中編集 ラブライブ 虹ヶ咲 (カーテンと手袋)
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薄花色 (桜坂しずく1)

夕日が沈みかけた午後。鈴虫がやけに騒がしい事も、前日の台風によって作られた泥濘が自転車のタイヤで舞い上がる事も、耳に入らず目にも入らない脱力した時間だった。不覚にも疲労が目の前に迫っており、辺りの何もかもが流れるだけ流れて、自分自身には干渉してこない。すぐ側まで夜も迫る中、僕は自転車を押して、土手を歩いていた。

足先が重たいのは恐らく気のせいだろう。

ぼんやりと左側に目をやると川が見えた。多少濁っているのは台風の影響だろうか。小枝やペットボトルもうっすらと確認できる。その手前の河川敷では母親と遊ぶ子どもがはしゃいでいた。季節前の凧を全力疾走で持ち上げようと、母親に何やら頼んでいるように見える。そして、なだらかな斜面にはススキが広がっており、カサカサと音を立てていた。鈴虫と比べれば小さな音だったが、僕の耳にしっかりと届いたらしかった。それは、道にはみ出したススキの一部が制服のズボンを擦っていた感触と同化し、共感覚のような深い味わいが確かにあったのだった。

土手の道が高速道路で分断されると、道は河川敷へと降りて行くため坂に差し掛かった。一歩一歩進むと、脚から全身へ振動が送られた。波のように、硬直した身体を踵から頭の天辺まで駆け上がっていく。その振動はマッサージに似ても似つかず、ただ己を突き抜ける感覚があるだけだった。

「先輩!」

彼女の姿を見つけるよりも先に、彼女が僕の姿を見つけたらしかった。その伸びのある声は、舞台上から客席まで届かせるための練習の成果に違いない。高架下もあって反響を考慮したとしても、気が付いてから振り向いた時、距離は目視でも25メートルほど離れていた。彼女の声はよく耳に馴染んでいた。

「ここ、帰り道なんですか?」

タッタッタと駆け寄った彼女は、純粋な眼差しで質問した。砂利の音が微かに残った。

「うん。もうちょっと明るい時間に帰宅してるんだけどね」

僕は指で空を指差し、それを左へと払った。彼女は薄花色の瞳でその指先を追いかけた。

「そうだったんですね。よかった……初めは見間違いかと思いました。お話しして人違いだったらどうしようって、不安になっていたんです」

そう言いながら、首を少しだけ傾けて苦い微笑みを表した。生卵を潰さないように手を握って、顎の下に添えながら。

「にしても、随分ハッキリと呼ばれた気がする」

「そっそれは……その、つい発声練習の名残りが……」

完全に日は落ち、あたりは暗くなり始めていた。夕日の赤やオレンジやピンクなどの暖色が、彼女の頬を染める言い訳として存在せず、彼女もそれを知ってか知らずか、顔を背けながら呟いた。

「……そうです! 先輩にお聞きしたいことがありました」

ごまかすように、何かを思いだした口ぶりで話題を変えた。恐らくさっきまでの話題は居心地の悪いものだったのだろう。話し出す前に、こほんと一つ咳をしていた。そして上機嫌を作り出して、いとも簡単にペースを乗せた。

「まずは、ご卒業おめでとうございます」

姿勢を整え彼女は改まり言った。そっと弾んで姿勢を整えたため、ジャージ素材のパーカーのチャックが、カシャと音を出した。

「それで"卒業生を送る会"についてのお話をと思いまして」

ほんの少し回りくどい雰囲気が漂っていた。口籠る事はないが、妙に滑らかだった。まるで一から十まで用意された言葉を喋るみたいに。

「毎年、下級生が上級生に色々な贈り物をしますよね。演奏だったり、映像だったり、歌だったり……」

ひとつひとつ過去を思い出させる朗読者のような、緩やかな口調で伝えていた。

「先輩方からも贈り物がご用意されて、一年生の頃、可笑しくて楽しくて、そして悲しくて……とっても印象に残っています」

遠くから焼いた芋の匂いが漂い、僕の鼻腔を刺激する。高速道路をビュンと通り過ぎたのだろうか。焼き芋屋さんの独特なフレーズは聞こえてこない。

「去年は、そうです。先生方のビデオレターが感動しました。異動された先生方……ですよね。卒業生と関わりの持つ……」

「劇をやるから練習相手にって話?」

終には僕が、それを発してしまった。明らかに、彼女がたらした釣り針は丸見えだった。きっと、気づいてくれたら噛む程度の心境で待っていたのだろうが、待とうとすれば夜になっても、何年経っても、いつまでも待ち続けられる忍耐が、彼女には備わっている。生憎、疲労困憊の肉体を持ったまま、それに付き合っている余裕はなかった。

「……はい。半分は、です」

「お聞きしたいこと、じゃないね」

「ごっ、ごめんなさい」

鈴虫の音色が鼓膜をガンガンと叩いていた。頭上の高速道路からは、車両が通るたびに軋む音とエンジンの音が不協和音として、ここまで届く。それは振動となって皮膚に触れ、呼応し、暗い風を浴びていた皮膚の感覚を刺激した。もう制服の上に羽織るコートかダウンが必要な季節になったのだろう。表に出しっぱなしの顔が熱を帯び始めた気がした。

「そこでですね。その……劇ではなく、映像作品にしようと考えていて……でも、その」

彼女は僕が話の腰を折ったあたりから、この話題に関して、歯切れが悪くなった。もしかしたら大まかな台本を用意していて、それを土台に会話を進行していたのだとしたら、申し訳ないことをしたはずだった。

「……練習相手、ではなく……先輩に、出演して欲しくて。送られる側が何でというお話も分かりますが……シーンも少ないですし、台詞も多くはありません、ですので……」

多くを語っている彼女の瞳に、戸惑いの色が見え隠れしている気がした。普段の単刀直入、結論を頭に置く彼女の言論には、常に分かりやすさが居座っていたが、今はその痕跡すらも確認できない。

「わかった。大変じゃなければ手伝うよ」

「本当ですか?」

「うん」

彼女は安心したという様子で、肺の息を抜き、強ばった肩を緩めた。

「先輩。約束ですよ?」

少ししたり顔を含ませ、口元に指で一を置いた。もうそこに居たのはいつもの彼女だった。安心すると同時に、自身の疲労が思い出されたようにのしかかり始めた。肉体が睡眠を欲している。僕の耳に北風が語りかけている気がした。都会の片隅は回っていると。そこへ遅れをとった夜風が彼女の髪を舞い上げ、包むように動き出した。顔までそれが侵入しないように、こめかみに手を当てていた。独創的なオブジェのような、はっきりとした存在を主張し続けていた。すでに真っ暗になった空間に、僅かな街頭の光を従えてキラキラ輝く、プリマドンナを彷彿とさせる姿で。



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想定芝居 (桜坂しずく2)

大きな杉の木の下で熱いキスをすると、その先に待ち構えるどんな困難も乗り越えられるという、にわかには信じがたい迷信が、田女野高校に通う女子生徒の夢の一つでもあった。古くから言い伝えられたこの迷信は、たびたび女子生徒を興奮させ、高揚させ、時には勉強さえも手につかないほどに刺激した。いったい何が女子生徒をそうまでさせるのか、男子生徒には難しい事柄であったが、お付き合いをしている場合、彼女があの木の下でと言うと、男子生徒もまんざらではなく熱い抱擁とキスをした。信じていないにしても彼女の喜ぶ顔や、その先、そして願掛け程度にはしがみつきたい希望であった。

誰が発端であるかは分からない。分かっていることと言えば、自分が入学した頃にはすでに新入生の間に芽吹いていることだった。つまり、中学時代から何らかの手段で、この迷信を言伝に聞いた生徒が多くいる事実がそこにあり、そして、入学式や部活動紹介での先輩との交流、始まりのソワソワした気持ちでの共有を経て、女子生徒たちはこの学校の迷信を胸に秘めていく。どんな風な印象を持ち、ときめき、心を預けるのか。男子であると同時にこの手の話には疎い僕には難しい事柄だった。

「あの、聞いていますか。二度説明させないでくださいね」

八重歯が姿を現して、その口調から、僕を威嚇していることが見て取れた。ムスッと睨む目から視線を逸らし下へずらす。三船さんは胸の前にしっかりと台本を抱いていた。

「ごめん。あんまり聞いてなかった」

そこまで浸透した迷信は、当然教師たちの耳にも入っていた。頭のお堅い教頭は、噂と決めつけ、それを吹き飛ばそうともがいていたが、校長は意に介さず、むしろ楽しんでいるように見えた。その為、教師たちもあまり気にすることもなく、授業中に世間話として使用する者もいた。

「……はぁ。桜坂さんがどうしてもと言うから、付き合っていますが、私も時間が限られているので」

誰かが、例えば友人や知り合いや先輩、全く知らない人であろうとも、二人きりでその木の下にいるということは、恋人である証明を果たしている。時には嫉妬の対象になるが、喜ばしいことに変わりはなかった。

「でも、大丈夫だよ。あの噂を信じた先輩と後輩の話だよね。それでラストが杉の木の下でキスのふり」

「まぁ、大方が分かっていれば問題はありません。細かい話はシーン事に説明いたしますので」

大きな杉の木は恐らく校門の横に聳える樹齢百年を超える大木のことだろう。僕もこの卒業を控えた時期に、何度か抱き合う生徒たちを目撃したことがある。恐らくは予行練習ではないだろうか。それは去年の卒業式当日。大きな杉の木の下に列をなしていたのだから、きっと今年もそうに違いない。

「先輩。この度はありがとうございます。私のわがままに付き合っていただき……」

水色のジャージ素材だと思われるズボンに、紺のティシャツ。黄色のリボンで髪を結い、ズボンよりも濃い水色の羽織り用のジャージを手に持ち、僕と三船さんにお辞儀をした。どうやらストレッチは終えたようだった。

「どうでしょうか」

「……まぁ、大丈夫かと。シーン事にダメ出しは入れていきますし、台詞もありません」

「うん。たまに動くシーンがあるだけで、殆ど立っているだけだから、多分まかせて」

演劇部の部室には、僕と三船さんと彼女とカメラマン、そして小道具担当や衣装を合わせる人など、計七人が集まっていた。

「撮影が可能なシーンから始めていきましょう。まずは校門へ」

三船さんの掛け声で、各々が自身の担当する道具を背負い、部屋を後にしていく。僕は勝手が分からず、いまいち乗り気になれない身体を動かすのに数秒のロスが生じたため、列の一番後ろに流れた。彼らのやる気に満ちた背中を眺めながら、僕はゆっくりとももをあげ歩を進めた。

「みんなの熱意に負けそうだよ」

入り口付近に立つ彼女にそう呟いた。

「毎年のことですよ」

彼女は口元にほのかな三日月を浮かべ微笑した。最後に部屋を出る僕を待った後、辺りをキョロキョロ点検し、電気のスイッチをパチパチと押した。部屋は窓から差し込む日差しだけとなった。彼女は扉を閉めると鍵を閉め、僕に向き直った。

「……こんな場所で、タイミングもおかしいと思います。先輩。最後の演技をさせてください」

真剣な表情が僕を突き刺した。以前とは違う、意思がそこにある気がした。何かを決断したような瞳は、背筋を伸ばすように仕向ける。怯えにも似て、ドアの前で僕は固まってしまった。彼女は、まだ口を開かない。最後の演技とは、つまり、彼女は役者としての、僕はカカシとしての、最後のお願いであった。



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数日か前 (桜坂しずく3)

「しず子はさ〜 考えすぎ!」

パフェの上段に居座るカットバナナの片割れも、私にそうお説教しているような気がした。かすみさんはロングスプーンで器用にカットバナナと生クリームを一緒に取り、口に取り込んだ。もぐもぐと、やっぱり顔の表情が緩んでしまうが、口の中を空にして、私にお説教を始めた。ロングスプーンの先を私に向ける。そして八の字を描きながら自説を得意げに話す。

「ガツンと行かないとダメだよ! そう決めたじゃん、一緒に」

「……でも」

「でももヘッタクレもないの!」

かすみさんは前のめりになって私の眼を覗き込む。勇気がない私は少し眼を逸らす。整えられたまつ毛がとっても綺麗。

「また……演技してるんでしょ?」

「えっ」

思わず目を合わせてしまう。

「先輩の前でさ、八方美人みたいな、清楚で可愛くて、物分かりがいい、理想の後輩を演じてるんでしょ」

ぐうの音も出なかった。本当は反論をしたかった。けれど、目を見てしっかりと「いいえ」なんて、言えるはずはなかった。気付いていなかったのかもしれない、気付こうとしなかったのかもしれない。不意に確信に迫った単語は私の中に浸透した。奥の奥で空気に似た無象に変わって、全身へと巡る。かすみさんには、そのつもりがないのだろうけれど、これはやっぱり私を揺るがした。

「そりゃ、まぁ、好きな人の前では可愛く見せたいの分かるよ。嫌われたらどうしようって思っちゃうし、良いなって思われたい。かすみんだってそうするもん。でも、しず子のそれはやりすぎ。ぜんぶぜんぶ隠しちゃってるじゃん。昔だってそうだったでしょ」

かすみさんは背もたれに腰を預けて、ミルクティーの中身をストローで混ぜた。全部言いましたと、安堵した様子が溢れている。

「……しず子はさ、ありのままだって可愛いじゃん」

頬杖をつかず、首を下げてストローを咥えた。手を使わずに顔だけで迎えに行く姿は、愛犬のオフィーリアを彷彿させた。腕はテーブルの下に隠れて見えない。一口飲んだ後、ボソボソっとかすみさんはそう言った。

「……かすみさんだって可愛いよ」

これは照れ隠し。本音も混ざっているけれど、冗談だって思いそう。

「も〜 あぁあぁ! そういうのずるい! かすみんが今、良いこと言おうとしてるんじゃん!」

確かに私は、本当に仲良くなりたい人や大切な人の前だと、嫌われるのが怖いという根っこから、良い子の仮面をつけてしまう。例えそれが無意識の行動だとしても、それは事実で、昔からの癖はそう簡単に治ったりはしない。私は常に自分と戦っていた。でも、かすみさんに指摘されて、私はハッとする。前を向ける。私と対面でお話ができる。以前抱きしめた私は、今だって抱き合えるはずだ。そして、どんなに暗い私だって、私自信であることは何一つ変わらない。そしてこれからも死ぬまで一緒にいるのだから。

「かすみんはホントのしず子を知ってるんだからね! めちゃくちゃ頑固で、人にちょっかい出すのが好きで、天真爛漫なところがあって、ちょっと運がなくて、悪魔も驚くくらい強欲で、それから、それから……えーとっ」

「……ふふ、かすみさん。ありがとう」

照れ隠しを照れ隠しで返された私は、また照れ隠しで微笑む。言われたそれらは私が受け入れられない暗い場所。人と接する時に枷になる気がして切り落とした場所。少しずつでも出していけたらいいな。拾っていけたら良いな。運がないのはどうしようもないことかもしれないけれど。

「むぅ……わかったのなら、いいけど……」

かすみさんはロングスプーンを握り直してパフェを食べ始めた。

「あっ! バニラが溶けてる!」

「暖房が効きすぎてるからかな、かすみさんがアツすぎるからかな」

「しず子、いま殼を破り始めなくて良いじゃん〜」

「ごめん、ごめん。ほら、私のいちごアイス半分あげるから」

「ええ、いいのぉ?」

「うん。これはお礼。いつも優しいかすみさんに」

「やったー! しず子ありがとう!」

「はしゃぐと危ないよ、かすみさんは冷静さが足りないんだから」

「しず子、今は鞭禁止!」



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最後の演技 (桜坂しずく4)

彼女に連れられ辿り着いた場所は大きな複合施設だった。駅からの無料送迎バスで10分。バスがロータリーに着いた時、窓から見える大きな駐車場とドームのような外観に驚いた。車を持たない学生には不便な立地だが、その広さから内側の豪華さが窺える。このドームの中なら飲食やショッピング、アクティビティも済ませられるだろうから、アクセスの悪さというマイナス面も、きっと帳消しになる。バスを降り、重力に従ったままコンクリートの硬さを知った。僕達はバスが吐き出した人並みに、押される形で入り口へと向かう。彼女もせかせかと躓かない様に歩いていた。それは僕も同じで、歩幅が合わない苛立ちと彼女の様子に当てられて、指で左側を指差し、その波から抜け出した。

「混んでるね」

「はい……早く来ればいいという訳じゃないんですね。勉強になりました……」

「日曜日だから、しょうがないよ」

しばらく話をすると、人並みは途絶え凪がそこに訪れた。身の前に聳えるモールが、近くではさらに存在を主張している。横幅も長い。遠くには遊具があり、ここからでも子供たちの声が聞こえてくる。耳を意識すると、少しツンとした痛みがあった。もう、冬が目の前にある。貴重な冬の寒さが、二人の防寒具を掻い潜り、施設内へと催促する。

「先輩。今回は私がリードしますね」

暖かさが空気の塊となっている場所へ踏み込んだ時、彼女は楽しそうに言った。

「私と先輩は、言わば恋人の手前です。どちらも爛熟した想いを抱えながら、相手の心に踏み込めないもどかしさを感じています。でも、先輩の好きな方は別にいるんです。向きが違っている先輩を、あれやこれやで振り向かせるんです。簡単に言えば、私が片想い……という設定です」

「これはビデオ映像とは違う台本だね」

「はい。来年の新入生歓迎会で行う"雨に当たる"の練習です」

「そっか。もうそこまで」

「春休みには詰めるので、もう平行で練習を始めてるんです。演劇部、人数が少ないですから」

「大変だね」

「もう慣れっこですよ」

「じゃあ……どうしよっかな」

「先輩は普段通りに居てくれれば、それっぽくなりますよ」

「あぁ、そうなの?」

「はい。だって先輩には別の思い人がいるという話ですから」

「確かにそうだね」

「それに、お世辞にも嘘は得意じゃないですよね」

「あ、失礼だぞ」

「先輩は役者向きではありません」

「おいおい」

「ふふふ。失言でしたね」

インフォメーションを過ぎ、この施設の中核へと歩いた。その道中も大型の店舗が数々並び、僕の脚を何度か止めそうになった。人をダメにするビーズ入りのクッション屋に、さまざまなハーブの匂いが漂うお店、フライパンの専門店など、最後に関してはいったいどれほどのフライパンなのか、興味は尽きない。

「今日はこことここに行き、昼食、そしてここやここでどうでしょうか」

タッチパネルの案内板を触りながら、彼女は僕の様子を伺った。

「いいと思うよ」

「じゃあ、早く行きましょう!」

「あ、でもペット屋さんと電気屋さんは、もう買うものが決まってるんでしょ?」

「はい、そうですけど」

「だったら、最後の方にしよう。荷物になって歩くのは疲れるでしょ」

「先輩が男性らしく持ってくれるんじゃないんですか?」

「嫌だよ」

彼女は「ぶー」と頬を膨らませて反抗したが、先程の台本には自分らしくいて良いとのことだったので、しっかりと拒否をした。

「むー……わかりました。それでは雑貨屋さんに」

エスカレーターで一つ上がりレディースの洋服店をいくつか過ぎた。洋服店ごとに雰囲気も系統も違うそれは、僕の興味を惹き彼女も少なからずそうだったらしくチラチラと視線を送っていた。

「見たかったら見てもいいんだよ」

「えっ、だっ大丈夫ですよ」

彼女は簡単に平静を保とうとしたが失敗した。不器用な感じだった。

「私のプランがあるので……」

彼女に似合いそうな洋服店を通り過ぎ雑貨屋へと向かった。その雑貨屋の内装は白を基調にウッドを散りばめていた。雰囲気はまるで地方の住宅街に紛れた一戸建て。そこでかくれんぼをしたカフェのようだった。

「とても綺麗ですよね」

るんるんと擬音が鳴りそうな軽快な歩みで、店内へと入っていく。今日はリボンをつけていないせいか、髪がよく揺れた。それは頻繁に彼女がダンスを踊っているかのように錯覚させ、僕の視線を盗んでいった。

「加湿器も置いてるんだね」

「手帳やマグカップもありますよ」

高価ではないが、ヨーロッパ調のアンティークが多数あり、西洋に憧れる女性が喜ぶ的を得ていると感じた。

「鎌倉もこのお店のような西洋の建築が多いイメージがあるよ」

「そうですね。古我邸や鎌倉文学館とかでしょうか」

「そうそう、行ったことはないんだけどね。あ、これ面白いね」

「なら、今度行ってみたりしますか?」

「いいね。鎌倉に住んでいる人に鎌倉を紹介してもらうのはすごくいい」

「大丈夫かなぁ……ハードルが上がってる気がします」

「そんなことないよ」

「現地の人が現地のこと詳しいなんて、そうそうないですよ」

「そうなの?」

「そうですよ。東京の人が東京タワーに行ったことがなかったり、そういうものです」

「確かに、一理ある」

用途が全く分からない茶色の土器を眺めて二人で笑い、薄紅色の小皿を手に取った彼女は難しい顔をして考えていた。結局、それは買わずに別の棚へと向かった。

「これ、女性の方なら喜ぶのではないでしょうか。ほら、先輩の彼女さんも、お似合いだと思いますし、プレゼントにどうでしょう」

イヤリングとピアス、そしてリングが置かれたエリアで彼女は一つのイヤリングを指さして言った。

「う〜ん。確かにそうかも。こういうプレゼントって思いつかないから助かるよ」

彼女は一つ微笑む。

「でも、誕生日やクリスマスでもないからプレゼントって、あれじゃないの?」

「何気ない日の、何気ない贈り物って、素敵だと思いますよ。少なくとも私は嬉しいです。もしもいただけるのなら」

「そっか、なるほどね」

僕は悩み彼女の助言をまたいくつか受けた後、一つのイヤリングを手に取ってレジへと向かった。簡単な包みでプレゼント用にデコレーションされたそれは、包みの中で嬉しそうにシャカシャカ音を立てていた。僕はそれを背負っていたカバンにしまう。

「先輩、頬が緩んでますよ」

彼女に軽くジャブでからかわれた後、CDショップへと足を進めた。途中に、先程諦めた洋服屋さんがあり、躊躇する彼女を無理矢理店内へと引っ張った。しぶしぶ、不満を露わにしていたが、一点、二点と衣類を見ていくうちに表情が晴れていった。終いには「右と左どっちが似合うと思いますか」と女性視点の質問を繰り出し、僕を困らせた。

 

「いつ頃でしたっけ、先輩とは」

春に着るであろうワンピースが、袋の中で畳まれている。このCDショップに着くまでに、彼女は何度か、チラチラと袋の隙間へと目をやった。

「中学二年かなぁ。もう五年は経つのか」

「ふふ。そうですね。長いようであっという間でした」

一枚のアルバムを手に取り、彼女はそれを眺めた。アメリカ映画のサウンドトラックだということは話の中で理解は出来たが、それ以外はちんぷんかんぷんだった。

「そうかな。俺は長い長い高校生活だったよ」

「先輩らしいです」

「そう?」

「はい。先輩はずっと先輩のままですね」

「あはは。仲良くいれたら、ずっとそうかもしれないね」

「……」

CDショップでは何も買わず、少し早いランチを取ることになった。どうやらこれも計画通りらしく、彼女は上機嫌に僕を連れて行く。食欲をゆするお肉の匂いが、魚の香りが、簡単にお腹を鳴らした。レストランは主に三階、つまり最上階に揃えられていた。その中央付近のエレベーター前にあるパスタ屋が、彼女のプラン中間地点であった。が、そのお店は臨時休業と看板を掲げ、僕たちの前に立ち塞がった。表情は見えない。彼女の背中がプルプルと震えているのが、よく分かった。まずい。これは直感ではなく経験による予測だ。

「うぅうぅー どうして、どうしてなんですか!」

彼女は軽く片足で地団駄を踏んだ。まるでダンスでリズムをとるように両手も付けて。

「ここだけは絶対に行きたかったのに、皆んなで精一杯考えた場所なのに、先輩に美味しいって言って欲しかったのに!」

「まぁ、落ち着こうよ、向こうにもイタリアンの料理はあったみたいだから」

「……うぅ」

しばらくして落ち着いた彼女は、背中で語っていた。まだ納得はしていないと。

「決めました。私、ここが開くまで待ちます」

「えっ?」

この臨時休業がいつまで続くのか。その期限が看板に記載されていない以上、この我慢比べに勝敗なんてありはしない。彼女は頭に血が昇ってしまって、状況の識別と判断の基準が鈍っている。看板を見つめて、ガラスケースに押し込まれた商品サンプルを眺める。そしてまた看板を眺め、睨みつけた。

「おれさ、お腹すいたよ」

「先輩はこのままでもいいんですか」

「良いも何もさぁ」

むくれたままぷんぷんしている彼女の腕を掴み、引きずって他店へと向かいたかった。嫌気に似た感情が差し掛かっていたが、入口のドアがガラスになっていて、怒る彼女が上手い具合に反射していた。それを見ていると、おかしく感じてしまうのだった。

「やっぱり、昔から頑固なところは変わらないね」

「なんですか、先輩もかすみさんと同じようなことを言うんですかっ」

「かすみさんって誰だか存じ上げないんだけど、きっとその子も手を焼いているんだろうなぁって」

「どういうことですか、詳しく教えてください。私のどういうところが大変で、そういうところがいっぱいあるってことですか!?」

「落ち着けって落ち着きなさい。はい……ね。まず、まずだよ。めちゃくちゃ頑固。はい。あと、人にちょっかい出すのが好きでしょ。それから」

「えっ?」

「天真爛漫なところがあって、こことかさ、ちょっと運がなくて、それで絶対に手に入れようとする悪魔も驚くくらい強欲」

目をぱちくりさせて彼女は固まった。ほんの数秒。いったい頭の中で何がどうしたのか僕には分からなかった。いきなり軽く笑い出したかと思うと、さっと僕の手を引いた。行き先はイタリアンのお店だった。もうその背中は色彩で言えばピンクのように弾んでいて、つまり彼女は上機嫌な状態に戻っていた。昼時にしてはそのイタリアンのお店は列を作らず、静かな佇まいのまま僕たちを待ち構えていた。その堂々たる姿は、常連さんだけを受け入れているように思わせたが、彼女はお構いなしに人数を告げた。スタッフに通された席に座ると、一言「キノコのパスタが食べたかったんです」と、またもや無愛想な風貌になった。彼女というのは、変面のようにコロコロ変わる定まらない感情の持ち主であると同時に、その特性故に女優の素質も持ち合わせていると感じた。そして僕は「キノコを頼みなよ」と言い終わった後、少しだけブルーな気持ちになってしまった。



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恵まれた日々にさよならを (桜坂しずく5 完)

「ヒーローショーがあってさ。桜坂、熱が入っちゃったんだよ」

シーンの休憩中、僕はこないだ起きた出来事を、演劇部の部長に語っていた。部長は僕の拙いトークを子どもにする傾聴のように、熱心に聴いてくれた。部長とは二年生からの知り合いで、彼女が演劇部に加入した事がきっかけだった。

「スイッチが切り替わったんじゃない?」

「そう、まさにそれだよ」

先日のデートに類似したそれで、入口から一番奥のファミリーモールでは、今話題の戦隊ヒーローが公演を行っていた。あれはお昼過ぎの午後。次の目的地へ向かっている時に中央広場のざわめきを聞いたのだった。ふと眺めると、広場を囲むように家族連れが何層にも列を成し、子ども達の声援が可愛らしく飛び交っていた。

「しばらくは観てたんだよね。面白そうだってさ」

公演が終盤に差し掛かってくると、怪人が暴れ出し客席にも踏み込み始めた。そして人質を一人連れ去るという流れに入った。

「ここで桜坂が選ばれたんだよ」

「へー 珍しいね」

「仮説なんだけど、ファスナーを開けたらさ、中身は男性でしょ。たぶん、可愛い女の子に触れたかったんじゃないかな」

「子どもは怯えて泣いちゃうかもしれないし、妥当な判断をしたんじゃない?」

怪人が彼女の手を掴み、ステージに引っ張った。僕は唖然としてなすがままを眺めていた。ステージに立った彼女に、もう一度怪人達が煽りを加えた時、彼女は綺麗な悲鳴を上げた。「きあああやゃぁぁあああぁ!!」と。

「あ、スイッチが入ったと思ったよ。カチッとさ」

部長はお腹を抱えて笑い出した。その状況を簡単に頭の中で描けたのだろう。手で僕の話を静止しようと顔の前に出した。その場に居た登場人物としては含羞に打ちのめされそうになり、酷い朦朧にさいなまれそうになった辛い出来事だったが、確かに、当事者ではなく第三者から僕も聞いていたら、床をバンバン叩いて笑い転げていたかもしれない。

「怪人もタジタジになってたよ」

しばらく部長のツボに追い討ちをかけ、本当のストップがかかるまでそれを続けた。終わった時には部長は涙を拭く仕草をしていた。

「はー 四半世紀くらい笑った」

「大袈裟だって」

「いやいや。大袈裟じゃないよ。きっと、何十年とか経って演劇部の仲間や同級生と会う。その時、何度も掘り返したこの話がツボに入っちゃうんだよ。それくらい、この学校での思い出は記念になるんだと思うんだよね。これは先で、掘り返しても笑える笑い話」

さらりと言った部長の考え深いその思考は、的を得ていて、僕はそっと目を閉じた。こういう時の風はいつも冷たい。ざぁざぁと音を立てる大きな杉の木に、撮影を続けている台本を思い起こされた。彼女たちの"卒業生を送る会"で発表する映像作品は、あらかた撮影を終えていた。編集などの細かい作業を省けば、このワンシーンで撮影のブロックは終了になる。大きな杉の下で後輩が先輩に想いを告げるシーン。二人の出会いから紆余曲折があり最後は迷信、いや夢の中で告白をするドラマチックな展開だ。作品の肝となる部分だけあって、スタッフの緊張感が伝わってくる。あの三船さんも額に汗を浮かべ、真剣な眼差しを崩さなかった。カメラマンと照明を持つ人と共に、杉をどう映そうか迷っているようだった。彼女はそれを横目に、台本の確認を行っていた。僕は確実に緊張していた。

「ひとみとはうまくやってるの?」

「あ、うーん。普通だとは思うんだよね。良くも悪くもって感じで。大変なのは卒業してからだと思うんだよ。大学が違うから」

部長はそんな僕の心情などお構いなしに、ずけずけと質問した。もしかしたら緊張を解こうとした優しさかもしれない。

「あんた達って、お似合いじゃないと思うんだけどなぁ」

「本人の前での発言だぞ」

実際、いま僕が付き合っている女性は、部長の友人であり、部長が僕の元へ連れて来た為、その発言には疑問が残る。だが、僕の元に連れて来ただけで、その後は何一つ関与していない。僕達は順当にデートを重ね、付き合う為の契約を結び、もう一年以上は経った。ドラマのような劇的な展開は起こらないが、適度な幸せを与えてくれる安らかな時間だった。出会いはありきたりで、誰かが羨むものじゃない。が、容姿端麗でこの高校生活だけで指の数に収まらないほど告白される女性。文武両道で県大会準優勝の成績を収める女性。そう、僕にはもったいないくらいの素晴らしい女性だ。本当に僕にはもったいないくらいの。

 

「先輩。先程まで、部長と何をお話ししてたんですか?」

「何でもないことだよ」

「むぅ、何ですかそれ。余計に気になりますよ」

「台本に集中してたんじゃないの?」

「してましたけど、部長の笑い声に掻き乱されたんです」

「部長ー! 桜坂が文句を言ってますー!」

「卑怯です! その口を閉じてー!」

彼女は手を伸ばし、僕の口の前へその手で通せんぼした。あまり背の高くない彼女は、僕に身体を預けないように、ぎりぎりぶつからない距離感で腕を伸ばしていた。踵は器用に浮いていた。

「私がなんだって?」

「部長の笑い声が邪魔なんだと」

「そんなこと言っていませんよ! 盛ってる! インチキです!」

「あはは。桜坂は彼といると、いつも幼く見えるね」

「ぶっ、部長もバカにしてるんですかー」

必要のないような雑談を幾度も繰り返す日々は、若い時ほど顕著に現れる。大人になればなるほど、社会人に染まれば染まるほど、人は意味を求めそれだけを追求するようになる。僕は何処かで読んだ一節を、ふと思い出した。

「先輩! それは言わない約束じゃないですか!」

「えっ?」

「聞きましたよ、部長から。ヒーローショーのお話してしまったんですね!」

「あー こんなに面白い話を言わないわけにはいかないから」

「もう!」

部長と僕は、彼女が全身を使って反論する姿を見て、また互いに顔を見合わせて笑った。誰かに伝えても、きっと「何が面白いの?」と言われてしまいそうで、僕もいつか大人になり冷めてしまったまま思い出せば、何があんなに面白かったんだろうという瞬間を、今、確かに感じていた。

「しず子〜 見に来ちゃいましたよ〜」

とても身軽に軽い口調で、笑いが絶えない輪に加わったのは、彼女の友人であった。

「なに、しず子は暴れてるの?」

「かすみさん! かすみさんは私の味方だよね! そうだよね!」

「ふぇ? えぇふぁ! しっしず子〜 離して〜」

友人の肩を掴み、ロデオのように首を振らせる彼女の力強さは、どれだけ狼狽えているかを示す指標となった。

「わ、わかんないけどー 全然、わかんないけどー かすみんはしずっしず子の、みかたたたただよー」

カクンカクンと揺れる友人はその場に溶け込もうと、とりあえず彼女に同意した。

「はぁはぁ……」

「しずく。それはやりすぎだよ」

部長に諭された彼女は、少し落ち着いた。

「……ごめんなさい。かすみさん」

この場に来て間もない彼女の友人は、100メートル走を終えた選手のように肩で息をしていた。

「あの……盛り上がっているところ、申し訳ないのですが……撮影を」

気がついたらその場に居た三船さんの存在に僕は驚いた。それは僕だけではなく、皆も同じようだった。

「ごめん。私もつい盛り上がってしまって、すぐに始めようか」

「もー かすみんは訳がわからない状況ですぅ」

「ごめんね、かすみさん。お話聞いてあげるから」

「そうじゃなくて! 私はしず子のお芝居を応援しに来たのー!」

部長を先頭に彼女達は、大きな杉の木の下へと向かっていった。あそこにはカメラマンや他のスタッフの方が、静かに待っているようだった。

「貴方も早く向かってください。また風が強く吹いてしまいます」

三船さんに催促され僕もそこへと歩き出した。

 

『もう……一年が経つんだ。桜並木が誰にも捕まらず、ただ涼しげに佇んでいたのも、遠いあの頃のよう』

スイッチの切り替わった彼女は、何か壁の向こう側、別の世界にいるように思わせた。たった数メートルの距離にいったいどれ程の隔たりがあるのか。彼女の友人も先程までの柔らかい表情はなく、唾を呑むような硬い表情を崩さなかった。佇むまま、演者としての彼女を一瞬も見逃さないようにしているようにも見える。それは衣装係やメイク担当も変わらないようだった。僕は色々考えながら、視線をあたりに漂わせていた。

『……私は今日、想いを伝える。このピンク色の純情を、あの人に」

ふわりと髪が横へ流れた。どうやら風も彼女の味方をしているように見える。ひとつ。ここで場面が変わって、とうとう僕の出番となった。いくつかシーンを重ねてきてはいるが、実際に彼女と一つの画角に収まるのは初めてだった。一人で廊下を歩くシーンや部活動に励む姿、受験に取り組む姿勢など、殆どが淡々とこなせるものだった。きっと初心者な僕にも難しくないように台本などをしっかりと練ってくれたのだろう。いつ撮り終わったか分からないような自然体を撮影してくれたこともあった。

僕にとってのtake 1。

『今日は風が冷たいね、待たせたかな』

卒業式の前日。暮れる放課後。こんな日でも校舎に残る生徒。物足りない寂しさを抱えたまま、お互いの時間を埋める友人。学校の雰囲気は摩訶不思議に包まれていた。僕も彼女も、そして他の生徒もこの気持ちの正体を知らない。

『いいえ。待っている時間も名残惜しくて』

『……そっか』

友人達と馬鹿騒ぎもから騒ぎも、いや、そこまではしない別れを終えた僕は、昨日メールで受け取った待ち合わせ場所に向かった。校舎から校庭に出て、大きな杉の木の下にいる彼女を見た時、正体のわからない気持ちがざわざわと音を立てた。

『別に永遠の別れって訳じゃないんだけどさ。家も近いし、親も仲良いし、でもなんだろうね。寂しいような気がしてさ』

これは僕自身も本当に感じていることだった。友人とも先生とも連絡さえ取ればいつだって会える時代に、僕は古い考え方に取り憑かれてしまったのかもしれない。

『先輩もですか。私もそんなことを考えていました』

想定された芝居の中で、僕の目の前には彼女しか存在しなかったが、時折、自身が付き合っている恋人の姿が瞬きを繰り返す瞳に映ったり消えたりした。夢を見ながら幻に惑わされる滑稽なかかしは、側にいる女を見つめるしかなかった。たが、瞼が開いている時と閉じている時で、ほぼ二人の異性を眺めている僕に、芝居と現実の境目を掴めるはずはなかった。僕はもう一度、彼女の瞳を見つめた。女の中心のそのまた中心は薄花色に光っていた。

『先輩。この木の下でのお話を、知っていますか?』

呼吸が合った時、彼女は言った。知っている。そう、この木の下に呼び出し、この木の下ですること、この木の下の話の内容から、鈍感な僕でも予測出来る答えは一つしかない。

『知ってるよ』

夕焼けが杉の木の後ろに赤くあり、空は絶妙に青を保っていた。彼女の瞳よりも少し濃い。遠くでカラスが一度だけ鳴いた。

『なら……あまり遠回りもいけませんね。ここに、この時期に呼んだことが、何よりも答えになっていますもんね。でも……やっぱりちゃんとお伝えしたくて。この気持ちを……この想いを……』

少し潤んだような印象を与えた。鼻をすする音もなく、ただ両手を胸の前で握った。ぎゅっと握っている。今すぐにでも僕に飛び込んできそうなこの風格は、彼女が最後の演技をお願いしたあの日の似ている。

『先輩。私、わたしはあなたのことが好きです。ずっと大好きです』

これは綺麗な台詞だった。本当に、本当にいとも簡単に僕の体内で溶けたそれは、純白な涙となって表に逃げてしまいそうなくらい、とても綺麗な台詞だった。僕は狼狽えて少しテンポが遅れる。だが急に生まれたその間は、悪いものではなかった。彼女はゆっくりと待ち、僕もそれを信じて呟く。

『なぁ。この木の下での夢って知ってる?』

彼女も呟く。

『知ってますよ、少し恥ずかしいですけど』

彼女の背後に聳える大きな杉の木が、シャカシャカとうねりをあげた。僕の背後にはカメラを構える人やキャスト、その他諸々がこの光景を眺めているに違いない。まるで、その場のキャストやスタッフの努力が背中を押すように、僕の足は彼女に近づいた。夢を信じている名前も顔も知らない生徒達の想いも、僕の背中を押したような気がした。

「……いきますよ」

彼女は僕にしか聴こえない声で確認した。つま先をあげ、そこに体重を乗せる。この距離にこの台本の二人は恋をしていた。健気な、真剣な彼女の顔が近づいてくる。もう少しで、二人はキスをしているアングルになり、カメラに最後が収められる。口や鼻やまつ毛、そして瞳。この距離で女性を見ることに僕はまだ慣れていない。ふと、彼女は目を瞑った。耐えきれなくなって、僕も目を瞑った。その瞑った瞬間。唇にグミで突かれたような感覚が走った。僕は思わず硬直する。それは確かな感触だった。彼女の気配を感じて、僕は目を開けた。目が合う。彼女は僕を見つめていた。まだ、絶妙な間合いを保っている。彼女はまたそれを行える距離にいた。僕が身構えていると、彼女は一時僕の視線を奪っていたグミを開いて言った。これもきっと僕だけにしか聴こえてはいない。

「ここから先は台本にありませんよ」

無自覚に迫る、そして秋波を送られた僕は、大きな杉の下で追われるような感覚になった。過去や未来、そのどれもが現在に集約され、彼女の瞳に吸い込まれる。薄花色の瞳に何が蓄えられ何が芽生え何が育まれたのか、僕には見当もつかない。昔に出会った、今まで共にいた彼女は、もう既に大人になっていた。その理由は分からない。分からなかった。僕は彼女の思惑も想いも純情も、何も知らない。僕はきっと彼女のほとんどを知らないまま、この撮影を終えて卒業していくのだろう。そして、何も知らないまま大学生になり、休みの日に遊びに行ったりするのだろう。だが、その観測も不確かで分からないに落ち着いてしまう。分からないことは分からないままなのだが、ただ、ただ一つ確かなことは、通過していく風に乗らず、僕の体内に居座り続けるそれは、ギラギラと音を立てて、弾み出していた。




虹が咲のアニメを拝見し、思わず筆を走らせてしまいました。
今回は桜坂しずくさんでしたが、次回(いつになるかわかりませんが)は別の同好会メンバーで描いてみたいと思います。
虹が咲のアニメ、とても面白かったです。
さて、私はもう一つ書き進めているサンシャインに戻りたいと思います。
最後まで読んでくれた方々、ありがとうございました。


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お着替え (虹が咲1)

果林「あら、せつ菜だけ?」

部室のドアを開けた果林はパッと目に入った状況に、そう呟いた。

せつ菜「はい。皆さんまだ来ていませんね」

パソコンの前に座るせつ菜は、椅子から立ち上がって返答した。

果林「今日は暑いわね〜」

せつ菜「最高気温が14年ぶりに更新されたらしいですよ!」

果林「それは大変」

果林は立たなくて良いのよと左手でジャスチャーをした。それを受け取ったせつ菜は、自身の熱さを披露した後、席に座った。

果林「べたついちゃうわ」

部室の奥へと進み、ロッカーの鍵を開けた。果林は自分の制服を摘み呟いた。

果林「何か調べ物? スクールアイドル?」

荷物から練習着を取り出し、シャツのボタンを外しながらせつ菜に質問した。

せつ菜「いえ、これは先日公開された映画の予告です! シリーズ物なんですが、今作はその一作目ということで注目されているんです。その予告映像を観ていました!」

果林「なるほどね、せつ菜の大好きが伝わってくるわね」

せつ菜「この主人公の声優さんが実際にLIVEで行った演出が、アニメの中でもトレースされているんです! 果林さん、このアングルです! 見えますか!?」

画面の映像を果林に見せようと、自身の身体を横にずらした。そして、しっかりと視線の共有が出来ているか、せつ菜は振り向いて確認した。

せつ菜「このあぁっ! ごごごめんなさい! 見てません! 見ていませんので!」

果林「あら」

着替え途中の皮膚面積が多い状態を覗いてしまったせつ菜は、まるで男性のように慌てふためいた。

せつ菜「着替え終えたら言ってください! それまでじっとしていますので……」

デスクトップに正面を戻したせつ菜は、画面を見ずに俯きぎゅっと目を瞑った。恥ずかしさを一点に抑えている。

果林「……」

子どもっぽい、そして純情なリアクションを見せるせつ菜に、果林は悪ノリに火がついた。歩み寄る。上半身だけ下着のままだった。

果林「この動画、よく見たくなっちゃった」

せつ菜「!?」

デスクトップが置かれるテーブルに片腕をついて、覗き込むのに画面を見た。そしてわざと、果林は自身の髪がせつ菜の皮膚を撫でる距離まで顔を近づけた。

果林「このロボットのアングルが良いのかしら?」

せつ菜は瞼をぎゅっと瞑っている。

果林「ねぇ、せつ菜」

せつ菜「まだきっきき着替えて……ないじゃないですか……」

顔を真っ赤にし、今にも沸騰しそうなせつ菜の横顔が愛しく見える。デスクトップのモニターに薄くせつ菜が反射している。

果林「だって、呼ばれたんですもの」

せつ菜「それは……そうなんですが……」

耳も高揚し、手を脚の間で握り、指をモジモジとさせる。

果林「……せつ菜はいったい何を考えているのかしら?」

わざと耳元に甘い吐息を混ぜて鼓膜を震わせた。せつ菜は身震いをし、突然立ち上がった。

せつ菜「わたっ! わたし! 生徒会の仕事を思い出しました!! ちょっと行ってきます!!」

ピューンと駆け抜けて行くせつ菜の香りが、辺りをマーキングし、ドアを勝手に開けたかのような勢いを醸し出した。

果林「あら。もうランニングの時間なの?」

一人取り残された果林は、開け放たれたドアを閉めて、のんびりと練習着へと着替えた。



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ミルクガールズ (虹が咲2)

愛「そういえばさー お婆ちゃんがどうしても思い出せないことがあるんだってー」

歩夢「そういう時ってあるよね」

愛「そう、愛さんも徳川慶……慶、慶子? みたいになっちゃったりする」

歩夢「誰だかわからないけど、可愛い名前だね」

愛「慶子っちはいつも遅くまで敬語の稽古してるんだって」

歩夢「愛ちゃん、これは私からの警告だよ」

愛「負けたっ!」

歩夢「もう、いつ勝負なんてしてたの」

愛「えー 楽しいって思い始めた時じゃない?」

歩夢のクラスに「タノモー」と元気よく侵入した愛は、すぐさま席で帰りの支度を行なっている歩夢を見つけた。「おーい」と体操着を振り回しながら駆け出した愛は、この狭い教室の中で一番輝いていた。簡単に言えば、一番目立っていた。そんな愛に呼ばれた歩夢は自身にも視線が集中する気がして慌てていた。こそこそと鞄を抱いて迎えに行く。愛が自分の席に着くよりも早く。「もう愛ちゃん恥ずかしいんだから!」と歩夢は反発しようとしたが、無邪気に「にしし」と笑う愛を見て、そういう言葉は喉の奥へと引っ込んでしまった。

愛「って違うよ歩夢! お婆ちゃんの話だよ」

歩夢「ごめんねっ、私もぼーっとしてた」

愛「そっかー」

歩夢「それでお婆ちゃんどうしたの?」

愛「うん。好きな駄菓子があってさ、昔から食べてたんだけどそれが思い出せないんだって」

歩夢「駄菓子かー 駄菓子屋さんって最近見なくなったよね」

愛「んー それが曖昧にさせてる原因なのかなぁ」

歩夢「私、愛ちゃんと愛ちゃんのお婆ちゃんの力になりたいな。だから、覚えてる所だけでも教えてくれる?」

愛「助かるよ! えっとね、確かお婆ちゃんが言うにはすっごっーく美味しいんだって!」

歩夢「……それ主観じゃない?」

愛「そうなんだよね」

歩夢「お婆ちゃんの気持ちすっごく分かるよ。駄菓子、全部美味しいもんね。でもそれだけじゃわからないから、もうちょっとだけ教えて?」

愛「確か、当たりがあるって言ってたなぁ」

歩夢「たくさんあるよぉ」

愛「当たり前のようにねぇ〜」

歩夢「……もしかして……あたりめ?」

愛「……なぜ?」

歩夢「愛ちゃんのお婆ちゃんもダジャレが好きなのかなって……」

愛「お婆ちゃんはダジャレの奥深さを分かってくれないんだよねー たはははー!」

歩夢「うーん。段々と絞れてきた気がするんだよね、あとちょっとかな」

愛「あ、そうだね。うーんとうーんと。あ! 棒なんだって!」

歩夢「……あっ、わかった! きなこ棒だよ! 解決したね」

愛「愛さんもね、絶対それだと思ったんだ」

歩夢「違うの?」

愛「お婆ちゃんが言うには、100円有れば9本は買えるらしいんだよね」

歩夢「……きなこ棒だよ!」

愛「むむむ」

歩夢「違うのくるかと思ったけど、順当に特徴を捉えてたね」

愛「でも、分かんないんだよねー」

歩夢「もう……愛ちゃんは何が腑に落ちないの?」

愛「うーん、ほらゲンコツ飴と甘々棒が似てるなぁってさ……」

歩夢「……それって?」

愛「今、写真見せる、これ」

歩夢「……確かに似てるね」

愛「うん、そうでしょ」

歩夢「でも確か当たりがついてるんでしょ」

愛「うん」

歩夢「だったらここに当たりを加えるのは難しいんじゃないかな」

愛「あんたは賢い」

歩夢「もぉ……愛ちゃん、絶対わざとでしょ。私そう言うの分かるんだから。もう一緒に考えてあげないよ」

愛「ごめんごめんて歩夢ー」

先程まで体育の授業が同じだった二人は、教室を出た後、まだ冷めない高揚を活用した。部室に着く間に冷めないように、テンションを高く維持する。初めは誰々のどんなプレーが凄かったとか、歩夢が可愛らしいドリブルをしたとか、為にならないようなことを沢山話した。

歩夢「答えってもう出てる気がするよ」

愛「そうなんだけどそうじゃないような。お婆ちゃん。こんなことも言ってたんだよ」

歩夢「どんなこと?」

愛「爪楊枝に赤い印があったら当たりなんだって」

歩夢「もう確実だね」

愛「あと、二本くらいで飽きるって」

歩夢「水分欲しくなるよね」

愛「あと、帰りに買って来てって言われた」

歩夢「食べたくなっちゃったんだね」

愛「それで色が虹色なんだって」

歩夢「うんうん。あのカラフル、えっ!?」

愛「もう絶対、きなこ棒だね。うんうん。よかったー 解決して。これで同好会に集中できるよー」

歩夢「愛ちゃん!? えっと、最後の。最後のって?」

愛「最後に歩夢に聞いて良かったー 歩夢のおかげだよー」

歩夢「あれ、私がおかしいのかな。きなこーー」

せつ菜「歩夢さん! 愛さん!」

前から駆け足でやって来たせつ菜は、大きな声で叫んだ。

せつ菜「たた助けてくださいっ! 果林さんが! 果林さんが!!」

歩夢「とりあえず落ち着いて、せつ菜ちゃん」

愛「そうだよせっつー 本当にマズイ感じは伝わってるよ?」

せつ菜「すいません! えっと……」

歩夢「何があったの? 大変なこと?」

せつ菜「えっとっ、着替えていて! 果林さんが何を……こうして、ですね」

愛「何があったの?」

せつ菜「なっ、何とは……その……えっと」



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群生とて (中川菜々1)

今日は待ちに待った同窓会とは言わず、ネオンの光を与えられた街で、静かな夜を過ごしていた。高校の同窓会は二次会も終わった時間だろうか。まだまだ終電を向かえない街は、ガヤガヤと騒がしさを残している。店内の壁際に座るアベックも、何やらお笑い芸人の話で盛り上がり浮かれていた。さらに自分に近い席に座るサラリーマンは、iPadでAVなんかを視聴していた。羞恥心は欲求にかき消されてしまったらしい。目がギンギンに輝いていた。隣の席に座るマダムはガラパゴス携帯を耳に当て、息子の養育費がなんだと文句を言っていた。こいつはお酒がクソになる味付けだった。口が止まらないマダムの眉間にマシンガンをぶっ放したくなる。僕はアヒージョの油を吸いすぎた、ひたひたのマッシュルームをフォークで突き刺し、口に運んだ。濃い味が身に染みる。舌を通り過ぎ、どこまで流れていくのか。胃や腸そして排泄。テラス側の隅で、僕は全身に思いを馳せた。そして遠い景色が霞んでいくような感覚に陥った。寂しいわけじゃない。ただ、鳥の目線を借りるように、客観的に一人食事をする自分を見てしまうと、何かをしなくてはいけない気分になる。何でもない土曜日じゃないか。明日という休日を残した素晴らしい日だ。通りを歩く若者のバカ騒ぎとキャッチの声かけに耳を傾けながら、グラスを一つ飲み干した。こいつも嫌になるくらい不味い酒だった。

 

店を出て駅に向かっていると、周りの明るさが目についた。ピンクやらスカイブルーやら、緑赤黄色。一斉に僕の網膜を射撃しているみたいだった。それでも歩は淀みなく進んでいた。一定のダメージを受け、キルされた視界は暗闇を好んだ。束の間の休息が欲しかったのだろう。しばらく歩くとコンビニの看板が目に入り、脳味噌が震えるのを感じた。頭を冷やしたいのと、お酒を溶かしたい欲望に駆られコーヒーを買おうと思った。干からびたコンビニの駐車場は、この一帯に似合わない質素なものだった。車も数えられるほどしか停まっておらず、穴あきの段ボールみたいだ。やけに広いのが無意味さを表立たせる。今日と言う夜を無駄に使った自分に腹が立った。ふと、奥の方だった。光が入らないギリギリの所に、コンクリートの壁に手をついて吐く女がいた。コンビニのレジからは死角にあたるその場所で、黒い髪を下に垂らして身悶えしていた。クソッタレ。汚い一部始終を見せられた僕は、さっさとコンビニに入った。映画の上映シーンだとしたら監督にポップコーンを投げつけたくなるくらい不快なシーンだった。いったい何を見せられているのか。こんな変哲もない土曜日に、何故女が苦しむ姿を見させられなくてはいけないのか。僕は上着のポケットに手を突っ込んだまま、週刊誌の棚を通り過ぎ、缶コーヒーとついでに栄養ドリンクを明日の為に手に取った。レジで支払いを適当に済ませ、機械のようなありがとうございましたを背に受け店を出た。ビニール袋は有料に変わっていた。外の景色は三分前とそう変わっていない。すぐに帰路に戻ろうとしたが、片手に缶を二本持つ動作が煩わしく、ここで缶コーヒーだけでも飲んでいこうと思った。タバコを吸う一人のサラリーマンと話せないほどの距離を取り、店内をバックに立った。ネオンがさっきよりも眩しく感じる。缶をカシュと開け、思いっきり喉へ流し込んだ。こいつは美味かった。誰にも邪魔されないささやかな晩餐だ。見えやしない缶コーヒーの中身を片目を瞑って確認した。そして、また、今度は空にする勢いで缶を持ち上げた、その時だった。

「あっ、あの……うぅ。うっぅ。その栄養ドリンク……一つ譲っていただえ、えないでしょか……」

勢いが止まらない右手は、缶の中身を少しばかしこぼした。そして、どういうことだか咄嗟に理解できない僕は、鈍い思考に流されていなければならなかった。

「おね、お願ぃ……いたちますぅ」

女だった。先程まで、あの隅で嘔吐を繰り返していた、醜い女だった。華奢で背の低い女だった。

「宜しいですけど……」

束ねていたゴムなどを失ったのか、髪は女の顔を隠していた。どれほどの酒をこの小さな身体に蓄えたのか。酒の匂いが灰色の風に撒かれた。僕が左手で渡した栄養ドリンクを、有り難そうに受け取った。その所作は、酔っていても、どこか気品を感じさせた。

「わたしの、電車……いまなんしゅですか? 時計あって、スマホが、その……」

「23時29分です」

呂律が回っていない女は、一部が冷静になった脳機能を働かせて、自身の安否を確認し始めた。正常だと思わせていたが、足取りは危うく、暖簾のような髪の隙間から視えた瞳は、やけに瞳孔が開いているような気がした。女は眼鏡を掛けていた。

「ぁがりたう、ございます……うぅ……この御恩しゃ、忘れません」

千鳥足で駅へと向かう女は、ネオンに照らされてよろめいた。この街には似つかない女だ。後ろ姿が、そう感じた。いつ間にかタバコを吸うサラリーマンは消え、灰皿スタンドから硝煙が上がっていた。クソッタレ。何を思ったか、僕の中に取り残されていた善意の塊が、お酒の力を借りて呟いた。缶コーヒーを握りつぶしダストへ放り投げると、ドスの効いた液体が漏れ出した。手についたコーヒーの残りをズボンで拭き取り、女の後を追った。雑居ビルの隙間に造られた桃源郷は、多くの男を吸い込んでいった。ネオン街はこれからだった。



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ラブなホテルの一室で (中川菜々2)

「あなたはわたしをころしました」

 

「でも、何度も出てきて……何が望みなんですか?」

 

「りゆうなんてありません。あなたがそうであるように、わたしもへいきをよそおいます」

 

「嫌がらせは辞めて下さい。もう……いいでしょう……」

 

あぁ。ここは夢なんだ。

そう気づけるようになったのは、

つい最近のこと。

そして彼女が現れ出したのも、

つい最近のことだった。

 

何処かおかしいと思っていても何処もおかしくないと、妙な納得をする空間。天と地は逆さまだったり、そのままだったり、私の存在を一つに留めてはくれない。右を向いたら左側の景色が見えたり、なら左を向いたら右の景色が見えたり、まるで改良が必要なゲームのバグ。第三者から俯瞰的に覗いているような不思議な感覚。自分であって自分じゃない。私の目の前にいるのは、知っているけれど、知らないと貫き通したい人物。人物であるのか虚言の塊なのか、魂の行く末を知らない、哀れな私の前に現れたそれ。

 

「いやでもおもいだすのでは? わすれられるわけありません。だってせいしゅんでしたから」

 

「いつもいつも、なんだって……」

 

「こころのどこかではきづいているはずです。あなたはわたしでわたしはあなたです」

 

「……もう止めて」

 

「かんたんなことをききたいです」

 

「話す事なんて何も無い……」

 

「あなたは……」

 

「っやめて!!」

 

「……だいきらいなんですか?」

 

目覚めたら、そこは見慣れた天井ではなかった。活動を始めたばかりの眼球には刺激の強い電飾が、やけに高い場所から吊るされている。それは沖縄の水葡萄が引っかかったような近代的美術を彷彿とさせ、私の首元へと向かっていた。視線と首を傾けると、ゴージャスに金色を扱った壁が私に主張を繰り返し、ミステリアスな花模様のカーテンは日差しによる時刻を隠していた。ここはいったいどこだろうか。野暮ったいほどの内装が、確実に自室にいないことを証明している。私はもう一度、上を向いて、チカチカするシャンデリアもどきに集中した。そしてまた目が痛んでくると、左手でクシャッと髪を掴んで、そのまま前腕を両目の上に乗せた。

「やっと起きたか」

そう声が聞こえると同時に、私は上半身を思いっきりベッドから起こした。何が起きているのか理解するよりも早く、身体が反射をしたように声の主へと向いたのだった。

「だっ……だれ、ですか……」

か細い、今にも途切れるギリギリの声を絞り出した。ようやく身体に心が追いついたようで、私の心臓は唸りを上げていた。ベットが少しだけ反発している。

「誰でもない、強いて言えば絡まれた人だ」

男はソファに腰を預けたまま呟いた。やけに小さいけれど、すんなりと届いた。しかし、何者か分からない男となんだか分からない部屋に閉じ込められた私は、まだ冷静になれそうもなかった。もしかしたら、先程までの夢が完全に忘却されていないのも原因の一つかもしれない。

「訳の、訳の分からないことを言わないで。こっここはどこですか、いったい私に何を……」

私が狼狽えて言葉を紡ぐ間、男はぼんやりと虚空を眺めていた。私の目を見ているようで見ていない。見ていないようで見ている。そんな感覚に苛まれた。だから、完全に視線を捕まえられないからこそ、虚空を眺めている気がした。何か悲壮を持っているような気も、それとなくさせていた。

「ゲロ女に発情するほど盛ってない」

舌打ちをして、ゆったりと言って退けた。私が発言してから数秒、間を開けてからだった。その言葉を聞いた瞬間、私はハッとして、自分の身体を初めて見た。紺色のジャケットと同色のスカートには、シミとなった痕がぽつぽつと浮き出ている。中の白シャツは日本列島を描かれたまま着られており、使い物にならないと断言できた。枯れた茎のように垂れた首はそのままに、私は思わず泣き出しそうになった。静かすぎる空間が私を押し込む。ふんわりと嗅ぎ慣れた悪臭が鼻を突いた。我慢しようと我慢しようとしていると、余計に涙が溢れそうになる。必死に無関係で無機物な物体を想像して耐えた。その努力が徐々に私の脳味噌を回転させる。寝ぼけていた頭が少しずつ晴れていった。

「……そうですか、私また泥酔してしまったんですね」

はっきりと口に出した時、波のように羞恥が奥底から流れ出た。顔全体がカイロで温められたような、気に入らない昂揚感。そして、胃と腸を震わせて、私を不快にさせる刺激。よく意識すれば、私は物凄く喉が渇いており、一言一言を発するたびに、ねばっとした舌触りが巻き起こった。気持ち悪くて、唾液を口内に溜めようと思った。指で首の適当な場所に触れた。男は、そんな私の様子を見て、テーブルの上に置いてあったビニール袋を指差した。

「そこに、スポーツドリンクがある。飲んだ方がいいよ。悪い夢でも見てたんだろう、随分うなされていたから」

上掛けを取って、真に足の指を見た。靴はベッドの下に並んでいたけれど、履かずにテーブルまで向かった。床からひんやりが伝わる。スポーツドリンクも充分に冷えていた。ガラス張りのテーブルには、丁寧にコンドームが二つ置かれていた。指紋が一つもない綺麗なガラスだった。

「……私、本当にダメな人です……」

ペットボトルの中身を半分ほど身体に流し込んだ後、再びベットの上に戻った。間を作るのが怖い。空間に歪みだとか地面に割れ目が造られる訳ではなかったが、その生じた隙間から黒き無秩序が湧き出て、この室内と私を覆い尽くすかもしれない。実体のない感性こそ、私が常に恐れる欲望の一つ。それに飲み込まれて、呑み込まれて、のみこまれて。私を誰でもない二人に分け与えられた。

「あの……わだじ…うぅ、ひっぐ……ごっ、ご迷惑を…っ……」

反芻を続けた過去は反省へと変化して、そして後悔に化ける。ベットに乗った上掛けを抱きしめるように両手で握った。私の身体はモノクロへと混ざることはなく、スーツの黒と髪の毛の黒、寝具の白とワイシャツの白は、一緒に近くにいるけれど、まるでひとりぽっちのように独立していた。男は泣き出してしまった私を見て、一瞬、ばつが悪い顔をしたが、すぐに空白に視線をずらした。

「うぅ……」

しばらくーーどれくらいが経ったのだろう。備え付けられた子機が鳴り響いて、私の頭がガンガンと鳴り響いたのを覚えている。そして男が、その原因を止め、何処かにぼそぼそと連絡をとっているのも憶えている。それ以外は微かな空白が建てられていて、小説の行間のような渋い背景しか覚えていない。後は何もなかった。出来事が巻き起こって時間が経過していく訳ではなかった。しかし、断片的な思考が、長い時間を奪っていたのは明確だった。いつしかシャンデリア達の電気は消え、たった二つしかない窓の一つから、強烈な光が射し込み、部屋を満たしていた。

「シャワーでも浴びたら」

憔悴を深めた私がぼんやりしていると、男は持っていたペットボトルを左側へと払った。ソファに座った姿が疲労しているように見える。男は口を開く時にしか、私と目を合わせようとはしなかったが、別に無視をしているわけでも蔑ろにしているわけでもなかった。むしろ、遠くから見守る親類のような、ここにいる存在だけが保証されていた。

当然だけど、着替えの服などは持ってはいない。本来ならば、家でまったりと日曜日を堪能している時間だった。私はようやくテーブルに置かれている電話機から時刻を知った。もう十一時を過ぎていた。きっとお昼のワイドショーが垂れ流されている。いつもなら、私はそれを死んだ魚の眼をして覗いている。あの有名人の独占スクープやら交通事故が何やらを。

男に促さられベッドを後にした私は、手持ちが不在のままシャワー室へと向かった。靴を履くのが面倒で、もう汚れているタイツ越しに床を歩いた。ひんやりしていた。シャワー室のドアノブに手をかけた時、私はふと気になった。あの男は、どうして見ず知らずの私を助けるようなことをしたのだろうと。こんなこと何の得にもならないのに。

「どうして……私を助けたんですか」

そう思っていたら口を出た。昔からの悪い癖だ。

「昔、助けられた女に似てたんだ」

男と初めて目が合った。

「……それだけだよ」



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居眠り (虹が咲3)

かすみ「あ、またこんなところで寝てるんですか。彼方先輩」

まだ日陰のベンチで綺麗に丸くなりながら器用に寝ているのは、私が所属する同好会の先輩だ。まるで猫のように、それほど大きくはないベンチに乗っかっている。何やってるんですか、もう。かすみんはランニングをしているというのに。……いや、でも、これはこれで差をつけられるチャンスなのでは?

彼方「ZZZ」

寝息が聞こえるか聞こえないかの塩梅で、彼方先輩の背中は上下を繰り返していた。よく全体をぼんやりと見ると、ゆったり、上半身が風船みたいに膨らんでいる。そして、口や鼻から一定量の空気が放出され、本当に小さなスゥーという音が聞こえた。

かすみ「……にしし。少しイタズラしてしまいましょうか。えっと……うーん。そうですねぇ。あ、これがありました」

ポケットの中にしまっていた毛虫の玩具。リアルシリーズというガチャガチャで引き当てたのだった。本当は猫ちゃんが欲しかったのだけれど、当たらなかったのだから仕方がない。それにしても、毛虫が入っているなんてどういうこと? 全然可愛くないんですけど!

かすみ「彼方先輩の〜 髪の毛につけて驚かせてしまいましょう」

急遽思いついたこの作戦で彼方先輩を驚かせて見せます。私は右手で摘んだ毛虫の玩具を、彼方先輩の髪の毛のどこにつけてあげようか、色々と探索します。

かすみ「……」

ここでもないし、あそこでもないし。

かすみ「……彼方先輩、髪の毛に枯葉が付いてます。一体どこで寝たんですか、もう」

よく見ると、細かな枯葉が数枚髪の毛に絡み付いていた。むしゃくしゃします。こんなの可愛くないじゃないですか。彼方先輩はもっと自分の可愛さを大事にしてください。

かすみ「あぁ。こんなところにも」

毛虫はベンチの端っこに置いて、両手を使って、髪の毛を持ち上げたり下げたりした。さらさらと、掴んでいなければ逃げてしまう髪質に、少し嫉妬した。ある程度は取り終わった。

かすみ「こんな固い所でよく寝れますねぇ……ある意味羨ましいです……」

彼方「……なら、その願い叶えてしんぜよぉ〜」

かすみ「ええっ、起きてたんですか!」

私が覗き込むように屈んだ時、彼方先輩は薄目を開けて、そう呟いた。突然の出来事に、私は大きなリアクションをとった。完全に不意を突かれました……不覚です。

かすみ「起きてたのなら起きてたって言ってくださいよぉ! びっくりしたじゃないですか。もしかして、始めから起きてたんですか!?」

彼方「そんなことないよ〜」

良かった。どうやらイタズラは気づかれていないらしい。仕掛けてすらいなかったけど。

彼方「まぁ。かすみちゃんがランニングしてるところくらいからかな〜」

かすみ「えっそれって初めからじゃないですか!」

まだ状態はベンチに身体を全て預けたまま、顔だけは私に向けて笑っていた。

かすみ「忍び寄ったのにぃ……」

彼方「かすみちゃんの可愛い気配を感じてしまってね〜」

かすみ「なっ」

そんなの当たり前じゃないですか。かすみんが可愛いことなんて。これから全人類が思い知ることになるんです。まぁ、後々ですが。それにしても彼方先輩はずるいやつです。最初から気づいていたのに、気づいていないふりをしていました。イタズラをするつもりが、イタズラをされていたなんて。

彼方「まぁまぁ。かすみちゃんはさ、お疲れなんじゃない? ほらおいでおいで。ほら」

彼方先輩はまだ横になったまま、手でお腹あたりをポンポンしました。そんなに狭いベンチで、二人も寝られるわけないじゃないですか。私が静かに待っていると、彼方先輩はまだゆっくりとお腹あたりをポンポンしています。

かすみ「そこになんて座れませんよ」

彼方「ありゃりゃ」

彼方先輩は肩透かしを食らったような、まぬけな声を出した。そして「よっこらしょ」と上半身だけを起こし、今度は膝の上をポンポンし始めた。きっと座るまで続けるんだろうなぁ。

かすみ「わかりましたよぉ……」

根負けした私は、隣に腰掛け頭を膝の上に乗せた。弾力があって、案外悪くはない。しかし、ランニング途中の身体は、変な匂いは出ていないだろうか。そんなことないだろうけど、ちょっと不安だ。そんなことないだろうけど。

彼方「かすみちゃんは臭くないよ」

エスパーですか!

彼方「それと、今回のことは、目を瞑っておくれ」

かすみ「それって、どっちの……意味ですか」

彼方「あぁ、彼方ちゃんも眠くなってきたよぉ〜」

さっきまで一定のペースで撫でられていた頭も、独特なリズムに覆われていた。その不規則なリズムが睡魔を呼びかけて、私の瞼は重くなっていった。ランニングの疲れも少しあるのかもしれない。あんまり覚えていないんだけど、彼方先輩の手が柔らかく頭の上に乗っかっていた所まで、ギリギリ覚えている。

 

果林「あらあら」

かすみと同じようにランニングしていた果林は、偶然見かけたベンチを見て、静かに微笑んだ。



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なまけ姫 (近江彼方1)

昔々あるところに怠け者で有名なお姫様がいました。

彼方「くるしゅうない」

そのため、お城には沢山の召使いがいました。

 

朝起きるときから、

しずく「起こしますよ、せーの」

彼方「うい」

身体を全て預け、

しずく「ドレスのシワが気になりますね」

お着替えまでやってもらっていました。

 

お食事もお洗濯もお掃除も

栞子「お味はどうですか?」

彼方「うまし」

お風呂掃除も電球の付け替えも

栞子「私の身長では適正とは言えません」

お姫様は何もせず、机に突っ伏して、慌ただしい城内をのんびりと眺めているだけでした。

 

この状況に母親は大変困っていました。

どんなに綺麗であっても、街の貴族や他の国の王族に、こんな姿は見せられません。舞踏会や茶会では敏感に神経をすり減らしていました。その結果、頭を抱えすぎて胃潰瘍になってしまいました。ストレスはとても怖いものです。見兼ねた召使いが言いました。

しずく「私はもう耐えられません」

このままでは、全ての召使いが辞めてしまう。

母親「はい。可愛い子には旅をさせましょう」

母親は苦渋の決断をしました。

 

ある日のこと。

のどかな田園が見える丘で、お姫様はすやすやとお昼寝をしていました。寄りかかっていた大きな大きな木は、太陽の光を遮って、けれど時々は木漏れ日を作る粋な木でした。何時間も睡眠を取るお姫様を心配した大きな大きな木は、気にせず言いました。

璃奈「物語が進まない」

そう言うと、さやさやと枝を揺らして毛虫やどんぐりを落としました。

彼方「……すやぁ、いだ……むぅ……」

不機嫌そうに目を覚ましたお姫様に、大きな大きな木は言いました。

璃奈「旅として前に進んで下さい」

今朝、母親と召使いに連れられ、隣町のお城に向かうと言われたお姫様は、寝ている隙にこの木の下へ置かれたのでした。

彼方「拒否したい案件です……」

しかし、このままナマケモノのように過ごしていたらどんぐりと毛虫だけを食べる生活になってしまう。まずいと悟ったお姫様は、とりあえず道を進み始めました。

彼方「ふぅ。険しいぜ」

整備された綺麗な道でした。

 

しばらく歩いていると、一匹のうさぎが話しかけて来ました。

あゆぴょん「こんにちは。何をしているんですか?」

彼方「ふっ、行く当てのない旅である」

時速3キロ程度で歩くお姫様は、久しぶりの話し相手に嬉しくなりました。

あゆぴょん「わあぁ。凄いですね。私もお供していいですか。大人になりたいんです」

急な提案に驚きましたが、しめしめとお姫様は思いました。

彼方「私のお世話をしてくれるのならいいよ」

あゆぴょん「出来る限りのことは……」

お姫様は、まず移動がめんどくさいのでおんぶしてもらいましたが、上手くいきません。ならと、お食事を頼もうとしましたが、フライパンを持てそうにありません。ではと、着替えや髪をとかしてもらいましたが、ぐちゃぐちゃになりました。

あゆぴょん「ふえぇ……ごめんなさぃ。私、不器用で何にもできないんです……」

彼方「ふむ。一人で歩いていた方が楽かもしれない」

お姫様は正直に言いました。

あゆぴょん「そんな悲しいこと言わないでよぉ」

今にも泣き出しそうなうさぎはしょんぼりとしました。

彼方「かわええかわええ」

まぁとりあえず、何か出来ることはやって貰おうと、うさぎをお供にしました。

 

ロールスロイスに乗った大富豪がお姫様に声をかけました。

侑「YO! 旅の最中かい? 良かったら隣町まで乗せてやろうか!?」

お姫様とうさぎは、顔を見合わせて、喜びを隠しませんでした。

彼方「感謝」

二人は乗り込もうとしました。

侑「待って待って。そこのうさぎさんも乗るのかい? そいつはごめんだよ。俺のハイパーカーに汚れがつくだろ。それに俺はうさぎアレルギーなんだ」

あゆぴょん「がーん」

お姫様はふかふかな後部座席に身を任せていました。うさぎは固まっていました。

彼方「どうしても難しいと?」

侑「アレルギーはキツいんだぜ」

うるうるとお姫様を見つめていたうさぎは、諦めた様子で言いました。

あゆぴょん「……今までありがとうございました。お身体には……」

もう起こせないと感じていた身体を無理やり起こし、お姫様は言いました。

彼方「まったく……やれやれだぜ」

うさぎは本当に困ったやつだと、お姫様は思いました。しかし、置いて行くことも出来ないなぁとも思いました。

彼方「お気持ちだけ頂戴します」

侑「まぁ、頑張りなYO! 飛ばすぜ!!」

あゆぴょん「……あの」

彼方「もう少し頑張ろう」

 

ようやく街に辿り着きました。

お姫様は一銭もないので、質屋に向かいました。

彼方「たのもぅ」

愛「いらっしゃーい! うわっ、なになに!? 全身ボロボロじゃん! そんなんじゃ綺麗な顔とお洋服が台無しだよー! とりあえずさ、お風呂入っていきなよ!」

彼方「しかし、金は持ち合わせていないのです」

愛「いいっていいって。良いことした方がいいって、ばぁちゃんも言ってたし。たはは!」

なんと、お風呂で綺麗になっている間、お洋服まで洗濯してくれたのでした。お姫様とうさぎさんが感動していると、ジャムが塗られたパンもくれたのでした。

愛「なんかすっごい良い素材のお洋服だね」

彼方「姫である」

愛「えっマジ? あの一国の? たはは! お姉さん面白い冗談言うー!!」

彼方「ふむ」

あゆぴょん「あの、本当にありがとうございます。何から何まで……」

愛「はぁう! ちょっと待って! めちゃくちゃ可愛い! あのさ、一回だけぎゅってしていい?」

彼方「許可する」

愛「ふわああぁ!!」

うさぎさんはしばらくもふもふされました。

彼方「買い取っていただきたい」

愛「そっかそっかー お客さんだったねー 何でも鑑定するよー」

うさぎさんとお姫様は机の上に、旅の途中で拾った小石や枝、虫などを置きました。

愛「あはは……流石にこれは難しいかなぁ」

彼方・あゆぴょん「がーん」

愛「何とか助けになりたいんだけど、商売だからさー うーん、もしさ、もしお姫様だとしたらさっきのお洋服とか、うーん」

彼方「じゃあそのお洋服で」

愛「えっ! いいの!? 欲しいとかそう言うわけで言ったんじゃないよ!」

彼方「うん、よい。変わりにこの街に似合うお洋服を下さい」

愛「うーん、そこまで言うなら……よし! 買った! 交渉成立!! 握手握手」

彼方「あと、このうさぎさんにもかわええものを頼む」

そのお洋服にそぐわない大金を手に入れたお姫様は、質屋を後にして、食事をしようと歩き出しました。



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脱なまけ姫 (近江彼方2)

かすみ「いらっしゃいませー」

それほどお金が掛からなそうなお店に入ると、テーブル席へ案内されました。店内は8割の席が埋まっています。店員さんも忙しそうでした。メニューを理解できないうさぎさんを尻目に、パエリアが美味しそうに見えたので、お姫様はそれを頼むことにしました。お姫様が真っ直ぐと手を伸ばすと、店員さんは反応しました。

かすみ「はい! ただいまー……わっ、とっ」

此方に向かう途中、店員さんはつまづいてしまいました。

果林「あら、ごめんなさいね。足が長いから通路に飛び出しちゃったみたい。足が長いから」

べちっと膝から転んだ店員さんは、すぐに立ち上がります。

かすみ「……申し訳ありませんでした」

果林「いいのよ、此方も悪かったから」

あゆぴょん「ひどいことしますね! ぷんぷん!」

どうやら、うさぎさんはあの脚の長い女性が故意にやったと思っているようでした。お姫様はちゃんと見ていなかったので、沈黙を守りました。

かすみ「ごめんなさい、お待たせしましたっ」

あゆぴょん「あれは違うと思います! ガツンと言うべきです!」

かすみ「いえいえ、私の不注意です」

あゆぴょん「でもでも!」

彼方「まぁまぁ。ごめんね〜 ちょっとうさぎさんお腹空いてて〜」

お姫様はうさぎさんの口を押さえました。

あゆぴょん「もがもが」

かすみ「ああいうのは慣れてるんです」

彼方「……こんな質問して良いのかわからないんだけど、どうしてそんなに頑張るの? 辛かったら辞めちゃえばいいのに」

かすみ「私のお家は貧乏なので、勉強をするには働かないといけないんです」

彼方「がーん」

お姫様は衝撃を受けました。まるで後頭部に落雷を受けたように。

かすみ「でも、物心ついた頃から働いているので、苦じゃありません。

彼方「彼方ちゃんは40のダメージを受けた、ぐふぅ」

立ち直れなさそうな心理的ダメージを受けたお姫様は、懐にしまった大金を全て出しました。

彼方「これを使う時が来た」

お姫様はその大金を、店員さんに渡しました。

かすみ「ええっ! なんですか!?」

彼方「こうするべきだと神が言う」

うさぎさんも首を激しく縦に振りました。

かすみ「……そんな、悪いですよ」

彼方「いいってことよ」

かすみ「……」

彼方「私は姫だから」

かすみ「くす……面白い冗談です」

彼方「なぬ」

かすみ「……」

店員さんは中々受け取ろうとしませんでした。

彼方「もしも気病むのなら、そのお金でご飯を奢っておくれ。彼方ちゃんたち、長旅でお腹ぺこぺこなんですな」

あゆぴょん「うんうん!」

涙目になりながら店員さんは頷きました。注文を聞くと、少しスキップのような、弾んだ様子で厨房へと向かいました。

 

また一文無しになってしまったので、仕事を探すことにしました。とりあえず適当に、外観が良さそうなお店に入りました。

エマ「あれ、今日はお休みだよ?」

彼方「私は一文無し、宿無し」

エマ「?」

彼方「私にお仕事を下さい」

エマ「お仕事? 働きたいってこと?」

あゆぴょん「はい! 一生懸命働きます!」

エマ「わあぁ、可愛い。うーん、そうだなぁ。確か、空き部屋が一つあった気がするし……頑張ってくれるのなら……」

彼方「これ以上なく燃えています」

エマ「そっか〜 じゃあお願いしようかな。えっと……」

彼方「彼方ちゃんです」

エマ「よろしくね、彼方ちゃんちゃん!」

彼方「ふむ」

あゆぴょん「ちゃんは一つで大丈夫ですよ!」

働き口を得た二人は、親方に連れられ、宿へ向かいました。今日から住み込みです。仕事の内容は明日説明してくれるそうです。

エマ「ここの部屋だよ〜 好きに使ってね」

二人は頭を下げました。

エマ「ふふふ。じゃあオープン〜」

空き部屋と言っていた割には、広いお部屋でした。お姫様にとっては狭かったのですが、あまり気になりませんでした。

あゆぴょん「ふかふかのベットがありますよー!」

彼方「何から何まで」

エマ「いいよー いいよー」

あゆぴょん「こほっこほっ」

ベットの上を飛び跳ねていたうさぎは、押し上げられた埃を吸ってしまいました。

エマ「あぁ、ごめんね! お掃除が行き届いてなくて! すぐ掃除するからね!」

どこから取り出したのか、コロコロとほうきを両手に持って掃除に取り掛かろうとしました。しかし、お姫様は親方を止めました。

彼方「己のことは己で致すゆえ」

お姫様は初めて、部屋の掃除に取り掛かったのでした。

 

4週間が経ちました。

お仕事に慣れ始めたお姫様は、るんるんと整備された道を歩いていました。背負ったリュックにはじょうろとその他植物のお世話をする道具が入っていました。そうです、お姫様のお仕事は、花や木にお水をあげて、お礼に花びらや実を貰うことでした。今日はいつもよりオレンジの実をおまけしてもらったので、上機嫌だったのです。それに、お給料も今日貰えるので、ワクワクそわそわしていたのです。お姫様にとって労働に対して初めての対価でした。

彼方「ぬははは」

街に戻ると、なにやら慌しい様子でした。

馬車や兵隊さんなど活気ある集団が来ていました。街の人たちもお話ししたり、一目見ようと窓から覗いたりしていました。

かすみ「おかえりなさい」

彼方「ただいま〜 これっていかに?」

かすみ「隣国のユウキーヌ家が来てるんだって」

お姫様はその名前を聞いていたはずでしたが、中々思い出せそうにないので諦めました。

彼方「ほえ〜 すごいね〜」

かすみ「見ていかないの?」

彼方「彼方ちゃん、まだお仕事中ですぜ」

お姫様はお店に戻りました。たくさんの実を早くお渡ししなければいけません。

エマ「あ、いらっしゃいませ〜 っとなんだ彼方ちゃんかー びっくりしたよ」

彼方「大量だよ〜」

エマ「わあぁすごい! これは大きく育つよ!」

彼方「もっと褒めて褒めて」

エマ「よしよし」

彼方「あれ、あゆぴょんは?」

エマ「王子様を見て来るって言ってたよ!」

彼方「ミーハーですなぁ」

お姫様が拾った実や花びらは、お料理に添えられたり、そのまま食べたり、さらに大きく育てたり、親方がその状態を確認して仕分けしていきます。親方の観察眼は素晴らしいもので、お姫様は尊敬していました。

「失礼致します」

ドアが開くと、屈強な鎧に連れられた青年が立っていました。

エマ「いらっしゃいませ〜」

せつ菜「ここがこの街一番の植物屋ですか。素晴らしいです。足を踏み入れた瞬間から、独特な香りが大好きを伝えてきてくれています!」

兵隊「王子、婦女子らが」

せつ菜「あぁ、申し訳ありません。私、ニジガサキ王国の第一王子、ユウキーヌ・ファブ・セツナと申します。この度は此方で販売されているプラプラの果実を、是非とも食べたくてですね、はるばる来てしまいました!」

エマ「すごーい。外国まで味が届いているなんて幸せだよ!」

王子様と親方は、楽しそうに談笑していました。

せつ菜「そちらのお方は?」

王子様は、仕分けられた実を倉庫へ運ぼうとしているお姫様に話しかけました。

せつ菜「町娘に見えないほど美しいですね」

キザな台詞を卒なく熟すのが、王子様の凄いところです。

彼方「リアルプリンセスである」

お姫様は真実を伝えました。

せつ菜「ふふふ。お茶目なご冗談です」

彼方「解せぬ」

エマ「たしかに、彼方ちゃんはお姫様みたいに綺麗だよね!」

何で伝わらないのだろうと疑問に思うお姫様でしたが、めんどくさいので考えるのはやめました。

兵隊さんが王子様を呼びました。

せつ菜「失礼します」

二人は一度外へ出ました。

兵隊「王子、反応はありませんでした」

せつ菜「分かりました。”魔女の手鏡"……いったいどこで悪さをしているのでしょう」

隠れて追いかけていたうさぎは、そんなコソコソ話を聞いてしまったのでした。

せつ菜「すみません。それでは、果実と後、おすすめをひとついただけませんか?」

お店に戻った王子様は注文をしました。なにやら急いでいるようにお姫様には見えました。

エマ「は〜い。ちょっと待っててね」

兵隊さんは品物を受け取ると、王子様を先頭に店を出ました。あゆぴょんがその扉から顔を出すのは間もなくでした。



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なまけ姫、転換 (近江彼方3)

さらに数週間が経つと、お姫様はずいぶん街に溶け込みました。時々ミスはあるものの熱心に仕事をこなし、部屋の片付けやお洗濯、さらにお料理まで親方に教わるなどして、着実に独り立ちしていきました。お姫様はそんな実感を感じていたため、自分を誇らしいと思うようになりました。何より、同年代のお友達がお姫様を変えていったのです。

かすみ「あっ! それ私のタコさんウインナーだよ!」

彼方「良いではないか〜」

お姫様も友達と一緒に学校へ通うことにしました。その間、うさぎはお家でお留守番をしています。ぷくーとほっぺたを膨らませて「寂しくて死んじゃうよ」と言っていたうさぎを、お姫様は愛おしいと思ったりしていました。

 

何人かの兵隊がやって来ました。

街の人々は雰囲気に戸惑いました。覇気のない無表情の兵隊が、列を成してやって来たのです。皆、黒い鎧を着ていました。

愛「前の国……とは違う?」

馬車が列の中間を彩り、禍々しい佇まいが漂っていました。馬も赤い眼を光らせています。街の人々は怯えながらその様子を見守っていました。

果林「いだっ!」

一人の女性が声を上げました。

果林「ちょっと! 貴方たち私の脚を踏んだわよ! 脚が長いから飛び出した脚を踏んだ! その馬でね! その馬の蹄の跡が脚に刻まれちゃったじゃない!」

女性の脚はぺちゃんこになっていました。

果林「聞いてるの!」

兵隊「麗しき……姫、真心を……」

その列は女性の言葉に耳を傾けませんでした。しかし馬車の中だけは反応しました。

「鏡よ鏡。王女たる私に歯向かう不届き者にはどのような処罰を?」

女性にはかろうじて聞こえていました。

「ふふ、決まりました。わさび寿司の刑です。あぁ。しっかりと悶えて下さいね」

果林「な!?」

女性が理解した時には、兵隊に羽交い締めにされ、口を開かれていました。そして、匠が握ったシャリと腐りかけのわさびをドッキングさせた塊を、口の中へ放り込まれました。

果林「あああぁあぁ……」

女性は悶絶してしまいました。

街の人々は閉口してしまいました。

あゆぴょん「どうして酷いことをするんですか!」

人々を掻き分けて飛び出したうさぎは、さらに続けました。

あゆぴょん「勝手に来て、こんなこと! 許される行為じゃありません!」

「……許す許さないではありません。私が真実で鏡が絶対なのです。下等な草食動物が良くもまぁしゃあしゃあと。踏みつけなさい」

うさぎの口答えに、馬車の中は怒り心頭に発しました。列を成す一際大きな馬がうさぎを潰そうとしました。

愛「だああぁ! あっぶなーい! ぎり! マジでギリギリ!」

質屋の女は間一髪でうさぎを抱き抱えました。金色の髪が馬の足に触れました。質屋の女はすぐさま逃げ出しました。

「っ……追いかけなさい! すぐに!!」

街の人々は怯えていました。

 

かすみ「人だかりがあるね」

学校を終えた二人は、帰路に就いていました。そこで、街の異変に気付いたのです。

かすみ「何かあったんですか?」

街の人「コノエル家だ……だけど、変わってしまった……」

友達はもう一人にも話しかけました。

街の人「一人逃げたみたいだが、捕まるのも時間の問題……」

かすみ「向こうに行ってみよう」

彼方「NPCみたい」

二人は騒ぎのある中心を目指しました。開けた広場です。いつもならマーケットが開かれるそこには、黒い鎧の兵隊と馬車が一台止まっていました。街の人が5人捕まっていました。

「兵隊さん、兵隊さん。女が捕まるその時まで、私は退屈で退屈で仕方がありません。どうでしょう。この五人を使って一番私を楽しませた方には、ご褒美を差し上げるというのは。ふふふ」

お姫様はその声の主を、ぼんやりと覚えていました。そして、コノエル家という名も。

かすみ「なんですか……これ、ひどい」

兵隊さんは縛り上げた街の人の靴を脱がせてくすぐったり、般若心経を耳元で囁いたり、こんにゃくを投げつけたりしました。それがしばらく続くと叫び声が鳴り響きました。

愛「はーなーせー!」

あゆぴょん「やだやだ!」

兵隊に質屋の女とうさぎは捕まってしまいました。

彼方「あっ!」

かすみ「だめだよ! 今出たら危ないよ!」

友達はお姫様を抑えました。

「手間を取らせましたね。丸焼きにしてあげましょう」

彼方「だめ!」

かすみ「あっ!」

お姫様は友達を振り切って広場に飛び出しました。

兵隊「何者だ……おまえ、は?」

「あはははははははははははははははははははははははは!!」

馬車の中が昂りました。そして、お姫様は思い出しました。

彼方「……しずく、ちゃん?」

しずく「あは……こんな所にいたんですね。おじょうさ……いや、彼方ーー」

姿形も見せずに馬車の中にいる人間は、声を強くしました。

しずく「ひざまずけ」

すると、お姫様は膝から崩れ落ちました。

彼方「あれ?」

あゆぴょん「彼方さん!」

しずく「うさぎや女など、もうどうでもよいです。私は、物心がついた頃から貴女を……まぁ、今となっては……ですが」

馬車の中が話すのをやめると兵隊がお姫様に近づいていきました。

かすみ「かなた!」

彼方「動けぬ」

しずく「その動かない姿こそ、本当の貴女です」

馬車の中が言い終わると、兵隊はお姫様の元に辿り着きました。そして、腰にぶら下げた剣を抜き取り、大きく振りかぶって、振り下ろしました。

あゆぴょん「いやあぁ!!」

ガン!

何かが衝突する音が、街の人々から漏れ出す悲鳴と重なりました。剣と剣がぶつかっていました。

せつ菜「……良かったです、間に合いました」

王子様はたいてい間に合います。

しずく「っ……」

せつ菜「私はユウキーヌ・ファブ・セツナ! その紋章、コノエル家ですね! 民を傷つけるなどあってはならないことです!」

彼方「……コノエル家」

しずく「いつもいつも……貴女は私の邪魔ばかりぃ……」

せつ菜「さぁ、その馬車から降りて来て下さい! あなたから魔が魔がしいオーラを感じます!」

しずく「……城に帰りましょう」

兵隊は剣をしまい馬は動き出しました。馬車も方向を転換します。街の人々は安心しました。

せつ菜「……御手を」

彼方「ありがとう」

うさぎも質屋の女も、そしてお姫様も自由な身体になりました。

あゆぴょん「彼方さあぁん! うえーん!」

かすみ「大丈夫!? 平気!?」

彼方「ぴんぴんしてる、みんなは?」

あゆぴょん「うえーん!」

彼方「愛さん、あゆぴょんを守ってくれてありがとう」

愛「平気平気ー! 友達は守ってなんぼっしょ!」

お姫様はありがとうと言えるようになっていました。



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なまけ姫、反省 (近江彼方4)

もう次の日の夜、みんなが寝静まった頃、そろりそろり動く人影がありました。誰にもバレないように用心しています。物陰にうまく隠れながら進んでいます。

彼方「いてっ」

お姫様でした。お姫様はこそこそしています。こんな夜中に何処へ向かうのでしょうか。

彼方「あったあった」

コノエル家が去った後、ユウキーヌ家が街の護衛を引き受けたことで、人々は安心しました。罰を受けた人や質屋の女、脚の長い女、うさぎなどは病院へ運ばれ、治療を受けました。

彼方「まさか初お給料で買うとは」

お姫様は違和感を感じていました。病室で話していると、それは確信に変わり始めていたのです。

彼方「ばーん! 電動自転車!」

コノエル家は平和思想だったと話す王子様。街と交流を大切にしていたと言う質屋の女。お姫様をあまり見たことがないと言う友達。うさぎは脚の長い女がやられた時の話をしました。

彼方「ふっ、自慢するほどでもないか……」

鏡という単語に王子様は反応し、どうしてこの街を訪れたのか話し始めました。

この世界を支配しようと目論む魔女が、

勇者一行に討伐された。

世界の平和は保たれたが、

魔女が大事に使っていた雑貨達が逃げ出し、

色々な場所で悪さを始めた。

王子様はその雑貨の一つが、

この地区に来たという情報から、

ずっと追っていた。

それは"魔女の手鏡“

もしかしたらコノエル家は、

影響を受けているのかもしれない。

彼方「ちょっと悪い子だけど、ライトはつけずに行こう」

電動自転車を跨ぎ足をペダルに乗せようとすると、ガタッと物音がしました。お姫様はもう気付かれたかと思いました。

かすみ「こんなことだろうと思ったんだよね」

彼方「かすみちゃん……」

かすみ「酷いよ、ほんと。友達を置いていくなんてさ」

友達も両手にハンドルを掴んでいました。

彼方「買ったの?」

かすみ「うん、昨日ね。だって、彼方、ずっとソワソワしてたでしょ。私には分かるんだからね」

お姫様は有無を聞きませんでした。聞いても聞かなくても、きっとついてくるとしか言わなさそうだったからです。二人はライトをつけずに静かに街を出ました。

 

璃奈「また旅人に?」

大きな大きな木はスピードに乗った二人に話しかけました。

彼方「ちょいと城まで」

二人は地面に足をつけました。

かすみ「おっきな木だね」

璃奈「100年間木をやってる」

二人は植物の命に驚きました。

彼方「それじゃ」

二人がペダルに足を掛けようとすると、木は言いました。

璃奈「空を見て、星がいっぱいあるから」

二人は街を出てから初めて上を向きました。

かすみ「わぁ……」

彼方「おぉ」

周りなんかには目が向かないほど必死だったのです。

璃奈「同じ所ばかり見ていると、疲れちゃうよ」

二人は大きな大きな木の言葉を胸に刻みペダルを漕ぎ出しました。

 

警戒した二人でしたが、城へはすんなり入れました。こんな夜中に「お待ちしておりました」と門兵は言いました。

かすみ「まずい気がする」

彼方「うん」

場内を進んでいくと、食堂に行き着きました。すでに食事が用意され、着席している人物がいました。

しずく「お待ちしていました。どうぞおかけに」

二人は静かに従いました。

兵隊「こちらはブラガスのトルトルソース煮。こちらはララララ鳥のスープ。こちらは……」

料理を説明する兵隊の言葉を聞かずに、友達が言いました。

かすみ「何が目的なんですか?」

兵隊は呪文のように続けていました。それほどテーブルの上には料理が置かれていたのです。

しずく「愛されること」

お姫様はただ黙って見ていました。

かすみ「よく、分かりません。それがあの街でのこととどんな関係が」

しずく「……でも、もう難しくなってしまいました……どうぞ、お食事を。シェフが腕を振るっています」

かすみ「……あなたが食べないと食べません」

しずく「毒があるか疑っているんですね。貴女方を殺すと。心配なく。殺すのならば、もう街で殺しています。まぁでも……いいでしょう。食べましょうか、私の死んだ味覚でも良いのなら」

友達は食べている姿を確認すると、料理に手を伸ばしました。お姫様も同じようにしました。二人は美味しいと思いました。そしてお姫様は決めました。

彼方「……しずくちゃん。私、さっぱりなんだ。何がどうなっているのか。どうして、しずくちゃんが、そこに座っていて、兵隊さんがみんな言うことを聞いて、お姫様の、ううん。私の服を着ているのか、全然、分からないの」

しずく「……不服ですか?」

彼方「そういうのでは……ないけど……」

しずく「……」

手を二度叩くと、奥の部屋から一人の女性が出てきました。お姫様はその女性を忘れるわけはありませんでした。

彼方「お母様っ」

かすみ「え?」

母親「こんばんは。今日は娘の晩餐会にお越し下ってありがとうございます。大変だったでしょう。しずく、無礼がないようにね」

しずく「はい、お母様」

彼方「お母様! 私です! 彼方です! どうしてですか!? しずくちゃんは娘ではないはずです!!」

お姫様は理性を保つのに必死でした。お姫様の頭の中で色々なものが繋がっていきました。この状況も考えられることでした。なぜなら、街の人々は誰一人、お姫様のことを知らなかったからです。

かすみ「え、え?」

友達は話の内容を理解するのに時間が必要でした。

母親「あなた、ごめんなさい。存じ上げませんけど」

彼方「……っ! 娘は私です! いつもいつもダラダラしていた彼方です! なまけ姫なんて呼ばれてしまった不甲斐ない娘です!! それがいけなかったのなら謝ります! 私、数週間ですけど、頑張っています。家事もやっています、学校にも通っています、友達も出来ました。だから、だがら……っうそだったら、そうだってっ……言ってよ……お母様……」

お姫様は泣くのを堪えました。

母親「……? 何を言っ……うぅ」

母親は頭を抱えてうずくまってしまいました。

しずく「……なるほど、完全では無いんですね」

そう言うと、立ち上がり、手鏡を取り出しました。

かすみ「それは!!」

友達も立ち上がり、それを奪おうとしましたが兵隊に阻まれてしまいました。

しずく「鏡よ鏡。この城の娘はいったい誰ですか? おひめさまにふさわしいのはいったいだぁれ?」

鏡が光を放ち、城内の全てを覆いました。何もかもを覆い尽くし、まるで世界も包んでいくような眩い光でした。お姫様は眩しくて目を瞑りました。しばらくの間、瞼も明るいまま閉じる目を攻撃していました。



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なまけ姫はいなくなった (近江彼方5)

彼方「はっ!」

お姫様は目覚めました。

彼方「ここは……」

璃奈「やっと起きた、物語が進ーー」

彼方「みっみんなは!? かすみちゃん!?」

大きな大きな木は、先ほど、ここに連れられたお姫様が騒ぎ出して驚いてしまいました。

彼方「お母様!」

お姫様はお城の方へと駆け出しました。

璃奈「行っちゃった」

お城はずいぶん遠いのです。先程は電動自転車ですいすいでしたが、お姫様の走力では時間がかかってしまいました。しかし、進んでいれば必ず着くのでした。

彼方「私です! 開けてください! 通してください!」

門を通ろうとするお姫様を門兵は止めました。

門兵「帰れ。どこの誰だか知らない奴が、勝手に入れる場所じゃないぞ。本日は客人はないと聞いている」

彼方「なにを……わたしはっ! コノエル・ラック・カナタ! この城の第二王女です!」

門兵「何を言っているんだ。この城の王女は一人しかいない。コノエル・ラック・シズク様だけだ」

彼方「っ! どうして!?」

このような押し問答を繰り返しましたが、門兵が本気で排除しようとしたので、お姫様は諦めました。

 

とぼとぼと来た道を歩いていました。

大きな大きな木までは遠い道のりでした。

お姫様は生き別れになった友達に会いたいと思いました。訳が分からないこの状況を受け止められなかったのです。

侑「YO! 旅の最中かい? 良かったら隣町まで乗せてやろうか!?」

ロールスロイスに乗った大富豪がお姫様に声をかけました。

彼方「あなたは……」

侑「おっと、俺も有名になっちまったみたいだなぁ。大富豪すぎるもんな」

お姫様は乗り込み、ふかふかな後部座席に身を任せました。

侑「シートベルトは閉めた? OK! 飛ばすぜ!!」

景色が移り変わります。お姫様は鉄の乗り物になるのは初めてでした。たわいのない話をしながら、お姫様はそわそわしていました。

 

すぐに街に着きました。お姫様はお礼を言いました。そしてすぐにお金が掛からなそうなお店に入りました。学校は開いている時間ではありません。友達が働いている時間を、お姫様はしっかりと記憶していました。

かすみ「いらっしゃいませー」

彼方「かっかすみちゃん! 良かった、元気だね。怪我ない? どうやって帰ったの、心配だったんだよ! 急に居なくなるから」

かすみ「えっと、あのっ、わっ! あのあの」

彼方「お城でのこと覚えてる? 私全然覚えてなくて。あーでも本当に元気で良かったよー!」

かすみ「あの、どうしてっ。どうして私の名前知ってるんですかー? あああ」

お姫様は友達を揺すったり抱きしめたりしていました。お客さん達はそんな様子を見ていたり見ていなかったりしました。

彼方「あはは、何言ってるのー かすみちゃん。一ヶ月以上の仲じゃない」

かすみ「しょっしょたいめんですー!」

彼方「えっ?」

お姫様は固まってしまいました。

かすみ「えっと、私……あなたと友達になった記憶がまったくなくて……」

彼方「冗談だよね……? じゃないと、怒るよ?」

かすみ「すみません、冗談じゃないです。もしかしたら人違いなんじゃ……だって私には……親しい人なんて……」

お姫様はお金が掛からなそうなお店を飛び出しました。頭がこんがらがって、泣きたくなって、喚いてしまいたくて、どうしようもない気持ちになりました。

お姫様は外観が良さそうなお店に入りました。

エマ「あれ、今日はお休みだよ?」

彼方「知ってます……」

エマ「それじゃあどうしたのかな?」

彼方「私のこと、覚えていますか……?」

エマ「えっ、えっと……ごめんねっ。会ったことあるような、ないようなー」

彼方「ぐすっ……」

エマ「ああっ。頑張って思い出すから! ちょっと待っててね! えっと、えっと!」

お姫様にはその優しさが胸に余計沁みました。謝罪をして、そのお店を出ました。

次に、質屋に向かいました。

愛「いらっしゃーい! べっぴんさんだねー この街では見ないし、旅の人!? 色々置いてあるよー!!」

彼方「……」

お姫様はすぐに察して、質屋を後にしました。お姫様を覚えている人は誰もいませんでした。泣きたい気持ちはいつの間にか消えていました。ぼんやりと街並みだけを見ながら歩いていました。辿り着いたのは、街の隅にある小さなベンチでした。それを見つけた途端、急に歩くことが億劫になりました。誰に見られても良いような気持ちにもなりました。お姫様は座って何処を見ることもやめました。ベンチに丸く小さくなって横になりました。難しいことはあんまり考えないほうがいいと思いました。お姫様はゆっくりと目を閉じました。深く深く。睡眠の奥へと向かおうとしました。また、怠け者に戻ろうと思いました。

 

 

 

「…方……!!」

 

 

 

「彼…さ…!!」

 

 

 

「彼方さん!!」

遠くでお姫様を呼ぶ声がありました。

お姫様は意識の中で聞いていました。

「彼方さん!」

それは聞いたことがある名前でした。

お姫様は目を薄く開けました。

「彼方さん!」

夕焼けがやけに眩しく侵入してきました。

お姫様はその声を聞いていました。

「こんなところにいたんですね!」

影になったシルエットを覚えていました。

お姫様は覚えられていました。

「探したんですよ! みんな私のこと覚えてないし、気がついたら道で寝ていたし、いったいどう言うことなんですか!」

正義感に満ちた声でした。

お姫様はそっと手を伸ばしました。

「またこんなところでお休みして! さぁ立ってください!」

小さな手はお姫様の服を引っ張りました。

お姫様はうさぎの頭を撫でました。

彼方「かわえぇ……かわぇぇ……」

きゅぅと力の抜けるうさぎが怒りました。

お姫様はそのままぎゅっと抱きしめました。



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お姫様の日 (近江彼方6)

「あのね、これ……あなたに」

 

「いいんですか!? いただきますね!」

 

「プラプラの果実。この木から取れるの」

 

「むしゃむしゃ。これは、とっても美味しいです!」

 

「よかった」

 

「あなたの名前は?」

 

「私は……カナタ……コノエル・カナタ」

 

 

兵隊「本日の舞踏会は、ユウ伯爵も来られるそうです」

しずく「そうですか」

サーモンのカルパッチョやコーンスープが並べられたテーブルを前に、兵隊はスケジュールを話しました。

兵隊「ニジガサキ王国全土から貴族や華族が来られます」

お姫様はオムレツを食べました。無機質な粘土みたいな感触でした。味は分かりません。

母親「ユウキーヌ家の王子も、しずく。粗相のないように」

しずく「当たり前ですよ」

お姫様はシャンパンを一つ開けました。コップを持ったであろう右手を眺めながら、口へと運びました。恐らく喉を通りました。この量では身体は重くなりません。コップを眺め、空になったことを確認すると、お姫様は飲んだことを理解しました。脳みそがきゅっと締め付けられた気持ちがしました。

しずく「ようやく、ちゃんと会えるのだと思うと、幸せな気持ちでいっぱいです」

ご馳走様をしました。

 

舞踏会はチョルンチョルン王国の七城で行われます。お姫様たちは列を作り、三日を掛けて辿り着きました。くたくたになった一行は、十分な休息を取り、その日の翌日、七城へと向かいました。階級や人種、家柄を持った人々だけが集まる城内は、優雅に、しかし厳格に統制されていました。お姫様は、ずっと夢見ていました。この情景を、ひとりの少女のように。

 

侑「よく似合ってるYO!」

伯爵はお姫様が着用したイブニングドレスを褒めました。純白な礼服は、少しばかり目立ってもいました。

しずく「デビュタントですから」

侑「そこまで堅苦しくしないで、はっちゃけはっちゃけ!」

初めての社交界に緊張するお姫様を、伯爵は優しくはっちゃけました。お姫様は伯爵に御礼を述べた後、次々と参られる貴族や華族に挨拶をしました。心身ともに、これはお姫様を疲労させました。

赤いドレスの人「わあぁ、ユウキーヌ王子よ」

耳たぶにほくろがある人「高潔な血よ」

語尾にザマスがつく人「凛々しさの中にカマキリざます」

王子様はその場に居る人たちの視線を、一瞬で奪いました。

 

お姫様はダンスの場から少し離れた場所で、静かに踊る貴族を見ていました。憧れていた情景と、その裏側で繰り広げられる探り合いのギャップに、お姫様のやる気は削がれていました。ここは親たちによる見合いの要素が強い舞踏会でした。

せつ菜「お疲れですか?」

でも、お姫様は焦ってはいませんでした。

しずく「ええ。少し」

ユウキーヌ家とコノエル家は代々良好な関係を築いていました。

せつ菜「一緒にいても?」

周りがどう立ち回ろうとも、決められたレールの上なのです。両家の親は既に縁談を進めています。これは顔合わせみたいなものでした。

しずく「楽しくさせられるか、不安ですが」

せつ菜「それは私の仕事ですので、心配なさらず」

二人は他愛もない会話をしました。そこに居たのは、ただの男と女。何者も二人の仲を侵害することはできません。

せつ菜「知っていますか?」

しずく「なにを?」

王子様は質問しました。

せつ菜「私たちは婚約するということを」

しずく「知っています。ずっと待ち侘びていましたから」

お姫様はそれに答えました。

せつ菜「だから、ここでキスをしても何も問題がないってことも、知っていますか?」

しずく「はい。心配するのは、周りが慌てることくらいですね」

王子様とお姫様は幸せなキスをしました。

せつ菜「……ブルーベリーの香りがしますね」

しずく「はい」

お姫様は何の味もしませんでした。恐らくキスしたのであろうことも、王子様がそう発言されたので分かりました。

せつ菜「踊りませんか?」

お姫様は王子様の手を掴んだことを、しっかりと見ていました。



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動物達の隠れ家 (近江彼方7)

淑女とうさぎは、街を出ました。

質屋で洋服を売り、旅の資金に当てました。

目的地はうさぎの故郷。

うさぎは一つだけ思い出しました。

あゆぴょん「私、昔は人間でした」

淑女は驚いてしまいました。

うさぎの口から、そんな言葉が出てくるなんて。

あゆぴょん「道端で目覚めた時、病室で話したことよりも前の記憶。繋がりがあるかも分からないけど、自分が人間だった記憶が確かにあるんです」

彼方「驚くを隠せない」

あゆぴょん「私もです!」

二人はそんなことを話しながら、歩みを止めませんでした。前方から不思議な動きをした人が来ました。

果林「あら」

あゆぴょん「あ!」

女性は立ち止まって挨拶をしました。

果林「こんばんは。今日はいい天気ね。日焼けが怖いけど、まぁ、それも気にしないほどいい天気」

彼方「同感」

うさぎは威嚇していました。

果林「こんな日って、歌を歌いたくなるわよね」

彼方「うむ」

果林「あなた、なかなか話がわかるわね」

彼方「お主もな」

淑女と女性は笑い合いました。うさぎは淑女の脚をぽかぽか叩きました。

彼方「帰りですかな?」

果林「そうよ、ちょっと隣町までね」

彼方「そんな遠くまで?」

果林「競歩の選手なの。まぁ必然よね、脚が長いんだから」

脚を前に出してアピールしました。

彼方「羨ましいかぎりですぞ」

果林「日々のストレッチが大切よ」

彼方「そういえば、キノコの森って向こうでいいのかな?」

果林「だいぶ、遠くまで行くのね。合ってるはずよ、そっちでね」

淑女はお礼を言って女性とお別れしました。うさぎはずっとぽかぽか叩いていました。

隣町では、お昼ご飯を食べ、先を急ぎました。

 

森がありました。

うさぎに連れられ一歩踏み出すと、そこには静寂と冷涼が潜んでいました。淑女はブルブルと身体を震わせました。

あゆぴょん「ここです」

うさぎが指差した場所には、電車の形をした石が置いてありました。

彼方「ここ?」

淑女がなにやなにやと思っていると、うさぎは掌で二回音を出しました。

あゆぴょん「続けてください」

淑女は言われた通りに手を叩きました。

そして、うさぎが石の周りを回り始めると、その後ろをついて行きました。右回りに二周すると、右手で石を触りました。

あゆぴょん「ひらけごまだんご!」

彼方「おっ? ひっ、ひらけごまだんご!」

石が突然、光り出しました。

 

遥「もう帰ってきたの? 早い家出だね」

あゆぴょん「ちっちがうもん! たくさん勉強してきたんだから!」

遥「後で、その成果、見せてもらうね」

あゆぴょん「ううぅー」

朦朧とした意識の中で、淑女はそんな会話を聞いていました。

遥「たくっ……また長老に怒られなよ」

あゆぴょん「それは嫌だけど……長老に話があるから、ちょうどいいかも」

遥「直談判は偉いね」

あゆぴょん「もうっ! あっ……そうだ、凄いこと思い出したんだよ!」

遥「何?」

眩しいくらいの陽が、淑女の瞼に乗ります。

あゆぴょん「私、人間なの! 理由とかはわからないんだけど、人間だって分かるの!」

遥「っえ!? 人間!? そっか、そうなんだ……思い出したんだね、だったら長老のところに行くのはいいかも」

あゆぴょん「ちょっとだけね、私、結構可愛い子だった気がしてる」

遥「うーん、あんまり変わらないね。まぁ、着いてきてよ、可愛い可愛いあゆぴょんさん」

あゆぴょん「もう!」

うさぎは淑女を揺すって起こしました。淑女はうさぎとリスが元気よく話す姿を、半目で眺めていました。とってもかわええと思いました。

リスに案内されている途中、沢山の動物達がいました。それらはこちらを見て驚いていたりしました。

遥「ここだよ」

案内され、扉が開かれると、一匹の亀が椅子に座っていました。

「新しい子達ですか?」

遥「いいえ。歩夢が思い出したそうです」

「戻ったのですね、それに、えっ!?」

亀は淑女を見て、驚きました。淑女は椅子に座る亀を器用なものだなと眺めていたところです。

「お嬢様……どうして、いえ、あ……」

彼方「えっ……」

「分かりませんよね、このような姿では、私です。お城でお使いしていました栞子です」

彼方「しっ栞子ちゃん!?」

栞子「驚くのも無理はありません。何故か亀になってしまいましたので。それに」

亀はリスに目配せをしました。

遥「邪悪な気配が、この方からは全くしません」

栞子「そんな不思議なことがあるのですね」

遥「私も、初めてです」

栞子「お嬢様は、記憶の欠損が何一つ無いということですね」

あゆぴょん「???」

彼方「うっうん。えっと、なにがなんだかだよ?」

栞子「ああ。ごめんなさい。これからお話し致します。あの日までの事を」

彼方「あの日?」

栞子「はい。しずくさんのことです」

あゆぴょん「あのひどい人!」

亀はリスに目配せをしました。

遥「歩夢、向こうに行くよ」

あゆぴょん「がーん!」

彼方「あ、関係ないかもしれないけど、私の、私の友達だから。一緒に聞いてて欲しい。ダメ?」

栞子「まぁ、お嬢様がそこまで言うなら。歩夢、静かにしていてくださいよ」

あゆぴょん「はーい……」

彼方「よしよし」

栞子「しずくさんと私は、物心つく前から、お嬢様のお城で召使いをしてきました。楽しい事も辛い事も、まるで姉妹のように苦難を乗り越えて来たのです。私はお嬢様としずくさんと、身分はないけれど、お城での生活にささやかな幸せを感じていました」

リスは紅茶のマブカップをみんなに配りました。良い香りが漂っています。

栞子「……ある日からでした。しずくさんはどこか遠い目をする様になりました。熱を帯びるような、求めるような、潤んだ瞳のような、とても悲しそうな目を。私は聞きました『お暇をもらったら』どうかと。そしたらこう言ったんです『私たちって、どこに行くのかな』しずくさんの目は力がこもっていました。でも、すぐに笑って『大丈夫』と言っていました。それからは何もなく、お嬢様の方が私たちの心配の種になっていました」

彼方「その度は……」

栞子「いいんです。それが召使いの役目。でも、お嬢様が立派になられて良かった」

あゆぴょん「私も! 私も立派になったよ!」

遥「あゆむ」

栞子「そうですね」

あゆぴょん「えへへ」

彼方「私が城を追い出されてからって事だよね」

栞子「はい。その直前からしずくさんは手鏡を持ち歩くようになったんです。今思えば、それが元凶だったなんて……」

あゆぴょん「手鏡……」

栞子「そして、お嬢様は隣町へと置いたと聞きました」

彼方「私は木の下だったから、もうすでに……か」

栞子「はい。その夜です。しずくさんは『機が熟しました』と私に言いました。『どうしたんですか』と聞いても何も答えてはくれませんでした。そして、しずくさんがボソボソと何かを呟くと、気がついたらこの姿に」

遥「記憶が残っている人達で、話し合った結果、同時刻に私たちも同じように」

あゆぴょん「私は覚えてない……」

栞子「記憶の欠損は、個人差があるようです。一部だけや、多くを覚えている人、まちまちです」

彼方「それって、分かるものなの? 私が過ごした人たちは、忘れていることすら忘れているように感じたから」

栞子「単独では不可能に近いと思います。それ程まで、手鏡の効力が強いんです。しかし、遥だけは、影響を受けた人が視えると」

彼方「凄い」

遥「人間の頃は、呪術師をしていたんですよ。まぁ、全然相手にされなかったんですけど」

栞子「黒いもやが視えるそうなんです。その大きさによって程度が分かるそうです」

彼方「それで、彼方ちゃんには記憶の欠損がないって分かったんだね」

遥「私に出来るのはこれくらいなんですけどね」

栞子「ですが、大事なことが分かりました。手鏡の効力は、しずくさんに近ければ近いほど薄まるということを」

彼方「私が……栞子ちゃんよりも近いってこと?」

栞子「詳しくは何とも……ですが、姫の立ち位置は入れ替わっています、それが関係しているのかもしれません」

彼方「姫……か……思えば、お城の時から姫らしい事なんて何にもしてないよ」

あゆぴょん「私と出会った頃からも、姫らしいとは思ったことないですよ」

リスはうさぎの頭をはたきました。

彼方「確かにそうかも」

栞子「でも、私たちの世界は少しだけ変わってしまっています。……私は元に戻したい。元には戻らないかもしれませんが、邪悪な力など、あってはなりません」

彼方「なんだか、難しい話になってきたなぁ」



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召使いの独白 (近江彼方8)

記憶がない頃から、いや、生まれた瞬間から身分なんてものが存在して、私は召使い。家事を行い、忠誠を誓うことが美徳であり、私の全てでありました。でも、反抗心はありません。揺るがない世界に怯えはなく、秩序ある生活でしたから。適度な食事も忙しい勉強もふかふかなベッドも、持たざる人達からは嫉妬されるような幸福。これ以上ありませんよ。別に、それに対して気にすることもありませんしね。

 

可愛らしいお嬢様はお姫様でした。歳が同じとあって、お嬢様は私をお友達と呼びました。少しめんどくさがりだけれど、優しい心の持ち主で、同じ身分であったならどんなに幸せだろうと思いました。世知辛い世の中。幼少の召使いには溢れ出るほどの幸せです。お嬢様に読み聞かせていた絵本の中で、白馬に乗った王子様を知りました。容姿と知性、そして品格。お姫様に相応しい、素晴らしい相手だと思いました。

 

友達はどんどん動くことを億劫に感じ始めました。近辺の街では"なまけ姫"なんて呼ばれています。私は心配で心配で堪りません。そんなある日、外出を拒む友達が、替わりに私を行かせようとしました。もちろん変装して。背丈も声も案外似ている。こんなに上手くいくことがあるのか。私は驚いてしまいました。それに一人で。お城の外は未知の世界。たった数時間の冒険が始まりました。

 

大きな木、野原、花、空。綺麗な川、街。移動する鉄の乗り物。私はずいぶん遠くへと来ました。2つ目の街で買い物を済ませ、私はゆっくりと帰りました。林や森の入り口。太陽はまだ高いところにありました。図鑑で見かけたプラプラの実。勝手にとって勝手に食べました。とっても美味しい。渇いた喉を優しく撫でてくれます。

「それ、何処にありましたか?」

「えっ?」

私は驚いて振り返りました。

「あっ、ごめんなさい。ただ、あなたが食べているそれがとっても美味しそうに見えて」

その男の子は私が持つ実を眺めていました。

「欲しいの?」

「いえっ! そんな!」

実から視線を逸らすことは出来ずに、男の子は否定の言葉を言おうとしました。

「あのね、これ……あなたに」

「いいんですか!? いただきますね!」

謙遜などなく、私の手から受け取りました。

「プラプラの果実。この木から取れるの」

「むしゃむしゃ。これは、とっても美味しいです!」

会話、通じているのかな。夢中になってしまって、私のことなんて気にしていないみたい。

「よかった」

「あなたの名前は?」

そんなことを考えていると、男の子は急に意識を私に向けました。私はなんで答えればいいのか分からなくなって。咄嗟に、

「私は……カナタ……コノエル・カナタ」

お嬢様の名前を伝えました。本来外出しているのは、お嬢様で私は偽物なのだから、これは何も間違っていないと、自分で納得しました。

 

年月が過ぎると、お城で舞踏会が開かれました。そこにはあの日に会った男の子がいました。兵隊を連れ、現王女の隣で「お母様」と言って。どう見ても隣国の王子様でした。あの日とは全然違う。あの人は全然違う。身分違い。なぜか、ガンと重い衝撃が身体の内側に起きました。あれ? 確か、王子様はお姫様と幸せに。そんな絵本の一文が脳裏にこべりついていました。そしてお互いの大臣が会話している所を偶然聞いてしまいます。お嬢様と、男の子は結婚をする。将来必ず。約束されていて、それは当然のこと。どんな絵本も、王子様はお姫様と結ばれた。考える必要のないこと。どうして? どうして、決まっているの? 私は不思議になった。これもそれも、こんなに焦る自分も、黒い黒い何かが内側から湧き出てしまう感覚も。

 

私は召使い。城の中で忠誠を誓う者。反抗なんてしません。革命なんてものも。私は密かにあなたを見ています。特別な力や魔法なんて存在しないのだから。豊かな生活に不満なんてないのだから。私は召使い。生まれた瞬間から恵まれた子。そう言ってさえいれば、私は私を許せるものね。



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久方ぶりの空を見に行こう、 (近江彼方9 完)

舞踏会は滞りなく進んでいました。

お城の警備はプレートアーマーを着た兵隊が多く、淑女はそれに紛れました。そして、動物たちはテーブルの下、配管、天井、城の外の茂み、空、さまざまな場所に隠れました。

彼方「非常に動き辛い」

筋力のない淑女はギリギリ誤魔化せていました。

彼方「あぁ、美味しそうな食事がいっぱい……」

 

あゆぴょん「うぅ……緊張するね」

遥「楽勝だって、私たち動物なんだよ。人間に捕まるわけないよ」

あゆぴょん「そうなんだけど……」

リスとうさぎはお姫様が使っていた部屋にいました。

遥「ちゃっちゃと探そ、そうすれば問題ないよ」

動物たちと淑女の作戦はこうでした。

『お嬢様。2日後、私たちは作戦を決行します。チョルンチョルン王国で舞踏会が行われる、そこにアタックを仕掛けます。目的は魔女の手鏡を割ること。作戦はこうです。まず城の中と外に潜みます。そして機動班が、しずくさんにあてがわれた部屋の捜索ーー』

あゆぴょん「うーん。見つからないね」

遥「うん。やっぱり、身に付けてる可能性が高いね」

あゆぴょん「……」

遥「どうしたの?」

あゆぴょん「あのね、遥ちゃんって、影響の受けた人は分かるんだよね」

遥「まぁね、すごいでしょ」

あゆぴょん「うん。それでね。みんなに影響を及ぼすほどの鏡だったら、遥ちゃん、なんとなくでも場所わかるんじゃないかなって……」

遥「……」

あゆぴょん「お城の中にはあるはずだし、距離も近いから……」

遥「……」

あゆぴょん「もしかしたら、探すじかーー」

遥「歩夢。全部を言ったらダメ。ダメなの」

あゆぴょん「……うん、ごめん」

 

せつ菜「だから、ここでキスをしても何も問題がないってことも、知っていますか?」

しずく「はい。心配するのは、周りが慌てることくらいですね」

せつ菜「……ブルーベリーの香りがしますね」

しずく「はい」

せつ菜「踊りませんか?」

しずく「いつまでも」

二人は手を繋ぎ、向かおうとすると、

耳たぶにほくろがある人「きゃーー!」

貴族たちの叫び声が聞こえました。

いったい何が起きているのかお姫様は混乱しました。

語尾にザマスがつく人「サイがいるザマス!」

せつ菜「動物が……城内に溢れている?」

ドレスの裾を踏むフラミンゴ、シャンデリアにぶつかるキリン、メロンを食べるゴリラ、足元を歩く亀。

しずく「いったい?」

せつ菜「危険です! 私から離れないで!」

動物たちと淑女の作戦はちゃんと進んでいました。

『ーーそこで見つかれば良いのですが、確率は低いでしょう。ならば第二のアタック。動物大行進です。必ず城内は混乱します。その隙にしずくさんから手鏡を。乱暴ですが、背に腹は変えられません』

 

兵隊「門の封鎖はまだできないのか!」

兵隊2「難しいです! ゾウとチーターの群れが暴れています!」

城の外も中も騒がしいものでした。

赤いドレスの人「きゃああ」

彼方「大丈夫ですか?」

淑女は転んだ人を助けました。

赤いドレスの人「ありがとう」

彼方「いえ、私は戦士。礼には及ばないぜ」

プレートアーマーを着ていた為、誰にも気付かれません。そもそも、淑女はお姫様ではないのです。淑女は混乱の中、お姫様と王子様に少しずつ近づいていきました。二人はどうにかお城の外へ逃げようとしていましたが叶わず、ホールで停滞していました。動物たちが連携をとり、阻害していたのです。

彼方「王子。お助けに参りました」

せつ菜「ありがとうございます!」

王子様に指示をされ、淑女はお姫様の護衛につきました。城外へ出ようと動物たちをかき分けていきます。順調です。王子様はサイと相撲をとっていました。そして、淑女は作戦に乗り出しました。

彼方「ごめんね、しずくちゃん」

淑女はお姫様を押し倒しました。

しずく「なっなにを!?」

ドレスを上から手で触り手鏡を探します。しかし、ドレスです。隠す場所は限られています。お姫様は抵抗しましたが、プレートアーマーの重さにどうすることもできません。

しずく「あなた! かっ……かなたですね。いったい……なぜ、邪魔をぉ!」

動きづらいプレートアーマーで、何とか手鏡を見つけました。ジタバタするお姫様は、手鏡を背中に布で巻き付けていたのでした。淑女は、腕のプレートアーマーを外し、手を伸ばしますが、手首を掴まれます。揉みくちゃになった二人を気にする人はいませんでした。皆、自分のことで手一杯だったのです。

しずく「手鏡ですねっ! させませんん。鏡よ鏡んんっ!」

淑女は魔女の力を借りようとするお姫様の口を塞ぎました。

しずく「んんっんんん!!」

彼方「しずくちゃん、大人しくして! どうしてそんなに!」

しずく「くぅう、あ…なたんん! に分かぐぅ! んっんんもんですか!」

口を塞ごうとすると、両の手で探すことができません。淑女はお姫様の言葉と抵抗する身体に意識が向きました。

せつ菜「しずくさん!」

王子様がその名を呼ぶと、お姫様は一瞬だけ気を取られました。その隙を淑女は見逃しません。ごろんと横向きになりました。

しずく「しつっんっい! んんっこい!」

彼方「くうぅ!」

脚を脚に絡ませ、片手は口、もう片方は腕。お姫様の自由な腕は淑女を叩いていました。

あゆぴょん「えいやー!」

突然、鼓舞する叫びがお姫様の背後から鳴ります。うさぎは動物たちの隙間をするすると抜けてきたのでした。淑女がもつれあう姿を見て、居ても立っても居られなかったのです。

しずく「やめっ……てっ!」

パリンと小さな音がなりました。

そして、ガコンと重たい音もしました。

あゆぴょん「えいえい!」

鏡は割れていました。うさぎは尚もお姫様の背中を叩きます。すると、もくもくと黒き煙が立ち登り、鏡の破片はまるで悲鳴でもあげるような鐘の音を出しました。

彼方「なにっこれ……」

耳をつんざく悲鳴のような音は、淑女にもうさぎにもお姫様にも、さらに広がり動物や城内に居合わせた兵隊も貴族にも苦痛として鳴り響きました。その音は余りにも大きく、視界が白く霞んでいくほどでした。

暫くすると、音が消え、静寂が訪れました。淑女もそっと目を開けます。そこには見知らぬ女の子が立っていました。辺りでは驚嘆した声があがっています。

しずく「……」

元お姫様は天井をぼーっと眺めていました。驚嘆は騒然へと移り変わり、歓声も聞こえ始めていました。

彼方「もしかして……あゆぴょん?」

歩夢「えへへ……そう言われるとちょっと恥ずかしい」

淑女と女の子は抱き合いました。何も言わずにただ抱き合いました。元お姫様はその様子をぼんやりと眺めていました。そして、割れた手鏡をドレスの中から取り出し、その破片を掴みました。

歩夢「えっ! だめ!」

いち早く気がついた女の子は、元お姫様がガラスの破片で首を裂こうとする所を止めました。

しずく「はなせぇ! 死なせろ! 痛みなんて無いんだ! だから! だから!」

歩夢「そんなことしちゃだめ!」

彼方「しずくちゃーー」

栞子「しずくさん」

亀であった召使いは元お姫様ーーいや、召使いを睨みました。

しずく「っ……栞子さん、やっぱり、そうなりますよね、そうなって当然ですよね」

召使いは囲まれていました。皆、憤怒を越えた目を光らせ、各々が武器を持っています。彼らは動物に変えられてしまったものたちでした。記憶がありながらも忘れられたものたちでした。淑女も女の子もその光景に驚きを隠せませんでした。

大臣「魔女の雑貨の使用は、国同士の取り決めで大罪。それも召使いの分際で、彼方姫に成り代わろうとは。捕らえよ」

彼方「まっ待って!」

せつ菜「おやめください」

王子様は淑女の手をとりました。王子様も目を伏せたまま続けました。

せつ菜「私自身は……いえ、何でもありません。しかし、王子として見過ごすわけにはいかないんです」

彼方「栞子ちゃん!」

栞子「お嬢様、お聞きください。国家転覆に、世界改編、魔女遊具使用。許されることではありません。それに、私たち召使いは日影の存在。陽の光など浴びてはいけないのです」

女の子は兵隊に拘束される召使いを庇っていましたが、あまり意味のなさない行動でした。

彼方「どうにか、ならないの?」

召使いは手錠をかけられ、顔を覆う黒い頭巾を被せられました。もう、召使いの表情は誰にも悟られません。召使いの心中は誰にも分かり得ません。

栞子「なりません」

 

 

その檻には寝室もリビングもありませんでした。たった4畳程の石だけで造られた内装は、頭巾が一枚置かれただけの殺風景な独房でした。

しずく「お嬢様ですか、いえ、もうこの呼び方も相応しくありませんね」

彼方「……やつれたね」

一瞬、人の気配を感じて体を震わせた召使いは、檻の前にやってきたのがおひめさまと分かると、少しだけ安堵の表情を浮かべました。

しずく「だけど、まだ生きています。もう、消えるほどの灯火ですけど」

彼方「やっぱり、どうにもならないや、ごめんね」

しずく「……あなたは大馬鹿ですか。どうしてそこまでするんですか。馬鹿も大概にしないとーー」

彼方「分かんない。分かんないんだけど……しずくちゃんは死ぬのは怖くないの? それに、身体の傷……」

しずく「私は……一度も産まれていません。あと、お気になさらないでください。私はもう痛みなんて何にも感じないし、味も分からない。どんなに蹂躙されても、生ゴミを食べさせられても何も感じません」

彼方「でも、気持ちはどうにも……」

しずく「何も思いませんよ」

お姫様はこの地下に造られた檻へは近づく事を禁止されていました。常に兵隊が置かれ、ネズミの侵入さえ拒まれていました。しかし、お姫様はここに現れました。

彼方「盗んじゃった。割れていたのも修復したんだ」

しずく「……」

お姫様はあの手鏡を取り出すと、召使いに見えるように近づけました。

彼方「色々考えたんだよ。あれから、こんなことしちゃいけないって分かってはいるんだけど」

しずく「代償はとっても大きいですよ?」

彼方「いいの。お姫様である事もあんまり興味ないんだ。これからはお料理もするし、洗濯もするし、お風呂洗いも薪割りだってする。あと、時間があればお金も稼ぐの。勉強だっていっぱいして、トキメク事があればそれにも熱中して、大変なんかじゃないよ? 今までしてくれた事を、私が怠けていた分をみんなに返す、それだけ。それだけだから」

しずく「あなたは、本当に変わったんですね」

彼方「うん。変わったよ。もう覚えられてはいなかったけど、みんなのおかげなんだ。みんなにはーーもちろんしずくちゃんにもーー沢山のことを教えてもらった。今まで会った人たちを大切にしたいと思えるほどだったの。だから、だから私はこの手鏡を使う。もう一度やり直そう? 都合が良いんだけど。もしかしたら運良く幸せになれるかもなんて思っちゃってるんだけど。例え望んだもの以外が奪われてもいい。これから先の人生、辛いことが待ち構えてても大丈夫な気がするんだ。根拠なんてないよ。でも、そんな気がする」

しずく「……私のことなんて、ほっとけば良いのに」

お姫様は軽く微笑んだ後、手鏡に自身の顔を反射させました。そして、静かにハッキリと望む一節を唱えました。



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まだ青さを忘れぬ今のうちに。(虹が咲4 彼方10?)

侑「名案だと思うなぁ」

しずく「自画自賛なんですが、私もそう思っていたところなんです」

侑「脚本も作れるなんてすごいよ」

しずく「昔から様々な作品を観劇した甲斐がありました」

多目的室で、たわいのない会話をしていたのは放課後の一刻であった。演劇部の顧問に脚本を提案した桜坂と、音楽科の課題について質問しに来ていた高咲が、職員室の前で偶然鉢合わせたのがきっかけだった。二人は何気なく互いの事情を察し、どちらが言う訳もなくこの部屋へと辿り着いた。当然、生徒会などには使用許可は取ってはいない。そもそも、生徒手帳や書類に細かく記載されていたとしても、その権限を愚直に守る生徒はあまり多くはなかった。放課後にちょっと空き教室で青春に花開くなどは日常茶飯事であり、わざわざ満開の花を摘もうとする教師はいなかった。例え、ちょっと機嫌が悪い時に注意されたとしても、素直に帰宅すれば良い。それか巻き込んで、教師達の記憶の深層を開いてやれば良いのだ。見る見るうちに、青春の花が色づくに違いない。二人はその花に、水をあげている最中であった。

侑「暑くなってきたねー」

しずく「本当ですね。わたし、汗っかきなので、あまり得意ではない季節です」

侑「色っぽいと思うよ?」

しずく「一部の人だけです、そう思うのは」

侑「私はその一部の人だよ」

しずく「何言っているんですか、男の人とかに、簡単にそう言うこと、言いそうですよね、侑先輩は」

侑「えー おこなの?」

しずく「違いますっ。ただ歩夢先輩にご報告だけはしようと思います」

侑「最近、みんなが過保護すぎる気がするんだけど」

しずく「当然です。侑先輩は、もっと自分の魅力に気がつかなければダメですよ! 変な男の人に捕まってしまいます!」

侑「あはは……大丈夫だって、大丈夫」

しずく「大丈夫じゃないです。エマ先輩と彼方先輩にもご報告させて頂きます」

侑「ええー」

しずく「歩夢先輩にエマ先輩に、彼方先輩。そして私。AEKS包囲網は完璧ですから」

侑「もうー まぁでもさ、そこまで心配してくれて嬉しいよ? 本当にありがとうね」

しずく「……うぅ……そう言うところですよっ!」

侑「ええぇ!?」

ドアは開けっ放しであった。多目的室へと垂れ流された濁りのない酸素は、窓からも侵入し、二人の声を振るわせた。コツコツとローファーが床を叩き、帰宅する生徒らが二人の日常を表す。近づく試験への不安を述べる者、お台場に可愛い洋服屋が出来たこと、気になる男性が同じ塾にいること。それらは記憶に留まらない愉快な旋律のようで、例え覚えていたとしても、何十年も脳の奥の方に閉まれていそうな物であった。遠くから運動部の掛け声が聞こえてくる。外部の、廊下の雰囲気が流れ、この多目的室も校舎全体の一部だという認識が、顕著に現れた。実を言うと二人とも、別にドアなど隔てていても良かったのだが。誰にも聞かれたくない重要な話でもないのだから。

彼方「あっ! しずくちゃん!」

知覚したのは一瞬だったが、それを近江だと認識するのには時間が掛からなかった。全力で駆ける姿を見かけた高咲は、桜坂の話の腰を折ってしまった。訝しげなまなざしで桜坂は睨みつけたが、廊下の景色に近江は現れた。肩で呼吸を繰り返し、いかにも百メートル走を終えた後のようだった。

しずく「どうしたんですか……?」

桜坂は明らかに狼狽えていた。学校の七不思議よりも目の前で不思議な事が起こっていた。

彼方「よかったただだああぁ!!」

突然、近江は桜坂に抱きつき開口一番に泣いた。おうおうと泣く近江に、二人は戸惑いを隠せなかった。しばらく、そんな様子を見守った。

侑「で、どうしたの? 普通じゃない様子だったけど」

彼方「あはは〜 ごっごめんね……ちょっとばかし怖い夢を見ちゃって、あはは」

しずく「彼方さんでも、そういうことがあるんですね」

彼方「いや〜 お恥ずかしい」

侑「怖い夢とか見たら、眠れなくなっちゃうよね」

彼方「完全に同意ですなぁ」

しずく「差し支えがなければ、どんな夢だったんですか?」

彼方「あっ、そうなんだよー 聞いて〜」

侑「うん」

彼方「……忘れた」

しずく「ええっ!」

侑「肝心な夢だったりすると、余計に忘れちゃうんだよね〜」

しずく「でも、私が関係している……ってことはありますよね?」

彼方「うーむ。しずくちゃんが関係している気もするしー あ、でも、関係ないような気もしてきた」

侑「迷宮入りだね」

彼方「うーん、うーむ」

しずく「頑張って下さい」

彼方「みんなもいたような気がするー」

しずく「それだとよけいに気になってしまいますよ!? 彼方さん! 絶対に思い出してください!」

彼方「えええ〜 無理だよ〜 もう何にも出てこないよー」

しずく「大丈夫です! 色々勉強している彼方さんの記憶力が悪いはずがないです! 今はただ、教養の単語たちに埋もれてしまっているだけですから! さぁ! 頑張って!」

彼方「ふえぇえぇ! 助けておくれ〜」



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帰り道 (上原歩夢、一話完結)

「今日の部活はどうだった?」

何気ない、普段の帰り道。こんな時間がずっと続いていた。ごく当然でなんの変哲もない。二人っきりで歩く帰り道。あの家のチワワは窓から覗いていて、この家の表札は掠れている。そして私は、決まってあなたの左側を歩く。どうってことないけど、右利きのあなたは必ず右側で自転車を押して歩くから。ビュンってすぐに帰ろうと思えば帰れるのに、これって、期待してもいいの? あなたの歩幅は優しさの証? 気がつけばそんな風になっていて、たまに私が右側に行くと、あなたは変な感じがするって言って笑った。

「あなたは部活に入らないの?」

基本に忠実な帰り道。特に変なことはしないし、何かが起こることもない。天気予報は雨。でもはずれ。あの青い空からは隕石は降って来ないんだって。だからあんまり、上を向くこともしないよね。鳥の群れが綺麗に旋回していたり、虹でも掛かっていたら、私かあなたが気がついてお互いに共有しようとするけど、そう上手く漫画みたいにはならないんだ。あぁ、UFO飛んでこないかなぁ。

「めんどくさいからいいんだよ」

「えー 中学までは頑張ってたのに」

「高校の分も頑張っちゃったんだよ」

「家で何してるの?」

「特にすることもないから予習復習してる」

「だから成績上がり始めてるんだ」

「もう歩夢先生はいらないかなぁ」

「むぅ、私も帰宅部に入部届提出する」

幼馴染って言うんだって、私たち。幼稚園に、小学校、中学校、そして高校。10年以上も飽きずに一緒。よく考えると、ずっと同じって凄いことだよね。だって、どちらかが動こうとすれば違う学校に行けるんだよ? 私とあなたはそんなことしなかったけど。そもそも進路の話もしたことなかったよね。たくさん話す、何でも話す幼馴染だけど、不思議なくらい話題に上がらなかった。お互いに出来なかったのかな。正直に言うと、私は出来なかったよ。どこの中学に行くのか、どこの高校に行くのか、そんな話を。私ね。あなたのこと何でも知っている気がしているけど、本当は、あなたの未来の話は何も知らないの。私の知っていることは、全部あなたの過去の話ばっかり。小学校の徒競走とか、中学校の美術の時間とか。幼稚園の頃に書いたお互いの「将来の夢」あなたは覚えてる?

「昨日のテレビでさ、地中海の料理が出てたんだよ。海老、貝、色々入ってて、めちゃくちゃ美味そうだったな」

たまに寄り道を楽しむけど、普段は一方通行の帰り道。あと少しで、いつもの交差点にぶつかる。夏だったら角の自販機で飲み物を買って、またたわいもない会話を積み重ねる。ゲームみたいに好感度メーターがあって、満たせば必ずうまくいく。そんなシステムであればいいのに。選択肢がいくつかあって、それを攻略する本でも売っていればいいのに。歩道橋が見えてきて、右手に神社がある。知ってるかな。あそこの神社は縁結びなんだよ、参拝の時、あなたは気にしなかったけど。

「ねぇ、今日、帰り遅かったけど何か用事でもあったの?」

「ああ、進路希望調査のプリント出し忘れてて」

あなたの笑顔も昔から変わらない。もう17歳なのに幼稚園の時から本当に。

「そうなんだ」

「そっちは出し終わった?」

「うん、私もギリギリになっちゃった」

「そっか」

会えなくなる時までの道。だから帰り道は嫌い。小学五年生の時も中学二年生の時も、ずっとモヤモヤしていた。一緒にいたいとか、どこの大学に行くのとか聞けばいいのに、意気地が無い私は、ずっと願ってばかり。でも、神様はなんとか私の願いを聞いてくれている。だからお互いの進路が決まって、初めは、ウキウキしていられる。こういう気持ちになるのは分かっているくせに、私は我慢してばっかり。

「それじゃ、俺こっちだから」

あなたは、そんなこと私が知らないわけではないのに必ずそう言って背中を見せる。その言葉は、私が嫌いなさよならの変わりとなって、ただ冷たくなった風に乗る。雨が降り続いてくれたら「雨宿りしない?」って言えるのに。同じ傘を使っていなくったって、なんだか包まれた気持ちになれるのに。もう近くの図書館は通り過ぎてしまった。あなたは自転車に跨る。

「また明日ね」

精一杯そんなことを言ってみる。

「明日は学校ないだろ」

そうしてあなたは振り返った。

「あはは、そうだったね」

ねぇ、気づいてる? あなたが好きって言ってた薄い口紅をつけていること。有名なドラマのあの女優さんがつけてたもの。ちょっとドキドキしながら百貨店の一階で品定めしたんだよ。勇気が必要で、お母さんに付き添いを頼もうとしたけど、一人で買いに行ったの。黒いスーツの店員さんに緊張しながら、一生懸命質問したんだ。大人の世界に侵入してしまったみたいで、罪悪感と優越感が混ざっている。

「あのね、勉強どうかな、明日なんだけど」

「部活は?」

「休みなの、だから」

ここから先は私一人の帰り道。ちょっとだけ先の予定を思い出す。どんな会話をしよう。どんな表情でいよう。また口紅をつけていこう。少しだけ共有した未来に頬が緩む。何気ない、普段の帰り道。こんな時間がずっと続いていた。ごく当然でなんの変哲もない。ひとりぼっちの帰り道。私は意識したように、歩道の左側に寄る。そして期待が膨らんでいくのを確実に感じながら、いつも横隔膜に通せんぼされた純粋な言葉を、ぼそっと呟いた。いつかあなたに届くように。私は私の声をしっかりと聞いていた。



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朝食 (中須かすみ1 上と内容リンク)

年齢が二つ違うだけで、私は望む人と同じ学校には行けないらしい。難しいことは分からないけど、どうやら国が決めたらしい。遠くに行けばいいのだろうか。確かアメリカでは飛び級みたいなものがあって、年齢に関係なく授業を受けたりしているのを見たことがある。それがいいのかもしれない。まぁ、英語は喋れないし、勉強も出来ないから到底不可能だって分かるけど。私はぼんやりと、朝のニュース番組を見ながら考えていた。お母さんが作る目玉焼きと味噌汁が温かそうに湯気を出し、お椀に盛られたお米がピカピカ光っている。それぞれ半分は減った食事を、また口へと運ぶ。もぐもぐと食べているとおにぃが階段を降りてくる音が聞こえてきた。

「おはよー」

「おはよう、ご飯は大盛り?」

「あー 今日は普通でいいわ」

「先に顔洗って来なさい」

洗面所の水が流れるのを止めると、前髪だけピンで上に留めたおにぃが席に座った。テーブルは四人掛けで、家族と同じ分ある。兄弟の私たちは横並びで食事を取る。これは小さい頃から決まったことだった。

「おはよ」

「おぉ、おはよう」

私は内心どぎまぎしながら、仏頂面を崩さないように挨拶した。短くスマートに。ほら大丈夫。なんてことはない。テレビをちらりと見て、食事を開始する。箸でひじきの煮物に入っている大豆を掴む。が、失敗した。コロコロとテーブルを落ちて、床に転がった。私は一度席を立ってかがむ。おにぃをチラッと見る。私には気に留めない様子で目玉焼きを食べていた。ふん。私は大豆を掴んでゴミ箱に捨てた。

「あんた、昨日のプリントちゃんと出したの?」

「どんなやつ?」

「ほら、あれ、進路希望のやつ。ちゃんと提出した?」

「したした。ちゃんと怒られた」

「だから早く提出しなさいって言ってたでしょ」

「へいへーい」

昨日の夜、提出が遅れていたプリントについて、おにぃとお母さんが揉めていた。何やら卒業後の進路アンケートのようだった。まだあんまり決めていないおにぃは、適当に大学進学と書いたようで、お母さんにもっと真剣に考えなさいと怒られていた。私はいいんじゃないかなと思った。高卒で仕事するのも大変な世の中だし、何より、東京には大学が無数にある。めんどくさがりなおにぃが地方の大学を選ぶとは考えにくいし、わざわざ一人暮らしをすると言いだす訳がない。きっと、四年間はこの家に居るだろう。

「お昼はどうする? 母さん、ちょっと出掛けるからお弁当でも置いとく?」

「今日は歩夢と勉強するから、食べてくるよ」

歩夢さんというのは、おにぃの幼馴染みで、ただの友達だ。幼稚園の頃から、ずっと一緒で、私もある意味、形式上では幼馴染みと呼べる。私が幼い時には良く遊んでもらったり、お下がりの洋服をもらったりしていた。とっても優しくて、素直じゃない私にも、今でも温かく話しかけてくれる。悪い事をしている様子がなく、いや、悪い事すら思い付かなそうな純粋な人だ。だからなのかもしれない。なんだか疎ましく感じてしまうのは。嫌いな訳じゃないのに、なんだか近くにいられない。その純粋さが時に眩し過ぎる。真っ白がどんな色も塗りつぶすみたいに。

「私も友達と遊んでくる」

「そ、ならお父さんの分だけで良さそう」

ご馳走様をした後、食器を片付け、冷蔵庫に入れて置いたジュースを取り出した。私はそれを持ち、テレビが近いソファーに座る。脚もソファーに上げて伸ばした。ちょうどその時、インターホンが鳴った。すぐに歩夢さんだと分かった。お母さんが玄関に向かい、心なしか、おにぃの箸の動きが早くなった気がする。私は居心地が悪くなってしまったから自分の部屋に戻ろうと考えたけれど、いま座ったばかりで、すぐに動くには変な気がした。

「おはよう、かすみちゃん」

ちんたら思考している間に、歩夢さんはリビングまで来ていたらしく、私に挨拶した。

「おはようございます」

私はほんのちょっとだけ目を合わせ、堅苦しい言葉を放った。歩夢さんは絶対そんな様子に気がついていたけれど、あの優しい笑顔を私にくれた。そしてお母さんに促され、おにぃの対面にあたる椅子に座った。

「ちょっと早く来ちゃった。迷惑だったかな」

「いや、いいよ。俺も遅刻しないで済むから」

「ふふ。今度、私が遅刻した時は許してね」

「遅刻する事を前提に話すなって」

歩夢さんと話し始めると、おにぃの食事をするスピードは、その陽気に感化されて緩やかに下降する。

「あなたって本当に卵が好きだよね」

「うん」

「どの料理が一番好き?」

「餃子」

「もう、違うよ。卵料理!」

「ええー あー たまご焼き」

「ふふっ、そうなんだ」

テレビを見ていたいんだけど、私は二人の会話が気になってしまう。

「今度、作り方教えてもらおうかな」

「それはダメだよ」

「えぇ、どうして?」

「母さんのは塩っぱい、歩夢のは甘い、両方あるから良いんだよ」

歩夢さんが頬を赤く染めて俯いてしまっているのが目に浮かぶ。私はそっちを向く必要がなかった。二人がお互いをよく知っているように、私も二人のことをよく知っていたから。テレビのコーナーが終わり、適当に探し出したようなニュースに切り替わったタイミングで、私はジュースをぐいっと胃へと流し込みソファーを立った。階段を上がり2階に向かう。そして自分の部屋に入る。ドアを閉めて、ベットにダイブした。うつ伏せのまま枕に顔を埋める。なんだか殆どが気に食わないような気がして、私は眠りにつこうと考えた。まだ朝8時前、ダイナミックな休日は始まりそうもない。友達と遊ぶまでわずかに時間があった。



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授業 (中須かすみ2)

「もうすぐ、U法廷の判決がアンドロメダ銀河に反映される。生物の循環が滞っている現状に危惧して、だそうだ。だが、私はそうではないと睨んでいる。君たちは近年世界中で起きている現象を見たことは、聞いたことはあるか。彗星の下降影響が我々の星にも来てしまったのだ。きっとそうだ、きっとそうに違いない。あぁ、今日もまた"黄色いもや"が消えてくれない」

 

私みたいな不真面目な生徒が義務教育に甘えて、限りある時間を空虚に投げ捨てているのだから、世の中ってやつは笑えない。もっと勉学に熱意のある人に代替えするべきだ。そう貧困層の子ども達の悔しさのバネに投資をするべきで、私みたいな、わざわざ地べたに生まれ落ちようとしている人間に、貴重な教育を割くのはもったいない。今だって数学の授業中なのに、ノートに落書きをしている。先生は熱心に語っているのに、私は目線を向けようともしない。真面目に勉学に取り組む生徒が多いクラスの中で、私の態度は明らかに浮いている。退屈でつまらない。別に不良になりたい訳じゃない。制服を着崩したり、髪の毛を染めたり、縛られたルールに反旗を翻す熱意は私にはない、ないんだ。あぁ、熱意がない。いつからか俯瞰した様子で物事を見てしまっている。あれはもしかしたら、これはきっとこうだみたいに。そうなると一歩も二歩も出遅れてしまって、なんだか色々なことに馴染めなくなった。家族も友人も私自身も、空っぽの器を満たしてはくれない。どうしてこうなってしまったんだろう。素直になれば何もかも解決するのだろうか。私はもうすぐチャイムを鳴らす時計の針を見た。先生はずいぶん楽しそうに歴史を語っている。黒板には、やけに濃くなってきた“黄色いもや“が、まるで生き物みたいに悍ましく動いていた。

「中須さん。修学旅行の行き先のプリント、まだ提出してないよ?」

休み時間、チャイムが終わると忙しない様子で駆けてきた。私の机は委員長とはあまり離れてはいないのだけど。

「委員長……いいよ、私は行くのめんどくさいから」

「ダメだよ! 一生に一度しかない学生、一緒に行けば楽しいはずだよ?」

責任感が強く、大家族の長女として育った委員長は、普段はマイナスイオンみたいにふわふわしているのだけど、こういうことになると熱くなる。嬉しい気持ちはある。私なんかを見捨てずに構ってくれるのは。でも同時に、そのお節介は私には応える。

「あのさー 行きたくないって言ってるんだから別に良くない? こっちで話進めちゃおうよ」

なんだか少し退屈そうに、それとも下手くそな優しさなのか、バスケ部の主将が横槍を入れてきた。不思議と安心するような気持ちになった。

「宮下さん、クラスっていうのは、誰一人かけちゃいけないと思うの」

「エマは分かってないんだよ。そういうのはもう古いって」

「古い新しいの話じゃないと思うな、大切なのは良いか悪かでしょ?」

「だから、本人は行きたい方向じゃないじゃん。それを強制させるのは悪いことじゃないの?」

あぁ、私はまた物事を複雑にしてしまっている。この性格が悪い。この脳みそが悪い。自分が自分を知っていない。そうなんだ。私は、私は人が作る輪を乱してしまう。授業を開始するチャイムが響いた。私は動きもしなかった椅子の上で姿勢を正す。結局、汚い姿勢へと戻るのに。ノートと教科書を乱雑に開く。方程式だとか関数が何の役に立つのか、そんな反論を武装する気も起きない。私は頬杖をついて黒板を睨んだ。

 

「かすみちゃん?」

帰宅途中、買い物袋を手に掛けた歩夢さんに出会した。制服ではない。高校は早く終わったんだと勝手に解釈した。

「学校はどう?」

「特に何ともないです。普通に過ごせてると」

「そっか」

偶然会って、何も話さないまま別れられるほど、軽薄な関係ではなかった。互いに合図をしたわけではないけれど、帰り道が重なっている場所まで二人で歩いた。

「歩夢さんは……卒業したらどうするんですか?」

「わたし? 私は、大学かなぁって」

「兄と同じところですか?」

「あぁ、うーん、そうだったら嬉しいんだけど」

歩夢さんとおにぃは両想いだ。絶対に恋心を抱いていると確信している。

「兄に聞いてみましょうか?」

「えっ」

「どこの大学に行くのか、とか」

「あっでも、同じ大学だったらひかれちゃうかもしれないし、嬉しいのは嬉しいんだけど、ずっと秘密にしてるのもあれだし……」

正直なところ、私はおにぃに聞くことなど出来ない。出来るかもしれないけれど、それ相当の勇気が必要になる。私がそういう関係にしてしまったから。

「知りたくはないんですか?」

「うん……知りたい、本当は……わたしがちゃんと聞かないといけないって、思ってるんだけど」

普段は熟年の夫婦みたいな掛け合いをしているくせに、肝心なところがピュアというか、素直になるまでは大変なんだろう。

「ありがとうね」

私だって素直に慣れないくせに、一丁前にこんな事を言ってしまうんだ。カラスが一羽鳴いて私を嘲笑うかのよう。

「気持ちだけでも嬉しいよ」

「いえ、そんな」

シャボン玉が割れる瞬間に立ち会うような、心許ない情景が、目の前に広がる。私はそんなんじゃないのに。眩しすぎる日に、ドライアイが重なっただけだ。

「ほら、かすみちゃんは優しいから」

ーーいいや、違う。違うんだよ、歩夢お姉ちゃん。私は優しくなんかない。優しくなんかないんだよ。道端で倒れている人を見ても、他の人に任せようと思うずるい奴なんだよ。そういう言葉は聖女みたいな人に使ってよ。

「それじゃ、私こっちだから。またね」

私の嫌な思考をかき消す言葉を放って、歩夢さんの背中は遠くなっていった。普通か。私の生活は普通なのかな。いっそ、特別に偏ってくれても良いのに。起こるわけ、無いんだけどね。



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旅行 (中須かすみ3)

貴重な休日。な訳がないありふれた休みの日。私は少し遠くへ行くことにした。太陽の支度よりスタートをうまく決め、調べておいた始発に乗り込み、ガタンゴトン。列車は揺れていた。角だけは綺麗にうまる車内で、私もちゃんとその役目を果たそうと努力をした。ちゃんと角に座る。頭よりも高い壁に身体を預け、目を瞑った。まだまだ先は長い。気持ちよく眠ることはできないけれど、ぶつ切りの睡眠は取れそうだった。一駅一駅乗客が増え始めた頃、自分の隣に人が来る前に、考えるのをやめた。そうすると、すやすやと落ちていくのを感じた。

「次はタダムワ、タダムワ、自家製の醤油を販売するわべわ家。商店街を歩くトリケラトプス。踊る温泉が観光名所となっております」

低音のアナウンスが響いていた。それは私が降りる駅の二つ前だった。たくさん寝てしまったのだろうか。列車に乗っている記憶があまりない。腕時計を見ると3時間は経っていた。もうすぐ着く。そういえば乗り換えはうまく行えたのか、まだ睡魔が思考を曇らせている。

「お姉ちゃん。旅の人?」

「えっ」

不意をつかれた私は素っ頓狂(すっとんきょう)な声を出した。

「こら、RL。ダメじゃない。お姉ちゃんは寝ていたのよ」

「えー お姉ちゃん。綺麗なお洋服着てるから」

「お国の人はみんな豪華だって言ったでしょ」

「あの……私は大丈夫なので」

「ねーねー どこから来たのー?」

「お姉ちゃんは東京からだよ」

「すみません、ありがとうございます」

子どもの母親は軽く会釈をした。それは暗黙の了解のような、実質的に子どもを預けるという形だった。

「すごいすごーい。ネットで見たよ、東京って何でもあるんでしょ!」

「うーん、あるっちゃあるのかなぁ」

その子どもは床に届かない脚をぶらぶらさせていた。まるで犬が尻尾を振るみたい。

「金ぴかのお城で、ご飯食べた?」

「私は食べたことないなぁ。あそこってね、頭良い人しか入れないんだよ」

「そっかー RLも難しそうだなー」

ドアが開くと、その親子は降りて行った。バイバイと言うには余りにも短い時間だった。でも子どもがそう言ったのならば、私も答えなければならない。ドアが閉まり、濁った空気が漂う。車内アナウンスが目的地の名前を呼び始めた。

 

世界遺産に登録されている明智光秀の時計台を見るため、私はA市にたどり着いた。大型のショッピングモールが開発中らしく、工事音が忙しない。改札を出るとデカデカと看板が用意されており、市全体で押している事業なのだと見て取れた。バスターミナルを抜け観光案内所を過ぎると、国道1086が車を円滑に進めていた。私はその道路の信号も渡り、駅から離れていく。坂を登るとそこからは時計台の頭が見えた。徒歩10分。良い立地にある世界遺産たが観光客は少ないらしい。確かに、家族連れやカップル、男の人など駅で見かけたような人や、向こうからすれ違う人がやたらと多く、彼等は観光客ではないのだろう。しかし、武将のコスプレをしている人がよく目に入る。テレビで報道でもされたのか知らないが、マイナーな世界遺産にしては、今日は人が多い気がする。まぁ、余り気にせずにいた方がいい。私はただ時計台を見てみたいだけだから。

「君、12時になる前にトイレに行きなさい」

入場料を払うと時計台の中に入れる。私は内装と展示を観ながら、ゆったりとした時間を過ごしていた。見学が出来る一番高い場所で時計台の歴史を学んでいると、ひょろひょろな腕を私へと伸ばしたおじさんは、そんなことを言った。人差し指を私の心臓に向けている、その指には一本だけ長い毛が伸びていた。

「金ぴかのお写真を鯨へと変身させなさい」

私がたじろいでいると、おじさんは続けて言った。

「老いには勝てない。君の若さが欲しい」

そう言った後、両手をポケットに突っ込み、ガサゴソと動かしていた。中でコインが擦れているのか、カチカチと音が鳴る。何故だか私は背筋が凍る気がした。冷や汗と腕の鳥肌がそれを加速させる。このおじさんは私に危害を加える可能性がある。初対面だったが、ただならぬ雰囲気があった。急いでこの場を立ち去ろう、そう思った。しかし、私の腕は掴まれていた。どうして。痛い。物凄い握力で、私の二の腕が圧迫されている。声を出そうとしたけれど、怖くて何も出て来なかった。首を絞められたみたいに掠れた呼吸音だけが部屋に響いた。私は腕を振った。でも振り解けない。おじさんの両手はポケットから出ていた。片方は私の腕、もう片方には、

「ひぃ!」

ナイフが握られていた。気づいた時には脚をかけられ、私のバランスは崩れていた。ゴンと床に背中を叩きつけられ、息が苦しい。

「たっ助けっ」

ようやく戻った声も、さっきまで腕を抑えていた片方で塞がれる。おじさんは私に馬乗りとなり、全体重をお腹に預けていた。私は両手を振り回し、おじさんの至る所を殴ったがまったく微動だにしなかった。完全に無駄な抵抗だった。

「星座を分裂する大仏様……大罪を許したまえ。か弱き少女の横隔膜を、私の体内に取り込みますゆえ……」

おじさんは思いっきり腕を振り上げた後、重力に自身の体重も乗せて振り下ろした。鈍い痛みがあった。それが強烈な痛みを私に与える前に、おじさんは何度も腕を振り下ろした。

「おにぃ……あっ、お……ねぇ……っ、ちゃ……」

薄く薄くなる痛覚に、遠退いていく視界を重ねようなどと試みる。おじさんは何かを呟いていたが、はっきりとは聞き取れない。意識が混濁していた。急に眠気が襲ってきて、私は眠りにつくように色んなことを諦めた。



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共存 (中須かすみ4)

意識を取り戻すとーーその捉え方が果たして正しいのかどうかすら、今の私には理解は出来ないがーー知らない空き地にいた。草木が膝まで伸び、手入れが行き届いていない。スカートで表に出たふくらはぎは、それに撫でられていた。しかし不思議とぞわぞわする感覚はなかった。辺りを見渡す。他に目新しい物は何もない。殺風景な空き地だった。ただ遠くに白い高層ビルが三つだけ並んでいた。あそこまで歩けば人に会えるのかもしれないけれど、そんな気持ちにはしばらくなりそうもない。じっとしていようか、でもーー深呼吸を繰り返す。興味はないが、辺りを散策しようと思った。

「どうしてかすみんが目の前にいるの?」

邪魔な草木を蹴飛ばして進もうとした時、不意に声を掛けられた。私はさっきまでの記憶が鮮明に記憶にこべり付いているため身構えてしまった。振り返るとそこに居たのは、摩訶不思議な人物だった。

「……かすみん?」

私は恐る恐る尋ねた。

「かすみんはかすみんだけど」

彼女はさも当たり前のように言った。そして、訝しげな眼差しを私に向けた。きっと私も同じような眼差しをしていたに違いない。

「確か、彼方先輩のお膝でうとうとしてて……」

「あなたは誰?」

「えっ、それはこっちの台詞だよ」

急に返された言葉にムッとした。同族嫌悪に似た太古の感情。見様見真似で合わせたレベルを遥かに超えている。

「どうして私と同じなの!?」

目の前に立っていたのは自分だった。まるっきり姿が同じの人間。ドッペルゲンガーのような恐怖心はまるでなく、気色悪さだけが心に沈澱していた。私と私に似たその子は同時に声をあげた。

 

「中須さん……中須さん!」

聴き慣れた声で目を覚ますと、蛹が成虫になる過程を体験したような生新しい感覚が残っていた。まだ全然開かない瞼が起床の邪魔をする。私は今、何歳なのかすら思い出せないくらい脳の活動が休止していた。

「授業は起きないとダメだよ」

言葉を話されていることは分かっていた。ただ意味を理解するのには、幾分時間が掛かった。

「あのね、修学旅行の行き先のプリント、まだ提出してないよ?」

数秒沈黙した。目の前にいた委員長は、先日終えた話をもう一度蒸し返してきたと分かった。頭痛が酷い。ガンガンと頭の中で鉄を叩いているみたいだ。また時間が掛かって私は答えた。

「委員長……たしか、私は行かないって言ったような気がするけど」

「そんな話は聞いてないよ?」

委員長はすぐ答える。

「先週聞かれた時に答えたでしょ」

私は遅れる。

「ううん。先週は聞いてないよ」

絶対に伝えたはずだった。でも委員長は聞いていないと言う。頭痛が鳴り止まないため、記憶を巡るのが億劫になる。そして噛み合わない会話に嫌気が差した。どうせ私は行かないんだ、さっさと終わらせてしまおう。

「まぁ、でも私は行かないからそういう事で通して下さい」

「ダメだよ! 一生に一度しかない学生、一緒に行けば楽しいはずだよ?」

責任感が強い委員長は声を張り上げた。普段の穏和な姿とは違う様子に、クラスの何人かが此方に視線をやった。どうして分かってくれないのか。私は行きたくないんだって前にも伝えたはずなのに。これは新しい八つ当たりなのか。

「あのさー 行きたくないって言ってるんだから別に良くない? こっちで話進めちゃおうよ」

退屈そうでめんどくさそうに、バスケ部の主将が発言した。他のクラスメイトは仲が悪い二人の空気を読み取り固唾を呑んだ。

「宮下さん、クラスっていうのは、誰一人かけちゃいけないと思うの」

「エマは分かってないんだよ。そういうのはもう古いって」

「古い新しいの話じゃないと思うな、大切なのは良いか悪かでしょ?」

「だから、本人は行きたい方向じゃないじゃん。それを強制させるのは悪いことじゃないの?」

あれ。疑問に思う事自体が夢のような気がした。一度見たような、体験したようなーー頭が痛い。突貫工事みたいだ。深呼吸をして、すぐさま思考を巡る。私はまた物事を複雑にしてしまっている。そしてすぐに自己嫌悪に向かう。割れそうな頭がそれを加速させる。この性格が悪いんだ。この脳みそが悪いんだと。自分が自分を知っていない。そうだ、そうだ。私は、私はーーそこで授業を開始するチャイムが響いた。私は動きもしなかった椅子の上で姿勢を正せなかった。考える人のように俯いて、頭を抱えている。頭が痛い。もう、前を向くことすら出来ないくらいに。複雑に広がっていた不安や自己嫌悪が小さくなっていく。同時に視界も狭く狭くなり、次の授業を受けたかどうか、ハッキリと思い出せなくなった。

 

『わたし! 魔法使いでアイドルでヒーローなの!』

モニターに流されていたのは、小さい頃の私だった。杖を持ちマイクを持ち、マントとベルトをつけて、ダンスに夢中になっている。母の笑い声も時々映り込んでいた。

「これって貴方のでしょ?」

「うん。4歳の頃の忘れてた記憶」

突然背後から声を掛けられても、私は何故だか狼狽えなかった。

「かすみんは知らないから、きっとそういうことなんだね」

「……あの頃はなんでもできる気がしてたの」

ここでもう一度出会う予感があって、彼女もそう思っている気もしていて、話しかけられるのは当然だと断言できた。

『おにぃちゃ、おねぇちゃ、敵ファン老婆やって〜」

モニターの映像は進んでいく。幼い頃のおにぃと歩夢お姉ちゃんが仲良く手を繋いで走り回っていた。小さな私はそれに駆け寄って、お願いをしている。

「あの男の人は?」

「私の兄貴」

「兄……かぁ」

彼女は私と同じ顔をしていたけど、表情の変化が大きく、感情を読み取るのが容易だった。

「あ、もしかして、歩夢先輩……?」

兄を知らないらしいが、どうやら歩夢お姉ちゃんの事は知っているようだった。でも認識の誤差は明らかにあった。

「歩夢お姉ちゃんは……昔から優しくて、勉強も出来て、女性らしくて、コツコツ努力してて、綺麗で……ずっとこの人みたいになりたいって思ってた。でも、なれなかった。私にはいろいろなものが足りなかった」

私がそこまで言うと、彼女は「私も」と消えそうな声で呟いた。それで良かった。彼女は私の目をじっと見た。私もそれに応えた。私達は互いを自分だと理解している。だからこそ、私達は互いに笑った。



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少女 (中須かすみ5)

一体何度目だろう。この短時間に何度、目を覚ますのだろう。起きたら、意識が消えて、また起きる。どっちが現実でどっちが夢か分からなくなってしまう。目を覚ましてみても、きっとこれは夢だと思ってしまう。そうであれば簡単に諦めがつく。上手くいかない事に過去をスライドさせて、私ってやつは適当に過ごせば良いのだから。

私の身体は性懲りも無く目覚める。

天井は白いだけで何の情報も持たない。

私は身体を起こすと、ベットの上に寝ていたんだと分かった。キシキシとベットが軋む。あまり来たことはなかったけど、何となく保健室の雰囲気があった。カーテンに仕切られて私は個室にいるみたいだった。横になるのもなんだか疲れてしまって、ぼんやりした時間を過ごす。保健の先生が気が付いたらしい。声をかけて来た。

「へいき?」

「まぁ……おそらくは……」

「そう、もう放課後だからね。たくさん寝たから元気になったのかな」

「そんなに、眠ってたんですね」

「すやすやね。最近休めてなかったり?」

「いや。そんなことはないと思います」

「まぁ、いつでも来ていいからね」

「ありがとうございます」

「荷物はここにあるから教室まで戻らなくても大丈夫。どうする? もう少し休んでいく?」

「いえ……元気になったので、帰りたいと思います」

「そう。明日は休日だからゆっくりしてね」

「はい、ありがとうございます」

保健室の扉を閉める。一連の動作をしただけで一歩も歩きたくないほどの怠さに襲われた。もう少し休んでいた方が良かったかもしれない。それでも、私は家へと歩き出した。

 

「かすみちゃん?」

帰宅途中、買い物袋を手に掛けた歩夢さんに出会した。袋にはスーパーの店名が記され、駅前まで買いに行った事が分かった。制服は着ていない。

「学校はなかったんですか?」

「うん。今日は振替記念日でお休みなの」

「そうなんですね」

偶然会って、何も話さないまま別れられるほど、軽薄な関係ではない。それに体調が悪いことを気づかれたくなかった。私は続けざまに質問した。

「歩夢さんは……卒業したらどうするんですか?」

「……かすみちゃん。具合悪いの?」

「えっ……どうしてそう思うんですか?」

「あの子と似てるから、なんとなくかな」

歩夢さんとおにぃは仲が良い。非常に、多分両想いと断言出来るくらいに。でも、だからといって私の事なんて分かるのだろうか。正直なところ、おにぃと会話した記憶が中学生に上がってからない。歩夢さんとだって、腹を割った会話なんてした事ないのに。

「ほら、かすみちゃんって、無理しちゃうから。余計なお世話だったらごめんね。でも、ね?」

「ありがとうございます……具合は確かにちょっと悪いです」

「そうだったんだね、ごめんね、話しかけちゃったりして」

「いいんです。歩夢さんと話している方が、なんだか安らぐ気がします」

「ふふふ、なにそれ」

薄い薄い膜で覆われたプライドが優しく撫でられる。シャボン玉のように揺れて、膨らんで、漂う。心許ない情景が、歩夢さんの瞳に映り込んでいる気がして、私はよく見ようと思った。

「歩夢お姉ちゃんは、本当に優しいね」

ーー本当にそう思う。もう、優しさが消え掛かるような世界に住んでいても、遠い町の方から、そっと降らせてくれる雨。みんながみんな望んでいなくても、たった一人のために強く降らす。例えば、道端で倒れている人の栄養、穢れた人の行いすらも洗い流す水。他が雑念みたいに、歩夢さんはたった一人のために頑張れる人。こういう言葉は聖女ではない歩夢さんにぴったりだ。

「嬉しいな」

私の言葉を素直に受け取った歩夢さんは、晴れやかなに笑った。あぁ、私の曇り空も吹き飛ばすように。

「それじゃ、私こっちだから。またね」

もう少しだけ、そう思わせる私の思考をかき消す言葉を放って、歩夢さんの背中は遠くなっていった。不安にも黄色いもやが歩夢さんを包んでいく。私は目を瞑って、振り返って、家へと走り出した。



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そんなものを見せられるこっちの気にもなってくれよ (中川菜々、一話完結)

彼女が電話で妄言を垂れ散らかしたあの日、僕は無我夢中で走り出した。訳が分からなくて、なんだか気が狂いそうになって吐き気を催したのも覚えている。怒りが先行して脚を動かしていた気がしたけど、そうじゃなかった。普通に気分が悪かったんだ。中途半端で宙ぶらりんな状況に。決断を保留にしていた自分自身に、嫌気が差したんだ。

 

凍結した歩道に足を取られて、ガードレールにもたれた。白いペンキが剥げた位置を右手でキャッチする。ざらざらと皮膚を煽るのだから、僕はそれを反動に使った。思いっきり押し出して、身体で駆け出したんだ。気色が悪いほど静かな夜で、街灯も疲れを感じさせないほど輝いていた。雪なんて大層なものは降らず、空気は動じず、ただ乾燥していた。ロマンチックなものなんて、何処にもありはしなかったんだ。

「何しに来たんですか」

「腹が立ったから来たんだよ」

彼女はまだ、学校から駅までの通学路にいた。だだっ広い道の真ん中。いつもなら端を歩くはずの彼女が堂々と真ん中を歩いていた。僕は咄嗟に嘘をついて、彼女に答えた。きっと、都合よく部活が遅かったに違いなかった。でなければあんな電話を掛けられるはずがない。

「そんな事なら、また明日にして下さい。私は帰ります」

「待ってってーー」

「あなたは私のことが嫌いなんですよね! だったらそう言ってください!! そういうべきです!! 勘違いしたらどうするんですか!? 責任を負えますか!? 負えないでしょう!? 私を馬鹿にして、楽しんでいたに決まっています! 最初からそうだったんでしょう? 私の事を影で笑っていたんでしょう? 私の事なんて微塵も好きじゃないくせに……」

引き止めようと近づいた時、彼女は急に振り返って、急に叫んだ。その眼は羞恥の欠片もなく物恨みに似た怒気を帯びていた。その鋭さは僕の首を切りつけるほどだった。

「なっ……なんでそうなるんだよ」

僕は気圧された。

「だってそうじゃないですか! 昨日の発言も! 文化祭での行動も! クラスでの立ち振る舞いも……全部、ぜんぶ……」

思い当たる節が僕の口を封じた。半分は当たっていて、半分は間違っている。まるでたちが悪い風刺画だ。彼女はそれに汚染されて盲目になっている。世界の半分以上がそうで違いないと信じているんだ。

「いつか……あなたは言ってくれましたね」

眼鏡の奥でずっと訴えかけていた。レンズがなければ僕はきっと耐えられないだろう。彼女の主張の真っ直ぐさに。その鋭利さに。もう僕自身がバラバラに切り刻まれるような感覚にはなっているけれど。

「……あの日、クラスのみんなに茶化されたあの日……私は嬉しかった。あなたとそういう関係になれて、噂でも……嬉しかったんです……」

手をだらんと垂らしたかと思うと、胸の前に力強い拳を持って来て、制服を握りしめる。彼女は肩を上げ、とても力み、制服のシワをも気にしなかった。

「あなたは黒板のラクガキを……消しませんでしたね。どうしてですか。勘違いだってされてしまうのに……あの偽物を……なぜですか。私は……ぁ……隣のクラスの、かりんさん……あの場にいましたよね。私、知っていたんです。あなたが……かりんさんに告白されていたことを……そういう噂だってちゃんと回っていることを……私だって……」

空気の読めない空き缶が改造されたバイクのように暴走して遠くで鳴く。動物さえ鳴かない静かな夜に、それは一瞥に似た合図のようだった。寝坊に気づいたかのようなタイミングで、トラックやら自家用車のエンジン音が鳴り始める。どこに隠れていたのか、ぽつぽつと人影が現れ始めた。そして、やけに生臭い東京湾の風が、僕らの髪を揺らした。

「私が……浮かれていたんです……私が悪いんです」

彼女は自己嫌悪に陥った。それが決まっていたみたいに、しっかりと自分が悪いのだと主張した。

「……地味で、オタクで、空気の読めない私が、とんだ思い違いをしただけなんです。だから、このお話はおしまい。それでいいですよね……それで良い。うん。それで良いじゃないですか。不満はありません。私たちの結末は、もう決まっているんです……」

ーーあぁ、俺は何を躊躇しているんだ。こいつにばかり話をさせて、うだうだして、自分の立ち位置ばかり気にして、クラスでの振る舞い方ばかり意識して、お前の選択肢なんて限られているじゃないか。ひとつしかないじゃないか。お前はもう走り出したんだろ。電話を聞いて居ても立っても居られなかったんだろ? どうすんだよ。どうしたいんだよ。どうにでもなれって吹っ切れよ。……くそ、くそ。くそったれ。俺だって、こいつに言いたい事は幾つもあるんだよ。

「分かった……」

「……っ。なら……もう話はーー」

「分かったのは悪い気分の方で、意思の方だ」

「意味わかりませんっ! 私はもう帰ーー」

「何から何まで全部聞けよ」

彼女の手を掴んでしまった俺の腕は力がこもっていて、彼女の表情を歪ませてしまった。

「あなたの事なんて……信用出来ません……」

「だったら見てろ」

俺はスマートフォンを取り出してロックを解除した。上段に置かれたコミュニティーアプリを開き、ポチポチと文字を打ち込む。そして完成した文字列を送信した。同時に彼女のスマートフォンも鳴る。

「私に……送ったんですか?」

彼女は怪訝な顔をしてスマートフォンを見た。しばらくして彼女ははっと息を呑んだ。

「っ……こっ、こんな、こんなこと送って……どうなっても、知らないですよっ」

明らかに動揺した様子で、視線を泳がしたりチラチラこちらを見たりした。それは解答を欲しがる子どもに似ていた。

「これが答えだ、中川菜々」

「これが、ですかっ。正気ですか? クラスのグループにこんなことを送って……もう訂正なんて出来ませんよ……いいんですか? 私なんかでーー」

こいつが全てを言い終える前に、どんなに鈍感で阿保な人間でも理解出来る行動を取ろうと思った。突然で醜いくらいで、ロマンチックのかけらもない。冬だっていうのに雪は降らないし、改造暴走車がけたたましく喚いているし、オリンピックで使用するなんていう海からは汚水の匂いが立込めている。どうしてこんな風なんだと、少しでもマシなことを探してみると、酔っ払った若いサラリーマン達が忌々しい事態を発見してしまった目で、こちらを睨んでいるくらいだった。あぁ、やけに月が綺麗な夜だ。それもまた、眩しいくらいの街灯が邪魔をしているけれど。



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騒がしい、そんな時に (虹ヶ咲5)

エマ「璃奈ちゃんはランニングに行く?」

珍しくポニーテールにした髪が、徐に跳ねた。ボディランゲージたっぷりと腕を大きく振った作用が、あそこまで伝わったのだろう。それに「ちょっと一杯行く?」と飲みに誘われたかのようなーーこないだネットで見たドラマーー軽い雰囲気が、少し面白かった。ぽかぽかしているエマさんが、滑稽に素早い動きをすると、相容れない二つが混ざり合って、どうも不思議な愉快さを生み出す。私はそんな瞬間や行動が大好きで、もっと一緒にいたいと思えて、もっと知りたいと思う。だからこそ、エマさんの周りには人が集まるのかなとも思った。

璃奈「私ははんぺんの餌あげてから行く」

エマさんは「そっかー」と言って、キョロキョロと辺りを確認した。どうやら姿を隠したはんぺんを探しているみたいだった。でもすぐには見つからないと悟って、首を傾げて笑った。

エマ「身体が疼き出している!」

思えば、初めからそうだったのだろう。もうほぐれている身体が駆け出したいと疼いているように見える。さっきまで体育の授業だったらしく、体操着のまま部室に来たエマさんは、荷物をロッカーにしまい「このままでいいかな」と言って、私に声をかけたのだった。

エマ「えへへ、せつ菜ちゃんの真似」

柔らかく微笑むと、外界のそよ風が私を撫でる。窓、開いていたかな。ちらりと目をやろうとしたけど、なんだかめんどくさくなってやめた。エマさんは私を見ていた。途端にさらっと揺れて、ガラスを突き抜けた光線と重なった。綺麗だな。私は純粋な気持ちで思った。

璃奈「バッチグー似てたよ」

私は親指を立てた。

エマ「みんなも向かってるのかな」

璃奈「侑さんが居たけど、音楽科の課題があるからって、また出てった」

エマ「なるほど〜」

璃奈「他の子はどうだろう。かすみちゃんは荷物置いてあるからランニング行ったのかも」

エマ「そっか〜 探しに行こうかな」

 

エマさんが部室を出た後、ひんやりとした風が入って来そうな気がして、少し開いた窓を閉めた。はんぺんは何処にいるのだろう。椅子の影、ロッカーの上、物置の裏。見当たらない。隅に隠れて私達を覗いていたにしては、無愛想なやつだ。ふむ、後で注意の一つでも言ってやろう。

せつ菜「ここです! ここが事件現場です!」

のんびりと着席している時だった。力一杯開けられたドアの向こうで、見向きする必要がないほどの声量を発した人物がいた。

愛「おっ、りなりーじゃん。ちーぃす!」

歩夢「せつ菜ちゃん騒がしいよぉ」

続いて部室に足を踏み入れた二人が私に気がついて会釈した。

せつ菜「璃奈さん! ここに果林さんはいませんでしたか!?」

璃奈「ううん、居なかったよ。エマさんがさっき出ていっただけ」

せつ菜「そうですか。これは迷宮入りですね」

愛「ちよっと大袈裟にしすぎだってー」

歩夢「そうだよ、ちょっとからかわれただけでしょ?」

せつ菜「それはちょっとではありません! 先ほども言ったじゃないですか! 私の純情を弄ばれたんです!! 今日という今日は絶対に仕返ししてやるんです!」

歩夢「仕返しかぁー」

愛「それはそれで面白そうだけど、何か案でもあるの?」

せつ菜「それは……ないですが……」

璃奈「私も考えたい。せつ菜さんの役に立ちたい【璃奈ちゃんボード『オラワクワクすっぞ』】

せつ菜「璃奈さん……!」

愛「あはは、悪ノリが始まりそうかな?」

歩夢「そうみたいだね」

璃奈「悪戯とか面白そう?」

愛「いいねー! 逆にせっつーが、果林をドキドキさせちゃうのは?」

歩夢「面白そう!」

せつ菜「しかし、ドキドキとはどのような」

璃奈「水着でうっふんとか」

愛「じゃあじゃあ、こんなポーズとかは!?」

せつ菜「そんなの出来ませんよ!!」

璃奈「せつ菜さんはこんなポーズがいい【璃奈ちゃんボード『女豹』】

せつ菜「なおさら無理ですー!」

愛「いいねいいね!」

歩夢「せつ菜ちゃんのえっち」

せつ菜「なぜ私ですか!?」



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タイムカプセル (天王寺璃奈1)

今日の朝は憂鬱な時間だった。

特にこれとして、突然に境遇がマイナスへと落下したわけではないけど、あの頃のような現実的解釈が交通事故に一致して、私達を底へと引き摺り込もうとしている。ーー寂しくはない。私はそう言い続けて、今日まで生き続けてきた。大学に入って、講義を受けて、オンラインゲームで時間を潰す。定期的なテストさえクリアすれば、いや、単位を取るためなら出席さえ偽装してしまえば、私には永遠の時間が与えられている感覚に浸ることができた。でもそれは、私を苦しめる拷問器具になんら変わりはないのだけれど、平然と捨て去る勇気を持てないのが、なんとも歯痒く、そして怠惰であった。

そんなふうに時間を持て余していると、どうやら、私はお台場のコンテナ倉庫が立ち並ぶ港まで来てしまったようだった。どうしようか。そこらの公園に居座ろうか。私は皮膚に漂う蚊を叩きながら、そこに入った。すると、小汚い子猫が私の足元へと駆けてきた。ーー似ている。はんぺんにとっても。そして、想起される。再生していくのは、不快な思い出だ。歪んでいく景色とは反対に、私の表情はツルツルなままなのだろう。

はんぺんーーこれからはそう呼ぶーーについて行くと、少し開けた場所に出た。ただ広いだけで何もない。その適当な場所で、はんぺんは地面を掘り出した。ここ掘れワンワン。猫だけど。私はそんな事を思いながら眺めていた。時間はあまりかからなかった。はんぺんの爪が何か硬いものに当たる音が響いていたのだ。カンカン。空き缶だろうか。カンカン。はんぺんはそれ以上は不可能ですと言った様子で、私の足元に寄った。私は音が鳴る方へ向かい、はんぺんが掘った穴を手伝った。カンカン。やはり、何か硬い物があり邪魔をしている。側面に沿って取り出そうと、城の溝を掘るみたいにかたどっていく。どうやら四角だ。砂を払いながら掘り進めていくと、バランスが悪くなったように揺れ始めたので、私は四角く硬い物の縁を掴み、引っこ抜いた。ーーもしかしたら掘り起こしてはいけないものかもしれないーー脳裏によぎったのは、タイムカプセルだった。赤く錆びついた鉄のような箱。しかし私は好奇心に負けた。ーーもしかしたら退屈だったのかもしれない。きっとそうだ。あの時からずっとそうーー箱の中は簡素な物だった。たった数枚の紙が入っているだけだった。箱を開けた時から、善意が遠くに逃げ出してしまっていたので、私は乱雑に紙を取ろうとしたが、はんぺんが先に紙を咥えてしまった。適当にそこらへ散らばる。

「あなたはそこにいない?」

拾う時に、いったいどこのページだか見当もつかないが、その文が見えた。

「急な出来事が起こって、大切な人が死んでしまった」

その先に書いてあった文は私を重くさせた。それは今の私には堪える。ただそれだけでなんの意味もないのだけど。

私は自宅に帰ってから読むのも面倒になった。そこらのベンチを見つけて、適当に読んでしまうのがいい。あぁ、はんぺん。あそこに座ろう。私たちはテクテクと歩き、落ち葉が乗ったベンチに腰掛けた。古ぼけていて汚かったけれどあまり気にならなかった。もうこの時には、紙の中身へと意識は引っ張られていたのかもしれない。私は身体を預けたはんぺんを撫でながら、そのページをめくり始めた。蚊はまだ飛んでいる。



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例えば私だとしたら (天王寺璃奈2)

遠いお空が繋がっている下で、小さな茅葺き屋根のお家が一つありました。そこに住んでいるのは女の子が一人。慎ましく一人で暮らしておりました。

ある日、用事を行なうため、女の子は芝を刈りに行き、それが終われば川へ洗濯に行きました。大きなタライの中で衣服を洗っていきます。

しばらくすると、ドンブラコットンキャンディドンブラコットンキャンディエイエイオーと、桃色の船が川上からやって来ました。

愛「ちーっす!! 洗濯してるんだねー」

女の子は大きな声に驚きました。

愛「ごめんごめん! 驚かせちゃった」

璃奈「平気。これ、なにしてるの?」

女の子は指を刺して聞きました。

愛「あーこれ? 船だよ船! 偉大なる冒険ってやつ!」

璃奈「ぼうけん?」

愛「そっ! なんか、釘職人をさー このまま続けていくのもいいかなぁって思ってたんだけど、ある"航海日誌"を読んじゃって、もう行くしかないっしょ!? って感じで家飛び出して来ちゃった」

璃奈「フラーク・エマ・カリンの?」

愛「なになに!? 知ってんじゃん!」

璃奈「この町では学童書として有名」

愛「ってか、それなら話は早いね、一緒に行こうよ! 絶対楽しいからさ!」

璃奈「唐突すぎる」

愛「世界を変えるのはいつだって突然の好奇心だぁーー!!」

愛と名乗ったその子は船から飛び出し、女の子の元へ来たら、その手を引き、また船へと戻った。

璃奈「乗せられてしまった」

愛「それじゃこのまま流されていこうよ!」

女の子は確かに流されるのも良いかもと思い、実際に波に流されながら船の行く末を見守りました。

 

実際に海に出ると、果てしなく続く水平線に、女の子は蹴落とされました。

彼方「浮き雲の彼方ちゃんですぞ。ぽかぽか浮かぶのが我が宿命〜」

いったいどこまで見えはしないのかなんて考えていると、雲さんが話しかけてきました。

愛「ちーす!」

彼方「下界の言葉だね〜 ちーす!」

璃奈「どうして浮いてるの?」

彼方「心に羽が生えているからさ〜」

雲さんは少し本気で答えました。

璃奈「どうやったら生えるの?」

これには少し困ってしまった雲さんは、

彼方「鬼ヶ島の宝石だと思う〜」

と、適当な嘘をつきました。

いっこうは進路を決めました。

 

鬼ヶ島に目前まで迫りましたが、海流が邪魔をしており進めません。二人はとりあえず近くにあった島に上陸しました。

璃奈「森だね」

辺りは動物達がひしめく深い深い森でした。

愛「いっくぞー!」

しばらく道なき場所を進むと一軒家がありました。女の子は愛さんに何だろうと伝えようと思った時には「ごめんくださーい!」とドアをノックしていました。

果林「あら、いらっしゃい。こんな森の中まで、来客なんて珍しい。どうぞあがって」

璃奈「ありがとうございます」

テーブル席に案内され、コーヒーが出ました。

愛「世界中の場所を見てみたくってさー どんだけ広いんだって感じだよね。果てがはてな? みたいな、あははは!」

果林「活気があって良いわね、昔を思い出しちゃう」

璃奈「果林さんってあの航海日誌の作者?」

果林「あら、勘がいいのね。そうよ」

愛「うっそーー!!??」

果林「本当に懐かしい。色々なことが鮮明に」

璃奈「色々聞きたい」

愛「待って待って。航海日誌に書いてあること以外聞いちゃダメだぞ、例えば宝のありかとか世界の果てとか、そういうの」

璃奈「分かった。でも、鬼ヶ島に上陸する方法は聞いていい?」

愛「それは……良しとする!」

果林「それね、時空の海流が邪魔してるのよ」

璃奈「時空の海流?」

果林「そ」

璃奈「教えてください」

果林「いいわよ」

愛「やったやった! それでそれで?」

果林「そうね」

璃奈「ふむ」

果林「……」

璃奈「わくわく」

愛「ドキドキ」

果林「……」

璃奈「?」

果林「……」

エマ「ただいま〜」

果林「あらエマちょうどいいわ。時空の海流について教えてあげて?」

エマ「え? 時空の? あ! お客さん?」

愛「お邪魔してまーす!」

エマ「いらっしゃいませ〜」

璃奈「そっか。フラークは二人の名前の組み合わせなんだ」

果林「ええ、そうよ」

愛「うむ……なるほど、そっか!」

エマ「航海の仕方だよね〜 ちょっと待ってね、紙に書いてあげるよ」



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受胎告知 (天王寺璃奈3 完)

ここから先、引きちぎられたような跡があり、ぽっかりと物語は空白になってしまっていた。最後の一枚に目を通すと、破られたほかに数枚の原稿が紛失していることが分かった。起承転結の承に辿り着いた物語が残り数百文字で完結するとは考えづらい。これは意図的に破棄されている。これを書いた誰かか、別の誰かか。断言は出来ないけど、高い可能性で後者だと思う。それはこの最後の一枚に著者の意見が散りばめられていて、読み手の思考に必ず植え付けてやろうという意志を感じるからだ。

 

『何もかもが変わってしまった。数え上げるのも億劫になるくらいに、変化とは突然に流れ込む。私は、あそこから動かず、慎ましく生きるべきだった。茅葺き屋根の家の半径1キロをテリトリーにして、外界を拒み続ければよかった。そうすればこんなことにはならなかったはずだ。

急な出来事が起こって、大切な人が死んでしまった。

私の大好きな仲間達が、友達がいなくなってしまった。

どうしてこんなことが起こってしまったのだろう。私の運命は初めから決まっていて、そのレールを眺めているしかない?

だとしたら、きっと私の元にもやって来る、だから……

私はこんなものを書いている。このように幕が閉じた物語を、再度上演に運ぶ力など私にはない。この小さな気づきが、読んだあなたに気づきを与えて、それをまた伝えて、新たな気づきを……

出来ることはこれだけ。

あなたはそこにいない?

私はそんなことを望んでいます。』

 

深呼吸。確かに肺を潤す風を感じながら、今度は空になるくらいに思いっきり息を吐いた。それから腕を空高く上げ、体を伸ばす。ゼロになろう。私は思考を消した。そしてゆっくりと、再起動をするようにもう一度息を吸った。

読み手によっては支離滅裂に受け取れるこの一枚。私にはこれが宣告に似た恐怖を煽るツールになっている気がしてならない。何か不幸が起こる。いや、もう既に突き落とされた私に、どんな不幸を与えるというのだろう。

歩夢さんが飛び降りて、侑さんは事故に遭って、愛さんは車に轢かれて。目元が熱くなり、鼻を啜った。

ーー私は確かに覚えているはずだった。

でももう良い。これで何回目だろう。反芻も反復も私を苦しめるだけだというのに。私は読み終えた紙を鉄のような箱にしまい蓋を閉めた。そして、箱の形に空洞ができた土に箱を差し込み、周りに盛られた土を被せる。例え手が汚れても、こんな物は埋めてしまいたいと思った。

ーー何かの作用がぽっかりと記憶に穴をあけている。

いつの間にか、はんぺんは姿を消していた。夕暮れ。歩きながら夜となり、差し込む街灯の光や車のライトに当てられ、やがてうつむく塵となる。家の中は沈黙。ドアのロックを外し、私はまた慣れ親しんだ一人となった。



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以後観察 (虹ヶ咲6)

しずく「眠ってしまいましたね」

侑「うん」

静寂の音色が平面を創り上げた。先程とは打って変わって、ここはただ平らに空気が流れている。澱まず濁らず静かな静かな空気が。侑としずくはお互いに顔を見合わせた。

侑「迫真というか、怯えているというか、激情……そんな感じだったね」

しずく「そうですね、込み上げてしまっていて……と言うのでしょうか」

ただの空気だと思わせる原因は、そこで眠る少女のせいだった。ひび割れるほどの悲鳴とでもいうのか、錯乱に及ぶ泣き声は二人の青春に割り込み、そして沈黙させた。

しずく「なんだったんでしょうか」

ちらりと眠る少女を見た後、廊下側の壁に貼られた生徒会レポートの画鋲を、特に意味もなく覗いた。

侑「疲れてたんじゃないかな?」

机の上をなぞりながら呟く。

しずく「お優しいですね、侑先輩は」

口に手を当てるように微笑む。侑も軽く笑った。

しずく「夢……確かに、私が思いついた台本も、まるで夢の中で体験したかのような……」

その手を顎につけて、しずくは記憶の旅に出る。探していたのは何処か遠いお話だった。

侑「そうなの?」

しずく「いえ、気のせいかもしれません。何故かそんな気がしてならなくて……ふふ。彼方さんのせいかもしれませんね」

そっと立ち上がり、そっと近づき、眠る少女の頭を撫でた。一瞬だけピクっと入眠時ミオクローヌスが現れ、二人は顔を見合わせた。二人は寒いと判断を下し、お互いの制服を眠り姫の肩と太腿にそっと掛けた。そして題を戻したのだった。

侑「その夢って、私も出てきた?」

しずく「いえ……侑さんはいらっしゃらなかったと」

侑「えー 寂しいなー」

しずく「あっ、あれですよ。同好会の方は栞子さんとかすみさんだけですっ」

眠る少女の呼吸のテンポが会話を弾ませた。

かすみ「あ! 彼方先輩! どうしてかすみんを置いて行ったんですか!」

しかし、先ほどと同じように平面に建設するような空洞を掘り進めるような凹凸が現れる。

しずく「かすみさん」

かすみ「しず子! 聞いてよ聞いて! 彼方先輩ったら酷いんだよ、私のこと置いーー」

侑「かすみちゃん」

二度目の呼び掛けはかすみを冷静にさせ、辺りをキョロキョロした後、その空気を読み取った。侑は穏やかな笑顔で応える。

侑「彼方さんは、ちょっと疲れているみたいなんだ。だから、ね?」

かすみ「分かりました……今回だけですよ。この可愛い寝顔に免じてです。今回だけですからね!」

数回、眠る少女の頬を突いた。弾力で指が跳ね返ると、もう一度突きたくなるらしい。まるでプチプチのように、その持続性に吸い込まれそうになった。

しずく「そんなことしたら起きちゃうよ」

かすみ「えっ、あ、うん。まぁでもこれくらいはいいでしょ。しず子も触ってみなよ」

しずく「わっわたしも!?」

かすみ「しず子ー?」

しずく「ごめんなさい」

後輩達の動きを観察者として捉えようと考えた侑は、適当な椅子に腰掛けた。頬杖を付いて、見守る。言葉は出てこない。それで良かった。そう侑は感じた。

かすみ「ほら、ぷにぷにだよ」

しずく「ほんとだ。ぷにぷに……」

眠る少女は溶け始めたスライムかのように、机と椅子と同化を始めていた。それほどゆったりと睡眠を行い、我々の耳にその寝息を立てているのだ。さて、この機関も幕を閉じるとしよう。王女は幸せにやっているのだ。我々もまるで草木のようにさらさらと……



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はずれの街 (宮下愛1)

「段ボールは、炒めれば豚カツになるんだから傷つけちゃダメだよ!」

私はトメル神殿の第一白鯨室で、次々と送られてくる段ボールを仕分けていた。朝3時間に午後3時間。目の前を通過するそれをタッチパネルでスキャンし該当のスタッフへと促す、簡単な仕事だ。特に何かを思考することもなく、私自身も流れていくかのような錯覚に苛まれながらも、ひたすらに業務を行ってきた。主に折り畳まれ整頓されているものや整頓されているがガムテープに包まれているもの、箱の形状を保ったもの、中身を取り忘れたものなど、多種多様な段ボールが流れてくる中で、これ程機敏に脚を動かしていた人間は私以外にいただろうか。いや、いない。いやしない。でも関係はないのかもしれない。難しい処理では、小型の鯨の赤ちゃんが混ざっていて、そういう場合には対処が遅れたりしたけれど、概ね良好に業務を行っていたと信じたい。日照りが強い日も、台風が近づいている日も関係はなく、私は懸命に仕事をこなしていた。そう信じていた。

率直に、真っ当な理由が欲しかった。

 

先日、上司に言い渡されたのはキャラメルフラッシュだった。前日に導入された法案だろう。懸念していたのに。こんなにも素早く私の元に降り注ぐなんて思ってもみなかった。初夏に可決されたキャラメル法はいかにも秀議員と段ボール理事会の癒着が噂されていたし、担当していた記者の不審死や秀議員数名の裏口入学なんかもネットで噂されていた。でも、結局、噂で止まるんだ……

私はこの見出しを新聞で読んだ時、どれだけ自分が小市民から逸脱出来ないかを理解してしまった。なんだこれ、なんなんだろうこれは。この所属している社会は、ずっと誰かが回し続けているのではないかって、そんなふうに気づいてしまった。気づいたのだろうか…… わからない。わからないけれど、このモヤモヤはいったい。

所詮私も、農奴ということだ。

今になって、爽やかに髪を揺らせる同僚のシャンプーの香りや上司の俺は反対したんだという自分自身の保護さえも腹が立つ。今にも破り捨てたかった。私に言い渡された、人生の動きを示す書類が、このA4の紙に記されているなんて。いつの間にか握った拳に爪の跡が残っていた。赤く、また赤く。血が流れていることを認識させる。

「あはは、くだらないなぁ……私の人生ってなんだったんだろう。何処からおかしくなったんだろう」

いつも通る通勤の歩道橋の上で、ぼやいた。月が私を睨んでいる気がする。

「待って」

目の前に現れたそれはーーそれというのは既存の形態を保たない、つまり人間の形を使用しない未確認の物体。今はそれでしか記憶を想起できないーー強い口調で、でも何処か諦めたような声で私を呼び止めた。

「宮下愛さん。あなたの力が必要なの」

私は目を合わせる。

「どうして私の名前を?」

咄嗟に出た単語を繋げる。

「……魔女だから」

それはそう言って哀しそうに笑った気がした。

「これを愛ちゃんにあげる」

私の手にふっと現れた懐中時計は舞うように乗った。

「ごめんね。こんな私で、いつかきっと、ちゃんと謝れたらいいのにね」

それはそう言って、これもまたふっと消えた。



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フェミなる司 (宮下愛2)

「早まるな」

 

論文を熟考する学生の隣で、向かい側の席に座る老人を見ていた。見窄らしい体躯にいびきを発動して、この茹だる熱気を避ける為だけに電車に乗っているようだった。何往復も、きっと終点につけば反対側に乗っているんだ。一度目を閉じて開くと、さっと、醜い私になる。ごく簡単に。嫌気が差すくらいに。私は右目と左目で見定める。未来を意識せざる追えない澱んだ価値観が浮上し始め、私は両者を天秤にかける。どちらが社会に役に立つのかという論議を、脳内で繰り広げる為に。哀れなほど醜い時間で、私はさっと思考を中断した。老人は立ち上がり電車を降りたのだった。視線は落ちた。首元の痒みが私をうずうずさせる。抑えられず爪でかきながら、学生の論文を盗み見る。

"社会なる境界を逸脱した存在の人権について"

さて、共感も難しいか。私は目元も痛くなった為、当然のように目を瞑った。

 

懐中時計の使用方法とは?

期限とは?

目的とは?

何を意味するものなのか。

枕に落としたそれは、少しだけバウンドして携帯にぶつかった。ヒステリックな響きを部屋に鳴らした後、静かに眠ったかのように見えた。私はそれを持ち上げ、もう一度開いてみる。中には自分を反射させる以外に用途は確認できない。ただ、鏡の中で眼を合わせる私は、どこか乱暴な雰囲気を持っている気がした。気のせいであれば良いのだが、映るということは、それが私自身である事に変わりはないのだから、悲しくも虚しくもなってしまう。でもいっそのこと、彼女が私自身であればもっと上手く世の中を立ち回れるのではと、考えてしまうのだった。

 

私が住むアパートの隣には、虐待を繰り返す母親がいる。表向きには愛想がよくコミュニティーを生き抜く知恵があり、容姿端麗で有名大学の名を持っていた。その母親は実に素晴らしい女性であるかは私も知っており、一人暮らしの私の困り事の相談にも乗ってくれていたりした。ハッキリ言えば私の方が無様なのだが、ひとつだけ汚点があるとすれば子どもの虐待をやめられない弱さが母親にはあった。あの笑みの中に、抑えられない程の衝動が潜んでいると考えるだけで、私は身震いをしてしまう。これは私しか知らない秘密であり、角部屋の隣に住む私だけの特権だった。時折現れる子どもの暗い部分に、私は居た堪れない気持ちになるのだが、別段変わったことはせずにいた。つまり、行政や専門家に任せることが得策なのだ。でしゃばることがどれほど迷惑になるか。私は知らないわけではあるまい。



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午後の練習 (宮下愛3)

「姉が欲しい」

 

栄転はない。現実逃避に精を出す休日に絶え間なく流れる雲を眺めていた。機能を奪われた人間は希望すら億劫に感じる。上空何千メートルでは飛行機に追い着きそうなスピードで雲が流れていた。此処とあそこでは体感の、又は理屈の速さが違うんだな。私はリズムゲームのバーを操るタイミングを、あの空に当てはめていた。ポンポンと人差し指と中指を重ねる。架空の、例えば架空の通過点を設定して、亀だとか猫だとかそれらしく見える雲の先端が合流した時、人差し指と中指をくっつけ、重なりが終わる頃に離した。ボーナスポイントとして素早い鳥を捉えることができれば10億ポイント。段ボールを仕分けていた動きが、ベルトコンベアーの間隔が、独特なリズムとなって染み込んでいる。無価値、無意味な技術だけを身に付けて、この競争社会をどう立ち回れば良いのか。私は上空の雲、飛行機、鳥、そして自分の高度を、社会の階級へと落とし込む。奴隷はシステムに上手く組み込まれ円滑に狡猾に車輪を回して行く。知らぬ間にそのパッケージはエモく装飾されるしかなかった。抵抗できない雲と風、私は胴震いした。流れはこんなにも気付けないものなのか。近くにあるものがこんなにも大きく見えてしまうのか。歩き疲れるはずもないーー仕事もせずにダラダラする生活が自分をここまで疲労させるとは思わなかったーー太腿には引っ掻いた後が無数にある。赤く充血するまで拳を握る癖が転移したのだった。砂利を蹴った。段ボールが空を泳いでいる。遂にベルトコンベアーに運ばれる自分の姿を、空に映すことが出来た。何メートル先の未来を見渡せないのだからこれで良いのだ。あぁ、ああぁ……あぁ。

 

ポロッと懐中時計が落ちた所から記憶が始まった。ハッとなって上体を屈める。土色と砂色の大地に散乱した硝子片は二度と戻らないジグソーパズルのようだった。透明な粒は不気味な光を放っている。せめて貰い物なのだから大切に使わなければ。遅い罪悪感が押し寄せる。私は何をしているのだろうというのは遅いことだろう。もう、半分は惰性で拾い上げたそれはパラパラと硝子片と砂を落とした。もう私自身を見なくて済む。この手鏡は何の意味もない。そう思ったのだが、私はここで初めて、これは懐中時計であると知ったのだった。ガラス鏡の裏に隠されていた文字盤がカチカチと音を鳴らしている。それは余りにも小さな音だった。笑えた。無情にも午後2時を差す長針。動き続ける短針。もしかしたらこれは値打ち物なのではないかと思ってしまった自分。私はもう少しだけ笑い続ける事にした。



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頭の中がヒーロー (宮下愛4 完)

「劇的な変化など、そう起きはしない」

 

チクタク。チクタク。

クレームをつける。

欠点の見当たらない純粋無垢な空から、我先にと燕が旋回する様子を伺い、戸惑う流れ雲の傍、煙突の生えた一軒家へと視線を落とすと、遂にはアリがのこのこと並走する地面に辿り着いた。私は暮らす棲家の前で、道端に落ちていたタバコを踏み付け、足で引きずり押すように井路の隙間へ送った。さて、郵便受けを軽くチェックし、鍵をポケットから取り出し、さっさとドアに手を掛けた。が、間抜けに尻餅を付くような、突発的怪奇と敏感な衝動が、手のなる方へ合図した。嫌々振り向くと、あの子どもが一人で座っていた。気配はなかった。そして遂に発見しても、正気の宿らぬ瞳は死人のように腐敗していた。この子は生きていなかった。例え心臓が鳴り止まなくとも、正義と人権主義者すら誤診してしまう雰囲気があった。しかしこの子は死んではいなかった。妖しい呼吸がやけに耳にこべりつくからだ。

「こんな所で何してるの? ママは?」

しまった。私は善を執行してしまった。己の無力さを理解しながらも湧き上がる悦を我慢出来なかった。

「……いえ」

吐き出された空気の僅かな振動が耳に届くまで、随分と時間が掛かった。

「エマちゃん……ご飯食べてる?」

落ち着かなければならない。滾るように手の油分が増える。落ち着かなければ、私は今、全身が枯れ葉と同義だ。醜くも水分を剥奪された池であり、恐ろしく社会から烙印を押された塵。しかし皮肉にも、それは一瞬で燃え上がり、思考まで焼かれてしまう。行動原理は単純だ。後はただ空気を飲み込むのみ。酸素を吸うように悪を見つけ、二酸化炭素を出すように善を表す。

「……」

この子は何も喋らない。下を向いている。痩せ細った脚首。まるでゴボウのよう。触れた瞬間に折れてしまいそうだ。肌は茶色くなり始め、日焼けとは違う。緩やかなグラデーションが地層的だ。服はどうだろう。アニメか何かか。いつも同じ服じゃない? ダルダルに伸びた襟。濃淡の薄い水色。奇妙な配色。破けたジーパン。

「お姉ちゃんね、お菓子持ってるんだ。食べる?」

何かをしてはいけない。

「飴とか」

干渉してはいけない。この子は何も関係はない。この家族は私と関係はない。この母親は生活に関係はない。でもって、私は。まるで、誘拐犯。

 

私が……

この子の手を握れば?

私が……母親から……

わたしが……

 

自分自身が主人公だと奔走するのだから迷惑極まりない。



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