだろう。

 

「矢張りもう三年は、私の下に置いておくべきだった」

「先生、私は……」

 

 珍しく見せる、心の底から嘆く表情に胸を締め付けられる。

 

「大方、覇蔵氏にも言われたのではないかね? 重ねていると」

「――! ……はい」

「其れが今の君の弱さだ。真実という刃を恐れるあまり、撤退の判断が早過ぎる。――はっきり言おう。君は未だ、全く立ち直れていない」

 

 これは先生なりな優しさだ。どんな庇う言葉よりも、雨宮にとって価値のある啓示だった。

 

「其の状態で平静を装える精神力は長所かもしれないが、君が担うべき役目はそんな甘えを許さないぞ」

「……わかっています」

 

 そもそも何故、雨宮がこの事件に執着しているのかという話だ。

 凄惨だったから? 浅川が可哀想だったから? 大きな裏を予感したから?

 馬鹿な。その程度の特徴、今まで当てはまる事件はいくらでもあった。そのどれも、態々上司に直談判してまで追いかけはしなかった。

 初めからそのつもりだ。自分は、()()()()()()()()()()()

 

「御蔭であらゆることが中途半端だ。君を育成するためのプランも、君に押し付ける筈だったタスクも、君が癒える迄のリハビリも」

「それについては、申し訳ないとは……」

「善いんだ。彼の時は少々嬉しさもあった。私の推測を完全に裏切る行動を取ったのは君で二人目。見送った身として、最小限の助力はしてやろう」

 

 ……やはり、あなたは。

 師匠らしい一面を久しぶりにまざまざと感じ取り、涙腺が緩む。いけない、これではまた笑われてしまう。

 あの頃と同じだ。自分が逃れるようにこの部屋に転がり込んだ時と同じ――。

 最後に穏やかな感情が蘇り、少しだけ救われた気分になる。

 

「ありがとうございます。次ここに来る時は――」

「おいおい待ち給え。何を勝手に締めくくろうとしている?」

 

 え?

 

「此処まで御足労したくらいだ、どうせ今日は非番なのだろう? 此の後は私と付き合い給え」

「は!? つ、つつ付き合い……?」

 

 大きく動揺する雨宮そっちのけで、扉を開ける。

 

「下の喫茶店は利用したかね?」

「い、いえ」

「ふっふふ、ならば其処で一服しようか。感謝するのだな。この鬼羅真平が、逢引のお誘いをしようと言うのだよ」

「……ホント、調子がいいんですから」

 

 曲がりなりにも彼に間近で鍛えてもらった身だ。彼がこちらに気を遣ってそう言っていることはすぐに気が付いた。雨宮の「次はプライベートで伺いたい」という言葉を遮ったのも、きっとメンツを保たせるためだ。

 そして先生は、気付かれていることにも気づいている。

 こういうところがあるから、私は――。

 

「雨宮君、何をニヤついている? 表情筋のトレーニングか?」

「なわけないでしょう」

「何だ。また一つ共有出来る趣味が出来たと思ったが」

「あ、やってんすね」

 

 話を聞くと、彼と親しい喫茶店は、随分と良い味を出すらしい。先生の舌を唸らせると言うのだから、さぞかし魅力的なのだろう。

 

「……ありがとうございます」

「ふっふふ、一体何に対する感謝か知らないが、先ず其の必要は無いだろうね」

 

 階段を降りる背は、まだ雨宮にとって、頼れる程に大きかった。

 

「君と分かち合う時間も、未だ未だ中途半端なのだよ」

 




もうあまり書こうという気はないのですが、鬼羅は別の原作の二次創作を書くとなった時に主人公に添えようと思っていたキャラです(ですので今話限りのゲスト出演という形になると思います。我ながら勿体ない……)。岐阜の人間で、仲間と死線を潜り抜けて、政府に良い感情を持っていない……うーん、もしかしたら何の作品かわかるかも?

もっとわかりやすい描写を最後に加えるか迷ったのですが、一度忘れてしまっていたくらいには綺麗に纏まってしまったのと、やはり実際に制作するかも微妙なので止めました。よう実しか知らないという人もきっといるはずですからね。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

明瞭な類似

「では、意識は戻っているんですね?」

「はい。ただ、精神的に不安定な状態ですので、受け答えがままならなかったり急に暴れだしたりするかもしれません」

「承知しています。今日は観察のみの予定です」

 

 形式的なやり取りを済ませ、スライド式の扉が開く。

 大きな個室に患者は一人。探すまでもない。

 彼はうなされているわけでもなく、気持ちよさそうでもなく、ただそうあるべきかのように寝静まっていた。

 冷静な理性がふと、どうして一般的な火災の被害者を特別な部屋に寝かせているのか、疑問が過る。

 

「…………」

 

 無感情な横顔に、きゅっと口が引き締まる。

 現場に居合わせたわけではないが、心身ともに相当なダメージを負ったのだろう。自分には、よくわかる。

 小刻みに震えているように錯覚した少年の手を、そっと包む。

 

「……ん」

 

 すると、空気の揺れを感じ取ったのか、徐ろに彼が目を開けた。

 光に慣れたところでようやくこちらの姿を認めたようで、ロボットのごとく固い動作で顔を向けた。

 

「起こしちゃった、かな」

「ぁ……」

「……?」

「…………」

 

 一瞬口を開けたように見えたが、呼吸の乱れに過ぎなかったらしい。

 

「体調はどう?」

「……」

「ご飯は食べてる?」

「……」

「寒くない?」

「……」

 

 応答はない。しかしこれは重要なことであり、自分が尋ねるべき核心をつくことの間違いを、理解している。

 そうしていると、少年は何に興味を引かれたのか、自分の背後――窓の外を眺め始めた。思わず、同じ方向を覗く。

 

「……ぃう」

「外? 景色が見たいの?」

「しろ……」

「し、白ろ……? ……雪か」

 

 今年の寒波は、彼が眠ってから目覚めるまでに訪れた。久しぶりに沁みた風物詩だったのかもしれない。

 

「――ちょっと待ってて」

「あぅ……?」

 

 思いつきを得たので、呆然としたままの少年を置いて一度外に出る。

 数分して、両手に冷たさを感じたまま帰ってきた。

 

「どう? これ、かわいいでしょ」

 

 即席の雪だるま。ステンレスのプレートに乗せてきた。

 案の定関心を示した少年は、朧気に手を伸ばしそれに触れる。

 

「ゆ、き……」

「プレゼント。すぐに溶けちゃうけどね」

 

 ほんの少し、ほんの少しだが、彼が顔を綻ばせるのが確認できた。

 しかし、それも束の間だった。

 

「ぁ……」

 

 何が琴線に触れたのかわからない。後になって思い返してみると、にわかに滴り指を伝う水を、『赤く』幻覚してしまったのかもしれない。

 

「あぁ……あぁぁぁああぁぁ!」

「……! 浅川君っ」

 

 途端にジタバタと暴れ、何度も拳を布団に叩きつける少年。容赦のない力は、これが机なら粉砕しかねない程だ。

 

「血ィィ……!? いや、ぁあ、なぐられ……ぐぅ、もえて、るぅうぐぐっ……!?」

「こ、これは……」

 

 異様な光景だった。ついさっき、医師の話していた危険の正体が、そこにあった。

 頭を抱え悶絶し、後ろの壁に後頭部を叩きつけ始める。

 

「ダメッ!」

「ハア、ハア。ごめん……さい、ごめっ――。ユルシテぇェえぇ!」

 

 騒ぎをききつけた医師と看護師が慌てて介抱する。

 動揺を隠せないで流れるまま引き離され、荒くなった自分の息にやっと気付いた。

 

「………………同じだ」

 

 対応する大人たちの隙間から見える。目を見開き喚くことしかできない少年に、雨宮はそう思った。

 同時に――ならば誰かが、彼を救うか守るべきだと。

 それを今できるのは、きっと真に共感できる自分だけなのだと。

 人知れず、沸々とした決意が、雨宮を久しく突き動かすこととなった。

 

 

 

 

「お久しぶりです、先生」

「……はぁ、いつまで言ってんのさ」

 

 回想の中の少年と似ても似つかない姿と人となりに成り果てた浅川の発言に、嘆息が溢れる。

 

「ぼーっとしちゃって、どうしたんすか先輩」

「別に、何でもないよ」

 

 仕事中に仕事以外のことを考えるなど、また師匠に怒られてしまう。襟を直し、再び浅川に意識を戻す。

 

「この前ね、あんたの弟の友達と会ったよ。松雄君、覚えてる?」

「え、栄ちゃんですか!?」

 

 名前を聞いた瞬間、バッと身を乗り出す浅川。突然なことに、若干仰け反ってしまう。

 

「お、おう。どうやら記憶には残ってるみたいだね」

「流石に『人』は大体覚えています。曖昧なのは、思い出ばかりで――」

「あだ名で呼び合っているあたり、仲良かったんだ」

「……はい。慎介が最初に彼と知り合って、僕も混ぜてもらう形で。向こうは、七瀬? って子がある時から。純や静以外では一番親しかったと思います、四人で遊ぶことも多くなってました」

 

 松雄の証言と合致する。どうやらこのへんは疑いようはないみたいだ。

 

「どうして今まで、一度も話さなかったの?」

「いや、さすがに事件とは無関係なはずでしたから。当時色々慌ただしくて、他校の人と交流するような暇があまりなくて」

「色々? そこ詳しく」

「え、……確かに、何で忙しかったんだろう。何かあったはずなんだけど……」

 

 それ以上は無理か……。新たな取っ掛かりが得られただけマシか。

 兎に角、松雄と七瀬はどちらも本当に事件との直接的な繋がりがないようだ。

 

「それで彼、何か言ってたんですか?」

「……あんたたちがちょっと変だってさ。仲良すぎて」

「はあ」

「どうなの? 一応聞くけど、校内ではそんな風に言われたことないんだよね」

「…………そうですね、ありません」

 

 やけに、間があったな。

 

「本当に?」

「……いえ、えっと、学校では本当になかったと思います。ただ、そう言われてみると松雄から指摘されたことが、あった気もするなと」

 

 語り草からして、浅川自身も半信半疑といったところか。正直、雨宮としてもこの点を彼に問いただして何か進展するとは期待していなかった。本人の周りからの評価について本人に追究したところで意味はほとんどない。

 やはり、浅川たちのことを調べるには、別の角度から攻めるしかないようだ。

 

「……まぁいいや。とりあえず本題に移ろう」

 

 さて、いよいよ彼に聞いてもらうべき調査報告だ。

 

「落ち着いて聞いて。あんたのその、記憶があやふやになっている原因、わかったよ」

「原因? 事件の後遺症とかじゃなく?」

「うん。……あんたを担当した医師が、脳の一部を切り取っていたんだとさ」

「え、え? ちょ、ちょっと待てください、え? 理解が追いつきませんって……」

 

 予想通り取り乱す浅川。それもそのはずだ。自分の意思と関係ないところで、自分の重要な器官がいじられていたというのだから。

 しかも、

 

「そもそもそれ、本当に佐合さんが?」

「確かだよ。実行したのはあの人」

 

 佐合は元来医師としての評判は高かった。患者への対応も懇切丁寧で、所属する看護師の方々からも信頼されていた。浅川もその例外ではなかった。

 だから彼も、すぐに佐合の裏に潜む存在を感じたらしい。

 

「実行したのは、てことは。誰かが脅した?」

「その通り」

 

 すると彼は、思いもよらない発言をする。

 

「……もしかして、僕の両親だったりします?」

「……!」

「き、恭介君!?」

 

 隣でずっと沈黙していた風見が声をあげた。今はそれを宥めるのもあとだ。

 何故、自分と同じ推測に至ったのか。

 

「恭介君、質問で返すようで申し訳ないんだけど、あなた、両親のこと嫌いだよね?」

 

 珍しく図星を突かれた表情をする。

 

「……あなたの前じゃ、一度崩れてから取り繕っても意味ないですよね。――先生の言う通りです」

「理由は?」

「……ごめんなさい。教えられません」

 

 ここにきて明確な拒否。隠したり誤魔化されたりすることは何度かあったが、こうして真っ向から黙秘権を行使されたのは初めてだった。

 やはり、浅川家には何かがある……?

 

「……わかった。あなたが言いたくないことは極力聞かない。でも、他に手段がない時は甘やかさないし、別の手段であたしがそれを知ったとしても文句は受け付けないからね」

 

 首肯が返る。だろうと思った。

 改めて感じる。自分たちはまだ、浅川たちのことを全く知らないのだと。例えば新塚と深山、二人が浅川の入院から殺傷事件までにどんな過程を歩んでいたのかは把握できていない。

 今回スポットを当てた浅川夫妻の場合、雨宮が目星を付けているのは『事件後』のことだ。

 浅川が入院し回復の兆しを見せてから、雨宮はこまめに彼のもとを訪れリハビリに付き合ってきた。しかしその中で夫妻と会ったのは、二人に浅川のサポートを後押ししてもらった一回のみ。

 その間二人は一体どこで、何を思い、何をしていたのか。そして、リハビリを終えこちらが関与しなくなってから浅川が高校に旅立つまでの僅かな期間でどのようなやり取りが行われていたのか、難儀だが知る必要がある。

 自分が当時捜査一課の人間だったら、もっと簡単に事を運べていたのに……。

 

「――さて、今回はここまでかな」

「すみません。他にも事件抱えているだろうに」

「いやいや、うちは普段暇だから」

 

 あっけらかんと惚けて見せる。

 

「今後の方針は?」

「あんたの両親が関わっている場所はマストだね。あとはこれまで焦点から外れてきた部分を調べて見る」

 

 例えば、()()()()()()とか。

 

「あと、――()()()()()()()()()()()()()

「……! もしかして」

「あくまで勘だよ。けど、きっと当たる」

 

 少し嬉しそうに目を瞬かせる浅川。今日は少年らしいところを見せてくれることが多い。

 彼と話をさせてやる手段、どうにか考えてやらないと。

 ……深山も、ね。

 

「あ、そうだ。ミルキーさん」

 

 ここで、何故か終始だんまりだった風見に話の矛が向けられる。

 

「最近、復帰したアイドルとかいます?」

「え! 何でわかったんすか? そうなんすよ恭介君。前見せたグラビアアイドルの子、暫く活動止まってたんだけど再開して――あいたぁ!」

「やっと喋ったと思ったらそんなことかい! 今日あんたマジでいる意味なかったね」

「いいえ先輩。僕はいるだけで場を温めることができるんすよ」

「じゃあやっぱ要らないね。暑いから」

「恭介君。将来こんな上司になっちゃいけないっすよ」

 

 はい、制裁。

 

「次は夏休みか、それより後か、ですかね。この後は理事長のところへ?」

「そのつもりだよ。ちと話したいこともあるからねえ」

 

 風見に関節技を決める雨宮の顔は、真剣だった。

 




風見が黙ってた理由は、マジで何もないです。

少しずつ、屍同然だった頃のオリ主を描写していこうかなと。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

心地悪い偽善の咎

薄々察している方もいるでしょう。はい、しなきゃいけないこと全くできておりません。逃げまくってます。


 けたたましい蝉の音と、滴る汗に不快感が込み上がる。

 更にこの男と相対しなければならないとあれば、得意のしかめっ面は必然だった。

 

「今日は終わりですか?」

「そうですね。恭介君については、これで」

「では――」

「ただし、調査自体はまだ終わっていませんよ」

 

 わざわざもたついて主導権を渡すこともない。単刀直入、それこそ雨宮の宝刀だ。

 

「あなたですね。私達の監査を足止めしているのは」

「――何を仰っているのか、わかりかねますね」

 

 本気の雨宮にポーカーフェイスは通用しない。僅かな動揺を見抜く。

 

「既に裏は取れています。抵抗はおすすめしませんよ」

「ハッタリですね」

「そう思うならどうぞご自由に。権力濫用と、公務執行妨害として検挙するだけの証拠はここに揃っていますから」

 

 ひょいと、理事長のデスクに紙束を投げつける。

 彼の堅牢さはわかっている。こういう相手には、事実だけが武器だ。

 政府運営の学校を治める彼は、当然公に政府の人間だと知られている。だからこそ、今回規制を復活させた痕跡も残っていた。

 ――今回ばかりは感謝するよ、一さん。

 そう、一通りのデータをかき集めたのは一の手腕。雨宮も風見も、この短時間で膨大な情報は処理できなかっただろう。

 

「……いやはや、少々侮っていました。練馬の女鬼の名は伊達ではありませんね」

「あら? 前からおかしいと思ってたんだけどねぇ。その二つ名を知ってるやつらはみんなご存知なはずなんだよ、もう雨宮由貴は孤高じゃないって」

「――っ、どういうことですか?」

「チグハグなのさ。確かにあたしはやんちゃな頃から下らん異名が付けられてた。でもそれはあくまで『孤高』。練馬の女鬼と呼ばれるようになったのは案外最近。あたしが部署を移って丸くなってからさ」

 

 坂柳は最近の二つ名を知っていた。にもかかわらずこちらへの印象は昔のもの。

 この小さな矛盾が示している事実は――。

 

「あんたはかつて、個人としてのあたしだけを知っていた。だから当時政府内での通り名までは聞き及んでいなかった。そして奇妙な再開を果たした二ヶ月前、ようやくあんたはお役人としてのあたしを見ることになったのさ」

「……」

「もうわかってるよなぁ? 言い逃れはできないよ。あんた、去年の火災事件の後、あたしと恭介君が会った現場を目撃しているね」

 

 本命はこっちだ。師匠の助言のもと、独自で思考を巡らせ至った結論。

 当時はまだ部署を移り風見を相棒に当てられたばかり。浅川の状態を考慮していたものの、まだ身勝手さや短絡さが顕著だった。

 こっちも伊達に、あの人の弟子をやってきていないのだ。

 

「あんたは間違いなく、浅川恭介の何かを知っている。しかも家族ぐるみの闇ときた。生憎ここまであたしらに突き止められちまったら、あんたらの隠蔽よりこっちの監査が優先される。――もう隠れんぼは終わりだよ」

 

 堂々たる勝利宣言に、彼は目を閉じ黙したまま、何かを悟ったようだった。

 重たい口を、やっと開く。

 

「あなたは、知らない方がいい」

「何だって?」

「浅川君のことを思っているのであれば、決して開いてはならない箱なのです」

 

 あくまで、彼は誠実に忠告しているだけのようだ。

 

「いいや。恭介君の心を救うために、この秘密は白日の下に晒す必要がある。あの子は自分の家庭にも問題を抱えていた。その苦悩を、今も引き摺っている」

 

 頼む。折れてくれ。そう願う他なかった。ここで折れてくれなければ、きっとあの子に与える傷を最小限にすることは叶わない。そんな予感があった。

 果たして――

 

「…………危険過ぎる。私が憂いているのは、彼の心だけではない」

「それは、私も……?」

 

 重々しく頷く彼の言葉には真実味があった。

 薄々わかっていた。政府、あるいは政府に匹敵する何かが蠢いている。そのパンドラに踏み込めば、何らかの危険が自分に付き纏うことになると。

 だが、少なくとも今の彼には、残念だという評価を与えるしかないだろう。

 

「――ハッタリだね」

「……っ!」

「舐めてもらっちゃ困るよ。あんた、その正体に確証がないまま遠ざけようとしているだけだろ」

 

 ただ危険だと喚くだけで、その実具体的なことは何一つ話していない。全てというわけにはいかなくとも、雨宮のような相手にそんな口八丁が通用するわけないと、簡単にわかるはずだ。

 となれば、答えは一つ。

 

「あんたの一番の失態は今この時さ。長ったらしく規制続けて、あれじゃ自分たちはまだお目当ての物を見つけられていないってバレバレだっての」

 

 恐らくこれも看破した上で、鬼羅はあのようなやり取りを誘導していたのだろう。

 坂柳の行動は隠すことが目的。逆に言えば、隠すものを隠した時点で雨宮を近付かせない理由はなくなるということだ。しかし実際、今もなお規制は解除されていない。

 つまり、

 

「あんたも確信にたどり着いちゃいない。あるかもわからない重要な何かを、ずっと探し続けている」

「………………くっ」

 

 ようやく見れた。彼の、崩れる瞬間。

 

「見られてはいけないものをあたしが見つける可能性があった。それだけでも十分、あんたが動く動機だったわけだ」

「……」

「あんたはどこまで知ってるの? 恭介君はあんたを知っている様子じゃなかった。記憶が欠けているからか、あんたが一方的に知っているだけかは知らないけど、見逃していい関係性だとは思えない」

「彼の脳のことまで、御存じでしたか」

「はぁ……やっぱあんたも無関係じゃなかったか。師匠め、紛らわしい言い方しやがって……」

 

 これも雨宮個人で出した結論だ。確かに別の立場にいる別人による二つの工作だが、どちらも浅川の闇を知っている。だから隠している。

 今のところ、両者に繋がりがあるのかは不明だが。

 

「…………一つだけ信じてほしいのが、私は本当に、浅川君たちのためにと思ってこうしているということです。あなたが何かを発見した暁には、きっとそれを彼に突きつけるはずです」

 

 当然だ。そのつもりで、自分は浅川家の調査をしようというのだから。

 

「あの子が前を向くためには必要なことなんですよ。だから、」

「彼だけではないのです。彼の周りをも傷つけかねない」

 

 何だって……?

 

「もしそうなれば、浅川君は何人分もの悲しみを受け止めることになる。今の彼ではとても耐えられないでしょう。つい先日も、改めてそう確信したばかりです」

 

 譲らないという、強い思いが感じられた。

 確かに、これほどまでの頑固さがなければ、わざわざ機関に掛け合って規制線を張らないだろう。

 

「それを決めるのは、あんたじゃないでしょ」

「なっ――」

「あの子は確かに望んでいるよ。両親のことも友達のことも、ちゃんと知りたいって」

 

 事件のことに関して何か隠しているのは事実だろう。しかしそのほとんどは例の少女のことや慎介のことであり、新塚と深山への思いも、両親に降り掛かった事件も、決して蔑ろにしようとはしていなかった。

 向き合おうとする意思が見えていて、それを裏切る道理などあるものか。

 真実があの子を傷つける? きっと耐えられない? 冗談ではない、どれだけ重かろうが関係ない。

 

「全てが終わる頃には、あの子の支えは十分さ。自分の学校、もっと誇んなよ」

 

 既に雨宮の中に、迷いはなかった。

 少年の青さを心配するのは何ら自然で、正しいことだ。しかしそれも過剰になれば、子離れできない親と同じだ。

 師匠の話とは少し違うが、別の意味でも自分は――病院で芽生えた後ろ向きな感情に――囚われたままだったのかもしれない。

 自分こそ、浅川のことを信じきれていなかった。大人になっていくべきであるはずの彼を、子供扱いしていた。

 そんなものはいらなかった。自分の責務を果たすべき。

 だって、それがあたしの志した刑事だから。

 

「正当でない封鎖だって根拠は既に足りてる。あんたが何と言おうと、数週間の内にはこっちに監査権が与えられるだろう。あたしは止まらないよ、あの子を救うためにね」

 

 一のデータだけでもゴリ押せたかもしれないが、これでいよいよ相手も首を縦に振らずにはいられない。

 今度こそ今日の仕事を終えた雨宮は外に出ようとする。

 

「……最後に。最後に一つだけ」

 

 背後の声に振り返る。

 

「浅川君の言葉を思い出すといい。鍵は恐らく、彼が握っている」

 

 もうこれ以上の会話をする気はないようで、早く出ていけと言わんばかりに黙ってしまった。

 彼なりな協力なのだろう。雨宮は、そう受け取ることにした。

 

 

 

 

 校門まで歩くと、何やら慌てた表情の風見が向こうから走ってきた。

 

「先輩! ――あ、えーと、どうでした?」

「言質取った。情報も得た。じきにあそこも調べられるようになるよ」

「おお! 完璧じゃないっすか、さすが先輩」

「師匠のおかげだよ」 

「あー、また始まった。先輩の師匠陶酔」

 

 本当なのに。と、咎める気にもならない。

 

「って、そうっす先輩。先輩がいない間に色々あったんすよ」

「何だ何だ。聞いてやるからゆっくり説明して」

 

 なかなかなキョドりっぷりだったが。

 

「純君が、目を覚ましたそうです」

「……! やっぱりね」

 

 間違いなく朗報だった。謎に包まれた一夜を唯一目撃した人物。まだ面会は難しいかもしれないが一安心だ。

 

「おまけに静ちゃんとの接見、……なんと許可が下りました」

「マジか……!」

 

 風見の言う通り、立て続けに道が開かれる。やっとツキが向いてきたようだ。

 

「二人の容態は?」

「純君は昨日の真っ昼間に覚醒。今のところ後遺症の類は見られず安定しているらしいっす。静ちゃんは……」

「……フン、まぁわかっちゃいたよ」

 

 進展無し。だからこっちに丸投げしてしまおうという魂胆だろう。だが好都合だ。

 

「事件当時の状況は純君に聞ける。静ちゃんは最悪お見舞い程度になっても初回は平気。会わないことには始まらない」

「鬼が出るか蛇が出るか。……前は仔猫みたいな愛嬌があったんすけどね」

「あんたがビビってどうする。もしかしたら浅川夫妻のことについてわかることがあるかもしれない。そうだね、まずは……」

 

 今まで待ちぼうけを食らっていたが、一気に状況が動き始めた。

 真実の果実、もう皮だけ齧るのは十分だ。そろそろ踏み込ませてもらおうか。

 放火事件から続く悲劇、浅川夫妻殺傷事件。その途方もない闇に。

 

「ハッ、――調子づいてきたじゃねえか」

 

 

 

 

 

 全くの誤算だった。

 あの刑事が、あんなにもこの事件に執着するなど。まして、ここまで核心に近づいてくるなど。浅川の脳のことまで嗅ぎつける鼻の良さは、何とも恐ろしい。

 一体何が彼女を焚き付けているのかはわからない。しかし自分の予想以上のところにまでたどり着いているのは事実であり、危機感を覚えるには十分だった。

 やれやれ、守るものが多いと不便なものだ。

 雨宮の看破した通り、自分が探しているのは本当にそこにあるかもわからない代物だ。立場上現場に赴くことができないのが何とも歯がゆい。自分ならあるいは、見つけられるかもしれないのに。

 だが、間違いなくあるはずなのだ。『彼』なら、そうするはずだ。

 全く――。死して尚、こちらを振り回すというのか。

 公になってしまったらどうするつもりだったんだい。彼が黙っていないぞ。……まあ君のことだから、意にも介さないんだろうが。

 あるいは、こうなることまで予測して……。

 ……まさかな。

 

「君は、あの子をどっちに見ていたんだ……? それを最後まで知れなかったのが、唯一の心残りだよ」

 

 今となっては誰にも見せることのない。弱ったまま、頭を抱えた。呟く声は、老化を匂わせる弱さだった。

 

「私の望む通りの答えなら、きっと――」

 

 時計の針の、淡々と進む音だけが、虚しく響いている。

 




さあさあ、オリ主側のこと、段々とわかってきたのではないでしょうか。

次回の幕間では更にぐんと捜査が進む予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四章・醜さに嬲られし家鴨の子の忘却を
ある家鴨のマクガフィン


 平坦な水辺に、その白鳥は佇んでいました。

 

 どこか感慨深げなのは、そこが白鳥にとって随分思い入れのある場所だからです。しかし、決して良いものではないと信じていました。めぐりめぐって今の環境にたどりついた、その出発点というだけに過ぎません。

 

 彼はここで生まれました。何匹も孵りグワッ、グワッと喚く中、ひとあし遅れて顔を覗かせた彼は、たいへん図体が大きく、決して器量好しとは言えませんでした。

 そんな彼を、まわりはとことん馬鹿にするのでした。とても変えることのできないしかたのないことで、彼はひどく傷つきました。

 

 自身の境遇を許せなかった彼は、とうとう生垣を越えて逃げ出しました。しかしどこを訪ねても、彼をおそう不幸はとぎれませんでした。それはさらにつらいことに、彼のかんちがいでもあったのです。

 

 彼は傷つきすぎたあまり、ただ気付かずに通り過ぎた犬にさえ、『醜い』自分をきらったのだと嘆いてしまうほどでした。

 

 おおくのいきものたちに貶され、運にまでみはなされてきた彼がそのきっかけを得たのは、ある日の夕方のことでした。

 水草の中から不思議な声をあげて飛び立つその群は、とても眩ゆく白い羽を輝かせ、空高くのぼっていきました。

 

 あのときの奇妙な心持は、いつまでも忘れないことでしょう。名前も知らないのに、我を忘れるほどにみりょうされたのです。やがてそれは、はっきりとした「憧れ」へと変わっていきました。

 

 その夜はひどく寒く、ふたたび死と生をさまようこととなりました。

 震える彼を救ったのは、一人の百姓でした。彼はようやく、「優しい」人に出会えたのです。

 

 しかし、数多の苦難をこえてきた彼には、やすやすと信じるおおらかさはのこっていませんでした。一緒にあそぼうとしてくれた子供にも、いたずらをされるのではないかとおびえ、ミルクの入った鍋に身を隠してしまったのです。

 

 おかみさんが思わず手をたたくと、それにもびっくりして、彼はバターの桶やら粉桶やらに脚を突っ込んでははいだし、たいへんな騒ぎとなってしまいました。

 

 混乱の中、彼は無事に百姓の家から逃げ出し、降り積もった雪の上に横たわりました。

 

 そうしてながい冬が過ぎ去り、お日様の温かさと雲雀の歌でようやくあたりが春にすり替わっていることに気付きました。その日ついに、彼は運命の出会いにめぐまれたのです。

 

 近くの水草の茂みから二羽のうつくしい白鳥が、羽をそよがせながらなめらかな水の上を軽くおよいであらわれたのでした。

 今までの日々を思い出した彼は、とたんに悲しい気持ちになってしまいました。

 あの立派な鳥のとこに近づけば、こんなみっともない僕が傍に来るなんて失敬だって殺してくるにちがいない。だけどそのほうがいいんだ。

 みんなに嘴で突かれたり、牝鶏に羽でぶたれたり、鳥番の女の子に追いかけられるなんかより、ずっといい。

 

 彼はいっそすがすがしいような思いで、白鳥のもとへ、翼をひろげていそいで近づいていきました。

 さあ、殺しておくれ。

 そう言って頭を水の上に垂れ、最期のときを待ち構えました。

 

 するとどうでしょう。なんとその澄んだ水の中には、あのくすぶった灰色の、見るのもいやになるような前の姿はなかったのです。

 いかにも上品でうつくしい白鳥なのです。

 

 彼に寄る白鳥たちも、あたらしい仲間をつぎつぎに歓迎します。

 ――あたらしいやつがきたぜ。

 ――ちがった白鳥がいますな。

 ――あたらしいのが一等きれいじゃないかい。若いってのはほんとにいいね。

 

 あらたな白鳥は、一体どうしたらいいのかわからず、何となくきまりが悪くなってしまいました。ただ、幸福な気持でいっぱいで、けれども、高慢な心は塵ほどありませんでした。

 

 やっと今の自分を認めたとき、彼はよろこびを叫ぶことができたのです。

 

 みっともない家鴨だったとき、じっさいこんな仕合せなんか夢にも思わなかったと――。

 

 

 

 その記憶を、彼はたしかに思い出していました。もっとも、思い出す価値を、彼はあまり信じていませんでした。

 

 すると、見覚えのない年寄の家鴨が話しかけてきました。すぐに白鳥は、理由もなくかわいそうな子だと思いました。

 

 ――あんた、まさかいつぞやの大きな卵の子かい?

 

 あなたはだれ? まったく知らないな。それに僕は白鳥だよ、家鴨じゃない。

 

 彼は少しむっとしました。いやなことに触れるなと。

 

 ――嘘をつきなさんな。こんななにもないところに顔を出すのはね、あんたの母親かその子供くらいなもんさね。

 

 母親?

 

 ――ああそうさ。律儀にあんたのお世話してやってた、いやになるほど真面目な母親さ。

 

 はっとしました。そこで白鳥は、その事を思い出しました。

 

 ああどうして、どうして忘れてしまっていたのでしょう。いたではありませんか。たった一つだけいたのです。醜かった自分に、どうにかあきらめずに寄ってくれていた存在が。

 

 自分がまだ殻の中にいたときのこと、目の前のおばあさんはあろうことか彼を七面鳥だと言いました。

 

 放ったらかしにするべきだと言われた母親は、そのとおりにすることもできたでしょう。しかし、決して見限ることはせず、もう少し我慢するくらい何でもないと返してくれたのです。

 

 泳ぎの練習をするときも、母親は彼のことをたいへん気にかけてくれました。間違いなく私の子だ。そう嬉しそうに呟いていたのは、忘れられない記憶のはずでした。

 

 そして、いい暮らしをするスペイン種に挨拶へ行ったときも、自分が他の家鴨に馬鹿にされている中、母親はゆうかんに庇ってくれました。あのときはとくに、自分は愛されているのだと、ほんの少し救われた気持になれました。

 

 結局悪く言われるのは続き、終いには母親も守りきれなくなってしまいましたが、こちらを心配そうに見つめてくれていたのはずっと印象に残っていたはずでした。

 

 そう、全部覚えていたはずでした。しかし彼は、大事なことをすっかり忘れてしまっていたのです。

 

 自分をかわいそうだと疑わない心と、今はもう家鴨ではないのだという自惚れで、彼はかつてを不幸でしかないと決めつけていました。それがいつしか高慢へと変わっていたことに、彼はようやく気づくことができました。

 

 ……僕の母さんは、どこに?

 

 ――もうまともに動けやしないよ。もともと酷い父親に当てられて弱ってたんだ。あっちの巣でゆっくりと死んでいくのを待つだけさ。

 

 ああたしかに、このおばあさんはこちらの父親を不親切で不誠実だと言っていた。だから余計に、母親とのことがたくさんあったのだな。

 

 母親は生きているようです。それならまだ、間に合うかもしれません。

 

 まずは何からしよう。自分はこんなにも立派になったよと褒めてもらおうか、勝手に逃げ出してごめんなさいと謝ろうか。

 

 それとも、やはり素直にお礼を述べようか。

 

 一体このあと、彼がかけがえのないものとどう向き合ったのか、それは誰も知りようがありません。

 

 しかし、彼は自分が醜かったことと、その醜さが今をみちびいたことを認めることができました。

 

 そしてきっと、彼は白鳥である前に一匹の家鴨の子として、母親と話したに違いないのです。

 




開幕の語りは当然全て原作になぞらえられています。結末のその後やら、結末までの付け加えはあれど、合間の流れは原作にあったものです。今回はそれが特に顕著で、家鴨の回想や父親、おばあさん、母親のことは全て原作通りの情報です。

終わりに、作中で母親が家鴨の子へ最後にかけた言葉を書いておきましょうか。

「器量なんか大した事じゃないさ。今に強くなって、自分の身もしっかり守るようになる」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

孤島のギャザリング

※あらすじ・タグを四章仕様に更新しました

最近色んなよう実二次の更新頻度が高くなっていますね。2期効果なのでしょうか。自語するとお恥ずかしい話、2期どころかアニメ全般見なくなってきているのですが。

閑話休題。さて、始めはオリ主の立志、次に綾小路君の原作との差異を、それぞれ一人称視点で描いてきました。では今度は……?ということで、四章始めていきましょう。


 ふと、名前を呼ばれた気がして目を開ける。見えたのは、ずっと敬愛してきた、ずっと見てきた兄さんの背中だった。

 

「兄、さん?」

 

 当然追いかける。しかし突然、不可視の壁に遮られた。

 どうしたものかと考えている間に、兄さんはどんどん遠ざかっていく。

 待って、兄さん。置いてかないで。

 すると、どこからともなくひらひらと、一枚の紙片が舞い落ちてきた。手に取ると、小学生レベルの問題が一問、記されていた。

 これを、解けば……?

 添えられていたペンを持ち、早々と正解を書く。再び壁の方へ手を伸ばすと――

 

「……! 兄さんっ」

 

 ひたすらに兄さんのもとへ急ぐ。暫くして、また別の壁。これも小学生レベルだ。

 同じように答えて突破し、少し進んで阻まれ、突破し、延々と繰り返す。

 徐々に問題は難しくなっていったが、支障はなかった。中学生、高校生と、私は努力を重ねてきた。その自負があった。

 でも、

 

「っ、早く、早くしないと」

 

 遠のいていく。見えなくなっていく。絶望的な現実に打ちひしがれ始めた。

 そしていつの間にか、ペンを握る手も止まってしまった。

 ああ、どうして、報われないの。私が何をしたっていうの。ただ、憧れていた兄さんに追いつきたかっただけなのに。

 

「鈴音」

 

 また、名前を呼ばれた。

 縋り付くように振り向くと、二人の少年の姿があった。

 

「あやの、こうじ君? 浅川君も」

 

 表情まではよく見えなかったが、風貌から二人だとわかった。

 

「努力は認めるよ。でも方向が間違ってるんだ」

「お前は変われている。お前の望みに協力しよう」

 

 そう言って、二人はさっきまでの私とは別の方角へと進み始めた。宛のなかった私は慌てて追いかける。

 歩いて、歩いて、歩いて。壁や問題が立ちはだかることはなく、ただ進んでいく。

 段々と、二人のペースが早くなっていく。いや、私が遅くなっている? 疲れてきたから?

 荒くなってきた呼吸は聞こえているはずだ。いつもなら二人は、それで待ってくれるはずなのに、今回はお構いなしに進んでいく。

 待って、お願い。今見失ったら――。

 気づけば二人の向かう先には、得体の知れない空間が広がっていた。形容しがたい、無か、暗闇に似た何か。

 私にはそれが何だかとても恐ろしく感じて、踏み込む資格も力も足りないような気がして、足が止まってしまった。

 しかしそんな中にも、二人は躊躇うことなく歩み寄り、そして――ゆっくりと吸い込まれていった。

 何なのだ。何だというのだ。変に期待させて、変に連れ回して、結局置いてけぼりにして。

 ……いや、違う。本当はわかっている。私には欠けているものが多すぎる。だから、二人と同じところにいけない。二人は私に歩幅を合わせてくれていただけで、その気になればいつでもこうして見放せたのだ。

 ……でも、あんまりだ。そこまで酷いことをされる道理はあるのだろうか。

 どうして、置いていくの? 私はそんなにも未熟なの?

 ――あなたたちまで、私を置いていくの?

 暗闇に手を伸ばす。何の意味もないのに、無力を振りかざすようにして。

 そんな私を煽りながら、その闇は縮んでいき、消えた。

 残ったのは、真っ白な世界と項垂れる私だけ。

 何が得られたというのだろう。兄さんを追いかけて、歩く向きを変えて、二人についていって。

 全部失った。失って、私はここで一人きり。

 二人に置いてかれてしまったことに、大きな寂寥感を覚える。

 涙なんてものは流れない。深い諦めに苛まれ、拳を握る。

 そこでようやく気付いた。

 途中から、色々なものがすり替わっていたことに。私が自覚している以上に、私が無意識に変わっていたことに。

 二人を追いかける中で、私は――

 あたりを、呆然と見回す。

 もう、追いかけていた背中は一切見えなくなっていた。あの――『大好き』だったはずの。

 それこそが、私の中で変わってしまっていたものの正体だった。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 うっすらと、意識が覚醒する。

 全然馴染んでいない天井が見え、遅れて今自分の置かれている状況を思い出す。

 のそのそと立ち上がり大きく伸びをする。あぁ、よく寝たわ。……最近呑気にしすぎかしら。時刻を確認すると、いつもなら活動しているはずの頃合いだった。

 部屋から出て、微動する床に気をつけながら外へと向かう。辿り着いたのは甲板だった。

 

「あ、噂をすれば」

 

 真っ先に話しかけてきたのは、学校で最も私を敵視しているであろう少女。

 

「櫛田さん。噂って?」

「今綾小路君に、堀北さんはどこにいるのかって聞いてたところなんだ」

 

 それを知ったところで何になると言うの……。

 彼女の隣で露骨に存在感を消そうとする男に、挨拶代わりの視線をぶつける。

 

「寝ると聞いていたから、そっとしといてやれって言っていたんだがな」

「どうかしら。鼻の下が伸びているわよ」

 

 全く、櫛田さんの本性を知っておきながら、よくもまあ平気で惚けていられるわね。その精神力だけは見習う余地があるわ。

 

「おはよう鈴音。よく眠れたかい?」

 

 すると、ひょこっと綾小路君の背後から藍色の髪が覗き込む。どうやらずっと死角に隠れてしまっていたらしい。

 

「そうね。おかげであんな喧騒に飲まれることにならなくて良かったわ」

 

 私に倣い、三人の視線が動く。須藤君、沖谷君、池君、山内君の四人が戯れているのが見える。

 

「無理もないよ。贅の限りを尽くした豪華客船のクルーズ。高校生の私達が興奮せずにはいられないと思うよ」

「二週間だっけ? その間島のペンションやら、ここでのシアターやらスパやら、豪勢なレストランまで楽しめるんだから――うっぷ」

 

 何てことなく広がっていた会話に危険な音が混ざる。

 

「無理するなよ。お前も鈴音みたいに部屋で寝ていろ」

「い、いや、折角の機会だからやっぱ楽しみた……う、あがっ、ちょやっぱキツイかも……」

 

 そう言うなり浅川君は一目散に端の方までかけていく。

 

「……もしかして彼」

「お前が来る前はもっと酷かった。心配させたくなくて取り繕っていたんだろうが、あんなんじゃ逆効果だな」

 

 船酔いはどうしようもない。思わぬところで彼の弱点を知った。

 

「逆に堀北さんは元気そうだね。顔色も良さそう」

「朝5時からずっと溌剌に過ごしているあなたたちには負けるわ」

 

 クルージングだとか充実した設備だとかは兎も角、集合時間が早すぎる。浅川君なんかは毎朝一番乗りで登校しているから、ここが船の上でなければ問題無かったのだろうけど。だからバスに乗っている間東京湾にたそがれることもしなかったし、こうして朝食後にもう一眠りしていたのだ。

 

「ここのところ、健康にも気を遣っていたもんな」

「……所謂オカンを錯覚したわ」

 

 理由は二つだ。一つは浅川君のお節介。「夏風が怖いぞぉ」などと言って私と綾小路君は執拗に体調管理を迫られた。

 そしてもう一つは……、以前巻き込まれた事件についてだ。

 病院にいる期間は、意図せず心身を休ませる良い機会となっていた。あれから多少は身体が軽い。

 それに、睡眠することの楽さを知ってしまった。寝ている時は、色々なことを考えなくて済むから。最近睡眠が多いのはそのせいだ。

 だと言うのに、随分と奇天烈な夢を見てしまった。身の毛がよだつというか、悪寒がす

 

「悪寒だけにオカンってか。――いってぇ!」

「ほ、堀北さん!?」

 

 本当ムカつく男ね。まるで気が合うかのように。反射的に浅川君も言いそうだと感じてしまった自分まで嫌になるわ。

 

『生徒の皆様へお知らせします。お時間がありましたら、是非デッキにお集まり下さい。間もなく島が見えて参ります。暫くの間、非常に意義のある景色をご覧頂けるでしょう』

 

 突如船内にアナウンスが流される。櫛田さんや遠目に見える男子たちは気にした様子もなく楽しみにしているようだった。既にデッキにいるのだから当然だろう。

 しかし彼は、

 

「綾小路君……?」

「――ん、どうした?」

 

 気の所為だろうか。にわかに普通のそれとは違う反応をしていたような。

 訝しげに思っていると、彼は観念したように溜息をつき、こちらにアイコンタクトを送ってきた。

 後で話す、ということかしら。

 

「おい邪魔だ。どけよ不良品ども」

 

 続々とやってくる生徒でごった返す甲板。最も島の景色が見やすい位置に先着していた私達を押しのいて横暴な言葉を吐く生徒が現れた。

 彼は見せしめと言わんばかりに綾小路君の肩を突き飛ばした。

 

「いい気味ね」

「お前、オレと同じクラスだよな?」

「私は不良品と呼ばれた覚えがないもの」

「屁理屈か」

「事実よ」

 

 慌てて手すりにしがみつくその滑稽さ。お似合いな格好ね。

 そうこうしている間に、状況は悪化しているようだ。須藤君たちが即座に威圧で返し言い争いに発展している。

 

「実力主義の学校でDクラスごときに人権なんてないんだよ。こっちはAクラス様だぞ」

「どうだかな。うちのクラスにだってすげぇやつはいっぱいいんだよ。逆にAクラスには雑魚が紛れてるかもしれねえぞ。お前とかな」

「あ? ふざけやがって、お前の方がいかにもゴリラみたいな、」

「やーひこ」

 

 割って入った声は何とも間延びていて、しかし怒気が滲んでいる。

 事態を傍観していた生徒たちの視線が一斉に集まった。

 

「げっ、あ、浅川……」

「彼……僕の、友達なんだ。あんま……虐めないで、やっておくれよ」

 

 まるで死闘を越えたかのように息を荒げている。佐倉さんと王さんに肩を支えられ井の頭さんにあわあわと見守られている原因が船酔いだと思うと、何だかやるせないわね。

 

「それはできない約束だな。そもそもお前が、馴れ馴れしく名前で呼ぶなというこちらの頼みを聞かないじゃないか」

「君が慕う……康平は何も言って、こなかったけど。もし守れないなら……このこと報告するし、何より――」

「な、何より……?」

「僕のゲロリウム光線を浴びることになるぞ……うぅぶっ」

「ぎゃぁぁあやめろっ、おい来るな! 汚いから!」

「三分でケリつけてやるっ! ごっ、ぐぅんっ……ぼっ」

「助けてください葛城さぁん!」

 

 ……惨めなおいかけっこに、周囲は思わず吹き出してしまった。

 

「あいつ、Aクラスのやつとも仲良いんだな」

「あれは仲が良いというより、一方的に絡まれているように見えるわ」

 

 佐倉さんたちともいつの間にか親しくなっているし、わからないけど。

 

「あはは、賑やかそうだね」

 

 遅れてやってきた平田君がそう言う。近くにいた山内君たちが話しかけた。

 

「なあ洋介。お前軽井沢とはどこまでいったんだよ」

「折角の旅行なんだし、もっとイチャつくチャンスだぜ?」

 

 言い方は兎も角、全く理解できないわけではない。二人の付き合いはプラトニックと評するには些か距離がありすぎる、ような気がする。経験の無い私が意見を出せた口ではないけれど。

 それに、平田君がそうしない気持ちも、何となく理解できる。何せ彼は、総じて女子からの信頼が厚いのだから。

 

「僕らには僕らのペースがあるからね。ごめん、三宅君が困っているみたいだからそっちに行くよ」

「あ、おい! 何だよアイツ、こんな時にまでクラスメイトの心配かって」

 

 三宅君は確か、宿泊部屋のグループ分けで浅川君と同じグループになっていたわね。

 人気者の宿命を理解できない山内君がブツブツと文句を垂れる。

 

「難しいところなんじゃないか? 変に距離を縮めようとしてかえって相手を不快にさせてしまうことも、あるかもしれない」

「ああ……確かに、そうかも。友達と恋人って絶対違うだろうし」

「告白するだけで関係が変わっちまうってのも、偶に聞くもんな。なるほどな、清隆の言うことも一理あるわ」

 

 各々、綾小路君のフォローに理解を示す。まるで『心当たり』があるように頷いているのは、多分気の所為ではないわね。

 

「そういやよ。堀北」

 

 すると何か思い出したように、須藤君がこちらに会話を振る。

 

「ずっと気になってたんたが、お前と櫛田って誰これ構わず苗字で呼ぶよな」

 

 ピタッと、私は表情を強張らせる。櫛田さんの方を窺うと彼女も図星を突かれていたようで、固まってしまっていた。

 

「それの何が問題なの?」

「い、いや、俺ら男子――洋介も含めてみんな下の名前で呼ぶようになったろ? 小せぇことだけど、勉強会グループで二人だけ妙に距離感じるようなのも、なんかアレだろ」

 

 ……別に、私からすれば全員大差ないつもりなのだけど。

 

「名案だぜ健! あ……でもまあ、無理にとは言わないよ。二人とも嫌だったら」

 

 池君は控えめながらも賛成なようだ。

 でも、

 

「意味を感じないわ」

 

 そこまで馴れ馴れしくして何かが善い方に向かうとは思えない。

 

「堀北さん、清隆君と浅川君にも同じ感じだもんね。それじゃあしょうがないよ」

「あー、二人にもそうだったらそりゃ無理だ」

 

 沖谷君と山内君が口を揃える。待ったをかけたくなる発言だ。

 

「どうして二人が取りあげられなきゃならないの?」

「どうしてってそりゃ、なあ?」

 

 顔を見合わせ頷き合うメンバーたち。解せないわ。

 

「櫛田ちゃんは、どう?」

「わ、私? 私は、ええと……」

 

 櫛田さんは不意を突かれたように考えあぐねる。

 

「……うーん、ごめんね。仲良しとか関係なく、私はみんなとは苗字で呼び合おうって思ってるの」

「バカッ、寛治お前。櫛田ちゃんはみんなのアイドルなんだぞ。一人抜け駆けしようたってそうはいかねえよ」

「違うって。本当にただ友達として、親睦ってやつを深めたくてだな」

 

 じゃれ合う池君と山内君だが、二人とも大したショックを受けているようには見えない。もともとあまり期待していなかったのだろう。

 それにしても、少し意外だった。いつもの櫛田さんなら、今のお願いは許可していても可笑しくないはずだが……私には思い当たりようのない理屈でもあるのだろうか。

 馬鹿馬鹿しい思案に耽っていると、途端に周囲が騒ぎだす。どうやら島が肉眼ではっきり見えるようになったらしい。

 船はそのまま距離を詰め、島につけられるのかと思ったが、桟橋をスルーし島の周りを回り始めた。標高230m、面積0.5k㎡の広大な島を遠目から一望させようと言うのだろうけど、やけに律儀なものね。奔放な人ならそんなことをせずとも勝手に散策するでしょうに、不自然……と思ってしまうのは、この学校に毒されてしまっている証拠なのかしら。

 

「凄く神秘的な光景だね! 堀北さんもそう思うでしょ?」

「山ね」

「山だな」

「山だねー」

「君たち仲良いね!?」

 

 ふざけないで。私の意見に二人が勝手に合わせてきただけでしょう。櫛田さんは本当に私のことが嫌いみたいね。

 

「睨むなって。オレたちも本当に同じこと思ってたんだ」

「少なくとも神秘は感じないかな。僕は」

 

 二人の戯言を聞き流していると、再びアナウンスが流れた。

 

『これより上陸いたします。生徒は三十分後、全員ジャージに着替え所定の鞄と荷物を確認し、携帯を忘れずにデッキへ集合してください。他の私物は全て部屋に置いてくるようお願いします。また、暫くお手洗いに行けない可能性もございますので、きちんと済ませておいてください』

 

 最後の一言が妙にひっかかった。

 

「お手洗いに行けない……?」

「島だしな」

「別に行きたい時に船へ戻れば済む話でしょう」

「船遠かったら漏らしちゃうかもよ?」

 

 男二人は特に気に留めていないらしい。

 

「僕トイレ。誰か行きたい人ー」

「あ、待ってくれ。俺も行く」

 

 浅川君と須藤君はアナウンスの助言に従うようだ。

 私を含め他のみんなはそのまま部屋へ戻り、着替えを済ませてデッキに再び顔を出した。その頃には既に、船はもう止まるところだった。

 

「Aクラスの生徒から順に降りてもらう。島への携帯の持込は禁止だ。担任の先生にあずけてから下船するように」

 

 持ってこさせた携帯を預けさせる? やたら回りくどいことをするのね。

 いよいよただ休めるだけのバカンスなどとは到底信じられなくなってきた。あの二人は相変わらず浮かれているようだから、せめて私だけでも身構えておかないといけないわね。

 

 

 

 

「――これより、本年度最初の特別試験を行う」

 

 島に上がり点呼を終えた後、設置された壇上で真島先生がそう宣言した。

 聞いたことのない単語に呆然とする者、試験という言葉に動揺を隠せない者、顔を強張らせる者。各々が何らかの反応を示す。

 ……こんなことで動じてなるものですか。兄さんなら眉一つ動かさずに続く説明を待つはず。

 

「期間は本日の正午から、一週間後の八月七日正午。その間君達にはこの無人島で集団生活をしてもらう」

 

 一週間……長丁場になりそうね。この暑さだと尚更身を削りそう。

 

「試験中の乗船は正当な理由がない限り認められない。ここでの生活に備え、君達にはクラスごとにテントを二つ、懐中電灯二つ、マッチ箱一つを支給する。また、歯ブラシは一人一つ、日焼け止めは制限なく配布する。女子については生理用品も無制限だ。その他、寝床や食糧の確保等はすべて君達自身で考え取り組むように」

 

 と言うことは、限りなく正真正銘に近い、

 

「サバイバル……」

 

 吟味の呟きが漏れると同時、池君が同じ内容を場に沿わず叫ぶ。恥ずかしいことこの上ない。この学校でそんな文句、聞き流されるのが常だろうに。

 

「最低限のアイテムがあるとはいえ、過酷な生活を強いることは重々承知している。だが、私達の『君達をバカンスに連れていく』という約束は全面的に嘘というわけではない。今回の試験において、君達がこの一週間をいかにして過ごすかは完全に『自由』だ」

 

 状況を飲み込み始めていた生徒たちは、ここで再び愁眉をつくる。試験というしかつめらし響きとは正反対な情報だからだろう。

 

「試験開始と同時に、各クラスには本試験専用のポイントが三百、支給される。それを消費することで様々な恩恵が得られるわけだ」

 

 そう言って、真島先生は冊子を掲げる。どうやら『恩恵』とやらはそこにマニュアル化されているようだ。各クラス一冊ずつ。再発行の際にはポイントを消費する必要がある。

 飲料食料は尚のこと、意外にも派手な娯楽道具まで内包されているらしい。話を聞いている感じ、そんなものにポイントを使うメリットを感じないが。

 そして、と、次に先生の語った事実は、多くの生徒に衝撃を与えた。

 

 ――最終的に残ったポイントは、夏休み明けのクラスポイントに加算される。

 

 ……急にポイントなんて言うから、まさかとは思っていたけど。これは……朗報かつ悲報だ。

 

「改めて言おう。本試験のテーマは『自由』だ。難しいものなんて何もない。今後の悪影響も一切存在しない。与えられたルールの中でなら遊ぶことも休むことも、あらゆる生活が保障されている」

 

 一通りの説明は終了。後は各クラス担任からの補足があるそうだ。

 クラッと、ありもしない目眩を感じる。間違いなく、暑さや体調のせいではなかった。

 

「それでは、各々の『バカンス』を心ゆくまで愉しむように」

 

 色々不満はあるけど、少なくともバカンスなんて冗談じゃない。

 箱庭という狭い枠を超えてお膳立てされた、第三者不在の戦場――。

 私に与えられた『自由』なんて、『戦う』以外にあり得ない。

 




あらすじやタグの時点で予想というか期待という危惧というか、していた方もいるでしょう。本章は堀北鈴音視点です。夏休みの試験から急速に複雑化していくのは周知の事実でしょうが、それと本作の性質とを踏まえると、これが最も自然で書きやすい形かなあと思います。

こんな格好つけた始め方しといて、いつも通りこれからの展開は白紙です。誰がどう動くのか全く決まっていません。堀北はどう動くのか、綾小路は協調するのか暗躍に走るのか、オリ主は堀北に従うのか否か、ぜーんぶのーぷらん。
そもそも原作の時点で、夏休みの試験は最大級かつ初めて全クラスの思惑が交わるものだったというのです。入れときたい場面はいくつかあるんですけど、難儀なものですね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

侵蝕するギャップ

今回久しぶりの一万字超えです。


「……あなたたち、いい加減にしなさい」

 

 解散間もなく、私は至極呆れた顔で、二人の少年を()()()()()()()

 

「試験ってなんだよクソ……!」

「オレたちはただ、優雅なバカンスを楽しみに来たってだけなのに……!」

「こんなのってないよ……あんまりだよっ!」

「許せねぇ……絶対許せねえ!」

 

 四つん這いに項垂れる浅川君と綾小路君。ホント止めてほしい。さすがの私でも周りの視線が痛い。

 そんな二人にフォローのつもりか、沖谷君が声をかける。

 

「でも、これってDクラスの僕らにもチャンスがあるってことだよね?」

「まぁ、そうね。テストのような学力勝負ではないという意味では、私達の下剋上にも望みはある」

 

 朗報の根拠がソレ。テストの時は赤点予備軍がグループをつくれるほど、Dクラスは危機的状況だった。今回の試験は少なくとも、そこまでの致命的な格差はない。

 それを理解した池君たちは、意外なことに随分意気揚々としている。

 

「ついに俺たちの見せ場が来たってことか! 超我慢してポイント残せば、他のクラスに一気に追いつけるんだよな!」

「残念だが池、お前の目論見通りに行くとは限らんぞ」

「ぎょわあぁ!? せ、先生」

 

 いつの間にか彼の背後を取っていた茶柱先生が反論する。遺憾だけど、今回は彼女と同意見ね。

 

「どういうことっすか?」

「今からそれも含めて説明する。よく聞くことだ」

 

 説明のためか、先生の手元にはいくつかの道具が置かれていた。

 

「お前たちには全員、この腕時計をつけてもらう。許可なく外したらペナルティだ。これは時刻だけでなく脈拍や体温、人の動きを検知するセンサー、GPSまで備わっている優れものだ」

 

 ここまで話したところで、浅川君がこちらに耳打ちする。

 

「イマドキってさ、あんなのも当たり前なの?」

「……いえ、わりと最新鋭なんじゃないかしら」

「へー。欲しいなー」

 

 普通そんな機能付きの腕時計なんて、必要としないでしょうけど。

 腕時計は万が一に備えアラート機能も搭載されており、ボタン一つで先生方に連絡が届くようになっている。完全防水仕様で、もし壊れたとしても無償で交換してくれるそうだ。

 と、ここで、

 

「茶柱さん。質問は?」

「最後に受け付ける」

 

 手を挙げて声を発したのは浅川君だ。表情は読めない。真面目に見えるようで、何も考えていないような気もする。

 腕時計の時点で質問なんて、細かいのね。

 

「全体での説明にもあった通り、学校側はお前たちの生活に一切関与しない。水も食料も当然な」

「大丈夫ですって。魚捕まえたり果物探したり、テントも木と葉を使えば、」

「そこで、さっきのお前の楽観視に答えようというわけだ。既に配布してあるマニュアルを見てみろ」

 

 代表としてもらっていた平田君がマニュアルを開くと、あっという間に女子が集まる。

 ……私も見たいのに。

 

「以下に該当する者にはペナルティ……これのことですか?」

「ああ」

 

①毎日午前8時と午後8時にある点呼に不在の場合、不在の生徒一人につきマイナス5ポイント。

②環境を汚染する行為が発見された場合、マイナス20ポイント。

③著しい体調不良や怪我により、続行困難と判断された生徒は強制リタイア、更にマイナス30ポイント。

④他クラスへの暴力行為、物資の略奪行為や器物破損行為が発見された場合、該当生徒の所属クラスは失格。該当生徒のプライベートポイントは全て没収。

 

 平田君が読み上げた文面はこんなところ。池君の言うような自然を活用した本格サバイバルはできないということだ。

 

「Aクラスが30ポイント減らされたのは、三つ目のせいですね?」

「その通りだ。――池、お前が無茶をするのは勝手だが、それを周りに強いるには相応の覚悟をしなければならない。わかったか?」

「は、はいっす」

 

 先生の説明は続く。

 

「初めの項目に記載されている『点呼』についてだが、点呼の場所は各クラスのベースキャンプだ。私達担任はお前たちが決めたベースキャンプに個人のテントを構え、緊急事態に備えることになっている。ベースキャンプは正当な理由なく変更できないから注意するように」

 

 次に、と、今度は足元に注目を促す。

 

「支給するテントは8人用だ。クラス全員に十分な寝床を確保させるとなると、5つは必要になる」

 

 つまり、3つはポイントを使って手に入れなければならないということね。

 

「トイレについては、こちらの簡易的なものを使用してもらう。各クラス一つずつだ」

 

 先生が手にしたのは青のビニル袋と白いシート、そして段ボールだ。

 

「も、もしかしてソレ、私達も使うんですか?」

 

 真っ先に篠原さんが反応する。他の女子も同様だった。

 

「男女共用だ。だが安心しろ、着替えにも使えるワンタッチテントがついている。誰かに見られるようなことには、」

「そういう問題じゃありません! だ、段ボールなんて、そんなのありえませんっ」

 

 これが私の、池君に賛同しかねた理由。野生での衛生面など、男女で見解の相違があるのは容易に想像がつく。

 まして、Dクラスなのだから。

 

「これはルールだ。どのクラスも同じものが支給されている。ちゃんとしたものが欲しければ後で私に申請すればいい。誰でも自由にできるぞ?」

 

 あの人はどうしてあそこまで生徒からの信用を失う言動を取るのだろう。煽るような文句はもはや性格の現れなのでしょうね。

 私? 私は違うわ、努力しているもの。

 簡易トイレは、段ボールを組み立てて付属のビニルをセット、その中に吸水ポリマーシートを入れて完成らしい。シートには汚物を見えなくすると同時に臭いを抑制する効果があるのだとか。

 使用後は同じシートをその上から被せることで1枚のビニルで最大5回まで使えるようだ。

 ビニルとシートは無制限に支給されるものらしい。

 無制限っ!? と驚く浅川君の呟きが聞こえた。

 

「さて、ここまではあくまで補足。今から話すのは真島先生の話にはなかった追加ルールだ」

 

 何人かの生徒が顔を強張らせる。私もその一人だ。先生の言い条からして、試験に――ポイントに関わる重要なことだろう。

 

「ベースキャンプとは異なり、島の各所にはスポットと呼ばれるものが存在する。占有したクラスにのみ活用が認められるが、占有権は一度につき8時間が効力となる。その度占有したクラスには1ポイントがボーナスとして与えられる仕組みだ」

「ボーナス……そのポイントは試験中に使うことは?」

「できない。試験後の加算だ。なお、どのクラスが占有しているかについてはスポットにある装置で確認することができる」

 

 目印があるのなら、百聞は一見にしかずというわけね。

 平田君がマニュアルのスポットに関するページを見つけたらしく、再び読み上げる。

 

①スポットの占有には専用のキーカードを装置に通す必要がある。8時間毎にスキャンすれば、継続して占有することが可能。また、複数のスポットを占有することも可能。

②他クラスの占有するスポットを許可なく使用した場合、マイナス50ポイント。

③キーカードはリーダーとなった生徒のみが使用できる。なお、リーダーの変更は正当な理由なく行うことはできない。

 

 先生が一枚のカードを見せる。あれがキーカードね。キーカードにはリーダーの名前が彫られるらしい。

 

「マニュアルにある通り、最後の点呼で各クラスのリーダーは他クラスのリーダーを当てる権利が与えられる。よって例外なく、リーダーの選出は強制だ」

 

①一クラス当てる毎にプラス50ポイント

②一クラス外す毎にマイナス50ポイント

③一クラスに当てられる毎にマイナス50ポイント

 

「――さて、こちらからの説明は以上だ。質問を許可する」

 

 合図のような一言と共に、二人の手が挙がる。先生の口元が、わずかに歪んだ気がした。

 

「……先着の浅川からにしよう。言ってみろ」

「いくつかあります。まず、『先生が僕らを保護する基準』はなんですか?」

 

 ほとんどの生徒が頭にハテナを浮かべる。私は試しに綾小路君の方を見てみたが、彼は浅川君を無表情に見つめるだけだった。

 

「例えば何らかの事情があって飲食のできない状況が続いた時は? GPSで遭難は測れても胃袋までは覗けないと思いますが」

「それについては脈拍を含む内部の計測で可能な限り判断する。お前の言う通り、腕時計から得られる情報のみの微妙な判断となってしまうが、その分職員は敏感に対応するつもりだ。体調の異常も無償で手厚く治療を受けられるだろう」

「では『リタイアの基準』は?」

「見るからに、であれば有無は言わせないが、基本的には本人の自己判断だ」

 

 満足のいく回答だったようで、そのまま二つ目を問う。

 

「ベースキャンプとスポットは別物ですか?」

「厳密にはイエスだ。あくまで前者は拠点に過ぎない。ベースキャンプを設定したからといってスポットとして占有しなければならないわけではない」

「……なら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のは?」

 

 クラスメイトがガヤガヤと騒ぎだす。確かに、普通とは些かズレた質問だ。

 中には「やっぱバカなんじゃない?」、「ちょっとオカシイやつだな」といった声も。案外聞こえるものよ、そういうのは。

 

「……ルールにそれを禁止するものは存在しない。ベースキャンプは主に担任の監督責任を全うさせるためのものだ」

「ということは――」

「可能だ」

「……なるほど。では、」

 

「では」更に何かを聞こうとする浅川君に被せて、綾小路君が声を発した。「オレからも一つ、いいですか?」

 

「……許可しよう」

「無償で支給してもらえる物資は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 もうここまでくると周囲は呆然とする他ない。

 何か意味があるのだろうか。恐らくこの中で最も二人の質問に懐疑的な私だが、皆目見当はつかなかった。

 

「記録されるのはポイントが消費される時のみだ」

「ポイントですか。ではマイナスの基準に触れた時は別? 例えば簡易トイレ。大量の使用済みシートが放置されているのが発見された場合、大量に支給してもらっていたというだけでそのクラスは環境汚染として減点されますか? 記録はしていなくとも先生の記憶には残ってしまうはずです」

「…………明確かつ確実な証拠がない限りはそのような処置は取らない。ただしお前が挙げた例の場合、GPSを頼りにシートを捨てた犯人が発覚する可能性はあるな」

 

 疑わしきは罰せずということね。意味のある情報ではありそう。使い道はわからないけど。となると、やはりCクラスが怖いかしら。

 質問はそれだけだったようだ。他に挙手する生徒がいないことを確認した先生は、速やかにその場を去って行った。

 

 

 

 

「さて、じゃあ早速、喫緊の課題に取り組もうか」

 

 Dクラスを纏める平田君が真っ先に声を上げた。

 喫緊の課題。彼が言いたいのはベースキャンプの探索。それから、

 

「当然ポイントは節約するよな? 平田」

 

 試験全体における方針。

 幸村君が重々しくそう告げると、他の男子からも立て続けに賛同の声があがる。

 

「もし1ポイントも使わなかったこれから毎月3万だぜ! そりゃ300ってわけにはいかなくても、残して損はないって」

「でも、さすがにあれは……」

 

 冷静な口調で、女子代表とも言える軽井沢さんが入る。男子に対抗する形で、女子からも多くの声。

 

「節約したいって気持ちはわかるし、何なら私も賛成。けど我慢できないって子は一人や二人じゃないはずだよ」

「そ、それだったらトイレの方を我慢すりゃいいじゃん」

「何言ってんの!? そういう問題じゃないでしょ!」

「20ポイントだぞ? トイレなんかのために使う量じゃないだろう」

「女子のこと何も知らないくせに勝手なこと言わないでよ!」

 

 頭の痛くなるような激しい水掛け論が開始された。

 意味のないことは避けよう。私は一歩離れた人のところへ向かう。

 

「あなたたちはどう思う?」

「オレはー、どっちでもいいかな。我慢はできるが、快適なトイレに損はない」

「ありゃ男子側が悪いよ。折角恵が下手に出てくれてたのに、池も幸村もあんな言い方しちゃねー」

 

 どちらも他人事に近かった。

 

「君は?」

「私は……私もどっちでもいいわね」

「意外だな。断然節約派かと思ったが」

「忘れてほしくないのだけど、私も女子よ」

「え、嘘!?」

 

 浅川君にボディブローを決める。

 

「ごめ、ア゛ァ……ごめんっコッフ。ぎ、ぎもぢは、わがるよぉ……あれだろ、女の子の、日ってやつだろう?」

「わかってるならどうして余計なこと抜かすのかしら」

 

 もしかしてドM? ならお仕置きは逆効果だったわね。

 

「ともかく、節約するにしてもしないにしても、今回ばかりは双方に根拠がある。だから重要なのは結論を出す人よ」

「洋介次第、か」

「今の時点でストレスフルじゃ、――ッ、終わる頃には何回爆発してんだって話なのにねー。――ぁあ、マジ痛って……」

 

 遠巻きに論争を眺める私たち。あら、結局私も他人事みたいね。

 

「……ま、いつまでもここで足踏みするのは面倒くさいし? 僕らもバカンスに身を投じたいし」

「バカンスって……あなた、まだそんなことを」

「清隆もその気みたいだぜ?」

「腕が鳴るな。オレはこの大自然でどこまで強かに生きられるのか」

「ほら」

 

 思わず額に手を当てる。

 

「そう落ち込まない。要は探索係ならお任せあれってことさー。マニュアルの地図はそのためか酷く曖昧だったからね」

「そういう問題じゃ……って、何しに行くの?」

「言ったろう? 足踏みは面倒だって」

 

 浅川君は一目散に平田君のもとへ行き、何かを耳打ちした。名案だったのか、平田君の頷くのが見えた。

 ……まぁ、大丈夫でしょう。

 

「それで、綾小路君」

「はぁ、何だよ」

「そんなデカい溜息をついても、簡単に引き下がるようなお人好しじゃないわ」

 

 誤魔化すなと、鋭い視線をぶつける。

 

「あのアナウンスは何だったの?」

「……違和感あったんならあと一歩だろ、頑張れよ」

「後でと言ったのはあなたでしょう」

「口にした記憶はないんだが?」

 

 出し惜しみの姿勢、腹立つわね。

 

「……わからなかったから聞いているのよ」

 

 彼は再度溜息をつき、答えた。

 

「別にあの時点で確信を持っていたわけじゃないが――あれはベースキャンプの目星をつけさせるための旋回だったんだろうな」

「適している場所……例えば水辺や洞窟?」

 

 拠点に良さそうな場所を挙げると首肯が返ってきた。

 

「Aクラスあたりなら、そのつもりで注視してたんじゃないか? オレたちですら『何かある』って思っていたくらいだしな」

 

 なら……既にこの場にいないAクラスとBクラスは、とっくにその占有へと動いているかもしれないということね。また、遅れを……。

 

「どうした?」

「……別に」

 

 悟られているかもしれない。それでも、安易に頷くことは憚られた。

 私自身が、そんな風に認めるわけにはいかないから。

 

「……いつも通りだな」

「え?」

「いや……旅行ともなれば、少しくらいそわそわしてもいいんじゃないか? あいつらみたいに」

 

 私に彼らとの共通点を見出そうとしているの? この男。

 

「好きってわけではないもの。あなたは?」

「こう見えて超疼いてるぞ。旅行自体は初めてじゃないけどな」

「海外?」

「……ニューヨークにな。ただ、そんないいもんじゃなかった。物心ついて間もなく未踏の地で家族とはぐれたって言えば伝わるか?」

 

 ……なんとなく。

 

「お、君らも僕の陰口かい?」

「浅川君――からかいづらいことを言うものじゃないわ」

 

 戻ってきた浅川君は柔和な表情のまま物騒なことを言う。

 平田君の方を見ると、どうやら事態は収まっているようだった。何を助言したのかしら。

 

「まだまだだねー。清隆なら『まあな』って返すぜ? なー清隆」

「馬鹿で阿呆で間抜けだなって笑い飛ばしていたところだ」

「僕の涙ってそんなに良い見世物かな?」

 

 勝手に泣けばいいじゃない。何ならそのまま藻屑となるのにもってこいな海原が広がっているわ。

 

「ベースキャンプについてちょっとな」

「ああ、質問の話?」

「お前の意図について考えていた」

 

 私は何も言わなかった。態々誤魔化して浅川君の真意を聞こうと言うのだから、何か意味があるはず。単に気になるという理由もあった。

 しかし、

 

「あっはは、おかしなこと言うなよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 私にだけわからないような返しだった。

 

「お前の質問で思い至っただけだ」

「最初に手挙げてたじゃん」

「オレのはベースキャンプとスポットが同じなのかってやつだ」

 

 綾小路君も、本当のことを言っているのかわかりかねた。

 わからない。何が本当で、何を伝えたいのかが、何も……。

 

「よし。みんな、それぞれ荷物を持って移動しよう。ここで話し合うのは消耗が激しいからね」

 

 胸の中がチクチクと痛む感覚がした矢先、平田君が鶴の一声を発する。

 動き出した状況に、私は慌てて付いていくしかなかった。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「ここなら日差しも和らぐし、他クラスに聞かれる心配もなさそうだね」

 

 森の奥の木陰。少しだけ開けた場所に出たところで、平田君が荷物を置く。

 

「一先ずやっておきたいのは、ベースキャンプや島を知るための探索かな。半分くらい募りたいんだけど」

「大丈夫なのか? もしかしたら何か、わかりにくい危険とかあるかもしれないぞ」

「それもそうだね……じゃあ、野外活動関連について詳しい人とかはいるかな?」

 

「はいはーい!」呼びかけに真っ先に反応したのは池君だ。「俺キャンプの経験あるからさ。ちょっとは力になれるかもしれない」

 

「彼もサバイバル体験してみたかったのかな」

「も、って、お前経験者なのか?」

「楽しそうじゃん」

「わかるわー」

「なら名乗り出なさいよ」

「「やだよ」」

 

 何故そんな話題で意気投合できるのか、わけがわからない。

 平田君の提案で、探索は四人グループ五つに任せることになった。残りは待機。マニュアルの確認や必要な物資の整理とかはできるかしら。

 

「あなたたちは探索?」

「当然。どうする清隆、一緒に行く?」

「どうすっかな。お前だけだったらはしゃぎやすいが、二人きりにはなれないし別々でいいだろう。お前もその方が都合がいいだろ?」

「何だか気が合うね、わたし達」

「何て反応しても負けな気がしたからスルーするぞ」

 

 じゃあ負けてるじゃない。

 

「鈴音は?」

「私は……待機、」

「堀北さん!」

 

 突然横から快活な声が割り込んだ。

 

「櫛田さん……」

「堀北さんも一緒に行こうよ!」

「い、いや、私は、」

「ほら、堀北さんって段々リーダーのイメージが広まってきてるでしょ? リーダーらしく、島のことも把握しておいた方がいいんじゃないかな」

 

 仲良くしたい、とはもう表でも嘯く気はないようね。

 というか、ちょっと待ってほしい。

 

「リーダー……? 私が?」

「うん。――え、何か間違ったこと言ったかな?」

「そ、そんな、だって私は――」

 

 私は、今まで何も……。

 

「……いえ、そうね。あなたの言う通りかもしれない、」

「良かったぁ。じゃあ付いてきてっ」

 

 手を引かれ――ることはなく、手招きに誘われる。

 

「お気を付けてー」

「楽しんで来いよ」

 

 煽られているみたいで腹立つわ……!

 

 

 

 

「綺麗なところだねぇ」

 

 辺りを見回しながら櫛田さんは言う。確かに、無人島という割には野生味の中に観光地のような歩きやすさを感じる。学校もそういう場所を選んでくれているのかしら。

 櫛田さんに攫われ――招かれたグループのメンバーは、浅川君の知り合いの井の頭さんと、

 

「井の頭さん、大丈夫そう?」

「は、はい。ありがとう、ございます。松下さん」

「いえいえ。あ、敬語なんて使わなくてもいいよ。気楽に行こ」

「は、はい!」

「あらー……」

 

 まじまじとこの人の態度を見るのは初めてだけど、思いの外愛想がいいのね。気遣いもできて。

 松下千秋さん。軽井沢さん中心のグループにいるのを何度か見たことがある。他のメンバーと比べると少し落ち着きがあるように感じる。

 

「探索と言っても、特に野外経験のない私達じゃ、ベースキャンプにいいところなんてまともに見つけられないと思うよ」

「うーんそうかも……でも、スポットとかならわかるんじやないかな? 装置があるって言っていたし」

 

 松下さんの言う通り、あまり自然に親しんでいない私達にはこの環境を吟味するのは難しいだろう。一見良さそうに見えて実は……なんてこともあるかもしれない。

 スポットは私も気になるところだ。恐らく目立たない仕様になっているのでしょうけど。

 

「えっと、気を遣わせちゃってますかね?」

「え?」

 

 不意に、傍らを歩く井の頭さんが問いかけた。

 

「なぜ?」

「歩幅、合わせてくれているみたいだったから」

 

 この中で体力の低い彼女と乗り気になれず一歩退いている私。偶然前後2:2の構図になってしまっていたらしい。

 

「勘違いしないで。偶々よ」

「……優しいんですね」

「は?」

 

 心の声が漏れた。

 

「どうしてそうなるの?」

「浅川君が言ってたんですよ」

 

 ――あの子ツンデレだから。突き放されないってことは嫌じゃないってことだよ。

 こちらに破顔する彼女にたじろぎつつ、あの男に心中で呪詛を唱える。

 私達が隣を歩いているのは偶々だし、このグループ自体が偶然だし、色々とズレている。そもそも私は探索を嫌がっていたはずだ。

 突き放すこともできた。しかし、何だかそれこそ彼に嘲られるような気がして、踏みとどまった。

 

「本当に偶々よ。だけど、隣で怪我をされていい気はしないわ。歩きづらい地面だし、気をつけなさい」

「……うん、ありがとう」

 

 例の本にも書いてあった。『会話を無理に終わらせようとするのは相手に悪い印象を与えます』。人と関わるのは好きじゃないけど、嫌われたいわけでもない。少なくとも私の目標であるあの人は、誰かに嫌われるような人じゃない。

 そうよ、私のため。私のこれからに必要なことなんだから。

 前に意識を向けると、こちらをじっと見つめている松下さんと目が合った。

 

「何かしら」

「――ん? いや、こうして見ると、堀北さんってそんなに悪い人じゃないのかなって」

「どういうこと?」

「退学者を出さないように勉強会を成功させたり、須藤君を助けようと動いたり。今だって」

 

 初めの頃は今以上に閉鎖的で、まさに拒絶という言葉が相応しい過ごし方だった。それを非難する声があったことも知っている。以前とのギャップを指摘したいのだろうか。

 

「私はAクラスを目指しているの。その上で避けられなかっただけよ」

「ふーん。まぁそういうことにしとこうかな」

 

 ……まさかこの人、あの二人と似たタイプだとでもいうの?

 

「堀北さん本気なんだよ。私や須藤君たちにも、協力してほしいって言っててね」

「へー! 意外も意外。周りのこと、そんなに頼りにしてくれているんだ。私とかにも期待してくれてたり?」

「……必要があれば、ね」

 

 何だか嬉しそうに、ニマニマと笑っている。やり辛いわね。

 

「綾小路君と浅川君とも、仲良いよね」

「……それが?」

「どんな人なのかなって。特に綾小路君は、第一印象はとにかく暗いって感じだったからさ」

「……印象なんてものないわよ」

「えー、明らかに他の人とは違う態度なのにそれはないでしょ」

 

 しつこいわね……。

 

「『面倒くさい』のよ」

「面倒?」

「慣れればわかるわ。あの二人、突っぱねる方が疲れるって」

 

 本心からの回答を述べると、どういうわけか松下さんは考え込むように手を顎に当てる。

 

「ふむふむ。いやーまさか、堀北さんの攻略法がそんな単純なものだったとは」

「は?」

「実際今は打ち解けあっているようなものなんだし、結局波長は合っているってことだよね? うん、絶対そう」

「はぁ……万が一そうだったとして、あなたには関係ないでしょう」

「うーんどうだろうねぇ。まあ今の堀北さんを見るに……なるほどね」

 

 好奇心は猫を殺すものよ。何やら南東トリオに興味をお持ちのようだけど。

 

「――それにしても、見つからないね。スポット」

 

 少し歩いて、櫛田さんが汗を拭いながら言った。

 

「私達の探し方が下手ってこともあるけど」

「それはないでしょう。態々カードキーやリーダーを追加ルールとして作っておいて、それを使う機会に気付かせもしないなんて本末転倒だもの」

「おー、メタ読みってやつだ」

 

 本当に感心してるのかも怪しい平坦な口調で、松下さんが頷く。

 

「やっぱ、一つくらいは見つけた方がいいですよね……?」

「じゃあ……手分けしよっか」

「手分け?」

「その方がスポット探せる確率もあがるんじゃないかな。私と堀北さん、松下さんと井の頭さんでどう?」

 

 明らかに含みのある組み合わせに警戒心が宿る。が、それを表に出すわけにはいかない。

 二人から反対意見はでない。なら私も従う他ないか。

 それから周りに声が聞こえないような場所まで待ち、こちらから話を振った。

 

「何のつもり?」

「別に。あんたの方こそあるんじゃない? 色々」

 

 ぶっきらぼうね。人にキツくあたるのは良くないわよ。

 

「裏切るんじゃないかって、思ってるんでしょ」

「……可能性はゼロではない。とは思っているわ。けど今は、対策は浮かんでない」

「ふーん……言ってよかったの?」

「取り繕ってもしょうがないでしょう」

 

 もし裏切るとして、最も簡単なのはこれから決まるリーダーを他クラスに漏らすという方法。

 しかし現状、彼女の立場でクラスのリーダー決めに関わらないなど天変地異に等しい。もはや本人が実行するか否かという、それだけの問題に帰結してしまう。

 

「その割にはやけに落ち着いているね」

「そもそも今回の試験、私にできることはほとんどない。思うところはあれど、焦ったところでどうにもならないことくらいわかっているわ」

 

 体を動かす作業が特別得意なわけではない。開放された空間で仲間を纏めたり指示を出したりするほどの統率力も持っていない。そして、綾小路君や浅川君ほどウィットを利かせることもできない。

 最初はあんな息巻いていたけれど……この無人島で私にできることなんて、あるのかしら――。

 

「あんたそれ、本気で言ってんの?」

「え……?」

 

 思わず櫛田さんの顔を見る。どうやら本当に驚いているようだった。

 

「……まあいいや。私もどうするかはまだ決めてないよ。精々怯えてな」

「脅すためだけに、こうして二人きりの空間を作ったの?」

「まさか。……でもやめた。今のあんた見てたら、ちょっと冷めちゃった」

 

 勝手に熱くなられて勝手に冷められる身にもなってほしいわね。

 実際のところ、裏切りの確率は相当低いはずだ。バレなければ、と言っても、やはりクラスに仇なすデメリットは大きい。私を陥れようとするのであれば、この試験での裏切りは遠回しすぎる。利益が釣り合わない。

 少なくとも動機となる()()()()()()()()()、櫛田さんの裏切りは意味をなさないのだ。

 その後まもなくスポットと思しき場所を発見した。装置はカードのスキャン口があるだけのありきたりなもので、他は特にめぼしいものはなく、ベースキャンプとしては物足りなさそうなのは一目瞭然だった。

 合流した松下さんと井の頭さんも似たようなスポットを見つけたらしい。平田君たちのもとへ帰る道中、情報共有まで済ませた。

 

「誘ってくれてありがとね、櫛田さん。有意義な時間だったよ」

 

 手を振る松下さんの表情は明るかった。井の頭さんも、慎ましながらもお辞儀をし、そそくさと解散していった。

 

「またね、堀北さん。機会があれば」

 

 再会への言葉を言い残す櫛田さんは、既に人前で見せる少女に戻っていた。

 また、か。

 過去を広めるかもなんて薄い可能性のために、私一人なんかを常々監視しなきゃいけないなんて。彼女も大変ね。

 ……。

 そんな接点の一つもなければ、きっと私のことなど眼中にはなかったでしょうに。

 




前回の通り、これから彼女たちのいる無人島で何が起こるかはほぼ白紙です。四人グループも完全に「よし、次の話書くか」と執筆ページを開いてから急に思いついた展開です。

少年二人の質問は今のところ活用できるかなっていう情報を作者自身が挙げただけです。ベースキャンプとスポットて別物だよね?同じだとしたら、今作の独自設定として許してください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遅延したブランチ

本当は二年生出したい話とかもあったんですけど、口調わからなすぎてやめました。桐山さんとか全然知らないっすよ。教えてくれる方いたら感想でお願いします。


「浅川君、あまり無理はしない方が……」

 

 重症患者でも介抱するような深刻な表情で、王に言葉をかけられる。

 

「あっはは、問題な――うっ、ぷぅ。心配するほどのことぉん……っ」

「全然大丈夫には見えないけど!?」

「とりあえず横になってくださいあそこのベンチに!」

 

 同じく取り乱し気味な佐倉と井の頭に誘われて、顔面蒼白の浅川は大人しく言う通りにする。

 

「……あー、お日様ポッカポカぁ!」

「駄目です、心做しか幼児退行しています」

「どうして空は蒼いのか」

「いや、悟ってますねコレ」

 

 意識が天空へと吸い込まれるのを防ぐように、三人は覗き込む。

 

「三半規管の鍛え方を知りたい……」

「どうしてそんななのに歩き回っていたんですか」

「人を、探してて」

「今じゃなくても……」

「今が一番いい機会だからぁ」

「今にも吐きそうな状態が友達と会う好機とは思えないんですけれど」

 

 全部が全部反論される。うるさい、会いたかったんだもん。

 

「それに、折角だしって思ったんだよ。……船、初めてだったから」

「あ……なるほど。ましてこんな豪華客船ともなると、昂ぶってしまうのは仕方」

「両手を広げて後ろから抱きしめてもらいたいなって……」

「そっち!? しかも男女逆ですし!」

 

 内心驚いた。王にも声を荒げることはあるのかと。これはもしや逸材になるやもしれぬ。

 

「いいだろ別に。僕は抱くより抱かれたい派なんだ」

「そ、それはちょっと、卑猥……」

「ひ、卑猥? 何が」

「え……な、ななな何でもないです!」

 

 独りでに顔を赤らめる井の頭。

 

「今のは……」

「浅川君が悪い、かな……」

 

 酷い少女たちだ。寝込んでいる哀れな少年に罪を吹っ掛けようと言うのか。

 

「よくわからないけど、楽しみにしていたのは本当だよ。このあとの島暮らしにだって期待している」

「と思っていたら、なんと船上が弱かった、と?」

「飛行機は行けたんだけどねぇ」

 

 十時間超えの空の旅。顔色が悪かったのはむしろ愛しい兄弟の方だった。

 

「まあ僕のことはほっといて、三人で色々回っててくれ」

「そういうわけにも。心配なので」

「私はみんな以外で話せるの、櫛田さんくらいしかいないし……」

「私も、他だと綾小路君くらいしか……」

 

 櫛田は当然クラスメイトに集られ、綾小路は勉強会メンバーと談笑中。佐倉は頼めば輪に入れてもらえる見込みはあるだろうが、無理もない話だった。

 みーも意中の平田と話せる環境ではないし……。

 自分への説得を終えた浅川は、溜息をつくかわりに状況を甘受することにした。

 といっても、できる話なんて真面目なものしかないのだけど……。

 

「――結局、再開したんだなあ。グラブル」

「グラドルです。……さっきのに引っ張られました?」

 

 略称は苦手だ。若年向けなコンテンツにも疎い、良くないか。

 

「引退撤回を投稿する時は、辞めようとした時以上に緊張したけど、今はほとんどいつも通りです。私は」

「……ふーん」

 

 表に出す内容ではない、と佐倉は思ってそうだったので、特に言及はしない。

 仕事は元の形を取り戻しつつあるのだろう。しかしその産物を享受していた消費者たちはそうもいかない。きっと『色々』な声があったはずだ。

 それでも今は、特に心配する必要はない。本人が口にしなかったということは、問題は起こっていないということだ。今の佐倉は、それを独りで抱え込んでしまうような子ではない。

 何より、語る彼女の穏やかで晴れ晴れとした顔が、全てを物語っている。

 

「私……やっぱり始めて良かったなって思う。この仕事が、少しでも私のことを好きにさせてくれたから。一度離れて戻ってきて、改めて実感できた。あの時踏み留まったのは正しかったんだって。――引き止めてくれてありがとう。私が雫のことを受け入れられるって、信じてくれてありがとう」

 

 何を言うより先に、王と井の頭の表情を盗み見る。

 浅川はやはり、三人の関係を見ているのが好きだった。自然で、普通で、それでいて鮮やかな色が見える。単純かつ理想的な形が。

 こういう関係が、一番強いのだろう。そう直感する。

 佐倉愛里は、雫に変身してみんなに元気を届ける、優しい女の子。

 二人のその理解が、思いが、佐倉に届いた。だから佐倉は信じることができた。今の雫は、そんな絆の結晶なのだ。

 何とか『狙っていた通り』になった。やはりあの件は、()()()()()()()()()()()()

 彼女の様子を見て、浅川はそう確信する。

 すると突然、話の区切りと言わんばかりにアナウンスが流れた。

 

「――デッキの方へ行った方がいいってことですよね?」

「でも、それだと浅川君が……」

「いや、行こうっ」

 

 よろよろと立ち上がる浅川を、三人共狼狽えながら止める。

 

「体調が悪化すれば、折角のバカンスなのに辛い思い出になっちゃいますよ?」

「言ったろう。楽しみにしてたって」

 

 所詮は空元気だ。だが、それで十分。

 

()()()()()()()()()()()()。僕はこのバカンスを満喫しに来たんだ」

 

 浅川の退かない意思表示に、溜息で最初に反応したのは王だった。

 

「いいけど、一つだけ条件があります。誰かに必ず支えてもらってください」

「みー……」

「とりあえず今は、私達が支えるから」

 

 そうだね。こういうとき、いつも君は率先して動いてくれる。

 王は行動にも移してくれる。波長が合うように感じる一因にはそれもあるのかもしれない。

 

「……じゃ、見守ってて」

 

 何かとこの三人とは付き合いが多くなりそう。そんな予感があった。

 あわよくば、島で羽根を伸ばす合間にも。

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

「はぁ……」

「あー……おい浅川、どうするんだコレ」

 

 こっちが聞きたい。

 

「……みー、そんなしょげないで」

「でも……」

「言いたいことはわかるけども」

 

 現在仮拠点で待機している平田。王はきっと、想い人の近くに少しでもいたかったはずだ。

 しかし悲劇は起こった。

 面子が誰でも良かった浅川は気分に身を任せて余りものグループを狙ったところ、同じくクラスで孤立気味だった長谷部と三宅がやってきた。どうやら長谷部が探検気分で三宅を巻き込んだらしい。

 さて、これで三人。全グループ四人を宣言した平田は周りを見回す。

 ……そうして偶々目が合ってしまったのが、お察しの通り彼女だった。

 

「こうなった以上、できるだけ貢献するのが吉だ。わかるだろう?」

「……はい」

 

 友人でもない他人に恋路を知られることもない。この場で平田の名前を出すわけにはいかなかった。

 

「すまんね、うちのみーが」

「その言い方はおかしいと思うが……別にいい。迷惑ってわけでもないし、心配だっただけだ」

 

 三宅とは船内で数度会話している。親しげとまではいかないが、ペースはできあがっている調子だ。

 

「てっきり二人共待機かと思ってたけど」

「お前も見てたはずだ、あいつに強引に引っ張られたんだよ」

「振り解けよ」

「できるか、相手は女なんだぞ」

 

 輪に溶け込んでいないわりには、会話に不便がない。ぶっきらぼうという点では、少し堀北に似ているだろうか。

 

「君ら確か、学校でけっこう話してるよね? あんま徒党は組まない質どうし、意気投合した?」

「いや俺はそんな気はなかったんたが、長谷部が――」

「波瑠加」

 

 突然、先頭を往く長谷部が遮った。三宅とともに視線を移すと、大人びた顔がこちらを向いていた。

 

「下の名前かあだ名、でしょ? みやっち」

「…………波瑠加が話しかけてきたのがきっかけだ」

「えーっと……?」

 

 とりあえず、みやっちというのは長谷部の言うあだ名ということか。

 

「長谷部ってあだ名とか使うんだね」

「なに、意外だった?」

「そういうの馬鹿にしちゃうものかと」

「偏見だねぇ。私、友達は大事にするよ」

「ごめん」

 

 確かに良くない先入観だった。素直に謝罪する。

 

「浅川はわりと分け隔てないって印象があるな。王とも仲良いだろ」

「そうだなあ。それに尊敬もしている。――みー?」

 

 そういえば全く会話に参加していなかった王を呼ぶ。彼女は心ここにあらずな様子だった。

 

「は、はい」

「いつまでも拗ねてないで。いつもの気概はどうしたんだい」

「うぅ……」

「キツイこと言いたくないけど、別に待機で良かったんじゃないかい? 平田も止めなかったと思うよ」

 

 できるだけ優しく諭すと、長谷部が反応する。

 

「みーって言うのは、王さんのあだ名?」

「え? そ、そうですね。友達にはみーちゃんって呼んでもらいたいなって」

「へー、面白いセンスしてるね」

「お前が言うのか……」

 

 三宅に同意だ。普通は下の名前をとってアッキーとかにするのではないだろうか。

 

「長谷部だったらなんて付ける?」

「うーん……ユンユン、とか?」

「お、パンダみたいだね」

「確かに。じゃあかわいい感じになったってことだね」

「なるほど! すげえなあだ名って」

「は?」

 

 存在を知っている程度だったが、存外可能性を秘めているのかもしれない。

 僕も極めてみよっかな、あだ名。

 

「では、浅川君だとどうですか?」

「浅川、恭介……え、けっこう難しいかも」

 

 何をもって難易度を判断しているのか知れないが、深く考え込んでいる。

 

「あさっちがいいかなって思うけど、みやっちと被るからなぁ……あ、きょっすーとかどう?」

「えーやだ」

「あらら、お気に召さなかったか」

「書くのメンドイ」

「そこ!?」

 

 お、ようやっと数刻前の調子に戻ってきたな。

 

「ははーん、浅川君にも何かと呼び方にポリシーがあるわけね」

「御名答。だからあだ名も面白いなって思ったのさあ」

 

 みーという前例がある。上も下も呼びにくい子には内心手を焼いていたのだ。それこそが浅川の見出した可能性である。

 

「子音がダルいんだよなぁ」

「俺を見ながら言うな。――だからお前、俺の呼び方おかしかったのか」

 

 あくまで彼の苗字を呼ぶつもりだが、どうにも端折って『みゃけ』となってしまう。何なら綾小路でさえ度々『きょたか』になることがあるくらいだ。

 実は最難関は堀北だったりする。上下どちらも呼びにくい上、その手がイマイチ通用しない。

 

「長谷部なんてハセとかハルとかでいいんじゃない? 自分だってわかるでしょ」

「じゃあ私は浅川君をきょっすーって呼ぶよ?」

「……やめとく」

「だよね。顔顰めたの、案外わかるものだよ」

 

 目ざとい。水泳の初日の一悶着での態度を顧みるに、そういった機微には敏感なようだ。

 

「でも君は、呼び方を気にする相手とは友達になれないってわけじゃないだろう?」

「まあね。そこまで拘って嫌がられてもいいことないし。――あれ、もしかして不安だった? ホッ、なんて」

 

 そりゃそうだ。世の中リトルと言われるだけでブチ切れる高校一年生の才女がいるのだから。

 

「難儀なものだねえ、呼び方ってのも」

「何でもいいだろ。一々気にすることじゃない」

 

 三宅のドライな性格は、恐らく長谷部と摩擦を生まないのだろう。端的に言って、相性がいい。浅川なりの、浅はかな分析だった。

 

「――ねえ、さっきから気になってたんだけど。何か変じゃね?」

「変、ですか?」

 

 小首を傾げる王。

 

「無人島ってわりには歩きやすいっていうか。獣道みたいに舗装されてるっていうか」

「うーん、言われてみれば……?」

 

 いくら学校側による選定だったとしても、元来手の施されていない島にこんないかにも「ここをお通りください」な通路が開けているだろうか。

 少なくとも、()()()()()もっと圧倒的に無法的で、長く生え散らかした草花が途切れる空間などほんの僅かだった。

 

「……」

 

 自分には疑念だけで精一杯だ。『彼』なら、より確信めいたものを抱いているかもしれない。

 

「……! おい、待て」

 

 突然三宅が声を荒げる。というより、必死さの滲む抑えた声だ。

 彼の言い条を察した浅川は――胸の内で謝罪しつつ、狼狽える王の手を引き木の幹の裏へ隠れた。

 動揺の声を漏らさせないよう口元も念の為塞ぐ。

 

「んごぅごんんっ!?(浅川君っ!?)」

「しっ」

 

 三宅と長谷部はすぐ側の茂みに潜ったらしい。長谷部が「大胆」と口笛を吹くが、気にしている場合ではない。

 

「あの奥進んだらお宝眠ってたりしない?」

「そんなわけないだろ。だが……スポットはあるかもしれないな」

「よく見ると中が少し舗装されてるみたい。入口付近だけで見辛いけど」

 

 四人でじっと見つめる先には、異様に高い山頂を被った洞窟。その大穴から、二人の影が覗いた。

 康平……?

 よく見知った顔だ。側近の戸塚も一緒にいる。

 何やら話し込んでいるようだが、生憎遠すぎて聞き取れない。興奮気味な戸塚が坂柳の名前を口にするのだけが聞こえた。

 会話を終えその場を離れようとする二人だったが、何かに気づいたようで進路を変える。

 一瞬こちらの存在がバレたかと思ったが、幸いなことに90°方角が違う。

 しかしその行く先を悟った時、浅川はすぐに別の焦りを覚えた。

 き、清隆……!?

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「んーいいねぇ。実にいい。この豊かな大自然で悠然と佇む私の美しさと言ったら……!」

 

 トップ4での朝トレを続けてきて良かったと、綾小路は心底実感した。

 灼熱の密林地帯を歩むのは、予め慣れがなければかなり険しいものになっていただろう。

 

「佐倉、大丈夫そうか?」

「う、うん。何とか」

 

 傍らの佐倉も決して少なくない汗をかいているが、顔色を見るに大事はないようだ。

 

「私も……小野寺さんみたいに運動ができたら、みんなに迷惑かけなくて済むのになぁ……」

 

 彼女は自分の数歩先を歩く小野寺を見る。

 小野寺かや乃。水泳部の生徒だ、と櫛田から聞いたことがある。その実力は眉唾ではなく、水泳開きにあった競争でも、彼女は見事女子一位を勝ち取っていた。

 すると、高円寺と小野寺、あの時抜きん出た運動能力を披露した男女が奇しくも同じグループに居合わせたことになる。綾小路はともかく、逆に体力からっきしな佐倉には確かに厳しいことだろう。

 

「泳ぎも含めて得意っていうなら、今回の試験は活躍できそうだな」

「どうだろうね。でも体力には自信があるから、正直他の女子よりはたくさん働けると思うよ」

 

 須藤と違って運動バカという印象はなく、受け答えも落ち着いていて理性的な部分を感じる。活発さを強調するショートカットの髪は、可愛いより格好いいという感想の方が多くなりそうだ。

 

「悪いな。こまめに気にしてもらって」

「全然構わないよ。けど、高円寺君が……」

 

 綾小路たちと高円寺との距離は既に大きく開いている。互いを見失わないよう中継を張ってくれているのが小野寺だった。

 

「高円寺君、もう少しペースを落とすことって、できないかな?」

「ハハ、無益な相談だね。目指す場所が定まっていながら足踏みに耽るような趣味ではない。私にはずっと聞こえているよ。この地で最も私の美しさを万全に映してくれる、絶景の招く声がね!」

 

 高らかに笑う高円寺。今はその気力が羨ましい。

 

「うーん……ごめんね二人共。やっぱ無理みたい」

「仕方ないさ。あいつを制御できる人間なんていない」

「わ、私もそう思う」

 

 作品の一つ一つを吟味するように、ふむふむと辺りを見回しながら進む高円寺は、確かにこちらのことなど一切気にしていないようだ。

 佐倉の表情を窺うと、やはり申し訳なさそうにしていた。

 少々露骨かもしれないが、彼女に余計な罪悪感を与えまいと、話を切り替えることにした。

 

「再開、したんだってな」

「――うん。私は誰も見てないところで人知れず変身して、みんなに元気を届けるの。それが今の雫」

「……かっこいいな」

「えへへ、浅川君も同じこと言ってた」

 

 あいつらしい。変身ヒーローみたいとでも思ったのだろう。

 

「お前の世を忍ぶ仮の姿を認知しているのは、一体何人なんだ?」

「えっと――綾小路君と浅川君と、みーちゃん心ちゃん。櫛田さんにも言おうかは、まだ迷っているところ」

 

 つまり、佐倉=雫の等式までしか、櫛田は把握していないということか。

 いずれにせよ、下手に公開しないのはいいことだ。特に男子なんかは、またよからぬ下心を持つ輩が出てくるに違いない。

 雫を見る色眼鏡をかけたまま接してほしいわけではない。ありのままの自分を見てもらうことを望む佐倉には、その選択が適している。

 

「……偉いな、佐倉は」

「そう、かな? でも今は、こうして足を引っ張っちゃって――」

「そこから成長しようと努力しているだろう。誰だって初めから全部上手くいくわけじゃない。それで滅気ないのは、凄いことだと思う」

 

 ある種努力とは無縁とも親縁とも言える自分が口にするのも、おかしな話だが。

 ただ、自分の志ありきな努力というのは、過去の綾小路にはなかった経験だ。それはきっと尊いものなのだろう。

 だから、きっと、

 

「恭介と今の関係を続けようとするのにも、勇気が必要だったんじゃないか?」

「浅川、君……」

 

 踏み込みすぎな質問だとは思う。しかし彼女なら反抗せず答えてくれると高を括っていた綾小路は、その優しさに甘えることにした。

 

「今までの時間はなくならないから」

「……そうか」

「好きかどうかって気持ちと、仲良くなりたいって気持ちは、一緒じゃないんだよ。……多分」

 

 佐倉の言いたいことは、何となく伝わった。

 表面と内面の差異。ある者には好き好んで接近し、ある者には嫌嫌状況に従い接触する。好きだけど遠目に見ているどけで十分と言う人もいるだろう。

 だから、合わなくても絆を深めたいという意思だってあって当然だ。社会的な事情ではなく、「この人といると良いことがありそう」という漠然ととした楽観的で希望的な観測だけで、人は人に歩み寄ることができる。

 他でもない佐倉がそれを語るのだから、他人を避けがちだった彼女の明らかな変化が窺えた。

 それに対して綾小路は、羨望に近い感情を抱くと同時に今の自分の憐憫を嘆くばかりだった。

 

「――つかぬことを聞こうか、諸君」

 

 先程までこちらに無関心だった高円寺が不意に話を振った。

 

「君達にはこの場所がどんな風に見える?」

「ど、どういうこと……?」

 

 佐倉は今一つ要領を得ないようだが、小野寺は思案顔になる。

 

「どうって言われても曖昧だけど……ちょっと変だなって思ってた」

「変?」

「何ていうか、歩きやすさ? みたいのを感じる。ここが本当にただの無人島なら――佐倉さんなんかは特に――消耗がもっと激しかったと思うよ」

 

 ……なるほど。そういうものなのか。

 綾小路は島や野生というものは、当然知識でしか知らなかった。

 陸を踏んでいるからこそわかる違いや、気付ける違和感もあるようだ。

 そしてもし、小野寺の言う通りなのだとしたら、

 

「――フッ、どうやら気付いたようだね」

「……、何故ヒントを与えた。やはり気まぐれか?」

「君には理解できないことだよ。情報不足だ」

 

 勝手に話に見切りをつけ、高円寺はあろうことか大木を登り始めた。

 軽やかな身のこなしで、あっという間に枝の上に立つ。「えぇっ!?」と驚く佐倉の声。

 

「こ、高円寺君っ、危ないよ?」

「ノープロブレムだよ、スイマーガール。私は一刻も早く彼の地へ赴かなければならないのでねぇ。――それでは、オ・ルボワール」

 

 ズンズンと躊躇いなく飛び渡っていく彼の強かさに、内心舌を巻いた。自分とてあれほどの芸当には慣れが必要だ。未知数という言葉が良く似合う男だこと。

 

「どうしよっか……」

「……小野寺、佐倉の面倒を見てもらってもいいか?」

 

「え!?」小野寺は目を鱗にする。「もしかして、アレを追い掛けるの?」

 

「土地勘もマトモにない孤島の上だ。万一あいつが合流できなくなるようなことがあっちゃいけない」

 

 それに、()()()()()

 

「難しそうならそのまま仮拠点に戻っても、平田なら怒りはしないだろ」

「わかった、佐倉さんのことは任せて。綾小路君も気を付けてね」

 

 すぐにでも全速力で追っても構わないが、可能なら驚かせるようなことはしたくない。二人の視界を逃れるまでは、小走りにしよう。

 

「あ、綾小路君。ごめんね」

「いや、あれは独断行動をした高円寺が悪い。謝ることじゃないぞ。水分もすぐには取れないだろうから、できるだけ温存しておくんだ」

「うん。ありがとう」

 

 そうして綾小路は高円寺の後を追う。

 ――久しぶりに、頑張るか。




嫌な予感がします。情報が膨大なだけあって、とんでもない話数になりそう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

過去にふれるミゼラブル

 綾小路が高円寺を真剣に追い始めた時には、ぎりぎり目視できる程度の距離になっていた。

 普通の手合ならともかく、今の対象はあの高円寺だ。追い付くの至難の業。

 綾小路は本当に久しぶりに、黙然と筋肉を働かせることに集中した。

 視界に映る有機物たちの輪郭が鮮明になり、昏さを帯びる。

 一つ幹を飛び立った時には、既に次の安定した着地点に目星がつく。どこを踏みしめるのか、どこを掴むのか、どの樹木を使うのが最短か。一手二手、二手三手、自分の行動の予測が引き延ばされていき、身体が丁寧にルートを辿っていく。

 やがて、

 

「……ハッハッハ! これは驚いたよ、まさかこれほどとはね」

 

 息もきれきれな綾小路とは対照的に、高円寺は大した汗一つかいていない。

 

「……どうして、……止まってくれたんだ」

「君がそこらの凡人ではないと認めてあげようと思ってね。この島の構造にも推測は立ったのだろう?」

「…………ちょっと息整えていいか?」

 

「オーケイオーケイ」許可を与えた高円寺は太陽を見上げ目を閉じ、神々しい姿を見せつける。感嘆の声を漏らしそうになったが、向こうのペースに飲まれまいとなんとか堪える。

 

「この島は、ほぼ人工だな」

「ザッツライト。明らかに『手入れ』された自然だ」

 

 考えてみれば、その結論に至るのは全く難しくない。

 学校側とて、大自然に生徒を放つ危険性など重々承知している。その上ベースキャンプやスポットの存在など、生徒が身を置き警戒を解ける場所を態々定めているのだ。最低限の安全性の確保をするのであれば、毒性のある草花や食糧(と見紛う物)を取り除いたり獣を払ったりしているのが当然である。

 

「いつから気付いていた?」

「船さ」

 

 旋回の時。高円寺も興味本位で島を眺めていたようだ。あれだけで気付くとは、何たる洞察力。

 

「どうりで、自信たっぷりな単独行動に出るわけだ」

「ハハッ、多少は理解してもらえたようで嬉しいよ。そう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、衣食住に困ることなくね」

 

 これは一層この男を説得するのは無理そうだ。諦観の色が強まる。

 

「まぁそんなことはどうでもいいのだよ」

「どうでもいい? じゃあなんで、」

「しらを切るのはおすすめしないねぇ。私に聞きたいことがあるのだろう? この上なく適した機会だと思うがね」

 

 これには驚愕を隠せなかった。最近の変化とか、一瞬の機微などではない。漫然と気にしていただけのことを指摘され、綾小路は目を見開いた。

 

「……気前がいいんだな」

「今日の私は機嫌がいい。私達を囲む大海原のようにおおらかさ」

 

 なら、お言葉に甘えるとしよう。

 

「一つだけ、気になっていた」

「ほう?」

「お前確か、『跡取り息子』っていうやつだったよな?」

「いかにも。私こそ高円寺コンツェルンの一人息子にして、いずれはこの日本社会を背負って立つ男だ」

 

 最初の自己紹介とほとんど同じことを言う。

 そう、思い返せば、あの時から彼に僅かながらの興味があった。

 

「どういう気持ちなんだ? その、親を継ぐというのは」

 

 言語化はし難かったが、高円寺はその意図を汲んでくれたようだ。

 

「私からすれば、大した難問ではないね。私が跡取りをプランに組み入れているのは、ペアレンツに諭されたからではない。私の意志だ。私には、先代よりも優れた成果を叩き出せるという自負がある」

 

 世襲には拘らない。いっそそれを利用し自分の意のままにしてやろうという野心さえ感じられる。

 ……羨ましい。そう思った。

 

「ただ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 しかしそれだけでは終わらなかった。高円寺らしくもない、自分と相反する思想にも触れ始める。

 

「重力を知り、その重さを知り、独力で抗うことのできない者がいる。ならばその者たちは、私のような美しさを享受する資格はないのだろうか? 私はその問いに『否』と断言しよう」

 

 演説に近い彼の表明を、綾小路は固唾を呑んで聞き込む。

 

「人には認めないからこそ生まれる尊さがある。それでもと否定し続けることで完成する強かさこそ、欠けている者の特権だ」

「それは……」

「君もその一人だ。と、どうやら心当たりがあるようだね」

 

 自分より幾分か高い立ち姿。降り注ぐ日差しで、その表情は見えなかった。

 

「……だが、志だけでどうにかなる身分じゃない。お前の言うような生き方を、徹底的に否定されたらどうする? それでも、抗えと?」

「……? 何を言っているんだい? 理解できないねぇ」

 

 珍しく彼は真面目くさった顔で考える。それもごく僅かな時間だった。

 

「――ハッハ! そうか、私としたことが。君がそんなことにも気付いていないとは思っていなかったよ。失礼した」

「そんな、こと? 一体……」

「憐れなロストシープ、一つ助言をしよう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ロストシープ……言い得て妙だ。どうやらこの男には本当にこちらの腹積もりが見透かせているらしい。

 しかし、肝心の助言とやらが理解できなかった。

 

「縁の解消はそう簡単に起こらない。友との絶好も、親子の絶縁も、全てはある二つによって成り立つものだ」

「ある、二つ……」

 

 片方は簡単だ。裏切り、その一言に尽きる。

 では、もう一つは?

 

「裏切りと――裏切られたという『被害妄想』さ」

「……」

「例え事実がなくとも、信用できないと決めつける猜疑心が妨げとなる。幻想に惑わされるほど人間は脆弱なのだよ」

「……オレは、幻想の中にいると?」

 

 躊躇いなく、彼は頷く。

 

「単純な例ならいくらでもある。心の青い内は上から物を言う親に不満を溜め込むらしいが、自分が同じ歳になればそのありがたさを思い知るそうだ」

 

 オレがそんな誤解を? ホワイトルームの最高傑作という称号に愛情の見え隠れが……?

 あり得ない。坂柳親子も言っていた。あれは非人道的な施設だったと。その被検体に自分を押し当てるような男を、父と認められるわけがない。

 

「オレには、理解できない感情だ」

「本当にそうかね? 君が思っているほど、周囲は敵ばかりではない。その無意味な思い込みは心を窮屈にするだけだ」

 

 高円寺ははっきりと、綾小路の疑問と反論に答えた。

 

「人の記憶は曖昧で、朧げで、時にそのようなくだらない幻想を作り出す。他人の複雑さや気まぐれから目を逸らし、自己の敵であるという疑念を正当化するために、実を虚へと変える」

 

 不確かな記憶。そもそも、自分には親子の記憶というものが限りなくゼロに近かった。高円寺の言う誤解について吟味できるほどの思い出さえ存在しない。

 ……だが、それは裏を返せば、判断材料が少ないとも言える。

 

「私はマイペアレンツに劣っている要素があるとは毛頭思っていないし、直接アシストを受けたような覚えもない。しかしそれは相手に何ら敬意を抱かないことを認めはしない。――私という完璧な存在をこの世に産み落としてくれたこと、私自身の望む生き方を阻まなかったこと。この二つには大いに感謝している」

 

 ――人は人を憎むことに理由を探しがちだが、本来愛することにこそ具体性を己に提示すべきだ。

 

 彼の強さが前面に出た言葉に、綾小路は圧倒されるばかりだった。

 

「私からのアドバイスはここまでだ。その先にある答えは自分で探したまえ」

「あ、ああ。……なあ、どうしてこんな律儀なことを?」

 

 冷静になって思う。高円寺が誰かの声に耳を貸し、応えようとした場面など一度たりともなかった。そんな彼が、一体なぜ。

 

「さっきも言っただろう。君は憐れなロストシープ。それこそが君の疑問に対する答えさ」

「……大きくでたな。お前は神の子にでもなったつもりか?」

「私は『持つ者』だ。『持たざる者』にもあらゆる義務が課せられるように、私のような人間には君達に施しを与える義務がある」

 

 筋は通っている。しかし、本当にそれだけだろうか。彼が真に自分を与える者だと思っているのなら、今までそれを見せる機会はいくらでもあったはずだ。

 自意識過剰かもしれないが、何か個人的な感情があるのではないか? そう邪推する自分がいる。

 

「それでは私は行くよ。美の探究は、まだ始まったばかりだからね!」

 

「ハーッハッハッハ!」と声を轟かせて、高円寺は余韻も残さず綾小路を置いて去ってしまった。

 

「…………実を虚へ、か」

 

 彼の言葉を反芻する。

 実のところ、取っ掛かりはないわけではなかった。たった一つだけ、あの寂れた日常とは異なる時間。その存在のみの自覚で、感性を喪失していた自分が蔑ろにした記憶。

 ……まあいい。満足だ。

 高円寺に対して求めていたタスクは完了した。彼の『気まぐれ』とやらに、今は感謝しておこう。

 ついでに一帯の探索を済ませようと、綾小路は再び周辺を回ることにした。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 そうして辿り着いた先が、葛城と戸塚という二人の男子生徒が顔を出した洞窟のすぐ前だった。

 

「これほどの大きさの洞窟があれば、テントはニつで十分ですね。運が良かったです、こんなに早くスポットを抑えられるなんて」

「運? お前は今まで何を見ていた。ここに洞窟があることは上陸前から目星が付いていた、見つかるのは必然だったということだ」

 

 葛城も船上からの景色で色々と気付いていたようだ。

 

「それと、言動には気をつけろ。どこで誰が聞き耳を立てているか分からん。俺にはリーダーとしての監督責任がある。些細なミスもしないように心掛けろ」

「す、すみません。でも、これで坂柳も黙るしかありませんね」

 

 坂柳?

 なるほど。あまり他クラスの全体像には明るくなかったが、坂柳の台頭を阻んでいる対抗勢力、そのリーダーがあの葛城というわけか。

 そして、彼はAクラスと。

 

「内側ばかりを気にするな、弥彦。足元を掬われることになるぞ」

「で、ですがクラスポイントを考えれば、」

「三年間の戦いのほんの序章だ。いくらでも巻き返しは起こる。――それに、他のクラスにも侮れない相手がいることは承知しているはずだ」

 

 ん……?

 やけに実感のこもった響きに眉を顰める。

 

「……っ、葛城さんはやっぱり、アイツを認めているんですね」

「警戒もしているがな。中間テストの時、やつが過去問を持って来なければ、俺たちは坂柳派に対し遅れを取るところだった。それを免れたことの大きさ、わからないわけではないだろう」

 

 そこまで聞いて、やっと脈略を理解した。いつしかの足りなかったピースが、今ぴたりとはまった。

 

「与太話はもういい。スポットを抑えられた以上長居は無用だ、次に行くぞ。あと二箇所ほど船から見えた道があった。その先も施設等何かが……」

 

 その場を離れようとする葛城だったが、不意に言葉と、足を止める。

 

「葛城さん?」

「……待て」

 

 マズイ……!

 こちらにじわじわと足音が近づくのを認め、綾小路は窮地を悟る。

 さすがの彼とて、葛城の進路を変えたり自分の姿を消したりはできない。

 見つかることを覚悟し、言い訳を考えながらじっとその時を待つ。

 すると、

 

「……!」

 

 綾小路のいる場所より少し離れたところで、茂みの歪む音がした。葛城の注意はそちらに逸れる。

 ゆっくりと綾小路から離れ、茂みに近づき、その中を覗いた。

 

「……」

 

 時の止まったような沈黙。やがて、

 

「……行くぞ」

 

 一難去ったことに、綾小路は安堵の息を漏らした。

 ふと、背後に気配を感じる。慌てて振り向くと――口元に人差し指を当てる浅川の姿があった。

 

「恭介――お前が助けてくれたのか」

「うん。ひょいっと小石を投げ込んでね」

 

 素直に礼を述べた。

 彼の後に続き、王、三宅、長谷部も顔を出した。

 

「綾小路? どうして独りなんだ」

「いや、それが――」

 

 手短に経緯を話すと、それぞれ異なる反応が返ってきた。

 

「ええっ!? 大丈夫なんですか高円寺君!」

「アイツ、相変わらず勝手なことを……」

「ご愁傷様だねぇ、綾小路君」

 

 自分への労いの言葉を掛けてくれた長谷部が、とても女神だった。

 

「……ところで、さっきの二人の会話。清隆は聞こえてた? こっちはちょい厳しかったんだけど」

 

 思案顔で、浅川は情報を求める。

 綾小路も、何と答えようか、一瞬の間を空ける。

 

「……Aクラスのやつらだった。どうやらあの洞窟の中にスポットがあるらしくて、占有したばかりだったみたいだ」

「え、ということは、あの二人のどっちかがリーダーだってこと?」

 

 無造作に頷く。

 

「大手柄じゃないか。他クラスのリーダーをこんな早くに絞るなんて」

「まあ、そのどちらかを絞るのが難しいんだろうけどな」

 

 口先ではそう言うが、綾小路の中で既に答えは出ていた。口外しなかったのには、理由が『二つ』ある。

 一つは、要らぬ混乱を避けるためだ。

 

「他には何も言ってなかった?」

「――ああ、()()()()()()()

 

 浅川と二人、視線が交錯する。

 不自然に思われるかどうか、絶妙なラインまで、そのアイコンタクトは続いた。

 

「…………そっか、わかった。じゃあ清隆は、三人と一緒に平田のところへ戻って」

「浅川君はどうするの?」

「大きな迷子を探してくる」

「高円寺をか? あんなの放って置いても変わらないと思うが」

 

 綾小路としても首を傾げたいところだった。

 表向きの性格とはマッチした行動だ。困る人を放っておけない。

 しかしここは無人島。そして相手は高円寺。特殊過ぎる条件でその選択肢を選ぶのは些か不自然に思えた。

 

「だ、だったら私も行くよ」

「ふぇ? いやいやみーは、」

「船の上での約束、忘れたとは言わせないからね?」

「……酔ってて記憶が曖昧だっただけだよ」

 

 高円寺探しは二人で決まりのようだ。

 浅川と高円寺に接点があるように感じたことはなかった。もしあったとして、やはりあの高円寺が誰かと対等なやり取りをしている場面が想像できない。

 変に首を突っ込む必要はないと判断した。

 

「……わかった。あまり洋介を心配させるわけにもいかないからな。三宅も長谷部も、それでいいか?」

「まぁ、最初の探索にしては歩き回れたかなって思うし、十分だよ」

「俺としてはありがたい限りだ」

 

 別行動を開始する間際。綾小路と浅川は再び言葉を交わす。

 

「無理はするなよ」

「当然。みーもいるしね」

 

 何はともあれ、だ。

 予感はあったが、試験開始早々察したことがある。

 オレと、あいつの関係性――。

 面白いと疼いてしまう――喜ばしかったはずの自分を必死に抑え、来たるべき時に身構える綾小路だった。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「え、え? どうしてそんなことを……」

「ごめん。頼めるのは君くらいしかいないんだ。その、理由はあまりいいものじゃないのは百も承知なんだけど……」

 

 二人きりになり、これを好機と捉えた浅川は王にある頼み事をしていた。

 

「……別にいいですよ」

「ありがてえ!」

「でも、私にも見せてね。面白そうだから」

「いっ……十中八九拝めるんじゃない? 寧ろ離れないためにすることだから」

「楽しみにしてます。……何だかんだ似合いそう」

「自覚があるから言ってんの。って、言わせないでよ恥ずかしい」

 

 さっきから堪え気味に笑ってばかりの彼女に嘆息が溢れる。なかなか微妙なお願いだったので、断られなかっただけマシかと思っておく。

 

「高円寺君、どこにいるんでしょう」

「すぐに見つかるよ」

「心当たりが?」

 

 無言で頷く。

 彼の今朝からの言動、島の構造、その他観点を踏まえれば、綾小路から授かった『目的地』というキーワードの正体は自ずと見えてくる。

 

「みー、先に聞いておきたいんだけど。六助から接触を受けたことはあるかい?」

「ど、どうしたの、急に」

「イエスかノーか半分か」

 

「半分……?」戸惑いながらも、彼女は答えた。「何度か。不思議な人だなって思っていましたけど」

 

「……じゃあ、その時身の上話をされた記憶は? 例えばー……アマゾンでサバイバルとか」

「あ、はいそうです! アメリカで射撃訓練もしたとか、国内だとサイコーにクールな友人と冒険に出たとか言ってて。高円寺君のことだから、もしかしたら本当なのかなって半信半疑で」

 

 ……やっぱりか。

 浅川の中で、疑惑が確信に変わる。あいつにしては、随分と純情めいたことをする。気持ちはわかるけど。

 

「これからはもっと真に受けていいよ。全部ホントだから」

「えぇっ、そうなんですか!? ……あれ? どうして浅川君がそれを知っているの?」

「母校一緒なの」

「衝撃の事実っ!」

 

 元気だね。

 元より無理に隠すつもりはなかったことだ。向こうの気は知らないが、この少女には話しても問題ない。

 ……ああ、自分も結局、この子には甘いのかも。

 

「色々言われるのも嫌だから、絶対内緒ね」

「わ、わかりました。高円寺君と面識のある者どうしの秘密ってことにしておきます」

「マジで助かります」

 

 ぶっちゃけ王がどこまで秘密を守ってくれるのかは未知数だが、とりあえず釘は刺しておく。

 そしてようやく、

 

「――あ! あれ、」

 

 王が指差す方へ。二人で飄々と向かっていく。

 

「豊かな自然に囲まれての筋トレは格別かい? 六助」

「……ほう。これはまた珍客を連れてきてくれたみたいだねぇ、アグリーボーイ。嬉しい誤算だ」

 

 高校生になってから会うのは三度目だ。といっても、全くぎこちなさはない。

 腕立て伏せを中断し、高円寺は徐ろに立ち上がる。照り輝く汗を纏う顔が大変凛々しい。

 いつになく硬い表情で見つめ合う両者。傍からは睨み合いにまで感じられることだろう。

 暫しの沈黙の後、高円寺は重い口を開いた。

 

「君達も一緒にどうかな? 心身が清々しくなるよ」

「楽しそうやるー」

「嘘でしょ……!?」

 

 

 

 

 湿り気のある地面に自分の汗が滴り落ちるのを、浅川は漫然と見つめる。

 91、92、93……

 荒くなる息遣いで、自分が今「鍛錬」の真っ最中であることを実感する。

 97、98、99……

 

「リタイアは、止めて欲しいな」

 

 100。とは呟かず、浅川は一つ目の用件を切り出した。

 腕立て伏せをやめ額をを拭う。これを短いインターバルで2セットか、大したものだ。

 

「何を選択するかは、私の自由さ」

 

 真嶋先生が言っていた。試験のテーマは『自由』、そういう意味では高円寺に軍配があがる。

 しかし、浅川がしたいのはそういう話ではない。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 なおもハンドスタンドプッシュアップを続ける彼の眉が僅かに動く。

 

「理由はその意志を抱き続けるためのものであって、きっかけである必要はない。後付けでいくらでも探せばいい。それが大変だから、『継続』というものは難しい。――覚えてるだろう?」

 

 関係、という面であれば結婚なんかがそうだ。好きな人より続けられる人と言われることがあるくらいには、離婚という結末は枚挙にいとまがない。

 添い遂げる理由が、なくなるからだ。しかし、その始まりは確かにあって、曖昧なものであっても決断される。

 

「君は奇しくも持つ者だ。なら、愚かな僕らのことも愛してみせろ」

「傲慢だねぇ。それで説得したつもりかい?」

 

「いいや」欺瞞ではない。「僕が君に、そうあって欲しいというエゴだ」

 

「……それに応える義務はないよ」

「だから無視する? まるで子供だね、傲慢なのは君の方じゃないのかい? 未来の日本を背負う御曹司が、とんだ暴漢だ」

 

 退路を潰す。決定的に。

 

「約束だけで十分だろう? 僕たちの間には」

「……」

「君を漢と見込んでの、切実なお願いだ」

 

 彼は暫く黙っていたが、やがて呆れたように溜息をついた。

 

「やはり君は醜いね。殺し文句は禁じ手だろうに」

 

 まずは一つ。妥協点は定まったようだ。見えない緊張が解かれる。高円寺もようやく元の体勢に戻った。

 

「……何故、彼女を連れてきたんだい?」

 

 意外にも高円寺の方から、二つ目の話題に入る。薄々察していたのかもしれない。

 

「勘違いしないでくれよ。あの子が自分で言い出したんだ」

 

 遠くを見ると、何やらしゃがみ込んで何かを見つめ――弄る王の姿が映った。

 

『わ、私は遠慮しておきます』

『ほう! 実に勿体無い。断る理由がないと思うがね』

『やめな六助。理由はあるんだ』

『……?』

 

 乙女の事情というやつもあり、王に過度な運動を強いるわけにはいかない。元々浅川の補助係を買って出ていたので、見える位置に待機してもらうことにした。暇潰しはできているようだ。

 

「ふむ……確か彼女には想い人がいたはずだが」

「だから僕に懐くのはお門違いって? よく見てるんだね、みーのこと」

「それで茶化したつもりかな?」

 

 閑話の如く、浅川は本題を切り出す。

 

「初めてあの子と遭って、話をして、まるで初対面とは思えない話やすさがあった。静と似ているのかと思ったけどそれも違くて、二つの理由があったことに気付いた」

 

 一つは、自分を見てくれた他人だったから。

 もう一つは――

 

「……君、僕らと出会ってからも度々海外に出かけていたよな。世界を股にかける旅行記と、そのプランにはよく聞き惚れていた――」

 

 高円寺があの事件の起こった日に居合わせなかったのは、彼がちょうど外国に身をおいていたからだ。

 

「……そうだねぇ。アマゾンでは密林でサバイバル、アメリカでは射撃訓練――」

「そして、中国では武術をスタイリッシュに。だったよな?」

 

 当然、その行き先も聞き及んでいる。

 

「僕がまだ心神喪失状態だったころ、君は僕を元気づけようとしてくれた。――あの時は、本当に救われたよ。ありがとう」

「……」

「だからこそ、あんな植物人間だった僕でもちゃんと覚えているんだ。君がどこで何をして、何を思ってきたのか」

 

 核心を突く答えを、浅川は放つ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 高円寺がこちらを向き、ようやく目が合った。

 

「それが、何だと言うのかね?」

「別に。追及したいことがあるわけじゃない。君が話したくないならそれで構わないし、僕には君の道楽に救われた恩があるから。……ただ、少し嬉しかった。君はこの学校で、自分を語れる相手に出会えたんだって」

「……解せないね。まるで君が私の一歩先を行っているような物言いだ」

 

 そんなつもりはなかった。本当に、あの頃と比べて寂しそうに見えたから。

 余計なお節介、なのだろうけど。

 

「今思えば、君は静にあの子を重ねていたのか」

「さあね。少なくとも、私が静の魅力を悟ってからは、彼女自身を見ていたよ」

 

 珍しく馬鹿な言い方をする。それでは半分答えじゃないか。

 違和感は解消された。高円寺にとって二人の少女は、思い入れの順番が逆だったということだ。

 

「いい子だね、あの子は」

「君がそう言うのであれば、そうなのだろうね。君が惹かれているわけだ」

 

「なっ」目をむく。「何言ってんのさ」

 

「自覚はなしかい? 惚けているだけかい?」

「……知らないよそんなの。あんま女々しい男にさせないでくれ」

「それはすまなかったねぇ、ノンデリカシーだったよ」

 

 大仰に肩を竦める姿が、様になっているのが尚更腹立つ。

 

「……でも、そうかも。何かが違ったら――ううん、何かが変われば。その通りになるかもしれない」

「君の『自由』さ。周囲の存在によって盲目にならないことだ」

 

 自由……。難しい話だ。高円寺の言うとおり、今の自分は見えない鎖に縛られている。

 それをどうにかしたくて、浅川は間違った道を自覚しながら進んでいるのだ。

 

「…………そろそろ、行くよ。聞きたいことは聞けたから」

「また語らおう。ミゼラブルボーイ」

 

 どうせ呼びかけたところで一緒には戻らない。役目を終えた浅川は、王の元へ向かおうとする。

 

「君の」

 

 声に、振り返る。

 

「君のやろうとしていることは、きっといいエンディングを迎えるのに必要なことだ。だからこそ、その茨に屈してはいけない」

「……っ、君は、どこまで知って、」

「今回ばかりは本当に勘さ。前を見据える今の目を、大事にするといい。――君のハッピーエンドを、期待しているよ」

 

 高円寺でもそんなことを言うのか、激励なんて。

 目を点にさせていた浅川だが、表情を緩ませて頷く。

 大丈夫だよ六助。屈したところで、誰も傷つかない。気付くことはない。

 唯一懸念があるとすれば、まさに目の前の少年がまた、嘆く可能性があるくらいだ。となると、色々なものを背負わせてしまうな。

 

「お待たせ。みー」

「あ、終わったんですか?」

「うん。最低限の働きはしてくれるみたい」

「そう、なんだ。良かったっ」

「戻るよ。体調は?」

「大丈夫。でも明後日ごろには……」

「うん、安静にしてな」

 

 似た色の髪を垂らす彼女と、みんなのもとへ帰る。

 その間、往きよりもわかりやすく弾む鼓動を、浅川は静かに噛み締めていた。

 




綾小路と高円寺の後半のやりとりは、「見失った羊のたとえ」で検索してもらえればわかります。

それと、高円寺のセリフ。ちょっとそれらしくもじっていますが、どれくらいの方が気付いたでしょうか。ヒントは原作者繋がり、ですかね。

二人が原作で語り合ったことのない共通点だなと思い、世襲の話を挟んでみました。自由人の彼が跡取りはするというのなら、こういうことなんだろうなあっていうのを。

オリ主と高円寺のやり取りはオリ主が一度立ち直って以来でしたねえ。
高円寺のみーちゃんへの態度は、本作のオリジナルとしてこのように設定づけました。あんまり具体的にしすぎると乖離がエグいことになるのでぼかしました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

荒唐無稽のダウト

※過去話を修正・統合しました。数話、忽然と消えているかと思いますが、前後のどっちかに吸収されています。

お久しぶりです。
無人島試験マジでよくわかってない。食料とか器具とかって特にポイントは示されてなかったですよね?このままだと計算云々ほとんどしないで適当な結果だけポンってだすことになるかも。


 水平線に被さった空が、ほんのりと碧を帯びる。

 綾小路は一人で船内を進んでいた。歩に迷いはなく、見かけた人はどこかしらの目的地があるのだとすぐにわかる足取りだった。

 しかし毛頭、彼は誰の目にも触れることなく、そこへと向かっていた。堀北は早朝には慣れていないらしく、部屋で仮眠を取っている。――自分も早起きの習慣がついていなければ、今も欠伸を噛み殺しながら淀み足だっただろう。浅川は平生と変わらず陽気な調子で、可愛らしい満面の笑みを浮かべて船内を散策している。

 午前五時半。シアターに足を運ぶような物好きな子供は、自分以外にいなかったらしい。

 ……子供に限っては。

 

「あの人たちが選りすぐりの役者さんですか?」

「そうだが。不満か?」

 

 最も親しい仲に最高峰の演技力を有する者がいるのだから、どうにも釈然としないのは当然だろう。

 唯一の観客だった茶柱の隣に、綾小路は座る。漫然と見つめる先には、とある神話を象った劇が催されている。

 

「先日の異例な訪問については、聞き及んでいるな?」

 

 特に不思議がることもない。担任として、彼女も坂柳理事長からある程度の情報は与えられているはずだ。

 

「オレが自主退学をするなんて妄言を吐いていたらしいですね。それが何か?」

「……何か思うところでもあるのかと思ってな」

 

 この期に及んで、生徒の心配か?

 判然としないやり取りに、にわかに首を傾げる。

 

「別に何も。オレはオレで、自由にこのスクールライフを満喫するだけです」

「平穏が脅かされようというのにか」

「坂柳理事長がトップに居座る限り、そう簡単には覆らない」

 

 だからこそあの男は、退学させるとは明言しなかった。少なくとも現状、綾小路を無理矢理連れ戻す手段は無いと考えられる。

 

「あなたのことだから、最初は脅しの材料に使えるとでも思ったんでしょう」

「何のことだ? ……わかった悪かった、その手段も考えてはいた」

 

 一度は惚けた茶柱だが、結局煮え切らない返しだった。

 綾小路が坂柳理事長とパイプを繋いだ時点で、彼女が口を挟むことはほぼ不可能だ。所詮それだけのことだと思っていたのだが。

 

「別の理由が?」

「お前たちが、随分といきいきしていたからだ」

 

 とても曖昧で、単純な答え。だが事実だ。

 

「……まあ、楽しいですからね」

「だろ?」

「でもそれは、あなたを躊躇わせるには弱くないですか?」

 

 このくらいの問いかけは予測できていたのだろう。大して反応することもなく、茶柱は言う。

 

「そうか? 実際お前たちは勝っている。テストはお前たち三人の貢献によって退学者0――ここで誰かを失うDクラスも珍しくない。加えて須藤の事件。浅川とお前の尽力で叶わないはずの結果を生み出した」

「ああ……そういうことですか」

 

 今の綾小路は生粋の事なかれ主義ではない。他人と関わる中で、クラス対抗戦に参加することも一つのピースとして捉えている。これに関しては堀北の存在が大きい。

 

「それでも、弱い」

「……」

「オレはいつでも首を引っ込めることができる。恭介が壊れたら? 鈴音が諦めたら? オレがクラスの戦いに乗っかっている理由は他人に依存している。あなたはそんなつまらない逃し方をしたくないはずだ」

「何が言いたい? 私に拘束でもされたいのか?」

 

 そんなつもりはない。自分はただ、確認したいだけなのだ。

 彼女が冷徹な手段を踏みとどまらせる、決め手となっている要素が何なのか。

 綾小路が人知れず賭けた――浅川の信じているであろう何かが、果たして彼女の中に芽生えているのか。

 

「あなたの抱えているものに、答えを導く手がかりがあるとオレは思っています」

 

 茶柱の眉がひくつくのを、見逃さない。

 やはり、この人は……。

 

「……お前たちは、私の経験したあるクラスに似ている」

 

 やっと、彼女は自分を語る気になったようだ。

 

「一喜一憂もあった。呆れるくらいに賑やかな時間もあった。そしてそれでもひた向きに勝ち上がることを目指し、成し遂げてきた」

「そのクラスは、最後……?」

 

 答えはなかった。哀愁漂う表情で、全てを察する。

 

「だからこれは、私のエゴだ。お前たちなら、かつて見れなかったものを見せてくれるのではないか。だとしたら、私がお前を縛り付けるのは間違いだろう」

 

 要は、高望みをしたい気分になったということか。

 彼女は確か、そんな夢を見るような人ではなかったはずだ。他人に希望を見出せる人間が、自分たちにあのような態度を取るはずがない。

 その点では、綾小路と元来共通している部分ではある。基本的に、他人を信用しない。

 ……同時に、信頼したいと願っている。

 自然と、口角が緩むのを感じる。

 

「何がおかしい?」

「いえ。やはり、オレの親友は凄いやつだと思っただけです。あろうことか、あなたの心まで動かそうとしている。あいつは、善い方向へ人を巻き込んでいくのが上手い」

 

 その分波はある。浅川自身が不安定になるほど、周囲も共鳴して暗澹たる空気を漂わせる。

 何とも不思議な彼の魅力。綾小路は一つの名前を見出せそうなところまで来ていた。

 

「贔屓が酷いぞ。綾小路」

「贔屓、ですか?」

「クラスを作るのは、一人じゃない。真に重要な場面において、誰か一人でも志を違えれば、いとも簡単に崩壊する」

 

 やけに実感のこもった言い方だ。彼女は一体、どこまでそのクラスに思い入れがあったのだろうか。

 そもそも、何故それほどの思い入れを抱くようになったのだろうか。

 

「……すまん。説教臭い話になったな」

「いえ、教師らしいお言葉だったと思いますよ」

「その皮肉は、私には一番効くな」

 

 別に彼女は、何も間違ったことはしていない。惑いの中にいる生徒に助言を与えるのは、教師の務めに他ならない。

 だから、綾小路はホッと胸を撫でおろしたい気持ちになった。

 

「今のお前なら、気にする必要はないだろう。お前と浅川、そして堀北が揃っていればな」

「…………そう、でしょうか。オレはそうは思いません」

 

 わずかに見開いた目がこちらを向くのが伝わる。

 応える必要のない呼び出しに応じた理由は二つあった。それは、確かめることと伝えること。

 

「何を考えている?」

 

 答える道理などない。黙して綾小路は踵を返す。

 自分がいかほど光を宿すことができているかはわからない。しかし尊いと感じたものを、真っ直ぐに受け止められていたのなら、必ず元通りになれるはずだ。

 

「オレたちの面倒、いつも見ていてくれて助かっています。――先生から、さっきの言葉を聞けて良かった」

 

 もう十分だ。

 他でもないこの人から、その言葉を引きずり出せたなら。

 

「オレは間違っていなかったって、これからもっと信じられそうだ」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 私達が仮拠点に戻ると、ちょうど綾小路君たちと鉢合わせになった。

 ……何故だか少し、面子が変わっている気がするのだけど。

 平田君に帰還報告がてら、事情を聞いてみましょう。

 

「おかえり、二人共。どうだった?」

「ごめんなさい。スポットは見つけられたのだけど、特に利便性は感じられなかったわ」

「オレは洞窟のスポットを見つけたんだが、Aクラスが一足先に占有していた」

 

 洞窟……雨を凌げるという点が強いわね。空模様も怪しいし。

 

「あなた、班の三人はどうしたの?」

「何で違うやつだったの知ってるんだよ……出発前に見てたのか?」

「あの三人とするような雑談なんてないもの」

 

 暇潰しの手段を持たない暇人は、知り合いを窺うことくらいしかできないものよ。

 綾小路君はバツの悪そうな顔をしながら、その経緯を語ってくれた。

 

「高円寺君を探しに行った? 王さんと?」

「あいつけっこう、王や佐倉たちには甘いだろう?」

 

 あの自由人の居場所に心当たりでもあるのかしら。感性が似ていれば、あるいは。

 浅川君が三人の女子に甘いというのは、彼と一番近しい綾小路君が言うのだから間違いないのでしょうけど、何故かしら。……やはり、優しくて素直だから?

 そもそも、この男だって佐倉さんを甘やかしているのを見たことがある気がするのだけど……。

 

「ちょっといいかな。実は君達が戻ってくる少し前に、寛治君たちが良い場所を見つけてきてくれたんだ」

 

 平田君曰く、キャンプ経験者の彼が早速役に立ってくれたらしい。綺麗な川の側で、装置もあったと。

 

「水源が確保できるのは大きいな」

「ここから10分程歩くことになる。準備ができたら出発だ」

 

 その後間もなく、集団で移動が始まった。

 

「まだ三人戻ってきていないわよ」

「大丈夫だよ、多分」

「て、適当ね……」

「浅川君は何だかんだしぶといからね。この無人島での生活には案外適性があるんじゃないかな。だからみーちゃんもきっと心配は要らないよ」

 

 ……ふん、随分と信頼されているのね、知らないうちに。触れてはいないが、高円寺君ものたうち回るような男だとは思えないということなのだろう。

 それに恐らく、みんなを執拗に待たせてストレスを与えたくないというのが一番の理由かしらね。

 辿り着いたのは、川辺に加えてうまく日光を遮断している木々、テントを立てるのに困らなそうな平らな地面という、まさにお誂え向きな空間だった。

 すぐにスポットの装置が目に入る。側の立て看板には、スポットの占有が川の占有と同意義だという旨が書かれていた。他のクラスに使わせない権利を得るということだろう。

 短い話し合いの末、反対意見なくベースキャンプはここに決定した。

 

「――さて、あとはここを占有するかどうかだね。浅川君の質問でわかった通り、必ずしも拠点と専有場所は一緒ではなくていいから」

 

 平田君がさりげなく浅川君をフォローするように言う。

 

「え、そんなの当然専有するんじゃないの?」

「いや、占有する場面を他クラスに見られる危険性がある。メリットだけじゃない」

 

 綾小路君の冷静な指摘に、各々納得し顔を歪めるが、それに意見したのは意外にも山内君だった。

 

「そこはほら、みんなで囲むようにしてやればいいんじゃね? 周りから見てもわかんない風にさ」

 

 みんな、珍しく名案を出す彼に驚きながらも賛同し、そのまま次の議題にうつった。

 

「じゃあ――いよいよリーダーを決めないといけないね」

 

 この試験で最も重い役割だと、誰もが承知している。

 静けさが到来する中、口火を切ったのは櫛田さんだった。

 

「私は、堀北さんがいいかなって思う」

「は?」

 

 思わず呆けた声が漏れる。

 さっきの班行動の時といい、今日の櫛田さんは不気味だ。何故私を槍玉にあげようとするのか。

 ……まさか、私が失敗して恥をかくのを見たいとか?

 

「私がやる利点はほとんどないわ。あなたや平田君の方が、」

「ちゃんと理由はある。平田君は――軽井沢さんもそうだけど、嫌でも目立っちゃう。私もたくさんの子に顔を知られちゃってるから」

「……だから知名度のない私、ってわけね」

「それに、堀北さんほどの責任感を持っている人は他にいないと思うよ」

 

 筋が通っているようで、他のクラスメイトからも私、というより櫛田さんの意見を支持する声が増える。

 どうせ、責任を押し付ける相手を求めているだけだろうに……。

 不意に、忘れかけていた言葉が過る。

 

『その責任の巨大さを、君は本当に理解しているのか?』

 

『生き急いで、他人の未来を踏みにじってしまった時、その一人ひとりに、君はどんな言葉を掛けるんだ? 何をしてやれる?』

 

 瞬間、身震いするのを感じる。

 私……。私には、掛ける言葉がわからない。してやれることがあるとも思えない。もし、この戦いでDクラスが負けたら……。

 40人分のこれからが、私に。

 

「堀北さん?」

 

 言葉に詰まる。こういった場面で委縮してしまうのは初めてのことだった。今までは兄さんを前にすると緊張してしまっていたけど、浅川君と綾小路君のおかげで少しはマシになったはず。だと言うのに、あの人のいないここでどうして……。

 

「私は……」

 

 自分で驚いてしまいほど、か細い声が漏れる。

 何と返せばいい。どんな気持ちを語れば、適している?

 きっと周りからは訝しく思われるほどに、口をパクパクとさせてしまっていると、その動きは起こった。

 

「――反対だ」

 

 唐突な声は、とても無機質で、暗くて。

 そして、その場を静寂へと引き戻した。

 

「あ……清隆君?」

「オレは、鈴音をリーダーにするのには反対だ」

 

 唖然とする平田君に、彼は再びはっきりと告げた。

 櫛田さんもこれには呆気に取られ、一先ず理由を聞く。

 

「ど、どうしてかな?」

「夏休み前、鈴音は熱中症で倒れている。ここはあの時よりずっと劣悪な環境で、同じことが起こらないとは限らない。全快しているかもわからない鈴音をリーダーにするのは、彼女のためにも良くないと思う」

「じゃあ一体、誰がリーダーをやるって言うんだ?」

 

 須藤君が問う。

 返事は早かった。

 

「オレがやろう」

 

 一瞬の沈黙の後、ガヤガヤとクラスが騒ぎ始める。

 私も動揺を隠せなかった。初めは学力を隠し、今までその聡明さを知られまいとしてきた彼が、露骨に目立つ立場を取ろうとしている?

 何か理由が? これも勝つための布石だとでも言うの?

 …………それとも、単に私を信じていないだけ?

 

「私は綾小路君に賛成かな。須藤君をピンチから救ったっていう実績もあるし」

 

 混迷に一石を投じたのは松下さんだ。明確な意見に続き、何人かの生徒も口を揃える。

 

「やる気あるみたいだしそれでいいんじゃない?」

「影薄いしバレなさそうだもんね」

「堀北さんに無理をさせたくなくて守ろうとしてるのね……素敵……!」

 

 流れに乗じて、勉強会の面々も意見を述べた。

 

「確かに。堀北は攫われて怖い目にも遭ってるだろうから心配――」

「ん? 攫われたって何だよ」

「え? あぁっ! っと。いや、暑さに意識持ってかれたってことだよ。べ、別に誘拐されたとかじゃないからなっ?」

「わ、わかってるよ。それに清隆君は運動もできるから、試験を乗り越える体力は絶対にあるはずだもんね」

 

 やがて、平田君の鶴の一声が投げられた。

 

「わかった。どうやら清隆君をリーダーにする意見の方が多いみたいだね。――お願いしてもいいかな?」

「勿論だ、オレが言い出したんだからな。任せてくれ」

 

 あっという間に、話は纏まった。

 私は彼を見る。何を考えているのか、何をするつもりなのかを知りたくて。あるいは教えて欲しいという願いだった。

 しかし彼は、結局最後までこちらに視線を向けることはなかった。

 まるで、意図的に避けているとまで感じられる程。

 

 

 

 ベースキャンプを決めたところで、やることがなくなったわけではない。

 スポットとして占有した後、平田君が更に次の議論を展開する。

 

「今からすべきなのは、生活の基盤を固めることだね」

「そうだな。テントとかトイレの設置と、必要なものを揃えたり」

 

 キャンプ経験者の池君も賛成なようだ。

 

「まずトイレについてなんだけど……幸村君も篠原さんも、初めに言っていた通りでいいかな?」

「……ああ。仕方ない」

「平田君が言うなら……」

 

 最も激しい言い争いをしていた二人に確認を取ったのち、方針を打ち明ける。

 

「衛生を気にする人の数や回転率を考えるなら、二つ購入するのが妥当だと思う。シャワーも同じ理由で二つ。他の案がある人は手を挙げて欲しい」

 

 反対意見はなし。続いて、

 

「次はテントだけど、節約したい人もいるだろうし、これも二つ頼むのがベストだと思う」

 

 生徒40人に対しテントは8人用。二つ支給されるため十分なスペースを確保するには三つ購入する必要がでてくる。

 しかしここは、どうやら我慢できるポイントだと平田君は判断したらしい。「十分」ではないが寝れない狭さではない。一つ分消費を抑える案に、反論は挙がらなかった。

 

「その他調理器具とか食料調達の道具とかは、都度注文していけばいいかな。今言った三点はすぐに頼んで設置してもらおう。これで生活の基盤はある程度出来上がるね」

「いやいや、一番大事なこと忘れてるって!」

 

 話が一段落ついたところで池君が待ったをかける。

 

「川の水。心配ならろ過すればいけるだろ?」

「キャンプ経験者の君から見て、ここの水は安全そうなのかい?」

「おうよ。伊達に自然と戯れてないって」

 

 自信満々に頷いてみせるが、それでも不安の残る生徒はやはりいるようだ。

 平田君を窺うと、彼は池君のことを信じているが、渋る人たちに無理強いはさせられない。そんなジレンマを抱えてしまっているようだった。

 すると、

 

「あのー……今どんな感じです?」

 

 全員が振り向く。

 

「浅川君! みーちゃんも、大丈夫だった?」

「は、はい。特に問題は」

「良かった……。――高円寺君は?」

「最低限協力はするからほっとけってさー」

 

 浅川君の登場と発言に、各々異なる反応を見せる。そういえばいなかったね。あの高円寺が協力するって? 勝手な行動して、迷惑かけたらどうするんだ。などなど。

 相変わらず彼を頭ごなしに非難する言葉には萎えるが、高円寺君に対する驚嘆は同意見だった。浅川君の口八丁はあの男にまで通用するということかしら。

 心中で俯瞰している間に、平田君から二人へ現状の説明が済んだようだ。

 

「ふむ……具体的にはどんな反論が?」

「やっぱり、明確な保証がないのが大きいんじゃないかな。男子はそれなりに納得しているみたいだけど」

「じゃあ必要な証明は単純な安全性。とりわけ女子に。てことなら簡単じゃない」

 

 浅川君は――こちらを一瞥する。

 

「有志を募ろう。誰か、池を信じて試してくれる人はいる?」

 

 彼がぴょこんと自分の手を挙げながら呼びかけると、真っ先に篠原さんたちが突っかかる。

 

「ちょっと。なに急にあんたが仕切ってんのよ」

「え……別にそんなつもりじゃ」

「こっちの気も知らないで。だったら浅川君が試せばいいじゃない」

「い、いや、そもそも既に僕は飲んであ」

「見え見えな嘘吐かないでよ」

 

 言い詰められタジタジになる浅川君に、私は珍しいこともあるものだと感じた。

 このままにしておくのも、良くないわね。

 私は、彼が期待しているであろう展開に持っていくことにした。

 

「私がやるわ」

「ほ、堀北さん! いいのかい?」

「リーダーは綾小路君が代わりに務めるのだもの。これくらい任せて」

 

 ざわつくクラスメイトたち。……一部色めきだっているように見えるのは気の所為かしら?

 

「じゃあじゃあ、私も!」

「櫛田さん……必要ないわ」

「保証人は多いほうが、みんなも安心できると思うよ」

「……好きにすれば」

 

 他でもない女子からの立て続けの立候補に、篠原さんたちも分が悪くなってきたことを察しているらしい。そこにとどめを刺したのは意外な人だった。

 

「私もいい?」

「か、軽井沢さん!?」

「私は池君の言ってることは本当だと思うし。できるだけポイント節約したいから。最近カツカツなんだよね」

 

 所謂女王様までこちらへ加勢したことで、その場の成り行きは決したようだ。何人か相変わらずチラチラと浅川君の方に快くない視線を送っているが。

 

「とはいえ、保証できるようになるまで水無しってわけにもいかない。だから今日か明日まで、不安な人の分は注文でいいと思う」

「それで誰からも不調の訴えがなければ、川の水を使ってくれる人は増える。浄水器も頼めば、もっと安心できるかも。……うん、そうしよう!」

 

 最終的に浅川君の助言を受け、平田君が決断した。「そういうのは先に言いなよ」と愚痴る女子たち――無論その不満は全て平田君を通過し浅川君へ向けられている――だが、表に出してくる者はいない。

 川辺に集まる人員に、浅川君が合流した。

 

「ありがとねみんな」

「らしくないわね、浅川君」

「何が?」

 

 随分と侮られているのね。気付かないわけないでしょう。

 

「いつもは態々ヘイトを集めないように立ち回っているのに、今回は怠ったじゃない」

「――ああ、気付いてたの」

 

 綾小路君にもそのきらいはあるが、大抵のことは平田君を通して全体への連絡が行われていた。四月に浅川君が言っていたことが思い起こされる。

 しかし彼は一度、誤って自ら募集をかけようとした。だから反感の的となった。

 

「まあ、あれさ。僕って可愛いから」

「は?」

「あはは……巷で噂されてるくらいだもんね」

「そ、それは本当なの?」

「らしいよ」

 

 衝撃の事実だった。嫉妬という線、強ち間違いではない?

 

「櫛田も惠も、ありがと」

「ううん。みんなのために、私にできることをしようと思っただけだから」

「おおぅ……君は本当に偉い子だねぇ」

 

 どうせ涙の一滴も流れていないだろう目元を袖で拭う浅川君。……え、嘘。本当に少し潤んでいる。櫛田さんも妙に嬉しそうだ。

 

「あのさ、浅川君。あんまり下の名前で呼ばれたくないかな。私」

「え? あ、平田か。……じゃああだ名ってことでどう?」

「あだ名?」

「軽井沢の軽を取ってケイ。ん、逆に馴れ馴れしいか……」

「あー……やっぱいいや、何でも」

 

 軽井沢さんとも存外砕けたやり取りをしている。浅川君には薄々社交性を感じていたけど、軽井沢さんまで友好的――ほどではないにしても、毛嫌いせず会話しようとするとは思わなかった。初対面のはずよね?

 

「さて、浄水器が届いたら僕らはじゃんじゃん使っていこう。でないと証明にならないからね」

 

 何だか違和感の残る一幕に呆けている内に、十数人による自然仕立ての水分補給が行われた。

 

 

 

 その、合間。

 

「ねえ鈴音」

「なに?」

「清隆、何か言ってた?」

 

 唐突な問いに首を傾げる。

 

「リーダー名乗り出たらしいじゃん。態々君を差し置いて。どういう風の吹き回しかなと思って」

「……さあ、私にはわからないわ」

「……ふーん」

 

 何故か真剣な表情で思案する浅川君。

 

「……君のはずだった」

「え?」

「リーダーは、君になるはずだったんだ」

 

 どこか遠回しなセリフに、眉をひそめる。

 私になる、はずだった?

 

「何を、言っているの?」

「鈴音。一つ忠告だ、清隆をよく視ておけ」

 

 彼らしくない、圧の混じった助言だった。

 

「……私がまともに会話するのなんて勉強会のメンツくら」

「違う。観察とか見学とかじゃない。――監視しろ」

「――!」

「多分この試験は、君に懸かっている」

 

 言い捨てて、そのまま去って行ってしまった。

 どういうこと……?

 浅川君にしか見えていないもの……彼は綾小路君のことについて何かを察しているのかもしれない。

 とするとこういう時、彼が情報を曖昧にするパターンは三つだ。一つは自分自身のこと――言いたくない場合。二つは布石――言えない、言うべきでない場合。

 そして、三つは、不確定――迷っている場合。

 浅川君は綾小路君を、疑っている?

 そして、それが本当だった時、首尾を左右する鍵は私。

 何の根拠もないのに。彼の言葉はまるで予言めいた真を帯びていて、自然と体が強張る。

 と、同時に。

 もし。もし本当に綾小路君が何かをしようとしていたとして。私は彼をどうこうできるのだろうか。じんわりと広まる不安の苦味に、人知れず顔を顰めてしまった。

 




この先訪れる顛末から顧みると、このシーンはかなりな分岐点ですね。『オリ主が』盛大に選択をミスりました。

オリ主と軽井沢のやり取りが比較的温厚なのは①オリ主の人畜無害さ②軽井沢からオリ主への同情が大きいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

逡巡のマイナーチェンジ

※記憶があやふやなので一応連絡。
『遅延したブランチ』での綾小路と佐倉の会話をもしかしたら加筆していたかもしれません。本当にそうだったら結構大事な内容が付け加えられているのでご注意を。


 じんじんと痛む頬を、そっと触れる。

 どうして自分がこんな目に。クラスの一員とはいえ、その貢献のために身体に文字通り鞭を打たなければならないのは、どうにも不条理だ。

 自分がこの場所――身内とは遠く離れた場所に腰を下ろしているのは、ある作戦のためであった。

 あくどい笑みを浮かべ王を自称する、ただの同級生からのお達しだ。

 そもそもここを誰かが通る保証もなかろうに。杜撰だと愚痴りたくなるが、ある程度のシミュレーションはしてある。何とかなるだろう。

 とはいえ、自分が拠点を離れたくなかったのには理由がある。一つは自分のことだが、もう一つはあるクラスメイトのことだった。

 初めからではない。ある時から急に話しかけてくるようになった。いつもみたいに適当にあしらっても滅気ずに関わってくるので、渋々折れたのがきっかけだった。

 ――好きなものは何ですか?

 ――私、本が大好きなんです。

 ――あなたもどうですか?

 宗教かと思った。

 すぐに失礼な考えは霧散したが、兎も角まともに会話するようになるまで、そこまで明るげな一面を持っているとは思わなかったのだ。

 だから一度、その意外さに触れたことがある。

 ――人と関わると、案外良いことがあるのだと知りまして。本そのものだけでなく、それを通して育まれるものにも気付いたんです。

 ――どうしてあなただったのか……。何となくですね。優しそうな人だったので。

 ――良かったです。同じクラスにも、あなたのような人がいて。

 相性が良かったのかと言われると、正直微妙だ。あの異様な環境だったからこそ、奇しくも二人の距離は縮まった。その一点においてのみ、僅かに、クラス分けに思い入れを見出だせるだろう。

 しかし、変化は突然訪れた。

 ――少しだけ……いえ、だいぶ悲しいことがありまして。

 短く答えたその瞳に、生気が欠けていたことにはすぐ気付いた。何があったのか聞いても、頑なに答えようとはしなかった。

 わかっている。すぐに思い当たらない時点で、自分の割り込める問題ではないことくらい。しかし縁を持った者として、やはり無視するわけにはいかなかった。

 もしかしたら、友と呼べるかもしれない。そう思い始めていた彼女が、酷く落ち込んでいるともあれば。

 一つだけ、取っ掛かりはある。

 自分に話しかけてくれたきっかけを聞いた時、嬉しそうに語る彼女は、ある名前を告げていた。後にも先にも、彼女の機微について知れたのはそれのみだった。

 磊落な少女が傷つくとしたら、その関係性についてかもしれない。

 ただ、今この時においては、追究以上に彼女自身が心配だった。慣れない環境、心の拠り所の一つである本を奪われた時間。より彼女に苦痛を与えるにはお誂え向きが過ぎる。

 自分の他にあと一人だけ彼女を支えられそうな()()()も、ずっと付き添ってくれるかは怪しいところだ。

 と、柄にもなく他人のことを憂いる自分に自嘲する。

 そして、良心と呼ぶには恥ずかしい、人情めいたものを芽生えさせたあの子の名前を。

 侘しい少女は、人知れずに呟いた。

 

「ひより……」

 

――――――――――――――――――――――――

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「………………あの」

「何?」

「良い天気、ですね」

「そうね」

 

 沈黙。

 

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「………………あの」

「何?」

「暑い、ですよね」

「そうね」

 

 沈黙。

 

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「………………う、うぅ」

 

 隣で唸る佐倉さん。

 一体どうして、こんなことになってしまったのでしょうね。

 

 

 

 

 水の問題が解消され、テントやトイレの設営が終わり、私達は再び役割分担をすることとなった。

 具体的には、夜の明かりのための木枝集め。拠点待機。食料探索(危険度を測るのは難儀なため、これはダメ元だ)。そして、

 

「釣り竿まである……ということは、魚も捕れるのかな」

 

 平田君が悩ましげに言う。

 魚釣りはキャンプ以上に経験者がいた。身内の趣味に付き合う人もいるのだろう。山内君を含む男子複数が担うことになった。

 綾小路君は枝の採取に向かうらしい。彼のことだ、ひっそりスポットの検討をつける目的もあるのだろう。

 浅川君は、どこか行った。

 あてのない私は、大人しくベースキャンプに居座っている。大した知識も、根気強さもない。暗くなってきていることも考えると、無理に出るのは得策でない気がした。

 かといって話す相手もいない。悔しいことに唯一自ら話しかけてくれ――話そうと押しかけてくる櫛田さんは、人気者の宿命に明け暮れていた。

 ぼーっと、どこを眺めるでもなく視線を置く。

 すると、

 

「……」

 

 何かを、いや、私のことを恐れるように。

 慎重に近づこうとする佐倉さんの姿に気付いた。

 反応すべきかとも迷ったが、正直どうでもいいことだったので放置。用がないなら、勝手にいなくなるだろう。

 そう、思っていたのだけど。

 

「…………」

 

 結果、延々と続く沈黙である。

 

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「………………あの」

「何?」

「会話、しません?」

「あなたの方から来たのに私に求めるの?」

「ひっ……そ、そうですよね。なんかすみません……」

 

 友達が相手でないとやはりこんなものなのね、この人。

 それにしても、生産性がないと知ってなぜここに居続けるのか。

 素直に応じているみたいで癪だが、私の方から聞いてみる。

 

「何しに来たの?」

 

 パアっと目を輝かせる。大袈裟よ。

 

「えっと、堀北さんと、お話してみたいなと思って」

「はあ。今?」

「今だからだと、思ったんです。こういう時くらいしか、機会がないから」

 

 そうだろうか。とも思ったが、自然に囲まれ、動く人たちの喧騒に紛れるこの空間は、好機と捉える者がいてもおかしくないかもしれない。

 しかし、そもそも話す内容がないのでは。

 

「し、試験大変そう、ですよね。堀北さんは何か考えがあるんですか?」

「特にないわ」

「そう、ですか。……で、でも、ここで頑張れば、ポイントたくさん増えるかもしれないんですよね?」

「その通りよ。もっとも、どれだけ戦えるかわかったものではないけど」

 

 半日の中で既に何度もいざこざが発生している。他のクラスも同じかと言われるとそれは否だろう。もっと協調性の発揮や、独裁で回避しているはずだ。

 

「浅川君と綾小路には、何か作戦とかあったりするんでしょうか」

「さあ。――信頼しているのね。二人のこと」

「はい。助けてもらったので」

 

 純真無垢とは彼女のことを言うのかしらね。二人が関わると表情が和らぐ、口調も緊張が解けている。

 

「すごく嬉しかったんです。殻に閉じこもっていた、何の能力もない私なんかを気にかけてくれたことが」

 

 私とは違い、少なくとも初めは、望んで人と関わらなくなったわけではないのだろう。嬉しい、という実直な感想が証拠だ。

 しかし、どうしてだろう。ふと、彼女の言葉が腑に落ちなかった。

 

「なんか。ではないわ」

「え? えっと……」

「ごめんなさい。グラビアアイドルの件、聞いてはいるの。他言はしないから安心してちょうだい」

 

 一瞬目を見開かせるが、すぐに納得してくれた。あの二人と近いから、というのが大きいのだろう。

 

「誰にでもできることではないことを頑張っている。それだけで、あなたには誇れる自分があると思うわ」

 

 特に考えずに言葉がでた。となれば、これは私の本心なのだろうか。

 誇れる自分。あまりアイドル業に明るくはないが、半ば仕事と言えるものに励んでいる佐倉さんは、立派なのだと思う。

 ペンとノートにしか向き合ってこなかった、私なんかよりは。

 

「そ、それを言うなら、堀北さんも凄いと思いますっ!」

「ぇ……」

 

 思わず隣を窺う。迫真な声に見合った真っ直ぐな瞳が見えた。

 自分の声量に驚いてしまったのか、続けてアワアワと動揺している。忙しい人。

 

「私は、何もできていないわ」

「そんなことないですっ。ほら、えぇっと、えっと……あ、勉強会とか!」

「それはあなたの好きな二人が陰で動いてくれたおかげよ」

 

 私だけだったら、勉強会は潰れたままだった。過去問という答えにたどり着くこともきっとできなかった。

 

「じ、じゃあ……須藤君の」

「綾小路君のおかげね」

 

 おまけに浅川君に救けられる始末。

 乾いた笑みが溢れる。ありがたいことね、自分の惨めな過程を次々と突きつけられる。

 

「別に他人の良いとこ見つけをする必要はないわ。大した取り柄のない人なんて五万と――」

「ち、違いますっ。だって……だって、堀北さんも私と同じだから!」

 

 しかし、なおも食らいつこうとする佐倉さんに、私はついに呆気にとられてしまった。

 

「同じ?」

「堀北さんだって頑張ってるじゃないですか。色んなことを変えようと必死になっていたじゃないですか。ちゃんとみんな、わかっていると思います」

 

 それを聞いて思い起こされたのは、病床で茶柱先生に掛けられた言葉だった。

 

『ゆっくりでいいんだ、堀北。お前は変わっているよ、善い方向に』

 

 私も、変わって……

 

「いえ、そこに意味はないもの。結局それで、何かが成せたわけじゃない」

 

 綾小路君はスクールライフを満喫する友人を得ることができた。赤点候補たちは着実に点数を伸ばし、須藤君は身勝手が周囲に及ぼす悪影響とその罪悪を痛感し改めた。佐倉さんはこうして、無愛想な私にも話しかける勇気を得た。

 私が得られたものは、何……?

 

「あるに決まってますっ」

「……!」

「頑張って、変わって、何もないなんて、そんな酷いことはイヤだから」

 

 駄々っ子のように反論する佐倉さん。ここまでの感情の吐露は、見たことがなかった。

 

「本当に何も変わらなかったんですか? 堀北さんが頑張らなくても、全部変わらなかったんですか? 私にはとても、そんな風には思えないんです」

 

 だって、と、彼女は告げた。

 

「浅川君も綾小路君も、堀北さんのことが大好きだから」

「は……」

「須藤君たちも、堀北さんのことを信じているから。わ、私には、わかるんです」

 

 唖然とする。

 みんなが、私を? なんで、どうして。彼らが私に信を置く理由なんてどこにもないのに。

 口にする前に、佐倉さんはその問いにも答えを示した。

 

「結果が出ないとか、役に立てなかったとか、あるかもしれないけど。みんなは多分、堀北さんが思っているより、堀北さんのことを見ているんです。き、きっとそうです……」

 

 考えたこともないことだった。

 元々私は、他人に好かれるような人じゃない。その自覚はあった。だから信頼されるためには――他人とのコミュニケーションとは別に――結果を出すしかないと、そう思うしかなかった。

 なのに、佐倉さんはその必要はないと言っている。私には実感の湧かない、未知の視点。

 ……そうだ。確かにあった。

 私が動かなければ、綾小路君も浅川君もクラスの戦いに乗り出さなかった。そうすれば勉強会は始まらなかったし、赤点候補を救えなかったかもしれない。

 忘れていた。きっかけは――始まりは、私も紛れもなく当事者だった。

 無様でも情けなくても、たしかに意味はあったんだ。

 

「…………そう、ね。少し、自分を虐めすぎていたのかもしれないわ――」

 

 私にも、何かを変えることができるのかしら。

 この試験は個人的に不利だ。しかし、それでも、何か一つくらいは。

 

「ありがとう。佐倉さん」

「そ、そんな、お礼なんて……でも、良かったです。堀北さん、元気なさそうだったから」

 

 まさか。見透かされていたらしい。浅川君が気に入るのも少しわかる。

 ――羨ましいわね。

 正直、あなたに慰められるとは思わなかった。助けてもらえるなんて。思わぬところで気力を分けてもらった。

 

「ふざけんな! 俺は反対だぜ」

 

 初めと比べ驚くほど和んでいた空気に、怒声が轟く。

 何事かと佐倉さんと二人、視線を向けると須藤君が平田君に詰め寄っているのが見えた。

 

「でも、これは流石に可哀想だよ!」

「そうよ! こんなところで怪我させられて独りぼっちなんて、私だったら堪えられない」

「だが今は試験なんだぞ! そんな甘いことを言っている場合じゃない」

 

 たまらず騒ぎの方へ駆けつけると、人集りの中心にいたのは、枝集めに行っていたはずの綾小路君たちと、

 

「どうかしている……! 拠点に敵を迎え入れるなんて」

 

 波乱を起こしかねない、新たな火種が持ち込まれた。

 

 

 

 

 

「酷い……女の子にこんな……」

 

 少女の怪我の状況を確認した平田が、深刻そうに呟く。

 

「……別に世話になるつもりはない。放っといてくれ」

「そういうわけにはいかないよ。ちょっと待ってて」

 

 彼は仲間を集め事情を話すが、予想通り統率を失ってしまったようだ。

 

「アイツ、本当にお人好しだな」

「いるんだよ。ああいう、『善い人』ってのも」

 

 綾小路はなまじ尊敬の眼差しで、クラスのリーダーを眺める。ただの善人より、善人であろうとする生き方の方が、ずっと難しいだろうから。

 

「それを言うなら、あんたも大概でしょ」

「そうか?」

「私をここに連れて行こうと言い出したのは他でもあんた。もしかして、何も考えてなかったの?」

「そ、そんなことはない。名前だって覚えてる。伊吹澪、だろ?」

「名前程度で得意気になられても困る……」

 

 なるほど、道化を演じるのも悪くないな。

 おちゃらけている時の浅川をイメージし、更に純真な間抜けという性質を添えれば、不出来な生徒の出来上がりだ。

 綾小路は池と沖谷を連れ立って焚火に使う小枝を集めていた。その道すがら、伊吹澪と名乗るこの少女がボロボロな身体を幹にもたれかかせているのを見つけたのだ。

 その時いくつか気になる点に気付いたが、特に言及はしなかった。ただ、それこそ綾小路が選択をする決め手だったと言える。

 真っ先に反対したのは沖谷だった。他クラスを陣地に踏み入らせる危険性とクラス内の不和が生まれる可能性は、至極真っ当な意見であったが、綾小路がすすんで連れてきた。

 

「見上げた漢だぜ、清隆」

 

 嬉しそうな声に振り向くと、彼の行動に賛成していた池の姿を認める。

 

「女の子があんな道端でくたびれてたら見過ごせないもんな。健の時といい、友達として誇らしいぜ!」

「お、おう。ありがと」

 

 純度100%の善意ではなかったため少しバツが悪い。羨望に近い感情を向けられ、返す言葉がない。

 

「でも大丈夫なの? もしかしたら、」

「スパイかも。って疑っているんだろ」

 

 一緒にやって来た沖谷の懸念を、伊吹自ら指摘する。

 

「他のクラスもそうだろうが、リーターの情報は厳戒態勢だ。お前が怪しい行動でも取らない限り大丈夫さ」

「ふん……。たとえあんたがリーダーだったとしてもか?」

 

 予想外の攻撃だった。綾小路にとっては屁でもないが、二人は反応していないだろうか。変に背後を窺うのも怪しまれてしまう。

 

「オイオイ、だったら尚更お前を避けるはずだろう」

「そう思わせるために敢えてそうしたのかもしれない」

 

 敵視、とまではいかないが、警戒心の強い目をこちらに向ける。

 

「まさか私が知らないとは思ってないよな? 綾小路清隆。うちのクラスじゃ一時期、あんたは一番の有名人だったよ」

「き、清隆のこと、知ってるのか?」

「まぁ、Cクラスともなればそうだよね……」

 

 須藤の暴行事件。Cクラスは初め勝利を疑っていなかっただろう。それが突然ひっくり返ったのだから、誰がやったかの話で持ち切りになるのは当然のことだ。

 案の定、警戒されているわけか。

 

「お前がどう考えるかは知ったこっちゃないが、オレはあくまで自分はリーダーじゃないって主張するだけだぞ」

「……わかってるよ」

 

 伊吹は再びそっぽを向いてしまった。

 それを一瞥した綾小路はなおも騒然とするクラスメイトたちを見つめ、違和感を覚えた。

 はぐれた際にすぐわかるよう、事前に誰が何をするかはある程度決めていた。山内たちは釣り竿を携え海辺へ、小野寺たちは木の実などの食糧を探索しに森奥へ。

 それらを差し引いても、幾分か人数が少ない。

 そしてその一人は、浅川だ。

 

「まさか……」

「伊吹さん。良かったら、コレ」

 

 思案していると、櫛田が顔を見せた。

 

「櫛田ちゃん! 大丈夫なの? 貴重な食糧だぜ?」

「さっき平田君が何とか収めてくれてね。試験である前に野生での生活なんだから、こういう時こそ助け合うべきだって」

「……平田君らしいね」

 

 沖谷が、こっそりとこちらを盗み見る。言いたいことは何となくわかった。

 

「だが、肝心なDクラスの分はどうする。見たところ、あまり十分な量とは言えないが」

「うーん……元々今夜はポイントで注文する予定だったから、こまめに探索にでて当てを探すしかないんじゃないかな」

 

 状況は良くない。の一言で片付くことだ。

 擬似的なサバイバルであることは皆受け入れつつあり、その点の不満が噴出することはないだろうが、蓄積はするだろう。綾小路はそう見通しをつけた。

 

「浅川君っ! だ、大丈夫かい!?」

 

 突然、平田の慌ててふためく声が轟く。

 咄嗟に振り向くと、息も絶え絶えな浅川の姿が目に留まった。

 

「ぜんぜ……ぜん、ぜん大丈夫。余裕すぎ……て、笑え、てくる……よ……」

「笑えないよ! ……何があったんだい」

 

 自ら冷静さを取り戻し、仔細を尋ねる。

 

「良いニュースと悪いニュースがある。どっちから聞きたい」

「え? えっと、じゃあ悪いニュースから」

「あっはは……君はやはり賢いね」

 

 少しばかり息を整え、浅川は衝撃の一言を発した。

 

「六助、リタイアした」

「ろくす……高円寺君のことかい? リタイアした……」

「「えええぇぇぇっ!?」」

 

 阿鼻叫喚が巻き起こる。

 

「次から次へと、何なんだよ!」

「ふざけるなっ、何を考えているんだアイツは!」

「信じらんない。私達こんなに苦労してるのに!」

 

 当然、高円寺に対する罵詈雑言が飛び交う。

 

「み、みんな落ち着いて! 浅川君、高円寺君は何か言ってた?」

「それは……」

 

 浅川は徐にに立ち上がり、一つ咳払いをして、

 

「『汚れた身体を野生に浸らせる私と、瀟洒な客船で豪勢なディナーを優雅に嗜む私。どちらの私が美しいか、火を見るよりも明らかさ。ハッハッハッハッハ!』」

 

 真に迫った演技に一同呆然とする。公の場で披露するのは初めてだったか。

 

「『そんな貴人たる私から、凡人の君達へささやかなプレゼントだ。スペシャルなサバイバルになることを祈っているよ』。だってさー」

 

 完全に沈黙した空間。ついさっきまでの喧騒が嘘のようだった。

 そこに一石を投じたのは平田だ。

 

「…………え、えっと。うん、そっか、元気そうなら良かったよ。――浅川君、一つ気になったんだけど、プレゼントっていうのは?」

「よくぞ聞いてくれた。それが良いニュースの方さー」

 

 とっくに呼吸が正常に戻っていた浅川はひとたび森の中へ入り、またすぐに現れた。

 けっこうな変化を伴って。

 

「こ、これは……!」

 

 平田は目を見開き、()()の元へ駆け寄る。

 

「ゼェ……ゼェ。さすがに、くたびれたぜ……」

「どうして俺がっ……こんなことに、巻き込まれなきゃいけないんだっ」

 

 浅川の後に続いて姿を見せたのは、須藤と三宅。

 そして三人に共通しているのは、背負っているデカブツだ。

 

「ぜーんぶあいつ。六助が食糧を掻き集めてくれた。ざっと見積もってリタイアの損失分、30ポイント分あるよ」

 

 これまた衝撃の事実だ。今まで一度もクラスに協力する姿勢を見せなかった彼が、ある種返済を自ら行ったと言うのだから。

 

「う、嘘でしょ!? これ全部?」

「なんだよあの野郎、やりゃあできんじゃねぇか!」

「ちょっ、須藤。お前何で上裸なんだよ!」

 

 いまだ驚嘆の色が強いクラスメイトたちだが、漏らす言葉は一転して好意的なものへと変わっている。一部例外はあるが。

 言うまでも無いが、それだけの量を独りで調達するのは、到底人間業ではない。地形の把握から食糧の配置の分析。運搬の労力や時間。全てにおいて高水準の働きが前提となる。

 それを、態々自分以外のためにやってのけたと言うのか、あの男は。

 それはクラス全員が見る目を一気に変えることである。

 良いニュースを後回しにしたかったのは、こういうことらしい。

 

「これだけあれば、確かに何回かの食費が浮く。リタイアした高円寺君の分の食糧を誰かに回せば、もっと抑えられそうだ。凄いな……」

「けど解せねえよ。何だってそれを俺らが運ばなきゃいけねぇんだ。良いとこまで持ってってくれてたんだから、自分でここまで持って来いよ……」

 

 いっそ感心している平田に、須藤がお門違いな文句を垂らす。浅川と三宅がジャージを風呂敷にして担いでいる一方、彼はもう一枚使って短パン一丁の状態で大量に運んでいた。

 虫刺されが酷そうだ。綾小路はそんな感想を抱く。

 

「浅川君たちは三人で高円寺と会いに行っていたのかい?」

「うん。あいつは立派に約束を果たしてくれたわけさ。Dクラスの問題児も、まだまだ捨てたもんじゃないだろう?」

 

 その言葉には皆、一斉に首を縦にふる。須藤と二大巨頭とまで目されていた厄介者がクラスに貢献した今、彼を咎める者などいない。キャンプ経験者として重宝される池と伯仲するほどの活躍をしたのだから。

 

「よし。みんな、聞いての通りだ。リタイアが出てしまったのは惜しいけど、それを帳消しにするくらいのものがもらえた。早速今日、高円寺君が調達してくれたものを調理して食べようと思うんだけど、いいかな?」

 

 反対意見など出るはずもない。

 こうして、目下の食糧問題は思わぬ展開によって解決した。

 その間。

 

「……」

 

 人知れず、どこか感慨の滲む表情をする浅川が気掛かりだった。

 

――――――――――――――――――――――――――

「照れ隠しとは。情けないものだね、君も……」

 

 きっと同じ夕焼けを見上げている。そう信じ、少年は呟いた。

 聞こえた彼なら、こう返すのだろう。

 

「皆は完璧な私だけを知ればいい――」

――――――――――――――――――――――――――

 

 昏い赤の空は、少し嫌だった。

 嫌いと断言するのも、苦手と評するのも適切には感じない。そう、何となく避けてしまうような、筆舌に尽くしがたい負の感覚だ。

 理由は単純。忌まわしい記憶が連想されるからだ。

 

「……私も、弱くなったものだね」

 

 ジリジリと照りつける曙光も、既にほとんど鳴りを潜めている。

 男の歩む先は、当然自分に相応しい――豪華客船。

 しかし、彼は真っ先に、最短でそこに帰ろうとはしなかった。意味のない遠回りで、今は独り浜辺を歩いている。

 怪しく揺蕩う水平線は、心を乱す芸術性だ。

 

「これで良かったのか。そんなことばかり過る。君のせいさ、全く」

 

 独り言ちる表情に倦厭の影はなく、口角はほんの少し緩んでいた。

 ふと立ち止まり、彼は――沈まゆく太陽と昇る月を、同時に視界に映した。

 

「今日も、世界は広く美しい。君もそう思うだろう――」

 

 儚げな背中は、それでも、辛気と(たが)い大きかった。

 




一度書いてみたかったんですよ。堀北&佐倉のこういうやり取り。やってみたかったんですよ。寧ろ佐倉が堀北を後押しする展開。
そういう若干なワガママと、ここで挟む会話はこの組み合わせが一番理に適っているという状況がマッチした結果です。よく読むとわかると思いますが、堀北の立ち直りはまだ精々50%行ってるかどうか程度です。が、そもそも上げるのが難しい状況の中なので大健闘ですね。

オイ高円寺君。何でちょっとツンデレみたいになってんのさ。
本作の彼はふてぶてしさがファッションのように錯覚されがちかと思いますが、あくまで『素のふてぶてしさに加えて烏合の衆に目を向ける鹿爪さも得ている』という追加要素に近いためご安心を。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

布石へのリコレクション(1)

そういえば、番外編の話有耶無耶になっていましたね。結局、これも最長で2年ほどはやらないかなと。ただ、案が最多で3+1の4本あります(足し算表記になっているのは、特に気にしなくていいです)。相当先になると思いますがよろしくです。モチベ次第で唐突に始まった場合も、よろしくです。

その関係で、(悲しいですが)離れている読者も多いであろうことを踏まえ、今話から改めてアンケートをつくりました。目処がなかなか立たなければ、再びアンケートを取ると思います。やろうと決めた段階で、TOP3の時系列を前提に番外編を開始する予定です。


 ふっと、何かに起こされたように目が開く。

 ぼんやりとした意識の中、あたりを見回すとまだ深夜だった。

 慣れない環境で寝付けないのだろう。そう思い再び目を閉じようとした。

 しかし、どうやら原因は別にあったことに気付く。

 話し声……?

 テントの外を動きがちなのは余所者の伊吹さんだ。やはりみんなの寝ている隙に、怪しい行動を取っている?

 とても寝起きとは思えない勢いで、私は慌てた外へ出た。

 

「……!」

 

 そこに見えたのは、三人の影。

 

「ほ、堀北さん!? びっくりした……」

「あなたたち、何をやっているの……?」

 

 綾小路君に浅川君、そして平田君までもが、こんな時間に起きている。

 

「簡単な話、監視さー。何とか交代であの子を見張れないかなと思ってね」

 

 浅川君が顎で指したのは当然伊吹さんだ。

 

「やっぱり良くないんじゃないか? いくら他クラスと言えど、女子を四六時中見続けるというのは少し……」

「そんなこと言って、リーダーバレたらどうすんのさ。君の責任になっちゃうぜ?」

 

 案に、リーダーの自覚を持てと言っているのかしら。正直どちらも極端だけど、私は浅川君の方に賛成だった。

 

「いずれにせよ、何かしらの予防線は張るべきなんじゃないかな。確かにここは開放的な空間だし、焚火が消えてる今なんかはかなり視界が悪い。対策なしに放置するのは楽観的過ぎるかもしれない」

「……意外ね。あなたのことだから、止める側につくと思っていたわ」

「だろうと思って、みんなが寝静まったタイミングを狙ったんだ」

 

 平田君は苦笑する。自分の立場を理解した上で、か。

 

「いいアイデアがあるわ。私が見張る」

「そんな。堀北さんに無理をさせるわけには」

「リスクヘッジも考えてのことよ」

 

 簡潔に私の意見を伝える。

 

「男子が見張って、伊吹さんがみんなにありもしないことを口にすれば、馬鹿みたいな疑念を植え付けられるでしょう」

 

 私のように不意に目を覚ます人がいるかもしれない。その人が見張っている男子の姿を偶然発見して、翌朝伊吹さんが襲われたなんて嘯けば、状況証拠の完成だ。

 

「いい案だね! さすがー。僕は鈴音に一票」

 

 ……そこまで煽てることでもないわよ。

 

「でも、毎晩堀北さんに起きててもらうのも……」

「なら、私の方で何人か信頼できる人を当たってみるわ。それでどう?」

「……そうか。他の人も頼ってくれるなら、やれそうかな」

 

 私が独りで背負い込むのを心配していたらしい。余計なお世話だ。

 

「これで、夜な夜なテントを出入りする人がいたらすぐわかるわけだ。不測の事態にも備えられるってわけさね」

「…………そうだな」

 

 浅川君とは対照的に、綾小路君はどこか浮かない表情だ。自分の意見が通らなかったことがよほど不服だったらしい。

 話の区切りとともに、男子三人はテントに戻っていく。

 ……さて。

 ああは言ったものの、任せるのは誰が適しているだろうか。

 私と交流のある相手……真っ先に浮かんだのは不本意ながら櫛田さんだが、信用しがたい。伊吹さんを見逃す以前に、自ずからリーダーを明かす危険性もある。

 なら……一つ遠縁。綾小路君と浅川君の知り合いに頼むのは。

 候補は、四、五人といったところね。

 

「終わったか、作戦会議は」

「……! ……起きていたの」

 

 虚を突かれた。背を向けて寝転がっていた伊吹さん、ずっと話を聞いていたようだ。

 

「棚からぼた餅でも貰えないかと思ったけど、気前が悪いなアンタら」

「……生憎景気も悪いのよ、私たち」

 

 私は彼女の方まで歩み寄り腰を下ろした。

 

「Cクラスは今回、どういう方針なのかしら」

「言うと思うか?」

「こっちはリスクを背負っているのだもの、割に合わないわ」

「お節介を注文した覚えはないんだけどな」

 

 堅物ね。理性的に説かないと納得できないなんて。

 

「クラスに反抗したから追い出されたのでしょう。それでいて庇うのは矛盾した行動よ。――まるで、本当はクラスに貢献しようとしているみたいね?」

「…………邪推するなら勝手にしろ。うちのクラスのリーダーが、反逆者に作戦を教えるお人好しだと本気で思うならな」

 

 なるほど、あくまで何も知らされていない構成員だと。

 ――笑わせるわ。

 

「白々しいわね。順序が逆よ。もし本当にその傷が歯向かったせいなのなら、必ずきっかけがあったはず。反乱分子を予め潰したいならとっとと追い出すだけで済む話だもの」

 

「……っ、それは……」初めて、彼女は言い淀んだ。

 伊吹さんの言い分だと、彼女を除け者にしてリーダーが立案した。しかし、だとすると伊吹さんが殴られたこと自体おかしい。

 理由もなく殴るような暴君が今まで教師陣から処罰を受けなかったとは思えないし、須藤君の事件を誘発した目的の狡猾さとも一致しない。

 

「だからここで全部隠そうとするのは、殴られたのはあなたちのいざこざではなく他クラスに同情を誘わるためで、あなたは今自分のクラスのために動いていることの証明になる。理解できた?」

 

 いつしか浅川君から言われたことが思い起こされる。

 私が退院してから暫く経ち、ようやく落ち着いてきたころのことだ。

 

――――――――――――――――――――――

 期末テストもとうに過ぎ、多忙の原因の諸々が完遂された。

 私はその立役者である浅川君に、尋ねたいことがあった。

 

「君が攫われた事件?」

「ええ。どうしてあなたは、私があの寮室に閉じ込められているってわかったの?」

 

 シンプルな質問だが、自分で推察するには難しいものだった。

 言葉を選んでいるのか知らないが、浅川君は暫しの思案のあと、答えた。

 

「……推理法というものは、各々に存在している。あり得ない可能性を排除する背理法。犯人、相手側に立つビューチェンジング。思考の目標を因果で切り替える発想の逆転。――僕が君を見つけた主な方法は二つ目だ」

 

 でも、と、どうやらもっと掘り下げてくれるらしい。

 

「どれも共通して求められるのは、『洞察力』と『想像力』だ」

「洞察、と想像……?」

 

「うーん、例えば」浅川君は私をまじまじと見つめて、「君は前の休日、お兄さんを部屋に招いていた。とかね」

 

「……! ど、どうしてわかったの?」

「簡単さ。金曜日のそわそわしていた姿を見れば、」

「は?」

「い、いや、…………本当なんだけど」

 

 冷や汗を浮かべながら続ける。

 

「月曜に切り揃えられていた爪と君の好きな相手を考慮すれば、余裕だ」

「安直過ぎない? 部屋に招いたこともわかるとは思えないけど」

「爪は先週の頭に切ったばかりだったろう、それも知ってる。今までそんなスパンで手入れしていたことはなかったから、敢えて身だしなみを整えていたことがわかるね。女子は細部にまでこだわるものだし」

 

 加えて、

 

「二人とも外出するような質じゃない。あの人に至っては人前で君と会おうともしないだろう。室内で楽しもうにも、カラオケで楽しめる子じゃないよね、君らは」

「……」

「そして極め付きに、君が持っているお弁当。いつもと趣きが違ったね。何だか人の目を気にしながら食べているようだったし、大方一緒に料理と食事をしていたんじゃないかな? その絆創膏も、緊張でドジッた時の焼跡を処置してもらったものだと考えられる。お守りのように無意識に撫でていたから――」

「もういいわ。やめてちょうだい。本当にやめて」

 

 彼はあっけらかんと笑う。腹立たしさと恥ずかしさで顔が赤くなっているのを感じる。

 

「とまあこんな感じで、想像力を働かせるための土台となるのが洞察だ。情報がなければ出発点も定まらない、けっこう大事よ」

「じゃあ、想像力は?」

 

「ひとえにそう言ってもまちまちなんだけどね」彼はノートを取り出し図で説明する。「想像については、頭にイメージするも良し、こうやって軽く立体的に描きだしてみるのも良し。さっきの例からもわかるけど、それが起こった現場をどれだけ想定、移入して思考できるかがキーになる」

 

「……難しい、わね」

「あっはは、時にないものを思い浮かべて見つけなきゃいけないからね、有形物を探す洞察より個人差はあるかも。そうだな、ついこの前、僕らが解決した事件はこっちのキャパが大きかったよ」

 

 クラスの枠に収まらない事案……規模が大きくなり自分の視界を超えてくれば、確かに想像を求められる領域は広くなるかもしれない。

 

「で、二つを君の事件に当てはめてみると――」

 

 それから、彼がどのように事件を解決したのかを聞いた。私の部屋で発見したもの、それをもとに『痕跡を残さない犯行』を想定したことなど。

 

「完全犯罪を仮定……私を見つけるだけなら物的証拠を追いかける必要はないということね、見事だわ」

「お褒めに預かり光栄ですっと。そうして、最終的にロジック構築が始まる。事実と事実を結びつけて、新たな事実や真実を見出す。複数の見解を照らし合わせて吟味する。問題ないなら次に進み、食い違いがあるなら別解を探す。地道な繰り返しさ」

 

 ロジック。確かに結論やそこまでの道筋を纏めるには不可欠よね。

 

「特に想像力は、ロジック構築中にも使うよ。これだとこの痕跡が残るのはおかしいとか、この人の行動が矛盾するとか。人の場合は、状況によっちゃ一貫性の欠如が寧ろ自然だって捉えなきゃならないケースもあることを、忘れちゃいけない」

「途方もないわね……」 

「そりゃそうさ。これが簡単に済むなら、今の警察は現場検証で万事解決できてるはずだし」

 

 何とか噛み砕きながら説明してくれた。私もどうにか理解が追いついた、かしら。

 

「世の中突拍子もない天才なら話は別だけど、大抵はこのプロセスにかかる時間の差さ。日頃意識しているだけでもだいぶ思考は早まると思うよ」

「……そうね」

 

 まずはできることからやっていこう。漫然と決意する。

 正直綾小路君と比べて、浅川君はものの教えが上手い。元々私達三人の中では最も社交的で受けごたえもはっきりしているから、それが原因かもしれない。勉強会の面々から先生と呼ばれることのある私より、余程教師らしい言動が多い。

 彼の言ったこと、忘れないようにしないと。

 少しでも、追いつけるように――。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

「職質でもされてる気分だったぞ」

「されたことあるの?」

「ないけど」

 

 降参した伊吹さんは、与えて問題ない情報を選んでいるようだった。

 

「アイツ、龍園は、1日目のうちに全ポイントを使い切るって言い出したんだ」

「全ッ……300ポイントを?」

 

 首肯がかえる。

 

「今日お前らは何やってた?」

「ここでの生活で必要なもの、どれだけ注文するかの話し合い。スポットとベースキャンプの探索。食糧採取、とかかしら」

「多分アイツは、そんなお前らのことを鼻で笑うんだろうな。バーベキューやら海水浴やら、快適なバカンスをお楽しみだったはずだから」

 

 まさか……嘘、というわけでもないだろうが。

 

「そんなの認められないって思ったから、私は文句を言ったんだ。それが命取りだった」

「あなたの他に、反論はなかったの?」

「……まあな。逆らえなくてもしょうがないさ、わかるだろ?」

 

 それもそうか。

 

「私が知っているのはこれくらいだ」

「本当に?」

「ああ。もし他に何かあったとして、それは言うつもりのないことだ」

 

 これ以上は難しい、か。

 見切りをつけた私は、敷いてあったビニルの上に移り楽な姿勢を取った。

 これは本来簡易トイレに使われるものだが、それなりな面積と厚さがあったため、素足になったり腰を下ろしたりして休息する敷物として使うことになった(テントは中の蒸し暑さを嫌う人もいる)。現に伊吹さんもその上だ。

 茶柱先生も了承済み。環境汚染に該当する行為に及ばなければ、無制限というルールの適用内とのことだ。

 ……この案を提示したのも、浅川君だったわね。

 彼の言っていたことはある種王道な頭の使い方だと思うが、それを極めれば今回のような独特な案、ひいては綾小路君のような搦め手まで想像することができるようになる――実際浅川君が彼の理解者足り得るのはそういうことなのかも――としたら、けっこうな武器になりそうだ。

 

「アンタ、名前は?」

「……? 堀北鈴音よ」

「そうか。……覚えておく」

 

 これは……伊吹さんのお眼鏡にかなった、とは違うかしら。彼女達の王に知られるとしたら、大変嬉しくないわね。

 でも、それもまた一興かもしれない。

 私に気が回るほど、他のメンバーへの注意は疎かになる。浅川君や他の優秀なクラスメイトの存在を少しでも霞ませることに繋がるなら。

 睡眠が足りているわけではない。暇潰しできる本もない。

 なのにどこか、頭が働き続ける。恐らく寝落ちしてしまうような愚鈍は犯さないだろう。

 

 

 

 

「一つ聞いていいか?」

「なに?」

 

 寝息らしい音がしないなと思っていると、再び話しかけられる。

 

「あんたに聞いてもあんまり意味ないかもしれないけど――椎名ひよりと仲が良いやつに心当たりあるか?」

「椎名、ひより……?」

 

 Cクラスの生徒だろうか。

 

「ないわね。そもそも顔が広くないし」

「……そうか」

 

 望みのある綾小路君も浅川君も、その名前を出したことがない。そもそも彼らはあまり他クラスとのことを話さないのだ。

 

「まあそんなことだろうと思っていたよ」

「は? それどういう意味」

「友達いなさそうだなって思っただけだ」

「失礼ね。私にだって友人の一人や二人くらいいるわ。そういうあなたこそ、教室で突っ伏してうずくまってそうね」

「んなわけあるか。あんたよりマシだ」

「根拠もないくせによく言うわ。会話が下手なのね」

「そうやってすぐ揚げ足取りするやつはよく嫌われるんだよ」

 

 短い会話でよくわかった。

 この人とは、物凄く気が合わない。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 試験二日目、午前。

 

 最初に顔を出したのは櫛田さんだった。

 

「堀北さん!? そんなところで何してるの?」

 

 誰が起きているかわからない。下手に素顔を見せる危険は冒さないようだ。

 私は昨夜の話を打ち明けた。

 

「なるほど……確かに、警戒するに超したことはないもんね。じゃあ、私も、」

「あなたに頼むつもりはないわ」

「えー! 何で?」

「自分が一番よくわかってるでしょう」

 

 むうと可愛らしく頬を膨らませている。話し辛いわね……二人きりの時の方がやりやすいまであるわ。

 

「ちゃんとした理由もある。あなたは誰よりもやれることが多い。下手に睡眠時間を削っていざという時に動けないんじゃ元も子もないわ」

「それは……うぅ、わかったよ」

 

 昨日の仕返しとばかりに言ってやると、どうやら反論の余地はないと認めたらしい。

 

「伊吹さんは……寝てるんだ」

「ええ。でも気を付けた方がいいわ。狸寝入りしている場合もある。昨夜はそうだった」

「堀北さんは、伊吹さんはスパイだと思うの?」

「当然ね。根拠もあるし、少なくとも監視しない道理はないわ」

 

 平田君まで疑っていることは明かさない。そこは彼自身の判断だし、櫛田さんが不和を招くために機を見てみんなに話す可能性がある。 

 

「あなたはどう思うの?」

「わ、私に聞くの?」

 

 じっと、彼女を見つめる。視線の交錯を終え、ため息の後、途端に距離を詰めてきた。

 

「そりゃ信じられるわけないだろ」

「その心は?」

「私が仲間外れにされたら、そもそもこんなツマンナイ島にいたくない。船に戻ってる」

 

 確かに。盲点だった。リタイアは自己判断なのだから、高円寺君のようにお構いなしに乗船すればいい。まして、クラスがポイントを残さないように方針が定まっているのだから、迷惑すらかからないとわかっているはずだ。

 

「ありがとう。それで確信できたわ、彼女はスパイね」

「やめてよ気持ち悪い、アンタに感謝されるとか蕁麻疹がでそう」

「あら、じゃあ逆に罵声を浴びせた方が満足かしら。そっちなら気持ち良い?」

「……まさか。私とアンタは水と油でしょ」

「油はあなたの方よね?」

 

 キッと睨む視線が突き刺さる。周りを気を付ける関係上、向こうも容易く暴れることができないのだろう。

 

「その捻くれようとねちっこさは油そのものじゃん。やっぱあんたとは話してるだけで萎える」

「なら離れればいいじゃない」

「できるならそうしてるに決まってる」

 

 やややつれた顔で、櫛田さんは踵を返す。

 

「……あのさ。さっきあんたが言ってたことなんだけど」

「どれかしら?」

「見張り役の件」

 

 そう言われても、どのセリフのことかわからない。

 次の言葉を待っていると、

 

「あれ――? おはよう、櫛田さん」

「あ、みーちゃん。おはよう!」

 

 さすがに目を剥いてしまった。一瞬で、まさしく別人に切り替わる器用さは、多分私には一生たどり着けない次元だ。

 

「早いね。よく眠れた?」

「うーん、どうだろう……。でも、動けるうちに頑張っときたいなって」

「別に無理しなくてもいいんだよ? 手伝おうとしてくれる気持ちはもちろん嬉しいだけど、それで何かあったら、みんな悲しんじゃうと思う」

「櫛田さん……ありがとう。でも本当に、今は大丈夫っ。今日も頑張ろうね」

「うん、何かあったらいつでも声かけてね」

 

 そうして、王さんは顔を洗いに行く。

 

「……良い子だと思わない?」

「そう、ね。佐倉さんたちとも仲良いようだけど、納得だわ」

「一之瀬さんとかは、気持ち悪いほど純粋な善人って感じだけど、ああいう自然体が親しみやすい子もいるんだよね。本当びっくりしちゃう」

 

 王さんの背中を眺める目が、何だか今までとは違うように見えた。

 

「綾小路君も浅川君も、やっぱりあの子やあんたみたいな子が好きなのかな……」

「……」

「ホント、残念だなあ」

「櫛田さん……あなたが欲しいのは、一体……」

 

 私の疑問を遮るように、櫛田さんは人差し指を口元で立てる。

 続いて、テントの方で大きく動きがあった。続々と生徒が出てき、中から段々と話し声も聞こえてきた。

 時間切れ、というわけね……。

 

「また話そっ、堀北さん!」

 

 不気味な満面の笑みを向け、櫛田さんはその言葉を残し去って行った。

 ……もしかすると、この試験の間、意外にも彼女と関わる機会は増えるのかもしれないわね。

 

 

 

「39人、全員いるな」

 

 高円寺君が抜けたDクラスは無事、初回に続き二度目の点呼も完了した。

 しかし、当の茶柱先生の表情は晴れない。その原因は明らかだった。

 

「……1名不在、にしてやろうか迷うところだがな」

「い、いやいや先生。バッチリ間に合ってる、ますって。ほら、ココにいるんだから!」

 

 酷く慌てて弁明する須藤君の背には、目が開いているのかもわからない浅川君が担がれていた。一応ぐっすりではないようだが、受けごたえははっきりしていない。

 そういえば彼、朝が早いだけでそれなりに長い睡眠が必要な人だったわね。

 

「……まだ慣れていない者もいるだろうからな。今回は多目に見るが、場合によっては今後然るべき処置を取るかもしれないことは覚えておけ」

 

 運の悪いことだ。おかげでまた、彼がクラスから目の敵にされる材料が生まれてしまった。

 それを早々に察したのか、すぐさま平田君が呼びかける。

 引き続き、森林と浜辺でそれぞれ食糧調達。加えて今日からは島内探索及びマップ作成と、役割分担は欠かせない。おまけに、料理班――昨晩即席で参加してくれた生徒が中心だ――もローテーション込みである程度決めた。

 途中、私が伊吹さんから手に入れた情報も伝えておいた。

 

「豪遊するのも自由、ということか……。堀北さん、このことは他のみんなに……」

「言うわけ無いわ」

 

 混乱を招く恐れ、自分たちとの境遇の差への不満等、懸念要素が多すぎる。昨夜の男子三人に留めておいた。

 

「どうする? 偵察にでも行くか?」

「……そうだね。島やスポットの探索がてら、余裕があればお願いしてもいいかな?」

 

 Cクラスの方には綾小路君が行ってくらるらし「堀北さん、彼のこと、お願いしてもいいかい?」

  

「は? 何で私が」

「独りじゃ何があるかわからない。これに限らず、基本はツーマンセル以上ではいてもらうよ」

 

 真っ当な理由だった。この男に当てはまるかはわからないが。

 

「浅川君は……無理そうだね」

 

 苦笑する平田君に視線を沿うと、ぐでーと倒れ込む浅川君の姿が見える。

 

「浅川君には、調子次第で午後から動いてもらうことにするよ。偵察、頑張ってね」

 

 平田君の爽やかな笑顔に見送られ、私達二人は行動を開始した。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

「なあ、どうすんだコレ?」

 

 困り果てた須藤が、傍らの友人たちに訊く。

 

「こりゃ相当疲れてるわ。無理に起こしても悪いよな」

「洋介もああ言ってたし、放っとこうぜ」

 

 昨夜どんな会合があったか、露にも知らない彼らは、浅川の気持ち良さげに熟睡する様子を見守っていた。

 そんな中、沖谷が口を開く。

 

「こうして見てると、浅川君って、お姫様みたいだよね」

「眠り姫ってか? ……まあ、言いたいことはわかるかも」

 

 池が同意する。

 そういう話を気安くするのがさすがに憚られたため、皆揃って控えていたが、浅川の容姿は沖谷に匹敵するかそれ以上の可憐さだった。

 やはり髪の長さがより男性的な印象を薄めているのは瞭然だが、顔のパーツも総じて女性的で、周囲も彼を見下すような先入観を持たなければ大層気に入っていたはずだ。

 

「俺も、もしコイツが男だってわかってなかったら危なかったわ。制服着てて助かったぜ」

「ったくお前。だから俺ら、真っ先にお前に釘さしたんだよ」

 

 須藤が呆れた顔で山内に言う。

 まだ三馬鹿だけのコミュニティだった頃、山内も勿論彼の美貌を眼中に収めていた。

 

「兎に角、今はそっとしておこう。きっと今頃良い夢を見ていると思うから」

 

 穏やかな声音で、沖谷は言った。それを皮切りに各々今日の役割へと向かっていく。

 独り残された浅川の表情は、確かに柔らかく――蕩けていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

密行のマニューバ

「ようやく落ち着いてきた感じかな」

 

 クラスメイトたちの雰囲気を俯瞰して言うのは、『リーダー』である一之瀬だ。

 

「何より先に火種を避ける。考えてみれば当たり前だが、それを優先したのは正解だったな」

 

 Bクラスは試験に挑むどうこうよりも、まずはこの慣れない環境で生活の基盤を安定させることに焦点を当てた。

 クラスの戦いへの姿勢がまちまちであることは優に想像がついたし、無人島での生活が不慣れで相互扶助が必要になることは逆に共有できることだと考えたからだ。

 

「井戸の水がちゃんと使えそう……やっぱりこの島はある程度手入れされているのかな」

「向こうも不要なリスクは避けたいはずだ。現に俺たちは、誰も獣に遭遇していなければ怪我人もいない」

 

 そういうわけで、試験の方針についてはまだ全体で共有できていないのが現状だった。

 しかしベースキャンプを専有するために、キーカードには既に一人の生徒の名前が刻印されている。

 その管理者は――

 

「で、どうするんだ? アイツのことは」

「あぁ……金田君?」

 

 昨晩、探索から帰った生徒が一人の少年を連れてきた。

 金田悟と名乗るCクラスの彼は、頬に酷い殴られ跡をつけて道端に座り込んでいたと言う。

 彼曰く、クラスに反発して追い出されたと。

 彼曰く、こんな状況だから世話になろうなどとは思っていないと。

 それをじゃあ出て行ってくれと一蹴できたら、一之瀬は今こんなにもクラスメイトから慕われていなかっただろう。

 彼女の言葉に、反論は一切あがらなかった。

 ――そう、一切だ。

 

「……」

「どうしたの?」

「いや、すまん。…………一之瀬は、アイツがCクラスのスパイだという可能性は考えなかったのか?」

 

「私? 私は……」一之瀬は言い淀んだあと、しかし芯のある瞳で、「それでも信じたい。神崎の言いたいことはわかるけど、私にはそれが、ボロボロになっている目の前の人を突き放していい理由になるとは思えないんだ」

 

「……そうか」

 

 彼女の言い分はわかる。寧ろそうするだろうと思っていた。しかし、それが望ましかったかと言われたら別の話だ。

 警戒しろ、他クラスは敵だと意識しろ。とはもう言わない。言っても意味がない。一之瀬はそれを全て理解した(つもりであっても)上でその決断を曲げないはずだからだ。

 その程度の不満、抑えられないならとうに明かしている。神崎の懸念は、一之瀬自身のことではなかった。

 

「なあ一之瀬」

「うん?」

「どうして、()()()()()()()()()()()んだ?」

 

 核心に迫った疑問だとは思う。何らかの軋轢を生み出しかねない。その恐れはある。

 しかし、この場所で――ある種日常から隔絶された今でなければ、今後口にする機会はないのではないかと思ったのだ。

 

「本当にみんなは、お前のような気持ちで頷いたのか?」

「神崎、君……?」

「一之瀬を、金田を、自分の意思で信じるって決めたんだよな?」

「神崎君っ、何を……」

 

「だっておかしいだろッ」理性は維持している。他の生徒の耳には届いていない。「試験中に、拠点に他クラスを通したんだぞ。何の条件も無しにだ。そんな危険な真似は冒すべきじゃない。そう思ったのは、このクラスで本当に俺だけだったと言うのか……?」

 

 正直信じられなかった。あの瞬間が不気味だった。

 一之瀬が全体に賛否を求めた際、ほとんどの生徒は半ば即決で便乗したのだ。

 あたかも、自分は一之瀬と同じ考えで当然だと自己暗示しているようで……。

 

「……実は、だいぶ前から気になってたんだよね。みんなはあまり気付いてないみたいだったけど、神崎君、最近ちょっと様子が変だよ?」

「変、だと……?」

 

 真剣な眼差しで言われる。俺がか? 変なのは、一体どっちなんだ。

 

「ちょうど浅川君との協力が終わった頃。お疲れ様会の時には、片鱗があった」

「……っ」

「教えて、もらえないかな。何があったのか」

 

 とてつもなく、迷う選択だった。

 彼女は相談相手として信用はできるほうだが、ここまで深刻な問題は部外者には重すぎる。

 何より、神崎はクラスとしての問題も予感していた。

 

「お前たちに迷惑はかけないから、心配しなくていい。今はこの試験をどう乗り越えるかが重要だ」

「…………そっか。そうだね」

 

 頼られなかったことを悲しんでいるのだろうか。自己解決を待とうと身を引いてくれたのだろうか。

 わからない。

 

「体調が悪くなったりしたら、遠慮せず言ってね。無理は禁物だよ」

 

 気遣いなのか、長居はせず一之瀬は去った。

 人知れず、神崎は歯ぎしりする。

 この試験において、クラスで協力し合う必要性は確かに存在するはずだ。しかしそれだけなら、歪さを覚えるルールがいくつかある。

 その筆頭が、リーダー当て。

 他クラスのリーダーを看破することに、複数人での協調が求められるとはとても思えない。ならば何が必要かと言われると難しいが、一つだけ言えることがある。

 このまま無人島生活に励むだけでは、絶対にリーダー当ては不可能だ。

 それが今、神崎の心を乱す一因に他ならなかった。

 目的のために動かなければならない。全員でではなく、誰かが行動を取らなければ。

 その意識が、あの時の不甲斐なさを誘発する。

 何もできなかった。一つの絆が崩壊するその瞬間を、ただ黙って見つめることしかできなかった。

 あんな思いは、二度と繰り返したくない。

 動かなければならない。そのためには考えなければならない。そのことを大いに痛感した神崎は、幸か不幸か敏感になっていた。

 何故、敵を疑わないのか?

 何故、一之瀬に盲目的に従うのか?

 何故、そもそもその現状に誰も違和感を抱かないのか?

 どれをクラスのみんなに問いかけても、きっとほとんど変わらない。変わるとすれば、それもやはり自分が形として示さなければならない。

 反発したいわけではない。クーデターなどもってのほかだ。

 ただ簡単な話、議論や話し合いが反論ありきで煮詰まっていくのと同じこと。まして信じることに偏りが垣間見える一之瀬には、対となる「疑問を疑問のままにせず提示する」役割が必要なはずだ。

 何とか……何とかしないと。

 焦りを自覚しつつ、この先どう動くべきかを孤独に思考する。

 あくまで冷静さを失ってはならない。わかっている。独りで何かを成せるほどこの広大なフィールドは甘くない。今までだって誰かと手を取り合って戦ってきた。

 しかしクラスのほとんどは一之瀬のイエスマンだ。強引に引き離すことまでは(後に響くことも考慮すると)考えていない神崎は別案を求める。

 自ずと、選べる手段は限られていた。

 最初にやるべきことは、協力者の確保――。

 こうして、Bクラスに一つ。どう転ぶかわからない新たな種が生まれる。

 その芯は確かに、静かな決意と後悔で燃えていた。

――――――――――――――――――――――――――――

 

「あ、あれ? みーちゃん?」

 

 テントを開けると、予想だにしない人物の姿があった。

 

「ひゃあっ、く、櫛田さん!?」

「ど、どうして――あ、もしかして、お邪魔だった……?」

「へ? い、いやいや、いやいや待ってください誤解です!」

 

 何となくわかってはいたが、からかってやると面白い反応が返ってくる。あー、これで素なの? 腹立つ。

 

「櫛田さんこそどうして……男子が使っているテントだよ?」

「それはー、目的は同じなんじゃないかな」

 

「あぁ……」微妙な顔で彼女が見下ろすのは、少年の寝顔だった。「やっぱり心配ですよね」

 

 かれこれ数時間経つが、一向に目を覚ます気配がない浅川。余程疲れていたのだろうか。正午が近づいているというのに。

 

「体調良くないのに、自分より浅川君が心配?」

「い!? そ、そういうわけじゃないけど……約束していたから」

「約束?」

 

「はい」なぜだか少し得意げな顔で、「この時間は、私達で浅川君を支えるんですっ」

 

 私達、というのは佐倉と井の頭も含めているのだろう。

 

「偉いね、浅川君なら気持ちだけでも喜んでくれそうなのに」

「まぁ、そうかも……。でも、それだと公平じゃないんです」

「公平じゃない、って?」

「浅川君は、私を()()助けてくれました。一回はお返しができたみたいだけど、もう一回は多分まだだから」

 

 驚きを隠せない。純情にも程がある。一々誰が誰を何回助けたかなんて覚えているものだろうか。

 しかし、この少女に限らず浅川もそういう律儀なことをしそうだと、反射的に思ってしまった。

 

「それに、今私にできるのはこれくらいだから。他には、料理とか?」

「昨日頑張ってたもんね。今日もやれそうなの?」

「任せてください!」

 

 あどけない笑顔だ。今の自分には、意識しなければつくれないだろう。

 

「――ッ、痛てて……」

「だ、大丈夫!?」

 

 突然王がお腹を抑える。やはり、多少の無理はしていたようだ。

 

「ダメだよみーちゃん。やっぱり自分のテントに戻ったほうがいいよ」

「でも……」

「浅川君は私に任せて。具合が悪くなったって知ったら心配しちゃうだろうし、また借りをつくることになっちゃうよ」

 

 彼女は逡巡するも、櫛田が見てくれるならと思ったのだろう。渋々うなずき出ていった。

 一人、いや、二人になった空間で、深い溜息が溢れる。

 

「……本当に君は。君みたいな人を、人たらしって言うんだよ、きっと。私よりよっぽど質が悪いよね、自覚もなさそうだし」

 

 櫛田は暫く、可愛らしい穏やかな顔を眺めていた。

 浅川への評価は本心だった。綾小路よりずっと社交的で、言葉選びも豊かで、持ち前のユーモアは確かにコミュニケーションを弾ませる武器なのだと。そういう嫉妬はある。

 

「この学校にきてから、何かおかしいんだ。君達と会ってから、なのかな。――二人そろって。責任くらい取ってよね」

 

 左手を彼の頬に触れる。

 

「……! ……もう」

 

 嬉しそうに手を重ねられた。突然のことにドキッとしてしまう。この可愛らしさで男なのだから、わけがわからない。

 櫛田の中で浅川への意識が芽生えたのは、3ヶ月ほど前にまで遡る。

 思えば、あの時から既に色々なものが動き出していたような気がする。

 

「……どうすればいいのかな、私。私は……」

 

 時々、全てを投げ出したくなる。

 意味もなく惑うのが億劫で、過去を疑っているように感じてきて、頭を振って目を背ける。

 ――君になら、わかるのかな……。

 

「オイオイ随分しけた生活してんだなぁ。Dクラスさんはよお」

 

 しんみりとした空気が広がる折、嘲る声が届く。

 見えもしないテントの向こうを振り向く驚きは、すぐに安寧に水を差された苛立ちに塗り替わる。

 その瞋恚を全て押し殺して、櫛田は瞳に光を戻しつつ外に出た。

 

「あ? おい。小宮と近藤じゃねえか。何の用だ」

 

 須藤が毅然と前に立ったと思えば、彼の言うとおり来訪者はDクラスとゆかりのある二人だった。

 

「ねえ櫛田さん、あれ誰?」

「えっと、須藤君と同じバスケ部の人だね。話題になってた事件も、元はあの二人が訴えてきたの」

 

 松下に説明しているうちに、向こうで動きがあった。

 

「なんだよ。他のクラスが無事に生活できているか心配で、様子を見に来てやったってのに」

「ハッ、てめぇらに気を遣われるほどヤワじゃねえよ」

「そうだぜ! また前の時みたいに可哀想な目に合っちまうぞ」

 

 馬鹿だなあ。

 敵陣に土足で踏み込んだらこうなることくらい予見できないものか。

 一方で、それなりな理由があるのかもしれないとも思った。

 

「龍園さんから伝言だ。バカンスを満喫したいなら西岸の浜辺に来い。夢のような時間ってやつをおすそわけしてやる。とさ」

「どういうことだ……」

「今可哀想なのはお前らだってことだ。どうせこういうのだって惜しんでせっせと木の実やら魚やらとってんだろ?」

 

 バン、と、無造作に投げつけられたのはポテトチップスの袋。

 それを一瞥した須藤は眉間に皺を寄せる。

 

「テメェ……」

 

 一触即発の空気、と呼ぶべきだろうか。兎に角、険悪な空気が蔓延し、クラスメイト一同表情を強張らせる。

 このままでは面白くない。大抵負の流れは引きずられるもの、重い空気が残るのは避けたいところだが、この挑発を受け流せるのは浅川、と精々綾小路くらいだ。

 なまじ真面目で、そのくせ直情さの目立つクラスメイトたちにげんなりする。認めるのは癪だが、堀北がいるだけでも状況はマシだったかもしれない。

 

「持って帰れや」

「なんでだよ?」

「お前らにそんなもんもらっても余計なお世話だっつってんだよ」

 

 クラスの不機嫌を代表するように須藤が言い放つ。ここまで自制し声を荒げることも我慢できているのは、彼の成長と言えた。

 だが、いくらそれでもそろそろ限界だ。

 

「おうおう、負け犬がほざいてら。俺らはとことんお前らを嗤うだけだぜ」

「何だと?」

「だって――あそこにうちから追い出された負け犬も居座ってんだぜ? まさしく溜まり場じゃねえか」

 

 不意に伊吹も巻き込んで愚弄され、須藤の堪忍袋の緒が切れた。

 

「オイ巫山戯んな! 関係ねえやつまで馬鹿にしやがって」

「おっといいのか? 殴るなら今度こそ処分だぞ。折角助けてくれたお仲間さんの努力が無駄になってもいいのかよ」

「ぐっ……っ、クソッ!」

 

 小宮の胸倉を掴むも、握り拳は震えたまま振り下ろされることはない。彼の言葉以上に、綾小路と交わした約束が抑止力になっているのだろう。

 どんどん悪化する空気に、しかし櫛田は動かない。自分の立場を最優先にするなら、ここはどう動いても善い方向には進まないからだ。いっそ暴漢どもの戯れに怯えてみせた方がいいまであった。

 そんなわけで睥睨していると、状況は一気に変わる。

 

「――もらえるものはもらっておけ。この島で食べ物は貴重だ」

 

 冷たいとまで感じられる落ち着いた声音で、少年は現れた。

 

「……っ! お前は確か」

「かっかすることはない。コイツらは頭が足りないから、物の値打ちも理解せずに慈悲を与えてきたんだ。得をしたと笑っておけばいい」

 

 彼の傍らにいた少年が袋を拾い須藤に差し出す。「お、おう」

と答えるので精一杯だったようだ。 

 

「お、お前……確か前の審議で邪魔しにきた」

「邪魔? 邪魔だったのはお前たちの方だろ。忘れもしない、5月になってからの約ニヶ月。散々うちのクラスメイトを可愛がってくれたよな?」

「……神崎ッ」

 

 冷や汗を浮かべた近藤がその名前を呼ぶ。

 間に割って入った神崎は、どこか暗い雰囲気を纏っているようだった。静かな、怒りのような。

 

「伝言は済んだ。煽りも十分だろう。もうお前たちがここに残る理由はないはずだが?」

「……ああ。ああそうだな」

 

 2クラス相手は分が悪いと感じたのか、二人は先程までのように粘着せず、すぐに身を引く決断をしたようだ。度を超えた揉め事はクラスの王の目に留まると恐れてのことかもしれない。

 二人の背中を、神崎は鼻を鳴らして見送った。

 そこに、平田が話しかける。

 

「助かったよ神崎君。それに柴田君も。7月の事件以来かな」

「そうだ。――気にしなくていい。偶々通りかかっただけだし、あれは俺も見過ごせなかったからな」

 

 フッ、と張り詰めていた空気が霧散する。神崎も矛を収め途端にいつもの「根暗だが良いやつ」に戻っていた。

 

「見たところ、Dクラスのベースキャンプはここなのか。川がある……水源を確保できたのは僥倖だったな」

「二人は偵察に?」

「そんなところだ。変に荒らそうってつもりはないし、お互い出過ぎた真似をしない条件ならこちらのベースキャンプの場所も教えよう」

 

 提示した条件からして、本当に不要な争いは求めていないようだ。Cクラスが来た先とは違い、クラスメイトたちも特に警戒心を見せていない。偵察であることを隠さなかったのも、寧ろ後ろめたさがないという意味で働いたのだろう。

 

「…………浅川は?」

「ごめん。それが、疲れているみたいでずっと寝てるんだ。どうしてもって言うなら、起こすけど?」

「……いや、必要ない」

 

 硬い表情だった。

 

「にしても、Cクラスの彼らが言っていたことは本当なのかな」

「夢のような時間、と言っていた。ポイントを惜しまず使っているのかもしれないな」

「そんなことが……」

「あっても問題ないんだろう。この試験のテーマは自由なんだから」

 

 動揺が走る。こちらが何とか共同生活に勤しんでいる他所で、そんな悠々自適な暮らしをしているのだと知れば戸惑いも無理はない。

 

「あれが神崎君か……」

「松下さん?」

「いや、さっきから上手いやり取りをしているなと思ってさ」

 

 上手い、か。言いたいことはわかる。

 特に登場してすぐの――態度はともかく――言葉選びの飄々とした感じは、どことなく……。

 思い立った櫛田は、彼らのもとへ歩む。

 

「こんにちは、二人とも」

「ん? 確か、櫛田。さん、だっけ?」

 

 先に柴田が反応する。

 

「神崎君もしかして、浅川君と仲良いの?」

「え……あぁ、まあな」

 

 言い淀むか……。本当は大した仲でないのか、今はしこりがあるのか。

 

「少しだけ浅川君と似ているかなって思ったんだけど、違ったのかな……」

「似ている? 俺とアイツが……?」

 

 急に険しい表情をされた。

 

「う、うん」

「……そんなことはない。その、あまりそういうことは言わないでほしい」

 

 え、地雷だったの?

 予想外だった。意外な場面で失敗を経験する。

 ……失敗というと、()()()()()()()()()()()()()()()

 神崎が彼と面識がないとは思えない。……浅川が絡むと、どうにも安易に分析できなくなる。

 

「平田。一つ確認したいんだが、俺たちのクラス関係は今回どうなっている?」

「関係……うーん、Bクラスどのやり取りは堀北さんや一之瀬さんが多かったから何とも言えないけど。前は不干渉が望ましいと言っていたよ」

「不干渉か。……」

 

 神崎は暫しの思案のあと、

 

「わかった、今はそれでいい。敵対はなしだ。――だが場合によっては、協力の余地は残してもらえないか?」

「ぐ、具体的には?」

「他クラス――A、Cのリーダー情報を手に入れた際の共有なんかは、お前たちの上位クラスへのダメージが増える点でメリットがある。他に何か問題が発生したときも、知恵を出し合うことで解決策が見いだせるかもしれない」

「なるほど……。少し時間をくれないかな。明日までに答えは用意しておくよ」

「ああ。気長に待っている」

 

 大方、堀北あたりに意見を求めたいのだろう。確かに今までBクラス、特に一之瀬との建設的なやりとりはほとんど堀北や綾小路ばかりだったとはいえ、櫛田にとっては不快なことに変わりなかった。

 せめて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だけは幸いだ。

 

「俺はこれからCクラスの方に行ってみようと思う」

「Cクラスは、今綾小路君と堀北さんが向かっているよ。伊吹さんから聞き出したみたいでね」

「そう、なのか。――Aクラスの場所に心当たりは?」

「わからないけど、北の方なんじゃないかって綾小路君が。昨日洞窟のあたりを探索していたのを見つけたんだって」

「洞窟か……。教えてくれてありがとな」

「これくらいはね」

 

 どうやら残りのクラスの偵察にも行くらしい。

 ……。

 Bクラスの二人が去るや否や、櫛田は平田に言った。

 

「平田君。私も少し、単独行動に出てもいいかな?」

「えっ。な、なんでまた急に……」

「他クラスの様子を見ておきたいっていうのが一番の理由かな」

「容認しかねるよ。正直君が抜けてる間に問題が起きたら、上手く収まる気がしない」

 

 信頼されているのはいい気分だ。しかし、である。

 

「だからこそだよ。私や平田君抜きで、クラス一人ひとりが協力して纏まれるようになるためには、今がとても良い機会だと思うの」

「それは……、確かにそうかもしれないけど」

 

 表向きな理由で、平田は納得寸前のようだ。

 

「私の心配はしなくてもいいよ。油断はしませんっ」

「…………本当はすごく同意したくないんだけどなぁ」

 

 拒否する理由をことごとく潰され、首を横に振れなくなったと悟った平田は重い溜息をつく。寸分、未だ未熟な高校生の影が見えた気がした。

 

「何かあったら助けを呼ぶか、無理なら腕時計のボタンを押すんだ。これだけは絶対に守って欲しい」

「わかった、約束する」

 

 非常用のボタン。こんなものを使う機会などくるものだろうか。

 あくまで自分にとっては、だが。

 了承をもらった櫛田はすぐさま出発の準備をする。

 最低限の荷物、川からくんだ補給用の水、それから――

 

「あれ?」

「どうしたの? 櫛田さん」

 

 女子用テントの近くにいた篠原に声をかけられる。

 

「日焼け止め、こんなに必要だった?」

「え? ――わかんないけど、念のため多めに頼んだんじゃない?」

「誰が?」

「誰って……そんなの一々確かめてないよ」

 

 小首を傾げるが、当然解はでない。あるいは、と一つの可能性が浮かぶが、確証はなかった。後に()()しよう。

 さて。

 人目から外れた幹の間から、櫛田は慎重に出る。

 ちょうど正午だ。昼飯を食べ終えて溜まった腹の中を消化しがてら、念願の独り歩きと行こう。

 ――いくつか気になることも、あるからね。

 

 こうして。

 現在Dクラスのベースキャンプには、35人の生徒が残っている。

 




さてさて、無人島試験も段々と原作から外れてきましたね。今回はついに他クラスで歪みが発生しました。

元々この試験は擬似的な無法地帯であり密会にも適している関係上、色んな人の思惑が浮き彫りになり交錯しやすい場だなと思っていました。二日目にして、各々が目的に向かって動いていますね。今のところオリ主が一番だらけてるわ。

長くなってでも裏で起きたことを描くべきか、伝わらない可能性があっても濁して考察の余地を与えるか、迷うところです。
今話でもけっこう「ん?」って思わせる部分があったと思いますが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

邂逅せしロード

状況が違う故のすれ違いって、読んでる分にはモヤモヤするけど描いてる分には楽しいですね。

今回ちょっと長め。


 人目のないことを確認していると、時機良く相手も顔を見せた。

 

「態々試験開始直後に呼び出して、何の用だ?」

 

 葛城は、至極当然な疑問を投げかける。

 

「そう急ぐなよ。俺としては、今回お前らとは仲良くやっていきたいんだぜ?」

 

 胡散臭い薄ら笑いを浮かべる少年は、一枚の用紙を取り出した。

 

「俺と取引をしろ。葛城」

 

 受け取った葛城は、慎重に文面を読み砕く。

①本試験において、CクラスはAクラスに対し、200ポイント相当の物資を購入して譲渡する。

②CクラスはBクラスとDクラスの内、手に入れられたリーダー情報をAクラスへ伝える。

③Cクラスが①②を達成した場合、本試験に参加したAクラスの全生徒はCクラスに毎月2万プライベートポイントを譲渡する。これは本校卒業まで継続するものとする。

④本契約書に署名した者は、本契約内容に同意したものとし、反故にしたクラスは両クラスの教師を交えた話し合いのもと、相応の処置を与えることとする。

 

「Aクラスの派閥争いについては聞き及んでいる。現状坂柳派との勢力図は拮抗そのもの。坂柳本人が欠席の今が、流れを引き寄せる絶好のチャンスだと思うが?」

 

 少年の言う通り、最初の試練であった中間テストにおいて二つの派閥はほぼ同等の成果を叩き出した。どちらが優勢かと聞かれて、明言できる生徒はいないだろう。

 しかし、

 

「いや、違うか。生徒会に門前払いされた事実がある分、お前に若干の猜疑心を抱えているやつがいるだろうな」

 

 入学後間もなくのことだ。堀北生徒会長に真っ向から生徒会立候補を跳ね除けられてしまい、一時期Aクラス内で話題になっていた。他クラスにも広まっていたらしい。確か一之瀬というBクラスの生徒も同じ目に遭ったとか。

 そんなわけで、葛城には確かに、ここで疑いようのない実績が必要だった。

 目の前の、いっとき学校中を騒がせる事件を起こした張本人(であろう者)と、悪魔の取引をするか否か、迷うところだ。

 堅実にいくのもいいが、攻め手に欠けるわけにもいかない。

 拠点とする予定の洞窟には隠匿性がある。守りは十分とするなら、リーダー当ての手段は確保しておくべきかもしれない。

 とはいえ、契約書にある一つの項目が気になった。

 

「3つ目の項目についてだが、緩和してもらえないだろうか」

「……例えば?」

「譲渡を行う生徒を葛城派に限定する、あるいは、ポイント自体を減らすなどだ」

 

 分裂しているとはいえ、クラスポイントという制度の性格上、Aクラスの財産として一括りにしてもいいはずだ。せめて自分の配下とは言い難い坂柳派の生徒に、損失を担がせるのは酷だろう。

 

「……ダメだ。それはできない。リーダーを探る俺たちには大きなリスクがある。割に合わねえ」

「ならばこの話は無しだ。2つ目の項目をB、Dのどちらかではなく両方とするでもいい。この条件のままで呑むことはできない」

 

 正直、まだ自分は未熟なのだと思う。

 彼が安直な策に出るかは疑わいものの、一体どんな思惑が隠れているかまでは見抜けない。

 しかし、見抜けないなら見抜けないなりなやり方をするしかない。できる限り、リスクヘッジは行っておく。

 恢恢とした守備には、容赦なく悪意は侵食する。そう戒めているのだ。

 

「…………しょうがねえな。いいぜ、お前の意地に免じて聞いてやるよ。半額の1万でどうだ?」

 

 半額……かなりな譲歩に思えるが、どうだろうか。しかと吟味する。

 長考の末、葛城はついに答えを出した。

 

「――」

 

 口を開いた、その時。

 予想外の、変化が起こった。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 目の前には、実にバカンスな光景が広がっていた。

 衛生的な設備は当然のこと。私が最初にあり得ないと称したバーベキュー器具や旺盛な飲食料、スナック菓子。沖合にまで目を凝らすと、派手な音を立てて水しぶきを飛ばす水上バイクの機影が確認できた。

 

「予め聞いていたとはいえ、驚きを隠せないわね……」

「そうか? 折角の無人島生活を楽しみたいって気持ちはわかるぞ」

「あなたのような無神け……図太い性格している人ばかりじゃないのよ」

 

 遺憾だとばかりに目を剥く綾小路君に嘆息が溢れる。しっかりしなさいよ、あなたリーダーでしょう。今や名実ともに。

 顔を出すと、最初にこちらに気付いたのは一人の男子生徒だった。彼は傍らのチェアーに体を預けている誰かに声をかけ、短い会話の後駆け寄ってきた。

 

「あ、あの……龍園さんが呼んでいます……」

 

 龍園……Cクラスの王とか痛いことをほざいている男ね。

 綾小路君と頷き合い、案内された通りに進む。

 すぐに、件の男が見えてくる。緊張感のない柄をしたパラソルの下で、呑気に鬱陶しい長髪を垂らしていた。

 

「思っていたより早いご到着だな、Dクラス」

「あなたが、龍園?」

「礼儀ってもんがなってねえぞ。名乗らせるなら名乗ってからだろ」

 

 出会い頭に正論を喰らってしまった。こればかりは彼の言う通りね。

 

「堀北鈴音よ。こっちは」

「綾小路清隆、だな」

「お、おお。知ってるのか」

 

 形式を大事にしようとしたがやはり不要だったらしい。作戦勝ちをもたらした表の功労者なのだから当然だ。

 ……なのに、名前を覚えてもらってどこか嬉しそうなこの人は、やはり肝が座っているわね。

 

「先月の審議の件、まずは見事だったと言わせてもらおう。正直あれは凌がれると思っていなかった」

「運が良かっただけだ。情報が出揃っただけに過ぎない」

「ハッ、惚ける気かよ。こっちは全部聞いてんだ。――お前らはあの時、審議に勝てるだけの証拠は集められなかった。そうだろ?」

 

 綾小路君は正攻法とは言えない盤外戦術で、Cクラスの訴えを取り下げさせた。真っ当に審議が行われていたら、須藤君は何らかの処罰を免れなかっただろう。

 

「お前は、オレが何をしたのか全部お見通しだって言うのか?」

「大方はな。ただ、一つだけ不確かなのはお前が最後の切り札を手に入れた経路だ」

「経路? オレが自力で手に入れたとは思わないのか?」

「思わないな。あの時部屋の外には部下を配置していた」

 

 ある程度の密閉性まで保証されている空間を、その状況で綾小路君が観察できたわけがない。

 そして、

 

「部屋の中の様子を知っていたやつは独りしかいねえ。――浅川恭介。単身乗り込んできた腰抜け野郎が一瞬、悍馬に化けたってわけだ」

「いいや。オレはあいつからは何も教えてもらっていない」

 

 私が聞いているのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だけ。

 それを隠したということは……浅川君の能力を露呈させないため?

 

「ああそうだろうな。お前はそう答えるしかない。だが俺は確信している」

「何故だ? 聞いたところによると、あらゆるデータを検証しても暴露の証拠は出なかったらしいが」

「ああ。監視カメラも、ヤツの通話やメールの履歴も全て確認したが、お前との接触は見られなかった。――()()()()()()()()()()。まるで、接触を指摘する余地を残さないようにしていたみたいじゃねえか」

 

 二人は事件が明るみになる直前まで平生に違わず一緒だった。それがぱたりと途絶えたことを疑っているようだ。

 しかし、そこは綾小路君たちが一枚上手ね。疑いは疑いでしかない。

 

「なら最後の難問だ。あいつはオレにどうやって情報を提供した? あの状況を覆せるだけの情報を」

「……残念ながら、そこまでは掴めていない」

 

 これは、浅川君の演技力が効いているのだろう。

 龍園君の「腰抜け野郎」という断言。綾小路君から事前に聞き及んでいた評価と昨日この目で垣間見た浅川君の技量を考慮すれば、龍園君が「浅川君が最適な情報のみを密告した」可能性を信じきれない。きっと今も、多大な目撃証言や体験談をどの隙をついて共有したのかを考えているに違いない。

 そう思いふと綾小路君の方を見ると、意外なことに難しい表情をしていた。

 

「…………()()()()()()

「何?」

「一連の攻防で知恵を絞ったのは、やはりお前だけじゃないな」

 

 私も、向かい合う彼も、動揺を見せる。

 

「答えろ。Cクラスの参謀は誰だ」

「……ククッ。クッハハ! 流石だぜ綾小路、お前はやっぱ只者じゃねえ。ますます気に入った」

 

 その不気味な高笑いは、暗に優秀な幹部の存在を認めるものだった。

 この男の他に、高い知力を備えた人間がいる……? 綾小路君を一度出し抜いた人間が。

 

「悪いが質問で返させてもらうぜ。誰だと思う?」

「知る由もないな。Cクラスの知り合いはいない」

「ほう。じゃあお前は、ひよりのことも他人だと言い張る気か」

 

「ひより……?」つい聞いたばかりの名が突然飛び、思わず反応してしまった。「ひよりって、椎名ひより。さんのこと?」

 

「あ? ……なんだ、コイツには隠していたのか」

「別に、必要があったら話していたさ。――そうだな、椎名は確かに友人だ。だが、彼女が知恵を貸していた可能性はゼロだ」

「根拠は?」

「ここで答えるつもりはない。ハッタリだと思われても支障はないしな」

 

 龍園君は白い歯を見せて笑う。

 

「安心したぜ。どうやらお前は只者じゃないが、人間離れはしていないようだ。誰にも悟らせねえよ、うちの懐刀の手の内は」

「……そうか。なら期待はしないでおこう。自分で探す」

 

 目に見えない火花がちりちりと、二人の間に起こったように見えた。

 その空気に、どうしても気後れしてしまう自分がいる。

 

「もうここに用はない、帰らせてもらうぞ」

「オイオイ釣れねえな。バカンスのおすそわけをしてやると言っただろう。好きなだけ楽しんで行っていいんだぜ」

「…………興味ないね」

「嘘丸出しじゃない。あからさまに目移りして」

 

 海原と肉野菜を名残惜しげに見つめているのがバレバレよ。

 

「そもそも、おすそわけなんてあなた一度も言わなかったでしょう」

「遣いのやつから聞いていないのか?」

「遣い? 私達は自力でここを聞き出しただけよ」

 

「自力で? ……なるほどな」龍園君はわずかに訝しげな顔をしたあと、「お前の手腕か?」

 

「ええ。伊吹澪さん。素直なところもあるのに、あなたたちとは反りが合わないようね」

「伊吹はお前らが拾ったのか。――支配者に噛みつく部下を置いとく理由なんざねえよ。てっきり途方に暮れてリタイアしたかと思っていたんだがな」

「無理もない謀反ね。初日でポイントを使い切ろうとするリーダーに付いていくなんて馬鹿げているわ」

 

 敢えて挑発するように言ってやると、これまた愉快そうに鼻を鳴らす。

 

「俺たちは自由にやるだけだ。気に入らないか?」

「当然よ。私は怠慢が嫌いなの」

「ククッ、面白ぇ。お前の名前も覚えといてやるよ、堀北」

「即刻忘れてもらえると助かるわ」

「ここまで張り合ってそれはないぜ。ツンデレか?」

「……ッ!」

 

 まさかこの男からその単語を聞くことになるとは思わなかった。綾小路君と浅川君たちだけで十分よ……!

 

「クハハッ! 一番怖い顔してるぞ」

「綾小路君帰りましょう」

「くははっ――うぐぼぁ!」

 

 埒が明かないわ。

 

「邪魔したわね。もう二度とこの島では会わないのでしょうけど」

「さすがに聡いな。全員リタイアはお見通しってか?」

「……残りのバカンスを、満喫するといいわ」

 

 私は悶える綾小路君を引きずりながら、Cクラスの豪遊から身を離す。

 

「――一つ忘れていたわ」

「何だ?」

「私達は、名乗ったわよ?」

 

 振り返ると、気味の悪い笑みと目があった。

 

「龍園翔。嫌いなものは努力、好きなものはお前らみたいなやつさ」

 

 

 

 

 暫く、人目から遠ざかったところで、私達は足を止める。

 

「痛てて……ちょっとふざけたらすぐこれだ! 打ち所悪かったらどうすんだよ……」

「私にその程度の調節ができないとでも?」

「くっ……オレの体のこと、たくさん知られ――たうわっ! 何でだよ!」

 

 付き合うだけ無駄だ。私はとっとと本題に入る。

 

「教えなさい。あなたの考えを」

「――何のことだ?」

「Cクラスは、龍園君は何を考えているの?」

 

 安易に人を見くびる真似はしない。以前の事件のことを顧みても、彼が脳死でポイントを捨てているとは考えにくかった。

 

「ただ遊びたかっただけ、とは思わないんだな」

「ええ。……でも、その先は確信が持てない」

「対戦相手の胸の内なんて、大概が確信を持てないものさ。まずは言ってみろ」

 

 ……それもそうね。

 

「リーダー当て。それ以外に、切り捨てたポイントを挽回する術はないわ」

「具体的には?」

「……彼は伊吹さんをスパイとして送り込んだ。だけでは不十分なの?」

 

「大まかにはそれでいい」綾小路君は一切表情を変えない。「ただ、それに付随する問題を疎かにすべきじゃない」

 

「付随する?」

「もし伊吹がスパイだとしたら、試験の最後、誰が他クラスのリーダーを指摘する?」

「……伊吹さんに、なるんじゃないかしら」

「それが正解なら、龍園はただの間抜けだぞ」

 

 ……確かにその通りだ。

 

「リーダー当てをするには誰かが島に残らなきゃならない。その上で、他クラスに選択肢を絞らせてはならない。本当に伊吹だけを残してしまえば、その条件は満たされない」

 

 綾小路君がAクラスのリーダーに目星をつけた時、そこにいたのは二人だったらしい。それでも彼は自信を持って正解を導いたのだから、その見解には説得力がある。

 

「つまり、彼女の他に島に残る人間がいるということ?」

「真っ先に浮かぶ可能性は龍園だ。Cクラスの統率力はアイツに偏っているからな。あるいは、別のクラスにもスパイを潜らせているのなら話は変わってくる」

 

 そもそも、スパイという任務は一定以上信用していなければ与えないだろう。

 

「オレとしては、両方行っている可能性が高い。あいつの側にあったテーブルの上を見たか?」

「テーブルの上……ちょっと待って」

 

 思い出せ。確かあそこには……

 

「……無線機が二つ。他とは異質な代物だったわ」

 

 綾小路君はにわかに顔を綻ばせる。

 

「バカンスに直結しないそれは、恐らくスパイとの連絡手段だ。龍園が残らないのなら、態々進捗を逐一報告する必要はない。スパイ作戦は途中で方針変更をすることが難しいからな」

 

 と、なると、

 

「じゃあ、龍園君がリーダー?」

 

 得たリーダー情報を龍園君に集める合理的な理由はそれしかない。よくよく考えれば、もしD以外のクラスにスパイがいて、その誰かがリーダーだったとして、スパイどうしでリーダーの情報を共有できない。

 

「あくまで推測だ。どうやらDクラスは元々招かれるべき客だったようだし、無線機を態と見せることで誘導しようとしている可能性も捨てきれない」 

 

 挨拶程度の顔出しだけでここまで思考が延びるなんて……。結論は定まっていないとはいえ、私独りではできない芸当だった。

 

「知っておきたいのは、他クラスの状況。スパイが潜り込んでいるのか。ということかしら」

「偵察ついでにそれを確認するのもいいかもな」

 

 まだBクラスの生徒とは一度も会っていないため、拠点の位置がわからない。一度ベースキャンプに戻るのもありだけど……。

 

「Aクラスを探ってみましょう」

「…………オレも気になる。行ってみるか」

 

 やはり今回の彼は、珍しく積極的だ。そう思う度、浅川君の言葉が過る。

 これも全て、何らかの目的のためだと言うの?

 

――――――――――――――――――――――――――――

 堀北と並んで進む綾小路。

 彼にはまだ、共有していないことがいくつかあった。

 そのほとんどが、しても特に意味はなかったり、ただ面倒なだけだったりするのだが。

 例えばポイントの確保手段。

 リーダー当て以外にも、ボーナスポイントの獲得は可能だ。あれは「試験後の加算」だと茶柱は言っていた。自分たちが龍園と会話していたその時にも、万が一龍園以外がリーダーだった場合ボーナスポイントを稼がれていたかもしれない。

 そして、Cクラスのバカンスの模様。

 龍園の「全ポイントを消費した」という話を、()()()()()()()()()()()()()()

 300というポイントと実際に置かれていた物品が釣り合っていないと、あの時間で気付いたからだ。

 可能性は二つ。

 一つは、他クラスへの譲渡。ポイント譲渡の可否は規定されていないが、最悪Cクラスが注文したものを相手クラスに横流しすれば問題ない。

 しかしそんなことをするのには、相応のメリットが必要であり、契約が要る。そこで思考は行き詰まる。

 C()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 となると二つ目の可能性、「あくまで保険として温存している」に賭けるしかない。

 攻撃的な龍園の発案かは疑わしいが、彼の他に知力が存在しているという確信がある以上、その状況はありえなくはなかった。

 ――さすがに、言うだけのことはあるな。

 情報は伏せられている。これ以上の考察は無意味だ。

 彼らの足は、北の洞窟へと向かっていく。

――――――――――――――――――――――――――――

 

「中の様子は見えないわね……」

「葛城は堅実な男らしいからな」

 

 入口を覆う暗幕を前にして、私達は立ち往生していた。

 綾小路君曰く、昨日見つけた時にこんなものはなかったらしく、やはりここがAクラスのベースキャンプだろうという結論になった。

 

「どうするんだ?」

「何もせず帰るのは面白くないわね。……」

 

 思案してすぐに浮かぶ策は安っぽい強行突破だ。ルール上、それを指摘されたところでペナルティはない。しかし、それでは旨味がないのも事実。追い出されでもしたら、二度と近寄ることができなくなる危険性がある。

 一度きりの試みで何かが得られるかはわからない。なら、他にもっと効率的な選択はないかしら。

 ……こういう時は。

 

「お、おい。どこ行くつもりだ?」

 

 綾小路君の疑問をよそに、私は迂回し山の裏側へと回る。

 ……小屋が見えてきた。近くには梯子があり、どうやら頂上にまで繋がっているようだ。

 

「こんなところがあったんだな。穴場ってやつか」

 

 確かに、洞窟を囲むようにして広がる森林に隠れていて、この場所は発見しづらい。立地的に、それこそこのあたりを拠点とするAクラスくらいしか目に留めることができなかっただろう。

 

「あそこ、人がいるな」

 

 綾小路君の言う通り、梯子の袂には門番のように構える二人の生徒の姿があった。無理に踏み込めばすぐにバレてしまう。 

 一通りの『洞察』を終え、私は『想像』する。

 私が、Aクラスだったら……。私が他クラスから隠したいことがあったら……。

 

「こうしましょう」

 

 ようやく一つの答えがでた。

 私の指示に、綾小路君は嫌な顔せずうなずく。

 私は踵を返し、再び洞窟の入口に戻る。

 ……誰もいないことを確認し、暗幕を潜る。

 数メートル先に、見覚えのある装置が見えた。

 

「Aクラスが占有、か……」

「おい! お前、何をしている」

 

 予想通り、威圧するような声で呼ばれた。

 

「勝手に侵入するんじゃない。ここはAクラスの占有しているスポットだ」

「偵察に来ただけよ。侵入すること自体はペナルティの対象じゃないわ。荒らしたわけでもないのだし、訴えられる覚えはないわよ」

 

 用意していた反論を述べると、相手は口ごもる。あら、ひとえにAクラスといっても、この程度の人間もいるのね。

 

「弥彦。今は客人を招く許可は出していないぞ」

「か、葛城さんっ。すみません……」

 

 洞窟の奥から、スキンヘッドの大柄な男が現れた。この人が、二枚岩になっているAクラスの、片翼……。

 わずかな怯みも表に出さず、私は口を開く。

 

「Dクラスの者よ。中を確認させてもらうわ」

「Dクラスだと? ……断る。ここはAクラスが占有している」

「二度は言いたくないのだけど。ルール上認められている権利にいちゃもんをつけられる道理はない」

「マニュアルに限ればそうだろう。しかし、一つのスポットを一つのクラスが占有し、他クラスからの干渉を防ぐ。というのは暗黙の了解であるはずだ。現にお前たちも、占有したスポットを独占しているだろう」

 

 さすがに簡単には認めないわね。でも、

 

「暗黙の了解? 笑わせるわ、あなたの勝手な解釈に合わせるつもりはない。私にとっての暗黙の了解は、『グレーラインは基準を設けた学校側の責任であり、処罰の対象とはならない』よ。それに、別にあなたたちがDクラスのベースキャンプに来ようと私達は歓迎するわ。こんなところで臆病になってなきゃ、すぐにでもわかることだけど?」

「ふん……挑発したところで無駄だ。俺たちは貴様をこの先へ通すつもりはない。尺度を合わせて言うなら、これもルール上禁止された行為ではないはずだ」

 

 平行線、というわけね。

 まあいいわ。そろそろ十分でしょう。

 

「なら私達も、あなたたちの来訪の際には然るべき対応をさせてもらうわ」

「好きなだけ邪険にするといい」

「……そう」

 

 弁舌戦を終え、外に出ようとする。

 

「待て」

「……?」

「これだけは言っておく。俺たちは敵である前にしがない高校生だ。状況によっては、闇雲に敵対はしない」

 

 今一つ要領を得ない。さっきの言い合いをやり過ぎだったとでも思っているの?

 私は訝しげな顔をするだけで、特に何も言い返さずその場を後にした。

 

 

 

 元いた茂みで待っていると、やがて綾小路君が戻ってくる。

 

「どうだった?」

「やっぱりスポットだった。Aクラスが占有して数時間経っていたぞ」

 

 私が正面から突入して粘っていれば、嫌でもクラスの長がやってくる。すると他の生徒の関心も自然にこちらへ向く。

 そうして裏口が手薄になった隙に、綾小路君に踏み込んでもらう。というのが今回の作戦だった。

 隠したいことがあるとき、私なら一刻も早く侵入者を追い出そうとする。想像力を働かせた結果だ。

 

「お前のおかげで大層入りやすかったな」

「小屋の中まで行けたのね。何か見つけた?」

 

 スポットには何らかの恩恵があるケースがある。小屋なんてあからさまな場所なのだから、きっとわかりやすいメリットがあるはず。

 

「釣り竿があった。注文するものと大差ない性能で、先端の濡れ具合からちゃんと使っていることも確認できた」

 

 釣り竿、精々一桁分のポイントとはいえ、水辺の近隣であることも踏まえると便利なものね。

 

「余裕があったから周辺の探索もしてみたが、わりとスポットが密集していて驚いたぞ」

「それは……随分と都合のいい場所を手に入れたのね」

 

 やはり本命を綾小路君に任せたのは正解だった。正論ばかり返しがちな私が時間稼ぎ、体力も洞察力にも優れているであろう綾小路君を探索に回した効果は、あったかしらね。

 

「これ以上は高望みでしょう。帰るわよ」

「待て。Bはどうする?」

 

 あと一クラス、偵察を終えていない。

 

「どうしようもないわ。当てがないもの」

 

 私達のように、Bクラスの方からDクラスに接触している可能性もある。平田君あたりが何か情報を得ていることを期待しよう。

 

「無人島にいる間は二食だしな。目的もなくエネルギーを消費するのは得策じゃないか」

「そういうことよ。――あなたまた……」

 

 振り向くと、懲りずにスポット占有をする綾小路君。

 私との往路だけでなく、これまでの探索でも――時に同伴者に隠してもらいながら――道すがらスポット占有を行っていたらしい。

 

「別にいいだろ。人目はない」

「わからないでしょう」

「信用できないか?」

「…………いつからそんなズルい男になったんだか」

 

 正直、彼が並みの生徒の視線に気付けない場面を想像できない。……私が攫われた件も、大袈裟なくらい反省していたみたいだし。

 

「お前が意固地じゃなくなっただけさ」

「緩くなったって言いたいわけ?」

「悪いことじゃない。オレは今のお前の方が好きだ」

「……! そういうことを言う時のあなたはすこぶる嫌いよ」

「は? な、なんでだよ」

 

 それが本当にわからないところも含めてよ……!

 




補足
・綾小路は本当に椎名たちのことを隠していたつもりはなかった
・しかしオリ主と椎名の不穏さから、今二人の関係と取引の内容をグループの外へ漏らすのは憚れた→ただの気遣いから「ここで答えるつもりはない」発言
・堀北は椎名について「綾小路の知り合いである」ことのみ知った
〈原作との差異〉
・軽井沢がオリ主に同情→態度緩和、川の水問題でオリ主を庇う=池側に立つ
・伊吹からCクラスの情報を聞き出した→神崎の来訪より先に綾小路・堀北が出発→Bクラスのベースキャンプの場所を知らなかった
・神崎の行動が早まった→小宮・近藤とバッティング、Cクラスの拠点を知る→現在進行中
・龍園が言及したのは伊吹の追放のみ、金田の動向が確信できない
・龍園の興味が綾小路>堀北→前者は知っていて後者は調べていなかった→堀北に名前で呼ぶほどの好感を持っていない

恐らく原作通りの大局なら、この堀北だと戦えるんじゃないですかね。体調悪くないし、キーカード取られなさそうだし。本人のモチベは別として。

細かい原作との差異を軽く抜粋してまとめてみました。露骨なもの(探索メンバーや高円寺の貢献等)は省き、2つほどステップを踏んでいるものが中心です。
特に綾小路たちがBクラスと関われていないというのが、行き当たりばったりな作者自身驚いています。どうなっちゃうんだろう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

接近するアウトキャスト

 ベースキャンプに帰るや否や、平田君から衝撃の一言を告げられる。

 

「櫛田さんを独りに?」

「ごめん……断れなかった」

「……っ、あなた、自分が何をしたかわかっているの?」

「落ち着け鈴音。まだ何かがあったわけじゃない」

 

 これが落ち着いてなんて……。最も裏切り者に近い存在を、他クラスに対してフリーにしたのよ。

 偵察の結果を伝えた報酬として得たのは、Bクラスのベースキャンプ情報と櫛田さんが単独行動に出たこと。前者は午後に行くことができるので旨い情報だが、後者は……体裁のために点呼に来ないなんて横暴には出ないだろうが、そういう問題ではない。

 

「こうなった以上、どのみち当てもなく櫛田を探すのは得策じゃない。これからどうするつもりだ?」

 

 綾小路君に急かされる日が来るとはね。

 確かに彼の言う通りで、実際今からやれること、やらなきゃいけないことはある。ただ、それより先に確認したいことがあった。

 

「浅川君は?」

「それが……」

 

 バツの悪そうな平田君に従いテントを覗く。

 

「まだ寝てるのか……?」

「体調不良も疑ったけど、特に呼吸の乱れはないし異常は見られない。周りの声もあって、一応放置しているんだ」

 

 周りの声?

 

「何人かね」

「……? そう」

 

 実のところおかしいことではない。私達が会合した時刻から、およそ10時間経つ。朝の点呼を終えてすぐに行動を開始した私達の方が、無理をしていると思われてしかたないのだ。

 ただ、これもまた、そういう話ではない。

 試験に消極的だったとしても、彼はバカンスを人一倍楽しみにしていた。念願の時間をテントの中で寝るだけで満たされるとは、とても思えなかった。

 これにはさすがの綾小路君も合点行かないようで、顎に手を当てている。

 

「寝込んでいる以上、無理強いをする事情もないしそっとしておきましょう」

「……ああ、そうだな」

 

 予想外のことで、対応に困ってしまっているのが本心だ。怠けているだけなら引っ張り出すのもやむなしだったが、これでは体調不良の可能性もある。変にリタイアを招くことは避けたい。

 仕方ない。私達だけでBクラスを見に行こう。そう綾小路君に切り出そうとすると、

 

「どうかした?」

「ん? 別に何も」

 

 ……気の所為、かしら。今、違和感があったような……。

 

「日が暮れる前に済ませよう。足を捻りでもしたらかなり響くぞ」

「言われなくてもわかっているわ」

 

 

 

 

「あれ? 堀北さん、綾小路君。よくここを見つけられたね」

 

 開口一番。一之瀬さんは瞠目してそう言った。

 

「驚くことではないでしょう。神崎君の方から教えてくれたんだから」

「神崎君が? 神崎君、Dクラスの拠点に行ってたの?」

「え?」

 

 どうにも話が噛み合っていない気がする。私は念のため根底から状況を確認することにした。

 

「今日の午前中に、神崎君と柴田君はDクラスのベースキャンプに顔を出して、そっちのベースキャンプの場所を教えてくれたのだけど、あなたはそれを認知していないのね?」

「うん。点呼を終えた後神崎君と少し話をして、暫く経ってから二人がいなくなっていることに気付いたの。今まで何の連絡もなしに動いたことなんてなかったんだけど……」

 

 私の目からも、神崎君が独断行動に出るような人には映っていなかった。しかもこんな、連絡の必要性の高い無人島で……。

 

「何か心当たりはないのか?」

「それは…………」

 

 口ごもる一之瀬さん。あるけど言いたくない、のが伝わってくる。

 

「答えられないなら無理にとは言えないわ。でも、何かあったら相談してちょうだい」

「堀北さん……ありがとう。とりあえず夜の点呼まで待ってみるよ」

「別に、これで何かマズいことが起きていたら、自分がみすみすそれを放置したことになるのが嫌なだけよ」

 

 何せ、私は訴えれば裁判沙汰にできるような目に遭っているから。

 

「Bクラスは総じて、上手い具合に生活できているようだな」

 

 淀んだ空気を払拭すべく、綾小路君が話を切り替える。ハンモックや井戸の水を使うことで、少しでもポイント消費を抑えているようだった。

 

「キャンプ経験者が何人か知恵を貸してくれたおかげかな。今回の試験、自分の非力さを度々痛感しちゃうよ」

 

 ……彼女もそういう感情を抱く事があるのね。底抜けの前向きさを、勝手に解釈していたけど。

 

「他クラスから訪問者はいなかった?」

 

「いたよ」遠回しに聞くと、予想していた答えが返ってきた。「Cクラスの金田君。リーダーに酷い目に遭わされた挙げ句追い出されたって。匿うことにしたよ」

 

「Dクラスも、伊吹ってやつを同じように置いている。二人はCクラスが潜り込ませたスパイの可能性が高い」

 

 根拠も忘れずに伝えておく。

 

「やっぱりそうなんだ……。Dクラスは何か対策を考えているの?」

「保留という形になっている。一応厳重に監視は敷いてあるけどな」

 

 時間に余裕があるわけでもない。そろそろ本題に入ろう。

 

「一之瀬さん。私たちがここに来た一番の目的は、今回の試験における関係について」

「どういう、こと?」

「神崎君は平田君に、『協力の余地を残してほしい』と言っていたわ。私としては、今のDクラスは三クラス同時に相手にする力を持っていない。かと言ってこれ以上利益を分け与えたくない。だから、不干渉が理想だと思っていたのだけど、どう思う?」

 

 簡潔に自分の意見を伝えると、またしても一之瀬さんは微妙な顔をする。

 

「神崎君がそう言ったの?」

「え、ええ。もしかして、それも共有していなかったの?」

 

 どうしてしまったのだろう。これほどの認識違いを、しかもリーダー格の二人がきたしているのは、はっきり言ってBクラスらしくない。

 

「……私も、本当は堀北さんと同意見だよ。けど、彼がそう言う気持ちもわからなくはない」

「メリットも十分理解しているようだったらしいしね」

「だから……保留、になっちゃうかな。意見が分かれたまま判断は下せないっていう、ちゃんとした理由でね」

 

 協力か不干渉か。これは似ているようで全く状況の変わる問題だ。

 協力すれば、単純に総合力の高いクラスが味方になるが、いざというときにBクラスとのポイント差の縮小は期待できない。

 不干渉はと言うと、こちらで何か問題があった際に一番頼りやすいクラスを頼れない。ただ、こちらが獲得した利益をBクラスに横流しする必要性は全くなくなる。

 ただ、どちらにも共通しているのは、Bクラスからの詮索を警戒するリソースが要らなくなるということだ。

 

「わかったわ。とりあえず、今はBクラスに深入りはしないでおく。Bクラスがこちらに来たときも、話には応じるけどそれ以上は拒ませてもらう。これでいいかしら?」

「ごめんね。私達の方で決まったことがあれば、なるだけ伝えるよ」

 

 Bクラスの現状、想像していたよりも芳しくないようね。

 重い空気に当てられながら私達はその場を後にした。

 

 

 

 

 足元の視界が覚束なくなってきたところで、ベースキャンプにたどり着いた。

 綾小路君は早めの夕食をとって睡眠まで一直線のようだ。浅川君は、驚くことに結局丸一日起きなかった。

 私もさすがに疲労が蓄積していたため、残すはテントに潜るのみというところまで済ませたが、まだ二つやっておきたいことがあった。

 

「伊吹さん。あなたの知りたいことについて、少しだけ得た情報があるわ」

「なんだって? ひよりのことか?」

 

「ええ」昨夜のように彼女の隣に座る。「その前に、あなたについて聞かせて」

 

「私のこと?」

「あなた、椎名さんとはどういう関係なの?」

「ど、どうでもいいだろ。そんなこと」

「隠すことでもないなら、知る権利くらいあると思うわ」

 

 元を辿れば先に話題をだしたのは彼女のほうだ。これくらいのことは許されるだろう。

 

「……友人だ。お互いクラスに馴染めなくて、なかば意気投合した延長みたいな感じ」

「そう……あなたとだけは相性がよかったのね」

「いや、そういうわけじゃ……わからないけど、私とは似ても似つかないタイプだよ。時々何考えているかわからなくて、能天気に感じる部分もある危なっかしいやつだ」

 

 どことなく、浅川君に似ている。

 

「まさかあんたからそんな風に会話を切り出されるとは思わなかったな。――で? 私は答えたぞ。何を知ったんだ?」

 

 小恥ずかしそうに目を逸らし、伊吹さんは本題に戻す。

 

「あなたを連れてきた綾小路君。彼が椎名さんと知り合いだったみたい。龍園君といがみ合っているときに名前を出してた」

「アイツがか? ……怪しいな」

 

 案の定、難しい顔をしている。怪しいという言葉の意図は?

 

「そもそもあなた、どうして椎名さんの交友関係を探ろうと?」

「……最近妙に元気がなくて。何もしてやれることがなかったとしても、モヤモヤしたままなのは嫌だったんだ」

 

 ……なるほどね。ほんの少しだけど、その気持ちはわからなくない。

 

「それがちょうど、例の事件のころからだった」

「功労者である綾小路君が、何かしら関わっているのかもしれない。そう言いたいの?」

「他の心当たりでもあれば、話は変わるけど」

 

 接点がある時点で全く無関係とは言い難いけど、その真偽は定かではないか。

 彼がもっと普段からプライベートな話題を出していたら。などという考えをすぐに打ち消す。そこまで親しい関係を望んでいるわけじゃない。

 

「私には尚更踏み込む意味のないことのようだし、また椎名さんの知り合いを見つけたら連絡程度はしておくわ」

「ああ、それだけでいい。……ありがとな」

 

 言い慣れてない謝辞を受けるとこそばゆい。あの時の櫛田さん、こんな気分だったのね。

 別に、理由もないのに突っぱねる気にはならなかっただけだ。悩み事のようだったし。

 私はそこで思考を打ち切り、別の人物のもとへ向かう。どちらかというと、こっちが本命だった。

 

「ちょっといい? ――小野寺さん」

 

 名前を呼ばれた少女は振り返ると、人当たりのいい表情で応えた。

 

「どうしたの? 堀北さん」

「実は――」

 

 経緯も含めて、頼み事を伝える。

 

「それで私に白羽の矢が立ったんだね」

「お願いできるかしら?」

「いいよ。真っ先に頼ってくれたってことだよね? 悪い気はしないし、喜んで」

 

 小野寺さんにお願いしたのは伊吹さんの監視だ。私は早々に、トップバッターはこの人だと決めていた。運動能力と体力の高さ、綾小路君から聞いていた良心的な性格が決め手だった。

 あまり面識のない人を頼ろうとするのはどうにも緊張してしまうが、印象に違わず了承してくれたことに安堵する。

 因みに翌日についても目星はついている。信用、あるいは信頼に足る人物だ。

 これで暫くは、特にやることはなさそうだ。

 一気に押し寄せてきた脱力感に抗うことなく、私は一日を終えることにした。

 

―――――――――――――――――――――――――――

 翌朝、私が真っ先に行ったのは、小野寺さんへの確認だった。

 

「特になにもなかったよ」

「そう。……」

 

 たまには邪推してみよう。聞き方を変える。

 

「綾小路君と浅川君に動きはなかった?」

「い、いや、それもなかったけど……Dクラスの人も気になるの?」

「ええ、まあ」

 

「それなら」小野寺さんは思案の後、「何人かトイレに行ってたよ」

 

「何人か……メンバーは?」

「篠原さん、佐藤さん、松下さん。大体一緒にいる面子だよね。真っ暗でもたついてたけど、美容ケア用品とかを持ち出してたのかな? 私そういうのはあまり精通していないけど……多分そんな感じ」

 

 参考になった? と聞かれるが、さすがにそれはわからない。

 少なくとも、あの二人に目立った動きはなかったようだ。

 

 

 

 折返しに突入するということで、平田君の提案で今日と明日、つまり三日目と四日目にわたり休息日を設けることとなった。

 二日間もか、という声もあったが、休息は半々で交代するらしい。昨日までにやっていたことを全員ぱたりととやめてしまっては困るというのは誰もが同意できることだった。

 とはいえ例外はいる。まず綾小路君はリーダーということもあって、合間に休みつつも適度に行動するらしい。スポットの占有もしておきたいのだろう。やる気があって何よりだ。

 私は、明日は兎も角今日は午前で休むつもりだ。理由は二つ。一つは警戒対象の一人である櫛田さんが動いていないこと。そしてもう一つは、

 

「……さすがに心配ね」

「だ、だだ大丈夫だと思いますよ! いつも、のんびりしているじゃないですかっ」

 

 井の頭さんが、私と浅川君を交互に見ながら言う。

 10時半を過ぎても一向に目を開かない。平田君の言っていた通り体調に問題はなさそうだが……本当は人目を掻い潜って行動しているのではないだろうか。

 しかし、誰の目にも触れないタイミングなどあるはずもなく、その考えは潰れざるを得ない。

 

「もし起きたら伝えておきます。堀北さんがすごく心配してたって」

「……! やめて」

「な、なんでですか?」

「少なくとも、『すごく』ではないわ」

 

 気が気でないような言い方は語弊がある。試験に支障がでるかどうかの話に過ぎない。

 因みに点呼は相変わらずだ。茶柱先生は溜息をついていたが、一応目的である監督責任に害は与えていないことが加味され、ペナルティは無しとのことだった。

 井の頭さんはきょとんとした顔の後、わずかに綻ばせる。

 

「じゃあ、ちょっとだけ心配してたって言っておきます」

「…………ええ、ちょっとだけよ」

 

 否定するだけ無駄だと判断する。

 今日の見守り役と自称する彼女と浅川君を置き去りに、テントを出る。

 

「お疲れ様、堀北さん」

「あなた……昨日は何をしていたの?」

 

 態々話しかけてきた櫛田さんに懐疑的な眼差しを向けるが、彼女はけろっと答えた。

 

「単独行動だよ?」

「それで私が、健気にお疲れ様って労うと思う?」

「えー、労ってくれてもいいじゃんつ」

 

 どの口が、と言おうとしたその時。

 突然彼女は一歩近づき、声量を落とした。

 

「あなた、誰か使ってる?」

「なっ……」

「それとも、使われてる?」

 

 隠されているものを無理矢理掘り起こそうとするような剣幕にたじろいでいると、櫛田さんはふっと悪意を消し、若干冷めた声を出す。

 

「やっぱ外れだったか。――急にごめんね。堀北さん」

 

 呆れが、混ざっているような気がした。

 社交辞令を投げて去る彼女を見て、何かが水面下で起きているのを感じる。

 しかし、そんな途方もない場所に私が踏み込めるのか。拭えない不安が心地悪かった。

 

 

 

 

 

 

「これくらいでいいんじゃない?」

 

 怠惰な声音で軽井沢さんが言う。

 

「……そうね。もうそろそろ、採れなくなってくる頃だろうし」

「他のクラスも同じことやってるはずだもんね。Cクラスがリタイアしてくれなかったら、もっとヤバかったのかな」

 

 ヤバいって何よ。

 あまり動きたくないが動かないのは興が乗らない。そう思った私はベースキャンプの付近で簡易な探索を行うことにした。今までとは趣向を変え、景観にも着目してみる。

 それを見かねた平田君が同行者に当てたのが、軽井沢さんだった。何を考えているのかしら……。

 

「堀北さん、景色とかにも興味あるんだ。意外」

「私だって、所在なく物思いに耽ることくらいあるわ。――あなたの方こそ、最近は特に大人しいじゃない。意外ね」

「は? 何それ」

 

 先に仕掛けたのはあなたでしょう。

 ただ、彼女に抱いている印象に嘘はなかった。

 

「須藤君を助けることに賛成したり、すすんで川の水を試そうとしたりするようなお人好しだとは、思っていなかったというだけよ」

「…………まぁ、言いたいことはわかるけどね。でもさ。心当たりっていうか、同情みたいな気持ちって、嘘つくのは難しいじゃん。私なりに考えていることだってあるの」

 

 考えていること――芯、なのかしらね。

 そんな風に言われると、妙に印象とズレた行動にも、何だか説得力があるように思えてくる。

 クラスに害をなさないのであれば、とりあえずそれでいいだろう。

 

「あんたさ、浅川君から何か聞いていたりする?」

「目的語がないとわからないわ」

「ほら、何か重めな話みたいの」

「…………なくはないけど、具体的な事情は何も」

 

「そっか」彼女の今回の行動のきっかけ、またしても浅川君だとでも言うのかしら。

 

「おっとと! 危なっ。今日はよく滑るねぇ」

「湿度が高いのかしら。油断すると簡単に転んでしまうわ」

 

 見上げると飲み込むような曇天。明日ごろには、危ういかも。

 場所によってまちまちなのか、ここ一帯もやはり地面が滑りやすくなっている。

 これ以上無理に歩くこともない。そう判断し、私達はベースキャンプへと戻った。

 

 

 

 三日目の終わり。

 就寝前だった私は次の監視係の当てを当たる。

 次の候補は小野寺さんと違いある程度の面識がある。その分、彼女ならきっと問題なく役割を果たしてくれると信頼に足る。

 

「ちょっといいかしら」

 

 今度は、私から話しかけることになったわね。

 

「――佐倉さん」

「あれ、どうかしたの? 堀北さん」

 

 彼女は、もう物怖じした様子もなく反応した。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「なあおい、本当に大丈夫なのかよ?」

 

 中身の判然としない、憂慮の声が届く。

 

「そんなに私のことを間抜けだと思ってるの?」

「いや、そういうわけじゃねえよ? ただ、俺だって伊達にお前や鬼頭とつるんでないんだ。我らが姫様のおかげでな」

 

 要は「俺とお前の仲だ」と言いたいようだ。

 たかが半年にも満たない付き合いで何を言うか。それに、どちらかと言うとそっちの方が打算的だろうに。

 

「心配しなくても、やれって言われたことを手抜きはしないよ。下手こいたら、あんたの崇拝するお姫様の顔が真っ赤になる」

「真っ赤になるくらいならかわいいもんだな。愉快な『お仕置き』が待ってるかもしれないぜ」

 

 ケラケラと、今まさに愉快げに笑う男。生きるのに苦労しなさそうだ。

 きっと、良くも悪くもドライなのだろう。ただ無愛想にしている自分より余程。

 そんな彼の、気楽の仮面で隠した能面を、少し羨ましく思う。……思ってしまった。

 

「まぁ簡単なお仕事だし。特に坂柳から言われてることは気にしてないさ。けど俺が心配しているのは、言われていないことについてだ」

「……っ」

「言ってんだろって。伊達に顔見てないんだよこっちは」

 

 我ながら不便な劣悪ポーカーフェイスだ。意味のない自責と、どこからきたかもわからない後悔が湧き上がる。

 それを誤魔化すように、彼女は背を向けた。

 

 

「――じゃ、行くから」

「おう、気をつけろよ。――お前もなんか言ってやれよ」

「………………ファイッ」

「ん、お? お、オー。…………俺が滑ったみたいじゃん」

 

 滑っている。実際。

 こんな男にどうして一瞬でも羨望を抱いてしまったのだろう。瞬間最汚点記録だ。

 数日ぶりの外の空気。葛城はよくもまあこんな狭っ苦しいところを拠点にしたものだ。

 ようやく島を歩き回れる。純粋な高揚、緊張。試験への不安。色々な感情が去来する。そして勿論――――。

 大きく伸びをする。身体が重い、しかしすぐに慣れるだろう。慣れてもらわねば困る。

 言われたことと、『言われていないこと』のために。彼女はゆっくりと歩み始めた。 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後追いのストレンジャー

やっべー、描く展開が全部1日遅れてたの今更気付いたー。
そんなわけで、後半露骨に急展開になるかもしれません。もともとぶっとびな展開も起きる予定だったから尚更ヤバくなるかも。


 森の外れ。

 ある予感を抱えていた綾小路は、伊吹を発見した場所に戻っていた。

 一見、めぼしいものは何もない。

 それは彼の目を以ても同じことで、一応周辺も捜索するが、目印も痕跡も発見できなかった。

 ダメ元で、地面も少し掘ってみる。

 ……。

 ……やはり、何も出てこない。

 悪魔の証明はできないが、恐らく結論づけても構わないだろう。

 伊吹澪の潜入目的は、リーダーの詮索ではない。

――――――――――――――――――――――――――――

 

 無事に佐倉さんから息災の報告を受けた私は、平田君と話を付けに行く。

 

「平田君、今更なことなのだけど、あなたはこの試験どう考えているの?」

「え? えっと……はは」困ったように笑って、「実は、あまり考えられていなくて」

「それは……」

「余裕がないっていうのが現状かな。案外トラブルが尽きないから。その代わり、他クラスとのやり取りは綾小路君にお願いしている部分が大きい」

 

 私でも曖昧に感じ取れるくらいだ。直接頼られることの多い平田君は、より具体的な『問題』に付き合わされているのだろう。一概に責めることはできそうにない。

 それに、やはり綾小路君か。

 

「彼とは何か共有を?」

「色々とね。Dクラスの統率は僕に一任したいらしい」

 

 根本的で最低限のことだけ、なのかしら。

 

「……でも、妙だったな」

「妙?」

「彼が、僕だけに任せるのが意外で」

「は? い、いや、」思いもしなかった違和感だ。「正直今のDクラスは、あなた無しで纏まることはできないわ」

「そ、そうなのかな……。でもこの前の事件といい、綾小路君はもっと色んな人を信じようとしていたはずだ。例えば、櫛田さんとか」

「櫛田さんを? まさか」

「うーん、多分綾小路君はけっこう彼女のことを気に入っているよ。気に入っていた、と言うべきかもしれないけど」

 

 あり得ない。そう言い切ることができなかった。

 私は彼の内面を、大して覗いたことがない。浅はかな話、同性である平田君にだからこそ打ち明けやすい胸の内があることだってある。

 どう、なのだろう。わからない。

 すると、続けざまに平田君の口から疑問が出る。

 

「正直ね、堀北さん。僕は彼のことが、少し心配なんだ」

 

 どうやら平田君も、何か思うところがあるらしい。

 

「私達に隠れて奸計を企てていると?」

「……そこまではわからないけど。どこか危うさを、感じるような気がするんだ」

 

 危うさ……浅川君の警戒心と通じるものがあるわね。

 それを見透かしたように、平田君は続ける。

 

「だから本当は、浅川君に何か聞けたらと思っていたんだけど。彼だから気付けることもあったかもしれない」

「……そうね。眠る前は私にも言っていたわ。綾小路君が怪しいって」

 

 ふと、ある仮説が浮かび上がる。

 浅川君はあの時、明確に私への助言をした。内容はともかく、私に何かを任せる意思が明らかだった。

 今思えば、彼はわざとそうしたのではないか?

 本来であれば彼自身が見張っておけばいい話だ。私達に任せるより余程安心できるはず。

 ここまでの長期睡眠が予定されていたもので、その間動けないからこそ、私に託した?

 ……考えすぎ、だろうか。

 

「やっぱり、浅川君も何かに気づいてたんだね。にも関わらず今も寝たままなのは……その意図まではわからないか」

 

 結論は出せないと、平田君も判断したらしい。

 

「相談しようと思っていたこともあったんだけど、これじゃ難しいかな……」

「浮かない顔ね。悩み事?」

「まあ……堀北さんが相手だから本音を漏らすけど、二人に信を置くことで保っていた部分もあるんだ」

「……そう。あなたも弱る時があるのね」

 

 浅川君についてはいつもと同じくわからないけど、綾小路君と平田君は須藤君の事件以来交流が深まっていたように思う。その前後から、彼なりに信頼を寄せていたのだろう。

 相談事というのが、少し気がかりだけど。

 

「ありがとう、心配してくれて」

「心配? ……そんなもの、していないわ」

 

 苦笑された、遺憾である。

 本当に心配などしていない。彼がこれしきのことで根を上げると思っていない。

 

「堀北さんのことも、頼りにしているよ」

「……期待に沿えるかは、わからないわね」

 

 気力はある。優しいアイドルのおかげで気概は持てた。

 でも、やはり不安は拭えない。目を逸らすべきでない現実は、自分の力量不足を突きつけて止まないのだ。

 リーダー当ての難しさや他のやれることの少なさを差し引いても、私はこれといった策を講じることができていない。

 他のクラスは、綾小路君たちは、一体どんな考えで、どう動いているのかしら。

 

「堀北」

「茶柱先生?」

 

 試験が始まってから、先生に話しかけられるのは初めてだ。

 

「綾小路から質問があった。念のためお前にも共有しておく」

 

 あの人、また勝手に……。

 何だか最近、隠し事が多い気がする。

 

「他クラスへのポイント譲渡は、各クラス一度のみ可能だ」

「は……どういうことです?」

「契約として成立すれば方法は限定されていない。ポイントそのものを譲るのも良し。ポイントで購入した物資を渡すのも良し。いずれも双方の同意があれば障害がない。認められる」

「い、いえ、そういうことではなく……」

 

 話に置いてかれ気味になっていると、ようやくまともに口を利いてくれる。

 

「メリットがあるか、は関係ないだろう。事実綾小路がその質問をした。私は答えたが、アイツはそれを共有するつもりがなかった。しかし私は共有すべきだと思い、その相手をお前に選んだ。それだけだ」

「……何故私なんです?」

「さあな、偶々だろう――」

 

 すっとぼけているが、およそ打算的なのは想像がつく。綾小路君に近しい人物だとか、他クラスと戦うのに積極的だとか、そんなところだろう。

 譲渡の方法が限定されていないことの意味は答えが出せる。先生の説明した二者では、実際に購入したクラスの表記が変わる。

 しかし、やはり譲渡自体のメリットがはっきりしない。考えられるのは、取引材料? でもクラスポイントを得るために実質クラスポイントを手放すというのは、どうにも破綻している。

 綾小路君はなぜ、そんな質問をしたのだろう。

 

「浅川の調子はどうだ?」

「相変わらずです」

「そうか。……船内での無理が、たたったのかもしれないな」

 

 船内? 初耳だ。

 首を傾げると、先生は簡潔に説明する。

 

「綾小路と揃って朝からずっと動いていてな。お前は寝ていたんだろうが、浮ついている姿を見たぞ」

 

 それで二日間も目を覚まさないというのもおかしな話だと思うのだけど。

 

「……情報提供、感謝します」

 

 さて、次の行動は……

 

「おーい堀北っ」

 

 今日はやけに、話しかけてくる相手が多い。

 

「どんな問題が起きたのかしら?」

「あ? いやいや、なんで問題起きた前提なんだよ」

「それはまあ……ねぇ」

「聞かなきゃ良かったぜ……」

 

 須藤君も、この島でまともに話をするのは初めてね。げんなり顔をするくらいなら無駄に来られても迷惑だわ。

 

「それで、何か用?」

「お前、今暇か?」

「……、現を抜かしている暇はないわ」

「あー……今すぐやらなきゃいけないこと、決まっているか?」

 

 どこで覚えたのか、上手い聞き方をする。「いいえ」

 

「じゃあ暇だな! 今から寛治と春樹と沖谷と釣りしようって話してたんだ。お前も来いよ」

「何故私が……」

「堀北さん」援軍に沖谷君もやってくる。「意外と楽しいよ。やり方わからなかったら、多分みんな教えられるから」

 

 そうして、半ば気圧される形で連行される。

 ……ああ、前の私なら、キッパリ断れたはずなのに。

 今の自分に、ほんの少し不満を抱いた。

 

「…………まぁ、一芸覚えておくのも、生産的かしらね」

 

 

 

 

 

「くっ……! また逃げられるなんてっ」

「お、おい堀北ちゃん。あんま無理を、」

「黙りなさい! ……さっきは速さが足りなかったんだわ」

 

 なかなかどうして、一筋縄ではいかない。いくらなんでも私だけ一匹も釣れないなんて、屈辱極まりないわ。

 

「堀北さんって、意外とムキになることもあるんだね……」

「ハッ、いいことじゃねえか。その方が可愛げがあって」

 

 沖谷君と須藤君が何か言ってる。全くもって興味がない。

 暫くして、ようやく手応えを感じた。

 

「――っ」

「お? おお、これは大物の気配!」

 

 確かに、これまでとは一味違う重さだ。

 

「手貸すぞ」

「余計な、お世話よっ」

「馬鹿、独りじゃ無理だ」

 

 有無を言わさず、山内君と須藤君が両脇から手を出してくる。

 

「これくらい、私だけで……」

「だ・か・ら。無理すんなつってんだよ」

 

 今度こそ、須藤君に主導権を握られる。思い切り顔をしかめながら、私も負けじと力を張る。

 そして、

 

「おー! きったー!」

 

 池君の歓声。なかなかな上玉が釣れた。

 

「……できた。私にも……」

 

 初めて、釣った……。

 

「へへっ、いい顔するじゃねえか」

「え?」

 

 魚に落としていた視線を移す。四人の顔がよく見えた。

 

「実はさ。俺たちなりに考えてたんだ。堀北さんにしてやれることないかって」

 

 照れくさそうに、池君が言う。

 

「この試験、俺たちはベースキャンプにばっかいるけど、堀北ちゃんとか清隆とかは色々動いてくれてるんだろ?」

「それは……その節はあるけど、あなたたちがやってきたことだって、」

「俺らのしていることは、まぁ遊びの延長みたいなもんだ。実際お前だって、さっきまで夢中にはしゃいでたじゃねえか」

「はしゃっ……そう」

 

 私と彼らとで行動の毛色が違うのは、わからないでもない。

 

「……やっぱり、無理しているよね? 堀北さん」

「……!」

「独りで背負い込んでるっていうか、それ以上に、ただ疲れているような気がして……僕たちが堀北さんを誘った理由には、それもあったんだ」

 

 そういうつもりはなかった。なかったつもりだ。

 ……でも、頭と体を両方休めた試しは、なかったかもしれない。

 さっきみたいに、難しいことを考えない時間は。

 

「それで、私をこんなことに……」

「お前からしたら、確かに頼りないかもしれないけどよ。力になりたいって思ってるんだぜ。――あの時、お前が期待してくれたようにな」

「あ……」

 

 そんなこと、よく覚えて……。

 そうだった。自分が変わるために、成長し勝ち上がるために。

 他を信じ、他に信じられる人になる。そう決めたではないか。

 いけない。また悪い癖がでている。視野を広げるのはどうにも苦手だ。

 

「ごめんなさい。あなたの言う通りね」

「なんだよ、堀北先生が謝るなんて、明日は雨でも降りそうだ……いや、ごめんなさい。そんな睨まないでください」

 

 そういえば、相変わらず空が暗いわね。よく天気がもっている。

 

「少しは、気分転換になったかな?」

「…………さあ。ただ、貴重な体験はさせてもらったわ」

 

 有意義、と名付けるには何だか躊躇いがあった。

 だけど、きっと。私の顔を見て何故か嬉しそうにしている彼らを見るに。

 答えは半ば、決まっているようなものかもしれないわね。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「ちょっと待てって神崎」

 

 背後から咎めるような声がかかる。少し早足だったかと振り返り――そういう問題ではないことを悟る。

 

「どうした?」

「お前大丈夫なのか? その、一之瀬と喧嘩でもしたのか知らないけど、焦ってるように見えるぜ」

「…………そんな風に見えるか?」

 

「相当な」即答だった。「顔色も酷い。折角のイケメンが台無しだって」

 

「今は色恋なんて考える余裕はない」

「いやいやそういう意味じゃ……なんていうか、ゆとりを持った方がいいってことだよ」

「……」

「説明はしてもらったし、俺はそれに納得した。だからこうして、一之瀬じゃなくお前に付いてってる。でもそれ以前に、友達じゃないか、俺たち」

 

 いつの間にか俯いていた視線があがり、柴田と向き合う。彼の顔をちゃんと見たのは、久しぶりのような気がした。

 

「……そうだな。ああ、悪かった。すまない……」

「あー、謝って欲しいわけじゃないんだ。お前の危惧はわかるけど、まだそこまで差し迫ってるわけじゃないと思うから言っただけだ」

 

 気を遣わせてしまったようだ。いや、ずっと前から心配されていたのかもしれない。今の憂いの表情は、見覚えがある。

 最低限頭を冷やしてから、神崎は改めて自分たちの方針を伝える。

 

「何もこの試験で全てを解決しようってわけじゃない。だが喫緊の課題であることも事実だ。反抗勢力は求めない。俺たちに付いてもらうのも、精々3分の1程度で構わない。それだけの仲間の目を覚ますことができたら、芋づる式にみんなも変わり始める」

「目を覚ます、か……別に一之瀬が悪いってわけじゃないのにな」

「言い方に難があるのは承知の上だ。しかし生憎それに近いのがBクラスの現状。昨日も説明したよな?」

 

「わかってるよ」恐らくクラスメイトたちだって、本来は自分の頭で考える力は持っているはずだ。あくまで神崎は根本的には仲間を信じている。ただ、一之瀬のカリスマ性が度を越していただけの話だ。

 なら、それに釣り合う別の視点を用意すればいい。

 

「けど問題は、単純に方法だろ。できることなんて限られてるぜ?」

「ああ。だから、その限られているものを全部やるんだ」

「はぁ!?」瞠目する柴田。何もおかしいことは言っていないが。

「言い草からして、お前だって手段が浮かばないわけじゃないだろう?」

「まぁ……一之瀬に正面から反論したって空気に撫でられるようなものだ。だから裏から攻める、つまり、一之瀬に取り込まれていないやつを引き入れる。ってことだろ?」

 

 その通り。

 幸いなことに、何人か心当たりがある。いくら一之瀬への信頼と言えども実在するシンパや唯一神ではないのだ。不満な者や無関心な者、鼻つまみにされている者は複数いる。

 それを含め、神崎なりの当てを伝える。

 

「え、白波もか? どうしてあいつが選択肢に入るんだよ。一番一之瀬に近いって言っても過言じゃないぜ」

 

 案の定驚いた柴田にやり方も伝えると、

 

「…………おいお前。それ本気で言ってるのか?」

「ああ」

「悪いことは言わない。やめておけ」

「なぜだ? やれることはやらないと、」

「そのやり方をするって言うなら、俺はお前に乗ることなんてできない」

「……っ、柴田」

「俺が協力するのは、一之瀬の負担を削ってBクラスを成長させることだ。クラスの仲間を欺いて傷つけることじゃない」

 

 ここまで言われてしまったら、返す言葉はない。やむなく断念する。今最も頼れるのは彼だけなのだ。「……わかった」

 ただ、やはり知り合いの少ない神崎からしたら、白波は依然候補の一人だ。

 柴田の反感を買う方法は駄目。しかし正面から勧誘したところで無益に等しい。

 一つ、考え方を変えてみるか。

 自分はあまり賢い方ではない。なら他の者なら……。

 例えば浅川。彼は極度な異性嫌いである白波と数日で打ち解けた。巡り合わせがあったとはいえ、彼の技量が功を奏したことは想像に難くない。

 あいつならどうする。自分よりずっと敬愛する相手から引き剥がす方法は……。

 

「だけど他の奴らなら、確かにやりようはあるかもしれないな」

 

 話を別角度に掘り下げる柴田に、違和感を与えないよう付いていく。

 

「問題はそのやり方なんだがな……」

「策はあるのか?」

「…………」

「なさ、そうだな」

「……だからこれから優先したいのは別のプランだ」

 

「別のプラン?」またしても彼は目を丸くする。「仲間を集めるだけじゃなくて?」

 

「そもそも寄せ集めた仲間たちも、囲む柱がなければすぐにバラける。一之瀬のような支柱が必要だ」

「んー……あぁ、それがお前ってわけだな」得心いったようだ。

「肝心な俺が頼りなければ結局みすみす逃してしまうし、新規も入ってこない」

 

 つまり、

 

「少し納得できたよ。この試験で結果を急いでいたことに」

「だがお前の言う通り、視野が狭くなってしまっていた。ありがとう」

 

 一之瀬はこの試験、恐らく静観を決め込むだろう。クラスの輪を維持することに尽力するはずだ。

 なればこそ、チャンスなのである。明確に、彼女を上回る実績を勝ち取るための。

 他クラスのリーダーを当てることが、その最短距離だ。

 その種は、もう既にまかれてある。

 そうして先行きばかりを考えていた神崎だったが、

 

「……?」

 

 ふと違和感を覚え、思わず足を止める。

 

「神崎?」

「………………悪い。先戻っててくれるか?」

「な、なんでだよ」

「いいから。頼む。俺もすぐそっち行くから」

 

 強めな圧をかけると、渋々理解を示してくれた。

 完全に姿が見えなくなったことを確認し、振り返る。

 

「…………久しぶり、だな」

 

 適切な言葉かわからないが、苦手なりに彼は発する。

 

「そんな空いてない? ……そうだったか。どうもかなり前のことのような気がして。――まだ15だ、誕生日も来ていない」

 

 曖昧な距離を感じながら、動き出す。

 目の前の彼女の名前を、呼ぶには慣れが薄れていた。

 

「それで、どうしたんだ? ――――神室」

 

――――――――――――――――――――――――――

「――――!」

 

 パチリ、と。

 止まっていた時が、突然動き出したかのように。

 死者が、前触れもなく息を吹き返したように。

 にわかに血の滾るような赤い瞳が、外界に晒される。

 潮が満ちた。その波打つ音を感じ取り、少年は覚醒する。

 

「さて………………みんなちゃんと上手くやってくれてるみたいだし」

 

 ようやく、ようやく最後の一人が起き上がる。

 そんな自分のシチュエーションに、少しばかり酔いしれながら。

 

「僕も応えなきゃ、いけないよね」

 

 そろそろ試験も、終盤だ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

猜疑のパウン

お知らせというか、宣伝みたいになってしまいますが、先日全く別の原作の二次創作の執筆をしてみました。短編という形式にはしていますが、自分の気分や読者の反応によっては連載にしようかなとも思っています。原作を知っている方も知らない方も、ご興味があれば一度読んでいただけると嬉しいです。
まあ年明けることにはいよいよ何も書いてる余裕なくなってそうなんですけどね。


 海原に独り佇む。

 Cクラスにしてはやけに片付けられている。無駄な失点はやはり避けたいらしい。

 侘しさを揺り起こす光景の中、綾小路は海辺まで歩んだ。

 まだ撤去されていない水上バイク。その状態を、思考を働かせながら念入りに確認する。

 次。記憶を掘り起こす。

 あの時、唯一偵察で見に行ったタイミング。確かDクラスのベースキャンプと酷似している点があったはずだ。

 やはり、予想通り……となると、彼はそれに気づいているのか? いや、そもそもこれさえ誘導の可能性も……。

 内心歯ぎしりせずにはいられない。ルールに縛られるというのも考えものだ。もし向こうがその檻に収まらない手合いだとしたら、この学校の規則で管理しきれていない。

 あいつがどう考えているかはともかく、避ける手段はない。後手に回らざるを得ない。

 あるいは、同じ手を使うか……。

 纏まらない思考。一線の内外を反復する倫理観に、頭を抱える俯瞰的な自分がいる。

 ふわっとした不思議な感覚を抱いたまま、暫くその場に立ち尽くしていた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 ベースキャンプに戻ると、またしても騒ぎ立てるクラスメイトたちの姿。

 平田君に声をかける。

 

「何事?」

「ほ、堀北さん……」

 

 なんだ、妙に顔が青い。今までこんなにも焦った表情は見たことがなかった。

 

「た、たたた大変なんです!」

「井の頭さん……?」

 

 彼の傍らで取り乱していた井の頭さん。

 

「落ち着いて。何があったか話してちょうだい」

「は、はい……スゥー、ハー。スゥー、ハー」

 

 まだ荒い呼吸を押し込めて、彼女は答えた。

 

「あ、浅川君が……」

 

 

 

 

「どういうことだ」

 

 私より数分遅れてきた綾小路君も、私と同様の感想をこぼす。

 

「私達がいない間に浅川君が起床。平田君に釣りをしに行くと言って、三宅君と長谷部さんと出て行った」

「それで海に攫われた、と」

 

 何とも破茶滅茶な話だ。

 聞けば、釣りの最中にそれなりな水深のある崖から落ちて溺れてしまったらしい。

「金槌なんだよねぇ」と予め聞いていた、と佐倉さんから。確かに彼、水泳の授業には参加していなかった。そういう事情も隠していたのだろうか。

 周りのみんなもそういう方向に考えが寄っているようだった。

 

「なに? これで高円寺君に続いてまた30ポイント引かれるわけ?」

「アイツ、今までずっと怠けていたと思ってたら、本当迷惑しかかけないな……!」

 

 初日でも揉め事の渦中だった篠原さんと幸村君の憤慨を、どうにか平田君が宥めている。この試験が始まってから、二人のああいう態度をやたら見る機会が多い。元々せっかちな印象があったし、ストレスを堪えるのも限界なのかしらね。

 正直、私も浅川君のことを何も知らない――ただの昼行灯だと信じ切っていたら、似たような精神状態だったかもしれない。実際は「彼の意図」と「どう反応すればいいか」ばかりに悩んでいるわけだが。

 綾小路君も、珍しく私と同じ状況だ。いい加減理解し始めている。この試験、綾小路君と浅川君は大して意思疎通を行っていない。片やリーダー、片やずっとテントの中だったのだから当然のことかもしれないけど、今までが今までだ。何となく、こう、思うところがある。

 ……何なのかしらね、この感じ。名前の知らない。嫌な気持ち――。

 

「居合わせていた二人はなんて?」

「手持無沙汰になって話していたところに、気まずそうに話を持ち掛けてきたんだって。自分も何かクラスのために動きたいけど、釣りの経験はなくて不安だから一緒に来て欲しいと言っていたらしい」

「当時の状況は?」割り込むように綾小路君も問いかける。

「腕時計のボタンを押したらしくて、救急隊の人に救助されているところまで見届けている。そのうちの一人に『あとはこちらで対処します』って言われちゃったから、とりあえずまずは報告しないとって判断したみたいだ」

 

 妥当な流れね。波に攫われたのだから無理に救出しようとしたところで失敗のリスクがある。万一一緒に溺れでもしたら、無駄にリタイア者を増やすことになっていた。

 

「どう見る?」

「……半信半疑だ」

「煮え切らないのね」

「正直、あいつが本当に足を踏み外して、しかもリタイアまでしたとは思えない。ただ」

「ただ?」

「わからないことが一つ」

 

 疑問を抱えていると示してくれただけ、マシだったのかもしれない。しかし本能的に理解してしまう。

 今彼は、間違いなく私に誤魔化したと。

 言う必要がないというわけでもない。自分で気づいて欲しいと――先月の事件の時のような感覚とはまるで違う。

 一体どこまでわかっていて、何がわかっていないのか。それを彼は、自分のために隠している。

 

「……綾小路君」

「何だ?」

「あなたは、私を……」

 

 思わず言葉が漏れる。何か、何か訴えたいことがあった。このままでいること、何もせずに黙っていることを良しとしてはいられない、正体不明の焦燥感。

 でも、それを簡単に伝えられたなら、どれだけ今までも楽だっただろう。

 

「…………何でもないわ」

「そうか――」

 

 難しい顔のまま背中を向けた少年の、隣に立って歩くことが。憚られて。

 見送ることはおろか、あまつさえ背けて俯いてしまった。

 どれだけ自分を保とうとしても。独りではないと思い込んでも。どこか拭えない壁が思い起こされる。それは綾小路君にも、浅川君に対しても言えることで。

 二人が私に何も言わず、私も二人の考えていることがわからない。それこそが、私たち二人の、変わっているようで変わっていない関係性を示しているような気がしてならなかった。

 

 

 

 

 乖離を感じた彼と、再び会話をしたのは数時間後のことだ。

 思えば、綾小路君の方から話しかけてきたことは、この島ではあまりなかったかもしれない。

 

「疲れてないか?」

「ええ、まあ」

 

 今更な気遣いだ。散々人を振り回しておいて。

 いえ、勝手に振り回されているだけなのかも。そう思うと、急に虚しく感じられる。

 

「何の用?」

「用がなきゃダメか?」

「こんな状況で、態々理由もなく私に話しかけるとは思えないけど」

 

 焚火の火を眺めて彼は鼻を鳴らす。図星、ということね。

 

「色々あるだろ。話しやすいとか」

「暇潰しの道具に便利と?」

「おい……、何だか前のお前を思い出すな」

「む、どういうこと?」

「見るもの聞くもの全て悪く捉えるところ」

 

 誰のせいだと思ってるの。

 

「わかったわかった。――伊吹の様子、どうかと思ってな」

「特にないわ。あったら伝えてる」

「誰を頼ったんだ?」

「小野寺さんと、佐倉さん」

「え……意外な二人だな」どうやら本当に驚いたらしい。こんなことで瞠目顔を拝めるとは思っていなかった。「特に佐倉は、まさかお前が頼るとは思わなかった」

「何でもあなたの推測通りとは思わないことね。女にだって降って湧くような繋がりはあるわ」

 

 再び目を見開き、気味の悪い微笑を浮かべる。

 

「何よ」

「いや、何でもない」

「笑ってるじゃない」

「そりゃ友達と話すのは楽しいからな」

「愉しい、の間違いでしょう。弄ぼうとしても無駄よ」

「人聞きの悪い。寧ろお前の尻に敷かれてると思うぞ」

「セクハラ?」

「案外お前もお茶目だな」

 

 ああ言えばこう言うんだから。最近はもう、そこまで強く当たってないわ。

 当たるような機会が、そもそもないのだから。

 

「今日はどうするんだ?」

「まだ迷ってる。……参ったわね。顔の狭さ、こんな小さいことにも響くなんて」

 

 思いの外と言うべきか、私の交流相手は男子の方が多い。もう少し仕事を任せられる程度の関係値を女子とも築くべきだろうか。

 

「小さくなんかないって。スパイかもしれないやつの監視なんだぜ」

「そのスパイを容易く出し抜けそうなあなたが言う?」

「なかなか酸っぱい返しだな」

「寒い返しね」

「蒸し暑い夜にはピッタリだろう」

 

 疲れる……やはり私には気の利いたやり取りは難しいわね。「恭介なら『残念ながら意味がないよ。この応酬こそ熱いんだから』って言うところだぞ」

 

「わかってるわよそれくらいっ……!」

「言えばいいじゃん」

「いつまでも彼のように付き合いがいいわけではないもの」

 

 こんなやり取りのためだけに声を掛けたのなら迷惑もいいところね。

 

「とにかく。今のところ心当たりはない。最悪私がまた見張るでも」

「洋介が許さない」

「……でしょうね。体力に問題はないつもりなのだけど」

 

 無理をしている、あるいは自分で気づいてないだけだと言われてしまうのは想像がつく。

 

「この際一度でもいいから、話したことのあるやつにでも頼むのはどうだ。オレや恭介の知り合いとか」

「私も同じ方向で考えていたわ。些か不安はあるけど」

 

 候補は、櫛田さん、松下さん、井の頭さん、王さん、長谷部さん、軽井沢さん。

 櫛田さんは駄目。井の頭さんは遠慮な性格を顧みると伊吹さんに絆されるかも。王さんは女性的な事情でもう試験の終わりまでテントに籠るしかない。長谷部さんは浅川君の件で慌ただしかったしまだ動揺が残っている。軽井沢さんは普段の素行を見るに不真面目さが目立つためボロを出す危険性がある。

 

「……消去法で、松下さんかしらね」

「――松下? どうして彼女なんだ?」

「色々吟味した結果よ」

「そうか。お前がちゃんと考えて判断したなら、信じるよ」

 

 気前のいいことばかり言って。止めても無駄だとわかっているだけでしょう。

 すぐに松下さんに話をつけに行くと、彼女はすんなり了承してくれた。まだ力になれることがあったことを素直に喜んでいるようだった。

 ただ、

 

「ねえ堀北さん。堀北さんって、櫛田さんのこと苦手なの?」

「……何を根拠にそんなことを?」

 

 存外鋭い。わりと露骨だったかしら。

 

「そういうのって意外とわかるものだよ、よく見てみれば。君にはちょっと難しいかもしれないけど」

「どういう意味……?」

「気を悪くしないでね。私としてはいい意味で言ったつもりだから。女子のこわーいところなんて、知ってもしょうがない」

 

 彼女が私をどんな昼行灯と勘違いしているかは知らないが、およそ言い条は理解できた。所謂スクールカーストに踊らされる人にもそれなりの苦痛があるようだ。

 ……だから苦手なのよ。群れるのは。

 

「性が合わないだけよ。それこそ、見ればわかるでしょう?」

「まあね。――――でもそれだけなのかな」

「……――」

「櫛田さんも装えてないなんて相当だよ。それに堀北さんも――」

「黙りなさい」もう十分だ、やめろ。それ以上は許せない。「黙って」

「……わかったよ。ごめんね、堀北さん」

「気にしないで……頼むわよ」

 

 ああ、全く。ひどい胸焼けだ。

 今夜はきっと、そう簡単には眠れないだろう。

 

 

 

 

 体が大きく揺れているのを知覚する。

 地震?

 徐に瞼を開くが、ぼんやりとしていて判然としない。

 

「起きて。堀北さん」

「んぅ……ぁ――松下、さん」

 

 体が鉛のように重い。外の暗さを見るに、まだ起床には早すぎる。

 

「どうしたの?」

「夜中に起こしちゃってごめんね。どうしても確認したいことがあって。――誰の目にも触れないところで」

「……?」

 

 二人きりになるまで本当に話す気がないようだ。怪訝な顔――眠いせいで余計目つきが悪くなっていると思う――のまま導かれる。

 密林に入ったところで、ようやく松下さんは口を開いた。

 

「二日目の昼頃、櫛田さんが単独行動に出てたよね」

「……気づいていたの。それがどうかした?」

「実は私、彼女のことが気がかりで。ちょっと跡を尾けてみたんだけど、」

「尾けっ……え? ま、待って、尾けていた?」

 

 サラッととんでもないことを言ってくれたわね。随分と大胆、アクティブなことをする。

 

「結果は?」

「誰かと話しているのを見たよ。隠れて見ていたから相手の顔はわからなかったけど、多分他クラス」

 

 なかなか重要そうな情報だ。でも肝心な相手がわからない。考えられるのは龍園君だけど、その確証が持てない。何故なら、

 

「それ、いつ頃かわかる?」

「確か、十時半過ぎかな」

 

 上出来。

 私と綾小路君がCクラスを見つけたのが十時過ぎ、そこから十分程話していた。

 私たちに気付かれず櫛田さんがCクラスへ、あるいは龍園君が櫛田さんに合流することができるか、微妙なラインだ。

 

「私は櫛田さんのことはそこまで知らないけど、独りでコソコソ動くような人じゃないはずだよね。だから念のため、櫛田さんを信じきってなさそうな堀北さんに報告しようと思ったの。他の人だと信じてくれなかったり、動揺したりしちゃうだろうし」

「……そうね、ありがとう。でも、やはり納得できないわね」

「櫛田さんがそんなことをするとは思えないって?」

「いいえ。この情報が嘘だったとして、それに見合った利益があるとは思えない。まして、今までこれといった動きを見せなかったあなたには。――そう、あなたは一度も、個人的な興味なんかでこんな行動は取ってこなかった」

 

 特に彼女のことを知っているわけではない。性格も、趣味も、能力の一端さえ、ほとんど知らない。

 でも、

 

「何か理由がある、そんな気がする。教えてもらうことはできないかしら?」

「……へー、そう簡単には流されないか」

 

 強めに問いただすと、松下さんは寧ろ興味深そうに私を見つめ返す。

 不自然とまでは言えないけど、違和感を覚える状況だった。単独行動に出た櫛田さんを追跡していたということは、その分松下さんもみんなの目から外れていたことになる。同じくらい疑わしいのだ。

 

「理由はね、君たちだよ」

「私たち?」

「最初のきっかけは中間テスト。平田君と堀北さん、二つの勉強会が開かれていたのは周知の事実だとは思うけど……正直私は、堀北さんの方は上手く行かないと思ってた。退学者が出てもおかしくないとまでね」

 

 何も言い返さない。それはきっと、紛れもない事実だから。

 

「だけどそうはならなかった。君の努力の賜物? 違う。赤点候補の三人が心を入れ換えた? 違う。偶々じゃないってことは、堀北さんの変化ですぐにわかったよ。そこで私は、一体どうしてそんな結果になったのかが気になった」

「そして辿り着いたのが、あの二人ということ?」

「きっかけはそんなところかな。初めは疑っている程度だったし、特に確かめてやろうなんて気はなかったんだけど。そんな中起きた須藤君の事件。今や綾小路君が優秀であることを疑う人はいないんじゃないかな。私からすれば、まだ解消されていない疑問は残ってるんだけどね」

 

 彼女はかなり早い段階、綾小路君の功績が知れ渡るより前から裏側を察していた。何のヒントも無い上、勉強会のメンバーに特に親しい友人がいたわけでもないのに気付く鋭さは侮れない。

 

「でもそれと、櫛田さんを尾けることにどんな関係があるのかしら?」

「別に櫛田さんだけが気になっていたわけじゃないよ。私は今でも、二人に対して確信を抱いてない。浅川君は勿論、綾小路君もまだ底が見えていないから。それを知るため手っ取り早かったのが、周りとの交友関係を当たること。そこで再び出てきたのが君と、櫛田さんの不思議な雰囲気だよ」

 

 表面化している関係で二人の共通の知人は限られている。須藤君たちが他人に影響を与えるほどの能力を持っているとは信じていないであろう彼女にとって、櫛田さんは人気者なだけあってコンタクトを取るのに不便がない。

 加えて松下さんの洞察力によっては、櫛田さんに他人の秘密を握ろうとするきらいがあることも見抜けているかもしれない。だとすれば、綾小路君と浅川君の何かを期待する可能性は高い。

 

「綾小路君と浅川君のこと。堀北さんと櫛田さんのぎこちなさ。二つの疑念から生まれた行動だったけど、変な疑いを持たせちゃったかな?」

「……少なくとも、あなたの勘の良さはもう少し自慢すべきだと思うわ」

「いやー、私はそんなシックスセンスは持ってないし、あっても隠し玉にするタイプだよ」

 

 そうすることの意味やメリットは、理解できるけれど。

 

「あなたはその能力をクラスのために使う気は、なさそうかしらね」

「進んでは。時と場合によるかな。……咎めないんだね」

「やむにやまれぬ事情、というものへの理解は多少なりとも深まったつもりよ。協力してくれる余地があるという言質が取れただけ良しとするわ」

 

 たった半年で、私の理解の範疇を越えた行動や思考にも、それぞれの事情があることを知った。触れられたくない過去、隠したい情熱、諦められない不合理。それらを否定することは、私の願いの存在を否定することと同意義だ。

 

「そっか。ありがとね、堀北さん」

「こちらこそ、櫛田さんのことを警戒してくれたのは助かるわ」

 

 試験はあと三日。これを長いと取るか短いと取るかは人によるだろうが、依然どうすべきかは見えてこない。そもそも私はリーダーではないのだから、余計選択肢は少ない。

 いっそ綾小路君に任せてしまうことも過るけど、浅川君の残した言葉も無視できない。これまで大きな展開は起こっていないように感じるのは、まだ仕込みの段階だからなのか、既に何かが進んでいるのか。

 他クラスと交渉するにしても、対価に選べるものはあまり思いつかないし。Bクラスと手を組むにしても攻撃の手段を確保できるとは思えない。

 このまま何事もなく、ただのスポット占有合戦で終わってくれたら楽なのだけど。

 ……。

 そんな楽観的な展望さえ浮かぶようになってしまった、矢先。

 長引いてしまった二度寝を終えた私の目を覚ましたのは、全く新たな火種だった。

 

「軽井沢さんの下着が、なくなった……?」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

発展のブレイクアウト

※『後追いのストレンジャー』にて、茶柱のセリフを一部修正しました。
「他クラスへのポイント譲渡は可能」→「他クラスへのポイント譲渡は、各クラス一度のみ可能」

生存報告のために一話だけ載せます。また次の話までかなり空くと思います。


「っ……もう、朝」

 

 ただでさえ十全な休息が難しい環境だ。合間に起こされてしまったため、余計回復ができていない感覚がある。ずっと何かにとり憑かれているような――。

 悪魔にでも、呪われてしまったのかしらね。

 オカルティックな嘆きを内心吐きながら身を起こすと、やけに女子の声が煩わしいことに気付く。今まで似たような場面は何度もあったが、今回のそれはどこか棘のある響きに感じて、敵意が滲んでいるようだった。

 依然数人が寝ている中、私はテントを出る。――直前に一瞬寄り道する。

 いつもと違い藍色の髪を垂らしている少女は、すやすやと静かな寝息を立てている。ツインに束ねている時と比べ、こう見ると、意外と大人っぽさが感じられる。

 王さんはもう、この試験で動くことは難しそうだ。安静にすべきだろう。

 体調は問題なさそうだ。そういえば、クラスのために動くことがままならない自分を嘆いていたなと思い返しながら、彼女から意識を外す。――これまで散々探索や調理に参加していただろうに。

 テントを出ると、出迎えたのは不穏な喧騒だった。みんなの表情から、それが今までとは性質を異にするものだと察せられた。

 

「何があったの?」

「あ、堀北さん。……その、まずは謝らせてもらえないかな」

 

 最寄りに立っていた松下さんに声を掛けると、開口一番バツの悪そうな響きだった。

 

「どういうこと?」

「どうやら軽井沢さんの……っ、下着がなくなっちゃたらしくて」

「は?」

 

 軽井沢さんの下着が、なくなった……?

 思いもよらなかった展開への動揺を抑え喧騒に耳を立てると、なるほど件の言い争いをしているところらしい。

 

「なんで男だからって俺たちが疑われなきゃなんねえんだよ!」

「女子がそんなことしても意味がないでしょ! 絶対あんたたちの中に犯罪者がいるのよ」

「女子でもそういう趣味を持ってるやつがいるかもしれないだろ!」

「変態たちなんかと一緒にしないでよ!」

 

 ついにクラスメイトに実害が出たためか、双方歯止めの利かない状況に陥っている。平田君でも仲裁しきれていないほどだ。

 

「み、みんな落ち着いて」

「ごめん平田君、もう我慢できない。無人島にいる間ずっと、こんな男たちが近くにいるなんて耐えられないよ!」

 

 ほぼ完全に、男子(平田君以外)が悪という流れが定まりつつあるようだ。

 

「ダメだっ、……ダメだよ、みんな。お願いだから……」

 

 平田君の表情が曇り始める。しかし、その変化に誰も気付くことはない。

 

「平田」

「ぇ。あ……綾小路君」

「ここは一旦、オレに預からせてもらえないか?」

「……そう、だね。……ありがとう」

 

 やけにしぼんだような声音と入れ替わり、綾小路君が注目を浴びる。

 

「みんな、ちょっといいか?」

「な、なによ」

 

 通らないなりに無理矢理発せられた声に、篠原さんは窺うような顔色で返した。

 

「まずは平田の言う通り、一旦落ち着くんだ。これから闇雲に声を荒げたやつの言葉は、悪いが聞き入れない。動揺で正常な判断ができなくなっているかもしれないからな」

 

 ふん……効果的な呼びかけね。これで文句を吐き出したい輩も、口をつぐまずにはいられなくなった。

 

「とりあえず、改めて状況を整理しよう。事が起こったのは各々が就寝した昨日の夜中。ベースキャンプで軽井沢の下着が紛失した」

「紛失したんじゃなくて、盗まれたんでしょ」

「全ての可能性を考慮したいだけだ。誰も悪くなかった、その方がみんなにとってもいい結果なんじゃないか?」

 

 確実な証拠がない以上、綾小路君の立場は客観的だ。ただ、現実的ではない。状況を踏まえれば、原因が軽井沢さん以外であることは疑いようがないだろう。

 

「ここでわかっていないことは三つだ。どうやって失くなったのか、何故失くなったのか。――そして、誰に責任があるのか」

 

 明確になる論点。一同着眼しているのは、言わずもがな三つ目だろう。

 

「みんなの気持ちはわかる。女子は犯人を追及し遠ざけたい。男子は冤罪を晴らしたい。早く犯人を見つけて安心したいという思いは同じはずだ。だが、他の疑問から解消していくことも時には必要だ。思わぬ視点から新たな真相がわかることもあるからな」

 

 誰か、小さなことでも気づいたことはあるか? と、彼は私を一瞥する。

 意図を察した私は、すかさず口を開いた。

 

「実は、あなたたちが就寝した後、何人かで交代しながらテントの周りを監視していたの」

「か、監視? なんでそんなこと」

「きっかけは、伊吹さんをベースキャンプに匿うことになった時よ」

 

 これだけ言えば、事情など誰にでもわかるだろう。

 

「じゃあ、昨日の見張り役の人は?」

「松下さんよ」

 

 ちらちらと私に向けられていた視線が、一斉に松下さんの方へと移る。

 

「不審な動きを見せていた子はいなかったよ。ただ……私の見ていた範囲では、だけどね」

「一瞬だけ、試験に関する大事な話があって私と席を外していた時間があった。犯行の隙があるとすれば、その二、三分しかない」

 

 それだけ聞いた綾小路君が考え込んだのは、ごくわずかな時間だった。

 

「……ということは、犯人は狙って軽井沢の下着を盗んだわけではないということになるな」

「は? なんでそうなるわけ?」

 

 どこかじれったそうに篠原さんが言う。

 

「消灯を済ませたベースキャンプがどれだけ視界が悪いか知っているか? 明かり一つない状況で、そんな短い時間の中特定の誰かのバッグを探り当て、狙った荷物を取り出すことは不可能だ」

「確かに、誰のバッグかどうかを外見から見分けるには、精々アクセサリーの類を調べるしかない。日中でも時間がかかりそうなことを、今回の条件で達成できるとはとても思えないな」

 

 平田君の相槌で、不満げな女子たちも一応納得してくれたらしい。

 すると今度は、松下さんからの問いかけがくる。

 

「じゃあさ、綾小路君。犯人は、女の子の下着なら誰のでも良かったってこと? 結局、篠原さんたちが言うようにこのクラスには危ない人がいるってことになるよ」

「いや、その可能性はない」

「どうして?」

「今明らかになった情報の中に答えがある。誰のバッグかもわからない視界。なら、自分のバッグさえどこに置いたかあやふやになってしまう。犯人の頭がどれだけ悪くても、下着を取り出した時点でそれを隠しようがないことに気付くはずだ」

 

 つまり、そもそも邪な感情を優先したところで、その計画は頓挫するしかないということだ。

 

「最終手段として、全員の持ち物検査をして証明してもいい。犯人は絶対に男子じゃない」

 

 男子たちの安堵と、女子たちの気まずい感情。対照的な表情が見受けられた。

 しかし、これで話は振り出しに戻ったことになる。

 

「では一体誰が犯人なのか。ここで考えるべきなのは、そもそもなぜ犯人がそんなことをしたのかだ。性的嗜好だと考えると辻褄が合わない。他に動機があるとすれば、それはこの現状だ」

 

 ここまで黙して彼の言葉を聞いてきた私だったが、「動機がこの状況」というヒントでようやくこの推理の帰結を察することができた。

 要は、ただそうしたかったのではなく、そうする必要があった。

 

「女子の下着が盗まれたとなれば、お前たちは必ず男子を疑い糾弾する。当然身に覚えのない男子たちは否定し、疑心暗鬼が伝染する。その睨み合いは試験が終わった後も絶えることがない蟠りになる」

「つまり君は、犯人は僕たちの不和を招きたかったと言うつもりかい?」

「そうだ」

 

 綾小路君の口から発せられるまで、誰も考えもしなかったのだろう。クラスメイトたちが驚きの色に染まっていく。

 これで「なぜ」と「どうやって」が解決した。いよいよ残すは「誰が」だけだ。

 

「あとは簡単だ。Dクラスの仲間割れによって得をするのは一体誰か。心当たりは、ごく最近あったはずだ」

 

 何人かのはっとした顔。そして、ある一人に視線が集中する。

 

「当然、Dクラスの外にいる人間。――今得をしているのはお前だけだ、伊吹」

 

 綾小路君に名指しされた伊吹さんは、にわかに動揺を露わにしている。

 

「……私がやったって?」

「一連の流れはお前も聞いていたはずだ。何か言い逃れの術を持っているなら、話は違うけどな」

 

 綾小路君の推理は理路整然としていた。現に初めは男子を疑っていた女子たちも、こぞって伊吹さんに胡乱な目を向けている。それだけ彼の語ったことは順序立てられていてわかりやすかった。

 ……だけど、何故だろう。私も同じ気持ちなはずなのに、どこか引っかかる。原因は、伊吹さん自身にあった。

 

「言い逃れ、か……アンタは本気で私を犯人だと言い切るつもりか?」

「ああ」

「ッ……だとしたらあんたは間抜けだし、違うなら、相当な外道だよ」

 

 彼女は、本当にこの事件の犯人なの……?

 どうにも伊吹さんの反応は、罪を誤魔化しているそれには見えなかった。私の目が節穴なだけ? 伊吹さんの演技に騙されているの?

 それとも……

 

「やっぱり思った通りだったぜ。他のクラスから追い出されてきたなんて怪しかったんだ」

「最低、助けてあげたのに、恩を仇で返すんだ」

 

 男女双方からの暴言が投げられる。さっきまでとは打って変わり、Dクラスは余所者への憎悪という負の感情によって、ある意味一つになりかけていた。

 正直、仲間どうしが疑い合う最初の状況と比べればマシになった。

 でも。

 

「お前はこの試験におけるDクラスの危険要素だ。これ以上亀裂をもたらすような真似を許すわけにはいかない。オレが何を言いたいか、わかるな?」

 

 容赦のない宣告が発せられる。

 それすらも傍耳に、私は自分の心臓がどくどくと強く脈打ち始めるのを感じていた。

 

『あの質問をした君はわかってるだろう?』

『お前の質問で思い至っただけだ』

 

 何かが引っかかる。でも、その正体はまるでわからない。

 

『オレは、鈴音をリーダーにするのには反対だ』

『リーダーは、君になるはずだったんだ』

 

 私は、どうすればいいの?

 

『オレがやろう』

『一つ忠告だ、清隆をよく視ておけ』

 

 わからない。だって、私は……

 

『お前がちゃんと考えて判断したなら、信じるよ』

『この試験は、君に懸かっている』

 

 私、には、何も……

 

「え――」

 

 完全に余裕を失っていた思考が、止まる。

 不意に背中にあてがわれた感触。柔らかに添えられたそれが、確かな温もりであるとすぐにわかった。

 微かな安心を覚え、その不思議な現象を確かめようと振り向く寸前。

 

「や、やめてあげてよ、綾小路君」

 

 震える声が、張り詰めた空気の中震えた。

 態々確認するまでもない。誰もが聞き慣れた声だ。

 

「雰囲気が悪くなって焦る気持ちはわかるよ。でも、だからって他クラスの人を悪人にするのは、可哀想だよ……」

「…………オレの話を、聞いていなかったのか?」

 

 全く動揺を感じさせない口調のまま、綾小路君はその名前を呼ぶ。

 

「櫛田」

「聞いてたよ。聞いた上で、納得できないことがあったの」

 

 緩衝や調停といった言葉と縁の近い櫛田さん。唯一彼女だけが、綾小路君の発言を鵜呑みにしなかった。

 

「まず、綾小路君は『自分のバッグに隠すことができないから』男子は犯人じゃないって言っていたけど、本当にそうなのかな」

 

 綾小路君の推理を信じ切っていた人たちは、要領を得ない顔をする。

 

「私からすれば、この『島』は隠し場所だらけだと思う。ベースキャンプから少し離れたところに目印をつけて隠して、安全なタイミングで手元に戻すことだってできちゃうよ」

「第三者が気づくはずだ。Dクラス以外にも、早朝からこの周辺を歩いている生徒はたくさんいる」

「それは可能性の話だよね? 足元が見えやすいわけじゃないから、通っていても見落としているかもしれない」

 

 次に、と、彼女は結論は出さずに新たな疑問を投げる。

 

「みんなを安心させたいからなのかな。綾小路君の推理は、『あり得る』だけで『絶対』じゃない。言葉を選んで共感を誘っていたようだけど、あくまで別の可能性を示しただけに過ぎない。誰かの物を盗もうといしていて間違えちゃったとか、本当に誰も悪くなかったとか、他にも否定されていない可能性はたくさんあるよ」

 

 誰かを悪者にしたくない。一見お人好しなまでの櫛田さんが、伊吹さんを気遣っての反論に感じられる。

 しかし、私からすれば、何故このタイミングで彼女がこんな行動に出たのかが理解できなかった。そもそも彼女は、私と『伊吹さんがスパイ』という仮説を共有していたはずなのに。

 

「なら、お前は何が言いたいんだ? やはりこのクラスに犯人がいると?」

「ちょっと違うかな。私は、決めつけは良くないなって思うんだ。伊吹さんも私たちも、全員同じくらい怪しいはずなのに、一人を無理矢理追い出そうとする行為を私は見過ごせないよ」

 

 善意を断言する物言いに、クラスメイトたちの反応は様々だった。櫛田さんに信頼を寄せる者は感銘を受けるままに好意的な目線を向け、伊吹さんを疑ってやまない者は驚愕と気まずさを顔に出し、漫然とした不安を抱く者は再び焦燥感に苛まれている。

 揺れ動く空気。次に一石を投じたのは、意外な人だった。

 

「わ、私も! 櫛田さんの、言う通りだと思いますっ。伊吹さんが私たちを何度か手伝ってくれていたの、み、みなさんも、知ってますよね……?」

 

 啖呵を切った佐倉さんの目には、わずかな怯えと、ふり絞られた勇気が色濃く写っていた。

 それを見た櫛田さんが顔を綻ばせる。

 

「佐倉さん……」

「実は……実は私、昨日の夜、一度だけ目が覚めてしまって、その、変な物音がしたんです! それでテントの外を見てみたんですけど、みんなの荷物が置いてあるところに誰かいて、その時伊吹さんはいつもの場所で寝ていたような気がするんです。だから……」

 

 曖昧で自信なさげな証言だ。普段眼鏡をかけている佐倉さんが寝ぼけ眼のまま、劣悪な視界で正確な判別ができていたかは不明だが、「人がいる」という識別くらいはできてもおかしくない。

 実際、櫛田さんの生み出した流れを後押す形で、自分の中で定まったはずの意見が揺らぎ始めた者が、ちらほらと見え始めた。

 感情的な反論に、綾小路君は少し難しい表情で応える。

 

「ここまできて他クラスの人間を庇う意味がわからないな。このままじゃ全員この島にいる間、要らぬ疑心暗鬼に苛まれることになるんだぞ」

「もし伊吹さんが犯人じゃなかったら、罪のない人を追い出した挙句、真犯人を逃がしちゃうことになる。いっときの安心が得られるだけで、また同じことが起こるかもしれない。そうしたらまた軽井沢さんのような被害者が生まれて、今度こそ取り返しのつかない亀裂が生まれるよ」

「それは伊吹が犯人であった場合に彼女をここに残した時にも同じことが言える。再犯の発生を危惧しているのなら、今は状況を無理にでも動かすべきだ」

「同じじゃない――同じじゃないんだよ、綾小路君。みんな、特に女子は、今回のことで綾小路君が思っている以上に不安になっているし傷ついてる。伊吹さんがいなくなった状況で同じことが起こったら、クラスの中に犯人がいるって誰もがわかっちゃう。それは、クラスがもう一度一つになることをとても難しくする」

「お前……お前は、犯人がDクラスの人間だと信じているのか?」

 

 櫛田さんが言いたいことを要約するなら、再犯が起きた場合の危険性だ。

 伊吹さんを追放して、彼女が犯人だったのであれば問題ない。しかし万が一彼女が犯人でなかったのなら、同じ事件が発生する可能性がある。それが実現すれば、いよいよクラスメイトの誰かを疑うしかなくなってしまう。

 反対に伊吹さんを残して事件が起きた場合、犯人がだれであろうと、伊吹さんが容疑者から外れることはない。つまり、リスクが取り除かれることはないが肥大化することもないということだ。

 だがこれは、綾小路君が言うように、Dクラスの人間が犯人という思考を持つ者の意見だろう。

 彼の指摘に、櫛田さんは動じることはなかった。

 

「私は、決定的な証拠がない限り誰かを疑いたくないだけ。こんな酷い事件なんだもん、許せないことだからこそ、間違った人を犯人にしたくない」

「だがお前の発言は、犯人の追及に対して消極的にも聞こえる」

「ううん、犯人はこれから見つければいい。そして、きちんとお話して軽井沢さんに謝らせる」

「それは、クラスメイトが犯人だったとしても公にはしないということか?」

「する必要はないと思う。反省さえしてくれれば、あとは当人同士の問題にするべきだよ。自業自得なのかもしれないけど、他の仲間にまで広めたら、その人はクラスに居場所が一つもなくなっちゃう。それが何を意味するのか、綾小路君ならわかるんじゃないかな」

 

 Dクラスに犯人がいる可能性、それが真実だった場合明るみにするつもりがないという趣旨の発言に瞠目する者と、櫛田さんの考えをかみ砕き納得する者とで分かれた。

 確かに、犯人は間違いなくクラスからつまはじきされる。その人がいずれクラスの反乱分子へと変貌する恐れがあるのは、彼女の言う通りだった。

 明らかに平行線な二人の意見。今まで見たことのない白熱する議論に多くのクラスメイトが黙り込んでしまった。

 この議論の行く末がわからなくなった今、唐突に櫛田さんは――私を見た。

 

「ねえ堀北さん。堀北さんはどう思う?」

「わ、私?」

 

 蚊帳の外だと思っていた。またしても嫌がらせのつもり?

 案の定視線が集中する。懐疑、好奇、期待、不安、様々な感情が、まるで質量を持ったかのように、私の心を圧迫する。

 いけない、まただ。また得体の知れない息苦しさ。集団の眼差しを受け止める度に、心臓が跳ね上がり目を逸らしたくなってしまう。慣れていないからだろうか。

 

「なぜ、私、なの?」

「堀北さんなら、きっと公正な判断をしてくれると信じてるから」

 

 公正、ですって? わからないことだらけの状況で、公正も何もない。客観的という意味でなら、綾小路君の方があらゆる視点から物事を見れるはずだ。

 なのに、みんなが見ている。須藤君や沖谷君、平田君に綾小路君までもが、私の答えを待っている。

 クラスの方針を左右する一声を、私があげなければならない。本来そんな資格を持っていないはずの私が、半ば成り行きで。

 目を泳がせることしかできないでいると、さまよっていた視線がある一点で止まる。

 

「……」

 

 誰にも悟られないように、細心の注意を払っているであろう。真実の顔でこちらを睨む櫛田さんがそこにいた。

 意図はまるでわからない。侮蔑しているような、苛立っているような。……普段なら、そう感じるだけだった。

 

「わた、しは……」

 

 だけど今は、それが何かを試して待ち構えているような気がした。

 次の瞬間、その不思議な感覚と、脳裏に引っ付いて残っていた彼の言葉が、自然と私の口を開かせた。

 

「櫛田、さんに。……賛成よ」

 

 すうっと背筋の凍るようなおぞましさに耐えながら、私が出した答え。飛び出てからはもう後には退けない。

 何か、何か続けないと。必死に拙い思考を巡らせる。述べることには、あまり慣れていなかった。

 

「……この試験は、クラスの団結を壊さず高めることが目的とされているわ。それは共同生活の半強制が証明している。一度ヒビが入った程度なら、修復する余地がある」

「綾小路君の案を採用すると、その芽も潰えてしまいかねない、ということだね?」

 

 平田君の相槌に頷く。多分、相当自信がなさそうに映っているはずだ。

 仕方ないでしょう。ヤケクソなんだから。

 今度は顔が熱くなる。焦りと恥じらいで興奮したせいで、寧ろ思考が急速に働き始めた。

 

「そ……それに、櫛田さんがどういう気は知らないけど、私は女子の中に犯人がいる可能性も十分にあると考えているわ」

「ど、どういうこと……?」

 

 篠原さんを筆頭に、軽井沢さんの取り巻きたちが表情を険しくするのを感じ取る。大丈夫、ロジックは破綻していないはずだ。

 

「綾小路君も触れていた、動機よ。単なる性的嗜好、Dクラスの内部分裂、この二つ以外にも単純なものが考えられるわ。個人的な恨みという、ごく単純なものが」

「う、恨み……⁉ 軽井沢さんに?」

「篠原さん、あなたにも十分心当たりがあるはずよ。忘れもしない、五月一日。Dクラスは支給されるポイントがゼロになった。ひどく浮かれて散財してきた生徒は、途端に困窮した生活を強いられるようになった。そんな中、一部の人は顔見知りにポイントをせびるようになったわよね?」

 

 輪の外だった私の目にすら映っていたのだ。実際にせびられた当事者や、コミュニティに属する人はたくさんいるはず。

 

「そして、その姿が一際目立っていたのが軽井沢さんよ。友情を盾にがめつくポイントを奪っていく様にはほとほと呆れていたけど、今になってそのツケが回ってきたんじゃないのかしら」

 

 勢い余って余計な一言も出てしまったけど、これくらいの方が今はちょうどいい。べらべらと言葉を並べ立てるには、誰がどう思うかを考える必要などないのだから。

 

「ほ、堀北さん」意外にも櫛田さんの横槍が入る。クラスへの印象付けか。「そこまで言わなくても……軽井沢さんがかわいそうだよ?」

 

「事実を言っているまでよ。それに、篠原さんや佐藤さんだけじゃない。普段大して一緒にいるわけでもない人にまですり寄っていたのを、今でも覚えているわ。試しに、一度でも言い寄られた人は手を挙げてちょうだい。大丈夫よ、あなたが思っている以上に多くの『仲間』がいるから」

 

 私の呼びかけに、徐々に徐々にと女子の中から挙手する者が増えていく。気弱そうな子も、本当に一人ではないことに安心して恐る恐る手を挙げている。

 

「これが答えよ。各々思い込みや感情論で偏っているだけで、ここにいる全員が容疑者であり同等に疑わしい。性別もクラスも関係なく、誰を追放するにしてもリスクは変わらないわ」

 

 結局、恥ずかしいことに正解はわからない。ただ、募ってきた綾小路君への違和感と、思いがけない櫛田さんの態度に直感を揺さぶられただけだ。

 だから、今私が提示するべき案は……。

 

「平田君。私は、あなたに意見を求めたい」

「え、僕?」

「この中で一番、場の鎮め方を知っているのはあなたよ。これまでのやり取りを聞いた上で、どうすることが最もクラスの崩壊を止められるのか、教えてちょうだい」

 

 綾小路君は伊吹さんを疑い、櫛田さんはその危険性を説き、私は全員に動機があることを示した。大事なのは、それらすべてをクラスメイトは聞いていたということだ。それぞれ様々な感想や、変わった考えがあるに違いない。そんなDクラスの現状を、できる限り刺激しないように立ち回る役割は平田君の十八番だ。立場を明確にしていない彼なら、鶴の一声としてうってつけだろう。

 

「僕は…………みんなの考えは、どれも共感できるものな気がする。だから、なるだけそれを全部受け入れた対応を取りたい」

「どうするつもりだ?」

「まず伊吹さんの処遇だけど、選択肢は二つだ。――伊吹さん、君はリタイアをして船に戻る気はない?」

「……したいのは山々だけど、龍園の指示で残ってる。考えがあるのか嫌がらせなのか知らないけど、どのみち逆らえば……」

 

 どうせ即席でつくった答えだろう。それを察しているのかわからないが、平田君はあくまで信じるようだ。

 

「なら、彼女にはここに残ってもらう。でも今まで以上に監視は強化する。伊吹さんも、誰かを手伝うつもりだろうと近寄ることはしないでもらっていいかい? その方がお互いのためだ」

「……わかった」

 

 次に平田君は、女子の方を見た。

 

「Dクラス内のことについては……男女のテントの距離を離すのは致し方ないね。荷物の場所もきっちり分けよう。――今回女子から被害者が出た事実は変わらない。他に何か、女子から要望があった時は、多少男子も気遣ってあげて欲しい。ただしあんまりな内容だと思ったら、僕や櫛田さん、堀北さんに言ってくれれば仲裁に入るよ」

 

 は? ちょっと待ってほしい。

 

「私はごめんだわ」

「この状況に持ち込んだ張本人だろう……それくらい断るもんじゃないぞ」

 

 嫌味ったらしく綾小路君が言う。何も言い返せなくなってしまった。

 平田君の提案は、一応全員がうなずけるものだったらしい。相も変わらず自分のことのように憤慨する篠原さんも、ふくれっ面なまま不平はこぼさない。

 二転三転した小さな魔女裁判も、ようやく終わりを迎えたようだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 綾小路は、今の状況が甚だ遺憾だった。

 現状を正しく分析できないほど衰えてはいない。このままでは、自分の思うような行動をとることができない。

 彼にとって最も想定外だったのは、やはり櫛田の乱入だ。彼女が伊吹の追放に反対しなければ……。

 いや、違う。着目すべきなのは、佐倉と堀北の加勢。三人が口裏を合わせたように反論をしてきた状況すら、綾小路は疑いの目を向ける。

 ――そういうことか。

 すぐにたどり着く可能性。全く面白い。ここまで盤上に触れることなく、文字通り蚊帳の外から状況を動かすとは。自分よりもよほど駒使いが荒い。だがなぜだ? 正直あまり信じられないことだが、他の可能性が考えられない。

 それに、それがじきに無駄になることをあいつはわかっているはずだ。あるいは、言い逃れのためか? こちらの想定以上に、厳重な警戒をしているという線の方が濃いか。

 危なかった。例の下準備を事前にやっておかなければ、これから自分たちは一方的で苛烈な攻撃に成す術がなくなるところだった。

 夜の帳が覆い始める。静寂を呼び込む背景が、間もなく悲痛な喧噪に塗り替わるのを綾小路は予感する。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「止められなかったか……。でもまあ、見苦しい抵抗くらいはね」

 

 ベースキャンプから少し離れた森の中。サイドを結った髪を垂らす人影が、独り言ちる。

 空を仰げば、もう今にも雨を垂らしそうな暗雲が、朧気に影を落としている。

 そろそろか。

 大丈夫。自分の言葉を覚えているなら。あの頃と変わっていないのなら。そして、その先の準備もできている。

 あとは、彼がどう受け止めるかだが。

 目先のことに意識を向け、ぽつりと、とり憑かれたように呼び掛ける。

 

「今、逢いにいくよ――」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 各々が夕食を済ませ、就寝の準備に取り掛かる夕暮れ時。それは突然起きた。

 耳を劈く爆発。にわかに茜に染まる夕闇の森。朧気に立ち上る二本の狼煙。

 現場に居合わせた者のほとんどが、当然予測できなかった。

 試験を二日残して、無人島の一部が炎に包まれた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

再臨のリベロ

 もうじき夜が更ける。

 食事を済ませ、やっと落ち着いた私は、櫛田さんに声をかけた。

 

「ちょっといい?」

「どうしたの?」

「朝のことについてだけど」

 

 丸一日考える猶予があったが、やはりあの時の櫛田さんのアクションには納得がいかなかった。

 櫛田さんの本質は承認欲求。と言ってしまえば簡単だが、それにも種類がある。彼女の場合は、「誰からも気に入られたい」という具体的な部分にまで触れておく必要がある。

 だから、何をしても誰かを突き放すことになってしまう時、櫛田さんにとっての正解は静観に尽きる。まさにあの議論の最中、何かしらの意見を述べることは、クラスの男女どちらかに対立することと同意義だったはずなのだ。

 鉄仮面の櫛田さんが、それをわかっていなかったとは思えない。「誰にでも手を差し伸べる人」と思い込んでいるみんなが見落としても、私にはぬぐえない違和感がくすぶっていた。

 

「何を考えているの?」

「……堀北さんはあの時、私のことを信じてくれた。それが全てだと思うよ」

 

 思ってもみないことを……。

 他人の目が多い場所で、彼女の本心を尋ねるのは至難の業だ。しかし、私ももう簡単に引き下がることはしたくなかった。

 試験は終盤に突入する。にもかかわらず私は、試験全体の動きを把握でてきていない、という自覚がある。いい加減、わからないの一言を心に復唱し続ける醜態を脱したかった。

 試験の全貌。細分化のしかたは様々だが、クラス間とクラス内で分けるのが手っ取り早い。

 Aクラスは葛城派と坂柳派の二勢力が存在しており、現在葛城君が指揮を務めている。彼の堅牢な守りによって、洞窟をベースキャンプにして地の利を活かしているということ以外わかっていない。

 Bクラスも、不干渉という取り決めをしただけで、Cクラスの一人を匿っていること以外は……そもそも、クラスの代表と認識していた一之瀬さんと神崎君の間ですれ違いが発生しているようだった。その真偽や詳細は結局わからずじまいだ。

 そして肝心なCクラス。綾小路君も警戒しているようだったけど、現在D・Bクラスにそれぞれ、スパイと思しき人物がそれぞれ滞在している。表面上、ほとんどの生徒がリタイアしており残存ポイントゼロが濃厚に見えるが、綾小路君の推察通りなら、リーダー当てを狙っている可能性が高い。しかし、どこまでも推測の域を出ず、誰が何人残っていてどう動いているのか、実態が一切わかっていない。

 ならばDクラスはどうか。私が関心を向ける二人――綾小路君は名実ともにリーダー然とした動きを見せているが、その実私にすら隠している何かがある。それを最初に示唆した浅川君も、奇妙なリタイアに意図があるのかどうかさえわからない。

 それに加えて、櫛田さんの動向だ。二日目の単独行動を忘れてはいない。私の知らないところで、多くの人が目的を秘めて暗躍しているように見える。私はそのどれにも関与していない。

 さすがにいたたまれない。

 

「私が盲目的に他人を信じるほど落ちぶれたとでも? ある程度の証明をしてもらわないと、信じようにも信じられないわ」

 

 あえて相手の土俵に合わせてみる。私が他人に対し受容的になり始めているというのが、どうやら周囲からの評価らしい。ならば私なりに、「櫛田さんも信じようとする堀北鈴音」という体で応える。

 櫛田さんが鋭い視線を向けてきたのは、ほんの一瞬のことだった。

 

「うーん、確かに私も、私なりに考えてこの試験に挑んでいるよ」

「……! やはりあなたは、」

「でも! 私一人の考えってわけじゃないんだよね」

 

 なんですって?

 明らかに、上っ面を誤魔化しながら語る真実だ。独断ではない、となると、裏切りのために他クラスと取引をしているという予想が成り立つが……少し引っかかる。

 本当に裏切りを考えているのなら、ここまでのヒントを与えるメリットがない。じわじわと私を苦しめるためでもないだろうに。

 

「堀北さん、顔が怖いよ?」

「……」

「堀北さんも朝のことで不安になっちゃってるのかな?」

 

 だめだ。これ以上何かを明かすつもりはないらしい。元の、顔から喉奥まで取り繕われた彼女に戻ってしまった。

 櫛田さんはこの試験をずっと大人しくしているつもりはなかった。たったそれだけの収穫に不満を抱きながら、踵を返そうとする。

 

「大丈夫、堀北さん。そんなに焦らなくても、すぐに教える時はくるから」

 

 まるで、私の胸中を察したような言葉が背中に投げかけられた。思わず振り返る。

 

「それは、どういう」

 

 反射的に聞き返そうとした――その時だった。

 バンッッ!!

 聞いたことのないような短い音が鼓膜に届く。何かが小さく爆ぜたような。

 聞き間違いではない。明瞭な意識がそう判断した私は、咄嗟にあたりを見回す。――意外にも、櫛田さんも同じ反応を見せた。

 

「今の音……」

「した、よね……? 一体……」

 

 櫛田さんの疑問は、果たして最後まで発せられることはなかった。

 答えがすぐに、私たちの目の前に現れたからだ。

 

「お、おい、あれ!」

 

 徐々に大きく、広がっていくそれに、やっと気づいた池君が、動揺を露わに指をさす。

 その先にあったのは、

 

「な、なんだよあれ、燃えてるぞ!」

「嘘⁉ 火事? って、なんかこっちに向かってきてない?」

 

 鼻をつんと刺激する焦げ臭さは、ベースキャンプから少し離れた場所から伝ってきた。その烈火の波は、確かに見る見るうちにこちらの方へと押し寄せてきている。

 

「な、なにが起こっているの?」

 

 突然のことに驚きを隠せないのは事実だ。それと同時に、冷静な思考がたどり着いた疑問が一つ。

 炎の広がり方が、不自然だ。

 傍らの櫛田さんを見ると、彼女も呆然と事態を見つめていた。しかし、何かにハッとした様子になり、再び周囲を見回し始めた。

 

「櫛田さん……?」

「…………! そうか、やっぱりこれが……」

 

 何かに納得した? 櫛田さんはこの状況に心当たりがあるというのか。

 でも、物音が聞こえた瞬間だけでなく炎を見た時でさえ、彼女は素で驚いていたような気がする。

 

「何事だ?」

「先生! わかりません。でも、このままだとベースキャンプが……」

 

 異常を察知した茶柱先生に平田君が答える。

 事前にシミュレーションでもしていたのだろうか。それにしても冷静な口ぶりで、先生は指示を出す。

 

「全員まずは避難だ。反対側に火はあがっていない。迅速にそっちへ向かえ。荷物や物資よりも命を優先しろ」

 

 試験の都合上、学生証カード等の貴重品はバッグに入れていない。最小限な未練は切り捨てて、生徒たちは指示に従う。

 

「櫛田さん、私たちも早く避難を」

「こっち!」

「は――ちょ、ちょっと、櫛田さ」

 

 名前を呼ぶ間もなかった。

 櫛田さんは瞬時に私の手を引き、あろうことか燃え盛る炎へと突っ込んでいく。

 

「何のつもり⁉」

「大丈夫だよ。……多分」

「大丈夫なわけ……ッ、ないでしょうッ!」

 

 灼熱で目がチカチカと痛む。

 

「さっきの答え」

「は?」

「証明してやるって言ってんの。今は黙って付いてきて」

 

 呆気にとられて、反発する気にもなれなかった。自分の身の危険を顧みれば、絶対に抵抗するべきなのだろうが、私はずるずると奥へ引き込まれる。

 しかし、いざ森の中に入るとどうだろう。自信の曖昧さとは裏腹に、櫛田さんの言う通り炎の付き方はまばらだった。範囲が広いだけで安全な足場も多く、気を付けて進めば火傷もほとんどなく進めそうなほどだ。

 どういうこと? やっぱり不自然すぎる。

 

「伏せて」

 

 頭を鷲掴みにされ、強引に姿勢を低くさせられる。彼女をきつく睨むことくらい許されるだろう。

 すると、顎で「あれを見ろ」と促される。しぶしぶ従うと、驚愕の光景が視界に映った。

 

「綾小路君……?」

「疑っていたんじゃないの? 何か隠していることがあるんじゃないのかって」

 

 図星を突かれ言葉に詰まる。櫛田さんには、私の胸の内がお見通しだったわけね。

 

「な、なんで彼がこんなところに……いえ、あなたも、どうして彼がここにいると」

 

 疑問が脳内に渦巻いていく。櫛田さんはこの展開をある程度把握しているようだった。

 

「はっ……本当に何も知らないんだね、あんた」

「ッ……こんな時にまで、優越感に浸りたいというわけ?」

「ふん、それは正解の一つに過ぎないよ。あんたがあたふたして頭抱えているのを面白がっているってのもある」

「……教える気はないのね」

「どうせ知ることになるのに、わざわざ私があんたに親切を施す意味はなに?」

 

 しばらく考え込んでいた綾小路君が動き出す。私は慌てて追いかけようとするが、それを引き止めたのは他でもない櫛田さんだった。

 そして彼女は、決定的な一言を放った。

 

「感情的になっているのはあんたの方だろ堀北。色んなことで置いて行かれて、今更孤独に焦ってる」

「……! ち、違う」

「ホント滑稽だよ、最近のあんたは。須藤を助けようと出しゃばっておいて、無様にさらわれて何もできない。今回だってリーダー役にもならずに、試験にはほとんど関われていない。うちのクラスにありふれているような有象無象、モブに成り下がったと言っても、間違いじゃないよね」

 

 言い返したくても、言い返す材料がない。櫛田さんの言っていることは、確かに事実だからだ。何より、私自身が自覚していたこと。

 

「だけど、それを事実にしたのは他でもないあんた自身だよ」

「……わかっているわ。だって私は、」

「私は、そんな能力も資格も持ってないから?」

「……」

「バッカじゃないの。実力なんて関係ない。綾小路君に浅川君、平田君やBクラスの一之瀬さんとも関わりの持つあんたには、活躍するための条件が十分整っていた。難しいことじゃない、なにか一つでも簡単なことをするだけでよかったのに、あんたはそのどれもしなかった。わかる? 自分を駄目にしたのは、()()()()()()()()()だよ」

 

 怠慢……そうなのだろうか。そうかもしれない。実際に指摘されて、何だか腑に落ちた。

 行動しようと思った時点で、綾小路君にでも浅川君にでも強く問いただせばよかった。それを怠ったのは……。

 猜疑心の板挟みになって、気が滅入ってしまっていたのだろうか。自分ながら、どこか自分らしくないとは思っている。

 心の整理がついていない。いつまでも宙ぶらりんで、どこに向かって進めばいいのかがわからない。

 私は、何のために進めばいいの?

 

「……ハァ、気に入らない。気に入らないよ、やっぱり」

「ぇ……」

 

 俯いていた視線を上げると、櫛田さんは血が滲むほどの歯ぎしりでこちらを睨んでいた。

 

「まるで自分を悲劇の主人公みたいに……」

「……」

「なんでっ、そんなにまでなってるあんたが、私より……ッ」

 

 彼女は、呆然としている私の胸倉に掴みかかった。

 

「っ、櫛田さん――」

「あんたは、いつまで思い込みに甘えるつもり! どれだけ私を愚弄すれば気が済むの!?」

 

 怒気で歪んだ顔が、眼前に接近する。

 わずかに覚えた違和感よりも、その剣幕に対する恐怖が勝った。

 

「あな、たを、愚弄なんてっ」

「だったら言い返してみろよ! ()()()みたいに大見栄張ってほざいてみろよ! 自分の幸せすらわかってないくせに、何かになろうなんて思い上がるな!」

 

 私の、幸せ……?

 私……私は、幸せなんて望んでない。願望を語るなら、周りから信頼される人間になって、Aクラスにあがって、兄さんに認めてもらって。

 ……あれ? でも、今の私は、そのための行動を何一つ起こせていない。

 忘れていたというの? 私が、あんなにも目指していた、兄さんという目標を。そんな単純なことも見失って――

 

「…………もう、いい」

 

 力強い握りこぶしが、ゆっくりと力を失っていく。

 解放された私の身体もまた、足が折れてしまったように崩れ落ちた。

 踵を返した櫛田さんは、一度だけ立ち止まって言い放った。

 

「あんたの居場所も、私のものだったら良かったのに――」

 

 灼熱の中、ついに私は一人になった。

 非日常的な状況をよそに、私の胸には先程までの櫛田さんの言葉が深く刺さっていた。

 

「私、には、何が……」

 

 身体に力が入らない。抜け殻になった感覚に苛まれる私を、嘲笑うかのように炎が燃え囲む。

 願いと憧れは、間違いじゃないと言ってくれた。その方角を改めて、やっと進む道は定まったと、そう思っていた。

 その誓いを自ら反故にし、蔑ろにしてしまっていたのは、いつからだったのだろうか。

 疲れや自信の喪失でどうかしていただけ? それなら事は簡単だ。問題もはっきりしている。

 でも、それでどうにかなるとは思えなかった。もっと根本的な、私の中にある大事なものが、いつの間にかするりと零れ落ちてしまったような。

 重大な忘却を侵してしまった。曖昧な回答が、私に今できる最も正解に近い表現だった。

 このままじゃ、私はもう完全に立ち直ることはできない。それだけはあってはならないというのに……。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、諦観が脳内を真っ白に染め始めて、それからどれだけの時間が経っただろうか。

 

「鈴音?」

 

 聞き馴染みのある声に、ハッと意識が引き戻される。

 顔を上げた。

 いつの間にか、雨が降っていた。仰げば目を瞑ってしまうほどの強い雨。放心していた私の身体にほとんど火傷がないのは、これのおかげだったのかもしれない。気が付かなかった。

 そんな霞がかった視界の中、私の名前を呼んだ声の主は、相変わらずの無表情だった。

 

「あ……綾小路君」

「こんなところで何をやっている? 早く逃げるぞ」

「あなたの方こそ、一体何を……」

「――逃げ遅れた人がいないか探していた。お前のように動けなくなっているやつがいるかもしれないからな」

 

 見え見えの嘘を……。いつもなら一蹴できたはずのその一言すら、今は受け流すことができなかった。

 

「本当は?」

「え?」

「……いえ。あなたの言う通りね。早く逃げましょう」

 

 きっと彼は、微塵も私のことなんて信じていない。信じていなかった。

 情けないことに、私は今ようやく、その確信を抱くことができたのだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 私と綾小路君を最後に、Dクラスの避難はとりあえず完了した。

 緊急の点呼を終え、非常事態に備えていた大人の方々が迅速に消火活動を行い、腕時計を見るとまだ22時にもなっていなかった。

 異常事態にクラスのざわめきが収まらない中、平田君は落ち着きを失うことなく茶柱先生に問う。

 

「他に被害は出ていないんですか?」

「詳細は話せないが、全員無事は確認済みだ。安心しろ」

「良かった……。そうだ、試験についてはどうなるんですか?」

「幸いなことに、心的外傷の兆候が見られた生徒は確認されていない。特に申し出がなければ続行するというのが、学校側の方針だ」

 

 私がさらわれた時とは事情が違う。ここは第三者の目がない無人島で、学校が独占している環境だ。死者や重症者がいない限り、カリキュラムは完遂し情報は秘匿されることになるだろう。政府運営なのだ、この漏洩は嫌うはずだし、隠蔽は容易い。

 もっとも、来年度からは色々と見直されるのだろうが。

 

「先生、それ以外にも重大な問題があります。学校側は、この火災が起こる危険性を予め排除することはできなかったのですか? これは、致命的な責任問題です」

 

 幸村君からは、別の視点からの発言だ。

 彼の言うこともまた正しい。しかし、先生は首を横に振った。

 

「それは半分正解で半分間違いだ。学校側がこの事態を予測できていなかったのは確かだが、それはむしろ火災の危険性を可能な限り排除していたからだ」

 

 要領を得ない私達に、説明が加えられる。

 

「もはや全員気付いていただろうが、この無人島は一見すればわからない随所に手が加えられている。最低限の環境整備、危険生物の排除、そして、森林を火元とした火災への対処。試験の直前、この島は一面特殊な防火塗料を敷いている。だから余程のことがない限り、炎が燃え広がるということはない」

 

 そもそもルールに、環境破壊は減点だと記されている。生徒側の注意意識と相まって、サバイバル生活において可能な限りの防火策が実施されているのは確かなようだ。

 

「で、ではなぜこんなことに?」

「当然、余程のことが起きたのだろうな。()()()()()()()()()()()()()()()()()といったような、余程のことが」

 

 クラスメイト一同、彼女の発言に驚愕する。

 この人は、まさか……

 

「この島に、実行犯がいるということですか……?」

 

 平田君の代弁に、先生ははっきりと答えた。

 

「それしか考えられない」

 

 そんなバカな。誰もが信じられない思いでいっぱいになる。

 人が生活している環境に放火するなど、紛れもなく重犯罪だ。許されるはずがないし、普通の人間ならまずやろうとは思わない。なるほど学校側の一方的な過失とは、確かに言い難い。

 

「誰がそんなことを……」

「現在調査中だ。火災発生の時刻は記録されている。発火源と当時のGPS反応を照らし合わせれば、犯人は見つかるはずだ――」

「恐らく無理でしょうね」

 

 希望的な発言を遮ったのは、綾小路君だ。

 

「なぜだ?」

「こっちに来てください。――洋介と、鈴音も」

 

 言われるがままついていくと、たどり着いたのは火災現場、森の奥だ。

 

「消火活動中から観察していましたが、恐らく被害の大きいこのあたりが火元でしょう。そして……」

 

 彼は徐ろに地面に手を付け、撫で回した。

 

「気付きませんか? 妙に滑りやすくなっている」

「それってもしかして、油?」

 

「……! 待って」滑りやすい地面、記憶にある。「私が軽井沢さんと調達に行った時に……」

 

「なるほど、これで人為的な火災と見て間違いなくなった」

「はい。それともう一つ――」

 

 彼は足元の枝を一本拾うと、頭上の木を見上げる。

 

「この木、あそこの枝分かれした付け根の部分だけ燃え方が軽度だ。加えてこの枝は、端から端にかけて燃え方に極端な差があり周りの焦げ具合と一致しない。そこから導き出される解はこうです」

 

 まるで鑑定士さながらな分析を、綾小路君は淡々と語る。

 

「犯人はまず、適当な時間帯で随所にオイルをまいた。――鈴音、お前があの場所で大事なかったのは、重症者が出ないように油の量が調整されていたことも原因の一つだ。天候もある程度計算に入れていたはず。そして次に導火線を作った。長い枝の先端に火をつけ、樹木に載せた氷の上に放置するだけ。熱に溶けた氷が坂をつくり、不安定になった台から落ちた枝は可燃性の塊にやがてダイブする」

 

 私達は息を呑んだ。綾小路君の言った方法なら、確かに火災現場に居合わせることなく、簡単に犯行を実行できる。

 更には、火の届く範囲も調節することが可能だ。現に私達はベースキャンプの放棄をしたに留まり、避難する猶予は決して少なくなかった。人命が過度に脅かされたとは言えない。

 

「でも綾小路君。それだと一つだけ疑問がある。あの爆発音は一体どう説明するんだい?」

 

 平田君からの質問。私と櫛田さんが異変を察知したのは、あの不気味に弾んだ音だった。今のやり方では、あんな不自然な音は発生しない。

 答えたのは、綾小路君ではなかった。

 

「簡単なこと。その音はDクラスを襲った火災と無関係だっただけだ」

「でもあれは、」

「別の火災の原因だった。同時刻、D()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。火元と見られる場所には、破損した日焼け止めが数個置かれていたそうだ」

 

 とんでもない情報が飛び出した。どうやら被害を受けたのは私達だけではなかったらしい。

 しかし、日焼け止めが爆発の原因か。

 

「日焼け止めにはアルコールが含まれている。乾いてない状態や缶に残っている状態なら、十分な可燃性があるだろうな」

「そういうこと……。二つの火災は、同一人物による犯行なのかしら」

「何とも言えないな。用意できる燃料には限りがあったはずだから、それぞれ別の材料を使わざるを得なかっただけかもしれない」

 

 尻尾を掴ませずに非道を遂行するおぞましい手腕。私からすれば、強烈な既視感がある。ここまで倫理観が欠如している人間が、しかも私達と同じ高校生となると一層恐ろしい。

 

「綾小路の推測については、そのまま私の言葉として伝えておこう。説得力の点からも、その方が好都合だ」

「助かります」

「この事件の話はこれ以上引き延ばしても仕方がない。平田、ちょうど良い機会だから聞くが、これからどうするつもりだ?」

 

 転換した話題の矛先が平田君に向く。事件そのものではなく、試験に関することだ。

 

「……正直、僕もまだ動揺していて。今はみんなが落ち着くのを待ちたいと思います。ただ、ベースキャンプがもう……」

 

 被害が最小限だったこともあり、生徒の精神状態は思いの外安定している。

 しかし、焦げ臭さ漂う殺風景と化したベースキャンプは、心身共に悪影響を及ぼす可能性が高い。何より、初めに拠点として設定した理由である利便性が大きく削がれてしまっている。

 茶柱先生いわく、火災によって消失、破損した物資は補償されるらしいが、衣食住の住だけは、取り返しのつかない問題であった。

 重い沈黙が、四人の間に降りかかる。

 

「こんな大雨の中で密会かい? 理には適っているけど風邪引くぞー」

 

 突如、間延びした声が鼓膜を揺らした。

 四人の誰のものでもない、中性的なその音は、本来ここにいるはずのない人間から放たれた。

 全員がその一点を見つめる。

 

「良かった……無事だったんだね」

 

 平田君が平然と声をかける。まるで、この明らかにおかしな状況を当然のことのように認識して。

 傍らの茶柱先生も、彼と同様一切の動揺なく応対した。

 

「もう雲隠れには満足したのか? ――――浅川」

 

 名前を呼ばれた彼は、悪戯っぽく笑って見せた。

 

「やだなぁ茶柱さん。僕はずっと、()()()()()()()()()じゃないですか」

 

 

 

 

 予期せぬ来訪者に、反応は二つに分かれた。

 私と綾小路君は言わずもがな、リタイアしたと信じ切っていた浅川君が島に残っているという現状に驚いている。

 しかし、一方の平田君と茶柱先生は、この不可思議な状況が織り込み済みだったと言わんばかりに、安堵の表情を浮かべていた。

 

「もう隠れる必要もなくなった。だから君らだけには先行サプライズと思ったんだけど……あっはは、清隆のその顔、これは予想以上の収穫だったね」

 

 こっちの気も知らないで、浅川君はのうのうと相手の反応を面白がっている。

 

「リタイアはしていないと思っていたが……確かに驚くべきことばかりだ。どうやってオレたちに気付かれずベースキャンプに居られたんだ?」

「君を欺くための手の内なら既出のはずだぜ? もっとも、防ぎようはないんだけど」

 

 浅川君は見せつけるように、小さなゴムを指でくるくると回す。

 綾小路君にならい、私は喉元まで込み上がっていた疑問を吐き出す。

 

「平田君と茶柱先生には、全部伝えてあったの……?」

「うーん、ちょっと違うな。二人には伝えざるを得なかったんだ」

 

 彼からのアイコンタクトに応えて、平田君が説明を継ぐ。

 

「浅川君にとって一番の問題だったのは点呼だ。リタイアしていないからには、点呼に参加できない数だけポイントが減らされる。その問題をクリアするために、僕と先生はこのことを把握しいる必要があったんだ」

 

 報告を担っている平田君と先生に事情を知ってもらうことは必須。浅川君の行動による減点をなくす過程で最小限の開示をしただけのようだ。私は人知れず胸を撫で下ろした。

 

「さて。まだ聞きたいことはあるんだろうけど、その答えはこれからわかってくるはずだ。今は時間がない。目の前の課題に取り組もう」

 

 能天気に手を鳴らし、明るい声が木霊する。

 

「話は聞いてる。機能不全に陥ったベースキャンプ、総勢39人がこの無人島で残り二日間を乗り越えるには心許ない。健康状態やクラスの雰囲気、諸々を考慮して十分な結果を勝ち取るためにはどうすればいいのか……。僕から一つ提案がある」

 

 怒涛の勢いで語る浅川君の妙案は、私にとって奇想天外なものだった。

 

「こんな過ごしにくい島、みんなでとっととオサラバしちゃおう!」

 




よくよく考えてみれば、久しぶりに投稿したくせにオリ主再登場の寸前で終わるのってどうなんだと思ったので、急ピッチで書き上げました。
ここまでで十分謎が膨れ上がっていると思いますが、本章の最後には半分以上解明される予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

余力あるトリアージ

話数も長さも閲覧数も気にせず書き続けられてる度胸と根性だけが誇りです。


「それが、あなたの選択なのですか?」

 

 自分がこれからどう動くのかを語ると、相手は妙に胡乱な目をしてそう聞いてきた。

 

「確かに私情だし、勝手なことだという自覚はある。だが、これはチャンスなんだ」

「第三者の介入の余地が、完全にないからですね」

 

 話が早い。しかし、それでも彼女は納得しない。

 

「あなたらしくもない。もしも綾小路君の推測通りなら侮れない手合いです。依然姿をくらませているということは、炙り出すのには相応の労力と時間が必要になるはず」

 

 時期尚早。と言いたいらしい。

 

「お父様を信じてください。きっと有益な情報を、」

「信用していないわけじゃない。オレはただ、この目で見たいだけなんだ。オレが外を渇望するきっかけ、かもしれなかったやつがここにいるなら。聞きたいことが山ほどある」

 

 視線が交錯する。譲る気はない。無茶はしない。決意と慰撫を出来る限り込めた瞳を、どうやら察してくれたようだ。

 

「……全く、妬ましい限りですね。あなたにそこまで『会いたい』などと言わせるとは」

「……? お前とは会いたい時に会えるだろう」

 

 意表を突かれたのか、彼女は途端に目を丸くする。ほんのりと赤みがさしたような気がした。

 

「そう、ですね。……ええ、はい。私たちは最も近しい距離にいます」

「お、おう」

「寄り添い合おうとすれば、いつまでも時間を共にできる。わかりやすいことでしたね」

 

 一体何の確認だ? 今更認識の共有でもしたいのだろうか。だとすれば、たった今すれ違いがないことは確認できた。彼女は一つとして間違いは語っていない。

 

「あなたの考えを尊重しましょう。ただし無理は禁物です。あなたに良からぬことがあった時、悲しむ人がいるということを忘れないように」

「……ああ、承知の上だ」

 

 激励と気遣いを口にしただけなのだろう。しかしその言葉は、綾小路の胸中を強打した。

 故に誤魔化した。『承知の上』という言葉が、言い条を理解しているという趣旨を逸脱していないことに、彼女は果たして気付かない。

 じんわりと広がる苦い感覚に嘆いていると、突然足場が揺らぐ。

 呆気なく体勢を崩した小さな身体を、綾小路は難なく受け止めた。

 

「……どうして船になんて乗ったんだ。()()

 

 彼女は加虐的な笑みを向ける。今回は何故か、妙にあどけない小悪魔に見えた。

 

「慕う殿方とのクルーズには、少々憧れがありましたので」

 

 ああ、こういう時はどうも敵いそうにない。

 自分を想う故の意趣返しに、綾小路は珍しく愛らしさを覚えた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「な、何を言い出すの?」

 

 浅川君の突拍子もない提案に、私は動揺を露わにする。

 

「そんなことをしたら、配布されたポイントは完全に失われるのよ?」

「でもここで無理をすれば、致命的な後遺症が残る可能性がある」

 

 浅川君は至って真面目な顔で譲らない姿勢を見せる。

 

「今はみんな何てことのないように見えるけど、無意識に無理をしている可能性がある。試験を続けてそれが祟ったり、急増した炭素の影響で体調が悪化したりすれば、悲惨な形でのリタイアラッシュが起こり得る。それが最悪のシナリオだ」

 

 異変が起こってから考えれば、とは返せない。それでは遅いという意味も込めた発言だとわかったからだ。

 

「大丈夫、清隆が存分に手に入れてくれたボーナスポイントと、上振れのリーダー当て加点を踏まえれば、絶望的な差は生まれない」

「しかも少数なら隠密行動を取りやすい。弱点はあるが、確かなメリットもあるな」

 

 綾小路君は納得した様子で補足を加える。思えばこの試験で彼が浅川君に同調したのは、これが初めてかもしれない。

 

「他の三人は?」

「みんなが安全に試験を終えられるなら、一考の余地はあると思うよ」

「教師が口出しする範疇ではない」

 

 二人も拒否するつもりはないようだ。

 それではもう、私が首を横に振ったところで何もならないじゃない。

 今の私に、何かを変える力なんて……

 

「……異論はないわ」

「……よし、決まりだ」

 

 浅川君の顔は、見れなかった。

 

「Dクラスは、一部を残して全員リタイアする――」

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 試験六日目、午前八時。

 慣れてきたはずの点呼が、今回は全員ソワソワしている様子だった。

 原因は言わずもがな、昨夜起きた事件だろう。Bクラスのベースキャンプにこれといった影響はなかったが、大きな破裂音と共にあがった炎は、生徒たちにとって衝撃的なものだった。

 教え子たちを安心させるためか、いつもより努めて穏やかに聞こえる星乃宮先生の通達を、皆静かに聞き入れる。

 

「昨日の爆発についてだけど、大怪我をした子はいなかったみたい。入念な確認を終えて、試験は再開するそうよ」

「ほ、本当に大丈夫なんですか……?」

「気持ちはわかるよ。でも、どうか信じて欲しい。あともう少しで試験も終わる、踏ん張りどころだよ!」

 

 彼女の発破には少なくとも効果はあったらしく、わずかだが生徒たちの表情は明るいものに変わった。

 解散直後、一之瀬は、そそくさと森の中へ消えようとする影を見逃さなかった。

 

「神崎君っ」

「……何だ?」

 

 袖を掴まれた腕は微動だにせず、低い返事だけが返ってきた。

 顔は見えない。

 

「今度は、何をしようとしているの?」

「気にするな。ただの気分転換だ」

 

 馬鹿な質問だったとすぐに後悔する。自分にすら予め連絡しなかったくらいだ。彼が正直に答える道理など、あるはずがなかった。

 

「わかんないよ……神崎君の考えていること、今は全然わかんない」

「……俺は元々、顔に出ない性格だ」

 

 そんことはない。神崎は顔に出にくいだけで、一之瀬からすればむしろわかりやすい人だった。喜怒哀楽のどれにしても、これまで神崎は自分に素直だった。

 なのに今は、こうしてあからさまに隠し事をしている。

 同時に、だからこそ彼が答える気のないことも、簡単に知れてしまう。一之瀬にとっては、至極辛いことだった。

 その心中を察したのか、抑揚の小さい声が継がれる。

 

「一之瀬、俺は、Bクラスを裏切るつもりなんてない」

「……」

「これは必要なことなんだ。だから、頼む」

 

 ああ、この男はこんなにもズルかったか。

 そんな顔で、そんな風に言われて、自分が引き留め続けられるわけがないと、わかっているだろうに。

 一之瀬に残された選択肢は、二人を繋ぐ強固な糸を模した手を、そっと放すことだけだった。

 重く遮られた日陰の奥へと飲まれていく。その姿を、拭えない不安のまま見送った。

 

「神崎君……」

「一之瀬さん。ちょっと」

 

 入れ替わるように白波から声が掛かる。神崎のことは気掛かりだが、立場上ここを離れるわけにはいかない。優先順位を悩むことはなかった。

 それに、彼女の後ろに続いている少年は、

 

「あ、浅川君」

「おは」

 

 最短の挨拶だ。

 

「調子はどう?」

「うーん……これといったことは特にないかな」

 

 神崎のことを話そうか逡巡したが、これはBクラスの問題だ。そっとしまっておこう。

 しかし、

 

「……? ……」

 

 こちらの魂胆を見抜いたのか、彼は懐疑的な目をし、熟考を始めた。

 

「……隆二……、共有していない……交換か? いや、目的……」

「えっと、浅川君?」

「……! Cクラスッ……」

 

 気になる単語が出たが文脈がなっていない。その脳内を外から覗き見ることは叶わなかった。

 ただ、つい先程までよりほんの少し、浅川の表情が硬くなった気がする。

 

「息災なら何よりだ。こっちは昨日、一悶着あったからねー」

「昨日って、あの火事のこと?」

 

 彼は相も変わらず穏やかな顔だったが、Dクラスがまさしく被害者であったことや火災は二か所で発生していたことなど、衝撃的なあらましを語った。

 

「クラスの人たちは、大丈夫だったの……?」

「幸い軽症者しかいなかったよ。ただ、あと二日間もあることを考えると厳しいものがあってさ……」

 

 二の句が出てこないが、察するにほとんどリタイアしたのだろう。要はCクラスと同種の策。

 しかし、浅川自身がこうして残っていることを踏まえると、

 

「リーダー当ては、諦めてないんだね」

「やっぱりわかっちゃうかー」

 

 数人が島に残るメリットなどそれくらいなものだ。他クラスのリーダーを当てる、その算段はついているのだろうか。あるいは、既に看破している?

 今になって協力関係を選ばなかったことが惜しい。ここでその質問をするのは不干渉の域を逸脱してしまう。今更協調に賛同しようにも、この時点で相応の対価を提示できないため向こうの利益がない。

 

「Bはー……あっはは、誰もが予想してた通りかな」良くも悪くも、という枕詞が見え隠れしている。自覚はあるため不快には思わない。

「結果的に、クラス全体の結束が大きく損なわれることにはならなかった。私から言わせてもらえば、及第点かな」

「ふーん……ボーナスポイントを失うことになっても?」

 

 ドキッとした。やはり気付いていたか、金田がいなくなっていることに。

 

「ごめん、ちょっと意地悪だった。確かにうちのクラスは何度も仲間割れをしていたし、君の言うことは当たらずも遠からずなんだろうね」

「浅川君の気持ちもわかるよ。BクラスやAクラスはポイントがある分守りに入る余裕があるけど、CクラスとDクラスにとってはここが差を埋める絶好の機会なんだもん」

 

 突き詰めた話、一方が間違っているわけではない。何故ならこの試験のテーマは『自由』なのだから。

 

「そろそろ行くよ。お互い、最後まで好いヴァカンスを過ごそう」

「――うん」

 

 火事に巻き込まれた身で、好いバカンスも何もないような……。

 他愛もない疑問を抱えながら見送りを終えると思われた時、浅川は振り向いた。

 

「……一つだけ、お願いがあるんだけどいいかな?」

 

 随分と重い表情だった。

 

「話したい相手がいる」

 

 

 

 

 

「よっし、こんなもんか」

 

 須藤は満足げというわけではなく、特に不満もなさそうに呟いた。

 

「大丈夫か? 寛治」

「ん? あー、疲れてないって言ったら嘘になるけど、これくらいどうってことないって」

「そうか。頼むぜ、あいつらは俺らのことを信じて任せてくれたんだ」

「わかってるわかってる」

 

 しゃがんでいる池の顔色は悪くない。昨日の件で憂いもあったが、残りの試験中は持つだろう。僅かに足りない分は、漢のド根性で補える。

 二人が行っているのは食料調達。他にも数名同じ行動を取っているが、須藤は運動能力、池は地形の慣れを理由に即決で選ばれた。

 

「どうしたんだよお前。何か元気ねえな。やっぱ体調悪いのか?」

「いや、俺なりに考えてみたんだけどさ。みんな悩みながら頑張ってんだなと思って」

 

 こちらは本当に気遣い、相手もしかつめらしい表情で答える。我ながら、珍しい瞬間だ。

 だからこそ、真摯に聞き遂げる気になった。

 

「俺たちなりに恩返ししようなんて浮かれたこと言ってたけど、堀北ちゃんは試験が始まってからずっと元気がなさそうだったし」

「……」

「清隆は、けっこう一人でいなくなってることが多かったよな。俺にはわかんない事情とかあるのかもしれないけど、誰の助けもないっていうのは大変なことだと思う」

 

 な? と同意を求められ、当然頷いた。自分たちは、誰の助けもなければ最初の試練すら乗り越えられなかった人間だ。

 結果的に、自分は気づかない振りをしていたのだろう。あまり難しいことがわからなくて、考えることが苦手で、足りない頭では言語化できなかった違和感をなおざりにした。でも友情がそれを許せなくて、だからあの時、堀北を誘うことに賛同した。

 燻ぶっていたものの答えが、池のおかげで少しだけ明確になった。三馬鹿と時に揶揄される自分たちの中で、彼だけはなまじ視野が広いことを密かに認めていた須藤は、改めて今ある関係のありがたみを感じた。

 傍ら、物憂げな顔をする少年を、友人として宥める。

 

「気持ちはわかるけどよ、じゃあどうすんだって話だぜ。俺らがそんなことまで考えたって仕方ねぇんだ」

「でもよ……」

 

 そもそも『誰かの施しに報いたい』という良心自体が、これまでの二人にはなかったことで、須藤は自分のそんな変化を自覚していたものの、慣れてしまったがためにそれを池に指摘してあげるには至らなかった。

 しかし、自分なりな言葉だけでも。

 

「自分に見合った努力ってのがあんだよ。俺らには上のクラスを倒す方法なんざとても思いつかねぇけど、それを手伝うことくらいならできる。堀北だってそう言ってたろ」

 

 思い起こされたのは、沖谷の姿だった。

 綾小路と浅川と違い、彼はお世辞にもバスケが上手いとは言えなかった。初心者なのだから当然なのだが、ひたむきに練習し綾小路にも助言を受けることで大きな成長を遂げることができた。須藤との差はなおも歴然なものの、そんな沖谷に今以上を強いる気は更々ない。

 あるいは、須藤たちの力も必要になると言ってくれた堀北もそれに近い教訓を以てのことだったのかもしれない。

 

「だから、俺たちが堀北にしたことはきっと正しかったんだ。それに、俺らは今まさにあいつらの助けになることをやってる最中だぜ。頭より体動かせっての」

 

 池は、納得したように深く頷き重そうな腰を上げた。

 

「……あーわかったよ。ったく、お前の場合体を動かすくらいしか能がないだけだろ」

「あぁ? 言ったなてめぇ、そっちは頭も体もへっぽこじゃねえか」

「お、俺はお前と違って? すぐに暴力なんかやらかさないし?」

「だからあれはCクラスの罠で、殴ってなんかねぇって! ……初めの方は、ちょっとやんちゃはしたけどよ」

 

 これ以上続けても埒があかない。弁舌は嫌いだし得意ではない。

「ほら、行くぞ」と、彼は強引に池の手を引く。「休憩はもう十分だろ」

 何が嬉しかったのか、池は気味の悪い笑みを浮かべて応えた。

 

「あいよ。清隆と洋介に負けてらんないからな!」

 

 

  

 

 

 

 雲は晴れない。視界も晴れない。

 須藤と池から離れ、いまだ森の中。より狭窄した空間を、綾小路と平田は歩いていた。

 

「だ、大丈夫なのかい? そんな積極的に占有をして」

「鈴音にも言われた。オレの力を以てすれば、こんな人気のない場所で監視に気付かないことはまずないさ」

「あはは……君が言うと妙に説得力があるね。信じるよ」

「え……お、おう」

 

 冗談として受け取ってもらえなかったことにショックを受ける。クソ、またジョークを失敗したか。

 綾小路は会話の片手間に、通りかかったスポットの装置にカードを通す。

 

「どのみち、リーダーを当てられる可能性は極めて低い」

「君の言う通り、二分の一にまで絞れたところでマイナス50ポイントのリスクはなくならない。加えて須藤君と池君がデコイとしても働き得る。僕が恐れているほど、占有する際の危険は気にしなくてもよさそうだ」

 

 外せば50ポイントの損失、当てれば50ポイントの利益と他クラスが50ポイントの減点かつボーナスポイントの剥奪。当てた際の影響の方が大きいものの、確率が低すぎる。

 さらに、

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だなんて、もはやこの試験のリーダー当てのシステムは機能していないも同然なんじゃないかな?」

 

 浅川が打ち明けた、リーダーに関するルールの盲点。堀北と平田は驚いていたが、綾小路は説明を受けた段階からその存在を当たり前のものとして認識していた。

 しかし、態々他人に知らせる必要はなかったのではないかというのが、綾小路の本音だ。下手に広まれば、平田の言うリーダー当ての実質不可能が現実味を帯びる。

 ただ、

 

「そうとは限らない。予めリーダーを知っているなら、そいつが乗船するかどうかを監視しておけばいい」

「船の見張り、か。でも、もしリーダーが交代したとわかっても、次のリーダーがわからないんじゃ……」

「全員が候補なら、そうなってしまうだろうな」

 

 平田が目を見開く。ここですぐに察せるあたり、Dクラスを引っ張る聡明さが感じられる。

 

「そうか……Cクラスはほとんどの生徒がリタイアしている、だったね。それが清隆君の考えだったわけだ」

 

 偵察の際に無線機を発見したこと、伊吹や金田がスパイであることなど、根拠は粗方話してある。

 クラスの性質上、指導者である龍園が島に残っている可能性は非常に高い。しかし綾小路には安心できない材料が一つだけあった。

 故に、龍園を探すという名目で、こうして平田とスポット占有兼リーダー捜索を行っているのである。

 

「龍園君の居場所に心当たりは?」

「確信にまでは至っていない。ただ、自ずと範囲は絞られる。他クラスのベースキャンプは論外、散策や調達に使われる開けた道、海岸、そして昨日の火災で環境が侵されたスペースも潰される」

 

 単に体調面の問題だけではない。広範囲にわたり火の手が伸びた以上、その跡地に人の影があれば目立ち過ぎる。身を隠せる程の茂みも残っていない。

 

「……船に戻ったという可能性は?」

「否定はできない。それならお手上げだな」

 

 嘘だ。綾小路は既に龍園が島に残っていることを確認している。

 本来なら平田に隠さなければならない状況にはなっていなかったのだ。しかし、第一のプランによる確認が不可能となったために、ここで可能性を否定すると自分の首を絞めかねない縄がかけられてしまった。

 

「心配は要らない。きっと上手くいくさ」

 

 今更不安を煽るような言葉を連ねる必要はない。全く適当な慰めをかけた。

 それがよくなかった。

 

「……それは、君が裏で独り動いているから?」

 

 思わず彼の顔を見る。

 

「何が、言いたいんだ?」

「堀北さんとも話していたんだ。今の君は、何だか少しおかしい」

「抽象的なことを言われてもわからないな」

 

 棘の刺さる感覚に蝕まれながら返す。

 

「これまでの君なら、もっと仲間のことを頼っていたはずだ。中間テストのときも健君のときも、一方的ではなく君自身が助けてもらうことを求めていたし、それが叶うことを喜んでいた」

「……」

「否定、しないんだね……ううん、できないんだ。だって、君は望んでそうしていたから」

 

 全く以てその通りだ。自分に嘘はつけない。しかし、今はそんな懐古に耽ってる場合ではない。

 

「今しなきゃいけない話か?」

「うん。僕にだって事情が、理由があるんだ」

 

 ここまで譲らない意思を見せる平田は初めてで、綾小路は内心冷たい溜息を漏らす。

 

「今回は偶々、単独行動が理に適っていただけだ。実際今はこうしてお前といるし、恭介たちだって動いてる」

「君は……何でそうやって誤魔化すんだ……」悲観的な表情だ。「それは浅川君の提案で、健君たちが進んでやっていることだよ。清隆君は、本当にそれを望んでいたのかい? 何より――」

 

 張り詰めた空気の中、平田は核心に触れる一言を放った。

 

「君は一度も、この試験で自分の考えを共有していないじゃないか」

「……」

「あんなにも能動的に動いていたのに、その内容も目的も明かさない。堀北さんにまで意図を隠して……僕は、今君が何を考えているのか、怖くすらある」

 

 暗い沈黙が降りる。久しぶりに、何と返せばいいのか、すぐに答えが浮かばなかった。

 やがて、一つの手段に辿り着く。

 

「……悪い、考えが足りなかった。残り僅かな時間だが、洋介のことを頼らせてくれ」

 

 思っても無いことを口にする。果たしてどう受け取ったのか。平田もこちらを測りかねている様子だった。

 

「じゃあ、具体的にどうするつもりだい? 特に、龍園君を見つけられた後のことだ」

 

 つくづく、今回は先手を打っておいて良かった。でなければ渋々でもこれからの動きを彼に教え、行動を共にする選択は取れなかったことだろう。

 龍園に持ちかけるつもりの()()は一人で済ませる予定だったが、下手な口を挟まない平田なら、付き添わせたところで支障は生まれない。そう判断する。

 やがて。綾小路の確信通り、二人はCクラスの王を探し当てることに成功した。

 

 そして、来る最終日。

 クラスの垣根すらも超え複雑に絡み合う思惑と感情は、結果という数値に明確に反映されることになる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

形骸なピリオド

短め。


 ここ数日の重い空気を払拭するように。あるいは、これから訪れる結末を先んじて祝福するように。

 最終日の朝は皆、試験開始時と同等に照り輝く太陽に見守られて起床した。

 点呼を済ませ、空腹を感じる者は僅かに残った食料を費やし、リーダー当ての時間はすぐにやってきた。一体どのクラスがどのクラスを狙うのか、仔細を把握することが難儀な多くの生徒が不安に駆られていることだろう。

 現在時刻は正午。結果発表の場である船着き場に最初に姿を現したのは、Bクラスだ。

 そわそわと、しかし体裁を気にし優等生然とした態度で待機している。

 次に顔を見せたのは、

 

「龍園、君……」

「ハッ、疲れが溜まっているわりに、覇気のある顔はできるみたいだな」

 

 Bクラスの面々とは比にならない汚れた格好の龍園に、Cクラスは全員リタイアしたのだと思いこんでいた者たちはざわめきを抑えられなくなる。

 一之瀬にとっては意外でもない。金田がスパイである可能性を認識している以上、司令塔の彼が島に残っているかもしれないと悟るのは当然のことだ。

 

「そんなボロボロになってまで、リーダーを探した甲斐はあったのかな?」

「……まあな。一つだけ言えるのは、今回お前らは痛い目を見るってことだ」

 

 意味の薄い質問をしたつもりだった。しかし、龍園の反応は想像とは違った。煮えきらない返事。

 彼は彼で、何かしらのトラブルがあったのだろうか。

 一之瀬が顎に手を当てている間に、Aクラスも到着する。ひどく落ち着いた様子で、クラスポイントのかかった試験の渦中とは思えないほどだった。

 現時点でのリーダー、葛城は、指定の位置に黙して立つ。

 

「隠居生活は楽しかったか? 葛城」

「有意義だった、と言っておこう。――龍園、生憎貴様の思い通りにはならんぞ」

 

 睨み合いの拮抗が崩れる。龍園の眉が動いた。

 

「我々を出し抜いたつもりなのだろうが、Aクラスの鉄壁は簡単に崩せんということだ」

「てめぇ、まさか……」

 

 余裕の欠けた龍園の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

 最後のクラスが到着したのだと、すぐにわかったからだ。

 なぜなら、

 

「え……?」

 

 その場にいた半数が、その光景に驚愕する。

 Bクラスと龍園は驚きに顔を染め、一方のAクラス、そして神崎は一切の動揺も示さない。

 

「……! そういことか」

 

 唯一何かに気付いた龍園が、忌々しげに呟く。

 

「やってくれたな、綾小路ぃ……!」

 

 彼の矛先にいたのは、今回Dクラスを先導した一人である綾小路。

 そして、

 

「なんで、Dクラスが全員残っているの……?」

 

 総勢39名。

 高円寺を除くDクラス全員が、ここに集結していた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「Dクラスは、一部を残して全員リタイアする」

 

 決定した方針を、浅川君は改めて口にした。

 彼の言う通り、綾小路君の異様なスポット占有によって、最終的なボーナスポイントは100pに届く見込みだ。まさかリーダーを当てられるようなミスはしないと考えると、この加点は蓋然性が高く大きな追い風となる。

 しかし、私たちはこれまで足りない知恵を出し合い、何とか節約の努力を続けてきた。高円寺君の予想外の厚意もある。浅川君の案はそれらを無に帰す、肉を切らせて骨を断つ作戦なのだ。

 私の中で、天秤は失われるものに傾いている。やはり今からでも反対するべきだろうか。節約派のクラスメイトからの反発が予想されることを指摘するのもいいかもしれない。

 考えあぐねていると、私の思考を打ち消すように、再び浅川君は手を鳴らした。

 

「…………って、相手に思い込ませるのが今回の作戦だ」

 

 理解できないセリフに、私たち全員顔をしかめる。

 

「思い込ませる、って……」

「騙すってよりかは、自然とそうなるってだけだね。どこから説明すればいいか……まず、Dクラスは誰もリタイアしないのは前提だ」

「でも、さっき君は試験を続行するリスクを語っていた。それについてはどうするつもりだい?」

 

 平田君からもっともな質問が出る。当初の浅川君の言い分の根拠が、まさしくそれだった。

 

「要はあんな健康に悪い場所を住処にしなきゃいいって話さ。火災の現場から離れた場所にいれば、悪影響は大きく軽減されるはずだ」

「点呼を忘れていないか? ベースキャンプを変更することができない以上、必ず全員あの場所へ足を運ばなければならない」

 

 点呼のタイミングだけ戻るというのであればあるいは。しかし手間がかかるし、今から新たな休息地を探す余裕があるとも限らない。それをわかっての、綾小路君からの提起。

 それを浅川君は、待ってましたと言わんばかりに笑みで返す。

 

「誘導ありがとう清隆。そう、僕の潜伏と同様点呼が一つの壁になる。でもそれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の話だ」

「どういうこと? ベースキャンプに関する規定はマニュアルに記載されているし、先生からも説明があったわ」

 

『ベースキャンプは正当な理由なく変更はできない』、と。

 にもかかわらず、彼は首を横に振った。

 

「それは変更が不可能であることを意味するわけじゃない。肝心なのは、ここで言う『正当な理由』とは何なのかだ」

「あ! そうか、裏を返せば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということだね」

 

 平田君の補足に彼は頷いた。

 

「設定したベースキャンプが想定されていない出来事で機能不全。拠点として生活し続けるには衛生が絶望的すぎる。拠点が利便性をもとに選択されるという暗黙の了解であることも考慮すると……茶柱さん、これはさすがに不当な申請ではありませんよね?」

「当然だ。不測の事態にもルールを以て対応できるために、そのような説明の仕方になっているのだからな」

 

 どこか嬉しそうに、茶柱先生は即答した。どうせ妙案を思いついた浅川君に感心しているのだろう。

 

「そして次に問題となるのが、どこをベースキャンプにするのかだ。知っての通り、今から良さげな拠点を探すには時間と、みんなのストレス容量値が足りない。求められるのは即興でも上手く生活を続けられるだけの利便性と、それが保証されていることをすぐに把握できる明確性」

 

 簡潔にして相当高いノルマだ。特に明確性の件は、キャンプ経験者であろうと探索→発見→確認のプロセスを省略できないため困難を極める。

 ただ、それを理解した上での発案だ。彼はその問題にも、奇天烈な回答を用意していた。

 

「実は、僕らは既に知っているんだよ。ベースキャンプに向いている他の場所を」

「……二か所、か」

 

 綾小路君が、そうつぶやいた。

 

「ベースキャンプを設定したのは、僕らだけじゃなかったろう?」

「ま、まさか浅川君。あなた、他クラスに居候するつもり?」

 

 あまりに突拍子もない。残り二日のこのタイミングで、敵地に拠点を置くですって? 力技というか、それはいろいろと大丈夫なのだろうか。

 

「初日に僕がした質問を覚えてるかい? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ルール上問題はない」

「それはそうだけど、望みは薄いわ。だって、それを相手のクラスが許可するメリットがないもの」

 

 誰もその方針を考え付かなかったのは、拠点を被らせるデメリットが多すぎるからだ。自クラスのリーダーが悟られる可能性だけじゃない、利用できるスペースが半分になってしまうことも理由の一つだ。

 

「なら利益を提供すればいい。例えばこの試験でのポイントをいくらか分けるとかね」

「そう簡単な話じゃないわ。恐らく並ではない値を要求される。そもそも、そこまで寛容なクラスがいるとは思えない」

 

 Bクラスでさえ、今は雰囲気がおかしい。余裕があるとは言い難い状況だった。不干渉という関係がほぼ定まった状況での空間提供は図々しいことこの上ないだろう。

 しかし、

 

「いいや、一つだけ伝手がある。既にコンタクトは済ませて許可も取ってある。残りがたった二日なのが幸いしたね」

 

 自分の意見が通ること、それが成功することを疑わない自信に満ちた顔で、彼は言ってのけたのだ。

 

「新たなベースキャンプは、Aクラスのいる洞窟だ」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 Dクラスの動きを察知していなかった者たちの間では、どうやらDクラスはリタイアしたという噂が広まっていた。

 一之瀬も、浅川とのやり取りから、彼らはリーダー当てのために初期ポイントを捨てて最小限の人数で行動をしていると、勝手に思い込んでいた。

 そう、勝手な思い込みであったことを、彼女はすぐに気づくことができたのだ。

 浅川はあの時、決して『リタイアをした』とは口にしていなかった――。

 ほとんどの生徒がいまだ疑問符を頭に浮かべる中、強引に静寂を振りかざすように、キーンと甲高い音が響く。

 壇上にあがった真嶋先生が持つ、拡声器の音だ。

 

「諸君、一週間にわたる無人島生活、ご苦労だった。既に試験は終了している。今は正真正銘ただのバカンスの一環だ。リラックスしてくれて構わない」

 

『試験は終了』、大きな意味を持つその一言は、生徒たちにとって決定的だった。緊張の糸がほつれ胸をなでおろす者たちが散見される。

 その様は、間違いなく年相応の、無垢な少年少女だった。

 

「ここでの生活は挑戦的であると同時に、大きなチャンスだった。クラスの結束を深める。他のクラスを知る。新たな人間関係を構築する。それぞれが己に課題を見出し、達成する努力をしてきたことだろう。しかし共通しているのは、自分自身を見つめ直す時間が与えられていたということ。自分には何ができて何ができないのか。足りないものは何なのか。どのようにして研鑽を積むべきか。そんな途方もない命題に、行動を以て答えを示す君たちの姿を、我々教員はしかと見届けさせてもらった。その上で――皆素晴らしい結果だったと、私達は大いに感心している」

 

 子供が大人に成長する過程。それを悲観的かつ現実的に描かせるのが、高度育成高等学校の特徴の一つと言える。

 無人島試験において、苦難を経験しなかったクラスは一つもない。だからこそ、あどけない子供たちの胸を打つような真嶋先生の温かい言葉を、内心無下に扱おうとする生徒は一人としていなかった。

 しかし、そんな感慨はすぐさま、唐突に振り払われる。

 

「では、これより試験結果を発表する。勿体ぶらずに纏めて発表するので、聞き漏らすことのないように」

 

 波の打つ音のみが置き去りにされた無人島に、簡潔な事実が木霊する。

 

「――四位、Aクラス、180p。三位、Bクラス、200p。二位、Cクラス、258p。そして一位、Dクラス、298p。以上だ」

 

 本当に迅速に義務を済ませて下がるものだから、寧ろ生徒を労う意図がわかりやすかった。

 しかし、それを各々が意識するのは後のことで。

 

「馬鹿な……」

「どういうこと?」

 

 葛城と一之瀬は、純粋な驚愕。

 

「……つまらねぇ茶番だったぜ」

 

 龍園は不満と苛立ちを込めた舌打ち。

 

「……」

 

 綾小路も、違和感に眉をひくつかせる。

 この島でクラスを代表していた者たちでさえ、誰もこの結末を完全には予想できなかった。

 ――ならば。

 この複雑なシナリオは、一体どのようにして描かれたのか。

 その答えは当然、数多の思いと共に隠されている。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 平田君に宥められながら豪華客船へと帰ってきたDクラス一同は、ため込んでいた喜びと驚きを一気に爆発させた。

 

「おおおおおよっしゃー! やったぜ、俺たちが1位だー!」

「ひもじい生活送ってきたけど、みんなで頑張った甲斐があったな!」

 

 互いが互いを称え合う。そんな明るい光景が広がっていた。

 そこに、高らかな笑い声とともにブーメランパンツの男が現れた。

 

「諸君! 無人島での生活はどうだったかな?」

「高円寺⁉ て、てめぇ何呑気な顔してやがる!」

「あんたのせいで30ポイント引かれちゃったこと、忘れたとは言わせないからね!」

「ああ俺もトロピカルジュース飲みたくなってきたぁ!」

 

 あなたたちは呑気ではなくとも能天気でしょう……。

 

「あはは……でも、高円寺君があの時たくさんの食糧を調達してくれたのはとても助かったよ。リタイアのマイナスを払拭するほどの働きをしてくれた――今回の試験を最高の形で乗り越えられたんだ。こういう時くらいは、僕たちは彼にきちんと感謝すべきだと思うよ」

「そうだね。……ふふ、体調不良だったのに頑張ってくれたんだもん」

「ハハハ! Don't worry! 私は完璧な男として、未熟な君たちに当然の施しを与えてあげたまでさ。喜んでいただけたようで何よりだよ」

 

 昂った感情のままに賑やかさを見せる面々だが、再度平田君が宥め、櫛田さんも冗談交じりな一言を加えることで、もう高円寺君の態度に物申す人は現れなかった。

 

「でもさ、どうして俺たちが一位になれたんだ?」

「やっぱり誰かがリーダーを当てれたんじゃない? 平田君か綾小路君か、堀北さんとか?」

 

 ようやく話しがまともな方へ動き出した。伝染する疑問に平田君は答える。

 

「実はそこまで難しい話じゃないんだ。僕たちは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「じゃあなんで……」

「他のクラスが当てられたり、外したりした結果、Dクラスはリスクを冒すことなく一位になれた。それだけのことだったんだ」

 

 まさかとは思うが、本当にそれ以外説明のしようがない。私たちDクラスは、本当にどのクラスにもリーダー当てを行っていない。

 物資の購入と調達や工夫によって、初期ポイントは180残る予定だった。そこに高円寺君の貢献とリタイアの差し引きが挟まり、暫定が190となる。

 そこに綾小路君のスポット占有によるボーナスポイントが加わり298p。

 契約によってAクラスは狙わない。不干渉によってBクラスは狙わない。Cクラスも、綾小路君から聞いた例の()()によって狙うことはしなかった。

 盗難事件から火災やベースキャンプの変更と波乱は続いたが、最終的にDクラスは正攻法で一位を勝ち取ったことになる。

 結果だけで見れば、とてもシンプルな様相だ。しかしDクラスのみんなからすれば、その事実はむしろ大きな糧となる。

 

「つまり、僕たちが1位を獲れた最大の秘訣は、正真正銘全員での協力と努力にあるってことだね」

「おおぉ、感動だぁ。俺たち、クラスの勝利にちゃんと貢献できたんだな……!」

「おい寛治ぃ、何泣いてんだよ。男が、めそ、めそめ……めめめそめそ泣くんじゃねぇ!」

「はぁ? お前の方こそ号泣してんじゃねぇか!」

「バカ、これは目にゴミが入っただけだよ!」

「んなでっけぇゴミがあるかってんだよ!」

 

 万感の思いを露わにする池君と春樹君の情けないやり取りの滑稽さに、クラスに温かな笑いが沸き起こる。

 全く、彼らの最大の長所は、ああいったムードメイクなのかもしれないわね。

 成功体験を分かち合う彼らを眺めていると、やっと違和感に気付いた。

 何人かの姿が見えない。もうデッキから動いたのかしら。

 ……。

 もしかして……。

 クラスメイトの群れを放置して、私は慌てて駆け出した。

 私は、この試験のあらましについてある程度は聞き及んでいる。しかし全てではないこともまた事実だろう。

 特に、終盤に至るまでほぼテントに籠りきりだったはずの浅川君と、多くを語らなかった綾小路君の動きは謎が残ったままだ。

 不在の生徒の中には二人もいる。もし、クラスに打ち明けるつもりのないことについて、試験の振り返りをしているのなら。

 心当たりのない私の足は、あてもなく答えを追い求めていた。

 




さあ、次回から各クラスか人物単位で試験を振り返っていきます。いやーうまくまとめられるか心配。
表面だけ見る限りだと、本当に詰まらない結果になってたの、書いた後に気付いたんですよね。過程は自分でもこんがらがるくらい複雑にしたつもりだったんですけど。やり場のない嘆きを込めて、龍園君には「つまらねぇ茶番だ」と吐き捨ててもらいました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

思惑韜晦のポストトーテム(A)

 試験開始直後、葛城は龍園からある契約を持ちかけられていた。守りを重視し、攻め手に欠けていた葛城にとって、それは確かな魅力のある内容だった。

 熟考の末、彼は決断する。

 自分の答えを、目の前の蛇のような男に突きつける。その、直前だった。

 予想外の出来事が起こったのは。

 

「葛城さん?」

「……! や、弥彦――」

 

 戸塚は呆然とした顔で、葛城の背後から現れた。それに気づいた葛城も同じような表情をする。

 

「なぜここに来た?」

「お、俺は葛城さんが心配で……それより、なんで龍園がそこにいるんですか? もしかして葛城さん、龍園と手を組もうとしているんですか?」

 

 もともと互いに相容れないという自覚はある。そんな二人が密会しているとなれば、戸塚でもその結論に至るのはそう難くなかった。

 

「おい腰巾着。俺たちは今大事な話をしてるんだ。頭の足りねぇカスは引っ込んでろ」

「なっ、うるさい! Cクラスのくせに、舐めた口を利きやがって」

 

 龍園の圧に物怖じしないのは勇敢だからか鈍感だからか。差別的な応酬をし、不安そうな瞳が葛城に向けられる。

 

「葛城さん、こんな怪しいやつの言うことなんて信用できませんよ。危険な男だって警戒していたのは他でもない葛城さんだったじゃないですか」

「う、ううむ……」

「聞けば7月の暴力事件も、CクラスがDクラスを騙して訴えたらしいじゃないですか。俺たちも同じ目に遭わせられるかもしれません。俺は、そんな屈辱を味わいたくありませんっ」

 

 自分を心底尊敬し、信頼している者からの懇願だ。初めからあった警戒心も相まって、葛城の心は再び揺らぎ始めていた。

 今しがたも、警戒心からこちらの負担を軽減してもらったばかりだ。この契約が本当にAクラスにとって得なのか、疑っていないわけではない。

 どうする? どんな罠があるかもしれない石橋を叩かずに渡るか、リスクを避けて別の糸口を探すか……。

 

「……葛城さん。俺は、葛城さんにも、危ない目に遭ってほしくないんです」

「……」

「葛城さんなら、Aクラスの座をきっと守り通せるって信じてるから。俺は……」

 

 所詮龍園に出し抜かれる程度だなどと言っているわけではないことは容易に理解できた。

 最もリスクが高いであろう相手と組まなくとも、葛城ならAクラスを勝利に導いてくれる。恐らく戸塚はそう言いたいのだ。

 それに、彼の『守り通す』という言葉が、葛城の胸の内を刺激した。

 

『守るからには、徹底的になー』

『時にはそこの右腕さんの言葉も聞いてみなー。君のちょっとやそっとの甘さに、待ったをかけてくれるかもしれないぜ?』

 

 そうだ。自分のやり方を信じろ。

 搦め手も騙し討ちも得意ではない。なればこそ、慣れないことに囚われるより、今は自分にできる戦い方を貫くしかない。

 これも、俺の甘さか。

 

「……すまんが、龍園。契約は断らせてもらう」

「何? 本気で言っているのか?」

「ああ、何とでも言うがいい」

 

 彼は、自分の右腕を見た。

 

「お前にはわからないだろう。信じてくれる者の思いは、時に無下にはできんものだ」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 船内に戻ってからも、Aクラスの面々は喧噪が収まらなかった。まさに今、とても学年トップ層の栄誉を保持している者とは思えない、統率を失った集団と化している。

 

「どういうことだ葛城!」

「どうしてあんなひどい結果になっている? 納得のいく説明をする義務があるだろう!」

 

 四位、Aクラス。

 それは簡潔明瞭、自分たちがこの試験で最下位であったという事実。

 完全にクラスどうしが切り離されていた定期テストを除けば、初めての対抗戦で大黒星を与えられてしまったことになる。当然クラスメイトたちは阿鼻叫喚だ。

 

「お、お前ら落ち着け! 葛城さんは……」

「お前には聞いてねぇ、黙ってろ!」

「ぐっ、……」

 

 戸塚の抵抗も、群衆の怒気に気圧され沈黙してしまう。

 葛城もまた、唇を真一文字に結び、一言も返さずに仁王立ちしていた。皆の怒りは至極正当なもので、今何かを訴えたところで無益であることを十分に理解している。

 

「――ふふ、珍しく賑わっていますね。まるで宴のよう」

 

 瞬間、騒めきが忽然と途切れた。

 透き通る声は、その空間で凛と存在感を醸す。

 

「どうやら、あまり心地の良い音色ではなさそうですが」

 

 小さく華奢な姿に、全員が目を移した。

 

「お疲れ様でした、皆さん。どうか一度落ち着いてくださいな。このままでは葛城君が弁明することもできませんよ」

 

 現地にいなかったとはいえ、同じAクラスとは思えない朗らかな笑み。傍らの三人は然程感情の読み取れない真顔だと言うのに。

 否、橋本だけは、平生通り胡散臭い微笑を浮かべている。

 

「確かにAクラスは、私という枷によって30ポイントのハンデを抱えて試験に臨むことになりました。その点につきましては大変申し訳ありません、改めてここに謝罪します」

 

 坂柳派は「全く致し方のないことだ」と憐憫を、葛城派は先天的な問題を咎めるわけにはいかない歯がゆさを表情に浮かべる。

 

「ですが。皆さんもお分かりでしょう。私たちはAクラス。その程度のハンデを跳ね除けて勝利をもぎ取ってこそ、その矜持は守られるべきであり、最下位などという屈辱的な結果は論外です」

 

 相手を刺すような鋭い視線は、敗北の立役者へと向けられる。

 そこには、ひた隠しにされていた愉悦が今にも漏れかけていた。

 

「当然、全てをご説明いただけますね? 欠席した私にも理解できるように、わかりやすく」

「…………わかった」

 

 断る理由などない。葛城は言われるがまま、真実を語った。

 

 一日目。

 奇妙なアナウンスを察知した葛城は船内から島の構造を確認。「意義のある景色」を見届けた。

 試験開始後、坂柳不在な以上葛城が指揮を執ることは即決され、事前に目星をつけていた洞窟へと向かった。そこでスポットを発見。しかしその際、リーダーに決定した戸塚が迂闊にもキーカードを使用してしまう。

 ベースキャンプ設定後、方針を共有。洞窟という地形と、周辺のコテージやその他のスポットを活かしポイントの節約。侵入者を光の変化によって見つけやすくするために出入口に暗幕を張ることが決定する。

 Dクラスから一名来客。協力を仄めかされる。

 

 二日目。

 Dクラスから一名、別の来客。洞窟の奥を見せることなく追い返す。

 

 三日目。動きなし。

 

 四日目。

 一日目と同一人物の来訪。外見からの判断で救助し匿う。その際具体的な取引を持ち掛けられる。以下、その内容。

 ①Aクラスは五日目正午以降、Dクラスが同地点をベースキャンプに設定し生活することを認める。

 ②両クラスは共同生活を強制されない。また、互いにリーダー当ては行わない。

 ③DクラスはB,Cいずれかのクラスの最終的なリーダーの名前をAクラスに共有する。それが達成されなければ、DクラスはAクラスに、初期ポイントの内50ポイントを譲渡する。

 ④両クラス、この契約を外部に漏洩することを禁ずる。なお、契約が履行されなかった場合、両担任を立会人とした話し合いのもと、責のあるクラスが他方に賠償を行うこと。

 

 五日目。

 火災事件発生。数時間後、Dクラスが洞窟内をベースキャンプに設定。

 

 六日目。

 DクラスからBクラスのリーダー情報を入手。

 

 七日目。

 試験終了直前、リーダーを戸塚弥彦から町田浩二に変更。リーダー当てをBクラスに対してのみ行う。

 

「以上だ」

 

 場に沈黙が降りる。派閥問わず、皆微妙な反応だった。

 

「ふむ、上手く嚙み砕けていない方がいるようですね。明確かつ大きな疑問があるからでしょう。葛城君、あなたはなぜDクラスと契約を?」

 

 契約の内容自体は簡素なものだ。しかし、そもそもの動機が判然としない。

 葛城は、言葉を選んでいる。

 

「……今回の試験、我々は守りに徹する方針に決めた。一方で攻め手には欠けている状況を覆すには、他クラスとの接触は不可欠だ。Bクラスは最も我々に近い立場にいる。Cクラスは黒い噂が絶えない、取引相手にするには危険だと判断した」

 

 理には適っている。が、何かを隠した。恐らく中間テストで借りができていたことなのだろうが、今根拠のないことを述べる必要はない。

 

「なるほどなるほど。つまりAクラスは、あろうことか最も能力が劣っているクラスを頼りにし、その上で敗北を喫したということですね」

 

 わざとクラスメイトが不信するような表現で、坂柳は葛城を追い詰める。

 

「あなたのやり方は全くもって気に入りませんが、一つだけ間違いのないことがあります。あなたの失態は、Dクラスを招いた状態でリーダーを変更してしまったことです」

 

 これには多くの生徒が首を傾げた。

 

「あなたがDクラスからの提案に乗った理由の一つは、恐らく『先払い』でしょう。初日の来客の際に、あなたは幾分かの食糧を提供された。だからポイントの消費を抑えることができ、最後の点呼の時点で180pも残していた。私と、作戦によって故意にリタイアした戸塚君による60ポイントの損失を考慮すれば十分な成果でしょう」

 

 葛城は舌を巻いた。上陸もせずによくぞそこまで。

 浅川から「お邪魔するかもしれない」と言われた際に、先払いとして大量の食糧を提供されたのだ。以前の恩に上乗せされ、葛城はますます彼の申し出を受ける気になった。

 

「で、ですが、僕たちはBクラスのリーダー当てをしたにも関わらずポイントは増えていません。ボーナスポイントももらえてないことを考えると……」

「ええ、その通りです。Aクラスは見事にリーダーを的中されたことになります」

 

 衝撃を受ける者たちの胸の内は透けて見えた。

 

「みなさんの疑問はもっともです。Aクラスのリーダーは最終日に変更されました。ルールの穴を突いたその作戦を思いついたことは、評価に値するでしょう」

 

 本当に葛城自身が思いついたことならば、だが。生憎これも証拠はない。

 最終日に行われたリーダー変更。的中させたクラスは、それすらも把握していたことになる。

 

「閉鎖的な方針であるAクラスであればまず当てられる心配がないように見える状況ですが、唯一その一部始終を間近で確認できるクラスがいます」

「それが、Dクラス……!」

「ふふ……葛城君。あなたはまんまと油断し、情けをかけた相手に出し抜かれたのですよ」

 

 ここで冷静な葛城派の生徒から反論があがる。

 

「だが契約には、互いのリーダー当てはしないとある。それが本当なら契約違反に、」

「なりませんよ。なぜならAクラスのリーダーを当てたのは、Dクラスではありませんから」

 

 再び一同の目が見開かれる。

 

「私たちがAクラスであることをお忘れですか? 向こうからすれば、頂点の座が少しでも近づくのなら十分。彼らは別のクラスに情報を共有することで、契約に違反せずAクラスのポイントを削ったのです」

 

 Bクラスのリーダーを提供し+50、他クラスにリーダーを漏洩することで−50、加えてボーナスポイントの剥奪。Dクラスがもたらしたのは損害の方が大きくなる。

 

「ご理解いただけましたか? あなたは自分の決断によって自分の首を絞めたのです。他クラスを招く愚策を取らなければ、ボーナスポイントの加点でCクラスやDクラスにも決して劣らない成績にはなっていたでしょうに。まぁ、それでも僅差で勝てるかどうか、ですが」

 

 坂柳の詳らかな解説に、徐々に生徒たちはAクラスの全貌をイメージし始め、葛城を見る目が険しいものへと変わっていく。

 しかし、当の本人は自分の推論を正しいとは思っていない。Dクラスを招き入れるとなった際、葛城なりに漏洩の予防は極力おこなっていただろうし、洞窟とは音の響く、大して広くない場所だ。Dクラスにいくら優秀な者がいたとしても、そこで答えにたどり着くのは至難の業だろう。

 そもそも、Aクラスがリーダーを当てられたこと自体、坂柳の仕込みなのだ。その上で、先のような推論を述べたのには理由がある。

 彼女の狙いは二つ。一つは当然葛城派の衰退。二学期を目処に葛城派を虫の息にさせ、こちらの一党体制にする。この試験は葛城の判断ミスであることを印象付けたかった。

 そしてもう一つは、クラスメイトたちにDクラスへの敵意を抱いてもらうことだ。

 現在葛城には浅川がバックについている。彼の存在は不確定要素であり危険分子だ。今回の試験も、葛城は思いの外健闘している。正直、龍園にいいカモにされてもおかしくないと高をくくっていたのだ。

 彼を引き剝がすのに最も確実な方法は、彼が葛城を支援できないような方針をAクラスの総意にしてしまうことだ。坂柳がいない以上葛城が指揮を執ることは、浅川も察していたはず。彼が葛城にコンタクトを取る可能性は非常に高いと睨んでいた。

 結果、こうして坂柳の願っていた通りの状況が整った。あとは綺麗事を並べてクラスメイトをこちら側へ惹きつけるだけ。

 それが僅かな慢心であり、隙であると、もし彼女も上陸していれば気付けたのかもしれない。

 

「……そうか。俺はDクラスに騙され、結果的に仲間を裏切ることになってしまった。そう言いたいんだな?」

「はい。全てはあなたの責任ですよ」

 

 彼女は忘れていた。

 深淵を覗く時、深淵もまた自分を覗いているのだということを。

 

「坂柳……Dクラスは、お前ほど人でなしな者たちではないぞ」

「……どいうことでしょう?」

 

 想定外の警鐘が前触れもなく鳴る。これは、良くない。

 

「最終的なポイントから考えて、確かにAクラスはDクラス以外にリーダーを当てられた。しかしそれは、お前の派閥にいる者による裏切りが原因だ」

 

 諦観を表情に浮かべていた葛城派はその色を消し、坂柳派は顔色がにわかに悪くなる。

 

「おかしなことを言いますね。私たちは対立する派閥である前に同じクラスの一員ではありませんか。証拠もなくそのような言いがかりはやめていただきたいですね」

 

 葛城からの糾弾はもちろん予想していた。故に用意していた返答をするが、なおも彼は崩れない。

 

「そうだな……では、これはどう説明するつもりだ?」

 

 そう言って彼が取り出したものは、坂柳の眉をわずかに動かした。

 坂柳派の人間――神室が、他クラスの生徒と森の中で密会している姿を撮影した写真。

 

「最終日、リーダーを変更した後に撮られたものだ。俺は間違いなく『これより外出する者は事前に報告しろ』と全員に通達した。そんな厳戒態勢の中抜け出し、あまつさえ他クラスの生徒とサシでやり取り。これが同じAクラスの一員の取る行動か?」

「互いの派閥には、相手側を敵視している者もいます。片翼の代表であるあなたに従っていると取れる言動をとりたくなかったのかもしれません。何より、その写真では会話の内容まではわかりません。どうしても二人きりで無人島生活の最後を過ごしたかった者たちの逢瀬という可能性もあります」

 

 側近の神室が厳しい視線を送ってくるがすぐに霧散する。坂柳がらしくない表情になっていることに気付いたからだろう。

 

「この際貴様の言う通りだったとしよう。しかしそれは些細な問題だ。貴様がいない以上俺が指揮を執る、というのは序盤で共有した前提条件だった。坂柳派には、その必然的な状況すら我慢ならず、クラスの方針に逆らい安易にリスクを招くような者たちが集まっているのだな」

 

 その言葉はAクラスにとって大きな影響を及ぼすものだった。実質的な形勢逆転。表情に余裕が生まれたのは葛城派の方で、坂柳派の生徒たちは何とも言えない顔になっている。

 計画は失敗。内心歯ぎしりをしながら、坂柳はそう判断した。

 本っ当に憎らしい男ですね、浅川君(イレギュラー)――。

 脳内を一度白紙に戻し、この状況を覆す道筋を改めて思索する。

 

「……仕方ありませんね。認めましょう。Aクラスがリーダーを当てられたのは、私の派閥の人間が密告(リーク)したからです」

「――! 認める、のか」

 

 ここで認めない方が、今後の勢力図が悪化する。変に疑念を燻ぶらせるより、開き直った方が建設的だ。

 

「しかし、それがどうかしたのでしょうか?」

「どう、だと? 坂柳派のせいでこの試験は負けたんだぞ!」

「いいえ戸塚君。この場合、葛城派が坂柳派を制御できなかったから負けたと言えます」

 

 痛み分けを狙わなければならない状況と、そこへ追い込んだ張本人に呪詛を唱えながら口を動かす。

 

「代表を名乗る者が葛城君しかいなかった時点で、今回Aクラスの主導権は葛城派にあったはずです。そして葛城君自身も、私たちがそれに抵抗することは予測できていたでしょう。あなたは反乱分子の危険性を承知していながら、みすみすそれが実現するのを見過ごしたということになります」

 

 物は言いよう。事実ではあるため、葛城は顔をしかめるだけだ。

 

「宣言しましょう。私たち坂柳派は、葛城派が退かない限り、同じAクラスであろうと容赦はしない」

「自分が何を言っているのかわかっているのか? 貴様らは、これからも必要とあらばクラスを裏切ると言うのか」

「そう言っているのですよ。嫌なら、あなたに残された選択肢は実権をこちらに委ねるか、抵抗を跳ね除けるだけの成果を以て皆に証明するかのどちらかです」

「曲がりなりにでも手を取り合わなければ、他のクラスに追いつかれるかもしれないんだぞ」

「真に一つに束ねられていない集団は弱い。まさに今のAクラスだと、あなたもご存じでは?」

「……それを早急に改善するために、お前は自分のクラスをも手にかけるのか」

 

 ああ、やはりこの男はつまらない。あの百面相さえいなければ、こんなことには……。

 

「はっきり言ってあなたは甘すぎる。過剰な情けを与えぬ最低限の非道さも、敵に絆されない頑固さも、あらゆる器が足りていない。その結果が今回の試験であり、あなたが坂柳派を衰弱させるほどのカリスマを発揮できない所以です」

 

 険悪な空気が流れる。その刹那、ここにいる一同が、本来全員が仲間であるということを忘れてしまっていた。

 見えない火花が散る。怜悧な眼差しに対し、少年は息をのみながらも、応えた。

 

「貴様はやはり危険すぎる。貴様のような残忍な性格の持ち主に、Aクラスを率いさせるわけにはいかない」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「あー、あの、姫さん?」

「……」

「どうかご機嫌直していただけませんかねぇ」

「……」

「……今ならリトルガールって呼んでもバレな――いって!」

 

 橋本の足の甲に杖の先端が突き刺さる。明らかな自業自得だ。

 

「気持ちはわかるけどさ、今回は仕方ないっすよ。あんたは所謂蚊帳の外だったんだから」

「それでもできる仕込みはありました。そしてそれを実行する役目はあなたにも与えていたはずですが」

 

 坂柳が出していた指令はシンプルだ。橋本はCクラス、神室はBクラスへの密告を行うこと。

 

「いやいや無理ですって。リーダー変更できるなんてギリギリまで知らなかったし、まさか他クラスが丸ごと洞窟に突入してくるとは思わない」

 

 橋本はかなり早い段階で自分に仕事は達成していた。順調に思われていた計画が狂ったのは、やはり浅川の発案によるDクラスの動向のせいだ。

 坂柳の予想では、葛城にリーダーを変更できることを教えたのも浅川だ。葛城が自らその手段を考え付いたとは思えない。

 

「ですが、神室さんは辛うじて成功したようですよ?」

「そりゃ……こいついつの間にか飛び出してったと思ったら、一瞬で帰ってきたんだぜ? 神室はBクラスのベースキャンプに行くだけだからわかりやすいが、俺は龍園が隠れている場所を探さなきゃいけない。難易度が違いすぎるって」

 

 Bクラスからは当てられてCクラスからは当てられなかった差はそこにある。こればかりは誰も操作できない要素であり、確かに橋本の言い分も筋は通っていた。

 

「で、その神室もしてやられたわけだ。どうやってあの写真を撮ったんだ? 葛城派の誰かが尾行していた、とか?」

 

 坂柳が不機嫌なのは、単に計画がとん挫したからだけではない。唯一、橋本の口にした疑問だけが確信を持てていないのだ。

 浅川が首謀者であることは間違いない。葛城が察知したのなら、裏切りを止めない道理はない。葛城の立場を悪くせず、ポイントも減らせるという意味で、浅川にとっては一石二鳥だったはずだ。

 しかし問題なのはその方法だ。誰を使った? 神室が密告を行うタイミングはどう測った? 

 答えを出せないのは、きっと情報が足りないからだ。詰まるところ、他クラスの動向を全て把握することは不可能に近い。

 そこで、一つの違和感に気付く。

 

「神室さん。あなた、どうしてここを選んだのですか?」

「どうしてって、何のこと?」

「Bクラスのベースキャンプに着き、そのまま密告すれば良かったものを。人気のないところに出て、相手は一之瀬さんでもない」

 

 はっきり言って不自然だった。

 盗撮されたか否かが変わることはない。厳しい状況の中密告に成功したのは十分な働きぶりだったと言えるだろう。しかし、その場所も相手も普通ではない。

 

「私が人込みが苦手っていうのは知ってるでしょ。Bクラスみたいな明るい連中が合わないのも。ベースキャンプの近くでBクラスの知り合いと偶然遭ったから、そこで済ませればいいやって思ったのよ」

「……そうですか」

 

 一応納得はした。納得せざるを得ない。及第点には達しているのだから咎めることはないはずだ。

 しかし、坂柳の直感は告げている。

 ――やれやれ、可哀想なほどにわかりやすい人ですね。

 彼女は何故か、嘘を吐いたのだと。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

思惑韜晦のポストトーテム(B)

 時を同じくして、Bクラスもまた、全員が集合し今回の試験を振り返っていた。

 Aクラスと同様途絶えを知らない喧騒。しかしその性質は、どう見ても喜色に偏っていた。

 

「ねえねえ一之瀬さん。どうして私達、あんなにポイントもらえたの?」

「そうだぜ。三位とはいえ、もっと酷い結果だと思って諦めてたのにさ!」

 

 三位、Bクラス。上位クラスとしてはいささか不足した結果ではあるが、元々期待値が低かった皆にとって、実際の点数は驚きのものだった。

 

「う、うーん。それは……」

 

 なんで?

 本当にわからない。少なくとも、一之瀬の仕業ではなかった。

 最後の点呼時、初期ポイントは200を残していた。しかし、匿っていた金田が忽然と姿を消したことから、Bクラスのリーダーを悟られたことを察した。

 これは全員で共有したこと。自分の選択によって減点を免れなくなった不動の事実を一之瀬は謝罪したが、クラスメイトたちは特に非難もせずに受け止めてくれた。寧ろ、しっかりと情報を守り通せなかったのは全員に非があるのだと庇ってくれた。

 当時は皆の温かさに感動し感謝の念を抱いていたが……

 

「リーダーを当てた……って、ことだよね。千尋ちゃん」

 

 視線が一斉に、ひ弱な少女に向けられる。

 150ポイントの予想が外れて200ポイント。ボーナスポイントが剥奪されていることを考えると、やはりリーダーが当てられていたのは事実。

 だとすれば、この誤算はBクラスがリーダー当てに成功していたのだと考えるしかない。

 まさか白波が? そんな考えが過ったが、的外れであることはすぐに明らかとなる。

 

「わ、私じゃなくて、その……」

「代わりに俺が回答したんだ」

 

 白波を庇うようにして前に出たのは神崎、その後に柴田も続く。

 

「俺が保証するよ。ずっと側で手伝ってたんだけど、神崎は頑張って他クラスのリーダーを探し当ててくれたんだ」

 

 歓声混じりなざわめきが巻き起こる。

 

「マジかよ神崎、すげぇじゃん!」

「神崎君がいなかったら、最下位は私達になっちゃうところだったよ」

 

 Bクラスにとって、今回神崎はヒーローのような立ち回りだったと言える。敗色濃厚だった状況から一矢報いてみせたのだから。

 

「……みんな、聞いてくれ」

 

 神崎は、拙いながらも全員に呼びかけた。

 

「この試験、過酷な環境での共同生活を、クラスの結束を固めたまま乗り越えられたのは、間違いなく一之瀬のおかげだ。だが俺は、みんなにも一之瀬に負けないくらいの力が具わっているいると思っている」

 

 自分の目標を達成するために、一之瀬の株を落とさないように前置きをする。

 

「俺は金田がいなくなったタイミングでリーダーがバレてしまったことを確信した。だから自分の頭で考えて、どう動けばクラスに貢献できるのか答えを出した。――みんなも、俺と同じようなことができるはずなんだ」

 

 そして、今最も訴えたいことを。期待を、放つ。

 

「俺たちがAクラスにあがるためには、全員が力を合わせなければならない。そのためには、一人ひとりが自分の考えを持ち、伝え合うことが不可欠だ。一之瀬だけに選択を委ねて、背負わせてはいけない。――どんな反論も異論も、俺たちの委員長はきっと受け止めてくれる。そうだろう?」

 

 彼の短くも情熱的な力説は、その珍しさも相まって多くのクラスメイトの心を揺らした。

 

「みんな、やってやろうぜ。一之瀬の足りない部分を俺たちで補えたら、Bクラスはもっといいクラスになる!」

「そうだね……うん、私達も頑張らなきゃ!」

「ありがとな神崎、俺も負けてらんねぇ!」

 

 柴田の明るい賛同に続いて、次々とあがる活気な声。

 Bクラスの協調性が再び、しかしほんの少しだけ形を変えて、皆を繋いだ瞬間だった。

 

 

 

 

 

 最高潮な雰囲気のまま解散し、一之瀬は神崎の背を追いかける。

 人の気配がないところまで来て、彼の名前を呼んだ。

 

「……一之瀬」

「教えてくれないかな。どうやってリーダーを当てたの?」

「……知る必要はないんじゃないか? お前は、お前にできることを最大限やった。その結果、こうしてクラスは一層の団結を得た。それでいいじゃないか」

 

 歯切れが悪い。しかし、明確な拒否に聞こえ、そんなことは初めてだった。

 

「ポイント差を考えると、CクラスとDクラスはボーナスポイントを失っていない。だから多分、当てたのはAクラス。でも、どうやってあの鉄壁を破ったの?」

 

 黙秘。どうやら答える気はないらしい。否定する根拠がないからだろうか。

 ただ、方法がやはりわからない。クラスは団結して当然と考える一之瀬にとって、派閥争いのために自分のクラスを陥れるなどという大胆な行動は想像の範疇を超えるものだった。

 

「一之瀬。俺は、もう後悔をしたくないんだ」

 

 神崎の返事は、一種の独白だった。

 

「Bクラスはお前に依存している。俺はそれを、見過ごしていいことだとは思えなかった」

「私はただ、」

「わかってる、お前は悪くない。一之瀬は一之瀬の正しいと思うやり方を貫くんだ。それが一番クラスのためになる」

 

 本心からの言葉だろう。神崎は振り返らないが、口調はとても穏やかだった。

 

「だから俺も、俺のやり方でBクラスを支える。相手を信じて良心に期待するだけでは勝てないのなら、多少の汚れ仕事は俺が引き受ける。お前はこれからも、みんなを導く光であって欲しい」

 

 優しさ、なのだろう。どこか冷たさを感じながらも、神崎の言葉は確かに一之瀬を肯定し、仲間を想う故なのだと伝わってきた。

 こんな矛盾した激励のされ方は初めてだ。どう返すのが正解かわからない。

 

「そんなこと言われても……このまま隠し事をされたら、私は神崎君とどう接すればいいのかわかんないよ。神崎君は私を信じてくれているんだよね? だったら、教えて欲しい」

 

 せめて、理由は知りたかった。彼がどうして変わったのか。胸中に秘めている思いは何なのか。信頼し合う仲間として、後ろめたいことは無しでいたかった。

 しかし、

 

「どれだけ善いことをしても、いかに善人を志しても。それ以前の誤りは消えることがない。人の善行には理由があって、それは大抵碌でもない後悔からくる。みんなも――一之瀬も、同じだろう?」

 

 見透かされたような拒絶に、一之瀬は愕然とする。

 自分が他人に手を差し伸べる理由。いくら善行を重ね、善人だともてはやされても認めない、本当の理由。

 知られたくない過去から始まった一之瀬の偽善は、今の神崎に近いものなのかもしれない。

 だとすれば、権利などなかったのだ。彼を引き留めることはおろか、心の底にしまっているものを掘り出すことさえ。

 哀れな贖いに苛まれている者どうしだと言うのに、その蓋を引き剥がすことが自分にのみ許される道理など、あるはずがない。

 

「神崎君……」

 

 小さくなっていく背中を、もう引き留めるつもりでは呼ばなかった。

 私に、彼は救えない……。

 無力感が重くのしかかる。クラスの活気さに、今は合わせられる気がしなかった。

 表面的には変わらないであろう二人の関係は、きっと見えない膜に隔てられたのだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 客室に入ると、打ち合わせ通り柴田の姿が見えた。他のクラスメイトよりも一足早く安寧に立ち返る。

 

「良かったのか? みんなと一緒にいなくて」

「今を逃せば二度とないってわけでもないからな。寧ろお前のことの方が心配だよ」

 

 確かに言い出しっぺは柴田だったが、今更付き合わせてしまった罪悪感がよぎる。それを察したのか「俺はお前の意見にすすんで賛成するくらししかやってないし」とフォローされた。

 

「……ありがとう。独りか二人かでは大きな違いだ」

「そういうもんかね。――それで? 教えてくれよ。お前がどうやって成果をあげたのか」

「それは、……」

「大丈夫だって。お前の考えは十分わかってるつもりだ。多少のことには文句はつけない」

 

 と、言われても。神崎とて全てを説明できるわけではない。

 

「……本当は、Bクラスは250pになるはずだったんだ」

「え? それって……神崎にとって想定外のことが起きたってことか?」

「ああ。この50pの誤差は、恐らくリーダーを当てられたせいだ。Cクラス以外の……」

 

 AクラスかDクラスか。Dクラスとは結果的に不干渉という結論になっていたはずだ。つまり消去法でAクラス。しかし、経路が謎だ。

 Aクラスからリーダー当ての兆候は見られなかった。Dクラスが情報を流した可能性も考えたが、それにしても方法が判然としない。

 すると、柴田は新たな疑問を提示する。

 

「ちょっと待ってくれ。てことは、神崎、お前は100pの加点を見込んでいたのか?」

 

 その通り。

 神崎の予定では、Cクラスにリーダーを当てられた時点で150p。その後100ポイントがプラスされる見込みだった。

 

「Aクラス以外に、リーダーの心当たりがあったのか?」

「いや。この50pは、他クラスからのポイント譲渡によるものだ」

 

 思いもよらなかった単語に、柴田は眉を寄せる。

 

「譲渡? どういうことだ?」

「契約だ。契約によって、Bクラスは50pを手に入れたんだ」

 

 彼は瞠目し、困惑を表情に浮かべる。

 

「契約……同盟って意味だと、やっぱりDクラス?」

「違う。Dクラスは、Aクラスと取引をしていた」

「なっ――なんで神崎がそれを知ってるんだよ」

「……大事なのはそこじゃないだろう」

 

 話を無理矢理軌道修正する。さすがに疑われてしまうかもしれない。

 神崎はAクラスとDクラスが取引をしたことも、それによってDクラスがAクラスのベースキャンプに合流したことも知っていた。彼がAクラスのリーダー情報を手に入れたのも、それが関わっている。

 

「じゃあ、お前が契約を結んだ相手っていうのは……」

 

 自ずと導き出された答えに、柴田は衝撃を受ける。

 確かにこれは賭けだった。それゆえにいくつかの誤算や失敗はあったが、悪くない結果には収まった。

 

「ああ。俺はCクラスと、龍園と契約を結んだんだ」

 

 

 

 

 

 試験二日目。

 行動を開始した神崎は、最初にDクラスのベースキャンプを見つけた。そこでAクラスとCクラスのベースキャンプを知り、探索を続行した。

 柴田とは手分けをすることになり、神崎はCクラスが居座っているという浜辺にたどり着いた。

 こちらに気付いた一人の生徒が、神崎に威圧的な態度で話しかける。

 

「なんだお前は?」

「Bクラスの神崎隆二だ。龍園と話がしたい」

「龍園さんと? ……ちょっと待ってろ」

 

 何だか裏社会の門戸を叩くような奇妙な感覚だ。警戒心を強めて待機していると、やがて先の男子生徒から案内される。

 

「お前は……」

「随分と楽しそうだな、龍園」

 

 試験など関係ないと言わんばかりにくつろいでいるCクラスの王は、休息とは無縁な表情になる。

 

「……金魚の糞が何の用だ」

「糞と会話してくれるとは、見かけによらずお人好しなんだな」

「そりゃそうさ。何せこうして、クラスの仲間に至福の一時ってやつを提供してやってんだぜ?」

 

 あからさまに険悪な空気。性格上、二人が志をともにすることなどありえないし、神崎自身あってはならないと思っていた。

 

「そのわりには、露骨な仲間外れがいるみたいだな」

「仲間外れ? 何のことだ」

「金田悟。手荒な調教を受けたようだが、お前の差し金だな?」

 

 龍園はつまらなそうに姿勢を変える。

 

「歯向かう手下なんざ不要だ。信頼なんてのはクソくらえだが、最低限の統率ってもんがある」

「だから追い出した、と?」

「ああそうさ。それで? あの馬鹿がどうかしたのか?」

 

 さすがに尻尾は出さないか。金田がBクラスに居候していることを、向こうから触れてくれるのを望んでいたが。

 

「……あいつはBクラスのベースキャンプに匿っている。そして同じ時間、Dクラスにも一人、来客があったようだ。伊吹澪、Cクラスの生徒。――偶然か?」

「偶然だな。大方、惨めに追い出されて船に戻るのを、ちんけなプライドが許さなかったんだろ。そこにお人好しなお前らが通りかかった。考えてもみろ。もし俺からのスパイだったとして、どこで待っていれば拾ってもらえるかなんて推測のしようがねぇ」

 

 狂言だ。あの時間帯は探索や調達で多くの生徒があらゆる場所に行き交う。細かな推測などなくとも、他クラスと引き合わせるのは難しくない。

 証拠はない。が、ここは強く出てもいい場面だと判断する。

 

「惚けるのは勝手だが、主導権はこちらにあるということを忘れていないか?」

「ほう……何が言いたい?」

「簡単な話だ。金田を追い出すのも孤立させるのも、対応は俺たちの自由。お前にとって望ましくない結果になるだろうな」

 

 龍園は気味の悪い笑みを浮かべた。

 

「ハッ、もしお前の妄想が真実だったとして、それはおかしな話だぜ。追い出すことも孤立させることもできないから、まだ匿ったままなんだろ? その現状に困り果てて、俺に八つ当たりしているのが今のお前だ」

 

 一々こちらの琴線に触れるような言い方をしてくる。神崎は眉間にしわを寄せた。

 

「今は一之瀬の方針に従っているだけだ。その気になれば、何をしてでもうちのリーダーを守り抜く」

「オイオイ虚勢を張られても困るなぁ。一之瀬に頼り切りなカス共の一介がそんな真似、」

「やるぞ、俺は」言わせるものか。それを変えるために、こうして動き出したのだ。「絶対にやってみせる」

「……クク、クハハ! こいつぁとんだ懐刀がいたもんだ。まさかBにそんな目ができるやつがいるとはな。優しさなんてものを盾に腑抜けを正当化することをやめた獰猛な目。大きなきっかけがなければそうはならねぇ。一体てめぇにはどんな物語があるんだろうなぁ?」

 

 初めて、彼は嗤った。まるで同じ世界に来たのを歓迎する野蛮人のようで、神崎は嫌悪感から身震いする。

 

「まぁいい、答える気がないってことくらいはわかる。用件があるのはお前の方だ。そうだろ?」

「……」

 

 舌打ちが零れた。スパイに情報は渡さない、そんな対立宣言をしに来たわけではないと、龍園はわかったらしい。

 もっとも、これはここに向かう間、いや、着いてから思いついた策だ。

 

「俺たちの立場は対等だ。だから……取引をしよう」

 

 本当は、こんなことはしたくない。

 しかし現状、Aクラスは沈黙。Dクラスは、不干渉の協定だけは破ってはいけない。あれは一之瀬と、堀北が起点となっているからだ。

 途端、龍園は鋭い視線を向ける。場の空気が変わった。

 

「取引……内容は?」

「お互いのリーダー情報の交換だ」

「ハッ!」強く吐き捨てた。「話にならねぇな。お前らに一方的な得があるだけじゃねぇか」

「どこが、」

「二つある。まず、主導権があるのは俺たちの方だ。リーダーを当てられる危険性を抱えているのはBクラス。それが皆無な俺の方が立場は上だ」

「なら俺が力づくで金田を追放するだけだ」

「ズレたこと言ってんじゃねぇ。クク、俺は自分の仲間を信頼してんだぜ? 命じた仕事は必ず遂行してくれると信じてる」

 

 全く似合わないことを言う。しかし痛いところを突かれた。金田の役割の結果など確信できるわけがない。神崎の言い分が通るなら、龍園の言い分も通ってしまう。

 

「そして、リーダー当てがもたらす影響は100pの差だけじゃねぇ。こっちはボーナスポイントまで剥奪される。どのみち切り捨てるものが釣り合ってねぇし、そもそもリーダー情報の交換自体メリットが見当たらない」

 

 そこで、龍園は何かに気付いた。

 

「……? ああ、そういうことか。クク、読めたぜ。テメェの考えていることが」

「……!」

「神崎、面白いことを考えたな。お前は『成果』だけが欲しかったわけか」

 

 まさか、今の短い時間でその答えにたどり着いたというのか。

 一見互いのメリットがないという点で、確かに疑念を植え付ける部分はあっただろうが、目的まで見透かされるとは思っていなかった。

 

「ずっとおかしいと思っていたんだ。本気で金田を追い出すつもりがあるなら、そもそもこんな取引を持ち出す必要がねぇ。ボーナスポイントだって失われるんだからな。お前にとっては、『自分がリーダーを当てた』という事実が重要だったってわけだ」

「……それがお前の回答に何か影響を与えるのか?」

「ああ、ああ十分に与えるとも。そうだな、俺から一つ条件を追加しよう」

 

 嫌な予感がした。自分の思惑が弱味として扱われそうな。

 

「俺たちは今日をもって全員リタイアする。本来ならそれでCクラスの持ちポイントはゼロになるわけだが、一つだけノーリスクでそれを実行する方法がある」

「それは……」

「ポイントの譲渡だ。Cクラスは現在残っている200pをBクラスに渡す。そして試験終了直前に返す」

「そんなことが可能なのか?」

「坂上から言質は取れてる。一回のみという条件つきだがな」

 

 それはそうだ。何度でも可能なら各クラスに300pずつ配られる意味が完全に失われる。龍園のように戦略として使うために、一回きりとしたのだろう。

 

「どうする? これでwin-winだ。なんなら俺が書面に記してやるよ」

 

 返事を促された。

 これは、重要な選択だ。Cクラスに多分な利益を与えるかわりに自分の目的を達成するか、諦めて金田の追放に専念するか。

 ……そんなものは決まっている。手段を選んでいる時間はない。

 

「わかった。ただし、一方に内容の誤認があった場合、もう一度だけ擦り合わせをすることも条件に追加しろ。お前がいつどこで出し抜こうとするか、わかったものではないからな」

「は? なら書面に残す意味がねぇだろ」

「契約の中身自体はな。大事なのは、お前がこの契約の存在を俺のクラスメイトに暴露することがないよう口止めすることだ。それがなければ寧ろ口頭にすべきだと思っていた。契約の履行の最終的な決定権はこちらにあるんだからな」

「ハッ、隙だらけってわけじゃねぇってことか。メリットとデメリットを理解してやがる。いいぜ」

 

 向こうも無下にはできないはずだ。成立すれば200pが確約される。

 こうして、悪魔の契約が結ばれた。

 

①CクラスはBクラスに持ちポイントを譲渡する。また、試験最終日、Bクラスは譲渡されたポイントをCクラスに返還する。

②BクラスはCクラスに、CクラスはBクラスに現在のリーダー情報を開示する。

③締結者の間に重大な認識の齟齬があった場合、一度のみ契約内容の擦り合わせ、変更が認められる。

④締結者はこの契約の存在を周知させる行為をしてはならない。

⑤契約の履行不能となった場合、責のある者が他方に賠償を行う。内容は適宜取り決めとする。

 

 

 

 

 

「マジ、かよ……お前、本当にあの龍園と契約を?」

「やっぱり、認め難いよな」

「いや、なんていうか、肝が据わってるよ、お前」

 

 経緯を聞き終えた柴田は冷や汗をかいている。

 

「あれ? でも、これ俺に言ってよかったのか?」

「それを困りたくなくて、周知しないという表現にした。お前もクラスのみんなには……」

「ああ、わかったよ」

 

 柴田なりに考えているようだ。彼はうーんと首を唸らせる。

 

「じゃあ、Cクラスのポイントがあんなに多かったのは、お前との契約が原因なのか」

「そうだ。……ただ、」

「ん?」

「……いや、お前には感謝しなければなと思ってな」

 

 契約を結ぶ時からずっと気になっていることがある。しかし、それを柴田にぶつけても意味がない。今は情報の共有を優先する。

 

「正当な理由があればリーダーは変更できる。あの時お前が気づいてくれなかったら、俺は大失態を犯すところだった」

 

 柴田はどこか複雑そうに、無理矢理納得した顔をする。

 六日目の夕方、柴田から伝えられたのは、ルールの盲点というあまりに重大な情報だった。マニュアルをよく読んで考えれば簡単に気づけるようなことだったため、自分の頭の堅さを呪ってしまったものだ。

 契約締結当時のリーダーを教えたのち、リーダーを変更すれば、龍園は自クラスの負担をゼロのまま、Bクラスに利益どころか50pの損失を与えることになっていた。

 

「最終日の朝、俺は龍園のもとへ直接出向き、契約の再検討を行った。その際いろいろあったが……Cクラスに返還する予定だった200pのうち50pをBクラスに残すことが決まった」

 

 少し言葉を濁した。本当はそれだけではなかったが、今はこれだけ伝えておけば足りるだろう。

 

「なるほどな……Cクラスは神崎との契約で150p、Bクラスのリーダーを当てて50p、あとはボーナスポイントで58p。結果は258pってことか」

 

 神崎は何も言わなかった。それは決して肯定を意味してはいない。

 一見柴田の言ったことは変哲のない真実に見える。しかし、神崎はCクラスのボーナスポイントが本当は108pであることを知っている。

 CクラスはAクラスのリーダー当てに失敗するという予言を、既に聞いていたからだ。

 別段追求するような話でもない。最低限のことだけ語っておけばいいと、神崎は判断した。

 ただ、彼の中で一つ、拭えない疑問があった。

 試験終盤、島に残っていたCクラスの生徒は三人だったはずだ。司令塔である龍園とスパイの二人。スパイはほとんどの時間を他クラスのベースキャンプで過ごし、龍園は人の目に触れないよう潜伏していた。

 なら……それほどのボーナスポイントを、一体どうやって獲得したんだ?

 答えの出しようがないと理性がわかっていても、困惑が頭の中にこびりつき、神崎は表情を曇らせる。

 それを、目の前の少年が気づいているのか。一体どんな顔をしているのか。当然そんな簡単なことにも、今の彼には気が回らなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

思惑韜晦のポストトーテム(C)

 雑草をかきわける音がする。

 やがて、予定通りの男が姿を現した。

 

「無様だな」

 

 契約相手は、あくまでこちらのことが大嫌いらしい。当然か。

 

「態々敵の心配をする。さすがお人好しってところか」

「ああ、島のどこかで真っ黒焦げになっているんじゃないかとドキドキしていたぞ」

 

 物騒なことを言う。しかし、こういった皮肉と悪意のぶつけ合いも久しぶりなことだ。妙に口ぶりがいいのが、自分でもわかった。

 

「クク、火に囲まれるなんざ滅多に体験できねぇスリルだ。楽しませてもらったぜ」

「怖いもの知らずはいつか身を……待て、お前まさか、火災に巻き込まれたのか!?」

「大したことじゃねぇ。どういうわけか、あまり激しく燃えなかったからな」

 

 とはいえ不意を突く出来事で焦ったのは事実だ。おかげで退避と、潜伏範囲の縮小を余儀なくされてしまった。

 

「……テメェも仲良く雑談しにきたわけじゃねぇだろ。とっとと本題に入れ」

 

 神崎は眉間に皺を寄せる。無線機を通した呼び出しは神崎のほうからだ。最終日の朝、緊急の用件。

 心当たりは一つしかない。

 

「人を騙しておいて、よくそんな態度がとれるな」

「何のことだ? 俺は契約を守ったぜ」

「表面上はな。だが、お前はやはり信用ならない男だった」

 

 彼が指摘したのは、リーダーの変更が不可能ではないこと、こちらがその抜け道を利用してBクラスの失点を企んでいたこと。

 龍園にとってこの展開は予想外だった。しかし、あくまで想定内。擦り合わせを打診されたところで、一切の動揺はない。

 

「そうカッカすんな。再検討できるなんて甘いことを言い出すもんだから、少し魔が差しちまったんだよ」

「ふざけるな。これは互いに対等であることを前提にした契約だったはずだ」

 

 Bクラスが利益どころか大きな損失を被ることになりかねなかった契約。確かに対等でなかったことは事実だ。

 しかし、そもそも契約という形式において重要なのはそんなものではない。龍園はそれを理解していた。

 

「お前の御託を聞く義理はねえ。今の条件じゃ納得がいかねぇってんなら、代替案はあるんだろうな?」

「決まってる。Cクラスの最終的なリーダーを」

「認められねぇ」

 

 どうやら拒否されることすら考えていなかったらしい。とんだ間抜けだ。

 

「……違反した立場で横暴なことを」

「違反? 何か勘違いしているな、神崎」

 

 やはりこいつはわかっていない。締結時点よりも、こちらの立場は上だ。

 

「俺は書面に記した通りのことを確実に実行した。勝手な解釈をしていたのはお前だろ。寧ろ態々平等な内容に変更しようと配慮してやってるこっちに感謝してほしいくらいだぜ」

 

 険しい顔つきになる神崎。その口から一切の反論がないのは、指摘されてようやく現実に気付いたからだろう。

「現在のリーダー情報」を開示する。契約にはそうあった。だから龍園は、契約締結した時点でのリーダーの名前を教えた。本来何の違反もないのである。

 契約において最も重要な要素は「平等」などではない。「合意」だ。龍園が義務を正確に履行した以上、神崎はこの契約に合意してしまった時点で、今回の擦り合わせが自身の過失に依ることになる。

 

「……なら、お前は何を要求するつもりだ」

「簡単なことさ。お前の目的が達成されるためには、Bクラスに50pの加点があればいい。今一番ポイントを所持しているのがBクラスだってこと、忘れてねえよな?」

 

 言いたいことは伝わったらしい。神崎は再び難色を示す。

 

「馬鹿な……それじゃ最初に結んだ契約に比べて、Cクラスの損失は激減する」

「あれは魔が差しただけだと言ったろうが。平等な契約ってやつが前提なら、俺はこの条件を譲るつもりはない」

 

 神崎ごときに弁舌で負けるはずがない。これは一種の勝利宣言だ。

 

「……こちらが得られるのは50p。Cクラスは200p。利益が釣り合っているとは思えない」

「苦し紛れか? 正気で言ってんなら失笑もんだな」

 

 数字だけで見ればそう見えるだろう。逆に言えば、数字だけを見なければ実際が見えてくる。

 それをわかってようがわかっていまいが――もう手遅れだ。

 

「この契約が影響するのは今回の試験だけじゃねえ。テメェで描いた未来絵図への投資――――権力。最大の利益だったんじゃねえのかよ」

 

 看破された時点で、神崎は負けている。

 

「この提案まで否定しちまったら、認めることになるぜ。お前は何も為せない、変えられない無力な人間だってことを。そうじゃねぇって示すために、お前はこの契約に賭けたんだろ」

「……!」

 

 腹の内を知っているヤツほど、弱点を突きやすい相手はいない。それを逃すようでは、龍園はこの短期間でCクラスの頂点に君臨することはできていなかっただろう。

 神崎の苦虫を噛み潰したような表情を見て、内心ほくそ笑む。

 所詮甘ったれが、俺に勝てるかよ。

 

「……一つだけ、条件がある」

 

 坂柳のいないAクラスなど高が知れている。Dクラスは警戒を解くには危険だが、綾小路以外は取るに足らない。集団行動が多い程、彼の有利な土俵からは遠のくはずだ。

 一度想定から外れ、予想外の出来事も多かったが、釣果は十分だろう。

 少なくともこの無人島で、Cクラスは勝ち組になったのだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――

「あんたが一人島に残って、そんなことをしてたなんて」

 

 Bクラスもとい神崎との一部始終を語り終えると、伊吹はさすがに感心したような反応を示す。

 

「最初は全員リタイアするなんて言い出すから、ついに暑さにやられたのかと思ったよ」

「心外だな。俺がそんなやわな男に見えるか?」

「高望みくらいしたって言いだろ」

 

 ああ言えばこう言う。頭の良さや柔らかさはともかく、ここまで粘り強く我を維持している女は、今のCクラスでは珍しい。

 唯一ではないが。

 

「Bクラスとの契約によって150p、リーダーを当てて50p。そこまではわかった。残りの58pは、やっぱりボーナスポイント?」

 

 半信半疑、という感情が明らかだった。序盤でのリタイアラッシュ、龍園たちの潜伏を考慮すると、58p分ですらスポット専有は困難だ。

 しかし、それは本当に龍園たち三人のみならばの話。

 

()()()を使った。そう言えばわかんだろ?」

「……! ……そういうことか」

 

 驚愕から納得へと変わる表情。

 Cクラスの動向を語る上でまず前提となるのが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということ。彼は別の人物をリーダーにし、試験終了直前にリタイアさせリーダーを自分に変更した。

 

「つまり、それだけの状況に追い込まれてたったわけ?」

「本命が見込み違いだとなった時はさすがに焦ったが……クク、ゲームってのはそうでなくちゃなあ」

「あんたは……ったく」

 

 埒が明かないと判断したようだ。彼女は気晴らしの舌打ちを残し、本題に戻る。

 

「アイツをリーダーにしてボーナスポイントを稼いだとして、だとしたら逆に少なくない? ずっとフリーだったはずなのに」

「前提が間違ってんだよ。ボーナスポイントは108pだ」

「は!? ひゃくはっ……、そうか。じゃあ、えっと、リーダーを外したんだな」

「ちょっとは考えられるようになってきたみたいだな」

「余計なお世話だっつの」

 

 龍園はAクラスのリーダー当てに失敗したことを、仔細まで打ち明けた。

 

「向こうもリーダー変更ができることに気付いた……ふん、葛城にしてやられたってことか」

「いや、恐らく葛城じゃねぇ。リーダーの変更は、リーダーを看破されたと理解してなきゃしねぇ行動だ。だが、最初から坂柳派の裏切りに気付いていたなら事前に密告を防げばいい。葛城なら尚更そうしたはずだ」

「じゃあ別の人間が途中で気付いて、それを教えた?」

 

 BクラスはCクラスと契約を結んでいた上にAクラスと最も距離が近い。利益を与える行為に走るとは思えない。

 それに、他にも理由がある。

 

「綾小路だ。アイツが葛城に情報を売った」

「……! どうしてそう言い切れるんだ。確かに綾小路は、前もCクラスを出し抜いたけど、」

「根拠ならある。試験最終日、俺はアイツとある取引をした。胸糞悪ぃ取引だったがな」

 

 龍園は伊吹に一枚の文書を見せた。

①CクラスはDクラスに、現時点で把握している全てのリーダー情報を提供する。

②DクラスはCクラスのリーダーを指名しない。また、A・BクラスにCクラスのリーダー情報を提供しない。

(契約違反時の処置は省略)

 

「な、なんだよコレ」

 

 彼女は唖然とした声を漏らす。趣旨は理解しているようだ。

 

「アイツはどういうわけか、俺の潜伏からリーダーの扱い方まで全部見抜いてやがった。『リーダーを当てられたくなければ取引をしろ』。ムカつく状況だったが、抗いようはねぇ。今回のアテは神崎との取引と、ボーナスポイントだったんだからな」

 

 取引を持ちかけられた時間も時間だ。切羽詰まる最終日、ボーナスポイントを剥奪された上での逆転など不可能。取引に頷くしかなかった。

 そして、今回重要なのはその先だ。

 

「でも、これじゃDクラスのメリットが薄くないか? Cクラスを当てられない。Bクラスとはすでにうちが契約を結んでいるし、あの2クラスは不干渉だったはずだ」

「それが根拠だ。一見旨味のない提案には別の目的がある。アイツはリーダーを知りたかったんじゃねぇ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 決定的な敗因は明らかだ。潜伏による情報不足。

 DクラスがAクラスと繋がっている。それを知ることができたのは、リタイア作戦に柁をきったと思っていたDクラスが全員集合場所に現れた最後の瞬間だった。

 

「アイツは自分のクラスのリーダーの安全確認と、協力関係になったAクラスを守るためにあんな取引を結んだわけさ」

「そんな……意味がわからない。トップのAクラスに協力した挙げ句、こっちへの被害を優先するなんてっ」

「勘違いすんじゃねぇ。Aクラスにだって被害はあるだろ。リーダー変更による30pのマイナスが」

「でもそれは仕方のないことで、」

「違ぇな。本当に善意で動いたのなら、俺にリーダー当てをやめるように言えば良かったはずだ。俺にリーダーを外させた上でAクラスにもダメージを与える。……クク、いい性格してやがる。どうせ葛城はそんなことも知らずにアイツに感謝してるだろうぜ」

 

 加えて、綾小路にはもう一つ別の意図があったのではないかと龍園は推測する。

 洞窟に籠城していたAクラスは、4クラスで最もボーナスポイントの獲得が困難だった。坂柳の欠席も考慮し、確認できた物資から持ちポイントを逆算すれば、調整の余地はある。

 蓋を開けてみれば、その戦略があったからこそDクラスは1位という結果を収めることができた。契約がなければ、僅差でCクラスが勝っていた。

 結果的に、努力が1位に直結したDクラスは一層高い士気を得ることができた。恐らく全て、彼の計算の内。

 

「クク、面白ぇ。やつとの競い合い、楽しみがいがありそうだ」

「……なあ龍園。一つ聞きたいんだけど」

 

 昂っていた心に水を掛けられた気分だ。龍園は黙して発言を促す。

 

「どうして一から十まで、私に教えたんだ?」

「あ?」

「あんたのことだから、黙って従えとか言われると思ってた」

 

 試験の詳細を教えろと申し出て来たのは伊吹からだった。それに龍園は頷き、今この場が設けられている。

 理由、か――。

 

「そう思っておきながら突っかかってきたのはお前くらいだ。その度胸に免じてやった。これじゃ不満か?」

「……まぁ、わからなくはないけど」

 

 これが龍園でなければ、照れくさそうな顔が露わになっていたことだろう。しかし暴虐な王の発言に、彼女は何とも言えない表情だった。

 語ったことに嘘はない、本当のことだ。張り合いのない相手はつまらない。その点伊吹は「マシな方」だ。

 ただ、それが唯一の理由かと言われると、彼は違うと答える。

 それこそ態々口にしてやることはない。龍園は部下に甘さを見せるつもりはなかった。

 濁らせがてら、彼は口を開いた。

 

「俺からも聞きてえことがある。隠し立ては許可しねぇぞ」

「……なに」

「ひよりはどうなってる?」

 

 予感していなかったわけではなかったのだろう。バツの悪そうな溜息が、宙に霧散する。

 

「……相変わらずだ。雰囲気が暗くなっただけじゃない、露骨に口も減ってる。あの感じじゃ、食事も十分に摂れてないかもしれない」

 

 Cクラスにおいて、椎名と最も関わりが深いのは伊吹だ。そもそもクラスに溶け込めずにいた彼女ではあるが、それなりに私的な会話ができていたことは聞き及んでいる。

 椎名の変化、それは龍園にとって理解の及ばないことであった。

 関連性は不明だが、暴行事件の一件からずっとこの調子。しかし、全く以て合点いかない。

 あの事件の最中、訳あって椎名が他クラスと交流することを龍園は認めた。本来であれば、()()()()()()()()()()()()であったはずだ。

 一体何があった? 審議中か、ほとぼりの冷めた後か。そもそも浅川恭介との契約が関係しているのかも判然としない。

 

「これだから本の虫は、頭の中が透かせねぇ」

「アンタにしては珍しく、強硬手段に出ないんだな」

「それだ。ひよりはああ見えて、俺のやり方に屈するやつじゃねぇ。それほどの胆力を持ったやつがこうまでなった理由……」

 

 椎名自身に制裁を与えても、何かを吐くとは思えない。それに、彼女はCクラスにとって貴重な頭脳の一人。下手に加減を誤って潰してしまうことは避けたい。

 ……最も、限度というものはある。このまま回復の兆しがないのであれば、伊吹の言ったような最後の手段を取ることも厭わない。

 幸か不幸か、()()()()()()()()()()()()()()()が、こちらの切り札としてある。だからこそ龍園には、彼女を様子見する余裕があるのだ

 椎名の処遇、未来の勢力図と別枠で検討する必要があるようだ。

 

「……にしても、気に食わねぇな」

 

 そう毒づく先は、再び今回の試験だ。

 伊吹に説明した通り、こちらの考えはほとんど綾小路に筒抜けだった。非常事態が重なったこともあり、その隙は十分にあったというのが龍園の見解だ。

 しかし、彼が違和感を覚えたのはその対処の仕方。

 端的に言えば、一貫性がない。引っ掛かるのは、Dクラスで発生したという下着の紛失事件と、Aクラスへの援助の二つ。

 下着の事件において綾小路が行ったことはかなり理不尽だった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、追放しようというもの。ただこちらは、暴行事件を経た今、寧ろ綾小路のやり口と認めやすい。

 問題なのは後者だ。伊吹にはああ説得したが、窮地に立たされたAクラスを救うにしては、与える恩恵が大きすぎる。

 不干渉だったBクラスから、Aクラスのリーダーを当てる準備があることは知れなかったはずだ。つまり、Cクラスからのリーダー当てを防ぐことで、Aクラスのボーナスポイントが守られてしまうという式が成り立つ。

 その考察をした上で、綾小路はAクラスを助ける行動に出たのか?

 残虐性というには名ばかりな生温さが、一連の動きには感じられる。それが今回の試験で覗いた彼の一面と言っていいのか、甚だ疑問だ。

 もしだ、もし龍園の違和感が的外れでないのだとしたら、前提が大きく覆ることになる。

 あの取引そのものが、本来綾小路の計画ではなかった――。

 つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことになる。

 確証はない。ただ――これだけは言える。

 

「…………ククッ」

 

 龍園翔という男は、そういう展開を好まずにはいられないのだ。

 

 

 

 

 龍園のもとを離れ、伊吹は返却されて間もない端末を取り出す。

 連絡先の登録モードを起動し、今最も記憶に新しい番号を入力した。

 

「…………はぁ」

 

 晴れない感情はいつまでも心に雲を被せる。息を吐いたところで、簡単に消し飛ぶはずがない。

 番号で表示された連絡先、名前には編集せずに端末をポケットに戻した。

 他人のことについて考えるのも、ましてそれを行動に移すことも始めてだ。気持ちが追いついているかと言えば、嘘になる。

 しかし、ただ傲慢へ噛み付くだけとは違う、別の過ごし方を見つけ、そこに小さな執着があった。

 どうせ元は、何の変哲もないつまらない学校生活になるところだったのだ。これくらいの、「不思議なこと」が日々に割り込んだっていいだろう。

 今は、自分のために動いてみよう。

 

「何やってんだろうな、私……」

 

 自分の辿り着く場所がどこなのか。彼女には、皆目見当がつかなかった。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 各々が熱を帯びたまま解散したDクラス。

 平田の前には、予想通りのグループが集まっていた。

 

「なあ洋介。本当のところ、どうなんだよ」

「健君……あはは、やっぱり気になってるよね」

 

 須藤の傍らには池、山内、沖谷の姿もある。彼らは今回の試験も例に漏れず、綾小路に意識を向ける時間が多かった。

 少なくとも、「ただ野生生活を頑張ったから一位になれた」という話を鵜呑みにはしないだろうと、平田は察していた。

 

「うん、君たちには説明した方がいいだろうね。こうして聞いてきたからには、知るべきだ」

「じゃあ、清隆君は今回も?」

 

 沖谷の言葉に頷く。

 それから平田が語ったのは、簡易的な内容だ。取引の中身や各クラスとの関係をつぶさに話しても、理解するのが難しいだろうという判断だ。

 しかし、そこには二つ、嘘が紛れている。

 一つは、平田自身が吐いた嘘。彼は全ての戦略を、綾小路の考案だと偽った。本人との話し合いによって決まったことだ。

 そしてもう一つ。これは、平田も騙されている、綾小路が吐いた嘘。

 彼が行った二つの非道を、平田は知る由もなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

華麗なるインベイド

死なねぇ限り、エタりなんてねえんだ!

どうも目茶苦茶お久しぶりです。小千小掘です。アーマードコア二次創作『錆びた流星はまた昇る』を読んでくださった方は案外最近振りかもしれません。

旧Twitterを始めてみたところ、活動や更新の報告できたらしていきたいなと思ったので、記念に最初に書いた今作を進めることにしました。

他にもいくつか二次創作書いてるんで、気が向いたら見てくれると嬉しいぜい。


 打ち合わせていた通りの場所に着くと、既に長く伸び切っている首が見えた。

 

「すまない、遅くなった」

「ううん、仕方ないよ。綾小路君は今や勝利の立役者。引っ張りだこになるのも無理ないからね」

 

 そう言って肩を竦める仕草には清廉さがあり、普段以上に知的な印象を受ける。

 

「確か、全部を教えてくれるんだったよね」

「ああ。お前には説明するべきだろう」

 

 今回の試験、綾小路は島で起こっていたほぼ全ての真実を知っている。そしてこれからその内のほとんどを目の前の彼女に語ることになる。

 

「いいの? 私は大したことは何もしてないけど」

「それでも礼をするだけの働きはしてもらった」

 

 綾小路の計略は、多くが自身の手で行われたことだ。クラスで認められていることが功を奏し、大抵の単独行動を許されていたためだ。

 しかし、一方で目立っている事実故、さすがに全てをたった一人で実現することは困難だった。そこで彼が求めたのは、躊躇いなく使うことができる駒。

 浅川や堀北のような、絆を信じたい相手とは違う。平田や櫛田のような、隠しきれない存在感や明確な懸念要素がある者とは違う。

 信頼を期待する必要がなく、こちらの指示を断る理由を持たない純粋な駒を、綾小路は求めた。

 その答えを、彼は呼ぶ。

 

「ありがとな。――――――松下」

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 愉快なバカンスへと旅立つ前日、綾小路は松下を呼び出した。

 まだ日が沈まない時分、呼び鈴が鳴った。

 

「初めましてだな」

「びっくりしたよ。話したこともない男子に前触れもなく部屋へ来いなんて言われるものだから、何かしちゃったのかと思って」

 

 確かに急な招集ではあった。しかし、致し方がない。

 

「その、二人きりで話したかったんだが……なかなかタイミングがなくてな」

「え? ……あー、綾小路君。他意はないんだろうけど、そういう言い方はこれから気を付けた方がいいかも」

「な、なぜだ? デリカシーのないことを言ってしまったなら、」

「いや、うーん……まあいいかな、面白そうだし」

 

 最後の方はよく聞き取れなかったが、問題はないと判断した。

 それに、少なくともただの雑談や挨拶が用事ではないことを、彼女は察せられているようだった。

 

「それで、一体私に何の用?」

「単刀直入に言おう。――俺に協力してくれ」

 

 瞳がわずかに揺れる。なるほど、どうやら松下には、心当たりがあるようだ。

 

「……答える前に、いくつか質問してもいいかな?」

「答えられる範囲なら全て答える」

「どうして私なの?」

 

 回りくどい気もするが、彼女なりにやりやすくしてくれるらしい。順序立てて情報を整理できるよう誘導している。

 

「きっかけは、水泳開きだ」

「水泳開き? 特に大きな出来事はなかったと思うけど」

「そうだな。お前は確かに、目立たないように手を抜いていた」

 

 初めて、松下が動揺を見せた。

 

「あれほど整ったフォームを取れる身体能力があって、平均的な記録しか残せないなんてことはない。筋肉の発達ぶりからしても、運動がからっきしで通すには引き締まっている」

「……」

「……松下?」

 

 こちらを見る目が少し変わったような。まさか、外れたか?

 

「ふーん、君はあの時、そんな風に私のことを見てたんだ」

「は? いや、言い方ってものが」

「だって、話したこともない異性の身体を、本人に気付かれないように、まじまじと盗み見てたってことでしょ?」

「……それは」

「違う?」

「………………すみませんでした」

 

 こんなところで躓く羽目になるとは。以後、他人のステータスの観察結果を迂闊に開かすのはやめよう。

 幸いにも、松下は寛容なお方だったようだ。

 

「今回だけは大目に見てあげる。下心ってわけじゃなさそうだし」

「わかってくれるものなのか」

「まあね。思春期って、そういうの隠せないものだから。みんなのことを入念に視てる君ならわかるんじゃない?」

「……もしかして、やっぱり怒って」

「ううん全く」

 

 ……気心が変わらぬうちに、話題をずらすべきか。

 

「お前も人のことは言えないけどな?」

「んー、なんのこと?」

「盗み見てたのは、オレだけじゃなかったってことだ」

 

 恐らく綾小路だけではない、浅川も、もしかしたら堀北も、彼女の観察対象だったのかもしれない。

 生半可な好奇ではない、強い関心のこめた視線を、綾小路は感じていた。

 中間テストのすぐあと、浅川と今後について意見を共有した際、彼も松下の名前を挙げていた。身体能力の掩蔽には気付いていたらしい。

 そこまで語ると、松下は頭を抱えた。

 

「困るなぁ。重要人物にことごとく目を付けられてたんじゃ、私の努力は何だったのよ」

「他言するつもりはない。安心しろ」

「でもこれから使われるってことだよね。その手始めが、バカンス中のイベント」

「話が早くて助かる」

 

 要は、彼女は自分で首を絞めたということになる。こちらに関心があることがバレていなければ、今回協力者に選ぶ優先度は若干下がっていた。

 

「でもさ、綾小路君。私が一番聞きたいのは、……わかるよね?」

「オレの予想通りなら、一つ合格だな」

 

 不可解な言動に感じたようだ。眉を動かす反応は適切であり、その答え合わせは一旦保留する。

 

「君には大きな武器が二つもある。浅川君と堀北さん、どちらもクラスのことには積極的だと思うけど、どうしてその二人を差し置いて、私を求める必要があるのかな?」

「答えはこうだ。――オレは次の催しで、あいつらを頼るつもりがない」

 

 消去法でそれくらいしかないとわかっていたのだろう。意外性のある言葉に対して、特に動揺はなかった。

 

「それは、仲違いだったり?」

「理由は話せない。ただ、オレには今あいつらとは違う、クラスの戦いのためだけの関係が必要なんだ」

「わっ、直球だね。自分がどれだけ残酷なことを言ってるかわかってる?」

「この話を持ちかけた時点で、お前に取り繕っても通じない」

 

 あまり残念そうにはしていないのが証拠だ。

 

「現時点で目立つような真似をしていない。観察力や思考力も申し分ない。おまけに異性という点も、場合によっては都合がいい。諸々を考慮し、助力を求める相手はお前が最適だと判断した」

「ふーん……じゃあ最後に一つだけ聞かせて」

 

 考え込むような、あるいは試すような、細めた目がこちらを射抜く。

 

「頼み込む立場の君が、さっきの上からな物言いはどういうことかな?」

 

 合格だ、と綾小路は言った。あたかも、彼が松下を試しているかのような言葉。

 事実、その通りだ。

 

「あくまでオレたちは対等だ」

「対等?」

「そもそもお前はなぜオレたちを観察していたのか。いくつか考えつくが、少なくともお前は、オレたちに何かを期待している」

 

 そういう目を、既に他の人間から何度か垣間見ている。

 不器用なりに絆を結ぼうとする姿なのか、単にAクラスへと上がるための人材としてなのかはわからない。しかし、願いや期待を抱えている者からの視線として、綾小路は感じ取っていた。

 

「お前はオレの間近で、自由に見極めるといい。その代わり、オレは次の機会に、お前が本当に使えるのかを確かめる」

「……面白いことを言うね」

 

 さて、問答は終わった。あとは松下の、確定している言葉を待つだけだ。

 

「念のため聞くけど、お眼鏡に適わなかった場合は?」

「解消だ」

「いいの? そんな簡単に逃がしちゃって」

「その条件で構わない理由を、お互い既に理解っているはずだ」

 

 果たして、彼女の見せた微笑みは、大人びた凛々しさすら欠くニヒルを感じられた。

 

「じゃ、期待しておくよ」

 

――――――――――――――――――――――――――

「実のところどうだった? 全部君の言う通りになった?」

 

 松下の質問に頭を振る。

 

「やっぱり君たちは仲がいいね。互いのことを熟知している」

「……お前が言うなら、そうなんだろうな」

 

 少ないやり取りにそぐわない説得力。どうにも違和感が拭えないものだ。

 

「前に君が言っていたように、君たちは今回、確かに別々の思惑を持って行動していた。でも、どうしてわかったのかな?」

「これから説明する。ただ、恭介もかなり早い時点から、オレと別行動の算段を立てていた」

 

 質疑応答を終えた時には、既に浅川も対立を察していた。それでも構わないから、綾小路は誰の耳にも届く場であの質問をしたのだ。

 つまり、浅川は質問内容を聞いた時点で、綾小路が何をするつもりなのかを理解していた。だから、ああも全力で歯向かった。

 本当に楽しみにしていたであろうバカンスを、台無しにしてまで。

 

「どうやら複雑な背景があったみたいだね。元は気になっていることだけ聞くつもりだったけど、これは一から時系列を辿ったほうが早そうかな」

「ああ。お前に出した指示の意図、オレが一人で何をしていたのか。どちらも知りたいだろうしな」

 

 話が長くなることは織り込み済みだ。だからこうして、手元にミネラルウォーターを携えている。

 

「軽い答え合わせといこうか」

 

 

 

 

 1日目。

 質疑応答を終え、最低限の算段を立てた綾小路はスポット探索に出る。

 紆余曲折の末、二つの情報を得た。一つは「Aクラスのリーダーが葛城か戸塚である」こと。

 もう一つは、

 

「恭介と葛城派が繋がっていたこと」

「葛城君の言っていた『侮れない相手』が、浅川君だって確信したんだね」

「恐らく最初の接触は中間テスト。あいつは過去問を葛城に持ちかけ、一つ恩を売った。坂柳派との対立を利用したんだ」

 

 あの時はBクラスと取引したことまでしか看破できなかった。しかし浅川と葛城に接点が存在するとわかった今、他に経緯は考えられない。

 

「そんなに前から……」

「あいつは信頼だけで人を動かす力がある。おまけにAクラスの場合、内部の対立を加速させることになるからメリットしかない。少なくともこんな早い段階で、オレにはできない所業だよ」

 

 そして、この時点で試験が完全に綾小路の思い通りにいくことはないと確信していた。

 

「集団の流れというのは、個人で抗うことができない。Aクラスを巻き込みDクラス全員を動かす大立ち回りをされたら、さすがにオレの範疇にない」

「そんな大胆なこと――をできたのが浅川君、ってことかな」

「実際、平田との関係は良好だ。誰かを傷つけない、クラスのためになる。その2点が明確なら、平田は恭介の案を代弁するだろう」

 

 その結果が終盤の展開なわけだが、強調する必要はない。

 拠点を決めたあと、綾小路はリーダーに名乗りをあげた。

 

「『オレの意見を支持してくれ』っていうのが基本のキだったよね。これは誰にでもできたことだと思うけど」

「そんなことはない。お前は軽井沢のグループにも属していて、決して無視できない発言力がある」

 

 ここで浅川がいなかったのが幸いだった。どれだけこちらの意図にいち早く気付こうと、その場にいなければ本人に取れる手段はない。準備を整える前だった浅川に対し先手を取る形となった。

 

「伊吹の件は……後回しだ。オレは監視に反対だったってことだけ覚えておいてくれ」

「……」

 

 どうして? とは言わないか。物分りがいい。

 

 2日目。

 Cクラスのベースキャンプに赴いた綾小路は、龍園の方針を吟味する。

 観察の結果、彼は現時点で「約200pの温存」に柁をきっているようだった。

 

「下馬評と違って消極的だね」

「しかし、100p程度を豪遊に使っていたことは確かだ。初日で大半をリタイアさせた上で、何かしらの計画を実行する腹積もりだったことが窺える」

「一見中途半端に見える状況は、――龍園君の計画に狂いが生じた?」

「結果を見る限り、何とかなったみたいだがな」

 

 次に、Aクラス。

 堀北の細やかな陽動作戦に従い、綾小路は所謂裏口の探索を開始。

 そこで大きな収穫があった。無論、スポットの恩恵などではない。

 

「葛城は堅実な一方、穏健派だ。対立する陣営を遮断する強硬策は取れない。だから、坂柳派の生徒も平等に参加させざるを得ない」

「……見張り。坂柳派の人が見張りをしていたんだ」

 

 彼女には、頷くだけで十分なようだ。

 接触したのは橋本と名乗る少年。飄々としていて、一見浅川と似た緩さで、しかしただただ打算的でしかない男だった。

 

「もっとも、恭介の提案のせいでほとんど無駄になってしまった……」

 

 そして、ここでもう一つ、水面下で出来事があった。

 

「ところで、結局櫛田がどうなったかは知っているか?」

 

 申し訳無さそうに首を振る。

 

「何かを話しているのはわかったんだけど、その後……」

「向こうも織り込み済みだったというだけだ。責めるつもりはない」

 

 櫛田は要警戒人物の一人だった。今回の試験のことではない、この先のための下準備の話だ。

 堀北を陥れる策として一つ挙がるのが、Dクラスへの裏切り。しかしそれには、他クラスと個人的な関わりを持つ必要があり、今回の試験は櫛田にとって絶好の機会だった。

 案の定、誰かと密会していたらしい。しかし直後、彼女は松下の監視に気付いた。

 ――自力で気付いたのか? それとも……。

 

 3日目にこれといった動きは起こさなかった。ホワイトルームとは全く異なる慣れない野生。残りの時間十分に活動するため、回復に専念する。

 そうする他なかった。というのが正しいのかもしれないが。

 

 4日目。

 クラスメイトたちがテントの外へ流れ出るのに乗じて抜け出した先は、1日目に通った場所。

 

「スパイである伊吹について、確認したいことがあった」

「確認って、リーダーを探っていたんじゃないの?」

 

 首を横に振る。

 

「忘れてはならないのが、リーダー当てはリーダーが行わなければならないということだ」

「……そうか、連絡手段」

「可能性は二つだ。遠隔による即時的な報告――購入できる物資には無線機があった」

 

 しかし、その道具を扱うことができない。持ち物検査では発見されず、伊吹と邂逅した場所にも隠されていなかった。

 ただ、気がかりなものはあった。

 

「合流場所を設定していたんだ。何か特別な報告が必要になった緊急用。タオルが巻かれていた幹が証拠だ」

「待って。緊急用ってことは、変だよ。――本来は連絡する必要がない?」

 

 つまり、龍園は伊吹にリーダー情報を手に入れることを指示しなかった。綾小路を出し抜けるとは思っていなかったのだろう。

 

「試験の流れについていけないと、想定外の敗北につながる。恐らく龍園は、伊吹に『合図』のみを求めた」

 

 だから定期連絡は不要。何かしらの非常事態が発生した場合にのみ、打ち合わせていた場所に痕跡を残す。

 その「もしも」は、やがて現実になった。

 

「だとすると、一つ疑問が浮かぶ」

 

 松下が口を挟んだのは、これが初めてだ。

 

「Cクラスのベースキャンプにあった無線機は二つだった。綾小路君はそう言ったよね。一つはBクラスに潜入したスパイだとして、もう一つは……?」

「言えない」

 

 はっきりと答えた。そう答えるしかなかった。

 適当に誤魔化すなら、龍園と組んだ神崎との連絡手段だと言えばいい。――茶柱から聞き出したポイント譲渡のシステムと、Cクラスが見かけより100p以上多く得点していることを合わせれば、両者の協力体制は明白だ。Aクラスも、Dクラスと組んでいたのだから。

 しかし、実はそれはあり得ないことなのだ。あの時点で神崎はDクラスとの協調も諦めていなかった。彼らが結託したのは、少なくとも()()()()()()()()()()()()()()()()ということになる。

 では、あの無線機の本当の意味は何なのか? 確かに綾小路には、その答えがある。教える道理などないが。

 逆に言えば、綾小路から濁りのない拒否を引き出したという点で、松下の質問は鋭い指摘だった。それもしっかり理解しているようで、眼前の表情が幾分か色を帯びる。

 閑話休題。綾小路は()()()()調()()()()()()()、例のパプニングを知る。

 

「浅川君のアレは、一体何のためだったの?」

「それは……」

 

 本当にわからない。そこだけは。

 彼は単純な部分で掻き回すことで複雑な部分を隠す。今回の一件は、誰の目にも触れずに行動するためと捉えるのは難しくない。Aクラスとの契約も平田なら頷くし、クラスの決定として共有される以上綾小路に暗躍を悟られるのは避けられない。7月の事件と同じ理屈だ。

 しかしだ。実のところ、彼はそもそもクラスで大して目立っていない。不意に失踪してしまうだけでも似た展開を実現できたはず。態々大事にした選択は無駄でしかない。

 ――だからこそ、綾小路はそこに意味があるのだと推察した。

 要は、浅川が救急班に救助され、強制リタイアしたと受け取れるニュースが回ること自体に、彼の真意が隠れている。

 ただ、結論に辿り着くことは不可能な上、いくら推測を目の前の彼女に語ったところで生産性はない。

 そしてその日の夜、ここから徐々に展開が加速していった。

 

「お前には、酷なことを頼んだ」

「本当だよ……いくら私が女の子だからと言っても、他人の下着を盗むなんて普通に犯罪だからね!?」

 

 5日目の朝に発生した下着の盗難事件。その実行犯は松下だ。

 

「万が一見つかった時、俺では言い訳がつかない」

「実際佐倉さんには見られてたみたい――もしかしたら嘘だったかもしれないけど」

 

 トリックは至ってシンプルだ。見張りが松下だったのだから、どのタイミングでも犯行は可能。予め事を済ませ、警戒心の強い堀北を証人側に取り込めばいい。

 

「今思えば、あれは伊吹さんを追い出すための狂言だったんだね。私に『堀北さんと仲良くなれ』って言ったのも、その時のため?」

「ああ。結果として、あいつはお前を選んだ。盗難事件が5日目に起きたのは偶然に過ぎない」

 

 あの状況の堀北は松下を信じざるを得ない。元々伊吹に疑惑を向けていた者も少なくなかった。

 それで綾小路を見張る者はいなくなる。はずだった。

 

「でも、堀北さんは否定した」

「……」

 

 松下は追及しなかった。綾小路の表情を見てか、彼女の中で既に答えが出ているからかは定かではない。

 

「火災事件の時は? 確か浅川君も合流したんだよね。彼はリタイアしていなかった」

 

 浅川の類まれなる『成り代わり』の技術。それによって綾小路の目をも欺いたわけだが、全てを松下に晒していいものか、憚られた。

 結局、堀北グループの時のように、異様さを伏せて「上手く点呼には参加した」ことだけ伝えた。

 

「あいつの提案で、DクラスはAクラスが身を置く洞窟を、新たなベースキャンプに決定した」

「思い通りにはならないっていうのは、そういうことだったか」

 

 少数精鋭で動いていた僅かな時間。そこが勝負どころになると、綾小路は踏んでいた。

 クラスの方針から逸脱せずにポイントを稼ぐために、彼にできることは限られていた。

 

「平田君と一緒に龍園君を探したって言ってたけど、よく見つけられたね」

「推測に則った結果だ」

 

 実は嘘だ。

 絞り込みが可能だったことは事実。しかし、あの短時間で伏兵を探し出すにはどうしても運に頼る形になる。

 だから、ある人物と取引をした。

 そして龍園との契約の内容は、一見不自然に思われることだろう。

 

「それ……Cクラスのリーダーがわかってた?」

「スパイの二人がリーダーなら龍園が潜伏する必要はない。おまけに無線機の一つが金田との連絡用であることも、最終的に龍園がリーダー当てをする根拠になる」

 

 これも正確ではない。もう一つ別の可能性が存在していた。それを事前に潰せていたから、ようやく龍園がリーダーであると確信できた。

 終盤の仔細は、話せないことが多すぎる。

 ……いや、話してもメリットがないだけだ。信頼ができない。

 

「龍園が知っていたのはAクラスとBクラスのリーダーだった。A()()()()()B()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()オレは、健在だったCクラスのポイントを下げることにした」

「……ふーん」

 

 Dクラスのリーダーを見抜けなかったことも確認できたため、変更する必要はなくなった。

 果たして、Dクラスは被害を最小限に抑え、リーダー当てをせずに他クラスへ打撃を与えることで1位を勝ち取ったのだ。

 

「何か質問は?」

「特にないよ。答えてくれそうなことは、十分知れたと思うしね」

 

 含みのある言い方だ。恐らく情報が隠匿ないし改竄されていることに感づいている。その正解と、導くに足る手がかりを見つけられていないだけ。

 やはり、彼女は賢い。

 

「――それで、お試し期間はどうだった? 私は君のお眼鏡に適ったのかな」

「問題ない。指示に違えることは一つもなかったし、お前の指摘は鋭かった。寧ろ、オレがお前に見限られるかもしれないな」

 

 今回の試験で綾小路を最も縛る存在は浅川だった。一番の理由は、彼を止める手立てがなかったことだ。

 現状綾小路は表舞台に立たされており、浅川の方が暗躍の立ち位置にある。向こうが集団を動かす一手を繰り出せば、こちらは総意に反することが非常に難しい。

 浅川の網を掻い潜って成せたこともあるが、そのほとんどが個人的なものだ。少なくとも松下には、「綾小路は最高の結果を出せなかった」と思われてもおかしくない。

 しかし、そう危惧することではないと、彼は読んでいた。

 

「その心配は要らないよ」

「……」

「君なら、わかってるんじゃないかな」

 

 至極簡潔に答えるなら――綾小路と浅川による水面下での争いが、試験の大半を支配していたからだ。

 松下は初めから、綾小路に無人島での勝利を期待していない。

 

「君たちがいがみ合っている間、Dクラスは混迷と現状維持が精々だった思う。でも協働を始めた途端どうなった? 独壇場と言っても良かったんじゃないかな。――あ、一人ならもっと上手くできたとかナシだよ? 私が言いたいのは、君たち二人が合わされば大きな渦が生まれるってこと。周りを巻き込み、取り込んでしまうほどの、そこに私は興味があるんだ」

 

 ああ、やはり。ここに来る前から思ったとおりだ。

 

「歪みをブレンドしたその危うさを、もっと私に見せてみてよ」

 

 コイツも、大概狂っている。

 

「見せようと思って見せられるものでもないんだけどな」

「綾小路君って、案外素直じゃないよね」

「そう、なのか?」

「最初はサバサバした人かと思ったけど、やっぱり違う。ふふ、これからよろしくね」

 

 どことなく不気味な意を含んでいそうな挨拶に、指摘しようとは思わない。多分その方が安全だ。

 内心苦笑しつつ、綾小路は部屋に戻ろうとする。

 

「――あ、そうだ」

 

 空気が、変わった気がした。

 なんてことのない、偶々思い出した風に聞こえて、しかし機会を狙っていたような。そんな声だった。

 

「まだ、説明してもらってないことがあったんだよねぇ」

「ほう?」

「二日目の朝。君は私に一つ指示を与えた。脈略も目的も、皆目見当がつかなくてさ」

 

 何が来るかはわかっていた。それを答える道理がないこと、答えないと彼女が察していること、総てが相互に理解されている。

 そんな茶番を、彼女は敢えて演じたのだ。

 

「日焼け止めをクラスの人数分、追加で注文しろ。どうして君は、あんなことを頼んだのかな?」

「……」

「ついでに、放火事件の犯人も教えてくれたら嬉しいなあ」

 

 綾小路は、ゆっくりと振り返った。

 どこまでも冷たく、深い闇を映す双眸は、まるで別人の如く。

 

「そんな物騒なことをするやつなんて知らないな。みんなが炎天下でのバカンスを存分に楽しめるよう、リーダーとしてできる働きをしたまでだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――

――――

――

 

 4日目。時刻は正午を回ろうとしている。

 炎天下の海岸は眩しく、芸術的な乱反射がちりちりと瞼を刺激する。

 そこにぽつりと残された水上バイク。その内装を確認すると、

 

「……」

 

 本来あるはずのものがない。

 ――オイルタンクの中身が空だ。

 急速に思考を纏める。オイルの使い道など、足場を悪くするか火の元にするかしかない。

 後者だとすれば……人的被害を抑えるともなると、やはり相応の分析能力が求められる。

 そう、ホワイトルーム生ほどの目の良さなら、あるいは。

 ゆったりと、陽炎のように立ち上る綾小路は、満足そうに微笑んだ。

 これを掠め取ったのは、自分の探している人物と見て間違いない。

 なぜなら、

 

 ――オレと全く同じやり方を実行しようとしているのだから。

 




次話は、…………いつかな!?


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。