金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> (水奈川葵)
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第一部
第一章 出会い(一)


 ここでいいのだろうか…?

 

 辺りを見回し、その粗末な家を見上げて、(かおる)はしばらく逡巡していた。

 中からはけたたましい笑い声と、男の子の怒鳴る声、女の子の泣く声が入り混じって聞こえてくる。

 家族らしいその雰囲気を感じて、薫は急速に気分が沈んでいった。

 

 自分には縁のない世界だった。

 養父母は薫にとてもよくしてくれているし、そこに不満などあろうはずもない。

 とはいえ、元から上流階級で過ごしてきた父母達は、こうした雑多な、庶民的ともいうべき家族愛とはかけ離れていた。もっともそれを求めるのは贅沢だろう…。

 

「あの~」

 

 薫はそろそろと玄関先から声をかけたが、もちろん届くはずもない。

 

 ああ、どうしよう。

 玄関先に置いてなどいったら、気が付かずに踏まれてしまうかもしれない。

 

 夕餉の用意をしているのか、中からいい匂いが漂ってきた。

 

 ぐうぅぅぅ。

 

 お腹がなる。

 そういえばお昼を食べられなかったのだった。

 もう慣れたとはいえ、昼食の弁当を隠されて、挙げ句に中庭の肥溜(こえだ)めにぶちこまれるのは、なんともつらいことだ。

 

 森野辺(もりのべ)家の養女となって一年半ほど過ぎた頃、父母は娘に十分な教育を受けさせるために、華族の子女が通う女学校に薫を入学させた。

 しかし、それから一年近く薫がそこで毎日のようにいじめられていることは知らない。

 薫もまた、自分にいじめられるだけの理由があることをわかっているので、仕方ないと思っている。

 

 そんなことより、薫が今すべきことはこの家を訪ねることなのだが、ノックをしようにも昔ながらの長屋にはドアなんてご立派なものはない。

 腰高障子の板戸があるきり。

 その前で立ちほうけて、できれば中から誰かが気付いてくれないものかと待っているのだが、中の住人はそれぞれ忙しそうで、とても気付いてくれそうもない。

 

「何か用?」

 

 いきなり後ろから声をかけられ、薫はビクッとしながら振り返った。

 

 そこにいたのは、自分よりも二つか三つ年上らしき少年であった。

 大きな吊り上がった目で、(いぶか)しげに薫を見下ろしている。

 

 背に負った風呂敷包みの中に何が入っているのか、肩に紐がくいこんで、相当重そうだ。

 右手には鍬らしきものを持っているし、左手にはじゃが芋の入った籠を持っている。

 

 あれ? と薫は奇妙な感じを受けた。

 以前に会ったような気がしたからだ。

 しかし思い出す前に、少年が再び問うてきた。ますます不審そうな顔で。

 

「なに? ウチに用なのか?」

 

 苛々した様子に、薫は途端に焦った。

 

「あ、あの……あの、私、志津(しづ)さんに」

「お袋に?」

 

 少年は意外そうに言って、薫をまじまじと見つめた。

 

「あんた、森野辺の…?」

「あ、はい」

「ふぅん…」

 

 少年はあやしむ様子はなくなったものの、依然として納得のいってない顔で、ガラリと玄関の戸を開けた。

 

「お袋ォ! なんか、来てるよ」

「えぇ?」

 

 覚えのある声が聞こえて、ようやく薫はホッとした。

 

 中から現れた丸髷(まるまげ)の女が、薫の姿を見るなり声を張り上げた。

 

「まぁ! お嬢様!!」

 

 まだ隣にいた少年が驚いたように薫を見つめた。

 中にいた子供たちも一瞬、静まり返る。

 

「あ、志津さん。よかった。あの、これ忘れて行ったでしょう?」

 

 薫は緑の風呂敷包みを渡しながら、ようやく志津に会えたことに安堵していた。

 

「まぁ! そんな、まぁ! まぁ!」

 

 志津は大声を上げながら、風呂敷包みを受け取る。

 

「そんな、お嬢様がわざわざ届けて下すったんですか?」

「うん。みんなちょっと忙しそうだったから、頼むより私が行った方が早いかなと思って。じゃあ……」

と、帰ろうとした時に、なんとも具合の悪い腹の音が響く。

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 固まった三人よりも、中にいた子供達の反応は早かった。

 

「でっけぇ、腹の虫だなぁ!」

 

 誰か、男の子が言うと、きゃらきゃらと小さな女の子が笑い出し、やがて子供達がみんなして大笑いした。

 

 薫は真っ赤になって「ごめんなさい」と言ったが、自分でもおかしくなってきて、クックッと肩を震わせて笑ってしまった。

 志津もまた、薫が笑ったのでホッとなって、一緒になって笑った。

 一人、笑わなかったのは最初に薫を見つけた少年だけで、どういう顔をしていいものか戸惑っているようだった。

 

「お嬢様、よろしければ召し上がって行かれますか?」

 

 志津は笑いをおさめると、薫にやさしく尋ねかけた。

 

「ううん。いいの。ごめんなさい、気を遣わせちゃって」

 

 薫が断ると、中の子供たちが「えぇーっ」と不満そうな声を上げた。

 

「食べてけばいいのに」

「一緒に食べよーよ」

 

 無邪気に言ってくる幼い子供達に、薫はニコと微笑んで「ありがとね」と小さく言った。

 そのまま立ち去ろうとする薫に、立ち尽くしていた少年が言った。

 

「握り飯の一つくらい食ってきゃいいんじゃねぇの。森野辺の家まで、まぁまぁあるだろ。歩いてるうちに倒れちゃ困るだろ」

 

 それは薫に言ったようにも、母親に言ったようにもとれた。

 志津はパンと手を合わせて合点する。

 

「ああ、そうね。ちょっと待ってくださいましな、お嬢様。朝のご飯が足りなくて、今ちょうど炊いたところなんですよ」

 

 慌ただしく言いながら、薫の渡した風呂敷包みを返してきた。

 

「あ、ちょ……し、志津さん」

 

 隣にいた少年が軽く溜息をつくと、ひょいとその風呂敷包みを持った。

 

「お袋…そそっかしいんだよ」

 

 つぶやいて、中に入っていく。

 薫がぽかんとしていると、振り返って「早く入れよ」とぶっきらぼうに言ってくる。

 

「あ、えと……お邪魔します」

 

 なんだか妙な成り行きだと思いつつも、薫が入ると、中では子供達が志津の握るおむすびを見て、

 

「いーなぁ。私も今日、おむすびがいい」

「俺も!」

「俺おかか!」

と、わいわい叫んでいる。

 

「おめぇらは茶碗で食べろ! 家で食うんだから握る必要ねぇだろうが」

 

 どうやら少年はこの兄弟達の年長者らしく、ビシリと言うと、子供達はがっくりした様子でちゃぶ台の方へと戻っていく。

 

 薫はなんだか申し訳ない気分になった。

 よし、と気合を入れる。

 

「志津さん、みんなのおむすび、作ろうよ」

 

 言いながら、流しで手を洗った。

 

「えぇ? そんな、お嬢様」

「いいから。早く」

 

 志津が戸惑っている間に、薫は袂から紐を取り出し手早く襷掛けをすると、しゃもじをとった。

 手塩をつけて、ご飯を握り込むと、ころころと転がしていくうちにあっという間に三角のおむすびが出来上がる。

 いつのまにか側にきていた女の子が「わぁ」と声をあげた。

 

「上手! 上手!」

「はい」

と、女の子の手に載せてやると、はぐっと頬張って、満足そうな笑みを浮かべた。

 

「あぁーずりぃぞー、寿美(すみ)ー」

 

 奥の座敷から上がり(かまち)にやって来て、男の子達がわぁわぁと叫んだ。

 

「すいません、お嬢様。やかましくて……」

「いいの、いいの。はい、できたよ。おかかおむすび」

 

 薫が男の子の一人に手渡す。

 横から弟らしき男の子が掠め取る。その後はお決まりのようにケンカが始まる。

 

「男どもってしょうがないわねぇ」

 

 さっき寿美と呼ばれた女の子が大人びた口調で言い、水屋から皿を取ってきた。

 

「ありがとう」

 

 薫は出来上がったおむすびを皿に置いた。

 志津も置いていくと、寿美は容赦なく母の作った不器量なおむすびと見比べる。

 

「お母さん、おむすび握るの下手」

「もう! わかっとるわね!!」

 

 志津は顔を赤くしたが、それでも一生懸命おむすびを作っていく。

 薫は寿美に言った。

 

「寿美ちゃんも握ってご覧なさい。手を洗ってきてね」

 

 寿美は「うん!」と頷いて、すぐさま薫の横で握り始めた。

 慣れてないせいで、ぽろぽろと米粒が落ちてしまう。

 

「寿美ちゃんは手がまだ小さいからね。ご飯の握る量をもうちょっと少なくしようね」

 

 やさしく薫に言われて、寿美は小さい手で小さいおむすびを作っていった。

 しばらくして出来上がると、寿美と男の子が皿を奥の畳敷きの間へと運んでいった。

 

 薫は満足して手を洗って帰ろうとすると、目の前にぬっとおむすびが一つ、差し出された。

 

「お前、自分の分、忘れてたろ」

「あ、そうでした……」

 

 ぐるぐる鳴るお腹を押さえ、薫はおむすびを受け取って食べた。

 どうやら形からすると志津の作ったものらしかったが、口の中でほろりといい具合に解けて、塩味と米の甘みが美味しかった。

 

「ありがとう。志津さん、じゃあ…ごちそうさまでした」

「まぁ、そんな。お嬢様に手伝わせた上に、大したものお出しできなくて」

「いいの。私がこんな時間に来たから、迷惑かけてしまってごめんなさいね。それじゃあ、失礼します」

 

 薫が帰ろうとすると、寿美が上がり(かまち)までおむすび片手に走ってきた。

 

「お姉ちゃん、また来てね!」

 

 薫がヒラヒラと手を振って、障子戸に手をかけると、少年が志津に声をかける。

 

「俺、送ってく」

 

 薫がびっくりして断るより早く、

 

「あぁ、そうね。そうだった。夕方だし、危ないものね。そうしてくれる? 実弥(さねみ)

 

 志津が言うと、そのまま薫は『実弥』という少年と家路につくことになった。

 

 

<つづく>

 



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第一章 出会い(二)

「あの、すみません。わざわざ」

 

 家を出て歩き出すなり、薫は頭を下げる。

 

「どっちが」

 

 実弥(さねみ)はカランカランと下駄音をならしながら、あきれたように言った。

 

「わざわざお袋の忘れ物届けに来て、アイツらに握り飯握ってやって、変なことするな、アンタ」

「……そう、でしょうか…?」

 

 薫にはよくわからない。

 確かに、おむすびを作ったのはちょっとばかり出しゃばった感がないでもないが。

 

森野辺(もりのべ)のお嬢様が握り飯なんぞ作れると思わなかった」

「あぁ……」

 

 確かに普通の華族令嬢のすることではなかった。

 自分のやったことをふりかえって、薫はクスクス笑った。

 

 実弥は横で笑っている薫を不思議そうに見た。

 ヘンな奴だと思いつつも、嫌味な感じはしない。

 

 実弥の中では華族なんてものは、威張りくさった鼻持ちならない連中という印象しかなかった。

 ただ、母が森野辺の屋敷で働くようになって、そこでの話だとご主人という人は穏やかな紳士で、その奥方も優しい人だと聞いていたので、森野辺家に関してだけはそうした色眼鏡を外してはいたが。

 

 そういえば……と、母が前に言っていたのを思い出す。

 

 ―――――お嬢様はねぇ、旦那様達に引き取られておいでになって……

 

 興味がなかったので、その後のことは聞き流してしまった。

 しかし、だとすれば生粋のお嬢様でないということか。

 だからこういうヘンな奴なんだろうか…?

 

「実弥さん、疲れてるんじゃないんですか? お仕事帰りだったのでしょう?」

 

 いきなり『実弥さん』なぞと呼ばれて、背筋がむず痒くなった。

「別に……」と、小さく答える。

 

「いつも志津さんから聞いてます。実弥さんが本当によくやってくれてるから、家族一緒に暮らせている、って」

 

 その台詞(せりふ)は普段から母がよく言ってはいたが、いざ他人から聞かされると、ただただ面映(おもは)ゆい。

 夕焼けのきつい西陽のせいで顔が赤くなっているのを見られないのが幸いだった。

 

「私と年もそう変わらないのに、すごいなぁって……」

 

 薫は実弥の方を見ず、夕暮れの景色を見つめながら話を続ける。

 

「……アンタ、年は?」

「え? 年ですか? 私は今年で…十一」

「は? アンタ、俺より年下なのか?」

 

 随分と大人びた感じがしていたので、うっすら年上だと思っていた実弥は、思わず大声で聞き返していた。

 

「え…と、そう、です。そう…だと思います。実弥さんはおいくつなんですか?」

「俺は十三だけど……」

 

 言いながら、自分よりも二つも下とは思えない薫の落ち着いた風情(ふぜい)になんだか違和感を感じた。

 それとも、ご令嬢というのはそもそもこういうものなのだろうか。

 あぁ、でもこの娘は生粋のお嬢さんなのではない。

 

 ぐるぐると考えていると、薫は「老けて見えるのかな、私」とつぶやいて、へらと笑った。

 

「いや、そういう訳じゃなくて……」

 

 否定したいが、実際その通りだったので、実弥はもごもごと言い訳をした。

 

「なんか、しっかりしているように見えたから」

「そうですか? でも、私よりずっと実弥さんの方がしっかりなさっておられますよ」

「いや、俺は…」

 

 人は良いがどこかしら要領の悪い母親。

 四六時中しっちゃかめっちゃかなな兄弟が6人。

 しっかりするしかないだけだ。

 考えると、少しばかりゲンナリして、小さい溜息がもれた。

 

「お父様も亡くなられて、きっとみんな実弥さんを頼りにしているんでしょうね」

 

 薫が丁寧にも『お父様』なぞと言うので、実弥はフッと皮肉げな笑みを浮かべた。

 

「あんなモン、いようがいまいが……いなくなって清々(せいせい)したくらいだぜ」

 

 薫は困ったように顔を俯けると、おずおずと言った。

 

「あの…こんなこと、私が言うのもなんなんだと思うんですけど……私も、ちょっとホッとしてます」

 

 心にもない弔慰(ちょうい)よりも、薫の素直な言葉に実弥はちょっと驚いた。

 

「志津さんが、時々顔を()らしてて…。絶対、何があったとか言わないんですけど、道を歩いてて電信柱にぶつかったとか、顔を洗おうとして流しに打ちつけたとか……絶対そんなの嘘だってわかってたけど、言わないのは言いたくないんだろうって思って聞かないでいたんです。でも、他の人達が話してるのを聞いて……。ご主人が亡くなってから、志津さんの怪我も減って、よかったなぁって思ってたんです。でも、やっぱり寂しそうだから、よかったね、とはとても言えなくて……」

 

 早口に話す薫の話を聞いて意外だったのは、母が寂しそう、だということだった。

 

 呑んで酔って暴れまわって、小さい体で稼いできた母の給金も取り上げて博打(ばくち)とまた酒、そしてまた暴れる…の繰り返し。

 

 あんな男でもいなくなって寂しいなんぞと思うのか?

 ようやく解放されて、喜んでいると思っていたのに。

 

 

 

「あ、もうここでいいです」

 

 小さな橋のたもとで、薫は言った。

 

「ありがとうございました。送っていただいて」

 

 丁寧に頭をさげると、髪を結ってある赤い矢絣(やがすり)模様の布が揺れる。

 実弥が返事をしないので薫は一瞬戸惑ったが、「じゃあ、失礼します」と歩き出しかけたとき―――

 

「名前は?」

 

 突然、大声で訊かれて、薫はきょとんとなった。

 

「名前、聞いてなかった」

 

 実弥が繰り返す。

 言われてみれば、最初に声をかけられた時にもちゃんと挨拶せずじまいで、気がついたらおむすびを作っていたのだ。

 

 薫はくしゃりと笑った。

 

「すみません。私は………」

 

 名前を言おうとして、一瞬、止まる。

 少しの間考えて、答えた。

 

(かおる)です。森野辺薫といいます」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「ゆきこお嬢様、ちゃんと送ってくれた?」

 

 帰ってくるなり母の志津が言うのを、実弥は「え?」と聞き返した。

 

「だから、送っていったんでしょう? 大丈夫だった? お嬢様、途中でお腹すいて倒れたりしなかった?」

 

 志津は心配そうに言ったが、もちろん薫は元気に帰っていった。

 それよりも、だ。

 

「…お袋、ゆきこお嬢様って?」

「なに言ってるの? あなたが今、送ってってくれたんでしょう?」

「え? あいつ、ゆきこ、っていうの?」

「そうよ」

「…………」

 

 実弥は黙り込んだ。

 

 確かにあの時、橋のたもとで教えてもらった名前は『かおる』だった。

 なんで、そんな嘘をつくんだろうか。志津(はは)に聞けばすぐにバレる。今なぞ聞かなくてもバレている。

 

 固まった実弥に構わず、志津は薫が持ってきてくれた風呂敷包みを広げて、中から古びた着物を取り出した。

 

「ホラ、玄弥。直したから、今度は破らないようにね」

「やったーっ」

 

 玄弥は嬉しそうに駆け寄ってくると、かすめ取るように受け取って、またバタバタと走って行く。

 志津はハァーっと、長い溜息をついた。

 

「あの着物もねぇ、私がうつらうつらしてたら額に針をプスッと刺しちゃって……」

 

 志津のこの手のドジはいつものことなので、実弥はそのことについてはもはや何か言う気もない。

 我が母ながら、本当に不器用なのだ。

 それでも一生懸命やってくれているのはわかっているので、文句はない。

 

「そしたらお嬢様が来て、ささーっと縫って下さって。本当に、何でもお出来になるから……」

「お袋、働きに行ってる先のお嬢さんに何させてんの?」

 

 母のこういうぼんやりした所はある程度は許容範囲なのだが、さすがに呆れた口調になる。

 しかし志津は頬に手をあてて、おっとり言った。

 

「そうなんだけど。お嬢様って…なんだかうまいことのせられちゃうのよ。気がついたら、任せてしまってるの」

 

 さっきの握り飯を作る時も、決して無理を通すのではなく、幼い寿美(いもうと)にまで心くばりして、いつのまにか進んでいってたように思う。

 確かに、そういう雰囲気を作るのがうまい。

 

「今日もきっと、お弁当を隠されたんだわ。それで召し上がってないからお腹を空かしてらしたのよ」

「は? なにそれ」

 

 いきなり妙に不穏な話になって、実弥は眉を寄せた。

 嘆息して、志津が話し出す。

 

「お嬢様、学校でいじめられているみたいなの。ホラ、前に言ったでしょう? お嬢様は養女で、森野辺の家に入る前は…その、子守奉公みたいなことをされてたらしくて……それでああいった学校の子女の方々からすると、嫌なんだろうって……笑っておられるのよ。痛々しくて。旦那様にも奥様にもご遠慮してお話にならないし」

 

 いじめられてる――――?

 

 実弥は薫の、令嬢にしては気にし過ぎのような、おどおどした様子を思い出して、成程とは思った。

 そういう生い立ちであれば、傲慢で権高いごお嬢さん連中には格好の標的にされそうだ。

 しかしもっと苛立たしいのは、親にもそのことを言えずにいるということだ。

 

「なんで遠慮なんかするんだよ、親子だろ」

「それは……お嬢様は思慮深い方でいらっしゃるから。ご両親に心配かけたくないのでしょうね」

「なんだ、それ」

 

 実弥は思わず大声になった。ひどくモヤモヤする。

 

「そんな窮屈そうなとこ、俺だったら逃げるな」

 

「仕方ないのよ。お嬢様はきちんと森野辺の血は引いてらっしゃるんですから。ゆくゆくはご立派な殿方と結婚されて、森野辺家を継がれるのでしょうね」

 

 志津はそう言うと、「早くあなたも食べなさい」と実弥に声をかけて、泣き出したこと(・・)のおむつを替えに行った。

 

 実弥は座敷の間に座り、ちゃぶ台の上のおむすびに手を伸ばす。

 三つある内の一個だけきれいな三角むすびが置かれてある。

 

「兄ちゃん」

 

 玄弥が隣に座ってきて、うずうずした様子で言った。

 

「俺、守ったんだよ。貞子が無理に食べようとするからさぁ、兄ちゃんはお仕事して疲れてるんだから、俺らよりいっぱい食べないといけないんだって言ってやったんだ」

「そっか。ありがとな」

 

 玄弥の頭を軽く撫でて、薫の作ったおむすびを食べた。

 冷えているが美味しい。

 

「ゆきこお嬢様、きれいな人だったなー」

 

 玄弥は無邪気に言って、にこにこ笑っている。

 寿美も聞きつけて、実弥の隣に座った。

 

「ほんと。見た? あのリボン!」

「リボン?」

「そう。髪結わえてたでしょ? 矢絣(やがすり)模様の」

 

 お辞儀したときに見えた布きれのことを『リボン』と呼ぶのだと、実弥は初めて知った。

 

「いいなぁ…。可愛かったなぁ。さすがお嬢様だよねぇ」

 

 寿美はよっぽどそのリボンとやらが羨ましかったらしい。

 もし、あの場でそんなことを言っていたら、きっと「どうぞ」と言って薫は寿美にリボンをくれてやっていたろう。

 

 ふと、思い出す。

 薫に声をかける前、下町に不似合いなその姿に、しばらく様子を見ていたのだ。

 

 薫はこの家の前に立って、見上げて、中から聞こえてくる声に、淡く微笑んでいた。

 とても優しい顔だった。だが、なぜだかひどく寂しそうにも見えた。 

 

 自分よりも年下なのに、奇妙なくらい大人びているのは、いつも大人に遠慮して生きているからなのだろうか。

 

 食うにも寝るにも着るのにも困らない身分だというのに、生きにくそうな薫の境遇を、実弥は少しばかり可哀想に思った。

 

 

<つづく>

 



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第一章 出会い(三)

 再び薫に会ったのは、二ヶ月ほど経ってからだった。

 

 荷物運びの仕事中だった実弥は、小さな川べりにぼんやり立っている薫を見かけた。

 声をかけようか迷っていると、道に突き出していた小さな岩に足をぶつけてしまった。

 

「うわっ!」

 

 大声が出てしまい、薫が振り向く。

 実弥の顔を覚えていたのか、ぱっと笑顔になった。

 

「大丈夫ですか?」

 

 みっともない所を見られて、正直立ち去ってしまいたかったが、思った以上にきつめに打ってしまったらしく、痛い。

 

「チッ、くそ…」

 

 とりあえず大八車を止めて、持ち手を下ろす。

 袴を捲り上げると、赤く腫れていた。

 

 薫は「あっ」と声を上げると、近くの井戸へと走って行く。裂いた手ぬぐいを濡らして持ってきてくれた。

 

「あ、すまん」

 

 受け取って腫れた部分に押し当てる。

 薫はしゃがみ込むと、裂いて残った方の手ぬぐいを足に巻きつけてくれて、濡れた手ぬぐいを固定させた。

 

「しばらくこうしておくと、腫れも早く引きます」

 

 にっこり笑って見上げてくるのを、実弥は「おう…」とだけ言って視線を逸らせた。

 

「実弥さんは不死川家の大黒柱ですから。早く治さないといけませんものね」

 

 なんだかまた背中がムズ痒い。

 実弥は紛らすように、前々から言いたかったことをぶちまけた。

 

「お前さぁ、俺に嘘ついたろ?」

「え?」

「お前の名前! ゆきこ(・・・)っつーんだろ? かおる(・・・)じゃなくて」

「あ、ああ……」

 

 思い当たったようで、薫は苦笑した。

 

「すいません。実弥さんならいいかなって思って……」

「なんだ、それ。どういう事だよ?」

「ええと……確かに今は『ゆきこ』なんですけど、元々は『かおる』って名前だったんです」

 

 いきなりまた妙な話を始める。

 

「あの、志津さんから聞いてるかもしれませんけど、私、養女なんです。森野辺の家の。私の本当のお父さんが今の父の弟で。でも、本当のお父さんは私が小さい頃に亡くなってしまってほとんど覚えてないんですけど……その父がつけてくれたのは、『かおる』っていう名前なんです」

 

 ということは、元の名前は『薫』だったわけだ。

 嘘を言ったわけでも、からかったわけでもない。

 そういうことをする人間だとは思っていなかったが、それでも理由を聞いて、実弥は少しホッとした。

 

「………なんで変えたんだ?」

「さぁ…? お母様が言うにはかおる(・・・)っていうのは男の子みたいだから、ゆきこ(・・・)、の方が女の子らしいって言われました。あ、でも一応ちゃんと気は遣ってくれたんですよ。薫に、子で『薫子(ゆきこ)』ですから」

 

 また、そういう大人の顔色を窺うようなことを言う。

 実弥はムッと顔を顰めた。

 

「人の名前勝手に変えといて、気を遣うとかじゃねぇだろ」

「いいんです。薫子(ゆきこ)っていうのも、いい名前だと思うし。ただ、『(かおる)』は亡くなった父の形見なので……誰にも呼ばれないのも、本当のお父さんが残念がるかなぁ……と思って。志津さんに頼んでもよかったんですけど、志津さん、ごちゃごちゃになって慌ててしまいそうだから……」

「あー、そら無理だな」

 

 未だに子供達の名前を呼び間違えてワタワタする母である。

 薫と二人きりのときだけ『かおる』と呼び、旦那様や他の使用人の前では『ゆきこ』と呼ぶ、なんて面倒な芸当ができるわけがない。

 

「実弥さんだったら、屋敷で会うことはないだろうし、たまにこうやって外で会うだけだろうから、いいかな……と思って。すみません。訳がわからなかったですよね」

 

 そういうことか…と得心して、実弥は大八車の車輪に(もた)れていたのだが、立ち上がって軽く足踏みする。痛みはほとんどなくなった。

 

「そういうことならいいさ。まぁ、そんなに呼ぶことないと思うけど」

「ありがとうございます。あ」

 

 実弥の後ろに見知った顔を見つけたようだ。

 こそこそと囁いた。

 

「ばぁやが来てしまいました。怒られてきますね。……さようなら」

 

 いたずらっぽく笑い、薫は駆けて行った。

 

 後ろ姿の先で、厳しい顔をした老女が実弥を睨みつけていた。

 あれがばぁや、らしい。

 あれに怒られるとなると、相当こってりみっちりやられそうだ。

 

「ご愁傷さま」

 

 実弥は肩をすくめると、大八車を再び押し始めた。

 

 

◆◆◆

 

 

 九月の彼岸の頃になると、森野辺(もりのべ)家では大量におはぎを作る。

 当主夫人である森野辺寧子(やすこ)の実家での毎年の行事だったらしい。

 

 いつもは子爵夫人としてたおやかに、万事のんびりと構えている寧子ではあるが、この時ばかりは様子が違う。

 おはぎは寧子の大好物なのだ。

 

 森野辺家に引き取られ、まだ新しい両親に打ち解けられずにいた頃、薫はこの事を聞き、寧子のためにおはぎを作るのを手伝った。

 寧子は大変喜んでくれ、薫との仲も一歩前進した。

 

 以来、毎年彼岸になるとおはぎを作っている。

 寧子も楽しみにしてくれているので、いつもは薫が台所に出入りすることを怒るばぁやのヒサも大目に見てくれ、女中達と一緒に作ることを黙認してくれている。

 

「おはぎは、実弥も大好物で」

 

 志津がふと言ったのを、薫は聞き逃さなかった。

 

「本当に? じゃあ、作りましょうよ」

「そんな。だめですよ。今日はお客様もお見えになって、そこで振る舞われるのですから」

「大丈夫よ。いつも残るのを、みんなして一生懸命食べているんだから。トヨさん、このお重借りてもいいかしら?」

 

 薫は餡を手の平に広げ、その中に握ったもち米を包み込むと、絶妙な力加減で丸めていく。

 他の女中達も手伝って、あっという間に重箱の半分が埋まっていった。

 

「きなこのおはぎも食べるの?」

「あ、きなこは下の子達が好物で……って、いえ、本当に、お嬢様。いいんですよ、うちのは」

「余らせるよりずっといいでしょう。お客様は他にもいっぱい食べるのだし。ねぇ、トヨさん」

「まぁ、いいんじゃないですか」

 

 古参の女中のトヨが、あっけらかんと言う。

 

「奥様も不死川さんところは子沢山で、大変だというのは知ってますからね。お怒りになることはないでしょう」

「………ありがとうございます」

 

 志津はしみじみとこの屋敷に雇ってもらえたことを有難く思った。

 

 旦那様も奥様も志津のような使用人にも優しく、その寛容さは使用人達も同様だった。

 なにしろ不器用で失敗の多い志津ではあったが、たいがいの同僚は注意をする程度で、陰湿な嫌味やいじめなどもない。

 

 唯一、薫のばぁやであるところのヒサの叱言(こごと)に身を縮めることはあったが、そのヒサとても、志津が時折、赤子のこと(・・)を連れてくると、面倒を見てくれたりもして、性根はやさしい人なのであった。

 

 それに、なにより薫(志津の中では薫子(ゆきこ)なのだが)は、志津の子供達のことを何くれとなく気にかけていてくれる。

 

 志津の忘れ物を届けに来て数日後、寿美とばったり再会した薫は、手をひかれるまま不死川家にやって来て、子供たちと遊んだらしい。

 それからはしばしば家に来て、福笑いやら折り紙やら、時には裏手にあるお寺の境内で鬼ごっこをして遊ぶようになっていた。

 

「志津さん。私ね、小さい頃はずっと働いてて、同じ年頃の子とあまり遊んだことがなくてね。今、寿美ちゃん達にいろんな遊びを教えてもらって一緒に遊んでると、本当に楽しいの……」

 

 そんなことを言われてしまうと、志津は何も言えなかった。

 時々、薫は昔のことを語ることがあったが、その生い立ちは想像する限り過酷であった。

 同じ女中でも、今の志津とは比べ物にならないほどひどい扱いをされていたようだ。

 

 日頃は年齢以上に大人びている薫が、子供たちと遊んで、嬉しそうに、弾けるような笑い声をあげているのを見ると、志津はなんだかホッとした。

 薫とてもやはり年相応の子供らしい時間があっていい……。

 

「さ、出来た。実弥さんにいっぱい食べてもらってね」

 

 そう言って笑う薫は、志津の家にいる時と同じ笑顔だった。

 

 

◆◆◆

 

 

 志津が重箱にいっぱい詰まったおはぎを持って、少し遅く帰ると、既に帰宅していた実弥はすぐさま匂いを嗅ぎつけた。

 

「あっ、おはぎだ。もーらいっ」

 

 一つを口に入れながら、また一つ、取っていく。

 

「あぁー、兄ちゃん、ずる――いっ」

 

 寿美や玄弥もあわてて重箱からおはぎを取っていった。

 

「うまっ! めっちゃうまいなぁ、これ」

 

 実弥が感動したように何度もうまいうまい、を繰り返す。

 

「これ、お嬢様が作ってくだすったのよ」

「え? あいつが?」

「これ、実弥」

 

 志津は眉をしかめた。「お嬢様のことをあいつとか呼ばないで頂戴」

 

「へいへい」

 

 軽くあしらいながら、珍しくきなこのおはぎにも手をのばす。

 

「この前、ヒサさんにも釘を刺されたんですからね。あんまりお嬢様と馴れ馴れしくしてはいけませんよ」

「別に馴れ馴れしくなんかしてない。会ったら挨拶する程度だろ」

 

 あの後も、何度か薫の姿を川べりで見かけた。

 時間があれば声もかけるが、こっちも忙しいのでそんなに毎回のことでもない。

 

 一度、学校へと向かう薫を見かけた時には、女中らしき女と一緒だったので、そういう時は声はかけない。

 

 川べりにいる時はいつも一人だった。

 なにをしているのか聞くと、

 

「流れを見ているんです」

と言っていた。

 

 何を考えているのやらさっぱりわからない。

 やっぱり変な奴だと思う。ただ………

 

「昔、住んでいたところにも川があって、そこでおしめを洗ったりもしてたんですよ。ここよりずっと北の、寒いところで、冬は霜焼けで手が真っ赤になって。こちらに引き取られてから、母が気にかけてくれて、塗り薬だとか処方してもらったりして、随分ましにはなってきたんですけど、学校に初めて行った時はびっくりされました。どうしてそんな乾いた(うろこ)みたいな手をなさってるの? って」

 

 志津から聞いていた薫の過去の一端を聞いた時、実弥はなんとも複雑な気持ちになった。

 そんな子守女であった頃からすれば、今の薫の境遇は格段にいいはずだ。

 実弥達のような下町に住む人間からすれば、羨ましいほどに恵まれた環境だろう。

 

 だが、大変だった自分の過去を話す薫は、淡々としていて特につらそうにも見えない。といって、懐かしいという感じもしない。

 

 ただありのままに受け入れて…それは今もそうであるように見える。

 

 引き取ってくれた子爵夫妻にはもちろん感謝しているだろうが、彼らが薫の望みについてどこまで気がついてやれているのかと思う。

 

 そこまで考えて実弥はブンと頭を振った。

 

 薫の望み?

 一体、自分が何を知っているというのか。

 

 自分で自分に悪態をつく。

 重くなった気分を振り飛ばす。

 

「とにかく、実弥。お嬢様は嫁入り前なんですからね。お前もちゃんと分を弁えて頂戴よ」

 

 志津にもっともらしいことを言われ、実弥はフンと鼻を鳴らした。

 

「あんなん、まだガキじゃあねぇか」

 

 

 

 とはいえ。

 

 それからも時々薫を見かけることはあったのだが、志津に釘を刺されたのもあって、なんとなく声をかけづらくなった。

 

 一度は薫の方が気付いて声をかけようとしてくれていたのだが、実弥が仕事が忙しく気づかないフリをすると、上げていた手を降ろしてしまった。

 

 まぁ、元から住む世界の違う住人で、話す必要もない。

 

 ただ、その日はいつまでもチクチクと何かが実弥の神経を刺激した。

 弟や妹に八つ当たりしてしまい、久々に母にしっかり怒られた。

 

 

 

 そんなこんなで久々に薫の声を聞いたのは師走も半ばを過ぎた頃だった。

 

 

 

<つづく>

 

 



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第一章 出会い(四)

 その日は仕事が相手の都合で早々と終わり、実弥は珍しく日の沈む前に家路につくことになった。

 

 少し遠回りして、あの川べりを歩こうと思ったのは、いつものように急いで帰る必要もないからで、たまにそういう時間があってもいいだろうと思っただけで、特に薫に会うかもしれないということを期待していたわけではない。

 

 が、実際に目の前で屋台のおしるこ屋を、物珍しげに見ている薫に出くわすと、「いた」と心が叫んだ。

 

「食べてぇのか?」

 

 声をかけると、薫がびっくりしたように振り向き、またパッと笑顔になる。

 

「実弥さん、久しぶりですね!」

「おう……ってか、お前また昼飯抜きなの? まだいじめられてんの?」

「いえ、違います。最近はなくなってきたんです。きっと私が相手にしないので飽きたんでしょうね。仲のいいお友達も何人かできましたし」

 

 にこにこと笑う薫は、確かに以前に比べるとふっくらしている。悩みごとが少しは減ったらしいので、実弥もホッとした。 

 

「そりゃよかったな。で、なんでしるこ屋なんか覗いてんだ?」

「しるこ屋っていうんですか。ああ、これ汁粉って言うんですね。いえ、いい匂いがしてきたので、何のお店かと思って」

「食べたことないのか?」

「ない…と思います」

「なんだそりゃ」

 

 言いながら実弥は暖簾をひらりと上げて、「汁粉ふたつ」と中で煙草を吸っていた親父に声をかけた。

 薫はきょとんとして立ちつくしている。

 

「なにしてんだよ。入れよ」

「いえ。でも…私、お金を持ってないですから」

「こんな外れの屋台のしるこぐらい奢れらぁ。ただし、味の期待はすんなよ。どうせしるこっていうより小豆汁程度だろうからな」

「てめぇ、坊主。言いたい放題いいやがって」

 

 親父がギロリと睨んだが、実弥はケッと笑った。

 

「本当のこったろ。悔しけりゃ、このお嬢さんの分くらい、白玉のおまけでもつけろよ」

「口減らずなガキだぜ」

 

 言いながら親父は丼に汁粉を注いでいる。

 

「早く、入れって。もう頼んだんだから」

 

 薫はおずおずと中に入ると、実弥の隣にちんまりと座った。

 きょろきょろと見回す。

 

「私、こういう所初めてです」

「へぇ」

「入ってみたかったんですけど、ヒサに止められて」

「だろうなぁ……」

 

 答えながら、実弥の脳裏に前に見た老婆の顔が浮かび、志津に言われたことを思い出したものの、事ここまでくると今更無視することもできない。

 

 丼にたっぷり入った汁粉が目の前に置かれると、薫は嬉しそうに微笑んだ。

 

「すごい。いただきます」

 

 きちんと手を合わせてから、ずずずと啜る。

 実弥も久しぶりに啜ると、場末の屋台にしてはよくできた味であった。

 

「……美味(おい)しい!」

 

 薫が驚きの混じった歓声をあげると、親父はいい気分になったのか、「かわいいお嬢さんにはおまけだよ」と、白玉を三つ、丼に入れてくれた。

 

「あ、ありがとう…ございます」

 

 薫は箸で白玉をつまむと、つるりと口に入れ、また汁粉を啜った。

 

「おいしいです。それにあったかい」

 

 確かに湯気の立つ汁粉は、からっ風に冷えた身体には甘くて温かくて、最高の食べ物だった。

 

 実弥はいつもの早食いの癖で、ものの数分で飲み終えると、横で顔を真っ赤にして汁粉を啜る薫をチラと見た。

 

 髪が伸びて、以前は額におりていた前髪も例のリボンというやつで、きれいに後ろにまとめられている。 

 いかにも賢そうな形のいい白い額と、ツンと伸びた鼻筋は大人びて見えた。

 だが、ぽってりしたやや下膨れの頬と、ぷっくりとした唇は、まだ幼さを残している。

 

 ふぅー、と息ついて薫は丼を置いた。

 

「ごちそうさまです」

 

 手を合わせると、親父に向ってにっこり笑った。

 

「おいしかったです、ありがとう」

「ハハ。そりゃよかった。いつでも食いにきな」

 

 実弥は親父に十銭渡し、暖簾をくぐった。

 途端に北風が顔を打ちつけ、ぶるりと身を震わせた。

 

「寒いけど、お腹は温かくなりましたね」

 

 横で薫が上気した顔で微笑む。

 一瞬だけ目が合って、実弥はあわてて視線を逸らせると、川沿いに歩き出した。

 

「あ、あの実弥さん」

 

 薫が追いかけてくる。「おしるこ、おいくらだったんですか?」

 

「いらねーよ。たいしたことないっ()ってんだろ」

 

 言い方が多少乱暴になったのは、薫のせいではない。

 実弥自身、どうしてこんなに焦ったような、苛々するような、もどかしい気持ちになるのかがよくわかっていない。

 

 足早に歩いていると、薫が後ろから叫ぶように言った。

 

「実弥さん、私、ここで実弥さんに会ったことがあるんですよ!」

「………は?」

 

 また妙なことを言い出した。

 実弥の足が止まり、振り返ると、薫が小走りに駆け寄ってくる。

 

「ここで会ったことがあるんです」

「そりゃ、会ったろ。前に」

「そうじゃなくて。私が森野辺の家に来て間もない頃です。だから、三年くらい前でしょうか」

「三年前?」

 

 実弥は記憶を探ったが、正直その頃はクソ親父が生きていて一番家が荒れていた頃なので、思い出したくもないこと以外は、まったく思い出せない。

 

「……わかんねぇ」

 

 ボソリとつぶやくと、薫は一瞬しょんぼりした。

 

「そうですよね。実弥さんはお忙しいから……覚えてられないですね」

 

 落胆をすぐに打ち消すように、無理やり笑った顔が痛々しくて、実弥は一応聞いてみる。

 

「三年前の、いつ? 今ぐらいか?」

「正月を過ぎたくらいだったと思います。私、ふらふらとここまで歩いてきたんですけど、迷子になってしまって、実弥さんが家の近くまで送ってってくれたんです」

「うーん」

 

 必死になって思い出そうとする実弥に、薫は今度は本当に笑った。

 

「いいんです、いいんです。そんなに大したことじゃないですし、私もさっきまで忘れていたくらいなんですから」

「なんだよ、お前も忘れてたのか」

「えぇ。ここで川を見てて、そういえば最近実弥さんに会ってないなぁ、と思って、実弥さんのこと考えてたら、徐々に思い出してきて……」

「…………」

 

 またムズ痒い気持ちになってくる。

 

 実弥は再び歩きだすと、後ろからついてくる薫に尋ねた。

 

「お前さぁ、こんなとこ来てていいのか? またババァ……じゃねぇ、ばぁやさんとかに叱られるんだろ」

「叱られますけど……最近は私がここに来ているっていうのはわかっているので、大目にみてもらってます。遅くならないように帰ることにしてますし」

「なんでこんなとこ来てるんだ? なーんもないだろ、ここ」

 

 賑わしい通りから一本奥に入った、侘しい道の先にあるただの小さな川だ。

 土手は春になれば土筆が出るが、今の季節など枯れ草が延々続くだけで、何の賞でる景色もない。

 

「川を…流れを見てるだけですよ」

 

 そんなことを前にも言っていた。

 

「それ、楽しいのか?」

「楽しいわけじゃないですけど……」

 

 薫は言いあぐねて、ふっと川の方を眺めた。

 

「…………見てたら、自分が消えてくから…」

「は?」

 

 聞き返して、実弥はギョッとした。

 

 薫の白い横顔は無表情で、死人のようだった。

 だが、それは瞬きの間になくなって、いつものはにかんだ笑顔に戻った。

 

「勉強するのに疲れたら、気分転換に来るんです。たまにこうして実弥さんにも会えますしね」

「まぁ……好きにすりゃいいけどよ」

 

 自分に会いに来ているわけでないのはわかっていたが、さっきの表情が気になった。

 ここであんな顔して川の流れを見ていて、一体こいつは何を考えているのだろう…?

 

 頭上を鴉が鳴いて飛んでいく――――。

 

「それじゃ、そろそろ帰ります。ごちそうさまでした」

 

 薫は丁寧に頭を下げると、山の手の方へと歩いてゆく。

 釈然としないまま実弥は見送りかけたが、あっ、と思い出したことがあった。

 

「あ…おい! 薫!」

 

 大声で呼びかけると、薫が振り向いた。

 

「おはぎ、うまかった! ありがとな」

 

 逆光で薫の表情はわからなかったが、何度も大きく振る手に嬉しそうな顔が想像できた。

 

 

 そのまま薫の姿が消えるまで見送ると、実弥はふと後ろを流れる川に目をやった。

 

 ―――――自分が消えてくから…

 

 ささやくように言った、あの言葉はなんだったんだろう?

 

 しばらく見ていたが、川はただ流れているだけで、何の答えもない。

 風がビュウと吹いてうなじに寒気が走る。

 

「帰ろ……」

 

 随分長い遠回りになったと思いつつ、実弥も家路についた。

 

 

◆◆◆

 

 

 数日後、志津が真新しい道中財布を渡してきた。

 怒ったような顔をしている。

 

「なに、それ?」

「お嬢様があなたにって」

「へ? なんで」

「あなた、お嬢様におしるこ奢ったらしいじゃないの。せっかくごちそうしてもらって、お金を返すのも悪いからって、わざわざ作ってくださったのよ」

「へぇ…」

 

 言いながら受け取ると、藍地に刺し子刺繍された道中財布で、留め具が硬貨でなく、ボタンのようなものが縫いつけらていた。

 そのボタンにも刺し子が施されてある。

 

「器用なもんだな」

 

 実弥は感心すると、腹掛につっこんだ。

 

「実弥」

 

 志津はいつになく厳しい顔になっている。

 

「なんだよ」

「もう、だめよ。お嬢様に会っちゃ」

「別に会おうと思って会ってんじゃねぇや。たまたまだよ」

「お嬢様ね、縁談が来てるんですからね。妙な噂にでもなったら大変なんですから、控えて頂戴よ」

「……へぃへぃ」

 

 軽く返事をしながら、実弥はその場から立ち去った。

 

 正直なところ、頭から冷水をぶっかけられたような気分だった。

 

 いつまでも子供なのは自分の方だったのかもしれない…。

 

 薫は成長し、どんどん進んでいく。

 本人は望まなくとも、森野辺(もりのべ)の跡取りとしての責任を果たさなければならず、薫はそれを微笑んで受け容れるのだろう。

 

 きっと、今までもそうであったように……。

 

「あー………クソッ…!!」

 

 壁を殴りつけて、実弥は長い溜息をついた。

 

 きっともう会えない。

 会っても、無視するしかなくなってしまった。

 

 重苦しい気持ちが、胸にズンと沈む。

 懐からさっき貰った財布を出して憂鬱な顔で眺めた。

 

 いっそ捨てようか。

 取り出して見る度に、この気持ちが自分を不愉快にしそうだ。

 

 ―――――川を…流れを見てるだけですよ

 

 もしかすると、薫もまた自分でもどうしようもない気持ちを抱えて、川の流れを見ていたのだろうか。

 

 実弥は再び財布を懐に入れると、家に戻った。

 

 一瞬見せた、薫の白い横顔がいつまでも胸の内に居座り続けた。

 

 

 

<つづく>

 

 



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第二章 変調(一)

 その日、志津は体調が悪いようだった。

 学校から帰ってきた薫は、顔色の悪い志津に休むように言ったのだが、大丈夫ですよ、と仕事を続けていると、急にばたりと倒れた。

 

「志津さん!」

 

 倒れるところに出くわした薫が駆け寄ると、志津の顔色は白く、冷や汗をかいている。

 

「辰造さんを呼んで! トヨさん、どこか寝かせられるところはない? なければ私の部屋でもいいけど」

「何言ってんですか、お嬢様! とんでもないですよ」

 

 トヨはあわてて女中部屋へと、志津を抱えた辰造を案内した。

 住み込みの女中達の部屋は、昼日中でも薄暗く、湿気がちで空気が籠もっていた。

 トヨが布団をひいて、辰造が志津を寝かせると、いつのまにか入り込んでいた薫が心配そうに志津を覗き込んでいる。

 

「大丈夫かしら…志津さん」

「コイツもなかなか休まねえですからねぇ」

 

 辰造は訳知った顔で、嘆息する。

 

「まぁ、子供を七人も抱えていたら、どうしたって無理をしないとやってけないんでしょうが。昼ウチで働いた後に、夜からも居酒屋だかそば屋だかで働いているようだし」

「辰さん、アンタ飲みに行って迷惑かけてんじゃないだろうね」

 

 トヨがジロリと睨む。

 辰造は肩を竦めると、立ち上がった。

 

「やれやれ、こんなトコにいたら、他の女連中にドヤされらぁ。あっしは失礼しますよ。お嬢様。まだ、旦那さまに言いつけられた仕事が溜まってるんでね」

 

 辰造が女中部屋を出ていくと、トヨが閉まった扉に悪態をついた。

 

「なに言ってんだか。さっきだって、蔵の中で船こいでたくせに」

 

 薫はクスクス笑った。

 

「まぁ、辰造さんもお父様から色々と頼まれておいでだから、少しくらいは休憩しないとね」

「甘いですよ、お嬢様は。旦那様も奥様も」

 

「それよりトヨさんもお仕事あるのでしょう? いいわよ、私がみているから」

「そんな、お嬢様にそんなことさせたら、ヒサさんになんて言われるか。それに今日はピアノのお稽古がおありでしょう?」

「ばぁやは今日は風邪をひいて寝てるから大丈夫よ。それとピアノは今日はなしよ。先生の体調がよろしくないんですって。だから今、この家で一番暇なのは私なのよ」

「でもぉ…」

「ホラ。愚図々々してたら、また遅くなっちゃう。今日は、トヨさんも忙しいのでしょ?」

 

 含み笑いで言う薫に、トヨは真っ赤になった。

 実のところ、仕事が終わったら会う約束をしている男がいるのだ。

 

「ま、お嬢様。どこでそんなこと」

「スヱちゃんとヨネちゃんが話してたのよ。二人ともニヤニヤしていたわ」

「あの子達はもおぉ………」

「だから、志津さんのことは私に任せて。お仕事、お願いします」

 

 薫はニコニコ笑いながら、トヨの肩に手を置くと、扉の方へと押していく。

 

「すいません。それじゃあ…用事を済ませたらすぐに参りますので」

 

 トヨはペコペコと頭を下げながら、暗い廊下を戻っていった。

 

 薫は志津のもとに戻ると、青白い顔をまじまじと眺めた。

 ちょっと痩せたように思う。

 

 最近の志津は、どうしてだか神経質になっている気がした。

 薫には理由はわからない。

 昼も夜も働かなければならないほど、生活が逼迫しているのなら一度父に相談してみればいいのに…。

 いっそ自分から直接父に言ってみようか。

 

「……う」

 

 志津が呻いて、ゆっくりと目が開いた。

 

「志津さん、大丈夫?」

 

 薫が尋ねると、志津はまだ朦朧としているのか、ぼんやりと天井を見つめていた。

 やがて視線が動き、薫を見た。

 

「あ、お嬢様。……私、私、倒れたんでしょうか?」

 

 そう言って無理に身体を起こそうとするのを、薫は止めた。

 

「まだ、起きてはだめ。……そうよ、無理しすぎ」

「すいません、お嬢様。私、こんな……介抱させたりして」

「具合の悪い人が気を遣うものじゃないわ。顔色も悪いし…ちゃんと食べてる? スヱちゃんが言ってたの。最近、志津さんがあんまり食べないって。ね…ちょっと待っててね」

 

 言いながら、薫はドアの方へと歩いていく。

 扉を閉める前に、再び志津に念を押す。

 

「ぜーったい、いてね。勝手に歩き回ったりしたら駄目よ。お嬢様が言ってるんだから、言うことをきいてて」

 

 いつもよりもちょっと横柄に言ったのは、そうでもないと志津が遠慮して、また仕事を始めてしまうだろうと思ったからだった。

 扉を閉めると、パタパタと走って厨房に向かう。

 

 今日はばぁやのヒサが熱を出して寝込んだので、既に粥を作ってあった。

 薫は粥を一膳分、小さな土鍋にいれて温めはじめると、戸棚から卵を取り出して、茶碗に入れてかき混ぜ、その鍋の粥の上に注いだ。

 

 ヒサは熱を出してあっさりしたものしか欲しがらなかったが、志津には滋養のある、力のつくものを食べさせたかった。

 細ねぎもあったので、これを細かく輪切りにして、粥の上に削ったかつお節と一緒にパラパラとふりかける。

 

 お盆に卵粥を載せて女中部屋に戻ると、志津はおとなしく待っていてくれた。

 

「あぁ、よかった。卵粥を作ってみたの。ちょっと食べてみて」

「まぁ、お嬢様。そんな、いけません。頂けません」

 

 志津は恐縮しきりだったが、薫はニコと笑いかける。

 

「わりと上手に出来たと思うの。それにさっき寝ながらお腹がぐぅぐぅ鳴っていたんだから。志津さんが食べたくなくても、お腹は食べたがってるのよ」

 

 嘘だったが、少しでも志津に食べさせるための方便だった。

 

 志津は遠慮しつつも、「では少しだけ」とれんげで粥をすくって食べた。

 温かい粥が喉を通っていくと、じんわりと身体が温まり、鰹節の旨味とごはんの甘さが口の中に広がる。

 

「おいしいです……とっても」

「よかった。でもやっぱり志津さんみたいに卵をふんわりできないのよ。どうしても火を入れ過ぎて、固くなっちゃって…」

 

 色々と失敗の多い志津ではあるが、卵料理だけは誰よりも上手なのだった。

 薫も以前に寝込んだ時に志津の作ってくれた卵粥を食べ、今日はそれを真似たのだが、出来上がりはまるで違っていた。

 

「でも、おいしいです。人に作ってもらうのなんて、久しぶり……」

「実弥さんは作らないの? 器用そうなのに」

「あの子は働いてくれてますから。せめてご飯くらいは私が作ってやりたいんです。苦労かけてしまって……」

「じゃあ今度、私、寿美ちゃんに教えてあげるわ。大丈夫。ごはん炊きぐらいはすぐに覚えるわよ。私も六歳の頃には出来てたんだから」

 

 志津はハッとした表情になり、れんげを持つ手が止まった。

 

「志津さん?」

 

 薫が問いかけると、志津はれんげを茶碗に置いて、うつむいた。

 

「すいません、お嬢様。あの……もう…もう、ウチには来てもらうことはできません」

「え?」

「すいません」

 

 志津は頭を下げた。

 いたたまれない様子だった。

 

「どうして……ばぁやが、何か言ったの?」

「いえ、そういう訳ではございません。ただ、私共のような住まいにお嬢様が度々いらしていることが知られて、それでお嬢様の評判を落とすようなことになってはいけませんから……」

 

 そこまで言われて、ようやく薫は思い当たった。

 

「縁談のことね」

 

 ふぅ、と溜息ともつかぬ吐息が漏れる。

 

「いったい、どこの奥方様が私なんて目をかけてくださったのか…」

 

 女学校にはしばしば、ご婦人や地方の名士などが授業参観にやって来た。

 その実は嫁探しで、たいがいの場合、目をかけられた生徒は卒業までに中退してそのまま結婚する。

 

「私なんて卒業面*だと、さんざ馬鹿にされて、むしろそうなればいいと思っていたのに…」

「そんな訳ございません。お嬢様を馬鹿になさる人は、皆様、目が曇っておいでなのです」

 

 怒ったように言う志津を見て、薫はクスリと笑った。

 

「志津さんったら。でも、結婚なんてもっと先よ。お父様はまだしっかり勉強して、十七くらいになってからだって仰言(おっしゃ)ってたわ。まだまだ先の話」

 

「でも、今度お見合いなさって、よろしければご婚約されるのでしょう?」

 

 薫は曖昧な微笑を浮かべた。

 

「わからない。会ってみたら、おむつの匂いのする子守あがりのご令嬢なんて、御免だと追い払われるかもしれないし」

「そんなこと!」

 

 志津は声を張り上げた。「お嬢様がどれだけ努力なさったか」

 

 それは志津が森野辺家に勤めはじめて間もない頃に、トヨから聞いたことだった。

 

 東北の田舎から引き取られた時にはどうしようもない訛りで、女中だった癖が抜けず、トヨにすらビクビクと気を遣っていたのだと。

 それを礼儀作法の先生から厳しく…それはもう時に鞭で打ち据えられることもあるほどに…厳しく矯正され、夜も眠い目をこすりながら必死に勉強に勤しんでいたという。

 

 志津は森野辺家に雇われて二年目の新入りで、その時にはもう薫は立派なお嬢様だった。

子守奉公をしていたところを、主の弟の忘れ形見として引き取られたのだと知った時には、驚きすぎて、大声を上げてしまい、ヒサにこっぴどく叱られたほどだ。

 

 薫は微笑を浮かべたまま、「そういうことか…」と独りごちた。

 志津が首をかしげると、寂しそうに話す。

 

「だって志津さん、最近、なんだか様子がおかしかったから。何かあったのかと思っていたけど……私が志津さんの心労の元だったのね」

「…………」

 

 志津はまたうつむいた。

 否定はできなかった。

 

 家に来ることも、実弥に会うことも、まして息子がどうやら薫に好意を寄せているらしいことも、志津には不安でしかなかった。

 もし、まかり間違って、実弥と薫にあらぬ噂でも立ってしまったら、志津はもうお屋敷にはいられないと思った。

 

「申し訳ございません、お嬢様」

「どうして志津さんが謝るの? 私の方が勝手なことして、迷惑をかけてたのに。謝るのは私よ。ごめんなさい。もう、志津さんの家に行くのはよしておくわね。だって、こんなことで志津さんが辞めなきゃいけなくなったら、その方が私、嫌だもの」

「お嬢様……」

 

 子供達と楽しそうに遊ぶ薫から、その時間を取り上げることを心苦しく思いつつも、志津にはこうするよりなかった。

 

「さ、志津さん。これでもう心配事はなくなったのだから、ちゃんと食べて頂戴」

 

 薫はハキハキと言って、茶碗に粥を注ぎ足した。

 

 

◆◆◆

 

 

 早く家に帰るように言ったのだが、結局、志津は倒れる前にやり残していた仕事を片付けて、とっぷり日が沈んでから帰っていった。

 

「大丈夫? 辰造さんに送ってもらったら?」

「いえいえ。もう、すっかり。お嬢様に作って頂いた卵粥のおかげで」

「そう。気をつけてね」

 

 薫は手を振った。

 勝手口から出て、角を曲がる前に志津が振り返って、頭を下げる。

 

 薫はもう一度、大きく手を振った。

 志津はおずおずと、小さく手を振り、また頭を下げて……帰っていった。

 

 

 薫の中で、志津の姿はその時の印象のまま止まった。

 

 それきり、二度と志津と会うことはなかった。

 

 志津だけでなく、寿美や他の子供達にも。

 

 

<つづく>

 






<単語説明>

*卒業面
 美人でない、という意味で使われた言葉。
 大正時代のこの頃、女学校は学び舎であると同時に、お嫁さん候補養成学校のような趣もあったようです。本文中にもあるように、学校には地方の名士や資産家などが参観に訪れ、そこではやはり美人から声がかかっていったそうで……。
 それなりの方々は、卒業までしっかり勉強に励んだということで、つまり、『卒業』まで居残った『面』をお持ちの方々ということで、一種、侮蔑を含んだ言葉として用いられたようです。





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第二章 変調(二)

 翌日。

 

 学校から帰ってきて、いつもなら一番に迎えてくれる志津がいないので、薫は身の回りの世話をしてくれているスヱ子に尋ねた。

 

「志津さんはどうしたの?」

 

 スヱ子は困ったように表情を歪めた。

 

「えっと、あの…おやすみです」

「おやすみ? あら、やっぱり昨日は具合がよくなかったのね。後で……」

 

と、言いかけて志津との約束を思い出す。

 

「そう、ね。あとで、一度様子を見に行ってくれないかしら?」

 

 薫が言うと、スヱ子は「えっ」と顔を引き攣らせた。

 

「あら、何か用事があるの? それだったらトヨさんか、ヨネちゃんでもいいけど……」

「それは……無理だと思います」

 

 スヱ子がビクビクしながら言うのを、薫は怪訝な目で見た。

 

「スヱちゃん、どうしたの? 何かあったの?」

「私は、知らないんです。辰造さんが見に行ったから……」

 

 そこまで言って、スヱ子は黙り込んでしまった。

 よく見れば、目の端に涙が光っている。

 

 ようやく、薫は事態がひどく不穏な気配を孕んでいることに気がついた。

 

 嫌な予感を打ち払いながら、部屋を飛び出すと、辰造を探した。

 

「トヨさん、辰造さんは?」

 

 玄関で革靴を磨いているトヨを見つけて尋ねると、トヨもまた困ったような顔で薫を見た。

 

「あ、お嬢様。えと、辰造は…ちょっと……出ております」

「何処に?」

 

  いつもなら聞かないようなことを聞いてしまったのは、妙な胸騒ぎがしてならないからだ。

 

「ど、どこって…」

「志津さんに何かあったの?」

 

 トヨは顔を伏せた。

 

「私には……わかりません」

「トヨさん!」

 

 言ってる間に勝手口から入って来ていたらしい辰造が、ふらりと廊下に現れた。

 

「辰造さん」

 

 薫が声をかけると、辰造はあっと叫んで、あわてて立ち去ろうとする。

 

「待って!」

 

 薫は辰造の袂を掴んだ。

 

「なにかあったの? 志津さんに」

 

 辰造はトヨと目を見合わせた。

 

「いやあ、まだよくわからねぇんで…」

「わかっていることだけでも教えて!」

「……どうも、物盗りだか何かに襲われたらしくて。志津の行方はわからねぇんです。ただ、あすこの家が…そのぉ…」

 

 辰造は言い淀んで、「お嬢様」と薫の肩に手を置いた。

 

「気をしっかり持って下さいよ。志津ン()の子供は殺されたんです」

「……………」

 

 そこから―――薫の記憶は曖昧になった。

 

 まるで水の中にいるかのようだった。

 辰造達の声がくぐもって、はっきり聞こえてこない。

 

 どうやら自分は、辰造から志津の家が襲われ、子供達が殺されたという事を聞き、外に飛び出そうとした。

 

 それを辰造とトヨが必死に止める。

 

 そこに父が現れる。

 

 辰造とトヨから志津一家の不幸と、実は薫が不死川家に出入りして、子供達と知り合いだったことを聞く。

 

 父は驚きながらも、冷静に薫を諭す。

 

薫子(ゆきこ)、お前の気持ちもわかる。だが、今行ってもできることは少ないだろう。とりあえず辰造達に状況を調べさせるから、もう少し待ちなさい。ひどい顔色だ。トヨ、薫子を部屋に連れて行ってくれ。それと目を離さないように。この子はすぐに外に出るからね。今日ばかりは外出禁止だ」

 

 父は薫が度々、家人に言わずに外出することを知っていたが、大目に見てくれていたらしい。

 

 呆然としたまま顔を上げると、やさしく頭を撫でてくれた。

 いつも、何もかもお見通しであるかのような透徹した眼差しで、穏やかに薫を包んでくれている。

 この父の言うことには逆らえない。

 

 トヨが薫を支えながら、部屋へと歩き出す。

 背後で辰造と父が話している。

 

「ひどいもンですよ。まるで野犬にでも喰われたのかってな有様で。部屋中、血だらけの地獄絵図のようでした。男のあっしでも嘔吐(えづ)いちまって。しかしおかしなことに、そこには志津はいなかったんですよ」

「どういうことだい?」

「志津の他にも、上の二人…長男と次男がいなくて。行方不明なんでさぁ」

「それは…犯人に連れ去られたのだろうか?」

「よくわかりません。また後でもう一度行って聞いてみます」

「そうしてくれ。それにしても……薫子があんなに気落ちしてしまって、よほどそこの子供達と馴染んでいたんだね…」

「いやぁ…あっしは行かない方がいいと言ってたんですがね。下町のきったねぇ家だし、お嬢様にゃ似つかわしくないと…」

 

 だんだんと声が遠くなっていった。

 

 二階の自分の部屋へと階段を上っていっている。

 

 そうか。

 

 志津は行方不明なのだ。

 上の二人というのは、実弥と玄弥のことだろう。 

 

 もしかすると、生きているかもしれない。

 ―――――死んでるかもしれない。

 

 会えるかもしれない。

 ―――――会えないかもしれない。

 

 会いたい。

 ―――――会えない。

 

 促されるまま薫は寝台に横たわった。

 ぐるぐると目が回る。

 

「お嬢様、少しおやすみあそばせ」

 

 トヨがやさしく言う。

 

 目を瞑ると、寿美の顔が浮かんだ。

 そういえば寿美達にリボンを作ってあげたのだった。今度行く時に持っていこうと思っていたのに、志津との約束で行けなくなってしまった。

 

 ――――志津さんが来たら、渡そう……。

 

 急速に、睡魔が薫の意識を覆った。

 本当は寝たくなどないのに、なぜだかひどく粘りつくような眠気が襲ってくる。

 

 昏々とした眠りの中で、薫は寿美達と遊んでいた。

 いつもと変わらぬ日常は、夢の中に消えていった。……

 

 

◆◆◆

 

 

 次の日。

 

 薫はいつものように学校に行き、授業を受け、帰ってきた。

 

「あら、志津さんは?」

 

 思わず尋ねると、トヨがなんともいえぬ泣きそうな顔で言う。

 

「お嬢様、志津は参りません」

「そう……寿美ちゃん達にリボンを作ったから、渡してもらおうと思ってたのに……どこか具合が悪いのかしら?」

 

 トヨはヒッと息を呑み、パタパタと駆け去っていく。

 

 薫は不思議だった。

 何か驚かせるようなことをしただろうか?

 

 夕食後、父が教えてくれた。

 

「辰造が聞いてきてくれたよ。志津の上の息子達が家に一度戻って、弟妹達の遺体を、もう荼毘に付したそうだ。志津の行方については聞いたが、答えなかったそうだ」

「……そうですか」

 

 薫は返事をしながら、ふと思い出した。

 そう言えば、昨日、辰造が寿美達が殺されたと言っていたのだった。

 

 そうだった。

 殺された……死んでしまった。

 

 寿美も…貞子も、就也、弘…まだ小さな小さな()()も。

 

 薫は無意識にギュッと握り拳をつくっていた。

 少し伸びた爪が皮膚に食い込むほどに。

 

 だが、一方で。

 

「お父様、それではお墓参りに行くことは許していただけますか?」

 

 なぜだか冷静にそんなことを言っている。

 

 どうしたのだろう…?

 ちっとも悲しくない。

 心が、まるで、石になってしまったようだ。

 

 昔、実の母が亡くなった時も、自分はそういえば泣かなかった。

 

 ―――――冷でぇ(わらし)だ…。普通は親の遺体さ取りすがって泣ぎ喚ぐもんだ……

 

 後ろで非難めいたことを言われているのも聞こえていたが、何も感じなかった。

 

 自分は、冷たい人間なのだろうか……?

 

 父はしばらく考え込んでいた。

 

「いいだろう。ヒサと……いや、辰造と一緒に行っておいで」

「はい、それでは明日、学校の帰りに寄ってまいります」

 

 頭を下げながら、あのリボンを持って行って供えようと思った。

 もう、寿美達の髪を飾ることもなくなったが、約束したのだから、持って行ってあげよう。……

 

 

 

<つづく>

 



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第二章 変調(三)

 不死川家は元々は御家人の出で、維新後に没落したらしく、寺には立派な墓石があった。

 

 薫は花を持ってきたが、既に花立には白い菊が活けられていた。

 花立の横に供花を置き、その上に寿美達にあげるはずだったリボンを載せておいた。

 

 しゃがみこんで手を合わせながら、薫はまだなんの実感もなかった。

 

 まだ、あの家に行けば寿美達が待っている気がする。

 薫が来たら、貞子が飛びついてきて、弘が算術の教科書を持って上がり框で待ち構えている。

 寿美は()()をおんぶしながら子守唄を歌い、就也は聞き齧った落語の文句を諳んじている。……

 

 目を開くと、後ろで待っている辰造に言った。

 

「ねぇ、家に行くことはできる?」

 

 辰造は途端に渋面になった。

 

「お嬢様…そいつぁ、いけません。それに、大家がもう戸に板を張り付けて、中に入れませんよ」

「……外から見るだけでいいの」

「見ても……なにもないんですよ」

「なにもないなら、見てもいいでしょう?」

「……お嬢様…?」

 

 辰造は恐ろしくなってきた。

 目の前で能面のように固まった顔の娘は、いつも朗らかに笑っていたお嬢様と同じ娘だろうか?

 

 辰造の返事を待たずに、薫は通い慣れた不死川家に向かって歩き出した。

 寺からの距離はそう遠くない。

 早足で歩く薫に、辰造は息を切らしながらあわててついていく。

 

 いつも子供達の喧しい声が聞こえてきていたその家は、今はシンと静まり返っていた。

 何枚もおむつの布が翻っていた物干しにも、何もない。

 辰造が言っていた通り、玄関の障子戸には板が打ちつけられて、入ることができなくなっている。

 

「…実弥さん達は?」

 

 これではもうここに住むことはできない。

 実弥達はどこに行ったのだろう? 行方不明の志津を探しに行ったのだろうか?

 

 辰造は首を振った。

 

「妹達の骨を納めた後、どこかに行っちまったらしいです。働いてたっていう問屋にも行ってみたんですが、何処に行ったかまったく……」

 

 皆、消えてしまった。

 

 無表情に固まった頬に、雪颪(ゆきおろし)がみぞれを打ちつけた。

 

 薫は踵を返すと、大通りへと戻っていく。

 この道を通ることはもうない。

 あそこには誰もいない。

 誰も薫を待っていない。

 懐かしさを惜しむものすら、残っていないのだろう……。

 

 一度も振り返らずに、足早に歩いていく。

 

 辰造はいよいよ心配だった。

 もしかすると薫が泣き崩れて気を失うのではないか、と(おもんぱか)って、子爵は辰造について行くように言っていた。

 しかし案に相違して、薫はまったく泣くこともなく、いっそ冷たいほどの無表情で、今もしっかりした足取りで歩いている。

 悲しみを見せないように気丈に振る舞っているのか、それともなんにも感じていないのか…?

 

 辰造には薫の心境を推し量ることは出来なかった。

 

 ふいに、薫が足を止めた。

 

 じっと見つめる先には乞食がいる。何事かをブツブツと呟いていた。

 ゆっくりと引き寄せられるかのように、薫は乞食に近寄っていく。

 

「お嬢様!」

 

 辰造はあわてて薫の腕を掴んだが、

 

「……辰造さん」

 

 振り返った顔は目を見開き、蒼白で、なんの表情もない。

 

「離してちょうだい…」

 

 静かだが、異様な迫力だった。

 辰造は思わず離してしまった。

 

 乞食は空を仰いで、ブツブツとつぶやいていた。

 

「あれは…鬼。鬼だァ…。ち、ち、ち…血まみれ。一面、血まみれ。俺は見た…俺は見たァ…」

「何を、見たの?」

 

 薫が尋ねると、乞食はゆっくりと視線を下ろし、じいぃと薫を凝視した。

 

「………何を見たァ?」

 

 乞食が聞き返す。

 薫はやさしい声音でもう一度問いかけた。

 

「あなたが言ってたの。俺は見た、って。何を見たの?」

「ああァァ…見たァ。俺は、見たァ。鬼だ。鬼が…殺した。子供を…あそこの家の子供……殺された。ピョンピョン…ピョンピョン…跳ねて、飛んで…あっという間に殺したァ」

 

 その乞食の言う子供達の顔がすべて思い浮かぶ。

 薫は叫びたい気持ちを抑えて、辛抱強く尋ねた。

 

「……それで?」

 

 乞食はカクカクと首を左右に傾げながら、不思議そうに薫を見つめる。

 

「その()は、どうしたの?」

 

 薫が訊くと、途端にブルブルと手が震え始める。

 その時のことを思い出しているのだろうか……

 

「ガキが…来た。鉈持って、鬼…こ、こ、殺した。ここだ。ここで…。そら、そこに血が……」

 

 乞食が指差す先に、赤黒くなった土がある。土が血を吸ったようだ。

 

「後から、またガキが来た…。朝になって…そいつは…死んだ母ちゃんの死体に縋りついて…ワァワァ泣いた。オンオン泣いた…。鬼殺したガキが…母ちゃんの死体のそばで…血まみれだった……。母ちゃん母ちゃん…ガキが何度も叫んで……死体がボロボロ崩れてったァ…。ボロボロ、ボロボロ、散ってった。散ってったァ……ガキどもも、みんな、みィィんなァ、散ってったァ……ボロボロ、ボロボロ………ボロボロ」

 

 言いながら乞食は舞い落ちてくる雪を掴む。

 立ち上がって、フラフラとあちらこちらに歩き回っては、雪を掴む。

 掴んでは溶けて消えるのがわからぬように、首を何度もカクカクと傾げていた。

 

「お嬢様」

 

 辰造は後ろからそっと囁いた。

 

「ヤツの言うことをまともにとっちゃあいけません。こいつぁ、ちぃとばかし頭の様子がおかしいヤツなんです。どっからか来て、日がな一日、出鱈目なことばかりくっちゃべってやがる」

「………そう」

 

 薫は固い表情のまま返事をすると、(むしろ)の前にある欠け茶碗に、銅貨を一枚入れた。カランと乾いた音がしたが、乞食は気付かず、まだ雪の中をウロウロとさまよっていた。

 

「俺は見たァ。俺は見たァ。鬼だァ…鬼…ガキが殺した……母ちゃん、母ちゃァん……死んだ…死んだ…ボロボロ散った、ボロボロ、ボロボロ……」

 

 天を仰いで、訴えるかのようにつぶやいている。

 

 鈍色の空はどんよりと重い雲が垂れている。

 雪の勢いが増してきた。おそらく今夜は積もるだろう。

 二三歩、歩きかけて、薫は振り返った。

 

 色を失っていく町。

 ある日いきなり、何も言わずにいなくなる…。

 ただ…明日の約束だけを残して。

 

 踵を返し、薫は歩き始めた。

 

 

◆◆◆

 

 

 甚だ信用できなかったが、辰造は屋敷に戻った後、その乞食の語ったことを主人に報告した。

 

 森野辺子爵はしばらく考え込んだ。

 

「まぁ、鬼というのは殺人鬼というくらいだ。彼なりの比喩なのだろう。しかし、彼の言っていることが本当なら、志津は殺されたということか…? 生き残った子供達は母親の死を看取ったのだろうか……」

「わかりゃあせん。あっしが一番上のガキに聞いた時にゃ、返事もしなかったもんで」

「それは無理ないことだ。いくら長男とはいえ、まだ子供だろうし、目の前で親を失って平静でいられるわけもない」

 

 子爵はその後も実弥達の行方を調べさせたのだが、杳として知れず、諦めざるを得なかった。

 

 一方、薫は日常を取り戻しつつあった。

 学校から帰ってきたとき、出迎えてくれる志津の姿がないことにも、徐々に慣れていった。

 端切れ屋で自分には可愛すぎる生地を買うこともなくなった。

 

 それでも時折、川べりの道を歩いている時に、橋の上を大八車が勢いよく通り過ぎるたび、それを曳いている少年の姿を探した。

 人違いだとわかるたびに、心の軋む音が聞こえた。

 

 

 

<つづく>

 



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第二章 変調(四)

薫子(ゆきこ)さん、お見合いをするのですって?」

 

 会うなり、浮き立った様子で言ってきたのは、薫のピアノの先生であるところの明見(あけみ)侯爵夫人・千佳子(ちかこ)だった。

 

 志津らの()()から、一ヶ月。

 まだ少し肌寒さの残る早春の午後のこと。

 

 ピアノの稽古に訪れた薫は、挨拶する間もなく問われて、

 

「え? ……あ、はい」

 

と、戸惑いつつも頷いた。

 

 千佳子はパンと手を合わせて、うっとりと喋りだす。

 

「まぁ、ステキ。私、心配でしたのよ。あなたのお生まれだと、なかなか貰ってくださる殿方はいらっしゃらないのじゃないかしら、って。でも、よかったわ。見る方はちゃんと見ていてくださるのね。十二でもうそんなお話が舞い込むのですもの。もし、破談になったとしても、きっと卒業までにはお相手が見つかりますよ」

 

 後ろで控えていた付添のスヱ子は、無邪気にひどいこと言っている千佳子にいい気分はしなかったが、薫は笑っていた。

 

「そうですね。もし、決まったとしても、私、卒業まではいるつもりですし」

「あら、そうなの? どうして?」

「色々と学びたいこともございますし……」

「まぁ、薫子さん。おやめなさい。貴方(あなた)も、例の騒々しい女達のように、やれ自由だとか言い出すのではないでしょうね? ご自分の容姿に引け目のある方に限って、やたらと頭でっかちになって、声が大きいこと!」

 

 千佳子は当年二十九になるが、未だに立てば芍薬…と形容されるほどに、麗しい美貌の主である。

 小さい頃から可愛い、美しいと持て囃され、本人も何一つ謙遜することなく、自分が美人であると思っている。

 なので、言っていることはまったく痛烈な皮肉であっても、当人にはまるでその気はない。

 

 薫は苦笑しながら、鞄から楽譜を取り出すと、譜面立てに並べた。

 

「千佳子様のような才能があれば、よろしいのですけれど、私は何もできませんから」

「あら、そんな。随分と上達されましてよ。ピアノ以外にもお琴だとかも習っているのでしょう?」

「あくまで習い事程度、です。千佳子様のようにはできません」

 

 天は二物を与えず…とは言うが、千佳子にかかっては、その美貌に神様も陥落したのか、ピアノは今もこうして薫に教えることができるくらいであるし、絵を描かせても上手で、実際にもらっていく人も多い。

 

 お金に困っていれば、絵描きとなり、売り(ひさ)いで稼ぎとしていたであろうが、千佳子のような環境ではお金をもらうなどはしたないと、欲しがる人にはあげてしまっているらしい。

 

「それこそ、勉強なんてつまらないものをしているからですよ。私は十七の歳には結婚して、今の生活でしたのよ。存分にピアノも弾けて、絵も描けて。薫子さんも早々に結婚なさって、そうしてご覧なさい」

「……左様でございますね」

 

 薫はとりあえず返事をして、椅子に浅く腰掛けると、鍵盤に指を置いた。

 

 千佳子に言われておさらいしたところを弾き始める。

 父母の要望で始めたピアノだったが、初めてその音色を聴いた時には、世の中にこんな愛らしい音色と恐ろしい音色で鳴る楽器が存在するのか、と驚いたものだった。

 

 その時、千佳子が弾いてくれたのはベートーヴェンの『悲愴』というソナタだった。

 最初、荘厳で厚みのある音の洪水に薫はびっくりし、父の腕に掴まって固くなっていたが、やがて優美な曲調になると、その穏やかで美しい旋律に、一気にピアノが好きになった。

 いつか自分も千佳子のように弾きたいと、数ある稽古の中でも特に時間を費やして練習をしている。

 

 弾き終えると、千佳子は腕組みして頷いた。

 

「まぁ、いいでしょう。大したものよ、薫子さん。ここまで来れば弾ける曲も増えてきますよ。練習曲だけでは面白くないでしょうから、ドビュッシーなぞも弾いてみるとよろしくってよ。古典派と違った表現が楽しめますからね…」

 

 千佳子は言いながら本棚からいくつかの楽譜を取り出してくる。

 

 薫は窓の外に目をやった。

 

 こぶしの白い花がもう咲いている。

 春まだ浅く、桜の開花前の時期に咲くこぶしの花は、桜のような華やかさはないが、可憐であった。

 

 志津の家に行く時に、道中、咲いていたことを思い出す。

 そういえば、あの家を初めて訪ねたのは、ちょうどこの時期だった。……

 

「そういえば、貴方、ベートーヴェンのソナタで気に入ってらっしゃったのがあったわね」

「はい。『悲愴』の第二楽章です。初めて千佳子様の演奏を聴いてから、ずっと弾いてみたいと思っていて…」

「そう。じゃあ、レパートリィに加えなくてはね。新しい練習曲にしましょうか」

 

 千佳子は楽譜を譜面台に置いて、ニッコリと微笑む。

 西施楊貴妃もかくやという笑顔だ。

 だが、ただ美しいのではなく、こうして薫の好きな曲を覚えていてくれたりもする細やかな心遣いが千佳子の美しさのゆえんだと薫は思った。

 

「はい」

 

 返事をして、ピンと背筋を伸ばす。

 ようやく自分の目標としていた曲が弾けることが嬉しかった。

 柔らかく鍵盤に指を下ろす。

 

 たどたどしい旋律が窓から漏れ出していた。

 

 

◆◆◆

 

 

 石塀にもたれかかりながら、実弥はその音色をしばらく聴いていた。

 上手いのか下手なのかは、よくわからない。

 

「おーい。どこ行ってんだよ。探したぞ」

 

 のんびり呼びかけられ、実弥が閉じていた目を開くと、黒い詰襟の、奇妙な服を着た同じ年頃の男が近づいてくる。

 

「なんでこんなトコいるんだ?」

 

 男はキョロキョロと落ち着きなく辺りを見回した。

 

 屋敷…と呼ぶに相応しい豪邸ばかりが並んだ高級住宅地だ。

 雑多な声が飛び交う下町と違い、人影のほとんどない閑静な道。聞こえるのは鳥のさえずりと、木々の葉擦れの音。時々、遠くから大工が木槌を打つ音が響いてくる程度。

 完全に場違いだ。

 警察官にでも見つかって、職務質問など受ければ面倒になりかねない。

 

 早々に立ち去りたかったが…

 

「別に……」

 

 実弥はそう言って、動かない。

 

 たまたま、だった。

 目の前の男に言われた待ち合わせ場所に向かって歩いていると、先の方に見知った顔が見えた。

 

 ―――――薫…?

 

 薫は女中を連れて、どこかに向かっていた。

 

 声をかけるつもりはない。

 志津からも言われたように、元から声をかけられる間柄でもなく、今はもっと遠くにいる。

 

 それでもなんとなしに後を尾けてしまったのは、自分でも面倒な感情だった。

 

 一度、志津の忘れ物を届けに行った時に見た森野辺の屋敷よりも大きな、巨大な門構えの家に入っていく。

 もしかすると例の婚約者とやらの家なのだろうか。

 じくり、と腹の奥底が鈍く痛んだ。

 

 どうすることもできないまま、門から続く石塀伝いに歩いていたら、聞き慣れぬ音が聞こえてきた。だが、耳障りではない。むしろ、ずっと聴いていたいような…懐かしさすら感じる音色。

 

「………これ、なんの音だ?」

 

 実弥が問いかけると、急に訊かれた男は「えぇ?」と、聞き返す。

 

「聞こえてくるだろ、なんか」

 

 男は静かに耳を澄ませた。

 鳥の鳴き声にまじって、流れるような音曲が聴こえてくる。

 

「これって……ピアノじゃないか?」

 

 男は昔、学校かどこかで聴いたことのある音色を思い出す。

 

「ピアノ……?」

 

 実弥はつぶやいて、そういえば寿美が話していたことを思い出した。

 

 ――――知ってる? 薫子お嬢様はね、ピアノが弾けるんだよ。とっても綺麗な音色なんだって。今度、聴かせてもらうんだ。

 

 そんなこと叶うわけもない、と思ったが、今はもしかするとどこかで妹達は聴いているのかもしれない……。

 

「確かオルガンに似たやつだったけど……でも、ぜんぜん違うな。こっちはなんか、もっとすずやかな音色だ」

 

 男は風にのって聴こえてくる曲の節をフンフンと鼻歌で歌う。

 

「下手くそ」

「なんだよー。いい曲じゃないか。やさしい感じの」

「………そうだな」

 

 実弥が静かな声で同意するのを、男は意外そうに見つめた。

 

 会ってからずっと、触れるものをすべて斬って棄ててやると言わんばかりの尖りようだったが、今は少し穏やか…というか、落ち込んでいるようにも見える。

 人混みの中、実弥の姿を見つけてなんとか尾いて行ったのだが、その実弥もまた誰かの後を追っているようだった。

 

「なぁ。誰か、会いたい人とかいるんだったら…」

 

 男が言いかけると、実弥は憮然として否定した。

 

「いねぇよ、そんなもん。行くぞ」

 

 きっぱり言って、スタスタと歩き始める。

 

「おい、いいのか?」

 

 男はあわててついて行き、尋ねたが、返事はなかった。

 

 途切れ途切れにピアノの音が聴こえてくる。

 さっきはやさしいと思ったが、よく聴くと、なんだか物悲しい響きだった。

 

 

 この後、不死川実弥は鬼殺隊に入るため、育手のもとに向かう。

 その育手を紹介したのがこの男、粂野匡近であった。

 

 この時、実弥は確信していた。

 

 もう二度と、薫に会うことはないだろう…と。

 

 あまりにも隔たってしまった。

 届かないほどに遠くに。 

 

 

 その別れは、実弥の覚悟だった。

 

 

 

<つづく>

 



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第二章 変調(五)

 ソメイヨシノが散り始め、山桜が濃いピンクの八重の花を咲かせた頃、薫は人生で初めてのお見合いというのをすることになった。

 

 とはいえ、まだ十二歳で、結婚ができるまでは三年近くある。

 あくまでも今回は顔合わせということだった。

 無論、そう言いつつも周囲を固められていっていることは間違いない。

 

 相手は同じ子爵で、八津尾(やつお)家の嫡子の明宣(あきのぶ)という、薫よりも七歳年嵩の青年である。

 当日、薫は母からもらった晴れ着に身を包みながら、どこか虚ろだった。

 

 皆が笑顔だった。

 薫も笑顔にならなければ、と、いつも以上に気を遣った。

 それでもふと気を抜くと、ぼんやりとしてしまう。

 ヒサが気付いては、『お嬢様』と、小声で叱咤した。

 

「まぁ、私、女学校で薫子(ゆきこ)様を見た時に驚きましたのよ。同級生の中で一番、落ち着いてらして、大人びてらして、同じ年頃のお嬢様方が随分と子供っぽく見えましたよ。明宣は気の優しい子ですから、あまり(かまびす)しい方もどうかと思って。本人も同じ年頃のお嬢様だと緊張すると申しますし、それなら年下の方がよろしいかと……ホッホッホッ」

 

 女学校で薫を見初めたらしい八津尾子爵夫人・時子が、腹の肉を揺らして笑う。

 

 隣にいる明宣はいかにも貴公子然とした、柔和な面差しの男だった。今は帝大に在籍して、法律の勉強をしているのだという。

 丸い眼鏡の奥からチラと薫の方を一瞥したが、すぐに目を伏せた。

 

 薫もまた微笑を張り付かせたまま、やや俯き加減で止まっている。

 一応、目の前には食事が用意されていたのだが、まったく手を付けていなかった。

 

「………ですからね、いずれは洋行などもあると思いますのよ。薫子さんがピアノをしたいとおっしゃるなら、向こうで外国人の先生に師事なさるのも……」

「明宣様は、将来は判事になられるのですか?」

「もちろん、結婚は女学校を卒業してからでも…。当世はそういう方も多くてらっしゃるから………」

 

 当人達を置いてけぼりにしたまま、母達の談笑が続く。

 

 薫はただただ静かに時が過ぎるのを待っていた。

 

 自分の目の前で交わされる会話がすべて、あの日、寿美達の死を知った日のように、くぐもって聞こえる。

 現実感がない。

 座っていながら、この部屋のどこにも自分はいない。

 ただ、遠くに…遠くから、隣で朗らかに話している声が微かに聞こえる。

 

 まるで水の中にいるかのよう…そんなことを思った途端、死んだ母親の声が脳裏にこだました。

 

 ―――――ごめんねぇ…ごめんねぇ……薫

 

 ほとんど忘れかけていた母の聲。

 細く、切れ切れに聞こえた。

 嗚咽と共に、しゃくり上げて泣いていた。

 

 ゴボッ!!

 

 水の中に吐いた空気の音。

 赤い空に向かって消えていく泡……

 

 不意に、呼吸が乱れた。

 本当に水の中で溺れていくようだった。

 

 苦しくて胸を押さえる。

 隣の母達はお喋りに夢中で気が付かない。

 

「……?」

 

 向かいに座っていた明宣が異変に眉をひそめ、少しだけ身を乗り出した。

 

 目の前がだんだんと暗くなっていく。

 薫は消えそうになる意識に抗おうとした。

 

 こんな日に体調が悪くなるなんて、なんてみっともないんだろう…。

 お母様にもお父様にも、申し訳ない。

 相手の人にも、謝らなければ…!

 

 けれど一生懸命にもがくほどに、息が切れて、手足を動かすこともできない。

 ごめんなさい…すみません…

 心の中でつぶやいた言葉すらも、声となって出てこなかった。――――

 

「薫子さん!」

 

 叫んだのは誰だろう―――?

 

 違う。

 違う。

 違うのに。

 私の名前は薫なのに。

 

 自分がどうしてこんなに苦しいのかがわからなかった。

 

 暗い闇の中に落ちていく前に、志津の顔が見えた。

 寿美や、玄弥、貞子達の顔も。

 

 実弥が手を振る姿も。

 

 あの寒い冬の日。

 おしるこを奢ってもらったあの日、久しぶりにその名を呼ばれた。

 

 ―――――薫!

 

 おはぎがおいしかったと、笑ってくれて、手を振ってくれていたのに……どこに行ってしまったのだろう……?

 もう会えないのだろうか…?

 さようならも言えないまま、自分は誰かに嫁いでいくのだろうか…?

 

 胸が苦しい。

 呼んでほしい、また自分の名前を。

 

 そしてまた、笑ってほしい―――…。

 

 願いを口にできぬまま、薫は闇へと意識を手放した。

 

 

◆◆◆

 

 

「お嬢様には転地療養が必要です」

 

 深い溜息のあと、医者は言った。

 

「おそらくは、まだ心の準備ができておられなかったのでしょう。当日になって、自分がいざ当事者だということに気がついたが、用意ができていなかったので、いわゆるヒステリィとでも云うのですかな、あの状態になったワケです」

「しかし、ヒステリィというと、もっとうるさく泣き喚いたりするものではないのかね?」

「そういうものばかりともいえません。何らかの要因で鬱屈した精神状態が、これ以上の現実を受け容れられずに、逃避する……つまり、意識を()くされたわけです」

 

 森野辺佳喜(もりのべけいき)子爵はしばらく考え込んだ。

 

 薫―――彼らは薫子と呼ぶが―――は、よく出来た子だった。

 

 東北まで行って初めて会った時は、確かに子守奉公のみすぼらしい子供だった。

 だが、瞳は弟の(すぐる)に似て、どこか怜悧な輝きがあった。

 果たして、連れて帰って装いを改めさせると、こざっぱりとした瓜実顔の可愛らしい女の子になった。

 

 弟のつけたという『薫』というのは、幼くして亡くなった妹の名前だった。

 弟の気持ちはわかったが、子爵には不吉に思えて、『薫子』と改名し、自らの娘として育てることにした。

 

 残念ながら妻との間に子供は恵まれず、この先も生まれそうにない。

 妻もまた、諦めていたのだろう。跡取りとしてなら、男子を養子にすべきだったが、妻が女の子を欲しがっていたことを知っていたので、薫との出会いは森野辺家にとって僥倖だった。

 

 薫は木が水を吸うがごとく、どんどんと教えられたことを覚えていった。

 礼儀や所作の作法にはかなり手こずってはいたようだが、生来、利発な性質なのだろう。当初は厳しく接していた教師も、半年を過ぎた頃には「よくぞここまで」と感嘆していた。

 

 その持って生まれた素養が弟によるものなのか、一緒に駆け落ちした旅芸人の娘である母親からのものなのか……。

 いずれにしろ薫が聡明である上に、並外れた努力家であることは間違いなかった。

 慣れぬ女学校での勉強の遅れを取り戻すために、必死で自学自習し夜遅くまで起きていたこともある。

 

 だが―――。

 

 よくよく見てやらねばならなかったのではないか? 

 

 薫はいつも一生懸命だった。

 しかもそれを表立って印象づけることはせず、謙遜していた。

 

 子爵は後悔していた。

 自分達はいつのまにか知らず知らずの内に、この子を追い詰めていたのではなかろうか………?

 

 皆が薫を褒めるときに言った。

 

「大人びた」「落ち着いた」「おとなしい」子供だと。

 

 矛盾していた。

 

 子供はもっと騒がしくていい。

 もっと我儘でいていい。

 もっと甘えてよかったのに。

 

 おそらくは前々から兆候はあった。

 

 何度となく薫のばぁやのヒサから、薫が一人で外に行っては、近くの川べりでぼんやりしていることがある…と、聞いていた。

 

 理由を聞けば、「気分転換です。故郷の川を思い出すから懐かしくて」と、言われて納得し、許していたのだ。

 元より住み慣れた故郷を離れたのだから、それくらいの感傷に浸ることぐらいはあるだろう…と。

 

 だが、もっと真摯に聞いてやるべきだったのではないか…?

 本当はずっと、わからぬところで、薫は不安を抱えていたのかもしれない…。

 

 誰に言うこともない、溜め込んだ気持ち。

 

 志津のことで(たが)が外れ、今回の見合いの一件でとうとう我慢の糸もプツリと切れたのだ。

 

 子爵はしばらく頭を抱えた。

 留学などして、それなりに児童の教育について一家言を持っているつもりであったが、やはり自分は親としてはまだまだ足りぬところがあるらしい…。

 

 長い溜息をついて深い自省に落ち込む夫に、寧子(やすこ)は申し訳なさそうに言った。

 

「ごめんなさい、あなた。私が気がつくべきだったんです。薫子さんはお見合いに乗り気じゃなかったのに、私ばかりが舞い上がってしまって……。母親失格です」

 

「そんなことはない。明宣君は時々私の仕事も手伝ってくれているし…いい御縁だと思ったんだ。いや、すまない。私の方が舞い上がっていたのだろう。なにせあの子の生い立ちをいまだに悪く言う人間もいたからね、あるいは一生、結婚には縁がないかもしれないと思っていたんだ。……まぁ、今はそんなことより、薫子をどうするか……なんだが」 

 

 子爵はふぅ、と一息ついて、部屋に飾ってあった千佳子の絵を眺めた。

 

 多才なる佳人の姿が思い浮かび、一瞬、子爵は苦いものを感じたが、頭を振ってすぐに打ち消す。

 今は昔のことは関係ない。千佳子も何のしこりもなくつき合ってくれているのだから。

 

 それは信州にある別荘地での景色を描いたものだった。

 青く色づけされた山の手前には、黄金の稲穂の海が広がっている。

 

 穏やかでのどかな田園風景…清新な空気…濁りない青の空…

 

「信州といえば…寧子、お前の妹の……篤子(あつこ)さんが跡継ぎ養子で入ったところがあったろう?」

「えぇ、母方の実家です。母のお姉さまのところも子供ができなくて、妹をもらって婿を取りましたのよ。幸い、妹夫婦は子沢山で……」

 

 ホホホと笑う寧子には卑屈なところはない。

 自分が子供を産めなかったのは残念に違いないが、今は薫がいることで充分なのだろう。

 

「そうそう。確か、薫子と同じ年頃の子もいたはずだ。そこで薫子にのんびり過ごしてもらって…元気になってもらおうと思うんだよ。私が思うに、薫子にはもっと腕白な子供時代があってよかったんだ。女学校ではそうした友は出来なさそうだからね」

 

「まぁ……薫子さん、お一人でですか?」

 

「……ん。薫子はずっと私達に恩義を感じて頑張ってきた。それを私達は当たり前に思い過ぎたよ。ここらで少し息抜きをさせてやった方がいい」

 

 寧子は納得しながらも、薫が家を出ることを寂しがったが、これもまた母としての自分の務めだと思うことにして、笑顔で送り出した。

 

 薫はヒサに連れられて、信州へと向かった。

 

 それは薫にとって、解放ではなかった。

 

 

 

<つづく>

 



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第三章 行違い(一)

 梅雨晴れの空は、もう夏だった。

 入道雲が高く伸び、(とんび)が横切っていく。

 

 篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)は、空を仰ぎ溜息をついた。

 

 初老の年になると、季節の移り変わりは、いちいち身体に堪える。

 空から降り注ぐ光は、やや薄くなってきた頭頂部に容赦なく照りつけ、地面から立ち上る熱さにじわりと汗が滲んでくる。

 

 げんなりしながら歩いていると、女の甲高い、騒がしい声が聞こえてきた。

 橋へと続く坂道を上ると、川で娘が釣りをしているようだ。

 

 よく見れば、その娘は近在では名の知れた豪農、藤森家の三女・加寿江(かずえ)だった。

 

薫子(ゆきこ)ちゃん、ほら、そこよ! そこ! 網、網!」

 

 着物を裾を捲りあげて釣り竿を持った加寿江が急かすと、『薫子』と呼ばれた娘があわてて網を水の中へと入れる。

 しかし、糸の先でチョロチョロ動く魚を掬うことができず、まごまごしていた。

 

「そこ! 岩の方に寄せて! そう!」

 

 加寿江が発破をかける。

 ザバリと網が水の中から出てくる。

 中で魚が跳ねていた。

 

「やったー! 基三郎(きさぶろう)兄さま、こちらはもう三匹目よ!」

「うるせぇ! 魚が逃げるじゃろが」

「へーーんだっ!」

 

 やれやれ、と思いつつも東洋一は土手から河原へと降りていく。

 

 娘達の方へと歩いていくと、再び釣り糸を垂らしていた加寿江が大声で「あぁっ! 逃げたぁ!」と、悔しそうにパシャパシャと地団駄を踏んでいる。

 

「そんなに騒いだら、魚が逃げよるわ」

 

 東洋一がのんびりと声をかけると、くるりと加寿江が振り向いた。

 

「あら! 先生じゃないの!」

 

 気安く呼ぶと、ざぁぶざぁぶと大股で川を横切りながら河原へと上がってくる。

 

 年頃の娘だというのに、恥も(てら)いもない。

 裾除けも捲くって太腿が露わになっているのにもお構いなしだ。

 この辺りでは名士と呼ばれる家の、れっきとしたご令嬢だというのに、本人にはまったくその心がけはないようだった。

 

 加寿江と一緒に釣りをしていたらしいお嬢さんは……と見ると、こちらは同じように藍地の単衣を捲くってはいるが、さすがに長襦袢と裾除けを膝下まで垂らして端を結び濡れないようにしている。

 動きにくかろうが、加寿江のように帯にすべて端折るのは躊躇(ためら)われただけ、まだしも娘らしい恥じらいは持ち合わせているようだ。

 

「あ、紹介するわね。こちら、私の母の姉の子供で薫子ちゃん」

「従姉妹と一言で言えんのか、お前は」

「あ、そうか」

 

 加寿江はアハハと笑った。

 隣で薫子、と呼ばれた娘がペコリと頭を下げた。

 

「はじめまして、森野辺薫子と申します」

「おぉ、わざわざすいませんね。篠宮東洋一と申します」

「以後、お見知りおきを」

 

 加寿江がおどけて云うと、薫子―――薫は、クスリと笑った。

 

「コラ。お前さんみたいな野放図なご令嬢とは月とスッポンじゃないか」

「あら、そんなの当たり前よ。薫子ちゃんは子爵令嬢なんだから。私と比べるだけ無駄よ」

「ほぉ……子爵様の。そりゃ、違うわけだ」

 

 東洋一が感心したように云うと、薫は少し困ったような微笑を浮かべたので、おや? と思った。

 が、加寿江は気付かなかったようだ。

 

「そうよー。だって、薫子ちゃん、十二なんだけど……」

「十二!?」

 

 東洋一は思わず聞き返した。

 加寿江は確か十四歳である。つまり、二歳は年下ということだ。

 

「こりゃ、びっくりした。お前さんより年下じゃないか」

「そうよ。え? 見えない? だって、背だって私より低いし」

 

 加寿江は薫を見ながら、的外れなことを云う。

 

「体の大きさで年がわかるなら、お前さんのおっ母様も年下になりよるわ」

 

 父に似て、大柄でふくよかな加寿江の体型は、同じ年の村の男の子よりも勝っている。

 膂力も女にしてはあるので、もっと小さい頃には男の子と相撲をして投げ飛ばしていたほどである。

 

「年下にしては、えらく落ち着きなさっておられる。都会のご令嬢様は、そういうものなのか?」

「それは…よくわかりませんけど、私は女学校ではぜんぜんですよ。もっとみなさん、おしとやかでいらっしゃいます」

「薫子ちゃん以上におしとやかだったら、もぅそれはご飯食べられないね」

「どういう事だ、それは」

「ご飯を食べるのに口も開けられないんじゃない? ねぇ」

 

と、加寿江は同意を求めたが、薫は曖昧に首をかしげるだけだった。

 

 その後、加寿江は釣った魚を手桶ごと東洋一へ差し出した。

 

「中途半端な数だから、家だと足りないし。持っていきなよ、先生。弟子と一緒に食べるでしょ?」

「えぇのか?」

「いいよ。遊びだったし、どうせ家ではご馳走が用意されてるし」

「そりゃ結構なことだな。では頂くとしよう。不肖の弟子はよう食うんでな」

「あのお弟子さんさぁ、もうちょーっと、愛想ってのを覚えた方がいいと思うよ。いつ見ても人のこと睨みつけてくるし、先生の弟子だから腕白共も手は出さないけど、あいつらも血の気が多いからなー」

「若いのぉ」

 

 東洋一はしみじみと呟く。

 

「先生だって若い、若い! 今日だって里乃さんとこ行ってたんでしょー?」

 

 アハハハと大笑いしながら、加寿江は含みをもたせたように言う。

 東洋一はペシャリとその頭を叩いた。

 

「子供の詮索する事でないわ」

「なーにさ。そういう時だけ子供扱いなんだからさ。いいよーだ。さ、薫子ちゃん帰ろ」

 

 加寿江は薫の手を引いて歩き出す。

 薫はあわてて東洋一に頭を下げると、加寿江について行った。

 

 後ろから、いつの間にか釣りをやめていた、加寿江の兄の基三郎(きさぶろう)が東洋一に声をかけてきた。

 

「先生、今度のお弟子さんはどうです?」

「んん? まあ、そうだな…」

 

 東洋一はしばし考え、

 

「天才、やの」

 

と、はっきり言った。

 

 基三郎は目を見開いた。

 弟子への態度はやさしいが、評価に関しては妥協しない東洋一がここまで言うのは、基三郎は初めて聞いた。

 

「珍しいですね、そこまで褒められるのは」

「褒めとりゃせん。事実だからな。なにせ飲み込みの早さが今までの奴らとは段違いだ。儂だってあそこまでスルスルとはいかんかった……ま、それでもまだ荒い。矯めるところはあるな」

「それでも凄いじゃないですか。将来有望でしょう?」

 

 東洋一は無精髭をポリポリ掻くと、話題を変えた。

 

「それより、お前さんとこのあのお嬢様はなんじゃ?」

「薫子ちゃんですか? いやぁ、俺もよく分からないんですけど、父さんと母さんが話してるのを聞いた限りじゃ、どうもお見合いが嫌で卒倒したらしいです」

「見合い? あんな若さでか?」

「そうですねぇ。でも、ま、すぐに結婚て訳じゃなくて、顔合わせ程度だったらしいんですけど。まあ、伯父さんところは薫子ちゃん一人だし、それに薫子ちゃんは………あ」

 

 言いかけて、基三郎は不器用に口を噤んだ。

 それ以上は他人に話す内容でないと気付いたらしい。

 

 東洋一も特に無理して知りたい事でもなかったので、それ以上は聞かず、基三郎からもアマゴを三匹もらって帰路についた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 薫は老人に頭を下げ挨拶すると、加寿江にあわててついて行く。

 

「あ、あの、加寿江さん」

「なぁに?」

 

 大柄な加寿江が大股で歩くと、さほど背が小さいわけではない薫でも小走りになってしまう。

 

「あの、さっきのご老人は…学校の先生なのですか?」

「え?」

 

 加寿江は一瞬、足を止めて聞き返す。

 

「あの、さっき先生と仰言っていたので」

「あぁ、そっか。そういやそうだった。いや、まぁ……先生だけど、学校の先生とかじゃないよ。んーと…どういえばいいのかな、えーと……剣術? の、先生? みたいな」

「剣術?」

 

 薫が聞き返すと、加寿江はうーんとしばらく唸っていた。

 

 加寿江が考え込んでいる間、薫はさっき会った老人のことを思い出していた。

 

 確かにほとんど白髪に近い頭といい、深く刻まれた皺といい、老人には違いない。

 しかし上半身と右足はがっしりとしていて、頑健そのものにみえる。

 唯一、薫の息をハッと止めさせたのは、老人の左足が木の棒でできた義足だったからだ。

 

 戦で失ったのであろうか。

 だが、東洋一老人のあっけらかんとした様子からは、足を失ったことでの悔しさ、屈辱はみえない。

 飄々と、泰然と、自らの欠落をも受け容れているように感じる。

 

 あの義足で剣術を教えているとすれば、きっと東洋一はよほどの剣客なのだろう。

 

「薫子ちゃん、鬼ってわかる?」

 

 黙念と考えていた加寿江が、唐突に尋ねてきた。

 いつになく真面目な顔だった。だが、質問の意味が薫にはよく理解できなかった。

 

「鬼………って、大江山の酒呑童子とかですか?」

「うーん、そうねぇ。そういうのではなく、私たちの身近にいる、どこにでもいる鬼」

 

 薫はますます困惑した。

 自分達の身近にいる鬼? 加寿江は何かの比喩を言っているのだろうか?

 

「まぁ、わかんないか。とりあえずね、鬼ってのがいて、先生はそれを退治する人だったの。で、今はその退治する人達を育てる人になったんだよね。ウチは先祖代々、この鬼退治の人達を助ける仕事をしているの。だから、もしかすると薫子ちゃんがいる間も、そういう人達が来るかもしれない。まぁ、薫子ちゃんは別の棟にいるから、気にしなくていいけどね」

 

 早口に説明され、薫はぽかんとなった。

 加寿江は「気にしないで」とまた繰り返すと、再び歩き始めた。

 

 よくはわからなかったが、おそらくは加寿江はあの老人に対して畏敬の念があるのだろうということはうっすらとわかった。

 

 それはまた、加寿江の家族も同様だった。

 

 夕食時に加寿江が東洋一のことを話した時に、一緒に釣りに行っていた基三郎もまた『先生』と呼び、新たに入ったという弟子の話をしていた。

 

「……天才だ、と仰言ったんですよ」

「ほぅ。それは珍しい。先生がそこまで仰言られるなぞ……儂は聞いたことがない」

「そうですよね。僕もびっくりしました。でも、まだ矯めるところはある、とも言われてました。いずれにしろ、このまま最終選抜を突破して鬼殺隊に入隊すれば、行く末は頼もしい限りです」

「頑張ってほしいな。確か、この前にお弟子さんだった人がやられたと……」

 

 当主の寅蔵の話をそれまで大人しく聞いていた夫人の篤子は「お前様…」と低く諌めた。

 

「女子供の前で血なまぐさい話はよしてくださいませ。まして今は食事中でございます」

「おぉ、すまんすまん。薫子ちゃん、聞こえていたか?」

 

 薫は微笑んで、軽く頭を振った。

 聞こえてはいたが、意味がよくわからなかった。

 

 それからは男性陣は寅蔵の仕事の話に夢中になり、女性陣は今度隣の町で素人歌舞伎があるらしいという話題で花が咲き、東洋一とその弟子の話はそのまま忘れ去られた。

 

 

 

<つづく>

 



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第三章 行違い(二)

 少し時間は戻る。

 

 

 東洋一(とよいち)は川で加寿江達から魚を貰って帰路につき、茜色の西陽が差す頃に家に戻ってきた。

 

「おーい。不肖の弟子」

 

 勝手口から台所に入って呼びかけると、ドスドスという足音と共に、不機嫌な顔の弟子が姿を現す。

 

「おい、ジジィ」

「なんだ、不肖の弟子」

「その呼び方やめろ。それと途中で何処行ってんだ? アンタがやれ、っていうからこっちはずっとやってたんだぞ」

「え? お前、延々と呼吸と型の併せやってたの? 今まで?」

 

 風の呼吸の型を覚えるのに早くとも三ヶ月。

 呼吸法そのものを覚えることはさほど難しくないものの、それをより錬成した全集中の呼吸となると、やはり最低でも会得するのに三ヶ月から人によっては半年かかる。

 その上で、この型と呼吸の二つを併せて『技』として練り上げていくまでには、ただただ修練すれば良いというものではなく、持って生まれた勘、あるいは素質といったものが必要になる。

 

 それら全てをこの四ヶ月そこらでやってのける上、東洋一が昼前に出てから夕方近くのこの時間まで延々とやっていた?

 

 どれだけ体力があり余ってるのだ。

 末恐ろしい以前に今の状態でも十分恐ろしい才能だ。

 

 とは――――口が裂けても、当人に告げることはないのだが。

 

 弟子の方では、とぼけた東洋一の態度が癇に障ったらしく、

 

「アンタがやれって云ったんだろうがァッ!」

 

 師匠に向かって怒鳴りつけてくる。

 

「オォ、怖」と東洋一が肩を竦めるのにも苛々と歯噛みしている。

 

「そう()()()なよ。お前さん、その気の短いのが一番の欠点だな。ホレ、魚もらったからな、今日の晩飯。今度は黒焦げにならんように焼いてくれ」

「……ったく、俺は飯炊きする為に来たんじゃねぇぞ」

 

 魚の入った桶を受け取りながら、()()()()()がブツクサと愚痴をこぼす。

 東洋一は片足が義足であるとは思えぬ素早い動きで、弟子の前に回り込むと、ベチンとデコピンをくらわした。

 

「でえぇっ!!」

 

 強烈なデコピンに弟子はよろけた。

 

 実のところ、普通の者なら吹っ飛んでいるのだ。

 数多(あまた)いた弟子達の中には、このデコピンで瞬間的に意識が飛ぶ者すらいたのだから。

 

 よろける程度で済ませられるのは、くらう瞬間に反射で軽く避けて衝撃を弱めているからだろう。

 ただ、無意識なので本人は気付いていないようだ。

 

「なにすんだあぁっ!? このクソジジィ!」

「やぁかましい。食べることはすべての(もとい)だ。食わんと体は動けん。動けん体では鍛錬はできん。鍛錬ができんなら、技を身につけることはできん。技を身につけねば、鬼には勝てん。ホレ、さっさと支度して食うモン作らんか!」

 

 言いながら節回しの調子をとるように、弟子の頭をポコポコ叩く。

 

「ジジィっ! 俺の頭は木魚じゃねぇんだぞォッ」

「木魚ならもっとエエ音がなっとるわ。口減らずなこと云う前にとっととせい! 強くさえなれればえぇなんぞと、気楽なこと云っとる場合か。この世で必要なことは、たいがい面倒臭いもんだ。とっとと動け、不肖の弟子」

 

 チッと舌打ちしながら、弟子は土間へと降りると、東洋一が貰ってきたアマゴを掴み取って、ぎこちない手付きで包丁を使い、(はらわた)をとっていく。

 

 やれやれ……と東洋一は独りごちる。

 

 結局のところは素直な性質であろうに、どうにも天の邪鬼で困る。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 四ヶ月前、弟子であった粂野匡近(くめのまさちか)の紹介でやってきたのは、自分の稀血を利用して鬼をおびき寄せ、捕縛して日で炙り焼いて殺して回っていた……という、とんでもない少年だった。

 

 名前を不死川実弥、と名乗った。

 

 一体、いつからそんなことをしていたのか……その目は猜疑心に満ちており、孤独だった。

 人から虐待を受けて人を信じなくなった猫のように、上辺の親切心で近づけば毛を逆立て、爪を立てて引っ掻きまわすのだろう。

 

 東洋一はとりあえず風の呼吸の()だけを教えて放っておいた。

 予想外の早さで習得してしまったのにはかなり驚いたが、その本心は隠した。

 軽く、大したものだと褒めてやると、多少は気が緩んだようだった。

 

 その上で初めて立ち合った。

 

 最初、実弥は東洋一を侮っていたのであろう。

 所詮は義足の、田舎でのうのうと暮らしていた爺である。

 現役から遠ざかって数十年、もはや技も衰えているであろう…と、タカを括っていたに違いない。

 

 しかし対峙して数十秒。

 呼吸を使った東洋一の技の前で、実弥は木偶の坊同然であった。

 何一つ、東洋一への打撃を与えることのないまま、道場の壁で失神し、起きた時には明らかに態度は一変した。

  こうしてようやく手負いの獣同然だった実弥の信頼を得て、今は互いに横柄でぞんざいな間柄だが、それなりに上手くやっている。

 

 

 

「ふん…味噌汁はまともに作れるようになってきたようだの」

 

 東洋一はお椀に浮かぶ豆腐となめ茸を見ると、ズズズと啜った。「味も、まぁ良し」

 

「ぅるせぇなぁ……男だろうが。出されたモンは黙って食えよ。味なんぞどうでもいいだろうが」

「なにを云う。食い物の味がわからんかったら、お前、毒を食ろうてもわからんぞ。あらゆることに於いて、神経は鋭敏でなくてはいかん。鬼狩りならば尚の事。過敏では困るがな」

「なんかもっともらしいこと言ってるけど、アンタ、酸っぱいもの嫌いなんだろうが。里乃さんに言われてるんだ。ちゃんと食べさせてくれって」

 

 里乃というのは、東洋一の情婦(イロ)というやつではあったが、実際にはさほどに艶っぽい関係でも何でもない。

 家事能力に乏しい東洋一の世話を何くれとなく見てくれる存在だった。

 

「………余計なことを」

 

 東洋一は渋面を作ると、きゅうりの酢の物を恨めしげに見た。

 

「お前、これ食ってええぞ」

「冗談じゃねぇ。黙って食えよ。作ってもらっておいて」

 

 実弥は憮然としてご飯をかっこむと、壊さんばかりの勢いで食器を洗って箱膳へと戻した。

 

 それから再び道場へ。

 瞑想の後、夜の山での修練を行うのだ。

 

 東洋一は自分の食器を洗いながら、吐息をついた。

 我ながら、恐ろしい弟子を持ったものだと思う。

 

 奇縁であろう。

 粂野匡近が実弥に会わなかったら、その粂野自身も東洋一の元へと弟子に入ってなければ、こうして会うこともなかったはずだ。

 

 鬼狩りをすることになった経緯を聞いた時には、その過酷な境遇に胸を衝かれたが、それでも前を向いて進んで行こうとする姿勢は感服するしかない。

 

 その上であの身体能力、技の吸収力、判断の早さ。

 

 もしかするとこの数十年失われていた風柱が誕生するかもしれない、という希望を抱かずにはいられなかった。

 もはや自分には遠い存在となっていた風柱に…。

 

 無論―――決して、本人の前ではおくびにも出さないが。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 東洋一が子爵令嬢である薫を見かけたのは、それから二週間ほどしてからのことだった。

 

 初めて会った川にかかる橋の上で、薫はボンヤリと下を流れる川を見つめていた。

 

「何をしとるんだ、こんなところで」

 

 東洋一が声をかけると、薫はハッとして顔を上げる。

 

「あ、と……篠宮先生ですね」

 

 にっこりと笑っていたが、その目はどこか空虚(うつろ)であった。

 

「は、先生なんぞと呼ぶのはお前さんが厄介になっとる一家だけでな。儂なんぞただの爺だ。弟子からもクソ爺ィ扱いじゃ」

「そんなこと、許されてるんですか?」

 

 薫は驚いたように言った後、クスクスと笑った。

 

「先生は心が広い方なんですね。そんなことを云うお弟子さんを怒らないなんて」

「まぁ、時と場合だな。それよりあんた……えー、薫子(ゆきこ)さんと言ったか。こんな時間に一人で何しとるんだ?」

 

 既に日暮れも近い時間である。

 いくら長閑(のどか)な田舎といえど、うら若い娘が一人で出歩いていい時間は過ぎている。

 

 薫はしばらく黙り込んでから、チラと川の方を見た。

 

「時々、川を見にくるんです」

「川? なんかおるんか?」

「いいえ。流れを見てるだけです。なんだか見ていると時間が過ぎてしまうんです」

「ふぅん…妙な趣味をお持ちじゃな」

「趣味? ……そうかもしれませんね。昔から川を見ていると、考えることをしなくていいんです……その時だけは」

 

 そう言った薫の顔が西陽の逆光で翳り、ひどく侘びしげに見えた。

 

 東洋一は基三郎が言っていた見合いの席で薫子が卒倒してしまったという話を思い出した。

 どうもこのお嬢さんは、周囲にばかりおもねって、自分の言いたいことも言えぬのかもしれない。

 

 考えることをしなくていい―――ということは、普段は色々と考えねばならぬことが多くて、気を遣いすぎているのではないのか?

 

「薫子さん、あんた加寿江の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだね?」

 

 東洋一がやけに真面目な顔でそんなことを云うので、薫はキョトンとなった。

 

「いや、あの娘は昔から本当に口さがないというか、一言どころか二言三言多い、呆れるくらいに自由奔放な娘でな。まぁ、末娘なんで周りも甘やかしてあぁなったところもあるが、なにせ人の目を気にするなんてことは、一度もしたことがない。まぁ、そこが怒られもし、可愛がられもするわけだが」

 

 薫は「そうですね」と頷いて、

 

「私も加寿江さんに初めて会った時から大好きになりました。裏表がなくて、元気で、羨ましいくらいです」

「羨ましいとまで思う必要はないが。儂は加寿江くらいに堂々としてもえぇと思うぞ。皆、お前さんは大層よく出来たお嬢様だと言っておるし」

 

 それは事実であった。

 

 しばしば収穫した野菜や、山で仕留めた猪肉を持ってきてくれる藤森家の下男なども、

 

「いやぁ、あのお嬢様は凄いですよ。お針仕事もお料理もなんでもお出来になる。かといって、でしゃばったりもしないし、儂等みたいな使用人にもお優しいし。本当によくお出来になる方です」

 

と、手放しの褒めようであるし、女には手厳しい女中達からの評価も上々らしい。

 

 普通、こうしたご令嬢というのは、どこか超然としたところがあって、他人に斟酌などしないものだ。

 加寿江などがその典型で、同じ藤森家の他の姉妹についても東洋一は知っているが、皆、性格の違いはあっても、そうしたお嬢様らしい威勢というか、無邪気な無礼さ、というのがあった。

 

 しかし目の前に、頼り無げに佇む少女からは、そうした傲慢さは微塵も感じられない。

 

「もっと自信があってえぇと思うがな…東京の方ではどうだか知らんが、皆、お前さんのことは褒めとるぞ。それこそ反対に加寿江にお前さんの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと、基三郎なんかも云うておった」

 

 薫は困ったように笑った。

 それは最初、東洋一が違和感をもった微笑だった。

 

 そうなのだ。

 どうしてこんなにもこの娘は自信なさげなのだろう。

 

 しかし東洋一の疑問は薫がすぐに答えてくれた。

 

「基三郎さんから聞いてませんか? 私が森野辺の養子だと」

「養子?」

「はい。私は森野辺家に九つの時に引き取られました。それまでは、子守奉公の下女でした。だから本当のお嬢様なんかではないんです」

「ほぅ……」

 

 合点がいった。

 道理で、である。

 

 本来なら華族のご令嬢など、東洋一ふぜいが気安く話しかけられようもない。

 それでもこうして話し込んでしまえるのは、薫の中に元からある庶民的な素朴さがにじみ出てしまっているからだろう。

 

 しかし、それは東洋一や使用人を相手にしていればいいだろうが、いざ東京に戻り、そうした上流階級の中では、違和感となるだろう。そのことで指弾され、気詰まりな思いもしたに違いない。

 

「それは、お前さん、相当に努力しなすったのだな。そうでなければ、ここまで見事なお嬢様になぞなれるはずもない。尚の事、自信を持つとよかろうに」

 

 東洋一は励ましたが、薫は哀しげに頭を振った。

 

「いいえ。私はお父様達を失望させました。お見合いが白紙になって、きっとお父様もお母様も呆れられたでしょう。やはり元は下女ふぜいの娘が、子爵令嬢になるなど無理だと」

「それは……」

 

 東洋一は森野辺子爵と会ったことがないのでわからない。

 あるいは薫のいう通り、見合いの席での娘の失態に恥をかかされた、と貴族らしい感情でもって怒り狂っているのかもしれない。

 

「ここに預けられたのも、次に行く場所が決まるまで、ひとまず家から出したかったのでしょう。もしかすると、ここから直接、どこかへ連れて行かれるかもしれません。もう、お父様やお母様に会うこともなく」

「悲観が過ぎるだろう。仮にも親子であったのに、それはなかろうよ」

 

 東洋一は否定したが、薫は頷かなかった。

 

「暗くなってきましたね。そろそろ帰ります」

 

 軽く頭を下げると、橋を渡って藤森家の方へと小走りに帰っていった。

 

 

 

<つづく>

 



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第三章 行違い(三)

 これはきっと夢だろう。

 そう思いながら、薫はその風景を眺めていた。

 

 懐かしい故郷の景色。

 それはいつも色がない。

 

 薄墨の空に、鈍色の雲。セピア色の川。

 丘から見える海は黒く、冷たい潮風すらも煤けている気がする。

 

「おめは何すてるのだが! ちゃっちゃどすろ!」

(※「お前、何している。さっさとしろ」)

 

 甲高い怒鳴り声が降ってくる。

 お道さんだ。

 

「ボヤボヤ歩いでっからこだな時間でねが! さっさど風呂焚ぎすろ。若え衆入るんだがら」

 

 材木問屋・播磨屋(はりまや)で働く男達のために、毎日の風呂焚きは薫の仕事だった。

 男達は風呂から上がって、ようやく夕飯にありつく。

 男達が風呂に入り終わった後は、女中達のため。終わる頃には日はとっぷりと暮れている。

 

 皆が既に食べ終わった後の、人気のない台所の隅で、釜にわずかに残ったご飯をこそげるようにして食べ、冷たくなった味噌汁と、誰かが残した沢庵を食べる。

 風呂に入るのはその後だが、もう湯はかける分しかなく、ぬるくなっている。

 自分のために再び井戸から水を汲んで、薪を焚くことは許されない。

 

 ずっしりと、体が重たかった。

 屋根裏部屋に敷かれた煎餅布団にくるまり寝る。

 

 隣で母が一緒に寝ていた頃には暖かかった布団が、いつまでも冷たくて、足の先が冷えて、ずっと擦り合わせながら寝た。

 

 父がいつ死んだのか、薫は憶えていない。

 気がつけば、この播磨屋で母は住み込み女中として働いて、薫は時折母を手伝いながら、一緒に暮らしていた。

 

 三畳ほどの屋根裏部屋で、薫は母といることが楽しかったが、母はいつも悲しそうだった。

 笑っていても、哀しげで、いつも亡くなった父のことを思い出しては泣いているようだった。

 

「ごめんねぇ」が口癖だった。

 

 やがて母は体調を崩し、働けなくなっていった。

 迷惑をかけると思ったのだろうか。近くの川に身を投げて、逝ってしまった。

 

 七歳で両親を亡くして天涯孤独になった薫を、番頭は「花街にでもやればいいでしょう」と言ったが、播磨屋の奥方のコウは「冗談じゃない」とはねつけた。

 

「七づの娘の面倒も見れずに花街さ売ったなどど噂されれば、この播磨屋の名折れだ。薫の面倒はウチで見る。お道、オメ、すっかり仕込みな」(※お前、しっかり仕込みな)

 

 そういう訳で、以来、女中頭のお道は事ある毎に薫に厳しく当たった。

 それでもまだ七つそこらの子供にできることは少ない。

 

 朝の飯炊きの支度から始まって、掃除がすめば、奥様の三番目の娘の子守。

 乳の時間になると戻り、山のようなおしめを洗うように言われる。

 

 夏はまだいいが、冬ともなれば氷のように冷たい川の水で洗わねばならない。

 あっという間に手が霜焼けになった。

 それでも日に何度も洗濯に行かされた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「オイオイ、死ぬ気かぁ?」

 

 おしめ洗いの途中で、ツルリと滑って川に落ちてしまった薫を助けたのは、銀二(ぎんじ)という男だった。

 

 河原まで薫を抱っこして運んでくれると、ニッコリと人懐こい笑顔を見せた。

 

 まだ春浅い川の水は冷たく、二人してくしゃみを連発する。

 

「オメェ、泳げるんだろ? この辺の子供はみんな夏には泳いでるだろ」

「………」

 

 薫は母を失ってから、めっきり話すことがなくなっていた。

 ぼんやり座り込んでいると、銀二は目の前で手を振った。

 

「大丈夫かぁ?」

「……ん」

 

 辛うじて返事しながら、薫は川の中から見た空を思い出していた。

 

 死ぬつもりであったわけではない。

 ただ、偶々(たまたま)落ちて、浮き上がっていく時に見えた空をいつまでも見ていたいと思った。

 

 揺れる水面越しに見えた空は、茜色にたゆたっていた。

 綺麗だな、と思うと同時に、自分はこの空を見たことがあると気付いた。

 

「早く着替えねぇと、風邪ひいちまう。オメェ、どこの子だ?」

 

 薫が店の名前を言うと、銀二は送っていってくれた。

 

 いつもは薫がえっちらおっちら運ぶオシメも持ってくれた。

 それだけで薫は十分いい人だと思ったが、事情を聞いて慇懃に挨拶をした手代は、銀二が去ると、薫を睨みつけた。

 

「おめ、ヘンなヤツさ助げられるんでねよ。あいづはな、他所者のならず者だ。妙な恩でも売られだら、※てしょずらすぃろう」(※「面倒だろう」)

 

 小さい薫には大人の事情はよくわからなかった。

 

 翌日に子守で川べりを歩いていると、銀二と再び会った。

 聞かれるままに自分の生い立ちや、今の状況をポツリポツリと説明すると、銀二は薫の頭をポンポンと軽く撫でた。

 

「大変だなぁ……」

 

 心底同情して言われると、薫は真っ赤になった。

 

 やめてほしかった。

 そんなふうに言われると、苦しくなる。悲しくなる。寂しくなる。辛くなる。

 

 いろんな感情が溢れると、涙が出てくる。

 母が死んでからそれまで、薫は一度も泣いたことがなかった。

 

 ボロボロと泣く薫を見て、銀二は驚いていた。

 

「子供が声をころして泣くなよォ」

 

 そう言ってまた頭を撫でてくれる。

 

 やっぱり薫には銀二はいい人だと思えた。

 

 それでも手代に言われた手前、店の前で見かけても声をかけることは控えた。

 銀二も自分がどういう評価を受けているのかは十分にわかっていたようだった。

 

 河原で会うと、銀二は木の棒で土に文字を書き、教えてくれた。

 ならず者だと言われていたが、案外と学のある人間のようだった。

 

「お前なぁ…今は辛ぇし、死にたくなることもあるだろうけどなぁ、真面目に、ちゃんとやって、みんなから必要だって思ってもらえるようになりゃ、自然と自分がいていい場所ってのができんだ。そうすりゃ、お前は生きてて良かったって思えるようになる。今の苦しいことも、懐かしい思い出になる」

 

 ある時、そんなことをつらつらと語って、その後ですぐにきまり悪そうに笑った。

 

「まぁ、俺はちゃんとしてなかったから、こんなだけどよ」

 

 銀二がどういう仕事をしているのか、手代の云うように本当にならず者なのかどうかはわからなかったが、薫には優しかった。

 

 それだけで十分だった。

 

 簡単な漢字や、算術を教わるまでになった頃、突然銀二はいなくなった。

 

 町の噂では地元のヤクザ同士の大掛かりな縄張り争いがあり、どうやら銀二もその中にいたようで、殺されてしまったらしい。

 

 あっけない別れだった。

 銀二の墓すら、わからない。

 

 薫は銀二に教えてもらった文字を忘れないように、毎日河原で練習した。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ある時のこと、薫が文字が読めることに気付いた若い衆が当主にそのことを告げると、薫は奥方達の前に座らされ、尋問された。

 

「なンで、おめなんかが字読める? 光子お嬢様の教科書、勝手さ盗み見でもすたんべ!」

 

 お道が甲高い声で(なじ)った。

 薫はブルブルと頭を振る。

 

「えぇー、やンだぁ。薫の触った教科書なんて使いだぐねぇ」

 

 光子が不満そうに声をあげる。

 

「薫、おめ、光子の教科書、勝手さ見だのがい?」

 

 奥方のコウが尋ねると、薫はさっきよりも大きく頭を振った。

 

「じゃあ、どうやっで文字覚えだんだ?」

「……教えてもらっだ」

「誰にぃ?」

「…………」

 

 銀二からだと言えば、また銀二のことを悪く言われそうで嫌だった。

 黙り込んだ薫に、コウは筆をもたせて書かせた。

 

 算術もできることを知ると、険しかった顔は綻んだ。

 

「なんだい、おめ、ながなが勉強熱心だったんだね。ボンヤリすてっから、子守ぐらいすか目が無えど思ってだが、だったら学校、行ってみっがい?」

 

 コウの思いつきを、お道はもちろん、旦那も反対したが、実質的に店も家も切り盛りしているコウに、婿養子の旦那が強く言えることもなく、翌月から薫は小学校に行かせてもらえるようになった。

 

 無論、早朝と帰宅後の労働はあったが、勉強ができることが嬉しくて、いくらでも我慢できた。

 同じ年の他の子よりも随分と遅れていたので、休み時間も遊ばずに必死で勉強した。

 

 ―――――真面目に、ちゃんとやって、みんなから必要だって思ってもらえるようになりゃ、自然と自分がいていい場所ってのができんだ。

 

 銀二の言葉がくっきりと思い出された。

 

 それからは、今までお道に言われるままやっていたことを、進んでやるようになった。

 裁縫や料理も、自ら教えを乞うてやっていった。

 

 男衆には、暑い夏の日には冷やしたお茶を配り、寒い日には温めた甘酒を配り、破れた着物を繕うこともした。

 

 一年が過ぎた頃には、皆から重宝がられ、あれほど厳しかったお道ですら、すっかり文字の読み書きができるようになった薫に、郷里の家族への手紙の代筆を頼むようになっていた。

 

 コウも薫の物覚えがいいのに気を良くして、算盤(そろばん)や生け花などを教えることもあった。

 

 ここにいてもいい……。

 

 薫はほのかな自信を持つようになっていた。

 

 居場所ができる――――銀二の言っていた通りだった。

 

 だが、それはあっけなく消えた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 森野辺子爵の使いだという男は、まずは播磨屋の奥方であるコウと、その旦那に事情を話した。

 

 つまり、薫の死んだ父というのは、森野辺家の次男であったが、旅芸人の娘だった矢幡(やばた)キヨ―――薫の母と出会い、駆け落ちしたのだということ。

 現在は父の兄、つまり薫の伯父が後を継いだが、奥方との間に子がなく、ついては薫を引き取りたいという申し出だった。

 

 その話を聞かされた薫よりも、奥方や娘達、お道の方が、浮足立っていた。

 皆がよかったよかったと口々に何度も云ったが、薫には意味がわからなかった。

 

 驚きも、戸惑いもなかった。

 ただ、足元が崩れていく虚無感だけがあった。

 

 年をまたぐ前にと、師走も押し迫った時期に森野辺子爵自ら薫を迎えに来た。

 初めて間近に見る洋装の立派な紳士に薫は不安しかなかった。

 

「元気でね」

「向こうでも気張るんだよ」

 

 コウもお道も、薫の前途が洋々たることを信じて疑ってないようだった。

 自分達が薫に対して何をしているのか、ということを考えもしなかったに違いない。

 

 薫にとっては、()()()()()も同然だった。

 ()()()()()と宣告されたのだ。

 一生懸命、自分のつくった場所は価値のないものだったのか……。

 

 子爵に連れられて初めて汽車に乗ったが、心浮き立つことはなかった。

 車窓から見える雪の降る川をずっと見つめていた。

 

 銀二のことも、播磨屋での日々も、母のことも、川を見るとすべてが薄らぼやけて、色のない過去のものになっていった。

 

 

 森野辺の家に引き取られてから、だんだんと自分の置かれた状況を理解できるようになると、再び薫は銀二の言葉を思い出した。

 播磨屋では用がなくなった自分だったが、この家で必要とされるように、また、頑張ろう……。

 

 子爵夫妻はあまりにひどい薫の訛りに辟易し、言葉遣いから、所作・教養について、徹底して矯正するよう、礼法や国語の教師を屋敷に呼び寄せた。

 

 彼女らは容赦なかった。

 姿勢を正すために朝起きてから寝るまで、長い板を背中にあてがわれることも、言い方に少しでも訛りがあれば鞭で尻を打たれることもあった。

 

 特に言葉遣いを改めさせるために、礼法の教師は使用人に対しても、丁寧に、きちんとした標準語で話すことを薫に強要した。

 

 所作については古来からあるものの他にも、海外からの文化に即したマナーをも身につけなければならなかった。

 

 明治の開国以降、時に上流階級でのお茶会や、夜会などにも出席せねばならない。

 その時にはドレスというのを着て、その上でおしとやかに、典雅に見えるように振る舞わねばならない。

 これまで着物しか着たことのない薫には、かなり難しかったが、できないとは言えなかった。

 

 お茶、お花、お琴。他にもピアノ、和歌。

 

 子爵夫妻はゆくゆく薫を女学校に入校させるつもりではあったが、最低限の素養を身に着けなければ行かせることはできなかった。

 そのまま入っても、好奇の目に晒され、薫自身が傷つくことになる。

 

 森野辺家にやってきて三ヶ月近くは、ずっと家で過ごした。

 半年が過ぎる頃になると、礼法の教師は「もう大丈夫でしょう」と太鼓判を押した。

 

 垢抜けない田舎者丸出しのおどおどした少女は、すっかり訛りもなくなって、令嬢たるに相応しい気品を感じるまでになっていた。

 

 子爵夫人の寧子(やすこ)は実家から、自分の世話係兼教育係でもあったヒサを呼び寄せ、薫の今後の指南役にとついてもらった。

 

 訛りを直すために使用人にも丁寧な言葉で話すのは、もはや癖になってしまい、ヒサに指摘されても直らなかった。

 しかしそのせいで、普通の、いわゆるお嬢様と使用人という関係以上に、薫に対して親しく接してくれるようになったのは嬉しいことだった。

 

 新しい父母は薫がどんどんと令嬢らしく変わっていく姿を見て、喜んでくれた。

 

 また、居場所ができた。

 いていいのだと、思える場所。

 

 それは森野辺の家だけでなく、志津を通して不死川家にもできた。

 

 他愛ない子供同士の遊びやおしゃべり。

 ちょっとした悪戯をして近所の老人に一緒になって叱られるのも、なんだか妙におかしくて嬉しかった。

 

 あの時間は特別だった。

 おそらくこれまで生きてきた中で、一番楽しい時間だった。

 

 けれど、あの日、唐突にそこは無くなってしまった。

 

 誰もいなくなった家。

 もう、誰も薫を迎えてくれない…。

 

 喪失感に心をえぐりとられたまま、日常を過ごすのは初めてではなかった。

 けれど、慣れるものでもない。

 

 自分がひどく傷ついているのだと気付いた時には遅かった。

 

 見合いの席で昏倒し、目が覚めると、自分が失敗してしまったことを痛感した。

 

 すぐに父に詫びたが、きっと呆れられ、失望されたのだろう。

 しばらく東京から離れた田舎で暮らすように告げられた。

 

 また、だった。

 また、自分は失った。

 

 また―――要らない人間になってしまった…。

 

 

 

<つづく>

 



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第三章 行違い(四)

 夏も終わりに近づいた八月になると、薫の気鬱はますますひどくなって、ほとんど藤森家から外に出ることもなくなってしまった。

 

 加寿江が何度か誘っても、頭痛だといって寝込んでしまう。

 出歩かないので、食べるのも少食になった。

 

 篤子は転地療養に来たというのに、自分のところでますます具合が悪くなっていく薫に、どうしたものか頭を悩ませた。

 

「一体、どうしたものかねぇ」

 

 篤子が嘆息すると、加寿江はあっさりと言い放った。

 

「そんなの、簡単じゃない。だって、ウチに来てそろそろ四ヶ月よ。家が恋しくなっちゃったのよ」

 

 いつもは加寿江の意見など無視するところだが、この時は納得もできたので、篤子はすぐに姉に手紙を送って薫を迎えに来るよう伝えた。

 

 薫の養母である寧子(やすこ)は手紙を読むなり、すぐさま旅支度を始め、夫に云った。

 

「ご覧なさい。薫子さんは寂しがって、ご飯も食べない有様だそうですよ。だから私は転地療養なんて反対だったんです」

 

 そんなこんなで、久しぶりに寧子と対面した薫は、とうとう自分がまたどこかに追いやられるものと考え、内心では暗く落ち込んでいたが、表面的にはにこやかな笑顔を浮かべて寧子を迎え入れた。

 

「お久しぶりね、薫子(ゆきこ)さん。どうです? ここでの暮らしは」

「はい。空気も澄んでいて、とても清しい場所です。近くの川で加寿江さんと魚をとったりもしましたし……」

「あら、それは楽しそうね」

 

 言いながら寧子は、薫の顔色が悪いことにも、少し痩せたことにも気付いていた。

 まさか妹夫婦や甥や姪達が薫をいじめたりするようなことは考えられないが、少なくとも、ここでの生活で、夫や医者が思っていたような養生ができてないことは明白だった。

 

「それにしても、ねぇ、薫子さん。そろそろ家を出て四ヶ月になりましたけど…」

 

 寧子がそう切り出したので、薫は身構える。

 

 いよいよ本題だ。

 養子縁組を解消するという話だろうか。

 

「そろそろ家に戻ってきてはいかがかしら?」

 

 寧子がそう云った時、薫は心底から驚いた。

 驚きすぎて返事ができず、ポカンと口を開けた状態で止まってしまった。

 

「あら、薫子さん? どうなさったの?」

 

 寧子が問うと、掠れた声で薫は問い返した。

 

「家に……帰る?」

「そう。私もね、そろそろ薫子さんのピアノを聴きたくなって。ここでの生活も勿論、いいものだろうとは思いますけど、そろそろ東京に戻って、また勉学に励まれるのもよろしい時期ではないかしら? 二学期も始まりますしね」

 

 薫は寧子の言葉をゆっくりと噛みしめた。

 

 ―――――薫子さんのピアノを聴きたい…

 ―――――東京に戻って……

 ―――――また勉学に励まれるのもよろしい……

 

「帰って、いいのですか?」

 

 いきなりそんなことを云う薫に、寧子は「えっ?」と驚いた。

 

「まぁ、薫子さん。何を言ってるの? 帰ってきてほしいに決まってるじゃありませんか」

「だって……私、お見合いを失敗して、お父様はきっと怒ってらっしゃると……」

「まぁ! まぁまぁまぁ!!」

 

 寧子は今度こそ本当に吃驚(びっくり)した。

 薫がとんでもない誤解をしていることに気付いたからだ。

 

「薫子さん、何を仰有(おっしゃ)るの! お父様は怒ってなどおられませんよ。それにお見合いだって失敗なんて……」

 

 棒立ちになって涙をこらえる薫の姿に、寧子は思わず立ち上がると、そっと抱き寄せた。

 

「薫子さん、貴方は私達の大事な娘ですよ」

 

 耳元で囁かれる言葉は、とてもやわらかく、温かかった。

 

「あなたは何も心配する必要はないのですよ。私達こそ、失敗しましたね。貴方にそんな誤解をさせるなんて。不安にさせて、ごめんなさいね」

 

 言いながら寧子は涙がこぼれた。

 

 確かに夫の云う通り、この娘は必死で努力してきた。

 それは自分自身のためというより、引き取ってくれた寧子達のためであっただろう。

 

 であればこそ、夫はたまの息抜きが必要だと、この地での気分転換を勧めたのだろうが、それは間違っていた。

 

 寧子達がすべきは、薫が一つ一つ積み上げてきた努力を、つぶさに見てやることだったのだ。

 頑張っている薫を認めて、見守り続けることだった。

 

 ようやく、寧子は薫の中にいる小さな子供を見た気がしていた。

 

「帰りましょうね、私達の家に」

 

 やさしい声で云う寧子に、薫は初めて抱きついた。

 九つの歳に引き取られて以来、一度も養父母に対して甘えたり、縋ることもなかった。

 

 初めて抱きしめた養母の体はやわらかく、甘い香りがした。

 

 今まで『お母様』と呼びながら、一度も本当の母だと思っていなかった。

 薫にとってはあくまで目上の、恩義のある『奥方様』だった。

 

 それは、あまりに記憶の中の()とかけ離れていたから。

 

 汗をかき、煤や埃にまみれ、豆だらけの固い手をしていた母。

 病となり痩せこけて、カサカサになった手で頬をなでてくれていた母。

 

 けれど、二人とも愛しげに薫を見つめる眼差しは一緒だ。

 

 薫はギュッと寧子に抱きついた。

 

「………お母様」

 

 初めて、呼んだ。母として。

 

 それは寧子も感じ取っていた。

 

 ―――――ようやく、母だと認めてくれましたね……

 

 寧子は、薫の肩をやさしくたたいて、「ありがとう」とつぶやいた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 東京へと戻るために、駅へと向かう車の中で寧子はいつになくはしゃいでいた。

 

「……それでね、お父様は山登りが趣味でらっしゃるでしょう? だからこの辺りでいい物件を探しておいでで、ようやくこの間、一軒、見つかったんですよ。正月前にでも来ましょう。薫子さんに見せたいわ。近くの神社で大晦日に花火があがりますのよ。冬の花火も美しいものですよ」

「あら、この辺りなら……藤森の家にご厄介になってはいけないんですか?」

「それが…お父様はホラ、欧羅巴(ヨオロッパ)での暮らしが長かったでしょう? すっかりベッドに慣れてしまって、畳の部屋では寝られないんだそうですよ。お義兄(にい)様に畳の部屋にベッドを置くのを頼むわけにも参りませんし………それに、ここだけの話ですよ。お義兄様とお父様はあまり仲がよろしくはございませんの」

 

 寧子は声をひそめて言いながらも、悪戯っぽい目つきで、面白がっているようだった。

 

 薫は久々に笑った。

 母とこんなふうに話せる日がくるとは思ってなかった。

 

 ふと、窓の外を見ると、いつも見ていた川が眼下にある。

 川沿いの道を走っていく中で、チラリと見えた人影に一瞬、心がざわめいた。

 

「…? どうなさったの、薫子さん」

「いえ……似た人を見た気がして……」

 

 あっという間に過ぎ去り、その人物の姿は土手の木々に隠れて見えなくなった。

 

「お知り合いの方でもいらしたの?」

「いえ……たぶん、見間違いです」

 

 座り直して、薫は再び川の瀬を見た。

 

 ふと見えた人影をその人だと思ってしまうほど、どこかでずっと気にかかっている。

 

 実弥は、母も兄弟も失ったのだ。

 自分などより、ずっと辛いだろう。

 

 それでもどうか、せめて生きていてほしい。

 いつかどこかで会えることを信じていたい。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 川向こうの道を、この辺りでは珍しい車が砂埃をあげて通り過ぎていった。

 

 実弥はチラリと車に目線をやった後、再び川の流れを眺めていた。

 

「なんじゃ、お前さんも見とるんか」

 

 後ろから東洋一(とよいち)が声をかける。

 

()、ってなんだよ」

「前に橋の上で川を眺めているお嬢さんがおってな。流れを見るのが好きなんだと云うとった」

「……ふぅん」

 

 実弥は言いながら握り拳ぐらいの石を拾い上げると、いきなり川に向かって投げつけた。

 びしゃり、と音がしてプカリと魚が浮いた。

 

「やーった」

 

 ザバザバと川の中に入って、獲物をとってくる。

 

 東洋一は息を呑んだ。

 この距離で、あの威力で、しかも一瞬だけ川面に跳ねた魚を狙って……?

 

 動体視力もずば抜けている。

 伊達にギョロ目ではないようだ。

 

「おい、ジジィ。でけぇぞ」

 

 取ってきた魚を自慢げに見せてくる。

 

 東洋一は返事をせず、しげしげと実弥を眺めた。

 

「なんだぁ?」

「お前さん…常中の呼吸もやるか…」

 

 つぶやいて、東洋一は家へと戻っていった。

 

 

 

<つづく>

 



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第四章 蹂躙(一)

 久々にその墓の前にきて、実弥は供えられた花やお菓子に眉をひそめた。

 

 もはや墓参りするような身内は自分か弟しかいないはずだ。

 その弟は遠方の親戚に預けてある。彼岸でもないのに来るはずもない。

 

 それによく見れば、きれいに掃除もされているようだ。

 墓の周囲の草は抜かれてるし、墓石に苔が生えたりもしていない。

 

 立ち尽くしていると、背後から声をかけられた。

 

「おメェ……生きてたのか?」

 

 振り返ると、この寺の和尚だった。

 僧籍にあって酒も飲み、女も買う、とんでもないものぐさ坊主だが、義理人情には厚い。

 

 今も実弥の顔を見るなり、涙を流している。

 

「おぅ……」

 

 実弥が少しばかり気恥ずかしかった。

 この和尚には小さい頃から世話になっている。

 

「どこ行ってたんだぁ? みんな、心配してたんだぞ」

「……っせぇなァ。大丈夫だよ、自分のことぐらい、面倒みれらァ」

「減らず口叩きやがって…。そういう所は親父さんそっくりだな」

 

 父親のことを言われると、ムゥと押し黙る。

 和尚はハハハと笑った。

 

「相変わらず、だな。いや、よかったよかったァ。で、今はどこに居るんだ?」

「……どこにも」

「えぇ? 帰ってきたんじゃァないのか?」

「いや。寄っただけだ。用があったから」

「なんだァ……じゃあ、またどっか行くのか?」

「あぁ」

 

 和尚は髪が伸びてきた頭をボリボリと掻きながら、実弥の風体をざっと見る。

 

 真新しい黒い詰襟の服、裁付袴(たっつけばかま)に、ベルトを巻きつけたような脚絆。

 その上から白い羽織。

 

 奇妙な風体に、和尚は眉をひそめた。

 

「何してんのかは知らんが……ホラ、お前、お志津さんが働いてたお屋敷あったろう? 森野辺の子爵様がな、気にかけてくれてたんだ。お前達が二親とも失って大変だろうからって、けっこう探してたらしい」

「………」

 

 森野辺、という名前が懐かしく聞こえる。

 よく母が話してくれた子爵様は、とてもよく出来た御人のようだったから、志津を亡くした実弥達を、あるいは助けようとしてくれていたのかもしれない。

 もっとも実弥が差し伸べられた手をとることはあり得なかったろうが。

 

「この花も、森野辺のお嬢様が毎月来て供えてらっしゃるんだ」

 

 胸がドクンと大きく響く。

 

「毎回、墓周りの草も抜いて、墓もきれいに掃除してくださってるんだぞ」

 

 和尚が云うのを聞きながら、実弥は花をとりあえず墓に置くと、手を合わせて瞑目する。

 

「オイ、俺がここに来たことは誰にも云うなよ」

「はァ? どうして?」

「とにかく云うな。次、来れるかもわかんねぇ」

「……お前、なにしてるンだ?」

 

 和尚は尋ねたが、実弥は返事をせずに立ち上がると、そのまま寺から出て行った。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 そんなことがあって、いつものように寿美達の月命日に訪れた薫の姿を見つけた時、思わず和尚は立ち止まってしまった。

 

「あら、こんにちは。和尚様。いいお日和ですね」

「あ、ああ…そう、じゃな」

 

 薫はその日もいつものように襷掛けして、白い雑巾で墓をきれいに拭いていた。

 側にはむっつり顔の老女が珍しい花の入った供花と、お菓子を携えて立っている。

 

 いつもは挨拶をして立ち去る和尚がいつまでも見ているので、薫は「なにか?」と尋ねた。

 

 和尚は一瞬の間にいろいろと考えた。

 

 一時期、薫が不死川家に出入りして、子供達と親しくしていたことを和尚は知っていた。

 行方をくらました不死川家の兄弟については、いつも安否を聞いてくる。

 

 この前、実弥が墓参りに来ていたことを告げれば、きっとこのお嬢様は喜ぶに違いない。

 

 しかし実弥はまたどこぞに行ってしまった。

 結局、消息不明のままだ。

 

 実弥にも口止めされているし、今この状態で知らせても、糠喜びをさせるだけだろう…。

 

「………いや、いつも墓をきれいにしていただいて、ありがたいことです」

 和尚は数珠を持った手を合わせ、軽くお辞儀をしながら云うと、そそくさとその場から立ち去った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

薫子(ゆきこ)さん、ちょうどいい所にいらしたわ!」

 

 ピアノの稽古に訪れた薫に、千佳子は珍しく興奮した様子で叫んだ。

 

「こちらにいらして頂戴」

 

 いつもの稽古部屋ではなく、庭に面した一階の奥の部屋へと薫の手を引っ張って連れて行く。

 

 ドアを開けると、目に飛び込んできたのは、白のグランドピアノだった。

 

 近付いてよく見ると、側板には金色の象嵌細工があり、脚も優美な曲線に凝った彫り物がされ、屋根にも金の象嵌細工と唐草模様の意匠が施されている。

 

「すごいでしょう?!」

 

 薫が感想を云う前に、千佳子が歓声をあげる。

 

「そうですね。とても美しいピアノで……」

「美しいだけじゃなくってよ。ほら、見て頂戴」

 

 千佳子が鍵盤の蓋を開けてみせる。

 

 パッと見にはわからない。

 だが、日頃からピアノを触っているからだろうか。すぐに違和感に気付く。

 

「これは……もしかして鍵盤の数が多いのですか?」

 

 千佳子はにっこりと笑った。

 

「そう! 102鍵あるのよ!」

「それは……すごいですね」

 

 確かに凄いのだが、そもそもピアノの曲でそこまでの音域まで使うものがあるのだろうか? という疑問がよぎる。

 だが、千佳子にとってそれはあまり問題ないことのようだった。

 

「実際にこの音を使う曲はないんですけどね。でもこの(キー)があることで、共鳴が深くなって、よりいい音が響くんですのよ。それに、曲の方は頼んで作ってもらってますの。東京音楽学校を首席で卒業された方でね……」

 

 機嫌よく話していた千佳子は、薫が鍵盤に触れようとすると、バタンと蓋を閉めた。

 

 間一髪で避けたので挟まなかったが、驚いて千佳子の方を見ると、凍りついたような微笑を浮かべている。

 

「駄目ですよ、薫子さん」

 

 いつになく低い声で唸るように云う。

 薫はあわてて頭を下げた。

 

「すっ、すみません! 勝手に」

 

 千佳子はウフと笑って、いつもの柔和な表情に戻った。

 

「仕方ないわ。誰しも触ってみたくなるものでしょうしね。まして弾ける人間であれば、尚の事、音を聴きたいですものね。では、私が弾いてみましょうか。せっかくだから……」

 

 そう云って千佳子は、これもまた凝った意匠の白い椅子に座ると、静かに鍵盤の上に指をのせる。

 

 普段は穏やかで、生粋のお嬢様らしく、おっとりとした様子の千佳子であるが、ピアノを本気で弾く時だけは、目がスゥと細くなり、ピリピリした緊張感に包まれる。

 

 低い重層的な和音で始まった曲は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番『悲愴』。

 

 今、千佳子が弾いている第一楽章は重厚で、その名の通りに悲哀に満ちた、荘重な曲調である。

 

 千佳子の云うような102鍵の効果で、低音が響いてより深みのある音になっているのかどうか、薫にはよくわからなかった。

 しかし、いずれにしろ名器には違いない。

 

 聞こえる音はまろやかで、悠揚とした広がりがある。

 打鍵の反応も良く、余韻もブレることなくなめらかに伝わってくる。

 

 第一楽章の次は第二楽章。薫の好きな楽曲である。

 この曲を聴いて薫はピアノを習うことを決めた。

 

 いつか弾きたいと願い、一度は中断したものの、東京に戻ってきてから再び練習を重ねて、前回の稽古でようやく終了の認可をもらえた。

 

 しかし弾けるようになっただけだ。

 千佳子のように魅せて弾きこなせるようになるには、まだまだ遠い。

 

 ピアニストになる気はないが、自分が千佳子の演奏を聴いて感銘を受けたように、自分もまた誰かが感動してくれるような演奏をしてみたい。

 

 千佳子が奏でると、その指の動きに合わせて音楽がまるでキラキラと光り踊りだすように見える。

 音の世界を心底から楽しみ、遊び、そして時に微睡(まどろ)んでいるかのようだ。

 

 千佳子は第三楽章まですべて弾き終えると、しばし余韻に浸った後、薫に向き直った。

 

「そうだわ、薫子さん。よろしければここで婚礼のお披露目パーティーをなさるとよろしくてよ」

 

 また突然、意外なことを言われて、薫は唖然となった。

 

「八津尾家の明宣様は断らなかったと聞きましたよ。八津尾子爵はいい顔をされてなかったようですけれど。まぁ、いずれにしろ三、四年後には結婚なさるでしょうし、その時のお披露目は森野辺の家では小さいでしょう? この家であれば、宮様の来賓すら対応できますよ。そうそう。その時までにショパンのエチュードがほとんど浚えるようになっていたら、このピアノを弾かせてあげてもよろしくってよ」

 

 薫は硬直したまま、ぎこちない笑みを浮かべるしかなかった。

 

 あんな不作法をしたのだから、きっと断られていると思っていたのだ。

 父も母も、戻ってきてから一切、見合いの話はしなかった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 帰り道、人力車に揺られながら、久しぶりに気分が沈んだ。

 

 なぜ、こんな気持ちになるのか、自分でもよくわからなかった。

 普通に考えれば、有り難いことなのに。

 よかった、と安堵して喜ぶべきことなのに。

 

 あの見合いの時、目の前に座っていた人のことを薫はあまり覚えていない。

 だが、嫌だった。

 彼が嫌なのではない。

 いつか自分が嫁ぐことが、誰かのものになることが、ひどく重苦しい気分にさせた。

 

 かといって、自分が森野辺の家を継がなければならないのはわかっている。

 

 誰にも相談できない。

 

 志津がいれば、あるいは実弥がいれば、話して気を紛らすこともできたろうに。

 流れる景色の先に、いつか実弥と一緒に食べたお汁粉屋の屋台が見えた。

 

 ―――――あんなに温かい食べ物を食べたことなかったな……。

 

 思い出してしまう。

 もう、なくなってしまった場所。

 

 気がつくと涙が風に飛んでいった。

 泣いているのを自覚しながら、涙の本当の理由はわからなかった。

 

 

 

<つづく>

 



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第四章 蹂躙(二)

▼今回、残酷描写があります。



 二学期が終了し冬休みに入ると、薫は再び信州へと向かった。

 

 寧子(やすこ)の言っていた、森野辺子爵が自らの趣味である登山のために購入した別荘で、年を越すことになっていた。

 

 小さな湖畔には六軒ほどの別荘が立ち並んでいるが、そのほとんどは避暑のためで、冬場に来たのは森野辺家だけだった。

 しかし歩いて一時間ほどで、薫が夏に世話になった藤森家の屋敷があるので、加寿江と頻繁に会って遊ぶことが出来た。

 

 加寿江に教えられ、薫は初めてスキーというのも体験した。

 夏は気鬱であまり外で遊ぶことはなかったが、冬は加寿江に集められた村の子供達との雪合戦もし、(そり)で競争もした。

 

 朝に勉強とピアノの稽古を済ませて昼ごはんを食べた後は、いくらでも遊び放題だった。

 お目付け役のヒサが、娘のお産のために暇をとっていたのも好都合であった。

 

 

 その日はクリスマスだった。

 

「いいなぁ。ウチなんて、お父様がそんな西洋の祭りは知らん! って、なーんもナシだよ。一応、クリスマスプレゼントだけはくれるけどさ。本だよ、本。おもしろくもなんともない」

 

 加寿江は薫から家族内だけで、ちょっとしたクリスマスパーティーをするのだと聞くと、ムスっとして言った。

 

「じゃあ、加寿江さんもおいでになりますか? 本当に家族内だけのもので、そんなに大層なものではないですけど」

「行く! 行く行く!」

 

 そんな話をしたのが二日前。

 加寿江と一緒に森野辺の湖畔の館に向かう頃には、日が暮れていた。

 

 本当はもっと早くに出るはずだったのだが、当日は加寿江のお琴の稽古日で、どうやらサボっていたのをキツく叱られ、居残り稽古をさせられたらしい。

 

「もぉ、あのお婆さん先生、厳しくって」

 

 辟易した様子で加寿江は橇馬車に乗り込んだ。

 

「ご苦労さまです」

 

 クスクスと笑いながら薫も一緒に乗り込む。

 

 馬車が走り出すと、風が強くなり、寒さが沁みてくる。

 薫はショールを頭から被った。

 

 馬車といっても天蓋もなく、どちらかというと農耕具を乗せるために作られた簡易な荷馬車だったので、荷台の中で加寿江と二人、寒くて縮こまって座っている。

 

「こんなに遅くなって、伯父様に怒られなきゃいいけど……」

 

 加寿江も自分で編んだという毛糸のマフラーを鼻まで巻いている。

 

「大丈夫。お父様は加寿江さんにツリーを見せたくて仕方ないようですから」

「ツリー?」

「クリスマスツリーです。昨日、みんなで総出で飾り付けをしたんです」

「へぇ! 楽しみ」

 

 集落を過ぎて一本道に出ると、開けた視界に、星を散りばめた空が一面に広がる。

 

「綺麗」

 

 全方位に広がる星空に、白い息を吐きながら、薫は見入った。

 

「そうねー。今日は雲もないし、星も綺麗だわ」

 

 加寿江は見慣れているが、薫が喜んでいる様子なので嬉しかった。

 東京では汽車や工場からの煙で空が年々薄汚れていっているらしい。

 

 湖畔へと続く道に入っていくと、森の中になり、星空は高い木々の上に見えるだけになった。

 

「………」

 

 シンと静まり返った空気に、薫はふと、嫌な感じになった。

 

 ゾワリ、と悪寒がはしる。

 

「うわっ!」

 

 馬を走らせていた下男が驚いた声をあげ、急停止する。

 

「きゃっ!」

「痛あっ!」

 

 加寿江とおでこをぶつけて、荷台の中で倒れ込んだ。

 

「なによぉ、もぉ……勘吉」

 

 加寿江が不満そうに声をかける。

 勘吉と呼ばれた下男は、馬車から降りていた。

 

「う、うわ……これ」

 

 恐怖で上ずった声が聞こえてくる。

 

 薫は前方を窺った。

 赤く染まった雪が見える。

 

 ただ事でないことを感知すると、荷馬車から飛び降りた。

 

 勘吉が立っている場所に近づくと、人が倒れているのが見える。

 

「………」

 

 止まることを忘れたように、足が勝手に動く。

 倒れている人に近づいて、よく見ると、それは森野辺家の下男である辰造だった。

 

「辰造さんっ!」

 

 薫が膝をついて体に触れると、うぅ…と辰造が呻いた。

 

「辰造さん! どうしたの? どうして!?」

 

 その大きな体を揺さぶると、ゴロリと辰造の右腕がもげた。

 

「っ……!!」

 

 悲鳴が喉でつかえた。

 

 辰造の頭から流れるおびただしい血が、白い雪の上に広がっていく。

 背中にも、熊にでも襲われたのか、深く抉られた爪痕。

 

「鬼だ……」

 

 後ろで加寿江がつぶやく。

 勘吉がハッとなって、加寿江と薫をあわてて馬車へと押しやった。

 

「乗ってくんなさい! すぐに!」

 

 加寿江もまた我に返ったようだった。「薫子(ゆきこ)ちゃん! こっち!!」と、薫の腕を掴んで、無理矢理に荷台へと乗せる。

 

「待って、待って! 辰造さんが……死んでしまう!」

「駄目! もう駄目だよ! 行っては駄目なんだよ!! 勘吉、先生のとこに急いで!」

 

 勘吉は馭者台に飛び乗ると、馬に鞭をあてて百八十度回転し、来た道を戻り出す。

 

「加寿江さん! どうして? 放っておく気? 辰造さんは怪我をしているのよ!!」

「駄目だよ、薫子ちゃん。あれは鬼の仕業だ。私達では無理なんだよ!!」

 

 加寿江がいったい何を言っているのか、薫には理解できなかった。

 ただ、いつになく真剣な表情の加寿江の言うことを無視もできない。

 

 薫は後ろを振り返った。

 

 血まみれの辰造はこのまま放っておけば、死を迎えるしかない。

 それに、辰造だけでない。あの道の先にある館には、父も母もいる!

 

 薫はギリと奥歯を噛みしめ、俯いた。

 諦めたと思った加寿江が力を抜いた瞬間に、薫は荷馬車から飛び降りた。

 

 雪の中に転がり落ちたが、すぐさま立ち上がり駆け出す。

 湖畔の館に向かって。

 

「薫子ちゃん!? 駄目だって!! 勘吉、止まれ! 薫子ちゃんが降りた! 止まれ、勘吉!!」

 

 加寿江は怒鳴ったが、夢中で馬を走らせる勘吉には聞こえなかった。

 

 馬車が去って行くのを見送って、薫は再び湖畔の道を駆け始めた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 馬車の轍の上を歩いていくと、辰造が地面に倒れ伏しているのが見えた。

 

 側に寄り、そうっと体に触れる。

 ゆっくりと体を仰向けに転がすと、額がパックリと割れて、脳みそが千切れて飛び出ていた。

 

「………」

 

 あまりの酷い有様に声も出ない。

 もはや事切れていた。

 

 ――――鬼だ。あれは、鬼の仕業なんだよ!

 

 加寿江の言葉が脳裏に響く。それはあまりにも現実味がなかった。

 

 鬼? そういえば前にもそんなことを言っていた。

 もう、思い出すこともできないが。

 

 ゆっくりと、館に向かって歩き出す。

 点々と辰造の血が雪の上に続いていた。

 

 途中で薪割り用の鉈が落ちていた。赤黒い血がこびりついている。

 薫は震える手で鉈を拾うと、再び歩き出した。

 

 行ってはいけない、と何かが言っている。

 

 やたらと静か過ぎる森の中。

 早鐘のように打つ心臓が、やめろ、やめろ、と叫んでいる。

 

 その警告を無視して、一歩、足を踏み出すごとに、汗が背中を伝っていく。

 

 パァーンッ!!

 

 静寂を裂く銃声が響いた。

 

 父だろうか。確か昨夜、猟銃の手入れをしていた。

 やはり熊か何かに襲われているのか?

 

 雪に足をとられながら、少しでも早く、と急ぐ気持ちと恐怖が交錯する。

 

 ようやく玄関扉の前に立ち、そぅっと扉に耳を押し当てた。

 

 ガタン! と何かが倒れる音がした。

 

 薫は静かに扉を開いた。

 鍵はかかっていない。

 

 いつもは電気の点いているはずの玄関ホールは真っ暗だった。

 月明かりも入ってこず、しばらく薫は闇の中に身を潜めて目が慣れるのを待った。

 

 窓の外のほのかな雪明かりで辛うじて様子がわかってきた。

 

 ホールの中央に皆で飾り付けた樅の木が倒れている。

 天辺につけた星の飾りが、足元に落ちていた。

 

 西側の庭へと出る窓は割れていた。

 かなり大きく蹴破られている。

 もしかすると熊か何かはここから入ってきたのだろうか。

 

 冷たい風が引き裂かれたカーテンを揺らし、絨毯は雪と泥で汚れ、黒い染みがあちこちに飛び散っている。

 階段下のチェストに置かれていた花瓶は粉々に割れ、朝に母と活けた山茶花(さざんか)が床に散らばっていた。

 

 階段の陰になった部分から、白い手が見える。

 

 駆け寄ると、そこにはトヨが倒れていた。

 

「トヨさん!」

 

 薫が声をかけると、トヨはうぅぅと力なく呻いた。

 

「トヨさん! トヨさん! しっかりして。お願い」

 

 耳元で呼びかけると、かすれた声がした。

 

「お……嬢さ、ま」

 

 片方の目を押さえていた手で薫の腕を掴んだ。

 目から顎下にかけて、深く爪で抉り取られ、目玉が落ち、血があふれ出す。

 

「逃…げ……て」

「……何が……」

 

 あったの? と、薫は尋ねたかったが、トヨはもう返事をしなかった。

 よく見れば、胴から下がない。

 おびただしい血が水たまりのように溜まっている。

 

 一気に恐怖が身を包む。

 薫はもう息を潜めることすらできなかった。

 荒い息遣いが自分のものでないように聞こえてくる。

 

 熊が、こんなことをするはずがない。

 

 ――――鬼の仕業なんだよ!

 

 加寿江の言葉がまた反芻する。

 

 得体の知れぬ存在が身近にある。

 それは直感している。

 

 ゾッと足元から怖気が走り、体が硬直した。

 

 奥歯をきつく噛み締めて立ち上がると、鉈を抱きしめるように強く握り、薫は頭を振った。

 

 まだ、何が起きているのかわからない。

 もしかすると、さっきのあの銃声。父が何かを撃って退けたかもしれない。

 

 そう思った矢先に、父の悲鳴が響き渡った。

 

「うおぉぉぁぁあああ!!」

 

 二階からだ!

 

 薫は階段を登っていく。

 

 踊り場に人の下半身があった。

 着物の柄に見覚えがある。おそらくトヨのものだろう。

 

 涙が勝手にあふれだす。

 それがトヨと辰造を失くした悲しみなのか、恐怖が嵩じたものなのか、薫にはわからなかった。

 

 二階の廊下の電気はポツポツと明滅しながら点いていた。

 

 窓が割れて、雪まじりの風が吹いてくる。

 

 涙を頬に凍りつかせて、薫は声がした方を探りながら進んでいった。

 

 薫の寝室の次の間のドアは蹴破られ、中は散乱していた。

 泥棒に入られてもここまでひどい有様にはならないだろう。

 さっと見回したが、誰もいないようだった。

 

 奥の、両親の部屋からだ。

 廊下を進むに従って、奇妙な音が聞こえる。

 

 ゴリ、ゴリと何かを擦り合わせているかのような音。

 途中でペチャペチャと舐めるような音。

 

 ベキッと何かを折る音が聞こえたと同時、母の短い悲鳴がした。

 

 薫は目を剥いた。

 

 きっと、今の声は母が痛がっている声だ。

 何かが、母を傷付けた声。

 

 瞬間的に、薫に怒りが噴き上がる。

 

 躊躇なく両親の部屋の扉を開けると、ボンヤリとした橙の灯りの中、人間のような()()()()()()()()を食べていた。

 

 なにか…と思ったのは、それは本来食べ物ではなかったからだ。

 血まみれの棒状の片方の端に、五本の指らしきものがついているもの。

 

 薫の目には、それは人の腕のように見えた。

 

 扉を開けた薫に気付いてないのか、そのイキモノは一心不乱に食べている。

 

 腕を食べ終えると、次には首にかぶりついて、ゴリゴリと骨から肉をこそぎ落とすように食べている。

 

 それは、父だった。

 父の頭だった。

 

 ソイツの足元には母が虚ろな目を見開いたまま、横たわっていた。

 胴体は背を向けているのに、首だけがこちらを向いている。その状態を見て、母が既に事切れていることを知る。

 

 血が凍りついたように、全身が冷たい。

 声も出ず、息すらできない。

 

 一体、これは何?

 

 自分の目の前にある光景と心が結びつかない。

 思考が停止して、体が動かない。

 

「…ぅんあぁ??」

 

 風の流れを感じたのか、ソイツは食べるのをやめ、薫の方を向いた。

 

 血を溶かしたような三つの目に、額から生えた角、緑色の血管が浮き出た皮膚。

 ニヤァァと笑った口は耳まで裂け、狼のように伸びた犬歯から血が滴った。

 

「これはこれは……ウマそうなのがいるじゃんけェ」

 

 遠い意識の中で、加寿江の言った『鬼』という意味がようやくわかった。

 

 確かに、コイツは鬼だ。

 鬼以外の何者でもない。

 

 鬼は父の頭を放り出すと、一瞬で薫の前に立った。

 

「ケケケケ」

 

 気味の悪い声で笑いながら、硬直して動けない薫の頭を掴み、持ち上げた。

 足がぶらりと宙に浮き、ミシミシと、頭蓋骨が音をたてている。

 

「やっぱり娘は柔らかくてウマそうだなァ」

 

 鬼が嗤い、赤い舌がベロリと蠢く。

 

 ―――――赤……。

 

 意識が遠くなり、薫の視界が赤く染まった。

 

 雪に広がった辰造の血。

 トヨの顔から落ちた目玉。

 頭を喰われ剥き出しになった父の脳。

 母の口の端から流れた一筋の血。

 

 赤い。

 赤い。

 赤い。

 赤い。

 

 ザ、ザ、ザと耳の中で音がする。

 

 それから、一気に広がる景色―――――。

 

 赤い……朱い…………………………………………空。

 

 紅い……目……?

 

 

 ―――――死ぬ

 

 

 死を知覚した瞬間、薫は持っていた鉈を鬼へと向けて振り回した。

 

「うごっ!」

 

 不意をつかれた鬼が、薫から手を離す。

 落ちる時に鬼の爪が薫の頭皮を破り、血が流れ出た。

 

「てンめぇェェェ!!!!」

 

 鬼は激昂しながら、首に刺さった鉈を無造作に抜いて放り捨てた。

 

 首が千切れかけているのに、何事もないかのようにしゃべっている。

 人ならざるものの体現を目の当たりにして、薫は一歩も動けなかった。

 

「つまらん真似しやがってェェェ。手足もいでから、殺してやる!!」

 

 言いながら鬼が首を元に戻すと、ゆっくりと傷口は消え、斬られた痕跡もないほどに元通りになっている。

 

 ザアァァと耳鳴りがうるさかった。

 毛穴という毛穴から冷汗が噴き出し、信じたくない悪夢が目の前で繰り広げられている。

 

 異形の化け物。鬼。

 

 その存在に、薫はようやく恐怖を感じていた。

 

 

 

<つづく>

 



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第四章 蹂躙(三)

▼今回、残酷描写があります。



「先生! 先生、先生、先生っ!!」

 

 加寿江が真っ青な顔で飛び込んでくるなり、東洋一(とよいち)は事態が一刻の猶予もならないことを察知した。

 

「…鬼か?」

 

 低く尋ねると、加寿江がコクコクと頷く。

 

「森野辺様のお館です。下男がやられてます」

 

 後ろから入ってきた藤森家の下男・勘吉も、震える声で告げた。

 

「わかった」

 

 すぐさま自分の部屋に戻り、無造作に立てかけておいた刀を手に取ると、弟子達に告げた。

 

「いいか、お前ら。一刻して儂が戻らんかったら、連絡して隊士を送ってもらえ」

「鬼ですか?」

「俺らも行きます!」

 

 弟子達は息巻いたが、東洋一は一喝した。

 

「阿呆か! お前らなんぞ来ても足手まといじゃ!」

 

 普段は滅多と怒らない東洋一の怒号に、弟子達は青ざめた。

 

 踵を返し、東洋一は外へと飛び出すと、加寿江が乗ってきた荷馬車に乗り込んだ。

 既に待っていた勘吉が馬に鞭を当てようとした時、加寿江が走ってきた。

 

「待って!」

「加寿江、お前は藤森の家に戻れ。怪我人を運ぶかもしれん。用意をしておいてくれ」

 

 東洋一が叫ぶと、加寿江は頭を振った。

 

「私も行く!」

「阿呆!」

薫子(ゆきこ)ちゃんが! 薫子ちゃんが戻って行ってしまったの!!」

「なに…?」

「一緒に逃げようとしたの! でも、一人で戻ってしまった。お母さんとお父さんを助けようとしてる!」

 

 東洋一の脳裏に、夏の日に見かけた頼りなげな薫の姿が浮かんだ。

 

「馬鹿な……ひとたまりもないぞ……」

 

 呟いて、勘吉に出るように云う。

 

「先生っ!」

 

 加寿江が叫んだ。

 

「薫子ちゃんを助けて! 薫子ちゃんを……。お願い、お願いします。先生っ!!」

 

 雪の中で加寿江がうずくまって、必死に祈るのを見届け、東洋一は空を仰いだ。

 

 さっきまできららかな星空が見えていたのに、いつのまにか風が出て、藍鼠色の雲が一面に広がっている。

 

 今宵は新月。

 鬼が蠢くにはいい夜だろう。

 

 東洋一はフゥゥと呼吸を整えた。

 

 既に現役を引退して数十年だが、近隣で鬼が出没した時には退治してきた。

 東洋一程度で退治できる鬼であれば、だ。もし、そうでなければ現役に任せるしかない。

 その時には東洋一も既にこの世にないだろうが。

 

 勘吉は辰造の死体の場所まで来て、馬車を止めた。

 東洋一は頷くと、馬車から降りた。

 

「ここまででいい。お前は森の外まで出ておけ。もし、やってくる人間がいれば入れるな」

「はい」

 

 勘吉は頷くと、また馬車を半回転させて戻って行った。

 

 東洋一は死体を見た。

 頭をやられている。

 

 ここまで逃げてきて力尽きたのか。まだ、食べられてはいないようだ。ということは、まだ鬼は館の中にいる。

 点々と赤い血が続き、館へと向かう足跡があった。

 おそらく、薫子のものだろう。

 

 館の扉は開いていた。

 中に入るなり、血の匂いが鼻をつく。

 鬼特有の、腐敗した死体の匂いも。

 

 ゴトン、と二階で音がした。

 すぐさま階段を登り、二階の廊下に出ると同時に濁声が響いてくる。

 

「てンめぇェェ!! つまらん真似しやがってェェ。手足もいでから、殺してやる!!」

 

 東洋一は息を吸い込んだ。

 普通に走っていては間に合わない。

 慣れたとはいえ、義足は義足だ。

 

 風の呼吸 壱の型 塵旋風・削ぎ

 

 凄まじい威力の螺旋の風が、鬼に向かって突進する。

 同時に東洋一の斬撃が鬼の腕を斬り落とした。

 

「ガアァァァッッ!!」

 

 痛みに鬼が悲鳴を上げる。

 さっき首に刺さった鉈などとは比べ物にならない。

 

「間に合ったようだな、お嬢さん」

 

 東洋一は床にへたりこんだ薫の前に立つと、鬼に対峙した。

 

「貴様……鬼狩りかァ!?」

 

 鬼が激昂するのを、東洋一は冷たく見つめていた。

 

「昔な。今は、引退したが……それでもお前さん程度なら儂で十分のようだ」

 

 いつもと変わりない飄々とした口振りで云うと、馬鹿にされたのに気付いた鬼がギリギリと歯噛みした。

 

「ふざけるなよォ! 耄碌したジジィがァ!」

「ジジィがすべて耄碌しとると思うなよ」

 

 のんびりと言ったが、刀を構えると、その隙のない姿と鋭い眼光に、鬼が一瞬怯む。

 

 風の呼吸 弐の型 爪々・科戸風

 

 避けることなどできなかった。

 ゴウと風のうなる音がしたかと思った瞬間には、斬撃による風の威力だけで鬼の身体は斬り裂かれていた。

 

 人間が…しかも不具の老人が、自分を殺すことなど、考えもしていなかったのだろう。

 

 ゴトンと落ちた首がいつまでも再生しようとせず、倒れ込んだ体を動かすことができないことに、鬼は混乱した。

 

「くっ……なんでだ、なんで……」

 

 言っている間にバラバラと視線の先にある体が散り散りになっていく。

 

「うあ……あぁぁ」

 

 恐怖が鬼を襲う。

 

 鬼狩りの爺は無表情に見ていた。

 長きにわたり鬼を成敗してきた老人の、酷薄な顔が目に焼き付いた。

 

 不意に、その横で呆然と座り込んでいた娘がよろよろと立ち上がった。

 見開いた目は瞬きすることなく、塵となって消えていく(じぶん)を凝視していた。

 

「……死ぬのですか?」

 

 鬼狩りの老人に尋ねている。

 

「あぁ」

 

 老人が頷くや否や、娘は老人の刀を奪い取った。

 

 刀が再び、頭を突き刺す。

 抜いて、また再び。

 

 何度も、何度も、突き刺してくる。

 

「こんな…簡単に……死なせるものか……お父様を…お母様を……殺しておいて。……おのれ、おのれ………オノレェェェェェェ!!!!」

 

 呪詛のように唱えながら、娘は刀を頭に突き刺した。

 

 鬼は消えながら嘲嗤った。

 

 愚かな娘だ。

 もう、痛くもなんともないのに。

 そんなことをしても、お前の父も母も戻りはしない。

 お前は一人だ。お前は……

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 鬼の頭が灰のように消えた後も、薫は刀を振り下ろした。

 頭がなくなったとみるや、今度はまだ残っていた胴体を。

 

 だがそれもすぐに塵となり消える。

 

 東洋一はしばらく腕を組んで眺めていたが、カツン、と床に乾いた音が響くと、薫の手から刀を取り上げた。

 

「もう、おらん」

「…………」

 

 薫は肩で息をしながら、目を見開いたままワナワナと震える手で空を掴んだ。

 

「どうして……?」

 

「鬼は、首を斬れば、消える」

 

 東洋一は冷静に答えながら、それが薫の望む答えでないことはわかっていた。

 

 薫は(じっ)と東洋一の目を覗き込むように見つめた。

 泣いてはいなかったが、涙が瞳の中で潤んでいた。

 

 本人ですら想像をしていなかった自分自身の怒りに、まだ慄えが止まらぬようだ。

 カチカチと奥歯が細かく鳴っている。

 

 薫は床に座り込むと、落ちてあった鉈を見つめた。

 

「私は……私はさっき…あの鬼の首を斬りました……」

「日輪刀で首を斬らぬ限り、再生する」

「……にちりんとう?」

「鬼狩りの持つ剣だ。それでしか鬼を成敗することはできん」

「………鬼」

 

 小さくつぶやいて立ち上がると、ソファの上に横たわった母の元へと歩いていく。

 

「……死ねば塵となって消えるようなものに、殺されたというのですか……。母も、父も……」

 

 平坦な声に感情はない。

 東洋一は静かに薫を見つめていた。

 

 薫の後ろ姿にかつての頼りなげな様子はない。

 むしろこの残酷な状況に目を逸らさず、向き合おうとする強靭な精神力を有していことが驚きだ。

 

 鬼に家族を殺され、命を助けられた者達を幾人も見てきた。

 命を救われ、有り難がる者。

 身内を亡くした喪失感に呆然とする者、泣き叫ぶ者。

 

 薫はただただ静かだった。

 

 ゆっくりと屈み、目を見開いたままだった母の瞼をおろす。

 脳みそが半分なくなっている父の頭を持ち、母の横へと置く。

 

 そのままその場に座り込んだ。

 

 東洋一は肩にとまった鴉に隠を呼ぶように言った。

 ここから先は東洋一の領分ではない。

 

「お嬢さん、ひとまずは藤森の家に行くよ」

 

 肩を叩くと、薫は首を振った。

 

「あんたも怪我をしとる。このままここにいたら凍え死んでしまうよ。お父上と母上のことは、こちらでちゃんとするから」

「………父と母だけではありません。辰造さんも、トヨさんも……」

「あぁ。皆、面倒をみる。とにかく、来なさい。加寿江も心配しとる」

 

 加寿江の名を出したからなのか、薫はゆっくりと立ち上がると、大人しく東洋一について歩き出した。

 

 藤森家に送り届けた後、一切の表情をなくした薫がどういう行路をたどったのか……再び再会するまで、東洋一は知らない。

 

 

 

<つづく>

 



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第四章 蹂躙(四)

▼今回、残酷描写があります。



 森野辺子爵夫妻の死亡から二ヶ月が経とうとしていた。

 

 薫は年始を過ぎて一月いっぱいは藤森家で過ごした。

 ようやく二月になって東京に戻り、父母の葬儀を済ませると、そこからはそれまで会ったこともない親類縁者が次々に屋敷におしかけるようになった。

 

 勝手に父の書斎の資料を漁ったり、母の高そうな着物を持ち出したりしていく。

 いよいよ持っていくものがなくなると、遺された薫の処遇について、互いに押し付けあった。

 

 ――――どうするっていうんです? あの娘。

 

 ――――ご令嬢なんて言っても、元は子守奉公をしてた下女だというじゃありませんか。

 

 ――――子爵も面倒なものを残されて…。

 

 ――――慈善だか福祉だか知らんが、下賤の者のためにつまらぬことをしているから、先代まであった財産を食い潰して、ほとんど残ってないらしいぞ。

 

 ――――三千円ほど持たして、元の奉公先に送り返せばいい。

 

 ――――佳喜(けいき)達が死んだとき、寧子(やすこ)夫人の親戚の家にいたらしいじゃないか。そこで面倒みさせればいいだろう。

 

 ――――八津尾(やつお)子爵にお願いしては? 元々縁談が持ち上がっておられたのだし。

 

 ――――あの八津尾子爵が許すはずなかろう。

 

 ――――でも明宣(あきのぶ)様から子爵に願い出たという話ですよ。あの娘を引き取ることを。

 

 ――――ハッハッハ! ちょうどいいじゃないか。蓼食う虫も好き好きとか…よくもまぁ、あんなケチのついた娘を嫁に貰おうなどと考えるものだ。

 

 ――――無理ですよ。八津尾家の方ではその話の火消しに躍起になって、明宣様には古見だとかいう成金の娘との縁談を進めようと……

 

 ――――どこでもいい。ウチで面倒は見んからな。

 

 ――――そんなこと、私共だって御免です。

 

 ――――元は佳喜の子でもない。(すぐる)の娘だろう。旅芸人の女と駆け落ちした……

 

 ――――あの弟御がそもそもの問題ですよ。社交界の華とばかりに皆が褒めそやすから、いい気になって。挙句、西洋(あちら)の思想にかぶれて、自由恋愛だの何だのと…

 

 ――――先代は卓を勘当していたのだし、その娘が森野辺に帰ってくるなどおかしな話だ。

 

 ――――そうそう! 私、びっくりいたしましたのよ。ホラ、明見(あけみ)侯爵の千佳子様。あの娘にピアノを教えてらして。

 

 ――――あの方も浮世離れなさっておられるからなぁ…。

 

 ――――いいえぇ…私、ちょっと恐ろしく思いましたよ。千佳子様はまだ本心のところ、許してはおられないんじゃないかしら。復讐のためにあの娘に…。

 

 ――――やめなさい。侯爵夫人となって十年は経っているのだぞ。卓と婚約していたことなぞ、とうの昔の話だ。

 

 ――――あら、それでも自分を棄てて、あの娘の母親と出奔されて、千佳子様は相当恨みに思ったはずですよ。

 

 ――――そんな娘をよくもまぁ、のうのうとピアノの稽古になぞ向かわせるなぞ、子爵も子爵ですよ。厚顔無恥というのか……

 

 ――――佳喜様も、奥方も人が良すぎてらっしゃったから……。

 

 ――――慈善、慈善と篤志家ぶるのも結構だが、娘に大した財産も残してないから、引き取り手もおらんのだ。

 

 ――――そもそも………

 

『親族』と称する人達は、連日やってきては口さがなく故人を誹謗する。

 薫はもはやまともに聞く気も失せていた。

 

 要するに彼らは薫を放り出したい。

 その上で森野辺に残るわずかな財産を自分達のものにしたいのだ。

 

 勝手にすればいい。

 そう切り捨てたかったが、東京の家に戻ると感傷が押し寄せ、離れ難かった。

 

 父が毎晩吸っていた煙草の匂いが染み込んだ書斎。

 母が普段着ていた藤色の紬の着物。

 トヨ達と一緒におせちを作った台所。

 辰造がいつもきれいに丹精してくれていた庭。

 

 今はヒサと二人だけだった。

 信州に連れて行った使用人はすべて殺され、東京の屋敷に残っていた者には辛うじて残っていた財産を分けて、暇を与えた。

 親族達がいなくなった夜だけ、静寂が訪れる。

 

「お嬢様、それでは私は休ませていただきます」

「……はい、おやすみなさい」

「まだ、起きておられるのですか?」

「………お父様に勧められていた本を読んでいるの。もう、いつまで読めるかわからないから」

「お嬢様…」

「気にしないで、ばぁや」

 

 ヒサは頭を下げると、自室へと引き取った。

 

 薫はしばらくの間、父の書斎で本を読んでいたが、うとうとと微睡(まどろ)みはじめた。

 

 

◆◆◆

 

 

 また、夢を見る。

 

 信州の館だ。

 真っ暗な玄関ホール。

 

 倒れたクリスマスツリーの向こう、階段下で、トヨが下半身をなくした姿で立っている。

 

「お嬢様、逃げて」

 

 右目が落ちて、顔の半分は肉が露わになって血まみれだ。

 後ずさりすると、いつのまにか後ろに立っていた辰造が薫を見下ろしている。

 

「お嬢様、駄目です。行っては駄目です」

 

 パックリと割れた頭から、ボタボタと脳みそが垂れ落ちている。

 

「旦那様に、頼まれたんです」

 

「お嬢様、逃げて」

「行っては駄目です」

 

 腕を掴まれる。

 離して! と叫ぶ前に、バチンと閃光が爆ぜる。

 

 次の瞬間には、二階の廊下にいる。

 

 両親の部屋から、父が頭を半分喰われた状態で歩いてくる。

 

薫子(ゆきこ)……来てはいけないと言ったのに……」

 

 母が頭だけ真後ろを向いて、近づく。

 

「来ては駄目と、何度も何度もお知らせしたのですよ」

 

 館に向かう前、薫の中に響いていた警告は、あるいは父母の声なき叫びだったのだろうか。

 

 ヒュンと奥から手が伸びて、鬼が薫の頭を掴んだ。

 

「ウマそうな娘だ……」

 

 云うや否や、頭をもがれた。

 

 母と同じように、ありえない角度で自分の背中が見えている。

 

 廊下にいたはずの父母の姿はない。

 

 メリメリと髪の毛が頭皮ごと剥がされる。

 ミシミシと頭蓋骨に(ひび)の入る音。

 ムシャムシャと脳みそを()む音。

 

 おかしい。

 殺されているはずなのに、どうして自分は知覚しているのだろう?

 

 おかしい。

 おかしい。

 

 死んでいるのに………

 

 

◆◆◆

 

 

 うっすらと目を開くと、燭台の火のボンヤリした光りが映る。

 

 深呼吸をしてソファの上でゆっくりと起き上がる。

 辺りを見回すと、暖炉の火はもう消えていた。

 

 寝間着が汗でじっとり濡れていた。

 体が強張って、軋んでいる。

 

「………」

 

 薫は自分の体を抱きしめながら、深く息を吐いた。

 ひどく……疲れた。

 

 信州の館から戻ってから、頻繁に見る夢だった。

 

 あの時、自分は東洋一(とよいち)に助けられたはずなのに、夢の中ではいつも死んでいる。

 死んでいるはずなのに、はっきりと鬼が自分を食べていくのがわかるのだ。

 

 あるいは父も……そんな状態だったのだろうか?

 そう考えると、今もまた慄える。

 恐れよりも、怒りが、全身を熱くいきり立たせる。

 

 あの時、消えていく鬼を見ながら、何もできぬまま、見過ごすことができなかった。

 辰造も、トヨも、父も、母も、苦悶の中で死んでいった。

 

 それなのに殺人鬼は罪を犯したことを詫びることもなく、証拠すら残さず、ただ消え去るのみ。

 

 許せなかった。

 

 父の恐怖を、母の痛みを、味あわせたい。

 苦痛の中で死ね、と呪った。

 

 結局、鬼は塵となって消えただけ。

 自分の無力さが残っただけ。

 

「………」

 

 もう一度、吐息をついて立ち上がると、薫は自分の部屋へと戻った。

 

 汗で濡れた寝間着を変えようと思ったのだが、ふと洋箪笥にかかったケープが目に入った。

 

 信州に向かう前に、寧子と一緒に行った日本橋の三越で買ったものだ。

 

「早いけれど、クリスマスプレゼントですよ」

 

 そう言って、寧子は薫が見ていた葡萄茶(えびちゃ)色のビロードのケープを買ってくれた。

 

「そんな…いいです」

「いいじゃありませんか。似合いますよ。ちょっとまだ長いけど、これから貴方は成長するでしょうから……」

 

 薫は寧子の嬉しそうな顔を見ていると、無下に断るのも悪い気がした。

 それにつややかなビロードのケープに目を奪われたのは確かだ。

 

 せっかく買ってもらったのに、着るのが勿体なくて、ずっと観賞用だった。

 

 しばらく見つめてから、薫は寝間着ではなく、白のブラウスを着て、黒の別珍のスカートを履いた。その上から初めてケープを羽織る。

 

 静かに階段を降りて、外に出ると、外気の冷たさにフゥと息を吐いた。

 白くなって消えていく。

 

 すっかり人気のなくなった道を歩く。

 空には雲がうっすらとかかり、星も月も隠していた。

 

 目の前を猫が音もなく横切っていく。

 ガス燈にポツリポツリと照らされた道を進んでいくと、サラサラと川の流れる音が聞こえてきた。

 

 いつもここで川が流れるのを見ていた。

 どうしてなのかわからない。

 

 実弥にも、東洋一にも、他にも何人かに訊かれたが、いつも理由は曖昧だった。

 はっきりと説明できない。

 

 こんな時間に出歩いて、こんな場所に一人、ぽつねんと立っているのを見たら、実弥はどんな顔をするだろうか。

 そんな考えが浮かぶと、思わずクスと笑みがこぼれた。

 きっとひどく怒られるだろう。

 そして、すぐさま森野辺の屋敷に送り届けてくれるだろう。

 

 実弥の顔が思い浮かぶと、寿美達の顔も出てくる。

 いつも薫を姉のように慕ってくれた小さな子供達。

 いつも明るく騒がしかった、懐かしい家。

 

 不意に、辰造の話を思い出した。

 

 ――――ひどいもンですよ。まるで野犬にでも喰われたのかってな有様で。部屋中、血だらけの地獄絵図のようでした。

 

 ドクン、と心臓の音が響く。

 

 そうだ。まさに地獄絵図だった。あの館の有様。

 もしかすると、不死川一家を襲ったのも『鬼』だったのだろうか?

 

 ――――俺は見た。鬼だ。

 

 無人となった志津たちの家を見に行った後に会った乞食も、そんなことを言っていた。

 あの時は本気にしていなかったが、真実、鬼が志津も子供達も殺して喰ったのかもしれない……。

 

 ますます心臓の音が早鳴る。

 鬼というのは、一体、どれだけいるのだろう…?

 

 ――――私たちの身近にいる、どこにでもいる鬼。

 

 加寿江の言葉が甦る。

 

 同時に、近くで小さな子供の悲鳴が聞こえた。

 

 反射的に寿美達の姿が浮かび、薫は声のした方へと駆け出した。

 

 それは河原にある掘っ立て小屋から聞こえた。

 

 走ってくる子供がいる。

 助けてェと、幼い甲高い声が叫んでいる。

 

 子供は必死に走っていたが、途中で石につまづいてこけた。

 後ろから異形のモノが追いかけてきている。

 

 姿形は多少違うが、間違いない。

 ()、だ。

 

「くっ…!」

 

 薫は石を拾うと、鬼に投げつけた。

 

 遮二無二投げる。

 石礫を受けて、鬼の足が止まる。

 

 その間に子供を抱きかかえて、走った。

 

「このオォォォォ!!」

 

 鬼が咆哮をあげて迫ってきた。

 

 もう、すぐ…あと一歩で捕まるすんでのところで、前から凄まじい早さで影が迫り、フワリと薫を飛び越した。

 

「ギィィヤアァァ!!!!」

 

 断末魔の悲鳴をあげたのは鬼だった。

 

 子供と抱き合ったまま、へたりこんで後ろを見ると、パラパラと鬼が消えていく。

 

 その前で刀を持った少年が立っていた。

 無地の赤錆色と、亀甲柄の片身替わりの羽織が、夜風にはためいている。

 

――――鬼狩りだ……。

 

 初めて本物を見た。

 

 なんと鮮やかに、あの忌まわしい存在をなぎ切るのだろう。

 

 美しい青の刀が鞘に収められる。

 東洋一の物とはまた違うが、あれは日輪刀だろう。

 鬼を殺すことの出来る唯一の刀…。

 

 鬼狩りの少年はこちらに近寄ってくると、粗末な着物を着た子供と薫の格好に違和感を感じたのだろう。眉をひそめた。

 

「……姉妹か?」

 

 子供は薫から離れると、ブルブルと頭を振った。

 

「悲鳴が聞こえたので、来ただけです」

 

 薫が云うと、少年は怪訝な顔をした。

 

「こんな時間に、何をしている?」

「…………」

 

 結局、怒られるのか、と薫は思った。

 実弥ではなかったけども。

 

「どうしたぁ…?」

 

 声をかけてきたのは、髭面の男だった。

 子供が「父ちゃん」と抱きついた。

 

 どうやら子供は小便をしようと起きて外に出たところで鬼とかちあったらしい。

 父親は今になって子供が傍らにいないことに気付いて探していたところだった。

 

 薫はホッとした。

 この子は一人ぼっちでなくて、よかった。

 

 掘っ立て小屋に歩いていく父子の姿を見ていると、不意に少年が言った。

 

「隠を呼ぶ。家まで送ってもらえ」

 

 ぞんざいな言い方だったが、悪い印象はなかった。

 

「いえ。一人で帰ります。すぐそこですから」

「女子供が一人で歩くような時間じゃない」

「でも、ここまで歩いてきましたから。助けて頂いて、ありがとうございました」

 

 ペコリとお辞儀して歩きだすと、後ろで軽い溜息が聞こえた。

 

 ザクザクと河原を上がっても、少年はついてくる。

 

「あの、大丈夫ですよ?」

「……帰り道だ」

 

 そう言われると、何も言えない。

 仕方なしに歩くついでに、声をかけた。

 

「あの、鬼狩りの方ですか?」

「…知ってたのか?」

 

 少年は少し意外そうだった。

 

「その刀は……日輪刀、と云うと聞きました」

「あぁ」

「その刀…頂くことはできませんか?」

 

 自分でも唐突だとは思ったが、言ってから気付いた。

 

 そうだ。この刀さえあれば、鬼を殺せるのだ。

 さっきのように襲われた人を助けることもできる。

 今の子供のように、あるいは父母達のように、無辜(むこ)の者達が殺されずに済む。

 

 鬼はただ首を切っても死なない、と東洋一(とよいち)は言っていた。

 日輪刀だけが、鬼を殺傷するのだと。

 

 少年は言われた時には驚いた顔だったが、刀に手をかけ、静かに言った。

 

「駄目だ。これは鬼殺の剣士しか持てない」

「……その刀でしか鬼は殺せないと聞きました」

「そうだ。だが、刀を持つために修練を重ねた者でなければ、持つことは許されない。ただ刀を振り回せば鬼を殺せるというものではない」

 

 そうか、と薫は思い至る。

 加寿江が東洋一のことを先生と言っていた理由。

 

 東洋一が何の師匠なのかと聞いたとき、剣術の師匠みたいなものだと、言っていた。

 それから父母を殺めた鬼を殺した時の、あの尋常ならざる剣技。

 

 おそらくは鬼を殺すには、それ相応の技術が要るのだ。

 そうした技を伝承していかねばならぬほどに、鬼というのはこの世に跋扈しているのか。

 

「鬼は…まだ、いるのでしょうか?」

「いる」

「なぜですか? なぜ、あんなものが…」

「鬼は元々は人だ」

 

 少年は当たり前のように云う。

 しかし薫は凝り固まった。

 

()()()()()()によって、鬼にされてしまった者。人を殺し、喰らい、超人的な力を身につけたのが、鬼だ」

 

 淡々と話し続ける横で、薫はわなないた。

 

「人が……鬼………?」

 

 茫然として呟く。

 

 あの、父母を殺した化け物が元は…人?

 そんな馬鹿なことがあるだろうか。

 

 人が鬼になるのなら、それはどこにでもいるはずだ。

 どうして人を鬼にする?

 ()()()()とは何だ?

 

 その存在がわかっているのに、どうしてこの鬼狩りはそいつを野放しにしているのだろう?

 

「その()()()()はどこにいるんですか? その鬼を殺せばいいのでしょう?」

 

 薫は思わず苛立ちを露わにした。

 鬼狩りの少年は無表情に薫を見やり、すぐに目をそらして、再び歩き出した。

 

「……歩け。家はどこだ」

 

 冷たい声だった。

 それ以上、何も話す気はないようだ。

 

 薫は唇を噛み締めると、先に立って歩き出した。

 

 助けてもらったのに、失礼な態度をとっていることはわかっていた。

 けれど自分があまりに無知であることに悶々とする。

 その答えを教えてくれそうもないことに、苛々する。

 

 家の前まで来て、門を開けて振り返ると、もう少年の姿はなかった。

 

 

 

<つづく>

 



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第五章 決意(一)

 鬼狩りの少年に出会った翌日、薫は親族達が来る前に旅支度を整えると、ばぁやのヒサに告げた。

 

「私は、家を出ます」

「……お嬢様!」

「もう、ここに私の居場所はないから。私は、お母様達の仇をとらなくちゃいけないから」

「仇? お嬢様、危ないことはおよしなさいまし。旦那様も、寧子(やすこ)様もそんなことは望んでらっしゃいませんよ!」

 

 あの館の惨殺事件は公には強盗による犯行ということになっていた。警察も何も介入した様子はないのだが、そのように表向きは処理された。

 どうやら何処からかそういう作為的な力が働いたようだ。

 ヒサはそうした表向きの情報しか知らない。薫が凶悪な強盗犯に向かっていこうとしている、と思ったのだろう。

 

 薫はあまりにも陰惨に過ぎた父母達の最期を、ヒサに話す気にはなれなかった。

 父はともかく、母の寧子はヒサにとって、まだ襁褓(むつき)もとれぬ時分から世話してきたのだ。我が子同様に可愛がってきた『お嬢様』が、あのような痛ましい最期を遂げたなどと知れば、どれほどの嘆きとなるかわからない。

 

 薫は泣きそうな顔の老女の肩に手を置いた。

「わかってる。……これは、我儘です。お父様にもお母様にも申し訳ないと思うけど、私には森野辺を継ぐことはできない。ごめんなさい。………今まで、ありがとう」

 

 寧子から貰った指輪をヒサに渡し、暇をとらせる旨を告げると、薫は小さな旅行鞄一つを持って家を発った。

 行き先は決まっている。信州にいる篠宮東洋一(しのみやとよいち)に会い、入門させてもらうのだ。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 川は雪解け水を集めて、水嵩を増している。

 鶯の鳴き方もだんだんと上手になって、冬枯れしていた庭木が芽吹きだすと、春も近くなってきたな……と、うつらうつらする早春のある日のこと。

 

 いきなり訪ねてきた旅姿の薫を見て、東洋一は嫌な予感がした。果たして、薫が東洋一に頭を下げて、入門を願い出た時には天を仰いで大きな溜息をついた。

「いかん」

 一言。それだけ言って、弟子の一人に薫を藤森の家に送らせた。

 しかし翌朝には同じ姿で薫は門前に座っていた。

「入門させていただくまで、ここに居ります」

 頑として入門拒否を受け入れない。

 

「先生、どうするんですか?」

 弟子が困ったように尋ねてくる。

「藤森家にも伝えましたけど、迎えが来ても、断ってましたよ。あのお嬢さん」

 東洋一は頭を掻いた。

「困ったな……まぁ、夜更けには去るだろう」

 いくら春めいてきたとはいえ、まだ日が沈めば寒い季節である。夜となれば冷たさも増し、とても我慢できるものではない。いずれ諦めて帰るだろう……と、楽観していたが。

 

 夕暮れ間近に加寿江が訪ねてきた。

「おぅ、お前さん。よく来た。連れて帰ってくれ、あのお嬢さん」

「それがねぇ、先生。薫子(ゆきこ)ちゃんてば、案外とかなり強情なのよ。ウチのお父様も、とうとう怒っちゃって。お母様はそれでも様子を見てこいって云うんで見に来たんだけど、やっぱり、どーしても先生のとこで修行したいんだってさ」

「したいんだってさ、じゃない。あんなお嬢さんに耐えられるはずもなかろうが。もう弟子も三人おる。まして男所帯だ。無理無理」

「女の育手もいるって云ったんだけど、先生がホラ、この前、鬼をやっつけたでしょう。あの技を身につけたいんだって」

「女にゃ無理」

「じゃあ、そう言いなよ」

「云っておるわ。だが、聞かんのだ」

「だろうねぇ……」

 加寿江は嘆息して思案顔になる。

「私も薫子ちゃんがあそこまで頑固だとは思わなかったなぁ……」

 

 お腹を空かせているだろうから、と篤子が持たせた握り飯すら薫は食べなかった。

「願掛けの穀断ちをしているの」

 言いながら微笑む薫は、父母を失ったあの日からは考えられぬくらい、いきいきとしていた。

 

 鬼を倒す。そのために東洋一から鬼狩りとなるための技術を教わる。それだけが今の薫にとって生きていく支えなのだ。

 それがわかるだけに、加寿江は薫の願いを無下にすることはできない。

 しかし、東洋一も東洋一で説得するには骨の折れる相手だった。いつも飄々とのらりくらりしているが、大事なところでは決して相手に言質をとらせることはない。

 

 二人して頭を悩ましたが、結局答えのないままに加寿江が外に出ると、門前にいた薫の姿がない。

 諦めて藤森の家に向かったかと思ったが、違った。

 右手に罅割れた土鍋を持ち、左手に枝を引き摺ってこちらにやってくる。

 

「それ、何?」

「風で折れた木の枝を貰ってきたの」

 薫は言いながら、ペキペキと小枝を折り出す。「焚き火をしようと思って」

「焚き火?」

「夜になったら、寒くなるでしょう。どうせ今日中に先生が認めてくれるとも思えないし」

「いやいやいやいや。ウチ帰ろうよ。薫子ちゃんの好きな野沢菜の炊き込みご飯あるよ」

「まぁ、美味しそうね。でも、先生にもここに居るって約束しましたから」

「いや、約束っていうか……」

 東洋一は引き取って欲しいと言っているのだが。

 加寿江が戸惑っている間にも、薫は小さな刀で、手で折れない太い枝を切っていき、土鍋の中へと入れていく。

 

「ねぇ、薫子ちゃん」

 加寿江は真面目くさった顔で呼びかけた。

「先生はさぁ…厳しいよ、たぶん」

「そうですね」

「基本的にはさ、来る者拒まずなんだよ。ただ、女の人が入門してるのは見たことないし、男でもほとんどが三ヶ月もしないうちにやめていくんだ。何やってんのかは知らないけど。それくらい厳しいんだよ。生半可では先生のところでやっていくのは無理だよ」

 

「だからこそ、です」

 ベキリと枝を折りながら、薫はあの日のことを思い起こす。

 

 鬼のあの跳躍力。あの俊敏さ。普通の人間では対処できるわけがない。よほどの鍛錬を積まないと、たとえ日輪刀を持っていても、斬りかかる前にやられてしまうだろう。

 それは、東京で出会った鬼狩りの少年の言う通りだ。

 

 ―――――刀を持つために修練を重ねた者でなければ、持つことは許されない。

 

 あれから冷静に考えれば考えるほど、自分がひどく幼稚なことを言っていたことに気付く。彼はよく辛抱してくれていたものだ。

 

 教えてもらった元凶の鬼というのを倒すまで、手下の鬼に倒されるわけにはいかない。そんな程度ならば、自分は鬼狩りになる意味がない。であれば、より厳しい修行に耐え、誰よりも強くならねばならない。

 

 東洋一のあの技。すでに引退し、義足でありながら、あの動き。あの速さ。常人ではない。薫がとりあえず目指すのは、あの姿だ。

 

 黙ってひたすら枝を折っていく薫は、両親を失った日と同じ目をしていた。決して赦せぬ者を見つめる、冷たい炎を宿した復讐の目。

 

 途方にくれる加寿江に気付くと、薫はニッコリと笑った。

「大丈夫です」

 その笑顔に薫の堅牢な意志を感じて、加寿江は諦めて家路についた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第五章 決意(二)

 薫が居座りを始めて四日目の朝。

 東洋一(とよいち)は薫の前に立った。

 

「お前さん、まだ藤森の家に戻る気はないんか?」

「ありません」

「東京に親戚とかおらんのか? 天涯孤独ということもあるまい。子爵家の令嬢だった御仁が」

「……いません。誰も」

 薫は簡潔に答え、東洋一をじっと見つめた。しばらく睨み合って、根負けしたのは東洋一だった。はぁぁ、と大仰な溜息をつくと、「ついてこい」と云って歩き出した。

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 連れてこられたのは近所にある山だった。さほど高さはないが、山の上から吹き下ろしてくる風は強く、冷たい。

 暗い山道を、義足をものともせず、ひょいひょいと東洋一は登っていく。

 一方、五体満足で若い薫は追いかけるだけでも息がはずむ。一体、どういう御業を使ってそんなことができているのだろうか。

 

 一刻ほどかけて、九合目ほどまで登ると、東洋一はクルリと振り返り、懐から青黒い石を取り出して見せた。

「この先、登れば頂上だ。そこに、これと同じ石を置いてある。それを持って、ウチの家まで帰って来い」

「え?」

「日暮れまでだ。それまでに戻ってこれれば、入門を認めてやろう。無理であれば、潔く諦めることだ」

「……わかりました」

 頷くなり、薫は雪に泥濘んだ道を駆け登る。

 

 頂上にはすぐに着いた。まだ、わずかに雪が残っていた。

 積もった雪で隠されていた岩の上に、東洋一が見せたのと同じ色の石が置いてあった。

 手に取ると、ずっしりと重い。拳ほどの大きさなのに、中に鉛でも入っているかのように重かった。袂に入れればあるいは山を下る間に破れて落ちるかもしれない。

 

 石を懐に入れて、道を戻ろうとして立ち止まった。

 一箇所から自分は登ってきたはずなのに、道が三つある。

 足跡を探したが、泥と雪と落ち葉で判然としない。

 

 登ることに夢中で、周りを見ていなかった。どの道も、自分が来た道のように見える。

 焦りそうになって、深呼吸をした。

 落ち着かなければ。きっとこれも修行の一つなのだ。

 

 目を閉じて、東洋一と登ってきた道を思い出す。

 そういえば途中に、一面に背の高い草が生い茂る場所があった。ほとんど木がなく、薫の肩ほどの高い草に覆われた野原。

 森を抜けてその場所に出た時、山の稜線となる場所まで続いていたのを覚えている。

 山の規模からいっても、真裏でない限り、あの場所には必ず出るはずだ。

 

 よくよく見ると、三本の道の内の一本は雪がまだわりと残っている。足跡もない。ここは違うだろう。

 残りの二つの経路のどちらか……?

 

 あまり迷っていられない。おそらくこの山は修行用の山で、工作がなされている。罠があちこちに張り巡らされていると考えた方がいい。引っ掛かって足止めをくうことを予想すると、長く逡巡する暇はない。

 

 とりあえず選んだのは、太陽を背に降りる道だった。

 登る時に真正面から差し込む光を眩しく感じた。であれば、その反対方向がおそらく来た道だと推測した。

 

 泥濘に転びそうになりながら進む。やはり途中、何度か罠が仕掛けてあった。

 落ち葉に隠されていた仕掛けを踏み、上から石礫(いしつぶて)が降ってきたり、横から丸太が襲ってきたり。

 あっという間に着物も顔も泥まみれになった。

 

 半分ほど下ったと思われた時、行く時に通り過ぎた野原に出た。

 自分の通った道が間違いでないとわかって、ホッと安堵したが、遮る木がない分、上から吹き下ろす風の勢いがすごい。しっかり踏ん張っていないと煽られて転がってしまいそうだ。

 空腹で力が抜けそうになるのを、必死で気負い立たせる。

 

 天気は良いのだが、風は冷たかった。

 しかもたまにとんでもない突風が吹き降りて、地面から巻き上がった小さな礫が頬を打った。地味に痛い。それに、風に煽られた草がバタバタとうねって、時折目に入ってくるのにも辟易する。

 

 大きな岩の陰にうずくまって風を避け、しばし休息した。

 昨夜、近所のお婆さんがみかねてくれた林檎以外は、水しか飲んでいない。五穀断ちをして三日目ともなると、意識が朦朧とするときがある。

 

 それにしても、この厄介な草の間を、東洋一はどのように道を見つけて歩いていたのだろうか?

 行きは後をついて行くだけだったので、さほど気にも留めてなかった。

 

 まったく道らしい道がない。

 

 時々、岩があるのでそれを目印に、とにかく草をかき分けて、前に前にと進んでいると、いきなり麓の村が眼下に広がった。

 足下の断崖に気付いて、背筋が凍る。あと一歩踏み出していれば、ここを転げ落ちることになったろう。

 

 踵を返して、また草の間を歩き出す。とりあえず麓は見えたのだ。あとはあそこにむかっていくだけ。

 もうすぐだろう。

 太陽はまだまだ中天にも来ていない。

 

 しかしその予測は見事に外れる。

 すぐに下っていけばいいと思っていた野原がいつまでも終わらない。どこまで歩いても、麓へと続く山道が見つからないのだ。

 この野原はこんなに広かっただろうか?

 上を見上げると、白い雲が悠々と青い空を渡っていく。

 

 おかしい……。

 

 薫は辺りを見回した。うねるような高低の土地に、岩と、低灌木が点在する枯草の野原。

 岩に寄りかかって、ふと気付く。

 この岩。さっき休息した時の岩ではないか? 岩の周りをゆっくり一周して、辺りを見回した。

 

 なんだか狐につままれたような気分だった。

 どうも、ぐるぐると同じ場所を周回していたらしい。

 なぜそんなことになるのか…と考えると、岩であった。目印と思っていた岩が、妙な配置で置かれているのか、なにがしかの錯覚をさせている。

 

 その上での風だ。

 吹き下ろす風が強くて、冷たくて、痛くて、思考回路を麻痺させる。

 気を抜くと風に煽られ、蹣跚(よろ)けて元いた位置から外れてしまう。

 もう日は中天を過ぎている。そのうち傾いてくるだろう。猶予はない。

 

 背面に太陽の熱を感じながら歩くのだ。なるべく目を瞑って。岩を見ると、幻惑される。

 うっすらと半目で歩いていると、急に足元が消えて視界が暗くなった。

「……っつぅ…」

 したたかにお尻を打ちつけて、顔を顰める。落とし穴だ。こんなところにも罠。

 

 しかし、薫は笑みを浮かべた。

 おそらくは、道が合っているということだろう。

 落とし穴から這い出すと、再び岩を見ないように歩き出した。

 

 

 日が山の端にかかりだした頃、薫は東洋一の家に戻ってきた。

 門前に立っていた東洋一に、薫は懐から石を取り出して渡す。

 この石も曲者であった。罠を避けるとき、重いので身体の均衡が狂うのだ。それも含めて持たせたのだろう。

 

「ホゥ……」

 東洋一はそれだけ云うと、踵を返した。

「あの……!」

「はよ、風呂入れ。若い女子(おなご)が泥だらけになりおって」

 呆れたように言ったのが、その泥だらけにした張本人なので、薫は思わず笑ってしまった。

 

「そういえば……」

 東洋一は足を止めて、振り返った。

「名前はなんと言ったかな? たしか~……森野辺…薫子(ゆきこ)だったか?」

「………」

 薫はしばらく考えて、「いえ」と答え、

「森野辺薫、と申します」

と、名乗った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 東洋一に入門を認められたものの、薫の仕事のほとんどは家事であった。

 兄弟子達は女であり妹弟子でもある薫に、ほとんどの家事・雑用を押し付けた。

 

 東洋一はしばらく様子を見た。それで薫が嫌になって辞めるのであれば、それはそれで都合が良かった。

 しかし、薫は、わずかな家事の隙間に、あるいは皆が寝静まった後に、誰よりも早起きして朝の飯炊きの前に、東洋一が教えた型を繰り返し練習していた。

 実弥のような天才的な資質はないが、粘り強く弱点に向き合って克服しようとする堅実さがある。

 

 そもそも薫に与えた試練も、本来は三人の兄弟子達のために作ったものだった。

 入門して三ヶ月。節目にその試練を与え、(ふるい)にかけるつもりだった。

 だが、薫がどうしても諦めず、居座り断食を続けるので、仕方なくあの山へ連れて行った。

 夜には迎えにいかねばならんな…などと、考えていたのだが、予想を裏切り、日暮れ前に戻ってきた。

 

 その段階で既に兄弟子達よりも能力が上であることは示されていた。

 今はまだ型のすべてを教わっていないため、やり込められることもあるが、精度自体は真面目な修練を重ねている薫の方が上回ってきている。

 これで型をすべて覚えれば、後輩ながら実力は勝ることになるだろう。

 

 おそらく兄弟子連中もそのことを感じ取ってきているのだろう。

 最初は物珍しさと、薫の殊勝な態度に柔らかかった態度が、日に日に剣呑さを増してきている。

 そろそろアイツらにも山での修練を行う必要があるな……と、思っていた時には既に事件は起きていた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第五章 決意(三)

 日が暮れたのを見計らって、薫は河原へと走った。手には小さな桶がある。

 洗濯場でザバザバ洗っていると、背後に気配を感じた。

「なにやってんだ?」

 兄弟子の峯田(みねだ)が怪訝な表情を浮かべている。

 薫は内心、なんでこんなところに来るのか、と峯田の間の悪さに文句を言いたくなったが、むろん顔には出さない。

 

「ちょっと洗い物です。すぐに晩ごはんの準備はしますので、家で待っておいてもらえますか?」

 微笑を浮かべて、「さっさと帰れ」と言外に言っているのだが、峯田は首を伸ばして薫が持っていたものをしげしげと見つめる。

 

「なんだぁ? それ……(ふんどし)、じゃないよな」

 薫はカッと顔を赤らめた。

 どうしてこの先輩は去ってくれないのか。無神経さに苛立ってくる。

 無言になった薫に、峯田はますます探るような表情を浮かべる。それから足元にある紙袋に気付いた。

「なんだ、これ」

 紙袋を拾い上げる。

 薫はあわてて手を伸ばしたが、峯田は後ろに下がって避けると、紙袋を逆さにした。

 バラバラと赤い血のついた脱脂綿が落ちてくる。

 

「…………」

 薫はギリと歯を噛みしめた。

 今日から生理になり、その始末をしに来たのだ。なるべく見せたくないし、見たくもないだろうから…と気を遣っているのに、暴き立てるような真似をする先輩に、怒りがこみ上げてくる。

 

 峯田はびっくりした様子だったが、それが何なのかがわかると、片頬だけを引き攣らせ、下卑た笑みを浮かべる。

「ケッ! きったねぇなァ……」

 言いながら、バシャバシャと川の水で手を洗った。

「なんだぁ、お前。月の(ケガレ)が来てるのに、道場に出入りしてんのか? 先生の許可とってんのかよ」

 いかにも穢らわしいものを見るように、薫を睥睨する。

「それは……」

 薫は言い淀んだ。

 

 東洋一(とよいち)が女の薫のために、色々と気遣ってくれていることは知っていた。

 寝る部屋は東洋一の横にある小さな納屋で、そこに行くには東洋一の部屋を通るしかない。

 また、風呂も東洋一と兄弟子達が夕食を食べている時に限られていた。東洋一の監視があるので、兄弟子達は食事の間、席を立つことは許されない。小便に行くことも駄目らしい。

 

 いっても精気の有り余った年頃の男共である。十三とはいえ、大人びた風情の、女としての萌芽が表れ始めた娘に欲情するなという方が、無理な話だった。

 東洋一の手前、決して手は出せないが、反動で煩悶は大きくなっていく。

 その上、後から入ってきた薫が、自分達よりも上達の進度が早いことにも、焦りと同時にそうした苛立ちを増幅させた。

 

 やがて、陰湿な、いじめともいえる行為は、東洋一の目の届かぬ所で巧妙に行われるようになった。

 薫の洗ったばかりの道着がぐちゃぐちゃにされて、泥に放り込まれていたこともあったし、洗濯物の中に、それとわかる白濁した粘液がべっとりついたまま出されているのはしょっ中のことだった。後になって、それが何を意味するのかを知った時には、薫は羞恥と怒りで顔が熱くなった。

 

 こういうことも考えて、東洋一は薫の入門を断っていたのだろう。そこを無理にと望んだのは自分である。これ以上、手を煩わせたくなかった。

 ひたすら自分が鍛錬して強くなれば、兄弟子達とて手出しすることはできなくなるだろう。だからこそ必死で練習にも打ち込んでいたが―――――

 穢で道場に入ることは許されないのだろうか……?

 

「しばらく道場への立ち入りは禁止だ! お前は俺らの飯作って、洗濯でもしてりゃいいんだよ。先生に認められたからって、いい気になんな!!」

 峯田はここぞとばかりに怒鳴りつけると、これみよがしに紙袋を蹴飛ばして帰っていった。

 

 赤く染まった綿が散らばる。

 薫は拳を握りしめながら、その背を冷たく睨みつけていた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 翌日には、薫が月経中であることが兄弟子連中の知るところとなったのか、朝ごはんを作っている最中にも、用もないのに台所に来ては、

「くっせぇなぁ……なーんか臭いやがるぜ」

「ほんとだなぁ。くっせぇ、くっせぇ」

「メスの臭いだ」

などと、下卑た笑い声を響かせる。

 

「なにを言っとるんじゃ、お前ら」

 起きてきた東洋一に気付いた途端に、あわてて朝の修練へと出掛けていく。

 今の所、薫は家の中の家事全般を任されているので、一緒に行くことはできない。できたとしても、時間をずらしただろう。彼らと共に朝駆けなど、真っ平だ。

 

「鱒か?」

 東洋一はスンスンと鼻をならして、尋ねた。どうやら『くさい』というのが、魚の臭いだと勘違いしているらしい。

「あ、はい。昨日、里乃さんから粕漬けを頂いたので、焼いています」

 

 里乃、というのは東洋一と長い間つき合っている(ひと)らしい。

 薫も一度だけ会ったが、年の頃は五十をいくつか過ぎたくらいの、ふくよかで愛嬌のある、初対面の薫にもくだけた調子の、明るい人だった。料理に長けていて、町の方で煮売屋を営んでいる。

 

「なーにがクサいじゃ、あいつら。こんないい匂いのものを」

 東洋一と里乃の間には、兄弟子達のような気色悪いねじくれた情動は感じない。あるのは互いへの敬慕と信頼だけだ。

「先生は、本当に里乃さんのお料理がお好きでらっしゃいますね」

「そういうんじゃあない。儂は美味い料理が好きなだけだ」

「そうですか」

 言いながら、薫はクスクス笑う。東洋一が実は照れているのはわかった。前に里乃から教えてもらったから。

 

「先生がねぇ、やたらと澄ました顔で大きな声になるときは、恥ずかしがってるのよ」

 あれほどの剣豪であっても、里乃の前では掌中の玉のごとく転がされているのだなぁ…と思うと、東洋一への親しみが増した。

「なんじゃあ、ニヤニヤと」

 東洋一はきまり悪そうに眉を寄せる。

「いえ。もうすぐご用意できますので、お待ちください」

 薫は澄まして云うと、焼き上がった鮭を皿に乗せた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 東洋一の危惧が現実になったのは、薫が入門して一ヶ月が過ぎた頃だった。

 

 毎朝、薫は朝食の支度の前に道場で型の復習や柔軟の運動をしている。

 朝といっても、まだ夜明け前で、月も光っている時間である。東洋一も、日頃の練習に疲れきった兄弟子達も寝入っているのが通常のことだった。

 

 薫が自主稽古を終えて道場を出ようとした時に、いきなり暗がりから手が伸びてきた。

 羽交い締めにされ、口を押さえられる。身じろぎして逃れようとすると、胸を鷲掴みにされた。背後から首筋にかかる荒い息が気持ち悪い。

 

「静かにしろ」

 峯田の声が聞こえる。

「先生に云うなよ」

 低い声で云ったのは郷田だろう。彼は直接的に何もしてこなかったのだが、やたらと薫を見つめていることが多くて、気味悪かった。

「は、早くしないと先生が起きる……」

 早口で安藤が急き立てる。

 

 袴帯を解かれそうになって、おぞましさを感じると同時に足を後ろに蹴り上げた。薫の踵が怒張していた股間に当たったらしい。

 うっ、という呻き声がして、背中と右腕が解放される。

 

「おい!」

 峯田が焦った声を上げるが、すぐさまその声に向かって、右手に持っていた木刀を思い切り振るう。

「うごっ!」

 ガッ、と鈍い音がして、峯田がうずくまった。

 目の前で薫の帯に手をかけようとしていた安藤は、ひぃっと声を上げて後ずさった。その喉元を思い切り突く。

「ヒギャッ!」

 情けない悲鳴をあげて、安藤は倒れた。

 

 後ろから再び羽交い締めされそうになるのをクルリと体を半回転させて避け、木刀を振ると、郷田はそれを掴んだ。

 兄弟子達の中では一番体格の大きい郷田に、力でかなうわけがない。

 押し切られるギリギリまで、十分に溜めてから木刀をいきなり手離すと、郷田はよろけた。

 その隙に懐から陶器の欠片を取り出す。

 再び襲ってくる郷田と間合いをつめると、鋭利になった欠片の切っ先で、郷田の顔をザックリ切りつけた。

 

「うあぁ!」

 郷田が叫び声を上げると同時に、燭台をもった東洋一が現れた。

「なにしとるんじゃ~」

 その声はいつものように飄々としていたが、暗がりに浮かび上がる顔は弟子達を冷たく見つめていた。

 

「先生……」

 薫が言いかけると、東洋一はそれを制した。

「お前さんは、朝飯の準備しとってくれ」

 全身から立ち上る気迫に、薫は何も言えず、軽く頭を下げると道場を後にした。

 

 薫がいなくなると、東洋一はみじめな顔で俯く男共を見回し、無言でそれぞれを殴りつけた。

「さて、それでは行くか」

 不気味なほどに淡々と、手をはたきながら言う。

「……行く?」

 峯田が血の流れる鼻を押さえながら、聞き返した。

「試練だよ、試練。薫が入門するために克服したヤツだ。お前さん達より前にな。あの子には日暮れまでと言ったが、お前さんたちはもう三ヶ月以上、修練も積んでおる。正午までに帰ってきてもらおうかな」

 軽い調子で言いながら、東洋一にはこの弟子達には出来ないであろうとわかっていた。

 

 峯田は鬼殺隊に入れば給金が高いからという理由で志願してきて、それなりに卒なくこなしてはいたが、鬼と対峙することを舐めてかかっている節がある。

 郷田は弟を鬼に殺されたらしいが、元が大店(おおだな)(ボン)だったらしく、すぐに怠ける。

 

 安藤に至っては、実のところ出戻りだった。

 実弥が入る以前にいたのだが、後から入門してきた実弥の才能に自信を喪失し、一度逐電していたのだ。しかし、峯田と出会い、二人ならばどうにかなるかと思って帰ってきたようだった。もっとも、その頃には既に実弥は最終選別を突破し、鬼殺隊に入った後だったが。

 

 どいつもこいつも箸にも棒にもかからないと思いつつも、東洋一は自分から破門を積極的に言い渡すことはしなかった。

 あくまで自分で自分の実力をはかった上で、己で決めさせた。そのための(ふるい)、そのための試練である。

 

 正直、どうにもならんな、と思って弟子にした子でも、どういう契機があって開眼するのかわからない。峯田のような金目当てでも、立身出世を望んでやってきたとしても、案外と使い物になるヤツもいないではないので、最初の印象だけでは決めなかった。

 

 果たして、東洋一の予想は当たった。

 彼らは日暮れを過ぎても戻って来ず、知り合いの猟師がワンワン泣きまくっている安藤を連れ帰ってきてくれた。あとの二人は山を降りたところで、

「やってられねぇよ」

と言い捨てて、どこかに行ってしまったらしい。

 

 やはりな、と思った。

 あの二人には鬼殺への執着がない。鬼を殺してやろうという気概が足りない。

 

「お前さんも、潮時だなぁ~」

 東洋一は泣きすぎて目が真っ赤になっている安藤に言った。

「あとの二人はまだしも、お前さんは今回、二度目だろう? 二度やっても、人に連れて帰ってもらわないといかんようでは、この先、最終選別で生き抜くことなどできんだろう」

 

 安藤は弱々しい声でつぶやいた。

「無理、なんでしょうか?」

「そりゃあ、練習をかまけて、妹弟子を三人がかりで襲っているようではなァ」

「あ、あれは…峯田が」

「片棒担いでおいて、知らんフリする気かぁ~?」

 その声音はのんびりしていたが、目はまったく笑っていなかった。

 今朝、殴られた時と同じ目だ。

 

 安藤は、自分の気の弱さが恨めしかった。峯田に半ば脅しつけられ、よくないと思いつつも、日和見に言うことを聞いてしまった。

 自分のような人間は、きっと薫にもそのうち先を越されることになる。

 しかもそうなった時、自分の弱さを認めることなく、薫の成長にただ嫉妬するだけなのだ。

 それは、不死川実弥という後輩が、その技倆において、あっという間に自分を抜いて行った時に、既に経験済みだった。

 

 安藤は荷物をまとめると、その夜のうちに東洋一の屋敷から出て行った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第五章 決意(四)

 兄弟子達がいなくなった後、相変わらず家事の仕事はあったものの、東洋一(とよいち)からの稽古を独り占めできるようになったので、薫の剣技はめきめき上達した。

 

 だが、東洋一は甘くなかった。

 確かに戦闘における身のこなしや、風の呼吸の型は着実に身につけていっているが、体力・筋力的な不足がある。

 これをより成長させていかねば、これから教えていく呼吸によって型を錬成させ、技として習得することは難しい。

 

 重石をつけた状態での山登りと下山を行う走り込み、打ち込み稽古が続いた。

 体力は確実に向上していったが、体質なのか、筋肉がつきにくいようだった。

「女は男のようには肉がつきづらいのかもしれんな…」

 東洋一がぼそりとつぶやくと、薫は拳を握りしめた。

 努力しても努力だけでどうにもならないこともある。

 

 薫の入門を断る理由として東洋一が言っていたように、風の呼吸は威力を増せば増すほど、力―――特に膂力が必要となる。

 鬼殺隊の創設時からの歴史を紐解いてみても、風の呼吸での女の遣い手は五指にも満たない。

「まぁ、お前さんはその他の利点を伸ばした方がええ。身体の柔らかさと、平衡感覚だな。己の身体の使い方をよぅよぅ鍛錬することだ。風の呼吸にこだわって、強さの質を履き違えてはいかん」

「……はい」

 それからは走り込み等の基礎稽古の他に、自身で考案した柔軟運動や、平衡機能を鍛えるための修行を行うようになった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 瞬く間に、夏が過ぎ、秋となった。

 山々は紅葉で彩られ、田畑の収穫も終えて、年越し前の豊穣で穏やかな時期を迎えている。

 

 

「あれ? 薫子(ゆきこ)……ちゃん?」

 久しぶりに会う薫の姿を見て、加寿江(かずえ)は少しばかり躊躇して名前を呼んだ。

 

 家の使いも兼ねて町に出ていたところ、目当ての店の前で見知った後ろ姿を見つけたので、呼び掛けたのだが、振り返ったその人を、一瞬、人違いしたのかと感じたのだ。

「加寿江さん。お久しぶりです」

 声をかけられた薫は、加寿江の顔を見た途端、笑顔になった。

 

 夏には赤く日焼けしていた肌もすっかり白く戻り、身体(からだ)も丸みを帯びるようになって、以前の頃よりもずうっと年頃の娘らしい、瑞々しく匂やかな容姿になっている。

 後ろで無造作に一つに纏めた髪も、清新ですずやかな印象だ。

 

「久しぶり~。もう、前に会ったのいつだったっけ? 七月くらいだったよね」

 さすがに正式に弟子になった以上、加寿江とても、おいそれと会いに行くことはできなかった。

 前に会ったのも、偶然に東洋一の用をいいつかった薫が、町で買い物をしていた時だった。

 

「そうですね。あぁ、でもお聞きしました。加寿江さん、年明けにお嫁に行かれるって。おめでとうございます」

「え? いやいや。まぁ、私のことなんぞどうでもいいのよ」

「お祝いとかできればいいんですけど……」

「そんなのいらない、いらない! 別に大した相手じゃないんだから」

「そーんなこと言ってていいのぉ?」

 暖簾が揺れて、中から丸髷を結った、頬にえくぼのある、太り肉(ふとりじし)の女が現れた。

 

里乃(さとの)さん。こんにちは」

 薫が挨拶すると、里乃は「いらっしゃい」と軽く会釈し、加寿江を見遣ってニヤニヤ笑った。

「百年は続く造り酒屋の跡取り息子に、大した相手じゃないなんて言って、向こうのお舅さんがひっくり返っちゃうわよ」

「だぁーって、晋太郎なんて昔は私の子分だったってのにさ」

「あぁ、そうねぇ。あの洟垂れ小僧がいい男になったもんよねぇ」

「は? どこが?」

「ま、おいおいわかってきますよ。さ、二人とも。いつまでも店の前でごちゃごちゃ、くっ(ちゃべ)ってないで、さっさと入んなさいな。買いに来たんでしょ?」

 里乃に促され店の中に入ると、大皿に並べられた惣菜の匂いが充満している。

 

「きんぴら、作りたてだぁ」

 フンフンと加寿江が鼻をならした。「これこれ、お父様がこれをアテに飲みたいってさ。買ってくるように頼まれたのよ」

「毎度~」

 里乃は機嫌良く言って、薄い経木の器にきんぴらを盛っていく。レンコンに牛蒡に人参、それに蒟蒻。ごま油で炒ったいい匂いがしてくる。

 

「私のところもください。それと、炒り豆腐と煮豆と…」

「金時でよかった?」

「あ、はい。それと切り干し大根と、小豆と」

 里乃の店は基本的には煮売屋だが、乾物や農家が置いていった野菜なども置いている。

「あらまぁ……えらく物入りじゃないの、今日は」

 言いながら、里乃は忙しそうに動き回る。

 

「今日、弟子だった方がお見えになるそうなんです」

「弟子だった?」

 加寿江は眉をひそめた。「まさか、アイツらまた戻ってきたの!?」

 怒鳴るように言うと、薫は目を丸くする。

 里乃は加寿江の気持ちがわかったのだろう。同じように眉間に皺を寄せた。

「どの(ツラ)さげて戻ってきてんのよっ」

 ヒクヒクとこめかみを震わせて加寿江は握り拳をつくった。

 

 峯田らが薫に対して狼藉をはたらいた上に、返り討ちにあい、その後に東洋一の家から去った―――――という話を、加寿江が聞いた時は、既にその事件から三ヶ月が経過していた。

 

 当然、加寿江は烈火の如く怒り狂い、東洋一を絞め殺さんばかりの勢いで抗議しに行こうとしたのだが、もう決着のついたことを、今更蒸し返すのも薫には辛いことだろうから、放っておけ……と父兄から言われ、不承不承耐えた。

 

 里乃は里乃で、当然ながら知っていて、聞いた時は東洋一をこっぴどく叱りつけ、しばらく無視していたらしい。最終的には薫がとりなして、ようやく以前のような穏やかな関係に戻ってきていたが。

 

「先生がアイツらに敷居を跨がせるってェんなら、ただじゃあおかないよ」

 昔、遊郭でヤクザ者相手に啖呵を切ったという噂に違わぬ気迫を滲ませて、里乃がつぶやく。

薫子(ゆきこ)ちゃんも! なんであんな奴らのためにごはん作ってんの?!」

 加寿江が怒って睨みつけると、薫はポカンとしてしばらく思案し、

「あのぉ、弟子の人って……峯田さん達のことじゃないですよ」

と、おずおず言った。

 

「へ?」

「違うの?」

 里乃も加寿江も途端に気勢をそがれた。薫はコクリと頷いた。

「あの人達が今更ノコノコ現れたら、先生に取り次ぐ前に、門前で叩き潰して帰しますよ」

 さりげなく物騒な言葉を交えながら、薫はニコニコと笑っている。

 

 加寿江は薫が峯田達を『返り討ちにした』ということを、今更ながらに思い出した。

 普段の大人しそうで、やさしげな印象からは考えられないが、やはり鬼殺隊の剣士としての修行を受けている以上、真面目な薫のこと、剣術の腕前も上がってきているのだろう。

 

「なんだぁ、それならそうと言ってよぉ~」

 加寿江はハァーッと長い溜息をついた。

 元は自分の早とちりなのだが、そんなことは斟酌しないのが加寿江である。

 

 薫は「すいません」と笑った。

「今日おみえになるのは、もう鬼殺隊の剣士となっておられる方なんだそうです。私が一人だけで練習してたら偏るからって、時々、先生が元のお弟子さんとかに声をかけてくださるんです。いつもはもう現役を退いた方に頼まれるんですけど、今回はあちらもここで稽古がしたい、ってことらしくて………」

「へぇ? 誰が来るんだろ?」

 加寿江は覚えている限りの、これまでの弟子を脳裏に思い浮かべる。何人かはすでに故人となっているのを思い出すと、少し胸が痛んだ。

 

「粂野さんって方がいらっしゃると聞いてます。あと、もう一人みえるかどうかわからないらしいんですけど…一応、用意だけはしておこうと思って」

「あぁ! 粂野さんかぁ」

「あぁ、あの子はいい子」

 里乃も加寿江も、粂野の柔和な笑顔を思い出して、ホッとなった。彼ならば薫が女だということで(ないがし)ろにすることもないだろう。

 

 薫は棚の隅に置いてあった小豆の袋を持ってきて、勘定台の上に置いた。

「それで、明日は小豆粥でも作ろうかと。赤飯の方がいいですかね?」

 邪気払いとして小豆の料理を作るのは、藤家紋の家として、鬼殺隊の人間をもてなすときの藤森家でのお約束であった。薫は誰かからその事を聞いたらしい。

 

「そんなの、ウチの家でやってるだけのことで、気にしなくていいよ」

「いえ。危ない仕事に赴かれるんですから、せめてそれくらいは……」

「じゃあ、今日は忙しいんじゃないの? 私、後で手伝いに行こうか?」

 里乃は大福帳にそれぞれの品物を記しながら尋ねた。

「大丈夫です。今日は里乃さんのお料理に助けてもらおうと思って、買いに来たんですから。あとは肉を焼くぐらいなので」

「そう? 遠慮なく言ってね」

 

 薫は買ったものを風呂敷に包むと、加寿江と里乃に「では、また」と一礼して去って行った。

 里乃と加寿江はその後姿をしばらく見つめていた。

 修行の成果なのだろうか。駆けていく足は早く、あっという間に小さくなった。

 

 しばらくして里乃がほぅと溜息をついた。

「あの子、弟子修行のほかに、家事もほとんどやってるのよ。先生は言わないと何もしない人だから、なんだかんだで任せっきりだし。私もたまに手伝ったりはしてるんだけど、本当に働き者なのよね。……疲れてるだろうし、忙しいだろうに」

「でも、楽しそうだね」

「そうなの。それが不思議」

「………」

 

 加寿江は今更ながらに両親を殺された日の薫のことを思い出す。

 何も映さない空虚な目。蒼白な顔。あまりに陰惨な状況に、ただただ黙って、心を凍らせて、耐えていた。

 東京に戻ってからは、親戚縁者が薫を押し付けあう始末で、傷心の薫には悪夢のような日々だったことだろう。

 

 ―――――私は鬼狩りになります。そのために、来たんです。

 

 東洋一に入門を断られた後、藤森の家に来た薫はきっぱりと宣言した。

 

 鬼狩りに関わる家筋の者として、父は幼い頃から鬼殺隊士を見てきた。ほぼ男ばかりで、女の隊士はほとんどいない。しかも、女の隊士は死ぬ確率が高い。鬼が好んで捕食するからだ、と正直ゾッとするような話もした。

 

 しかし薫の決意は揺るがなかった。

 誰もが『世間を知らぬご令嬢』だと、薫を侮っていた。たとえ入門できたとしても、すぐに日々の家事や稽古の厳しさについてゆけず、あきらめると思っていた。

 

 けれど薫は一度たりとも弱音を吐いたことはない。兄弟子達からの嫌がらせや悪口雑言に辟易していたが、それすらもギリギリまでは耐えていたのだ。

 今は不埒な兄弟子共もいなくなり、のびのびと稽古に打ち込めている。それが嬉しくて仕方ないようだった。

 

「……今は自分のためにやりたいことをやってるんじゃないのかな」

「それならいいんだけど……にしても、勿体ない。あんないいお嬢さん。いーい女房になったよぉ、あれは」

 里乃がしみじみと溜息まじりに言うのに、加寿江も内心で頷いた。

 本当に、自分なんかよりもよっぽど嫁の貰い手には事欠かないだろう。が、

「三人の男を返り討ちにする女傑だからねぇ。相当な人じゃないと、薫子ちゃんの相手は無理、無理」

 加寿江が冗談まじりに言うと、里乃は真面目くさった顔で「確かにね」とつぶやいた。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 

 任務を終えて戻ってきた実弥に、粂野匡近はいつものごとく気軽に声をかけた。

「よぉ、お疲れさん。ちょっと師匠ンとこ行かないか?」

「ハァ?」

「新しい弟子の相手してやってほしいって手紙が来ててさ」

「………知るか」

 だいだいここまでは予想通りなので、にべない態度にも匡近はめげない。

 

「まぁ、まぁ。お前だって、弟子の時には色々と先輩にお世話になったろ? 俺だって行って相手してやったし。こういうのは巡り巡るもんだ」

「テメェ一人で行けばいいだろ。俺は呼ばれてない」

「そりゃ、お前に言ったって、無視するのがわかりきってるからな。で、俺経由で頼んできたんだ、と俺は思ってる」

「勝手に解釈すんなァ」

「まぁ、いいじゃないか。だいたい道場じゃ稽古する、ったって限度があるし、師匠のとこなら山でも川でも、修練にはもってこいだ。鬼殺隊に入っても、修行は続く……って、言われたろ?」

「…………」

「最終選別で新しい隊士が補充された今なら、多少は暇もあるし……っていうか、もう本部に届け出してあるからー」

「ハアァァ? テメ、何を勝手に……」

 実弥の抗議を受け流し、汽車に乗せるまではうまくいったと思っていた。しかし、駅に着いて早々、行きがけの駄賃とばかりに、鴉が任務を告げた。

 近くの村にある、無人となった寺に鬼が出現している可能性があるという。

 

「…なんでだよ」

 匡近はげんなりして頭を抱えた。

「そっちに向かってんなら、ちょうどいいと思われたんじゃねェ?」

 実弥はむしろ嬉しそうだった。「俺を騙くらかそうとするから、こういうことになンだよォ」

「別に騙したわけじゃない……」 

 匡近は内心で溜息をついた。

 口は悪いが、仕事は真面目で熱心なのだ。おまけに強いから、任務の割当も自然多くなる。

 

「オラ、さっさと行って片付けるぞ」

 待ちきれないとばかりに、実弥は鴉を追いかけて、一人でさっさと走っていってしまう。

「ちょっと待て! オイ!!」

 匡近はあわててついて行く。

 なぜだか二人での任務だと、こういうのが常態化している。

 一応、兄弟子なのだが……。

 

 それでも、あの頃に比べれば随分とましにはなった。

 初めて会った時は、誰も信用していないと、くっきり顔に書いてあった。

 孤独に取り憑かれ、鬼を殺すことだけに執着し、殺し殺されかける日常の中で殺伐とした精神状態になっていたのだろう。

 

 今もその環境はさほどに変わらないといえばそうなのだが、それでも野良犬に握り飯を恵んでやるくらいのやさしさが持てるようになっただけ、多少なりと、周囲に目がいくようにはなってきたに思える。

 ただ、それはあくまで匡近があの頃の実弥を知っているからだった。

 

 その他の鬼殺隊士からの評判は、『怖い』『異常』『無愛想』という否定的なものが多い。

「いやぁ、粂野さんの弟弟子だからと思って声かけましたけど……無理っす。なんか睨まれるし、なんか怒ってるし……」

 ハハハ、と匡近は乾いた笑みを返す他なかった。まぁ、確かに何も知らなければ、そうとしか見えないだろう。

 

 実弥が自分を追い込みすぎるきらいがあることが、匡近には心配だった。

 あまりにも真っ直ぐで、純粋すぎて、心に余裕がなさすぎる。もう少し、他人から見える自分が見えるようにならないと、また以前と同じに孤立してしまう。

 

 弟がいるということだったが、遠くに住んでいるようだし、一人ぽっちで立ち向かっていけるほど、鬼殺の仕事は生易しいものではない。ある程度の心にゆとりがなければ、精神的な均衡が保てなくなる。鬼に殺られる前に、おかしくなってしまう隊士もいるのだ。

 

 匡近は実弥に友達を持ってほしかった。

 

 今はまだ自分がお節介を焼くからいい。だが、いつか自分も鬼にやられないとは限らない。その時に、一人でいて欲しくなかった。

 

 という―――――匡近の気持ちなど、実弥は知る由もない。

 先に待つ鬼の首をとることだけに集中している。

 やがて寺の近くまで来ると、実弥はニヤリと笑った。

「どっちが先に見つけるかだなァ。俺は東から行く。テメェは西から入れ」

「え? ちょっ、待………て、って」

 最後まで聞くこともなく、実弥は姿を消した。

 

 匡近は溜息をついた。

 この一ヶ月近く、ほとんど休めてない。山陰の方までの遠征が終わって帰ってきたら、逐電した隊士の代わりに共同任務に狩り出され、それが終わると、単独任務が待っていた。

 いや、すべてにおいて五体満足で帰還できたことは喜ばしいのだが、少しはゆっくりしたい。

 

 実弥にでも愚痴ったら「泣き言云うな」と怒鳴られるだろうが、正直、体もきついし、精神的にもしんどい。

 そこへちょうど東洋一の手紙が来て、渡りに舟とばかりに、稽古名目でしばしの休息―――主に酒盛り―――を楽しみにしていたのだが………。

 

 本当に、ついてない。

 きっと、ここでも匡近の方が鬼を先に見つけることになるだろう。生憎とそういう運だけは妙に持っているのだ。

 

 これが終わったら、東洋一のところに行って、少しは休めるだろうか……?

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第六章 邂逅(一)

 河原を飛び交う赤とんぼを眺めながら、粂野匡近は久々に訪れた信州の景色に懐かしそうな吐息をついた。

「いやぁ、久々だけど……こうして見ると、いい場所だったんだなぁ」

 紅葉する山と、見渡す限りの田圃(たんぼ)と、夕闇の迫る空の色。日が落ちて冷たくなった風が快く、透明で澄んだ空気が甘く匂ってくる。

 

「この匂い…金木犀だな。先生の家にも植わってた、な? 実弥」

 後ろからついてきていた実弥は、そんな匡近の感傷を呆れたように見ていた。

「知らねぇな。ンなもん、覚えてねぇよ」

「えぇ? この時期になったら絶対匂ってくるじゃないか。俺なんか血反吐の出る稽古の時でも、この匂いをかいだらちょっとは、ちょーっとは、心が和んだもんだよ」

「なんだそりゃ。気が抜けてんのかァ」

 

 どうにも噛み合わない会話をしながらも、懐かしい師匠の家に着くと、金木犀よりも食欲を煽るいい匂いがしてきた。

「おっ! なんか旨そうな匂いがする!」

 匡近が興奮するのを、実弥は面倒くさそうに後ろから蹴った。

「いいから、早く入れよォ」

「へいへい」 

 玄関の戸を開ける。弟子の間はこの玄関から出入りすることなどなかったが、今は鬼殺隊士として礼儀をもって迎え入れてくれる。

 

「おう、来たか」

 のそりと姿を現した東洋一を見て、匡近も実弥も一瞬、妙な気がした。

 なんだか、随分とちゃんとしている。二人が弟子だった時には、こんなにきちんとしていなかった。

 着物なんぞはツギがとれかかった状態で着ていたし、髪もザンバラで、癖毛がピンピンはねていた。

 

 今は着物も洗張(あらいばり)したてのようにきれいだし、ツギもしっかりあたってるし、髪もきれいに撫でつけられて後ろでしっかり結われてる。

「なんじゃ?」

 二人が微妙な顔をして立っているのを、東洋一は怪訝に見た。「はよ、入らんかい」

 

「あ、はい」

 匡近は草履を脱いで上がると、率直に尋ねた。

「あの、師匠。もしかして里乃さんと一緒になられました?」

「はぁ?」

「いや。なんか……その」

「色気づいてんのか、ジジィ」

 実弥が容赦なく言い放つと、東洋一は即座にその額にデコピンした。

 無言でうずくまる実弥を見て、匡近はそれ以上、このことについて詳しく聞くのはやめようと思った。

 

「先に風呂に入れ」

「なんでだよ。修行しに来たんだぞ、俺らは」

 実弥が額を押さえながら立ち上がる。

「ホッホッホッ! 熱心じゃのお~。相変わらず」

「稽古して、適当に飯食って、寝るだけだ。休みに来たんじゃねぇ」

「まぁ、まぁ。今日くらいはゆっくりしよう。さっき任務を終えたばかりなんだし」

 匡近はとりなすように言った。

 

 正直、隊服の下は汗でべっとりしているので、東洋一の勧めに従って風呂でサッパリしたい。

 その後で今日こそはまともな夕飯を食べたい。さっきの匂いからすると、かなり期待出来る。もしかしたら、里乃さんが来て食事の用意をしてくれているのかもしれない…。

 

 が、実弥はギロリと睨みつける。

「あの程度の鬼で、疲れたとか抜かしてんじゃねぇぞ」

 さすが後から来て秒速で鬼を退治した男の言うことは違う。

 結局あの後、案の定、匡近の方が先に鬼と行き会ってしまったのだが、すばしこい鬼で、なかなか首を落とせずにいると、後から来た実弥が瞬殺してしまったのだ。

 

 匡近はハアァと、あえて大きな溜息をついた。

 

 ―――――仕事も熱心で、稽古も熱心…って、どんだけ真面目なんだよ!

 

「今日は、いかん!」

 突如として東洋一が声を張り上げた。いつになく切羽詰まった顔をしている。

 

「とにかく今日はお前らは風呂に入って、飯を食って、その後は儂の晩酌に付き合うんじゃ!」

「なに言ってんだ、ジジィ」

 実弥は明らかに軽蔑を含んだ呆れ顔になっていた。「勝手に呑んでりゃいいだろうが」

「それができたらそうしとるわ」

「できないんですか?」

 匡近が尋ねると、東洋一は渋面になった。

 

「止められとるんじゃ。二合までしかいかんと」

「二合?」

 思わず聞き返した。匡近が弟子の時分には、毎日その倍以上は呑んでいた。それでも翌朝にはしゃっきり起きてきて、打ち込み稽古でさんざ絞られたものだ。

 

「止められてるって、誰に?」

 実弥が不思議そうに問うと、東洋一はふぅと溜息をついて短くつぶやく。

「弟子に」

「「は?」」

 二人同時に聞き返した。

 弟子に止められている? という意味で言ったのだろうか、今。

 

 困惑しきった表情を浮かべる元弟子達を前にして、東洋一は決まり悪くなったのか、

「ええから、早ぅ風呂入ってこい! 臭いわ、おのれら」

と、かなり乱暴に風呂場へと追いやった。

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 なし崩しで仕方なく風呂に入るものの、釈然としない。

「なんなんだ、アレ」

 実弥は湯船に浸かりながら、眉間に皺を寄せている。

 本当は稽古をしたかったのだろうが、久々に会う師匠の頼みを聞かないわけにもいかない。なんだかんだで東洋一を慕っているのだ。 

 

「まぁ……師匠と呑むのも久しぶりだし。たまにはいいだろ?」

「俺は酒は好きじゃねぇんだよ」

「あぁ……いいよ、俺が付き合うから。お前は座っときゃいいさ」

「弟子って、どういう弟子なんだ? あの爺さんに酒を呑ませないとか、有り得ねぇんだけど」

「そうだよなぁ…」

 匡近はザバーと頭からお湯をかけると、湯船に入った。

 

 最近の東洋一からの手紙を思い出す。確か、実弥の後に続けざまに三人くらいが入門して、それは半年ほどで全員辞めたと言っていた。

 その後にもう一人入ってきたのが、今回の稽古相手のはずだ。

 

「あの時入ってきたとしたら、四月だったから……もう七ヶ月か。続いてるな」

 だいたい三ヶ月が正念場なのだ。そこで東洋一は(ふるい)にかける。ここで残らなければ、まず芽はない。

 七ヶ月続いているなら、順調と言っていいだろう。

 

「七ヶ月だろうが一年だろうが、あの爺さんに指図できる弟子なんぞいねぇだろ?」

「うーん…」

 匡近が唸っていると、外から声がした。

「お湯加減、大丈夫ですか?」

 匡近は実弥と顔を見合わせた。それは紛れもなく女の声だった。それも里乃のような大人の女の低い声ではない。

 

 返事ができないでいると、もう一度問うてきた。

「あのぉ~、お湯加減は……」

「あっ、だっ、大丈夫。も、もう出るから」

 匡近があわてて返事すると、「では失礼します」とやはり涼やかな女の子の声が返ってくる。

 

 しばらく黙り込んでいると、実弥が「爺さん、飯炊き用に雇ったのかな?」と(もっと)もなことを言い出した。

「あ、そうか。そうだよな」

「里乃さんにも愛想つかされたんじゃねぇの」

「お前……それ、師匠に言うなよ。間違ってたらえらいことだし、間違ってなかったら、尚の事えらいことになる」

 実弥は立ち上がり湯船から出ると、「面倒くせェ」と言いながらスタスタ脱衣場へと歩いて行った。

 

 これで一つ謎はとけた。東洋一に飲酒を控えるように指示しているのは、きっと今の子だろう。

 だが、そうなるとまた一つ、おかしなことが出てくる。東洋一は酒を『弟子』に止められていると言っていたのだ。

「…………まさか」

 匡近は自分で自分の想像に笑った。東洋一が女の弟子をとるなど、有り得るわけがない。

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 風呂から出て居間に向かうと、箱膳の上には匡近の待ち望んでいた『まともな夕飯』が待っていた。

 炒り豆腐に、たたき牛蒡、かぼちゃと小豆の煮物、白飯、具沢山の味噌汁、それに……

「おっ! これは……猪ですか?」

「そうじゃ。藤森さんからまた貰ってな」

 東洋一の機嫌は良いようだ。よほどこの後の酒席が楽しみらしい。

 匡近は目の前の猪肉の味噌焼きに釘付けだった。こんな食事は数ヶ月ぶりの気がする。

「美味そうだなぁ……」

 

 すっかり浮き立っている兄弟子と師匠に、実弥は冷めた目を向けていた。

 飯なんぞ腹の足しになれば十分だし、酒なんぞ美味いと思ったこともない。

 無視して食べ始めようとすると、お櫃を持った女の影が広縁の障子越しに見えた。

 部屋に入る前に正座し、身一つ分ほどだけ障子を引くと、深々と頭を下げた。

 

「おぅ、来たか」

 東洋一が声をかける。

「お前らにも紹介しとく。新しい弟子だ」

「えぇ?!」

 匡近は思わず素っ頓狂な声を上げた。実弥もさすがに驚いた顔になる。

 

「なんじゃ?」

「あの、そこにいるの女の子だと思うんですけど…」

 困惑しきった様子で匡近が言うのを、東洋一は「うん、そうだ」と(うそぶ)く。

「師匠、いつから女の弟子とるようになったんですか?」

「こいつからだ。断っても断ってもしつこいんでな」

「じゃあ、さっき師匠に酒を呑ませない弟子って……」

「こいつ。今日だけはお前らが来るからな、久々に心ゆくまで呑んでえぇと許可してもらったんじゃ。その代わり昨日は断酒したんだぞ! お前らのために!」

 勝手に恩着せがましいことを言う師匠に、とうとう匡近もあきれた。見れば、平伏したままのその女の弟子の肩も揺れている。

 笑っている…らしい。

 

「おい、笑っとらんと挨拶せい」

 東洋一が促すと、ようやくその女の弟子は顔を上げた。

 

 端正な顔立ちの、見目麗しい美少女であった。

 匡近は驚きすぎて言葉を失った。今までに自分が出会った女の中で一番綺麗だと思った。

 ニコリと笑って、彼女が名乗る。

 

「森野辺薫と申します。以後、お見知りおき下さい」

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第六章 邂逅(二)

 ―――――森野辺薫と申します。

 

 

 風呂場で聞いたのと同じ、すずやかな落ち着いた声音が響く。

 

 その余韻を遮るようにガチャン、と音がした。実弥が湯呑を落とした音だった。

「…………」

 めずらしく動揺しているらしい。目を見開いて薫を凝視し、固まっている。

 

 薫は不思議そうに実弥を見つめ返していた。「あの…?」と声をかけられ、実弥はあわてて俯いた。

「あーあ、なにやっとるんだ」

 東洋一(とよいち)があきれていると、薫と名乗ったその女の弟子は低い姿勢で立ち上がり、部屋へと入ってきた。

「大丈夫ですか?」

と、言いながら、実弥の前にある箱膳を横によけ、手拭いで着物を拭こうとして――――その薫もまた止まった。

 

 まじまじと実弥の顔を見つめている。

 

 実弥は俯いたまま、薫の方を見ようともしていない。

「実弥……さん?」

 おそるおそる薫が問いかけても、実弥は返事をしなかった。

 

 奇妙な沈黙が流れた後、東洋一がのんびりした口調で尋ねた。

「なんじゃ、薫。お前さん、実弥と知り合いか?」

 東洋一から『実弥』という名前を聞いて、薫は驚きと嬉しさが入り混じった、輝くような表情を浮かべた。

 それからすぐにぐにゃりと泣きそうな顔になったかと思うと、いきなり実弥に抱きついた。

 

 匡近と東洋一は、顔を見合わせた。

 互いに今、何が起こっているのかを無言で問いかけ、二人ともわからなかった。

 

「……よかった。……よかった…」

 薫は何度も繰り返した。小さくつぶやく声は震えていた。

 実弥の表情はわからない。ほんの少しの間、放心していたかもしれない。

 だが、いきなり乱暴に薫を押し返すと、立ち上がった。

 恐ろしいくらいの表情で薫を睨みつけ、足音も荒々しく部屋を出て行った……。

 

 薫は呆然としていたが、東洋一と目が合って、我に返ったようだった。

「すいません、動揺してしまって……」

 あわてて袖口で涙を拭うと、転がったままの湯呑を取って箱膳の上に置いた。こぼれたお茶を拭き取っている薫に、東洋一が問いかける。

 

「お前さん、実弥と知り合いだったのか?」

「えぇ…志津さん……昔、お世話になった人の息子さんです。あ、実弥さんにもお世話になってましたけど」

「幼馴染…とか?」

 匡近が訊くと、薫は考えるように小首をかしげた。

「幼馴染っていうのとはちょっと違うと思うんですけど……実弥さんのご妹弟(きょうだい)とよく一緒に遊んだりしていたので、その縁で実弥さんとも何度かお話したことがあったんです。でも、ある日いきなり………」

 薫はいったん口を噤み、東洋一に向き直った。

 

「あの…寿美ちゃん達……実弥さんのご家族は、やはり鬼に殺されたのでしょうか?」

 その問いは、おそらく薫自身が幾度となく考え、推測していたことだったのだろう。

 東洋一が頷くと、あまり驚くことはなく、ゆっくりと肩を上下させた。一瞬、燃え上がりかけた怒りを必死で鎮静させていた。

 

 東洋一は静かにつぶやいた。

「……あれは、(むご)い宿星を背負っておるからな」

 

「君も家族を鬼に殺されたの?」

 匡近が尋ねると、薫は黙ってこくんと頷いた。

 東洋一がふと気付いた様子で尋ねた。

「お前さん、実弥の家族が鬼に殺されたのだと思っていたなら、奴が鬼狩りになっていることも想定しておったんじゃないのか? それでウチに来たのか?」

 

「いえ、それはまったく」

 薫はきっぱりと否定し、

「実弥さんが剣士になってる想像なんてできません。普通の、とてもやさしい人でしたから」

と、微笑んだ。

 

 やさしい………?

 

 今までに一度も、実弥のことをそんな風に評する人間はいなかった。

 確かに根は優しいのだが、天の邪鬼というか、とにかく素直でないのだ。その棘を乗り越えて話せる人間は、東洋一や匡近以外皆無だ。

 

 薫は匡近や東洋一の顔に浮かんだ疑問符に気付かず、話し続けた。

「さっきもあまりに雰囲気が変わっていたので、最初は分からなくて…。私、全然気付かなくて、失礼なことをしてしまいました。謝らないと……何処に行かれたんでしょう?」

 不安そうな薫に、匡近は明るく笑いかけた。

「あ、大丈夫。俺、連れてくるから」

 立ち上がると、足早に離れの道場へと向かった。

 

 案の定、実弥は道場の濡れ縁に腰掛けて、厳しい表情で庭を見つめている。

「おぉい、食べようぜ。せっかくのご馳走だぞ」

「………いらん」

「嘘つけよぉ。あんなに旨そうな猪肉前にして、食べない気かぁ?」

「………いらねぇってんだろ」

「なんで? あの子が作ったから? 気に入らないのか?」

 矢継ぎ早に質問する匡近を、実弥はギロリと睨んだ。

 

「っせえな。放っとけよ」

「そうは言ってもなぁ。なんだってそんなに怒るんだ? 知り合いだったんだろ? 久しぶりに会ったんだから、普通に挨拶したってよさそうなもんだ。お前の弟妹(きょうだい)と仲良く遊んでたって言ってたぞ」

 実弥はギリと唇を噛み締めた。

 まさかこんなところで亡くなった妹や弟達のことを思い出すことになるとは……。

 

「お前の家族が鬼に殺されたらしいことも、薄々わかってたみたいだ」

「……言ったのか?!」

「師匠がな」

「余計なこと言いやがってあのジジィ……」

 苛立ちも露わに立ち上がると、ドスドスと、また無遠慮な足音をたてて、先程の居間へと向かう。

 

「おい! ジジィ!!」

 パン! と障子を勢いよく開けて入るなり、炒り豆腐を食べている東洋一を怒鳴りつけた。

「さっさと、この女を破門にしろ!」

「この女ぁ~? どの女じゃ~?」

「ふざけんな! そこにいる……」

 言いかけて、言葉を呑み込んだ。薫の姿はもうない。

 

「あれ? さっきの子は?」

 匡近が尋ねると、東洋一はたたき牛蒡を食べながら、酸っぱそうな顔で言った。

「薫なら、風呂じゃ。儂らが食べてる間に入れと言うとる。前におった弟子共が隙あらば覗こうとしよるんでな」

 実弥は恐ろしい早さで東洋一の前に立つと、襟首に掴みかかろうとする。匡近はあわてて後ろから押さえた。

 

「やっ、やめろって! 実弥!」

「おー、怖いのぉ~。なんじゃあ、恐ろしい顔しよってぇ~」

「おい、ジジィ……貴様、野郎共がいる時にあいつを弟子にしたのか?」

 低い、怒りを押し殺した声だ。

 東洋一はいよいよとぼけた表情で、とんでもない話をする。

 

「そうさな。まぁ、一月(ひとつき)ほど、一緒だったかな? 最終的には薫に返り討ちにあって、逃げ出したようなもんだ」

「っ…ざっけんなよ。返り討ちって…襲われてんじゃねぇかっ!」

 

「大したもんだぞ、あのお嬢さんは。いつ襲われるかもしれんから、と割れた茶碗の欠片を懐に忍ばせておってな。なんでそんなもの持ってたのかと聞いたら、

『刃物だと下手すれば殺しかねない。これだったら思いきり切ったとしても大した深手にはならない』

とな。しっかりヤスリまでかけとってなぁ……なかなかどうして豪胆なもんだろう?」

「馬鹿か、テメェ! そんな危ないことになる前に、あいつを破門しとけ! っていうか、なんで取るんだよ! 女の弟子は取らないんじゃなかったのかっ!!」

「取らん、と標榜していたわけじゃないが、無理だとは思うからなぁ…来ても断って、どうしてもって時には、水なり花なりの師匠を紹介しとったんだが……ほら、さっきも言ったろ~? あの娘、しつこぅてしつこぅて。門の前で四日近く、穀断ちなんぞしよるし」

「はぁ……」

 匡近は思わず感嘆の声を漏らした。綺麗な子だが、ああ見えて中々、頑固な気質のようだ。

 

 しかし実弥の方はそんなことは関係ないらしい。

「うるせぇ! どうでもいい。さっさとここから追い出せ!」

「他の育手を紹介せいということか?」

「それも駄目だ! 家に戻せよ!」

「……その家がもうない」

 東洋一は猪肉をもしゃもしゃ食べながら、無表情に言った。「あの子の親は鬼にやられた」

 実弥は愕然として言葉をなくした。

 

 東洋一はフゥと溜息をつき、傍らに置いてあった徳利を持つと、猪口に酒を注いで、くいっと(あお)った。

「自分の目の前で親が殺されて、喰われる様を見とったんだ。あの子自身も、もう少しで殺られるところだった……」

「師匠が助けたんですか?」

 匡近が尋ねると、東洋一は頷き、「間一髪でな」と軽く吐息をつく。

 

 実弥はしばらく黙り込んでいたが、再び恐ろしいほど真剣な表情で、東洋一を睨みつけた。

「どうであろうと…あいつに鬼殺隊なんぞ務まるわけがねぇ」

「ほぅ? なんでだ?」

「あんた、あいつが元々華族のご令嬢だったってこと知らねぇのか? 子爵家の一人娘だぞ。そんなんが鬼狩りなんぞなれると思うのか?」

「さぁの。ご令嬢であろうが、女工であろうが、やってやろうという気概があれば問題ないだろうと思っとるがな、儂は」

 

「やる気だけでどうにかなるわけじゃねぇんだぞ。一歩間違えりゃ死ぬんだ!」

「ホゥ………死なせたくないかぁ~?」

 いつもと変わらぬのんびりした口調だったが、その目つきは鋭かった。

 匡近はまじまじと実弥を見つめた。それこそ、実弥が一番願っていることなのだろう。そろそろと、羽交い締めにしていた腕を緩める。

 

「儂だってな、あいつが鬼狩りになるのを喜んでいるわけじゃあない」

 東洋一は言いながら、箱膳に並べられた料理を見つめた。

「これを見ろ。買ってきたのもあるが…毎日、ちゃあんと飯を炊いて、味噌汁作って、きちんとした食事の支度をしてくれるんだ。掃除も、洗濯も、裁縫も。お前らの頃からすると、段違いだ。いい嫁さんになれる才能は十二分にある。鬼狩りなんぞせず、普通の女として、当たり前の幸せな生活を送ってもらいたい、と………何度も諭したんだがなぁ~」

 ふぅぅぅと、東洋一は嘆息する。

 

 おそらくはにべなく断られたのだろう。匡近にはなんとなく想像できた。

 あの秀麗な顔で、ニコニコと笑いながら、決して折れることのない頑固さ、一途さ。その(つよ)さもまた、あの美しさの一端なのだ。

 

「……とにかく、食べませんか? 俺、さっきから猪肉が食べたくって」

 匡近は重くなった空気を払うように、少しおどけた調子で言った。ちょうどいい具合に腹も同意の声を上げた。

 東洋一は笑った。

「そうだそうだ。今日は、儂の酒につき合ってもらわんといかん」

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第六章 邂逅(三)

 腹も減っていたので、匡近は薫の作ってくれた食事を早々に食べ終えた。冷めてしまったが、やはり猪肉の味噌焼きは最高にうまかった。

 東洋一(とよいち)と酒盛りを始めたところに薫が姿を見せた。

 

「先生、それでは先に(やす)ませていただきます」

「お、そうか。あ、きんぴら勝手に貰っとるぞ」

 東洋一はさっきの実弥とのやり取りのことなど、すっかり忘れた様子でご機嫌だった。

「どうぞ。そのつもりで買ってきましたから。でもあまり過ごされませんように」

 薫は笑いながら、きっちりと釘を刺す。

 

「師匠、どこか身体の具合悪いんですか?」

 匡近が尋ねると、東洋一はブンブンと首を振ったが、薫は鋭く言った。

「籠島先生から程々に、と注意されていますよね」

 村医者の名前が出たのが、少し意外だった。なにか病気に罹っているのだろうか…?

 それは年齢を考えてみれば不思議ないことではあったが、自分が弟子の頃の、闊達な師匠を知っている匡近は、ちょっとばかり驚いた。

 

 しかし東洋一自身は納得いってないらしい。

「大丈夫だってのに……」

 子供のように拗ねる東洋一に、薫はダメ出しのように付け加えた。

「里乃さんからも、重々、言われております」

 女二人から咎められては東洋一もたまったものではないだろうなぁ…と匡近は内心で同情した。あくまでも内心でしか無理だが。

 

 薫は匡近を見つめると、ニコと笑った。

「粂野様、先程はご挨拶もせずに申し訳ございません。改めて、森野辺薫と申します。向後、よろしくご指導下さいませ」

 深々とお辞儀され、匡近はどう返せばいいのかが咄嗟に出てこず、「あぁ、うん」と適当な返事をするしかできなかった。

 

 次に薫は実弥の方へと向き直ると、同じように深々とお辞儀した。

「先程は、失礼しました。実弥さんだと気が付かなくて……不快な気分にさせてしまって申し訳ございません」

「…………」

 実弥は眉を寄せたまま、薫を見ようとせず、仏頂面で酒を舐めた。元々好きでもないので、尚の事不味いに違いない。

 

「これからは、妹弟子としてよろしくお願い……」

 薫が言い終わらないうちに、実弥は切り裂くように冷たく言い放った。

「認めねぇ」

 ようやく和んだにみえた空気が、また一気に硬直した。

「俺は、お前なんぞ認めねぇ。とっとと出ていけ。森野辺の……子爵が亡くなったとしても、ツテはいくらでもあるはずだ。だいたい、お前、許婚者(いいなずけ)がいたはずだろうが」

 匡近はもちろん、東洋一もそれは初耳だったらしい。「えっ?」と、思わず声が出ていた。

 

 しかし薫はうっすらと笑って否定した。

「そんな事、お父様が亡くなった時点で破談です。それと、私はここを出ることは致しません。先生からも入門許可を頂いておりますから」

 

「お前には無理だっ()ってんだ!」

「それを決めるのは実弥さんではなくて先生だと思います」

「俺は今日だって鬼、殺してきてんだぞ! お前に奴らの相手なんか、できるわけがないだろうが!」

「今は無理でも……実弥さんだって、先生のところで修行したから、今があるんじゃありませんか! だから私だって修行しているんです」

「いくら修行したって無駄だ! とっとと出てけっ!!」

「……実弥さんに言われる筋合いじゃありませんっ!」

 

 匡近は呆然とし、東洋一は途中からあきれたようにグビグビ呑んで、既に酒のアテにしている。

「し、師匠……止めてくださいよ」

「無駄じゃ。こんなもん、兄妹(きょうだい)喧嘩みたいなモンだろ~」

「兄妹…って」

「あー……今日はすこぶる酒がうまい。お前も来たし、あの馬鹿も、お嬢さんも楽しそうで何より」

「どこが楽しそうなんですか……」

 匡近が溜息をついていると、隣にいた実弥がいきなり怒鳴りつけてきた。

 

「匡近っ、テメェもこいつに辞めるように言えっ!」

「えぇぇ??」

「粂野さんは関係ないでしょう。それに、実弥さんと違ってちゃんとご指導くださると、さっき約束して頂けましたから」

「や…約束?」

 返事をしただけで、特に何かを約束した覚えはないのだが……。

 

 しどろもどろになる匡近に、東洋一がとうとう大笑いした。

「おもしろいなぁ、お前ら。儂はいい弟子達を持ったな~」

「ふざけんな、ジジィ! テメェが元凶なんだよ!」

「先生、笑ってらっしゃる場合ですか。ちゃんと実弥さんを諌めて下さい!」

「………」

 もはや匡近は脱力するしかなかった。

 最終的に結論など出るわけもなく―――――

 

 

「明日も早いので、失礼します」

 薫が未だに納得していない表情で頭を下げ、去っていこうとすると、実弥が不機嫌極まりない声で呼び止めた。

「おい」

「……なんでしょうか?」

「俺を名前で呼ぶな」

 一瞬、薫は困惑したようだった。実弥はジロリと睨みつけて、言い重ねた。

「俺の名前を呼ぶな。呼んでも、返事しねぇからな」

 薫は怒ったのか呆れたのか、肩を上下させて深呼吸すると、

「かしこまりました。不死川様」

と、冷たい口調で実弥の名字を呼び、再び礼をして去って行った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 翌朝、目覚めると隣で寝ていたはずの実弥の姿は既になかった。

 匡近は欠伸をしながらうーん、と背伸びをしかけて、頭を押さえた。

 昨夜はほとんど東洋一の相手を匡近がしたので、軽く二日酔いだった。せっかく稽古のために訪れたというのに、これでは一日を無駄にしかねない。

 

 気合を入れて立ち上がった時、ちょうど薫がお盆に湯呑を載せて現れた。

「おはようございます」

 丁寧に挨拶されたものの、昨夜の実弥との喧嘩の剣幕を思い出すと、複雑だ……。

「あ、お…おはよう」

 戸惑いながら挨拶を返すと、薫は「どうぞ」と湯呑を差し出した。緑茶かと思ったら、梅干しがお湯の中に沈んでいる。梅茶だ。

 

「すっきりしますよ」

「ありがとう」

 二日酔いには有難かった。確かに東洋一の云うように、鬼狩りの剣士よりも向いている職業がいくらでもありそうなものだ。

 

「昨夜はご迷惑をおかけしました」

「いや、どっちかと言えば実弥の方が悪いから……言い方の問題なんだけどね」

「言い方?」

「ちゃんと君のことを心配しているから、って言えばいいんだけどねぇ」

「心配?」

 薫は不思議そうに尋ね返してきた。「どうして実弥……不死川さんが私の心配をするんですか?」

 

 匡近は返事に詰まった。本気で訊いているのか? と言いたかったが、薫の顔を見る限り、どうやらとぼけているわけではないらしい。

「えぇと……だって、知り合いだったんだろう?」

「知り合いではありますけど、そんな心配していただくような間柄ではないです。不死川さんとはたまに会って喋ったことがあったくらいで……」

 言いながら、薫の気持ちは少し落ち込んだ。

 自分はずっと実弥達のことを気遣ってはいたが、むこうは会うなりあの態度で、ずっと怒っている。本当は会いたくなかったのかもしれない……。

 

 言葉が途切れて俯いた薫に、匡近は戸惑った。

「えーとぉ」と言葉を探しながら、頭をガシガシ掻いた。

「君は…実弥の弟妹(きょうだい)と仲が良かったって言ってたろ?」

 薫は顔を上げると、「はい」と笑った。

 

「寿美ちゃんっていう子と、一番よく遊んでました。私は一人っ子だから、妹みたいで…よく髪を結ってあげたりして……」

 懐かしそうに話す薫はとてもやさしい顔になっていた。心底、その子のことを可愛がっていたのだろう。

「じゃあ、実弥にとっては妹の友達だ。そんな子が鬼殺隊に入る、なんて言ってきたら、そりゃあ……心配するよ」

 薫はしばらく考え込み、「そうですね」とつぶやいた。

 

「それなら、わかります」

「うん。そういう事」

「確かに、私も寿美ちゃんのお兄さんが危ないことをすると聞けば、止めると思います」

「………?」

「だとすれば、実弥さん…じゃない…不死川さんの事を、私が止めるのも理由がありますよね? 私が不死川さんに鬼殺隊を辞めるように言うこともできるってことですね」

「え…えぇぇ?」

 匡近は混乱した。いきなり方向が変わった気がする。

 

「いや、言っても……実弥は、たぶん、辞めないと思うよ」

「わかってます。私は止める気はありません。どれほど辛い思いをして覚悟したのかは、想像できますから……。だから、私の方も諦める気はない、と、不死川さんにお伝え下さい」

「はい?」

「私の話なんて、最初(ハナ)から聞く気もなさそうなので。今朝も挨拶したんですけど、まったく無視されました」

 冷たさを孕んだ微笑が怖い。

 妙な成り行きに巻き込まれたなぁ……と、匡近は内心で溜息をついた。

 

「隊服、洗いますので持っていきますね」

 薫はもうその話題については終わったとばかりに、籠に置いてあった隊服に手を伸ばした。

 慣れた様子で、手際よくポケットの中のものを出していく。

 

 小銭やら切符やら洟紙やらがポイポイ出てきたが、実弥の隊服から破れた小汚い道中財布を見つけた時に、ピタリと止まった。

 じぃっと眺めていたが、ふっと顔が綻んだ。

「……ボロボロじゃないですか」

「あ、それ。大事なモンみたいだから、捨てないでやって。小銭が落ちるから買い換えろって言ってんだけどさ」

「……そうですか。じゃあ、繕っておきますね」

 薫は財布からお金を取り出して匡近に渡すと、隊服と一緒にその道中財布も抱えて持って行った。

 

 

 匡近は薫が去ったことを確認すると、長い溜息をついた。

 

 ――――― なんか…朝から緊張した………。

 

 ズズズと梅茶を飲んで、再び溜息をつく。

「森野辺……薫……か」

 つぶやいて、バタリと横になると、再び目を瞑った。

 

 朝日の中でツバメが鳴いている。

 おそらく次に目を覚ますのは、実弥に蹴られてだろう……ということも予想しながら、匡近はしばらく惰眠を貪ることにした。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第六章 邂逅(四)

 朝の食事を終えると、匡近と実弥は道場へと向かった。

 

 二人の隊服を洗濯していると、鋭い気合が聞こえてくる。気もそぞろに、今日ばかりは朝の家事も早々に終えて、薫は道場へと走った。

 

 戸を開けると、すさまじい気迫が重い空気となって押し寄せた。

 隅で東洋一(とよいち)が薫に気付いて、手を挙げる。

 薫は摺足で素早く東洋一の横へと走ってゆき、着座した。目の前では実弥と匡近が地稽古の真っ最中だったが、二人共、薫が入ってきたことを気付いた様子はない。

 

 呼吸を使っていないのに、二人の立合を見ているだけで力を感じる。

 木刀を打ち合うその早さ、足捌きの器用さ、一瞬の隙をついて繰り出す技、それを切り返して反撃する機敏な身体能力……さすがというほかなかった。

 あまりに遠い隔たりを感じる。

 確かに今の自分では実弥に「とっととやめろ」と言われても仕方ない。

 

 東洋一は隣で固唾を呑んで見守る薫を見やった。

 茶褐色の瞳をこれでもかというほどに見開き、目の前で繰り広げられている兄弟子達の剣撃を凝視している。まるですべてを吸い込もうとするかのように、貪欲な向上心が瞳の中で閃いている。

 

 一瞬の空隙を見計らい、東洋一は匡近に声をかけた。

「匡近、お前、元立ちせい」

 激しい運動の後で匡近が返事できないうちに、東洋一は薫に掛かり稽古をするように指示した。

「おい…ジジィ」

 実弥が言いかけると、東洋一は「お前は退がっとれ」と襟首を引っ掴んで、道場の隅へと連れて行く。

 

 匡近は目の前に木刀を持って立つ薫を見た。

 女の割には背が高い。痩身だが、構えた姿は揺らぐことなく、非常に均整がとれている。

 髪を後ろで一つに束ねているが、相当引っ張っているのか、切れ長の目が吊り上がっているように見えた。もしくは稽古とはいえ、初めての相手と対峙する緊張感によるものかもしれない。

 

 匡近はふぅ、と息を整えると、「じゃあ、やるか」と木刀を持ち直した。

 

 掛かり稽古は、掛かり手――薫――が、自分で相手の隙を見つけて打ち込んでいくのだが、この時、元立ち――匡近――は、その攻撃をいなしたり避けたりしつつも、薫の打撃に空隙があれば反対に打ち込むこともある。

 打突の正確性、間合い、時機の見極め。これらのことをほとんど絶え間なく、考える暇もない速度で行う。掛かり手側の精神的な集中力がどれだけ持続できるのかが鍵だ。

 

 見合ってから、すぐさま薫が上段から振りかぶってくる。中々の早さだと言っていい。いなして躱すと、木刀に伝わる重さが実弥とは比べ物にならぬくらい軽い。

「打ち込みが弱い!」

 匡近が声をかけると、薫はグッと奥歯を軋ませ、より気合を込めて打ち込んでくる。

 

 やはり、女の膂力ではある程度の限界があるのだろう。これでは呼吸を使えたとしても、技に煽られてしまいかねない。

 しかし力が不足する分、早さは確かにある。突きの繰り出す回数と速度は相当だ。なんとかいなして避けるが、結構際どいところを突いてくる。

 

 だが長くは続かない。匡近は薫の集中力が途切れた瞬間を冷静に見極め、攻撃を受け流すと、反対に腹を突いた。

 反撃を受け、足がもつれて、薫は後ろへとよろめいた。

「後ろに退がるな!」

 東洋一の厳しい叱責が飛ぶ。

 薫はハアッと一息吐いて、再び匡近へと向かっていく。

 その後も匡近は薫の集中が切れるのを正確に読み切って、容赦なく―――むろん、力の加減はしつつも―――防御の甘い箇所に打ち込んでいく。

 

「いつまでやる気だ……」

 隣で見ていた実弥が不機嫌そうにつぶやいた。「いくらやったって、あんなヤツが風の呼吸を使えるとは思えねェ」

 東洋一は匡近と薫の立合から目を逸らすことなく、「そうだな」と同意する。

 

「わかってんなら、辞めさせろよ」

「………呼吸は、風である必要はないからな」

「なに?」

「………風からは霞の呼吸も派生しとる。風にこだわる必要はない」

「ジジィ……テメェ、本気であいつを鬼狩りにする気か?」

 実弥はその大きな目でギロリと東洋一を睨みつけた。

 

 東洋一はチラ、と実弥を一瞥した。

 昨夜の薫の話では昔の知り合いだったということだが、知り合いだというだけの関係性には思えぬ入れ込みようだ。

 

「あの子の長所が何か、わかるか?」

 東洋一が不意に尋ねた。

「知るか」

 実弥は眉をひそめ、吐き捨てるように言う。

 

 東洋一は、目の前で激しく肩を上下させながら、必死に匡近へと打ち込んでいく薫を見つめていた。

「粘り強さと、己への洞察。お前さんが無意識に出来てしまっていることを、あの子は自らに問いかけながら、何度も何度も自分を打ち直すんじゃ。お前さんみたいに、息するように技を習得することはできんが、自分を鍛えていくことには長けとる」

 実弥は初めて東洋一の育手らしい一面を見て、目を丸くした。

 自分が弟子でいた間は、そんな言葉を聞いたことなどなかった。教えるにしても、随分といい加減で適当な感じだった気がする。

 だからといって手を抜いたらすぐさま見抜かれて、破れたボロ雑巾のようにしこたましごかれたが。

 

 再び薫が匡近に打たれ、尻もちをついたところで東洋一は止めた。

「ヨシ。匡近、実弥と代われ」

「えっ?」

 匡近は驚いたが、実弥もまた目をむいた。

 薫の体力は既に限界だ。少し休めばまだしも、続けざまに立合などできるはずもない。

 

「冗談じゃねえ。こんなん、稽古にならねぇだろうが」

「お前さん、薫を辞めさせたいんだろ? だったらコテンパンにやっつけてやったらいい」

 平然として東洋一は言いきる。

 

 薫は肩で息をして座り込んでいたが、唇を噛みしめると、立ち上がった。

「………お願いします」

 辛うじて言ったものの、実弥の方はまだやる気はない。訝しげに東洋一を見つめ、提案を持ちかけた。

「おい、ジジィ。これで俺が勝ったら、こいつを破門しろ」

「ん~ん? そうだなぁ……」

 言いかける東洋一を遮って、薫が叫んだ。

「辞めません!」

 叫ぶと同時に強く踏み込んで、実弥の胴へと素早く木刀を振るう。

 だが、実弥はすぐさま避け、くるりと回った遠心力を利用して、すさまじい早さで薫に一撃を加えた。まさに電光石火の技である。

 

 ぐぅっ、と身体を曲げた薫に、東洋一がのんびりとした口調で呼びかけた。

「薫、鍛錬の成果見せてみぃ。お前なりのものが、少しは仕上がってきたか?」

 言われるなり、薫は口の端にほのかな笑みを浮かべた。

「やってみます」

 深呼吸をして、再び対峙する。

 

 実弥の構えは隙があるのに、そこに打ち込もうとすれば、必ず避けられた。避けた反動で攻撃してくるので、反応できず、したたかにくらうことになる。

 あの隙は、虚だ。

「ハアアッッ!!」

 気合とともに、跳躍し、真上から狙う。

 

 実弥は一瞬、戸惑ったようだったが、すぐさま態勢を整え、薫が振り下ろした木刀を受ける。

 ビリリ、と実弥の手に細かな振動が伝わった。

 今まで、匡近が最初に言ったように薫の打ち込みは軽く、簡単にいなすことが出来てしまう。だが、今のこれは明らかに重さがある。跳躍と、その後の降下によって膂力のなさを補っている。

 

 実弥はチラと東洋一を見た。

 

 ―――――呼吸は風である必要はない。

 

 相変わらず人を食った爺だ、と実弥は歯噛みした。

 なんだかんだ言いつつ、しっかり隊士として育成していっている。育手なのだから当たり前のことだが、実弥には東洋一の視点を持つことはできない。

 

「っ…せえっ!」

 実弥は苛立ちとともに、技を繰り出した。

 薫はかろうじて半身避けたが、威力が半端ではない。

 振り切った木刀を腹に受けて、うぅと呻くと胃の中のものが逆流しそうになる。

 

「師匠…」

 匡近は焦った口調で東洋一に呼びかけた。

「止めてくださいよ。実弥は加減とかできない性質(タチ)なんですから」

「ほう?」

「ほう、じゃなくて! あれ、絶対吐くから!」

「まぁ…儂相手にあそこまでくたびれることもないだろうからなぁ……何事も経験経験。あれぐらい凌げんと、鬼相手では小半時も持たんだろうて。いやぁ、お前さん達、ちょうどいい所に来てくれたもんだ。おかげで儂は楽できる」

 匡近は呆れ返り、深い溜息をついた。

 この師匠はこういう時でも本気なのか冗談なのかわからぬことを言う。

 

 目の前では薫が実弥からの攻撃を必死で躱していた。

 上背がある割には案外と身体が柔らかい。

 実弥がまったく手加減をしない早さで木刀を横に払うと、ギリギリで背を仰向けに反らせて避け、自分も木刀を振る。

 しかし、いなされると同時に打ち込まれ、横へと吹っ飛ばされる。

 すぐに立ち上がって向かっていくが、汗で床が滑るのだろう。踏み込みが甘いまま、実弥に打ち込もうとしてあっさりと躱され、背後を打たれた。

 

「うっ…!」

 呻いて、四つん這いになった薫が、口を押さえた。

「待てっ! 待て待て待て、実弥! 休止! 一旦、休止!」

 匡近はあわてて間に入ると、後ろでおそらく嘔吐している薫に「行け」と声をかけた。

 口を押さえたまま、薫は走って出て行った。

 

 実弥は木刀を肩に担ぎながら、「ふん、ザマァねぇ」と、身も蓋もないことを言う。

「やり過ぎだろ! ちょっとは加減しろ」

「鬼は手加減なんぞしねぇよ」

「お前は鬼か! 師匠の言うことを真に受けるなよ」

「はあァ? ンなもん、関係ねぇよ。こんな程度でくたばるようじゃァ、まるで役に立たねぇな。―――――わかったか? ジジィ」

 実弥に呼びかけられ、東洋一はとぼけた表情で小首をかしげる。

 

「俺が勝ったら、あいつを破門にしろって言ったろ?」

「あ~、言うとったな~。まぁ、でも儂、約束はしとらんから」

 のんきな様子で嘯く東洋一に、実弥は苛々をぶつけた。

「見たらわかるだろうが! なんだって、あんな役立たずを弟子なんぞにしやがった!? いいから、とっとと……」

 家に返せ、と言おうとして、既に森野辺子爵夫妻が鬼に殺されてしまい、鬼籍の人であることを思い出す。

 唇をきつく噛み締めて、実弥は俯いた。

 

「お前さんの言うように、本当に役立たずであれば簡単だったんだがなぁ」

 肩を前後にまわしてほぐしながら、東洋一は残念そうにつぶやく。

「まったくモノにならん、という訳でもなさそうだから、厄介なんだな。これが」

「そうですね」

 匡近が同意すると、実弥がキッと睨んでくる。

 

「なにが、そうですね、だァ?」

「そうは言うけど、実弥。冷静に考えろよ。七ヶ月そこらで、お前相手に吐くまで打ち合い続けるって、中々いないぞ」

 現役の鬼殺隊士ですら、実弥との地稽古は身が持たないと閉口し、今では一部の人間しか相手にしない。

 

 まして薫は隊士ですらない、ただの弟子。

 代々、鬼殺隊に属していた家系という訳でもなく、いわば素人だった状態で、ここまで修得するには相当努力したに違いない。しかも、毎日の家事をしながら、だ。

 

 むろん匡近も弟子時代には家事全般はやらされた。

 鬼殺隊士になった時、自ら炊事する必要も出てくるし、破れた服を縫わねばならないこともある。

 だが、所詮は男のやることなので、大雑把なものでしかない。基本的には家事労働の時間は、なるべくサボることばかりを考えていた気がする。

 

 だが薫は家事も手を抜いてはいない。今日だって、匡近達の隊服を洗ってくれたり、朝食の用意をしたり、きっといつもよりも大忙しだったろう。それでも文句も言わず、手際よく片付けていく。

 

 剣戟も決して弱いとは言えない。

 さっき手合わせしてわかったが、確かに打撃の力は弱い。だが身のこなしの早さと、柔軟性はやはり女ならではというべきなのか、相当に鍛錬を重ねたものだということが見て取れる。

 それにあそこまでやられていても、風の呼吸の型が崩れることもなく、基本に沿った美しい動作になっている。

 

 しかも、匡近の後にすぐに実弥の相手をしていて、ここまで()ったのだ。

 かなりしぶとい。

 東洋一が昨日言っていたように、かなり「しつこい」性質(たち)のようだ。これは、なかなかどうして『役立たず』なんぞとはとても言えない。

 

 だが実弥は頑として認めなかった。

「お前の目は節穴か、匡近。あんなもんでやってけると思うのか?」

「………足らない点があれば、仰言(おっしゃ)ってください」

 冷たく言い放った言葉に反応したのは、戻ってきた薫だった。口を(すす)ぐついでに顔も洗ってきたのか、髪の毛が濡れている。

 

「自分がまだ剣士として不十分だとはわかっています。どこが、悪いのでしょうか?」

 実弥は眉間に皺を寄せて、()めつけた。

「そんなモン、他人に教えてもらうことかァ?」

「…………」

 薫は瞳を逸らすことなく、じいっと実弥を見つめる。答えを求めて、その端緒を探るかのように。

 

 実弥は視線を逸らすと、チッと小さく舌打ちした。

「剣技としてよく出来てても、そんなもん実戦じゃ役に立たねぇ。お前のは、そこいらにある剣術道場の護身術程度のもんだ」

 酷評され、薫は拳を硬く握りしめた。それでも実弥から目を逸らすことなく、ほとんど睨みつけるように見つめている。

 その視線を十分に感じながら、実弥は昨夜から言い続けた言葉を再び繰り返した。

 

「お前が鬼狩りの剣士になるなんぞ、無理だ。さっさと辞めて、親戚なりを頼って、普通の生活に戻れェ」

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第六章 邂逅(五)

「案外と出来よるから、困ったんだろ?」

 朝の稽古を終え、井戸端で顔を洗っていると、東洋一(とよいち)が後ろから声をかけてきた。

 振り返ると、とぼけた表情でうっすら笑っている。

 

 実弥は途端に不機嫌な顔に戻った。

「何言ってやがる、ジジィ。さっきも言ったろうが。あんなんで剣士としてやってくことなんぞ無理だ」

「今はな」

「だからっ、今のうちにとっとと追い出せよ!」

 東洋一はズイと実弥に近寄ると、肩をポンと叩いた。

「今のうちに追い出さんと、これ以上、実力をつけられちゃ困るわなぁ。いよいよ辞めろ、とは言えんようになるから」

「………」

 

 やはり、東洋一は見抜いている。伊達に育手の経歴を積んでない。

 確かに今はまだ、薫の実力では鬼殺隊に入ることは無理である。だが、あと一年もすれば、確実に剣士としての技倆を身につけることはできるだろう。これまでしてきたように、地道に練習に励み、怠ることがなければ。

 

「お前さんがあれに剣士になってもらいたくない理由はわからんではない。が、あれもあれで、理由(ワケ)あって鬼狩りの道を選んだんだ。その覚悟を嗤うことはできんだろう?」

「……嗤ってなんぞねぇ」

 実弥の声は小さかった。

 

 薫が鬼殺の道を選ぶ理由は、痛いほどわかる。

 家族を鬼に殺された復讐のために入隊する……鬼殺隊には、そんな人間は多くいるのだ。皆、必死の覚悟を持って、鬼の惣領たる鬼舞辻無惨を滅殺することを、復讐を遂げることを本懐として任務に臨む。だが、鬼は簡単に()れるものではない。何人もの同輩が、鬼の爪牙の前に斃れていった。

 

 実弥よりも実力も、経験もある人間ですら、ほんの少しの読み違いで、あっけなく死んでいく。強いというだけでは生き残ることはできない。それが鬼殺しの現場なのだ。いくら薫が修練を積んで強くなったとしても、死なない保証はない。

 

 考えただけで、怖気が走る。絶対に、見たくない……。

 

 黙り込んだ実弥を見ながら、東洋一は思案した。正直なところ、東洋一も実弥の意見には賛成だった。

 薫はいい子だ。失いたくないという気持ちはわかる。

 だが、薫に翻意させるのは相当に骨が折れる。というより、骨が折れてもあの娘が諦めることはないだろう…。

 

「ま、今はまだ、儂のところにいるからな。次の最終選別まで…といったところだな」

「……他人事(ひとごと)みたいに言いやがってェ」

「純然たる他人事じゃろうが。儂にとっても、お前にとっても。薫のことは薫が決める。お前のことはお前自身が決めたように」

「…………」

 実弥はギリと奥歯を噛み締めた。

 東洋一の言う通り、自分は何かを言える立場ではない。

 

 薫が親を殺され、自らの命さえ危うかった時に、そばにいなかったのだから。

 何も、できなかったのだから。

 ここで再会するまで、その苦しみを知ることもなかったのだから。

 

 薫の選び取った決断を、否定することなど、できるわけもない。

 

 ―――――情けねェ……。

 

 いつの間にか固く握りしめていた拳を見つめる。

 自分は薫を守れなかった。

 同じ轍を踏まないためには――――鬱陶しかろうが、何度でも言うしかない。

 

「とにかく、さっさと辞めさせろ」

「お前もしつこいな!」

「うるせぇ。耳にタコができるまで言ってやるからな」

「薫に直接言やええだろうが」

「あいつが話を聞かねェんだから、育手のテメェが放り出すしかねぇんだよ」

「………やっとれんわ」

 東洋一はげんなりした顔で、その場から立ち去った。

 

 実弥は軽く溜息をついた。

 このまま成り行きに任せて、薫を死地に赴かせるわけにはいかないのだ。たとえ、嫌われようが、本意でなかろうが、絶対に諦めさせる。

 ようやく自分で納得できる答えに帰結し、部屋へと戻ると、薫が匡近と何か話していた……。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

「本当に大丈夫か? かなりやられてたみたいだけど…」

 匡近は心配気に尋ねたが、薫はニコリと笑った。

「大丈夫です。さっき塗り薬も塗りましたし、切ったところはヨモギを貼ってますから」

 さすがに日々の練習の中でも、怪我はさほどに珍しいことでないのだろう。処置も手慣れた様子である。

 

「なぁ、薫……じゃなくて、森…の、なんだったっけ?」

 匡近は今更ながらに呼びかけようとして、逡巡した。東洋一が『薫』としか呼ばないので、名字を失念してしまった。

「森野辺です。でも、薫でいいですよ。先生もいつもそう呼ばれますし」

 

「じゃあ、薫はさ…普通に生きたいとは思わないの?」

 匡近はなんとなく聞いてみたくなった。

 薫はきょとんとした。意味がわからない、という顔をしている。

 匡近は言葉を選びつつ、訥々と話しかけた。

 

「いや、実弥に同意するわけじゃないけど……君が鬼殺隊を目指す理由とかは十分に分かるよ。俺も親に反対されたけど、結局、こういうことになってるし。でも、俺は……自分がここでやっていくしか生きていけないと思ったんだ。他の道を選ぶ頭がなかった。でも、君はさ……正直、別の道も有り得ると思うんだよ」

 

 薫は黙っていた。

 静かな表情は怒っているのか、そうでないのかが判別しにくい。

 だが、匡近は続けた。

 

「お父さんが亡くなられて、もう華族という身分には戻れないのかもしれないけど……昨夜、先生から聞いたけど、藤森家と縁戚関係だっていうんだったら、商家のおかみさんなり、地主の御内儀なり、君を貰ってくれるよう口利きはしてもらえるだろう? 君ならきっと、どこに行っても重宝されて大事にされると思うし…。実弥はきっと、君にそっちの方に行ってもらいたいんだよ」

 

 薫は途中からうっすらと笑みを浮かべて聞いていた。匡近が言い終わると、フフッと口に手を当てて笑った。

「不思議ですね。実弥さんからそんなこと言われたら、きっと反発したんでしょうけど……粂野さんに言われると、そういう選択肢もあるんだなって思えます」

「まぁ、言い方の問題だから」

「でも、選ぶことはないです」

 きっぱりと言い切られて、匡近は頭を掻いた。

「……やっぱりかぁ」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

「…………」

 やっぱりかぁ、じゃねぇよ! と実弥は内心で怒鳴ってしまいたかったが、図らずも立ち聞きしている間の悪さに、口を噤むしかなかった。

 

 匡近の云う通り、本来ならこんなところにいるより、商家の嫁にでもいけばいいのだ。

 薫なら、きっと夫を支え、甲斐甲斐しく働き、子供を産み育てて……当たり前の、幸せな家庭を築くことができるだろう……。

 そう……間違いなくそう思っているのに、その想像は胸の奥を逆なでした。

 

 ―――――お嬢様、縁談が来てるんですからね。

 

 なぜか昔、母に言われた時のことを思い出す。一緒にその時の感情まで思い出しそうになって、ブルブルと頭を振って追いやった。

 

「それじゃあ、お昼は里乃さんが用意して下さってますから、召し上がって下さい」

 薫がそう言って部屋から出てくると、まともに目が合った。

 一瞬、驚いた顔で実弥を見上げたが、すぐに軽くお辞儀して、

「……不死川さんも、どうぞ」

と短く伝え、スススと廊下を歩いて行ってしまった。

 

「なんだよ、聞いてたのか?」

 匡近が尋ねると、実弥はブスッとした表情で「知らねぇよ」と白を切った。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 

 翌、早朝。

 匡近は東洋一の家の裏手にある墓の前に来ていた。ここは東洋一の歴代の弟子達が眠る墓である。

 墓の後ろに金木犀の木が植わっており、今は満開で、早朝の肌寒い空気の中に、甘い匂いが漂っていた。

 線香をさして、手の平を合わせる。

 

 実際には、この墓には骨はない。それは死骸もない状態であった場合と、死骸があったとしても基本的には死亡した隊士達は、お館様の屋敷近くの墓地に埋葬されることになっているからだ。

 東洋一は弟子達の遺髪や、遺品をもらうと、この墓に納めている。

 

 ここに東洋一がいる時には、声をかけない。見ないフリをする。匡近が弟子でいた時は、それが決まりだった。東洋一に言われた訳でも何でもないが、匡近はそう自分で決めていた。

 

「粂野さん?」

 呼びかけられて振り向くと、薫が立っていた。右手には手桶に桔梗や竜胆(りんどう)、菊などの秋の花、左手には皿におはぎが二つのっていた。

「……持つよ」

 匡近は花の入った桶を薫から取り上げると、墓の横へと置いた。

「すみません」と薫が頭を下げた。

 

「花、活けてくれてるんだ」

「はい…よかったですか?」

「ああ、どうぞ」

 場所をあけると、台座におはぎを置き、花は無造作に選り分けて、きれいに花立の中に活けていく。

 

「師匠、ここにいることあるだろ?」

「はい」

「見た時、君はどうしてる?」

「………話をされてるようなので、邪魔をしないようにしています」

「話す?」

「いえ……実際にしゃべってるわけじゃないんですけど、その……心の中でお話しされているようなので、あまり声をかけない方がいいと思って」

「そっか……」

 薫が自分と同じだと思うと、少しだけうれしいような気持ちになる。同時に、まったく違う反応だった実弥のことを思い出して、フフッと笑った。

 薫が不思議そうに小首をかしげた。

 

「いや、実弥はさ。普通に話しかけるんだよ。まったく頓着なしにね。あいつがここに弟子でいる時にも、俺、来たことがあったんだけど、師匠が静かに黙祷してんのに、普通に『ジジィ』って怒鳴りつけててさぁ………」

 薫は笑ったが、すぐにとりなすように言った。

「実弥さんは、先生を元気づけたかったんでしょう、きっと。ここにいる時の先生は、少し寂しそうに見えるから」

「そうか……そうだな」

 あの天の邪鬼であれば、そうなのかもしれない。薫に言われると、きっとそうなんだろうとも思える。

 ザザザと強い風が吹いて、金木犀の細かな花が舞い落ちる。

 

「この金木犀のこと、聞いたことある?」

「え?」

「この木さ、元々ここにあったらしいんだけど、もうほとんど枯れかけてたらしいんだ」

「そうなんですか?」

 今は大木とは言えないまでも、枝ぶりも墓の上まで張り出して、花も沢山咲いている。とても枯れかけていた木とは思えない。

 

「師匠の初めての弟子の人ってのがさ、元々植木屋さんだったらしいんだよ。その人が再生させたんだって」

「そうなんですか? 知らなかった……」

 薫は感心したように言って、金木犀を見上げた。

 風が吹いて、また花が散る。

 

「その人が亡くなって、それでここに墓をたてたらしい。―――――って、俺も聞いた話なんだけどね」

 なんだか物知りなふうに言ったのが恥ずかしくなって、匡近はあわてて付け加えた。

 匡近にその話を教えてくれた兄弟子もまた、この墓に眠っている。

 

「先生は、好かれてますね」

 薫は少しうれしそうに言った。

 確かに東洋一は修行時代、ものすごく厳しくて、そのくせあの飄々とした様子なので、まともに反発することもできなかったのだが、嫌いになったことは一度もなかった。おそらくここに眠る弟子達は皆、そうだったのだろうと思う。

 

「うん、そうだな」

 匡近が頷くと、薫はつと背伸びして、匡近の頭に手を伸ばした。

 一瞬のことで匡近が固まっていると、薫は手の平に乗せた金木犀の花を見せた。

「ここにいると、積もっちゃいますね」

 そう言って、微笑みながら一礼すると、手桶を持って母屋へと帰っていく。

 

 ストン。

 

 急に気が抜けて、匡近はしゃがみこんだ。

「…………無理。無理無理無理無理、ムリっ」

 自分でも意味がわからない言葉をブツブツつぶやく。

 

「あ、すみません。粂野さん」

 いきなりまた薫が現れ、しゃがみこんだ匡近を訝しげに見つめた。「どうしたんですか?」

「あ、いやいやいや!」

 匡近はあわてて立ち上がった。

 

「なに? なんかまだ用?」

「あ、はい。すみません。これを……渡してもらえないかと」

 言いながら、薫は懐から財布を差し出した。昨日、隊服の洗濯と一緒に持って行った実弥のボロボロになった道中財布だ。

 

「一応、ツギをあててありますので、これでお金を落とすことはないと思います」

 受け取りながら、匡近は目を疑った。

 ツギを当てた部分にも、本体と同じような刺し子刺繍がされているので、ぱっと見にはツギハギは目立たないようになっていた。

 しかも薄汚れていたのに、きれいに洗って、火熨斗(ひのし)まで当ててくれている。

 

「すごいな……きれいになってる」

 匡近が感嘆すると、薫ははにかんで言った。

「いえ。これ……昔、作ったものなので」

「え?」

「昔、作って実弥さんに差し上げたものだったので、直すのは難しくなかったんです。素人の針仕事ですから、大したものでもないのに、大事に持っていて下さったようで………」

 それ以上は言わなかったが、微笑んだ顔にうれしさが滲み出ていた。

 

「……直接渡せばいいのに」

「昨日の、立合の後からずーっと無視されっぱなしですので。すみませんが、お願いします」

 ペコリと頭を下げると、薫は手桶を持って、再び母屋へと戻って行った。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 

 部屋に戻ると、実弥が出立の用意をしていた。

 昨日、鎹鴉が新たな任務を告げた。二人それぞれ別件ではあるが、目的地はそう離れていないので、途中まで一緒に行くことになった。

 

 洗濯を終えた隊服が、昨夜の内に戻ってきていた。久々に汗や埃から解放され、きれいになった隊服を、実弥はさも当たり前のように着ている。

 

 匡近は薫から渡された財布を、実弥の頭にベシリと投げつけた。

「っつ…てぇな!」

 実弥が抗議するのを、匡近はどんよりとした苛立たしさを感じながら見つめた。

「それ、渡したぞ」

「あァ?」

 実弥は頭から落ちてきた財布を怪訝な表情で見つめた。

「これ…俺のか?」

「おう。薫が直しておいてくれたんだ。洗濯もついでにしてくれたみたいだな。後で礼を言っておけよ」

「………」

「言・え・よ!」

「………」

 実弥は無言で財布を睨みつけている。

 

 匡近は軽く吐息をついてから、少しばかり棘のある口調で言った。

「お前、それ、あの子が作ったやつなんだろ?」

「は? あいつ……言ったのか?」

「…………言ってたけど」

 正直なところ、むかついた。なんだ、その二人の秘密にしときたい、的な言いざまは。

 

 しかし実弥には匡近の苛立ちなどわからない。

 きまり悪そうに財布を開くと、

「金が………ねェ」

 ポツリとつぶやく。

 

「……………」

「……………」

 二人で見つめ合うこと、しばし。

 

「………………ブッ」

 滅多にない実弥の困りきった表情が面白くて、匡近は吹き出した。

 大笑いした。

 さっきまでのモヤモヤが一瞬にして消えた。

 

「すまんすまん! 預かってるから、心配すんなって」

 箪笥の抽斗にしまっておいた実弥の金を渡すと、無駄だろうと思いつつも、兄弟子としてもう一度諭した。

「ちゃんと、薫に礼を言えよ。ちょっとは頑張ってる妹弟子を応援するって気にはならないのか?」

「…ならねぇ」

 匡近はハアーッと長い溜息をついた。この頑固さはどっちもどっちだ。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第六章 邂逅(六)

 その後、見送りの時すらも、実弥は薫と一言も口をきかないまま、東洋一(とよいち)の家を後にした。

 

「やれやれ、今回はなかなか色々あり過ぎて疲れたわ」

 東洋一は二人の姿が見えなくなると、踵を返しながら、ふー、と吐息をついた。

「おつかれさまです。色々と、騒がしくしてすいません」

 薫は殊勝に頭を下げたが、東洋一はヒラヒラと手を振った。

「お前さんだけが悪いんじゃない。というより、どちらかと言えば、実弥に問題があるからな……。まぁ、あいつの気持ちがわからんわけではないが」

 

「粂野さんが言うには、私は実弥さんの妹の友達なんだそうです」

「んん?」

「確かに、私は寿美ちゃん……実弥さんの妹さんと仲が良かったから。だから、危険な目に遭わせたくないらしいです」

「………そうか」

 東洋一は頷いたが、その解釈は微妙にズレている気がした。

 しかしまぁ、本当のところどうなのかなど、実弥に聞きようもない。聞いたところで言うはずもなし、本人すらわかっているのやら……。

 

 

「心配をかけないように、もっと修行して、強くなります」

 はっきりと、薫は言い切る。それは東洋一へというより、自分自身へ誓いを立てるように。

 

 自らへの期待と、積み重ねてきたことへの自負とが入り混じった、若い顔だ。まだまだ青臭さの残る、傷つけられても再生することをあきらめぬ顔。

 

 東洋一はもう何十年もこんな少年達を見てきた。今、見送った匡近や実弥もそう。家の裏手の墓に祀ってある亡くなった弟子達も、そうだった。

 昔、自らがいたあの鬼殺の苦界に、弟子を送り出すことは育手の使命である。しかし、皆自分よりも先に逝く。荼毘に付されることすらなく、鬼に喰い殺された弟子達のことを思う時、若い命を送り出した自分への矛盾に相対する。

 

 薫はいい子だ。だが、薫だけではない。皆、いい子だった。鬼に殺されることのないように、生き残るために、東洋一は厳しい修練を課した。

 それでも、送り出した者達が無事にその生涯を終えることはほぼない。運良く生き残れても、東洋一と同じように片輪となって、育手となるか、あるいは俗衆に戻り、不自由な身を引きずって生きていくしかない……。

 

 ―――――そんな感傷は、欺瞞だね。

 

 初めての弟子が死んだのを聞いた時、消沈した東洋一にそう言う者がいた。

 

 ―――――私らは、代々の育手達が継いできた意志を、連綿と続いてきた負託を受け止める義務があるんだ……。

 

『柱』になる者は、なるべくしてなるのだろう。

 柱であった同僚の姿を懐かしく思い出しながら、自分にはまだ、覚悟が足りないことを思い知らされる。

 未だにこうして迷いの中にいる。年経れば、こうした感傷にもそれなりの答えを出せるようになるかと思っていたのだが、そういうものでもないらしい。

 

「……すまんなぁ」

 不意に東洋一が謝るので、薫は意味がわからなかった。

「どうしたんですか?」

「儂は、育手としては未熟者だ」

「どうしてそんなことを思うんですか?」

「………いろいろ、な」

 東洋一は義足を重く感じながら、カツカツと土をかんで歩く。

 

「先生」

 後ろから薫が駆け寄ってきて、顔を覗き込んだ。

「先生の評価は、先生自身がするものじゃありませんよ」

 そう言って、薫はニッコリ笑った。

「先生の評価は、教えてもらった弟子がするんです」

「………ほぅ」

「先生は、誰がなんと言おうが、一番ですよ。私にとってもそうだし、これまでのお弟子さんもそうです」

 

 東洋一はふっと笑うと、薫の頭を撫でた。

 この子の親が鬼に殺された事実を変えることはできない。そのためにこの子が鬼狩りの道を選び取ることも、東洋一が妨げることはできない。そうであれば、今までと同じように、せめて生き残るための技を伝えるしかないのだ……。

 

「よし、そろそろ呼吸の稽古に入るとしよう」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 新たな任務先に向かう汽車の中で、匡近は薫から渡された弁当を開いた。

 

「おっ、すげえ」

 すぐに目に入ったのは、匡近の大好きな卵焼きである。迷うことなく箸でつまんで食べると、じゅわっとやや甘い出汁が口の中に広がった。

「甘い卵焼きもおいしいもんだな。俺んとこのは甘くないやつだったけど。お前、どっちが好き?」

 卵焼き一つで浮き立つ匡近に、実弥は呆れ返った溜息をついた。

「……黙って食えよ」

 

「おっ、これつくねだ。うンまーっ。つくねなんて鍋でしか食べたことなかったけど、こんな風に焼いてタレついてるのも、うまいもんだなぁ。うん……椎茸にも出汁が染みてる。これは飯がいる、飯が」

 喋りながら、匡近は握り飯にかぶりつき、「やった! 鮭入ってるー」と叫びだす。

「だから! 黙って食えよ!」

 とうとう実弥が怒鳴ると、周囲の乗客は苦笑し、匡近は辺りを見回してから、恥ずかしそうに笑った。

 

「すまん、すまん。ちょっとなんか、うれしくってさ」

「なにが嬉しいんだよ」

「だって、女の子に弁当なんか作ってもらったことないからさ」

「……………あァ?」

 その顔をみた瞬間、匡近は虎の尾を踏む、という意味を実感した。

 

「………テメェ、どういう目で」

「いや違う! そういう意味じゃなくて! 単に、一般的なことで、なんとなーく、嬉しいなーっていう……っつか、お前だって今食べてんだから、一緒だろ!」

「俺は、ただの弁当だと思って食ってんだよ」

「ああ、うん、そう。いや、そうだよ。ただの弁当だよ、うん」

「……食え」

 実弥は憮然とした表情で、もそもそと食べ続ける。

 匡近もこれ以上怒らせたくないので、黙って食べた。

 

 やっぱり、おいしい。

 こんなにおいしい料理も作れて、手先も器用だし、その上美人ときたら、三拍子揃っているのだ。いくらでも嫁に来てほしい家はあるだろうに、よりによって鬼殺隊を選ぶなんて。

 確かに理由はわかる。それでも、やっぱりもったいないと思えてしまう……。

 

 鬼殺隊なんぞ、ほっとんど女なんていないし、汗臭い野郎共ばっかだし。普通に道場で猥談してるヤツもいるし、任務の合間に岡場所に通い詰めるヤツもいるし。

 ………って、そんなとこに来たら、それこそマズイことになるんじゃないのか? 事実、襲われたこともあるのだから。

 

 よっぽど腕が立つ―――――それこそ胡蝶カナエくらいに強くなければ、面倒なことになるんじゃないだろうか。

 胡蝶カナエが現れた時も相当ザワついたが、抜きん出た強さで、並みいる男共を一掃した後は、誰も言い寄ろうなんて考えを持つ人間はいなくなった。それくらい薫が強くなればいいが、実際のところ今はまだ未知数だ。

 

 それに―――――

 匡近はチラと実弥の顔を窺う。

 

 味わう、ということを一切拒絶したような、ただ腹を満たすためだけに食べていると言わんばかりの、ふてぶてしい表情。

 それでいて、さっきもちょっと色めいたことを言ったら、あの変貌ぶりだ。

 もし、薫を襲ったとかいう弟子共がまだいたら、きっと実弥は半殺しにしたに違いない。

 今後、同じことが起きないとは、とても断言できない……。

 

 そこまで考えて、匡近はふと気付いた。

 先走りし過ぎた。

 

 まだ、薫は修行を終えてもいないし、最終選別にだって行ってない。

 そう。最終選別。

 あそこで生き残れるかどうか、それが一番の問題だ。鬼殺隊に入る上での、最初にして最大の難関。

 

「なぁ、実弥」

「……なんだァ?」

「あの子、藤襲山で残れるかな?」

 実弥の箸が止まる。そして、かすかに震えた。

 匡近はハッとなり、しまった、と思った。軽々に言っていいことでなかった。

 

「ご、ごめん。気にすんな」

 あわててなかったことにしようと思ったが、実弥は意外に冷静に、ボソリとつぶやいた。

「……行かせねぇから」

 匡近は軽く吐息をつくと、再び食べ始めた。

 

 最後に残していたのは、握り飯の横にあった柿の葉にくるまれているもの。

「これ、なんだろ?」

 包んでいる葉をとると、中からおはぎが出てきた。

 

「あっ! おはぎだ」

 また思わず大声が出て、顔を上げると、ちょうど実弥もおはぎを見つけたところだった。

 これもきっと薫からの餞別なのだろう。―――――実弥への。

 匡近は唇を噛み締めたが、それは自分でも無意識にだった。

 

「よかったな。あの子、お前のために作ったくれたんだぞ、きっと」

 にやっと笑いかけると、実弥はますます仏頂面を作って、

「……ぅるせぇ」

と、毒づきながらも、おはぎを一口で食べてしまっていた。

 

 ―――――本当に、素直じゃないよなぁ……。

 

 匡近は内心あきれながらも、おはぎを食べつつ、耳だけ真っ赤になっている実弥を楽しそうに眺めた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第七章 修練(一)

 東洋一(とよいち)はまず、基本となる呼吸方法を教えた後、全集中の呼吸を薫に伝授したが、なかなかにこれが簡単にできなかった。

 

 呼吸法―――息の吸い方と吐き方。そこから肺へと空気をとりこみ、全身へと行き渡らせる―――自体は、難しいものではない。いわゆる深呼吸と呼ばれるものと大差はない。

 だが、そこから全集中という意識を持って行う時、よりその精度を研ぎ澄ますほどに、身体への負担が生じる。

 つまり、息が続かなくなり、切れる。あるいは息をすることを忘れる。他には突発的な頭痛であったり、丹田に力を集中させることで、腸捻転になる者もいるらしい。

 

「毎日、毎日走らされて、なんだと思うだろうが、ここで肺を鍛えとらん奴は、全集中の呼吸はできん」

 東洋一に言われて、薫は朝と夕方に行っていた走り込みを、夜にも行うようになった。

 

 この頃になると、東洋一は風の呼吸の型を薫に教えることはなくなっていた。むしろ、風から派生させて独自に開発することを勧めた。

「そういえば、お前さん、実弥とやりあった時に、妙な技を出していたろう? あれは、なんだ?」

 一旦、上に高く跳躍した後に、回転しながら急降下での斬撃。風の呼吸の型ではない。

 

「あれは……その、前に先生に自分なりの型を見つけるように、課題を言われた時に考えたものです。たまたま、(はやぶさ)が狩りをしているのを見て……」

「ほう、隼か。他にはあるのか?」

「いえ。今のところ、まともに型らしき形になっているのはそれぐらいなんです。すいません、なかなか難しくて」

「かまわん。風の呼吸よりも合うものでやっていった方がお前さんのためだ。腰を据えて、考え出せ。そうか…隼……うん、鳥の呼吸とでもすればええ」

「鳥の呼吸、ですか?」

「いやか?」

「いえ、いいです。いろんな鳥を参考にしてみます」

 

 東洋一の思いつきは薫には一つの指針になった。とりあえず、鳥の生態や、動作から受ける発想などを勘案して、型を作り出してみよう。

 なかなか取っ掛かりがなくて迷っていたのが、一つ、土台となるものを見つけた気がする。

 薫は高揚していた。本当に自分で呼吸を作り出す、そんなことができるなんて思ってもみなかった。 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 東洋一は呼吸を教えた後は、ほとんど薫の自学に任せた。

 薫が編み出した型を見て、隙があった場合に指摘する程度で、あとは本人のやるままにさせた。

 

 東洋一が言わずとも、薫は勉強熱心で、東洋一が持っていた風の呼吸についての代々の柱の残した資料を読みこみ、そこから派生した霞の呼吸や、他にも一代限りで消えてしまった派生呼吸についても調査して、自分の型に応用できないかと試行錯誤しているようだった。

 

 全集中の呼吸は教えてその通りにやればできるというものではない。

 できる者は一日でできてしまうが、できない者は日々、繰り返すしか修得する術はなかった。先天的な才能の差が如実に出てしまうのだ。

 実弥などは前者の典型であったが、そういう者は稀だ。

 

 その上で後者となってしまった者達に今度やってくる壁は、それを持続できるか、ということだった。

 ほとんど目に見えない成長を信じて、ある意味、単調な呼吸法を続けることは、別の意味での才能が必要だった。

 つまり、忍耐力、別の言い方をすれば、しつこさ、だ。

 

 こちらについてはすでに薫は折り紙付きだった。

 著しい成長速度ではなないにしても、薫は着実に進歩していった。

 

 しかし、東洋一はその姿を少々複雑な思いで見守ることになった。

 理由は―――――。

 

「手紙ィ。手紙ィィダゾィ……」

 バタバタと鴉が室内に作ってある止り木にとまった。

 鴉経由で送られてくる、手紙。送り主はもう確認するまでもない。

「………あの阿呆めが」

 

 薫と再会した後から、それまでは一度たりとしてなかった実弥からの手紙が届いた時、東洋一は驚いたものの、開封する前から内容についてはおよそ予想できた。

 読んでみれば、思った通り、薫の破門を要求するものだった。

 

 それからは、任務の間の暇な時間があれば書いて寄越すようになった。そのほとんどに東洋一は返事をしなかったのだが、とうとう堪忍袋の緒が切れて、再び実弥が訪れた時にはさすがに驚いた。

 しかも、薫に会うのを避けて、里乃の店で待ち構えていたのだ。

 

「なんじゃ、お前。こんなところで何しとるんだ?」

「あいつ、まだ、いるらしいじゃねぇかァ。いつになったら追い出す気だ?」

「入門を許した以上、本人が望むか、それ相応の不行状を起こさん限り、そうそう破門なんぞできるか」

「うっせぇ! 適当に理由作って、辞めさせろ!」

「阿呆か、お前は。だいたい暇なんか、わざわざそんなことのために来おって!」

「暇な訳あるか! どれだけあっちこっち走り回らされてると思ってる? 今からまた行くんだよ。いいか、この任務が終わるまでに破門させとけェ!」

 とんでもない捨て台詞を残して、去って行く馬鹿弟子を、東洋一は口を開けて見送った。

 

「随分と、気にかけてるようですねぇ……」

 里乃は銚子をつけながら、クスリと笑った。「お嬢さんも、ちょいとばかり面倒なのに行き当たったわねぇ」

 東洋一は猪口を呷って酒を飲み下すと、ふぅぅと溜息をついた。

「そんなに心配なんだったら、本人に直接言えばいいと言ってるのに、それは逃げよるんだ、あの阿呆は。フン! 男のクセして不甲斐ない」

 

「まぁ…先生のお弟子さんですから。そういったことには苦手でいらっしゃるんじゃないかしらねェ」

 チラリと見つめる目が言外の非難を含んでいる気がして、東洋一はすぐさま銚子から酒を注いでまたすぐに呷った。

 

「お嬢さんも憎からずは思っているようですけど………まぁ、まだ近所のお兄ちゃん、の域だわねぇ、アレは。なにせ自覚がないから」

「自覚?」

「自分が男に惚れられるくらい可愛い女だっていう、自覚。ああいうのが一番厄介。誰にでもやさしくするから、勘違いするのがいっぱい出てきちゃうでしょ?」

「…………」

 

 そう言われて思い返すと、実弥だけでなく、匡近からの手紙も増えた気がする。

 しかも、匡近の方は直接、薫宛に送ってくることもある。

 もっとも内容の方は、普段の任務のことだったり、洋食屋でオムライスを食べたとかいう、とりとめのないものばかりだ。

 

 いつだったか、その匡近からの手紙を読みながら、薫がクスクスといつまでも笑っていることがあった。

「なんじゃ、楽しそうだの」

「あ、先生。いえ……粂野さんからの手紙で、実弥さんがおはぎを買いに行ったら、直前で売り切れちゃって、それはもう、ものすごく落胆していたっていう話が面白くて……」

と、これまた実弥の話題で盛り上がるのだから、もう東洋一には訳がわからない。

 

「いいじゃないですか。それが『青春』ってやつでしょう?」

「セイシュ~ン?」

「青い、春ですよ、先生。夏目漱石くらい読んで下さいな」

「年寄りに最近の流行なんぞわからんわい」

「最近でもないですけど……」

 里乃は言いながら、空になった銚子を取り上げると、有無を言う暇すら与えずに台所へと持ち去っていった。

 

「…………」

 これでも、一応、鬼殺隊で俊敏を誇ったのだが、時間というもの、老いというものは、全てに等しく流れているのだと、つくづく思う。

 しょぼくれる東洋一に、里乃は笑った。

「お茶漬け、食べるでしょ? 先生」

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第七章 修練(二)

 いくつかの型が出来上がってくると、その型と全集中の呼吸を併せなければならない。

 東洋一(とよいち)はこれを『馴致調錬(じゅんちちょうれん)』と言った。

 文字通り、型と呼吸を馴染ませて、技とし錬成する。

「呼吸に集中したまま、型を使う。言うは簡単だがな、これがなかなかに不器用な者には難しいことなんだ」

 そう言われて、薫は自分が不器用なのだと気付いた。

 呼吸が出来ても、型が噛み合わない。型が出来ると、呼吸が遅れる。

 

 自分一人での練習においてもまだ不十分だというのに、東洋一を相手に立合をすれば、なおのこと乱れて、とてもまともに打ち合える状態にない。

 いっそのこと型だけのものであれば、まだ格好はつくのに……と思いかけると、実弥の言葉が脳裏に響く。

 

 ―――――剣技としてよく出来てても、そんなもん実戦じゃ役に立たねぇ。お前のは、町の剣術道場の護身術程度のもんだ。

 

 グッ、と奥歯を噛み締める。

 今度があるかは分からないが、次に対峙する事があれば、決してあんなことは言わせない。

 

 そう、心に決めたものの、なかなか技は身につかなかった。

 

 東洋一は技を出す時、実に悠々としていた。薫のような焦りもなく、自然とやっていた。

 それはもう風の呼吸の型が身に染み付いて、動作について考える必要がないからだ。だからこそ呼吸に集中出来るのだ。

 薫は新たな型を編み出しながら、それらに熟達せねばならない。

 

 とにかく、あきらめずにやり続けるしかなかった。

 自分に才能がないのはわかっている。だからこそ、人の二倍も三倍も、愚直に練習を繰り返すことしかできない。

 そうした鍛錬を重ねることで、昨日できなかったことが、次の日にはできるようになっている。それだけでも良しとすべきだろう。たとえわずかな成長であっても、自分にまったく芽がないわけではない。

 

 季節が流れて行った。

 秋に色づいた紅葉が落ちて、枯れ木のようになった木に雪が降り積もり、やがて雪解けとともに暖かな陽気の中、冬芽が瑞々しい緑色を帯びるようになった頃には、入門して一年が過ぎていた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

「出掛けるぞ、用意せい」

 そう言われて、当初、薫は東洋一だけの準備を始めていたのだが、「お前も行くんだぞ」と言われて、驚いた。

 初めてのことだった。目的地も、何をするのかも伝えられず、ただ泊まりの準備だけするように言われただけで、慌ただしく、薫は東洋一と共に東京方面へと向かう汽車に乗った。

 到着して連れてこられたのは、満開となった桃の花が咲き乱れる谷間の、ある集落だった。

 

 まるで桃源郷かと思える美しさに薫が見惚れていると、不意に殺気が降ってくるのを感じた。

 考えるよりも早く、身体が動く。

 飛び退(すさ)ると、さっきまでいた場所に木刀が打ち込まれる。

 木刀を持っているのは、短く断髪した、冷たい目の、自分と同じくらいの年の少年だ。

 何者か? と問う暇もなく、少年は土を踏み込んで薫と間合いを詰めてくる。

 

 薫は奥歯を噛みしめると、臨戦態勢になった。

 鋭い突きを宙返りして躱しつつ、その木刀を蹴り上げる。少年に隙ができたのを見逃さずに、脇に手刀を打ち込むと、ゴホっと少年が噎せた。

 だが、向こうもすぐに刀を持ち直して振ってくる。

 

 また飛び退って避けた薫に「これ使え」と、誰かの声が響き、太陽の光の先に木刀が落ちてきた。

 眩しさに目を眇めながらも、木刀を受け取ると同時に、相手が振り下ろしてきた斬撃を受け止めた。

 

 ガツンッ! と鈍い音がして、二つの木刀がキシキシと鳴る。

 フゥゥ……と、相手の少年が息を深く吸い出した。

 

 ―――――呼吸?!

 

 薫はすぐさま力を抜いて、相手の力をいなすと、くるりと後方へ二回転する。そのまま自分もまた、深く息を吸って呼吸を整える。

 

 雷の呼吸 肆ノ型 遠雷

 

 少年から斬撃が放たれると同時に、薫は地面がめり込むほどに踏み込んだかと思うと、高く跳躍した。

 

 鳥の呼吸 壱ノ型 鷹隼空斬(ようしゅんくうざん)

 

 二つの攻撃が反発しあって、その場に異様な空気の流れが起こる。

 桃の花びらが無数に散った。

 

「そこまでぃ!」

 大音声が響き渡る。

 薫は思わず耳を押さえた。

 トコトコと、派手な黄色の羽織を着た、東洋一と同じ片足が義足の老人が、少年と薫の間に立った。

 

(がく)、お前は客人の用意をせぇ」

 老人に指図され、少年は今の衝撃でなのか、手の甲から血を流していたが、押さえつけると、一瞬薫をジロリと睨み、その場から立ち去った。

 

 老人は薫に向き直ると、ジロジロと無遠慮な眼差しで見てくる。

 薫はキッと睨みつけた。

「何でしょうか?」

「ほぅ……儂を睨みつけよるわ。兄弟子と同じじゃな」

 老人は面白そうにニヤリと笑い、後ろを振り返った。そこには東洋一が腕を組んで立っている。

 

「お前の弟子はなかなか不遜なのが多いの」

「そのようです」

 東洋一がいつもどおりに飄々として答えると、「お前の弟子らしいわ」と老人は今度はガハハハと大笑いした。

 意味がわからなかった。今の立合は東洋一も了承の上でのことのようだが、何の説明も受けていない。

 

 薫が困りきった表情で立ち竦んでいると、老人が急に持っていた杖を薫に向かって突き出してきた。

 あわてて避けると、二度、三度と続けざまに突いてくる。

 義足だというのに、その俊敏な動き。只者ではない。

 三度目まではギリギリなんとか避けられたが、四度目の時は急に凄まじい早さとなって薫に迫り、気がつけば目の前に来ていた。

 確実にやられる―――――と、思ったら、コツンと軽く頭を打たれた。

 

「お見事」

 東洋一がパン、パンとのんびり手を打つと、老人はケッと照れるように笑った。

「先生! どういう事か説明して下さい」

 いい加減、訳が分からず薫が問いただすと、老人は薫の肩をポンと叩いた。

 

「よく来たの。儂は桑島慈悟郎(くわしまじごろう)という。雷の呼吸の育手じゃ」

「え?」

「元鳴柱様だ。薫、ちゃんとご挨拶せいよ。失礼のないようにな」

 東洋一は相変わらず呑気な口調で言う。

 『柱』という言葉を聞いた途端、薫は青ざめた。すぐその場に膝をついて、深くお辞儀する。

「初めてお目にかかります。篠宮東洋一の門下で修習いたしております森野辺薫と申します。先だっての数々のご無礼、お赦し下さい」

 

 桑島老人はまたガハハハと大笑いした。

「前の坊主よりは礼儀はちゃんとしとるわ。東洋一が女の弟子なんぞとったというから、どんなもんかと思っておったが、なかなか出来るようじゃな」

「お墨付きをいただけますか」

 東洋一が言うと、桑島老人はまた「なーにを」と肩をすくめた。

 

「お主がえぇと思っておるなら、大丈夫だろうが。儂にわざわざ見せに来おって。弟子自慢しにくるヤツなんぞ、普通おらんぞ」

「御老体の慧眼をお借りしてるんです」

「老体って何じゃ? お前、儂と大して変わらんクセに」

「五歳も離れてますよ」

「たった五歳だろうが!」

 

「…………」

 薫は老人たちのとてもつまらないやり取りを、どういう気持で見ればいいのか戸惑っていた。

 とりあえず、この状況を分析する必要がある。

 

 どうやら東洋一とこの元鳴柱の老人…桑島慈悟郎氏は知り合い、おそらくは昔、鬼殺隊で一緒に仕事をしていたのだろう。

 東洋一は柱でないのだが、あるいは桑島老人が柱になる前に知り合っていたのかもしれない。その上で彼らの間には何かしらの信頼関係があり、育手同士となった今も連絡を取り合っているのだろう。

 

 で、今回。

 薫という弟子の状態を見せるために、東洋一はここを訪れた……と、いうことだろうか?

 さっき、桑島老人が「兄弟子と同じ」と言っていたのを考えても、薫が初めてのことではなく、東洋一は弟子達の技倆の習熟具合を己だけの判断でなく、桑島老人にも見てもらっているのだろう…。

 

 考えていると、桑島老人に声をかけられた。

「しかし、なんだってこの男を育手に選んだんじゃ? 花なり水なり、風の系統なら霞もおる。紹介してもらえたろうに」

「先生が強いと思ったので」

 本当にそれしかなかった。直感というしかない。

 あの、両親を殺された現場で東洋一の技を見た時に、その強さを目の当たりにして、他の育手に教えてもらうことなど考えもできなかった。

 

 桑島老人はガハハハと笑って、薫の背中をベシベシ叩いた。

「大したもんじゃ、お嬢さん。アンタ、なかなか人を見る目がある」

 それは、東洋一が柱であったという人に認められるほどに強かったということなのか…? と訊こうとしたが、

「さぁ、御大。前回の続きでもしますかな」

と、東洋一が言うと、桑島老人は「よし! 今度は勝ち逃げさせんぞ!」と、二人は将棋の話を始めながら、家へと向かって行った。

 

 薫は溜息をつくと、桃の花を観賞しながらゆっくりと後について行った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第七章 修練(三)

 どうやら、薫への評定は最初のあれで終わったらしかった。

 東洋一(とよいち)と桑島老人は家に帰るなり将棋を始め、夕食も将棋をさしながら食べて、珍しく晩酌もせずに二人で延々と額をつき合わせている。

 

 薫は手持ち無沙汰になって、桑島老人の了解を得た上で、道場へと足を運んだ。

 さっき、薫の相手をしてくれた弟子が素振りをしている。

 あの後、(がく)、と紹介された。名字がないのは孤児かと想像したが、特に桑島老人が説明しなかったので、それ以上聞かなかった。

 

 薫が入ってくると、岳は眉間に皺を寄せた。

「何の用だ?」

「……桑島先生のご了解は得ました。稽古させていただこうと」

 薫が壁にかかった木刀を取ろうとすると、岳はいきなり妙なことを聞いてきた。

 

「………お前の師匠は柱じゃないんだろ?」

 その言い方に、どことなく侮蔑が含まれているのを感じて、薫は眉をひそめた。

「それがどうかしましたか?」

 

「可哀想にな」

「なにがです?」

「柱となった人間から教えを乞うことができなければ、己が柱になるなんぞ無理な話だ。まぁ、お前は風の呼吸すら極めることができずに、逃げたんだから今更だろうが」

 完璧に嫌味を言われていることを理解して、薫はすぅと面に氷を張り付かせた。

 

「派生呼吸は己の身体(からだ)により合ったものに、呼吸と型を変えていってるだけです。逃げてるわけではありません」

「どうとでも言うさ。基本の呼吸が修得できないヤツは」

 

 呼吸には岩・風・水・炎・雷の五つの基本となる流派があり、そこからいくつもの派生呼吸が生まれている。

 どうもこの弟子は基本の呼吸に囚われすぎて、まるでそれが至高のものであり、派生した呼吸などは格下のものと位置づけているらしい。

 

 馬鹿馬鹿しい。

 

「そういう考えは、ご自分の首を締めるだけだと思いますよ。現に派生した呼吸から柱になられる方も珍しくないのに」

 フン、と岳はせせら笑った。

「まぁ、風なんて、もはや滅びていくしかない呼吸だものな。派生させでもしなければ、柱も生まれないのだろうさ」

「…………風柱は復活します」

 薫が言うと、岳はクックッと笑った。

 

「柱に育てられた継子もいないのにか? 知らんなら教えてやろう。今、基本の呼吸で柱として残ってるのは岩・水・炎だけだ。風柱は空位になって久しい。柱だった風の呼吸の育手もいない。柱になれるヤツなんぞいないだろうよ。このまま風の呼吸は滅びていくんだ」

「それで言うなら、鳴柱だって現状は空位ではないですか」

 待っていましたとばかりに、岳は高慢な表情を浮かべた。

「俺の先生は鳴柱だったんだ。俺は継子も同然だ。お前のとこの、有象無象の鬼殺隊士だった育手とは違う」

 

 薫は木刀を手に取った。

「あなたがご自分の師匠のことを、称賛するのを咎める気はありませんが」

 言いながら、岳の前で構えの態勢をとる。

「私の先生を侮辱するのなら、ごちゃごちゃとつまらぬ御託を並べるよりも、こちらで決着をつけた方が早いと思いますよ」

 

「……フン。女ごときが」

 岳が鼻で笑った時には、薫の切っ先が喉元を掠めていた。

 あわてて飛び退り、木刀を構える岳に、薫は目を細めた。

「言っておきますが、今のはあえて、わざと、ギリギリを狙ったんですよ。次は確実に当てますから」

巫山戯(フザけ)るなよ、このクソ(アマ)!」

 

 言うなり、岳は大きく踏み込んで上段から振り下ろしてくる。

 薫は素早く横へといなすと、そのまま岳の右脇に打ち込みながら、背後へと回り込む。

 岳が振り向きざま、木刀を振り回すのを躱し、ガラ空きになった胸へと突きを入れる。

 

「グッ……!!」

 呻きながらも、岳は踏みとどまった。

 ギリと歯噛みし、低く腰を落とし、木刀を脇に構えると、スゥゥと全集中の呼吸を始めた。

 

 ―――――来る!

 

 薫が防御姿勢を取ると同時。

 

 雷の呼吸 弐ノ型 稲魂

 

 凄まじい早さで岳が迫り、一時(いちどき)に腕と腹を打たれた。跳躍して躱すが、頭を掠め、背中にも打突が入った。

 

 受け身をとって床に転がった薫に、トドメを刺そうと岳が木刀を振り下ろす。

 薫は岳の足を思い切り蹴りつけて、すぐさま起き上がると、くるりと後方に二回転して間合いをとった。

 

 タラリと血が側頭部から流れてきた。

 

 さすがに雷の呼吸というだけあって、豪速の剣撃。

 自分の作り上げた呼吸など、とても及ぶものでない。まだ、足りない。もっと強い、もっと効果的な戦果を上げられるような型にしなくては……。

 この男の言うことを鵜呑みにするわけではないが、やはり基本の呼吸にはそうなるだけの技と知の蓄積がある。

 

 再び岳が呼吸を整えていると、聞き覚えのある大音声が道場に鳴り響いた。

「そこまでじゃあっ!」

 ハッと我に返ると、東洋一と桑島老人が入り口に立っていた。

 おそらくは岳の呼吸による技の発動で、道場で不穏な立合稽古が行われていることを察したのだろう。

 

「ったく……道場の中で呼吸の技を使うヤツがおるか。壊れたらお前が直せよ、岳!」

 師匠に怒られ、岳はバツが悪そうに黙り込む。

「すまんな、お嬢さん。こやつは頭に血が昇ると加減を知らんのだ」

 

「いえ……岳さんは悪くありません。私が、先に手を出しました」

 桑島老人は目を丸くして薫を見つめた。

 東洋一は眉根を寄せ、薫を叱責する。

「どういう訳かは知らんが、他人様の道場で私闘など、もってのほかだぞ」

「申し訳ありません」

「まぁ、いぃいぃ。とりあえず、二人共鉾をおさめて、今日の修練は終了じゃ」 

 桑島老人はそれ以上の経緯を尋ねることはせず、あえて有耶無耶に収めた。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 

 翌日に薫と東洋一は桑島老人に別れを告げて帰った。

「お嬢さん、雷のあの技はな、五つ連続で打ち込むヤツでな。一つ、躱せただけ大したモンじゃぞ。精進せえよ」

 

 元鳴柱は昨夜の岳との立合を見て、冷静に薫の能力を分析していたらしい。

 薫は気付いてなかったが、あの早さに多少なりと反応できていたのなら、自分のこれまでの修練も無駄でなかったということだ。

 

 笑って桑島老人に礼を言い、その後ろに立っていた岳にも一応頭を下げると、薫は踵を返して東洋一の後を追っていった。

 

 汽車の中で東洋一に昨夜の岳との喧嘩の事情を訊かれて話すと、東洋一は「そんな事か」と笑った。

「笑い事じゃありません。先生を侮辱するような事を」

「侮辱というか、実際その通りだしなぁ」

「柱に教えてもらわないと、柱になれないなんて、そんなの聞いたことありません」

「まぁ……絶対にそうだというのは極端だが、少なくとも柱を経験した人間の太刀筋なり、技なりを直接教えてもらうというのは、やはり幾分か得ではあるのだろうな」

「それにしたって……派生呼吸のことも馬鹿にしてましたし、あの人はどうも考え方が偏りすぎです。どうして鳴柱様があんな人を弟子にしているのか不思議です」

「………あの人も、なかなか人がいいのでな」

 東洋一は何か昔のことでも思い出しているのか、そう言ってその話題を打ち切った。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 

 後日、思うところあって東洋一は、桑島老人にこの顛末を手紙で書き送り、僭越ながら……と書き添えて、

 

『私の見るところ、その少年は性狷介(けんかい)にして、虎狼の心あり。

 いずれ貴方に危害を及ぼす虞れがあるに思います。

 才があるゆえに、より危惧します。

 御大の思慮深さを信じておりますが、どうぞ心に留めおいていただけますよう、お願い致します』

 

と、記した。

 

 何かの虫のしらせであろうか。

 

 自分でもどうしてこんな出過ぎたことを書いてしまったのかと思ったが、なぜだか筆が止まらなかった。

 受け取った桑島老人は、重ねて弟子の不調法を詫びてはきたが、それ以外には返事はなかった。

 

 

 後年になって、その東洋一の不安が的中するだろうことは、誰知ることもない。

 

 

 

<つづく>

 

 

 







◆獪岳について
 獪岳の『獪』は老獪、狡獪などあまりいい意味のものでないので、鬼になってからならわかるのですが、人間でいた間に名乗っていた名としてはどうしても「?」がつきます。
 まぁ、そこの考え方は色々あっていいと思いますが。
 この小説の中では「岳」という名前でやらせてもらいました。



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第七章 修練(四)

 桑島老人を訪ねてから再び時が経ち、盛夏を過ぎて、蝉の鳴き声も途絶え始めた頃、久々にやって来たのは粂野匡近だった。

 

 

「……いや、大したもんだ。よくここまで」

 薫との立合が終わると、匡近は素直に脱帽した。

 

「こちらこそ。隊務の間にわざわざ来ていただいてありがとうございます」

 その表情には、自分がやってきたことへの、ほのかな自信が見て取れた。

 

「大したもんだろう。ここまで逃げ回って」

 東洋一(とよいち)が横合いから口を出す。

 

「逃げ回ってるんじゃなくて、避けてるんです、師匠」

 匡近はすぐに訂正した。

 

 そう。以前のように、無理に打ち合おうとしてこなくなった。

 むしろ避けて、いなして、相手の疲弊を待って、隙を誘発させることで、一撃必殺の剣となるように工夫されている。

 これは薫のように非力な場合だと、いたずらに剣を振り回すことは、それだけで疲れてしまう。

 故に、あくまで振るう時には、相手を確実に仕留めることを目的としているのだ。

 

「本当によくやったな」

 匡近が心から称賛すると、薫は破顔して、少し照れくさそうに頬を染めた。

 思わず見とれていると、東洋一が「あの阿呆はどうした?」と、耳をほじりながら訊いてくる。

 

「実弥ですか? あいつなら今は九州の方まで行ってますよ」

「そんな遠くに行くんですか?」

「うん。今は柱も少ないし、戦績のいい人間はそれだけ駆り出されるみたいで」

「ホゥ……」

 東洋一の口の端が少しにやけた。

 不肖の弟子と常日頃言いつつも、実のところ、東洋一にとって一番期待している弟子が実弥であることは、明白だった。

 それは薫も、匡近も知っている。

 

「忙しいわりに、手紙を書く暇だけはあるんじゃな、あの阿呆は」

「手紙?」

 匡近は耳を疑った。実弥が筆を持っているところなど、見たことがない。

 

「しょっちゅう来よるぞ。いつも決まって同じことばかり書いておるが」

「同じこと? 何て言ってきてるんです?」

「こいつを」

と、東洋一は薫を指差す。「破門せぇ、とな」

 

 ああ、と匡近は少しあきれたように頷いた。

 汽車の中で実弥が「行かせねぇ」と言ったことを思い出す。なるほど、どうにか最終選別に行かせないようにしているわけだ。それにしても―――――

 

「手紙でそんなこと言うって……師匠が聞くはずないのに」

 匡近はハァァと呆れきった吐息をついた。

 

「お前さん、あいつに会うことがあったら言っておいてくれ。何枚手紙くれようが、儂から破門にすることはない、とな。どうしても薫に鬼殺隊に入ってほしくなければ、自分で説得せぇ、と」

 東洋一の言葉を聞いて、薫はニッコリ笑いながら、

「説得されても、無駄ですけどね」

と、即座に答えた。

 

 ハハハと匡近は乾いた笑みを浮かべた。

 どうしていつも自分はこういう役回りなんだろうか……。

 

 

■□■□■□■□■□■■□■□■□■□■□■□■□■□

 

 

 次の朝、早くに目覚めた匡近が、匂いに誘われて台所に行くと、薫が忙しく立ち回っていた。前掛けをして、青菜を切っている姿は、ただの若奥さんにしか見えない。

 本当にこれが昨日、立合稽古していた剣士なのかと疑いたくなる。

 

 匡近に気付くと、薫は「おはようございます」と元気に挨拶した。

「おはよう。なんか手伝おうか?」

「あ……それじゃあ、すいませんが薪を割ってもらっておいていいですか? 先生、腰を痛めたみたいで、辛そうなので」

「わかった」

 気軽に請け負って、匡近が裏庭で薪を割っていると、東洋一が寝ぼけ眼で声をかけてくる。

 

「なんじゃ、お前さん。薪割りしてくれてるのか?」

「薫に頼まれまして」

「ほぅほぅ。使えるモンは兄弟子でも師匠でも使え……ってな。あいつは差配が上手(うま)いのぉ」

「師匠が腰を痛めてるからって、心配して言ってるんですよ」

「なんだ、気付かれとったか。いや、この前、蔵で脚立から足を滑らせてな」

「そういうことは、それこそ弟子を使ってください」

 匡近が呆れたように言うと、東洋一は肩をすくめた。

 

 そういえば………と、匡近はちょうどいい機会とばかりに、東洋一に尋ねた。

「薫は、今年の最終選別を受けるんですか?」

 東洋一は袂から煙草を取り出して、火をつけた。

 ふぅ、と目覚めの一服を味わいながら、「まぁそうなるかの」と曖昧な返事をする。

 

 匡近はしばらく考え込んだ。東洋一が不思議そうに仰ぎ見てくる。

「なんじゃ?」

「あ、いや…実弥がどうするのかなぁって」

「どうするも何も。昨日も言うとるだろうが。説得するなら自分でせぇと。お前も言うといてくれよ」

「うーん……」

 

 実弥の性格からして、説得なんてものは一番苦手な方法だろう。だから未だに東洋一に手紙で「辞めさせろ」一辺倒なのだ。

 だいたい、薫を目の前にして、まともに話せるのかどうかがまず危うい。

 

 このまま堂々巡りして言い合っている内に薫は藤襲山へと行ってしまう。どうにかして諦めさせるなら今しかないのだろうが、自分には手立てがない……。

 

 おそらく実弥同様、匡近もまた焦っていたのだろう。

 この前からボンヤリと考えていたことが、つい口をついて出てきてしまった。

 

「師匠、この前に来た時に薫が俺達に弁当作ってくれたの知ってます?」

「はぁ? 知らん」

「作ってくれたんです。それがもう美味しくて。特に玉子焼きが絶品でしたね。あ、つくねもうまかった……」

「なんの話だ?」

「いや。すいません。それはいいんです。えっと、その弁当におはぎが入ってたんですよ」

「それで?」

「おはぎですよ、実弥の好物の」

「なんじゃ、あいつ。甘党なんか。それで酒飲まんのか」

 酒好きの東洋一にとって、実弥があまり呑まないことだけは、唯一残念なことらしい。

 

「そういうことじゃなくて。お弁当におはぎが入ってたってことは、薫が入れたってことなんです。実弥の好物ってわかってて」

「だからなんだと言うんだ? まだるっこしい。薫は実弥の昔馴染なんだから、好物くらい知っとるだろうが」

「まぁ、そりゃそうなんですけど」

「まさか、お前さん。薫が実弥を好いとるとでも言うんじゃなかろうな?」

 東洋一は眉を寄せ、ズバリと指摘する。

 

 匡近はポリポリと頭を掻いた。

「いや、まぁ……わかんないんですけど」

 だがこの前来た時のいくつかの断片を思い出す度、薫からの手紙を読み返す度、匡近はだんだんとその推測が当たっている気がしている。

 

 もし、そうなら――――?

 事は簡単だ。実弥が薫を貰ってやればいい。

 正直なところ、想像であってもキリリと胸は痛んだ。でも、そうなれば薫にとっても幸せだし、実弥の望み通り、きっと薫は鬼殺隊に入ることは諦めるだろう。

 

 ―――――しかし匡近が知らぬ間に、巨大な関門ができていたらしい。

 

「言うておくがな。薫がもし、万が一、鬼殺隊に入らず嫁に行くとしてもな、お前らみたいなヤクザな商売のヤツにやるつもりはない!」

 あまりにもキッパリと言い切られて、匡近は一瞬圧倒されたが、徐々に理不尽なことを言われていることに気付いた。

 

「いや、師匠。どういう事です? ヤクザな商売って」

「どうもこうもない。薫を嫁にやるんなら、しっかりちゃんとまともな男を見繕ってやるわ。藤森さんに頼めばいくらでも紹介してもらえるんじゃ」

 それは匡近とて考えたことなので、わからないではないが……それだと、匡近も実弥もまともでないかのような言われようではないか。

 

「あの、師匠。俺らのことどう見てるんですか?」

「お前らは鬼殺隊士としては優秀だが、薫はやれん」

「やれん……って、師匠が決めることじゃないでしょう」

「うるさい。両親を亡くしてウチに来た以上、そういうことは儂の許可がいるんじゃ!」

 東洋一の中で薫は、いつの間にかすっかり娘、いや孫娘のような存在になっているのだろうか。

 

 ヒョイ、と薫が廊下から顔を出した。

「お食事の準備できましたよ。先生、顔を洗ってきて下さいね」

 朝は忙しいらしく、すぐに立ち去っていく。

 

 東洋一は井戸の方へと歩きながら、振り返って釘を刺した。

「あの阿呆にも言うておけよ。お前らに薫はやらん」

 

 匡近は何気なく言ってしまったことを後悔した。

 なんだかかえって面倒なことになった気がする…………。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第七章 修練(五)

▼今回、残酷描写があります。



 匡近がまた薫の弁当片手に帰っていってから、一月(ひとつき)を過ぎた頃、薫は山の中にいた。

 

 わざわざ県境を越えてまで手入れの行き届かなくなった、鬱蒼とした山の中に入っていったのは、近所の山々では既に慣れてしまい、実戦的な修行ができなくなってきたからだった。

 いよいよ最終選別が来月に迫り、東洋一(とよいち)から行くことの許しをもらっているとはいえ、ここでより修練を重ねなければ、藤襲山で生き残れないだろう。

 

 東洋一が大事にしている、弟子の遺品である日輪刀を貸し与えたのも、そうした実戦的な修行を行うことを考えてのことだった。

 鬼殺隊士とならない限りは自分の刀は持てない。

 だが、藤襲山には鬼がおり、鬼は日輪刀でしか倒せない。

 そのため、最終選別に向かう弟子は皆、師匠のであったり、兄弟子達の日輪刀を借り受けて向かう。

 薫もまた持っていくにあたって、師匠の持っている中でも最も軽めの刀を借りたのだが、それでも実際に振り回すには重かった。今のうちに慣れておく必要がある。

 

 三日間、この森に籠り、ひたすら体力の向上を目指した。

 技の修練ももちろん大事だったが、薫に足りないのは体力だった。どうしても途中で疲弊する。

 実の父は幼い頃、病がちだったというから、あるいは自分もまた、その腺病質な体質を多少なりと引き継いでいるのかもしれない。

 

 三日目の夜。消えかけの焚き火の前でウトウトしていると、いきなりピリピリとひりつくような空気を感じてハッと目覚めると同時に、パンと乾いた音が響いた。

 銃声だ。

 音のした方を探っていると、またパンと鳴り響く。次いで、「キャーッ」という甲高い悲鳴。

 

 刀を持って、声が聞こえてきた方へと走る。

 クマザサの茂みを突っ切って走ると、いきなり開けた空間に出た。

 そこには既に誰も住む者のなくなった朽ちかけたお堂があった。

 

 破れた障子ごしに、一瞬、拳銃を構える男の影が映っていたが、すぐに闇に消えた。

 お堂へと一歩踏み出したその時に、破れた障子を倒して女が現れる。髪を乱し、腰砕けになって、這って階段を降りてくる。

 暗闇の中で、パン! と、また銃声がしたが、少しくぐもって聞こえた。銃口を何かが塞いだのだろうか。

「うああァァァ!!!!!」

 男の絶叫が聞こえた。

 

 薫が駆け寄ると、女は一瞬、ヒッと固まった。

「大丈夫ですか?」

 薫がなるべく落ち着かせるように、柔らかく声をかけると、

「あ、あ……助けて! 助けて下さい!」

と、女は必死の形相で叫んだ。「ばっ、化け物が! いきなりっ!」

「化け物……?」

 

 説明を聞く前に、『それ』は半分腐っている戸をギギギと開けて出てきた。

 ズルズルと足を持って男を引き摺り、もう片方の手にはおそらく男の腕だろう……モッシャモッシャと食べている。滴る血が足についても、まったく気にしていない。

 

「おぉ……増えてるじゃないか。食べ物が」

 ニイイィと笑むと、醜悪な臭いが辺りに満ちた。

 月が雲から出てきて、地上に光りを落とした。

 

『それ』の姿がくっきりと見える。

 

 紅の瞳、額から伸びた二本の角、涎をたらした口からは血塗られた牙が、唇を裂いて出ている。

 薫の脳裏に、父を貪り食う鬼の姿が浮かんだ。

「…………」

 カアッと、全身が熱で沸騰する。今こそ、自分は鬼を倒せる。倒さねばならない。

 

 柄を固く握りしめ、構える。

 その姿を見て、鬼の顔が引き攣った。

「きィさァまァ……鬼狩りかアァァ?」

「違う」

 鬼を見据えながら、低い声で告げる。「だが、お前は殺す」

 踏み込むと同時に抜刀し、右薙ぎに振るうと、足を持った鬼の腕がボトリと落ちた。

 

 キィィイィィイィィィ!

 

 悲鳴のような耳障りな音が鼓膜を痺れさせる。

 鬼の胸が一文字に切り裂かれてパックリ開いていた。だが、ゆっくりとその傷口は肉が盛り上がり、やがて何の痕も残さず再生された。

 

「ヘヘヘヘ、なんだァ。鬼狩りじゃァねェのかアァ。ハハハハ、だったら怖くねエェ」

 鬼はヘラヘラと笑うと、飛び上がり、薫に襲いかかった。

 さっき切断した腕がいつの間にか再生し、頭を掻き切ろうと爪が伸びる。

 

 薫は後ろへと二回転し、避けた。すぐにまた鬼は飛び上がり、今度は逃げようとしていた女を狙って、手を伸ばす。薫がその手を切り落とすと、またキィィイイと不快な音が鼓膜を引っ掻く。

 

 薫は女の前に立つと、鬼と睨み合いながら、小さな声で呼びかけた。

「後ろへ行って下さい。男の人が生きていたら手当を」

 女がガクガクと震えながらも、倒れた男の傍へと地面を這っていく。

 

 鬼は地面に落ちていた男の腕を掴みとると噛み千切った。

 肉を喰む音がいやらしく響く。

 

 薫はグッと柄を握りしめ、細く長く、息を吸い始めた。

 

 横隔膜を大きく膨らませ、酸素を肺の奥深く、無数の肺胞に取り込む。

 血を湧き立たせ、筋肉を増幅させる。

 周囲の全てを知覚しながら、五感を尖鋭化させる。

 

 鬼が腕を投げ棄てて、再び薫に向かってくると同時に、踏み込んで上段に振りかぶった。

 

 鳥の呼吸 参ノ型 飛燕之鋒(ひえんのほう)

 

 袈裟懸けに振り下ろしたその刀を途中で捻り、切り上げて、鬼の首を掬うように斬る。

 

 キィィヤアァァアァァ!

 

 鬼の断末魔の悲鳴が夜の森に響き渡った。バサバサと鳥が木々の間を逃げ惑う。

 ゴロリ、と地面に転がった鬼の首を、薫は冷たく見据えた。

 紅い瞳は急速に色を失い、黄色く濁っていく。焦げた肉の臭いと共に、その身体は灰燼となって消えていった。

 

 薫は血を払うと刀を鞘に収め、すぐに女と男の方へと駆け寄った。

「コウジさん、コウジさんっ」

 女は男の一つだけになった手を頬に当てながら、何度も何度も呼びかけていた。

 男はもはや虫の息だった。目を開いてはいるが、女の姿が見えているのかはわからない。

 

「お……嬢……」

 掠れた声で呼びかけた。

 女が息をひそめて、じぃっと男を見つめた。

「すい……ま…せ………みせ……た……」

 すべての言葉を言い終える前に、男は事切れた。

 

 女はしばらく呆然として、死体となった男を見つめていた。やがてポロポロと涙がこぼれ、手の中に包んでいた男の冷たくなっていく手をギュッと握りしめた。

 

 薫は忸怩たる思いで黙祷した。

 このお堂の存在はすでに昨日の段階で知っていた。その時には人はおらず、特に気にもせず通り過ぎたのだ。

 もし、あの時にお堂の中をよく調べていたら? 

 

 この鬼はここを根城にして、時折訪れる旅人や、休憩に訪れた猟師などを食料としていたのかもしれない。確証はないが、外から扉を破って入ってきた形跡がない以上、鬼が中で人が来るのを待ち構えていたと考えた方がよさそうだ。

 

 目の前には片腕となった男の死体がある。

 自分が昨日の内に鬼を殺していれば、この人は死なずに済んだのに……。

 

 ピィと短く口笛を鳴らすと、鴉が舞い降りてくる。東洋一の鎹鴉。念の為に連れて行くように言われていた。

 懐から矢立と紙を取り出し、鬼に遭遇したこと、死傷者が出たことを記して、鴉に手紙を託した。

 

 これで東洋一の方で何かと手配してくれるだろう。薫が両親を失った時に、知らぬ間に処理してくれた『隠』と呼ばれる部隊が来るに違いない。

 それまでの間、できればお堂の中で寒さを凌いだ方が良いのだろうが、女が男の傍から離れるわけもない。

 

 薫は枝を拾い集めて、焚き火をした。パチパチと木の爆ぜる音が、シンとした森の夜に響く。

「……どうすればいいんでしょう?」

 不意に女はつぶやいた。

 薫に言っているのか、それとも自分自身に問うているのか。呆と見つめる視線の先は闇で、何も映っていない。

 

「どうして、ここに?」

 薫が問いかけると、女はポツリポツリと経緯を話し始めた。

 

 彼らは親に結婚を反対されて駆け落ちしたのだという。男の郷里で、慎ましやかな、幸せな生活を送ることを夢見ていた。

 夜半に疲れてあのお堂で一休みしたところを、鬼が現れ、男は隠し持っていたピストルで鬼を撃ったが、まったく歯が立たず、あっという間に腕をもぎ切られた。

 恐怖に固まる女を、男は蹴って外へと逃してくれたらしい。

 

 薫は黙って女の話すに任せながらも、駆け落ちしたという彼らに対して反射的に苦い思いが湧いた。

 自分の実の父母もまた、駆け落ちし、その間に自分は生まれた。だが、物心つく前に父は亡くなり、母は幼い記憶の中でいつも寂しそうで苦しそうで、幸せには見えなかった。

 

 自分達の熱情だけで将来(さき)を急ぎ、誰にも祝福されぬ結婚など、いつか潰えるものでなかろうか…?

 それでも二人でいたいと願う、その狂ったような互いへの信奉が薫には怖かった。

 まるで波濤に呑まれるかのような、あるいは底なし沼に沈みゆくような、覚束ない、得体の知れぬ心境だ。

 

 最後に彼女は抑揚のない声で言った。

「私には許婚者(いいなずけ)がいるんです。このまま帰れば、私はきっとあの男と結婚させられるのでしょう……」

 空虚な目で見つめる先には、絶望しかないようだった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 夜が明けると隠の人々がやって来て、女を保護した。

 男の死体はその場に埋められ、女は近くに咲いていた野菊を供えて手を合わすと、隠と共に去って行った。

 

 このまま実家に帰るしか、彼女に選択肢はなかった。

 悄然と、何の希望も見いだせず歩く彼女の横顔を見て、薫はとても命を救ったのだと喜ぶ気にはなれなかった。

 

 家に帰り、意に染まぬ結婚を強いられて………。

 

 その気持ちはかつて自分も経験していたことだ。自分は嫌と言うこともできず、気を失うまで自らの気持ちに気付くこともできなかった。それでももし、養父母が生きていれば、おそらく望まれるままに結婚していただろう。

 

 ―――――母のようには……なりたくない。

 

 自分には関係のない他人の事なのに、ひどく重苦しい気分がいつまでも付き纏った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第八章 前夜(一)

 東洋一(とよいち)は薫から刀を受け取ると、その銀色の刃をまじまじと見つめた。刃こぼれもなく、美しい刃紋が脂に汚れてもいない。

 

「……まさか、藤襲山に行く前に鬼を斬るとはな」

 その声音はあきれているようにも、感心しているようにもとれた。

 

「とうとう、行くしかなくなったなぁ。お前さんを、行かせたくはなかったんだが……」

「なにを仰言ってるんですか。そもそも行く許可は頂いてましたでしょう?」

「まぁ、そうなんだが。いよいよもって、確定したな、と」

 東洋一は少し残念そうに言って、酒を呷った。

 

「今回はたまたま鬼を殺すことはできましたが、藤襲山でも同じように行くとは限りません。一度くらいの成功でほだされることのないよう、気を引き締めて参ります」

「やれやれ。そういうことは普通、師匠が弟子に言うんだぞ。お前さんに言われたら、儂の立つ瀬がないわ」

 薫は微笑んで、東洋一の猪口に酒を注いだ。

 

「これで…最終選別を突破して、鬼殺隊の一員になれたら、実弥さんも認めてくださるでしょうか…?」

 相変わらず、実弥から薫の破門要求の手紙は続いていた。

 匡近に言伝(ことづて)たというのに、未だに薫本人を説得しようとする気はないようだった。

 

「私に……会いたくないのでしょうね」

 薫はがポツリとつぶやくと、東洋一はポリポリと首の裏を掻いた。

「会いたくないというのとは、ちと違う気もするが……まぁ、要するにあやつの覚悟が定まっておらんだけのことだろう」

「覚悟? って……なんですか?」

「なんですか………か」

 東洋一は独りごちて、酒を一舐めすると、まじまじと薫を見つめた。

 匡近の言葉が正しいのだとして、薫にその気があった場合、考えねばならないのだろうか……あまり考えたくないが。

 

「ありていに聞くがの、薫。お前さん、実弥の事はどう思っとるんだ?」

「はい?」

「男として見とるんか?」

「え? なんですか、それ」

 東洋一は「なるほど」とつぶやいて、酒を呷った。

 

 この一年で随分と大人びた――――とはいえ、まだまだ十五の子供でしかない。

 実弥に対する好意は持っているだろうが、それがどういう種類のものなのかは、おそらく本人すらもわかってはいないのだろう。

 まして唐変木の東洋一に女心などわかろうはずもない。

 

 実弥の方の気持ちは同じ男としてある程度推量できるとしても、それすらも決めつけることはできない。あるいは以前に薫の言っていたように、妹の友達というなんとも中途半端な存在の範疇でしかないのかもしれない。

 

 長い吐息をつくと、東洋一は銚子に残った最後の一滴を仰いだ。

「頂戴しますね」

 薫は空になった銚子を引き取って、台所へと持って行く。これで本日の酒は終わりということだ。

 

「あーあーあー」

 大声で不満を吐き出すと、天井を仰ぐ。

「まー、とにかくお前らのことはお前らでやってくれ。儂ゃ、そういう事は苦手なんだ」

 薫はきょとんとしながら、「はぁ」と一応、返事だけした。

 

----------

 

 その夜。東洋一は初めて、実弥に対して手紙を書いた。

 それは、薫に最終選別へ向かうことを許可したこと、破門はしないことを再度告げたものだった。その上で、以前に言ったことを繰り返す。

『どうしても薫が鬼殺隊に入ることを許さないというのであれば、爺に頼むのではなく、己自身で、薫を説得すべし』と。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 仏頂面で実弥が訪れたのは、薫が最終選別に向かおうという前日のことだった。

 

 挨拶もなく家に上がりこんで、東洋一を見つけると、睨みつけてくる。

「なんじゃ、その目」

 東洋一は梅昆布茶を飲みながら、肩をすくめ、薫の不在を告げた。

「薫なら、今は出掛けとるぞ。藤森の家に、加寿江がお産で里帰りしとるらしくてな。久々だし、明日には藤襲山に向かうから挨拶に行かせたんじゃ」

 

「……最終選別に行かせる気かァ?」

「そりゃ、そうだろう。あの修羅場を潜り抜けねば、鬼殺隊に入れん」

 ワナワナと実弥の唇が震え、殴りかからんばかりの勢いで怒鳴った。

「止めろよ!」

「阿呆。儂は育手ぞ。手塩にかけて育てた弟子を鬼殺隊士にするのが仕事だ」

「ジジィ」

 実弥はとうとう東洋一の襟首に掴みかかった。

 

「わかってんのかァ? あそこには鬼がうじゃうじゃいやがるんだ。俺の時は二十人近くが入って、残ったのは俺を含めて三人だけだ! どんな強いヤツでも、七日間生き残れる保証はねぇんだぞ」

「ンなことは、とうの昔に何度も言うとるわ」

「死んでもいいのか!?」

 その叫びは、悲鳴のようにも聞こえた。

 東洋一は襟首をつかむ手をとると、なだめるように言う。

 

「それは、お前が自分自身の胸に手を当てて、聞け」

 実弥は虚を衝かれたように、固まった。

 

「……お前が、あの子にちゃんと伝えにゃならんだろう。どうしてそこまで反対するのか。―――――お前自身は、わかっとるのか? 実弥」

 いつになく真面目くさった表情で問いかける東洋一に、実弥は視線を逸らせた。

 

 東洋一の眉間に皺が寄る。

「お前の覚悟がないくせに、やめろやめろとだけ言って、言うことを聞くと思うのか? 今のお前に薫を止める資格なぞないぞ。儂を利用するな。お前自身の言葉で説得できる自信がないのなら、とっとと立ち去れ。薫の邪魔をするな」

「…………」 

 実弥は静かに立ち上がると、無言のままに去っていく。

 

 程なくして戻ってきた薫が東洋一に尋ねた。

「あの、もしかして実弥さんが来てました?」

「んん? 会ったか?」

「いえ。後ろ姿だけ見えて、似てるなぁと思って声をかけたんですけど、そのまま行ってしまわれて」

「……そうか」

 

 ―――――逃げよって…。

 

 東洋一は心の中で舌打ちしたが、薫にはいつもの飄々とした態度で、加寿江のことや藤森家の様子などを聞いた。

 

「それはもうすごい食べっぷりで。二人分食べなきゃいけないって言ってましたけど、あれじゃあ三人分は食べてるんじゃないかと思うくらい。でも、元気そうでよかったです。加寿江さんは恥ずかしがりだから、悪態ついてましたけど、話を聞く限りはとてもやさしい旦那様みたいで」

 

「そうかそうか。あのじゃじゃ馬がなぁ……」

 東洋一は煙草を点けながら、幼い頃の加寿江の姿を思い起こし、クックッと笑った。

 そんな東洋一に、薫は異議を唱える。

「先生はいつもそうおっしゃいますけど、加寿江さんは女の子らしい人ですよ、とっても」

「女の子が太腿さらして相撲はせんじゃろ」

「それはまぁ…。そういうところじゃなくて。かわいい人なんです、本当は。かわいい、っていうところを他人に見られるのが恥ずかしいって思うくらい、恥ずかしがり屋の可愛い人なんですよ」

「ほぅん……」

 東洋一にはよくわからない。肩を竦めると、冷めた梅昆布茶を啜った。

 

 それにしても、人というのは自分のことよりも他人の事はよく見えるのだろうか?

 加寿江のその隠された可愛さというのを薫は見つけたのだろうが、自分のことについてはさっぱり理解できていない気がする。

 それとも―――――知りたくないのか?

 自分を振り返れば、思い当たる節がなくもない。

 東洋一は口の端を歪めた。実弥にああは言ったものの、己も大して違いはないのだ。

 

「先生?」

「いや。さっき実弥がそれこそ来てたんだがな。怒らせてもうたわ」

「まぁ……また、破門しろーですか?」

 もう、慣れっこになってしまって、薫はクスクス笑った。「本当に、懲りないですねぇ」

「また、帰ってくるかもしれんから、部屋の用意だけしとってくれ」

「わかりました」

 薫は頷くと、押入れの布団を干し、昼食を作り始めた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 実弥が来ているとなれば、おはぎを作らねばならない。ということで、薫は食料庫に小豆を取りに行ったのだが、もう底が見えるほどしかない。

「先生、すいません。ちょっと里乃さんのお店に行って来ます」

 東洋一に声をかけて出掛けた薫は、里乃の店に出向いたが、店は閉まっていた。

 

 ここ数ヶ月の間に、里乃はちょくちょく体調を崩すようになった。

 医者に行っても原因はわからず、眩暈と吐き気、ときに下血することもあるらしい。

 最近ではとうとう惣菜を売ることもなくなり、乾物と野菜だけを売るようになっていたのだが、こうして店を閉めるというのは、よほどに具合が悪い時だけだった。

 

 薫はすぐに、脇道の勝手口から入り、濡れ縁から声をかけた。

「里乃さん、大丈夫ですか?」

 中で衣擦れの音がして、しばらくすると、褞袍(どてら)を羽織った里乃が障子を開けた。

 

「あら、お嬢さん。いらっしゃい。ごめんなさいね、何かご入用だった?」

「ごめんなさい。寝ていたのに」

「いいのよ。寝るのに飽きたところで……久しぶりに森鴎外なんて読んでいたわ。それで? 何か御用?」

「あ、あの…小豆をもらえないかと思って」

「小豆は、あったと思うわ。悪いけど、お店の方にあるから、好きなだけ持ってって」

「すいません。じゃあ、失礼します」

 薫は縁側から入って、店の土間へと降りると、勝手知ったる様子で小豆の置いてある棚から、小さな麻袋に入った小豆を一袋貰っていった。

 

「今日は、何かお祝い?」

 里乃が少し枯れた声で尋ねてくる。

「いえ、その……実弥さんが来ているみたいなので、一応、おはぎを作っておこうかと思って」

「なぁに、その『来てるみたい』とか、『一応』とか」

「先生が言うには、さっき、来てはいたらしいんです。ただ、私が帰ってくるのとすれ違いに出て行かれてしまって……。荷物とかもないし、もしかするとそのまま任務に向かわれたかもしれないんですけど」

「ふぅん。なにかしらね? まぁ、お嬢さんがおはぎを作ったら、匂いにつられて帰ってくるんじゃない?」

「里乃さん、犬か何かみたいに……」

 薫はクスクス笑いつつ、さりげなく少し雑然となった部屋の中を片付けた。

 

 店もそうだが、いつも整理整頓して小綺麗にしている人がここまで部屋を散らかすのは、よほどに体調が良くないのだろうと思う。

 

「さっき、帰ってくるのとすれ違って、とか言ってたけど……どこかに行っていたの?」

「あ。藤森家に。加寿江さんが、お産で里帰りしていて」

「えぇ!」

 里乃は久しぶりに大声を上げ、ゴホゴホと噎せた。

 

「大丈夫ですか?」

 背中をさすりながら、薫はハッとなった。以前は見るからにふっくらとしていた背中の肉が、ほとんどない。

 

「まぁ、あのカズちゃんがねぇ……お母さんになるなんて」

「そうなんです。二人前どころか三人前くらい食べてて、前も大きかったけど、今はまたもう一回り大きくなっちゃってて」

「アハハハハ。面白いわねぇ。そっかぁ……カズちゃんが母親かぁ……」

 里乃はしみじみと言い、ふぅ、と吐息をついた。

 

「私はとうとう産まずじまいだったわ。独り身でも、それなりに楽しかったけど……」

 寂しげな顔が逆光を受けて、暗く翳った。

 

 薫はそれまで里乃と東洋一の関係についてあまり深く考えたことはない。

 二人の馴れ初めも、どうして結婚しないのかも知らなかった。

 面白半分に聞くようなことでもないと思ったし、里乃はともかく、東洋一がその手の話を語ってくれるとも思えなかった。

 

「先生には置屋からも揚げてもらって、料理の勉強もさせてもらって…。お世話になってばかりだったから、我儘なんて言っちゃあ贅沢だと思っていたんだけど…………」

「里乃さん?」

「……ちょっとくらいは、望みを言ってもよかったのかもね」

 

 言いながら、里乃は薫の乱れた前髪を撫でて、直した。

「お嬢さん、あなた、もし好きな人ができたら、ちゃんと伝えなさいよ」

「え?」

「いない? そろそろ、そんな年頃でしょう?」

 薫は軽く首を振った。

「そんなの、考えていられないですから。今は」

「そっか」

「………じゃあ、私、これで失礼します。ちゃんとお(やす)みになってくださいね。本を読み過ぎたら、肩が凝っちゃいますよ」

「はぁい」

 里乃のおどけた返事を聞いて、薫は頭を下げると、出て行った。

 

 きれいに手入れしていた紅葉の前栽が、枯れてしまっていた。もう、水を遣ることも億劫なのだろうか。

 薫はキュッと唇を引き結ぶと、小走りに東洋一の待つ家へと帰って行った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第八章 前夜(二)

▼今回、性的描写がありますので、苦手な方はご遠慮願います。



 帰ってくるなり、薫は東洋一(とよいち)に願い出た。

 

「先生、すいませんが、里乃さんのところに行ってもらえませんか?」

「あぁ? なんだ急に」

「今日、ちょっと具合が悪いみたいなんです。いつもより」

「…………」

 東洋一は考え込む。「医者を呼んだ方がいいか?」

 薫は頭を振った。

「いえ。それはしなくていいです」

 少し強い口調で言われ、東洋一はきょとんとなる。

 

「どうした?」

 薫は顔を俯けた。しばらく黙り込んでいたが、

「………病気になると、不安になるから。誰かに側にいてもらうだけでいいんです」

 小さな声だったが、響きは切実だった。

 

 里乃の身に何かが起きたのかと、一瞬身構えた東洋一だったが、そういう訳でもないらしい。

「しかし、明日にはお前さん出立だし……。隠された酒の場所も教えておいてもらわんと」

 冗談めいたことを言ったのは、その場の重い空気が東洋一には苦手だったからだ。

 しかし、薫はぴしゃりと遮る。

 

「そういうことは、もう既に書いて置いてあります。それに、どうせ藤襲山に行くためには汽車に乗らなければいけませんから、町に行きますし…その時に顔を見せに寄りますよ。ちゃんとご挨拶してから行きますから。里乃さんにも、切火を打ってもらいたいし」

「ム。そうか」

 東洋一は立ち上がると、着替えをしてから一服だけ煙草を吸った。

 

 薫はその間に手早く握り飯を作り、昨夜の晩ごはんの残りのきんぴらと煮豆などを詰め、東洋一にもたせた。

「向こうで食べてください。里乃さんが具合がよろしいようでしたら、分けてあげて下さいね」

「へぃへぃ。お前さんも、はよ寝ろよ。向こうじゃしばらくは、夜は寝れんぞ」

「わかりました」

 薫は東洋一を見送ると、家に戻り、台所に置いた小豆の麻袋の前で思案した。

 

 明日にゆっくり作っている暇はない。結局、実弥が来るのかどうかはわからなかったが、作っておいてもおそらく無駄にはならないだろう。

 襷掛けして、薫は小豆を洗い始めた。

 

 ジャッジャッと小気味いい音をたてて洗いつつ、薫の顔は暗かった。

 脳裏には、病を得て弱っていく母の姿があった。気を失ったかのような眠りから目覚めた時、いつも縋るように薫の手を握ってきた……。

 

 ―――――ごめんねぇ。ごめんねぇ……薫。

 

 病に罹ると、たとえ風邪程度であっても人間はどこか気弱になるものである。

 しかも里乃の病状は明らかに死を予感させるものだった。

 今までは一人で気丈に過ごしていたが、もう薫も選抜に向かうのだから、東洋一にはたとえわずかの間でも、側についていてもらいたかった。

 

 考えていると涙が出そうになる。

 薫は無心になった。

 小豆を湯がき、お湯を捨て、差し水をしながら煮て、アクをとり、炊き上げて、砂糖を加え、柔らかくなった小豆を木べらで練って、練り上げて………。

 

----------

 

 ようやくおはぎが出来上がった頃には、日が山の端に沈みかけていた。

 実弥は来そうにない。

 薫は縁側に座り、茜色の夕景の中、飛んでいく雁の群れをぼんやりと見ながら、おはぎを食べた。

 一口食べると、甘い小豆の匂いが、昔を思い起こさせる。

 

 ―――――薫子さんのおはぎは、とってもおいしいわね。

 

 母の顔が浮かんだ。

 おはぎが大好きで、彼岸になると、父が「見ていて胸焼けがするよ」と、閉口するくらい食べていた。

 普段はそんなに大食漢でもないのに、おはぎだけ、しかも彼岸の時のおはぎだけは、なぜかものすごく食べてしまうのだと笑っていた。

 

 ―――――きっと、ご先祖様の誰か、おはぎ好きの人が私に降りてくるのですよ。

 

 そんな冗談を言っていたのを思い出す。

 懐かしい思い出。温かく、柔らかな、穏やかな日差しの中にいる頃の記憶。

 もう一口食べると、今度は実弥の姿が浮かぶ。 

 

 ―――――薫。

 

 あの日。雪が舞う中で、実弥が初めて名前を呼んでくれた。

 驚いて振り返ると、

 

 ―――――おはぎ、うまかった。ありがとな。

 

 満面の笑みで手を振ってくれていた。

 

 あんなにやさしい笑顔を浮かべていた人が、どうしてああまで人相が変わってしまったのだろうか……。

 それを考えた時、実弥の途方もない苦しさと哀しみを感じて、しつこく薫の破門を要求していることを知っても、どうしても憎む気になれなかった。

 

 今はとにかく、最終選別を通って、鬼殺の剣士になるしかない。

 そうして強くなれば、きっと実弥もいつかは認めてくれるだろう。一緒に任務にあたることもあるかもしれない。そうすれば、自分にでも実弥を守る……のは、無理だとしても、補助できることはあるだろう。

 

 そう考えると、楽しみだった。

 最後の一口を放り込むと、薫は立ち上がった。

 明日の用意をしなければならない。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 色々な準備――――それは主に自分のためというより、当分この家を留守にすることで、東洋一に言伝(ことづて)しておく必要のある事を書き留めたり、片付けたりしていたのだが――――を終えて一段落ついた頃には、すっかり夜も更けていた。

 

 父の形見の懐中時計を見る。

 夜の十一時を過ぎていた。随分と手間取ってしまった。

 

 最後に自分の持ち物の確認をしようかと、鞄を開けて見ていると、ギシギシと廊下を歩く音が聞こえた。

 一瞬身構えたが、現れた人影を見ると、薫はホッとして笑った。

「帰ってらしたんですか。さね……不死川さん」

 実弥はどこかぼんやりとしていたのだが、薫に気付くと、途端に視線を逸らせて眉を顰めた。

 

「……ジジィは寝たのか?」

 視線をあらぬ方へと向けたまま、不機嫌そうに問うてくる。

「あ。先生なら、今日は里乃さんのところに行きました」

「…あぁ?」

「里乃さん、具合が悪いんです。心細そうなので、先生についててもらった方がいいと思って」

 

 実弥は無言になり、こちらを向くと、薫の傍らにある鞄を見つめた。

「それ、なんだ?」

「明日には最終選別に向かうので、用意していたところです。あ、おはぎ作ってますよ。食べられますか?」

 立ち上がって台所へ向かおうとすると、背後に気配が迫った。

 

 反射的に向き直ったが、構えをとる間もなく、左腕を背中へと曲げた状態で抑え込まれ、右腕も掴まれた。

「なに…を」

 問いかける声が上ずった。そのまま壁に押し付けられる。

 

「行くな」

 低い声で実弥が言った。息が酒臭い。

「……実弥さん、酔ってるんですか?」

 薫は驚いて尋ねた。匡近からは実弥は酒が苦手だと聞いていたからだ。へべれけという訳ではなさそうだが、多少は酔っているのだろう。

 

「……ぅるせぇ。行くなっつってんだ」

「行きます」

「いい加減にしろ。これ以上フザけたこと抜かすなら、腕を折るぞ」

 はったりではない。ドスのきいた声で言いながら、ギリギリと左腕を捩じ上げてくる。

 

 薫は実弥を睨みつけた。

「……どうぞ」

 冷たく言い放つ。「腕を折られようが、目を潰されようが、行きますから」

 

 求めた答えを得られず、実弥はギリ、と歯軋りする。

 薫はなだめるように言った。

「酔ってるんだったら、あちらの部屋に寝床はご用意していますから、おやすみになって下さい。それとも水が必要ですか?」

 思わず早口になってしまったのは、薫とても動揺しているからだった。

 

 壁と実弥に挟まれて、上から実弥の息遣いを間近に感じると、勝手に顔が火照ってくる。

 沈黙に耐えられず、必死で実弥に訴えた。

 

「…実弥さんだって、同じでしょう? 例え自分の身が危険に晒されるとしても、どうしても許せないから、鬼殺隊に入ることを決めたのでしょう? あなたに理解できなくとも、私には私の理由があって選んだ道です。止める権利はありません」

 

 言いながら息が苦しくなってくる。実弥がより身体を押し付けてきて、胸が圧迫される。

 右腕はきつく掴まれ、左腕は痺れて感覚がなくなってきている。

 

「…ぅるせぇ」

 低く唸るような声だった。一瞬、薫の中を恐怖が走ったと同時に口を塞がれていた。

 なにが起こったのかわからず、頭が真っ白になったが、実弥に接吻されているのだと理解した途端、体中がわなないた。

 

 頭を振り、強引なその口づけを逃れると「助けて」と声を上げかけて、呑み込んだ。

 今更、誰に向って叫ぶのだ。この家にはもう自分と実弥以外いない。

 冷静にならなければならない。

 実弥は酔っているのだ。酔っているだけだ。

 

「……離してください」

 頭では冷静にと思っていても、声は震えていた。情けないほどに。

 

 その時、ふっと部屋の明かりが消えた。

 闇にぬりこめられた中で、実弥の表情は見えない。

 秋の夜風は冷たく、ただ金木犀の香りが、闇の中でひかりを纏うかのように漂う。

 

 薫はじっとりと汗をかき、恐怖に耐えていた。

 鬼に対するものでもない。兄弟子達に襲われた時のものでもない。

 沈黙の中で自分の呼吸に混じって聞こえてくる実弥の息遣いに、妖しげな胸苦しさを覚える。

 

 ―――――……怖い。

 

 自分の中で何かが叫びだしている気がする。

 今まで封印してきたもの。

 見たくない。気付きたくない。知りたくない……。

 

 不意に実弥は薫の左手を離した。だが、自分の背中と壁の間に挟まれたままで、感覚もなく、動かすことは出来ない。

 一方、実弥は自由になった手で、薫の顔を掴むと、再び口を吸った。

 

「……う…う……」

 ガクガクと足が慄える。息が出来ない。眩暈がしてきた。

 身体から力が抜け、ズルズルと壁をつたって崩折(くずお)れる。

 

 唇がようやく離れて、息をしようと顔を背けると、うなじを生温かい感触が這った。 

 目の前が歪む。ゾクリと、寒気と共に身体に奇妙な陶酔が走る。

 抵抗しなければと、頭の奥でわかっているのに、未だに手も足も動かせない。

 

 はだけた衿元から、硬い関節の荒れた手が入り込み、胸を掴んだ。

 うなじから胸へと、乳房へとゆっくりと実弥の唇がおりてくる。

 

「………」 

 やめて、と叫ぼうして、喉の奥が痙攣したかのように言葉が出ない。

 

 目が馴れてきた。実弥の手が顔を掴んで、再び口を吸った。

 荒い息遣いが、強く吹いてきた夜風に混じる。それが実弥のものなのか、自分のものなのかすら、だんだんとわからなくなってくる。

 

 長い接吻をしながら、胸を揉みしだかれ、うつろになっていく。

 耳朶を噛まれ、鈍い痛みにすら陶然とする。

 

 ―――――怖い……。

 

 さめた意識は怯えている。

 実弥にではない。自分に、だ。

 怖さに震えながら、助けを乞うように、実弥の手に手を搦ませる。

 

 ―――――怖い……。

 

 自分は、何をしている?

 涙で目を潤ませながら、実弥の頬に手を伸ばし、再び口づけを交わす。

 まるで自分が遠くにいる気がする。

 こんなことを望んではいけないのに。彼も、望んではいないだろうに。

 

 ―――――怖い……。

 

 噎せ返るような金木犀の匂い。

 ……………この夜は、狂っている。自分も、彼も。

 

 ―――――お願い………。

 

 かすかに残る意識が叫ぶ。

 

 私は私であると、信じさせて。これは、夢なのだと。

 朝になれば消える。この痛みとともに。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第八章 前夜(三)

 どれくらいの時間が経ったのだろう―――――?

 

 ぼんやりと見上げた空に満月が浮かんでいる。

 

 視線を下げていくと、背を向けた実弥の姿があった。縁側に座り込んでいる。

 いつの間にか夜具の上で横になっていたらしい。掛け布団をめくると、冷たい夜風が薫の肌を撫でていく。

 

 ゆっくりと身を起こすと、鈍い痛みに「う…っ」と思わずうめいた。

 実弥の肩が揺れる。しかし、こちらを見ることはない。

 

 しばらくの間、互いに何も言えなかった。リンリンと鳴る松虫の声だけが響く。

 

 突然、実弥が立ち上がった。

「お前は……元の生活に戻れ」

 

 薫は固まった。

 実弥は振り返ることなく、少し嗄れた声で告げる。

 

「普通の…男と結婚して…………暮らせ。お前は、そうできるんだ」

 返事を待たずに、実弥はあてがわれた部屋へと歩いていく。

 

 薫は呆然とした。自分でも気付かぬうちに、涙が頬を伝った。

 

 ――――― 一体……自分は、何を期待していたのだろう?

 

 涙の意味もわからない。わかりたくもない。思い出したくもない。ただ恥ずかしいだけ。

 自分が忌まわしかった。

 これは夢だと願ったそのままに、この今の自分ごと霧散してくれればいいのに。

 

 半裸の胸に残された痕跡に爪を立てる。

 ぽた、ぽたと涙が布団に染みていく。

 震える唇を引き結び、奥歯を噛み締める。

  

 ようやく、ゆっくりと頭が回りだす。そうして結論はすぐに出た。

 

 ―――――忘れよう……!

 

 意味がないことなのだから。

 自分にとっても、実弥にとっても、全く意味のないことなのだから、覚えておく必要もない。

 

 素早く着物を着て、いつのまにか解けた髪を一つに結ぶ。台所に向かうと、水を柄杓で掬って飲んだ。

 水甕に溜まった水に、月明かりに照らされた自分の顔がユラユラと映る。

 

 ひどい顔だった。

 女々しい、痛ましい、哀れな女の顔だ。昨日までの自分にはなかった顔。

 

 薫は柄杓で水面を打って、その顔を散らした。

 唇を噛み締め、目を閉じて涙を押し殺し、必死で自分に言い聞かせる。

 

 ―――――こんな事で、私は傷つきはしない。傷つけられもしない……決して。

 

 それでも、また明日の朝に実弥と顔を合わすのは無理だった。

 東洋一(とよいち)にも、どういう顔をして旅立てばいいのかわからない。

 挨拶する、と約束したのを反故にするのは気が引けたが、許してください、と心の中でつぶやくしかなかった。

 

-------------

 

 

 よく寝るように、と言われたのに、結局一睡もすることなく、師匠への手紙をしたためると、夜明け前には家を出た。

 

 途中、里乃の家の前で手紙を持って立っていると、東洋一の鴉が頭上で鳴いていた。

「正九郎、これを先生に渡してくれる?」

 バサバサと大きな羽音をたてながら正九郎は降りてくると、手紙をくわえて舞い上がる。

 薫は東洋一の代わりに正九郎に手を振った。

 

「行ってくるね」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 東洋一は薫の手紙を読むなり、里乃の病状が安定しているのを確認した上で、早々に自分の家へと帰った。

 

 当たり前のことだが、もう既に薫の姿はない。

 いつもこの時間だと台所で忙しなく動き回っていたが、主はおらず、釜も竃も静けさを保っている。

 調理台の上には、書き置きがしてあった。

 

『不死川さん、もしくは先生へ

 蝿帳(はいちょう)におはぎを入れてありますので、召し上がって下さい』

 

 すっかり忘れていた。そういえば昨日は実弥が来ていたのだった。

 一応、部屋を用意しておくように言ったので、わざわざおはぎを作ったのだろう。最終選別に向かう日の前日だというのに、本当によく働く。

 

 それにしても、あれほど昨日は寄ってから行くと言っていたのに、何故来なかったのだろうか?

 鴉からの手紙を受け取った時には、もう既に始発の汽車で出た後だった。

 

 まさか…東洋一と里乃に気でも遣ったのだろうか?

 考えてみて首を振った。そういう類については、とんと疎い()だ。それなら最初から寄って行くなどと言うこともないだろう。

 色々と考えあぐねたところで、既に薫は行ってしまった後だった。

 

 東洋一は蝿帳からおはぎを取り出すと、一つ食べながら、ブラブラと廊下を歩いていく。

 自分の部屋に向かう途中、いつも開け放してある客間の障子が閉まっていることに気付いた。

 

 まさか…と思いつつ開けると、実弥が布団の上に倒れたように眠っている。

 東洋一はヒクリと頬を引き攣らせ、実弥の頭を蹴った。

「……っつ…」

 眉を顰めながら、実弥が目を覚ます。「あ? ジジィ…か」

 

「お前さん、何しに来た?」

 東洋一は低く、実弥を睨みつけながら問い詰める。

 

 だんだんと意識が明確になると、実弥は血の気の引いた顔になった。

 いつもは「なにしやがる、ジジィ」と怒鳴ってくる男が、静かに項垂れているのが、東洋一には愈々(いよいよ)不安だった。

 

 懐から手紙を取り出す。今朝方、鴉の正九郎から渡されたものだ。

「読んでみぃ」

 目の前に差し出すと、訝しげな表情を浮かべて実弥はその手紙を受け取って開く。 

 

 

『前略

 先生、挨拶もせずに最終選別へと向かうことをお許しください。

 これまでの修練を無駄にせず、藤襲山にて生き残り、鬼殺の剣士となって必ず戻って参ります。

 物知らずな私を育ててくださったこと、感謝いたします。

 

 草々』

 

 

 実弥はすぐさま立ち上がると、薫の部屋へと向かった。

 きれいに片付けられ、誰がいる痕跡もない。あわてて縁側から庭へと出て、外に向かった。

 

 日は中天に近い。

 

 呆然と立ち尽くし、実弥は薫が歩いていったであろう道途を見つめた。

 誰に見送られることもなく一人、死地へと旅立ってゆく……。

 

「昨日、儂と約束しておったんじゃ。行く前には顔を出すと。里乃に切火を打ってもらうんだと………」

 背後から東洋一が恐ろしいほどに静かな口調で話しかける。

「お前、なにした?」

「…………」

「あの子を行かせたくないなら、説得しろと……儂は言ったんだぞ」

「…………」

 

 何も言わない実弥に業を煮やし、東洋一は殴りつけた。

 あっさりと地面に倒れた弟子に、冷然と言い放つ。

 

「お前はしばらく、薫が帰ってくるまで、出入り禁止だ。帰ってこなければ………永遠にだ…!」

 踵を返して去って行く東洋一の背後で、実弥は黙って俯くだけだった。

 

 文句を言うことなどできるわけもない。

 

 今頃になって、昨夜の酒が頭の中で銅鑼を鳴らし、太陽は眩しすぎる光で目を射る。

 すべてが実弥を非難しているようだった。

 だが、それは仕方のないことだ。

 

 結局、自分は薫を止めることもできず、それどころか傷付けただけだった。しかもよりによって、最終選別の前夜に。

 

 死んでほしくなかっただけなのに、どうしてあんなことをしてしまったのか ―――― と、問うのなら。

 単純なところ欲しかったのだ。

 薫の熱を、息遣いを間近に感じた瞬間から、凶暴な欲情に支配されて、欲するままに陵辱したのだ。

 

 ―――――最低……だ。

 

 最低最悪な気分だというのに、無情に鴉が次の任務を告げる。

「北ァァ! 北ニ鬼有リィィ!! スグニ向カエェェ」

 感傷や後悔に浸る暇もない。

 

 薫には、こんなところへ、来てほしくなかった。こんなところに行く自分を、不安な気持ちで待たせるのも嫌だった。

 

 実弥は立ち上がると、ひどく重苦しい気分のまま歩き出した。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第九章 出発(一)

 前を狐が歩いていた。

 

 いや、より正確に言うならば、狐の面を後頭部につけて、歩いている女の子がいる。

 汽車を降りてから、辻ごとに待ち構える鴉の案内で、藤襲山に向かっている途中、自分の前をずっとその女の子が歩いていることに気付いた。

 

 この子もまた、最終選別へと向かっているのだろうか?

 後ろを歩きながら、ずっと狐の面と目が合っていて、なんだか気まずいような、端から見れば、面白いような。

 

 薫の視線に気がついたのか、不意に女の子が振り返った。

 自分よりも年下だろうか?

 まだあどけなさの残る顔つきをしていたが、思慮深そうな瞳は落ち着いた印象を与える。

 薫と目が合うと、にっこりと笑った。

 

「あなたも、藤襲山に向かっているの?」

 問いかけられ、薫はホッとなって彼女の近くに走り寄った。

 

「えぇ。あなたも?」

「そう。ようやく、行っていいってお許しが出たから」

「私も」

 二人で笑みを重ねたのは、双方ともにそれまでの修行を思い起こしたからだろう。

 ………ここにたどり着くまで、長かった。

 

「私は、森野辺薫(もりのべかおる)っていいます。あなたは?」

「私は真菰。水の呼吸を使ってるの。あなたは?」

「私は……一応、育手は風の呼吸なんだけど………風の呼吸じゃないのを使ってる」

 真菰は目を丸くした。

 

「風の呼吸じゃないのって?」

「えぇと……その、鳥の呼吸っていうんだけど」

 言いながら、薫は少しばかり恥ずかしかった。東洋一(とよいち)に名付けられたとはいえ、勝手にそう呼称しているだけで、人に教えるほどのものでもない。

 しかし真菰は「すごーい」と素直に感嘆した。

 

「自分で呼吸を作るなんて、すごいじゃない」

「いや……ただ、風の呼吸がちゃんと使えなかっただけで」

「自分で自分の欠点を理解するのは大事よ。呼吸にこだわって、強くなれなければ意味がないんだもの」

 真菰は穏やかに言いながら、伸ばした指を口に当てた。

「私はそんなの考えたことなかったなぁ」

「それは、真菰さんに水の呼吸が合っているからよ。私は風の呼吸を習得はできても、使いこなすまでには至らなかった。先生に無理言って入門させてもらったのに、申し訳ないくらいで………」

 

 薫は東洋一の顔を思い出す。

 最初に断られ続け、それでも門前に居続けて、どうにか弟子にさせてもらった。

 きっと東洋一には不本意だったろう。薫を見て、既に風の呼吸の素養がないことはわかっていたのだろうから。それでも、最終選別まで自分を見捨てることなく育ててくれた。

 

 養父母が亡くなって、生きる希望を失っていた薫がここまで来れたのは、東洋一のお陰だ。

 厳しさと、途方もない優しさで見守ってくれた恩人。

 だからこそ、必ず生きて戻る。東洋一があの墓の前で薫の姿を思い浮かべて、手を合わすことのないように。

 

 真菰は言葉が途切れた薫を見て、ふっと笑った。

「いいお師匠様だったのね」

「ええ、とても」

 薫が満面の笑みを浮かべると、真菰も笑った。

「わたしも、一緒。孤児だった私を引き取ってくれて、育ててくれた。私、鱗滝さんが大好き。だから、きっとお師匠様のところに帰るの。―――――たとえ、命を失っても」

 

「それは駄目」

 薫は即座に否定した。

「生きて帰るの。必ず、生きて帰らなくてはいけないわ」

 そうだ。自分にどれほどの強さがあるのかはわからない。だからせめてその執念だけは、誰よりも強く持っておかなければ…と思う。

 

 真菰は目を丸くして、じっと薫を見た。

「……なに?」

 薫は戸惑ったが、真菰は一拍おいて、ニコリと笑った。

「うん。やっぱり、あなた強そう」

「…………ありがとう」

 謙遜したかったが、真菰が言うのを否定するのも違う気がしたので、とりあえず礼を言うと、再び歩き出した。

 

「あの、一つ聞いてもいい?」

 薫が言うと、真菰はにこっと笑って、

「このお面のこと?」

と、頭に乗せていたお面を取った。

 左の頬から口の辺りに、花が二つ彫り込まれている。

 

「これは、厄除の面。お師匠様が彫ってくれたの」

 真菰は言いながら、うれしそうにそのお面を撫でた。

 

「かわいいお面ね」

 薫は真菰の師匠がどんな思いで、この狐の面を彫ったかを考えた。

 きっと、帰ってくることを願っているのだろう。

 彼女もまた、それはわかっているはずだ。さっきのはただの言葉のアヤだろう。本気になって否定した自分が少し恥ずかしくなった。

 

 その後も互いの育手のことや、呼吸の話などをしながら、最終選別という、いわば戦場を前に、意外に楽しく道中を進んでいく。

 薫には有難かった。

 一人きりで黙々と歩いていたら、昨日のことが否が応にも思い出されてくるから。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 藤襲山にたどり着くと、既に三十人近くが藤の花の下でうろうろと待ち構えていた。

 ぽーん、と鼓の音が響く。

 おかっぱ頭に、牡丹柄の着物をきた可愛らしい童女が二人、鳥居の中から現れた。

 

「みなさま。今宵は最終選別にお集まりくださって、ありがとうございます。この藤襲山には鬼殺の剣士様方が生け捕りにした鬼が閉じ込めてあり、外に出ることはできません」

 童女の一人が鈴を鳴らすような声で話す。

 隣にいたもう一人が同じ声で続ける。

「山の麓から中腹にかけて、鬼共の嫌う藤の花が一年中狂い咲いているからでございます」

 

「しかしここから先には藤の花は咲いておりませんから、鬼共がおります。この中で七日間生き抜く……」

「それが最終選別の合格条件でございます。では、行ってらっしゃいませ」

 童女達は二つに分かれ、鳥居の先の道を空ける。

 

 藤の花を背にして、やってきた者達は前方に広がる闇を見据えた。

 

 物言わず、ダッと最初に一人が闇の中へと駆け入って行く。皆、続いていく。誰も口を聞かなかった。

 薫もまた真菰と一緒に駆け始めたが、途中の三叉路で二手に別れた。お互いに目配せし、「七日後に」と心の中で叫ぶ。

 

-----------

 

 五町も走っただろうか、ふと気配を感じて薫は止まった。

 しばらく辺りの様子を探っていると、上から鬼の手が伸びてきた。ヒラリと後ろに宙返りして躱しながら、刀を振る。ギャッと鬼が喚いた。伸びた鬼の腕を切っていた。

 

「いてぇ…いてぇよぉ。いてぇじゃねぇかよぉ……ひどいやつだ。ひどいやつだ」

 痛い痛いと言う割には、のんびりとした口調だ。どうせ再生するだろうとわかっているからこそ、余裕なのだろう。

 

 身長は薫よりも少し大きいくらい。まだ人間であった頃の面影が残っているが、額から飛び出す一本の角と、腫れぼったい紅の瞳は、紛れもなく鬼だった。

 月明かりに照らされ、薫の顔を確認すると、鬼はニタアァと笑った。

 

「ケヒッ、ケヒッ! かーわいいーな。かーわいい女だ。女はウマい。女はウマいんだー」

下衆(ゲス)が…」

 薫は低い声で吐き出すと、鬼に向かって走り出す。

 

 鬼が斬られていない手を伸ばしてくる。それを一刀両断すると、グッと地面に足を踏みしめ、低い態勢になって構える。

 鬼が再生した手を伸ばそうとした時には、薫の姿はもうその眼前から消えていた。

 

 鳥の呼吸 壱ノ型 鷹隼空斬(ようしゅんくうざん)

 

 鬼が薫の姿を探す暇もなく、上空からの斬撃。

 深く踏み込む動作から、上へと舞い上がり、くるくると回転しながら落ちていくことで、重力による加速と、通常に刀を振るうよりも数倍の重さを加えることができる。

 

 ぱっくりと口を開けたまま、鬼の首が転がった。

 ふぅ、とため息をついたのもつかの間、再び別の鬼が前方から向かってくる。

 

 薫は刀を握りしめ直し、構えた。

 奥歯を噛み締め、呼吸を整える。

 

 不意に、口元に不敵なまでの微笑が浮かんだ。

 自分でもわかる。気分が昂揚している。

 

 あの時、父と母、それに使用人達をなすすべもなく殺された。

 あの鬼を倒すことはできない。今、向かってくる鬼を倒すことで復讐とはならない。

 こいつらを屠ることは、『あのとき、何も出来なかった自分』を励ますことだ。

 無力だった己に、生きていく意味を見せるためだ。

 

「ぎぇぇぇっ!!!!」

 トカゲのような舌を持った鬼の攻撃をすべて躱し、隙を見せた瞬間に斬撃を叩き込む。

 コロリと落ちては塵と消える首。

 確実に死んだことを見届けると、薫は闇へと分け入っていく。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 藤襲山での最初の夜が明けると、薫は影ができない平坦な場所を見つけて、そこで一時の休息をとった。

 日のある間は鬼達も動きようもなく、ただ影にじっと身を潜めているだろう。

 

 昨晩は結局、三体の鬼と対峙したが、どれもさほどに手こずるものはなかった。

 だからといって油断すれば、すぐこちらが殺られるだろう。東洋一にも言ったように、決して油断せず気を許さず、七日間を乗り切らねばならない。

 

 さすがに疲れた。小さな岩に頭をのせて、目を瞑る。

 二日連続でほとんど寝ておらず、すぐに眠気が襲ってきた。

 

 鴉のけたたましい鳴き声で目を覚ますと、岩の上に握り飯が二つ入った包みが置いてあった。

 寝ている間に、誰かが置いていってくれたようだ。

 東洋一の話では『隠』の人達が、昼の間に配っていってくれるらしい。

 起こさずにいてくれたのか、起こされたが起きなかったのかわからないが、ずいぶんと眠り込んでしまったものだ。

 だが、お陰で頭がスッキリした。

 

 七日間というのは、過ぎればそうたいした期間でもないのだろうが、ここで生き残りをかけた(ふるい)にかけられているとなると、随分と長い。

 何の方策もなしに動き回って生き残れるほどに、甘くはないだろう。

 

 握り飯を食べ終えると、薫は辺りを見て回った。

 山といっても、大小様々あるが、ここは東洋一の元で修行していた時に、頻繁に出入りしていた山よりは格段に広い。

 生け捕りされた鬼の総数はわからないが、点在している鬼を探し回って、無駄に体力を減らしても仕方ない。それよりもおびき寄せて殺した方が効率はいいだろう。

 

 薫は木の枝を集めていき、食べられそうな木の実を見つけてはもいで食べた。

 満腹にする必要はないが、腹が減っては戦はできぬ、という古来からの諺の通り、食べなければ力は出ない。

 

 陰に注意しながら歩き回って、岩の間から水が溢れでる水場も見つけ、飲料水も確保する。

 周到に準備しながら、日が沈むのを待った。

 辺りに闇が満ちてくると、薫は焚き火をして鬼の襲来に備えた。

 

 近付いてくる鬼は焚き火をして待ち構えている薫を、まるで飛んで火に入る夏の虫のごとく、と嘲り笑ったが、たいがい次の瞬間には首を落とされていた。

 

 鬼を屠る度に薫は昂揚し、自信をつけていく己を叱咤した。

 ここで気を緩めれば、すぐにでも鬼の爪先でこの首を掻っ切られるだろう。

 最終日の朝を迎えるまで、決して安心してはいけない。

 

 日毎に焚き火の場所を変えながら、襲ってきた鬼を返り討ちにすること六体。

 初日の三体と併せて九体の鬼を屠った後、七日目の朝を迎えた。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 鳥居をくぐり、藤の花の下に集まった生き残りの中に、真菰の姿はなかった。

 ギリと奥歯を噛み締め、拳を握りしめる。

 

 剣技を見たわけではないが、真菰は弱いようには見えなかった。

 話をしただけだが、薫と同じく、女であることでの不利な部分を有利へと変えて戦っていける人間だったと思う。

 

 その真菰が殺られたという……。そんな強い鬼がいたのだろうか?

 自分が出会った鬼はほぼすべて、最初に薫が殺した、山のお堂にいた鬼とそう変わりないほどのものだった。

 いわゆる浅い鬼―――鬼になってからの期間が短い鬼ばかりで、東洋一から訊いた異能・異形の鬼などは一匹もいなかった。

 

 初日にいたおかっぱの童女たちから、日輪刀を作るための玉鋼を選ぶことを告げられ、鎹鴉を送られる。

 薫の鴉は見事な射干玉(ぬばたま)色をした無口な雄であった。祐喜之介(ゆきのすけ)というらしい。

 

 その後、三日ほど藤襲山近くの藤家紋の家で養生するように言われ、その間に隊服の採寸が行われた。

 薫の同期は他に二名いたのだが、二人共七日間の極限状態で、疲労困憊していた為に、ほとんど寝たきりになってしまっていた。

 

 薫は隊服を支給されると、すぐにその家を辞した。

 門を出て、後ろを振り返ると、藤襲山が紫の霧のような藤の群生の中で、(けぶ)るように見える。

 

 あの中に、まだ鬼はいるのだろうか……?

 

 喪った友の命に瞑目し、薫は藤襲山を後にした。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第九章 出発(二)

 十日ほどだったというのに、その姿を目にした時、東洋一(とよいち)は数年の時が過ぎたような気がした。長い長い吐息をついた後、薫を抱きしめ、肩をポンポンと叩いて弟子の奮闘を労った。

 

 にっこり微笑んだ薫の目の下には鬼にやられたのであろう、傷がうっすらとミミズ腫れになっていた。それでもその程度の怪我で済んでいたのだから、薫が鬼殺隊隊士として十分にやっていけることの証左でもある。

 

 薫は特に最終選別での詳しい戦果について話すことはなかった。

 ただ、藤襲山へと向かう途中で水の呼吸の遣い手である少女と仲良くなり、共に選別を受けたが、彼女は七日目の朝に会うことはなかった、とだけ言った。

 それは珍しいことではない。慰めるようなこともでもない。「そうか」とだけ答えた東洋一に、薫は少しだけ寂しそうに微笑(わら)った。

 

  既に鬼殺隊士としての顔になっている。

 

 東洋一は気になっていたが、あえて実弥の話題を持ち出すことはなかった。

 とりあえず、匡近には薫が最終選別から無事に帰ってきたことを伝えることにしよう。匡近に言っておけば、実弥の耳にも入るだろう。

 

「里乃さんのお加減はどうですか?」

 薫は自分のことよりも、あの日からすっかり体調が悪くなってしまった里乃のことを気にかけた。

「……ん」

 東洋一は言葉に詰まり「食べんようになってしまってなぁ……」と、つぶやくように言った。

 

 薫は帰ったばかりだったが、お米を研ぎ、近所の農家から野菜や卵などを貰ってくると、料理を作り始めた。

 二時間ほどでご飯とおかずを作って、里乃の家へと向かう。

 帰ってきた薫の姿を見ると、里乃は涙を流して喜んだ。

 

「よかった……帰ってきたんだね。よかった…」

 抱きついてきた里乃は、十日の間にもますます顔色も悪く、身体も細くなっていた。

「あんまり食欲がないと聞いたんですけど……よかったら、食べてみて下さい」

「あぁらまぁ…まぁ……このふろふき大根の美味しそうなこと」

 里乃が出汁の染みた大根を箸にとると、東洋一が驚いた。

 

「なんだ。めずらしい。食べる気になったか?」

「そりゃ、こんなおいしそうだったら食べる気にもなりますよ」

 里乃は以前の威勢のいい調子に戻っていた。

「良かった。食べてたら、きっと体調も戻るだろうから。私、任務が決まるまでは毎日、作りに来ますね」

「申し訳ないねぇ、お嬢さん。せっかく立派な剣士になられたって方に、飯炊きなんかさせてしまって」

 

 だが、里乃がまともに食事したのはその日だけだった。

 次の日になると、湯豆腐を一匙食べただけで、「もういっぱい」と寝てしまった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 最終選別から二週間ほどして、ひょっとこの面を被った刀鍛冶がやってきた。

 宮古鐵(みやこがね)と名乗った。

 

 薫は家の中に案内し、正座して、その風呂敷包みが開かれるのを見ていた。

「こちらになります」

 桐箱の蓋を明けると、中には刀が二振り。一つは通常の打刀と変わらぬ長さのもの、もう一つは少しだけ刀身の短いもの。

 

「玉鋼と一緒にあったお手紙の通りにやってみましたが、どうですかな?」

 玉鋼を刀鍛冶に渡す前に、もし要望があれば書き置くように言われた。薫は色々と考えた末、自分の型には二刀流の方がより合っているのではないかと思い、そのように頼んだのだった。

 

 長い方の刀を手に取り、鞘から抜く。思っていたよりも軽い。これまで東洋一から借りていた刀だと重さで手首に余計な力が入っていたが、この刀は動かしやすい。片手でも肩から腕、手首にかけての稼働が格段に滑らかだ。

 

 薫の気持ちがわかったのか、宮古鐵が「軽いでしょう?」と言った。

「なるべく軽いものを。ただし、斬撃に耐えうる強度のものを…という注文でしたので、途中まで()を入れてあります」

 

 宮古鐵の説明を聞いているうちに、刀身の色がゆっくりと変わっていった。

 それはくすんだ黄緑、灰味がかった薄緑といったような淡い色であった。

「これは青白橡(あおしろつるばみ)ですね。別名、山鳩色ともいうかな」

 薫はまじまじとその刀を見つめた。

 

 凄まじい美しさだった。一直線に伸びた樋。陽光を反射して光る刀身、波がうねっているような刃文。

 もう一つの短い方の刀は、より(きっさき)が尖って、その細い刀身は少しばかり撓った。これもまた、同じ青白橡色になった。

 

 東洋一はふっと笑って言った。

「いいじゃないか。お前にぴったりだ」

「そうですね」

 薫は頷くと、刀を鞘にしまい、宮古鐵に深々と頭を下げた。

 

「難しい注文を受けていただき、ありがとうございました。大事に使います」

 宮古鐵は「いやいやいや」と手を振った。

 

「もっと面倒くさい注文をしてくる人なんてゴマンといますよ。これくらいは対応できなくては、鬼殺隊の刀鍛冶などやっていけません」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 宮古鐵を見送った後、夕食を持って里乃のところへと向かったものの、やはり食べられなくなっていた。

 お粥の上澄みを一匙すすって、里乃は横になった。

 

「お嬢さん……」

 食器を洗って拭いている薫に、里乃は呼びかけた。

「前に……私、もっと我儘をいえばよかったと言ったでしょう…?」

 薫は最終選別の前に、里乃に会った時のことを思い出す。

 

 里乃が『もっと自分から望むことを言えばよかった』と、諦観した様子で言っていた。

 その風情があまりにも頼りなくて、消え入りそうで、自分は東洋一を呼びに行き、里乃についててもらうように頼み込んだ。

 

 あの日、もし里乃が昔の儘に元気で、東洋一が家にいれば……?

 

 ふと、その夜のことを思い出しそうになる。

 あわてて頭を振った。

 

 里乃が不思議そうに薫を見遣った。

「どうかした?」

「いえ……。それで、少しは我儘を言えましたか?」

 問いかけると、里乃はふ、と力ない笑みを浮かべた。

 

「我儘だったのよ、私。だって、先生は一度は一緒になろうかと言ってくれてたの」

「そうなんですか?」

 それは意外だった。東洋一がああ見えて、ものすごい照れ屋であることはわかっていたので、そういうことを口にすると思わなかった。

 

 里乃はフフフと、その時のことを思い出したかのように笑う。

「そうよ。言ってくれたわ。でも……私が怖くて、逃げたの」

「怖い?」

「あの時はまだ先生、現役だったから……いつ死んでもおかしくなかった。実際、死にかけたこともあったし。あの、足はその時の」

 里乃は仰向きになって、暗い天井を見つめながら話した。

 

「いつか死ぬかもしれない人を待つのは………怖かった」

「……………」

「それでも育手になって、ここに来てくれて、いつも側にいてくれてたんですもの。考えてみれば、望みどおりだったのよ。どういう形であれ、一緒にいれたのだから」

 里乃の声は震えていた。両手で目を押さえていて見えなかったが、泣いているのだろう。

 

 それは悲しいからではなかった。先に自分が逝ってしまうことを、憐れんでいるわけでもない。

 十分に幸せだったことを、最期の最後で気付くことができたからだった。

 

「お嬢さん……薫ちゃん」

 里乃は儚い笑顔を浮かべて呼びかける。

「どうか、先生よりは長生きしてね。先生がこれ以上、悲しまないように」

 側にいて、ずっと見てきたのだろう。弟子を送り出し、その弟子が無言で戻ってくるのを、奥歯を噛み締めて受け入れてきた東洋一の姿を。

 

 里乃はほとんど力の入らなくなった手で、薫の手を握った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 里乃が気を失うように眠った後、薫は隣の部屋に控えていた東洋一に暗い顔で対面した。

 

「……お前が帰ってきてくれてよかった」

 東洋一は穏やかに言った。「ありがとう」

 薫は嗚咽がこみあげそうになって、グッと喉に力をこめた。

 

「さっき、祐喜之介(ゆきのすけ)が知らせてきました。京都で任務です」

「そうか…早速来たか。京都とはな………お前の担当地域は関西地方になるのか」

「わかりませんが、そうかもしれません。いずれにしろ、全国を飛び回るのが鬼狩りの務めですし…」

 

 薫は一度、東洋一の家に戻り旅装を整えた。

 

 隊服の上から、父の形見の灰色のインバネスコートを羽織り、受け取ったばかりの刀を二本、腰に差す。髪を一つに纏め、元結の上から母の形見の藤色の組紐をしっかりと結んだ。

 

 再び里乃の家を訪ね、寝入っている里乃に無言で頭を下げると、外で待っていた東洋一は物珍しそうに薫の姿を眺めた。

 

「隊服の上に羽織はよく見るが、こうしてみれば外套の方がしっくりくるもんだな」

「すいません。ずっと形見として持っていたんですが、持ち歩くよりも着た方がいいと思って」

「いや、いいんじゃないのか。しかしパッと見、女というより、前髪立ちの若衆のようだな。妙に……」

 色気があるな、と言いかけて東洋一は口を噤んだ。

「なにか?」

 薫が聞き返すのを、軽く首を振って「いやいや」と濁す。

 

「行ってこい、元気でな」

 こうして今までに何人もの弟子を見送ってきたのだろう。

 短い挨拶の中に、東洋一の願いは込められている。

「……はい」

 

 薫もまた、この一年半の間、自分を叩き上げ、磨き上げてくれた師匠への感謝は、いくらしてもしきれないほどであったが、今はただ頭を下げるだけだった。

 

「行ってまいります」

 

 晴れやかな笑顔を浮かべて、任地へと向かう。

 里乃の願いを叶えることができるかどうかはわからない。ただ、もしこれが最後となるならば愁嘆場でなく、明るく別れたかった。

 

 

 日の差す道を歩きながら、名残の金木犀がかすかに匂った。

 

 

 

第一部 了

 

<第二部につづく>

 

 

 








これにて第一部が終了となります。
次作、閑話休題を挟んで第二部。

読んでいただいている皆様に御礼申し上げます。
これからも読んでいただければ幸いです。

水奈川葵 拝



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閑話休題 其の壱
<隊服悶着>


 最終選抜後、持たされた隊服を着て、薫は途方に暮れた。やはり選別後に採寸して三日ほどの突貫工事で作ったせいなのか、寸法を誤って作製されたらしい。

 

「どうした…?」

 東洋一(とよいち)が襖の向こうで声をかける。試着して見せると言ったのに、なかなか薫が現れないので、不思議に思ったのだろう。

 薫はすぐさま隊服を脱いで、いつもの着物と袴の姿に戻った。

 

 襖を開けると、東洋一が目を丸くする。

「どうした? 何か問題でもあったか?」

「そうですね……どうやら、採寸を間違えたのか、作る人が見誤ったようです」

「どういうことだ?」

「胸のあたりが留められないんです」

 東洋一は眉を寄せ、意味がわからぬという顔になった。

「胸のあたりだけ、なぜだかはだけてしまってるような……妙な作りになっていて。どうしましょう? 今更、作り直してもらっている間に任務がきたら」

「ムム……困ったのぉ」

 東洋一は腕を組んで考え込み、ふと思い出す。

 

「そうじゃ。儂の隊服があったわ。それでお前さんならどうにかできるじゃろ」

「どうにか…って、何を?」

「儂の隊服の生地を切って使えばえぇ。強度はさほど変わっとらんだろうし」

「そんな……先生の大事なものなのに」

「もぅ、使うこともない。放っておけば虫に喰われるだけのモンだ。いや、もしかするともう喰われとるかもしれんな。樟脳も入れておったか、どうだか………」

「大事にしてください。思い出の品でしょう?」

「ハハハハ。大して思い入れもないから、そういう扱いになっとるんじゃ。えぇから、お前さん、適当なところを切って、どうにかせい。できるじゃろ?」

「………とりあえず、見てみます」

 

 その後、蔵の奥からすっかり埃まみれになった桐箱の中に、東洋一が着ていたという隊服を見つけると、それは多少色褪せてはいたものの、まだ十分に着用できそうだった。

 薫のもらったものより、ずっしりと重い。やはり数十年の間に糸そのものや縫製の技術が上がって、隊服もまた改良してきているのだろう。

 

 東洋一に見せると、懐かしそうにその服を眺めた。

「おぉ、そうそう。これこれ。この傷のところはもう放っておいたんだった。ほれ、ここ切れたままになっとるだろ?」

「はぁ……いいんですか?」

「なにが?」

「せっかく、ここまでちゃんと残っているのに。私の隊服の直しに切ってしまったら、着れなくなりますよ」

 東洋一はハハハハと笑った。

「今更、こんな重いもん着て刀なんぞ振れんわ。本当だったら、辞めたときに捨ててもよかったんだがな……なんで置いておいたのやら」

 ふと考えて、里乃に止められたことを思い出す。

 

 ―――――今まで先生を守ってきてくれた大事な隊服なんですから、これは先生の棺桶にいれるまで、大事にとっておかないと……。

 

 せっかくこれからはのんびり生きようと思ってる時に、棺桶の話なんぞ持ち出すので、お前は俺を殺したいのか、どっちなんだと大笑いしたものだった……。

 

「先生? どうかしました?」

 薫が窺っているのに気付いて、東洋一は「いやいや」と顔をごしごし擦った。

「ホレ、いいから。これ使え」

「………じゃあ、使わせていただきます」

 薫は恭しく頭を下げると、東洋一の隊服を持って自分の部屋へと戻っていく。

 

 煙草を吸いながら、しかしどうして寸法間違いなどが起きたのかと不思議だった。

 ちょうどその時、匡近から近況を報せる鴉が来ていたのもあり、東洋一もまた薫の最終選別の合格と、その隊服についてのことを書き記して、匡近の鴉に託した。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 数日後、鴉から東洋一の手紙を受け取った匡近は安堵の吐息をついた。

 

 大丈夫だろう……とは思っていたものの、何が起こるかわからないのが最終選別なのだ。こいつは強いぞ…と思っていた奴も、七日目には姿がなくなっている。

 薫が十分に備えて選別に臨んだとしても、不意の出来事でどうなるかは運次第というところもあった。

 いずれにしろ、突破してこれで薫もまた立派な鬼殺の剣士となったわけだ。

 

 意気揚々と廊下を歩いて、道場の庭で巻藁の据物(すえもの)斬りをしていた実弥に声をかけた。

「おーい。朗報朗報」

「あァ…?」

 実弥は四十は並んでいた巻藁の最後の一本を斬ったところで、振り返った。

 冬も近いというのに、汗だくである。

 

「なんだァ?」

「いい報せだよ。なんだかわかるか?」

「うるせェなァ。教える気がねェなら俺は風呂に行くぞ」

「待て待て。言うから言うから。薫が合格したぞ」

「…………」

 

 実弥はちょうどその時、背を向けていたので、どういう顔をしたのか匡近にはわからなかった。だが、薫の名前を出した途端に、ビクと肩が一瞬揺れた。

 

「帰ってきたってさ、藤襲山から。良かったな」

「……なにがいいんだ」

「心配してたろ? 師匠から最終選別に行かせるって手紙もらった時だって、任務が終わってすぐだったってのに、無理して行くから……しばらく調子悪かったじゃないか。結局、説得できなかったみたいだし」

 

 実弥は振り返り、匡近を睨むように見た。

 え? と匡近は戸惑った。あまりに(くら)い目をしていたからだ。

「どうした?」

 尋ねるが、実弥は黙り込んで縁側に腰を下ろすと、しばらくの間夕日に照らされた巻藁の長い影をぼんやり見ていた。

 

「なんだよ。嬉しくないのか?」

 不思議だった。天の邪鬼な性格だから、拍手して喜ぶとは思わなかったが、それにしてもやけに気落ちしているように見える。

 

「………俺は」

「うん?」

「………辞めさせるってことに、変わりねェ」

「まだ言ってるのか、お前」

「うるせェ」

 

 匡近はふぅ、と溜息をつくと、注意深く実弥を見遣った。

 機嫌が悪いなりに実のところはホッとしているのだろう。夕景を見つめる目が、ここ数日からすると随分と和らいでいた。

 

「ま、いよいよ鬼殺隊士になった以上、薫がお前の言うことを聞くなんて思えないけど。それより、薫も縫製係の洗礼を受けたみたいだな」

「は?」

「知らないか? まぁ、男は関係ないからな。なんか去年あたりから、一部の女の鬼殺隊士の隊服をな、隠の縫製係が妙な仕立てしてるらしくて」

 

「妙な仕立てェ?」

「胸元をやたら強調したみたいな……なんだったら、肌がモロ見えみたいな、およそ戦闘服じゃないだろっていう作り方でさ。まぁ、鬼殺隊に入る女なんかたいがい気が強いから、そんなの着れるかって突き返してやり直させるみたいだけど、いちいち面倒臭いって噂になってる」

「……で、アイツのもそういう仕立てになってんのか?」

「らしいよ。師匠はこの事知らないから不思議がってた。このままだと任務に間に合わないから、作り直してもらう暇もないって…………」

 

 匡近が最後まで言い終わらない内に、実弥は立ち上がっていた。

「オイ。その縫製係、どこにいる?」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 その日、前田まさおは人生で一番の恐怖を味わっていた。小便をもらすかもしれない……と、切実に思う。下腹部にずっと力が入ったままだ。

 目の前には顔から身体から傷だらけの狂犬……のような男が立っている。

 

「どういうつもりだァ? えぇ?」

「いや……その…あの……その」

 どう言い繕っても、一発殴られそうな雰囲気だ。

 前田はさほどに長くもない人生の中で、それまで使ったことのなかった部分の脳みそを回転させて、言い訳を考える。

 

「そ、その……さ、採寸係が間違えちゃったかなー?」

 白々しく裏返った声で言うと、当の採寸係がジロリと睨みつけてくる。

 

「私はちゃんと測りましたよ。森野辺薫さんですよね? まだ十五歳ということでしたので、これからの成長にも合わせて、少し大きめで申告しておいたはずです」

「そ、そうだっけ?」

 前田の目が泳ぐ。

 

 目の前の狂犬……不死川実弥が、その睨むだけで人を刺し殺すんじゃないのかと思える目で、ジリジリと前田を灼き焦がすように凝視している。

 

「じゃあ…作る時に寸法を見間違えたのかな?」

 横から助け舟を出してくれたのは、狂犬の飼い主・粂野匡近だった。

 本来なら有難がるところだが、前田は内心で毒づいた。

 

 ―――――飼い主、頼むから、こういう男をここに連れて来るなよ!

 

 しかし顔は愛想笑いを浮かべて揉み手までする。

「そ、そ、そうですね。縫製係が見誤ったのかもしれません」

「その縫製係は誰だァ?」

 実弥が尋ねると、その場にいた隠全員が前田を無言で見つめた。

 ヤバい……前田が背中に汗が伝うのを感じたと同時に、実弥に襟首を掴まれる。

 

「オイ、テメェ……わざとか?」

「ちっ、違いますっ! 絶対ワザと窮屈に作ったわけではありませんっ」

 必死に弁明しながら、嬉々として薫がその隊服を着ることを想像しながら作っていた自分に、今ここから叫びたかった。

 

 ―――――おーいっ! お前が今縫ってるその隊服! ヤバイ奴の妹弟子のだから! ちゃんと作っとけ! さもないと、とんでもない目に遭うぞ!! 後悔しても遅いんだ!!! 頼むから、森野辺薫っていう女の隊士の隊服だけは、まともに作っておけーーっっ!!!!!

 

 後悔先に立たず、である。

 

「まぁまぁ。実弥、薫は先生の隊服の生地もらって、そこの部分は隠せるように縫い直すみたいだから…。今回は許してやれよ」

 匡近が言うと、実弥は「そうなのか?」と問い返しながら、前田の襟首を離した。

「そうだよ。お前、最後まで話聞かないで、ここに来るってどんどん行っちゃうから……」

 朗らかな笑みを浮かべて言う匡近を、前田は恨みがましく見上げた。

 

 ―――――そーいうこと、さっさと言えよ!

 

 前田の心の声が聞こえたのか、実弥は再びギロリと睨みつけて、ズイと顔を寄せた。

「どっちにしろ、テメェが最初からしっかり作っていれば済む話だろぉがよォ。エェ?」

「そ、そうですね」

 前田の額から汗が噴き出す。もう、ほとんどヤクザじゃん、この人。

 

「とりあえず、作り直して薫に送っておいてくれよ。頼むな」

 匡近はニコニコ笑いながら、ポンと前田の肩に手を置く……と同時に、ものすごい力で掴まれた。

「…ィ痛タタタタタタっ!」

「一応言っておくけど、今後こういうことしたら、いちいちこの男が文句言いに来ることになるよ。自分の身が可愛いなら、ちゃんと仕事しような」

「……は、はい」

 前田は涙目になりながら、狂犬と飼い主を見送った。

 

----------

 

 その後、前田は心底悔い改めて、二度と自分の趣味を全面に押し出したような隊服を制作しないようになった―――――かというと、さにあらず。

 懲りない前田の悪行は続いたのだが、その話はまた別のこと。

 

 

 

<閑話休題・隊服悶着 了> 

 

 

 




番外編でした。前田まさおと実弥の因縁コソコソ話でした。

次回より第二部開始です。



pixivにて、番外編終了後に作者の戯言を書いてます。(ハーメルンさんは小説以外NGだと思うので、掲載は見送りました。)
もし興味がありましたら、ご覧いただければ……でも、ご批判等は受けかねます。
生温かい目で見守って読んで下さい。
でもpixivでも禁止されたら削除になります。ご了承下さい。



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第二部
第一章 鬼遊び(一)


 京都での任務は、ある町で子供達の行方不明が続いており、その裏に鬼の存在があると思われるため、調査にあたることだった。無論、鬼がいることが確認できれば即座に滅殺することになっている。

 

 聞き込みをしたが、あまり判然としない。

 というのも、行方不明となっている子供というのが、多くは浮浪児、貧しい農村からやってきた丁稚(でっち)奉公の子供、あるいは親の管理があまり及んでいない殺伐とした家庭環境で育っていた子供が多く、いなくなっても誰もさほどに気にかけないのだ。

 

「どうせ、逃げてもぅたんやろ」

 行方不明になった丁稚について尋ねても、返ってくるのはそんな答えぐらいだった。

 

 捜索願が出ているのは、『若葉園』という孤児院からのものだけだった。

 兄弟二人がいなくなった、ということで捜索願が出ている。

 

 薫は話を聞くため、町の中心部からは少しばかり郊外にある、その孤児院を訪ねた。

 そこは元は寺所有のお堂であったらしいが、台風で半壊した後、身寄りのない子供達を引き取る施設として、地元の有志達の寄付により改築したらしい。

 

 応対してくれたのは、孤児院の院長である栃野(とちの)という男だった。

 四十半ば、あるいは五十ぐらいだろうか。両方の耳上に白髪の房があり、それ以外の部分にも幾分、白髪が混ざっている。目の下には隈ができていた。

 もしかすると実際にはもっと若いのかもしれないが、外見のせいか老けて見える。

 

 当初、まだ少女とも見える薫を、あからさまに胡乱(うろん)そうに見下した。

「嶋野町議からのご紹介です」

 薫は聞き込みする中で出てきた、この孤児院の有力寄付者の名前を出した。

 栃野はそれでも半信半疑であったようだが、とりあえずは慇懃に礼をした。

 

「それで、この…中村四郎くんと五郎くんがいなくなった事に心当たりは?」

 薫が尋ねると、薄い唇が片方だけ歪んだ。

「ここでの生活が嫌になったのでしょう」

 

「……なにかあったのですか?」

「特にありません。精一杯子供達のためにやっていますが、やはり親にはかないません。親が恋しくて出て行ってしまうのです。遠方に知り合いがいるという話もしていましたから、もしかするとそちらに向かったのかもしれません。いずれ戻ってくるか、連絡があるだろうと思って待っております」

 

 ここの子供達のほとんどは、数ヶ月前の水害で親を亡くしたのだという。親を亡くした直後よりも、今になってからの方が親を恋しく思うのは、有り得ないことではなかった。

 

 他にも町でいなくなっている子供達について聞いてみたが、さほどの関心はないようで、町での聞き込みと大差なかった。

 

 辞去して外に出ると、材木の積まれた空き地で鬼ごっこをしている子供達がいた。

 薫の姿を見つけるなり、駆け寄ってきたのは、おさげを結わえた女の子だった。

「院長先生のお客さんやぁ。もう、話終わったん?」

 くりっとした愛らしい目に、思わず薫の頬が緩んだ。

 

「終わったよ。鬼ごっこしてたの?」

「うん! なぁ、あのなぁ……ウチ、さっきからずっと聞きたいことあってん」

「なに?」

「あのなぁ……えと…お姉ちゃんは、もしかしてお兄ちゃんなん?」

「……え?」

 聞かれたことの意味がわからず、薫は固まった。

 

 おさげの子は薫の顔をじいっと見ながら、答えを待っている。

 その時、後ろから丸坊主の男の子がベシリと容赦なく女の子の頭を打った。

「失礼なこと聞いてんちゃうわ!」

「痛いやんけ! このアホマサ!」

 女の子はすぐに男の子にやり返す。

 

 遊んでいた他の子達もなんだろう、と周囲に集まってきた。

 薫は二人のケンカを唖然として見ていたが、だんだん可笑(おか)しくなってきた。

 笑い始めた薫を見て、二人はケンカをやめ、周りにいた子達もクスクス笑い始めた。

 

「もー、なんやのんよォ」

 おさげの子が顔を赤くして口をとがらせる。

 薫は膝を折ると、女の子の頭を撫でた。

「私は、女よ。すぐにわかるような格好をしてなくて、ごめんね」

 途端に女の子はニカッと明るい笑顔になった。

 

「ホラ見てみぃ! やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんやん!」

「えぇ? そうなん?」

 残念そうにつぶやいたのは、稚児髷(ちごまげ)の少しばかり年上の女の子だった。

 

「歌舞伎の役者さんみたいやし、格好ええ思てたのに……」

「……ありがとう」

 褒められているのかは微妙だったが、薫はとりあえず礼を言った。

 

 立ち上がって、ザッとその場に集まった子供達を見回すと、その少女はこの中では一番年上のようだった。

「名前を聞いてもいい?」

 薫が尋ねると、少女は「巳代(みよ)」と名乗った。

「巳代ちゃんも、若葉園にいるの?」

「うん、そう。ここにおるのんで、そうやないのは、そこの平次と、カツやんと、クニちゃん。あとは皆、若葉の子ぉよ」

 そこにいたのは全部で九人。つまり六人は若葉園の孤児達ということだ。

 

「中村四郎くんと、五郎くんのこと、聞いてもいい?」

「あいつら? ずーっと二人でおったで。二人でしかおらんかった。こないして遊ぶこともせぇへんし……何回か元の家に帰ろうとしとった」

「そう……」

 家が恋しくて、孤児院でも孤立していたのなら、あるいは栃野の云う通り、出奔してしまったとも考えられる。

 

「ここで、他に突然いなくなった子達はいない?」

「たっちゃん」

 丸坊主の子がボソリと言う。

 巳代は眉をひそめた。

 

「何言うてんねん。たっちゃんは引き取られた、て()ぅてたやんか」

「でも…そんなん…おかしいんや」

「ハァ? なにが?」

「たっちゃんに、親戚なんぞおらんもん! お()んもお()んも大水(おおみず)で流されたし、おじさんとこは皆、流行り病で死んでもうたって言うとったんやから」

「そんなん、他の親戚が来たんやろー」

「他の親戚なんぞ、おらへん。そんなん聞いたこともない」

「たっちゃんが知らんかっただけやろ」

 

 薫は丸坊主の男の子にやさしく問いかけた。

「たっちゃんと、仲が良かったの?」

 男の子はコクリと頷いた。

 巳代が後ろからあきれたように言う。

「コイツ、別れの挨拶もなしに行ってもうたー言ぅて、怒っとんねん」

 

「そう。それは寂しいわね…。他にも、引き取られていった子はいるの?」

「そら、いるよ。そうやなぁ……最初は全員で二十人くらいはおったと思うけど、落ち着いてきたらボチボチ親戚の人とか、あとは金持ちの人が可哀想やーって、もろてくれたりしはんねん。ほんで、今はウチらだけや。あ、ミツコはウチらと違うて、大水で引き取られたんとちゃうな。お母ちゃんが病気で()うなってもうて、ここに来てんもんな」

 おさげの子がコクリと頷く。先程の笑顔は消え、無表情になっていた。

 

「出てったり、入ってきたりしてるわ。院長先生も人がえぇから、頼まれたら断らはらへんしな」

 巳代は栃野に恩義を感じているようだった。

 

「みんな、院長先生のこと好きなのね」

 薫が言うと、小さな子供達はみな「うん!」「好き!」と口々に叫んだ。

 

「院長先生、いつも寝る時にご本読んでくれるし!」

「ごはんもいっぱい食べたらいいんだよ、って大盛りにしてくれるし!」

 

 子供達が笑顔ではしゃいでいるのを、薫は懐かしい気持ちになって見ていた。

 昔、こんなふうにきゃらきゃらと、弾けるような笑い声に満ちた時間があった……。

 

「みんな、そろそろご飯の時間だよ」

 背後から男の声が響く。栃野だった。

 薫が子供達と愉しそうにしていることに、少しは警戒がとけたのだろうか。微笑を浮かべていた。

 

「森野辺さん、でしたか? 今晩はこちらにご逗留ですか?」

「えぇ」

「もう、宿はとられましたか?」

「いえ。まだです」

「では、こちらでお泊りになってはいかがです? といっても、子供達と一緒に寝てもらうので、ゆっくりできないかもしれませんが……」

 

 まだ、調査は続けなければならない。

 それに、子供のことは子供に訊くのが一番いい。

 

「では、お言葉に甘えてよろしいでしょうか?」

 薫がそう言った途端、子供達は歓声を上げた。

 

「お姉ちゃん、ウチの隣で寝てぇな!」

「あかん! アンタなんかすぐに寝小便たれるくせに」

「俺も横で寝たい! 姉ちゃん、本読んでくれる?」

 

 子供に囲まれて戸惑いながらも、笑っている薫を、栃野は嬉しそうに見つめていた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第一章 鬼遊び(二)

▼残酷描写、ややあります。



 若葉園の食事は町に住む老女達が通いで作りに来てくれるらしい。

 いかにも関西らしい薄い味付けではあったが、かといって物足りないというほどでもない。

 

 特にこの辺りでしか採れないという壬生菜(みぶな)の漬物がおいしかった。時間があれば自分でも漬けたいが、もちろんそんなことは無理だろう。

 

「――――では、栃野(とちの)さんは、元は学校の先生だったのですか?」

 薫が尋ねると、栃野は頷いた。

「といっても、二年ほどです。すぐに辞めましたから」

「……理由を伺ってもよろしいですか?」

「教師は私一人ではありませんのでね……子供達はかわいいですが、周りにいる大人を相手にするのは、疲れるものです」

 食後のお茶を飲みながら、栃野は苦笑いを浮かべた。

 

 巳代の云う通り、『人の好い』栃野であるならば、人間関係が嫌になって、教師という羨望される職業であっても離れることはあるのかもしれない。

 

 子供達がお風呂に入っている間、薫は食堂の中にある絵を見ていた。

 廊下のドアから入った右手に、壁一面を覆うかのようにある、大きな絵だ。学校の運動場が描かれている。

 右隅にサインがあり、「トチノ」とあった。どうやら栃野の描いたもののようだ。

 

 やわらかな日差しの中で、子供達が元気に遊び回っている。中央よりもやや隅の方に、満開の桜の木があり、風に花びらが舞っていた。

 

「……………」

 技術的には上手だと思うのだが、正直なところ、その他の感想が思い浮かばない。千佳子の描く絵などは、あのたおやかな容姿に似合わず、どこか豪放で奔放な伸びやかさを感じたのだが。

 

「森野辺さん」

 背後から声をかけられ、なぜか薫はギクリとした。

 栃野がにこやかな笑顔を浮かべて立っている。

「その絵、興味がありますか?」

「あ……いえ、お上手だと」

 

 栃野は薫の隣に立つと、愛しそうに絵を撫でた。

「子供達が元気に遊び回る姿を描きたくて……ね」

「そうですか」

「あなたも一緒に、遊んでもらえるとありがたいですよ」

 薫は、どう答えればいいのかわからなかった。何も言えずにいると、ドアを開けて巳代に呼ばれた。

 

「森野辺さぁーん、あの子らよぅやっと上がったしぃ…お風呂一緒に入ろう」

「あ…じゃあ、お先に」

「どうぞ」

 栃野に促され、薫はその場を立ち去った。

 奇妙な感覚がする。チリチリと何かが神経を刺激している………。

 

------------

 

 風呂から上がって二階の子供達の部屋へと向かうと、栃野が小さな子供達に本を読んでいた。

 子供達は栃野の隣に座ったり、足元に寝転がったりしながら、めずらしい外国の昔話を聞いている。

 

「おかしの家なんていいなぁ……」

「俺、饅頭をたらふく食うぞ」

 どうやら、ヘンゼルとグレーテルの話だったようだ。

 薫も初めて読んだ時には、このお菓子の家というのに夢中になったものだ。

 

「さぁ、もう寝る時間だ」

 栃野は本を閉じると、「おやすみ」と皆に告げ、灯りを消した。

 

 子供達は布団の中に潜り込む。栃野は一人一人の子供達の頭を撫でて、ドアから出て行った。

「栃野さんは一緒に寝ないの?」

 薫が尋ねると、巳代が答える。

「まだ仕事があるみたい。いつも院長先生は皆が寝静まってからしか寝はらへん」

「そう…」

 

 その後も子供達は薫のうろ覚えのグリム童話を聞きながら、徐々に声は少なく、小さくなってゆき、やがて皆が眠りについた。

 窓の外を三日月が照らしている…。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 誰かの話し声が聞こえる…。

 

 ぼんやりした意識の中で、ドアがバタンと閉まる音がして、ハッと目を覚ました。

 反射的に布団の下に隠した刀をとって、辺りを見回すと、斜向いで寝ていたおさげのミツコの姿がない。

 厠だろうか。しかし、幼い子供が夜中に一人で行くのは勇気がいるだろうに…。

 何となく気になって、薫は手早く隊服に着替えると、そろりと子供部屋の外へと出た。

 

 廊下には電球が一つだけ灯っている。

 耳を澄ますと、下からボソボソと話し声が聞こえた。食堂だろうか?

 確かここは食堂前の廊下の真上。子供部屋は食堂の真上だ。

 

 薫は音をたてぬように、そろそろと階段を降りた。

 おかしい……。こんな時間だというのに、食堂には明かりが点いている。閉め切られたドアの隙間から光が漏れ出ていた。

 

 そうっと近寄り、食堂のドアを開けようとした刹那、小さな悲鳴が一瞬だけ聞こえ、すぐに消えた。

 ドアを開けて、中を見回すと、誰もいない。

 白熱灯の明かりがガランとした食堂を寂しく照らしている。

 

 薫は刀の柄に手をかけながら、ゆっくりと進んだ。

 二つあるテーブルの、絵に近い方のテーブルの上に何かが置いてある。

 

 近寄ってよく見ると、それは手鏡だった。手の平よりもやや大きいくらいの、なんの変哲もない、木の枠の手鏡。

 墨で何か書かれていたが、擦れて薄くなっていて読めない。

 所々、『…世…極……謹製』とある。意味不明だ。書かれている言葉も、なぜこんなものがここにあるのかも。

 手にとって裏返すと、これまた、ただの鏡だった。

 照明の影になった自分の暗い顔が映っているだけだ。

 

 だが突然、顔が奇妙に歪んだ。同時に眩暈を起こしたような錯覚に陥る。

 ズズズと足下が沼に沈んでいくかのようだった。足を踏みしめているのかどうかわからなくなる。

 歯を食いしばり、柄を掴んで、いつでも抜けるように構えた。

 

 だが次の瞬間、薫の足は地面の上にあった。

 瞬きの間に、暗かった夜が明けたのか…?

 

 やわらかな日差しの下、満開の桜の花びらが吹雪いて舞っている。

 あまりにものどかな光景に、唖然となる。自分は一体どこに来たのだろうか。

 

 歩き出して先へと目を向けると、だだっ広い広場で子供達が遊んでいる。いや、これは運動場か?

 キャーキャーと騒ぎながら、鬼ごっこでもしているのか、子供達が走り回っている。

 

 ―――――幻影?

 

 意味がわからず、呆然とする。

 

 頭を整理する必要があった。自分はさっきまで何処にいた?

 そう。食堂だ。真夜中の食堂にいた。食堂には何があった?

 手鏡と……絵。

 

 その光景が絵の風景と結びつくと同時に、目の前で鬼ごっこをしている子供達が本気で逃げていることに気付いた。

 

 ミツコが泣きながら逃げ惑っている。他の子達も。

 追いかけているのも子供に見えた。だが、よく見ればその青黒い肌と、体格に似合わぬ大きな手は、どう見ても尋常な姿ではない。

 薫が刀を抜いて駆けようとしたところに、後ろから肩を掴まれた。

 

「物騒なものをお持ちだ」

 栃野が少しだけ笑みを浮かべたまま固まった顔で言う。

「あなたも一緒に遊んでくれますか? きっと、喜びますよ。子供達も」

 

 子供の悲鳴が聞こえる。

 薫は刀の柄で栃野の手を打つと、鬼に向かって走り出す。

 視線の先で、小鬼の大きな手がミツコの頭を掴む。

 薫は跳躍した。

 

 鳥の呼吸 壱ノ型 鷹隼空斬(ようしゅんくうざん)

 

 首を狙ったが、鬼は敏捷に避けた。

 ミツコを掴んでいた腕だけがスッパリと斬れた。

 

 ギィヤヤヤァァ!!!!!!!!!!!

 

 その幼く、甲高い悲鳴は、本当に子供のようだった。

 

 次の動作へと移ろうとしたときに、パーンという乾いた音が鼓膜に響いたと思ったら、右肩に鈍い痛みが走る。

 

「…ぐっ!」

 撃たれたらしい。血が見る間に広がっていく。

 後ろを見ると、栃野が拳銃を構えていた。

 

「一体……」

 栃野はひくひくと頬の肉を痙攣させながら、薫に近寄ってくる。

「どうして勝手にあなたは入れたのかな? 私が連れて行く前に。鬼殺隊の人というのは、そういう能力がおありなんでしょうか?」

 

 栃野の口から『鬼殺隊』の言葉が出て、薫はギリと奥歯を噛み締めた。

 薫が来たときからわかっていたのだ。

 罠にかかったらしい。

 

「あなたは…なにをしている?」

 肩の銃創を押さえながら、薫は栃野に問いかけた。

 栃野は冷笑する。

「なにを? 子供達が遊んでいるのを見守っているのですよ。邪魔をしないでもらいたいな。せっかくいい天気の下で、鬼遊びをしているというのに」

 

 薫はハッとして振り返った。

 鬼はすでに腕を再生して、子供達に襲いかかろうとしている。

 

 再び走ろうとすると、栃野が再び銃を構える。

「あまり無駄撃ちをさせないでくださいよ。手元が狂って、あなたの心臓に当たっても知りませんよ」

 

 薫はギリと奥歯を噛みしめると、態勢を低く落とし、一足飛びに栃野の前に移動した。

 咄嗟のことに驚く栃野の顎に掌底を打ち込む。

 ウグッ、と呻いて栃野は倒れ込み、その様子を見ることもなく、薫は鬼の方へと向かう。

 

 今しも掴もうとしていた子供と、鬼の間に割り込むように入ると、鋭い一閃が首を斬った。

 呆気なく、首は落ちた。

 頭が地面に転がり、ボゥとした目で鬼は薫を見た。紅い目が、凝視している。

 

 おかしかった。

 鬼は一向に塵となって消えない。

 

 薫は天を見上げた。そもそも、こんな太陽が燦々と照る中で、鬼を見ること自体、おかしなことだ。

 

 ここは何だ? 栃野の描いた絵の世界なのだろうか? この鬼は、異能の鬼なのか? 鬼の血鬼術の中なのか?

 

 疑問符は無数にあるが、ゆっくり考える間はない。

 後ろを一瞥すると、走ることに疲れ切った子供達が地面にへばっている。

 その中にはもう、動きそうもない子もいる。

 さらによくよく見れば、隅の影になっている場所には、髑髏がいくつも転がっていた。

 

 この中で、子供達を殺して喰っていたのか………。

 

 今は亡くなった命に冥福を祈る暇すらない。

 なんとしても、生きている子供達を救わなければ。

 ここを出なければならない。この子達とともに。

 

 目の前で鬼はゆっくりと起き上がり、てくてくと歩いて頭を拾い上げると、まるで帽子をかぶるかのように首の上に頭をのせて、調整していた。

 薫は再び鬼の胴を払い、再生したばかりの首を斬った。やはりなんの手応えもない。それでも時間稼ぎにはなる。

 

 考えろ。

 この間に。

 自分はここに来る前、どこにいた? 何を見ていた?

 食堂で見た絵と………鏡。

 

 ―――――どうして勝手にあなたは入れたのかな? 私が連れて行く前に。

 

 栃野の言葉を反芻する。

 つまり、この世界に入るための何かを栃野が持っているのか?

 

 確信がないまま、気を失っている栃野のもとへと急ぐ。

 上着のポケットを漁ると、食堂で見たのと同じ手鏡が出てきた。鏡の向こうには誰もいない食堂が映っている。

 

 正解かどうかはわからない。

 答えを出すのは自分しかいない。

 

 鬼は再生した。また、子供達を襲い始めるだろう。

 もしかすると、場合によってはこの世界に閉じ込められる危険もある。

 

 だが―――――迷っている暇はない!

 

 薫は刀を鏡に突き立てた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第一章 鬼遊び(三)

▼今回、残酷描写ややあります。



 ビシイイィッィッ!

 

 鏡が割れると同時に、地面が揺らいだ。ぐにゃりと、また視界が歪む。

 眩暈に似た気味の悪さが喉元から溢れそうになる。

 引力の重さを感じて、薫は現実に戻ったことを確信した。

 

 食堂は真っ暗になっていた。

 窓ガラスがすべて割れている。血鬼術を破ったからだろうか。

 食堂のあちこちから、子供達のすすり泣く声が聞こえる。

 

「なにー? どぉしたん?」

 のんびりした巳代(みよ)の声が響いた。燭台を持って立っている。

 

 薫は立ち上がった。栃野(とちの)に撃たれた肩を押さえていたが、ふと見れば、そこには何の痕跡もなかった。血に染まったと思った隊服も、なんの損傷もない。

 なんとなく痛みだけが残っている気もするが、怪我がないのだから、痛くないはずだと思うと、不思議と痛みが引いていく。

 あの絵の中のことは、すべて夢だというのか? いや―――――

 

「巳代ちゃん」

 薫が声をかけると、巳代がビクリとしながらも振り返る。

「なんよぉ、森野辺さん。おりはらへんから、お小水にでも行かはったんかと思うたら、こんなトコで何しよんよぉ」

「私がいなくなって、探しにきたの?」

()ゃうよぉ。いきなりガシャーンってすごい音がしたから、みんなびっくりして起きたんよぉ。ゾロゾロ歩いたら先生に怒られるかもしれへんから、ウチが様子見に来てん」

 その音はおそらく食堂の窓ガラスが割れた音だろう。

 

 薫は巳代の前に立つと、真剣な顔で頼み込んだ。

「巳代ちゃん、皆を連れてここから逃げて」

「へ?」

 巳代が聞き返し、ふと薫の持っている二本の刀に気付いた。

 

「森野辺さん…それ」

 薫は巳代が怯えた表情で、まじまじと刀を見るのをみて、グッと柄を握りしめた。

「ごめん、巳代ちゃん。今は説明している暇がないの。とにかく、皆を連れて出て!」

「えぇえ?」

 巳代が躊躇(ためら)っていると、突然、ドクンと何かが脈動する音が響いた。

 

 反射的に音のする方へと目をやると、そこにあるのは栃野の書いた絵。

 昼の運動場の絵。

 今やそこに描かれているのは、泣きながら逃げ惑う子供と、追いかけ回す青い鬼。隅に転がる髑髏。

 

 ドクン、ドクンと重く、低く、脈打つ絵。

 薫は刀を構えると、絵に刃を突き立てた。

 

 ヒャアアアァァァ!!!!!!

 

 絵から耳をつんざくような叫び声があがる。

 巳代は耳に手を押し当てて、真っ青になった。

 絵の枠から血が流れ出し、徐々に床に広がっていく。

 

「巳代ちゃん! お願い! 早く逃げて! 皆と一緒にここから…この建物から逃げて!」

 薫が叫ぶと、巳代は震えながら頷き、近くにいたミツコを抱きかかえた。

 子ども部屋で待っていられず、食堂に様子を見に来ていた子供達もまた、戸惑いながら玄関へと向かっていく。

 

「みんなアァ! 逃げるんや!! 上に残ってる子ぉも、早よ来ぃい! 逃げるでぇっ」

 廊下に出ると、巳代は上に向かって呼びかけた。

 バタバタと子供達は走って行く。

 

 薫は刀の先で、ビチビチと何かが蠢くのを感じていた。そのままゆっくりと刀を引き下ろす。絵が徐々に切り裂かれて、血が溢れ出す。

 

 ギャアアアアァァァ!!!!!

 

 いきなり刃の向こうの重さが消えたと思うと、あの青い小鬼が絵からヌゥと現れ、薫が斬りかかる前に俊敏な動きで飛び出た。そのまま窓を蹴破って外へと跳躍する。

 

 薫もまた、鬼の後を追った。窓から出て、地面へと降り立つ。

 既に鬼は身軽にピョンピョンと飛び跳ねながら、逃げていく子供達を追いかけている。

 

 薫は走った。スゥゥゥと息を吸う。

 今度こそ、片付ける。今度こそ、鬼を()る。

 

 低い態勢で構えたときに、銃声が響いた。

 

「うっ……つッ……」

 熱さと痛みが左脇腹とふくらはぎにはしった。その痛みはさっき絵の中で栃野に肩を撃たれた時のものと似ていたが、今度は確実に傷を負った。

 

 あの血鬼術の中では、薫も栃野も誰も傷つけることはできない。あの絵の中で殺傷能力を持ち得るのはあの鬼だけなのだろう。

 

 一旦、倒れそうになりながらも、薫はすんでのところで踏みとどまった。痛さにクラクラしながらも、走り出す。

 

 パン、パンと栃野はまた撃ってきたが、狙われないように、右に左にと直線にならぬよう不規則な軌道で走ると、弾は狙いが定まらず地面に吸い込まれるだけだった。

 やがて弾切れしたらしい。

 

正春(まさはる)ーーッ、逃げろぉぉっっ!!」

 栃野が叫んだ。

 薫はグッと奥歯を噛み締め、深く息を吸った。

 

 鳥の呼吸 肆ノ型 円環狭扼(えんかんきょうやく)

 

 二つの刃が交錯して輪を作り出すと同時に、それは鬼の首を捉え、そのまま縊り殺すように狭まっていく。

 捩じ切るように鬼の首が飛ぶ。

 

「うあああああぁぁぁぁ!!!!!!!」

 背後から栃野の絶叫が聞こえる。

 

 薫は足元に転がった鬼の首を無表情に見ていた。

 鬼は今度こそ灰となって消えていこうとしていた。ふと―――目から涙がこぼれた。

 

 薫はピクリと眉をひそめた。

 鬼の涙。

 鬼のくせに泣く? 鬼ごときが、泣く? いったい、なんの涙だ…?

 

「………う…さん……た……すけ……」

 微かに、鬼がそう言うのを聞いた。

 誰に向かってか、伸ばした手に薫は刀を突き立てた。この期に及んで命乞いをするなど、鬼に許されるものではない。

 

 栃野がフラフラと歩いてきて、わずかに残っていた鬼の太腿の部分に手を伸ばす。だが、それは触れる前に灰と消えた。

 

「………人殺しめ」

 栃野がつぶやく。「よくも私の息子を殺したな」

 薫は栃野を睨みつけた。

 

「私が殺したのは鬼だ」

「鬼だから何だというんだ。この子は私の息子だ。私のかわいい正春だ。ようやく用意してあげられたんだ。陽のあたる場所でも、皆と楽しく遊んでいられるようにと……毎日毎日、楽しく遊び回っていたというのに、何てことを…お前は子供達の遊び場を汚したのだ………」

 

「…………」

 すべての事情が明らかになった訳ではない。だが、おおよそわかったことがある。

 

 この男は、外道だ。人でない。

 

 鬼となった息子のために、子供達を『与えていた』のだ。遊び相手として、そして……食料として。

 

「鬼になった息子のために、子供達を喰わせたのか?」

 薫は爪が皮膚にめり込むほどに強く拳を握りしめた。軽蔑と嫌悪もあからさまに、低く問いかけると、栃野はハハと渇いた笑い声をあげた。

 

「うるさい! あいつらには、悲しむ親もいないんだ! むしろ親と同じ天国で今頃楽しく暮らしていられるんだ! 何が悪い!?」

 その理由を聞いた時、薫は心底虫酸が走ると同時に怖気で身体が慄えた。

 

 いつの間にか傍にやってきていた巳代が呆然として栃野を見ている。

 栃野は何も見えていなかった。何も見えず、聞こえず、自分の哀しみに慟哭して、毒を吐き散らかす自身をも見えていない。

 

「正春は、生きなければならないんだ。苦しみながら、生きている息子のために、親なら、何でもしてやる。なんでもしてやるのが親だろう! 貴様のような小娘にわかるものか! 目の前で苦しむ子供を見て、何もしてやれない親の気持ちがわかるかアァァ?!」

 

「……もういい」

 薫は吐き捨てるように言ったが、栃野はやめない。

 恍惚とした表情で、誰に向かって語りかけているのか、陶酔したように喋り続ける。

 

「正春は、ようやく友達と一緒に鬼ごっこができるようになったんだ。あの子の笑顔のためだ! 何が悪い? 孤児など、誰にとっても厄介なだけだ! 生きていく意味などない!! あの子さえ生きていてくれれば……」

 

 支離滅裂な言い訳をこれ以上聞くことは苦痛だった。

 栃野の首に手刀を叩き込む。ぐぅ、と呻いて栃野は再び気を失った。

 

 目覚めた時、この男はどうなるだろうか。自分の罪の重さを知り、自己嫌悪と罪悪感に慄えるのか。それともこの自分勝手極まりない論理を持ち続けるのか………。

 

 倒れ込んだ栃野の手から、懐中時計が転がり落ちていた。開いた蓋の中に、小さな写真が貼り付けられていた。

 家族写真だった。若い感じのする栃野と、おそらくは妻であろう和服姿の女性、それに椅子に座った十歳ほどの男の子。

 栃野の笑顔は変わらない。妻は少し緊張しているのか表情が強張っている。男の子は暗い顔をしていた。どこか投げやりな、悲しげな、子供らしからぬ表情だ。

 

 ―――――………う…さん……た……すけ……

 

 消える前に鬼がつぶやいた言葉。

 

 ―――――父さん、助けて?

 

 馬鹿な。鬼が人間に助けを求めることなど、あるものか。

 

 眉根を寄せて考え込む薫の後ろから、巳代が硬く固まった顔のまま呟いた。

 

「先生、病気で()うなった息子さんがいてはったんやて」

 巳代は着ていた羽織を気を失った栃野にかけた。

「奥さんも息子さんのことで自殺しはって、先生は一人ぼっちにならはって、きっと寂しいやろから……みぃんなで先生のこと慰めたろぅて……言うて、たんやけど、なァ……」

 ハラハラと涙を流す巳代を、薫は抱きしめた。

 

 こんな小さな子供達がやさしく差し伸べた手を、どうして無下にできたのか。 

 

 ―――――なんでもしてやるのが親だろう!

 

 反吐が出そうだ。親の愛情だと、栃野の言うそれが、気味の悪い執着にしか思えない。

 

 ―――――………う…さん……た……すけ……

 

 あれは…本当に栃野に向かって、助けを乞うていたのか? 或いは、息子もまた、この男の執着(エゴ)の犠牲者だったのではなかろうか?

 

 鬼殺隊は鬼を殺す。人を守る。

 だが、鬼は息子だったのか? 本当の鬼は………この男ではないのか。

 

 腕の中で泣き続ける巳代に、薫は祈るように話しかけた。

「巳代ちゃん。巳代ちゃん達の気持ちは、間違いじゃないから。やさしい気持ちを持つことを、恐れないでね。世の中には、きっとやさしい大人もいるから。裏切られても、傷ついても、その気持を忘れないでいてね………」

 

 薫は昔、自分に字を教えてくれた銀二のことを想った。

 ()さぬ仲の自分をやさしく抱きしめてくれた養母(はは)のこと想った。

 学校に行かせてくれた播磨屋の女将。

 いつまでも心を開かぬ自分を辛抱強く待ち続けてくれた養父(ちち)

 不幸だった薫の幼少期に同情して、ひとときであっても家族としての愛情を与えてくれた志津。

 実の父との確執をおくびにも出さず、ピアノを教えてくれていた千佳子。

 頑固な薫に根負けして、それでも鬼殺の剣士として育ててくれた東洋一(とよいち)

 

 いろんな人が、まだ短い薫の人生の中で、助けてくれていた。

 きっと巳代にも、ここにいる子供達すべてに、そんな出会いは待っているはずだと……信じてほしかった。

 

 暗然とした気持ちを抱きつつ、薫は皓々と照り輝く月を見つめた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第一章 鬼遊び(四)

▼今回、残酷描写あります。



「あぁ……お願い、お願いします。どうか息子を……」

 その夫婦は白く冷たくなっていく息子を抱きしめて、必死で祈っていた。

 万世極楽教で買わされた効果などまったくない手鏡をこすって、こすって……。

 

 ―――――無駄なのに。

 

 童磨はクスリと笑い、扇を口に当てる。

 

「可哀想にねぇ……もうすぐ死んでしまうねぇ」

 楽しそうに言うのに、夫婦は涙を湛えたまま、縋り付く。

 

「どうか…お願いします」

「ご教祖様、どうか……正春をお助け下さい」

 額を畳にこすりつけ、もはや死にゆく息子の姿を見ていたくもないらしい。

 

「死なせたくないなら、道がないこともない」

 ガバッと夫婦は顔を上げる。

 希望に恍惚となった表情は、半ば狂っているようだ。

 

 童磨はにっこりと笑った。

「そうだね。じゃあ、とりあえず奥さんを貰おうかな」

 

「え?」

 女はきょとんとして、童磨を見つめた。

「奥さんを僕にくれたら、どうにかしてやらないこともないよ。どっちにする? 息子か、妻か?」

 

 男はポカンとしながらも、迷うことなく言った。

「息子を助けて下さい」

 

 女は呆然として男を見つめる。視線に気付いた男が女を凝視した。

「どうした? 当然だろう? 正春(まさはる)を助けるためだ」

「……あ…あぁ……そ、う…です…ね」

 女は消え入りそうな声でつぶやき、不安気に童磨を見た。

 

 童磨はにっこりと笑って、立ち上がると、寝たきりになっている少年の側に腰を下ろした。

 眠っているか、意識が失くなっているだろうと思っていたのに、少年は目を見開いていた。しかも、童磨を睨みつけていた。

 

「へぇ……割と生命力あるんじゃないの?」

 面白くなって、童磨は少年に語りかけた。

「……ぅ…る……さ」

「ハハッ、ハハハハハハハ!!!」

 楽しい。こんな弱い生き物が自分に怒っているなんて。もう、怒鳴りつけるだけの力も残っていないくせに。

 

「君を助けてくれって、ご両親が泣きながら懇願されるんだもの……頑張って生きてみたら?」

「………い……ら……な…」

 少年が言い終わらない内に、童磨は彼の額に爪を当てる。

 ズクリ、と皮膚の中に爪がめり込み、血が細胞の中に流れ込んでいく。

 

「う……あ……あ……」

 少年の身体がビクビクとのたうち回るのを、男の方は嬉しそうに見ていた。

「見ろ! 見ろ! ご教祖様が正春を助けてくださるぞ!」

 しかし、女には息子が苦しんでいるとしか見えない。

「やめて! 正春が苦しがってます!」

 童磨の肩を掴み、止めようとする。

 

「あぁれぇ? どうするの? やめていいの?」

 童磨が額から手を離しても、少年の身体はピクピクと震え、わなないている。

「この……馬鹿!」

 男は女の頭を掴むと、後ろに投げ飛ばし、すぐさま襟首を掴んで、頬を張った。一回、二回、三回。

 

「ご教祖様が治して下さろうとしているのに、なんで邪魔をする!?」

「だって……正春が苦しがって!」

 童磨は大きな溜息をついた。

「とりあえず、落ち着いたんじゃないの?」

 

 さっきまで苦しそうに息していた少年は、今は顔は白いままだが、落ち着いた呼吸になっている。

 男は少年の側に駆け寄ると、目の前でニコニコ笑っている童磨に、再び額を畳に擦りつけて、何度も礼を言った。

 

 童磨は扇を掲げると、あくまでもやさしい口調で男に言った。

「これはまだ完璧じゃあないよ。でも、完璧になった後のために……そうだね。予め、餌を用意しておいた方がいいかな?」

「…餌?」

「そう。元気になったらね、とてもとてもお腹が空くんだよ。だからさ、貴方(あなた)、この子が可愛いなら、食餌(しょくじ)の用意をしてあげないと。親でしょ?」

「……は、はい」

 

「なるべく…そうだな。子供なんかいいんじゃない? 親のいない子供」

「子供?」

「河原とか、下町にはそういうの、いっぱいいるでしょ? あ、シラミだらけのを食べるなんて気味悪いだろうから、一応、綺麗に洗ってから、持ってきてね。多ければ多いほどいいけど、一気に行方不明になったら目立つから……って、貴方なら奴らも気づかないか」

 童磨は一人で納得し、男に命令する。

 

「そうだな…今日のところは五人くらいで()つかな? 五人、子供を連れてきてよ。あぁ、あんまり小さいと足りないよ。この子と同じくらいか、この子よりは大きい子を連れてきてねぇ」

 男は訳がわからない様子だったが、童磨がチラと息子の顔を見て、

「早くしないと、また死にかけるかな…?」

と、つぶやくのを聞くと、あわてて立ち上がり、部屋を出て行く。

 

「あ、奥さんはもらうから。いいよねー?」

 後ろで童磨が叫んだのにも気付かなかった。

 

 女はようやく苦しみのとれた息子の顔を愛しそうに撫でながら、ハラハラと涙を流した。

「正春、よかったわね……もう、苦しくないわね」

 

「うん。もう苦しまないよ」

 言うなり、童磨は後ろから女の背に手を刺す。

 女には何が起こったのか、わからなかった。ただ、有り得ないことが起こっている。

 自分の胸の間から、童磨の白い手が血に塗れて突き出ている。

 

「う……ぐ……」

 女は必死に後ろを見ようとするが、ぐりんと童磨の腕が回って内臓を掻き出した。

 ぐらん、と女の首が垂れた。

 メキメキと手慣れた様子で関節の骨を折っていき、童磨は裂かれた皮膚から飛び出た肉を喰らい始めた。

 

「……まぁ、本当はもっと若い()の方が美味しいけど……悪くないよ」

 独り()ちながら、骨を割り、肉を裂き、血を啜る。

 

 隣で奇妙な音がすることに気付いた少年が、うっすらと目を開ける。

「……あれ? 起きた?」

 童磨はちょうど女の首から大量にこぼれ落ちる血を吸っているところだった。

 

 少年はその女の顔を見るなり、ヒクッと喉から慄えるような音を出した。

「……母さ……ん」

 

 手を伸ばしたその先で、不意に現れたのは、冷たい面差しの男だった。

 自分と同じ、白い顔をしている。だが、人間でないとすぐにわかった。切れ長の双眸は紅く、薄暗いこの部屋で、獣のように光っている。

 

「あれれれ? 無惨様、まさか来ていただけるとは」

 童磨はあわてて女の顔を放り出し、身体を向こうに押しやった。

 

「……お前が弱者を憐れむとは珍しいな、童磨」

 言いながらも、無惨と呼ばれる男は少年だけを見ている。童磨には目もくれなかった。

「あぁ…いえ、面白いと思って」

「……フン」

 無惨は鼻をならして、冷たく言った。

「貴様はつまらないが、確かに面白い拾い物をする」

 童磨は「ひどいな~」と肩をすくめると、無惨から離れた。

 

「……生きたいのか?」

 問いかけられ、少年は奥へと行ってまた母親を食べ始めた童磨を睨みつけた。

「あいつ……殺す」

 

 無惨はチラと童磨を見遣り、柔らかく少年に微笑みかけた。

「アイツを殺したいのなら鬼になるしかないぞ」

「………鬼?」

「そうだ。母親の(あだ)を討ちたいのか?」

 少年が頷くと、無惨はさっき童磨が爪を押し当てたのと同じように、額に手を当てた。

 ヒンヤリとしたその手が心地よく感じた次の瞬間に、身体中の血が沸騰したかのように熱く、神経を引き裂く痛みが走る。

 

 少年は絶叫し、次に目覚めた時には『母』という存在すら忘れ、目の前にあった人間の子供を貪り食った。

 

 青い小さな、元気な鬼となった息子を、栃野(とちの)は愛しげに見つめていた。

 美味しそうに、自分が連れてきた子供を喰っている。あんなに食欲もなく、死にかけていたのに、なんて必死になって食べるのだろうか。

 

 嬉しい…。

 

「お父さん、これからもこの子の為に食餌を用意しておあげ。この子は太陽が照ってる間は動けない。子供達は昼の方が外にいるんだし、貴方の方がよっぽど動きやすいから、手に入れるのも簡単だ」

 童磨が慈悲深い笑みを浮かべて言うのを、栃野は平伏して聞き入った。

「ありがとうございます。教祖様。きっと、きっと息子を守ります」

 

 童磨の几帳の後ろで、無惨は人としての知能すらも失くした少年に溜息をついた。

 

 ―――――つまらぬ。童磨を倒して上弦にでもなれば、面白かっただろうに。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第二章 隊務と休息(一)

 栃野(とちの)に撃たれた脇腹と足の傷は思っていたより深刻な状態らしく、完治するまでしばらくの休息をとることを命じられた。

 最初の任務でとんだヘマをしたものだと思う。鬼にやられたのではなく、人間にやられたのだから。

 

 あの後、栃野は誰もいなくなった建物の中で、息子を探し回って徘徊していたところを警察官によって保護され、今は精神病院へと送られた。

 子供達は分散して各所の保護施設に引き取られ、巳代(みよ)は年齢も上だったので、商家の下女として働きに出ることになったらしい………というのは、もっと後に巳代からの手紙で知った。

 

 任務の後、銃創による出血が止まらず、隠の手によって応急手当を施された後、藤家紋の家に収容された。

 かつて鬼狩りに命を救われ、以来、鬼殺隊の隊士であれば無条件に受け入れてくれる家。それは各地にある。

 信州の加寿江の家もまた、その係累なのだと以前に聞いた。

 

 薫を受け入れてくれたのは、四十歳ぐらいの主人とその妻、子供が四人いる一家であった。

 長男と次男はすでに高等学校、中学校に行っていて落ち着いた様子であったが、長女と次女はまだ尋常小学校の四年と三年ということで、いかにも子供らしく騒がしく、楽しそうで、あふれる好奇心を隠そうともしない。

 

「隊士さんのお名前は?」

 鬼殺隊は、ほぼ男ばかりなので、よっぽど女の鬼殺隊士が珍しいらしい。

 

「森野辺薫といいます」

 薫が微笑んで答えると、二人もニコッと笑う。

「私はみやこ」

「私はかえで」

 

 それからは互いに名前で呼び合うようになったから、自然と気安い仲となった。

 傷が治るまで、薫は少女達の勉強を見てやったり、かるたやすごろくで遊んだり、近くの山に山菜を取りに行ったり……と、およそ鬼殺隊士らしからぬ穏やかな日常を過ごした。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「薫はん、ピヤノ、弾いてェな」

 みやこは自分の稽古のお浚いが終わると、後ろを振り返り、演奏を聞いていた薫にねだった。

「わたしも聞きたい!」

 隣に座っているかえでも歓声を上げる。

「そんなに弾けないんですよ……」

 薫は困ったように言うが、二人は「それでもいいから!」と声を揃えて懇願する。

 

 この家は数寄屋造りの立派な和風建築の屋敷であったが、みやこがピアノを習っているので、その部屋だけ畳を剥いで、黒いグランドピアノを置いていた。

 

 たまたま二人に案内されてそのピアノを見つけた時に、思わず懐かしくなって少しだけ弾いて見せて以来、毎日、みやこの稽古が終わると薫が弾くことになってしまっている。

 半分は仕方なく、半分は自分でも楽しみで、薫は鍵盤の上に指を乗せると、ゆるやかな旋律を奏で始めた。

 

 もうピアノを触らなくなって数年が経つ。だんだんと弾ける曲は少なくなってきていた。

 頻繁に練習をしていないと、指がなめらかに動かなくなっていくからだ。今の薫の状態を見たら、千佳子は頭を抱えるだろう。

 

 それでもこの家で毎日弾きこなしている内に、少しだけ勘が戻ってきたようにも思う。楽譜を借りて懐かしい曲を復習するのは、初任務での憂鬱を少しは晴らしてくれた。

 本当に救い難い、後味の悪い任務だった……。

 

 久しぶりにシューマンの子供の情景からいくつかの曲を選んで弾いていると、ヒョッコリと奇妙な風体の男が顔を出す。

 

 入れ墨か何かだろうか?

 赤い木の実のような模様が左目の周囲に施されている。頭にはガラスなのか、宝石なのか、透明な石を埋め込んだ鉢金(はちがね)のようなものをしていた。

 

「なんだ、俺以外に隊士がいるって聞いて来てみりゃ、女が洋琴なんぞ弾いてやがる」

 縁側で腕を組んだ姿は、仁王像を思わせた。羨ましいほどに筋骨隆々とした逞しい姿だった。

 

 みやこはムゥと不機嫌な顔になって、男に冷たく言った。

「なぁに、宇髄さん。何か御用?」

「私達、今、ピヤノの稽古中よ」

 かえでも棘のある声で、早々に立ち去ることを言外に要求していた。

 

 しかし、当の『宇髄さん』は意にも介さず、ズカズカと部屋の中に入ってくると、さっきまで薫の座っていた大きな椅子に腰掛けた。

 

「もぉー、なんでいるんよ?」

「えらく嫌われたモンだな。俺だってたまにゃあ、ゆっくり音楽でも聴きながら寝たいんだ」

「寝るんやったら、自分の部屋に行ったらえぇやんか」

「うるせぇなァ。おい、お前、早く弾けよ」

 いきなり命令される。

 

 薫はなんとなくこの男が自分と同じ鬼殺隊の隊士で、しかも上の階級なのだろうということはわかった。わかった以上、とても拙い自分の演奏など聴かせられたものはない。

 

「……すいませんが、とても聴かせられるようなものでないので」

「ハァ? なんだ、ソレ。このチビ共の前では弾いてたろうが」

「みやこさんとかえでさんは、私が間違っても許してくれますから」

「わかった。許す。間違えてもいいから、弾け」

 それ以上、言い訳を聞く気はないとばかりに、ふんぞり返った姿勢で目を瞑ってしまった。

 

 薫はみやこ達と目を見合わせた。

「文句言うたら、ウチらが腹にド突きくらわせたる」

 かえでが物騒なことを言うのに、薫は思わず笑ってしまった。

 

 ふぅ、と息を整えて弾き始めた。ベートーヴェンの悲愴の第二楽章。眠るには、いい曲だろうと思う。

 やはり指が以前のようには動かない。頭の中の理想通りにいかず、時々、音が引っかかったり、指がズレて違う音が鳴る。それは素人であっても、明らかに異質な音として聞き分けることができるだろう。

 

 あぁ、やっぱり断ればよかった……。

 

 弾き終わった時には、自信喪失してげんなりしていた。

 

 しかし、案外と宇髄にはあまり関係なかったようだ。

 みやこが口に人差し指を当てて、「よぉ、寝てはるわ」と囁いた。

 

 宇髄の大きな身体をすっぽりと包む大きな西洋椅子のせいなのか、それとも薫の奏でた曲のせいなのか、軽い寝息をたててよく眠っているようだった。

 薫は内心ホッとすると、着ていた羽織を宇髄にかけた。

 

 三人でそぉっと縁側の廊下を歩いていく。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 台所の脇の縁側で、みやこが長男にねだって買ってきてもらったという長五郎餅を食べながら、薫はみやこ達にさっきの男のことを尋ねた。

 

「あの人は、宇髄さんて言う人」

 みやこが餅をあむ、と食べながら答える。

 

「時たま来はるんよ。なんか、お兄ちゃんと気が合うんやて。よぉ、二人で遊びに行ってはるわ。こっちで仕事がある時だけやけど」

「じゃあ、普段は別の任地が多いのかしら?」

「昔はここら辺やったみたいやけど、最近は東京の方とかが多いみたい」

 ここのところ、関東近辺での鬼の出現が続いており、隊士の多くは関東付近で任務に当たることが増えているようだ。

 

「今回はじゃあ、仕事でみえたの?」

「そうやない? よぉわからへん。ウチらあんまりそういう事は聞くな、言われてるん」

「あ、そっか。ごめんね」

 みやことかえでは、二人で顔を見合わせ、薫をジッと見つめた。

 

「なぁ、薫はん。あの人はアカンで」

 かえでが真面目な顔で言う。薫はきょとんとなった。

「アカン?」

「あの人なぁ、そら、確かにシュッとしてはってえぇ男ぶりやけど…」

 みやこが言うのを聞きながら、宇髄の顔を思い出す。

 

 えぇ男? いい男のことだろうか? ああいう人を、いい男というのか?

 

 内心で首を捻っていたが、みやこは薫の疑問に気付かぬまま話を続ける。

 

「奥さん、三人もいはるらしいからね」

「三人?」

 薫が思わず聞き返すと、みやこはゆっくりと頷いた。

「そ。妾とちゃうんよぉ。奥さんやで。えらいことやわ」

 

「そう…ねぇ」

 確かに三人もいたら、大変だと思う。自分だったら、どっちの立場であっても、気が落ち着かない。

 だが、他人の家庭について、どうこう批判できるものでもない。宇髄の家がそういう在様(ありよう)であるなら、それも一つの形なのだろうと思う。

 

 みやこ達は今ひとつ反応が鈍い薫を心配そうに見やった。

「薫はん。……好きになったらアカンよ」

 二人があまりにも真剣に言うので、薫は噴き出して、餅を喉に詰めそうになった。

 あわててお茶を飲むと、大笑いする。

 

「どうしてそんな話になるのかしら?」

「えぇー? ちゃうのん?」

「あの人見たら、ウチのお母ちゃんもそやし、隣のお姉ちゃんも、みぃんなポッとなっとったんやけど」

 薫は手を振った。

「ごめんなさい。よくわからないわ。私にはあんまり二枚目とは思えなかったんだけど……」

 言いかけて、ハッと背後に気配を感じた。

 

 バサリ、と頭の上に布が落ちてくる。と思ったら、それはさっき薫が宇髄にかけた羽織だった。

「ありがとよ、お嬢さん。しかし、こんなトコでチビ共相手に油売ってる暇があるんなら、とっとと復帰することだな。お前さんの穴を埋めるので、向こうから呼ばれたりしてる人間もいるんだからな」

 

 羽織をとって、そろそろと振り返った時には、宇髄の姿はなかった。

 

 薫は耳まで真っ赤になった。

 よりによって、どうしてこんな事を聞かれてしまったのか。自分の迂闊さを呪いたくなった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 傷が完治すると、薫は新たな任務を与えられた。

 みやことかえでに別れを言って、藤家紋の家を去るのは少し寂しかったが、すぐさま脳裏に宇髄に言われたことが思い出される。

 

 ―――――お前さんの穴を埋めるので、向こうから呼ばれたりしてる人間もいるんだからな。

 

 実際のところ、どういう方針で薫の行き先や担当部署が決まっているのかはよくわからない。

 とにかく自分は与えられた任務をこなして、一匹でも鬼を殲滅しなければならない。そうして強くなって、いつかは………。

 

 髪を結ぶ紐をキュッと引き絞り、薫は鴉の示す方角へと歩き出した。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第二章 隊務と休息(二)

 次の任務は京都の北、日本海に面したうらぶれた寒村だった。

 ちょうど着いた頃には、とっぷりと日は暮れていた。空には一番星が光っている。

 

 元からそうなのか、不穏な噂があるせいなのか、村の中でも店が集まっている目抜き通りを歩いているのだが、人っ子一人いない。

 ここには街灯がない。日が落ちると漆黒の闇に包まれる。こんな闇の中を歩くのは、鬼か、それを狩る者だけだろう。

 南の方では桜の花もチラホラ咲き始めた頃合いだったが、ここはまだ肌を刺すような潮風が吹きすさぶ。

 

 二時間ほど歩き回り、さすがに強い海風に体が冷えてきた頃、キャインと犬が鳴いた。

 すぐに声のした方へと走り出す。

 

 ちょうど、鬼らしい影が茅屋(ぼうおく)の戸を蹴破って入っていくのが見えた。

 薫は二本とも抜刀して、中に飛び込む。

 

 老爺と子供が抱きしめ合って、掠れた声で助けを求めていた。

「やめろ!」

 薫は叫ぶと、息を深く吸った。全集中の呼吸―――――

 

 鳥の呼吸 弐の型 破突連擲(はとつれんちゃく)

 

 鋭い突きが連続する。

 狭い屋内では刀を振り回すとどこかに引っ掛かり、相手への反撃の契機とされてしまう。とりあえずこれで気を逸らして、老爺と子供を助けねばならなかった。

 

 ギャアア、と鬼が悲鳴を上げて、ゆっくりと振り返る。

 背中から胸へと貫かれた穴が徐々に塞がっていく。

 

 薫は刀を交錯させた。素早く部屋の中を見渡して、狭い中で有効な攻撃をはじき出す。

 息を深く吸い上げて、神経を研ぎ澄ます。全集中―――――

 

 呼吸の技を放とうとしたその時、妙に間延びした声が間を割って、不意に腕を掴まれる。

「すーんまへ~ん。いったん止まってや~」

 殺気が満ちていた薫は、考えるよりも早く、反射的にクルリと回転しながらその男の拘束から逃れて、首元に刀を突きつけた。

 

「……お~、コワ」

「――――何の真似です?」

 サッと男を一瞥する。すこし着崩してはいるが、鬼殺隊の隊服を着ている。

 

「おっと」

 そう言って男が薫から離れたのは、鬼が襲ってきたからだった。

 二手に分かれて、薫は改めて鬼へと向かおうとしたが、また男はのんきな口調でとんでもないことをほざいてくる。

 

「あぁ~、あかんでぇ。殺さんといてな~」

 薫はギリと歯噛みした。

巫山戯(ふざけ)るな!」

 言いながらも、襲ってくる鬼の腕を切り落とす。

 

「おぅ、ありがとさん」

 言うやいなや、男は両手に数十本の針を持ち、鬼に向かって放つ。

 額、首、目、胸、腹、太腿。いくつもの針が鬼の肌に突き刺さる。

 

 鬼は咆哮を上げて、数本の針を引き抜こうとしたが、いきなりビクビクと痙攣した。しばし呆然と立ち尽くし、次の瞬間には泡を噴いて倒れた。

 

「ヨシヨシ」

 男はニヤニヤ笑いながら、懐から手の平にすっぽりおさまるくらいの瓶を取り出すと、その蓋を開ける。中には剣山のようなものがあった。

 判子を押すかのように、その無数の針が鬼の首に押し当てられる。

 

 鬼が一瞬、ビクっと跳ね、薫は刀を構えたが、すぐにまた寝入ったかのように静かになった。瓶の中の薄紫の液体が見る間になくなった。

 

「はい、どうも。協力ありがとさん」

 男が立ち上がると、外から隠がわらわらと現れた。慣れた様子で鬼に縄を打ち、燻されたような黒い木の箱へと押し籠めていく。

 

 薫は内心では訳が分からず呆然としていたが、目は油断なく男を見ていた。

 

 年の頃は三十後半ぐらいだろうか。背が高く、エラの張った四角い、浅黒い顔に、大きな鉤鼻。離れた小さな目は、笑っているのかどうかわからないが、口は最初から今に至るまで、ずうっとニヤニヤと笑みを含んでいた。

 

「そろそろ、刀を収めぇな」 

 いつまでも緊張を解かない薫に、男は落ち着いた声で言う。「仲間なんやし」

 薫はギロリと睨んだ。

 

「あなたのような人は知らない」

「そら、そやろな。初対面やし。しかし、いつまでもそんな大刀両手に睨まれてたら、そこのジィちゃんも坊ンも怖がりよるで」

 

 後ろを振り返ると、二人は薫以上に訳が分からないのだろう。まだ抱きしめ合って、震えていた。

 薫は刀を鞘に収めると、二人の前に膝をついた。

 

「ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったんです」

「……な、な、なんやぁ…アンタら」

 子供が震える声で言う。「いきなり入ってきて……ボロ家でも、わしらの家なんやで」

 

「すいません。鬼があなた達を襲おうとしていたから……」

 怪我をしているらしい子供の頬を触ろうとして、パンと手を払われた。

「出てってぇや! はよ、出てけ!」

 子供が立ち上がって怒鳴りつける。

 

 後ろの老爺はおろおろしていたが、よく見れば、目が白濁していた。おそらく見えてないのだ。

 薫が困っていると、後ろから肩を叩かれた。

 

「こういう事は、隠に任せときや。隊士さんの仕事は鬼殺し、なんやからな」

 男の云うことは一理あったが、どうにも信用できかねた。

 薫が不信感も露わに男を見ていると、男の後ろから女の隠が呼びかけた。

 

「こちらにて引き取りますので」

 その理性的な目に、薫は一応の安心を感じ、後を任せることにして外に出た。

 

 海風が強い。春だというのに、雪が舞っていた。

「ここいらは、まだ冬やなぁ」

 のんびりと話しかけてこられ、薫は眉間に皺を寄せた。

 

「あなたは…何者です?」

「話して聞かせてやってもえぇけど、ここでは寒いな。場所、移そ」

 早口で言うと、男は先に立って歩き出した。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 男に連れられ来たのは、先程の家よりかは少しばかりマシという程度のあばら家だった。

 行灯のぼんやりした火に照らされ、よくよく目を凝らせば、壁や床に血の跡がある。

 

「ここは、あの鬼が生まれた場所や」

 男は火鉢を持ってきて、薫との間にどんと置く。

「鬼が生まれた?」

「ここで生まれた男が、鬼にされ、自分の家族全員喰い殺したんやな。その後、鬼殺隊に連絡が来て、貴方(あン)さんが送られた。同時にワイらも行くことになった」

 

「ワイら?」

 ワイ…というのが関西地方での「私」「俺」という意味であるのは、最近になって覚えてきたことだ。

 つまり、複数人ということだろうか? だが、目の前の男以外には鬼殺隊士はいないように見える。

 

 男はタバコを取り出すと、火箸で炭をとって、器用に火をつけた。

 フゥーと、うまそうに吸いこんでいる。

 

「ワイらは生け捕り専門でな。さほどに強そうにない鬼。人間をそんなに喰ってない鬼を捕まえるのが仕事やねん」

 薫は意味がわからず、ぽかんとなった。

 

 男はハハハと面白そうに笑う。

「わからんか? あンさんも、藤襲山で最終選別は受けたやろ?」

 薫はコクリと頷く。

「それ。そこで鬼がおりよったやろ。異能を持つほどでもない、しかし身体能力は人間を遥かに超えた鬼や。あンさん、何人斬った?」

「え?」

「鬼や。受けたやろ? 最終選別。何人の鬼を斬った?」

「…………九…」

 

「ほぅ。そりゃ、また、なかなかのなかなかやな。ワイは、ああいう鬼を生け捕りするのが仕事や。生け捕り師て呼ばれとるわ。正直、鬼殺隊の中でも最下層の、馬鹿にされる仕事やな」

 いきなり卑下するようなことを言うので、薫は言葉に詰まった。

 

 正直、胡散臭いと思っていたし、鬼を生け捕りする仕事だと聞いて、軽蔑まではいかずともあまり、いい印象を持てなかった。

 

「まぁ、ワイらだけが生け捕りするわけでもないんやで。たまに隊士でも生け捕りしてきよるんもおるけど、ゆうても皆、鬼には恨みが積もりに積もっとるからなぁ。大概、殺してまうねん」

「それは……そうでしょう」

「そやねんなぁ……。あんたも、そうか? そやろなぁ……鬼に恨みがたんまりあります、ゆう顔してもぅとるもんなぁ」

 

 だんだんふざけられているように感じて、薫は思わず強い口調で尋ねた。

「あなたには鬼に恨みがないとでも?」

「ワイか? ワイはないよ。だって、金が欲しいからやってんねんから」

「金?」

「そやで。まぁまぁ稼げるからな、ここ。鬼にちょーっと眠ってもらって藤襲山まで連れて行くだけで、大学出たての先生よりもえぇ給料稼げるんや。ありがたいこっちゃで、ホンマ」

 

 金目当て……で、鬼殺隊に入る人間がいることを、薫とても知らない訳ではなかったが、正直、ここまで仕事における考え方の違いがあると、もはや怒る気も失せてくる。

 男は薫があきれているのを感じたのか、ハハハとまた笑った。

 

「まぁ、蔑まれてもしゃあないけどな。それでもアンタらが最終選別を受けられるんは、ワイらのお陰でもある、言うことや」

 それは確かにそうだった。自分がこの男のようになりたいとは思えないが、藤襲山での考査を受けた以上、彼らの仕事を嗤うことはできないだろう。

 

「………すいません」

 薫は頭を下げた。「鬼殺隊に尽くして下さっているのに、失礼な態度をとりました」

 

 男は少し驚いた顔をすると、「そんなんやめぇな」とヒラヒラ手を振った。

「ワイらはアホやて思われてるくらいでえぇんやて」

 

「いえ。最終選別は鬼殺隊に入るための重要な試験です。それに尽力いただいているのに、馬鹿にはできません」

「…………あんた、石頭やな」

 男は面白そうに薫を見て、煙を吐いた。

 

「名前は? ワイはホウジや。伴屋宝耳(ばんやほうじ)いうねん。宝の耳でホウジな」

 なんだか芝居に出てくる人物ような名前だ。本名かどうか疑わしいが、それは今、気にすることでもない。

「………森野辺薫と申します」

 薫が名乗ると、宝耳はうん、と頷いて、立ち上がった。

「ほうか。ま、頑張りや。ここで朝まで寝たらえぇわ。さすがにこの時間でこんなショボくれた村に宿もないやろからな」

 

「宝耳さんは(やす)まれないのですか?」

「ワイは寝ずの番や。鬼は薬で眠らせとるけど、いつ起きるかわからんよってな。なんかあった場合、薬が効かんかった場合は、ワイが殺さなあかん」

「それだったら、私も」

「えーねんって。それもワイの仕事。給料分やからな」

 

 話していると、ガタガタと戸が開いて、隠が鬼の籠めた箱を、四人がかりで担いで入ってきた。

 宝耳は何かしら指示を出している。

 どうやら隠達と宝耳とで、鬼の生け捕りを行っているらしい。『ワイら』、というのは隊士ではなく隠のことだったのか。

 

 先程の女の隠が薫の元にやってきた。

「さっきの少年がごめんなさい、と言ってました」

「え?」

「鬼のことを話したら、助けてもらったんだと、わかったようです。あなたに失礼なことをしたと、謝っていました」

 

 薫が返事できないでいると、「では」と、その隠は別の用事があるのか足早に去って行く。

「な? 隠ってのは、ああいう対応に慣れとるんや」

 宝耳がニヤリと笑い、少し誇らしげに言った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第二章 隊務と休息(三)

 その後、隠達は各々がそれぞれの仕事を黙々とこなしていた。

 宝耳(ほうじ)と一緒に箱の上からも縄をかける者。本部への報告書か何か、手紙を認める者。用具の確認を行う者。全員の食事の用意を整える者。

 

 薫はその場にいただけなのに、夕食を相伴になった。

 恐縮したものの、隠からすると隊士というのは一にも二にも上の存在であるようだった。是非にと勧められ、冷えた体にはありがたい粕汁をご馳走になった。

 チラリと薫は宝耳を見た。既に食べ終えて、鬼の箱に寄りかかって瞑目している。

 

「あの……」

 薫は小さな声でそばにいた隠に尋ねた。

「宝耳さんって、強いんですか?」

 隠は迷いなく頷いた。

 

「あの方も鬼殺隊の剣士ですから。元は普通に鬼狩りをなさってたんですけど、生け捕りの方が安全に金を稼げる、ってことで変更されたみたいです。皆さん、嫌うんですけどね。この仕事」

「じゃあ、あまりいないんですか。生け捕り師というのは」

「そうですね。宝耳さんのように専門でやってる隊士は少ないと思います。たいがいは本部が選出して、隊士の方に頼むんです」

「はぁ………」

 色々と鬼殺隊の中でも役割というのがあるようだ。

 

「今回は本当は本部からの指示はなかったんですけど、宝耳さんってどこからか聞きつけてくるんですよね。生け捕りにちょうどいい鬼の情報」

「……なぜ?」

「わかりません。あの人の持つ情報網のどこからか、ということしか。宝耳、っていうのも伊達じゃないんですよ」

 いよいよもって不思議な人物もいたものだ。

 

 その後、薫は蚊帳の外になり、隣の部屋で横になっていたのだが、どうにも気になって眠れない。

 

 生け捕り師。 

 

 東洋一からも、匡近からも聞いたことのない存在だった。知らなかったのか、あるいは知る必要もないと教えてもらえなかったのか。

 

 ひどく興味深かった。

 宝耳が鬼を生け捕りにした時のあの針。あの瓶に入っていた液体。それに宝耳のあの気配。全集中の呼吸を行っていた薫の後ろに立って、気配を全く感じさせなかった。

 

 隠達も何人かが寝始めていたが、薫は起き上がると、寝ずの番をしている宝耳のところへ行った。

「なんやぁ? 夜這いか?」

「…………」

「あ、冗談やで冗談」

「当然です」

 憮然として斜向いに座ると、薫はじっと宝耳をみた。

 

「なんやねん? 鬼がおるから、気になって寝られへんのか?」

「それもありますが、聞きたいことがあります」

「おう。なんや、質問か。なんなと聞き。ちょうど眠なってきとったからな」

 薫はニコと笑った。正直、断られてもしつこく聞く気でいた。好奇心がうずいて仕方ない。

 

 まず、針について聞くと、宝耳は懐から一本取り出した。思っていたよりも太い。

「これにはしてないけどな、さっきのには痺れ薬と眠り薬が塗ってあったんや。それで、鬼は倒れてもうた」

「生け捕りの時は、皆さん、それを使って鬼を捕まえるのですか?」

「捕まえ方は隊士によっていろいろや。ワイは一番簡単にできる方法でやっとるだけや」

「でも均等に、狙ったかのように刺さってましたよね」

 どう考えても、あの針の位置は適当に投げたものではない。

 

 宝耳はニヤリと笑った。

「まぁな……あれはワイしかでけへんと思うで。こう見えて、ワイ、鍼師やったからな。その鬼のツボ、ゆうか……そういう局所があるんや。そこを狙わんと、針も刺さらん。鬼によっては皮の硬いのもおるからな。まぁそれも雑魚の鬼や。異能の鬼なんぞやったら無理やで」

 

 そういう経歴があっての、あの技だったのか。

 しかしそれを瞬時に見つけて、突くなんてことは、そうそう簡単にできることではない。よほど修行を重ねているのだろう…と思って言うと、宝耳はケラケラ笑った。

 

「ワイは修行なんぞめんどいもんは嫌いやから、せぇへんわ。まぁ、言うても十七で鬼殺隊に入ってこの年までやっとんねん。お前さんみたいな新米よりかは場数は踏んどるわな。それだけや」

 

 その他に鬼を眠らせる薬のことについても聞いたが、それは宝耳にはよくわからないようだった。別でそういう薬を調合する人達がいるらしい。

 

 その他に隠でも隊服制作に関わる部署や、鬼の情報を集める機関、中には柱を始めとする上位鬼殺隊士の住居などを用意する係まであるという話をしてもらった後で、いよいよ薫はもっとも聞きたかったことを尋ねた。

 

「宝耳さんは、呼吸は何を使われているんですか?」

「ワイは普通やで。水や。よくあるやつや」

 水の呼吸……ということは、真菰と同じものだ。

 

「水の呼吸には、気配を消す技があるのですか?」

「へぇ?」

「さっき、鬼と対峙していた時に、私は全集中の呼吸をしていました。それなのに、あなたに後ろに立たれたことに気付かなかった」

「そりゃ、集中しとるからやろ」

「宝耳さん、はぐらかさないで下さい。ただ集中するのと、全集中の呼吸はまったく違います」

 薫が全集中の呼吸を習っている時、東洋一から言われたのは、意識を一点に集中『させないこと』だった。

 

 ―――――全集中とは、己の周囲にあるものの自然(じねん)の流れを感じ取ること。

 

 むろん息を長く吸い込み、肺へと空気を送りこんで身体能力を高めるのは第一義である。だがそこにばかり意識を向けては、鬼からの攻撃に無頓着になりかねない。

 

 神経を全方位に向け、張り巡らせて、背後ですらも見えるほどに、意識を澄ませる。透き通らせる。自分をその場に充満させる。そうして死角をなくす。

 

 つまり全集中の呼吸を行う時には、自分の間合いに入ってくる者に『集中し過ぎて』気が付かない……なんてことは、有り得ない。

 

 宝耳はニヤニヤ笑いながら、ボリボリと頭を掻いた。

貴方(あン)さんは、なかなかえぇ育手についたな」

「え?」

「全集中の呼吸は基本やけど、基本だけに、蔑ろにするのも多いよってな。最近は特に」

 

「答えを聞きたいんですが、また、はぐらかしてますか?」

「いやいや。そういうワケやない。ゆうたって、別に特別なことしとらんもん。説明しようもないわ。呼吸の技とかやないし」

「でも、あんなに気配もなく背後に来るなんて」

「うーん……よぅわからんけど、あんさんはあの時、殺気立ってたやろ? 鬼相手やから当たり前やわな。せやけど、ワイは別に殺し合いに来たワケとちゃうから、殺気がなかったんとちゃうか?」

 あまりにも短絡的な答えに薫は少しがっかりした。

 

「そう……ですか」

「あからさまにガッカリ、ゆう顔やな。なんや、なんか特別な技かなんかと思っとったんか?」

「それは……そうです」

 もしそういう技があるなら、自分の呼吸の技の中に応用できないかと思っていたのだ。

 

 宝耳は懐からタバコを取り出した。横にあった火鉢の炭で火をつけると、おいしそうに吸い、フゥゥと長く煙を吐き出す。

 

「あンさんも水の呼吸か?」

「いえ。私は……風の呼吸を習っていましたが、習得できなかったので、派生させて自分の呼吸でやっています」

「なるほどな。それで色々と試しとるワケか」

 宝耳はタバコの灰を火鉢に落とし、また口に咥えた。

 

「しかし風の呼吸か。あそこは惣領家がのぅなってもぅて、一時は衰えたらしいけど、今はいい育手がおってか、割に増えてきたな。あンさんの育手は誰や?」

篠宮東洋一(しのみやとよいち)という人です」

 宝耳は目を見開いた。それまでのらりくらりとしていた宝耳が初めて見せた顔だった。

 

「あンさん、篠宮老人の門下か?」

「……はい。先生をご存知なんですか?」

「いや、直接会ったことはないけどな。まぁ……割と知られた御仁ではある」

「そうなんですか?」

 鬼殺隊内での東洋一の評判など、もちろん薫は知らない。

 

「風はな、炎と同じで代々柱を継いできた惣領家があったんや。しかし、ある年からやたらと風の呼吸の剣士を狙って殺される、ゆうことが続いたらしいてな。とうとう、その当時の風柱もやられて、跡継ぎもおらんで惣領家は鬼殺隊と断絶したらしい」

 そんなことは初耳だった。東洋一からは一度も聞かされたことはない。

 

「篠宮老がおらんかったら、風の呼吸は途絶えたかもしれん、言われとるんや。現役時代も、相当に強かったらしいからな。柱になってもよかったんやけど、惣領家に遠慮してならえへんかった……っていう噂が、まことしやかに語られとる」

 

 ―――――アンタ、なかなか人を見る目がある。

 

 以前会った元鳴柱の老人が言っていたことを思い出す。やはり、東洋一は有象無象の鬼殺隊士などではなかったのだ。

 

 こうして他人から東洋一の強さについて語られると、素直に誇らしく、嬉しい。

 

 顔に出てしまっていたのだろう。宝耳がニヤニヤ笑って、指摘した。

「なんやぁー。師匠が褒められて嬉しいって顔にデカデカ書いとるでェ」

「…いえ、初めて聞いたもので」

「えぇやないか。あの人は育手としての腕は確かや。さっきあんさんが全集中の呼吸について言うてたことも、基本中の基本のことやしな。あの人の弟子なんやったら、この先も有望や。ま、頑張りぃ」

 宝耳は最後に一吸いすると、タバコを火鉢に投げ捨てた。

 

「も、寝ぇや。ワイらは朝になったらのんびり藤襲山に行くだけやけど、あんさんは任務が待っとるかもしれん。ちゃんと休息はとらなあかん」

 

 とりあえず、さっきまでの好奇心を満たすことはできた。薫は礼を言うと、隣の部屋に戻り、朝までぐっすり寝た。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「ホレ、これやるわ」

 朝になって別れる前に、宝耳は印籠を渡してきた。蓮の花が細工され、蛙の根付がついている、なかなか立派なものだ。

 

 中を見ると、丸薬が入っていた。

「なんです、これ?」

「あンさん、新米やよってまだこれからやろけど、鬼ン中には毒を使ぅてくんのもおんねん。もし、そういうのにやられた時の中和剤みたいなもんやな。まぁ、効くか効かんかは、わからんけどな。毒にもよるから」

 随分といい加減なものだと思ったが、宝耳の善意だろう。素直に受け取っておくことにした。

 

「ありがとうございます」

 頭を下げると、宝耳はちょっと困ったような顔になって、うーんと唸った。

「なにか?」

「いや……あンさん、それなりに強いんやろけどな……鬼殺隊士として少ぉし不安なとこあるわ。その真面目すぎるトコと、勉強熱心なトコや」

「………駄目ですか?」

「基本的には悪いことやない。でも、気をつけんと、鬼に誘われるで」

「……誘われる?」

 意味がわからなかった。首を傾げる薫に、宝耳はフゥと軽く溜息をついた後、ニッと笑った。

 

「ま、大丈夫か。好いとる男もいるみたいやしな」

「…………は?」

「呼んどったぞ、寝言で。さねみさん、言ぅ……」

 顔が一瞬で熱を帯びる。

 あわてて大声で「お世話になりました!」と怒鳴るように言うと、薫は脱兎のごとくその場から立ち去った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第二章 隊務と休息(四)

 薫が久しぶりに東京に戻ったのは、自分の両親と不死川家の墓参りのためだった。

 匡近に聞くと、そうしたことでの休みはもらえるとのことで、鬼殺隊に入れたことを報告したくて訪れたのだった。

 

 墓参りを終え、駅へと戻ろうとした時。

「なんだぁ、その髪」

「気持ち悪ィなぁ……。切っちまえ」

「ヤダっ!」

 

 男達が若い女の子の髪を掴み、囃し立てている。

 掴まれている女の子の髪は確かに変わっていた。うすい桜色に、毛先の部分だけが青葉のような瑞々しい緑だ。だがつややかに、光の中で映えている。

 

 薫は無言で男達に近寄ると、女の子の髪を掴んでいる男のもう片方の手を持ち、捻り上げた。

 突然、音もなく現れた闖入者に男達は最初、うっと固まった。

 

「手を離せ」

 低く、警告する。

 

 男達は気をのまれた自分達が恥ずかしかったのか、大声で「うるせぇっ」とがなり立てた。

 

 最初からこういう輩に話し合いが通用するとは思っていなかったが、薫は軽く溜息をつくと、次の瞬間には女の子の髪を持っていた男の手を蹴り上げ、女の子を軽く向こうへと押し出して、その男の鳩尾に手刀を食らわした。

 男が身体をくの字に折って、地面にへたりこむと、もう一人の男の背後に周り、腰に差した刀の柄を男の背にグイと押し当てた。

 

「このまま去るか? どうする?」

 男は、背に感じるその感触を、拳銃だと勘違いした。

 ダーッと汗が噴き出る。

「かっ、かっ、かえ、帰りますっ!」

 裏返った声で宣言すると、へたりこんでいる男の襟首を持って、無理やり立たせて走り去った。

 

 薫は地面に尻もちをついた状態の女の子に手を差し出した。

「大丈夫?」

 女の子は真っ赤な顔になって、「すっ、すいませんっ」と手をとって立ち上がる。

 同時に、ぐぅぅぅと大きな腹の音がなった。

 女の子は耳まで真っ赤になった。

 

「ごっ、ごっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!!」

 ブンブンと頭を振り回して、まるで連獅子の舞のようになって謝るので、髪を結んでいた紐がとれてしまった。

 

 フワリと、桜色の髪が舞う。光に透けて、キラキラと眩しくきらめく。

「あ……」

 女の子が頭を押さえながら、キョロキョロと辺りを見回した。

 

 薫は地面に落ちていた紐を拾い上げると、女の子に差し出した。

「はい。よければ、あそこで何か食べましょうか。私も、少しお腹が減ったので」

 薫が先に見えるお茶屋を指差すと、女の子は恐縮していたが、チラと薫を見て、小さな声で尋ねた。

「………いいんですか?」

「もちろん」

 薫は笑いかけると、女の子と一緒にお茶屋に向かった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 女の子は甘露寺蜜璃と名乗った。

 髪の色と同じ、桜餅を一気に六皿頼み、見てる間に食べ切って、また追加で五皿頼んでいる。

 

 薫は目の前で吸い込まれるように消えていく桜餅が、途中から別の食べ物に見えてきたが、嬉しそうに食べる蜜璃の表情を見ると、なんだか心が和んだ。

 

 八皿目を食べ終わった時に、蜜璃はハッとした顔になると、また赤くなった。

「す、すいません。いきなりバクバク食べて……」

「いや。ぜんぜん……お気にせず」

 促すように手をあげ、微笑むと、蜜璃は真っ赤になった頬を両手で包んだ。

 薫は自分に来ていたうどんを食べる。

 

「あ、あの…お名前聞いていいですかっ?」

 蜜璃がギュッと目を閉じて、大声で言う。

「森野辺薫です」

「かおる、さん。えっと、字で書くと……井上馨の『馨』ですか?」

「いえ。薫陶を受ける、の薫です」

「そっ、それは……えっと、お似合いですっ」

 

 薫はじっと蜜璃を見つめた。

 女の子というのはこんなものなのだろうなぁ…と思った。可愛らしい人だ。

 

「ありがとうございます。甘露寺さんも、似合っていますよ。髪」

「え?」

「その髪の色。めずらしいですけど、あなたに似合ってます」

「そ、そうですか?」

 蜜璃はやわらかく結わえた桜色の髪の房を持った。

 

「初めてです。みんな、だいたい気持ち悪いとか、なんだそれって……さっきみたいに」

 家族を除いて、いつもからかわれ、嘲笑されてきた。そんなことを言ってきた人間は一人もいない。

 

 薫はうどんを食べ終えると、ハンカチを取り出して口周りを拭いた。

 桜餅を食べて嬉しそうだった蜜璃は、さっきのことを思い出したのか、少ししょんぼりしている。

 

「私は直接見たことはありませんが、外国では金の髪をしている人もいるそうですよ」

「え?」

 蜜璃が顔を上げた。

 

「私の父は若い頃、外国で暮らしたことがあって、教えてもらいました。向こうには、金や銀、茶色や、赤い色の髪の人や、真っ青な目や、深い緑、灰色の目の人もいると。それに肌も真っ白な人だったり、反対に黒い人もいるということでした。この国にいれば、甘露寺さんの髪はびっくりされるかもしれませんが、海を渡ればさほどめずらしいものではないかもしれませんよ」

「そ、そんな人達がいるんですか?」

 蜜璃は驚いた。もし、そんな人がうじゃうじゃいるのなら、自分など、たいして目立つことはないのかもしれない。

 

「あの、その人達は何を食べてそんなふうになったんでしょう?」

 いきなり思いもかけぬことを問われ、薫は一瞬、無言になった。

 蜜璃は恥ずかしそうに桜餅を手に取り、まじまじと眺めながら言った。

 

「わたし、桜餅を食べすぎてこんなになっちゃったんです。子供のころは黒かったのに。髪が金色の人は、何を食べたんでしょう? 芋けんぴの食べすぎでしょうか?」

「……………たぶん、なにか……あちらの食べ物にあるのかもしれませんね」

 薫は絞り出すように言ったが、それは正解なのかわからなかった。

 

「あ、そっか。外国には芋けんぴ売ってないですよね、きっと」

「そう、ですね……」

 返事をしながら、自分がどこか別の世界にいる気がしてきて、ブルブルと頭を振る。

 

 蜜璃がキョトンとして薫を見た。

「どうかしましたか?」

「いえ…」

 薫は立ち上がると、財布からお金を取り出す。

 

「あっ、私、自分で払いますから!」

 蜜璃はあわてて懐から財布を取り出そうとしたが、「あれ? ない?」と、袂の中やら帯の間をあちこち見回す。

 

「いいですよ。甘露寺さんの食べっぷりを見ているのは眼福になりましたから」

 薫は支払いを早々に済ませると、ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認した。

 そろそろ汽車の時間だ。

 

「あっ、あの…見送ります!」

 甘露寺はあわてて最後の一皿の桜餅をつめこみ、薫の後をついてくる。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 半歩下がって歩きながら、蜜璃が声を落として尋ねてきた。

「あのぅ……その腰のものって」

「刀です」

 薫はすずしい顔で言い切る。「できれば、内密にしていただけると助かります」

「それは…もちろん。でも、理由を聞いてもいいですか?」

「………私は、鬼殺隊の隊士ですから」

 言ったところで蜜璃にわかるはずもなかった。けれど、適当な嘘で誤魔化す気になれなかった。

 

「キ、サツ、タイ?」

「………それしか言えません。すいませんが」

 

 駅前に着くと、薫は振り返った。

 ちょうど、駅前に植えられた桜が満開だった。ヒラヒラと陽光の中を桜の花びらが雪のように散っている。

「こうして見ると、甘露寺さんは桜の精ですね」

 薫が微笑みかけると、蜜璃はまた耳まで真っ赤になった。

 

 ふと、昔の、子爵令嬢として引き取られたばかりの、いつもおどおど、ビクビクしていた自分の姿を思い出す。

 せっかく可愛いのに、どこか自信のない蜜璃の姿がかつての自分と重なる。

 

「甘露寺さん」

 薫はやさしく呼びかけた。

「どこにいようと、懸命に生きていれば、いずれあなたのいるべき場所は定まりますよ。――――って、これは受け売りなんですが」

 蜜璃はじっと薫を見ると、にこっと笑って言った。

 

「蜜璃、です」

「え?」

「蜜璃っていいます。薫さん」

 蜜璃は手を差し出した。薫も手を伸ばし、握手を交わすと、

「それでは、お元気で。蜜璃さん」

と手を振り、改札を通っていった。

 

---------------

 

 家に帰った蜜璃は、すぐさま家族達にその人のことを語ったのだが、大いなる勘違いをしていた。

 

「天草四郎の生まれ変わりかって思うくらいの、美少年だったんだから! 私のこと、桜の精って言ってくれたんだから!」

 

 確かに、黒い隊服を着て、腰までのインバネスコートを羽織り、後ろで髪を無造作に結んだだけの薫の姿は、見る人によっては美少年と見紛うものであった。

 

 しかし、その勘違いに気付くには、まだ数年の時を経なければならない……。

 

 

---------------

 

 

 一方、汽車に乗った薫は、車窓を流れる景色をぼんやり見ながら考えていた。

 

『……桜餅の食べすぎでああなるのだったら………おはぎを食べ過ぎたら、おはぎ色の髪になるのだろうか……?』

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第三章 哀憐(一)

 鬼殺隊に入ってもうすぐ一年が過ぎようとしていた。

 最初の鬼を倒して以降は、長く治療を要するような怪我もなく、任務遂行ができていた。

 これが運がいいといって喜んでいいのかどうか、薫には判別しかねた。自分に仕事を選別する権限はない。

 

 今日もまた、元は庄屋屋敷だっという廃墟に巣食った鬼を退治した。

 その帰り道のこと、懐かしい声に呼び止められた。

 

「や、ようやっと会えたな」

 兄弟子の粂野匡近であった。東洋一(とよいち)の家で会って以来である。

「粂野さん、久しぶりです」

 お辞儀をすると、匡近は柔和な表情で「仕事終わりか?」と尋ねてくる。

 

「はい。今、帰るところです」

「帰る……ってことは、この辺に家があるの?」

「あ、いえ。京都にある藤家紋の家にご厄介になっています」

「へぇ、そうか。ってことは、だいたい関西方面が君の担当地区ってわけだ」

「そうですね。四国に行くこともありますが」

「そっか。な、寄ってかないか?」

「寄る…?」

「近くに道場があるんだ。そこで隊士達は鍛錬しつつ、寝泊まりも出来る。知らなかったか?」

「はい」

「そっか。まぁ、女の隊士は敬遠するかな。男ばっかでクサいらしいから。今は三人ほどいるけど、離れで寝泊まりしてるよ」

「はぁ……」

「ま、一回来てみろ」

 匡近の朗らかな笑顔に思わず乗せられて、薫は後をついて行く。

 

 道場とやらに向かう途中でも匡近は色々と話しかけてきた。

「で、今は階級は?」

「え?」

「階級だよ。さすがにまだ癸ってワケでもないだろ」

「あぁ……この前見た時は辛だったと」

「辛かぁ! やるな。頑張ってるな」

「そう……なんでしょうか」

 薫は階級にはまったく無頓着なので、匡近の感嘆がよくわからない。そんな薫を見て、匡近が思い出したようにクスクス笑った。

 

「そういや、実弥もそんなんだな。短期間で上に行くヤツってのは、そんなことに興味なんぞないもんなのかな? 俺の同期なんか………」

 不意に実弥の名が出て、顔が強張る。そういえばこの二人は仲が良いのだ。だとすればこの行き先にも実弥がいる可能性がある。

 

「おーい? どしたー?」

 不意に立ち止まった薫に気付き、匡近が呼びかけた。ハッと顔を上げて、薫は必死にいつもの微笑を作ろうとするが、うまくいかなかった。

 

「いえ。あの……さね……不死川さんも、いらっしゃるのでしょうか?」

「へ? 実弥? いや、昨日から任務で出てるよ」

 その返事にホッとなる。同時に、チクリとなにかが胸を刺す。

 匡近は近寄ってくると、呆れたような笑みを浮かべた。

 

「なに? 実弥の奴、やっぱ言ってきてる?」

「え?」

「やめろー、って」

「いえ………」

 言ってくるも何も、あれから一度も会ってない。

 

 硬直した薫を見て、匡近は「ま、よかったよ」とにこやかに言う。

「君が最終選別に向かうっていう話を聞いたら、すぐさま止めに行くって、飛んで行っちまって、それで結局、説得できずに悄気(しょ)げて帰ってくるからさ……合格したって師匠から教えてもらえるまで、本ッ当に暗いし機嫌悪いし、どうしようかと思った」

 

 薫は匡近に気付かれぬよう、ゆっくりと息を吐いて、甦りそうになる感覚を打ち消した。それでも我知らず、左手で右の腕をギュッと掴む。

「……どうした?」

 匡近が不思議そうに尋ねた。

「いえ」

 薫は手を離し、無理やりに笑顔を作った。

 

「私が合格したのを聞いて、少しは安心されたでしょうか…」

「うーん……微妙だな。とりあえずホッとはしてたみたいだけど。でも、そのうちやめさせるって言ってたよ」

「……そうですか」

 薫は静かに答えるしかなかった。匡近はそんな薫の態度を見て、意外な話を持ち出した。

 

「あいつさぁ、弟がいるんだけど、その子も鬼殺隊に入る、とか言ってるらしくてさ」

「弟……?」

 脳裏に寿美とよく言い合っていた玄弥の姿が浮かぶ。

 

「玄弥くんのことですか?!」

 薫は思わず大きい声になった。

 匡近はびっくりして目を丸くしながら、頷いた。

「う、うん……。なんか知り合いの家に預けてたらしいけど」

 

「そうですか。よかった……やっぱり生きてたんだ……よかった」

 実弥に再会した時に聞きそびれて、そのままになっていたのだ。

 その後、不死川家の墓参りに久々に訪れた時に、実弥が時々来ていることも、その後に納骨された親族もいないことは聞いていたので、亡くなってはいないだろうと思っていたが……。

 

「薫は…実弥の弟さんのことも知ってるんだ?」

「えぇ。玄弥くんは、実弥さんのすぐ下の弟さんです。兄弟の中でも特にお兄ちゃん子でした。いつも実弥さんの話ばかりしてて……寿美ちゃんにしつこいって、怒られてました」

 

 玄弥もまた働いていたので、そうしょっ中顔を合わすことはなかったが、時々話すことといえば実弥のことだった。

 それも主に兄自慢だった。近所のガキ大将をやっつけた、とか、おはぎの早食い競争で勝ったとか……。

 

 懐かしい思い出に顔が綻ぶ。

 だが、すぐに匡近が言った『鬼殺隊に入る』という言葉を思い出した。

 

「玄弥くんが鬼殺隊に入るなんて………不死川さんが許すわけないですよ」

 匡近は苦笑した。まさしくその通りだったからだ。

 

「そう。早速、馬鹿が…って言ってたよ。あいつも苦労するよ。君だけでなく、弟まで」

「…私の事は放っておいてもらっていいんです」

「………やれやれ」

 自分の事になると、途端に鈍くなるようだ。匡近は溜息をついた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 大通りから少し脇道に入り、小さな川のほとりにその道場はあった。

 大きな門構えに、棟が三つある、なかなか立派なものだった。特に表札などはないが、対の門柱には藤の紋所が彫られてある。

 中に入ると、板塀に沿って藤棚が作られていた。今は秋なのでもう花はないが、ほのかに藤の香りがした。どこかでお香を焚いているのかもしれない。

 

「ここが道場。まぁ、単独任務が基本だけど、たまには仲間同士で――――」

 匡近が言い終わらない内に、わらわらと道場から男達が出てきた。

 

「なんだ、なんだ、粂野。女連れ込んで」

「べっぴんさんじゃねぇか」

「女にしちゃ、デケエな。俺と変わらんぞ。花柱様より大きいんじゃないのか?」

 薫は今度こそ、うっすらとした微笑を顔に張り付かせた。

 なるほど。稽古の後で、汗をかいているのもあるだろうが、臭い。確かに臭い。

 

「おいおい、妹弟子なんだ。不躾なことはしないでやってくれよ。下手なことしたら、実弥にギッタギタにされても文句は言えないからな」

 実弥の名が出た途端、周りを取り囲んだ男達の表情がギョッとして固まった。

 

 匡近はニコニコ笑いながら、遠巻きにいた女隊士に薫を紹介した。

「俺の妹弟子の森野辺薫って言うんだ。道場は初めてだからさ、教えてやってくれ」

 

 正面にいた女隊士は「はじめまして!」と手を差し出した。

「はじめまして」

 薫が手を差し出すと、ぐっと握手する。その感触にチラと探るような視線を送ってくる。

 

 しかし何か言うこともなく、自己紹介した。

「私は日村佐奈恵(ひむらさなえ)というの。よろしくね、森野辺さん。あと、この子は三好秋子(みよしあきこ)。アコって呼ばれてるわ」

「呼ばれてるっていうか……佐奈恵さんが呼んでるだけなんやけど……」

 隣にいた丸眼鏡のおさげ髪の子はボソボソ言いながらも、ペコリと頭を下げた。

 

 日村佐奈恵は薫より三歳年上の十九歳。

 ハキハキとした口調の、見た目にキツそうな感じを受けるが、嫌味のない言動はむしろ薫からすると爽快であった。

 

「あなた、階級は?」

 いきなり階級を訊いてくる。薫はさっき匡近に聞かれた時と同じ答えだった。

 

「あ、たぶん辛だと……」

「たぶん、てなに? 確認してないの?」

「特には」

「前に見たのはいつ?」

「………」

「今見て」

 

 佐奈恵に命じられて、右腕を持ち上げ、グッと力を入れる。

 階級を示せ、と念じればそれでぼんやりと浮かび上がってきた。

 庚。

 上がっていた。庚に。

 

「庚じゃない。隊士になってから、何年目?」

「……一年ほどでしょうか」

「一年……」

 サラリという薫に佐奈恵は顔色を失った。

 やや離れたところから様子を伺っていた男達もまた、ザワと色めきだった。

 

「……嘘だろ」

「いや、さっき確かに庚の字が……」

「何者だ? 誰かの継子か何かか?」

 どよめきが大きくなってくるのを遮るように、佐奈恵が叫んだ。

 

「けっこう! こんな機会はなかなかないわ。ぜひ、手合わせお願いするわ!」

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第三章 哀憐(二)

 いきなり言われたものの、薫はどうしたものかわからず、匡近を見た。

 匡近は相変わらずニコニコ笑って、

「いいじゃないか。やってみたら?」

と、気軽な調子で言う。

 

「では…よろしくお願いします」

 すぐさま道場で試合が始まった。

 

 剣道とは違い、鬼殺隊において防具などはない。竹刀でもなく、白木の木刀である。

 向き合って構える。

 佐奈恵(さなえ)はいわゆる八相。薫は低く腰を落として、脇に構える。

 

 開始と同時に佐奈恵の素早い突き。しかし薫は横に飛んで躱す、と同時に佐奈恵の腹に一撃が入った。

 瞬殺だった。

 薫が躱したのは誰の目にも明らかであったが、佐奈恵に木刀が振るわれたその瞬間は、ほとんどの者が視覚できなかった。

 

 のほほんと見守っていた匡近ですら、息を呑むほど、鮮やかな一本であった。

 ダン、と派手な音がして佐奈恵が道場の壁に叩きつけられる。

 

「佐奈恵!」

 男の隊士があわてて駆け寄った。心配そうに何度も名前を呼んでいる。

 

 薫もまた心配になって近寄ろうとすると、前にズイと別の男の隊士が立った。

「次は俺だ!」

 顔の中心を貫く傷痕が生々しい。鬼にやられたのであろうか。身長はおそらく六尺は越えていて、体重も二十貫以上はあるだろう。見るからに大男である。

 

「おーい、升田(ますだ)ぁ。多少の手加減はしてほしいなぁ」

 後ろから匡近がのんびりと呼びかけたが、「知るか!」と男は吐き捨てた。

「女であろうが、男であろうが、鬼は手加減しねぇよ」

 そこはまったく同意する。

 

 構えをとる間もなく、升田が攻撃してきた。

 大柄な割に俊敏な動きだ。ブンと振るう木刀の音がその速さを伝えてくる。まともにくらえば、気を失うだろう。

 その後もすさまじい勢いで攻め立てられるが、薫はすべて躱す。後ろに、横に、あるいは前方に升田を振るう木刀の上をヒラリと宙返りをして。

 

「てめぇ、ヒラヒラ逃げんな!」

 苛々と升田が怒鳴った。

 薫の顔色は変わらない。

 あまりに攻撃をしない薫に、見ていて面白くないのか、何人かが「そうだ、そうだ」「ちゃんとやれ!」と野次を飛ばした。

 

 しかし、何人かの隊士達はわかっていた。

 升田の剣戟が、鈍重そうな見てくれよりも早いということは、誰もが知るところである。それを薫はすべて躱している。

 升田の攻撃を防ぐのに必死かというと、そうではない。それは、もう息を切らし始めた升田に比べ、薫の呼吸が少しも乱れていないのを見れば明らかである。

 

 升田の攻撃が緩慢になり、疲れが隙を見せるのを薫は見逃さなかった。

 升田の突きを躱すと同時に、低く沈む。升田は一瞬、視界から薫を見失う。

 すぐさま、胸に衝撃。

 女と甘く見ていた分、思ったよりも重い。

 

 ダァンッ!!!!

 

 壁にぶち当たって、目を回し、升田は意識を失った。

 道場はシンとなった。

 中央で薫は息も乱さず、静かに立っている。無表情な面は、端正な美貌と相まって冷たさすら孕んでいた。

 

「ずっ、ずるいぞっ!」

 静けさを破って、ダミ声が響く。「逃げ回りやがって、ちゃんと勝負しろっ!」

 

 周囲がザワつくが、

「やめなさい!」

と、鋭い声が再び沈黙させた。佐奈恵が気を取り戻したらしい。

 

「逃げ回っていたんじゃないわ。すべて、躱していたのよ。それぐらいわかるでしょ」

「そ、そんなもん、同じことだろうが…」

「まったく違うわ」

 佐奈恵は言い切ると、薫に近寄ってきた。

 

「さすがに一年で庚に上がる人は違うということね。鬼の攻撃をそれだけすべて躱しているなら、あなたは怪我をすることもないのだから、必然、任務も増えるでしょうしね」

「………?」

 それまで他の隊士達と関わることのなかった薫には、佐奈恵の言う意味がわからなかった。

 

 通常、隊士達もまた任務に赴くのだが、多くは鬼によって手負いとなる。中には数ヶ月、あるいは一年以上療養しなければならないほどの傷を負う者いる。そうなると必然、任務に行ける機会も減る。

 

 鬼の首級をあげてこそ、実力も認められるのだから、怪我が少ない、あるいは回復力の早い、数多く任務をこなす隊士ほど階級は上がることになるのだ。

 

 相手の攻撃を見切り、躱し、必殺の一撃によって刺す。簡単なようでいて、それを平常心でこなすまでになるには、相当の修練が必要であろう。

 佐奈恵は薫と握手した時に、既にそのことをわかっていた。

 

-----------------

 

 匡近は背後にふと不穏な気配を感じて振り返った。気配を感じたと同時に予想していた顔が、予想していた通りの仏頂面で立っている。

 

「帰ってたのか……」

 声をかけると、ただいまと言う訳もなく、実弥が唸るような声でつぶやいた。

「なんで、あいつがいる……?」

「薫のことか? さっきたまたま会ったんだ。で、道場に来たことないってんで、連れてきてみた」

「……余計なことを」

「そう言うなよ。あの子、あんまり友達とかいなさそうじゃないか」

「いるかよ。鬼殺隊は学校じゃねぇんだぞ」

「共同で任務に当たることだってある。協力し合うことは大事だぞ」

「……ぅるせぇ」

 実弥は吐き棄てるように言うと、その場から立ち去った。

 

 視界の端から実弥が消えたことを確認しながら、薫は必死に微笑を浮かべて佐奈恵達と話していた。

 途中から、実弥がいることには気付いていたが、あえて無視していた。今更会ったところで互いに話すこともない。

 

 どこか上の空だったせいだろう。

 佐奈恵が「じゃあ、今日はここに泊まりなさいよ」と言っていたのを聞き逃し、「はい」と返事してから、いつの間にか離れの女子隊士達の部屋に案内され、自分がうっかりしていたことに気付いた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「マッさんと同じ師匠ってことは、不死川とも同門ってことか」

 佐奈恵はいなり寿司をパクリと一口で食べ、モゴモゴしながらも、しゃべるのをやめなかった。

 マッさんというのは、匡近のことらしい。

 

 道場には炊事場がないため、食事は各自で食べに行くことになっている。

 薫は佐奈恵達と近所のうどん屋に食べに来ていた。

 

 道中でも佐奈恵のおしゃべりは延々と続いた。口から生まれた人というのは、佐奈恵のような人のことを言うのだろう。

 うどん屋に着くまでの間に、薫は道場での風呂は男共が覗きにくるので控えることと、近所のいい風呂屋についての情報、その他においしい団子屋と、給料が多めに入った時に行きたい洋食屋についても教えてもらった。

 通りでいつも見かける野良猫のことまで佐奈恵は知っていた。

 

 うどん屋に入ってからも、この近辺のお店の情報と男の隊士達への不満話が続いていたが、話が途切れたところで、ようやく薫について訊き始めた。

 

「マッさんも不死川も風の呼吸でしょ。あなたも?」

「いえ。私は、風の呼吸は一応習ったんですが、上手に扱えなくて、先生の指示で独自の呼吸を使うようになりました」

「へぇぇ、すごいじゃない。自分で呼吸を考えるなんて。私なんて、水の呼吸でしかやってない。自分で工夫するって言っても、どうやっていけばいいのかわからないし。まぁ、それでこんなとこに入り浸っては、他人のを盗み見て勉強してるんだけどね」

「……そういうことですか」

「で? なんていう呼吸?」

「え……と…………です」

 薫は小さい声で呟いたが、当然、佐奈恵は聞こえず、「えぇ?」と聞き返してくる。

「森野辺さん、どないしたん? 顔、赤いけど」

 秋子に指摘され、ますます穴に入りたい気分になる。

 

 正直、薫は自分の呼吸を言うのが恥ずかしかった。

 風の呼吸の派生といえば聞こえはいいが、要するに風の呼吸を修得できず、自分なりに作り変えただけだ。『呼吸』などと名乗るのもおこがましい気がする。

 

 以前に元鳴柱の老人の所で、その弟子に嫌味を言われた時には大見得を切ったものの、正直なところ、自分の呼吸を同じ鬼殺隊の人に言うのは気が引けた。

 

「なーによぉ。勿体ぶらずに教えてくれてもいいじゃな~い」

 佐奈恵が囃すので、薫は頭を振った。

「いえ、大したものでないので。本当に、風の呼吸からの派生した……ただの亜種ですから」

「あー、恥ずかしいのかぁ」

 佐奈恵は薫の真意にようやく思い至った。しかし、

「そういうのは駄目!」

と、ピシリと言う。

 

「派生した呼吸なんて今までにだっていっぱいあるんだし、そういうのが残っていったお陰で鬼殺の剣士になれた人だっていっぱいいるんだから。例えば、花の呼吸。これがなかったら、女の隊士は今より確実に少なかったはずだよ。女であっても、十分に鬼と戦えるだけの技を編み出した先人の努力の賜物だよ。それをちゃんと伝えてきたからこそ、花柱のような人も出てくるようになったんだから。森野辺さんの呼吸だって、森野辺さん個人のものじゃない。いつか、私達の後に続く後輩達の誰かが、森野辺さんの作った呼吸によって、鬼殺隊に入ってくるかもしれないじゃない。ちゃんと伝承していかないと~」

 

 言われながら、薫は自分もまた古い文献などから、過去の派生呼吸のいくつかを勉強していたことを思い出す。

 

 そうか。

 いつか、誰かが自分のように力が十分でなくとも、鬼殺隊に入りたいと願った時に、自分の呼吸が指針になる…こともあるかもしれないのだ。―――――

 

「あの…鳥の、呼吸……です」

 おずおずと薫が告白すると、佐奈恵はニコーっと笑った。

「いいじゃない! 合ってるよ」

 太鼓判を押してもらったような気分だった。これからは、誰に聞かれても堂々と答えられそうな気がする。

 

「結構、結構。女でも扱える呼吸って少ないんだし、出し惜しみしないこと!」

 佐奈恵は大きな声で言うと、少し冷めた親子丼を勢いよく食べ始めた。

 

 薫は少し圧倒されつつも、このおしゃべりだが自分にない視点をもった先輩に、素直な尊敬と親しみを感じた。

 

 ただ、今度からはうどんを食べながら、佐奈恵のおしゃべりを聞くことにしようと思った。

 目の前にある伸びてしまったきつねうどんを食べながら、それだけは心に留めた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第三章 哀憐(三)

 うどん屋を出た後、近所の風呂屋で垢を落とし、道場の離れに戻った。もう一人いた女隊士は任務で昼から出たらしい。

 

 部屋へと向かう途中で、佐奈恵(さなえ)は廊下の先にいた男の隊士に呼び止められた。

「先行っておいて」

 言いおいて、佐奈恵はその隊士と二人でどこかに行ってしまった。

 

 薫が何気なく佐奈恵の後ろ姿を追って見ていると、秋子がボソリと言った。

「逢引やで。邪魔したあかん」

「はっ? あ、あいびき?」

「そ。佐奈恵さんなぁ、弟子時代―――いや、入る前からか。幼馴染で一緒に鬼殺隊に入った男がおんねん。育手のとこにも二人で入って、二人で最終選別通って、隊士になったっていう……もー、そら熱い熱い仲なんよ~。あ、本人に茶化したら怒られるけどな」

 

「………いいんですか?」

「なにが?」

「いえ……」

 鬼殺隊は毎日、命を懸けられる現場。そんな男女のことはそぐわない。

 正直、薫には理解できかねたが、文句言うことでもないのだろう。

 他人は、他人だ。

 

 秋子は出会った時から、あまり表情を動かさない子だった。しかし他人の心の機微には敏感なようだ。押し黙った薫に説明するかのように話した。

 

「まぁ…他人が絡んで、三角関係になって刃傷沙汰なんかになったら、それこそ本部から処分されることもあるかもしれへんけど、佐奈恵さんと笠沼さんに関してはそういう心配もないわ。もう、わかりやす過ぎるくらい皆が知っとることやから」

「笠沼さん?」

「さっき、森野辺さんが道場で佐奈恵さんとやりあった時、気ぃ失った佐奈恵さんを介抱してた人。みーんな、その後に升田(ますだ)さんと森野辺さんの立合に夢中になってたのに、一人だけ見向きもせんかったんよね。もう、相思相愛で」

 話していると、ガラリと障子を開けた佐奈恵が、興味津々といった表情で入ってくる。

 

「だーれが相思相愛ぃって~?」

「佐奈恵さんと笠沼さん」

 秋子がしれっとして言うと、佐奈恵は真っ赤になった。

 

「な、何言うのよ、アコちゃんっ! 違うわよっ」

「なにが違うんやら。みーんな知ってますやん」

「うるさいなぁ。隆はただの幼馴染だって! もー」

「幼馴染?」

 薫が尋ねると、佐奈恵は簡単に身の上話をしてくれた。

 

「そう。同じ長屋の生まれ。私達、それぞれ片親でね。母親同士が仲良くて…でも、鬼に襲われて、私達はすんでのところで鬼殺隊の人に助けられたけど、庇った親は助からなかったの。で、二人で孤児院っていうの? そういうところに入れられるところだったんだけど、逃げ出して、助けてくれた人に無理やりに鬼殺隊のこと聞いて、二人で師匠のところに入門して………ってだけだから! だから、同志ね! そーいうの」

 

 佐奈恵は途中から言い訳が言い訳でなくなったことを感じたのだろう。あわてて付け足したが、あまり意味はなかった。

 薫と秋子は目を見合わせ、あえて何も言わないことにした。

 

「それにしても不死川が兄弟子って、なんか、大変そうねぇ」

 佐奈恵はもう自分のことを話題にされたくなかったのか、いきなり実弥のことを持ち出した。

 

「でも、隊士になって一年ってことは、えーと、一緒に修行してた…ってことはないか」

「えぇ……後で兄弟子だと知りました」

「あ、そりゃよかったね。あいつとじゃ、気が休まりそうにないもんね」

「………」

「マッさんがいてくれたらどうにかなるけどさぁ……不死川一人の時なんてとっつきにくいし、怖いから、みーんな遠巻きにしてるし。実力があるのは認めるけどね。そりゃ間違いないよね。鬼狩りになる前から鬼を殺して回ってたぐらいだから」

 

「え……?」

 初耳である。

 てっきり家族を惨殺された後、すぐ鬼殺隊に入隊していたのだと思っていた。

 

「知らないの? 一時、有名だったのよ。鬼狩りでもないのが、鬼を誘っては朝日で炙り殺しにしてるらしいって…。マッさんが偶然、鬼に襲われかけてる不死川を助けて、それで鬼殺隊の存在を知ったらしくて、で、育手を紹介してもらって……って話。まぁ、隊士でもないのが日輪刀もなしでよくやるな、とは思うけど、正直、不気味だわ」

 

 薫は慄然とした。

 

 一体、不死川一家に何があったのだろうか。

 

 薫は自分の境遇になぞらえ、家族を惨殺された後、実弥がすぐ東洋一(とよいち)に師事して剣士として修行していたのだとばかり思い込んでいた。

 だがもちろん実弥にも、匡近にも、東洋一からすらそんな話は聞いてなかったのだ。

 

 匡近に会うまでの間、鬼を殺していた? 日輪刀もなしに? そんなことが可能なのだろうか。

 

 ザワザワと記憶が揺すぶられ、嫌な想像が喉元を逆流してくる。

 実弥と再会し、薫が昔のことを話した後、東洋一はどう言っていた?

 

 ―――――あれもまた、(むご)い宿星を背負っているからな……

 

 その時、薫は実弥もまた自分と同じく家族を喪い、復讐の道として鬼殺隊に入ることを選んだのだと思った。しかし、正直なところ鬼殺隊で、親しい者達を失って入隊する人間は珍しくない。

 匡近も、佐奈恵もそうだ。

 そんな子供達を幾人も育ててきた東洋一をして、果たして『(むご)い宿星』とまで、言わしめるだろうか……?

 

 ―――――野犬か何かに食い荒らされたのかっていう……

 

 辰造が話していた情景が思い浮かぶ。その後に、自分は不死川家を訪れた。

 無人となった家。

 消えた笑い声。

 踵を返して歩き出した先に、乞食がいたことを、唐突に思い出した。

 

 ―――――俺は見た。鬼だ。鬼が飛び跳ねて……あの家に……

 

 チラホラと雪が舞う中、彼は自分の見た恐ろしい殺害の現場を虚空に投影して、話していた。

 

 ―――――ガキが…鉈を持って、鬼を殺した。

 

 これは、実弥のことだろうか…? 実弥が、鬼を殺した? 

 

 ―――――母ちゃん母ちゃん、母親の死体に取り縋って泣いていた。

 

 そうだ。この時、志津さんは死んだと言っていたのだ。

 死体が、あったのだ。この時は。でも、薫が後になって聞いたのは、志津の死体がなくて、行方不明になっていることだ。

 埋葬されたという話も聞かない。

 

 鬼はどこに行ったのだろう? そういえば、夜が明けたらもう一人子供が来たのだと彼は言っていた。玄弥のことだろうか。

 夜が明けて、鬼は消えた……?

 

 薫はあの時、あまりに悲しすぎて、まともに受け入れていなかった乞食の言葉を、丹念に記憶から拾い集めた。

 

 ―――――ボロボロ、ボロボロ……

 

 乞食が最後まで言っていた。一体、何のことだった?

 

 ―――――鬼…ガキが殺した……母親は死んだ……ボロボロ散った

 

 いくつもの事実の欠片(かけら)が、ひどい、考えたくもない仮定を導いてくる。

 一番思い出したくない言葉が、今、耳元で囁かれたかのように甦る。

 

 ―――――母親の死体は朝日の中でボロボロ崩れてった………

 

 言われた時、薫にまともに考えられるだけの余裕はなかった。

 不死川一家が皆いなくなってしまった…その事実だけでも、薫から笑顔を失くすには十分だったのだから。

 辰造が気狂いの乞食の言うことだから取り合わないように、と言っていたから、本気にもせず封印したのだ。

 

 けれど記憶の中で、確かに乞食は言っていた。

 志津の死体がない理由。だが、確実に死んでしまったのだと………今は、わかる。

 

 ぐらり、と視界が回る。

 

-------------

 

 

「森野辺さん!」

 佐奈恵に揺さぶられて、薫はハッと我に返った。

「どうしたの? 完璧に心ここにあらず状態だったけど」

「というか、顔色悪い」

 秋子も怪訝そうに見ている。「もう、寝よ」

「あ、そうね。寝ましょうか。森野辺さんも、疲れたわよね。初めてだし」

「しゃべるの禁止」

 秋子がピシャリと言って、佐奈恵の口を封じると、行灯の明かりを消した。

 

 月明かりに照らされた障子を見ながら、薫は暗澹とした気持ちで、いつまでも寝付けなかった。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第三章 哀憐(四)

 翌、早朝。

 

 まだ日の昇る前。

 東の空が薄っすらと白みはじめ、月の光はまだ輝きを帯びている。

 

 薫は隊服に着替え、既に道場にいた。誰もいないその場所で座っていると、予想した通り、実弥が現れる。

 

 昨夜の佐奈恵の話からして、実弥は皆と交わることを良しとしていない節がある。であっても、日々の鍛錬は怠らないであろう。

 以前に東洋一(とよいち)の家に訪れた際にも、薫が起きた時には既に走り込みをし、素振りをしていたのだから。

 

 実弥は道場の中央に端座している薫を見るや、眉を寄せた。そのまま踵を返し、背を向ける実弥に薫は呼びかけた。

「お聞きしたいことがあります」

 

 実弥の足が止まる。

 チラと振り返って「何だァ」と低く言った。

 

 ドクンドクンと鼓動が跳ね上がる。

 薫は努めて冷静に、感情を出さないように問うた。

 

「志津さんは…どこに行ったのですか?」

 薄暗い中、離れて立っているにもかかわらず、実弥の動揺が伝わってきた。

 薫は震える声で続けた。

 

「志津さんは………鬼に、なってしまったのですか?」

 

 薫の脳裏にやさしい、けれどどこか物哀しいような笑みを浮かべる、小柄な女性の顔が思い浮かぶ。途端に目から涙が溢れそうになる。

 

 ダン、と音がするとほぼ同時に、実弥が目の前に来ていた。

 薫の襟元を掴んで、捻じり上げながら、睨みつけている。

「やめろォ……お前に…哀れんでもらいたくねェ」

 

 ―――――やはり、そうなのだ。

 

 それは昨夜から考え続けた残酷な想像。

 志津は鬼となったのだ。そして、自分の家族を襲った。

 

 実弥は――――自分の母を、殺したのだ………。

 

 実弥は乱暴に薫を突き飛ばし、冷えた声で言った。

「さっさと失せろォ。俺は……お前を認めない。鬼殺隊(ここ)から去れェ…」

 

 薫はよろよろと立ち上がった。

 実弥の仕打ちよりも、肯定されてしまった苛酷な現実に憔悴した。

 

「……すみません、でした」

 かろうじてか細い声で言うと、実弥の横を通り過ぎて道場を出た。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 起きて実弥の姿がないのは、いつものことである。

『相変わらず、早いなぁ』と欠伸をしながら匡近は起き上がると、庭先の井戸へと向かった。

 顔を洗い、歯を濯いでいると、不意に道場の方から、ダンっと大きな音がした。

 

 それは、明らかに異質な音だった。少なくとも剣術の稽古や、何かしらに躓いて響くような、日常的な音ではない。

 呼吸を使った、真剣な音。

 

 胸騒ぎがして、あわてて道場に向かう。中から、蹌踉とした足取りで誰かが出てきた。

 

「薫…?」

 声をかけても無言で、よろよろと鈍重な足取りで歩いてくる。

 近寄って行くと、果たして森野辺薫に違いない。違いないが……

 

 匡近は絶句してしまった。

 薫が、泣いている…?

 

 何があった? と聞こうとしたが、匡近が沈黙している間に、薫は通り過ぎて行ってしまった。

 声をかけることすら躊躇するぐらい、その背中はうちひしがれ、弱々しく見えた。

 

 道場の中を見ると、実弥がこちらもどこか虚ろな様子で佇んでいる。

 

「お前、何したんだ?」

「あァ?」

「薫に、何かしたのか?」

「………隊を抜けろと言っただけだ」

「…………それだけか?」

 

 それは師匠の家で再会してから、ずっと言っていることだ。

 薫も聞き慣れている筈で、今更あそこまで悄然とする理由にならない。

 

 匡近はぽりぽりと頭を掻いた。

「何があったか知らないけどさぁ…。その……あんまりいじめるなよ。薫だって必死にやってんだから……」

 我ながら、間の抜けた助言だと思った。

 この二人の間に横たわっているものが、思春期の男が好きな子をいじめてからかうような、子供じみたものでないことはわかっている。

 

 実弥はボンヤリと遠くを見つめたまま、つぶやくように言った。

「アンタがアイツを貰ってやりゃァ、いいんだ」

「はぁ?」

 いきなり予想もしないことを言われて、匡近は素っ頓狂な声を上げた。

 

 実弥は投げやりな口調で続けた。

「アンタもアイツも辞めて、二人で暮せばいい。鬼は、俺が殺す」

 

「おっ…前なぁ……」

 我知らず、匡近の声が震える。

 つかつかと実弥に向かって歩いていくと、思い切りその頬を殴りつけた。

 

「馬鹿か、お前は!」

 怒鳴りつけると、匡近は踵を返して道場を出た。

 その後、敷地内を探し、門を出て近所も見て回ったが、薫の姿はどこにもなかった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 志津が鬼に変貌し、家族を襲い、実弥によって殺されたという事実は薫の心を生々しく抉った。

 だがそれは薫の身に起きたことではない。

 涙は、実弥にとってはいらぬ同情、憐憫である。不快になるのは当然だった。

 

 それでも涙が止まらないのは、きっと今になってあの頃のことがやけに鮮明に思い出されるからだ。

 

 志津は、少しおっちょこちょいな、働き者の、やさしい人だった。

 一緒におはぎを作り、卵料理が上手だった。裁縫は少し苦手だったが、仕事の合間を見ては子供達の着物を繕い、薫が手伝うと、大仰なほどに恐縮して何度も何度もお礼をされた。

 

「お嬢様は、本当に縫い物が上手でらっしゃいますねぇ…」

 感心した様子で言いながら、自分の手元が疎かになって、針をよく指やら、時にはおでこに刺すこともあった。あの時は必死に誤魔化していたが、きっとうとうとと眠くなっていたのだろう。

 それくらい志津はずっと働き詰めだった。

 

 あの日も……体調を悪くして――――それは、薫のことでの心労もあった――――志津は突然倒れた。疲れた様子で、無理に卵粥を食べさせたのを覚えている。

 志津は体調が戻ってからやり残した仕事を終え、少し遅めに帰っていった。

 

 その時……なのか? 鬼になったのは。

 

 朝を迎えて太陽の中に散っていったなら、鬼にされたのはあの日の夜としか考えられない。

 

 もし、少しでも時間が違えば――――。

 もっと早くに帰してやっていれば――――。

 体調が思わしくないなら送っていってやれば――――志津は…あのやさしい人は、鬼などにならずに済んだのだろうか……。

 

 今更、どうすることもできない後悔が押し寄せる。

 

 どうして? と問わずにおれなかった。

 あんな善良な、苦労しながらでも笑顔を絶やすことなく生きている人間を、どうして鬼にした?

 あの人が、お前に何をしたというのか。

 父を亡くし、母だけを頼りに肩寄せ合って懸命に生きようとしている子供達に、なぜここまでの苦しみを与えた?

 

 寿美、弘、貞子、就也、こと…。

 死んだ子供だけでない。

 実弥も、玄弥も。死にたくなるような苦しみを抱えて、生きていかねばならなかった……。

 

 

 その元凶の名前は、もはや呪詛である。

 東洋一から鬼の成り立ちを聞き、親達の命を奪った遠因であるその首魁の名を知った時、必ず滅殺することを誓った。

 

 いつもどおりの日常、取り戻すことのできない日常。

 

 ヤツは知りもしないのだ。それがどれほどに尊いものであるのか。繰り返し、繰り返し、紡がれていくその日々を、ある日いきなり断ち切られることの苦しみを。

 

 鬼舞辻無惨。

 

「殺す……」

 低く、ほとんど聞こえない声でつぶやく。

 

 目的は明確であっても、そこまでの道程は容易(たやす)いものではない。

 相手はどこにいるかすらわからず、その手下の十二鬼月は無数の鬼殺隊士を死に追いやった手練(てだれ)達だという。

 

 今の薫には無明の闇を行くかに思えた。

 それでも――――進む。

 

 二度と、実弥の前で泣かぬために、もっと鍛錬せねばならない。

 体だけでなく、精神(こころ)も。

 強く、(つよ)く。

 これ以上、誰も傷つけないために。何者にも傷つかないために。

 

 

 

<つづく>

 

 

 



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第四章 花柱・胡蝶カナエ(一)

 約一年ぶりに訪れた東京は、ますます夜がきらびやかになり、人の往来も以前に比べてずっと増えるようになっていた。

 とはいえ日の落ちた後の、明るくはあっても太陽の光とはまったく違う光は、鬼にとって何の害にもならない。

 むしろ、食料となる人間が暗闇を怖がらずに外にノコノコ出てくるだけ、有難いくらいだろう。

 

 まだ春になる前の肌を突き刺す寒さの残る中。

 大通りから少し脇道にそれた路地裏を歩いていると、クン、と血のにおいが風に乗って運ばれてくる。

 

 すぐさま薫はにおいのする方向へと走り出した。

 行き止まりの先に、倒れた人がいる。死んでいるのかどうかわからない。それよりも、その前で言い争っている鬼が二匹。

 

「コイツは俺の獲物だあぁぁ!」

「うるせぇ! ここいらは、私の縄張りだよッ」

 どうやら、男と女の鬼が人間を取り合っているらしい。男の鬼は女の顔を長い爪で掻き切り、女は男の胸を何かでザックリと切り裂いている。

 

 薫には気付いていないようだった。

 すぅ、と静かに呼吸を始める。気配を押し殺し、より心を研ぎ澄ませて鬼の殺気を感じる。

 タッと軽く踏み込んで―――――刀が鞘走る。

 

 鳥の呼吸 伍ノ型 森閑俊捷(しんかんしゅんしょう)

 

 次の瞬間には男の鬼の首は落ちていた。女の鬼は、飛び退って避けている。

 

「……気付いてないとでもお思いかィ?」

 どうやら男鬼と争っている間に、気付いていたらしい。

 薫はもう一つの刀を抜く。両刀を顔の前で交錯させて、鬼との間合いをとった。

 

「鬼狩り共が……いちいち面倒なヤツらだよ」

 鬼は吐き棄てるように言うと構えた。手に、鼈甲の三味線バチが見える。

 

 女の鬼がバチを振るうと同時に、ヒュウッと音が鳴って、薫がさっきまでいた場所をえぐった。まともにくらっていたら、真っ二つにされていたろう。

 息をつく間もなく、女の鬼は斬撃を放つ。間合いを詰めることができない。

 

 女の鬼もまた、身軽に逃げ回る薫に苛々していた。

「ちょこまかちょこまかとォ…なんだィ、最近の鬼狩りは逃げるのが仕事かィ?」

 こちらを怒らせようとしているのか、紅い目が細く伸びて、真っ赤に紅をさした唇がニイィと歪んだ。

 

 薫もまた不敵な笑みを浮かべる。

「そちらこそ、疲れたんですか? お年ですか?」

 それは女の鬼に禁句だったらしい。

 

 なんの振りもなく、手に持った鼈甲のばちを平行に振ると、ヒュウッという音がしたと同時に、薫は何かが自分の身体に巻き付いてくるのを感じて、瞬時に後方へと宙返りした。

 躱しきれずに、足の甲が切りつけられ、態勢が崩れる。

 

「……っ!」

 さっきから、バチでない何かがここまで伸びてきていたが、やっとわかった。

 三味線の(いと)だ。

 

 気付いたものの、方策を考える間もなく、女の鬼がまた無数の弦の斬撃を放ってくる。

 先程傷ついた足の甲の鈍い痛みのせいで、躱すのが難しい。時々、鋭い痛みが背中や腕に走る。

 

 不意に女の鬼は動きを止めた。スンと鼻をならして、訝しげに薫を見る。

「……お前…妙な匂いがするね………」

 意味がわからなかった。

 女の鬼は眉を顰めて、しばらく薫をじいぃと見つめていたが、急に面倒くさくなったようだ。

 腕を振り上げて、また攻撃を始める。

 

 四方から襲いかかる弦の攻撃を必死でかわしつつ考えた。

 このままでは駄目だ。この鬼の隙を狙う前に、自分がへばってしまいかねない。

 薫は呼吸を整えた。多少、傷ついても長引かせるよりはいい。

 

 鳥の呼吸 肆ノ型 円環狭扼

 

 一足飛びに鬼の鼻先まで近づくと同時に、交差した刀をその首へと当てる。

 円環が鬼の首に巻き付こうとする前に、鬼は素早く自分の弦を自分の首に何重にも巻きつけた。

 

 斬れない――――!

 

 グッと、薫は踏ん張った。ここで切り落とさなければ、今度は自分が殺られる。

 

「ギイィィィ!!!! こンの…小娘があアアァァァ」

 鬼が叫びながらバチを振り上げた時、その手が空中で斬れた。

 鬼にも、薫にも何が起きたのか一瞬、わからない。

 

 混乱の合間に、その人は薫の後ろに立っていた。

「私の呼吸と同時に、避けて」

 囁いた言葉が柔らかく耳朶をうつ。

 戦闘場面に似合わぬような、かぐわしい梅の匂いがフワリと漂った。

 

 応諾もないままに、薫は背後からその人の呼吸音が聞こえると同時に、斜めの方向へと刀を引き、そのまま地面に一回転して鬼の間合いから離れた。

 

 花の呼吸 壱ノ型 椿ノ火影(つばきのほかげ)

 

 振り返った時には、女の鬼の首は落ちていた。

 首に、弦は巻き付いたままだ。

 

 薫が見上げると、塵となって消えていく鬼を哀しげに見つめる女隊士がいた。まるで蝶の羽のような模様の、淡い緑と紅色を端にぼかし染めした羽織を着ている。

 

「……あの」

 声をかけると、その女隊士が振り向いた。

 真正面から初めて顔を見ると、天女が舞い降りたのかと思うほどに美しい。

 思わず息をのんだ。

 

 天女は足音もたてずに薫の傍に来て、腰を降ろして心配そうに見ている。

「怪我をしているわね」

「あ…いえ。大したものでは」

「駄目よ。ちゃんと手当てすれば、痕も残らないから」

 

 その後は自分が鬼殺の現場にいたことも忘れてしまうくらい、あっという間にその女隊士の指示で現場は隠達によって処理された。

 襲われていた人間は、どうやら鬼達の諍いのお陰で命拾いしたらしい。大した怪我もなく、家へと送り届けられた。

 

 薫は気がつくと、隠におんぶされて大きな屋敷へと運ばれていた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「ここは?」

「ここは、蝶屋敷です。花柱様のお住まいで、隊士達の療養所も兼ねています」

 隠は簡単に説明すると、診察室の寝台に薫を置いて、その場から立ち去った。

 

 花柱? さっきの天女が花柱だというのだろうか?

 だが、そうであればあの鬼の首を訳なく落とせた理由もわかる。やはり尋常の才能ではないということだ、柱は。

 

 初めて見る柱という存在に、薫は我知らず興奮して震えた。

 そこに、その花柱がニッコリと笑って現れた。

 

「ごめんなさいね、待たせて。すぐに手当てするから」

「あ、あの……すみません。花柱様にこんなことさせて」

 薫が緊張して言うと、花柱はコロコロと鈴をころがすように笑う。

 

「そんな大層なものにしないで。私の名前は胡蝶カナエよ。そういえば名前を伺ってなかったわね」

「森野辺薫といいます」

「そう。森野辺さん、じゃあ怪我の手当するから……上を脱いでもらっていいかしら?」

 カナエは慣れているのか、手際よく患部を消毒し、薬を塗り、包帯を巻いていく。足の傷は深く、少しだけだが縫い合わせる必要があった。それも手早く、丁寧に縫合していく。

 

「肩と背中の傷は大したことはないけど、足の傷は深いから……飲み薬も飲んでおくといいわ。後で渡すわね」

「……すみません」

 カナエは困ったように薫を見つめた。

 

「そんなに謝るものでないわ。むしろ、ごめんなさいなのは私の方なのに」

「え?」

「私にあの鬼の討伐の任が下っていたの。あの近辺で人喰いが続いていたから。あなたが先に行き合ってしまって、無視できなかったのでしょう? 間に合ってよかった」

「いえ。私こそ任務でもないのに、勝手にでしゃばったから……す」

 すみません、と言おうとして、唇に人差し指を当てられた。

「だ・か・ら。謝るのはあなたではないのよ、森野辺さん」

 自分でも顔が熱くなっているのがわかった。

 

 前に匡近からの手紙で、今度花柱になった人は、とてつもなく強い上に、美しい人であると書いてあったのを思い出す。

 その時は美しさよりも、強さというのがどれほどものか、ということの方が気になって、大して気にも留めなかったが………同じ女でも一瞬、クラリとなってしまいそうになる美しさだ。

 

「あら? 熱が出てるのかしら?」

 カナエの方はまったく自分のせいであるとは思いもよらぬらしく、額に手を当ててきたりする。それも薫にはなんだか気恥ずかしい。

 

「今は任務は?」

 カナエが尋ねてくる。

「あ、いえ。今は休暇でこちらに来ていて……」

「あら。じゃあ、元々こちらが任地ではないのね?」

「はい。明日には京都に戻ります」

 

「そっか。じゃあ、今日はここに泊まっていきなさいな。もしかすると熱が出るかもしれないし」

「いえ! そこまでご厄介にはなれません」

 ただでさえ、自分がカナエの任務にでしゃばって、勝手に怪我を負ったに過ぎないのだ。手当してもらっただけ、有り難いと言わねばならない。

 

 だが、カナエは有無を言わせなかった。

「ここは、隊士の治療所だから。私は所長でもあるの。あなたには今日一晩、ここで治療してもらわないと、任務に出ることを許可できません」

 ニッコリと笑った顔がある意味、暴力である……と、薫は思った。

 

 

-------------

 

 

 その後、カナエは他にも治療中の隊士がいるらしく、回診に向かった。

 病室を案内に来たのは、カナエに似たお人形のような可愛らしい女の子だった。

 

「胡蝶しのぶです」とお辞儀をすると、薫の顔をじぃぃと見つめる。見つめる…というか、睨んでいるような気もする。

 

「なにか?」

 薫が問いかけると、その厳しい表情が少し和らいだ。

「森野辺さんは、女の人なんですよね?」

「え? あ…はい」

 

 この(ナリ)のせいで、男に間違われることは珍しくない。最近ではむしろそれを利用している。女で旅をするよりは、男と思われている方が都合がいいのだ。

 

 しかし、しのぶには男である方が問題があるようだった。

「うん。そうよね。声でわかった。じゃあ、いいわ」

 ホッと安堵したように吐息をつく。

 

「いい…って?」

「男共だと姉さんにやたらと言い寄ってくるのが未だにいるから」

 それは容易に想像できた。ついでにそこらの男共が次々にフラれて撃沈していく様も見える。

 

「顔がいいヤツは特に。だから森野辺さんが男だったら、いっちばん姉さんの部屋から遠い、いっちばん寒い部屋に案内しようかと思ってたけど、女ならちゃんとしたところに案内するわ」

「ありがとう……」

 

 礼を言いながら、自分が男でなくて良かった…と鬼殺隊に入って初めて思った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 




<おことわり>

▼花の呼吸 壱の型 は原作では登場していません。してないと、思います。(あったらすいません。教えて下さい)
なので作者の捏造です。すいませんが、ご了承の上、軽く受け流して読んでいただけると幸いです。





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第四章 花柱・胡蝶カナエ(二)

 結局、一晩お世話になって、翌朝カナエは薫の傷の具合を見てくれた。

 

「肩と背中の傷はほとんど治ってるわね。足の方は、ちゃんと塗り薬を塗っておけば、一週間ほどで完治するでしょう」

 カナエは足の甲に新しいガーゼを当てると、するすると器用に包帯を巻いていく。

 

「ありがとうございます」

 礼を言って診療室を出ようとすると、コンコンコンと忙しなく扉を叩く音がして、カナエの返事を待たずに開いた。

 

「邪魔するでェ」

 ヌッと入ってきたのは鬼の『生け捕り師』・伴屋宝耳(ばんやほうじ)だった。

 

「宝耳さん!」

 薫が驚いて声を上げると、「ヨォ」と気安く挨拶し、ずいずいと中に入って、診療用のベッドに腰掛けた。

 

「宝耳さん、女の方の診察中に入って来ないで下さい」

 カナエが眉間に皺を寄せて咎めると、宝耳は肩をすくめた。

 

「いやぁ、知り合いがいるって聞いてなァ。ちょいとばかし挨拶に寄ったんや。『ありがとうございます』って聞こえたんで、もうエェか思ぅて」

「だったら、外で待っていればいいでしょう?」

「いやぁ、ワイもちょいとばかし怪我が膿んどってな。ついでに診てもらおうかと思て、ほんでついでに喋れるしな」

「………何なんですか、まったく」

 怒ったように溜息をつきながらも、カナエは宝耳の脛の傷を診る。

 

 その間に宝耳は呑気に薫に話しかけた。

「なんや貴方(あン)さん、こっちに配置換えになったんか? いよいよこっちで鬼が集結しだしとるなァ」

「あ、いえ…私は墓参りに来ただけです」

「へ? それで鬼に当たったンか? しかも花柱に滅殺命令が下っとった鬼に?」

 薫はますますでしゃばった自分が恥ずかしくなった。

 赤くなった顔を俯けると、宝耳はケラケラ笑った。

 

「アンタも、何や、運があるんやらないんやら……鬼が寄る性質(タチ)なんか? 篠宮老のとこにいた時にも、修行中に鬼に遭うたらしいな?」

「……なんで知ってるんですか?」

「……ワイの情報網を舐めたらアカンで。まぁ、たまたまやろうけど、気ィつけェな」

 

「気いつけるのは貴方(あなた)もですよ、宝耳さん」

 カナエは腰に手を当て、仁王立ちになった。

「こんな状態になるまで放っておいて。どうしてさっさと来ないんです?」

「いやぁ、薬も服んだし、そのウチ治るやろーて思とったんやけど、どうもあの鬼、ちょいどばかり違う毒を使うたみたいでな」

「薬が効かなかったんですか?」

「そのようや。一応、検体はさっきしのぶちゃんに渡しといたよってな。まぁ、吉野のおっ母さんと適当に調べといてや」

 カナエはフウと溜息をつくと、宝耳の怪我の手当をしながら、薫に尋ねてきた。

 

「森野辺さんは、篠宮先生の門下なの?」

「あ……はい」

「じゃあ、不死川くんと同門なのね」

 不意にその名前が出て、薫は一瞬、顔が固まった。

 

 奇妙な間にカナエが首を傾げる。

「どうしたの?」

 薫はすぐにニコと微笑んだ。

「……そうです。不死川さんは兄弟子にあたります」

「そうなんだ。大変でしょうねぇ」

 心底から同情されて、薫はぎこちなく笑った。

「そう…ですね」

「言うことは聞かないし、無茶ばっかりするし。困った人よね」

 カナエは実弥と知り合いらしく、気のおけない様子で言う。

 

「花柱様は………」

 呼びかけると、カナエは「やめて頂戴」と立ち上がって、薫の前にズイと顔を近づけた。

 

「花柱様なんて、肩の凝る呼び方。大して年も違わないでしょう? いくつ?」

「私は十六ですが」

「あら、年下なのね。同じくらいかと思ってた。じゃあ、私はこれから貴方のことは薫って呼ぶことにするわ。私のことはカナエさんって呼んでね」

「え………」

「ね?」

 正直、柱たる人に対してそんな気軽な呼び方をしていいものかと迷ったが、昨日もそうだが、カナエの笑顔はある意味、抗いがたい支配力を持っている。

「………はい」

 

「それで?」

「え?」

「何か言いかけていたでしょう?」

「…………忘れました」

 本当に、何を言おうとしていたのか失念した。どうしてだかカナエに真正面から見られると、思考が停止してしまう。

 

 当のカナエは薫の動揺など知る由もない。気の抜けた顔をすると、肩をすくめた。

「じゃあ、また会うこともあるでしょう。お互い、頑張りましょう」

 握手をして、薫は再び礼を言うと診察室を出た。

 

 ホッとしたような、名残惜しいような妙な気分だった。

 気持ちを整えるために大きく深呼吸をして、歩き出す。

 

 出てきてから、ふと、宝耳は何をしにきたのだろう? と診察室のドアを振り返ってみたが、特に追いかけてくる様子もない。深く考えることもなく、再び歩き出した。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 薫が去った後の診察室では、カナエが宝耳の脛に包帯を巻きながら、話をしている。

「貴方さん、あの()のこと、気に入ったんか?」

 宝耳が単刀直入に尋ねると、カナエはクスッと口の端を上げた。

 

「どうかしらね?」

「やれやれ。おちょくって遊びなや。堅物に見えて、あのお嬢さんには好いとる男がおるんやで」

「あら、そうなの?」

 それは意外だった。薫のような真面目な性格だと、そうした事すら考えないだろう…と思っていた。

「そうや。前に寝言で呼んどったんや。『さねみさん』言ゥてな」

「さねみ、さん?」

「せや。一言だけやったけどな」

 カナエはクスと笑った。

 

「それだけじゃあ、不十分ね」

「不十分?」

「だって、それじゃあ生きている人なのかどうかわからないわ。もしかすると、死んだ人のことを思い出していたのかもしれないじゃないの。だったら、関係ないでしょ」

「えらいご執心やな。しかし残念やけど、あれは死んだ奴のことではないやろなぁ…。次の日にその事言うたら、真っ赤になって逃げていきよった。(ウブ)いモンや。死んだ相手にあないな顔はせんやろなぁ」

 

「……はい、終了」

 カナエは包帯を巻き終えると、ベシっと上から叩いた。

 

「デエッ! 痛い、痛いがな、カナエはん」

「大したことないでしょ。ホントにいちいち大袈裟なんだから貴方は。薫は麻酔もなしに縫われている間、一度も声を上げなかったのよ。辛抱強い子だわ」

「………そんなん、知らんがな。ワイは痛いモンは痛い言うで」

「ハイハイ。じゃ、治療は終了。お帰り下さい」

 扉を開けて退出を促すカナエに、宝耳はぶつくさ言いながら、出て行こうとして呼び止められた。

 

「ねぇ、もう一度聞くけど……さねみ、って言ってたのよね?」

「は? あぁ……あのお嬢さんの寝言か? せやで」

「ふぅん」

 カナエは顎に手を当てて思案する。その様子を見て、宝耳はニヤニヤと笑った。

 

「なんやぁ…? 気になるんか?」

「……ちょっとね。知り合いに同じ名前の人がいるのよ」

「ほぅ? 隊士かいな?」

 気安く訊いてくる宝耳を、カナエはジロと冷たく見た。

 

「危ない、危ない。貴方はそうやっていつも情報をとっていくんだわ。油断ならないったらない」

「ハハハハ。ただのお喋りやがな。大したことやあらへん」

「貴方と喋ってたら、口を縫った人間だって縫い目が綻んで、気がついたらベラベラ喋ってしまう羽目になるのよ。――――お疲れ様。また怪我するか、何か目ぼしいことがあったらお報せください」

「ゲンキンな御仁やで。これやから花柱っちゅうのは……」

「なぁに?」

 ニッコリと笑ったカナエに、宝耳もまた大人しく兜を脱ぐ。

 

 診察室から出ると、宝耳はふぅと溜息をつきながら、煙草を袂から取り出した。

「………ホンマに菩薩と毘沙門天が一緒になっとるで、アレは」

 独り()ちて庭を歩きながら煙を吐いていると、門から薫が出て行くのが見えた。

 

 そういえば、そもそもはこっちに用があって診察室なんぞに行ったのだった。

 

 さて、―――――どうしたものだろうか?

 特に急用でもなく、指令でもない。

 ただの古びた約束に過ぎない。それも、とうの昔に死んでしまった人間との。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 十三年前―――――。

 

 藤の花が散り始め、夏へと季節が移り変わる時期に、その人は既に枕から頭を持ち上げることもできずにいた。

 若い頃は、柔和な、いかにも貴公子然とした面差しであったものが、今や醜く爛れたようになって、目も光を失って久しい。

 

 おそらくこの夏を越すことはないのだろう……と、どこかで覚悟する自分がいる。

 

 全国を飛び回る宝耳からの様々な情報を聞いて、先に口を開いたのは、産屋敷家の忠犬である。

「相変わらず、目端がきくことだな」

 ジロと睨んで皮肉っぽい口調で言うその男は、見事な三つ揃えの背広を着ている。

 この数寄屋造りの広壮な屋敷では珍しいので浮いているが、当人はそんなことに頓着しない。

 この男は鬼殺隊そのものよりも、産屋敷家における表向きの渉外活動を担っている。同時にこの家での番頭としての役割もあった。

 

「有用な情報だ。惟親(これちか)、先物については任せるよ。以前に言ったように……」

 床の中から、案外と元気そうな声が聞こえて、少しばかりホッとしたのも束の間、その人は急に咳き込んで血を吐いた。

 

 気配を消して控えていた奥方の耶香子(やかこ)が、すぐさまその傍らに駆け寄って、手拭いで口を拭い、背中を撫でさする。

 惟親は何かを言われたらしい。ぜいぜいと息するその人の側に近寄ると、何度か頷き、やがて宝耳を呼んだ。

 

「来い。御館様がお呼びだ」

「……へいへい」

 耳をほじりながら近寄ると、もっと、と手で呼ばれる。

 吐いた血の匂いがしてくるくらい側近くまで寄ると、フフと笑うのがわかった。

 

「宝耳。また、鬼殺隊を辞めたいかい?」

「まぁ…それなりに金も貯まりましたから。そろそろ支那に戻ろうかなァ…と」

「それは……残念だな」

「御館様も長くないようですし、そうなるとワイなんぞもうお役御免でしょう?」

「耀哉のことは頼めないのかな?」

「…………」

「惟親と、君と……今の柱達に頼めるなら、僕も安心だと…思っていたんだけどね」

「他はともかく、ワイなんぞはおってもおらんでも変わらんですよ」

「そんな事を言って、本心は、つまらないんだろう?」

 病に伏せていても、洞察力は健在である。

「飽きっぽい君のことだから、仕事に馴れると、また辞めたい病が出るんだよ」

「……かなんな」

 宝耳はポリポリと頭を掻いた。横で背をさすっていた奥方の耶香子がつと手を止めて、宝耳に向って頭を下げた。

 

「お願い致します。惟親様とご一緒に、息子の代に於いてもご助力頂きますよう……」

「やめてくださいよ、奥方。別嬪さんに頼まれると、断れんようになる」

「じゃあ、頼まれてくれるのかな」

 楽しげに言う夫に、耶香子はそっと微笑んだ。

 こんなふうに楽しそうにしているのは久しぶりだ。宝耳と惟親と三人でいると、昔のままに、同じ年の少年に戻る。

 

「飽きっぽい宝耳に…じゃあ、もう一つ頼みたいことがある。これは……父上の遺言でもあったんだけど」

「先代の?」

「風の…一族のことだよ。父上は自分の代で風柱を途絶えさせてしまったことを、ずっと気に病んでいたんだ。……先々代の風柱には無理をいって長く勤めてもらったから……きっと親のように慕っていたんだろうな。僕も、幼い頃には最後の風柱に遊んでもらった。彼の息子にも、会ったことがある。今頃どうしているのか…生きてるのか死んでいるのかすらわからない。彼がどうして風の呼吸を継承しなかったのかも……」

 

 そこで一旦途切れ、乱れた息を整えるまでしばらくかかった。

 宝耳はいつの間にか、骨と皮だけになった、その細い腕を掴んでいた。

 

「興味があるなら………一度、調べほしい。あの頃、あの一族に何があったのか。理由がわかったからといって、今更どうなるものでもないのだろうけど………」

 

 宝耳は眉を寄せた。

 昔、風柱の惣領家で異変があったらしいことは、隊内で漏れ伝わっているが、そんな昔話、今は誰も気にかけてなどいない。

 

「もう、気にすることでもないでしょう。惣領家がなくなったとはいえ、ちゃんと風の呼吸の育手もおって、技は継承されてはいるんですから」

「うん…そうだね。だから……君の…好奇心が続くようなら、で、いいよ。あの頃、生きていた人は……もう…少ない…し、生きていたと、して……語ってくれる…とも…思えないけど。君は……こういうの、好きだろ?」

 

「……なんやろな、人を三流の新聞記者みたいに」

「その通りだろうが。出歯亀」

 それまで口を挟まなかった惟親が、後ろから野次ってくる。

「誰が出歯亀やねんっ!」

 二人のやり取りを、クスクスと、耶香子と共に笑っている。しばらく笑っていたが、またむせて、苦しそうに胸を押さえた。

 

 折れそうな手が、宝耳の手を握る。実際には、重ねただけだったが。

 

「宝耳。頼むよ……」

 

 

 それからしばらくして、夏の終わりに()の人は逝った。やはり夏を越えることは難しかったのだろう……。

 

 

-----------------

 

 あれからすっかり忘れていた。

 なにせ今の御館様というのは、優しげな風貌とは裏腹に、人遣いが荒い。辞めるなんて言い出す暇もないくらいにこき使われ、そんな昔話にかかずらっている時間などなかった。

 

 ひょんなことであの娘に会って、篠宮老の事を聞いてからだ。やたら思い出すようになったのは。

 もうとっくに忘れたと思っていた、彼の人の声まで聞こえてくる。

 

 ―――――宝耳。頼むよ……

 

 これは、何かの意志なのか? 前兆なのか?

 時に人ならざる直観力を持った彼の人は、極楽から糸でも垂らして、自分を動かそうとしているのか?

 

 ポリポリと頭を掻いてしばらく思案する。

 ポイと煙草を小さな池に投げ棄てると、宝耳は薫を追った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






<おことわり>

▼ 前回に引き続きなのですが、今回も確信犯でやっていることが…。
 胡蝶カナエの年齢です。
 原作に忠実にいきますと、本来はもう死んでるんです。十七歳で死亡、ということなので。
 ですが、そうなると、どうしてもなんか噛み合わないことがあったりなんかして…いや、単純に作者都合でカナエさんが好きなので―――――。
 ということで、カナエさん十八歳ですが、生きてます。
 すいません。本当に。
 どうかボンヤリと見過ごして下さい。

▼2021.02.04.に発売された『鬼滅の刃ファンブック vol.2』において、御館様についての追加情報がありました。
 この話における先代御館様の描写と、原作設定とは異なることになりますが、修正が難しいため、そのまま変更しないことにします。ご了承の上、お楽しみいただけると幸いです。







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第四章 花柱・胡蝶カナエ(三)

 薫が蝶屋敷を後にして駅に向っていると、後ろから宝耳(ほうじ)がのんびりと声をかけてきた。

 

「よォ、また()うたな、お嬢さん」

「宝耳さん……もうお帰りですか?」

「あないなとこ、いつまでもおったら何されるかわからんで。姉は切ったり縫ったりが好きやし、妹は変な飲み物こさえては、試しに飲まされるし。せやからあんまり近寄りとぉなかったんやけどやな……傷がジクジク痛んでくるよってしゃあない」

 

 妹……というのは、昨日薫を男だと思って警戒していたあの女の子のことだろうか。

 変な飲み物が何かは知らないが、少なくとも昨日服用した煎じ薬は特に問題ないと思う。

 

 それよりも―――――。

 

「宝耳さん、何か御用ですか?」

「は? なんや?」

「さっきも診察室に私を訪ねておいでになったのでしょう? 何か御用があったんじゃないかと……」

 宝耳はニヤリと口の端を歪めた。

 

「お嬢さんは油断ならんなぁ。花柱の色香にうっとりしとるんかと思てたら」

 頬にさっと朱が差し、薫は一瞬黙り込んだ。すぐに「馬鹿なことを」とつぶやく。

 宝耳はヒャヒャヒャと笑った。

 

「別に珍しいことでもない。あン人に会うたら女も男もどっか頭のネジがちょいとばかし飛ぶんや。そういう雰囲気なんやな」

「………宝耳さんもですか?」

「ワイは年季が入って、色々見てきとるんでな。悪いが、そういう事には耐性ができとる」

 やはり亀の甲より年の功という訳か。自分にその徳が積み上がるのは随分と先の気がする。

 薫は自身の未熟さに溜息をついた。

 

「それより、ワイが聞きたかったことなんやけどな。別に大したことやないんや。ちょいとばかし、興味がある…ゆうだけのことなんやが、貴方(あン)さんの師匠に関することでな…」

「はい?」

 

風波見(かざはみ)について聞いたことあるか?」

「かざ…はみ?」

 東洋一から直接聞いたことはないが、蔵書にその名前を散見した気がする。

 その事を言うと、宝耳はホゥホゥと頷いた。

「ということは、風波見の伝書は篠宮老が受け継いだということか……」

「どういうことですか?」

 

「風波見は、風の呼吸の惣領家(そうりょうけ)やった家や。今はそうでなくなったが…人が絶えた訳やない。にも関わらず、鬼殺隊との一切の関係を断った。理由はわからずじまいや。当時、いろいろと憶測が飛んだんや……」

 宝耳は言いながら、チラと薫を見た。

 視線がかち合って、宝耳がそれとなく目を逸らす。

 薫は訝しんだ。

 

「憶測って、何です?」

「いや、根も葉もない噂や。昔のことやし」

「ただの噂なら、聞かせてもらっても問題ないですよね?」

 

 宝耳は愛想笑いを浮かべながら、恐る恐る言ってみる。

「いやぁ…篠宮老がその当時の風柱を暗殺したんとちゃうんか………って、噂やで、噂。根も葉もないねん。あるわけないんや。もぅ、その時には篠宮老は鬼殺隊から引退しとったからな。足失くして」

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 薫は溜息と同時に吐き捨てた。

「どうして先生が風柱を殺す必要があるんです? 鬼にでもなったというならともかく……」

「そら、せや。ただ、足を失くす前の篠宮老が相当の手練(てだれ)で、当時、篠宮老こそ風柱に相応しいと推挙する柱もおったことは事実でな。結局、重傷を負って引退した篠宮老は柱にならず、当時の惣領家の跡継ぎは家柄だけで風柱を襲名した……と、陰で色々と言われたらしい。

 そのこともあって、篠宮老が実は納得してなかったんと違ぅかァ……っていう憶測が流れたみたいでな…」

 

 東洋一(とよいち)が当時の柱から推挙を受けるほどに強かった…ということは、素直に嬉しい。

 だが、尾ひれがつきすぎて、東洋一が自分の境遇に不満を抱いて風柱を暗殺したなどと噂されるのは、非常に不本意だった。

 一年半、一緒に暮らしてわかっている。東洋一は名誉や出世など、一番興味のない人間だ。

 

「そんなに気になるなら、いっそ先生に直接伺ってみた方が早いではありませんか?」

「まぁその内、機会があればな……とは思うんやけど、なかなか仕事の都合もあるしなァ。差し迫ったことでもなし…」

 ごにょごにょと言い淀む宝耳に、薫は眉を寄せた。

 

「先生が現役の頃といったら、宝耳さんはまだ鬼殺隊に入ってもいないはずですよね?」

「まぁ…そうやなぁ」

「なんでそんな昔の話を今頃になって知りたがるんですか?」

 鋭い質問に宝耳の目が泳ぐ。薫は更に覆いかぶせるように問うた。

「宝耳さんは水の呼吸だと仰言(おっしゃ)ってましたよね? 関係ないんじゃないですか?」

「……まぁ、そうなんやけど……」 

 

「誰かに頼まれでもしているのですか?」

 図星に内心でドキリとしつつも、宝耳はそれこそ年の功で、なんとか余裕のある笑みを浮かべた。

「いやぁ……ただの出歯亀根性や。気にせんとってくれ」

 薫はそれ以上突っ込んでも、宝耳は話してくれないだろうと、見切りをつけた。

 

 踵を返し、背を向けると駅への道を再び歩き始める。

 宝耳はあわてて付き歩きながら、話題を変えた。

 

 

貴方(あン)さん、そういやさっきなんか聞きたそうにしとったな? 花柱に」

「……大したことじゃありません」

「まぁまぁ、そう言いなや。ワイでわかることやったら教えたるでェ」

「別に……花柱……カナエさんと、不死川さんがお知り合いなのかな? と思っただけです」

「あぁ! それか」

 宝耳は手を打って、「うるさい兄弟子の弱みを握っておきたい、言ぅことやな?」

と、勝手な推測をたててくる。

 

「そういうことじゃ……」

「いやいや。ま、確かにな。花柱と不死川の噂はポツポツ聞く」

「噂?」

 相手にしないつもりだったのに、思わず聞き返してしまった。

 

 宝耳は懐手に腕を組み、意味ありげな微笑を浮かべた。

「蝶屋敷に不死川は頻繁に来るらしいんや。なんや検診とかなんとかいうてなァ。来たら数時間近くおることもあるらしい………」

「どこか具合が悪いのでしょうか?」

 前に会った時にはそんな感じは受けなかったが。

 すると宝耳はハハハと声を上げて笑った。

 

「あんさん、ニブイなぁ。そんなもん、あの美しい花柱とおって、グラつかん男がおるかいな」

「は?」

「あの二人が怪しいいうんは、専ら裏で噂されとる話や」

「………あやしい?」

「男女の仲、言うことやないか」

 みなまで言わすな、と宝耳は小さな声で言うと、ニヤリといやらしい笑みを浮かべた。

 

 突然 ――――― 頭の上に岩が落ちてきたような衝撃を受けた。

 その後、ゆっくりと冷たくなった血が、脳天から全身を凍みるように流れていくのがわかった。

 

 ―――――実弥さんと、花柱様が?

 

 ありえない、と即座に否定しながらも、カナエの美しさには女の自分ですら見惚(みと)れてしまうのだから、男であれば尚の事、抗えないであろうことは容易に想像できた。

 粂野も手紙で書いていたではないか。『美しい人』だと。

 その事は否定するつもりもなかったが、二人が一緒にいることは想像できなかった。

 ―――――というか、したくない。

 

「まぁ、柱かて人の子ぉやし。ホレたハレたに他人が口挟むもんやないしな。不死川、いうのはワイは会ったことないけど、まぁまぁ強いヤツらしいやん。そら、それくらいのんやなかったら、さすがに花柱も相手にはせんやろな。先々代の花柱は鬼殺隊とは関係ない、普通の男と結婚したけど………」

 先程の昔話のことを誤魔化そうとして、宝耳はやたら饒舌になっていた。

 

 薫は苛々した。脳天気にベラベラと喋り続ける宝耳に、無性に腹が立った。

「やめてください!」

 いきなり怒鳴った薫に、宝耳はびっくりして吸おうとしていた煙草を落としかけた。

「なん……どした?」

 薫は唇を噛み締め、握りしめた拳が震えていた。少し俯いた顔が青白い。

 

「どないした? 具合悪いんか?」

 今頃になって傷口が痛みだしたのか? と、宝耳は見当違いの心配をする。

 顔を窺う宝耳を、薫は睨みつけた。

 

「花柱様……カナエさんに失礼です。そんな……勝手な憶測で話すことじゃありません!」

 言うなり薫は早足でスタスタと歩いて行ってしまった。

 

 宝耳は呆然として、ポツリとつぶやいた。

「なんやアレ………エス*かいな」

 

 

 

<つづく>

 

 

 




<単語説明>

*エス
 sisterの頭文字からきた隠語。

 大正時代から戦前にかけて、女学生間に流行した習俗で、主に女子生徒同士のプラトニックな恋愛・友愛関係を意味した。
 吉屋信子による少女小説で描かれたことでブームとなり、そうした創作が大量に出回って、世間的にも認知されていたと思われる。戦後の自由恋愛が一般化するにつれ、衰退。
 が、現在において百合小説等の源流になっているとの指摘もある…。




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第五章 激情(一)

 鬼殺隊士となって、気付けば一年半以上経っていた。

 いつもは鴉が告げる指令を、運んできたのは日村佐奈恵(ひむらさなえ)であった。

 

 丹波地方での任務が終わって、いつも世話になっている藤の家に向かう途中の茶屋で、薫は遅めの昼食を取ろうとしていた。

 

「久しぶり~」

 気安い口調で話しかけられ、薫はきょとんとなった。

「えっと……日村、さん?」

「あ、覚えてくれてた? もー、朝になったらいきなりいなくなってるからさぁ、アコちゃんと二人で探し回ったよ」

 大阪の道場で、何くれとなく気遣って色々教えてもらっていたのに、礼もせず出てきたことを思い出し、薫はあわてて頭を下げた。

 

「すみません。本当に」

「ハハハ。ウソウソ。本当はあの後、任務だったんで、探す暇なくってね」

 言いながら、佐奈恵は薫の座っている床几(しょうぎ)の横に腰かける。やってきた亭主に「あ、わたし草だんごとお茶」と注文した。

 

「マッさんに聞いても、なんか珍しくあの時は機嫌悪くてさ」

 脳裏に匡近の顔が浮かんだ。あの時は気付かなかったが、どうやら近くにいたらしい。その後、手紙をもらって知った。

『実弥のことは殴っておいたから、気にするな』と。

 無用な心配をかけてしまった。薫には自分のことより、仲の良い二人が喧嘩になってしまったことの方が気がかりだった。

『まったく気にしていない』と返したが、仲直りしているだろうか……?

 

「今日は、任務ですか?」

「うん、そう。共同任務。山のお寺の調査、で、鬼がいたら討伐」

「共同? 三好さんとですか?」

「違うよ。あ、な、た」

 佐奈恵は人差し指で薫の鼻先を差すと、いたずらっぽい目で微笑んだ。

 薫は目を丸くした。

 

「私と?」

「そー。初めて? 共同任務」

「そう、ですね。今までないです」

「そっかー。私らはわりと多いんだけどね。やっぱ違うのかなぁ。皆、次の柱候補じゃないかって噂してたよ。森野辺さんのこと」

「まさか……」

 実際に花柱である胡蝶カナエのことを思い出すと、とても自分がその域に至るとは思えない。あれはもう別格の人だ。

 

「まぁ、先に不死川かマッさんか。あの二人もけっこうな強さだしなー。個人的にはマッさんにお願いしたいわ。不死川が柱になったら、助けてくれなさそうだし」

「そんなことは……ない、と思いますけど」

「不死川に柱は無理ってこと?」

「いえ! それは、たぶん……そうなると思います」

 

 あの時、道場でいきなり前に立っていたときの速度。攻撃を躱すこともできぬ(はや)さ。

 風の呼吸に熟練せねば、一瞬で筋力を増幅させ爆発的な突進を可能にする、あの動きを手に入れることはできない。

 

「助けないということは、ないと思います」

 佐奈恵はふぅ、と溜息をつくと、しげしげと薫を見つめた。

 

 実のところ佐奈恵はあの時、後輩の三好秋子(みよしあきこ)と一緒に、思わぬものを見ている…。

 

-----------

 

 薫が大阪にある鬼殺隊の道場に来た翌朝。

 佐奈恵と秋子は鴉の指令で目を覚ました。どうやら香川県の方まで出向かなくてはならないらしい。

 

「うぇ~、また船ぇ~?」

 船酔いがひどい佐奈恵は朝から一気に憂鬱になった。

「どないします? 食べて行かはります?」

「そんなの無理。吐くだけ」

「ウチ、おにぎりだけでも持って行きますわ」

 ボヤきながら歩いていると、練習場の方からドン! と、凄まじい音が響く。

 佐奈恵と秋子は顔を見合わせた。これは、確実に誰かが呼吸の技を使った音だ。

 

「ちょっとぉ~、また床が壊れるじゃないのよぉ~」

 佐奈恵は文句を言いながら歩いていく。

 途中で誰かが練習場から出てきて、角を曲がり、佐奈恵達と反対方向へと歩いて行くのが見えた。

 その時は誰かわからなかったが、後にそれは薫だったのだろう…推定できた。

 

 練習場の板戸は開いていた。中から匡近の声が聞こえてきた。

「……あんまりいじめるなよ。薫だって必死でやってんだから……」

 薫、という名前に佐奈恵と秋子は敏感に反応する。どうやら、さっきまでここに薫がいたらしい…。

 

「アンタがアイツを貰ってやりゃァ、いいんだ」

「はぁ?」

「アンタもアイツも辞めて、二人で暮せばいい。鬼は、俺が殺す」

「おっ…前なぁ……」

 

 匡近が珍しく怒っていた。

 口喧嘩することもあるが、たいがいの場合、匡近は笑って受け流すのがほとんどだった。

 いつも怒っているのは実弥だけで、そのうち独り相撲に疲れて、最終的には匡近の言うことを聞くことになる……のが、いつものこと……だったのだが。

 

 佐奈恵と秋子は特に気配を消すこともせず、入ってきたその場所で呆然と二人の様子を見ていたのだが、あの、いつもは敏感な不死川ですらも気付いていないようだ。

 

 バキッと鈍い音がした。匡近が実弥を殴っていた。

「馬鹿か、お前は!!」

 匡近が手を出すのは本当に初めて見た。

 他の隊士に対しても、滅多と声を荒げることもない。ましていわんや、暴力をふるうことなどない人である。

 

 その後、匡近がこっちに向ってきて、佐奈恵達に幾分決まり悪そうな表情を浮かべたものの、すぐに出て行った。

 残された実弥はしばらくボンヤリと足を投げ出して座り込んでいた。

 これも、また珍しい光景。

 気の抜けた不死川実弥など、初めて見た。

 

 薫と、匡近と、実弥と。

 一体、何があるのだろう? 

 秋子と目を見合わせ、二人で首を傾げた。

 

--------------

 

「薫ちゃんさー」

 佐奈恵は突然、下の名で薫を呼んだ。

「不死川のこと、どう思ってんの?」

 単刀直入に聞かれて、薫は固まった。

 

 ―――――どう? とは、どう……いう……

 

 薫にとっては都合良く、佐奈恵にとっては間が悪く、ちょうど頼んでいたうどんが届く。佐奈恵の草だんごも。

 聞かなかったフリをして、薫は夢中でうどんを食べた。

 幸い、佐奈恵はそれ以上、突っ込んでこなかった。

 

 草だんごを無言で食べ終えると、「さて」と次の任務の話を始めた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 山奥にある寺に行った人間が帰ってこないらしい。

 行方不明者達の家族は当然、その寺に問い合わせるものの、寺の返答は「わからない」「来てらっしゃらない」「帰られました」といういずれか。

 寺に何かがあるのか、それとも寺へ向かう道のりで何かがあるのかはわからない。

 これまで鬼殺隊士が三名行ったのだが、内二人は寺まで辿り着くも特に何もなく、一人は消息を断った。

 

「行方不明者達の特長は?」

 薫が尋ねると、佐奈恵は渋い顔でため息をつく。

「若い男女。消息を断った隊士もね、この間、隊士になったばかりの女の子だった。十四歳だったかな? 被害者はだいたい平均して十三から二十歳くらいの男女よ。それもわりと見目のいい。

 どうやら鬼がいることは確実なのよ。その子、ちょっと特殊能力があってね。鬼がいるとなんか腕に発疹ができるんだって。それは鴉が伝えてきたの。ただ、その後、行方がわからなくなったのよ。

 お寺に泊まったみたいなんだけど、そのことを次に行った隊士が尋ねても、『お泊りになった後、帰られました』の一点張り。その隊士は泊まったんだけど、なんにも起こらなくて、そのまま帰投したのよ」

 

「その人の年齢は?」

「十九だけど、見た目は三十」

「なるほど。食指が伸びなかったんですね」

「髭面のむっさい男だしね。薫ちゃんもご存知の升田(ますだ)だよ」

 道場で会った大男の姿が浮かぶ。

 あれが髭面になったのであれば、それは確かにうら若い男女を好んで喰らう鬼の好みからは外れるであろう。

 

「ただ、升田曰く、寺が関係してるのは違いないっていうのよ。坊主がものすごく嫌な感じがしたって。まぁ、あいつの言うことだから、あんまにアテにはならないけど」

「寺が関係してる……でも、そのお坊さんが鬼というわけではないですよね」

「そう。まさか鬼を飼ってるワケないけど、操られている可能性はあるわね」

「…………」

 薫の脳裏に栃野(とちの)の姿が浮かぶ。

 

 あれは父子の関係と言えるのだろうか。かといって栃野が隷属していたというのでもない。

 栃野は息子のために絵を描いた。鬼となった息子は絵の中に血鬼術を張り巡らせた。

 その中に子供達を送りこんでいたのは父。その子達を喰らうのは鬼となった息子。

 (いびつ)な愛情のままに、幾人もの子供達が犠牲になった。

 それでも人間である以上、栃野に天誅を下すこともできない。鬼殺隊が殺すのはあくまで鬼、だ。

 

「薫ちゃん?」

 佐奈恵が黙り込む薫を覗き込む。

「あ、すみません」

「なんか思い出すことでもあった?」

「ええ……最初の任務の時に、息子を鬼にされた親が、孤児達をさらって息子に喰わせていたっていうことがあって」

「え? なにそれ」

「私もにわかには信じ難かったんですが、その男は鬼である息子に喰われることもなく、共生していたんです」

 

 佐奈恵の顔が恐怖に歪む。それはそうだろう。薫にしても、あんな任務はそれ以降なかった。

 なんとも後味の悪い、救いがたい話だ。

 

「なので今回の件も、もしかしたら寺の(なにがし)かが鬼に操られてるか、自らの意思でもって鬼に食料を与える役割を担っている可能性はありますね」

 冷静な口調で薫が言うと、佐奈恵は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「もしそうなら、そいつも頭かち割ってやるわ」

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回、土曜日(2020.01.23.)更新予定です。



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第五章 激情(二)

 その寺は県境の山中にあるらしい。寺に向かう前に、近くにある藤家紋の家で用意を整え、一泊することになった。

 

 妙齢の女性と、通いで手伝いにきている老婆以外は誰もいないひっそりした家である。いつも京都でお世話になる藤家紋の家とはかなり趣は異なるが、居心地は悪くなかった。無口な女主人の所作は手慣れており、決して動作が早いわけでもないのに、淡々とこなしていく。

 

 久しぶりに風呂に入り、布団の上に横になる。

 昨日は野宿、一昨日は農家の納屋で眠らせてもらった身に、布団の柔らかさが身にしみた。

 

 佐奈恵は布団の上で軽い柔軟をしながら、おしゃべりを開始した。

「私ね、本当はこの任務断ろうかと思ってたんだ」

「そうなんですか?」

 後ろから背を押してやりながら、薫は相槌をうつ。

 

「うん、そう。実はさ、隠になろうかって話をしてて」

「隠…ですか」

 隠は鬼の討伐後の事後処理を主に行う部隊だ。しかし実際には職務は多岐にわたっており、鬼の情報収集と分析や、隊士服の縫製なども行っているらしい。

 

「薫ちゃん、今は? 階級」

「え……」

 佐奈恵はやれやれというようにため息をつくと、薫の腕を持ち上げた。

「ハイ、確認確認」

 仕方ないので階級を示すよう腕に力をいれると、『己』の文字が浮かんだ。

「うーわ。もう上がってるし。(つちのと)だし」

「………」

 佐奈恵の声には嫉妬や羨望はないのだが、言われてもどう返せばいいのかわからない。

 

「薫ちゃん、自分であんまり興味ないからさ。みんな、こんなモンだとか思ってない?」

「それは…どうなんでしょうか」

「ないから。五十人いて、二、三人だから。こういう階級の上がり方すんの。ってかさ、薫ちゃん、不死川が基準になってんじゃないの?」

 また不意に実弥の名前を出されて顔が固まる。

 

 佐奈恵は薫の腕を離すと、わかりやすいなぁ…と内心ではあきれつつ、指をたててビシリと言った。

「言っておくけど! アレも例外だから。あんなん、異常だし! あれと肩並べようとか思ってやってたら、確実に死ぬからね!」

「………」

 佐奈恵の勢いに薫は戸惑った。

 特に肩を並べようとは思ってないのだが、端から見ると、そう思われるのだろうか。

 

「だいたい、アイツ、特殊体質らしいからね。鬼を酔わせてさ」

「特殊体質? 不死川さんが、ですか?」

「知らないの? 聞いたことない?」

 佐奈恵は心底意外そうである。薫は首を振った。「なにも、特に」

「不死川って、稀血らしいよ」

「稀血?」

 稀血…鬼にとっては一人で三十人、時には五十人分食べたぐらいの栄養となる、特殊な人間のことだ。聞いたことはあるが、実際に会ったことはない……と思っていたが。

 

「不死川の稀血ってのは、普通の稀血よりも、もう一つ図抜けてるらしいんだよね。その血の匂いを嗅いだ鬼が、酔っ払ったみたいにフラフラになっちゃうんだって。ま、猫にマタタビってヤツ? 鬼殺隊に入る前から、それ利用して鬼を狩りまくってたらしいから」

「利用して、って………それって、一歩間違えたら」

 

 薫はゾッとなった。

 そんな貴重な稀血の持ち主であれば、鬼にとってはご馳走以上のものだろう。その人間を一人食することで、力はとんでもなく増幅される。たまらなく魅惑的な美餐であろう。

 

「不死川さんは、いつも自分の血を使って鬼狩りをしているんですか?」

「いやー。最近はさすがにしてないみたいよ。昔はよくマッさんが注意してるの見たことあったけど。あ、私、昔あの二人と同じ担当地区だったからさ。あの頃は、やたらめったら自分の体を傷つけて鬼狩りしてたもんだから、上からも睨まれてさぁ。吉野の方に治療所があるんだけど、まぁ、容赦なくぶっ叩かれてたよねー。そんな小手先の能力(ちから)で鬼狩りすんじゃないよッ! て。で、やめたみたい。みんなもさー、最初は『稀血なんか使って鬼狩りなんぞズルイ!』とか、陰口叩いてたんだけど、結局、そういうことやめてからの方がトントン拍子に出世してくし、誰も文句言えなくなっちゃった。――――まぁ、最初から面と向かって文句言える奴なんていなかったけど……」

 

「そう……ですか」

 とりあえず、ホッとする。

 自分の血を餌に鬼狩りをすることをやめたのであれば、無用な危地に立つことはないだろう。止めてくれて本当によかった……。

 

「心配だった?」

 佐奈恵はゴロリと横になって問いかけた。「危なっかしい真似してって」

「え? いえ……べつに」

「薫ちゃん。あの不死川の心配するのなんか、あなた以外じゃマッさんくらいだよ」

「それは……同門なので」

「ふぅぅん」

 佐奈恵は意味ありげな相槌を打ち、「そういや」と話を変える。

 

「マッさんと、文通してるでしょ?」

「え? あ、はい。でも、隊士になってからはあまり。弟子時代には先生の近況をお報せしたりしていたんですけど」

「あぁ、そうなんだ。前にマッさんがうんうん唸りながら大量に反故紙(ほごし)を作っててねぇ。なーに書いてんのかと思ったら、あれ、たぶん薫ちゃんに送る手紙だったんだよねー」

「そうなんですか?」

 聞きながら匡近の手紙の内容を思い浮かべてみるが、そんなに悩むようなものだっただろうか? と、首をかしげる。

「なんだかんだ悩んだ挙句に、結局、なーんかつまらないこと書いてた気がするなぁ」

 薫はくすっと笑った。佐奈恵の言う、つまらないこと、というのは匡近や他の隊士の失敗談であったりするのだが、薫には楽しい内容だった。

 

「面白かったですよ。粂野さん、書くのがお上手なので」

「そうなの? どんなこと?」

「そうですね……」

 薫はつぶやきながら匡近からの手紙を思い起こした。

 ほとんどが二人に共通する話題で、つまりそれは、東洋一(とよいち)か、実弥に関する事になる。佐奈恵に会ったこともない師匠の話をしても、それこそつまらないだろう……。

 

「……ずいぶん前になりますけど、粂野さんが鬼を討伐して助けた人がたまたま芋農家の人だったらしくて、大量のさつま芋をお礼にもらったそうなんです。ただそれが、重くて持って帰るのが大変だったみたいで。ようやく道場に着いて一休みしてたら、いつの間にか全部、食べられちゃったっていう……」

「あー、あれかぁ!」

 佐奈恵は大声を出すと、自分の額をペシと叩いた。

「覚えてる、覚えてる。年末でさぁ、大掃除してたんだよね、道場の。そこにマッさんが大量のさつま芋背負(しょ)って帰ってきてさぁ。落ち葉集めて焚き火してたんで、ちょうどいいやって、焼き芋したんだよねぇ。一応、マッさんにも一本残しておいたんだけどね、なんせ食い意地の張った奴らがウヨウヨしてるからさぁ。マッさんが一眠りしてる間にキレーになくなっちゃって……申し訳ないことしたよねーってことで、後日一応、芋羊羹を渡したんだけど……しばらく恨まれたなぁ」

 

 薫はくすくす笑った。

 まさか佐奈恵が関わっているとは思わなかった。芋羊羹の後日談は知らなかったが、確かに手紙でもかなり残念がっていた。

 実弥にも愚痴ったらしいが、「知るか」の一言で済まされて、でもその後、ちゃんと焼き芋を買ってきてくれた、と書いてあった。

 ふと、お汁粉を奢ってくれた日のことが思い浮かぶ。ふ、と笑みがこぼれた。

 

「なに?」

 佐奈恵が微妙な変化を感じ取ったのか尋ねてくる。薫はハッとなった。

「あ……いえ。粂野さんは、甘いものは苦手だったと思いますよ」

「へぇ、そうなんだ。何が好物なの?」

「確か……スルメとか…お酒のおつまみみたいなのがお好きだったような気がします。あ、でも前にクリームパンがおいしかった、って言ってましたけど」

「ふぅぅん」

 佐奈恵はまた意味ありげな相槌を返しながら、勢いをつけて起き上がると、腕を組んで薫を見つめた。

 

「なんですか?」

「薫ちゃん、マッさんの話だったら普通なんだねー」

「はぁ……?」

「不死川………の話になったら、固まるよね、顔」

「…………」

「ホラ、今、ソレ」

「……っ、違います」

 薫はあわてて両頬をペチペチ叩いた。「そういうのじゃないですから」

「そーいうのって、どーいうのよ?」

 佐奈恵はしれっとした顔で問い返してくる。つくづく口で佐奈恵にかなう気がしない。

 薫がうろたえていると、佐奈恵は「ま、いいや」と、それ以上の追求はせず、最初の話題に戻った。

 

「私さー、さっきも言ったけど、隠になろうと思っててね」

「……はい」

「それというのも、なんと! このたび、結婚することになりましてー」

「えっ!?」

 いきなり思ってもみない単語が飛び出して、薫はびっくりした。

「け、結婚??」

「なによー。私みたいなうるさい、口から生まれたような女には、男なんか寄り付かないとでもー?」

「いえ、そういうわけじゃないんですが……」

「まぁ、相手は前にも話したでしょ? 笠沼隆っていう幼馴染です。顔は……覚えてないかー」

「はぁ」

 頷きながら思い返すと、なんとなく気弱そうにも見える穏やかそうな人だった印象がある。あくまでボンヤリしたものだったが。

 

「コイツがまぁ、この前めでたく(かのえ)になったわけですよ。苦節六年、長いことかかりましたよ。で、とうとう私、抜かれちゃってさ。なんか、あーあって思って。これまでね、私がなんでも先だったの。一緒に師匠のところに入門して、呼吸を覚えるのも、初めて技を出したのも、鬼を初めて殺したのも。あいつはいつも私の後ろだったんだけど。……気がついたら、私は今だに(かのと)でね。この前も四人がかりで行ったってのに、まーた(アバラ)とかやられちゃって、傷病休養。もう、どうしていいかわかんなくて。どうやれば、自分がもっと上に行けるのか……っていうか上ってなに? 私、なんのために鬼殺隊入ったんだっけ? ってなっちゃってさ。わかってるんだよ。親の仇を討つためだって。でも、ここにいたらそんなん珍しくないし。その時ね、花柱様に助けてもらってたんだけど……」

 

 宵闇の中に現れたカナエの姿を思い出す。匂い立つような美しさと、目にも留まらぬ早さの御技(みわざ)

 佐奈恵はフーッと長い溜息をついた。

 

「あの人さぁ、私より年下なんだよ。でもぜんっぜん、違うの。まーったく、違う場所にいるんだよ。みんなその鬼にやられて、バタバタ死んでいったのに、あっという間に殺しちゃった。刀一振りで、終わり。その時にさぁ、思っちゃったんだよね。『あ、もうこの人に任せちゃったらいい』って。自分なんかが、どれだけ頑張って鬼と戦っても意味がない気がしてきて……」

 

 佐奈恵の感慨は、薫とても感じることはあった。

 たとえどんなに急いで向ったとしても、薫が任務に就いた時には既に誰かは死んでいる。未然に防ぐことができるのは、カナエに会ったあの時のような偶然でもない限り有り得ない。

 既に死んでしまった人達に黙祷しながら、果たして自分のやっていることがどこまで意味があるのか…という疑問はいつでもついて回る。

 

「もちろん、助けた人に感謝されたら嬉しかったよ。私でも、役に立ったんだって、誇らしかった。でも、なんか、ね。これ以上は無理なんだろうな、って線、引いちゃった」

 佐奈恵はどこか吹っ切れたような、でも寂しげな表情だった。

「そんなこんなの、愚痴をあいつに話してたらさー…そしたらあいつ、いきなり結婚しようとか言い出してさー。なんか…なんかね……いいよって言っちゃった……」

「…………おめでとうございます」

 薫には、そう言うことしかできなかった。

 

 既に佐奈恵の中で去就は決まっている。それはきっと真剣に考えた結果なのだ。

 必死にもがいて自分の望んだ到達点に行き着けず、別の道を考えることは悪いことではない。

 薫もまた、いつかそんな心境になる日がくるかもしれないのだから。

 今はまだ、もがき、あがき続けていくけれども。

 

「軽蔑しない?」

 佐奈恵は薫の顔を窺うように見た。恥じらう顔は、少し赤い。

 薫は首を振って、微笑した。

 

「今まで日村さんが剣士として戦ってきたことも、これから隠として隊のために尽くすことも、笠沼さんのお嫁さんになることも、すべて意味のあることですよ」

「………そう?」

「意味なんて自分ではわかりようがありません。笠沼さんにとっては、日村さんがいてくれるだけで、とても大事な意味があるんでしょうね」

 佐奈恵は驚いたように目を見開いた。

「薫ちゃんに、そんなこと言われるの、意外」

「そうですか?」

 言いながら、ふと明日の任務を思い出す。

 

「日村さん、それだったらこの任務どうして受けたんです? 今からでも私一人でもいいですよ」

「それは、まぁ、ケジメっていうか。任務を受けた日がたまたま母ちゃんの命日でさ。これを最後にちゃんと仕事してこいって言われた気がして」

「でも……」

「薫ちゃんにも会いたかったし。いろいろ話したかったしね。それに薫ちゃんと一緒だったら、大丈夫でしょ!」

 佐奈恵は笑って、薫の両肩をぽんぽんと叩く。

 底抜けに明るい笑顔だ。

 薫は迷いながらも、「じゃあ……お願いします」と、頭を下げた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回、水曜日(2020.01.27.)更新予定です。



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第五章 激情(三)

▼今回、残酷描写ややあります。



 事前の情報によれば、その寺で一番最近に行方不明になったのは、太田しの、という十五歳の娘だという。

 

「いつぐらいですか?」

「一週間前。紫陽花(あじさい)を見に来てたらしいわ」

「紫陽花?」

「紫陽花寺って別名があるらしいわ。この時期だと見頃らしくて、よく人が訪れるらしいの」

「……そうですか」

 

 当初、佐奈恵の予定ではこの太田しのの親戚ということで寺に入って探ってみようという話であったが、薫は変更を申し出た。

「親戚ということで、寺側に警戒されるかもしれません。むしろ、単に紫陽花を見に来たというだけのことで行った方がすんなり運ぶと思います」

 

 鬼殺隊が政府公認の組織でない以上、「お聞かせ願いますか?」と真正面からいってまともに取り合ってくれるはずがない。むしろ不信感を抱かせるだけだ。それは既に行った鬼殺隊士が為す術なく戻ってきたことでもわかる。

 寺の中に入り込み、内情を探る以上は、余計な疑問を抱かせず、なんなら向こうが垂涎するような条件下で、それと知らず、()()()()()()()()()()()()()()

 

「なるほど…」

 佐奈恵は頷き、予定を変更することに同意した。

 二人は姉妹となり、隣町の叔母の家へと向かう途中で紫陽花を見に訪れた――――という、ありきたりの設定を決めた。

 

 藤家紋の家で旅装姿の娘となり、風呂敷に隊服を入れて包み、杖の中には刀を仕込んだ。

 家を出る時に、女主人に切り火をしてもらい、寺へと歩き出す。

 

 人家がまばらとなり、鬱蒼とした山に入り林道を通り抜けると、長い石段が上へと伸びている。この先が(くだん)の寺であった。

 聞いていた通り、紫陽花を見に来る人がいるようだ。

 上から降りてくる男女であったり、親子連れだったりが、何人かいた。それでも先程から降り出した雨のせいか、登ってくる者は薫達の他は誰もいない。

 

「けっこうな降りになってきましたね。こんな天気なのに参詣するなんて…不審がられないでしょうか?」

「それはねぇ……理由があるのよ」

 佐奈恵は言いながら、上を向いてしばらく考える。

 

「そうね、私達姉妹は箱入り娘で、そうそう家から出してもらえないの。そんな物知らずではいけない、っていう叔母の意見で、隣町までお遣いがてら、旅に行かされるわけよ。二人で旅に出るなんて初めてで、せっかく見頃だという紫陽花寺の話を聞いたのだから、少々の無理はするわけ」

 佐奈恵の即興の思いつきに薫はクスっと笑う。「日村さんは前世は紫式部ではないのですか?」

「えぇ? なんで?」

「だって、普通、そんなことすぐに思いつきませんよ」

「なんてことないわよ。ごっこ遊びの延長よ。あ、それと日村じゃなくて佐奈恵姉さま、ね」

 

 楽しげな雰囲気で二人で石段を登り切ると、境内には誰もおらず、道々に沿って種々の紫陽花が白、紫、赤と咲き誇っていた。

 

 本堂の軒下で雨で濡れた笠を外していると、中から若い坊主が出てきた。

「この雨の中をわざわざお越しいただきまして……」

「いえ。すみません。このあたりで見事な紫陽花が咲き乱れるお寺があると聞きまして。信心よりも物見遊山で訪れまして、仏さまがお怒りになられたのでしょうね。すっかり雨にやられまして……」

 見事なくらいにスラスラとしおらしい様子で佐奈恵が話す。

 薫は内心で舌を巻いた。

 

「御仏は罰を与えることはいたしませんよ。どうぞ、お風邪でも召されるといけない。中で温まっていかれるとよろしい」

 坊主はいかにも人の良さそうな笑顔を浮かべて中に促した。

 薫と佐奈恵は軽く頷いて、「ではすみません」と中へと入っていく。

 

 梅雨ではあるが、少し肌寒い。通された部屋で油断なく見回しながら、雨合羽を脱いで着物姿で待っていると、先程の坊主が茶をもって現れた。

 

「どうぞ。粗茶でございますが」

「ありがとうございます」

 二人揃って礼を返しながらも、手はつけなかった。

 

 佐奈恵はいかにも珍しげに部屋を見渡しながら、床の間に掛けられた仏像の掛け軸について話をしたりしつつ、坊主の反応を伺う。

 

 坊主は笑みを絶やすことなく、それでも仔細に二人の身元やここに来た理由等を、自然な会話の流れで聞き出していた。無論、佐奈恵は先程の作り話に適当な装飾を加えて話す。

 いかにも世を知らぬ、それでいて好奇心旺盛な向こう見ずの、田舎者の令嬢姉妹。誘拐には格好の獲物であろう。よほどに用心深くなければ、おそらく食いつくはずだ。

 

「この雨は夕方まで降り続きそうでございますから、よろしければしばらくお休みになるとよろしいですよ」

 坊主がそう言った時、チラと佐奈恵は薫を見てから、慇懃に頭を下げた。

「まぁ、すみません。ほんの少しの寄り道のつもりでしたのに……ご迷惑をおかけします」

「いえ、いえ。どうぞ、ごゆっくりなさってください」

 坊主が下がると、佐奈恵と薫は二人寄り合った。

 

 ふん、と佐奈恵が小さく鼻をならす。

「升田もたまには当たるのね。確かに胡散臭いわ」

 ヒソヒソと話す。

 先程来、どこからか視線を感じる。おそらく誰かが薫たちの動静を見ているのだ。

 

「……そうですね。あれはお弟子さんのようですが……住職はどこにいるのでしょう?」

「さて、どうしたものか、な」

 チロリと上唇をなめると、佐奈恵は「あっ!」といきなり呻いて、お腹をおさえた。

 薫はびっくりした。が、すぐに佐奈恵が目配せする。

 

「………お姉さま! どうなされました?!」

 あわてた様子で薫は大声で言った。

「気にしないで。いつものにわかの疝痛(せんつう)よ。イタタタ、痛い痛い!!」

 大声を聞きつけたのか、さきほどの若い坊主がやってきた。

 

「どうなされました?」

「申し訳ございません。持病の腹痛がぶり返しまして……お恥ずかしい話でございますが、手水場(ちょうずば)を少々拝借できますでしょうか?」

「それは大変だ。こちらへ」

 坊主に肩を貸してもらいながら、佐奈恵は部屋を出ていった。薫に目で指示する。薫もほんの少しだけ顔を傾けた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 一人取り残された薫は、とりあえずソワソワした様子で部屋の中をうろつき回った。落ち着かないふうを装って、視線がどこからなのかを特定する。

 ふぅ、とため息をついて、ぺたんと座り込む。お茶に手を伸ばしながら、息をつめて感覚をこらす。

 視線が背後からのものであることを確信して、行動を開始した。

 

「まったく姉さんたら、外に出たらいつもこうなんですから…」

 怒っている妹のフリをしながら、お茶を口元に持ってくる。思っていた通り。ふわりと漂うお茶の香ばしい匂いに混じって、何か別の匂いが紛れ込んでいる。

 

「あぁ、疲れた」

 お茶を呷って、空っぽになった湯呑を座卓の上に置いた。しばらくすると、眠気が急にやってきたように欠伸をして、パタリと倒れ込む。

 そのまますやすやと眠り始めた薫を見て、襖がそろりと開いた。

 

 さっきとは違う弟子が二人、入ってきた。

「和尚様」

 弟子が眠り込んだ薫を確認すると、部屋の外で待っていた老人に声をかけた。

 老人とはいえ、まだ精力の充満したような、脂ぎった顔つきである。太く長く伸びた眉を顰めて、いかにも峻厳な様子だが、薫の顔を見ると口元がニヤリと歪んだ。

 

「おい、お前ら運べ」

「はい」

「姉の方はどうした?」

「どうも腹痛らしくて。厠にこもっているみたいです」

「そっちはお前達にやってもえぇ。ホレ早う、このオナゴを運ばんかい」

「かしこまりました」

 薫は弟子二人によって持ち上げられ、連れてゆかれる。

 

 薄暗い廊下にボンヤリとした蝋燭の灯りが規則的に並んでいる。そのゆらめく橙の明かりの下、弟子達は薫を運びつつ、好奇に満ちた目で見つめている。

 運ぶ途中、裾がめくれて露になった太腿に淫靡な視線が集中する。

 

 和尚の寝所に着き、つややかな絹の(しとね)の上に薫を下ろすと、弟子達は無言で部屋を出ていった。

 もはや好色を隠そうともしない和尚の卑猥な眼差しが薫に注がれた。

 

「ちょうど()ェ。こちらの方が好みじゃて。ヒヒ、久しぶりに別嬪さんが来たのぉ。今回は久々に長ぅ可愛がってやろうかいのぉ。どうせ主様に差し上げるにせよ、あたら若い身体を味わいもせずに喰いよるなど、まこと鬼とは愚かなる生き物よ……」

 よほど嬉しいのか、普段からこうなのか、やたら饒舌な和尚である。

 

 言質はとった。

 薫はようやくとばかりに目を開く。

 和尚はあっという間もなく、薫に後ろに回り込まれ、喉元に短刀を押し当てられた。

 

「主様とやらのこと、聞かせてもらおうか」

 低い声で薫は和尚に囁いた。

「愚かな鬼は、どこにいる?」

「ひ……ひ……だ、誰ぞ」

 薫はチクリと切っ先を和尚の顎下に刺した。ツラツラと血が流れ出す。

 

「ヒィッ! 血、血……」

「これくらいでは死にませんよ、心配せずとも。しかし教えてくださらないなら、弟子に聞いてもいいのですよ。その前にあなたは用済みですが」

 なんの抑揚もない、平坦な声音。

 

 薫は心底、この男を軽蔑した。

 正直、佐奈恵の言葉ではないが「頭をかち割って」やりたい。切り刻んで鬼に喰われてしまえばいいとすら思う。

 

 だいたいの経緯は読めた。

 この和尚はやってきた若い女や、美しい男を、自分の慰み者にした挙げ句、鬼に彼らを差し出していたのだ。

 

 奥歯を噛みしめ、必死に自分の中に沸々と湧き出す怒りを必死で抑える。

 こいつが鬼でありさえすれば、日輪刀で一閃、その首を叩き切ってやるものを。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 少し、時間が戻る。

 佐奈恵は厠まで案内してくれた坊主を振り返りざま手刀で気を失わせると、近くの納戸に運んで縛り上げた。それから思い切り横面を張って正気に戻すと、

「さて、聞かせてもらおうかなー」

と、足に忍ばせておいた短刀をその首筋にあてた。

 

 坊主は最初、知らぬとうそぶいたが、「あ、そう」と言って、佐奈恵がその頬を短刀の切っ先でスッと切ると、溢れてくる血にすっかり動転した。

「最初から素直になってほしいわね」

 

 そうして聞き込んでわかったこと。

 

 どうやら和尚が山で鬼と出会い、命を助けてもらう代わりに、その時にいた小坊主を生贄に差し出したのだということ。

 その後も鬼は和尚の命と引き換えに、安全な棲家と人身御供を要求するようになり、和尚も渋々、参詣にくる人の中で、身寄りのない人や一人で来ている人間を狙って差し出すようになった。

 その内に和尚自身の欲目も出てくるようになり、和尚の好みの若い娘や、少年を狙って(かどわ)かすようになり、和尚と弟子達とで慰み者とした後、鬼に供物として差し出すようになったという。

 

「三ヶ月前に、黒い洋装の上に、菖蒲柄の羽織を着たおかっぱ頭の女の子が来たはずだけど……」

「………いた」

「その子も同じようにしたの?」

「お、俺らはしてない。和尚様はひどく手こずったから、薬をのませたと。そのまま鬼の所に置いてきたと言っていた」

「…………」

 佐奈恵は短刀の柄で思い切り坊主の頭を殴り、そのまま坊主は気を失った。

 

 納戸から出て廊下を歩いていると、厠の辺りでウロウロしている二人の坊主の姿を見つけた。

 佐奈恵の姿を見るなり、捕まえようと手を伸ばしてきたところを、一人は手首を掴んで足を払い、床に叩きつける。もう一人は鳩尾に蹴りを食らわせる。

 あっさりと気を失った坊主達を縛り上げ、また正気に戻すと、無表情に尋ねた。

 

「一週間前にいなくなった太田しのはどこ?」

「………」

「面倒ね」

 佐奈恵はサッと二人の顔に短刀を振るった。

 頬から血がだらだらと流れ出し、坊主達は悲鳴を上げた。

「次に黙り込んだり、嘘をついたら頸の血管を切るから。さっさとしゃべってくれる?」

 

 刀の切先を目の前に突きつけられ、それが震えもしないことに坊主達は恐怖した。

 膝をガクガクと震わせながら、坊主達が案内した場所は、地下にある座敷牢であった。

 

 その中に太田しのは長襦袢一枚で横たわり、正気を失った顔でぼんやり中空を見つめていた。

 はだけた胸の間に、醜い陵辱の痕跡があり、佐奈恵はギリッと歯軋りした。

 見回すと、隅にある箪笥の横で憔悴しきった顔で座り込んでいる少年もいた。

 

「なんなのよ、この場所……」

 つぶやきながら、佐奈恵は我が身を抱きしめた。怖気がする。鬼に対するよりも気持ちが悪い。

 ギロリと睨んだ先にいる三人の坊主達は、佐奈恵の眼光の強さに目を逸らして、びくびくと視線をさまよわせた。

 

「この子達をここに置いてるワケは?」

「………」

 誰も口を開かないのに苛々して一番手近にいた出っ歯の坊主をビンタした。

「早く言え」

 ギリギリと耳を引っ張る。この際、耳も千切れたっていいだろうと思う。

 

「おっ、鬼が……鬼が、一回に喰う量がいっぱいあった方が喜ぶからだって……」

「はぁ?」

「毎日一人ずつより、十日ごとに四、五人ぐらいいた方が喜ぶからって……和尚様が言ってたから。それで……」

「…………」

 佐奈恵は絶句した。つまり、この座敷牢は鬼のための貯蔵庫というわけだ。

 もはや言葉もない。

 こいつらを人間扱いするのも嫌になる。

 

 無言で三人の坊主を座敷牢の格子にくくりつけると、坊主達は何を思ったのか「たっ、助けてくれ」と口々に叫びだす。自分達もまた、鬼に喰われる運命になると思ったのだろうか。

 

 正直、コイツらを鬼に喰わせた後に、鬼の首を斬ってもいい。本当にそうしたい。

 誰だかわからない坊主の一人に思いきり拳骨をくらわせてから、佐奈恵は奥に座っている少年の前に立つと、立ち膝になって視線をあわせた。

 

「今、人を呼ぶから…すぐに助けにくるわ。もうちょっとだから待っててね」

 なるべくやさしい声音で呼びかける。少しだけ少年の瞳が動いた。

「しのさん、助けるからね」

 しのにも声をかけ、紺の(かすり)の羽織をかけてやる。

 

 すぐに鎹鴉を送って、隠を呼び、囚われていた少年と太田しのを救出しなければならない。

 

 人が鬼に協力するなど…ありえない話だと思っていた。

 薫から聞いた親が自分の子供のために、孤児達を拾ってきては与えていたなんて話は、聞いたときにゾッとした。

 しかし、ここにいた坊主共は……

 

(クソ)が…」

 階段を登りながら、佐奈恵は我知らずつぶやく。

 おそらくは人生で初めてだろう。鬼よりも人に憎悪した。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 ドタドタと足音がして、襖がガラリと開いた。

 走ってきたらしい佐奈恵が、和尚の喉に刃先を立てている薫を見て、ニヤリと笑った。

 

「さすが」

「そちらは?」

「弟子どもは縛り上げた。地下の座敷牢に置いてある。あと、太田しのさんは一応、生きてる」

「一応?」

「…………。もう一人、男の子が囚われてた。さっき鎹鴉を飛ばしたから、まもなく隠が来てくれると思う」

 しのに対する言葉がそれ以上出なかったのを、薫は察した。

 ギリと歯噛みし、和尚の顎下に突きつけた短刀を持つ手を、もう一つの手で押さえた。そうしなければ、このまま首を切り落としてしまいそうだ。

 

「薫ちゃん、とりあえずこいつ縛るから。隊服に着替えなよ」

 佐奈恵が持ってきた風呂敷包みと杖を渡す。既に佐奈恵は隊服に着替えていた。

「わかりました」

 薫が離れるや否や和尚は逃げ出そうとしたが、すぐさま佐奈恵がその首に縄を放つ。

 

「どうする? このまま私が力をこめたら、輪っかが小さくなってあんたの首が絞まるよ。そうしようか?」

 佐奈恵もまた、この寺で起きていたことを知ったのであろう。いつもの佐奈恵からは想像できないくらい、その目は冷たい怒りに満ちていた。

 和尚がうなだれると、素早く首から垂れた縄を後ろ手にした手首に巻いていく。

 

 薫が隊服に着替え、日輪刀を携えて戻ってくると、和尚は罪人のごとく、首、手、腰に縄をうたれていた。

 

「鬼の棲家に案内してくれるってさ」

 日輪刀を和尚の目の先に構えながら、佐奈恵が言った。

「そうですか。では、参りましょう」

「お、お、お前達……何者だ? まさか…」

 和尚は震えながら聞いてきたが、二人とも答える気がしない。

 

「さっさとしてくれる?」

 佐奈恵は無表情に言って、刀の切っ先を和尚の眉間に軽く刺した。「気が短い方なの、私」

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回、土曜日(2021.01.30.)更新予定です。



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第五章 激情(四)

▼今回、残酷描写ややあります。不快な方はご遠慮下さい。



 鬼は寺の地下室の先にある扉の向こう、自然に作られた洞窟の中にいるのだと言う。

 座敷牢を横に通り過ぎる時、格子にくくられた弟子共が和尚の姿を見て騒いだ。

 

「和尚様!」

「助けてください!」

 しかし、その首と手に縄がうたれているのを見ると、はたと止まる。

 

「あなた達も一緒に来る?」

 佐奈恵が尋ねると、弟子どもはブルブルと首を振った。

「誰もあなたの代わりになろうっていう殊勝な弟子はいないようね」

 和尚はもはやそれどころではない。恐怖で歯の根があわずにガチガチと小刻みな音をたてた。

 

 板が敷かれてあった場所を抜けると岩場がむき出しになった。ここから洞窟になっているらしい。

 ピチョンと、どこかで水滴が響く。蝋燭の灯りだけが光る、仄暗い隧道(すいどう)

 やがて奥に洞窟を塞ぐように作られた大きな白木の扉が見えた。扉の左右は格子が嵌め込まれている。

 

「こんなもの作ったって、意味ないのに」

 佐奈恵は自分の背の倍以上ある、見上げるほどの扉を見て呆れた。人間ならばともかく、鬼の力をもってすれば、破ることなどたやすいだろう。

 しかし和尚は意外なことを言う。

「そ、それは……ヌシ様に言われたのよ」

「は?」

「ここに扉を作っておけと……」

「なんでまた?」

「知らん! お、お、お前達がヌシ様を追い立てるからだろう!」

 和尚が震えながら抗議すると、薫と佐奈恵は目を見合わせた。

 

 事情を聞いてみると、どうやらここに潜む鬼は鬼殺隊から逃げ回っていたらしい。

 夜に鬼狩りから、昼は太陽から身を隠しながら逃げるうちに、和尚と出会い、取引をした。

 なにしろここにいる限りは鬼狩りに追い回されることもなく、日の光を気にすることもなく、しかも待っているだけで愚かな人間が食料を調達してくれる。格好のねぐらであったろう。

 双方の利害の一致が、この歪な関係性を生み出した。どちらの理由も、吐き気がするほど利己的なものだが。

 

「鬼をここまで震え上がらせるなんて、柱かな?」

「そうですね……いずれにしろ、取引相手としてはあまり頭のいい相手を選ぶ余裕はなかったようですね」

 薫が言うと、佐奈恵はクックッと笑った。

「ま、そうだわね。結局、私達に目をつけられる羽目に追い込まれているんだから」

 二人で和尚を窺ったが、皮肉にすら気付かないほどに、怯えているらしい。

 

 佐奈恵は肩をすくめると、目の前の扉をコツコツと叩いた。

「ふぅん……」

 鈍い音だ。横で扉を支えている格子の太さからいっても、相当に分厚く、重そうだ。

 いかに呼吸の技を持つ鬼殺の剣士であっても、ここを叩き壊すには、かなりの技力がなければ無理だろう。少なくとも、自分には出来ない。

 

「こ、こ、この先におる……」

 和尚は扉を指さすと、逃げようとして目を泳がせた。

 佐奈恵が縄を引き絞った。ぐい、と和尚の首がのけぞる。

「どこに行こうとしているのよ?」

 薫はあらかじめ和尚から渡されていた鍵を南京錠に合わせた。

 和尚は逃げようともがいた。

「ヒイィッ! も、も、もう儂は関係ないじゃろ? お前さんら二人で行けばええ」

 裏返った声が洞窟内に響く。

 

 薫はグッと扉を押したが、辛うじて動くものの人が入れるほどには開かない。佐奈恵は頷くと、和尚を格子にくくりつけ、薫と一緒に扉を押した。ギギギと軋みながら、ゆっくりと扉は開いた。手近にあった石をかませて、扉を固定する。

 仄かな明かりの中で、白い岩がいくつも氷柱のように垂れ下がっているのが見えた。

「……鍾乳洞ですね」

 薫は以前に父母らと訪れた奥多摩の鍾乳洞を思い出した。夏でも寒いほどに涼しかった。

 

「こ、こ、この道を進めば鬼がいよるわ。一本道じゃ。迷いはせん…儂は…」

 和尚はすっかり自分が鬼に差し出されるのだと思っているらしい。恐怖で汗が止まらず上ずった声で必死に訴える。

一見(いちげん)の客には紹介者が必要でしょ?」

 佐奈恵は言いながら、格子に括りつけてあった和尚の紐を再び解いて掴むと、「ほら、行った」と日輪刀で背をつついた。

 

 どこかで水の流れる音がした。地下水であろうか。仄暗い道の両側に広がる風景は幻想的だった。

 もはやカチカチと歯の鳴る音しかさせなくなった和尚は、時々つまづきながら歩く。

 近づくにつれ、梅雨の季節に不釣り合いなほどの冷気と饐えた匂いが漂う。

 

 いきなり開けた場所にたどり着くと、上から低い声が響いた。

「もう、次の(にえ)を持ってきたんか。糞坊主」

 上を見上げたと同時にその姿はなく、気付くと鬼は皿のようになった乳白色の岩の上に立っていた。

 

 巨体である。十尺はあるだろう。

 褐色の肌にシミのような赤黒い斑紋。禿げ上がった頭。筋骨隆々とした腕が右に二本、左に二本。腹はでっぷりと丸く膨れ、緑色の血管がいくつも浮き出ていた。

 小さい紅の目がギョロと和尚を見つめ、ついでさっと薫、佐奈恵を見た。

 

「糞坊主……貴様ァ、裏切ったな」

 怒気を含んだ低い声が、和尚を責める。「鬼殺隊なんぞ呼びよって…貴様ァァァ!」

 口が頬まで裂け、唇がめくれ上がって赤いヌラヌラした粘膜が蠢いた。

 

 和尚がヒィツと喉を鳴らし、その場に腰を抜かした。

「ちっ、ち、違うっ! 違うんだ! 儂は…儂は……」

 言いながら、這いつくばって逃げようとする和尚の前に、鬼が巨体に似合わぬ俊敏さで立ち塞がると、和尚の頭を掴み上げた。

 

「ぎゃああああぁぁぁ!!!!!!」

 

 和尚の悲鳴が響くと同時に、薫はその鬼の腕を斬った。

 ギロと、薫を睨む紅の目。鬼特有の細長い虹彩。目が合った瞬間に、ゾワリとうなじに寒気が走った。

 

 ―――――強い。

 

 ドサリと、鬼の腕と一緒に和尚が地面に落ちた。

「ひいっ、ひっ、ひっ、ひっ」

 和尚は腰くだけになった状態で、それでも必死に逃げようとする。

 隣にいた佐奈恵が、チッと舌打ちしながら、和尚の縄を切った。

「さっさと行け!」

 尻を蹴り上げられ、和尚はどうにか走って来た道を戻っていく。

 

 薫はスウゥゥゥと息を吸い込み、鬼に向って必殺の技を繰り出すべく構えた。

 

 鳥の呼吸 参の型 飛燕之鋒(ひえんのほう)

 

 上段と下段から首を狙うその技が鬼の首をとらえる前に、鬼が血鬼術を放った。

 

 血鬼術 撒砂哢刃(さんしゃろうじん)

 

 無数の硝子のようなものが、薫に向って放射された。

 咄嗟に後ろに宙返りして躱すものの、細かな斬撃はほぼ全身に裂傷を負わせた。弱い鬼の爪程度では掻き斬ることもできないはずの隊服が破れ、ジワリと血が滲んでくる。

 

 ―――――やはり、この鬼…強い。

 

 薫がこれまでに討伐してきた中で、血鬼術を使えるほどの鬼は最初に任務で葬った小鬼を含めても数匹。たいがいは血鬼術も使えない、いわば体力と腕力だけが人間離れしている、という鬼がほとんどだった。

 鬼殺隊から逃げている鬼など大したことはない、という油断があった。それは否めない。

 ギリ、と歯噛みしながら、間合いをとって構える。

 

 鬼が再び手を振り上げて攻撃してこようとしたが、その背後から佐奈恵が技を繰り出す。

 

 水の呼吸 肆の型 打ち潮

 

 複数の斬撃を加える技であったが、鬼は俊敏だった。

 腕一本を斬られながらも、素早く飛び退ると同時に、佐奈恵に攻撃していた。

 横腹を抉られ、グゥと呻きながら佐奈恵は尻もちをついた。見る間に隊服に赤黒い染みが広がっていく。

 

「また、斬りやがって……これだから嫌なんだ、テメェらは………」

 鬼は苦々しい口調で言い、斬られた腕をベロリと舐めた。

 口が頬まで裂けて、長く伸びた舌が出てくる。その先端はサソリのように尖って、黒光りしていた。形状だけで判断できないが、それは危険なものだと感じた。毒針のような気がする。

 

 鬼はしばらく佐奈恵と薫を睨みつけて動かなかった。攻撃の隙も見せない。

 三者で膠着状態となった後、鬼はニイイと嗤った。

 

「なんだァ……鬼狩りでもアイツじゃねぇならいいや」

 薫は鬼の揶揄(やゆ)には乗らなかった。むしろ、皮肉な笑みを浮かべた。

「よほど強かったんでしょうね、その人は。まさか追っていた鬼が、こんな洞穴に逃げ込んで、隠れて縮こまって、人に世話されなければならないほど、怯えているとは思わないでしょうね」

「……貴様ァ、誰に何を言ってる?」

「無論、お前に言っている。逃げ鬼が」

「小娘がアァァァッ!!!!」

 鬼が薫に向って突進してきた。直線的な行動であれば、薫にもまだ対処できる。素早い動きで鬼の攻撃を躱しながら、呼吸をより深めていく。

 

 鳥の呼吸 弐ノ型 破突連擲(はとつれんちゃく)

 

 素早い突き攻撃を繰り返しつつ、今度は鬼との間合いを詰める。

 鬼は四つの手で薫を掴もうとしたが、くるりと宙返りして躱し、その太く固い腕に降り立つと同時に、蹴り上げて跳躍した。

 目の前には鬼の首。

 

 鳥の呼吸 肆の型 円環狭扼(えんかんきょうやく)

 

 交錯した二本の刀が円を描き、鬼の頸を絞扼する。

 ゴト、と鬼の首が落ちた。

 薫は着地し、横に落ちている鬼の首を見つめる。

 拍子抜けするぐらいあっさりと首がとれてしまった。

 

 ―――――おかしい。 

 

 ザワザワと耳鳴りがする。全身が粟立った。終わっていない―――と、何かが告げている。

 だが、佐奈恵は脇腹を押さえながら近寄ってきて、フゥと一息ついた。

 

「もう、薫ちゃんが挑発するからどうなるかと……」

「日村さん、逃げて」

 佐奈恵を遮って、薫は静かに言った。

「え?」

「この鬼…尋常じゃない。お願いします、救援を」

「何言ってんの? やっつけた……」

 佐奈恵は怪訝そうに言いかけたが、首を切られたはずの鬼の身体が煙となって消えることもなく、ゆっくりと起き上がるのを見て、言葉を失った。

 

「日村さん!」

 薫は叫んだ。

「早く! 救援を要請!」

 それは命令だった。佐奈恵は唾を呑み込むと、あわてて来た道を走り出す。

 

 薫が構える間もなく、首なしとなった鬼が跳躍し蹴りこんできた。

 一瞬の隙をつかれた。

 腹に衝撃が入る。

 すさまじい勢いで岩の壁に打ちつけられた。氷柱状の鍾乳石がいくつか落ちてくる。

 

 痛みに顔を顰めながら、薫は呼吸を行った。うまく受け身をとれなかったせいで、頭を打ったようだ。クラクラする。

 よろよろと立ち上がり、刀を構えた。攻撃にも守勢にも応じる必要がある。気を抜いたら、お終いだ。

 

 だが鬼はすぐに薫にとどめを刺すことはしなかった。

 ゆっくりと歩いて、転がった自分の首を拾い上げた。

 首は笑っていた。ニヤニヤと笑ったまま、鬼のでっぷりと太った腹に吸収されていく。

 

 もう、意味がわからない。なんなのだろう、この鬼は。

 

 恐怖や怒りが心の中心を占有しそうになるのを、必死で押し止める。そうなってはもう勝ち目はない。

 冷静に、状況を分析するのだ。呼吸を整えて、勝機を見極めなければならない。

 頭から血が流れてきていたが、手当している暇はない。刀を構えて、鬼の攻撃に備える。

 

 その時、佐奈恵の叫ぶ声が聞こえた。

「薫ちゃん!」

「日村…さん……?」

 どうして戻ってきてしまったのだろう。できればそのまま鴉に救援を要請して、誰かが来るまでその場で待っていてほしかったのに……。

 

「あの坊主、扉閉めやがったわ…!」

 薫を庇うように、佐奈恵は前に立った。

「でも、格子のところから、薫ちゃんの鴉に頼んだから。大丈夫、大丈夫…」

 首を切っても鬼が消えない――――。ありえない状況に恐怖する自分に言い聞かせるように、佐奈恵は大丈夫を繰り返した。

 腹を一応、晒で巻いて止血しているが、赤黒い染みは手の平ほどに広がっていた。

 

 その時、二人の目の前で、またしても信じられないことが起きた。

 鬼のなくなった首の部分から、三つの首が出てきたのだ。

 それぞれがまったく違う顔である。

 一つは落武者のようなザンバラ髪で、青黒い肌。目を閉じて顰め面をしている。

 一つはさっきの禿頭でニヤニヤと笑っている。

 一つは童のような丸く白い顔に幾筋も隆起した緑の血管、額から瘤のような角が生え、ギーッギーッと猿のような鳴き声でずっと喚き立てている。

 腕も二本多くなって六本。よくよく見れば、腕は左右二本ずつ、それぞれ肌色が違う。

 

「共食い……?」

 薫がつぶやくと、佐奈恵も頷いた。

「食べたヤツを吸収して、こんな姿になるって……趣味悪っ」

 鬼が共食いするのは珍しいことではない。しかし、この鬼のように自分の喰った鬼の姿をわざわざ晒して見せるというのは初めてだった。

 

「どれが喰ったヤツなの?」

「考えるより、全部の首を落とした方が早いです」

「よしっ!」

 佐奈恵が気合を発して、鬼に向かって行く。薫は慌てた。

「日村さんっ!!」

 

 水の呼吸 壱の型 水面斬り

 

 佐奈恵が跳躍すると同時に、剣撃を繰り出す。しかし、鬼の手が伸びる。

 薫もまた、跳躍して技を繰り出した。

 

 鳥の呼吸 参の型 飛燕之鋒(ひえんのほう)

 

 素早い身のこなしで鬼の攻撃を避けると同時に、佐奈恵の剣撃を邪魔しないように、流れるような動作で鬼の腕を五本、切り落とす。

 

 佐奈恵の日輪刀が童顔の鬼の首に届いた瞬間、パキンと刀が折れた。

 折れた刀身が地面に落ちていく。

 

 二人の空隙を狙って、残り一本となった鬼の腕が伸びて、黒い爪が再び佐奈恵を襲った。先程やられたのとほぼ同じ場所を、今度は深く掻き切っていく。

 

 ドサリと佐奈恵が地上に落ちたが、様子を見ている暇はない。

 

 薫は次の攻撃を繰り出した。

 

 鳥の呼吸 壱の型 鷹隼空斬(ようしゅんくうざん)

 

 足に力をこめて思い切り上に跳躍する。しかしすぐに後悔した。

 ここでやるには、天井が低い。威力が、落ちる――――!

 

 薫の逡巡を鬼は見逃さない。

 メキメキと再生した右腕の一本がパッと手を開くと、また無数の割れた硝子のようなものが放出された。

 再び細かい斬撃に襲われ、薫は反射的に亀のように丸まって、地面に転がった。躱しきれなかった攻撃が薫の身体を切り裂き、血があたりに飛び散った。

 構えをとる間もなく、また再生した別の腕が薫を掴もうと伸びてくる。

 

 水の呼吸 弐ノ型 水車

 

 ヒュウウと音がして、その腕に刀が刺さった。佐奈恵が呼吸による技で、腕を捩じ切るために折れた日輪刀を投げたのだ。

 薫はその腕を叩き切った。

 

「痛テェ…痛テェ……お前らァ、さっきから痛テェんだぞ」

 禿頭の鬼が、恨めしそうな声で言う。切られた腕の肉がビロビロと蠢いているのが、ひどく気持ち悪い。

 

 薫は横たわる佐奈恵と鬼の間に立つ。

 ここまで追い込まれたのは初めてかもしれない。背中にびっしょりと冷や汗をかいていた。

 戦闘において計算違いをするのも、自分が確実に動揺しているせいだ。あの畜生坊主達のせいで、戦闘の前から頭に血が昇っている。冷静にならなければならない。

 

 呼吸をこらす。

 

 今度こそ、決めなければ。自分も佐奈恵も助かるために。

 この鬼さえ始末すれば、佐奈恵は大丈夫だ。

 必ず、きっと、無事に帰れる。

 

「痛テェ…痛テェ……」

 真ん中の禿頭の鬼は怨念のこもった目で睨みつけてくる。

 

 薫は息を吸った。深く。深く。細く、長く、遠く……。

 集中しろ。

 今、考えるべきはこの鬼を倒すことだけ。

 技を、より研ぎ澄ませ。より強く、相手を圧倒するものを。

 

 冷たく冴えた頭が、この鬼を分析する。三つの頭をほぼ同時に斬るための技……

 

 鬼は歩みを止めた。禿頭の鬼の口がニィィィィと割け、先程見た毒針のような舌が、踊っているかのようにくねくねと動いている。

「死ネエェエェエエエ!!!!!!」

 鬼が岩を蹴り、跳躍してくる。

 

 鳥の呼吸 肆の型・改 双環狭扼(そうかんきょうやく)

 

 いつものでは鬼の首を落とせない。もっと呼吸を深くして、大きく――――速く!

 

 日輪刀がブンと空気を震わせる。

 二つの円環が鬼の首をそれぞれ捉えて、捻り斬る。

 

 童顔の鬼の甲高い悲鳴と、禿頭の嗄れた怒声が洞窟に谺した。

 鬼がガクリと膝をつく。

 

 ようやく訪れた反撃の契機に、薫が再び息を吸い込んで技を出そうとした刹那。

 

 残されたザンバラ髪が、それまで閉じていた目をカッと見開いた。血の滲んだような紅い目が、薫を睨みつける。

 その瞬間、金縛りにあったかのように動けなくなった。

 

「………鬼狩りめ」

 無防備になったのを狙って、鬼が薫の首に手をかけた。

 

 ―――――殺られる!

 

 カッと脳天に電気が走る。沸騰した血が傷口からドクドクと溢れてくる。

 

 その時、薫は意味のわからぬ映像を見た。 

 

 白昼夢だろうか…?

 鬼殺隊の隊服を着た男の姿が見えた。

 この鬼に対しても見劣りせぬくらいに、大柄な逞しい体躯の男だ。

 珍しいことに、刀を持っていない。見るからに重そうな、鎖で繋がった棘のある鉄球と斧を、縦横無尽に振り回して、迫ってきている。

 ギャアギャアと喚き立てる声。この声は、この鬼の声か?

 待て! と、男の声がする。鬼は走っているのか、荒い息遣いが聞こえる。

 怖い。怖い。怖い。怖い。

 逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。

 必死で逃げている。

 

 ―――――鬼は、この男から逃げ回っていたのか…………?

 

 映像が消えると同時に、金縛りが解け、薫はその場から飛び退った。

 

 刀を構えながら、ビリビリと全身の血液が粟立つような感覚に、奇妙な高揚感と嘔吐したくなるような嫌悪感が同時に訪れる。

 

 ザンバラ髪の鬼の表情は、強張っていた。青ざめているようにも見える。

「………おヌシ…その……」

 何か言いかけている。だが、鬼の言葉になど耳を貸している暇はない。

 再び息を吸う。細く、長く。全集中の呼吸―――――

 

 鳥の呼吸 参の型 飛燕之鋒(ひえんのほう)

 

 奥歯を軋ませながら、薫はその硬い首に刃を立てる。

 途中でバキィ、と短い方の刀が折れた。すぐに手を離して、一つの刀に力を集中させる。

 

 地面に転がった禿頭の鬼が針のようになった舌を伸ばし、脛を刺した。鈍い痛みと共に、何かが注入されるのを感じる。だが、今は無視する。

 

 ―――――この、首を、なんとしても、斬る…!

 

 渾身の力で鬼の首を抉り取った。

 

 グゴオオオォォオオオオォオ!!!!!!

 

 低い断末魔の咆哮が、洞窟内を反響する。

 

 ゴトリ、と重い音をたてて鬼の首が地面に落ちた。バラバラと灰となって消えていく。

 禿頭の鬼は最後まで「イヤダイヤダ!!!!」と濁声で叫びながら消えていった。

 

 鬼の消滅を見届けると、一気に身体(からだ)の力がなくなった。その場に崩れ落ちるように座り込む。

 脛に灼けつく痛みと痺れを感じた。おそらくさっきの舌はやはり毒針だったのだろう。

 破けた服を裂いて見ると、果たして脛の傷部分から、皮膚が赤く焼けただれ、徐々に広がっていっていた。

 

「………」

 息をなんとか整えつつ、懐のポケットから宝耳に以前もらった印籠を取り出した。

 毒消しの薬だと言っていた。

 震える手の中で、幾粒かの丸薬がこぼれ落ちた。どうにか口に入れた分を、唾で無理やりに飲み下す。

 これが効くかどうかは、運を天に任せるしかない。

 

 そのまま這いずるように佐奈恵に近づいた。

 視線の先で、鬼の身体の最後の一欠片(ひとかけら)が塵となって消えていくのが見えた。

 今度こそ、殺した。

 

「ひ、むら、さん…」

 佐奈恵の周りには、血溜まりができていた。晒はすでに真っ赤を通り越して、黒く見える。

 

「薫ちゃん…」

 意外にも佐奈恵の声はしっかりしていた。

「ズボンの右ポケット、縫い付けてあるの……取ってくれる?」

 何を言い出すのかと思いつつ、佐奈恵の言う通りにズボンの右ポケットに手を突っ込むと、確かに何かが縫いつけてある。

 強張る手でどうにか布を引きちぎると、丸い石のようなものが手の平に転がり出た。

 ポケットから手を出して、中にあったものを佐奈恵に見せた。

「これですか?」

 それは翡翠の石のようだった。薄い緑色の原石。

 

「そう。……これ、さぁ…アイツに、隆に、渡してくれる?」

「…………嫌です」

 震える息の中で、薫は首を振った。「自分で渡してください」

 

 もはやどうしようもないことを佐奈恵は悟って、微笑んでいる。

 薫は「嫌です」を繰り返した。

 

「頼むよ、薫ちゃん」

「…嫌です。………佐奈恵さん、お願いです。呼吸を整えて。もうすぐ救援が、隠が来て助けてくれますから………あきらめないでください」

 

 佐奈恵は「うわぁ」と嬉しそうに笑った。

「薫ちゃん、やっと名前、呼んでくれた………」

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回、水曜日(2021.02.03.)更新予定です。



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第五章 激情(五)

▼今回、残酷描写ややあります。不快な方はご遠慮下さい。



 その言葉が最期であったことを、薫はしばらく理解できなかった。

 

 ピチャーンと鍾乳石から落ちた雫の音が響く。

 蝋燭に照らされた薄暗い洞窟の中。

 佐奈恵の顔は微笑みを浮かべて眠っている。

 

「佐奈恵……さん?」

 呼びかけたが返事はない。胸元に耳を当てたが、鼓動は聞こえなかった。

 薫は手にある翡翠の石を見つめた。

 

 ―――――隆に渡してくれる?

 

 あれは、遺言だったというのか?

 石を握りしめて、薫はしばらく何も考えられなかった。自分が生きていることすら、わからなくなりそうだった。

 

 また、ピチャンと雫が落ちた。

 今度は、佐奈恵の頬の上に。まるで涙のように見える。

 寒さがじわりと肌に染みてきて、不意に自分の呼吸が荒くなった。

 ここで自分は何をしている…?

 

 ―――――早く……

 

 佐奈恵を早く、こんな暗くて、冷たくて、饐えた臭いのする場所から出してあげなければ。

 

 翡翠をポケットに入れると、薫は刀を杖がわりにして、立ち上がった。

 隠を早く、呼ばなければ。

 

 長く暗い鍾乳洞に、ポツポツと灯る明かりが、延々と続くかに思えた。

 身体が重い。

 毒にやられた左足は、もう感覚がなくなっている。

 それでも歩く。なんとしてでも歩かなければならない。

 

 ようやく入り口の白木の扉が見えた。

 行く時に、石をかませて開けておいたはずだが、今は閉まっている。

 格子から、こちらを窺う和尚の姿が見えた。

 

 その時、急に佐奈恵の言葉を思い出した。

 

 ―――――あの坊主、扉閉めやがったわ…!

 

 鬼に襲われる和尚の姿。縄を切る佐奈恵。

 

 ―――――さっさと行け!

 

 佐奈恵はあの時、和尚を蹴り飛ばして(のが)した。あんな屑のような存在であっても、人間だからと、逃がしてやったのだ。

 

 閉めた? 扉を? 自分だけが逃げて?

 鬼諸共に、薫達を封じ込める気だったのか?

 

 佐奈恵はここに辿り着いて、閉められた扉を叩き、開けろと叫んだろう。

 何度も。

 それでも扉は開かず、階段で待っていた鴉を呼んだのだ。

 腹の怪我で相当に痛かったろうに、救援を呼ぶために、必死で声を張り上げたはず。きっとそれは出血を早めた。

 

 薫は赤く血走った目で、格子越しにこちらを見ていた和尚を凝視した。

 無言で、問いかける。

 

 ―――――なぜ?

 

 見ていたはずだ。ここで。全て。

 それでも助けなかった。

 僧職の身でありながら、己の恐怖と保身のために、佐奈恵を見捨てた。

 

 あの鬼が鬼であるために滅殺されるのに、どうしてお前は生きている…?

 

 扉を隔てて、ピリピリと空気が肌を刺すような緊張が漂う。

 

 フイ、と和尚は視線を逸らした。

 顔を背けて、その場から立ち去ろうとする。

 

 薫は日輪刀を強く握りしめた。

 

 ―――――赦せない……!!!!!!!

 

 真っ白な感情が押し寄せた。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 粂野匡近(くめのまさちか)は、ゆうべ佐奈恵と薫が休んだ藤家紋の家にいた。

 任務の帰りである。

 

 傷に効能のあるという薬湯に浸かって、久々にのんびりしていると、鴉が急に『救援乞ウ!』と知らせを告げた。

 あわてて湯から上がって隊服に着替える。

 

 どうやら近くの寺に鬼が現れたらしい。隊士が二名向かっているのだが、鬼が強いらしく苦戦を強いられているようだ。

 

「山の中腹にある紫陽花で有名な寺です。昼前に女の隊士様たちが向かわれました」

 藤の家の女主人が教えてくれた。

 

 詳細はよくわからないが、匡近はすぐさま出立した。

 匡近を先導するように、鴉が二羽飛んでゆく。一羽は匡近の鴉だが、もう一羽はおそらく救援を頼んだ隊士のものだろう。

 

 暗い林道を抜け、石段を登り切ると、なるほど見事な紫陽花の群生だった。だが、それをのんびり鑑賞している暇はない。

 

 寺の本堂に向かっていると、匡近の鴉が『祐喜之介(ユキノスケ)!』と叫んだ。

 本堂の渡り廊下の飾り柱の上に、鴉が一羽、止まっている。さっきの鴉だろう。

 

「祐喜之介……?」

 匡近は何か聞き覚えがある気がしたが、思い出せなかった。

 

 その鴉はバサッと羽を広げると、案内するかのようにお堂の中をゆっくりと飛んでゆく。

 薄暗い廊下の奥に、地下に伸びる階段があった。降りていくと、そこは元々洞窟になっていたようで、ぴちゃんと水の跳ねる音がする。

 

 しばらく進むと、格子戸に仕切られた牢屋のようなものが見えた。

 格子戸の中で若い坊主が三人、固まっている。

 

 匡近の姿を見ると、「ヒィィッ!!」と声を上げた。

「捕まってるのか?」

 匡近が尋ねると、一人がギロリと睨んでくる。

「貴様もあの女共の仲間か?!」

「………?」

 

 詳しく話を聞こうとするが、正気を失ったらしい一人が「鬼に、鬼に喰われるっ!」とひっきりなしに叫び声を上げて話にならない。

 

 何にせよ、鬼がいるのは間違いないらしい。

 匡近は気持ちを切り替えると、先に向かって歩き出した。

 

 薄暗い板間が途中から岩に変わった。

 染み出した水のせいで、ヒンヤリと冷たい。

 外は梅雨の蒸れた暑さだというのに、心地良いくらいに感じる。

 

 その時だった。

 

 ドオオオオォォォンッッ!!!!!!

 

 凄まじい轟音が耳をつんざく。続いて、バリバリバリッと木が裂けるような音。

 

「何だ…?」

 匡近は異様に思った。今のは鬼の攻撃か? いや、それよりも―――――

 

 角を曲がると、先の方は土煙が立ち込めていた。

 匡近のすぐ近くには、腰をぬかした年寄りの坊主が、煙の先を見つめて怯えている。

 

「た、た、たっ、助けて、助けてくれぇっ!!」

 どもりながら必死で命乞いをしている。

 

 匡近は日輪刀を構えた。

 ひどくおかしな気配を感じながら。

 

 煙の中から人影がユラリと見えた。暗くて顔はわからない。

 鬼ではない……?

 

「貴様…………」

 静かな、だが、ドス黒い憎悪を湛えたその声。

 

 匡近は『まさか…』と思った。だが、すぐに確信する。鴉の名前を思い出したのだ。祐喜之介は薫の鴉ではないか。

 

「貴様ああぁぁっっっ!!!」

 裂帛の咆哮が暗闇を震わせた。

 

「薫っ!」

 匡近が叫ぶ。持っていた日輪刀を手放して、薫の正面へと立つ。

 

 だが怒りに我を忘れた薫の目には、扉を閉めて自分達を見殺しにし、己だけが助かろうとした……幾人もの少女や少年を陵辱して、下卑た笑いを浮かべていた男の姿しか見えない。

 

 凄まじい殺気そのままに、渾身の力で刀を振り下ろす――――!

 

「薫……っ!!?」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「……薫……薫……」

 

 誰かが自分の名前を呼んでいる。

 

 ふと気付くと、腕を誰かに掴まれていた。

 土煙の白い靄の中、じわりじわりと、現実が見えてくる。

 

 和尚に振り下ろさんとしていた日輪刀は、止まっていた。

 匡近の、肩で。

 

「……………」

 薫は蒼白になった。

 

 下級の鬼の爪では傷つけることもできないといわれる隊服であったが、薫の日輪刀はその布地を切り裂き、破れた部分から血がじわじわ溢れ出ていた。

 かろうじて、匡近が両手で薫の腕を掴んだために、袈裟がけに斬らずに済んでいるのだ。

 

 どうして匡近がここにいるのか?

 自分はどうして匡近に斬りかかっているのか?

 

 なにが起こっているのかわからず、薫は呆然とする。

 

「落ち着け…」

 匡近がやさしく呼びかけた。まるで手負いの獣をなだめるかのように。

 

 途端に全身がカタカタと震えだした。

 刀をおさめようと思うのに、手が硬直して動かない。

 

 匡近はようやく薫が我に返ったことがわかると、安心させるように微笑んだ。

「大丈夫だから…」

 ゆっくりと、薫の手を握りしめ、指を一つ一つ持ち上げて(つか)からはがしてゆく。

 最後に日輪刀をそっと取り上げると、放心したままの薫の頭を抱き寄せた。

 

「鬼を殺した。それで…終わりだ」

 

 

 その言葉を聞いてから、薫の記憶はない。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回、土曜日(2021.02.06.)更新予定です。



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第六章 元花柱・那霧勝母(一)

 身体への複数にわたる裂傷と、全身の筋肉疲労、頭部挫創、肋骨骨折、毒による左足の麻痺。

 

 薫は重傷であると判断され、奈良吉野にある元花柱・那霧勝母(なぎりかつも)の元へと運ばれた。

 勝母は育手でもあり、主に関西方面で任務にあたる隊士が重体に陥った場合に、診療を行う医師として鬼殺隊に所属していた。

 薫が宝耳にもらった毒消しの薬を作ったのも勝母である。

 

「ま、もう大丈夫だね」

「っ、痛っ」

 思い切り傷口を叩かれて、匡近は呻いた。

 勝母はハハハと豪快に笑う。

 

「これぐらいで痛がるんじゃないよ。紙で小指を切るほどにも痛かないだろう」

「そんなワケないでしょう。痛いですよ」

「わざと切られたんだから、自分が悪いのさ。もうちょっと上手くやればいいのに」

 

 勝母はフンと鼻をならす。

 匡近の怪我を診察する際に、だいたいの経緯は聞いている。

 

「手負いの妹弟子のために体張ってやるのはいいがね。もうちっとやりようもあったもんさ」

 匡近は隊服を着ながら、ため息をついて反論する。

「仕方ないじゃないですか。あの時は咄嗟のことで、それしか思い浮かばなかったんですから」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 洞窟の奥にあった扉らしきものを、呼吸の技を使ってぶち破って出てきた薫は、怒りに我を忘れた猛獣になっていた。

 匡近の声も届かなかった。

 地べたに腰を抜かせて必死に命乞いする坊主だけしか見えず、しかもそれは殺意の対象であった。

 

 当然ながら、人殺しは罪である。鬼殺隊でなくとも、それは当たり前のこと。

 

 普段の薫であればそんなことはありえない。だが、あの時の薫はその禁忌すらも破っても構わないほどの憎悪が溢れていた。

 

 後になって、あの寺の坊主共の非道を知って、匡近とてもその所業に怒りを感じたが、それでも薫に人殺しになってもらいたくはない。

 

 あの時、薫の振り下ろした剣に対して、匡近は応戦することはできた。だが、それでは暴走した薫を鎮めることはできない。

 とにかく薫に正気に戻ってもらう必要があったのだ。

 すみやかに。

 鬼のことも教えてもらわねばならなかったし、もう一人行ったという隊士の行方も聞かねばならなかった。

 

 自分を盾にしたのは、ある意味、卑怯なことだ。薫の罪悪感を利用したのだから。

 

 見開いた目。

 凝と匡近を見つめ、その瞳に匡近が映っているのに、何も見えていない。

 己のやったことに混乱し、何が起きているのか理解できないようだった。

 

 倒れ込んだ薫を隠に託した後、壊れた扉の前に立った。

 分厚く、自分の背の二倍はある高さの扉である。これをたとえ呼吸の力だとはいえ、ここまで破壊するのは生半(なまなか)の剣士にできることではない。薫が自身をそこまで鍛えた証だろう。

 

 扉の残骸を越えると、暗い鍾乳洞が続いていた。

 道沿いに蝋燭がぽつぽつと灯り、足元を照らしている。

 奥の行き止まりは開けた場所となっており、戦闘の痕跡が見て取れた。

 

 そこで日村佐奈恵が死んでいるのを発見した。大量に失血し、血溜まりの中に横たわっていた。

 近付いて見た顔は、うっすらと微笑んでいるように見えた。

 

 まさかこの二人の共同任務とは思わなかった。薫から時折もらう手紙でも、単独任務の話ばかりだったのだ。

 もしかすると、今回が初めてだったのかもしれない。

 だが、日村佐奈恵のことだ。知らぬ仲でもなし、今回のこの任務をきっかけに、薫への距離をぐっと詰めて、友達のような間柄になっていただろう。

 

 おしゃべりだったが、無遠慮に相手の心に踏み込んでいくことはしない。その場にいるだけで、雰囲気が明るくなり、風通しがよくなるような…悠揚とした心の広い人間だった。

 

 匡近は瞑目し、やってきた隠に後のことを任せると、寺を出た。

 

 何度も経験しても慣れるものではない。

 仲間を失うことは。

 いつか自分が死ぬ立場になった時、誰かを同じような気持ちにさせてしまうのだろうか……。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「それで、薫は?」

 あの後、ここに運び込まれて三日ほどで薫は目を覚ましたらしい。

 

 匡近は簡単な応急手当てをしてもらった後、すぐに別の救援任務が入って、この百花屋敷に来たのは三週間ぶりである。

 

「毒はほぼ抜けたよ。多少、元気がないようだがね」

 勝母はズズズと、独特の匂いのする特製のお茶とやらを飲みながら、のんびり言った。

「早めに毒消しを()んだのがよかったね。足の方は後遺症も残らないと思うよ。肋骨の骨折は日にち薬だし、あとは、全身の疲労回復がどこまでできるかだね。あの子はなかなか優秀なようだが、まだ全集中の常中ができていない。自己流である程度のところまでは会得しているようだが」

 

 全集中の常中は柱を目指す隊士ならば、誰もが通らなければならない関門である。

 匡近とても、一朝一夕にできなかった。隊士になってからも修練を重ね、会得するまでに一年近くかかっている。

 

「なんだって東洋一(とよいち)はあの()に教えなかったんだかねェ…」

 勝母と、匡近の師匠である篠宮東洋一は、昔馴染みのようで気安く呼ぶ。

 当時、勝母は柱であり、東洋一は階級上位であったとはいえ、一介の剣士でしかなかったのだろうと考えると、二人の仲が不思議だが、詳しいところは匡近にもわからなかった。

 

「入隊して二年待たずに己にまで進むなんてのは、なかなかのモンだよ。素質はあったろうに………。弟子時代はあんまり出来が良くなかったのかい?」

 勝母はギョロリ、と左目だけを動かして匡近に問うた。

 右目は昔、戦闘でほぼ視力を失ったらしい。

 

 匡近は軽く肩をすくめた。

「それはないです。っていうか、歴代の中でも二番めくらいにいいと思いますよ」

「一番はあの悪たれかい?」

 勝母の眉間に皺が寄る。「もう、危なっかしい真似はしてやしないだろうね?」

 

 実弥が鬼殺隊に入ってからも自分の稀血を利用して鬼狩りをしていた時、反撃をくらって、重傷を負い、ここに担ぎ込まれた。

 勝母は烈火のごとく怒った。

 

「そんなモンを利用しないと鬼を殺れないようじゃ、鬼狩りとしちゃ三流どころか外道だね! この馬鹿ガキが!」

 

 ガキ扱いされ、麻酔なしで太い針で傷口を縫われ……。

 あの実弥ですら、この元花柱の婆さんには閉口していた。

 

 匡近はクスクス笑った。

「もう、さすがにね。そこまでするほどの相手に出会ってないので」

 

「だったらいいが……それにしても、対照的だね。一人は問題児で、一人は優等生だよ。礼儀作法もきちんとしているし、なにより所作に品がある」

「まぁ…そうですね。元は子爵令嬢だったらしいです」

「子爵令嬢ォ?」

 勝母の声が裏返る。

「東洋一が女を弟子にしてるっていうのを聞いたときにも驚いたが、そんなお嬢さんが鬼殺隊に入るとはね。しかし、子爵令嬢だろうが何だろうが、才能はあることは認めていたんだろうに、なんで教えなかったんだい?」

 

「師匠は常中は隊士になってから各自で覚えるように…って感じですよ」

「はァ? あの男はまだそんなこと言ってんのかい?」

「えぇ、と…まぁ……」

 指導法は育手によって異なるので、こういう意見の食い違いもあるだろう。

 

 勝母はハァと溜息をつくと、ブツブツと文句を言っていた。

「……ったく、妙に考えが古いんだよ、あの男」

 

 匡近は特にとりなすつもりはなかったのだが、東洋一の面子もあるので一応の言い訳を言ってみる。

「師匠は、本心では薫に鬼殺隊に入ってもらいたくなかったんですよ。そのうち諦めて、普通のお嬢さんとしての人生を生きていってもらいたかったんでしょう…」

 

 フンと勝母は鼻をならした。

「なにが普通のお嬢さんだよ。鬼狩りしてたって、女は女でどうとでもするさ。余計なお世話だね。あたら逸材を勿体ない。まぁ、いいさ。あの()はウチで面倒みることにするよ」

 

 それは薫にとっては有り難い話に違いなかったが、匡近の顔は曇った。

 あの寺の地下洞窟で、怒りに我を忘れ修羅と化した薫を思い出すと、この先も鬼殺隊にいることが不安だった。

 制御できない負の感情は、爆発的な力を秘めているが、その分乗じられやすい。

 

「なんだい? 不満そうな顔して」

 勝母は匡近の顔を覗き込んでいる。「お前さんも、東洋一と同じかい?」

 

「はぁ…まぁ…できれば」

「馬鹿馬鹿しい。男ってのはどうしてそう、上からなんだろうね」

「上から?」

「自分達が守ってやりたいから、でしゃばるなってことだろ?」

「そういう訳じゃ…」

 ない、とも言い切れない。実弥ではないが、薫には鬼殺隊をやめても、普通の女性として一般的な生活を送っていけると思うのだ。むしろ、その方が合っているように思う。

 

 だが勝母は一蹴した。

「大きなお世話だよ。鬼狩りしてたって、惚れた男がいりゃ添い遂げりゃいいし、子供だって産みゃあいいんだ」

「え?」

「お前さんがあの子を嫁にしたけりゃ、すりゃあいい。ま、あっちが願い下げと言うんなら諦めるしかないがね」

 いきなりまったく考えになかったことを言われ、匡近は混乱した。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。何の話ですか?」

「そういうことだろ? あんた、あの娘が好きなんだろ?」

「ち、ち、違いますよ! なんでそういうことになるんですか?」

「チッ! まだるっこしいねぇ……好きなら好きと、ドンと言ぃなァ。(おとこ)だろ」

 だんだん話があらぬ方に走っていっている気がする。

 

「あの、じゃ、俺はこれで」

 匡近はそそくさと上着を羽織ると、診療室を出ていった。

 

 バタンと勢いよく閉まるドアを見て、勝母は肩をすくめると、ゆっくりお茶をすすった。

 自分で自分の気持ちを決めかている…といったところだろうか。なんとも歯痒いが、それもまた恋の習わしというものかもしれない。

 

「………若いねぇ」

 つぶやきながら、フフと笑みが浮かんだ。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回、水曜日(2021.02.10.)更新予定です。



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第六章 元花柱・那霧勝母(二)

 ―――――まったく、何を言い出すんだ。あの婆さんは…。

 

 匡近は自分がいつになく焦っていることに気付いてなかった。

 本当はこの後、薫に会って少し話して帰るつもりだったが、予定を変更することにした。

 

 このまま帰ろう。

 

 足早に廊下を歩いていると、間の悪い偶然に鉢合わせる。

 曲がり角での正面衝突を避けて、反射的に飛び退った目の前に――――

「あ、粂野さん」

 額から耳にかけて包帯を巻いた薫が、驚いた様子で匡近を見ていた。「来ていたんですか?」

 

 勝母のせいである。

 いつもなら普通に世間話もできるというのに、変なことを言われたせいで妙に意識してしまう。

 なんとなく目線を逸らせながら、考えなしに答えてしまった。

 

「あ、あぁ…肩の傷を診てもらってて」

 言ってから、しまったと気がついたが、遅かった。

 ふっと薫の顔が曇る。

「すいません」

 自分が怪我を負わせたことを思い出したのだろう。

「本当に、ご迷惑をおかけしました」と、深く頭を下げてくる。

 

「いやいやいや! 大したことじゃないから!」

「いえ。本当に私が未熟でした」

 薫は声をおとした。

 自分自身ですら知り得なかった自分の暴挙に、心底後悔しているようだった。

 

「いや、ほんとに気にしなくていい。大した怪我じゃなかったし。鬼殺隊士ならこれくらいのはよくあることだから」

「身内に対して刀を振るうなんて、本来なら懲罰ものです。粂野さんだけでなく、本来守るべき人間に対して、私は……」

 

 あの坊主達はその後、村人と、囚われていた娘の親戚縁者達によって、半死になるまで袋叩きにされた挙句、放擲されたという。

 どうやら地方に根を張るヤクザの一党が、娘の実家と昵懇であったらしく、容赦なかった。

 今頃は目も潰れた状態で乞食になっているかもしれない。因果応報というしかない。

 薫が手を下すまでもなく、人に対しては人が罰を下すのだ。

 

「もう、済んだことだ」

 匡近はつとめて穏やかに言った。「いつまでも気にしてたら、次に行けない。切り替えていこう」

「………」

 それでも薫には拭い去れないものがあったようだが、無理やりに微笑を浮かべた。

 

「わかりました」

「うん。じゃあ……」

 匡近はそのまま立ち去ろうとしたが、

「あ、あの粂野さん」

 珍しく薫が呼び止める。「笠沼隆という人をご存知ですか?」

「笠沼…?」

「佐奈恵さん……日村佐奈恵さんと、その……婚約なさっていた方です」

「はぁっ?」

 思わず声が裏返った。

 

『婚約』という、常には聞き慣れない言葉にいつになく動揺してしまう。

 まだ、勝母に言われたことが尾を引いているようだった。自分の中の焦りを必死にかき消すように、笠沼という男のことを思い出す。

 

 そういえば日村佐奈恵といつも一緒にいた男がいる。

 浅黒い肌をした、少し頼りなげだが、実は剣術の腕はいいと評判の男だった。

 確かに幼馴染で同門だとか言っていたし、二人で一緒の任務につくことが多かった印象もある。

 

「え? あいつら結婚するの?」

「……その約束をしていたようです。佐奈恵さんから伺いました」

「へぇ…そう」

 

 確かに隊士同士の結婚がないわけではない。いや、むしろ女隊士の増えた昨今では、おそらく以前より多くなっているだろう。

 代々の鬼殺隊の家柄であれば、許嫁がいる者もいる。

 とはいえ、匡近にとって『結婚』なんて選択肢はまったく俎上に上がるものでなかったので、身近でそういう話を聞くと、どうにも浮足立ってしまう。なんと答えればいいのかわからない。

 まして、その当事者の一人である日村佐奈恵は故人となってしまっている。

 

「それで…笠沼に会ってどうするの?」

「佐奈恵さんから預かったものがあるんです。渡してくれと、頼まれました。前に教えていただいた道場におられることが多いのでしょうか?」

「どうだろう? 俺もこっちには久々なんだよ。最近は北陸とか関東方面が多くて」

「そうですか…」

 薫はしばらく沈痛な表情で考えこんだ。「鴉に頼もうか………」

 最終的には鴉に頼めば、その隊士の消息ぐらいは教えてくれる。もちろん、鴉が把握している範囲においてだが。

 

 それにしても佐奈恵が亡くなった今、笠沼は鬼殺隊を続けるのだろうか?

 腕は良かったが、どこか気弱なところのある男だった。佐奈恵が引っ張っていってた節がある。

 今はもう佐奈恵の訃報を聞いているだろうから、もしかすると泣き崩れて、そのまま鬼殺隊を脱退している可能性もある。

 

「すいません、呼び止めてしまって」

「いや、大丈夫か?」

 なんだか嫌な予感がする。

 おそらく薫は自分の責任を感じて、佐奈恵の末期を笠沼に伝えようと考えているのだろう。

 笠沼がそれを粛々と聞いたうえで、冷静に対処できるのだろうか。

「………大丈夫です」

 無理な微笑を浮かべて薫は言った。痛々しくさえあった。

 

 不意に勝母の台詞が脳裏に浮かぶ。

 

 ―――――お前さんがあの子を嫁にしたけりゃ、すりゃあいい

 

 匡近はブルブルっと頭を振った。

 日村佐奈恵と笠沼の結婚話のせいで蒸し返された。

 

 本当に余計なことを言う婆さんだ…。

 

 いきなり挙動不審になる匡近を薫は不思議そうに見つめた。

「粂野さん? どうかしました?」

「いや。なんでもない。じゃ、またな」

 早口に言って、匡近は小走りに駆けていった。

 

--------------

 

 去っていく匡近の後ろ姿を見ながら、薫はあの時のことを思い出す。

 怒りに我を忘れた自分を、体を張って止めてくれた。慈悲といってもいい眼差し。

 

 ―――――鬼を殺した。それで、終わりだ…。

 

 諭すように、宥めるように、囁いた言葉。

 本当に我ながら、頼もしく優しい兄弟子を持てた幸運を感じずにはいられない。

 

 

 匡近を斬ったということを理解できたのは、朝の光の中、目を覚ました後、現れた勝母から言われた時だった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「起きたかい?」

 

 右目に黒の眼帯、着物の上に白衣を着た初老の女が現れた時、薫はその佇まいから、なんとなく逆らえないものを感じた。

 何と答えればいいのか考えあぐねていると、「顔を拭きな」と言って、女は固く絞った手ぬぐいを渡してくれた。

 温かい手ぬぐいで顔を拭いていると、女は薫を吟味するかのようにまじまじ眺めた。

 

「粂野匡近がアンタを運んできたんだよ。覚えているかい?」

 言われた途端に、自分が匡近に斬りかかっている記憶が甦った。

 それは鮮明に思い出すのに、ありえない光景に混乱する。

 自分は本当に匡近に刃を向けたのだろうか。一体、自分は何をした?

 

「粂野さんは…無事ですか?」

「なんてことないさ。肩にちょっとした切り傷を受けただけだ。ちょいと縫って、もう新しい任務に行っちまったよ」

 暗い顔をして黙り込む薫の肩を、女はポンポンと叩く。

 

「いい兄弟子を持って幸せだね。あんたのために、身を張ることも厭わないんだから。申し訳ないと思うなら、剣術だけでなく、もっと心を鍛えなければならないよ」

「………はい」

 奥歯を噛みしめる。

 まだまだ自分は未熟だと、はっきり言われた。それに反論することもできなかった。 

 

 その後、女は自分の名を名乗った。

「私は那霧勝母(なぎりかつも)というんだ。ここでやんちゃ共の傷の手当なんぞをやったりしている。元はこれでも柱だったんだよ。大昔だがね」

 ようやく勝母の貫禄のある雰囲気の理由がわかり、薫の中で得心した。

 老いたとはいえ、背筋を伸ばしたその姿には一分の隙もない。

 

「粂野から聞いたよ。あんたは東洋一(とよいち)の弟子だったんだって?」

「先生をご存知なのですか?」

「まぁ、同じ育手だしね。昔は何度か一緒に仕事もしたからね。あの男が女の弟子をとるなんて珍しいもんだね。実に意外だ」

 

 勝母は片方だけの目でまじまじと薫を見つめ、何かを探っていた。薫はあえて目をそらさず、小さな声でつぶやくように言う。

「厳密にいえば、弟子とはいえないかもしれません。私は結局、風の呼吸を会得することはできませんでしたから……」

 未だにそのことについては申し訳ない気持ちになる。

 風の呼吸を女に教えることは無駄になるだろうとわかっていても、東洋一は手を抜くことなく、教え、鍛えてくれた。

 

「だが、自分なりのものにもっていったんだろう? 諦めずに自分の呼吸を生み出すまで鍛錬するとは、アンタも大したもんだ……といいたいところだが、残念だね」

「……何がでしょう?」

「あんた、常中をまだ会得してないね?」

「……ジョウチュウ?」

「そう。全集中の呼吸・常中。これができるかどうかでまるで違ってくる。出来なければまずもって柱になることは無理だろうね」

 

 柱になる――――ということは、薫にとっては二の次のことであった。

 だが、新たなる技を修得することで、鬼狩りにおいて優位に立つことは必要なことだ。

 

 薫は居住まいを正し、勝母に頭を下げた。

「ご教示ください。お願いします」

 勝母はフフと笑った。

 

「キツイよ。東洋一はどうだったか知らないが、私は同じ女だからね。女の限界がどういうものかよぉくわかっている。泣き言は通じないよ」

「そんなみっともないことはいたしません。決して」

「そうかい」

 勝母は目を細めると、薫の肩をポンと叩く。

 

「ま、とりあえず体を治してからだ。薬をしっかり服んで、足の痺れが消えたら回復訓練としてやってみることにしよう」

 

 

 

-------------------

 

 それから三週間。肋骨はまだ完治していなかったが、足の方の麻痺は治った。

 いよいよ今日から回復訓練だと聞き、病室から敷地内にある別棟の道場に向かう途中で匡近と久しぶりに再会したのだった。

 

 それにしても――――。

 

 匡近の後ろ姿を見送りながら、薫は小首をかしげた。

 

 なんだか、いつもと違っていたような気がする。気の所為かもしれないが。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回、土曜日(2021.02.13.)更新予定です。



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第六章 元花柱・那霧勝母(三)

 道場に着くと、房前律歌(ふささきりつか)が立って待っていた。

 

 勝母の助手であるこの女性は、元は鬼殺隊に属していたが、鬼に左足をやられて不随となった後、勝母の元で助手兼育手の補助、家内の雑用全般を取り仕切るようになったのだという。

 

「さて、おっ母様(かさま)の命により、今日よりあなたの回復訓練を行うことになりました」

 実の親子ではないが、律歌は勝母のことをおっ母様と呼んだ。尊敬しながらも親しみやすい勝母にぴったりの呼称である。

「それでは、始めましょう」

 

 とりあえずは固まってしまった筋肉、関節をほぐすことが第一とされた。

 容赦ないその柔軟に薫とても最初は顔を顰め、涙が出そうになったが、数日続けられると凝りもほぐれてくる。

 一週間ほどしてようやく以前の状態に戻ってくると、それに加えて、新たな訓練が課された。

 

 近くの池―――紡錘形で縦に半町*ほどもあるだろうか―――に、無造作に浮かべられた丸太の上を跳びつつ、向こう岸へと目指す。

 

 律歌は最初、手本を見せてくれた。

 ほとんど片方の足しか動かないはずなのに、身軽で、あまりにあっさり出来てしまうので、自分も同じように出来るのではないかと思ってやってみると、見事に池に落ちた。

 

 丸太の上に足をつけたと同時に跳躍する。その次もまた、乗った重みで丸太が水中に沈む前に、跳ぶ。それを続けざまに向こう岸に辿り着くまで繰り返す。

 動作としては簡単なものなのだが、案外とこれは俊敏性も筋力も柔軟性も必要だった。

 しかも池に落ちても着替えないので、濡れた状態の重い衣服でやらねばならない。

 昼に始めてから、ようやく向こう岸に渡ることができたのは、夕暮れ間近だった。

 

 次の日は別の修練が課された。

 

 背負子(しょいこ)にまず一貫*ほどの重さの岩を乗っけて、裏山の神社への石段を登り、降ること二往復。その後にまた一貫増やされて、二往復。その後、また一貫増え、三往復する、というもの。

 しかもその石段は百段以上もあり、勾配もきついものだから、行き帰り少しでも油断すればそのまま落ちてしまいかねなかった。

 最初は余裕だったが、重さが増えるにつれ、当然のことながら息もあがってくる。

 

 既に紫陽花も枯れ、夾竹桃が赤や白の花をつける季節となってきている。

 燦々とした太陽の光に、じっとりと汗をかき、薫は何度となく青い空を見上げて吐息をついた。難しくはないが単純な動作の地味な訓練は、昨日とは違ったつらさがある。

 終わったときには池に落ちたのと変わらぬくらいに、全身がびしょびしょになった。

 

「女はねぇ、どんなに頑張っても男と同じにはならないの。刀を振り回すからって、膂力を鍛えても、あんまり意味がないのよ。むしろ、あなたの呼吸の型は、柔軟性や俊敏性が重要だから、全身の筋肉を自在に動かせるようにならないと。特に背筋が重要ね。ここが弱いわ。もう少し、伸びのある筋肉をつけていかないと……」

 

 律歌は薫の弱点や、呼吸の型の傾向を見て、理論立てて教えてくれた。

 薫は独学では得られなかった視点から、再び自分の呼吸を見直すきっかけになった。

 

 勝母の言った『女でも容赦しない』というのは間違いなかった。

 どの訓練においても、全集中の呼吸を延々続けることを要求された。それこそが一番の難敵だった。

 

 常に臨戦態勢を身体に染み込ませる常中の技。その習得は一朝一夕には無理と予想していても、やはりキツかった。

 途中で薫は何度も思った。このまま続けて、自分の内臓がおかしくなりはしないかと。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「さて、今日は…」

 律歌はいつも楽しげに本日の訓練について話す。

 

 本人曰く、久々にやってきた骨のある女の子なので、しごき甲斐があるらしい。

 最初は丁寧だった言葉遣いもすっかり砕けたものとなっている。

 

「打ち合い稽古~」

 歌うような調子をつけて言うと、左手は横にある地面に突き立てられた丸太に寄りかかり、右手は空中に伸びた縄を指差した。

「この縄の上でね」

 

 丸太には縄が括りつけられ、水平に伸びて、十丈*ほど離れたもう一つの丸太に括りつけられてあった。

 

 その丸太柱に渡された縄の上で打ち合い稽古。

 平衡感覚と体幹がしっかりしていないと、すぐにも落ちるだろう。

 縄の高さは地上から二丈ほど。もし、落ちたとして受け身を間違えれば、怪我では済まない高さである。当然、下に敷布などもない。

 

 律歌は脚立を登り、縄の上に立つ。右手を軽く丸太柱に添えてはいるが、左足に障害があるとは思えぬくらい、その姿勢には無理がない。

 

「私はさすがにこの足だから、ここで立って待ってるから。薫は向こうの柱から歩いて私のところまで来てちょうだい。そこで打ち合いね」

「わかりました」

 薫は律歌から離れて、向こうの丸太柱まで行くと、一足飛びで縄の上に立った。

 

「はじめ!」

 律歌の掛け声と同時に、薫は縄の上を歩き始める。

 

 そのままスルスルと自分のところに向ってくる薫に、律歌はおや? と、少しばかり驚いた。

 たいがい初めての子はここまですぐには歩いてこれない。縄の上で平衡感覚を掴むまでで一日終了になる子も多い。

 

 ニヤリと律歌は笑った。どうやら薫は既にこの手の訓練は自主的にやっていたようだ。そうでなくてここまですぐに、空中の縄の上を歩くことなどできるわけがない。

 律歌は右足で縄をグイと踏み込んで、揺らした。あえてキツく縛っていない縄は、よく揺れる。

 

 律歌の想定通り、薫は似た訓練は弟子の時代が自らで編み出してやっていた。だが、いつもは自分一人で鍛錬しているため、こうした縄の動きには不慣れであった。

 縄がたわまないように、しっかり結んでいたのもある。

 縄自体がフニャフニャ動くと、必然、体勢は崩れやすかった。

 それでも中程を過ぎた辺りまでは歩けたが、不規則な縄の揺れにとうとう落ちた。クルリと一回転して、着地する。

 

「あら、残念」

 律歌は白々しく笑った。

「早く上がってらっしゃいな。それと全集中の呼吸を忘れないこと。落ちる瞬間もね」

「…………はい」

 

 一番大変なのはこの訓練の中においても、やはり全集中で呼吸をし続けなければならないということであった。

 寝ている時も、ご飯を食べる時ですらも、気を抜くことは許されなかった。

 勝母の言った通り「キツイ」。

 自分でもある程度、全集中の呼吸を長く使うことを考えて鍛錬してきたことはあったが、さすがに日常においても行うことを考えたことはなかった。

 

 数日後、縄上での打ち合いで律歌の元まで辿り着き、とうとう小手でその太刀を落とすと、次に現れたのは勝母であった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「さぁて、久々だね。カナエ以来か」

 勝母が何気に言うのを聞いて、薫は「えっ?」と、思わず聞き返した。その様子を見て、「なんだい?」と勝母が眉を上げる。

 

「勝母さんは…花柱……カナエさんの育手だったのですか?」

「あぁ、そうだよ。なんだい、アンタ。カナエのこと知っているのかい?」

 薫が勝母にカナエと出会ったときの顛末を話すと、ハハハと笑った。

 

「そりゃ、アンタ命拾いしたね。花柱に滅殺命令が来た鬼に出くわすなんざぁ…」

「申し訳ないです。結局、怪我なんかしてお手を煩わせることになってしまって…」

「そんな事は気にしないでいいさ。隊士の治療はあの子の仕事の一つだよ。さぁて――――どこまであの子に迫れるかね」

 そう言って勝母は縄上に飛び上がる。

 

 ふっくらした貫禄ある体格に似合わず、縄に上に立つ勝母は敏捷であった。片目が失明していることなど、微塵も感じさせない。薫の攻撃も難なく躱す。

 

 律歌と違い、勝母は縄の中ほどまでやってきては、薫に様々仕掛けてくる。

 縄のしなりを利用して、その場で跳躍し、そのまま上に飛んで打ち込む。かと思えば、薫の太刀を避けて落ちたかと思いきや、手で縄を掴み、そこで反動をつけて下から蹴りを入れてくる。

 

 さすがは元花柱であった。

 弟子でもない薫にすらここまでするのだから、弟子であればよほどの修行を課したであろう。そんな弟子を育てる勝母もすごいが、やり遂げたカナエこそさすがという他ない。

 

 勝母は東洋一(とよいち)と違って、自分の見込んだ弟子には最終選別の前に常中を覚えさせるらしい。

 つまり、カナエは鬼殺隊士となった時には既に常中を使えていたということになる。柱になるのが早いのも頷ける。

 

 自分がカナエと肩を並べるほどになれるとは思えなかったが、少なくとも勝母の元で修行していればカナエに少しは追いつくこともできるような気がする。

 

 毎日クタクタになりながらも、薫にとってそれは一番の希望だった。

 あの日の天女のような姿と、精錬された技。今でも時折思い出す。

 

 ―――――また、会うこともあるでしょう。

 

 握手した手は硬かった。見た目だけの優しさでは想像がつかないほどに、凄まじい修練を積み重ね、鬼との戦闘を繰り返してきたのだろう。

 

 また会う日までに、少しだけでも認められるほどには強くなっていたい……。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






<単位の説明>
*半町…およそ50メートルぐらいと考えて下さい。
*一貫…およそ3キロです。
*十丈…およそ30メートル。二丈は6メートルぐらいです。



次回は水曜日(2021.02.17.)更新予定です。



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第六章 元花柱・那霧勝母(四)

 その胡蝶カナエと、勝母についての話を聞いたのは、百花屋敷で厄介になるようになってから一ヶ月が過ぎた頃だった。

 

「女の育手はね、今は三人しかいないの」

 

 話しながら、律歌(りっか)は名も知らぬその小さな青紫色の花をブチブチ採っては、ザルへと入れていく。何かの薬の原料らしい。

 百花屋敷という名称に違わず、ここには花が群れるように咲いている。中には見慣れない外国からの品種もある。

 薫もまた、隣に植えられた独特の匂いのする灌木から、若い葉だけをブチブチ千切って採取していた。

 こんな日常の隙間で、律歌は薫の知らない鬼殺隊の裏事情やら昔話をよく語ってくれた。

 

「そうなんですか?」

「そう。しかも一人はもうかなりのご高齢でね、最近では弟子はとってらっしゃらないと聞くわ。水の呼吸の方なんだけど。だから実質的にはウチのおっ母様(かさま)とあと一人。この人は元々はおっ母様の弟子だった人で私の姉弟子。耳と腕をやられて、鬼殺隊を引退した後に育手になったの」

「その方も花の呼吸の遣い手なのですか?」

「うーん? 一応ね。最初は使ってたみたいだけど、キヨさん…あ、その姉弟子ね。キヨさんは私やおっ母様と違って体も小さくて力も弱くてね。随分と苦労して工夫していたようだから、最終的には花の呼吸とはちょっと違うものになってしまったのよ。あなたと一緒ね」

 

 昔からある呼吸というのは、元々男であった剣士が生み出したものであるため、それを女が極めるというのはなかなか難しい。

 花の呼吸の創出者は女で、史上初の女の柱であったという。

 

 律歌は摘んだ花をザルの中でコロコロと転がして、余計な葉などをつまんで落とした。この花は、傷などを負った時の緩和剤の原料らしい。

 

「カナエには妹がいてね。あ、会った?」

「はい。しのぶさん、でしたか?」

 

 薫のことを男と勘違いして、最初は厳しい目を向けていた女の子だ。

 確か、胡蝶しのぶと名乗っていた。

 カナエとはまた違った可愛らしい子だった。

 

「そうそう。しのぶちゃんよ。お姉ちゃんっ子でねぇ…。今はカナエの継子(つぐこ)になってるけど、元々はキヨさんの弟子だったの。あの子もホラ、わりと身体が小さいでしょ? それでおっ母様がちょうどいいだろうってことで」

「じゃあ、二人離れ離れになってしまったんですか?」

 

 それは少し、カナエはともかく、お姉ちゃん子でまだ小さかったであろう…しのぶには、不安だったことだろう。

 しかし、律歌は肩をすくめた。

 

「だって、悲鳴嶼くんが別々に育てて欲しいって、いきなり連れて来てさぁ……あ、悲鳴嶼くんっていうのは、私の同期ね。今は岩柱やってるわ」

 

 さらりとすごいことを言われたような気がしたが、律歌は気にせず続けた。

 

「二人別々に修行するのが、約束だからって。あの二人もそれで納得して、それぞれ頑張ったのよ。しのぶちゃんの方は私は知らないけど、カナエは……まぁ、すごかったわよ。見てるこっちが心配になるくらい。普段はまぁ……ちょいとばかし悪戯(いたずら)っ子だったけど、稽古となったら、あなたと同じくらい真面目で、しぶといヤツだったわね」

 律歌は薫を振り返ると、ニマッと笑った。

「きっと、柱になると思ってたら…その通りになったわ」

 つまりは律歌は胡蝶カナエの修行においても、指導を行っていたということだろう。

 

 それにしても律歌といい、そのもう一人の育手であるキヨという女性といい、現花柱である胡蝶カナエといい、勝母は相当、育手として優秀なのだろう。

 

 律歌もそう思っているようだ。それから勝母の昔話になった。

 

「おっ母様はね、突然鬼殺隊を辞めたの。しかも、私やキヨさんみたいに身体不自由につき、って訳じゃないのよ。五体満足で、まだまだやれるって時に、よ」

 なぜだと思う? と、律歌が無言で訊いてくる。

「え………?」

 

 薫は思案するが、まったく思い浮かばない。

 基本的に鬼殺隊士が辞めるのは、死ぬときか、戦闘不能なほどの状態になってしまった時だ。

 

 佐奈恵のように自分の才能の限界を感じて辞める者もいるだろうが、勝母に限って自らの才能に見切りをつけて……というのは考えにくい。もしそうなら、育手もやっていないだろう。

 

「薫、呼吸、呼吸」

 律歌が鋭く指摘する。 

「す、すいません。………わかりません」

 全集中の呼吸をしながら、若葉を選って摘んで、勝母の辞めた理由まで考えるのは難しい。

 

 律歌は同じ体勢でいるのに疲れたのか、一度大きく伸びをした。

「……出産です」

 普通に言われて、薫は最初それが答えだとわからなかった。

 

「はい?」

「おっ母様が柱を…鬼殺隊を辞めた理由は、出産です」

「……しゅっ…さん、というのは……子供を産むということですか?」

 

 あまりにびっくりしすぎて、奇妙な質問をしてしまう。

 律歌は笑った。

 

「そりゃ、そうよぉ。アハハ、かなりびっくりでしょう? そりゃ、柱合会議でいきなりそんな理由で辞めますと言われた日には、周りにおられた殿方はよっぽど魂消(たまげ)たに違いないわよねぇ。そんでもって、そんな理由で辞めるなんてことは有り得ない、信じられない! って、相当、批判されたみたい。当時の柱達からはもちろん、一般隊士からも。同じ女の隊士で、仲良くしてた人からも、軽蔑されたそうよ。『鬼殺隊に入った以上、女の幸せなど二の次だ』ーって」

 

 おそらく薫もまたその当時に鬼殺隊にいて、そんな話を聞いたら、きっと同じことを思ったに違いない。

 

 佐奈恵もまた、鬼殺隊を辞めることを考えていたが、その理由はあくまで自分の能力の限界を感じたからだ。

 笠沼との結婚はその後につけ加わっただけ。

 もし、辞める理由が笠沼との結婚であったなら、一応は祝福しつつも、勝母を批判した人間達と同じく、薫もいい顔はできなかったかもしれない……。

 

「でも、おっ母様はあの通りの図太い人ですからね。誰に何と言われようが、意に介さなかったんでしょうね。当時の御館様も笑ってお許しになったというし、なんだったら現在(いま)の御館様にお乳をあげてたらしいから。おっ母様のお子さんと年も近くて、二人でよく遊ばせてたって言ってたな」

「はぁ……」

 一応相槌を打ちながらも、薫の頭の中はすっかり混乱していた。

 

 御館様という人がいることは、一応、薫も東洋一(とよいち)から聞いて知っている。だが、一介の隊士には遠すぎる人であった。

 柱もそうだが、現場の隊士にとってはどこか抽象的な存在で、実在しているのかも時々わからなくなる。会ったことも、見たこともないのだから。

 

 それに子供を持つ、ということがまったく別世界の出来事で、どう返答すればいいのかわからなかった。

 

 薫の戸惑いを知ってか知らずか、律歌はまだ楽しそうに話を続けた。

 

「おっ母様のご主人は、博士号も持ってたぐらい頭のいいお医者様でねぇ。大学でなんかいろいろ研究をしていた先生でね。元は漢方薬を扱う問屋の三男坊だったらしいんだけど。元々花柱っていうのは、鬼に対する薬の研究をしていたのもあって、色々と教えてもらったりしてたみたいでねぇ……」

 

「――――何をベラベラとくっ(ちゃべ)ってんだい?」

 

 いきなり鋭い声が会話を打ち切った。

 律歌はあちゃーと、顔を顰めてみせた。

 

「まったくお前は、昔から喋りだしたら止まらなくなるんだから!」

 勝母は腰に手を当てて律歌を睨みつける。

「っとに……さっさと煮出して、抽出作業しな! 残りが少ないんだから」

 

「はーい」

 律歌はザルをかかえて、ひょこひょこと小走りに去って行く。

 

 勝母は佇んだままの薫を静かに見つめた。

「――――なんだい? 何か聞きたそうだね?」

「いえ……」

 

 否定しながらも、実のところ律歌の話を聞きながら、さっきから気になっていた。

 

 結婚もし、子宝にも恵まれたのなら、どうして勝母は一人なのだろう?

 この屋敷には家族というものの痕跡がない。子供は大きくなって家を出たとしても……大学の先生だっという夫はどこにいるのだろう?

 

「今、聞かなかったら、もう答えないよ」

 勝母は微笑んで言った。「私の旦那と息子の事が気になるんだろう?」

 薫はためらいながらも「はい」と頷く。

 

「死んださ」

 勝母は軽く言った。「麻疹(はしか)でね。二人ともほぼ一緒に逝っちまった」

 

 鬼に殺されずとも、理不尽な死はある。どこにでも。いや、そもそも生き残った人間にとって、納得できる死の有様(ありよう)などあるのだろうか。

 

「…………」

 言葉が出てこない薫の頭を、勝母はヨシヨシと押さえるように撫でた。

 

「アンタ達を子供の代わりにしてるわけじゃあないが、一人でいたらおかしくなっちまったろうからね。先代の御館様も気にかけて、育手になるよう勧めて下さったのさ。今じゃ、あのジャジャ馬でも、話し相手にはなる」

 

「あの……」

 薫は頭の中でなんとか言葉を探し回った。

「私、ここにずっとはいれないと思いますけど、担当はこの辺りなので……ちょくちょく寄せてもらうと思います」

 

 勝母はまじまじと薫を見つめ、ハッハッハッと豪快に笑った。

「そんなに怪我して来られてちゃ困るよ。修行なら、手伝ってやるさ」

「ハイ!」

 それならば、薫にとっても望むところだ。

 

「行くよ」

 勝母は先に立って歩き出す。夕暮れの太陽に向かうその姿の、長い影が薫の足下まで伸びた。

 

 この人が柱であった時、この背に一体何人の人が守られてきたのだろうか……。

 

 勝母の右目は視力がない。鬼との戦闘の末、失ったのだという。

 だが、それからも任務を遂行し、数多(あまた)の鬼を屠った。

 あの白濁した目で睨み据えられ、恐怖した鬼がどれだけいたろうか。

 

 柱というものの凄み。圧倒する存在力。

 彼らは最初から選ばれし者なのだろうか? それとも果てぬ修練の末に身につけられるのだろうか…?

 

 後者であったとしても、その道は果てしなく遠く思われた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は土曜日(2021.02.20.)更新予定です。



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第七章 自覚(一)

 吉野での修行が始まって一ヶ月ほどした頃、祐喜之介(ゆきのすけ)が、笠沼の消息を知らせてくれた。

 以前に日村佐奈恵と初めて会った道場にいるのだという。

 あの時に知り合った三好秋子もそこにいたため、祐喜之介に手紙を託してくれていた。

 

 秋子は、笠沼は佐奈恵が死んだことを知ってから、人が変わってしまって、ひどく陰気で粗暴になっているので、できれば来ないほうがいい、と書いていた。

 とはいえ、薫には佐奈恵からの遺言がある。それに笠沼がそうした状態に陥ってしまうことは無理もないことだった。

 

 勝母(かつも)に事情を話し、大阪にあるその道場に行く許可をもらった。

「但し、常中を忘れなさんな。帰ってきたら、試験をするよ」

 意味ありげな笑みを浮かべて見送る勝母に、内心で戦々恐々としつつも、薫はともかく大阪へと向った。

 

 道場に着くと、先に知らせておいたからか、門の前で秋子が待っていた。

 薫の顔を見るなり、困ったような表情を浮かべた。

 

「来てもうたん……」

「すいません。でも、佐奈恵さんから預かったものがあって……」

 秋子の眉間にキュッと皺が寄った。

「佐奈恵さんの最期、看取ったんや」

「………はい」

「ほな、仕方(しゃあ)ないな。笠沼さんには、聞く権利、あるもんなぁ」

 秋子は深い溜息をつくと、薫を中に促した。

 

 道場からは鋭い気合と、剣戟の音が聞こえてくる。

 秋子について薫が入って行くと、何人かが気付いてヒソヒソと話し始める。何を話しているのかはわからなかったが、雰囲気からして好意的ではないのがわかった。

 

 途中でこちらに気付いた無精髭を生やした大男が、ギョッとした顔でやってくる。見覚えがあると思ってよく見てみると、以前に薫が打ち負かした升田(ますだ)だった。

 

「オイ! なんでコイツ来てるんだよ?」

 薫を指でさしながら、ヒソヒソ声で怒鳴る。秋子が面倒くさそうに見上げた。

「佐奈恵さんの形見を届けに来たと言うんやから、仕方(しゃあ)ないやん」

 

 升田はうーん、と唸ると薫の前に手を差し出した。

「出せよ」

 薫は「は?」と問い返す。

「日村の形見、俺が笠沼に渡しておくから」

「それは、できません」

 薫はきっぱりと断った。「私が、佐奈恵さんに頼まれましたから」

 

 升田はイライラした様子で頭を掻いたが、既に薫の来訪を誰かから聞いた笠沼が後ろに立っていた。

「佐奈恵が…何をあんたに頼んだって?」

 笠沼の声は低く、怒気を含んでいた。

 

 薫は多少、困惑した。

 秋子の言った通り、笠沼は変貌していた。

 以前にチラリと佐奈恵と一緒にいたところを見ただけだったが、こんな荒んだ印象ではなかったように思う。

 頬はこけ、落ち窪んだ目はギョロリと剥いて、薫を睨みつけている。

 

 こんなに誰彼かまわず敵愾心を剥き出しにする人だったろうか?

 佐奈恵の話を思い出しても、むしろ気弱で、猛進しがちな佐奈恵を後ろから支えるような、穏やかな人だという印象だ。

 ここまで面貌が変わるほど、笠沼にとって佐奈恵の死が辛かったのか……。

 

 薫は懐から桜色の小袋を取り出した。佐奈恵から預かった石が入っている。

「これを……佐奈恵さんが、あなたに渡すようにと」

 

 笠沼は怪訝そうに袋を受け取った。荒っぽく袋の口を開けて、ひっくり返すと、手の平に翡翠の石が転がり出た。

 その石を見た途端、笠沼は目を見開き、滂沱と涙があふれた。崩れるように膝をついて、しばらくの間、泣きじゃくる。

 

 

 ―――――頼むよ、薫ちゃん

 

 今際の際にこの石を託した佐奈恵の顔が思い浮かぶ。

 

 彼らにとって、おそらくこの石は思い出そのものなのだろう。

 ようやく約束を果たせた安堵感に、薫はホッとした。

 

 だが、笠沼が薫に言ったのは礼ではなかった。

 

「………なんでだよ」

 ボソリとつぶやいた声は暗く、押し籠めた感情そのままにくぐもって聞こえた。

 薫を見上げた目は赤く充血し、怒りに満ちていた。

 

「なんで、アンタが一緒にいて、あいつが()られるんだよ!!」

 

「……………」

 薫は硬直した。

 笠沼が立ち上がり、薫に掴みかかろうとするのを、升田があわてて止めた。

 

「やめろ、笠沼!」

「うるさいっ!! 佐奈恵はなぁ、もう鬼殺隊は辞めるって言ってたんだ。でも、この任務はアンタとだから、きっとアンタとだったら楽勝だから、最後の任務だからって、行ったんだ! なんでだよ! なんで、守ってくれなかった!? なんで佐奈恵を見殺しにした!!」

 

 笠沼は大柄な升田すらも手こずるほど、身を捩って、薫に対する憎悪を露にした。

 もし、周囲から止められていなかったら、その首を絞めるのではないかと思うほど。

 

 見殺し、と言われて薫はあの任務のことを反芻した。

 薫もあの時、佐奈恵に言ったのだ。もう、鬼殺隊を辞めるのであれば、この任務は断ってほしいと。

 だが、佐奈恵は言った。

 

 ―――――薫ちゃんと一緒だったら、大丈夫でしょ!

 

 本気で、佐奈恵が薫に対して守ってもらうつもりだった訳がない。

 鬼殺隊士である以上、遺言書をしたため、死ぬ覚悟を持って任務にあたるのだから。佐奈恵にその矜持がなかったわけがない。

 あの言葉は、佐奈恵なりの冗談。足を引っ張らないように頑張る、という謙遜。

 だが、薫はその言葉を受け入れた。それで佐奈恵が任務に行くことを了承してしまった。

 

 そこに――――『(おご)り』は…なかったか?

 

 自分が一緒にいる限り、佐奈恵を死なせることはしない…という、慢心がなかったと言えるのだろうか?

 

 実際にその鬼に会うまで、強さなどわかるはずもない。

 だが、鬼殺隊に入って以降、いくつもの任務をこなす中で、『こんな程度のもの』という勝手な思い込みから、いつしか自分は鬼狩りをすることに緊張感を失っていたのではないのか?

 

 佐奈恵に不快に思われたとしても、無理矢理にでも、一緒に行くべきでなかった。単独任務として遂行すべきだった。

 そうすれば今頃、佐奈恵に嫌味を言われたとしても、最悪、自分があの鬼に殺られたとしても、笠沼と佐奈恵は夫婦となって、数年後には薫のことを懐かしく思い出してくれたかもしれない……。

 

 不意に、自分の足元が危うくなった。

 自虐の闇が薫を包み込む。

 前で喚き立てる笠沼の声も聞こえない。………

 

 無音の中、蒼白になって立ち尽くす薫の耳に聞こえたのは、実弥の怒鳴り声だった。

 

「甘ェこと抜かすな!」

 ハッと我に返ると、笠沼が倒れ込んでいた。

 殴られたのか鼻血がでて、頬がみるみる青黒くなっていく。

 笠沼の前には眉間に皺を寄せ、苛立たしげに拳を握りしめる実弥が立っていた。

 

「鬼殺隊に入っておいて、守ってもらうだァ? フザけてんのか、貴様ァ」

 ドスのきいた声で実弥が言うと、笠沼は唇を震わせて泣きながら叫んだ。

「お前になんかわかるか! 佐奈恵はもう、鬼殺隊を辞めるつもりだったのに」

「だったら、やめようと思ったその日に辞めりゃあいいだろうがァ。鬼狩りに行ったが最後、生きて戻ろうなんて考えてる時点で甘ェんだよ。情けねェ……日村は、そんな(ロク)でもねェ女だったか」

「違う!」

 笠沼はキッと実弥を睨みつけた。「佐奈恵は誰より、努力してたんだ!」

 

「だから、どうしたァ?」

 実弥は冷たく言い放つ。「テメェは日村を馬鹿にしてんのかァ?」

「……俺……俺は……」 

 笠沼はブルブルと唇を震わせたが、言い返せない。

「今、ここで、一番馬鹿なのは、テメェだァ」

 実弥は言い捨てると、道場から出て行った。薫に一瞥もせずに。

 

 笠沼はその場に泣き崩れた。手の中で石を握りしめながら。

 薫は固まった表情のまま、笠沼にぎこちなく、ゆっくりと頭を下げた。それから何も言わず立ち去った。

 佐奈恵の最期がどういうものであったか…笠沼に伝えようと思って来たが、それこそ大きなお世話だろう。知って何になるというのか……。

 

 実弥の最後の一言が胸をえぐった。

 今、ここで、一番馬鹿な者……

 それは、薫に言ったのではないのか。慢心し、仲間を死なせてしまった薫に。

 

 道場の門から出て、蝉しぐれの中を歩き出す。

 こんなに暑いというのに、汗も出ない。ただひどく苦しい。

 ひっきりなしに鳴く蝉の声が、責めているようだった。青い空も、高く伸びる入道雲も、夏の風景は明るすぎて、今の薫をなおのこと傷めつけた。

 

 苦しい……。だが、それも受容せねばならない。

 強くなると、誓ったのだから。―――――あの日も、今日も。

 頬を伝わるものを、薫は乱暴に拭った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「森野辺さぁん!」

 

 秋子は門の向こうへと歩いていく薫に呼びかけたが、聞こえていないのかその姿はどんどん遠くなっていく。

 

 しまった、と思う。

 佐奈恵の死を聞いてから、笠沼の様子がおかしいのにも気付いていたのに、こんな事態を招いてしまった。

 薫は何も悪くないのに、あそこまで一方的に責め立てられて…きっとひどく傷ついたろう。

 

 だが、自分がその薫に何を言うことができるだろうか、と考えた時、秋子は何も浮かばなかった。

 関西圏という同じ管轄下だったが、薫がこの道場に来たのはあれ一度きり。任務で一緒になったこともなく、話したのもこの前に来た時にほんの少しばかり。

 今回もたまたま薫の鴉が笠沼を探しているという話を聞きつけて、少しでも接点のある秋子が手紙を書いただけで、普段からやり取りしているわけでもない。

 こんな時、佐奈恵ならばそんなことを物ともせずに駆け寄って、励ましたろうに。

 迷っていた秋子の目に、井戸で水を飲んでいる実弥の姿が目に入った。

 

「不死川さん!」

 突然、呼びかけられて実弥はギョッとしたように顔を上げた。

「不死川さん! 森野辺さん、追いかけてぇな!」

 秋子は実弥のところに行くと、袖をひっぱった。

 

「森野辺さん、悄気(しょ)げとるし、ちょっと行って慰めたってぇな」

「なんで俺が行かなきゃならねェんだよ」

 実弥は苛立しげに袖を振り払い、その場から立ち去ろうとする。

 秋子は食い下がった。

 

「兄弟子なんやろ? ウチより森野辺さんのこと知ってはるやろし…さっきかて庇ってくれてはったやん」

「……んなもんじゃねぇよ。笠沼の野郎がつまらねぇこと抜かしてるから、ムカついただけだ」

「それは……ウチが至らんかった。森野辺さんに笠沼さんの居場所教えたんはウチやし」

 

 実弥は振り返った。

「お前がアイツを呼んだのか?」

「呼んだ…言うか……来んといて、言うたんやけど……笠沼さん、あんな状態やったし」

「………余計なことしやがって」

 チッと実弥が舌打ちすると、秋子はムッとなった。

 

「心配してはるんやったら、はよ、追いかけて慰めたってぇな」

「うるせェ」

「……なんなん!? 粂野さんやったら、きっとすぐに飛んで行かはるわ!」

 珍しく秋子が怒鳴りつけると、実弥は苛立しさを満面に浮かべた。

 

 ちょうどその時、廊下で秋子の怒鳴り声を聞きつけた升田は、その相手が実弥であることに気付くと、あわてて秋子の側に駆け寄った。

「おい、三好! お前……なに言ってんだよ」

 よりによって、不死川実弥に対して、煽る相手に粂野匡近を持ってくるなんて――――と、冷や汗が出る。

 

 隊内で二人が同門で仲が良いのは周知の事実だったが、同時に互いに好敵手として競り合っていることもまた、周りが感じていることだった。おそらく後者については、本人達の方が無意識かもしれない。

 男だとこういう空気を感じて、そういう地雷は踏まないように気をつけるのだが、女は無頓着である。しかも強気だ。

 

「やかまし!」

 秋子はキッと升田を睨みつけると、実弥をじぃぃと睨みつけ、「も、えぇわ」と呆れた口調で言った。

「不死川さんじゃ、粂野さんほど上手に慰めることなんて、でけへんやろし」

 

 ワザと怒らせるかのようなその口調も、本当に命知らずとしか升田には思えない。

 目の前にいるはずの実弥の顔を見るのも怖い。

 フンと鼻を鳴らして、秋子は小走りに門へと向かいかけたが、実弥がそれを止めた。

 

「おい、やめとけェ」

「は?」

 秋子は怪訝な顔をして振り返った。

 実弥は眉間に皺を寄せていたが、案外とさほどに怒っている様子ではない。

 

「放っとけェ。アイツは………一人でいる方がいいんだ」

「なんでよ?」

 秋子がすぐに問い返すと、実弥は詰まった。

「なんでなん?」

 再び問うて、じぃぃ、と秋子は凝視し、升田はおそるおそる見た。

 

「……っせぇなァ…放っとけッ、()ったら放っとけよ!」

 適当な理由が思いつかないのか、言いたくないのか、実弥はイライラと怒鳴った。

 

 その時になって、秋子がふと思い出したのは数ヶ月前、薫が初めて道場を訪れた次の朝に見た、匡近と実弥の喧嘩であった。

 めずらしく声を荒立て、実弥を殴っていた匡近にも驚いたが、殴られたまま項垂れていた実弥もまた、普段ではありえないことだった。

 

 あの時の二人の聞き齧った会話から、おそらく薫が関係しているのだろう……ということは、佐奈恵とも話していたのだが、その後の任務ですっかり忘れ去っていた。

 もうあの時聞いた会話をすべて思い出すのは無理だったが、少なくとも薫と、匡近と、実弥の間に何かしら複雑な関係性が生じていることは間違いないだろう。

 

 秋子は実弥を観察した。

 探られている雰囲気を感じ取った実弥がフイと横を向く。

 その横顔を見て、秋子は気付いた。

 

 ―――――耳、赤い……。

 

「それは……不死川さんなりの優しさ?」

 言葉を選びつつ秋子が尋ねると、実弥は「…っせェ」とつぶやくように吐き捨て、今度こそ足早に立ち去った。

 

 隣でホーッと升田が膝をつく。

「三好ぃ…お前、何言ってんだよぉ」

「……あんさんにはわからんわ」

 冷たく応じながら、秋子は腕を組んで、去って行く実弥を見ていた。

 

 さっきの質問の返答はなかったが、返答以上に不死川実弥という男は正直者らしい。

「………そういう事かぁ」

 独り()ちる秋子を、升田が不思議そうに見上げた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.02.24.水曜日に更新予定です。



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第七章 自覚(二)

 薫はその日のうちに吉野の那霧勝母(なぎりかつも)の元に戻った。

 

 帰ってくるなり、晩ごはんも食べずに修練を始める薫に、勝母も律歌(りつか)も何事かあったのだろうとは推測したが、あえて何も聞かなかった。

 

 

 翌日の朝。勝母は裏山の中腹にある滝壺に薫を案内した。

 十丈ほどの高さから、まっすぐに勢いよく落ちてくる滝の白い飛沫が、キラキラと朝の光に反射している。

 

 滝壺は広く、一番長いところで端から端までで半町以上はありそうだった。

 奥の大きな一枚岩にはいくつも引っかき傷のような痕があり、手前の岩場からせり出した百日紅(さるすべり)が太い枝を蛇のようにくねらせて、水面に淡い桃色の花を落としていた。

 

 薫は周りより一段低くなった岩から滝壺の中を覗き込んだ。

 透明で澄んだ水。底にある砂利も見える。小さな魚の姿もあった。

 

「あまりに澄んで綺麗だから錯覚するがね、ここの底は深いんだ」

 勝母が横から言った。

「そうだね、ここはまだ一尋*くらいだろうが、一番深いところは十尋以上はあるかね」

「そんなに?」

 大人でも足がつかない深さだ。泳ぎが達者な人間でないと、ここで水遊びはできないだろう。

 

「昔からここは隊士達の修行の場所でね。元は大して大きくもなかったんだが、誰かが呼吸の技を使う修行をしたりしたんだろうねぇ。どんどん広くなって、底もどんどんえぐられて深くなっていったんだよ。私の現役時代には使ってる人間もいたんだが、そのうち誰も来ないようになったみたいでね。ここを開発しようなんて話が出てきたもんだから、私がここに移住するのと一緒に、御館様に頼んで山ごと買い取ってもらったんだよ」

「山ごと…ですか」

 

 前々から思っていたのだが、いったい御館様という人はどういう人間なのだろうか?

 元柱からの申し出一つで山を一つあっさり買えてしまう財力もそうだが、警察内部にもおそらく公然とでなくとも影響力があるやに思える。

 

 鬼殺隊は政府未公認の組織で、もちろん帯刀は許されていない。

 一度、見つかって警察署に連れて行かれたのだが、一日留置所に入れられただけで、翌日には無罪放免になった。詳しい理由は教えられなかったが、何かしらの力が働いたのだとしか思えない。

 その後、本部から訓戒を受けたが、それ以上のことはない。

 

 匡近に手紙で伝えると、そういう隊士はたまにいるのだと言っていた。だからといって大っぴらにして何度も捕まってると、階級の降格、あるいは行状不行届で除隊させられることもあるという。

 

 はるか昔の、徳川の世よりも前からあった組織。御一新で世の中がひっくり返っても、連綿と続く鬼狩りの系譜。

 その頂点に立つ御館様という存在。こうなると神にも近く思えてくる。

 

 薫は轟々と落ちる滝を見上げた。途中に虹がかかっていた。

 ここで古き時代から一体幾百の剣士が腕を磨いてきたのだろうか……。

 

「お前さん、泳ぎはできるかい?」

 唐突に勝母が尋ねてくる。薫は頷いた。特に習ったわけではないが、海も川も小さい頃から身近にあったので、誰に教わるでもなく、泳ぐことはできた。

 

「そりゃよかった。じゃ、全集中の呼吸・常中の仕上げだよ。この滝壺にはね、刀が何十本も落ちてる。昔の隊士達が修行を積んで、その礼にと沈めていったものだ。それをどれか一本、拾ってきな」

「え……いいんですか?」

「構わないさ。どうせ錆びて使い物にもならない代物だ。日輪刀でも何でもないただの刀だからね」

「でも、祈願して奉納したものを勝手に……」

「また、沈めりゃ文句もないだろう」

 勝母は案外と神仏への信仰が薄い。長い間鬼殺しの現場にいれば、そうなってしまうのかもしれないが。

 

「一番深いところまで行く必要はないよ。中は段々になっているから、浅いところで見つけられればそれを拾ってこりゃあいい。まぁ、浅いっていっても五、六尋は潜らないと無理だろうがね」

「わかりました」

 薫は服を脱ぎ、ほぼ下着だけの状態になると滝壺に飛び込んだ。

 

 軽く潜ってみたが、やはり深い。とりあえず飛び込んだ場所で底まで潜ったが、水面へと戻ってくるときに、あと少しで息ができずに溺れそうになった。

 危険だ。潜る時だけでなく、帰ってくる時間のことも考えて潜らないと息が続かなくなる。

 だが呼吸を鍛えるのに、これはかなり有効な訓練に違いない。

 

 水面に浮かんだ薫を見て、勝母はニッと笑った。

「気が早いねぇ。ちゃんと潜る時用の着物を用意してあるから、次からはそれ着てやりな」

「………すいません」

 気が急いたようだ。薫が顔を赤らめると、勝母はハッハッと笑う。

「やる気があるのは結構なことだがね、くれぐれも無理をするんじゃないよ。下手すりゃ死ぬからね」

 さらりと言って、勝母は去って行く。

 

 しばらくそのまま薫は滝壺の中を探索したが、息が続く範囲でいける場所に、刀は見つからなかった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 この修練は勝母が全集中の呼吸・常中を教えた最終段階として行うものだった。

 一応、目標として刀を持ってくることを課すが、実際に持ってくる必要はない。要は、常中を体得することが目的である。

 

 ここ数ヶ月の訓練で、常中はかなり会得できたと思っていた薫だったが、この潜水訓練でまだ自分が未熟だということを思い知らされた。深く潜ることはできても、戻ってくるのに息が保たない。

 

「ぼちぼちやるこった」

 それは焦りすぎる気のある薫に対して、勝母が課した『忍耐』という修練でもあった。

 潜水は早く潜ればいいというものではない。焦りこそが一番の大敵で、心を穏やかに澄ますことができないと、それは動揺となり、あっという間に息切れを起こす。もっと悪くすれば失神し、死ぬこともありえるのだ。

 

 実際、無理をした薫が水面ギリギリまで来たところで失神してしまうことがあり、それ以来、律歌は必ず自分か勝母かが側で見ている時にしかこの訓練を行うことは禁止した。

 

 早く常中を修得したい薫は、正直、毎日朝から夜になるまで、どうかすれば夜ですらも行きたかったのだが、

「そーいう焦りが駄目なのよ」

と、律歌に額を小突かれた。

「余裕。悠然。心をしなやかに保つこと、それが重要なのよ、薫」

 律歌は教えてくれたが、それをどう養えばいいのか薫にはわかりかねた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 その日は暑かった。

 蚊帳の中にいつの間にか入り込んだ蚊に眠りを邪魔され、目を覚ます。起き上がって縁側でしばらく涼んでいたが、風もなく、ただじっとりと蒸れた空気が纏わりついてくる。

 

 律歌に怒られるだろうな…と思いつつ、薫は滝壺に向かった。

 訓練をするつもりはない。ただ、少しばかり身体を冷やしたい。

 

 すっかり慣れた道を月明かりの下、歩いていくと、滝はドウドウと流れ落ち、天空に浮かんだ半月の(しろ)い光りが辺りを(しず)かに照らしていた。

 

 薫は軋んだ身体を軽くほぐすと、いつもの一段低くなっている岩からばしゃりと入った。

 夏場でも冷たい水が、じっとりした寝汗を流していく。

 

 しばらく辺りを泳いだ後、滝の方へと近寄った。

 何度となく潜って調べた結果、滝が落ちている場所よりも、やや手前が一番深いようだった。そこだけ潜っても潜っても底が見えない。途中で息が続かなくなるのだ。無理すれば深く潜ることは可能だが、それだと上に戻るまでに確実に気を失う。

 

 すぅ、と息を吸い込むと、薫は軽く潜った。途中でくるりと回転すると、身体を上向きにしてそのまま浮力に任せる。

 数万の星の瞬く空が、ユラユラと揺らめき、月が歪む。浮揚していく身体が、水面の空と重なった次の瞬間、空気が肌にはりつくように薫を包む。

 長く遠く、薫は息を吐いた。ぷかぷかと浮かんでいると、脱力した身体が妙に心地よかった。

 

 ―――――心をしなやかに保つこと…

 

 律歌に言われた言葉が自然と心に浮かぶ。

 なんとなしに、今だとできそうな気がした。

 

 薫は全集中の呼吸で、すぅぅと長く息を吸い込むと、ちゃぽ、とほとんど音を立てずに潜った。

 いつもだと早く底まで行き、早く戻ってこなければ…と躍起になって、急いで足を動かしていたのだが、今日はあえてゆっくりと潜っていった。

 

 不思議なくらい楽に潜っていっている気がする。肺が苦しくない。

 夜の滝壺は、月の光が水中に差し込んで、昼とは違う幻想的な光景だった。

 確実にいつもより長く、深く潜っていくと、視界の先に刀の柄らしきものが見えた。

 

 ―――――あった!

 

 勢いづいて水を掻く。グッとより深みへと進んだ。

 あと少しで届く! と、より強く足を蹴って水を押す。手を伸ばした先に柄が触れて、やったと思った……その時。

 なぜかいきなり脳裏に甦ったのは、あの日の言葉。

 

 ―――――お前は…………戻れ。

 

 途端、心臓がドクンと響き、苦しさが一気に襲ってきた。

 

 まずい……。

 

 すぐに転回し、必死で上へ上へと足を動かす。

 水面の月がユラユラと揺れるのが見えた。掴もうと腕を伸ばすと同時に、ボコボコと息が無数の泡となって上っていく。

 水面はまだ遥か遠い。

 あぁ……苦しい、苦しい、苦しい。

 遠い、遠い…水面の空。

 揺れる…空。

 

 ―――――ごめんねぇ……。

 

 母の声が響く。

 

 どうして…?

 記憶の中の母は、どうしていつも謝っているのだろう?

 覗き込む影。

 アレは…何?

 差し伸べられた手。

 助けてくれる………?

 

 ―――――薫…

 

 暗く落ちていく意識の中で、実弥の声だけが響く。ずっと昔の…まだ、笑いかけてくれていた日の、懐かしい声。

 自分の中で、あの人はあのまま止まっているのか……。

 

 泣きたくなるような気持ちを抱えて、やがて視界が真っ黒に閉ざされた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 





*一尋…約2メートルほどです。




次回は2021.02.27.更新です。



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第七章 自覚(三)

 ふぅ……と息を吐くと同時に、薫はうっすらと目を開けた。

 

 視界の隅に長い髪が揺れる。

 徐々に意識が戻ってくる。

 

 百日紅(さるすべり)の木の下、泡粒のような白い花を髪に散らせて、その人は薫を見つめている。

 陶器のような白く滑らかな肌と、懐かしく柔らかな光を浮かべた瞳。

 

 そういえば、前にこの人を見た時には天女のようだと思った。

 だが、聡明で落ち着いたその眼差しは、以前に読んだ本の挿絵にあった、支那の国の美しい仙女のようだ……。

 

 呆としてそんな事を考えていると、胡蝶カナエはクスリと笑った。

「一人で来てはいけないと、言われたのではなかったの?」

 

 その声を聞いた途端、これが現実だと薫は気付いた。

 ガバッと起き上がり、ゴホゴホと咽せる。

 

「あらあら」

 カナエは薫の背中をさすり、落ち着かせるように囁いた。

「ゆっくりと呼吸してご覧なさい。全集中とか考えずに、ゆっくりと」

 言われるままに深呼吸を繰り返すと、徐々に肺へと空気が満ちてくる。

 

「……刀は見つかった?」

 尋ねられ、自分が刀を見つけた途端に焦って気を失ったことを思い出し、薫は赤面した。

 

「すみません……」

 カナエはふぅ、と残念そうに溜息をつく。

「薫と会う時は、必ず『すみません』から始まるのね」

「………すみません」

 カナエはまたコロコロと鈴を転がすように笑った。

 

「……底で刀を見つけた途端、焦ちゃったんでしょう?」

 薫が溺れてしまった原因を、既に見透かされていたらしい。

「はい。情けないです」

 薫が項垂れると、カナエはにっこりと微笑む。

「そんな事ないわよ。まだ、第一歩ではあるけれど、踏み出せない人よりはまだ前に来ているわ。少しは潜水のコツも掴んだでしょう?」

 

 確かにそれはそうだった。最初から焦って勢いよく潜っていくと、急激な圧力の変化に肺が追いつかずに、息が続かなくなるのだ。水面で全集中の呼吸を行い、息を深く長く肺へと送り込み充満させる。それからさっきのようにゆっくりと潜っていくことで、肺を水圧に慣らしていく。

 

 全集中の呼吸というのは、やはり呼吸法だけのものでないのだ。水の中で呼吸することはできないが、全集中の呼吸を続けることで、より精神的な研磨を行って、五感と気配といった感覚以上のものを研ぎ澄ます。これを常中として行えるようになれば、身体をより効率的に、自分の思うように動かせるようになるのだろう。

 

 考え込んでいると、いつの間にかカナエが目の前まで顔を近づけて、まじまじと見つめていた。

 

「わっ…」

 あわてて後退り、カナエと距離をとる。

 

「あら? びっくりした?」

「い、いえ。あの……もしかして、花柱様が助けてくださったんでしょうか?」

「えぇ、そう。ここに久々に来たら、貴方がぷかーんと浮かんできたから、とりあえず引き上げて呼吸蘇生をね……」

「……すみません」

 穴があったら入りたい…とは、今この時のためにある言葉だと思った。

 

 俯く薫にカナエはクスクスと笑って言った。

「謝るのは私の方だわ。可愛いお嬢さんの唇を奪ってしまったわ。好きな人がいたら、ごめんなさいね」

「そ…んな人はいませんから」

「あら、そう?」

 カナエは立ち上がると、百日紅の枝に凭れかかった。

 

 月明かりの下、仄かに光を帯びたようにもみえる百日紅の花を纏うカナエは、神秘的で静謐で、さっき仙女だと思えた印象そのままに浮世から隔絶した美しさであった。

 

「あの……こちらには任務ですか?」

 薫はそのまま見惚れているのも悪い気がして、おずおずと尋ねた。

 

「えぇそう。こっちでね隊士が十人以上、殺られているのよ。少々厄介な鬼が何匹かいるみたい。柱は私だけだけど、何人か……そう、不死川くんも来てたっけ?」

 何気ないふうを装って、カナエはその名前を告げ、チラリと薫の様子を窺っていた。

 

 月光りに照らされて、白い顔の薫が、静かに息を呑むのがわかった。

 カナエはフ、と口元に微笑を浮かべた。

 

「薫、潜るのって難しいでしょう?」

「…はい」

「潜ることそのものはどうってことではないのよ。でも、深く深く、潜れば潜るほどに、心を(たい)らかにして、澄ませておかないと、途端に息が続かなくなる」

「はい……わかります」

 カナエは音もたてず、フワリと薫の前に立った。

 

「貴方は、自分の心をどこまで見つめていられるかしら?」

「……え?」

「自分の心を見つめて、認めて、すべてを呑み込んで、平静でいられる?」

 黒曜石のように、奥底知れぬカナエの瞳が、薫を見つめ包んでいく。

 

 どういう意味なのか、薫にはわからなかった。

 心を澄ませること…それは全集中の呼吸の中でもやっていることだ。まだ、なにか自分には足りないところがあるのだろうか?

 

「……私は、まだ何か足りないのでしょうか?」

 薫が尋ねると、カナエは首を振った。

「足りないのではないわ。貴方は自分を知ろうとしていない。自分の心に蓋をしている。そのことが貴方自身を足止めしているのよ」

「そんなことは……ない、はず、です」

 

 相手がカナエ以外であれば、『そんなことはない』と言い切れたろう。カナエに見つめられると、嘘がつけない……。

 

 カナエは岩の上に散った百日紅の花を拾い集めながら、違う話を始めた。

 

「私には妹がいるの、会ったでしょう? しのぶというの」

「はい」

「両親を殺されるところを、二人で見ていた…。今だったら、決して妹は見せないようにしてたわ。あの時は私も、ただ恐ろしくて、妹のことまで考えられなかった」

 

 それは、仕方ないことだ。

 薫もまた両親の死を目の当たりにした時、動くこともできなかったのだから。

 

「岩柱…悲鳴嶼さんに助けてもらって、ようやくまともに考えられるようになった時、私はすぐに復讐することを決めた。そうやって心を奮い立たせなければ、苦しくて辛くて生きていられなかったから。でも……私は、自分の憎悪に妹を巻き込んでしまった」

 

 苦しげに、カナエは微笑んだ。

 

「最初は……妹が私と一緒の道を選んでくれたことは嬉しかったの。勇気も出た。自分だけじゃなく、二人でだったら一緒に頑張れるって。でも、ある日言われたの。『自分の妹を鬼殺隊に入れるなんて、気がしれねェ』って。その時に気付いた。私は一番に護るべきものを、みすみす危ない場所へと連れて来てしまったのだと……」

 

 薫は唇を噛み締めた。

 そんなことを言う人間は、自分の知る限り一人だ。否が応にも実弥の姿が脳裏に浮かぶ。

 

「それからしばらく間、あなたと同じ。以前はスイスイと底まで潜れたのに、半分も行かないうちに息が切れるようになってしまった。迷いが……生じたから」

「それから…どうされたんですか?」

「何度も問い続けたわ。自分はどうしたいのかって。私が望んでいることは、本当は何なのだろうって。そうしてやっとわかったの。私は――――しのぶと一緒に、鬼殺隊(ここ)で戦っていきたいのよ。一人では、やっていけない。あの子がいるから、頑張れるの。私は本当は………弱虫なのよ」

 

 カナエは哀しく微笑むと、手に集めた百日紅の花を滝壺に向って放り投げた。

 

 月光を浴びて散り落ちる小さな花。

 美しく、強い、花柱。

 その内実に隠した、かなしくよわく震えた(じぶん)

 

 薫は改めて本当にカナエが綺麗だと思った。

 天女や仙女のような神々しさではなく、一人の人間として、(つよ)く美しい人間なのだと思った。

 

「………不死川さんの言うことは、気にしなくていいです。あの人は…ご自分の弟さんの事に重ね合わして仰言(おっしゃ)っただけですから……。あの人なりの優しさですけど」

 ようやく言えたのは、それぐらいだった。

 覚悟を決めて、それでも花柱としての重責を果たそうとしているカナエに薫が言えることなど、ほとんどない。

 

 カナエは途端にクスクスと笑った。

「よくわかったわね。不死川くんだって」

「え…?」

「その通りよ。不死川くんに言われたの。面と向かってじゃないけどね、粂野くんと話しているのを、たまたま聞いてしまったの」

「………そうですか」

「弟さんがいるんだ。知らなかったわ。薫は不死川くんの事は『なんでも』知ってるのね?」

「いいえ! なにも…! その…玄弥くんの……弟さんの事は、粂野さんから聞いただけです」

 

 薫がムキになって否定すると、カナエの悪戯心に火がつく。

 その笑みは薫にはいつもの優しい微笑でしかなかったが、見る人が見れば、少しばかりの底意地の悪さが垣間見えたことだろう。

 

「そう? 不死川くんはよく私の家に来るけど、弟さんの事は話してくれなかったわねぇ」

 

 ふっと、薫の中で宝耳が話してくれた事が思い出された。

 

 ―――――あの二人は怪しい……。

 ―――――男女の仲、言うことやないか。

 

 急にあの時と同じように、頭から冷たい血が流れて全身を伝っていく。

 薫は俯いたまま固まった。

 カナエの顔が見れない。

 

「どうしたの? 薫」

 下から窺おうとするカナエからあわてて離れると、薫は深くお辞儀した。

 

「あの……色々とご教示いただき、ありがとうございました」

 かろうじてそれだけ言って、薫はその場から駆け去った。

 

 逃げていく薫の後ろ姿を見ながら、カナエは「あらあら…」と独り()ちた。

 

「ちょっといじめ過ぎちゃったかしら……?」

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.03.03.水曜日更新の予定です。



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第七章 自覚(四)

 翌朝、目を覚ましてから屋敷の中を見回ったが、カナエの姿はなかった。

 

 勝母(かつも)に尋ねると、「ああ」と頷いて、

「昨夜、鬼狩りの後に来たらしいね。それで今日も任務のようだよ。どうもこの辺も最近はやたらと鬼が跋扈しているようだね。無惨がこっちにまた来ているのかもしれない」

 

「そんな事がわかるのですか?」

 

「そりゃ、鬼が増えるってことは無惨がそこで人間を鬼にしていってるって事だろうからね。数百年前まではこっちが最前線だったんだよ。ほとんどの鬼は関西周辺に集中していた。江戸の頃から徐々に東京近辺で増えてきたんだ。だから最近では無惨はあちらで身を潜めているんだろう…とは思うが、こればっかりは推測でしかないからね。確かなことは誰もわからない。御館様すらわからないんだから、隠の情報部隊がいかに優秀といってもそう上手く事は運ばないもんさ」

 勝母は鼻を鳴らすと、独特の香りのするお茶を啜った。

 

「それなら私にもそろそろ……」

 薫が言いかけると、勝母は首を振った。

 

「アンタはまだ駄目だよ。毒が抜けたとはいえ、まだ肋骨だって完全治癒はしてないし、何より今は常中の修行中ということで、本部に伝えてある。私からの許可がない限り任務はこないよ、それこそ無惨が姿を現しでもしない限り」

「………」

 

 律歌から聞いた話によると、勝母は歴代の柱の中でも在籍年数が長く、そのせいか未だに本部に意見ができるくらいの影響力があるらしい。現在の御館様のお乳をあげていた、と豪語するくらいなのだから、それは有り得ない話ではない。

 

 いずれにしろ常中を体得できるまで、任務に携わることができないとなると、益々焦ってくる。早く、勝母から認めてもらえるようにならなければ。

 

 朝食を終えて、事前の運動――――柔軟や打ち合い、走り込みといったものをこなした後に、本当は滝壺へと出向きたかったのだが、律歌も勝母もその日は忙しいようで、代わりに瞑想するように薦められた。

 

「本当に滝壺の中に潜っていく感じでやってみたらいいのよ。薫にはわりと合ってると思うよ」

 

 律歌に言われ、道場で一人結跏趺坐(けっかふざ)して半眼を閉じる。

 昨日、カナエに言われたように心を平らかにして、澄ませる。

 自分を見つめる。

 

 全集中の呼吸をしながら、滝壺の底へ、底へと沈んでゆく自分を想像する。

 浮力のない身体が暗い水底に沈んでいく。

 そこは本当のあの滝壺ではない。

 薫の中にある心象風景だ。

 太陽の光も差し込まぬ冷たい水の中でたゆたう。

 水面は遠く、自分の呼吸では到底たどり着くはずもない、無明無音の世界。

 そこから、今度はゆっくりと上へと目指していく。

 肺を包んだ横隔膜がゆるやかに元の位置に戻ろうとする。

 

 ―――――ゆっくり…ゆっくり……

 

 呪文のように心の中で唱える。

 大丈夫、ゆっくりと浮き上がっていけばいい。焦るな――――と、戒めた途端、昨晩の失神しかけた時の苦しみが襲った。

 

「ごほっ、ごほっごほっごほっ」

 実際には水に入ってもいないのに、溺れたようになってしまった。

 駄目だった。また、焦りが顔を出す。こうなっては潜ることすらできない。

 座禅を組み直し、また一から。

 

 どうして自分はこうなのだろうか…。

 薫は瞑想に入っていきながら、自分がいつまでも成長しないことに軽い苛立ちすら覚えた。焦っては駄目だとわかっているのに、身体は逆に逆にと反応してしまう。焦りは禁物、と考えることすら、自分が未熟な証拠だ。

 

 しなやかに心を保つ―――――と言った律歌の言葉が思い出される。

 自分の心は硬直しているのだろうか。

 カナエに昨日言われた意味を考えようとするが、どこかで敬遠する自分がいた。これが自分に蓋をしているということだろうか。

 ぐるぐると思考が否定的な方向へとばかり向っていく。

 

 ―――――一番の馬鹿は……お前だ……

 

 ふっと、実弥の声が聞こえた。

 目を開き、誰もいない空間を(じっ)と見つめる。汗が額から頬をつたった。

 

 ―――――さっさと辞めろォ…

 

 何度も言われた言葉が、直接耳朶に響く。

 

 ―――――さっさと失せろォ。俺は、お前を認めない……

 

 ギロリと睨む目が心を抉る。

 

「………うるさい」

 奥歯を噛み締めて、薫は唸るようにつぶやいた。

 

 こんな時に、こんな気持ちの時に出てくる。

 本当に自分で自分が嫌だった。幻聴だとわかっているのに、その声すらも一抹の懐かしさを感じる。それこそ自分の弱さそのものではないか……!

 

 立ち上がると、傍らに置いてあった木刀を振るった。

 何度も何度も、打ち払う。

 苦しかった。苦しくてたまらない。いっそのことあの冷たい水底に沈んだままでいたい。

 尋常でない汗が体中から噴き出した。

 頭の中が沸騰するように熱い。

 

「――――どうしたの!?」

 気付くと、律歌が木刀を掴んでいた。

 隣で秋子が目を丸くしている。

 

「……三好さん? どうして」

 薫が我に返ると、秋子は手ぬぐいを差し出した。

 

「森野辺さん、鼻血出とるよ」

 言われて気付いた。道着の襟から胸元、床にも血が点々とある。

 

「すっ、すいませんっ!!」

 途端に薫は恥ずかしくなって、あわてて外へと飛び出した。

 

 井戸で顔を洗っていると、秋子がのんびりした様子でやってくる。

「だいじょーぶー?」

「大丈夫です。すいません。手ぬぐいを汚してしまって」

「ええよええよ、そんなん。にしても、えらい怒ってたなぁ。なんや意外やったわ」

 

 薫は思わず顔を逸らせると、鼻血を拭いているフリをして、遠くを見遣(みや)った。

 秋子に他意のないことはわかっている。目を背けたくなるのは、薫自身の問題だった。

 

 秋子はそんな薫の様子を知ってか知らずか、床几(しょうぎ)に腰掛けた。

「こっち方面の仕事があってな。ついでに寄らしてもろてん。ウチもここでよぅ面倒みてもろてる。あんまり自慢できることやないけど。今年の初めぐらいにも世話になったわ」

「……そうなんですか」

 

「森野辺さん」

 秋子は急に真剣な面持ちになると、ペコリと頭を下げた。「ごめん」

 今度は薫が目を丸くした。

「どうしたんです?」

「この前のこと。まさか笠沼さんがあないなこと言わはると思わんかったから……」

 

「そんなの、三好さんのせいじゃないですよ。……あれは、笠沼さんの気持ちを考えられなかった私が悪いんです。私が何も考えずにただ佐奈恵さんの最期に立ち会ったからって、笠沼さんに会う必要があると思い込んでいたんです。私に会って笠沼さんが辛い思いをされることに思い至らなかった……」

 

「そんなん気にする必要ないわ。ウチ、あの時ばかりは不死川さんの言う通りやと思った。佐奈恵さんかて、守ってもらおうなんて露とも思てなかったはずやわ。もし、佐奈恵さんが生きとったら、笠沼さん、けちょんけちょんに叱られとったはずや!」

 

 そう言われると、怒る佐奈恵の姿が想像できて、思わずフっと笑ってしまった。

 秋子もニコと笑った。

 だがすぐに「実は笠沼さんなぁ、行方知れずになってもうてん」と、声を落とした。

「行方知れず?」

 

「あの後なぁ、慰めるのやら、叱咤するのやら、色々言われててん。それでも本人の耳には入ってないみたいやったけど。晩ごはんも食べへんで、ずーっと考え込んでたみたい。そんで朝になったら隊服と日輪刀が置かれてて、後は一切合切無ぅなってたんやて。鴉も籠の中に入れられとってなぁ……離したら慌てて飛んで行ったけど、結局見つけられへんで帰ってきてもうた」

 

「それは…鬼殺隊を辞めたということですか?」

「まぁ、そういうことなんやろな」

「…………」

「森野辺さんのせいやないで。気にしんとき。そういう人もたまにおるし」

 

 鬼殺隊に入ったはいいものの、鬼への恐怖やあるいは怪我することへの恐れから、正式な願いを出さぬまま鬼殺隊から出奔する人がいないわけではない。そういう人間の多くは、金目当てで鬼殺隊に入ってきた者達だが。

 

「探しに行こうか言うのもいたんやけど、不死川さんが、本人にやる気がないのを連れて帰ってどうするんやー言うて、結局、そのまんまや」

 

 笠沼と佐奈恵の関係性を知っていた人間にとっては予想できたことだった。むしろ、佐奈恵が死んだという一報を受けてからも、笠沼が鬼殺隊に残っていたことの方が意外だと秋子は思っていた。

 

 だがこの前、薫に対して敵意を剥き出しにし、道理の通らぬ罵声を浴びせた笠沼を見て納得した。

 笠沼は、薫に自分の怒りを吐き出すために鬼殺隊に残っていたのだ。そうでもしなければやっていられなかったのだろうが、正直、情けない男だと秋子は呆れていた。

 そんな男のために今、目の前で悲しそうな顔をしている薫が心底気の毒であった。

 

「なぁ、森野辺さん。薫さん、言うてもえぇ?」

 秋子は気分を変えようと、明るい声で尋ねた。

 薫はちょっと驚いた顔で頷く。

 秋子は照れたように笑った。

 

「本当は佐奈恵さんみたいに言いたいんやけどな。あの人、私のこと、アコちゃんとか呼んでたやろ? 粂野さんのこともマッさんとか。薫さんも薫ちゃんとか呼ばれとったんと()ゃう?」

 

 その通りだった。

 茶屋で声をかけてきて、気付くと「森野辺さん」から「薫ちゃん」と呼ばれていた。不思議と違和感もなく、すんなり受け入れてしまっていた。

 

「たいがいの知り合いは愛称か渾名か、下の名前で呼んではったわ。なんでか知ってる?」

「いえ……何か、理由があったんですか?」

 

「うーん。まぁ、佐奈恵さんの性格もあるんやろうけどな。あないにスッと人の心に入っていくんは。でもなぁ、前になんかそんな話になったことがあってん。その時にな、鬼殺隊ってすぐにみんな死んでまうやん? 昨日知り合ぅたばっかりの人が、今日には屍になってる。そんなんが普通やんか。だから、できるだけ早う仲良ぅなりたいんやって言ぅてはってん。下の名前で呼んだら、ちょっと距離縮まるやん? まぁ、たまには頑なに嫌がる人もおったから、そういう人には無理強いせんけどな。そやって、ちょっとの間ぁでも、楽しく笑って過ごしていられたら……そういうことが大切なことなんやって、思えるようでいたい………言うてはって…」

 

 言いながら秋子の目が少し潤んだ。紛らすように深呼吸して空を仰ぐ。

 

「殺伐とした仕事やけど、なんのためにやっとるんかわからんようなったらあかんからね。楽しい生きんと」

「楽しく……生きる?」

「そやで。鬼狩りでも、楽しぃ生きるんや。人の暮らしはそこにある、て思う。私らはそういう人らの暮らしのためにやっとるんやから。自分だけが苦しんでると思てたら、他人様(ひとさま)の痛みに気付けんようなるやろ?」

 

 秋子は立ち上がると、薫に手を差し出した。

 

「ほな、行くわ。運が良ければまた会えるやろ」

「はい………秋子さんも、元気で」

 名前を呼ばれて、秋子はニッコリ笑った。「佐奈恵さんの弟子二号やな。ウチが一番弟子やけど」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 道場に戻ると、律歌が雑巾がけをしていた。ふと、自分が鼻血を出していたことを思い出した。

 

「すっ、すいません!」

「あぁ、いいのいいの。話せた? なんか任務の途中だからあんまり長居はできないって言ってたけど、アコちゃん」

「アコちゃん………」

 

 確かに先程、秋子がここで世話になったことがあると言っていた。であれば、そういう愛称で呼び合う間柄であっても不思議はない。

 

「アコちゃんと佐奈恵はウチじゃ割と常連だったわよ。佐奈恵は特にね」

「ご存知だったんですか?」

「知ってたわよ。だから、死んだと聞いたときには信じられなかった。いつも怪我しては、何度も来てたから、いつの間にか当たり前になってて……佐奈恵のおしゃべりには閻魔様も閉口して、門を閉ざしているんだろう……なんて、笑ってたんだけどね……」

 律歌の顔がふっと翳った。

 

 今は引退したとはいえ、昔、鬼殺隊にいたのであれば、仲間の死を何度も経験してきたことだろう。

 今もまたこうして鬼殺隊の治療に当たっているのであれば、なおのこと後輩の死に立ち会ったことも多いに違いない。

 

「佐奈恵がアコちゃん、って呼ぶから私も気がついたらアコちゃんって呼ぶようになってたのよね。佐奈恵って、押しが強い割には、必要以上に突っ込んでこないし、あれで口も堅いから妙に話しやすくて馴染んじゃってね。鬼殺隊士として強いとは言えなかったけど………よく、やったよ」

 

「…………すみません」

 薫がつぶやくように謝ると、律歌はムッとした顔になる。

「……アコちゃんから聞いたわ。笠沼が余計なことホザいてたらしいけど、まさかまともに受け取ってるんじゃあないでしょうね?」

 

 秋子も律歌も、おそらくは死んだ佐奈恵もきっと薫に罪はないと言うだろう。それでも薫にはどうしても自分の傲慢があったと思えてしまう。

 

「薫」

 律歌は厳しく薫を睨み据えると、麻痺した足の袴を捲くった。

 

「この足はね、ある人を庇ったときにやられたの」

 コツコツと木刀で足を軽く叩く。

 

「その人も申し訳ないって謝ってきた。私、馬鹿じゃないの、って言ってやったわよ。私は私の意思でその時の最善を選び取っただけ。私はその場にいた人を助けることを優先した。彼は鬼を()った。それだけ。私の選択に間違いはなかったわよ。鬼を殺すことはできたし、私も彼も、襲われてた人も助かったんだから。その後、確かに私は鬼殺隊を離れる羽目にはなったけど、今だってまだ修練はしているの。いつか戻るためにね」

 

 薫は顔を上げた。律歌は自信ありげに微笑んだ。

「また一からだけど、あなたにだってすぐに追いつくわよ」

「律歌さん……」

 

「私が()()()()()()ヤツはねぇ、もう柱よ。なってから随分になるわ。私の足一本で彼の命を救えたってことは、それ以上に沢山の人の命を救ったってことよ。大したもんよね、私」

 腰に手を当てて、律歌は大声で(うそぶ)いてみせた。

 

 その人は律歌に頭が上がらないだろう。庇ってくれたことにではない。自分がその後も任務を続けていくことに、余計な自責を感じる必要がないように、律歌は奮い立たせてくれたのだろうから。

 

 律歌は軽く薫の肩を叩いた。

「自分の未熟を嘆くなら、よりしぶとく生きて戦い抜きなさい」

「はい……」

 

 結局のところは、それに尽きる。

 どんなに後悔して、どんなに内省してみても、時間は戻らず、死者は返ってこない。残された者にできることは、二度と同じ過ちを繰り返さないこと。

 そのためにも全集中の呼吸・常中を会得して、より強みを目指さなければ。

 

 自分の弱さに振り回されている暇などない……。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回の更新は2021.03.06.土曜日の予定です。



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第七章 自覚(五)

 何度目だろうか…。また、同じ失敗を繰り返す。

 薫は内心で溜息をついた。

 

 以前に掴んだコツとして、最初から勢いをつけるのではなく、なるべくゆっくりと肺を水圧に慣らしながら、静かに潜っていくと、より深くまで行けるようにはなってきた。そうすると、刀を見つける位置まで来ることはできる。けれど掴もうと手を伸ばすと、急に息が苦しくなる。

 

 焦りが、どうしても出てくる。

 早く、早く。

 落ち着けと自分で暗示しても、まったく効果がない。刀が岩に挟まってなかなか抜けなかったりすると、より焦燥を助長する。

 

 水面から飛び出すと、ゼイゼイと空気を必死で取り込んだ。

 

「どうも…アンタは内観(ないかん)ができていないねぇ」

 勝母(かつも)煙管(キセル)を吹かしながら、岩の上から言った。

 

「心が乱れると、一気に崩れてしまう。これは、アンタにとっての弱点でもあるんだよ、薫。粂野に刀を向けた時の自分のことを、理解できているかい?」

 

 薫は岩場へと登ると、四つん這いになって呼吸を整えた。

 勝母の問いかけに、首を振る。

 

東洋一(とよいち)にも久しぶりに手紙を送ったよ。まぁ、半分は文句だったんだがね。いつまでも古臭いやり方してるから」

「……先生は、何か仰言(おっしゃ)っておられましたか?」

 こんな状態であることを知られたら、さぞがっかりされてしまうだろう。

 

「アンタの中に修羅がある、と言っていたよ」

「………修羅?」

「ご両親が亡くなったときも、東洋一から刀を奪って何度も鬼を刺していたらしいね。恨みを唱えて。理由は……わかるよ。今回のこともね」

 勝母は静かに頷いて、煙を吐いた。その視線の先はどこか遠い。

 

「……人間ってのは、自分のことは意外とわからない。だが、長く生きれば行く末についてはまだ未知だとしても、()し方は振り返ることができる。アンタは昔の私を思い出す」

 

 薫はようやく息が整うと、勝母の側に立った。

 チラリと勝母は薫を見遣ると、話を続けた。

 

「鬼殺隊に十二で入って、十三で柱になった。史上最年少で柱になった私に期待している奴は少なかった。たいがいは皆、すぐに()られるだろうと馬鹿にしていたし、期待してもいたろうよ。鼻持ちならない小娘だったからねぇ…私は。でもそんなことは関係なかった。私は、ただひたすら強くなることだけを願っていた」

 

 水面を反射した光が、勝母の視力の消えた目を射た。それでも白濁した目の虹彩が動くことはない。

 

「だが、ある日気付いたんだよ。今の自分は……人間なのか? と。一番遠ざけていたはずの、最も忌み嫌ったあの男と同じに、強くあることに執着し、強い自分に恍惚として、人ならぬ道を歩もうとしているんじゃないか……?」

 

 勝母は横目で薫を見上げた。神妙な顔をしているが、目に困惑が浮かんでいる。

 煙をフーっと吐きながら、微笑む。

 次の瞬間、薫を圧倒するかのように睨みつけた。

 

「憎しみのためだけの剣が、いずれ自らを滅ぼすように、自らの強さだけを追い求めた剣は、必ず己を蝕む」

 

 低く放った言葉は、呪詛のように薫の胸に刻み込まれる。

 

 だが、勝母はすっくと立ち上がると、いつものような快活な笑顔になった。

 

「アンタが真面目なことは美徳だよ。だが、見失っちゃいけない。強くなるべき理由をね」

「強くなるべき理由?」

「それは、誰かのためであるべきだ。護るべき人のため。死んだ人じゃあ、いけない。アンタをここに……この俗世に繋ぎ止めるものでなくてはならない」

 

「それは……今までお世話になった人達のことを考えて、ということですか?」

 薫が戸惑いながら答えると、勝母はフンと鼻を鳴らし、うんざりしたように手を振った。

 

「そんなフワフワした近所付き合いみたいなモンじゃなくてね。手っ取り早く、好きな男でも作りゃいいのさ」

「……は?」

「男だよ。男。恋をするのさ。いないのかね? 手近に。アンタ美人なんだし、()り取り見取りだろ?」

 

 さっきまでの話との落差についていけず、薫は絶句した。ついでに思考も止まる。

 だが勝母は勝手に独りでブツブツつぶやいていた。

 

「粂野匡近もいいが……あれも奥手で、つっ突かないと動きそうもないしねぇ。どうにも鬼殺隊の男共では頼りないよ。同僚ってのは、どうしても競争意識が働くからねぇ。まして女相手だと変に見くびって、やたら威圧的になったりもするし……できれば、どっかで普通の男を見つけたらいいと思うが………」

 

 勝母の言葉に敏感に反応してしまったのは、あの日言われた、一番思い出したくない言葉が、不意に聞こえてきたからだった。

 

 ―――――お前は、普通の男と……

 

「いりません!」

 怒鳴るように言って、薫はバシャンと滝壺に飛び込んだ。

 

 勝母は驚きながら、潜っていく薫を見つめた。

「…………誰か好い(ひと)でもいないかねぇ」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 その日は、勝母が呆れて途中で律歌に交代し、その律歌に「いい加減にしなさい!」と叱られるまで、薫は潜水訓練を行った。

 よろける足で屋敷にたどり着くと、いつの間にか用意されていた布団の上に倒れ込み、そのまま気を失うかのように眠った。

 

「おっ母様、何か火を付けるようなこと言ったでしょ?」

 律歌が眠り込んだ薫をどうにか布団の中に押し入れると、後ろで見ていた勝母に尋ねた。

 勝母はポリポリと顎の下を掻きながら、思案する。

 

「恋でもしろ、って言っただけだよ?」

「それはまた………唐突」

「だってこの子、真面目過ぎるんだよ。心配になっちゃうよ。自分の命でも簡単に手放しそうでさ」

「まぁ、それはわからないでもないですけど。それにしたって…薫は女石部金吉(いしべきんきち)ですよ。いきなりそんな話されたら、混乱してしまいますよ」

「そうかねぇ……? 年頃なんだし、考えて不思議ないと思うけどねぇ」

「もー、おっ母様。いつからそんな世話焼き婆みたいなことするようになったんですか?」

「いやぁ、なんだか放っておけなくて。アンタ、どう思う? 私は鬼殺隊以外のさ、関係ない人を見つけた方がいいと思うんだよ。隊内だとホラ、できる子だからさァ、この子…気の小さい男なんぞは妙にやっかんで、くだらないこと言いそうだろう?」

 

「…………もしもーし」

 

「鬼殺隊でもいいじゃないですか。粂野くんとか、絶対薫のこと好きでしょ?」

 

「………もしもーし」

 

「粂野はわかりやすいけど、薫が気付かないからねぇ。もうちょっと押しが強くないと」

 

「もしもーし」

 

 ヌッと割り込むように現れたカナエに、勝母と律歌はわっと後退った。

 

「なんだい!」

「アンタ、帰ってきたなら言いなさいよ!」

 

 二人が怒鳴るのを、カナエは涼しい顔して眺めている。

 

「さっきから、呼びかけているのに、二人共熱心に話し込んでらっしゃるから」

「……そりゃ、悪かったね」

 勝母はふぅ、と息をつくと、カナエに向き直った。

 

「鬼は? 成敗してきたのかい?」

「ハイ。つつがなく」

「つつがなく……ね。じゃ、飯にしようか」

 

 カナエは寝ている薫をちらりと見た。「薫は?」

「その子は今日は起きないだろうよ。ずーっと滝壺で潜って、海女(あま)にでもなる気だよ。まったく、呆れちまう」

「半分は、おっ母様のせいだと思うけどね」

 律歌は言いながら台所へと歩いていく。

 勝母も部屋から出ようとして、薫の寝顔をじぃーっと眺めるカナエに声をかけた。

 

「悪戯するんじゃないよ、カナエ」

「アラ、そんなことしないですよ。でも起こさなくていいの? ずっと修行していたなら、きっとお腹も空いてるでしょうに」

「食い気より、眠気だよ、今は。ほら、行くよ。アンタを残しておくと、何するかわかったもんじゃない」

「まぁ、心外」

「よく言うよ。アンタ、薫みたいなのおちょくって遊ぶの好きだろう?」

 

 カナエは満面の笑みを浮かべると、立ち上がった。

 

「ねぇ、おっ母様」

 勝母の後に従いながら、カナエが尋ねてくる。

「薫の恋の相手って、男でなくてもいいんじゃありません?」

 

 勝母は思わず立ち止まって、振り返る。

「はぁ?」

「今の時代、女同士だって珍しいことでもありませんよ」

「…ちょ、ちょっと待ちな」

「薫も、私には懐いてくれてますしねぇ……」

「はぁ? アンタらいつの間にそういう仲………」

 

 言葉をなくした勝母が慌てふためくのを見て、カナエはカラカラと大笑いした。

 勝母ははぁ、と溜息をつく。

 ……どうやらからかわれたらしい。

 本当にこの弟子は何を考えているのかわからない。

 

「…ったく。相変わらず面白くもない冗談を言う子だよ」

 勝母は言い捨てて、廊下をズンズンと歩いていく。

 

 カナエは薫の寝顔をもう一度チラと見てから、その後について行った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.03.10.水曜日に更新予定です。



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第七章 自覚(六)

 薫は、真夜中に目を覚ました。

 粘りつく身体をゆっくり起こし、しばらくの間、障子越しの月明かりに照らされた、観世音菩薩の掛け軸をぼんやりと見つめていた。

 

 全集中の呼吸が途絶えていたことに気付き、すぐさま再開する。

 しかしどうしたのだろう…?

 いつもは一分も経たぬ内に肺に空気が満ちて、身体(からだ)の細胞を活性化させ、全身が冴え渡っていく感覚に包まれるのに、いっかなその状態に持っていけない。初めて呼吸を習った頃のように、ただ苦しい。うまくできていない。

 

 ジリジリと焦りが押し寄せてくる。胸が締め付けられた。

 このままでは駄目だ。

 

 ―――――心を平らかにして、澄ませて……

 

 カナエの声が聞こえる。

 そのカナエの姿が思い浮かぶと同時に、実弥と二人でいる姿を想像してサァと血の気が引き、全身が粟立つ。

 

 自分で自分の頬を両手で張った。真っ赤になっているであろう、と思えるほどにジンジンと痛むまでぶってから、薫は立ち上がった。

 いつの間にか浴衣に着せ替えられていたが、いつもの潜水用の衣服に着替えると、再び滝壺へと歩き出す。

 

 正直なところ、今の自分が潜って刀を取ってこれるとは思えなかった。

 だが、疲れ切って、全集中の呼吸すらも出来なくなっている自分があまりにも情けなくて、腹立たしくて、疎ましい。

 

 滝壺へと飛び込み、そのまま奥底へと潜っていく。

 ゴボゴボと空気が口から漏れ出ていた。構わずに潜っていく。月明かりすら差し込まない奥へ、奥へ、闇へと手を伸ばす……。

 

 いきなりグイと腕を掴まれた。

 ごぼっと一気に空気が口から出て行く。そのまますごい勢いで上へと引き上げられていく。

 

 水面へと頭を出した途端、パンと頬を打たれた。

 カナエが冷たく薫を見据えている。

 

「……何を考えているの?」

 その声音は、顔を見ていなければ怒っているとは思えぬほどに優しかった。

 

「そんなふうに遮二無二潜って、浮き上がってきた時には死んでいるわよ。こんなつまらない死に方をするつもり? あなたは何のために鬼殺隊に入ったの?」

「…………」

 薫はカナエの顔を見れなかった。ここまで情けない姿を、よりによってカナエに見られたことの羞恥と、悔しさと………怒りがあった。

 

 ―――――どうして、よりによって、今ここに、この(ひと)はいるのだろう……?

 

 カナエは薫の腕をガッチリと掴んだまま、川の方へと泳いでゆくと、砂利の浅瀬へ薫を放るように離した。

 自分は川の中にある岩の上に座る。

 

「……おっ母様に、恋をしろと言われて怒っているの? 自分にはもういるのに…って」

 カナエが笑って言うと、薫はキッと睨んで否定した。

「いいえ! そんな人はいません!」

 

 いつになくささくれだった薫の剣幕に、カナエは驚いた。

 自分が思う以上にその話は薫にとっての禁忌であるらしい。

 薫はすぐにまた下を向き、精一杯の拒絶を見せた。

 

 しばらくの間、カナエは薫を見つめていた。

 俯いた顔がどんな表情をしているのかはわからない。

 だが、こんな時ですらも必死で全集中の呼吸をしようとして、肩が大きく上下に動いていた。まるで出来ていない。陸に上げられた魚のようだった。息ができずに喘いでいる。

 

 カナエは夜空を仰いだ。濃藍の空に幾百の星が燦めいて、月は静かに輝いていた。

 美しい夜だ。

 森閑とした宵闇の中、轟く滝の音だけが辺りに響いている。

 

 

「………薫」

 カナエが呼びかけると、ビクと薫の肩が震えた。返事はない。

「前に言ったでしょ? あなたは自分の心に蓋をしていると」

「………そんなことありません」

 この前と違い、薫は断定する。だが、俯いたままだ。

 

「そう? じゃあ、どうして呼吸ができなくなっているの?」

 カナエは正確に薫の急所を衝いてくる。

「貴方の心が塞がっているから、息も通り道を失くしたのよ」

 

「……関係ありません。お願いですから、一人にしてください。今度は無茶しないようにしますから」

 立ち上がり、滝壺へと向かおうとする薫に、カナエが独り言のように言った。

 

「佐奈恵とは、名前が一文字違いね……って、他愛ないやり取りから、仲良くなったわ」

「………」

 頭の中で佐奈恵と、カナエという名前を読む。確かにそうだ。佐奈恵ならば、きっとそんな些細なことからでも、どんどん話は広がっていったことだろう。

 

「普段はズケズケと言いたいこと言って、声も大きいし、まったく女らしい素振りなんて見せることもないのに、彼の話をする時だけ、顔が火照ってねぇ……よくからかったわ。普段見れない顔をする佐奈恵が可愛くて、面白くて」

 

 カナエはフフフと懐かしげに笑った。

 

「楽しそうだったわよ、佐奈恵は。彼のことを思い浮かべて語る時、いつも嬉しそうに微笑んでた。口では悪態つきながらもね。私は見てて……温かい気持ちになったなぁ。そういう気持ちにさせてくれる佐奈恵が、好きだった」

 

 薫の気持ちはますます打ち沈んだ。

 その佐奈恵を見殺しにしたのは、自分だ。

 傲慢になっていた……自らの力を恃んで、強さを勘違いしていた自分。

 その反省のためにも、早く常中を体得しなければならないのに、いつまでも足踏みしている。

 

 歩き出そうとした薫の肩を、いつの間にか側に来ていたカナエが掴んだ。

 

「どうして貴方はそんなに苦しそうなの? 誰かのことを想って過ごす日々はつらいだけ?」

「…誰かって、誰も………」

「嘘。薫はいつも不死川くんの話になると、顔色が変わるじゃない」

 

 カナエに言われると同時に、佐奈恵に聞かれた言葉がよみがえる。

 

 ―――――不死川のこと、どう思ってんの?

 

 あの時から、ずっと、見えない気持ちに針を刺されていた。

 震えてくる手を抑えつけるように握りしめる。

 

「………離してください」

 声が震えていた。喉元まで嗚咽がこみ上げてきそうになる。

 

「薫…?」

 カナエはますます不思議に思った。

 

 不死川実弥のどこがいいのか、カナエにはわからなかった。

 だが、薫にとっては兄弟子なのだし、そういう気持ちになることだってあるのだろう。思春期にありがちな淡い恋心だ。

 勝母が常日頃から言うように、鬼殺隊士だからといって、無理にそうした感情を押し籠める必要はない。

 だが真面目で固すぎる薫の性格上、そんな浮ついた気持ちを持つこと自体を戒めているのだろう………カナエは、そう思っていた。

 

 けれど目の前で唇を震わせて、いっそ怯えてさえいる薫に、カナエは不穏なものを感じた。

 

「……なにかあったの? 不死川くんと」

「なにもありません」

 即答する薫の顔は白い。

 

「カナエさん…お願いですから、もう……やめてください」

 肩に置かれたカナエの手をとって、押しやる。

 だがカナエはすぐにその手を掴んだ。

 

「傷ついているの?」

「………傷ついてなんていません」

「じゃあ、どうして泣いてるの?」

 薫は頬を擦った。肌を撫でて、泣いてないことに気付く。

「…泣いてなんかないですよ」

 

「泣いているように見えるわ。ひどく傷ついて、押し殺して、ずっと…」

「それは…カナエさんの想像でしょう」

 薫は無理に皮肉っぽく言う。

 それすらカナエには再び自らを殻で覆おうとしているかのように思える。

 

「赦せないのは、自分? それとも不死川くん?」

 カナエは自分でもわからないままに問いかける。

 薫はまじまじとカナエを見つめ、不意に苦しそうに顔を歪めた。

 

 ―――――あぁ。もういっそ、この人に全てを吐き出してしまいたい……。

  

「実弥さんは………何も悪くありません。私が一瞬、望んでしまっただけ……期待しただけです。叶うはずもないのに」

 消え入りそうなあえかな声。

 

 薫はだんだんと考えられなくなっていた。

 息が上手く吸えず、身体が重い。頭が痛い。寒気までしてくる……。

 崩れ落ちそうになって、カナエに抱きとめられた。柔らかな腕がフワリと薫を包む。

 

「………傷ついたのね。とても」

「…………いいえ」

 否定しながら、そうでないことは薫が一番わかっている。

 

 本当は、哀しかった。苦しかった。辛かった。

 あの日、向けられた背と、薫をつき放した言葉。

 自分の事は()らないのだと……実弥にとって必要ない人間なのだと思い知らされて、いっそ死んでしまいたかった。

 

 それでも―――――。

 

「可哀相な薫……」

 カナエは薫をギュッと抱きしめた。

「こんなに貴方は傷ついてるのに、今まで誰にも言わずにいたの?」

 

「……大丈夫です。昔から……慣れてるんです」

 そう。小さい時から、辛いことを隠すのは慣れてる。忘れればいいだけ…。

 

 カナエは薫から少しだけ離れると、ようやく涙を見せた薫の頬をやさしく撫でた。

「馬鹿ね。今度からは、私には言いなさい。私にだけは、言って頂戴」

「……すみません」

「また謝る」

 あきれたように言って、カナエはトンと薫の胸をやさしく叩いた。

「本当に、貴方は不器用ねぇ」

 

「………はい」

 薫は俯き加減に頷いた。

 東洋一(とよいち)の元で修行している時から、それはわかっている。だからこそ何度も何度もしつこくやり続けるしか能がない。

 自分は強くなどない。

 

 だが、カナエの言う不器用は意味が違った。 

 

「不器用だから、自分の心に鍵をかけたままでは前に進めないでしょう?」

 

 ハッとして薫はカナエを見つめた。

 困ったような、憐れむような微笑を浮かべて、カナエは薫を見ている。

 

「自分に嘘をついたまま、進もうとすればするほど、苦しくなって……純粋だから、不用意に傷ついて……押し殺した気持ちを抱えきれずに、潰れてしまうのよ。……貴方は」

 

「……そんなことは……」

 否定しかけた言葉は、途切れた。

 自分はそんなにも女々しく、弱々しい人間なのだろうか?

 

「認めなさい」

 カナエは厳しく言い切る。けれど表情は穏やかに、薫を励ましていた。

 

「自分の弱さも、醜さも。全て認めて、前に進みなさい」

「…………」

「薫には、きっとできる。……信じてるから」

 カナエは柔らかに微笑み、フワリと薫の頬に唇を当てると、足音もなく去って行った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回更新は2021.03.13.土曜日の予定です。



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第七章 自覚(七)

 カナエは次の朝にはいなくなっていた。

 本部からの通達があって、東京の方へと戻ったらしい。

 

 薫は――――寝込んでいた。

 

 日中、無理な訓練をし、その夜にも滝壺に行って、真夏ではあったが体を冷やしてしまったようだ。帰ってきてすぐに発熱し、風邪と診断された。

 しばらくは稽古は禁止。寝ることが修行だと、無理矢理に寝かしつけられた。

 

 熱の出た翌々日。

 

 ふと目を覚ました時は夕暮れ時だった。

 障子が赤く染まって、縁側の庇に吊るされた風鈴が、そろそろ季節外れの音を奏でていた。

 遠く、(ひぐらし)の鳴く声が聞こえる……。

 

 薫は昼寝が嫌いだった。つい寝過ごせば、こんなふうに夕方に起きることになる。

 夕暮れの、一日の終わりに向かう時間に目を覚ますと、妙に寂しい。なんでもないのに、やたらと感傷的になってしまう……。

 

 朝には熱が下がりつつあったのに、また夕方になってぶり返してきたのだろうか。体の節々が痛くて、ひどく気だるい。余計に気分が滅入った。

 

 うとうとと、また瞼が下がってくる……。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 とても懐かしい夢を見た。

 

 森野辺の家に引き取られて間もなくの頃だ。

 まだ養父母にも慣れず、言葉を無理に直されてまともに話すこともできず、たまたま自分の周りから人の気配がなくなった時に、思い切って外に出た。見慣れぬ町の景色にキョロキョロしながら、さまよい歩くうちに、小さな川べりにたどり着いた。

 

 水の流れをじいっと眺めた。

 滔々と流れる川のせせらぎが、故郷の川を思い起こさせた。あっちはもっとずっと大きかったけれど。

 それでも絶え間なく流れていく水の動きを見ていると、だんだんと何かを考えることもなくなって、自分の心がなくなって、悲しい気持ちもなくなっていく……。

 

 その時、背後から大声が聞こえた。

「止めてくれっ!!」

 

 え? と振り返ると、小さな女の子がペタペタと駆けてくる。

 そのまま走って行けば、川に落ちてしまう。反射的に薫は女の子を抱き止めた。

 自分の邪魔をされたと思ったのか、女の子がわぁわぁと泣き始めた。

 

「なに、泣いてんだよ」

 後ろから追いかけてきたらしい少年がコツンと女の子の頭を叩く。「勝手にこんなとこ来てんじゃねぇよ」

「にぃに、たたいたー!」

「うるせぇ」

 

 兄であるらしい少年が女の子を強引に抱えあげると、踵を返して歩き出す。

 ぼんやりとその背中を見ていると、少年はくるりと振り返った。

 

「あんがとな。助かった」

「…………ん」

 訛りを話すことを禁じられていたから、頷くしかない。

 

 その時、薫はどんな顔をしていたのだろう。もしかすると不安そうに見えたのかもしれない。

 女の子の兄は「どした?」と薫に尋ねた。「迷子か?」

 

 薫はそういえば家への帰り道がわからなくなっていることに気付いた。まだ慣れぬ土地で適当に歩き回ったのだから当然だった。

 

「どこの家だよ。ってか、いい着物きてんだから、俺らみたいな貧乏長屋じゃねぇだろ。山の手の方か?」

「………」

「ホラ、一緒について行ってやっから」

 

 差し出された手を握る。

 カサカサの、あかぎれのある汚い手だ。ついこの間まで自分もそうだった。

 歩きながら家のことを聞かれたが、薫が返事ができずにいると、諦めたのか少年はいきなり歌い始めた。

 

「出ぇた、出ぇた、つ~き~が~。まぁるい、まぁるい、まんまるいぃ…」

 少し調子っぱずれな歌に、おんぶされていた妹が容赦なく「下手くそぉ」と叫ぶ。

 

「うっせぇなァ、いぃんだよ。歌なんぞ、気持ち良く歌えれば。…まぁるい、まぁるい~貞子の目ン玉まんまるいぃぃ~」

 いつのまにか替え歌になっている。

 妹の名前なんだろうか? 仲が良さそうで、うらやましい。それに妹のいう通り、歌が下手くそで可笑(おか)しくて笑ってしまった。

 

「お、(えれ)ぇな。泣かねぇで、偉ぇ偉ぇ」

 少年がにっこり笑いかけて、頭を撫でてくれる。なんだかくすぐったくて、首をすぼめながら、薫は笑い返した。

 久々に笑った気がした。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 再び目を覚ますと、いつの間にか夜になっていた。

 松虫の鳴く声が聞こえてくる。

 

 熱のせいだろうか……訳もなく涙が出て、止まらない。

 熱い…。

 

 のろのろと起き上がると、四つん這いになって、障子を開けた。昼よりも少しだけ涼しくなった風が頬を過ぎる。

 障子の桟に頭を凭せかけ、空を見ると、満月が浮かんでいる。

 さっきまで見ていた夢の、少年の声が聞こえてくる。

 

 ――――まぁるい、まぁるい、まんまるいぃぃ~~

 

 下手くそな歌に、夢と同じに笑いながら、はらはらと涙が流れた。

 

 あれから数年後、実弥と再会したときに、薫はなんとなく会ったことがあるような気がしたが、その時には実弥も、薫も、幼い頃のそんな小さな出来事を覚えてはいなかった。

 何度か話をするようになってから、薫は思い出して、実弥にも直接聞いてみたが、残念ながらすっかり忘れたようだった。

 それは仕方ないことかもしれない。実弥は家の手伝いと弟妹の世話で、子供ながらに忙しい日々を送っていたのだろうから。

 

 ずっと寿美や玄弥達が羨ましかった。彼らは無条件に愛してもらえる。

 どんなに我儘を言っても、泣いても、怒っても、決してその愛情が失われることはなく、それを疑うこともない。

 

 薫は自分の境遇が不幸せなどと思ったことはない。けれどいつも不安だった。

 一生懸命自分の居場所を作っても、いつか足下から崩れていくかもしれない。その虚しさはどこかで薫の心に巣食っていた。

 

 あの下町の小さな家で、楽しそうな笑顔の中に、少しだけ加わりたかった。

 頑張らなくても、いてもいいのだと思える場所。

 志津の心配をよそに、無邪気に喜んでいた。

 

 自分には、その資格などなかったのに。

 

 実弥に再会した時に、きっと勘違いしてしまったのだ。また、あの時に戻れると。寿美達に向けていた笑顔を、また見れると思っていた。

 

 そうだ……。

 自分はずっとずっとあの笑顔が欲しかった。

 

 迷子になった自分を励ましてくれた時。

 おしるこを一緒に食べた時。

「薫」と初めて呼んでくれた時の ―――― あの笑顔が見たかったのだ。

 

 ―――――お前は……元の生活に戻れ。

 

 ひとときの狂おしい高揚の後に待っていたのは、拒絶だった。

 月光に暗く翳った背中。

 一生、振り向いてもらえないのだと、わかった。

 

 実弥の中で、もう薫は要らない人間で…あのやさしい、幸せな記憶からすらも、排除されていた。

 どうして、と尋ねることもできなかった。わかりきっていたから。

 自分は最初からあの家族の輪に入ることなど、許されてなかった……。

 

 誤解していた自分が情けなくて、哀れで、間抜けで、滑稽だった。

 恥ずかしくて、必死に忘れようとした。忘れていけると思っていた。

 それまでそうやって生きてきたように。川の流れを見ては『必要のない自分』を流してきたように……。

 

 ―――――傷ついたのね……可哀相な薫。

 

 カナエに言われて、ようやく気付いた。

 死にたいと思うほど、傷ついて苦しんで悲しかったのに……それでも。

 

 自分は実弥が好きなのだ。

 

 好きだったから、身を任せたのだ。その先に、叶いもしない夢を見て。

 

「くっ……!」

 心臓を絞られるような痛みに、胸をつかむ。

 奥歯をきつく噛みしめて、泣きそうになるのを堪えた。

 それでも一筋、頬を伝う。

 

 ―――――自分の心に鍵をかけたままでは前に進めないでしょう?

 

 カナエの言う通り、こんな気持ちを抱えたまま任務ができるほど自分は器用な人間ではない。

 現に、全集中の呼吸すらまともに出来ない状態になっている。

 

 ―――――全て認めて、前に進みなさい。

 

 なんて……あの(ひと)は残酷なんだろうか。

 こんなに弱い自分をさらけ出させて、微笑を浮かべて。

 自分の為に流す涙の、なんと惨めなことか……!

 

 薫は自らを抱きしめた。震える息づかいを、必死で押し籠めようとした。

 首を隠した亀のように縮こまりながら、目を瞑って考える。

 本当の、今の自分の望みを。

 

 忘れてはいけない。

 

 両親を殺された日のことを。自らも殺されかけ、弱い自分を呪った日を。

 志津を鬼にし、実弥から笑顔を奪った、元凶・鬼舞辻無惨を憎悪したあの日を。

 佐奈恵を助けることができず、無力で愚かな自分を悔やんだあの日を。

 

 強くなると、誓ったではないか。

 技や肉体の、目に見える強さだけでなく、誰をも傷つけず、誰に傷つくこともない精神(こころ)(つよ)さを、望んだではないか。

 

 ―――――認めなさい。自分の弱さも、醜さも。

 

 そう。

 自分は実弥が好きだ。

 誰にも触れてほしくないとすら思っている。

 カナエにすら嫉妬するほどに。

 なんて醜くて、弱くて、鬱陶しい女……。

 

 ゆっくりと深呼吸する。

 

 瞑っていた目をそうっと開き、顔を上げる。

 庭の向こうに明りが灯っていた。

 誰かが入院しているのだろうか? 重傷の隊士が運ばれた時に使われる部屋だった。当初、自分もそこで治療を受けていた。

 

「………」

 再び目を瞑って祈るように手を合わせた。

 向こうで怪我に苦しんでいる人が、どうか元気になるように…と。

 

 熱が下がってきたのか、霞がかっていた頭の中が明瞭になっていく。

 

 ―――――認めよう。

 

 冴えた意識の中で、薫はしっかりと肯定した。

 その上で、秘め続ける。自分の中に。奥底に。

 今度こそ、見える状態でしっかりと封印する―――――。

 

 実弥への恋心を。

 

 

<つづく>

 






次回、2021.03.17.水曜日更新予定です。



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第七章 自覚(八)

「ハイよ。ご苦労さん」

 勝母(かつも)はそう言って、実弥の腕から針を抜いた。すぐさま用意していた酒精綿を刺していた場所に貼り付ける。

 

「助かったよ。この男も運がいい…。たまたまアンタがこっちにいたなんてねぇ」

 

 実弥の隣の布団には、包帯でぐるぐる巻きにされた、傷だらけの隊士が、様々な輸液を点滴されながら、横たわっていた。

 鬼の討伐中に瀕死の重傷を負って勝母の元へと運ばれたのだが、ちょうど向かう途中で、こちらは難なく任務を果たした実弥に遭遇し、一緒に来てくれたのだ。

 

「終わったんなら、俺は帰る」

 起き上がって帰り支度を始める実弥に、勝母は一喝した。

「馬鹿お言い! あんな大量に輸血して、まともに歩けるもんかね。歩けたとしても、途中でへばって逆戻りになるだけさ。今日はしっかり臓物の煮込み食べて、ちゃんと寝て、血を造りな!」

 

 臓物の煮込み……という言葉に実弥はウンザリした。

 

 東京の蝶屋敷でもそうだが、実弥の稀血は相当貴重なものらしく、鬼に対する新しい薬の材料だったり、今回のような重傷者の輸血要員として、しばしば呼ばれた。

 特に輸血は、基本的には患者と献血者の血の型が合っていないと、劇烈な拒絶症状を引き起こすこともあるらしいのだが、実弥の血は誰のどの身体に注入しても拒絶反応が起きない。

 これは非常に稀なことで、この事こそが稀血であるという所以(ゆえん)なのかもしれない……と、勝母などは考察していたが、実際のところ、どうしてなのかは不明だった。

 

 いずれにしろ、ただ寝たままでいるというこの状態だけでも、実弥にとっては苦痛なのだが、その上(くだん)の『臓物の煮込み』というのが、本当に…本当に勘弁してほしいくらいに、不味(まず)い。

 

「いつもありがとね」

と、東京の蝶屋敷でも、胡蝶カナエがにっこり笑って出してくるのだが、感謝のわりには、あまりありがたくない馳走だった。造血の為とはいえ、もう少しどうにかならないのか……? 

 

 げんなりした実弥の前に、例の『臓物の煮込み』が姿を現す。

 生臭いにおいがまた、食欲を減退させる―――――のが、常だったのだが……?

 

 おかしなことに、いつもは鼻をつまんで食べていたはずの『臓物の煮込み』が、妙にいい匂いをさせている。味噌の香ばしいにおいだ。

 

 いつもは白い皿に濁った血のようなスープ、その中に臓物であろうという姿そのままに気味悪い肉片が浮いていた。

 しかし今、目の前にある緑釉の器に盛られたそれは、まるで別物。

 赤味噌で照りがつくまでくたくたに煮込まれた臓物と、大根や人参、こんにゃく。上には白髪ネギがふんわり盛られ、七味がかかっている。

 信じられないことに――――うまそうに見える。

 

「おいしそうでしょ?」

 運んできた律歌(りつか)がニンマリ笑った。「先生にご教授いただいたのよ」

「先生?」

「料理のね。彼女が育手のところにいる時に、近所のお婆ちゃんに教わったんですって」

「……?」

「まぁ、食べなさいよ。ごはんが進むわよぉ」

 そう言うと、律歌は重傷隊士の方に輸液の交換に向かった。

 

 実弥はそれでもやや警戒しつつ、その『臓物の煮込み』に箸をつけた。ほんの少しだけつまんで口に入れると、確かに味噌が濃くて、こってりとした甘辛の、ご飯が食べたくなる味だ。

 ようやく、まともな料理になった気がする。

 

 きれいに平らげると、空の器を取りに来た律歌が「お、完食~」と嬉しそうに言う。

 

「前は吐きそうな顔して食べてたのに~」

「やめろ。思い出す」

「ハハハハ! いやぁ、アレは不味かったよねぇ…。私もこの前、違う隊士の子に輸血することがあってさ。その後で食べなきゃいけなくってぇ、その時に作ってもらったのよ。もう、おいしいのなんのってさァ……。同じ食材使ってるのに、ここまでおいしくなるのかって、びっくりしちゃったぁ」

 

 血液の型さえ合えば、同型の人間がいれば輸血を行える。そのため、鬼殺隊士の中でも献血者となる人間はたまにいた。ただ、同定する検査に時間がかかるため、危急の時には実弥の血は非常に重宝されるのだ。

 

 どちらにしろ輸血後、造血のために食べることを強要される『臓物の煮込み』は、一部の献血者の間で、伝説的な不味さとして知れ渡り、それは隊内における不確定な噂となり、輸血という行為をのものを忌み嫌う人間は多かった。

 が、今後は改善されるだろう。

 

 律歌は机の上にあった夕食のお盆を片付けると、今度は煎じ薬の入った急須を置いた。こちらは相変わらず、漢方薬特有の臭いが漂っていた。

 とぽとぽと湯呑に入れて、はい、と目の前に差し出される。

 これも造血と、抗炎症薬らしい。

 

 実弥は受け取ると、思い切り眉間に皺を寄せながら、その茶色とも緑とも黄色ともいえぬ、見るからに気味悪い色のお茶を見つめた。

 

「そういや不死川。アンタ、篠宮先生のとこだったよね?」

 飲むのを躊躇(ためら)う実弥に、律歌が尋ねてくる。「あぁ」と実弥は頷くと、ゴクリと一口含む。

 苦さと、酸っぱさ。その後からくる、ツンと鼻に抜けていく刺激。

 わさびでも入っているのか、これは。

 心の中で悪態をつきながらも、また一口、口に含む。

 

 律歌は実弥の返事を聞くと、パンと手を打った。

「じゃあ薫と一緒ね」

 いきなりその名前が出てきて、ゴフッと実弥は噴き出した。

 

「わっ! ちょっとォ、なにしてんのよー! 勿体ない」

「………なんて?」

「勿体ないでしょー! これ作るの大変なのよぉ!!」

 

 言いながら律歌は手拭いを取り出すと、こぼれた薬湯を拭き取る。

 実弥は湯呑を机の上に置いた。

 

房前(ふささき)、アンタなんで知ってる?」

「なにが?」

「………森野辺薫のことだ」

「へ? 薫? あぁ、今ここにいるのよ」

 

 ドクン、と心臓が飛び上がったのかと思えるほどに、大きく拍動する。

 かすり傷程度なら、自分で常備してある薬で治すのが隊士の常である。ここに来るということは、よほどの重傷者だ。

 

 笠沼のことで道場を訪れた後にやられたのだろうか…?

 あの時、ひどく打ちのめされていたようだった。

 それで気が逸れて集中できなかったのか…?

 

 実弥の心配を知らず、律歌が次に口にしたのは、その笠沼と仲の良かった女隊士の名前だった。

 

「日村佐奈恵って、覚えてる? この前、亡くなってしまったんだけど……。その時に一緒の任務にあたってたのが薫でね。肋骨骨折と毒による麻痺と全身の裂傷で運ばれてきたのよ」

「………それ、いつだ?」

「えぇと…もう三ヶ月くらいになるかなー?」

「………ハァァ?」

 ホッとなった途端に、実弥はあきれ半分、苛立ち半分に怒鳴りつけた。

 

「三ヶ月もかかってんのかァ? ――――チッ、トロくせぇ」

「うーわ、ひっど。そこまで言う?」

「……ぅるせェ。だいたいアイツ、この前大阪に来てたぞ。ピンピンしてたじゃねぇか」

「なんだ、会ってんじゃないの」

「………会ってねェ。見ただけだ」

「見たなら声かけりゃいいじゃない」

 律歌が首をひねると、実弥は無言になり、机に置いてある湯呑をとって一気に呷った。

 虫酸の走る不味さが全身に駆け巡る。

 

「薫はねぇ、今、常中の修行中なのよ。だからおっ母様が任務は止めてもらってるの」

「常中? あんなモン、勝手に出来るようになるだろォが」

「……今のアンタの言葉で、篠宮先生の教育方針がよくわかったわ」

 律歌は軽く溜息をつく。

 勝母が案じていたように、篠宮東洋一という人は天才型の剣士だったため、おそらく凡人向けの教練が不得手なのだろう。

 

「だいたいそんなモン、覚えさせる必要はねェ。アイツはもうすぐ鬼殺隊を辞める」

 実弥がムスッとした表情で言うと、律歌は目を剥いた。

「はぁ? なにそれ? 聞いてないけど!?」

「知るか。二年もやってて常中ができねェんなら、素質がねェんだよ。だから辞めさせる」

「なんでアンタが決めるのよ。薫はそんなこと一言も言ってないわよ?」

「うるせェ!」

 

「―――――なんだい、うるさいね」

 怒鳴り声を聞きつけた勝母がフラリと現れる。

 

「律歌。島津くんの手当頼むよ」

 勝母が指示すると、律歌は不承不承を満面にして部屋から出て行った。

 

 急須の薬湯を湯呑に注ぎ、勝母は実弥に差し出した。

「全部、()みな」

 実弥は受け取ると、また渋面で飲み下した。

 

「やれやれ……薫はどんなに苦い薬も、平気な顔して服んでたよ」

 実弥は湯呑を持ったまま、しばらく黙りこくった。

 勝母が静かに様子を見ていると、やがて神妙な顔をして正座し、顔を上げて向き合う。

 

「………勝母刀自(とじ)

 いつになく殊勝な様子で、敬称をつけて呼ぶ実弥に、勝母はフンと鼻を鳴らす。

 

「まともな言葉も話せるんだね、悪たれ坊主。クソ婆ァといつも悪態ついてるくせに」

「頼みがある」

「………言ってみな」

「アンタ、本部にも意見が言えるんだろう? アイツを……森野辺薫を鬼殺隊から除隊するように、言ってくれないか?」

 

 勝母は実弥を凝視した。

 初めて会った時から、この目だけは好感が持てた。嘘をつけない、不器用な男の目だ。

 フッと目を伏せて、勝母は問うた。

 

「どうして? あの子は優秀だよ。本部も目をかけてる。今回は危なかったが、結果的には鬼は征伐できたし、階級も上がったろうよ。今後は、下位の隊士達じゃ歯の立たない鬼の討伐に回されるだろうから、そう簡単に今までのようには昇級できないだろうがね」

 

 それはつまり、それだけ危険度も増すということだ。

 実弥はギリと奥歯を軋ませる。

 

「……アイツは鬼狩りには向いてねェ」

 つぶやくように言うと、勝母「あぁ、そうだね」とあっさり認めた。

「あの子は自棄になる質があるからねぇ。そこんところがどうにも不安だ。まぁ、それも含めて本部には今後のことを頼むつもりだよ」

 

「今後って……辞めさせねェのかよ!」

「なんだって辞めさせなきゃいけないのさ? だいたい、鬼狩りに向いてないなんて言うなら、坊主、アンタだって向いてないさ」

 唐突に自分を槍玉にあげられ、実弥はギロリと勝母を睨みつけた。

 

「…フザけんな、婆ァ。俺のどこが向いてねェってんだ」

「さぁね。自分で考えな」

 勝母は立ち上がると、縁側に出てから振り返る。

 

「悪たれ坊主、アンタが薫のことを気にかけているのはよくわかったがね、今日は会えないよ。薫は今、風邪を引いてるからね。免疫の落ちたアンタに伝染(うつ)るといけない。今回は我慢しな」

「ッ……誰が会いたいなんっ()ったァ? こンのクソ婆ァッ!」

「そう言ってるようにしか聞こえないんだよ、クソ餓鬼(ガキ)が」

 

 ペシリと障子を閉めると、勝母はスタスタと廊下を歩いていく。

 庭を隔てて向こうの棟で薫は寝ているのだが、聞こえたろうか?

 

 庭に植えられた木々の間から仄かに見える薫の部屋の明りを勝母は見つめた。

 

----------------

 

 カナエが東京に戻る時に、例の悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべて教えてくれた。

「大丈夫ですよ、おっ母様。薫には好きな人はちゃあんといますから」

「そうなのかい?」

「えぇ」

「誰だい? お前、知ってるんだろう」

「おっ母様もお気に入りの悪たれ小僧です」

「んん?」

「不死川くんですよ」

 

----------------

 

 カナエの言うことなので、あるいは冗談かとも思ったのだが、どうやら本当らしい。

 東洋一からの手紙によれば、鬼殺隊に入る以前からの知り合いらしく、単なる兄妹弟子という関係性でもないようだ。

 

 年長者としての気持ちを率直に言うなら、薫には『やめとけ』と言いたかった。

 天邪鬼だし、口も悪いし、抱えるトラウマも重い。

 こういう男は、遊郭(さと)の一夜妻が相手するくらいが一番いいのだ。下手に触れれば、痛い目に遭う。

 

 とはいっても、こればかりは他人の意見などそれこそ馬に蹴られるだけだろう。

 その上、どうやら悪たれ坊主の方も、薫に対して相当に思い入れはあるのだ。でもってそれを認めることは決してしないあたり、面倒なこと此の上もない。

 

 知らず知らず、溜息がもれる。

「やれやれ……前途多難だ……」

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.03.20.土曜日更新予定です。



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第七章 自覚(九)

 翌朝になり、薫の熱はすっかり下がっていた。身体も軽い。

 朝食を食べていると、通りかかった勝母(かつも)が「おや、いい顔色だね」と声をかけた。

 

「もう治ったかい?」

「はい。大丈夫です」

 薫が落ち着いて答えると、勝母はフッと笑った。

「もう少し、弱っててもよかったんだがね。あんたは日頃から頑張りすぎだから」

と、少し残念そうに言う。

 

「もういいです。早く身体を動かしたいので」

 本当にこれ以上は寝ている方が苦痛だった。

「やれやれ……二人そろって」

 勝母は頭を押さえた。

「師匠はものぐさ太郎だったってのに、どうして弟子の方は揃いも揃ってクソ真面目なんだろうかね」

 薫はパンを千切る手を止め、勝母に問うた。

 

「二人…?」

「あぁ、昨日ね。不死川が来てたんだよ」

 その名前を聞いた時に、以前のように表情を強張らせることもなく、自然と、

「実弥さんが? 怪我でもしたのですか?」

と、聞き返したことに、薫は内心で少し驚いていた。

 

「いや、怪我じゃないさ。昨日、重体の隊士がいてね。輸血してもらったんだよ」

「輸血?」

「不死川の血ってのは便利――――っちゃあ何だが、まぁ、有難い代物でね。普通は血をもらう方とあげる方の血液型ってのが合ってないと駄目なんだが、あの坊主の血は誰にでも輸血できるんだよ」

「それは……稀血だからですか?」

 勝母は薫がすぐにその関連性を見つけたことにニヤリと笑った。

 

「なかなか良いところをつくじゃないか。まぁ、でもそれはわからない。なにせ、そこんところは専門外でね。あの人が生きてりゃ、面白がって調べたかもしれないがねぇ……」

 おそらく『あの人』というのは、勝母の夫であった医学博士のことだろう。表立ってではないが、勝母の要望で解毒剤などの開発を手伝ったこともあったらしい。

 

「ま、それで昨夜(ゆうべ)は輸血が終わった後は飯食って寝ておけと言ったんだがね。夜半にどうやら指令が来たらしくて、出て行っちまったよ。全く、本部も人使いが荒いよ。もうちょっとぐらい休ませてやればいいのに…」

 

 勝母はフンと不満げに鼻を鳴らし、薫の様子をこっそり窺っていたが、当の薫は怪我でないとわかったら、安心したのか特に表情を変えることもなくパンを食べていた。

 

「そういや、アンタが前に律歌に教えた臓物の味噌煮込みかい? あれがよほどおいしかったらしくてねぇ。前はそりゃあ吐きそうに食べてたんだけど、今回はきれいに完食したって言ってたよ……ねぇ、律歌(りつか)

 ようやく朝の仕事を一通り終えて食卓についた律歌に、勝母は声をかける。

「あぁ、悪たれ坊主のこと? うん、そうそう。あっという間に食べてた。ありがとね、薫」

「え? 何がですか?」

「あれよ。臓物の味噌煮込みよ。前はとても食べられる代物でなかったのに、ここまで美味しくしてくれてありがとう」

 言いながら、律歌はまるで神様でも拝むようにパンパンと手を打って、祈る真似をする。

 

「なんだろうねぇ? 教えてもらった時にはもっとおいしかったんだけどねぇ…? おかしなことだよ」

「おっ母様に料理を教えようとした人が間違ってるんです」

 律歌が言うと、勝母はカラカラと笑った。

 

 十三の(とし)から柱として働いていた勝母に、普通の主婦のごとく家事万端を任すのは無理な話だろう。

 天は二物を与えず、ということだ。

 

「カナエにも作り方教えておいたから、今後は蝶屋敷でも作っておくって言ってたわ。継子に料理上手な子がいるんだって。不死川も喜んで行くようになるんじゃない?」

 律歌の話に、薫の手がつと止まった。

 

「不死川さんは、蝶屋敷にも輸血に行ってるんですか?」

「うん、そうね。輸血の場合もあるし、ただの採血もあるし。あとは不死川の血って、普通の人間にとっては有難いんだけど、問題なのが、不死川本人に輸血できる血がないってことでね」

「え?」

「隊士への輸血はいいのよ。でもいざ不死川自身が瀕死になった場合には、誰も提供者にはなれないの。だから、定期的に通って自分の血を保存しておくように言ってあるんだけど、なにせ、その後にあの臓物スウプを食べないといけないもんだから、任務にかこつけて、サボりがちになってたみたいでねー。ま、実際には不死川が重傷になるまで追い込まれたことがないから、たいていは捨てちゃうんだけどね。あんまり長く貯蔵できないし。ま、これで少しは行くようになるでしょう」

 

 聞きながら薫が考えていたのは、以前に宝耳(ほうじ)の言っていたことであった。

 

 ―――――蝶屋敷に不死川は頻繁に来るらしいんや。来たら数時間近くおることもあるらしい……

 

 つまり、こういう事か。

 自分の気持ちが定まると、他愛のない噂で狼狽していたことに気付く。

 今となれば、もうそんなことはどうでもよかった。最初から自分の想いが届くわけがないのはわかっているのだから。

 

 薫が得心して紅茶を飲んでいる間も、律歌と勝母は実弥のことで話し合っていた。

 

「そういや、律歌。アンタの同期のところに不死川の弟が行ったとか言ってたろう?」

「悲鳴嶼くんのこと? うん、そう。なんか拾ったらしいよ」

「拾ったってね…猫じゃないんだから」

「あの人にとっちゃ猫と大差ないわよ」

「一度、カナエのとこでもいい。調べたらいいかもしれない。もしかして兄弟なら同じ血を持ってるかもしれないしね」

「そうねぇ……なんか、妙な子だとは言ってたわ」

「聞いておいておくれな」

「はーい」

 

 律歌が頷くと、薫はちょうど食べ終えたところだった。

 ご馳走様でした、と手を合わせてから、律歌を呼び止めた。

「この後、滝壺に行きたいんですが。お時間はよろしいでしょうか?」

 

 律歌はチラと問いかけるように勝母を窺う。「やれやれ…」と、勝母は溜息をついた。

「昨日まで熱があったんだろ? もう一日様子見たら?」

「大丈夫です。お願いします」

 勝母はまじまじと薫を見つめて問うた。

「………力は抜けたかい?」

「はい」

 頷いた薫の顔を見て、その清々しい様子に勝母は「そうか」とつぶやくと、許可を出した。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 律歌についてきてもらい、軽く柔軟運動をしてからちゃぷん、と水の中へ飛び込む。

 少しだけ潜ってみた。

 水の中から見上げると、青い空が木々の陰を通して、ゆらゆらと揺らめいている。

 ぷかりと浮き上がってぐるりと周囲を見回すと、滴るような緑葉の木々が太陽の光の下、濃い影を水面に落とし、飛沫(しぶき)舞う滝にはうっすらと虹が架かっていた。

 最初の日に訪れた時以来、辺りをのんびりと観賞する余裕もなくなっていたことに気付く…。

 

 すぅぅ、と深く息を吸い込む。全集中の呼吸。

 奥深く吸い込み、肺の隅々に澄んだ空気を取り込む。

 そのまま後ろへ倒れていくように水の中へと入っていった。

 

 何の抵抗も感じず、奥へと進んでいく。

 早くも遅くもない速度。

 水圧が徐々に重くなるにつれ、横隔膜が柔らかく肺を持ち上げていく。

 肺内部の圧力が高くなって、さっき吸い込んだ空気が血の中に溶け込んで、全身へと行き渡っていく……。

 

 思っていたよりも早く、刀が見えた。岩と岩の間に挟まっている。

 黒い(つか)を持ち引っ張るが、抜けない。

 ごとごと、と石が動き、透明な世界にわずかに土埃が舞う。

 引っ掛かっている、というより長くその場に刺さっていたために、藻か何かで固着しているようだ。

 岩に足を突っ張らせて、柄を左右に少し動かしてからもう一度引っ張ると、ブチブチと何かが切れるような感触がして、抜けた。

 

 すぐに上を向く。呼吸に乱れはない。

 岩を蹴って上へとゆっくり昇っていく。

 

 水底から見える景色は、美しかった。

 魚が泳ぎ、水面に落ちた葉のつくる影が水中にも暗がりを作り、その間から光が木漏れ日のように差し込んでいた。

 

 薫はそうした景色を楽しみながら、ゆっくりと浮上していった。

 

 ぷかりと頭を出した薫の表情を見るなり、律歌は刀をとってきたのだとわかった。果たして、薫はその錆びた刀を堂々と掲げ見せた。

 

「………お見事」

 律歌は言いながら、少しだけ寂しかった。

 とうとう薫もまた、ここから巣立っていく。

 

 百花屋敷に戻ると、勝母は療養者の診察を行っていた。

 薫が刀を取ってきたことを聞いて、「そうかい」と頷いた。

 

 折しも、本部からそろそろ森野辺薫を任務に復帰させる旨の連絡が来ていたところだった。

 常中の修行中とはいえ、既に鬼殺隊士の身分である薫が、療養を終えていつまでも任務を免除されるわけもなかった。

 まして、薫は既に中堅の実力者と見られている。

 本部としてもいつまでも待っていられないのだろう。

 

 勝母はハアァと長い溜息をついた。

 

 最近の鬼殺隊は勝母のいた頃に比べ、平均年齢も若く、また経験も浅いまま死んでいく隊士が多かった。

 御一新*の此の方、文明開化という世の風潮もあってか、近頃の若い世代はどうにも堪え性がない。年長者の意見をきかない。功を焦って、慎重な行動ができない。

 

 正直、隊士は多くなったが、その分の質の低下は否めない。

 どこかで(ふるい)にかけて、精鋭を選り分ける必要があるだろうが、最近の鬼の出現率の多さからしても、そこまでしている暇もないのだろう。

 

 一体、無惨は何を考えているのだろうか。

 明治の後半あたりから、やたらと鬼が増えた気がする。

 

 無論、交通網の発達によって、以前よりも情報そのものが収集されやすくなって、今まで網にかからなかった遠方の鬼も討伐対象になるようになったというのもあるだろうが、それにしても長年の鬼殺の資料を見ても、黒船以前の頃からすれば、去年は三倍以上になっている。

 

 鬼は群れず、同じ縄張りにあれば共食いして消えていくものだ。

 一体、何を目的に鬼を増やして回っているのかが理解できない。

 鬼は人のように徒党を組まないのだから、まさか一斉攻撃をしかけるつもりという訳でもなかろうに……。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 勝母は診察を終えた後、道場で素振り稽古をしている薫に声をかけた。

 

「よくやったね。これで、鬼との戦いも随分と動きが違ってくるだろう。普通なら、これで終わったと思って油断せずに精進しろ、と言うところだが……」

 勝母はしばらく考え、フッと笑った。

「アンタに限って稽古をサボるようなこともないだろうから、反対にね、たまには気を抜いて、のんびり遊ぶことだ」

「……がんばります」

 頑張るこっちゃないよ、と勝母は言いかけてやめておいた。

 

 本部には、これから薫にはなるべく共同任務につけるよう頼んである。

 基本は単独行動の鬼殺隊ではあるが、あまりに平隊士の殉職が多いため、勝母の代くらいから複数人数での戦闘を許すようになってきた。

 薫の実力であれば単独任務は可能だろうが、共同任務につけば、佐奈恵のように考え方の違う隊士と触れ合うことで、少しは心の持ちようも変わるだろう。

 

 真面目で、頑固で、己から目を逸らさず、ひたすらに剣の道に打ち込む――――。

 聞こえようによっては、それは素晴らしい剣士だ。

 だが、その道がただ自らの強さのみを追い求めた結果、独り善がりのものであるなら、そんなものは邪道に堕ちる。

 勝母自身の中にある経験が、薫の持つ危うさを浮き彫りにしている。

 

 決してこの子を『あちら』へと堕としてはならない……。

 

 

 

第二部 了

 

<第三部につづく>

 

 

 




*御一新……学校で習うところの明治維新のこと。


次回は2021.03.24.水曜日の更新予定で、久しぶりの閑話休題。本編番外編となります。



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閑話休題 其の弐
<花柱と天邪鬼>


「いらっしゃい、不死川くん。待ってたわ~」

 ニッコリ笑って胡蝶カナエに迎えられた時、実弥はなぜか背中がゾクリと冷えた。一歩後退(あとずさ)り、クルリと踵を返す。

 しかし扉を再び開ける前に、ガシッと肩を掴まれた。

 

「どこに行くの?」

「いや…今日は、用が」

「なんの?」

「…………」

 

 こういう時にパッと適当な嘘が思いつかない自分が恨めしい。

 

「さっ、血をとりますよ~」

 腕を掴まれると、寝台の方へと連れて行かれた。

 なぜだろうか…今日の胡蝶カナエはいつもと様子が違う気がする。

 

 だがカナエのやっている事はいつもと変わらない。簡単な問診の後、聴診をして、問題なければ採血に入る。

 針を構えるカナエを下から見上げた。

 笑っているが、笑ってない。目が。

 

「ちょっ、ちょっと待てェ!」

「なぁに~?」

「お前、なにか……企んでないか?」

「なにを企むっていうの? いつもやってることなのに。はい、腕出して」

 

 実弥はどことなく不穏な空気を感じつつも、今更帰ることもできず、目を閉じた。

 鬼にやられることを考えれば大した痛みでないのだが、なぜか注射されるのは怖い。

 ただでさえ怖いのに、今日の胡蝶カナエは妙に怖い。

 

 チク、と肌に突き刺された感覚に、心の中でうっと呻きつつ耐えていると、

「あれ~? なんか上手くできないな~」

と、カナエは一旦針を抜く。

 

「ごめんなさいね~、不死川くん。もう一回」

 またチクリ。だが、またうまくできなかったのか、抜く。

 

 痛い。地味に痛い。早くやれ。やるんなら、すっとやれ。

 

 しかしカナエは上腕部分の紐をグイッときつく締め上げ、腕を乱暴に擦り上げ、ベチベチと叩きだした。

 だんだん叩く力が強くなっていっている気がする……。

 

「おかしいなぁ? 血管が逃げちゃうなぁ」

 血管が逃げる…の意味がわからない。

 が、実弥がうっすら目を開けてカナエを見ると、無表情に針を持って実弥を見ていた。

 がっつりと目が合うと、ゆっくりとカナエは微笑んだ。

 

「この針だと上手くいなかないから、別のでやるわねー」

 そう言うと、次に持ってきたのは見るからにさっきのよりも太い針だった。

 

「オイ!」

「なにー?」

「太いだろ、それ! かえって入らねぇだろうがァ!?」

「そう? そんなに変わんないわよ。でも右腕やりにくいから、左でやってみよっか」

「…………胡蝶ォ」

「なに?」

「お前、なんか……怒ってないか?」

 

 カナエは否定もせず、ただに~っこりと笑った。

 実弥の背にゾクリと悪寒が走る。

 すぐさま起き上がって帰ろうとしたが、カナエは左手で実弥の肩を掴み、右手で針をもったまま、氷の微笑を浮かべて歌うように問うてくる。

 

「帰るの~、不死川く~ん? 薫に言うわよぉ。あなたの兄弟子は注射が怖くて逃げちゃった~って」

 いきなりその名を出されて、実弥は固まった。軋んだように首が動いて、カナエを見つめる。

「テメェ……なんで」

「なんで私が薫を知ってるかって? そりゃ、薫はここのところずーっとおっ母様のところにいたんだから、当然のことでしょ? まぁ、その前から知り合いだったけど」

 そういえば……と、実弥の脳裏に勝母の顔が浮かぶ。

 

 ―――――薫は今、風邪で寝込んでるから、会えないよ。

 

 あそこで世話になっていたなら、勝母の弟子であるカナエと知り合う機会があって当然だろう。

 

 表情をあまり変えない実弥の態度が、カナエには面白くなかったのだろう。

 いきなりとんでもないことを言い出した。

 

「薫とはねぇ……口づけを交わしたこともあって」

「は……ハアアァ??!! テメェ……何考えてん…」

 愕然とする実弥の様子に、ニコと微笑んで付け足す。

「なぁに? だって、そうしなけりゃ死ぬところだったのよ。溺れて。すぐに呼吸蘇生したから助かったの。いけなかったかしら?」

「…………」

 

 完全に振り回して楽しんでいると気付くと、実弥は途端にムスッといつもの怒ったような顔に戻った。

 だがカナエはまだ思わせぶりに薫のことを話そうとする。

 

「一晩中語り明かしたりもしてねぇ……色々と聞いたの。色々と」

「………くだらねぇ。とっとと血とれよ」

「あ、そう」

 言うなりカナエは実弥の腕にブスリと針を突き刺した。

「~~~~~~~!!!!!!!」

 思い切り痛覚に入った。腕にビリビリと電気のような痺れが走る。

 

「痛い? ごめんね、間違えちゃった」

 カナエはハハハと笑うと、また針を抜いた。

「胡蝶ォォ……テメ…ェ」

 もうこれは確実に悪意である。悪意しかない。

「ごめん、ごめん。今度はちゃんとやるから、ね?」

 

 カナエはコロコロと笑って、また酒精綿で腕を拭うと、小さな針に持ち替えた。真面目な顔になって、スッと針を血管に入れる。管を赤い血が通っていく。

 やれば最初から出来たはずである。実弥は溜息まじりにつぶやいた。

 

「……何を言ったんだ……アイツ……」

「聞きたい?」

「いらねぇ」

「あと三、四回やればよかったかしら……」

「いい加減にしろ!」

「はいはい。あ、終わったら臓物煮込み、食べてってね」

「…………あれ、だろうな?」

「あれ……って? ……どれ?」

「前の不味(マズ)いのじゃねェやつだ」

 カナエは腕を組みながら、不敵な笑みを浮かべる。

 

「薫が作り方を教えてくれた臓物煮込みの方を食べたい?」

「…………」

「薫の作った方のが食べたーいって、言うなら用意してあげてもいいわよ」

「…………いらねェ」

「あ、そ。じゃ、不味いやつでいいのね?」

「………」

「い・い・の・ね!?」

 カナエが重ねて強く尋ねたが、実弥は顔を背けて寝てしまった。無論、狸寝入りだ。

 ふぅーっと不満げな溜息をもらすと、カナエは部屋から出た。

 

「……ほんっと、素直じゃない」

 バタンと扉を閉めてからボソリとつぶやく。

 

 ―――――実弥さんは………何も悪くありません

 

 結局最後まで、薫は実弥のことを責めなかった。

 具体的に二人の間に何があったのかは不明のままだ。推し量ることはできても、断定はできない。

 

 ただ、カナエは不満だった。

 なんだってあの男のために薫が泣かないといけない? あんな苦しい気持ちを抱えて、生きなければなならない? 

 

 律歌とも話したが、どうも薫という子は放っておけないところがあるのだ。真面目なのはいいが、真面目が過ぎて自分を追い込みすぎる。勝母の言うように恋でもすればいい…と思っても、それすらも重い足枷になっている。

 

 あぁ……なんだってあんな()が好きなんだろう?

 

 ―――――と、カナエが人知れず悶々と忿懣を溜め込んでいたところに、問題の不死川実弥がやって来たのだ。

 そりゃ多少の……意地悪の一つや二つや三つや四つ、してしまいたくもなるというものだ。

 これで薫の名前を出して、悪口でも言い出したら極太の注射針をあと三十回は刺してやらないと気が済まなかったが、一応仕事なのであの程度で勘弁してあげよう。

 あんまりイジメて薫に嫌われたくもない……。

 

 臓物煮込みを用意しておいてもらうため台所へ向かう途中で、見知った顔がこちらに気づいて頭を下げた。

「あら、粂野くん。どうしたの? 怪我?」

「あ、いや……実弥がこっちに来てるって訊いて」

「あぁ。不死川くんならいつものよ。一時間ほどで終わるわ。あ、そうだ。粂野くんも食べてく? 臓物の煮込み」

「え?」

 匡近の顔がヒクリと歪んだ。

 

 蝶屋敷、及び百花屋敷で出される輸血後の『臓物の煮込み』は、一部の隊士達の間では伝説的な不味さで有名な一品。

 匡近も他の隊士の輸血をした後に食べさせられて以来、思い出すなり吐き気がしてくる。

 

 だが、カナエの話で表情が変わった。

 

「随分と評判悪くって…今回、調理法が変わったの。作り方を薫…あ、粂野くんの妹弟子でもあるわよね? 森野辺さんが教えてくれて、とーっても美味しくなったのよ」

「え? 薫が……作ったんですか?」

「作り方をね。実際に本人が作ったらもっと美味しいんでしょうけど……まさかわざわざ作りに来てはもらえないし。どう? 食べる?」

「はい」

 カナエはニッコリと笑った。素直でよろしい。

 

 粂野を食堂へと案内すると、台所へ向かい、調理を担当してくれている神崎アオイに声をかけた。

「アオイ、臓物の煮込みって出来てる?」

「はい。出来てます」

「じゃ、一人前食堂に持ってきてもらえる?」

「わかりました」

 

 しばらくすると、お盆の上に臓物の煮込みとご飯を載せてアオイが現れた。

 粂野はその茶色く照り光るおかずを見て、「うわぁ」と驚く。その反応にカナエは微笑んだ。

 

「どうぞ。美味しそうでしょ?」

「あ、じゃあ…いただきます」

 以前の臓物の煮込みならば、食べ始めるまでに皆、十分以上はかかっていたものだ。「冷めたら余計にまずくなるわよ」と言われて、渋々食べ始めるのが常だった。

 カナエは心の中で心底、薫に感謝した。これからはおかわりするぐらい食べてくれるだろう……。実際、匡近に用意したご飯はあっという間に半分以下になった。

 

「美味しい?」

「はい!」

「さすが薫よねぇ。おっ母様に教えてもらった通りに作ってたら、いつまでも評判が悪いままだったわ」

「あ、いや……前のも別に食べられないって訳じゃないんだけど……」

 カナエはクスっと笑う。

 

「本当に、粂野くんは素直でいいわ。気遣いもできるし。――――誰かさんと違って」

「あの……実弥がなにかしました?」

「私には何もしてないけど……」

 ―――――というより、私がさんざしてやったけど……ということは隠しておき、カナエは溜息をつきながら尋ねた。

 

「ねぇ、粂野くん。粂野くんも不死川くんも、弟子時代に薫と出会ったのよね?」

「あ。いや……俺はそうなんですけど。実弥は前から知り合いだったみたいです」

 律儀に匡近が訂正して答えると、カナエは目を見開いた。 

「……そうなの?」

「はい。だから師匠の家で再会した時には喜んで……」

 

 匡近は薫が実弥に抱きついて、泣いて喜んでいた姿を思い浮かべた。

 あの時は、屈託なくただただ嬉しそうだった。

 それが鬼殺隊に入ってからは、実弥の名前を出しただけで顔を強張らせるようになった。以前は手紙で互いに新旧の実弥の面白話を書きあったものだったが、それもいつのまにかなくなっている…。

 まぁ、もっとも双方とも忙しくなって、ゆっくり思い出話を書いている暇もないだけかもしれないが。

 

 そんなことをつらつら考えている匡近の前で、カナエがバタリと机に突伏した。

 

「え? あれ…? 胡蝶…さん?」

「そういうことかー………」

 

 その独り言は大きく、少し怒っているようにも聞こえた。

 なにか自分が言ったことで、気に障ったかと匡近はドキドキしたが、そうではないようだった。

 

「弟子になる前から知り合いだったんだ」

「あ、はい。そう、みたい、です」

「そう。そういうこと……」

 カナエはゆっくりと立ち上がった。

 

 なるほど。

 薫にとって実弥は兄弟子でなく、もっと前からの特別な存在だったという訳か……。

 

 軽く吐息をもらしたカナエを、匡近が心配そうに見ていた。

「あの……薫と実弥がなにか?」

「粂野くんは……薫のこと好きでしょ?」

 断定しながら尋ねると、匡近は顔を真っ赤にする。

 本当に、素直だ。彼を好きになれば、きっとあんなに苦しむこともなかったろうに…可哀相な薫。

 

「…いや……あの……」

 否定しようとして言葉に詰まる匡近に顔を近づけると、カナエは囁いた。

「頑張って。私は…粂野くんを応援するわ」

「……………へ?」

 匡近は情けなく聞き返す。

 カナエはすっと離れると、ニッコリと微笑んで立ち去った。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

「お前なにか……花柱を怒らせるようなことしてないか?」

 

 蝶屋敷からの帰り道、匡近が尋ねると、実弥はムスッとして「知らん」と一言。

 怒らせた覚えはないが、怒っていたのは確かだろう。右にも左にも注射針を刺されて、少し青くなっている。

 

 あの女…やわそうな体をしておきながら、体重のかけ方がわかっている。肩を掴んだ力も、普通の女の力ではありえない。無理やりに押し返すことはできたが、注射針が不気味で動けなかった。その上……

 

「なんか、薫の話になったんだけど……」

 匡近が言いにくそうに尋ねると、実弥はギロと睨んだ。

「余計なこと言ってねェだろうなァ?」

「余計なことって……なんだよ」

 匡近が聞き返すと実弥は口を噤み、歩く速度を早めた。

 

 しばらく行くと川べりの道に出た。

 横目に流れゆく川の景色を眺めながら、川のそばで頼りなげに佇む薫の姿が浮かぶ。

 

「…………」

 実弥は昔、いつまでも川を眺めている薫を見て思ったことがあった。

 こいつは一人じゃないと、泣けないんじゃないか……と。

 

 引き取ってくれた養父母への恩義。その期待に応えるために、必死で勉強して、学校でいじめられても黙って耐えて、人前で泣くことも自ら禁じたのではないか。

 そうして時折、川に来た時だけ、押し殺した自分(なみだ)を……流していた。

 

 ―――――自分が消えてく……

 

 ポツリとつぶやいた時の、白い、死人のような表情。それを掻き消すための、痛々しい笑顔。

 

 自分ならあんな顔はさせないと、その時は思っていたはずだ。だが………

 

 あの日。

 気を失った薫の、閉じた瞼から涙が頬をつたって流れた。

 

 一番傷つけたくなかったのに、結局一番傷つけた。

 何度も自分を殺して、心が冷たく固まって、傷ついていることにすら気付けなくなっている薫を知っている………はずだったのに。

 自分にはもう薫を救う資格すらない。

 

 それでも見たくなかった。

 考えたくもない。

 いつか薫が鬼に殺されることなど。

 だから遠ざけたし、嫌われようが構わないから冷たい態度もとっていた。

 

 それなのに……志津の死の真相を知った薫は、実弥のために涙し、憐れみさえする。

 

 ―――――情けねェ……

 

 頼むから罵るだけ罵って、さっさと鬼殺隊から出て行ってほしい。

 

「実弥?」

 匡近が心配そうに覗き込んでいた。「大丈夫か?」

 いつのまにか橋の上で立ち止まって、川の流れを見ていたらしい。

 実弥はぶん、と頭を振った。

 

「………大したことねぇよ。口直しでも買ってくか」

 言いながら懐からツギのあてられた道中財布を取り出して、金を確認する。

 

 匡近はまじまじとその財布を眺めた。

「お前…それ、またボロボロになってきたな」

「あ?」

「買い替えないのか?」

「…………馴染みがいいんだよ、これが」

 匡近は驚いたように実弥を見た。

 初めて、正直な言葉を聞いた気がする。

 

 だが匡近が何か言う前に、実弥はまた足早に歩き出していた。

「行くぞ、匡近。早く行かねェと、店が閉まっちまう」

 

 

 

<了>

 

 

 





次回は2021.03.27.土曜日の更新になります。
次回も閑話休題・番外編です。

pixivの方では、作者のつぶやき話をアップしてます。興味とお暇がある方はどうぞ。



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<見えない瞳>

 藤襲山に朝が訪れ、その名の通りに重なり合うごとく連なる藤の花の森に入ると、目の前に巨大な人影が見えて、律歌(りつか)は思わず固まった。声も、思わず出てしまっていたかもしれない。

 

 なんで、藤の花の中に鬼がいる?

 いや、しかし鬼が藤の花が苦手といっても、あくまで『苦手』なだけで、頑張って我慢すれば多少は歩いたりもできるのだろうか……?

 

 しかし前を歩いていたその男は、後ろで(かす)かに聞こえた声と、律歌の緊張を感じ取ったのか、ふと歩みを止めて振り返った。

 

 額に大きな傷跡、首には朱い数珠が幾重にも巻かれている。

 こちらを見る目は白濁していて、目が合っているのかどうかはわからなかった。もしかすると盲目なのかもしれない。

 律歌は刀に手をかけつつ、そろそろ近づいた。

 

「………私は鬼ではない」

 

 男はつぶやくように言った。その目から涙がツツーっとこぼれ落ちる。

 律歌はあわてて駆け寄ると、早口に言い訳をした。

 

「あっ、ごめん、ごめん。ごめんねー。いやー、あんまり大きいから熊か鬼かと思ってさー。そんな泣かないでよー。大の男が」

「……涙は光に目が染みて出ているだけだ。泣いているわけではない」

「あぁ、そうなの? って、アレ? 目、見えてるの?」

「見えない。……が、光はわずかに感じる」

「あぁ、そうなのね。えーと……あの、あなたも受験者?」

「………」

 

 男は無言で鳥居の方へと向かっていく。

 律歌も後をついて歩きながら、周囲を見渡したが、どうやら二人だけだった。入る時には二十人近くはいたのだが、皆、殺られてしまったのだろうか。

 

 鳥居を出ると、前面に朝焼けの空が広がっていた。紫と朱色の雲が混ざり合って、周囲の山々の間を渡っていく。

 

「綺麗ねぇ……でも、今日は雨ね。朝焼けが綺麗な時は雨だものね?」

 律歌は同意を求めるように言ったが、当然のことながら盲目の男に見えるはずもない光景だった。

 

「お帰りなさいませ。おめでとうございます。ご無事でなりよりでございました」

 そこで頭を下げていたのは白髪の美しい女の人だった。

 七日前に行くときにも、「ご武運を…」と送り出してくれた人だ。その時いた数名の受験者達が「奥方様だ」と囁きあっていたのを思い出す。

 

 律歌は手を上げた。

「あのー」

 女の人が「なにか?」と問いかける。

「あなたは、奥方様なんですか? 御館様の」

 

 不躾かな…とは思ったが、好奇心が勝ってしまった。

 女の人はフワリと笑んだ。

 

「えぇ。左様でございます」

「あ、そうなんですね。やっぱり御館様の奥方様になられる人は綺麗な人なんですねぇ…」

 律歌が言うのを、御館様の奥方――――産屋敷あまねは返事することなく、また少しだけ笑って、この後の説明をした。

 

「御二方には、刀を造るため、まず玉鋼を選んでいただきます。そちらからお選びくださいませ」

 

 机の上に大小十個ほどの、形も、浮き出る色も様々な石が並んでいた。

 律歌は目についた一つを取り上げて、「はい、これ」とあまねに示した。

 即断即決。

 そそそ、と横から現れた隠の人が、手に持った手拭い越しに受け取って、そのまま丁寧に包んだ。

 

 男は机の上に並べられた石を一つ一つ手に取っていた。

 律歌は近くにあった大きな切り株にペタンと腰掛けて、その様子を見ていた。

 見ていると……七日間の緊張感が途切れ、自分が生き残ったという安堵と、疲れと、空腹感が一気にやってくる。

 

 その男が二つの石を比べて、最終的に一番大きな玉鋼を取ったところまでは見えていた。

 なんだぁ、大きさで選んだのか…じゃあ、教えてあげればよかったなぁ……と思っていたのも覚えている。

 

 だがその後に鎹鴉が支給されたこと、すっかり寝入ってしまった律歌をその男が背負って、藤家紋の屋敷まで運んでくれたことは、まったく知らない。

 

 半日近く眠りこけて、目を覚ましたのは夕暮れ近く。

 雨の降る音でだった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「ごめんねー。なんか。運んでくれったって?」

 

 縁側で巨体を縮めていた男に声をかける。

 同時に男の胡座の中で気持ちよさそうに寝入っている猫二匹を見つけて、律歌は「やだ。可愛いじゃない」と隣に座り込んだ。そろそろと頭を撫でると、猫は一瞬、目を開いたが、害意はないとわかって、また目を閉じる。

 

「気持ちよさそうに寝てるわねー」

 男は少しバツの悪そうで身じろぎしようとしたが、律歌は止めた。

「せっかく寝てるんだから、もうちょっとそのままでいなさいよ。あ、でも(かわや)なら仕方ないけど」

「ち、違う……」

「じゃ、そのままでいてあげてよ。せっかく気持ちよさそうに寝てるじゃない」

 

 理不尽なことを言われながらも、男は結局言われるままに動かなかった。

 律歌はフフフと笑って猫を見つめた後、思い出したように顔を上げた。

 

「そういえば、自己紹介まだだったわね。私は房前律歌よ(ふささきりつか)。花の呼吸を使ってるの。あなたは?」

「……悲鳴嶼行冥」

「お坊さんみたいな名前ね」

「……寺で育てられたから」

「あらそう。いくつ? 私十七歳」

「……十八」

「えっ? そうなの? 見たままだったのね。鬼殺隊に入るのって十四、五歳が多いから、てっきり老けて見えるだけで年下かと思ってたけど、十八なら年相応……でもないか。老けてるか、やっぱ。でも珍しいわね。私、自分が一番年上だと思ってたのに」

 

 悲鳴嶼行冥は少しばかり混乱していた。

 自分の人生の中に、こんなにも賑やかな雰囲気の人間を()()()ことがなかった。

 子供達と過ごしていた時も、もちろん毎日が騒がしく、甲高い声に囲まれていたのだが、どうも律歌から感じる空気はそれとは違う。

 生き生きとして陽気で、そこにいるだけでなにか明るい。

 そのせいで、少々失礼なことも言われている気がするが、あまり嫌味に聞こえない。

 しかし悲鳴嶼はどう言えばいいのかわからず、とりあえず呼びかけた。

 

「………房前」

「なに?」

「お前………隊服の寸法は測ったのか?」

「うん。さっきね。鎹鴉にも挨拶してきたよ。名前つけてもいいっていうから、百合って名前にした。あー……それにしても、よく降ってるねぇ…雨。あ、でもここから藤襲山見たら、なんか紫の霧雨みたいで綺麗。ねぇ、そう思わない?」

「……見えないからわからない」

「あぁ、そうだった。いつから見えないの?」

「……赤子の時に熱を出して、見えなくなったようだ。よくは知らない」

「あー…じゃあ、色とかもわかんないんだね。残念。紫ってさぁ…そうだなぁ。雨の日のお線香みたいな感じかな。白檀とか。上品で、ちょっと物悲しいの」

「…………」

「あ、ごめん。私もよくわかんない」

 

 律歌は自信がなかったのかすぐに謝ると、隣で無言になった。

 悲鳴嶼は胡座の中で眠る子猫を撫でながら、どうにか言葉を押し出した。

 

「……雨、降ったな」

 律歌が首をかしげて悲鳴嶼を見ると、あわてて付け足す。

「あんたが朝に……言ってた」

「あぁ…そうね。そういえば、今日は綺麗な朝焼けだったものね。奥方様も綺麗な人だったなぁ……。悲鳴嶼くん、見たらきっと一目惚れだよー」

「馬鹿なことを言うな……御館様の奥方に」

「ハハハハ! そうね。さすがに失礼か」

 言いながら律歌は立ち上がると、うーんと伸びをした。

「あー、お腹減ったぁ。夕飯まだかなぁ……」

 そのまま廊下を歩き去っていく。

 

 去っていった方を眺めながら、悲鳴嶼は奇妙な女と同期になってしまった……と、少しばかり嘆息した。

 

 

 翌朝、すっきりと晴れ渡った空の下で、悲鳴嶼と律歌は別れた。

 別れ際、律歌は手を差し出すと、ボンヤリ立っている悲鳴嶼の右手を取った。

 

「じゃ、お互いがんばろー」

 ギュッと握手すると、パチンと手の平を打ってくる。

「じゃあねー、悲鳴嶼くん。元気でねー」

 

 その声を聞きながら、悲鳴嶼は手を振った。

 おそらく律歌も振っている。大きく何度も振っているだろうと思った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 一年後。

 

 同期ということもあってか、最初は二人で共同任務にあたることも多かったが、半年ほど過ぎると、悲鳴嶼の階級がどんどん上がり、その間に律歌が怪我で療養することもあって、いつのまにか会わなくなっていた。

 

 久しぶりに律歌に会えた時、悲鳴嶼はホッとしていた。

 任務中に鬼に殺される隊士は少なくない。また殺伐とした職務を続ける中で、精神を病む者も多かった。だが、律歌は相変わらず元気でおしゃべりだった。

 

 その日、久しぶりに共同任務にあたることになった時、悲鳴嶼は話の流れで気付くと自分が鬼殺隊に入った理由を話していた。

 

「……じゃあ、悲鳴嶼くんが間違われて捕まっちゃったってこと?」

「そうだ」

「あらまぁ、大変。とんだ勘違いされちゃったわねぇ…」

「………」

 

 とんだ勘違いどころか、もし沙代の言葉のまま物事が進んでいっていたら、悲鳴嶼は処刑されてここにいない。

 

「子供というのは、そういうものだ。いざとなれば己の弱さのまま、暴走する。自らの行いが残酷なことを知ることもなく、無自覚に人を傷つけ、そのことを知ることもない。私の言うことを聞かずに逃げた子も、沙代も、所詮は私を信じていなかったのだ」

「………」

 横に歩く律歌は頷かなかった。うーん、と納得いかない様子だ。

 

「本当にそうかなぁ……?」

「………何がだ?」

「だって、その子達、悲鳴嶼くんと一緒に暮らしてたんでしょ? もちろん悲鳴嶼くんがその子達の面倒を見てもいたんだろうけど、目の見えない悲鳴嶼くんのことを手伝ったりもしていたでしょう? そういう子達がそんな薄情かなぁ?」

「………普段はわからないだけだ。いざとなれば皆、本性が出る」

「その本性はいつも裏切るだけ?」

 

 悲鳴嶼は戸惑った。

 律歌の声は少し怒っているように、苛立っているように聞こえた。

 

「……間違っているのは私だというのか?」

「それはわからないわよ。その場にいた悲鳴嶼くんがそう感じるのなら、それが一応の正解なんでしょう」

「一応?」

「私は悲鳴嶼くんの性格をある程度わかってるつもりで言うけど、悲鳴嶼くんと一緒に暮らしていた子達がそんなに薄情者だったとは思えない…ってだけよ」

 

 その声音の中に、少しばかり憐れみが入っているように思えた。

 悲鳴嶼は眉を顰めると、足を早めた。

 

 わかったようなことを言う。何も知らないくせに。

 あの時、どれだけ自分が必死に子供達を守ろうしたか…。

 ただ一人残った沙代を助けるために、気味の悪い感触に吐き気すらおぼえながらも、ただただ拳をふるい続けた。夜明けまで。

 それなのに沙代は断罪したのだ。「アノ人ハ化ケ物」と。

 

 隊士になって以来、いつも沈着冷静に鬼と対峙してきた悲鳴嶼が、その日は少しばかり感情的になっていたかもしれない。

 現場に一般人がいたことに気付かず、戦闘を始めた悲鳴嶼を止めることのできなかった律歌は、巻き込まれた人を庇って鬼の攻撃を受けた。

 

「房前!」

 自分の失態に気付いた悲鳴嶼は動揺し、あわてて律歌に駆け寄ろうとする。

 だが、その背後で鬼は悲鳴嶼にやられた腕を再生して振り下ろそうとしていた。十本の毒の爪が飛び、悲鳴嶼を切り裂く前に、律歌は跳躍して技を繰り出した。

 

 花の呼吸 陸ノ型 渦桃

 

 空中で身体をひねりながら、渦巻いた斬撃で鬼の爪を弾く。

 

 不十分であることはわかっていた。

 庇ったときに攻撃を受けた足が痺れて、跳躍が足りない。これでは鬼の首は斬れない。

 あくまであの毒の爪から悲鳴嶼を守り、こちらに鬼の注意を向けさせる程度だ。その間に悲鳴嶼が攻撃体勢に入るだろう。

 

 着地すると、ガクと勝手に足が膝をつく。

 左足がビリビリと痛みを増すと共に、足先から徐々に痺れが広がっていく。

「クッ………」

 顔を上げると、呆然となっている悲鳴嶼がいた。

 

「馬鹿!」

 律歌は怒鳴った。

「なにやってんのよ! さっさとやっつけなさい!」

 発破をかけられ、悲鳴嶼はハッと我に返った。集中を高めると、呼吸の技を繰り出す。

 

 岩の呼吸 弐の型 天面砕き

 

 その凄まじい威力を前に、鬼の首どころか上半身が砕け潰れた。返り血が派手に散る。

 見る間に鬼の姿は塵となって霧散していった。

 

 悲鳴嶼が血塗れの顔で振り返ると、律歌に助けられていた男が「ヒッ!!!」と裏返った声を上げて後退(あとずさ)った。

 律歌は腰を抜かした男の前にしゃがみ込むと、

「大丈夫だから……」

と、声をかけたものの、男はその律歌の顔を蹴りつけた。

()っ!」

「……貴様!」

 悲鳴嶼は鎖を掴み上げて、見えない目で男を睨みつけた。

「ハ、ハ……なんだテメェ……めくらかよ」

 男は悲鳴嶼が盲目であることに気付くと、半笑いを浮かべて逃げていった。

 

 追いかけようとしたが、あんな男よりも律歌のことが気にかかった。

 振り返った悲鳴嶼は、しかしクスクスと笑う声がして困惑した。

 

「おい……大丈夫か?」

「大丈夫、大丈夫。なんつー男よ、ねぇ? 助けてもらっておいて、女の顔を蹴るってさー。ありえないわー。ほんっと」

「………怪我は…?」

 律歌は笑いを収めると、冷静に今の状態を説明する。

「毒ね、おそらく。薬は飲んだけど……足が変色してきてる。血を抜かないといけないから、さっき太腿を切った。隠が来て助かるか、失血死するか……ってとこかな」

「………」

 

 近くに藤家紋の家がある。すぐに処置すれば間に合うはずだ。

 悲鳴嶼は律歌の前に屈んだ。フッと律歌は笑った。

 

「大丈夫? 悲鳴嶼くん。そんな重いの持ってるのに」

「……あんたをおんぶするくらいは、大した違いはない」

「お、言ったね」

 律歌は軽口を叩くと、起き上がろうとして痛みに顔を顰めた。が、歯を食いしばって身を起こし、悲鳴嶼の広い背に倒れ込むようにおぶさった。

 

 藤家紋の家までの道は満月に照らされていた。昼でないが、明るい。

 冬に入る前の冷たい風が頬を撫でてゆく。

 

「……人の本性が出たね」

 律歌がつぶやくように言った。「あれは確かに……傷つくよね」

 

 悲鳴嶼は黙っていた。任務前にそんな話をしたせいで、自分がいつになく落ち着きを失い、律歌にいらぬ怪我を負わせてしまったことを悔いていた。

 

「でも、あんな奴と……悲鳴嶼くんが一生懸命世話してた子達が一緒だと思う?」

「……房前。その話はもういい」

「なんかしゃべってよ。なんか……話してないと気を失いそうだし……そしたらそのままアッチにいっちゃいそうだし……まぁ……行ってもいいんだけど」

「………」

「あーあ。……私がこのまま死んでも悲鳴嶼くんは悲しまないかー」

「………お前は…なんで鬼殺隊士になった?」

 

 死にかけている人間にする話なのかどうかわからなかったが、悲鳴嶼はそれしか話題が思い浮かばなかった。

 律歌はしばらく黙り込んだ。

「おい?」

 声をかけると、「生きてるよ」と少し笑ったような声が聞こえた。

 

「私は…私はねぇ……旦那を殺されたのよ」

 一瞬、悲鳴嶼は足が止まり、息を呑み込んだ。が、すぐにまた歩き始める。

 

「……熊みたいにデカイ人でさー。村一番の大男で、力持ちで……そのくせ涙もろくって、お人好しでさぁ。ウドの大木だーなんて馬鹿にする奴もいたけど、あの人の周りにいる人間はみんな幸せだった。……私も、そう。お見合いだったけど、大事にしてくれたし……私、頭で考えるより先に口が動いちゃうからさ。けっこうキツイこと言ったりすることもあったんだけど……優しいから、許してくれるから、好きだった。大好きだったの……」

 律歌は一瞬、意識が途絶えた。

 後ろから声がしなくなって、悲鳴嶼は「オイ!」と呼びかけて揺する。

 

「おい、房前! 房前! おいっ……おいっ……律歌ッ!」

 

 呼ばれたのに気づいて、フッと律歌の意識が戻る。

 誰に話しているのかもうつろになりながら、律歌は懐かしい話を続けた。

 

「人の本性でいうなら、あの人は善人だった。鬼を目の前にして、私を庇って死んだの。鬼の爪で背中を何度も掻き切られながらね……ずっと守ってくれてたから。とうに息絶えてたのに、ずっとね。……本当は、本当はね……鬼殺隊に入るつもりは…なかった……。でも、子供がさ……流れ…ちゃっ…て……」

 

 ポタポタと律歌の足から血が流れ落ちる。

 とうとう気を失ったらしい。

 

 悲鳴嶼はもう呼びかけなかった。考え始めると混乱して叫びたくなってくる。

 とにかく早く藤家紋の家へ向かって、走り出した。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 数カ月後。

 

 悲鳴嶼が吉野にある元花柱・那霧勝母の百花屋敷を訪ねると、律歌が左足を引き摺りながら現れた。

 

「お、来た来た。岩柱、おめでとー」

 挨拶もなしにいきなり拍手され、悲鳴嶼はどう答えればいいのかわからなかった。

 

「どう、柱って? 大変? 大変だろうねぇ……今、悲鳴嶼くん以外って何人いたっけ? 五人だったっけ? この前、また殺られたって聞いたよ」

「……あぁ」

「あー。私も早く復帰して、おっ母様(かさま)みたく花柱目指したいなぁ」

 

 悲鳴嶼は驚いた。律歌の左足はもはや使い物にならない…と、あの時、診察した医者は言っていた。

 なんとか足の切断はせずに済んだものの、神経をやられて自分の意志で動かすことはできなくなっていた。

 

「房前、お前……復帰するつもりなのか?」

「そりゃそうよ。だって正味一年も隊士やってないのよ。弟子の期間の方が長いなんて、笑い話だわ。何年かかるかはわかんないけど……いつかはね。戻るつもり」

「………」

 悲鳴嶼は沈黙すると、頭を下げた。

 

「なに?」

 律歌が鋭い声で問うてくる。「頭下げられるようなこと、私、した?」

「……悪かった。あの時は……申し訳ないことをした」

 

 律歌はしばらく無言だった。

 ズ、ズと足を引きずってこちらに向かってくる音がする。

 止まると同時に、ベチっと額を打たれた。

 

「馬鹿じゃないの」

 明らかに怒った声音だった。睨みつける視線も感じる。

 

「私は、私なりに最善の手を尽くしたと思ってるわよ。そりゃ、助けてああいう態度に出られて多少はヘコんだけど、まぁ、ない話でもないわよ。悲鳴嶼くんは私の行動に問題があったと思う?」

「違う……あの時は冷静でなかったんだ、俺は。それで…」

「そうねぇ……ちょっとばかしボケッとしてたわね。ま、あの場にいた人間はみんな無事なんだし、それで良しとしなさいな。それで、私の足一本分くらい活躍してくれればいいわよ。私が戻るまで」

 

 律歌は軽い調子で言い、ポンポンと悲鳴嶼の肩を叩いた。

 また、ズ、ズと足を引きずって中へと入って行こうとして振り返る。

 

「お茶でも飲んでくでしょ?」

「……いや。すぐに出る。寄っただけだ」

「アラ、そうなの?」

「あぁ……」

 

 悲鳴嶼は踵を返して立ち去りかけたが、律歌が呼び止めた。

 

「あぁ、そういえば悲鳴嶼くん。あの時さ、呼んだ?」

「………呼ぶ?」

「おんぶして、藤の家まで運んでくれたじゃない? あの時、私の名前呼ばなかった? 『律歌』って」

「…………」

 悲鳴嶼はしばらく返事が出来なかった。

 律歌が自分をじっと見ているのがわかった。その目は本当のことは既に知っていると告げていたが、悲鳴嶼には見えない。

 

「……いや。呼んでない」

 

 ようやく返答すると、律歌は黙り込んだ後、「……そっか」と笑った。

「じゃあ、旦那(あのひと)が呼んでくれたのかな? 久しぶりに」

「……あぁ。そうだろう」

「そうね……。じゃ、頑張ってね」

 

 また、ズ、ズと足を引きずる音がする。だんだんと遠ざかっていく。

 悲鳴嶼はグッと唇を引き締めると、再び踵を返して歩き始めた。

 

 屋敷の中に入る前に、律歌は振り返った。

 悲鳴嶼の姿はもう小さくなっていたが、夕焼けの中、長く大きな影が伸びていた。

 その影に向かって、律歌は「ばーか…」と、小さくつぶやいた。

 

 

 

<了>

 

 

 





次回は2021.03.31.水曜日の更新になります。

pixivの方では、作品に関する作者のつぶやき話をアップしてます。興味とお暇がある方はどうぞ。


▼作中にて登場人物の台詞の中に差別的表現が出ていますが、あくまで人物を描く上での表現としての言葉であり、筆者がそうした差別的な意向を持って書いたものではありません。



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第三部
第一章 鬼殺の人々(一)


 目にもとまらぬ速さ、とはこの事をいうのだと、翔太郎は思った。

 

 三人がかりで挑んで一時間近く膠着状態であったというのに、背後からとてつもない空気の塊が押し寄せてくる、と思った次の瞬間にそれは鬼の前に跳躍し、あれほど硬くて斬れないと思われた鬼の首を寸断した。

 

 翔太郎はまだ息切れして、激しく肩を上下させていたが、鬼の首を斬ったその女は走ってきただろうに息も乱れていなかった。

 サッと刀を振って血を払い、懐紙で拭うと、鞘にしまう。

 一連の動作は流麗で、無駄がない。まるで歌舞伎か何かの舞姿を見ているかのようだった。

 

「………大丈夫でしたか?」

 振り返った顔を見て、翔太郎は呆となってしまった。

 

 ―――――……キレイな人が立っている。 

 

「あれー? 森野辺…薫? さん?」

 一緒に戦っていた三好秋子(みよしあきこ)が、首を傾げながら、どこか暢気な調子で女に声をかける。

 薫さん、と呼ばれて女の顔がはっと驚き、すぐにニコリと花が開いたように笑った。

 

「三好さ……あ、秋子さん。あなたがいらしたんですか」

「援軍頼んだけど、まさか薫さんが来るとは思わんかったー」

 二人は抱き合わんばかりに再会を嬉しがったが、それを見ていた升田(ますだ)は仏頂面で怒鳴った。

「おい! はしゃいでんじゃねぇっ」

 きょとん、となって女二人が止まる。

 あ、と薫が声を上げた。

 

「え……っと、確か……まきた、さん?」

「ますだ、やで。薫さん」

「あ、升田さん。お久しぶりです」

 軽く頭を下げる薫に、升田は「おう」とだけ返事すると、自分の鴉を呼んだ。

 鬼との戦闘で、畑を荒らしてしまった。おそらくは被害の弁償等が必要になるので、隠に来てもらう必要がある。

 升田は隠を呼ぶため、印となる紐を鴉の足に括りつけていた。

 

「あの……秋子さん」

 薫が秋子の肩をつつく。「升田さんは、下の名前は何と言うのでしょう?」

 なんでそんなことを? と聞き返そうとして、秋子はふと思い出した。

 吉野の百花屋敷で、薫に佐奈恵が隊士達と早く仲良くなるために、下の名前で呼んでいた話をして、互いに佐奈恵を見習おうと言って別れたのだった。

 

 秋子は苦笑した。

 自分はすっかり忘れていた。薫はやっぱり相変わらず律儀で真面目だ。

 

「升田ァ、名前なん言うたっけー?」

 秋子が大きな声で尋ねると、升田がハァ? という顔で振り向いた。

「なんで名前なんぞ聞くんだよ?」

「ええから、教えぇな」

 秋子は特に他意もないので頓着しない。「名前、なんちゅうたっけ?」

 

「て、哲次……」

「やって、薫さん」

「あ、はい。哲次さん…ですね」

 

 薫に名前を呼ばれた途端、升田の顔が真っ赤になる。

 わかり易すぎて、翔太郎はブフッと吹いた。

 ようやくその時になって、翔太郎の存在に気付いたらしい。秋子が薫に紹介した。

 

「あ、薫さん。この子な、今年鬼殺隊に入った新米やねん」

「初めまして! 風見(かざみ)翔太郎(しょうたろう)です!」

 

 翔太郎が大声で自己紹介をすると、薫はニコと笑って、挨拶を返した。

 

「はじめまして。森野辺薫と言います。ええと……翔太郎君、でいい?」

「もちろんです! 嬉しいです!」

 

 翔太郎は心の中で『やったー』と快哉を叫んだ。

 升田はチッと舌打ちする。

 

「そんなヤツ、クソ餓鬼(ガキ)で十分だぜ」

「なにイラついとんねん。ウチ思い出したで。佐奈恵さんはアンタの事、てっちん、って呼んでたやんかぁ。そう呼ぼかー?」

「あぁ? 冗談じゃねぇ!」

「てっちんが雪隠(せっちん)行ったー……言うて、皆にからかわれとったやん」

「だから! 言うな! 呼ぶな! 呼んでも返事しねぇからな!!」

「じゃあ、哲次さんでいいですか?」

 

 薫が穏やかに尋ねると、升田改め哲次は急にまごまごして、「仕方ねぇ…なぁ…」とブツブツつぶやいている。

 翔太郎がニヤニヤと見ていると、気付いた哲次が睨みをきかせてくる。

 

「なんだァ、クソ餓鬼ィ」

「いやいや。これからは翔太郎でお願いします」

「うっせぇ」

 哲次は吐き捨てたが、翔太郎はまったく意に介さない。

「あの、森野辺さん! 僕らも、薫さんって呼んでいいのでしょうか?」

 薫は驚いたように目をしばたかせたが、ふっとまた笑った。

 

「どうぞ」

「ですって、哲次さん! よかったですね!」

「なにテメェまで図に乗ってんだ! お前は先輩と呼べ!」

「えぇ~。いいじゃないですかぁ。ねぇ、薫さん」

「そうですね。でも、どうしても哲次さんがお嫌なら、哲次先輩と呼んだ方がいいでしょうか?」

「あ………アンタはいい。俺より階級上だろうが」

 哲次はあわてて薫にはボソボソと否定したが、

「あぁ、いいですね。ね? 哲次先輩」

と、翔太郎がニヤニヤと笑って言うと、即座にその首に腕を回して固める。

「くっ、苦ッ、苦し!!!!」

 翔太郎はバタバタと動き回り、どうにか哲次の筋肉質な腕から抜け出すと、よろけて後ろにいた薫にぶつかった。ぶつかった瞬間、あたってはいけない場所に触れた気がして、「うわっ」と声を上げてあわてて避けて……自分の足で自分の足を引っ掛けて尻もちをつく。

 

「ケッ! 阿呆が」

「なにしとねん、アンタは。落ち着きない(やッち)ゃな」

 秋子と哲次は呆れているだけだったが、薫はクスクス笑いながら、手を差し伸べてくれた。

 

「大丈夫?」

「だ、大丈夫で……………ない………かも」

 情けない声を出して、翔太郎は薫の手を掴もうと手を伸ばしたが、その時、薫の鴉がガシリと翔太郎の頭にしがみつくように乗った。

 

()ぃデデデデデ!!!!!!!」

「こら、祐喜之介(ゆきのすけ)! どこに乗ってるの? やめなさい」

 

 薫が叱りつけても、祐喜之介という鴉は一向に動く気配もなく、何だったらギリギリと頭皮に爪を突き立ててくる。その場で次の任務を告げた。

 

「四国! 伊予ヘ向カエェ!!」

 それだけ言うと、祐喜之介は思い切り踏み込んで、上へと舞い上がった。

()デエぇぇぇぇぇ!!!!!!! テメェ! 薫さんの鴉じゃなかったら、羽むしって丸焼きにしてやるぞ!」

 

 翔太郎は上空で旋回する祐喜之介に怒鳴りつけたが、祐喜之介はまるで聞こえていないかのように悠々と飛んでいる。

 

「ごめんなさい。怪我はない?」

 薫は気遣わしそうに翔太郎を見たが、秋子は冷たく言い放つ。

「気にせんでえぇよ、薫さん。さっき鬼にもやられたんやし、手拭い巻いとったら治るわ」

「忠義者の鴉だな」

 哲次も顎の無精髭を撫でながら、いい気味だとばかりに薄ら笑いを浮かべていた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 隠に後始末を任せて、祐喜之介の告げた任地へと向かおうとした薫に、秋子が呼びかけた。

「待って、薫さん。ウチの鴉にも指令が来た。この任務は四人で行け、やて」

「四人で?」

 

 基本的にはこれまで単独任務が多かった薫は、復帰早々、複数での任務を命じられたことに、少し驚いた。

 もしかすると、まだ怪我が治りきってないと本部が判断したのだろうか。

 いずれにしろ、そのように指令が来たならば従うしかない。

 

 共同任務だとわかった途端、翔太郎は跳ね上がって喜んだ。

「やったぁっ! よろしくお願いしまっス! 薫さん」

 

 翔太郎が『薫さん』と呼ぶたびに、哲次の顔がヒクリと強張っていたのだが、当の本人達は露とも気づかない。秋子だけが肩をすくめて見守っている。

 佐奈恵も人の懐に入るのが得意であったが、翔太郎の図々しさもまた似たものがあった。

 今も初対面にも関わらず、ちゃっかり薫の隣に並んで歩いている。

 

「薫さんの呼吸の型はなんですか? ちょっと風っぽかったけど」

「一応、風から派生したものなんです。私の師匠は風の遣い手だから」

「へぇ。お師匠さんのお名前は?」

篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)といいます。知っているかわからないけど…」

「知ってるも何も! 一番最初に俺が弟子入りを断られたお師匠さんだ」

「えっ?」

 

 薫は嘘だと思った。

 だが、翔太郎は反論する間もなく、喋り続ける。

 

「俺のお祖父(じじ)様の兄弟子で、師匠代わりだった人らしいんです。父上が、もし将来、修行をしたいなら、篠宮さんのとこに行けって言ってたんで、弟子入りをお願いに行ったんですけど、『駄目だー』の一点張りで。それで俺、仕方なく他の風の呼吸の育手の人のところをあちこち回ったんですけど、どこも断られちゃって。最終的に、一番若い育手の人のところに行って、泣き落としてどうにか弟子入りさせてもらったんですよねぇ……」

 

 翔太郎はガクリと項垂れたと思ったら、いきなり顔を上げるなり喚いた。

 

「あ~あっ! 篠宮先生のところに拝み倒してでも入門しとくんだった。そしたら薫さんと姉弟(きょうだい)弟子になれたのにいぃぃーっ」

 

 聞きながら薫は不思議に思った。

 東洋一は薫は女だということもあってか入門を渋ったが、基本的には来る者拒まずであった。

 実際に薫のいた頃にも入門希望者は三ヶ月に一人二人くらいは来ていたのだが、たいがいは一ヶ月もすれば辞めていった。

 入れるのは入れるが、入ったからには容赦はしない。そうして(ふるい)にかけるのが東洋一のやり方で、入門自体を断るというのは初耳であった。

 

「おじいさんの兄弟子ぃ言うことは、アンタとこの家系は代々鬼殺隊なん?」

 秋子が後ろから問いかけると、翔太郎は振り返って答える。

「あー……いや、父上は体が弱くって、無理だったんです。それで一旦、途絶えちゃったんですけどぉ……」

 

 薫はそんな話を前に聞いたような気がした。

 代々の続いた鬼殺の家系。失われて久しい風柱…。

 まさか、と思いつつ尋ねてみる。

 

「翔太郎くんの家は、風の呼吸を伝えてきたの?」

「そうです…ねぇ……いや、まー…」

 

 翔太郎は言いにくそうに首を掻きながら、それでも何か言いたげにチラチラと三人の先輩の顔を窺っていた。驚かせようとする前の、自負と期待と不安の入り混じった表情。

 

「……言いたいことあるならとっとと言え!」

 哲次が察して怒鳴ると、翔太郎はヘヘヘと笑いながら、

「いやぁ。別に大したことじゃないんですよぉ。なんかー、ウチの家系って本当は代々の風柱だったみたいでぇ」

「えっ?」

 その場にいた全員が驚いて翔太郎を見た。

 注目を浴びて、翔太郎は満足そうにペロリと上唇を舐めた。

「いやー。もー、お祖父(じじ)様までです。今は見る影もなくって……名字まで改名しちゃいましたしね」

 

 聞きながら、薫は以前、宝耳から聞いた風柱の惣領家の名前を思い出した。

 確か……風波見(かざはみ)、と言っていた。

 だが翔太郎は自己紹介の時、「風見翔太郎」と名乗っていた。

 改名してまで、風波見家は鬼殺隊から離れたかったということだろうか?

 しかしそういう事情を知ってか知らずか、翔太郎はあくまで明るい。

 

「しかし元々宗家なんだったら、伝承された技なり何なりがあるだろう? 本とか」

 哲次が困惑した様子で尋ねると、翔太郎は手を振った。

「いやー。なんか、大お祖母(ばあ)様――――えー…と、曾祖母が、ぜーんぶ弟子連中に持ってけーって、放り出しちゃったみたいで」

「じゃあ、先生の家で見たあの本は……」

 

 薫は東洋一の家で何度か見た書物を思い出す。

 紙の痛み具合や、文字の旧さから言っても江戸の時代、あるいはそれ以前に書かれたものであろう冊子が、蔵の書棚にびっしり置いてあった。

 翔太郎はにやっと笑って、羽織にある紋を指差した。隅切り角に八つ矢車菱の紋。

 

「これ、この紋があったらウチにあったヤツですよ。ア、別に返してほしいとかってワケじゃないですよ。あっても俺、たぶん読まないだろーし」

「いや、読めよ、お前。跡継ぎなんだろ」

「いやー。今どきそんなのないですよー。実力重視ですからねー」

「でも炎柱なんかは、未だに世襲やって聞くで。今度ならはるって噂されとる人も、確かお父さんが柱やって、跡継ぎはるみたいな……」

「杏寿郎さんでしょ? 煉獄家の。知ってる知ってる。俺ン家、近くだったんで。あの人は別格ですよ、強すぎますもん。俺、弟の方と仲が良くってねぇ。ま、俺は……のんびりやります」

「のんびりやるもんじゃねぇっての!」

「嫌だなー、先輩。やるときゃ、やりますよ。男ってそういうモンでしょ」

「わかったようなこと言うとるわ……」

 

 秋子は呆れ顔でいいながら、薫と目を合わせた。

 薫も肩をすくめつつ、この妙な愛嬌をもった後輩がいることで、いつも暗くなりがちな任務前の気持ちも軽くなっているのを感じた。

 

 それにしても――――。

 

 東洋一が翔太郎を入門させなかった理由がわからない。

 多少お調子者なところがあるとはいえ、翔太郎は素直な性質だと思うし、こうして鬼殺隊士となっているのであれば、身体的にも技術的にも問題があるとは思えない。

 まさか、本来は宗家のお坊ちゃんだからという理由で東洋一が煙たがったとも考えにくい。

 

 ふと、宝耳が以前に風波見一族について知りたがっていたことを思い出す。

 その一族の直系である翔太郎が鬼殺隊士となったことを、宝耳は知っているのだろうか? 東洋一が翔太郎を弟子にとらなかった理由も。

 

 だがあっけらかんとした翔太郎の姿を見ていると、どうでもいいように思えた。

 理由があろうがなかろうが、翔太郎は自分自身で考えて、別の育手の元に行き、鬼殺隊士になったのだから。

 

「さ、急ぎましょう。早くしないと、今日は布団で寝られなくなりますよ」

 

 薫が声をかけると「はーい!」と元気な返事がかえってくる。

 まるで自分が小学校の先生になった気分で、ふっと笑ってしまった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「いやー、驚いたわー。まさか薫さんが来ると思わへんかったし」

 

 秋子は布団に転がって、今更ながら言った。

 明日にはこの四人で四国の方まで赴くことになっている。朝一番の船に乗るため、今日は船宿に宿泊することになったのだ。

 

「秋子さん達はこの辺りの担当なんですか?」

「うん。そうやな。ウチらは泉州とか紀州とか…たまにこうして四国とかやな。前はわりと佐奈恵さんと一緒になることが多かってんけど、最近ではなんか新米の子ぉも含めて、升田……あぁ、哲次やったっけ? 哲次ゆう感じやないなー。テツ……テツでえぇわ。テツと一緒になるんが多いんよね。それにしても()ろてまうわー。あの人、思いきり照れとったやん」

「誰がですか?」

「薫さん、わからんの? テツやん。薫さんに『哲次さん』って呼ばれるたびに顔が茹でダコみたいに(あこ)ぉーなっとったわ」

「そうでした?」

 

 まったくその意図するところに気付いていないのであろう薫は首を傾げた。

 秋子はやれやれとため息をついた。

 

「下の名前で呼ぶんは、佐奈恵さんの?」

「えぇ。少しでも見習いたくて……私、今まで単独行動が多かったから、なかなか他の鬼殺隊の人達と話す機会がないし……。今日も、翔太郎くんはすぐに打ち解けてくれましたね。やはり下の名前で呼ぶと、自然に胸襟を開いて話せるものですね」

「…ぃや、翔太郎の場合はそういうのでもないような……」

 

 秋子は二ヶ月前に翔太郎に会っているのだが、初対面からやたら人懐こい、佐奈恵とは別の意味で人と接することに躊躇のない性格だと思う。

 ここに来るまでにもべったり薫の隣について、ずーっと話しかけていた。

 秋子は薫が困った様子もないので、とりあえず様子を見ていたが、哲次はずーっと仏頂面だった。あの男はあの男で顔に出過ぎだ…。

 

 しかし―――――。

 秋子には一抹の不安がよぎる。

 

 薫は佐奈恵のやりようを真似しただけで、他意はないとしても、血気盛んな男共が、薫のような美人に『○○さん』などと下の名前で呼びかけられて、心がざわめかない筈もない。

 この前も道場に花柱の胡蝶カナエが来ていて、ニコリと微笑まれただけで舞い上がってしまう男共のどれだけ多かったことか。隅で見ていた女隊士は皆、白目を剥いていたものだ。

 そりゃあ、花柱の美しさに文句のつけようもないのはわかるが、それにしても男というのは、美人を前にするとほとほとだらしなくなる生き物だと思う。

 

 佐奈恵とても不美人であったわけでもないが、彼女の場合はわかりやすい恋人が始終隣にいたというのと、佐奈恵生来のカラリと竹を割った性格のせいもあろう、男女間のそうした感情は沸き起こることはなかった。

 しかしもし、これで道場にでも行って、薫がそれぞれの隊士を名前で呼ぶことになれば、おそらく総勢色めき立つだろう。

 その中で翔太郎が得意になって、薫に親しげに話しかけて煽るであろうということも容易に想像できる……。

 

「な、薫さん。とりあえず翔太郎とテツは置くとしても、道場行ってどいつもこいつも名前で呼ぶのはやめとこ」

「え? どうしてですか?」

「いやー、ちょっとなぁ……嵐を呼ぶことになると思うんよ」

「はぁ……?」

 

 困ったお人やなぁ、と秋子は内心でため息をつく。

 薫が自分自身の容姿についての自覚がないのも困りものであるが、もっと恐ろしいのは、二人の兄弟子の存在である。

 

 粂野匡近については、薫を道場に連れてきた時から、だいたいわかった。

 薫を見る眼差しが明らかに違っていたからだ。その後で実弥と喧嘩していた時の様子を見ても、薫を探し回っていた姿を見ても、一定以上の―――妹弟子として以上の―――好意があるのだろう。

 

 その上で、秋子の分析が正しければ不死川実弥もまた薫に好意を持っている。

 こちらは捻じくれ曲がっているので、どうにもわかりにくいところがあったが、おそらく間違いない。

 笠沼に責め立てられて、傷心の薫を追いかけようとした時、実弥は止めた。

 

 ―――――放っとけェ。アイツは………一人でいる方がいいんだ。

 

 あの言葉は薫を放り出したのではない。むしろ一人にさせてやってくれ、と頼んでいるように思えた。

 秋子が意味深なことを言って探ろうとすると、耳を真っ赤にして去っていった。

 わかりにくい男だ。正直、面倒くさい。だが、その不器用な気の遣いようが、秋子には愛情そのものに見えた。

 

 ということで、見事な三角関係の成立である。

 

 問題は当の薫にまったくといっていいほど、その自覚がないということだ。

 その上、佐奈恵からの遺産であるところの『手早く仲良くなる方法』を実践することによって、勘違いした男共が薫に群がっていくことを考えると、より事態は混迷を極めること必至である。

 

 ということで――――

 

「まぁ、とりあえず名前呼んで仲良くなろう作戦は、一緒に仕事する相手だけに絞っておこ」

 秋子が念押して言うと、薫はよくわからない様子ではあったが、「じゃあ、そうしましょう」と頷いた。

 

 こういう時、詮索しない素直な性格でいてくれて助かる。

 秋子は任務以外に妙な気苦労を抱えてしまい、行く末を思いやって深い溜息をついた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は20201.04.03.土曜日の更新予定です。



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第一章 鬼殺の人々(ニ)

「ええい、面倒な鬼狩り共めが……!」

 鬼は薫達の姿を見た途端、ギリギリと歯軋りし、恨みのこもった眼差しを向けた。

 

 その鬼は長い時間、四国の地で虐殺を繰り返していたらしい。

 今まで知られずにいたのは、山深い小さな村を襲い、村人すべてを喰っていたから。

 そうして一村まるごと喰い尽くすと、洞窟の奥底へと潜み、また別の土地へと向かう。

 山間に住む杣人(そまびと)や、山々を渡る猟師の間に細々と伝わる噂話を聞きつけ、鬼殺隊の人間が誰もいなくなった村に着いた時には、鬼のいた痕跡すらも曖昧で、記録にもほとんど残らない。

 

 そうして今まで、鬼殺隊からの追跡を逃れて、生き延びてきたのだろう。

 おそらくは数百の人間を食べてきた老獪な鬼である。

 

 肩まで伸びた白髪頭の頭頂部からは一本角。白目のない、まるで紅玉のような目。

 真っ白な肌に大小の青い斑点が左右対称に顔にも腕にも足にもある。

 何より特徴的なのがナマズのように、鼻の下から二本伸びた長い白髭。ゆらゆらと、触手のように蠢いている。――――嫌な感じだ…。

 

「あまり間合いを詰めては駄目!」

 薫は真っ向から行こうとする翔太郎に呼びかける。

 翔太郎はあわてて止まると同時に鬼の攻撃を躱すために、技を使った。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 鬼の手を斬り裂いたが、鬼にとっては紙で指を切ったのと変わらなかったろう。

 薫は冷静に見て、翔太郎がまだ実弥や匡近の域まで到底及んでいないことを理解した。斬撃の強さの度合いがまるで違う。技が未熟というよりも、力不足だ。膂力が足りてない。

 技の勢いを使って、翔太郎は後ろへと一回転して間合いをとり、体勢を整えた。

 

 薫は素早く周囲を見回す。

 無人となった集落。粗末な茅葺きの家が点在している。

 鬼が立っているのは集落のほぼ中心にある、おそらくはこの村の統治者の家の前だった。

 一番しっかりとした造りの家だったが、それでもこの数ヶ月の間に無人となった家屋には、様々な動物が入り込んで荒らし、風雨にさらされた縁側は腐って穴が空いていた。

 月の光に照らされた庭は雑草が茂り、家人のいる間は丹精されていたであろう梅の花が根本から抉り折られて枯れている…。

 

 鬼がユラリと動いたと同時に薫は跳躍した。鬼の背後にあるその平屋建ての家の屋根に飛び乗り、その場から大声で指示する。

 

「四方から挟み撃ちにする。哲次さんは東、秋子さんは西、翔太郎くんは後ろに下がって、間合いをとって」

 秋子達はその場から散った。鬼が彼らに攻撃しようとする前に薫は技を放つ。

 

 鳥の呼吸 肆ノ型・改 双環狭扼(そうかんきょうやく)

 

 ヒュウゥッ、と二刀を振ると空気が唸って、二つの円環が鬼の首に絡みつく。素早く締め上げて、ボタリとあっけなく鬼の首は落ちた。

 

「そのまま動かないで!」

 駆け寄ってこようとする翔太郎に叫ぶと、薫は眉をひそめて屋根から飛び降りた。

 

 鬼の首が転がっている。だが……煙とともに消えない。胴体も頭も、塵と消えず、乾いた地面の上に転がっているだけ。

 薫も誰も、緊張を解かなかった。

 

 果たしてまもなく、鬼の哄笑が響く。

「グワハッハハハハ!!! 鬱陶しい鬼狩り共め。我が術にて贄となるがいい」

 

 薫の周囲の地面に罅が入り、ボコボコと土が動く。

 さっき薫が首をとった鬼とそっくりの鬼が数十体、地面を割って現れた。

 

「………分身か」

 薫はつぶやいて、刀を構え直す。

 あっという間に周囲が鬼だらけになっていた。

 

「オラアァァッ!」

 哲次の気合が響いた。

 薫だけでなく、四方に散った秋子らにも鬼の分身が襲いかかっている。

 援護に向かおうにも、まずは自分の周囲にいる鬼を倒さねばならない。

 

「ギイィィィ……」

 長く伸びた爪で切りつけようとしてくる鬼の首を、薫はすぐさま薙ぎ払った。 

 だがすぐに次の鬼達が間断なく襲いかかってくる。

 

 鳥の呼吸 弐ノ型 破突連擲(はとつれんちゃく)

 

 攻撃してきた四体の鬼に素早い突き攻撃を行い、動きを止めると同時に、横に薙ぎ払って首を一気に落とす。

 次に攻撃してきた鬼二体も、爪を躱しつつ、くるくると回転しながら首を落とした。次々に襲撃してくる鬼を、ひらひらと避けつつ二刀を素早く振るって斬り落としていく。

 

 とりあえず自分の周囲にいた鬼を全て斬り倒して、再び屋根の上へと跳躍した。

 その場から素早く秋子らの状況を確認する。

 それぞれに対応しているが、この鬼の多さに体力が()つかが心配だった。

 

 寝不足で疲れているだろう。

 四国に着いてから、鴉の先導で鬼が出現するらしい場所を回って三日間。

 ほとんどが過疎か、無人の村で、野宿が続き、食料も十分でなかった。

 一度、町に戻って食料を確保しようと話して野営していたところに、鬼が現れたと鴉が告げてきたのだ。

 

 薫は再び地面に降り立つと、一番体力の損耗が激しい秋子の元へと向かう。

 駆けながら、スゥゥゥゥと深い呼吸を始める。

 集中を研ぎ澄ますほどに、体内を流れる血が熱く、脈拍が早くなる。

 

 鳥の呼吸 陸ノ型 迦楼羅千翔(かるらせんしょう)

 

 強く土を踏み込むと同時、砂埃が舞い上がる。

 

 秋子は呆気にとられた。

 渦巻いた砂塵がこっちに向ってきたと思ったら、中から飛び出した薫が、両手の刀を振るうと同時に、無数のかまいたちのような斬撃が鬼達を斬り裂いた。

 

 秋子が相手していた十体の鬼が、土の上にドタドタと(なます)のように切り刻まれて落ちた。

「あとは…」

 残るは二体。

 短く言って、薫は翔太郎の方へと向かう。秋子はグッと奥歯を噛みしめて、呼吸を深める。

 

 水の呼吸 肆ノ型 打ち潮

 

 秋子が二体の分身の鬼を斬った頃、翔太郎は薫に怒鳴られていた。

「落ち着きなさい、翔太郎くん!」

 あまりに多い数の鬼に焦って、遮二無二刀を振り回し、型が乱れ、もはや呼吸の技としての体をなしていない。

 

 瞬く間に四体の鬼の首を斬った後に、薫はドスッと翔太郎の腹を柄で突く。

「呼吸! 基本ッ」

「はっ、ハイ!」

 翔太郎はあわてて全集中の呼吸を思い出し、肺へと空気を送り込む。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 暴風が巻き起こり、翔太郎の周辺にいた鬼達が切り裂かれる。

 首の残った鬼がまだ攻撃してくるのを、翔太郎は今度は冷静に、確実に首をとっていく。

 

 その頃には薫は哲次の方へと向かっていたが、辿り着く頃には哲次は自分に攻撃していた全ての分身の鬼を葬っていた。

 

「………本体は?」

 近づいてきた薫に、哲次は息も切れ切れに問うた。

 

 連続して呼吸を遣うと、通常の人間ならばその負荷に肺も心臓も耐えきれない。

 いかに修行し、実戦において鬼と戦う(すべ)を身につけた鬼殺隊士であっても、個々人の能力においてその差は歴然と現れる。

 

「………」

 薫は答えず、油断なく辺りを窺う。隠れている。おそらくは……

 息を吸いこみ、伍ノ型を発動させようとした刹那に、土の中から白い細長いモノが飛び出して、哲次の首と右腕に巻き付いた。

 

「うああぁぁぁっっ!」

 締め上げられて、哲次が悲鳴を上げる。

 

 メキメキメキっと土が割れ、とうとう本体の鬼が地表へと現れた。

 最初に気になったあの白く長い髭が伸びて、哲次の腕と首をへし折ろうと絡みついている。

 

「…恨ミ深キ鬼狩リ共メガ……我ニ向コウテ屍ヲ重ネルカ………」

 

 その声はもはや人としてのそれではなかった。地の果ての底から響き渡るかのような、不気味な、抑揚のない声。

 

 薫は鬼の正面に立つと、再び息を深く吸いこみ、集中を研ぎ澄ます。

 この瞬間、身の毛がよだつ。それは恐怖にではない。自らの行使しようとする力への昂揚。

 高く―――――飛び上がる。

 

 鳥の呼吸 壱ノ型 鷹隼空斬(ようしゅんくうざん)

 

 その時、秋子は駆けつけながら呼吸を整え、哲次に絡みつく髭を技で断ち切る。

 

 水の呼吸 弐ノ型 水車

 

 翔太郎は薫が地面を蹴って跳躍したと同時に、鬼が空中から落下する薫を捕らえようと伸ばした腕に技を当てる。

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 ―――――全てのことは秒単位で行われた。

 

 ザンッ! と薫の刀が鬼の首を刎ねた。

 

 鬼の断末魔の咆哮が、無人となった集落の中で響き渡る。

 

「…鬼狩リ…共…メ……イズレ……死ヌ………死ネ……」

 怨嗟を口にしながら、鬼は灰となって消えていく。

 薫は無表情にその姿を見ていたが、後ろで翔太郎が「わっ!」と声を上げた。

 

「なんだ、これ? こけし……?」

 辺りを見回すと、無数の木彫りのこけしが、胴と頭を寸断されて転がっていた。

 

「これ……分身の正体?」

 秋子が転がっていた頭を一つを手に取る。

 古くなって木がもろくなっていたのか、ボロボロと落ちていく。

 

「こけしを血鬼術で自分の分身にして戦ってたのか…? ……()っ! クソッ! ヒビいってんな、これ」

 哲次は舌打ちしながら、右手の甲を押さえた。

 どうやら先程の鬼の髭で締め上げられた時に、骨を損傷したらしい。

 ポケットから手拭いを取り出して巻こうとするが、片手では上手く出来ない。

 

「下手クソやなぁ…」

 秋子は適当な板切れを拾ってきて、副木(そえぎ)をすると、哲次の手にスルスルと手拭いを巻きつけた。

「アンタ、しばらくは刀持てんな」

「チッ! またか」

 

 哲次は舌打ちした。また、しばらく休まなければならない。

 任務に行けないと、階級は上がらない。

 ただでさえ後輩に抜かれているのに、ますます焦りがつのる。

 

 薫は鬼が消失した後、地面に残されていた着物の間から何かが見えて、拾い上げた。

 黒く汚れた、手のひらよりやや大きいぐらいの、これまた『こけし』だった。

 だが分身の鬼にはならなかったのか、ちゃんと頭はくっついている。

 すっかり汚れてほとんど顔もわからなくなっていたが、胴に墨で何か文字が書かれてあった。辛うじて『イト』と片仮名で書かれているのだけが読めた。

 

 この鬼の形見だろうか?

 そんな事を考えていると、哲次がぶっきらぼうに言った。

「妙な同情するもんじゃねぇよ」

 薫はこけしを手にしたまま、哲次を見た。

 

「鬼が可哀相とでも言うんじゃねぇだろうな、花柱みたいに」

「カナエさんが?」

「……他の野郎はどうか知らねぇが、俺ァあの人は好きになれねぇ。鬼に同情するなんぞ、信じられねぇよ。しかも柱だってのに」

 哲次は苦虫を噛み潰したかのように話す。

 

「鬼に同情? そんな人もいるんですね。俺、鬼殺隊に入る人ってたいがい身内を鬼に殺されて、皆、鬼には恨み骨髄~って感じだと思ってましたよ」

 翔太郎が軽い調子で言うのを、哲次はギロリと睨みつけた。

「そういうテメェはどうなんだよ? 先祖が風柱だから入ってきた…ってか?」

「うーん?」

 翔太郎は上を見上げて考え込む。

 

「俺は……小さい時から父上に繰り返し言われてて……『お前はきっと強くなるだろうから、隊士になって頑張れ』って。だから、なるのが当たり前みたいに思ってました」

「フン! 坊っちゃんが!」

「もう…哲次さんってばさー…戦闘は終わったんですから、気を落ち着かせてくださいよ。ほんっと、血の気が多いからカッカッして……」

「うるせぇ! ったく…所詮は身内を殺されたこともない人間なんぞ、鬼に同情したり、テメェみたいにのんびりしたこと抜かしてやがんだ!」

「ひどいなぁ……一応、殺されてますよ。お祖父(じじ)様は」

「テメェの爺さん、柱だったんだろうが! そんなもん、ある程度当然だろ! お前だって、全然悔しそうじゃねぇだろうがッ」

「そりゃー……だって、会ったことないんですもん」

 怒りっぽくなっている哲次に対して、翔太郎はあくまでも飄々としていた。

 

 ふと、薫は少し離れた場所で、鴉に任務完了の紐を括りつけている秋子を見た。

 空へと飛び立つ姿を追って、見つめている。

 その表情はどこか固かった。

 

「秋子さん? どうしたの?」

 薫が隣に行って尋ねると、秋子はハッとして振り向く。

「あ……いや、えと……花柱って……綺麗なだけやのうて、優しいんやなーって」

 

「ハァ?! どこが優しいってんだ! あんなモン、偽善だ、偽善」

 地獄耳の哲次はやはり戦闘直後で気が立っているのか、いつもよりも少し小さな秋子の声にすら怒鳴りつける。普段はこれで秋子がやり返すのが常だったが、その時は何も言わず押し黙った。

 

「もー、哲次さんってば八つ当たりだよー」

 翔太郎はその微妙な空気には気付かず、のんびりと腕を後ろで組んで、戦闘で強張った筋肉をほぐしながら、薫に問いかける。

 

「薫さんもそう思います?」

「え?」

「花柱が鬼に同情するのは、偽善ですかね?」

「さぁ……」

 正直なところ、薫にも鬼に同情するなんていう心情は理解し難いものだった。だが、カナエにはカナエなりの理由があるのだろう。それを聞かずに(なじ)ることは出来なかった。

 

 とりあえず薫に答えられるのは一つだけだ。

「………私は、違いますよ」

 

 言うなり、薫はそのこけしを空中に投げて、落ちていくこけしの首と胴を真っ二つに切り捨てた。

 そのまま二つが同時に地面に落ちて砕け散る。

 もはやこけしという姿も想像できぬ木屑と成り果てたそれを、薫は鬼を斬った時と同じように無表情に見ていた。

 冷徹にもみえる面に、憐憫など微塵もない。

 

「帰投します」

 短く伝えて、薫は歩き始めた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回更新は2021.04.07.水曜日の予定です。



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第一章 鬼殺の人々(三)

 秋子は自分の腕に現れた階級に目を丸くしていた。

 

 庚。

 

 ここ二年近く、壬で止まっていた。

 それは、二度目の任務で重傷を負ってしまい、一年近く復帰に時間がかかったせいでもあるし、その後も怪我に悩まされて、十分な働きができなかったせいもある。

 しかし、ここ最近は順調だった。

 

 薫との共同任務だった四国から戻り、大した怪我もなかったせいもあるのだろうが、すぐに次の任務がやってきた。

 それは薫との二人での任務だった。当然ながらほとんど薫の活躍で、難なく鬼を成敗できた。

 それから数カ月後にまた薫も含めた五人編成での任務。

 その次は久しぶりに単独任務だったが、薫と一緒に修行をしていた成果もあって、大した怪我もなく討ち果たすことができた。

 

 そうして階級のことを忘れるくらい仕事が続き、久しぶりに見てみると、いつの間にか辛を通り越して庚になっていた。

 

「いやー、有難いわ。ホンマ。ありがとうなぁ、薫ちゃん」

 久しぶりに道場で会えた薫を食事に誘い、二人で蕎麦を食べた後、秋子は昇級していたことを薫に伝えると、礼を言った。

 

 薫はあわてて首を振り、否定する。

「そんな…私は何もしてないですよ」

「いや、薫ちゃんのお陰や。ウチずーっと壬をウロウロしとってんから」

「アコさんが真面目に稽古してたからですよ」

 

 二人でいる時間が多くなると、秋子は「薫ちゃん」と呼ぶようになった。薫もまた、「秋子さん」と呼んでいたのがいつの間にか「アコさん」になっていた。

 

「真面目に稽古できたんも、薫ちゃんが上手(ウマ)いこと教えてくれるからや。前まではどうやったらもっと強ぅなれるんか、わからんかったけど、薫ちゃんがウチの足らへんところ指摘してくれるから、ちゃんと気をつけて修行できるようになってん。やっぱり薫ちゃんのお陰やて」

 

「……ほーぉ。えらいベタ褒めやないか、アコ坊」

  いきなり背後から声をかけられ、その聞き覚えのある声に、秋子は渋い顔になった。

 

「………なんや、オッサン。おったんか?」

 つっけんどんに言うと、「冷たい言い方やなぁ」と、気安く横の椅子に腰かけてくる。

 そこまでは秋子にはいつもの事だった。

 だが、次の瞬間、薫が叫んだのには驚いた。

 

宝耳(ほうじ)さん!」

 え? と、耳を疑う。

 すると横で、ニヤついた顔の伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)が「よぉ」と手を上げる。

 

「お嬢さんも、久しぶりやな」

「こちらでお仕事ですか?」

「まぁ、そんなとこやな」

 普通に話し始めて、秋子は「ちょお、待ちぃ」と会話を止めた。

 

 まず、聞くべき相手として薫に尋ねる。

「薫ちゃん、このオッサンと知り合いなん?」

 え? と不思議そうに薫は秋子を見ると、

「そうですけど……アコさんもお知り合いですか?」

「うん、まぁそやねんけどね」

「そうなんですか? アコさんも生け捕りの時に知り合ったんですか?」

 薫が尋ねると、秋子が答える前に宝耳が口を出した。

「知り合いも何も、コイツに鬼殺隊を紹介したんはワイやで」

「え?」

「ちょっと黙っとき、オッサン。順々に説明するから」

 

 秋子がキッと睨むと、宝耳は肩を竦めながら、手に持っていた銚子を振った。

 

「奢ってくれ。すかんぴんやねん」

「何やっとんねん、オッサン。また博打(バクチ)やろ」

「いや、まぁ、色々な」

 秋子はチッと舌打ちして、通りかかった女将に酒を頼むと、フーと溜息をついた。

 

「薫ちゃん、ウチなぁ……鬼殺隊(ここ)に入った理由なぁ、薫ちゃんとかみたいに、身内を鬼に殺されたー…とかやないねん。ぶっちゃけ、金やねん」

「お金……」

「せやねん。呆れてくれてえぇで。金稼ぎしたくて鬼殺隊入ったなんて……薫ちゃんらみたいな人からしたら、軽蔑するやろ?」

 

 秋子は自嘲して笑う。

 その顔はあの時、数ヶ月前の鬼の討伐後に、秋子が見せていた少し寂しげな横顔と重なる。

 薫はあわてて首を振った。

「そんなことないですよ。どういう理由であれ、アコさんは頑張ってるんですから」

 

 秋子の入隊理由がどんなものであったとしても、事実として秋子は練習にも研究にも熱心だった。

 実戦においても、一番手で行くことを躊躇しない。

 即座に否定した薫に、秋子はホッとした表情を浮かべた。

 

「ありがとう。そない言うてくれるだけでも、ホッとするわ。今回、昇級したし、給料も増えるやろうから、家への仕送りも増やせる。だから、ホンマにありがとうやねん、薫ちゃんには」

 

 しみじみ言うと、聞き耳を立てていた宝耳がパンパンと拍手した。

 

「すごいやないか、アコ坊。お前、昇級したんか? 祝いせにゃならんな。もう一本つけるか?」

「アンタ飲みたいだけやろが、オッサン! 人の祝い事にかこつけて」

「いやー、紹介した甲斐があった。ワイの目に狂いはなかったな。お前にはコッチの方が()うとると思たんや」

「よう言うわ! 人のことオカメやの、へちゃむくれやのと、コキ下ろしといて」

「せ・や・か・ら、やないか。あっち行ったかて、お前なんぞが太夫(こったい)、天神になんぞなれるわけもないやろが。あ、お嬢さんやったらなれるで。今からでも紹介したろか? 仲エェ女衒(ぜげん)もおるで」

「なに抜かしとんねん! 酔っぱらいがっ!」

「そぅ怒るなや。ワイかて嬉しい、ゆう話やがな。あー、それとな。ワイもお嬢さんに礼を言わなあかんことがあってな」

 

 宝耳は本当に嬉しいようで、今は仕事中でもないせいか緊張感もなく、お酒がどんどんすすむようだ。また銚子を一本頼んでいる。

「礼? 私が何か?」

 薫が尋ねると、煙草を取り出して、ついと鼻先に向けた。

 

「お嬢さん、あんたもなかなか隅に置けんな」

「は?」

「東京で娘を助けたやろ? ちょいと毛色の変わった、桃色の髪の子ぉや。覚えてないか?」

 

 しばらく考えて、うっすらと、その特徴的だった髪の色だけは思い出したのだが、顔ははっきりと思い出せなかった。名前も聞いたように思うが、これについてはすっかり忘れている。

 

「その娘さんがどないしたん?」

 秋子は乾きかけたいなり寿司を頬張りながら、先を促した。

 

「いや。これがなかなかの逸材でな。色々と髪以外も変わった所のある娘でな。知り合いづてにワイにどうしたもんかなーて、相談がきたんや」

 

 このオッサンに相談するなんて、よほどに窮地であったのだろう……と秋子は思ったが、とりあえず黙って聞いておく。

 

「変わったところってなんです?」

 薫は違うことで気になったらしい。

 宝耳はニヤと笑いながら、煙草に火をつけて吸い始めた。

 

「よう聞いてくれた。それこそ、スゴいことや。その娘、どエライ怪力女でな。見た目は普通なんやが、なにせとんでもない筋肉娘なんや」

「筋肉娘…?」

「筋肉娘…ですか?」

 

 秋子も薫も頭の中に疑問符がついていたが、宝耳は酔っているのか、気分が良い様子で話していく。

 

「せやねん、せやねん。これはなかなかめっけもんや思てな。まぁ、しかし鬼殺隊なんぞ普通の女子(おなご)が入りたいわけあらへん。それこそ親が殺されるー、やの、そこのへちゃむくれみたいに借金苦でもない限り、そうそう入りたいなんてことにならへんねん。それがや! ワイが鬼殺隊の話したら、その娘が興奮しよってな」

 

-------------------

 

「鬼殺隊って、森野辺薫さんがいるところでしょうかっ!?」

 

 それまであまり乗り気でなさそうな、不安気な顔をしていた娘が、いきなり乗り出してきて、期待に満ちた眼差しで聞いてくるので、宝耳は思わず「お、おお」と言っていた。

 

 娘―――甘露寺蜜璃は、拝むかのように手を合わせ、おずおずと尋ねてくる。

 

「じゃ、私がそこに入ったら、森野辺薫さんに会えます?」

「森野辺……薫…?」

 宝耳は首を捻りながら、『ああ…あの堅物のお嬢さんか』と、薫のことを思い出す。

 

「なんや、お嬢ちゃん。アンタ、森野辺薫と知り合いか?」

「え? 知り合いっていうか……きっと向こうは覚えていないと思うんですけど……」

 

 もじもじと赤面しながら蜜璃が語ってくれたのは、町のゴロツキに襲われそうになったところを助けてもらった――――という、三文芝居にありがちな話であった。

 

 ほうほうと熱心に聞いてやるフリをしながら、蜜璃の様子を見て、宝耳はだいたいの事情は察した。

 要するに、この眼の前の娘は、助けてもらった恩人であるところの『森野辺薫』に恋しているわけだ。

 腕を組みながら、宝耳は脳裏に薫の姿を思い起こす。

 

 切れ長の目に、筋の通った鼻梁。肩にかかる髪は無造作に後ろでひっつめているだけ。美人ではあるが、どことなく中性的な顔立ち。黒の隊服の上に羽織った、灰色の男物のインバネスコート。――――宝耳は思わなかったが、見ようによっては男と間違えられないこともない風体だ。

 

「……で、私のことを桜の精みたいだって、言ってくれたんですー!!!!!」

 蜜璃の話は、駅で別れる前に薫の言った一言で終わった。

 正直、途中から聞いてるこちらが恥ずかしくなりそうなくらい、色男ぶりが上がっている気もしたが、まぁ、恋する乙女というのはこういうものだ……。

 

「あの、それで薫さんに……会えるんでしょうか?」

 蜜璃はズイとにじり寄り、真剣な顔で再び尋ねてくる。

 

「…………」

 宝耳は一瞬の間に様々なことを考えた後、ニッカリと笑った。

 

「そやでぇ! 会えるでぇー。森野辺薫にー!」

 蜜璃の顔がパアァァと輝き、頬を赤く染めた。

 

「じゃー、私、行きますっ!」

 

--------------------

 

「はぁ? アンタそれでその子、鬼殺隊に入れたん?」

 秋子は目を剥いた。

 

「そやで。いやー、説得がラクで助かったわ。そういう訳で、ありがとうさん。薫様サマやでー」

「それは……」

 

 薫は正直、いい気分でなかった。

 自分を目当てに入ってくるのは、鬼殺隊の本来の目的からは離れている気がする。

 

「ちゃんと伝えた方がいいと思います。鬼殺隊の目的を」

「そらもちろん、伝えとるがな。ちゃーんと諸々のことは万事了承の上で、や。本人もようやく自分らしい道が見つかったー…()うて、意気込んどったし。だいたい、そんなん言うとって、えぇんかぁ? 貴方(あン)さんもすぐに抜かされるかしれんでェ。今は煉獄家で面倒見てもうとるけど、めきめき成長しとるらしいからな」

「煉獄家?」

「炎柱や、薫ちゃん。柱に稽古つけてもらう、いうことは継子やで」

 秋子が説明したが、宝耳は首を振った。

 

「いや、正確には継子とはいえんな。今の炎柱は飲んだくれでまともに仕事しとらん。甘露寺の稽古は息子の杏寿郎がつけとる。けど、あれはまだ柱やないからな」

「なんでまたそんな人ンとこに? 育手はいくらでもおるやろ?」

 

 秋子は入隊以来、ほぼ関西地方に勤務しているので、炎柱に息子がいるらしいことは聞いていても、その詳細な人柄や戦闘能力については知らない。いくら炎柱の息子とはいえ、一介の鬼殺隊士でしかない若者に、弟子の稽古などつけられるのか疑問だった。

 しかし宝耳の答えは単純であった。

 

「近いからな」

「は?」

「甘露寺さんとこの家から、隣町で近いねん。家族も近い方が安心やろ」

 

「そんな理由!?」

「えぇやないか。どこでも。要は強なってくれればえぇんやし。杏寿郎は熱心でえぇ奴や。それに……」

「…強いんですね?」

 

 銚子から酒を注いで言葉を途切らせた宝耳の後をついで、薫は問いかけた。

 さっき宝耳は言った。「あれはまだ柱やない」と。つまり、いずれは柱になり得るに違いないと、古参の宝耳が確信するほどに強いのだろう。

 宝耳は酒を呷った。

 

「まぁ……貴方さんとこの兄弟子とえぇ勝負かしれんな」

「だったら、相当ですね」

 薫は静かに微笑むと立ち上がった。

 

「そろそろお暇します。アコさんはどうしますか?」

「帰るに決まってるやん。こんなオッサンの相手なんぞせぇへんで」

「なんやー。つまらんなぁ。せっかく別嬪二人と仲良ぅ晩酌しよかー思て声かけたのに」

「よう言うわ! さっきまで人のことへちゃむくれとか言うとったん誰やねん!」

「いやいや。ワザとやがなー。本気にして怒るな、怒るな。別嬪に皺が寄ったら、般若みたいになるどー」

「うるさい! この酔っぱらい!」

 

 宝耳と秋子がやり合っている間に、薫は宝耳も含めた会計を済ませた。

 暖簾をくぐって外に出ると、寒風がうなじを吹き抜けた。すっかり秋も過ぎて冬の空気になっている。冴え渡った空に散らばる星を見ながら、秋子が出てくるのを待った。

 

 そういえば、宝耳に風波見の一族である翔太郎が入隊したことを教えてもよかった。が、あの様子では相当飲んでいるようだったから、覚えているかどうか…もしかすると、情報通の宝耳のこと、既に知っているかも知れない……。

 

 薫が逡巡していると、秋子が出てきた。

「ごめん、薫ちゃん。いくらやったん?」

「いいですよ。今日はアコさんの昇進祝いです」

「そんなん! あのオッサンの分まで払たんやろ?」

 

 薫はクスクス笑った。秋子と宝耳のやり取りは見てるだけでも面白い。

「楽しい時間だったから、いいんですよ」

 

 財布を取り出しかけた秋子を手で制すと、薫はゆっくりと歩き始めた。

 秋子はふぅと軽く溜息をついた。なんとなく、薫を男と勘違いしてしまった娘の気持ちがわからなくもない…。

 駆け寄って、「ほな、ごちそうになります」と頭を下げると、薫はニコと微笑んだ。

「……せやけど、まさか薫ちゃんが宝耳と知り合いとは思わんかったわ」

 秋子は何か急に恥ずかしくなって、早口に言った。

 

「私も驚きました。アコさんは、宝耳さんとは長いんですか?」

「うーん。せやなぁ…お()んが何か世話したったみたいやねんけど、詳しいとこはわからへん。とりあえず、ウチらが借金取りに追われて首も回らんなってた時に、ふいと現れてな。ほんでウチに鬼殺隊に入るか訊いてきたんや。まぁ、オッサンの言う通り、ウチはこの通りの器量やし、女を売りにしたとこでたかが知れとるし、やっぱ……嫌やし。(おんな)じ体張ってやるんやったら―――と、思てな。まぁ、そういう意味でゆうたら恩人は、恩人や。時々、ムカつくけどな」

 

「そうですか…。同じ郷里だと、色々と助け合えますね」

「同じ郷里? まさか」

 秋子はブンブンと手を振った。「あんな似非(エセ)関西弁の奴と一緒にせんでや」

 

「似非? 宝耳さんが、ですか?」

「あぁ。薫ちゃんみたいに他所(よそ)から来た人にはわかりにくいか。あのオッサン、やたら訛って喋りよるけど、時々ちょっとなんかちゃうねん。あれは、地のモンやないと思う。前に辮髪(べんぱつ)の兄ちゃんと向こうの言葉で喋っとったし、元は大陸におったんとちゃうかな? 聞いたことないけど」

「大陸って、清国ですか?」

「うん。たぶんやけど。まぁ、どうでもえぇわ」

 

 薫には宝耳と秋子の喋り方は同じようにしか思えなかったが、やはり生粋の土地の人間からすると、微妙な言葉尻などで違和感を感じるものらしい。

 それにしても、ますます宝耳という人間は底知れない。一体、彼は何者なのだろう…?

 考えていると、祐喜之介が「カァ」と呼んだ。薫が腕を差し出すと、フワリと降り立った。

 

「南東ニ向カエ。南東。夜ガ明ケヌ内ニ」

 

「近いのかな? 単独?」

 秋子は上を向いたが、秋子の鴉は来ていない。

 

「それじゃあ、支度して向かいますので。失礼します」

 薫は一礼し、フヮと空気が揺らめいたと思った次の瞬間には、もう遠くに小さな後ろ姿が見えるだけになっていた。

 

「……行ってもうたな」

 覚えのある煙草の匂いに、秋子は眉間に皺を寄せて振り向く。

 

「奢ってもろたんやで。今度会ったら、礼言うときや、オッサン」

「えぇやないか。向こうは階級も上やし、たんまり給料貰とるわ。お前みたいに仕送りせなあかん家族もおらんのやし、貯まりまくっとるやろ」

「そういう問題やない。人に礼くらい言えへんのか、えぇ大人が」

 呆れたように言うと、秋子は道場へと歩き出す。

 

「おい、アコ坊。お前さん、たまには家に顔見せろや。耕介が姉ちゃんに()ぅてもうた小学校のカバン、見せたるんやー、言うてたぞ。大した距離でもないやろ」

「………そのうちな」

 

 秋子は嬉しそうに笑う弟の顔を思い浮かべて懐かしむと、すぐにその気持ちを追い払った。

 

 家に帰ればきっと家族はやさしく、温かく自分を迎えてくれるだろう。

 傷ついた秋子を見て心配して、もう辞めていいと言うだろう。

 そんなことを言われたら、きっと自分は鬼殺隊(ここ)に戻ってこれなくなる。

 

 金目当てで鬼殺隊に入ってきた人間が早々に辞める理由は、結局のところ帰る場所があるからだ。

 親を失った人間には、もうどこにも居場所がない。だから皆、必死だ。そういう仲間達と対等に向き合うために、秋子は家に帰らない。

 たとえ、この先、命を失うことになっても――――。

 

 それは、稼ぐために鬼殺隊に入った、秋子なりの覚悟であり、矜持だった。

 

「……真面目やなァ。妙なとこ親父似や」

 宝耳は去っていく秋子の背中を見つめ、独り()ちた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回の更新は2021.04.10.土曜日の予定です。



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第一章 鬼殺の人々(四)

 薫が複数人での任務を割り当てられるようになってから半年が過ぎた。

 

 秋子以外の隊士と任務に赴くこともあり、鬼を討伐するまでの道中、薫は一緒に行く隊士達に下の名前を聞いて、呼ぶようにしていた。無論、佐奈恵のように任務の間だけでも円滑な人間関係を築いていきたい…という思いからだ。

 そうするうちに、薫に名前を呼んでもらえる隊士も徐々に増えていき、その『栄誉』に預かった者は道場で羨望の的となった。

 

 その中でも最初に「翔太郎くん」と親しげに呼んでもらえた翔太郎が、自慢気に吹聴してまわるのは止めようもなく、その態度に苛ついた隊士達は、やっかみ半分、厳しい稽古を強いたりもしたが、効果はあまりなかった。

 反対に哲次などは「哲次さん」と呼ばれても、「おぅ」とぶっきらぼうな返事をするだけだったのだが、彼の首筋が真っ赤になっていることを、誰もが知っていて、こちらは揶揄(からかい)の対象となった。

 

 最近では薫と一緒の任務にあたると、怪我することも少なく、階級も上がっていくので、勝利の女神のごとく崇拝する者まで現れてきていた。

 

 秋子にもそうであったように、任務のない平時において、薫は効果的な鍛錬の方法を、隊士各位に応じて一緒に考えた。道場でも、時には吉野にある百花屋敷でも、一緒に修行をしていくうちに、それまで漠然とただ稽古していただけの多くの隊士は、格段に自分が成長していくのを感じられた。

 

 薫の教示によって戦闘におけるコツを掴んだという人間は一人、二人でなかった。

 それぞれの癖を見極めた上でそれを真っ向から否定するのではなく、上手く応用してより効果的に技が発動できるように指南してくれるのだ。

 

 まだまだ先のことではあるが、もし薫がこのまま生き残っていければ優秀な育手になることは間違いない。

 ということで、たまに薫が道場に現れると、妙な熱気に包まれるようになっていた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「……なんの騒ぎだ?」

 久しぶりに大阪の道場に顔を出した粂野匡近は異様な熱気に戸惑った。

 

 手近にいた隊士の一人に尋ねると、

「今日は森野辺さんが来てるんスよ」

と、頬を上気させている。

 

「はぁ…?」

 以前、自分が連れてきた時とはまるで違う雰囲気に、はてどうなった? と、首をひねる。

 

 階級が上がった最近では、関東以北での任務がほとんどで、こちらの事情はすっかりわからなくなっていた。

 今回来たのも、関西方面の隊士で重傷者が相次いだために、以前にこちらで任務をしたことのある、土地勘のある隊士が一時的に補充されることになったらしい。

 

「何だ、今日は……?」

 小用を済ました実弥が合流し、やはり異様な雰囲気に眉をひそめた。

 

 匡近は薫の名前を出しかけて止めた。

 これで薫が来ていることなど言ったら、実弥はすぐさま踵を返して出て行くだろう。

 日は既に落ちているし、昨日来ほとんど仕事で歩きづめで、さすがに休みたい。

 

 それに、この状況に興味もあった。

 というか正直なところ、匡近は薫に久々に会いたかった。吉野の百花屋敷以来、半年以上ご無沙汰だ。最近ではお互いに忙しすぎて、手紙のやり取りもなくなっていた。

 

「さぁ…? とりあえず道場の方でも行ってみるか?」

「いらん。俺は寝る」

 実弥はそのまま隊士達の寝泊まり部屋へと歩きかけたのだが――――

 

「いやー、薫さん。さっすがだな~」

 

 陽気な声が聞き捨てならない名前を言う。

 実弥がピタと静止する。

 

「また、薫さんと一緒に行けたらなぁー」

「てめぇは動機が不純だから、本部からハネられてんだよ」

「なにが不純だよ! 言っとくけどなぁ、俺が最初に『薫さん』って呼ぶことを許されたんだからな。薫さんについては俺が先輩なの」

「なに言ってんだ、お前は。森野辺さんはもうそんなの忘れてるよ」

 

 数人の男達は廊下に立っていた匡近達の姿を見つけると、すぐさま直立して頭を下げた。

「お久しぶりです、粂野さん!」

 大声で挨拶したのは粂野も何度か一緒に仕事したことのある後輩だった。

「久しぶりだな、田尾」

 匡近は穏やかに返しつつも、内心はひどくザワザワと心が波立っている。

 

 田尾の横では頭を下げつつも、まだあどけなさのやや残った丸顔の少年がチラチラと匡近を窺っている。さっき「薫さん」を連呼していた少年である。

 

「その子は?」

「風見翔太郎です! 十四歳です!」

 田尾が紹介するよりも先に、大声で自己紹介してくる。

 

 匡近は挨拶しようとして、翔太郎の着ていた羽織の紋所が目に入った。

 隅切り角に八つ矢車菱。

 弟子時代、師匠の家で読んだ呼吸の指南書に刻印されていた紋。それは、代々風柱を継いできた宗家の家紋だ。

 

 匡近が見ているのを察して、翔太郎は屈託ない笑顔を浮かべて言った。

「あ…俺の家、元々は代々風柱をやってたんですけど、今じゃすーっかり落ちぶれてます~」

「じゃあ、君は跡継ぎなのか…?」

「まぁ、一応。はいー」

 翔太郎はニカッと笑う。

 

「オイ」

 それまで黙っていた実弥が匡近を突っついた。「なんなんだ?」

「師匠がお世話になっていた風柱の宗家だよ。あれ? 確か風波見……」

 言いかけた匡近に、翔太郎はシッと口に手を当てた。 

「それ。改名してるんです、ウチ。鬼殺隊とは縁切っちゃったから。あんまり大っぴらにしないように言われてるんで、そこんところよろしく」

 

 宗家のお坊ちゃんだからなのか、こういう性格なのか、翔太郎は馴れ馴れしい。人懐こいともいえるが。

「ってか、家紋(コレ)に反応するって事は、先輩方も風の呼吸の遣い手の方々ですか?」

 尋ねる翔太郎に、田尾がフンと鼻をならす。

 

「この方々はなぁ、お前の崇拝する薫さんの兄弟子の方々だよ」

「えっ!? そ、そうなんですか!?」

 翔太郎は掴みかからんばかりに、グイグイ匡近に近づいてくる。

 

「じゃ、薫さんと一緒に修行されていたんですか!?」

「いや、薫は俺が――――」

 鬼殺隊に入ってから入門してきたから、と言いかけるのを、翔太郎は「えぇぇーーっっ!!!!」と大声で遮った。

 

「今、いま、いま、薫って言いました? 薫って」

「は? い、言ったけど」

「えーーっ! いいなぁ。俺も言いたいっ!!」

「………は?」

 匡近は呆気にとられた。

 

 田尾に視線をやると、『すいません』と、目で謝っている。

 当の翔太郎の方はお構いなしに、ブツブツとつぶやいている。

 

「くっそー。やっぱ断られても、なんとしてでも篠宮さんとこに入ればよかったー! そしたら今頃俺だって……」

「いや。お前、それでも後輩なんだから。先輩を呼び捨てにはできんだろ」

 田尾が冷静につっこむが、翔太郎はもう聞こえていない。

「なに自然に呼んでくれてんですかっ?! 薫って。薫って! あー、もうっ! 羨ましいな~。そっかー、兄弟子だったら許されるのかぁ…」

 

 大声で喚き立てる翔太郎に、匡近と田尾は呆れるだけだったが、ふと背後から不穏な気配がゆらめいているのを感じて、そろそろと後ろを窺った。

 見た瞬間、匡近も田尾も同じ感想を浮かべた。

 

 ―――――あ、殺される。

 

 それまで微動だにせず聞いていた実弥は、眉間に皺を寄せて、もうどこからどう見ても不機嫌そのもの、苛々の塊となっていた。一言も発していない静けさが、逆に怖い。

 スススと後ろに退がりかけた田尾に、低いドスのきいた声が問うてくる。

 

「おい。まだ道場にるのか?」

「えっ? へ? だ、誰がですか?」

「森野辺薫だ」

 

 すると一人で喚いていた翔太郎がまた耳聡く「あなたもですか!」と、恨めしそうに実弥を見た。が、殺気立った一睨みで、一気に顔が強張る。

 実弥はもう一度、田尾に問いかけた。

 

「いるのかァ?」

「あ、さっき離れの方に戻って行きましたけど…」

「呼んでこい」

「え? で、でも…明日の準備とか……」

「聞こえねェのかァ? 田尾。呼んでこいッ()ってんだよォ」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 数分後、基本的には女子が宿泊の際は男子禁制となっている離れに、青い顔をした田尾が伝言を届けに来ていた。

 実弥が来ていること、呼ばれていることを聞き、薫の顔に明らかな緊張が走った。

 

「あの……なんか怒ってるみたいなんで……よかったら、オレ、適当に誤魔化しておきますよ」

 田尾はあまり頼もしいとはいえないながらも、勇気を持って言ったのだが、薫はフッと笑った。

 

「いいえ、行きます。ごめんなさいね、気を遣わせて」

「薫ちゃん…大丈夫か?」

 

 秋子は心配だった。

 薫が佐奈恵に倣って下の名前で呼び合うことを始めた時から、あの二人の兄弟子のことは不安材料であったのだが、今は管轄が関東だからと油断していた。まさか来阪しているとは…。

 とうとう、恐れていたことが起こってしまった。

 

 道着を着直すと、薫は道場へと向った。

 中は人が大勢いるのに静まり返っており、ピンと空気が張り詰めていた。

 実弥が中央で木刀を持って立っている。

 薫はその前に音もなく進み出て、正対すると頭を下げた。

 

「お久しぶりです」

「顔を上げろ」

 実弥が冷たく言い放つ。

 顔を上げると、木刀が青眼にピタリと構えられている。

 

「このフザけたサマぁ何だ?」

「……どういう事かわかりませんが、気に障ったようですね」

「鬼殺隊は学校じゃねェんだよ。何様のつもりで、でしゃばってやがる」

「………すいません」

 

 薫は謝ったが、うっすらと笑みを浮かべたまま、表情は動かなかった。

 実弥はじっと薫を睨みつけて目を逸らさない。

 薫も受けて立つかのように実弥を見つめる。

 見ていられない緊張感だというのに、誰一人として目を逸らせない。

 

「いい加減、言うことを聞け。お前は鬼殺隊(ここ)にいていい人間じゃねェ。とっとと辞めろォ」

 実弥が唸るように言うと、薫は微笑を浮かべながら、フゥと溜息をついた。

「その話………今ので終わりにしてもらえますか?」

 言いながらチラと後ろを一瞥して、再び実弥を見た時には、微笑が消えていた。

「はっきり言わせて頂きます。私は、鬼殺隊を辞める気はありません。絶対に」

 

 言い終わると同時に薫は後ろに転回し、実弥の木刀はさっきまで薫が立っていた場所の空気を断ち切った。

 薫の後ろに立って木刀を持っていた少年は、その手に木刀がなくなっているのを気付くと同時に、薫がその木刀で実弥に向かっていくのを見る。

 

 実力者二人の立合は、圧力が違った。

 その場にいた人間はすべて自分の体にかかる重力が普段の二倍に感じたろう。

 

 薫が全集中の呼吸で上段から振り下ろした木刀を実弥が避け、床の板木に罅が入る。

 実弥もまた呼吸で集中した状態で、剣を下から摺り上げるように振っていく。胴へと入る寸前に止めた薫の木刀がミシミシと抵抗するかのように軋んだ後、バキイッと折れる。

 再び薫が飛び退(すさ)って、壁となっている隊士の一人から木刀を取ると同時、実弥が跳躍し、正面から叩き込む。

 薫は両手で木刀を持って受けたが、衝撃で壁に吹っ飛ばされた。

 

「それぐらいにしろ! 実弥」

 匡近は鋭く呼びかけると、いつの間にか実弥の横に立ち、その腕を掴んでいた。

「道場を壊す気かぁ? お前達は」

 わざとのんびりした口調で(たしな)めたのは、あまりに緊張した場の空気を和ませるためである。

 その場にいた隊士達は一様にハアァ…と、それまで止めていた息を吐いた。

 

「薫ちゃん、大丈夫かぁ?」

 秋子は壁で気を失っている薫に声をかけたが、返事がない。

 

「誰か、バケツに水持ってこい」

 匡近は新入りの隊士が持ってきた水を、ばしゃっと容赦なく薫の顔にかけた。

 意識を取り戻した薫の目の前に、にっこり笑った匡近がバケツを持って立っていた。

 

「起きたか?」

「……はい」

「じゃ、そのまま風呂屋にでも行ってこい」

「はい。………すいません」

 薫は匡近までも怒らせていることを感じて、素直に頷いた。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「ごめんなぁ、薫ちゃん」

 風呂に浸かりながら、秋子がしょんぼりとしていた。

 薫は驚いて聞き返した。

「どうしてアコさんが謝るんです?」

 

「いやぁ……こうなるんは予想できとったし」

「え?」

「みんな、薫ちゃんに名前呼ばれて嬉しい言ぅてやる気になるんはえぇんやけど……きっと不死川さんとか粂野さんとか、えぇ顔せんやろなーっていうのは、予想しとってん」

「あの二人が? どうして?」

「そら、二人とも薫ちゃんのこと好きやんか」

 秋子があけすけに言うと、薫は一瞬きょとんとなった後、アハハと笑った。

 

「関係ないですよ。不死川さんは、元から私が鬼殺隊にいることが気に食わないんですから。いつものことです」

「不死川さんはそれもあるかもやけど…粂野さんは()ゃうやん」

 

 秋子に指摘されて、薫も気付いた。

 そういえば粂野も怒っていた気がするが、なぜ怒っていたのだろう?

 しばらく考えてつぶやいた。

 

「道場を壊したことでしょうか?」

「……()ゃうと思うよ」

「あ、不死川さんと私闘になったから?」

「………本人に聞いた方が早いと思うで」

 

 こうなると薫の鈍感さが恨めしくなってくる。

 秋子は気づかれないようにため息をつくしかなかった。

 

 一方。

 

 隊士達は道場に併設された宿舎に帰ると、それぞれの部屋で二人の兄妹(きょうだい)弟子の立合について、称賛と羨望をこめた感想を言い合っていた。

 

「な、なんなの、アレ?」

 翔太郎はまだ震えが止まらない。

 実弥と薫の打ち合いを見て、異常な稽古風景だと思った。

 あんなのが二人いたら、そんじょそこらの鬼など巻き込まれただけで消えていくのではなかろうか?

 

「お前、不死川さんは初めてか。じゃ、仕方ないな」

 同門の兄弟子である喜川がフーっと煙管をふかせた。

 

「あの人は次の風柱になるって言われてる人だよ」

「風柱に?」

「あぁ。粂野さんも甲だから可能性がないとは言わないが、同じ属性の柱が二つ並び立つことはないだろ? 同流相立たず、ってヤツだよ。どちらかをって話になれば、実力からいって、おそらく不死川さんが選ばれることになるだろうな」

 

「薫さんは?」

「あの人は風の呼吸じゃないだろ? 派生ではあるだろうけど」

「じゃあ、薫さんと一緒に柱になることもあるってこと?」

「まぁ……考えられないことじゃないな」

 

 翔太郎はしばらく考え込んだ。

 二人が柱として並び立つ姿を想像すると、ムカムカしてくる。

 

「嫌だ」

「嫌だっつってもね、お前」

「嫌だ……いやだいやだいやだーーーっ!!」

「喚くな、ガキ!」

五月蝿(うるさ)い!」

 

 周囲にいた先輩、同輩が口々に怒鳴りつける。と同時に、喜川から容赦なく脳天に拳骨をくらい、枕に沈んだ翔太郎は心の中で誓った。

 絶対に自分が風柱になってみせる……と。

 

 元は自分の家が風柱の宗家であったことに、なんのこだわりもなかったといえば嘘になる。

 父が病弱であるために、返上したのだと曾祖母は言っていた。ということは、元気そのものの自分は、もし祖父が生きていてくれれば直接指導を受け、風柱になる可能性は今より高かったはずなのだ。

 少なくとも、あの不死川とかいう薫の兄弟子より。

 

 とはいえ。

 

 今はただの鬼殺の隊士でしかない。

 どうにかして、あの恐ろしい風の遣い手よりも早く出世して、柱になれないだろうか…?

 

 翔太郎はごろんと仰向けになると、天井を見つめて考えた。

 

 風波見家に伝わっていた書物のほとんどは、篠宮老人を始めとする風の呼吸の育手達に渡ってしまった。それを今更返してくれなどと言うつもりはない。もらったところで、それはあの薫の兄弟子達だって読んでいるのだろうから、大して優位にはならない。

 

 だとすれば。

 今は勘当同然になっている実家に一度帰る必要がある。

 前から気になっていたあの場所。蔵にある隠し部屋。

 あの部屋に、何かあるかもしれない。

 何か……あの薫の兄弟子二人が知りもしない、秘伝の書―――――みたいなのが。

 

 父も言っていたではないか。

 

 

 ―――――父上、ここは開かないのですか?

 ―――――うん。鍵をお祖母様が育手に渡してしまったからね。それにここは柱しか入れない。例え開けることができても、柱でないと入っては駄目だと……昔、父上に怒られたんだ。

 

 

 そう。柱の地位でなくては入ることも許されない部屋に……何もないわけがない!

 

「…それをモノにできれば、俺だって」

 ぶつくさ呟きながら、想像する。

 

 どんどん出世して柱になった自分。

 あのクソ恐ろしいヤクザみたいなのと、人良さげに見えて薫への優位性を微妙に漂わせた薫の兄弟子二人が、足元で這いつくばってる……。

 自然とニヤニヤと笑みがもれた。

 

「よーし」

 翔太郎は反動をつけて勢いよく起き上がると、近くにいた隊士に尋ねた。

 

「な、俺、ちょっと休みたいんだけど。どうすりゃいい?」

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.04.14.水曜日の更新予定です。



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第一章 鬼殺の人々(五)

「夕涼みにはまだ寒すぎじゃないのか?」

 風呂屋から帰ってきて、道場裏にある小川のほとりで佇んでいた薫に声をかけてきたのは匡近だった。

 

 どこからか梅の香りが仄かに香ってくるが、まだ夜は冷える季節だった。

 縞の着物の上から葡萄茶(えびちゃ)色のショールを巻いただけの薫は寒そうに見えた。

 

「いえ。大丈夫です」

 薫は言いながら、肩からハラリと落ちかけたショールを首に巻き直した。

 

「あの、粂野さん」

「ん――?」

「すいません。なにか、気分を損ねてしまったみたいで」

 匡近は少し困ったような笑みを浮かべた。

 

「さっき聞いたよ。なんか最近、薫が隊士を下の名前で呼ぶようになったって」

「あ……はい」

「ちょっと不用意だったねぇ」

 言いながら、匡近は足元の石を拾っては川に向って投げた。

 

「不用意?」

「なんでまた、いきなりそんなこと始めたの?」

「それは……」

 

 薫は少し言い淀んでから、佐奈恵のことを話した。

 亡くなった佐奈恵が少しでも早く隊士達と仲良くなるために、下の名前で呼ぶようにしていたこと。実際に自分も実践してみたら効果覿面(てきめん)で、共同任務でも早くに打ち解けられるため、士気が上がるのだと。

 匡近は佐奈恵の名前を聞くと、懐かしそうに目を細めた。

 

「そういやぁ、日村のヤツ、俺のことマッさんとか呼んでたな。そのせいで同期の連中は俺のことマッさんって呼ぶんだ」

 薫は笑顔になった。

 ようやく佐奈恵の話を楽しく、懐かしくできることが嬉しかった。

 

「そうですね。佐奈恵さんって、呼び名を考えるのが上手だったみたいで」

「あいつはそういうふうに人の懐に入っていくのが上手(うま)いっていうか……自然だったんだよなぁ。だからあんまり嫌な気もしなくて」

 

 一瞬閉じた瞼の裏に、明るく少々騒がしかった後輩の姿が浮かぶ。

 鬼殺隊士としての技量は今ひとつではあったが、人望はあった。ズケズケと言いたいことを言っているようでいて、案外と口も堅く、思慮深い性格だった。

 

「粂野さんは、なんて名前なんですか?」

「は? 俺?」

「すいません。以前に教えてもらったとは思うんですけど、忘れてしまって。マッさんってことは……まさ、むね? 違いますね。えーと、まさ、し? まさ……」

 必死に宙を見つめて思い出そうとする薫が可愛かった。

「匡近だよ」

と言ってから、しまったと気付くと同時に、薫が無邪気な笑顔を浮かべて呼んできた。

 

「あぁ、匡近さん。そうでした。匡近さん、でしたね」

 いきなり二度も呼ばれて、匡近は俯いた。

 顔を手で隠しながら、溜息をつく。夜でよかった…と、心底思った。

 

「匡近さんは、今回はこちらで任務があるんですか?」

 ふぅーっと深呼吸をして、心の準備をしてから匡近は顔を上げた。

 

「薫。あの…な」

「はい」

「そうやって、あんまり男に下の名前で呼びかけるのは、どうかと思う」

「……え?」

 

「いや。もちろん、お前の気持ちはわかる。日村みたいにやりたいっていうのは、まぁ、立派なことだと思う。でも、お前と日村だとな……ちょっと違うんだ」

「どこが、違うんでしょう?」

「うーん。それはなぁ……どこがどうって指摘できるもんじゃないんだけど……」

 

 匡近は腕を組んで、どう言うべきなのか考えあぐねた。

 

「今日、実弥が怒ってたろ?」

「……はい」

「あれは、ここに入ってきた途端に男共の気持ちが弛んでるのが目に見えてわかったからだ。こんなんじゃ、鬼の討伐どころじゃない」

「……つまり、気持ちの弛みの原因は、私だということですか?」

「まぁ、そうだな」

 

 匡近はぽりぽりと耳の後ろを掻いた。

 薫は途方に暮れたような顔になった。泣かれるのではないか、と一瞬匡近は焦った。

 

「いや、つまりな。男共ってのは、きれいなお嬢さんやら可愛い女の子から自分の名前なんか呼ばれたら気持ちが浮き立ってしまうもんなんだ。それは別にいやらしい意味とかじゃなくて、そういうモンなんだよ。日村はその点、例外で……」

「わかります」

 薫は自嘲した笑みを浮かべた。

 

「私は佐奈恵さんのようには振る舞えませんから。一緒にいるだけで元気になって、皆が思わず笑ってしまうような冗談も言えないですし。どうしても形ばかりで、やっぱり上辺だけ真似しても駄目なんでしょうね」

 そうじゃなくて――――と言いたい一方で、それもまた間違いではない。

 

 佐奈恵には『マッさん』と呼ばれようが、『匡近』と呼び捨てにされようが、特に何も感じないが、薫に名前を呼ばれると、さっきもそうだったように、妙に気恥ずかしい気持ちになってしまうのだ。

 

 それに他の男が薫のことを『薫さん』と呼んでいることも、妙に胸をザワつかせた。

 それは実弥も同様だろう。明らかに不機嫌だった。道場の男共が薫の話題で盛り上がることも、親しげに名前を呼ぶ事も。

 

 やたらと薫に執心しているらしい、あの宗家のお坊ちゃん、風見翔太郎。もし彼が本当に篠宮門下の弟弟子だったら、あの時点で一発入って半日失神していたに違いない。

 

「なかなか難しいですね」

 薫はしゃがみこんで、小川の流れを見つめた。

「昔からそうなんです。良かれと思っても、空回りしてしまって…」

 

 しゅん、と肩を落とす薫に手を伸ばしかけて止めた。

 思わず後ろから抱きしめそうだった。

 自分がその役目でないことは重々わかっているのに。

 

「頑張り屋なのは、変わらないな」

 

 匡近は手持ち無沙汰になった手で、軽く薫の頭をポンと叩いた。

 薫なりに一生懸命だったのだ。それを責めることはできない。

 

「勝母さんには、頑張りすぎるからちょっとサボれって言われました」

 薫は振り返って笑った。

「ハハハ。あの人なぁ……」

 豪快に笑う勝母を思い出した途端、前に会った時に言われたことが頭の片隅から飛び出してきた。

 

 ―――――お前さんがあの子を嫁にしたけりゃ、すりゃあいい。

 

 匡近は口を押さえた。

「粂野さん?」

「いや、なんでもない。そろそろ帰るぞ。冷えてきた」

 ブルッと身を震わせて、匡近は踵を返す。

 脳裏で勝母が囁いてくる。

 

 ―――――あんた、あの娘が好きなんだろ?

 

 鬼殺隊を目指すようになって以来、フザけてそんな話をすることはあっても、実際のところ自分の恋愛など、遠い遠い遥か彼方の水平線の向こうに飛ばされて行ったと思っていた。

 だが、こんな近くで、気付けば笑いかけられるだけで、幸せを感じている自分がいる。

 

 ―――――アンタがアイツを貰ってやりゃァ、いいんだ……

 

 投げやりに言った実弥。本当はそんな事、露ほども思っていないくせに。

 

 今でも憶えている。

 薫が作ってくれたおはぎを、怒ったような顔で食べながらも、耳を真っ赤にしていたこと。

 いまだに薫の作ってくれたという、ボロボロのの道中財布を持ち続けていること。

 

 わかりやすくて、こちらのつけいる隙もないくらいだというのに、どうしてこの二人はここまでこじれてしまったのだろう……?

 

 お陰で、匡近は――――…自分の立ち位置が決まらない。どうかすれば、実弥に抜けがけして、薫を手に入れようとすら思ってしまう。

 

 案外と腹黒いんだな、俺は。

 自分でも気付かなかった自身の心根に、匡近は苦笑してしまう。

 口の端にらしくない笑みが浮かんで、気付いた薫が不思議そうに見た。

 

「どうしました?」

「いや……」

 

 匡近は胡麻化そうとしたが、ふと薫をまじまじと見つめた。

 いっそ、はっきりとフラれた方が楽なのかもしれない。

 

「薫、頼みがあるんだけど…」

「はい?」

「もし、俺がいなくなったら、実弥のこと頼むな」

「えっ?」

 

 薫の顔色がサッと変わる。

 

「まぁ、こういう仕事だし。ありえないことじゃないだろ?」

 匡近は軽く言ったが、薫は立ち尽くして、ショールをギュッと掴んでいた。

 

「どうして…いきなり?」

「うん、まぁ……俺も階級が上がって、わりと厄介な案件を任されるようになってきたし。アイツ、あんまり友達とかいないからさ。ああいう感じだから皆、怖がって声かけないし。薫ぐらいしか、アイツのこと気にかける人間いないだろ? それに同門だし、俺より昔からの知り合いでもあるし」

 

 匡近が言えば言うほどに、薫の顔は曇った。

 眉間に皺を寄せ、淋しげに俯いた。

 

「……私は、無理です」

 絞るように呟いた声は、あまりにも自信なさげで、哀しそうだった。

 

「粂野さんみたいに、実弥さんに頼られるようにはなれません」

「えぇ? 頼られてるかなぁ、俺」

「それは、もちろん。そうです。実弥さん長男ですから、ずっと気を張って生きてきたと思いますけど、粂野さんの前でだけ、安心して自分をさらけ出してる感じがしますから」

「うーん…それは喜ぶべきかぁ?」

 

 薫は淡く微笑んだ。

「実弥さんにとって、粂野さんは特別だと思いますから、ずっと一緒にいて下さい。私は――――実弥さんの何者にもなれませんから」

 諦めきったように言って、薫は匡近の横を通り過ぎようとする。

 

 匡近は驚いた。

 思わず薫の腕を掴んで、語気荒く問いかける。

 

「本気でそんなふうに思ってるのか!?」

 

 薫は目を丸くして匡近を見つめた。

 どうしてそんな事を聞くのだろう? と、言わんばかりに。

 

「思ってますよ。今日だって、相変わらず辞めろって…」

「………違う!」

 匡近は大声で否定した。「実弥は……」

 言いかけて、匡近は口を噤んだ。

 

 薫はあまりにも悲しげに、いっそ苦しそうに見えながらも、笑っていた。

 腕を掴んだ匡近の手をとると、やさしく両手で包み込んだ。

 

「匡近さん、やめましょう。鬼殺隊にいる以上、誰が先に死ぬかなんて、わかりようがないんです。頼まれた私が、先に死ぬことだってありえないことじゃないでしょう?」

 

 そう言われた時に、匡近はいよいよ実弥の気持ちが痛いほどに理解できた。

 そんな未来を想像するのも苦しいから、実弥は必死で薫を辞めさせようとしているのだ。例え、そのせいで誤解されたとしても。

 

 それなのに自分は卑怯で、薫を失いたくない気持ちは同じくらい持っているくせに、嫌われたくないし、あんな悲しい顔もさせたくないから、理解ある兄弟子のフリをして、側にいたまま信用を得ようとしている。

 

 俺は実弥のようにはなれない。

 本当に薫を大事に想っているのは、自分じゃない。

 そう伝えて、潔くフラれれば、まだしも自分も捨てたもんじゃないと思えるだろうに……。

 

 ―――――なんで、言えない?

 

 薫は手を握ったまま、匡近を見上げてニッコリと笑った。

「行きましょう。匡近さん。本当に寒くなってきましたよ」

 

 そう言って、手を放す。

 冷たい風が、温もりを奪っていく。

 匡近は握り拳をつくって立ち尽くす。

 

 顔を上げると、先を歩いていた薫が振り返って「早く」と、手で招いていた。

「匡近さん、早く。風邪引いちゃいますよ」

 

 名前を呼ばれたことに気付いて、少しこそばゆい気持ちになったが、これくらいはいいかと思うことにした。

 

 ゆっくりと歩きながら願う。

 もう少しだけ、このままで―――――。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回の更新は2021.04.17.土曜日の予定です。



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第二章 煉獄家と風波見家(一)

 四月になり、薫は一年ぶりに東京に向かった。

 去年に引き続き、墓参りができるだけ有難い。

 ただ、今年は関東方面での仕事が一件だけ入っていた。

 

「人使い荒いですよねー、本部も。こっちに来るついでに鬼狩りしろってさー。これじゃ休暇じゃないよォ」

 口をとがらせて言う翔太郎に、薫は微笑んだ。

「信頼されて、任されているのよ」

 偶然、同時期に休暇願いを出して、実家に帰省予定だった翔太郎と一緒に、任務に当たることになっていた。

 

 いつもなら一人の道中が、翔太郎のお陰でにぎやかだった。

 翔太郎は前に道場を訪れた実弥達によほど関心があるらしく、根掘り葉掘り訊いてくる。それも主に実弥のことを。

 あの時、薫と行った立合がよほどに衝撃的だったのだろう。

 

「それじゃあ、不死川さんって、篠宮先生とこに弟子入して、一年もしないで最終選別に行って合格してるってことですか?」

「そうみたいよ。先生も、不死川さんには期待しているみたい」

「……柱ってことですか?」

「さぁ…? それは特には言われてないけど」

 

 翔太郎は少し考え込んで、すぐに別の話を持ち出す。

 

「不死川さんを鬼殺隊に連れてきたのは粂野さんだって、聞いたんですけど?」

「ええ、そうみたいね。たまたま匡近さんが、鬼に襲われそうになっていた不死川さんを助けたみたいで…」

 

 翔太郎の顳顬(こめかみ)がピクリと動く。

「あの、一つ訊いていいですか?」

「なに?」

「なんで、不死川さんは不死川さんなのに、粂野さんは匡近さん、なんですか?」

 

 薫はきょとんとしてから、「あぁ」と頬を緩めた。

「そういえば、そうね。注意されたんだけど……どうしてかしら? 匡近さん、って呼びたくなったの。兄弟子だし、本当は敬意を払うべきなんでしょうけど……本当に、お兄さんだったら良かったのになぁって」

「お兄さん?」

「そう。だって、優しいし、頼りがいもあるし。ああいう人がお兄さんだったら、良かったと思わない?」

「……はぁ、まぁ」

「不死川さんは、本人から名前で呼ぶなって怒られたから。でも、匡近さんと話している時は実弥さんって言ってしまうわね。匡近さんが『実弥』って呼ぶから、つられてしまって」

 

 楽しげに笑う薫に、翔太郎はその後、少しだけ無口になった。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 東京に着くと、すぐに鴉の案内で任務にとりかかる。

 

 鬼の居場所はすぐに知れた。

 血鬼術も使えない、まだ鬼になってからの日数は浅いと思われる鬼だったが、非常にすばしこい。

 薫が突き技で足止めさせている間に、翔太郎が首をとった。特に打ち合わせをしたわけでもないが、見事に連携できた。

 

 翔太郎は最近、みるみる強くなってきている。

 薫が以前に筋力が足りないことを指摘すると、すぐさま工夫して筋肉増強をはかり、その後は以前に比べ、格段に技の威力が増すようになった。

 

「翔太郎くんは稽古熱心だから、すぐに追い抜かされそうね」

 薫がそう言ってニッコリ笑うと、翔太郎は素直に喜んだ。

「いやー。目標が出来たんで」

「目標?」

「そうです。俺、風柱になります。絶対」

 

 翔太郎は本気で言ったが、薫はそれを翔太郎なりの己への鼓舞だと受け取った。

 

「そう。頑張ってね。それじゃあ――――」

 道辻で別れようとした薫に、翔太郎があわてて声をかけた。

「薫さん、この後どうされるんですか?」

 

「今日は適当な宿屋を探して寝るだけよ。明日に墓参りを済ませて、発つつもり」

「じゃあ、ウチに来たらいいですよ! 宿の布団よりは柔らかいし、虫もいないですから、かまれて痒くなることもないですよ」

「え? ……それは、悪いわ」

「いや。実はもう母上に言ってあるんです。たぶん支度して待ってると思うんで」

 

 翔太郎は用意周到だった。

 薫との東京行きが決まってから、鴉を飛ばして、実家に連絡をとっていたのだ。

 

 薫は迷った。

 いきなり後輩の家にお邪魔するのは気が引けるが、既に準備してくれているのかと思うと、申し出を断るのも悪い気がしてきた。

 その上、翔太郎は薫の向学心をくすぐることも言い添えてくる。

 

「あの、前にも言ったと思うんですけど、俺の家、元は風柱の家系だったじゃないですか? だから蔵になんか昔の書付とか、本とか…あるんじゃないかなー…っていう。まぁ、薫さんの興味があれば……ですけど」

 こう言えば薫がきっと食いついてくるだろうという翔太郎の読みどおり、薫はおずおずと「じゃあ、お邪魔してもいいかしら」と尋ねてきた。

 

 無論、翔太郎はニッコリと笑った。

「もちろんです!」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 風見家に向かう前に、翔太郎は寄っていきたい所があると言った。

 

「煉獄家にね。俺、ちょっと借りがあるんで。薫さんも、見てみたいでしょ? 炎柱の家」

「見てみたい…って、見世物じゃないでしょう」

「アハハ。まぁ、そうなんですけど」

 

 言いながら翔太郎は弾むように歩いていく。弟子入りのために出て行って以来の帰郷らしい。よほどに嬉しいのだろう。

 

 その煉獄家へと向かいながら、そういえば…と思い出したことがあった。

 宝耳が鬼殺隊に引き入れた娘―――――甘露寺蜜璃が、確か煉獄家で修行中なのだ。宝耳の話では薫のことを男と誤解しているのだという。

 

「翔太郎くんは、甘露寺さんという人を知っている?」

「甘露寺? 誰ですか?」

「今から向かう煉獄家で修行をしていると聞いたのだけど」

 

 翔太郎は途端に眉を寄せた。

「修行? ……なんですか? 薫さんの知り合いか何か、ですか?」

「えぇ、そうね。以前に会ったことがあって」

「………男ですか?」

「え? いいえ。女の子よ。とても可愛い子」

 

 女の子、という返事をきいた途端、翔太郎の険しい顔つきが一気に綻んだ。

「なんだぁ、そうですか。女の弟子なんて取ってるんだ、炎柱」

「あ、炎柱が直々にというわけではなくて、その息子さんに師事していると聞いたけど」

「へぇ、杏寿郎さんがですか? ふん、ま、そうなるか。あの人変わってるけど、教えるのは上手いですよ。駄目なところははっきり駄目って言ってくれるし、いい所はものすごく褒めてくれるし」

 

「翔太郎くんも教わったの?」

「そうっすねー。子供の頃ですけど。俺の家は素振りもさせてもらえなかったから……」

「え?」

「あ、いたいた。おーい、千寿郎ー!」

 

 翔太郎はブンブンと手を振りながら、門前の掃き掃除をしている男の子に駆け寄って行った。

 呼ばれた男の子は、びっくりしながら顔を上げ、翔太郎だと気付くとパアッと笑顔になる。

 

「ショータくん! 帰ってきたの!?」

「まぁなー。っつーか、ホレ。すげーだろ?」

 

 翔太郎は羽織をバサリと脱ぐと、鬼殺隊の隊服をみせびらかすように一回転した。

 

「すごい! 本当に、なったんだね!!」

「当たり前だーっ」

 大声で叫ぶと、翔太郎は男の子の肩に腕を回して、ぐるぐると一緒に回りだす。

「すげーだろっ!」

「すげー!」

 

 荒々しいが楽しそうに再会を喜びあう二人を眺めていると、ハッとした顔で男の子が薫を見た。

 大きな目でじいっと見つめられて、薫は少し不思議に思いながらも、微笑んだ。

 翔太郎はボーッとなっている男の子の頬を思い切りつねった。

 

「痛っ!」

「美人だからって、見惚(みと)れてんじゃねーや! この人はなぁ、俺の先輩の隊士で森野辺薫さんっての。ホレ、挨拶挨拶」

「あ……あの、僕は煉獄千寿郎と言います」

 

 箒の柄に隠れようとするような、恥ずかしげな様子で千寿郎は頭を下げた。

 

「初めまして、森野辺薫と申します。いきなりの来訪で、ご迷惑ではありませんでしたか?」

「いえ……全然」

「大丈夫だよ、この家。門弟を何人も抱えたりしてないし。今は特に、な?」

 

 翔太郎が勝手知ったる様子で言うと、千寿郎は首をすぼめるように頷いた。

 

「あら。でも甘露寺さんは?」

「甘露寺さん? 蜜璃さんのこと、ご存知なんですか?」

「ええ、少し。こちらにいると訊いて、伺ったのだけど…」

「蜜璃さんは、今、お米を取りに行かれてて」

「お米?」

「あ、えーと……」

 

 千寿郎が答えに窮していると、翔太郎が「なー、とりあえず入ろうぜ」と自分がさっさと門をくぐっていく。

 

「………あの、どうぞ」

 千寿郎に促されて、薫は軽く礼をすると煉獄家の門をくぐった。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.04.21.水曜日の更新予定です。



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第二章 煉獄家と風波見家(二)

 屋敷は広かったが、人気はあまり感じられなかった。

 客間に通されて、翔太郎は物珍しげに部屋の中を見回した。

 

「いやー。俺が子供の時にはこの部屋入ったら怒られたんでー。まさか入れてもらえるようになるとは思わなかったなぁ」

「それは、よほどにオイタをしたのね?」

 

 薫が言うと、肯定の笑みを返してくる。

 聞けば、千寿郎は翔太郎よりも四つ下だというから、きっと翔太郎が親分よろしく、様々ないたずらをしていたのだろう。

 

「翔太郎くんは、千寿郎くんと幼馴染だったのね」

「そうっすねー。俺が小さい時は杏寿郎さんに遊んでもらってたし、杏寿郎さんが継子の修行で忙しくなってからは、千寿郎と遊んでましたね。まぁ、遊び半分稽古半分みたいな感じでもあったんですけど。まぁそれも――――途中で親父さんがあんな感じになっちゃったんで」

「あんな感じ?」

「…………」

 

 翔太郎にしては珍しく、気まずい様子で口を噤む。言いたくないのだろうか。

 薫は立ち上がると縁側に出て、庭を眺めた。

 きれいに手入れされている。中央にはおそらく稽古のために作られたらしい円形の砂場があり、中には巻藁が五本立っていた。

 白塀に沿って松やクヌギなどが植えられ、池の側にはもう花を落とした、しだれ梅が水面に枝を垂らしていた。

 

「すいません、おまたせして」

 千寿郎がお茶とお菓子を持って入ってきた。

「やった! あんパンだっ」

 翔太郎は皿に盛られた丸いパンを見ると、すぐさま手に取った。

 

「ショータくん、好きだよね。昔から」

「おう! さすが千寿郎だ。用意がいい!」

「いや、本当は甘露寺さんが昨日たまたま通りかかって、僕と父上にって買ってきてくれたんだけど、父上は甘い物はあまりお好きじゃないから……」

 

 千寿郎は言いながら顔を俯けた。

 翔太郎はあっという間に一個目を食べ終え、二個目にかぶりつきながら尋ねる。

 

「親父さん、相変わらず?」

 千寿郎がコクリと頷く。悲しそうな顔だった。

 薫はお茶を飲みながら、とりあえず黙っていたのだが、翔太郎が不意に訊いてくる。

 

「薫さん、今の炎柱がほとんど仕事してないって、知ってます?」

「え?」

「ここ一年なんか、ぜんぜん任務に行ってないんだろ?」

「……うん」

「どこか具合でもお悪いの?」

 薫が尋ねると、翔太郎はうーん、と唸った。

 

「具合が悪いっちゃあ、悪いって言えるのかなぁ、アレ。酒浸りなんですよ」

「酒?」

「千寿郎の母上が亡くなってから、なんか落ち込んではいたんですけど……。その後、どんどん不機嫌になって、昼間っから酒呑むようになって。そのうち、仕事も放り出すようになっちゃって」

「そんな……」

 

 薫には信じられなかった。

 柱である以上、酒を飲んで任務を放擲するような真似をするものだろうか。

 

 だが、シュンとなって否定もしない千寿郎の顔を見ると、翔太郎が大袈裟に言っているわけではないらしい。

 そういえば前に宝耳も似たようなことを言っていた気がする……。

 

 暗くなりかけて、翔太郎は千寿郎の背中をバン! と叩いた。

 

「ま! 気にするなよ! 杏寿郎さんがすぐに柱継ぐって! そうだ、今日は杏寿郎さんは?」

「兄上は、任務で出てるよ。明後日ぐらいには戻るって」

「そっかー。残念だなー。せっかく杏寿郎さんが好きそうな土産持ってきたのに」

 言いながら、翔太郎は荷物の中から茶色の包みを取り出した。

 

「芋きんつばっつーの。七輪か何かで炙ってから食うと、すっげぇうめぇからさ」

「うわぁ! ありがとう、ショータくん! 兄上、すごく喜ぶよ」

「だろー。あ、お前、自分の分とっとけよ。じゃないと、あの人全部食べるから」

 

 薫は途中から面白くて、口を押さえてクスクス笑ってしまった。

 まるで、兄弟のようだ。これで今はいないという杏寿郎という人がいれば、どんな会話になっていたのだろうか…?

 

「なんスか、薫さん?」

 翔太郎が不思議そうに訊いてくる。

「いえ。本当に仲が良いなぁ、と思って。千寿郎くんも将来は鬼殺隊に入るの?」

「え……と、僕は……」

 言い淀む千寿郎に、翔太郎はバッサリと言った。

 

「やめとけよ。お前、合わねーって」

「え?」

「杏寿郎さんはある意味鈍感だし、稽古バカみたいなとこあるからいいけどさ。お前は、無理だよ。たぶん」

 

 千寿郎は悔しそうに唇を噛みしめ、しばらく俯いていた。

 薫が翔太郎をたしなめようとすると、顔を上げ、キッと翔太郎を睨みつける。

 

「なんだよ! 自分がなれたからって!」

「なって、今、鬼殺隊にいるからわかるんだよ」

「まだたったの一年そこらだろ! エラそうに云うな! ショータのくせにっ! 兄上にコテンパンに負けて、泣いて、小便漏らしてたじゃないかっ」

「いつの話だよっ! そーゆーこと今、云うなっ!」

「なんだよ! 綺麗な人の前だと格好つけてさ! 昔っからそうだよね! みっちゃんにいいところ見せようとして、高下駄なんて履いてさ、思いっきり転んで足くじいて、結局兄上におんぶされて帰ってきてたよね!」

「てめーッ! 泣き虫千寿がぁっ!!」

 互いに掴みかかって、いよいよ喧嘩が始まりそうになった時。

 

「うるさいぞ!!!!」

 

 パシン、と襖が開いて、太い男の声が一喝した。

 

 サッと千寿郎の顔に緊張がはしる。

 すぐに正座して、廊下に立っている男に頭を下げた。

「すいません! 父上」

 

 翔太郎はジロと見上げ、フイとそっぽを向く。

 男は寝ていたのか随分と着崩した、だらしない格好だったが、翔太郎を見る眼光は鋭く、明らかに空気を一変させる威圧感を持っていた。

 

「翔太郎か?」

 男が尋ねると、翔太郎はようやく振り向いて挨拶した。

 

「どうも、お邪魔してます」

「お前、鬼殺隊に入ったのか?」

「はい」

「………無駄なことだ」

 

 吐き捨てるように言って、踵を返しかけた時に、ふと薫と目が合う。

 驚いたように目を見開くと、しばらく凝視された。

 

「…………」

 唇が何かをつぶやいたのか動いたが、薫には聞こえなかった。

 挨拶をしようと思ったが、男は目を逸らせると、背を向けて去ってしまった。

 

「翔太郎くん、今のって……」

「千寿郎の親父さんです」

「それは……炎柱ってことよね?」

「そうです」

 

 サーっと血の気が引く。

 なんとなくそうだろうと思っていたのに、圧倒されてまともに挨拶もできなかった。

 あぁ………呆れられたに違いない。

 

「わ、私、ちゃんとご挨拶に行ってきます」

「へ? 気にしなくていいですよ。ただの酔っ払いですよ」

「駄目よ。いきなりお邪魔した上に、ご迷惑をかけたのだから。ちょっと行ってきます。あ、千寿郎くん。炎柱様って、どこに行かれたの?」

「え? 廊下のつきあたりを曲がったところが父上の部屋ですけど」

 

 薫は立ち上がると、薄暗い廊下を音をさせないように急ぎ足で向かった。

 

「真面目なんだからな、あの人」

 翔太郎は呆れたように言って立ち上がる。

 歩きかけて、ふと気になった。

 

「さっき、親父さん。るか、って言ってなかった?」

「………」

「親父さんもだけど、お前もさ。薫さんを初めて見た時、なんか変だったよな。なに?」

 千寿郎はキュッと拳をつくった。

 

「……似てたから」

「似てる? 誰に?」

「母上に」

「母上って……お前、顔なんて覚えてないだろ? 俺だって朧げだよ。綺麗な人だった気はするけど」

「一枚だけ、写真があったから。見たことあるんだ」

 

 千寿郎は翔太郎を見上げた。

 

「似てるから、連れて来たんじゃないの?」

「まさか。知るわけないだろ。単純にこっちで用があって……あと、薫さんは甘露寺さんって人に会いたかったみたいだし」

「あ、そうだった。蜜璃さん、まだ帰ってこないのかな…」

 

 千寿郎は立ち上がると、勝手口の方へと向かっていく。

 翔太郎はフゥと息を吐くと、炎柱・煉獄槇寿郎の居室へと歩いて行った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 その部屋の襖は開け放たれており、中には炎を(かたど)った見事な羽織が衣桁(いこう)に掛けられてあった。

 

 そっと中を覗くと、先程の男―――炎柱が、縁側の柱に背を凭せかけてボンヤリしていた。かたわらには酒瓶がある。

 どうやら翔太郎が言っていたのは本当のことらしい。 

 

 いずれにせよ、一言の挨拶もせずに過ごしていい相手ではない。

 

 薫は深呼吸すると、廊下に正座して頭を下げた。

 既に気付いていたのか、槇寿郎は見向きもせずに問うてくる。

 

「何か用か?」

「先程は、失礼しました。炎柱様にご挨拶もなく、お邪魔して騒ぎ立ててしまいました。申し訳ございません」

 

 槇寿郎は返事をしない。

 薫がどうしようかと考えていると、後ろから翔太郎がぞんざいな口調で言い放つ。

 

「薫さんが謝ることじゃないです。俺と千寿郎の喧嘩ですから」

「翔太郎くん!?」

「っつーか、昼間っから酒くらって寝てたら、うるさいのが来て叩き起こされて不機嫌になったってだけでしょ? どっちもどっちだよ」

 

 翔太郎は人が変わってからの槇寿郎に対していい気持ちを持ってない。

 杏寿郎はともかく、気が弱い千寿郎はやたらと顔色を窺うようになってしまった。それもこれもこのジジィのせいだ、ぐらいの気持ちでいる。

 

 だが薫はそうした事情は知らない。厳しい口調で翔太郎を諌めた。

 

「翔太郎くん、(わきま)えなさい。今は謝罪に来ているのよ」

「………すいませんでした」

 

 立ったまま翔太郎が言うと、槇寿郎はチラとだけこちらを見て、長い溜息をついた。

「……もういい。帰れ」

 

 それ以上、声をかけることも憚られ、薫は黙って頭を下げるとその場から立ち去った。

 はぁぁぁ、と安堵と反省の溜息がもれる。

 

「そんな気にしなくていいですよー。だいたい、ほとんど仕事してない炎柱に挨拶なんか……」

「炎柱であるかどうかの前に、千寿郎くんのお父上で、この家の家長でいらっしゃるのだから、挨拶をするのが筋というものです。翔太郎くんだって、昔はお世話になったのでしょう?」

「薫さんって、ホントに真面目すぎですよ」

 

 翔太郎は呆れて言うと、玄関にいた千寿郎に声をかける。

 

「千寿郎。も、帰るわ。杏寿郎さんに、芋きんつば食べてもらってな」

「うん。あ、森野辺さん。蜜璃さんなんですけど、まだ帰ってこなくて」

 

 そういえば、甘露寺蜜璃に会って誤解を解こうという目的もあったのだと、思い出す。

 

「たぶん、途中のお茶屋さんで桜餅とか食べてるんだと思います」

 千寿郎は申し訳なさそうに言った。

 

 薫は初めて会った時に桜餅を一気に五皿近く食べていた蜜璃の姿を思い出し、クスクス笑った。

「そう。甘露寺さんなら有り得るわね。いいの。私のは大した用事ではないし、その内どこかでお会いすることもあるでしょうから。今日は失礼します」

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 薫と翔太郎が立ち去って一時間後。

 

 大八車に米六俵を載せて運んできた蜜璃は、千寿郎から森野辺薫が訪ねて来ていたということを知ると、

「えええぇぇぇーーーーーーっっっっ!!!!!!!!!」

と、甲高い悲鳴を上げた。

 

 父が酒を買いに外に出ていて良かった、と千寿郎は内心思った。

 しかし、蜜璃はお構いなしに大声で訊いてくる。

 

「いつ? いつ、いつ? なーんで、私もっと早くに帰らなかったのーっっ!!!!!」

 千寿郎は蜜璃に肩を揺さぶられて、軽く眩暈になりながらも、やさしく言った。

「でも、その内会うこともあるだろうからって……その時にまたって」

「うぅぅ」

 

 蜜璃は米俵に突っ伏して悔しがりながら、千寿郎をじとっ、と見た。

 

「薫さん、相変わらず美しかった?」

「へ? あ、そ、そうですね」

「インバネスコート羽織って、二枚目役者みたいだったでしょ!?」

「…………はい」

 

 蜜璃の勢いに押されて、千寿郎は頷いたが、頭の中では疑問符が浮かぶ。

 

 ―――――二枚目って……女の人にも使うのかなぁ?

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回の更新予定は2021.04.24.土曜日になります。



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第二章 煉獄家と風波見家(三)

 翔太郎は自分の家の前で、しばらく立ち尽くしていた。

 じい、と門構えを見上げる目は珍しく真剣で、少し迷っているように見えた。

 

「翔太郎くん、どうかしたの?」

 随分と長い間立っているので薫はそろそろと尋ねた。「やっぱり私、ご迷惑なら……」

「薫さん、俺、勘当されてるんです」

 ボソリと翔太郎は言った。

「勘当?」

 コクリと翔太郎は頷く。

 

「鬼殺隊に入る時、反対されて。どうしても入るんなら勘当だって、言われました。それでも行くって言ったら、蔵に閉じ込められて……千寿郎に手伝ってもらって蔵から抜け出して、その足で育手の所を回って弟子にしてもらったんです」

 薫は驚いた。

 普段の軽口を叩く翔太郎からは想像できない。

 

「じゃあ、今日は…」

「いや。今日は大丈夫なはずです」

 言いながら門をくぐり、紺鼠色の飛び石を歩いていると、庭の方から女の子が走ってきた。

「兄様! お帰りなさい!」

 六、七歳くらいだろうか? 嬉しさを満面に、弾む足取りで駆けてくると、翔太郎に飛びついた。

 

「うおっ! デカくなったじゃねぇか、チビ」

「チビじゃないです!」

「うん、そうだな。ただいま、清子(きよこ)

 翔太郎は抱き上げた妹をそうっと降ろすと、薫に少し恥ずかしそうに紹介した。

 

「あ……妹です。清子っていうんですけど……」

 清子は薫を見上げて、じいぃーっと見つめている。目元が翔太郎に似ていた。

 薫はしゃがみこんで清子の目線に合せると、挨拶をした。

 

「初めまして、清子ちゃん。私は森野辺薫です。お兄さんと同じ鬼殺隊の隊士です」

「……女の人?」

 清子が首を傾げながら問うと、翔太郎は「はあぁ?」と怒鳴った。

 

「女に決まってんだろ! どこにこんな綺麗な男がいるんだよ!」

「いるもん。この前、お芝居で見たもん」

「あんなモン、白粉(おしろい)塗りたくったジジィがやってるだけだろうが!」

 

 薫は内心、複雑だった。

 甘露寺蜜璃もそうだし、以前に任務で助けた女の子もそうだったが、どうやら自分は女の子から高い確率で男と間違えられる。それは都合のいい時もあったが、反対につきまとわれて困ることもあった。

 まぁ、たいがいは女だとわかった途端にガックリ肩を落として去っていくのだが…。

 

「翔太郎!」

 玄関から呼声がして、丸髷の女が現れた。鶯色と黒の縞模様の着物に、水仕事の途中だったのか、前掛けで手を拭きもってやって来る。

 年格好から、すぐに母親だろうと察しが付いた。

 案の定、翔太郎が叫ぶ。

 

「母上!」

 女は翔太郎を上から下までゆっくり見ると、額にあった傷に手を伸ばした。

「大丈夫なのかい?」

「かすり傷だよ、こんなの」

 翔太郎は笑うと、千寿郎にしたようにくるりと一回転してみせた。

「ホラ。これが隊服だ。正真正銘、鬼殺隊士」

「まあぁ……。本当だったんだねぇ。手紙を読んだ時には、どうせホラ半分だろうとばかり…」

「なんでだよ」

「あんた、すぐ大風呂敷広げるから……」

 

 翔太郎の母親は笑いながら言いかけて、少し離れた場所に立っていた薫に気付くと、「まあ!」と叫び、転びそうになりながら走り寄ってきた。

 

「しょ、翔太郎がお世話になりまして……」

「いえ。そんな…」

「迷惑かけてますでしょう? この子。すぐに考えなしに突っ走るんです。お調子者だし、勉強もしないし、そこいら中駆けずり回って、近所の子供集めて戦ごっことかして。小さい頃、一人っ子の時代が長かったせいで、父親に甘やかされちゃって、どうにも我儘なところがあって……」

 

 つらつらと翔太郎の悪口を言っているのだが、嫌味ではなく、どこか滑稽だった。薫はこらえきれずに、思わず笑ってしまう。

 

「やめろって、そういうの!」

「だって、アンタ絶対迷惑かけてるんだろ? 今のうちに謝っておかないと。あ、なんかしたらすぐに拳骨でどうぞ。殴ってもこれ以上悪くなりようもない頭ですから」

 薫はどうにか笑いを収めると、「そんなことはないですよ」と朗らかに言った。

 

「翔太郎くんは、機転もきいて、作戦行動でもとてもいい働きをしてくれてます。助かっていますよ」

 母親は「はぁ…」と吐息をもらすと、

「翔太郎、良かったわねぇ…アンタ。理解のある先輩さんで」

と、ほれぼれしたように言う。

 翔太郎は眉間に皺を寄せ、何となく感じ取ったのだろう。母親に告げた。

 

「言っとくけど、薫さんは女だからな」

「えっ!?」

 やはり勘違いされていたのか、と薫は内心でまた溜息を漏らした。

 女とわかるよう、胡蝶カナエのように髪飾りでもしておいた方が、いいような気がしてくる。

 

「まぁ、鬼殺隊って女の人もいるの? まぁ、危ない仕事だというのに……ご苦労様ですねぇ」

 刀を振り回している女が想像できないのか、考えてみればそれは一般的な反応だった。

 

 それにしても、翔太郎は入る前には『勘当された』と言っていたが、見る限りとてもそんな様子には思えなかった。母も妹も、久しぶりに帰ってきた息子を歓待しているではないか。

 

 だが、翔太郎はその二人との再会から一息つくと、母屋を窺いながら母親に尋ねた。

「大お祖母様(ばあさま)は?」

 途端に母親がヒソヒソ声になった。

「湯治ですよ。最近、腰痛がひどいって。だから、アンタを入れられるんでしょうに」

「ああ、良かった」

 フーと息をついて、翔太郎は玄関へと向かっていく。

 

「あ……あの、どうぞどうぞ」

 母親が先へと促すと、清子が薫の手をとった。

「行こ!」

 薫は笑ってその小さな手を握り返すと、連れ立って母屋へと入って行った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 中の客間に案内されてから、薫は改めて翔太郎の母親に自己紹介をすると、母親もまた風見(かざみ)松子(まつこ)、と名乗った。

 

「私は翔太郎の父親の世話係と手伝いでこの家に来まして……大お祖母様(ばあさま)も、私みたいな下女に大事な孫をやるつもりはなかったのかして、最初はそれはイビられ……あ、いえ、色々とご指導下さいまして。そうこうする内に翔太郎が生まれて、どうにか認めてもらえたんですが……その時にようやく、鬼殺隊の話を聞いたんですよ」

 

 松子はそれまで一度として聞いたことのない鬼狩り達について、本当にそんなものがあることが信じられなかったし、鬼という存在すらも物語の中にしかないと思っていたために、どこか現実感がなかった。

 

「それでも、近くに煉獄さんの家がありましたでしょう? そこの奥方様に色々と教えていただいて、それで何となくはわかったんですけど、どちらにせよウチにはもう関係のないことだって、大お祖母様に言われまして。大お祖母様はあの家ともあまりつき合うのは良しとしなかったんです」

 

「じゃあ、翔太郎くんを勘当したというのは…」

 

「はい…大お祖母様は鬼殺隊に入るなど、絶対に許さないって……蔵に閉じ込めたんですが、私は無駄だと思ってました。あの子、小さい頃から蔵に忍び込んでは近所の子とかくれんぼしてましたからね。どうせ、どうにかして出て行くんだろう…と。案の定、清子を使って千寿郎くん呼んで抜け出して………後で弟子になったと手紙をもらった時には、我が息子ながらあっぱれだと思いました。小さい頃から父親の膝の上で、ずーっと言われてましたからねぇ。翔太郎はきっとお祖父(じい)さまの血を受け継いで、すごい剣士になれる。だから将来は鬼殺隊に入れって」

 

「翔太郎くんのお父上は…?」

「あの人は…翔太郎が九歳(ここのつ)の年に亡くなってしまって。その頃にちょうど煉獄さんとこの杏寿郎くんが鬼殺隊に入る…って、本格的に修行されるようになったものだから、尚の事、自分も、って気持ちが強くなったようです。杏寿郎くんには可愛がってもらってましたから」

 

 どうやら聞く限り、松子には鬼殺隊に対してのわだかまりはない。亡くなった父親もまた、翔太郎に勧めていたのなら、むしろ鬼殺隊への憧憬があったと見るべきだろう。

 宝耳が前に言っていた、風波見(かざはみ)家が鬼殺隊と一切の縁を絶ったことの鍵を握っているのは、どうやら翔太郎の曾祖母のようだ。

 

「あの人も、きっと喜んでいるでしょう。ずっと翔太郎が鬼殺隊に入るのを楽しみにしてましたから。きっと生きていたら、これで風波見(かざはみ)家も再興できる、とか言ってたでしょうねぇ。自分の体が弱いばっかりに、風波見(かざはみ)の名前も捨てることになったと言って、随分気にかけてましたから……」

 

 翔太郎は今、その父親の霊前で報告をしている。

 さっきのように、隊服を見せびらかしていることだろう。

 

「どうしてその、大お祖母様という方はそんなに反対なさったんでしょう?」

 薫が尋ねると、松子は少しばかり哀しげな表情を浮かべた。

「それはやっぱり……息子さんを亡くされて、よほど悲しかったのでしょう。目が醒めたと仰言ってました。それまでは……鬼殺隊に尽くすことこそ本分だとして、奉公するのが当然と思っていたけれど……間違っていたと……」

 

 親の身で子を失うことは、きっとよほどに辛いだろうとは想像できる。

 けれど、それまで柱を世襲してきた家の、おそらくは風柱の夫人であった人の言葉にしては随分と感傷的な気がする。

 そんな理由で鬼殺隊との縁を切ったというなら、少しばかり勝手が過ぎないか……?

 

「その…息子さんというのは、翔太郎くんにとってはお祖父(じい)様ですよね?」

「えぇ。若くして亡くなられたそうです。すぐに奥様も後を追って……まだ、その時にはウチの人は四歳(よっつ)そこらだったんですよ…。今の清子よりも幼いのに…可哀相に」

 

 そう言って松子は隣でどら焼きを食べている清子を見つめた。

 その瞳に浮かぶ慈愛は、薫にはまだ表しようのない感情だった。

 やはり親が子を思う心は、未熟な自分には思いやることはできても、理解は及ばない……。

 

「なーに湿っぽい話してんのさ」

 翔太郎はドスドスと縁側から入ってくると、卓に置かれてあったどら焼きを続けざまに二つ、口に放り込む。

 

「あーっ! いっぺんにずるいっ!」

 清子が立ち上がって怒ると、翔太郎はべーっと舌を出して、また一つ手に取る。

「これ! 翔太郎!! はしたないッ」

 松子がたしなめるが、まったく反省の色の見えない息子に早々に白旗を上げた。

 

「まったく…これですから。我儘で困ってしまいますよ…。大お祖母様もなんのかんの言いながら、翔太郎には甘いですからね、結局。鬼殺隊に入ったっていうのを知った時にも、お墓まで行って、御先祖様に頼まれてね。大お祖母様のご夫君はそれはそれはお強い方だったそうですよ」

「そうそう! 昔ね、ウチに世話になったっていう隠の人が来てさ。教えてくれたんだ。伝説の柱って呼ばれてたらしいんだよ」

 翔太郎は嬉しそうに言う。

 

「伝説の柱?」

「なんか、当時は柱がものすごく減っちゃって……大お祖父様(じいさま)が一人で頑張ってたとかで……その人なんか涙浮かべて語ってたんだ。俺、父上と一緒に聞いてたんだけど、なんかつられて泣いちゃったなぁ……ま、その人も大お祖母様が追い出すように帰らせちゃって、二度と来なかったけど」

 

 薫は内心で首をひねった。

 どうして翔太郎の曾祖母はそうまでしても、鬼殺隊とのつながりを徹底的に排除したかったのだろう? 

 いくら息子を失くしたと言っても、その息子は柱という地位にあったわけで、当然ながら遺書も記していたろうし、死の覚悟は持っていたはずだ。

 

 その母親――――伝説の柱であった…と言われるほどの人の奥方であった女人が、息子を鬼に殺されることの予想をしていなかったとは思えない。無論、予想はしていても、実際にその時になって『目が醒めた』ということはあるのだろうが……。

 

「どうしました?」

 翔太郎が不思議そうに薫の顔を覗き込んだ。

「あ…いえ。翔太郎くんの大お祖母様はよほど鬼殺隊とは関わりたくなかったのかと思って……。私がここに伺ってよかったのかしら?」

「あ、大丈夫です。大お祖母様は昨日から湯治に行かれて、戻られるのは明後日の予定ですから、それまでは」

 松子がうふふ、と少しばかり茶目っ気のある笑みを浮かべる。

 さっき『イビられて』と口が滑っていたのを思い出すと、この大お祖母様がいない数日は松子にはのびのびできる時間…ということだろう。

 

「でも、ちょっと残念かしらねぇ…やっぱり。あんなふうに怒っていても、きっと大お祖母様はあんたに会いたかったでしょうし。隊士になった姿を見たら、やっぱり懐かしく思われたりなさるんじゃないかしら…」

 松子が言うと、翔太郎は肩をすくめた。

「ま、そのうちにね。素直じゃないから、あの人」

 その様子を見る限り、翔太郎もまた、曾祖母に対してさほどに怒っているわけでもないようだった。

 

 話を聞く限り、どうもこの大お祖母様なる人は、情の深い人なのだろう。

 自分を置いて逝ってしまった息子や孫に続いて、曾孫の翔太郎までが若い命を散らすかもしれぬ…と思うと、蔵に閉じ込めても反対せずにはいられなかったのかもしれない……。

 

「まぁ、とりあえず今日のところは翔太郎が無事に隊士になったお祝いしましょう!」

 明るく松子が言うと、翔太郎は「じゃ、鰯の蒲焼き! あと、天ぷら! それとあさりご飯!」と、子供のように叫んだ。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.04.28.水曜日更新予定です。



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第二章 煉獄家と風波見家(四)

 食事を終えると、翔太郎は蔵へと薫を案内してくれた。

 

「でも、翔太郎くん前に言ってたわよね。大お祖母様(ばあさま)が風の呼吸に関する書籍などは、すべて育手に渡した……って」

 薫が尋ねると、「まぁ、そうなんですけど」と言いながら、翔太郎は蔵の鍵を開ける。

 

 中は真っ暗だったが、カンテラを持って行き、電灯の紐を引くと、カチッと電気がついた。

 漬物の壺や、鍬や斧などの生活用品の他に、長持や古い箪笥、書棚には雑誌や新聞、本がバラバラと置かれてあった。

 見る限りにおいて、風の呼吸の事蹟を伝える何らかの書物などはないようだ。

 

「この書棚にびっしりあったらしいんですけどね。ときどき虫干しなんかして。でも、今はもうありません」

「じゃあ……」

「ただ、大お祖母様にも手出しのできない部屋があって…」

 言いながら、翔太郎は奥へと進んでいき、壁に据え付けられた書棚の前に立った。

 

 そこにも本や小間物が並べられていたが、中段の右端だけ本が飛び出ている。

 翔太郎がその本を取り出すと、そこには木枠があり、一合枡くらいの大きさの穴が空いていた。

 

「ここ、隠し部屋っぽいんです」

「隠し部屋?」

「父上が言うには、昔、一度だけ中に入ったことがあったらしいです。まだ祖父が生きていた頃に」

「まぁ……大お祖母様は入られたことはないの?」

「ないみたいです。ここに入ることが出来るのは柱のみ、って言われてたみたいで。それにここを開ける鍵があるんですけど、それと知らずにそれこそ育手達に渡してしまったらしくて」

「じゃあ、開かないのね」

 

 薫は少し残念だった。

 確かに翔太郎の言う通り、他の書物については育手達の元に渡ったとして、この中のものについて、何かしら重要な文書なりがあってもおかしくない。

 しかし翔太郎はニヤリと笑った。

 

「開かないなら、薫さんを連れてきたりしませんよ」

「え?」

 翔太郎は懐から一合枡ぐらいの小さな箱を取り出した。

 

「鍵は、これです」

「鍵? でもこれ……」

 

 所々、何か黒く彫り込まれてある以外は、ただの木箱にしか見えない。

 

「これ、実は俺の育手の所にあったんです。ものすごい偶然なんですけど。ただ、師匠はこれが何かよくわかってなくて、納戸に積んであった箱の片隅に放っておかれてたんですよ。俺が整理してたら見つけて。俺の師匠は若いんで、俺の家のことはよく知らないんです。風波見が鬼殺隊から抜けてから、入ってきた人なんで。まぁ、だから俺を引き取ってくれたってのもあるんですけど」

 

 言いながら、翔太郎は慣れた様子で箱をバラしていく。

 どうやら寄木細工の秘密箱らしい。

 

「どうして先生はあなたを弟子にしなかったのかしら……?」

 薫は首をひねった。東洋一(とよいち)は基本的に来る者拒まず、なのに。

「そりゃ、大お祖母様に言いつけられていたんでしょう、たぶん。篠宮先生ぐらいの古株だと、風波見家でそれこそ俺の曽祖父から教えを受けてたらしいですから。自分の師匠の奥方の頼みを聞き入れないわけにもいかなかったんじゃないですかね」

 

 あっけらかんと言う翔太郎に、薫は少し驚いた。

 

「……翔太郎くんは、わかってたのね?」

「まぁ、さすがに訪ねて行った先の育手にことごとく断られたもんで……途中で何でだよーって、喚き散らしたら、そういう事なんだって諭されました。今の師匠も、本当は大師匠からは止められたみたいなんですけど、押し切りました―――――ヨシ、できた」

 

 翔太郎はバラした箱をきれいに組み立てて、薫に渡した。

 立方体の一つの面に、彫り込まれてあるのは隅切り角に八つ矢車菱。

 

「これ、ウチの家紋です」

 翔太郎は指差して言うと、薫の手から箱を取り上げ、書棚の中段にある木枠の中へと押し込んだ。ピッタリと嵌まる。

 

「やっぱりだ。そんな気がしたんだよな」

 

 どこかで歯車がキキキと音をたてながら回っている。ギ、ギ、とゆっくり書棚が動き始めた。

 いくつかの本が落ちて、ゆっくりと書棚と壁の間に空間ができる。

 書棚が止まると、ポッカリと穴が開いたように、確かに小さな部屋があった。

 

 光が少しだけ差し込んでいたが、奥は暗かった。翔太郎がカンテラを持って入ると、薫も後に続く。

 そこは方丈の部屋だった。

 真ん中に机があり、その横には刀掛けに一振りの大刀が置いてある。机の上には埃をかぶった漆塗りの箱。

 

「これは、誰のものかしら…?」

 薫は刀を見て聞いたが、翔太郎も首をひねる。

 

 それより翔太郎にとって気になっているのは、漆塗りの箱の方であった。紫の紐で封印されており、いかにも何かありげであった。

 

「開けても…いいですよね?」

 翔太郎は一応訊いた。今更ながら勝手に開けていいのか、心配になった。

「そりゃ、あなたの家のものなんだから」

 薫は安心させるように笑う。

 

 翔太郎は紐を解いて、ゆっくりと文箱を開いた。

 そこにあったのは、一本の巻物と一帖の冊子。巻物の題簽(だいせん)には、『風ノ書』とある。

 翔太郎は巻物の紐を解いて、机の上に広げた。

 

「…………これ、風の呼吸の指南書の……原本ね」

 

 時折、絵なども交えて書かれている。

 表装は新しいもののようだったが、中の紙は古く黄ばんでいた。墨の色も褪せている。

 

 肆ノ型までで、一度紙は切れている。その後に、別の筆跡で伍、陸ノ型。次にまた別の筆跡で漆、また別の紙と筆跡で捌ノ型。比較的最近だと思われる紙には玖ノ型について書かれてあった。

 

『玖ノ型 風破観(かざはみ)

 此の技を以て風の呼吸の最終奥義と為すべく完成を目指す――――』と、ある。

 

「最終奥義?」

 翔太郎は興奮を抑えるように息を呑む。

 

 ざっと読んだところ、実際の呼吸法や動きについての記載はなく、考案した技について、その攻撃様態や範囲などが大まかに書かれているだけだった。

 

 最後には『創技 風波見周太郎』と記されていた。

 

「周太郎…? 翔太郎くんのお祖父(じい)様かしら?」

「いや。祖父の名前は賢太郎です。たぶん、この人は先々代―――曽祖父ですね」

「風の呼吸って…玖ノ型まであったかしら?」

 薫は東洋一の家にあった指南書は読み込んだが、風の呼吸の玖ノ型についての記載はなかったはずだ。

「ないです。俺も習ってない……」

 翔太郎はつぶやきながら、もう一度、巻物を食い入るように見つめた。

 

 何かあると思ってはいたが、とんだ掘り出し物が見つかった。これで―――――あの、不死川という男を出し抜くことができる。

 

 薫は一緒にあった冊子を手に取った。

 表紙には『書附』とだけある。

 めくってみると、こちらは比較的新しいもののようで、呼吸の指南書についての細かな注釈と、それに玖ノ型に関する試行錯誤の覚書が記されてあった。

 

 どうやら玖ノ型というのは、まだ開発段階だったようだ。覚書も読む限り、完成する前に記載が途切れ、その後は白紙となっている。

 

「それは、なんですか?」

 翔太郎が覗き込んできた。

「呼吸についての解説本、かしらね。あとは玖ノ型の実質的な手順の覚書があったけど……」

 薫が言いかけると、翔太郎は「貸して下さい」と奪うように取り上げた。

 

 パラリ、と本の間から何かが落ちたが、翔太郎は気付かなかったのか、今度はその冊子を熱心に読み込んでいる。

 薫が拾い上げるとそれは写真だった。

 

 セピア色のその写真には、見事な枝振りの松の前に並ぶ五人の人物。

 それは客間から見えた、庭にある松の木だと思われる。

 

 壮年の男性が真正面を向いて腕組みして立っている。その横には男性よりも背の高い、今の薫と同じ年頃くらいの少年。二人の前には子供が三人。

 真ん中には髪をお煙草盆(たばこぼん)に結った女の子、端の二人は男の子。

 三人とも少し強張った表情でこちらを窺うかのように見ていた。

 

「翔太郎くん、この写真……」

 薫が尋ねると、翔太郎は顔を上げて写真を見た。

「……誰だろ?」

「心当たりはない?」

「うーん。………後ろに立ってるのが、お祖父様なのか、大お祖父様(じいさま)なのか…ってトコですかねぇ」

 

 薫はじいっとその写真を見て、もしかするとこの男性と並んで立っている少年が東洋一(とよいち)ではないかと思ったが、確証は得られない。

 

「翔太郎くん、この写真、借りては駄目?」

「え?」

「見せたい人がいて……」

 

 翔太郎はもう一度写真を眺めると、「この人、篠宮先生ですかね?」と少年を指差し、薫が考えていたことを言う。

「そうじゃないかと思うんだけど……」

 翔太郎はしばらく考えて、「まぁいいですよ」と、写真を薫に渡した。

 

「ありがとう。先生に訊いたら、返すわ」

「いやぁ…もし、それが篠宮先生なんだったら、そのまま渡してもらっていいです。俺が持っててもわからないし、大お祖母様に見つかって燃やされでもしたら意味ないし」

「……いいの?」

「いいですよ。それより、この巻物と本は俺持っていくつもりなんですけど……いいですよね?」

 

 翔太郎が伺うように尋ねてきて、薫はきょとんとした。

 

「それは、もちろん。あなたの家のものなんだから。ただ、その巻物は原本だろうから大事に扱ってね」

「えぇ。それで……その……この巻物のことっていうか…玖ノ型のこと……黙っておいてもらえますか?」

「え?」

「不死川さんとか、粂野さんとかに…話さないで欲しいんです」

「どうして?」

 

 翔太郎は決まり悪そうに俯くと、しばらく黙り込んだ。

 やがて口を開いて出てきたのは、炎柱――――煉獄家のことだった。

 

「炎の呼吸には煉獄の名を冠した最終奥義があるんです。これは煉獄家代々に伝わるもので、炎の呼吸を使う隊士であっても煉獄家の人間でないと使えない。この――――玖ノ型も最終奥義って書かれてあったじゃないですか? だから……俺が継ぎたいんです」

 

 薫は少しばかり残念に思えたが、曾祖母の反対を押し切って、必死の思いで隊士となった翔太郎の気持ちも理解できた。それに、まだ型としての完成を見ていない以上、いずれ匡近や実弥の手助けを必要として、自分から教えを乞うこともあるだろう……。

 

「わかったわ。頑張ってね」

 薫が頷くと、翔太郎はホッとしたように笑った。

「絶対、モノにしますよ!」

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回の更新予定は2021.05.01.になります。



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第二章 煉獄家と風波見家(五)

 翌朝、薫は早々に風見家から出発した。

 翔太郎は昨夜は遅くまで――――というより、明け方近くまで、あの巻物と本を夢中で読んでいたらしく、まだ寝ていた。

 

「すいません。本当にだらしない子で……」

「いえ。久しぶりの帰省ですから、ゆっくりさせて上げて下さい。確か、翔太郎くんは明日まで休みを取っているようですし。お世話になりまして、ありがとうございました」

 

 頭を下げると、おかっぱ頭の清子(きよこ)と目が合う。

「ん」

 清子が折り鶴を渡してくれた。

「あら。ありがとう」

 受け取って、頭を撫でると薫は手を振りつつ、風見家を後にした。

 

 墓参りを済ませて、汽車に乗る時に時刻表と懐中時計を見合わせながら思案する。

 途中で、東洋一(とよいち)のところに寄れないこともない。

 

 汽車に乗って、久しぶりに馴染みの駅に降り立つと同時に鴉を飛ばし、立ち寄ることを伝えた。

 

 一時間ほど歩いて、懐かしいその家にたどり着くと、東洋一は庭先で小さな手毬桜の木を眺めていた。のどかな陽光の中、白い花びらがハラハラと落ちている。

 

 薫は声をかけようとして、一瞬、言葉を呑み込んだ。

 決してその姿がみすぼらしくなっていたわけでも、気力が失せて見えたわけでもない。だが、年をとった……と思った。少しだけ、痩せたようにも見える。

 

「おう、来たか」

 東洋一は薫に気付くと、相好を崩した。

 薫はその場にしゃがみ、立膝になって頭を下げた。

「久しぶりでございます」

「堅苦しいの~。そんなんえぇから、はよ入れ。なんぞ、見てもらいたいもんがあるんだろ?」

 

 薫は玄関から入ると、用意したお茶を飲む間も惜しんで、胸のポケットから翔太郎の家の蔵で見つけた写真を東洋一に見せた。

 

「この写真、見覚えありますか…?」

 東洋一は煙草盆の抽斗(ひきだし)から小さな眼鏡を取り出すと、その写真をしげしげと見つめた。

 一瞬だけ、険しい顔つきになった後、フッと笑う。

 

「若いな~、儂」

「やはり、その…左の男の人は」

「うん。儂だな。十五、六といったとこか? 横のが師匠じゃよ。当時の風柱でな。―――――しかし、なんぜお前さんがこんな写真持っとるんだ?」

 

 東洋一は眼鏡をとると、不思議そうに薫に問うた。

 薫は翔太郎の家に行ったこと、隠し部屋を見つけ、そこにあった指南書の注釈本に挟まれてあったことを伝える。

 

 東洋一は聞きながら、翔太郎が鬼殺隊士になったことを知ると、少しだけ眉を寄せた。

 

「……結局、なりよったのか。あの坊主」

「先生のところに最初に訪ねたけれど、断られたと言ってました。翔太郎くんは大お祖母様(ばあさま)に言いつけられたんだろうって…」

「まぁ、そうだ。御内儀様(おないぎさま)に――――この写真の師匠の奥様だ―――キツく、言われておってな。今後、風波見の人間が弟子になりたいと言ってきても、決してとるな、と」

「やっぱり…そういうことですか」

 

 薫が得心して頷くと、東洋一は煙草に火を点けて吸い始めた。

 紫煙を(くゆ)らしながら、遠い目をする。

 

「御内儀にはもう身内は少ない。息子であった賢太郎も死に、孫の晃太郎も生来、体が弱かったが、自分よりも先に亡くなってしまって……曾孫まで、また鬼殺隊に入って、早々に亡くなることを惜しんだとしても、不思議はない。これ以上、鬼殺隊と関わりを持ちたくない、と……それは固く決心されておったのでな。儂は尊重したんだが……もはや風波見のことを知らぬ風の育手も多いからなぁ。そういう人間にしてみれば、やる気も器量も備わった少年をとらぬ理由もなかろうな」

 

 やはり東洋一もまた、亡き師匠の御内儀(おくがた)の胸中を斟酌した上で断ったのだ。

 だが、翔太郎の熱意は老人達の思いとは裏腹に、若く青いまま突き破っていく。

 

 東洋一は苦笑いを浮かべた。

「しかし……隠し部屋か。そういやあったな。御内儀様もあそこには手出しできなかったか。賢太郎が閉じてしまったんだな」

「先生、知っていたんですか?」

「そりゃあ、よく入ってたさ。だいたい、昔はあそこは御仕置部屋だったんだ。悪さしたら、いれられてなぁ」

「え?」

 

 翔太郎の話だと、柱以外の人間は入れなかった……と言っていたと思うが。

 そう訊いてみると、東洋一はきょとんとした。

 

「は? 昔は開けっ放しだから、入りたい放題だったぞ。たまに悪戯して閉めたはいいものの、箱がうまく組み立てられなくて、開けられなくなって、師匠に泣きついて、しこたま怒られる奴もいて………いやー懐かしいなー。そうそう。確かに俺が隊士になってからは、師匠があそこで新しい技の研究について、色々と書きものをするようになってたな。儂も色々と試しにつき合わされてなぁ」

「……あの、先生。先生はもしかして、玖ノ型…『風破観(かざはみ)』についてご存知なんですか?」

 

 薫はなんとなく東洋一の話を聞きながら、そんな気がしてきた。

 翔太郎はあれが曽祖父が最終奥義として風波見家における一子相伝の技として作り上げたと思っているようだったが、あるいはさほどに秘密裡に作られたものでないかもしれない。

 果たして、東洋一はあっけらかんと頷いた。

 

「そりゃ、知っとるさ。師匠は体を悪くされていたからな。考案したはいいが、自分で試せるだけの力がなくなってきてて、儂が概ね試しとったんだ。その中でどうにも無理なとこは師匠に言って、師匠がそれを修正してっていう……」

「ということは、先生と共同で玖ノ型は作られていたということですか?」

「いやぁ、儂はああいうのを考える頭は持っとらん。技を考えていくのは、一種の才能でな。儂には出来んよ。師匠は柱の仕事でお忙しい中でも考えておられたんだからな…大した御方よ。今更ながらに頭が下がる」

「でも、書附(かきつけ)を見る限り、型は完成されてませんでした。先生が後を継がれたのではないのですか?」

 

 東洋一は肩をすくめ、煙草をゆっくりと()む。

 

「頼まれはした。が、無理だと思ったんでな。賢太郎に委ねた」

「賢太郎……というのは、翔太郎くんのお祖父様ですか?」

 

 東洋一は煙草をくわえると、さっきの写真を持って、右端にいる少年を指差した。

 

「コイツさ。師匠の息子でな。おとなしいヤツだったが、出来は良かった。すぐには無理でも、じっくり腰を据えて練ってくれるだろうと思ってたんだが………」

 

 言いながら、東洋一はまた写真を眺めた。

 懐かしい顔をしていたが、眼差しは少し寂しそうだった。

 鬼殺隊にある限り、明日の命の保証がないのはわかってはいても、まさか自分よりも年下の、師匠の息子であり、柱ともなった男が、先に逝ってしまうのは考えられなかったのだろう。

 

「この隣の、真ん中の女の子が賢太郎の嫁さんだ。さっきの坊主――――翔太郎だったか? そいつからしたら、祖母ってことだな。ハハハ。信じられんな、あの賢太郎と千代の孫ってなぁ……」

「その隣の人は?」

 

 東洋一は左端で睨むようにこちらを見ている少年を、しばし無表情に見つめた。

「浩太は…隊士になったが……これも鬼に殺られた」

 

 抑揚のない、疲れたような声だった。

 しばらく俯いて何事かを考えているようだったが、写真をまた座卓に置いて、煙草をふかす。

 

「この中で残ってるのは儂だけ、という訳か。年もとるはずだ………」

 

 東洋一は自嘲めいた笑みを浮かべた。

 俯き丸めた背中に、以前のような溌剌さがなくなっている。

 

 薫はここ最近の東洋一のことを思った。

 

 薫がここを出てから一月もせぬ内に、里乃は亡くなった。

 庭の手毬桜の木は、元は里乃の家の庭にあったもので、遺言で世話を頼まれたために、こちらに移植したのだという。

 それから何人かの弟子志願者も来ていたのだが、どれも三ヶ月以上保たずにやめていっている。

 最近は骨のあるヤツが本当に少なくなった……と、前に手紙でボヤいていたが、誰か早く気骨のある若者が来てくれないものだろうか。このままだと、どんどん東洋一の気が弱ってしまいそうだ。

 

「ま、さっきの玖ノ型だがな。賢太郎も完成させずに逝ってしまいおったし、御内儀が鬼殺隊と縁を断ってしまわれたから、このままだと未完になるだろうと思ってな、後は実弥に任せてある」

「…………え?」

「アイツは儂の師匠と似とってな、案外とそういうのを考える頭を持ったヤツなんじゃ。なんというか、妙に細かい計算ができるというか、わりと理論詰めて考えられるというか。なんで、頼んどいた」

 

 薫は考え込んだ。

 確か、翔太郎は風波見家の最終奥義だから、黙っておいて欲しいと言っていたが……つまり、もう実弥は知っている?

 

「あの、師匠。確か巻物にはこの玖ノ型は風の呼吸の最終奥義って書かれていたと思うのですが……」

「巻物? あぁ…賢太郎が清書したのかな? まぁ……そうだな。それくらいの意気込みで作ってはいたんじゃないか?」

「一子相伝のもの、とかではないのですか?」

「そんな大層なものじゃない。現に儂が知っとるだろうが。あの師匠がそんなことにこだわる訳ないさ。ちゃんと壱から捌までの風の呼吸をしっかり会得して、その上で常中の呼吸が備われば、できる技ってことなんだから。確かに銘を『風破観(かざはみ)』とはしてあったが、あくまで仮のもので、ちゃんと完成すれば、別の名前をつけとったかもしれん」

 

 薫は脱力しそうになった。

 なんだか、興奮していた翔太郎が可哀相に思えてくる。

 しかし考えてみれば、あの巻物の壱から捌までのことも、本にあった注釈も、東洋一の蔵にある指南書にはすでに書かれていたことで、特に秘匿されていた内容ではないのだ。

 あくまでもあれは原本に過ぎない。

 

「どうした?」

「いえ……あの、それで実弥さんは完成されたのでしょうか?」

「わからん。何も言ってこんからな。ま、出来たとしても意気揚々と教えるようなヤツじゃなかろうし……聞いたところで、儂ももう次の弟子に教えるのは無理だろうからな。アイツが自分の弟子なり、匡近なりに教えて、匡近が育手にでもなれば伝わっていくんじゃないのか?」

「そう…ですね」

 

 薫は複雑な気持ちだった。

 この事を翔太郎に言えば、きっとがっかりするだろう。

 風波見家に伝わる秘伝の書、くらいに思っていたようだから。

 

「儂も、それなりには工夫したが、おそらくは師匠の思い描いていたものとは別物だろう。もし今その技を使えば、命を縮めかねん。もう、できんな」

「それは……少し、見てみたかったです」

 薫が言うと、東洋一はハハハと笑った。

「あと、十年…いや、この写真の頃くらいならなぁ……出来たろうが、ジジィにはもう無理じゃて。昔とった杵柄とばかりに勢い込んで、ぎっくり腰にでもなったら………」

「そしたら、勝母さんにお知らせしましょうか?」

 いたずらっぽい目で薫が言うと、東洋一はブルリと身を震わせ、呆れたように言った。

「お前さん、いつからそんな恐ろしいことを言うようになったんじゃ?」

 

 二人で大笑いした後、薫は辞去を告げた。

 

「なんじゃ、あっという間じゃの~」

「すいません。今日中には戻らなくてはいけないので…」

 

 軽く頭を下げて立ち上がりかけた薫に、東洋一は写真をつまんで尋ねた。

「……この写真は?」

「それは宜しければ、先生がお持ちなって下さい。翔太郎くんが是非に、と言ってましたから」

「………そうか」

 

 再び写真を見て、懐かしそうに微笑む東洋一の顔を見た時、薫は翔太郎からもらってきてよかったと思った。なんとなく喜んでくれそうな気がしたのだ。

 

「今度はもっとゆっくり来い」

 東洋一は表の道まで見送りに来ると、ふと真面目な顔になった。

 

「その…翔太郎というのの実力は……お前の見る所どうだ?」

「え?」

 

 薫はいきなり言われて戸惑った。

 だが、苦い顔つきになる東洋一を見て、励ますように笑った。

 

「先生。翔太郎くんは、頑張っていますよ。本人も自分の家のことはそんなに気にしてませんし、どうか一隊士として応援してあげて下さい。やる気のある、いい子なんですから」

 

 東洋一はまた、少し淋しげに笑った。

「そうさな。もう、時代は変わっとる…」

 

 薫は何度も振り返っては大きく手を振って、懐かしい家を後にした。

 小さくなっていく東洋一の姿が、とても淋しげで、夕焼の茜色の空に溶けて消えそうだった。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 時間が少し戻る。

 

 薫が去った後、翔太郎は寝過ごした自分に悪態をついたが、言ってもしようがなかった。

 

 懐かしい母の手料理を満腹まで食べた後、再び蔵に向かい、隠し部屋へと入った。

 窓のないその部屋は昼間でも暗い。翔太郎はカンテラを地面に置いて、刀掛にあった大刀に手を伸ばした。

 

 昨夜は机の上の箱が気になって、こちらの検分を忘れていたが、この刀は一体なんなのだろう?

 

 柄を持ってカンテラにかざすと、翔太郎がまず気付いたのは鍔だった。

 風切羽を八枚、円形に並べた意匠。これは風波見家で教えを受けた剣士達に特有の鍔なのだという。

 今となっては一部の育手以外、風の呼吸の剣士であっても誰も持つことのないものだが、翔太郎の刀を作ってくれた刀鍛冶は勉強熱心で、翔太郎が風波見の人間だと知り、翔太郎の刀にもこの鍔をつけてくれていた。

 

 ゆっくりと鞘から抜くと、曇りのない銀の刀身があらわれた。

 刀身の下の部分に『悪鬼滅殺』の刻字がされている。柱の刀である証だ。

 ずっと持っていると、翔太郎の刀同様の若葉色へと変化していく。

 

「そなたにそれを持つ資格はありませぬぞ」

 

 背後から厳しい声で言われ、翔太郎はビクッと刀を落としそうになった。

 曾祖母はいつの間にか翔太郎の背後におり、手拭いを持った手でそっと刀を取り上げると、慣れた様子で鞘の中へとしまった。

 

 カンテラの明かりに照らされた曾祖母の顔は相変わらず厳しく、眉間の皺がますます深くなっていた。

 額から頬にかけて三筋の傷痕が残り、醜く膨れ上がったまま固まって、顔の陰影に奇妙な影をつくっていた。

 

「ようも帰ってこられましたな。それとも、もう諦めたか」

 

 翔太郎はぐっと唇を引き結ぶと、静かに深呼吸した。

 八十の歳に近付いた曾祖母は、存在だけですでに時間を超越した不気味な生き物であった。

 翔太郎が生まれた時から老婆であり、今に至るも老婆。落ち窪んだ目に何を映しているのか、表情はほとんど変わらず、考えは全く読めない。

 

「……お久しゅうございます、大お祖母様(ばあさま)

「………その呼び方は、そなたが鬼狩りを辞めれば許す。さもなくば、()く去れ」

「辞める気はありません。それと、ここにある物はその刀だけです。これも誰かにやるのですか?」

 

 すでに巻物と本は翔太郎の荷物の中にある。もし教えれば、竈の中にでも放り込みかねないので、決して言うわけにはいかない。

 しかし曾祖母はそのことについては深堀りしなかった。

 大刀を捧げるように持つと、一礼する。

 

「これは、我が夫のものじゃ。このような場所においてあっては、錆びさせる故、きちんと手入れせねばならぬ」

「大お祖父様(じいさま)の?」

 

 聞き返す翔太郎を無視して、曾祖母はその部屋を出て行く。

 翔太郎が追っていくと、外で曾祖母はくるりと振り返った。上から下まで翔太郎をじっと見つめると、フと軽く息をつく。

 

「まだ、大怪我はしておらぬようじゃな。せいぜい、足をやられた程度か」

「すごい! どうしてわかったんです?!」

「そんなもの、見ればわかる。右足を庇った立ち方をしておる。無意識にそうなっておるのなら、努めて治すことじゃ。医者には見せたか?」

「……一応、怪我をした時には」

「傷を庇う癖がついておる。見苦しい」

 

 ピシャリと言われて、翔太郎は唖然としながらも、少し嬉しくなった。

 やはり曾祖母は柱の奥方であったのだ。幾人もの弟子を世話し、曽祖父や祖父達と一緒に育ててきた。その眼力は失われていない。

 

「お、大お祖母様。俺、風の呼吸の剣士としてがんばります。お祖父様や、大お祖父様に負けないぐらい……いや、絶対に追い越すぐらいになって、いつか柱になりますから」

 

 翔太郎の決心を、曾祖母はしかし冷ややかに見た。

 フゥと溜息をつく。

 

「大見得をきることよ。そなた今の階級は?」

「か、か、庚です」

 

 本当は辛なのだが、思わず嘘をついてしまった。少しでも大きく見せたい、という欲が出た。

 曾祖母は眉を少し上げた。しばらく黙り込んで、翔太郎を見つめる。

 

「…戊まで上がれば育手としては十分であろう。それで辞めるがよろしかろう」

 つぶやくように言うと、踵を返して母屋へと歩き出す。

 

 ―――――それは、俺には無理だということか…っ!

 

 翔太郎はカッとなると、あわてて曾祖母を追って肩を掴んだ。

「俺には柱は無理ってことですか!?」

 

 曾祖母の表情は揺らがない。

 怒鳴り声を聞きつけた松子と清子が縁側から顔を出し、曾祖母が帰っているのに気付いて、あわてた様子で松子が降りてきた。

 

「お、大お祖母様(ばあさま)! いつお帰りに……? すいません! 申し訳有りません!」

 土下座せんばかりに頭を下げる母親の前に立つと、翔太郎は曾祖母を睨みつけた。

「母上は悪くないですから! 俺が無理を言って入れてもらったんです! あの隠し部屋を見てみたかったから」

「黙りゃ!」

 

 曾祖母が一喝して、水をうったような静けさとなる。

 そのまま母屋へと向かいかけて、曾祖母は思い出したように翔太郎に訊いてきた。

 

「翔太郎、そなた…刀の色はどうであった?」

「え?」

「刀の色は、何色であった?」

 

 翔太郎はこれもまた、曾祖母による何らかの識別がされるのかと戦々恐々であったが、色で柱となれるかどうかが決まるとも思えない。

 素直に言った。

 

「若葉色、と刀鍛冶には言われました」

「ほぅ…賢太郎と同じだの」

 祖父と同じ、ということは柱になれないという訳でもないのだろうか。

 

「大お祖父様は何色だったのですか?」

 尋ねると、曾祖母はしばらく刀を見つめた後に、ボソリと言った。

 

常盤緑(ときわみどり)であった」

「それは……色が濃ければ強いってことですか?」

「……それは知らぬ。聞いたことはない。いずれにせよ、そなたは五体満足の間に、早々に辞めることじゃ」

 

 結局、曾祖母の本音はそこにあるらしい。

 さっきまでの高揚感が一気にしぼんで、翔太郎はガックリした。

 曾祖母はそれ以上は何も言わず、スタスタと母屋へと入っていく。

 

「翔太郎……」

 松子が心配そうに声をかけてくる。

 翔太郎は首をすくめた。

「大お祖母様はやっぱり俺が鬼殺隊にいるのは反対なんだな」

「心配しておられるんだよ。私だって……また、あんたに会えるだろうと思っているから、送り出しているんだよ。嫌だよ。鬼に殺されたりなんかしないでおくれ」

 

 翔太郎はニッコリと笑って、泣きそうになる母親の肩を叩いた。

「大丈夫さ。昨日、薫さんだって言ってくれてたろ? 俺、なかなか優秀なんだぜ。あの人に稽古つけてもらって、今だってどんどん強くなっていってるんだから……来年の今頃には柱になってるかもしれない」

「柱とか、私にゃわからないよ。そんなお偉いものにならなくていいから、とにかく無事にいとくれ」

 

 それは母親として当たり前の言葉なのだが、鬼殺隊という組織に身を置く以上、確約することはできなかった。

 それでも翔太郎は笑って、宣言する。

 

「大丈夫! 今よりもっと強くなって、技を完成させて、そしたらこの家をまた立派に再興するよ! 千寿郎の家みたいに」

 

 それは実のところ、翔太郎の正直な願いだった。

 ずっと、杏寿郎にも千寿郎にも憧れていた。

 羨望もあった。

 

 体の弱かった父のことを恥ずかしく思ったことはなかったが、身近にいた強烈な強さを体現した男を前に、もし父がこうであったなら…と夢想したことがなかったとはいえない。

 

 もし父が壮健であったなら、きっと今でも風波見と名乗り、堂々と風柱としての栄誉を継いでいただろう。

 自分は継子として父から教えを受けて、千寿郎達に対して、奇妙な劣等感を持たずに済んだろう。

 

 杏寿郎を兄として慕い、千寿郎を弟として可愛いと思ってはいても、自分は落ちぶれた柱の、今は鬼殺隊から抹消された一族の末裔でしかない。

 

 そのためにも、自分は必ず柱に上り詰める。

 曽祖父の残した、この最終奥義を我が物として、並居る風の呼吸の剣士を退けて、必ず――――!

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.05.05.水曜日に更新予定です。



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第三章 呪鬼(一)

 新緑匂う五月の清しい季節だというのに、ここ数日、冷たい雨が続いていた。

 その日も朝からしとしとと降る雨に濡れながら、山間の道を進んでいる。

 

 最近、この峠道で行方不明になる者が続いていた。

 最初は杣人(そまびと)、それからは行商人、山菜採りに出た(おうな)

 もしかするともっと被害は多いのかもしれない。以前は昼であればそれなりに人気のあった峠道に、今は誰も寄り付かなくなった。

 

 まして月が皓々と照る夜更けともなれば、その道を歩く者は鬼狩りぐらいしかいない。

 

「いかにも~って感じだなぁ」

 翔太郎は進むにつれ暗さを増していく道の先を眺め、げんなりとした表情になった。

 

「オイ、翔太郎! 気を引き締めていけよ」

「ンなこと言ったってなぁ~。一緒に行くのがこれじゃな~」

 チラと振り返って、自分と似たりよったりのどんよりした顔の男共を一瞥し、はぁーっと溜息をつく。

「せめて薫さんと一緒だったら、まだやる気にもなるけど……」

 

「うるせぇよ! 俺らだってそうだ!」

「ホンマじゃ! 誰がこんなしょっぱい野郎共と行きたいワケあるかい!」

「だいたい女なんてただでさえ少ないのに、森野辺さんと一緒に行くとか贅沢すぎんだよ!!」

 

 合田、下野、赤川が三者三様に言い返してくる。

 どれも翔太郎よりも年上の先輩なのだが、階級は翔太郎が上位なため、今回の任務の班長は翔太郎となっている。

 

 薫と一緒に任務をして、鍛錬にも付き合ってもらっているうちに実力がついたのはいいのだが、そうなったらそうなったで、自分よりも階級下の連中と組まされることが多くなり、必然、薫との任務が少なくなってしまった。

 柱になるためには強くなって上の階級へと進みたいが、そうなると薫との逢瀬が減る………ということで、翔太郎としては二律背反(ジレンマ)に陥っている。

 

 おまけについていないことは重なった。

 東京から帰ってくるなり、薫がすまなそうに言ってきたのだ。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「……翔太郎くん、あの玖ノ型なんだけど………」

「はい? え? なんスか?」

「篠宮先生に聞いたんだけど、もう知っているみたいなの」

「………は?」

「あの型は先生と、大先生―――――あなたの大お祖父様(じいさま)よね、二人で作っていたみたいなの。それでその後は先生も研究されてはいたみたいなんだけど、結局、実弥さんに任せた……って」

 

 翔太郎は帰りの汽車の中で描いた未来設計がバラバラと崩れていく音を聞いていた。

 呆然としながら、どうにか頭を動かして薫に聞き返す。

 

「え……っと、じゃあ…あの、薫さんの兄弟子の方々は、あの奥義……玖ノ型についてご存知ってことですか?」

「そうみたい。今、どういう進捗状況なのかは匡近さんに手紙で聞いているところなんだけど、もし、まだだったら一緒に作っていくっていうのもいいだろうし、もう完成させているなら、教えてもらえると思うから」

 

 薫なりに気を遣って言ってくれているのだろうが、それは本来、翔太郎が願っていた道筋ではない。

 

「冗談でしょ! 絶対、無理ですよ」

「どうして?」

「いや俺、別に篠宮先生の門下生じゃないですから」

「そんなの関係ないわよ。あぁ、実弥さんに言いにくいなら、匡近さんに聞いたらすぐ教えてくれると思うわ。私の方でも口添えしておくから」

 

 薫は笑って言ってくれたが、ありがた迷惑な話だった。

「いいです」と答えた翔太郎の返事をどう受け取ったのか、数日後、道場に現れた粂野匡近に声をかけられた時、翔太郎は嫌な予感がした。

 

「よぉ。風波見(かざはみ)翔太郎…だったっけ?」

「………一応、今は風見翔太郎になってます。登録は」

「あ、そうそう。そう言ってたな。――――いや、薫から聞いたんだけど」

 

 相変わらずの呼び捨てである。そういう所にも翔太郎はピリッと引っ掛かる。

 その薫はというと、午後から任務でいなかった。

 

「玖ノ型について調べてるんだって? さすが宗家だな。呼吸の書と注釈本の原本なんて、先生の家にもなかったものなぁ。書き写された指南書はいっぱいあったけど」

「……でしょうね」

 

 翔太郎の声はぞんざいになっていたが、匡近は人の良い笑顔を浮かべたまま、薫に頼まれたらしく余計な申し出をしてくる。

 

「実弥に聞いたけど、まだ完成させるまではいってないんだってさ。まぁ、そんな時間がとれないってのが正直なところなんだけど。あいつは座学とか稽古よりは実地が修行っていうヤツだからさ。で、もし君が玖ノ型を一緒に作り上げていきたいっていうんなら、実弥の下で……まぁ、弟子みたいな形で、組んでやるっていうのも――――」

「はああァァァ??!!」

 

 匡近が言い終わらないうちに、翔太郎は思い切り不満げに叫んだ。

 怒鳴ったと言ってもいい。

 

 不本意だった。

 決して受け入れられない案だ。

 なぜ、自分があの男の弟子にならねばならない?

 有り得ない! 絶・対・に! 有り得ない!!

 

 翔太郎は立ち上がると、とりあえず頭を下げた。

 

「ありがとうございます。でも、俺は自分で自分なりに考えたいので、その提案についてはご辞退させていただきます。失礼します」

 

 慇懃な挨拶とは裏腹に、不平不満が満面に出ていたが、気にしなかった。

 早口に言って、匡近の前から立ち去った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 そこからずっと苛立ちは続いている。

 薫に悪気はないのはわかっているのだが、正直、余計なお世話だった。できればこの件については放っておいてもらいたい。

 

 とはいえ、本人を目の前にすると、惚れた弱みで強く言うことはできない……。

 

 

「昨日まではヘラヘラ笑っとったくせに……」

「そりゃ、森野辺さんと一緒だったからな」

 

 赤川達は翔太郎の背後をついて歩きながらボヤいた。

 そう。今回は任務は違ったが、向かう方向が同じであったため、さっきまで薫と道行きを共にしていた。

 道中での翔太郎は上機嫌そのものだった。

 

 夕方に街道のややさびれた宿場町で別れて、翔太郎達は山に入って行き、薫達は隣の町へと向かった。

 薫と一緒だったのは先年の選抜で鬼殺隊に入隊したばかりの癸の隊士と、田町信子という一重三白眼の愛想のない大女。翔太郎の同期でもある。

 

 近頃は薫と一緒に回ることが多いらしく、「のぶちゃん」なんぞと呼ばれている。

 なんだって自分ではなく、あの女が薫さんと共同任務なんだ。

 翔太郎はムカムカして歩きつつ、信子との先日のやり取りを思い出す。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

「なんで、お前ばっか薫さんと一緒なんだよー」

 翔太郎が不満をぶつけると、信子は三白眼の白目を細めて、呆れたように見た。

 

「そら、分散しとんやろ。強い人は限られとんねんから」

「そんなのはわぁーってら」

「やかましなぁ。薫さんは、あんたみたいなぎゃあぎゃあ(やかま)しいのは嫌いやで」

「なんだとぉ!? このオカメ!!」

「そういうとこがガキやねん! 粂野さん見習ぅてみぃ」

「粂野さん? なんで粂野さんが出てくんだよ?」

「粂野さんは落ち着いてはるし、大人やし。なにより薫さんとよう似合ぅてはる」

「はアァァァ!!??」

 翔太郎の大声に、周囲にいた数人が何事かと怪訝に振り向く。

「似合ってるって、なんだよ! お前が何知ってるってんだ!」

 

 がなり立てる翔太郎を、いよいよ面倒臭そうに信子は見つめた。

「そんなン、(ハタ)から見とったらわかるやろ。粂野さん相手にしとる時の薫さんは、明らかにウチら相手にしとる時とは()ゃうわ。安心しきっとる言うか……」

「そんなの兄弟子なんだから当たり前だろ!」

「あーはいはい。そやなそやなー」

 

 適当にいなして、信子はやってられないとばかりに去って行く。

 チッと舌打ちしながらも、翔太郎自身、あの二人を見ているとなかなか割って入ることができない…。

 

 ―――――匡近さん。肆ノ型を見せてもらっていいですか?

 ―――――あれ? やるのか?

 ―――――いえ。ちょっと工夫できないかと思って……

 

 むろん、二人で稽古しているだけだし、薫は匡近に助言を求めたりしているだけなのだが、信子のように邪推する人間は少なくない。

 だが、あくまで兄弟子としての、そういう好意だと翔太郎は思っている。

 実際、薫も言っていたのだから。

 

 ―――――ああいう人がお兄さんだったら、良かったと思わない?

 

 前文に優しいとか、頼りがいがあるとか言っていたのは除いておいて、つまり『兄』として慕っているだけで、信子が言うような気持ちがあるとは思えない。

 

 だが、薫の方はそうであったとして、粂野側がそうであるとは限らない。

 自分がそういう気持ちを薫に抱いているせいか、わかるのだ。同類は。

 

 

---------------------

 

 

「粂野さん、単刀直入に聞きますけど、薫さんのこと好きですよね?」

 

 前日に玖ノ型での一悶着があったので少々気まずかったのだが、堪えきれなくて、翔太郎はとうとう訊いてしまった。

 

「………え?」

 

 匡近は今日には東京に戻ることになっており、早朝から支度をしているところだった。

 

 任務で一緒になったことはないが、稽古場での粂野匡近はニコニコしつつも厳しい。笑顔だからと油断したら、とてつもなく手痛い反撃を喰らう。

 しかし、稽古場を出ると少しばかり間抜けなところもある、翔太郎にしてみれば、ちょっと頼りない感じすらする先輩だった。

 

 翔太郎の急な質問を予想していなかったのだろう。

 まともに受け取って、匡近の顔が一気に真っ赤になった。

 

「あ、やっぱり」

「いや、違う違う違う違う!」

「違わないでしょ。だいたい、薫さんに会いに来てるんですよね?」

「そういう訳じゃない。こっちで任務があって…」

「本当ですかぁ? 俺知ってますよ。休暇願い出して、こっち来るってなったら、本部からこっちでの仕事を割り振られたりしますもんね。最近は関東方面での鬼の出現が多くなってるから、乙以上の階級の人は、基本あちらにかかりきりのはずでしょ?」

 翔太郎は冷たい視線のまま、問い詰める。

 

「いや。だから……勝母さんのところに毒消しの薬をもらう用事もあって……」

 匡近はモゴモゴと言い訳するが、翔太郎はそんな言葉で納得するほど優しい性格ではない。

 

「そんなん、向こうでも貰えるでしょ。確か、花柱様のいらっしゃる蝶屋敷ってところでも、薬を作ってるって聞いたことありますよ。……ってか、ココに来る前に勝母さんとこも行ってるって、確実に薫さんに会おうとしてますよね」

 

 翔太郎が決めつけるのを、匡近はどうしたものかと頭を掻きながら考えているようだったが、ふと苦笑いがもれた。

 

「……なんです?」

「まぁ、僕の方はね。お察しの通りと言ってもいいが、でもまぁ、最初(はな)から叶うはずもないとわかっているから」

「はぁ?」

「風見翔太郎、だったっけ? 君が薫に憧れる気持ちもわかるよ。薫はいい子だからね。ただ……薫が見ているのが誰なのかは、もうわかってるんだ」

 

 その笑顔は苦しそうで、哀しげで、やさしかった。

 秋の陽だまりのような、寂しさをかかえた温かさだった。

 

 翔太郎は黙り込んでしまった。

 

 

---------------------

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 あの様子だと匡近もまた片思いだということだろうか…?

 だとすれば、信子の読みは見事に外れているというわけだが、ここで問題となるのが匡近が言った『薫が見ている』『誰』か、だ―――――。

 

 そこで思考は途切れた。

 

 斜め上からの殺気を感じたと同時、翔太郎の体が跳躍した。

 

 さっきまで立っていた場所に、土色の肌の、力士のような重量級の鬼が四つん這いになっていた。

 大きな爪で引っ掻かれた土が、深くえぐれている。

 

「やっと来やがった」

 翔太郎は刀を構えた。

 

「勿体ぶって隠れてんじゃねぇよ! この豚野郎ッ!!」

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 刀を一振りすると、三本の爪で引っ掻いたような斬撃が鬼を襲う。

 グハァツ! と鬼の体から血飛沫が飛んだ。

 

「おめぇら! 一気に畳み掛けるぞ!!」

 

 翔太郎の気迫に、鬼の急襲に固まっていた隊士達が次々と技を繰り出した。

 

 楽に勝てる―――――翔太郎を含めた全員が確信していた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回の更新予定は2021.05.08.土曜日です。



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第三章 呪鬼(二)

▼今回、残酷描写あります。ご不快な方は避けてください。



「あぁ……」

 薫はガックリと肩を落とした。

 予想はしていたものの……。

 

 宵の頃に鴉からの指令を受け、鬼を倒して帰ってきたはいいが、既に夜半。

 開いている店はなかった。

 よく行く店の前で溜息をついていた薫に、声をかけてきたのは匡近だった。

 

「薫」

「匡近さん!」

「今、帰りか? 食いっぱぐれたか?」

 匡近は笑って言うと、「ついて来い」と歩き出す。

 

「ちょっと行ったところに、遅くまでやってる店があるから……」

「あ……教えていただければ一人で行きますよ。匡近さんは、もう夕食は食べられたのでしょう?」

「いや」

 

 匡近は苦笑いした。

 元々は遊郭通いの酔客向けの店であるので、さすがに一人で行かせるわけにはいかない。 

 

「……食べた後に稽古してたんで、小腹が空いてるんだ」

 薫はそれが匡近なりの気の遣い方なのだとわかったが、ニコリと笑ってついていく。

 

 店に着くと、ちょうど客が切れていたのか、いつものような酔客はいなかった。匡近はホッとして、壁際の席へと腰を降ろす。

 匡近はかけ蕎麦を頼んで、翔太郎の話を始めた。

 

「あの、風波見(かざはみ)の……あ、いや風見だったっけ? あの子に一応、実弥と一緒に玖ノ型を作っていくなら、とりあえず弟子ってことで、一緒にやっていったらどうかって訊いてみたんだけど」

「え? そういう話だったんですか?」

 薫は意外だったのだが、匡近は笑った。

 

「そりゃ、一緒に型を創るとなったら、さすがに離れたこの状態では無理だろ。弟子なら―――まぁ、実際に弟子っていうんじゃなくて、そういう(てい)ってことだけど―――それなら、とりあえず身近にはいることになるだろうから、互いの意見交換だってしやすいだろうし」

「それは確かに……」

「まぁ、でもけんもほろろに断られたよ。どうも、俺ら嫌われてるみたいだな」

「すいません」

 頭を下げる薫に、「薫のせいじゃないさ」と言いかけて匡近はのみ込む。

 

 はっきりと言われたわけではないが、おそらく翔太郎は薫に好意を持っているのだろう。

 朝、道場で薫と型のことで話していた時も、ものすごい視線を感じて振り返ると、翔太郎が睨みつけるようにこちらを見ていた。

 その後、例の玖の型のことで一悶着あった後、他の隊士にそれとなく聞いたら、全員一致で「翔太郎は森野辺さんにホの字ですよ」という返事だった。

 だとすれば、ある程度は『薫のせい』であるかもしれない。とはいえ、それで薫を責めるのは違うだろう。

 

「匡近さん?」

 黙り込んだ匡近に薫が首を傾げる。

 匡近は苦笑しながら、結局浮かんだ言葉を言った。

「……薫のせいじゃない、気にするな」

 

 薫は少しホッとしたような笑みを浮かべると、残念そうにつぶやいた。

「………翔太郎くん、意気込んでたんです。自分が玖ノ型を完成させるって」

「うん。なかなか…生意気なぐらい元気そうなヤツだな」

 

 薫は思わずクスっと笑った。

 いかにも翔太郎にぴったりな言い様だ。生意気だと言いながらも、匡近の余裕が、さほど嫌味に聞こえさせない。

 

「言っても、自分の家が宗家だったっていう自負があるんだろうな。せっかく見つけたお祖父(じい)さんの研究成果だ。自分が継ぎたい、っていう気持ちはわかるよ」

「そうですね。鬼殺隊に入るのも大変だったみたいですし、克己心のある子ですから。自分ひとりの力でどうにかしたいって思ってるのかもしれません」

「まぁ、急には無理でも、何回か会ってる内に親しくもなっていくだろうし、そうなれば考えも変わるかもしれないから。おいおい、声かけるよ」

「ありがとうございます」

 

 薫は頭を下げると、ようやく来た親子丼に手をつける。

 翔太郎はもちろん、実弥にしてもそんな話が進行していることは知らないので、当人達が聞けば『冗談じゃねぇ!』と怒鳴ってきそうな話だったが、匡近も薫もまったく善意しかない。

 そこが翔太郎が薫に強く言えず、実弥が匡近に言い返せない要因だった。

 

 その後は、薫が見つけた東洋一の若い頃の写真の話になった。

 美丈夫でしたよ、という薫の感想に、匡近は帰りに寄って確かめてくると言い、翌朝には発った。

 

 その後、何度か薫は玖ノ型のことで翔太郎に話を聞こうかと思ったが、翔太郎はその話題について避けているようだった。

 

 今回、任務が下り、偶然にも行き先が翔太郎達と同じ方角だったので途中まで一緒だったが、道中も、翔太郎はとうとう玖ノ型については一切話さなかった。

 匡近の言うように、自負もあり、薫に大見得をきった手前の気恥ずかしさもあるのだろう。

 薫もまたその事については触れず、夕暮れの宿場町で別れた。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 雨が上がると、雲の切れ間から星が見え始めた。

 青や、白、橙の星が煌めいている。

 鬼を倒し終わった薫は、その夜空を見上げると、殺伐した気持ちが流れていくのを感じた。

 

「……すごい」

 同行していた新米隊士がつぶやく。

 隣にいた信子が肩を叩いた。

「今度は、見てるだけではアカンねんで。怖ぅても、ちゃんと刀を構えな」

 

 そう言われた新米隊士はしゅんと頭を垂れた。

 恐怖のあまりガチガチに体が強張ってしまい、鞘から刀を抜くことすらできなかったのである。

 

「あんたそれでよく最終選別に残れたなぁ」

「……い、い、異能の鬼なんて初めてで…」

 

 土の中に潜行して襲いかかる鬼だった。

 なかなか姿を現さないその鬼を、薫は一瞬出てきたところに連撃の突きで傷を負わせた後、再び出現するや否や、呼吸の技で鮮やかに首を討ち取った。

 

「まぁ、仕方(しゃあ)ないけど……」

 信子は溜息をつきながら、薫に声をかけた。

 

「帰りますか? 隠に連絡は?」

「そうですね。特に怪我人はいませんが、もしかすると周辺に被害があったかもしれませんから…一応、連絡はしておきましょう。晋助(しんすけ)くん、お願いできますか?」

 

 いきなり声をかけられ、新米隊士の高見晋助は「は、はいっ」とうわずった声で返事した。

 

 鴉の足に完了を報せる紫の紐を結んでいると、奇妙な羽音が近づいてきた。

 薫はハッとして上を見上げる。

 険しい表情で待っていると、片足を失い羽根もいくつか抜けて傷つけられたらしい鴉が、ほとんど落ちるように報せを告げた。

 

 翔太郎達が苦戦しているという。

「……よほど強い鬼なんでしょうか?」

 信子は緊張で顔が固まった。

 

 新米の頃なら慌てるあまりに型ができなくなることもあった翔太郎ではあるが、最近では薫からの教示もあって、冷静に戦闘をこなすようになってきている。

 それが苦戦を強いられている…ということは並の鬼ではない。

 

 薫はその鴉を朴の木の根本にそっと置いた。

 おそらくもう長くない。

 ここまで必死で、死ぬ直前にもかかわらず、無理に飛行してきたのだろう。

 

「そうね。すぐに向かわないと…でも、場所がわからない」

 薫が鴉の飛んできた方向を見つめていると、また黒い影が迫ってくる。

 

「救援ッ! 救援乞ウゥゥ!!」

志筑(しづく)っ! 翔太郎の鴉です」

 信子が叫ぶと、志筑と呼ばれた鴉が急降下してきて、伸ばした薫の腕に止まった。

「救援ッ!」

「わかった。案内をお願い」

 

 薫が短く言うなり、志筑は再びバサリと上空に舞い、薫達を導いていく。

 薫はすぐさま走り出した。信子も続こうとして、まごまごしている晋助を睨んだ。

 

「晋助! 早よ行くで!」

「あ、あの…鴉は?」

「そんなもん、えぇから、はよせぇ!」

 

 言うなり信子は駆け出す。もう薫の背中は小さくなっている。

 迷った晋助が自分の鴉を放すと、鴉は薫達と反対方向へ飛んで行った。

 

「あっ」

 

 晋助は声を上げたが、それは任務完了を報せる紐を結んだのだから、鴉にとっては近くにある隠達の詰める番所へと向かう、当然の行動だった。

 逡巡しながらも、晋助は薫達の後を追っていった。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 峠道から少し外れた、ブナ林の道なき道を進む。

 足元の落葉は厚く堆積して、踏み込むたびに軽く沈むが、フワリとした弾力を返してくる。

 先程まで雨が降っていたせいか、うっすら靄がかかり、視界は悪い。

 

 やがて戦った跡であろう。

 幹に鬼の爪痕らしい傷や、落葉の層が抉られて黒い土がむきだしになっている場所に出た。

 

 薫はピタリと止まった。靄の中、木の根元に倒れ込んだ人間の姿。

 一人ではない。

 目を凝らすと、その横にももう一人。少し離れた場所に一人。

 三人とも翔太郎と一緒に任務に向かった隊士達だろう。

 

 木の根元にいた隊士達は、腹から真っ二つに斬られていた。流れた血はほとんど落葉の土の中へと吸収されている。

 離れた場所にいた隊士は首を斬られ、座り込んだ足の間に頭が落ちていた。両腕も斬られてなくなっている。

 

「これは……」

 ようやく追いついた信子は顔を顰めた。「喰われた……?」

 

 晋助はゼイゼイと息を切らせながらやって来て、その無残な姿を見ると、ヒッと声を上げた。

「うわ……あ、……く、喰われ……」

 

 ガタガタと震えながら後退(あとずさ)ると、くるりと踵を返す。

 人間としての本能が、逃げることを選んだ。

 

「あかん! 勝手に動くな!!」

 信子が制止したが、恐怖にかられた晋助には聞こえない。

 

「来るッ!」

 薫は叫ぶと同時に、その攻撃を躱す。

 信子も咄嗟に呼吸の技を繰り出して、どうにかいなす。

 だが、晋助は逃げようとした姿のまま、三つに寸断された。

 

 声を上げる間もなかったろう。ゴトン、と地に落ちた頭がゆっくりと転がって、見開いた目は何が起こったのかもわからないまま逝ってしまったことを告げている。

 

 晋助に注意をそがれた隙に、敵は再び姿を潜めた。

 信子も、薫も、動かない。

 鬼はいる。

 こっちの出方を待っているのか、それとも既に術中にある薫達をどう痛ぶろうかと、手ぐすねを引いて待ち構えているのか。

 

 薫は全集中の呼吸をより深くする。半眼を閉じ、研ぎ澄ます。

 

 鳥の呼吸 伍ノ型 森閑俊捷(しんかんしゅんしょう)

 

 静かに、気配を殺して鬼の居場所を探る。

 動いておらずとも、その呼吸、生命のもつ律動のようなものを感じ取るのだ…。

 

 ―――――知覚すると同時に凄まじい速さで跳躍し、薫は刃を振るった。

 

 ざ、ざ、ざと太い木の枝が落ちた。

 手応えがない。

 本来であれば、鬼の気配を感じ取ると同時に、梟のように音もなく急襲して、一斬の元に首を叩き落とす技なのだが、(かわ)されたらしい。

 

「なかなかやるなァ」

 

 鬼は落ちた枝から別の枝へと移っていた。

 ニヤニヤと笑って、薫を見下ろしている。

 

 真っ白な顔に歌舞伎役者のような紅い隈取、紅い目。

 長く伸びた髪は蛇のようにうねり、風を無視した動きかたをしている。

 右肩だけが異様に盛り上がって、片肌を脱いだ状態になっている。その肩には大きな紅い目が、気味悪く光っていた。

 入れ墨のような黒の斑紋が肩から指先にまである。

 岩のような右腕の先には鈍く光る刀が握られていた。

 血管のような青筋が浮いて、脈打っている。気味の悪い刀だ。……

 

 鬼が後ろに手をやると、背中から人間の手が二本出てきた。

 血の気を失い、白く固まった手。鬼はその内の一本を引き抜くように取ると、むしゃむしゃと食べ始める。

 それはおそらく隊士の腕。

 先程の頭を斬られていた隊士、それに―――――

 

 鬼はニィと笑い、赤黒く伸びた爪が、薫の輪郭をなぞっていく。

「オマエ、強そうだな。俺は強いヤツが大好きなんだ。オマエを喰ったら、強くなれるだろうなぁ」

 

 薫は鬼を冷たく見据えながら、信子に囁いた。

「……のぶちゃん、翔太郎君の姿がない。探して。おそらく……」

 ギッと睨むその先には鬼の背中から見える手。月明かりに照らされて、袖口に施された柊の刺繍が見えた。

「右腕がなくなっている」

 信子は返事はせず、そのまま闇に溶け込むかのように姿を消した。

 

「今日は豊作だなァ。阿呆な鬼に呼び寄せられて隊士が何人も来てくれたよ……懐かしいなァ」

 

 鬼はゆらりと立ち上がると、食べかけの腕を投げ棄てた。

 フッと姿が消えると、隣の木の枝へと飛び移っている。

 次々と身軽に枝から枝へとまた飛び移っていく。

 

 薫もまた、追う。

 

 打掛をはためかせて跳躍する様はムササビのようだった。

 薫の力量を探っているのか、どこか遠くに向かっているというより、辺りを周回している。

 

 やがて根曲がりして、瘤状になっているブナの巨木へと降り立った。

 その木の下には、黄土色の肉塊と、その上に不自然な形で鬼らしきものの首が載っている。

 死にかけているのか、ズーズーと奇怪な息遣いが聞こえてきた。

 

「そんなにコイツは強いと思われたのかな?」

 隈取の鬼はその首を乱暴に掴むと、持っていた刀を突き刺した。

 

 ウゴオオオォォ!! と、土色の顔の鬼が咆哮を上げる。

 肉塊と思われた胴体の一部が伸びて手の形になり、隈取の鬼を掴もうとする。

 

「フフ。最後のあがきか?」

 面白そうに目を細めると、次の瞬間にはその伸びてきた腕も、肉塊も微塵に切り刻まれていた。

 

 ―――――この鬼……!

 

 それは有り得ないことだった。

 

 薫は柄を握りしめた。全身が総毛立っている。

 奥歯を噛み締めて、呼吸に集中していく。

 

 恐れは乱れに繋がる。平静を保たねばならない。

 

 たとえ、この鬼が呼吸を――――風の呼吸を使っていたとしても。

 

 隈取の鬼が(たの)しそうに笑っている……。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.05.12.水曜日の更新予定です。



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第三章 呪鬼(三)

▼今回、残酷描写あります。ご不快な方は避けてください。



 信子(のぶこ)は薫に命じられて翔太郎を探した。

 あの隈取(くまどり)の鬼に気取られぬように探索するのは正直ヒヤヒヤものだったが、薫がひきつけてくれているのか、こちらには来ない。―――――今のところ。

 

 鬼殺隊の女の中ではおそらく一番、男を含めても十指に入るほど大柄な信子だったが、不思議と気配を消す業に長けていた。そのせいで斥候を任されることも多い。

 辺りを注意深く、そろそろと歩いていると、どこからかうめき声が聞こえた。

 

 声のする方に向かうと、翔太郎の鴉がフワリと上空から降りてきた。

 鴉も探していたらしい。

 

 うめき声はさらに先の方から聞こえてくる。

 クマザサを踏み分けて、暗い森の奥へと進んでいくと、カエデの木の下に誰かが立っているのが見えた。否、立っているのではない。

 

 信子は慌てて走り寄った。

 翔太郎が木の幹に縫い付けられるように、左肩を刺し貫かれていた。

 薫の言っていたように、右腕は斬り落とされていた。

 

「翔太郎、大丈夫か?」

 

 信子は見つからぬように、小さく声をかけた。

 白い顔の翔太郎が辛うじて頷く。

 信子が渾身の力で刀を引き抜くと、翔太郎はガクリと信子の正面へと倒れ込んだ。

 

「しっかりせぇ」

 励ましながら、信子は羽織の袂を破り、翔太郎の右腕があった場所を覆ってキツく縛る。

 

「あの野郎……」

 翔太郎はガクガクと震えながら、信子が引き抜いた刀に手を伸ばした。それは翔太郎の日輪刀であった。

 

「翔太郎、やめとけ。出血がひどい。これ以上動いたらあかん」

「あいつだけは……あいつだけは殺らないと……」

 念仏のように唱えながら、翔太郎は闇に消えた鬼の姿を睨みつけた。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 ―――――時は半刻ほど前に戻る。

 

 

 土色の鬼は当初、翔太郎達のしかけた波状攻撃により簡単に倒せると思ったのだが、存外にしぶとかった。

 斬ることはできるのだが、ブヨブヨした肉のせいで肝心の首が斬れない。だが、だんだんと翔太郎達の勢いに押されたのか、逃げ始めた。

 

「待てっ、この野郎!」

 追いかけた赤川が、いきなり胴体から真っ二つになった。

 

「え?」

 二番手だった合田(あいだ)が呆然としたまま、これも次の瞬間には腰から下だけになり、ゆっくりと倒れていく。

 

「合田ぁっ!」

 駆け寄った下野の右腕が落とされた。

 ボタリ、と音をたてて転がった自分の腕を見て、しばらく下野は呆然としていた。

 

 上空では鴉が騒いでいる。

 けたたましい鳴き声が闇の中に不気味に響き渡り、やがて鴉が一匹、空から落ちてきた。

 首が落とされていた。

 

「ヤァ」

 

 凄惨な現場に不釣り合いなほどの、のんびりした声。

 片腕を失った下野の横に、音もなく、その鬼はまるで最初からそこにいたかのように立っていた。

 

「四人仲良く鬼退治しに来たの? えらいねぇ」

 

 灰白の顔。赤の隈取。揺らめく長い髪。

 異常に盛り上がった右肩から伸びた腕には、一面に入れ墨のような黒の渦巻紋様。

 その手には薄緑の血管が浮き出たような不気味な刀が握られていた。

 

 鬼は落ちていた下野の腕を拾い上げると、上を向き、口を大きく開いて吸い込むように飲んでいく。指の部分だけ咀嚼してパキパキと骨の折れる音が聞こえた。

 

「うあぁぁぁぁ!!!」

 

 下野が悲鳴を上げる。

 それは自分の腕が食べられているのを見たからではない。もう片方の腕もまた、斬られたのだ。

 押さえて止血することもできぬまま、膝をつく。

 

「痛いィ? 可哀想に」

 やさしげなことを言いながら、次の瞬間には下野の首は落ちていた。

 ドサリと胴が倒れ、首がゴロリと翔太郎の足元に転がってきた。

 

「………」

 翔太郎が呆然と立ちすくんでいると、いつのまにか鬼が目の前にいた。

 

 ―――――殺られる!!

 

 全身が硬直して動かない。

 翔太郎は覚悟した。

 

 しかし、鬼はじいぃと見つめている。視線の先は翔太郎の胸元にある、羽織の家紋だった。

 

「オマエ、名前は?」

 

 鬼に名前を問われたことなどない。

 翔太郎は驚いたのと、恐怖で口がカラカラであったために、すぐに答えることができなかった。

 鬼は羽織を掴んで、再び問うてくる。

 

「ナ・マ・エ」

「………風…見」

 

 聞くなり、鬼は首を傾げた。

 

「風見? 違うだろ。風波見(かざはみ)だろ?」

「……今は……風見、だ」

「今は? 今は? ………へぇぇ。今は、ねぇ」

 

 鬼は不自然に身体を揺すって哄笑すると、いきなり抜刀した。

 

 ほとんど無意識に避けられたのは、薫との修練の成果だった。

 しつこいほどに、この身除けの技を叩き込まれたのだ。

 

 だが、(きっさき)が鼻先を掠めて血がほとばしる。

 

「………やるじゃないか」

 

 鬼はベロリと緑色の舌を出して、唇をねぶった。

 翔太郎は刀を構えながら、鬼を睨みつけた。

 

 その時、不意に後ろから頭を掴まれた。

 さっきまで翔太郎達が追っていた土色の鬼が、咆哮を上げて、翔太郎を頭から潰そうとしている。

 

「くっっ!」

 翔太郎は息を吸い込む。全集中の呼吸―――――

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 嵐のような暴風と共に切り裂かれた鬼が、悲鳴と共に翔太郎を離した。

 地面に転がった翔太郎はそのまま後方へと三回転して、鬼達と間合いをとる。

 

 隈取の鬼はニイィと笑った。

 その鬼に土色の鬼がおゥ、おゥ、と呻きながら、赤ん坊のように四つん這いで寄っていく。

 スッと隈取の鬼から笑顔が消えると同時に、手に持った刀が唸る。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 翔太郎とは比べ物にならない斬撃。

 土色の鬼は皮一枚を残し、首から下はただの肉塊となった。

 

 そのまま隈取の鬼は翔太郎に向かってくる。

 咄嗟に刀を振り上げるものの、呼吸の技を出す間もない―――――。

 

 ガキィッ!

 

 刃が噛み合って、そのまま翔太郎は地面の上を滑るように、後ろに押されていった。

 ツタが千切れ、枝が折れ、ようやくカエデの木の下で、その太い幹に押し付けられるようにして止まった。

 

 そのわずかな時間の間に、翔太郎は信じられないものを見た。

 

 鬼の持った刀。

 刀身は血管のようなものが浮かび上がり、脈動する不気味な刀。

 

 だが、その鍔。

 八枚の風切羽の意匠。

 それは風波見家に伝わる、風波見家で修行し鬼殺隊士となった者だけが持つはずの……鍔。

 

「その鍔……」

 翔太郎がつぶやくと、同じことを考えていたのか、鬼が言った。

「ようやく見つけた。最近の風の剣士は、この鍔でないんだよなァ」

「お前……」

 翔太郎は迫りくる刀を押し返しながら、頭の中がすっかり混乱していた。

 

 どうしてここに……現在(いま)ここに、翔太郎(じぶん)と同じ鍔を持つ鬼がいる?

 

 鬼は困惑する翔太郎を楽しげに見ながら、ぐ、ぐ、と刃を押し付けてくる。

 明らかに遊んでいた。本当に殺る気ならば、合田達のように瞬殺できたろう。

 

「大きくなったなぁ、晃太郎(こうたろう)。弱くてみすぼらしいガキだったというのに…」

 

 鬼が揶揄するようにその名前を呼んだ時、翔太郎はゾッと血の気が引くのを感じた。

 それは父の名前だ。

 一体、この鬼は何なのだろう? なぜ父のことを知っている?

 

 しかし今はそのことについてゆっくり考えている暇はない。

 息を吸い込んで、再び技を放つ。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 鬼は軽やかに後方へと飛び退り、翔太郎は間合いをとった。

 余裕の笑みを浮かべていた鬼の顔が歪んだのは、避けきれていなかったのか、手の甲に傷が出来ていたからだった。

 

「ホゥ……俺に傷をつけるとはな。晃太郎、お前の育手は誰だ? あの男か?」

「うるせぇ! 俺は翔太郎だ! 晃太郎は俺の父親だっ!!」

 

 鬼は目をカッと見開いた。

 ギリギリと歯軋りしながら、焦点の合わない目で、恍惚としてあらぬ方を見つめた。

 

「フ、フ、フ…。そうか、そんなに俺は…。長かったな、長かったよ。地べたを這いずり回って、蛆虫のように…長い長い…何十年経ったんだろうなァ……」

 

 つぶやくように言ったかと思うと、鬼は無造作に刀を振るった。

 翔太郎は横へと避けて、その不意の攻撃を避ける。

 しかしわずかに肩を斬られていた。並の鬼の爪では傷つくことない隊服も、この鬼の振るう奇怪な刃を防ぐことはできないようだ。

 

 鬼の視線がゆっくりと翔太郎に戻ってくる。

 ニヤリと笑い、刀をべろりと舐めた。

「いい動きだ……」

 

 翔太郎はその場で構えた。

 威圧してくる空気がずっしりと重く、汗が噴き出してくる。

 

 技を繰り出そうとする翔太郎を、鬼はニヤニヤと笑って見ていた。

 息を吸い込む。深く、長く。

 

 コイツが何者なのかはわからない。

 けれど、殺さなければならない。

 この鬼だけは絶対に殺さなければならない。

 理由もなく翔太郎はそう思った。

 

 それはただの直感だったが、確信でもあった。

 ブゥンと翔太郎の日輪刀が唸り声を上げる。

 

 風の呼吸 肆ノ型 昇上砂塵嵐

 

 気がつくと、翔太郎は地面に突っ伏していた。

 何が起きたのかわからない。

 

 自分が攻撃したはずなのに、どうして地面に叩きつけられたのか? ツツツ、と左耳から血が流れた。音が…遠い…。

 

 鬼は翔太郎の傍らにしゃがみ込むと、グイと頭を引っ掴んだ。

「オマエは師匠に似ているなぁ…。そう、その太い眉とか、睨みつけた時の目とか。懐かしい……」

 

 目を細める鬼の顔が、本当に懐かしそうで、妙に人間臭く翔太郎は困惑した。一体、こいつは何がしたいのだろう?

 何も言わない翔太郎に、鬼は独り言のようにブツブツとつぶやいた。

 

「あの婆ァめ…約束を破ったな。こうしてオマエが鬼殺隊にいるってことは反故にされたということか……」

「約……束……?」

 

 鬼の声がどこか遠く聞こえた。

 いったい、何を言っている? 約束? 婆…というのは、曾祖母のことだろうか……?

 

 ―――――鬼狩りになるなど…許しませぬぞ!

 

 翔太郎が鬼殺隊に入ることに断固として反対していた曾祖母。

 その理由は息子を喪ってから、これ以上、身内を失うことへの(おそ)れだと思っていた。けれど、それだけでなかったのか…?

 

 今になって、翔太郎は自分が取り返しのつかない選択をしたことを、ひたひたと迫る恐怖の中で感じていた。

 

「晃太郎の息子のオマエがここにいるということは、今、あの家には誰がいるんだ? 晃太郎と、オマエの母親、それに兄弟もいるのかな?」

「誰もいない!」

 

 翔太郎は即座に叫んだ。くっきりと母と妹の姿が瞼に映る。

 

「父は…晃太郎は既に死んだ。大お祖母様(おばあ)も亡くなった。母も、誰も……俺は天涯孤独だ!」

「えらく必死じゃないか。まるで、何かを庇っているようだよ」

 

 鬼はクツクツと笑う。

 翔太郎は奥歯を噛み締めた。

 もう、どうでもいい。どうでもいい。とにかく、自分はなんとしてもこの鬼を殺さねばならない。そうしなければ―――――

 ゾワリと、冷たい感触が全身を走った。

 

 恐怖に軋んだ右腕を無理に動かし、自分の頭を掴む鬼の腕を斬りつける。

 鬼が手を放して飛び退ると同時に、翔太郎はすぐに起き上がって渾身の技を放った。

 

 風の呼吸 陸ノ型 黒風烟嵐

 

 ぼとり、と鬼の巨大な右腕が落ちた。

 

「へえぇぇぇ」

 鬼は腕を拾い上げると切り口を眺めて、垂れた血を啜った。

「なかなか…やってくれる」

 

 さっきまでの楽しそうな気配は消え、苛立ちがかすかに混じっていた。

 自分の腕を食い千切って肉片を呑み込むと、斬られた部分の肉が蠢き、再生を始める。

 

「その目…」

 鬼は口の端を歪めて、翔太郎を睨みつけた。

「師匠にそっくりだ。その睨み……」

「うるさいっ!」

 

 ゴウ、と翔太郎の刀が唸り、鬼を切り裂かんと風の刃が飛ぶ。

 だが、すでにその時には鬼は無傷で樹上に立っていた。

 

「残念だな。師匠と似てるのは見てくれだけか。技が粗い……賢太郎にも及ばない。風波見の血も落ちたな」

「黙れ!」

 

 怒鳴りながら、翔太郎は技を繰り出すが、鬼は楽々と避けていく。

 当然だった。

 技を乱発したせいで、すっかり息が上がっている。

 ひどい耳鳴りと頭痛。心臓が口から飛び出てきそうなほどに拍動している。もう既に翔太郎の限界は超えていた。

 

「…どの技も単調だな。それに少しばかり足捌きが不自然だ。誰もオマエに忠告はしてくれなかったのか?」

 

 言うなり、鬼の姿が消えた。

 ゴウ、と音だけが横に来たと思った刹那に、振り上げた刀が翔太郎の意志と関係なく、地面に落ちた。

 同時に右肩が熱く、すさまじい痛みが襲ってくる。

 

「…っぐああぁぁぁーっっ!!!!!!!!」

 

 叫び声を上げ、うずくまる翔太郎の前で、鬼は落ちた翔太郎の腕を拾い上げ、その手にあった日輪刀を取り上げた。

 

 若葉色の刀身を月にかざして見ていると、やがてゆっくりと刀は色を失くしていく。

 その時、バサバサと鳥達の飛び立つ音が聞こえ、夜空を横切っていった。

 鬼は紅い目を細め、森の暗闇の中を見つめる。

 

「………フン、また来たか」

 つぶやくと、グイと翔太郎の襟を掴み上げた。

 

「か、返せ……」

「もちろん。返してやる」

 言うなり翔太郎の体を持ち上げると、後ろの木に押し付け、持っていた刀を突き刺した。

 

「…ぐああぁぁあっっっ!!!!!!」

 

 左肩を自分の刀で刺し貫かれて、翔太郎は凄絶な悲鳴を上げた。

 鬼はグリグリと刀を捻り、痛がる翔太郎を愉しそうに見ていた。

 

早贄(はやにえ)だよ、翔太郎…だったか? あとでゆっくり食べてやる。俺はなァ、腐る前くらいが好きなんだ」

「……殺…す……き…さま」

「あぁ、そうだな。俺を殺さねば、オマエの家族は皆殺しだ」

「て…ンめ…え……っっ!!!!」

 

 ガタガタともがく翔太郎を嘲笑い、鬼は闇の中に消えていく。

 

 ザザザと風が森の中を吹き抜けた。

 

 翔太郎は必死で刀を外そうとするが、左手は柄に届かず、右手はもはやない。

 体を揺すろうとすれば激痛と、出血がひどくなり、やがて意識が朦朧としてきた。

 

 自分は、間違っていたのだろうか?

 父の遺志を継いで、自分もまた追い求めて鬼殺隊に入った。

 お祖父様(じいさま)のように、あるいは伝説とまで呼ばれた曽祖父のように、自分もまた柱となって、風波見家を再興しようと……そう、思っていただけだったのに。

 

 ―――――あぁ…母上。清子。大お祖母様。逃げてくれ……

 

 頼むから、誰か助けてくれ。

 俺はいい。俺のことなどいいから。頼む、家族を……どうか、救ってくれ……!

 

 涙を浮かべ、ぼやけた視界に見慣れた隊服が見えた。

 

「翔太郎!」

 信子の声が聞こえる。「しっかりせぇ」

 テキパキと手当を受けて、翔太郎の意識は徐々に戻ってきた。

 

「あの…鬼……」

「今、薫さんが相手しとる」

 

 信子が答えると、翔太郎はカッと目を見開いた。

 途端に痛みが再び牙を剥く。

 顔を歪めつつも、翔太郎は刀を手に取った。だが、握る力はもうない。

 翔太郎は刀に手を当てた状態で、信子に晒できつく巻くように頼んだ。

 

「翔太郎、やめとき。出血がひどい。これ以上動いたらあかん」

「あいつだけは……あいつだけは殺らないと……」

「ここで隠を待っとき。さっき、鴉に呼びに行かせたから」

「まだ戦闘は…終わってない、だろ? 隠は、来れない」

 

 戦闘完了を確認しないと、隠は来ない。

 

「早くしろ。…薫さん一人でも……危ないんだ」

 

 翔太郎が急かすと、信子は無言で、血だらけの左手と日輪刀を巻きつけていった。

 信子に肩を借りて、翔太郎は歩き出す。

 

「絶対に…あいつだけは……殺す」

 

 呪詛のようにつぶやいて、翔太郎は必死で混濁しかける意識を保っていた。

 いつにない翔太郎の気迫に、信子は異様なことが起きているのを感じた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.05.15.土曜日の更新予定です。



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第三章 呪鬼(四)

▼今回、残酷描写あります。ご不快な方は避けてください。



 翔太郎がこちらに向かっていることを知らず、薫は隈取の鬼と対峙していた。

 

 正直なところ、鬼が繰り出す攻撃を避けるだけで精一杯だった。とても反撃に打って出る隙が見つからない。

 

 薫の額を汗が伝った。

 全集中の呼吸の常中を会得して以来、ここまで追い込まれたことはない。

 

 この鬼は明らかに異端だ。

 あの刀。そして呼吸。

 間違いなく元鬼殺隊士であり、しかも実力もそこそこにある剣士であったに違いない。

 

 鬼殺隊が創設されて以来、鬼に寝返った者がまったくいなかったわけではない。

 だが、もちろんそんな不祥事はおおっぴらに話せるものでないので、薫のような平隊士には、そうした情報は回ってこない。

 

「やれやれ、オマエは逃げ回るのが相当上手いなぁ」

 鬼は心底呆れたように溜息をつく。「では、これでどうだ…?」

 言うなり鬼は刀を振り上げる。

 

 霞の呼吸 参ノ型 霞散の飛沫

 

 薫は目を見開いた。風の呼吸だけでなく、霞の呼吸も使えるのか…?

 フワリと大きく振り回した刀から、押し寄せる斬撃。躱すことのできぬ広範囲の攻撃。

「くッ!!」

 すぐさま刀を目の前で交差させて、回転する。

 

 鳥の呼吸 陸ノ型 迦楼羅(かるら)千翔(せんしょう)

 

 技で攻撃を散らせたものの、さすがにすべてを回避するのは不可能だった。主に前面を庇ったために、右の横太腿をざっくりと深くやられた。血が流れ出していく。

 

「…………」

 

 日輪刀を構えながら、呼吸を深くして太腿の血管を意識する。破れてしまったところを、筋肉で固めていく。一時的にでも止血しなければ、あっという間に失血して倒れる。

 

「やるじゃないか、小娘。ますますオマエを食べるのが楽しみになってきたぞ」

 鬼は相変わらずニタニタと笑っていたが、自分もまた右肩を斬られていたことに気付くと、途端に苛々と歯噛みした。

「オノレ……小娘がァ」

 自分の攻撃も効いてきている……。薫は確信と共に跳躍する。

 

 鳥の呼吸 弐ノ型 破突連擲(はとつれんちゃく)

 

 薫が技を繰り出すのと同時に、鬼も再び攻撃する。

 

 血鬼術 乱刃嵐剳(らんばらんとう)

 

 鬼が刀を一振りすると同時に複数の刃がばらばらの角度で襲いかかろうとする。

 だが右肩の傷が癒えてない状態で繰り出したせいなのか、その攻撃は少しばかり遅れた。

 

 薫は間隙を突く。

 その速さはおそらく鬼が予想していたものではなかったのだろう。

 

「ウグゥッ!!」

 日輪刀で胸を刺され、鬼が呻いた。

 

 血鬼術に綻びが生じる。

 ようやく開けた勝機を薫は逃さなかった。

 

 鳥の呼吸 肆ノ型 円環狭扼(えんかんきょうやく)

 

 水平に唸った刀が鬼の首を捕らえようとした刹那、躱された。

 鬼の左足だけがボタ、と地面に転がった。

 鬼は枝の上に一本足で立っていた。ギリギリと歯噛みしながら、薫を睨みつける。

 

「小娘、本当にムカつくヤツだなァ……オマエ。嫌な女を思い出す。あの女も俺の足を斬りやがった。貴様、花柱の継子か?」

「花柱? カナエ……胡蝶さんのことか?」

「胡蝶ォ? 誰だ、それは。俺の言っているのは五百旗頭(いおきべ)のことだ」

「五百旗頭?」

 

 カナエの前の花柱だろうか? 確か、東洋一の家にある鬼殺隊についての伝文書にそんな名前があったような気もするが、あまりにも朧げな記憶で思い出せない。

 

 いずれにしろ、そこに拘泥していられる状況ではない。

 刀を構え、薫はきっぱりと答えた。

 

「生憎だが、私の育手は篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)だ」

 

 その名前を出した途端、鬼は目を見開き、うねうねと蠢いていた髪が鮮やかな橙に変化した。

 

「篠宮東洋一だと?! ハ、ハ、ハ、ハ……なんという配剤!」

 鬼は恍惚とした表情となり、天を仰いだ。

 

風波見(かざはみ)賢太郎(けんたろう)の孫に、篠宮東洋一の弟子だと!? ハハッハハァ! ……なんて楽しい偶然だ」

 

 薫には訳が分からなかった。だが、詮索している暇はない。

 鬼が油断している間に、次の動作に移ろうとした時、右肩にある目がギロリと動いて、あの不気味な刀が振り下ろされた。

 

 ―――――斬られる!

 

 その時、鬼の技を打ち消すように風が唸って、薫を逃がした。

 クルリと地面で一回転して、体を起こすと、翔太郎と信子が来ていた。

 

 翔太郎の顔は蒼白を通り越して、土気色をしている。両肩を止血はしているが、布に広がった染みは相当量の出血を物語っていた。

 

「翔太郎君! 避難しなさい! その怪我ではまともに戦えない」

 しかし翔太郎は初めて薫に反発した。

「嫌です。アイツだけは……俺が殺す……!」

 

 異様な様子に、信子を見ると、黙って首を振った。おそらく信子もまた、説得はしたのだろうが、受け容れなかったのだろう。

 

 この鬼と翔太郎の間に何かしらの因縁があるのだろうか…? さっきの鬼の態度も気になる。

 だが、今は考えている暇はない。

 鬼は枝の上でまた、ニヤニヤと笑っていた。足はもう再生が終わる。

 

「同じように足を斬られても、東洋一はこうして元に戻ることもないだろう? 哀れよな」

 

 その言葉を聞いて、薫はカッと頭が熱くなった。

 東洋一の左足は義足。

 足が無いという事を知ってるということは……この鬼が東洋一の足を奪ったのか?

 

 だが薫が出るより早く、翔太郎が技を繰り出す。

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 決死のものであっただろうが、勢いはなかった。

 鬼は楽々と避けて、素早く木々の間を渡っている。

 

「ずいぶんと弱いなァ、翔太郎。実力もないヤツが、風柱の家になんか生まれて可哀相に。オマエも将来、柱になりたいのか? ハハッハハァ!!!! 残念! オマエには無理だ! 血脈だけで、柱になぞなれるものかッ!」

 

 吐き捨てるように言うなり、唸る風の音とともに血鬼術が翔太郎を襲った。

 薫は技を繰り出して血鬼術を散らしつつ、翔太郎の前に立った。

 後ろで無造作に括っていた紐が切れて髪が乱れた。

 額が切れて、血が顔を赤く染めていく。その血まみれの姿と冷たく睨み据えた瞳。

 

 薫と、鬼の脳裏に浮かぶ女が重なって見える。

 

 ―――――憐れよな。所詮は東洋一にも、賢太郎にすら及ばぬ…。お前は、雑魚(ザコ)

 

 嫌な女だった。

 冷たい双眸は会った時から睥睨していた。

 絶対的に自分が勝つことを知っている、微塵の臆病も恐怖もない、不惑不動のその姿。

 

「お前は、柱になりたかったのか?」

 

 薫は剣を正眼に構えて問うた。

 先程の翔太郎との問答を聞く限り、この鬼は鬼殺隊での自分の立ち位置に不満があったようだが、そのために鬼になったというなら、本末顛倒と言うしかない。

 

「うるさいっ!!!!」

 鬼が蝿を追い払うように手を薙ぐと、真空の刃が襲いかかる。

 薫が再び技で散らすと同時に、信子が鬼に攻めにかかる。

 

 水の呼吸 弐ノ型 水車

 

 別方向からの刺客に鬼は一瞬動揺しつつも反撃した。

 

 血鬼術 風雷奔濤(ふうらいほんとう)

 

 バリバリと空気が鳴って、信子の身体に巻き付くように斬撃が叩き込まれる。

 

 声すら出せぬ痛みに悶絶し、信子は地面に叩きつけられ気を失った。

 とどめを刺さんと、鬼が空中に跳び上がる。

 

「くっ!」

 薫は走って、跳躍する。

 

 しかし信子はすぐに意識を取り戻した。

 不完全ながらも、鬼に向けて技を繰り出す。

 

 水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き

 

 鬼は信子の攻撃を、ブンと刀を振って跳ね返したが、次の瞬間には薫が上から襲いかかってくるのを、避けきることができなかった。

 

 鳥の呼吸 壱ノ型 鷹隼空斬(ようしゅんくうざん)

 

 右耳と右腕、右膝から下を斬り落とされ、鬼は吠えるような悲鳴をあげた。

 

「クソッ!!」

 着地するなり、残った足で飛び跳ねつつ逃げていく。

 

「待て!!」

 追いかけてくる薫に、鬼は一本足で再び跳躍して木の枝に乗り移ると、振り返ってニヤリと笑った。

「いいのか? 俺にかまけている内に仲間は死ぬぞ」

 

 薫はハッとして、背後の気配を探った。

 すでに翔太郎は動けない。意識も朦朧としている。下手をすれば数刻の内に死ぬ。

 信子もまた気息奄々としている。血鬼術を受けながら技を無理に行ったことで、心臓に負担がかかったのだ。

 一刻も早く隠に知らせなければならない…。

 

 ギリと歯噛みして、薫は息を吐いた。

 それから細く、長く、吸い込む。

 

 無論、二人とも助ける。だが目の前のこの鬼を退治することもやり遂げる。

 一発で、仕留めなければならない。

 

 鬼は枝の上にいる間に足を復元させ、再び地面に降り立つと走り出した。

 右腕も肉が蠢きながら再生していっている。

 

 逃さない―――――。

 

 薫はスウゥゥと息を吸い込んで、跳躍する。

 

 鳥の呼吸 参ノ型 飛燕之鋒(ひえんのほう)

 

 薫が技を出すと同時に、鬼もまたギリギリの状態で血鬼術を繰り出した。

 

 血鬼術 乱刃嵐剳

 

 遮二無二に放たれた風の刃が、今は防御の姿勢をとっていない薫の全身に細かな裂傷を負わせ、特に脇腹を深く抉り斬った。

 

 一方、左右から迫る刀を鬼は避けそこなった。

 右からの刀に顎から左目を切り裂かれ、左からの刀が右肩に残っていた瞳ごと、ざっくりと首を掬い上げるように斬っていく。

 

 鬼は手をかざすと煙で自らを覆った。

 灰緑の煙が周辺に広がる。

 

「くっ!」

 薫は反射的に目を(つむ)った。目が痛い。毒だ、この煙は。

 しかしそのまま刀を横へと引き斬っていく。

 

「ヒャアアァァァ」

 

 奇妙に間延びした悲鳴が聞こえると同時に、いきなり刀がスルリと滑るように抜けた。

 

 ―――――殺ったのか?

 

 薫はしばらく目を開けることができなかった。

 ようやくそろそろと目を開けると、煙は消えて、鬼の姿もなくなっていた。

 

 首を斬った―――――その感触はあった。

 

 だが、あの煙のせいで、いつものように灰となって消えていくところを見ていない。

 途中でいきなり抜けた刀の感覚が気になった。

 あるいは鬼が『斬らせた』のなら……死んではいまい。

 

 だが。

 東の空がうっすらと明け始めていた。

 あと数十分もすれば山の端から日が昇りだすだろう。

 

 たとえ逃げていたとしても、あそこまで体を損傷した状態であればあるいは、肉体を再生する前に、陽に灼かれて死ぬ…はずだ。

 残念ながら、希望的観測でしかないが。

 

 薫は地面に手をつくと、常中の呼吸を整えた。

 特に脇腹の傷が深い。一時的に血のめぐりを止めなければならない。その部分の筋肉に圧力をかけて血管を押さえ込む。

 

 祐喜之介が横に降り立った。

「……任務は完了した」

 薫がつぶやくと、バサリと祐喜之介は飛び立った。

 

 ようやく動ける状態になって、薫は足を引き摺りながら信子の元へ行くと、声をかけた。

 

「のぶちゃん……大丈夫?」

 ヒュウヒュウと苦しそうな息遣いで、信子は目だけ(しばた)かせる。

 

「のぶちゃん、息を整えるのよ。落ち着いて……瞑想の時、教えたように……」

 薫が信子の胸に手を当てると、信子は不完全ながらも深呼吸を試みる。

 しかし苦痛に顔が歪んだ。おそらく肋骨が折れているのだろう。

 

 それでも数回繰り返すうちに、顔つきが穏やかになってきた。トントンと肩を叩いてやってから、翔太郎の方へと向かう。

 

 翔太郎はもはや意識がなく、心音は辛うじて聞こえるが、弱々しい。明らかに出血がひどい。

 ゾワリと嫌な思い出が蘇る。佐奈恵を失ったとわかった時の絶望、無力感。

 

「翔太郎君、翔太郎君。生きて…お願い……」

 

 傍らで何度も呼びかけながら、その左手に巻いていた晒をはがした。

 手にあった日輪刀を取ろうとしたが、固着しているかのように、指が硬直して取り上げることができない。そのままの状態で、左肩の傷口を覆うように、はがした晒を巻きつける。

 

 切り落とされた右腕の傷口は、信子が巻いた布がすでに真っ赤に染まって血が滴っていた。

 薫は翔太郎を抱きかかえ、その傷口を胸に押し付けるようにして、圧迫する。

 

 キラリ、と光が森の中に差し込み始めた。

 鳥達が囀り、林の中を渡っていく。

 

 夜明けは美しく、だが無情にすべての傷を浮かび上がらせる。

 

 目の前には、鬼が食べかけて捨てた人間の腕が落ちていた。

 既に小さな虫が、その傷口に群がっている。

 

 視線を逸らせると、林立する木々の間から、昨夜死んでしまった隊士達の死体が見えた。昨日まで一緒に任務にあたっていた晋助のむごい姿もまた、小さく見える。

 

 薫は歯を食いしばった。

 鬼殺隊に、死はありふれた日常なのだ。

 そうとわかっていても、昨日まで一緒にごはんを食べ、軽口を言い合った仲間が死ぬことを、仕方ないの一言で、やり過ごすことはできない。

 

 泣きそうになるのを堪えた。泣いても事態は好転しない。やるべきこと、やれることはすべてやらなければ。

 ポケットから笛を取り出す。

 

 ピイイィィィィィ!!!!

 ピイイィィィィィ!!!!

 

 薫は何度も吹いた。隠が早く来てくれることを祈って。

 

 ピイイィィィィィ!!!!

 ピイイィィィィィ!!!!

 

 朝の澄んだ空気の中を、笛の音が切り裂くように響き渡る。

 

 ピイイィィィィィ!!!!

 ピイイィィィィィ!!!!

 ピイイィィィィィ!!!!

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.05.19.水曜日の更新予定です。



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第四章 端緒 ―過去と今― (一)

▼今回、残酷描写あります。ご不快な方は避けてください。



 隠は意外に早くに訪れた。

 

 晋助が任務完了の鴉を飛ばしていたお陰で、翔太郎らが重体であることを知る前に、隠達は既に出発していたのだ。

 本来の任務地に向かう途中で、信子と薫の鴉がやって来て、危急を知らせ、向かってみると林の中には死屍累々。当初の予想を越えた惨状に隠達は声を失った。

 

「どっ、どっ、どうなってんですか、コレ?!」

 あわてる隠がいる一方で、やはり長年勤めた隠は驚きながらも冷静だった。

「あー、とりあえずお前らは担架作れ。あと止血剤と、那霧さんに連絡して―――」

 

 テキパキと指示して、重体の翔太郎は農家から借りてきた荷車に乗せ、薫と信子もまた即席でつくった担架に寝かせた状態で、運んでくれた。

 

 翔太郎は一旦、最寄りの藤家紋の家に運び込まれ、そこで輸血等の治療を受けた後、勝母の百花屋敷へと移送された。信子は先に百花屋敷へ、薫は翔太郎と同じ藤家紋の家で治療を受けた後、移送される翔太郎を見送った。

 

 苦い薬湯を服むこと三週間。

 太腿と脇腹の傷もおおむね癒え、任務待機の状態になると、薫は吉野の勝母の元へと向かった。

 翔太郎や信子の具合を知るためでもあったが、聞きたいこともあった。

 

 翔太郎はあの後からずっと、今に至るも意識不明の状態が続いているらしい。

「身体を治すことに集中しているんだろう。若いから、起きたら回復も早いだろうさ」

と、勝母が言うので、とりあえず薫は胸を撫で下ろした。

 

 とはいえ、たとえ目覚めて回復したと言っても、失くした右腕は戻らず、左肩の傷もどんな後遺症が残るかわからない。以前と同じように、鬼殺隊士として働くことは難しいと思われた。

 

「この子がそれこそ、鬼殺隊に入るためにやった鍛錬以上の鍛錬をやらないと、とてもじゃないが、隊に復帰はできないだろうね」

 勝母は厳しい顔で言った。

 

 信子の方もまた勝母の屋敷で治療を受けていた。

 肋骨と腕、足首の骨折、全身の擦過創、それに耳鳴りがやまないらしい。

 こちらは一応、五体満足とはいえ、隊務への復帰には三ヶ月以上はかかるであろう。筆談する限りは元気そうなので、薫はホッとした。

 十分に休養をとるように言って、病室を後にした。

 

 久しぶりに勝母の部屋で紅茶を飲みながら、薫はまだ考えていた。

 あの鬼は…いったい何なのだろうか? 呼吸を使っていたことも、東洋一(とよいち)を知っているらしいことも……全てがおかしい。

 難しい顔で考え込む薫を見て、勝母は不思議そうに尋ねた。

 

「どうしたんだい?」

「いえ……その、今回の鬼が奇妙で」

「鬼なんぞ、たいがい奇妙なモンだろう?」

「それは……そうなんですが。あの…呼吸を使う鬼だったんです」

 勝母は眉を上げた。「呼吸を使う……鬼?」

 

「はい、風の呼吸を使ってました」

 薫が答えると、一気にぎゅっと勝母の眉間に皺が寄る。

 

「鬼が呼吸を使っていたとなれば…また裏切者が出たということかい…? あんた、()ったのか?」

「それが……」

 

 薫は首を掻き切る寸前に刀が滑るように抜けたことと、鬼が目潰しの煙をつかったために、灰となって消えたところを見ていないことを話した。

 

「……ただ、その後すぐに夜明けだったので……もしかすると日光で消滅したかもしれません」

「いずれにしろ、決定的ではない…ってことだね。あんたにしては珍しくぬかったね」

「すいません……」

「ま…仕方ないさ。あの二人を助けたかったっていう焦りもあったんだろう。本部には報告したかい?」

「はい。あちらでも調べてみると……」

「そうなるだろうね。裏切者が出たとなれば……」

 

 勝母は心配したのは、その裏切者のことよりも、そんな不実な弟子をもった育手のことだった。

 勝母が柱である時代において、弟子に裏切者が出ても育手の責任は不問とし、切腹無用という触れを出しはしたが、その後に裏切者は出なかったことからほぼ有名無実化している。

 だが、今こうして再び裏切者が出たとなれば、その育手が責任を感じて腹を切ることはあり得ないことではない。

 

 まして、風の呼吸であれば……育手の中には東洋一もいる。

 東洋一の弟子にそんな馬鹿がいるとは思えなかったが、何をどう恨んでその道へと踏み入るかは、他人の知るところではない。

 薫はまだこの事に気付いていないようだ…。

 もし知れば―――――勝母の中の古い記憶が呼び覚まされる。

 

「……あんた、その事を他で言ってやしないだろうね?」

「それはもちろん。不確定なことも多いですし。ただ、勝母さんには聞きたいことがあって……」

 勝母は首を傾げた。

 

「その鬼…先生のことを知っていたんです。篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)と、確かにそう呼んでいました。私のことを花柱の継子と勘違いして、先生の名前を出したら途端に笑いだして……。そうです。その花柱のことも…確か……五百旗頭(いおきべ)、と」

 

 勝母は目を見開いた。

 すぐさま片頬を上げて、皮肉めいた笑みを浮かべる。

 

「懐かしい名前を聞くね。五百旗頭とは」

「ご存知ですか?」

「無論だ。私のことだよ」

「え?」

「結婚する前の私の名は五百旗頭(いおきべ)勝母(かつも)。東洋一なんぞはそっちの方が馴染みがあるだろうよ」

「じゃあ……」

 

 あの鬼が言っていた『嫌な女』というのは勝母のことだったのか……?

 

「風の呼吸を使う鬼が私と東洋一の名前を言っていた…?」

 勝母は自分で問いかけて、ふと動きを止めた。

 さっきから開きかけていた遠い昔の思い出が、今しも蓋を上げようとしている。

「まさか…」と、呟きが漏れる。

 

「心当たりはおありですか?」

 薫が尋ねてくるが、勝母は腕を組んで椅子によりかかり、しばらく考え込む。

 

「………そんな訳はない」

 小さい声で断定する。薫を見て、もう一度繰り返す。

「そんな訳はないさ。あいつは…あの鬼は私が殺った。間違いなく、首をとった」

 

 それは薫もまた、自分の感覚においてはそうだと思いたかった。

 だが、見ていない以上、確証がない。

 

「その鬼は、危機を回避するために煙を出しませんでしたか? 毒の煙です」

 しかし勝母は首を振った。

 

「そんなものはなかったさ。やたらベチャクチャと余計なことをいつまでもグダグダ喋ってはいたがね。言いたいことを言わせてやった後に殺っちまったよ」

「消えましたか? その鬼は」

「ああ。間違いなく」

 

 薫は考え込んだ。

 では、勝母が討伐した鬼と、薫が実際に出会った鬼は別物ということだろう…。

 

「しかし……私のことも東洋一のことも知っていて、しかも風の呼吸を使う鬼ともなれば……」

 勝母は眉間に皺を寄せながら、ぬるくなった紅茶を啜った。

 

「他に特徴はあるかい?」

 尋ねられて、薫は鬼のことを必死で思い出す。

 

「隈取の…歌舞伎役者みたいな隈取の鬼でした。あとは、右肩が異様に盛り上がって、目が一つ、肩にありました。それと……風の呼吸だけでなく、霞の呼吸も使っていました」

 

 聞きながら勝母の目はますます見開かれ、虚空をにらみつける。

 

「………ほかは?」

 

 動揺した表情とは反対に声は静かだった。いや、何かを押し殺して平坦になっている。

 薫はだんだんと不安になりつつも、話を続けた。

 

「……翔太郎くんの家と、何か繋がりがあるのかと思いました。翔太郎くんのお祖父(じい)さんの名前……確か賢太郎と言って…呼び捨ててました。まるで知り合いみたいに……」

「………参ったね」

 

 長い沈黙の後、勝母は苦笑いを浮かべながら、額に手を当てる。

 

「あんたに注意できる立場じゃないね。――――死んでなかったというのか…あの鬼は」

「勝母さん?」

 

 勝母は机の隅にあった煙草盆を引き寄せると、煙管に葉を詰めて、ゆっくりとふかし始めた。

 揺蕩(たゆた)う紫煙を眺めながら、古い記憶を丹念にたどる。

 そうしてゆるゆると首を振った。

 

「いや。あり得ない。確かに……確かに私はあいつを殺った。あの鬼……紅儡(コウライ)と言ったか。無惨に名前をつけてもらったと喜んでいたよ。忌々しい、醜い鬼だった」

「私と対峙した鬼と似ているのですか?」

「隈取はなかったが……鬼の顔なんて大して意味はないだろう。他のことについては、私が殺したはずの鬼と酷似している。盛り上がった右肩も、風と霞の呼吸を使うことも」

「でも……その鬼は、確かに殺したのですよね?」

「あぁ……殺ったと記憶している。間違いない。確実に……私はあいつを殺したさ。そして、その事を東洋一にも伝えた。それで、この裏切者の話は終わったんだ。終わったと…思っていた」

 

 けれど、その鬼は今になって現れた……?

 勝母は煙を吐きながら、眉間の皺を揉むようにして頭痛を散らす。

 

「どういうことだ…? あの鬼は―――紅儡は死ななかったということか? 意味がわからない……」

 もとより勝母に理解不能なことが、薫にわかるはずもない。

「特異な再生能力があったということでしょうか?」

 

 勝母はしばらく黙り込んでいた。

 火皿の葉が燃えて煙となっていく。

 勝母は窓の外の曇り空を憂鬱そうに眺めながら、やがて大きな溜息をついた。

 

「さて……」

 再び煙管を咥えると、パ、と煙を輪にして吐き出した。

 

「鬼のありようについては、本当のところわかってないことが多いからね。なぜ無惨だけが人を鬼とする力を持つのか。鬼となった人間がどうして特異な能力を持つようになるのか。鬼が首を斬られると雲散霧消してしまうのか………。そう考えれば、ヤツが鬼になった以上、人外の(ことわり)の中にいるんだ。何が起きても不思議はないと考えるべきなんだろう………」

 

 言葉を途切らせた勝母はもう一度、紅儡と対した日のことを思い出してみたが、やはり首をとったことは間違いない。

 最期の最後まで不愉快な鬼だった。

 

「あるいはたまたま似た鬼がいて、私の殺った鬼の情報を使って混乱させようとでもしているのか…? 馬鹿馬鹿しいね、どうも。しかし…これも鬼のやることだ、こちらの慮外にある………」

 

 勝母は半分投げやりに言いながら、灰吹に灰を落とす。

 薫は顔をうつむけた。

 いずれにしろ確かなことは、勝母の殺した鬼も、薫と対峙したあの鬼も鬼殺隊を裏切ったということだ。

 

「どうして……鬼殺隊を裏切って、鬼になんか……」

 

 薫は哀しげに顔を歪めた。

 同じ鬼狩りとして、その選択は到底受け入れがたいものだ。

 一体、何が彼らをその道へと向かわせたのか……?

 

「前に…言ったろう。強さに執着すれば、人ならぬ道を歩むことになりかねない、と。強さは質や量じゃない。(おも)いなんだよ」

「想い…?」

「なんのために強くなりたいのか、強くあらねばならぬのか……そこを間違えば、『あちら』に堕ちる」

 以前に、勝母が言っていたことを思い出す。

 

 ―――――自らの強さだけを追い求めた剣は、必ず己を蝕む……

 

 あれは、鬼へと堕ちた隊士のことを言っていたのか。

 

「……多いのでしょうか。その…鬼になる人は」

 薫が問うと、勝母は皮肉そうに口の端を歪めた。

「そう、多くもないさ。私が鬼狩りでいた頃に成敗した裏切者は、二匹だけだ。一匹はそいつ、もう一匹は……」

 

 言いかけたときに、律歌がバン! と戸を開けて怒鳴った。

「おっ()様! 患者!!」

 

 勝母は立ち上がると、素早く襷掛けしながら、薫に言った。

「とにかく、その鬼のことは本部に任せて……私からも言っておこう。アンタは余計なこと考えず、任務を遂行しな」

 

 返事をする間もなく、二人は足早に出て行く。

 薫はすっかり冷えた紅茶を飲み干すと、再び翔太郎の元を見舞った。

 

 相変わらず、翔太郎は眠っていたが、顔に血の気が戻ってきている。

 確実に回復には向かっているのだろう。

 

 きっとあの鬼とやり合ったときに、翔太郎は何かを聞いたのだ。

 重傷の身でやって来たときの翔太郎の気迫は尋常でなかった。あの状態で技を繰り出せた事自体、稀有なことだ。

 彼が目覚めれば、あるいは何かしらの鬼の情報を持っているのかもしれない。

 

「がんばってね、翔太郎くん。また来るわ」 

 薫は横たわる翔太郎に声をかけると、百花屋敷を後にした。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 仄暗い洞窟の底。

 

 ぴちゃん、と冷たい雫が頬に落ちてくる。

 

 落ち窪んだ瞳に映るのは、紅い瞳の美しい男だった。

 

「どうしてお前はこんなに無様なんだろうな」

 

 白い陶器のような手は、青筋を浮かべて、その鬼の首を掴んでいる。

 

「お、お、お許し……を…」

 

 ピクピクと震えながら、鬼は声を絞り出す。

 苦しみに瞳孔が裏返る。ミシミシと首の骨がきしみ始めた。

 

「む、む…無、無惨……さ、ま」

紅儡(こうらい)、苦しいか?」

 

 微笑みを浮かべて、無惨は呼びかけた。

 

 汚く、惨めで、いじましい生き物。

 

 今まで数え切れぬ人間を鬼にしてきて、この男だけだ。

 ここまでみずぼらしく、気味の悪い鬼は。

 

 鬼とした時、奴は七つの肉片となった。

 

 無惨の血に耐えられず、細胞が膨れて死んでしまったのだろうと思ったが、違った。

 それぞれが心臓を持って、脈動していたのだ。

 

 一体だけが、人としての姿をとった。

 

 奴は恨みのままに、かつての仲間達を襲い喰らった。

 あっという間にその能力は下弦の鬼に迫った。

 

 だが、どうにも知能が低い。

 

 それが無惨をひどく苛立たせた。

 しかしそうであればこそ、この鬼は無惨の残忍な心を満足させてもくれる。

 

 貴重だった。

 

 言葉では罵りながらも、無惨がその鬼を見る目は優しく、愉しげだった。

 

「どうした紅儡? 死ぬか?」

 

 紅儡、と呼ばれたその鬼は今やどこから声を出しているのかもわからない。

 

「は……い」

 

「このまま縊り殺せば、どれくらいで戻るのだろうな?」

 

 言いながら首を絞める力はどんんどんと強くなっていく。

 

 やがて骨の砕ける音がして、首の皮が裂け、ドサリと紅儡の身体が無惨の足元に落ちた。

 

 瘤がいくつも重なったような巨大な右肩。

 そこにある紅い目からは血が流れ、震えた虹彩は畏れを浮かべて無惨を見上げている。

 

 手に残った首からは、血管が一本、垂れ下がっていた。

 

 ―――――汚い。

 

 無惨は首を投げ棄て、すっかり血まみれになった自分の手を見て、眉を顰めた。

 

 グルリ、とありえない角度で手首を回すと、一瞬の間に白い、美しい手に戻る。

 

「紅儡」

 

 無惨は屈み込んで、首に呼び掛けた。

 

「は……い」

 

 紅儡は辛うじて返事をするが、舌が痺れて硬直してくる。

 

「お前は本当に醜い、卑しい、貧弱なやつだ」

 

「…………ぅゥ」

 

「だがな」

 

 無惨はすぅ、と紅い目を細めた。

 怜悧な顔には凄絶なまでの美しさと昏い欲望が見え隠れする。

 

「お前はかわいい実験体だ」

 

 無惨は紅儡の髪を掴み上げて持ち上げると、その額に人差し指を押し当てた。

 

 ピンと伸びた爪が萎びた皮を破り、肉に食い込んでくる。

 

「……ぅ…ッがア……あアゥっッ」

 

 紅儡は自身の身体(カラダ)に新たな力が入ってくるのを感じた。

 

 ―――――無惨様が血をお与えくださっている! 血をお与えくださっている!

 

 その事実に喜び震えると同時に、得体の知れない恐怖が、千切れた首の裏をジワジワと這ってくる。

 

 紅儡の首が再生していく。

 骨も、血管も、筋肉も、長く伸びて身体を求めていく。

 

 無惨が手を離すと、ぐねぐねと、ろくろ首のようになって動いた。

 

「醜い。あぁ、まったくお前は……醜悪だ」

 

 なんの感情もない声が、洞窟の中で響く。

 

 紅儡はぎこちなく立ち上がりながら、必死で無惨に礼を述べた。

 

「む、む、無惨…さ…ま……あ、あ、あり…あり…ありが、と」

 

 既に無惨は冷たい表情に戻っている。

 

「早く行け」

 

「は……い」

 

 紅儡の返事を聞く前に、無惨の姿はなかった。

 

 のろのろと蛞蝓(なめくじ)のように這って、紅儡は洞窟から出た。

 

 一瞬、月明かりが眩しくて、昼かと見まごう。

 ゆっくりと瞼を開くと、森は夜の闇に包まれていた。

 

 そろそろと辺りを進む。

 

 いまは鬼殺隊の相手をしている暇はない。

 久しぶりだからと、喰らうために少々、遊び過ぎた。

 

 早く、あの男の元へ行き、今度こそ自分が完膚なきまでに殺してやるのだ………。

 

「あぁ……そうだ」

 

 月夜の道を進みかけて、紅儡は思い出す。

 

 先に、片付けなければならないモノがある。

 

「………約…束は…破…られ…た………」

 

 紅儡はニイィィと笑った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回の更新予定は2021.05.22.土曜日になります。



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第四章 端緒 ―過去と今― (二)

 風見(かざみ)清子(きよこ)は横で寝ている母親に声をかけた。

 

「ははうえ、天井が笑ってる」

 

 母の風見(かざみ)松子(まつこ)は既にうとうとと眠りにつきかけていたが、眠らぬ我が子を布団の上からポンポンとやさしく叩いて、相手する。

 

「そう、そう。天井の木の目をずーっと見てたらねぇ…人の顔に見えてきたりしたものだよねぇ……」

 

「もよう、なの?」

 

「そう、そう。模様よ。木の目の筋がそう見えるだけ」

 

「でも、違うよ。笑ってる。ずっと笑って見てる」

 

「……もう寝なさい。目を瞑ったら、見えなくなるから」

 

「笑って……来てるよ」

 

 

 清子は目の前に降りてきた顔を、不思議そうに見つめていた……。

 

 

 

 

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

「…………」

 起きるなり、伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)は盛大な溜息をついた。

 

 横でうつらうつらとしていた敵娼(あいかた)が、婀娜(あだ)っぽい笑みを浮かべて声をかける。

「ずいぶん、お疲れのようだねぇ」

 

 宝耳は頭を押さえて、もう一度溜息をつくと、「煙草」とぞんざいな口調で言う。女が用意して煙管(キセル)を渡すと、障子戸を開けて、遊郭の白けた朝の風景を見ながら煙をふかした。

 

 その日は珍しく何の仕事も入っていなかった。

 本来であればそういう日は、馴染みの茶屋で日がな一日のたりのたりと過ごすのが常だったのだが、どういう訳か昨夜、夢枕に先代の産屋敷家当主・聡哉(さとや)が現れた。

 

 ―――――頼むよ。

 

 あの日と同じ言葉。

 一言だけ言って、消えてしまった。

 こっちの言い訳を聞くこともなしに。

 

「………親子共々、人遣いが荒いな」

 ボヤキながら、宝耳は煙管を敵娼に返して、身支度を始める。

 

「なぁに…今日は居続けじゃなかったの?」

 女は煙管を吹かしながら、少しばかり怒ったように言った。

 

「野暮用や。すまんな」

「どういう野暮なんだか」

 

 こういういかにもなやり取りも料金の内である。

 どうせこの女も煙草を吸い終えたら、邪魔な客がいなくなって清々したとばかりに、二度寝するに違いない。

 

 女主人に金を払って茶屋を出ると、宝耳は歩き出した。

 目的とする風波見(かざはみ)家までは、ここからそう遠くもない。

 

 森野辺薫から話を聞いてから、風波見一族については暇なときに気が向く程度で調べてはいた。

 その後、例の風波見家の子孫が入隊してきたらしいことも、刀鍛冶づてに聞いている。

 いずれ話を聞きに行こうと思ってはいるが、実際のところ、十代の若者が三十年以上の前の出来事を詳細に知っているとも思えない。それよりは、今も風波見家にて存命の先々代当主の妻に話を聞いた方が確実だろう。

 

 それに宝耳には他にも気にかかることがあった。

 最近になってやたらと風の呼吸を遣う隊士の死亡が増えているのだ。

 鬼殺隊士である限り、常に命の危険があるのは勿論だが、それにしても割合として多い。

 

 中には、

「風の遣い手だな……って、そう言うなり、殺して喰ったんだ」

という…命からがら生き延びた他流派の隊士からの証言もある。

 

 まるで狙っているかのようではないか。

 

 この現象は初めてではない。三十五年前にもあった。

 記録を読む限り、最後の風柱が亡くなる前後の数年間に、風波見家から輩出した風の呼吸の遣い手達が次々に殺されている。

 そのせいで、一時は風の呼吸はこのまま滅びるかもしれないとすら危惧されていた。

 

 その後に篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)を始めとする育手達によって、再び風の呼吸の剣士が育てられ、どうにか呼吸の消滅は免れたが……。

 

 実際のところ、あの夢に現れた聡哉の本体が何なのかは宝耳が一番わかっていた。

 それは三十五年前のことが、再燃しているのではないのか……という、宝耳の茫洋とした直感だ。

 

 だがすぐに――――そうでもないかもしれない…と考えを翻すことになる。

 

 街を離れて人もまばらな土手道を歩いていると、バサバサと上空から羽音が聞こえた。

 鴉である。

 眉をひそめたのは、それが本部直属の鴉だったからだ。

 

 足に括られた書付を読むなり、ひそめた眉は深い皺をつくる。

 

『裏切者有。風ノ者。霞モ使用。調査ノ事』

 

「なんやソレ……」

 ボソリとつぶやく。

 

 まったくあの御仁は……やはり死んでまでも超人的な能力をもって、何事かを囁く。

 宝耳は我知らず、皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 

 風の剣士が相次いで死亡し、風の剣士から裏切者が出て、その上で今から自分が向かおうとしていた場所は、かつて数多くの風の剣士達を輩出した風波見家。

 

 風・風・風。―――――奇妙な符牒。

 

 自らの作り上げた夢の形代でしかなかった聡哉の姿が、目の前に佇んでいる気がする…。

 溜息をついて、宝耳は鼻の頭をぽりぽり掻いた。

 

 さて、仕事である。

 早速にも、現在生存中の風の遣い手達に聞き込みをする必要がある。

 

 風と霞が同系列であるとはいえ、二つの呼吸を使う者など宝耳は聞いたことがない。

 一つの呼吸の全ての型を極めるのさえ難しいのだ。

 他流派の呼吸に手を出している暇があるなら、一つを極めた方が確実に強さの質は上がる。

 そんな中途半端なことをしていた隊士がいたなら、すぐに名前が上がってくるだろう……。

 

 戻ろうかと足を止めて振り返った先に、顔見知りが歩いてくるのが見えた。

 ゆらゆらと揺れる着物の袖に手は見えず、長く垂れた黒髪の中に混じる金の髪。

 

春海(はるうみ)

 呼びかけると、袖から伸びた杖で地面を擦りながら、うつむきがちに歩いていたその男はつと顔を上げた。

 

「会うんは久しぶりやな」

「まことに」

 

 細めた紫の目に、宝耳は映っていない。

 生来のものなのか、その目は宝耳達と同じものを見ることはない。

 

「仕事か? 鬼がおるんか?」

 聞かれて、春海はきゅっと眉を寄せた。

「鬼…と思われます。ひどく色濃い煙が見えまして……」

「ほぅ…こっちの方角か?」

「はい。こちらに気配を感じまする。(こご)った、ひどく恨みの深い煙が」

 

 宝耳は自らも進もうとしていた先の景色を見つめた。

 煙などひとつもない。ただただ長閑(のどか)な田園風景と、梅雨晴れの青空が広がるばかりだ。

 とはいえ、それは宝耳にはそうであっても、目の前のこの男にはそうでない。

 

 春海は隠の別働隊であるところの、鬼蒐(きしゅう)の者であった。

 鬼蒐の者は、鬼殺隊の中にあって、鬼の居場所をつきとめる役割を負う。

 自らが討伐することはできないが、その特殊な能力によって、あるいは地道な聞き込み等によって、鬼の所在を探り当てる。

 それを本部に伝え、そこから隊士達に任務指令が下る。

 

 春海の目は通常の人のように見えていない。

 本人が語ったところによると、その人の顔の造作や、建物の細かい部分などは見えないらしい。ただ、ボンヤリと人の姿がわかる程度の視力。

 

 だが、普通の人間には見えないものが見えた。

 鬼の気配が見えるのだ。

 鬼がいると、その辺りに煙が立つのだという。その煙の色によって、強さがわかる場合もあるらしい。

 

 身体がそう丈夫でもないので、あちこちに出向くわけにもいかないが、鬼蒐の者の中でも、その探索能力は五指に入った。

 春海がいる、と言えば確実に鬼はそこにいる。

 

 なぜ、そんな能力が備わっているのかは本人もわからない。

 

 元は見世物小屋に売られた、おそらくは外国(とつくに)の混血児だった。

 親は両腕のない我が子を育てる気がなかったのだろう。

 捨てられたところを誰が拾ったのか、物心ついた頃には見世物小屋で口で絵を描く芸を見せていた。

 

 宝耳はたまたま知り合い、その紫の目で見ているものが違うことに気付き、飼っていた座主から大枚はたいて引き取った。

 無論、大枚の出処は産屋敷家だが。

 そういう昔のよしみもあって、あまり強そうもない鬼の情報を、春海から定期的に仕入れている。

 

「強いんか、その鬼」

「………おそらく。しかし、鬼にしては妙な気配でございます。なにせ恨みが深いのです。その元へと一直線に向かっているようでございます」

「その元?」

「恨みの元でございます。一緒に行かれますか?」

 

 尋ねられて、宝耳は一瞬逡巡した後に「ああ」と頷いた。

 自分でも理由はわからない。

 妙な勘が働いたのか、また聡哉が見えぬ糸ででも操っているのか…。

 

 そのまま二人で歩いていく。

 まさか日が燦々と照る間に襲われることはないだろうが、春海の向かう先が気になった。

 

「おい、春海。ここら辺りから、人家も多いで。ホンマにこっちなんか?」

「左様」

 

 春海は静かな面持ちで進んでいく。

 宝耳はついていくに従って、眉を寄せた。

 まさか……と思いながら歩いて、元々行こうとしていたその家の前で止まる。

 春海も歩みを止めた。

 

「………ここに、おるんか?」

 宝耳は思わず問いかけた。

 

 春海はしばらくその閉ざされた門の先を透視するかのように見つめていたが、首を振った。

「いいえ。もうおりませぬ」

 

「……もう?」

「宝耳様、この家に御用がおありですか?」

「あ、あぁ……いや………大した用やないんやけど……」

 

 春海はしばらく黙り込んで、その門の戸を押した。錠はかかっていなかったらしく、ゆっくりと開く。

 飛び石が母屋に続き、その両側には松や槇の木が植えられている。

 特に荒らされた気配はない。

 

「どうぞ」

 春海が言った。

「お行きください。もう、ここには鬼はおりませぬ故、心配はござりませぬ」

 

 宝耳は中に一歩入ってから、振り返って問うた。

「お前、何が見えとる? この家……静かすぎる」

 

 春海は母屋を見上げた。所々苔むした甍の屋根と、その背後に広がる空と白い雲。だが、その初夏の清しい風景は、春海の目には映らない。

 

「ひどく…重い……苦しげな……(もや)のようなものが、覆っております。この家に長年蔓延(はびこ)った……昏い……青黒い靄」

 

「……もう一回聞くけど…鬼はおらんのやな?」

「おりませぬ。私は、煙を辿ってゆきます故……ここにてお別れにございます」

「おぅ。元気でな。ありがとさん」

 

 宝耳が礼を言うと、春海はニコと微笑んで立ち去った。

 フゥと息を吐いて、宝耳は母屋へと入って行った。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 その日は佐奈恵と一緒に行った任務の時のような、しとしとと降り続く雨が夜半から続いていた。

 厚い雲は太陽をすっかり覆い隠し、昼にも関わらず鬼は跳梁跋扈する。

 

 薫は山間の村で人を食い殺していた鬼を一刀のもとに成敗すると、その足で吉野の百花屋敷に向かった。

 近かったので、翔太郎の具合を見に行こうと思ったのだ。

 

 あの任務からおよそ二ヶ月が過ぎ、信子は回復訓練を始めたという。薫と同じように常中の呼吸を身につけようと頑張っているらしい。

 

「翔太郎は、まだ意識が戻らない」

 一月(ひとつき)ぶりに訪れた薫に、勝母(かつも)は溜息まじりに言った。

 

「もっとも…生きているのが不思議な状態だったからね。たまたま前の任務のときに取っておいた血液型の記録のお陰で輸血もすぐ出来たし、ある意味、運のいい子だよ」

 そう言って、勝母は布団で眠る翔太郎を軽く叩いた。

 

「そうですか……」

「意識が戻ったら色々と聞きたいこともあるが、さぁ、そこのところも障害が残ってないかが心配だね。なにせ失血がひどくて、脳にも後遺症がないとも限らない」

 

「そのことなんですが……私、一度、翔太郎くんの実家に行こうかと思います」

 薫は翔太郎の顔を見ながら、道すがら考えていたことを口にする。

 

「この子の家ってことは、風波見の?」

「はい。前に一度、お邪魔したことがあるんです。翔太郎くんのお母様と妹さんにはお会いしたんですが、どうも昔のことを一番ご存知なのは、翔太郎くんの曾祖母君でいらっしゃるようなので、色々と聞いてみようかと」

 

「……気になるかい?」

 勝母が尋ねると、薫は「すいません」と顔を俯けた。

「本部に任せるようにって言われてますけど……どうしても気になって」

 

「まぁ……私もやきもきはしてるがね」

 フッと勝母はうつむいて皮肉な笑みを浮かべた。

 

 一応薫から話を聞いて、かつて勝母が殺した鬼と相似性が多くあることは言ったのだが、本部の方では当然ながら、とうの昔に殺した鬼と、薫が対峙した鬼に関係性があるとは思っていないようだ。

 

 鬼は姿形を変えるのだから、偶然に似た個体が現れることもあるだろうし、何だったら風の呼吸遣いは鬼となると、同じ特徴を持つのかもしれない……というのが、あちらの考えだった。

 

 かつては元花柱として意見を求められることもあった勝母だが、最近では御館様の柱達への信任が厚いのもあってか、あまり()ばれることも少なくなった。

 それはいい傾向だと思うので特に何を言うこともない。

 だが、何かを言っても老婆心と受け取られる年になってしまったのは、正直寂しいものだった。

 

 今はこの五年の間に行方不明となっている風、あるいは霞の呼吸の遣い手に対する探索と聞き取りを行っているようだ…。

 

「あの鬼と勝母さんの殺した鬼が、別の個体と考えれば考えるほど、齟齬が出るんです。先生のことを知っていたのも、勝母さんを旧姓で呼んでいたことも、翔太郎くんの家に対する執着というか……恨みを持っているらしいことも……」

「……そうだね」

 

 少なくともこの五年の間に隊士だった人間で、風波見家のことを知っていた人間などいないだろう。

 まして、翔太郎は『風見』と名乗っているのだ。

 

「あるいは……鬼が分身したのかとも考えましたが……」

 薫が自信なさげに推論を挙げると、勝母はフンと鼻で笑う。

 

「分身するにしちゃ、年月が経ちすぎてるね。そもそも分身することでの最大の効果は、一時(いちどき)に複数で攻撃することで相手を撹乱、あるいは疲弊させて殺す…ということにある。時間をおいて一体ずつ現れたんじゃ、こちらは各個撃破するだけだよ。意味がない」

 

「そうなんです…それに、これまでに分身の鬼と対峙したこともありますが、多くはその依代(よりしろ)となるようなモノがあったり、血鬼術によって分体したと思われるのですけど、あの鬼はそういうことで存在しているとは思えないんです」

 

 勝母もそれは同意する。

 あれは目くらましの分身体のような、あやふやなものではない。

 確実に鬼として一つの脳、一つの心臓を持った実体だった。

 

 薫は話を元に戻す。

「翔太郎くんの曾祖母君は、翔太郎くんが隊士になることをひどく反対されていたみたいです。聞いた時は身内を早くに亡くされたが故の、感傷的なものだろうと思っていたんですけど……でも、その為に鬼殺隊と絶縁までするっていうのは正直、不思議でした。柱のご夫君を持たれていた細君にしては、随分と…その…気弱だと思いませんか……?」

 

 勝母はしばらく腕を組んで考え込んだ。

 

 風柱の賢太郎を失った後、唐突に鬼殺隊との縁を切った風波見家。

 その時に実際に家を取り仕切っていたのは、賢太郎の母君――――つまり、翔太郎の曾祖母に違いない。あのときも理由説明をするよう再三伝えたが、結局風波見家からの回答はなかった。

 

 その後、ある程度の事情を推測することはできたが、その時には既に勝母がその問題の『鬼』を討った後で、御館様も代替わりしており、最早、風波見家のことを蒸し返す必要はないと思ったのだ。

 

 しかし、薫の会った隈取の鬼というのが、もし勝母の知る裏切り者の紅儡(コウライ)であるとすれば、確かに当時を知る人間に話を聞く必要が出てくる。勝母とても、当時起きたことの全てを知っているわけではない。

 

「じゃあ……行ってみるがいいさ」

 勝母が言うと、突然扉が開いて返事する。

 

「そら、無理やな」

 いきなり現れた宝耳を見て、薫は息を呑み、勝母は冷たく言った。

 

「ったく…さっきから聞き耳立ててるかと思ったら、なんだい」

「なんや、勝母刀自(とじ)。気付いとったんかいな? せっかくココ、いうとこで登場しよー、思て息を潜めて待っとったいうのに」 

「フン。あんな粗い呼吸で気配を消したつもりかね」

 

 二人が言い合うのを思わずぼうっと見ていた薫は、ハッとして宝耳に尋ねた。

「無理って、どういう事ですか? 宝耳さん」

 

 勝母は眉をひそめた。

「薫…アンタ、なんでこの男のこと知ってるんだい?」

 

「勝母刀自。ワイをなんやー思ってまんのや? そないな汚いモン見るような目ェで」

「できればアンタみたいなのと知り合ってもらいたくないんだよ。一本気な子なんだから」

「それはよぅわかっとりまんがなー」

 

 また二人のやり合いになってしまいそうになるのを、薫は大声で止める。

「宝耳さん! だから…」

 

 その時、「う…」と翔太郎が呻いた。

 ハッと三人の視線が翔太郎に注がれる中、微かに瞼が震えて、そろそろと目が開いた。

 

 翔太郎は呆と天井を見つめてから、傍らにいた薫の姿を見つけると、ほのかに笑顔を浮かべた。

 

「翔太郎くん…」

 薫は嬉しくなって、翔太郎の手を握ろうとしたが、腕がなくなっていることに気付く。

 

 翔太郎もまた、己の右腕が失われたことに気付いた―――――いや、思い出したのだろう。

 カッと目を見開くと、起き上がろうとして「ウッ!」と痛みに顔を顰めた。

「寝てな、傷が開くよ」

 勝母が軽く押さえようとすると、翔太郎は必死の形相で左腕を伸ばし、薫に掴みかかった。

 

「あの鬼は!? ()ったんですか? 殺ってくれたんですよね!?」

 

 薫は一瞬顔を強張らせながらも、ニコと微笑んだ。

「当たり前でしょう。私が……首を斬ったわ。………安心して」

「……本当に?」

「えぇ…」

 

 薫がかろうじて頷くと、勝母が今度は強い力で翔太郎を無理やり寝かしつけた。

 

「無茶すんじゃないよ、坊主。若いんだから、さっさと寝て治しな」

 ぶっきらぼうな言い方だったが、勝母の安心感にようやく気が休まったのか、翔太郎は再び瞼を閉じた。しばらく見ていると、やがてすぅすぅと寝息をたてて、穏やかに眠った。

 

 宝耳は眉を寄せて翔太郎を見ると、薫と勝母に外に出るよう促した。

 

 廊下に出ると、勝母がさっきの話の続きを尋ねる。

「で? 無理ってのはどういうことだい?」

 

 宝耳は腕を組み、真面目な顔で答えた。

「風波見家の婆さんは、今治療中や」

 

「治療中?」

自刃(じじん)しようとしてはってな……」

「何があったんです?」

 

 薫が困惑して問うと、宝耳は風波見家を訪ねていった時のことを話し始めた…。

 

 

 

<つづく>

 

 

 





次回は2021.05.26.水曜日の更新予定です。




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第四章 端緒 ―過去と今― (三)

▼今回、残酷描写がややあります。



 昼過ぎであったが、家の中は暗かった。

 それは雨戸が開いていなかったというのもあり、春海(はるうみ)に言われた澱んだ空気が充満しているせいもあったろう。

 

 玄関から入って呼びかけたものの返事がなく、そのまま宝耳(ほうじ)は中に入って行った。

 縁側に面した広い廊下を歩いていると、先の方で雨戸が破られて、そこから光が差し込んでいた。

 途端に、クンと血の臭いがする。

 宝耳はすぐにその現場が血塗れであろうことを察知した。

 

 春海も言っていた。「もう、ここにはいない」と。

 つまり…鬼はいた、のだ。

 鬼がいた以上、やることは一つ。

 

 スルスルと廊下を摺足で進み、そうっとその部屋の中を覗く。

 わずかな光が差し込む暗闇に、なにかが(うずくま)って見えた。

 

 ぎし、と畳を踏むと、血が足袋に染み込むのがわかった。

 さっと見回して、壁にも障子にも、血が一面に飛び散っている。明らかな殺戮の痕に、宝耳は無表情になった。

 

 部屋の真ん中で丸くなっているそれに、そろそろと近づいていくと、やがて人だとわかり、その次には乱れた白髪に、老婆だと気付いた。

 

「………う…ぐ」

 微かな声がして、宝耳はあわてて老婆を抱き起こす。

 かくん、と背が仰向けになると、老婆の手には血のついた短刀があった。

 

「………う……う」

 老婆がうっすらと目を開く。

 

「大丈夫か?」

 宝耳は声をかけながら、老婆が掻き切ったらしい首筋の傷に手拭いを押し当てた。

 

 老婆は震える声で言った。

「……しょ……たろ………に…げ…」

 言いながら、短刀を落として、宝耳の腕に必死で手を伸ばす。

「しょ……ろ………や…め……」

 

 宝耳はポンポンと老婆の肩を叩いた。

「大丈夫や。翔太郎は大丈夫やで。安心しぃ」

 

 無論、その時に宝耳が翔太郎の安否など知る由もない。だが、老婆はその言葉を聞くと、安心したのか、スゥと意識を失った。

 

 怪我の程度を見る限り、すぐに処置すれば助かる。

 自刃しようとしたらしいが、力が及ばなかったか、躊躇(ためら)ってしまったのだろう。さほど深くはない。

 

 宝耳は応急処置を行うと、近所の医者に老婆を連れて行って、その療養を頼んだ。

 その後に隠を呼んで、荒れた家の後片付けをしながら、風波見家の調査を行う。

 

 風波見家には、老婆と、亡くなった当主の嫁とその娘が住んでいたらしい。

 だが、嫁と娘の姿はどこにもなかった。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

「……喰われたんやろな」

 宝耳が無表情に告げると、薫の顔は凍りついた。

 

 あの日、握った小さな手。

 翔太郎の妹の清子から貰った折り鶴は、胸ポケットの中にずっと入れてある。

 

 勝母(かつも)もまた、珍しく蒼ざめていたが、その理由は薫のものと違った。

 

「まさか…あの鬼が殺ったというのかい?」

「あの鬼?」

 宝耳は聞き返したが、誰も答えない。答えられなかった。

 

 長い沈黙の後、問いかけたのは薫だった。

「……宝耳さん、あなたは一体どこまでご存知なんです? どうして風波見(かざはみ)家のことを知りたがるのですか?」

 

 勝母は眉を寄せて、宝耳を睨む。

「なんだい、アンタ。何をコソコソ調べ回ってんだい? 誰に頼まれたんだい?」

 

「いやいやいや。そないに険しい顔で……別嬪二人が」

「よくこの空気で冗談を言う気になれるね、アンタ」

 

 宝耳は肩をすくめると、観念したように話し始めた。

 

「いや、元々は聡哉(さとや)…様に頼まれたんや。暇な時に、風波見の一族に何があったのかを、調べてもらえんか、て」

「聡哉様が?」

 勝母は久しく聞かなかったその名前に驚いた。

 

 この目の前の男が、どういう訳か先代の御館様である聡哉と非常に仲が良かったのは知っているが、なぜそんなことを頼んだのだろう?

 

「聡哉様自身はさほど気にかけてはった訳やないと思う。なにせ、風波見家が鬼殺隊と縁を断ったのは、幼い頃のことやしな。しかし、父上の輝久哉(きくや)様が随分と気に病んでおられた……と、それはずっとしこりになってたんやろう。最終的にあんな事になってもうたし」

 

 宝耳が聡哉のことを思い出しながら話すのを見て、勝母の古い記憶が再び呼び覚まされた。

 

 聡哉の父である輝久哉は、風波見家―――――特に、先々代の周太郎への依存が強かった。

 幼くして当主になった後、長く柱にあって輝久哉を支えてきた周太郎は、父のような存在であったのだろう。その跡を継いだ賢太郎のことも兄のように慕っていた。

 その二人を失い、風波見家から縁を断つと一方的に告げられ、相当に動揺したのだろう。その後の輝久哉は生来の気弱さから、より不安を深め、とうとう自ら命を絶ってしまった。

 

「………それで、アンタは聡哉様からの遺言で調べて回っていたって? 随分とまた、仕事が遅かないかい? 聡哉様が死んで何年経ってるのさ」

「いや。それはしゃあないやないか。勝母刀自(とじ)。今の御館様になってからいうたら、もう、こき使われまくって、とてもそないな昔のこと調べて回る暇なんぞ……」

 

 困った顔をする宝耳を勝母は胡散臭そうに見たが、薫は真面目な顔で問い詰めた。

 

「では、先代の御館様のご意向で調べられていたということですね。それで、何かわかったのですか?」

「まさか。さっきも言うたように、つい最近まで何も手を付けとらんかったんやで。ワイよりも、貴方(あン)さんの方が知っとる事は多いやろう。反対に教えてほしいくらいや」

 

「……今日ここに来たのも、翔太郎くんに会うためですか?」

「まぁ、そうや。風波見のあのお婆さんが安否を気にしてはったからな。それで、風見翔太郎について聞き回ったら、前の任務で大層な重体でここに運ばれた、いうからやな。わざわざ足を運んだら、貴方(あン)さんと勝母刀自が話しとったんで……」

 

「盗み聞きしてたわけだね」

 勝母が引き取って言うと、宝耳は黙って肯定した。

 

「翔太郎くんの曾祖母君の具合は?」

「命に別状はないが、話はできんやろうな。しばらくは」

 

 薫は考え込んだ。翔太郎の曾祖母がその状態である以上、昔の風波見家について知る人物といえば………。

 

「薫、一つ思い出したことがあるんだがね…」

 

 勝母もまたその人について思い浮かべたのだろう。

 ふと甦った記憶を話し出す。

 

「昔、私が東洋一(とよいち)に風柱……風波見賢太郎が殺されたことを伝えた時に、ひどく驚いていたんだよ。この前アンタから、あの鬼の話を聞いた時の私と同じように、ひどく狼狽していたんだ」

 

「……どういうことです?」

「確かなことは言えないが………もしかすると、東洋一は既にあの裏切者を殺していたのかもしれない。私よりも前にね」

 

「じゃあ…やっぱりあの鬼が先生の足を……?」

「いや、それは違う。あんな雑魚(ザコ)にやられるような男じゃない」

 

 薫は混乱した。

 

「私も自分で言っていることがわからなくなってくるね………」

 勝母も苛々と頭を掻き毟った。

 

 宝耳は黙って聞いていたが、おもむろに指を一本立てると、

「ここに、鬼が一人いるとしまして……まず、その鬼を篠宮東洋一が斬った」

と、言いながら左手で手刀を作って指を斬る動作をする。

 

 指は一度くねりと曲がったが、また伸びて―――――

 

「その鬼がまた現れて、その鬼を勝母刀自が斬る。そこから三十年近く経ってから、再び現れて、今度はお嬢さんが斬る。―――――言うことでっか?」

 

 勝母は宝耳が鬼と見立てた中指を掴んだ。

 

「この、鬼が……なんだって復活するんだい?!」

「さぁ…?」

「そんなことがあって、たまるかい!」

「ワイに言われても……わかりまへんがな~」

 

 宝耳は勝母の手から指を抜くと、両手を上げた。

 

 沈黙が訪れた。

 雨が窓を叩く音だけが、か細く響く。

 

「私、先生のところに行って訊いてみます。どこまで教えてもらえるか、わかりませんが……」

 

 薫が決心して言うと、勝母が肩を叩いた。

 

「私が一筆書くよ。ヤツに知ってることはすべて吐くように、とね。こういう時のために、色々と貸しはつくってある」

「おぉ、怖。那霧勝母に借りを作るなんぞ…貴方(あン)さんの師匠も、評判の割には抜けたところがあるんやなぁ」

 

 宝耳がブルブルと震えたように言うと、勝母は手刀を構える。

 あわてて宝耳は逃げていく。

 

 薫は苦しい気持ちを抱えながらも、二人のやり取りに思わず笑った。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 朝一番の汽車に乗るため、夜明け前に百花屋敷を出ようとしていた薫を宝耳が呼び止めた。

 

「早起きですね、宝耳さん」

「早起きというより…寝とらんのや。律歌に捕まって花札をな……いや、それはえぇねん。言い忘れとったことがあってな……」

 

 眠そうに目をしばたかせていたが、宝耳はつと真面目な顔になった。

「ここんところ、風の呼吸の剣士を狙って襲う鬼がいるようや」

 

 サッと薫は顔を強張らせた。

「それは……あの鬼なんでしょうか?」

 

「わからん。そういう事が起きてる、いうだけや。それもワイがちょいと調べただけやから、隠使ってちゃんと調べたら、()ゃうかった……いう話かもしれん。まぁ、一応、貴方(あン)さんの兄弟子にも気をつけるよう、言うとき」

「………」

 

「まぁ、貴方(あン)さんの(あに)さんら強いみたいやし。そうそうやられもせんか」

「そうですね……もし、あの鬼の仕業なのだとしたら、実弥さんなら簡単に滅殺すると思います。私は情けないことになりましたが……」

 

実弥(さねみ)』という名前を聞いて、宝耳はクックッと肩を揺らした。

「信じとるなぁ。どえらいホレこみようや」

 

 からかい混じりに言ったが、薫の反応は意外に冷静だった。

「当然のことですよ。実弥さんも、匡近さんも、強いですから」

 

 微笑を浮かべて言う薫を、宝耳はまじまじと見つめた。

「お嬢さん……アンタ、何かあったんか?」

「え?」

「なんか……余裕やな」

 

 薫は首を傾げると、「じゃあ、行ってまいります」と軽く会釈して出て行った。

 取り残された宝耳はしばらく閉じた扉を見つめていた。

 

「………したたかな女になってきよったで…」

 誰に言うでもなくボソリとつぶやく。

 ああなったら、女は手に負えない……。

 

 大あくびをして宝耳は自分に与えられた部屋へとブラブラ歩いて行った。

 

 

-----------------------

 

 

 一方、薫は東洋一の元へと向かう汽車の中で、昨夜の翔太郎のことを思い浮かべた。

 

 ―――――あの鬼は? 殺ったんですよね!!??

 

 必死になって問うたのは、あるいは翔太郎は家族の身に危険が迫ることを知っていたからだろうか……? 

 もし、そうだとすれば自分は嘘をついたことになる。

 

 あの鬼はやはり生き延びたのだ。そして、翔太郎の家族を(ほふ)った。そうでなくて、どうしていきなり翔太郎の家を鬼が襲う理由があるのだろう?

 偶然にしてはあまりに時機も、要素も重なりすぎている。

 

 胸に手を当てた。

 ポケットの中にある鶴。

 ぐっとこみ上げてきそうになって、薫は奥歯を噛みしめた。

 

 卑劣な鬼め。鬼殺隊を裏切っただけで飽き足らず、あんな幼子まで殺す。次に会えば、必ず斬り殺す。今度はその醜い姿が尽きるまで凝視してやる……!

 

 車窓の向こうに広がる爽やかな田園風景も、薫の瞳には映っていなかった。

 睨みつけている窓に反射して、幼い娘を背負った女が通路を歩いて行くのが見えた。

 

 清子と松子のことを思い出し、薫は唇を噛みしめて、涙を堪えた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.05.29.土曜日の更新予定です。



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第四章 端緒 ―過去と今― (四)

「なんだい、アンタ。一緒に行かなかったのかい?」

 

 薫が発った日の朝、ちゃっかりとテーブルについてパンを食べている宝耳(ほうじ)に、勝母(かつも)が意外そうに言った。

 

「まぁ、篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)に会いたいという野次馬根性がないこともなかったんやけど、ワイが行って、怪しまれて、口が(かと)ぅなってもアカンさかいな」

「フン。めずらしく殊勝なことをお言いだよ」

 

 言いながら宝耳の前の椅子に腰掛けた勝母は、ティーポットから紅茶を注いだ。

 

「薫から話を聞くだけで、聡哉(さとや)様からの任務は完了になるのかい?」

「まぁ…ワイがそれで納得できればえぇんとちゃいます? 知らんけど」

「なんだい、それは」

 

 呆れたように吐き捨ててから、勝母はパンを噛みちぎった。

 チラ、と目の前の男をみやる。

 

 古びた隊服を着崩して、ボサボサのいつ洗ったのかわからぬ頭に、ニヤニヤと笑みを浮かべたままの表情。

 初めて会った時にはまだ二十代だったか? その頃から大して変わっていない。

 あの頃からどこかしら人を食ったような、心底の見えぬ男だった。元は大陸にいたらしいが、日本人なのかどうかすらわからない。

 

「それにしても、妙な鬼でんな。何度も復活するなんぞ……」

「まだ、そうと決まったわけじゃない。特徴が似てるってことさ。アンタ、今回の裏切者の件もどうせ調べ回ってるんだろう? どうなんだい? めぼしいのはいたかい?」

「さぁ? そら知らしまへんな。もし、いたとしても、わざわざ鬼になったと言いに来る訳やないし、よしんば鴉が殺されずに伝えに来たとしても、誰に伝えたかによっては、そこで握り潰される可能性もある」

 

 ザリザリと無精髭を撫でながら、素知らぬ顔で言う宝耳に、勝母は眉を寄せた。

 どうやら昨日の盗み聞きも含めた断片情報で、この男はおおよその事情を見抜いているらしい。それが正解かどうかは、遠からずわかるだろう。

 

「特徴が似てるといえば…今日、お嬢さんにも一応言いましたんやけどな。ここ最近、風の剣士が次々に襲われて喰い殺されることが増えてますんや。どうです? 似たようなこと、昔もありませんでした?」

 

 勝母は紅茶を飲みながら、ジロリと宝耳を睨んだ。

 

「あんた、最近になって調べ始めた…と言う割には随分とご存知のことが多いじゃないか?」

「いやー。昔の聞書やら統計の資料をさらっと読んだだけですわ」

「フン……本当に食えない男だよ」

「そら良かった。ほな、鬼に喰われる心配もありまへんなぁ」

 

 ニヤニヤと笑う宝耳にイラッとして、勝母はわざと話を変えた。

 

「宝耳。お前さん、無惨の居場所の探索はやってるんだろうね?」

「………それでっか」

 

 宝耳はフーと長い溜息をつくと、背もたれにどっかと寄りかかって、面倒そうに視線を逸らした。

 

「難しいことをやっているのはわかってる。そこのとこについて文句を言う気はないさ。危ない橋を渡ることもあるだろうしね」

 

 無惨が人間の中に潜んでいるのは間違いない。

 耀哉はこれまでの当主とは違い、無惨の居場所の積極的な情報収集を行っていた。

 それは隠も含めた鬼殺隊とは別の、産屋敷耀哉直属配下の者達によって。

 

 彼らはいわゆる上流階級、あるいは市井(しせい)の人々の中において、『出自のわからない』『妙な噂をもった』人、あるいは『不自然に権力、乃至(ないし)は富が集中しているような』人や家系、団体などについて調べて回っている。

 

 無論、そんな人間は少なからずいるわけで、それは途方もない労力であるには違いないが、それで同じように人に紛れて暮らす鬼を炙り出すこともあるので、無駄ばかりではなかった。

 ただ、本来の目的である無惨はそう簡単に尻尾をつかませない。

 

 勝母は琥珀色のお茶を見つめながら話し出す。昨晩、あの後から考えていたことだ。

 

「昔……戦国時代に始まりの呼吸の剣士によって、無惨は一度追い詰められ、それからしばらくの間、鬼の出現数が減ったことが、古い記録に残ってる。一体、どういう状況で無惨を追い込んだのか、『しばらく』というのがどれくらいの期間なのか……? 詳細はわからないが、いずれにせよしばらくの間、無惨は動けない状態だったということだ。それから、おそらくは復活した」

 

 宝耳は勝母をまじまじ眺めてから、ニヤと笑う。

 

「……勝母刀自(とじ)。まさか、あんた例の鬼が無惨やとでも言いますんか?」

「そんな訳ないだろう。あれが無惨なら、有難いくらいだね。そうじゃない。ただ、同じだと思ったのさ」

「しかし、戦国時代のその無惨は首を取られたわけやおへんやろ」

 

「それは不明だ。おかしな話だが、その本以外の文献がないんだよ。無惨に会ったのがどこだったのか、どういう戦闘が行われて無惨を『追い詰めた』のか。そこいらのことについて、ほとんど記載がない。しかもその剣士についての記載も、それで終わっているんだ。死んだことすらも書いてない。相当な功労者だというのにね。―――――お陰で、本当に追い詰めたのか? なんて話もあるくらいだが、一応…当時の御館様が直々に記されたものとされているからね…嘘は書いてないはずだ。無惨は少なくともその後、数年か数十年かは動けなくなるくらい、瀕死の状態だったはずだ。だが、結局生き延びた。それとほぼ同じことが今回も起きている」

 

「その鬼も、無惨も、首を斬っても死なない? いうことでっか」

「可能性の話だよ。私らは、鬼について、実際のところわかってないことが多すぎる。もっと情報を集めて、しっかり精査する必要があるだろうよ」

「研究でっか? 勝母刀自、アンタ、旦那はんに似てきたんとちゃいます?」

「おちょくるんじゃないよ」

 

 勝母はムッとなって、少しだけ頬を赤らめた。

 宝耳はハハハと笑った。

 

「いやいや。確かに、もしそうなら考え直さなあかんことが、ようけ出てきますさかいなぁ。戦術も変わってくるし、御館様にお伺いせんと。鬼についての研究も…『協力者』が…必要になりますやろなぁ…」

 

 言いながら宝耳は遠くを見据える。

 その目には何らの感情も見えないが、一瞬、チラリと冴えて光った。

 勝母はこの男の底知れぬ本性を垣間見た気がした。

 しかしすぐにいつもの人を食った笑みを浮かべる。

 

「それにしても、無惨いう奴はこれ以上、何を望んでますんやろな?」

「無惨の望み? さてね……そんなこと知ってどうすんだい?」

 

「大事なことですやろ。だいたい、人の世の究極の望みいうたら、秦始皇の時代から不老不死やけど、無惨はそれを既に叶えとる。鬼の仲間を増やせば、孤独に沈むこともない。仲間と夜に楽しい過ごして、昼には物陰に隠れて、人の世の片隅で、たまーに人間喰ろうて、コソコソ生きていけばよろしいのや。ワイやったらそうするな。今の世の中、夜でも明るいし、あんじょうそれなりに愉快に過ごせますやろ。……ん? いや、今でもそないしとるんかな? ま、でもコソコソ言うには仲間を増やしすぎやなァ」

 

 勝母は途中から頭を押さえた。

 本気で言ってそうだから、コイツは理解できないのだ。

 

「馬鹿。お前、そんなこと……御館様に言ってやしないだろうね?」

「まさか。言う訳おへん」

「どうにか常識の欠片(カケラ)が残っていてくれてよかったよ。とっとと仕事に行って、鬼を生け捕るなり、無惨の足跡をとるなりしてきな。聡哉様の遺言のことは、わかったらちゃんと知らせるさ」

 

 宝耳は立ち上がると、最後に残っていたパンを皿から取った。バクバク食べて、飲み込む。

 

「ほな、お願いしますわ。いや、ようやく宿題を片付けた気分やな」

 

 言いながら、手を振って去っていく。

 

 宝耳がいなくなって、窓から差し込む光がまともに勝母の目を射る。眩しさに顔を顰めながら、宝耳がさっき言ったことを考えた。

 

 無惨の望み―――――?

 

 不老不死の身体でありながら、太陽の光に灼かれて消える鬼。

 無惨もまたそうなのだとしたら……奴の望みは日の下でも朽ちぬ身体を手に入れることだろう。それでこそ、究極にして完璧な不老不死の肉体を手に入れることができる。

 

 だが………それからどうする?

 

 勝母は考えかけて、頭を振った。

 なぜ、無惨のためにこんなことを考えてやらねばならない?

 奴はただただた貪欲なだけ。すべてを手に入れたいだけなのだ。この世に生まれたばかりの赤子が、ひたすら空を掴むように。

 

「おっ母様、翔太郎が目ぇ覚ました!」

 

 律歌があわてた様子で駆けてきて、大声で叫ぶ。

 

 そう。無惨よりも、今はこの少年がこれから知るであろう、過酷な運命に、どうやって向き合っていくかを考えねばならない。その上で、このまま隊士を続けるのかという選択もせねばならないのだ。

 

 勝母は冷めたお茶を飲み干すと、足早に翔太郎の病室へと向かった。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 梅雨は明けたようだ。

 山の背には入道雲が伸びて、澄んだ青空とどこからか聞こえてくる蝉の声が夏の到来を感じさせる。

 薫がようやく東洋一の家へと辿り着いた時には、背中は汗だくになっていた。

 

 ついこの間、訪ねたばかりだったのだが、その間に弟子をとったらしい。

 門を通って敷石の上を歩いていると、まだ声変わり前の少年の高い声が呼び止めた。

 

「どちら様ですか!?」

 

 振り返ると、十歳くらいだろうか。ぷっくりとした頬の丸顔の少年が、箒を持って立っている。

 薫は少し緊張した様子の少年に微笑みかけた。

 

「こんにちは。森野辺薫と申します。先生は、いらっしゃいますか?」

 

 少年は鬼殺隊の隊服に気付くと、ハッとした表情を浮かべて尋ねてくる。

 

「あ、あ……きょ、今日来られたんですか? 予定では明日って……ど、どうしよう? まだ何の用意もしてないのに………」

「え?」

 

 薫が訊き返していると、庭の方からもう一人、少年が歩いてきた。歳は同じくらいだが、短く切った髪の毛が逆だっていて、くりっとした大きな目で、訝しげに薫を睨んでいる。

 

「誰?」

「あ、守。鬼殺隊の……兄弟子の人だよ、お師匠様の言われてた」

 

 先に薫に声をかけた少年が説明すると、守少年は不躾なぐらいジロジロと薫を上から下まで眺め回した後、「バーカ!」と隣の少年の頭をペシリと殴った。

 

「どこが兄弟子だよ。女の人だろうが」

「えっ?」

 

 薫はもう慣れっこになっていたので、仕方なく微笑むと、もう一度挨拶した。

 

「森野辺薫と言います。初めまして」

 

 守はピシリと背を伸ばすと、丁寧にお辞儀して自己紹介した。

 

「初めまして、久保(くぼ)(まもる)といいます。今、ここで、お世話になってます。―――おい、お前、ちゃんと挨拶したのか?」

 

 守が肩をつつくと、箒を持った少年はあわてた様子でペコリと頭を下げた。

 

「あ、宇治倉(うじくら)三郎(さぶろう)といいます。はじめまして」

 

 薫は軽く頭を下げると、東洋一のことを聞く。

 

「あの、先生はいらっしゃいますか? 何かご予定でもおありでしたか?」

「いや、明日、兄弟子の人が二人、来るって聞いてたんですけど、別に暇してますから気にしないでいいですよ。どうぞどうぞ」

 

 守に促されるまま、薫が玄関で草履を脱いでいると、横で三郎が奥に向って大声で怒鳴った。

 

「ししょおーっ! ししょおーーっ!!」

「うるさいな…人を年寄り扱いしおって……」

 

 ブツクサ言いながら現れた東洋一に、薫はハッと顔が強張った。

 明らかに痩せている。

 頬もこけて、一回り小さくなったように感じた。

 ついこの間、会ったばかりだというのに、ここまで変わるということは……体の具合が良くないのだろうか。

 

 しかし、東洋一は薫の姿を見るなり、相好を崩した。

 

「なんじゃ、お前さんか。てっきり匡近達が来たのかと思うたが」

「匡近さんが?」

「三人でここで集まって何かするんか?」

「三人……? ということは、実弥さんもいらっしゃるんですか?」

 

 東洋一は首をかしげる。

 薫はだいたい察した。

 どうやらここに匡近達が来る予定になっているらしい。

 

 草履を脱いで、三郎が用意してくれた手拭いで足を拭くと、廊下を歩きながら先に進む東洋一に話しかける。

 

「すいませんが、匡近さん達が来ることは知りませんでした。でも、それなら今日中にはお話をお伺いして、早々に立ち去らないといけませんね」

「なんでだ? 久しぶりに皆で酒宴するのも楽しかろうが」

「………私がいたら、楽しめない人もいらっしゃいますよ」

 

 薫が笑って言うと、東洋一は振り返った。

 その目にいろいろな感情が浮かんだが、すぐにまた歩き出す。

 

 客間に辿り着くと、ペタリと座って、東洋一は煙草を()み始めた。

 縁側の風鈴がチリンと揺れる。座敷は薄暗く、風が通って涼しかった。

 薫が額の汗を拭っていると、守がお茶を入れて持ってきてくれた。

 

「あら、ありがとう」

 

 受け取って、すぐに飲む。

 駅からここまで歩くのに疲れたわけではないが、さすがに喉が渇いていた。

 

 東洋一は懐から財布を出すと、守にお金を渡して用事を言いつけた。

 

「三郎も一緒に行ってこい。途中で藤森さんの家に寄って、猪肉をもらえたらもらってきてくれ。森野辺薫が来とる、言うたらえぇ」

 

 守は頷くと、早速、三郎を大声で呼ばわって、二人で競走しながら出て行った。

 

「……お弟子さん、来たんですね」

 

 薫はホッとしていた。少しは東洋一の寂しさが紛れたように思える。

 

「あぁ、つい一月ほど前にな。いやー、もー、儂も寄る年波で、そろそろ閉店しようと思っていたんだがなぁ……」 

「二人とも、孤児ですか?」

 

 そういう理由でもなければ、育手を引退しようとしていた東洋一が引き取るはずもない。

 

「あぁ。守は鬼に一人親を殺されてな。隠から儂のことを聞いたらしい。三郎は大水で家族を亡くしてな。村の古老から鬼殺隊のことを聞いて……迷いこんできおった」

「よかったですね」

「なにが、いいもんかい。そろそろガキの世話も引退だと思ってたのに」

「二人とも、いいお師匠様を見つけました」

 

 薫がそう言ってニッコリ笑うと、東洋一は満更ではないものの、気恥ずかしそうに、一服する。

 

「で? なんじゃ、また…話って? この前、来たばっかだろうが…」

「はい、まずは…これを」

 

 薫は勝母からの手紙を東洋一に差し出した。

 茶封筒に万年筆で書かれた少しクセのある字に見覚えがあったのか、ピクリと眉が動く。封筒を裏返して、名前を確認すると渋面になった。

 

「………読みとぉないのぉ」

「そう仰言(おっしゃ)らず。勝母さん、昨夜お忙しい中わざわざ書いて下さったんです」

 

 薫は微笑みつつも、東洋一をじっと見つめた。その目にある真剣な光に、東洋一は少し躊躇(ためら)いながらも封を開けて読み始めた。

 

 手紙の内容は端的で、さほど長いものではない。

 咥え煙草で読み始めたが、やがて指で挟んで煙草を取った。途中で目を見開き、煙草の先が震える。その後はどんどんと沈鬱な顔になった。

 

 読み終えた後、しばらく東洋一は無言だった。縁側の向こうの景色を眺めていたが、その目に映っているのは別のものだったろう。

 

「先生、あの…お煙草が…」

 

 薫がそろそろと注意する。

 指を火傷しそうになって、東洋一があわてて煙草を弾くと、薫はそっと拾って灰皿へと押し付けた。

 

「ああ…すまんすまん。そうか…先代の御館様にまで心配をおかけしていたか……申し訳ないことをした。今となっては…正直に申し上げれば良かったんだろうが。もはや言うても詮無いことよな……」

 

 後悔を滲ませた声は、丸めた背中越しに弱々しく響く。

 薫はその姿に目を伏せたが、気を取り直して東洋一に訴えた。

 

「先生…私は一体何が起きているのかを知りたいんです。そのためには、何が起きたのかを知る必要があると思っています。先生は……この裏切者の鬼のことをご存知ですよね?」

 

 東洋一は返事をしなかった。

 暗く翳った顔は、今までに見たことがないほど厳しく…冷たくさえあるのに、どこか苦しげであった。

 

「先生……翔太郎くんの妹と、お母さんはおそらくその鬼に殺されました。私は………(ゆる)せません」

 

 薫は低くつぶやくように言った。憎悪を押し殺した声は潰れて掠れた。

 

 東洋一は茶を飲むと、また外の景色を眺めた。

 

 さっきの入道雲が上空に来ているのだろうか。空が暗くなってきていた。今にも雨が降り出しそうだ。

 風が強く吹いて、風鈴がやかましく鳴り続ける。

 遠くではピカリと稲妻が光っている。

 

 東洋一は立ち上がると、風鈴を取った。

 

 蝉も鳴くのをやめ、うすら寒い風がビョオと吹き渡って不気味な音をたてた。

 やがてポツ、ポツと雨が降り始める。

 あっという間に驟雨が辺りを白く包み、庭の石を叩く雨音がひっきりなしに聞こえてくる。

 

 縁側と部屋を仕切る障子戸に凭れかかって、東洋一は静かに昔語りを始めた。

 

「…………儂にとって風波見(かざはみ)家は守るべき唯一のものだった」

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.06.02水曜日に更新予定です。



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第五章 昔日 -暁風篇- (一)

 東洋一(とよいち)、という名前は、旅回りの大道芸人である父親がつけたものだった。

 父は芸名を『日本一』にしていたので、息子には東洋一とつけたのだと言っていた。

 

「だから、お前の子供は『世界一』ってつけるんだぞ!」

 幼い息子に、そんなことを本気で言っているような父だった。

 

 母は貧乏で、いつまでもお気楽なことばかり抜かしている父に愛想をつかして、父の弟子と駆け落ちしてしまった。それでも父は東洋一を可愛がって、飽きっぽいが飲み込みのいい息子に芸を教えながら、父子二人で旅を続けていた。

 

 その父を失ったのは、十二の時。雨の日の山の中だった。

 

 いきなり現れた異形の者に、父はあっさり殺された。

 東洋一は岩陰と熊笹の中に隠れながら、父が喰われる様を見ていた。

 息を潜めて、見ているしかなかった。

 

 たった十二歳の、いつも腹を空かせていた栄養失調気味の少年に、どうやって化け物から父を助ける術があったというのか。寒さと怖さと父への申し訳なさに震えながら、ただただ見ているしかなかった。

 

 だが突然、その化け物は咆哮とともに首を斬られ、倒れた。

 目の前に飛んできた首の、その死にゆく目と目が合って、東洋一はヒッと声を上げて飛び退った。

 

 (くさむら)から出ると、そこには見たこともない(つや)やかに光る緑色の刀を持った男が立っていた。

 男は東洋一に気付くと、軽く眉を上げた。

 

「無事か?」

 問いかけてくる男に、東洋一は反対に問い返した。

 

「あんた……コイツ、殺したの?」

 問うている間にも異形の化け物は塵となって消えてゆく。

 

「あぁ。もう大丈夫だ。鬼は首を斬れば死んで消える」

 明るく言う男に、東洋一はそれまでの恐怖に反比例する苛立ちで怒鳴った。

 

「……なんでもっと早く来なかったんだよっ!!」

 

 男は目を丸くして、東洋一を見つめた。

 自分でも理不尽なことを言っていると…むちゃくちゃなことで文句を言っているのだとわかっていても、東洋一は自分が父を助けられなかった負い目から、その男に八つ当たりした。

 

「アンタがもっと早く来て、あの化け物を殺してくれたら……親父は死なないで済んだんだっ! なんでもっと早く来なかった!? 助けたような顔すんなよっ! お前は、親父を助けなかったんだ! 親父がいなかったら、俺は死ぬしかねぇんだッ!!!!」

 

 男は怒らなかった。

 その目は、どこまでも見(とお)すかのように澄んで、東洋一を見つめていた。

 

「すまなかった」

 頭を下げると、男は手を差し出した。

「来い。飯を食わせてやる」

 

 その手を取るか、弾いて立ち去るかで、自分のその後の人生が決まるかどうかなど、東洋一は考えもしなかった。

 ただ、父の死が苦しくて、寂しくて、それでも腹はひもじくて、たまらない。

 選択肢は一つしかなかった。

 

 手を繋ぐと、男は安心させるかのように笑いかけた。

 額から右頬にかけて、顔にある大きな引き攣った傷痕を見た時、東洋一は途端に申し訳ない気持ちになった。

 彼もまた自分が襲われる立場になるかもしれないのに、父を助けようとしていてくれたのだと思うと、さっき罵った自分があまりに幼く、馬鹿だった。

 

 だが、その場で謝ることは出来なかった。

 俯いたまま、男の固く暖かい手をキツく握りしめて歩いた。

 

 

◆◆◆

 

 

 男の名は風波見(かざはみ)周太郎(しゅうたろう)

 鬼殺隊と呼ばれる鬼を狩る集団の、精鋭である柱の一人、風柱だった。

 

 

 東洋一は風波見家に引き取られた後、周太郎の弟子の一人として鬼殺隊の隊士になるための修行を積むことになった。

 

 当初は旅芸人の息子と兄弟子達に馬鹿にされることもあったが、東洋一は見る間に彼らを追い抜かし、その技量は周太郎も驚かせた。

 

 

◆◆◆

 

 

「お前が隊士になってくれれば、私もちょっとは楽ができそうだな…」

 

 周太郎は任務のない日は必ず東洋一の稽古につき合ってくれた。

 兄弟子達ももちろん一緒なのだが、周太郎の際限ない打ち込み稽古に最後までつき合いきれるのは東洋一だけだった。

 

「隊士になってくれれば……って、そりゃなりますよ。そのために修行してるんでしょ?」

「まぁ、それはそうだが……」

 

 周太郎は歯切れが悪い。東洋一は首を傾げた。

 

「なんか問題ですか?」

「いや。お前がここにいたいならいてくれて構わんが、隊に入ることを強要する気はないんだ。他にしたいことがあるなら…」

「ありませんよ、そんなの」

 

 思いつくのは父とやっていた大道芸だが、東洋一には父ほどの熱意はなかった。あれをしろと言われても、やる気が起きない。

 

「師匠が出てけっていうなら出ていきますよ」

「そんなことは言わん。ま、このままでいいなら…いいんだ」

 

 そう言うと、周太郎は母屋の方へと帰りかけて振り返った。

 

「東洋一。お前、見込みがあるぞ。だから……励めよ」

 いつになく真面目な顔で言ったかと思うと、急にニッと笑う。「私が楽できるようにな!」

 

 東洋一も笑みを浮かべて「はい」と答えると、周太郎はカラカラ笑って母屋へと戻っていった。

 

 柱という重責にあり、なおかつ広範な地域を担当して鬼と対峙しながらも、周太郎はいつも快活で、朗らかで、悠揚としていた。

 

 しかし、先月にも水柱が上弦の鬼にやられたらしく、柱は一時、二人になってしまったらしい。

 すぐに新たな水柱が立ったものの、さすがの周太郎もここ最近の出動回数には疲れが溜まっているようだった。

 

 それでも東洋一の稽古につき合ってくれる。

 さっさと隊士になりたかった。

 周太郎が冗談で言っているとしても、東洋一は早く楽させてやりたかった。

 

 あの日、ひどいことを言った後悔がまだ東洋一の胸の中にあった。

 結局、あのまま謝る時期を逸してしまい、この先も言えそうにない。

 こうなれば、さっさと隊士になって、周太郎を助ける。それが、東洋一なりの謝罪の仕方だった。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

「東洋一さん、東洋一さん! かくれんぼしよっ」

 

 あっという間に一年が過ぎて、すっかり風波見家に慣れた東洋一だったが、ここのところ困っているのは、周囲に群がる子供達の事である。

 

「いや、俺は稽古に…」

 言いかける東洋一に、

「稽古なんてしてないじゃない!」

 一番年下の千代(ちよ)が鋭く言うと、

「じゃあ、打ち合い稽古しよーよ。俺らと」

 浩太(こうた)は東洋一が作ってやった小さな子供用の木刀を振り回す。

 

「いやよ! 戦ごっこなんて。私、楽しくない!」

「お前なんか、あっちで人形とオママゴトでもしてろ!」

「なによぉ、また私だけ仲間はずれにしてぇ」

「お? 泣く泣く泣~く。泣き虫千代が泣く~」

 

 囃し立てられ泣きっ面になる千代に、優しく慰めるのは師匠の息子である賢太郎(けんたろう)だった。

「千代ちゃん、大丈夫だよ。うん。さっき皆で決めたものね。かくれんぼしようって。ね、浩太?」

 戒めるように呼びかけられ、浩太は口を尖らせるとプイとそっぽを向いた。

「じゃ、浩太が鬼しなさいよ」

 千代はあっさり泣き止むと、浩太に命令する。

 

「はあぁ? なんで俺? 嫌だね!」

「ずるいわよ。いっつも浩太は鬼しないんだから! いっつも私か賢太郎さんばっかにさせて!」

 

 一旦終わったかと思ったのに、また、ケンカが始まっていた。

 いつの間にか賢太郎が側に来て、東洋一の袂をクイと引く。

 

 何も言わず、ただ懇願する目がじいぃと見上げている。

 東洋一は嘆息した。

 なにげに一番の策士はコイツじゃないのか…?

 

 東洋一は頭を掻くと、「わーったよ」と観念した。

 

 パッと賢太郎が笑う。

 浩太と千代は、即座に駆け始めながら、

「十数えてねー」

と、叫んで、思い思いに散った。

 賢太郎も「ありがと、東洋一さん」と言うなり、駆け出した。

 

「いーち、にーい、さあーん…」

 

 数えながら、東洋一は少しだけ辺りに気を配った。

 今は実は師匠の御内儀(ごないぎ)様であるツネから用事を頼まれている途中なのだ。子供の遊びに付き合ってるなんぞとバレたら、またどやされるに違いない。

 

 こうして稽古の時間がまた削られる……。

 

 兄弟子を凌駕する東洋一の技量からいえば、とうの昔に最終選別に行っても良かったのだが、周太郎にはどうやら自分なりの基準があるらしく、十四歳になるまではいかに技量が優れていようと、藤襲山に行くことは承諾しなかった。

 

 斯くして三人いた兄弟子達は最終選別に向かい、一人は死亡、一人は行方不明、一人は生き残ったものの隊士になることを拒否して、隠になると師匠に告げ、出て行った。

 

 今は入門志願者もおらず、東洋一は風波見家の唯一の弟子として、ツネにこき使われ、子供に振り回され、修行の時間が大幅に減っていた。早急に弟子志願者が来てほしい。

 

「もーいーかぁ?」

「まーだだよー」

 

 じゃれついてこられて鬱陶しいと思うこともあったが、結局のところいつも東洋一はこの三人の遊びにつき合った。

 一人っ子で兄弟のいない東洋一にとって、三人は可愛い弟妹(きょうだい)同然だった。

 

◆◆◆

 

 最初に知り合ったのは賢太郎だった。

 

 周太郎に助けられ、どこの誰とも知らぬまま、風波見家の屋敷に連れてこられた時、東洋一はここで下男として雇われるのかと思った。

 しかし、周太郎は久しぶりに会った息子に開口一番。

 

「賢太郎、兄だぞ。兄と思って接するがよい。お前、兄が欲しいと言うておったろう?」

 

 言われた賢太郎は無邪気に喜んだが、隣にいた師匠の妻であるツネは、顔色を変えて東洋一を睨みつけた。

 妾腹の子供を引き取ったと勘違いしたツネの悋気(りんき)が治まるまで、しばらくかかった上、その最悪の第一印象のせいで、未だにツネの東洋一への当たりは強い。

 

 しかし賢太郎は素直に東洋一を兄のように慕った。

 例え東洋一が年上にも関わらず読み書きをほとんどできないとわかっても、馬鹿にすることはなかった。

 

「僕も手習い中だから、一緒にしよう。一人だと飽きちゃうから」

 

 そんなことを言って誘うが、先に飽きるのはたいがい東洋一で、賢太郎はそんな東洋一に付き合って時にサボり、時に励まして、少しずつ教えていってくれた。

 

 五歳も年下だというのに、どうかすると東洋一より大人びていた。

 

 

 千代は東洋一が引き取られた二ヶ月後に、風波見家にやって来た。

 ツネの縁戚の娘で、両親を流行病(はやりやまい)で喪い、親戚中をたらい回しにされた後に、ツネが周太郎に許可を貰って引き取ったらしい。

 

 利発な娘で、東洋一も賢太郎も、よく言い負かされた。

 ツネは良妻賢母にすべく、裁縫や料理といった女としての修養を身に着けさせようとしていたが、本人はそんなことより、蔵にある古い絵草紙などを読むのが一番好きだった。

 読み書き算盤も、東洋一を追い抜く勢いで習得していった。

 

 

 浩太は千代の後に程なくしてやって来た。

 周太郎の友人でもあった同僚の忘れ形見だという。ただ、その友人は浩太が生まれてすぐに亡くなり、周太郎は(のこ)された母子(おやこ)の面倒をずっと見ていたらしい。

 

 浩太が七歳(ななつ)の年に母親が病で亡くなり、周太郎が引き取った。

 賢太郎と同じ年で、すぐに二人は仲良くなった。

 

 後に東洋一が聞いたところによると、周太郎が千代を引き取ることを許したのは、その時には具合の悪くなっていた浩太の母親が、いずれ死ぬかもしれないことを考え、予めツネに浩太を引き取るに際して文句を言わさぬため……だったらしい。

 

 本当かどうかは不明だが、確かにツネは浩太を表向き快く受け容れた。だが……

「小さい時から、おじさんはよく(ウチ)に来てたよ」

 屈託なく話す浩太を見るツネの目はひどく剣呑で、陰湿な猜疑心を浮かべていた……。

 

 

◆◆◆

 

 

「………もーいぃかぁい?」

 

 東洋一が大声で尋ねると、後ろで冷たい声が響く。

「……なにをしているのです、東洋一」

 

「すいませんっ!」

 即座に東洋一はビッと背を伸ばしてまず謝った。

 そろそろと振り返ると、ツネがじっとりと睨みつけている。

 

「蔵の片付けは済みましたか?」

「あっ…えっと……今………」

 

 しどろもどろになる東洋一に、ツネはハアァーッといかにも苛立たしげに溜息をぶつけた。

 

「あなたに頼むと、どうしてこう時間がかかるのでしょうね。木原はすぐにやってくれましたよ。まったく。ウチに来て一年にもなるのに、図体と態度だけはやたら大きくなって、いつまで経っても役に立たないこと。だいたい……」

 

「申し訳ありませんっ!」

 東洋一は真っ直ぐに頭を下げて、そのまま静止した。

 チラと見た視線の先に、躑躅(つつじ)の木々の間から、心配そうに覗き込む賢太郎達の姿が見える。

 

「申し訳ないと、何度言うのやら。心にもない謝罪は結構ですよ。さっさと片付けて、ついでに奥の間の障子の修繕も頼みますよ。稽古もせずに遊び呆けて……まったく、旦那様はどうしてこんな子を拾ってきたのしょうね。旅芸人の息子などが、立派な鬼殺の剣士になどなれるものか………」

 

 吐き捨てるように言うと、ツネはスタスタと母屋の中へ入って行った。

 その姿がすっかり家の中に消えるのを見届けてから、東洋一はフーッと息を吐いた。

 

 そろそろと賢太郎達が申し訳なさそうな顔で出てくる。

 

「っとに…あの婆ァ、ネチネチと鬱陶しい」

 浩太はいつも自分が言われているのも思い出してか、忌々しそうにツネの去った先を睨みつけて言った。

「……ごめん」

 賢太郎が俯いて謝ると、ハッとした顔になり、気まずそうにそっぽを向く。

 

「東洋一さんも……ごめんなさい。僕が無理にお願いしたから」

 頭を下げる賢太郎とかぶせるように、浩太が東洋一に喚き立てた。

「俺が最初に言ったんだよ! 東洋一さんが暇そうに歩いてるから」

「そんなの私も頼んだから」

 

 浩太と千代までが謝ろうとするので、東洋一は内心で勘弁してくれ、と言いたくなった。

 

 父と一緒に旅して回っていた時には、面白がって村の子供から石礫(いしつぶて)を投げられたり、酔客に足蹴にされることもあった。

 人は根拠のない悪意を不意に向けてくるものだ。

 ツネの嫌味も、虫の居所で日々変わる。今日は少しばかり居心地の悪い場所にいたようだ…。

 

 賢太郎と浩太と千代の頭をペペペンと叩いて、東洋一はニヤッと笑った。

 

「見ーつけたっ……と。俺の勝ちだな。全員、負け!」

 

 賢太郎はキョトンとした後で、ホッとした笑みを浮かべた。

「ええぇぇーーっっ! ナシっ! 今のナシだよおっ」

「ずるいずるいっ」

 

 喚きたてる浩太と千代に、東洋一はへへん、と不敵に笑った。

「うるせぇ。負けた奴は勝った奴の言うこと聞くんだ。お前らも蔵の片付け手伝え」

 

「ええぇ?」

「やだあぁ」

「仕方ないよ。行こう」

 

 賢太郎は不満そうな二人をなだめると、蔵に向かって歩き出した。

 振り返って目が合うと、にっこりと笑う。

 

 文句を言いながらも四人で片付けをするこの時間が、東洋一には嬉しかった。それは、父といた時とは違う、だが家族の団欒と呼ぶに近いものだった。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 それからまた一年ほどが過ぎて。

 

 

 ようやく最終選別に向かうことになった前日、子供達は東洋一にお守りを渡しながら言った。

 

「必ず帰ってきてね」

「鬼なんか倒さなくていいから」

「絶対に……戻ってきて」

 

 三人の泣きっ面を見ながら、東洋一はフッと笑った。 

「なんだよ。これから俺は棺桶にでも入ンのか?」

 

 冗談を飛ばすが、三人の顔は晴れなかった。

 特に賢太郎は幼い頃から、父の弟子達が何人も最終選別に行っては、ほとんど帰ってこなかったことを経験しているせいか、尚の事、暗かった。

 

 やれやれ、と思う。

 こんな暗い顔で送り出されては、こっちまで気が滅入る。

 

 東洋一はガシッと賢太郎と浩太の頭を掴んだ。

 

「オイ、賢太郎。俺は弱いか?」

 いきなり問いかけられ、賢太郎は「え?」と戸惑う。

「弱いか、俺? わりと頑張ったと思うんだぜぇ…この一年は特に。お前らとあんまり遊べなくなって悪かったけどな」

 

 さすがにいつまでも風波見家でタダ飯を食らっているわけにもいかず、今年はなんとしても最終選別に行くために、子供達からの「遊んで」攻撃にも、逃げ回って相手しなくなることが多かった。

 

 もし、最終選別でこのまま死んでしまうとしたら、もっと遊んでやればよかったなぁ……という未練が残りそうだ。

 

「どうだ? 浩太。俺、弱いと思うか?」

 浩太にも尋ねると、浩太は「ううん!」とまっすぐな目で東洋一を見た。

「東洋一さんは強いんだ! 誰よりも強いよ! 他の人なんて誰も敵わないんだから」

 

 周太郎の留守に、東洋一を囲んで集団で打込稽古――――という名の私刑をしていた兄弟子達が、ことごとく東洋一に打ち負かされ、道場に転がっていたのを浩太は知っている。

 

「ありがとよ。賢太郎は? どう思う?」

 もう一度尋ねると、賢太郎はまっすぐに東洋一を見上げた。

「僕も、東洋一さんは強いって思う。でも――――油断しないでね」

「ハハハハッ! さすが! よくわかってんな」

 

 東洋一は二人の頭を乱暴に撫でると、最後にぽん、と軽く叩いた。

「帰ってくるさ。心配すんな」

 

 隊士になって、助けてくれた――――あの日、手を差し出してくれた周太郎に、ここまで育ててくれた風波見家に、恩返しするのが東洋一の願いだった。

 

「東洋一さん。じゃあ帰って来る時に、お土産買ってきてね」

 

 千代がちゃっかりと言うと、東洋一は大笑いし、賢太郎も浩太もようやく笑った。

 

 この三人のために、必ず生きて戻ることを誓って、東洋一は藤襲山の最終選別に臨む。……

 

 

 

<つづく>

 

 

 





次回は2021.06.05.土曜日に更新予定です。

今回より原作時間軸から三十年程前の話になります。しばらく続きます。だいぶ続きます。つき合っていただけると有難いです。



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第五章 昔日 -暁風篇- (二)

作中にて未成年者飲酒場面が出てきますが、当時の習俗からのあくまでフィクションです。推奨している訳ではありません。


 その鬼は八本ある手のそれぞれに、おそらくはそれまで喰ってきたであろう受験者達の刀を持っていた。

 

「………ったく、なんだぁ、この鬼。千手観音じゃあるまいに」

 

 東洋一(とよいち)はつぶやくなり、タタッと走って近くの木の枝に飛び乗る。と、同時に蹴って、より高い枝に、隣の木にと飛び移り、鬼からの攻撃を避けながら、あちこちに鬼の目を分散させた後に、技を繰り出した。

 

 風の呼吸 伍ノ型 木枯らし颪

 

 渦巻く風が刀を手にした鬼の腕を斬り、渦の中心部にすっぽりと入った鬼の首が千切れて飛んだ。

 ボタボタと鬼が持っていた刀が地面に落ちて散らばる。

 

「………あ」 

 

 大きな椎の木の下で、鬼にやられて動けなくなっていた少年…おそらくは東洋一と同じ受験者が、よろよろと立ち上がると、一つの刀を拾ってまじまじ見つめていた。

 

「どうした?」

 

 東洋一はその少年の後ろに立って尋ねたが、答えない。

 しばらくすると、声を押し殺して泣いているのがわかった。

 

 そのまま見守っていてやりたかったが、鬼はこちらの事情など斟酌しない。

 

「泣くのは後にしようぜ。もう、奴ら来てやがる…」

 

 言うなりものすごい速度で走ってきた鬼の爪を躱し、斬りつける。

 もう一匹……と、刀を構えて警戒したが、そちらはさっきまで泣いていた少年が相手していた。

 泣きべそをひっこめて、冷たく鬼を睨みつけている。

 

 霞の呼吸 肆ノ型 移流斬り

 

 それは遅くさえ見えた。だが、そうではない。

 緩やかな構えの姿勢から、相手へと間合いを詰める時は、一瞬。その緩急に惑わされ、鬼は動けない。動けないまま、あっさりと首を斬られた。

 

「へぇ、大したもんだ…」

 

 東洋一がつぶやくと、その少年は決まり悪そうにフイと背を向けた。

 手にはさっき拾い上げていた刀を持っている。

 

「オイ、その刀どうすんだ?」

 東洋一がまた尋ねたが、少年は無視して先へと進んでいく。

 

「おーい。他のはいいのか~?」

「大声を出すな!」

 

 少年は振り返ると、ギロリと東洋一を睨みつけた。

 

「鬼が寄ってくるだろう……馬鹿か、お前は」

「いやぁ……聞こえてないのかと。すまんすまん」

「だから…デカいって言ってるだろう! 声が」

「え? そうか? いや、お前も割と大きいぞ……」

「それは、お前のせいだろう!」

 

 そんなやり取りをしていると、横からカッと光が一条差し込む。

 途端に山の端から出てきた太陽が、見る間にあたりを光のある世界に生まれ変わらせた。

 

「明けたな……」

 

 ボンヤリしながら東洋一は言ったが、特に返事を必要としたわけではない。

 終わりなのか…というのがわからなかった。

 昼夜逆転の、しかも尋常でない緊張感を持って数日過ごしたせいで、時間感覚がおかしくなっていた。今は、いったい何日目だろうか?

 

 東洋一に答えるように、鴉が頭上を飛びながら宣言する。

「最終選別、終了ォォ~。残ッタ者ハ鳥居ニ集マレェ~」

 

◆◆◆

 

 東洋一はその霞の呼吸を遣う少年と共に鳥居をくぐったが、その後に現れたのは一人だけだった。

 赤みがかった金色の髪をした、独特の面貌の少年だった。

 

 玉鋼を選び、鎹鴉を送られ、藤襲山のふもとにある藤家紋の家に向かうよう指示された。

 そこで任務用の着物の寸法を測るらしい。その後は着物が出来上がるまで三日間ほど休むようにとのことだった。

 

「お、久々にあったけぇ布団で寝れるのか?」

 東洋一が無邪気に喜ぶと、金の髪の少年が「うむ! 久しぶりにゆっくり眠れそうだ!」と、力強く叫ぶ。

 霞の剣士である少年は振り返って二人を渋い顔で見ていたが、無視してスタスタと歩き始めた。 

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

「各々名前を言い合おう。私は煉獄(れんごく)康寿郎(こうじゅろう)だ。炎の呼吸を遣っている。君たちは?」

 

 金の髪の少年―――――煉獄康寿郎は、一眠りしてすっかり気力も充填されたようだった。

 

 藤家紋の家に着き、畳に敷かれた布団を見るなり、三人はバタリと倒れ込んで寝入った。

 そのまますやすやと眠って、起きれば夕暮れ。

 久しぶりに風呂に入り、七日間の埃や垢を落とした後にはご馳走が用意されていた。

 

 三つならべられたお膳の前で、ようやく三人は揃った。

 

 康寿郎の後に続いたのは、洗い終えた黒髪をきちんと髷に結った総髪の少年だった。

 

(一方の東洋一はというと、月代(さかやき)の部分は既にボウボウと草が生えたように髪が伸び、洗い髪を大して拭くこともせずに無造作に垂らしていた。そのだらしない様子に総髪の少年は席に着くなり眉をひそめていた。)

 

「俺は…香取(かとり)飛鳥馬(あすま)。霞の呼吸をやっている」

 

 二人はそのまま東洋一が言うのを待っていたが、その時、東洋一は食べるのに夢中だった。咀嚼音だけが響き、我慢できなくなった飛鳥馬が怒鳴りつける。

 

「おい! さっさと自己紹介しろ! 我々は二人ともしたんだぞ!」

「あ? えぇと……ひごぃやほごいい……」

 モゴモゴと話そうとする東洋一に、康寿郎はハハハハと笑った。

 

「気にするな! しっかり咀嚼してから言うといい。香取、我々も食べよう。腹が減っては戦はできん!」

「……何言ってんだ、ようやく終わったばっかだっつーのに」

 東洋一はようやくご飯と芋の煮っころがしを飲み下すと、呆れたように言う。

 

「そういえば、そうだな。だが、一難去ってまた一難だ! いつでも用意は怠らないようにしないとな」

「今日くらいは勘弁してくれよ……」

 言いながら東洋一は用意されていた酒をお猪口に注ぐ。

 

「おい」

 飛鳥馬が眉間に皺を寄せて、東洋一を睨んだ。

 

「ん? なんだ? あ、呑む?」

「呑まん! さっさと自己紹介しろ!」

「あぁ。悪い悪い。篠宮東洋一。風の呼吸な。――――おい、煉獄。……煉獄って呼び捨てにすんのなんか怖いな。炎柱様に怒られそうだ」

「そうか? 気になるなら康寿郎と呼んでもらって構わん」

 

 屈託なく言うので、東洋一は名前で呼ぶことにした。

 

「おう、康寿郎。お前、呑むか?」

「うむ……普段はあまり呑まないが……今日は祝いの席だ。特別に呑むことにしよう!」

「おう、呑め呑め」

 

 東洋一は康寿郎の猪口に酒を注ぐと、もう一度、飛鳥馬に尋ねた。

「どうだ? 呑むか? まぁ、呑めないなら無理すんな」

 

 ギリ、と飛鳥馬は歯噛みすると、猪口を差し出す。

 半分ほど注いで上げようとすると、「なみなみと注げ!」とまた怒鳴られた。

 なんか音量のデカいヤツばっかだな……とは思いつつも、久しぶりに楽しい気分なので、気にしないことにする。

 

 しばらく七日間の空腹を満たすべく、三人は黙々と食べた。

 

 

「篠宮東洋一! ようやく会えたな!」

 

 おおむね食べ終えると、康寿郎がいきなりそんなことを言い出したので、東洋一はきょとんとした。

 

「風波見家の門下生だろう? 風波見家は私の家から半里ほどだ。風柱には何度かお会いしたこともある。父上が存命の時には、よく来ておられた」

「へ? あぁ…そうかい」

「風波見ってお前……あの風柱様の継子なのか?」

 

 飛鳥馬は驚いたように訊いてくる。

 

『あの風柱』―――――と呼ばれる所以(ゆえん)は、東洋一の師匠である風波見(かざはみ)周太郎(しゅうたろう)が隊内においては生ける伝説として語られていることによる。

 

 五年ほど前に、岩柱と鳴柱が相次いで鬼に殺られたことで、柱の数は三人にまで激減した。

 残った水・炎・風柱はその後の五年間をたった三柱だけでやっていかねばならないほど、鬼殺隊は追い込まれた。

 伝説の三柱と呼ばれる中で、水・炎は途中で代替わりしたものの、風波見周太郎は一人生き残って未だ健在であり、鬼殺隊最強と呼ばれるに至っている。

 故に、隊内において柱の中でも風柱は一種特別視されているのだ。

 

 が、東洋一には関係ない。周太郎(ししょう)は確かに尊崇されて然るべき対象だが、自分はただの弟子に過ぎない。

 

「あぁ、うん」

 手を休めることなくご飯を食べる東洋一に、飛鳥馬が興味津々という顔で尋ねてくる。

「じゃあ、柱を継ぐのか?」

 

 柱の弟子は継子と呼ばれるが、東洋一はただの弟子である。跡継ぎは賢太郎と決まっている。

 

「まさか! 俺はただの弟子だ」

「そうとも限らないだろう!」

 

 真っ向から否定したのは康寿郎だった。

 

「確かに風波見家は我が家と同じく世襲の柱だが、それはたまさか柱たるにふさわしい人間がその家系から輩出されたに過ぎない。実力もない人間が柱になることは許されないからな! 風柱様も、特に世襲にはこだわっていないはずだ!」

 

「えぇ~…??」

 東洋一は聞きながら、ヒラヒラと手を振った。「冗談だろォ、やめてくれよ~」

 康寿郎は不思議そうに首を傾げた。

 

「何故だ? 篠宮東洋一は強いと聞いている。継子の中でも特に優秀だと仰言られていたので、手合わせ願いたいと何度か伺ったが、いつも貴君は御内儀(ごないぎ)に頼まれた用事の使いで留守だったのでな……今日まで会えなかったが、ようやく会えた! 手合わせ願いたい!」

 

「いや…今度な。今、酒呑んでるだろ」

「うむ。そうだな…では明日」

 康寿郎はそう言って、グイと酒を呷る。

 

 飛鳥馬は康寿郎と東洋一をそれぞれに見つめた。

「あの炎柱の息子と……あの風柱様の継子………」

 つぶやいてハアーッと溜息をつくと、一人手酌で酒を呑み始めた。

 

「おい…慣れてないなら、そう()いて呑むなよ」

「うるさい! なんでお前らみたいなのが同期なんだ。どうせ俺が一番先に殺られて終わりだ」

「何言ってんだ?」

 

 東洋一には飛鳥馬の苛立ちが理解できなかった。

 ともかくも怒っている奴に話しかけても損なだけなので、東洋一は康寿郎に話を向ける。

 

「そういや、お前、父親が炎柱ってことは…今の炎柱は?」

「叔父だ! 父亡き後は私の師匠でもある! 私を育ててくれた恩人だ!」

 

「…大したものだな。伝説の三柱である炎柱二人共に薫陶を受けて……」

 飛鳥馬は脇息に凭れかかりながら、拗ねたようにつぶやく。

 

 伝説の三柱――――ではあるが、炎と水は途中で代替わりしたため、人数としては五人いる。

 

 少しばかり嫉妬の入った飛鳥馬の言葉に、だが康寿郎はまったく悪意を感じなかったらしい。

「うむ! 我ながら、幸福なことだと思う!」

「………」

 すかされた飛鳥馬が呆気にとられる。

 

 東洋一がゲラゲラ笑うと、じっとりした目で見てきた。

「お前……なんで継子なのに、師匠の奥方にコキ使われてるんだ?」

 

 赤くなっている顔を見て、東洋一は飛鳥馬が酔ってきていると確信した。

 さりげなく飛鳥馬の傍にあった銚子を離しておく。

 

「いや、コキ使われているワケじゃ……たまたまっつーか」

「そうではないだろう!」

 否定したのはなぜか康寿郎だった。

「風柱の御内儀が貴君を邪険にしているのは明らかだ! 君の兄弟子も言っていたぞ。御内儀は篠宮東洋一が自分の息子にとって将来、邪魔になるから嫌っていると!」

 

 ぐっさりと芯をえぐりつつ、あくまで朗らかな康寿郎に、東洋一は乾いた笑いを浮かべた。

「いや…まぁ…そりゃ……あれだ。ちょいとばか虫の居所が悪かったんだよ、御内儀様の。だいたい将来って…なんだよ。柱とか、あり得ねぇよ」

 

「どうしてだ? お前の方が強いなら、お前が柱になって然るべきだろう。師匠の息子だからと遠慮でもしているのか?」

 まるで自分のことのように怒った様子で飛鳥馬が訊いてくる。

 東洋一は困惑した。

「そういうワケじゃない。賢太郎はまだ小さいし……遠慮するとか…だいたい、今やっと隊士になったばっかだろうが」

 

「うむ! やはり強い者がなるべきだ! 私も強くなって、煉獄家の人間としてその名に羞じぬ炎柱となるぞ! 東洋一も励め! 飛鳥馬も! 我々三人で柱となって、無惨を倒すぞ!」

 

 そう叫んで拳を振り上げたかと思うと、コテンと康寿郎は倒れた。

 さっきまで爛々と見開いていた目が閉じて、くぅくぅ寝ている。

 

「……コイツ、酔ってたのか……?」

 東洋一は呆れて溜息をつくと、とりあえず自分の羽織をかけておく。

 

 振り返ると、いつの間にか離してあった銚子が飛鳥馬の横にある。

「おいっ! お前……」

 

 言いかけて、東洋一はギョッとした。

 目の前で飛鳥馬は真っ赤な顔をして、号泣していた。

 

「柱か……柱なんて……ぼ、僕には……うぅ」

 

「おい、もう呑むな」

 東洋一は銚子を取り上げようと手を伸ばしたが、飛鳥馬はひったくるようにして取ると、そのままグイーッと一気に呷った。

 東洋一は天を仰いだ。後悔した。ものすごく。

 コイツらに酒なんぞ呑ませるんじゃなかった……。

 

「僕は…僕も…代々鬼殺隊の出だ。父も、祖父も……兄達も」

 飛鳥馬は泣きながら話し出した。

 

「あぁ、そうか。お前もなんか柱…なんだ、代々霞柱とかか?」

 何気なく相槌を打つと、飛鳥馬はキッと睨みつけて怒鳴った。

 

「そんなワケないだろう! ウチは代々平凡な一般鬼殺隊士だよ! 柱になれるような先祖は一人もいなかった!」

「あぁ……うん」

「僕が柱なんかになれるもんか………兄さんにだって無理だったのに……」

「そうか、うん。無理すんな」

 

 こうなれば、いっそ酒を呑まして康寿郎のように潰すしかない。

 東洋一は飛鳥馬の猪口に酒を注ぐ。飛鳥馬はじーっと猪口の中の透明な液体を見つめた後、グイッと呷って、また突き出す。東洋一は溜息をつきながら、また酒を注いだ。

 

「僕には兄弟が八人いたんだ。兄さん達は皆、死んでしまった。僕が最後の子供なんだ……よかった……生き残れて……よかった」

「うん。よかったよかった」

「東洋一。あの刀……お前が倒してくれた鬼が持っていた刀……な。俺のすぐ上の兄さんのものだ。一番、強かったんだ。僕なんかより…ずっと、ずっと……兄さんだったら柱になれたかもしれないのに……僕なんかより…ずっとふさわしかったのに……」

 

 話しながら飛鳥馬はボロボロ泣き続ける。

 もう涙腺のネジが緩みまくって、外れているのかもしれない。

 

「まぁ、そう言うなよ。兄さんの分も頑張ってみろよ。そしたら柱にだってなれるかもしれねぇだろ」

「簡単に言うな……」

「いや。お前…わりと強いと思うよ。鬼を斬った時の動作もさ……たぶん、鬼の方は斬られたって感覚もなかったんじゃないか? 大したもんだと思ったよ」

 

 東洋一は軽い調子で言ったが、それは事実だった。

 飛鳥馬の身のこなしは、相当な鍛錬を積まねばできない。

 今はこんなだが、普段においては真面目な男なんだろう…ということは、短い時間ながらも感じたことだ。

 

 飛鳥馬はしばらく無言だった。

 頭が垂れている。

 潰れたか? と思ってそっと窺うと、急に顔を上げた。

 

「…………だったらお前も柱になれ。お前の方がずっと強い」

 

 そう言って、じいいぃと飛鳥馬は東洋一を見つめる。というより、目が据わっている。

 酔っ払いにまともな返事をしても無駄だと、これまでの経験で東洋一はよくわかっている。

 

「あぁ、わかったわかった。三人で一緒に柱になろう」

 

 軽く応じると、飛鳥馬はニコーッと笑みを浮かべ、そのまま大の字になって寝た。

 

 ハアァ…と溜息がもれる。

「酔っ払い共が……弱ぇんだよ」

 その後、ひとり酒もさほど続かず、東洋一もそのまま寝入った。

 

 

◆◆◆

 

 

 最終選別を終えた鬼殺隊士がさんざ酒盛りした挙げ句、酔っ払って正体なく寝ていた…。

 その藤家紋の家では、前代未聞のこととして語り継がれ、次の選別からは酒の提供をやめたという。

 

 

 

<つづく>

 

 

 





次回は2021.06.09.水曜日の更新予定です。



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第五章 昔日 -暁風篇- (三)

残酷描写が多少あります。



「よォ。お前か…ヤサ男の隊士って」

 

 会うなりそう言って近づいて来る男に、鱗滝左近次はあからさまに冷淡な顔つきになった。

 が、相手は一応先輩で、自分はまだまだ新米の一隊士である。

 

「……鱗滝左近次と申します」

 

 丁寧な口調で形ばかりのお辞儀をすると、男は特に気にかける様子もなく「おゥ。じゃ、行くか」と走り出した。

 名前も聞いてないが、左近次はあえて聞こうとも思わなかった。

 走りながら男が問うてくる。

 

「お前、今回が初めての任務じゃないよな? 今までにどれくらい殺った?」

「……四」

「四ね。なかなかじゃねぇか。去年の選別からで、その数は」

「………」

 

 左近次は足を早めた。

 男を抜かして走って行く。

 

 今宵は新月。夜半の道は暗く、星明かりも切れ切れの雲に隠されている。

 ビョオオと強い南風。春は近い…。

 

 小さな村を襲った鬼は、村人五人を喰い殺した後、日の出と共に姿を消した。それから一月ほど鳴りを潜めていたようだが、また現れたと報せが来た。

 残されていた村人は藤の香を焚いて鬼を忌避していたが、村外れに住む浮浪人の親子が襲われたらしい。

 

 村へと向かう道の途中で、左近次は足を止めた。

 風上から血のにおいがする。

 

「どうした?」

 後ろから来ていた男が首を傾げた。

「………」

 クン、とにおいを嗅ぐ。

 

 おかしい…。二つ…ある…?

 

 左近次が戸惑っている間に、道の両脇に広がる千萱の群生がガサガサと揺れ、ピョンと黒い影が飛び出してきた。

 

 ダラダラと涎を垂らして、月を背に立っている―――――鬼。

 右手には殺したばかりらしい犬の頭。

 左手からはボタボタと血が滴っている。

 かろうじて身に纏っているだけの粗末な着物は血だらけだった。

 

 なによりおかしなことに、頭が部分的に欠けていた。

 まるで何かに噛み千切られたかのように。

 だがそれも見ている間に再生していっている。

 

 左近次がざっと鬼を観察している間、鬼もまた猪首を突き出してジロジロと無遠慮に左近次を見つめていた。

 やがて、チッと苛立たしげに舌打ちする。

 

「稚児上がりの餓鬼(ガキ)が……なまっちろい顔して刀なんぞブラ下げやがって……」

 

 ピシッ、と左近次の中で何かが苛立ちはじける。

 柄を握りしめる手が少しだけ震えた。

 

「ちょいとばかし見目がいいからって、意気がるなよ、小僧! テメェなんぞ、年増のババァか因業ジジィの陰間でもやって………」

 

 聞くに堪えない下卑た言葉を放つ鬼に、左近次はギリと歯軋りすると、技を放った。

 

 水の呼吸 壱ノ型 水面斬り

 

 一足飛びに間合いを詰められた鬼は驚く間もなかった。

 半笑いを浮かべたまま、首は胴を離れる。

 チン、と刀を鞘に収め、左近次は鬼の首が地面に落ちるのを見ることもなく背を向けた。

 

「あ…あ…ゥ…が……」

 

 鬼は信じられないように紅い目を見開いた。

 自分の体が煙となって消えていくのを見て、恐怖に絶叫する。

 助けを求めて視線が泳いだ先に、自分を一顧だにせず歩き去っていく左近次の背中があった。

 

「ク……ソ……」

 

 辛うじて残っていた左手が、転がっていた犬の首を掴むと、鬼は怨念をその中に入れ込むかのように吠えて投げつけた。

 

 左近次は背後の鬼のことなどもう気にしていなかった。それよりも先程来、気にかかるにおいがもう一つある。

 

「あの…」

 

 一緒に来ていた男に声をかけようとして、左近次は息を止めた。

 

 牙を剥き出した犬が左近次の首へと喰らいつく寸前、目の前の男が抜刀するなり、犬の目を突き刺した。 

 ポト、と左近次の耳朶から血が一滴落ちた。

 

「…クソォォォ……こんな腑抜けた顔の野郎に………嫌いだァ…嫌い……だ…ァ」

 

 鬼は最期まで左近次の容姿を馬鹿にしながら――――というより、あるいは嫉妬していたのか、執念深く恨みを唱えながら消えていった。

 

「油断したな…」

 男はブンと刀を振って犬の頭を捨てると、薄ら笑いを浮かべて鞘に収めた。

 

「……すいません」

 左近次が掠れた声で言うと、

「大変だねぇ、色男も」

と茶化す。

 

 左近次は眉を寄せたが、また風上から漂ってきたにおいにハッとなった。

 

「どうした?」

「……まだ………います」

 告げて左近次は走り出した。村の方角だ。

 

 キャアアア…と女の悲鳴が聞こえた。

 

 

 集落からは少し離れた水車小屋の上で、たった今、殺したのであろう娘の死体を喰らう鬼がいた。

 まだ、左近次と同じ年の頃―――十五、六に見える。

 

 鬼となってまだ日は浅い、と思われた。

 さほどに姿に変貌がなく、明らかに人間と違うのは、額から生えた二本の白い禍々しい角。

 口からは牙が飛び出し、爪は赤黒く伸びて血がこびりついていた。

 

 鬼は娘の肩の部分を喰い千切り、クチャクチャと食べていた。

 左近次は息を吸い込んで全集中の呼吸に入る。

 刀を抜いて構えると、急に後ろから袖を引っ張られた。

 

「駄目ッ!」

 振り返れば、少年が左近次の袖の袂を掴んでいる。

 年は九つか十といったところだろうか。

 

「兄ちゃん! 逃げて!!」

 

 どうやら鬼の弟であるらしい。兄が鬼に変貌しても、どうしても肉親の情を捨てきれないのか、少年は必死で左近次の腰に巻き付いてくる。

 左近次はその少年の腕を掴むが、案外と力が強くて引き剥がせない。

 

「離してくれ」

「嫌だッ! 兄ちゃんを殺すなッ!!」

「お前の兄はもう人を殺してるんだぞ!」

「あの女は兄ちゃんを裏切ったんだ! 殺されたって文句は言えねぇッ」

 

「ハハハハハ! そうだそうだ! コイツは殺されて当然の売女(ばいた)だ」

 鬼は笑いながら娘の肉を喰らう。

 

 左近次は「すまん」とつぶやくと、柄で少年の手を打った。少年がアッと痛みで思わず手を離すや、グイと後ろへと押しやって、息を吸い込む。

 

 水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き

 

 強く踏み込んでからの跳躍。

 鬼の首の根へと刃を突き立てる。パックリと鬼の喉元に穴が空いて、そのまま鬼は小屋の後ろへと落ちてゆく。

 

 鬼の手が離れ、娘はごろごろと屋根の上を転がり落ちた。

 左近次は娘の死体を抱きとめると、道端へとそっと寝かせた。

 見るも無残な姿であっても、人としての形を留めた状態で家族に引き渡すべきだろう。

 

「兄ちゃん!」

 少年は小屋から落ちて、ビクビクと痙攣している鬼へと走り寄って行こうとする。

 

「待て!」

 左近次が声をあげると同時に、少年は途中でヒョイと上へと浮いた。

 

「……なんか面倒なことになってんな」

 いつの間にかやって来ていた男がのんびりした口調で言う。

「いきなり走り出すから、探したぞ」

 

 少年は男に襟首を持たれて、宙で足をバタバタさせていた。男に向かって必死に蹴りつけて自由になろうとするが、難なく躱されて手も足も出ない。

 

「離せッ! 兄ちゃんッ!!」

 

 甲高い声をまったく無視して、男は左近次に尋ねてくる。

 

「コイツ、どうすんの?」

「向こうに避難を……」 

 

 言っている間に、鬼の首の穴は再生していく。

 傷跡が完全に消えると、鬼はムクリと起き上がった。

 

「テメェェェ……」

 怒りに顔を赤く染めた鬼は、見る間に大男へと変化していく。

 

 紅く見開いた目からは血が流れてそれはそのまま斑紋となり、メリメリと筋肉が膨らんでいく音がすると共に、鬼の両腕は逞しくなり地面にまでつきそうなほどに伸びて、手もまるで無花果(いちじく)の葉のような大きさになった。

 

「兄ちゃん……」

 少年はあまりに変貌した兄の姿に呆然となった。

 

 鬼が男諸共に弟を掴もうと手を伸ばしてくると、男は無造作にその手を斬って捨てた。

 

「アガアアアァァ!!」

 

 鬼が痛そうな悲鳴を上げると、少年は泣きながら叫んだ。

 

「兄ちゃんッ! 兄ちゃんッ!! やめろよッ! 兄ちゃんを斬るなァ!!」

 

 ブルブルと必死に体を振りながら、少年は腰紐を解いた。

 途端にすっぽりと着物が脱げ、褌一丁になって少年は地面へと落ちた。

 

「兄ちゃんっ!」

 

 少年が鬼に向かっていこうとする。

 

「待て!」

 

 左近次は刀を構えた。

 一瞬、迷いが走る。

 それでも走って少年を追い抜きざま、技を繰り出した。

 

 水の呼吸 肆ノ型 打ち潮

 

 流麗な身のこなしに乗って、斬撃が繰り出される。鬼の身体が寸断された。

 

「ウガアアァァァァ!!!!!!!」

 

 手と足を斬り落とされた鬼が地面に蹲るように突っ伏する。

 

「痛い、痛いィィ! 痛いィよオォォ……」

 

 鬼が紅い目から涙を浮かべて、赤子のように泣き叫ぶと、少年は肉塊に成り果てた兄の前で両腕をあらん限りに伸ばして庇った。

 

「お願いだよォッ! 兄ちゃんを殺さないで! もう誰も殺さないから!! 俺達はこの村を出てくからッ」

「………」

 

 左近次は唇を噛み締めた。

 少年の背後の鬼もまた、紅い目に涙を浮かべて必死に命乞いをする。

 

「頼むゥ! 頼むゥよォォ…命だけはァ……俺は…俺は……」

「助けておくれよぉッ!!!!」

 

 悲鳴のような懇願と共に、少年は跪いて土下座する。

 

 と、同時に。

 ヒュンッ! と、空気を切り裂く音がしたかと思うと、少年の背後にいた鬼の首は落ちていた。

 

 左近次は息を呑んだ。

 男が、いつの間にか少年と鬼を飛び越えて、あちらに立っている。

 崩れゆく鬼の、いつの間にか再生して伸びた手の先―――そこには少年がいた―――を見て、苦々しく笑っていた。

 

「う……わあああぁぁぁ」

 

 少年が煙となって消えていく兄の手を掴もうとする。自分を殺そうとしていた手を。

 

「兄ちゃん! 嫌だ! 嫌だ!! 兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃんッ!!」

 

 何度も呼びかける言葉と一緒に、少年から絶望のにおいがしてくる。

 たった一人、孤独になった人間の、暗い穴に落ちていく不安と焦燥と恐怖と怒り。

 骸すらなくなって、少年はただただ茫然と座り込んでいた。

 

「ホレ…風邪ひいちまうぞ」

 

 男はバサリと少年の着物を頭からおっ被せた。

 その着物を払いのけて立ち上がると、少年はギロリと男を睨み、次いで左近次を睨んだ。

 

「人殺し! なんで兄ちゃんを殺したッ!?」

 血走った目から、ボロボロと涙が零れ落ちる。

 

 左近次は俯いて柄を握りしめる。

 隣で男があっさり言った。

 

「恨めよ」

 

 少年は目を見開いて、男を凝視する。

 男は少年を悠然と見下ろしていた。

 

「恨みたいだけ恨め。そんでいずれ、俺でもコイツでも仇討ちに来い」

 

 呆然と立ち尽くす少年を置いて、男は歩き出す。

 

 

--------------------------------

 

 

 村から出たところで、左近次は鴉に任務完了を報せる紐を括りつけて飛ばした。

 男は鴉を見送ってから、振り向いて左近次を見つめた。

 

 その目は怒っているようにも、笑っているようにも見え、ある程度、人の気持ちを推量できる左近次にも、男の今の感情を見極めることができなかった。

 

「お前、あれワザとだろ? 肆ノ型で首をとらなかったの」

 

 いきなり問われて、左近次は沈黙する。

 

「兄弟二人、鬼と人間で生きていけると思ったか?」

「………いえ」

 左近次は拳を握りしめた。

 

 最後の鬼の言葉。

『俺は…』の後、かすかに聞こえた。『死にたくない』と。

『生きて、殺して、喰らい尽くすんだ!』

 ……鬼の生々しい心の叫びが、鼻を覆いたくなるような腐臭となって刺してきた。

 

 弟と一緒にいたかった訳ではない。

 やはり鬼は鬼。

 ただただ自分の欲望のままに生きていたかった。

 だから、最期まで自分の弟すら殺して喰おうとしていたではないか……。

 

 沈鬱な表情で黙り込む左近次を見て、男はフッと笑った。

 

「そう、沈むなよ。しょっちゅうあることじゃねぇが、珍しくもねぇ。鬼が命乞いすんのも、鬼になった家族を庇おうとするのも…。どっちにしろ、鬼は殺すしかねぇし、家族にゃ恨まれるしかねぇんだよ」

「………」

 男の答えは明快で、迷いがない。

 鬼狩りとしての実績を積めば、いつかそう思えるようになるのだろうか。

 

 自分は…まだ迷いの中にいる。

 

 もし今日、単独任務であれば、確実に少年は鬼によって殺されていた。

 一瞬の判断の遅れが、少年の命とその後の人生を変えていた……。

 

「………」

 悄然として項垂れる左近次に、男は肩をすくめて言う。

 

「お前、あの時、弟の方しか見てなかったろ?」

「………はい」

「判断が甘いな。次からはもうちっと目端広げるこったな。そんなこっちゃ、鬼にやられて、ヤサ男の(ツラ)に傷がついちまうぞ~」

 

「………」

 また、ピキッと左近次の中で苛立ちが()ぜる。

 

 前からやって来た隠に、死んだ娘とあの少年のことを頼むと、左近次は足早に歩き出した。

 

「おーい…怒るなよー」

 男がのんびり言いながら追ってくる。

 

「なァなァ…さっきなんで鬼がいるってわかったんだ? 一匹目の後。俺ァ、まったくわからんかった」

 

 あからさまに仏頂面の後輩に、男は屈託なく問いかけてくる。

 左近次は軽く嘆息して答えた。

 

「………においがしましたから」

「におい?」

「……私は鼻が()くんです。鬼のにおいや……色々とわかるんです」

「へぇ…便利なもんだなァ。何だよ、天はちゃあんと二物を与える奴には与えるんだな」

 

 言う人によっては嫌味であるのだが、男の言い方は特に羨ましそうでもなかった。

 

 左近次はピタ、と足を止めた。

「……なんですか?」

 憮然として問うと、男は今更ながらに自己紹介した。

「俺ァ、篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)ってんだよ。東洋一でいいや、小せぇ頃からそう呼ばれてるから」

 

「………」

 左近次は内心の驚きを隠しながら、まじまじと男を見た。

 

 いつ洗ったのか、埃っぽいボサボサの髪を無造作に後ろで束ね、伸び切った月代(さかやき)部分が痒いのかガリガリと掻いている。

 

 その名は、道場で何度か聞いていた。

『伝説の風柱』の継子。

 大柄な図体のわりに俊敏で、柔軟な身体から繰り出されるその技は、多くの風の呼吸の遣い手とは一線を画す。

 

 ―――――篠宮東洋一は笑って鬼を斬る…。

 

 一部の隊士の間では、称賛と畏怖を込めて語られていることだ。

 先程の鬼を殺した手腕を見ても、相当の手練である。それと――――

 

 左近次は息を吸い込むと、東洋一にしっかり向き合った。

「貴方のことは知ってますよ。酒と博打(ばくち)と女でいつも素寒貧(スカンピン)。金を借り回ってばかりいるから、風柱様からも度々叱りつけられ、年末には付け馬につきまとわれて、やたらと逃げているうちに足が早くなったと……」

 

 東洋一は長い溜息とともに、天を仰いだ。

 ゲンナリしたようにつぶやく。

 

「どうでもいい情報を……」

「真実でしょう?」

「まぁ、そうなんだけど」

 

 否定もしない。だが、そこに卑下はない。

 清々しいくらいに悪びれてない。

 最初に会った時からこの男の中に嫌なにおいはなかった。

 透き通った秋風が、熟れて蒸れた夏の湿気を飛ばしていくようなカラリとしたにおいだ。

 

「それで、なんです?」

 左近次が尋ねると、東洋一はニコリと屈託ない笑みを浮かべた。

 

「……お前、強いな。あの刀捌き。無駄な力が一切ない。流れに淀みがない……まさに水の呼吸の手本みたいな操体だ。これからも、どんどん鬼狩ってくんだろうな~」

「はぁ……」

 いきなり褒めてくるので、左近次は警戒しつつも戸惑った。

 

 東洋一は一歩だけ寄ってまじまじと左近次の顔を見つめると、ツイと鼻先に扇子を向けてくる。

 

「お前のツラ……二枚目だが、どーにも間抜けだな~。よく見りゃタレてんだな、目が。鬼に馬鹿にされんのって、そういうとこじゃねぇ?」

 

「…………」

 また、ピキッと癇に触れる。

 

 クルリと踵を返すなり、左近次はスタスタと歩き出した。

 東洋一は今度は追ってこなかった。

 

「……またな~」

 

 背後から能天気な声が聞こえてきたが無視する。

 

 その時は今後、絶対に篠宮東洋一には関わるまい…と、左近次は固く決心していた。

 

 

 だが数年後に再会すると、なんだかんだでつるむようになっていった。

 結局のところ、同じ剣士として東洋一の剣技の才は見過ごせなかった。

 

 それに最初の印象のまま、変わることのなかった澄んだ風のにおいが、偏屈者の左近次には居心地が良かったのだ。………

 

 

 

<つづく>

 

 

 

 






次回は2021.06.12.土曜日の更新予定です。



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第五章 昔日 -暁風篇- (四)

「ジゴさん! 柱就任、おめでとー」

 そう言って東洋一(とよいち)が近づくなり、鳴柱・桑島慈悟郎は後ずさった。

 

「なんだ今更……何の用だ?」

 警戒する慈悟郎を、東洋一はニヤニヤ笑って追い詰める。

 

「まぁまぁまぁ。就任祝いと行きましょう」

「何が就任祝いだ! 柱になってから一年以上、()っとるわ。お前、俺にタカってるだけだろうが!」

「嫌だなー。そんなケチなこと言うもんじゃないですよ、柱が。久しぶりに会った後輩を(ねぎら)ってくださいよ、柱なんだし」

「柱、柱と……安く言うな!」

 

 とは言いつつも、結局、慈悟郎は押し切られ、気がつけば行きつけの居酒屋で祝杯を上げていた。

 祝われているが、おそらく支払いは自分だろう。

 苦虫を噛み潰しながらも、実のところ東洋一と呑むのは嫌いでない。

 

 初めて会った時から、どこかしら人をくったような…それでいて妙に憎めぬ男であった。

 

-------------------

 

「あ、どうも。篠宮東洋一といいます。よろしくお願いします」  

 

 道場で居並ぶ先輩を前に、その男は軽く挨拶した。

 そのふてぶてしい様子に、慈悟郎を含めて皆、少しイラッとしたのだろう。

 

「オイ、新入り! 稽古をつけてやる」

 

 その場にいた一人が怒鳴りつけ、道場で暇をしていた人間が修練場へと向かった。

 慈悟郎は任務中に破けた着物にツギ当てしていたのだが、しばらくすると、一人の隊士が呼びに来た。

 

「慈悟郎……お前、行ってくれよ」

 腹に打撃を受けたのか、押さえて時々うぅと呻いている。

「なんだよ…お前ら。自分らで連れて行っておいて、やられてんのか?」

 慈悟郎は笑いながら、面白そうだと思って修練場へと向かった。

 

 そこには三十人ほどが集っていたが、その半分がさっきの男のようにうぅぅ、と呻いて隅に転がっていた。

 

「桑島! 来たか!」

 出入口に現れた慈悟郎を見るなり、まだ立合前だった隊士の一人が走り寄ってくる。

「あ、アイツ…やっつけてくれ」

 

「お前ら……新入り相手に何やってんだ?」

 情けない姿に嘆息しながら、慈悟郎は壁にかかってある木刀を取った。

 

「桑島慈悟郎とまともにやれるヤツなんざいねぇんだ!」

「鬼殺隊の厳しさを知れよ、新入り!」

 

 横から野次を飛ばす同僚を慈悟郎が睨みつけると、彼らはピタリと口を閉ざした。

 まったく恥ずかしいヤツらだ。自分らが敵わないからって、俺にやらせようなんざ……。

 

 慈悟郎は深呼吸して、その新入り――――篠宮東洋一とやらと向き合う。

 

「やりますか?」

 肩に木刀を担いで、東洋一は余裕の笑みだった。なるほど、これはムカつくだろう。

「構えろ」

 慈悟郎が低く言うと、東洋一は刀を構えた。まだ、不敵な笑みを浮かべている。

 

 しばらく無言で見合い、慈悟郎はゴクリと唾を飲んだ。

 久しぶりだった。人間相手にジワジワと足元を這い上がってくる、この戦慄(ふるえ)

 

 東洋一もまた、慈悟郎と向き合ううちに何か感じたのであろう。

 笑みが消え、鋭い双眸がじっと慈悟郎を見つめていた。

 

 双方、同時に気合を叫ぶと、慈悟郎は凄まじい勢いで相手の胴へ、東洋一は慈悟郎の小手に打ち込んでいた。

 倒れたのは、東洋一の方だった。わずかに避けきれなかったらしい。

 雷の呼吸を遣う慈悟郎に速さで及ぶ者はいない。

 だが、慈悟郎も木刀を落とした。

 

「くっ、桑島の勝ちだ!」

 同僚が叫ぶと、「うるさいっ!」と慈悟郎は一喝した。

 

「大丈夫か?」

 慈悟郎が声をかけると、東洋一はニコッと笑った。

 さっきまでのニヤニヤした笑い方と違い、少年らしい愛嬌のある笑みだった。

 

「いやぁ、久しぶりにやられた。康寿郎(こうじゅろう)にやられて以来だ」

「康寿郎?」

「同期です。あ、飛鳥馬(あすま)にも一回やられたか」

「飛鳥馬?」

「あ、同期です」

「………お前さんの同期は、なかなか優秀なのが揃ってるんだな。お前さんとやり合って勝つとは」

「ジゴさんも相当ですよ」

 

 言いながら、東洋一はフーッと息を吐いて立ち上がった。それで、もう治っているのだろう。おそらくこの男は既に全集中の呼吸・常中を会得している。

 

 しかし……

 

「ジゴさんて、俺のことか?」

「そうですね」

「俺、先輩だぞ。年はいくつだ、お前?」

「十五です」

「五つも年上だぞ!」

「そうですか。まぁ、いいでしょ?」

 

 屈託ない笑顔で言われて、慈悟郎は言い返せなかった。

 結局、それ以来「ジゴさん」と呼ばれ…… 

 

----------------------

 

「……あの時しっかりコイツに先輩だということをわからせてやっておけば………」

 慈悟郎はフーと溜息をついて酒を呑む。

 

 その後、担当地区が同じであったために共同任務にあたることもあり、道場でまともにやり合える相手が互いしかいない、ということもあって、気がつけば篠宮東洋一は一番仲の良い後輩となっていた。

 

 何度か呼び方についての不満も言ったのだが、うやむやのうちに定着してしまい、その内、ほかの隊士からも呼ばれるようになった。

 もっとも、柱となった今ではさすがに遠慮して、皆「鳴柱様」と呼ぶようになったというのに、東洋一には関係ないらしい。

 

「ジゴさんも入ったし、また新しい柱も入ったんだろ? いやー、良かった良かった」

「お前な。もうちょっと柱に対する尊敬というか…」

「尊敬なんて、柱になる前からしてますよ。あともう一本つけてもらったら、もっと尊敬しまくります。――――おーい。銚子もう一本追加~」

「いい加減にしろよ、お前。何本目だ? まだ半時も経ってないんだぞ」

「そうなんですか? まだまだ呑めますね」

「そういうことじゃない!」

 

 言っていると、田楽とねぎまの鍋が運ばれてくる。

「おい! どれだけ頼むんだよ!! こんなに食えるか!」

 既に膳にはこれでもかというくらいに皿が並んでいる。

「仕方ないでしょ。食べ盛りなんだから、コイツ」

 言いながら東洋一は大根の田楽を一つ、取って食べた。

 隣の天狗の面を頭に乗せた男は、ジロリと睨んで、こんにゃくの田楽を食べ始める。

 

 最近、東洋一とよくつるんでいる後輩らしい。

 名前は鱗滝左近次と挨拶された。

 さっきから入ってくる客が二度見するくらい、優しげな、整った風貌の男なのだが、本人はまったく気付いてない様子だ。

 楽しいのか楽しくないのかわからない顔で、黙々とひたすら食べている。

 慈悟郎は首をかしげた。

 

「酒も呑まんのに、この男にくっついて来て…お前さん、この男に弱みでも握られてるのか?」

「どういう意味だよ。失礼だな、ジゴさん」

 

 ムッとした様子で言う東洋一を無視して、慈悟郎は左近次に尋ねた。

 

「コイツに金を貸したりしてないか? 博打で有り金とられたとか、美人局に引っ掛かったとか言って……」

「えぇ、はい」

 左近次はあっさりと頷いた。

 

「やっぱりか!」

「ついでに言うと、遊郭(さと)にも無理に付き合わされます」

 ねぎまのマグロを食べながら、左近次はしれっとした表情で東洋一の悪行を述べる。

 

「なにやっとんだ、お前。後輩にまで迷惑かけよって…」

「いやー。だってさ、ジゴさん。コイツ連れていくと女受けがいいのよ。後で行こうか? 久々に。深川あたり」

「要らん! これ以上、金は出さん」

「私も嫌です」

「なんだよ~、ケチ! 女もなしに男でつるんで呑んで何が楽しいってんだーっっ」

 

 酒が回り始めたのか、東洋一はいきなり叫び声を上げた。店内の客があきれた視線を投げかけた。

 慈悟郎は深く溜息をつく。

 

「……なんなんだ? いきなり」

「気にしないでください。またフラれただけです」

「ハァ? またか」

「まぁ、いつものことです」

「ったく……相手してもらいたいなら、商売女を口説くなよ、お前は」

「うるせーやい! 向こうだって恋文くれってたんだぞ」

「私ももらいましたよ」

 

 平然と言って、左近次はねぎまを食べ終えると、天ぷらを注文する。

 正直、見てるこっちが気持ち悪くなるくらい食べる……。

 

「てンめェ…俺に誘われて嫌々ってな顔しといて、なに勝手にモテてやがるッ!?」

「……立て替えた揚代、もらってませんけど?」

「だから今日、誘ってやったんじゃねぇか」

「………オイ。その払い、俺だろう」

 

 慈悟郎が睨みつけると、東洋一はヘヘヘと笑いながら猪口に酒を注いで渡す。

 

「ま、おひとつ。よかったですね~、柱」

他人(ひと)の財布で借りを返すな!」

「ケチくさいこと言いなさんなよ~! どーせ金貰ったって、そうそう使やしないんだから、ジゴさんは。たまに後輩と呑んだ時くらいパーッと使いましょ、パーッと!!」

 

 東洋一が大声でまた騒ぎ出すと、後ろでダン! と壁に拳を叩きつける音が響く。

 

 途端にピリピリした緊張感が店内に張りつめた。

 慈悟郎が振り返ると、ゆっくりと立ち上がった下げ髪の少女が、眉間に皺を寄せてこちらに向き直った。

「あっ」と短く声を上げた慈悟郎を、少女はジロリと睥睨する。

 

「なんだい? お嬢ちゃん」

 東洋一がニヤニヤと笑って声をかけた。「子供がこんな店で飲み食いする時間じゃないぜ~」

 

「心配無用。ここの店主とは顔なじみだ」

 少女は冷えた目で東洋一を見ると、大人びた口調で言った。

 

「休息中に邪魔はしたくないがな、他の客もいる。みっともない酒の飲み方は控えることだ」

「ほぅ。随分と上段に構えた物の言い方をなさることだな」

 

 東洋一は腕を組むと、面白そうに少女を見た。ピク、と少女のこめかみが震える。

 

「私を馬鹿にしない方がいい」

「馬鹿にはしねぇ。子供(ガキ)だと思うだけだ」

「…………」

「一番、みっともねぇ酒の呑み方を教えてやろうか、お嬢ちゃん。場を白けさせて、酒呑みを素面(シラフ)に戻しちまうのが、一等、つまらねぇのさ」

 

 少女は一歩進むと、膳の上の銚子を取った。

「だったら、酔い潰れるまで呑め!」

 バシャリ、と東洋一の顔に酒をぶっかけると、少女は足早に立ち去った。

 

「あーあ……勿体ねぇの」

 東洋一は額を拭った手についた酒を舐めながら、チラと慈悟郎を見た。

「知り合いかい? ジゴさん」

 

「あぁ……さっきお前さんも言ってたろ。今度新しく入った柱」

「は?」

「花柱の五百旗頭(いおきべ)勝母(かつも)。聞いて驚け。十三歳だ。柱としちゃ、史上最年少だって話だ」

 

 しばらく東洋一は固まっていた。

 少女の去った戸口を見やり、また慈悟郎を見る。

 

「怒らせましたね、完全に」

 隣で左近次はさっき頼んだ天ぷらを、いつの間にか頼んでいた蕎麦に乗せてすすっていた。そろそろシメてくれるのだろうか…。

 少しホッとした慈悟郎の前で、東洋一が頭を抱えていた。

 

「やべぇ……師匠に怒られる」

「あぁ……そうだな。風柱様は、五百旗頭のことはすごく買っているからな」

 

 五百旗頭勝母は十一歳で入隊後、たった一年八ヶ月で甲まで上り詰め、先頃、下弦の鬼を討伐した。それも単独で、だ。

 その強さと、元花柱であった祖母からの薫陶を受けて、至極真面目で勤勉であるとの評価もあり、十三歳という若さで柱に推挙された。

 ついこの間のことだ。

 

「ただでさえ…この前、博打(ばくち)でスッたのがバレてしこたま怒られたばっかなのに……」

「お前、今年で二十歳(はたち)だろう? 少しは年下を見習え」

 

 慈悟郎は呆れて忠告したのだが、結局その後、東洋一はまた酒をしこたま呑んで、左近次に肩を貸してもらいながら帰っていった。

 

 

<つづく>

 

 

 







次回は2021.06.16.の更新予定です。




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第五章 昔日 -暁風篇- (五)

 齢十三で柱となったことで、隊内をザワつかせた五百旗頭(いおきべ)勝母(かつも)と、東洋一(とよいち)が初めて共同任務に当たることになったのは、居酒屋での最悪の初対面から一ヶ月後のことだった。

 

 最初、東洋一を見た勝母はひどく困惑した表情だったが、すぐに以前と同じ憮然とした顔になった。

 

 東洋一はたいがいの人間と仲良くなるのに、さほど時間はかからないのだが、どうにもこの勝母という少女には話しかけづらかった。

 

 無言のまま鴉の案内で進んでいき、夕闇の中、竹林を歩いていると、突然鋭い鳥の啼き声が響いた。

 同時に、頭上から影が落ちてくる。

 

 東洋一は飛び退くと同時に抜刀して、その影の一部を斬っていた。

 ギャアアと耳障りな甲高い悲鳴が辺りに響き渡る。

 

 東洋一の足元に朱色の鱗に纏われた、人間の男の腕ほどもある三本爪の鳥の足が落ちた。

 鳥は飛行して逃げると、竹藪の上を旋回して、再び向かってくる。

 十分に引き寄せてから、東洋一は技を繰り出した。

 

 風の呼吸 肆ノ型 昇上砂塵嵐

 

 竜巻のように巻き上がった風の刃が鳥を包み込む。

 キイィィと耳障りな啼き声が響き、ボトリと首が落ちた。

 

 術が解けて、元の鳥の姿に戻ると、小さな頭蓋骨だけが残されていた。

 鬼が血鬼術で小動物などを變化(へんげ)させ、下僕として使役することがある。この鳥もその類であった。

 

「使いか…」

 忌々しくつぶやいて、勝母は振り返りざま、技を繰り出した。

 

 花の呼吸 肆の型 紅花衣

 

「キャウッ!」

 背後から迫っていたその鬼は、その抜き打ちの攻撃に甲高い悲鳴を上げた。

 

 数本の竹と一緒に斬りつけられて、ボトリと右腕が落ちた。

 翼のようになっているが、先端に五本の骨のような指とその先には鋭い爪がついている。

 顔以外は朱色の鱗と白と茶の鳥の羽根に覆われていた。身の丈は八尺ほど。

 既に人としての知能が失われているのだろうか。目の焦点は合っておらず、少しばかり尖った口は開きっぱなしでダラダラと涎が垂れていた。

 

 鬼は真ん丸なその目を(しばた)かせると、一目散に逃げ出した。

 竹藪の中を飛行するかのように、縦横無尽にすり抜けていく。

 

 勝母と東洋一はほぼ同時に追っていったが、暗い竹藪の中ではどうしたって鬼に利があった。

 所々に伸びてきた筍に足を取られそうになる。

 

 そうこうするうちに、前方にほのかな灯りが見えてきた。

 東洋一は焦った。

 竹林を抜けると、確か花街の近くに出る。下手すると人がいる。

 

 竹藪から抜け出た鬼は用水路を越えて、小路へと入っていった。

 

「キャアアア」

 

 女の悲鳴が聞こえた。

 勝母はチッと舌打ちすると、粗末な板葺きの屋根に飛び乗り、屋根伝いに走り出した。

 曲がりくねった道を行くより、直線で鬼の場所に辿り着けると思ったのだろう。

 

 この辺りは花街の外れで、掘っ立て小屋ばかりが並んでいた。昔は局女郎(つぼねじょろう)が店を出していたが、今は役人に追い立てられてほとんど無人だった。

 

 一瞬、考えて東洋一は迷路のような小路を走り出す。勝母との体重差を考えると、同じことをすれば腐った屋根を破って、足がはまりこみかねない。

 

 屋根を伝っていく勝母の姿が消えた辺りを目指して行くと、女の悲鳴がまた響く。

 その声のした方へと向かうと、ちょうど勝母が花の呼吸を使って技を繰り出そうというところだった。

 

 鬼はキイィィとまた耳障りな啼き声を響かせつつ、咄嗟にへたりこんでいた人間の女を掴んで勝母の前へと出した。

 急に人間を盾にされ、勝母は呼吸を中断せざるを得ない。

 

「くっっ!!」

 

 身体を捻って、技を女から逸らせたものの、形勢を逆転させた鬼の攻撃と、自らの攻撃のあおりを食らって、地面に叩きつけられた。

 

「花柱!」

 

 東洋一が走り寄ると、脳震盪を起こしているらしく気を失っている。

 

 助け起こす暇はなかった。すぐに鬼が攻撃してくる。

 東洋一は勝母を蹴って隅へと身体を押しやると、クルクルと後方へと宙返りし、崩れかけた塀の上に飛び乗って鬼の攻撃から逃れた。

 

 敏捷な動きで攻撃を躱す東洋一に苛ついた鬼は、キィィィィと甲高く嘶いた。

 その口から無数の蝙蝠のような、黒い小さな鳥が飛び出てくる。いや、口から飛び出したというより、音が蝙蝠の姿をとったと言った方がいいかもしれない。

 無数の羽音がさざめき、東洋一を取り囲もうとする。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 技で散らしたものの、かいくぐった小さな蝙蝠が腕や足を切り裂いた。傷自体は大したことはなかったが、切られた箇所がジワジワと痺れてくる。

 

 ―――――まずい…

 

 毒だと認識できたが、解毒薬を服んでいる暇はない。

 東洋一はスィィィと深く息を吸い込んだ。

 

 まずは、あの鬼の手にある女をどうにかしないと、巻き込んでしまう。軽く跳躍して、東洋一は鬼の腕を狙って、技を放った。

 

 風の呼吸 陸ノ型 黒風烟嵐・(ひとえ)

 

 教えられた通りならば、その技は下から上へと斬り上げる大きな斬撃と同時に、無数の細かい斬撃からなる合わせ技なのだが、それだと女を傷つけてしまう。

 刀の持ち方と振りの角度を少し変え、東洋一は一つの斬撃でもって鬼の腕を斬り落とした。

 

 ドサリと腕と共に女が落ちたことを確認すると、すぐさま次の技を繰り出す。

 

 風の呼吸 肆ノ型 昇上砂塵嵐

 

「ギギィィィヤアアァァ!!!!!!!」

 

 断末魔の悲鳴と共に、鬼の首が落ちた。

 咆哮と共に飛び出した無数の蝙蝠が一つの形となって、東洋一の背後から襲いかかる。

 だが、寸前でそれも霧散した。

 

 花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬

 

 いつの間にか意識を取り戻していた勝母が、鋭い連撃で薙ぎ倒す。

 

「おぅ……ありがとよ」

 東洋一が軽く礼を言うと、勝母は眉間に皺を寄せた。

 

「最後まで油断するな」

「そうだな……」

 

 東洋一はフッと笑って刀を仕舞おうとしたが、ガチャンと落とした。

 どうやらさっきの毒が回ってきたらしい。

 

 勝母が怪訝そうに見た。

 

「どうした?」

「いや…毒が……」 

 

 言い終わる前に、勝母は腰にかけてあった巾着から小さな瓢箪を取り出すと、栓を開けて、無理やり東洋一の口に突っ込んだ。

 

「飲め! 解毒薬だ」

「う……ぐぐ」

 

 息が止まりそうになりながらもなんとか飲み下す。

 勝母は瓢箪を東洋一の口に押し付けたまま、助かった女の方へと歩いて行った。

 

「無事か?」

「あ……あ……」

 

 女は恐怖のあまり、言葉がでなくなっているようだった。

 

「立てるか?」

 

 勝母が問うと、女はブルブルと首を振った。

 

 東洋一は瓢箪の中の薬を全部飲むと、二人に近寄った。そこで、女が失禁していることに気付いた。無理もない。あんな異形の者に掴まれて、刀を目の前で振り回されては。

 

 東洋一は羽織を脱ぐと、女の膝の上へと放り投げた。

 

「それ腰に巻いてな、娘さん。今からアンタを家まで送り届けてくれる奴を呼ぶから」

 

 そう言って東洋一が鴉に任務完了の印をつけて飛ばすと、さすがに町中であるため隠は早くに訪れた。

 後の始末を隠に任せて東洋一は勝母と一緒に歩き出す。

 

「……薬は効いたか?」

 勝母は振り向くことなく尋ねた。

 

「あぁ、おかげさんで。ちょいと指先に痺れが残ってるだけだ」

「……そうか」

 

 それからしばらく無言だったが、堤防の上を歩いている時に、また勝母が声をかけてきた。

 

「………随分と、身軽だな。デカい身体の割に」

「まぁ、風はそういうもんだろ」

「そうでもないだろう。お前以外の風の呼吸遣いとも仕事をしたことはあるが、動き方はもっと鈍重だった」

「言うねぇ…花柱。まぁ、俺は元は曲芸師の息子だったからな。そのせいじゃないの?」

「曲芸師?」

「父親がな。俺は小さい頃から梯子やら一本竿によじ登って(しゃち)とかやってたのさ」

 

 勝母の言う通り、東洋一はデカい図体の割には身体が柔らかく、身軽だった。

 また、師匠からは「身体に芯が通っている」とよく言われた。つまり体幹がしっかりしている、ということだ。

 風の呼吸の技は体躯全体を使って繰り出すものが多いので、芯がブレると勢いが削がれるらしい。

 そういう意味では、幼い頃の父との遊びのような練習にも、意味があったということだろう。

 もっともそれは最近になってわかったことだったが。

 

「なるほど……道理で身軽な訳か」

 勝母は得心すると、またしばらく黙り込んだが、次の質問は東洋一の意表をついた。

 

「お前の父親は……風柱ではないのか?」

「………は?」

「そういう噂がある。風柱には息子がいるが、もう一人妾腹に産ませたのがいる、と。しかもその息子も引き取って一緒に暮らしていると」

「いや……ンな訳あるか。俺の父親は根無し草稼業のれっきとした大道芸人だよ。師匠と俺のどこに似たとこがあるんだよ」

 

 勝母はしばらくじいぃと東洋一を見上げて、「確かにな」とつぶやくと再び歩き出す。

 

「それで…お前の父親はまだ、その芸人をやっているのか?」

「あ? いや。俺の父親は鬼に殺されたんだよ。で、そこで助けてくれたのが師匠だ」

「……そうか。それで、風波見(かざはみ)家には恩義があるという訳だ」

「まぁ…そうだな」

「風柱はお前にとっては亡き父の代わりともいえる存在、ということか」

「んあ? 馬鹿言え。師匠は師匠だ。親父は親父。全然違うわ」

 

 勝母はふと足を止めると、振り返った。

 その目は何か複雑な感情を宿していたが、東洋一にはその意味するところはわからない。

 

「……どう違うんだ?」

「どうって……なんでそんなこと聞く?」

「聞きたいだけだ。父親は、お前にとってどういう存在だ?」

「はぁ? 親父? 親父は別に……普通の、なんてことねぇ親父だよ。普通に馬鹿で、間抜けで、お人好しの……」

「随分と悪口ばかりだな…」

「いやまぁ、実際そうなんだよ。そのせいでお袋と弟子に有り金全部持って逃げられるし、芸を見せろって地元のヤクザ者に絡まれて、(ふんどし)一丁で芸させられるし」

 

 思い出しながら、東洋一は笑った。

 今となっては、父親との旅の思い出はどこか間抜けで滑稽なものだった。おかげで未だにネタのように話してきかせると、慈悟郎などは腹がよじれるほど笑ってくれる。

 

 懐かしそうに笑みを浮かべる東洋一を、勝母は憮然として見ていたが、その瞳はどこか寂しげであった。

 

「なんだ? どうした?」

「……なんでもない」

 

 勝母はまた背を向けて歩き出す。

 

 お前の父親はどうなんだよ? ―――と、話を続けても良かったのだが、東洋一はやめておいた。

 

 どうもその先を聞くことは、藪蛇になりそうな気がした。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 一週間後。

 

 隊士達で借りあっている下宿の一室で寝ていた東洋一を、鱗滝左近次が訪ねて来た。

 

「なんだ? 天狗」

と、東洋一が聞いたのは左近次が天狗の面をつけているからだ。

 

 東洋一と一緒に討伐した鬼の後、これ以上鬼に馬鹿にされないために…と天狗の面をわざわざ自分で彫ったらしい。

 寝食以外の時はほとんどつけている。

 

 勿体ないことを…と東洋一なぞは思うのだが、左近次としては快適らしく、無用に声をかけてくる町娘が減ったらしい。聞きながら、ムカついて軽く腹に拳をくらわしたが。

 

 で、その天狗が尋ねてくる。

 

「今、お暇ですよね?」

「何しに来たんだよ? 俺ァ、今朝まで仕事だったんだぞ」

「もう、昼も回りましたし…行きましょう」

「どこに?」

「…………」

 

 返事をせずに、左近次は無理に東洋一を引きずっていこうとする。

 

「待て、オイ! なんだよ、どこ行くんだよ?」

「花柱がお呼びです」

「はぁ? 花柱?」

 

 聞き返す東洋一の脳裏に、仏頂面の少女の姿が浮かんだ。

 

「なんだお前…知ってるのか?」

「当然です。柱になる前には数回一緒に仕事もしましたし」

「そんなん聞いてないぞ」

「言ってませんよ」

 

 相変わらずしれっと言うと、左近次は袖を引っ掴んでどんどん歩いていく。

 

 花鹿(かじか)屋敷と呼ばれる花柱の家に入っていくと、ちょうど桜の見頃だった。

 花びらが舞い散って、石畳の上に桜色の模様となっている。庭には見事な松や槇の木の前栽があり、池の傍には杜若(かきつばた)の芽が青々と伸びていた。

 

 しかし花見に呼ばれたわけではないようだった。

 左近次は母屋に入ると、廊下を渡って、道場へと入っていく。

 

 東洋一は立ち止まり、ハアァと長い溜息をついた。

 

「なにしてるんです?」

 天狗がひょっこり顔を出して呼ぶ。「もう、観念してるでしょう?」

 

「オメェのそういうところ、ホント、嫌いだよ、俺は」

「それは傷つきますね」

「誰が誰に言ってんだ、馬ァ鹿」

 

 もう一度溜息をついて、東洋一は中に入った。

 正面で端座していた勝母が、東洋一の姿を見るなり立ち上がる。

 

「よく来たな、篠宮東洋一」

「………花柱殿。一応、言っておくが……俺は今朝まで鬼退治してたんだ」

「そうか。ご苦労だったな」

「労ってもらえるなら、家で寝かせてもらいたいんだが」

「夜明けに終わって今まで寝ていたなら十分だろう。お前と一度、手合わせしたかったんだ」

 

 白い道着を着た勝母は、凛とした女剣士でありながら、まだどこか幼い部分を残していた。柱だとわかっていても、子供相手に打ち合いしたいという気分にならない。

 

 しかしそんな東洋一にお構いなしに、左近次が木刀を渡してきた。

 

「オイ、お前が相手すりゃいいだろ」

「いつもしてますよ。でも、私は今日はこの後、任務があるので」

「だからって、なんで俺に言ってくるんだよ!」

「私が左近次に頼んだからだ」

 

 朗々とした声が響き渡る。

 

「左近次とは以前から何度か手合わせをしていた。正直、私相手に練習台になれる人間は限られているからな。お前ならいいだろうと思ったものの、どこに住んでいるかも知らないし、どうしたものかと思案していたら、思い出したのだ。あの居酒屋でお前の隣に左近次が座っていたのを。鳴柱から頼んでもよかったが、お忙しいのでな、こんな些末な用事を柱に頼むのも悪かろう」

「チッ……ジゴさんだったらうまいこと言って逃げ出したのに」

 

 ぶつぶつとつぶやいた東洋一を呆れたように見て、勝母は言った。

 

「普通は一介の隊士が柱と練習できると聞けば、泣いて喜ぶと思うがな」

「それ、自分で言うか」

「いいじゃないですか、東洋一さん。せっかくの機会なんですし」

 

 いけしゃあしゃあと言う左近次を東洋一は睨みつけた。

 

「お前は俺を人身御供にしたいだけだろ。いくら柱でも、子供相手に本気になれるか」

 

『子供』扱いされた勝母はピクリとこめかみを震わせたが、怒鳴りつけることはなかった。むしろ、フと大人びた微笑を浮かべた。

 

「そういえば……この前の任務ではお前に足蹴にされたんだったな」

 

 いきなり言い出した勝母に、東洋一はえ? と記憶を反芻した。そういえば、なりゆきで蹴り転がしたような気がする。

 

「十三の子供を足蹴にしておいて、本気になれない? 今更何を言ってるんだ?」

「あれは……」

 

 反駁しかけた東洋一を制するように、左近次が更に言い重ねた。

 

「ひどいですね。いたいけな十三歳の少女を足蹴になんて」

「いたいけ…って……だったら、打ち込んで顔に痣でも作るほうがよっぽど悪いだろうが!」

「できるつもりか? 私相手に」

 

 勝母は不敵に笑い、木刀を構える。

 

「もういい……茶番はここまでだ」

 

 言うなり勝母が打ち込んでくる。東洋一は飛び退り、左近次はクルリと回って躱した。

 左近次は天狗の面を少しだけ持ち上げ、チラと東洋一を見る。

 

 ―――――後はよろしく。

 

 目で伝えて、とっとと帰っていく。

 

 あの野郎……今度絶対奢らせる。

 

 東洋一は木刀を握りしめると、花柱との打合稽古を始めた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 







次回は2021.06.19.土曜日の更新予定です。

2021.06.18.金曜日に別で鬼舞辻無惨について書いた小説をUPしますので、ご興味ありましたら読んでみて下さい。(但し、R-18とさせて頂きます)




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第五章 昔日 -暁風篇- (六)


*印について末尾に単語説明があります。



 打ち合いながら、勝母(かつも)は笑いがこみ上げそうになるのを必死で止めていた。

 

 以前から、篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)という男のことは知っていた。

 強すぎて、たいがいの隊士達では相手にならない勝母の数少ない稽古相手である数人――――鱗滝左近次や、煉獄(れんごく)康寿郎(こうじゅろう)香取(かとり)飛鳥馬(あすま)などから、その強さは伝え聞いていたからだ。

 

 この前の任務でようやくその篠宮東洋一と会えるとわかり、楽しみにしていたら、現れたのがこの間鳴柱と一緒にいた無礼な隊士で、愕然とすると共にがっかりした。絶対に強い奴だとは思えなかったからだ。

 

 しかし任務において、篠宮東洋一は確かに一目置かれる存在なのだと理解した。その動作の敏捷であること、身軽であることに加え、剣撃の勢いと力。

 かつ現場での素早く、沈着な判断力。

 

 普段はふてぶてしく、フザけた人間ではあるようだが、あの剣技は見逃せなかった。

 

 以前より稽古相手だった鱗滝左近次を通じて、今日ようやく時間を見つけて来てもらったが、実際に手合わせして……期待以上の技倆に、勝母は興奮していた。

 

「あの男は…柱になる」

 香取飛鳥馬は断言していた。

「五百旗頭、君が強いのは認める。だが、上には上はいるものだ。今ではそうなくなったが、鳴柱様がまだ一介の隊士であった時には、よく東洋一と手合わせをしていた。僕はそれを一度見たことがあるが、見ているだけで鳥肌が立ったものだ。まさに達人同士のやり取りだった……」

 

 勝母はそれを体感していた。飛鳥馬の言う「柱になる」というのも頷けた。というより、現時点においても風柱を上回っているのではないだろうか。

 

「篠宮東洋一、お前、柱になれ!」

 間合いをとって、互いに息を整えている時に、勝母は叫んだ。

 

「は?」

「お前はもう柱に相応(ふさわ)しいだろう? 十二鬼月に会えるかどうかは運でしかないが、実際のところ、本当に殺ったことはないのか?」

「……ねぇよ」

「本当か?」

「ね・え・よ! くだらねぇことくっちゃべってる暇があるなら、これで終わるぞ」

 

 途端に苛ついた様子の東洋一に違和感を感じつつ、勝母はすぐさま木刀を青眼に構えて突く。

 東洋一は軽く跳躍して飛び退り、着地するや床を蹴って、真っ向から振り下ろす。

 勝母は頭上でその剣撃を受けると、グイと押し返すなり、同じように飛び退って勢いをいなした。

 

 間合いがあき、一瞬、両者ともに静寂が訪れる。

 

 先に仕掛けたのは東洋一だった。

 床すれすれに這うように下から振り上げた東洋一の木刀が、勝母の握る柄のギリギリ上の部分を強打する。

 

 ビキビキビキッと、勝母の木刀に(ヒビ)が入った。

 荒い息でそのまましばらく止まって、勝母はそっと木刀を下ろした。

 

「……終わろう」

「そうだな」 

 

 どちらが勝ったというものではない。稽古の熱と裏腹に、終りは淡々としたものだった。

 

 東洋一は井戸の場所を聞いて出ていき、勝母は自分の部屋へと戻った。

 さすがに汗だくなって着替える。

 紐を結ぼうとして、まだ手が震えていた。

 

 あれでまだ本気ではない。当たり前だ。鬼狩りが本気になるのは、鬼に対してのみ。

 

 拳を握り、余韻に浸る勝母に、家人が声をかけた。

 

「お手紙が届いております」

「手紙?」

 

 勝母は受け取ると、宛書の流麗な女文字に首をひねる。

 手紙を読み終えて、しばらく思案した。

 

「篠宮東洋一はまだいるのか?」

「ご客人でしたら、応接間にお通ししております」

「わかった」

 

 東洋一は用意された茶菓子を全て食べ終えて、帰ろうとしていたが、勝母は呼び止めた。

 

「待て、篠宮東洋一」

「………東洋一でいい」

「東洋一、お前も一緒に来い」

「はぁ? どこに?」

「この前、助けた娘……あの辺りでは有名な料亭の娘だ。礼がしたいと言っている」

 

 東洋一はうーんと天を仰いで考えた後、真面目な顔で尋ねた。

「………酒はあるのか?」

 

 勝母は以前に居酒屋で会った時の東洋一のことを思い出し、眉間に皺を寄せた。

「言えば用意はしてくれるだろうが…呑みすぎるなよ」

「よし! 行く!」

 

 東洋一は即決すると、さっさと草履を履いて出て行く。

 勝母は溜息をついた。

 

 助けた人間からこうした誘いが来ることは珍しくないのだが、たいがいの場合、勝母は断っていた。

 それは隊の規律で好ましくないこととされており、いたずらに鬼殺隊という組織を世間に知らさないためでもあった。

 そうでなくとも勝母はこうした酒席に行くのは苦手だ。

 

 しかし、この菫の押し花をあしらった薄様の手漉き和紙に、ご丁寧に香の薫きしめられた便箋。そこに添えられていた一言に、勝母はピンときた。

 

『助けていただいた折の羽織をお返しして、あの時のお礼を直に申し上げたく存じます……』

と。

 

 おそらく羽織を渡した当人に返したいということだろう。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 料亭に着くと、一番格式の高い部屋に案内され、そこには上気した顔であの娘が待っていた。

 

 結綿*に髪を結い上げ、髷掛けに緋色の鹿の子絞り、前挿されているのは精巧なつまみ細工で作られた藤の薬玉簪と同じ藤のつまみ細工にビラビラ簪。

 

 なんとも愛らしく着飾っている。同じ年頃かやや年上くらいであろうが、勝母には一切縁のない装いだった。

 

 両脇には両親であろう、年の割にやや口紅の色の濃い丸髷の婦人と、いかにも商売人めいた笑顔の男が座っている。

 

 上座に案内され、娘の傍に着座したのは東洋一であり、勝母はその横に並んで座った。各々二つ並べられたお膳の上には、落ちそうなほどのご馳走が並べられている。

 

「よくいらしてくださいまして、ありがとうございます」

 

 父親が礼を述べると、次に母親が、その後にようやく娘が畳紙(たとうし)に包んだ、おそらくは綺麗に洗って何だったら破れたところを繕いまでしてあるだろう、東洋一の安物の羽織を差し出した。

 

「その節はありがとうございました。本当にみっともない姿を……」

 そう言って、ほんのり頬が色づく。

 

 勝母は内心で『やはりな…』と思ったが、当の本人は焼鯛をほじくり返しつつ、「あぁ」と返事するだけだった。娘の顔すら覚えていなさそうだ。

 鯛の身のついた指を舐めて、畳紙を引き寄せると、さっと羽織を出して肩にかけた。

 

「すまねぇけど、これだけなら帰るぜ。勝母、じゃあな」

 立ち上がりかけた東洋一に、父親が慌てた様子で止める。

「お、お待ち下さい。何かお気に召さないことでも…?」

 

 勝母は軽く溜息をついて、助け舟を出した。

「主人、清三郎の用意はあるか?」

「は? あっ……はい。気が利かず申し訳ございません」

 

 父親はあわてて仲居に酒を用意するよう申しつけ、東洋一は再び腰を降ろすと、ジロリと勝母を見た。

 

「なんだ?」

「お前、なんでそんなこと知ってるんだ?」

「なにが?」

「酒を異名で呼ぶな。子供(ガキ)が」

「うるさい、放っとけ。呑みすぎるなよ。酔っ払いの介抱なんぞ御免だ」

「ケッ」

 

 見ていた娘は不思議そうに尋ねた。

「お二人はご兄妹ですか?」

 

 勝母は東洋一をチラとだけ見ると、「そうです」と答えた。

 は? という顔で東洋一が見ていたが無視する。これで「いいえ」と言ったら、兄妹でないのに一緒にいる理由を尋ねられるだろう。

 

 これ以上、鬼殺隊のことも勝母のことも詮索されたくなかった。どうせ最初(はな)からこの娘の目的は、横で訝しげに見てくるこの男だ。酒も入って宴もたけなわになったら、早々に帰ろう……。

 

 その後、父親は所用があると出てゆき、昌子と名乗った娘はせっせと東洋一の盃に酒を注いだ。

 母親の方は勝母の横で「最中でも用意しましょうか?」と、子供だと思って気遣ってくれたが、勝母は断った。

 東洋一が残しているきゅうりとわかめの酢の物を勝手に取って食べ終え、そろそろ帰ろうかと腰を浮かしかけると、襖が開いて芸者達が姿を現した。

 

「おっ! 待ってました~」

 東洋一は本来客であるのだが、幇間よろしく陽気に声をかける。

 昔の芸人根性が抜けていないのか…と、勝母は渋い顔になった。

 

 そうこうしている間に三味線が響いて踊りを始められると、今更立ち上がって「帰る」とも言えない。隣の男に、また場を白けさせやがって……と揶揄されそうだ。

 仕方なく、つまらなそう見ていると、だんだんと妙な雰囲気になってきた。

 

 地方(じかた)の三味線と唄に合わせて、芸妓と半玉*の娘が踊り出したのだが、どうもこの半玉がやたらと間違える。

 

 間違えても素知らぬ振りを決め込んでおけば、素人の勝母などにはわかりようもなかったが、いちいち「あっ」と小さな声で言うものだから、失敗が見て取れる。

 唄は間延びし、三味線が途切れ、一緒に踊る芸妓は半玉を睨みつける。

 

 それまでまったりと朗らかに流れていた空気が、徐々に冷えていった。

 

 やがて芸者はつと踊りをやめると、膝をついて頭を下げた。

「申し訳ございません。不調法でございます」

「みよ吉さん……仕方ないわ。里乃ちゃんも……大丈夫?」

 昌子がとりなすように言うと、赤襟*のその娘はメソメソと泣き始めた。

 

「あーあ……やれやれ」

 

 東洋一は急に腕を上げて大あくびをしながら背筋を伸ばすと、ゆっくりと立ち上がった。

 ブラブラと千鳥足で自分達の方へと向かってくる東洋一に、芸妓達の顔に緊張がはしる。

 

「姉さん、三味線貸してもらえるかい?」

 人懐こい笑顔を向けて東洋一が言うと、地方(じかた)の芸妓は戸惑いながらも三味線を渡した。

 

 東洋一は三味線を受け取ると、ついと手を差し出してその芸妓を立ち上がらせ、みよ吉の横へ連れてゆき、里乃という半玉の娘を自分の隣に座らせた。

 

「ちゃんと姉さんの芸を見とけよ」

 言うなり、シャンと三味線をかき鳴らす。

 それから先程の、みよ吉と里乃が踊っていた曲を奏で始めた。

 

 勝母はその腕前についてはわからなかったが、玄人である芸妓のものと遜色ないと思った。

 二人の姉さん芸妓達は、しばらく驚いて東洋一を見ていたが、やがてニコと笑うと踊り始める。

 

「まあ、まあ」

「…すごい」

 

 母親と昌子がうっとり見ていた。

 居酒屋では色男の左近次にさんざ文句を言っていたが、この男も相当に女たらしではないか。

 

 半ばあきれた勝母は手近にあった盃を何気なく取って、ゴクリと呑んだ。

 カッと喉が熱く腫れる。

 

 ―――――しまった……酒か

 

 最初に()れられて口をつけただけの一杯が残っていたのだ。

 ゆっくりと、熱い塊が喉を這って胃の腑へと落ちていくのがわかった。

 シャンシャンと響く三味線の音を聞きながら、勝母はゆっくり意識がぼやけていった。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 少し肌寒さを感じて、クシャミをすると勝母はふっと目を開けた。

 ゆぅらゆぅらと揺れながら、地面が持ち上がったり凹んだりする。

 頭の重みのままにグリンと上を向くと、満天の星の中、橙色の星が飛び交っていた。

 

「………五月雨星(さみだれぼし)*が、三つもある」

 かすれた声でつぶやくと、前から溜息が聞こえた。

 

「まだ目が回ってんのか、お前」

「うん?」

 

 頭を戻すと、伸びかけたボサボサの頭があった。フケだらけだ。

 勝母は顔を顰めた。

 

「おい、頭を洗え!」

「なんだ、いきなり」

「汚いぞ! 女は不潔な男は嫌いなんだ!」

「ハァ?」

「せっかくあのお嬢さんがお前に好意を持ってくれてても、臭い男は嫌われるぞ!」

 

 東洋一は大仰な溜息をつくと、頭をカクリと落とす。

 

「……やっぱりそういうことか。子供(ガキ)がいらん気を回しやがって」

「なんだ? 人の好意を……お前が居酒屋でわめいたからだ。女にフラれたと言ってたろうが。ちょうど向こうから飛んで火にいる何とやら……だ。商売女でもない。鳴柱にも注意されていたろう?」

 

 勝母はしゃべりながら、自分が酔っ払って倒れたのであろう…ということは理解した。

 ついでに今は東洋一におぶされていることもわかったが、まだ頭がグラグラして、正気ではない。

 正気であればすぐさま、東洋一の頭を殴って下りている。

 

「馬鹿が。ガキの出る幕じゃねぇよ。だいたい、お前がひっくり返ってたらどうにもならねぇだろうが」

「フン。なんだかだ言って、お前は商売女ぐらいしか相手したくないんだろう?」

「わかったような口きくな」

「だいたいなんだ、いきなり三味線って!? けっこうな腕前だな! 隊務の間に三味線の練習でもしてるのか?」

「ンな訳あるか。ただの昔とった杵柄だ」

「昔ぃ? ………芸人だったからか?」

「まぁな。お袋が女義太夫だったからな……ガキの頃から遊びでやらされてたんだよ」

「父親は芸人、母親は女義太夫か。それで息子が鬼狩り……」

 

 勝母はつぶやき、沈黙すると、東洋一の背に額を置いた。

 

「おい、やめろ。吐くんだったら言え!」

 不穏な気配を感じた東洋一がわめくと、勝母はベシイッと頭をはたいた。

「痛っ! 降ろすぞ、このチビ!」

 

 怒鳴りながらも、東洋一は実際には降ろすことなく歩き続ける。

 

 勝母はこの妙にお人好しな男に、不快感に近い苛立ちを感じていた。

 ああやって上手いこと場を取り繕って、皆を笑顔にさせて……一体、何を考えている?

 

 この男の本心が見えない…。

 あゝ…気分が悪い…気味が悪い……。

 

 ぐるぐると目が回り、頭も回る。

 

 ふと、昼間の打合稽古のことを思い出した。

 あの時、一瞬だけ、その飄々とした態度が揺らいだ…気がする。柱についての話をした時だ。少し苛立っていた……。

 自分でも嫌な性格だと思いつつ、勝母は話しかけた。

 

「……風柱の息子と一度、手合わせしたことがある」

「あぁ? 賢太郎とか?」

「……さすがは風柱の息子なだけあって、いい太刀筋をしている。最終選別さえ乗り越えれば……優秀な隊士になれそうだ」

「あぁ、そうだろ。アイツは素直だからな。師匠も…」

 

 嬉しそうに言う東洋一を勝母はピシャリと遮った。

 

「だが、お前ほどじゃない」

「………」

 

「お前がいる限り、奴は柱にはなれまい。風柱様もおわかりのはずだ。柱は鬼殺隊の象徴……全ての隊士が認める、最強の者であることが必須。もはや世襲など、遥か昔の因習に過ぎぬ。風柱様も、もうそろそろ……」

「柱は御館様が決める。お前の口出すことじゃねェ」

 

 それまで聞いたことのない冷たい口調で東洋一は言った。

 いつもの勝母ならそこでそれ以上言うことは控えただろう。

 

 だが、今は正気でない。

 

 酔いは目の前に靄を作り、現実を茫漠とさせ、潤滑油を流し込んだかのように滑りのよくなった口からは、勝手に言葉が流れ出る。

 

「御館様……輝久哉(きくや)様は、生まれた時から柱である風柱を非常に頼りにされておられる。まるで父親のように。賢太郎とも幼馴染同然……いや、兄のように慕っておいでだ。お前か賢太郎か、となれば――――」

「花柱」

 

 東洋一は足を止めた。

 首をねじって、ジロと勝母を見る。

 

「俺の師匠が柱としての重責を担ってないとでもいう気か?」

「……いいや」

「なら、黙れ」

 

 そんなに怒っているなら、放り出せばいいのに――――。

 勝母はおんぶされながら、だんだんと苛立ちが募っていく。

 

「お前は……自らを蔑ろにするのか?」

「…………」

 

 東洋一は無言で歩く速度を早めた。

 勝母は徐々に意識の膜が晴れてきたのを感じながら、なおも問いかけた。

 

「強くありたいと願って今までやってきたのだろう? なぜ柱になって、己の強さを誇示しない? お前は…なんのために鬼殺隊(ここ)にいる?」

 

 東洋一は何も言わずズンズン進み、花鹿屋敷の勝手口の前に来ると勝母を放り出した。

 板戸に背中を打ちつけた痛みに顔を顰めながら見上げると、東洋一は無表情に見下ろしていた。

 

 勝母は真っ直ぐに睨みつける。

「答えろ…!」

 

 一瞬、面倒そうに眉間に皺が寄って、ボソリと東洋一はつぶやく。

「俺は…いいんだよ。自分のことなんざ」

 

 そのまま背を向けて歩き出す。

 勝母は怒りに震えながら、土に爪をたてた。

 

「ふざけるな! お前なんかに何がわかる!?」

 

 怒鳴りつける勝母に、東洋一は一度振り返った。

 月の逆光を受けて、表情は見えない。

 

 勝母は土を掴むと、その黒い姿に向かって投げつけた。

 

「私は……鬼狩りになどなりたくなかった!! 鬼殺隊なんか入りたくなかったんだッ!!!!」

 

 叫びながら、勝母は自分が正気でないと思い込もうとした。

 そうでなければ、こんなことを言えるわけもない。

 

 明日になれば、酒のせいで全て忘れる。忘れたことになる。

 

 それは、東洋一も同じはずだ…。

 

 

<つづく>

 

 

 






■単語説明■

[結綿・ゆいわた]
 日本髪の島田髷の一種。主に十代半ば~後半の娘が結った可愛らしい髪型。

[半玉・はんぎょく]
 半人前の芸者。芸者見習い。主に関東における呼び名。関西だと舞妓にあたる…?

[赤襟・あかえり]
 半玉が赤色の半襟をかけたことから、半玉を意味する言葉として使われた。

[五月雨星・さみだれぼし]
 うしかい座のアークトゥルス。雨夜星。麦星。


▼次回の更新は2021.06.23.水曜日の予定です。



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第五章 昔日 -暁風篇- (七)

 最終選別へと向かう賢太郎達に請われて、東洋一(とよいち)は久しぶりに風波見(かざはみ)家に来ていた。

 

「……やるじゃねーか」

 東洋一がニヤリと笑うと、賢太郎はスッと力を抜いて木刀を下ろした。

「……ありがとうございます」

 

 お辞儀する賢太郎の後ろから、浩太が肩を掴み、「強くなったでしょ?」と我が事のように言う。

 

「お前が言うな」

「だって、この前、御館様の前でも打合したんだよな? あの花柱と。さすがは風柱の息子だって言われたんだろ? 大したもんだって…」

 

 賢太郎は微かに頬を染めたが、頷きはしなかった。まだ、己に未熟なところがあるのは承知しているようだ。

 

「あぁ…いい勉強になったか?」

 東洋一が言うと、賢太郎はコクリと頷く。

 

「花柱は僕よりも年下ですが、まったく敵いませんでした。おそらく相当手加減されていたはずです」

「そうか? でも、いい筋だって言ってたぞ」

「え?」

「すげーじゃん! あの花柱にそんなこと言われるなんて!」

 

 ポカンとなった賢太郎の肩を浩太がバンバン叩く。

 東洋一は信じられないように見上げてくる賢太郎に笑いかけた。

 

「どうした? 大したもんだって、言われてたんだろ?」

「あ…いえ。それは御館様から言われただけで……」

 

 賢太郎は俯いたが、浩太はまったく意に介さない。

 

「あの花柱に筋がいいって言われるなんて、本当に大したもんなんだよ」

「さっきから『あの』って…なんだ?」

 

 東洋一が尋ねると、浩太が「知らないの?」と聞き返してくる。

 

「花柱って、任務で行った先のあちこちの道場回っては立合稽古するけど、ほとんど誰も相手にならなくて、しょっちゅう『クズ共が』っ言って去っていくらしいよ。子供だってのに、あんまりにも怖くて、木原さんはビビって逃げたんだってさ。なっさけねェの」

 

 浩太はケラケラ笑った。

 

 木原は東洋一の兄弟子で先輩隊士だ。風波見家には時折、賢太郎ら継子達の稽古をつけにやってくるらしい。不思議と東洋一が来ている時には来ない。

 

「その場で相手にできたのは、鱗滝さんという水の呼吸の剣士ぐらいだって仰言(おっしゃ)ってました」

 賢太郎が付け加えると、「あぁ」と東洋一は頷いた。

「左近次な。気に入られてるみたいだな」

 

「東洋一さん、もしかしてその人のことも知ってんの?」

 浩太が丸い目で訊いてくる。

 

「ちょっと前まではけっこう一緒に動いてたからな」

「へぇ。やっぱ強い者同士って集まるんだな」

 浩太が言うと、賢太郎はニッコリ笑った。

 

「煉獄康寿郎さんも、今度柱になられるようですね」

「へ? あ…そうなのか?」

 

 現炎柱である康寿郎の叔父は鬼にやられた傷が元で、今は治療中ではあるが、復帰は難しかろうと言われていた。

 

「はい。父上が仰言(おっしゃ)ってました。炎柱であられた御父上が亡くなられてから、よく精進されていたと…」

「まぁ…なぁ…子供も生まれたし、ただでさえ暑苦しい奴が、余計にやる気になってやがるからなぁ」

 

 許嫁がいたらしい康寿郎は、隊士になって二年後には結婚し、一年後には第一子となる長男が生まれていた。

 何か煉獄家の秘儀があって、赤ん坊も康寿郎そっくりの金の髪だった。

 

「そうか。柱になったんなら、今度誘うか……」

「あー! まーたタカる気だろー?」

 

 浩太があきれたように言うと、賢太郎までが溜息をつく。

 

「東洋一さんは、ご結婚はされないんですか?」

「は?」

「そーだよ。いつまでもフラフラしてっから駄目なんだよ。東洋一さんはー」

 

 どうやら、あまり面白くない方向へと話が進んでいっているようだ。

 

 東洋一は立ち上がると、

「じゃっ! ま、頑張れよっ!」

と、軽く言って道場を出て行った。

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 そのまま帰ろうと思っていた東洋一だったが、久しぶりに会った千代から周太郎が在宅であることを聞かされた。それは挨拶をしていかねばならないだろう。

 周太郎の部屋へと向かう間、千代が隣について歩きながら問うてきた。

 

「ねぇ、東洋一さん。賢太郎さんと浩太、大丈夫かな?」

 

 十三歳になった千代は、すっかり幼さが抜けていた。

 ぷっくり膨れて可愛らしかった頬は、すっきりとした卵型の輪郭になって、桃割れに結った髪型ですら少しばかり子供っぽく見えるほどだ。

 幼い頃からこの家で暮らし、最終選別で何人もの弟子が死んできたのを知っているだけに、幼馴染ともいえる二人が行くのは、やはり心配らしい。

 

「まぁ……大丈夫だろ」

「本当?」

「おそらくな。こればっかは運もある」

「あぁ……私も行きたかったなぁ」

 

 千代はいかにも残念そうに言い、唇を噛み締めた。

 

「お前が?」

「だって、花柱の人って私と同じ年の女の子なんでしょ? だったら私も弟子として稽古すればよかった。そうすれば一緒に行けたもの」

「それは……御内儀様が許さないだろう」

「………わかってるよ」

 

 千代はプンとむくれ顔になる。

 おそらくは当人も薄々感じているのだろうが、ツネは最初(はな)から千代を賢太郎の嫁にするつもりで引き取っている。自分に従順な嫁を育てるため、幼い頃から躾けてきた。

 千代は恩義を感じつつも、窮屈だったに違いない。

 

「それにしても、そうか。お前と勝母は同じ年になるんだなぁ」

「花柱に会ったことあるの? 東洋一さん」

「あぁ…任務で一緒になって………」

 

 言いかけた東洋一の声は、鋭く響き渡るツネの声に遮られた。

 

「賢太郎は十分に修練を積んでいるのですから、選別など行かずともよいでしょう!?」

 

 千代は目を見開いて東洋一を見つめ、東洋一は唾を飲み込んだ。

 二人して息を潜めていると、ツネはますます甲高い声で怒鳴っている。

 

「なんのために柱の地位にあるのです!? 御館様だって、賢太郎のことは大層目をかけてくださっているのでしょう? 貴方(あなた)が口利きして……」

 

 東洋一はゆっくりと息を吐いた。

 まるで子供の駄々ではないか……

 

 千代は沈んだ顔になり、そうっと来た方へと戻って行った。

 普段は黙ってやり過ごす周太郎も、いつになく声を荒げている。

 

「馬鹿を言え! 柱であればこそ、そんなみっともない真似ができるか! 僭越も甚だしい!!!!」

「みっともないですって? 親が子の身の安全を願うことが、みっともないと仰言るのですか!? あぁ…! 貴方はやはり賢太郎のことは我が子と思っておられぬのですねぇ……」

 

 ツネの声は震えていた。

 暗い声で呪詛を唱えるかのように言い募る。

 

「浩太はあの女……あの女に産ませた子供でしょう? 友人の息子だなどと偽って……」

「いい加減にしろ!」

 

 ペシリと打つ音。

 

 しばしの沈黙の後、唐突に襖が開くと、ツネが赤く腫らした頬に手を当てて出てきた。

 東洋一の姿を見るなり、ギッと睨みつける。

 東洋一は気まずいまま頭を下げたが、ツネは無視して行ってしまった。

 

 しばらく東洋一は立ち尽くしていた。

 

 ―――――貴方はやはり賢太郎のことは我が子と思っておられぬ……

 

 その吐きつけた言葉の意味を、東洋一は理解していた。たぶん。

 

 

---------------

 

 

 賢太郎がもしかすると周太郎の息子でない…という話を聞かせてくれたのは、ツネの実家から来ていた通いの女中だった。

 

「は? どういうこと?」

 

 聞き返した東洋一に、女は気を良くして話を続けた。

 

「だぁかぁらぁ…元はここの跡取りは旦那さまじゃなくて、旦那様のお兄さまだったわけ。それが鬼に殺されて、旦那様はその後を継がれたのよ。で、お兄さんの嫁だった奥様がそのまま弟である旦那様に嫁いだの。その後で賢太郎さんが産まれた訳だけど、正直なところ、実はお兄さんの子供じゃないのかって………」

「息子じゃなくて、甥っ子ってことか?」

「そうそう」

 

 東洋一はしばらく考えて、フッと笑った。

 賢太郎に稽古をつける周太郎の姿を見て、そんなわだかまりがあるようには見えない。普通に仲の良い父と息子なだけだ。

 

「あら? 信じてない?」

「あぁ、信じない。……だいたいそれが本当かどうかも関係ねぇよ」

「あらそう? でも、奥様はずっと気にかけてらっしゃるのよ。嫉妬深いくせに、旦那様が他所(よそ)に女を作っても、結局なにも言えずにいるのは、そういう負い目があるからよ」

 

 

---------------

 

 

「誰かいるのか?」

 

 中から周太郎が呼びかけてくる。

 東洋一はハッと我に返ると、部屋の前で正座して頭を下げた。

 

「ご無沙汰しております、篠宮東洋一です」

「おぉ、東洋一。なんだ…? 痴話喧嘩を盗み聞いても面白くなかろう」

 

 周太郎は自嘲気味に笑うと、プカリと煙管(キセル)をふかす。

 今更聞いてなかったと嘘つく気にもなれず、東洋一は苦笑いを浮かべた。

 

「相も変わらず…つまらぬことを言いよるだろう? 情けない(さい)だ」

「賢太郎のことが心配なのでしょう」

 

 招じられて部屋の中に入ると、周太郎の前に座る。

 一応、取りなすように言うと、周太郎はフゥーと紫煙を(くゆ)らせた。

 

「………生き残れるだけの技は教えた。あとは胆力と運だ」

「でしたら心配ないですよ。賢太郎はしっかりしてます。ちゃんと先を見据えて行動できる男です。浩太も一緒だし…普段と変わらぬ力を発揮できれば、突破できるでしょう」

「お前もそう思うならそうだろう。だが、アレはわかってない」

「……母親というのは、そういうものなんじゃないですか? 普通」

 

 周太郎は沈黙し、遠い目で立ち昇る煙を見ていた。

 

 正直なところ、周太郎には妾が数人いる。

 それはそうだろう。

 いつも眉間に皺寄せて、口を開けば愚痴と小言が飛び出すばかりの女のいる家に帰っても安らがない。血なまぐさい任務の後であれば尚の事、疲れを癒やしてくれる存在を欲するものだ。

 

 それは東洋一もまた、この仕事を続ければ理解できることだった。

 だが、負い目のあるツネにしてみれば、自分は結局(あによめ)で、妻として相手にされないと僻み、ますます賢太郎(むすこ)への愛情を深めることになってしまった。

 

「……アレのは盲愛というやつだ。本来ならば去年のうちに選別に行く筈だったものを、あのときも……」

 

 去年、十四歳になった賢太郎は最終選別に行く準備を進めていたが、ツネが強硬に反対して実家に戻るという事態になり、その後に賢太郎もひどい腹痛で寝込んでしまったことで、結局、翌年に持ち越したのだ。まだ技量的に甘い部分があったので、周太郎もあえて急かさなかったというのもある…。

 

「賢太郎にも…よくない。浩太のことも、妙に誤解しおって…」

 

 周太郎は溜息をついて、珍しく愚痴をこぼす。

 浩太の父親が、周太郎の友人であったというのは間違いないだろう。だが……

 

「師匠は、浩太の母親に惚れてたんですか?」

 

 東洋一が思い切って聞くと、周太郎は目を丸くしてから、フフッと笑った。

 

「そう思うか?」

「…でなかったら、いくら仲の良い友達だったとはいえ、独り身になった後家御のところへ足繁く訪れたりはしないですよね」

「そりゃ、そうだな」

 

 周太郎はあっさりと認めて、煙草をうまそうに吸った。

 

「師匠……」

「だが、ま、どうにもならなんだ。最期まで毅然とした、美しい(ひと)だった。浩太を引き取ったのは、鏑木(かぶらぎ)の息子というのもそうだが、あの(ひと)の息子であるなら面倒をみようと思ったんだ…」

 

 東洋一は内心溜息をついた。

 そういう綺麗な思い出になっているからこそ、ツネには余計に腹立たしいのだろう。

 

 いずれにしろ、周太郎が『痴話喧嘩』として片付けるのなら、自分がどうこう言う問題でもない。

 

「これで失礼します」

「そうか…ご苦労だった」

 

 東洋一は再び頭を下げて辞すと、玄関からフラリと出た。

 落葉が舞う中を歩き出すと、門の前で千代が泣きそうな顔で立っている。

 

「どうした?」

 千代は東洋一を見るなり、ぐしゃりと顔を歪めて涙をこぼす。

 

「賢太郎さんが……出て行ってしまって」

「は?」

「さっきお母様が騒いでいたでしょう? 聞いていたみたいなの」

 

 東洋一は眉を顰めた。

 どこまで聞かれたのだろう?

 

「浩太が家の中は探してくれたんだけどいなくて……。浩太、またお母様に噛み付いたのよ。お前のせいで賢太郎はいつも謝ってるんだ…って」

 

 東洋一の脳裏にいつも済まなそうな顔をして、微笑を浮かべる賢太郎の姿が浮かんだ。

 

「わかった」

 千代の頭を軽く叩いて、東洋一は笑った。

「俺が連れて帰ってくるから…浩太が戻ったら待っているように伝えてくれ」

 

「どこに行ったか、知ってるの!?」

「さぁ……?」

 

 東洋一はとぼけると、夕闇の中を歩き出した。

 

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

 

 

 人家が途切れた田圃の畦道を東洋一は歩いていた。

 既に稲刈りが終わり、籾殻の山があちこちにある。

 赤かった西の空もすっかり濃紺に様変わりし、星が瞬きはじめる頃に、小さな丘が前方に黒く見えてきた。

 丘の上には一本の楠と、大岩がある。

 上っていくと、岩の上で賢太郎が座禅を組んでいる。

 

「……心は整えられたか?」

 

 東洋一が声をかけると、賢太郎は驚いたように見た後、哀しそうに笑う。

 

「そういえば……東洋一さんには知られてたんだった」

「すまんな。記憶力がよくて」

 

 小さい頃から、ひどく傷ついた…あるいは疲れてしまった賢太郎がここに来るのを、東洋一は知っていた。

 そもそもは東洋一もまた、日頃の兄弟子からのイジメなどの鬱憤を晴らすために、ここに来ては岩の上で大声で愚痴を吐き出していたのである。

 

「……東洋一さんは、知ってるんだよね? 僕の本当の父親のこと」

 

 その言葉を聞いて、賢太郎もまた、自分が周太郎の息子でないことに気付いているのだとわかった。

 東洋一は大きく伸びて深呼吸すると、賢太郎の横に座った。

 

「賢太郎、お前さ……師匠が、お前を息子でないって思ってると思うか?」

「え?」

「いや……違うか。お前は…どうなんだ? 師匠のこと、親父だと思えねぇ?」

「…………」

 

 賢太郎は俯くと、ひどく寂しそうな表情になった。

 東洋一はフッと笑うと、自分の話を始めた。

 

「俺のお袋は女義太夫だったって…前、話したか? まぁまぁ人気もあって、正直、男にゃだらしない……まぁ、言やアバズレ女だったんだよ。そんなのだけどさ、顔だきゃ良かったんだろうな。親父は泣いて拝んで頼み込んで、一緒になったんだってさ。その時、腹に俺がいたのにな」

 

 賢太郎は目を見開いた。

「…でも……東洋一さん……お父さんのこと……好きだよね?」

 

 まだ弟子だった頃、東洋一は大道芸人だったという自分の父の話をよくしてくれた。楽しそうに、ひどく愛しそうに話すその様子に、賢太郎は羨ましくさえあった。

 

「あぁ。面白い親父だったからな。ドジで間抜けだったけど、一生懸命だったし………優しかった。親父の息子じゃねぇってお袋に言われた時には……悔しかったなァ。自分には、この優しさがないんだって。お袋と、誰だかわかんねぇ奴の、薄情な性格しか受け継いでねェんだろう……って思ってさ~」

「そんなことない!」

 

 賢太郎は即座に否定した。

 

「いつだって、優しかったよ。東洋一さん」

「おう。そうだろ、そうだろ。俺もそう思う」

 

 東洋一は笑って頷くと、賢太郎の頭をポンと叩く。

 

「親子なんざ、そういうモンだ。お前が、師匠のことを父親だと思っているなら、お前の父親は風波見周太郎なんだよ。俺から見れば、師匠だってお前のことは普通に息子だと思ってるよ。それでいいだろ?」

「…………」

 

 賢太郎はしばらく睫毛を伏せて考えていたが、何かしら吹っ切れたのであろう。

 顔を上げると、ニコと微笑んだ。

 

「……帰ります。準備もあるし」

「おゥ、そうか」

 

 連れ立って歩いて、東洋一が最終選別後に藤家紋の家で酒盛りをした話をして笑い合っていると、向こうから千代と浩太が駆けてきた。

 

「もう! 賢太郎さん…心配させて!」

「馬鹿野郎、どこ行ってんだよ!」

 

 二人ともが賢太郎に怒鳴りつけると、賢太郎は「ごめん」とすぐに謝った。

 

「もう、大丈夫だから…」

 微笑む賢太郎を見て、東洋一は軽く息をつくと、浩太に声をかけた。

 

「じゃ…浩太、頼むぞ」

 浩太はハッとした表情になると、唇を引き締めてコクリと頷く。

 

 去年、賢太郎が最終選別を諦めた時、本来であれば浩太は一人でも藤襲山に向かうことはできた。

 けれど結局、浩太は賢太郎と一緒に行く為に自分も見送ったのだ。

 誰が頼んだというわけでもなかったが、浩太のその決断は東洋一にとっては安心できる材料だった。

 賢太郎に比べて上背もあり、膂力も強い浩太は、共に最終選別を受ける上で、相当な戦力であることは間違いない。

 

「二人とも、生きて戻れよ。………鬼なんか倒さなくていいから」

 

 東洋一が懐かしい科白(せりふ)を言うと、三人とも「あれ?」と思案してから、プッと千代が噴き出した。

 

「やだ…もー、東洋一さん。よく覚えてるわねぇ」

「そうだよ。千代、お前また『土産を頂戴』()って送り出してやんな。俺はそれで帰ってきたんだ。験がイイ」

「そうだよ。それで東洋一さん、本当に土産買って帰ってくるんだもんなァ」

「近くの餅屋のおかきだったけどね」

 

 さっきまでの暗い雰囲気があっという間に取り払われて、三人は楽しげに笑っている。

 

 東洋一はその様子を少し離れた場所から見ていた。背後から、鴉の啼き声が聞こえてくる。

 

「じゃあな、頑張れよ」

 短く言って、東洋一はその場から走り去った。

 

「南南東、南南東ノ村ヘ向カエ。娘ガ喰ワレタ……」

 

 頭上で鴉が告げる。

 

 今日もまた、長い夜が始まった……。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.06.26.土曜日の更新予定です。



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第六章 昔日 -青嵐篇- (一)

 およそ二週間後、賢太郎と浩太は無事に最終選別から戻った。

 二人ともに無傷ではなかったのものの、後遺症の残る怪我もなく、日輪刀を受け取ると、それぞれ散り散りに担当地域へ旅立った。

 賢太郎が関西、浩太は北陸の方だった。

 これについては、おそらく周太郎が意図的に風波見(かざはみ)家から遠方を指示したものと思われる。

 

 それから二年。

 

 賢太郎は地道に戦績を重ね、己に昇進することになった。同時に管轄も関東近辺に変更になり、十五になった千代と結婚することになった。

 

 

◆◆◆

 

 

 祝言の日の前日。

 

 東洋一(とよいち)は任務のため、祝宴に行けなくなったことを知らせるついでに、一応、賢太郎達に言祝(ことほぎ)でも伝えようかと久しぶりに風波見家に立ち寄った。

 

 庭には周太郎の趣味である丹精された菊花が鉢に植わって並んでいた。

 あでやかな姿と匂いを賞でながら歩いていると、蔵の方から切迫した声と、パンと乾いた音が響いた。

 

「………馬鹿っ!」

 

 千代の声だと気付いたと同時に、東洋一は物陰に隠れた。

 すぐに蔵の横から千代が泣きながら走ってくる。そのまま東洋一に気付かず、門の方へと走って行った。

 呆然として見ていると、不意に後ろから声をかけられた。

 

「東洋一さん…」

 

 ぎょっとなったのは、いきなり声をかけられたからではない。

 そこに立っていた賢太郎の顔がひどく陰鬱で、どことなく苛立しさも含んでいて、しかもそれを隠そうともしていなかったからだ。

 

「……どうした?」

 東洋一が尋ねると、賢太郎は軽く溜息をついた。

 

「別になにも……今更言っても仕方ないことを言い出すから……どうしようもない、って言っただけです」

「どうしようもない? なにが?」

 

 賢太郎はしばらく考えた後、冷たい顔で言った。

 

「千代が僕のことを好きかどうかわからない…って言ってきたんです。それで結婚してもいいのか、って」

 

 東洋一は首をひねった。確かに、祝言の前日に言い出すことでもない。

 が、それより賢太郎の反応が気になった。もっと親身になって千代をなだめるなり、励ますなりしそうなものだ。

 当事者の一人であるにしては、賢太郎の反応は少し冷たかった。

 

「お前、千代のこと嫌いなのか?」

「そんな訳ないです。母上からは選別の後に千代が許嫁(いいなずけ)だと聞かされてましたし……そういうことなら、そうなるしかない」

 

 賢太郎の言い方はどこか投げやりだった。

 

「いやいや……お前…それはちょっと……」

 東洋一は苦笑して、ふと思いつく。

 

「あ、お前…誰か他に好きな女でもいるのか?」

「……は?」

「違うのか? 千代は勘がいいからな…お前が隠してても、そうと気付いたんじゃないのか?」

 

 賢太郎は無表情に黙り込んでいたが、フゥと疲れたように溜息をつくと、思いもかけぬ話を始める。

 

「いつだったか…東洋一さんが、花街に連れってくれたでしょう?」

「へ? あ、うん…」

 

 賢太郎が隊士になってしばらく経った頃、他の隊士と一緒に京都の島原に連れて行ったことがあった。

 そういう場所が初めてなのはわかっていたが、終始、真っ赤になって俯いて酒も呑まずにいたので、

「お前、とっとと行っちまえ!」

と、その場にいた敵娼(あいかた)に頼んで、女と一緒に送り出した。

 

 その後のことは聞いてないが、まぁ無事に済んだのだろう。今でも時折そういう場所に出入りしていることは人づてに聞いている。

 

「なんだ? お前、情けでも拾ったか?」

 てっきり知り合った遊女にでも本気になったのかと思ったが、賢太郎はあっさり否定した。

 

「まさか。あそこの女達(ひとたち)は、誰も本気じゃないでしょう? 好きだと百遍言ったって、一度たりとして客を好きになんかなったりしない」

「うーん…? まぁ……そう、かな?」

 

 その女達に何度となくフラれている東洋一には耳の痛い箴言である。

 だが賢太郎はもっと辛辣なことを言った。

 

「あれぐらいの方がいいな、と思ったんです」

「は?」

「好きでもない相手の方が、よっぽどいいと思ったんです。そういう関係になるのなら」

「………ちょっと…待て」

 

 東洋一は一瞬、意味がわからなかった。

 目の前にいる賢太郎が、一気に遠くなった気がした。

 

「お前……千代のこと、好きなんだよな?」

「好きですよ。家族だし」

「いや、そうじゃなくて……」

 

 言いかけて、東洋一は止まった。

 家族だと言った賢太郎と同じように、東洋一の中でも賢太郎も千代も、まだ弟と妹で、男女として見ることは難しい。

 賢太郎は目を逸らすと、自嘲するよう笑った。

 

「おかしいかもしれないけど……僕は持ちたくないんです。そういう感情は」

「………」

 

 東洋一は言葉を失くした。

 あまりにも大人びた顔で、子供のじみたことを言う……。

 

 賢太郎の中では、あの母親の度を越した溺愛も、父母間のねじれた関係性も、あまりに重苦しい男女間の情念の結果で、自然とそこを忌避するようになってしまったのだろうか。

 

「……肌を合わすようになりゃ自然と……湧いてくるだろ」

 掠れた声で言うと、賢太郎はまた長い吐息をもらす。

 

「そうなれば……いいんですけど」

 ぼんやりと虚空を見てつぶやく。

 

「それこそ千代には好きな男でもいるのかもしれません。もし、そうなら、可哀相なことですね」

 そう言いながらも、賢太郎はまるで興味がないようだった。

 

 自分の気持ちも、千代の気持ちも、この婚姻においては無視されて当然だと、最初から諦観しているようだ。

 

 何も言えなくなった東洋一を見て、賢太郎は「すいません」と、いつもの微笑みに戻った。

 

「千代には、謝っておきます。明日のこともあるので」

 

 心のない謝罪で千代が納得するわけもない。

 だが、結局賢太郎の言う通り、今更どうしようもなかった。

 

 

◆◆◆

 

 次の日。

 

 祝言はつつがなく執り行われた。

 特に問題らしい問題も起きず、終始和やかな中、二人は満場の祝福に包まれて微笑んでいたという。

 

 だが、その中で千代と賢太郎ともう一人、複雑な思いを抱えて列席していた人間がいたことを東洋一はその夜に知る。

 

 

 任務を終えてから、宴席もそろそろ終わっているかもしれない…とは思いつつ、東洋一は風波見家へ向かいブラブラ歩いていた。門の外からでも、祝言が無事に終わっているだろうことを確かめたかった。

 

 途中、橋の上を歩いていると、月に照らされた河原を横切り、川へ向かっていく男がいた。

 東洋一は眉をひそめて、しばらく立ち止まり、男を見た。

 

「……浩太?」

 

 浩太は乾いた石ころの上を千鳥足で歩いていく。やがて、川の中へとざぶざぶ入って行った。

 東洋一は顔色を変え、橋の上から河原へと飛び降りた。

 

「おい! 馬鹿!」

 

 怒鳴りながら川の中に入っていくと、浩太を引っ張り上げる。

 そのまま砂利の上に放り出すと、浩太は大の字になって仰向いたまま、しばらく夜空を見つめていた。

 

「お前……何やって…酔っ払ってんのか?」

 

 東洋一が息を切らしながら尋ねると、浩太はどこか投げやりな口調でボソリとつぶやく。

 

「放っといてくれりゃよかったのに……」

「阿呆。お前な……酒呑みが酔っ払って川で溺れるのは案外、多いんだぞ」

「……そうだよ。酔っ払って、溺れて、死んだ……間抜けな男にしておいてくれりゃよかったのに……」

「ハァ? なーに言ってんだ、テメェ」

 

 東洋一は拳を振り上げたが、浩太の顔を見て止まった。

 泣いている。瞬きもせずに星を見ながら、浩太は泣いていた。

 

「どうした……? お前」

「……昨日さ、千代のヤツ、泣いてやがってよ」

 

 ハッと昨日の賢太郎の顔が浮かぶ。

 そういえば、千代は賢太郎をひっぱたいた後に泣いて出て行ったのだった。その後、浩太に会ったのだろうか。

 

「わんわん泣いて…もう、嫁になんか行きたくねぇとか言ってたくせに……今日は、ニコニコ笑ってやんの。ホント、女って意味わかんねぇや……」

 

 震える声で言う浩太を、東洋一はまじまじ見つめた。

 

「お前………千代のこと好きだったのか?」

「……違う」

 浩太は否定して、ゆっくりと起き上がった。

「賢太郎といずれ一緒になるのはわかってたんだから……そんなモン、考えねぇよ」

 

 東洋一は眉を寄せた。

「それ、好きなんじゃねーか」

「違う、()ってんだろ! わかったように言うなよ!」

 

 浩太は怒鳴ると、右の眉上にある大きなほくろを乱暴に掻き毟った。動揺した時に、いつもその癖が出る。

 

 東洋一はしばらくの間、混乱している浩太を見守っていた。

 昨日の賢太郎に比べれば、浩太の感情はある意味、素直だ。

 

 ずっと一つ屋根の下で暮らしていれば、そういう気持ちになるのも仕方ない。

 だが、その相手は最初からもう一人の幼馴染の許嫁と決まっている。浩太は必死で考えないようにしていたのだろう……。

 

 東洋一は立ち上がると、ベシっと浩太の頭を叩いた。

 

「馬鹿野郎。グダグダ言ってないで、さっさとフラれろ」

「…え?」

「みじめに泣きわめいて、さっさと忘れろよ。女にフラれた男のやる事なんざ、それくらいだ。川に入って溺れ死のうなんざ、ご大層なんだよ」

 

 呆れたように言い放つと、浩太は目を丸くしてしばらく東洋一を見つめていたが、フッと笑った。

 

「本気で死のうなんて思ってねーよ」

「そーかよ。ほら、立て。呑み直すぞ。烏森まで繰り出すか?」

「あー……最近はそこに贔屓がいるの? 入り浸ってるらしいね」

「うるせぇなぁ……」

 

 東洋一はチッと舌打ちすると、眉間に皺を寄せてつぶやいた。

 浩太はハハと力なく笑い、星空を見上げた。

 ふぅ、と溜息がもれる。その顔はどこか途方に暮れているようだった。

 

 隊士になって二年。

 浩太の昇進は賢太郎に比べ遅れていた。

 風波見家の弟子であった頃には、確実に剣技においても体力においても、賢太郎を上回っていたのだが、最初の任務で重傷を負った後、怪我が相次いで、今ひとつ実力を発揮できていない。

 

 反対に賢太郎は実戦において順調に戦績を積み重ねており、若手の中では頭一つ飛び抜けている。

 さすがは『伝説の風柱』の息子…としての面目は保っている、といったところだろう。

 

 浩太は賢太郎の出世については素直に喜んでいたが、一方でくすぶった自分を持て余しているのは明らかだった。

 最近では稽古にも身が入ってない…と聞く。

 

「つまらねぇ噂に聞き耳立ててる暇があんなら、稽古しろ。ちょっとは」

 どうも浩太や賢太郎には、兄のような気分になって小言が出てしまう。

 

「そうだな……そっちの方がいいかな」

 浩太は立ち上がると、刀を振るう真似をする。

 

 東洋一は「面倒くせぇなァ…」と不満気に言いつつも、近くにある道場に行って木刀を借りると、人気のない原っぱで久しぶりに二人で徹底的に打合った。

 

 明烏が鳴き始めるまでやり合って、浩太は「もう無理だー」と叫んで倒れた。

 

「……くそーぉっ! なんでそんなに強いんだよ!」

「出来がいいからだ」

「……なんの?」

(ツラ)の」

「フザけんなよ! 鱗滝さんの前で言ってみろ!」

「うるせぇ。今は天狗じゃねぇか」

 

 浩太はハハハッと笑うと、澄んだ目で段々と白みはじめる空を眺めながら言った。

 

「あの人もスゲェよな。身体に全然力が入ってないんだ。それなのに、硬い鬼の首をスッパリ斬っちまう。カッコイイよ。あと、炎柱様とも一回…任務で鉢合わせたことがあってさ。たまたま見たんだけど、鱗滝さんとは正反対で、全身が火の玉みたいに豪快な剣さばきだった。凄かったなぁ」

 

 東洋一は目を細めた。

 浩太は昔から他人の剣技を観るのは好きなだった。今更、他流派でやり直すのは難しいだろうが、自分なりに吸収して、色々と試していくのはいいことだ。

 

 そう思っていると、浩太はむくりと起き上がり、宣言した。

 

「俺、もっと強くなるよ」

「お?」

 

 浩太は立ち上がると、朝日に向かって宣誓する。

 

「もっと強くなる……絶対に」

 

 それは浩太が自身に向けて言ったものだった。

 東洋一は返事することなく、東雲(しののめ)色に染まった雲が流れてゆくのを眺めていた。

 

 

<つづく>

 

 







次回は2021.06.30.水曜日の予定です。



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第六章 昔日 -青嵐篇- (二)

 雪上での剣戟は色々な意味で不利だ。

 雪に足をとられる。寒さで手がかじかむ。

 時間が経つほどに足先から冷えが這い登ってきて、全身を硬くさせる。

 

 全集中の呼吸・常中を行えれば、その身体的な生理現象をある程度緩和させることは可能だが、それも限度がある。

 であればこそ、鬼と対峙する時、早期に決着をつける必要があった。

 だが、だからといって不用意な攻撃をすれば、思わぬ反撃をくらう……。

 

 香取(かとり)飛鳥馬(あすま)はその鬼を見ながら、慎重に出方を窺っていた。

 

 白い女の鬼。白い髪、白い肌、白い着物。

 雪の多い地方で語り継がれる雪女のようなその姿。

 白目のない真っ黒な瞳は表情を読み取りにくく、その姿の中で一点だけ色の灯った紅い唇が不気味に微笑っている。

 口の端からツーっと血が滴った。

 女の手には小さな子どもの足が握られている。あとの部分は………喰われたのだろう。

 

「クソっ!」

鏑木(かぶらぎ)! 待てっ!」

 

 飛鳥馬が声をかけた時には遅かった。

 鏑木浩太は走り出し、大きく振りかぶりながら、技を放つ。

 

 風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ

 

 強力な風が前方の鬼へと螺旋状に襲いかかった。

 だが、その白い鬼は振袖をふわりと揺らすと、氷の壁を作った。浩太の巻き起こした風の勢いでバリバリと(ひび)が入った後、氷の壁は崩れた。

 

「やった!」

 

 浩太が叫んだが、次の瞬間、鬼は微笑(わら)った。

 崩れた無数の氷が一気に浩太へと襲いかかる。

 細かい氷に混じって、刃のように研ぎ澄まされた氷の一つが、浩太の脇腹を深く切り裂いた。

 

「う…ぅっ!」

 

 脇腹を抉った傷口から、血がボタボタと雪の上に落ちる。

 浩太はゆっくりと雪の上に倒れた。

 

 飛鳥馬は歯噛みしながらも、構えをとる。

 既に鬼は振袖をはためかせて、飛鳥馬の方へと飛んできている。

 

 霞の呼吸 弐ノ型 八重霞

 

 身体をひねって、八方へと斬撃を繰り出す。

 ポツ、と鬼の血が雪の上に落ちた。

 

 飛鳥馬は眉を顰めた。

 やはり、ここに来るまでの道程で身体が冷えていたせいだろう。十分な可動域をもって技を放つことができなかった。

 鬼の首はあともう一息のところで繋がっていた。

 

「オノレエェェェ!!!!!」

 

 それまで綽々とした笑みを浮かべていた鬼が、黒の目を赤く、白い顔を紫色に変化させて吼えた。

 

 振袖を遮二無二振り回して、細かな氷の(つぶて)が飛鳥馬へと飛んでくる。

 大量の礫で視界が遮られた。

 鬼の姿が見えなくなったと思った時には、頭上から殺気。

 

 飛鳥馬は咄嗟に避けたものの、雪の上に倒れた瞬間に、周囲がビシリと固まった。

 見る間に刀を持った手が氷漬けされ、動かせなくなる。

 

「…ぅ…くっ…」

 

 鬼は雪の上に足跡もつけずに、ホトホトと歩いてくる。

 首は既に元に戻って、傷も消えかけている。

 

 飛鳥馬は歯噛みした。

 こんなところで殺られるのか…自分は。

 

 刀を握る手に力を込める。

 呼吸を深め、氷漬けにされている右腕に熱を集中させる。

 ………カタカタと刀が揺れ始めた。

 

 ―――――いける…!

 

 カッと目を見開くと同時に、封じられていた氷がバリバリと割れて、砕け散った。

 

 霞の呼吸 参ノ型 霞散の飛沫

 

 風の呼吸 捌ノ型 初烈風斬り

 

 その鬼の首は二つの刀によって、前後から斬り落とされた。

 飛鳥馬と――――

 

東洋一(とよいち)!」

 

 飛鳥馬が驚いて叫ぶと、東洋一はチラと煙となって消えていく鬼を見た後、肩をすくめ刀を鞘にしまった。

 

「なんだ、余計なお世話だったな」

「いや……助かった」

「そうでもないだろ。あ! そうだそうだ…浩太」

 

 東洋一はザクザクと雪をかき分けて浩太へと走り寄った。

「大丈夫かー?」

 声をかけると、浩太はうぅ…と呻きつつ東洋一の顔を見て驚いた。

 

「とっ……東洋一さ………何しに」

「何しに、って。通りがかりだよ」

「え…? …うっ!」

「おーおー、ざっくりやられとるわ。ホレ、集中しろよ。呼吸。ちょうどいいだろ、こういう危ない時の方が集中できるだろ。しなかったら死ぬぞ」

 

 東洋一がポンポンと軽い調子で言うと、浩太は「ひでぇの…」とボヤきつつも、必死で全集中の呼吸を行おうと息を吸い込んだ。

 

「そう……そうだ……血があふれたところだ……そこ…力を入れろ……肉を動かすんだよ」

 浩太の意識を傷口へと集中させて、自分の肉をもって止血をさせる。

 

「……っ()ぅ…」

「逃げんな、コラ……やれねぇなら、死ぬぞ」

 

 ぶっきらぼうな応援に励まされて(?)、浩太は歯を食いしばった。ビクビクッと身体を震わせると、長い息を吐く。

 

「お、出来たじゃねぇか。やっぱお前はやれば出来るな」

「……痛い」

 

 浩太は少し笑いながらもつぶやいて、気を失った。

 冷や汗をかいている。早く連れて行かないと、一気に身体が冷えるだろう。

 ぐるぐると晒を傷口に巻いて止血すると、東洋一は浩太をおんぶした。

 

「行くか。隠に連絡はしたか?」

「あぁ」

 

 飛鳥馬は頷くと、浩太の刀を持って歩き出す。

 大の男をおんぶしている上、雪をかき分けつつ進むのは、相当な健脚の持ち主でもつらいだろうが、東洋一の表情はいつもながら飄々としていた。

 

「東洋一」

 後ろを歩きながら、飛鳥馬が声をかけると「うん?」と振り返ることなく返事する。

 

「最近…単独が多いんだな」

「あぁ……まー、言っても俺も甲だしなぁ。あちこちお呼びがかかるんだよ」

 

 単独任務が鬼殺隊の基本だったが、現御館様になってからは複数任務が増えてきていた。

 昔ながらのやり方だと、どうしても新参隊士の死亡率が高いため、経験豊富な隊士と新参・中堅隊士を組み合わせて、任務にあたらせるようになったのだ。

 

 ただ、死亡率が格段に減ったというものでもなかった。

 確かに複数のお陰で生存する場合もあったが、強力な敵―――例えば十二鬼月のような―――に当たった場合は、全員が死亡してしまう。

 

 柱の中には、昔からの単独任務に戻すべきだという人間もいるらしかったが、御館様は方針を変える気はないようだった。

 正確に言うなら、御館様が…というよりも、輝久哉(きくや)が絶大な信頼を寄せる風柱・風波見(かざはみ)周太郎(しゅうたろう)が自ら提案したそのやり方に固執しているらしい。

 

 ただ柱は別で、昔通りの単独任務だった。

 

 かつて五百旗頭(いおきべ)勝母(かつも)が柱になったばかりの頃は、その年齢が低いこともあって、これも周太郎の意向で、何人かの勝母の足手まといにならない程度の相手が厳選され、一緒に任務に向かうこともあったが、今では勝母も専ら単独任務になっていた。

 

「……この前は肥後の方まで行ってたんだぜ。それで今回はこんな雪の中だろ? もう、クタクタだよ」

 東洋一は愚痴っぽく言ったが、その足が鈍くなることはない。

 

 飛鳥馬は眉間に皺を寄せた。

「……まるで、柱…だな」

 単独で日本全国を飛び回る……そんなのは、鬼殺隊でも高位の人間―――柱のやることだ。

 

「飛鳥馬」

 ザックザックと規則正しい足音で進みながら、東洋一は前を向いたまま呼びかける。

「柱といや、お前断ってるらしいな」

 

「え?」

「霞柱、要請されてんだろ。康寿郎(こうじゅろう)がボヤいてたぞ。一緒に柱になろうって言ってたのに…って」

「………」

「甲になって随分経つし、要件は揃ってんだろうが。とっととなっちまえよ。早くしねぇと、左近次に追い抜かされるぞ。あいつ、多分もうすぐなるよ。お前と左近次が入ったら、久しぶりに九人柱が揃う。康寿郎も喜ぶぞ。あぁ、ジゴさんもいるか」

 

「……俺より、鱗滝より、先になるべき奴がなってない」

「あぁ?」

「お前が先になるべきだ。その資格はもうあるだろう?」

 東洋一はわざとらしく大きな溜息をついた。

「ハアァ………知らねぇのか、お前は。同流相立たず、だろうが」

 

 同流相立たず…とは、同流派の剣士が二人以上柱にはなれないという不文律だ。

 随分と前にいざこざがあったから――――などと憶測されているが、いずれにしろ風柱がいる現在において、同じ風の呼吸を遣う東洋一が柱になることはできない。

 

 飛鳥馬は唇を噛みしめた。

 本当は…もう……風柱は交代すべきじゃないのか?

 その言葉は喉元まで出てきていたが、声に発することはできなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

 それからは二人とも無言のままに歩き、ようやく人里にたどり着いた。

 村に一軒だけという宿屋に入ると、温泉が湧いているという宿屋の主人の殺し文句に、東洋一は露天風呂へとすっ飛んで行った。

 

「相変わらず、突風のような方ですね」

 既に連絡を受けて待っていた隠は、東洋一を知っていたのか苦笑しつつ、浩太を簡単に診察し、

「今日は雪も降って足場も悪いですし、一晩だけこちらで安静にしていただいて、明日にも近くの藤の家に運びます」

と言い置いて、今日のところは帰っていった。

 

 飛鳥馬は隠に応対した後、浩太を置いて行くのも気にかかって、刀の手入れをして時間をつぶしていた。しばらくすると、いかにも温かそうな湯気をたてて東洋一が入ってくる。

 

「オイ! いい湯だったぜ。お前も入ってこいよ」

「あぁ…そうするか」

 

 そう言って飛鳥馬は温泉へと向かった。

 岩場を渡って温泉に浸かると、冷えた身体に染みこむ湯がじわじわと気持ち良い。

 

 一旦、頭まで全部を浸かってから、プハッと顔を出す。

 すっかり葉を落とした桜の枝の間から、夜空を見上げて、飛鳥馬はまた考えていた。

 

 確かに霞柱に就任することを要請されてはいる。半年ほど前のことだ。

 だが固辞したのは、どうしても自分が先に柱になることに納得がいかなかったからだ。

 

 実力でいえば、どう考えても東洋一が柱になるべきだった。というより、今でも実質的には柱としての任務をこなしているのだ。

 

 十二鬼月を()ったことはない、と本人は言っているが、単独任務であればそれを隠すことはたやすい。鴉に言い含めればいいだけなのだから。まして、東洋一の鴉は選別で与えられた鴉が病死してしまい、その後、周太郎の鴉を与えられている。

 

 本来であれば十二鬼月の討伐など、自ら吹聴して回ってもおかしくないくらいの晴れがましい栄誉であるのだが、あえて隠しているのだとすれば……その理由は明白だ。

 

 そこまで、周太郎の義理立てする理由は何なのだろう?

 やはり弟子は師匠を越えられないということか?

 

 確かに飛鳥馬が初めて東洋一に会った時に『あの風柱』の継子として第一印象を持ったように、隊内において風柱・風波見周太郎は未だ別格の存在だ。

 特に古参の隊士になるほどに誇張された武勇伝を語り、それを若い隊士が聞いて益々伝説に尾鰭がつく。

 加えて明朗闊達で穏やか、かつ新参の隊士であっても分け隔てなく接する鷹揚で寛仁たる性格。

 隠からも慕われ、その絶大な信望故に、周太郎が柱でなくなることなど考えられない――――と、どこかで皆思っている。

 

 だが、風柱も決して自分の地位に執着して居座っているというわけでもない。

 

 御館様である輝久哉は幼い頃から自らを支えてくれる周太郎に相当依存しており、段々と物のわかる年頃になってきたせいもあってか、最近では周太郎が現場へ行くことに難色を示すようになってきているという。

 無論、周太郎が鬼に殺られることを恐れてのことだ。

 柱でも、殺された人間は数え切れぬほどいる。

 

 それほどであるから、周太郎が自らの力不足を理由に柱を辞するようなことになれば、意気消沈し、倒れて寝込んでしまうだろう。

 羸弱(るいじゃく)な御館様のこと、下手すればそのまま亡くなってしまいかねない。

 輝久哉はまだ、十一歳。跡取りもない。

 そんなことになったら、鬼殺隊の存続にも関わる。

 

 それでは風柱には柱を辞して、別の役目でもって御館様に仕えてもらってはどうか…ということも考えられたが、こちらに関しては他の柱の間で否定的な意見があるらしい。

 それはそうだろう。柱を辞めた人間にいつまでも居座られては、正直やりにくい。

 ましてそれが『伝説の風柱』であれば尚の事。

 それは風柱の方でも否定的であるようだった。

 

 いずれにしろ、現状のままでは東洋一が柱になるという可能性はどうあっても低い。だが、このままにしておくには………

 

 考えつつ、飛鳥馬は湯から上がった。

 

 

◆◆◆

 

 

 冷えた身体も十二分に温まって部屋に戻ると、案の定というべきか、東洋一は晩酌を始めていた。

 

「…怪我人の前で騒ぐなよ」

 

 飛鳥馬は一応注意しておいた。

 酒を呑んで興が乗ると、踊るやら歌うやら、しまいにはどこからか三味線を借りてきて弾き始めたりの、どんちゃん騒ぎを始めるので、釘をさしておかねばならない。

 しかし東洋一はケッと吐き捨てた。

 

「よく言うぜ。俺は楽しく呑んでるだけだ。そっちこそ気をつけろよ。っつーか、あんまり呑むな。一杯だけにしとけ」

 

 最終選別後の酒宴以来、飛鳥馬の泣き上戸にさんざつき合わされてきた東洋一としては、それこそ釘をさしておきたい。

 

「………いらん」

 

 飛鳥馬は自分の醜態をほとんど覚えてはいないのだが、後日に聞かされることが度々あって、自分ひとりで呑む時以外、酒は控えるようにしていた。

 

「最近一緒になるのが多いんだってな」

 (きじ)の味噌焼きを食べながら、東洋一が尋ねてくる。

「鏑木か? あぁ…そうだな。管轄が一緒だというのもあるが……組むことは多いな」

 

 鏑木浩太は、飛鳥馬が東洋一と同期で仲が良いと知ると、わかりやすく慕ってくれるようになった。

 まだまだ常中を修得できてなかったり、技も多少荒削りではあるが、膂力が強く、勢いがある。

 

「霞の呼吸も教えてくれてんだろ?」

「教えた…ていうか、見様見真似でやっていたんでな……少しばかり稽古をつけてやったんだ。大したもんだぞ。参の型は会得した。やはり風の呼吸だと、飲み込みがいいな」

「へぇ…もう? 浩太がねぇ……お前、教え方が上手いんだな」

 

 急に褒めてくるので、飛鳥馬はびっくりして妙にあたふたした。

 

「そっ…んなこと言ってお前……今日は金は貸さんぞ! ここの払いができなくなったらどうしてくれる!」

「なにを急に……顔、赤いぞ? 湯あたりか?」

 

 東洋一は不思議そうに尋ねて、チラリと背後の浩太を見た。

 あの日の誓いに背くことことなく、頑張っているようだ。

 しばらく見ぬ間に増えた傷痕と、精悍になってきた顔立ちに、東洋一は浩太の成長を感じた。

 

「鏑木も……お前は柱になるべきだと…言っていたぞ」

 飛鳥馬が言うと、東洋一はまた渋面になった。

「しつけぇなァ…俺よりお前だろ。とっととなれよ。そんで酒おごれ。あ、お前は呑むなよ」

 

「東洋一、真面目に聞け。鏑木だけじゃない。花柱や康寿郎だって……他の隊士からも声は上がってきているんだ。既に風柱様は本来の仕事をなさっていない。跡継ぎの息子はまだ柱に足る実力はない。お前には、もう十二分に――――」

「やめろ。言うな。聞かん」

「東洋一……」

 

 飛鳥馬は頑なに撥ねつけるその横顔に、困惑しながらも口を閉じた。

 無言で東洋一は酒を呑み、火鉢の炭がゴトリと音をたてる。

 冷えた飯をもそもそ食べながら、飛鳥馬はなおも考えていた。

 

 しばらくして、急に「あ…」と声を上げる。

 

 チラ、と見た東洋一と目が合って、飛鳥馬は嬉しげに叫んだ。

 

「東洋一!」

「……何だよ?」

「お前、霞の呼吸を修得しろ!」

「………は?」

「鏑木だってできたんだ。元は同系なんだし、お前ならすぐに修得できるはずだ。そうすれば、お前は霞柱になれるだろう!?」

 

 東洋一はしばらく呆けた。

 何を言い出した、コイツ……?

 

 しかし飛鳥馬はまったく真面目な顔で言ってくる。

 

「それならお前も風柱様に遠慮することもないだろう? 稽古なら、俺がつけてやるから。ちょこちょこやるより……二ヶ月、いや三ヶ月くらい集中してやった方がいいかもな。任務のことは康寿郎や花柱に協力してもらって……」

 

「飛鳥馬……」

 東洋一はつぶやくように言うと、ちょいちょい、と指で呼ぶ。

 飛鳥馬が近寄るなり、

「阿呆か! お前は!」

 耳元で思い切り怒鳴られ、飛鳥馬は一瞬目が回った。

 

 キーンと響く耳鳴りがやんだ頃には、東洋一は既に床についていた。

 珍しく酒を残していったのを見て、飛鳥馬は嘆息した。

 

 いい考えだと思ったのだが、受け容れてくれそうもない………。

 

 翌朝、目を覚ますと、もう東洋一の姿はなかった。

 

 

 

<つづく>

 

 

 







次回は2021.07.03.土曜日の更新予定です。




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第六章 昔日 -青嵐篇- (三)

 周太郎に呼ばれ、東洋一(とよいち)風波見(かざはみ)家に久しぶりに訪れたのは、去年の賢太郎の祝言前日以来のことだった。

 庭には、桜よりも一足早くに満開になったこぶしの花が咲いていた。

 

「新しい型?」

 東洋一が聞き返すと、周太郎は子供のように楽しそうに話した。

 

「あぁ。柱になってから徒然(つれづれ)には考えていたんだが、なかなか忙しくてな。頭の中だけで、放っておいたんだが、この間、少し時間もあったんで考えていたことをまとめてみたら……これが止まらなくてな」

 

 言いながら、束になった書付を渡してくる。

 

「玖ノ型 風破観(かざはみ)……」

「あぁー…一応だ、一応。名前を考えるのが苦手なんだ。お前、考えておいてくれ」

「俺だって苦手ですよ…」

 

 東洋一は苦笑しながらも、紙を繰っていく。

 その技の攻撃手法、範囲。型の基となる動作、構え、呼吸法……細かな書き込みが続く。

 途中まで読んで、溜息をついた。

 

「なんだ? よくないところでもあったか?」

 周太郎が少し心配そうに尋ねてくるので、東洋一は笑った。

「まさか。あんまりにもすごいんで、ついてけないんです。俺は文字より、実際に聞いて教わったほうが良さそうだ……頭が痛くなってくる」

「ハッハッハッ! まぁ、私も書くのは苦手だ」

「そのようですね……」

 

 そこのところは否定しない。興奮して一気に書き上げたせいか、単純に文字が乱れていて読めないところもあるし、誤字も多い。まぁ、あくまで書付であるのでそこは仕方ないだろう。

 

「うん。まとめるのは賢太郎に任せよう。あいつはこういうのは得意だからな」

「それは賛成です」

 

 賢太郎からは何度か手紙を貰ったこともあるが、いつも美しい文字で、非常に簡潔でわかりやすい文章なので、読むのが苦手な東洋一でもスラスラ読める。

 

「それでな、東洋一。お前にも協力してもらいたいんだ」

「協力? なにをです?」

「実際に試してみないと、完成できないからな。自分でやるだけでは、細かな調整ができん。お前にも試技をして、客観的に動作の確認をしたいんだ」

「あぁ、そういうことですか。了解です」

「すまんな……忙しいだろうが」

 

 周太郎は急に声を落とした。

 哀しげな自責の念が表情に浮かぶ。

 

「別に大したことでもないですよ」

 東洋一はあえて事も無げに言った。

 

 実際、東洋一にとって全国を飛び回る今の状況は、さほどにつらいものではない。

 そもそも、子供の頃から根無し草であった。幼い頃行った土地に、久しぶりに訪れるのも楽しいものだ。

 

 だが、周太郎にはやはり忸怩たる思いがあったのだろう。

 

「東洋一……お前、柱になるか?」

「………」

 

 東洋一は周太郎の書付を見ながら、しばし固まった。

 その言葉は最近やたらと聞くようになっていたが、まさか師匠本人からまで言われるとは……。

 深呼吸をすると、フと笑みを浮かべる。

 

「嫌ですよ」

「東洋一……」

「柱とか器じゃないし。俺はこのままでいいです」

 

「東洋一、私や賢太郎のことなら気にすることはない。風波見家が柱を継いできたとはいっても、もはや世襲にこだわるべきでない…と私は思っている。鳴柱を始め皆、お前を推挙しているぞ」

「あいつらはわかってないんです」

 

 東洋一は笑みを張り付かせたまま、早口に言い切る。

 周太郎は驚きながら溜息を漏らした。

 

「やれやれ…柱相手にそんな口をきいておいて」

「柱であったとしても、尊重の仕方は人それぞれなので。敬服はしてますよ、それなりに」

「私は…お前には譲ってもいいと思っているんだがな……」

「俺なんぞがなったら、御館様が卒倒しかねませんよ」

 

 あくまで固辞するために、とうとう輝久哉のことまで出してきた東洋一に、周太郎は苦笑いを浮かべた。

 

「お前、わざとだろう?」

「……何がです?」

「酒も博打も……本当は、さほどに好きでもないだろう?」

「ンなこたぁない。大好きですよ」

 

 堂々と(うそぶ)く東洋一を、周太郎は優しく見つめた。

 

「どうあっても、そうやって……自分を悪く見せるんだな……」

 

 つぶやいて周太郎はゆっくりと立ち上がる。

 縁側に立って、茜色に染まる庭を眺めた。

 

「……まだ、許せないか? 己を」

 

 背を向けたまま、問いかけられる。

 東洋一が答えられないでいると、振り返ってじっと見つめてくる。

 あの日と同じ、どこまでも見透すかのような、強く、澄んだ瞳。

 

 一瞬、(くさむら)に隠れた少年(じぶん)の姿が浮かぶ。

 目頭が熱くなりかけて、すぐに記憶の再生を停止させた。

 

 いけない。今ここで、あの記憶(コト)を思い出しては駄目だ。……

 

 東洋一は膝の上で拳を固めた。

 口の端に皮肉な笑みが浮かぶ。

 

「そんな…大層なことじゃないですよ。ただ、ぐうたらに生きてるだけです、俺は」

 

 周太郎は肩をすくめた。 

「ぐうたらというなら……最近では私の方がそう思われてそうだがな」

 

 冗談めかして言うのを、東洋一は悔しくてムゥと眉を顰めた。

 本来なら、今だって、周太郎は東洋一よりもずっと強い。

 

 確かに遠方への出征は東洋一が行ってるが、近場における難敵には未だに周太郎は出張っていた。

 ただ、他の柱や隊士達と違い、周太郎には指令を下す人間がいない。

 鬼の存在確認がとれ次第、自分がすぐに行って滅殺してしまうので、ほとんど誰も知らぬ間に処理が済んでしまっている。

 そのせいで皆、昼間に産屋敷家にほぼ常駐する周太郎を見て、任務に行ってないなどと勘違いしているのだ。

 

『伝説の柱』などという安っぽい表現以上に、周太郎は偉大だ。

 柱としての責任感も器量も、他の柱の及ぶところでない。

 

 だが、まるで盛りを過ぎた獅子であるかのように、老いれば去れとでも言わんばかりの、周囲の態度が東洋一には許せなかった。

 

 こうして今でも新たな型を創案し、何かというと頼ってくる―――風邪をひいた、という程度のことであっても―――輝久哉に寄り添って、鬼殺隊全体の将来のことを見据えて、よりよい方向へと模索しているというのに、どうして周太郎を排除しようとするのか、東洋一にはわからなかった。

 

 柱になろうがなるまいが、自分にできることは鬼を滅殺するだけだ。

 周太郎の代わりにはなり得ない。

 

 奥歯を噛みしめ、湧き上がる怒りを鎮める。

 パンと膝を打つと、おどけた口調で言った。

 

「師匠! そんなに俺に気兼ねしておられるなら、始末をつけましょう」

「……始末?」

「金でいいです。ちょいとばかし、まとまったのをもらえますか?」

 

 周太郎は途端に鹿爪らしい顔になった。

 ゆっくりと元の位置に戻って座ると、少しばかりの呆れを含んで東洋一を見た。

 

「なんだ? また、博打か? 酒か?」

「………それ以外ですね」

「女か。また、ツケがたまったのか…いくらだ?」

「えぇと……百ほど……で足りるかなァ…?」

 そろそろと言うと、周太郎は目を剥いた。

 

「百? お前、何考えてるんだ?」

 大学出の初任給が八円ほどである。いくら女遊びのツケが溜まったとはいえ、額が一桁違うどころの騒ぎではない。

 

「あ、やっぱいいです」

 すぐに撤回しようとした東洋一を、周太郎は止めた。

「待て。百もするなら、ただの女遊びでないだろう?」

 

「えぇ…とぉ……」

 自分で言い出したものの、東洋一は後悔した。

 

 しどろもどろになる東洋一を見て、周太郎ははニヤリと笑った。

「身請けでもするのか? それにしては額が少ないな…?」

 

「いや、ま…親元請けで頼めばそれくらいかなーっていう……」

「ほぅ。お前に身請けするような女がねぇ」

「いや、違いますよ! まだ、半玉(はんぎょく)のガキですから。そういうのじゃないんです」

 

 いつになく慌てまくる東洋一を見て、周太郎は目を細めた。

 

「別にごまかさんでもいいだろうが。いい加減、お前も所帯を持てばいいんだ」

「違うんですって。あんまりにも芸事が下手で、この先もうまくなりそうにないし、合ってないんで、別の商売でもした方がいいって思って……言っときますけど、あんなお多福、俺はごめんです!」

 

 とうとう堪えきれず、周太郎は呵々(かか)と笑った。

 

「……お前、案外と不器用なところもあるんだな」

 ひとしきり大笑いした後、周太郎は軽く吐息をついて言った。

 

 東洋一はポリポリ頭を掻きながら、「言うんじゃなかったな…」とこぼしている。

 

「わかった。用意しておいてやろう」

 周太郎はそう言うと、煙草盆を引き寄せ、葉たばこを詰めながら、釘をさした。

「但し、ちゃんと面倒を見てやれよ」

 

「まぁ……一人前にはさせますよ」

「ほぉ。半玉を一人前にね」

「いや……違いますから! 自分で食ってけるようにさせるっていう意味ですよ!」

 

 

 結局、東洋一の言い分を周太郎がどこまで信じたのかは定かでないが、後日、本当に百円をもらい、東洋一は里乃という少女を身請けした。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「お前、所帯を持ったらしいな」

 

 いきなり勝母に言われて、東洋一はぶっと酒を噴いた。

 

 隣にいた鱗滝左近次が眉をひそめ、自分にかかった部分を手拭いでそっと拭う。

 目の前で言った当人は、面白そうに東洋一を見ていた。

 

「なんだ? えらく動揺しているな」

「……どういう、話だ? それは」

「この前、風柱様にお会いしたら、そのように仰言(おっしゃ)っておられた」

 

 東洋一は眉間を押さえた。

 やはり大いに誤解されたままのようだ。

 

「違う…」

「違う? なにがだ? 一応、その祝いも兼ねてるんだぞ、今日は」

「はぁ? 俺は左近次の柱就任の祝いだって…」

「表向きはそうですが、私の就任祝いにかこつけて、東洋一さんに奥方のことを聞こう…って話ですよ。本当は」

 相変わらず、平然と左近次が言う。

 

「違ーうっ! 俺は結婚なんぞしてねぇし、この前だって品川に遊びに行った!」

「大声でわめくことじゃないだろ」

 勝母はあきれて言うと、つまらなそうに煮ダコを噛んでしがむ。

 

「なんだ、つまらん。ガセか。それだったら、今日の払いは割り勘だ」

「ハアァァ!!?? 話が違うじゃねーかっ!」

「お前が呑む量を減らせばいいだろうが。可愛い後輩の祝いの席で、食べたいものも食べさせない気か?」

「お前とコイツ二人分で折半なんぞ、酒一升呑んだって割に合わねぇだろうが! しかも、こんないい料理屋で……俺は無理だからな。この前、ツケを払ったばっかで金がねぇ」

「女を落籍()く金を用立ててもらっておいて、よく言うな」

「……貸しましょうか?」

 

 左近次が言うと、すぐさま飛びつきそうになる東洋一を目線で制して、勝母は溜息をついた。

 

「左近次…お前、東洋一に甘いぞ。いい。今日のところは私が出す」

「さっすが、柱! 気風(きっぷ)がいいねぇ…旦那!」

 

 歯の浮く追従というのはこういうのを言うのだろう……と思いつつ、勝母は酒は嗜まず、自ら持ち歩く青竹の中の茶を飲む。

 一度、この二人に鳴柱・桑島慈悟郎も加えて、一緒になって呑んだ翌日に、ひどい頭痛で起き上がることもできず、柱合会議を欠席して以来、控えるようにしている。

 

「そういえば……風柱様の具合は如何だ?」

 

 あさりをつまみながら、勝母は尋ねた。

 東洋一が「は?」と首をひねる。

 

「この前、腹痛がすると仰言ってな。胃薬を処方したが……聞いてないか?」

「いや…聞いてない」

 

 一昨日も例の型の試技で風波見家に行ったが、そんな様子はなかった。

 

「大したことでなければいいが、風柱様ももう、柱としてやっていくには、そろそろつらくなってくるだろう。次のことを考えねばならない」

 

 勝母はジロリと睨みつける。

 

「私も、左近次も、康寿郎も桑島殿も推挙しているというのに……どうして断る?」

 途端に東洋一はムッと押し黙って、酒を飲み下す。

 

「ご子息への遠慮ですか?」

 左近次も隣でカモ肉を食べながら尋ねてくる。

「違う」と、東洋一は短く答えると、タン! と猪口を膳に叩きつけた。

 

「お前らなぁ…しつこいよ。柱は師匠で十分に務まってる。隊内における信望も厚い。賢太郎もめきめき頭角を現しているし……俺が割って出る必要はない。第一、御館様だって望んでないだろう?」

 

 この話において、御館様の存在は一番の難点だった。

 

 いかに勝母達が望んだところで、御館様が周太郎や賢太郎以外の風柱は望まれないのは明白だった。

 柱達によって説得―――それは周太郎も含めて―――できないこともなかったが、そこまでの無理を通した後に、心労で倒れられでもしては事である。

 周太郎が未だ辞去することできない理由もそこにある。 

 

 そうとわかって()いてくるあたり、本当にこの男は無駄に頭が回る。

 勝母は嘆息した。

 

「香取も香取で蹴ってくるし……柱軽視も甚だしいぞ、貴様らは」

 

 その名を聞くと、東洋一はますます渋面になった。

 

「そうだよ、あの野郎……まだ受けてねぇのか? っとに、とんでもねぇこと言い出すし、何考えてんだか……」

「とんでもないこと?」

「あぁ。あの馬鹿…俺に霞の呼吸を修得して、霞柱になれとかホザきやがってよ。テメェがなった方が早ぇじゃねーか、っての」

「あぁ……そういうことか」

 勝母が得心すると、左近次はしれっと爆弾を投下する。

 

「念友になりたいとか言ってましたからね」

「そうだな。友の為なら、柱なんぞ譲るんだろうな…あの男は」

 

 勝母と左近次が互いに頷きあうのを見ながら、東洋一は聞き返した。

 

「…………なんて?」

「なにが? 香取だろう? お前の念者になりたいと言っていたんだ」

「はぁぁ??!!」

 

 寝耳に水とはこのことだった。

 知り合ってから今に至るまで、そういう気配を感じたことは一切ない。

 

「ちょっと待てっ! いつからだ?! っていうか…なんでお前らに言ってんだ?」

「当人に言えないからだろう」

「一度、言ってみたけど、東洋一さんが酔っ払って、まったく覚えてなかったと言ってましたよ」

 

 酔っ払う…という言葉を聞いて、東洋一はハッとなった。 

 

「お前ら、飛鳥馬を酔わせたんだろ? それでそんな訳のわからんことを言い出したんだろ、あいつ」

 

 勝母と左近次は目を見合わせると、一緒になって長い溜息をついた。

 

「……わかってない」

「……わかってないですね」

 

「なんだよ。あいつ泣き上戸だから、酒のせいでボロボロ言っちまっただけだろ?」

「酒を呑んで、泣き上戸になって、普段言えないことを言ってしまう……ということは、本気だということじゃないか」

 

 勝母が逃げ場をなくすかのように、にべなく言うと、左近次も続いた。

 

「報われないですねぇ……香取さん」

「お前がとうとう女と所帯を持つと聞いたときも、良かったなんぞと祝福していたが、寂しそうな顔をしてたものなぁ……あ。でも、違うんだったな?」

 

 勝母はニヤリと笑った。「今度会った時に訂正しておかないとな」

 

「私も会ったら言っておきます」

「…………言わんでいい」

「なぜ? 所帯を持ったと吹聴されては迷惑なんだろう?」

 

 すっかり楽しくなった勝母は、ニヤニヤと笑って東洋一を見ていた。

 こんな篠宮東洋一を見るのは初めてだ。それは左近次も同じらしく、わざと怒らせている。

 

「いいじゃないですか、東洋一さん。あなた、どうせ女は遊びでしょう。本気は男相手にしておけば」

「阿呆か、お前は! 俺は陰間趣味はねぇ!」

「失礼だぞ、東洋一。香取は色欲で言っているのではない。お前の能力(ちから)に敬服した上で、崇高な契りを結びたいと言っているだけだ」

「お前らな……」

 

 いい加減、自分が遊ばれているらしいことに気付いた東洋一は、ヒクヒクと頬を震わせる。

 

「適当なこと、言ってんじゃねぇぞ…」

「無論だ。本当のことだからな。香取は―――――」

「もう、いい! 取っとけ泥棒!!」

 

 東洋一は懐から取り出した財布を机に叩きつけると、立ち上がって店を出て行った。

 

「………すっかり、混乱してましたね」

「そうだな」

 

 勝母はそう言って、汚らしいその財布の中身を開けると、硬貨が五枚ほど落ちてきただけだった。

 

「あの男、よくこれで出歩くな」

「そういう無防備というか…大雑把なところが好かれるんでしょう。香取さんは繊細ですからねぇ」

「お前もか?」

「はい?」

「お前も、東洋一のこと好きだろ?」

 

 左近次はズズズと茶を飲んで、しばらく考えた後、やはり顔色も変えずに答える。

 

「……私は……私がそうだったら、洒落にならないでしょう」

「……違いない」

 

 勝母はクスリと笑って頷いた。

 確かに並の役者よりも整った顔の左近次では、有り得そうで笑えない。

 実際、男の多い隊内ではそういう声をかけられることも少なくないだろう。

 もっとも、この男は見せないだけで、東洋一に負けず劣らず女に不自由していないのだから、好き好んで男を選ぶことはないはずだ。

 

 その後、やはり東洋一がいなくなって盛り上がりに欠けてしまったのか、左近次は予想よりはさほど食べないうちに終了した。

 勝母は思っていたほどの出費にならずに済んだと、内心で胸を撫で下ろした。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.07.07.水曜日の更新予定です。




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第六章 昔日 -青嵐篇- (四)

 

 ―――――速ぇ……

 

 東洋一(とよいち)は強く奥歯を噛み締めた。

 

 目の前には、未知なる化け物がいる。

 その鬼は、仁王のような筋骨隆々の体躯に、その体と同じくらいの尺の大刀を持っていた。

 分厚いその刀身は、人間であれば片手で持てる重さではない。だが、その鬼は団扇(うちわ)を扇ぐよりも軽そうに振り回す。しかも―――――

 

 岩の呼吸 壱ノ型 蛇紋岩(じゃもんがん)極刃(きょくじん)

 

 振り回された大刀が蛇のようにうねりながら向かってくる。

 避けながら、東洋一もまた技を繰り出した。

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 技が相殺され、砂煙が視界を塞ぐ。

 その隙に東洋一は間合いをとった。

 離れた場所で倒れている浩太と飛鳥馬(あすま)の様子をチラとだけ見る。どうやら二人とも応急処置は終えたようだ。

 

 ユラリと白い煙の中で影が揺れた。

 

「チッ! 鬼が呼吸なんぞ遣いやがって」

 

 東洋一は舌打ちすると、刀を握り直す。……

 

 

◆◆◆

 

 

 半刻ほど前のことだ。

 

 任務を終えて帰路についていた東洋一の頭上を鴉が横切り、羽を落としていった。

 

「正九郎…何かあったみたいだぞ」

 

 東洋一が言うと、正九郎はすぐさま飛び立ち、その鴉の元へと向かった。

 すぐに連れ立って戻ってくる。

 

「救援、救援。コノ先ノ採石場ニテ、戦闘中」

 

 叫ぶ鴉の声に聞き覚えがあった。

 まさか…と思いつつ行ってみると、果たして香取飛鳥馬が、口から血を垂らしている。鬼の攻撃を腹に受け、内部を損傷したらしい。

 

「東洋一……」

「飛鳥馬? お前…なんで……お前がやられるって……」

 

 柱にと要望されるだけあって、飛鳥馬に傷を負わせるほどの鬼はそういない。上弦でも出たというのか……?

 

「早く…行って……くれ。鏑木(かぶらぎ)が…」

「わかった」

 

 だが数歩も歩かぬうちに、重い地鳴りのような音が響き、足元が揺れると同時に、浩太の痛々しい悲鳴が響き渡る。

 

 東洋一はその声に意識を集中して居場所を特定すると、第二撃目で頭を砕こうとしていた鬼の刀をかいくぐって、浩太を助け出した。

 右腕の肘から下がなくなっている。

 浩太を抱いたまま、鬼の攻撃を躱すと、飛鳥馬の隣に浩太を置いて対峙する。

 

「……待っててもらえるとは、なかなか義理堅い鬼だな」

 

 さっきの攻撃も、まったく本気ではなかった。

 新たに現れた敵を試した、という程度のものだ。

 

 東洋一が刀を構えると、その鬼は紅く光る目を細めた。

 目に、文字がある。―――――下弦、壱。

 

「…………その鍔、風波見の手の者か」

「なんでテメェがそんなこと知ってる?」

 

 風波見門下の隊士の刀は、皆この八枚の風切羽の意匠の鍔。だが、そんなことは鬼殺隊にいなければ知るはずもない。

 鬼は暗い表情を変えることもなく、重そうな刀を上段に構える。

 

「その理由を知ったところで、最早意味はない」

 

 言うなり、ブゥンと低い音が空気を裂き、一気に東洋一のいた場所の土を抉った。すんでで避けたが、少しでも遅れれば頭をかち割られていたろう。

 

 東洋一は刀の握り手を変えた。

 一瞬の気の緩みで粉砕される。

 下弦でありながら、この鬼はこれまで東洋一の会った鬼の中でおそらく最強だと思った。しかも、呼吸遣い。おそらくは―――――

 

「テメェ……裏切者か?」

 

 東洋一は尋ねたが、その灰色の顔をした鬼は、眉間の深い皺をピクリと動かしただけだった。

 

 岩の呼吸 壱ノ型 蛇紋岩・極刃

 

 答えだと言わんばかりに、岩の呼吸を放つ。

 その鋭さ、技の重さ。

 生半(なまなか)の剣士ではない。

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 普通の鬼であれば、切り裂く突風に千々に体を斬り刻まれ、瞬殺される技だが、その鬼の放つ呼吸の技と相殺され、皮膚にも届なかった。

 

 砂煙が辺りに立ちこめる。

 間合いをとって、鬼の気配を感じながらも、東洋一は素早く地形を確かめた。

 人気ない採石場。鬼の背後には、採石される白い岩山が聳えていた。

 

 煙の中でゆらりと影が動く。

 鬼が再び技を放った。

 その技の起点と終点を見極めた上で、東洋一は正確に避ける。だがすぐに次の攻撃。

 連続で畳みかけてくる。

 

 ―――――速ェ…

 

 異常に速い。これは普通は避けられない。

 

 おそらく飛鳥馬も、浩太も、技でどうにか相殺して躱していたのだろう。だが、あの重さの攻撃を連続で凌ぐのは難しい。重傷を負うはずだ…。

 

 鬼の凄まじい速度の攻撃を、東洋一は全身の神経を研ぎ澄まして避ける。

 目を見開き、対象である鬼の一挙手一投足を視界の網に焼き付ける。ほとんど無意識であったが、鬼の動きが少しだけゆっくりと見えるようになる。

 

 それでも鬼の振るう大刀の斬撃は、余波ですらも細かな裂傷を追わせた。

 ポタポタと裂かれた額から、血が滴る。

 

 東洋一は刀を持つ手に力をこめた。

 

 岩の呼吸はほぼ一撃必殺の技だ。

 喰らえば即死。避けて隙を探るしかないが、目の前の鬼はまったくその間隙を見せない。

 彫像のように固まった表情のまま、ひたすら攻撃を繰り返す。

 

 このままでは、埒が明かない。体力を削られて、力を出せないままに殺られる。

 東洋一は長く息を吸い込んだ。

 

 風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ

 

 地面を抉る攻撃。採石場においては、砂煙となり、東洋一の姿が砂の中に消える。

 

 だが、鬼は動じない。

 遮るようにその場で仁王立ちしていると、砂煙の中から現れた東洋一に、横から大刀を振る。

 クルリと回転した東洋一はその大刀の上に一瞬だけ乗り、タンと蹴った。

 

 風の呼吸 漆ノ型 勁風・天狗風

 

 鬼の頭越しに技を放つ。

 唸る風音と共に、鋭い斬撃が鬼を襲う。

 左腕が落ち、額から首筋にかけて斬られ、鬼の血飛沫が勢いよく噴き出す。

 

 血溜まりの中で、鬼はクルリと後ろに立つ東洋一に向き直った。

 その時には、もう腕は再生し、額の斬られた部分は痕もない。

 

「曲芸師のような真似をする……」

 

 その声は感情が希薄で、怒っているのか楽しんでいるのかわからない。

 ずい、と一歩進み、鬼は紅の目で東洋一を凝視する。

 

「風波見の者。そなた、柱か?」

「生憎と、柱じゃねぇよ。俺がやられりゃ、来るかもな」

 

 山肌を削られた岩山を背にした東洋一は、刀を構えたまますぐさま息を整えた。

 来る。…来させる。

 

「そなたほどの者が柱でないとは……」

「お褒め頂き光栄だな、下弦の。柱に会いたけりゃ、俺を殺して、上弦にでもなったらどうだ?」

 

 カチリ、と鬼が歯を鳴らす。

 カチリ、カチリ。

 無表情に不気味な音を立てながら、鬼は大刀を振り上げる。

 

 ―――――来る!

 

 構えて、すぐさま技を発動する。

 同時に、鬼も恐ろしい速さで攻撃してくる。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 岩の呼吸 肆ノ型 流紋岩・速征

 

 ドオオォォオンンンッ!!!!!!!

 

 凄まじい音が響き、そそり立つ岩山にピシと罅が入る。

 その時には、東洋一は高く跳躍して再び鬼の背後へと立っていた。

 すぐさま、技を繰り出す。

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風ー(れん)

 

 上・下・左・右と最後にもう一度上から。

 五連続した技の速さは尋常でない。

 鬼は防御専一になり、その風圧に背後へと追いやられる。

 

 スィィィィィ―――――東洋一はより深く息を吸い込んだ。

 

 風の呼吸 肆の型 昇上砂塵嵐

 

 それは鬼に放ったものではない。

 罅割れた岩を斬撃が切り裂くと、轟音とともに岩が砕け雪崩となって鬼の上に落ちてくる。

 

 鬼は初めて表情を変えた。

 ギリギリと歯噛みし、咆哮と共に技を放つ。

 

 岩の呼吸 漆ノ型 斑糲岩(はんれいがん)廻旋(かいせん)

 

 大刀を凄まじい勢いで振り回す。

 落ちる岩が弾き飛ばされ、東洋一に向かってくる。同時に回転する刃が襲いかかる。

 

 鬼の攻撃と、大きな岩を躱すのが精一杯だった。

 馬の頭ほどの岩が東洋一の背を打ちつけ、一瞬、息が止まる。

 だが気にする間もない。

 

 鬼は地面を抉って踏み込み、大刀を薙ぎ払う。

 ギリギリだった。

 小指の爪先ほどの距離で、東洋一の目の前を大刀の鋒が弧を描く。

 東洋一は冷静にその軌跡を見ながら、呼吸を深めると同時に跳躍する。

 

 風の呼吸 捌ノ型 初烈風斬り

 

 ガキイィッ!!!

 確実に鬼の首を捉えた。

 だが、その堅い鬼の首を掻き斬るには、既に限界を超えていたのだろう。あと少しというところで、刀が砕け散った。

 

「くっ…そがッ!」

 すぐに東洋一は刀を放り出した。

 

 隙を捉えた鬼はすぐさま反撃に転ずる。

 大刀が地面を擦り上げながら、下からせり上がってくる。

 

 東洋一は体をひねりながら、鬼の大刀の動きに合わせて、その刃先に一点、軸を当てて、向かってくる力を外へといなす。すぐさま落ちてくる岩を避けて後方へと跳躍し、大きく間合いをとった。

 この一連の東洋一の動作を正確に見れた者はなかったろう。

 全ては瞬時の反射行動でしかない。

 

 たたらを踏んで、鬼は苛立たしげに、落ちてくる大岩を拳で破壊すると、振り返って東洋一を見た。

 

「…………鉄扇(てっせん)か」

 

 東洋一の手には懐から取り出した鉄扇が握られていたが、今の攻撃を躱すために使用した後は、骨がグニャリと曲がって、もはや使い物にならない。

 

「……久々に…手応えのある相手だったぞ、風波見の者」

 

 鬼が大刀を構える。

 その顔は少しだけ笑っているようだった。

 東洋一は背筋に冷え冷えとした恐怖を感じながら、鬼を静かに見つめていた。

 

 息を吐く……。長く……。

 さっきチラリと見えたのが、浩太の刀であるならまだ勝機はある。

 一の太刀を躱す。必死の覚悟で。それから刀をとれば…まだいける。

 

 カチリ、と気が合う。

 

 同時に振り下ろされた鬼の刀は、背後からの殺気に瞬時に気付いた。

 

 霞の呼吸 参ノ型 霞散の飛沫

 

 飛鳥馬の放った呼吸技が、鬼に襲いかかろうとするやいなや、すぐさま呼吸を変化させた鬼が対応する。

 

 岩の呼吸 参ノ型 岩躯の膚

 

 戦線に復帰した飛鳥馬と鬼が対峙している間に、東洋一は素早く辺りを見回した。少し離れた砂山の上に、浩太の斬られた腕が落ちていた。

 

「……借りるぞ」

 

 血色をなくしたその手から刀を取り、東洋一はすぐさま息を整える。

 

 今になって、落ちてきた岩に打たれた背中が痛む。肋骨に罅が入ってるかもしれない。

 

 チラリと空を見上げると、月が西へと傾いていた。

 夜明けは近い……。

 

 再び呼吸を深くすると、鬼へと向かっていく。

 飛鳥馬は霞の呼吸を使って、鬼の猛攻から辛うじて耐えているが、剣先が震えていた。

 呼吸法で体内止血しているとはいえ、長くは保たないだろう。

 

 今しも、鬼の振る大刀の速さについていけず、残像に錯乱して違う方向へと刀を振り下ろそうとしている。

 

「飛鳥馬、左だッ!」

 

 東洋一が大声で叫ぶなり、飛鳥馬は即座に左からの攻撃に対して呼吸の技で凌ぐ。

 鬼がチラリとこちらを見た。眉間の皺に苛立ちがみえる。

 

 東洋一はニヤリと笑った。

 走りながら飛鳥馬の放つ霞の呼吸に合わせて、呼吸技を放つ。

 

 霞の呼吸 陸ノ型 月の霞消

 

 風の呼吸 漆ノ型 勁風・天狗風

 

 鬼は身動きがとれなかった。

 

 飛鳥馬は鬼の攻撃をいなしながら、その勢いを利用して跳躍するや、霞の呼吸独特の緩やかにも見える剣捌きで鬼の首を狙う。

 それだけならば、鬼は十分に撥ね返すことはできたろう。

 だが、その剣撃は東洋一の放つ技との相乗によって勢いを増し、凄まじい重量感を持って、噛み裂くように鬼に襲いかかった。

 

 ―――――ウガアアァァア!!!!!

 

 低い咆哮がビリビリと辺りを震わせる。

 瞬時にして鬼が防御態勢をとり、首周りに無数の牙が一気に生えた。

 

 その間隙を縫って、飛鳥馬の剣がうなり鬼の両腕が落ちた。

 

 すぐさま反撃に打って出ようと、東洋一は着地するや振り返りざま、鬼の首を狙ったが、同時に頭の上に閃く殺気を感じる。

 間一髪で避けながら、刀の柄で飛鳥馬の腹を突く。

 よろけた飛鳥馬の右肩に閃光が走った。

 

「うあッ!!」

 

 右肩から斜めに斬られつつ、振り下ろされた剣撃の勢いで、飛鳥馬は後ろに吹っ飛んだ。

 

「…ぐッ…っ!!」

 

 東洋一も左から袈裟懸けに斬られる。

 ギリギリ避けたが、それでも(きっさき)が東洋一の肌を切り裂き、血飛沫が辺りに散った。

 

 鬼の肩から腕は斬り落とされていた。

 だが、すでに斬り落とされた肩は肉が蠢き、手と一体化したかのような、血肉の絡みついた禍々しい大刀が、両手から生えていた。

 おそらくはその刀で東洋一も飛鳥馬もやられたのだ。

 

 東洋一は間合いをとった。

 視界の隅に月がある。さっきよりも山に近い。

 

 鬼は両手の刀を交叉させて、静止している。

 ゴオオォォとまるで地鳴りのような呼吸音が不気味に響く。

 

 東洋一はひたすら鬼を見つめていた。

 

 呼吸が知らず知らずのうちに、深く…長くなる。

 ザワザワと耳鳴りがしていた。

 やがて耳鳴りが消えると、一気に辺りの音も消える。

 毛穴が全て開いて、鬼の一挙一動を吸い付くように敏感に感じ取ろうとしている。

 

 鬼の呼吸が変化し、技を放つ数秒前に、東洋一は刀を振るった。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 荒れ狂う嵐のような風が鬼に襲いかかる。

 しかし鬼は二本の刀を交叉させながら左右に乙の字を描くように振り回して、これを一蹴した。

 

 岩の呼吸 陸ノ型 双曲(そうきょく)囂々破(ごうごうは)

 

 その神速なる技は、先程までと比べ物にならない。

 東洋一は自分に迫りくる刃を、地面を滑って躱しながら、下から攻撃を行う。

 

 風の呼吸 陸ノ型 黒風烟嵐

 

 下から擦り上げるように刀が鬼に襲いかかる。

 両足が斬られて、倒れかけた鬼は両手の刀を振り下ろして地面を(えぐ)りながら、その勢いをかって跳躍した。

 

 岩山の上に立った時には、足は既に生えている。

 

 しかし、西に落ちる月を見た後に、東の方角を見て、その山の端に陽炎(かぎろい)が立ち昇ろうとするのを感じたのだろう。

 

「………よき時間であった」

 

 低くつぶやくなり、鬼は岩山の上で二つの大刀を振り下ろす。

 再び岩が崩れ落ちてくる。

 

 飛鳥馬と東洋一が岩を避け、崩落が止まるのを待っている間に、鬼は姿を消していた。

 東洋一は脱力して座り込むと、ポケットから柿渋で染めた晒を飛鳥馬に投げた。

 

「お前は?」

 

 飛鳥馬は受け取ったものの、自分が使うことに逡巡していたが、東洋一はヒラヒラと手を振った。

 

「深手はもらってねぇから…お前、浩太に使っちまったんだろ。やっとけ。っとに…腹の傷もあるってのに、無茶しやがって……」

 

 言ってから、東洋一はしばらく黙り込んだ。

 呼吸を集中させて、袈裟懸けに斬られた傷口を絞り上げる。

 飛鳥馬は黙って晒を自分の右肩から腹へと、きつく巻きつけていった。

 

 応急処置を終えると、東洋一は浩太の元まで歩いていった。

 既に飛鳥馬によって、右肩には晒が固く幾重にも巻かれてある。

 

「どうだ? 大丈夫か?」

 

 東洋一が声をかけると、浩太は血の気を失った顔色ながらも、頷いて笑う。

 

「……なんとか。香取さんが、自分の分の血止めの薬をくれたので……」

「もうすぐ隠もくるだろう。持ちこたえろ」

「はい」

「刀…借りたぞ。ちょいとばか、刃こぼれしちまってるな」

「……俺の刀が役に立ったなら…嬉しいですよ」

 

 浩太は左手で刀を受け取ると、その激闘の後の刀身を眺めながら、ゆるゆると目を閉じた。

 東洋一は心臓の音を確かめてから、ホッと息をつく。

 

「俺が鬼からの打撃で倒れた後、なんとか一人で持ちこたえた……大したものさ」

 飛鳥馬がいつの間にか横に立って、浩太を称えながらも、失った右腕を見て痛ましげに眉をひそめた。

「しかし…復帰に時間はかかりそうだな」

「死ななかっただけめっけもんだろ、あんな鬼相手で……」

 

 東洋一は言いながら、鬼の去った岩山を見上げた。

 既に朝焼けの光が赤く岩を染めている。今頃、岩窟にでも潜んでいるのだろうか。

 

「………ほんとにあの鬼、下弦かァ? 他のとは比べ物にならねぇぞ。弐だって、さほどに苦戦した覚えねぇんだが……」

 

 ハアァーッと長い吐息と共に、呆れたように東洋一が言うと、飛鳥馬は目を見開く。

 ジッと東洋一を睨むように見つめた。

 

「……なんだ?」

「やっぱり……そうなのか?」

「は? なにが?」

「十二鬼月を…討伐したことが、あるんだな?」

 

 言質を取った飛鳥馬がにじり寄ると、東洋一は自分の迂闊さに気付いてサッと顔を強張らせつつ、後ろへと退がる。

 

「東洋一!」

 飛鳥馬は追求しようとしたが、ちょうど東洋一にとっては運のいいことに、隠達の姿が見えた。

 

「お、隠が来たな。おーい…」

 手を振る東洋一に、飛鳥馬は声を荒げた。

 

「東洋一! お前が十二鬼月をやったことはないというから……」

「ないない、全くない」

「東洋一!」

 

 隠はやって来るなり、二人が喧嘩している様子に目を丸くした。

 

「……どうかしました?」

「どうもしねぇよ。あっちに重体のがいるから、あっち優先な。次、コイツ」

「俺はどうでもいい! 東洋一ッ」

 

 飛鳥馬は踏み出すと、東洋一の胸ぐらを掴んだ。

 

「ちゃんと言えッ!」

 

 東洋一は睨みあげてくる飛鳥馬を見て、困ったように笑うと、胸ぐらを掴む飛鳥馬の手を掴み上げて、フッと真面目な顔になった。

 

「飛鳥馬……」

「………なんだ?」

「……ひとつ、言っておくことがある」

 

 いつになく真剣な眼差しで、静かに語りかける東洋一に、飛鳥馬は緊張して聞き返す。

 

「………なんだ?」

「俺は、紛うことなき女好きだ」

「………………………は?」

 

 飛鳥馬はまったく意味がわからず、随分と間をとった後に、それしか返事しようがなかった。

 東洋一は飛鳥馬をトンと隠に押し付けると、ニカッと笑う。

 

「だから、お前の気持ちには応えてやれない! じゃ、そういうことでッ」

 言うなり、脱兎の如く駆け出す。

 

「あッ! ちょっと……篠宮さんっ! あんた大丈夫なのッ?」

 隠があわてて声をかけたが、既にその背中は遠い。

 

「………あの人、時々化け物じみてるね」

 

 半分あきれ口調で言ってから、隠が振り返ると、飛鳥馬がワナワナ震えて真っ赤になっている。

 

「あ、あの……香取さん。担架、ご用意した方がいいですかね?」

 恐る恐る尋ねると、案の定、怒鳴りつけられる。

 

「いらん!」

「はぁ…」

「あンの…クッソ馬鹿が……お前の女好きなんぞ、言われなくても百も承知なんだよッ」

 

 飛鳥馬はブツブツと文句を言いながら、昇り始めた朝日に向かって歩き出す。

 隠はその後についていきながら、異常な二人の回復力に半ば脱帽しつつも、呆れた溜息をついた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回2021.07.10.土曜日に更新予定です。
同時に五百旗頭勝母の補完スピンオフ小説もアップしますので、よろしければご覧下さい。




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第六章 昔日 -青嵐篇- (五)

「あれ?」

 その日、町中で勝母を見かけた東洋一(とよいち)は、思わず声をかけた。

「なにしてんだ? お前」

 

 勝母(かつも)は馴染みの漢方薬屋から出てきたところで、気安く話しかけてきた無精髭の男を最初、ジロと蔑むように見て、東洋一だと気付くと呆れた溜息をついた。

 

「なんだ…東洋一か。相変わらず、女の所に行く時以外は汚らしいな。風呂屋に行け」

「口減らずが…そんなだから、今日も呼ばれなかったのか?」

 

 からかうように言うと、勝母は怪訝そうに聞き返す。

 

「呼ばれる? なにが?」

「今日、緊急の柱合会議だろう? 師匠が言ってたぞ、昨日。例の鬼のことで、飛鳥馬(あすま)も召喚されてる筈だ」

 

 実のところは東洋一も召喚対象だったのだが、昨夜半に緊急の任務があったので、体よく断ることが出来たのだ。

 だが、勝母は眉間に皺を寄せた。

 

「……聞いてないぞ、会議のことなど」

「え?」

 

 きょとんとした東洋一の顔を見て、どうやら嘘でもないらしいとわかると、勝母は益々厳しい顔つきになった。

 

 ―――――私を意図的に外した……?

 

 これまでに嫌味や揶揄はいくらでも受けてきたが、ここまであからさまな爪弾きにあうのは初めてだった。だいたい、柱筆頭である風波見(かざはみ)周太郎(しゅうたろう)がそんなことを許すわけもない。

 

 考え込む勝母を見て、東洋一はなんとなく自分が不用意なことを言ったらしいことを察した。

 これ以上、突っ込まれる前に消えよう……と思ってそろりと逃走の準備をしたが、相手が悪すぎた。

 

「……逃げるな」

 ガッシリと東洋一の襟首を掴み、勝母が低い声で問うてくる。

「香取も召喚だと? 例の鬼というのは何だ?」

 

「あー……いや。後で…後で教えてもらえるんじゃないのか?」

 笑って胡麻化そうとする東洋一を睨みつけると、襟首を掴んだまま、人気ない小路へと引っ張っていく。

「ちょちょちょちょ、ちょい待てちょい待て! オイ!!」

 

 必死で言うものの、問答無用だった。

 行き止まりに東洋一を立たせて、勝母は再び尋ねた。

 

「例の鬼…というのは何だ?」

「さぁ…?」

「……私はな、東洋一。町中で刀を抜きたくないんだ」

 言いながら、勝母は羽織の下の柄に手をかける。

 

「抜こうとしてんじゃねーか! 俺は今、丸腰だぞ?」

 羽織をバサリと開いてみせた東洋一の腰には確かに刀がない。だが、それこそおかしなことだった。

 

「なぜ、持ってない? いつ、急務が言い渡されるかもしれないのだぞ」

「作ってもらってんだよ。刀が壊れちまった」

「壊れた? 戦闘でか?」

「あぁ……っとに、堅ェ首の鬼でよ」

「お前の刀を折るほどの鬼……」

 

 勝母がつぶやくように言うと、東洋一はあわてて言い添えた。

「いや! 長いこと放ったらかしてたからな。寿命だ、寿命」

 

「東洋一」

 勝母は柄から手を離すと、じいっと東洋一を見つめた。「言え」

 

「えぇぇ……」

 東洋一は逡巡した。

 

 あの師匠に限って、勝母を仲間外れにして虐めたいという訳でもないだろうし、知らせなかったのなら、それは何かしら理由があるに違いないのだ。

 だが、果たしてその理由が東洋一の知るものなのか。あるいはまったく別の、例の鬼に関係のないことであるかもしれない…。

 

 いつまでも話そうとしない東洋一に勝母は内心苛々が募った。

 だが、面には意地の悪い笑みが浮かぶ。

 

「そういえば、お前が身請けした女…里乃といったか? よくよく聞けば、あの時の下手くそな半玉だって? 忙しい中、烏森まで頻繁に教授に行って、見込みがないからと落籍()いてやって、今は料理屋で修行してるらしいじゃないか」

「いきなり何だ、お前?」

 

 東洋一は急に関係のない話を始めた勝母を訝しげに見た。

 

「だいたい、そんな事…なんでお前が知ってんだよ?」

「何故か…といえば、里乃が教えてくれたからだ」

「はぁ?」

「偶然に…向こうが私を覚えていてくれたらしくてな。声をかけてきた。色々と話してくれたよ。時々、お前に西の訛りが出るのは、一時、摂津の方に住んでいたらしいな」

「うるせぇなぁ…放っとけよ」

 

 頭を掻きむしりながら、東洋一は舌打ちする。

 勝母は笑った。狡猾な光が目に宿る。

 

「色々と話してやってるくせに…この仕事のことは教えていないようだな?」

 

 途端に東洋一は渋い顔になって目を逸らした。

 ますます勝母は詰めていく。

 

「警官の目明かしみたいなことをしてる…だと? よくもそんな嘘を考えつくな。そのうちにバレるぞ。というより、疑っているようだった。私に聞いてきた。刀を持っていることも、身体中にある傷痕のこともな。理由を教えてやった方がいいか?」

 

 王手を宣告するが如く言う勝母に、東洋一は眉間に皺を寄せた。

 あからさまに長く、大仰な溜息をつく。

 

「お前は…そんなだから嫌われるんだよ」

「承知の上だ」

「天秤にかけるようなことかよ。…っとに。あー…この前、妙な鬼に出くわしたんだよ」

「妙な鬼?」

「岩の呼吸を遣う鬼がいたんだ。あと一歩ってとこで、刀が砕けちまった」

 

 そこまで言って、東洋一は息を呑んだ。

 勝母が見たこともない顔で東洋一を凝視していた。

 

 大きく見開いた目は血走り、硬直した顔は青白くなっている。

 額からは尋常でない汗つぶが噴き出していた。

 

「…どこだ?」

 

 唇が震えて、つぶやくように問うと、徐々にニイィと口角が上がる。

 

「お前……般若みたいな顔になってんぞ」

 後退りつつ東洋一が言うと、勝母は目にも留まらぬ速さで襟を掴んだ。

 

「どこだ? その鬼に会ったのは? 言え」

「………駄目だ」

 

 東洋一は首を振る。

 なぜだかはわからないが、この勝母の様子からして、会議に呼ばれなかった理由が例の鬼であることは明白だった。

 そうであるならば、自分が口を割るわけにはいかない。

 

「言え!」

「駄目だ!」

「里乃にバラされてもいいのか!?」

「勝手にしろ。大したことじゃねぇよ」

 

 勝母はギリと歯噛みすると、ほぼ同時と思える速度で東洋一の腹を殴り、蹴り込んだ。

 

「ぐっ!」

 腹をおさえてうずくまる東洋一を、冷たく睥睨する。

 

「もういい」

 ボソリとつぶやくと、勝母は跳躍して塀に飛び乗り、そのまま走って行ってしまった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「まったく、何ですか! あの女は!」

 

 すぐさま風波見家を訪れた東洋一の耳にまず入ってきたのは、ツネの甲高い怒鳴り声だった。

 

「花柱など大して長く続いた流派でもないくせに、尊大なあの態度! しかも土足で上がり込むなど無礼千万!」

 

 そうっと玄関を覗くと、ツネは怒り心頭の様子でブツブツと文句を言っていたが、千代は下手に返事をしても面倒だと思うのか、無言で床を拭いていた。

 

 どうやら勝母は既に来たらしい。

 鉢合ってツネに追求されるのを避け、東洋一は庭から離れに向かった。

 

 浩太はあの後、右腕を失い、右足も骨折して不自由なため、風波見家で養生している。

 現れた東洋一を見て、浩太は目を丸くした。

 

「どうしたんですか? さっきは花柱様も来るし…見舞いにしちゃ」

「すまん、浩太。お前、勝母に場所を教えたか? この前の任務の場所だ」

「え? あ、はい。聞かれたんで」

 

「………そうだよな」

 ガックリと手をつく。

 

「え…? 言っちゃ駄目だったんですか?」

「いや…仕方ねぇんだ。っつか、俺もよくわかんねぇんだけど…」

 ハーっと息をついて縁側に座り込んでいると、賢太郎が母屋からやって来た。

 

「東洋一さんもいらしてたんですか? 花柱様がお見えになったと聞いてましたが…」

 そわそわした様子で賢太郎は辺りを見回していたが、東洋一は気付かなかった。

 げんなりした口調で問いかける。

 

「いや…賢太郎。お前、産屋敷邸ってわかるか? 俺、もしかするとマズイこと言ったかもしれねぇ。早く師匠に報告しねぇと…」

 

 賢太郎は首を傾げる。

「父上なら、もう少しすれば戻ると思いますが……何があったんです? 母上も千代も怒ってるし…。そういえば、花柱様はどこに? もう帰られたんですか?」

 

 東洋一はざっくりと例の鬼について話すと、賢太郎の顔色が変わった。

 

「……岩の呼吸の鬼? それを……言ったんですか? 花柱様に…?」

「なんだ? お前、何か知ってるのか?」

 

 賢太郎は俯いた。

 しばらく黙り込むと、踵を返してどこかへ行こうとするので、東洋一はあわてて止めた。

 

「ちょっと待て! 知ってんなら言ってけ!! こっちはアイツに蹴られて殴られてんだ」

「東洋一さん…」

 賢太郎は苛立ちを含んだ声で、苦しげに言った。

 

「その鬼はおそらく……花柱の父上です」

 

「………なに?」

「元鬼殺隊隊士・五百旗頭(いおきべ)卓磨(たくま)。裏切者の……鬼です」

 

「―――――なぜ、お前がそれを知っているんだ?」

 その問いかけをしたのは、周太郎だった。

 

 いつの間にか、戻っていたらしい。険しい顔だった。

 

「師匠…」

 東洋一は呆然としながらも、周太郎の前で立ち膝をついて頭を下げた。

「すいません。師匠の刀、貸していただけますか?」

 

 周太郎はしばらく東洋一を見つめていたが、腰から刀を抜くと差し出した。

「もし……かの鬼に会うことあらば、今度こそ斬って捨てよ。勝母に……手出しさせてはなならん」

 

 受け取るなり、東洋一は走り出した。

 風を切って走りながら、じわじわと胸に後悔が沁み入ってくる。

 

 ―――――私は…鬼狩りになどなりたくなかったんだ!

 

 脳裏に泣きそうな勝母の顔と、あの日の悲鳴が聞こえた。

 

 そんなことを言うのなら、とっとと辞めればいいものを…と、あの時東洋一はイラつきながら思ったものだ。否、実際言おうと思って振り返ったのだ、一度は。

 

 だがそこにいたのは、鼻っ柱の強い居丈高な花柱ではなく、ただ小さく哀れな少女だった。

 土に爪をたてて泣き蹲る惨めなこどもだった。

 喉まで出かけていた言葉を呑み込んで、東洋一は黙って去った。

 

 だが、今そのことをひどく後悔している。

 あの時、いっそ突き放してひどく罵ってでも、鬼殺隊を辞めさせればよかった。

 

 最初から鬼殺隊(ここ)は、勝母にとって父を殺すことを選び取るしかない場所。

 出会ったが最後、鬼として滅殺することだけが正義。

 

 それは納得の上で選び取ったのだとしても………

 

 ―――――父親は、お前にとってどういう存在だ?

 

 なぜ、そんなことを尋ねる?

 東洋一が自分の父の話をした後、どうして寂しそうに俯いた…?

 

 それは勝母のもう一つの願いの表れだ。

 鬼ではなく、父を慕う娘としての。

 

 東洋一は内心で舌打ちした。

 

 どうしてこんな道を選ぶ? もっと別の生き方が出来たはずだ。

 鬼となった父にわざわざ対峙して殺し合うしかない道を……なぜ選んだ?

 

 

◆◆◆

 

 

 日が沈む頃には、あの採石場へとやって来ていたが、勝母の姿はなかった。

 鬼もいない。

 

 その後、一週間近く辺りを探し回るも、勝母は見つからなかった。

 

 鴉すらもその足跡を追うことはできず、花柱は行方不明となり、そのまま一ヶ月が過ぎた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 





 次回更新は一週間後2021.07.17.土曜日になります。
 この間、補完スピンオフ小説『椿の涙<鬼殺隊列伝・五百旗頭勝母の帖>』を連載します。
 勝母が鬼殺隊士となるまでの物語を五回ほど連載します。父と対峙する理由についてもそこで描かれます。
 よろしければご覧下さい。

 水奈川葵 拝



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第六章 昔日 -青嵐篇- (六)

「……ったくあのチビ」

 東洋一(とよいち)は苛々しながら酒を口に含む。

 

 思い出しても、腹が立つ。

 岩の呼吸の鬼との戦闘で傷ついた体がまだ十分に癒えないうちに、勝母(かつも)に殴られた。

 殴られただけならまだしも、その後に行方をくらましたことで、東洋一の出動回数は先月からすれば倍以上になっている。

 

昨夜(ゆうべ)なんぞ、俺は三件立て続けだったんだぞ!」

「うち一件は自分のじゃないでしょう?」

「仕方ないだろ。殺られそうになってんのに、放り出してもおけねぇだろうが」

「………」

 

 左近次は呆れたように溜息をついた。

 まったく……なんのかんのとお節介な。

 

 まだまだ未熟な壬と庚の隊士が鬼に殺られそうになって助けるというのもそうだが、そもそもそうした現場にかち合ってしまうのも、結局は仕事終わりに勝母を探しているからなのだ。

 どこまで過保護なんだ……と、思いつつも、左近次だって同様の理由でここ最近は寝不足気味だった。

 

「だいたい…お前、知ってたんなら教えろよ」

 グイと酒を飲み干し、東洋一は左近次を睨みつけた。

 

 勝母の父親が裏切者である…という事実は、柱の間では既知のことだった。

 柱でなくとも、一部において…それは特に岩の呼吸者達の間では有名な話だった。

 

 勝母の父親が裏切者となったことで、その育手であった元岩柱の育手は切腹し、彼の継子として鬼殺隊で働いていた者達は、裏切った五百旗頭(いおきべ)卓磨(たくま)はもちろん、娘である勝母にも時に厳しい眼差しを向けていたからだ。

 

 左近次が一介の隊士であった頃、その情報は噂程度のものとして聞き流していたのだが、柱となってから桑島慈悟郎から聞くに及び、それが嘘でないと知った。

 ただ、知ったとてどうしてやることも思い浮かばなかったが。

 

「……ご存知とばかり思ってましたよ」

 

 鰯の梅煮を頭からムシャムシャ食べながら左近次は意外そうに言った。

 

「酒も呑めないのに、やたら花柱を誘って連れ立ったりしてたから…事情を知った上で、気にかけてるのだとばかり……」

「なんで俺がそんな面倒なことせにゃならんのだ。酒は呑めなくても、財布にゃなるから、稽古終わりに奢らせてただけだ」

「………ひどいこと言ってる自覚ありますか?」

「今更だろ。お前も勝母も…柱で金なんぞたんまりあるくせして使わないから、俺が代わりに使ってやるよ」

「頼んでないんですけど」

「よく言うぜ!」

 

 東洋一はククッと肩を揺らした。

 

「二人して、おいてけぼりくった子供(ガキ)みたいな顔していやがるくせに」

 

 左近次は眉をひそめた。

 

「……花柱はともかく、私を一緒にしないで頂きたい」

 

 勝母が時折、少女らしい…どこか覚束ない、不安気な表情で佇むことがあるのは知っている。

 確かにあの顔を見たら、気になるし、放っておけない気にもなるだろう。それはわかる。

 だが……同列に自分を並べるのは違う。

 

 ムッとしたように言い返す左近次をチラと伺って、東洋一は笑った。

 

「お前らなんざ、俺から見れば目くそ鼻くそだよ。どっちにしろ、面倒くせぇ奴らだ。そのくせ腕っぷしだけは妙に強いから、こっちの言うことを大人しく聞きやがらねぇし…本当に妙な縁だよ」

「………縁?」

 

 左近次は東洋一が何気なく言った言葉にひっかかった。

 

「縁…だから仕方なく面倒見ていたわけですか?」

「馬ァ鹿。縁に仕方ないもクソもあるか。ただ巡り合わせってだけだ。お前が今日、任務終わりに俺に会って、居酒屋で奢るっていうのも…な」

 

 そう言って立ち上がろうとする東洋一の腕を、左近次ははっしと掴んだ。

 

「……なんとなくイイこと言ってますけど、単純にタカってますよね」

「そう怖い顔しなさんなよ、水柱。だんだん素顔まで天狗になってきてるぞ」

「望むところですよ、それは」

 

 左近次は憮然として言いながら、じいっと東洋一を見上げた。

 

「東洋一さん…貴方、岩の呼吸の鬼とやってみて……どう思います?」

「なにが?」

「花柱が……勝てると思いますか?」

「無理」

 

 あっさりと東洋一は断言する。

 

「そんなに強いんですか?」

「強さの問題じゃねぇよ。あのチビの戦い方は危なっかしいんだ。急にフイと自分の命を投げ出そうとしやがる。それが一番悪いんだ」

 

 軽く溜息をついて、東洋一は例の鬼との戦闘を反芻する。

 

 あの鬼の生半可でない強さ。

 もし勝母が出会っているのなら、もう殺られているかもしれない。

 裏切者であり、自らの母と祖母を殺した許されざる男だとわかっていても、僅かに残る勝母の父に対する思慕が剣を鈍らせるだろう。

 その隙を見逃すほど、あの鬼は優しくない。

 

 ―――――…私は鬼狩りなどになりたくなかったんだ!

 

 勝母の悲鳴が脳裏に響く。

 父の復讐のためだけに鬼狩りになった少女。

 それなのに、執拗に東洋一に父親の事を聞くのは、認めたくない父への愛情が行き場をなくしているのか。……

 

 一方、黙り込んだ左近次は今更ながらに納得していた。

 何度か任務を共にして感じていた勝母の危うさ。

 左近次の中で、それは朧げに感じ取れる程度のものだったのだが、東洋一はとうの昔にその核心に気付いていたのだ。

 しかもその大元の原因である、勝母と父親との事情のことは知らずに。

 

 鼻が利くからといって、すべてが理解できるわけではない。

 こうしていつも、この目の前の男は、勝母や左近次にさんざ揶揄され、罵倒され、馬鹿にされておきながら、最後の最後には兜を脱がせてしまうのだ……。

 

「東洋一さん…」

 

 左近次は東洋一の腕を離して溜息をついた。

 

「……奢りますよ、今日のところは」

「おっ! 有難屋左近次っ!!」

 

 歌舞伎の掛け声のごとく言って、東洋一はニコリと笑う。

 本当に屈託ない子供のようだ。

 

「じゃ、ごちそうさーんっ」

 

 さっきまでの機嫌の悪さもどこへやら、軽い足取りで帰る姿を見送って、左近次は冷めたふろふき大根を食べ始めた。

 

 

◆◆◆

 

 

 たいがいの人間とは話せばなんとかなる…と思っている東洋一にしても、どうにも苦手な人間というのはいる。

 鬼殺隊内において、筆頭格でその位置にあるのは、岩柱・阿萬(あまん)刀膳(とうぜん)だった。

 

 普段、道場になどいるはずもない岩柱の姿を見つけた途端、東洋一は彼の目的が自分であるとすぐに悟った。

 

「珍しいですな、このようなところに岩柱様がおいでとは」

 

 声をかけると、刀膳はゆっくりと振り返る。

 額と頬に大小の十文字の傷があり、その三白眼で睨まれれば震え上がらぬ者はいない。

 大柄な東洋一をしても見上げるほどの背丈に、岩の呼吸遣い特有ともいうべき、筋骨隆々とした体躯は、すぐに先頃戦った例の鬼を思い起こさせた。

 

「篠宮東洋一、久しいな」

「どうも。わざわざむさ苦しいところにお出でですね」

「ここにお前がいると聞いたからだ」

「わざわざ柱ともあろう方が…お呼びあれば、屋敷に参りましたよ」

「…………」

 

 刀膳は眉間に皺を寄せた。

 この数日、弟子に篠宮東洋一を探して来させるように指示したものの、任務だ何だと体よく追い払っていたのはこの男の方だ。

 仕方なくここまで出向いてきたのに、よくもまぁ本人を目の前に堂々と嘯くものだ。

 

「では、場所を移そう」

 

 それでもここで怒鳴りつけるのは大人げないと、刀膳とて承知している。

 周囲の興味津々の目を威圧するように見回してから、刀膳は外へと東洋一を誘った。

 

 少し歩いて土手の上まで来ると、刀膳は鎮めていた気迫を一気に放出した。

 

「……五百旗頭は…あの裏切者はどうだった?」

「どう…とは?」

 

 東洋一は刀膳の尋常ならざる威圧感を感じつつも、受け流す。

 

「立ち合ったのだろう? 香取の話を聞く限り、ほとんどお前が相手をしていたようではないか。刀も折れたらしいな。さすがの剣豪も歯が立たなかったという訳か」

 

 刀膳はニヤリと笑って揶揄したが、東洋一は相変わらず飄々として言い返した。

 

「歯が立たなかったのなら、死んでいると思いますがね。それと飛鳥馬(あすま)が話しているなら、ほとんどそれで説明としては十分だと思いますよ。奴は下弦の壱と目に刻まれていた。背丈ほどもある大刀を振り回し、腕を落としたら体内から刀を生やして応戦してきた。動きは鳴柱様の霹靂一閃にも及ぶ域。柱以外の隊士では即死間違いなし。俺からは以上」

「……貴様も柱ではないだろうが」

 

 刀膳が口の端を歪ませて指摘すると、東洋一はハタとして気付く。

 

「そういやそうでした。失敬」

「どこまでも食えぬ男だな。お前がそこで五百旗頭を殺っておけば、今頃、花柱が逐電することもなかったろうに。ま、あの娘が父を討つというなら、それも運命(さだめ)であろう。どちらにせよ我が一門には吉報というものだ」

 

 清々したように言う刀膳に、東洋一はスッと(まなじり)を細めた。

 

「ずいぶんと物分りよくていらっしゃいますな。己の師匠を亡くした遠因ともなった男が鬼となって随分経つのに、今の今まで放っておかれたのは、勝母がいずれ父親を討つのを待ち望んでおられたと………」

 

 最後まで言い終わらないうちに、刀膳の拳が左から襲いかかり、東洋一は避けると同時に土手の斜面に向かって倒れ、転げていく。

 途中の萱に阻まれて止まると、ようやく起き上がって草を払った。

 

「やれやれ……相変わらずだなァ」

 

 呆れた口調で言いながら土手を登って、刀膳の前に立つ。

 口元には笑みを浮かべていても、目は鋭く抉るように刀膳を見つめていた。

 

「違う…と言い切れますか? 岩の呼吸遣いであった五百旗頭某が、鬼になって行方不明になってから、勝母が鬼殺隊に入るまでの間だって、十分すぎる時間はあった。本気で探すなり、おびき寄せるなり…奴のことを知っているあんたなら、出来た筈だ」

「………知ったように言うな。(われ)が何もしなかったと思うか? 柱としての任務を果たしながら、特定の鬼の行方を探るなど…貴様が思うほど簡単ではないのだ」

「簡単…で、ない?」

 

 東洋一はクッと喉の奥で笑った。

 もはや刀膳を見る目には軽蔑しかない。

 

「これまでだって、裏切者はいましたがね……それこそ育手が腹切って詫びた後には、門下の弟子は血眼になって追いかけて、必ず討ち果たしたと聞きますよ。水であれ、炎であれ、風であれ、ね。まさか鬼になった剣士の娘に責任を取らせるなんぞという…情けないことをさせる、そんな一門がいたとなれば………腹切った師匠も浮かばれないなァ」

 

 ブゥン、と空気がうなる。

 既に攻撃を予測して、軽々と避けた東洋一の目の前を、銀の刃が横切っていく。

 

 刀膳の背に負っていた鎖鎌が、いつの間にか左手に握られて、右手には鎖に繋がれた鉄球がブンブンと唸りながら回っている。

 

「篠宮……貴様とは一度、御館様の前で手合わせしたな。あの時は風柱様の物言いで打ち止めとなったが……ここで続きをするか?」

 

 静かに言いながらも、刀膳の三白眼は既に怒りで赤く充血していた。

 東洋一は無表情に刀の柄に手をかける。

 

 以前に手合わせをしたのは、刀膳が岩柱となったその日のことだった。

 偶然に産屋敷邸に居合わせた東洋一は、白砂を敷き詰めた庭の一角で刀膳と対した。

 あまりに白熱した試合は、周囲の木々や屋根の瓦を破壊し、怯えた御館様を慮って、早々に風柱によって手打ちとなった。

 

「花柱、鳴柱、炎柱、水柱……皆、お前に本気を出させたことはないだろう? 吾だけだ。貴様に本気を出させることができるのは……」

「それは…どうですかね?」

 

 フと東洋一は笑った。

 まったく…最初に会ったあの日からどうにも虫が好かない。

 

 たいがいの人間とは話せばそれなりに気心は知れる。

 まして立ち合って剣を交わせば、概ね胸襟を開くようになるものなのだが、どうにもこの阿萬刀膳だけは打ち解けることができない。

 最初から、何かしらこの男の奥底には、矮小さ…卑屈さが見えるのだ。

 昔、東洋一ら親子を賤民として嘲り蔑んで見てきた一部の人間と同じ目をしている……。

 

「フヌぅッ!!」

 

 刀膳は気合を発するや鉄球を東洋一に向かって投げつけた。

 東洋一の頭を粉々に砕く前に、鎖が東洋一の抜いた刀に巻き付く。

 刀膳は鎖を手に巻きつけて、鎌の届く位置まで東洋一を引きずり寄せようとする。

 

 東洋一は刀を握りしめ、鎖の力に抵抗した。

 刀が折れるギリギリまで、刀膳を引きつける。

 キシキシと鎖と刀が軋む。

 刀膳が呼吸を大きく吸って、より強い力を込めようとした刹那に、東洋一は刀を刀膳に向かって放った。

 

 自分の力に引き寄せられて、刀が刀膳の喉元めがけて飛んでいく。―――――

 

 キィン!!!

 

 鋭い金属音が響くと同時、東洋一の刀は鎖と一緒に地面に叩きつけられた。

 ハッと息を呑んだ次には大音声の怒鳴り声。

 

「阿呆どもッ!!!! 何しとるんだあッ!!!!!!」

 

 刀膳はその場で立ち尽くし、いきなり現れた鳴柱・桑島慈悟郎を信じられないように見ていた。

 

 一方、東洋一は目の先にいる慈悟郎にも驚きつつ、自分の肩を掴み、取り出そうとしていた鉄扇と一緒に右手をしっかり握る人間が背後にいて、しかもものすごく恐ろしげな気配を立ち上らせていたので、一気に冷や汗が背を伝う。

 

「………東洋一、らしくないぞ」

 

 殺気にも近い気迫でありながら、話しかけてくる声は明るかった。

 

康寿郎(こうじゅろう)……」

「鬼殺隊において私闘は厳禁だ。わかってるだろう?」

「……わかったから、手離してくれ。何もしない」

 

 見えなかったが、康寿郎がニコリと笑ったのがわかった。

 

「岩柱…一介の隊士相手に私闘を受けるなど、あってはならぬ事ですぞ」

 

 慈悟郎は刀膳に鎖と鉄球を渡しながら、厳しい口調で戒めた。

 

「私闘などではない……少しばかり、意見の相違があっただけだ」

「………では、私共の見間違いということに致しましょう。ここはお納めあって、立ち去るがよろしかろう」

「………」

 

 刀膳は東洋一に三白眼を向けると、じっとりと睨みつけた後に去っていった。

 

「……あーっ! 痛ってェ」

 

 東洋一は声を上げた。

 そのまま黙っていたら、慈悟郎の説教が始まりかねない。

 康寿郎に掴まれた右手を振って、袖口をまくりあげると、くっきりと手形がついている。

 

「お前、手加減しろよな。利き手なんだぞ。使い物にならなくなったらどうしてくれる?」

「ハハハハハ! すまんすまん。お前相手なので、つい力が入った」

「なんでだよ」

「岩柱相手に立合となれば見ておきたいというのもあったが、あのままだとお前が岩柱を殺してしまいかねないから、止めた」

「そんなことするか……()ェッ!!」

 

 いきなり声を上げたのは背後から思い切り、慈悟郎にどつかれたからだった。

 

「阿呆ッ!!!!」

 

 また大声で怒鳴りつけられ、東洋一は耳を塞ぎながら顔を顰めた。

 やっぱりこの状況下で、説教を逃れるのは難しいようだ……。

 

「何を相手にしとるんだ、お前はッ! そういうのは全て鬼相手にせいッ!! っとに…柱と甲の古参隊士が昼間ッから、道場でもない道っ端で真剣勝負なんぞ……隊に迷惑がかかると思わんのかッ、お前らは!」

「あ……岩柱に『お前』とか言った。後輩のくせに」

「やァかましわーッ!!!! そういうつまらん揚げ足をとるから、お前は目をつけられるんだーッッ!!!!」

 

 日頃の桑島慈悟郎は基本的に温厚な人間である。

 顔を合わせれば酒を奢れとタカってくる後輩にも、ボヤキながらもつき合ってくれ、金も出してくれる非常に面倒見のいい先輩なのである。

 

 しかし、堪忍袋の緒が切れた時の怒髪天はそう簡単に止まらない。

 まして、東洋一に対しては日頃から色々と……色々と……非常に、とても、溜まっているので、ここぞとばかりに噴出する。

 

「花柱も不在で忙しい最中に、お前と岩柱までが戦闘不能なんぞになったら、下の者達に皺寄せがくるんだぞ! せっかく風柱様が尽力されて、柱の数も増えたというのに…師匠にこれ以上苦労させる弟子がいるかッ!」

 

 師匠を持ち出されると、項垂れるしかない。

 今回のことも、聞けばきっと、周太郎は岩柱に頭を下げるだろう。『弟子が迷惑をかけた…』と。あの、刀膳(ヤロウ)に。

 

 今頃になって、頭に血が上っていた…と後悔し始めた時に、隣で康寿郎がいつものように快活に笑った。

 

「ハハハハハハハ!!!!」

「笑っとる場合かッ、煉獄! お前が最初に見つけたくせして、止めもせんと。なにを見物しようとしとるんだッ!!」

「あぁ、すいません。いや、なかなかない手合わせだったので、思わず……。ま、東洋一も反省しただろう!」

 

 バン、と背中を叩かれて(それも割と強めで)、東洋一は苦笑いを浮かべた。

 

「……すいません」

 

 心底から言って頭を下げると、慈悟郎はまだ物足りないようだったが、フンと鼻息を荒くしながらも、東洋一の刀を拾ってグイと押し付ける。

 

「気をつけろ。岩柱は元からお前のことを好いとらん。次の風柱の候補として、儂がお前を推挙した時も、猛烈に反対してきたんだ」

「……妙なとこで気が合うな」

 

 ボソリと東洋一がつぶやくと、慈悟郎はジロリと睨みつける。

 その後で、囁くように言った。

 

「東洋一……いい加減、真剣に考えろ。風柱様は昨今、体調に問題がおありのようだ。御館様の手前、気丈に振る舞っておられるが……ご子息の成長を待っている暇はないかもしれん」

「私はいつでも歓迎するぞ! 東洋一」

 

 かたわらで明るく言う康寿郎に、東洋一は困ったように肩をすくめるだけだった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 滄浪とした足取りで山中を歩く少女を見た人間は、おそらく幽霊か何かだと思っただろう。

 だが、その少女は山犬の群れに囲まれると、持っていた刀で立て続けに三頭を殺した。

 斬られた犬の哀しげな声が、森の中に響き渡る。

 

 殺戮に陶酔し、狂った笑みを浮かべたその姿。

 東洋一はチッと舌打ちすると、爆竹を放り投げて犬を追い払った。

 

「………無用な殺生しやがって」

 

 吐き捨てるように言って少女の前に立つと、蓬髪の間から光る目が東洋一を睨みつける。

 

「…………」

 

 低い声は怨嗟に満ちて、ほとんど言葉になっていなかった。

 深い踏み込みから、一閃。

 刀が空を斬る。

 

 東洋一は刀を抜かなかった。

 矢継ぎ早に攻撃されても、躱すだけ。ひたすら防御に徹する東洋一に苛ついて、勝母は怒鳴った。

 

「相手しろ! 東洋一!」

「おぅ、言葉がしゃべれたか。(ケダモノ)が」 

「貴様ァッ!!!!」

 

 咆哮のような気合と同時に、勝母が一気に間合いを詰めて斬りかかるのを、すんでで刀を抜いて刃を立てる。

 鍔迫り合いの中で、東洋一は冷たく勝母を見つめた。

 

「何やってんだ、お前は。父親探して迷子か?」

「なん…だと?」

「諦めろ。あの鬼は俺が殺る。お前は手を出すな」

「ふざけるなァ!」

 

 勝母は鍔を押し返して飛び退りながら、刀を振るう。

 ザク、と肉を割く感覚がすると、鮮血が辺りに散った。

 

「…………」

「…………」

 

 薄闇の中、無言で睨み合っていたが―――――

 

「ぃっ…()ェエエエエエーーッ!!!!!」

 

 突如大声で悲鳴を上げた東洋一にびっくりして、バサバサと梟が飛んでいく。

 

「………」

 

 勝母は狐につままれたように突っ立っていたが、東洋一は斬られた手をブンブン振り回して、早口に文句を言いまくった。

 

「痛っテ! 痛っテ! おッ前、何してくれてんの? 本気でやるか、フツー? 何で斬るんだよ。馬鹿か? 馬鹿、阿呆、オカメ、ナス、丸太ン棒のクソっ狸ッ! テメェなんかなァ、馬の糞踏んづけてツルッと滑って豆腐の角で頭打ってパッパラパーになりやがれってんだッ!」

 

「…………なんで、いきなり狸なんだ?」

「あァ? 昔、ズル賢い狸の野郎が、お客さんから貰った饅頭を持って行きやがったんだよッ。あれ以来、俺は狸が大ッ嫌いなんだ!」

 

 言いながら東洋一は手拭いを取り出すと、端を口に挟んで、ぐるぐると斬られた所に巻いていく。片手で結びにくそうにしているのを見て、勝母は刀を収めると、結んでやった。

 

「目が覚めたか?」

 

 東洋一はあきれた様子で言うと、切株の上に座った。

 

「いつまで迷子になってんだ?」

「……探していたのか、私を」

「任務の合間にな。生憎、誰かさんが仕事放棄しやがるから、忙しくってねえ。左近次もゆっくり飯を食べる暇もねぇって、愚痴ってやがる」

「それは…私のせいか?」

「はァ? オメェのせいだろうがよ! どっからどうしたって、全部、みんな、オメェが悪いわ!」

 

 勝母は急に気が抜けた。

 その場にしゃがみ込むと、膝に顔を押しつける。

 

「……すまん」

「悪いと思うなら、とっとと帰って俺の分の仕事をやれ。そして、八百善*ででも奢れ。あ、左近次もな。ついでに康寿郎と飛鳥馬とジゴさんと……」

「何人呼ぶ気だ?」

 

 言いながら声が震える。

 今更ながらに自分の身勝手な行動に思い至ると、恥ずかしさで穴に入りたくなる。

 

 東洋一は勝母の前に立った。

 下を向いて尋ねる。

 

「帰るか?」

 

 勝母はそれでも素直に頷けなかった。

 膝に顔を埋めたまま、怒ったように言う。

 

「東洋一、疲れた」

「は?」

「ここ数日、まともなものを食べてない。動けん」

 

 東洋一はフーと溜息をつくと、後ろ向きに座った。

 勝母がのそりと動き、背中に乗ってくる。

 

「お前、こういう時だけ女子供のフリをするよなァ」

「フリとはなんだ? 私はれっきとした女で……子供だ」

「よく言うぜ。減らず口が」

 

 文句を言いながらも、東洋一は少しだけホッとしていた。

 さっきまでの羅刹(らせつ)のごとき姿を見た時には、正直、どうしたもんか…と、かなり困惑した。

 

 例の鬼は見つからなかったらしい。

 それについては、また隠の専門部署で探索することになるだろう。

 もし見つかった場合は、秘密裡に処理することになっている。無論、勝母に知らせることはない。

 

 

◆◆◆

 

 

 月明かりの道を勝母をおんぶしながら歩く。

 人家もなく、稲刈りを終えた田んぼの間の畦道には彼岸花が連なって咲いていた。沈黙を知らずに鳴く、松虫の澄んだ音色が響き渡る。

 

「東洋一、お前の父親の話しろ」

 

 勝母がいきなり言ってきた。

 

「あぁ? 唐突だな」

 

 返事しながら、東洋一は迷った。今更だが、勝母にとって父親の話は禁忌に近い。

 

 あの後、周太郎(ししょう)から聞いたが、勝母の父親である五百旗頭卓磨は、妻を食い殺し、勝母の祖母である元花柱・花鹿(かじか)(たつ)を殺した。

 その時、勝母はまだ六歳。

 

 あまりにも苛酷な現実。

 鬼殺隊には元より幸薄い人間が少なくないが、それでも勝母の境遇には言葉もない。

 

 戸惑う東洋一の髪を、勝母はグイと引っ張った。

 

「なにを黙り込んでる? とっととしろ」

「しろったってなァ…前も話したろ? ただの曲芸師だったってだけだ」

「裸で土下座して、女房に逃げられる情けない父親だったんだろ? なのにお前は、そんな父親が好きなんだろ? どこがよかったんだ? 親として、尊敬できるところがあったのか?」

「尊敬ねぇ…」

 

 東洋一は考え込む。

 

 周太郎に対しては尊敬していると即座に言えるが、父にはどこか照れくさかった。ただ…

 

「昔、旅してた時さ…よく薩摩芋をもらったんだ。売りモンにならねぇような、固くて半分腐ったようなやつさ。親父はいつも端っこの細くなった、根っこのとこしか食べなかった。あんまりいつもそこばっか食うからさ、一回食べたいって言って、食べさせてもらったんだよ。全然、固ェし、不味いし、食えたモンじゃねぇよ。でも、親父は『子供にゃこのウマさはわかんねぇんだ』っ言ってさ…いつもその紐みたいなモンばっか食ってた。大人になってから食ってみたけど、やっぱり不味かったよ。あんなモン一生、うまい訳がねぇ……」

 

 言ってるうちに、その時の父の声まで甦ってきて、耳が熱くなった。

 軽く頭を振る。

 

「泣いてるのか?」

 

 勝母が尋ねてくる。

 東洋一は笑った。

 

「泣くか。馬鹿」

「………私は泣いてるぞ。泣けてくる……まるで落語の人情噺だ」

「馬鹿にしてんのかァ? ま、いいけど」

 

 だんだんとずり落ちてくる勝母の身体を、よいせっ、と抱え直して、東洋一はまた歩き始める。

 勝母が震える声で小さくつぶやいた。

 

「お前が羨ましい。私の父は…………一度も私を愛さなかった」

 

 断定したその言葉を、否定することはできなかった。

 

 黙り込んだ東洋一の背中で、勝母は声を殺して泣いていた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 







*八百善…有名な料亭。今でも続いてます。元は八百屋だったとか…




次回の更新は2021.07.21.の更新予定です。






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第七章 昔日 -疾風篇- (一)

 風波見(かざはみ)家の門前に来たところで、東洋一(とよいち)は足を止めた。

 千代と、どうも花街の関係者らしい男―――おそらくは文使(ふみつかい)か何かだろう―――が、何やら揉めている。

 

「あぁ~…いやいや。奥様のお手を煩わせるようなことでもございませんので……」

「気にしなくていいわ。いつもの事だから」

「いや、でも…」

「別に破いたりしないわよ。そっちも商売なんでしょうからね」

 

 そう言って、ホラと千代は手を出す。(おんな)からの文を渡せ、ということらしい。

 文使が困った様子で懐からそうっと文を出すと、東洋一は後ろからそれを取り上げた。

 

「東洋一さん!」

 千代が驚いて声を上げると、文使いは東洋一を不安そうに見上げた。

 

「あのぉ…? 旦那…ですかい?」

「いや、違う…けどまぁ、届けておいてやる。とっとと他行きな」

 

 文使いはホッとした表情になると、ヘコヘコと頭を下げて足早に去っていく。

 

「ありがとう、東洋一さん」

 千代はニッコリ笑うと、ヒョイと東洋一の手にあった文を取り上げた。

 

「おい! ただの売り込みだよ。悋気(りんき)を起こすな」

「やーね。そんなのわかってるわよ。珍しいことでもないし」

 

 言いながら、千代は中へと歩き進みながら、手紙を開いて読むとクスクス笑っている。

 

 東洋一は眉をひそめた。

 珍しいことでもない―――?

 そう言えば、さっき『いつもの事』とも言っていた。

 賢太郎は悪所通いでもしてるのか? 頻繁に?

 

「『ひとり寝る夜の明くる間は~』…ですって。フフ、可愛いこと」

 千代はパツリと手紙を指で弾くと、枯葉を燃していた焚き火の中に放り投げた。

 

「おい!」

「なぁに? 破いてはいないでしょ?」

「いや…そりゃそうだが」

「あの人に渡したところで、読みもせずに火鉢に焚べるのよ。一緒じゃない」

 

 フワリと風に飛んだ焼き切れた文の端を、木の枝で枯葉の中に突っ込みながら、千代は事もなさ気に言う。

 

「……多いのか? こういう事」

 東洋一が戸惑いつつ尋ねると、千代はチラと東洋一を見上げて、クスリと笑った。

 

「東洋一さん。いつまでも賢太郎さんのこと、子供と思ってるでしょう? 言っておくけど、あの人は普通に吉原でも深川でも行ってるわ。旅に出れば、どこぞの旅籠で飯盛女でも上げてるでしょうよ」

 

 あまりにあけすけに言う千代に、東洋一はポカンと口を開いたままになる。

 アハハハと千代は大笑いした。

 

「こういう事? 文もよく来るわよ。最初はちゃんと渡してたんだけど、いつも見もしないで燃やしてしまうから。最近は私の方で燃やしているの。お義母(かあ)様に見つかったら、面倒だしね。あの人はいつまでも賢太郎さんを子供扱いですから」

 

 自分の亭主のことであるのだが、千代はどこまでも他人事のようだった。

 これが嫉妬が昂じたものなのか、あるいは諦めきった心境によるものなのか、東洋一には判別できかねた。

 

「お前…それで、いいのか?」

「いいも悪いもないでしょう? お義母様みたいに、毎日赤くなったり青くなったりして、ひねくれた嫉妬(やきもち)焼いて年を取っていけというの? そんなの御免だわ。それに、私はむしろ彼女達には同情してるの」

「同情?」

「商売柄でこうした文を送ってくるならまだいいけど、たまに本気の(ひと)もいるのよね。そういう女は何度も送ってくるわ。今日の女も何度目かしら? 可哀相なこと。相手になんかされやしない。賢太郎さんは誰も好きになったりなんかしないのにね」

 

 ――――僕は、そういう感情は持てない。

 

 以前、千代との結婚前に賢太郎が言っていたのを思い出す。

 

 千代は、やはり頭のいい娘だ。表向き優しい賢太郎の空虚を、しっかりわかっている。わかっていて、何もしないような冷たい娘ではない。

 結婚して二年。

 千代なりに賢太郎の心を汲み取ってみても、結局変わらなかったという事だろうか……?

 

「お前は……賢太郎のこと」

 どう思っているのか? と東洋一が聞くよりも早く、千代は即答した。

「賢太郎さんは家族よ。始めから今まで。これからもずっとそう。それだけ」

 

 昔、同じような質問をして、賢太郎もそう答えた。二人とも同じ価値観だというのに、どうしてここまで隔たって見えるのだろう。

 

 昔は仲良く三人で遊んでいたはずの子供達が、いつの間にか大人になり、それぞれが自我を持つようになれば、ある程度の距離感がうまれても当然だ。

 だが、千代と賢太郎の場合は、なまじ許婚者(いいなずけ)であった事で却って隔絶してしまったような気がする。

 この二人は、一番結婚するべきじゃなかったのかもしれない…。

 

 千代は本の好きな、夢見がちな少女だった。

 物語の中に没頭して、中の人物になりきってしまう…情感豊かな娘だった。

 本来、不満を押しこめて辛抱するような子でない。

 

「お前、大丈夫か? 千代」

「あら。心配してくれるの?」

 

 千代は肩をすくめて、おどけたように言った。

 

「大丈夫よ。私は、私なりに生きていくだけよ」

 

 まるで、それは賢太郎という夫が介在しないかのようだ。

 

 千代の明るさは、ツネの嫉妬よりも不気味で恐ろしかった。

 話せば話すほどに、心が冷える。

 嘘を言っているわけではないのだろうが、どこか上滑りしている。

 

 なんと言っていいのかわからず言葉を探す東洋一を見て、千代はクスリと口の端を上げた。

 

「本当に東洋一さんは変わらないのねぇ……」

 

 どこか馬鹿にした口調で言い、ユラリと立ち上がる。

 嫣然とした笑みを浮かべながら、こちらに歩いてくると、フラっと東洋一の胸へと寄りかかった。

 

 添えられた手。

 長い睫毛の間から見上げる瞳。

 

 能面のような冷たさを孕んでいるのに、婀娜(あだ)っぽい女の色香を纏ったその雰囲気に、東洋一はゾクリと背筋に悪寒が走った。

 

「…っ!」

 

 グイ、と千代を押しやって、東洋一は後ずさった。

 鬼を対峙するより始末が悪い。

 

 千代は(なまめ)かしい微笑を浮かべ、つぶやいた。

 

「賢太郎さんが私を好いてないことなんて、初めから知ってたわ」

「……千代…」

「だけど……私だけよ、妻は。賢太郎さんの子供を産むのは私。これだけはあの人も逃れられない…」

 

 その言葉は、まるで呪いのようだった。

 吐き出した途端に、さっきまでの妖艶な女が、一気に辻占の老婆に変貌したようにすら見える。

 

「東洋一さん」

 

 千代は背を向けると、籠に積まれた枯葉を焚き火の上にバサリと被せた。 

 

「ここで油売ってていいの? お義父様がお待ちでしょ?」

 

 振り返った顔は、いつもの明るい若奥様に戻っていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 溜息をついて現れた東洋一を、周太郎は不思議そうに見た。

 

「どうした? 疲れてるのか?」

「あぁ……いえ」

 

 まさか、師匠(あなた)の息子の嫁の毒気にあてられたとも言い難い。

 

「どうですか? 進捗は」

「うん……このままだと、あまり威力がなぁ……」

「それだったら、確か炎の呼吸に………」

 

 言いながら、東洋一は蔵の中の書物を探し始める。

 

 母屋だと参考文献を調べるためにいちいち蔵まで取りに来ないといけないので、最近では蔵にある隠し部屋―――今では隠されてもいないが―――で、話し合うことがほとんどとなっている。

 

 そのせいでなのか、奇妙な誤解もうまれているようだった。

 

「お前、後で浩太に会って行ってやってくれ」

「は? どうしました?」

 

 浩太は右腕を失って、足も不如意になってから、今も風波見家で厄介になっている。

 

「最近、あいつどうかしとるんだ…。儂がここで玖ノ型についての研究をしているのも、内緒でコソコソやってると思ってるらしくてな。なんで秘密にするんだとか、なんとか」

「はぁ? 別に隠してるわけでもないでしょう?」

「当たり前だ。かと言って、わざわざ大っぴらにすることでもないからなぁ…」

 

 周太郎はフゥと溜息をついて、開け放した扉の向こう…庭の木々の先にある離れへと目をやった。

 

「どうも……無理しがちでな。焦りからだろうが。利き腕を失くして、どうにか左手でやろうと稽古しているんだが、うまく出来んでな」

「そりゃあ、無理でしょう。まだ半年も経ってない」

「そう言っとるんだが、話を聞かんのだ。この数日、まるで何かに憑かれたようになって……賢太郎とも口を聞かんらしい」

 

 東洋一は眉をひそめた。

 

 今更ながらに、浩太がかつて千代を好きであったことに思い至る。

 もう、とっくの昔にあきらめがついたろう…と思っていたが、焼けぼっくいに火がつくのはよくある話だ。まして、今は離れにいるとはいえ、浩太の世話のほとんどは千代がやっているはずだ。

 

 もしかすると―――あまり良くない状況ではないのか、これは。

 

 だが、周太郎はそこのところの事情には無頓着だった。

 

「何をいきなりああまで焦り始めたのか知らんが、この型についても、やたらと聞いてきてな。まるで、これさえできれば風の呼吸を極められるとでも勘違いしとるようなんだ。まだ、あやつ捌だってまともに出来とらんだろう? 最近は他流派の技に傾倒しおって……」

「それは…すいません。俺も、参考にするのはいいと思って勧めたので」

「それは構わんが、本来の技の鍛錬もまともに出来てない奴が、つまみ食いばかりしても、大成は出来ん。玖ノ型を修得したいなら、壱から捌までをしっかり使いこなす技倆を持たねば……」

 

 途中で周太郎は小言を言っている自分に気付いたのだろう。

 苦笑いすると、コホンと咳払いした。

 

「ま、とにかく後で会って…焦らず、地道に鍛錬せよと……儂からでなく、お前の言葉で伝えてやってくれ。どうも、儂の言葉は届かんようだ」

 

 少し淋しげに周太郎が言うのが気になったが、東洋一は頷いた。

 

「…わかりました。ついでに、康寿郎に炎の奥義についても聞いておきます」

「あぁ。頼む」

 

 

 その後に動作の試技をいくつかやっていたが、産屋敷邸からの使いが来て、周太郎は出て行った。

 

 

◆◆◆

 

 

 東洋一は離れに行ったが、浩太の姿を見えないので、そのまま邸内にある道場へと向かう。

 果たして浩太が汗だくになりながら、型の稽古をやっていた。

 当然ながら、まだ慣れていない左手と、全治していない右足を抱えては、まともに出来るはずもない。

 

 東洋一はわざと大きな溜息をついた。

 浩太は東洋一に気付くと、一瞬、泣きそうな顔になった。だが、すぐに唇を噛んで仏頂面になる。

 

「……うまくいってないようだな」

「師匠に言われて来たんですか?」

「うん。お前が余裕なくして、ジタバタしてるらしいからな。見物に来た」

「見世物じゃないです」

 

 浩太は明らかに怒っていたが、東洋一は知らぬ振りをすると、持っていた木刀を取り上げた。

 握っていた部分に血が滲んで赤く染まっている。

 

「これじゃ、長く出来ないぞ。骨だってやられる」

「放っておいてくださいよ」

「ずっと一人でやってるのか? 賢太郎には相手してもらわないのか?」

「…………いりません」

「そうか」

 

 東洋一は血に染まった木刀を浩太に返すと、自分も壁にかかった木刀を取りに行く。

 

「来いよ」

 浩太の前に立つ。

 左手に木刀を持ち、右手は懐中。

 

「何のマネです? それ」

 ギリ、と歯噛みして浩太は東洋一を睨みつけた。「馬鹿にしてるんですか?」

 

 東洋一は涼しい顔でニヤリと笑った。

「馬鹿にされて悔しいなら、ぶちかまして―――――」

 

 最後まで言わぬうちに、浩太が木刀を振り上げる。

 東洋一は素早く躱すと、すぐさま左手の木刀を薙ぎ払った。

 

 利き腕でないから…と浩太はどこかで油断していた。

 だが、その速さは予想を裏切った。すんでで避けたものの、目の前を通り過ぎたその風圧で、頬に赤く筋がはしる。

 一瞬、呆然とした浩太に、東洋一は怒鳴りつけた。

 

「オラ! なにボウッとしてやがる?!」

 

 今度は上から振りかぶってくる。

 浩太はあわてて木刀で受けようとしたものの、片手しかないので支えがきかない。受け止めきれない重さの斬撃に、木刀を落とした。

 ジンジンと腕が痺れている。

 額が切れて、血が滴った。

 

「取れよ。早く」

 

 東洋一は左手に持った木刀を突き出す。

 右手は未だ懐中にある。

 

「くそっ!」

 

 浩太は木刀を拾い上げると、先程の東洋一のように上段から振り下ろした。

 同じように、東洋一は左腕一本でその木刀を受け止めた。

 浩太は渾身の力をこめたが、東洋一の木刀はピクとも動かない。

「………終わりか? それで」

 

 言うなり、東洋一は浩太の木刀を擦り上げるようにして払った。

 その力に押されて、浩太はヨロヨロと足をもつれさせ、尻もちをついた。

 

「………なんで」

 

 呆然としたように浩太はつぶやいた。

 東洋一は一度も右腕を使っていない。

 浩太と同じ、利き腕でない左腕だけで相手したのだ。

 

 やはり……柱とも目される人は、始めから才能の差があるのか。

 浩太が絶望に近い気分で見上げると、東洋一はフッとほじった耳くそを飛ばしていた。

 

「なんでって…そりゃ、練習してたからな」

 意外なことを言う東洋一に、浩太は「え?」と聞き返す。

 

「この商売してりゃ、怪我はつきもんだ。足をやられたら、なかなか難しいが、腕は一本だけになっても、もう一本の方で持てりゃどうにかなる。隻腕の柱もおられたぐらいだからな」

「…左腕だけになっても、刀を持てるように……前から、稽古してたって事?」

 

 浩太は信じられなかった。

 あれだけ忙しく働き、休みになれば女のところか、賭博か、酒をくらって寝ているだけだと思っていた兄弟子が、いつの間にそんな修行をしていたのだろうか。

 

「意外か? 俺だってやる時ゃ、やってんの」

「いつから?」

「さぁ? 思いついたのは弟子の時分だったからな。暇みて適当にやってたんじゃねぇ?」

「そんな前から…? 聞いたことないよ、そんなの」

「言ってねぇもん。だいたい、遊び半分だしな。それでもコツコツやらねぇと……一朝一夕にはいかねぇよ。お前も、今始めたなら、最低でも二年はかかると思え。最初から型なんてやっても、腕がおいついてねぇんだよ。素振りからやれ、素振り」

「そんなの……遅いよ。俺は…もっと、もっと早く」

 

 浩太は震える声で言いながら、袴をクシャリと握りしめる。

 俯く浩太の顔を窺うように見て、東洋一は首を傾げた。

 

「お前、何焦ってんだ?」

「…………」

「強くなるのに、近道もへったくれもねぇぞ。師匠に新しい型のことでも何か言ってるらしいけど……」

 

 浩太は急に顔を上げると、東洋一に掴みかかった。

 

「東洋一さん! なんでアンタが柱にならないか、わかったよ。師匠が、許さないんだろ? あの型も……自分と賢太郎だけで……風波見家で独り占めしようとしてるんだ!」

「ハァ? なにを馬鹿なこと…」

「知ってるんだよ、俺は! ここ何年もあんたが師匠の代わりに任務請け負ってることも、他の柱達があんたを柱に推挙してることも。それなのに……あんたが何も言わないのをいいことに…利用されてるんだ! 賢太郎が柱を継げば、あんたの役目も終わりだ。飼い殺しにされてて…いいのかよ!」

 

「浩太……」

 東洋一は無表情に浩太の襟首を掴み、締め上げる。

 

「お前…誰に、何を、言ってる?」

「東洋一さ……」

「心配かけさせておいて、どの口がほざきやがる? ――――あァ?!」

 

 浩太は青い顔で東洋一を睨みつけた。

 唇を震わせながらも、言い放つ。

 

「風波見周太郎に、柱としての力はもうない……ッ!」

 

 東洋一は殴ろうと拳を握りしめたが、急に浩太の襟首を離すと、憐れむように、倒れた弟弟子を見下ろした。

 

「…お前、ここを出ろ」

 静かに命令する。

 

「お前にはここは良くない。飛鳥馬(あすま)に言っておいてやるから…あいつの所に移れ。通いの婆さんがいるらしいから…世話はしてもらえる。道場も近いから、稽古もできるだろ」

「………嫌だ」

 

 ムゥと眉を寄せ、駄々をこねる浩太に、東洋一は怒鳴りつけた。

 

「移れってんだよ、この馬鹿!! お前はここにいたらおかしくなるんだよ! 賢太郎からも、千代からも離れろ!」

 

 ハッとした顔で、浩太は東洋一を見上げた。

 その顔はどこか怯えているようだった。

 

 ギリ、と東洋一は歯軋りする。

 やはり、この三人を一緒にさせておく訳にはいかない。

 怪我を負って弱りきった浩太が、このままここに留まれば、心まで病んでしまいかねない。

 

 ただでさえ、利き腕を失うことは鬼狩りにとっては相当の痛手なのだ。

 そのまま自信を喪失して、出奔し、自殺する人間すらいる。

 かつて隻腕でありながら水柱となった者もいるが、それは強靭な精神力でもって相当な修練を重ねたからだ。

 

「東洋一さん…」

 浩太はボロボロと泣き始めた。

「東洋一さん、俺…強くなりたいんだ。強くなりたい……強く……」

 

 項垂れて泣き出す浩太が、哀れでしかない。

 おそらく利き腕を失って、思った以上に動かせないことで、ひどく焦っているのだろう。すっかり情緒不安定になっている。

 

 東洋一は少し声を和らげた。

 

「いいな。飛鳥馬のところに移れよ。明日までに用意しておけ。これ以上、師匠に迷惑をかけるな……」

 

 言い置いて道場を出ると、賢太郎が立っていた。

 どうやら聞いていたらしい。

 

「東洋一さん、浩太は……どうしたんですか?」

 

 その問いかけに答えず、東洋一は賢太郎にも指示する。

 

「明日、隠に頼んで迎えを寄越すからな…用意だけしておいてやってくれ。着替えと薬さえ持たせりゃ十分だろ」

「浩太は、ウチで面倒見ます。まだ、自分で厠に行くのだって、不自由しているんです」

「賢太郎」

 東洋一は賢太郎を見ずに問いかける。「お前、浩太が千代のこと好きだったって知ってるのか?」

「え?」

 

 賢太郎は驚いて、そのまま硬直する。

 どうやら、気付いてなかったらしい。

 それはそうだろう。最初から賢太郎には、興味がないのだ。

 そういう……感情は。

 

「怪我して自分の身体(からだ)が思ったように動かなくて、あいつは憔悴してるんだ。これ以上、悩みを増やさないでやってくれ。それとお前、岡場所に通うのも程々にしろよ。千代が……」

 

 言いかけて、東洋一は言葉を呑み込む。

 千代は別にツネのような嫉妬心に(さいな)まれているわけではない。

 諦めた末に自棄になっている…というのでもない。決しておかしくなっているわけではないのだろうが、あれを放っておいていいのだろうか……?

 

「……千代が? どうかしましたか?」

 

 賢太郎は子供の頃そのままに、無邪気に尋ねてくる。

 子供の頃、一番大人びていたのに、結局いつまでも足踏みしているのは賢太郎なのかもしれない。

 

「いや、いい」

 東洋一は首を振ると、そのまま風波見家を出た。

 

 父を喪って、周太郎の手を握りしめ、この門をくぐった日の事を、昨日のことのように思い出せるのに……いつの間にか時間は過ぎている。

 あの時、子供だった者は大人になり、一緒に汗を流した兄弟子、弟弟子の多くは殉職してこの世にない。

 

「………しんどいなァ…」

 

 父が昔言っていた口癖をつぶやく。

 

 長い溜息が木枯らしの中に混じって消えていった。

 

 

 

<つづく>

 

 






次回は2021.07.24.土曜日の更新予定です。




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第七章 昔日 -疾風篇- (二)

 周太郎に頼まれ、炎の呼吸の最終奥義『煉獄』の型を見せてもらうため、東洋一(とよいち)が煉獄家を訪れたのは、初雪の降った日だった。

 

「東洋一、よく来たな!」

 

 相変わらず元気よく挨拶してくる友に、東洋一はここ最近の重苦しい気分が清しくなっていく気がして、自然とホッとしたような笑みが浮かんだ。

 

「どうした? 元気がないな」

 

 康寿郎はすぐさま、いつもに比べおとなしい東洋一に疑問を向ける。

 

「いや。大したことじゃねぇよ。それより頼んでたの…」

「うむ。では、やろう!」

「え? ここで?」

 

 庭先の、一応練習場ではあるだろうが…煉獄家にも立派な道場はあるはずだ。

 

「道場でやると、壊すかもしれん! 怒られる!」

 

 誰にだよ…と聞く前に、縁側でニコニコ笑っている康寿郎の奥方を見て、東洋一は愛想笑いを浮かべて頭を下げた。

 奥方の横ではすっかり大きくなった長男が、結わえてももっさりと広がる金色の髪を揺らしてぴょんぴょん跳ねている。

 

「ちちうえー! 頑張ってくださーい」

「おう! 見ておけ! 匡寿郎(きょうじゅろう)!」

 

 言うなり、康寿郎は構える。

 東洋一はあわてた。

 あきらかに攻撃対象が自分になっている。

 

「えっ? ちょっ……」

 

 炎の呼吸 玖ノ型 煉獄

 

 地鳴りのような轟音と同時に、抉り取られた地面が空中で粉砕され、振り下ろす剣が豪速の唸りと共に伸びてくる。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 東洋一は咄嗟に刀を抜き、技を出して凌いだものの、吹っ飛ばされて、松の木に打ちつけられた。

 ゴト、と横で音がしたと思ったら、石灯籠の柱から上の部分が落ちて砕けた。残った柱も深い(ヒビ)が入っている。ツンとつつけば崩れ落ちるだろう。

 

「おぉ! いたのか、東洋一!」

「目に入ってねーのか、お前はっ!」

「うむ! 己で体感した方がよくわかるだろう!」

「威力を知りたいんじゃねぇんだよっ!」

 

 文句を言いつつ、土埃を払ってざっと状況を見ると、さすが奥義と呼ばれるだけあって、凄まじいものだった。

 これで、おそらく本気でないのだ。いや、康寿郎は本気でやったつもりでも、鬼相手でなければ十二分の力を出せるわけがない。

 

「なにが知りたいんだ?」

「型の…所作っつーか、呼吸の……」

「よし、わかった! もう一度やるから、今度はそこで見ておけ!」

 

 最後まで聞かずに、また構えようとする康寿郎を、東洋一はあわてて止めた。

 ……背後からの視線が怖い。

 

「もういい! もういいから!」

「なぜだ!? 見たいのだろう?」

 

 東洋一はふるふると首を振ると、目で後ろを見るよう合図する。

 無言で促されて振り返り、縁側の奥方と目が合ったのか、康寿郎は刀を収めた。

 

「今度にしよう!」

「おう。別のとこでやろうぜ。人気のないとこな…」

 

 東洋一が言うと、奥方はにこやかに笑って、家の中に入るよう促した。

 

 

 用意されたカステラを食べながら、東洋一は目の前で絵を書いている匡寿郎をぼんやり眺めた。

 

「デカくなったなァ、匡寿郎」

「もうすぐ九歳になります!」

「ホェ…。もうそんなかよ。……お前、もう修行とか始めてんのか?」

「いいえ。でも、時々教えてもらってます」

「ふぅん……」

「花柱はもうこの頃には始めていたらしいが…幼い身体では、教えられることも限られるのでな。それに呼吸はあまり早い時期からやるものでもない。身体が育たなくなる」

 

 康寿郎が珍しくまともなことを言う。

 

「まぁ、確かに…」

 

 勝母は確かに小柄である。だが全身が弾力ある毬か何かのような、驚異的な身体特性があるので、力はめっぽう強い。

 

「それにしても、どうしていきなり型を見たいなどと?」

「お前、普通それを一番最初に聞くんだぞ」

 

 東洋一は呆れたが、そういうところが康寿郎らしいところではある。

 

「師匠が今、新しい型を創案中でな。色々と試行錯誤してるんだ。他流派についても調べて、参考にさせてもらってる」

「おぉ! さすがは、風柱様だな! あそこまで極めておいでなのに、まだ研鑽を積むを諦めぬそのご姿勢、まさに範とすべき御方よ」

 

 東洋一はフと笑った。

 康寿郎は明快で、曇りがない。

 嘘を言わぬと信じられる男が側にいると、心底落ち着く。

 

「どうした?」

「いや。それより、お前……もしかして、二人目か?」

 

 先程来、奥方の腹が少しばかり大きいのが気になっていた。

 仲はいいが、康寿郎の任務が忙しいのもあって、なかなか匡寿郎に兄弟ができないと言っていたが…。

 

「あぁ! 春に生まれる予定だ! 名前も決めてある!」

「へぇ。なんて?」

「槇寿郎だ!」

「へぇ。いい名前だな。……女だったら?」

「…………」

「考えてねぇのかよッ!」

「うむ。失念していた。匡寿郎が弟が欲しいとばかり言っていたので」

「それは子供のせいにすることじゃねぇだろ」

「お前はどうなんだ? 囲っていた女はどうしてるんだ?」

 

 お茶を吹きそうになって、東洋一は必死に飲み込んだ。

 チラと匡寿郎を見ると、絵に没頭している。

 だが、奥方はそれとなくあちらへと連れて行ってくれた。

 

「……お前、子供の前でするなよ。そういう話」

「ん? 何か駄目だったのか? 別れたのか?」

「そもそも囲ってねぇんだよ! 誰だ、妙な噂広めやがって」

「誰だったかな? 鱗滝だったかな…? お前が吉原で、振袖(ふりそで)新造(しんぞ)を身請けしたと…」

「吉原じゃねぇし、新造でもねぇ! あの野郎…適当なこと言ってやがる」

「子供はできたのか?」

「だから、囲ってないって言ってんだろ! 何を勝手に話を進めてるんだ?」

 

 こうなってくると、気のいい友が少々厄介になってくる。

 東洋一は自分の分と、康寿郎の分のカステラを口に詰め込むと、立ち上がった。

 

「参考になった。じゃ、これでな」

「なんだ? 帰るのか? 晩飯も食っていけばいいのに」

「いや、いいよ。身重の奥方に無理させるな。お前、布団の上げ下ろしくらいしろよ」

「なぜだ?」

「なぜ…って、重いもん持たせたら駄目だろうが!」

「そうなのか? 知らなかった。匡寿郎の時はやってくれていたぞ」

「………家にいる時ぐらいはお前がやれよ」

 

 東洋一が溜息まじりに言うと、康寿郎は笑った。

 

「お前の嫁は幸せ者だな、東洋一。俺にはそんな気遣いは出来ん!」

「だから、嫁じゃねぇんだよ!」

「なんだ、そうなのか? まだ独り身なのか? いいかげん、身を固めたらどうなんだ?」

 

 こういうのを堂々巡りというのだろう。あるいは暖簾に腕押しか?

 いずれにしろ、こうなっては話が通じない。

 ふと見れば、いつの間にか戻ってきた奥方がクスクスと笑っている。

 

「お気遣い頂き、ありがとう存じます」

 

 頭を下げられ、東洋一は恐縮して、「いや……おめでとうございます」と、言祝(ことほ)ぎつつも少しばかりバツが悪い。しかし背後にいる康寿郎はまったく意に介さない。

 

「東洋一! (すい)の妹が年頃だぞ! 紹介しようか!?」

「…………」

 

 まだ見当違いなことを言っている男を無視して、東洋一は煉獄家を後にした。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 久しぶりに訪れた居酒屋に入ると、目の前にいた五百旗頭(いおきべ)勝母(かつも)と目が合い、東洋一はクルリと踵を返した。

 そのまま逃げようとしたのに、出来なかったのは背後に天狗が立っていたからだ。

 

「ゲッ!!!」

 

 真っ赤な顔に睨まれて、一瞬固まると、天狗は東洋一を引き摺って勝母のいる席まで連れて行く。

 

「連れてきました」

「ご苦労」

「なにがご苦労だッ! 離せ! この馬鹿天狗ッ」

 

 左近次は東洋一の襟首をガッチリ掴み、畳敷きの間へと放り投げた。自分はその隣に腰を降ろして、すぐさまお膳にあった、がんもどきの煮付けをつまんで口に放り込む。

 

「なんだよ…この面子(メンツ)は」

 

 ぶつくさ言いながら、東洋一は居並ぶ面々をざっと見た。

 勝母、左近次、それに飛鳥馬(あすま)

 どいつも一癖二癖ある奴ばかり……

 

「せっかく一人でのんびり呑もうと思ってたのに………」

 

 嘆息した東洋一を、勝母はうすら笑いを浮かべてからかう。

 

「なんだ? とうとう里乃にも愛想をつかされたのか?」

「だから…そういうのじゃないって言ってるだろうが」

「まったく……お前の態度がハッキリしないから、向こうは困っているんだ。いい加減、責任を持ったらどうだ?」

「やかましい! 子供が口出すことじゃねェ!」

「もうすぐ十八だぞ。どこが子供だ。そんなだから里乃のこともいつまでも中途半端にしておくんだな…」

 

 呆れたように言って、勝母は相変わらず青竹に入った自作のお茶を飲む。

 上を向いた時に顎にある傷に気付いた。

 

「どうした? 珍しいな、お前が傷なんて」

 

 今や柱の中でも最強との評判も立つ勝母が、鬼狩りにおいて傷をもらって帰ってくることなどほぼない。

 東洋一が尋ねると、ジロリと勝母は睨みつけてきた。

 

「鬼相手ではないぞ」

「は? 誰かと手合わせしたのか? あ、お前か…飛鳥馬」

と、飛鳥馬に水を向けると、その飛鳥馬は申し訳無さそうに項垂れている。

 

「……どうした?」

「お前の弟弟子だ。鏑木(かぶらぎ)とか言ったか? 今、飛鳥馬の所にいる…」

 

 東洋一は意外な名前が出てきて驚いた。

 まさか一対一の勝負をして、浩太相手に勝母がやられるとは思えない。

 

「え? 浩太? なんで…」

「自分の右腕が失くなったのは、私のせいだ、とな」

「……は?」

 

 東洋一が訳が分からず聞き返すと、飛鳥馬が謝ってくる。

 

「すまん、東洋一。俺が迂闊だった」

「いや、どういう事だよ? なんで…? あいつの右腕失くなったのは………」

 

 言いかけて、東洋一は思い至る。

 浩太の右腕を落としたのは、あの岩の呼吸を遣う鬼。その鬼は……。

 

「おおかた、私の父にやられた腹いせに、娘の私に恨みをぶつけてきたのだろう…」

 

 勝母は冷たく笑って、サラリと言う。

 すぐに飛鳥馬がまた頭を下げた。

 

「本当にすまない。俺が言ってしまったんだ。あの鬼が勝母の……」

「謝んな、飛鳥馬。お前のせいじゃねぇ」

 

 東洋一は遮った。それは、飛鳥馬の勘違いだ。

 

「浩太はお前に言われる前から知ってたさ。今頃になってこんな事しやがったのは、自分に余裕がないからだ。あいつ自身の問題だ」

「…冷たいな、兄弟子。賢太郎と同様に、随分と可愛がっていた弟だろう?」

 

 勝母は揶揄するように言ったが、東洋一は真面目に返した。

 

「可愛い弟だからこそ、間違ったことしたなら糺す必要がある。お前にそんな真似しやがるなんぞ、頭がおかしくなってるんだろう。とにかく―――すまんかった」

 

 存外素直に頭を下げる東洋一に、勝母は内心拍子抜けした。

 フと笑みを浮かべる。

 

「私もまさか、薬屋を出たところで刺客が待ち受けているとは思わなかったのでな。油断した。柱としては、面目ないことだ」

「うん。それはそうだな」

 

 東洋一があっさり肯定すると、勝母はジロリとまた睨みつけた。

 

「弟弟子の不祥事は、兄弟子が尻を拭えよ。今日の払いはお前だ」

「ハアァ!!?? なんでだよ!」

「私は、今日は貸しませんよ」

 

 先日借りたばかりのせいか、左近次の財布の紐は固い。

 対照的に助け舟を出したのは飛鳥馬だった。

 

「俺は…半分出すよ」

 

 しょんぼりと、暗い声で言う飛鳥馬を見て、勝母はフフンと皮肉げな笑みを浮かべた。

 

流石(さすが)だな、東洋一。愛されてるじゃないか」

「よかったですね、香取さんがいてくれて」

 

 意味深に言う二人に、飛鳥馬はきょとんとしていたが、東洋一はふと思い出した。

 

 ―――――飛鳥馬はお前と念友になりたいと言ってたぞ…。

 

 すぐさま、飛鳥馬の前にあったお猪口を取り上げる。

 

「なっ、何だ? 東洋一」

「お前は呑むな! 俺に一分でも申し訳ないと思うなら呑むなよ!」

 

 勝母はとうとうケラケラ笑い出した。

 

「いいじゃないか! 呑ませてやれ! ついでにここで誓いを結ぶか? 立会人になってやるぞ!」

「フザけんなよ、クソガキ」

「灘の生一本でもつけましょうか……折角ですから」

「ハァ?」

「いいな、左近次。――――亭主、今言った酒、一升持ってこい。祝い酒だ。他の客にも振る舞ってやれ。あと、ぶり大根と、ぶりの竜田揚げと、ぶりの塩焼き、ぶりの粕汁……」

「お前、どんだけぶり好きなんだよ! っていうか、お前ら、柱だろ? 柱が一般隊士にタカるってなんだよ?」

「今日は柱というのはナシだ。先輩、後輩でいこう」

 

 勝母はニッコリ笑って言うと、やってきたぶり大根を美味しそうに食べ始める。

 

「………そういうことなら、仕方ないな。東洋一」

 

 飛鳥馬が諦めたように言う。

 

「お前、よくそれで納得できるな……」

 

 東洋一はまだ許容できなかったが、目の前で嬉しそうに食べる少女と天狗相手に物を言う気力がなくなった。

 

 

 

 運が悪い時には重なるもので、その日は給料日だったので、東洋一は居酒屋に来たわけだが、お陰で貸してくれと頼むわけにもいかず、しっかり有り金をすべて費やされた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 





日またぎ更新になってしまいました。すいません。
次回は2021.07.28.水曜日更新予定です。




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第七章 昔日 -疾風篇- (三)

 千代に子供ができたと聞いたのは、正月を過ぎた頃だった。

 

 周太郎は心底、ホッとした表情で嬉しそうに話してくれた。

 

「ようやく、な。これで千代も少しは肩の荷が下りたろう。賢太郎もな。あんまりできないものだから、石女(うまずめ)だの何だの言い出して…一時は、離縁させて、どこぞに奉公にでもやるだのと……自分で引き取っておいて、賢太郎の嫁にするのも決めておいて、勝手が過ぎる」

 

 名前を出さずとも、それを言ったのが誰なのかはすぐにわかった。

 

御内儀様(ごないぎさま)は喜んでおられるでしょう?」

 東洋一(とよいち)が特に隠すこともなく素直に返すと、周太郎は肩をすくめた。

 

「あぁ、それだ。今までにないくらい、千代を可愛がってな。下にも置かない世話の焼きようよ。今まででも、その半分も優しく接しておればなぁ……」

 

 喜んではいても、最後にツネへのボヤキが入ってしまうのは、長年の関係性のせいなのだろうか。

 もっとも最近では型の研究の事と、体が思わしくないこともあって、家で過ごすことが多くなり、ツネとのかかわり方も多少は変化してきたのかもしれない。

 

「賢太郎もいよいよ甲になるでしょうし……幸先良いですね。今年は」

 

 東洋一が明るい口調で言うと、周太郎は途端に渋面になった。

 

「どうしました?」

「賢太郎は…甲になっても、柱にならんと言うている」

「……は?」

「お前がいるのに、自分が柱になるわけにはいかんとな……あいつの気持ちを考えると、そう言いたくなるのもわかる」

「いやいやいやいや! とうの昔にその話はついたと思ってるんですが。今更何を言い出しておられるんです?」

 

 確かに以前は勝母始め、東洋一を推挙する声は柱から上がっていたのは確かだが、今は勝母が諦めて賢太郎を推すようになってきたので、その話は鎮火したものと思っている。

 

「お前らは…どうしてそうも嫌がるんだ? 普通、なりたがるんだぞ。なろうと思ってなれるものでもないんだ」

「俺は最初からなるつもりがないんです。賢太郎はなることが決まってたでしょうが」

「別に決めた覚えはないんだが…。あいつに才能があれば、そうなるというだけだ」

「そうなるでしょう。遠からず」

 

 周太郎はため息をついた。

 いつになく苦い顔つきになり、煙草盆に手を伸ばす。

 

「……いいんですか?」

 

 東洋一はスイと煙草盆を後ろへ引いた。

 最近は医者や勝母から煙草を控えるように言われている…と、前に本人が言っていたからだ。

 

「大目に見ろ。一服だけだ」

 

 少しおどけたように言う。懇願だか、命令だかわからない。

 やれやれと、内心で東洋一は肩をすくめた。

 

「一服だけですよ。俺が花柱にどやしつけられるんですからね」

 

 煙草盆を周太郎の方へと差し出すと、ニコニコと周太郎は笑って煙管(キセル)を取った。刻み葉を火皿に詰めて火をともすと、フゥとうまそうに味わって煙を吐く。

 だが、笑みはすぐにまた苦味を帯びたものとなった。

 

「どうも…私は育手としては三流以下のようだ……」

「はい?」

 

 急に気弱なことを言い出す周太郎に、東洋一は耳を疑った。

 一体、どうしたのだろう?

 返事ができずにいると、周太郎はどこか寂しげに、天井へと揺らめいて消えていく煙を見つめていた。

 

「賢太郎も……浩太も、私が信用できないらしい」

 

 ぽつりとつぶやくように言った周太郎を、東洋一はまじまじと見つめた。

 

 病…というのは、こうやって人を弱らせていくのだろうか。

 闊達で、明朗で、たいがいのことは笑って済ませればいい…と豪語していた周太郎が嘘のようだ。

 

 一瞬、眉を寄せてから、東洋一はあえて面倒そうに言った。

 

「師匠、今更、賢太郎が自分の子供じゃないから云々とか言い出さないで下さいよ」

「は?」

「賢太郎の父親の話です。知ってるんですよ、賢太郎。ずっと前から」

 

 周太郎は黙り込むと、煙草を咽んでゆっくりと煙を吐き出した。

 たなびく紫煙を視線で追いながら、自嘲気味に笑った。

 

「そうか。知ってるのか……道理でな」

 

 しばらく考え込んでから、ふと東洋一を見つめる。

 

「お前には色々と話しているんだな」

「まぁ…他に言う相手もなかなかいないでしょうからね。ただ、まぁ大したことじゃないですよ。賢太郎にとっては父親は師匠だけです。昔からずっとそうなんですから」

「……そうか? 私なんぞ、兄に比べれば箸にも棒にもかからないぞ」

「師匠の兄上はご立派な人だったのかもしれませんが、実際に面倒見てきたのは師匠でしょう?」

「面倒といっても……ただ、生きていけるようにしただけだ。それぐらいしかできん」

「………」

 

 ふと、東洋一は遥か昔、父親が言っていたことを思い出した。

 

 ―――――お前が一人前に生きていけるようになったら……それでいいんだ

 

 親というのは、どうしてこうも当たり前に自己を犠牲にできるのだろう。

 子供一人を育てるために、自分の時間をかけ、心をかけて、そしてその事に気付くこともない。

 もっとも、自分のことしか考えない親もいるにはいたが。

 

 無言になった東洋一に気付かず、周太郎は話し続けていた。

 

「正直、親らしいことは何一つできなかった…。今更だろうが」

 

 東洋一はフと笑った。親の心子知らず、子の心親知らず…、というやつだ。

 

「本当に今更ですね」

 ずっぱりと言うと、周太郎はきょとんとして東洋一を見る。

 

「そりゃあ…いくら柱とはいえ、ほとんど家に寄りつきもせずに、仕事が終わるや女のとこに直行して、悋気な母親の癇癪につき合わされて大きくなったんですから……多少、他人行儀になるのは仕方ないですよ」

 

 あまりにあけすけに言われて、周太郎は苦笑した。

 

「厳しいな…東洋一」

「厳しいついでに言わせてもらうと、師匠も賢太郎も、喧嘩しなさすぎです。俺なんぞ、親父としょっ中、言い合ってましたよ。俺の口が達者になったのも、そのせいです」

「なるほど……」

 

 周太郎は腕を組んで考え込んだ。

 

「賢太郎も私も…互いに遠慮しすぎていたのかもしれんな」

「そうそう」

 

 ぞんざいに言って、東洋一はニコリと笑う。

 周太郎もつられて笑った。

 師匠相手だというのに、本当に遠慮がない。それでいて憎めない。

 この愛すべき天性は生まれ持ったものではないだろう。

 

 周太郎の脳裏に、東洋一に最初に出会った時の叫び声が響く。

 

 ―――――なんでもっと早く来なかった? そうすりゃ、親父は助かったんだ!

 

 どう考えても無体なことを言っている少年を周太郎が怒る気になれなかったのは、涙を流して非難する東洋一があまりに純粋だったからだ。

 父親の死を目の当たりして、傷つき、悔やみ、やり場のない怒りを吐き出して、心の底からの哀しみを隠そうともしない。

 この少年はきっと、この父親に愛されて育ったのだとわかった。

 

 愛された人間は強い。どんなに踏みにじられようとも、決して負けない克己心がある。

 この男を育ててみたいと……そう思って育成したのは、東洋一だけだ。

 

「とにかく…師匠の跡は賢太郎が継ぎます。俺じゃない」

「頑固だな、お前は…」

 

 周太郎は最後の一服を吸い煙を吐き出すと、灰落しに吸い殻を捨てた。

 

「ならば、賢太郎に覚悟させるか……」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 風波見家を訪問してから二週間ほど過ぎた頃、飛鳥馬(あすま)が遠征に行っている間に、東洋一は久しぶりにその居宅を訪ねた。

 無論、浩太に会いに来たのだが、土間の続きの部屋で縫い物をしていた手伝いの婆さんは、困った顔で首を振った。

 

「今、出て行かれましたよ」

「あぁ、そうか。どうだい? あいつ迷惑かけてないか?」

 

 何か言いたそうな婆さんに水を向けると、待ってましたとばかりに話し始める。

 

「どうにもねぇ……ブツブツブツブツ、ずーっと何かつぶやいてますよ。気味が悪くて…。ご飯もあんまり召し上がらないようですしねぇ…。夜中にも出歩いているみたいですよ。一度、着物に血がついていたこともありましてねぇ。それにお酒も随分と……朝から呑まれてるんですよ。旦那様にも申し上げたんですけど」

「そら気味悪いわな。すまんな、怖がらせて。あ、これ…さっき買ったんだよ。食べてくれ」

 

 言いながら大福餅を渡すと、婆さんは途端に相好を崩して頭を下げる。

 

「じゃあ、俺がとっ捕まえてくるわ。もう、帰ってもらっていいぞ。適当に食ってるから」

 

 東洋一は家から出ると、薄暮の街を歩き始めた。

 

 どうも、浩太の調子は良くならない。

 よくならないどころか、益々悪くなっていっているかもしれない。

 

 いつまでも左腕だけでは刀を思うように使いこなせないことに、苛立ちが募っているのだろう。

 剣撃のことだけではない。日常生活においても、すべてが前のようにはいかないのだ。いちいち不自由さを感じる中で、鬱屈がたまるのは仕方がない。

 

 かと言って、勝母に対して筋違いな逆恨みをするのも、手伝い婆を徒に怯えさせるのも、許されることではない………と、考えていると、けたたましい悲鳴が響いた。

 

「キャアァァァー!!!」

「ウアアァッ!」

 

 女と男の悲鳴が人気ない小路から聞こえてくる。

 あわてて走って角を曲がると、行き止まりの場所でヤクザ者とその情婦らしい女が腰を抜かしていた。

 

 ヤクザ者の方はすでに着物の袖を斬られ、腕から血を流している。

 二人の見上げる先には、浩太が左手に刀を下げて立っていた。

 

「てっ、テメェ……日本刀(だんびら)振り回しやがって……」

 

 ヤクザ者が睨みつけると、浩太は陰気な、生気のない顔のまま刀を振り上げて構える。

 

「うわああぁぁぁっっ!!!!!」

 

 悲鳴を上げる男と浩太の間に、東洋一は素早く割って入ると、すぐさま浩太の無防備な腹へと一発食らわせる。

 うっ! と一声呻いて浩太は崩折れ、気を失った。

 東洋一はそのまま浩太を抱えて立ち去ると、小さな川の橋の下へと走ってゆき、そこで降ろした。

 

 

 浩太の左手には日輪刀がしっかりと握られている。

 随分と刃こぼれがひどい。一体、何を斬っていたのだろうか? 人にまで危害を加えるようになるとは。  

 相手がヤクザ者だったのは、ある意味不幸中の幸いだった。あのテの輩なら、そう事を大っぴらにすることもないだろう。

 

 東洋一が握った手の指を一つずつはがして刀を取り上げようとすると、浩太がハッとしたように目を覚ます。

 再び刀をきつく握りしめた。

 

「なに…するんだ……俺から刀まで奪う気か?」

 血色の悪い、痩せこけた顔なのに、目だけが爛々と光っている。

 

「浩太…? 俺だぞ。刀は鞘にしまうだけだ」

 東洋一が優しく呼びかけると、浩太はまじまじと見つめた。

 

「東洋一……さん?」

「あぁ。いいな、しまうぞ。下手に見つかったら厄介だ…」

 

 御一新以降、徐々にではあるが、刀差しへの目は厳しくなってきている。

 下手に警察にでも見つかれば、色々と面倒だ。

 

 浩太が握りしめていた柄を放すと、東洋一はその刀を取り上げる。

 チン、と音をたてて鞘に収められるや否や、浩太は東洋一の袖を強く掴んだ。

 

「東洋一さん! 賢太郎が柱になるって本当か!?」

「え? …あぁ。あいつが甲になればな。資格はあるし、そもそも風柱は風波見家がなると……」

「柱になれるのは強い奴だけだ! 香取さんだって、他の柱だってそう言ってるって…だから東洋一さんが推挙されていたんだろう!?」

「………」

 

 東洋一は浩太の剣幕に呆気にとられて何も言えなかった。

 

「なんでだよ……なんで……そんなのおかしい。おかしい……おかしいことがまかり通るなんておかしい……」

「浩太? オイ、しっかりしろ……大丈夫か、お前本当に」

「騙されてるんだよ! 東洋一さん!!」

 

 浩太は叫び、東洋一の肩を掴んでよろよろと立ち上がろうとする。

 

「賢太郎だって……なんで断らないんだ? 自分は柱になるべきじゃないって…言ってたのに……」

「浩太、落ち着けよ。お前、だいぶおかしくなってるぞ。一体、どうしたんだ?」

 

 東洋一が手首を掴むと、浩太は隈のできた、どんよりした目でじいぃと見つめてくる。

 

「東洋一さん……師匠は新しい技を考えてる。でもそれは俺らには教えない気だ」

 

 また、埒もないことを言い出す。

 東洋一は溜息をついて頭を振った。

 

「浩太、それは違う。俺は現に一緒に…」

「利用されてるんだよ!!」

「違う! そうじゃない…」

 

 言っていて疲れてきた。

 おそらくいくら東洋一が言っても、浩太の考えは揺るがない。

 なぜなのかわからないが、そう信じ込んでしまっているのだ。

 

「俺は師匠に頼んだんだ! 教えて下さいって! でも、お前には教えてやれない、って…はっきり言った! お前は風波見家の人間じゃないから教えない、って」

「そんな訳ないだろ! それはお前の考えがひねくれてんだよッ! お前が…ちゃんと今ある風の呼吸の型をしっかり修得すれば……」

 

 説明しようとする東洋一を遮って、浩太はまた全く違うことを言い出した。

 

「東洋一さん……アイツは…俺の父さんを殺したのかもしれない」

「は?」

「アイツは…母さんに惚れてたんだ。父さんが邪魔になって…殺した…」

 

 気がつくと、東洋一は浩太を殴っていた。

 不意をつかれた浩太は、川へと吹っ飛ばされる。上半身がびっしょりと濡れた。

 

 東洋一は怒りを鎮めるために、深呼吸をした。三度。

 落ち着け。

 浩太は少しばかり、気が弱くなって、考え方がまともでなくなっているだけだ。目を覚まさせる必要がある………。

 

「お前……なにを言われたか知らないけどな……千代は、妊娠したぞ」

「え?」

 

 浩太は砂利の上で座り込んだまま、きょとんと目を見開く。

 

「おめでただよ。子供が産まれるんだ…。それで賢太郎も覚悟を決めたんだろう…柱になると」

「嘘だ…」

 浩太はつぶやく。「嘘だ……」

 

 青白かった顔が見る間に赤くなり、涙がふるふると目の中で溢れていく。

 

「嘘だ。……嘘……」

 

 喘ぐようにつぶやく浩太に、東洋一は話して聞かせる。

 

「浩太。千代もなかなか子供ができなくて、苦しんだんだろう。それでお前に何か言ったかもしれんが……もう、今は大丈夫だ。気にしなくていい」

 

 浩太は東洋一を見上げた。

 震えていた唇が、ゆっくりと止まる。

 狂気を帯びていた瞳が、沈んだ憂いを帯びたものに変化する。

 

「浩太…お前、刀鍛冶の里でも行って、ゆっくり湯治でもしろ。な? 明日、隠に迎えに行かせるから」

「…………うん」

 

 浩太は返事したが、それは自分でもわかっていたのか不明だ。

 

 

 

 翌朝、東洋一の指示を受けた隠が飛鳥馬の家へと迎えに行ったものの、浩太の姿はなく、その後、ふっつりと消息は途絶えた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 

 






また日またぎ更新となりました。すいません。
次回は2021.07.31.土曜日の更新予定です。




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第七章 昔日 -疾風篇- (四)

「すまん、東洋一(とよいち)

 

 頭を下げる飛鳥馬(あすま)に、東洋一は「やめろよ」と嘆息した。

 

 浩太が姿を消して三ヶ月が過ぎ、葉桜の季節になっていた。

 いまだ音信はない。

 一応、風波見(かざはみ)門下の隊士には、任務で遠方に出向く時に、負担にならない範囲で捜索するように伝えてはいるが、いまのところ誰も見つけていないようだった。

 

 周太郎には浩太が心の病に罹っているらしいと伝えてあるが、本人がいなくては治療もできない。

 千代にも一応伝えたが、どうも悪阻(つわり)がひどいらしく、とてもまともに取り合える状況になかった。

 賢太郎は相変わらず態度に何か表すことはなかったが、時折、離れで一人過ごしているようだ。

 

「俺が、鏑木(かぶらぎ)に色々と言ってたんだ。お前が柱にならないのは理不尽だと。正直、風柱様への不満も…話していた。鏑木は真面目な性格だからきっと、混乱してしまったんだろう。自分を育ててくれた師匠の悪口を聞いて……不信を持たせてしまった。本当に、すまない」

「そんなモン…お前に言われたくらいで、師匠を疑うなんぞ……どうかしてんのは、あいつの方だ」

 

 東洋一はムッスリした顔で言ったが、すぐに撤回する。

 

「あぁ、違う違う! お前のことは関係ない! だから、謝るな!」

 

 そう言われても、飛鳥馬から罪悪感は消えなかった。

 

 鏑木浩太とはこの数年、二人での任務が多く、自然と話す機会も増えた。

 二人の共通の話題となると東洋一のことが主であり、飛鳥馬は頻繁に風柱に対する疑念を浩太に対してぶつけていた。

 そのせいで、知らずしらず浩太を洗脳するかのように、誤った認識を植え付けてしまったのではないか……?

 

 眉間に皺を寄せて考え込む飛鳥馬の頭を、東洋一はベシリと叩いた。

 

「いーつまでウジウジ言ってやがる? 浩太の事は、あいつ自身の心持ち一つだ。お前がうだうだ気に病む必要はねぇ」

「しかし……探さなくていいのか? 心配だろう」

「大の男の心配なんぞするかよ。帰ってくるさ、そのうち」

「………」

 

 それでも暗い表情の飛鳥馬の肩に手をかけ、東洋一は木刀を持って立ち上がる。

「さァて、御大のお出ましだ」

 

 道場の出入口からやって来たのは鳴柱・桑島慈悟郎だった。

 ここは鳴柱の屋敷である。

 

 例の型の研究の為に、今日は桑島慈悟郎の元を訪れて、久々に打合稽古を行うことになった。

 飛鳥馬は道中で会った東洋一からその話を聞いて、ついて来たのだ。

 

「…っとに…風柱様からの頼みだからな。お前と今更、稽古なんぞ」

 

 ぶつくさ言う慈悟郎に、東洋一はニヤリと笑う。

 

「またまたー。本当は嬉しいくせに。師匠から話を聞いた時には、諸手を挙げて喜んだんでしょ?」

「相ッ変わらず、フザけた男だな。お前は!」

 

 そうは言っても、内心の昂揚は隠せない。

 足早に東洋一の目の前に来てから、木刀を持つのを忘れていることに気付く。機転のきく継子の一人が、すぐさま壁から木刀をとってきて渡した。

 

「…おう、すまん」

 わざと横柄に言って、慈悟郎は咳払いした。

「では、参りますか…」

 

 言うなり、即座に東洋一が打ち込みに行く。

 ビシィッ、と慈悟郎が弾き返し、同時に神速の突き。ギリギリで躱した東洋一の鼻先が切れて、血が飛ぶ。

 間合いをとった東洋一を見て、慈悟郎は不敵に笑った。

 

「行くぞ、東洋一」

 

 雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃

 

 技を繰り出すなり、落雷の如き轟音が響き渡る。

 かなり堅固に作ってある道場がミシミシと軋んだ。

 

 凄まじい勢いで刀身が東洋一に襲いかかる。

 東洋一は技を出さない。躱すこともしなかった。

 

 見ていた飛鳥馬は眉をひそめた。

 慈悟郎も気付いて、グッと呼吸を止める。

 

 まともに受け止めた東洋一の木刀を、慈悟郎は薙ぎ払う。木刀と一緒に東洋一は道場の隅へと弾き飛ばされた。

 

「東洋一!」

 飛鳥馬があわてて走り寄ると、東洋一が大の字で寝転がって「イテテテ」と顰めっ面になっていた。

 

「大丈夫か?」

「………」

 

 ゆっくりと起き上がると、慈悟郎があきれた顔で歩いてきた。

 

「なに、やっとるんだ、お前は。ワザと受けるなんて」

「そんな事ァ、ないですよ。さすがの鳴柱の速さについてけなかっただけです」

「嘘こけ、この阿呆」

 

 コツンと、慈悟郎は東洋一の頭を木刀で叩く。

 

「フザけるなら、やめるぞ」

「違いますって。ちょっと…打たれたかったんですよ。色々、むしゃくしゃしてたので」

 

 笑って言う東洋一に、飛鳥馬は内心で溜息をつく。

 なんだかんだ言っても、やはり東洋一は浩太のことを気にかけているのだ。決して本心を見せはしないが…。

 

「なーにを訳のわからんことを。次は? 何の型だ?」

「えぇと……参ノ型だったっけ……?」

 

 話しているところへ、慈悟郎の鴉が庭の方から飛んできた。

 けたたましく啼いている。

 

「なんじゃ、ギャアギャアと」

 慈悟郎が腕を出すと、鴉はその上へと乗って告げる。

 

「カアァァ!! 炎柱・煉獄(れんごく)康寿郎(こうじゅろう)、死亡! 上弦ノ肆トノ戦闘ノ末、死亡!!」

 

 

◆◆◆

 

 

 凍りついた空気の中、最初に口をきいたのは東洋一だった。

 

「…………次の炎柱は? いるのか?」

 

 康寿郎の長男である匡寿郎(きょうじゅろう)はまだ十歳にもなっていない。当然のことながら、隊士ですらない。今の段階で炎柱後継となるのは無理だろう。

 慈悟郎は眉間に皺を寄せたまま、思い起こしながら話す。

 

「確か先の炎柱…康寿郎の叔父の継子がいたはずだ。煉獄家の傍流だと聞いたことがある」

「柱の条件は備えてるのか?」

「うむ。甲だ。………おそらく次の炎柱となるだろう」

 

 だが慈悟郎が思い出す限り、その炎の呼吸の剣士は明らかに康寿郎よりも戦闘能力は低かった。

 柱としての条件を備えること自体、隊内においては相当な強者であることは確かだが、故人との比較をするなら、同様の働きを期待するのは難しい…。

 

「傍系であれば、久しぶりに黒髪の炎柱だな」

 

 飛鳥馬が言ったが、自分が鬼殺隊に入ってからは先代炎柱だった康寿郎の叔父も、康寿郎も見事な金髪だったので、黒髪の炎柱については話でしか知らない。

 

 煉獄家には秘儀があり、それによって産まれる赤子は金髪となるのだという。

 だが、その秘儀は、本家の嫁が代々口承にて伝えるものらしい。

 その為、本家の炎柱が若くして亡くなった時に、傍流や継子が柱に立つことは、鬼殺隊数百年の歴史の中では珍しくなかった。

 

 対照的に風波見家は、本家筋以外の柱を認めなかった。

 柱となるべき男子以外の子供は元服と同時に風波見姓から風見姓へと名前を変える。

 もし、継嗣が死んだ場合は風見姓の中から一人選んで本家を継がせる。

 あくまで風柱となる者は風波見姓であること。それが絶対であった。

 周太郎も元は次男坊だったので、風見(かざみ)周佑(しゅうすけ)と名乗っていたらしい。

 

「カアァァ! 会議、会議! 産屋敷邸ニ緊急招集!!」

 

 また慈悟郎の鴉がけたたましく叫ぶ。

 東洋一は立ち上がると辞去を告げ、慈悟郎はあわただしく産屋敷邸へと向かった。

 

 飛鳥馬と東洋一は共に帰路についたが、二人とも無言だった。

 自分の家の前まで来ると、飛鳥馬は東洋一に尋ねた。

 

「……どうする? ……呑むか?」

「いやいい」

 

 東洋一は即座に断り、そのまま歩きかけて振り返る。

 

「飛鳥馬。お前、柱になれよ」

「…………」

「康寿郎が死んで炎柱は次代がいるとはいえ、この前、砂柱様も亡くなったばかりだ。いい加減、受けろ。いつまでも俺を言い訳にするな」

 

 飛鳥馬は目を伏せた。

 もう、これ以上拒否はできない。

 

 戦闘不能の状態で治療中の柱もいる。今や、実質動けているのは鳴柱、花柱、水柱、(いと)柱、式柱の五人。

 風柱の鬼殺任務は実質、東洋一が行っているものの、五人しか動ける柱がいない…ということ自体が、隊全体の士気にも影響する。

 

 かつて今の風柱の他、水柱と炎柱の三人しかいなくなった時、本来であれば柱が対峙すべき鬼を一般隊士が相手せざるを得ず、隊士の死亡が異様に増えた。

 柱の不在は隊士の死亡率に直結する。

 本来柱が赴くべき現場に、まだ実力不足の隊士が行くことで鬼に殺られ、そうなると必然、柱候補となるべき人材も減る。悪循環となるのだ。

 

 激減した柱を増やすため、風柱であった周太郎は、合議や推挙といった曖昧だった柱の選定を、わかりやすく明確化した。

 一定以上の条件を満たせば柱となれるようになってから、柱としての条件を満たした人間が甲の地位に留まることで、柱が不在になってもすぐに補充されるようになり、柱が極端に減ることはなくなった。

 それでも――――この状況だ。

 

 去っていく東洋一を見ながら、飛鳥馬は最終選別から帰ってきた日の夜を思い出す。

 

 ―――――我ら三人で、柱となろう!

 

 東洋一は、あの誓いを忘れてしまったのだろうか。

 

 酒でほとんどの記憶がなくなっても、飛鳥馬はこの言葉だけは忘れなかった。

 たった三人の同期。

 自分だけが味噌っかすだと思ったが、東洋一も康寿郎も、馬鹿にすることはなかった。

 むしろ同等に…遠慮なくやり合った。その中で互いの是非を指摘し、高めあっていく。あの二人がいたから自分などここまでやってこれたのだ。

 

 家に入ると、飛鳥馬はそのまま土間の隅に座り込んで、ボロボロと涙を流した。

 とうとう、誓いを果たせないまま…康寿郎は逝ってしまった。

 

 一緒に任務に行ったのは隊士になったばかりの一年ほどだったが、その時から明らかに自分や、並いる先輩隊士達とは力量の格が違った。

 弟子の間に身につけた全集中の呼吸・常中によって、身体能力も回復能力もまるで比にならない。

 

 東洋一ですらも、その点に関しては康寿郎に教えを乞うていたほどだ。

 

 あれほどの男でも、上弦には勝てないというのか……?

 いったい、どれほど強いのだ…? 化け物どもめ……。

 

「……くそッ!!!!」

 

 しゃくり上げて泣きながら、飛鳥馬は三和土(たたき)を何度も殴り続けた。

 

 

◆◆◆

 

 

 東洋一は煉獄家の前まで来て止まった。

 門は閉ざされ、冠木(かぶき)に菱形の忌中札が貼られていた。

 

 ここまで来てから、この先に康寿郎がいないことを思い出す。

 自分は一体何をしに来たのだろう? 考えてみれば康寿郎はいない。この先もずっと。

 

 あの裏表のない、どこまでもカラッと晴れ渡ったような笑顔。ちょうど、今日の天気のように、澄み渡った清しい青空のような―――。

 

 呆と立っていると、中から甲高い赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

 ハッとなる。顔を上げた先で扉が開いた。中から泣きわめく赤子を抱いた、康寿郎の妻・(スイ)が現れた。

 

「……篠宮様」

 

 涙声で言いかけて、翠は口をつぐむ。そうして黙って頭を下げた。東洋一も黙礼する。無言であった二人の間で、赤子だけが泣いていた。

 

「……康寿郎様はまだお帰りになっておりません」

 

 ようやく口をきけるようになった翠は、それでも震える声で告げた。

 

 通常、隊士達が死亡した時には産屋敷家近くの墓地に埋葬される。

 だが、身内のある人間はその隊士の遺言によって、元々の先祖の墓に骨を届けることもあった。

 代々の柱である風波見家と煉獄家には双方ともに墓があるため、基本的にはそこに葬られる。

 

 だが、これは『死体』があった場合である。

 

 人を殺し喰う鬼というものに対峙する以上、負ければ喰われるのは珍しいことではなかった。

 まして今回、康寿郎が相手したのは上弦の鬼である。喰われずとも、五体満足な死体として帰る可能性は非常に少ない。

 

「葬儀は…お忙しい皆様の迷惑にならぬようにと…申しつかっておりますので、すみませんが、近親者のみで行います……」

 

 翠はつとめて冷静に振る舞っていた。炎柱の奥方として、煉獄家の女主人として、必死に悲しみを受容していた。

 

「そうですか……。いや、俺もどうして来たのかわからないんです。ただ……」

 

 東洋一は答えながら、翠の腕の中の赤ん坊を見つめた。

 煉獄家特有の金と赤の髪。燃え盛る炎のような、その髪。

 ようやく泣き止んで不思議そうに母を見つめるその瞳は大きく、潤んでいた。

 

 本当に、似ている。この家の親子は皆、そっくりだ。否が応でも康寿郎の姿が思い浮かぶ。

 

 ―――――春に生まれる予定だ!

 

 そう言えば、去年の暮近くに訪れた時言っていた。もう、生まれていたらしい…。

 東洋一は少しだけ笑った。

 

「すいません。もう生まれているとは知らなくて…何の祝いも持たずに来てしまいました。匡寿郎が生まれた時には…ひどく喜んで、わざわざ人の任地にまで言いに来たってのに……次男の時には何も言ってこなかったな、あいつ」

 

 軽く言うと、翠の顔色が変わった。

 じいっと東洋一を見つめる瞳から、とうとう涙が一筋零れた。

 

「康寿郎様は、この子が生まれた時にはおいでになりませんでした」

「……え?」

「今回の任務は長かったのです。鬼が潜伏しているらしいと……探索もしていたのでしょう。この一月(ひとつき)ほど家には戻っておりません。槇寿郎はその間に生まれました……」

 

 東洋一は奥歯を噛んだ。

 嗚咽がせり上がってきそうで、必死に押し止めた。

 

「……すいません」

 

 かろうじて言葉にできたのはそれだけだった。

 翠もまた、東洋一の気持ちを察したのだろう。沈痛な顔を俯ける。

 

「いえ…では、私はこれで……」

「どこかに行かれるのですか?」

「えぇ。匡寿郎を親戚に預けておりましたので、迎えに行って参ります。失礼致します」

 

 翠は行きかけて、ふと振り向いた。

 

「篠宮様、今日は、来て頂き有難うございます。どうかご壮健で…お務め励まれますよう……」

 

 翠は先程までの冷静な口調に戻っていた。

 深く一礼して、去っていく。

 次第に小さくなるその後姿が見えなくなったのを確認してから、東洋一は低く嗚咽する。

 

 ―――――康寿郎、お前……息子が生まれたことも知らないのか…?

 

 甲高く響く声を聞くこともなく、柔い体をその腕に抱くこともなく逝ったのか…?

 

 そう思うと、涙が溢れてきそうになる。

 東洋一は必死で泣くのを堪えていたが、そのせいで全身の震えが止まらなかった。

 奥歯をきつく噛みしめながら、東洋一は踵を返して歩き出した。

 

 康寿郎はいない。

 この先もずっと。

 

 いずれ自分も同じように、死者の戦列に加わるのだろう。

 その時まで―――――。

 

 雲一つなく広がる空は、彼がそこにいると思えた。

 どこまでも広く、どこまでも澄んでいる。

 その青い空に手を伸ばしてみると、遠く届かない。

 

 ふぅ、とため息がもれた。

 気付けば…鬼殺隊に入って、もう十年は越えた。

 藤襲山の最終選別を突破して、三人で酔っ払ったあの日は、まだ鮮明に記憶にあるのに、すでに遠い。

 確実に自分は年をとったな……と、東洋一は思った。

 

 

 

<つづく>

 

 

 







また日またぎ更新になってしまった…。すいません。
次回は2021.08.04.水曜日の予定です。




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第七章 昔日 -疾風篇- (五)

 その奇妙な事象に、最初に言及したのは周太郎だった。

 

「勘違いかもしれんが…最近、風の呼吸の隊士……特に風波見門下(ウチ)の者達の死亡が多い気がする」

 

 それは実のところ、東洋一(とよいち)も感じていたことだった。

 

 炎柱・煉獄康寿郎の死から程なくして、兄弟子であった前野が戦死して鬼に喰われたという報告に始まり、その後、多い時には一月(ひとつき)に八人が亡くなっている。

 周太郎の継子として風波見(かざはみ)家で直接指導を受けた人間で、隊士となって生存していた者は三ヶ月前の時点で二十余名。そのほかに孫弟子も含めれば六十名近くいた。その四分の一近くが、この三ヶ月の間に殺されている。

 

「他流派でも死亡者はいるでしょうけど、風だけに限ってみると、確かに奇妙なくらいの数ですね」

「狙って……喰っておるのか……?」

 

 周太郎は重々しく言ったが、「まさか」と東洋一は笑った。

 

「別に風の呼吸の剣士が特に美味しいという訳でもあるまいし。それに、女の剣士であればより死亡率は高いですよ。鬼は女が好きですからね」

 

 鬼がより女を好むのは、昔からのことだった。

 美味(うま)いのか肉が柔いのか、鬼の事情など知る由もないが、そのせいで昔は女が鬼殺の剣士になることは禁じられていたらしい。

 話が逸れても周太郎はまだ気にかかるようだった。

 

「風に恨み持つ鬼でもおるのか……」

「調べた方がいいですか?」

「う…む。奴らに頼んでみるか……」

 

 周太郎の言う『奴ら』というのは、人ながら異端の力を持って、鬼の探索に当たる者達のことである。

 まだ正式に鬼殺隊内での地位を与えられてはいないが、周太郎は彼らの能力を買い、自費で彼らを雇って、非公式に鬼の捜索活動をさせている。

 

 いずれは鬼殺隊内で隠と同等の地位を与えたいようだが、元々差別的境遇にいる者が多く、その能力が疑問視されていることもあって、なかなか認めてもらえないようだ。

 

「木原さんにも言って、門下の人間に伝えておきますよ。何か情報があれば連絡するように……」

 

 東洋一が言うと、周太郎は頷いてつぶやいた。

 

「ただの偶然かもしれんがな……妙に気が立つ」

 

 その言葉は、周太郎が長年の経験から培われた独特の感覚だった。

 東洋一にもそれがどういうものなのかわからない…。

 

 二人で考え込んでいると、ツネがあわてた様子で転げるようにして入ってきた。

 

「東洋一ッ! 早く! 早く産婆をっ!」

 東洋一の姿を見るなり怒鳴るツネに、東洋一も周太郎も目を丸くする。

 

「どうしたんです? 御内儀様」

 東洋一が手を差し伸べると、ツネは腕を掴んで立ち上がり、泣きそうな顔で叫ぶ。

 

「千代が破水したッ!」

「なんだと!?」

 

 周太郎が驚いて立ち上がる。

 東洋一はツネを周太郎の方へと押しやると、

「とりあえず、産婆を呼んできます」

と、駆け出した。

 

 確か、産み月の予定は来月末と聞いていた。まだ早い…。

 

 東洋一の脳裏に不穏な想像が浮かんだが、すぐに消した。

 今はそんな事を考えている場合ではない。

 とりあえず、産婆を連れて行って、その後には賢太郎にも早急に伝達する必要がある。

 

 今、賢太郎は任務で出ている。

 無事に任務が終了したとしても、帰ってくるのは早くて明日になるだろう。

 

 

◆◆◆

 

 

 日が沈み月が光り始める頃に、千代は男の子を産んだが、早産であったためか、当初は産声を上げることもできず、そのまま死ぬのではないかと思われた。

 産婆が赤子を逆さにしたり、背を叩いたりして、口の中のものを吐き出させて、ようやく声を上げたらしい。

 らしい……というのは、周太郎も東洋一もその場にいることを許されなかったからだ。いたところで、何をできるというものでもない。

 

「………こういう事に、男は無力だな」

 

 周太郎は初めての孫と対面した後、自分の部屋に戻ってきてしみじみ言った。

 久しぶりに煙草を()んで、ようやく安心したようだ。

 

「いずれにせよ、おめでとうございます」

「あぁ……」

 

 答えた顔は、やはり嬉しそうだった。

 やることもない男にできることは祝杯をあげることぐらいである。

 東洋一が台所から酒を持ってくると、徳利や猪口の場所がわからないので、そこらにある湯呑で呑み始めた。

 

 夜半になって玄関からバタバタと走る音が聞こえた。

 

「………子供は?」

 

 息を切らした様子で聞いてきた賢太郎を見て、東洋一はあんぐりと口を開けた。

 

「お前……どうやって?」

「鬼を殺った後にすぐに……走って…」

「ハアァ? お前……」

 

 見れば、足袋が泥と血でひどい状態だった。

 箱根近くまで行っていたはずだ。

 そこからずっと休まず、走って帰ってきたのか…?

 

 一応知らせたものの、賢太郎のことだから、鬼を成敗した後に朝になってから帰路につくのだろうと思っていたのだが、案外と居ても立ってもいられなかったらしい。

 

 東洋一はフと笑みを浮かべた。

 情に希薄なこの男であっても、自分の子供のこととなれば、やはり別なのか……。

 

 周太郎も笑って賢太郎の肩を叩いて(ねぎら)う。

 

「よく帰ってきたな…。子供は無事に産まれた。今は千代もツネも休んでいるからな…足を拭いて、着替えて…そっと見てこい」

 

 寝ずの番をしていた子守女に頼んで、小さな我が子を見た賢太郎は、柔らかな笑みを浮かべ、そうっと赤子の頬を撫でた。

 途端に寝ていた赤ん坊が泣きそうになり、あわてて必死でシーッと諭す様が微笑ましい。

 

「東洋一と呑んで祝っておったところだ。お前も一緒に呑もう……」

 

 周太郎が声をかけると、賢太郎は戸惑ったような表情になった。

 

「おう、そうだそうだ! 呑もう」

 

 東洋一が肩を叩いて強引に周太郎の部屋に連れて行くと、おそらくは初めて、三人で輪になって呑み始める。

 

----------------------

 

 鬼の話は一切出なかった。

 東洋一は遊郭や賭場での失敗談を語り、周太郎達を大いに呆れさせ、笑わせた。

 

 周太郎は初めて自分の兄について語り、賢太郎はその実父の話を興味深く聞いているようだった。

 賢太郎に似た、真面目で少々堅苦しい性格だったらしい。

 

 幼い頃の賢太郎の話もし、癇癪を起こしたツネが賢太郎を置いて出て行ってしまい、馴れない世話にあたふたしたことも、その時にお襁褓(ムツ)を替えようとして小便をひっかけられたことも、愉しそうに話す。

 賢太郎が真っ赤になりながら、「すみません」と謝ると、東洋一と周太郎は大笑いした。

 

それを聞きつけ起きてきたツネは、男三人が朝から酒をくらって顔を赤くしているのを見ると、一喝、雷を落とす。

 

 朝一番に御内儀に怒られる柱……その事自体が滑稽でたまらない。

 東洋一がたまらず大笑いすると、周太郎も賢太郎も一緒になって笑い出す。

 久しぶりに明るい笑い声が邸内に響き渡った。

 

 

 それが―――生きている周太郎を見た最期となった。……

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 いつの間にか残暑も過ぎ、空は高く爽籟(そうらい)を奏でる季節となっていた。

 

 任務を終えて帰路についていると、一羽の鴉が降りてくる。

 足に括られていた文を開くと、『大至急御本家。但し、口外無用の事 木原』とある。

 くしゃりと文を丸めて懐に入れると、東洋一は走り出した。

 

 ものすごく嫌な予感がする。

 

 木原は東洋一の兄弟子で、風波見門下の中では最年長の隊士である。

 正直なところ、東洋一とはあまり反りが合わないので、互いに距離をとっていた。

 東洋一に手紙を寄越すことなど今までに一度もない。

 その上で来いという場所が風波見家である。

 

 何か…あった。―――何が?

 

 走り続けてようやくたどり着くと、他にも風波見門下の隊士が数名来ていた。

 

「篠宮……」

 姿を見るなり、木原が声をかけてくる。

「なにがあったんです?」

 

 東洋一が睨むように尋ねると、木原は目線を逸して、奥の周太郎の部屋へと(いざな)っていく。

 

 そこへと近づくにつれ、女の湿った泣き声が聞こえてくる。背後からも、男の唸るような泣き声。

 東洋一は覚悟した。その姿を見る前に丹田に力を入れて腹をくくった。

 

 それでも、部屋の中央に横たわる周太郎の死体を見た時、涙は勝手に溢れ出た。

 

 立ち尽くして動かない東洋一に、賢太郎が声をかける。

 

「東洋一さん、傍に来て…顔を見て下さい」

「……ここでいい」

「ちゃんと挨拶をせぬか、東洋一。さんざ世話になっておいて、薄情な弟子を持ったものよと、旦那様も嘆くであろうな……」

 

 ツネが涙声で、それでも相変わらず忌々しそうに難癖をつける。

 木原がそっと東洋一を押した。

 

「篠宮、ちゃんとご挨拶をしてこい。話は…それからだ」

 

 蒼ざめ、暗い顔をした木原を、東洋一は怪訝に見た。

 だがやはり目を合わせることなく、木原は隣の部屋へと入っていく。

 

 東洋一は深呼吸をして部屋の中に足を踏み入れた。

 賢太郎の横に座って、周太郎の顔にかけられた白い布を取ると、既に事切れ、血の気のなくなった白い顔。

 表情は哀しげに固まっていた。顎の下に、赤黒くこびりついた血。

 

「……?」

 

 一体何があったのだろうか?

 斬られたという訳でもなさそうだが、病死にしては……急過ぎる。具合が悪いなりに、ここ最近は勝母から貰った薬が効いたと言っていたはずだ。

 

 東洋一は布を再び顔の上にかけると、後ろに下がり、深々と頭を下げた。

 これ以上、ここにいるのは無理だった。できれば今すぐ任務を与えてほしいくらいだ。

 

 立ち上がると、隣の部屋に行った木原の元へと向かった。

 木原と、もう一人の風波見門下の古参隊士・斯波(しば)が、二人共に沈鬱な表情で黙り込んだまま座っている。

 

「……閉めてくれ」

 

 東洋一が入ると、木原がチラと見上げて言う。障子を閉めて、二人の前に座る。

 

「何がありました?」

「…………裏切者が出た」

 

 ボソリと小さな声で木原が言う。

 東洋一は眉を寄せ、聞き返す。

 

「裏切者? どういう…事です?」

「風波見門下で鬼となった者が出たということだ」

 

 そう聞いた時に、東洋一の脳裏に瞬間的にひらめいたのは浩太の事だった。

 だが、すぐさまに消去する。

 そんなことはあり得ない。絶対にあり得ない。

 何度も自分の中で念を押す。

 

蛭田(ひるた)が襲われた。戦闘途中で朝になって、喰われなかったらしい。事切れる前に鴉を飛ばして……直接、風波見家に行くように…と」

師匠(せんせい)はその文を見て、吐血された」

「………」

 

 東洋一は周太郎の顎についていた血を思い出す。

 その時、障子が開いて賢太郎が現れた。

 目が真っ赤になっている。

 

「すいません……東洋一さん」

 

 東洋一の横に力なく座り込むと、震える声で告げた。

 

「鴉からの文を受け取って…僕が……父上に見せたから。ひどく動揺して、いきなり血を吐いて……」

「若のせいではございません!」

 

 斯波が吠えるような声で庇った。「師匠(せんせい)は、ずっと具合を悪くしていらしたのですから…!」

 

 東洋一は固まった顔のまま、木原に尋ねた。

 

「……その文は?」

「これだ」

 

 木原が差し出したその文は、血と泥で汚れ、今にも破れそうであった。

 乱れた筆で、『カブラギ ウラギリノ オニ 也』とある。

 

 一気に脳天に血が集まる。

 こみ上げてくる感情が喉に蓋をして声が出ない。

 

「東洋一さん……浩太は、本当に鬼になったのでしょうか……?」

 

 賢太郎が心細そうに訊いてきたが、東洋一は何の返事もできなかった。

 

鏑木(かぶらぎ)が鬼になったかどうかが問題なのではない。問題は風波見家から鬼を出したことにある。師匠が亡くなった今、若様が責任を取ることになる」

 

 木原が重々しく言う。

 東洋一はそんな事をまったく考えていなかった。

 

「責任…?」

 

 呆然として聞き返すと、木原は鹿爪らしい顔で頷く。

 

「切腹を…命じられるだろう」

「馬鹿な!」

「僕は、構いません」

 

 賢太郎は既に悟った顔で言う。「それも、父の跡を継ぐことの一つですから」

 

「駄目だ! 巫山戯(フザけ)るな!! そんな事はあり得ない! 賢太郎はまだ柱になってもいない!」

「落ち着け、篠宮! 誰も賛成などしていない!!」

 

 木原はいつにない迫力で怒鳴ると、ハァと溜息をついて頭を抱えた。

 

「……師匠が亡くなった今、次の柱となるべき若様までが切腹となれば……隊全体にとってもどれほどの影響があるかわからん。かといって…今まで裏切者を出した育手は責任をとって腹を切ることになっとる。これは……たとえ御館様であろうと、柱であろうと、変えられん。一つ例外を許せば、隊内の規範が緩む。そんな事は師匠が一番許されなかったことだ……」

 

 東洋一はしばらく考え、決心する。

 

「俺が柱になる」

 

 そう言った途端に、賢太郎が反対した。「駄目です!」

 東洋一は賢太郎を無視して、木原ににじり寄る。

 

「なァ、木原さん。それで駄目か? 俺が風柱になって、詰腹切りゃ……一件落着になるだろう?」

 

 木原はしばらく東洋一を見つめた。本気であるのはすぐわかった。

 だが、横にいた斯波が首を振って「無理だ」とつぶやく。

 

「なぜ?」

「篠宮。お前が強いことは、お前と一緒に仕事した隊士ならば皆知ってることだ。現に複数の柱達から推挙されたことも知っている。だが、お前を知らぬ大半の隊士にとっては、伝説の風柱・風波見周太郎の存在はあまりに大きい。師匠(せんせい)の跡を継ぐのは、風波見の名を持つ賢太郎様……誰もがそう思って疑いもしていない。それに、一介の隊士に過ぎぬお前がいきなり柱となって腹を切れば、皆、若が自分可愛さにお前を人身御供に出したと……かえって糾弾されかねん。特に花柱殿などは許さぬだろう」

「………そんな事は言わさない。あいつらに関係のないことだ」

 

 東洋一は低い声で断じたが、斯波は溜息まじりに諭した。

 

「篠宮……師匠(せんせい)は偉大だった。この数年、柱として鬼殺の役目が少なくなっていても…それでも、その地位に留まれたのは、御館様からの絶大な信頼があったというだけではない。隊全体が『伝説の風柱』がそこにあることを望んだからだ。それが失われたと知れば、求心力の低下は否めないだろう。鬼殺隊の将来を悲観して逃亡する者も出るやもしれん。跡を継ぐ者は……風波見周太郎の血を引く者でなければ、納得されぬ」

「それで、賢太郎が柱になって、裏切者を出した責任をとって切腹したら…意味ないだろうがよッ!! 誰が跡を継ぐ? 晃太郎(こうたろう)はまだ乳飲み子だぞ!!」

 

 東洋一が大声で怒鳴ると、再び障子が開き、冷え切った声がその場を鎮めた。

 

「―――みっともなく、声をあげるものではありませぬ」

 

 ツネはピシャリと後ろ手に障子を閉じると、静かに上座へと腰を降ろす。

 

「………この事は、まだ風波見家以外の人間の知るところではない」

 

 居並ぶ男達を、赤く充血した目で睨みつけながらツネは粛然と言い渡す。

 最初にその意味を解したのは賢太郎だった。

 

「それは……母上…出来ません」

 

 ツネは賢太郎の方を向きもしなかった。

 次に気付いた木原がゴクリと唾を飲む。

 

「………本部に…秘匿しろ……と? そんなこと……」

 

 木原の言葉に、斯波は血相を変えた。

 

「それは、無理です。御内儀(ごないぎ)様。鴉は風波見家のものではない。蛭田の鴉は今はここにいますが、隊士が死亡すれば、その理由も含めて本部に報告に行く義務が………」

「鴉ならば、籠にいれて蔵の小部屋におる」

 

 ツネは平然と言った。

 本来、本部から支給される鎹鴉の行動を阻むことは違反である。

 

「間違うてはならぬ。これは鬼殺隊の為ぞ。東洋一も言うたであろう? 旦那様亡き後、継いだ賢太郎までが切腹となって、風柱不在となれば……隊も御館様も、動揺するを免れぬ。すべてに良いように運ぶには、隠密に裏切者を処理せねばならぬ。風波見門下の者達のみで。―――東洋一、わかるな?」

 

 つと、自分を見るツネと視線が合う。

 いつもと同じ堅苦しい表情の中、その目には何としても風波見家を…賢太郎を守ろうとする気魄が満ちている。

 

 東洋一はフと笑った。

 さすがにあの伝説の風柱の妻であっただけはある。自分の息子を守るためには、隊を欺くことすら躊躇しないその胆力。

 

「いいでしょう。そうすることに致します。裏切者は、必ず討ちます」

 

 東洋一があっさりと了承すると、賢太郎は信じられない様子で見つめる。

 

「では、粛々と進めよ。木原、頼みましたよ」

 

 そう言って、ツネは立ち去った。

 木原は額に汗をにじませている。

 

「そうは言っても……本部の協力もなしにどうやって裏切者を探すというのか……」

「東洋一、何か目算はあるか?」

 

 斯波が尋ねると、東洋一は蛭田の鴉が持ってきたという文を取り上げた。

 

「これを…お借りします。それとこの事を知っているのは、今この家に集った者達だけですか?」

「全てではないが…」

「既に知っている者達と、口外しないと信頼できる、かつ腕の立つ門下の隊士で、裏切者―――鏑木浩太の探索を至急行い、その伝達は本部を通さぬことを徹底させて下さい。無論、浩太を見つけた時には、即座に滅殺」

 

 東洋一は冷静に指示する。隣で賢太郎が静かに息をのむ。

 木原は眉間を押さえながら、つぶやくように言った。

 

「……しかし、今思えば、風の呼吸の遣い手を狙って襲っていたのは…鏑木だろう。相当に強くなっていると考えた方がいい。蛭田は乙であったのだから」

「そうですね……できれば、探索して見つけたらすぐさま俺に知らせてもらいたい。その為に俺は、今から鬼殺隊を抜けます」

「何だと?」

 

 斯波が聞き返すと、東洋一はおどけるように言った。

 

「当然でしょう? 隊にいれば、隊務を命じられる。今は、申し訳ないが……そちらに構っているわけにはいかない。何としても、早急に裏切者を捕殺する必要がある。しばらくは野分山(のわきやま)に籠ります」

 

 野分山は、風波見家所有の修行用の山である。他流派の剣士が来ることはまずない。

 

「では…私達は他の者達に伝えてくる」

 

 木原と斯波がその場から去ると、賢太郎は東洋一の袖を掴んだ。

 

「東洋一さん……僕が行きます。浩太を殺るなら…僕が」

「駄目だ」

 

 東洋一はにべなく答え、賢太郎を冷たく見やる。

 

「お前は…行っても、浩太と相討ちする気だろう? そんな事は許さねェ」

「東洋一さん……本気で、本当に浩太を殺すんですか? 殺せますか?」

 

 ほとんど泣き声になりながら、賢太郎が問う。

 東洋一は氷を面に張り付かせた。

 

「殺すさ。あいつは鬼になった。鬼になった以上、殺すのが必定」

「東洋一さん!」

 

 東洋一は袖を払うと、そのまま出て行こうとして、くるりと賢太郎に向き直った。

 フッと表情を緩める。

 

「賢太郎。お前、親になって良かったな。………いいか。晃太郎がお前の顔をしっかり覚えるまで、お前は生きている必要がある。親として、思い出を残してやれ」

 

 そう話す東洋一の脳裏には、幼い息子を見ることなく逝った友の顔が浮かぶ。

 泣くのを堪えて震える賢太郎の頬を軽く叩いた。

 

「しっかりしろよ……いいか? お前は師匠の死を御館様に伝えた後、しばらくは産屋敷邸にいろ。おそらく、御館様は相当に驚愕されるはずだ。ちゃんとお支えしろ。それと、俺は出奔したと……本部に届けておけ」

 

 その後、東洋一は木原から裏切者に喰い殺されたらしい隊士達の情報を聞くと、早々に風波見家を去った。

 

 いっそ、このややこしい状態は東洋一にとって救いだった。

 少なくとも、今、この瞬間は。

 

 周太郎の死を受け止めることなど、早々にできようはずもない。

 であれば、今はその死から背を向けて走っていたい。

 

 ずっと、走っていたかった……。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.08.07.土曜日の更新予定です。



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第七章 昔日 -疾風篇- (六)

 裏切者の鬼の探索の為、東洋一(とよいち)がまず訪れたのは、周太郎私設の鬼情報探索方であった。

 かの者達はその特殊な能力によって、鬼の情報を収集する情報屋である。

 だが、鬼殺隊においてまだ公認されていなかった為、今回のような事情においては相当に重宝する存在だった。

 

「……やはり」

(おさ)』と呼ばれる禿頭(とくとう)の老人は、周太郎の死を告げた時、さほどに驚かなかった。

「惣領様の気が途切れたように思いました故」

 

 理由を話されても、東洋一にはさっぱりわからない。だが、彼らは知っていたということだ。

 

「出来うれば惣領様に今一度お会いしたいものですが、私共が行けば、迷惑ともなりましょう。ここで冥福を祈らせていただきます」

「うん。だが、あまりゆっくりさせてやれねぇんだ」

「………なにか?」

 

 東洋一は蛭田(ひるた)が寄越した紙切れを差し出した。

 

「裏切者が出た。早急に討たねばならん。探してもらいたい」

 

 長は(めし)いた目を東洋一の方に向け手を出した。

 東洋一が長の手に紙切れを置くと、隣にいた妙齢の女に声をかけた。

 

寿限無(じゅげむ)を呼んでおくれ」

「はい」

 

 艷やかな黒髪を肩でパッツリと切った、表情の乏しいその女は、奥の部屋へと入っていくと、でっぷり太った大柄な男を連れてきた。

 

 クシャクシャの茶髪の男は斜視なのか、目が合わない。それだけでなく、ずっと何かブツブツブツブツつぶやいていた。よくよく聞けば、『じゅげむ』をずっと唱えている。途中で「えへっ! えへっ!」と、何が面白いのか笑っていた。

 見たところ賢太郎よりも成人してはいるが、少しばかり知能に遅れがあるようだった。

 

「ご心配でございましょうが…この者には、なかなかの能力もございますれば」

 長は東洋一のわずかな動揺を感じたのか、とりなすように笑った。

「寿限無や、これを見ておくれ」

 

 長が東洋一の渡した紙切れを、寿限無という男に渡す。

 寿限無は紙切れを両手に挟み込む。

 しばらくすると、「うわぁ、うわぁ」と声を上げ始めた。

 長が寿限無の丸く太った腕に手を置いた。

 

「………もはや、命なくなる前にございます。事切れる前に、したためたものでございますな。この御方の記憶を少し遡りましょう………」

 

 白く濁った長の目が徐々に青く澄んでくる。

 東洋一と目を合わせながら、その先には東洋一でないものが見えている。

 

「……鬼……刀を持っております。これは……呼吸の技でございましょう。……コウタ、と…呼ばれました。……鬼に向かって……此の御方の記憶の中にある…少年…よく似たる顔……右眉の上にほくろ………ひどく、右肩の盛り上がった鬼にございます。まるで右肩のみ、岩石のごとき肉。……あぁ……斬った腕を喰ろうておる。ニヤニヤと嗤うて……紅き瞳。日が昇るを知って、逃げました……」

 

 長はフゥーと長く吐息をつくと、寿限無から紙切れを取り上げる。寿限無はまたブツブツとじゅげむをつぶやきながら、奥の部屋へと帰っていった。

 

「……今見えたのが、裏切りの鬼でございますか?」

 

 東洋一には長が何を見たのか、どうしてあの紙切れからそうしたものが見えるのかはわからなかった。

 しかし紙切れには『カブラギ』とだけあるのに『コウタ』の名前が出てきたこと、右眉の上に大きなほくろがあるのは、浩太の身体的特徴だった。

 (にわか)には信じがたい能力ではあったが、周太郎が頼りにしていたのだから、そう眉唾ものではないのだろう。

 

「そうだ。その鬼を探してもらいたい。わかったら、すぐに俺に知らせてほしい。それと、ここ最近の風の呼吸遣いが相次いで殺られている。おそらくこの鬼の仕業だ。その者達の任地はここにある通りだ」

 

 そう言って、東洋一が殺された隊士達の任務地をまとめた書付を渡すと、それは黒髪の女が受け取った。ざっと読んで、つぶやく。

 

上野(こうづけ)と越後の間か……」

「山続きの場所ですな」

 

 長の目は再び白く濁っていた。白髯をしごきながら唱えるように告げる。

 

「とりわけにおいに(さと)い者、耳に敏い者、気の流れに敏い者、それに伝令役にとびきり足の早い、体力のある者を向かわせましょう…」

「ありがとうございます」

 

 東洋一が頭を下げると、横にいた女がツンと尋ねてくる。

 

「探索するのはいいけど、金の用意はあるんでしょうね?」

「え?」

「まさか、タダ働きさせようって?」

 

 女がジロリと睨んでくる。

 東洋一は手持ちはさほどにない。後で賢太郎にでも頼めば用立ててくれるだろうが……。

 だが、長が手を上げて制した。

 

「やめよ、小鳩(こばと)。篠宮殿が困っておる」

「あ…いや。確かに今は手元に無いが、後で届けさせる」

 

 東洋一が言うと、長はゆっくりと首を振った。

 

「いやいや。無用でございます。本来であれば、賤民と爪弾きされ、彷徨(さまよ)い続けるしかない(しょう)であった我らに、家を与え、仕事まで下さった惣領様に、如何にご恩返しができようものかと……常に思っておりました。今、お役に立てるのであれば本望」

 

 再び頭を下げて東洋一が外に出ると、小鳩という女が後からついて出てきた。

 

「長はああいうけど、惣領様が亡くなったのなら、私達はまた流浪の身になる。金は必要」

 

 腕組みして機嫌悪そうな女に、東洋一は「わかった」と頷いた。

 

「必ず、金は届けさせる。とは言っても長殿は受け取らないだろうから、お前が直接受け取れ。それでいいか?」

「ならいいわ」

 

 小鳩は途端にニコリと笑みを浮かべると、グイと東洋一の襟首を掴んで耳元で囁いた。

 

「ついでにあなたも頂戴」

「は?」

「私、自分より強い男が好きなの。なかなかいないのよねー」

「………それは、どうも」

 

 言いながら、東洋一はゆっくりと小鳩と距離をとる。

 小鳩は手を離すと、フンと鼻をならした。

 

「案外つまらない男ね」

「俺より強い男は知り合いにいるから……そっちを紹介するよ」

「そう? じゃあよろしく。あと、私は伝令に鳩を使うわ。銀の輪を足にしているから。何か分かったら、野分山に飛ばせばいいのね?」

「ああ、頼む。それと紹介ついでにもう一つ頼まれてくれるか…?」

 

 一時間後、小鳩は東洋一の書状を持って、水柱・鱗滝左近次の家の前に立っていた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「……どういうつもりです?」

 

 夕暮れ近く、野分山(のわきやま)へと向かおうとしていた東洋一を呼び止めたのは、鱗滝左近次だった。

 東洋一の頬がクスリと緩む。おそらく怒っているのだろう。

 振り返ると、果たして左近次が腕組みして立っていた。天狗の面を被っているのに、仏頂面に見えてくる。

 

「どういうつもりです?」

 再び同じことを尋ねてくる。

 

「ちょいとばかし旅に出る」

「冗談を聞いている余裕はないんですが」

「冗談じゃねぇよ。だから、頼んだろ?」

「なんですかあれは……」

 

 昼過ぎに左近次の屋敷に現れた奇妙な風体の女は、東洋一の書状を渡してきた。

 中には相変わらずあまり綺麗とはいえない文字の手紙と、数枚の為替手形。

 

「ん? 小鳩か? いい女だろ? 俺、今忙しいからさ~」

「女なら追い返しました」

「おや、まぁ。勿体ない」

「話を逸らさないでください。どういうつもりです? あなたの情婦(オンナ)の面倒を見ろとでも? 手切れ金なら自分で渡しに行きなさい」

「手切れ金ねぇ……まぁ、そうとも言えるかな。このまま―――」

 

 言いかけて東洋一は口を噤んだ。

 だが、腕を掴んできた左近次を見て、しまったと内心で舌打ちする。

 

「本気で…抜ける気ですか?」

 

 強張って平坦になった声は小さい。返事を求めることすら恐れているように。

 東洋一は笑って、ぽんと掴んできた左近次の腕を叩いた。

 

「しまったなァ…。お前が鼻が利くってのを、忘れてたぜ」 

「東洋一さん…風柱様が亡くなったことは聞きました。もう、いいでしょう? これでもう、誰に遠慮することもない。岩柱だって、反対できないはずです。あなたは堂々と風柱になればいい」

「……それはないさ。賢太郎は柱の要件は満たしている。風柱は賢太郎が継ぐ。風波見(かざはみ)家の惣領が継ぐ。これが皆が一番納得する形だ」

「皆って誰です!? 私は納得しない!」

 

 いつになく声を荒げた左近次に、東洋一は驚いた。

 いつもふてぶてしいほどに沈着冷静で、滅多と大声を出すこともない男だというのに、よほど腹に据えかねたらしい。

 珍しい光景に、東洋一は思わず笑ってしまった。

 

「なにを笑っているんです!」

「いや。珍しいからな。しかし、左近次。皆ってのは、お前以外の大勢なんだよ。生憎と、俺を推挙しているのは少数なんだ。鬼殺隊の中ではな」

「そんなことはありません。あなたが実際に就けば、皆納得します。風波見の御曹司だって、文句を言うはずもないでしょう」

「まぁ……そうだろうな」

 

 東洋一は息巻く左近次をなだめるように頷いた。

 

「俺が柱になって…それで丸く収まるんだったら、いくらでもなったけどなァ。そうもいかない……」

「それで…自ら身を引くということですか。これ以上、私や花柱が何か言う前に…余計な争いにならないように……」

「ハハハハ。何だそれ。格好良いように言ってくれるな」

 

 左近次は天狗面を取ると、じっと東洋一を睨みつけた。

 久しぶりに見る左近次の素顔は、相変わらず端正であった。

 

「約束したんじゃないんですか?」

 

 怒りを沈めた声は、陽炎のようにゆらめき響く。

 

「約束?」

「花柱の父を……裏切者は俺が殺すからお前は手を出すなと……言ったはずです」

 

『裏切者』という言葉に、東洋一はピクリとしたが、左近次は怒りでその微妙な心情に気付かなかった。

 

 言われてみて、そういえば…と東洋一も思い出す。

 勝母が鬼となった父の消息を追って行方不明になり、彷徨していたのを連れ戻して…もう二年になる。

 

 結局、その後もあの鬼が現れたという情報はない。

 ただ、現在療養中の岩柱が重傷を負ったというのを聞いて、東洋一はあるいは…と推測していた。未だに自らを傷つけた鬼に対して何も話さないからだ。

 それがもしあの鬼だと言えば、また勝母が探し回って不在となりかねないからか…?

 

 一気に両方の裏切者を片付けることができれば万々歳なのだろうが、そう上手くいく訳もない。

 どちらかを選択するしかないのなら、東洋一が選ぶのは一つしかない。

 

「あーあ……」

 

 東洋一はしゃがみ込むと、くしゃくしゃと頭を掻いた。

 本当に…自分は…肝心なところで役に立たない。いつもいつも。嘘をつきたい訳じゃないのに、結局は嘘をつくことになる。

 

「そうだなぁ……そうだなぁ……本当になぁ……」

 

 くしゃくしゃ、くしゃくしゃ、頭を掻き毟ってため息をつく。

 左近次は鼻がツンとくるその独特の匂いに、眉を寄せた。思わず問いかける。

 

「泣いてるんですか?」

 

 だが、顔を上げた東洋一の頬は乾いていた。

 瞳の奥には、相変わらず飄々とした風が吹いている。

 

「なぁ、左近次。どうも俺は背負い過ぎたよ。いい格好して、それなりに出来ると思ってたんだ。そんな器でもねぇくせにな。勝母にも…謝らないといけないんだよな、本当は。中途半端に放ったらかしてすまねぇ……って、言っといてくれ」

 

 左近次は唾を呑み込んだ。

 本気で東洋一が自分達から去ろうとしているのがわかったからだ。

 

「…待ってください」

 

 声が掠れた。握りしめた拳に汗が吹き出る。

 

「もう、言いませんから。別に、最初から期待してません。あなたが風波見家を押し退けて風柱になんか、なるわけがないのはわかってましたから。もう言いません」

「………今日はやたら珍しい顔するなァ」

 

 東洋一は焦った様子の左近次を見て、笑った。

 立ち上がると、ぽんと肩を叩く。

 

「俺はな、ぼんくらでどうしようもない奴だけど、俺なりに拠って立つ場所ってのがあるんだよ。で、そこはお前らと違うんだよな。それはお前、わかってたろ?」

「………」

 

 左近次は唇を噛み締めた。

 わかっていた。

 いつも東洋一の中心には風波見家があり、風波見周太郎がいる。

 彼が亡くなった今、東洋一は鬼殺隊にいる意味を失くしたのだ。

 

「ま、腐れ縁てのもあるからな。お前も俺も運が良ければ、また会うこともあるさ。そんな…この世の終わりみたいな顔しなさんな」

 

 言いながら、草鞋(わらじ)の紐を締め直す東洋一を見て、左近次はため息をついた。

 この人がこう言うのであれば、いずれ会えるのだろう。いつになるかはわからないが。

 持っていた天狗の面を再びつける。

 

「………居酒屋で奢ってやるって言って、結局払わされたやつ、まだ返してもらってませんから」

「え? そうだっけ?」

「そうですよ。ちゃんと返してもらいます。棒引きする気はありませんから」

 

 冷たく言い捨てると、左近次は踵を返してスタスタと去っていった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 野分山に向かう前に思い立って、岩柱・阿萬(あまん)刀膳(とうぜん)の屋敷を訪れたのは、やはり左近次に言われたことが多少なりと気になったからだ。

 

 宵闇の中、案内もなく訪れた人影を見て、刀膳は病床から面倒そうに深い息を吐いた。

 

「……大禍時(おおまがどき)に現れるなど……化け物の類か、お前は」

「そういうものでもないですが、玄関から行っても、優秀な継子さんは取り合ってくれないと思ったので」

「いつまで縁側で話す気だ? とっとと中に入れ」

「いや。すぐに出ますから」

 

 東洋一は縁側に腰掛けたまま、チラリと後ろを振り返った。

 阿萬刀膳の巨体が横たわっている。布団から出された手は、肘から下がなくなっていた。顔も、ほとんど包帯が巻かれて表情は見えない。

 

「なんの用だ?」

「そうですね。先にどちらを言うかな……」

「……風柱様のことなら聞いている。御身体(おからだ)を悪くされていたのに、長年、柱としてお務め頂いて、同じ柱として不甲斐ないことだった。今となっては、ご子息に譲るまでの数年だけでも、貴様に柱をさせておいてもよかった……」

 

 東洋一はフッと笑った。

 おそらくはこれが鬼殺隊の大勢の意見だろう。

 阿萬刀膳の考え方は、ある意味平均だ。これが『皆』というものだ。

 

「師匠のことをご存知なら、先にこちらを言いましょうか。俺は今から隊を抜けます」

「………グッ!」

 

 驚きのあまり、体を起こそうとして刀膳は呻いた。

 包帯の間から、ギロリと東洋一を睨みつける。

 

「どういうつもりだ…? あの風柱様亡き後、たとえご子息が柱を継いだとしても隊の動揺は免れぬ。貴様、継子筆頭として補佐して守り立てるのが役目であろうが」

「……痛いとこ突いてきますね。さすが、岩柱」

「くだらぬ戯言(ざれごと)を言いに来る暇があるなら、とっとと帰れ」

「もう一つあります。あの鬼に会いましたか?」

「………あの鬼?」

「あなたにそこまでの重傷を負わせた鬼は、裏切者の五百旗頭(いおきべ)卓磨(たくま)ですか?」

「…………」

 

 刀膳は黙り込んだ。

 しばらく待ってから、東洋一はため息まじりに笑う。

 

「この場合、沈黙は肯定と同じですよ。これだけ間があいては、今更否定されても信用できない」

「……否定する気はない。事実だからな」

「やはりそうですか」

「隊を抜ける貴様がこの事について拘泥(こうでい)する必要はなかろう」

 

 それはつまり余計なことを言いふらすな、ということだろう。

 下手に勝母の耳にでも入って、また出奔されては、風柱も亡くなった今、さらなる動揺を呼びかねない。

 

「ハハハ。そうですね。隊を抜けた俺が、今更、花柱に話すことは何もないです。ただ一つ、頼みがありまして」

「頼み?」

「死ぬ前に、継子達に遺言しておいて下さい。五百旗頭卓磨を、裏切者を必ず討ち果たすべし、と。本当はあなたが地を這ってでも殺すべき相手なんですがね。十年以上、放ったらかしたツケですよ、これは。相手が鬼となってまで、鍛錬を積むとは思ってなかったんでしょう?」

 

 口元には笑みを浮かべながらも、東洋一の目は笑ってなかった。むしろ冷たい双眸(そうぼう)が、満身創痍の刀膳を見下ろしていた。

 

 包帯の間から東洋一を見ていた刀膳は、不意に笑う。

 痛みに顔を顰めて、だがしばらくの間、低い声で笑い続けた。

 

「あぁ…そうだ。強くなっていた。人間であった頃とは比較にならぬほどに、強くなっていた……」

 

 ゆっくりと、刀膳は体を横にする。

 痛みが全身にはしるのだろう。時折、うぅと呻きながら、それでも起き上がろうとする。

 東洋一は手を貸さずに、黙って縁側から見ていた。

 

 布団を蹴って、刀膳はのろのろと這ってくる。

 見れば、左足首から下はなくなっていた。寝間着には背から血が染み出している。頭を巻いていた包帯が緩くなって、頬の縫い傷が見えた。

 笑ったせいだろうか。縫い目から血がフツフツと玉のように連なっていた。

 

「篠宮……残念だな。お前らが殺っておけば、あの娘に親殺しなどという辛苦が降りかかることもなかったろうに」

 

 偽善に満ちたその言葉に、東洋一は顰め面になった。

 

「…よく言うな。アンタが殺れよ。そもそもテメェの仕事だろうが」

「フ……人間であった時すら、吾があの男に勝ったことなどない。始めから目に見えていた。吾が…あやつに…勝てるわけがない……」

「それで…逃げてたわけか?」

 

 軽蔑も露に言う東洋一を見て、刀膳は卑屈な笑みを浮かべる。

 

「貴様らに何がわかる? 有り余るほどの才能を持って生まれてきておいて、まだ強くなりたいなどと……どこまで努力しても、いつまでもその背中を見続けなければならない者の……普通でしかない人間の苦しみなど、貴様らに…わかる…ものか。それでも……吾は……柱として…それでも、努力は……した」

 

 ポタリ、と縁側の磨き上げられた床に落ちたのは、刀膳の冷や汗か涙か。

 顔を俯けたまま、刀膳の肩が震えていた。

 

 東洋一は立ち上がると、疲れたようにため息をついた。

 これ以上、相手するだけ無駄だ。

 

 そのまま立ち去りかけた東洋一に、刀膳が呼びかけた。

 

「篠宮! あの鬼に勝てるのは、娘だけだぞ」

「………は?」

「鬼となっても、親子の情はどこかに残っておるかもしれん。娘相手であれば、あの男も手加減するかもしれんな……」

 

 嗄れた声でまくしたてると、刀膳はゴホゴホとむせた後、また笑い出した。

 東洋一はゆっくりと刀膳に歩み寄った。

 

「おい…」

 

 声をかけると、刀膳が包帯の間からいつもの三白眼で睨み上げる。

 思い切り殴りつけると、縫った傷が裂けて、頬の間から歯が見えた。

 

「……やっぱりアンタ、クズだな」

 

 そんな事を言っても、目の前の男にとっては何の痛痒も感じないとわかっていても、東洋一は言わずにおれなかった。

 

 さっさとその屋敷から出ていくと、月に照らされた道を歩いていく。

 ふと、刀膳を殴った拳を開いて、手を見つめた。

 あの男を殴っても、周太郎があの男に頭を下げることはもうない。

 

 ――――よかった…。

 

 奇妙な安堵と、寂しさが吹き抜ける。

 

 父が亡くなった時、ひとりになってしまった恐怖と不安に、震えていた東洋一の手を掴んでくれたのは周太郎だった。

 今、その差し伸べられた手を失い、再び、何も見えない闇夜に放り出された。

 だが、もう東洋一は子供ではない。

 

 今はただ歩く。

 夜の中を歩いていく。

 もう今は、自分はひとりでないと東洋一は知っている。……

 

 

 

<つづく>

 

 

 







次回は2021.08.11.水曜日更新予定です。




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第七章 昔日 -疾風篇- (七)

 彼岸も過ぎたというのに、暑さがぶり返して、夏の名残の(ひぐらし)が鳴いていた。

 野分山(のわきやま)にある無人のお堂で、東洋一(とよいち)はじっとりと額を伝う汗を感じながら、目を瞑って横たわっていた。

 

 山に籠もってから二週間。

 東洋一なりに浩太が姿を現しそうな場所を探ったりもしたが、隊を抜けた以上あまりおおっぴらに動くこともできず、知らせが来た時に即座に対応するためにも、動き回ることは控えた方がいい…と進言もされて、この数日はずっと山の中での鍛錬と、味気ない食事、そしてただ寝る、という生活が続いている。

 

 何年前だろうか。

 あの時もここで、鍛錬を終えてからウトウトと寝ていたら………

 

-----------------

 

「あれ? もしかして……東洋一さん?」

 

 聞き覚えがないのに、気安く呼びかけられて、戸惑いながら目を開く。

 声のした方を見ると、薄暮の中で立っていたのは浩太だった。

 

「なんだ、お前か」

「お前か、はないよ。誰だったらよかったのさ?」

「酒とつまみを持ってる奴」

「ここで酒盛りしてどうするんだよ。お釈迦様に怒られんぞ」

 

 ケラケラ笑ってから、浩太は一応、鎮座している古びた仏像に軽く手を合わせる。

 

「いつ帰ってきてたのさ? 戻ってたんなら、来ればいいのに」

「……ま、そのうちな」

 

 軽く言って、東洋一は思い出したように浩太に聞いた。

 

「お前、声変わりしたのか? わからんかった」

「へぇ、そう? 俺もよくわからない。俺より賢太郎の方がスゲェ変だよ。なんか低くて」

 

 鬼殺隊に入ってから数年間は、任地が遠方ということもあって、風波見(かざはみ)家からは遠ざかっていた。

 たまにこちらでの欠員が出て、補充要員として戻されることもあるが、たいがい仕事が詰まっているので、ゆっくり風波見家を訪れる暇はない。

 下っ端は動けるだけ動かして、場数を踏まそうという本部の思惑だろう。

 

「賢太郎がなぁ…想像つかないな」

 

 最後に会ったのが二年前だから、二人とももう今年で十四歳になる。声変わりしていてもおかしくない。 

 

「こんなとこに来るんだったら、本家に来たらいいのに。師匠だって喜ぶよ」

「師匠、いるのか?」

「いや、いない。今回は陸奥(むつ)の方まで行ってる」

「そうか…」

「ま、行ってから一週間は過ぎてるから、もう帰ってきてると思うんだけどね。どこかに寄ってるんだろうね」

 

 半ば怒ったように、半ばあきれて言う浩太を見て、東洋一はケラケラ笑った。

 

「お前、一丁前に意味深な言い方するじゃねぇか」

「もう慣れっこだよ。その度に御内儀(ごないぎ)様は癇癪起こして当たり散らすし…」

「御愁傷様」

「他人事みたいに言ってら。こっちは大変だってのに」

「とりあえず頭下げて謝っときゃ、そのうち御内儀様も疲れて相手にしねぇよ」

 

 ツネの癇癪は東洋一も弟子時代には、それはそれは何度となく八つ当たりをされたものだ。

 まともに取り合えば、こちらが疲れるだけなので、向こうを消耗させた方が早い。

 

 東洋一は大したこととも思わなかったが、浩太は「スゴイなぁ」と嘆息する。

 

「俺は無理だよ。いちいち喧嘩しちまって……」

「ハハハ! 今日もそれでここに逃げて来たのか?」

「まぁ、そんなとこだけど…ちょうどいいや。暇してんなら、つき合ってよ」

「は?」

「俺は修練に来たんだ。今年は藤襲山に行くつもりだから。もっと技も使いこなせるようにしておかないと」

 

 言いながら浩太は立ち上がると、お堂の隅に置いてあった木刀を取ってきて東洋一に差し出す。

 

「山立合、お願いします」

 

 山立合…というのは、山の中で行う剣撃の稽古。

 道場の中のような平坦な磨き上げられた床でなく、傾斜や、凸凹した山道、時にぬかるみや川の中など、自然の不定形な足場において行う、より実戦に近い形式のものだ。

 

「えぇー…もう暗くなるのに?」

「鬼殺隊士が何言ってんだよ。夜に働くのが日常だろ」

「そりゃそうだが……あーあ」

 

 浩太の放ってくる熱気に逃れることができず、東洋一は仕方なく腰を上げる。

 

 そこからみっちり二時間。

 終わった時には二人とも泥だらけで汗だくになっていた。

 

「……ま、この分だったら大丈夫だろ、選別」

 息切れを大きく深呼吸しておさめると、東洋一は言った。

 

「そう…かな?」

 浩太も息が上がって、草の上に大の字になって横たわっている。

 

「おう。大丈夫大丈夫。気負わずにいけ」

 東洋一が軽く言うと、浩太は苦い笑みを浮かべた。

 

「……東洋一さん」

「あ?」

「俺、賢太郎と一緒に最終選別に行って……なるべく一緒に行動するつもりだけどさ。もし…もし、賢太郎を死なせたら……俺、帰ってこないよ」

 

 心細げに、少し掠れた声で浩太は言った。

 

 東洋一は驚いた。

 いつも元気であっけらかんとした、怒りも、笑いも、ただ真正直にぶつけてくる浩太が、こんな顔するのが意外だったからだ。

 

 ややあって、言われたことを咀嚼すると、東洋一は浩太の額をバチンと指で弾いた。

 

()ッ……!!!!」

「阿呆か、お前は」

「阿呆って、なんだよォ」

 

 むくれる浩太は、東洋一の知っている懐かしい子供の顔だった。

 東洋一はフンと鼻息をつく。

 

「行く前から縁起でもねぇ話をしてんじゃねぇ。賢太郎だってなぁ…真面目に修行してんだ。お前に護られてばっかでもねぇだろうがよ」

「でもあいつ、未だに伍ノ型も習得できてないんだ」

 

 確かに昔から、賢太郎はのみ込みがいい方とは言えなかった。

 おそらく相当に苦心惨憺しているのだろうが、こればかりは天性のものだ。

 

 ただ、実際の現場において確実に鬼を仕留めるためには、手数(わざ)の多さよりも、技そのものの習熟度、破壊力の方がより重要だ。

 軽い一太刀より、重い一太刀。

 

手数(わざ)が多いなら、それに越したことはねぇが…。結局ンとこは、一つ一つの型をしっかり使いこなせる方がいいんだろう…と、俺は思うぞ」

「捌までしっかり使いこなしてから行った人に言われてもなぁ…」

「俺の事はいいんだよ。その時その時、てめぇに出来る事をやるだけだ。やれるだけのことをやったら、誰に何を言われようが、お前は正々堂々と帰ってこりゃいいんだ。いいな、帰ってこいよ」

 

-----------------

 

 あの時、浩太はどんな顔をしていたのだろうか? 思い出せない。

 

 結局、その年は賢太郎が急に体調不良になったり、ツネが賢太郎を行かさないために里帰りしたりで、浩太もまた最終選別には行かなかった。

 

 あの頃の浩太はまだ明るく、健康だった。身体(からだ)精神(こころ)も。

 

 だが、隊士になってから―――…そう…最初の任務で重傷を負ってから、どこか暗い影を持つようになった気がする。

 

-----------------

 

「なんでそんなに必死になってんだ? ちゃんと治してからでもいいだろうに」

 

 無理な山稽古をしている浩太を見つけたのは、東洋一が久しぶりに野分山に鍛錬ついでにむかごを採りに来た時だった。

 

 相手になってくれ、というのでしばらくは立合したが、傷が完治していないことも含めて、全体的に粗が目立った。

 これ以上いくらやっても意味がないと思い、東洋一は早々に木刀を収めた。

 

「ちゃんと相手しろよ!」

 

 怒鳴る浩太にコツリと木刀で頭を叩く。

 

「馬ァ鹿。しっかり治してからにしろ。無理してまた傷めて任務に戻るのが遅れちまったら意味がねぇだろうが。まずは、怪我して強張った筋肉と関節ほぐして、それから筋力強化」

「やったよ! 十分に」

「やれてねぇから、体がまともに動いてないんじゃねぇか。そんなんじゃ、鬼の攻撃に対応できねぇぞ」

「もうやったんだッ!」

 

 怒鳴りながら、浩太は遮二無二、木刀を振り回してくる。

 東洋一は面倒そうにかわすと、あっさりと急所を打突して失神させた。

 

 お堂に運んで寝かせてからよくよく顔を見れば、ひどく顔色も悪く、痩せた感じがした。

 おそらくまともに眠れてもいないのだろう。

 

 日も暮れて、囲炉裏で採取したむかごを塩ゆでしていると、浩太は目を覚ました。

 

「……何してんの?」

「むかご茹でてる」

「………本当に食べるつもりだったんだ」

「お前も食べるか? 酒もあるぞ」

「…………ここに何しに来てるんだよ、東洋一さん」

 

 浩太は苦笑いを浮かべて起き上がってくると、囲炉裏の側へと座った。

 東洋一が欠けた茶碗に酒を注いで差し出すと、一気に呑み干す。

 

「ハハ……なんかうめぇや」

「そうか? 安酒だけど、まぁ…適当に呑むにはこっちの方が肩が凝らねぇだろ」

「酒呑むのに肩が凝るってなんだよ」

 

 浩太はまた笑い、また酒を呑む。

 

 一息つくと、丸く身体を抱え込んでポツリとつぶやいた。

 

「俺…駄目になってる」

「なにが?」

「鬼が…怖いんだ。最初に死にそうになっただろ…あれから怖くて……鬼を目の前にしたら、身体(からだ)が竦むんだ。動けなくなって、技も出せなくなってて…情けないよ。この前もそのせいで…俺を庇った奴が死んだんだ。俺のせいだ……俺の……」

 

 震えた声で言って、浩太は膝の間に顔を埋める。

 

 最初の任務の怪我が癒えてから復帰した次の任務で、浩太は一緒に戦った仲間を失っていた。

 詳しくは知らなかったが、どうやら浩太は戦力とならなかったようだ。その時に足を怪我して、今に至っている。

 

「……むかご食え」

 

 ザルにあげたむかごを差し出すと、浩太は顔を上げた。

 

「ホラ、食え」

 

 無理やりに浩太の手の平にむかごを乗せてやる。

 浩太は一粒だけつまんで齧った。

 

「うまいか? もっと食え」

「…………」

 

 浩太は無言で首を振った。暗い顔で手の平のむかごを見つめている。

 

 修練を積み、最終選別で生き残っても、いざ任務となって鬼と対峙した時に竦んで動けなくなるのは、よくあることだ。

 それでもなけなしの勇気を振り絞って鬼と戦い、怪我を負わされ、体の傷よりも恐怖感が心に刻みつけられてしまう隊士は、珍しくない。

 

「なぁ、浩太。恐怖心ってのは、あっていいんだぜ」

 

 東洋一が言うと、浩太は怪訝な顔で見つめてきた。

 東洋一はむかごを数粒口の中に放り込んで噛み潰し酒で流し込むと、納得のいってない浩太に笑いかける。

 

「鬼を怖がるのは普通だ。むしろ怖がってていいんだ。鬼に慣れちまったら、その時には慢心して殺られるのがオチだ」

「でも…東洋一さんは鬼のこと怖がってなんかいないだろ…?」

「んな訳ねぇだろ、あんな化け物。怖いに決まってらぁ」

「だって、有名だよ。篠宮東洋一は笑って鬼を斬る…って」

「馬鹿野郎。怖いの裏返しで笑うしかねぇんだよ。ションベンちびる代わりに笑ってんだ、こっちは」

「………怖い? 東洋一さんが?」

「当たり前だ。笑って自分にハッタリかまさにゃ、鬼殺しなんて(わざ)が出来るもんかよ」

 

 正直なところ、東洋一とて浩太とそう変わらない。

 ただ体は勝手に動く。

 鬼に対峙すると、反射的に技を繰り出すように勝手になっていた。もはや技が体に染み付いているのだ。

 

 これは東洋一の才能というよりも、そこまで自分を育ててくれた周太郎による指導の賜物(たまもの)だと、東洋一は思っていた。

 だからこそ、隊士になってから尚の事、師匠には頭が上がらない。

 

「なんだぁ…」

 

 浩太は東洋一の話に、ようやくホッとした笑みを浮かべた。

 

「東洋一さんでも怖いのかぁ」

「でも…ってなんだよ。俺は至って普通だぞ」

「ハハハハ、そっか…そうだね」

 

 浩太は笑うと、手の平のむかごを一気に食べた。「普通の人だよ、東洋一さんは」

 

-----------------

 

 浩太は、ある意味素直な性格だった。

 人の言葉を受け容れて、自分の欠点を直し、より高みを目指すことに躊躇はなく、それは裏返すと人を信じやすい…あるいは影響を受けやすい性質(たち)だったように思う。

 

 東洋一の助言の通り、この後には基礎的な鍛錬をするようになり、任務をこなしていくうちに、徐々に自信もつけていった。いつしか浩太から鬼が怖い…という言葉は聞かなくなっていた。

 

 それでも時々、焦っては無理をすることがあった。

 思うように昇進できないことに苛立って、酒を呑んで管を巻くこともあったらしい。

 

 元から浩太の目標は高いものだったのだろう。

 柱となることは無理としても、せめて賢太郎の右腕となることぐらいは考えていたかもしれない。

 

 だが、理想はそう簡単に叶えられない。

 何度となく訪れる挫折に、浩太は少しずつ精神を摩耗していったのだろうか…。

 

 ―――――やった! 出来たよ、壱ノ型!

 

 賢太郎よりも早くに型を習得したと得意気に言いながらも、まだ出来ないでいる賢太郎の稽古につき合って、二人で切磋琢磨していたのに。

 

 ―――――かくれんぼしよッ! 東洋一さん!

 

 賢太郎と千代と…三人でかくれんぼしては、探し回る東洋一を見て笑い合っていた、あの頃の浩太はもういない。

 

 ―――――うわぁ! ありがとう、東洋一さん!

 

 風波見家に引き取られてから、どこか所在無げにしていた浩太に、子供用の木刀を作ってやると、嬉しそうに振り回していた。

 

 どの思い出も、まだそんなに昔とも思えないのに―――…。

 

 バチリ、と火の中で枝が()ぜる。

 東洋一は瞑っていた目を開く。

 

 いつの間にか日はとっぷり暮れて、夜になっていた。

 小さく燃える囲炉裏の炎が、お堂の中を揺らめき照らしている。

 

 ―――――本気で、本当に浩太を殺すんですか? 殺せますか?

 

 賢太郎が問うてくる。

 

 東洋一はゆっくりと起き上がると、暗がりに鎮座する仏像を見つめた。

 いつもは微笑んでいる観音菩薩が、今は差し込んできた月光の中、冷たく無表情に見えた。

 

「鬼は……殺す。それが、役目だ」

 

 つぶやき、言い聞かせて、再び目を瞑る。

 喉奥の熱い塊が噴き上がってきそうになる。押しとどめるために、きつく奥歯を噛みしめた。

 

「帰ってこい…っ()ったろうが……」

 

 漏れ出た声は自分には聞こえなかった。

 

 鬼となった浩太と対峙した時、自分がどうなるのか……東洋一にはわからなかった。

 

 

 

<つづく>

 

 

 





次回は2021.08.14.土曜日の更新予定です。




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第七章 昔日 -疾風篇- (八)

 周太郎の死から二ヶ月近く、野分山(のわきやま)で隠伏していた東洋一(とよいち)に、小鳩からの鳩が来たのは秋も深まり、そろそろ冬の訪れを感じ始めた朝のことだった。

 ほぼ同時に木原からも鴉が便りを届ける。

 浩太の探索にあたっていた斯波(しば)と、もう一人の隊士が殺られたらしい。

 

 東洋一は準備を整えると、浩太らしき鬼が出没しているというその場所へと向かった。

 

 

◆◆◆

 

 

 昼に降った大雨で嵩を増した川の水が勢いよく流れている。まだ、小雨がしとしとと降り続いていた。

 

 季節の変わり目なのか、ついこの間は息が白くなるほどの寒さだったのが、今日はほんのり温かい。それでも葉をすっかり落とした木々の枝は、寒々しく陰気な空に伸びていた。

 冬が近い……。

 

 東洋一が崖下に轟々と流れる川の水流を見ていると、後ろから声がした。

 

「……ハハッハハァ……ようやく来た!」

 

 声変わりをする前の少年の声。

 だが、聞き覚えがある。ゆっくりと振り返ると、浩太は少しばかりの面差しを残しつつも、すっかり禍々(まがまが)しい姿に変わり果ててそこにいた。

 

 片肌をぬいだ右肩はあの(おさ)の言った通り不均衡に盛り上がっている。そこから体中に広がる黒い鬼の斑紋。爪は緑灰色に伸び、瞳はこれまで東洋一が殺してきた鬼達同様に紅く光っていた。

 

「……浩太」

 

 東洋一が呼びかけると、浩太はハハハと笑った。

 

「俺はもう浩太じゃない。紅儡という素晴らしい名前を頂いたんだ」

「コウライ……?」

「無惨様が直々につけてくださった! アンタらにはわからないだろう? これはすごいことなんだ。十二鬼月に匹敵する!」

 

 興奮しきっている浩太に、東洋一はただただ失望が深くなるばかりだった。 

 なんとつまらない御託を言うようになったのだろう。もはや、浩太は消えたか……。

 

「さぁ、やろうか。待ってたよ、アンタを。どいつもこいつも弱くってさ!」

 

 言いながら、紅儡はかつて日輪刀であったらしい、不気味な刀を右手に持って振り回す。

 すぐにゴウと風の唸りと共に、かまいたちのような刃が襲う。

 (かわ)すと同時に、東洋一は技を放った。

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 四本爪が空を掻き切る。

 だが紅儡は手に持った刀の一振りで、その攻撃をいなした。

 

「ハハハハッ! すごい! すごいぞ!! 篠宮東洋一でさえ、この程度か!」

 

 いちいち癇に障る哄笑。

 東洋一は自分でも不思議なほどに、何の感情も沸き起こらなかった。

 

 会うまでは考えていた。

 

 あるいは賢太郎のように…実際に会えば、もしかすると哀しみの中で、相討ちを考えるかもしれないと。

 あるいは師匠を裏切り、死に至らせた張本人として、復讐のあまり怒り狂って惨殺するかもしれないと。

 

 けれど今、本人を目の前にして何も思わない。

 ただ、いつもと同じ。鬼がいる。

 

 刀を構え、呼吸を整える。

 スィィィィ…と息を吸い始めた東洋一を見て、紅儡はニヤニヤと笑みを浮かべて言った。

 

「いつまでも呼吸などに囚われて哀れなことだ。そんな事をせずとも、俺はもう強い。この数百年の間、お前らがどれほど必死になろうが、鬼は消えない。なぜか教えてやろうか? 鬼の方が強いからだ!」

 

 言うなり、紅儡は血鬼術を放つ。

 

 血鬼術 風雷(ふうらい)奔涛(ほんとう)

 

 バリバリと空気が振動して、竜巻のような斬撃が襲ってくる。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 すべての攻撃を散らして、東洋一は立っていた。

 紅儡がヒクッと喉を鳴らして、「お見事!」と叫ぶ。

 

「さすがだ! さすが風柱に代わって鬼殺しをしていただけある! アハハハハ!! 所詮は利用されていただけなのに…哀れな奴だ」

「………さっきから、五月蝿(うるさ)いな」

 

 東洋一はつぶやくと、構えをとらずに刀を振り下ろす。

 再び弐ノ型が唸って、四本爪の一つが浩太の左腕を斬り裂いた。

 

「…ゥグッ!!」

 木の上へと跳躍して、紅儡は左腕の傷口を舐めた。

「痛いなァ……痛い。日輪刀の痛みってこういうのか」

 

 見る間に肉が盛り上がり、再生していく。

 満足気に紅儡は笑った。

 

「見たか? これが鬼の力よ。手も足も、失われてもすぐに戻る」

「……そうまでして、右腕が欲しかったか?」

「右腕だけじゃない……それ以上の力が手に入った。お前を殺すのも訳ない」

 

 嬉しさの余り、紅儡の声は上擦っていた。

 東洋一はふぅ、と溜息をつく。

 

「所詮、お前は逃げただけだ」

「…………なに?」

「自らの弱さに向き合うこともなしに、逃げたんだ。その挙げ句のこの有様だ」

 

 紅儡はギリッと歯噛みすると、刀を振り下ろした。

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 その斬撃は本来のものよりも歪みを生じた分、不規則な軌道を描いて襲いかかってきた。

 跳躍して避けた東洋一の頬に一筋、血が走る。

 

「どうした東洋一さん? まだ、本気じゃないだろう? こんなものじゃないはずだ。俺だってまだまだ本気じゃない。さぁ、やろう。すぐにあの男のところに送ってやるよ。せいぜい割腹して不様に死んでいったんだろう? あの男は……風波見周太郎は…!」

「………」

 

 巫山戯(フザけ)た笑い声を響かせる紅儡を、東洋一は血走った目で凝視した。

 

 刀を持つ手が震え、食いしばった歯から血が流れる。

 脳天に血が集中する。ゴウゴウと血管を流れる音すら聞こえてくる。

 

 怒りはすぐに飽和した。

 

 真っ白な感情は奇妙な感覚を形作る。

 毛の先から、指の先、刀の(きっさき)まで……すべてに自分が宿っているかのようだ。

 

 風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ

 

 ほとんど溜めの動作もないまま、東洋一が繰り出した技は紅儡のいた木の根を抉り、ゆっくりと木は倒れた。

 

「ハッ! なんだ、怒ったのか?」

 紅儡は軽々と飛んで、からかうように言うと、自らも呼吸の技を繰り出そうとする。

 だが、東洋一はその隙すらも与えなかった。

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 ゴウッと唸る風音と同時に、鎌鼬の爪が紅儡へと飛んでくる。

 かろうじて避けたものの、余波の勢いが紅儡の耳を斬り裂いた。

 

「クソッ!」

 再び紅儡は構えたが、またそこに東洋一が技を放つ。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 攻撃としてのその技は、防御をしていない紅儡の全身に裂傷を負わせた。

 右肩が斬られ、皮膚を割いてパックリあいた傷口に、紅儡は怒りを露わにする。

 

「オノレェェェ……!!!!」

 体が修復していくのと同時に血鬼術で襲いかかる。

 

 血鬼術 乱刃(らんば)嵐剳(らんとう)

 

 東洋一はその攻撃に突っ込むかのごとく走りだすと、いきなり高く跳躍した。

 

 風の呼吸 伍ノ型 木枯らし颪

 

 渦巻く風が紅儡の放った刃を飲み込み、散らす。自分の放った刃で紅儡の右目が切れた。

 一方、東洋一はタン、と地面に着地するなり今度は一瞬の間もなく―――

 

 風の呼吸 肆ノ型 昇上砂塵嵐

 

 足元から吹き荒れる風の斬撃が、紅儡の肉を再び切り裂く。

 左腕が捻じ切れて落ちた。

 

「!!!!……ッ」

 紅儡はギリと歯噛みするが、向かってくる東洋一は無表情に技を放つ。

 

 風の呼吸 陸ノ型 黒風烟嵐

 

 地面を這うような低い体勢から斬り上げてくる。

 

「ウガアアアァァッッ!!!!」

 

 腹と、再生しかけていた左腕をザックリと斬られ、紅儡は咆哮を上げた。

 右手で腹の傷を押さえながら、飛び退る。

 転々と後ろへ後ろへと逃げていると、いきなり頭上に影が走った。

 

 風の呼吸 漆ノ型 勁風・天狗風

 

 細かな旋風が紅儡の行き場をなくすかのように捕えて、斬りつける。

 風の刃が襲いかかってくる! ……と、思わず紅儡が目を閉じたその時。

 

 首が―――落ちた。

 

 噴き出した血が、紅儡の立つ地面に赤い血溜まりをつくる。

 

 紅儡はすぐさま地面に落ちた自分の首を拾い上げると、後ずさった。

 血だらけの腕の中でニヤリと引き攣った笑みを浮かべる。

 

「ざ、ざ、残念だな。首をとった気か…?」

 高らかに嘲笑(あざわら)うはずが、声が上擦っていた。

 

 有り得ない事だった。

 こんなに呼吸の技を連発すれば、肺が潰れる。いや、その前に息をすることすら難しくなる筈だ。

 呼吸が困難になり、倒れてしまう。

 

 人間にこんなことは出来ない。

 たとえ修行を積んだ鬼狩りであっても、所詮は人間。

 人間としての限界を超えることはできないはず。

 

 異常だ。こんなものは異常だ。尋常ではない。

 有り得ない! 有り得ない! 有り得ない!!

 

 ――――恐怖が紅儡の心を徐々に侵食していく…。

 

 東洋一の表情は暗いだけだった。凝り固まった顔に感情は見えない。

 聞こえるのは不気味な呼吸音だけ。

 

 そこにいるのは、数多(あまた)の鬼を(ほふ)ってきた鬼殺の剣士だった。

 鬼達が戦慄(おののき)き、震撼する…無情なる鬼狩り。

 

 紅儡が首を元の位置戻す前に、東洋一の剣が唸った。

 

 風の呼吸 捌ノ型 初烈風斬り

 

 その剣先を見る事も出来なかった。

 野分の風の如く、ゴウと音がしたかと思うと、耳元から吹き抜ける。

 

 ボタリ、と重い音をたてて、紅儡の右腕が落ちた。

 

「ギ…ギャァァァアアアアアアア!!!!!!」

 

 その悲鳴を、東洋一は背中で聞いていた。

 ギロリと睨んで、つぶやく。

 

「その右腕が貴様の急所であることなど、考えるまでもない」

「……あ……あ……」

 

 紅儡はヘナヘナと地面に崩れた。

 いや、もはや不様な肉塊が、ゆっくり灰となって消えてゆく。

 

「……と、よ……いち……さ」

 

 灰白のその肉は手を伸ばす。

 東洋一はその消えゆく紅儡の前に立って、無表情に見つめていた。

 

 地面に転がった紅儡の頭。

 半分残った目から、じわりと涙が浮かぶ。

 

「……なぜだ……?」

 

 震える声で問いかけた次の瞬間に、東洋一は跳び上がっていた。

 危険を危機と察知するより先に身体が動いていた。

 だが、それでも完全に躱すことは出来なかったらしい。

 

 受け身をとって地面を転がり、起き上がろうとして、火を噴くような熱さと痛みが左足を襲った。

 太腿から下が斬り落とされていた。

 必死で歯を食いしばり、上体を起こす。

 

 そぼ降る雨の中に、(あか)く光る六つの金の瞳。

 その真ん中の目には―――上弦、壱。

 

「……ほぅ……躱すか…」

 

 静かな声が意外そうにつぶやく。

 

 一体、いつから生きているのか、この鬼は。

 現れた途端に、その場の空気が一気に重量を増す。

 ただでさえ押し潰されそうな圧迫感だというのに、よりによって足をやられては立つことすら出来ない…。

 

「……さすが…柱というべきか……」

 

 鬼は淡々とした口調で言っていたが、勘違いを指摘できる余裕はなかった。

 次の攻撃で確実に殺られる。

 立たねばならない。立って、刀を構えなければ……

 

 ブルブルと震える。それが血を失ったが故の寒さなのか武者震いなのかわからない。

 

 だが、片足で立つのは容易でなかった。

 足以外にも無数の細かな裂傷が皮膚を破って出血している。

 

 意識が朦朧とする。

 視界が雨に霞み、どこからか懐かしい声が聞こえてきた。

 

 

 

---------------

 

 

 

「東洋一、踏ん張れ!」

「んな事言ったって……無理だよぉ」

 

 次の縁日での演物(だしもの)の一つとして、父は東洋一に竿棒の上で立って行う、色々な芸当を仕込もうとしていた。

 まずは、その棒の上で片足立ち。

 

 グラグラと揺れる棒を腕と体でしっかり挟み込んで持ちながら、父は東洋一に声をかけた。

 

「東洋一! 足の裏全部で棒を掴むんだ! 足の指と、踵で掴め。丹田に力を入れて…腰を落として真っ直ぐ…そうだ! 踏ん張れ! そのまま踏ん張れ、東洋一!」

 

 踏ん張れ!―――と励ます父の声が、途中から別の声に変わった。

 

 

「ここが…踏ん張り処だぞ、東洋一」

 

 周太郎がにこやかに言ってくるのを、東洋一は朦朧としながら聞いていた。

 

 朝から山の中をさんざ迷わされ、歩き回った挙げ句、待っていた周太郎に無制限の打込稽古。

 もうすぐ日が暮れる…。

 

「……もう……無理…す」 

 

 ぐったりと草の上に倒れ込んだ東洋一に、周太郎は言った。

 

「これで無理…と思ってからが勝負だぞ。どれだけ踏ん張れるかで強さが違ってくるのだ。立て、東洋一。お前はまだやれる………」

 

 

 

---------------------

 

 

 

 ―――――踏ん張って……立て! 東洋一

 

 二人の声が重なって、耳朶を震わせる。

 

 ビリッと電流が走ったかのような感覚に目を開くと、東洋一は渾身の力を振り絞って立ち上がった。

 片足だけで立ち、刀を構える。

 

 上弦の鬼は紅い目を細めた。

 

「……ほぅ……片足で……立ち上がるか……面白い」

 

 おそらく、このまま東洋一が死ぬと思っていたのだろう。だから放っておいたのだ。

 今もこちらを完全に見下し、攻撃するはずもないと思っている…。

 で、あれば…勝機は一つだけ。

 

 一撃で終わる。

 

 東洋一は再び深く息を吸い込む。

 肺胞を膨らませた空気が体内に沁みてゆく。

 身体と、精神(こころ)を一つに縒り合わせて―――

 

 風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ

 

 土を割る踏み込みと同時に、前方へと向かって凄まじい勢いで跳躍する。

 

 周囲の地面と木々を抉るように旋風に巻き込んで、渦巻く斬撃と共に東洋一も鬼へと迫る。

 

 ザンッ!

 

 鬼の顎から耳にかけて刃が一閃した。

 だが、たちどころに傷は修復される。

 

「……大したものよの。紅儡より、貴様が鬼となればよいものを」

 

 静かにつぶやいて、鬼が刀を振るう。

 

 月の呼吸 弐ノ型 珠華ノ弄月

 

 その時、東洋一はもはや自分がどのように動いて避けたのかもわからなかった。

 

 攻撃の第一波目を横に()いで(しの)ぐと、刀に罅が入る音がした。

 第二波は後ろへと背を反らしたが、やはり片足では持ちこたえられず、そのまま後ろへ転がった。

 第三波が襲いかかってきた時に、はっきりと死を悟った。

 

 だが、突然視界を塞がれた。

 

 ねっとりとした生温かな生き物の感触が、自分を覆うように掴み上げたと同時に、背後の谷底へと放り投げる。

 東洋一はその肉片を掴んだ。

 落下しながら、肉片が手の中でサアァと黒い煙となって消える。

 

「浩太ァッ!!!!」

 

 叫ぶと同時に、増水した川に落ちた。

 

 逆巻く奔流の中で、東洋一は必死で上を見ようとした。

 しかし月もない夜。

 雨に(けぶ)って、崖の上など見えるはずもない。

 

 水の流れは激しく東洋一をのみ込んで、どうどうと川を下ってゆく……。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






日またぎ更新となってしましました。すいません。
次回は2021.08.18.水曜日の更新予定です。




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第八章 昔日 -光風篇- (一)

 これは…夢だ、とはっきりわかる。

 あの日の自分が見えるからだ。

 まだ幼く、何もわかっていない……それなのにどこまでも生意気で傲慢だった少年。

 

 

 

 秋祭りの縁日をブラブラしていると、いきなり腕を掴まれた。

 

東洋一(とよいち)じゃァないか?」

 

 聞き覚えのある声に振り返ると、数年振りに見る母が、田舎にしては随分と(あで)やかな柄の着物を着て立っていた。

 

「大きくなったねぇ…アンタ」

 

 まるで何もなかったかのように頭を撫でようと伸ばしてくる手を、東洋一はパンとはたいた。

 

「何しに来やがった、婆ァ」

「まっ! 怖い顔をしだよ…この子はねェ……まァまァ」

 

 呆れたように肩をすくめる母を、東洋一は睨みつけた。

 

「テメェ、金返せよ!」

「フン! あれっぽっちでケチケチすんじゃないね。江戸までの路銀にもなりゃしない」

「こンの…クソ婆ァ……親父に会ったんじゃねぇだろうな?!」

 

 あの親父のことだ。こんな薄情な妻であっても、惚れた弱みで、しなだれかかって甘い声で頼まれれば、またホイホイと金を渡しかねない。

 

「あーあ。冗談じゃないよ、あんなずんぐりむっくり。あんたァ…いつまであの男といる気だよ? 別に付き合う必要はないんだよ。どうせ血は繋がってないんだからさァ…」

 

 軽く言った母の言葉に、東洋一は固まった。

 

「………なんて?」

 

 母親はその東洋一の顔を見て、「あらあら…」と驚いた。

 

「なんだい? あの人まだ言ってなかったのかい? アンタが自分の子でない…って。ホント、どこまでお人好しなんだか……まるで郭公(カッコウ)の子供を育てる百舌鳥(モズ)だね」

「………俺が、親父の息子でないって…事か?」

「そうだよ。私の腹にアンタがいるってのに、一緒になってくれって…まァ泣いて土下座して拝んできて……ちょうど男と切れて金もなかったし、体も辛いし……あの人優しいからね。言やぁなんでもやってくれて重宝したよ」

 

 後れ毛を直しながら母は大したことでもなさげに言う。

 いや、実際のところ、この女にとってはそんな話は何でもないことなのだろう。

 

 だが、東洋一にはそうでない。今の今まで父親だと信じていた存在が、自分となんの関わりもない男なのだと言われ、そう簡単に納得できる訳がない。なにより―――

 

「キャッ! 何すんだいッ!!」

 

 東洋一は母の頬を張った。

 派手な音がして、母は驚いて尻もちをつく。

 

「親に向かって手をあげるなんて…随分と乱暴に育ててくれたもんだよ、あのヘッポコは!」

 

 我が子を捨て、そのヘッポコに押し付けておいて、この言い草。

 東洋一が母の襟首を掴んで再び殴ろうとすると、後ろから腕を掴まれた。

 知り合いのテキ屋の親分だった。

 

「オイ! 祭りで争いはご法度だぜ。迷惑かけんなら、出てってもらうぜ」

 

 東洋一は親分を睨みつけると、掴んでいた襟首を押しやるように離す。母は短い悲鳴を上げて、また地面へと転がった。

 親分が怒鳴りつけた。

 

「東洋一ッ!」

「もう、出てくとこだッ!」

 

 掴まれていた腕を振り払うと、東洋一は雑踏の中を足早に歩いていく。

 

 神社の裏手にある小さな(ほこら)の前で、父が帰り支度をしていた。

 東洋一がずんずんと歩いてくるのに気付くと、いつも通りの人のいい柔和な笑みを浮かべた。

 

「おィ、東洋一。さっき親分さんが来てくれてな。何か身内でおめでたがあったらしくて、随分とはずんで下さったんだ。どうだ? 何か食べるか? お前…久しぶりに飴玉でも買ってやろうか?」

 

 小さい頃に飴玉が欲しいとねだったのを未だに覚えていて、しょっ中言ってくる。

 東洋一は憮然として、行李(こうり)をさっさと風呂敷に包むと背負って歩き出す。

 

「おい? 東洋一…どうした? 食べないのか?」

「……いらねぇ」

「しかしせっかく……そうだ! さっき汁粉屋があったぞ! 二人で分けて食べるか?」

「…………」

 

 東洋一には父の優しさがいちいち腹立たしかった。

 こんなだから、あんな女に引っかかるし、騙されるし、挙げ句に自分の息子でもない人間の世話をする羽目になるのだ。

 

 スタスタと山道を先に歩き出す東洋一を、父はあわてて追いかける。

 その様子を見ながら、夢を見ている東洋一は息をのむ。

 

 

 駄目だ。駄目だ。駄目だ。

 来ないでくれ。自分だけで……一人で、汁粉を食べに行けよ。

 来ては駄目なんだ。

 

 

 しばらくすると、雨が降ってくる。

 あっという間に大降りになる雨の中を、東洋一は黙念と足早に進んでいく。

 背の低い父親は「おーい、待ってくれよー」と追いすがる。

 

 何度も東洋一に呼びかけていた声が、ふと消えた。

 その後に「ギャッ!」と短い悲鳴。

 

 一瞬で、東洋一は危険があることを察知した。旅をしていれば、山の中で狼や熊に遭遇することは珍しくない。

 相手に気付かれたらお(しま)いだ。

 

 すぐさま熊笹の中に身を隠しながら、父親のいる所まで四つん這いで進む。

 

 この後のことは……もう、わかっている。

 

 

 東洋一は目を閉じた。それでも涙が溢れてくる。

 

 目の前で喰われていく父。それを助けることもできず、震えている自分。

 もう、取り戻せない。

 過去は変わらない。

 

 どうしてあんなに父に怒ってしまったのだろう…?

 

 夢を見るたび、東洋一は考えた。

 (わか)い頃には理解できなかった事も、年経るごとにわかってくる。

 

 鬼に喰われていくさまを見ながら、東洋一は父に呼びかける。

 

 親父…俺は悲しかったんだよ。

 どんなにあんたがお人好しで、馬鹿で、騙されやすい、腕っぷしもからっきしの、情けない男だとなじられようと、あんたが父親でいてくれることが、何より嬉しかったから。

 

 あんたが誰より優しいと知っているから、あんたに八つ当たりした。

 俺もあの女と大して変わらない。薄情で、自分勝手なんだ。

 それなのに…それでも、あんたは許すんだろう?

 

 一番自分に優しい人に、一番自分を思いやってくれる人に、どうして優しくできなかったんだろう……? 

 

 

 親父…俺は……あんたの息子でありたかったんだ………。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 目を覚まし、ぼやけた景色を見ていると、ベシリと顔に熱い布が降ってきた。

 

「…アツっ!」

 

 思わず声をあげると、「拭け」と短く言う声。

 温かい手拭いで顔を拭いて、見ればそこに立っていたのは五百旗頭(いおきべ)勝母(かつも)だった。

 

「………お前、いきなり投げつけるなよ」

「見てて気持ち悪いからだ。いい年した男が寝ながら泣くな」

 

 相変わらず、ひどい奴だ…と思いつつも東洋一は少しばかり気恥ずかしくもあり、再び手拭いで顔を拭いた。

 さっぱりしてから、辺りを見回す。

 

「ここは…?」

「私の屋敷だ」

「……なんで?」

 

 東洋一が問うと、勝母はピクリと眉をひそめた。

 

「なんで…だと? 貴様……勝手に鬼殺隊を出て行っておきながら、なぜ鬼狩りをしている!?」

 

 東洋一は固まった。改めて自分の立ち位置の確認をする必要がある。

「あー……と、その……俺は…助かった…のか?」

 

 おずおずと尋ねると、勝母はひどく胡散臭そうに東洋一を見つめた後、ハアァーッと大きく溜息をついた。

 

「鴉に…正九郎(しょうくろう)に感謝しろよ。師匠が死んだと、拗ねてどこぞに姿を昏ます男の為に、必死に飛び回って救援を乞うていたのだからな。川の瀬で倒れていたお前のところに連れてゆかれて…もう死ぬだろうと思ったが―――」

 

 勝母は言いかけて、思い出す。

 意識を失いながらも、まだ全集中の呼吸をやめていなかった……身体(からだ)が戦闘中であると認識していたのだ。

 まったく……尋常ではない。

 

「お前が助けてくれたのか? いやー…俺も運がいいなァ」

 のんびりとトボけたことを言う東洋一を、勝母はギロリと睨んだ。

「一体、どういう鬼とぶつかった? お前にそんな怪我を負わせるなど……」

 

 問われて東洋一はすぐさまあの上弦のことを思い浮かべた。

 今でも思い出せば、全身が粟立ってきそうなほどの威圧感。

 

 あれが上弦……この世の生物とも思えない。

 

 しかし、今その事を話せば、当然どうして東洋一がそこにいたのかという説明もせねばならない。

 勝母のことだ。ここぞとばかりに追求してこられたら、東洋一とても、うまく切り抜けられる自信がなかった。

 

 それに、今はそれよりも気にかかることがある…。

 

 東洋一は上に被せられた布団をめくった。

 案の定、左足は膝上の辺りから下がきれいに失くなっていた。

 

「……見事になくなってんな」

 

 あまり衝撃を受けた様子もない東洋一に、勝母は不審がますます募った。

 普通、足や腕を失くした隊士はこれから鬼狩りとして生きていけないことに絶望し、沈みこむか、異様に興奮して笑いだしたり、怒り出したりするものだ。

 だが、東洋一は相変わらず飄々とその変わり果てた自らの姿を受け容れた。

 

「こうなっちゃあ……無理だろうなァ」

 むしろ清々(せいせい)したかのような口調に、勝母はイラッとした。

 

「どういうつもりだ! いきなり姿を消したと思ったら、足をやられて、挙げ句に隊を辞めるという訳か?! お前はそれでいいか知らないが、風柱様の死後、賢太郎に言っても頑なに柱になることを受諾しないし、御館様は倒れられるし、一般隊士に動揺が広がって………大変なんだぞ!!」

 

 東洋一は眉をひそめた。

 賢太郎が柱になっていない……?

 

「勝母…すまねぇが……賢太郎をここに呼んでもらえるか? あ…いや、俺が行けるなら行ってもいいんだが……」

「馬鹿か、オノレは! 足の傷だけじゃないッ!! 一ヶ月近く眠り込んで、内臓の方だって相当疲弊してるんだ! 黙ってそこで寝ていろ!」

 

 言いながら勝母は部屋を出て行ったが、すぐに戻って付け足した。

 

「………煙草は一切禁止だぞ、いいな」

 

 じっとりした目で睨まれて、「わかったわかった」と東洋一は二つ返事する。

 

「左近次や香取にも言っておくからな。いいか! 私がいいと言うまでは、絶対だッ!」

 

 あらかじめ東洋一が頼みそうな人間にも釘を刺すらしい。

 返事をする前に、足音も荒々しく去っていった。

 

 フゥと溜息をついて、東洋一は失くなった足を見つめた。

 これでいい……。浩太は消えた。

 上弦のことは…あえて言う必要もないだろう。あんな化け物を追っても、みすみす死にに行くだけだ。

 

 

◆◆◆

 

 

 次の日に賢太郎がやって来た。

 木原も一緒に来て、尋ねられる前に東洋一は答えた。

 

「殺りました。もう、心配はありません」

 

 木原はホッとした顔になったが、賢太郎は何かをのみ込んで顔を伏せた。

 

「そうか……。これで、もう憂いもない。若様も晴れて柱に……」

 

 言いかける木原を、賢太郎は睨みつけた。

 

「僕に…そんな資格はない! 今回のことだって、ほとんど東洋一さんが……僕は、何も出来なかった……!」

「賢太郎……」

 東洋一は口の前に人差し指をあてた。

「勝母は地獄耳だぞ。聞かれては面倒だ」

 

 小声で言って笑みを浮かべる東洋一を、賢太郎はやるせない顔で見つめた。

「どうして……笑っていられるんですか……」

 

「そう沈むな。お前のせいじゃないだろ? 俺のことは気にせずに、とっとと柱になっちまえよ。師匠が亡くなって、隊士達が色々と騒いでるらしいじゃないか。お前が風柱を継げば、皆の希望になる。………頼む、なってくれよ賢太郎」

 

 東洋一が懇願すると、賢太郎は東洋一の失われた足を見つめる。

 

「この足は………彼が?」

「あぁ、そうだ」

「………本当ですか?」

 

 東洋一はハハハと笑って、頭を掻いた。

「いやぁ…俺もヤキが回ったよな。油断したとはいえ、十二鬼月でもない鬼に足をやられちまった……情けねェ。もう、無理だ。俺は鬼狩りは辞める」

 

 木原は目を伏せて、東洋一に頭を下げた。

「篠宮……よく、やってくれた。俺が言うべきことじゃないが……感謝している」

 

「ハハハハハッ! 木原さんが俺に頭下げるなんざ、明日は雹でも降るのか?」

「東洋一さん……」

「いいな、賢太郎。早々に柱になれよ」

 

 それでも賢太郎は頷かなかった。

 悄然として帰る賢太郎達を見送った後、東洋一は溜息をつく。

 

 少しばかり起き上がって話していただけだというのに、ひどく疲れた。

 やはり我ながらああまで技を続けざまに出して、その後の上弦との戦いで、相当に肺を酷使したようだ。勝母に言われるまでもなく、煙草を()みたい気分でもなかった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「お前達……何をしていた?」

 

 一眠りした後、勝母がやって来て、薬湯の準備をしながら訊いてくる。

 東洋一はとぼけた。

 

「なんのことだ?」

「風柱様の容態が急変して吐血され身罷(みまか)られたことは知っている。そこから数ヶ月、お前達風波見(かざはみ)門下の動きは妙なことが多い。何を隠している?」

「そりゃな、お前。言っても師匠は伝説の柱だからなァ……弟子一同の動揺は一般隊士に比べるべくもないさ。色々と…まぁ…ゴタゴタしちまったけど、賢太郎が柱になりゃもう収まるさ」

「なんだそれは? 御家騒動か?」

「んー…まぁ…そんなもんだ」

「もしかして……風波見家内にお前を柱に推挙する人間がいたのか?」

 

 意外そうな勝母の問いに、東洋一は黙り込んだ。

 素早く考えが巡る。

 勝母はどうやら今回の東洋一の不可解な行動が、風波見家内部で起きた、柱の承継に関する争いによるもの思っているようだ。

 本当はまったく見当違いだが、この際、そう思わせた方がいいのかもしれない。

 

「まぁ、師匠が亡くなって…皆、動揺してたんだよ」

 それとなく匂わせるように嘘をつく。

 

「……隊に関係することではないんだな?」

「関係ないさ。お前の手を煩わせることじゃない。いろいろと面倒かけたな。すまんかった」

 

「東洋一……」

 勝母は薬湯を入れた湯呑を東洋一に差し出しながら、結論を出す。

 

「それで、お前が十二鬼月でもないただの鬼に足を落とされたとなれば……最早、篠宮東洋一に柱の望みはなく、賢太郎が誰に文句言われることもなく柱になれる……そういう事か?」

 

 東洋一は答えず、否定しなかった。

 そういう事だ。

 これで浩太のことは、誰知られることもなく風波見の中で埋没する…。

 

 東洋一は受け取った湯呑に口をつけた。

 

「……不味(マズ)い」

「良薬口に苦しだ。諦めて飲め」

「あぁ…口直しがありゃあなァ。……この際、皺くちゃの黒豆でも何でもいい」

 気合を入れて飲み下すと、思わず口走る。

「皺くちゃの黒豆? なんだそれは?」

「お多福が黒豆を煮るのに失敗しやがったのさ。まぁ、食べれねぇもんでもない」

「お多福が黒豆…?」

 

 勝母は意味がわからず、真剣に聞き返してくる。東洋一は軽く後悔した。なんだって、思い出してしまったのか自分でもわからない。

 

「……里乃だ」

 小さく、面倒そうに答えると、ハッと勝母が表情を強張らせた。

 

「……どうした?」

 不思議そうに尋ねる東洋一に、気まずそうな顔で「すまん」と謝ってくる。

 

「里乃に…お前のことを知らせたんだ。そうしたらすぐにここにも来たんだが……その…姿を見て、余程驚いたのだろうな。泣いて帰ってしまった……怖がらせたみたいだ」

 

 東洋一はきょとんとなった後、ハハハと笑った。

 

「気にするな。あいつはそういうのが苦手なんだよ。包丁で指切っただけでも大騒ぎなんだからな。痛そうなのを見ると、肝が潰れるらしい」

「そうなのか? しかし…あそこまで怯えるとは思わなかった」

「まぁ、俺らの感覚とは違うさ」

「文でも送ったらどうだ? 心配はしているようだ。私がいない間にも家人に様子を聞きに来ていたようだし……」

「あぁ…そのうちな」

 

 適当に返事をしながら、東洋一は里乃と別れることは決めていた。

 そのつもりで左近次にも金を託したのだから。

 もう、独り立ちできるだろう。この先、縁があれば気のいい男と一緒になればいい。

 

 

 自分の役目は終わった。全て。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 その後、賢太郎は風柱に就任した。

 周太郎を失って消沈していた隊全体にとっては明るい話題であった。

 

 御館様である輝久哉(きくや)も知己である賢太郎の存在に安心できたのか、ようやく床払(とこばら)いして柱合会議にも出席するようになったという。

 

 

 花鹿屋敷で雪椿を眺め、梅の香りに穏やかな日常を感じ、やがて春一番が吹いて桜の蕾がゆっくりとほころびはじめた頃、東洋一は『世話になった』という短い一文と日輪刀を残して、姿を消した。

 

 誰もその行方は知らない。

 だが、一人の隊士が清国(シン)へと向かう船に乗る東洋一の姿を見かけたらしい。

 

 それからは誰の口の端にも篠宮東洋一の名がのぼることは少なくなり、その記憶は鬼殺隊の中から徐々に薄れていった。

 

 

<つづく>

 

 




続きは十日後の2021.08.28.土曜日にUPする予定です。
その間、また勝母篇の『椿の涙』の続きをUPしていきますので、そちらも読んでいただけると嬉しいです。作者名リンクからいけます。





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第八章 昔日 -光風篇- (二)

 

 五年後―――――

 

 

 煙草屋から出てきた鱗滝左近次は、右目に眼帯をしたその女の姿を見た途端に足を止めた。

 天狗の面のせいでこちらの表情がわからない筈だったが、目の前に立つ女の眼光の鋭さに心臓が途端に早くなる。

 背は左近次よりも低いものの、その強烈な威圧感に、一歩思わず後ずさった。

 

「どうした? 左近次」

「いえ…」

「煙草を買いに来たのか?」

「……はい」

「お前、吸うようになったのか?」

「…最近、時々」

 

 五百旗頭(いおきべ)勝母(かつも)はじぃと片目で左近次を見つめた後、手を出した。

 

「見せろ」

「は?」

「今買った煙草、見せてみろ」

 

 一瞬、目が泳ぐ。

 これも面をつけているせいで見えていない……はず。

 

 左近次は少し戸惑いつつ、持っていた煙草を入れた袋を渡した。

 勝母は中を確認すると、面白くもなさそうに一瞥して、袋を返してくる。

 

「では」と立ち去りかけた左近次の背後で、大きな独り言が聞こえてくる。

 

「その刻み……そういえば好んで吸っていた奴がいたなぁ、昔」

 

 そのまま無視して行けばよかったのだが、左近次の足は止まった。

 殺気に近いぐらいの闘気のにおいがする。それは左近次が鼻が利くことをわかった上で醸し出している。

 

 くるりと向き直った左近次を、勝母は腕組みして見つめた。

 その隻眼はかつて両目であった頃よりも、深く澄み切って、すべてを見透(みすか)しているかのようだ。

 

「お前、私に黙っていることはないか…?」

 

 問いかける勝母に、左近次は迷った末に「いえ、別に」と否定する。

 

「面をとれ、左近次」

 

 勝母が否定を許さぬ口調で命令する。

 左近次が覚悟を決めて面を取ると、多少年はとったものの、変わらずの端正な顔立ちで、すれ違った女が通り過ぎかけて二度見する。

 

 表情はいつもと変わらず澄ました、平然としたものであったのだが―――少なくとも左近次はそのような顔をしているつもりだったのだが―――勝母はフッと笑った。

 

「もういい。左近次……お前はせいぜい面をとらぬがよかろうよ。男ならまだしも、女であればお前の嘘はすぐに見抜ける」

「……そうですか?」

「あぁ、そうだ。観念したら、さっさと案内(あない)しろ」

 

 まったく…五つ以上も年下だというのに、この貫禄、この威容。

 さすがに十三の歳に柱になって以来、常に前線を切り抜けてきた強者なだけある。

 

 溜息をついて歩き出すと、勝母は少し浮き立ったような気持ちでついてきた。

 妙な期待はしない方がいいと思うのだが……。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 左近次の家に着いて、ダラリと浴衣を着崩して座敷に寝転がっている髭面の男を見た途端、勝母は一気に怒りがこみ上げて、思い切り頭を蹴りつけた。

 

()うッ!! なにしやがるッ!?」

 

 蹴られた所を押さえながら、男は起き上がると、寝ぼけ眼で勝母を見て、すぐに後ろを向いた。

 

「…………オイ、左近次」

 

 背を向けたまま、勝母の後ろに立っている左近次に問いかける。

 

「はい。何か?」

「俺ァ、会いたくない奴の一番最初に言ったと思うんだが……今、俺の後ろにいる奴ァ……まさかと思うが五百旗頭勝母じゃねぇだろうな?」

 

 左近次よりも先に勝母が答える。

 

「生憎だったな。私だ……東洋一(とよいち)

 

 ハアァーと東洋一は盛大な溜息をついた。

 頭をかかえて、しばらく項垂れる。

 

「あぁ……もう。よりによって……。なんでコイツを連れてくるんだ?」

 

 うんざりしながら東洋一は振り返り、勝母の頭越しに言うと、左近次はあきれたように返す。

 

「この人に隠し事ができるわけないです」

「お前はァ…そういう所あるよな。妙に人がいいというか……俺には滅法厳しいくせによ」

「人を見る目があるんです」

 

 相変わらず…喧嘩をしているのか、じゃれ合っているのかよくわからない珍妙な会話だ……。

 勝母は呆れながらも、少し懐かしかった。しかし、すぐに顔を引き締めて鋭く割り込む。

 

「……もういいか?」

 

 座り込んで、東洋一と面と向かい合った。

 

「久しぶりだな、東洋一。清国(シン)の方に行ったと聞いていたが、帰ってきたのか?」

 

 東洋一は耳をほじりながら、バツ悪そうに視線を逸らす。

 

 長く海上にあったせいなのか、日に焼けて浅黒くなった肌。肩まで伸びたボサボサの髪は、以前よりも一層茶けていた。無精髭は口と顎を覆い……まったくもってむさ苦しい相貌になっている。

 これが昔は柱に…と嘱望された男であろうか?

 飄々としつつも滲み出ていた強さの片鱗すら、今は感じられない。

 

「別に帰ってきた訳じゃねぇよ。金がなくなったから…一旦、戻っただけだ」

「相変わらずだな、お前は…」

 

 ため息をついてから、呆れきったように言って、勝母は左近次に目をやる。

 

「それで? 言ったのか?」

「いえ。さっき任務から帰ったらいたんです。それで、いきなり煙草を買いに行けと…」

 

 勝母は頭を押さえた。

 

「左近次…いくら昔の(よしみ)があるとはいえ、柱が使いっ走りをしていてどうする?」

「はぁ……」

 

 左近次は言いながら、東洋一に煙草の入った袋を渡した。

 東洋一は受け取ると、煙管(キセル)を取り出し、慣れた仕草で火皿に刻み葉を詰めて、火を点ける。

 

 フゥ…と紫煙を吐きながら、立ち上がって縁側に座った。

 左足には黒く塗装された義足用の木が装着されている。

 

「随分、歩くのにも慣れたようだな」

「そりゃ、そうだろ。五年もこの(ナリ)なんだからな。いい加減慣れるさ」

 

 背を向けたまま東洋一は答える。

 それは明らかに勝母を拒絶していたのだが、あえて勝母は無視した。

 

 聞かねばならぬことも、話さねばならぬことも…ある。

 

「東洋一、お前いつ帰ってきた?」

「あァ? さっき左近次が言ったろ」

「左近次は任務から帰ってきたらお前がいた、と言ったんだ。つまりお前がいつ帰ってきたのかは不明だ。今日帰ってきたのか、一年前に帰ってきたのか」

「なんで一年前に帰って今頃ツラ出すんだよ。港に着いたのは昨日だ。そんで今朝方、ここに来て寝てたんだよ」

 

 面倒くさそうに言う東洋一に、勝母は念を押すように問いかける。

 

「本当か? 本当に…昨日か?」

 

 東洋一は振り返って、訝しげに勝母を見た。

 

「なんだよ?」

「お前には疑いがかけられている。風柱を殺った下手人として」

 

「………は?」

 東洋一は唖然として、まじまじと勝母を見つめた。

 

「なんだと…? 風柱って……」

 聞き返してくる東洋一を、勝母は静かに見つめる。

 

風波見(かざはみ)賢太郎は死んだ。おそらく……殺された」

 

 勝母がはっきりと告げると、東洋一は凍りついた。

 煙管を持つ手が微かに震える。

 

 東洋一の動揺を知りつつ、勝母は冷静に話を始めた。

 

「一年ほど前のことだ。死体もない。賢太郎の鴉も殺されていた。鬼の仕業かと思われたが、たまたまその現場を見たらしい隊士が、相手は風の呼吸を使っていたと……彼もそれだけを言い残して死んでしまった。

実際、賢太郎はその時、任務ではなかった。仕事を終えて帰る道中、泊まっていた旅籠(はたご)から明け方近くに出て行ったようだ。

鬼で呼吸を使うとなれば、裏切者がいると考えるしかないが…風波見門下も含めて、風の呼吸の剣士はそうした隊士の心当たりはないと言う。

であれば、相手は風の呼吸を使う人間、ということになる。まして、柱である賢太郎を凌駕する腕を持つとなれば………相手は自ずと限られる」

 

 勝母は片方の目で、東洋一に問いかけた。

 しかし、東洋一はしばらく理解できなかったのだろう。

 大きく目を見開いたまま、喘ぐように口を震わせた。

 

「馬鹿を……言えよ……」

 

 かろうじて否定の言葉を口にしたものの、まだ信じられないようだった。

 

「そんな訳ない……そんな訳が………」

「お前が一年前にまだ清国にいたというのであれば、お前の疑いは晴れる」

 

 抑揚もなく言う勝母に、東洋一はようやく怒声を浴びせた。

 

巫山戯(フザけ)んなッ! なんで俺が賢太郎を殺さなきゃなんねェんだよッ!?」

「お前の方では終わっているかもしれないが、先代の周太郎殿が亡くなった折に御家騒動があったろうが。そのせいで疑われているんだ。左近次が私に会って、お前のことを隠そうとしたのも―――そのせいだろう?」

 

 勝母が問うように視線を向けると、左近次はフイと目を逸らす。

 

「御家騒動だぁ? ンなもんあるかよ」

「………ふぅん? そうか」

 

 勝母が意味深に頷くのを見て、東洋一はハッとした表情になった。

 目が泳ぎ、顔を伏せる。

 勝母は冷たく東洋一を睨み据えながら、口の端を片方だけ上げた。

 

「あの時、お前は私に柱の承継のことで、風波見家内部でちょっとしたイザコザがあったように言っていたがな。五年も経てば、理由は変わるわけか。実際がどういう事か……教えてもらおうか?」

「…………」

 

 黙り込む東洋一に、勝母はさらなる追い打ちをかける。

 

「賢太郎の死と前後してな…風波見門下を始めとする風の呼吸の剣士が軒並み狙ったように殺されていった。死体のない者も多い。喰われたのだろう。今や風の呼吸の遣い手は十指に満たぬ有様だ」

「………嘘…だ」

 

 ぐらりと前に倒れそうになって、東洋一は握りしめた拳を畳に押し付けた。

 煙管が手を滑って落ちる。

 真っ青になった顔から冷や汗が頬を伝った。

 

「それだけではない」

 

 勝母はまだ続ける。

 言いたいことも、言わねばならぬことも…まだ、ある。

 

「賢太郎の死から一月(ひとつき)経たぬ内に、風波見家から鬼殺隊との絶縁を告げてきた。今後一切、風波見家は鬼殺隊と関わらぬと。理由を問うてもだんまりだ。確かに賢太郎の息子は幼く、病弱と聞く。隊士になることも難しいやもしれぬが、あまりにも唐突すぎた。

賢太郎の死と、風波見家から一方的な縁切りに、御館様―――輝久哉(きくや)様は相当、心を痛められたのだろう。…………自害された」

 

 東洋一はビクリとして顔を上げた。

 信じられないのだろう。

 肩を上下させるほどに呼吸が荒くなっている。

 

 勝母はそんな東洋一に憐れみを向けることはなかった。

 

 五年。

 

 この国を出て行く時、まさかそんな未来が待っていることは、この男の知る由もない。

 帰って来たときも、懐かしい面々に会えることを疑いもしなかったろう。

 だが、五年の間に時間は過ぎ、事象は動く。

 

「東洋一…そろそろ口を割れ。五年前に何があった?」

「………待ってくれ」

 

 東洋一はかすれた声で絞り出すように言った。

 

「………待ってくれ。何が起きているのか……わからないんだ。俺はもう…終わったと思っていたんだ。だから…いる必要もないと……思って」

「……そうか」

 

 勝母は立ち上がると、混乱している東洋一にもう一つ告げる。

 

「今すぐにでも風波見家に行きたいのだろうが…その前に、香取の所へ行け」

「……飛鳥馬(あすま)?」

「その前に風呂屋に行って、髭も剃って、髪も切るか纏めるかして……身綺麗にしてから行けよ。さもないと、お前だと気付かんかもしれん」

 

 言いながら、ポカンとしている東洋一にだんだんと苛立ってくる。

 本当にこの男は―――今まで何をしていたのだ? お前を必要としている人間は、いくらもいたというのに……。

 

 フン、と鼻息も荒く出て行こうとする勝母を、東洋一は呼び止めた。

 

「勝母…お前、その目はどうした? まさか鬼にやられたという訳じゃないだろう?」

 

 振り返った勝母は鼻で笑った。

 

「当然だ。これは、技による損耗だ」

「技?……」

 

 聞き返して、東洋一は眉を寄せた。

 以前に勝母に教えてもらったことがある。

 

 花の呼吸の終の型。

 自らの視力を喪失する危険性と引き換えに、鬼の動きを限界まで捉えて首を取る技。

 まさしくその名の通りの、凄絶な、一生に一度しか出来ない大技だ。

 しかし勝母は不敵に笑い、事も無げに言う。

 

「両目を失明しても仕方なかったが、幸いに片目で済んだ。まぁ、さほどでもない鬼だっということだ」

「そんな訳ないだろう。お前にあの技を出させるなら……相当の手練(てだれ)だったのか?」

「大した者ではない」

 

 皮肉めいた笑みを浮かべる勝母を、東洋一は怪訝に見た。だが、その事について勝母はもはや話さず、再び念を押すように言った。

 

「いいな? 香取の所へ行け。明日……いや、今日中に行け」

 

 そのままさっさと帰ってしまった勝母を見送り、東洋一は首をひねる。

 

「一体……なんだってんだ?」

 

 畳に落ちた煙管を拾いあげ、こぼれた葉の始末をしながら、左近次が沈んだ口調で教えた。

 

「東洋一さん。香取さんは……労咳(ろうがい)です。もう長くない」

 

 

 

<つづく>

 

 






次回更新は2021.09.01.水曜日の予定です。



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第八章 昔日 -光風篇- (三)

 勝母(かつも)の指示に従って、風呂屋に行き、髭を剃り、髪も久しぶりに散髪してから、東洋一(とよいち)飛鳥馬(あすま)の屋敷へと向かった。

 

 門から玄関へと続く石畳の脇に、萩の花が零れんばかりに咲いている。その上から楓の枝が紅葉を散らしていた。

 外国にいると不思議と季節に無頓着になるが、日本に戻ってくるとやけに四季の移ろいに気付く。秋という一種の物哀しさを感じさせる時季のせいもあるかもしれない。

 

 手伝いの婆に来訪を告げると、すぐに奥の居室へと案内された。

 秋の陽に照らされた庭を眺めて、脇息(きょうそく)に凭れかかった飛鳥馬が、東洋一の姿を見るなり笑顔を浮かべた。

 

「……やぁ……久しいな」

 

 すっかり頬の肉も落ちて、あまりに穏やかすぎる笑顔を見た時に、東洋一は飛鳥馬の死が今日明日にも訪れるであろうことを悟った。

 

 ゴクリ、と唾を飲み込むと、無理にも笑いかける。

 

「なんだ、お前……せっかく柱になったから、タカろうかと思って来たのに」

「相変わらずだなぁ…東洋一。また博打(バクチ)か?」

「おぅ…それと酒と……まぁ、色々な」

清国(シン)に行っていたんだろう? お前らしい…」

 

 飛鳥馬はフッと目を細める。

 

「あのまま残れば、賢太郎が気を遣うだろうから……お前は去ったんだろう? 相変わらず、お前は優しい。それと言わず、態度で示す」

「ンなもんじゃねーよ。この国の中は小さい頃も含めてあらかた回ったから、本当は樺太(からふと)あたりに行こうかと思ってたんだよ。そしたら乗る船、間違えちまって……気がついたら上海(シャンハイ)に着いてたのさ。どうもできねぇし、しばらくはあちらで適当にやるしかないだろ」

「アッハハハハハ!!!! 間違えたのか? 馬鹿だなぁ」

「そうだよ、馬鹿だよ。本当にな」

 

 自分でも呆れつつ、ふと見れば、飛鳥馬の袖口から出た手は骨に皮を被せただけぐらいに痩せ細っている。

 もはや、刀も握れまい。

 

 自分の姿を見て言葉をなくす東洋一に、飛鳥馬は哀しげな笑みを浮かべた。

 

「すまないな…東洋一。俺は大して…役に立てなかった」

「……そんな訳ねぇだろ」

「柱になって大した働きも出来ぬうちに、病に罹ってしまって……。昨年来、柱も減ってしまっているんだ。鳴柱の桑島さんも鬼に足をやられて引退され、新たに風柱となった賢太郎も殺られてしまった。俺も病となってから、柱は返上したし…その上、御館様までがあんなことになられるとは……聞いたか?」

「あぁ。勝母から」

「そうか……。今や五百旗頭(いおきべ)勝母は柱の要だ。彼女のお陰で隊もまとまっているが……」

 

 言い淀んで、飛鳥馬は軽く息をついた。

 

「大丈夫か? 横になった方が…?」

 東洋一があわてて腰を浮かすと、「大丈夫だ」と飛鳥馬は手で制した。

 

「話す時は座っている方がまだいいんだ……。東洋一、勝母は…花柱は一度、引退しようとしていたんだ」

「え?」

 

 さっき会った時にはそんな様子は微塵もなかった。何だったら、隻眼になってより凄味が増した気さえする。

 

「はっきりといつ、とは言えないが……おそらく勝母はあの岩の呼吸の鬼と対峙したのだろう」

 

 それを聞き、勝母の失われた瞳を思い浮かべた時、東洋一はハッと思い出す。

 

 ―――――あの鬼は俺が殺る…

 

 父を探して、一時行方不明になった勝母を見つけた時、東洋一はそう言った。

 だが、結局その後にあの鬼に会うこともなく、浩太を追う中で…………忘れていた。

 

 飛鳥馬は遠い目をして、小さな声で話し続ける。

 

「勝母にとっては、あの鬼を殺ることこそ鬼殺の剣士となった目的だったのだろう。それが成就したら、気が…萎えてしまったのかもしれないな……」

「………」

 

 ―――――お前に何がわかる!? 私は鬼狩りなどになりたくなかった…!!

 

 血を吐くように叫んだ、幼かった勝母の姿が瞼に浮かぶ。

 

 己の母を喰い殺した父への復讐のために鬼狩りとなった少女。

 せめてその役割ぐらいは自分が引き受けようと思っていた。それは、生前に周太郎からも託されたことだった。

 

 だが、あの時には目先のことに手一杯で、勝母のことは置いてきてしまった―――……。

 今更ながらに後悔が押し寄せる。

 

 だが、飛鳥馬は頼もしいものだ…と、微笑みながら言う。

 

「俺がいなくなり、桑島様も引退。まして新たな御館様は、まだ五歳だ。勝母のことも慕っていてな……。とても放ってはおけんと思ったのだろう。今は柱の筆頭として、重責を担っている」

「そうか……道理でな」

 

 東洋一が相槌を打つと、飛鳥馬は、ん? と首を傾げる。

 

「道理で……昔よりも態度がデカい」

「ハハハハハハ!」

 

 飛鳥馬はひどく楽しそうに笑った後、少しばかり咳をした。

 再び腰を浮かしかける東洋一を手で制する。

 

「来るな。あまり近寄らないでくれ」

 

 飛鳥馬はしばらくの間、脇息に寄りかかり、庭を見ていた。

 縁側にふと、蜻蛉(とんぼ)が飛んできて止まる。飛鳥馬が手を伸ばしかけると、蜻蛉は飛び去った。

 

「東洋一……お前、最終選別の終わった日の……夜のこと、覚えているか?」

 

 飛鳥馬は秋の陽の中に、思い出を見つめながら話していた。

 東洋一も同じ景色を見ながら答える。

 

「あぁ。お前と康寿郎(こうじゅろう)が、さっさと酔い潰れたヤツな」

「……あの時、康寿郎が一緒に……三人で一緒に柱になろうって言ってたろう?」

「……言ってたな」

 

 ―――――我々三人で柱となって、無惨を倒すぞ!

 

 そう叫んで、コテンと寝たのだ。あの男は。

 無双に強い奴だったが、面白い男だった。

 

「あの時酔って…他のことはまるで思い出せないが、康寿郎のあの言葉だけは忘れなかった。最初は…そんなもの俺に出来るわけもない、お前達二人だけが柱になって、俺は三年()てばいいだろう…それぐらいに思ってたんだ。でも、お前達に引っ張り回されてるうちに、気がついたら強くなってた気がする……」

「そんな訳ねぇだろ。お前、元から強かったさ」

「そうか? 俺は一度もそう思えたことはなかった。お前と康寿郎と……後輩達にも強い奴はいくらでもいたから、俺なんかが柱になれる訳がないと思っていた」

「なったじゃねぇか」

 

 東洋一がニヤリと笑って言うと、飛鳥馬は目を合わせて同じように笑った。

 だが、すぐに庭へと目をやり、寂しそうにつぶやく。

 

「自分がいよいよ柱に手が届く…そう思ったときに、あの日、康寿郎に言われたことを思い出したんだ。三人で柱になる―――あれは…俺にとって夢だった。一番、夢を叶えられそうもなかった俺が柱になれるのなら……お前も一緒になって当然だと……思ってた……」

「………」

 

 東洋一はあの日、酔っ払った飛鳥馬が言っていたことを思い出していた。

 

 ―――――だったらお前も柱になれ

 ―――――わかった、わかった

 

 酔っ払いの戯言(たわごと)だと、適当に流したのだが…案外と飛鳥馬は覚えていて、本気だった。

 

 引っかき傷のような痛みが苦く胸に広がる。

 どうして自分はいつもこう…責任も取れないことを、安請け合いしてしまうのだろう。

 

「お前は…きっと、風柱様以外の風柱など認められなかったのだろうな。お前にとって、風柱は風波見周太郎だけ。自分がそこに取って代わるなど、許せなかったのだろう?」

「……さぁ…どうだろう…な」

 

 はっきりと自覚していたわけではない。だが、おそらく飛鳥馬の言う通りだろう。

 足のことがあって鬼殺隊を抜けたが、もしそうでないとしても、賢太郎が順調にやっていることを見届ければ、引退して今のように海を渡り関係を絶っただろう。

 

 自分が鬼狩りの道を選んだのは、あの日助けてもらった周太郎への恩返し。

 とうとう言えなかった謝罪。

 師匠が亡くなった時点で、もはや隊士を続ける意味はなくなった……。

 

 コホコホと飛鳥馬が軽く咳をする。

 顔色が少し悪くなってきている。

 

「飛鳥馬、もう(とこ)に戻ろう…」

 

 東洋一が肩を掴んで立ち上がらせると、飛鳥馬はよろめきつつ歩き、敷き延べられた布団の上に横になる。東洋一は掛け布団をそっとかけてやった。

 

「じゃあ……また」

 去ろうとする東洋一の胸ぐらを、飛鳥馬はいきなり掴んだ。

 

「東洋一! ……どうしてだ!?」

 青白い顔で、飛鳥馬は苦しげに叫んだ。

 

「飛鳥馬…?」

「俺達は……強かったろう? 三人で柱になって、無惨を倒すと誓ったじゃないか!」

 

 息をするのもつらそうな飛鳥馬の背中をさすりながら、東洋一は無言になる。

 

「どうして…出来なかった? 康寿郎も死んで、お前もいなくなった…。三人で柱になるという俺の夢は……(つい)えた。それなのに俺だけが柱になっても……何の意味があったというんだ!!? 俺の…鬼狩りとしての人生に……何の意味があったんだよ!!」

 

 ボロボロと涙を流しながら、激昂する飛鳥馬を東洋一は抱きしめた。

 

「………ごめんな」

 

 つぶやいて、そっと体を寝かせる。

 必死で掴む、飛鳥馬の骨ばかりとなった細い指を、包みこむように握りしめた。

 

「ごめんな、飛鳥馬。グダグダ考えないで、俺も柱になりゃ良かったな」

「………いいんだ」

 

 飛鳥馬は涙を浮かべながらも、再び穏やかな笑顔に戻っていた。

 

「お前がそういう奴だって……わかってる」

 

 そのまま、飛鳥馬は静かに眠りについた。

 

 

 

 次の日の朝、元霞柱・香取飛鳥馬は誰知ることもなく、穏やかなまま死を迎えた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.09.04.土曜日に更新予定です。



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第八章 昔日 -光風篇- (四)

 飛鳥馬(あすま)を送った後、東洋一(とよいち)風波見(かざはみ)家へと向かった。

 

 勝母から聞いた話が本当であるなら、きっと東洋一を恨んでいるはずだろう。

 千代にも、ツネにも…あるいはまだあの時は乳飲み子であった賢太郎の息子にも、冷たく詰られることを覚悟して、左の義足を引き摺りながら東洋一は懐かしい道を歩いていく。

 

 途中、賢太郎がよく来ていた丘の上に登り、大岩に凭れかかって眼下の景色を眺めた。

 たった五年ではあるが、今のこの国における五年という月日は、浦島太郎が龍宮城から帰ってきたと同じくらいの変貌を遂げさせる。

 

 川には渡し船がいつの間にかなくなり、橋が架かっている。以前は寺の敷地であった場所に、煉瓦造りの小学校というのが建っている。町中にはさっぱりと断髪して洋装姿で歩く男の姿も増えていた。

 様変わりした景色に嘆息すると、東洋一は再び風波見家へ向かい、歩き出した。

 

 門は固く閉ざされていた。

 どこか陰鬱な空気が屋敷全体を取り囲んでいる気がするが、それは東洋一の暗澹とした気分がそう見えさせるのかもしれない。

 

 何度となく声をかけると、脇戸がギィと開いて女中らしきそばかす顔の女が出てくる。

 東洋一の姿を見るなり、あからさまな侮蔑の色を浮かべた。

 

「……なに? 物乞いなら他をあたってちょうだい」

「……物乞いじゃない。御内儀様に…風波見ツネ殿に目通り願いたい。篠宮東洋一だと申し伝えてもらえるだろうか?」

 

 女はジロジロと不審そうに見た後、返事もせずに引っ込んだ。

 しばらくすると、ムスッとした顔で脇戸を開けて、「どうぞ」と招じ入れる。

 

 中に入ると、仏間に案内された。

 仏壇の前にツネは端座し、縁側で立ち尽くす東洋一を見ようともせず、お経を唱えている。

 

 東洋一は立ったまま待った。

 お経を唱え終えるまで、ツネは一切声をかけることはなかった。

 

「………何の用です?」

 

 読経を終えたツネが、こちらを見ることなく尋ねてくる。

 東洋一は義足を取ると、ぎこちなくしゃがんで頭を下げた。

 

「申し訳ありません、御内儀様。……只今、戻りました」

「………昔から、お前は口先だけで謝る。だから信用ならぬ」

 

 抑揚のない声で言うと、ツネはクルリと東洋一の方へと向き直った。

 ウッと東洋一の声が詰まったのは、ツネの顔に生々しい傷跡があったからである。

 

 鋭い爪で抉られたかのような痕が三筋、額から頬まで赤く瘡蓋(かさぶた)になっていた。

 その上、元から細面の神経質そうな顔つきの人であったが、今は眉間に深い皺が刻まれて、色黒な肌はツヤもなく、年よりも数倍老けてみえた。

 

 一体、なにがあった…?

 

 東洋一はもう一度平伏し、ゆっくりと顔を上げると、醜い傷痕を隠そうともせず冷たく見据えるツネと向き合う。

 

「何が、あったのです…?」

 

 声が掠れた。何をどう尋ねればいいのかわからない。

 ツネは表情を変えることなく、言い放つ。

 

「賢太郎は死にました。おそらくは……あの裏切者に殺された」

「…………嘘だ」

 

 東洋一は否定した。

 否定したものの、あの日、あの時、確かに最期まで浩太の消える様は見ていない。

 上弦の壱から救ってくれた浩太の、あの千切れた肉塊が灰となって消えるのを見ただけだ。

 

 ツネは東洋一の動揺を厳しく見つめた。

 

「お前のことです。何のかのと言っても……浩太への憐憫の情から手心を加えたのでしょう。お前がきちんと裏切者を殺さなかったから、結局賢太郎は死に、継子達はすべて喰い殺された。人の情など、鬼の前には何の意味もない。数百年続いた風波見もこれで終わり……」

「………」

 

 東洋一は震えながら、袴を掴む。

 なんと言われても仕方ない。(まっと)うしなかった自分の責任であることに間違いない。

 

 しばらく黙り込んだ後、東洋一は顔を上げた。

 

「御内儀様、どうか…焼香だけでもさせてはいただけませんでしょうか?」

 

 ツネはピクリと眉を上げる。

 チラ、と仏壇の方を見てから、その場から後ろへと下がった。

 

 東洋一は手と一つだけ残った足で這っていくと仏壇前の座布団の上に座った。

 暗い仏壇の中に位牌が三つ並んでいる。

 一つは周太郎、一つは賢太郎、もう一つ、女の戒名。中に『千』という字が組み込まれている。

 

 サァッと血の気が引いた。

 

「…御内儀……」

 

 言いかけると、隣の部屋の襖が開いて、小さな子供が姿を現した。

 暗がりにいるせいだろうか? 顔が白くて、ひどくか弱く見える。

 

「晃太郎! 何をしています!!」

 

 ツネが怒鳴りつけると、晃太郎と呼ばれた子供は、ビクリと震えて泣きそうな顔で東洋一を見てくる。

 東洋一は途端に朗らかな笑みを浮かべた。

 

晃太郎(こうたろう)? 大きくなったなぁ…」

 

 嬉しくなって言うと、晃太郎はおずおずとしながらも東洋一に少しだけ近寄った。だが、ツネはしわがれた声でなおも怒鳴る。

 

「晃太郎! あちらへ行っておきなさい!! 来客中はこちらに来てはいけないと言ったでしょう!? トラ! トラ! 何をしているんです!」

 

 大声で呼ばれ、先程の女中がふてぶてしい顔でやって来る。

 

「さっさと晃太郎を部屋に連れて行きなさい! お前は何をしてるの! 本当に役に立たない娘…」

 

 文句を言うツネを尻目に、トラと呼ばれた女中が晃太郎の手を引っ張って出て行った。

 名残惜しそうに東洋一を見つめる晃太郎に、にっこり笑いかけて見送る。

 

 晃太郎が出ていくと、東洋一はツネに向き直った。

 

「御内儀様……千代は?」

 

 東洋一が問うと、ツネは冷たく睨め上げてポツリとつぶやく。

 

「……千代は……裏切者と落ちた」

 

『死んだ』と、そう聞かされることを予想していた東洋一は、一瞬理解が追いつかなかった。

 

 不可解な表情を浮かべる東洋一を見て、ツネは震える唇から吐き捨てるように付け足した。

 

「千代は……裏切者と…鬼と一緒に行ったのですよ。夫の(かたき)(くみ)したのです」

「馬鹿な! そんな事、ありえない!!」

 

 確かに晃太郎を妊娠するまで、情緒が不安定になっていたこともあったが、晃太郎を産んだ後は憑き物が落ちたかのように、いきいきと甲斐甲斐しく我が子の世話をしていたはずだ。

 賢太郎も我が子に対しては、ぎこちないながらも親としての情愛を表すようになっていたし、その姿を見て千代は安心した微笑みを浮かべていた。

 

 たとえ夫婦としての有り様に多少問題があったとしても、夫を殺した相手に唯々諾々とついて行くような……そんな不実な娘ではない。

 

「何があったのです? お願いです、教えてください」

「聞いてどうすると言うのです? もはや片足を失ったお前に、鬼を殺すこともできまい」

 

 唇を噛みしめて東洋一は黙り込んだ。

 足はともかく、日本を離れる前に日輪刀は勝母の屋敷に置いていったので、この五年の間、ほとんど刀を握っていない。

 ツネの言う通り、今の東洋一に鬼狩りをすることは無理だった。

 

 顔を上げると、庭で晃太郎が寂しそうに遊んでいた。

 かつて練習場だった砂場で、木の枝で絵を描いているようだ。

 

 ふと、東洋一は疑問が浮かんだ。

 

「千代が……鬼と一緒に行った?」

 

 そのまま独り言のようにつぶやくと、ツネは訝しげに東洋一を見遣る。

 東洋一はツネの顔を見つめた。

 痛々しいほどの傷だ。猫に引っ掻かれた程度で済むものではない。

 

「ここに…浩太が来たのですか?」

 

 東洋一の問いにツネは答えない。

 だが凝り固まった傷痕は、それが事実だと示している。

 

「ここに…浩太が…鬼が来て…千代にもあなたにも、手をかけたあいつが、晃太郎に手出しをせずにいたと?」

 

 ツネはギロリと東洋一を睨みつけた。

 しかしブルブルと膝の上に組んだ手が震え始める。

 呼吸も浅くなっているのだろう。不自然なほどに、肩が揺れる。

 

 東洋一はその様子を訝しみつつも、それ以上聞くのが怖かった。視線を落として黙り込み、ふと、もう一つ聞かねばならないことがあることを思い出す。

 

「御内儀様、鬼殺隊からの脱退……縁を切ったというのはどういう事です? たとえ晃太郎が幼少とはいえ、それはこの風波見家においてはよくある話ではありませんか? 父を亡くしたとしても、継子達を始めとする風波見門下の弟子達で、跡継ぎを育てるのが(ならい)。なにも鬼殺隊と絶縁する必要はないでしょう……?」

 

 ツネはその話になると、直ぐに動揺を収めた。

 

「晃太郎は病弱。風柱どころか、隊士にもなれぬであろう。まして弟子達とやらがどこにいるのです? 皆、あの鬼にやられてしまった」

「それなら…」

 

 東洋一は真っ直ぐにツネに宣言する。

 

「俺が育手になります。そして、晃太郎を育てます」

 

 言うなり、ツネはピシャリと東洋一の頬を打った。

 

巫山戯(ふざけ)るでないわ! お前などに教えを乞うなど…!」

 

 それでも東洋一は目を逸らさない。

 

「御内儀様。幼少の頃にいかに体が弱くとも、鍛えれば強くなる人間もいます。晃太郎は賢太郎の息子です。必ずや……」

「やめなさい!」

 

 また、ツネは震え始める。顔が真っ青になっていた。

 

「やめなさい! そんな事…そんな事になったら……なんの為に……千代は……」

 

 すっかり狼狽したツネは、東洋一の腕をきつく掴んだ。

 苦しげに喘ぎながら、胸を押さえている。

 

「御内儀様…あなたは……」

 

 東洋一は言いかけて、唾を飲み込む。

 言いたくない。まさか、この人は自分と孫のために…あるいは風波見家という家の為に―――

 

「千代を………生贄にしたのですか?」

「っ……お前に何がわかるッ!」

 

 ツネは鋭く叫んで、東洋一の頬をまた打つ。

 ギリギリと歯噛みして、睨みつける目は血走り、青ざめた顔の傷痕はより醜く膨れ上がって見えた。

 

「私は鬼の言うことなど信じてはならぬと言うた! それなのに…千代は、あの鬼の言うままに……自ら鬼に身を…差し出した……。もはや……生きてはいまい」

 

 そのまま崩れ落ち、突っ伏したツネは、しばらくしゃくり上げて泣き続けた。

 

「…………」

 

 ツネは…決して、冷たい人ではない。

 

 東洋一は知っていた。

 ツネが最終選別へと向かう弟子達のために持たせるおむすびの具は、いつもその弟子の好物を入れてくれている。

 もしかすると最期のごはんになるやもしれないから…と。

 

 それはツネなりの優しさだった。

 

「御内儀様……」

 

 呼びかけた東洋一に、ツネはキッと睨みつけると、ユラリと立ち上がる。

 

「お前が……」

 

 ツネは拳を振り上げると、再び東洋一の頬を張った。

 ぶつぶつと東洋一への怨嗟を唱えながら、抵抗しない東洋一の頭も肩も腕も、遮二無二殴りつける。

 

「お前が…浩太(アレ)を殺らなかったからではないか! お前があの鬼を殺しさえしていれば、賢太郎は死なず、風波見家は今も続いていたのに! 千代があの鬼の(なぶ)り者となることもなく、晃太郎は父母を喪わずに済んだのに! お前のせいだ! 全部、お前が悪いッ! あの人が……お前を拾ってこなければ……っ」

 

 項垂れた東洋一の背中を、ツネはいつまでも殴り続けた。

 

「お前が一番嫌いだった! 数多の継子の中で、お前だけが特別だった。……わかっていた。あの人は賢太郎よりもお前に期待していた…ッ。……大嫌いだ! お前が死ねばよかったのにっ!!!!」

 

 手が真っ赤になるまで殴り続け、ツネはへたりと座り込んだ。

 すべての恨みを吐きつくして、口を開けたまま虚空を仰いでいた。

 涙の涸れた目はうつろで、一気に年をとったようにげっそりしている。

 

 東洋一は顔を上げた。

 縁側から、晃太郎が心配そうに見ている。

 小さい子供には大人の(いさか)いなど怖いだろうに、泣きもせずじっと見つめている。

 その大人びた表情は、賢太郎を思い出させた。

 

 東洋一はそろそろと這って、晃太郎に近寄った。

 好奇心もあったのだろう。晃太郎は片足のない東洋一を怖がることなく、待っていてくれた。

 

「晃太郎、お前……親父のこと覚えているか?」

 

 晃太郎は首を傾げた。東洋一は苦笑いを浮かべた。

 

「御父上って言うのか? 御父上のこと、覚えているか?」

「うん、覚えてるよ」

 

 晃太郎はニコッと笑った。

 

「家にいる時は、いつもお膝の上にいたの。ちちうえがご本を読むときも、みかんを食べるときも、時々一緒にうたた寝もしたよ」

「そうか。よかったな」

「ちちうえは僕がもっと元気になれるようにって…一緒に走ったりもしたよ。きっと元気になって、強くなれるって……そしたらこきゅうを教えてくれるんだ。かぜのこきゅう。ちちうえも、おじいさまも、おじいさまのちちうえも、みんなこきゅうをおぼえたら強くなったんだって……」

 

 言いながら、晃太郎は賢太郎のことを思い出したのだろう。

 急に顔を歪めた。

 

 幼いながらに、もはや父との思い出に続きがなくなったことを知っている。

 黒目がちの大きな目からハラハラと零れた涙は、あどけなく綺麗だった。

 

 ズシリと、東洋一の肩に重石がのった。

 

「その子を…鬼狩りにする気はありません」

 

 いつの間にか後ろにツネが立っていた。

 涙の跡は消え、いつも通りの堅苦しく、神経質な表情。深い眉間の皺。

 

「あの鬼との約定です。晃太郎を殺さぬ代わりに、今後一切、風波見家からは剣士を出さないこと。それと………」

 

 ツネはそれ以上、言わなかった。

 言われるまでもない。

 千代は幼い息子の為に、浩太の卑劣な申し出を受容したのだ。

 

「……二度と、来てはなりませぬ。あの鬼が…どこで見ているやもしれぬ。もはや、我らは鬼殺隊と関わりのないところで生きていくと決めたのです」

 

 頑として言うと、ツネは奥へと去っていこうとして、つと、振り向く。

 

「東洋一、今はどこにいるのです?」

「え?」

「どこに住んでいるのです? また品川あたりの飯盛女の家にでも上がりこんでいるのではないでしょうね?」

「いえ。水柱の……鱗滝左近次の屋敷で世話になってます」

「………わかりました…」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 その時は意味がわからなかったが、後日、風波見家からとてつもない荷物が届いた。

 

 蔵にあった風の呼吸に関する蔵書や、修行に使った道具、刀、周太郎や賢太郎の書付までも全て、ツネは送りつけてきた。

 

「………これ、東洋一さんが片付けて下さいよ。責任持って」

 

 左近次は呆れながら言い、東洋一もまた嘆息しながら左近次の屋敷にあった蔵の一隅を借りて、そこで一時的に保管することにした。

 

 風波見家に行った後、本当なら周太郎の墓参りもするつもりだったのだが、東洋一は行かなかった。

 

 浩太が生きているとわかった以上、自分が知らぬ振りしておく訳にはいかない。

 例え、もはや鬼狩りとしての腕が落ちていたとしても。

 

 今度こそ…確実に殺ったと報告できるまで、周太郎の墓へ行くことは出来ない……。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.09.08.水曜日の更新予定です。




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第八章 昔日 -光風篇- (五)

 風波見(かざはみ)家から帰ってから、すぐにでも浩太の探索にあたりたかったが、そう事は簡単でなかった。

 

 あの時は周太郎が見つけ出した特殊能力を操る集団の力を借りた。

 だが、その後、彼らの面倒を賢太郎が見るようになり、その探索能力を勝母(かつも)が高く買い、ついに鬼殺隊における隠の別働隊として認められるようになっていた。

 

 周太郎の目指していた形になったのは、無論喜ぶべきことだったが、鬼殺隊の管轄下に置かれた以上、東洋一(とよいち)の個人的な依頼を受け付けるはずもなく、そもそもあの時いた禿頭(とくとう)白髯(はくぜん)(おさ)も既に亡くなっていた。

 

 知己がいないと、取っ掛かりも出来ない。

 そう考えて思い出しのは、小鳩(こばと)のことだった。

 

「おい、左近次。お前…小鳩とはその後なにもないのか?」

 

 強い男を紹介しろ…というので、左近次に任せたのだ。

 ただ、その後、追い返した…と言っていたような気もするが。

 

 左近次はしばらく誰のことかわからなかったようだが、東洋一から説明されると、あぁ…と思い出す。

 

「その(ひと)なら、私には手に余りそうだと思って、鳴柱様に紹介しました」

「ハァァ? ジゴさんにィ? お前、なんであの人にやるんだよ。絶対、無理だろ。ジゴさんにゃ」

「えぇ…無理だと思われたのでしょうね。鳴柱様は、霞柱…香取さんを紹介されて。結局、香取さんと気が合ったようですよ。仲良く過ごされてました」

「へ? 飛鳥馬(あすま)?」

 

 意外過ぎる組み合わせである。

 飛鳥馬からも聞いていない。

 そりゃ、まさか東洋一から回りに回って自分のところにやって来た女だとも思っていなかったのだろう。

 

「えぇ。香取さんが(やまい)に伏してからも、甲斐甲斐しく世話されてたみたいです。そのせいで感染(うつ)ったのか、結局、香取さんよりも先に亡くなられて」

「…………」

 

 これで、途切れた。

 自分一人で探索しようにも、この足では限界がある。

 浩太の行動範囲を読めない以上、雲をつかむような話だ。

 

 いまだに浩太が生きていることへの疑問はあった。

 だが事実として、風波見(かざはみ)家を襲って千代を拉致し、風の呼吸の剣士は狙って殺されている。

 

 兄弟子であった木原は既に殺られたようだった。浩太なのか、他の鬼なのかは定かでない。鴉もろともに殺られたらしい。

 賢太郎の死と前後して二年の間、殺された風の呼吸の剣士のほぼ全てがそうだった。

 運良く生き残った鴉は、たまたま別の用事でその隊士から離れていたりした為で、実際に隊士の死を看取っていない。

 浩太と思われる鬼に関する情報は皆無だった。

 

 東洋一は残された風の呼吸遣いを始めとする隊士達から情報を(あさ)ったが、捗々(はかばか)しくなかった。

 既に引退し、片足を失くした東洋一への風当たりは強かった。

 一時的にであれ、賢太郎殺害の犯人と疑っていたのもあるだろう。

 

 そうした冷ややかな対応は、隊士達に限らなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

「…刀を返せ?」

 

 花鹿屋敷を訪れ勝母に刀を返してほしいと願い出ると、しばらく沈黙した後、「なぜ?」と、訊かれた。

 

「なぜ? って……俺のモンなんだから、返してもらったっていいだろ?」

 

 東洋一が不満気に言うと、勝母はピクリと眉を動かす。

 

「お前のものだが、お前が勝手に置いていったのだろうが。もはや必要がないから」

「……必要になった」

「駄目だ」

 

 勝母は冷たく言う。「理由(ワケ)を言え」

 

 東洋一が言い淀み俯くと、勝母は厳しく見据えた。

 

「東洋一、勘違いするな。お前はもう鬼殺隊から引退した身だ。隊士にも会って、何か探っているようだが、越権行為甚だしい。風の呼吸の剣士を襲う鬼について調べて回ってるそうだな。鬼蒐(きしゅう)の者達へも接触しようとしている…と、聞いている」

「………見逃してくれよ」

「勝手な男だな。自分は何もこちらに提示しないで、こちらからの情報ばかり欲しがる。これでは対等ではない。私は対等でない交渉には応じない」

「お前ホントに……弁が立つようになったな」

 

 五年の間、勝母はおそらく柱の筆頭として必死にやって来たのだろう。

 周太郎がいずれそうなるだろうと、予測していたように。

 勝母よりも年長の柱はいくらでもいたが、十三歳で柱となって以来、十年を超えて在籍しているのは勝母しかいない。

 自然、その強さは隊内における求心力の源となる。

 

「話を逸らすな、東洋一。私は怒っているんだ。お前、鬼の情報を持っているなら教えろ。鬼を狩るのはこちらでやる。それが仕事だからな」

「………」

 

 東洋一は逡巡した。

 既に賢太郎も亡く、風波見家が鬼殺隊から絶縁した今、裏切者のことを話しても誰も責任を取ることはできない。

 本部も今更、風波見家に対して追及することはないだろう。

 だが、知っていて隠した賢太郎を(おとし)めることはしたくなかった。

 賢太郎は自分なりに責任を取ろうとしていた。させなかったのは、東洋一たち周囲の人間だ。

 それに自身の継子から裏切者を出したという不名誉を周太郎に負わせることは ―― したくない。

 

 一方、勝母は東洋一の迷いを、ある程度見抜いていた。

 賢太郎の死と前後して風の呼吸の剣士が殺されているのは、同じ鬼の仕業(しわざ)だろう……というのは、本部でも意見が一致している。

 鬼蒐の者達からの調査においても、同じ鬼である公算が高い。

 賢太郎もその鬼に殺られた……という推察もある。

 

 その上で賢太郎を殺した相手が『風の呼吸を使っていた』という証言。

 二つの事柄から考えうることは、風の呼吸において裏切者が出た、という事だ。

 

 賢太郎の死については、あるいは東洋一が日本に帰ってきて殺害したのではないのか……という話もあったが、正直なところ、勝母はまったく信じていなかった。

 むしろ、あえてそんな噂をばら撒くことで、要点を誤魔化し、混乱させようとしていた気がする。

 考えてみれば、その噂を主にしていたのは風波見門下の者達だった。

 出処がそこであるのなら、尚の事、勝母の推察は信憑性(しんぴょうせい)を増す。

 

 彼らは風波見家を……『伝説の風柱』たる周太郎に汚名を着せることを、執拗に拒んでいる。

 今、目の前にいる男も含めて。

 

 実際、その鬼について、残された風の剣士達に聞き取りをしても、誰もが心当たりはない、と言う。

 裏切者が出ていないかと、真正面から問うても、知らぬ存ぜぬの一点張りだ。

 

 あの偉大な先達(せんだつ)は死後においても弟子達から慕われている。

 いや、弟子達からだけではない。

 他流派の隊士であっても、隠達の間でも、未だに風波見周太郎を尊敬する人間は少なくない。

 彼らもまた、故人の不名誉な事実を認めたがらないだろう……。

 

 勝母はため息をついた。

 

「ここで私に言うのであれば、(おおやけ)にはしない」

 

 勝母が示した譲歩の意味を、東洋一は即座に理解した。

 長い沈黙の後、ポツリと告白する。

 

「………裏切者が出た。鏑木(かぶらぎ)浩太だ」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 勝母に秘密を告白したことで、東洋一の心が軽くなることはなかった。

 

 既にその事は勝母には予想していた答えだったのだろう。

 返事は簡潔だった。

 

「わかった。後はこちらでやる」

 

 手出し無用―――。そう、告げていた。

 

 とうとう自分が無用の長物になったのだと…否が応にも認めるしかない。

 

 すっかり左近次の屋敷で留守居役となって、暇を持て余す日々の中で、ツネから送られてきた荷物の整理をしている中に、思わぬ書付を見つけた。

 それは呼吸の指南書を清書する時の書き損じかと思われた帳面だったが、数枚の白紙の後に唐突に賢太郎の丁寧な文字が書き連ねてあった。

 

 そこには干支(えと)の年と月、その下に隊士の名前があった。

 おそらく浩太に襲われて死んだと思われる者達だろう。

 途中で木原の名前もあった。

 やはり今から二年ほど前あたりから、風の呼吸の剣士達を狙った襲撃があったようだ。

 次々と風の呼吸の剣士が襲われて死んでいくことが続く中で、風波見家では確信したのだろう。

 

 鏑木浩太は生きている。篠宮東洋一は裏切者を殺さなかったのだ…と。

 

 残った風の呼吸遣い達が東洋一を恨むのは当然だ。無視されても、仕方ない。

 しかし賢太郎は東洋一を恨んでなかった。

 

『…()の人は浩太を殺すこと(あた)わず。されども、恨み無し。(むし)有難(ありがた)き事也。』

 

 賢太郎もまた、東洋一が結局浩太を殺せなかった…と思っていたらしい。

 読みながら苦笑いが浮かぶ。

 

「……そんな善人じゃねぇよ」

 

 自分は浩太と対峙し、鬼と見定め、その鬼を殺すつもりだったし、実際殺したと思い込んでいた。今更、言い訳でしかないが。

 

 殺された隊士の記名はそこで終了していた。この後を書く気がなくなったのか、この次が賢太郎であったのかは定かでない。

 

 また白紙が続いて、このまましまおうかと思った最後の数枚にいきなりまた文章が綴られていた。

 

『今思えば、父上にはっきりと訊いておくべきことであった。浩太が真に父上の子であったのならば、風波見家を継ぐべきは浩太であったろう。彼は私より秀でていたのだから、後継としての自覚があれば、きっとその責務から逃げなかったはずだ』

 

 東洋一は驚いた。

 確かに周太郎に女が複数いたこともあって、「隠し子がいる」的な噂は何度となく聞いた。

 ツネも疑っていたほどだ。

 だが周太郎の性格からしても、本当に浩太が息子であるならば、堂々と言っていたはずだ。変に隠し立てして一緒に暮らすことなどしない。

 無論、周太郎自身が知らなかったということも考えられるが、理由があって東洋一は浩太が周太郎の息子でないことは確信していた。

 

 しかし賢太郎は噂を真実と勘違いしてしまったのだろうか…?

 

 ペラリと紙をめくって、続いていた文章はより衝撃的だった。

 

『彼が父の息子であるのなら、晃太郎は間違いなく風波見周太郎の血を引く唯一の孫であり、風波見家の正統な後継者である。』

 

 東洋一は言葉を失った。

 これは、どういう意味だろうか。

 

 考えながらも、それは初めて浮かんだ疑問ではなかった。千代が産み月よりも前に陣痛が来て、産婆を呼びに行った時にチラと頭をかすめた。

 

 まさか、晃太郎の父親が浩太ということか? 

 言われてみれば、その名前すらも暗に指し示しているかのようだ。

 否定の言葉を探しても出てこない。

 その先に続く賢太郎の言葉は、既に肯定して進んでいる。

 

『彼に謝らなければならない。彼が鬼になったのは、私のせいだ。彼の心を踏みにじり、千代にも不義理であった。全ては私のせいだ。今日も一人、継子が殺された。おそらく近いうちに彼と再会するだろう。その時が私の命日となる。』

 

 東洋一は瞑目した。

 おそらく…賢太郎は殺されたのではなく、自ら死を選び取ったのだ。

 浩太に対する慚愧の念がそうさせたのか…あるいは―――。

 

 賢太郎のことを思い出してみる。

 幼い頃から、賢太郎がかなり抑圧的な環境にあったのは間違いない。

 十二歳で引き取られてきた東洋一からしても、年下であるにも関わらず、賢太郎は大人びていた。

 子供らしい癇癪や我儘を見たことがない。

 

 実際に東洋一が賢太郎達と過ごしたのは二年ほどで、その後、東洋一が風波見家から離れた後、少年から青年へと成長していく中で、賢太郎がどう変貌していったのかはわからない。

 だからこそ、千代との婚礼前に久しぶりに会って、あまりに淡白な賢太郎の様子に東洋一は驚いたのだ。

 

 賢太郎は人の情というものから距離を置いていた。いや、忌避していたと言ってもいい。

 あるいは―――賢太郎は、もう限界だったのだろうか…生きていくことが。

 

 それでも晃太郎の誕生は喜んでいるように見えた。

 先日会った晃太郎の言葉もまた、父への素直な愛情に満ちている。

 だが、賢太郎にとっては、我が子への愛情から可愛がっていたわけでなく、千代と浩太への後ろめたさから、仕方なく受けいれたという事か……?

 

「……ハアァァァ………」

 

 東洋一は頭を抱えてしゃがみこんだ。

 

 一体、いつからこんなになってしまっていたのだろう?

 

 思い起こせば、千代の妊娠を東洋一が告げた途端に浩太は姿を消した。

 あの時は千代への執着を早く捨て去り、現実を目の当たりにすれば、正気に戻るだろうと思って言ったのだ。

 

 自分のお節介で浩太と千代の仲を引き裂いてしまった。

 しかも、おそらく浩太は晃太郎が自分の息子と知らなかったのだろう。

 

 あるいは……千代は鬼となった浩太に告げたのかもしれない。晃太郎の本当の父のことを。

 そうであれば、今も浩太が風波見家を襲わない理由がわかるというものだ。

 

 鬼となってなお、自らの息子に手をかけることはしない……。それは、あの時、すんでで東洋一を守ろうとした浩太であればこそ、有り得ない話ではない。

 

 そこまで考えてから、東洋一はまた再び深くため息をもらす。

 

 だから、千代は浩太について行ったのか。

 真実を話すために。晃太郎を賢太郎の息子と信じて疑わないツネの前で言う訳にはいかなかったから。

 

 げんなりと項垂れて、東洋一はただただ己の馬鹿さを呪った。

 

 考えるべきだったのだ。もっとしっかりと、浩太がなぜ鬼にならねばならなかったのかを考えるべきだった。

 浩太が鬼となっても、その理由を思いやることなどしなかった。

 ただ、落胆と胸苦しさと怒りがあっただけ。

 浩太は鬼になった。ならば鬼として殺す、それしか考えなかった。

 

 賢太郎も千代も、わかっていた。浩太が鬼に堕ちた理由を。

 

 あの二人にとって、浩太は大事な幼馴染だった。

 賢太郎も千代も、幼き日を共に過ごした友を見捨てることはできなかったのだ………。

 

 

◆◆◆

 

 

 しばらくそのまま固まっていると、背後から視線を感じる。

 どうやら左近次が任務を終えて帰ってきていたらしい。

 

「……左近次」

「……はい?」

「お前……今、俺が泣いてると思ってんのか?」

 

 左近次はポリポリとうなじを掻く。

 鼻の利く左近次からすると、今の東洋一は間違いなく泣いてると思うが、実際のところはわからない。

 

「お前は、こういう時は無口だよな。普段は毒舌なくせに」

「そう…でしょうか?」

「なまじ人の気持ちがわかると……下手な言葉は出ないんだな。俺はお前みたいに鼻が利かなくてよかったよ。きっと…やたら人を傷つけて回ったろうからな。やっぱり、天は与えるべき人間に二物を与えるんだな……」

「それ…あまり嬉しくないんですが」

 

 昔、似たようなことを言われて、からかわれたことを思い出す。

 

「馬ァ鹿」

 

 東洋一は立ち上がると、クルリと振り返った。

 笑った顔に涙の跡はない。

 

「顔の事じゃねぇよ。ここだ、ここ」

 

 そう言って東洋一は胸を叩く。

 左近次は首をひねりながら、「はぁ…?」と曖昧に返事した。

 

「フン……お前みたいな馬鹿正直のお人好しじゃねぇと、神様はその鼻はくれねぇって話だ」

「馬鹿正直のお人好し? ……私がですか?」

 

 左近次は首をかしげる。

 今までそんなことを言われたことはない。どちらかというと、面のせいもあるだろうが、わかりにくくて冷たい…というのが、概ねの風評だ。

 

 しかし東洋一はニヤッと笑う。

 

「見てくれで損も得もしてンなァ、左近次。お前はただの人のいい(あん)ちゃんだよ。今だって、金のねェ無宿者を屋根つきの家に居候させてくれてんだからな」

「それは…桑島様からも頼まれてるからです。私が追い出したら、自分のところに来るから、面倒みておけ…と」

「………今度、あっち行くわ」

 

 東洋一は一瞬だけ憮然とつぶやくと、すぐに大笑いした。

 

「ハハハハ! ちょいとばかし、つき合え」

「……酒、ですか?」

「違ぇよ。稽古だ。……後悔したって、やることをやるしかねぇからな」

 

 すっきりした顔で言うなり、その足の片方が義足だとは思えぬほどに、東洋一は早く歩き去っていく。

 

 五年の間、言葉も通じぬ海外で過ごすのは、普通の人間であっても大変なのに、ましてあの姿で危険な目に遭うこともあっただろう。

 それでも挫けず生き抜いてきた東洋一を、左近次は相当にしぶとい人だと思う。

 彼の境遇は今、少々逆風が吹いているが、その中でもきっと悠々と歩いていく。

 

「オイ! 早くしろよ」

「ハイハイ……」

 

 あきれたように二つ返事しながらも、懐かしいその空気に、左近次は面の中で笑った。

 

 

<つづく>

 

 

 






次回更新は2021.09.11.土曜日の予定です。



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第八章 昔日 -光風篇- (六)

  勝母(かつも)はようやく賢太郎の死に関する真実を聞いたものの、そこからすぐに裏切者の鬼が見つかるはずもなかった。

 口の固い、信頼できる隠の人間―――鬼蒐の者達も含めて、捜索にあたっているが、その行方は杳としてしれない。

 

 東洋一(とよいち)は左近次の屋敷に居候しながら、今は鍛錬に打ち込んでいる。

 五年の間、鈍った身体である。

 そう簡単に戻るとも思えなかったが、一度その練習内容を聞くと、生半の隊士では半日保たない内容であった。

 それを片足でやっている。

 このまま復帰できるのではないか…とすら感じる。

 

 

 

 半年が過ぎ―――

 

 

 

 その日、勝母は任務を終えて山道を下っているところだった。

 虚空に浮かぶ満月を見ながら、明日は柱合会議だったかな…などと考えつつも、背後からの視線はとうの昔に感じ取っていた。

 

 迫りくる殺気を寸前で避ける。

 軽く、鬼の爪があたったが、改良したばかりの隊服は傷もつかない。

 

 咲き始めた山桜を背にして、勝母はその鬼を見据えた。

 

 白い顔に膨れた緑色の血管。紅く光る双眸。

 もろ肌を脱いだ身体中には虎のような黒い縞模様。右肩だけが異常に盛り上がって、その肩にも紅い目が一つ、ギョロリと蠢いていた。

 

 いつもながらに醜悪なる鬼らしい姿である。

 だが、通常の鬼と唯一違うところがあるとすれば、その右手に持つ刀であった。

 

「その刀……」

 

 言いかけた勝母を遮って、鬼が甲高い声を上げる。

 

「あれぇ~? お前……お前……なんか見覚えあるぞォ」

 

 舌足らずの、少年のような声だった。

 勝母の覚えている限り、その男は既に成人して声変わりもしていたはずだが、鬼となった今ではその年齢や姿に、たいして意味はないだろう。

 

「私はお前の顔は覚えてないが……お前の名前は知っているぞ。鏑木(かぶらぎ)浩太(こうた)

 

 勝母が言うと、その鬼はケケケッと嗤った。

 

「浩太ァ? 浩太ァ? 冗談じゃないねェ~。俺には紅儡(こうらい)という素晴らしい名前がある。あの御方のつけて下さった名前。とても名誉なことなんだぞ~」

「ふぅん。それはそれは……で、お前は十二鬼月でもない訳だな」

 

 勝母がわかりやすく揶揄すると、紅儡はブンと刀を振る。鎌鼬のように風の刃が襲ってきたが、勝母は見切って躱した。

 

「ハハッハハァ……そうだ。思い出したぞ、お前! そうそう……花柱だ。あの役立たずの岩の呼吸遣いの娘だ。オレの右腕を斬り落としたあの鬼……いずれ殺してやろうと思っていたのに……。ハハハハ! せっかく黒死牟様に鬼にしてもらっておきながら、娘なんぞに殺されて……弱い弱い」

 

 明らかに挑発してくる紅儡に、勝母はむしろ冷たい微笑を浮かべた。

 

「フ……そうか。父を(そそのか)したは、黒死牟なる鬼か」

「唆すゥ? 馬鹿馬鹿しい。黒死牟様がお前の父のような弱い奴を誘うものか。お前の父が勝手に黒死牟様に憧れたのだ。あの強さにひれ伏し、鬼となることを望んだのだ!」

「……そうだろうな」

 

 勝母の脳裏に父の―――鬼となった父の言葉が浮かぶ。

 確かに、その鬼に対して絶対的な尊崇の念を持っていたようだ。

 

 勝母は静かに呼吸を行い、紅儡へと問いかける。

 

「その鬼に、お前もひれ伏したのか?」

「なんだと?」

「お前を殺れば、その鬼は現れるのか? 黒死牟とやらは……まさかもう殺されでもしたのか?」

「馬鹿を言え! 黒死牟様は上弦の壱。鬼狩り程度に殺られる御方ではない!」

「そうか……」

 

 ニヤリと勝母は笑った。同時に、技が唸る。

 

 花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬

 

 目にも留まらぬその剣撃の速さに、紅儡は避けることもできなかった。

 咄嗟の血鬼術で己の身体を守ったものの、右足をザックリと斬られた。

 

 鮮血が飛び散り、勝母の顔が返り血に濡れる。

 

「オノレ…!」

 紅儡は一本足で飛び退りつつ、ブゥンと刀を振り回す。

 

 霞の呼吸 参ノ型 霞散の飛沫

 

 勝母も飛び退って木の上へと避ける。

 刀を構えながら、つぶやく。

 

「霞の呼吸か……そういえば、使えたらしいな」

「ハハッハハァ!!!! 俺が風の呼吸しか使えないと思っただろう! 俺は万能だ。あの御方ですら、俺の能力を高く買って下さっているのだ!」

 

 勝母は呆れて軽くため息をついた。

 鬼になると阿呆になるのか…? それとも人間であった時の卑屈な精神が解放され、必要以上に我が身を誇大に見せるようになるのか。

 

 間合いをとっている間に、徐々に紅儡の右足が生えてきた。さほどに再生速度は早くない。

 やはり十二鬼月とは遠く及ばない………雑魚(ザコ)だ。

 

「一つ聞く。前にお前と戦った時、篠宮東洋一の足を斬ったのは……お前か?」

 

 勝母が尋ねると、紅儡はその名を聞くなりヒクヒクと頬を痙攣させた。

 生き残ったとはいえ、おそらく東洋一から受けた恐怖は相当のものだったのだろう。

 再生されたばかりの足まで、ガクガクと震えている。

 

「お……お……俺…だ」

「そうか、わかった」

 言うなり、勝母は跳び上がる。

 

 花の呼吸 参ノ型 零れ桜・散華

 

 くるくると回転しながら剣を振るうと、紅儡に向かって細かい斬撃が集中する。

 

 歯軋りしながら、紅儡はあわてて血鬼術を放つ。

 

 血鬼術 乱刃(らんば)嵐剳(らんとう)

 

 細かい風の刃と、桜の花びらが舞い散るが如き無数の斬撃がぶつかり合う。

 

 勝母はその血鬼術の全ての攻撃を避けきれなかった。腕と足首に血が走る。

 だが、紅儡も上半身に無数の小さな切り傷を負っていた。だが瞬時にそれは消える。

 

 勝母の着地を見計らったように、紅儡は呼吸の技で攻撃してきた。

 

 風の呼吸 肆ノ型 昇上砂塵嵐

 

 凄まじい旋風が下から吹き上げてくる。

 着地と同時に回転して勝母は避けたが、さすがは呼吸の技だけある。

 躱したと思っても、風の呼吸ならではというべきか、風圧だけで丈夫な隊服を切り裂いた。着ていなかったら、ざっくり腹をやられて内蔵がこぼれ出しているところだ。

 

 それに鬼としての攻撃のせいか、通常の呼吸技と違い、(いびつ)な軌道で襲いかかってくる。

 稽古としてなら何度となく受けたことのある技であっても、鬼となった者が使えば、その威力は増し、何か違った形のものとなっているようだ。

 

 紅儡はニヤリと笑うなり、また技を放つ。

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 これも同じだった。

 真っ直ぐに向かってくるはずの四本爪が、百足のように屈折しながら襲いかかってくる。

 だが、今度は避けずに技で応対する。

 

 花の呼吸 弐ノ型 御影梅

 

 幾重もの刀影が閃いて、斬撃そのものが勝母の壁となった。

 

「くッ……オノレ!」

 紅儡は傷一つなかった勝母に歯噛みすると、血鬼術を放つ。

 

 血鬼術 風雷(ふうらい)奔濤(ほんとう)

 

 だが、勝母は既に次の行動に移っていた。

 

 真上から呼吸音が響き、紅儡はすぐさま上を向く。

 闇の中で真っ黒な影が空から落ちてくる。

 獲物を狙う猛禽のような爛々とした瞳が迫ってくるのを、紅儡は凝視するしかなかった。

 

 花の呼吸 陸ノ型 渦桃

 

 ―――……え?

 

 その声を発したのかどうかすらわからない。

 動きが速すぎて見切ることができなかった。

 紅儡が身動きできぬ間に勝母の日輪刀が唸り、真朱(まそほ)の一閃の下、首が斬り落とされる。

 

 そのままタン、と軽やかに着地し、クルリと前方に一回転しながら、勝母は刃を振るった。

 

 花の呼吸 壱ノ型 椿の火影(ほかげ)

 

 ザクゥッ!

 

 花の、軽やかな呼吸からは考えられないほどの、重い斬撃。

 瘤のようになった右肩の、ちょうど目の部分を真っ二つに切り裂いた。

 

「ィ……ヒヒイィィィィィィ!!!!!!!!!」

 

 紅儡が甲高い悲鳴を上げる。

 

 メリメリと肉が裂ける音がして、腕がゴトリと落ちる。

 鮮血が噴き出し、大量の血が一気に血溜まりを作った。

 

「お前が二つ首を持つことは、既に東洋一から聞いている。同時に落とすことで、死ぬこともな」

 

「ゥイッ……ヒ…ヒ…イャ…ヒ……ヒ…ヒ」

 

 青ざめ震えながら、紅儡はゆっくり塵と化す。

 

 勝母は眉を寄せた。

 再生も遅いが、塵と消えるのも遅く感じる。

 それとも、この鬼に対する苛立ちがそう思わせているのだろうか?

 

 勝母は転がった紅儡の頭に刀をつき立て、持ち上げた。

 真っ直ぐにその目を見据えながら、低い声で話しかける。

 

「フザけるなよ、紅儡とやら。お前ごときにやられる篠宮東洋一ではない。あいつの足をやったのは、黒死牟とやらだろう?」

「…ウ……ウ……」

「憐れよな。鬼となってまで強さを求めても、所詮は東洋一にも、賢太郎にすら及ばぬ……。お前は雑魚だ」

「ウ…ウ…と、よ…ィィ…ヒ」

 

 眉間を貫かれ、紅儡は目を寄せながら、口からだらしなく涎を垂らす。

 あまりに不様な姿に、勝母は片方の口角だけを上げて、嘲笑った。

 

「もはや鬼殺隊に留まる理由はないと思っていたが……有難いことにお前のお陰で、理由が見つかった。無駄なお喋りにつき合った甲斐があったな」

 

 言っている間にその頭も腐った臭気を漂わせながら、塵となって消えていった。

 

 すべての身体が塵となったのを見届けた後、残されていたのは刀の鍔だった。刀身は紅儡の肉塊で変質させられていたのか、消え失せている。

 血がこびりついたその鍔を勝母は拾い上げた。

 

 風切羽の意匠を凝らした、風波見家特有の鍔。

 今や、この鍔を持つ剣士は皆無だ。

 

「いや……一人いるか」

 

 独り言ちて、勝母は再び山を下っていった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

「紅儡は殺ったぞ」

 

 舞い落ちた桜の花びらを肩の乗せて、勝母がやって来たのは朝だった。

 隊服には返り血が乾いてこびりついていた。

 どうやら任務を終えて、そのまま来たらしい。

 

「……コウ……ライ?」

 

 朝の修練を終えて、井戸で顔を洗っていた東洋一は、その第一声にポカンとして口を開けたままになった。

 

 勝母は寝不足もあってか、不機嫌だった。

 

「鏑木浩太かと尋ねたら、紅儡だとかいう趣味の悪い名前をつけられたらしい。そう呼べというから、そう呼んでおく。とにかく、裏切者は成敗した」

 

 早口に言う勝母に、東洋一は呆然として問い返した。

 

「………本当か?」

「嘘を言ってどうする? お前と違って、私に嘘を言う理由はない」

 

 苛々として言いながら、勝母は巾着の中から鍔を取り出して東洋一に差し出した。

 

「ホラ…これで信用できるか?」

 

 八枚の風切羽の鍔。

 風波見門下生を示すそれを持つのは、今は東洋一と、随分昔に引退した風波見家縁の育手達のみ。

 

 浩太が…紅儡が、まだ自らの刀を持っていたのか、あるいは殺した風波見家の門下生から奪ったのか…? いずれにしろ―――――

 

 東洋一は受け取りながら、勝母が間違いなく裏切者を殺したことを確信した。

 同時に、もう二度と自分は浩太に会えなくなったことも……。

 

「………すまん」

 

 絞り出すように言ったその言葉は、わずかに震えていた。

 勝母は眉をひそめると、ハァーッと溜息をついて縁側に腰かけた。

 お茶を出しに来た手伝い婆に、おむすびを頼んで、温かい茶を美味そうに飲む。

 

「東洋一……」

 勝母は東洋一の義足を睨みながら尋ねた。

 

「お前のその足をやったのは、黒死牟だな?」

「黒死牟?」

「上弦の壱だ。おそらく、その鬼が浩太を鬼へと変えた……」

「………」

 

 東洋一の記憶から決して消えることのない、あの異様なる鬼。

 場が一気に変転して、重く、潰されそうな圧に、立つのも苦しくなる……。

 未だにあの時のことを思い出すと、息切れしてきそうだ。

 

「……それは…もう関係ないだろう」

「お前にはな。だが、私は知りたい。どんな鬼だった?」

 

 東洋一は勝母を見つめた。

 落ち着いて見えるが、目があの時と同じ――東洋一が岩の呼吸を使う鬼と出会ったことを喋ったときと同じに、爛々として光っている。

 

「………お前、まさかあの鬼と対峙する気か?」

「さぁな。今回のように、たまさか向こうからやってくる事もあるやもしれぬし、一生ないかもしれぬ。いずれにしろ、会った時にそれとわからぬでは困るではないか」

「………わからない訳がない」

 

 東洋一は静かにつぶやく。「あんな鬼がいくらもいたら、この世は既に滅んでいる」

 

「ふぅん…」

 勝母はニヤニヤと笑った。

 

「面白いな。篠宮東洋一をして、そうまで恐れさせるとは……で、特徴は?」

「……あまり覚えていない。目が六つあって……見たことのない呼吸の技を使っていた…」

「六つ目に未知の呼吸か…。なるほど」

 

 婆が作ってきてくれたおむすびをあっという間に二つ平らげると、勝母は立ち上がった。

 

「では、今日はこれぐらいにしておいてやろう」

「……今日は?」

 

 振り返ると、勝母は東洋一を睥睨する。

 

「あぁ、そうだ。まだ用はあるからな。また勝手にどこぞに行くなよ。いいな?」

 

 先手で釘を刺される。

 正直、再び船に乗ってどこかに消えたかったが、今回の借りを返さずに逐電するのは、あまりに非人情だろう。

 そういう東洋一の気持ちを見越した上で、勝母は付け加えた。

 

「そうだ。お前の刀だが、取りに来い。研ぎに出しておいたのが戻ってきている。代金はとりあえずツケておいてやろう」

「えぇ?! 払うのか? 俺が?」

「当たり前だ。お前の刀を保管しておいてやったんだぞ。保管料も貰っていいぐらいだ。そっちもツケようか?」

 

 事もなげに言って、勝母は意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「………すいません、勘弁して下さい」

 

 早々に降参して、東洋一は頭を下げる。……

 

 ケラケラと大笑いしながら、勝母は去って行った。

 東洋一はその後ろ姿を見ながら、寂しいような誇らしいような奇妙な心地だった。

 

 自分よりも小さいはずの勝母の姿が、とても頼もしく見えた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.09.15.水曜日に更新予定です。




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第八章 昔日 -光風篇- (七)

 久しぶりに風波見(かざはみ)家を訪れたものの、やはり無愛想な手伝いの女は、東洋一(とよいち)を見るなり冷たく言った。

 

「大奥様なら坊っちゃんを連れて、墓参りに行きました」

 

 頭を下げて、東洋一はすぐに向かった。

 

 風波見家代々の墓は、風波見家から歩いて十分ほどの、小さな林の中にある。

 林の手前に泉が湧いており、そこで手桶に水を汲んで墓までの道を歩く。若い枝木が新緑の影を落とす中、涼やかな風が吹いていた。

 

 やがて前方にこんもりと台地状の土地が見え、その上に白い墓石が建っている。

 途中から石畳が並び、その両側を八重山吹が黄金の花びらを散らしていた。

 

 墓の前でかがみ込んで手を合わせているツネの後ろで、東洋一は黙って立っていた。

 早々に気付いた晃太郎(こうたろう)が祖母の袖を引っ張る。

 ツネは振り返ることなく、問いかけた。

 

「誰ぞ?」

 

 東洋一は頭を下げて「篠宮です、御内儀様」と呼びかけた。

 

 ツネはそれでも見向きもしない。

 

「何の用か?」

「……ご報告に上がりました」

 

 その言葉にようやく振り返る。

 相変わらず痛々しいまでの鬼の爪の痕は、険しいツネの表情に、より凄味を持たせていた。

 

「報告であれば……先にこちらに申し上げるべきでしょう」

 

 そう言ってツネは立ち上がると、横へとずれて、東洋一に墓の前の場所へと促す。

 

 東洋一は軽く頭を下げると墓の正面に立ち、深く礼をする。そのまましばらく瞑目して無言であった。

 やがて顔を上げて、ツネへと向き直る。

 

「……浩太は、死にました」

 

 ツネの眉がピクリと動く。

 猜疑の目で東洋一を見つめる。

 

「それが本当だという証は?」

「浩太を殺したのは、俺ではありません。花柱…五百旗頭(いおきべ)勝母(かつも)です。信じられぬのであれば、彼女に直接(ただ)して頂いてかまいません」

「そなたと花柱は昵懇であったはず。口裏合わせてどうとでも言えましょう」

 

 東洋一は懐から、勝母の持ってきた鍔を出した。

 

「これで、信じていただけませんか?」

 

 ツネは受け取ると、その鍔を丹念に見つめる。

 裏返すと、眉を寄せてポツリとつぶやいた。

 

「賢太郎のものです……」

「そうなんですか?」

「………柱となった時に新調したのですよ。裏にのみ金細工がしてあって……わずかに金箔が残っておる……」

 

 言い終えぬうちに、ツネの目から涙がこぼれた。

 震える唇を噛みしめて、嗚咽を殺す。

 晃太郎が心配そうに見上げて、ツネの手をギュッと握った。

 

 ツネは顔を俯けると、袖で目を押さえた。涙を拭いて、二度ほど深呼吸すると、また元の冷厳な表情に戻っている。

 

「花柱か。………昔、賢太郎が花柱は阿修羅のごときと……言うてましたな」

「阿修羅……」

 

 かつて仇敵である父を追って、それこそ人ならざる姿となっていた勝母の姿が浮かぶ。

 

「あの者の戦いはまさに獅子(しし)搏兎(はくと)也と……これは、我が夫の言葉」

「……成程」

 

 獅子搏兎…獅子は兎のような弱い獲物にも全力で捕えに行く。

 どのような鬼であれ、勝母が手を抜くことはあり得ない。

 それがかつての同胞たる隊士であれ―――父であれ。

 

「花柱があの裏切者を成敗したというのなら、きっと真実でしょう。これで、賢太郎と千代の仇は打てた……」

 

 ツネはそう言いながらも、少しも嬉しそうではなかった。

 ふっと目を伏せて、傍らで手を握る晃太郎を見遣る。

 

「これで…あの鬼との約束は……呪いは消えた。けれど、鬼殺隊に戻ることは致しません」

 

 きっぱりと言い切って、ツネは顔を上げた。

 

「この子を隊士にする気はない。この子だけでなく、今後、風波見家から風の呼吸の剣士を出すことはありません。子々孫々永遠に」

 

 その言葉を聞いて、東洋一は確信した。

 ツネは晃太郎が実は浩太の子供であるという事を知らない。賢太郎の子と信じている。

 

 一瞬だけ、言うべきかどうか迷った。

 だが、答えは明白だ。

 千代が命をかけても秘密にしたものを、東洋一が台無しにすることはできない。それはきっと賢太郎も望んでいない。

 

 浩太の息子だとわかっていても、それが後悔からくるものであるとしても、賢太郎は間違いなく晃太郎を愛しいと思っていたのだろうから。

 そして、ツネもまたその遺志を継ごうとしている……。

 

 だが、このまま風波見家が鬼殺隊と断絶するのを見過ごすわけにはいかなかった。

 

「……御内儀様。それでは…風の呼吸は……柱は、誰が継ぐのです? 遥か遠き昔より数百年、風波見家が柱としての責を担ってきたものを」

「知らぬ」

 

 遠い目で冷たく言い放つツネに迷いはない。

 困惑する東洋一に冷淡な一瞥をくれた後、ツネは墓を見上げた。

 

「東洋一……そなた鬼殺隊というものを何だと思います?」

「? ………どういう意味です?」

 

 東洋一はツネの真意がわからなかった。

 墓を見つめたまま、ツネは低い声で話しかける。

 

「……鬼殺隊が生まれて幾星霜。いったい、幾万の(つわもの)が鬼の爪牙にかかって死んでいったことか……。あれほどに死をつくりながら、まだ尚、鬼を追う。まるで、荒れ狂う大波に逆らうが如く……大地の震えに立ち向かうが如く……なんの意味があるというのです?」

 

 抑揚もなく、掠れた声で話すツネは無表情だった。

 彫像が話しているようにすら思える。

 

 東洋一は慄然として眉を寄せる。

 だんだんとツネが恐ろしくなってきた。

 一体、何を話そうとしているのだろう…?

 

 もはや東洋一でなく、墓に向かってツネは話していた。

 

「……逆巻く波に楯突いて、轟く地のうねりに刃を突き立てて、なんになると? 鬼は災厄です。誰の身にも、不意にふりかかる。偶然に鬼という災厄に巡り合うことは不運です。皆、出来うれば不運から逃れたいと思っているものを……鬼殺隊士は自ら不運を拾い集めている…………東洋一」

 

 急に呼びかけられ、東洋一は戸惑いつつも「はい」と返事する。

 

 ツネは真っ直ぐに東洋一を見つめ、断言した。

 

「お前達は、愚かです。鬼殺隊など、産屋敷の執念が生んだに過ぎぬ。産屋敷の私怨に巻き込まれているのですよ、お前達は。皆、すべて……」

 

 東洋一は息をのんだ。

 

 今、ツネが言っていることは、東洋一のこれまでの生き方を否定しただけでない。

 賢太郎も、周太郎も、これまでの時代の中で必死に鬼狩りとして生きてきた全ての隊士を否定していた。

 

 東洋一は…だが、それでもすぐに反駁できなかった。

 

 最初の夫を亡くしてから、ツネは何人の死を心に刻んだろうか。

 やかましく言いながらも、世話をしてきた継子達の死に向き合う度に膨れ上がる疑問を、風波見家のため…ひいては鬼殺隊のためにと、ずっと無視してきたのだろう。

 だが、とうとう息子を(うしな)い、孫すらも自分よりも先に逝くかもしれぬという恐怖の中で、鬼ではなく鬼殺隊への怨念を深めたのだろうか……。

 

「駄目ッ!」

 

 険しい顔をしてツネを凝視する東洋一から守るように、晃太郎がツネの前に立って、手を広げていた。

 

「お祖母(ばあ)様を…泣かせないで!」

 

 東洋一はポカンとして晃太郎を見た。

 顔を真っ赤にし、必死で東洋一を睨みつけている。

 

 知らぬ間に自分は怖い顔になっていたのだろうか……と、東洋一は少々乱暴に頬をさすった。

 

「すまん、すまん」

 

 あわてて笑顔をつくって、晃太郎の頭を撫でた。

 

「お祖母様をいじめてると思ったか? すまんな、怖がらせて」

 

 ツネもまた、ふっと目に柔らかな光が浮かぶ。

 

「晃太郎、大丈夫ですよ。この人は……晃太郎のお父上の兄弟子であったのです。お父上が最も信頼した……憧れていた男だったのですよ」

 

 それはおそらくツネの、最初で最後の東洋一への賛辞だった。

 

「父上の……おともだち?」

 

 晃太郎は首を傾げて問いかけてくる。

 東洋一はニッコリ笑って頷き、また晃太郎の頭をくしゃくしゃと撫でた。昔、賢太郎にしてやったように。

 

「御内儀様」

 

 顔を上げると、やはり厳しい顔のツネと目が合う。

 

「御内儀様……貴方のご覚悟と、決心は、重々承知致しました。今まで……お世話になりました」

 

 そう言って東洋一が頭を下げると、ツネは堅い表情のまま頷く。

 東洋一はもう一度だけ、墓に向かって軽く頭を下げると、踵を返して歩き出した。

 

 石畳の上に八重山吹の花びらが散り、風に吹かれて渦巻く。

 振り返ると、晃太郎が手を振っていた。東洋一は笑って、手を振り返した。

 

「また来てねーっ」

 

 大声で晃太郎が叫ぶ。

 東洋一は返事することなく、大きく手を振ると、再び背を向けて歩き出す。

 

 おそらく…もう、来ることはない。

 この場所は思い出がありすぎて、変化していく姿を見るのが辛い。

 あの頃の思い出のままで、留めておく。

 

 だから、二度と来ない。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 風波見家を訪れて数日後、勝母の屋敷に呼ばれた。

 

 裏切者を成敗したことを風波見家に報告しに行ったと告げると、勝母が問うてきた。

 

「それで? あの家は結局、また鬼殺隊(こちら)に戻るのか?」

「いや……もう、今後一切の関わりは持たないと仰言(おっしゃ)られた」

 

 勝母はジロリと東洋一を睨め上げた。

 

「それで? お前、ハイハイと了承して帰ってきたのか?」

「駄目だったのか?」

 

 問い返す東洋一に、勝母は呆れ返った溜息を投げつける。

 

「私は、お前こそ再興に力を貸すだろうと思っていたんだがな…。賢太郎の息子はそんなに病弱なのか?」

「いや、元気に見えたが。でも、御内儀様がもう……鬼殺隊を信頼されていないとわかったんでな……」

 

 勝母は眉を寄せた。「どういうことだ?」

 

 東洋一は返事をせず、浮かない顔で、縁側の向こうに見える庭を見た。

 

 朝からの雨が止んで、ゆっくりと雲が千切れ、日が差し込んでいる。

 のどかで穏やかな午後。

 どこからか入り込んだ猫が、修練用の砂場で昼寝をしていた。

 

 未だに東洋一にはあの時ツネに言われたことが、頭にこびりついていた。

 あまりに苦しい選択の中で、その考えに至ってしまったというツネの心情は理解できても、受け入れることは到底できない。

 だが、明確に『違う!』と反論できるだけの言葉を見出だせなかった。

 

「……鬼は災厄だと思うか?」

 

 ポツリとつぶやいたその言葉に、勝母は「は?」と問い返した。

 

「鬼は天変地異のような災厄で……隊士は不運をわざわざ拾いに行って……命を奪われる。愚かな……行為なのか……?」

 

 言いながら、東洋一は拳を握りしめた。

 そんなことはない。そんな筈はない。決して…。

 あの日、泣きぬれて絶望しかなかった自分に、差し伸べられた手が、不運へと誘うものだったわけがない。

 

 自分も、師匠も、死んでいったすべての者達を、そんな簡単に冒涜しないでくれ…。

 

 苦しげに歪む東洋一の顔を、勝母は冷ややかに見据えた。

 

「馬鹿かお前は」

 

 鋭く東洋一の迷いを斬り捨てる。

 

「鬼が災厄だと…? 馬鹿馬鹿しい。奴らは鬼だ。鬼以外の何者でもない。鬼に出会った不運を嘆いて、そのままメソメソ泣いて日々を過ごすのは勝手だが、私は剣をとったのだ。奴らに立ち向かうことを選んだ。隊士は皆そうだ。百歩譲って、奴らが天変地異と同じ、大いなる災厄だからといって、それに抗おうとする人間が愚かだとは思わない。たとえ命を失うことになっても、想いを繋ぐ。連綿と……。鬼殺隊はずっとそうしてきた。これからもそうだ」

 

「……想い…」

 

 東洋一の脳裏に浮かんだのは、ツネを庇っていた晃太郎の姿だった。

 悲しく震えていた祖母を、小さいながらに守ろうと必死で両腕をあらん限り伸ばして―――。

 

 大事な人を守るために、これ以上悲しみに泣き震える人を出さぬ為に、鬼を狩る………。

 

 それは誰に言われるまでもなく、鬼殺隊にいる人間であるならば共有する想いだった。当たり前すぎて、意識したことすらなかった。……

 

 東洋一はまじまじと勝母を見つめた。

 

 五百旗頭勝母。

 初めて会った日には酒をぶっかけてきた短気な少女が、いつの間にこれほどまでの知性と徳を身に着けたのだろうか。

 もはや自分など到底及ばぬ境地にいる。

 周太郎に感じていたのと同じ、全幅の信頼感。

 

 ―――――これこそが柱の柱たる所以(ゆえん)なのか。

 

 ハアァーッと長い吐息の後に、東洋一は頭を下げた。

 

「……完敗です」

「当然だ。いつ勝てると思ってたんだ?」

「言いやがる……」

 

 フッと笑った東洋一に、勝母は当たり前のように命令した。

 

「迷いが消えたなら、育手になれ」

「は? 育手?」

「そうだ。風の呼吸は今や滅びつつあるんだぞ。誰かが伝えていかねば、数百年の技が失われる。お前、このまま知らんふりして、浄土にいる風柱様に顔向けできるのか?」

「それは…そうかもしれんが」

 

 正直、自分が人を教えることに長けているとは思えない。自分でもどうやってやってこれたのかよくわかってないのだから。

 

「うだうだ悩むな。お前が悩んだところで、たかが知れている。やるだけやれ。やってから悩め」

「お前……だんだん俺を馬鹿にしていってないか?」

「悪いか? だいたい、お前に悩む選択肢があるとでも思っているのか? 私が言っているんだぞ。この私が。お前に」

「……なんだよ?」

紅儡(こうらい)のことも含めて、どれだけ貸していると思ってるんだ? 育手をやることぐらいで返済できると思うな」

 

 言われて、東洋一は勝母の薄紅に染まったままの動かぬ右目を見つめた。

 

 そうだ。

 代わりに父親を殺ると言ったのに…それすら果たすこともできなかった。

 たとえ憎しみの対象であれ、親殺しの重荷を背負わせることはしたくないと……あの日、周太郎に刀を託されたものを。

 

 本当に……どれだけ借りがあるかわからない。

 

「……わかったよ。やりゃいいんだろ。出来るかわからんが、やるだけやるさ」

 

 あきらめて承諾すると、勝母は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。

 

「あぁ。どこでやるのかはお前に任せてもいいが……」

 

 トントンと指で座卓を叩きながら、勝母は思い出したようにつぶやいた。

 

「そういえば、里乃だがな」

「は?」

「お前と別れた後に、大工の女房になったんだ」

「………そうか」

 

 気のいい男と結婚すればいい…と思っていたので、それは祝福しよう。

 

「だが、一年ほどして離縁した」

「ハァ?!」

「相手の男がとんだ浮気者でな。三行半を突きつけて、早々に家を出たらしい」

「…………」

「今は故郷の諏訪の方に戻って、祖母のやっていた店を継いでるらしい」

「…………なんでそれを俺に言う?」

「別に。ただの情報だ。昔馴染の。懐かしいだろう?」

 

 勝母は少し―――かなり意地悪そうな笑みを浮かべて、楽しそうに東洋一を眺めている。

 東洋一は渋面になってそっぽを向いた。

 どうも日本に帰ってきてからというもの、この女の掌の上で転がされ放題だ……。

 

「藤の家を通じて適当な屋敷を押さえてあるから、とっとと行け」

「なんで決まってんだよ。場所は任せるんじゃなかったのか!?」

「じゃあ、行くアテがあるのか?」

「…………」

 

 勝母はニヤリと笑うと立ち上がった。

 

「話は以上だ」 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 東洋一は本部から用意された新居に向かって歩いていた。

 

 梅雨の雨をたっぷりたたえた田園は、眩しい日の光を受けて、稲が青く伸びていた。

 その先に広がる雲の峰。

 荷車の砂ボコリが舞う街道の道を進み、山に入れば、滴るほどの緑が枝を高く広げている。

 木漏れ日の中を鳥達がやかましく飛び回っていた。

 初めて周太郎に会ったあの日から、もう二十年が過ぎていた。

 

 雨はとうに止んだ。

 

 初夏の光の中で鬼狩りとしての日々は陽炎のように揺らめく。

 そうしてそのまま、遠い過去のものとなるだろう。

 

 これからは想いを伝える。

 

 育手として……やれるだけ、やる、だけだ。

 

 

 

-----------------------------------

 

 

 

 篠宮東洋一は、風波見家のことはこれで帰結したのだと…思っていた。

 

 が。

 

 呪いは再生し始めた……。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.09.18.土曜日の更新予定です。




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第九章 蛍火(一)

 雨はもう止んでいた。

 

 雲が切れて、きつい西日が差し込んでくる。

 夕照の中、濡れた景色が煌めいていた。

 

「只今、帰りましたぁ」

 

 大声で叫びながら、(まもる)はお勝手からドタドタと東洋一(とよいち)達のいる客室へと歩いていく。

 入るなりなんだか妙に重苦しい空気を感じて、言葉をのみこんだ。

 

 縁側で座っていた東洋一が気付いて声をかけた。

 

「おぉ、帰ったか。藤森さんとこで雨宿りさせてもらってたか?」

「あ…はい。あの……」

「ただいま、戻りましたぁ!」

 

 ドタドタと廊下を駆けてきて、三郎が大声で叫ぶ。

 守にジロリと睨みつけられ、東洋一も薫も何も言わないので、シンとなった間にきょとんとする。

 

「え? あれ……?」

 

 東洋一がフッと笑みを浮かべると、薫も微笑みかけた。

 

「おかえりなさい。雨の中、ご苦労さま」

「あ! いや…雨が降る前には藤森さんのところにいたんで良かったんですけど……。そこで降り籠められちゃって。ついでだとか言われて、将棋する羽目になっちゃって。守も手伝いさせられたんだよな?」

 

 三郎に言われて、守はますます不機嫌そうに睨みつけたが、何かを諦めたように溜息をついた。

 

「猪肉もらってきました。それと森野辺さんが来てるって言ったら、大奥様がなんかものすごく興奮してましたよ。たまにはこちらにも顔を見せなさい…って」

「あら、そうね、明日帰りがけにでも寄ろうかしら」

 

 言いながら薫は立ち上がると、台所へと向かう。

 

「え? あの…」

 

 戸惑う守に薫はニコリと笑いかけた。

 

「藤森さんの家に行ってて、猪肉だけってことはないでしょ? まして私がいるんだから」

「え? ……そうですけど」

 

 確かにネギだの小松菜だのと、色々と持たされた。

 そのせいで荷物が多くなって、三郎と二人で文句を言いながら帰ってきたのだ。

 

「今日の夕御飯、一緒に作ってもいいかしら?」

「本当ですか! ありがとうございます!」

 

 守が返事する前に、三郎が嬉しそうに叫んだ。

 

「あっ! 確か、割烹着ありましたよ。古いけど…まだ着れるはず」

 

 返事をする前に三郎は納戸へと走っていく。

 途中で転んで「痛ァッ!」と大声で喚いていた。

 

「ホントにあいつは……やかましいやつだな」

 

 東洋一は悪口をたたきながらも、やれやれと肩をすくめていた。

 どうやら三郎はいつもこんな調子らしい。

 薫はまだ返事を聞いてない守に尋ねた。

 

「いいかしら? 守くん」

「……っど…どうぞ」

 

 耳まで真っ赤になりながら、守はあわてて台所へと向かっていく。

 ついて行こうとして、薫は立ち止まった。

 

「先生」

 

 振り返ると、東洋一が俯けていた顔を上げる。

 

「どうした?」

「いえ……あの…後で、また少し話をしていいですか?」

「ああ…」

「じゃあ、久しぶりに作ってきますね」

 

 薫は笑って腕まくりすると、台所へと向かう。

 途中の廊下で三郎から里乃の形見の割烹着をもらって、「懐かしい」と言いながら袖を通す。

 

 部屋に残された東洋一は、煙草を取り出すと火を点けた。

 

 弟子時代もそうだった。

 独自の呼吸の型を編み出そうと苦心して、考え込んで、熟考して煮詰まると料理をしていた。

 

 いきなり煮豆を大量に作ったり、鍋で水飴をこねくり始めたり。

 おそらくそれで気分転換して糸口を見つけようとしているのだろう。

 どうして料理して考えがまとまるのかは、東洋一にはわからなかった。女の考えることはやはり男には理解の及ばぬところがある……。

 

 東洋一は立ち上がると、風鈴をまた元の位置に吊った。

 夕風にチリン、と涼しげな音をたてる。

 長く座り込んだせいで凝った腰を伸ばすと、立ったまま紫煙を(くゆ)らす。 

 

 ―――――翔太郎くんの妹と、お母さんははおそらくその鬼に殺されました……

 

 浩太は……紅儡は、約束を忘れていなかったのか。

 あの呪われた存在が再び風波見(かざはみ)家を襲うことになるとは。

 

 これで東洋一は二度までも嘘をついたことになる。

 自害しようとしたツネの慟哭が聞こえてきそうだ……。

 

 遠く、すでに記憶の中で色を失いつつあった思い出が、知らぬ内に、すぐ近くで息を吹き返していた。

 無表情な昏い双眸が夕闇の迫る景色を見つめる。

 この平穏はやはり玻璃のごとく儚い。

 

 紫煙が湿った空気の中を揺らめきながら沈んでいく。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「あの……何かあったんですか?」

 

 守が横で煮干しの頭を千切りながら問うてくる。

 薫は湯がいた小松菜を切りながら、つとめて顔に出さぬようにしていた。

 

「ちょっと昔の話を聞いていたの。先生のお若い頃の話」

「強かったんでしょ!? 聞いてます、僕!」

 

 上がり(かまち)で胡麻を擦っていた三郎は、自分も話に加わろうと、すりこぎ鉢を移動させつつ、寄ってくる。

 

「柱になれるくらい強かったんだって。でも、その当時はまだ風柱がいたから、えぇと…なんだっけ? 一緒の呼吸の人は柱になれないっていう決まりが……」

「同流相立たず…」

 

 言いよどむ三郎に、守がぶっきらぼうに差し挟む。

 

「あぁ、そうそう! それ! だからなれなかったけど、本当に強かったって…」

「そうね。ご自分では仰言(おっしゃ)らないけど、きっとそうだったろうと思うわ」

 

 勝母(かつも)が時折語ってくれた昔話でも、おそらく相当の遣い手であったことは想像できる。

 さっきの話の中でもはっきりそうとは言わなかったが、どうやら先々代の風柱に代わって任務を行うこともあったようだし、そうであれば実質上、柱と同等の実力者であったことは間違いない。

 

「あーあ、勿体ないよなぁ。俺だったら絶対文句言っちゃうよ。せめて半年交代でやるとか無理だったのかなぁ?」

 

 三郎が納得いかない様子でとんでもない提案を持ち出すと、守があきれたように言った。

 

「馬鹿か、お前。かえってややこしいわ。だいたい柱になろうがなるまいが、やることは一緒だろ」

「そりゃそうかもしれないけどさぁ…。やっぱ『元柱』ってつくとカッコイイじゃんかぁ。ホラ、なんか最後の試験の時もあっちこちからいっぱい弟子が集まってくるっていうしさ。その時に絶対、自己紹介とかで言いそうじゃん!『俺の育手は元柱の~』…って」

 

 最後の試験―――というのは、藤襲山の最終選別のことだろう。

 薫はクスクス笑って訂正した。

 

「たぶん、始まる前に自己紹介とかはなかったと思うわよ。終わった後にならできたと思うけど……」

と、言いつつも、薫の時は薫以外に残った人間は重傷で、とても挨拶できる状態ではなかった。

 その後も結局誰が同期だったのか不明のままだ。

 

「じゃあ、やっぱり言うんだ! あ~あ、どうしよう? 俺の師匠は柱じゃないけど、柱並に強かったんです! って…どう言えばいいかなぁ?」

「グダグダ言ってないで、さっさと手を動かせよ、お前は!」

 

 守がとうとう怒鳴ると、三郎は「えー」と不満をこぼしながらも再びすりこ木を動かし始める。

 

「三郎くん」

 

 薫は切った小松菜を小鉢に盛りながら、正直者の弟弟子に話しかけた。

 

「はい?」

「剣士は志です。柱であれ、一介の隊士であれ、誠実な志を持っていれば、優劣は関係ないわ。まして育手がどうであったかなんて、大したことじゃないわよ。もちろん、私は先生に教えてもらえてよかったと思ってるけど。三郎くんは、どう?」

「あ……えと……」

 

 三郎がまごつくと、守が代わりにきっぱりと言う。

 

「俺は、篠宮先生についてよかったと思ってます」

「お……ぼ、僕も!」

 

 三郎も手を挙げる。

 ニコッと薫は笑った。

 できればあの鳴柱の弟子のように、元柱の弟子であることを鼻にかけるようにはなって欲しくないと思う。

 

 しかし少し気まずくなった空気に、薫は話題を変えて尋ねた。

 

「それにしても…昔の先生の話なんて、誰から聞いたの? 藤森の叔父様……は、そんなに詳しくはなかったと思うけど…?」

「あ…それは、元鳴柱だったっていうお爺ちゃんが言ってたんです」

 

 三郎はホッとした表情を浮かべて答える。

 ちょうど薫の内心で考えていた人と関連した人物が出てきて、少し驚いた。

 

「あら? 元鳴柱様って…えっと桑田…桑原…様だったかしら?」

「桑島様です。桑島慈悟郎様です」

 

 守が瞬時に訂正する。

「あぁ、そうそう」と薫は頷いてから驚いた。

 

「桑島様のところにもう行ったの? 早いわね!」

 

 薫の時は、とりあえず修行の総括と流派の違う人間と戦うことでの実地訓練という趣旨で行ったのだが、まだ入って一ヶ月ほどの守や三郎が行ったということは……

 

「もう他流試合をするなんて、守くんも三郎くんも、よほど優秀なのね」

 

 薫が感嘆をこめて言うと、三郎はきょとんとし、守は一瞬戸惑ってから「いや」と首を振った。

 

「違います。俺らはまだそこまで修行してないんで。たぶん、顔合わせだと思います」

「顔合わせ?」

 

 聞き返すと、守はチラと部屋の方を窺ってから、小さい声で話した。

 

「先生、具合が良くないみたいで。それで、俺らを最後まで育てられなかった場合に…って、一番近い桑島様のところに頼みに行ったみたいなんです。あ、別に教わるとかじゃなくても、とりあえず身元引受ってことで。ただ、桑島様の方が先生より年上だから、他に頼めって言われてましたけど」

「えっ? そうなの?」

 

 びっくりした様子で聞き返したのは三郎だった。

 守は鬱陶しそうに頷いた。

 

「そうだよ。だから未だに風の呼吸については特に教わってないだろ。基礎体力の向上だとか言って、やたら走り込みとか素振りとかばっか」

「あら。でもまだ一ヶ月目ならそんなものよ。体がしっかり出来ないと、呼吸だってまともにできないだろうし、まして風の呼吸は体を自在に動かせるようにすることがとても重要だから」

「そうなんですか? まぁ…どっちにしろ俺は桑島様の所に行く気はないんですけど」

 

 守は言いながら、鍋に浮いた煮干しを箸でつまんで、少し角の欠けた皿へと置いた。

 それを見ていた三郎はいつものことなのか、言われる前に棚から味噌壺を出して守に渡しながら尋ねかける。

 

「え? なんで? 面白いお爺ちゃんだったよ、あの人」

「桑島様に文句はないけど、あそこの弟子うるさいから嫌だ。やたら突っかかってくるし、鬱陶しそうで……」

「弟子?」

 

 薫が行った時にいた、あの弟子のことだろうか?

 しかしあれから三年以上経っているのだから、さすがにまだいるとは思えない。

 

 守と三郎はヒソヒソと話を続けていた。

 

「あぁ、あの黄色い髪の。まぁ……でも、悪い奴じゃないと思うよ」

「悪い奴じゃないかもしれないけど…ちょっと転んだくらいで大袈裟に泣き喚くし…面倒くさい」

 

 守は不機嫌な顔で味噌を溶いていく。

 どうやら薫の会った弟子とは違う子のようだ。

 だがそれより気になるのは、東洋一の具合が良くないということだった。

 

「先生は…そんなにお悪いの?」

「……俺らはまだここに来てから浅いからよくわかんないですけど…。森野辺さんから見てどうですか?」

 

 守が反対に尋ねてきて、薫は返事に窮した。

 前に訪れた時も、さっき玄関先で会った時も、見た瞬間に思った。

 年をとって痩せて―――衰えた……と。

 

「……そんなに変わらないとは思うけど」

 

 言いかけて守と目が合うと、薫が逡巡した数秒の間に何かしら感じ取ったらしい。ふっと目を伏せた。

 

「なんだぁ。じゃあ、大丈夫なんですね。念の為ってことかな? 年だし」

 

 三郎は暢気に言うと、止めていた手をまた動かして胡麻を擦り始める。

 薫は少し考えてから、守に正直に言った。

 

「ここに前に来た時にね、ちょうど弟子もいなくてお一人だったから……少しだけ気力が衰えられた気はしていたんだけど、でも守君達が来てくれたから、きっと元のように元気になられると思うわよ」

「………そうですか」

 

 守はうかない顔で返事をしてから、さっき煮干しを置いた皿に飯を軽く盛ると、勝手口へと向かう。

 

「おーい」

 

 声をかけると、ナー…と猫の声がした。

 黒と白の斑の猫が守が皿を置いたと同時に素早く煮干しに食らいついた。

 

「まぁ…いつから?」

 

 薫は思わず顔がほころんだ。

 

「俺らが入門したのと同じくらいに…三郎が拾ってきたんです。先生が出がらしの煮干しでもやっとけって言うんで」

「あらー、よかったわねぇ。なんてお名前?」

「ブチです。まんまなんですけど、先生がそう呼ぶんで…」

「わかりやすくていいじゃない。嬉しいわねぇ、ブチ」

 

 思わず猫に見とれていると、守がにおいに気付いてあわてて立ち上がる。

 

「あーっ、森野辺さんっ! 肉がっ、焦げるっ」

「あっ、ごめんなさい」

 

 あわてて薫は調理に戻る。

 二人が慌てふためくのを見て、三郎はゲラゲラ笑った。

 

 猫は煮干し飯をすっかり平らげると、満足そうにその場から立ち去った。

 

 

<つづく>

 

 

 







次回は2021.09.22.水曜日更新予定です。




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第九章 蛍火(二)

 守と三郎が寝た後、一人で晩酌をしていた東洋一(とよいち)に簡単なつまみを用意してから、薫は早速切り出した。

 

「先生の話から考えると、紅儡(こうらい)……鏑木(かぶらぎ)浩太(こうた)は、過去において二度、成敗されている……そう考えていいでしょうか?」

 

 東洋一はぐびりと猪口の酒を呷ってから頷いた。

 

「……だろうな。勝母(かつも)に浩太が……いや、もうあれは鬼となった…紅儡と呼ぼうか。紅儡が賢太郎を殺し、風の呼吸遣いを次々と殺して回ってると聞いた時には、もしかすると討ち損じたのかとも思ったが、思い返しても確かに儂はあいつの首をとった。正確には、首と右腕、だが」

 

「右腕…というのは、やはり鬼との戦闘で右腕を失ったことによる異様な執着がそういう特異な身体(からだ)を作り上げたのでしょうか?」

「おそらくな。右腕を失くして、足も不自由になって……相当に焦りを募らせたんだろう」

 

 薫は翔太郎のことを思い浮かべた。

 彼もまた右腕を失った。左腕も、あるいは後遺症が残るかもしれない。

 紅儡は、自分の味わった苦渋を翔太郎にも与えたかったのだろうか…? 

 

 陰惨な想像に薫は軽く息をついて、最初の話に戻る。

 

「勝母さんは、確実に殺したと言ってました。他の鬼と同じように塵となって消えた…その最後まで見届けたと。先生はそれができなかったのですよね?」

「あぁ。塵になりかけていたのを見ていて襲われたからな」

「上弦の……壱」

 

 東洋一は徳利から猪口へと酒を注ぐと、一口呑む。

 

「未だに、あの時のことを思い起こすと凍りそうになる。生きているだけ、奇跡だな」

「先生が一太刀すら届かなかったなんて、信じられません」

「正直、どうやってあの鬼と対峙していたのか記憶が朧でな。憶えているのは、もう確実に死ぬと思った瞬間に、浩太が………」

 

 言いかけて東洋一は眉を寄せる。

 

 あの時、自分を上弦の壱の凄まじい剣戟の刃から庇うように覆った肉塊。

 どう考えても、あれは浩太だった。

 だが、消えつつあった浩太にそんなことができたろうか?

 それに……なぜ鬼となった浩太が自分を助けた? まだ、人間としての精神(こころ)を保っていたのか? それとも今際(いまわ)(きわ)に本来の心を取り戻したのか?

 

 額を押さえて考え込む東洋一に、薫は顔を俯けた。

 幼い頃から知っている弟弟子の変わり果てた姿を見た時、どれほどに哀しかったことだろう。ましてその相手に刃を向けねばならぬという状況に、どれほど苦しんだか……。

 

 だが、そんな東洋一の苦悩など知らぬとばかりに紅儡は嗤っていた。

 

 ―――――あの篠宮東洋一の弟子だと!? なんという偶然だ…!

 

 まるでその運命を待っていたと言わんばかりに。より苦しみを与えることを悦ぶかのように。

 おぞましい鬼。疎ましい鬼。

 鬼狩りの誇りを捨てて鬼と成り果て、何度屠っても現れる……恨みと呪い。

 それでもまだあの鬼の中に、人間としてのひとかけらの断片があると、東洋一は信じているのだろうか……。

 

「浩太が…もし儂を庇って助けたのだとしたら、あの場には上弦がいたんだ。ただで済むはずもない」

「確かに……そうですね」

「いずれにしろ、儂は浩太……いや、紅儡の肉塊の一部が塵となって消えていくのは見た。死んだと見て間違いない、と思う」

 

「それから数年して、再び風の呼吸遣いを襲った。ということは、おそらく復活した。そう考えてよさそうです。問題は首を落としても死なぬ鬼であるならば、今後どうやって戦うべきなのか……」

 

「それだがな…。勝母は欠片も残さず消えたのを確認しているわけだ。だとすれば、一つの個体が何度も復活していると考えるのも無理があるだろう?」

「じゃあ、分身ですか?」

 

 その事は勝母とも話し合ったが、分身であるなら一度に集中して攻撃する…という最大の利点を活かさないことに疑問が生じる。

 時間をあけて襲われても、その都度、撃破すればいいだけなのだから。

 

 実際、昔から今に至る流れの中でも、結局東洋一にも勝母にも殺られている。

 薫は打ち損じたかもしれないが、再び目の前に現れれば粛々と成敗するだけだ。

 

「うーん……そうじゃなくてな」

 

 東洋一は否定すると、猪口の酒を飲み干す。

 

「双子や、三つ子というのがたまにいるだろう?」

「え? ……はい」

「あれらは分身じゃない。だが、まったく相似したものが二つ、三つあるわけだ」

「紅儡が、そうだと?」

 

 薫が首を傾げると、東洋一は遠い目をしながら話し始めた。

 

「…………昔、親父と旅をしてた頃にな、よく世話になった旅籠(はたご)があって、そこに双子の兄弟がいたんだ。奴ら不思議だった。片方が怪我をしたら、もう片方も痛くなったりして。一番驚いたのが、弟が山で迷ってな…山に遊びに行くなんぞよくやってたことだから、大人達は多少帰りが遅いなぁ…くらいで放ってたんだ。そしたら残された兄の方が『足の骨を折って動けない。沢の近くにいる』って、いきなり言い出してな。あわてて探してみたら、本当にその場所にいたんだ。足も折れてた。なんでわかったんだ? って兄に聞いたら、弟の目で見えているものが見えた……と、こう言うんだよ。不思議だろ?」

 

「……意識感覚を共有しているということですか?」

「よくわからんが…人間であっても、そういう不思議な性質を持ってるわけだ。紅儡が鬼となった時に、一体どういう変化が起きたのかは、知りようもない」

 

 ―――――鬼の(ことわり)などわかりようもない……

 

 勝母も同じことを言っていた。

 

 いずれにしろ、紅儡であれ何であれ鬼であれば斬って捨てる…という基本方針に変わりはない。

 ただ、もしそういう鬼が紅儡だけでなくなっているのならば……これからの戦闘においては随分と面倒になるだろう。

 首を斬っても死なぬ鬼など…どう対処していけばいいのか……。

 

 薫が考えていると、東洋一はふと思い出したように言う。

 

「それに、お前から聞いた姿形を聞いても全く同一とも言えない。儂の時には確かに右肩はひどく盛り上がってはいたが、目などはなかった。顔もまだ人間であった時の面影が濃く残っていたしな」

 

「そうですか。ではやはり、単純な分身とは考えられませんね。それに勝母さんに討伐されてから三十年近くが過ぎていることもおかしな話です。先生の話からすると、先生が討たれた後は、四年から五年で紅儡は再び姿を現して、風の呼吸の剣士達を次々に殺していっている。翔太郎くんのお祖父(じい)様も。その後、勝母さんに殺されて三十年近く沈黙していた。それがどうして今になって……」

 

 そのこともまた、紅儡という鬼の生態を含めて、誰にも答えられようのないことだった。

 

 東洋一はまた酒を猪口に注いで、一口含むと、溜息をついた。

 

「三十年も経れば、普通の鬼であれば人間としての記憶を失って、ただただ人の血肉を求めるだけなんだろうが、また風波見(かざはみ)家を襲うなど……よほど恨みが深いのか」

 

 暗い声でつぶやく東洋一の顔には、再び起きた惨劇へのいたたまれない後悔があった。

 きっと、三十年前、風波見家の墓を後にした時には全て終わったと、そう思っていたのだろう。

 しかし紅儡の悪夢は再燃し、東洋一は二度までも風波見家を―――ツネを騙してしまう結果になった。

 

 薫は慰めの言葉をのみこみ、あえて仕事としての話を続けた。

 

「先生のお話を伺う限り、鏑木浩太は精神を病んでいたとしか思えません。自分の利き腕を失ったことで絶望し、焦り、自暴自棄になった。その上で風波見家への恨みを持ったのは……」

 

 言いかけて薫は口を噤んだ。

 

 嫉妬……それは男女間なら、よくある話だ。

 昔から芝居でも、物語でも、それこそ陳腐なくらいに語られ尽くしてきた。

 

 その我儘で自暴自棄な葛藤は、他人も自分も傷つける。

 わかっていても、止めることができない。

 

 薫ですらも、それに囚われかねない状態の時はあった。

 いや、今だって心の奥底ではまだ燻っているのだろう。

 いつ何時、また燃え始めるかはわからない。

 

 誰かを好きになることと背中合わせに、『嫉妬』という醜い感情はべったり貼り付いているのだ。

 

 東洋一はフッと自虐的な笑みを浮かべた。

 

「儂はどこまでもあいつらを子供扱いしていたんだ。若いうちの恋なんぞ一過性の…風邪みたいなものだから、いずれ千代以外の女を好きになって、忘れればいいのだ、と軽く思っていた……。そこまで浩太が思い悩んでいるとも思ってなかった。まして……」

 

 ―――――千代と浩太にそういう関係があったなどとは、夢にも思わなかった。

 

 東洋一の沈んだ表情を見ながら、薫は深呼吸をして軽く頭を振った。

 今は風波見家の話だ。 

 

「先生は、紅儡が知っていると思いますか? その、晃太郎(こうたろう)さんが自分の息子だということを……」

「わからん。知っているかもしれない…という推測だな。事実として紅儡はあの後、風波見家を襲ってはいない。御内儀(ごないぎ)様との約定通りにした…ともとれるが、そもそも鬼が約束などしたところで、破ることに罪悪感などないだろう」

「ですが…私は疑問です。紅儡は今回、翔太郎くんを風波見家の子孫であるとわかった上で襲っているはずです。妹さんも…。自分の血を継ぐ者に危害を加えるでしょうか?」

 

 薫の問いに東洋一は眉を寄せる。

 確かに、翔太郎やその妹は浩太にとっては孫にあたる存在だ。

 知ってて手を下すには、躊躇する相手ではないか…?

 たとえ鬼となっても、最後には自分を助けようとしていた浩太の事を考えると、そこは確かに矛盾する。

 

 薫は冷静に分析していた。

 

「あるいは長い年月の中で、他の鬼と同様に記憶を失っていった…ということも考えられますが、私はあそこまで風波見家に対する恨みの深い紅儡が、そんな重大なことを忘れるとは思えないのです。それに紅儡に拉致された千代さんが、果たして話せるような状態であったのか……」

 

 東洋一はしばらく考え込んだ。

 確かに、あの賢太郎の書付を見た時にはそう思い込んだが、千代が浩太に子供の事を話したという確証はない。

 薫の言う通り、浩太はまだ知らないのかもしれない。

 

「ただ、そうなると何故、千代を攫った後に風波見家を襲わなかったんだ? 鬼殺隊と縁を切る約束など、意味があるとは思えんが…」

「それは……」

 

 薫は東洋一がそんな質問をすることに、少し驚いた。

 だが恬淡(てんたん)として、里乃とも割り切った付き合い方をしていた東洋一からすれば、浩太の抱えていた暗い感情は思い至らないのかもしれない。

 

「先生…紅儡からすれば、賢太郎さんを殺して、千代さんを攫ったことで、ほとんど復讐は終わっています」

「…………」

 

 東洋一は胸を衝かれた。

 言われてみれば、浩太が鬼となった最大の理由が千代に裏切られた…と、勘違いしたことにあるのなら、あの二人の死で恨みは果たせただろう。

 

 しかしそれよりも今、東洋一が驚いたのは、目の前にいる薫にだった。

 

 会った時から年不相応に落ち着いた、大人びた娘であったが、いつの間にか艶めいた陰影のある表情をするようになっていた。

 もはや一人の女と感じさせるほどに。

 

 ふと、脳裏に別の弟子の姿が浮かんで、東洋一の眉間の皺は深くなる。

 薫は東洋一の動揺を知らず、冷静な口調で話し続けた。

 

「単純に興味がなくなった……あるいは、紅儡にとっては風波見家から風の呼吸を奪うこともまた、復讐の一つだったのでしょう。だから、約束が守られる限りにおいては襲わなかった。けれど翔太郎くんが鬼殺隊に入ったことで、約束が破られたことを知り、激昂したのかもしれません。いずれにせよ…私の会ったあの鬼が鏑木浩太という、元隊士であることはわかりました。再び(まみ)えた時には、必ず滅殺します」

 

 冷たい眼差しで宣言して、薫は東洋一を見据える。

 

「あぁ…そうだな」

 

 東洋一は深く頷いて、笑いかけた。「そう怖い顔しなさんな。今更、紅儡を再びお前さんに討たれようと、恨みに思うことはない」

 

 薫もニコリと微笑む。

 

「色々と、話して下さってありがとうございました」

 

 東洋一は酒を一口含んで、くしゃりと笑う。

 

「年寄の長話だったがな。お前さんもよく飽きずに付き合うことだ」

「いえ、とても楽しかったです。勝母さんが、そんなに生意気だったなんて思いもしませんでした」

「儂だって、アレがあぁなるとは思わなかった。旦那がなんというか……特殊だったな」

「お会いになった事があるんですか?」

 

 確か、勝母の夫は医学博士で大学の教授だったと聞いている。おそらく東洋一が普通に生きている限りは会わない類の人間だろう。

 

「まぁ、な…」

 

 思い出して東洋一は複雑な顔になったが、フッと笑った。

 

「しかし、その旦那がいたお陰であいつは随分気は楽になったんだろう。父親の事も…儂がすっかり忘れて、外国(よそ)でウロウロしとった間に、自分でケリをつけてしまいよって。何も言わんかったが……考えるところはあったろう。結局、色々と事情があって、その後も鬼殺隊には残っていたが、そうできたのもあの旦那のお陰だろうよ。まぁ、当人は口が裂けても言わんだろうが」

「それは……是非、勝母さんから伺いたい話ですね」

 

 薫はクスッと笑ってから、ふと視線を落とした。

 

 父を―――親を殺す、という運命(さだめ)を自らに課して鬼殺隊に入り、柱という重責を担いながら、鬼となった父親を成敗する。

 苛烈なその人生を生きてきて、にもかかわらず、勝母には一点の曇りもない。

 透徹とした強靭な意志。

 そこに至るまでの苦悩の深さが、あのまごうことなき強さを生んだのだろうか…。

 

「上弦の壱にはこだわっていたが、あれは自分の見極めも出来たからな。かつてのように体が動かなくなってきた…衰えたと思ったら、すぐに柱を返上して隊を抜けた。下手に長く居続けて、儂の師匠のようになるのを避けたのだろう」

「そうなんですか? 私はお子さんができたからだと聞きましたが……」

 

「それは…そういえば、同じぐらいだったか? しかしなぁ、あいつは結婚しとっても続けてたんだ。もし、気力も体力も充溢していれば、きっと子供を産んでも続けておったろう。まぁ、いかな無敵の花柱も老いには勝てん……ということだ」

「フフ…今も無敵ですよ、勝母さんは」

「確かにな」

 

 同意して、東洋一は酒を注ぐ。

 薫は明日の準備をしようかと立ち上がりかけて、少し思案顔になった。

 

「あの…もう一つだけ伺いたいことがあります」

「うん?」

「鏑木浩太が…先生のお師匠様の子供でない…と確信していたのは、何故ですか?」

「それか…」

 

 東洋一はフと笑って、一口酒を含むと、また遠い目になった。

 

「…親父と旅してた頃、(とお)か十一ぐらいの頃かな……大熱を出した事があってな。その時にちょうど長崎から帰る途中だとかいう、物好きの医者が面倒見てくれたんだ。熱が下がってから言われた。もしかすると、子供はできんかもしれん…と」

「え?」

「なんでも、男がそのくらいの時期に高熱を出すと、子種がなくなることがあるらしいんだ。実際、儂はそうだったようだし……師匠にも昔、この話をしたら、自分もそうだろうと仰言(おっしゃ)っていた。師匠も同じ年の頃に高熱を出して寝込んだそうだ。囲っていた女に子供が出来たという話もついぞ聞かなかったしな……」

「…………」

 

 意外すぎる答えに薫はしばし固まった。

 だが、そうであるなら、ずっと疑問に思っていたことの答えがわかった気もする。

 

「……もしかして、里乃さんと結婚されなかったのも、それが理由ですか?」

「さぁ…忘れたな」

 

 東洋一はいつもの飄々とした顔で酒を呑む。

 

 薫はクスリと笑った。

 このとぼけた表情に隠している不器用さが、実弥と相通じるものがあって、実は似た者同士なのだと思う。

 

「なんじゃあ、意味深な笑い方しおって」

「だって、本当に二人とも似てらっしゃるから」

「似てる?」

「実弥さん…不死川さんに。二人とも不器用でお優しいです」

 

 そう言って立ち上がると、薫は台所に向かう。

 

「まだ寝んのか?」

「えぇ…簡単に、明日の下準備だけしておきます。守くんに教えておきますから。あの子、お料理上手ですね」

 

 相変わらずの働きぶりに東洋一は軽くため息をつくと、憂鬱な顔で酒を含む。

 庭を見れば、蛍が数匹くるくると回って闇の中で光を描いていた。

 

 しばらくすると鰹節を削る音が聞こえてくる。

 東洋一は酒を飲み干すと煙草を吸い始めたが、逡巡した後でゆっくり台所へと向かった。

 

「薫」

 

 柱に凭れながら声をかけると、薫は「はい?」と振り向く。

 

「お前さんに頼みがある」

「はい…なんでしょう?」

「実弥のことだ」

 

 薫の笑みに微妙なさざなみが揺れる。

 東洋一は煙草を吸うと、溜息まじりに煙を吐き出す。

 

「あいつも勝母と同じ境遇にある。親を殺した…という点においてはな。勝母はまだ自分で覚悟の上だったが、あいつはそれと知らずに母親を殺めてしまった。ある意味、勝母よりも葛藤は激しいだろう。実際―――ここに来てからも、何度も夜中に飛び起きとった……」

 

 

 

------------------------

 

「実弥! お前、何しとるッ!!」

 

 東洋一はあわてて実弥の持っていた短刀を奪うと、放り投げた。

 庭の修練場で自分の体を傷つけ、立ち尽くしていたのだ。

 

「馬鹿か、お前は。これ以上、自傷するなと言っとるだろうが!」

 

 怒鳴りつける東洋一に、実弥は暗い目で睨め上げる。

 

「うるせェ、ジジィ。俺はこうやって鬼共を殺してきたんだ。奴らは俺の血で酔いやがる。クラクラに酔わせて、滅多斬りにしてやって、縛り首にして木に吊るしたら……朝日の中でギャアギャア喚きながら消えていきやがる。いい気味だァ」

 

 半ば狂ったような残忍な顔で言う実弥を見ながら、東洋一は少しばかりこの弟子をとったことを後悔した。

 匡近からの頼みとはいえ、どうにも常軌を逸している。稀血で鬼を惹き寄せて殺すなど。

 

 鬼によって兄弟を殺され、恨み骨髄に徹するほどに鬼を憎む気持ちはわからなくもない。

 が、この自傷行為だけは、どうにも困り果てた。ここに来て一ヶ月になるが、何度言ってもやめない。

 

「お前、今の自分がどういう顔をしているかわかってるのか?」

「あアァ? なんだよ。鬼みたいだってか? 構わねェよ。鬼を狩る鬼がいてもいいだろうがァ」

 

 東洋一は眉間にギュッと皺を寄せると、実弥の頭を押さえつけるように掴む。

 

「そんな苦しそうな顔の鬼はおらん」

「……うるせぇッ! 離せ、ジジィッ!!」

「やかましい。いいか。お前が、何を思い悩んでいるかは知らん。だが、その馬鹿なことはやめろ。苦しいなら、吐き出しようは他にもあるだろうが」

「苦しんでなんかねェッ!!!!」

 

 実弥は頭を掴む東洋一の腕を払うと、逃げるように部屋へと戻っていった。

 

 その後も、何度か同じことを繰り返す。その度に東洋一は怒鳴りつけ、傷の手当をしてやる…という日々が続いた。

 

 久しぶりに実弥の様子を見に来た匡近と掛かり稽古をさせた時のことだ。

 

「すごい上達ぶりじゃないですか! よかったぁ…やっぱり師匠を紹介して正解でしたね」

 匡近が驚きながらも嬉しそうに言うと、

 

「そうかぁ? 儂ゃ、ここ二月(ふたつき)ばかし、野良犬の世話をしてる気分だがな」

と、東洋一は溜息をつく。

 

 何気なく実弥の方を見ると、東洋一をじいっと見つめていた。

 

「……何だ?」

 

『野良犬』扱いされ、怒っているのかと思ったがそうでもないようだ。

 東洋一をしばらく凝視した後、俯いてポツリとつぶやいた。

 

「……俺が殺した鬼は……母さんだった」

 

 無表情に見つめた先に見えていたのが何だったのか…。

 

 泣くこともなかったが、淡々と……兄弟達が鬼に殺され、生き残った弟をどうにか助けようとして、必死にその鬼を―――異形の者をやっつけようと、ただただ必死に、そこいらにある武器になりそうなもので滅多打ちにしたのだ……と、話した。

 

「朝になって…そいつが母さんだとわかった。分かった途端、朝日の中で消えていった。俺は……いまだにわからない。俺が殺したのが、鬼だったのか……母さんだったのか……」

 

 声は震えていたが、実弥は泣かなかった。

 もう、すでにその涙は涸れ果ててしまったかのようだった。

 

 東洋一が何か言う前に、匡近が走っていって抱きついた。

 

「実弥っ! ……お前、がんばったな! 辛かったな…苦しかったな…実弥!」

 

 慰めている匡近の方が号泣していた。

 東洋一は嘆息すると、ゆっくり歩いていって、実弥の頭をガシガシと乱暴に撫でる。

 

「お前、そういうことは早く言えよ。阿呆」

 

 ムッとした顔で実弥は東洋一を見上げると、「うっせェ、ジジィ」といつも通りの返事をした。

 

----------------------------------

 

 

 

「それから、自傷することはなくなったがな。結局、あいつは未だに許せてはいないんだ。自分が母親を殺したことを。匡近はお前のせいじゃない…と何度も言ってたみたいだが、こればっかりはな……当人の心の問題だからな」

 

 薫は返事ができずに、その場で固まったまま俯いた。

 

 実弥が葛藤をかかえていることぐらい、想像できたのに、どうしてあの時、自分はわざわざ傷口を抉るようなことを問うてしまったのだろう。

 

 ―――――志津さんは、鬼になったのですか?

 

 わざわざ聞かずとも、もうわかっていたのに。

 実弥本人でなくとも、東洋一なりに尋ねればよかったのに。

 

 自分の鈍感さと無神経な憐憫に、ほとほと嫌気がさす。

 東洋一はそんな薫の姿を見ながら、「すまん」と頭を下げた。

 

 薫は不思議そうに東洋一を見つめる。

 

「どうして、先生が謝られるんですか?」

「お前さんにこんな事を頼むのは、本当なら、筋違いかもしれん。本当なら……お前さんは実弥(アイツ)を恨んでおっても、おかしくはないだろう……」

 

 そう言われて、薫の顔に緊張が走った。思わず視線を伏せる。

 

 東洋一はおそらく知っている……のだ。あの日、何があったかを。

 

「もし、あいつを許せるなら……助けてやってほしい」

 

 東洋一が申し訳無さそうに言って、再び頭を下げる。

 薫はしばらく見つめていたが、少しだけ近寄ると、なるだけ優しい声で言った。

 

「先生、そんなの…当然ですよ」

 

 東洋一が顔を上げると、淡い微笑を浮かべた薫が前に立っていた。

 

「ここで実弥さんに再会した時から、実弥さんを助けることができれば…って、思ってましたから。ただ、残念ながら、あちらでは必要としてらっしゃいませんけど」

 

 少しおどけるように言うと、東洋一は眉をしかめて苦笑する。

 

「素直じゃないからな、あいつは」

 

 薫はフフッと笑った。

 

「そうですね。でも、そういう所も含めて、私は実弥さんが好きです。ずっと昔から」

 

 さらりと言う薫に、東洋一は一瞬呆けたようになった。

 

 薫は踵を返すと、再び調理へと戻る。

 東洋一はその背に向けて問いかけた。

 

「お前さん、そのこと、実弥に言ったのか?」

「いいえ」

 

 薫は振り返ることなく、手を動かしながら答える。

 

「言わんのか?」

「ええ……言う気はありません。知ってもらおうと思いませんから」

 

 さっき好きだと認めたのと同じように、きっぱりと薫は言い切る。

 東洋一は困惑した。

 

「なんでだ?」

「言って…どうなるものでもないですし。この気持ちは、私だけのものでしかありませんから」

 

 大葉を千切りながら、薫はなんでもないことのように言う。最初から自分の気持ちを成就させようという気はない、とばかりに。

 

 鬼殺隊にいる以上、恋愛など二の次三の次だ。

 それは真面目な薫であれば尚の事。だから初めから諦めているのか…?

 

「…………」

 

 東洋一は何も言えないまま、そっとその場を去っていく。

 

 コツ、コツと義足が廊下に響く。

 歩きながら、東洋一は考えていた。

 

 ―――――これは……どちらも同じものなのだろうか?

 

 手に入らぬと足掻いて、藻掻いて、外道となっても執着した浩太と。

 求めもせず、決して悟られず、秘めて隠して、忍び続ける薫と。

 

 同じ恋と呼ぶものなのに、あまりに違う。

 だが二つともひどく苦しく熱い。

 

 その熱に()んだ東洋一の視線の先で、蛍が露草の上を飛び回っていた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 







次回は2021.09.25.土曜日の更新予定です。





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第九章 蛍火(三)

 翌朝、薫は出立した。

 

「一目ぐらい会って行けばええだろうに…」

 

 今日にも実弥達が来るので、東洋一(とよいち)は名残惜しそうに言ったが、薫がやんわりと断るのは予想していた。

 

「一度、藤森の叔母様達にもご挨拶していこうと思いますので…」

 

 昨日、守から言われていたので、律儀に訪問してから帰京するらしい。

 

「また来て下さいね~」

 

 三郎が暢気に手を振っている横で、守は神妙な面持ちだった。

 

「守くんも、頑張ってね」

 

 声をかけるとコクリと頷いて、真剣な顔で三郎と同じ事を言う。

 

「また、来て下さい。あの……先生が」

「儂がなんだ?」

 

 東洋一が不思議そうに守の顔を覗き込む。

 守は言いかけた言葉をのみこんだ。

 

「……森野辺さんが来たら、先生が楽しそうなんで」

「なんじゃ、ソレ」

 

 東洋一は首を傾げたが、薫は守に分かった、と目で笑いかけた。

 

「ええ……またね」

 

 手を振って三人と別れを告げてから、朝の畦道を歩いていると、背後から大きな声で呼びかけられる。

 懐かしい名前で呼ばれて、一瞬、薫は自分のことだと認識するのに間があった。

 

薫子(ゆきこ)ちゃーんっ!!」

 

 振り返ると、加寿江(かずえ)が走ってくる。

 薫は満面の笑みを浮かべた。

 

「加寿江さん!」

 

 息せきって駆けつけた加寿江は、ガバリと薫に抱きついた。

 

「もー、帰ってくるなら教えてよーっ」

「す…すいません」

 

 加寿江は薫から離れると、じいぃと上から下まで眺めた後、ニッコリ笑った。

 

「よかったよかった。無事に元気でやってるみたいで」

 

 実家が藤家紋の家であったことから、幼い頃から鬼殺隊士を見てきた加寿江は、そこで五体満足に生きて戦い続けることが、どれだけ困難なのかを知っているのだろう。

 

「はい。どうにか」

 

 薫がはにかんで答えるとバンバンと肩を叩いた。

 

「もーっ、らしいこと言っちゃってーっ」

 

 元から大柄だったが、子供を産んでまた一回り大きくなった気がする。

 容赦なく叩かれると、日頃から鍛えている薫をしても、やや足元がよろけた。

 

「か、加寿江さん。あの……ご実家に何か御用がおありだったんですか?」

「え? そりゃあるわよ。昨日、薫子ちゃんが先生の家に来てるみたいだって、聞いてさぁ。もう、これは朝一番で先生のとこに行って、一目会いに行かなきゃ…と思って」

「え? わざわざ私に会いに来て下さったんですか?」

「そりゃ、そーよー。もう、早起きしてやることやって、飛んできたんだから! さ、まずは実家(ウチ)に行って、それから私の家にも来てよ! 子供達、見てもらいんだからさ」

「え……?」

 

 薫はしばし固まった。

 今日は久しぶりに藤森家にご挨拶に行ったら、その後には京都へと帰るつもりだったのだが…。

 

 薫の心積もりを察したのか、加寿江は途端に剣呑な表情を浮かべる。

 

「見ないの? 見たくないの? ウチの子……三番目は今、ハイハイ始めて可愛い盛りだわよ~」

「……ずるいでしょう…それ」

 

 薫は思わず渋い顔になる。

 加寿江はハハハッと笑った。

 

「薫子ちゃん、昔から赤ちゃんに目がないもんねぇ。大好きだもんねぇ、赤ちゃん」

 

 加寿江の言う通り、赤ん坊には滅法弱い。

 あどけない顔も、滑らかでもっちりした頬っぺたも、なによりも赤ん坊特有の、どこか獣臭く、甘いあの匂い。

 

「はい、じゃー行くよ!」

 

 加寿江は薫の手を掴んで、さっさと歩いていく。

 

 相変わらず、人の顔色を窺うことなど考えもしない、勝手気侭なお嬢様気質。

 それでも不思議と一度も、嫌な気分にはなったことはない。

 今も、むしろ結婚して母となっても変わらずにいてくれる加寿江にホッとしている。

 

 一応、上を向けば祐喜之介(ゆきのすけ)は悠揚と飛んでいる。

 どうやら今の所、急な任務が入った様子もない。

 まだ朝であるし、時間はある。

 

 久しぶりに呼ばれる「薫子」という名前に懐かしい気持ちになりながら、薫は加寿江に手を引かれて歩いて行った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「なんだ…? やけに長いな」

 

 匡近は首をかしげた。

 

 かれこれ三十分近く、汽車が止まったままだった。

 ちょうど通りかかった車掌に尋ねると、昨日の土砂降りのせいで地盤が緩んで線路上に倒木があったらしく、それを取り除いているらしい。

 

「やれやれ。この分じゃ、着くのが夕方くらいになっちゃうな」

「仕方ねぇだろうがァ。だいたい、なんでまた行くんだよ。俺まで」

 

 実弥は腕を組んだまま、むっすりと匡近を睨む。

 

「だって、師匠ができれば一緒に来いって言うしさ。それにお前、まだ見てないだろ? 師匠の若い時の写真」

「はァ?」

「薫が見つけてきたらしいんだけど、笑っちゃうぜ。髪の毛がふさふさで」

 

 現在の、やや頭髪が寂しくなってきた東洋一からかけ離れた昔の姿に、匡近は最初見た時、笑いを隠せなかった。

 気付かれた東洋一に、すぐさま額を指で弾かれた後、こめかみを拳骨でグリグリされたが。

 

「……ジジィの若い頃の写真見て、なんだってんだ」

 

 白けた様子で言う実弥に、匡近はニヤニヤと笑いかける。

 

「へー、じゃ見なくていいのか?」

「………」

「師匠の師匠って人も一緒に写ってたんだ。ホラ、前に引退間際の隠のお爺さんが話してくれたろ? 伝説の風柱って呼ばれてた…って」

 

 隊士になって間もない頃に、稀血で鬼を()び寄せては殺すことを繰り返していた実弥を、気にかけて世話してくれた老隠がいた。

 元々は隊士になるべく修行していたが、選別で鬼と対峙する中で隊士としてやっていく自信を失くし、隠となって数十年、鬼殺隊に奉公していると言っていた。

 もう今は引退して、どうしているのか不明だ。

 

「写真なんぞ見たって…何もわかんねぇだろうがァ」

「そりゃ、そうだけど。興味はあるだろ?」

「………うるせぇ」

 

 実弥はそれきり腕を組んだまま目を瞑った。

 どっちにしろ、匡近は見せる気ではいた。普段から怒ってばかりいる実弥を、笑かすことなど、そうそうないのだから。

 

 ふと、実弥が目を開く。

 

「おい」

「ん? なんだ?」

「なんであいつがジジィの若い時の写真なんぞ見つけるんだよ」

「あいつ?」

「…………」

 

 名前を言わない実弥に、匡近は一瞬眉を寄せた後、思い至って軽くため息をつく。

 ……ホントにいちいち面倒臭い。

 

「薫? ホラ…前に会っただろ? あの~、風波見(かざはみ)家の末裔っていうか…風見(かざみ)翔太郎(しょうたろう)。あいつの家に行ったらしいよ」

「ハァ?!」

 

 明らかにイラッとした様子で聞き返してくる実弥をジロリと見て、匡近は言い返す。

 

「なんでお前が怒るんだよ」

「………怒ってねェ」

「嘘つけ。顔に出過ぎなんだよ、お前は。ちょうど東京に墓参りで戻る時に一緒になったらしいよ。元は風の呼吸の宗家だった訳だし、興味があったんだろ。まぁ、あんまり大したものはなかったみたいだけど。風見の妹と仲良くなったとか言ってたよ」

「……フン」

 

 鼻息を鳴らして、実弥は再び目を瞑って背を凭せかける。

 その様子を匡近は苦い気分で見ていた。

 

 ―――――私は、実弥さんの何者にもなれませんから。

 

 こういう態度だから、薫に勘違いをさせるのだ。

 他人から見ればわかりやすいのに、どうして当人同士はこうも鈍いんだろうか。お陰で傍で見ている匡近ばかりが、渋い顔をする羽目になる。

 

 しばらく無言で車窓の景色を見ていると、ポツポツと雨が降り出した。

 

「………実弥」

 

 匡近は呼びかけたが、実弥は目を開かない。

 

「俺、薫が好きだ」

 

 思わず口走ってから、匡近は自分がずっと溜め込んでいたものの正体を知った。

 すうっと実弥が目を開き、横目で匡近を見つめた。

 沈黙が続く中、匡近はどっと背中から汗が噴き出るのを感じていた。

 

「あ………」

 

 いつものように笑いにして胡麻化そうとしかけると、実弥がボソリと言った。

 

「……だろうな」

「え?」

「見てりゃわかる」

 

 匡近はしばらく呆けた後、じわじわと恥ずかしさが襲ってきた。

 

「お、お……お前に言われたくないっ!」

 

 真っ赤な顔で怒鳴りつけると、立ち上がって車両から出て行く。

 

 怒って立ち去る匡近の後ろ姿を見ながら、実弥は無意識に拳を握りしめていた。

 

 あの日―――まだ、春になる前に訪れた大阪の道場で、久しぶりに薫と再会した。

 たるんだ男共の雰囲気を一掃するために、薫と打ち合った後、偶然に道場裏にある小さな川のほとりで匡近と薫が話しているのを見かけた。

 

 何を話しているのかはわからなかったが、動揺した様子の匡近の手を、薫が包み込んで笑いかけているのを見た時に、心の奥底に冷たい風が吹いた。

 同時に、諦めに似た感情で『あの二人が一緒になるなら、一番いい』と思う自分もいた。

 

 匡近は十分に信用できる男だ。

 きっと、薫を幸せにする。

 悲しませることも、傷つけることもないだろう。

 

 実弥に遠慮して今まで言わなかったのなら、馬鹿なことだと思う。

 もう、薫に許される余地など自分にはないのだから。

 

 ふぅ…と息をつきながら、実弥は再び目を瞑った。

 これでいよいよ薫にはなんとしても隊を抜けてもらわねばならない。そうして匡近と一緒になって、普通の…市井(しせい)の生活に戻ってもらう。

 それでいい。

 それが一番……いいことだ。

 

 心の中で念じるように言いながら、実弥はまだ拳を握りしめたままだった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 藤森家に挨拶した後、すぐさま加寿江の婚家を訪れた薫は、そこですっかり小さな子供達に魅了されて時間を過ごしてしまった。

 気付けば、昼過ぎである。

 あわてて出ようとすると、雨が降り始めた。

 

「はぁぁ…こりゃ、本降りかなぁ?」

 

 縁側から暗く広がる空を見つめて、加寿江が溜息まじりに言う。

 

「これぐらいなら、駅まで行けないこともないので……。すっかり長居してしまって、すいません」

 

 加寿江の義母はやさしく、心配そうに声をかけた。

 

「まぁ、そんな。こんな雨の中を歩いたら、風邪をひくよ」

「大丈夫です。これくらいは」

 

 言いながら玄関へと向かう薫に、昼寝をしていた加寿江の息子・宗介が声をかける。

 

「薫子ねぇね、帰るの?」

 

 目をこすりながら歩いてくる宗介に薫は笑って、頭を撫でた。

 

「えぇ。お邪魔しました。一緒に遊べて、楽しかったわ」

 

 ボンヤリした顔で、宗介は手を振ると、加寿江に問いかける。

 

「母ちゃん、喜介は? もう起きたの?」

「えぇ? 寝てるでしょ」

 

 加寿江が言うと、宗介は首を傾げた。

 

「いないよ」

「え?」

「布団にいなかったよ」

 

 加寿江の顔にサッと緊張感がはしった。

 

「やだ! あの子また、勝手に……」

 

 慌てて加寿江は奥へと走っていく。

 薫がきょとんとしていると、義母がやれやれとつぶやいた。

 

「喜介は元気だねぇ……前も勝手に起きて這って這って縁側まで行ってねぇ…もう少しで落ちるとこだったんだよ」

「あら……大丈夫かしら?」

 

 薫は思わず心配でその場で立って待っていた。

 そのうち加寿江が喜介を抱っこして連れてくるだろうと思っていたのだが、いつまでたっても姿を現さない。

 

「………」

 

 ピリピリとした空気を感じたと同時に、外で祐喜之介がけたたましく啼いた。

 

「鬼ィィ!」

 

 すぐさま薫は外へと飛び出る。

 祐喜之介の飛ぶ方向へと向かうと、庭で呆然とした加寿江が雨に濡れたまま突っ立っていた。

 

「加寿江さんっ!」

 

 薫が声をかけると、ゆっくりと振り返る。

 見たこともないほどに真っ青な顔だった。

 

「ゆ……きこちゃ……鬼……鬼が……」

「喜介くんは!?」

 

 加寿江は生け垣の向こうへと続く雑木林を指差した。

 

「鬼が……鬼が……」

 

 言うなり、すとんと倒れ込む。

 薫は加寿江を抱きとめると、ちょうど酒蔵から出て来た加寿江の夫に託した。

 

「あの……何が?」

 

 さすがに尋常でない事態が起きているらしいことを察して尋ねてこられ、薫は短く告げた。

 

「鬼が現れました。喜介くんを連れ去ったようです。すぐに向かいます」

 

 驚いている様子を見る間もなく、薫は走り出す。

 

 雨がますます強くなってきていた。

 雑木林の中は薄暗かったが、さほどに広くもない。

 よく手入れされているとみえ、草はさほど伸びておらず、間隔の空いた木立の中で薫はすぐに鬼を見つけた。

 

 十尺はある大きな鬼だ。

 どこに向かっているのか背を向けて走っている。

 肩から伸びる手に加えて、背中からも手が二本。合計四本の腕。

 二本の腕は上に挙げて、赤ん坊を天に捧げるかのように持っていた。

 

「ふぎゃああああぁぁ」

 

 甲高い泣き声が雨の中で響く。

 この大雨の中で、あんな小さい体では、どこまで保つか。

 時間が経つほどに体温を奪われるだろう。

 

 ギリ、と歯軋りして薫は息を吸い込みつつ、腰の刀に手をかける。

 

 鳥の呼吸 肆ノ型 円環(えんかん)狭扼(きょうやく)

 

 ブン、と振った二つの刀から放たれた刃が、赤子を持ち上げる二つの腕に絡みつき捻り切る。

 すぐさま両方の刀を鞘に納め、薫は跳躍した。

 手を差し伸べて、落ちようとしていた赤ん坊を抱っこして着地する。

 

 鬼はゆっくりと振り返ったが、そこに顔はなかった。

 ひゅるひゅると妙な音がすると思ったら、背後から殺気を感じ、その場から横へと飛んで避ける。

 視線の先で鬼の首がぐにゃりと曲がって、その顔がこちらを向く。

 

 薫は息が止まった。

 

 ろくろ首のようなクネクネした首の先にある顔。

 忘れようもない、あの隈取の鬼。

 

「…っき……さま……紅儡(こうらい)ッ!」

 

 喉を詰まらせながら叫ぶと、紅儡はニイィィと笑みを浮かべた。

 

「東洋一の弟子か……」

 

 薫はその場で構えようとしたが、赤子を抱いたままでは難しかった。だからといって今、手放せば再び紅儡に奪われてしまう。

 そんな薫の様子を紅儡はますます(わら)って眺める。

 

「ヘヘヘヘ、赤子を抱いて戦えぬだろう?」

 

 薫は必死に自分に言い聞かせた。

 

 焦るな。必ず、どこかに勝機はある。

 殺せずとも…この場を凌ぐことさえできればいい…。

 

 赤子を左腕で抱えて紅儡を睨みつける。

 スイイィィ、と深く息を吸い込みながら、右手だけ柄に手をやる。

 

 血鬼術を繰り出そうとした紅儡が手を挙げたその時。

 薫は最速の呼吸の技を繰り出す。

 右手に持った大刀が鞘走ると、凄まじい速さで鬼に迫った。

 

 鳥の呼吸 漆ノ型 磐穿喙(ばんせんかい)

 

 一の太刀で紅儡の腕を薙ぎ斬るや、ほとんど溜めの動作もなくその胸を突く。

 

 弐ノ型である破突(はとつ)連擲(れんちゃく)から派生させた突き技であった。

 素早い突き攻撃で複数回を刺すことを目的とした弐ノ型と違い、漆ノ型は一突き。

 その代わり、渾身の突き攻撃において、薫が目的としたのは刀を通じて熱と重さを持たせること。

 

 刀をグルリと捻じり、肉を抉り取る。

 紅儡の右胸に大きな穴が空いた。肉の焼ける臭いが辺りに漂う。

 

 ウガアアァァァッッ!!!!!!!!

 

 紅儡は咆えるような悲鳴をあげた。

 首をグネグネと動かしながら、再び襲ってくる。

 

 薫は咄嗟に体をひねりながら飛び退いた。

 しかし片手に赤ん坊を抱いているので、うまく立ち回れない。

 跳び上がって攻撃を避けたものの、体勢を崩して地面に転がった。

 

 咄嗟に右手を上に上げたのは、刀で腕の中の赤子を傷つけないためだ。

 すぐに立ち上がろうとして、右足に痛みが走る。

 ふくらはぎの部分が噛まれて肉が抉れていた。

 

「……ッつ!」

 

 呼吸で噛まれた部分の肉を縮めて一時的に止血しようとして、薫は顔を顰めた。

 頭が痛い……

 

 一方、紅儡はなかなか回復しない胸の穴を真正面から見ながら、ガチガチと歯を鳴らした。

 

「……駄目だ、駄目だ……なんだ? コレは…なんなんだ……?」

 

 言いながら首がすぼまっていく。

 よく見れば、右肩はあの時と同じに異様に盛り上がっており、やはり紅い目が一つ、ギロリとこちらを睨んでいた。

 

 薫は次の攻撃へ備えたが、紅儡はこちらを向くことなく、いきなり跳躍すると、雑木林の木々の間を飛び跳ねて逃げていく。

 呆然とした次の瞬間には気付いた。

 紅儡の向かう先――――

 

「……まさか」

 

 傷を負った痛みすら忘れて立ち上がる。

 

 そのまま歩きかけて、腕の中で赤ん坊が「ふ…ぎゃ」と弱々しく声を上げた。

 薫はまじまじと赤子を見つめて、再び紅儡の消えた先へと視線をやった。

 既に姿はない。

 

 わなないてから、薫は赤ん坊をギュッと抱きしめた。

 このまま紅儡を追うことはできない。

 

 これ以上濡らさぬようにと体を丸めて、赤ん坊を懐の中に抱き、加寿江の家へ走った。

 ビショビショになった薫と、ぐったりした様子の我が子に、加寿江は声を上げて泣いた。

 

「暖めてあげて。お願い」

 

 短く言って、薫はすぐさま飛び出していく。

 

「薫子ちゃん!?」

 

 加寿江が叫んだが、薫は振り向くことなくひた走る。

 

 紅儡の向かう先には、東洋一の家がある。

 飛び跳ねる心臓の鼓動と、「まさか、まさか」という心の声が重なる。

 

 なぜ? 今になって?

 あの時、上弦の壱の攻撃から、東洋一を助けたのではなかったのか?

 最期の最後で、結局、兄と慕った東洋一を救おうとしていたのではなかったのか…?!

 

 

 雨はますます強くなって、果てなく続く道を白く(けぶ)らせていた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 







本日、無限列車に乗車していた為、更新が大幅に遅れてしまったことをお詫び致します。
次回は2021.09.29.水曜日に更新予定です。




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第九章 蛍火(四)

「おーい、おーい、おーい……あれ?」

 

 いつもなら二回も呼べば姿を現す(ブチ)が来ない。

 

 三郎は勝手口の軒下から、辺りを見回した。

 雨がさっきよりも強くなっている。猫は濡れるのが嫌いだというから、どこかで雨宿りしているのだろうか?

 

 傘を差して裏庭の方へと向かうと、フギャアーッと威嚇する猫の声が聞こえた。

 

「なんだよぉ……えらく怒ってんなぁ」

 

 三郎はやれやれと声のする方へと向かって、そのまま立ち尽くした。

 

 目の前に、明らかに異形の生き物がいる。

 十尺はあろうかという巨体。大雨の中でも(うごめ)く朱色の髪。クネクネと動くろくろ首。

 右肩は不自然に盛り上がって、その肩には紅い目が光っている。

 

 ギャアーッ! と猫は四肢を踏ん張って威嚇していたが、鬼はニヤアァと(わら)うと、長く伸びた腕を振るうなり、その鋭い爪で猫の体を真っ二つに刻んだ。

 

 三郎は身動きできず、声も上げられない。

 体が硬直して、傘を持ったまま手だけがブルブル震えた。

 

 鬼の首が間近まで来て、問いかけた。

 

「お前…篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)の縁者か?」

 

 三郎は喉が詰まって答えられない。

 東洋一の名前を聞いて、かろうじて「し、ししょ…ぉ……」と掠れた声でつぶやくと、鬼は再び嗤う。

 

 次の瞬間には太く固い腕で体を掴まれ、鬼の頭上へと捧げるかのように持ち上げられた。

 圧迫された痛みで傘が手から落ちた。

 雨粒が容赦なく三郎を打ちつける。

 

 振動を感じて下を向くと、鬼の背中から手が二本メキメキと生えてきた。

 

 確実に、自分は死ぬんだと三郎は思った。

 

「うわああああぁぁぁ!!!!」

 

 ようやく声が出た。同時に涙も出てくる。

 

 台所で兄弟子達に出す料理を作っていた守は、その叫び声を聞くなり、母親を殺された日を思い出した。 

 明らかに異常を感じ、あわてて声のした裏庭へと急ぐ。

 

 鬼の姿を見て、三郎のように声を失って立ち尽くした。

 自分が見たものとは違う。だが、それは紛れもなく鬼だった。

 守は東洋一を呼ぼうと口を開けたが、喉が乾いて声にならない。

 

「やれやれ……噂をすれば…鬼を呼んだか……」

 

 固まっている守の背後から、つぶやいて東洋一がゆっくりと歩いてくる。

 ポン、と守の肩を叩くと、低く囁くように指示した。

 

「駅に行け。そろそろ匡近達が着いているはずだ。鬼が出たと…」

 

 守はコクコクと何度も頷くなり、踵を返して走り出した。

 

 東洋一は雨の中で佇立する鬼の姿をまじまじと眺めた。

 その面貌に昔日の面影はもはやない。

 ただ異常に盛り上がった右肩だけが、鬼が彼であることを示している。

 

「………ずいぶんと、醜い姿になったもんだな」

 

 東洋一がつぶやくと、紅儡(こうらい)はゲラゲラと嗤った。

 

「貴様こそだろうが、篠宮東洋一! なんだ、その老いさらばえた姿は! 見えるぞ! 貴様、病に冒されているだろう。もはや技を放つこともできまい!!!」

 

 東洋一は薄く笑った。

 

「あぁ、そうだな。こんなジジィ相手に人質はいらんだろう? ウチの弟子は離してやってくれ」

「ハハッハハァ! 手も足も出んだろうなぁ!?」

 

 哄笑する紅儡の前に立って、東洋一は刀を抜いた。

 

「貴様に剣士であったという記憶が一分たりと残っているなら、その子を離せ」

「ヒヒヒヒヒ」

 

 紅儡は口の端を異常なほどに吊り上げると、盛り上がった右肩から出た手を前方へと出す。

 

 グチュグチュと肉の蠢く音とともに、肉が割れ、血管を裂きながら、刀が現れる。

 正確には、かつて刀であったもの、だ。

 刀身は紅儡が作り出したらしい緑色の血管が絡みついて、既に銀色の輝きすら失っている。

 

 紅儡はその(つか)をしっかりと握ると、東洋一の方へと刀身のある部分を見せつけた。

 刀身の下の部分に彫り込まれた『悪鬼滅殺』の四文字。

 それがあるということは、柱の証である。

 

 紅儡は刀を持って得意気にせせら笑う。

 

「見ろ、東洋一。貴様には永遠に持てなかったものだ」

「どこで……」

 

 手に入れた? と尋ねかけて、東洋一は口を噤んだ。

 風波見(かざはみ)家が襲われたことを思い出す。

 おそらくはその時に周太郎の刀を奪ってきたのだろう。

 

「刀を持ったぐらいで柱に及ぶとでも思っているのか? 相変わらず、哀れな奴だな」

 

 東洋一は溜息をつくと、ゆっくりと全集中の呼吸を始めた。

 紅儡はギリギリと歯軋りすると、刀を振り上げる。

 

 霞の呼吸 参ノ型 霞散の飛沫

 

 雨を巻き込んで繰り出されたその技を、東洋一は体をねじって避けつつ、自らも技を繰り出して相殺する。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 雨と土が混じった剣戟が一旦収まると、双方が間合いを取ってにらみ合った。

 

 紅儡の頬と肩が切れていたが、ニヤリと嗤う間に修復する。

 東洋一の太腿からは血が流れていた。完全に避けきれなかったのだ。

 グッと喉の奥が詰まったのは、紅儡からの攻撃によるものでなく、自らの技によって内臓に無理が生じたせいだろう。

 

「ハハッハハァ!! いいザマだな! 東洋一」

 

 紅儡はずぶ濡れになって固まっている東洋一を見て、高笑いした。

 

「俺が哀れだと? 哀れなのはお前だ! 所詮はあの男に利用されただけだろうが! 奥義も教えてもらえず、柱も賢太郎に譲るしかなかった……哀れなのは、お前だ! 篠宮東洋一」

 

 東洋一はまだ静かに呼吸を続けていた。

 刀を中段に構えたまま、じいぃと紅儡を見つめる。

 その目には何の感情もない。

 

 目が合った紅儡はビクリと震え、混乱した。

 なぜ、自分は怯えている…?

 

「一つ、聞く」

 

 東洋一が低い声で尋ねた。

 

「千代は……どうした?」

「千代ォ?」

 

 紅儡は首をかしげる。

 一瞬の後、思い出した顔は一気にドス黒くなり、目には剣呑な光が閃く。

 

「……あの女…あの女……」

 

 つぶやく声は小さく、目の前にいる東洋一すらも見てないようだった。

 

「千代は…話したのか? 真実を」

 

 東洋一が静かに尋ねると、紅儡はギロリと睨みつけた後、クッと片頬を引き攣らせた。

 

「……あァ…聞いたよ。すべて、みんな…」

 

 ギリ、と東洋一は歯噛みして、紅儡を睨みつけた。

 

「わかっていて…襲ったのか? 再び、風波見家を襲って……子を殺したのか!?」

 

 震える声で叫ぶ東洋一を、紅儡はしばらく凝視していた。

 それから、ゆっくりと……嗤った。

 

「そうか。お前も…賢太郎と一緒か……」

 

 ククク…と喉を鳴らしながら、つぶやく。

 怪訝に眉を寄せる東洋一を見て、紅儡は耐えきれぬようにケラケラと哄笑した。

 

「哀れよなぁ……お前も賢太郎も。本当に、哀れな奴らだ」

「……どういう意味だ?」

「………」

 

 紅儡はその問いには答えなかった。

 代わりに、

 

「千代をどうしたのか……教えてやろうか?」

 

 うっすらとした笑みを貼りつかせて、東洋一を見下ろす。

 

「さんざん痛めつけて十日ほど放っておいたんだ。目に(うじ)虫がわいて腐り始めた。………食べてやったよ。ちょうどウマい頃合いだった。……ハハハッ」

 

 陰惨なその状況を聞いて、東洋一が激昂することはなかった。むしろ無表情に凝り固まった。

 ザリ、と右足が一歩前に出る。

 

 途端に紅儡の体が勝手にビクリと震えた。

 まただ…!

 内心で苛立ちながら、足元から這い登ってくる、ありえない感情にカチカチと歯が鳴る。

 

「いっ、いいのかッ!? お前の弟子がどうなっても!!! 技を放てば、この弟子諸共微塵となるぞッ!!?」

 

 東洋一は刀を八相に構えながら、その時になって初めて微笑を閃かせた。

 

「殺されて……何度甦ってこようが、お前は儂を憶えとるんだな。儂に振るわれた剣を、お前の心が忘れても、お前の血も、肉も、骨も……憶えて……怯えている」

「うッ、うるさいッ! うるさいうるさいうるさいうるさいッ!!! 来るな! お前の弟子を……お前の弟子がどうなっても…!」

 

 紅儡は必死で叫びながら、ギリギリと三郎を強く握りしめていく。

 

 東洋一は刀を持つ手に力を籠めた。

 睨みつけるその先にいるのは、鬼。

 かつて共に戦った仲間。

 一度、殺したはずの…弟とも思った……家族。

 

「浩太」

 

 懐かしい名前で呼ぶと、紅儡の顔が真っ赤に染まる。

 

「その名で俺を呼ぶなぁッ!」

 

 だが東洋一は過去を懐かしむ気はない。今、もっとも腹立たしいのは―――…

 

「お前が………飛鳥馬(あすま)の技を遣うな…!!」

 

 叫ぶなり、ゴオッッと風が巻き起こる。

 

 風の呼吸 玖ノ型 風破観(かざはみ)

 

 幾筋もの竜巻がうねるように紅儡に襲いかかった。

 

 避けることも、躱すこともできない。

 東洋一が縦横無尽に刀を振り回すその姿を捕捉する前に、紅儡の体は肉塊となって土の上に落ちていた。

 

 ぴちゃん、と水溜りに雫が落ちた。

 

 いつの間にか雨が止んでいる。

 あの風に煽られて雲まで退けたというのか……?

 

 紅儡はどうにか首を動かそうとするが、長く伸びてダラリと地面に落ちた首はもうゆっくりと灰となって消えつつある。

 ギョロギョロと目を動かすと、視線の先で倒れた東洋一の姿があった。

 地面に突っ伏している。

 

「なぜだ……なぜ………玖ノ……型……お前が……」

 

 つぶやく紅儡に、東洋一はゆっくりと顔を上げた。

 泥だらけだったが、その顔は昔のままに温かい笑みを浮かべていた。

 

「だからお前は……馬鹿、なんだ。師匠は…お前にも……俺にも…いつも……手を……伸ばして…」

 

 言いながら、東洋一は一生懸命に手を伸ばそうとしていた。

 あの日の周太郎のように。

 

 だが、紅儡はただ己の身が消えゆくのを感じ、震える声でつぶやくばかり。

 

「馬鹿な…馬鹿な……」

 

 声はだんだんと小さくなり、伸びた首の先にあった頭は塵と消えた。

 

 ゴロリと仰向けになった東洋一の目に、雲の切れ間から夕焼けに染まり始めた空が見えてきた。

 

 抗えずに目を閉じて……しばらくすると、どこからか呼ばれる声がする。

 再び目を開くと、茜空を背に呆然と固まる薫と、泣きじゃくる三郎の姿が見えた。

 

「お師匠様ッ!!!!」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 薫は苛立った。

 足をやられたのもあるが、それよりもあの漆ノ型を使ったせいで、思った以上に体に負担がかかったらしい。

 いつものように走れない。

 息が切れる。足がもつれる。

 また、こけた。

 すぐに立ち上がって、再び走り始める。

 

 なんてことだろうか。

 どうして自分はこうなることを考えなかったのだろう? 

 風波見家を襲った紅儡が、恨みと憎しみのままに()()()()()()()()()東洋一に復讐を考えないはずがなかったのに…。

 

 東洋一の家に近づくにつれ、徐々に雨足が弱まりつつあった。

 塀の向こうに紅儡であろう腕が伸びて、何かを掴んでいるのが見えた。

 

 あの鬼は…また、人質を取っているのか?

 ギリと歯噛みして、薫は跳躍すると塀の上に飛び乗った。

 同時に、下から巻き起こる風の勢いに思わず落ちそうになって、屈み込んで塀を掴む。

 

 何が起こっているのか…すぐにはわからなかった。

 

 うねり狂う竜巻のような斬撃。

 ヒィヤアアアァ…と悲鳴を上げる紅儡。

 

 人質を掴む腕もまた斬られて、その落ちる少年が三郎と気付くや否や、薫は跳んで受け止めた。

 三郎を抱えたまま、雨で柔らかくなった地面の上を転がると、松の張り出した根にぶつかって止まる。

 

「う……」

 

 呻く三郎に薫は大声で呼びかけた。

 

「三郎くん! 三郎くんッ!! しっかりしてっ」

 

 三郎は呻きながらゆっくりと瞼を開くと、しばらくボウっと目に映るものを眺めた後、カッと目を見開いた。

 

「師匠っ」

 

 叫びながら、身を起こす。

 咄嗟に地面についた手に痛みがはしって、顔を顰めた。

 

「大丈夫? 三郎くん」

 

 助けようとした薫を遮って、三郎は叫んだ。

 

「師匠はッ? お師匠様ッ」

 

 三郎は無理にも立ち上がって、辺りをキョロキョロと見回す。

 薫も立って紅儡の肉塊の周囲をゆっくりと歩いていくと、地面の上で仰向けに倒れた東洋一を見つけた。

 

「先生ッ!!!!」

 

 慌てて走り寄って、東洋一の体を抱き起こす。

 

「先生ッ! 先生ッ!!」

 

 何度も呼ぶが東洋一の目は開かない。

 

 薫は泣きそうになるのを必死でこらえた。

 まだ、わからない。

 心臓の鼓動は聞こえる。

 医者を呼んで、すぐに薬をもらえばあるいは……!

 

 顔を上げた視線の先に、ゆっくりと消えつつある肉塊から伸びた白い手。

 東洋一に這い寄ってくる。

 

『と……よい…ち……さ…』

 

 その声はどこからしているのだろう?

 奇妙に間延びして、頭の中に直接響くかのようだ。

 伸びてくる手の先に、あの右肩の紅い目が涙を浮かべてこちらを見ていた。

 

「…………」

 

 薫は震えた。

 

 この期に及んで、まだ、この鬼は泣くというのか?

 己が殺そうとした兄弟子に助けを求めるのか?

 

 雲が千切れて、沈みかけた夕日の赤光が差し込んでくる。

 斬り刻まれた肉塊は光の中で塵となって消えていこうとしている。

 だがその肉塊の影に沿って、白い手だけが死にかけた蚯蚓(みみず)のように震えながら伸びてくる。

 

 薫は鞘から(こうがい)をとると、東洋一の肩を掴もうとしていたその手に突き立てた。

 ピタンピタン、と濡れた土を叩いて、手が崩れていく。

 

『とよ…い…ち……助け…………死な…ない………死ね…な…い』

 

 その声は悲しい余韻を残して、雨上がりの蒸れた空気の中に消えていった。 

 

 薫はその鬼の姿が消えていくのを凝視しながら、混乱していた。

 

 今、この鬼は何と言った?

 死なない?

 死ねない?

 一体、どういうつもりで…何を、言っていたのだろうか……?

 

 鬼の(むくろ)が消え、もはや何もなくなったその場所に、最初に現れたのは実弥だった。

 呆然としてこちらを見ている。

 

 しっかりと目が合っているのに、薫の目にも実弥の目にも互いは映ってなかった。

 次いで匡近が、しばらくして、すっかり息切れした守が姿を現すなり、こちらに駆けてくる。

 

 まるで時間が止まったように思っていた薫がハッと我に返ったのは、三郎の泣きじゃくる声に東洋一が答えたからだった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「お師匠様ぁぁ! ごめんなさい! 僕が…僕が鬼に捕まったから…ごめんなさいッ!!」

「馬鹿が…なんで…お前のせいだ。儂がこうなったのは……寿命、だ。少々……年寄りの…冷水が過ぎた……な」

 

 ポツポツと言いながら、東洋一は自分の周囲に集まった弟子達の姿を眺めて、フッと笑った。 

 

 ―――――案外と…まともだったな。儂の死に方は。

 

 今や東洋一は自分の死期をはっきりと感じ取っていた。

 匡近、実弥、薫、守と三郎。

 こうして弟子達に看取られながら逝くのであれば、自分の生涯はわりといいものであったと、心の中で総括する。

 

 一旦、目を瞑って浅く息を吐くと、守と三郎を交互に見た。

 

「守、三郎。お前達、匡近に…師事、しろ。やさしいが、手抜きはせん…男だ。ついていくことができれば、お前達の道も……見えて、くる…だろう」

 

 守はボロボロと泣きながら、それでも「はい」と力強く頷く。

 三郎は目を伏せて、激しく首を振っていた。

 

「匡近」

 

 呼びかけられた匡近は、困惑した表情で「はい…」と返事する。

 

「お前に……剣士としての才能がある…のは、認める。だが……お前は育手となって……後進を…育てて、いけ。そっちの方が……お前には、合っとる」

「師匠……」

 

 匡近は唇を噛みしめた。

 最期とわかっていても、簡単に首肯できない。

 

 東洋一は笑った。それでもいい。

 匡近が自分の言うことを聞いても、聞かなくともいい。

 己の信じた道を進むのは、誰であれ止めることはできないのだから。

 

「薫…」

 

 東洋一は自分を抱いている薫の手を掴んだ。

 

「お前さんを…鬼狩りしたは……迷ったが、儂が心配する…よりもずっと………お前さんは、強かった…な。だが………一人で、抱え込むな…よ」

 

 涙を呑み込んでひたすら耐える。

 そんな薫の姿を見る度に、東洋一は薫が幸せを遠ざけているように思えてならなかった。

 誰か…誰でもいい。もっと人を頼るようになれれば、きっとその痛みやすい心が傷つくこともなくなるだろうに。

 

「……先生」

 

 つぶやく声は震えていたが、それでも潤んだ瞳から涙が頬を伝うことはなかった。

 血が滲むほどに噛みしめた唇が、必死で泣くのを耐えさせている。

 やれやれ、と東洋一は内心で溜息をついて、微笑みながら薫の手を軽く叩いた。

 

 それから最後に実弥へと目を向ける。

 

 相変わらずの天邪鬼は睨みつけるように東洋一を見つめていた。

 薫と同じように唇を噛みしめて涙を堪えるものの、肩がかすかに震えている。

 

「実弥」

 

 東洋一が呼ぶと、実弥は一歩だけ前に進み出た。

 

「……ジジィ」

 

 会えばいつも出る悪態も、喉の奥で詰まっているようだ。

 

「………実弥、頼むぞ」

 

 それだけ。

 

 それだけで、きっとわかるだろう。

 

 東洋一は確信していた。

 四の五の言う必要もない。

 

 この男は柱になるのだ。

 そうして、きっと…この永い鬼殺の悪夢を断ち切るだろう。

 

 それができる。

 そう……信じている―――……。

 

「…っ…オイッ!!!!」

 

 実弥が怒鳴りつけて襟首を掴んだ時には、莞爾とした笑みを浮かべて、篠宮東洋一は息を引き取っていた。

 

 

 

<つづき>

 

 

 







次回は2021.10.02.土曜日に更新予定です。





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第九章 蛍火(五)

 いつの間にか、東洋一(とよいち)の鴉が近くの番所に常駐する隠に知らせたらしい。

 

 すっかり日も沈んだ宵の頃にやって来た隠は、既に余命が長くないことを悟っていた東洋一から、死後の差配を頼まれていたらしく、キビキビと動き回って処理していった。

 

『葬式無用。読経戒名も不用之事。その場にいる人間で別れの挨拶を済ませたら、とっとと焼いて裏の墓に入れる可し……』

 

 隠からその書面を見せられた時、その少しばかり癖のある文字に、薫はまた涙が溢れそうになって、口を押さえた。

 

「師匠らしいな…」

 

 匡近はかすかに笑みを浮かべる。

 それでも唇は哀しげに歪んだ。

 

「明日の朝にまた来ます」

 

 そう言い置いて、隠は去って行った。

 

 その夜は誰が寝ずの番ということもなく、横たわった東洋一の周りにめいめいが座り込んで、口きくことのない故人との会話を自分の心の(うち)でしていた。

 

 一人、三郎だけが途中で「あ…」と言って出て行った。

 守も気になったのか後ろから追いかける。

 しばらく待っていたが帰ってこないので、薫は心配になって立ち上がった。

 

「どうかしたのか…?」

 

 匡近が尋ねてくる。

 薫は首をかしげた。

 

「わかりません。ちょっと見てきます」

 

 玄関から出て、庭の方へと呼びかける。

 

「守くーん? 三郎くーん?」

「あ……すいません」

 

 後ろから手燭を持って現れたのは守だった。

 

「どうしたの?」

「三郎が…ブチの死体を探してて」

「ブチ…?」

 

 聞き返しながら、先日、煮干し魚を食べていた猫の姿が思い浮かぶ。

 

「あの猫…死んでしまったの?」

 

 薫が尋ねると、守の手燭を持つ手が震えた。

 

「……アイツが一番最初に……鬼が来たのに気付いて………一生懸命、鳴いてたって……たぶん…俺らに知らせようとして」

 

 東洋一よりも先に小さな命が失われていた。

 薫はギュっと拳をつくると、ゴクリと胸の痛みを呑みこんだ。

 

 やさしく守の肩を叩く。

 

「一緒に探しましょう」

 

 裏庭を三人で探すが、どうやら紅儡(こうらい)に殺された後、東洋一と紅儡の戦闘に巻き込まれて遺体が散らばってしまったらしい。

 

 月は皓々と輝いてはいたものの、夜の闇の中で探すのは難しかった。

 そうこうするうちに、匡近と実弥もやって来る。

 匡近の持っていたランタンが辺りを明るく照らした。

 

「なにやってるんだ? お前達」

「匡近さん、ありがとうございます。随分明るくなりました。守くん、どう? よく見えるようになったんじゃない?」

「はい。……あ、あった! 後ろ脚」

 

 守は声を上げると、千切れた猫の脚を拾い、すぐさま三郎の元へと向かう。

 三郎が持っていた小さな木箱に入れると、すぐに手燭片手に脚を見つけた場所へと戻っていく。

 

 実弥は三郎に寄っていくと、手に持っていた木箱の中を覗いた。

 木綿の布の上には猫の脚や、斬られた胴の一部が置かれてあった。

 

「……なにやってんだァ、お前ら」

 

 眉間に皺を寄せ、怒ったような口調で言う。

 三郎がビクッとなって「す、すいません」と小さな声で謝った。

 

 薫は早足に歩いていくと、三郎を庇うようにして、実弥に向かい合った。

 

「怒らないであげて下さい。悪いことをしているんじゃないんですから」

「怒ってねェだろうが」

「怒ってなくたって、怒ってるように聞こえるんです。実弥……不死川さんは自分が思ってる三倍は優しい口調で言っていただかないと、怒ってるように聞こえます」

「ハアァァ!? なんだとォ?」

「おいおい……」

 

 匡近はあわてて駆け寄ると、実弥の肩を掴んだ。

 

「妙な喧嘩を始めるなよ、お前らは。で、本当に何してるんだ?」

「ブチの死体を探してるんです。あ、ブチっていうのは先生の飼われていた猫で…」

「猫ォ? んなもん飼ってやがったのか、あのジジィ」

 

 実弥が面倒くさそうにつぶやくのを、薫はまたムッと睨みつける。

 

「あら、何が悪いんですか?」

「……悪いとは言ってねェ」

 

 それでも薫が少し怒ったように見つめてくるので、実弥は舌打ちした。

 

「……勝手にしろォ」

 

 ボソリと言って、踵を返すと家の中へと入っていく。

 匡近はそれこそ呆れ返った溜息をついた。

 

「本当にお前らは……今日という日にまで喧嘩するか」

「すみません」

 

 薫が頭を下げると、匡近は少しばかり笑って、「俺も探すよ」と一緒に探索に加わってくれた。

 薫もまた再び猫の死骸を探し回るものの、なかなか見つからない。

 

 手入れされず草が伸び放題になっている灌木の間を、蝋燭の灯りを頼りに探し回っていると、いきなり前方がパアァと明るくなった。

 

「え……?」

 

 振り返ると、こちらを照らす眩しい灯りに目がすぼむ。

 

「ここ…置いておくぞ」

 

 実弥の声がして、光が地面を照らした。

 

「*龕灯(がんどう)提灯? こんなのあったんですか?」

(* 中に蝋燭を入れて前方を照らす照明器具)

 

 薫が地面の上に置かれたブリキの提灯を手に取りながら尋ねると、実弥はその事には答えず立ち去る。が、すぐに振り返ってまた怒ったように言う。

 

「お前、顔…刺されてるぞ」

「え?」

「長くかかるんなら、蚊取線香でも焚け」

「はぁ……?」

 

 首をかしげながら、言われてみれば確かに頬が痒い気もする。

 そりゃ、夏の夜に灯りを持って立っていれば、どこかしら刺されてしまうだろう。

 ポリポリと頬のその痒い場所を掻いてから、薫は龕灯を持って探索を続けた。

 三郎も実弥が持ってきてくれた同じ龕灯で探していたが、なかなか見つからない。

 

「とりあえず、また朝になってから探した方がよくないか…?」

 

 匡近が腰を伸ばしながら三人に呼びかけた時、薫が「あっ」と声を上げる。

 灌木の下の、枯葉の積もった中に猫の頭が落ちていた。

 すでに毛先まで硬く固まってしまったその小さな頭を、手ぬぐい越しにそっと取り上げ、軽く泥を払ってから、薫は三郎の持っていた木箱の中に静かに安置した。

 

「……とりあえず頭が見つかったんだし、よしとしよう」

 

 守が言うと、三郎が頷く。

 匡近は頷いて三人を中へと促した。

 

「実弥さんは?」

 

 薫が尋ねると、匡近は肩をすくめて言う。

 

「誰もいねェとジジィが文句言いそうだから、自分はあっちにいるってさ」

 

 思わずクスリと笑った。

 相変わらず、素直じゃない物言いをする。

 

 廊下を歩いていると、ばったり実弥と行合った。

 

「あれ? 実弥? どうした?」

 

 匡近が問いかけると、バツ悪そうに黙り込み、クルリと後ろを向いて来た方へと歩いていく。

 フワリ、と独特の匂いが辺りに漂った。

 

「あれ? 蚊取線香のにおい…?」

 

 守が不思議そうに言う。

 薫は実弥の後ろについて歩きながら、前から漂う煙を見て思わず笑みが零れた。

 

 本当に、()()()()()優しい人だ。

 

 

◆◆◆

 

 

 三郎は東洋一の足元近くにブチの遺体の入った箱を置いた。

 

「いつもお師匠様の足の間で寝ていたんです」

 

 三郎はそう言うと、ポロポロと涙を流した。

 

「コイツ…コイツなりに……一生懸命、師匠を守ろうとしてたのかなぁ…? あんな大きな鬼……怖かったろうに………怖かったろうにな………」

 

 静かになった部屋で、三郎の嗚咽が響く。

 守はもらい泣きしそうになるのを、ギュッと膝を掴んで耐えていた。

 

「よっぽど先生に懐いていたのね、その猫は」

 

 薫が言うと、守が猫を飼うようになった顛末を教えてくれた。

 

「元々は、なんか病気のせいなのか、毛とか剥げてて汚らしい猫だったんです。もう死にかけてて……」

 

 そんな猫を拾ってきたのは三郎だったが、守は死にかけの猫なんぞは放っておけと言った。

 三郎はどうしようか迷っていた。

 二人で言い争っている間に東洋一に見つかり、いよいよ三郎はその猫を捨てるしかないと思ったが、案外と東洋一はその猫に薬を塗り、食事を与えた。

 

「まぁ、それで懐いたのね……」

 

 薫が言うと、守は首を振った。

 

「それがそうでもなくって……元気になってきたら、もう、恩を仇で返すとはこの事とばかりに……」

 

 引っ掻いて、噛み付いて、毛を逆立てて威嚇して……それはもう手のつけようもなかったらしい。

 走り回って家の中を引っ掻き回した挙句、外に飛び出しては、雲隠れする。

 

「そのくせ、朝になったらしっかり先生の部屋の前にいるんです。で、先生が薬を塗る間はギャーギャー喚き散らして、塗ってる間にも引っ掻くし、噛み付くし……」

「本当に、あの時は俺も拾ってきたのを後悔したよ………」

 

 三郎が嘆息して続ける。

 

「もう、元気になったみたいだから、放っておいていいですよ……ってお師匠様にも言ったんだけど……」

 

 ―――――まだ、自分でも本調子じゃないとわかってるから来とるんだろう。治ればどこなりと行けばいい。ここにいてもいい。勝手にさせてやれ……

 

 そう言って、猫の皮膚炎が治るまでは毎日引っ掻かれながらも薬を塗って、煮干しの魚をやる以外には一切手出しをしなかった。

 やがて猫は気を許すようになったのか、気付けば東洋一の足の間で寝るようになっていたという。

 

「先生らしい……接し方ね」

 

 必要以上に相手に入っていかないが、ちゃんと見守っていてくれる。決して自分の存在を主張することなく…。

 そういう人であった。

 

 薫が微笑みながら言うのを聞いて、とうとう守も涙が頬を伝う。

 しかし、その愁嘆場の中でクックッと匡近は肩を震わせていた。

 

「どうしたんですか? 匡近さん」

 

 薫が尋ねると、匡近は「ごめんごめん」と言いながらチラと実弥を見た。

 

「師匠って、そういう手負いの獣をなだめるのが上手かったんだなぁ…って、思ってさ。な! 実弥」

 

 いきなり自分に水を向けられ、実弥は「ハァ?」と聞き返す。

 

「なんで俺に聞く?」

「わからないか?」

 

 意味ありげな笑みを浮かべる匡近に、実弥はむっつりと黙り込んだ。

 ふと、薫は前日に東洋一が語ってくれた話を思い出した。実弥が弟子に来たばかりの頃の話。

 

 ―――――野良犬を世話してるようなもんだった……。

 

 思わず、匡近と同じように笑いがもれる。

 

「あ……薫もわかってんな!? な? わかるだろ?」

 

 匡近は楽しそうに言って、とうとう大笑いした。

 その横で実弥は仏頂面でチッと舌打ちする。

 

 守と三郎も兄弟子達が笑い合う姿に、涙がひっこんだようだった。

 三郎は訳がわからないまま、ひきずられるように少しだけ笑う。

 

 その後、匡近が何か食べようと言い出した。

 守は調理の途中で放り出していたのを思い出して、あわてて台所に向かう。

 そこには既に火の消えた釜の中で固くなったご飯と、すっかり冷めた味噌汁用の出汁、焦げた(ます)の味噌焼きがあるだけだった。

 隠の人達が火の始末だけはしていってくれたらしい。

 

 薫はそれでも守に指示しながら、簡単な出汁茶漬けを作った。

 こんな事態なので文句言う人間などいるはずもなかったが、実際のところ、その茶漬けが美味しくて、三郎などは「また食べたい」と言う有様だった。

 

 とりあえず腹を満たした守と三郎は人心地がついたのか、横になるなりすぅすぅと眠り込んでしまった。

 

「少しは……気持ちが落ち着いたみたいですね」

 

 薫が布団を持ってきてかけてやると、匡近は長い吐息をついた。

 

「まぁ…無理もないさ。こんなふうに死ぬなんて……誰も思ってない」

 

 薫は顔を俯ける。

 自分には予測ができたはずだった。

 それなのに気付くことができなかった……。

 

「なんで鬼はここを襲ってきやがった?」

 

 実弥が問いかける。

 視線は東洋一に向けられていたが、明らかに薫に言っていた。

 

「そこのガキは、自分が人質にされたと言ってた。普通の鬼はそんなことしねぇ。捕まえれば喰らうだけだ。人質にするってことは、そうする必要があったからだ。ここに住んでるジジィがただの爺さんじゃないとわかってた……そういうことだろォが」

 

 匡近も薫の方に向き直ると、真面目な顔で尋ねた。

 

「さっき…庭で猫の死体を探してる時に守から聞いた。お前、昨日いきなり来て、ずっと師匠と何か話してたみたいだけど……何か、あったのか?」

 

 薫はすぐに返事ができなかった。

 何から話せばいいのだろう。

 翔太郎のこと、風波見家のこと、過去の因縁と不気味な甦りの鬼。

 

「薫?」

 

 匡近に呼びかけられて顔を上げると、視線の先に東洋一の煙草盆が見えた。

 立ち上がって、部屋の隅に置いてあった煙草盆の抽斗(ひきだし)から、あの写真を取り出す。

 

「これを……」

 

 薫が差し出すその写真を見て、匡近はふっと笑った。

 

「あぁ、これな。この前、見せてもらったんだ。師匠の若い頃の写真だろ?」

「どれがジジィなんだ?」

 

 実弥の問いに答えるように、薫は子供達の後ろに立った若い頃の東洋一を指差す。

 

「この人が、先生です」

 

 それから、東洋一の手前で怒ったようにこちらを睨んでいる少年を指差した。

 

「ここを襲った鬼は……この人です」

 

 

◆◆◆

 

 

 薫からおおよその事情を聞いた後、匡近は深い溜息をつく。

 

「三郎が師匠が鬼と何か話していたとは言ってたけど……弟弟子だったとは」

 

 実弥は終始腕を組んで沈黙していたが、チラと東洋一を見てから薫に問いかける。

 

「その紅儡ってヤツは…また復活するのか?」

「………わかりません。でも」

 

 崩れながら紅儡が切れ切れに訴えた言葉。

 あれは…どういう意味だろう?

 

「あの鬼が塵となって消えながら、言ってました。死なない。それからおそらく……『死ねない』…と」

 

 実弥の眉間に皺が寄る。

 匡近が聞き返した。

 

「『死ねない』? どういうことだ?」

 

 薫は無言で首を振るしかない。

 

「どうでもいい。また出りゃブチ殺すだけだ」

 

 実弥は答えを必要としなかった。

 事実、紅儡についての考察を深めたところで、鬼の生態についてなどわかりようもなかったし、知ったところでやることは実弥の言う通り、滅殺するだけだ。

 

「そうだな。目の前にいる鬼を殺す……それが俺達の仕事だものな」

 

 匡近も頷いて、それから東洋一の死顔をまじまじと眺めた。

 

「それにしても…強いんだろうとは思ってたけど……本当に強かったんだなぁ、師匠。柱相手に立ち合うなんて……いくら昔とはいえ」

「そうですね…。昨日の話の中でも、ご自分からはっきりと仰言(おっしゃ)ることはなかったんですけど、おそらく柱に並ぶ実力はお持ちだったんじゃないかと……勝母(かつも)さんや、他の元柱だった方からも聞いたことがあったので」

「まぁ…あの人と渡り合ってる時点で充分強いよな、確かに」

「勝母さんにもお知らせしないといけませんね………」

 

 薫は言いながら、白い布の下の東洋一の顔を思い浮かべる。

 

 朝には笑って送り出してくれたその人は、もう動くこともない。

 こんなに傍に…近くにいるのに、もはや東洋一はここでない場所に逝ってしまった。

 

 急に…厳然とその死を見せつけられたようだった。

 死は逃れようがない。

 それは死んだ当人にとっても、その死を眼前にする人間にとっても。

 

 途端にひどく心細くなって、薫は途方に暮れた。

 幼い頃に実母を失った時から、薫の人生の中で何人もの人が死んでいった。

 その度に、この足元がなくなるような心許なさを伴って、生き残った自分を呪いたくなるような空虚な気持ちになる。……

 

 実弥は薄暗い部屋の中で、チラと薫をみやって眉をひそめた。

 また…あの死人のような、虚ろな目になっている……。

 

 だが薫のその表情に気付いたのは実弥だけだった。 

 

「あの二人任されたけど……どうしたもんかな…」

 

 匡近は東洋一に今際(いまわ)(きわ)に二人の弟子を託されたことを思い出して嘆息する。

 

「三郎は、ここにいたいみたいだし」

 

 そう言われて、薫の脳裏に泣きじゃくる三郎の姿が浮かんだ。

 

 ―――――お師匠様! ごめんなさい! 僕が…僕が鬼に捕まったから…ごめんなさいッ!!

 

 胸がしめつけられる。

 三郎は自分が鬼に捕まったせいで、東洋一に無理をさせて死期を早めたと思っている。

 だが東洋一は寿命だと笑った。

 優しく笑いかけていた……。

 

 薫は正座したまま、その場にいる全員に向かって頭を下げた。

 

「………すみません」

 

 必死に喉からせりあがってきそうになる嗚咽に蓋をする。

 匡近も実弥も、怪訝にその姿を見つめた。

 

「私のせいです」

 

 声は震えぬようにするため強張り、平坦なものになっていた。

 

「私が……あの鬼を……紅儡をあの時に殺していれば、誰も」

 

 春先に会ったばかりだった翔太郎の母と、まだ幼い清子。そして東洋一。

 あの時の薫の行動一つで救えた命がある。

 まして東洋一に関しては、紅儡が復讐のために襲撃する可能性があることに、気付くこともできなかった。

 

 匡近が慰めの言葉を探す間に、実弥は冷たく言った。

 

「うるせェ。そんなもん関係あるか」

 

 薫はゆっくりと顔を上げると、目の前で睨みつける実弥を真っ直ぐ見つめた。

 

「だいたい、その鬼は復活するって言ったのはテメェだろうがァ。だったら、お前がその紅儡とかいうのをその時に殺ってようがいまいが、関係ねェ」

「それは……そうですけど」

 

 もっともなことを言われて薫は認めつつも、悲しげに顔を歪めた。

 

「薫、実弥の言う通りだ。自分のせいにしても仕方ない」

 

 匡近は薫の肩に手をかけて厳しい口調で言ってから、心をほぐすように優しくつぶやく。

「師匠だって、喜ばないよ」

 

 薫は唇を噛みしめて、再び東洋一を見つめた。

 

 わかっている。

 東洋一もきっと匡近と同じように言うだろう。

 無駄に自分を責めるな、と。

 

 でも―――

 

「でも…私は気付かなかったんです。先生が紅儡に狙われると考えるべきだったのに、何も気付かないでここを出てしまった。せめて注意を促して……せめて、もう少しだけここにいればよかった。先生の言う通りに……」

「いい加減にしろ」

 

 実弥は低い声で薫の言葉を遮った。

 

「お前が後悔すんのは勝手だ。したいだけしろ。但し、ジジィの前ですんな。死人に心配かけさせてェのか、テメェは」

 

 薫はギュッと手を握りしめると、軽く頭を下げて立ち上がった。

 そのまま道場の方へと走って行く。

 

 匡近は実弥を見た。

 明滅する電燈の下で、その表情は冷たく、まったく取り付く島もない。

 

 立ち上がろうとした匡近を、実弥はギロと睨んで制した。

 

「匡近、放っとけ」

「お前……言い方ってもんがあるだろ?」

 

 咎める匡近に、実弥は答えず黙り込んだ。

 

「………」

 

 匡近は立ち上がって廊下に出ようとして、実弥に肩を掴まれる。

 

「行くな。放っとけ…っ()ってんだ」

「実弥、お前ひどすぎるぞ。なんでこんな日にまで、わざわざ泣かせるようなことを……」

「泣いてねぇだろうが、あいつは」

「え………」

 

 そう言われて匡近は気付いた。

 確かに東洋一の臨終の時ですら、薫は泣きわめくことはなかった。

 ただ目に涙を浮かべて、必死で耐えていた……。

 

「お前が行ったら…また、無理にでも笑うしかねェ」

 

 実弥は手を降ろすと、部屋の中へと戻りながらボソリとつぶやいた。

 

「放っとけよ…」

 

 それはまるで、一人にさせてやってくれ…と頼んでいるかのようだった。

 

 再び東洋一の傍らに座って、実弥は沈黙する。

 

 匡近はその場に立ち尽くしながら、西の空へと沈みかけている三日月を見た。

 その顔が苦く歪む。

 

 なんだよ、と思った。

 結局、自分は最初から入れない。

 

 どこまでも不器用で、一途で純粋な実弥の想いが、自分とは比べようもないほどに深いのだと…気付かされるだけ。

 わかっていた。

 最初から自分は完敗している。

 

 匡近はそのまま道場と反対方向にある台所へと向かった。

 (かめ)にある水を柄杓(ひしゃく)ですくって飲み干すと、(かまち)に腰を下ろした。

 

 本当にいい加減にしてほしい。

 なんでよりによって師匠の死んだこんな日に、こんな気分にならなきゃいけないんだ……。

 

 匡近は項垂れた。

 もしこの場に東洋一がいたらどう言ったろう?

 このモヤモヤした気持ちを抱えた自分に。

 

 ―――――若いのぉ……

 

 飄々とつぶやく東洋一の姿を想像して、匡近はフ…と笑みを浮かべた。

 

 ふわり…と、どこからか蛍が迷い込んでくる。

 柄杓の上に止まって、音もなくひかり、消えて……やがて来た時と同じように、ふわり…と、小窓の桟の間から出て行った。

 

 今頃になって涙が出てくる。

 そう言えば自分も、泣くのを忘れていた。

 

 嗚咽を押し殺そうとすると、みっともないくらい肩が揺れる。

 そういう自分に半ばあきれつつ、それでも止まらない涙が土間にポタポタ落ちた。

 

 最初、この家を訪ねた時、匡近は天涯孤独の身であると嘘をついた。

 そう言わないと弟子として取ってくれない気がしたからだ。

 後になって両親が健在で、家に何も言わずに出てきたことを知った東洋一は、匡近を咎めることはせず、知らぬ間に匡近の両親に会いに行っていた。

 

 わざわざ自分の両親を説得しに行ってくれたのだと知った時、匡近は今のようにボロボロ泣いた。

 東洋一は呆れていたが、眼差しは優しかった。 

 

 あんなに優しい人間に…自分が、なれるのだろうか……?

 傷ついた人間を見守って、育てていくことなど…できるだろうか……?

 

 

◆◆◆

 

 

 道場へと向かう渡り廊下の途中で、とうとう堪えきれず涙が零れ落ちた。

 薫はその場に崩れ落ちるようになってうずくまり、必死で声を殺しながらも、それでもヒクッとしゃくり上げて肩が揺れる。

 

 ―――――自分はなんて浅ましいのだろう……。

 

 実弥に言われて気付いた。

 

 自分のせいだと後悔してみせたのは、何より薫が東洋一に許しを乞いたかったからだ。

 そんな事はない。お前のせいでない―――と、東洋一にやさしく肩を叩いて、笑いかけてもらいたかった。

 出来るはずもないのに……。

 

 実弥は、そんな薫の自己憐憫を見透かしていた。

 恥ずかしさと、いたたまれなさで出て来たものの、今はそれよりもただただ悲しく苦しい。

 

 しばらく泣き続けていると、ザザザザと木の葉の揺れる音が聞こえてくる。

 

 顔を上げると、金木犀が風で揺れていた。

 まだ花をつける前なのに、一点、ポツリと光っている。

 庭の池から蛍が散歩にでも来たのだろうか。

 その手前には、東洋一が亡くなった弟子達のために作った墓があった。

 

 匡近から東洋一の最初の弟子となった人が、枯れそうだったこの金木犀を蘇らせたという話を聞いた後で、東洋一にそのことを尋ねると、懐かしそうに話してくれた。

 

 元は植木屋だったというその弟子は、お調子者だったが、まだ若くて容赦ない東洋一の鍛錬にも、一度も音を上げなかった…と。

 その次の弟子は無口で何を考えているのかわからない奴だったが、やたらと村の子供に好かれていた……。

 その次は…その次は……。

 

 聞きながら、薫は内心で驚いていた。

 東洋一は自分が育てた多くの弟子の事をすべて覚えていた。

 その中で誰が特別ということもない。

 技倆の差については冷静に判断しつつも、その出来で弟子の優劣を判断することはなかった。

 

 自分よりも若くして消えていった命に、迷いながらも東洋一はいつもその死を見据えていた。

 受け止めて、自らの因業を背負うことを厭わなかった。

 

 だが、その葛藤の深さを身に沁みて感じつつも、今、思い出すのは、思い悩む薫を軽く笑い飛ばして、いつも飄々と、融通無碍であった東洋一の姿だ。

 

 時に薫が亡くした人々のことを思い出したりして沈んでいると、門前の小僧で覚えたという小話を語ってくれた。

 昔、父親と旅芸人として各地を回っていたという東洋一の話芸はとても面白くて、いつの間にか暗い気持ちが吹き飛んでいく。幼い頃にそうした娯楽を知らずに育った薫には新鮮でもあった。

 何度となく話してくれとせがむと、やれやれと仕方なさそうに笑っていた東洋一が懐かしい…。

 

 今は、その人を喪ったことが、悲しくて辛くてたまらない。

 二度と会えないことが苦しくて、信じたくない。

 

 明日、東洋一はあの墓の中に眠る。

 

 薫は再び泣き伏した。

 今日、今、この時だけはひたすら泣いていたかった。

 

 

◆◆◆

 

 

 薫と匡近が出て行った後、実弥はその部屋で一人黙念と過ごしていた。

 

 半眼を閉じたその先には白い布を顔に被された東洋一が眠っている。

 実弥はふと、その白い布を取った。

 

 雨上がりの夕暮れの中、目を閉じた時には笑っているようだった顔が、硬直してからはまったく彫像のようで、まさしく死人であった。

 

「………頼む、って……なんだよ」

 

 物言わぬその人に向かって、つぶやいたその言葉は迷いを含んでいた。

 

 一体、自分に何が出来るというのか。

 これまでもこれからもやるべき事など一つしか思い浮かばないというのに。

 

 ふわり、と光がひとつ飛んでくる。

 庭の池で遊んでいた蛍が部屋の中に迷い込んできた。

 

 仄かな光はぐっすりと寝入る守の頭の上に止まった後、ブチという猫の死骸の入った箱の上、眠る東洋一の胸の上に止まって明滅する。

 

 ―――――蛍は、死んだ人間の魂という者もいるな……

 

 庭の池で飛び回る蛍を見ながら、東洋一が昔、言っていたのを思い出す。

 ぼんやりとその様子を眺めていた顔が、寂しげだったことも。

 

 ―――――実弥、お前は本当は鬼狩りには向いとらんのだろうな……

 

 最終選別に向かう前日、東洋一はいきなりそんなことを言い出した。

 

 今頃になって何を言い出しやがる…と実弥が悪態をつくと、いつもは笑ってフザケて返す東洋一が、めずらしく真面目な顔になっていた。

 

 ―――――儂がお前に技を教えたのは、それがお前にとって救いになるだろうと思ったからだ。いいか。今は無理でも、いずれいつかは……己を(ゆる)せよ

 

 ギリッ、と奥歯が軋む。

 睨みつける視線の先にある硬くなった老人の顔が、あふれた涙の中で歪んでいく。

 

「……っざッけんな……ジジィ」

 

 押し殺した声でつぶやく。

 

 東洋一の胸の上の蛍が二度ほど明滅して、再び庭へと飛び去った。

 

 

 

 

第三部 了

 

<第四部につづく>

 

 






次回は2021.10.06.水曜日の更新予定です。
本編は休み。閑話休題の番外編になります。




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閑話休題 其の参
<隊服悶着・一昔>前編


本編の番外編です。またも鬼殺隊の昔話です…。



「重いッ!!!!」

 

 叫ぶなり、支給したばかりのその隊服を投げて寄越す。

 

 母田(もだ)庄助(しょうすけ)は風のように現れたその男を唖然として見ていた。

 

「あ、あ…ああ…あの」

「そんなん着て仕事出来るか! 冗談じゃねぇ」

 

 一分の言い訳も聞かず、男はさっさと出て行ってしまう。

 庄助は呆然としたまま、投げられた隊服を持って立ち尽くした。

 

 一部始終を見ていた、同じ縫製部の隠である津村(つむら)タネが、溜息をついた。

 

「とうとう来たか…」

 

 

 

 年号が明治に変わってからしばらくして、鬼殺隊においても洋装における機動力―――つまり、動きやすさに着目し、隊服についての大幅な改変が行われることになった。

 

 それまでも一応、鬼の攻撃に対してある程度の強度を持った織物によって半着と袴が作られてはいたのだが、これを着るかどうかは任意だった。

 正直なところ、普通に売っている着物とさほどに大差はなかったからである。

 

 そのため、これまで縫製部とはいいつつも、仕事といえば新入隊士の新たな着物の仕立てが主で、どこにおいても忙しい鬼殺隊にあっては暇な部署…とされていた。

 

 それが今回、洋式服を取り入れることになってから(にわか)に仕事がふってわいて、この半年は目の回る忙しさであった。

 洋服というものの作り方の勉強から始まり、生地の強度を高める工夫、隊士各位への採寸、それからはひたすらに縫って縫って縫いまくる日々。

 最終的には庄助は寝ながらまつり縫いを行うという特技まで身につけた。

 

 縫う工程の時には「どんだけ縫えばいいんだよ! もう無理!」と喚き立てた庄助ではあったものの、基本的にはようやく自分が役に立てる日が来た! と、意気軒昂であった。

 

 隊士となるを諦めて隠となって五年。

 お針子だった祖母からの薫陶を受けて、裁縫上手ということでこの部署に割り当てられ、正直、くすぶった日々を送っていた。

 今回の隊服改変は、不本意な日常を送っていた庄助にとって、ようやく回ってきたやり甲斐のある仕事だった。

 

 そして、見事、やり遂げた。

 

 最年長にして伝説の柱と呼ばれた風柱・風波見(かざはみ)周太郎(しゅうたろう)は、庄助達縫製部の奮闘を心から(ねぎら)ってくれた。

 

「よくやってくれた。何もないところから作るのは相当大変だったろう。君達の功績は大きいぞ」

 

 この言葉を聞いた時には、庄助はすべて報われたと思った。

 同時に、これでこの数ヶ月に及ぶ地獄のような忙しい日々も、ようやく一段落して、ようやく家でのんびりできるだろう……と思っていたのだ。

 

 が。

 

 多くの隊士達は新たな隊服を喜ばなかった。

 

「なんか…動きづらい…」

「なんか…クサい」

「なんか…嫌」

 

 ―――――不評だった。

 

 一応、全員着用の事という決まりにはなっていたが、隊士の中には新たな隊服を着ず、昔ながらの着物で任務を行う者もいた。

 庄助は「わかってない!」と腹を立てた。

 

 この服は鬼の爪牙から隊士達を守るためのものであるのに…。

 自分達はそのためにこの半年の間、心血を注いで頑張ってきたのに。

 着なければ、新隊服のスゴさはわからない…。

 

 内心では苛々と不平不満が渦巻いたが、一介の隠が隊士達に対して「着ろ!」と命令することなどできない。

 

 それに一部の隊士達は縫製部がこの半年の間、血眼になって新隊服の準備を進めてきたことは知っていて、そのことを隊内に噂で広めてくれたので、さすがに面と向かって文句を言ってくる隊士はいなかったのだ。

 

 しかし、今日、とうとうやって来た。

 しかも隊服を突き返してきたのだ。

 他の隊士は着ないながらも、家の箪笥(たんす)の肥やしにはしてくれていたのに。

 いや、それだって嫌ではあったが。

 

「重い……?」

 

 庄助はその隊服を持ちながらつぶやく。

 

「うん、そうみたい」

 

 返事をしたのは、先輩の松浦(まつうら)ハナだった。

 

「どうも、鬼の爪に耐えうるものを…って言って、猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石の砂を染める工程で混ぜたでしょう? それで重くなっちゃったみたい」

「でも、それも…耐えられない重さじゃないって……桑島様も仰言って…」

「そりゃ、柱になる人と一般隊士とじゃ違うでしょ」

「えぇ? それじゃあ、今までの試作の意味がないじゃないですか!?」

 

 本部に常駐する隊士というのは少ないので、成り行き上、本部に来ることが多い柱に試着をお願いすることになってしまっていた。

 

 庄助はガックリと項垂れた。

 

「でも…さっきの人って、篠宮さんだろ? あの人が文句言うなんて意外だな」

 

 そう言ったのは庄助と同期の茨木(いばらぎ)辰之進(たつのしん)だった。

 女子の多い縫製部において、元々は呉服屋の丁稚奉公をしていたという辰之進は、もっとも縫製技術に長けている。

 

「篠宮…?」

「風柱様の継子だよ。風柱様の継子の中でも、腕はピカイチだって評判だ。まぁ…もっとも遊興が過ぎてよく怒られてるみたいだけどな」

「あの人が着ないとなったら…いよいよ皆、着ないだろうなぁ」

 

 津村タネが溜息まじりに言う。

 

「なんで?」

「人望がある…っていうのとは違うけど、なんか篠宮さんが着ないならいいや…って感じになりそうだもの。あからさまに着ないって吹聴するわけじゃないにしろ、影響は多少なりとあるでしょうね」

「そんな…」

 

 庄助とて、無理して何が何でも着てもらいたいとは思わない(実は思ってる)が、それでもこの隊服はただの服ではない。

 あくまでも隊士達を守るために作り上げたものなのだ。

 庄助は投げつけられた隊服を抱きしめるように持つと、部屋を飛び出した。

 

 縫製部のある棟を抜け、本部へと向かう渡り廊下のところで、さっきの男が鳴柱・桑島慈悟郎と親しげに何か話していた。

 

「し…篠宮さんッ!!」

 

 大声で呼びかけると、ついとこちらを向く。

 さっき服を投げつけた相手の顔を覚えていなかったらしい。ん? と不思議そうに庄助を見た。

 

「お……重いのは、理由があるんですッ!」

「は?」

「染色の時に猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石の砂を混ぜて、強度を上げているんです。だから、鬼の爪や牙にも傷つけられないようになっていて、多少重いのは仕方がないんです!」

「………いきなり来て、なーにをベラベラくっ(ちゃべ)ってんだ……」

 

 篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)は呆れた様子で庄助を見下ろし、眠そうに欠伸した。

 横で見ていた桑島慈悟郎は、庄助の持っていた隊服を見遣って、ジロリと東洋一を睨んだ。

 

「なんだ東洋一、お前…隊服着てないのか?」

「着れるわけないでしょ、こんなの」

「お前なぁ…」

「重いし、なんかクサいし」

「クサいのは、だからそれも染料の関係で……何度か洗ったら消えると…」

 

 庄助が説明しかけると、東洋一はズイと顔を寄せるなり、ビチッと指を弾いておでこを打ってきた。

 

「いったあぁっ!!」

 

 あまりの痛さに庄助は後ずさった。ヒリヒリと額が熱い。

 

「なにするんですかぁッ!!」

「うっせぇよ。何度か洗って消えるなら、何度か洗って消えてから寄越せ。クセェのが気になって仕事なんぞ出来るか」

「それは……」

 

 確かに言う通りだが、実際のところ、洗ってニオイが消えるのかは不明だった。

 さっきから言うように、猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石を染料と一緒に混ぜ込み、定着させるための材料に臭いものがあるのは事実で、正直なところ庄助などは今、この隊服に残っているニオイの数十倍はキツイ悪臭の中で何度も試行を重ねたのだ。

 

 桑島慈悟郎は庄助達が必死になってこの半年、奮闘してきたのを見ていたので、さすがに東洋一の鰾膠(にべ)ない態度を叱りつけた。

 

「東洋一、クサいくらいで文句を言うな! だいたい、こんなニオイ…血のにおいに比べればマシだろうが。重さだって、この程度で弱音を吐くなんぞ…お前らしくもない」

「わかってねぇな、ジゴさん。この程度のモンを出してきて、はい出来ました~…なんて、してやったりってな顔されちゃ困るんだよ。俺らは命張ってんだ。なんでこんなへんちくりんの、訳のわかんねぇ筒袖を我慢して着なくちゃならねぇ? どっちが優先されるんだ? 服か?」

 

 聞きながら、庄助の怒りに火がつく。さっきこの男は何と言った?

 

 ―――――この程度のモン?

 ―――――してやったり??

 ―――――へんちくりん???

 

 よくも……よくも、よくも……。

 

「待って下さい!!」

 

 庄助は怒鳴ると、ギリと歯噛みして東洋一を睨みつけた。

 懐から小さな帳面を取り出す。

 それはこの数ヶ月、庄助がこの隊服を作成するために行った試行錯誤の記録であった。

 

「これを見て下さい!!!!」

 

 東洋一は目の前に差し出された、破れ目のある汚れた小さな帳面を、気のない様子で受け取ると、ペラペラとめくった。

 

「この程度…って、あなたにはわからないでしょうけど、私達は必死で研究に研究を重ねて作り上げてきたんです! あなた達が命を張っている以上、その身を守るための服を、一生懸命、いろいろ…あちこち回って、糸から、染料から、縫い方だって新たに考えたりして…寝る間だって惜しんでやってきたんです! してやったりとかじゃない!! 必死でやってきた成果を……」

 

 東洋一はフゥと溜息をついて、庄助に帳面を返した。

 その顔にあまり変化はない。

 

 ボリボリと頭を掻きむしりながら、

「あぁ、頑張ったな」

とは言ったものの、それはねぎらいの言葉ではなかった。

 

「………」

 

 庄助は唇を噛み締めて、東洋一を睨んだ。

 その庄助の視線をまともに受け止めながら、東洋一は涼しい顔で言う。

 

「頑張ったから、認められて当然だとでも思ってんのか? その程度だから、年中暇つぶしの穀潰しなんだよ」

 

『年柄年中暇つぶしの穀潰し』とは、かつての縫製部を揶揄したものだ。

 今回の洋式隊服の製作にとりかかるまでは、実際のところそうであった。

 

「いっ、今は違いますッ!」

「へぇ? そうか? てっきりこの出来損ないの隊服作って、できました~…って終了して元通りになるんじゃないのか?」

「そんなことないです!」

「じゃあ、どうすんだよ?」

 

 聞き返されて、庄助は返事に詰まった。

 正直、隊服が完成した後のことは考えていなかった。

 もちろん、新たな隊士が来たら作製するし、破損すれば修復する作業もあるのだろうが。だが、それだと以前と同じ『暇つぶしの穀潰し』の縫製部になってしまう……。

 

 言葉が出ない庄助を東洋一はニヤニヤと笑って見ている。

 

「……改良……してきます」

「そうかい。じゃ、期待しといてやるよ」

 

 最後までいちいちイラつく台詞(セリフ)を残して、篠宮東洋一は去って行った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 斯くして―――――母田庄助と篠宮東洋一の隊服をめぐる攻防が始まった。

 

 隊服改良版零号。

 問題とされた重さと臭さを軽減した。

 

 意気揚々と持って現れた庄助を見るなり、東洋一はフンと鼻で嗤った。

 

「ずいぶんと自信があるようだなぁ。見せてみろ」

「どうぞ」

 

 渡した瞬間に、東洋一は眉を寄せた。

 

「駄目だな」

 

 着ることもなく一言。庄助は目を剥いた。

 

「なんでです! 重さもニオイも、以前とは比べ物にならないはずです!」

「ニオイは…まぁ、及第点をやってもいい。だが、重さはまだ駄目だ。使い物にならねぇ」

「……が、我慢しなさいよォ、ちょっとは!」

「我慢してまで着てほしいのか? その程度か、お前の努力は」

 

 薄ら笑いを浮かべながら、東洋一は持ってきた隊服を手の平の上でポンポンと弾く。

 庄助はギッと歯軋りすると、隊服を引っ掴んで抱きしめた。

 

「………また来ますッ」

 

◆◆◆

 

 隊服改良版壱号。

 猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石の割合をより少なくした。

 当然、軽くなった。軽くなったが……

 

「これで、鬼の爪を防ぐのか?」

 

 出来た隊服は東洋一に引っ張られると、あっさりと破れた。

 言われなくともわかった。強度が落ちている。

 これでは隊服の意味がない。

 

「……出直します」

 

 庄助は悄然として持ち帰る。

 

◆◆◆

 

 隊服改良版弐号。

 これは意外なことから、これまでにない改良が加えられることになった。

 

 それまでは織り上がった布に猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石を染料と一緒に染み込ませて、その後で縫製をしていた。

 だが、偶然に縫製部の女子達の間で白身魚の練り物の話―――覚えておく必要もないので詳細については忘れた…が、()()()という言葉が何度も反芻され、それをぼんやりと聞いていた庄助の頭に閃いたのだ。

 

「そうだ! 糸だ!」

 

 叫ぶなり庄助は製糸を頼んでいた職人を訪ねた。

 糸の段階で猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石を練り込むように撚り混ぜて、染色も行うことにしたのだ。そうすれば、量が少なくともより強度のある布が作れる。

 

 最初に完成した時と同じくらいの意気込みで、道場にいた東洋一を訪ねると、前回とは違って自信に溢れた庄助の様子に、フンと笑う。

 

「随分と自信満々だな」

「どうぞ」

 

 手渡して東洋一はその隊服を持ってしばらく考え、

「駄目だな」

と、返してきた。

 

「ええぇぇ!!?? ど、どど、どこが? 何が駄目なんですッ?」

「重い」

「嘘だァッ! 相当軽くなってる筈ですよォ!?」

「あぁ。最初に比べればな。でもまだ重い」

「………」

 

 庄助は自信が覆された恨みもあって、ジットリと東洋一を睨みつけた。

 

「あなた…何がなんでも着たくないだけじゃないんですか?」

「そんなこたぁねぇよ。着るに値する…いや、着たいと思やぁ着るさ。しかし、これじゃあ無理だな」

 

 庄助は怒りのあまりに全身が震えた。

 

「もう……結構ですッ!!!!」

 

 東洋一から隊服を奪い取って、庄助は走り去った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「はあぁぁ。もう嫌だぁ~」

 

 屋台の蕎麦屋で深い溜息をつく庄助に、呆れた目を向けるのは同門であった梶原(かじわら)(すすむ)だった。

 庄助は元々は隊士になるべく育手の元で研鑽を積んでいたが、稽古の途中で足の骨を折り、以来(びっこ)を引くようになってしまい隊士は無理だと諦め、隠となった。

 

「別にもうそんなにこだわらなくていいんじゃねぇのか?」

 

 梶原が言うと、庄助は再びはあぁと溜息をつく。

 

「そうだよなぁ…。何もあの人のために作ってるわけじゃないんだし…」

 

 言いながらもそれは庄助の本意ではない。

 こんな中途半端な状態で終わらせることは許せなかった。

 だが、これ以上どこをどう改良していけばいいのかわからない…。

 

 途方に暮れて頭を抱え込んでいると、頭上で鴉が喚き立てる声がする。

 隣にいた梶原の顔がサッと強張り、すぐさま立ち上がる。

 

「庄助、すまんが支払い頼むぞ。オヤジ、ここは危険だ。すぐさま引き払え」

 

 店の親父が目を白黒させている間に、庄助はその手にお金を握らせた。

 

「悪いことは言わない。今日は店じまいして、早くここを立ち去った方がいい」

「ど、どうしたってんだ?」

「いいから! 怖い目をみたくないなら、早くしろ!!」

 

 庄助は親父を手伝って屋台をしまうと、梶原の走っていった方角と逆方向へと追い立てるようにして帰らせた。

 

 空を仰ぐと鴉が飛び回っている。

 鬼が近くにいるのだ。

 

 庄助は息を殺しながら、梶原を追った。

 むろん、自分はただの隠なので戦うことはできない。

 だが、今は見たかったのだ。

 

 梶原は庄助の作った隊服を着ていた。

 それも今回自信作として作り上げた改良型のものだ。

 実際の戦闘においてどれほど有効であるのかを確認したかった。

 

 川沿いの道々をそろそろと進む。

 ここは堤防の上で、眼下には猛暑で干上がった川の河原が広がっていた。

 

 月明かりの下で白い丸い石が敷き詰められたように転がっている。

 わずかに真ん中に流れる川の水面も、月明かりを反射して白く光っていた。

 

 一町半ほど進むとギィンと刀が何かに弾かれる音が聞こえた。

 

 庄助はさすがに近寄ることはできなかった。

 堤防の上で這いつくばって、伸びた草の間から戦闘の様子を見つめる。

 

 何度か鬼の爪が梶原の服を掠った。

 だが、布地を切り裂いたかどうかはわからない。後で検分する必要がある。

 今は…その時に梶原が死んでないことを祈るしかない。

 

 

 最初に鬼と戦っていたのはかなり小柄な隊士だった。もしかすると女かもしれない。

 足をやられたのか、立ち上がれずにいる。

 

 梶原は必死に応戦していたが、子供ような鬼の動きは素早い。

 だんだんと体力を削られて、梶原が劣勢になっていく。

 

 十分に呼吸を溜めて、裂帛の気合と共に梶原が技を繰り出すと、鬼の身体がパックリと三つに裂けた。

 やった、と思う間もなく、三つに割れた身体がそれぞれに一つ一つの体になっていく。

 

 どうやら鬼はわざと梶原の刀を受けたらしい。

 三つに分体した鬼は、梶原と女隊士を取り囲む。

 

「鬼が三体なんて………」

 

 さすがに庄助はあわてた。

 ここで自分がまごまごしている間に、梶原達が殺られかねない。

 周辺に他の隊士はいないだろうか……?

 

 思わず中腰で辺りを見回し、再び河原へと目を向けた時には、鬼はもう目前に立っていた。

 

「………ひ」

 

 悲鳴は上げられなかった。

 声が潰れて、かすかに空気が漏れるだけ。

 

 怯えきった庄助を見て、鬼はにっこりと笑った。

 笑う顔は人間であった頃の、少女の面影が少し残っていた。

 

「こっちから見てるのがいると思ったら、なんだつまらない。ただの小男」

 

 子供のような高い声で早口にしゃべっている間にも、蛇のような細く長い、赤い舌がチロチロと蠢く。

 それがひどく怖かった。

 

「さぁ、あっちで皆と一緒に私に食べ―――――」

 

 言いながら鬼は庄助の頭を掴もうと手を伸ばす。

 だが、最後まで言い終わらないうちに首も腕も斬り落とされていた。

 

「高みの見物にしては、命懸けだな~」

 

 聞き覚えのある声に、いつの間にか瞑っていた目を開く。

 月明かりの逆光で顔は暗かったが、それが誰なのかはすぐにわかった。

 

「し…しし……篠…宮さ」

「震えてんじゃねぇか。いつもの負けん気はどうしたよ」

 

 相変わらず、人を小馬鹿にしたようなその口調に、今は安堵すら感じた。

 だがすぐに思い出す。

 

「梶原ッ」

 

 河原の方はと見ると、そこにいた二体の鬼は一人の剣士によってあっさりと首をとられていた。

 倒れながら塵となって消えていく。

 

「……済んだな。行くぞ」

「え?」

「検分してたんだろ? 早く来い」

 

 言うなり東洋一は土手を下ってさっさと梶原達のいる方へと歩いていく。

 庄助は腰が抜けてフニャフニャになりながらも、あわてて立ち上がってついて行った。

 

 河原に下りていくと、案外と石の下に川の水は流れていた。

 

 女隊士(やはり女の隊士だった)は、戦闘中に水に濡れて全身がぐっしょりしていた。

 その上、鬼からの攻撃で肩と背中をやられて、隊服は血に染まっていた。

「服んでおけ」と、女隊士に丸薬を渡しているのは天狗の面を被った男。

 彼のことは知っていた。

 

 あまりに優美な顔のせいで鬼に馬鹿にされる、という理由で天狗の面をつけるようになったという水の剣士。

 面貌については庄助は見たことがないので真偽はわからないが、次期水柱候補であるという評判は間違いないと思った。

 梶原も女隊士も手こずっていた鬼、しかも二体をあっという間に葬っていた。

 

「隠は既に呼んでいる。すぐに来るだろう」

 

 言っている間にも、土手の方から走ってくる隠の姿が見える。

 

「どうだ…? 新しい服の着心地は?」

 

 東洋一がいきなり女の隊士に尋ねた。

 ぐったりした様子ながらも、女隊士はやや怒ったようにつぶやく。

 

「重い…です。息が…できない」

「そーかそーか。脱ぐか?」

 

 東洋一が言うと、女隊士はキッと睨みつけた。

 どうやら見た目ほどにはひどい状態ではないらしい。

 それよりも―――

 

 女隊士が隠達によって運ばれた後、東洋一はその場に立ち尽くしていた梶原に声をかけた。

 

「おい、梶原。お前、その上着だけ脱げ」

「は?」

「いいから、脱げよ」

 

 梶原は怪訝な顔をしつつ、上衣を脱ぐと東洋一に渡す。

 東洋一はそれをいきなり川の中に沈めた。

 

「あっ!」

「なにするんですっ」

 

 思わず声を上げた庄助に、東洋一はすっかりびしょびしょになったその服を差し出す。

 

「持ってみろ」

 

 言われるまま、服を受け取ろうとして、庄助はその重さに思わずガクリと膝が折れた。

 

「あっ!」

「重いだろ?」

「………重い、です」

 

 乾いている時の隊服でも多少なりと重さはあるものの、濡れたその隊服はそれこそ刀よりも数倍重かった。これでは確かに着ているだけで息をするのも辛くなりそうだ…。

 

「俺らの戦う場所ってのは、水辺でも雪の中でも、雨降る中でも関係ない。その上、敵の返り血を浴びることもある。さっきの女みたいに自分の血が染みることもある。その時にこんなに重くなっちまったんじゃあ…動きようがないだろう?」

「………」

 

 庄助は黙るしかなかった。

 今の今まで、実際の戦闘状況を考えた上での製作を行っていなかった。

 こんな…基礎中の基礎を……。

 

「お前さん、俺に着ろ着ろとやたら言ってくるが、自分はどうなんだ? 着たことあるのか?」

「え? い……いえ」

 

 基本的には隠が着るものではないので、一部の隊士か柱に試着してもらうことが常だった。

 否定する庄助に、東洋一はやれやれ…とあきれた溜息をつく。

 

「作ってるお前さんが着てもみねぇで、何がわかるんだよ」

「え……でも、俺はどうせ着ないし」

「そういうことじゃねぇ。自分で着てみりゃ、同じ『重い』ってのでも、どれくらい違うのか実感できるだろうが。試着たって、毎度違う人間が着てるんじゃ比較にならねぇ」

「………」

 

 正直、服のことについては何もわかってないくせに―――と、半ば馬鹿にしていた東洋一にもっともなことを並べられ、庄助はぐうの音も出なかった。

 

 この隊服は隊士の身を守るためのもの―――などと言いながら、実際のところ自分は、この目の前にいる人達のことを考えて作っていただろうか?

 真剣に…一生懸命に作ってさえいれば、皆がそのうち認めてくれるだろう…と、己の正しさを押し売りしていただけではないのか?

 

 作ることが重要なんじゃない。着てもらうことが何より大事なのだ。

 それなのに自分は、着る人間のことを考えて作っていなかった……。

 

 今更ながらに庄助は自分の独り善がりに気付いた。

 ペコリ、とお辞儀をすると庄助は無言でその場を後にした。

 

「え? おい…母田!」

 

 梶原があわててついて行く。

 残された東洋一に、左近次はあきれたように言った。

 

「いつまでも隊服を着ない…と鳴柱様がボヤいていたのはそういう事ですか」

「あぁ? なんだ?」

「あそこまでご指南されるとは、随分とお優しいことで」

「優しい? どこが?」

 

 左近次は答えず、歩き出す。

 

 知り合った頃からこうなのだ。教えるのではなく、指し示す。自分で気づかせる。遠回りなようでいて、その方が実は芯から身に入るのだ。

 

「あーあ。酔いが覚めちまったぜ。飲み直そうかな~?」

「いい加減にしなさい。明日から遠征でしょうが」

「チッ! まぁいいや」

 

 東洋一は肩をすくめると、月明かりに照らされた夜道を口笛を吹いて歩いて行った。

 

 

<後編につづく>

 

 

 




次回は2021.10.09.土曜日更新予定です。




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<隊服悶着・一昔>後編

 隊服改良版参号。

 

 ようやく出来たその改良品を持って訪れたのは、かの『伝説の風柱』の居宅である風波見(かざはみ)家だった。

 

 偶然、本部にいた風波見周太郎の息子の賢太郎から、

東洋一(とよいち)さんなら、今日は(うち)においでですよ」

と、聞いたのだ。

 

 庄助は迷った末、思い切って訪ねてみることにした。

 無論、東洋一に完成した改良版を試してもらうためでもあったが、正直、単純な野次馬根性で、この機会に風波見家に行ってみたかった。

 

 応対した年増の妻女は少々怖かったが、物腰は丁寧だった。

 案内されて、道場に入ると東洋一と周太郎が打合稽古をしていた。

 

 その気迫と緊張感に、傍らで見ている継子達は息をのんでいた。

 途中からであったが、庄助も多少なりとそうした稽古の経験があったため、これが相当な手練同士の打合であることはすぐわかった。

 永遠と続くかに思えるほど、双方共に互角であった。

 

 剣戟の間があいた時に、東洋一は手を上げて周太郎を制した。

 

「客人のようですよ、師匠」

 

 既に庄助が来ていることに気付いていたらしい。

 周太郎もまた同様であったようだ。「うむ」と頷くと、意外にも名前を呼ばれた。

 

母田(もだ)庄助(しょうすけ)だったか? 隊服のことか?」 

 

 庄助は「はっ」とひれ伏した。

 それは儀礼上行ったのではない。

 自分のような末端の隠を、柱の筆頭として何かと忙しい風波見周太郎が知っていてくれたことが、嬉しくてたまらなかった。

 

「あの…その……そちらの篠宮様から色々とご指導を受けまして」

「ふん…そうらしいな」

 

 面白そうな様子で周太郎は東洋一を見た。

 

「鳴柱からも言われたよ。お前が新しい隊服を嫌がって着ないものだから、他の隊士に示しがつかぬと」

「はぁ…すいません」

 

 東洋一が曖昧に笑うと、庄助は即座に否定した。

 

「いえ! 篠宮様に非はありません。私が独り善がりな作り方をしていたのです。全面的に考え方を改めまして、再度作り直してきました。今一度、確かめていただきたいと思います」

 

 庄助が新たな改良版参号となる隊服を差し出すと、周太郎がまず手に取る。

 

「うん。以前よりも軽くなったな。強度はどうかな?」

「はい。服の端をもって引っ張るのを百回、小刀で斬りつけるのを百回行いまして、見ての通りです。また、ニオイの方も糸の状態で染色を行った後に一度洗い、織った後にも洗い、縫製の後にも洗いまして、ほとんどなくなっていると思います」

 

 周太郎は莞爾として笑った。

 

「大したものだ。最初のものが出来た時で十分にも思えたが、改良を重ねてここまで仕上げてくるとは…」

 

 言いながら周太郎から隊服を渡された東洋一は、神妙な顔をして、手の上でその重さを量っていた。

 やがてチラとこちらを見て微笑む。

 庄助は手応えを感じて、ようやく心の中で快哉を叫ぼうとしたが……

 

「とりあえずは、重さとニオイは直ったな。あとの問題点は、色」

「はいぃぃ??」

「前から思ってたけど、なんだってこの色なんだ? 漬け過ぎた大根みてぇな色じゃねぇか」

 

 漬け過ぎた大根…。

 確かに隊服は赤と黄味がかった灰色のような、微妙な色合いだ。

 だが……

 

「はぁ……あの、なぜ駄目なのか聞いていいですか?」

 

 とりあえず訊いてみる。

 今まで重さや臭いについては東洋一に限らず、隊士達からチラホラと不満を聞いていたが、色に関しては一度も文句を言われたことはない。

 

「野暮天」

 

 東洋一はきっぱりと言い放った。

 

「は?」

「どうにも間抜けな感じがするんだよなぁ……ピリッとしねぇ」

 

 庄助はガックリした。

 この前はあんなにいい事言ってくれてたのに、なんだ今回のその理由にもならない理由は。

 

 ムカつきながら面を上げると、周太郎と目が合った。

 マズイ…と思ったと同時に、周太郎が大笑いする。

 

「確かになァ……ピリッとしねぇ…とはいい言い草だな」

「あ、やっぱ師匠もそう思います?」

「そうだな。まぁ……夜目にやや目立つ…かな」

 

 庄助は落胆しかけていた気持ちをハッと引き締めた。

 今、周太郎は大事なことを言っていた。

 

 夜目に目立つ。

 

 それはつまり鬼から見て、目に入りやすいということだ。

 

 和装での隊服時、当初は暗がりで見分けのつきにくい黒や濃紺で作られていた。

 だが、生地の染色に猩々緋砂鉄等の特殊なものを混ぜるようになってからは、この色になってしまったらしい。

 数世代前の先達の考えた技は試行錯誤の末のもので、それはそれで大変な苦労だったろうとは思うが、まだ改良すべき点ではあったのだ。

 

 庄助は再び頭を下げると、東洋一から隊服を受け取った。

 

「かしこまりました。風柱様の貴重なご意見、痛み入ります。次こそは完成させて参ります」

 

 すごすごと立ち去った庄助を見送って、周太郎は肩をすくめた。

 

「隠相手でも容赦ないな、お前は」

「死出の旅路の衣装になるかもしれないんですからねぇ。少々、物を言いたくもなるでしょうよ」

「ハッハッハッ。死出の旅路など……お前ではいつの事になるかわからんだろう」

「そうですかね? ま、出来上がるまでは生き延びることにしますよ」

 

 軽く言うと、東洋一は廊下を早足に帰っていく庄助を見て愉しげに笑った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 夜目に目立たぬ色、となると考えられるのは黒である。

 だが、この染色は困難を極めた。

 前述の通り、猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石を練り込んだ糸を染色する際、様々な染料を試すものの、金属に反応してすっきりとした黒色が出ない。どうしても、やや赤茶けたような色になってしまうのだ。

 

 庄助があまりに必死にやっているのを、同じ縫製部の隠達は当初呆れたように見ていたのだが、寝不足がたたってとうとう幻覚混じりのことを言い出すまでになると、放っておけなくなった。

 

「篠宮さん! いい加減にして下さいよ!!」

 

 茨木(いばらぎ)辰之進(たつのしん)は方々に聞き回って、ようやく隊士達が共同で借りている下宿屋の一室で寝こけていた東洋一を見つけると、大声で怒鳴りつけた。

 

 東洋一は正直、ドタドタと入ってきた辰之進の足音で目覚めていたのだが、わざとに寝惚けた顔で起きると、ぼーっと辰之進を見た。

 

「誰だ、お前」

「縫製部の茨木です! 母田庄助の同僚です!」

「あぁ……アイツな。なんだ、どうした? 今日はお前が持ってきたのか?」

「違います! 庄助はここ数日、染料の配合で不眠不休で…とうとうおかしな事を言いだしたから、今日、無理やり家に連れ帰って今、寝かしつけてきたところです!」

「へぇ…お世話様」

 

 気のない様子で言って、東洋一は置きっぱなしになっている鉄瓶から、すっかり冷めきった白湯をグイッと呷る。

 辰之進はキッと睨みつけて、今にも掴みかかりそうな勢いで喚き立てた。

 

「あんたねぇ……誰のせいだと思ってるんですか!? あんたがアレコレ文句つけるから、あいつは大真面目にあんたの相手して、必死に…一生懸命…昨日も今日もロクに食べもせず、ずっーとやってるんですよ!! ぶっ倒れますよ、このままじゃ」

「知ったこっちゃねぇや」

 

 ボリボリと懐手で胸のあたりを掻きながら東洋一は大欠伸をする。

 辰之進はヒクヒクと頬を引き攣らせた。

 

「へ…ぇ……そう、そうですか。いいですよ。でしたらこちらにも考えがあります。この洋式隊服は元は花柱と風柱様からの肝煎りなんです。あなたがそうやって難癖をつけると……お二人に進言致します」

 

 チラと東洋一は辰之進を見遣ると、フンと鼻で嗤った。

 

「見事に、虎の威を借るなんとやら、だな。それで俺が大人しく言うこと聞くとでも思ってんのか?」

「な……なんです? その不遜な態度も含めて……」

 

 辰之進は言いながら、ジワリと額に冷たい汗が噴き上がってきた。

 じいっと辰之進を見つめる東洋一の目を見ていると、だんだんと目が離せなくなる。まるで蛙を呑み込む前の蛇に見入られているかのように。 

 

 一瞬の間で、辰之進と間合いを詰めた東洋一は、耳元で囁く。

 

「友達思いのフリかァ? えェ?」

「ひ……あ…」

 

 辰之進は一気に声が涸れた。

 喉元に何かを…たぶん、刀を…当てられている。

 いつの間に、抜いたのか…? まったく見えなかった。

 

「一生懸命にやってる? 当たり前だろ。できる努力は全てやってこそ、一生懸命っ()うんだよ。その上で心身まですり減らしてアイツはやってる。お前はそれを見て、のこのこ俺の前に現れて、何を言いに来た? 暇か、貴様」

「あ……う……」

「お涙頂戴したきゃ、それこそ師匠と勝母の前ででもやってみろよ」

 

 言うなり、東洋一は立ち上がってコツリと辰之進の額を小突く。

 大した力ではなかったのに、辰之進は不様に後ろに転がった。

 急に強張っていた身体の力が抜け、這いつくばって東洋一の方を見ると、その手に握られていたのは扇子だった。

 

「あ……扇子…?」

 

 混乱して辰之進は目を瞬かせる。

 ペチリ、と扇を閉じる音が響き、ハッと見上げると冷たい瞳の東洋一と目が合った。

 

「止めてみろよ、アイツを。本気になった人間は、お前が考えてるほどヤワじゃねぇぞ」

 

 最後に言い捨てて、東洋一は立ち去った。

 怒って出て行ったのかと思ったが、どうやら後からやって来た他の隊士に聞くと、鴉から危急の任務を告げられたようだった。

 

 辰之進はすっかり自信を喪失した。

 浅ましい自分の心底を見せつけられた気がする。

 

 項垂れて縫製部に戻ると、津村タネが泣きそうな顔で寄ってきた。

 

「駄目よ~、茨木ぃ。また母田くん、戻ってきちゃって」

と、困りきった様子で告げる。

 辰之進は唖然とした後、ハアァと長く息を吐いた。

 

 研究室に入ると、確かに庄助が多少、朝よりは血色のいい顔になって、また瓶をいくつも並べては色水を比べ見ている。

 

 辰之進に気付くと、「ちょうどいいところに来た!」と叫び、手招きする。

 

 辰之進は少しばかり笑った。

 それは庄助を馬鹿にしたのではない。

 東洋一の言葉を思い出していたからだ。

 

 ―――――本気になった人間は、お前が考えてるほどヤワじゃねぇ…

 

 確かにヤワじゃない。むしろ嬉々としてやっている。

 それが困るけど……。

 

 辰之進は軽く首を振った。

 どうしてだか今の庄助が少しばかり羨ましく思えた。

 

 

◆◆◆

 

 

 隊服改良版肆号。

 

 試行錯誤を重ねた上、庄助はようやく満足のいくものが出来ると、途端にバタリと倒れてそのまま一昼夜眠り込んだ。

 それは庄助だけでなく、巻き込まれた縫製部の面々はほとんどが家に帰ることもなく、その場で倒れるように寝入った。

 

 ということで完成品を持って庄助が篠宮東洋一を訪ねたのは、出来た翌日のことだった。

 

 真っ黒な隊服を見るなり、東洋一は嬉しそうに微笑んだ。

 

「いいじゃねぇか。やっぱり粋となりゃ、黒だろうよ。あんな萎びた大根みたいな色よりよ」

 

 そう言いながら持ち上げて、重さも確認している。

 そのまま床に置くと、上着を広げた。

 庄助はやった! と手応えを感じた。

 とうとう着るところまできた……!

 

 が、東洋一は上着を持ち上げてまじまじと眺めたまま止まった。

 

「なんだ、これ?」

 

 不機嫌そうな声が聞こえて、庄助は一気に肝が冷えた。

 

「え? なんですか?」

「この真ン中にズラズラ並んでる、丸いのなんだよ?」

「あ…これは(ボタン)と申しまして……西洋の服はこれで二つに分かれた前身頃を重ねて留めるようになってまして……」

 

 そこまで聞くと、東洋一は上着を庄助に押し付けた。

 

「駄目だ」

「はいいぃ?」

「こいつをいちいちこの穴の中に通すのか? 何個あんだよ。面倒くせぇわ」

 

 上着を留める釦の数については、庄助も当初の案では多いと考えていた。

 これもまた今回の改良において、自分でも試着したことで、わかったことだった。

 

 隊士は危急の任務が言い渡されることも少なくない。すぐさま着替えができなければならない。

 そのため、元は二十個近くあった釦を十個まで減らしたのだ。

 

 しかし東洋一はまだ多いと言う。

 

「四まで減らせ」

「四ですか? それだと……間が開いてしまってガバガバに…。せめて…七とか」

「四」

「五……」

「俺は三でもいいと思ってんだぞ」

「…………」

 

 なんだろう、ここは。

 競市にでも来ているのか? まさか釦の個数で交渉する羽目になるとは…。

 

 黙り込んだ庄助に、東洋一は溜息をついてまだ言い被せる。

 

「だいたいなぁ、なんなんだよ…このチビた碁石みたいなのは。こんなモンぶらぶら下げて戦えるかってんだ。お前は研究熱心だが、どうにも()ってのが分かってねぇなぁ」

「粋……って」

 

 だんだんと庄助の中からフツフツと怒りが沸いてくる。

 確かに自分は田舎者だ。洒落た都会の着こなしなど知ることもない。

 だが、今自分が作っているのは隊服。仕事着。

 そこになんで()が必要なんだ!

 

 フルフルと肩を震わせる庄助を見て、東洋一がつぶやく。

 

「隊士にとっちゃ隊服は死装束でもあるんだぞ。少しでもいい格好で死にたいだろうがよ」

「…………」

 

 庄助は無言で震えた。

 俯いて耐え、しばらくしてから顔を上げると、ニッコリと笑って東洋一を見た。

 

「そうですね。釦の数が多いと着替えにも手間取りますし、戦闘中も気になってしまうかもしれません。もう少し考えてみます」

 

 言いながら、なぜだろう…勝手に握り拳をつくっていた。

 無論、殴るようなことはしないが。

 

 東洋一は気付きながらも、余裕綽々と笑う。

 

「お…殊勝だな」

「とんでもございません。篠宮様に認めていただけるまで、何度でも、改良に改良を重ねて、より良いものを作るのが縫製部の務めだと思っておりますので」

 

 笑顔を貼りつかせて慇懃に答えると、庄助は丁寧に服を畳み、深く頭を下げた。

 立ち上がると、足音だけは激しくその場を去った。

 

「怖くなってきやがったなァ…」

 

 東洋一はクックッと笑って独り()ちた。

 

 

◆◆◆

 

 

 隊服改良版伍号。

 

 前回に指摘された釦については、東洋一の願い通りに四つまで減らした。

 その上で庄助が心配したように、前がガバガバに開かないよう上着の丈から見直した。

 

 従来の物は、最初にもらった洋式軍服の型紙に合わせて尻まで隠れる設計で作られていたのだが、思い切って丈を腰まで短くした。

 この変更は意外にも、本来の目的であった機動力という点においては非常に有効だった。

 庄助をはじめとする縫製部全員が、見本の型にとらわれ過ぎていたことに気付き、あくまでも隊士達の利便性を考えた仕様での作り方を再度見直すきっかけになった。

 

 その上で、釦も大きなものに変えた。

 色も、小さい碁石みたいだと揶揄されたので、皆で意見を出し合った結果、一般隊士は銀色、柱は金色の釦にすることに決まった。

 どちらも黒に映えて、なかなか()だろう……と、呉服屋で丁稚奉公をしていた辰之進が太鼓判を押す。

 

 しかし持って現れた庄助に、東洋一は今回は始めから機嫌が悪かった。

 一応、出来上がった隊服を見て、庄助から釦部分の改良についての説明も聞いたが、上着を見ても口をへの字にして見つめたままだ。

 

「あの~…まだどこか?」

 

 おずおずと尋ねたのは、一緒に来ていた辰之進だった。

 釦の色について自分が最終的に決めることになったので、気になってついて来たのだ。

 

「いや、ま……いいんじゃねぇの。これだったら、皆喜んで着るだろうよ」

 

 東洋一は言いながら、上着をそのまま風呂敷の上に置いて、窓の外で降り出した雨を眺めている。

 辰之進は東洋一の言葉をそのまま受け取って、ホッとした顔になった。

 

「本当ですか? やったな、庄助」

「………」

 

 庄助はしかし眉を寄せた。ズイと、東洋一に詰め寄る。

 

「らしくないですね。言いたいことがおありなら、仰言(おっしゃ)って下さい」

 

 チラ、と東洋一は庄助を見ると、眉間に皺を寄せながらポリポリと頭を掻く。

 

「別にいいんだけどよ。左近次のには裏地がついてんじゃねぇか。何で俺にはねぇんだ?」

「は?」

「左近次のには裏地がついてたぞ。青いボカシの入った鱗文様の」

「………」

 

 庄助は一応笑顔を浮かべていたのだが、そのまま固まった顔を見た辰之進は、隣からヒンヤリとした冷気を感じた。

 

 しばし静かな時が流れた後。

 

「えぇ加減にせえーーッッ!!!!」

 

 それまで腹に溜めに溜め込んできた庄助は、とうとう大声で吠えた。

 仁王立ちして東洋一をギッと睨みつける。

 

 ちなみにここは以前辰之進がやって来た隊士達のたまり場になっている下宿屋である。

 凄まじい怒鳴り声に、寝ていた隊士までが飛び起きて、そろそろと東洋一達のいる部屋を窺う。

 

 しかしそんな隊士達の注目を浴びていることなど、庄助は全く知らなかった。知っていたとしても、止められなかった。

 

「人がヘイヘイと頭下げとったら、えぇ気なりよって!! 左近次ィ? 水柱様と言え! お前より後輩でも柱になられたんや! 敬え!!」

 

 ビシリ! と指を差して庄助は怒鳴りつける。

 そこからは溜まりに溜まった鬱憤が噴き出すばかりだった。

 

「裏地はなァ…水柱様から直接頼まれたんやッ!! 自分は汗っかきで、脱ぐ時にひっかかって脱ぎにくいから、できれば裏地をつけといてくれるかー、言うて! ちゃんと理由を聞いて、丁寧に言ぅてくれりゃなぁ…こっちかってしっかり応対するんやー!! 裏地が欲しいだァ? テメェのはただの格好つけやろうがいッ! 水柱様のが羨ましいだけやろがッ! こっちゃ全隊士の隊服を作っとんねん! テメェだけの好みにいちいち合わせて作ってられるかあぁぁ―――ッ!!!!!」

 

 最後はほとんど絶叫だった。

 

 この半年以上におよぶ苦闘の末、こんな幕切れとはなんとも情けないやら、悲しいやら、腹立たしいやら……庄助の目から涙が零れ落ちた。

 

 しかし、東洋一はポカンとした顔でつぶやいた。

 

「お前……上方(かみがた)の人間なの?」

「それ、今、聞くことかッ!?」

 

 呆れて再び怒鳴ると、庄助はハァハァと息切れして座り込んだ。

 隣にいた辰之進も呆れ顔で東洋一を見ている。

 

「水柱様のが羨ましいって……子供ですか、あなた」

「どうとでも言え。とにかく、隊服はこれでいいさ。ただし、俺は着ないけどな」

「あぁもう……いいですよ。ご勝手に」

 

 辰之進は匙を投げた。

 隊服をたたむと、庄助に「行こう」と声をかける。

 

 しかし庄助は動かなかった。厳しく東洋一を睨みつける。

 

「……()、ですか」

「……そうだな」

「隊服は死装束。ならば『粋』に、『逝き』たいと…いう訳ですか?」

 

 東洋一は「いき」に言葉をかけた庄助を見て、ニヤリと笑った。

 

「ああ、そうだ。俺がぐうの音も出ねぇような、()な隊服を持ってこい。そしたら着てやるよ」

 

「………わかりました」

 

 庄助は立ち上がると、振り返ることなく出て行く。

 あわてて追いかけてきた辰之進が情けなく呼びかけた。

 

「おい庄助ぇ。もぅ、いいじゃないかよぉ。あの人だって、皆が着るようになったら否が応でも着るようになるさ」

「それじゃ、今の今まで俺がやってきた意味がないんだよ!」

「意地を張るなよぉ…」

「いや、駄目だ。意地は通さないと、今まで必死にやってきた自分が立たない。俺はあの人に隊服を着させるって……決めたんだ」

 

 庄助はそれきり無口になって、縫製部に戻ると、すぐさま東洋一の隊服製作にとりかかった。

 

 

◆◆◆

 

 

 一週間後。

 

 隊服改良版伍号篠宮東洋一仕様。

 

 ということで、庄助が訪れたのは再び下宿屋だった。

 その日、東洋一は夜から仕事が入っているらしく、夕刻に訪れた庄助を見るなり、ニヤリと笑った。

 

「さて、出来たか? よけりゃ、今日の任務にでも着てってやるさ」

「それは上々。今日からでも着たくなるでしょうね」

 

 庄助も受けて立った。

 東洋一の前に風呂敷包みを置くと、結びを解いて開く。

 

 中には黒い隊服があった。その襟と袖口、背中部分にサラリとした生地の、薄黄色の裏地が縫い付けられている。

 

「ほぉ…いい取り合わせじゃねぇか。黒に黄とは…」

「これは黄色とは申しません」

 

 庄助はビシリと否定する。

 東洋一が首を傾げた。

 

「黄色じゃねぇ? なんて色なんだ?」

「梔子色です」

「クチナシ……?」

 

 鸚鵡返しにつぶやいて、しばらく考えてから、東洋一はケラケラと笑った。

 

 クチナシ…口無し。

 つまり、これ以上は問答無用。

 ついでにいうなら、死人に口なし…ということで、死装束としてはなんとも皮肉がきいている。

 

「成程な。ま、ありきたりだが……お前にしちゃ考えたじゃねぇか」

 

 言うなり、バサリと上着を肩にかける。

 

「しゃーねーから着てやるわ」

「四の五の言わずに着て下さい。野暮ですよ」

「言いやがる」

「それでは…失礼します」

 

 庄助は深く頭を下げると、すくっと立ち上がって東洋一を見た。

 その目は自信と達成感に溢れていた。ようやく、これで……

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「終わった…と、思ったな。あの時は」

 

 庄助は懐かしそうに目を細めて、ズズと茶を啜る。

 目の前では、庄助の一番弟子を自任する前田まさおがチクチクと隊服の修復作業を行っていた。

 

「しっかし…面倒臭い人もいたもんですねぇ」

「本当にな。まぁ、お陰で『暇つぶし穀潰し』なんて悪名も返上して、なんとも忙しく楽しく仕事させてもらったよ…」

「いや、少しは暇欲しいですよ。僕は」

「今、儂の相手しとるぐらいは暇だろうが」

「はあぁぁ。もう、すっかり毒されて…。そんなだから奥さんにも逃げられちゃったんじゃないですかぁ。僕は嫌ですよ。ちゃんと定時には家に帰ります」

「その前に相手はおるんか?」

「将来っ、将来的にっ」

 

 前田がムキになって言うと、庄助はヒャヒャヒャと歯の抜けた口を開けて大笑いした。

 

 裁縫自慢が集まる縫製部にあって、前田まさおはその技術力は抜きん出た存在であったが、性格にやや……かなり難があるため、隠はじめ隊士からも―――特に女子に―――嫌われている。

 

「ま、忙しい言うても…お前さんらにゃミシンがあるだけえぇじゃろうがい。アレのお陰で格段に隊服を作るのも早ぉなったし。えぇ時代じゃわ、お前らは」

 

 前田は肩をすくめる。

 老人の『昔はもっと大変だった話』というのは、たいがいにおいて、『比べたら今は楽だ』…という軽い批判が入る。

 

 まぁ、そこにいちいち目くじらたてて言い争うほど前田も子供でない。

 実際、話を聞くだに庄助の時代というのは、ミシンがない分、全隊士の隊服をすべて手作業で縫っていたのだから、今それをやれと言われたら、縫製部全員真っ青になるだろう。

 

「さて…行くか」

 

 庄助はお茶をすっかり飲み干すと立ち上がった。

 

「え? お帰りですか?」

「帰るよ。引退した爺さんに、昔の手柄話を長々語られて勘弁してほしい…って顔されとるんでな」

「嫌味なことを言わんで、また来て下さいよ。今度の隊服にはまた新たに外国から仕入れた染料の糸を使うことになってて…」

 

 なんだかんだと言いながら、前田はこの師と仰ぐ人と話すのが嫌いではない。

 庄助の研究意欲は引退するまで健在だった。

 見習うべきところはまだまだあるのだ。

 

「まだ改良しとるんだものなぁ……勝った、なんぞと一息ついとる間もなかったわ」

「そうですよ。改良版陸拾伍号くらいになってんじゃないですかね?」

「頑張っとるな、お前らも」

「他人事みたいに言ってないで、師匠も参加して下さいよ。今日もこれから工場に行くことになってんですから」

「ダメダメ。儂ゃ今から用がある」

「えぇ? 隠居して暇で暇でしょうがないから、近所の古着屋で手直しの手伝いしてるとか言ってたじゃないですか」

「ちょいと遠出して、懐かしい人に会いに行くからの……また今度」

 

 そう言って庄助は手を振ると、縫製部を出て行った。

 

 既に引退した身であるので、正門から堂々と行くのも気が引けて、庄助は西にある小さな通用門へと向かった。

 

 道々には染料となる花がいくつか植えられている。

 朝降った雨がまだ残る、塀沿いの日陰に、青い露草が一輪だけ咲いていた。

 

「おやおや……こんな時間まで咲いとるとは…。お前はよほどに頓珍漢か、頑張り屋じゃの」

 

 庄助はまるで子供に接するように、その昼過ぎにまで珍しく咲き残った露草に話しかける。

 昔はこの露草も必死で採集して、早朝から色水を作っていたものだ。

 

「さて……。行くか」

 

 すっかり重くなった腰を持ち上げるように立ち上がると、庄助は駅へと向かって歩き出した。

 

 隠居した身には時間は山とある。

 はるか昔の、懐かしい知人の墓参りのために遠方を訪れることも、そう面倒ではない。

 

 見上げた空に吹き上げる風が、彼を思い出させた。

 

 

 

 

<閑話休題 隊服悶着・一昔 了>

 

 

 





本日、更新が遅くなり日またぎとなりました。すいません。
次回より更新頻度が変わり、週一になります。
次回は2021.10.16.土曜日の更新予定になります。

pixivの方では、作者のつぶやき話(裏設定エピソード等)をアップしてます。興味とお暇がある方はどうぞ。


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<風柱と花の鬼>

「それで…大お祖父(じい)様はどんな人だったんでしょう?」

 

 翔太郎のその質問を聞いて、勝母(かつも)はしばらく思考が停止した。

 

 年をとったと思ってはいても、人の意識というのはそう簡単に変わらない。

 昔とは大きく世の中の有り様が変わったというのに、自分の中で時というのがまださほどに流れているとは思っていなかった。

 

 だが、そうか。

 自分の中では大して時を経たように思えない事柄であっても、目の前の少年には遥か昔の話なのだ。

 翔太郎が『伝説の風柱』であった()の人のことを「大お祖父様」などと呼ぶのを聞いて、勝母は隔世の感を禁じ得ない。

 

「そうだね……風柱様は、なんというか……(ひろ)い御人だったな」

「ひろい?」

「寛大な……わかりやすそうでいて、尻尾を掴ませぬ、捉えどころがないようでいて、安心感のある……」

 

 翔太郎にとって勝母の答えは期待したものでなかったので、そちらへと話を向ける。

 

「あの……強かったんですよね?」

「さぁ? 直接鬼と戦っている姿を見たこともなし、手合わせは何度かしたものの、たいがいコチラの手の内を探るために本気を出されぬ。それでもたった一人で柱として踏ん張っていた御方だ。強くないわけはないだろうね」

 

 言いながら勝母に去来するのは篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)のことだった。

 あの男が師として認めたのだ。ただ度量が大きいだけでは、あそこまで忠義を尽くすとは思えない。

 

「前に家に来た隠のおじさんは凄い御方だったって…なんか色々ともう…本当かどうかわからないような話をいっぱいしてってくれたんですけど……」

「ハハハ。なにせ人望は篤い御方だったからねぇ。とんでもない尾鰭がついているのもあるだろうが……そうだね。私が本人から直接聞いた嘘だかどうだかわからない話があるよ……」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「ようやく花が咲いたな…御館様が世話した甲斐があった」

 

 芳しいその香りに、柱最古参であり、鬼殺隊において伝説的な存在となっている風柱・風波見(かざはみ)周太郎(しゅうたろう)は、顔をほころばせた。

 

 その白薔薇は病気だと根から抜かれて転がっていたのを、輝久哉(きくや)が哀れんで、一年かけて丹精した末に再び芽吹き、蕾をつけて、花開いたものだった。

 小さかったが、美しく咲いたその艷やかな白い花を、花柱である五百旗頭(いおきべ)勝母(かつも)は無表情に見ていた。

 

 病弱だからと、輝久哉は自ら何かをすることは控えがちだった。それは彼を世話する周囲の人間も、何かあったら…と万一を心配して、させたがらなかった。

 

 だが、この白薔薇については周太郎に「ご自分で拾ったのだから、ご自分でお世話して生き返らせてみなさい」と言われて、懸命に育てたのだ。

 勝母にも何度か栽培法を尋ねてきたこともあった。

 こうして花開くまでになって、輝久哉にとっては、ほのかな自信となったようだ。

 

 あるいは周太郎はそこまで計算していたのかもしれない。

 しかしその時、周太郎がその白薔薇を見て思い浮かべたのは、違うことのようだった。

 

「鬼となるを望む人間もいれば、人ならざる者となっても善性を貫いて、人の血肉を厭う鬼もいる……」

 

 腕を組んで、周太郎は白薔薇を見ながらそんなことを言い出す。

 勝母は眉をひそめた。

 

「なにを仰言(おっしゃ)っておられる? そんな鬼などいるわけ御座いません」

「そう思うか?」

 

 周太郎は顔だけ振り返って、悪戯(いたずら)っぽい目で問うてくる。

 

「会ったのですか? そんな鬼に」

 

 やや当惑気味に問うた勝母に、周太郎は意味深に微笑む。

 

 柱合会議が始まる前の、二人しかいない広間。

 

 答えの代わりにしてくれたのは、周太郎が若い頃に会ったという鬼の話だった。

 

「……あの頃はまだ兄者も生きていて、元服して風波見家からもう出ていたから、名前も風見(かざみ)周佑(しゅうすけ)と名乗っていたな………」

 

 (ふる)い自分の名前を懐かしそうにつぶやいて、周太郎は話し始める。………

 

 

 

-----------------

 

 

 

 鬼殺隊に入って、四年ほど経った頃のことだ。

 鬼との戦闘で、風見(かざみ)周佑(しゅうすけ)は血鬼術にかかってしまった。

 

 どうにか鬼の首を取ることはできたものの、血鬼術に侵された身体(からだ)は凄まじい痛みと痺れ、熱に襲われ、身動きできなかった。

 鎹鴉は隠を呼びにいったが、深い山の中、しかも鬼との戦闘中に道を外れて谷底に落ちてしまい、そう簡単に見つけられる場所ではない。

 その上、なんとも絶望的なことに辺り一面雪であった。

 雪のせいで谷底に落ちても助かったともいえるが、雪では隠達が探すのも難航するだろう。

 そうこうしている間に、血鬼術でやられて死ぬか、それとも夜明けまでに凍死するか…。

 

 その時、ふと芳しい香りがした。

 芽吹いたばかりの草の匂いと、艷やかな絹を思わせる上品で甘やかな香り。

 闇夜と雪だけの白と黒の世界の中で、その匂いだけが色づくように漂う。

 

 辛うじて目を開くと、自分をのぞきこんでいる女がいた。

 闇の中で、赤く光る瞳。

 

「……ハ…ハ…ハ…」

 

 周佑は笑ってしまった。

 その女の属性を知りながらも、美しいなどと思ってしまう自分に。

 

 女は笑い声を上げる周佑を、困ったように見た。

 

「…殺さ…ない、のか?」

 

 問いかければ、哀しそうに見つめてゆるゆると首を振る。

 

 妙な鬼だ…と思いつつも、周佑は呼吸を続ける。

 たとえ臈長(ろうた)けた美人であろうが、鬼の本性は卑しく醜悪なものだ。

 

「そのままでは一時間とせず、死ぬでしょう」

 

 女は静かに告げた。

 声は小さいのに、玲瓏と響く。

 

「わざわざ……それを…言いに…?」

 

 周佑が皮肉っぽく笑うと、女はやはり寂しい顔で、それでもはっきりと言った。

 

「私には、あなたを助けることができる」

「………助ける?」

 

 熱で、自分の頭が混乱して、訳のわからぬ夢でも見ているのかと…周佑は自身を疑った。

 しかし目の前の女はコクリと頷いて、そっと周佑が刀を持つ右腕に触れた。

 

「けれど、信じてもらわねばそれはできません。助けたくとも、あなたが私を殺せば、もうあなたが助かる道はなくなる」

「………」

 

 周佑はしばらく鬼をまじまじと見つめた。

 女の鬼とはこれまでに何度も戦ったことがあったが、これほどまでに美しい鬼は見たことがない。

 しかし鬼の姿形をそのまま信用するほど、(うぶ)でもなかった。

 年増であれば若き頃の姿に、年端も行かぬ少女であれば妖艶な美女に變化(へんげ)するのは珍しいことでない。

 

 だがそれらの鬼と確実に一線を画して、その女鬼は美しく典雅であり、おそらくは人であった頃そのままに、慈悲深い表情を浮かべていた。

 

 周佑は深く息を吐くと、全集中の呼吸を解いた。

 できる限り刀を手に取れぬ位置まで放り出す。

 女が少し驚いたように目を見開いた。

 

 正直、周佑は命が惜しくなかった訳ではない。

 ただ信じてやらねば、儚げなその鬼がきっと悲しむだろうと思った。

 

 いよいよ全身が熱くなって、頭が割れそうなほどに痛みだした。

 歯を食いしばり、身体をくの字に折り曲げて、硬直する。

 

 女は袂から何か針と青い瓶を取り出すと、針を瓶の中の液体にしばらく浸けた後に、袖を捲った周佑の左腕にプツリと刺した。

 チクリと刺された部位に鋭い痛みが走り、一瞬だけその部分が熱く腫れたように感じたが、しばらくするとゆっくりと全身から熱が引いていく。

 

 途端に気怠い重さがどっと襲ってきて、汗が全身から噴き出した。

 これは血鬼術によるものというよりは、熱の後遺症であろう。

 痺れはまだ少し残っていた。

 

「歩けますか?」

 

 女が問いながら、身を起こそうとする周佑を支えた。

 

「ああ…たぶん」

 

 周佑はさっき雪の上に放り出した刀を拾うと、突き立てててゆっくりと立ち上がった。

 それから、刀を鞘に仕舞う。

 

「こちらに…」

 

 女は前に立って歩き始めた。

 

「どこに連れて行く気だ?」

「ここにこのままいれば、体が冷えて朝には死にますよ。これから吹雪(ふぶ)いてきます…」

 

 そう言って女は歩いて行く。周佑の前を。

 多少、体に痺れが残っているとはいえ、抜刀して首を取るのは容易であろう。

 だが女があえて自分の前に立って、いつでも斬ってくださいとばかりに歩いているのを周佑はわかっていた。

 

 雪がちらつく中を歩くと、冬枯れの木立の中に、小さな家があった。

 しっかりと漆喰で固められたその家は、中に入ると囲炉裏の炎だけで案外と温かだった。

 

 女は薬籠(やくろう)から粉薬を取り出すと、お椀の中に入れて、囲炉裏で温めてあった鉄瓶のお湯を注ぐ。

 

「飲んで下さい。それで痺れが取れるでしょう」

「……いいのか?」

 

 周佑が問うと、女は首を傾げた。

 

「痺れもなくなれば、お前を殺すのは容易(たやす)い」

 

 すると女は初めて微笑んだ。

 

「そのおつもりであれば、ここに来るまでの間に出来たでしょう?」

「ああ。だが、痺れがとれればもはやお前に世話になる必要もない。ここで殺して、朝までゆっくり寝て過ごせばいい」

「……どうぞ」

 

 女は薬湯(やくとう)を差し出す。

 周佑は眉をひそめて、受け取ると一気に飲み下した。

 

「それが毒であるとは思いませんの?」

「一度信じると決めたものを、舌の根も乾かぬ内に変心するほど無節操ではない」

 

 女はじぃと周佑を見つめた後に、静かに言った。

 

「では、私もあなたを信じることに致します」

 

 薬湯はすぐに効いて、痺れがすっかり消えると、まるでさっきまで身動きできなかったのが嘘のように体が軽くなった。

 無理すれば吹雪であっても下山出来ないこともなかったが、周佑は囲炉裏の火を見つめて動かなかった。

 

 女は斜向(はすむ)かいで薬研車(やげんぐるま)を引き、草や木の実のようなものをすり潰して、何かの薬を作り始めていた。

 

「聞いていいか?」

「…どうぞ」

 

 女は薬研の手車を止めることなく促す。

 

「鬼なのに、どうして人を食べてない?」

「……どうしてそのように思われますか?」

「ニオイがない。人を殺し喰った鬼特有の腐臭だ。どれだけ綺麗な格好をして香を焚きしめても、決してなくなることはない。特に鼻が利く方ではないが、長く鬼といれば、そのニオイで鼻が曲がりそうになる。それがお前にはない」

 

 女は手を止めることなく、ほのかに微笑んだ。

 

「ご明察の通り、私はこの三百年近くは人を殺して喰らうことは致しておりません」

「……随分、年寄りだったんだな」

「まあ、おっしゃいますこと」

 

 女は楽しげに声をたてて笑った。そうすると、それまでの上品な貴婦人というよりも、少しあどけなく愛らしい表情になる。

 

「しかし何も食わずに生きていけるものなのか?」

「……助けた人達から了承を頂いて少しばかり血を頂いております」

「血?」

「えぇ…ほんの少しばかり。それで私には十分でございます」

 

 周佑はそこまで聞いて首をひねった。

 浮かんだ疑問をそのまま彼女に問う。

 

「どうしてそうまでして生きていたいのだ? 死ぬのが怖いのか?」

 

 鬼として人を殺し喰らう欲もないのであれば、生きている理由はないはずだ。

 陽光に恐怖し、闇に紛れ、人間(じんかん)の中で隠れて暮らすことの不自由さを思えば、いっそ大人しく死んだ方が楽な気がする。

 

 女は遠くを見ながら、ゆっくりと手を止めた。

 

「元より…死は遠きものと成り果てましたが、恐ろしいとは思っておりません。けれど、私にも宿願がございます」

「宿願?」

「あなた方と同じように…無惨の息の根を止めること」

 

 周佑は当惑し、眉を寄せた。

 だがすぐに口の端に皮肉な笑みが浮かぶ。

 

「おかしなことを言う。鬼にとって無惨は首領ではないのか?」

 

 女は首を振った。

 その秀麗な面には、深い眉間の皺と共に、痛々しいばかりの悔恨があった。

 

「愚かでした……あんな男を…鬼を信じた」

 

 囁くかのように小さくつぶやいたその声は震えていた。

 沈黙して軽くため息をつくと、女は再び薬研車を引く。

 

 周佑はまたそのまましばらく女の姿を炎の向こうに見ていたが、ふと思いつく。

 

「お前、腹が減っているのか?」

「………」

 

 女は身を固くした。さっと緊張した顔になる。

 

 周佑はハッハッハッと快活に笑った。

 

「なんだ。だから、声をかけてきたんだな。瀕死とはいえ、鬼狩りに声かけるなど…よほどだったんだな」

「………それが目的ではございません」

「あぁ、わかっている。助けるのが本心であったのは。そうでなければ信じたりはしない」

「………」

 

 女はそれでも自分が浅ましいと思ったのか目を伏せた。

 

「助けた人から了承の上なのだから、私に異存はない」

 

 言うなり、周佑は腰の脇差を抜くと、左腕を切りつけた。

 ポト、ポト…と血が薬湯を入れていたお椀に落ちていく。

 

 女は漂う血の匂いに、穴があくほどに強い視線で周佑を凝視した。

 

「どうした?」

 

 周佑が尋ねると、美しい顔が苦しそうに歪んだ。

 

「……やめてください」

「どうして?」

「その血……稀血ではございませんか」

「あぁ、そうだ」

 

 事も無げに言う周佑を、女は睨みつけた。

 

「あなたは鬼にとって、自分の血がどれほどの意味を持つかおわかりですか?」

「さぁ…? まさか自分の血が鬼の役に立つとは思わなかったが、奇妙な縁を持ったものだな」

 

 お椀の半分ほども溜まったところで、周佑は手拭いで傷を締めると、その血の入った椀を女に差し出した。

 

「飲め。礼だ」

「………」

「妙な遠慮をするな。鬼に貸しをつくったままでは、寝覚めが悪い」

 

 自分の前に置かれたその椀を、女は唇を噛み締めて見つめていた。

 細かく身体が震え、人のように黒かった瞳が、再び紅く光る。

 

「我慢すれば、鬼の(さが)が却って強くなるのではないのか? とっとと飲んで満腹になれば、心も落ち着くだろう」

 

 女は厭わしそうにその椀を手に取ると、ゆっくりと飲んでいく。

 透き通るかに思えるほど白い肌に朱がさし、ほんのりと色づいた。

 

 周佑は内心で面白かった。貧血の鬼など初めて見た。

 

 それにしても奇縁というしかない。

 風波見家においては、稀血の周佑は忌み子であった。

 稀血の鬼狩りは、その血を狙われてすぐに殺されてしまう。

 入る前から、大して隊に役に立たない人間として、父は周佑に冷たかった。呼吸の技についてもほとんど教えてもらえなかった。

 母は物心つく前に亡く、兄だけがそれでも鬼殺隊で生きていけるようにと、厳しく周佑を指導した。

 

 その兄が聞けば、仰天した上にこっぴどく叱られるようなことをしているな…と周佑は自覚しつつ、特に後悔もなかった。

 誰のためにもならぬ特殊な血が、人ならぬ鬼の役に立つとは面白い状況だ。

 

「………ありがとうございます」

 

 女は口の端に滴った血を拭うと、深く頭を下げた。

 

「うん。これで貸し借りはないな」

 

 女は面を上げると、戸惑ったように周佑を見た。

 

「どうして…そこまで私を信用なさるのです?」

「理由はさっきも言った。一度、信じると言うたら信じるのだ。それが性分なのだから、仕方がない」

「……少しは慎重でいらした方が身の為ですよ」

「ハッハッハッ! まさか兄より先に鬼に説教されようとはな」

 

 豪快に笑う周佑を困ったように見ながら、女は身内を示すその言葉に反応した。

 

「兄上様がいらっしゃるのですか?」

「あぁ。二つ年上でな。厳しい人だが、私にとっては師でもある。父からは見捨てられていたのでな」

 

 あまり親に使う言葉でなかったせいか、女は益々気遣わしげに周佑を見た。

 

「お父様があなたを大事にしなかったから、そんなに投げやりなのですか?」

「そのように見えるのかな? 別に父を恨んでいるわけではない。代々鬼狩りの家に生まれたのだ。稀血の忌み子が生まれて落胆される気持ちもわかるし、その息子が出来の良い長男に比べれば、まったく箸にも棒にもかからず、物覚えも悪いとなれば、親であれば放り出したくもなるだろうさ」

「私には……あなたはとてもいい子に思えますよ」

「それはそれは…婆様に褒めてもらえて光栄だ」

 

 言いながら周佑はゴロリと横になった。

 囲炉裏の火で屋内は暖かく、解毒薬として服んだ薬湯が、全身に沁み入って体の芯から温かった。

 

 それに、やはり血を抜いて、多少なりと貧血になったせいだろうか。

 ウトウトと瞼が下がってくる。………

 

 

 

 

 パチリ! と火にくべた枝が()ぜた。

 

 周佑が目を開くと、真上には自分を見下ろす紅い目が二つ並んでいた。

 

「……さすがは鬼だな」

 

 周佑は自分を押さえつけるその力に、女が紛れもなく鬼であることを再確認した。

 

「ナゼ…血ヲ与えタ?」

 

 女は先程までのたおやかな風情が消え去って、暗く荒んだ目で周佑を睨みつけていた。

 

「稀血ヲ鬼に与エテ…無事に済ムとでも思ウタか?」

「私が稀血なのは私には選びようないことだぞ。それに……喉が乾いていたのだろう? 鬼であれば、潤すものは人の血でしかないのも仕方ない」

「黙レ! 私ガ望んだトでも言うカ? コンナ身体に…人の血ヲ啜らねば生キられヌ身とナッテ、それでも唯無惨ヲ倒すタメに生キ永らえて…どれほどに己ノ醜イ性ヲ呪ッタか……貴様にワカルモノカ!!」

「悪いが……そこまでお前に(くみ)してやる義理もない」

 

 言うなり周佑は女の腕を掴んで、腹を蹴り上げた。

 素早く態勢を逆にする。動けぬように足で下半身を押さえつけると、細いその両腕を左手で強く掴んだまま、右手で刀の柄を握りしめる。

 カチャリ、と鯉口を切る音が静かな陋屋(ろうおく)に鋭く響いた。

 

 女はギリギリと歯軋りした。

 伸びた犬歯が唇を傷つけて、血が流れる。

 

「殺セ…サァ…鬼狩りノ本能ノままに殺すがイイ」

「………本心か?」

 

 周佑は静かに問いかける。

 

 鬼は憎々しげに周佑を見つめていた。

 やがてブルブルと唇が震え、涙が白い頬を伝う。

 嗄れかけた悲痛な声で訴えた。

 

「殺して…殺して……お願い」

 

 今度は周佑が奥歯を噛み締めた。

 出来うるならば、彼女の願いを聞いてやりたかったが……

 

 周佑は女から離れると、刀を抜くなり、再びその左腕を切りつけた。

 タラリ…と、血が腕から肘へと流れ、ポト、と女の目の前に落ちた。

 

 女はひどく重そうに体を起こすと、乱れた髪を直すこともなく周佑を睨みつけた。

 鮮紅色の目が、細い瞳孔もくっきりと見えるほどに冴えて、その姿はまさしく鬼以外の何者でもない。

 

「……何ノ……真似ダ」

「お前、いつからここにいた? こんな雪深い山の中で…人里離れた場所で。猟師もそうは来まい」

「……何ガ言イタイ?」

「相当に餓えているのだろう、お前。早く飲め。そうすれば、人であった頃の心には戻るであろう」

 

 女は鬼としての殺戮衝動に必死で耐えていた。

 カタカタと震える体を、自らで抱きしめている。

 額からジワリと汗が流れた。

 

 そのまましばらくの間、周佑と女の鬼の奇妙な対峙が続いた。

 やがて深く長い溜息と共に、女は洗い終えていたお椀を箱膳から取り出した。

 

「…そのまま吸うような真似をさせないで下さい。止められなくなります……」

「さすがに干からびるのは困るな」

 

 周佑は椀を受け取ると、先程と同じようにその中に血を注ぎ込んだ。

 

「すまないが、私もここ数日食べたのは干飯と梅干し程度だ。大して美味(うま)くないだろうが、文句は言わんでくれよ」

 

 女は呆れたような苦笑を浮かべると、周佑から椀を受け取った。

 二杯目の血を啜ると、ようやく満ち足りたように吐息をついた。

 

「どうして、殺さなかったのです?」

 

 尋ねられて、周佑は「さぁ?」と嘯いた。

 納得せぬ顔の女に、適当な理由が思いつかずに陳腐な言い訳をしてしまう。

 

「命の恩人で、女で、美しいのだから、無理して殺す必要もないだろう」

 

 我ながら他に言いようはなかったのかと、言っている時から思ったが、実のところ本心だった。

 

 女はキョトンとした後にプッと噴いて、しばらく顔を覆って笑った。

 上下に揺れていた肩が、やがて細かく震えだすと、いつしか女は声を殺して泣いていた。

 

 どういう経緯(いきさつ)で女が鬼となったのかは知らない。

 だが、おそらくは永い年月を生きてきたのだ。

 己の鬼としての(しょう)に戸惑い、苦しみながら。

 

 女が涙を流して自死を願ったのも本心なら、無惨抹殺を切望するのも本心だろう。

 二つながらの(のぞ)みに張り裂けそうな心を抱いて生きる。(ただ)の人には永すぎる時を。………

 

「さぁ…満腹になったのなら寝るといい。私もまた、眠くなってきた」

 

 再びゴロリと横になると、睡魔は程なく襲ってきた。

 女が掻巻(かいまき)を上にかけてくれたのだけは気付いていたが、周佑はそのまま泥のような眠りについた。

 

 

 

 

 聞き覚えのある鴉の鳴き声に目を覚ますと、なんとなく夜明けが近いことを感じた。

 ゆっくり視線を動かすと、女は隣に端座して見下ろしていた。

 

「……もう夜明けか?」

 

 尋ねると無言で頷く。

 ほとんど消えかけた囲炉裏の炎が、女の無表情な白い面を浮かび上がらせた。

 

「ここにいて大丈夫なのか?」

 

 周祐が起き上がると、女は囲炉裏の鉄瓶から白湯を椀に入れて差し出してきた。

 

「ありがとう」

 

 受け取って礼を言うと、女は小さく息を呑み、まじまじと周祐を見つめる。

 

「……どうした?」

「いえ……どうぞ」

 

 女は周祐が白湯を飲むのを淡い微笑を浮かべて見ていたが、鴉の鳴き声が再び聞こえて立ち上がった。

 土間に降りて、板戸の隙間から外を覗き見る。

 

「まだ、雪が降っております。今日は…おそらくお天気がよくないでしょうね」

 

 そう言ってから、クスリと笑った。

 

「本当におかしな方ですね。鬼の心配をするなんて」

「それを言うなら、鬼狩りを助ける鬼というのも相当に妙であろう」

 

 言いながら、周佑は草履を履いて綺麗に畳まれてあった羽織をはおった。

 

 女は板戸を開けると、チラチラと降る雪の空を見上げた。

 

「今でしたら、麓まで行けるでしょう」

「そうだな。世話になった」

 

 短い言葉で去ろうとした周佑に、女は印籠を差し出した。

 

「これを。全て…とはいきませぬが、たいがいの鬼の毒には効きます」

 

 周佑は複雑な顔になった。

 

「それは困る。せっかく貸し借り無しにしたのに」

「これは、貸しではありません。私が…差し上げたいのです」

「……わかった」

 

 周佑は印籠を受け取ると、懐に入れた。

 女がフワリと微笑む。

 その笑みが美しいだけに、哀れだった。

 

 だが、自分にはどうすることも出来ない。

 

「ここは早々に引き払ったがいいぞ。鴉が見ている。隠達が探索に来ないとも限らない」

「元よりそのつもりで御座います」

「そうか。では、息災(そくさい)でな」

 

 短く言って、周佑は別れを告げた。

 

 おそらくはもう会うこともない。

 

 振り返らなかった周佑の背後で、「息災に…」と告げられた女の鬼は柔らかな微笑を浮かべていた。

 

 

 

----------------

 

 

 

「それで…どうしたのです?」

 

 勝母は愕然とした顔のまま問うたが、周太郎は飄々としたものだった。

 

「どうした? そうだな……とりあえず家に帰って兄者に言ったら、こってり叱られて、蔵の部屋にしばらく謹慎させられたな。出てきたら、一切口外するなと釘を刺されて…」

「そういうことではありません! その鬼を殺さなかったのですか?」

「さぁ?」

「風柱様! まさかその鬼の色香に迷ったわけではありませんよね?」

「ハッハッハッ! 色香に迷うとは、花柱も乙な言いようをするものだ。鬼相手に」

「そうでないと言えますか? 今の話が」

「まぁそうだな……確かに」

 

 言いながら、周太郎はまた白薔薇の花を見つめた。

 そう。雪の上で死にかけた時に匂ってきたあの芳しい匂い。あれはこの白薔薇の香りと似ていた。

 

「花のような鬼ではあったな」

「風柱様! あなたは……鬼を…美しいからと……見逃したのですか?」

 

 ワナワナと震える勝母を、周太郎は楽しそうに見ていたが、勝母の側まで寄ってしゃがみ込むと、ふっと真面目な顔で問うてきた。

 

「勝母よ。お主、本当に無惨を討ちたいか?」

「……当然のこと」

「そうだな。無惨が鬼となり、産屋敷家に呪いを残してから数百年、鬼殺の隊士達の大望は未だに叶えられていない。なぜだと思う?」

「……それは…」

「このまま無惨の作り出した鬼を殺して回っているだけで、均衡が崩れると思うか?」

 

「……風柱様。何を考えておいでです?」

「本気で無惨を殺すことを考えるのであれば、彼女の存在はまさに奇貨だ。長く続いた鬼殺隊と無惨の…膠着の突破口と成り得るものだろう……」

「鬼を味方にせよと仰言(おっしゃ)るのか?」

「味方にならずとも、足並みを揃えることぐらいはできるだろう」

「………では、やはりその鬼は殺されていないのですね」

 

 勝母が責めるように見てくるのを、周太郎は肩をすくめて躱した。

 

「さぁ…? あぁ、そうそう。この話を東洋一にはしてくれるなよ。あれであの男は私などより、よっぽどまともで真面目なのだ。怒られてしまう」

 

 冗談なのか本気なのか、すっかり混乱しながらも勝母は吐き捨てるように言った。

 

「あの男があなたに意見できるような人間ですか」

「ハッハッハッ! 花柱は、まだあの男の芯の部分を知らぬな」

 

 呵々として笑った後に、周太郎はチラと襖の方へと目をやった。

 

「さて…そろそろ壁の耳達に入って来てもらうとしようか……」

 

 そう言われて、ぞろぞろと他の柱達が入ってくる。

 銘々がいつもの場所に座ると、周太郎は控えていた隠に告げた。

 

「揃った故、御館様にお出で頂くよう…」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「あの時、柱全員が聞いていたはずだ。風柱が鬼を故意に逃した話を。だが誰一人として咎める者はおらず、誰一人としてその話を蒸し返すこともなかった。全員が素知らぬフリをして、噂にもならず、それきりだ」

 

 勝母は言いながら紅茶を啜る。

 懐かしい話をすれば、懐かしい顔が思い浮かぶ。あの時にいた柱で残っているのは、勝母と桑島慈悟郎、鱗滝左近次のみ……。

 

 ぼんやり考えていると、翔太郎が困惑した表情で問うてきた。

 

「あの…それは、許されたのですか?」

「んん?」

「いや…だって。鬼を見逃したんですよね? 大お祖父様は」

 

 勝母はハッと笑った。

 

「許すも許さないもないのさ。あんたの曽祖父(おおじい)さんはそういう御人だったということだ。あの度量こそ、風波見(かざはみ)周太郎(しゅうたろう)が風柱にあることを誰もが望んだ理由だろうよ。強さよりも、ずっとね」

 

 そうであればこそ、柱達は彼の死を知った時に皆、気付いたのだろう。

 自分達がこれからは鬼殺隊を実際に守っていかねばならないのだと。

 将来への布石を打つことも、現状における問題を解決することも、それまでは周太郎が全て考えていてくれ、自分達は鬼を滅殺することだけに集中していればよかったのだから。

 

 だが若い翔太郎にはまだ、かの『伝説の風柱』は強さの象徴であってほしいようだ。

 やはり、いまいち納得していない顔で、勝母が淹れた紅茶を啜っていた。

 

 その時、窓をコツコツと叩く音がした。

 見れば首に七色の組紐を巻きつけた鴉がバタバタと羽を動かしていた。

 

祐喜之介(ゆきのすけ)じゃないか」

 

 勝母が窓を開けると、祐喜之介は部屋に入って止まり木にとまる。

 

「薫さんの?」

 

 翔太郎の顔が少し明るくなる。

 だが、勝母は眉を寄せた。

 

 東洋一に紅儡(こうらい)の話を聞きに行くと言って薫がここを発ったのは五日前だ。

 内容については帰ってからゆっくり聞くことになっていたし、わざわざ祐喜之介を飛ばしてくる理由がすぐに思いつかない。

 

 あるとすれば―――

 

 険しい顔つきになる勝母に向かって、祐喜之介が叫ぶ。

 

「伝令! 篠宮東洋一老、死亡ス。風ノ育手・篠宮老死亡」

 

 勝母は目を閉じた。

 そのまま黙祷する。

 

 閃いた不吉な予感は、たいがい当たる。

 年経るほどに。―――――

 

 長い沈黙に、翔太郎はそろそろと勝母に呼びかけた。

 

「あの……勝母…さん…?」

 

 やがて決然として顔を上げた勝母の左目は真っ赤だった。

 しかし、その顔は皮肉そうに歪む。

 

「やれやれ。面倒なことだよ。最期の最後まで…私に始末をさせるか、あの男」

「勝母さん?」

「翔太郎、お前さんの鴉を借りるよ。二人ばかり、ヤツの死を伝えておかねばならない人間がいるんでね」

 

 そう言うと、勝母は眼鏡を鼻にかけて筆をとる。

 

 翔太郎は紅茶を飲み干すと、静かにその場を後にした。

 

 

 

<閑話休題 風柱と花の鬼 了>

 





次回は2021.10.23.土曜日の更新予定になります。

近いうちにpixivの方で、作者のつぶやき話(裏設定エピソード等)をアップする予定です。興味とお暇がある方はどうぞ。


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<その日>

 その日。

 

 桑島慈悟郎は久しぶりに旧知の友である元花柱・那霧(なぎり)勝母(かつも)からの手紙をもらって、首を捻った。

 はて、何の用だろうか?

 育手となって以来、勝母からの手紙など結婚の報告以外でもらったことはない。まったく中身を予想できぬまま封を開く。

 

『前略』で始まったその手紙の冒頭の一文で、涙が溢れた。

 

 ―――――前略、桑島慈悟郎殿。篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)、死去せり。

 

 

 すぐに浮かんだのは、つい一月(ひとつき)ほど前に訪ねてきた東洋一の姿だった。

 

 

◆◆◆

 

 

「なんだ、また弟子自慢に来たのか?」

 

 あきれたように言いながらも、慈悟郎は内心の動揺を隠しきれているのか不安だった。

 

 二年ほど前に会った時からすれば、あまりにもその身体は細くなっていた。

 偉丈夫で強靭で、しなやかな体躯であった男が、今は強く吹く風の中に消えてしまうかに思えた。

 

「いや、今回は…ちょっとばかし御大(おんたい)にお願いがありましてね」

 

 そう言うと、東洋一は背後にいた弟子達に声をかける。

 二人の弟子達がそれぞれに自己紹介したところで、

 

「そうだ。御大、桃をもらっていってもいいですかね?」

と、言い出す。

 

「桃? そりゃ、いくらでも」

 

 ちょうど周囲に植わった桃の木には桃の実がたわわに実って、腐るほどにある。

 

「お前達、適当にうまそうなの摘んでこい。ただし、持って帰れる量にしておけよ」

 

 弟子達は頷くと、走り出した。

 

「あ……籠持っていかんと……オイ! 善逸!!」

 

 慈悟郎は自分の弟子を呼ぶと、台所からゲンナリした顔の少年が「なんだよぉ…」と出てくる。

 

「お前、あの子達に籠を持っていってやれ。桃を入れるからの」

「えぇぇ?」

 

 不満気な顔の弟子に、慈悟郎は軽くゲンコツすると、わざとらしいほどに痛がる。

 クックックッ、と笑った東洋一を見て、善逸は眉をひそめた。

 

「え? 誰?」

「客じゃ! ちゃんと挨拶せんか!」

「あ…どうも」

「名前!」

「……我妻善逸デス」

 

 東洋一は自分も軽く頭を下げた。

 

「篠宮東洋一だ。すまんが、ウチの弟子達に籠を持っていってくれるか?」

「はぁ……」

 

 善逸は大仰な溜息をつくと、ダラダラと歩き出す。

 

「しゃっきり歩かんかァーッ!」

 

 慈悟郎が大声で喝を入れると、ビクッとして早足に駆けていった。

 

「まったく……」

 

 フン、と鼻息をつく慈悟郎を、東洋一はにこやかに見つめていた。

 

「…相変わらず、御大の元にはどうにも癖のある弟子が来ますな」

「まったくだ。どうしてお前の所には真面目なヤツばかり来よるんだ? 間違えてないか?」

「間違ってないですよ。俺が今、弟子になろうと思うなら、御大の所に行きますからね」

「よう言うわ!!」

 

 慈悟郎は吐き捨てるように言いつつ、ガハハハと笑う。

 

 部屋に入るや、将棋盤を持ち出そうとした慈悟郎を東洋一は手で制した。

 

「その前に、今日はお願いがあってきました」

「何が? 弟子の手合わせだろう?」

「いえ。アイツらはまだそこまでいってません。今日は…もし、俺が亡くなった時にヤツらの身元を引受てもらえないかと…」

 

 慈悟郎はギュウウと眉間に皺を寄せた。

 

「何を言っとるんだ、お前は。儂より五歳も若いくせして」

「以前は五歳しか変わらないと仰言(おっしゃ)っておられましたがね」

 

 相変わらず減らず口を叩く東洋一を睨みながらも、慈悟郎は声を落とした。

 

「……体、悪いのか?」

「まぁ……多少は仕方ない」

 

 慈悟郎は鼻から息を漏らす。

 五歳年下と言っても、今の東洋一の年齢からすれば、いつお迎えが来てもおかしくはない。だが、それは慈悟郎とて同じだ。むしろ、五歳上の分、冥土が近いのは自分の方だ。

 

「冗談じゃないぞ、東洋一。お前、頼む相手が間違っとるわ。もっと若いヤツに頼まんか」

「左近次ですか?」

「あいつだってさほどにお前と変わらんだろうが。そうじゃない。お前にゃ、優秀な弟子がいるだろうが。聞いとるぞぉ。二人も甲の弟子がいるなんぞ…育手としちゃ万々歳だろうが」

「…………成程」

 

 東洋一は意外そうに手を打つ。「そちらは考えてなかった」

 慈悟郎はハアーっと溜息をもらす。

 

「まったく…この前のお嬢さんもそうだが、どうしてお前にはデキのいい弟子が多いんだ。師匠の方ときたら、すぐに弟子を放ったらかして、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしとるのに……」

「どうにも昔の根無し草が身に沁みついてましてね。たまにフラリと出ないと、腹の奥がモゾモゾしてくる。ま、それでもついて来てくれるんだから、人徳でしょうね」

「どこがだ! お前に貸した金、まだ返してもらってないぞ!!」

 

 東洋一は笑って誤魔化した後、「そういえば」と話を変える。

 

「新しいお弟子さんですか?」

「あぁ……街でタチの悪い女に引っ掛かっておっての……そういや、あいつの借金も肩代わりしとる」

 

 慈悟郎が嘆息しながら言うと、東洋一は大笑いした。

 

「いやー、御大は相変わらず…人がいいですな。で、借金のカタに弟子になっとるんですか、あの少年」

「まぁ…の。あれで…しっかりすれば、相当のモノなんじゃがの」

「そこのところの眼力を疑う気はないですよ。なにせ、御大の元から選別に行った隊士は全員、生き残っている。そういえば、以前いた少年はどうなりました? 彼も突破しましたか?」

「岳か? あぁ…まぁ、なんとかな」

「なんとか…とはまた…謙遜しますね」

「お前……心配しておったろうが、あやつのこと」

 

 慈悟郎は以前にもらった東洋一からの手紙のことを持ち出す。

 しかし東洋一は穏やかに笑って頭を下げた。

 

「あれは僭越でしたな。破いて捨ててもらっていいですよ。つい…少しばかり気にかかりましてね。ま、選別を突破したなら問題もないでしょう」

「問題は……ある」

 

 慈悟郎は俯いて唸るようにつぶやいた。

 

「あやつは…壱ノ型を習得できんかった」

「………」

 

 東洋一が眉をひそめる。

 一瞬、不安のよぎったその顔に、慈悟郎は苦い顔になった。

 

「わかっとる。壱ノ型は雷の呼吸の基本中の基本じゃ。それを習得できんなど……儂もどうにも心配ではあったが、それでも……あやつなりに一生懸命やっとったんじゃ。儂の弟子の中では、真面目一徹の努力家での。少々考え方に偏向はあったが、親もない孤児が生きていくのに、色々と苦労はあったんじゃろう」

「………壱ノ型だけが習得できなかったんですか?」

「あぁ。他のは全部、見事に習得した」

 

 東洋一はしばらく考え込んで、慈悟郎に問うてきた。

 

「彼は、柱を目指していたようですが……壱ノ型を習得していないでは、無理じゃないですか? 彼自身はいいとしても、下への承継に差し支える」

「うム……それは、考えとる。さっきの弟子、おったろう?」

 

「我妻くんですか?」

「あぁ。あやつにな、壱ノ型を習得させて、岳と二人で雷の呼吸を継承していってもらおうと思っとる」

 

「柱は同流派は立てませんよ」

「柱にはどちらかがなればいい。あくまでも、雷の呼吸の継承じゃ」

 

「ふ…む。成程。考えましたな」

「ま、岳も隊士になってからも修練を怠らずやっていけば、いずれ壱ノ型を習得するかもしれんし、善逸に至ってはそもそも全集中の呼吸も出来とらんからな。あくまで、仮だ」

 

「そうですね……彼も、隊にいれば友もできて、多少性格の角が取れるかもしれません。素直な心を持てば、壱ノ型も習得できるかもしれませんね」

「うむ……」

 

 慈悟郎は頷いて、目の前で茶を啜る東洋一をじっと見た。

 

「なんです?」

「いや…、お前ともなんだかだで長いと思ってな」

「そうですねぇ…あの頃は……」

 

 言いかけて、東洋一の顔に苦い笑みが浮かぶ。

 慈悟郎は不思議そうに尋ねた。

 

「どうした?」

「いや。俺も彼の……岳くんでしたか? 彼のことをどうこう言えるほど、デキた野郎じゃなかったな…と」

「そうか?」

 

 慈悟郎は若い頃の東洋一を思い浮かべるが、誰とでも如才なくつきあって、多少皮肉屋なところがあったものの、基本的には明るい性格だったと思う。

 しかし、当人はそうでもなかったらしい。

 

「そりゃ、御大には見せずに済みましたからな。鬼殺隊に入ったばかりの頃は、それなりに色々と思う所もあったんですよ。命乞いして泣いてくる鬼を斬るのも正直しんどかったし、後輩だからと甘く見てきた先輩をやり込めたら、陰口とやっかみで面倒だし…あのまま孤独に過ごせば、腐って荒んでたでしょうな」

「なんだお前」

 

 慈悟郎は思わず笑った。

 

「若い頃の愚痴を今頃になって言い出しよって…」

 

 言いながら、そういえば会った頃の東洋一は、あまり慈悟郎の同輩からの評判はよくなかったな…と昔を思う。

 

「若い頃ってのは、どうにも素直になれませんからね。御大のクソ馬鹿真面目な正義感が、有り難かったんですよ。俺みたいなひねくれ者にはね」

「……ひねくれ者なのは相変わらずだの。素直に尊敬してると言えんのか」

「ハハハハハッ! そうそう。それそれ」

 

 東洋一は昔と同じに人懐こく笑った。

 

 

「……それにしても、年ってのは勝手にとるもんじゃの」

 

 いつもどおりに将棋を始めて、慈悟郎はしみじみとつぶやいた。

 

「最近じゃ、弟子を追いかけ回すのも息切れするようになってきた……」

「……息切れの前に、どうして弟子を追い回す必要が?」

 

「善逸はスキあらば逃げようとしくさるんじゃ。おかげでこの前も落とし穴掘って一仕事じゃわ」

「そうまでして…あの少年にこだわるのは、やはり才があると見てるわけですか?」

「う……む…」

 

 慈悟郎は盤面を見て考え込むフリをして、しばらく黙り込んだ。

 正直にいえば、善逸には剣士としての才能を見出している。

 ただ、過剰な期待はしたくなかった。

 いいように利用されて生きてきた子を、自分までが利便に使役するようなことはしたくなかった。

 

「……いや。それよりも、あやつも岳と同じみなし児でな。普通、孤児というヤツはなかなか人を信用せんもんなんだが、あやつは女には滅法甘くて、騙されてばっかりだ。どうにも……放っておけん」

 

 東洋一はチラと盤面から顔を上げて、慈悟郎を見た。

 

「もし、我妻くんが壱ノ型を習得できなかったらどうするんです?」

「変わらんさ。そんなのは、二の次なんじゃ。あいつがちゃんと信用できる人間を見極められるようになったら……どこなりと行けばいい」

 

 慈悟郎はそう言うと、置いてあった茶を一口含んだ。

 我ながら、穏やかな境地になったものだ…と内心で独り言ちていると、東洋一がクックッと笑う。

 

「随分と達観されるようになりましたな、御老体」

「やかまし」

 

「昔なら、何が何でも習得させるんじゃー! とばかりに、しごき回していたでしょうに」

「だから、寄る年波には勝てぬというんじゃないか。気力も体力も、年経て落ちるばかりよ。情けない…」

 

 慈悟郎が深く嘆息した時に、その問題の吾妻善逸が東洋一の弟子達と喧嘩しながら家に入ってくるのが聞こえた。

 

「やれやれ…あやつもなかなか友がおらんのだ。女にはヘコヘコしよるのに、男となったら仇みたいに追い払いよる。お前さんの弟子、友達になってやってくれんか?」

 

「こればっかりは相性ですからな。ま、そのうち彼にも出来るでしょうよ。―――ハイ、王手」

「んあッ?! な、な…なんじゃこりゃッ!!!!」

 

「いやぁ…御大が、すっかり陽動の方に邁進して下さって……助かります」

「フザけるなあぁーッッ!!!! こんなズルこい手を使うやつがおるかーッ! (おとこ)なら正々堂々と勝負せんかーッッ!!!!」

 

 結局、弟子連中も呆れるぐらいに怒鳴りつけて、いい年こいて歯噛みしてくやしがる慈悟郎を、東洋一は楽しそうに笑って見ていた。

 

 

 翌日、帰っていく東洋一は珍しくしばらくぼんやりと慈悟郎の顔を見た後に、穏やかな笑みを浮かべて言った。

 

「御大、年をとるというのは案外いいもんですよ」

「は? なんだ、そりゃ…」

 

「昨日は、御大は年をとったら若い頃に劣ると嘆いておられましたが……こうして御大と話せば、すぐに若い頃に戻れます」

「………心だけはの」

 

「そうですよ。若いヤツらはその時、若いままに生きるしかないが、年寄は戻れる。戻って、あの頃のように笑える。これはなかなか、年寄りにしか味わえぬ醍醐味ですよ」

 

 そう言って東洋一は空を見上げた。

 

 (とんび)が鳴いている。

 強い風が吹きぬけて、一瞬、昔の…したたかで豪胆で精強であった、在りし日の東洋一の姿が重なった。

 

「そうだの…ま、今度、今の弟子が片付いたら、左近次と三人で飲むか」

「いいですね。楽しみにしておきます」

 

 東洋一は頷くと、弟子達を振り返り「行くか」と声をかける。

 

 ふと、目があったらしい善逸を見て、相変わらずの人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「我妻善逸」

 

 呼びかけられ、善逸は自分が呼ばれると思ってなかったのか「ヒャいッ?」と素っ頓狂な声を上げた。

 東洋一は善逸の黄色い頭を上から包むようにぽんと叩いた。

 

「お前さんの師匠は誰よりも優しいぞ。信じて、ついて行ってみろ」

「……は…ぁ?」

「じゃ、これで。ジゴさん」

 

 笑って手を振り、東洋一は背を向ける。

 

 懐かしい呼び方に、慈悟郎は不覚にも泣きそうになった。

 

 

◆◆◆

 

 

 今にして思えば、あの時、予感はあったのだ。

 これでもう、東洋一(コイツ)に会えないかもしれない……と。

 

 勝母からの手紙を手の中でぐしゃりと握りしめながら、慈悟郎はしばらく泣き続けた。

 

「馬鹿が。……お前は……儂より……五歳も……下、なんじゃ…ぞ……」

 

 

 

---------------

 

 

 日頃はほとんど怒っているか、たまに笑えば耳が痛くなるような大声で笑う師匠が、声を押し殺して泣いている姿を、我妻善逸は黙って見ているしかなかった。

 

 よく聞こえすぎる善逸の耳には、目の前で静かに泣く姿と裏腹に、心の中では大音声で号泣している師匠(じいちゃん)の声が聞こえていた。

 

 善逸はそっとその場から離れると、自分の部屋に戻った。

 あの手紙を受け取ってから、彫像のように動かなくなった師匠を尻目に、とっとと逃げようと思っていたが……。

 とりあえず、持っていた風呂敷包みを置く。

 

 しばらく考えてから、木刀を持って庭に出て素振りを始めた。

 

 今日は……今日のところは、ここにいようと善逸は思った。

 大の大人が、あんなに悲しく慟哭するのを、善逸は初めて聞いたから。

 

 今のじいちゃんを放っておくのは、なんだか悪い気がするから。

 せめて泣き止むまで。

 じいちゃんを一人にさせないでおこう……。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 その日。

 

 勝母からの手紙を読み終えた鱗滝左近次は、しばらく動けなかった。

 それは心も同じで、悲しみも驚愕もなく、硬直して動かなかった。

 

 ようやく感情を取り戻したのは、目の前で心配そうに覗き込む弟子の姿を見た時だった。

 

「鱗滝さん…」

 

 竈門炭治郎は自分と同じでにおいに敏い。

 おそらく、左近次の相当な動揺―――()()()()()()()()衝撃を感じ取ったのだろう。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 気遣わしげに言ってくるのを、左近次は「あぁ」と頷き、立ち上がりながら炭治郎の肩を安心させるように叩いた。

 

「……薪割りでもしてくるから、飯を食ったら、お前は修行に戻れ」

「………はい」

 

 素直にきいたのは、炭治郎が「一人にさせてほしい」という左近次の気持ちを汲み取ったからであろう。

 

 榎の木陰で薪割りをしながら左近次が思い出すのは、冬に入る前にヒョッコリやって来た六年ほど前の東洋一のことだった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 木立の中にその人の姿を見た途端、左近次は顔を伏せた。

 

 数日前に、東洋一に手紙を出していた。

 育手を辞める、と。

 ただそう書いただけで、特に返事を必要とした訳ではない。

 まして、まさか来るなどとは思ってなかった。

 

「よーおぉ、元気か。色男」

 

 いつの話かと思うような第一声に、左近次は天狗面の下で苦笑を浮かべた。

 

「わざわざ、来て下さるとは思いませんでしたな」

「あ? いや、ちょいとばかしこっちで用があったついでにな…」

「用?」

「不肖の弟子がな…親が居るってのに、黙って出てきやがったみたいでな。話聞く限りじゃ、しっかりした堅気さんのようだし、心配してるだろうから、一応ご挨拶に伺ったのさ。とりあえず、無事だって伝えたら…泣かれちまって、どうにも肩が凝った。ホラ、羊羹もらったから、茶淹れてくれ」

 

 相変わらずの強引さである。

 それでいて嫌な気がしないのは、東洋一の徳性なのだろうか。

 さほどに嫌味なく言ったことでも、なぜだか言葉通りに受け取ってもらえず、やたら誤解されがちな左近次には羨ましい性質だった。

 

 東洋一は家の中に上がりこんで、どっかと胡座をかくと、ざっと見回す。

 

「相っ変わらず、どうにも狭苦しい家に住んどるなぁ。元柱とも思えん」

「広い住居など、掃除が大変なだけです」

「そんなもん。女がいるだろうが、お前。とっとと一緒になりゃいいだろうが」

「……あなたに言われたくないですがね」

 

 左近次同様に、東洋一には長くつき合っている女がいる。

 なぜこの二人がいつまでも別居して暮らしているのか、左近次にはわからない。

 もっとも男女間のことに口を差し挟むつもりなど毛頭ないが。

 東洋一も自分に火の粉が降ってくると思ったのか、さりげなく話題を変える。

 

「そういや、選別が終わったな。どうだった? 今年は突破したんじゃないのか? アイツ、強かったろう。なんて言ったかな…宍色の髪した……」

 

 左近次は茶を差し出しながら、暗い声で言った。

 

「錆兎なら……殺られました」

 

 東洋一は茶を啜りながら、チラと左近次を見る。

 

「……そうか。意外だな」

 

 東洋一がそう言うには理由がある。

 最終選別の前に、今回のようにふらりと現れた東洋一に、錆兎と冨岡義勇、二人の稽古をつけてもらったからだ。

 

「左近次、よかったな、お前。今回の弟子は一味も二味も違うぞ。突破して隊士になりゃ、柱にもなれそうな逸材だ」

 

 そう言ってくれたのは、これまで左近次が育てた弟子のすべてが藤襲山に赴いて帰って来なかったというのを東洋一が知っていたからだ。

 聞いた時には左近次もまた自分の経験から、錆兎も義勇も、きっと突破してくれるものと信じていた。まして東洋一に太鼓判を押されたとなれば、きっと大丈夫だろう……そう思って送り出した。

 

 だが、帰ってきたのは………

 

「もう一人は? あいつも殺られたのか?」

 

 左近次は首を振った。

 

「義勇は…無事に突破しました……今は、怪我で藤家紋の家で療養しています」

「そうか。そりゃ良かった」

「………今年の最終選別の合格者は錆兎以外、全員です」

「………」

 

 東洋一の眉がピクリと動く。

 最終選別において残るのは、いつも五指に満たない。

 左近次は俯いて話を続けた。

 

「……錆兎が……ほとんどの鬼を斬って捨てていたらしいです。昼に寝る以外は、夜は走り回って鬼を次々と破っていったと……」

「ほぅ……」

 

 つぶやいて、東洋一は切られた羊羹を一切れ、口の中に放り込む。咀嚼して飲み込むと、ニヤリと笑った。

 

「大したもんだ。さすがだな…見込んだだけはある。アイツならそれくらいなことは出来そうだものな」

「………死んでしまっては意味がありません」

「オイオイ、左近次。そりゃ違うだろうが」

 

 東洋一は珍しく強い口調で否定した。

 クンと、少し怒ったようなにおいがする。

 

「ヤツぁ、やるだけのことはやったんだ。その御蔭でヤツ以外の全員が生き残った。こりゃ、十分な手柄と言ってやっていいさ。大したもんだと、認めてやるぐらいなことはしてやれ」

「………」

 

 顔を俯けた左近次の脳天に、ビシッと弾かれる指。

 久々の突き抜ける痛みに、左近次は顔を顰めた。

 

「…なにを!」

「腐るな! いい年して」

 

 うんざりした顔で言って、東洋一はまた羊羹を一切れ口に放り込む。乱暴に咀嚼して茶を呷ると、ギロリと睨んできた。

 

「自分を責めるのはお前さんの勝手だがな。ヤツが決死の中で選び取った覚悟を、意味がないなんぞと、師匠が貶めてどうする」

「……貶めては…いません」

 

 言いながら、左近次は唇を噛み締める。

 錆兎が悪いのではない。

 自分が…あまりにも無力な自分が、ほとほと嫌になっただけだ。

 意味がないのは、自分だ。

 

 まともに言い返す気力もない左近次に、東洋一はふぅと溜息をついた。

 

「所詮……儂らにやれることなんぞ、技を伝えるだけだ。弟子の人生は弟子のもん。代わりに生きてやることなんぞ、出来んさ」

 

 明快なその言葉に、けれど左近次の心は晴れなかった。わかっていても、もう…これ以上子供達の死を見たくない。

 

「あなたは、御自分のお弟子さんが亡くなっても、いつもそう思うことにしているんですか?」

 

 東洋一は茶を啜り、苦笑いを浮かべて「いや」と首を振った。

 

「最低でも三日は飯が喉を通らん」

「………それで? どうするんです?」

 

「さぁ…? 放ったらかしとった庭の草むしりをしたり、蜘蛛の巣だらけになった蔵の掃除をしたり、近所の飲み仲間とバカ騒ぎしたり、三味線(しゃみ)を鳴らしたり……適当にやってくさ。あぁ、一度、勝母にそんなことを話したらなぁ……あの女は相変わらず強いぞ。『そういう矛盾を飲み込んで育手は弟子を仕込むんだ』ときたもんだ。『代々の育手はそうして繋いできた。それが育手の義務だ』…とな~」

 

 左近次は面の中で皮肉げな笑みを浮かべた。

 勝母はいつも真っ向勝負。自責の念すらも目を逸らすことなく受け止める。

 

「相変わらず……厳しいですね。あの人は」

「そうだろ? 本ッ当に…あの女、子供産んで益々強くなった。まして、その子供と旦那を見送って……それであれだからな。敵わんわ」

 

 ゲンナリした顔で言って、東洋一はまた羊羹を口に入れる。酒飲みのくせして、甘い物好きなのも変わらない。ぐちゃぐちゃと咀嚼した後で、茶を飲み干すと、袂から煙草を取り出した。

 

 フーっとうまそうに紫煙を燻らしながら、また錆兎の話に戻る。

 

「しかし夜通し走り回って、それだけ鬼を斬って回れば、刀もボロボロだったろうな。(エモノ)さえありゃ、アイツが殺られるとは思えん。折れちまったのかもな」

「……そう…かもしれません」

 

 もはや知る由もないが、錆兎の実力を考える限り、ただ力及ばず破れたとは思えない。

 黙念として、天狗の面を少し上げて茶を啜る左近次に、東洋一は咥え煙草で注意する。

 

「お前……その陰気な天狗面を帰ってきた弟子に見せるなよ」

「なんですか陰気な天狗面って。変わりようないでしょうが」

 

「なんとなく、陰気なんだよ。もっと明るくニカッと笑ったのとか作れよ。そういや、あの坊っちゃん弟子……冨岡とか言ったか……アイツ、お前の親戚か?」

「は? いえ…違いますが?」

 

「本当か? なんか似とるぞ、お前の若い頃と」

「そんな訳ないでしょう。どこが似てるんです…?」

 

 眉を寄せて言い返しながら、左近次は一人だけ生き残った弟子の顔を思い浮かべた。

 

 冨岡義勇は整った顔立ちの少年である。

 わりと裕福な家庭で愛されて育ったのだろう…お坊ちゃんらしくどこかおっとりした子であった。

 

 自分と似ているのか…? と考えてみても、天狗面をつけるようになって四十年以上、鏡を見ることは少なくなった。

 若い頃の顔も朧になりつつある。

 

「まぁ、お前の方がもうちょっとタレ目で間抜けだったか…」

「…………」

「膨れるな」

「誰が……。この年で顔のことでどうこう言われて怒る気にもなりませんよ」

 

 そういえば、昔にもこんな話をした気がする。

 

 ―――――お前、ちょいとばか目がタレてんだなァ。鬼に馬鹿にされるのって、その間抜けなとこなんじゃねぇ?

 

 思い出したら、ムカついてきた。

 いい年して…と自分でも思うのだが、どうにも東洋一(このひと)と話していると、昔に戻る。

 

 左近次は残りの羊羹を皿ごと取り上げ、自分の手元に置いた。

 無言でむしゃむしゃ食べるその姿を東洋一は面白そうに眺めていた。

 左近次が全てを食べ終わるまで見てから、煙草を折って囲炉裏の灰へと押し込んだ。

 

「じゃ、ま…帰るわ。不肖の弟子が待っとるからの」

「いつもいつも不肖の弟子ばかり抱えて大変なことですね」

「まったくだ。どいつもこいつも師匠に似ないで真面目な野郎ばっかで面白くない」

「それはよく出来たお弟子さんですね」

 

 皮肉の応酬の後で、外へ出た東洋一は差し込む西日に目を細めた。

 

 光の中で不敵に微笑む顔は、初めて会ったあの時、笑って鬼を斬っていた篠宮東洋一のままだ。

 

「じゃ……またな」

 

 短い別れの言葉だったが、左近次はやはり東洋一は自分の手紙を読んだのだと思った。

 

 育手を辞める―――あの言葉は、左近次の迷いだった。

 自分でも、身の処し方がわからず、誰かに決めてもらいたかったのかもしれない。

 

 だが東洋一は、結局辞めろ、とも、辞めるな、とも言わなかった。

 

 ―――――ヤツぁ、やるだけのことはやったんだ…

 

 戦って、戦い抜いて逝ったであろう弟子のことを、東洋一は剣士として認めてくれていた。

 

 やれるだけのことを、力を尽くし、心を尽くして、やり切る。

 

 今も、昔も、変わらぬ鬼殺の剣士の覚悟。

 育手となっても、それは変わらない。

 

 わかっていたはずなのに、それでも育てた弟子が(わか)い命を散らすのは辛かった。

 しばらくは……東洋一のように日々を過ごして、この哀しい無力感を少しずつ昇華させるしかないのだろう…。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 左近次は目の前で木刀をふるう炭治郎を見つめていた。

 この子は…おそらく隊士にはなれまい。やさしすぎて判断に迷いが生じやすい。鬼共の鋭い爪をかいくぐって生きていくには、あまりに弱い存在だ。

 

 それでも……

 

 ―――――儂らにやれることなんぞ、技を伝えるだけだ…

 

 炭治郎がこの修練に耐え、与えた課題をも乗り越えて、いつか藤襲山へと向かうことになった時、左近次に後悔することは許されない。

 やれるだけのことを、与えうるすべての技を教えて、彼を送り出す。

 それが育手の使命なのだと……東洋一(あのひと)も迷いの中で逃げずに見つめ続けたのだ。………

 

 

 

---------------

 

 

 ―――――鱗滝さん…?

 

 自分を見つめる鱗滝左近次のにおいに、炭治郎は首をかしげた。

 

 ひどく悲しくて、泣きたいぐらいなのに、沁み入るような懐かしさと、清しい諦め。

 

 昔、これと似たにおいを父から感じたことがある。

 あれは、祖母が亡くなった時だ。

 父もまた、土に返っていく祖母の墓の前で、悲しそうに見つめながら幽かに微笑んでいた。『ありがとう…』と。

 

 ―――――鱗滝さんの…親しい人が亡くなったのかな…?

 

 炭治郎はなんとなくそんな気がした。

 しばらく考えて、木刀を下ろすと、テクテクと歩いて左近次の前に立つ。

 

「あの、今日…俺が晩御飯作ります!」

 

 いきなり言い出した炭治郎を、天狗が見下ろす。

 

「………」

「俺、御飯炊くの上手いんで! 炭焼き小屋の息子なんで!!」

 

 必死に言う炭治郎をしばらく見つめた後、左近次はその頭を軽くぽんと叩く。

 

「そうか。じゃ、頼む」

「はい!」

 

 炭治郎はホッとした。

 手から伝わる左近次の心が、少しだけ温かく柔らかく緩んだ気がする。

 自分が元気づけられたのかと思うと、少し嬉しい。

 

 米を研いでいると、左近次が鴉を飛ばしているのが見えた。

 

 赤紫色に広がる夕焼けの中、飛んでいく鴉を、左近次は姿が見えなくなるまで見つめていた。

 

 

 

<閑話休題 その日 了>

 

 





次回は2021.10.30.土曜日の更新予定です。
次回より本編四部開始します。

近いうちにpixivの方で、作者のつぶやき話(裏設定エピソード等)をアップする予定です。興味とお暇がある方はどうぞ。



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第四部
第一章 兄弟子(一)


 久しぶりにその藤家紋の家を訪れた粂野匡近は、奥の部屋から聞こえてくる音色に聞き耳をたてた。

 

 幾つもの音色が、まるで何もない空間に絵を描くかのように流れている。

 確か、以前にもこの音は聞いたことがある。

 この、今、奏でられている曲も。

 

 惹き寄せられるようにその音のする方へと歩いていくと、この家の娘らしい、洋風に髪を結わえて大小の臙脂色のリボンを二つつけた令嬢がピアノを弾いていた。

 

 ぼんやり見ていると、匡近の視線に気付いたらしいその娘が、ハッとした様子でこちらを向く。

 

「匡近さん?」

 

 いきなり名前を呼ばれてびっくりするのと同時に、その娘が薫だと気付いて、「うわっ」と匡近は声を上げた。

 

「もぉ…なにぃ~」

「びっくりしたぁ~」

 

 ピアノの手前の長椅子で、薫の演奏を聞いていたこの家の本当のご令嬢達・みやことかえでが、背もたれ越しに振り返ると、大声を出した匡近を睨んだ。

 

「せっかく薫さんが弾いてはんのにぃ~、邪魔せんといてぇよ。えーと……誰やったっけ?」

「粂野さんやん。ちいとも来はらへんから、忘れてもうたわ」

 

 みやこ達から厳しい目を向けられ、匡近は苦笑する。

 

「ごめん、ごめん。邪魔したね」

 

 そのままそそくさと去ろうとしたのだが、当然のことながら、薫に呼び止められた。

 

「こちらにいらしてたんですか? 匡近さん」

 

 匡近は一瞬だけ天井を仰ぐと、軽く息を吐いた。

 それからにこやかに顔をつくる。

 

「あぁ。ちょっと…こっちで任務があって」

「そうなんですか? 実弥さんも?」

「いや。実弥は来てないよ。残念ながら」

 

 思わず余計な一言をつけてしまう。

 薫が気付いたのか、クスッと笑った。

 

「いえ、別に来て欲しかったわけじゃないんですけど……いつも匡近さんと一緒にいるような気がしていて」

「最近はわりと別々の任務だよ。さすがにこの階級になるとな」

 

 実弥に遅れること三ヶ月して、匡近も甲に昇格した。甲が二人で出張る…というのは普段の任務においてはあまりない。

 

「薫は…どうした? 怪我か?」

「はい。ちょっと…骨を折ってしまって。二週間ほどご厄介になってます。匡近さんも、どこか……?」

「あぁ、いや…俺は大したことないから明日にでも……っつうか、今日にでも帰っていいと―――」

 

 なんとか目をあわせないようにしようと、視線をうろつかせる匡近の前に、椅子の上で立ち上がったみやこの顔がヌッと現れる。

 

「あかんでぇ~…って、医者(せんせい)にも言われてはったやん」

「そうやわ。ちゃあんと薬をのんで、最低でも三日は夜は出歩かないようにして、安静にしとけぇ……て」

 

 かえでも背もたれに顎を乗せながら、匡近を見上げながら釘をさしてくる。

 

「え? どうしたんですか?」

 

 薫がきょとんとして尋ねると、匡近が答える前にみやこが教えた。

 

「粂野さん、鬼に妙な毒みたいなん? なんかもろたんやろ? ほんで、体の中にまだ残ってんねんて。薬も()まなあかんけど、その毒が…」

「毒とちゃうで、みやこちゃん。なんか、小さい(むし)らしいで」

「は? そうなん?」

「そやで。それでその小さい蟲が夜になったら動き回って悪さするから、夜は安静にしときー…言うて、昼は歩き回ってお日さんいっぱい浴びてきーて」

「随分と……面倒な鬼に行き合ったんですね」

 

 薫が心配そうに言ってくるのを、匡近は肩をすくめた。

 

「首を取った後に、なんか吐き散らかしてきたんだよ。咄嗟に技で塞ごうとしたんだけど、数匹ばかり胃の中に入っちまったらしい」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫」

 

 匡近が笑って安心させようとするのに、またしてもみやことかえでが割って入る。

 

「昼は、な。夜は大変やったやん、昨日。運ばれてきた時」

「熱も出るし、ずーっと呻いてはったやん」

 

 匡近は溜息をつくと、「はいはい」といなしてその場から立ち去ることにした。

 

 これ以上いたら、今、どうにか堰き止めている気持ちが顔に出て、みやこ達に容赦なく指摘されそうだ。

 

「じゃ、蟲をやっつけに散歩に行ってくるから」

 

 軽く手を振って別れたつもりだったのだが、玄関を出たところで薫に呼び止められた。

 

「匡近さん。ご一緒してもよろしいですか?」

 

 左手に杖を持ちながら、歩いてくる。

 

「足をやられたのか?」

「はい。そんなにひどいものではないんですけど……私もお医者さまから、無精せず歩いて治すように言われているので」

「………」

 

 逡巡して黙り込んだ匡近を、薫は不思議そうに見つめた。

 

「どうかしましたか?」

「いや……」

 

 正直なところ、逃げてきたのはみやことかえでではない。

 

 隊服でない着物姿の薫を見たことはこれまでにもあったものの、今のようにいかにも当世風の、年頃のお嬢様としての格好をされていると………

 正直、目のやり場に困る。まともに見れない。

 

 結局、拒否することもできないまま先に歩き出した匡近を追って、薫もついて来る。

 

「随分と、暑さも和らぎましたね。過ごしやすくなって……」

「あぁ…うん」

 

 そのまま無言で歩いていたが、ふと背後の気配がなくなって、匡近は振り返った。

 

 いつの間にか距離があいていた。

 杖をつきもって歩く薫の足取りは当然遅い。

 

 完全に失念していたことに気付いて、匡近はひどく申し訳ない気分になった。

 薫は立ち止まって待っている匡近に追いつこうと、なんとか早く歩こうとしている。

 

「いいよ、急がなくて」

 

 匡近が声をかけると、薫はニコと微笑んだ。

 杖を持っていること以外、その姿は本当に豪商か貴族のご令嬢にしか見えない。

 今度は反対に目が離せなくなってしまう。

 

「どうしたんですか?」

 

 薫は追いつくと、匡近に首を傾げながら問いかけた。

 

「なんだか、いつもと違いますよ、匡近さん」

「そりゃあ……そうだよ。薫がそんな格好してるから、かなり驚いてるよ」

 

 少しでも正直な気持ちを吐き出さないとやってられない……。

 匡近がややおどけた様子で言うと、薫は「あぁ…」とかすかに顔を赤らめた。

 

「奥様の結髪(けっぱつ)に来ていた髪結さんに、練習させてほしいって言われて……。奥様や、みやこさん達によってたかって着せ替え人形みたいにされてしまったんですよ。隊服も今は修復中なもので……」

「ハハハ。そりゃ、薫にだったら綺麗な着物も着せたくなるものだろうな。その髪も似合ってるし」

「えぇ? そうですか? これ……マガレイトって言うらしいんですけど……なんだか、リボンを二つもつけてるし、随分と可愛らしすぎませんか? 久しぶりに油も塗り込まれて、なんだか落ち着かないです」

「似合ってると……思う、け…ど」

 

 そこまで言って目が合うと、不意に顔が熱くなって、匡近はあわてて目線を逸らせた。

 逃げるようにまた足早に歩き始める。

 

「あっ…あの…?」

 

 いきなり早足で歩き出した匡近を追おうと、薫もあわてて歩くが、怪我した足ではそう簡単に追いつけない。

 

「匡近さん。待って……待って下さい!」

 

 どんどん離されてゆき、薫が大きな声で呼びかける。

 

 ―――――待って……待ってぇ……

 

 ビリッと脳裏に横切った声に、匡近の顔が強張った。

 

 徐々に歩みがゆっくりになり、止まって振り返ると、追いかけてきた薫がつんのめって転びかける。

 匡近は咄嗟に抱きとめたが、薫よりも視線の先に佇む人影に息が止まった。

 

 白髪混じりの丸髷の婦人が、匡近を凝視している。

 

「……匡近」

 

 震える声で名前を呼ばれる。

 呆然とした顔に涙が浮かんで、懐かしそうに手を伸ばそうとしてくる…。

 

「……っ」

 

 匡近はほとんど睨むように見て、その(ひと)を牽制した。

 固い表情のまま軽く頭を下げるなり、薫の手を掴んでさっさと歩き出した。

 

 

 

 

 久しぶりに会った匡近の様子は最初から妙によそよそしかった。

 

 いつもなら会うなり屈託ない笑顔で声をかけてきてくれるのに、今日は薫が気付いて呼びかけるまでぼんやりしていた。

 それは薫がピアノを弾いていたので、それで遠慮したのかとも思うが、その後もずうっと目を逸らしがちでどこか落ち着きのない様子だった。

 

 それでもようやくいつのもように話してくれるようになったかと思うと、いきなり逃げるように行ってしまうし、あわてて追いかけてこけそうになったのを助けてくれたと思うと、そこにいた知り合いらしい白髪混じりの女性に呼びかけられるなり、再び逃げるように―――…

 

「あの……ちょっ……匡近さんっ……」

 

 薫の手を握りしめたまま、ほとんど走るように進んでいく匡近に呼びかける。

 薫は必死で歩みを合わせようとしたが、やはりまだ完治していない足では無理だった。

 

 少し大きな石が地面から出ていたのを避けそこね、痛みが走って足がよろける。

 またこけそうになって、匡近がグイと引き寄せて、抱きとめた。

 

「あ、すみません」

 

 痛みを堪えつつ、顔を上げた薫は初めて見る匡近の暗い顔に驚いた。

 どうしたのか? と聞こうとして、不意に抱きしめられた。

 

 ―――――え?

 

 薫は一瞬、自分の状態がわからなくなった。

 

 ただ、熱い。

 

「あの……匡近さん…?」

 

 身じろぎして、声をかける。

 

「あ……ごめん」

 

 匡近は我に返ったのか、薫から手を離す。

 そのまま橋の欄干に体を(もた)せかけた。

 

 フーッと長い溜息をつく。

 

「大丈夫ですか?」

 

 今日は会った時から変だったが、さっきのご婦人に会ってからの匡近は明らかにおかしかった。

 今も眉間に皺を寄せて、いつになく険しい顔つきで、返事もしない。また、溜息をつくと手で顔を覆う。

 

「……ごめん、薫。悪いけど、一人で行ってくれないか」

 

 薫は何か言えることはないかと探したが、結局、「はい」と頷いた。

 少しだけ進んでから振り返る。

 気の抜けたように項垂(うなだ)れた匡近の姿に、不安がよぎる。

 

「あの、匡近さん」

 

 声をかけると、匡近がぼうっとした表情で薫を見つめた。

 

「日暮れまでには、帰ってきて下さいね。具合が悪くなってはいけませんから」

「………ああ」

 

 ようやく匡近の顔に笑みが浮かんだが、それはあくまで薫を安心させるために無理したものだと、すぐにわかった。

 

 かなり歩いてから、気になって振り返ってみると、先程のご婦人と匡近が話しているらしいのが見えた。  

 やはり知り合いなのだろうか…。

 しかし、薫が割って入ることはできない。

 

 そのまま薫はみやこ達に頼まれた和菓子を買って、町内を一巡りして帰ってきたのだが、藤家紋の家に入ろうとして呼び止められた。

 

「あの、すみません」

 

 振り返ると、さっき匡近に呼びかけていたご婦人が立っていた。

 

「あ……さっきの」

 

 薫が目を丸くしていると、ご婦人は深く頭を下げた。

 

「匡近の母親でございます。息子がお世話になっているようで……」

「えっ!?」

 

 思わず大声が出て、あわてて口を押さえた。

 匡近の母と名乗った女性は、ニコリと微笑む。

 笑った顔が匡近と似ていた。

 

「あ……いえ、あの…私こそいつも…その、お世話になっております。え…と…森野辺薫と申します」

 

 しどろもどろになりつつも自己紹介すると、匡近の母はニコニコと笑いかける。

 

「しばらく見ないうちに、こんなご立派なお家のお嬢様とお知り合いになっているなんて存じませんで、先程はご無礼致しました」

 

 藤家紋の屋敷を見上げながら言うので、薫はあわてて訂正した。

 

「いえ、あの…違います。私はここの家の人間ではなくて……利用させてもらっているというか……」

「……?」

 

 首をかしげる匡近の母に説明しようとすると、中から現れた古参の女中に呼びかけられた。

 

「あら、薫お嬢様。ようやく帰っていらしたんですか? みやこ様とかえで様がまだかまだかーて、さっきから首を伸ばして待ってはりますよ」

 

 なんとも間の悪いことに、ここで働く古参の人間はたいがい薫のことをお嬢様と呼ぶのである。

 まして今は隊服も着ていない。

 いかにもお嬢様然としたこの格好のせいで間違われても仕方ない。

 

「と、トシエさん。あの、これをみやこさんとかえでさんに」

 

 持っていた和菓子のお土産を女中に渡すと、薫は目配せして匡近の母を近くの神社へと誘った。

 境内の中にある茶屋で、ようやく誤解を解くことができた。

 

「まぁ…じゃあ、森野辺さんも鬼を……」

 

 匡近の母……徳子(のりこ)は、薫が鬼殺隊士であると告白すると、驚いて顔を引き攣らせた。

 

「こんな若くてお綺麗なお嬢様が……そんな殺伐した……」

 

 薫は一般の人がそういう感想を持つのは仕方ないと思った。

 

「確かに鬼狩りは血腥い現場もありますけど……決して殺伐としたことばかりでもないですよ」

 

 柔らかな笑みを浮かべて言うと、徳子はそれでも心配気な様子で小さく溜息をつく。

 

「あの子は…匡近は、本当に優しくて……優しすぎて、自分のせいだと。私はそんな危ないことはやめて欲しいと何度も頼みましたが、聞き入れてくれなくて。優しいけど、頑固なんですよ、あの子は。さっきも声をかけたのだけど……」

 

 徳子は言いかけて、懐から少し古びた錦の巾着を取り出す。

 

 巾着を開いて中から出したのは琥珀の玉が連なった小さな数珠だった。

 房の根本にある大きな玉と、琥珀の玉の間に二つだけ木でできた玉があって、そこから白檀のいい匂いが漂ってくる。

 

 徳子は寂しげに言った。

 

「これを渡されただけでした。『返す』と」

「それは?」

「お守りのようなものです、我が家の。長男に受け継がれるので、あの子に持たせていたのですが、もう要らないということでしょうね。私達とはこれで完全に縁を切ろう…と」

 

 徳子は哀しそうにその数珠を見つめると、再び袋に入れて懐にしまった。

 薫は迷ったが、おずおずと徳子に尋ねた。

 

「あの……立ち入ったことをお聞きしますが、匡近さんが鬼殺隊に入ったのは、どなたか身内を亡くされたのでしょうか?」

 

 徳子は頷き、ジワリと目に涙をためた。

 

「……匡近の……弟です」

「弟……」

 

 つぶやき返しながら、妙に納得できた。

 匡近のあの性格はどちらかというと兄であろう…と想像できた。

 

「よく遊んでました。幸晴(ゆきはる)は匡近を本当に慕ってて、年は六つ離れてたんですけど、いつもいつも後ろを追いかけていて」

 

 考えてみれば匡近から鬼殺隊に入った理由を聞いたことはなかった。

 それを聞く必要を感じさせないほどに、匡近はいつも朗らかで明るかった。

 そう見せていたのだろうか…。

 さっきの暗い顔を思い出す。

 

「鬼殺隊というものがあると知って、すぐに自分もそこに入ると言いだして…。主人と二人で必死に止めましたが、結局、勘当してくれ…と書き残して家を出て行きました。それ以来、本人からの連絡は何もなくて…。一度だけお師匠と仰言(おっしゃ)る方がいらして無事だけは知らせてくれましたが……」

 

 徳子の話からまさか出てくると思わなかった東洋一(とよいち)が現れ、薫は驚いた。

 いつも飄々として、他人のことに無関心であるように見えて、実のところ義理堅い性格であった。

 懐かしさと悲しさが同時に去来する。

 

「それは……ご心配でしたでしょうね」

 

 薫はどうにか返事して、匡近のことを考えた。

 

 東洋一のもとに弟子入りした頃からとすれば、おそらく少なくとも五年以上、音信不通だったことになる。

 まして既に一人の息子を鬼の爪牙にかかって殺されている親の身からすれば、これ以上再び鬼によって大事な息子を奪われるかもしれないと…毎日、身の細る思いだったことだろう。

 

 しかし……と、薫は内心で首をひねった。

 匡近の性格からして、確かに家出したばかりであれば、まだ精神的に若かったのもあって、連絡を絶っていたかもしれないが、数年経てば、当時の自分を省みて、せめて無事だと一言、手紙で書き送ってそうなものだ。

 以前に手紙のやり取りをしていたのを思い出しても、筆不精というわけでもないだろうに。

 

 徳子は昔を思い出して涙が止まらぬようだったが、手ぬぐいで目をおさえて、気持ちを落ち着けると、匡近によく似た温かみのある笑顔を浮かべて薫を見つめた。

 

「森野辺さんは、匡近の…その、お仲間ということでしょうか?」

「あ…はい。それもそうですが、私は匡近さんと同門で……同じ師匠に教わっておりましたので、妹弟子になります」

「まぁ、そうだったんですね。道理で」

「はい。いつもお世話になってます」

 

 徳子はホホホと袖で口を隠して笑った。

 

「私はてっきり、匡近にそういう……夫婦(めおと)になろうという娘さんがいたのだと思って」

「えっ!? ち、違います。そういうのは全く……そういうのではないです」

 

 薫があわてて否定すると、徳子は軽く吐息をついた。

 

「残念ですわ。森野辺さんのようなお嬢様と一緒になって…あの子も幸せに暮らしてくれているならいいと……さっきまで納得させようとしてましたのに」

 

 本当にガッカリしたように言うので、薫はとりあえず「すみません」と謝った。自分でもどう返答すればいいのかわからない。

 

「いつ死ぬともしれぬ場所で戦っているのですものね……普通の女の方ではとてもお嫁さんになど、来てくれるわけもありませんね………」

 

 寂しげにつぶやく徳子に、薫はかけてやる言葉が見つからなかった。

 ただ……

 

「確かに……危険の多い仕事ではありますけど、匡近さんはとても強いので、今までも戦って生き残ってきましたし、だからあの……大変ですけど、一生懸命やっているので…頑張ってるので、あの……心配はされると思いますけど………認めてあげて下さい」

 

 訥々と話す薫を徳子はじっと見つめた後、フッと笑みを浮かべる。

 

「……そうですね。自分の信じる道を進む息子を認めてやるのが……親に出来る最後のことでしょうね」

 

 そう言って徳子は茶屋娘にお代を支払うと、立ち上がった。

 

「あ、お代は私が……」

 

 薫が懐から財布を出そうとするのをそっと手で制して、徳子はニッコリ笑うと先へと歩き出す。

 

 藤家紋の家へと向かう道々に、匡近の隊内での様子などを話して聞かせると、徳子は時に息子の成長に驚きつつも目を細めて、頷いていた。

 薫もまた徳子から匡近の幼い頃の話などを聞いて、破顔して笑い合う。

 ほんの数町ほどの道のりの間にすっかり打ち解けてしまったのは、徳子がやはり匡近と同じ温和な、親しみやすい性格であったからだろう。

 

 藤家紋の家の前まで来ると、薫はおずおずと申し出た。

 

「あの…一度、匡近さんに声をかけてみましょうか? たぶん、もうお戻りになっていると思うので…」

 

 徳子はハッとした様子だったが、フと笑うとゆっくり首を振った。

 

「あの子が無事とわかっただけでも十分です。森野辺さん……薫さんにも会えましたからね」

 

 それから徳子は先程の数珠の入った巾着袋を薫に差し出した。

 

「これを…もう一度、匡近に渡しておいて下さい。これはもうあなたのものだから、あなたの好きにしていいと…そう、伝えて下さいませ」

 

 薫は両手でその袋を受け取ると、「必ず」と頷いて、安心させるように笑った。

 徳子もニコリと笑うと、深く頭を下げた。

 

「どうか、匡近のことを…お願いします」

「いえ…むしろこちらがいつもお世話になってますから……」

 

 謙遜でなく本当にそうだから言ったのだが、徳子はしげしげと薫を見つめて、軽く嘆息した。

 

「本当に残念。匡近が鬼退治を辞めて、あなたと一緒になって家に戻ってきてくれたら……こんなに嬉しいこともないでしょうに」

 

 薫は複雑だった。

 おそらく徳子は今日の薫の姿を見て勘違いしているだろう。普段の姿を見れば、今のような感想を抱くとは思えない。

 

「では」と、徳子が歩き出すと、薫は後ろから声をかけた。

 

「あの! 私……匡近さんに、お手紙を書くように……頼んでみます。きっと、心配をかけさせているのは、十分にわかっておられるでしょうから」

 

 振り返って、徳子はニッコリ笑って薫を見つめた。

 

「ありがとう。待っていると……お伝え下さい」

 

 そう言って再び深くお辞儀すると、往来の人の群れの中に消えていく。

 薫もその姿に向かって、深く頭を下げる。

 

 いつ死ぬともしれぬ人間の帰りを待つというのは、もしかすると戦っている当人よりも神経をすり減らすかもしれない。

 それでも待つという選択をして、匡近を送り出した徳子の心の毅さに、薫は素直に敬服していた。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回は2021.11.6.土曜日の更新予定です。



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第一章 兄弟子(二)

 藤家紋の家の中に入ると、みやことかえでが玄関で並んで待っていた。

 

「もー、何してはったん? 一緒にお餅食べよぅと思て待ってたのにぃ」

「ごめんなさい。少し話し込んでしまって……匡近さんはもう帰ってるの?」

「帰ってはるけど、なんかしんどそうな顔してはるわ。やっぱりまだ体に蟲がおるからやろか?」

「夜になる前に夕餉(ゆうげ)とお風呂は済ませはったから、もう部屋でじぃとしとくて」

「そんなに大変なことになるの?」

「ウチらはわからんけど、昨日付き添ったマユは途中で怖ぉなって男衆(おとこし)に代わってもろたァ()うてた」

 

 随分と厄介な血鬼術に見舞われたものだ。

 しかしそれならば、早くしないと会話もできなくなるかもしれない。

 本当はこの慣れない髪を解き、動きづらい振袖を脱いでしまいたかったが、時間もないのでそのまま匡近の部屋へと向かった。

 

 いよいよ夜が近づいてあまり具合が良くないのか、匡近は芥子(からし)色の着流し姿で、ぼんやりと脇息に頬杖をついて、縁側から見える夕焼け空を眺めていた。

 

「もしかして…母さんに会った?」

 

 薫の顔を見るなり尋ねてくる。

 頷いて、薫は徳子(のりこ)から預かった巾着袋を差し出した。

 

「これを…渡してほしいと。それと言伝です。『これはもうあなたのものだから、あなたの好きにしていい』…と」

「………」

 

 匡近は物憂げにその袋をしばらく眺めていた。

 薫は畳の上に置いたその袋を手に取ると、匡近の鼻先に突き出す。

 溜息の後、匡近は仕方なさそうに受け取って、無造作に枕元へと置いた。

 

「……何か言われたな」

 

 薫の顔を見て、匡近はいつになく皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 

「心配なさっていただけです。母親なんですから、当然でしょう」

「そうだろうね」

 

 言いながらも、まるで他人事であった。

 

「どうしてそんなに避けるんですか? お母様は匡近さんが無事だとわかっただけでもいいって……さっきもこの家の前までいらしてたんですよ」

「本当にね。どうしてこんなところにいたんだか……」

「ご親戚に不幸があって、たまたまいらしていたそうです。明日の朝には帰ると……」

「そっか。あぁ……そういえば叔父さんがいたか」

「匡近さん」

 

 薫はズイと膝をつめる。

 

「無理に会えとは言いません。でも、せめてお手紙を出すくらいしてあげて下さい。それで、少しはお母様の心が安らげるなら、大したことではないでしょう」

「……手紙……」

 

 匡近はつぶやくと、なげやりに言った。

 

「俺が何を書いたところで、あの人達の悲しみが癒えることなんてないよ。それに、何を書けばいいのかもわからない」

 

 その顔にいつもの明るさはなかった。疲れ切ったような淋しげな表情だ。

 薫は一瞬、言葉を失い、膝の上で手を揉んだ。

 

「でも……元気ですって、一言……それだけでも駄目ですか?」

 

 ピクリ、と匡近の眉間に苛立った皺が寄る。

 初めて見る顔だった。

 

 だが、すぐにその怒った表情を掻き消すと、己を冷笑する。

 

「元気って……俺が元気だから、何だって言うんだ……」

「匡近さん…?」

 

 戸惑う薫に、匡近は苦しそうに笑った。

 

「悪いけど、薫。これはお前に関係ないことだよ。母さんに何を言われて……あの人に同情して、俺に何か言いたいんだろうけど……」

「匡近さん、私は別に……」

「頼むから、この件に関しては放っておいてくれ。それと、悪いけど出てってくれないか。たぶん、蟲が動き始めてる。寝ておかないといけないから」

 

 日が沈み、空はだんだんと群青色に変わりつつあった。

 医者から夜は安静に…と言われている以上、薫は出て行くしかなかった。

 

 お前に関係ない、という言葉が思っていたよりも鋭く薫の心をえぐった。

 

 

◆◆◆

 

 

 今考えても、喧嘩の理由なんてわからない。

 きっといつもと同じ。

 ひどくつまらないことだった。

 妹にやったどんぐりの方が大きかった、とか、鬼ごっこするときのじゃんけんで後出しだった、とか。

 

 そんなつまらないことで、いつもすぐにむくれて拗ねて、一人ぼっちになって、つまらなくなって、そのうちにさびしくなって……怖くてたまらくなると、匡近を呼んだ。

 幸晴(ゆきはる)のことなら、本当に次の次に考えていることまでわかる。

 

「幸晴ー? どこだー?」

 

 匡近は日が暮れたのに未だに拗ねて帰ってこない弟を探していた。

 

「ユキ兄ちゃぁん。どこぉ?」

 

 匡近の左手をしっかりと握って、呼んでいるのは妹の照子(てるこ)だった。

 幸晴を探しに行こうとした匡近を目ざとく見つけて、ついて行くと駄々をこねられ、押し問答している時間も惜しくて、結局連れて来てしまった。

 

「お兄ちゃん…」

 

 か細く呼ぶ声が聞こえたのは、いつも学校帰りに寄り道するお寺の境内にある大楠木の上からだった。

 

「またぁ…お前は」

 

 匡近が呆れた顔で手を伸ばすと、幸晴は待っていたとばかりに枝から飛び、その腕の中へと落ちてきた。

 

「また登って降りれなくなったのか? やめとけって言ってんのに」

 

 泣きべそをかく弟の頭を軽く叩きながら言うと、幸晴は決まり悪そうにしながらも睨みつける。

 

「だって……だって…登ったときはまだお日様が照ってたから…その時なら降りれたんだよ。でも、寝て起きたら真っ暗で」

「なんだ、寝てたのか。こっちは心配して探し回ってたのに」

「ユキ兄ちゃんが帰ってこないから、伯母ちゃまにもらった最中(もなか)はマサ兄ちゃまと半分こして食べた」

「なにぃ?」

 

 照子が余計なことを言い出して、また幸晴を怒らせる。

 匡近は溜息をついた。

 

「母さんがちゃんと幸晴の分も取ってあるよ。さっさと帰って食べたらいいだろ。腹減ってるだろう?」

 

 言いながら、二人の弟妹の手を左右それぞれに握って、匡近は歩き出した。

 

「はーるがきーたー、はーるがきーたー……」

 

 照子がねえやに教えてもらった歌を歌いだす。

 幸晴は最初、季節外れのその歌を茶化していたが、そのうちに一緒になって歌い出した。

 匡近も一緒になって歌いながら、本堂の横を通り過ぎようとしていた時だった。

 

 キャアア…という女の悲鳴が聞こえたと思うと、ベキベキっと何かが折れる音。

 

 子供達は異様な空気に一気に固まった。

 動けずにいると、突然、本堂の屋根に穴が開いて、中から何かが跳んで出た。

 

 その異形のモノを見た途端、匡近の全身を恐怖が覆った。

 

 ソレは月を背にして嗤っていた。

 屋根の上、足元に踏みしめた瓦がバリバリと割れて落ちてくる。

 

 左肩に女の白い足をひっかけて担ぎ、右手には骨が剥き出しになった千切れた女の腕を持っている。

 まるで木の根株のような太い足の間から、殺された女の白い顔が覗いていた。

 

「シシシシシ」

 

 宵闇の中に現れた鬼は、三人の子供の姿に紅い目を細めた。

 

 右手に持っていた女の腕にかぶりつくと、ほとんど呑み込むように食べ下した。不気味な咀嚼音が耳元にまで聞こえてくる。

 

 硬直した匡近が動けたのは、両手に繋いだ幼い弟妹達の手が震えて、匡近の手をぎゅうっと握りしめたからだった。

 

「逃げるぞッ!!」

 

 叫ぶなり、匡近は照子を抱き上げ、幸晴の手を引っ張って走り出す。

 

 後ろから鬼が不気味に笑う声が聞こえた。

 無駄だ、無駄だ…と笑いながら迫ってくる。

 

 匡近は無視した。

 とにかく必死で走るしかなかった。

 

 走ることに自信はあった。

 学校でもいつも一番だった。

 駆けっこでは誰にも負けたことがない。

 

 だが、匡近と幸晴とでは走る歩幅も、速度も違う。

 半町も走らぬうちに、幸晴は追いつけなくなって、足がもつれて転んだ。

 

 幸晴の手が離れたことに気付いて匡近の足が止まったのと、地面に這いつくばった幸晴が助けを求めて匡近を叫んだのは同時だった。

 

「待って! 待ってェ、お兄ちゃん!!」

 

 後になって、匡近は自分の足が早過ぎたことを呪った。

 

 あわてて振り返った時、幸晴と匡近との間には三歩の距離があいていた。

 匡近が早すぎたために、幸晴の手が離れたのに気付いてからも、無意識に足が進んでいたのだ。

 

 たったの三歩。

 けれど匡近はもはや近づくこともできなかった。

 

 後ろからニヤニヤと笑って追ってきた鬼が、転んだ幸晴をその手で掴む。

 松の枝のような節くれ立った大きな手から伸びた長く太い爪が、小さな弟の体を容赦なく串刺しにする。

 

 ヒュウッと空気の漏れるような声が聞こえて、恐怖に目を見開いたまま幸晴は死んだ。

 

 すべては一瞬でしかなかった。

 

 けれどこの光景は、ずっと匡近の中で再生を繰り返す。

 

 声も上げることができないまま、凍りついた匡近の目の前で、鬼は骨が折れて糸のもつれた操り人形のようになってしまった弟を、ブランと持って、口の端から涎を垂らした。

 

「……や……め…」

 

 匡近は無意識のうちに、懐の中にいる照子をぎゅうっと抱きしめた。

 

 鬼に見えないように。

 鬼が見えないように。

 

 パックリと耳まで裂けて大きく開いた口が、弟の上半身を呑み込む。

 

「やめろオォォォォッッッ!!!!!!!!!」

 

 

◆◆◆

 

 

 ふっ、と目が覚めた。

 

 行灯(あんどん)の仄かな光りの中で、匡近はしばらくぼうっと天井を見ていた。

 どこからか囁くかのような、かすかな声で歌が聞こえる。

 

 懐かしい歌…。

 幼い頃、なかなか眠らない我が子(じぶん)に母がよく歌ってくれていた。

 少し寂しげな異国の調べ……。

 

「母さん……?」

 

 掠れた声で呼びかけると、歌が止んだ。

 

「大丈夫ですか?」

 

 心配そうに匡近を窺ったのは、薫だった。

 

「………え?」

 

 匡近は軽く混乱した。

 

 ここはどこだったろうか? さっき聞こえていた歌は? どうして薫がいる…?

 

 頭の中だけがぐるぐると回って、ぼうっとしていると、薫が濡らした手ぬぐいで匡近の額を拭う。

 汗をかいていたようだ。

 

「怖い夢でも見ていらしたんですか?」

 

 チャプンと盥の中に手拭いをつけて、再び絞ると薫は匡近の額にのせた。

 

「夢……」

「ひどくうなされてました。熱もあがってるでしょうから……頓服薬を用意しますね」

 

 立ち上がりかけた薫の手を、匡近が掴む。

 

「匡近さん?」

「頼む……居て…くれ」

 

 掠れた声で頼む匡近の顔色は悪かった。

 薫は安心させるように、匡近の手を両手で包んで呼びかける。

 

「大丈夫ですよ。ここにいますから」

「………薫」

 

 匡近はまだ頭が整理できてないままにつぶやく。

 

「あれは、夢じゃない」

「匡近さん……」

 

 薫は匡近の手をギュッと握りしめた。「夢ですよ。もう……」

 

 匡近はまじまじと薫を見つめた。

 まるですべてをわかっているかのような、慈悲深い淡い微笑み。

 

 徐々に頭が整理を始めると、匡近はハッとなり、あわてて薫の手を離した。

 

「………すまん」

「いえ。お水、飲まれますか?」

 

 薫は枕元に置いてあった吸い飲みを取ると、匡近を抱き起こそうとする。

 

「いい……」

 

 匡近はあわてて手で制して一人で起き上がると、吸い飲みをもらって水を口に含む。

 冷たい液体が喉を通っていくと、ようやくまともな声になった。

 

 ホゥと息をつくと、傍らで微笑む薫と目が合う。

 

「今、歌ってたのって……なんていう歌だったっけ?」

 

 急に気恥ずかしくなって早口に尋ねると、薫も少し恥ずかしそうに顔を俯けた。

 

「……聞いてたんですか」

「いや…ちょっとだけ」

「……『菊』です。昼に匡近さんのお母様から聞いたんです。小さい頃に夜泣きしたらいつも歌ってたって」

「余計なことを……」

 

 匡近はハアァと溜息をついた。

 よりによってどうしてそんな話をしたんだろうか。

 

 しかし薫は屈託なく笑った。

 

「お陰で匡近さんが、起きてくれましたから。さっきからうなされておいでだったので、呼びかけたり揺すったりしたんですけど、どうしても目を覚まされなくて……」

「さっき……?」

 

 匡近はふと、この状況に疑問を持った。

 

 いつから薫はいたのだろうか。

 確か寝る前には、この家の下男がいたはずだ。

 

 怪訝な顔をする匡近の気持ちに気付いて、薫はすぐに答えた。

 

「左吉くんなら、薬の匙加減が難しくて無理だって半ベソかいてたので、代わってあげました。確かに、ちょっと難しいんですよね。蟲をやっつけるのに猩々緋砂鉄の粉末を極々少量混ぜるなんて……」

 

 薫は布団の上にあった褞袍(どてら)を匡近の肩にかけると、すっと額に手を当てた。冷たく細い指の感触に、匡近の体が固まる。

 

「やっぱり…熱ありますね」

 

 つぶやくと薫は立ち上がって、用意されていた(テーブル)の上で薬の用意をし始めた。

 

 夜に服用する薬は調合が難しい上、作り置きができないために、飲む直前に合わせる必要がある。

 一応、一服のんでから寝たのだが、深夜に熱が出てきた場合にも、頓服として服用する必要があった。

 

「随分、手際がいいな…」

 

 匡近が言うと、ゴリゴリとすり鉢で薬を合わせながら、薫が答えた。

 

「勝母さんの所にいた時に少し手伝ったりしてましたから」

「あぁ…そうか…」

 

 ふぅ、と匡近は熱を帯びた体のだるさにうんざりして息をつく。

 しばらくすると、薬湯をお椀に入れて薫が持ってきた。

 

「どうぞ」

 

 差し出されて、受け取ってからしばらく、そのうっすらと白いトロリとした液体を眺める。

 

「頑張って()んで下さいね」

 

 傍らで薫は笑って励ます。

 

「服まないと良くならないのはわかるんだけど、どうしてこの手の解毒薬って不味(マズ)いんだろうなぁ……」

「美味しいお薬なんてありませんよ」

 

 言われてみればそうである。

 観念して一気に飲み干すと、「よく出来ました」と薫が教師のようなことを言う。

 

「さ、お(やす)みになって下さい」

「……寝たところで、また嫌な夢を見るだけだ」

 

 匡近は疲れ切った溜息をついた。

 

 この血鬼術にやられてから、毎夜のようにあの時のことを夢に見る。

 これも術の作用なのだろうか。

 

 つくづく鬼というのは忌々しい。……

 

「弟さんの……夢ですか?」

 

 静かな声で問いかけられて一瞬驚いたものの、すぐに理由はわかった。

 匡近の口元が皮肉っぽく歪む。

 

「母さんか……」

 

 薫は苦く笑う匡近の表情に、睫毛を伏せた。

 

「お母様は…匡近さんが優しいから……優しすぎて、自分のせいにしてしまってるんだって仰言(おっしゃ)ってましたよ」

 

 匡近は俯くと、布団の中で拳を握りしめる。

 

 誰も、気付いていない。

 誰も、気付いてくれない。

 自分は優しくなんかない。

 嫌というほどわかってる。

 自分の罪を。

 

「夢じゃない」

 

 ポツリと匡近はつぶやいた。

 行灯の仄かな光りに浮かぶ薫の影に向かって、懺悔する。

 

「あれは夢じゃない。本当に、あったことだ……幸晴は…弟は、俺が助けなきゃいけなかったのに……」

 

 手を握って走り出して…すぐに思った。

 

 幸晴の足が遅い、と。

 このままでは捕まってしまうかもしれない、と…。

 

 喉元までせり上がる恐怖感に煽られて、焦りが滲み出る。

 案の定、ついてこれなくなって途中でこけてしまった幸晴に気付いた時、一瞬だけ、振り返るまでのほんの一瞬だけ、匡近の頭の中に閃いたのだ。

 

 ―――――コイツノセイデ捕マル。

 

 瞬きすらできないほどの、ほんの一瞬だけ、匡近は足の遅い幸晴に苛立った。

 振り返った時には、鬼はもう幸晴の後ろに立って、その手で掴もうとしていた。

 

「俺はその瞬間、自分のことしか考えてなかった。だから、振り返った時にすぐに体が動かなかった。もし動いてれば……幸晴を助けようとして振り返っていれば、鬼に捕まるまでに、俺が助けることはできたんだ。きっと……」

 

 その後、鬼は鬼殺隊士によって成敗され匡近は生き残った。

 

 母は幸晴の死を目の当たりにして、卒倒した後にしばらく寝込んだ。

 父は、黙って耐えながら仏壇の前で毎夜、肩を震わせていた。

 

 二人とも匡近を責めなかった。

 むしろ鬼に傷つけられながらも、照子を必死で守った匡近に感謝し、『よく生きていてくれた』と、涙ながらに何度も繰り返す。

 

 針の筵だった。

 

 自分は『生きていてよかった』存在ではないのに。

 幸晴の死は、自分のせいなのに。

 

 鬼への恐怖や憎悪よりも、自分への不信が募った。

 結局、自分は土壇場で誰も守ることのできない人間ではないか。

 一体、これから先、自分に生きる価値などあるのか……?

 

「死にたいと思った…いっそ。でも、そんなことをすれば母さん達を余計に悲しませることになる。どうすればいいのかわからなかったけど……あの家にいることは、出来なかった。家族は誰も悪くない。俺だけが悪いんだ……。どうしようもない……人間なんだよ……」

 

 話しながら匡近の顔色は白くなり、ブルブルと震えだす。

 薬が効き始めていた。

 蟲が抵抗して暴れるのに反応し、熱が乱高下する。

 

 本当に…どうかしている。

 この奇妙な血鬼術のせいで、毎夜毎夜、悪夢を見てうなされ、熱にうかされる。

 今も、きっとそうなのだろう……。

 

 すっかり弱気な自分に言い訳する匡近を、フワリと優しい腕が包んだ。

 

「……寝ましょう。横になれば、そのうちに眠れますから」

 

 柔らかな力がゆっくりと匡近を布団に寝かしつける。

 抗えないまま仰臥すると、見上げた先に憐れむような薫の顔があった。

 

「呆れ果てただろう……いや、軽蔑かな? こんな情けない兄弟子で」

 

 匡近が自分を嘲笑って言うと、薫は哀しそうな表情になった。

 

「匡近さんにとって、弟さんの思い出はそれだけですか?」

「………」

「私も未だに夢に見ます。父や、母のこと……佐奈恵さんのこと、先生のこと。匡近さんのように、自分の不甲斐なさを呪いながら。どうして助けられなかったのかと、ずっと自分を責めることでしか…赦されない気がして」

 

 匡近は唇を噛み締めた。

 その気持ちは痛いほどわかる。

 誰の断罪よりも、己自身が最も罪深いのだと、わかっているのだ。

 

 薫は重い口調で続ける。

 

「私は助けられません。夢を何度見ようと…決して。夢は夢でしかない」

 

 仄かな光りに照らされた顔は苦く歪んでいた。

 

「たとえ夢の中で皆を助けることができても、目が覚めれば夢でしかなかったのだと…虚しくなるし、悪夢から目が覚めても、後悔ばかりして…悲しいだけで…」

 

 そこまで言ってから、薫はキュッと口を引き結ぶと、匡近を真っ直ぐに見つめた。

 

「匡近さんが弟さんを助けることは、できませんでした」

 

 はっきりと言われ、匡近もまた薫を見つめ返す。

 

「どんなに後悔しても、どんなに自分を恨んで呪っても、事実は変えようがないんです。匡近さんに弟さんを助けることはできなかった。私も、一緒です」

 

 厳然とした事実を受け止め、こうして話すことは、薫には血を吐くと同じようなことだったろう。

 一気に言ってから、薫はしばらく顔を俯けていた。

 

 深呼吸を一度してから、薫は顔を上げた。

 いつもの柔らかな微笑を浮かべている。

 

「律歌さんに言われたんです。そうやっていつまでも死んだ人を、苦しい姿で思い出すのかって。もっと楽しい思い出がいっぱいあったはずなのに、それはなかったことにするのか、って。それからは、自分でもなるべく楽しかった時のことを、思い出すようにしています」

 

 山歩きによく連れ出してくれた父や、薫の弾くピアノを聞きながら刺繍をしていた母。

 おせちを一緒に作ったトヨ。たくさんの花の名を教えてくれた辰造。

 うどんがのびるまで喋っていた佐奈恵。

 とぼけた顔をして、冗談を言っては里乃に呆れられていた東洋一(とよいち)

 

「今は時々……懐かしい、皆が笑っている夢を見るようになって。でも、起きてから夢だとわかると、それはそれでやっぱり…少し悲しいんですけどね」

「…………」

 

 匡近は腕で自分の顔を隠した。

 フーッと長い、長い溜息をつく。

 顔が熱い。

 涙が溢れてくる。

 

 熱のせいだ……。

 

「さっきの……歌」

「『菊』ですか?」

「歌って……くれ」

 

 薬が効いてきて、ゆっくりと粘つくような眠気がやってきている。

 

「え………む、無理です」

「どうして?」

「あんまり上手(うま)くないですから……」

 

 匡近はクスッと笑った。

 

「さっき、歌ってたじゃないか」

「あれは…匡近さんが寝ていると思っていたから。聞かせるようなものではないので……」

「もう……寝るよ。もうすぐ………」

 

 言いながら、瞼を閉じた。

 すぅ…と寝息をたてているフリをする。

 

 薫はしばらく匡近の様子を窺ってから、そっと囁くように歌ってくれた。

 

 

  庭の千草も むしのねも

  かれてさびしく なりにけり

  あゝしらぎく 嗚呼白菊

  ひとりおくれて さきにけり

 

 

 元は外国の歌だという。

 行ったこともない異国の歌に、どうしてこんなに郷愁を感じるのだろう。

 小さい頃は歌詞の意味を知らず、ただその旋律だけを聞いていた。

 

 

  露にたわむや 菊の花

  しもにおごるや きくの花

 

 

 気付かれぬようにうっすらと片目だけ開ける。

 薫が傍らで子守唄のように、ゆるやかに、優しく歌っている。

 

 その姿と、冷たい雪の中でひっそりと咲く菊の花が重なっていく……。

 

 匡近は再び目を閉じると、ゆっくりと穏やかな眠りに身を委ねた。

 

 

  あゝあはれあはれ あゝ白菊

  人のみさおも かくてこそ……

 

 

 

<つづく>

 





作中にて『菊』と語っている歌は、今では『庭の千草』という名前で親しまれているものです。
小学校唱歌として発表された時の表記が『菊』であったので、さほど年代も経っていない作中においては『菊』としています。

次回は2021.11.13.土曜日に更新予定です。




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第一章 兄弟子(三)

 翌朝。

 薫にしては遅い昼前に目を覚ましたのは、明け方まで匡近の看病をしていたからだった。

 

 夜明け近くに起きてきた女中に後を託して、自分の部屋に戻るなり倒れ込むように寝てしまい、家人は気を遣って起こさなかったらしい。

 

 目が覚めても、しばらくボンヤリと頭が働かず、ザーッと雨が家全体を囲んで降る音だけが聞こえてくる。

 のろのろと起き上がると、四つん這いで窓までいって外の様子を眺める。

 

 昨日とは打って変わって大雨が降っていた。

 庭の(ハゼ)や錦木も、雨の中で紅葉が烟って見える。

 特に外に出る用もないのに、起き抜けに大雨を目の当たりにすると、我知らず溜息がもれた。

 

 とりあえず寝間着から紺色の紬に着替えると、髪を梳っていつも通りにひっつめた。

 みやこ達などは、もう少し結って(かんざし)なり櫛なりを挿せばいいのに、と言ってくるが、数年来この髪型で慣れてしまうと、昨日のように油で結髪するのは億劫だった。

 隊士になったばかりの頃は母の形見の組紐を元結の上から結んでいたが、戦闘時に切れてしまい、その後はそうした装飾物は身に着けないようにしている。

 

 部屋を出て廊下を歩いていると、三味線の音が聞こえてきた。

 立ち止まって、音のする方へと耳を澄ます。

 誘われるように、途切れ途切れに聞こえてくるその音へと近寄っていく。

 

 薫は専門外だが素人が聞いていても、正直、上手とはいいかねた。

 だが拙いながらも曲は奏でている。

 

 だんだんと音に近づくにつれ、薫は首を傾げた。

 このまま行くと、匡近の部屋ではないだろうか…?

 

 果たして、開かれた障子戸からひょっこり顔を出すと、匡近が三味線を弾いていた。

 こちらに背を向け、庭の雨景色を眺めながら。

 

「……風流ですね」

 

 そっと声をかけると、ビクッと肩が上がって、ゆっくりとこちらを振り向く。

 

「……みっともないのを見られたな……」

 

 匡近は恥ずかしそうに頭を掻くと、すぐに三味線を置いた。

 薫は笑った。

 

「みっともないなんて…。その……味があっていいと思いますよ」

「それって…暗に上手くないって言ってるようなもんだぞ」

「…………」

 

 黙り込む薫を見て、匡近はプッと噴いた。

 

「正直者だなぁ…」

 

 ハハハと朗らかに笑う匡近はいつもの匡近だった。顔色もいい。

 

「よかったです。体調、戻られましたね」

「あぁ…昨夜(ゆうべ)はごめん。なんか……面倒かけて」

 

 言いながら、匡近は俯いた。

 思い出すと恥ずかしい。

 朝起きた時もだんだんと頭がハッキリするに従って、一人赤面してしまった。

 

「………熱が出てましたものね」

 

 匡近の気持ちを汲み取ってか、薫はそれ以上、昨夜のことについては触れなかった。

 

「三味線が弾けるなんて知りませんでした。練習されてるんですか?」

「え? いや…祖母がね、三味線の師匠だったんだよ。だから門前の小僧みたいなもので。今日は雨で外にも出られないし、暇つぶしに借りて久々に弾いてみたけど……やっぱ、全然駄目だったな。薫のピアノみたいにはいかない」

 

 昨日再会した時に、流れるような指の動きから紡ぎ出されていた音を思い出す。

 しかし、薫は謙遜して首を振った。

 

「私も、全然指が動かないですよ。弾ける曲も年々少なくなってしまって……」

「それであれだけ弾けるなら、昔はよっぽどだな。やっぱりある程度の域まで達したら、昔とった杵柄になるのかな。師匠も上手かったもんなぁ」

 

 何気なく言うと、薫が驚いたように見つめてくる。

 

「師匠って…先生のことですか? 匡近さん、聞いたことあるんですか?」

「え……あ、うん。一回…か、二回……」

「ええぇーっ!!」

 

 薫にしては珍しいくらいに不満気な様子で声を上げる。

 匡近は目を丸くした。

 

「ずるいです! 私だって聴きたかったのに!!」

「ず、ずるい…?」

「だって、先生、絶対弾いてくれなかったんですよ。年をとって指が動かなくなったとか、戦闘で指をやられて駄目になったとか、願掛けしてるから無理とか言って……」

「あー……」

 

 思い当たることがあって、匡近は苦笑した。

 意味深な含み笑いに、薫がむぅと睨みつける。

 

「ずるいですよ、本当に。いいなぁ」

「ハハハ…しょうがない。師匠が弾いたら、里乃さんがヤキモチ焼くからな」

「え?」

「昔、なんか寄合でさ…興が乗った師匠が三味線弾いたらしいんだよ。そしたらそこにいた女性陣がみーんなポーッとなっちゃってさ。それからしばらくはモテたらしいよ~」

 

 薫は聞きながら、そういえば前に勝母も同じような事を言っていたと思い出す。

 

 ―――――名人かどうかは分からないが、上手(じょうず)には違いないさ。普通の女は聞き惚れて(トロ)けちまってたからねぇ…

 

 そう聞いて尚更聴いてみたいと思ったが、弟子時代にそれとなく頼んでみても、あの飄々とした調子で煙に巻かれていたので、おそらく無理なんだろうと諦めていた。

 が、匡近に聴かせていたのに、どうして自分は……と思うと、少しばかり恨み節になろうというものだ。

 

「どうして匡近さんには聴かせて、私は駄目だったんでしょう…」

 

 拗ねた様子の薫が珍しくて、匡近はクスクス笑った。

 

「いやぁ…その後、里乃さんがすっかりヤキモチ焼いちゃってさ。それで懲りて、女の前では弾かないようにしたらしいよ」

「なんですか、それ! 私は里乃さんにヤキモチ焼かせるようなことしませんよ」

「それはそうだろうけど……」

 

 匡近はむくれている薫をチラと見た。

 確かに薫相手に里乃が悋気を起こすことはなかったろう。

 ただ…

 

「いや、里乃さんっていうか…薫、お前、師匠の三味線聞いたら、たぶん毎日弾いてくれ…って、ねだるだろう?」

「え…?」

「前に言ってたぞ。師匠が他愛もない小噺をして聞かせたら、しばらく同じ噺ばっかりさせられたって」

「………」

 

 覚えはある。

 東洋一(とよいち)の噺が面白くて、何度も聞かせてくれと頼んで、何度聞いても同じ所で同じように笑ってしまうのだ。

 

「あと、手品も一回だけ見せたら、タネがわかるまでは…って、しつこく頼んで何回もしてもらったんだろ? しまいに面倒になってタネ明かししたら、今度はやり方を教えろって」

「う……あれは、先生みたいにやろうとしても上手く出来なくて……」

 

 タネ明かししてもらって自分でもやってみたのだが、東洋一のように流麗な所作で出来なくて、教えを乞うたが……確かに…しつこかったかもしれない。

 

「ま……下手に三味線弾いてそうなったら面倒ってのもあったんじゃないかな? わからないけど」

 

 途端にガックリと薫は項垂れた。

 なんのことはない。東洋一に三味線を弾かさないようにしていたのは、自分だったわけだ…。

 

 急に悄気げてしまった薫に、匡近はとりなすように言った。

 

「まあ…いいじやないか。俺だって、師匠の手品なんて見たことないよ」

「スゴいんですよ。何にもないところから、サイコロが出てきて…」

「サイコロ……?」

 

 匡近は眉を寄せる。

 なんとなくそれは手品というより、東洋一が若い頃に博打通いで身につけたワザであるような気がしたが、今となっては確かめようもない。

 

「まあ、色々と器用な人だったな」

「そうですね。思い出したら、なんだか笑ってしまうことばかりで…」

 

 死んだその時の事を思い出せば、未だに唇を噛み締めてしまうけれども、東洋一と過ごした日々は楽しかった。

 修行はとても厳しかったのに、なぜだか笑えてしまうような思い出と、いつも自分を見守っていてくれた情深い眼差しだけが残る。

 

「そうだよなぁ」

 

 匡近も頷きながら、同じように思い出す。

 稽古でも、やっていることは厳しい事この上もなかったが、いつものんびりした顔つきと口調だった。

 

 匡近と同時期に弟子だった奴は、緊張感のないその様子に、東洋一が育手として不真面目だと怒っていた(最終的には出て行ってしまった)が、むしろ匡近は底知れない怖さを感じた。

 現役時代は相当に強かったんだろうと思った。

 それで絶対について行こうと決心したのだ。

 この師匠の元でなら、きっと自分は強くなれると信じて…。

 

「三郎くんは…残ったらしいですね」

 

 唐突に言われて、匡近は「え?」と、顔を上げた。

 

「あ…守くんからお手紙を貰って……」

「あぁ…そうか」

 

 東洋一を荼毘に付した後、当人の遺言に従って墓に納骨を済ませると、薫は任務もあったので早々に京都へと戻って行ったのだが、匡近は守と三郎を託されたこともあって、しばらく逗留した。

 その間に話し合って、どうしても三郎は東洋一の眠る墓から離れることを嫌がり、結局、そのままそこに居着くことになった。

 

「三郎は、やっぱりまだ気にしてるみたいだ。自分が人質になったせいで、師匠に無理させたって」

 

 薫は睫毛を伏せた。

 三郎の気持ちが痛いほどにわかる。

 脛に傷持つ身には、自らの良心が愧じ、糾弾するのだ。たとえ他人からどれほど慰められようと。

 

「そう…ですか。いつか、三郎くんが自分を赦せるようになればいいんですけど……。あの子、猫のことも気にしていたし、とても優しい子なんでしょうね」

「そうだな。ちょっと気が沈み過ぎてるもんだから、一応、藤森さんの所で時々様子を見てもらうように頼んではおいたけど……」

「あ、じゃあ…私も加寿江さんに頼んでおきます。子供達と一緒に遊びに行ってほしいって」

「あぁ…そうしてもらえると助かるな。子供と一緒に遊んだら、少しは気も紛れるだろうし」

 

 会話はそれで一旦途切れた。

 

 手水鉢に降る雨音がひっきりなしに響く。

 

 匡近は庭の景色へ目をやった。

 篠突く雨がせっかく咲いたばかりの金木犀の花を散らしていく。

 

 すぐに師匠の家にあった同じ木の事が思い浮かんだ。

 今年もあの金木犀は咲いて、東洋一の眠る墓に降り注いでいるのだろうか…と考えていると、薫が不意に尋ねてきた。

 

「匡近さんは…育手になられるんですか?」

 

 匡近はピクリと眉を動かし、ゆっくり振り返った。

 

「……俺が? どうして?」

 

 尋ね返すと、薫はサッと目を伏せながら、おずおずと言う。

 

「あ…その、先生が仰言(おっしゃ)っていたので」

 

 臨終の時、東洋一に言われたことが去来して、匡近はグッと息を呑み込んだ。

 

 あの時、はい、と言えなかった。

 目の前で、もう死んでしまうとわかっていても、嘘はつけなかった。

 

 結局、東洋一から頼まれたので、守は一応、任務の間に稽古をつけるようにはしているが、どこまでやれているのかわからない。

 

「わからない。まだ、隊士としてやりたいってのもあるし…」

「そう、ですか…。守くんは匡近さん、とてもわかり易くて優しいって書いてましたけど…」

「……どうだろうな。自信ないよ」

 

 自嘲気味に笑うと、薫は励ますように声をかけてくる。

 

「大丈夫ですよ。先生のお墨付きなんですから。きっと先生の仰言ったように、匡近さんはいい育手になりますよ!」

 

 匡近はしばらく黙り込んで考えた。

 年齢は若いが、今の階級であれば育手となることは可能だった。

 自分ではまったく思っていなかったが、東洋一が今際の際に言うことであれば、おそらく信用していいいのだろう。

 とはいえ……やはり簡単に首肯できることではない。

 

「薫は…俺に育手になってほしいの?」

 

 問いかけると、薫は戸惑った様子で頷いた。

 

「え…それは、もちろん匡近さんが納得した上で…決めてもらえばいいと……思いますけど」

 

 言いながらだんだんと語尾が小さくなる。

 薫は下を向いた。

 

 匡近の視線が妙に圧迫してくる。

 昨日のあの冷たい顔を思い出す。

 責められているわけではないが、また余計なことを言ってしまったのかと、ドキドキする。

 

「……匡近さんが育手になってくれたら、心強いと思います」

「じゃあ、実弥は?」

「え?」

「実弥が育手になれば、もういつ死ぬかなんて心配しなくていいんだ。安心できるだろう?」

「それはそうですけど……」

 

 薫は言ってから、ふ…と笑った。悲しげに首を振る。

 

「実弥さんが、今、隊士をやめて育手になるとは思えないです。実弥さんには…まだ、やるべきことも、やりたいこともあるのでしょうから」

「そうだな…」

 

 そのことは匡近とてもわかっている。

 わかっていて、あえて薫に聞いたのだ。

 

「じゃあ、薫は?」

「私?」

「薫だって、道場じゃ評判だよ。教え方が上手いって。このまま育手になってもやってけるだろうって…」

「そ、そんなことないですよ! 買いかぶり過ぎです。全然私なんか…全然」

 

 案の定、必死になって否定する薫に、匡近は柔らかい笑みを浮かべた。

 だが目はやはり真剣な光を帯びて、薫を見つめている。

 

「もし、俺が育手になるとして……薫も一緒にやらないか?」

「え?」

「一緒に…先生の家でもいいし、東京でもここでもいいけど……一緒にやってくれるなら、育手になってもいいよ。俺は」

 

 薫はその言葉を反芻した。

 

 意味がわからない。

 いったい、匡近は何を言ってるのだろう?

 何が言いたいのだろう? 

 

「あの…私は、まだ……隊士としてやる事があると…思って……ます、から」

 

 切れ切れに答えると、匡近はじぃっと薫を見つめた後、フゥと溜息をついた。

 

「――――冗談だよ」

 

 そう言われた時に、薫は心底ホッとした。

 途端に顔が緩んで、自分が強張っていたことに気付く。

 

「悪いけど、さっきも言った通り、俺もまだ隊士でやりたいこともあるし。実弥のお守りもしないといけないからな」

 

 クスッと薫は笑った。

 

「確かに、匡近さんがいないと、実弥さん寂しくなっちゃいますものね」

「そうそう」

 

 笑い合っていると、女中が昼の用意が出来たと知らせてくる。

 

「行こうか」

 

 匡近が立ち上がると、薫も後からついて歩いていく。

 途中で、ぐぅ…と薫の腹の音が鳴った。

 振り返った匡近に、薫はあわてて弁明した。

 

「朝ご飯を食べてないんです!」

 

 その必死な様子が面白くて、匡近は大笑いした。

 薫は頬を赤らめながら、怒ったようにつぶやく。 

 

「もう……元はと言えば誰のせいですか」

「ごめんごめん」

 

 ようやく笑いをおさめると、薫も肩をすくめて微笑んだ。

 

 二人ともが笑って誤魔化した。

 そのまま、自分の気持ちを押し籠めた。

 それが良かったのかどうかは…その時も、後になってからでさえも、当人達ですら、わかりようがなかった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 二日後には匡近は全快して藤家紋の屋敷を出て行った。

 

 前日の夕方に薫の伴奏でみやことかえでが『菊』を歌ってくれた。

 それを一緒に聞いていたみやこ達の兄が、隣にいた匡近に教えてくれる。

 

「この歌には隠された意味があってな……本当は伴侶を亡くした人が一人残されて、寂しさに耐えながら健気に生きる姿を、初冬の白菊に重ねたものなんやて」

「そうなんですか」

「元の英語やと、『夏の終りの薔薇』っていう歌やねん。季節は反対やけど、そっちも一人残されて寂しい…いう歌や」

「へぇ……」

 

 物哀しい調べだと思っていたが、やはり悲しい意味のある歌だったのか。

 

 しかしみやこ達はまったくそんな哀しそうな様子もなく、ただ伸びやかに歌っていた。

 後ろで伴奏する薫も、小さな声でささやかに歌っている。

 

 ここに実弥がいないのが残念だった。

 素直でない奴だが、この薫の様子を見ればきっと少しは心がほころんだろう。(無論、顔には絶対に出さないだろうが)

 そんなことを考えていると、ふっと頭の中に、ある情景が浮かんだ。

 

 実弥と出会ったばかりの頃だ。

 無茶なやり方で鬼をおびき寄せ、殺されそうになっていたところを、匡近が助けて鬼殺隊のことを教えてやった。

 その後、育手である東洋一の元へと連れて行こうとしていたあの日、急に誰かを追うように実弥は人混みの中に消えた。

 チラチラと見える姿を追いかけていくと、壮麗な屋敷の並ぶ住宅街の一角で、塀に凭れて流れてくるピアノの音色を聴いていた。

 

 今になってようやく気付く。

 あの時、実弥が追っていたのは薫だ。

 行き交う人の中に薫の姿を見つけて、追わずにいれなかったのだろう。

 

 出会って以来、ずっと狂気を張り付かせていた男が、あの時だけは穏やかだった。

 この前、薫にここで再会した時に聞こえてきた音色に覚えがあったのは、あの時聴こえてきた曲だったからだ。

 

『菊』を弾き終えた薫に、匡近は尋ねた。

 

「薫、最初ここで会った時に弾いてた曲、どんなだったっけ?」

 

 薫が首をひねると、匡近は付け足した。

 

「なんか、やさしくて…穏やかな感じの…」

「あぁ……」

 

 薫はそう聞いて、さっとさわりを弾いた。

 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ。『悲愴 第二楽章』。

 

 匡近はうんうん、と頷く。

 

「それそれ。あぁ、今はいいよ。今度、実弥に聴かせてやるといい」

「え?」

「昔、薫が弾いていたのを聴いたことがあるんだ。めずらしく、優しい顔してね。きっと好きなんだと思う」

「………いつ、ですか?」

 

 薫が覚えている限り、実弥にピアノを聴かせたことはない。

 弟子時代もピアノなんてなかったし、隊に入ってからはこの藤家紋の屋敷以外で弾いたことなどない。

 そして実弥がこの屋敷を訪れたことはないのだ。

 

 当惑する薫に、匡近はニッと笑った。

 

「さぁ…それは実弥に直接訊いてみたらいいよ。素直に言うとは思えないけど」

 

 薫は困ったように匡近を見遣った。

 

 

 出立の時、見送りに出てきてくれた薫に、匡近は笑って言った。

 

「帰ったら…手紙を書くよ」

「……え?」

「家に……母さん達に、書くよ。とりあえず元気でやってる…って。それでいいんだろ?」

 

 薫の顔がパアッと明るく花開くような笑顔になった。

 

「はい! きっと……きっと、喜ばれます」

 

 匡近は軽く息を吐いた。

 かなわないなぁ…と思う。

 この笑顔を見てしまっては、否が応でも、手紙を出さぬわけにいかない。

 

 それまでは、いつ死ぬとも知れぬ現場で戦っている以上、既に弟を喪った父母達を、これ以上徒に悲しませる必要もないだろう…と関係を絶っていた。

 もう匡近のことなど忘れて、家族三人で穏やかに暮らしているだろうから…と。

 

 だが、久しぶりに会った母の、匡近を見つめる眼差しは変わっていなかった。

 ただ、年老いていた。

 匡近の思い出の中で、いつも溌剌として若々しかった母は、愕然とするほど老けてしまっていた。

 

 本当はわかっていた。両親に心配をかけていることは。

 避けていたのは、自分の罪悪感からだ。

 

 薫には冷たく当たってしまった。

 関係ない、などとつき放した言い方をしたのに、怒ることもなく呆れて投げ出すこともなかった。

 ただ寄り添って、考える時間を与えてくれていた。

 

「………ありがとう」

 

 匡近が小さな声で礼を言うと、薫は微笑む。

 その愛しい笑顔が脳裏にこびりついた。

 

 軽く薫の頭をポンポンと叩く。

 

「じゃあ…またな」

 

 手を振って歩き出す。

 

「はい、お気をつけて。……また」

 

 薫も手を振って、送り出す。

 

 匡近の姿が見えなくなるまで、薫はその場に立って見送った。

 藤の家へと踵を返そうとして、ふと、立ち止まる。

 

 急に、何か言いたいこと…言わねばならないことがあった気がしてくる。

 けれど振り返った時には、もちろん匡近の姿はなかった。

 

「………」

 

 薫はしばらく考えたが、自分でも何を言おうとしていたのかは判然としなかった。

 

 何かが胸につかえたまま、薫は中に入っていった。

 

 

<つづく>

 





次回は2021.11.20.土曜日更新の予定です。



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第一章 兄弟子(四)

 匡近が関東へと戻って行った一週間後には、薫も足が治って、吉野の百花屋敷を訪ねていた。

 東洋一(とよいち)の死を手紙で知らせた後、任務が続き、その後に怪我で療養していたのもあって、行くことができなかったのである。

 

「やぁ、来たね」

 

 勝母(かつも)が普段と変わらぬ態度で薫を迎えた時、一気に東洋一のことが思い出されて、泣きそうになった。

 唾をのみ込んでこらえると、頭を下げる。

 

「ご無沙汰しております」

「あぁ、あんたも忙しくなってきたね。階級も上がってくると、否が応にも単独任務が増える。油断しないようやってくことだ」

「はい。あの……」

 

 言いかけた時に、バタンとやや乱暴に扉が開く。

 

「手紙が来てますよー」

 

 聞き覚えのある声に、薫はハッと入ってきた人物を見つめる。

 

「あ……」

 

 翔太郎は薫の姿を見ると、顔を強張らせた。そしてすぐに目を逸す。

 

「あぁ、ご苦労さん。翔太郎、アンタも一緒に話を聞くといい」

 

 勝母が言うと、翔太郎は怪訝そうに勝母を見た。

 

「話?」

「アンタの右腕を斬りやがった鬼のことだよ」

 

 翔太郎は俯くと、クルリと踵を返した。

 

「あの…すいません。俺、また今度に…」

 

 ボソボソ言うなり、逃げるように走り去って行く。

 

「翔太郎くん!」

 

 薫はあわてて呼びかけたが、もう翔太郎は廊下の角を曲がっていなくなっていた。

 

「……やっぱり」

 

 薫はハァと息とつくと、項垂れた。

 

 翔太郎が一時的に意識をとり戻した時、薫はあまりに必死にすがりついてくる翔太郎を慰めるため「鬼は殺した」と言ったのだ。まだその時点では鬼の―――紅儡(こうらい)の生死は不明であったのに。

 まさかその後に、翔太郎の母と妹の清子が紅儡に殺されたとは知らずに。

 

 勝母は煙管をふかしながら、フンと鼻を鳴らした。

 

「なにがやっぱり…だい? あんた、勝手に自分を悪者にしようとしてやいないだろうね?」

「でも……翔太郎くんには嘘をついてしまいました。紅儡を殺したと…あの時はまだ、確実であったわけでもないのに…」

「馬鹿馬鹿しい。あんなものは嘘にはならないよ。方便と言うのさ」

「嘘の方便で、傷つけてしまっているなら意味がありません」

「傷ついちゃいないさ。見くびるんじゃないよ、薫。あの坊主…ちょいとばかしお調子者だが、風波見周太郎の曾孫なだけあるよ。なかなか肝が据わっている。腕はまだ、改良の余地が大アリだがね」

 

 言われて気付く。

 そうだ。勝母は周太郎という人を見てきているのだ。

 

 薫は東洋一の話からしかわからなかったが、伝説の柱と呼ばれた当人を、勝母は間近に見て、同じ柱として肩を並べていたのだ。

 

「翔太郎くんは…復帰できそうですか?」

 

 薫が問うと、勝母はパと輪っかをつくって煙を吐く。

 

「さてね。だが、案外真面目にやってるよ。左腕はだいぶ元通りに動くようになってきているし、ちょうど今、新しい弟子が入ってきていてね。一緒になって切磋琢磨……というか、喧嘩しながらやってるよ」

「そうなんですか。良かった」

 

 鏑木(かぶらぎ)浩太はたった一人で殻に閉じこもってしまい、誰の言葉も聞かなくなった挙句、鬼への道を選び取ってしまった。

 翔太郎も同じ轍を踏むことになるのではないか、と危惧していたが、一緒に歩んでくれる仲間がいるのなら心強い限りだ。

 

 

◆◆◆

 

 

 東洋一から聞いた紅儡との過去の因縁と、薫の考察も含めて話すと、勝母はしばらく腕を組んで考え込んでいた。

 やがてフゥと疲れた吐息が漏れる。

 

「つまり…東洋一は二度までも弟弟子を殺さねばならなかったということだね。あの男も難儀なことだ。挙句、死ぬとは…まったく、相変わらず面倒事を押し付けていく」

「すみません」

「なんでアンタが謝るんだい! 昔からのことさ。慣れっこだよ。あの男が賭場で隊服までむしられそうになってるのを、何度貸し付けてやったことやら。結局、あの金も返してもらってないような気がするが……」

 

 懐かしそうに言って、勝母の片目は和らいだが、次の瞬間には油断なくキラリと光る。

 

「ま、そんなことはどうでもいい。要は紅儡はいずれまた復活する…その可能性が高いってことだね」

「はい。しかも、普通の鬼は人間だったころの記憶を失くしていくものですが、紅儡は執念深く覚えているようです。もし、今度復活することがあれば、風波見の血を引く翔太郎くんを再び狙ってくる可能性は高いでしょう」

「そう…かもしれないね」

 

 勝母は頷いて、また煙管に葉を詰め、フーッと紫煙をくゆらす。

 立ち昇る煙をしばらく見つめていたが、クッと口の端を歪めて笑った。

 

「だが、自分を痛めつけた奴を恨みに思うと言うなら、私もあんたも同様だろうさ。私なんぞは、奴をしっかり殺してるんだからね、一度」

「はい。どうか……」

 

 今度こそ薫は念を押す。

 東洋一に注意喚起をすることなく帰ってしまった後悔を、今度こそしないと心に誓う。

 

「どうか、くれぐれもお気をつけ下さい」

 

 勝母は薫の悲壮な顔を見ると、プッと噴いた。

 

「なんて顔してるんだい! 馬鹿だね。私があの程度のヤツに殺られるとでも? 東洋一だって、あいつに殺されたわけじゃないだろう?」

 

 確かに勝母の言う通り、東洋一は紅儡に殺された訳ではない。

 

 後になって聞いたが、かなり体は悪かったようだ。

 医者の見立てでは、半年持つかどうか…と言われていたらしい。

 あの日、実弥と匡近を呼んだのも、守達のことを頼むためだったのだろう。

 

 病にあって、無理して技を―――おそらくは見たことのない風の呼吸の技・玖ノ型風破観(かざはみ)―――を使ったことで、内臓に急激な負荷がかかって死を早めてしまったのだろう。

 

 どうして東洋一はわさわざあの技を使ったのだろう?

 正直、他の技であっても、東洋一ならば紅儡を殺すことはできた気はする。

 もっと負担の少ない技であれば…。

 

 薫は考えて、溜息をついた。

 今更だ。『もし…』を考えても、東洋一は戻らない。

 

「薫」

 

 どうしても暗い顔になってしまう薫に、勝母が朗らかに呼びかける。

 

「私が言うのもなんだが、あの男は十分に生きたよ」

「……そう…でしょうか」

「ああ。生きて…生ききった自分に満足して逝ったはずだ。違うかい?」

 

 死線を共に戦った仲間だからだろうか。

 勝母の確信は間違っていない。

 穏やかに笑って…東洋一は逝った。

 

「私達はきっとアンタ達より先にくたばる。それは正しい在り方だ。鬼殺隊で、育手なんぞしてると、なかなかそれがまかり通らないのが、年寄りにはキツイが……最期にアンタ達に見守られて逝くなんぞ…贅沢なことだ」

 

 勝母はポンと薫の肩を叩くと、湯呑の茶をグビリと飲む。

 

 何十人もの弟子を見送ったのだろう。

 勝母の言葉はずっしりとした諦観と共に、やるせない悲嘆と憤りを感じた。

 

 きっとそれは東洋一もあったのだろう。

 時折、裏の墓の前で手を合わせる東洋一を見つめていると、ひどく空虚な顔をしていた。

 

 自らの命が惜しいとは思わないが、東洋一にあんな顔をさせないで済んだなら、その意味では弟子として嬉しいと思う。

 

「しかし…どうにも卑劣なヤツだね。人質だって?」

 

 勝母はしんみりした空気をかき混ぜるように、話を変えた。

 

「はい。私の弟弟子が人質になる前は、赤ん坊を連れ去っていたんです。幸い無事には済みましたが……」

 

 勝母は眉間にぐっと皺を寄せると、チッと舌打ちした。

 

「鬼となれば…そこまで心底が腐るのか。まったく忌々しい…」

「勝母さんは…鏑木浩太のことはご存知でしたか?」

「一応ね。…なにせ、あの男は自分の腕を斬った鬼が私の父親だと逆恨みしてきて、襲ってきたからね」

 

 薫の顔が一瞬、強張る。

 勝母は肩をすくめて煙草を咽む。

 

「そんな顔をするもんじゃないさ。別にもう昔の話だ。老人には語って聞かせる昔話はたんとあるもんさ。ま、私が鏑木浩太について知ってるのはその時の印象ぐらいだよ。血走った目をして、やたら切羽詰まった顔をしていたね」

 

 勝母を襲った時には浩太は既に心を病んでいたのだろう。

 十分に仲間も、頼りになる先輩もいたのに、一体何が彼をそこまで追い詰めたのか…。

 

 それは結局、東洋一にもわからなかった。

 幼馴染の三人の間で何かがあったのではあろう…と推察はしていたが。

 

「翔太郎くんの祖父でいらっしゃった…賢太郎さんのことは?」

「賢太郎か…。あいつはそう…少しばかり変わっていたね。なんというか……線が細いようでいて、案外と胆力もあって、人当たりも良かったんだが…私は……苦手だったな。少しばかり」

 

 勝母は思い出して珍しく困ったような、複雑な顔になった。

 

 薫は首を傾げた。勝母にしては歯切れが悪い。

 

「先生の話を伺う限りは、素直な優しい人だったという印象ですが」

「あぁ。まぁ…そうだよ。東洋一にはそう見えたんだろう。私にはあいつは……なんというか、とらえどころがなかった。風柱様…あぁ、東洋一の師匠だよ。あの人とは結局、親子ではなかったとか聞いた気もするが、私からすれば、似た者同士だったね。まぁ、多少賢太郎の方が陰にこもった印象ではあったが」

 

 勝母の話を聞きながら、よくよく東洋一の話を思い出してみると、大人になって千代と結婚する時には賢太郎に対して違和感を感じたとも言っていた。

 それこそ勝母の言った通り、家庭環境が賢太郎の性格に影響を与えたのだろう…と東洋一は結論していたが。

 

「さて、とりあえず本部には紅儡について報告はするべきだろうね。しかしまぁ、私よりもあの男の方が適任かな…? うん! この事については伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)に押し付けることにしよう」

 

 勝母はニッと笑って決めると、灰吹に灰を落とした。

 それから翔太郎が持ってきた手紙を開く。

 

 ちょうどその時、窓の外で祐喜之介(ゆきのすけ)がカアァと鳴く。

 薫は窓を開いて、腕を差し出した。

 

「東京ニテ任務ゥ。明後日マデニ向カエ」

 

 薫が少しだけ戸惑っていると、背後から勝母が「そりゃ有難い」と言って、薫に手紙を渡してくる。

 読んでみると、胡蝶カナエからの手紙だった。

 時候の挨拶の後に、百花屋敷でしか採取できない薬草を届けてくれるよう頼んでいた。

 

「頼まれてくれるかい?」

「もちろん」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 勝母が薬草の準備をする間、久しぶりに滝壺の辺りまで行ってみると、騒がしい声が聞こえてくる。

 

「うっせぇ、チビ! お前なんかに言われたくねぇわ!」

「誰がチビよ! ちょっと背が高いくらいで、人をチビ扱いしないでよねッ!!」

 

 そうっと木の陰から様子を窺う。

 翔太郎と、髪を耳下まで短く切ったおかっぱ頭の女の子がやりあっている。

 おそらくさっき勝母の言っていた新しい弟子、らしい。

 

「風の呼吸の玖ノ型はなァ…広範囲の技なんだよ。道場でなんかやったら、壊しちまうだろうが」

「そこまでの威力なんて、まだ出ないでしょうが」

「……そんなん、わかんねぇだろうがッ!!」

 

 薫は内心で溜息をついた。

 やはり、翔太郎も焦りはあるのだ。以前と同じように動かない自分に。

 

「翔太郎くん」

 

 そっと声をかけると、翔太郎は薫の顔を見てうっと詰まった。

 向き合っていたおかっぱ頭の少女が振り返り、不思議そうに薫を見つめる。

 

「あのー…どちらさまですか?」

 

 まじまじと見つめながら、やや不審そうな緊張感も浮かべて、少女は尋ねてきた。

 薫はニッコリと笑った。

 

「はじめまして、森野辺薫と申します」

「えっ? ……あ」

 

 少女は戸惑った様子で少し後ずさった。

 そのまま固まってしまったので、薫はにこやかに笑いながら、少女の名前を尋ねた。

 

「お名前を訊いてもいいかしら?」

「あ……星田(ほしだ)八重(やえ)といいます」

 

 八重はぺこっと頭を下げる。まだ顔は固い…。

 

「薫さん…あの」

 

 翔太郎は言いかけて淀み、しばらく沈黙した後、いきなり頭を下げた。

 

「すいません。篠宮先生のこと聞きました……俺の家のことで、巻き込んでしまったんですよね」

「違うわ。それは…違うわよ、翔太郎くん。そんなことは先生は全く思ってなかったわ。むしろ、若いあなたにまで累が及ぶことを心配してらしたのよ…」

 

 薫があわてて否定すると、翔太郎はブンブンと首を振った。

 

「いや! 俺…知ろうとしてなかったんです。大お祖母(ばあ)様がどうしてあそこまで鬼殺隊のことを毛嫌いするのか…元は柱の家だったっていうのに……もっと、ちゃんと知っておくべきだった」

「それは……あなたのせいでは…」

 

 言いかける薫に翔太郎は激しく首を振った。

 

「俺が甘かったんです。向き合おうと思えば向き合えたのに、俺、避けたんです。なんとなく訊くのが怖くて、言いたくないならいいや…って、寛大なフリして逃げたんです。下手に知って、自分がやりたいと思ってることがやれなくなったら嫌だったから……」

 

 そこまで一気に言ってから、翔太郎は顔を歪ませた。

 グッと奥歯を噛みしめ、喉奥に詰まった涙を押しこめて、低くつぶやく。

 

「俺が…あの鬼を家によび寄せたんです。母上も清子も……俺のせい」

 

 それ以上は言えなかった。

 翔太郎は辛うじて泣くのをこらえると、薫を真っ直ぐに見つめた。

 

「だから…俺は絶対に復帰する必要があるんです。勝母さんに聞いたんです。隻腕で柱になった人もいたって。だから…俺だって不可能じゃない」

「…………」

 

 薫は驚いていた。

 勝母の言う通り、翔太郎はやはり風波見家の跡継ぎなのだ。

 誰を恨むこともなく、しっかりと現実に向き合っている。

 

 薫は自分が言おうと思っていた謝罪を呑みこんだ。

 ここで謝っても、翔太郎はきっと受け入れない。

 

 この子はもう…後悔の先へと歩き出している。

 

「………紅儡は、ひとまず先生が討ちました。でも、また復活するかもしれない。そうなれば、きっと一番にあなたを狙ってくるでしょう」

 

 冷静に薫は告げる。

 既に勝母から概ねのことは聞いていたらしい。翔太郎は真面目な顔で頷いた。

 

「紅儡もまた…あなたと同じように利き腕を失ったことで焦り、孤独に陥って不信となった挙句に、鬼へと転落しました。どうか…あなたは着実に進んでちょうだい。いきなり大きな技で埋め合わそうとしないで。地道な訓練ができなくては、大技は出来ない。先生も片足を失いながら、最後の最後で技を繰り出すことが出来たのは、ひたすらに基礎的な稽古を欠かさなかったからよ」

 

 弟子時代、薫が家事や自習をしている間に、東洋一は山登りを含めた歩行訓練から始めて、毎日の柔軟や素振りといった運動を欠かしたことはなかった。

 教える立場であればこそ、自らの鍛錬を怠ることはできない、とは……照れ屋の東洋一のこと素直に言うことはなかったが、おそらくそうなのだと思う。それは勝母も同様であった。

 

 翔太郎は唇を噛みしめたが、「…はい」と小さく返事する。

 

 薫は翔太郎の右肩に手を置いた。

 

「無事で良かった…本当に。あなたが生きていてくれることが、私の自信になるわ。ありがとう、翔太郎くん」

 

 笑いかけると、翔太郎はしばらくポーっと薫を見ていた。

 

「……なに呆けてんのよ」

 

 隣にいた八重が腕組みして、ボソリと言う。

 翔太郎はハッとなると、途端に耳まで真っ赤になった。

 

「あ、あのあのあの……しばらくはこっちにいるんですか?」

 

 あわてて翔太郎は誤魔化すように話題をひねり出す。

 薫はすぐにすまなそうな顔になった。

 

「ごめんなさい。今から東京に行くことになっていて…向こうで仕事があるみたい」

「東京? え…あっちの管轄になったんですか?」

「わからないけど…とりあえず今日、今から向かうの。また、会いに来るわ。頑張ってね」

 

 後ろから律歌(りっか)の呼ぶ声が聞こえてきて、薫はやや早口に言うと、手を振って別れを告げた。

 

「あっ……あ……あ…」

 

翔太郎は何をか言おうとしたが、薫の姿はあっという間に小さくなって、何も言えないまま声がしぼんでいく。

 姿が見えなくなると、わかりやすくガッカリした表情になった。

 

「……釘さされたじゃない。地道に、地味な訓練をしっかりやりなさーい、って」

 

 八重が言うと、翔太郎はジロリと睨みつけた。

 

「うるせぇよ。お前に言われるとムカつくから、言うな」

「何、それ!? 同じこと言ってるんでしょうがっ」

「お前と薫さんとじゃ、意味が違うんだよ。まだ呼吸も出来ないくせして、知ったかぶりしてんじゃねぇや」

 

 ぶん、と刀を振って鞘に収めると、翔太郎は百花屋敷へと歩き始めた。

 まずは地道に、素振りからやっていくしかない…。

 

 焦ってあの鬼のようになるなど、絶対に御免だ。

 

 

 

<つづく>

 




次回は2021.11.27.土曜日の更新予定です。



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第一章 兄弟子(五)

 伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)はげんなりした顔で、産屋敷邸へと入って行った。

 来訪を告げる間もなく、産屋敷あまねが「こちらです」と先導する。

 

 案内されて入ると、その広い部屋には誰もいなかった。

 きょろきょろと見回して、縁側の向こう、庭で燦々と降り注ぐ陽の光を浴びている産屋敷耀哉の姿を見つける。

 

「日向ぼっこでっか?」

 

 縁側まで行って問いかけると、耀哉はフワリと笑む。

 その笑顔は亡き聡哉(さとや)を彷彿とさせた。徐々に美しい顔や手足を蝕んでいく病の症状も同じだ。

 

「随分と久しい気がするね。元気だった?」

「まぁ、ぼちぼちでんな」

「ふっ」

 

 耀哉は口に手を当てたが、堪えきれないように背を丸めてクスクスと笑った。

 

「なんですん? そないに可笑しいでっか?」

「そうだね。だってまるで……商売人のような挨拶じゃないか」

「まぁ……さいでんな」

 

 宝耳は腰をおろして胡座をかくと、耀哉が笑いが収まるのを待った。

 

 この人は案外と笑い上戸なのか、ツボに入ると止まらないのだ。

 耀哉はしばらく笑い続けて、軽く咳をすると、すぅと深呼吸してようやくおさめた。

 

「で、色々と忙しいようだけど…」

 

 耀哉は宝耳の隣に腰を下ろすと、すぐに怜悧な御館様としての顔になる。

 

「そら、忙しいでっせ。そろそろ例の藤襲山の選別の時期ですからな。鬼の生け捕りも数が少ない言うてせっつかれて…大変ですわ」

「あぁ、そう。それは頑張ってもらわないとね」

 

 サラリと耀哉はその話題については流す。

 宝耳はやれやれと溜息をついた。こっちはそのせいで、今日だって寝不足だというのに。

 

「無惨のことは?」

 

 何気なく耀哉は問いかけてくる。だが、放たれる気はキィンと張り詰めて、宝耳を刺す。

 ここに来る以上、そのことから逃れられるわけもない。

 

「そっちについては…今、ちょいと調べとる奴がおります。少しばかり昔の人間ですねんけど、調べるうちに、これが妙な縁で、妙な人に繋がりましてな。今度、ちょいと話を聞きに行こかー、思てます」

「妙な縁で妙な人…とは思わせぶりなことだね」

 

 耀哉が首を傾げて問いかけてくる。

 ほとんど見えなくなった目は、不思議とじっとり宝耳を見据えていた。

 

 宝耳は目線を外し、軽く息を吐いた。

 相変わらず、産屋敷一族の…いや、この産屋敷耀哉の持つ奇妙な圧迫感といったら…。

 

 スゥと空気を吸ってから、気安い口調で話し出す。

 

「ある大学の研究室に得体の知れんのが一人おりましたんや。今はもう姿を見せんようになったらしいけど…一時(いっとき)、よう来とったらしいですわ。で、その研究室でソイツと仲良うしてた男がおりましてな…これが、なかなか妙な繋がりですねん」

 

 意味深に宝耳は黙り込む。

 

「私の知り合いかい?」

 

 耀哉が尋ねると、宝耳は耳下をポリポリと掻いて思案顔になった。

 

「いや。どうやろ? でも、知り合いの知り合いには違いありまへんな」

「やれやれ。随分と勿体ぶることだね」

「ハハハ。じゃ、名前を言いまひょか。那霧(なぎり)旭陽(あさひ)、言いますねん」

「那霧……」

 

 耀哉の顔から笑みが消えた。

 光を映すことのない瞳が宝耳を見つめる。

 

「それは、元花柱の…那霧勝母(かつも)の夫だね」

「そうですねん。妙な縁でっしゃろ? ()()()()()()()()()と友達やった()()()()()なんぞ…」

「……あの勝母がいて、無惨が家に訪ねてこようものなら問答無用で斬って捨てそうなものだが…よほど無惨は巧妙に潜り込んでいるようだね」

 

 耀哉は言いながら、再びその顔に古代の仏像のような微笑を浮かべる。

 それは産屋敷家に代々伝わる鋼鉄の微笑であった。

 決して動揺を見せぬように幼い頃から教え込まれ、身に染みついている。

 

 もっとも、その教えにいつも従順に生きていけるほど、全ての当主が強靭な精神の持ち主であったわけではない。

 むしろ、聡哉にしろ耀哉にしろ、心をかけた()()()の死を毎月のように聞いていながら、まともな精神を保つことの方が難しいに違いない。

 

 それでも微笑を浮かべる。

 それが御館様と崇められる者の務めであることを自任しているからだ。

 

「勝母といえば三十年前死んだはずの鬼が復活しているかもしれない…と具申があったようだね。今回、出現した裏切者の鬼と関わりがあるらしい…と」

 

 庭の方を眺めながら耀哉は言うと、いきなり悪戯っぽい笑みを口許に浮かべた。

 

「そういえば、宝耳。君、父上から頼まれていたよね?」

「はい?」

「とぼけても駄目だよ。元風柱の一族だった風波見(かざはみ)家が鬼殺隊から離脱した原因について、暇を見て調査するように頼まれていたろう?」

 

 宝耳は笑顔のままで固まった。

 その暇、というのがあまりなくて今に至るも調査はほとんど進んでいないのだが。

 

「その事については今、当時の関係者から話を聞いてもらってましてな。その内、わかるとは思います。それより問題なのは、その鬼が()()なんぞしとるということですやろ」

「そうだね」

 

 耀哉は短く頷くと、ふっと睫毛を伏せた。

 

「どうやら鬼についての詳細な情報が必要だね。このまま敵を知らず戦いを挑むには、僕らにはあまりに分が悪すぎる。大事な子供達を犬死させるわけにはいかない……」

「『協力者』ですな」

「そう…そう。宝耳、そちらもやってくれているんだよね?」

「御館様」

 

 宝耳はいよいよ長く深い溜息をつく。

 

「ワイも寄る年波ですからな。そろそろ本格的に隠の方に行こうと思ってますねんけど」

「それは構わないけど、やることは今と大して変わらないよ」

「なんで?」

「宝耳の代わりはいないからね」

「そないな殺し文句で転ぶほど若造ではおまへんで」

「おや、それは失礼」

 

 とぼけた様子で耀哉は言って立ち上がると、そっと、宝耳の肩に手を置いて、囁くように命令する。

 

「伴屋宝耳ともあろう者が仕事を二つ三つ掛け持ちした程度で音を上げる訳もない……ね?」

 

 そのまま振り返ることなく、耀哉は部屋を出て行く。

 開いた襖の向こうであまねそっくりの娘達が二人立っていた。宝耳に軽く会釈して、耀哉に付き添って去っていく。

 

「………あー、もうホンマに」

 

 宝耳は天を仰いだ。

 

「人遣いの荒いことや。給金貰うても、使う間もあらへんがな」

 

 あえて大声でぶつぶつと文句を言ってやる。

 おそらく娘達にも、もちろん耀哉にも聞こえるように。それぐらいの当てつけは許してもらえるはずだ。ついでに長く長くながーい溜息も。

 

 息を吐ききってから、さて…と、顔を上げる。

 優先順位を決めていかねばならない。

 

 無惨については、一朝一夕にどうにかなるものでもないだろう。

 勝母の夫が亡くなったのは二十年近く前だ。一応話は聞くが、すぐさま所在が明らかになるような情報が入るとは考えにくい。

 

 風波見家については薫に聞けば、推測が確定に変わるだろう。

 こちらはほとんど完了案件だ。

 

 だとすれば、やるべきは…『協力者』の探索だ。

 

 この『協力者』がいつから存在していたのかは不明だが、巷間では、美しい女の医者によって不治の病とされていた子供や、瀕死であった老爺が助かったという話が細々と伝わっていた。

 

 鬼殺隊に残る文献にも記されており、一番古いもので、徳川が江戸に開府した頃のものになる。

 直近においては隊士の一人が接触したらしいが、詳細については記載がない。

 

 人であれば有り得ないその年月を生きる者が、鬼であるなら。

 鬼であるにも関わらず、人に対して害を為す者でないのなら。

 その鬼は『協力者』となり得るのではないか…?

 

 聡哉の頃から、徐々にその『協力者』の探索を行うようになっていた。

 本格的に始めたのは耀哉だ。

 

 耀哉はそれまでの当主のように、鬼からの一方的な虐殺に対処するだけでは済まさなかった。

 輝久哉の代から隊に組み込まれた鬼蒐の者を、より優れた能力者達による組織として改変させ、宝耳らを始めとする諜報者による徹底的な情報収集を行って、能動的に鬼を狩ることを始めた。

 

 自分の代で鬼殺隊に幕を下ろすことを、本気で考え、そのために行動しているのだ。

 自分の命とのせめぎ合いの中で、それでも決して焦らず、周到に。

 

 柱達は耀哉の優しさや、神とも思える浮世離れした雰囲気に、御館様としての資質を見て慕っていたが、宝耳は違っていた。

 寧ろ、あの冷徹な計算高い頭脳こそが、耀哉の本質であり、そうでなければ自分はここにいない。

 

 ということで。

 

 ぶつぶつと文句を言いながらも、宝耳は今日も働くのである。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「助かったわぁ。ありがとうね、薫」

 

 カナエは薫から薬草を受け取ると、いつものように天女のごとく笑う。

 

「いえ、ついでですので」

「今日は、これから?」

「はい。夕方には向かいます」

「そう。薫ももう丁だし、そろそろこちらでの任務になるかもしれないわね」

「やはり、こちらでの鬼の出現は多いのですか?」

「そうねぇ。まだ調査中のようだけど、たまに西の方に行くと、実感としては少なく感じるわね」

 

 以前に勝母が言っていたように、無惨がいればその周辺で鬼の出現率は高くなる。つまり、鬼が多出する地域には無惨がいると考えられる。

 

「やはり関東近辺に無惨がいると考えるべきなんでしょうか…」

「……わからない」

 

 カナエはしばし考えて首を振る。

 

「けれど、この前にも下弦の鬼が一人、滅殺されている。この数年来、殺された十二鬼月は皆、東京府を中心とした周辺地域だわ。こちらに偏っているようには思えるわね」

 

 薫はカナエから話を聞きながら、一瞬だけ違和感を覚えた。

 ふと、哲次の言葉を思い出す。

 

 ―――――俺はあの人は苦手だ。柱だってのに鬼を憐れむなんぞ…気がしれねぇ。

 

 薫の顔が曇るのを見て、カナエは不思議そうに首をかしげた。

 

「どうかした?」

「いえ……」

「あらやだ。言って頂戴。そんな怖い顔しているのに、何もないなんてことないでしょ?」

 

 いつのもように屈託ない笑顔のカナエに、薫は少し逡巡してから思い切って尋ねた。

 

「カナエさんは鬼に同情しているのですか?」

「え?」

「前にほかの隊士から聞いたことがあるんです。カナエさんは鬼を憐れんでいると。今も()()仰言(おっしゃ)ってましたね。鬼を、()として数えるのですか?」

 

 カナエはじっと薫を見つめた。

 少し、困ったような曖昧な笑みを浮かべて。

 

「……やっぱり、薫も鬼は憎いと思う?」

 

 その問いかけに薫は愕然とした。

 反芻することもなく反射的に言葉が出る。

 

「当たり前です。そうでなくて、どうして鬼殺隊に入るというんですか?」

「そう……そうよね」

 

 カナエは少し寂しげに笑う。

 

 薫は唇を噛みしめた。

 

「カナエさんは、親御さんを殺されたのだと聞きました。それなのに、なぜ鬼を憐れむのです?」

「わかっているわ…でもあの鬼だって、鬼になりたくてなった訳ではない。鬼は……元々は人だったのだから」

 

 薫は一瞬、意味がわからなかった。

 呆然としながら、心の中でカナエに問いかける。

 

 鬼が人であったことが免罪符になるというのか。

 その鬼によって殺された命が、その鬼を憐れんで救われるとでも言うのか。

 

 薫は熱く渦巻くものを吐き出したい衝動を必死でこらえた。

 かろうじてゴクリと唾を飲下す。

 

「………鬼になりたくてなった者もいるでしょう」

 

 ボソリと薫がつぶやく。

 カナエはふっと睫毛を伏せた。

 

「それは、おっ母様のお父上のこと?」

「………」

 

 答えない薫に、カナエはそっと溜息をつく。

 

「いいの。私の考え方が受け容れられないのはわかっているわ。でもせめて、私は彼らが次に生まれてくる時には鬼となることがないようにと願って……そう思って、絶ち切るの。彼らと、無惨との縁を」

「……わかりません」

 

 薫は我知らず拳を握りしめていた。

 

「鬼は鬼です。鬼に殺された人は戻らず、残された人の悲しみは、たとえ元凶である鬼を倒したとしても(あがな)うことはできない」

「むろん、遺族の悲しみはわかっているわ。彼らへの同情はまた別よ」

「私には、彼らと鬼を同時に憐れむことなど…できません」

 

 断固として言い切る薫に、カナエはふんわりと微笑んだ。

 去年の夏、百日紅(さるすべり)の花の下で見た仙女のような風情そのままに、どこか浮世離れしている。

 

「いいのよ、薫。無理に私を理解しようとしなくていいわ。でも……」

 

 カナエは静かに問いかけた。

 

「もし、あなたの知っている人が鬼となってしまったら、どうする?」

 

 ドクン、と心臓が深く鼓動を打つ。

 すぐに志津の顔が浮かぶ。

 彼女との楽しい思い出がいくつも脳裏に去来する。

 

 鬼となった志津を目の当たりにしたら、自分はどういう行動をとったろうか。

 寿美達を殺し、実弥達を殺そうとしている志津を前にして、それでも――――

 

「……鬼となれば、容赦はしません」

 

 震える声を押し籠めて薫は断言する。

 

 カナエは否定しなかった。やはり寂しげに笑って言う。

 

「そうね。私も一緒よ。憐れんだとしても、やる事は一緒。殺すしかないのですもの」

 

 それきりカナエは黙って、薬草を瓶に詰めていく。

 カサカサとなる袋の音と、時計の針の音だけが静まり返った部屋に響く。

 

 だんだん頭も冷えてくると、薫はなんだか申し訳ないような気もしてきた。

 カナエの言うことに全面的に賛同はできないにしても、カナエは人として決して間違ったことを言っているわけではない。

 

 だが、それでも謝るのは違う気がした。妙に意固地な自分の性格を、自分でも持て余した。

 ブルリと体を震わせ、立ち上がって窓を開ける。

 

 もうすぐ夕方だろうか。

 そろそろ出立すべきかもしれない……と思っていると、空から鴉が舞い降りてきた。

 

「あ……」

 

 カナエの鎹鴉らしい。

 邪魔にならぬよう体を横にすると、スルリと部屋の中に入ってきた。

 

「アラアラ……任務?」

 

 カナエはいつもの朗らかな笑顔を浮かべて、止り木にとまった鴉に尋ねた。

 

 鴉はカアァァァ! と大きく鳴いてから、告げた。

 

「下弦ノ壱、撃破ァ! 下弦ノ壱、撃破ァ! 甲隊士、不死川実弥、粂野匡近、両名ニヨッテ撃破ァ!!」

「まぁ!」

 

 カナエは驚きながらも嬉しそうに薫を見る。

 薫もさっきまでのことをすっかり忘れて、カナエにほころんだ笑顔を向けた。

 

 だが、その顔はすぐに凍りつく。

 

 鴉は無情に報告を続けた。

 

「下弦ノ壱トノ戦闘ニヨリ、粂野匡近、死亡ォ!!」

 

 

 

<つづく>

 






次回は2021.12.4.土曜日に更新予定です。



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第二章 遺思(一)

「あ…実弥。ちょっと行き道に寄っていいか?」

 

 そう言って匡近が寄り道したのは、郊外の小さな借家だった。

 

 東洋一(とよいち)から守の指導を頼まれ、面倒を見ることになったので、さすがに道場や他の隊士の下宿先を転々とする生活をさせる訳にもいかないと、一軒家を借りたのだ。

 少し街中からは離れているが、その分、剣撃の稽古する十分な庭もあり、少し行けば川と広い河原がある。

 修行するにはいい場所だった。

 

 匡近は家の中には入らず、門まで出て来た守に小さな巾着袋を渡した。

 

「これ、俺の部屋に置いておいてくれ」

「え? 持っていかないんですか?」

「あぁ」

 

 匡近は頷いて行こうとしたが、実弥は守の掌に置かれた袋を取った。

 

「なんで持っていかねェ? これお守りだろ?」

 

 その袋は実弥も見覚えがあった。

 まだ階級も下で、二人でよく一緒に任務に行っていた頃に、匡近が鬼との戦闘中に落としたのを拾ったことがあったからだ。

 確か、中には琥珀の数珠が入っていたはずだ。

 

「生まれてすぐから持たされてたから、持ってないと落ち着かないって…お前言ってたじゃねェか」

 

 目の前にズイと差し出されて、匡近は受け取ると中から数珠を出した。

 久しぶりにまじまじと眺める。

 

 琥珀の玉が連なった小さな子供用の数珠。

 三つだけある木の玉からは、甘い芳香が漂ってくる。

 太陽の光を通して、匡近の掌に飴色の影を落とす。

 

 ―――――キレイだなぁ……。

 

 昔、幸晴がこの数珠を光にかざしては、キラキラした眼差しで見つめていた。琥珀の影をぷっくりした頬に落として。

 

 懐かしい…。

 そんな記憶も今は思い出せる。

 

 穏やかな笑みを浮かべる匡近に、実弥はぶっきらぼうに言った。

 

「持ってけよ、縁起でもねェ」

「いや……これまでもけっこう、忘れてたりしたんだ。だから、そう験担ぎするものでもないんだよ」

 

 匡近は笑うと、また数珠を袋の中にしまった。

 それから再び守に渡す。

 

「オイ!」

「いいんだ、もう。……元々、俺が持っておくべきものじゃないんだよ。次に伝えられないし」

「意味がわからねぇよ」

 

 眉間に皺を寄せて首をひねる実弥に、匡近は笑った。

 

「いや。これってウチに先祖代々伝わってるものでさ。長男が持ってて、その長男が結婚したら奥さんに渡して、で、また男が生まれたら、その子のお守りに……って、伝えてきたもんなんだ」

「なんで、次に伝えられないんだよ。お前が結婚して、嫁さんにやればいいことだろ」

「…………」

 

 匡近はハの字眉で微笑むと守に頼んだ。

 

「じゃ、それ…俺の文机にでも置いておいてくれ」

「わかりました。じゃあ、あの箱に入れておきますね」

「あぁ…そうだな。そうしてくれ。じゃ、行ってくる。戸締まりだけしっかりな」

「はい。お気をつけて」

 

 守に送り出されて歩き出す匡近は振り返ることもない。

 実弥はフンと鼻息をついて、その後を追う。

 

「オイ…」

 

 後ろから声をかけると、振り返りもせずに「なんだー?」と相変わらず呑気な声が返ってくる。

 

「お前…忘れたんじゃねェだろうなァ?」

 

 いきなり意味深なことを聞かれて、匡近はきょとんとした様子で振り返った。

 

「なにが?」

「なにが…じゃねェ。テメェ…いくらジジィが死んだからって、忘れたのか!」

 

 東洋一の突然の死があったので、すっかりなかったような顔をしているが、実弥は忘れていなかった。

 あの日、汽車の中で確かに匡近は言ったのだから。

 

 ―――――俺、薫が好きだ…

 

 あの時に実弥の肚は決まっている。

 匡近には早々に薫と一緒になってもらい、鬼殺隊からは二人一緒に抜けてもらう。

 

 ちょうど東洋一にも隊士を引退して、育手になるようにと遺言されたことだし、いい機会である。

 これで玄弥の件も片付けば、実弥としては心置きなく鬼狩りに専念できるというものだ。

 

 しかし匡近は実弥の心を読んだのか、ゆるゆると頭を振った。

 

「薫のことなら…もう、いい」

「は?」

 

 唖然として聞き返す実弥に、匡近は苦笑しながら一つ溜息をつく。

 

「だから…もう、言わすなよ! フラれたんだよ。だから、無理だって」

「………いつ?」

「いつだっていいだろ! 思い出させるな! これでもようやく立ち直ったんだからな」

 

 無理しておどける匡近を、実弥は呆然として見つめるしかない。

 

 なぜだ?

 

 匡近と薫がしょっちゅう手紙でやり取りしていたのも知っている。

 弟子の時からずっと、薫にとって匡近はもっとも信頼する、親しい男だったはずだ。

 

 何より…あのまだ肌寒い春の夜の、大坂の道場裏で見た二人の様子からしても、おそらく薫も匡近のことが好きなのだろうと……思っていた。

 だから―――

 

 あきらめたのに…。

 

と、心の中でつぶやいた自分に実弥は動揺した。

 

 ―――――あきらめる? 何を?

 

 沈黙した実弥の背を、匡近はバンと叩いた。

 やや強くなったのは意趣あってのことではない。おそらく。

 

「そんな顔すんな! 予想はしてたし」

 

 明るく言う匡近に、実弥は困惑するしかなかった。

 だが匡近はそれ以上のことは話さない。

 

「ま、そういうことだから、俺は隊務に精励することにした! だから…あれは置いていくんだよ」

「匡近……」

 

 さっきから…何となくおかしいとは思っていたのだ。

 先に柱になって牛鍋を奢らせてやるとか、モテモテになってやるとか……。

 昔はよくそんなことを言ってたが、薫と親密になっていくにつれ、そういう軽口もあまり言わなくなっていたのに。

 

「ほら、行くぞ。鴉が待ちくたびれてる」

 

 そう言って笑う顔だけは、兄弟子らしく頼もしかった。

 この柔和な笑顔には、強張った心を解きほぐす力がある。

 最初に会った時からそうだった。

 

 実弥は軽くため息をついた。

 今は任務前だ。ややこしいことは、後でじっくり訊いた方がいいだろう……。

 

「じゃあ…行くぞォ!」

 

 あやしい空模様に実弥が走り出すと、匡近は「負けるか!」と隣で走る。

 

 道沿いの野菊が揺れ、紫の小さな花が競走する二人を見送った。

 

 久しぶりの共同任務で、二人とも多少なりと興奮していたのは間違いない。

 匡近は笑っていた。

 

 この数時間後に下弦の壱と対峙して、その陰惨な現場に立つことになろうとは…。

 まして鬼を庇った子供を助けようとして、自分が死ぬことになるなど…微塵も感じていなかった。

 

 それは、実弥も同様だった。

 

 

◆◆◆

 

 

 薫は……自分がどうやって任務をこなしたのか…覚えているが、どこか現実感がない。

 

 匡近の死を知った後、任務に向かう薫をカナエは心配そうに見ていた。

 

「薫、大丈夫なの? なんだったら私が…」

「いえ、無用です」

 

 薫は返事しながらも、おかしいなと思った。

 カナエと喋っている自分と、それをボンヤリと眺めている自分がいるような気がする。

 

 蝶屋敷から出て、祐喜之介の先導で向かっている間も、確実に意識はあるのに、今の自分がそこにいないような…ひどく奇妙な心持ちだった気がする。

 

 日が沈んで現れた鬼に向かっている間だけ、一切の記憶がなかった。

 

 鬼を目の前にして呼吸に集中すると、それまで俯瞰して見ていた自分はいなくなり、我に返ったのは首を斬った鬼の断末魔の叫び声でだった。

 

「オノレ、鬼狩り共ガアァァ!!! 貴様ラなど、イズレ滅びるのだアァァ」

 

 一瞬にしてその鬼への嫌悪感が増大した。

 

 苛立ちのままに、転がった鬼の脳天に刀を突き刺す。

 怨嗟の言葉を吐き散らかしながら、鬼は灰となって散り散りに消えていく。

 

 薫はその塵ですらも憎しみをこめて見つめていた。

 父母を失った時と同じ怒りが沸いていた。

 これほどまでに人を傷つけ、人を悲しませておいて、何故コイツらは塵となって消える?

 その肉が腐り果てるまで、刺し、痛めつけたいほどに憎む人間を置いて…まるで、昇天するかのように。

 

 赦すものか。

 赦されるものか。 

 

 あふれる憎悪で身体が震える。

 噛みしめた奥歯から血が流れ出る。

 

「……あのぉ」

 

 おずおずと声をかけたのは、いつの間にかやって来ていた女の隠だった。

 

「とりあえず、応急処置していいですか?」

「え……?」

「いえ、肩…ザックリいってますから」

 

 言われて気付く。

 やられていたらしい。左肩から出血している。

 一時的な貧血だろうか。左腕が少し痺れてきた。

 

「あ…すみ…ま…」

 

 頭を下げて、そのまま視界が昏くなっていく。

 

 見えない。何も…。

 

 何も…見たく……ない。

 

 そうして…そのまま記憶が途切れた。

 

 

「…………」

 

 目を覚ますと、左肩が鉛を流し込んだかのように重かった。

 左腕全体が膨張しているかのような感覚。

 どうやら痺れているらしい。

 見ると包帯が巻かれて、うっすらと血が滲んでいた。

 起き上がってみたが、ひどく体がだるい。眩暈もする。

 

「駄目ですよ。まだ寝てて下さい」

 

 扉が開いて入ってきたのは、しのぶだった。

 

「ちょっとキツイ薬を注射したので、明日まではしっかり寝て下さい」

 

 持ってきていた盥を寝台脇にある棚の上に置いて、しのぶは薫をそっと寝かしつけた。

 眩暈がひどくて、そのままに任せて再び横になる。

 

「あの……今って…私、どれくらい寝ていたんでしょう?」

 

 窓からは茜色の空が見えた。

 一瞬、朝なのか夕方なのか戸惑う。

 

「今は夕方です。昨夜運ばれてきて。鬼の爪に毒があったみたいで、解毒薬をすぐに処方したんですけど、こういう薬ってどうしても熱が出るから……今日一日は安静にしててくださいね」

 

 しのぶはもう一度念押しすると、手拭いを絞って薫の額に乗せた。

 薫は冷たい感触にフゥと一息もらしてから、横たわったまま窓の外を眺めた。

 四角く切り取られた窓枠の中で、雁の群れが遠くに飛んでゆくのが見える。

 

 昨夜…ということはほぼ丸一日寝ていたということになる。

 薬のせいもあるのだろうが、こんなに深い眠りについたのは久しぶりだった。

 いつ任務がきてもすぐに動けるよう気を張り詰めていたので、熟睡することなど、この数年なかったのに。

 

 横たわった体に倦怠感が絡みつく。

 

 薫は内心、少々焦っていた。

 

 階級が上がり、少々厄介な鬼の任務を単独で任されるようになってから、数日間の休養を要する怪我が増えた気がする。

 

 このままでは駄目だ。

 もっと稽古をして鍛えなければならない。

 新たな型についても途中で止まっているし、今度、また匡近に見てもらって改善点を……

 

「あ…………」

 

 ふと、冷たいものが背筋に走る。

 その事実を思い出して、薫はゆっくりと凍ってゆく。……

 

 

「それにしても、偶然とはいえ揃って休養する羽目になりましたね」

 

 薫の肩の包帯を取り替えながら、しのぶが何気なく言った。

 

「え?」

「不死川さんも運ばれてきたんです。例の下弦の壱に首をやられて……もう少し遅かったら失血死するところでした」

 

 薫は一気に真っ青になり、起き上がろうとして、しのぶにあわてて止められた。

 

「落ち着いて下さい! 大丈夫です。不死川さんは無事ですから」

「本当に?」

「本当ですよ。もう、二人して同じようなことを……。仲の良ろしいことで」

 

 半ば呆れた口調で言い、しのぶは笑う。

 

「不死川さんもあなたが運ばれてきたと知った途端に、無理に起きて傷口が開いちゃって……姉さんが説得するのに大変でしたよ」

「……不死川さんは重傷なんですか?」

「そうですね。さすがにいつものように明日から任務という訳にはいきません。まぁ、それでも驚異的な回復力ですけどね。最低でも今日一日は絶対安静です。()()()()

 

 しのぶは念を押すように言って、するすると慣れた手付きで包帯を巻き終えた。

 出て行きかけて「あ、そうだ」と振り返る。

 

「姉さんのことですけど」

 

 笑顔を浮かべつつ、眼差しはきつく薫を見据えていた。

 

「姉さんが鬼に同情しているからといって、鬼を逃がしている訳じゃありません。仕事はきっちりやってますから、諫言は無用です」

「………聞いていたんですか?」

 

 先日、カナエに鬼に対して憐れみを抱くなど信じられない、と薫は非難したのだが、しのぶはその会話を聞いていたらしい。

 

「しのぶさんも、カナエさんと同意見ですか?」

 

 薫が問うと、しのぶはしばらく押し黙った後に厳しい顔で言った。

 

「姉さんは柱としての大任を担っている。汲み取るべきところはあるのだと……思っています」

 

 しのぶもまた、カナエの独特の考え方について疑問に思うところはあるようだった。

 しかし姉に対して違うと言い切れるだけの実績を積んでないので、真っ向からの否定はしにくいらしい。

 

「……花柱様に少々言葉が過ぎたかもしれません。失礼しました」

 

 薫が静かに謝罪すると、自分でもムキになっていたと気付いたのか、しのぶはさっと目を逸した。

 

「それじゃあ、安静にしておいて下さいね。後でお粥を持ってきますから」

 

 早口に言って扉を閉める。

 

 一人きりになった部屋で、薫は今更ながらに思い出した。

 

 ―――――粂野匡近、死亡ォ!

 

 カナエの鎹鴉が叫んだ瞬間に時が止まり、今また戻ってきた気がする。

 

 そうだ。

 もう、匡近はいない。

 死んで…しまった……。

 実弥と二人で十二鬼月を討ち取って、匡近は死んでしまったのだ……。

 

 ぼうっと薫は薄暗い天井を見つめた。

 

 どこか現実感がない。

 

 匡近が死んだことは認識していても、信じられない。

 矛盾しているとわかっているのに、どうしても自分の中の何かが匡近の死を拒絶する。

 

 ―――――薫…落ち着け。もう…大丈夫だ

 

 我を忘れた薫の刃を体を張って止めてくれた。

 

 ―――――俺だけが悪い……どうしようもない……人間なんだよ…

 

 ずっとずっと弟のことで自責して苦しんでいたのを、少しも見せなかった。

 

 ―――――ありがとう…

 

 あの人の笑う姿を見れば、それだけで安心できた。

 母も父も死に、毎日のように鬼殺隊の中で顔見知りの隊士達の死を聞き、東洋一すらも失って、それでも匡近がいてくれることは、安らぎだった。

 

 いなくなって、わかった。

 

 当たり前にいてくれると……任地は互いに離れていても、匡近はずっといてくれるのだと…どこかで思い込んでいた。

 甘えていたのだ。

 

 ―――――もし、俺がいなくなったら、実弥のこと頼むな…

 

 早春の夜に言われた言葉が響く。

 

「………どう…し…て……」

 

 つぶやいた言葉は声にならず、震えて消えた。

 

 薫は無意識に両耳を塞ぐ。

 

 どうして匡近は…あんなことを言ったのだろう?

 どうして今、思い出させるのだろう。

 

 胸が引き絞られる。

 

 頼むから、今は勘弁してほしい。

 今は、実弥とは会いたくないのだ。

 

 きっと実弥は傷ついているだろう。

 同じ任務に向かい、自分一人だけが生き残って…本来やさしい気質のあの人が、慚愧の念を抱かぬわけがない。

 匡近の言葉を守るのなら、慰めるなり、励ますなりするのが同門の妹弟子の務めというものだろう。

 

 だが、今は会いたくない。

 

 今、実弥に会えば、自分はどれだけ取り乱すかわからない。

 自分の悲しみだけを実弥にぶつけてしまいそうだ。

 

 それに、何より…

 

 傷つく実弥を見れば…匡近の死を受け容れざるを得ない。

 

 それが怖い。

 それが…嫌だった。

 

 まだ、胸につかえている。

 

 京都で、最後に彼の姿を見送った時、自分は何を言おうとしていたのだろう…?

 匡近に何を言いたかったのだろう…。

 

 

 布団の中で身を縮ませて、薫はギュッと目を瞑った。

 

 

<つづく>

 






次回は2021.12.11.土曜日の更新予定です。




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第二章 遺思(二)

 鬼の毒の治療の為もあって、しばらくの間、薫はカナエの勧めに従って蝶屋敷に逗留することになった。

 首の怪我が治るまで実弥もいたはずだが、ついぞ顔を合わせることはなかった。

 薫は積極的にではないものの実弥を避けていたし、実弥もまた会おうとしなかったからだ。

 

「あんなにお互いに心配していたくせに、おかしな人達」

 

 しのぶが呆れた様子で言うのを、カナエはクスクスと笑った。

 

「まぁ…しのぶにはわかりにくいでしょうね。あの二人の形は」

「あら? 姉さんにはわかるの?」

「そりゃあ、あなたよりはつき合いが長いですから…二人ともね」

 

 余裕綽々とカナエは笑いながら、二日前、無理に蝶屋敷から出て行った実弥のことを思い出した。

 

------------------

 

「薫には会わないの?」

 

 単刀直入に尋ねたカナエに、実弥はあからさまに仏頂面になった。

 

「心配していたくせに。薫も心配していたけど」

「余計なことを言うなァ」

 

 やれやれ、とカナエは嘆息した。

 

「正直、あなたも大変だとは思うけど、できれば薫を慰めてほしいわ。見ているこっちが悲しくなってきちゃう…」

 

 実弥は眉を寄せた。

 

「泣いてんのか…?」

「いいえ。泣いてないわ、まったく」

「………」

「たぶん、一度も泣いてないのよ。粂野くんの死を知ってから一度も。だから、余計に心配なの。あの子はすぐに自分の感情を押し籠める癖があるから」

「………」

「貴方のこともずっと心配してる」

「………うるせェ…放っとけェ」

 

 突っぱねる実弥をカナエはじーっと見つめた。

 

「何だァ? もう終わったんなら、行くぞ」

 

 実弥は立ち上がると、上着を羽織った。

 どうしても出ると言って聞かないので、一応診察していたのだが、治療と関係ない話が始まったので、早々に出て行こうとする。

 

「おはぎ!」

 

 カナエが唐突に叫ぶと、取っ手にかけた手が止まる。

 怪訝な顔で振り返った実弥に、カナエはニッコリ笑って問いかけた。

 

「おいしかった?」

「……はァ?」

一昨日(おとつい)、出たでしょ? おはぎ。好物なのよね? 前に粂野くんが言ってたわ。磐城屋(いわきや)のおはぎがちょうど直前で売り切れてがっくり項垂れてた…って」

 

 実弥はぎゅっと眉を寄せた。

 

「あの野郎、何を話してやがったんだァ……」

 

 忌々しそうに言いながらも、懐かしかったのか、実弥の顔は少しだけ和らいだ。

 

「磐城屋のもおいしいけど、一昨日のは格別だったでしょ? ちょうどいい甘さの餡で。貴方が全然食べない…って、アオイが困ってたもんだから、おはぎだったら食べるかもしれません…って、教えてくれたの」

「………」

 

 カナエの話に実弥は特に驚く様子もなかった。

 再び眉間に皺を寄せ、暗い表情で床を見つめている。

 

「まだ左手の痺れが残ってる中で、一生懸命作ってくれたんだから、お礼ぐらい言ってきたら?」

 

 付け加えるように言ってカナエは促したのだが、実弥は一蹴した。

 

「うるせェ…余計なことすんなァ」

「アラ? 持っていったら、あっという間に食べたって聞いたけど?」

 

 カナエは粘ったが、もはや聞く耳はないとばかりに、実弥は黙って出て行った。

 

------------------

 

 そうして結局、互いに一度も会うことのないまま。

 

 

 その後、薫は怪我の治療を終えると、こちらでの任務を割り当てられるようになった。

 やはり最近は東京付近での鬼の出現率が多く、また血鬼術を使う異能の鬼も増えたらしい。

 階級が上の人間は少ないため、だんだんとこちらに集められているようだ。

 

 当初、薫は懇意の宿屋か、下宿を借りようとしていたのを、カナエは時々手伝ってほしいと頼んで蝶屋敷に留まらせた。無論、薫が断れない性格であることは織り込み済みだ。

 

 夜半の任務を終えて、早朝に帰宅した薫が仮眠して起きると、カナエが庭へと誘った。

 

「………不死川君が風柱に就任したわ」

 

 明るい秋の陽だまりの中で、ぼんやりと菊の花を見つめていた薫にカナエは言った。

 

「……そうですか」

 

 それ以上何も言わない薫をカナエはじっと見つめる。

 薫はカナエと目が合って、首を傾げた。

 

「どうかしましたか?」

「嬉しくない?」

「え……?」

 

 聞かれたことの意味を考える。

 もう一度、カナエの言葉を最初から反芻して、ようやくわかった。

 

「……あぁ。そう…そうですか。実弥さん、柱になったんですね。……きっと先生や…匡近さんが聞いたら、喜ばれるでしょうね」

「あなたは嬉しくないの?」

「……いえ。嬉しいです。よかったです」

 

 言ってから本当に嬉しいと思う。

 よかったとも、思う。

 

 けれど、薫にはどこか遠かった。

 現実感がない。

 

 カナエは気遣わしげに薫を見ていた。

 涙を流しているわけでもないのに、光の中で佇む薫の姿はひどく哀れで頼りなげだった。

 

「不死川君もきっと今の状況は不本意なのでしょう。御館様にも食ってかかって……後で岩柱の悲鳴嶼さんからこってり叱られていたわ」

 

 少し冗談めかして言ったが、薫の耳には入っているのか…表情は虚ろなままだ。

 

「薫」

「はい?」

「粂野くんは荼毘に付されて、お墓に納骨されたようよ。後で一緒に行きましょうか」

 

 しばらく考えて、薫はポツリとつぶやくように言った。

 

「一人で…行きます」

「……大丈夫?」

 

 カナエの問いかけに薫はまた首を傾げる。

 

「ええ…? なぜ?」

 

 不思議そうに尋ねる薫を、カナエは哀しそうに見つめる。

 

「薫、あなた自分が今どんな顔をしているかわかってる?」

「………」

 

 薫は頬に手を当てたが、当然、鏡もないからわからない。

 少なくとも泣いたりはしていないようだが。

 

「泣きたいのなら、泣きなさい。そんな顔をしていては駄目よ」

「………すみません」

 

 薫は素直に謝った。

 自分でも訳がわからない。

 

「なんだか……悲しいという気持ちになれないんです。いえ…悲しいんですけど……未だに信じられなくて…涙も出ないんです。すみません。………ごめんなさい」

 

 薫は謝りながら、それはカナエへというより匡近に言っている気がした。

 何か…はっきりとわからないものの、自分は匡近に謝らないといけない気がする。

 

 キリリ、と胃のあたりに引き絞るような痛みが走る。

 

「粂野くんのこと、好きだったの?」

 

 急にカナエが問うてきて、薫は反射的に答えた。

 

「それは、もちろん。兄弟子ですから」

 

 まるで人形のように表情を変えずに答える薫に、カナエは目を伏せた。

 

 ついこの間、育手の人を亡くしたばかりだというのに、続けざまに慕っていた兄弟子まで喪って、薫が衝撃を受けないはずがない。

 それなのに、薫は普段と変わりないように()()()。慰める隙すら与えない。

 

 カナエが考え込んでいると、不意に薫が尋ねてきた。

 

「カナエさん、白菊をいただいてもよろしいですか?」

「え?」

「お墓に供えたいので」

 

 カナエはしばらくぼうっと薫を見つめた。

 その死を受け入れられないほどに、精神が乱れているわけではないらしい。

 

 だが、何かが薫を(とら)えている。

 苦しませている。

 一体、何が……?

 

「…カナエさん?」

 

 返事をしないカナエに、薫が呼びかける。

 あわててカナエは笑って胡麻化した。

 

「あ…どうぞ好きなだけ。粂野くん、白菊が好きだったの?」

「いえ、歌を……思い出したので」

 

 庭の小屋から枝切鋏を持ってくると、薫はパチリパチリと白菊を()っていく。

 

 カナエは静かな薫の横顔を見ながら、新たな柱となった不死川実弥のことを思い出していた。

 

 御館様に食ってかかった後、粂野の遺書を読んで肩を震わせていた。

 あの姿を見たら、薫は素直に涙を流したろうか。

 互いにとって大事な人を喪い、慰めあうことができたろうか……?

 

 カナエは首を振った。

 それが出来るなら、実弥がこの屋敷で治療中に会っていたはずだ。

 

 本当に…強情な二人。

 

 互いに他人を思い遣る気持ちは人一倍であるくせに、自分を思い遣ることができない。むしろ遠ざけ、あるいは自虐する。

 

 ふと、いつも柔和な笑顔を浮かべていた粂野匡近の顔が思い浮かんだ。

 決して出しゃばることなく、実弥をいつも見守っていた優しい笑顔。

 もう彼がいない…ということが、今更ながらに身にしみて、カナエの目の端で涙が震えた。

 

 匡近の死を悼むカナエの前で、薫は無表情に白菊を伐っていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 匡近の墓に向かっていた(まもる)は、かすかに聞こえてくる歌声に眉を寄せた。

 

 どこかで聞いたことがある……?

 

「あ、『菊』だ」

 

 思わず声を上げると、歌が止んだ。

 

「守くん…?」

 

 名前を呼ばれて、逆光に目を眇めながら、その憶えのある声に聞き返す。

 

「薫さん?」

 

 匡近の墓の前でしゃがんでいた薫が立ち上がり、微笑んでいた。

 守は重い桶を片手に持ちながら、小走りに駆け寄った。

 

「久しぶりです!」

「本当ね。少し背が伸びたかしら?」

「いやぁ…」

 

 守は恥ずかしそうに頭をポリポリと掻いた。

 確かに薫の言う通り、背がこの数ヶ月で伸びたので、正直今着ている着物も袴も、つんつるてんだ。

 

 それ以上聞かれる前に、あわてて話を変えた。

 

「さっき歌ってたのって、粂野さんがよく歌ってたのと同じやつですね」

「……歌ってたの? 匡近さんが?」

「あ、いや。鼻歌程度にですけど。よく歌ってました」

「そう……」

 

 つぶやいて薫は墓の方に向き直る。きつい西陽に翳った横顔は、ひどく哀しげだったが、以前にも増して美しく思えた。

 見慣れた隊服でなく、着物姿であったせいかもしれない。

 薄紫に海老茶の縞が入った単物は、地味な色味ではあったが似合っていた。

 

「あ! そうだ!」

 

 守は不意に大事なことを思い出す。

 

「薫さん、今日は任務とかないですか?」

「え? ……えぇ、今のところは」

「じゃあ、ちょっと寄ってもらってもいいですか? あ、今ってこちらにいらっしゃるんですよね?」

「えぇ、蝶屋敷に」

「あぁ、あそこか。じゃあ、そう遠くもないし…来てもらっていいですか?」

「どこに?」

「不死川さん…あ…風柱様の家です。今はそっちで厄介になってて」

「………」

 

 薫は硬直した。

 だが、守は気付かずに続ける。

 

「匡近さんから薫さんに渡してくれって、頼まれてるものがあって……」

 

 どうやら匡近は守を引き取った時点で、御館様へと渡すものとは別に、今後のことを仔細に書いた遺書を(したた)めていたらしい。

 

「薫さん宛の手紙もあるんです。本当はもっと早くに届けないといけなかったんですけど……俺も、最近になってやっと匡近さんの遺書……読んで……」

 

 おそらく守も匡近の死を受け止めるのに、ある程度の時間は必要だったのだろう。

 ついこの間、東洋一(とよいち)を失ったばかりで、師事していた人間が続けざまに逝ってしまい、守もきっと気持ちの整理をつけるのは大変だったろう。

 

「………」

 

 薫は迷った。

 本当はまだ実弥には会いたくない。

 実弥のことを考えると心が重くなる。

 

 しかし、匡近が薫に何かをことづけたのなら、無視するわけにもいかない…。

 

「じゃあ……行きましょうか」

「あ、はい」

 

 守は持ってきていた桔梗の花を手早く供えると、連れ立って歩き出した。

 

 

◆◆◆

 

 

 ―――――実弥!

 

 明るい、屈託ない声が呼ぶ。

 

 いつもその声は始まりだった。

 飯屋に連れて行かれたり、稽古に誘われたり、任務を伝えに来たり……。

 

 ―――――ちゃん、と飯、食えよ……ちゃんと寝て、ちゃんと皆と仲良く……

 

 ―――――ちゃんと、お前の……人生を……生きろ、よ

 

 ―――――あとは……任せたぞ………実弥…死ぬなよ…

 

 仕事のない…鬼達も息を潜めた夜、実弥は一人で唇を噛み締める。

 虫の音だけが響く闇の中で、匡近の言葉が何度も何度も呼びかけてくる。

 

 最期の最後まで、実弥(ひと)の心配ばかりして…自分の事など一言も言わずに逝ってしまった。

 どこまでも優しいから、いまわの際ですらも、泣いている実弥に微笑みかけていた。

 励ましてくれていた。

 自分が死んで悲しい思いをしても、ただつらいだけの思い出にならないように。

 

 弟のことも、家族のことも、遺書を読むまで何も知らなかった。

 明るく闊達な上辺だけを見て、きっとこの男は安穏とした幸せな―――家族()()が仲良く笑って過ごすような……それは実弥の思い描く理想の……―――そんな家庭で育ったのだとばかり思っていた。

 

 それくらい匡近は不幸を見せなかった。

 

 自分もつらい思いを抱えながら、どうしてあの笑顔はあんなにも温かかったのだろう。

 

 ―――――実弥! お前、がんばったな! 辛かったな…苦しかったな…実弥!

 

 初めて母親の話をした時、涙の涸れた実弥に代わって泣いていた匡近。

 上辺だけなら、それは白々しく、実弥は心開くことはなかったろう。

 

 匡近は本気で同情し、実弥の哀しみをわかってくれていた。

 その上で、たとえ鬱陶しいと撥ねつけられても、励まし続けるしつこいくらいの情があった。

 

 本当に強いのは、匡近のような男だ。

 いつまでも苛立ち、迷い、憎しみを抱えて生きているような自分でなく。

 

 本当は…匡近が柱になるべきだった。

 匡近が、生き残るべきだったのだ……。

 

 ―――――実弥、頼むぞ……

 

 ふと、東洋一の最期の言葉が甦る。

 

 実弥はギュッと膝の上で拳を握りしめた。

 

「いいかげんにしろよ…テメェら………」

 

 どいつもこいつも勝手だ。

 実弥に何かを押し付けて死んでいってしまう。

 自分には一体、何を任され、頼まれたのか、わからないのに。

 

 心が重くて潰れそうになる。

 昔、母を殺した後に、鬼を殺して回っていた日々の、荒んだ頃に戻りそうになる。……

 

 叫びたくなる気持ちを深い溜息とともに吐き出した。

 

 助けてほしいなんて、思わない。

 自分にその資格はない。

 それでも―――……

 

 ―――――一生懸命作ってくれたんだから、お礼ぐらい言ってきたら?

 

 あのおはぎを食べた瞬間に薫の顔が浮かんだ。

 作ってくれたのだとわかった時、救われたような気持ちになった。

 同時に、罪悪感がずっしり肩に乗った。

 

 会いたくない……。

 

 今、薫に会ったら、自分でも整理のつかない気持ちをぶつけて傷つけてしまう。

 それより何より、匡近の死に打ちのめされている薫を見たくない…。

 

 早々に蝶屋敷を去ったのは、薫から逃れるためだった。

 

 しかし、遠征から帰って仮眠をとっていた実弥の耳に聞こえてきたのは、その忌避していた薫の声だった。

 

 

 

<つづく>

 




次回の更新は2021.12.18.土曜日の予定です。



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第二章 遺思(三)

 さすがに風柱ともなると、相応の住居は用意されるようだった。

 道場などを含めた複数の棟が連なる広壮な屋敷は、おそらく将来的には継子を育てるであろうことも考えられているのだろう。

 余計な装飾が一切ない質素な造りではあったが、柱の住まいとしての威容を感じさせる。

 

 守についてその家に入ると、誰もいないようだった。

 玄関は薄暗く、シンと静まり返っている。

 

「実……不死川さんは?」

「伊豆の方に行ってます。柱になってから、やっぱ忙しくて。この一週間はずっと出ずっぱりです」

「そう…」

 

 聞いて薫は少しホッとした。

 それならば実弥と顔を合わさずに済む…。

 

 縁廊下を歩きながら、少し殺風景な庭を眺めた。

 松の木が塀沿いに植わっている以外は、白洲が広がっている。外の稽古場だろう。

 

「守くん、修行の方はどう?」

 

 尋ねられて、守は立ち止まるとうーんと思案した。

 

「正直…あんまり。不死川さん…粂野さんみたいに教えてくれないんです。なんだったら、鬼殺隊なんて入るなって」

「……言いそうね」

 

 身に覚えがあって薫は苦笑する。

 守も困ったように話した。

 

「仕方ないから、今は独学…っていうか、粂野さんから教わったことを復習したり、師匠のところから持ってきた呼吸の教本みたいなの見ながらやってます」

「そう…いろいろと大変ね。守くんくらいの年頃なら、体を動かせばご飯もいっぱい食べるでしょう? これからどんどん大きくなるでしょうし、よければ私が着物を用意しましょうか? 不死川さんも柱の仕事でお忙しいでしょうから」

 

 にこやかに指摘され、守は恥ずかしそうに俯いた。

 着物が丈が短くなっているのを、しっかり見られていたらしい。

 

「すいません。いや、あの…実は粂野さんからお下がりをもらってはいるんですけど…ちょっと……俺、縫い物が苦手で…」

「あらあら。だったら、私に寄越しなさい。仕立て直しておくわ」

「え!? いや…いいです! 薫さんだって忙しいんだし…」

「問題ないわ。後で持ってきて頂戴ね」

 

 薫はそれ以上、守に遠慮することを許さなかった。

 

「え…と…じゃあ……あの…頼みます」

 

 恐縮したように守は首をすくめ、再び歩きだす。

 

 裏庭に面した客間に案内されると、守は「ちょっと待ってて下さい」と言って、出て行った。

 

 鹿威しの置かれた裏庭は苔むした岩に萩の花が散り、そこだけは季節を感じさせる風情だ。

 コーン、と清しい音が響く。

 妙に穏やかすぎるその場が、薫にはどこか落ち着かなかった。

 早く出て行きたいと思いながら、待っているかのような…ちぐはぐな気持ちを持て余す。

 

 そろそろ守を呼ぼうかと腰を浮かせかけた時に、守が小走りに戻ってきた。

 

「すいません。お待たせして」

                                                         

 薫の前に座ると、卓の上に小さな巾着を置いて、恭しく差し出す。

 

「これは……」

 

 少し古びた唐草模様の錦の袋。すぐにそれが何かはわかった。

 

「粂野さんから、薫さんに渡してほしい…って」

「私に?」

「はい。それでこれが…えっと…あれ?」

 

 守は懐から手紙らしき白い封筒を取り出してから慌てだす。

 

「どうしたの?」

「すいません! 一緒に渡すように頼まれた手紙があったんですけど、僕のと間違えて持ってきちゃった……。すぐ、持ってきますから、待ってて下さい!」

 

 再び立ち上がって走っていく守を見送った後、薫は卓の上の巾着をぼんやり見つめた。

 見覚えのあるその錦の巾着袋は、前に匡近の母である徳子(のりこ)が薫に託したものだ。

 

 確か…中には数珠が入っていた。

 お守りのようなものだと言っていたから、もしかすると最後の任務でも持って行ったのかもしれない……。

 

 少し迷ってから、薫はその巾着に手を伸ばすと、中からそっと数珠を取り出した。

 

 琥珀の玉を連ねた数珠。

 三つある木の玉からは、フワリと白檀の香りが漂った。

 庭から差し込んでくる西日を通して、掌に飴色の影が落ちる。

 

 薫はしばらくの間、その数珠を眺めていたが、ふと視線を感じた。

 守が戻ってきたのか…と、何気なく振り向いて、薫は固まった。

 

 実弥がこちらを凝視している。

 

「…なんでここにいる……?」

 

 平坦な声で尋ねられ、薫は身を竦めた。

 実弥を避けたいと思っていた気持ちを見透かされた気がして、さっと目を伏せて頭を下げる。

 

「……勝手に上がり込みまして、申し訳ございません」

 

 実弥は険しい顔で薫を見つめながら、低い声で尋ねてきた。

 

「それ…匡近のだぞ。抽斗(ひきだし)にしまってあったはずだ」

「あ…はい。あの……私に渡すよう頼まれたと…守くんが」

「お前に? 匡近が?」

 

 珍しく大声になった実弥に、薫は戸惑いつつも頷く。

 

「…お前……」

 

 実弥は何か言いたげに唇が震えたものの、拳を握りしめただけだった。

 そのまま立ち尽くしていると、守が廊下を駆けてきて「あれっ?」と声を上げる。

 

「帰ってたんですか?」

「……あぁ」

「なんだぁ、気付かなかった。お風呂の用意しましょうか?」

「いらん。それよりお前…あれ……匡近に頼まれたって……本当か?」

 

 実弥はチラと薫を見やった。

 

「え?」

 

 守がきょとんと首を傾げると、苛立たしげに薫の持っていた数珠を指で示す。

 なぜそんなに実弥の機嫌が悪いのかわからず、守は困惑した。

 

「あ…えと…そうです。粂野さんに…もし、何かあったら薫さんに渡して欲しいって」

「…………」

 

 実弥はもう一度、薫を見つめた。

 睨みつけるかのような、強烈な視線。

 薫はふっと目を逸らせた。

 

 薫に会って実弥が不機嫌なのはいつものことだが、今は直視できなかった。

 なぜか申し訳ない気分になってくる…。

 

「………」

 

 結局、実弥は何も言うことなく、廊下を歩いて行った。

 

「どうしたんだろ…?」

 

 守は首をひねった。

 一緒に暮らすことになってまだ短い期間とはいえ、決して風柱は理不尽に怒りを向ける人でないことはわかっている。

 振り返ると、薫がひどく苦しげに眉を寄せていた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 守が尋ねると、薫はハッとした様子であわてて笑顔を繕った。

 

「ごめんなさい。大丈夫よ。それで? お手紙というのは?」

「あ…はい。これです」

 

 守が渡したのは、通常のものより少しばかり大きな封筒だった。

 宛名に『森野辺薫様』とある。封を開けると、中には便箋ともう一通手紙が入っていた。

 

 便箋を開くと、懐かしい匡近の字が並んでいた。

 

 

『薫へ

 

 守からこれをもらって読んでいるなら、僕がどういう状況かは言うまでもない。

 

 あれから僕も少しだけ幸晴との楽しかった日々を思い出せるようになってきた。あいつが西瓜が好きで、いつも食べ過ぎて、夜中に厠に連れて行ったことや、その時にお化けの真似をして驚かせて後から父にこっぴどく怒られたことも。

 

 懐かしい気持ちになると、少しだけ自分が許せる気がする。

 

 ありがとう。

 言ってなかったかもしれないから、もう一度言っておく。ありがとう。

 

 それから、一つ頼みがある。

 

 僕が持っていた琥珀の数珠を母に渡してもらいたい。

 元々、粂野家に伝わってきたものなので、やはり返そうと思う。

 一緒に母達への手紙も。

 

 忙しい中、申し訳ない。

 身勝手なことだが、引き受けてもらいたい。

 

 会ったこともない実弥や守にいきなり僕の死を告げられるよりは、君から伝えられた方がきっと母には受け入れられやすいだろう。母は君のことをとても誉めていたから。

 

 では。

 互いに明日も知れぬ身ではあるが、少しでも長く生きてくれることを願っている。

 

 それと実弥と仲良く、ふたりで幸せに生きろよ。元気で。 匡近』

 

 

「薫さんッ!」

 

 読み終えるなり、胸を押さえてうずくまった薫に守はあわてた。

 

「薫さんッ!? 大丈夫ですか?」

 

 泣いているのかと思ったが、うずくまったままの薫の返事は案外としっかりしていた。

 

「…大丈夫よ。御免なさい……少しだけ一人にしてもらえるかしら? ほんの少しでいいから……」

 

 守は小さく頷くと、部屋から出た。そっと障子を閉める。

 よくよく聞き耳をたてなければわからないほど、押し殺した嗚咽が弱く漏れてくる。

 

 お茶の用意をしておこう…と台所に向かう途中で、顔色を変えた実弥とぶつかりそうになって、あわてて後退った。

 

「ど…どうしたんですか?」

「なにかあったのか?」

 

 普段はどちらかというと無口で無愛想な実弥の、いつになく切迫した様子に守は目を丸くした。

 

「いや…薫さんが粂野さんからの手紙を読んで…」

「匡近から手紙?」

「はい…」

「なにか書いてあったのか?」

 

 そりゃ、そうだろう…と守はやや呆れながらも、一応答える。

 

「薫さんに宛てたものなので、俺は読んでないですから…わかりません」

 

 実弥は困惑した様子だったが、怪訝に見上げる守の視線に気付くと目を逸らした。

 

「……俺、お茶淹れてきます」

 

 守が再び台所へと向かった後、実弥はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 

 放っておいた方がいいとわかっているのに、胸がひどく掻き毟られるようで落ち着かない。

 行きかけては止まり、踵を返し、自室に戻ろうとしては止まる。

 自分でも説明のつかない行動に、自分自身に苛立ってきて舌打ちする。

 

 もう部屋に戻ろうと踵を返した時に、背後から呼ばれた。

 

「さね……不死川さん」

 

 弱々しい声に、びっくりして振り返る。

 暗く、憔悴した表情の薫が立っていた。

 そのまま倒れそうで手を伸ばしかけたが、薫は深く頭を下げただけだった。

 

「すみません。あの数珠は、とりあえず私が預かってよろしいですか?」

「……預かる?」

「はい。匡近さんに…ご実家に返してほしいと頼まれて」

「返す?」

「はい……そうしてほしいと…」

「なんでお前に…?」

 

 意外な展開に実弥がつぶやくと、薫が弱々しい笑みを浮かべた。

 

「匡近さんのお母様とお会いしたことがあるので。知らない人間がいきなり尋ねるよりは、まだ少しはつらさも和らぐだろうと……」

 

 実弥は愕然とする自分に戸惑った。

 薫が匡近の母親と面識がある…という事実が、なぜか胸をざわつかせる。

 

「最後まで人のことを心配して……匡近さんらしいですね」

 

 無理に微笑む薫は、秋の残照に消え入りそうに儚かった。

 

「もし、不死川さんが形見として必要であれば、お伝えして、ご家族の了承を頂いたら、持ち帰ってお渡しします」

 

 まったく見当外れのことを言い出す薫に、実弥は拳を握りしめた。

 押し殺した声で尋ねる。

 

「………お前、何も聞いてないのか?」

「え?」

「その数珠のこと…」

「え…? あ…の……匡近さんの家に伝わるものですよね。お守りに…」

 

 徳子の言葉を思い出しつつ言う薫に、実弥の握り拳がまた固くなった。

 

 俯いて黙り込んだ実弥に、薫が「あの…」とおずおず話しかけた。

 

「聞きたいことがあって…」

「……なんだァ?」

「あの…匡近さんは……どのようなご最期でしたか?」

 

 実弥は眉を寄せ、ゆっくりと顔を上げる。

 

「……なんでそんなこと聞く?」

 

 今度は薫が俯いた。

 

「ご家族にも話す必要があるかもしれませんし………匡近さんが…ただ、鬼に殺られたとは思えないので……」

 

 語尾は細く消えかけた。

 その震えを抑えた声に、実弥は唇を噛み締めた。

 

 また、罪悪感が胸を締め付ける。

 

 忘れようとしても忘れられるわけがない。

 出血で靄がかかっていく視界の中で、匡近は満足げに微笑んで逝った。

 

「……人質を助けようとしたんだ。子供を…庇って……」

「子供を……」

 

 薫は呆然とつぶやいてから、更に問うてくる。

 

「その子は? 無事だったんですか?」

「無事に決まってンだろォが」

 

 吐き捨てるように実弥が言うと、薫はホッとした表情になった。

 

「そう……良かった」

 

 それであっさりと納得したように、安堵の笑みを浮かべる薫に、実弥はカッとなった。

 

「なにが()いだァ!? ふざけんなッ! そのせいで匡近は死んだんだぞッ」

 

 ただ、子供を庇ったのではない。

 その子供が鬼を庇ったがために、匡近は咄嗟にその子供に技を当てないように逸した。そこへ鬼が子供諸共に攻撃してきたのだ。

 

 ただ人質を庇っていただけなら、匡近が殺られるはずもなかった。

 いや…自分がもっと上手く立ち回れていれば……。

 

 声を荒げる実弥に、薫はすぐに笑みを消して俯いた。

 

「すみません。ただ…匡近さんが……最後に…助けることができてよかったと思って」

「…………」

 

 憮然とした様子の実弥に、薫はぽつりぽつりと話す。

 

「…弟さんを……亡くされたのが自分のせいだと…ずっと、心にかけておられたので」

 

 実弥は固まった。

 思わず問いかけてしまう。

 

「匡近の…弟のことを……知ってるのか?」

「えぇ。前に伺いました」

「本人からか?」

 

 薫は顔を上げた。

 少し戸惑いながら頷く。

 

「……はい」

 

 実弥はその目を直視しながら、見えていなかった。

 

 今の自分の気持ちの判別がつかない。

 怒りなのか、失望なのか、虚しさなのか、いやそれ以上の正体のない気持ちが、混沌として渦巻いて……ただ、苦しい。

 

 自分は御館様からもらった匡近の遺書を読むまで知らなかったことを、薫は知っていた。

 おそらく匡近は鬼殺隊の誰にも話してなかったはずだ。

 

 だが、薫には話した。

 そこまで気を許した。

 

 いや……知っていてほしかったのだ……。

 

「大丈夫ですか?」

 

 固まった実弥に、薫は心配そうに尋ねてくるが、返事もできない。

 

 匡近の死を悼んでいる…それは間違いない。

 だが、匡近の気持ちには何も気付いていない。

 平然としているようにすら見える。

 

「ほかに……何か言ってなかったか?」

 

 声が掠れた。

 動揺している自分に苛立ちを感じながら、重ねて言う。

 

「何か、言ったはずだァ……お前に…何か…訊くか、頼むか…」

「何か……?」

 

 いつになく真剣な顔で問われて、その顔と匡近のあの日の顔が交差する。

 

 すぐに思い浮かぶのはあの時の言葉。

 なぜだか頭の片隅に留まって離れない。

 

「一緒に育手にならないか…って……」

「育手…?」

 

 実弥がつぶやくと、薫は付け足す。

 

「匡近さん…先生に言われてましたでしょう? 育手になるように…って」

「……それで? お前、なんっ()ったんだァ?」

 

 威圧的に感じるその口調に、薫の声は小さくなった。

 

「それ…は……断りました」

 

 実弥の眉間の皺が深くなった。

 

 少し情けない笑みを浮かべる匡近の顔が浮かぶ。

 

 ―――――フラれたんだよ。だから、無理だって……

 

 なんで、気付かない?

 

 困惑して実弥を見返す薫の顔が無垢であるほどに、えも言えぬ苛立ちと虚しさが募った。

 奥歯がギリと軋んで、苦々しい気持ちを噛み潰す。

 

「あの…なにか…?」

 

 何も気付かず問いかけてくる薫に、苛立たしさが口をついて出た。

 

「……お前が(うん)と言って、一緒になりゃ良かったんだァ。そうすりゃ匡近は……」

 

 最後まで言えなかったのは、薫の表情が一気に凍りついたからだ。見る間に顔色も蒼ざめていく。

 

 そこで実弥はハッと我に返った。

 すぐに後悔する。

 違う! …と、心が叫ぶ。

 だが…何も言えないまま、気まずくなった空気の中で、薫を見ているしかできない。

 

 やがて、ゆるゆると薫は動いた。

 音もなく静かに客間に戻ると、あの巾着と匡近からの手紙を大事そうに胸に抱えて出てくる。

 

 実弥の前を通り過ぎさま、ぎこちなく頭を下げた。

 そのまま玄関へと向かいかけて、足が止まる。

 

 沈黙がピンと張っていた。

 

 片身だけこちらを向いて、薫は静かに言った。

 

「すみません、遅くなりました…。風柱就任、おめでとうございます。武運長久をお祈り申し上げます」

 

 あまりにも流暢な言い方は、恐ろしいほどに無機質だった。

 

「…………」

 

 角を曲がって姿が見えなくなっても、実弥はその場に立ち尽くしていた。

 

 しばらくすると、玄関口から守と薫が話す声が聞こえてくる。

 引き戸の開く音がして、二人の足音が外へと出ていくと、実弥はその場に座り込んだ。

 

 今更ながらに、自分が嫌になる。

 完全に頭に血が上っていた。

 

 また、だ。

 また、やってしまった。

 

 いつもいつも…なんで傷つけてしまうのだろう。

 こうなるとわかっていたから会いたくなかったのに…。

 

 懐かしい、涼やかな声が聞こえて、考える間もなく起き上がっていた。

 客間で匡近の形見を愛しそうに見つめる薫を見た途端、一気に胸がざわめいた。

 

 そんな顔をしておきながら、なぜ匡近の申し出を断った……?

 匡近の母親とも会っておきながら…弟のことも知っていながら。

 

 あまりに早くに逝ってしまった友の本心を知っていればこそ、実弥には何も理解(わか)っていない薫の鈍感さがもどかしかった。

 

 ドスリ! と壁に拳をぶつける。

 

 ―――――違う!!

 

 固く握りしめた拳の中で、爪が皮膚を破る。

 

 自分だ。自分が悪いのだ。

 

 この正体のわからない気持ちをどこに置いていいかわからず、ただ薫に八つ当たりしただけだ。

 

 東洋一がいたら、あの時(・・・)のように殴られていたろう。

 匡近がいたら、薫を追いかけたろう。

 

 なんて情けなくて、無様な男だ。

 吐き気がするくらい、自分が嫌いだ。………

 

 

 

<つづく>

 






次回は2021.12.25.土曜日の更新予定です。



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第二章 遺思(四)

 三日後。

 

 祐喜之介(ゆきのすけ)に新たな任務が入ってないことを確認して、薫はすぐに匡近の実家へと向かった。

 

 カナエにその事を告げると、隠に連絡してくれ、丁度匡近の家族を調べて遺髪を届けようとしていたらしく、それも一緒に薫が持って行くことになった。

 

 匡近に届いた家族からの手紙の裏にあった住所を訪ねると、出てきたのは薫よりも三、四歳年下ぐらいの少女だった。

 女学生らしく、庇髪(ひさしがみ)に後ろでリボンを結わえている。

 

「もしかして……森野辺さん?」

 

 挨拶をする前に、利発そうな目をしたその少女が尋ねてきた。

 頷いて、改めて自己紹介をすると、その少女は「照子(てるこ)」と名乗った。

 

「匡近兄さんのことですね?」

 

 用件までも言い当てられ、薫がどう言うべきか惑っていると、奥から懐かしい声が聞こえてくる。

 

「照ちゃん、お客様なら上がって頂いて……あら?」

 

 徳子(のりこ)は薫と目が合うなり、嬉しそうに微笑んだ。

 

「森野辺さんじゃないの? まぁ、わざわざおいで下さったの?」

 

 弾んだ声に、薫はサッと目を伏せた。

 今から自分が告げなければならない事実は、きっとこの笑顔を一気に奈落に落とすのだ。

 

「母さん。森野辺さんは用があっていらしたのよ」

 

 照子が冷静に言うと、徳子は俯いた薫を見て、一瞬胸が詰まったように唾を呑み込んだ。

 しかし、引き結んだ唇を一度だけ噛みしめると、また朗らかな笑みを浮かべて薫を招いた。

 

「どうぞ。……上がって頂戴」

 

 照子にも促されて、薫は恐縮しながら家に上がった。

 案内された客間で、匡近の遺髪の入った木箱と、例の琥珀の数珠の入った巾着を並べて置いた。

 

「………鬼との戦闘中に…人質の子供を庇って……亡くなられたとのことです」

 

 震える声で薫が告げると、照子は膝の上に拳を作って必死に堪えていたが、堪えきれずに涙が両目から零れ落ちた。

 

 一方、徳子は静かな表情で聞いていた。

 翳った顔は皺も深く、一気に老けたように見える。

 

 遺髪の入った木箱に手を伸ばし、短いその髪をそっと撫でた。

 眠る赤子の頬を撫でるように、やさしく。

 

「あの子……ずっと幸晴(ゆきはる)が死んだのを自分のせいだと……」

 

 徳子は言いかけて、声を詰まらせた。

 

 顔を横に向けてすすり泣くのを、薫はただ黙って聞いていた。

 自分もまた一緒になって泣いてしまいそうになる。

 必死で奥歯を噛み締めて耐えた。

 

 今、ここで泣いていいのは匡近の家族だけだ。自分は伝達者なのだから。

 

 徳子は袖口で涙を拭って前に向き直ると、もう一度、震える指で遺髪を撫でた。静かに木箱に蓋をし、ゆっくりと胸に箱を押し抱いて瞑目する。

 

「きっと…満足でしょう。そのお子さんを救うことができたのなら…。ねぇ、森野辺さん。そう思うでしょう?」

 

 開いた瞳は真っ赤だった。

 それでも微笑みながら問いかける徳子に、薫は唇を震わせながら頷いた。

 

「はい……」

「よかった…あぁ…よかった………よかった」

 

 言い聞かせるように、徳子は何度もつぶやいた。

 つぶやきながら、胸に抱いた木箱を撫でる。ようやく帰ってきた子供を慈しむように。

 

「あの…それと、この数珠と一緒にお手紙もお預かりしています」

 

 懐から匡近の手紙を取り出して徳子に差し出すと、徳子はしばらくその封筒を呆っと見ていた。

 

「母さん?」

 

 横から照子に問いかけられ、ハッとしたように我に返る。

 

「あぁ……御免なさいね。あの子の字だと…思って」

 

 宛名書きの文字を見て、徳子は匡近の筆跡とすぐにわかったのだろう。

 受け取ると、しばらくまじまじと眺めた後、立ち上がった。

 

「森野辺さん。御免なさいね。主人にも知らせたいから…。少しだけ席を外させて頂いてよろしいかしらね?」

 

 粂野家はこの家とは渡り廊下を挟んで、大通りに面した店で墨や筆などの文具用品を売っている。雇い人もいないようなので、店主が長く席を外す訳にもいかないのだろう。

 

「え? あ…はい」

「照ちゃん、あなた、しばらく森野辺さんのお相手して頂戴ね」

 

 徳子は早口に言うと、その場から立ち去った。

 

「……大丈夫でしょうか?」

 

 薫は心配だった。

 匡近が何を書いたのかは知らないが、もはや生きていない息子からの手紙を読む徳子が平静でいられるはずもない。

 

「あの…私は大丈夫ですから。お母様のお側にいらした方が…」

 

 それとなく言うと、照子は首を振った。

 

「大丈夫です。母はああ見えて元は武家の出です。気丈な人ですから」

 

 照子は言いながら急須にお湯を注ぎ、薫の前にお茶を出した後はしばらく無言だった。

 暗く沈み込んだ顔は眉間に深い皺が寄り、細面で浅黒い顔は、柔和な丸顔だった匡近とあまり似ていない。

 

「森野辺さんは…ユキ兄……幸晴兄さんのことは聞いてますか?」

 

 ようやく口を開いた照子が哀しげに顔を歪めるのを見て、薫は不思議に思った。

  

「えぇ…少し」

「私、見ていないんです。匡近兄さんが私を抱っこして、ずっと私に鬼を見せないようにしてくれていたんです。幸晴兄さんが死んだ時も……息が止まるほど強く私を抱きしめて、絶対に見せないようにしてくれていたんです」

 

 照子はその時の自分を断罪するように、冷たく話した。

 

「……私が幼くて小さいから、皆、許すんです。兄さんも。でも、その代りに兄さんは私の分まで、幸晴兄さんが死んだことを自分のせいだと思うようになってしまった……」

 

 薫はその言葉を聞きながら、やはり照子もまた匡近の妹なのだと思った。

 

 ―――――家族は誰も悪くない。俺だけが悪いんだ……。

 

 ずっと弟の死を忘れなかった匡近。

 家族を誰より大切にしていたからこそ、自分がその輪に留まることが許せなかった。

 

 照子は照子で、匡近への罪悪感を抱えて生きてきたのだろう。

 

 薫は首を振った。

 

「匡近さんは……あなたを守りたかっただけですよ」

 

 照子はハッとしたように顔を上げた。

 途端に真っ赤になった目から、再び滂沱と涙が零れ落ちた。

 

「あの日……私が一緒に行くって言わなかったら、きっと兄さんならユキ兄ちゃんを助けることだって出来たはずなんです。私が駄々をこねて一緒に行くって言ったから、兄さんは私を抱っこするしかなくて…ユキ兄ちゃんは走るしかなくて……兄さんがユキ兄ちゃんを抱えて走ってたら……そうしたら、鬼からだって……」

 

 薫は立ち上がると、しゃくりあげる照子の背をさすった。

 

 目に浮かぶようだ。

 幼い照子が駄々をこねて匡近に抱っこされ、幸晴を探しに行く様子が。

 その時、鬼に会うなど、誰が予想できるだろう?

 

「……いつも……いつも……兄さんにばかり重いものを……背負わせてしまう……私は…一緒に……いつも一緒にいたかった……だけなのに………」

 

 ずっと押し籠めてきた気持ちが溢れて止まらないのだろう。

 照子は泣き伏し、全身を震わせて「ごめんなさい」を繰り返していた。

 

 薫は何も言わず、照子の背を撫でるだけだった。

 

 照子は家族には言えなかったのだ。

 ずっと長い間、誰に相談することもできぬまま、良心の呵責に耐えてきたのだろう。

 

 ―――――どうしようもない……人間なんだよ……

 

 弱々しくつぶやいた匡近の姿が思い出される。

 

 悪いのは鬼なのに。

 絶対に、匡近のせいでも、照子のせいでもないのに。

 

 誰のせいでもないのに、皆が自分のせいで不幸が訪れたのだと思ってしまうのは、失くしたものがあまりに愛しいものだったからだ。

 

 ()()()()()()()()()()にただ殺されたのでは、あまりにもその死が哀れで、悲しすぎて、癒しがたいのだ。

 

 夢は夢でしかない―――などと、匡近に言う権利が薫にあったのだろうか。

 薫の悲しみと匡近のそれが同等であるなどと、わかるはずもないのに。

 

 あの時も今も、薫にできるのはその場にいることだけだった。

 それが正解なのかわからないまま。

 

「……すいません」

 

 やがて照子は嗚咽を止めて、ゆっくりと起き上がった。

 

「あの…少し顔を洗ってきます」

 

 恥ずかしそうに照子は手ぬぐいで顔を隠しつつ、そそくさと出て行った。

 襖を開けると、ちょうど徳子が入れ違いに入ってきた。

 

「あ……ら」

 

 徳子は泣き腫らした照子を見て驚いたようだったが、立ち去るのを止めなかった。

 ふ、と柔らかな笑みを浮かべる。

 

「匡近が出て行ってから……泣くことも我儘言うこともなくなって、あの子……」

「そうだったんですか」

「えぇ。良かったわ。ようやく……私達家族も、きちんと向き合える」

 

 徳子は座ると、巾着から数珠を取り出して、その上に置いた。連なった琥珀が、光を通して柔らかい影を作る。

 すっと、差し出されて薫はきょとんとした。

 

「………え?」

 

 徳子はニッコリ笑って言った。

 

「貰ってくださらないかしら?」

「え? この数珠を、ですか?」

「えぇ」

「それは……頂けません。だって、私はこれをご家族に返してほしいと頼まれて来たんです」

 

 遠慮する薫を見て、徳子はふふっと笑う。

 

「そうね……ああ見えて、匡近は抜け目ない子なの」

「……はい?」

「私や照子に、ちゃんと見せてから承諾の上で、ということです」

「……仰言(おっしゃ)ってることがよく……」

 

 困惑した様子の薫を見て、徳子は理由を話して聞かせた。

 

「先程頂いた手紙にね、この数珠をあなたに渡して欲しいと。私や夫、照子の同意の上でね。夫はさっきあなたを見て、いいと言ってくれました。照子もきっと、いいと言うでしょう。私は最初から当然だと思ってましたしね」

「………」

「もちろん、あなたがよければ…です。無理強いする気はありませんよ」

「駄目よ!」

 

 突然、大声で入ってきたのは照子だった。

 

「この数珠のこと、ちゃんと言って」

「え?」

「貰って下さらないと、私が困ります! この数珠は、()()()()()()()しか継いだら駄目なんです。それ以外の人間が持ったら不幸が訪れるんですから!」

 

 照子が必死になって言うのを、薫はポカンと見つめる。

 照子の剣幕にも驚いたが、それ以上に『長男と長男の嫁』というのは…つまり。

 

 考え込む薫を見て、徳子は微笑んでいた。

 

「森野辺さん。あなたにとって重荷になるなら、無理にとは言いません。ただ、匡近の最期の願いと思って受け取って頂けると…私は嬉しいです。これはあの子の真心ですから」

 

 薫はしばし固まって、その琥珀の連なる玉を見つめていた。

 

 ―――――薫も一緒にやらないか?

 

 あの時。

 

 今の徳子のように微笑しながらも、匡近は真剣な目だった。

 あの日、確かにそう言った。

 薫は意味がわからなくて、わからないまま……考えることもなく、返事していた。

 

 ―――――お前が(うん)と言って、一緒になりゃ良かったんだァ……

 

 実弥に言われた時、一気に血の気が引いた。何故なのかわからないままに。

 

 いや、事ここに至って、もはや言い訳しようもない。

 自分はわかっていた筈だ。

 わかっていたから無視したのだ。

 

 匡近の想いに気付いたら、自分の気持ちにだって嘘をつけなくなる。

 

「森野辺さん? 駄目ですか?」

 

 照子がそろそろと窺ってくる。

 

「貰ってから売ろうが誰かにあげようが、私達文句言いませんから。別に、好きな人がいらっしゃるなら、その人と一緒になってもらっても……」

「照子」

 

 徳子がたしなめると、照子は恥ずかしそうに口を噤んだ。

 

「いいんですよ、森野辺さん。あなたは誠実な人だから、困ってしまうわね。御免なさいね」

 

 何気なく言われた『誠実』という言葉に、薫はズキリと胸が痛む。

 徳子は琥珀の数珠を手に取って、やさしく撫でながら言った。

 

「思っていたよりも…随分、早くに逝ってしまったけど、あの子に…これをあげたいと思う相手がいてくれて…良かった。一緒になることはできなくとも、一緒になりたいと思える相手がいただけでも…幸せだったと思うのよ……」

 

 独り言のようにつぶやく徳子の目から、一筋涙が零れ落ちる。

 

 照子は隣で目を真っ赤にしてまた泣きながら、フルフルと震えていたが、突然、徳子の手から数珠を取り上げた。

 

「お願いします! 貰って下さい!」

 

 涙声で叫んで、薫に捧げるように差し出す。

 

 薫はそっと、その琥珀の数珠を手にとった。

 差し込んだ光が、飴色の影を掌の上に落とす。

 

「私……応えられませんでした。匡近さんに…何も…して差し上げられませんでした。それでも……貰って…いいのでしょうか?」

 

 力ない声で問いかけると、徳子も照子もニコリと笑った。

 

「それがあの子の…望みですから」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 夜になり、蝶屋敷に戻ってきた薫は疲れて見えた。

 顔色も悪く、しのぶは診察を受けるように言ったが、薫は「大丈夫です」と言うなり、自室に閉じこもった。

 

 夜半になる前に、早々と鬼退治を終えて戻ってきたカナエは、しのぶから薫の様子を聞くなり、部屋に向かった。

 しかし、部屋には誰もいない。

 すぐに菊を植えた庭へと出たのは、匡近の墓に供えるために白菊の花を伐っていた薫の姿を思い浮かべたからだった。

 

 案の定、薫はそこでぼんやりと突っ立っていた。

 

「薫」

 

 声をかけると、気付いた薫が振り向く。

 カナエだと声でわかっていたのだろう。

 

 振り向いた顔は月に照らされて青白く、悄然としていた。

 いつもの薫なら、決して見せない顔だ。

 

「どうしたの?」

 

 あわててカナエは駆け寄って、そっと肩に手を置く。

 

「粂野くんのご家族に何か言われたの?」

 

 時に、失った悲しみから伝達に来た人間を罵倒する家族はいる。

 あるいは匡近の家族もその類かと思ったが、薫は首を振った。

 

「いえ……気丈に受け止めておいででした。私にも…とても、温かく接して頂いて……」

「そう…そうでしょうね」

 

 あの匡近の家族であるなら、不当な文句を言ったりはしないだろう。だとすれば…

 

「もしかして…あんまりにも優しくしてもらえたから、かえって申し訳ない気になってるの?」

 

 カナエが少し呆れた口調で笑うと、薫は悲しげに首を振った。

 それから、震える声で告げる。

 

「カナエさん…私、匡近さんの事が好きでした」

 

 一瞬、カナエが答えられなかったのは、薫の言う()()というのが、おそらくは友達や兄弟子としてのものではないとわかったからだ。

 同時に、薫が何に憔悴しているのかも。

 

 ニコリ、と微笑んでカナエは囁いた。

 

「言って、薫。全部、教えて…」

 

 薫はカナエをじっと見つめていたが、その目からようやく涙が零れた。

 

「本当に…好きでした」

 

 言いながら、薫はようやくわかった。

 京都であの時、見送る匡近に言いたかったのは、この言葉だった。

 だが、口にすることが出来なかったのは…自分の浅ましい矜持(プライド)だ。

 

「でも…おかしいですよね。私は、実弥さんの事が好きなのに…匡近さんの事が好きになるなんて、おかしいですよね。そんなこと、許されないですよね……」

 

 自分がそんな二心を持つような人間だと認めたくなかった。

 匡近は本気で薫と向き合おうとしていたのに、薫は自分の醜い気持ちと一緒に無視したのだ。

 

「一緒になろう…って言ってくれたのに、気付かないフリして…誤魔化して…嘘をついたんです。なんて薄情な…失礼なことをしたのか……」

 

 自分でもどうしようもなく涙があふれ出す。

 手で顔を覆うと、薫は声を殺して泣いた。

 

 自分は結局、自分可愛さで、優しい匡近をないがしろにしたのだ。

 匡近なら、許してくれると…どこかで甘えていた。

 なんて…傲慢で醜い、浅ましい、卑しい女だろうか。

 

 薫の煩悶を知らず、カナエはいつもの鈴を転がすような声で尋ねてくる。

 

「嬉しかった? 粂野くんに、一緒になろうって言われて」

 

 ゆっくりと顔から手を離してから、薫は首を振った。

 嬉しいと…単純に喜べないからこそ、返事が出来なかったのだ。

 

「不死川くんがいるから?」

「……そう…です」

 

 俯いた顔には眉間に深い皺。

 白い顔は、げっそりと窶れて見える。

 

 カナエはフっと笑った。

 

 どうしてこんなに真面目なのだろう。

 どっちも好きになったって、別に構わない。

 人を好きになることに、人数制限などないのだから。

 それだけ深く人を愛せるだけ、カナエなどからすれば羨ましいくらいだ。

 

 ふわりと薫を抱きしめて、カナエはポンポンとやさしく背を叩く。

 

「馬鹿ねぇ、薫。当然じゃないの。粂野くんは優しかったんだから、好きになったって仕方ないじゃない。薫にいつも寄り添ってくれて…励ましてくれていたんだから。むしろ…その粂野くんをしても、あの天邪鬼は忘れられないの?」

 

 薫はカナエの肩に涙を落としながら、頷くしかなかった。

 

 ―――――お前が(うん)と言やぁ良かったんだ……

 

 そう言われた時、心臓が凍りついた。

 

 今更ながらに、思い知らされた。

 実弥にとって、自分は『なんでもない』存在だ、と。

 

 わかっていても、つらい。

 苦しい。

 

 前に匡近に言われたように、あくまで寿美の…実弥の妹の友達であり、妹弟子という立場を守って生きていくだけだと心に決めたのに、時折、報われない想いが胸を締め付ける。

 

 カナエは震える薫の肩を撫でさすって笑った。

 

「言っちゃえば良かったのに、いっそ。二人とも好きなんだって。粂野くんは、それで薫の事を嫌いになったりしないわよ。むしろ、自分の事も好きになってくれてるなら、もっともっと好きになってもらおう…って頑張る人よ。そうなったら、あの天邪鬼もちょっとは素直になって焦ったりするのかしらね…?」

 

 言いながら、カナエはそうなったら不死川実弥はきっと安堵して、粂野匡近に薫を譲るだろうと思った。内心で、鬱屈を抱えたとしても。

 

 だが、粂野匡近が死んでしまった以上、薫は想いを伝えられないままだ。

 

 言うことの出来なかった言葉は、今ここで言えば、死んだ人に届くのだろうか。

 あるいは、いずれ時を経て死者の国で再会した時に、伝えられるのだろうか―――……

 

 カナエは薫の肩を力強く掴むと、俯いた顔を覗き込むように見つめた。

 

「ね、薫。粂野くんに気持ちを伝えられなくて後悔してても、粂野くんを好きになったことは、後悔してないでしょう?」

「……はい」

「じゃあ、大丈夫。これからもずっと、心の中でおしゃべりできるから」

「………」

「そんなに好きになったなら、薫の中にずっと粂野くんはいてくれるから。今も、よーく聞いてみて。一生懸命、励まそうとしてくれてるんじゃない?」

 

 薫はそっと胸に手をあてて、ポケットに入れた数珠を確かめた。

 カナエの言葉は気休めと言ってしまえばそうなのだが、今は信じたい。

 

 ―――――薫!

 

 いつも笑って呼びかけてくれた彼の声が、耳に残っている……。

 

 彼の事が好きだった…と、過去形にするには、あまりにも気付くのが遅くて、今はまだ思い出にすることができない。

 だから、まだ匡近のことが好きなのだと…想い続ける。

 素直になれなかった自分に、彼はそれでも優しかったから。

 

「……好きです、匡近さん……」

 

 あの日言えなかった言葉をつぶやいて、薫は泣きながら微笑んだ。

 

 

 

<つづく>





次回は2022.01.01.土曜日の更新予定です。



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第三章 二匹の鬼(一)

「ここに……ござりまする」

 

 鬼の探索を特に行う鬼蒐(きしゅう)の者…と呼ばれる人に会ったのはそれが初めてだった。

 

 長く伸びた黒髪には所々金髪が混じっている。盲目だというその瞳は薄紫で、白い肌も含めて日本人離れした容貌だった。

 

「……ここ、ですか?」

 

 大通りから横道に入り、そこから人気ない路地裏を抜け、柳の木が並ぶ用水路伝いに歩く。

 昨晩降った雪が、道の隅にわずかに残っていた。

 今日の昼は天気が良かったが、昼間も薄暗そうなこの道では溶けなかったようだ。

 

 小さな橋を渡った先には、大名屋敷の名残のような築地(ついじ)が、所々崩れてあった。

 主のない屋敷に植えられていた松や楠の枝が鬱蒼と枝を広げて、夕暮れの中で陰鬱な影を落としている。  

 築地の崩れた所から見える場所には、かつて豪壮な邸宅があったと思われる跡だけがあった。

 

「ここに…鬼がいると?」

 

 薫が訊くと、その鬼蒐の人はフルフルと頭を振る。

 

「鬼の気配はこの中にはござりませぬ」

 

 薫は首をひねって、再度尋ねる。

 

「では、ここにいるというのは…?」

「鬼の気配は、今来た道からここまで続いているのです。とても濃く残っております。けれど、ここでフツリと消えるので御座います」

「………気配が、消える?」

「左様です。この一月ほど、探索にて同じ鬼の気配をこの辺りで見て、行き路帰り路をたどりましたが、不思議とここに来るとフツリと消えます。それ以上のことはわかりませぬ。ここで鬼が地に遁甲でもしたのか、或いは気配を消す技を以てここにまだいるのか……」

 

 薫は再びすっかり荒廃した屋敷の跡地を眺めた。

 

 言われてみれば、どこか奇妙な気がする。

 首都の繁華街からは少しばかり離れた場所であるとはいえ、土地開発の進むこの時代において、これだけの広さの土地がこの場所にある…というのは、少しばかり珍しい。

 

 ただ、そうした世情のことは置いても、やはり薫にも何か妙なものを感じた。

 胸がザラつくような、嫌悪を伴う違和感。

 鬼に対峙した時のような。

 

 目の前の盲目の人は、そうした薫の心まで見通したのだろうか。少しだけ首を傾げて尋ねてくる。

 

「……なにか感じておられますか?」

「え?」

「ここに…何かを、感じますか?」

「あ、いえ……なんとなく嫌な感じがして」

「……左様でござりますか」

 

 その人は頷いてからしばらく黙っていたが、急に顔を上げると自己紹介した。

 

「私は春海(はるうみ)と申します。失礼ですが、隊士様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 

 突然のことに驚きつつも、薫はニコリと笑って素直に応じた。

 

「失礼しました。初対面だというのに名乗りもせず。森野辺薫と申します。現在、階級は丙です」

 

 春海は柔らかい笑みを浮かべて薫をまじまじと見つめた。

 無論、それは通常の人間の『見る』とは違っていたのだが、薫は光を宿さぬその紫の瞳が美しいのと珍しいので、少々不躾なほどに見つめていた。

 

 やがて春海は微妙に眉を寄せると、また首を傾げた。

 

「ふ…む。気の所為(せい)でありましょうか……」

 

 薫には春海がいったい何を見て、何を感じているのか全くわからない。

 だがこの人の持つ特殊な能力によって、自分もまた何か見透かされようとしているのかと思うと、どこか落ち着きない気分になった。

 

 しかし春海はニコと笑うと、頭を下げて別れを告げる。

 

「では私はこれにて。鬼の消息はこの辺りにあるとは思われます故」

「あ……」

 

 薫はどうしても気になって、あわてて手を伸ばしたが、掴めたのは白練地の袖だけだった。

 

 ハッとなって手を離した薫に、春海は笑って言った。

 

「私は両腕がありませぬ故、申し訳ない」

「いえ…すみません。気付かなくて」

 

 よく見てみれば、春海の左袖から出ている杖は手に握られているのではない。

 左肩部分が微妙に盛り上がっているので、おそらく肩当てか何かに括りつけているのだろう。

 

 薫は気まずさを感じながらも、思いきって言った。

 

「あの、何か…気になることがあるなら仰言(おっしゃ)って下さい」

「………」

 

 春海はしばらく顔を伏せて考え込むようだったが、やがて面を上げると、視線が合わないながらも微笑んで問うてきた。

 

「どこか具合が悪いところはござりませぬか? 身体に限らず」

「え…いえ……大丈夫だと思いますが……」

 

 迷いつつ答えたのは、正直なところこの数ヶ月、体調がいいとは言えなかったからだ。

 

 鬼の毒の後遺症なのか頭痛が頻発していたし、それ以上に食欲がない。

 ただ、これは続けざまに東洋一(とよいち)と匡近を亡くしたことでの精神的なものが大きいが。

 

 春海は特に追求することもなく、次の質問に移る。

 

「あなたは特に御自分が鬼の気配に敏い…と思ったことはござりませぬか?」

 

 しばらく考えたが、薫にはわからない。

 首を振ると、春海は別のことを尋ねる。

 

「鬼に同情されることは…ござりませぬか?」

「え? ……いいえ…まったく」

 

 鬼に同情など薫には最も遠い感情だった。

 胡蝶カナエであればともかく。

 

 怪訝な表情の薫に、春海は安心させるように笑った。

 

「すみませぬ。あなたの様子が少し翳って見えまして…体調が悪いように思えたのです」

「それは……最近、親しい人が相次いで亡くなったので、食欲がなくて……そのせいかと」

「成程」

 

 春海は頷いてから、顔を上げた。

 また紫の瞳に見つめられ、薫は少し困って目を逸す。

 

「失礼。……たまさかあるのです。鬼の強烈な気に引きずられて、精神を病んだり、具合を悪くする者が。そういう者は共感識(きょうかんしき)が強い」

「共感識?」

「左様。鬼と同調する…あるいは共鳴するというか…。鬼に限らず、人でも強い気を持つ人間に引きずられてしまい、動揺しやすい。私共のような『気』を読む人間は得てして共感識が強い。それ故、普段より心を封ずる法を行っております。隊士の方には珍しいことです……」

「私がそうだと?」

「………わかりませぬ」

 

 春海は苦笑しながら、ゆるゆると首を振る。「ただ、そうした共感識の強い人間と似ているせいかと思いまして…」

 

 薫は複雑な気分だった。

 もし、自分がそうした能力を秘めているのだとすれば、それは強みにもなり得るが、弱みにもなる。

 どちらかというと、自分にとっては弱みになりそうだ。

 

「それは…直せませんか?」

「困りますか?」

 

 尋ねられて、薫は素直に「はい」と頷いた。

 クスリと春海は笑った。

 

「先程、鬼に同情はしないと仰言ったのですから、大丈夫でしょう。『気』にやられる人間は気質が優しくて、つい憐れみを持ってしまうのです」

「それは……じゃあ、花柱様もそうした共感識があるということでしょうか?」

「花柱様ですか……」

 

 春海はしばらく考えてから首を振った。

 

「いえ。花柱様とはお会いしたことがございますが、あの方が鬼に同情を寄せるのは、また別の…信念というべきものでしょう…」

「……そうですか」

 

 薫の声音は少し沈んだ。

 カナエがもしそうであるなら、見習って修練を重ねれば、弱みを強みに変えることもできるかもしれない…と思ったのだが。

 

「私も時に間違うこともござりますれば…あまり真剣に受けず、聞き流して下さりませ」

 

 春海はニコリと笑って、慰めるように言った。

 

 薫は途端に恥ずかしくなった。

 少々、敏感になっていたかもしれない。

 彼が不可思議な能力を持っていると思うと、なぜか一言一言に常人とは違う何かを感じてしまう。 

 

 空はすでに星が光り始めていた。

 もう日没している。

 これ以上、彼を鬼がいるかもしれないこの場に留めておくのは危険だ。

 

「すみません。無理にお引き止めして」

「いえ……。では、失礼致します。またお会いすることあれば……ご息災に」

 

 頭を下げて去っていく春海を見送った後、薫は屋敷の跡地周りをざっと歩いてから、築地の外へと出た。

 

 ここで鬼の気配が途切れる…ということであれば、鬼がこの周辺にいることは間違いない。

 

 築地から飛び出た松の大ぶりの枝が折れてそのままになっていたので、その物陰に隠れて鬼を待つことにした。

 

 

◆◆◆

 

 

 宵闇が辺りを包む。

 日が沈むと一気に寒さが足元から這い登ってくる。

 

 薫は父の形見のインバネスコートの中で手を擦った。

 いざ戦闘となった時にかじかんでいては話にならない。

 

 松の横でこれも倒れかけた南天が、赤い実をつけている。

 そういえば今年も特に正月らしいこともなく過ぎていたな…と今更ながらに思い出す。

 

 赤い南天の実は子爵家では、いつも正月に生けて床の間に飾っていた。

 鬼殺隊に入ってからは、最初の年に京都の藤家紋の家で平和なお正月を迎えたものの、翌年からは任務に忙殺されて、それどころでなくなった。

 

 少し離れた大通りの喧騒が、冷たい風にのってわずかに聞こえてくる。

 

 薫は折れた松の枝の間に隠れながら、息を潜め、気配を殺していた。

 殺気を抑えないと、鋭敏な鬼であれば気付かれしまう。

 できれば鬼を捕捉すると同時に技をしかけたいところだ。

 

 一刻ほども経った頃、築地からユラリと人影が現れた。

 

 夜道を行くつもりなのか、提灯が暗闇にユラユラと浮かんでいる。

 提灯を持っているのは、生成の着物に袴姿の書生風の男。

 やはり警戒しているのか、サッと辺りを見回した目が紅く光っている……。

 

 鬼だ。

 

 薫は両手を二本の刀の柄にかけてから、呼吸を整え始めた。

 息を吸い込んで、足を踏み出そうとした時に、男の鬼が差し伸ばした手に誰かが手を置くのが見えた。

 

 提灯の明かりに照らされて、現れた女を見た時、薫は息を止めた。

 

 ―――――千佳子様…?!

 

 一瞬、懐かしい人の姿がその女と重なる。

 だが、男の差し出した手をとって築地から出てきた女もまた、紅い目を光らせて油断なく辺りを見回した。

 薫は息を止め、その女もまた鬼であることを確認する。

 

 鬼が二匹いるのは珍しい。

 鬼は同じ場所にいれば、縄張り争いをして互いに殺し合うからだ。

 だが、この二匹にそうした殺伐とした雰囲気はなかった。

 

「……こちらに」

 

 若い男の声が、落ち着いて響く。

 

「……ありがとう」

 

 大きくはないが、玲瓏と響くその女の声は、とても鬼とは思えぬほどに優しげに聞こえてくる。

 

 二人は橋の方へと歩いていく。

 薫には全く気付いていないようだ。

 

 スゥゥゥと息を深く吸い込み、一歩足を踏み出すと同時に、薫は刀を抜き放った。

 

 鳥の呼吸 伍ノ型 森閑俊捷(しんかんしゅんしょう)

 

 ザクリ…と男の鬼の左腕を斬って、薫は顔を顰めた。

 

 本当は女の鬼の首を狙ったのだが、すんでで気付かれたらしい。

 男の鬼が女の手を引っ張って、前方へと放り出し、自ら薫の攻撃を受けたのだ。

 

 だが、無論やすやすとやられてはいない。

 左腕を斬られたと同時に、右手の伸びた爪が薫に襲いかかる。

 

 丈夫な隊服はその爪に生地が少し破れたものの、肌にまでは及ばなかった。

 薫はすぐに後ろへと飛び退り、男鬼と対峙する。

 

「……おのれ、鬼狩りめ…!」

 

 男の鬼は忌々し気に薫を睨みつけてくる。

 紅い目はより鮮やかさを増した。

 

 薫は無言で呼吸に集中する。

 刀を交差して構える。

 

「ひどく……傷つけてはなりません」

 

 男鬼の背後にいた女の鬼が、懇願するように言う。

 薫は耳を疑い、ギロリと二匹の鬼を睨みつけた。

 

「わかりました」

 

 徐々に再生する左腕を押さえて、男鬼は頷く。

 薫はギリと歯噛みした。

 

 今、この鬼共はなんとほざいたのだろうか。

 まさか、薫を生かすように手加減しろと言い、それに従ったということか?

 

 馬鹿にされたものだ。

 一体、どういうつもりか?

 

 その思惑を一蹴するためにも、この鬼共は必ず殺す。

 

 薫は一歩踏み込んで、呼吸の技を繰り出した。

 

 鳥の呼吸 参ノ型 飛燕之鋒(ひえんのほう)

 

 上下から同時に襲いかかる刀に、男鬼は首だけは取られまいと避けたが、腹と右腕をザックリと斬られた。

 それでも後ろへ一回転して、続く薫の攻撃を避けられたのは、鬼の持つ異常な身体能力によるものだろう。

 

 薫から少し間合いをとったところで、パックリと傷口の開いた腹と斬り落とされた右腕から血が大量に落ちた。

 

「……クッ!」

 

 顔を顰めて、男鬼が地面に崩れ落ちる。

 

「愈史郎!」

 

 女鬼は自らの身も顧みず、男鬼に駆け寄ると、背に庇って薫と対峙した。

 

 薫はしばし、その女鬼を見つめた。

 

 凝視する瞳は紅く、それは紛れもなく鬼であったが、やはり美しい。

 初めて見た時に千佳子に似ていると思ったが、こうして月明かりの下で見れば、同じ美しくてもやはりどこか違っていた。

 

 見た目の年齢だけで言うなら、おそらく目の前のこの女鬼の方が若い。

 だが、千佳子が庭園で咲き誇る大輪の牡丹であるなら、目の前の女鬼は人知れず咲く芍薬の花のように静謐な、臈長けた美しさであった。

 

 哀願するかのようなその視線に、薫は少しだけ戸惑った。

 さっき、春海に言われたことが脳裏をはしる。

 

 ―――――鬼に同情されることは…ござりませぬか?

 

 ギリ、と奥歯でその言葉を噛み潰す。

 そんな訳がない。今の今まで、自分は鬼に同情したことなどない。

 

 再び刀を構え、深く呼吸する。

 今度こそ、仕留める。

 

 女鬼は悲しそうに目を伏せた後、いきなり袖を捲くった。

 その白く柔らかそうな肌に、自らの爪を立てる。

 

 真っ赤な血があっという間に白い腕を赤く染めて、蠱惑的な匂いが鼻腔に入ってきたと思った途端に、グラリと風景が歪んだ。

 

 ―――――毒だ!

 

 薫は知覚するなり、技を放った。

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 久しぶりに使った風の呼吸は、その威力は匡近や実弥に比べるべくもなかったが、女鬼の毒を散らすには十分だった。

 

 男鬼の両腕は再生したようだ。

 しかし風の呼吸による技の煽りをくらったのか、顔に複数の裂傷があった。

 

 それは女鬼も同様で、白い頬に赤い筋が一瞬の間に消えていくのだけが見えた。

 再生の具合からしても、やはり鬼としてはこちらの女の方が上位であるらしい。

 

 男鬼は女鬼を傷つけまいと背後に守りながら、薫を睨みつけていた。

 

「貴様……よくも珠世様に……」

 

 ギリギリと歯軋りの音が耳障りに響く。

 

 薫は息を整えた。

 

 次で、殺る。

 

 刀を交差して構えて、呼吸を深くする。

 

「お逃げ下さい、珠世様!」

 

 切迫した声で叫んで、ドン、と男鬼が女鬼を橋の方へと押し出した。

 

「愈史郎!」

 

 女鬼は橋の上に立ちながら叫んだ。

 逃げようとしない。

 

 奇妙な鬼達だとは思った。

 だが、薫は鬼の事情を忖度する必要はない。

 

 鬼蒐の者から教えられた通り、怪しい気配があり、そこに鬼がいれば滅殺する。

 いつもの事だ。

 

 鳥の呼吸 肆ノ型 ―――……

 

 型を発動するために刀を振り上げたところで、いきなり後ろから両腕を掴まれた。

 

「ハイー、そこまでなー。お嬢さん」

 

 緊迫したその現場で、奇妙なほどに明るく楽しそうな声が響く。

 

 だが軽い口調と裏腹に、薫の腕を掴む力は凄まじく、ビクリと動かすこともできない。

 

 後ろを振り返ることは出来なかったが、その声は覚えがあった。

 

「…宝耳さん?」

 

 

 

<つづく>

 





あけましておめでとうございます。新年早々読んでいただき、ありがとうございます。
次回の更新は2022.01.08.土曜日の予定です。



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第三章 二匹の鬼(二)

 伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)はニヤニヤと笑いながら、薫の背後から男と女の鬼を見ていた。

 

『愈史郎』と呼ばれた男の鬼は、突然現れた宝耳に目を丸くして見つめるだけだったが、『珠世様』と呼ばれた女の鬼は、警戒も露わに一歩後ずさった。

 

「綺麗な鬼さんもいはるもんやなぁ…」

 

 地面に落ちた提灯の明かりに照らされた女鬼の姿を見て、宝耳は素直に感嘆する。

 男鬼がハッとして立ち上がると、女鬼を背中へと隠した。

 

「見るな! お前ごときが見ていい御方でないぞ!」

「ハハハ」

 

 宝耳は笑うと、鬼に呼びかけた。

 

「そう怒るもんやないわ。()()()

 

 男鬼は一気に赤く紅潮して、怒鳴った。

 

「勝手に呼ぶな! 俺の名前を呼んでいいのは珠世様だけだ!」

 

 宝耳はますます楽しげに喉奥で笑う。

 

「そら、失礼しましたな。是非、()()()にもお見知りおき頂きたいものや」

「貴ッ様ァァ……」

 

 男鬼は拳をつくって、宝耳を睨みつける。

 

 薫はそれまで一応、宝耳に掴まれたまま大人しくしていた。

 また以前のように、鬼を生け捕るつもりなのかと思ったからだ。

 

 しかし、一向に薫の腕を離すこともせず、鬼と悠長に会話などしている。

 疑問符が浮かんだまま薫は油断なく鬼達を見ていたが、女鬼がチラと後ろを窺うのを見て、逃げようとしているのを察知した。

 また、あの妙な毒でも放たれては面倒である。

 

 足を後ろに勢いよく蹴り上げると、宝耳はすぐさま薫の腕を離して飛び退った。

 

「とっとっと…危ないなァ」

 

 フザけた様子の宝耳を一瞬だけ睨んで、薫はすぐに鬼へ向かって跳躍する。

 

 パァン!

 

 背後から聞こえた銃声と同時に、弾が薫の耳朶を掠めた。

 態勢を崩して、着地するなりゴロゴロと地面を転がる。

 

 水路に落ちる前に立ち上がり、ギロリと睨みつけた先…。宝耳の手には短筒がある。

 銃口は真っ直ぐ薫に向けられていた。

 火薬の匂いが辺りに漂う。

 

「……どういう……」

 

 薫は完全に混乱した。

 掠れた声で言いかけて、すぐにハッとなって振り返る。

 

 この隙に鬼達はすかさず逃げていく。

 

「……っ! 待てッ!!」

 

 あわてて追いかけようとして宝耳に背を向けると、今度は背後から呼吸音。

 

 水の呼吸 壱ノ型 水面斬り

 

 薫は振り返ると同時に後ろに飛び退った。

 地面に片足がつくと、すぐに宝耳に向かって跳躍して刀を振るう。

 

 しかし既に宝耳は見切っていた。

 冷静に構えて受け止める。

 

 ガチッと擦りあった刃が火花を散らす。

 

「……どういう……つもりです?」

 

 ギリ、と奥歯を噛みしめて、薫は低い声で尋ねる。

 

「わからんか?」

 

 ビリビリと鍔迫り合いしながら、宝耳は余裕綽々として聞き返す。

 

 宝耳の背中の向こうを鬼達の姿がどんどん遠くなっていく。

 もう、確実にこれで逃げられた。……

 

「鬼を逃すなど……ただですみませんよ」

 

 怒りのあまり薫の声は低く平坦になった。

 しかし宝耳は不気味なほどに上機嫌だった。

 

「そう怒るもんやないでぇ、お嬢さん。十二鬼月でも何でもない、ただの鬼やないか。見逃したかて、お嬢さんの昇進にさほどの影響もないやろ。なんやったら、ワイが生け捕ったと本部には報告しておいたらえぇ」

「ふざけないで下さい! 私は今、確実にあの鬼共を滅殺できたのですよ」

「……でけへんよ」

 

 薄笑いを浮かべたまま言う宝耳の目は、冷たく薫を見ていた。

「ワイが、させへんからな」

 

 薫はその言葉で宝耳があの鬼達を生け捕るつもりではなく、助けたのだと確信した。

 ワナワナと唇が震える。

 

「……裏切るつもりですか?」

「裏切るやなんてそんな……裏切者は風波見(かざはみ)一門の十八番(おはこ)でっしゃろ?」

 

 明らかな揶揄にカッと頭に血が昇る。

 刀を持つ手に力が入ると同時に、膠着したこの状態を回避するために、足で宝耳の脛を蹴りつける。

 

 少々大袈裟なくらいに、宝耳は後ろへと吹っ飛んで尻もちをついた。

 

「痛タタタ」

 

 顔を顰めて、蹴られた脛をさすっていたが、わざと避けなかったのは明白だ。

 

「邪魔立てするなら……容赦はしませんよ」

「容赦しない…ねぇ」

 

 宝耳はよいこらしょ、と立ち上がりながら、またニヤニヤと笑う。

 

「お優しいことや。お嬢さん。ワイが裏切者なんやったら、即座に殺さなあかんのと()ゃいます?」

 

 肩に刀を乗せながら、のんびり言う姿は、本当にいつもと変わらない。

 ただ言っていることだけが異常だ。

 

 薫はゾワリと背筋に悪寒を感じながら、表情には出さず、宝耳に向かって剣先を向ける。

 

「………理由を」

「そら、言えまへんな」

 

 返事を聞くなり、薫は再び宝耳に向けて刀を振り上げる。

 袈裟懸けに振り下ろされた切先を避けた宝耳に、すぐさま横から薙ぐように刀を振る。

 

 ガチリ、と再び宝耳は刀で受けた。

 ビリビリと刃が擦り合って、また場は膠着した。

 

「…いい加減にして下さい。どうしてあなたとやり合う必要があるんです?」

「全くやで。お嬢さんが引いてくれたらえぇのに」

「…………」

 

 薫はギリと歯噛みした。

 

 この余裕。

 薫が全力で刀を押しているのに、宝耳の刀はまったく動かない。

 手加減しているのだ。

 

 しばらく無言で睨みつけて、薫はグイと力を加えてから瞬時に後ろへと跳んだ。

 間合いをとって、刀を構えたまま宝耳に尋ねる。

 

「……鬼に、同情しているのですか?」

「うん?」

 

 宝耳は意外な質問だったのか、首をかしげる。

 

 薫はこれまでの宝耳の言動を逐一思い出す。

 以前から気にかかっていた。

 宝耳のふざけた態度に煙に巻かれていたが、この事態を目の前にすると、疑問が大きく膨らむ。

 

「最初に会った時から違和感がありました。あなたもカナエさんと同じです。鬼を数える時に()として数える。()()()()と。あなたも鬼に対して何かしらの同情…憐憫を持っているのですか?」

 

 宝耳は薫の話を最初、神妙に聞いていたが、問いかけられると、クックッと背を曲げて笑った。

 

「何が可笑(おか)しいんです!?」

 

 薫はムッとして言ったが、宝耳はしばらく笑い続けた。

 

「ほぅか…ワイ、そんなやったか? そら知らんかったなァ……」

 

 つぶやいた宝耳の目が一瞬、懐かしんでいるかのように遠くを見た。

 

 すぐに薫に視線を戻し、フゥとため息をついて刀を鞘に納める。

 

「いやいや。残念やけど、ワイには花柱のような同情は皆無や。単なる人真似でな」

「人真似?」

「せや。随分と前に一緒にいた人がおってな。確かにその人は鬼に同情しとった。数も一人、二人で数えとったんやろ。特に気にもしてなかったけどな……その人の真似しとっただけや。ワイは花柱みたいな憐れみなんぞ一切ないで」

「じゃあ……どうして邪魔をするんですッ!」

 

 苛々して薫が怒鳴ると、宝耳はスゥっと目を細めた

 

「邪魔か? ワイが?」

「………邪魔です」

「せやったら殺すか?」

「…………」

 

 薫は息が荒くなった。

 ゆっくりと迫ってくる宝耳は、妙なことに鬼のように見える。

 

「どないした、お嬢さん? その刀…それでツイと首をついたら、すぐさまワイは死ぬで」

 

 言いながら、宝耳は腰帯から再び短筒を抜き取ると、その筒先を薫の頭に定める。

 

「本当はな…この間合いやったら確実にお嬢さんに分があるんやで。お嬢さんが本気でワイを殺す気やったら、殺せるで?」

 

 楽しげに問いかけてくる宝耳に薫は困惑した。

 隊内での私闘が厳禁であること以上に、元より人殺しなど禁忌である。

 

 まるで首を絞められたかのように、喉が細くなって、声が掠れた。

 

「……あなたは……私を殺すんですか?」

「殺すよ」

 

 何のためらいもなく言い切る宝耳の顔は、いつもと変わりなかった。

 そこに薫を恫喝したり、驚かせようというような、ハッタリはない。

 

 下から睨み上げると、宝耳はまるで言い訳するかのように肩をすくめてみせた。

 

「邪魔やったら殺す。人でも鬼でも。それが赤子やろが(めしい)の老婆やろが関係あらへんわ」

「…あなたは……」

 

 慄然とした薫を見て、宝耳はプッと噴いた。

 途端にそれまでの冷たさを孕んだ嗤いでなく、いつもどおりの剽軽な楽しげな笑いに変わった。

 

「ハハハ…嘘嘘。そんなびっくりせんでも」

 

 宝耳は腰に短筒をしまうと、両手を上げた。

 

「まぁ、お嬢さん。冷静に考えてみなはれ。あの男と女の鬼、妙な感じしまへんか?」

 

 言われて、先程の鬼達の姿を思い浮かべれば、随分と鬼らしくない……何であれば、紅い目以外は夜の雑踏に紛れていれば、鬼とわからぬほどに人の姿のままだ。

 

「姿形もそうやけど、そもそも鬼が二人連れで行動してる…言うのも、おかしいでっしゃろ?」

「それは…そうですが、でもいないこともないです。無論、その場合は利害の一致があるのでしょうが」

「あの鬼達、損得関係みたいな間柄に見えまっか?」

 

 ―――――お逃げ下さい、珠世様!

 ―――――愈史郎!

 

 一匹は鬼を逃がせようとし、一匹は自分を庇う鬼を心配そうに見つめている。

 それはいつも見る利己的な鬼の姿からはかけ離れていた。むしろ、人間同士の情愛としての繋がりを思わせる。

 

 まさか…!

 鬼に、情愛などあるわけがない……。

 

 心の中で否定しながらも、目の前で繰り広げられた場面は、明らかにいつもの鬼とは違っていた。

 

 薫は長く息を吐くと、二つの刀を鞘に納めた。

 

「あぁ、やれやれ。お嬢さんに殺されたらどないしよかと思た」

 

 そんな心配など微塵もしていなかったくせに、ぬけぬけと言う宝耳を薫は厳しく見つめた。

 

「よく言いますよ。それで? あの鬼達に用があったんですか?」

 

 少々苛つきながら尋ねると、宝耳は小馬鹿にしたように肩をすくめる。

 

「ま、少々」

「…いつものように生け捕りにするつもりだったのですか?」

「さて…? あぁ見えて、あの女の鬼はワイの目算やと数百年は生きとるからな。早々簡単に捕まるのやら…」

 

 薫はゴクリと唾を呑んだ。

 

 寿命のない鬼にとって、長く生きれば生きるほどに、その強さは比例する。

 それはそれだけの期間、歴代の鬼殺剣士を退けてきたということでもあり、それだけ長い間、人を喰らって生きてきたということでもあるからだ。

 

「そんな鬼であるなら、柱に助勢を頼むなりすれば…」

「そら無理やな。これは任務やないし」

 

 薫はますます困惑した。

 任務でもないのに、宝耳が行動する理由。

 しかも鬼を助けるようなこととなれば、重大な隊規違反にもなりかねない。

 

「あの鬼、一体何なんです?」

 

 真面目な顔で問いかけてくる薫に、宝耳はしばらく考えてから「ま、えぇか」とつぶやく。

 

「実はな、鬼は鬼でも人助けしてくれてる鬼がおるのは、昔から鬼殺隊の文献にも残っとってな。これは先代のお館様の頃から内々に調査しとることなんや」

「鬼が人助け? ……本当ですか?」

「ホンマ、ホンマ。ただ、この事を知っとるのは少ない。柱ですら知らんやろな」

「柱も、知らない?」

 

 薫は今更ながらに宝耳の正体がわからなくなった。

 

 柱ですらも知らないことを、どうして一介の隊士でしかない宝耳が知っているのか。

 

 勝母の話だと先代のお館様の代から鬼殺隊に勤め始め、どうやらその先代のお館様とは親しい間柄だったようだが……。

 

「宝耳さん、あなた…何者です?」

「ワイは隊士で、隠で、鬼蒐の者でもある。なんでも屋や」

「………お館様直属の?」

「さぁ?」

 

 肝心なところで宝耳は煙に巻く。

 薫は苛々した。

 

「…どうして本部と連携をとらないのです? こんなこと、隊士は混乱します」

「ホンマやなぁ…。まぁ、本部さんもお館様もワイの事はさほどに好いてないし、なかなか協力してくれそうでしてくれへんのよ……ワイが単独でやっとると言えばそうやし、命令といえばそうやし」

「……意味がわからない」

 

 薫はため息をつき頭を振った。

 先程の鬼の毒がまだ残っているのだろうか。頭痛がする。

 

 宝耳は東洋一(とよいち)と同じようにどこか飄々としているが、なぜだかその態度は釈然としない。

 いつも何かひっかかるものを感じさせる。

 だが、理由を尋ねたところで答えてはくれないだろう。

 

「ま、今日のところはお嬢さんのお陰で収穫もあったよって、ワイとしては十分や。ご苦労さんやったな。ほな、お元気で~」

 

 宝耳は憎らしいほど上機嫌に立ち去った。

 

 薫はその後姿をじっと睨みつけていた。

 

 今、無防備な彼を襲って捕縛することは可能だ。

 薫は指令によって鬼を滅殺しようとして、それを邪魔されたのだから、たとえ宝耳がお館様からの密命を受けていたとはいえ、彼を拘束するのを咎められることはないだろう。

 

 ―――――お嬢さんが本気でワイを殺す気やったら、殺せるで?

 

 はなから、薫に殺意がないことをわかっていて挑発していた。 

 

 ―――――邪魔やったら殺す。人でも鬼でも、赤子でも……

 

 あの言葉…嘘ではない。

 鬼に攻撃しようとしていた薫に、躊躇なく銃弾は襲ってきていた。

 少しズレていたら、頭を貫通していたはずだ。

 

 ―――――殺すよ。

 

 今頃になって、どっと背中から汗が噴き出す。

 

 確実に…宝耳は、人を殺したことがある。

 

 ()()()()()()ではなく、ただの、()を。

 

 あの男を少々信用しすぎていた。

 立ち位置も含めて、彼は鬼殺隊において果たして味方と言えるのか……?

 

 夜風が冷たく吹きつけ、一瞬体がよろけた。

 さっきの鬼の毒がまだ残っているのだろうか…。

 頭に靄がかかったようだ。

 

 あの鬼達は…どこに消えたのだろう……?

 

 

 

<つづく>

 





次回は2022.01.15.土曜日の更新予定です。




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第三章 二匹の鬼(三)

 雑踏の中を歩きながら、愈史郎は油断なく辺りを見回した。

 

 ―――――どうやら追手はない。

 

「しばらくこのまま行きましょう。人がいた方が彼らも手を出しにくい」

「……えぇ」

 

 珠世は小さく頷きながら、足早に人混みを抜けていく。

 

「……珠世様」

 

 愈史郎は珠世の小さな肩を見ながら、ふと気になった。

 

「さっきの男は…前に話されていた鬼殺隊士ですか?」

 

 珠世は足を止めると、振り返って寂しげに微笑(わら)った。

 

「いいえ」

 

 首を振り、やってきた道の先を見つめる。

 

「あの人は……あんな笑い方ではなかったわ。もっと……」

 

 言いながら、珠世の脳裏には数十年前に、雪深い山奥で出会った鬼狩りの姿が浮かぶ。

 

 日向の匂いのする笑顔。

「ありがとう」と言った声は、もはや忘れかけていた懐かしい夫の声を思い起こさせた。

 もう遠い昔の、悲しみと後悔に埋められていたやさしい記憶。

 

 ひとときであっても、彼は珠世に幸福であった頃の自分を思い出させてくれた。

 二度と会うことはなかったけれど……。

 

「……生きていれば八十近いでしょうから……彼であるわけがないわ」

 

 年をとらぬ己に苦い失望を感じながら、珠世はつぶやく。

 

 その俯けた顔の、憂いを帯びた美しさを愈史郎は内心で絶賛しつつも、正直、面白くなかった。

 

 珠世の過去において愛すべき夫と子供がいて、彼らを悼み己の罪を悔い、今も嘆いているのは知っている。その事について愈史郎は何も嫉妬しない。

 ただ、数十年前に助けてもらったという鬼狩りの話だけは、いつも愈史郎の神経を苛立たせた。

 

 稀血であったというその鬼狩りの話をする時、珠世はいつも少しだけ頬を赤らめて、少女のように笑う。 

 その思い出がとても大事であるように、多くを語ってはくれない。

 

 どうせ鬼狩りなどという仕事柄、死んでいるのだろうが…それゆえにこそ、珠世の思い出にその男は永遠に残る。

 命を救った恩人として。

 忌々しいことこの上ない…。

 

 憮然としている愈史郎の前を歩く珠世は、既に過去の思い出のことは頭の片隅へと追いやり、最前の鬼狩りについて考えていた。

 

 奇妙な感じがする。

 はっきりとどこが、とは言えないのだが、違和感がある。

 

「愈史郎…さっきの鬼狩りの人……」

「はい? あの男がどうかしましたか?」

「え…あぁ…そう…あの人……」

 

 珠世は眉をひそめながら、歪んだ笑みを浮かべていた男を思い出す。

 

 人をくったような話し方といい、鬼である愈史郎への態度といい、どこか不気味だった。

 あの男は何故いきなり現れ、しかも鬼を狩ろうとしている仲間の邪魔をしたのだろう?

 

「今までに助けた人の縁者か何かかしら?」

「そうだとしても、気に入りません。いきなり名前で呼んできて…馴れ馴れしい」

「そうね……」

 

 あの男から立ち上っていた異様な暗い影。

 まるで死者の恨みがへばりついているかのようだった。

 

 陰惨なモノを背負いながら、まったく気付いていないかのような…あるいは気付いていても平然と踏みにじることができるような、傲然としたあの顔、態度。

 

 嫌悪でしかない男の姿が浮かぶ。

 ただの人であるはずなのに―――なぜ無惨を思い起こさせるのか…。

 

 珠世は一瞬でも思い出したその姿を追い出すように首を振った。

 

「…どうしました? 珠世様」

「いいえ。それより…もうあの家には戻れませんね」

「はい。大丈夫です。二番目の棲家は用意してありますから…」

 

 珠世はニコと微笑んだ。

 

 若くして消えようとしていた命を、鬼となっても生きたいと願った青年。

 彼を鬼としたことが良かったのかどうか、未だに珠世にはわからない。

 

 だが、彼と行動を共にするようになって、時折やってくる自らを消し去りたいという衝動はなくなった。

 誰かと一緒にいるというそれだけで、こんなにも気持ちが救われるとは……彼を助けたときには思っていなかった。

 本当に感謝している……。

 

 一方の愈史郎は、珠世の微笑を見てしばらく思考が停止していた。

 

 珠世様が……自分のために……自分のためだけに微笑んでくれた……。

 

 愈史郎にとっては、この事こそが重大事だった。

 だから、さっき鬼狩りに襲われたことも、奇妙な男のことも、もはや些末なつまらない過去の話になった。

 

 一方で、珠世もまた不気味な男のことがやたら気にかかってしまい、すっかり一緒にいた女の鬼狩りのことなど忘れてしまった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ぴちゃん、と蛇口から水が滴り落ちる。

 

 陰気な光に照らされた試験管の中では、赤や紫の液体がユラユラと波立ち、アルコールランプで温められたビーカーからは、()っすらとした白い煙が立ち上る。

 その煙は甘ったるい匂いをさせて、捻れた空間の中で漂い、広がっていた。

 

紅儡(こうらい)の…()()()が、消えた…」

 

 苛立ちを含みながら、どこか面白がるように、その声は斜め上から聞こえてくる。

 

「生意気にも、私の(くびき)を切ったらしい」

「………」

「由々しきことよな………黒死牟」

 

 随分と間を空けて呼ぶ声には、明らかな怒りがある。

 わざとに手に持っていた試験管を落とすと、パリンと乾いた音をたてて割れた。

 

 その硝子を微塵に踏み潰して、無惨は冷たく黒死牟を見下ろした。

 

「貴様が連れてきて、鬼にした時には面白いモノがいたと思ったが…大して役に立たぬ。()()()は同門の男に、()()()は女の鬼狩りに、復活させてやった()()()も、()()()と同じ男に殺されて……アイツは何がしたいのだ? 昔の知り合いに殺されに行っているのか?」

「………情けなき…次第」

「ふん。いっそ、()()()が消された時に汚泥にブチ込むより、()()()()()()と同じように、実験体として日の光で焼き殺せばよかった」

 

 吐き捨てるように言い、後悔は微塵もない。

 

 間違ったことはしていない。

 ヤツがただ弱いのだ。

 最初から弱く、みすぼらしい、卑しいだけの存在であるくせに、まるで()であるかのように己の力を過信する。

 

「どこまでも半端者の塵屑(ゴミクズ)が、何をするというのだろうな?」

「……すぐに見つけて…抹消……致す」

 

 黒死牟が頭を下げた時には、無惨は既にその前に立っていた。

 腕組みして無表情に見つめている。

 

「黒死牟…」

「……は…」

 

 頷く前に、うねるように腕が伸びてくる。

 鋭い爪が黒死牟の背中の肉を抉り取りながら、白い華奢にも見える手が首を掴んだ。

 

 そのまま腕が太く膨らんで、獰猛な一つの生き物のようになり、黒死牟を高く持ち上げる。

 長く伸びた爪は黒死牟の喉に食い込み、フツフツと湧き出た血が、蠢く腕を伝って落ちていく。

 

 黒死牟は表情を変えなかった。

 六つある目のどれもに、焦りも怒りもない。

 閉じた唇が震えることもなかった。

 

「鬼狩りを鬼にするのはお前の執着だ」

 

 揶揄を含んだ言葉に、黒死牟は一瞬、眉を顰めた。

 だが、すぐに無表情に戻る。

 

 一方の無惨もまた、腕にこめた力を微塵も感じさせないほど、落ち着き払っていた。

 ただ、じっとりと睨み上げる。

 舐めるように。

 

 紅い目がキラリと光った。

 

「その執着が……恨めしいな」

 

 皮肉めいた微笑が閃き、無惨は急に黒死牟を離した。

 白けた表情で背を向けた時には、腕は元に戻っている。

 

 ストン、と降り立つと、黒死牟は何事もなかったかのように、膝を折って無惨に頭を垂れた。

 既に肩と首の傷はない。

 

()()()を…処理…致します」

「当然だ」

 

 傲然と言うと、無惨は光沢を帯びたベルベット生地のソファに腰掛けた。

 いつの間にかその場所は、板敷きの洋間に変わっていた。

 

「場所は()()が知っているだろう。教えることができるかは…わからないが」

 

 酷薄な笑みを浮かべ、無惨の姿は消えた。

 正確に言うなら、黒死牟が無惨の前から姿を消した、と言うべきか。

 

 ベベン、と弦の音が響いたと同時に、黒死牟のいた空間は瞬きの間に移動していた。

 

 

 勝手に案内されたその場所へと足を進めるに従って、黒死牟は無惨がさほどに怒っていなかった理由がわかった。

 既に、十分に当たり散らした後だったのだろう。

 

 そこは腐臭が漂っていた。

 饐えた肉の匂いが充満している。

 

 壁や床、天井にも、赤黒い血痕が染み付いて、その上に重なった鮮血、飛び散った肉片。

 まだ乾いていない血溜まりの上を歩いていくと、二本の蝋燭に照らされてソレは丸く縮こまっていた。

 

 焼かれでもしたのか、所々黒焦げになっている。

 自分に寄ってくる気配に気付くと、ギョロリと肩にある目だけが動いた。

 黒死牟の姿を見るなり、怯えが浮かぶ。

 

()()()は?」

「…………」

 

 既に口を利くこともできないようだ。

 よほどに折檻されたとみえる。

 

「……訊き方を……間違えた…ようだ」

 

 黒死牟はしゃがむと、ソレの頭にずぶずぶと手を突っ込んだ。

 ガタガタと身体を震わせ、声にならない声で叫ぶソレを見て、眉を寄せる。

 

 わずかに、その顔には苛立ちと憐れみがあった。

 もし、誰かが見ていたとしても、ほとんど気付かれないほど、わずかだったが。

 

「……つまらぬ…抵抗は……よせ」

 

 淡々と言う黒死牟を、ソレは涙を浮かべて見ていた。

 

「無惨様の()()から離れて……()()()が…どこまで生きられる? ……再び…鬼狩りに殺されるか……日の光に…灼かれるだけ…」

 

 蠢く肉は黒死牟の手を必死に押し出そうとする。

 熱い鼓動が(じか)に指先に響くのが、気持ち悪くなって、黒死牟は一旦、手を抜いた。

 

 弱々しい咆哮が、昏い部屋に反響する。

 ソレは磯に引き上げられた魚のように、のたうち回りながら、白い泡を吹いた。

 

「……お前に鬼の……価値はない」

 

 冷たく言い放つ。

 

 視線の先にある大きな紅い瞳からは、滂沱として涙があふれる。

 黒死牟はそっと、その涙に触れた。

 

「…まだ……泣くか……」

 

 小さなつぶやきは、自分でも意外なほど優しげに聞こえて、虫唾が走った。

 嫌悪感を飲み下して、黒死牟はソレに背を向ける。

 

「…………」

 

 聞こえてきた叫びは言葉ともならない。

 もはやあのモノが人間であったのかさえも、わからなくなる。

 

 生きてきた年数からすれば、アレと知り合ったのは大した古い時でもなかったはずなのに、膨大な記憶の中では新しいものほど薄れて消えていく。

 

 忘れようと願うものは、いつまでも胸にこびりついているのに……。

 

 一度だけ振り返って見ると、ソレは震えながら隅へと縮こまった。

 

 黒死牟は無惨がこの痛ましく、不憫で気味悪い生き物をいつまでも置いているのか、わからなかった。

 何かしらの利用価値があるには違いないのだろうが…存在するだけでも、不快さしかない。

 

 いずれにしろ、わずかだが読めた思念から、()()()()()()の行方を辿るしかない。

 

 因果というべきか、自分が鬼にしてやったというのに、二度までも殺す羽目になるとは、皮肉なことだ……。

 

 

<つづく>






次回は2022.01.22.土曜日の更新予定です。



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第四章 戀慕(一)

 駒吉は小作農家の四男坊で、七つの年には口減らしを理由に、江戸の(かざり)職人の弟子兼丁稚として家を追い出された。

 

 最初の三年は弟子ではなく、ただの使用人だった。

 親方の身の回りの世話を始めとする、家事ばかりをやらされた。

 

 十歳になった時から仕事道具の手入れをさせてもらえるようになったが、基本的に口下手で厳しい親方は、弟子に教えることをしなかった。

 自ら盗み見て覚えろ…と、言う事もない。

 

 それでいて何か間違った事をしたら、容赦なくぶん殴られた。

 それに対して文句を一言でもつぶやけば、もう一発殴られ、反抗的な目で見返せば、腹を蹴り上げられ、その日の食事は与えてもらえない。

 

 それでも誰知ることもない土地で、駒吉に逃げるところなどなかった。

 

 錺職人という仕事は、基本的に手先が器用であることが求められる。

 だが、駒吉は幼い頃に何かの事故に遭ったらしく、左手の人指し指と中指の関節が強張って、十分に曲がらなかった。

 当然、細かい作業は難しい。

 

 それが分かった時点で親方も駒吉を放り出せばよかったのだが、弟子の将来などに全く興味のない人であった為に、駒吉は宙ぶらりんな状態で、一向に職人としては未熟なまま十五の年を迎えていた。

 

 その日も駒吉は親方と、自分よりも遅く入ってきた弟弟子の作った(かんざし)などの髪飾りや煙管などを、商家の裏口で女中など相手に(ひさ)いでいた。

 

「…これは?」

 

 背後から尋ねてこられ、振り返った駒吉はそのまま固まってしまった。

 

 そこに立っていたのは天女だった。

 

 強く吹いた春風が、桜色に色づいて見えた。

 瞬間的に、駒吉は自分の生きてきた人生がこの目の前の天女の為にあると思った。

 

「この蝶々の髪飾りはおいくら?」

 

 ぼんやり立っている駒吉に、天女が親しげに尋ねてきて、ようやくその天女が自分と同じ人間だと気付く。

 

「えっ…えっ、そっ、それですかっ?」

 

 慌てたのは天女のように美しいその少女と話すというだけでなく、少女が手に取っていたのが駒吉の作った不細工な蝶の髪飾りだったからだ。

 

「まぁ、そんなの気味悪いですよ…お嬢様」

 

 周囲にいた女中達は暗に買うのをやめるよう促していたのだが、少女はまったく耳を貸さなかった。

 

「どうして? 綺麗じゃないの」

 

 羅宇(らう)屋から貰った煤けた竹を割って細く裂いた()()に、端切れ屋から貰った売り物にもならない生地で作ったものだった。

 

 少し色褪せた若草色の絽と、桃色の木綿の端切れで作った蝶は、妙に生々しい造形で、たいがいの女は気味が悪いと敬遠した。

 

 行商の合間に自分でちまちまと作っていて、売り物とは別の箱の隅に入れておいたのを、目敏く見つけたらしい。

 

「あ…あの……それは、売り物じゃなくて……」

 

 駒吉がおずおずと言うと、少女は蝶を持ったまま悲しそうな顔になった。

 

「―――あげます」

 

 即座に駒吉は言った。

 彼女に絶対にこんな顔をさせたくない。

 

「あら…そんなの悪いわ」

「いいんです。売り物にならないのに売ったら親方に叱られちまう」

 

 少女はうーんと思案顔になった後、「ちょっと待ってて」と家の中に入っていった。

 駒吉は女中達にジロジロと見られながら所在なく立っていたが、言った通り少女はすぐに戻ってきた。

 

「ハイ、これあげる」

 

 渡されたのは(はまぐり)

 おそらく細工物だろう。縁に所々金箔が残っている。

 在所の寺の娘が威張り散らして見せてくれた貝合せの貝と似ている。

 

「い…いいです。貰っても……使い方わかんねぇし」

「使い方? あぁ」

 

 少女は貝をパカリと開けると、そこには白い軟膏のような物がのっていた。

 

「塗り薬よ。あかぎれにとても効くの」

「あ……」

 

 駒吉はあわてて手を隠した。

 カサカサの、皮も硬くなって、あかぎれだらけの駒吉の手を見られていたと思うと、途端に恥ずかしい。

 

 だが少女は馬鹿にしたわけではないようだった。

 

「こんな繊細なものを作るのだから、あかぎれだらけでは大変でしょう? これを塗って、またもう一個作ってくれないかしら? 妹とお揃いにしたいの」

「えっ? こ…これ?」

「そう。これ」

「…………」

 

 駒吉は困ってしまった。

 竹ひごはあるが、同じ端切れはもうない。元々、捨てるものなので、同じようなものが手に入るかもわからない。

 

 少女は俯いてもじもじしている駒吉を下から覗き込んだ。

 

「もしかして…困ってる?」

 

 目があって、駒吉はハッとなると今度は上を向いて大声で叫んだ。

 

「いッ、いいえ! つ、つ、作ります!」

 

 少女はニッコリ微笑むと、手の平の蝶の髪飾りをそっと結わえた髪に挿した。

 

「似合うかしら?」

「は、はい」

「じゃ、お願いね」

 

 少女は軽やかな足取りで戸口へと向かっていったが、途中で「あ」と振り返る。

 

「忘れてたわ。お名前、なんて言うの?」

「へっ? お、俺ですか…あ、あ、こ…こ…コマ……駒吉です」

 

 しどろもどろで言う駒吉が面白いのか、それとも少女特有の何にでも面白がる年頃なのか、クスクスと笑ってから少女は手を振って言った。

 

「じゃあ、駒吉くん。ありがとうね。待ってるわね」

 

 戸口の中へと消えていってからも、駒吉は呆然として立ち尽くしていた。

 

「……やれやれ……お嬢様も奇特というか…珍しい物好きでいらっしゃるから」

「こんな所にいらして…困っちゃうよ」

 

 女中達は口々に言いながらも、その顔はやさしく笑っていた。

 やはりあのお嬢さんは使用人からも人気があるらしい。

 

「ちょいと、坊や」

 

 女中の一人がいつまでも呆っと突っ立っている駒吉の前でパンと手を打った。

 

「ハッ、はい! 何かご入用ですか?」

「アンタ、あの蝶の髪飾り作ったら持ってくるんだろう? 私はおみねだ。作ったら、ここで私を呼びな。取り次ぐから」

「あ…は、はい」

「忘れられないうちに持ってくんだよ。お嬢さんはちょいとばかし飽きっぽいところがおありだからね」

 

 コクコクと頷いて、駒吉は並べた商品を仕舞うと親方の待つ家へと帰った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「テメェ……コマ! こんな時間までどこほっつき歩いてやがるッ!!」

 

 怒鳴るなり固い拳骨が飛んでくる。

 駒吉は避けることもなく、それを受けて、土間の隅へと吹っ飛んだ。

 

「しかも(てぇ)して売ってもいねぇ、このクソが! っとに…お前は何の役にも立たねェなァッ!!」

 

 そのまま隅に座り込んだ駒吉の頭も背中も滅茶苦茶に(なぐ)りつけて、最後に腹を蹴飛ばして、親方はペッと唾を吐いて出て行った。

 

 相当機嫌が悪いので、岡場所にでも行くのだろう。

 いつも、ひどく機嫌が悪くなると出ていって、局女郎か夜鷹をつかまえて鬱憤を晴らすのだ。

 

 駒吉は鼻血を袖でこすると、立ち上がった。

 パンパンと着物についた三和土(たたき)の砂をはたいていると、(かまち)に弟弟子の彦三郎が立っている。

 

「どこ行ってたんだよォ……いつもは馴染みさん廻ったらサッサと帰ってくるってのにサァ」

「……ちょっと」

 

 水瓶から水を飲んで口を濯いでから飲み込む。

 血の混じった水は美味しくない。

 

「ね? ね? 俺の売れた? あの桜細工のやつ」

「……うん。一番最初に売れたよ」

「ホントかい? やったね! あれ、自信あったんだァ」

「良かったね」

 

 駒吉が適当に相槌を打つと、彦三郎は少し意地悪な顔になった。

 

「駒吉ッさんだって、もっと上手に出来たらすぐに売れるさァ。絵は上手なんだから、絵師にでもなりゃ良かったのに。親方に紹介でもしてもらったら?」

「………」

 

 彦三郎の言う通り。

 駒吉は手先が不器用ではあったが、絵を描くのは上手かった。

 先程、彦三郎の言った桜細工の簪も、元は駒吉が描いた絵を元に彦三郎が作ったものだ。

 

 それは彦三郎に限らず、親方も時に駒吉の描いた絵を元に簪を作ることがあった。

 もっとも感謝などは無論されず、

 

「テメェ…いくら絵がうまくたってなァ…物が出来なきゃ意味がねぇんだよ。っとに、この半人前が」

 

と、半ば馬鹿にしたように吐き捨てる程度だった。

 

 また、一度だけ彦三郎の言うように絵師の家に紹介してもらえないかと相談したことはあったが、

 

「テメェの絵なんぞ、絵師だったら当たり前に描ける程度のモンだ。テメェなんぞが入ったとこで、ここと同じ、味噌っカスなのは変わらねぇだろうさ」

 

と、すげなく言われただけだった。

 

 駒吉は自分という人間にさほど期待していなかった。

 親方からどやされ、弟弟子からうっすらと馬鹿にされてはいても、もはや受け入れていた。

 自分は不器用で才能がないのだから、仕方ない。

 

 だから駒吉にとって、今日、あの天女のようなお嬢様に自分の作った髪飾りを気に入ってもらえたことは、夢のような出来事だった。

 しかも妹の分も作ってほしいと注文された。

 

 初めて自分の作ったものを認めてもらい、その上、それがあのお嬢様であったことで、駒吉はもう一生分の幸福を使い込んだ気がしていた。

 

 だが、それでも良い。

 今後の人生がすべて不幸になってもいいと思える。

 

 今日も、親方に怒られることもわかっていたのに、道草して端切れ屋の友達を探し回った。

 そのせいで遅くなったのだが、捨てる予定の端切れを数枚貰うことができた上、同じような緑の絽と桃色の生地を手に入れることができたので、もう十分だ。

 

 その夜、駒吉は親方が戻ってくるまでの間、食事もせずに(そもそも親方は罰として夕食抜きだ! と、言い捨てて出て行ったのだが)ひたすらあの蝶の髪飾りを作っていた。

 

 だが、やはり不器用な駒吉は、何度か竹ひごを無理に曲げて折ってしまったり、その折れた竹ひごに布地が引っかかって使い物にならなくなったり、なかなか上手には出来なかった。

 

 夜中に親方が帰ってきて、明かりがついていると文句を言われるので、酔っ払ったダミ声が聞こえてくると同時に灯火を消して煎餅布団に狸寝入りし、親方のうるさい鼾が聞こえてくると、再び作り始めた。

 

 そんなこんなで、ようやく満足のいくものが出来た頃には夜が白み始めていた。

 

 徹夜の真っ赤な目をして、昨日のお屋敷の裏口にやってきた駒吉は軽く失望した。

 

 言われたとおりにおみねを呼び出すと、すぐに出てきてくれたが、駒吉の蝶を受け取るなり、

 

「はいよ。じゃ、お渡ししておくよ。じゃあね」

 

と、さっさと戸口を閉めてしまったのだ。

 

「あ、あ……あ…」

 

 何かを言う暇もない。

 

 駒吉は呆然としてしばらくそこに立っていたが、結局誰もやって来ないので、悄然と立ち去った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 それきり駒吉は忘れようとしたのだが、気付くとやはり、あの蝶を作っているのだった。

 さすがに同じ端切れはないので、色は青であったり、緑であったり、紫の場合もあったが、すべてはあの天女のようなお嬢様を思い浮かべて作っていった。

 

 三羽作った時に、再びあのお屋敷前にやってきたのだが、おみねを呼ぶことはなかった。

 呼んでもきっと、あのお嬢様が出てきてくれはしないだろうと思ったからだ。

 

 それは表から訪ねたとしても同じだろうと思われた。

 一度、その店の前で突っ立っていると、手代らしき男がやってきて、厳しい顔で追い払われた。

 

 きっとこの家の人々は、本来ならば駒吉のような貧しい身なりの行商人でなく、しっかりとした店の商人からしか物を買わないのであろう。

 

 今ではお得意様を廻った後には、このお屋敷の辺りをうろつきまわってから帰る…というのが、当たり前になってしまった。

 

 会えないほどに、あの天女のような姿が鮮やかに瞼に甦る。

 やさしく響く楽しげな声も、弾んで耳朶をくすぐる。

 

 だんだんと駒吉はもうお嬢様に会えなくてもいい…と考えるようになった。

 あの姿をしっかりと焼き付けて、目を瞑れば何度も会える。

 それだけで自分は幸せなのだ…と、本心から思っていた。

 

 だが、いざ顔を合わせてみれば、そんな幸せは本当に些細なものでしかないと思い知る。

 

「あら…駒吉くん!」

 

 その日もいつも通り常連の御用聞きの後に、お嬢様のいる屋敷周りをウロウロしていると、いきなり声をかけられた。

 すぐに顔を上げた先には、あの日と同じ、天女のような美しいお嬢様がにこやかに微笑んでこちらに向かってくる。

 

「今日も売りに来たの?」

「あ……あ……い、い、いや…」

 

 ようやく会えたのに、駒吉は頭が真っ白になって何も言葉が出てこなかった。

 

 真っ赤になって俯いた駒吉に、お嬢様はヒラリと背を向けて振り返りながら「見て!」と、結わえた髪に挿したあの蝶の髪飾りを見せた。

 

「似合うでしょ? 妹と交換しながら使ってるの」

 

 それはおみねに託した蝶だった。

 同じような色合いで作ったものではあったが、後で渡した方のものは、桃色の生地が木綿でなく、縮緬(ちりめん)の端切れでややぼかしが入っていた。

 

 自分の作った不細工な蝶の髪飾りなど、若いお嬢様はとうに飽きて捨てただろう…そんな諦めもあったので、つけてくれているだけでも駒吉は天にも昇る心地だった。

 

 ボーっとなって立ち尽くしていると、「あら!」とお嬢様はいきなり声を上げる。

 

「手! ちゃんと塗ってる?」

 

 相変わらずあかぎれだらけの駒吉の手を掴んで、少し怒ったようにお嬢様が尋ねてくる。

 しかし駒吉は言われたことより、柔らかい手で掴まれたことに、心臓が飛び出しそうだった。

 

「あっ…あ…あのっ……すんませんッ」

 

 あわてて手を引っ込めて、頭を下げると、キュッと身を縮める。

 

 お嬢様は腰に手をあてて、胸を張らせると、ジッと駒吉を見つめた。

 

「駒吉くん。ちゃんと、あの塗り薬は塗った?」

「あ…あの……もっ、勿体…なくて」

「なにが勿体ないもんですか。なくなったら、貝を持ってきてくれたらすぐに補充するわ」

「い…いや…そんな……すんません」

 

 駒吉はひたすら頭を下げるしかなかった。

 あれは駒吉にとっては大事な大事な宝物だった。

 使うなんてとても出来ない。

 

「やっぱり、ちゃんとお金を払った方がいいかしら?」

 

 お嬢様が思案顔になって言うと、駒吉はブンブンと首を振った。

 

「でも、私も妹もとっても気に入ったのよ。本当はまた作ってもらいたいの…」

「あ……あ……」

 

 駒吉は大慌てで風呂敷に包んであった商品を入れた箱から、小さな巾着を取り出した。

 

「こ……こ、これを…」

 

 その中にはこの数日、お嬢様を思って作り込んだ蝶がいくつも入っていた。

 

「まぁ…」

 

 お嬢様は目を丸くして巾着の中から一つ蝶を取り出すと、赤い夕日の光に翳した。

 薄い紫の生地で作ったその蝶は、お嬢様の手の上でヒラヒラと舞うようだ。

 

「ありがとう!」

 

 本当に嬉しそうな笑顔に、駒吉はおずおずと微笑み返した。

 

 お嬢様はずっと恐縮してばかりだった駒吉が笑うのを見て、またニコリと笑う。

 しかし、巾着を見てうーんと考え込んだ。

 

「こんなにいっぱい作ってもらったのに…何のお礼もないなんて無理だわ。ねぇ、やっぱりお代金を払うわ。大変だったでしょ、作るの」

 

 駒吉はブンブンと首を振った。

 こうして貰ってもらえるだけでも、十分だ。

 

 しかしお嬢様は納得しない。

 

「そういう訳にはいかないわ。貰うばかりで、私も何かお礼したい」

 

 真剣な顔で言われて、駒吉は途方に暮れた。

 自分の作ったものなど、普通は見向きもされない。

 このお嬢様は気に入ってくれたが、本来商品価値はないのだ。

 

 しばらく考えて、思い浮かんだ願いに、駒吉は「あっ」と声を上げた。

 お嬢様が首をかしげる。

 

「どうかした?」

「あ……あ……いや…あの…」

 

 言おうか、言うべきか、逡巡する間に汗が額にふつふつ涌いてくる。

 

 怪訝に見上げてくるお嬢様をチラチラと見ながら、駒吉は真っ赤になりながら勇気を振り絞った。

 

「あ…あの……あの、お名前をっ」

 

 掠れた声で思い切って言うと、お嬢様はしばらく目を丸くして駒吉を見ていた。

 

 途端に駒吉は凄まじく恥ずかしい気持ちになった。

 

「すっ、すんませんッ! お嬢様にこんなこと聞いて…すんませんッ」

 

 頭を下げて、あわてて風呂敷を担いで立ち去ろうとした駒吉に、やさしい声が聞こえた。

 

「カナエよ。胡蝶カナエ…っていうの」

 

 

 

<つづく>

 




次回は2022.01.29.土曜日の更新予定です。




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第四章 戀慕(二)

 胡蝶…というのが、蝶々のことなのだと知った時に、あのお嬢様―――カナエが駒吉の作った髪飾りを気に入ってくれた理由がわかった気がした。

 自分の名前に由来のある物で、あまり見たこともない造形の蝶の髪飾りだったので、つい気になってしまったのだろう。

 

 駒吉は特に蝶に思い入れはなかった。

 その髪飾りを作ったのも、ただの手慰みと練習の一環でしかない。

 蝶にしたのは、たまたま作ろうとした時に、花の周りをフワフワ飛び回るのを見たぐらいなことだろう。

 

 だが、今は蝶を選んで良かったと思った。

 

 彼女が喜んでくれて、しかも名前も教えてもらえた。

 あの後、嬉しいのと恥ずかしいので、挨拶もそこそこに逃げるように立ち去ってしまったが……。

 

 その日、初めてカナエから貰った例の塗り薬を指に塗った。

 独特の薬の匂いすらも、駒吉は愛しかった。

 

 また蝶を作ろう。

 もっと綺麗なものを。

 もっと彼女に似合うものを。

 

 もしかしたら別の髪飾りが欲しいかもしれない。

 どんなものがいいのかを聞いて、絵に描いてみようか。

 絵だけは自信がある。

 そうしてまた喜んでくれたら、どれだけ嬉しいことだろう……。

 

 冷たい煎餅布団に潜り込んで、かじかんだ足を擦りながら、寝入るまでの微睡(まどろ)みの中、想像するだけで胸が踊った。

 カナエの名を心の中で呼ぶだけで、舞い上がった。

 

 その夜は、駒吉が生きてきた中で一番幸せな夜だった。

 

 

◆◆◆

 

 

 けれど、翌日にカナエの住む屋敷に向かった駒吉は、一気に奈落に落とされた。

 

 白い築地が破られ、荒らされた屋敷。

 周囲には野次馬がたかり、口々にヒソヒソ声で話していた。

 断片的に聞こえてきた話に、駒吉は呆然とするしかない。

 

 昨晩、主人とその妻女、使用人らが何者かに殺されたらしい。

 

「あ、あ、あ…あの、あの」

 

 駒吉はビクビクしながら、勇気を振り絞って声をかけた。

 

「あの…カナエ……ここの、お嬢さん、達、は?」

 

 訊かれた年増の女達は、最初怪訝に駒吉を見たが、おどおどと見上げてくる顔に特に害がないとわかると、訳知り顔で喋りだす。

 

「それは…ズタズタに殺されたって話だよ。ひどいもんだねぇ…」

 

 一人が口火を切ると、すぐにもう一人が否定した。

 

「何言ってんのさ? あたしゃ、強盗の野郎に攫われたって聞いたよ」

「まァ…ここのお嬢さん、可愛くていらしたからねぇ……ひどいことされてなけりゃいいが……」

「そうなのかい? 私はどこぞにフラフラ姿を消したって聞いたよ」

「どこぞにフラフラって?」

「そりゃ、目の前で親を殺されたんだァ……気もおかしくなっちまうだろうよ……」

「そうなのかい?」

「目の前で? ひどいねぇ」

 

 自分がその場にいたわけでもないのに、想像たくましい女達は口々にいかにも痛ましそうに話しながらも、愉しんでいる。

 

 その場で女達のいうことを真に受けて、青くなっていたのは駒吉だけだった。

 女達の語るカナエの様子を想像するだけで、駒吉こそおかしくなってしまいそうだった。

 

 ひどい、ひどいと言いながらも、いつの間にか話題は亭主の愚痴になり、料理の話になり、最終的には自分の子供が無事であることに安堵しながら、女達はその場から離れていった。

 駒吉のことなど、すっかり忘れられている。

 

 一人、二人と野次馬は減っていった。

 

 しかし駒吉は動けない。

 泣くこともできず、そこから動くこともできず、ただただ立ち尽くすだけだった。

 

 ―――――ありがとう!

 

 花開くように笑ってくれたのは、つい昨日だったというのに。

 

 何も、わからなかった。

 自分は何も、出来なかった。

 

 とてつもない寂しさと無力感が、駒吉の思考を奪っていった。

 

 気付けばふたたび蝶を作っていた。

 自分に出来ることは、結局それしかなかった。

 

 お嬢様(カナエ)が死んだことなど考えたくない。

 ただひたすらに、祈るように、駒吉は蝶を作った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 二年後。―――――

 

 

 胡蝶カナエがいなくなった日、とうとう親方の元に戻ることもなかった駒吉は、すっかり魂を抜かれて乞食のような有様になっていた。

 

「とうとう追ン出されたのかァ? 仕方ねぇ…」

 

 同じ行商仲間で、何度か世話になっていた端切れ屋のマツは、気の抜けたようになっている駒吉に呆れながらも同情してくれた。

 ツテを紹介してくれ、紙屑拾いなどもしたが、ほとんど稼ぎはなかった。

 

 それどころか、拾った紙を古紙問屋に売ることもせず、相変わらず蝶の細工を作ってばかり。

 しかもそれを売ることすらもしない。

 

「テメェ! いい加減しろ!! いつまでそんな売り物にもならねぇモン、作ってんだよ!」

 

 駒吉はとうとう唯一の友達からも見放された。

 

 その日も、駒吉は朽ちかけた社の軒先で蝶を作っていた。(とはいえ、もはやほとんど材料もなく、はたから見れば竹ひごで遊んでいるだけかと思われたが)

 

 さびれた神社は幽霊が出るだとか、鬼が出るだとかと噂され、昼間でも人気がほとんどない。

 だが、その代わりに気まぐれで駒吉をいじめてくるような輩もおらず安全だった。

 

 朝から天気は悪く曇っていたが、昼過ぎになるといよいよ雨が降り始めた。

 

 駒吉は並べていた蝶をあわてて風呂敷の中に集める。

 所々破れ汚れたその風呂敷を、濡れないように懐に仕舞った。

 

 軒の奥に身を寄せて、じっと雨が止むのを待つ。

 

 雨が降っていると、蝶を作ることが出来ない。

 駒吉はやる事もなくてつまらないのと、お腹が空いているのもあって、段々と眠くなってきた。

 

 うとうととしかけた時に、何かが横に立つ気配がして、ついでフシュウゥと奇妙な息遣いが聞こえてきた。

 そろそろと目を開いた駒吉は、そこにいた異形の者に声を失った。

 

 灰色の肌に、額の中央に生えた大きな角。

 その横にも小さな角が生えている。

 目は紅く爛々と光り、蜥蜴のように細長く伸びて二つに割れた舌がチロチロと動く。

 

「ヒッ……ヒッ……ヒ、ヒヒャ……」

 

 この数日誰とも話していなかった駒吉の声はつぶれて声にもならなかった。

 

「ケッ! 不味(マズ)そうな乞食かよ……まぁ、食えりゃ何でもイイ…」

 

 鬼は不満気だったが、駒吉を食べようと手を伸ばしてくる。

 首に手をかけられる直前、ボトリとその鬼の腕がいきなり落ちた。

 

 ギャアアア!!!!

 

 鬼の断末魔のような叫び声に、駒吉は耳がつぶれそうになった。

 

 思わず目をつむり、そろそろと開く。

 誰かが鬼と自分との間に立ち塞がっていた。

 

「……動かないで」

 

 小さな声。

 だが、駒吉は耳を疑った。

 

 ハッとして見上げた先に、懐かしい自分の作った蝶の髪飾りがある。

 

「…大丈夫。私が守るから…すぐに済むわ」

 

 鬼から目を逸らせないのか、彼女は背を向けたまま、それでも相変わらず優しい声で宥めてくる。

 

「……あ……あ……」

 

 駒吉は胸が詰まって、言葉にならなかった。

 

 何度も何度も心の中で呼び続けた名前。

 だが、声が出ない。

 

 期せずして、動けなくなってしまった駒吉は、彼女に言われるままその場で固まっていた。

 

 よく見れば、彼女は以前のあでやかな絹の着物とは打って変わって、見慣れない黒い詰襟の服に、揚羽蝶の(はね)のような模様の羽織を着て、手には桜色の刀が握られていた。

 

 ただ変わらないのは長く艷やかな黒髪。

 蝶の髪飾りがよく映えている。

 

 後ろ姿でしかなかったが、間違いなくカナエだと、駒吉は確信した。

 

「テメェ……鬼狩りがァッ!」

 

 鬼はブンと斬られた腕を振り回すと、すぐに元のような手に戻った。

 

「後ろの乞食よりゃウマそうな女じゃねェか……ヒヒヒ」

 

 下卑た笑いを浮かべると、鬼は襲ってこようとしたが、爪の先すらも彼女には届かなかった。

 

 花の呼吸 肆ノ型 紅花衣

 

 鬼が手を伸ばすよりも先に、彼女は跳躍して鬼を寸断していた。

 ドスン、と鬼の体が地面に倒れる。

 

 駒吉はゴクリと唾を呑むと、立ち上がってそろそろと近づいた。

 深呼吸し、ようやく彼女に声をかけようとして、息をのむ。

 

 先程まで厳しい表情で鬼を見据えていたのが嘘のように、カナエは悲しそうに塵となって消える鬼を見ていた。

 刀を鞘に収めると、膝をつき、消えていく鬼にむかって何かつぶやいていた。

 

 少しずつ雨が止んできて、雲の間から光が漏れ出す。

 

 鴉が一声鳴いて、彼女の肩に止まった。

 ギャ、ギャと何か話しているかのようだ。

 立ち上がった彼女はチラリと駒吉を見て、こちらに来ようとしたが、ちょうど後ろから声がかかった。

 

「大丈夫ですか? 怪我は?」

 

 目だけを出した覆面姿の男だった。

 黒い装束を着ていて、まるで人形浄瑠璃の黒子のようだ。

 

「あ、はい。私は大丈夫です。あの、この人を保護して下さい。鬼に狙われていたの」

「はい。わかりました」

「では…私は行きますね」

 

 駒吉に向かって軽くお辞儀をして、カナエは立ち去っていく。

 

「あっ……あ……待っ…」

 

 駒吉はあわてて追いかけようとしたが、木の根に足をとられてこけた。

 バシャリ、と水たまりの泥が顔にかかる。

 

 あっという間に彼女の姿は見えなくなった。

 

「おーい。大丈夫かよ? 怖くて足が震えたか?」

 

 のんびりした声で覆面の男に尋ねられ、駒吉はフルフルと頭を振った。

 

「怪我とかはねぇか? 汚れてんのは……元からだよな?」

「あ…あ…あの、あの人は?」

「うん? 助けてくれた人のことか? ありゃ、鬼殺の剣士だよ。鬼狩りさ」

「鬼…狩り?」

「お前を襲った、あの化け物、ああいうのを退治してくれるのさ」

「……鬼…退治」

「そ。お前、ここ根城にしてんのか? もっと暖かい、日当たりのいい場所に行きな。こういう昼間でも暗いような場所ってのは、鬼が棲みつきやすいんだ。ヤツら、日の光が苦手だからな」

 

 そう言うと、覆面の男は駒吉にわずかな金を握らせた。

 

「これ。大してないけど……ちゃんと飯食って、古着屋で着物でも買いな。そしたら職探しもできるだろう」

 

 そのまま帰ろうとする覆面男の足に取り縋って、駒吉は叫んだ。

 

「あの(ひと)には…どこで会える!? 教えてくれ!」

 

 覆面男は少しだけ驚いたようだが、実のところ胡蝶カナエに助けられた男がその姿に魅入られて、彼女のことを知りたがるのは珍しくなかった。

 この乞食もそういう男の一人なのだろう…と多少憐れみつつ、呆れた。

 

「あー…ムリムリ。隊士様は忙しいんだ。まして、あの人は柱になろうかってぐらいに強いんでな。あっちこっちに行かされて、お前さんの相手なんぞしてる暇はないよ」

「お、お、お願いだ! やっと…会えたんだ。お願いだ!」

「そうは言ったって…俺だって、隊士の任務先なんぞ知らないよ。鬼が相手なんだから、鬼のいるところにいるんだろうけどな」

「………鬼の…ところ」

「オイオイ。だからって、鬼がいそうな場所に行こうなんて思うなよ。今日みたいに助けられるなんて、運がいいんだからな。本当だったら、殺されてるところだ」

 

 覆面男はポンポンと駒吉の肩を叩くと、去っていった。

 

 駒吉は今になってボロボロと涙がこぼれた。

 

 ようやく…ようやく会えたのに、一言も話せなかった。 

 名前を呼ぶことすらもできなかった。

 震える唇がその名を紡いでも、もう彼女はいない。

 

 懐から落ちた風呂敷が開いて、作った蝶が濡れた地面の上に広がった。

 今までただ彼女の為に作ってきた。

 彼女のあの笑顔の為に。

 

 もう一度だけ、もう一度だけ見たい……。

 

「……鬼の…ところ……」

 

 つぶやきながら、蝶を拾ってまた風呂敷に入れる。

 破れた穴から一羽だけ、ヒラリと落ちた。

 

「……鬼の…ところ……」

 

 ヨロヨロと、駒吉は彼女の去った方へと歩き出した。

 

 

◆◆◆

 

 

 駒吉は彷徨した。

 

 昼なお暗い路地裏や、橋の下、打ち棄てられた寺社や廃墟となったお屋敷。

 夜の闇の中をどこまでも、カナエを探した。

 

 会いたい…

 

 会いたい…

 

 会いたい……もう一度。

 もう一度だけでも。

 

 笑顔が見たい。

 

 いや、笑顔でなくともいい。

 あの美しい横顔だけでも。

 

 振り向いてくれなくてもいい。

 駒吉のことを気付いてくれなくとも、忘れ去っててもいい。

 

 ただ、もう一度だけ、彼女に会いたい。

 

 ―――――鬼が相手なんだから、鬼のいるところにいるんだろう…

 

 覆面男が何気なく言った言葉が、空腹と不眠でまともに思考できなくなった駒吉の頭の中で、何度も反芻していた。

 彼女を探してひたすら歩き続けた。

 

 土砂降りの雨の中、駒吉はとうとう動けなくなった。

 路地裏に座り込み、ズルズルと体が倒れていった。

 

 ガラス玉のようになった目の中で、突然の雨に往来を忙しく駆けていく人の姿が過ぎていく。

 誰も駒吉のことに気付かない。

 気付いていても、知らんぷりする。 

 

 やがて雨が止み、夜の帳が降りる。

 

 冷たい夜風が濡れた駒吉の体に容赦なく吹きつけた。

 寒さを感じて、駒吉はかろうじて意識を取り戻す。

 

「…鬼…の……と…こ」

 

 その言葉は声にさえならなかった。

 だが、死が目の前に来て、急に駒吉は思い至った。

 

 鬼を探さなくとも、彼女が来てくれる方法はある…。

 

「お願い……お願い……だ…俺を…鬼に…」

 

 祈りにも似た、駒吉のつぶやきを聞いたのは神様ではなかった。

 

 どこまでも哀れで、どこまでも惨めな、死にゆく魂。

 

 その唯一の願いを叶えたのは、夜の闇の中、煌めくような白橡色の髪の、慈悲深い笑みを浮かべた()だった。

 

「……可哀想に…助けてあげるよ。俺はやさしいから…」 

 

 

 

 それから―――どれだけの時が過ぎたのか…駒吉にはわからなかった。

 

 ひたすらに人を喰らい続け、自分の名前も、なぜ蝶にこだわるのかも忘れかけた頃。

 

 

 ようやく彼女は現れた。

 

 

 

<つづく>




次回は2022.02.05.土曜日の更新予定です。



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第四章 戀慕(三)

 鎹鴉の先導でやって来たのは、誰知ることもない打ち棄てられた神社だった。

 

 おそらく昔はもっと整然と管理されていたのだろうが、いつしか参拝者もおらず、周囲を囲った生け垣も崩れ、伐採されることもない伸び放題の木々で鬱蒼としている。

 

「花柱様も気をつけて下さい。今まで四人の隊士が行きましたが、朝になって見に行ったら、()られてました。それも、まるで体の中の血と肉だけを吸い尽くしたみたいに…骨と皮だけの干からびた状態になっていたんです。おそらく血鬼術だと思われますが…」

 

 その隊士達の遺体処理をした隠から話を聞いた胡蝶カナエは眉を寄せる。

 

 あまりに無残に殺された罪ない人々の死を見聞きすると、鬼ともわかり合えるはず…という自分の考えに自信がなくなる。

 だが、そうした残酷な行為をやめさせるためにこそ、自分は剣をとったのだ…と、再び自らに奮い立たせて、カナエは一歩石段を昇る。

 

「胡蝶」

 

 突然、背後から呼びかけられてカナエは驚いて振り向いた。

 気配なく近づいてきたことに警戒しながらも、それが岩柱の悲鳴嶼行冥だとわかると、カナエはホッとした笑みを浮かべた。

 

「悲鳴嶼さん」

「……任務か?」

 

 悲鳴嶼はチラリと上を向く。

 あるいは瞳の見えない悲鳴嶼は、カナエよりももっと鋭敏にこの神社から漂う鬼の気配を感じ取っているのかも知れない。

 

「はい。悲鳴嶼さんもですか?」

「私はもう終わった…」

 

 日が暮れてから一時間ほど経った程度だったが、鬼が早くに見つかったのだろう。

 悲鳴嶼は鬼と対峙すれば瞬殺するので、任務といってもそのほとんどの時間は鬼の探索に充てられるのだ。

 

「流石ですね」

 

 カナエはニコッと笑って言ったが、悲鳴嶼はその男であればほぼ蕩けてしまいそうな笑顔を見ることもなく、夜となって愈々恐ろしげに黒い影を落とす鬱蒼とした木々を見上げていた。

 

「私も行こう…」

 

 ボソリと言って、石段を登り始める。

 

「えっ?」

 

 カナエは驚いて、あわてて悲鳴嶼の後ろについていく。

 

「大丈夫ですよ、悲鳴嶼さん! 帰ってのんびり夕食でも取ってください」

「夕方に食べたから要らん」

 

 つっけんどんに答えて、悲鳴嶼は振り返りもせずズンズンと登っていく。

 

 カナエはあえてわかるようにため息をついてみせたが、それでも悲鳴嶼は歩みを止めなかった。

 

「心配性ですねぇ」

 

 あきれながら、カナエも石段を上っていく。

 

 実のところ、悲鳴嶼がカナエの任務に助太刀するのはこれが初めてではない。

 おそらくカナエ達姉妹の身元引受人を自認しているのか、何かにつけ気にかけてくれるのだ。

 

 いや、カナエに関しては特に心配させる理由があった。

 

 ―――――鬼を救いたい…

 

 鬼が元は人であったという話を聞いたカナエは、そんなことを悲鳴嶼に語ったことがあった。

 悲鳴嶼はカナエのその想いを甘い同情だとして、油断を招くのではないかと心配しているのだ。

 

 今になってカナエは真面目な悲鳴嶼には言わない方が良かったかなぁ…と少しばかり後悔している。

 花柱になって随分と経つのに、未だに子供のように扱われて、少々くすぐったい。

 

 いずれにしろ、こうなってしまうと頑固な悲鳴嶼を説得するのは骨が折れるので、諦めて助太刀をお願いすることにしよう。

 

「…異能の鬼のようです。殺された隊士達は骨と皮だけになって、干からびた状態であったと…」

 

 無言で頷き、悲鳴嶼は静まり返った境内を歩いていく。

 

 すっかり朽ち果てて、屋根が半分落ちた社の前に来た時に、フワリと飛んできたのは仄かに光を帯びた白い蝶。

 

 カナエはすぐさま刀の鯉口を切った。

 悲鳴嶼は溜めることもなく呼吸の技を放つ。

 

 岩の呼吸 壱ノ型 蛇紋岩・双極

 

 鉄球と斧がその重さからは考えられない早さで回転しながら、社の屋根にゆらりと揺れた影を攻撃する。

 だが、手応えはなかった。

 ザアアァ…と白く光る鱗粉をまとった無数の蝶が空へと舞う。

 

 社の側にそびえ立つ楠の枝の上で、残念そうにつぶやく声がした。

 

「あぁ…俺の蝶が……可愛い蝶々が殺されたよ……」

 

 その小さな声ですらも、悲鳴嶼には十分だった。

 すぐさま鉄球が唸って、声のした方に飛んでいく。

 

 枝だけがドサリと落ちた。

 

 姿はないが、気配はある。

 

 カナエも悲鳴嶼同様に静かに呼吸をしながら、鬼の所在を探った。

 

 だが、緊張した糸の間をかいくぐるかのように、また白い蝶がフワリフワリと飛んでくる。

 その蝶に目がいった次の瞬間に、目の前に立っていたのは少女だった。

 

 少女は後ろを向いていた。

 長い黒髪が揺れている。

 朱色地に菊や鞠が染め抜かれた艶やかな友禅の振り袖。

 

 カナエは奇妙な感覚にとらわれた。

 その着物に既視感がある…。

 

 混乱するカナエに悲鳴嶼の怒声が飛んだ。

 

「胡蝶! 放念している暇はないぞ!」

 

 叫ぶなり悲鳴嶼は少女に向かって鉄斧を振り下ろした。

 ザックリと身が裂けるはずの攻撃だったが、少女の姿はいくつもの蝶となって散っただけだった。

 

「クッ……幻か…」

 

 白く仄かな光を帯びた蝶はふわふわと頼りなく飛びながら、悲鳴嶼とカナエを嘲笑っているかのようだった。

 二人が油断なく構えながら様子を見ていると、蝶達は一つにまとまっていく。

 やがて人型となって、二人の目の前に現れたのは先程の少女―――

 

「なっ…!」

 

 カナエは思わず後ずさった。

 

 目の前に懐かしい姿の自分(カナエ)が立っていた。

 柔らかい笑みを浮かべて、手を差し伸べてくる。

 

「……どうした、胡蝶?」

 

 カナエの動揺に、行冥は眉を寄せた。

 

 カナエは目の前に立つ自分を凝視しながら、深呼吸をして気を落ち着けた。

 

「人型を取りました。なぜか、私の姿で」

「………撹乱させる気かもしれぬ。油断するな」

「はい」

 

 言うなりカナエは跳躍する。

 自分の人型に向かって技を放つ。

 

 花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬

 

 同時に行冥も技を叩き込む。

 

 岩の呼吸 弐ノ型 天面砕き

 

 人型はあっさりと崩れた。

 いくつかの蝶は逃れてまたヒラヒラと飛び回ったが、ほとんどの蝶はつぶれて落ちていた。

 

 カナエはその蝶をどこかで見た気がして、そっと手に取る。

 黒い竹ひごで作られた骨に、色紙を張り合わせた作り物の蝶。

 

 無意識に…髪に留めた蝶の髪飾りに手が伸びる。

 

「……やっと会えた」

 

 そっと囁く声が、カナエの耳朶を震わせた。

 

 まったく気配を感じなかった。

 いつの間にか、その鬼はカナエの後ろに立っていた。

 

 髪飾りを触ろうとした手をそっと掴まれる。

 

「……良かった、会えて。……待ってたよ」

 

 その言葉を聞いて、カナエは一気に戦慄した。

 引き攣った顔でゆっくりと振り返る。

 

 カナエと同じ年頃くらいの少年だ。

 

 灰白の顔に揚羽蝶のような紋様。

 光る鱗粉を纏った薄い水色の髪。

 長い前髪の間から突き出た白い角は、他の鬼に比べるとまるで象牙のように美しかった。

 

 殺気はない。

 むしろ親しげに紅い目を細めてカナエを見ていた。

 

 その片方の目には下・肆の文字。

 十二鬼月とわかり、体が固まる。

 

「………誰?」

 

 問いかけると、途端に鬼の顔に失望が浮かんだ。

 あまりに人間くさいその表情に、カナエはますます訳がわからなくなった。

 

「胡蝶!」

 

 悲鳴嶼が叫ぶが、あまりにカナエと鬼との距離が近すぎて手が出せない。

 

「引きずられるな!」

 

 あるいは悲鳴嶼はカナエが鬼の幻惑か何かに嵌まり込んでいると勘違いしたのかもしれない。

 

 だが、そうではなかった。

 

 優しげに笑う鬼は、カナエに()()()()()()()()()

 掴んでいた手も、そっと離す。

 

「……おいで」

 

 少年が中空に腕を伸ばすと、まるで羽のように少年の背から白い蝶が無数に現れる。

 

 ザアアァ…と三人をまた取り囲むように飛んだ後、一つの塊になった。

 それは人よりもはるかに大きな蝶だった。

 口のあたりから白い管が出てきたかと思うと、悲鳴嶼の首に向かって鋭く伸びてくる。

 

「クッ!」

 

 すぐさま悲鳴嶼はその管を斧で断ち切ったが、それはまた小さな蝶へと姿を変えた。

 再び悲鳴嶼は技を放って、その巨大な蝶を散らしたが、またいくつかの蝶が地面の上につぶれて落ちただけだった。

 

 攻撃を受けるたびに散っては、何度も再生して執拗に襲ってくるので、悲鳴嶼はカナエの側にいる鬼の首がとれなかった。

 この巨大蝶を無視して鬼に向かえば、あの白い管が首であれ足であれ、吸い付く。

 そうなれば、殺された隊士達のように、体内の血肉を吸い取られるだろう。

 

「胡蝶! その鬼の首をとれ!」

 

 悲鳴嶼の声に、カナエはハッと我に返った。

 

 鬼から飛び退って間合いをとる。

 刀を構え、呼吸をしながら問う。

 

「あなたは…私を知ってるの?」

「………」

 

 鬼は答えず、笑った。

 

「あのひとの言った通りだ」

「あのひと?」

「あのひとは俺のことなど覚えてないだろう…って言ったんだ。でも、それでもいいって俺は言った。あのひとは約束を守ってくれた。俺は鬼になれた。やっと、あなたに会えた」

 

 その言葉を聞いたとき、カナエは慄然として動けなくなった。

 

 体の中心は凍りつき、血液は一気に沸騰したかのように熱い。

 

「……誰なの?」

 

 震える声で尋ねても、鬼は答えなかった。

 ただ沁み入るような柔らかな笑顔を浮かべるだけだ。

 

「この蝶達は、特別だよ」

 

 鬼がそう言って両手を広げると、そこから現れたのは色とりどりの美しい揚羽蝶だった。

 青、赤、紫、橙、緑、黄色……それらの蝶は白い蝶と同じように、ほのかに光る鱗粉を帯びて、幻想的に闇の中を浮遊した。

 

 不意に。

 

 シャンシャンと、どこからか鈴のような音が聞こえてくる。

 風が心地良いほどに軽く耳元を吹き抜ける。

 暗闇に紅い木が逆立ちして浮いている。

 

 ザ、ザ、ザと頭上から音がして見れば、彩り豊かな布が幾重にもたなびいている。

 いや、よく見ればそれは大量の蝶の群れだ。

 

 紅い木の枝に凭れかかって、少年が唄っている。

 

 

 僕の蝶々。

 僕の蝶々。

 君のために作った蝶々。

 ヒラヒラと舞って。

 君の髪にとまるよ。

 ヒラヒラと踊って。

 君の指の先にとまるよ。

 喜ぶならいくらでも。

 僕の蝶々。

 君のためにたくさん。

 君のためにたくさん。

 僕の蝶々。

 君が笑うから。

 僕の蝶々。

 ぜんぶあげる。

 僕の蝶々。

 君のための蝶々……

 

 

 カナエはその時、わかっていた。

 これは幻覚だと。

 

 おそらく、蝶が撒き散らす鱗粉に幻惑作用のある毒が仕込まれているのだろう。

 いっそそれを受け入れてしまいたいくらい、その蝶達の舞は美しかった。

 

 だが―――カナエは息を吐ききると技を放つ。

 

 花の呼吸 弐ノ型 御影梅

 

 自らを中心とした斬撃によって、蝶の舞はあっけなく終わった。

 バタバタと落ちた蝶は、本物ではない。作り物の蝶だった。

 

 だが、わずかに攻撃を逃れた蝶が、カナエの肩に、耳に、手にとまる。

 途端に力が抜けていく。

 血を吸い取られているのだろう。

 

「さぁ…早く」

 

 鬼がつぶやきながら、手を広げてカナエを誘う。

 

 また無数の蝶が飛ぶ。

 

 悲鳴嶼が相手していた巨大な蝶も散って、一気に悲鳴嶼に襲いかかる。

 

 岩の呼吸 参ノ型 岩躯の膚

 

 鉄球と斧が悲鳴嶼の周囲で凄まじい勢いで旋回する。

 蝶達はみるみる弾き飛ばされたが、それでもわずかな隙間からヒラリと入り込む蝶がある。

 

「ウグッ!」

 

 悲鳴嶼のうめき声が聞こえた。

 

 このままでは自分も、悲鳴嶼も、死んだ隊士達と同じように干からびてしまう……。

 

 カナエは迷いを捨てるしかなかった。

 この鬼の正体が何であれ、鬼である以上、攻撃してくる以上、もはや選ぶべきは一つしかない。

 

「…く…ッ…う…」

 

 カナエは歯軋りすると、呼吸を深めて渾身の力で刀を振るった。

 

 花の呼吸 壱ノ型 椿ノ火影

 

 鬼は避けなかった。

 首が落ちても、その顔は微笑んでいた。

 

 カナエの耳に止まっていた紫の蝶は、ただの作り物に戻り、ほたりと地面に落ちた。

 

「……嬉しい…よ……」

 

 鬼がつぶやく。

 

 カナエはまだ息が上がっていた。

 いや、むしろ死にゆくその鬼の姿を見てこそ、心臓が早鐘を打つ。

 

 肩を上下させながら、カナエは鬼を凝視していた。

 

「俺の…つけて…くれ…てる。……う…れ…しい…」

「あ……」

 

 カナエは鬼の首の前に座り込んだ。

 

 ようやく思い至ったのだ。

 この鬼が、カナエのつけている蝶の髪飾りを作ってくれた少年だと。

 

 だが、そうとわかっても、カナエの記憶の中で、少年の顔は朧で、名前も思い出せない。

 

「お願い…教えて…」

 

 カナエは頼んだが、かすかな声は震えて、死にゆく鬼に聞こえなかった。

 

「……全部、あげる……俺の作ったの…ぜんぶ……」

 

 ゆっくりと澄んでいく紅い目は陶然としてカナエを映す。

 

「待って! お願い……教えて!」

 

 カナエの叫びは届かなかった。

 

 目が消え、口が消え、声をなくす、最期まで幸せそうに笑って…その鬼は塵と消えた。

 

 

<つづく>

 

 





次回は2022.02.12.土曜日の更新予定です。



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第四章 戀慕(四)

 …………

 

 

 ……僕の蝶々。

 君のためにたくさん。

 君のためにたくさん。

 僕の蝶々。

 君が笑うから。

 僕の蝶々。

 ぜんぶあげる。

 僕の蝶々。

 君のための蝶々……

 

 …………

 

 夢でも、現実でも、闇の中に立つと聞こえてくる歌。

 

 彼にとっては祈り。カナエにとっては呪い。

 

 ―――――……やっと会えた

 

 そう言われても、カナエには彼が一体誰なのかまったくわからなかった。

 

 最期まで、彼は名前を教えてくれなかった。

 顔もおそらく人間の頃とは変わり果ててしまっているのだろう。

 

 灰白となった顔の、蝶のような紋様も、光る鱗粉を纏った薄い水色の髪も、カナエの思い出の中に眠る人物の姿を思い起こさせてはくれない。

 

 微かに見覚えがあるのは、沁み入るように笑った…優しそうな目だけ。

 

「…………」

 

 小さい頃から誰からも好かれやすい性格ではあったと思う。

 人見知りが少なくて、誰に抱っこされてもニコニコ笑っている赤ん坊だった…と母は言っていた。

 だから、誰もに愛してもらえることに、カナエは苦痛を感じたことはなかった。

 

 けれど今は―――…

 

 鏡に映る自分を暗澹とした気持ちで見つめる。

 

 女として美しいと言われることも、可愛いと褒めそやされることも、素直に嬉しかったのに……今はどうしてこんなに苦しくて、辛くて、怖いのだろう…? 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 いつかは…鬼とわかり合える日がくるかもしれない……。

 

 それは鬼が元は人間であったと聞いた時から、カナエに芽生えた希望だった。

 元は人間であったものに心が通じない訳がない。どこかに方法はあるはず…。

 

 だが、鬼殺隊にあってそんな事を言えば、信じられないように皆見てくる。

 

 カナエ達を助けた悲鳴嶼も、到底理解できない様子だった。

 教えてくれた隠も、そんな考えは危険だと言った。

 カナエはこの鬼殺隊という組織の中において、自分の考えは言わない方がいいのだと思って口を噤んだ。

 

 悲鳴嶼の紹介で、初めて育手である勝母に会った時に、なぜ剣士になりたいのか聞かれ、カナエは最初、鬼に親を殺された復讐なのだと答えた。

 それは嘘ではない。

 

 だが、そんな境遇の人間は鬼殺隊には珍しくない。

 勝母はその理由に同情はしなかった。

 

「親の為を思うなら、鬼に復讐など考えずに、自分が幸せになれる道を考えることだ。それはここにはないよ」

 

 後になればそれは弟子志願者は皆、言われることで、カナエ達にも同じことを言ったのだとわかったのだが、その時のカナエはここで勝母に見放されれれば、もう自分にもしのぶにも機会がなくなるのだと必死だった。

 思わず押し籠めていたその願いが口を衝いて出た。

 

「私は……鬼を、救いたい! ………です」

 

 一瞬、静まり返った後、騒然となった。

 その場にいた他の弟子達は呆然となった後、口々ににカナエを(なじ)った。

 

 姉弟子の律歌(りっか)はあまりに興奮した弟子達をなだめたものの、やはりカナエの言う事は理解できないようだった。

 

 だが、勝母は鷹揚に笑った。

 

「大言壮語だね。言うからには、救ってご覧」

 

 初めてだった。

 カナエのその希望(のぞみ)をまともに認めて、聞いてくれた人は。

 

 しかし程なくしてカナエは勝母の言葉の意味を悟った。

 弟子として勝母の元で修練する事は、生半可な覚悟では出来ない。

 

 一つ課題をこなせば、それ以上の事が次々と要求される。

 自分の限界まで体を痛めて、もう無理だと諦めかけると、自分の言葉と共に、勝母の隻眼が問うてくる。

 

 お前にとって、鬼を救う覚悟はその程度か…? と。

 

 勝母に与えられた修練をこなしていく内に、いつの間にかあの時カナエを詰っていた弟子達は姿を消した。

 皆、厳しい修行に耐えられなかったからだ。

 

 カナエが最終選別から帰った日、勝母はよくやったと褒めてから、自分の話をしてくれた。

 

 自分が幼い頃、母親と赤ん坊だった弟を鬼に喰われたこと。

 自分を助けた元花柱であった祖母が、その鬼によって殺されたこと。

 その鬼を殺す為に自分は叔母からの血反吐をはくような修練にも耐え、鬼殺隊に入り、ひたすらその鬼を殺す為に強くなる事を望んだのだと。

 

 だが、ようやくその鬼と対峙して首を取った時、訪れたのは絶望と空虚だった……。

 

「私は本当はその鬼を殺したくなかった。だってその鬼は私の父親だったのだから」

 

 勝母は遠い昔のその事を語りながら、組み合わせた手を握りしめていた。

 

「あんたが鬼を救いたいのだと…元は人であったのだから、わかり合える…と言った時に、驚いたよ。そんな考えもあったのだと…」

 

 勝母は寂しそうに笑った。

 

「私には…父上を救うことは出来なかった。そんな考えは思い浮かぶこともなかった。だが、あんたは違うのだろう。鬼に親を殺されても尚、その優しさを持ちながら、強さを備えれば、或いはあんたの願いは叶うかもしれない…」

 

 そう言った勝母の一つしかない目は、カナエを優しく包んでいた。

 自分の言う事を馬鹿にすることもなく、否定する事もなく、勝母は純粋に信じてくれていたのだ。

 おそらくそれは勝母にとっても、自身で叶えることのできなかった望みだったのかもしれない。

 

 けれど……自分はどこまで勝母の苦しみを理解できていたのだろう……。

 

 こんなにも…ただ知り合いであっただろう鬼を斬って捨てた……それだけでも、こんなに苦しいのに。

 

 たとえ鬼とはいえ親を殺さねばならなかった勝母の絶望がどれほどであったのか、本当に自分は理解できていたのだろうか?

 

 ―――――僕は鬼になれた。やっと、あなたに会えた……

 

 彼は…カナエに会うために鬼になった。

 彼の顔も、名前も思い出せない薄情な女のために、鬼になった。

 

 鬼となった運命から切り離してあげたくて、二度とその不幸な人生を送ることのないように願って、剣を振るう。

 それはカナエなりの正義であった。

 鬼殺の剣士となった理由でもあった。

 

 けれど、あの鬼はそのカナエの矜持を微塵に砕いた。

 

 彼が巨大で強かったからではない。

 彼が優しいままに鬼となって、カナエに討たれるために攻撃してきたのだとわかったからだ。

 

 やさしい、狂気に満ちた鬼。

 

 彼を鬼にしたのはカナエだ。

 

 そんな自分が、一体どうやって鬼を救うというのか……。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「私、わかってなかったかもしれないわ…」

 

 カナエはつぶやいた。

 隣で薬草を採っていた薫が首を傾げる。

 

「何がですか?」

 

 カナエはしばらく風の中に立って黙り込んでいた。

 

「鬼を助けること…誰かを好きになることも……」

「カナエさん?」

 

 聞き返した薫の首には小さな巾着がぶら下がっていた。

 中には粂野から貰ったという琥珀の数珠が入っている。

 

 死んでしまった粂野匡近への愛情を認めるまで、薫が苦しみ悩んでいるのを、カナエは不思議に思っていた。

 人を好きになる事は素晴らしいことだし、幸せなことだとばかり思っていたから。

 カナエにとっての男女間の愛情というものの象徴は、両親だった。柔らかく互いを包み込む穏やかな愛の形だった。

 

 だが、それは一つの形態でしかない。

 

 暗い表情で黙り込むカナエに薫は何を思ったのか、いきなり謝ってきた。

 

「あ…あの、カナエさん。すみません。色々と心配をかけてしまって…」

「どうして薫が謝るの?」

「……私は、その、()()()()()が昔から苦手というか、疑ってしまうところがあるから…」

「疑ってしまう…って?」

 

 薫は逡巡してから、訥々と語った。

 

「私の本当の父母は駆け落ちしたんです。それで私が生まれましたが、父は生まれてすぐに亡くなったそうです。その後、母は苦労して私を育ててくれましたが、病に(かか)って、最後には自殺しました。二人とも幸せだとは思えなかった。周囲(まわり)にも迷惑をかけて、二人だけの幸福を追い求めた先で……結局は二人とも……潰れてしまったんです…」

 

 カナエはようやく薫がああまで頑なな理由がわかった。

 単純に真面目な性格というだけのことではなかったのだ。

 

 自分の父母が燃え上がった恋の熱にうかされて、人の道に外れた行為を行った事だけでなく、結局は不幸に終わってしまった事が、薫に恋愛という、本当なら甘美で心浮き立つものを忌避させたのだろう。

 

 だが、カナエもまた今は誰かを好きになることが、ただ甘いだけのものでないとわかっている。

 それが時に人を狂わせるほどに獰猛で真摯な熱だと。

 

 怖い…。

 

 鬼になることを望むほどにカナエを求めた彼の気持ちが怖い…。

 自分は一体どうすれば彼を救えたのだろう…?

 名前も、顔すらも思い出せない彼を。

 

 沈み込むカナエを元気づけようと、薫は微笑みを浮かべて励ましてくれる。

 

「カナエさんは…気にしないで下さい。カナエさんはお優しいし、綺麗なんですから、悩む必要なんてありません。皆、カナエさんの幸せを祈ってますから…」

「…………」

 

 まるで、呪詛のようだ。

 

 薫の言葉が嫌味でなく、純粋であるほどに、カナエに重くのしかかる。

 まるで、彼に言われたかのように…。

 

 ―――――全部、あげる……

 

 言葉通りに、彼はカナエに全てを捧げた。

 

 人としての生も、命も。

 

 決して受け入れられない狂気のような思慕が、ただ重い枷となってカナエを縛る。

 

 怖い…。

 

 どうして、そんなにまでして彼はカナエに会いたかったのだろう?

 名前も顔も忘れているような女に、なぜ…?

 

 カナエは彼の気持ちを考えたくなかった。

 それは深く底の見えない沼にゆっくりとはまっていくような不安しかない。

 

 苦しい…。

 

 こんな気持ちが自分にあるなど、誰も知らない。

 暗くて寂しくて怖いと惑い泣いているのに、誰も知らないのだ……。

 

 一人…闇の中、震えていると蝶が舞う。

 心配ないよ、と勇気づけるかのように舞う。

 

 それすら恐怖なのに。

 

 朝になって目覚めれば、枕元に置いた、彼の作ってくれた蝶の髪飾りを陰鬱に見つめる。

 

 髪を梳り、今日も挿す。

 

 眩い朝の光の中で、カナエはまだ鬼を救いたいのだと…自分にそれができるのだと、信じていたかった。………

 

 

 

 

<つづく>

 





次回は2022.02.19.土曜日の更新予定です。



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第四章 戀慕(五)

「あ~…君、その蝶の髪飾り。窕繿(ちょうらん)のだねェ」

 

 童磨と名乗ったその鬼は、カナエの髪飾りを見て言った。

 柔らかそうな白橡色の髪の頭頂部は、血を被ったかのように真っ赤で禍々しい。

 

 カナエは刀を構えながら、ビクリと震える。

 彼を殺してから息を潜めていた感情が、ザラリと胸の奥を舐める。

 

「ってことは、君が窕繿を殺したのかな? あ~あ~、お気に入りだったのにねぇ、あの子」

 

 ぺちゃくちゃと喋りだす童磨は、カナエの癇に障る。

 いつもなら鬼に対して人であった頃のことを思い出させようと、話しかける余裕もあるのに、この鬼はなぜだか苛立つ。

 

 厳しい目で睨みつけるカナエにニッコリと笑いかけて、勝手に話してくる。

 

「俺が見つけたんだよ。可哀想に死にかけててねぇ…みすぼらしくて汚くて、本当は放っておきたかったんだけど、鬼になりたい、鬼になりたい…って必死にさ、もう声も掠れてほとんど聞こえなかったんだけど、俺ってば鬼だから気付いちゃったんだよねぇ…」

 

 刀を握りしめる手に力がこもる。

 震えるほどに。

 

 死にかけながら鬼になりたいと……それが、彼の人間としての最期の願いであったという事実を今更ながらに知って、カナエの胸がまた絞めつけられる。

 

 呼吸が…乱れる。

 

 童磨はカナエの葛藤など知る由もない顔で、金色の扇をフワフワとあおぎながら、楽しそうに話し続ける。

 

「俺はなぜだかあの()()には嫌われてるんだけど、でも好みはわかるんだよねぇ…不思議と。長く一緒にいるからかなぁ? 俺が紹介した子はお気に入りになるんだよ。従順で、大人しくて、無欲な、よーく喰べる子だったなぁ…窕繿。小さな村だったら、一晩で喰べ尽くしちゃうんだもの。喰べ方もとても美しいんだよ。あの子の蝶々が蜜を吸うみたいに、人の血肉を吸うんだ。赤ん坊なんて骨も残らない」

 

 そこまで言って、童磨はジロリとカナエを見た。

 グルリと目玉が回ると、そこには上弦・弐の文字が浮かんでいた。

 

 初めて出会った上弦の鬼に驚きながらも、纏っている気配は穏やかで、殺気は微塵もない。

 だが、それをそのまま信じるほどカナエも馬鹿でない。

 

 三日月のように笑みを浮かべた口とは反対に、その紅い瞳は冷たく光った。

 

 次の瞬間にはフイと童磨の姿は消えた。

 カナエは即座に構えたが、童磨は既にカナエと頬が擦り合うほど近くまで来ていた。

 

 耳元で囁く声は抑揚もなくカナエを非難する。

 

「酷いねぇ、君。鬼を殺した戦利品ってワケ?」

 

 気付けば童磨は再び元の位置に立っていた。

 いつの間にか、カナエの右の髪飾りを()っている。

 

「返して!」

 

 カナエが怒鳴るのも、まるで聞いてないように、童磨はしげしげとその髪飾りの蝶を見つめていた。

 ヒラヒラと夜空に浮かぶ月の光に翳して首をかしげる。 

 

「うーん…? なんか、ちょっと違うねぇ。なんだろう? 俺もあの子に貰ったことあるけど、あの蝶はもっと妖しくて毒々しくて綺麗だったなぁ」

 

 ギリっと歯噛みして、カナエは呼吸の技を放つ。

 

 花の呼吸 肆ノ型 紅花衣

 

 しかし手応えはなかった。

 避けた気配も感じさせず、童磨は既にカナエの斜め後ろに立っていた。

 

 速い。

 

 速すぎて移動が見えない。

 

 明らかに自分が動揺して、集中を欠いているせいだ。

 このままでは、殺られる―――……

 

 ジワリ…と汗が額から伝う。

 

 童磨はまだ矯めつ眇めつカナエの髪飾りの蝶を見ていた。

 しばらくして「あぁ…そうか」とつぶやいて口の端を歪める。

 

「やっとわかった。君が…窕繿の愛しい愛しいお嬢様?」

 

 サアァ、と血の気が引いた。

 震えそうになる唇をギリッと噛み締める。

 

 童磨に動揺を悟られないよう、カナエは視線を逸らさず睨み据えた。

 

 鬼は扇を口元に当てて、ニッコリと微笑む。

 

「そっか…そうかぁ。じゃあ、窕繿の望みは叶ったわけだ。ずっと会いたいって言ってたからねぇ。どう? 久しぶりに会って、懐かしい話はできたかな? あぁ……でも残念だねぇ。彼、自分の名前忘れてしまったから……君、教えてあげた?」

 

 ビクリ、とカナエの体が強張った。

 喉の奥底から嗚咽が漏れそうになる。

 

 童磨はカナエの様子を見て、首を傾げる。

 

「あれぇ…? 君も忘れたの?」

「………」

 

 答えられないカナエを凝視した後、童磨は呆れたため息をついた。

 

「やれやれ…やっぱりか。どうせ覚えてないって言ったのに。可哀想な窕繿。愛し君に会えても誰とわからぬまま鬼として殺されて……」

「違う!」

 

 気付くと、カナエは叫んでいた。

 涙が頬を伝って落ちる。

 

「私は……彼を…鬼として殺したんじゃない! 人として死ぬために、鬼の(くびき)から救ったのよ!!」

「アッハッハハハハハハ!!」

 

 童磨は大笑いした。

 しばらく笑い続けて、いきなりカナエを冷えた目で見た。

 

「なんて詭弁だ。笑わせるなぁ…」

 

 ひどく顔を歪めてつぶやいた声は、低く、怨念深く響く。

 

 言われるまでもなく、それはカナエとてわかっていた。

 

 それでも、あの時、彼をこの手で斬ったことに後悔はない。

 あれ以上、彼に人を殺めさせることはさせない。絶対に。

 

 未だに顔も名も思い出せなくとも、カナエの知る彼は、決して人を殺して喰らうことを喜ぶような人間ではなかったはずだから。

 

 涙をのみこんで、呼吸を整える。

 

 花の呼吸 参ノ型 零れ桜・散華

 

 カナエが技を放つと、童磨は扇を振るった。

 辺り一面に氷の粒が降る。

 冷気がカナエの周囲を包み込み、その中で息をすれば肺が凍りつきそうだ。

 呼吸を浅くし、再び技を放つ。

 

 花の呼吸 肆ノ型 紅花衣

 

 刀が大きな円を描き、童磨の首を狙う。

 しかし童磨は焦りもせずに、扇を優雅に動かした。

 

 湾曲した巨大な氷がカナエの攻撃を防ぐと同時に攻撃してくる。

 後方へと回転して避け、すぐに技を放つ間もなく、今度は頭上から巨大な氷柱(つらら)が幾つも落ちてきた。

 

 花の呼吸 弐ノ型 御影梅

 

 技で氷柱を跳ね返しながら、どうにか逃れると、童磨は先程までの剣呑だった雰囲気が嘘であったかのように、のどかに笑っていた。

 

「凄いなぁ…なかなかだね、君。良かったよ、窕繿が君を喰べなくて。あの子、本当に男でも女でも犬でもネズミでも、ごっちゃに食べちゃうからさぁ。君みたいな可愛い女の子が一緒くたにされちゃあ、かなわないよねぇ。俺は違うよ。女の方が美味(おい)しいし、栄養価も高いからね」

 

 ゾッとカナエの背筋に悪寒が走る。

 鬼が女に執着するのは珍しいことではないが、この鬼は、はっきりと理由があって好きなのだ。

 

 いつもならその程度の言葉は流すのに、自分が女であるということに嫌悪を抱く今は、ただ気味が悪い。 

 自分が男であったなら、彼は―――窕繿は、カナエに執着することもなく、鬼とならずに済んだろうか……。

 

 童磨はカナエの本心など知る由もないのに、妙に人の顔色を窺うのだけは得意のようだ。

 いかにも情け深い顔で問うてくる。

 

「どうしたの? 苦しそうだね。君みたいな()()()()には、この世界はつらいんだろうね。大丈夫。俺が喰べてあげるよ。もう苦しまずに、俺と一緒に永遠の時を生きていこう……」

 

 その言葉が本心であったなら、カナエは一層寒気に身を震わせたことだろう。

 だが、目の前の鬼の言葉はどこまでも空虚だった。

 

 彼とは違う。

 言葉は少なくとも、彼は鬼となっても最期まで、カナエだけを見て…カナエの為に死を選んだのだ。

 

 ―――――さぁ…早く……

 

 差し伸ばされた手。

 カナエにその身を委ねるかのように――――…

 

 彼の言葉が真実であればこそ、悩み苦しんだ。

 鬼を救いたかったのに、鬼を作り出した自分に。

 

 それでもきっと、自分はあの選択をするしかなかった。……

 

「……あなたに何がわかるの」

 

 カナエは刀を構え直し、キッと童磨を睨みつける。

 

「私は彼の望みを叶えたわ。彼は私に会い、私に斬られることを望んでいた。だから、もう迷わない。私は彼を……救ったのよ!」

 

 震える叫びは、血を吐くように辛い。

 自分に課した矜持が、がんじがらめに自分を潰そうとする。

 それでもカナエは立っていた。

 

「じゃあ……どうして泣いてるのかなぁ?」

 

 嫌味に尋ねる童磨に、カナエは答えない。

 零れる涙を拭うこともなく、一歩踏み込んで技を繰り出す。

 

 花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬

 

 連撃を避けずに、鬼は対の扇だけで防いだ。

 まるで春の風がそよいだ程度でしかないように。

 

 カナエはすぐさま次の技を繰り出す。

 

 花の呼吸 壱ノ型 椿ノ火影

 

 その(きっさき)は童磨の左目を真っ二つに切り裂いた。

 だがブンと振るった二の太刀は空を切った。

 

 既に童磨は剣先の届かぬ場所に立っていた。「うわーぁ」と白々しい感嘆の声を上げ、押さえていた手を離すと、既に紅い目も、割れた頬も再生されている。

 

「そうやって躊躇(ためら)うこともなく殺したんだろうねぇ、君は。鬼狩りはいつだって自分だけが正しいと信じているんだから。可哀想な窕繿。思い出してももらえず、殺されてもまるで助けたみたいに言われるなんて、心外だろうなぁ。哀れで惨めで…これじゃ、何のために()()()()()()かわからないよ。あのまま死んでも良かったねぇ……」

「救っ…た…?」

 

 呆然と聞き返して、カナエはフッと笑みを浮かべた。

 

「……違うでしょう」

 

 皮肉げなカナエの微笑に、童磨は眉を顰める。

 目にまた剣呑な光が浮かんでいた。

 

「彼を救ったんじゃない。あなたは彼に()()()()()()()のでしょう?」

 

 童磨はまじまじとカナエを見つめた後、ハハハと大声で笑った。

 心底、楽しそうでなかなか笑いが止まらない。

 

「俺が救われる? 俺が? 俺がどれだけの数の人間を救ってきたか、わかってるの? ハハハハ!」

 

 身を捩らせて笑いながら、童磨は饒舌だった。

 

「俺は、彼を惨めな死から救ってやったんだよ。君のように殺した訳じゃあない。永遠の命を得て、彼はようやく思うままに()()()()()()ようになったんだ。愛しいお嬢様を探し続けて、人を喰らい、蝶を作る。……なんて純粋なんだろうね。君もそうは思わない?」

「……鬼であった彼を認める気はないわ」

「酷い子だなぁ。可哀想な窕繿に同情するよ。こんな冷たいお嬢様に恋するなんて、なんて報われないんだろう…」

 

 黄金の扇で口元を隠しながら、童磨はいかにも悲しそうに言ったが、紅い目には何らの感傷もなかった。

 

 カナエは静かに全集中の呼吸を整えながら、冷たく言い放つ。

 

「さっきから…あなたはどうしてそんなに心にもないことばかり言うのかしらね。虚しいとは思わないの?」

「? …虚しい? なにが?」

「まだ気付いてないのね…可哀想に。本当に哀れなのは、彼じゃないわ。あなたよ。空虚で、誰に理解されることもない、傷つくことすらできない、気の毒な―――」

 

 カナエが最後まで言う前に、童磨の姿がユラリと揺れたかと思うと、目の前に来ていた。

 

 ガチッ!!

 

 首へと振り下ろされた扇子を刀で受けたが、もうひとつの扇子はカナエの脇腹を抉っていた。

 息を吸い込んで吐くと同時に、後方へと下がって間合いをとったが、ボタボタと血が落ちた。

 

「………おや、ゴメン。ひとおもいに殺してあげようと思ったのだけど」

 

 無表情に童磨は言う。

 抑揚もない。

 

「おかしいな……なんだかひどく…気分が悪い」

 

 固まった顔のまま、童磨は不思議そうに首だけをぶらんぶらんと右に左に振る。

 

 ゴフッ、とカナエの口から血があふれた。

 それでも鼻からスゥゥと吸い込んで走り出す。

 

 息を止めると同時に高く跳躍して技を放った。

 

 花の呼吸 陸ノ型 渦桃

 

 空中で回転しながら童磨の首を狙う。

 刃がその白い首に吸い付くように伸びていく。

 

 しかし童磨はその軌跡を既に見切っていた。

 いきなり姿が消えたかと思うと、背後から氷の蔓が襲ってくる。

 

 一つは刀で叩き壊したものの、残りの氷の蓮華は容赦なくカナエの体を抉った。

 見る間に隊服は血に染まり重くなった。

 

「……クッ!」

 

 膝をつくと、ゴボゴボと胸で奇妙な音がした。

 気道を逆流した血が口からあふれてこぼれ落ちた。

 

「あーあ…大変だぁ」

 

 童磨はまた道化のように笑っていた。

 

 カナエは突っ伏して倒れたまま、その空虚な笑みを見て残念に思った。

 気づかないまま、また戻ったのだ…この鬼は。

 

 軽いため息は、白み始めた空に立ち上っていく。

 

 童磨は血のついた扇をゆるやかにあおぎながら、不満そうに言った。

 

「ふぅ…。もう夜明けじゃないか。君は特別に、最期まで生きたまま喰べたかったのに。俺はみっともない喰べ方はしたくないんだ。仕方ない…失礼するとしよう」

 

 そのまま立ち去りかけて、「あぁ…そうだ」と振り返る。

 

 童磨は懐からさっき取り上げたカナエの髪飾りを取り出した。

 

「俺は優しいからね。ホラ、窕繿の形見でしょ?」

 

 言いながら、カナエの髪に蝶を挿す。

 血塗れのカナエを見下ろす顔は、満足気だった。

 

「………ありがとう」

 

 ほとんど聞こえないほどの微かな声でカナエが礼を言うと、童磨は驚いたように目を見開いた。

 何かを言おうとして、適当な言葉が見つからず押し黙る。

 

 迫りくる朝の光は本能的な恐怖だ。

 そのまま無言で闇の中へと姿を消した。

 

 カナエはうつろな目で、童磨の消えた先を見つめていた。

 やがて、眩しい光が周囲の景色を鮮明に浮かび上がらせ、ピチピチと雀の鳴き声が朝の訪れを告げる。

 

 ―――――本当は……羨ましかったんでしょう?

 

 もはやその場にいない童磨に、カナエは問いかけた。

 

 ―――――鬼になるほどに人を愛することのできる彼に、憧れていたのでしょう? あなたは何もないから。満たされない…寂しさすら感じられない、空っぽな心。

 

 それでも、彼を殺したカナエに無意識に苛立っていたのだろう。

「詭弁だ!」と嘲笑った童磨の顔が思い浮かんで、カナエはフッと笑みをもらす。

 

 ―――――……残念ね。さっき、彼のために怒っていたことに気付くことができれば、少しだけ…あなたは救われたのかもしれないのに……

 

 哀れで、気の毒な、報われない魂。

 

 鬼として生きることは、人としての喜びを捨てることだ。

 夜の闇を抜けて、朝日に安堵し、今日という一日を始められることに感謝し、家族や友人と、いつもどおりの挨拶を交わす。

 

 永遠の命には、その日々の喜びはないのだろう。

 

 ―――――……可哀想な…鬼……

 

 意識が……一瞬、ストンと落ちる。

 

 

 

 

「姉さんッ! 姉さんッ!!」

 

 カナエは再び目を開いた時、涙を流しながら必死で自分を呼ぶしのぶを見て、ホッとした。

 

 この最期の時に、妹に看取られるなんて、自分はなんて幸せ者だろうか…と。

 

 けれど、この子がこのまま隊士として鬼と戦い、いつか一人で死んでしまうのかと思うと、胸が絞めつけられる。

 今更ながらに、巻き込んでしまったことを後悔するしかない。

 

「しのぶ…鬼殺隊を辞めなさい」

 

 涙を浮かべるしのぶの頬を撫でながら、カナエは静かに言った。

 

「あなたは頑張っているけれど…本当に頑張っているけれど……多分しのぶは……」

 

 あんな鬼相手に敵うわけがない。

 柱である自分ですらも、あの速さを見極めることはできなかった。

 

 きっと、殺される。

 そして、あの鬼は愉悦してしのぶを喰らうだろう。

 

 ―――――自分の妹を鬼殺隊に入れるなんて、気がしれねェ…

 

 不死川実弥の言葉が懐かしく響く。

 本当にその通りだ。

 

 それでもやっぱり同じ選択をするだろう。

 

 一人で生きていく勇気もない臆病者。

 それが自分の真実の姿だ。

 

 弱虫で身勝手で、唯一人の妹すらも、自らの復讐の道連れにした…。

 

 だから…もう…… 

 

「普通の女の子の幸せを手に入れて……」

 

 ごめんね、しのぶ。あなたを道連れにして。

 

「お婆さんになるまで生きて欲しいのよ」

 

 ごめんね、先に逝ってしまって。

 

「…もう…十分だから……」

 

 どうか、これからは…あなただけでも平和に、生きていってほしい。

 

 だが、カナエの弱々しい言葉を払いのけるように、しのぶは泣き叫んだ。

 

「嫌だ! 絶対辞めない! 姉さんの仇は必ずとる! 言って!! どんな鬼なの? どいつにやられたの……!!!!」

 

 怒り狂うしのぶの瞳は真っ赤に充血しながらも、真正面からカナエの死を受け止めようとしていた。

 

「…………」

 

 カナエはまじまじとしのぶを見つめながら思った。

 

 ―――――この子は…私よりも、ずっと強いのかもしれない……

 

 強情で、そのくせ泣き虫で、本当は人のことをとてもよく見ていて、困っていたら文句言いながらも助けてあげるような…心底、優しい妹だ。

 自分よりもずっとずっと優しいから、継子や仲間達が次々と死んでいくこの鬼殺の中で生きていくことは、きっと、とてもつらいことだったろう。

 

 けれどしのぶはカナエの後悔など押しのけて、自らの力で強くなっていた。

 傷つきやすい自分の心に鞭打って、歯を食いしばって、生き抜いてきた。

 

 もう…とっくに、しのぶは立派な鬼狩りなのだ。カナエが背中で守っていた幼い妹ではない。

 

「……頭から…血をかぶったような……鬼だった」

 

 切れ切れに話しながら、カナエはしのぶの顔を見つめ続けた。

 

 かわいい、愛しい、妹。

 しのぶの存在は、カナエにとって救いで、勇気で、希望だった。

 いつも彼女が笑っていてくれることを願っていた。

 

 いいや、しのぶだけでなく。

 

 自分にとって大事な人達すべてが…ただ、幸せに…笑っていてほしいと…。

 

 だから、カナエは剣をとった。

 後悔は、ない。

 

 そう……。

 

 ()も、最期には笑ってくれていた。……

 

「……姉さん! 姉さん!!」

 

 しのぶの声が遠のいていく。

 

 カナエはゆっくりと目を瞑った。

 だんだんと体の重さが消えていく。

 

 意識が消える寸前に、思い出した。

 

 

 そう……

 

 確か……

 

 駒吉って…

 

 恥ずかしそうに、言ったのよ……。 

 

 

 

<つづく>

 






次回は2022.02.26.土曜日に更新予定です。



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第四章 戀慕(六)

 花柱・胡蝶カナエの死を、薫は久しぶりに訪れていた大坂の道場で聞いた。

 

 通常、柱の死は一般隊士にまで伝達されない。

 教えてもらえるのは、現柱達と死者の家族、それに育手だけだ。

 

 それでも隠などから非公式に隊士達は教えてもらい、それを口々に伝え合い、案外と全体に共有されることに時間はかからない。

 

「……花柱様が殺られるとは……」

「上弦だったらしい」

「どれだけ強い鬼がいるんだ……」

 

 たおやかな外見を大いに裏切るカナエの剣の実力は、隊内でも知れ渡っていた。

 

 あの花柱でさえも討てない鬼。

 十二鬼月。上弦。

 その強さは未知数で、得体が知れない。

 

 ただただ、本能的な命の危機を感じて、多くの隊士はゾッとするばかりだ。

 

「……薫ちゃん、大丈夫?」

 

 秋子がおずおずと尋ねてくる。

 薫の顔は蒼白になっていた。

 

「………あ、はい?」

 

 しばらくして、薫は自分をのぞきこむ秋子の視線に気付く。

 

「すみません。何か…言いましたか?」

「………花柱様と仲良かったんやろ?」

「えぇ。色々と……気遣って頂いて……」

 

 言いかけて薫は拳をギュッと握りしめ、唇を噛みしめた。

 秋子はすぐに薫が泣きたいのを我慢しているのがわかった。

 

 不死川実弥の言っていたことを思い出す。

 

 ―――――あいつは、一人でいる方がいい…

 

 薫が一人でないと泣けないのだと、言っていた。

 

 秋子は少しだけ寂しかった。

 自分は友達と思っているが、薫にはまだそんな遠慮があるのだろうか。 

 

 ここのところ、薫の任務はほとんど関東になっていた。

 今回も関西で戦闘不能になる隊士が大勢出たために、急遽、応援という形で戻ってきたのだが、明日には再び東京の方へと戻る予定だった。

 

「最終の汽車には間に合うんとちゃう?」

 

 秋子が言うと、薫はペコリと頭を下げた。

 

「すみません。一緒に稽古しようと言っていたのに」

「えぇよ。ウチはまだ一応、療養中やし。まぁ、他に残念がる奴はようけおるやろうけど…」

 

 わざと大声で言ったのは、何気なくこちらに聞き耳をたてている男隊士共に聞かせるためだ。

 

「ほな、気ィつけて。また今度な…」

 

 秋子は何気なく言った。

 花柱に限らず、むしろ末端の隊士であれば尚の事、いつどうなるのかはわからない職業なので、約束はできない。

 

 だが、とりあえず今回薫に再会できたことは素直に嬉しかったし、また会いたいと思っている気持ちだけでも伝えたかった。

 薫もわかってか、ニコリと笑って手を振りながら言った。

 

「えぇ。また」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 薫が東京に着いた頃には、日はとっぷり暮れていた。

 チラと上空を飛ぶ鎹鴉の祐喜之介(ゆきのすけ)を見たのは、あるいは任務が入っていないかと思ったからだ。

 だが、祐喜之介はゆっくり旋回しつつ飛ぶだけで、こちらに降りてくる様子はなかった。

 

 薫はすぐさま駆け始める。

 

 蝶屋敷にたどり着いた時には、夜半に近かった。

 締め切られた門の上には忌中札があり、当然ながらシンと静まり返っている。

 

 蝶屋敷は隊士達の療養所という役割もあるため、基本的にはいつでも入ることは可能だ。

 しかし、夜中に危急の要件でもないのに、家人を叩き起こすのは申し訳ない。

 

 朝一番に誰かが門を開けるまで待っていよう…。

 

 薫は門の横にうずくまると、しばらく月夜に照らされた道を見ていた。

 

 今しも、あそこからカナエが帰ってくるような気がする。

 だが、それは有り得ない。

 

 カナエが上弦に殺られたという情報は、噂というにはあまりにも具体的すぎた。

 早朝に横たわっているのを、妹のしのぶに発見されたのだという。

 

 事切れる前に、その上弦についての詳しい情報を伝えて逝ったらしい。

 最期までカナエは冷静だったのだろう。……

 

 薫はギュッと自分を抱きしめるように座り込みながら、夜空に浮かぶ月を見た。

 我知らずツゥーと涙が一筋こぼれ落ちた時、夜道をこちらに歩いてくる人影に気付いた。

 足早に跳ねるように歩いてくる。

 薫はさっと涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。

 

 ずっと俯いて歩いていたその人は、前方にゆらりと動いた人影に気付いたのだろう。ビクリと一瞬立ち止まってから、薫と知ると、小走りに走り寄る。

 

「……森野辺さん?」

 

 近寄ってきた顔を見て、そのカナエに似た面差しに、また薫の涙腺は熱くなった。

 だが、喉奥にこみあげるものを押し籠めて頭を下げた。

 

「……この度のこと、誠にご愁傷様です」

 

 言われて胡蝶しのぶはキュッと唇を引き結ぶ。

 

「わざわざ…来て下さったのですか?」

「すみません。朝までここで待つつもりだったのですが…」

「雪解けしたとはいえ…まだ寒いですよ。凍死は免れても、凍傷にでもなって刀が握れなくなったらどうするつもりです」

 

 しのぶが厳しい口調で言うと、薫は「すみません」と小さな声で謝る。

 それを聞くと、しのぶは途端に気まずいような表情になって、視線を逸らせた。

 くるりと薫に背を向け、はーっと長い溜息をついている。

 

「しのぶさん? どうかされましたか?」

 

 薫が首をかしげると、しのぶはにこやかな笑みを浮かべて振り返った。

 

「いえ。失礼しました。どうぞ…」

 

 戸を開けて招き入れられ、薫はおずおずと中に入る。

 前にここでしばらく厄介になっていた頃と何ら変わりはないのだが、それでもあの頃咲いていた菊の花もなく、冬枯れの景色はどこか寂しく思える。

 

 仏間に通され、仏壇の前に座る。

 薫は真新しい位牌を見て、眉を寄せた。

 

「……しばらくは、京の方に行かれていたようですね」

 

 しのぶは薫が長く黙祷している間にお茶を用意してくれていた。

 

「えぇ。でも、補充が整ったようなので、こちらに戻るように言われました」

「そうですか…その後、体はどうですか?」

「……大丈夫です」

 

 しのぶが尋ねたのは、ここのところ薫の体調が悪くなることが頻繁であったせいだろう。

 

 やたらと風邪をひきやすくなり、発熱する。

 時には何も喉を通らぬほどに、吐き気が続く。

 陽気のいい日に少しばかり走っただけで意識を失うこともあった。

 

 おそらくは東洋一と匡近を立て続けに亡くして、精神的に辛かったのもあるだろうし、任務で戦った鬼の毒による後遺症なのかもしれない。

 

 近頃では任務から外されることも多くなっている。

 薫としては早く万全の状態に戻したいとは思うのだが、はっきりした原因はわからなかった。

 

「よかったです。姉さんも心配していたので…」

 

 そう言うしのぶの浮かべる微笑みが、薫にはひどく痛々しく見える。

 

「……しのぶさんは、大丈夫ですか?」

「え?」

「カナエさんを亡くされて、しのぶさんが辛くない訳がないですから……」

「…………」

 

 しのぶはすっと目を伏せ、押し黙った。

 薫はお茶を一口含んでから、ふとカナエに言われたことを思い出した。

 

 ―――――泣きたいのなら、泣きなさい。そんな顔をしていては駄目よ。

 

 あの時、自分がどんな顔をしていたのかはわからない。

 でも、今しのぶを見ているとカナエの言う意味がわかる気がする。

 

「…昔、カナエさんに言われました。泣きたいなら、泣きなさい…って。無理して涙を押し籠めると………胸が痛くなります」

 

 しのぶは俯いたまま、唇を噛み締めた。

 口の端に皮肉めいた笑みが浮かぶ。

 

「……やっぱり、あなたを前にすると無理なのかしら」

「しのぶさん?」

「決めたのに……姉さんみたいになろうって…決めたのに」

 

 くしゃりと前髪を掴む手と、語尾が震えていた。

 ポタ、と一粒だけ落ちた涙が、黒い隊服に染みる。

 

 薫は迷った。

 きっとカナエなら、今のしのぶをそっと抱き寄せたに違いなかった。

 そうして、優しく励ます言葉を持っていただろう。

 いつも凍りついた薫の心を、柔らかく癒してくれたように。

 

「…しのぶさん」

 

 何を言えばいいのかわからず、呼びかけた薫を、しのぶは手で制した。

 スン、と鼻をすすり、顔を上げる。

 その目には涙の跡もなく、固く結んだ唇と同様、何かを決意した光が宿っていた。

 

「森野辺さん、すみません。あなたにはきっと私が姉の真似事をしているように見えるのでしょうね。その通りなんだから、文句を言うつもりもないですが」

「そんなことは…」

「あなたを見ていると、どうしても姉のことを思い出してしまう。あなたと交わす会話も、きっと姉の話になってしまう。きっと、ずっと先になれば……懐かしくお話できるのでしょう。でも、今は…」

 

 しのぶはフゥと息を吐いてから、薫を真正面から見つめた。

 

「はっきり申し上げます。あなたとは、しばらく会いたくありません」

 

 薫はその宣言を冷たいと思わなかった。

 むしろ、悲壮なほどの覚悟を感じて、なおのことしのぶが哀れにも、痛々しくも思えた。

 けれど、その憐れみこそ、しのぶには忌々しいものだろう。

 

「……わかりました」

 

 薫が頷くと、しのぶは頭を下げた。

 

「すみません。あなたは何も悪くないのに…」

 

 その小さい声に、薫はフフッと笑った。

 

「これくらいのことで、私は怒ったり傷ついたりしませんよ。私にはしのぶさんを慰めることもできないのですから、遠くから見守るくらいはさせて下さい」

 

 そう言って立ち上がってから、ふと気付く。

 

「見守るといっても…きっと近くしのぶさんは柱になられるのでしょうから……私がついていく立場になるでしょうね」

 

 カナエを失った後のしのぶの戦績は目ざましいものがあると聞いていた。

 元より毒を使って鬼を殺すという、従来にない技を編み出した功績も含めて、近々柱になるだろうということは、隊内で噂されていた。

 

「…精進します」

 

 しのぶはそうとだけ言ったが、薫を見つめ返す顔には、ほのかな自信があった。

 

 軽くお辞儀をして、薫は立ち上がると仏間を後にした。

 

 しばらくの間、ここで過ごしただけだというのに、妙に懐かしい。

 カナエがいないということだけが、あの頃と違う。

 

 玄関まで歩いてきて、廊下の先でじっとこちらを見ている女の子に気付く。

 

 確か、カナヲ…と言ったろうか。

 カナエが人買いから連れてきた子だ。

 

 人買いに売られたことが辛かったのか、それとも元々の生育環境がひどかったのか、とても可愛らしいのにいつも彼女は無表情だった。

 自ら何かをすることはなく、人から命令されないと動かない。いや、動けないのだ。

 

「寝なさいと言わないと、寝ることもしないの。ずっと目を開けて待ってるだけ。本当に困った子だわ」

 

 しのぶが昔、やきもきしながら言っていた。

 

 薫はこの子を見ると、実母を失った頃の自分を思い出した。

 

 ぼんやりと自分の前で、人は景色として過ぎていく。

 誰に何を言われても、石のような心は何も感じることができない。

 

 ただ生きるだけ。

 

 怒鳴られ、叩かれ、嘲弄されても、ただ言われたことをやって、生きていくだけ。

 

 心があるだけ辛いから、感情に蓋をした。

 

 ―――――自分の居場所ができりゃ、お前はきっと生きててよかったと思えるようになる……

 

 懐かしい言葉が甦る。

 

 銀二が自分に文字を教えてくれ、生きていく意味を与えてくれなかったら、ここに立っていたのはまったく別の薫だったろう……。

 

 そういえば、自分からは何もしないと言いながらも、カナエと夜遅くの任務から戻ってくると、必ずああやって立っていた。

 カナエは気付くと、いつも穏やかに笑って、

 

「ただいま。カナヲ」

 

と声をかけ、彼女を寝床まで連れて行っていた。

 

「私が任務に行くと、ああやって待っているの。それで、帰ってくるのを見たら安心するのかしらね? ようやく眠るのよ。可愛いでしょ?」

 

 そうだ。

 彼女に感情がないわけではない。

 今はまだ、表現できないだけ。

 

 カナエの心はきっと彼女に届いている…。

 

 薫はゆっくりとカナヲに近寄ると、なるべく優しい口調で言った。

 

「しのぶさんなら、帰ってますよ。仏間におられます」

「………」

 

 カナヲはコクンと頷いて、薫の横を通り過ぎて行く。

 しのぶの姿を見たら、ようやく眠れるのだろう。

 

 カナヲ以外にも、蝶屋敷にはカナエの継子を始めとして、肉親を失って天涯孤独となった少女達が幾人もいる。

 しのぶはこの蝶屋敷の主として、彼女達の面倒を見ていかねばならない。

 

 カナエのように生きようと決意した、しのぶの姿が頼もしくもあると同時に、悲壮で不憫だった。

 だが、その同情が彼女には迷惑なのだろう。

 

 なるべく…怪我をしても、藤の家の方で厄介になることにしよう…。

 

 最後に深く礼をして、薫は蝶屋敷を出て行った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 門を出て少しだけ歩いて、不意に足が止まる。

 後ろでカナエが手を振って優しく笑っているような気がする。

 

 振り返りたくなったが、薫はギリと奥歯を噛みしめると走り出した。

 涙が溢れて風の中に散っていく。止められない。

 

 東洋一も、匡近も、カナエも。

 

 どうしてこうも立て続けに逝ってしまうのだろう…。

 心が千切れてどうにかなってしまいそうだ。

 

 それでも生きていけと…彼らが言っている。

 辛く苦しい日々を乗り越えて、命の限り生きて散った人達。

 

 いつか自分が彼らの元へと行った時に、せめて笑顔で迎えてもらうためにも、投げ出しては駄目だ。抛り出しては駄目だ。

 

 昨日語り合っていた仲間が、明日の明け方には死んでいる…。

 そんな過酷な鬼狩りの道を選んだのは他ならない自分だ。

 だから、どんなに親しい人の死であっても、受け止めなければならない。

 

 それでも、思い出の中からあの人は柔らかに微笑む。

 

 ―――――薫。泣きなさい。ちゃんと泣かないと、先に進めないのよ……

 

「……クッ!!」

 

 薫は急に足を止めた。

 

 坂道を上って、開けた視界の中で月を浮かべた川が滔々と流れている。

 

「…どう…して……」

 

 掠れた声で問いかけた。

 

 ―――――どうして、いつも…皆、私を置いていくの……?

 

 ガクッと膝が落ちて、四つん這いになる。

 肩を震わせ、嗚咽を殺すこともなく、薫はみっともないほどに泣いた。

 

 空を旋回していた祐喜之介は羽音をたてることなく舞い降りた。

 

 射干玉(ぬばたま)の黒い瞳が号泣する薫を、静かに映していた。

 

 

 

<つづく>

 






次回ですが、現在創作途中なので少し遅れます。来月中旬頃には更新できるよう頑張ります。見捨てずに待っていていただけると有り難いです。



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第五章 宴の前(一)

「なんだ。お前だったか…」

 

 うっすらと目を覚ました薫の横で、男が不敵な笑みを浮かべて立っている。

 

「久しぶりだな、お嬢さん。俺のことは…覚えてるだろうな」

 

 最初から覚えていて当たり前であるかのように言ってくる。

 正直、なんとなく見覚えがあるにはあるのだが、はっきりと誰だと思い出せない。

 

 特徴的なのは、左目に施された赤い木の実のような模様。

 最初は入れ墨か何かかと思ったが、よく見ればそれは紅で書かれたものらしい。

 

 あとは惚れ惚れするくらい筋肉がついていて、背に刀を背負っているのか、太い刀の柄が二本、交差して見える。

 きっとこの人であれば、鬼との力勝負になっても、そうそう負けないだろう。羨ましいことだ……。

 

 男は薫がぼーっと見つめたまま固まっているのを見て、ニヤリと笑った。

 

「俺様に見惚れるのはわかるが、まさか、わかってない…ってェんじゃないだろうな?」

 

 ハッと、目が開く。

 薫はガバリと起き上がって、男をまじまじと見つめた。

 

 やはりどこかで会った記憶がある。

 目の周囲に施された、赤い実のような模様に覚えがある。

 

 同時に、みやことかえでのことが思い出された。

 京の藤家紋の家で厄介になった時に、仲良くなった姉妹だ。

 彼女達のはんなりした柔らかな都言葉が頭の中で響く。

 

 ―――――あの人はウ…イさん

 ―――――奥さんが三人もいはるねんて

 

 あれは…まだ隊士になって間もない時期…確か、最初の任務で負傷して休養していた時だ。

 

 朧げな記憶がぽつりぽつりと戻るにつれ、なぜだか申し訳ないような…物凄くバツの悪い気持ちがじわりじわりと染み出してくる。

 何か彼に失礼なことを言ったような…。

 

 思い出そうとする前に、目の前の男が腕組みして嘆息した。

 

「やれやれ…地味に忘れていやがるな。ってことは、あの言葉は本心だったんだな…」

「えっ…いえ…あの」 

 

 薫はあわてた。

 とりあえず彼の名前だけでも答えなければ。

 

「え…えぇと……う、う…ウ…スイさんでしたっけ?」

 

 恐る恐る言うと、男はキョトンとなった後に、プハッと笑った。

 

「点がなくなった途端に、間抜けに聞こえるぜ」

「てん? ウ…ズイ、さん? あ……ウズイさん?」

 

 みやこ達が呼んでいたように、都言葉で問うと、男は顔を顰めた。

 

「あのチビ達の悪い癖がうつってるな。その呼び方だと、呼ばれた途端に力が抜けそうになるからやめてくれ。宇髄だ。宇髄天元」

「宇髄…天元…はい、宇髄………え?」

 

 薫はその名前を心の中でもう一度反芻した。

 今、彼は宇髄天元と言ったのだろうか?

 

 宇髄天元。

 音柱の宇髄天元…と?

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 時は三日ほど前に遡る。

 

 

 音柱・宇髄天元は珍しい人に呼ばれて、珍しい場所に来ていた。

 

 薩見伯爵邸。

 

 この屋敷の主である薩見(さつみ)惟親(これちか)伯爵は一行政官に過ぎないが、実は相当に政府内部で顔の利く存在である。 

 

 その影響力の原資となっているのは、莫大な財力と膨大な情報力。

 それらの出処は産屋敷家である。

 

 薩見家は古くは産屋敷家において執事のような役割であったが、現在では決して表に出ることのない産屋敷家の渉外活動を担っている。

 

 鬼殺隊においては、隊内における維持統制の管理をしており、いわば隠の総元締ともいえる役割だ。

 本部、と一般に隊士が言うのは、彼が管理する鬼殺隊組織の調整機関のことを指す。

 

 ただし、歴史的にこの部署は権力は持たない。

 意思決定はあくまで産屋敷当主である『お館様』と柱による合議である。

 

 無論、それでも長い歴史の中には傲慢な執事もいたようだが、そうした人間であった場合は、柱なりお館様なりがすぐに排除してきた。

 彼らは自らの分限を子々孫々にしつこく言い聞かせたようで、当代の執事殿は隊士にも柱にも、極めて紳士的に恭謙に振る舞っている。

 

 内心はどうあれ、あくまでも産屋敷家と鬼殺隊における潤滑油としての役目に徹しているのだ。

 

「アンタが直接、言ってくるとは珍しいな」

 

 舶来物の上等らしい肘掛け椅子にどっかと座り込み、天元がフンと小馬鹿にしたように言っても、薩見伯爵はいつも通りの澄まし顔だった。

 

 細長い顔の輪郭にぴっちり収まった黒縁の丸眼鏡に、鼻の幅をはみ出すことなくぴっちり切り揃えた口髭、皺のない三揃いの背広をぴっちり着て、短い髪は後ろにぴっちりなでつけている。

 いついかなる時もこのぴっちりした格好なので、寝巻もこれなんじゃないのかとすら思えてくる…。

 

「ここ半年ほどの間に、奇妙なことが起きております」

 

 トポトポと切子のグラスに洋酒を注ぎながら、伯爵は平坦な口調で話し始める。

 

「若いご令嬢が突然、家から失踪しているというのです」

「………家出じゃねぇの?」

「深窓のご令嬢が、夜中に家から出るなど有り得ません。お付きの者もなしで」

「ふぅん。それで? 鬼がいるのか?」

 

 薩見伯爵は自制のきく人間ではあるが、年齢は天元よりも随分と上なので(確か当年とって四十であったように思う)、年若い柱などはどうしても子供のように思えてしまうのだろうか。いちいち前置きが長い。

 

 天元が面倒な説明をすっ飛ばして結論に入ろうとすると、伯爵は酒のたっぷり入った青い切子のグラスを渡しながら苦笑いを浮かべた。

 

「さて、どうでしょう。可能性としては非常に高いのですが……」

「勿体ぶってないで、とっとと仕事の話を始めよう」

 

 天元はもらったグラスに口をつけることもなく、横にあった小さなテーブルに置くと、パチリと指を弾く。

 

「要は、調べて欲しいんだろう? 鬼の仕業か、卑しい人間のやっている事なのか」

「左様でございます」

上流階級(そちらさん)に、そうそう紛れ込める隊士はいない…って事か」

「一部、隊士を潜行させましたが、成果がなく。下手に動くと、要らざる疑心を招いて、少々対処が面倒にもなりますので」

「アンタがそう言うってことは、既にそういう事態が起きてしまった訳だな? お館様の手を煩わせるような事が」

「………ご拝察痛み入ります」

 

 あくまで澄まして伯爵は頭を下げるが、内心では相当不満が溜まっているのだろう。その隊士がうまく立ち回れなかったせいで、おそらく痛くもない腹を探られたのか。

 

「具体的には?」

 

 天元は先を急かした。

 伯爵の愚痴に付き合うつもりはない。

 

「失踪された令嬢について調査したところ、いくつか共通点が見つかりました。その一つが、月に一度催される菊内(きくない)男爵の夜会に参加されていることです」

「月に一度も宴会開いてんのか。派手でけっこうなこった」

「まぁ、表向きには西洋文化についての造詣を深めていこう…という趣向をこらした少々珍しい夜会となっております。音楽会であったり、美術品の鑑賞会であったり、その時々で内容は変わるのですが、実際には各界における人脈作りというのが一番の目的ではありましょう。そのため、平民であっても一定以上の格式が保たれると判断されれば招待するようで、ご令嬢方の参加は他の華族が催す夜会に比べると多いようです」

「一定以上の格式、ねぇ…?」

 

 天元はフッと笑って、チクリと刺す。

 

「その招待を受けるご令嬢が美人ってのも、一定以上の格式とやらに入ってるワケかい?」

 

 薩見伯爵は天元の皮肉に、クイと眼鏡を持ち上げ、やはり澄まし顔で答える。

 

「まぁ、そのようですよ」

「ケッ…ご華族って方々もやってるこたぁ、女衒(ぜげん)と変わりねェな」

「一部、そのような者がいることは否定しません」

「やれやれ……」

 

 天元はため息をつくと、面倒そうにつぶやいた。

 

 以前にもこうした上流階級に関連した任務を引き受けた事はあるが、正直、自分にはあまり関わりのない人間で、今後もそう関わりたくない部類の人間だ。

 とはいえ、仕事であれば好き嫌いを言ってもいられない。

 

「で、その宴会に出て…ほかの共通点は?」

「少々、微妙なことではあるのですが……」

 

 言いながら、薩見伯爵はあまり自信がないのか、声を落とす。

 

「その…その時の夜会で、目立っていた…と思われるご令嬢が狙われることが多いようなのです」

「…目立ってた?」

「例えば、ドレスが海外の最先端の流行を取り入れたものであるとか、皆の憧れの的である貴公子と一緒に夜会に参加した…ですとか、あるいは単純に万人の目を引く美人であった…とか。とにかくその時の夜会で注目されていた方が、その後に行方を晦ましてしまうのです」

「要は、派手だったんだな」

「まぁ…有り体に言えば」

 

 薩見伯爵はあっさり認めて、一口、グラスの酒を含む。天元は肩をすくめた。

 

「それで俺に白羽の矢が立ったってワケかい。しかし、狙われているのが女なら、さすがに俺が派手にやらかしても無理なんじゃねぇの? 誰ぞ、適当な女隊士でも連れて行きゃいいのか?」

「それについては…こちらで厳選しました。華族の社交場に紛れるのですから、誰でもという訳にも参りません。それらしい立ち居振舞いができる上に、なるべくなら見目好い者」

 

 聞きながら天元はざっと知り合いの隊士を思い浮かべたが、女など元から少ない上、そんな条件に見合った隊士がいるとは思えない。

 かろうじて思い当たるのは、比較的裕福な家庭で育ったという元花柱の姉妹ぐらいだ。姉の方はもう亡くなってしまったが…。

 

「死んだ胡蝶の妹あたりか? 姉に劣らず実力者と聞いてるが…」

「胡蝶しのぶ様も考えましたが、それより適任者がおりましたので」

「適任者? 華族の令嬢においそれと化けられるような上品な女が鬼殺隊にいたか?」

「私も、まさかと思いました。見つけた時には」

 

 薩見伯爵は言いながら、眉を顰めた。

 珍しく機嫌の悪い様子だ。

 

 天元は意外そうに尋ねた。

 

「どうした、伯爵? もしかして、知り合いか?」

「……一度、見かけた程度です。確かに子爵夫妻が亡くなり、養子であったご令嬢がただ一人遺された…とは聞いていたのですが……まさか」

 

 そこまで言いかけて、薩見伯爵はハッとしたように口を噤んだ。

「すみません」と、話を元に戻す。

 

「いずれにしろ、元華族令嬢であった女隊士なので、潜入するには申し分ないでしょう」

「ふ……運がいいやら悪いやら。そんな身分のお嬢さんが鬼殺隊に入るとはねぇ」

 

 天元は皮肉っぽく口の端を上げると、テーブルの上に置いてあったブランデーを一口だけ含んだが、すぐに渋面になった。

 どうも、洋酒というのは口に合わない。香りも味も、何がうまいんだか。

 

「要するに、俺は目立たせ役ってワケだな? 鬼にその不運なお嬢さん隊士を喰らいつかせるための」

「無論、鬼の仕業と判明した場合には即時滅殺です」

「……腕は立つのか? そのお嬢さん隊士は」

「一応、階級は今、丙です。ただ、先だっての任務で負傷して、今は横浜にある藤家紋の屋敷で養生中です」

「おいおい…大丈夫かよ」

「勤務態度は真面目だと聞いております。引き受けた以上は必ずやり遂げる責任感は持っていると思いますが…」

「責任感ねぇ…」

 

 天元はせせら笑った。

 真面目で頑固で…責任感が強いのは、概ね美徳だ。自分とは相容れないが。

 

 薩見伯爵は天元の皮肉な笑みをどう受け取ったのか、妙な釈明をした。

 

「音柱様であれば、一緒に現れただけで、あまたのご令嬢が羨みましょう。美男と有名な妹尾男爵や、松島公爵のご令息も霞むでしょうな」

「ヘッ! お世辞かい? 伯爵も余計な気遣いは無用だ。言われなくてもわかってるしな」

「……左様でございました」

 

 伯爵はいかにも上辺の微笑を浮かべる。

 

「いずれにしろ、一度彼女に会っていただいて、音柱様の方で今回の任務を担当できるだけの能力の有無を見定めていただきたい。私としては一番彼女が適任だとは思いますが、無理なようであれば、他にも候補は数名、選出しております」

「ま、面倒な女でなけりゃいいさ。名前は?」

「森野辺薫です」

 

 その名前を聞いて天元は、ん? と首を傾げた。

 何となく聞き覚えがあったからだ。

 だが、はっきりと思い出せないところを見ると、共同任務などで知った訳ではないようだ。

 いずれにしろ、会えばはっきりするだろう…。

 

 

 

 そうして横浜にある藤家紋の家で寝ていた薫を訪問し、寝顔をじっくり見てから思い出した。

 京都の藤家紋の家で()()()なんぞを弾いていた、新米隊士。

 

 珍しくも、この宇髄天元様の格好良さがわからないなどと抜かした、美の基準がおかしな女だ。

 

「なんだ。お前だったか…」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ひとまず、藤の家の主人がとりなして、天元には応接間で待ってもらい、薫はあわてて隊服を着て、髪を一つ括りにする。

 鏡を見て、まだ多少、顔色が悪く見えたので、仕方なしに紅を少しだけ唇に引いた。

 

 音柱…話だけは聞いている。

 元忍びの者であったらしい。

 

 この時代に忍者などいるのかと聞いた時には思ったが、人里離れた集落でそうした生業を専門とする人々が暮らしているらしい。

 

 昔も今も、専門的な経験値と人並み外れた身体能力をもって諜報活動を行う者は、時の権力者には有用な人材なのだろう。

 

 ただ、音柱は技も含めて、およそ忍びらしくない…との評判も聞いていた。

 なにせ、大掛かりで豪快な技を繰り出すらしい。

 

 見た目だけでなく威力も相当で、数百体いた鬼の分身を、たった一度の呼吸の技で全滅させた…という話は、大坂の道場でも何度か耳に入ってきた。

 

 大柄な体躯に似合わず俊敏で、時に音もなく背後に立たれていることがあるらしい。

 さすが元忍者というだけあって、挙措は静かで、走る時ですら音がしない…という嘘か本当かわからない噂もある。

 

 確かに、この仕事についてからというもの、熟睡することがほぼない薫ですら、さっき声をかけられるまで、隣にいたと気づかなかったほどだ。

 

 パンパンと頬を叩いて、気を奮い立たせてから薫は立ち上がった。

 

「久方ぶりにお目にかかります。階級・丙の森野辺薫でございます。音柱様にわざわざご足労いただき、恐縮にございます」

 

 応接間に入るなり、正座して深々と礼をする。

 天元は立ち上がって近寄ってくると、薫の顎をクイと持ち上げた。

 

「……あの?」

 

 まじまじと無遠慮に眺められ、薫は少々、ムッとする。

 初対面でないとはいえ、まるで品定めするかのような天元の視線は不快だった。

 

 下から睨むように見てくる薫を興味深そうに見た後、天元は急に手を離した。

 

「顔色はイマイチだが、まぁ寝起きだからな。どうだ? 体調は戻ってきたか?」

 

 なぜいきなりそんなことを聞かれるのかわからないまま、薫は一応、返事した。

 

「はい。徐々に修行も開始しておりますので、」

「そうかい。今、鬼に遭遇しても、やれそうか?」

「無論のこと」

 

 即答した薫を見て、天元はフッと笑う。

 

「よし、合格だ。今から出れるか? 今回の任務、ちょいと準備が必要でな」

 

 言われるがまま、薫は少ない荷物をまとめると、しばらく世話になった藤家紋の家を後にした。

 

 

 

<つづく>

 






次回は二週間後に更新予定です。遅くなりましてすみません。



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第五章 宴の前(二)

 横浜の藤家紋の家から、目的とする場所にたどり着くまで、薫はずっと走る羽目になった。

 

 音柱である宇随天元の身体能力はさすが柱というだけあって、凄まじい。

 全集中の呼吸で肺機能を高めた上で走っても、かろうじて姿が見える程度にしかついていけなかった。

 

 やがて瀟洒な屋敷が立ち並ぶ住宅街に入っていった。

 一つ一つの屋敷の広さが、長く続く塀からしてもわかる。

 

 天元は一度も振り返ることなく、白塀に囲まれた屋敷の中に入っていった。

 しかも門からではなく、塀を乗り越えて。

 

 薫は一瞬躊躇したものの、仕方なく後に続くしかなかった。

 庭の一隅に着地すると、塀に沿って藤の木が植えられていた。

 

 ちょうど開花の時期なのか、薄紫の房が幾重にも続いている。

 甘い匂いが鼻腔に充満して、薫はクラリと眩暈がした。

 確実に運動不足だ。あれくらいの走りで疲れるなんて…。

 

 パチパチと両頬を叩いて気合を入れてから歩き出す。

 

 屋敷へと続く道には石畳が続き、くねくねと曲がった道に沿って、木香薔薇(モッコウバラ)石楠花(シャクナゲ)が咲き誇っていた。

 

 天元はもうずっと先に歩いて、庭に面したテラスの掃出窓から家の中に入ろうというところだった。

 薫は声をかけそうになって、あわてて口を押さえた。

 

 もしかして、もう任務は始まっているのだろうか?

 これが隠密行動であるなら、声をかけるわけにもいかない。しかし準備と言っていたが…?

 

 混乱しつつ後に続く。

 開け放たれた掃出窓からそろそろと中に入ると、そこにはきちんとした三つ揃いの背広を着た紳士が立っていた。

 

 天元と話していたらしいその紳士は、入ってきた薫に気付くと、しばらく凝視していた。

 

「森野辺…薫…」

 

 紳士がつぶやく。

 鬼殺隊の関係者だろうか? 薫はただならぬ紳士の様子に当惑しながら頭を下げた。

 

「あの…すみません。勝手に…」

 

 そもそも天元がここに入っていったから薫はついてきただけなのだが、当の音柱は紳士の様子を物珍しげに見るだけで、なんの釈明もしてくれそうにない。

 

 紳士はツカツカと薫の方に近寄ってくると、静かに問いかけた。

 

「森野辺薫子(ゆきこ)嬢…ですね?」

 

 いきなりかつての名前を言われて、薫はハッと息をのむ。

 それからしまった、と唇を噛み締めた。こんなわかりやすく動揺しては肯定したようなものだ。

 

「いえ…あの…」

 

 言い逃れようと言葉を探すが、もはや遅かった。

 紳士は沈痛な表情で額を押さえながら、ブツブツと何やらつぶやいていた。

 

「やはり…そうか……そうだと…わかってはいたが……」

 

 薫は気まずく黙り込んだ。

 紳士に見覚えはなかったが、おそらく子爵令嬢であった時代の薫を知っているのだろう。

 父は、やっていた事業の関係なのか、取引相手も含めて知己は多かった。どこかで一度会っているのかもしれない。……

 

「あの…」

 

 おそるおそる声をかけると、紳士はキッと薫を睨んだ。

 

「何をしているのです、貴女(あなた)は! 佳喜(けいき)氏がこんな事を許すと思っているのですか!? 寧子(やすこ)夫人が今の貴女を見たら、どれほど心を痛めることか。想像できませんでしたか?!」

 

 父母の名前を出されて言葉に詰まる。

 

 この紳士は父母とよほどに昵懇であったのだろうか。一方的に薫を責めているわけではなく、むしろ父母との信頼関係があって、今の薫に対して思うところがあるようだ。

 

「……すみません」

 

 深く頭を下げてから、薫はおもむろに顔を上げると、決然として言った。

 

「でも、もう父も母もいません。私は自分の道を選びます。父母の死を招いた鬼を一匹残らず滅殺すること…それが唯一、私に残された道です」

 

 じっと自分を見つめ返す瞳に、肉親を殺された隊士であれば誰もが持つ炎を見出して、紳士―――薩見(さつみ)惟親(これちか)はまた、ため息をついた。

 コツコツと中指で額を叩きながら、つぶやくように言う。

 

「子爵が…鬼に殺されたのは報告で知っておりましたが、まさか……あなたが隊士になっているとは……」

 

 正直、惟親は今、目の前にかつて森野辺薫子と呼ばれていた令嬢を見るまで疑心暗鬼ではあったのだ。

 

 今回の任務のために女隊士について調べた中に、『森野辺薫』という妙に名前の似通った人物がいて、もしかすると彼女は知り合いの―――あの森野辺子爵の娘ではないか…と。

 しかしその時はすぐに打ち消した。

 

 惟親が聞いたところによると、森野辺子爵の令嬢であった薫子は、父母の惨殺事件の後に精神に異常をきたして、寧子夫人の親戚の家に引き取られたのだと聞いていたからだ。

 

 その後、今回の任務のため詳細に調べるほどに、『森野辺薫』は『森野辺薫子』であるとしか思えなかった。もし彼女が森野辺薫子であるならば、まず間違いなくこれほどの適任者はいない。

 

 実のところ迷った。

 だが、鬼殺隊の任務に私情を挟むことは許されない。

 惟親としては一度は自分に言い聞かせた上で、天元に推挙したのだ。

 

 しかし、実際に本人を目の前にすると……。

 

 惟親はクルリと天元の方に向き直ると、頭を下げた。

 

「音柱様、申し訳ない。他の適任者を連れて参りますので、彼女は除外して頂きたい」

「………理由は?」

 

 天元は腕を組み、面白そうに惟親を見ている。

 理由を言う前に、薫が進み出た。

 

「いいえ! 鬼に関することであるなら、私は任務を遂行します!」

「なりません!!」

 

 惟親は厳然と言い放った。

 

「貴女は幼い頃の無理がたたって、体が弱いのだと佳喜氏は言ってました。今も無理を重ねたものだから、体調を崩しているのでしょう。良からぬことが起きる前に、早々に離隊しなさい!」

「違います! ここのところの体調不良は私の育手や兄弟子や、信頼していた花柱様が亡くなられたから…精神的なものです。それも情けないことだと、自戒しております。今後は、そのような事のないように改めますから―――…」

 

 必死に言い返そうとする薫を遮ったのは、天元の低い笑い声だった。

 

「……なんだァ、この茶番は」

 

 ゆっくりと歩いていって、ゴロリと長椅子に寝転がる。

 

「伯爵」

 

 呼びかける声は、端正な顔に浮かべた微笑とは裏腹に、苛立ちが滲んでいた。

 

 惟親は「は…」と頷くと、天元の方へと一歩近寄り頭を下げる。顔が強張った。

 

「俺はアンタに言われて、この女を品定めした上で連れてきたんだぜ。それで、結局駄目てェのはどういうワケだ? 派手に時間の無駄だ。まさか、自分の知り合いの娘とわかったからには、危ない真似をさせるワケにはいかねェなんぞと、ホザくつもりじゃアなかろうな?」

「………」

 

 まさしくその通りなので、惟親は何も言えず唇を噛みしめる。

 

 薫は惟親よりも前へと進むと、天元に向かって懸命に頼み込んだ。

 

「お願いします! 私に行かせて下さい!」

 

 天元は軽く鼻を鳴らすと、意地の悪い面相になって問うた。

 

「そうは言っても、任務中に倒れられちゃあ迷惑なんだぜ。体調は本当に大丈夫なんだろうな?」

「大丈夫です! 必ず、絶対に、遂行してみせます!」

「ふぅん…」

 

 天元は適当な相槌を打つと、ヒョイと起き上がって惟親に言った。

 

「とりあえず……隊士である以上、こいつの任務については俺の意向が最優先だ。それはわかるよな、伯爵」

「……存じ上げております」

「だったら、今回は最適任者が森野辺薫なのは疑いようもない。俺はコイツを同行することにする」

「………」

「但し、コイツが任務中にぶっ倒れたりして、下手こいた場合は、鬼殺隊不適合者として除隊することにしたらどうだ?」

 

 惟親は俯いていた顔を上げると、得心したように頷いた。

 反対に、眉間に皺を寄せて睨みつけたのは、勝手に自分の将来を決められた薫であった。

 

「冗談じゃありません! どうして私の進退を音柱様がお決めになるのです!!」

「俺は決めてねェよ。お前の事はお前が決めるんだから。さっきなんっ()った? ()()()()()()()()()んだろ? その通りにすれば問題ない」

「それは……」

「まさか、本当のところは自信がないのかい?」

「そんなことはありません!」

「だったら、いいじゃねぇか。伯爵も、それで手打ちな」

「……承知致しました」

 

 惟親は了承するしかなかった。

 

 本来、一隊士であれ、その出処進退について自分が口を挟むなど、とんでもない越権行為だ。今回の音柱はまだ話のわかる方で、惟親の意向もそれとなく取り入れてくれただけ、相当に譲歩してくれたと言っていい。

 

「さて、じゃあそろそろ仕事の話をするとしようか」

 

 ペシリと膝を打って、天元は本題へと誘う。

 

 薫としては、まだ不承不承であったが、ひとまずは矛を収めた。

 どうやら新たな任務は音柱との共同任務のようであるし、誤解を解く時間はあるだろう。

 

 

◆◆◆

 

 

 薩見伯爵の説明によると。

 この数ヶ月の間に、八名の令嬢が菊内(きくない)男爵邸で開かれた夜会の後、失踪している。

 その八名の共通点は夜会で目立っていた…ということ。

 あるいは人間による誘拐事件でもあるかもしれないし、鬼によるものかもしれない。

 

「その菊内男爵ってのは、胡散臭いのか?」

 

 まず天元が尋ねたのは、とりあえず人間によるものである可能性を潰しておきたかったからだ。

 

「そうですね…多少、キナ臭い人物ではあります。元は平民で貿易商か何かをやっていました。先代の菊内男爵がかなりの借金をしていて、肩代わりを条件に娘の婿養子として迎えたようです。まぁ、元々その娘が相当彼に熱を上げていた…という噂も聞きますが」

「生粋のご華族様でない…という訳か。まして元は商人なら、いかにも悪巧みしそうだな…」

「それはそうかもしれませんが…あまり彼にとって利益はないと思います。夜会で令嬢の失踪が相次いでいるなど、悪い評判が立つことの方が損が大きい。彼に商人としての才覚があるなら、なおのこと」

「ま、そりゃそうか…」

 

 天元があっさり納得すると、惟親は既にこの事件には警察の捜査が入っていることも話した。

 菊内男爵はあくまで秘密裡に世間に知られないように…という条件で、捜査に関しては非常に協力的であったという。

 地下室も含めて、屋敷の隅から隅まですべて警察は綿密に調べたようだが、結局何の手掛かりも見つからなかった。

 

 惟親の説明を聞いて、天元は面白くもなさそうにため息をついた。

 

「その成り上がり男爵に嫌がらせしたい奴がいたとしても…少々手が込み過ぎてるし、面倒な割には菊内(ヤツ)にとっちゃ、今のところさほどの痛手でもないようだな…」

 

 惟親はしかつめらしく頷いた。

 

「警察はその線でも調査しているようです。菊内男爵に恨みを持つ人間がいないか…と。ただ、音柱様もご考察の通り、あまりに手が込みすぎているので、動機としては弱いですね」

 

 天元はフッと笑ってから、鋭く尋ねた。

 

「で、鬼の気配は?」

「一応…警察の捜査に鬼蒐(きしゅう)の者を数名紛れさせて探ってみましたが、はっきりと鬼の痕跡を見つけることはできませんでした」

 

 惟親が申し訳無さそうに言うと、天元は溜息をついた。

 

「ふぅ…どっちもどっちかよ……」

 

 頭の後ろで手を組み背を反らせると、そのまましばらく黙り込む。

 

「令嬢達は、菊内邸で失踪された訳ではないのですよね?」

 

 薫が尋ねると、惟親は頷いた。

 

「えぇ。いずれも家から忽然と消えているのです。時間はたいがい家人が寝入った後。ただ、失踪の時期は一定していません。夜会当日の場合もあれば、一週間後ということも…」

「つまり、最低でも一週間以内には姿を消している…ということですか」

 

 薫がつぶやいて考え込むと、天元は腕を組んで眉を寄せる。

 

「そんなに若い女が次々といなくなってりゃ、新聞屋(ブンヤ)がとびつきそうなもんだがな」

「多くは…家の体面を気にして、警察に届けないのです。それに、そのご令嬢にとって不名誉な噂になっては、無事に戻ってきたとしても、どんな色眼鏡で見られるかわかりませんからね。大事にしたくない…というのが、正直なところでしょう」

 

 薫は黙り込み俯いた。

 要は、自分の娘が姿を消した上、()()()()になったなどと、面白おかしく吹聴して回る輩のエサにはなりたくない……ということだろう。

 残念だが、そうした人間が少なからずいるのは薫も身をもって知っている。

 

「………ケッ」

 

 天元は吐き捨てるように嗤った。「()()()なことで…」

 

 惟親は苦笑いを浮かべてから、話に戻る。

 

「それと、上の方からの箝口令のようなものが出ているようです。嗅ぎつけている記者もいるかもしれませんが、記事の発表は上層部で握りつぶすでしょう。政府に逆らっていい目を見るわけがありませんから」

「……まったく。いちいち面倒なこったよ…」

 

 天元はあきれたように言って、額に落ちてきた髪をフッと吹いた。

 

「あの…そのご令嬢方に……その…想い人がいたということはありませんか?」

 

 唐突にした質問の内容と、その質問をしたのが薫であったせいなのか、天元も惟親も目を点にしてしばらく、薫を見つめていた。

 やがて、天元はプッと吹いて笑った。

 

「ハハッ! お嬢さん、そんな想像もできるんだな」

「あの、いえ…そういう……駆け落ちだとか、そうした場合は誰も知らないこともあると思って。あの、わかりますよね? 伯爵」

 

 薫は恥ずかしくてたまらず、惟親に問いかける。

 惟親は念押しした薫の様子に、ある程度、推察したのだろう。

 真面目くさった顔で、眼鏡をクイと上げた。

 

「あり得ないことではありません。その点も含めて、ご令嬢の交友関係などについても、随分と立ち入って調査はしたと聞いております。しかし、そうした関係者はいないと報告されています。婚約者がいた者はおりますが、身分を弁えない(・・・・・・・)付き合いをしているご令嬢はいないようです」

「……そうですか」

 

 薫が俯いて静かに答えると、惟親は軽く咳払いをした後に付け足す。

 

「今のは、とくに他意はございません」

 

 その言葉で、惟親が薫の生い立ちについて承知していることは言わずと知れた。

 

「……はい、気にしておりません」

 

 薫が微笑をつくって言うと、天元が首を傾げた。

 

「なんだよ、妙な感じだな」

「いえ。それじゃあ、いずれにしろ鬼の仕業であるという確証は今のところないということですね…」

「えぇ。その点も含めて探っていただく必要があります」

「その夜会とやらに出て、派手に目立ってな」

 

 楽しそうに天元が言うのと対照的に、薫は憂鬱になった。

 もう五年以上経っているのだから、気付く人間がいるとも思えないのだが、正直、女学校時代の同級生などがいて、見つけられたら上手く切り抜けられるだろうか…。

 

「またお前は暗い顔しやがって。俺じゃなくて、お前が目立つ必要があるんだぞ。わかってんのか?」

「目立つ…と言っても、どうやって?」

「俺と一緒に行くだけで目立つんだろうよ、まずは」

 

 当たり前のように天元が言うと、薫はきょとんとして、素直に尋ねた。

 

「どうして音柱様と一緒に行ったら目立つんですか?」

「………」

「………」

 

 天元が真顔で固まり、惟親は気まずい微笑を浮かべた。

 薫は不思議そうに二人を見てから、ハッと気付く。

 

「あ…まさか…その格好で行かれるつもりですか?」

 

 袖のない隊服に腕の金環、輝石を嵌め込んだ鉢金、その両端には同じ素材らしき石が連なってびらびら簪のように垂れている。それに例の特徴的な目の模様と、交互に色を変えた爪。

 

 ざっと全身を見てから、薫は尋ねた。

 確かに、その格好で行けば目立つには目立つだろうが…。

 

「最悪、入れてもらえないんじゃないでしょうか…?」

 

 本気で心配そうに言う薫に、天元は額を押さえた。

 やはり、この女の審美眼は狂っていると思う。

 

 惟親は見かねて進み出た。

 

「薫子嬢。常人の意見としては、音柱様はそれなりに見目好い御方だと思いますよ」

「あ……」

 

 そういえば、京都の藤家紋の家でもみやことかえでが『格好えぇ』と言っていた気がする。

 確か、近所の娘さんにも人気だったとか、何とか。

 

「すみません、音柱様」

「やめろ。謝られても地味に嫌味だ」

「そんなつもりは……」

 

 薫は訂正しようとしたが、惟親は既にこの話題については触れないことが一番だと結論して、話を変える。

 

「音柱様と一緒に行く以外でも、薫子嬢が着飾れば目立つには目立つでしょうが……もう少し決定的な何かあるといいのですが……」

 

 すると天元がパチンと指を鳴らした。

 

「待て。今回の夜会の表向きのお題目はなんだ? この前言ってたみたいな音曲の会か?」

「今回は……確か、菊内男爵と他の好事家が収集した西洋骨董(アンティーク)を見る会、であったと思います」

「なんだそれ…」

 

 天元はひどくつまらなそうに口をとがらせる。

 

「チッ! 音曲の会だったら、こいつの見せ場があったかもしれないのに」

「どういう事です?」

 

 惟親の疑問は薫も同じだった。

 天元はチラとだけ薫を見て尋ねてくる。

 

「お前、京の藤の家で洋琴…()()()とかいうの弾いてたろ?」

「え? あ…はい」

 

 一応頷く。

 あの時、天元はすぐに寝てしまったので、まさか聴いていたとは思わなかった。

 惟親が「あぁ…」と思い出したように顎に手をやる。

 

「そういえば、そうでしたね。佳喜氏から聞いたことがあります。今でも練習なさっておいでですか?」

「……いえ、もうほとんど」

 

 惟親と薫が話している間に、天元はまたドサリと長椅子に寝転がって、いかにも残念そうにつぶやいた。

 

「あぁ~あ。こいつがその宴会場でピヤノなんたらを弾いたら、さぞ派手派手に目立つんだろうになぁ~」

 

 薫は一気に顔が強張った。

 一体、何を言い出すのだろうか、この音柱は。

 

 しかし惟親は腕を組んで考え込んだ。

 

「なるほど…」

「冗談じゃありません! 伯爵、本気にしないで下さい」

 

 薫は思わず叫んだが、惟親はしばし思案した後、極めて真面目な顔になって言った。

 

「実のところ、夜会で必ず行われることがあるのです。これが、菊内男爵の一人娘である伊都子(いとこ)嬢のピアノ演奏でして」

 

 天元はすぐに反応して、ムクリと起き上がる。

 

「ほぉ…」

「夜会の終わりを知らせる合図のような形で、伊都子嬢がピアノを演奏なさるのです」

 

 天元はクックッと笑うと、パンと膝を打つ。

 

「ますますいいじゃねぇか。そのおイトさんのお株を奪ったとなりゃ、相当に派手派手に目立つだろうよ!」

 

 薫は青ざめた。

 冗談ではない。自分は人前で聴かせられるような腕前ではない。

 

 縋るように惟親を見れば、伯爵は口髭をそっと押さえながら、満更でもないようだった。

 

「確かに…相当に目立つ行為ではあります。あの伊都子嬢の鼻をあかすことにもなりますし」

「鼻をあかすたぁ…不穏だな、伯爵。何か意趣でもあるのかい?」

「正直、さほどに聴いてて心地よい演奏とも言い難いので。それを指摘する人間もいない…というのが、尚の事腹立たしい」

「下手なのか?」

「技術的には、それなりでしょう。楽譜も読めない人間からすれば、鍵盤の上を指が踊るように動いているのを見るだけで凄いと思うらしいので」

「ハハハッ! 伯爵もキツイこと言うなぁ」

「問題は、薫子嬢の腕が伊都子嬢に勝るのかどうか…ということですよ」

 

 惟親はクルリと薫の方を向いて見つめた。

 ブンブンと薫は激しく首を振る。

 

「無理です!」

「ふむ。どなたに師事されていたのです?」

 

 穏やかに問いかけてくる伯爵に、いよいよ追い詰められた気分になってくる。

 薫は小さな声で答えた。

 

「………明見(あけみ)千佳子(ちかこ)様です」

「明見侯爵夫人の千佳子様ですか?」

 

 惟親は驚いて、思わず声が大きくなった。

 

「は…はい」

「では、基礎はしっかりされておられるでしょうね。あの御方は、こと、ピアノに関してはとても厳しい方でしたから」

 

 どうやら伯爵は千佳子と面識があるらしい。

 まぁ、さほど広い世界ではないのだから、あってもおかしくはない。

 

 それよりも問題は、薫が夜会でピアノを弾くことが既定となりつつあることだ。

 

「薩見伯爵。私には無理です。とても人前で弾けるような……」

 

 どうにか抵抗するが、惟親はにこやかな笑顔を浮かべていた。

 

「千佳子様に教えてもらっておいて、そのようなことでは嘆かれますよ。かの方の音色といったら、それこそ外国の人ですらも聴き入って、欧羅巴(ヨオロッパ)で演奏会を開いてほしいとまで言われていたのですからね。まぁ、いいでしょう。夜会までに人前で演奏して恥ずかしくない程度に、今日から練習しましょう」

「………え?」

「面白ェじゃねぇか! せいぜいしっかりやんな」

 

 パンと手を打って、天元が立ち上がる。

 

「盛大に、派手に、ぶちかまして、鬼の野郎を引っ張り出すぞ!!」

「…………」

 

 もはや、この場にいる人間に薫の意見を聞く耳などないようだった。

 本当は今日からは技の改良も含めた剣術の稽古をやるつもりだったというのに。

 

 がっくりと薫は肩を落とした。

 

 その日は天元が他の任務もあって伯爵邸を去ると、薫は早速、薩見伯爵の厳しい視線の中、久しぶりにピアノを弾く羽目になった。

 正直、緊張で何度も指が流れたり、滑ったり、散々な演奏だった。

 

 とりあえず一曲弾き終えたところで、惟親はニッコリ笑って言った。

 

「薫子嬢は、この屋敷に逗留して頂いて、みっちり練習することに致しましょう」

 

 

 

<つづく>

 






引き続き、更新致します。しばらくお待ち下さい。



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第五章 宴の前(三)

 夜会の開催は二週間後。

 

 薫のピアノ以外にも、色々と準備はあった。

 初めて薩見(さつみ)邸に来た二日後に再び天元が訪ねてきて、夜会当日の、より具体的な策を練ることになった。

 

 まずは薫の身の上である。

 惟親(これちか)が気付いたように、夜会で知り合いに指摘される可能性はないとはいえない。

 

「なんだよ、いっそのことそうなんでござい~って出ていきゃいいだろ。それこそピヤノなんぞ弾く以上に目立つんじゃねぇの?」

 

 天元は軽く言ったが、薫は森野辺子爵令嬢であった素性が知れるのは避けたかった。

 好奇の目にさらされた上、父母のことを根掘り葉掘り聞かれるのは耐えられない。

 

「正直なところ、それは得策ではございません」

 

 薫が断るよりも早くに、惟親が否定した。

 

「森野辺子爵が亡くなられた後、薫子嬢が姿を消した―――私が聞いたところによると、精神を病んで(やすこ)子夫人方の親戚に引き取られた、と…子爵の遠縁の者が主張しておられました。そのために、本来であれば薫子(ゆきこ)嬢が相続するはずの財産が宙に浮いている状態です。縁戚の人間が不法に我が物にしていましたが、司法卿の江守伯爵の告発ですべて没収され、今は八津尾子爵の下で管理されていると聞いています。しかし、もし薫子嬢が戻ったとなれば、財産目当てに寄ってくる輩は無数にいるでしょう。そんな者に関わっていては、任務に支障をきたします」

 

「そうはいっても…アンタだってコイツを見るなり、そのご令嬢なんだとわかった訳だろ? 顔を合わせたことのある人間だったら、誰でもわかるんじゃねぇの?」

 

「私の場合はある程度の憶測があった上でのことです。今の薫子…薫さんを見て、即座に森野辺薫子嬢だと断定される方は少ないでしょう。そもそも、あの頃の薫子嬢は社交界に顔を出されることも少なかったですし、覚えておられる方は少ないと思います」

 

 無言で頷く薫を見て、天元がフンと鼻で笑う。

 

「まぁ…お前、地味そうだもんなぁ。隅っこでちんまり座ってそうだわ」

「………」

 

 否定はしない。その通りだから。

 しかし、なぜかちょっとイラっとした。

 顔には出さないが。

 

「ま、成長されておられますし、化粧の仕方で女性というのは見事に変貌するものですから」

 

 惟親がそれとなく気遣って言ったが、薫は嘆息した。

 

「……化粧ですか」

 

 ピアノ演奏の上に、化粧までしなくてはならないのかと思うと、一層憂鬱になった。

 

 しかし、伯爵の言うような状態になっているのなら、ますます森野辺の名前を出す訳にはいかない。

 誰になんと言われようが、他人の空似である! とシラを切り通す覚悟が必要だ。………嘘をつくのは、苦手だが。

 

「おぉ、いいな。せいぜい俺の横で霞まない程度に白粉(おしろい)塗ってもらっとけ」

 

 薫はゲンナリした顔で天元を見てから、ふと気付いて惟親に質問する。

 

「私の素性を隠すことも含めて、音柱様と一緒に行くのであれば、どういった体裁で行くのですか?」

「婚約者ではいけませんか?」

「できればそれ以外で」

 

 芝居とはいえ、嫁が三人もいる人の婚約者にはなりたくない。

 

「でしたら、兄妹…ですかね」

「……フン。俺の妹にしちゃ地味だな」

 

 天元は軽く言いながらも、その表情は一瞬、暗くなった。

 薫がどうしたのかと問いかける前に、すぐにいつものふてぶてしい顔に戻る。

 

「一応、それらしい身上は用意してくれよ」

「私の妻方の姪と甥ということで問題はないでしょう。招待者の家族や知り合いは四名まで連れて行ってもよろしいとなっていますから…」

「で…俺はコイツを『薫子(ゆきこ)』って呼べぁいいのか? お(ひい)様ってのは、そういう名前なんだろ?」

 

 天元にからかい混じりに言われて、薫はハッとなった。

 

「名前も薫だと…面識のある人などは疑うかもしれません。他人の空似の上に、名前まで相似していると…」

「確かに…」

 

 惟親は頷いて、すぐに思いつく。

 

「では……香り、に、織る、で『香織』ではどうでしょうか? 今の呼び名とそう変わりませんし、言い間違えても、さほどに気にならぬでしょう」

 

 薩見邸で厄介になるようになってから、薫はすぐに惟親に『薫子(ゆきこ)』という名前で呼ばないように頼んだ。

 惟親は仕方なく了承し、今は「薫さん」と呼ぶようになっている。

 

「では、そのように」

 

 薫は頷いてから、ふと天元と目が合って尋ねる。

 

「音柱様のことは、このまま()()()()()()とお呼びすればよろしいのでしょうか?」

 

 今まで呼ばれたことがなかったのか、天元は一瞬、うろたえた顔になった。

 惟親は髭を押さえながら、うーむと考え込む。

 

「音柱様はいかが致しましょうか? 天元というのも…僧職であればおかしくもないでしょうが、妻の実家は銀行家なので」

「……テキトーに決めてくれよ」

 

 天元は心底、面倒そうにヒラヒラと手を振る。

 

「それでは、天元から一字とって(げん)と読ませましょう。よろしいですかな?」

「元にいさま、ですね?」

 

 至極真面目な顔で薫が言うと、天元は渋い顔になって視線を逸らした。

 

「今日の作戦会議はこれで終了か? だったら帰るぜ」

 

 急に機嫌が悪くなって早々に帰ろうとする天元を、惟親があわてて止めた。

 

「あ、いえ。まだございます。夜会に来ていく服を作らないといけませんので、音柱様には採寸を受けて頂きます」

「採寸?」

「体の寸法を測らせて頂きます。音柱様は通常の男子よりも数倍大きくていらっしゃいます。腕も太いので、既製服などは無理でございますから、一着、誂えさせていただきます」

 

 天元は思いきり渋面になった。

 

「前に作ったのがあったろ」

「ありますが、おそらく入りませんでしょう。あの頃に比べても、一回りは大きくなっておられますよ」

「人を七五三の子供(ガキ)みたいに言うなよ。あぁー! 嫌だ嫌だ。あンな窮屈なもん着て、またクルクル回れとでも言うんじゃないだろうな!?」

 

 惟親が気の毒そうに頷くと、「イ・ヤ・だ!」と天元はそれこそ子供のように怒鳴る。

 

「絶対に、嫌だね!!」

「そうは申されましても……」

 

 惟親は困った様子で、なんとかなだめようとするが、天元の方は強硬にだんまりを決め込む。

 

「クルクル回るって…あの…ダンスのことですか?」

 

 薫が二人のやり取りから推量して尋ねると、惟親がコクリと頷いた。

 

「以前にも潜入して頂いた時に、どうしても必要でしてね。その時には練習して頂いたのですが…」

「難しいですものね…」

 

 薫も一応、教わったが、正直苦手だった。

 そもそも踊るために男女で向かい合って、その上、手まで取り合わねばならないというのが、どうしても抵抗がある。

 

「いえ、音柱様はさすがというべきか、とてもお上手でいらっしゃいます。すぐに覚えてしまわれましたし」

「そうなんですか? 凄いですね」

 

 薫が素直に言うと、天元は満更でもなさそうに肩をすくめたものの、

 

「褒めてもらったとこで、嫌なもんは嫌だ」

と、頑として拒否する。

 

 薫は少し考えてから、提案した。

 

「でしたら、足がお悪いということにすればいいのでは?」

「え?」

 

 惟親が固まり、天元はハッとしたように薫を見た。

 

「足が悪いので、踊れないということにすれば、無理に踊る必要はないかと…」

「ハハッ! そりゃいい!!」

 

 得たり! とばかりに天元は食いついた。

 

「よし、そうしよう! ついでに仕込杖でも作ってくか…ちょうどいい。お前、なかなかいいこと言うじゃねぇか」

「はぁ……」

 

 薫は曖昧に笑った。

 実は、自分が使った方法だった。

 

 令嬢時代に連れて行かれた何かの式典で、それこそ踊るように言われたのだが、どうしても嫌だったので、靴ずれがひどくて動けないと言って、なんとかしのいだのだ。

 

 少しは役に立ったのかと、ホッとしたのも束の間。

 それまで中指で眉間を押さえていた惟親は嘆息した後に、薫に向かって言った。

 

「では、踊りの方での工作は、薫さんにお願いすることにします」

「はい?」

「音柱様がそういうことで動けないなら、あなたが一応、ご挨拶がてら紳士令息方と踊るぐらいはしないと。現れるなりいきなりピアノを弾くのは、さすがに失礼極まりないですからね。こちらもそれとなくあなたがピアノを弾けるように持っていきますが、あなたもせいぜいお相手と会話して吹聴して回って下さい。私はピアノがとても上手だと言って…」

「えぇ!? 踊るんですか!? 私が?」

 

 ほとんど悲鳴のように薫が尋ねると、惟親はにべない表情で頷く。

 

「当然です。私としては、音柱様にご令嬢方と踊っていただいて、自分の妹はピアノが得意なのだと言い回ってもらって、それなら是非にも聴かせて頂きたい…という流れであなたにピアノを弾く機会を作ろうと思っていましたが……」

「でしたら、やっぱり音柱様が踊って下さい!」

「やーだね」

 

 あっかんべーをして天元はケラケラ笑った。

 今更ながら、余計な提案をしてしまったことに気付く。

 

「私は…踊りは苦手です! もう何年もやってませんから、覚えてません!」

「心配なさらずとも、外国の要人でもない限り、さほどに上手な方はいらっしゃいませんよ。ま、基本的なところだけ、またお浚いすることにしましょう」

 

 必死に逃れようとする薫に、惟親は無情に新たなる課題を告げる。

 

 呆然として、薫はもう一度、天元を見つめた。

 

「頑張れよ」

 

 腕を組んで笑いながら、あっさりと天元は突き放す。

 

「…………」

 

 薫はもはや何を言い返す気力もなかった。  

 

 二週間の間に、ピアノに舞踏(ダンス)の練習。

 

 一体、自分は何をしに来ているのか、わらなくなってくる…。

 

 とりあえず、天元は夜会に来ていく礼服の採寸を終えると、仏頂面の薫を見てニヤニヤ笑いながら念を押した。

 

「ま、あくまで任務だからな。……忘れるなよ」

 

 その目には鬼狩りとしての気迫がある。

 薫は顔を引き締めた。

 そう。自分達の目的は鬼の滅殺。

 

 とはいえ。

 

 自分もまた夜会服を誂える必要があると、採寸されるハメになって薫は嘆息した。

 既製服で十分だと言ったのだが、惟親はあっさりと却下する。

 

「あいにくと着物ではありませんのでね。こうした華やかなドレスに既製の物はございません。妻のものでは寸法が合いませんし」

「でも、お高いのではないですか? 一度きりしか着ないのに」

「隊務で潜入するために必要なのですから、隊費から捻出されます。ご心配なく。それにいつ鬼と遭遇してもいいように、強度は勿論、多少なりと動きやすいように作る必要もございますので、尚の事、普通のドレスと同じように作るわけにも参りません。それは音柱様も同じでございます」

「……そんな特殊な服を作ることができるのですか?」

「我が鬼殺隊の縫製部を舐めてはいけません」

 

 惟親が涼しい顔で言うのを、採寸していた女隠は、片頬をヒクヒク引き攣らせながら睨みつけていた。

 どうやら彼女も今回の任務の犠牲者らしい……。

 

 薫は申し訳ないと思いつつも、自分もまたこれから二週間近くは憂鬱な日々を過ごさねばならないのかと思うと、うんざりと虚空に視線を泳がせるしかなかった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 採寸が終わり隠が帰ると、すぐさまピアノの練習が始まる。

 

 薫はあまりにも劣化してしまった自分の指の動きに肩を落とすばかりだった。

 見事に磨かれたグランドピアノに申し訳ない気持ちになってくる…。

 

「…本当に弾くのですか? 私が」

 

 まだゴネる薫に惟親は少し呆れ気味に言った。

 

「そうですよ。任務ですからね。さ、さっき間違えたところに気をつけて浚って下さい。左手の小指がまだ弱いですよ。スタッカートはもっとくっきりと、明瞭に」

 

 惟親の指導は明晰で、かつ厳しい。

 さすがに鞭で打たれるようなことはなかったが、上手く弾けないと大袈裟なほどの溜息をつかれ、それはけっこう精神的な重圧であった。

 

 また同じところで間違ってしまい、何度目かの大仰な溜息に薫がガックリ項垂れていると、コンコンとノックが響く。

 

「まぁ…そんなに根を詰めてやるものでもありませんでしょうに」

 

 のんびりした口調で入ってきたのは、惟親の妻である奈津子だった。

 女中がワゴンにお茶のセットを乗せて運んでくる。

 

 惟親はムッと眉を寄せた。

 

「生憎だが、時間がない以上、根を詰めてやるしかないのだ」

「そんなこと…。薫さんは体が弱いから、鬼殺隊など辞めるべきだと仰言っていたあなたが無理をさせてはいけないのではなくって?」

「………」

 

 渋い顔で惟親が押し黙ると、奈津子夫人はフフと笑って薫にソファに座るように促す。

 

「さ、少しは気分転換して。音楽を奏でる人が、そんな難しい顔していては、聴いている方だって、和みませんわ」

 

 薫がチラと窺うと、奥方のもっともな言い分に、惟親は不承不承ソファに腰掛けた。

 軽く顎をしゃくって促すのを見て、おずおずと薫は向かいの長椅子に座った。

 

「それにしてもお上手でいらっしゃるのねぇ…。私にはどこが間違っているのかわかりませんわ。もう十分ではありませんこと?」

「まさか…」

 

 惟親は難しい顔をしてお茶を飲んで、すぐに否定する。

 

「あれでは、伊都子嬢より幾分かマシという程度でしかないですよ」

「まぁ、厳しい先生だこと。薫さん、時々素知らぬ顔して足でも踏んづけておやりなさい」

 

 奈津子が澄ました顔でそんなことを言うので、薫は思わず笑みが零れた。

 

「いえ…伯爵の仰言られる通りですから」

「あらまぁ…いい生徒さんでいらっしゃる。今までこの人に教えて欲しいと言って、私の弟や従姉妹も習いに来ましたけど、皆その日のうちに諦めて帰って行きましたのよ。私、この人には物を教える才能はないと思いますの。だって、やる気があって来ている人に、すっかりやる気をなくさせるなんて、一番、教師としてはしてはいけないことだと思いますもの」

 

 奈津子はそう言って惟親をジロリと見たが、バツが悪そうな伯爵はフンと目を逸らす。

 

「せっかくのお茶会ですし、音楽でも聴きながら味わいたいものです。あなた、久しぶりに弾いて下さいまし」

「なんで僕が…」

「だって、もうお茶も飲み終わってらっしゃるじゃないの。せっかちでいらっしゃるから…。ねぇ、薫さん。弾かされてばかりで、この人の演奏を聴いたことはないのではなくって?」

「え…はい」

 

 確かに一度も聴いたことはない。たまに、手本として部分的に弾く程度だ。

 

「是非、聴いてみたいです」

 

 俄然、楽しみになって薫が言うと、奈津子はニッコリと惟親に笑いかけた。

 言外に奥方から「弾け」と命令され、惟親は仕方なく立ち上がるとピアノの椅子に座る。

 

 やがて午後のお茶会にふさわしい、穏やかな旋律が流れ始めた。

 

 リストの『コンソレーション 第3番』。

 

 薫は驚いていた。

 

 あれだけ的確に人に教えることができる以上、惟親のピアノの腕前も相当であろうとは思っていたものの、想像以上にその演奏は素晴らしかった。

 

 このピアノ自体が柔らかな音色のものであったが、惟親の奏でる音楽はそのピアノの特長を損なうことのない、叙情的で優しいものだった。

 

 本人には言えないが、正直、普段の取り澄ました、お堅い印象からは想像できない。

 

 弾き終えた惟親は、余韻に浸る間もなく「腹が痛くなった…」と早々に部屋から出て行った。

 クスクスと奈津子は笑う。

 

「あれなんですもの。…どうかしら、先生の腕前は?」

「とても素晴らしかったです。本当に…とても」

 

 薫はうまく言葉にできなかったが、奈津子は嬉しそうに微笑んだ。

 

「せっかく上手でいらしても、知らない人間の前だとひどく緊張してしまって…今も、やっぱりあなたに聴かせるのは初めてだったから、お腹が痛くなってしまったのよ」

「それは…勿体ないですね」

 

 あれだけ腕前であれば、十分にピアニストとしてやっていけそうなのに。

 

「いいのよ。あの人は……元々、唯お一人のためだけに弾いていたのですから」

 

 薫は首を傾げた。

 今の奈津子の言い様だと、その一人というのはどうやら奈津子ではないらしい。

 

 困惑した薫を見て、奈津子はすぐに教えてくれた。

 

「先のお館様が、好きでいらしたの。今の曲」

「先のお館様……」

「お館様でもあったけど、幼馴染でもいらしたから…亡くなられた時には、とても憔悴して。ずっと……ピアノを弾いていたわ」

「……そうなんですね」

 

 薫は頷いて、先程の演奏を思い出す。

 

 普段は至って冷静で、滅多と感情を荒立たせることのない伯爵。

 だが、奏でる音色はとても情感のこもったものだった。

 きっと、本来の薩見伯爵はとても感受性豊かな人間なのだろう…。

 

「薫さんは、明見(あけみ)侯爵夫人の千佳子(ちかこ)様に習っていらしたのよね」

 

 奈津子が少し沈んだ顔で尋ねてくる。

 

「はい。千佳子様も厳しい先生でしたけど、とてもよくしてくださいました。ドレミも知らない私に、根気よく教えて下さって」

「そう…意外だわ」

「え?」

「あの方は、そこそこに弾ける方でないと教えなかったと聞いてますよ。伯爵も一度、教示に伺ったことがあると聞きますけど、相当手厳しかったようです」

「そう…ですか…」

 

 返事しながら、薫はモヤモヤした。

 千佳子が初心者の薫に教えてくれた理由を考えると、否が応でも、実父のことが浮かぶ。

 

 昔、千佳子と薫の実父・森野辺(すぐる)が婚約者であったという事実。

 後から知ったこととはいえ、千佳子には申し訳ない気持ちになる。

 

 どうして父はあんなに美しい人と破談したのであろうか。

 性格だって高い身分の割には、とても親しみがあって、鷹揚で優しい人でいらしたものを。

 きっと、今も華やかで麗しくていらっしゃるだろう…。

 

 千佳子の事を思い出し、薫はハッと気付くと青ざめた。

 どうして今の今まで考えなかったのだろう…こんな大事なことを!

 

「どうなさったの?」

 

 奈津子がいきなり強張った表情になった薫を心配そうに窺った。

 

「あの…千佳子様は今はどうなさっていらっしゃいますか?」

「え?」

「私…うっかりしてました。千佳子様がもし夜会に来るようなことがあれば、どうやったって気付かれない訳がありません。ましてピアノを弾いたりなんかしたら、どんなにガッカリされるか……」

 

 動揺のあまり早口に薫は言ったが、奈津子の返事はなかった。

 呆然と口を開けたまま、何とも言えぬ顔で見つめている。

 

 ちょうどその時に惟親が戻ってきた。

 

「さぁ、練習の続きを……どうしました?」

 

 入るなり、異様な様子の二人に眉をひそめる。

 

「伯爵、すいません。大事なことを忘れていました!」

 

 薫は頭を下げながら言った。

 

「明見千佳子様は出席になられるのでしょうか? もしあの御方が夜会にいらっしゃるようなことがあったら、私はとてもシラを切り通すことはできません。ピアノを弾くなんて、絶対に無理です!」

「…………」

 

 惟親はしばらく固まったまま無言だった。

 徐々に落ち着きを取り戻した薫は首を傾げる。

 

 いつまでも返事がないので声をかけようとすると、惟親がボソリと言った。

 

「言ってませんでしたか…?」

「…はい?」

 

 薫が聞き返すと、惟親は眉間に深い皺を寄せて目を伏せる。

 

 長い沈黙の後、惟親はクイと眼鏡を持ち上げると、痛ましげに薫に告げた。

 

「……明見千佳子様は、亡くなられました」

「……え?」

 

 薫の顔が固まる。

 一瞬、何を言われたのかが理解できない。

 

 惟親は沈痛な面持ちで、もう一度言った。

 

「明見侯爵夫人の千佳子様は、先年、亡くなられました……」

 

 

 

<つづく>

 






次回は来週更新予定です。



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第五章 宴の前(四)

 それは、覚えのある感覚だった。

 

明見(あけみ)侯爵夫人の千佳子様は、先年亡くなられました。ですから……夜会にいらっしゃることはありません……」

 

 惟親(これちか)が沈痛な面持ちで話しているのを、薫は不思議な気持ちで聞いていた。

 まるで違う世界を、鏡の裏側から見ているようだ。

 

 前にも同じようなことがあったように思う。

 水の中にいて、聞こえてくるような会話。

 そこに自分はいるのに、いないかのような感覚。

 

 視線の先にあるグランドピアノのかたわらで、千佳子は笑っている。

 

 ―――――お上手ですよ、薫子さん。

 

 その微笑は今しも花開いた大輪の牡丹のごとく。

 生まれ持った高貴さと、無邪気さを併せた稀有なる(ひと)

 

 こんな形で、その死を聞くことになるとは……。

 

「申し訳ありません。失念致しておりました。てっきりご存知かと思い…」

 

 惟親はあわてて謝ったが、その袖を奈津子がそっと引っ張った。

 

「あなた…」

 

 奈津子はゆるゆると首を振って、静かに言った。

 

「今日のところは…練習はお休みされたほうが…」

 

 惟親が頷くと、奈津子は柔らかな微笑を浮かべて薫に声をかけた。

 

「薫さん、さ、お部屋で少し休みましょう」

 

 茫然としたまま薫は奈津子の手を取り、導かれるまま部屋から出て行った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 二人が立ち去った後で、惟親は軽く息をついてソファへと腰を降ろした。

 

 まさか知らなかったとは…。

 

 だが、それは考えられないことではない。

 薫の入隊時期を考えれば、知らなくても当然だ。

 

 惟親はもう一度、大きな溜息をついてから、ポットに残っていた紅茶をカップに注いだ。

 色濃い琥珀色は陰鬱な表情を映し出す。

 

 相当に衝撃を受けたようだった。

 

 このことでまた体調が悪くなって、今回の任務が出来なくなったら…。

 いや、むしろそれは惟親にとっては僥倖なのかもしれないが…。

 

 どっちつかずな考えが浮かんではユラユラしている。

 我ながらいつまでも優柔不断なことだ…と、惟親は苦く思った。

 

 一度は薫の処遇については音柱に預けて納得したはずなのに、やはりどうしても気になってしまう。

 

 澄んだ赤茶色の液体を見つめながら、惟親の脳裏に浮かんでくるのは、快活に笑っている友の姿だった。

 

 薩見(さつみ)惟親(これちか)にとって、森野辺(もりのべ)子爵はかけがえのない友人であった。

 

 年は惟親よりも八つほど上ではあったものの、年齢の割に若々しい外見であると同様に柔軟な考え方を持ち、自分よりも年少の惟親に対しても決して尊大な態度をとることもない、穏やかな紳士であった。

 

 元々、意図的に近付いたのは惟親の方だった。

 

 若い頃、欧羅巴(ヨオロッパ)に留学していた子爵は、そこで社会福祉…特に、子供に関する福祉政策に興味を持って学んだのだという。

 そのために、孤児院の創設や児童の教育について熱心に取り組んでいた。

 

 無論、こうした子爵の事業を金持ちの道楽、或いは偽善者と揶揄(やゆ)する人間は多かったが、そうした人々にすらも子爵は頭を下げることを厭わなかった。

 

 自分が大した人間でないのはわかっている。だから、無駄な矜持は持たない。

 むしろ、そうして馬鹿にする人間からも寄付を募って、その中の一人であっても興味を持ってくれればいいのだ…と。

 

 惟親は当初、森野辺子爵のこうした地道な努力によって得た人脈と、その能力、識見をかって、自分の抱えた問題を解消するために近付いた。

 

 それは、鬼によって孤児となってしまった子供達の面倒を見る…という、先代のお館様である聡哉(さとや)が言い出した事だった。

 

 せっかく鬼から救っても、その親が殺されており、あるいは親が鬼となってしまったことで、子供達だけが遺されることは珍しくなかった。

 知り合いや親戚に頼れる場合はまだいい。

 だが、中には天涯孤独となってしまい、そのまま路頭に迷って餓死する子もいた。

 

 どうにか餓死を免れたとしても、人買いに捕まって劣悪な労働に従事させられることもあった。

 そうした状況を聡哉はどうにかしたかったのだろう。

 鬼から逃れて生き延びた命を、せめて大事に見守って巣立てるように…と。

 

 一度、小さな孤児院施設を作ったが、任せた人間が悪かった。

 責任者の男を始めとする職員達によって、指導という名目での虐待が横行し、子供達は逃げてしまった。 

 

 散々な結果に終わり、聡哉には相当応えたのだろう。

 元より呪いによる病は進行していたが、この事があって一気に悪化した。

 精神的な衝撃は、余命幾ばくもない聡哉ですらも、生きていくことへの希望を失わせた。

 

 聡哉から鬼殺隊と同時に、この案件も引き継いだ耀哉は、ただのおためごかしにしないためにも、専門家の意見を聞いて、子供達のため、十全な環境を整えた施設を作るべきだとした。

 具体的な裁量を任された惟親が調査していく中で、出会ったのが森野辺(もりのべ)佳喜(けいき)子爵だった。

 

 彼に鬼殺隊のことは言わなかった。

 産屋敷の名も出さなかったが、非常に裕福な篤志家が、不遇な子供達のための施設を作る計画しているのだと話すと、子爵は何の見返りもなくその準備を手伝ってくれた。

 

 やはり留学していただけあって、彼の助言は非常に有益であり、素人ではわからない子供の発達心理なども含めた細やかなものだった。

 

 一緒に仕事をするうちに、惟親には森野辺子爵が本気で、何であれば人生を懸けて、この事業に対して取り組んでいることがわかった。

 彼との仕事は清新で闊達な議論も含めて、刺激的で楽しかった。

 

 いつも鬼殺隊という死と直面した組織の管理をしていると、不条理に唇を噛み締めるしかないことが多い。

 だが、子爵との孤児院開設の準備は、それまでの惟親の仕事からすると、非常に建設的なものだった。

 そこには確かな未来を感じられたのだ。

 

 いつの間にか惟親にとって子爵は、重要な仕事上の相手という以上に、深い信頼と尊敬に値する優れた友人となっていた。

 時に、一緒に趣味の山登りなどもするほどに。

 

 その彼が自分の弟の忘れ形見である娘を引き取り、養育しているのだと聞いた時には、さもありなんと思った。

 だが、こと子供に関することなら専門家と思えた子爵も、いざ自分の子供となると難渋していたようだ。

 

「…聞き分けがいいし、努力家で真面目で……いささか不憫だよ。文句も言わないのだから」

 

 惟親は良く出来た子でいいじゃないか、と言ったが、子爵は悲しげに首を振った。

 

「幼い頃から大人達に混じって労働をさせられていたからだろう。そういう子は異様なほどに大人の顔色を見るんだ。それに長い間、無理をしていたせいで、とても痩せていて…体も弟の体質を受け継いでいるのかもしれない。熱をよく出すんだよ…」

 

 その姿は子育てに悩む父親と言ってよかった。

 事実は姪と伯父というものであったとしても。

 

 孤児院が無事に開設してから、頻繁に会うことはなくなったものの、それでも月に一度程度は互いに時間を融通して会っていた。

 

 一番最後に会った時には、子爵はその娘についてひどく悩み、後悔していたようだった。

 

「……あの子にとても……とても無理をさせてしまった。前から薄々気付いていたのに…」

 

 惟親は子供がないのでわからなかったが、結局、子爵ほどに情の厚い人間であっても、()()()の扱いには戸惑うものらしい。

 

 それでも一度、街中で見かけた子爵と、寧子(やすこ)夫人、薫子(ゆきこ)嬢の三人の姿は、ただただ仲の良い親子にしか見えなかった。

 そこにはありきたりながら、誰もがうらやむ幸せな家族の姿があった。

 

 惟親はすっかり渋くなった紅茶を飲み干して、何度目かの溜息をもらす。

 

 子爵はおそらく鬼への復讐など望んではいない。

 きっと娘が幸せに、安寧に生きてくれることを、誰より望んでいたはずだ。

 

 それに先程の千佳子の死にすら動揺して蒼白になっていた薫の姿を見るにつけ、鬼殺隊で過酷な職務を遂行することなど出来るのか、と思う。

 

 やはり本来であれば辞めてもらいたい。

 このまま体調が悪くなるようであれば、辞めることを勧告できるだろう。

 

 とはいえ―――――。

 

 もはや計画は動き始めている。

 音柱にも言い含められている。

 

 今更ながらに惟親は後悔していた。

 この仕事を任せる隊士の選定で、どうして森野辺薫という名前を見つけてしまったのか。その隊士をどうして選び取ってしまったのか。

 

 理性的に考えた結果、この任務において森野辺薫以上の適任者はいない。

 同時に。

 故・森野辺子爵への敬慕が、その娘である薫を任務から―――いや、鬼殺隊からすらも、除きたいと願うのだ。

 

 いまだに定まりのつかぬ自らの気持ちに嘆息しながら、惟親は立ち上がってピアノの蓋を閉めると、部屋から出て行った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 自分にあてがわれた二階の部屋に戻ってくると、薫は寝台に腰掛けたまま、ぼんやりと張出し窓の向こうの夕焼け空を見ていた。

 

 あまりにも唐突な、予想もしていない人の死は、思考が麻痺するのだろうか。

 

 以前にも同じことがあった。

 志津達一家が殺されたと聞いた時だ。

 

 あの時も理解するまでに時間がかかった。

 信じる信じない以前に、意味がわからない。混乱して考えられない。

 

 正直なところ、同じ鬼殺隊士達の死には、ある程度の覚悟がある。

 それは自分の死と同一線上にあるもので、この仕事をする限り、無意識にこびりついた諦観だ。

 

 だからこそ、佐奈恵も匡近も、カナエの死も、信じたくなかったが…受け入れた。

 東洋一(とよいち)の死もまた、年齢やおそらく病を患っていたのもわかっていたから、いずれ訪れるべき時が意外な形でやってきたことを悲しみはしたが、それでも呑み込んだ。

 

 そうやって進むことしか自分にはできなかったから。 

 

 けれど志津も千佳子も…日常を生きていた人だ。

 彼女らと過ごす中で、死は遥か遠く、影さえも見えなかった。

 

 森野辺の家から旅立つ前、薫はピアノを弾いた。

 亡くなった父母や、面倒を見てくれたトヨ達のために。

 それから今まで教えてくれた千佳子への感謝をこめて。

 

 あえて何も言わず、手紙も渡さず去ったのは、千佳子に無用の心配をしてほしくなかったからだ。

 あの人には憂い顔は似合わない。

 美しく、きらびやかな世界の中心にいるべき人だ。

 

 以来、千佳子と薫の世界は隔たり、薫にとって千佳子は別世界の住人となった。

 それはまるでおとぎ話のお姫様が幸せに暮らすことを予言して終わる童話のように、彼女が美しいままこの先も長く生きるだろうと……勝手に、そう想像していた。

 

 ―――――明見千佳子様は、亡くなられました……

 

 惟親に告げられた言葉が、宙に浮いている。

 

 フラフラと窓辺に立つと、茜色に照らされた庭の一隅に赤や薄桃色の薔薇が咲き誇っていた。

 その景色は、明見邸の練習室からの眺めを思い起こさせる。

 

 

-------------

 

 

 

「ねぇ、薫子さん」

 

 不意に呼びかけてくる千佳子の声がした。

 

 窓辺から夕暮れの庭を見下ろしながら、薫のピアノを聴いていた千佳子が尋ねてきた。 

 

「この曲に、題名(タイトル)をつけるとしたら…どんなものが良いかしら?」

「え…?」

 

 薫はキョトンとなった。

 ベートーヴェンのピアノソナタ第8番は既に『悲愴』という名前がある。

 

「『悲愴』…じゃないんですか?」

 

 薫がおずおず言うと、千佳子は笑いながら首を振る。

 

「それはわかってますよ。でも、この第2楽章には似つかわしくない気がしませんこと? 『悲愴』なんて仰々しくて(いかめ)しい感じがします。もっと、この曲に似合ったような、優美でいて寂しげなような…そういう題名がよろしいと思うのです」

「はぁ…そうですね……」

 

 薫は相槌を打ちながらも、今いちよくわからなかった。

 ただ、どうやら千佳子には既に考えがあるように思えた。

 

「千佳子さまは、どのような題名を考えていらっしゃるのですか?」

 

 薫が尋ねると、千佳子は待っていたかのようにニッコリと微笑する。

 

「私はねぇ…『淡い面影』というのは、どうかしらと思っていますの」

「淡い…面影…」

「懐かしい人の…もう、儚げにもなった記憶のようなものよ……」

 

 そう言って窓辺に佇む千佳子の姿は、西陽に照らされて神々しく輝いていた。

 だがその横顔は少し寂しそうに見えた。

 まるで、誰かを…何かを懐かしんでいるように。

 

 薫は一瞬、不安になった。

 千佳子が突然、薫のことを忘れてしまったかのように思えた。

 

「…千佳子さま?」

 

 そうっと呼びかけると、千佳子はいつも通りの自信に満ちた笑顔を向ける。

 

「どうかしら?」

「あ…とっても…素敵な感じがします」

「フフフ。良かった…!」

 

 薫の答えに千佳子はご満悦のようだった。

 よほど機嫌が良かったのか、珍しくギュッと薫を抱きしめた。

 

 フワリと甘い異国の香水の匂いがする。

 幼い薫にとって、その匂いは千佳子を象徴するものになった。………

 

 

 

-------------

 

 

 だから、未だに。

 

 たまに街で甘いヘリオトロープの匂いがすると、ふと千佳子の姿を探してしまうことがあった。

 無論、いるはずもないし、いたところで声などかけられるはずもなかったが。

 

 コンコン、とノックの音がして、薫は知らないうちに頬を伝っていた涙を、あわてて袖で拭った。

 

「はい?」

「薫さん、よろしいかしら?」

 

 奈津子の声だった。

 

「どうぞ」

 

 カチャリとドアが開き、丸盆に湯呑を載せて、奈津子が入ってくる。

 

「喉が渇いてらっしゃるんじゃなくて?」

 

 薫が大泣きしていると思ったのだろうか。

 実際にはさほどに号泣していたわけでなかったが、湯呑から漂うほうじ茶の香りに、ホッと心が安らいだ。

 

「……はい」

 

 頷くと、奈津子は小さなテーブルに盆を置いた。

 

「お食事も、こちらに運ばせましょうか?」

「いえ…今日は…もう…」

 

 薫が首を振ると、奈津子はポンと肩を叩く。

 

「千佳子様も…きっと、嬉しく思っておられるでしょうね。こんなに慕ってくれていたのだと…」

「そんな…当然です。きっと…大勢の人が悲しまれたと思います」

 

 それこそ夜会に行けば、千佳子を取り囲んで幾重もの人垣ができたという。

 社交界の華と呼ばれるだけの美しさも、賢さも備えた貴婦人だった。

 その死を悼む人は数知れずいただろう…。

 

 薫はそう思っていたが、奈津子は複雑な表情を浮かべた。

 

「……どうされたのですか?」

「正直申し上げて…」

 

 奈津子は言いにくそうに声をひそめた。

 

「あまり千佳子様の死を悼む人はおりませんでした。千佳子様の葬儀は、とても簡素に…誰も知らないうちに行われたようです」

「え?」

「ご家族の方すら臨席されず…ただ一人、長らく千佳子様に仕えておられたばぁやだけが、見送られた…と」

「…どうして?」

 

 薫は困惑した。

 あの人の葬儀であれば、さぞ豪華に行われたとばかり思っていた。

 言っても侯爵夫人なのだ。宮家からお悔やみがあっても不思議ない。

 

「私も詳しくは存じませんが、実は…千佳子様が病気になられて…明見侯爵は離縁されたようなのです」

「えっ?」

「千佳子様が侯爵邸から出て、一月(ひとつき)も経たぬうちに、新たな女の方が入られたと」

 

 薫の顔は歪んだ。

 

 明見侯爵その人とは、チラと見て挨拶を交わした程度だ。

 はなから子爵令嬢ごときを相手にしていなかった。

 特に印象もないが、病気の夫人を離縁してすぐにも後妻を娶るような人であるなら、どういう性格かはおよそ想像がつく。

 

「では…千佳子様は……病気でありながら、侯爵が後妻を迎えるのをご存知でいらしたのですか?」

「わかりません。でも、ご存知であれば、辛かったことでしょうね」

 

 薫はいつの間にか握りしめた拳をブルブル震わせていた。

 

 あの気高い人が、夫のそんな裏切りを知って、平静でいられたはずがない。

 病気であったなら尚の事、いや…あるいは…

 

「千佳子様が亡くなったのは、病気なのですか?! 本当に?」

 

 薫は思わず声を荒げたが、困った顔の奈津子を見てハッと我に返った。

 

「……すみません」

「いえ、いいの」

 

 奈津子はゆるゆると首を振ってから、ドアの方へと向かう。

 

「ごめんなさいね。私もよくは知らなくて。口さがない人達の噂話を聞き齧った程度ですから…」

 

 薫は冷たい顔になった。

 他人の不幸に群がって面白おかしく語り合う人は、どこにもいる。

 きっと薫と両親のことも、好き勝手に噂していたことだろう。

 

「あの…伯爵はいらっしゃいますか?」

「あの人なら、出ていきました。今日は元々、会合だとか言っておりましたし…」

「……そうですか」

 

 詳しいことを聞きたかったが、仕方ない。

 薫は溜息をつくと、再び奈津子に尋ねた。

 

「あの、今…ピアノを弾いてもよろしいですか?」

「あら…今日はもう練習はいいと…」

「いえ……少し、弾きたいのです。誰も…千佳子さまを送っていないのなら、せめて…。今更ですけど」

 

 聞く限り、ピアノを弾いて千佳子の亡骸を送ろうなどという配慮もされなかったのだろう。

 

 奈津子は頷くと、もう一度言った。

 

「どうぞ。……きっと、千佳子様も喜ばれることでしょう」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 日が暮れてピアノを弾き始める。

 今の薫の演奏は、千佳子が聞けば悲鳴をあげそうなものではあったが、心安らかな冥福が訪れるように…と祈りながら指を動かす。

 

 千佳子が『淡い面影』と名付けた、ベートーヴェンのピアノソナタ『悲愴』の第2楽章から始まって、モーツァルトや、シューベルトなど…ピアノの脇に置いてある楽譜の本棚から適当に取り出しては、昔、習った覚えのある曲を片端から弾いていった。

 

 なるべく穏やかな曲を選んでいたが、ベートーヴェンのピアノソナタの一つ『月光』を弾いているうちに、千佳子の不遇な死に方を思うと、段々と腹が立ってきた。

 

 あれほどまでに華やかであった人を、病気だからと放棄した上で、死者としての品格すら与えることもせずに葬られたのかと思うと、不憫でならない。

 

 本当は第2楽章まででやめようと思っていたが、そのまま第3楽章に突入すると、凄まじい速さのアルペジオを弾き始めた途端に止まらなくなった。

 Presto agitatoという指示の通り、激しい勢いのまま鍵盤に苛立ちを叩きつけるように弾く。

 

 当然、まだまだ指の動きは悪い。途中で何度も間違えた。

 和音の高速のスタッカートは音が抜けるし、頻繁につっかえる。

 

 側で千佳子が見ていたら、何と言うだろう。

 だが、案外と見守ってくれている気もした。

 

「薫さん。この曲を弾く時にはもっと感情を出しなさい。少し指が滑った程度で止まって謝ったりしないの。一気に弾き上げてごらんなさい」

 

 この曲を習っていた時に注意を受けたことを思い出す。

 

 苦手な曲だった。

 元々、こうした急き立てるような曲想は好きでない。

 けれど、今はまだあの頃よりも心を乗せて弾くことができる気がする。

 

 夢中になって弾いていると、後ろでフッと笑う気配がして、手を止めた。

 

「随分…怒っとるなぁ」

 

 のんびりとした関西弁に、すぐ振り向く気になれなかったのは、先だって会った時の宝耳(ほうじ)の印象がいまだ心にくすぶっていたからだろう。

 それに今は正直、気が立っていた。

 

「……どうして、あなたがここに?」

 

 背を向けたまま問いかけたのは、今の自分の顔を見られたくなかったからだ。

 きっと、ひどく歪んだ醜い顔をしているだろう。

 

「それはこっちの台詞(セリフ)やで、お嬢さん。なんでまた、こン屋敷なんぞにおるんや? しかも、ピアノなんぞ弾いて……すっかり元通りのご令嬢様やないか。そっちの方が()うとるで」

 

 ピクリと、薫は眉を寄せる。

 

 宝耳に他意はないのかもしれない。

 けれど、隊士としての適正がないと言われた気がして、おもしろくなかった。

 それに、そもそも自分はいつ宝耳に身の上のことなど言ったろうか?

 

「……勝手に、自分の経歴を調べられるのは気に入りません」

 

 固い声で言うと、宝耳はクックッと笑う。

 

「そうは()うてもなぁ…お嬢さんはわりと有名でっせ。一部の隊士の間では尾鰭ハヒレがついて、いつの間にやら元は大名家のお(ひい)さんやったとか、恐れ多くも今上(きんじょう)の落し(ダネ)だのと…まぁ適当にあることないこと……」

 

 馬鹿馬鹿し過ぎる。

 薫は深呼吸してから、振り返って宝耳を見た。

 

 相変わらず、くたびれて着崩した隊服に、薄汚れた羽織。

 およそこの屋敷にそぐわない。

 

 窓辺に立っていたことからしても、正面玄関から入ってきたわけではあるまい。

 正規の来客であれば、家人が取り次いで知らせにくるはずだ。

 

 つまり立派な不法侵入。

 

 しかし、宝耳はまるで気にしていないようだった。

 しかも、この家については薫よりも知っていそうな口ぶりだ。

 

「………もしかして、伯爵とお知り合いなのですか?」

 

 尋ねながら、そういえば宝耳は先代のお館様とは昵懇であったのだと思い出す。

 その縁で惟親と親しい関係であっても不思議はない。

 

「まぁ、せやな。上司とも言えるし、古い知り合いとも言える。向こうは腐れ縁ぐらいに思ぅとるんと()ゃうか?」

「それで? 今日は何の用です?」

 

 薫は立ち上がり、宝耳と向かい合った。

 

 一瞬、ヒヤリとなる。

 まさかこんな所に宝耳が来るとも思っていないので、刀を自室に置いたままだ。

 

 薫の張り詰めた顔に宝耳はハハハと軽く笑って、ソファにどっかと座り込んだ。

 

「そないに構えんでも、今日はなにもお嬢さんとチャンバラする気はないで。だいたい、いるとも思とらんかったんやし。久々にピアノの音がするんで、惟親が弾いてるんかと思うてな」

「伯爵様は、会合にお出かけのようですよ」

「さよか。ま、ちょうどえぇわ。ところで、お嬢さんはどないしたんや? まさか、ここの家に住むことにでもなったんか?」

「私は任務で…一時的にご厄介になっているだけです」

「任務? なんの?」

「………」

 

 薫は黙り込んだ。

 宝耳に素直に伝えてもいいのかわからない。

 

 邪魔をしてくるとは思えないが、もはや信用できる相手ではない。

 だが、宝耳は考え込む薫を見てから、すぐに思い当たったようだ。

 

「あぁ…そういや華族のお(ひい)さんが相次いで行方知れずになってるとか何とかで、ワイの同業も駆り出されとったなァ」

 

 やはり、言わずとも宝耳には既に情報として入っているらしい。

 その上で薫がここにいる理由も、おおよそ理解したのだろう。

 

 顎をしゃくって、ニヤリと笑った。

 

上流階級(うんじょうびと)への潜入捜査やったら、そら、お嬢さんほどうってつけの人間もおらんわな」

「……あまり、嬉しくないですけど…任務であれば、全力を尽くすつもりです」

 

 固い顔つきのまま答える薫に、宝耳はわざとらしく肩をすくめてみせる。

 

「お偉いことや。隊士の(かがみ)やな。そんな熱心で責任感のあるお嬢さんのために、ワイの知っとる情報を一つ教えたろか?」

「………既に伯爵から事件の経緯と方針については伺っています。情報があるなら、伯爵に仰言(おっしゃ)って指示を仰ぐべきでは?」

 

 薫が(いかめ)しく言うと、宝耳は思案顔で視線を泳がせる。

 

「どうやろなぁ。惟親は知っとるんかもしれん。でも、アンタには教えてへん気がするんやけど…アンタ、訊いてるか?」

「何をです?」

「行方不明の令嬢の中に、八津尾(やつお)子爵家の令嬢もおる…いう話や」

 

 思わぬ名前に薫は愕然となる。

 

 八津尾―――それは、かつての見合い相手の名前だった。

 

 

 

<つづく>

 






次回は来週更新予定です。


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第五章 宴の前(五)

八津尾(やつお)子爵の…令嬢?」

 

 薫は聞き返して、皮肉げに頬を歪めた。

 

「御冗談を。子爵家には一人息子の明宣(あきのぶ)様しかいらっしゃらないはずです」

 

 まがりなりにも、一度は見合いをした相手だ。一応、家族関係については把握している。

 

 しかし、宝耳は動揺する素振りもなかった。

 

「ま、世間的にはな。せやけど、外に妾の子がいるのは珍しいことでもなんでもないやろ」

 

 薫は否定できなかった。

 制度は一夫一婦制になったが、習俗として、男が妻以外の女性を持つのはまだよくある話だ。

 

「子爵も新橋の芸者に生ませた女の子がおってな。それでも、夫人が生きてる間はコソコソと育てとったけど、夫人が亡ぅなりはって…」

「え!?」

 

 薫は思わず声を上げた。

 あの、おしゃべりで小太りな…女学校で薫を見初めた子爵夫人が亡くなった?

 

 宝耳は薫が驚くのも予想していたのか、ニヤと笑っただけだった。

 

「せやで。三年ほど前に亡ぅなりはったわ。それから大手振って、子爵は自分の娘を家に迎えたらしい。まぁ、妾の方はとうに亡っなっとったみたいやし、息子も特に文句は言わんかったようや」

「そう…ですか」

 

 俯いた薫を、宝耳は横目で流し見る。

 

「その息子、アンタの見合い相手やろ?」

「……昔の…子供の頃の話です」

「そない言うても、その坊々(ボンボン)、アンタとこの親父さんには、随分、気に入られとったらしいやないか。アンタの親父さんの残した事業のほとんど引き継いで、かえって本当(ホンマ)の父親には煙たがられとったようやし。なかなか、あの階級の人間にしては、義理人情のあるほうみたいやな」

 

 薫はまた驚いた。

 まさか父の事業が頓挫することなく、受け継いでくれた人がいたとは。

 ホッとして有難いと思うと同時に、宝耳の話を聞いて、薫は複雑な気持ちになった。

 

 今更の話ではあるが、明宣との見合いはもしかすると父の意向だったのだろうか。

 てっきり八津尾子爵夫人・時子が、薫を女学校で見初めたからだとばかり思っていたが、実のところ、息子の見合い相手がどんな娘なのかを見定めに来たのかもしれない。……

 

 宝耳の話は続いていた。

 

「今は八津尾子爵も倒れて寝たきりで、実質的にはその息子が家を切り盛りしとるらしい。突然、姿を消した妹のことも、秘密裏にあちこち探さはったみたいや。ただ、鬼殺隊(ウチ)の人間が状況を訊きに行ったら、けんもほろろに追い返されたらしいわ」

 

「十分な聴取ができなかったと?」

 

「せや。どうも行った人間が下手(ヘタ)こいて、怪しい新聞記者かなにかと勘違いされたようや。それからは妹の件については、一切、口にも出さへんらしい。女も使ぅて口説こうとしたけど、どうにも身持ちが堅いよってな…元々、さほどに社交的な人間でもないみたいやし、なかなかこっちとしては取っ掛かりものぅてな」

 

 ふぅ、と溜息ついて、宝耳は水差しから水をコップに注ぐと、一気に飲み干した。

 

「ま、そんな訳で調査が十分でないのもあって、惟親(これちか)はアンタには言うてないかもしれん」

「そのご令嬢も菊内(きくない)男爵の夜会に参加されていたのですか?」

「夜会? さぁ? 特に聞いてないな。なんで?」

「なんでって…」

 

 薫は戸惑った。

 一応、今回のことは菊内男爵の夜会に行って、目立った行動をとっていた令嬢が立て続けに行方不明になったことが発端ではないのか。

 

 やはり前にも言っていたように、情報がすべて共有されているわけでもないらしい。

 一体、彼は鬼殺隊の中でどういう位置に属しているのだろうか。

 

「ふん。そうか、菊内男爵なぁ…」

 

 宝耳はニヤニヤ笑って顎の無精髭をさすった。

 

「えぇこと聞いたわ」

 

 途端に薫は仏頂面になった。

 どうも宝耳に要らざることを言ったような気がする。

 

 薫はこれ以上、自分からなにかを言う前に、話題を八津尾子爵令嬢の件に戻した。

 

「八津尾子爵令嬢のことですが…明宣様が父の事業を継いでいるのなら…薩見(さつみ)伯爵は親しいのではないのですか? 伯爵が明宣様に事情を伺えばよろしいのでは……」

 

 言いかけると、宝耳はブンブンと手と首を振って遮った。

 

「あぁ、無理無理。惟親は表の顔があるさかいな。口が裂けても鬼殺隊の名を出す訳にいかん。そんなこと訊きに行ったら、一気に怪しまれて、やりにくいことになる。表を動かすにしても、あくまで内々に…そういう順序があってやっとることや。下手したら、産屋敷も鬼殺隊の存続も面倒なことになりかねへん」

「はぁ…?」

 

 警察内部にも自分達の息のかかった人間を送り込んだりできるくらいなのだから、相当に公権力との接点はあるのだろうが、それらはあくまで内密のことらしい。

 

 いずれにしろ、末端の隊士である薫に、その理由や詳細は教えてもらえないだろうし、教えてもらう必要もない。

 

「でも、もう潜入捜査は決まっているんです。今から一令嬢について、行方不明になった詳細を調査したとしても、変更はないと思います」

 

 そう。もはや、やるべきことは決まっている。

 菊内男爵の夜会に潜入すること。

 鬼であれ人であれ、今回の騒動の首謀を突き止めること。

 

 しかし宝耳は腕を組んで、悠然と笑っていた。

 

「そらまぁ、そうやろな。しかし、今のところ相手が鬼なんか、人なんかはわかっとらんのと()ゃうんか? どっちかわかれば、アンタも動きやすいやろ? なにせ、もし、相手が人やった場合には、お嬢さんにはどないもでけへんやろし」

 

 薫はキッと宝耳を睨みつけた。

 

「……相手が人であった場合は、あなたの出番という訳ですか!?」

「ハッハッ! 怖い顔や~」

 

 宝耳はくわばらくわばら、と震えて手を擦り合わせる。

 睨みつける薫をニヤニヤ笑って見てから、パンと手をうった。

 

「ま、とりあえず。お嬢さんやったら、あの朴念仁も喜んで会うんと違ゃうか?」

「………」

 

 薫は逡巡した。

 今頃になって、自分が行っても明宣にとっては迷惑極まりないだろう。

 

 だが、宝耳の言う通り、相手が鬼か人かを見極めることは有用だ。

 出来る準備も大いに変わってくる。 

 

 黙り込む薫に、宝耳はあえて強要しなかった。

 

「ま、無理に会いに行く必要はあらへんで。お嬢さんにとってもバツの悪い話やろし、物乞いに来たと思われるのも癪やろしな」

「……別に、そんなことは」

 

 薫は唇を引き結んで、言いごもったが、正直、喜んで会いたい相手ではない。

 

「ただ、私が行って…あちらが気分を害されるのではないかと」

「そんな訳あるかいな。尊敬しとった人の娘で、しかも元は許婚者(いいなずけ)や言うのに」

「見合いをしただけです。それに、明宣様にだってもうご夫人はいらっしゃるでしょうし…無用の(いさか)いを招きたくはありません」

 

 固い顔で薫が言うと、宝耳はゲラゲラ笑った。

 

「ハハッ!! アンタ、ホンマに家飛び出した後のこと、なーんも知らんのやな」

「……なんです?」

「あの息子、結局、未だに独身やねんぞ。えぇ年やいうのにな…」

「まさか…」

 

 既に子爵が倒れられて病にあるのなら、尚の事、家内を任せる夫人の存在は必要である筈だ。

 

「その、まさか…やがな。その上でいなくなった婚約者の相続するはずの遺産の管理までして、しかも一切、手を付けてない…いうねんから、義理堅い事この上もない。良かったなァ、お嬢さん。いつ鬼殺隊(ここ)辞めても、貰い手はおるで」

 

 明らかな揶揄に、薫はまたギロリと睨みつけた。

 

「ふざけたことを言うおつもりなら、早々に立ち去られた方がよろしいですよ」

「まぁ、そないに怒りな」

 

 宝耳は薄笑いを浮かべて薫を見つめる。

 

「冷静になってよぅ考えるんやな。お嬢さんがそうやって放ったらかしにしとる限り、森野辺の遺産は宙に浮いたまま、あの堅物(カタブツ)坊々(ボンボン)は一生、手ェつけへんやろうで」

「……何が望みです?」

 

 薫は単刀直入に問うた。

 強要はしないが、明らかに宝耳は薫と明宣を会わせたがっている。

 

 しかし宝耳は答えなかった。

 

「ハハ。ま、こっちのことは置いといて。で、どないします? 会います? 会うんやったら案内したるし、会わへんのやったら、このまま帰りまっさ」

「あなたは、明宣様に会ったのですか?」

「………」

 

 宝耳はニッと口の端を上げただけだった。

 その後は半眼を閉じて薫に選択を委ねる。

 

「……行きます」

 

 宝耳の思い通りに事が進んでいるらしいのが忌々しいが、やはり気になる。

 明宣の妹のことも、自分の遺産のことも。

 

 薫の承諾を聞いた途端、宝耳は「おっ」と楽しげに声をあげた。

 

「ほな、早速行きまひょ。あぁ、せやせや。行くんやったら、なんぞ証明できるモンを持っていった方がよろしいやろで」

「証明…?」

「そらそやろ。ゆうてもお嬢さん、すーっかり大人になってもうたからなぁ…アチラさん、見違えてもうて、本物かわからんかもしれん」

 

 薫は一旦自室に戻ると、父の形見のインバネスコートを羽織り、久しぶりに荷物の中からこれも父の形見である懐中時計を取り出した。

 任務中に壊れてしまってから、鞄の中に入れていたのだが、これを持っていけば証明になるだろうか…。

 

 用意を整えて、再びピアノのレッスン室に戻ると宝耳が煙草を吸いながら待っていた。

 

「おぅ、用意はできたんか?」

「明宣様であれば、父と一緒にいらしたことが多いので、父の形見であればお分かりになるだろうと……」

「そら結構。ほな、行こか」

 

 灰皿に煙草を押しつけて消すと、宝耳は足取りも軽く掃出窓から出て行く。

 

 薫はため息をついた。

 この家を訪ねてくる鬼殺隊の面々は、玄関から入るという事を知らないのだろうか。……

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「いい夜でんなぁ、子爵」

 

 ノックもなく書斎のドアが開いて、夜分に訪れた非礼な客を見るなり、八津尾(やつお)明宣(あきのぶ)は眉を寄せた。

 

「子爵ではないと言ったろう」

 

 前にも面会の許諾もなくいきなり現れるなり、父の称号で呼んできた。

 憮然として訂正するが、男は軽い様子で「そらすいまへん、子爵」と改める様子もない。明宣はため息をついた。

 

「…前も言ったが、何度来ても」

「ワイが信用でけへんということでしたな。せやから、信用してもらうために、子爵の探し人を連れてきましたで」

 

 どういうことか、と聞き返す前に、男はスイと横に寄って道を開ける。

 

 闇の中から現れたのは、インバネスコートを羽織った美しい顔立ちの少年だった。

 薄暗い電灯の下、どこか中性的で、隣にいる男とはまったく違う、上品な雰囲気を漂わせている。

 

「……夜分に不躾な訪問、失礼致します」

 

 深々とお辞儀して聞こえてきた声が意外にも女であったことで、明宣はハッとなった。

 まさか…と、男をみやると、ニヤニヤと笑っている。

 

「ワイは約束は守りますんやで」

「じゃあ…」

 

 明宣の声は詰まった。

 その先を引き取るように、女は自らの名前を言った。

 

「久方ぶりでございます、明宣様。森野辺(もりのべ)薫子(ゆきこ)です」

 

 明宣はあまりの驚きに言葉を失った。

 

 

 二日前のこと。

 

 目の前の男はその時も夜半にいきなり訪ねてきて、妙なことを聞いてきた。

 

 明宣は答えなかった。それは当然だった。

 不審な男に話す必要もないことなのだから。

 

 すると男は言ったのだ。

 

「ワイのことが信用でけんというなら、子爵の探し人を連れてきまひょ。そしたら、教えてもらえますな」

 

 明宣が返事する隙も与えず、男は姿を消した。

 釈然としないまま、放っておくしかなかったのだが、まさか本当に連れてくるとは…。

 

 だが、明宣はすぐに冷静になって気を引き締めた。

 この目の前の男物のインバネスコートを羽織った娘が本当に森野辺薫であるという確証はない。

 この男が連れてきているということ自体、怪しいではないか。

 

「すまないが…貴女が本当に森野辺子爵のご令嬢であるという証拠はありますか?」

 

 その質問に男はフッと笑う。

 チラと娘は男を睨むように見てから、インバネスコートをバサリと脱いだ。

 

 黒い詰襟の上衣に同じ黒の裁付(たっつけ)袴のようなズボン。

 うら若い女性が着るにはあまりにも質素であり、何かの仕事着のようだ。

 

「これを…」

 

 娘はズボンのポケットから懐中時計を取り出し、明宣に差し出した。

 

「父の形見です」

 

 言われるまでもなく、その古びた真鍮の時計には見覚えがあった。

 受け取って蓋を開けば、裏にはKeiki Morinobe と刻印されている。

 

 明宣は頷いた後、時計を娘に返した。

 残念ながら、それだけで信用するほど明宣も世間知らずでない。

 

「すみませんが、そのコートも見せてもらえますか?」

 

 森野辺子爵が若い頃、留学中に買ったというコートは、真っ黒ではなく、グレーに近い色合いで特徴的であった。

 今、娘が着ていたものとよく似ている。

 

 コクリと頷いて、娘はとくに戸惑う様子もなくコートを渡してくる。

 明宣は記憶にあった裾部分をめくると、裏地に銀色の刺繍糸でkeikiとこれも故人の名前が筆記体で刺繍されていた。

 それから(ボタン)も確認する。

 

「…この二番目の釦だけ色が違いますね」

 

 娘はニコリと笑った。

 

「その釦はお父様が失くされて、お母様が別の釦を取り付けたんです。この外套(がいとう)はお父様が留学中に英国で買ったものらしくて、同じ釦がどうしても見つからなかったそうです」

「……そうですね」

 

 明宣はコートを娘に返した。

 どうやら…おそらく、本物のようだ。

 

 だが、それでも念の為にいくつか質問する。

 

「失礼ですが、母上のお名前は?」

「森野辺寧子(やすこ)。丁寧の()に子供の()です」

「では…寧子夫人の好物は?」

「おはぎです!」

 

 娘は嬉しそうに笑った。

 思い出したのだろうか。聞いてもないことまで話す。

 

「お彼岸になると、トヨ達と一緒にいっぱい作りました」

 

 屈託ないその笑顔に、明宣はようやく目の前の美しい娘が森野辺薫子嬢であると認めた。

 

「どうやら…本物のようですね」

 

 ボソリとつぶやくと、男がクックッと笑う。

 

「なかなかどうして…子爵も疑り深いことや。ま、信用できたんやったら…お互いにたんと話したいこともあるんやろうし、ワイは一旦消えまっさ。ほな、後で子爵」

 

 意味深な薄ら笑いを浮かべて、男はスイと廊下へと去っていった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 取り残された薫は、目の前に立つ少し神経質そうな細面の男を見つめながら、昔の記憶を掘り起こしていた。

 

 六年前、そういえば今と同じくらいの時期に見合いをしたのだった。

 あの時は志津達が殺されたことで精神的に参って昏倒してしまい、ほとんど覚えていない。

 思い出すことが一つあるとすれば、あの時もそういえば同じ丸眼鏡をかけていたな…ということぐらいだ。

 

 その明宣の方もまた、『森野辺薫子』という名前はしっかり覚えてはいたものの、目の前に立つ美しい女性が、かつて真っ青な顔で倒れてしまった幼い令嬢であるということが信じられなかった。

 

 ランプの灯りに照らされた、色素の少し薄い茶褐色の瞳に見覚えがあるような気もしたが、かつてのあどけなさはすっかり失われている。

 緊張しているらしい堅い表情に、額からハラリと落ちた一筋の髪が妙に美しく艶かしくも見えた。 

 

「とりあえず…ご無事で何よりです」

 

 まじまじと見つめていたことに気づくと、明宣は目を逸らしてコホンと咳払いする。

 

「はい…色々とご心配をかけましたようで、申し訳ないことです」

「今まで何を…それにあの男とは…」

 

 急に疑問がふつふつと湧いてきて、性急に問いかけようとした明宣を制するように、薫は頭を下げた。

 

「すみません…。お訊きになりたいことはあるだろうと思います。ただ、今日私がここに来たのは、身の上話をするためではございません。二つ、お願いがあって参りました」

 

 頭を上げて明宣を見つめる薫の瞳は真剣で、思わずその気迫にのまれそうになる。

 軽く仰け反りながら、明宣は聞き返した。

 

「…お願い?」

「はい。一つは…明宣様の妹君のことです」

薛子(せつこ)の? どうしてあなたが…?」

「薛子嬢が失踪された…その時のことについてお訊きしたいのです」

 

 明宣は一層、意味がわからぬように薫を凝視した。

 だが、目の前で凛とした表情で立っている薫を見て、軽く息をついてから、ソファへと促す。

 

「どうしてあなたが…薛子のことをご存知なのでしょうか? それに失踪したことも」

 

 明宣は薫の前の椅子に腰掛けると、怪訝な顔で尋ねた。

 

「さる筋から、としか申せません。明宣様はご存知でしょうか? ここ数ヶ月の間に、ご令嬢が次々と失踪しているのです。私はそのことを調査しています」

「調査? あなたが?」

「ご不審を持たれるのは仕方ないと思っております。ですが、危急のこと…これ以上の被害を止めるためにも、どうか協力をお願いしたく存じます」

 

 明宣はもう一度、目の前に座る薫をじっと見た。

 きちんと背筋を伸ばし、浅く腰掛けた姿に、昔のように自信なさげな様子はない。

 沈着冷静で優美な、毅然たる女性だ。

 

「……わかりました」

 

 あふれそうになる疑問を封じて、明宣は頷いた。

 

 

 

<つづく>

 






次回は来週更新予定です。


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第五章 宴の前(六)

薛子(せつこ)がいなくなったのは、先月のことです。特に変わった様子はありませんでした。女学校から帰ってきて、晩餐を食べた後は、裁縫などをして過ごしていたようです。その日は私は所用があって遅くに帰ってきたので、詳しいことはわかりませんが、特に普段と変わったところはなかった…と家人は皆、口を揃えています。私が帰ってきた時には既に(やす)んだ後でした。私はその日もこの書斎にいて本を読んでいたのですが、ちょうど今ぐらいの…夜更けの時間に、短い悲鳴が聞こえたのです」

「悲鳴?」

 

 薫が聞き返すと、明宣(あきのぶ)は眉間に中指をあてて少し考えながら言い直す。

 

「いや…悲鳴…というほどのものであったのか…驚いたような、女の短い叫び声のようなものを聞いたのです」

「それは薛子さんの声だったのですか?」

「その時はわかりませんでした。気になって廊下に出てから、もう一度、今度は確実に薛子の声がしたのです。ただ……おかしいと…思いました」

「なぜですか?」

「薛子の部屋は、こちらと反対の棟にあります。なぜ、あんな時間にこちらの棟に来ていたのか…それに、聞き間違いかもしれませんが、私を呼んでいたのです。『おにいさま』と言っていたように…聞こえました。私は奇妙な気がして、声のする方に向かったのです。階段の方から聞こえたのですが、そこには誰もいませんでした。一応、こちらの棟を見回って確認していたら、執事が起きてきたので、事情を説明して二人で薛子の元へ向かいました。隣室にいる薛子の侍女に起きてもらって、部屋に入ってもらうと、薛子はいませんでした…」

 

 その後、明宣は家にいる使用人を全て起こして屋敷内も周辺も探し回ったらしい。だが、薛子の姿は影も形もなく消えていた。

 

「警察にも…事情を説明はしました。ですが、玄関には鍵もかけてありましたし、窓を破られた形跡もない。薛子が元々は父の妾の子であったという事情もあるので、警察は自ら家を出たのだろうと…あまり真剣に取り合ってはくれませんでした」

「出しゃばったことを伺いますが、明宣様は薛子様のことは…どう思っておられましたか?」

 

 薫が問うと、明宣はキョトンとなった。

 意味がわからぬようだ。

 

「どう…と言っても…特には何も。父に妾がいることも知っておりましたし、娘がいるのも…それとなく耳に入っていたので」

「妹として、気にかけておられましたか?」

 

 明宣はふっと目を伏せた。

 

「それは…わかりません。妹といっても一緒に暮らしたのはこの数年ほどですので…」

 

 薫はそれ以上言うのはやめておいた。

 つまり、明宣にとって薛子は父の妾の子であって、肉親の情は希薄なのだろう。

 

 失踪の話を説明をしている時も、妹という割にはひどく他人行儀に聞こえた。それでも探し回ったのは、仮とはいえ当主としての義務感によるものなのか…?

 

 薫は質問を変えた。

 

「薛子様が家出をした形跡はあるのですか? 衣服などがなくなっているとか…」

「いえ。まったく。財布も中身が入ったまま置いてました」

「もし…家出であるとして、なにかその理由に心当たりはありますか? この家のことでも、あるいは女学校や、何かお稽古事などでも」

 

 明宣はしばらく思案してから首を振る。

 

「特に何も聞いてません。明るい屈託のない子でしたから、友達も多くいたようです。友達の家で夕食をいただいて帰ることもありました。稽古事は…今はなにもしておりません」

「そうですか…」

 

 薫は自分が女学校でいじめられていたことを思い出して、あるいは薛子も妾の子だということで、陰湿ないじめの標的になっていたかもしれないと思ったが、彼女は楽しく過ごせていたようだ。

 

 だが、明宣は何かを思い出したのか「あっ…」と声を上げた。

 

「なにか、思い出されましたか?」

「あ…いえ…大したことではないです」

「教えて下さい。些細なことでも、けっこうですので。何が解決の緒口(いとぐち)になるかはわかりませんから」

 

 明宣は苦笑して、肩をすくめる。

 

「いなくなる一週間ほど前でしょうか。珍しく女学校に行きたくない…と駄々をこねたことがありました。聞けば、同級生に嫌味なことを言われたらしくて。でも、結局相手に注意したら、すぐに謝ってくれて、仲良くなったと言っていました。それからは毎日、機嫌よく行っていましたし……」

「そうですか…」

 

 そういうことであれば、女学校では日常茶飯事にあることだ。

 それに既に薛子自身が問題を解決しているのならば、家出の原因にはならないだろう。

 

 家出でないとすれば、内部の人間による犯行…ということも考えられる。

 使用人にも疑念は及ぶが、それについては明宣は首を振った。

 

「今、住み込みでいるのは執事と薛子の侍女、庭師に、調理場を任せている夫婦の五人だけで、長くここで勤めてくれている古株ばかりです。昼に二人ほど通いで女中を雇っていますが、その日の夜は当然いませんでした。皆、嘘を言うような人間ではありませんし、薛子の行方を案じているのは…間違いないと思います」

 

 薫はしばらく思案して、一応尋ねた。

 

「……あるいは、使用人の誰かが薛子様に頼まれて、今回の失踪に手を貸した…ということは考えられませんか?」

「元からの使用人はそうしたことはないと思います。そんなことを薛子が言い出せば、きっと止めるでしょうし、私にも報告してくるでしょう。通いの女中は薛子が学校に行っている間にだけ来ておりますので、ほとんど顔を合わせたことはありません。彼女らにも一応、話は訊きましたが、嘘を言っているようには見えませんでした」

 

 確かに―――もし、薛子が自らの意思によって出たのであれば、そもそも明宣が最初に言っていた驚いたような悲鳴、というのもおかしな話だ。

 やはり、家出というのは考えにくい。

 

 だが、誘拐されたというなら、内部から鍵はかけられ、窓も破られていないという状況が不自然だ。

 ということは……。

 薫は有り得る一つの答えをゆっくりと手繰り寄せる。

 

「当時、お屋敷内で荒らされたような形跡は?」

「いいえ…特には。薛子の部屋もきれいに整頓されておりました」

「そうですか…。すみませんが、薛子さんのお部屋を見せて頂くことはできますか?」

 

 明宣は頷くと、ランプを手に持って部屋を先に出て行く。

 ユラユラとランプの灯りの中を歩いて行きながら、薫はふと胸を押さえた。

 

 妙に胸が…息がしづらい。

 ここのところ、どうも任務となると、この胸苦しさがつきまとう。

 最近、休むことが多くなったせいで、緊張しているのだろうか。

 あるいは鬼が関係しているという前触れか。…

 

「こちらです」

 

 明宣はギィとドアを開くと、部屋の中の電燈を点けた。

 モスグリーンのカーテンにクリーム色の壁紙の、落ち着いた色合いながら可愛らしい感じのする部屋だった。

 

「埃をはたく程度には掃除しているようですが、他は触っていません」 

抽斗(ひきだし)の中などを見てもよろしいでしょうか?」

「……どうぞ」

 

 了承をもらって薫は一通り調べる。女学校の教科書やノート、筆記用具は整然と置かれてあり、中をめくってみても特におかしな記述もない。

 

 一番下の深い抽斗に、おそらく洋菓子が入っていたと思われるアルファベットが記された、華やかな色合いの書函(ふみばこ)のような缶のケースがあった。

 取り出して開けてみると、中には美しいリボンや、香水が入っていたと思われるこれも洋物の紙の箱、桜の花びらが散りばめられた和紙などが無造作に入れてある。

 

「……なんでしょうか、これは」

 

 机の上に置かれたその箱の中身に、明宣は首をひねる。

 薫はクスリと微笑んだ。

 

「おそらく…薛子さんがかわいらしいと感じたものを置いておいたのでしょう。美しいものを集めるのがお好きだったのですね」

「そう…でしたか」

 

 明宣は眼鏡をクイと上げると、少し沈んだ顔つきになった。

 今更ながら、自分の妹のことだというのにあまり知ろうとすることもなかったと、後悔に近い感慨があった。

 

 薫は数枚の和紙の下に、まるで隠すように置かれてあった写真を見つけた。

 よほど見せたくないものなのか、裏返しになっている。

 取り上げて見てみると、それはおそらく薛子と思われる晴れ着を着た少女と、明宣が二人並んだ写真だった。

 

「あぁ…これは、去年の正月に写したものです。友達でカメラが趣味の人間がいるものですから、撮ってもらったのです」

 

 明宣の説明を聞きながら、薫は写真の中の薛子を見た。

 いわゆる飛び抜けた美人、というわけではないが、小柄で華奢な愛らしい少女だった。

 白黒なのでわからないが、はにかんで少し俯いた顔は、頬を赤らめているように思える。

 

「可愛らしいお方ですね。おいくつでいらっしゃるのでしょう?」

「十六になります。来年には卒業なので…有難いことに、いくつか縁談も来ていたのですが、当人がもっと勉学をしたいと申しまして…津田先生の塾に行かせるつもりでした。私の仕事を手伝いたかったようです」

 

 薫はチラリと明宣を見た。

 写真を見る表情に、妹に対する愛惜らしいものは見当たらない。

 薫の視線に気付いた明宣は、目をしばたかせた。

 

「…なんでしょう?」

「いえ…」

 

 薫はすぐに視線を写真に戻した。

 初々しい羞じらいを浮かべながら、それでも嬉しそうに微笑んでいる薛子。

 

 彼女が言い残した「おにいさま」という言葉が気になる。

 薛子は、一体なぜそんなことを…()()、言ったのだろう?

 

 写真を再び元に戻すと、缶を抽斗にしまおうとして、その抽斗の中に白い洋封筒が落ちているのを見つけた。

 拾い上げてみると、宛名も差出人名もない。

 裏の封をする部分に金色の薔薇と蔓が箔押しされている。

 

「凝った造りですね。招待状か何かでしょうか?」

 

 薫は尋ねたが、明宣は腑に落ちないようだった。

 

「どうでしょうか? 特にそうした招待が薛子に来ていたと聞いたことがないのですが…」

 

 既に開けて見た後なのか、封はしておらず、中身はなかった。

 

「一応、伺いますが…菊内(きくない)男爵の夜会に参加されたことはございますか?」

 

 まさかとは思ったが、とりあえず聞いてみる。

 案の定、明宣はあっさり否定した。

 

「菊内男爵…ですか? いえ、ありません」

「一度も?」

「えぇ。あまり…話の合う方とも思えないので」

「薛子様も行ったことはないですか?」

「ないと…思います。夜会となれば、一応、付添(エスコート)が必要でしょうから、私に言わないはずもないでしょうし、そうしたドレスなりを見繕う必要もあるでしょうし……あ、いや…」

 

 明宣の顔がふっと陰った。

 また、沈鬱そうに黙り込む。

 

「どうされましたか? 何か、また気付かれたことでも?」

 

 明宣はふぅと静かな溜息をもらしてから、悲しそうに眉を寄せた。

 

「もしかすると、言わなかっただけなのかもしれません。家のことを考えて…行かなかっただけで、招待されていたことがあったのやも。菊内男爵のご令嬢とは同じ学校に在籍しておりましたので」

「えっ? 伊都子(いとこ)嬢とですか?」

「ご存知でいらっしゃるのですか?」

 

 明宣が意外そうに聞き返してきて、薫は少しヒヤリとなった。

 

「あ…いえ…名前を聞いただけです。夜会を主催されていると…」

「夜会…ですか…」

 

 明宣はしばし薫を見つめて考えていたようだが、それ以上、何か問いかけてくることはなかった。

 話したのは、薛子と菊内男爵の一人娘・伊都子のことだ。

 

「先程話した薛子の喧嘩相手というのが、その菊内男爵の娘御です。少々、癇の強い方のようで…。しかし喧嘩の翌日に薛子が冷静に抗議をすると、彼女も言い過ぎたとすぐに謝ってきて、かえって仲良くなったと申しておりました。まだ子供ですから、柔軟に対処できるのでしょう」

「そう…ですね」

 

 薫は頷きながら、再び封筒をみやった。

 少し気になる。

 凝った外観以上に、なぜだろうか…血が熱くなるような…妙な感覚がある。この封筒を手に取った瞬間から。

 

「明宣様、この封筒…頂いてもよろしいですか?」

「え?」

「もし必要であればお返ししますが…」

 

 ただならぬ表情に、明宣は反射的に頷いていた。

 

「いえ…どうぞ…。お持ち頂いて構いません」

「ありがとうございます」

 

 薫は封筒を胸元のポケットにしまうと、立ち上がった。

 

「それと…明宣様が悲鳴を聞いたと思われる場所に案内していただけますか?」

 

 明宣は再びランプを持って立ち上がる。

 

 八津尾邸は少し変わった造りをしていて、玄関のある中央棟を挟んで、東棟と西棟とが繋がっている。上から見ると、片仮名の()のような形だ。

 薛子の部屋は西棟の二階の中程にあり、明宣の書斎は反対側の東棟の同じ二階の角にある。

 

「こちらの棟に薛子様がいらっしゃることはないのですか?」

「そうですね。一階に応接室があるので、そちらに行くことはあったかもしれませんが、二階は私の書斎と寝室があるだけなので、ほぼ来ることはありません」

 

 話しながら明宣は角を曲がり、書斎の扉の前を通り過ぎて、暗い廊下の先へと歩いていく。

 突き当りまでくると、そこから下へと続く階段が伸びていた。

 

「……ここで?」

「そうです。この辺りから聞こえたと思います。最初の悲鳴も…少なくとも西の棟から聞こえるとなれば、相当に大声でないと聞こえないし、もしそんな大声であれば、一階に詰めている父上の看護の人間は気付いたろうと思います」

 

 どうやら寝たきりとなっている八津尾子爵は一階にて療養されているようだ。

 付添の女中がいるのなら、確かに悲鳴を上げれば聞こえているだろう。

 

「この辺りから聞こえたと…。…おそらく薛子様が部屋から来るとなれば、私達と同じ通路を通ってきたと思いますが、足音などは聞かなかったのですか?」

 

 明宣は溜息混じりに首を振った。

 神経質そうに眼鏡を持ち上げる。

 

「だから不思議だったのです。いつの間にこちらに来ていたのか、と。足音も、誰かが廊下を歩く気配もしなかったのです。この屋敷も古くて…特にこの棟は一番古いので、廊下を歩くと軋む音が僅かながらするのです。あの夜も今日と同じような、静かな夜でしたから、誰かが部屋の前を通っていたら、必ず聞こえたはずです」

「だとすれば…この二階の廊下からではなく、一階を経由して来たということでしょうか?」

「おそらくは。しかし、なぜそんな回り道をしてまで、一体何の用があったのか……」

「そうですね…。明宣様に御用がおありなら、二階の廊下を通って来た方が早いでしょうし…」

 

 言いながら薫は階段を一段ずつ、降りていく。

 

 階段の踊り場には、絵が掛けられていた。

 明宣も後ろから降りてきて、踊り場で止まった薫のために、ランプを絵の方へと向けた。

 

「これは…」

 

 畳の半分ほどの大きさの絵だった。

 

 夕暮れらしい湖畔の景色。

 ペールブルーの空が徐々に金色と赤の西日に染められて、夜へと移り変わっていこうとする短い時間を切り取ったもの。

 手前の木々の葉はほとんど落ちているので、おそらく晩秋から冬あたりだろう。

 

 繊細な光の描写。精緻な筆使い。写実的な構図でありながら、どこか悠然としたおおらかな優美さを感じさせる。……

 

 その絵を見た途端に薫はこの絵の画家を直感していたが、とりあえず薛子のことについて尋ねる。

 

「この絵を見に来た…訳ではないですよね?」

「それは…ないと思います。わざわざ夜に見にくるものでもないですし、こちらの棟に来ることは確かに多くはなかったですが、この絵は何度も見ていたと思います。元々は食堂に架けてありましたから」

「どうしてこちらに?」

「画商に見てもらう機会がありまして、その時に助言されたのです。日当たりのいいところに絵をかけていたら焼けてしまうと。それでここに移動させました」

 

 薫は頷いてから、さっきから気になっていたことについて調べる。

 絵の端の方でサインを探す薫のために、明宣は「こちらです」とランプを近づけた。

 

「……やっぱり」

 

 隅にある『chikako』のサイン。

 

「これは…明見(あけみ)千佳子(ちかこ)様がまだご存命の折に、私に下さったのです」

 

 明宣はそう言って、じっと絵を見つめた。

 

「千佳子様もお気に入りだったようで、秋になると応接室に飾っていたらしいのですが、私が明見侯爵邸に訪れた時に、この絵をずっと見ていたもので…譲って下さいました」

「まぁ、珍しいですね」

 

 千佳子が自分の絵を人にプレゼントすることは珍しくないが、自分の気に入ったものは滅多に…というより、絶対に譲ることはしなかった。

 まして屋敷内に飾っていたのなら、それは相当に千佳子の自信作でお気に入りであったはずだ。

 

 明宣は苦く笑った。

 

「おそらく…その時、明見侯爵に寄付の願いにあがったのですが…すげない対応をされてしまって、よほど悄気(しょげ)て見えたのかもしれません。森野辺(もりのべ)子爵から引き継いだ仕事もうまく運ばず…あなたの行方もわからずじまいで…憐れに思えたのでしょう。千佳子様とは、あなたもご昵懇(じっこん)であったようですね」

「えぇ…はい」

 

 薫は少しバツが悪かった。

 あの頃はよく考えもせずに、森野辺家を出てしまったが、まだ婚約が解消されていなかったのであれば、明宣には恥をかかせてしまったのかもしれない。

 

 申し訳無さそうに伏し目がちになった薫に、明宣はふっと笑った。

 

「気になさらず。実際には仕事や家の…母が具合を悪くしてしまったりして、色々と気に病むことが重なっただけです」

「あ……」

 

 宝耳(ほうじ)が明宣の母が亡くなったと言っていたことを思い出す。

 明宣とは対照的に陽気で、お喋りが大好きだった子爵夫人。正直、見合いの席でも明宣よりもこの夫人の印象の方が強い。

 

「すみません。あの、子爵夫人のこと…ご愁傷様です」

 

 明宣は急に頭を下げた薫に少し驚いたようだったが、すぐに目線をまた絵に移した。

 

「母も…この絵を見てとても喜んでいました。千佳子様から頂いたことを見舞客にも自慢して…家宝だと言っていたので、結局、母の思いを尊重して売るのはやめました。それに今となれば…千佳子様との思い出でもあります…」

 

 不意に明宣の顔に翳りが見えて、薫は思わず気になっていたことを尋ねた。

 

「あの…千佳子様が亡くなられたのは病気と伺いましたが…」

「……えぇ」

 

 明宣は沈鬱に応える。

 

「明見侯爵が、千佳子様が病気になって離縁されたというのは…本当でしょうか?」

「…本当です」

「どうして? 病気になられて弱っている人間を追いやるなんて。どうしてそんなひどいことを…」

 

 薫が非難するのを、明宣は黙って聞いていたが、やがて重苦しく口を開いた。

 

「これは…噂です。噂ですが…どうやら、千佳子様は()()であったようなのです」

 

 薫は言葉を失った。

 

 ライ。癩病*。

(*現在においてはハンセン病、という言い方が一般的ですが、ここでは時代設定に合わせています)

 

 どういう理由かはわからないが、発症すれば赤みを帯びた無数の発疹が皮膚を侵し、無残なる容貌へと変化していく。

 薫が幼い頃住んでいた東北の町では、発症した人間は山に棄てられる…という噂が、まことしやかに語られていたものだ。

 

 ゾクリ、と背筋が凍る。

 

 あの、千佳子が。

 あの、社交界の華と讃えられた貴婦人が。

 自らが望まぬ姿に日々変貌していくことに…どれほど苦しんだことだろう。

 

「そんな…病人を捨て去るようなことをした報いでしょう。明見侯爵は千佳子様が亡くなった後に、屋敷が火事になって…新たに迎えられた奥方や幼いご子息も一緒に亡くなられました。侯爵邸は廃墟になったまま、打ち棄てられて…今や近隣の住人からは幽霊屋敷と呼ばれているようです」

 

 薫は瞑目し、ギュッと拳を握りしめた。

 

 嗚咽が出そうになる。

 何故、あの華やかな人が、あまりにも哀れな、救われない道を辿らなければならなかったのか…。

 

 二度ほど深呼吸した後に、薫は任務としてやって来たことを言い聞かせる。

 心を引き締めて、顔に冷静な表情を貼りつかせた。

 

「ありがとうございます、明宣様。こんな夜分にいきなりやって来た無礼な客に、きちんと応対して頂いて…」

 

 薫が頭を下げると、明宣は何とも複雑な顔になった。

「実は…」と小さな声で話す。

 

「あなたが来ることは、多少…知っていたのです」

「……どういうことですか?」

「二日ほど前にさっきの…あの関西弁の男がやって来て…私に聞きたいことがあると。不審に思って、私はその男の質問には答えなかったのです。すると、先程も言っていたように、貴女(あなた)を来させると言って姿を消しました。今日、先程貴女がいらっしゃるまで、まるで信用もしていなかったのですが……」

 

 やはり…。

 薫の脳裏に宝耳の姿が浮かび、一気に猜疑心が沸き立つ。

 

「その男の用事というのは、やはり薛子様のことですか?」

「いえ。全く関係のない…ある土地の登記のことです」

「土地の登記…?」

 

 薫はようやく宝耳のからくりに気付いた。

 

 元々、宝耳は明宣に用事があったのだ。

 だが明宣が頑なに口を開かないので、その取引材料として薫を使ったのだ。

 

 ここに来ること自体、宝耳に操られている自覚はあったものの、まんまとやられたのだと思うと、本当に腹が立つ。

 

 だが、明宣には関係ない。

 薫は無理に笑みをつくった。

 

「気になさらないで下さい。その男の言うことは、無視してもらって構いませんから」

「しかし…何かしら繋がりがあるのでしょう?」

「ない…とは言い切れませんが、友好関係という訳でもありません。ですから、あの男の口車に乗らなくて結構です。それよりも、もう一つのお願いですが…」

 

 薫は言いかけてから、明宣をまじまじと見上げた。

 

 仄暗いランプに照らされた生真面目な顔。

 堅物と言われつつも、この人は信頼できる人なのであろう。きっと父もそうしたところを買って…あるいは自分との婚姻を進めたのかもしれない。

 

「明宣様が父の事業を継いで下さったのだと聞きました。今更ですが、本当に…本当に、有難う御座います」

 

 薫は深く頭を下げた。心からの感謝をあらわすには足りないくらいだ。

 

「やめて下さい。私は私の意志でやるべきことをやっているだけのこと」

 

 明宣はあわてた様子で首を振ったが、顔を上げてニッコリと微笑む薫と目が合うと、サッと目を伏せた。

 カアァと顔が熱くなる…。

 

「森野辺の…私が受け取るべき遺産の管理もして下さっているのだと…伺いました。本当に、多大なる迷惑をおかけして…お詫びのしようもありません」

「いえ。それは…放っておけば、森野辺子爵の従兄弟方が勝手に横領しかねなかったので、司法卿に頼んだまでのこと。そうだ。こうして訪ねて下さったのですから、明日にでも手続きを…」

 

 薫は階段を登っていこうとする明宣の腕を掴んだ。

 

「いいえ。よろしいのです。私の使い(みち)は決まっています。父の…いえ、明宣様の事業の経費に充てて下さい。全額」

薫子(ゆきこ)嬢…それは……」

 

 明宣が言う前に、薫は遮った。

 

「いいえ! そのようにして下さい。迷惑をかけた上、こうして父の志を継いで下さった…せめてものお礼です」

「駄目です。それは私の信義に関わります」

 

 決して折れない明宣を見て、薫はクスリと笑った。

 これはさすがの宝耳も手に余っただろう。見かけと違って、なかなかの硬骨漢だ。

 

 薫はインバネスコートをふわりと羽織ると、踊り場の柵を飛び越え、トンと一階に着地する。

 

「待って下さい!」

 

 明宣はあわてて手すり越しに顔を出して叫んだが、振り返った薫は涼やかな声で言った。

 

「後日、書類を送りますね」

 

 止める間もなく、薫は玄関の方へと消える。

 つい先刻、ようやく再会を果たしたと思ったのに、また行方知れずとなってしまったことに明宣は呆然と立ち尽くした。

 

 その明宣の背後に静かに影が近づく。

 

 

◆◆◆

 

 

「……お話、済みましたようで」

 

 耳障りな関西弁に、明宣はビクリと一瞬だけ驚きながらも、忌々しい顔で振り返る。

 足音もなく、いつの間にか宝耳(ほうじ)は立っていた。

 

「約束通り聞かせてもらいまひょか?」

「……あなたのことは、無視してもいいと…彼女は言っていましたよ」

 

 冷たく突き放したが、宝耳は軽く肩をすくめただけだった。

 

「まったく。恩を仇で返すとはこの事や。仕事のことも、自分のことも片付けられるように取り計らってやったゆうのに。この上まさか、子爵までが恩知らずなことをなさる訳やおまへんやろ?」

 

 薄暗い中でニヤニヤと笑っている。

 不気味であった。

 

 明宣はゴクリと唾を呑み込みながらも、必死で睨みつける。

 

「どうしてそうまでして知りたいのです? 大したことでもないのに」

「そう思うんやったら、早ぅ教えてもらいたいもんや。あの土地の名義を貴方(あン)さんに貸してほしいと言ぅてきたんは誰やろ?」

「………」

 

 明宣は石になったつもりで口を閉ざす。

 宝耳は(わら)った。

 ますます口角が上がり引き攣った顔は、まるで奇怪な道化師のようだった。

 

「そうやって()()()()()()()()()事のために言い渋って、結局、素直に言えば良かったと…後になって悔やむようなことにならんかったらえぇですけどなァ」

「どういう意味です?」

 

 明宣が聞き返すと、宝耳は懐手にしていた腕をゆっくり伸ばした。

 その手には短銃が握られている。

 

「この銃口が、()()向けられるんやろな?」

「貴様…」

 

 明宣は声を震わせた。「脅すなら、最初から私だけを脅せばいいだろう!」

 

 怒号を浴びせられても、宝耳は涼しい顔だった。

 

「そら…それで口を割る人間やったら、こないに面倒なこともせんで済みましたんやけどな。貴方(あン)さん、このテの脅しに屈する人間やないし…仕方(しゃあ)ないから、()()()()()()()来るしかありまへんやんか」

 

 ギリ、と奥歯を噛みしめる明宣に、宝耳はさっきの文句を繰り返す。

 

「ほな、約束通り聞かせてもらいまひょか?」

 

 

 

<つづく>

 






次回は来週更新予定です。



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第五章 宴の前(七)

 翌日になって、帰宅した惟親(これちか)八津尾(やつお)家で起きた失踪事件について調査しに行ったことを伝えると、惟親は驚きつつも少し安心した様子だった。

 

「そうですか。わざわざ調べさせてしまってすみません。なにぶん、こちらも人手が足りないもので、確証のない人物については候補から外したものですから。しかし、八津尾子爵に…いや明宣(あきのぶ)君に会いに行くとは思いませんでした」

「それは、薛子(せつこ)様のこともありましたし…父の遺産についても、お話しする必要があると思ったものですから」

「えぇ、それは勿論そうです。あなたには正当な権利がありますから」

「いえ。私は遺産については明宣様に全て譲るつもりです。父の事業を継いで頂いているのですから、それぐらいはしないと」

 

 惟親は目を剥いた。

 

「なにを言っておられる! あなたのために守っていたのですよ、彼は!」

「伯爵……八津尾家の資産状況について何かご存知でしょうか?」

 

 薫が尋ねると、惟親はうっと声を詰まらせた。

 気まずそうに押し黙った姿を見て、薫は確信する。

 

「やはり…その様子だと、あまりよろしくない状況なのでしょうね」

 

 昨夜の話の中でも、薛子にドレスを新調することもできなかった…と、遠回しに言っていた。

 屋敷の使用人も最低限しか置いていないようだし、おそらく相当に逼迫しているはずだ。

 

 父の行っていた子供の教育に関する事業は、ほぼ慈善に頼るだけのものだ。

 短期間でわかりやすい利益を生むものではないし、初期投資としてはかなりの額が必要となる。なかなか出資者を募るのは難しいだろうし、そうなれば自分の資産を持ち出してやっていくしかない。

 

「……遺産といっても…父も相当に使っていたようですから、実際にはさほどないかもしれませんが、少しでも役立てていただければと思っています」

 

 きっぱりと言う薫に、惟親は感心した。

 やはり親子というべきか(実際には伯父と姪だが)、必要以上のものを欲しがらないあたり、父の金銭感覚を受け継いだようだ。

 

「今日にでも、念書というか…その旨について書き記したものを明宣様に届けたいのですが、こうした書面って何か形式的に決まりごとなどあるのでしょうか?」

 

 やれやれ…と惟親は観念した。

 もはや説得しても聞きそうにない。

 

「では、あとで弁護士に来るよう頼んでおきます。詳しくは彼に指示を仰いで下さい。それと一応言っておきますが、私は明宣君と知り合いではありますが、彼は私が鬼殺隊に関わっていることは知りません。あなたと私に繋がりがあることも、当然知らない。申し訳ないが、彼とあなたの仲介は出来ません」

 

 やはり宝耳(ほうじ)の言った通りだ。

 惟親には惟親で社会的な地位があり、それは鬼殺隊の円滑な運営のためには必要なのだ。彼の表の顔を潰す訳にはいかない。

 

「大丈夫です。今回のことについては、頼める人がいますから。彼に明宣様に届けてもらいます」

「…彼?」

「いえ。それより…」

 

 薫は本題に入った。

 

 そもそもは明宣の妹である八津尾子爵令嬢・薛子の失踪に鬼が関わっているのか…という調査だ。

 薫は明宣から聞いた薛子の失踪当時の状況を説明した後、借りてきた封筒を惟親に渡した。

 

「これを…鬼蒐(きしゅう)の人の…能力者の方に見てもらうことは可能でしょうか?」

「……何か、感じるものがあるのですか?」

「はっきりとはわかりませんが…なにか引っ掛かるのです」

「ふ…む。では、お預かりします。ですが、今の話からすると家出や誘拐というよりは鬼に連れ去られた…と考えた方がしっくりきますね」

「私もそう思います。それと、菊内(きくない)男爵はやはり怪しい気がします。人間と鬼が手を組むようなことは考えにくいことではありますが、前例がなかった訳ではありませんから…」

 

 言いながら、薫の脳裏には佐奈恵と一緒に行った紫陽花寺のことを思い出す。

 あの和尚もまた、自分が襲われそうになった恐怖から、寺を訪れた参拝客を鬼に差し出していた。

 忌々しいことだが、そうした醜い性根の人間がいないわけではない。

 

「それはまぁ、そうですね…」

 

 相槌をうつ惟親もまた、鬼に(くみ)した人間達…何代もに渡って鬼を利用し、利用されていた卑しい一族のことを思い出していた。

 

 先代の炎柱が助けた一族の男の子は、生贄にされるところだったいう。

 左右の異なる色の目には、怯えと、子供らしからぬ諦観(ていかん)があった。……

 

 時に人は、鬼以上に浅ましく卑怯な生き物にも成り下がる。

 悔しいが、そうした人間であっても鬼殺隊の隊士達は鬼から体を張って守らねばならないのだ。

 例え、自らが死ぬことになっても。

 

 惟親は静かな苛立ちを奥歯で噛みしめ、一息ついてから話を変えた。

 

「では、この事については一先ず於いて。さぁ、()()さん。宿題のエチュードはどこまで進みましたかね?」

 

 にこやかに微笑む惟親を薫はげんなりした様子で見てから、ピアノの椅子に座る。

 

「とりあえず…第二楽章までは」

「よろしい。では、始めましょう…」

 

 パンと手を打った惟親の合図と同時に、ピアノの音が部屋を満たしていった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「ほぅ…じゃ、鬼が関わっているとみていいわけか」

 

 宇髄天元はニヤリと笑った。「派手に腕がなるぜ」

 

 夜半になって、薫から預かった封筒の解析が済んだ。

 物品などから鬼の気配を感じ取ることのできる、特殊な能力を持つ鬼蒐の者に見てもらったところ、僅かながら痕跡があるらしい。

 

 一応、鎹鴉を通じて天元に伝えたところ、ちょうど鬼殺の任務の帰りだったらしく、わざわざ寄ってくれたのだった。

 

「今回失踪した八津尾子爵のご令嬢は夜会に来ていた訳ではないようですが、菊内男爵の娘と同じ女学校であったらしいので、まったく関係がないとも言えません。警察では家出と考えたようですが、私の知る限り、妾腹の娘とはいえ、兄である明宣君との仲は良好であったと思います。既に夫人は亡くなられていますし、家が居心地が悪かったとは思いにくい」

「ふん。そんなこたぁ他人にはわかりようもないが…」

 

 皮肉めいた笑みを片頬に浮かべて、天元はつぶやく。

 その目が妙に遠くを見つめている気がして惟親が訝ると、さっと視線を元に戻した。

 

「ま、鬼に関係するなら、やるこたぁやるさ。で、わざわざそんな調査なんぞしに行った物好きの隊士はどうした?」

「森野辺くんは休んでいます。少々、無理させたようで…ぐったりしていたので」

「オイオイ。そんなことで大丈夫か?」

「大丈夫です。ただの知恵熱のようなものです。さすがにお稽古事も重なると疲れるようで……」

 

 惟親の厳しいピアノレッスンの後には、例の遺産の件で弁護士と文書作成作業があり、午後からはダンスレッスン。

 夕食後にはベッドに倒れ込むなり寝入ってしまったらしい。

 そもそも前日に八津尾家に行って帰ってきたのは深夜で、大して眠ってもいないうちに朝になって、隊士としての修練も行っているのだから、無理もない。

 

「ハハハハ!! 伯爵もなかなか厳しいな。相当に仕込まれたようだな」

 

 天元はいかにも楽しげに大笑いした。

 こと、ダンスに関しては彼が嫌がったせいで、薫が引き受ける羽目になったのだが、まったくの他人事だ。

 

「ま、前座のことは任すさ。俺は俺ですべきことがたんまりとあるんでな」

 

 話を変えた天元が、伏し目がちに意味深なことを言うと、惟親は問いかけた。

 

「例の…太鼓持ちの話の件ですか?」

 

 つい先ごろ天元によって助けられた太鼓持ちが、鬼を見たと話したのだ。

 重傷を負っていたため、すぐに事切れてしまい、結局どこで見たかなどの重要な部分は不明だ。

 

 隠による探索と並行して、その太鼓持ちを助けた天元もまた、調査している。

 やはり元とはいえ忍であったために、情報収集には長けている。三人の妻達も協力しているのだろう。

 

「まぁ、ヤツのいた茶屋はわかったんでな。だいたいのアタリはつけたさ。太鼓持ちなんぞに見られちまってるくらいだ。トボけたマヌケの鬼だろうからな。他にも目撃者がいるだろうし…おそらくは、遊郭(くるわ)の中じゃ妙な噂の一つや二つや三つや四つ…ボロボロと襤褸(ボロ)出してるだろうさ」

「そうですか…」

 

 惟親は相槌を打ちながらも、その鬼の探索には時間がかかるだろう…と予想した。

 

 遊郭というのは、古来より鬼にとっては格好の棲処となりやすい。

 それは夜を主体とする商売形態である他に、遊郭特有の守秘性がある。

 

 あの世界の住人というのは、案外と外の人間に対して壁をつくり、滅多なことでは郭内で起きた事件などについては口外しない。

 女郎や下郎の一人二人が突然姿を消したところで、一大事になることもない。

 多少、不審がりながらも受け流す…というのが、ああした世界の人間の常識だ。

 

 遊郭はあくまで楽しく遊んで行ってもらうための場所―――ということで、()()()()な話はしない…というのが、大店(おおだな)であるほどに徹底している。

 

 もっとも、さほどでもない局女郎あたりであれば、そうした噂などは尾ひれにハヒレまでつけて流れるであろうが…太鼓持ちが局程度に招ばれる訳もない。

 してみれば、例の太鼓持ちが見たという鬼は、遊郭の中でも上位の店周辺のことであろう。

 

「密偵が必要であれば、仰言って下さい。手空きの隊士を挙げておきますので」

「いや…まずは俺の嫁に行ってもらうことになると思う。それで見つからなけりゃ、伯爵に頼むかもな…。ところで―――」

 

 急に天元はつい、と冷たい視線をあらぬ方に向ける。

 

「さっきからデカい鼠が一匹、聞き耳立ててんのはどういうことだ?」

「えっ?」

 

 天元は不機嫌そうに腕を組んでクイと顎で指し示す。

 惟親がこちらからは死角となっている柱の陰へと目を向けると、そこからヒョイと影が飛び出た。

 

「いや~、さすがの音柱様には敵いまへんなぁ。失敬失敬」

 

 初対面ではあったが、天元は反射的にその胡散臭い関西弁の男に嫌悪感を抱いた。

 不信も露わに睨みつける。

 

「……いつからいた?」

 

 低く問いかける天元に、男はハハハと情けない笑顔を浮かべた。

 

「ハハ。知恵熱やら何やら言うてはって、お嬢さんもいはらへんからな…どうしたもんかー思て、ボケーッと立っとっただけですわ」

 

 天元の顔はますます厳しくなった。

 

 自分が―――この、音柱の宇髄天元が、ついさっきまで気配に気付かなかった…? その事自体が異常だ。

 

「……話は終わったから、失せるぜ。このテの奴は気に食わねぇ」

 

 言うなり天元の姿は消え、ドアが開いていた。風が一筋、すぅーっと部屋を通り過ぎる。

 

 ふぅ、と溜息をついて、宝耳は先程まで天元の座っていたソファに腰を下ろした。

 

「やれやれ、嫌われてもぅたなぁ」

 

 惟親は苛立ちを隠すこともなかった。

 

「何を考えているんだ、お前は。音柱様との話を盗み聞きするなんて」

「盗み聞きなんぞする気はあらへんがな。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その言葉を天元が聞いたら、おそらく怒りに身を震わせただろう。

 惟親はため息をつくと、話を変えた。

 

「それで? 用件は?」

 

 仏頂面で問いかけると、宝耳は薄ら笑いを浮かべながら、懐から書類の束をバサリと机に放った。

 

「……なんだ? これは?」

「例の()()()の行方を探るのに必要なモンですやん」

 

 惟親はいくつかに目を通した後に渋面になった。

 

「まさか…これ一つ一つを調査しろということか?」

「そらそうや。ここまで絞ってやっただけ偉いとホメて欲しいわ」

 

 宝耳が持ってきたのは土地登記に関する書類であったが、その数量をざっと見ただけでも一月そこらでできる仕事ではない。

 

「後はあんたの領分や。やってもらうしかあらへん。なにせ、お館様からの肝煎りやからな」

 

 ヒラヒラと手を振って、もう自分は関係ないとばかりせせら笑う宝耳を睨みつけて、惟親は久しぶりに机の上にある煙草に手を伸ばした。

 シガレットケースから一本とると、当たり前かのように宝耳も取る。

 惟親が文句を言う間もなく、素早い動きでマッチを擦って、うまそうに吸い始めた。

 

「あぁ、そや。その()()()の名前な…珠世と愈史郎やで」

「…どうしてお前が知ってる?」

「当人らがそない呼び合っとったからな」

「呼び合ってた? お前、会ったのか?! その鬼に!?」

 

 宝耳はニヤと笑った。

 

「ハハ。その分やと、お嬢さんは本部にご注進はしとらんわけやな」

「お嬢さん?」

「今、ここにいはる森野辺元子爵令嬢やがな。元々はお嬢さんにその鬼の滅殺命令が下っとったんや。たまたま、ワイの知り合いが探り当てた鬼やったよって、ワイの方にも情報が回ってきたんで、ギリギリでどうにか邪魔できたんやけどな」

「邪魔…って、お前、何を…」

 

 訝しげに言う惟親に、宝耳は憎らしげにうそぶいた。

 

「邪魔になる、ならんはお互いさまや。ワイにとっちゃ、お嬢さんこそ邪魔者やったんや。ま、あのお嬢さん、聞き分けがええよって、殺さんで済んでよかったわ」

 

 ますます眉間の皺を深くし、厳しく睨みつける惟親を無視して、宝耳は話を続ける。

 

「女の鬼を調べてた時に出会った老婆がな、自分の兄が不治の病で苦しんでおったのが、ある日現れたそれはそれは美しい女の医者に連れられて家からいなくなった…言うててな。もちろん、その兄いうのは死んどるらしいて、墓にも名前があったし、老婆の言うことはボケた婆さんの戯言(ざれごと)くらいにしか思われとらんのやけどな…」

 

 ふぅ、と宝耳は紫煙を吐き出すと、惟親をチラとみてニヤと笑う。

 

「墓にあったのは『愈史郎』ゆう名前やった。ついでにその婆さんの父親の日記があってな。長男の『愈史郎』を『珠世』いう女の医者に診せた…と書いてあった。その長男はその後に()()()()()らしい」

 

 意味深に宝耳は言ったが、惟親は首をひねって問い返した。

 

()くなったのなら、その愈史郎という息子は死んだのじゃないのか?」

「ニブいな、あんた。ワザと強調したったんやぞ。父親の日記には『愈史郎、廿日(はつか)になくなりし』とだけあったんや。死亡したとは書いてない。()()()()()()と、取れんこともない言いようやないか」

「つまり…そこが気になっていたところに、まさしく『愈史郎』と呼ばれる鬼が現れた…ということか」

「そやそや。物分りが早ぅて助かりますな」

 

 馬鹿にした口調で言われて、惟親は苛立ちを胸に押し込めた。

 

「その『愈史郎』という息子が死んだのはいつの話だ?」

「さて? その婆さんが子供の頃というんやから、四、五十年以上は昔と違ゃうか? ま、鬼にしたら、五十年なんぞ一瞬やろ」

「しかし、五十年近くも鬼が共に行動をするとは…」

「そこは捕らえてから聞いたらえぇやろ。鬼であっても男と女やったし、そういう事なんかもしれんわな。まぁ、こっちの知ったこっちゃない」

 

 惟親は宝耳の言う想像に眉を顰めた。

 どうしてこの男はいちいち人の心を泡立たせるようなことを言うのだろう。

 ひとまず煙草をのんで、気分を落ち着けた。そもそもの問題はそこではない。

 

「それで…本当に、その鬼は()()()なのか? 本当に、我々に()()してくれるのか?」

 

 真面目な顔で問いかけた惟親に、宝耳はきょとんとなった。

 

「そんなもん、ワイの知ったことやない」

「そもそも()()()を探すのは、そのためだろうが!」

 

 ムッとなって思わず大声になる惟親を見て、宝耳はゲラゲラ笑った。

 

「そこは、それこそ御大の出番と違ゃいますん? 例の()が鬼にも効くのかは知らんけど、産屋敷の妙なる美声で(とろ)かして――――」

「貴様! 不敬な言い方をするな。お館様と呼べ!」

「あぁ、失敬失敬。ま、そこのところについては、ワイの手に負えるもんやないし、そもそもヤツらに会ってみんと、話にもならんのと()ゃいまっか? ま、そのためにもヤツらのねぐらを見つけんと。ということで―――」

 

 宝耳は机の上の書類の束を惟親の胸に押し付けると、

 

「ほな、後はよろしゅう。伯爵サマ」

と嫌味たらしく言い、煙草を灰皿にポイと放って出て行った。

 

「…くそっ」

 

 惟親は悪態をつきながら、宝耳の放り出した煙草の火をもみ消す。

 

 つくづく気に入らない。

 どこまでもあの男は信用できない。

 長いつき合いでも、いまだに何を考えているのかわからない。

 

 惟親は暗い目で宝耳の出て行ったドアを見つめた。

 

「………」

 

 それでも奴を野放しにすることはできないのだ。

 聡哉の亡き後、()の行く末を見届ける責務が、惟親にはあるのだから。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「宝耳さん」

 

 薫が階段から呼びかけると、宝耳は驚いた様子で見上げてくる。

 

「おやおや、お嬢さん。伯爵にみっちり稽古漬けにされて、くたばっとったん()ゃいますの?」

「……頼みがあります」

 

 無駄なおしゃべりほど、宝耳相手に危なっかしいものはない。

 知らず知らずのうちに、余計な情報を言ってしまいそうになるからだ。

 薫は単刀直入に話を進めた。

 

「これを、八津尾家の明宣様にお渡し下さい」

 

 薫が白い封筒を差し出すと、宝耳は面倒そうに眉を寄せた。

 

「えぇ? もぅ、あの(ボン)とは話ついたんやけど」

 

 元々、そのために薫を焚き付けて会いに行かせたのだ。

 明宣との約束(勝手に押し付けたものであったが)を果たしたことで、宝耳は一応の信用を得て情報を手に入れた。

 それで一件落着。今後一切関わる理由もない。

 

 薫は神経質そうに眉間に皺を寄せた。

 

「……明宣様に何を聞きに? 土地登記のことで話があったようですが」

「まぁ、大したことやない。あの坊が名義貸ししとった土地の件でな」

「名義貸し?」

「あんたの親父さんの事業で、色々とあの子爵家も火の車みたいやな。どうにか体裁保つので精一杯なんやろ。有力な支援者の頼みとあれば、聞き入れんわけにもいかんのやろで」

 

 やはり…と薫は内心で嘆息する。

 

 薛子が夜会に誘われているのを、黙っていたのかもしれない…と言った時の明宣の苦々しい顔が思い浮かぶ。

 おそらく八津尾家の財産状況は、小柄な令嬢一人のためにドレスを誂えることもできぬほど窮乏している…ということなのだろう。

 そんなに逼迫(ひっぱく)した状態であるのに、自分のために今の今まで、父の遺産を守ってくれていたのだから、明宣の硬骨漢ぶりにも頭が下がる。

 

「あなたの思惑にのってあげたのですから、私の頼みの一つぐらいきいて下さってもよろしいでしょう?」

「フン。乗せられたマヌケの責任を取れとは…なかなか大したお嬢さんやな。そっちにかて収穫はあったんやし、悪くない取引やったと思うけどな」

「……えぇ、そうですね。利用させて頂きました。それで、お願いは聞いていただけます?」

「ハッハッハッ! ほんまに…大した娘やで。ワイを使うとは…」

 

 言いながら宝耳は白い封筒を受け取った。

 

「恋文か?」

「…証文です。私の全財産を明宣様に譲る、という」

「ふん、もったいない。もらえるもんはもろといたらえぇのに」

「私には必要ありません。明宣様が父の事業を継いで下さっている以上、寄付するのは当然のことです」

「坊が私利私欲の為に使ったらどないすんねんな?」

「そのおつもりがあれば、既になくなっているはずです。私もどうせ親戚達が勝手に持っていくだろうと思っていたんですから…明宣様が預かっていてくれたというだけで十分です。まして、そのお金で父の遺志を少しでも支援できるのなら…本望というもの」

 

 宝耳は肩をすくめると、封筒を懐にしまった。

 

「揃いも揃って、お人好しやな。いっそ、お嬢さん。鬼殺隊なんぞやめて、元の鞘に収まった方がえぇんと違ゃいます?」

 

 薫はニッコリと笑うと、静かに一礼して階段を上って行った。

 

 あぁしてワザとに怒らせるのも、意味があるのではないかと思うと、なにせ早々に宝耳からは離れたかった。

 

 しかし宝耳は薄ら笑いを浮かべて薫を呼び止める。

 

「そういえば、お嬢さん。菊内男爵のことやけど…」

「……」

「あのオッサンには気をつけた方がえぇで。下手すりゃ、鬼殺隊のことも勘付いとる可能性があるからな」

「なんですって?」

「困ったことをしてくる人間いうのは、いつの世にもおるからなぁ…」

 

 つぶやくように言うと、宝耳はヒラヒラと手を振って珍しく玄関から出て行った。

 

 

 

<つづく>

 






次回は来週更新予定です。



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第五章 宴の前(八)

「……はぁ」

 

 いよいよ夜会に行く日も迫ってきた。縫製部の隠が持ってきた仮縫いの夜会服(ドレス)を着て、薫は思わずため息をもらす。

 目の下にくっきりと(くま)をつくった女の隠がどんよりした目で見上げてきた。

 

「あの…何か…お気に召さないですか?」

「えっ? あっ…いえ、そういう訳じゃないんです」

 

 今更、コルセットをつけるような格好をする羽目になったことにため息がつきたくなっただけで、まさかわざわざこの潜入捜査のためだけに夜会服を作ってきてくれた隠の仕事に文句をつけたい訳ではない。

 

「任務のことを考えると少し自信がなくて…とても美しい仕立てのドレスですね。それに思ったよりも軽いです」

 

 艷やかな濃藍の生地に、胸元と裾部分には金糸でダマスク柄の細かい刺繍がされた豪奢なドレスであった。正直、一度着るだけで終わらせるには勿体ないくらいだ。

 隠はニッコリと笑った。

 

「よかったです。最初はサテン生地で作っていたんですが、軽い方がいいだろうということで、タフタ生地に変えたんです。やっぱりこういう衣装を作るのは、なんだかんだ言って楽しいんですよね。皆、文句言いながらもついつい気合が入っちゃって、夜なべして刺繍なんかしたりして…」

「まぁ…」

「それに一応、最近の流行なんかも取り入れて、バッスルっていうのはもう古いらしいので、それをなくした意匠になっているんですよ」

 

 疲れの残る顔色ながらも、嬉々として語る女隠を見て、薫は思わず微笑んだ。

 急な仕事で大変ではあっても、やはり女性としては美しい服を作るのは楽しみであるらしい。

 

「色々と考えて作って下さったんですね。確かにバッスルがなくなって随分、楽になりましたね」

 

 薫がまだ子爵家にいた頃に着せられたものはバッスルという腰当てをつけ、引き裾(トレーン)もまさしく床を引きずって歩くように長かった。

 たまに着ていた母の寧子が「重い、重い」とぶつぶつ文句を言っていた記憶がある。その頃からすると、こうした服装にも流行があるのか、わりとすっきりとした形のドレスに変化している。

 だが、夜会服であるから仕方ないとはいえ…

 

「この襟ぐりの広いのは…仕方ないんですかね」

 

 胸元近くまで開き、肩もほぼ露わになるのは、どうしても落ち着かない。

 どうしてコルセットで胴をあそこまでガチガチに固めておいて、首から胸元はこんなに空いているのだろうか。

 女隠は申し訳なさそうに説明した。

 

「一応、調べたところによると、昼用のドレスは首元までぴっちり詰めて作るみたいなんですけど、夜用はなんだかこんな服なんですよ」

 

 薫もその辺りの着装儀礼については、うっすらと覚えていた。

 西洋(あちら)の貴婦人は同じ招待でも昼の園遊会と夜会とでは着用する服装が違うし、それ以外でも散歩用や食事用やらでいちいち着替えるらしい。面倒なことだ。

 

 憂鬱な顔になる薫を見て、女隠が尋ねてくる。

 

「やっぱり…気になりますか?」

「そうですね。ショールをしてればいいんでしょうが、ピアノを弾くときには邪魔になるでしょうし…」

 

 薫はまた思わずため息が出た。

 ピアノのことだけでも気が重いというのに、その上でこのドレスを着てダンスまでしなければならないのかと思うと…。

 

 しかし、見ていた女隠と目が合うと、ハッと口に手を当てた。

 

「……すみません」

 

 小さくなって謝る薫に、女隠はくすっと笑った。

 

「いいんですよ。あちらの服なんて、そもそも馴染みもないんですから…ましていつもの隊服とは正反対ですからね。わかりました。森野辺さんがせめて胸を張って着れるようなものに仕上げてきます」

「えっ? いいです、いいです! これで十分です」

「いえ。あくまで任務が最優先ですから。服が気になって肝心のお仕事に支障をきたしてはいけませんからね」

「そんな…もう日にちもそんなにないのに…」

「大丈夫です! 腹案はあるので、あぁ…首周りの寸法だけもう一度、計らせてもらいますね」

 

 女隠は再び薫の身体測定をした後、「じゃあ、早速!」と、ドレスを抱えて帰っていった。引き止める間もない。

 

 薫は少し心配になった。

 大丈夫だろうか? なんだかちょっとおかしな様子になっていたような気がしなくもない。忙しすぎて、自棄(やけ)になっているのではないか……?

 

 嵐の去った後のように呆然として佇んでいたが、ふとソファに置かれた風呂敷包みに気付いた。

 

「……忘れ物かしら?」

 

 少し迷ったが、中を確かめるために開けてみると、入っていたのは男物の礼服だった。

 大柄な上着から想像するに、おそらく音柱である宇髄天元用に仕立てた燕尾服であろう。薫の衣装合わせの後に、届ける予定だったのだろうか。

 

 去っていった隠を追いかけるのは可能であったが、今から薫の夜会服の手直しのために忙しくなるだろうと思うと、また一つ仕事を押し付けるようで申し訳ない。

 

「どうしました?」

 

 逡巡する薫に惟親(これちか)が問いかけてくる。

 外套を羽織っているので、これから出かけるらしい。

 

「あ…さっきの隠の人が忘れていってしまって…たぶん音柱様にお届けするものだと思うのですが…」

「おや、そうですか。では、誰かに届けさせておきましょう」

「あ…でしたら私が参ります。住所を教えていただけますか?」

 

 薫が申し出ると、惟親は「少し遠いですよ」と言いながら、住所と駅からの簡単な地図を描いてくれた。都心部ではないらしい。

 

「ここだけの話、柱の方々の家はお館様の屋敷を遠巻きに守るように配置しているのです。お館様はお屋敷にも、守衛すら置こうとされませんからね」

 

 その上でお館様のお屋敷の正式な位置というのは極秘で、惟親ですらも、隠達の案内なしに行くことはできないらしい。

 

 渡された住所は少し郊外ながら、電車であれば日帰りできる程度の距離だった。

 頭の中で実弥に与えられた新たな屋敷が思い浮かぶ。

 位置的には天元の家からやや離れた場所だが、徒歩でも行けるだろう。蝶屋敷からもそう離れていないので、どうやらこの近辺に柱の住居が点在しているらしい。

 

 そういえば、前に訪れた翔太郎の実家も遠からぬ場所にあった。柱の住居は隊から貸し与えられると聞いているが、風波見(かざはみ)家に関しては、あるいは伝説とも呼ばれた風柱の威光を尊重して、邸宅をそのまま下賜したのかもしれない。

 

 隠が忘れていった唐草模様の風呂敷を肩に背負うと、薫は音柱の屋敷へと向かった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「……誰、アンタ?」

 

 取次を頼んだ女性は、剣呑とした目でしばし薫を睨みつけた後、横柄に問うてくる。

 

「鬼殺隊の人?」

「あ…はい。森野辺…」

「嘘!」

 

 自己紹介を途中で遮って、女は甲高い声で叫んだ。

 

「隊士だか隠だか知らないけど、こんな格好の鬼狩りはいないわよ」

「………」

 

 このとき、薫は自分が隊服を着ずに来たことを後悔した。確かに、銘仙の着物を着た隊士などいないだろう。

 

「いえ、あの…急ぎだと思って…着替えずに来てしまって…申し訳ありません」

 

 謝罪する薫を女は訝しげにジロジロと見つめた。

 

「本当ぉ~に隊士なの? また(・・)ウチの天元様を追っかけて来たんじゃないでしょうねぇ~?」

「天……音柱様を追っかける? どうしてそんなことをするんですか?」

「どうしてって…よく言うわ! だいたい、そこらで見かけてフラフラついてきて、家の周りウロついて、あわよくば~って思ってるんでしょ! アンタ達は!!」

「まさか…」

 

 誤解だと釈明しようとして、ハタと気づく。

 もしかすると、この女性は噂に聞く音柱の三人の嫁の一人なのであろうか。

 

 もし、そうだとすれば今のこの対応にもある程度合点がいく。と同時に、この人に対して「音柱様のどこが格好いいんですか?」なぞと言おうものなら、おそらく烈火の如く怒り出すだろう。

 

 困ったことになった…と思案していると、フッと女の姿が翳った。背後に立った大柄な人の姿に、薫は内心ホッとしつつ頭を下げた。

 

「玄関からキャーキャーとうるせぇのが騒いでると思ったら、なんだ、何しに来た?」

 

 天元がポンと軽く女の頭を叩くと、女はハッとした様子で振り返る。

 

「天元様! また、女が来たじゃないですか!」

「妙な勘違いしてんじゃねぇよ、須磨。コイツはお前の考えから一番遠い部類の女だぜ。なにせ、俺のことは『特に格好いいとは思わない』んだからな。な?」

 

 嫌味に問われて、薫はぎこちなく笑うしかなかった。

 内心で、この人はどうしていつまでもあんな昔のポロッと出た一言を覚えているのだろうか…と、あきれる。

 

 須磨、と呼ばれた妻女(おそらくそうであろう)は、天元の言ったことを聞くと、唖然とした様子で薫を見た。

 ズイ、と近寄ってきて小さな声で問うてくる。

 

「え? アンタ、目ェ悪いの?」

「……そうかもしれません」

 

 否定するもの面倒で、軽くいなすと、天元がハハハと笑った。

 

「まぁ、入れ。須磨、客人だから、無礼なことすんじゃねぇよ」

 

 カランカランと下駄音をたてて、着流し姿の天元は屋敷の中へと入っていく。

 須磨はさすがに自分の非礼が恥ずかしくなったのか、軽く頭を下げると、それからはおとなしく薫を客間に案内した。

 

 畳を変えたばかりなのか、い草の清しい匂いのする部屋で待っていると、今度は随分と落ち着いた風情の女性がお茶を運んできた。

 

「須磨が失礼をいたしました。宇髄天元の妻・雛鶴と申します」

「あ…森野辺薫と申します」

 

 ようやく挨拶ができた。

 ホッとする間もなく、雛鶴の後ろからまた一人、少し気の強そうな目つきの鋭い女性が同じように頭を下げた。

 

「同じく、宇髄天元の妻・まきを(・・・)と申します」

「あ…はい…森野辺薫…です」

 

 少々戸惑ったのは、やはり噂通りであったのだということへの驚きと、彼女達があまり薫に対していい印象を持ってないらしいと思えたからだった。雛鶴はよくわからないが、須磨にしろ、まきを(・・・)にしろ、どちらかといえば敵意に近いものを感じる。

 

「今日は…どういったご用件でしょうか?」

 

 尋ねてきたのはまきを(・・・)だった。

 雛鶴が軽く諌めるような視線を送ったが、()()()は無視して薫を真っ直ぐに見つめてくる。

 

「あの…次の任務で着用する服を預かって参りました」

 

 薫が丁寧な口調で返事すると、()()()は眉間に皺を寄せて首を傾げた。

 

「次の任務で? 一体、どんな…」

「すみません…それ以上は隊務に関わることですので、私からは申し上げられません。音柱様に聞いて下さい」

 

 まきを(・・・)は頷くと、薫の脇に置かれた風呂敷包みを見た。

 

「それですか?」

「はい…」

「では、私が渡してきます」

 

 そのまま取って持って行こうとするので、薫はあわてて風呂敷を自分の後ろにやった。

 

「すみませんが…これも含めて隊務に関わることですので!」

 

 怪訝に薫を見つめる()()()に、雛鶴が厳しい口調で言った。

 

「いい加減にしなさい。みっともないわ」

「だって…気になるじゃないの!」

「気になるって…勝手に思い込んでるだけでしょう?」

 

 雛鶴があきれたように言うと、()()()はバツ悪そうに押し黙った。

 

「ごめんなさい。珍しく綺麗なお嬢さんが来たものだから、私達も驚いてしまったの。天元様があの通りの方だから、たまにあなたようなお嬢さんが迷い込んできたりするの」

 

 雛鶴の説明を聞いて、ようやく()()()と須磨の態度の理由がわかったが、わかると脱力する。

 

 どうやら音柱が大層モテるらしいことはわかった。だが、自分に嫉妬が向けられるのは甚だ遺憾というほかない。

 

「どうやら不本意らしいな」

 

 ようやく現れた天元を薫はまじまじと見た。

 

「なんだ? めずらしく見てくるな」

「はい。音柱様が美男なのかと、よくよく見ておりました」

「ほぉ。で?」

「……すみません。やはり、私は目が悪いようです」

 

 天元は一瞬、引きつった笑みを浮かべたが、特に言及することもなく部屋に入ってくると上座に座る。

 

「で? 服だって?」

「はい。隠の方がこちらに渡しに来る予定だったのですが、私の夜会服の手直しであわてて帰ってしまったので、届けに参りました」

「あぁ…あれか…」

 

 渋い顔の天元に風呂敷包を差し出すと、チラと天元がまきを(・・・)を見やる。

 

「開けてみろ」

「いいのですか?」

 

 まきを(・・・)は興味深げに風呂敷包みに手を伸ばすと、さっと開く。

 中にあった燕尾服を見て、眉を寄せた。

 

「これって…洋服(よーふく)?」

「面倒くせぇーの」

 

 天元はハーッと盛大なため息をつく。さもありなん…と薫も内心では同意しつつも、任務のためには仕方ない。

 

「一応、着てみてもらって…問題があれば手直しするとのことですので、試着していただけますか?」

「今?」

「今です。時間がありませんから」

「お前って…ホントに四角四面な奴だよな」

 

 ゲンナリしたように言って天元が立ち上がる。

 まきを(・・・)は風呂敷包ごと持って後についていった。雛鶴も軽く会釈して去っていく。

 

 再び一人取り残され、薫は冷めたお茶を啜った。

 ぼんやりと庭を見ていると、似た景色が思い浮かぶ。

 

 考えてみれば柱の屋敷というのは、おおむね似ているのだろうか。以前に訪れた実弥の屋敷のことを思い出すと、同時にあの日のことも思い出す。

 苦しげに言われたあの言葉。

 

 ―――――お前が(うん)と言えば……

 

 すべてを思い出す前に首を振った。

 今、ここは感傷にひたる場ではない。

 

 お茶を飲み干すと、ほぅと息をついて呼吸を整えた。

 

「あの~」

 

 しばらくしてから、おずおずと呼びかけてきたのは、最初に会った須磨という妻だった。

 

「ちょっと、いい?」

「なんでしょう?」

「あっちの服って、よくわかんなくて…」

 

 薫は首をひねった。

 天元は以前にも似た任務をしたことがあると言っていた。当然、服も着たはずだが。

 

 須磨に案内されて行ってみると、天元はほぼ用意された燕尾服を着てはいたが、シャツの(ボタン)が留められていない。

 

「釦がねぇシャツなんぞ寄越しやがって」

「燕尾服のときは前立ての第二から第四までのボタンは据え付けのものではなく、スタッド釦になるのです。あ…音柱様は体格がよくていらっしゃるので、第五までですね」

「なんだそりゃ」

「確か、釦の入った箱があったはずですが…」

「これかい?」

 

 薫が言うと、まきをが青いベルベットの生地が張られたケースを差し出す。

 受け取って開けてみると、中には銀色の台座に白蝶貝が嵌め込まれたスタッド釦とカフス釦が並べられてあった。

 

「あぁ…これです。こちらの丸い方がスタッド釦ですから、シャツの前たての釦穴に差して留めるんです」

 

 説明する薫を皆して見つめてくるが、誰も使い方がわかっていないようだった。

 しばし思案した後に、薫は天元の前に立つと、グイとシャツを引っ張った。

 

「よく見ておいてくださいね」

 

 それから、薫は一つ一つ釦の付け方からポケットチーフの折り方まで丁寧に説明していった。

 最終的には、三人の妻それぞれに実際にやらせて、最後まで手間取っていた須磨もきちんと釦をつけられるようになると、安堵のため息をついた。

 

「ありがと、ありがと、お嬢さん。よくわかったよ」

 

 まきを(・・・)は当初の不穏な態度はどこへやら、すっかり打ち解けた様子で薫の手を握って礼を言った。

 

「天元様、やっぱり何着ても格好いいですねぇ!」

 

 須磨が三つ揃いの燕尾服姿の天元を見て褒めそやすと、雛鶴までも惚れ惚れしたように見つめている。

 

「どこか…不備はありますか? 動きづらいとか」

 

 薫はそもそもの目的を忘れそうになって、あわてて尋ねた。

 天元は女達の嬉しそうな様子とは相反して、不満げだった。

 

「こんなモン、どう着たって面倒だろうが」

「それはそうですが…実際に肩が動かしにくいとかキツイ部分とかはないですか?」

「…大丈夫だろ。実際、鬼に対する時にゃ、上なんぞ脱げばいいんだ」

「それは結構なことです」

 

 薫は皮肉っぽい口調になった。

 もし、夜会で鬼に遭遇しても自分はコルセットを取り外す暇などないだろう。

 

「なんだぁ、今の。えらく不満そうじゃねぇか」

「そんなことはありません」

「嘘つけ。文句あるんなら言え」

「……じゃあ、代わりにダンスを…」

「それは断る」

「結局ダメなんじゃないですか!」

 

 思わずムッとなると、雛鶴がクスクス笑った。

 

「まるで、妹さんみたいですね。天元様」

 

 天元は一瞬、ピクリと眉をあげたが、すぐにやれやれと肩をすくめてみせた。

 

「実際、任務じゃこいつは妹になるんだからな。まったく、クソ生意気な妹だ」

「では、隠の方にはピッタリだったと伝えておきますね、元兄さま(・・・・)

 

 薫がわざとらしく言うと、三人の妻達は目を丸くした。

 ややあってからまきを(・・・)が大笑いする。つられて須磨と雛鶴も笑った。

 

 薫は内心でホッと胸を撫で下ろした。

 どうやらこれで、天元の嫁達の妙な嫉妬の対象にはならずに済んだようだ。…

 

 

 

<つづく>

 





次回は来週更新予定です。



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第六章 狂宴(一)

 夜会当日。

 

 縫製部の女隠達は相当に頑張ったようだった。薫が胸元がやたら開いているのを気にしていたために、首から胸元までに青藤色のレースのヨークを取り付けてくれた。

 

「しかも、取り外しも可能です!」

 

 女隠の目の下の隈は相当に濃くなっている気がしたが、自信満々に言うので、薫は曖昧に微笑みながら礼を言った。

 

「あ…ありがとうございます」

 

 おそらく、取り外すことはないと思うが。

 

「あらぁ、やっぱりこうしてちゃんと着飾れば、どこぞのご令嬢かと思うわ。せっかくだし、私の首飾りもつけましょう」

 

 奈津子はすっかり着せかえ人形で遊んでいる気分になっている。薫は極力、断ったのだが、

 

「あら、でも、これくらいはして行かないと…かえっておかしく思われますわよ。こんな素敵なドレスを着ているのに、アクセサリが何もないなんて」

と言われると、強硬に拒否するのも難しい。

 

 精巧な作りのプラチナの台座に大小の真珠を留めたなんとも豪華な首飾りをすると、確かに濃紺の艷やかなドレスがより一層美しく、華やかになった。

 

「こういうものは、お揃いですからね」

 

 奈津子はそのまま有無を言わさず、結い上げた髪に同じような作りの真珠の髪飾りをつける。すっかり装いを整えた薫の姿を見て、急に叫んだ。

 

「あぁぁ、もったいない! 写真師はいないの?!」

「一体…なんの騒ぎですか?」

 

 隠から薫の着替えが済んだことを聞いた惟親(これちか)は、扉の向こうから聞こえてくる奥方の声に、顰め面で入ってきて、部屋の中央に立つ薫を見た途端、言葉を失くした。

 

「お綺麗でしょう?」

 

 呆然となっている惟親に奈津子が声をかける。

 我に返って、惟親は軽く咳払いした。

 

「まぁ…そうですね。これでしたら、現れただけで十分に目立つかもしれません」

「じゃあ、ピアノは弾かなくてもよろしいですか?」

 

 薫は負担が減るかと思って嬉しかったが、惟親は甘くなかった。

 

「せっかくあれだけ練習もしたわけですし、私も短い間とはいえ教えた身ですからね。生徒の晴れ舞台を見たいものです」

 

 にっこり笑って言う姿に、薫はガックリ肩を落とす。

 その時に、また扉が開くと現れたのは燕尾服姿の宇髄天元だった。後ろから、奥方三人がついてくる。

 

 あの後、天元はやっぱり隠に手直しを命じたらしい。隠達は今日までその修正作業を行っていて、結局は伯爵の屋敷で一緒に準備することになった。

 

 振り向いた薫と、まず目が合ったのは三人の奥方達だった。

 

「うわぁ!」

「きっれー!」

 

 須磨とまきを(・・・)が声を上げる。

 雛鶴は驚きながらも、ほぅと溜息をもらした。

 

「すごいねぇ…これ、どうなってんの?」

 

 まきを(・・・)は薫の周りを回りながら、興味深そうだった。

 須磨は真正面に立って、上から下までじっくり見た後に叫んだ。

 

「いいなぁー! 私も着てみたーい」

 

 最近は洋装で歩く人も増えたが、さすがにこうした夜会服というのは珍しいらしい。雛鶴でさえも、そっと寄ってきて薫に尋ねた。

 

「随分と…腰が細いですね。森野辺さん、ちゃんとごはん食べてます?」

 

 薫は内心で「それはコルセットのせいなんです!」と叫びながらも、にこやかに言った。

 

「大丈夫です。そういうふうに見える…仕立てなんです」

「本当かぁ? 前にもお前みたいな格好した若い女がフラフラ倒れまくってたぞ。お前も倒れんじゃねぇだろうなぁ?」

 

 天元はいかにも面倒そうに言ったが、その話に薫は溜息をついた。

 

「大丈夫です。それは、そのご令嬢方がわざと卒倒されただけです、たぶん」

「は? なんで?」

「音柱様に助けてもらいたかったんじゃないですか?」

「???」

 

 天元はますます意味がわからないようだったが、そもそも西洋(あちら)では卒倒する練習をしていたらしい…という嘘か本当かわからない情報が出回って、気になる殿方の前でヨロヨロ倒れる小芝居をする令嬢はけっこういるのである。

 無論、慣れないコルセットのせいで本当に倒れるご令嬢もいるにはいたろうが。

 

「なにそれ! どういうことよッ!」

「天元さまぁ~、騙されちゃ駄目ですぅ~ッ」

 

 まきを(・・・)と須磨が一気にいきり立つ。

 

「馬鹿か」

 

 天元はあきれた顔で取り合わない。

 

「大丈夫です。私がうるさい小姑としておりますから。そういうことをしてくるご令嬢がいらっしゃったら、すぐに別の殿方に連れて行ってもらいます」

 

 薫が言うと、まきを(・・・)は薫の手をギュッと握った。

 

「頼んだよ、あんた!」

「……何を頼んでるのよ」

 

 雛鶴はあきれたように額を押さえたが、須磨は隣でウンウンと頷いている。

 

 もっとも薫はそんなことにはならないだろうと思っていた。

 天元は妻三人であれば助けるであろうが、その他の女が目の前で倒れたくらいでは指一本動かさないような気がする。

 ある意味、愛妻家といえるのかもしれない。

 

「……なんだ見惚れてんのか?」

 

 いきなりまじまじと見てくる薫に、天元がニヤリと笑って言う。

 

「いえ。いい旦那様なのだろうと思って」

「そりゃそうだろう」

「こんなに素敵な奥様が皆さん、音柱様のことをこれだけ好いているのなら、そうなんだろうと思って」

「お前、俺を褒めてんのか? それとも嫁を褒めてんのか?」

「…………」

 

 薫は澄まし顔で無言を貫いた。

 憮然とする天元を見て思わず雛鶴が吹くと、まきを(・・・)と須磨がケラケラ笑い出した。

 

「そろそろ向かいましょうか」

 

 とりあえず一段落したのを見計らって惟親が声をかけると、天元が薫に言った。

 

「日輪刀は用意してあるか?」

「はい」

 

 薫は刀掛けから大小二本の刀を持ってくる。

 

「よし、ネズミ共」

 

 天元が声をかけると、どこから現れたのか随分と大きい鼠が二匹現れた。

 頭に天元が任務の時にしていた鉢金と似たものを巻いている。

 

「……このネズミは…『灰かぶり姫』の鼠ですか?」

 

 思わず薫が尋ねた。

 

「はぁ?」

「あ、いえ。気にしないで下さい。ちょっと想像してしまって…」

 

 魔法使いのお婆さんに御者に変身させられた鼠が思い浮かんでしまった。

 

「コイツらに刀を渡しておけ。向こうに行ったら、見えないようにお前についてまわるから、いざ刀が必要になったら呼べ」

「………なんと?」

「ネズミって」

 

 なんとも安直というか、そのままの命名だ。

 手伝ってもらうなら、どうして名前くらいつけておかないのだろうか…。

 色々と言いたいことを飲みこんで、薫は頷いた。 

 

「………はい」

「では、参りましょう」

 

 惟親がハットを被る。

 天元も雛鶴に手伝ってもらって、コートを羽織っていた。

 薫はフリンジのついた藤色のカシミヤのショールを肩にかけた。

 

 三人で馬車に乗る。ネズミ達も後方に積んである箱の中で、薫や天元の日輪刀と共に出発した。

 

 いよいよ始まった。始まってしまった。

 薫は揺られながら、目を閉じ、難しい顔で押し黙っていた。

 これからこなさなければならない課題(・・)……というより試練(・・)のことを考えると、自然と笑顔もなくなる。

 

 向かいに座っていた天元が不思議そうに首を傾げた。

 

「なんだってそんな顰めっ面なんだ?」

 

 薫は目を開くと、ジロリと天元を見た。

 試練のうちの一つは、完全に天元が放り出したものだ。いっそ「貴方のせいでしょう!」と言ってやりたかったが、回避方法を言い出したのが薫である以上、ただただあの時、余計な助け舟を出した自分を呪うしかない。 

 

「……この後のことを考えると色々と…ピアノが上手に弾けるかもわからないですし」

 

 暗い表情でつぶやくように言う薫を見て、天元は軽く吐息をもらす。

 

「そんなに難しいのかぁ? あんなん適当にぽんぽん押しておいたら、適当に音が鳴るんじゃねぇの?」

「そんな訳ないでしょう。八十八ある鍵盤それぞれで音が違うんですから」

「へぇ…八十八個もあるのか、あれ。全部使うのか?」

「……それぞれに鳴らしたり、同時に鳴らしたりすれば、それこそ無数にあらゆる音色が奏でられますが…一曲の中ですべての鍵盤を鳴らすのかどうかと言われれば……たぶん、そういった曲は少ないでしょうね」

 

 天元はあきれたように笑った。

 

「お前、本当にいちいち真面目だねぇ。この後の宴会なんぞ、それこそどうでもいい会話に、適当に相槌うって、愛想笑い浮かべて、挨拶していかないといけないんだぜ?」

 

 薫はムッとなった。それも試練の一つだ。

 

「わかってます」

「だったら、その眉間の皺を減らすこったな。向こうに着いた時には、しっかり跡が残って、毘沙門天が降りてきたのかと思われそうだ」

 

 薫は思いきり愛想笑いを浮かべてやった。

 隣に座った惟親が咳払いをする。

 

「一応…言っておきますが、お二人はご兄妹でございますから。くれぐれも、お忘れなきように」

「いっそ、兄妹喧嘩している最中だと言えば、よっぽど信じてもらえそうだけどな」

 

 天元はそう言って笑った。

 薫はまた目を閉じて、我関せずだ。

 

「頼みますよ、本当に」

 

 惟親は溜息まじりにつぶやいた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 この二人を選んだのは正解だった…。

 

 とりあえず惟親は安堵した。

 

 従僕に案内されて広間に入るなり、上背のある天元と、同じく女にしてはスラリと高い薫は、文字通り頭一つ飛び抜けていた。

 その上で、もとより美男で通ったスマートな天元と、扇で口元を隠しながら、微かな笑みを浮かべた薫の優美さに、集った人々の目が一気に集中する。

 実際のところ、それで十分目立っているような気がした。無論、今更計画を変更する必要もないが。

 

薩見(さつみ)伯爵、よくぞいらっしゃって下さいました」

 

 太いバリトンが響く。

 声をかけてきたのは主催者である菊内(きくない)男爵だった。

 

 薫は頭を下げる前にざっと一瞥した。

 

 顔の下半分がほとんど髭に覆われていたが、口周りも含めてきれいに整えられているせいか、みっともなく見えない。

 むしろ、日本人離れした彫りの深い容貌に合っていた。

 

 今は亡き男爵の夫人が彼に熱を上げた…という話もあながち嘘ではないかもしれない。

 白髪混じりの灰色の髪も上品で、極めて紳士的な容貌だ。

 

 惟親はにこやかな笑顔を浮かべて応対した。

 

「これは、菊内男爵。本日はお招きいただき、ありがとうございます。この二人は家内の妹の子供達でして…」

 

 紹介しながら目配せすると、天元はそつなく頭を下げて自己紹介する。

 

「初めまして。三枝(さえぐさ)(げん)と申します。こちらは、妹の香織(かおり)です」

 

 薫は軽くドレスをつまんで挨拶した。

 

「初めまして。お目にかかれて光栄に存じます」

 

 菊内男爵は薫の笑顔(愛想笑い)に目を細めた。

 

「いやいやこれは…まさか伯爵の姪御にこのような麗しいご令嬢がいらっしゃるとは……」

「いえ。実は二人ともたまたまこちらに来る用がございまして。今日は、せっかく東京まで来たのだから、噂に聞く夜会というのものに参加してみたいと申しまして。どうにかこうにか、見栄えだけは整えたようなものでございまして……」

 

 惟親が用意していた筋書きに沿って話し始める。

 後を引き取るように天元が、にこやかな笑顔を浮かべて言った。

 

「なにぶん、兄妹揃って田舎者にございます。不調法がございましたら、お許し下さい」 

 

 薫は隣で聞きながら、吹き出しそうになるのを堪えていた。

 よくもまぁ、あれだけスラスラ言えるものだ。ある意味、器用といえるのかもしれない。

 

 扇で口を隠して、唇を噛み締めていると、また別の方向から声をかけられた。

 

「失礼。よろしければ、ご令嬢と最初に踊らせて頂いてもよろしいかな?」

 

 燕尾服をピチピチに着込んだ、やや小太りの紳士が天元に尋ねてくる。

 天元は腹立たしいくらいの笑みを浮かべて頷いた。

 

「もちろん、どうぞ」

「よろしくお願いします」

 

 薫は軽くお辞儀すると、紳士に連れられて円舞場へと向かった。

 

 さぁ、戦闘開始だ。

 

 広間のほぼ中央には見事なグランドピアノが置かれていた。

 ダンスを楽しむ人々はピアノを中心にして、左回りで踊っている。軽快なワルツのリズムに乗って薫は踊り始めた。

 

「お上手ですね」

 

 紳士がお世辞なのか言ってくれる。

 薫はかろうじて微笑みを浮かべた。

 

 惟親が「夜会のダンスなんてほぼほぼワルツばっかりです」と言うので、ほぼほぼワルツを練習した甲斐があったというものだ。

 

「こんな真ん中にピアノを置いているんですのね」

 

 どうやってピアノに話を持っていこうかと考える必要もなく、目に入るピアノに自然と話題が沿う。

 

「ええ。菊内男爵の開かれる夜会では、これが定番になっておりますね」

「どなたかお弾きになるのですか?」

「菊内男爵のお嬢様でいらっしゃる伊都子(いとこ)嬢ですよ。終盤になったら、待ってましたとばかりにお出でになることでしょう」

 

 その口振りが多少皮肉げに聞こえたのは、惟親の言うように『さほどに心地良い演奏ではない』からだろうか?

 薫は気付かれぬようにゴクリと唾をのみ込んでから、演奏にかき消されないよう、やや大きな声で言った。

 

「まぁ、そうですのね。楽しみですわ。私も多少、ピアノを嗜みますの」

「ほぉ。ご令嬢が。それはそれは…是非、お聴きしたいものです」

「ほんの手遊(てすさ)び程度のものでございますけど…田舎ですとご理解いただける方も少なくて。ここにいらっしゃる皆様は、優れた識見をお持ちの方々でいらっしゃるのでしょうから、忌憚のないご意見を賜れば、少しは上手になるかもしれませんわね」

 

 さっきは天元の口巧者ぶりを笑っていたが、我ながら大したでまかせっぷりだと思う。

 やはりこういう格好をして、こういう場にいると、自然とそれらしく口が動くようだ。

 

 その後、四人の紳士と立て続けに踊って、まんま同じ台詞を言っておいた。

 これで彼らが「このご令嬢にピアノを弾かせるのも一興」とでも思ってくれれば、一応成功といえるのだろうか…?

 

 五人目が終わったところで、続いて誘って来る人に謝って、円舞の輪から離れた。

 さすがに疲れた。

 

 給仕から水をもらってから、さて今度は今回の夜会の(一応)主眼である西洋骨董(アンティーク)でも見に行こうかと辺りを見回す。

 どうやら広間の続きになった小部屋に展示してあるようだが、さほどに人の出入りはない。やはり、建前として用意されたものらしい。

 

 小部屋へと向かいかけると、ささっと前を塞いでくる影。

 薫は一瞬、身構えたが、そこに立っていたのは薫よりも少し年下くらいのご令嬢三人組だった。

 あまり友好的とはいえない好奇の目で、相手を品定めしているらしい様子に、薫は女学校時代を思い出した。

 昔も今も、こういう人はいるようだ。

 

「ごきげんよう。田舎からいらっしゃったとお聞きしましたけど、どちらから?」

「仙台の方ですわ」

 

 これもまた台本通りである。

 実際に、惟親の妻・奈津子の妹の一人は仙台の方に嫁に行っている。

 

「まぁ、あちらの。それにしては御国言葉はお出になりませんのね。こちらにお出でになるので、よほどしっかりと直された(・・・・)のでしょうね」

 

 薫は笑顔を貼りつかせた。

 

「えぇ。大変でございました。皆様の前でおかしなことを申しては、伯父様にとんだ恥をかかせることになってしまいますもの」

 

 やんわりと惟親の影をちらつかせる。

 途端に令嬢達はグッと詰まって、互いに目を見合わせた。

 

 どうやら令嬢方の父の爵位は惟親より低いらしい。ここで薫に対して無礼をすれば、抗議がくるかもしれぬと考えたのだろう。

 

 薫は軽く辞儀した後、再び小部屋に向かおうとしたが、またも呼び止められた。

 

「ごきげんよう」

 

 背後から響く威圧的な声。

 明らかに薫に言ってきたのがわかる。

 無視するわけにもいかなさそうだ。

 

 再び笑顔を貼りつかせて、薫は振り返った。

 

 二人の女が立っていた。

 一人は赤紫色のサテンのローブデコルテに、前髪を少しだけウェーブさせた若奥様然とした女。もう一人は薄桃色のふんわりしたオーガンジーのドレスを着た年若いご令嬢。

 

「ごきげんよう」

 

 薫はスカートをつまんでお辞儀し、目線を落とした。

 やはり心配していたことは起こりうるのだな…と内心で肝を冷やす。

 

 若奥様の方に見覚えがあった。

 女学校時代、薫を執拗にいじめていた一人だ。確か新村春子…と言っていただろうか。年は二つほど上だったが、学業をおろそかにしていたので、落第して一学年上の先輩であった。

 春子はその負い目を隠すためか、元は子守奉公をしていたと薫を蔑み、執拗に意地悪をしてきた。

 

 先程の令嬢達がそそくさと彼女の後ろへ隠れるところをみると、彼女に指示されて声をかけてきたのかもしれない。相も変わらず、そうしたことの煽動は非常に巧みなようだ。

 

 春子は扇で口を当てていたが、すぅっと(まなじり)を細めて薫を見つめた。

 

「あなた…なんと仰言ったかしら?」

「三枝香織と申します」

 

 薫は俯いたまま答えながら、早く立ち去ってくれることを願ったが、どうやらそうもいかないらしい。

 

「頭を上げてよろしくってよ、香織様。いつまでもそうして頭を下げていては、まるで使用人かと思われますわよ。今日、ここに集ったのは貴賤に関わらず友好的なお付き合いを望む方々ですのに」

 

 とてもそうは思えないのは、春子の周りを取り囲むご令嬢方が、無遠慮に薫を睨みつけているからだ。

 しかし薫はとりあえず顔を上げた。あるいは森野辺(もりのべ)薫子(ゆきこ)だとばれる可能性はあるかもしれないが、もし指摘されても知らぬ存ぜぬを通す覚悟はできている。

 

「せっかくですから、私から紹介致しましょう。こちらは菊内伊都子様。今日の主役…でいらっしゃいますわね」

 

 その紹介で安心できたのか、伊都子はズイと前に出てきた。

 

「あなた、この夜会に来ておいて、私にも西條侯爵夫人にも挨拶をしないなんて、失礼だと思いませんの?」

「挨拶? まぁ、すみません。田舎者ですから、そうした礼儀も弁えず、失礼致しました」

 

 薫は白々しく言った。それから再び頭を下げる。

 

「改めまして三枝香織と申します。お見知りおき下さいませ」

「どうせすぐに田舎にお帰りになるのでしょうから、見知っておく必要もありませんでしょう」

 

 春子―――どうやら結婚して西條侯爵夫人になったらしい―――は、冷たく言った。

 とりまき令嬢達がクスクスと嘲笑う。

 

「左様でございますね」

 

 薫はにこやかに微笑みながら言った。

 そのまま忘れて、放っておいてほしい。

 

 しかし春子はまだ薫を見ていた。

 扇の上からのぞく狡猾な眼差しは相変わらずだ。やはり春子の目的は、単に自分に挨拶をしに来ない無礼な令嬢を嘲弄することではないようだった。

 

「私……なんとなく貴女を見ていると、思い出す人がおりますのよ」

 

 ―――――きた…!

 

 背筋にピリリと緊張が走ったが、薫は不思議そうに首を傾げた。

 

「あら? 左様でございますか?」

「えぇ…随分と似ていらっしゃいますの。昔、森野辺という子爵家がございましたのよ。ご存知かしら?」

「……いいえ」

「私、森野辺子爵のご令嬢と仲良くさせて頂きまして…その方と貴女、とても似ておいでですわ。もちろん、あの頃はもっと野暮ったかったですけど」

 

 春子はあえて、目の前にいるのが森野辺薫子であると決めつけるように言っているのだろう。この後の薫の反応を注意深く窺っている。

 

 薫は唇を引き締めた。

 慎重にいかねば。妙に慌てたり、怒ったりすれば、彼女らは得たりとばかりに、ますます追求を深めるだろう。

 

 しかし、そこに意外な人物が割って入ってきた。

 

「確かに…似ておいでですね」

 

 

 

<つづく>

 





次回の更新は来週の予定です。




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第六章 狂宴(二)

「確かに…似ておいでですね」

 

 聞き覚えのある男の声。

 薫の心臓はドキリと跳ねた。

 

 さっと強張った顔で見れば、そこに立っていたのは八津尾(やつお)明宣(あきのぶ)だった。

 薫と目が合うなり、微かな笑みを浮かべる。

 

「あら、明宣様。珍しいこと、夜会にお見えなんて」

 

 春子がやや驚いた顔になる。

 明宣は朗らかに対応した。

 

「えぇ…菊内(きくない)男爵の催される夜会には、貴賤を問わず優秀な方々が集まっておみえになると聞き及びまして、重い腰を上げる気になったのです」

「それはよろしいことですわ」

 

 春子は大仰に頷いてから、疑心暗鬼な眼差しを明宣に向けた。

 

「そういえば…明宣様は森野辺子爵令嬢と婚約されていらっしゃいましたわね?」

 

 明宣はすぐに頷いた。

 

「えぇ。ですから、こちらから懐かしい名前が聞こえたもので…つい気になって」

「いいえぇ、構いませんことよ。当然ですわ。ね? 似ておいでしょう?」

 

 春子は思いもかけぬ援軍が来たと愉しげであったが、明宣はじっと薫を見つめてから、残念そうに首を振った。

 

「どうやら違うようです」

「あら? そうかしら?」

 

 疑り深い春子に、明宣はあきれたように言った。

 

「僕は彼女と見合いまでしたのですよ。確かに似ておられますが、別人です。彼女はこんなに堂々とはしていませんでしたよ。いつもどこか落ち着きなくビクビクしておいでで…」

 

 あまりに明宣がはっきりと否定するので、春子は自信がなくなってきたようだった。

 薫を睨むように凝視してから、ツイと目を逸らした。

 

「まぁ、そうですわね。あの方、こうした場では決して前に出る方ではございませんし、いつも青い顔なさって、憐れでみじめたらしいご様子でしたものね」

 

 なんともひどい言いようだ。

 しかしそこまで言われるとかえって滑稽で、薫は思わずクスッと笑ってしまった。

 

 春子が苛立たしげに眉を寄せたが、明宣は苦笑いを浮かべてたしなめた。

 

「幼かったとはいえ、一応婚約者であった人ですから、そうまで悪し様に言われては僕の立つ瀬がありませんよ」

「まぁ…でしたら主人にでも頼んで、()()()()明宣様に相応(ふさわ)しいご令嬢を紹介して差し上げますわ。では、ごきげんよう」

 

 春子はそれでもう興味をなくしたようだった。

 薫の方を見ようともせず、早々に引き上げていく。お付きのご令嬢達も、少しばかりバツ悪そうに立ち去った。

 

 薫は長くお辞儀して見送る。

 ゆっくりと顔を上げると、一呼吸して明宣の方を振り返った。

 

「せっかくですから、その私に似た人のことについて、伺ってもよろしいかしら?」

 

 薫はにこやかに言ってから、じっと明宣を見つめた。

 いっそ、睨みたいくらいだ。どうしてよりによって今日、ここに明宣がいるのだろうか?

 

「そうですね」

 

 明宣は頷くと、庭へと促す。

 

 菊内男爵ご自慢の薔薇園が見頃であったが、今はそれどころではない。

 無言のまま足早に歩いて東屋に辿り着くと、周囲に人の気配がないことを確認してから、薫は明宣に詰め寄った。

 

「どうしていらっしゃっているんですか?」

 

 明宣は困ったように笑みを浮かべる。

 

「あの男から聞いたのです」

「あの男?」

「あなたの書類を渡しに来た、関西弁の男です」

「あぁ…」

 

 薫は額を押さえた。

 またもや宝耳(ほうじ)が余計な世話を焼いたらしい。

 

薩見(さつみ)伯爵の姪と紹介されてましたが…伯爵もそれならそうと仰言(おっしゃ)ってくだされば…」

 

 明宣はどうやら薫が惟親によって()()()保護されていたと勘違いしているようだ。

 申し訳ないが、その誤解を訂正している時間はない。

 

「お願いしますから、何も言わずにお帰り下さい」

「何かを言うつもりはありません。先程は、なんだか困って見えたので、つい口を出しました。すみません」

「謝っていただくことではありません。正直、助かりました。でも、早くお帰りになって下さい。どうしていらっしゃったのですか? あの男に行けとでも言われましたか?」

「まさか。ここに来たのは自分の意志です」

「………」

 

 薫は眉を寄せる。

 宝耳の巧みな話術によって、我知らず誘導されていることは大いに有り得ることだ。

 

「あなたが、妹のことを調べていると言っていたので…心配になったのです。危ないことに関わっているのではないかと」

 

 薫は困り果てた。

 今、ここでゆっくりと明宣を説得している暇はない。

 そろそろ天元や惟親の誘導もあって、薫がピアノを弾くための流れが出来てきているだろう。

 

「私が危ないことに関わっていたとしても、明宣様に止めることはできません」

 

 薫は決然として言った。

 

「先程、言っていた通りです。私は昔の自信なげに青い顔をして震えていた森野辺(もりのべ)薫子(ゆきこ)ではありません。だから、心配していただく必要はないんです」

 

 明宣の顔が歪む。さみしげに俯いた。

 

「そうですか…」

「すみません。………失礼します」

 

 薫は固い顔で軽く頭を下げると、その場を後にした。

 明宣には申し訳ないが、もはや()()()()()()()()()と、はっきりわからせておく必要がある。

 

 薫が広間に戻ってくると、すぐに惟親(これちか)が飛んできた。

 

「明宣君が来ているとは思わなかった。何か言われましたか?」

「いえ。心配されて来たみたいです。伯爵、彼に今日のことを話したのは宝耳さんですよ」

「なに?」

 

 惟親の顔が引き攣った。「あいつは…」と声が震えているのは、よほど腹に据えかねているのだろう。

 深呼吸して気持ちを切り替えた後に、すぐさま薫に指示する。

 

「とりあえず、私は明宣君に会って話してきます。あなたは()()()()のところに行って、手順通りに」

「わかりました」

 

 薫は頷いて、令嬢と夫人達に囲まれた天元のもとへと向かった。

 

「元兄さま」

 

 声をかけると、一気に目線が注がれる。

 

「まぁ、二人並ばれると、本当にお美しいご兄妹でいらっしゃること」

 

 クリーム色のドレスを着た夫人が溜息まじりに言うと、次々に賞賛の応酬になる。

 

「古びた骨董などより、お二人を見ている方がよっぽど目の保養というものですわ」

「今日の夜会がぐっと華やかになりましてよ」

 

 その歯の浮いたような世辞に、薫は笑顔が引き攣りそうだったが、天元は至って素直に受け取っているようだった。

 

「ありがとうございます。これが先程から話しておりました、妹です。足の悪い兄を慰めようと、ピアノを弾いてくれる優しい妹なんですよ」

 

 薫は辛うじて目だけは細めて笑ったフリをする。それと知られぬよう溜息をついた口元は扇で隠した。

 どこからそんな言葉がスラスラ出てくるのだろうか。忍というのは、そういう詐欺師めいた訓練でもするのだろうか。

 

「お恥ずかしい話ですわ。田舎者の奏でるピアノなんて、耳の肥えた淑女の皆様にはとても聴くに耐えないものでしょう」

 

 悲しげに俯いて卑下してみせれば、必ずそれを否定する者がいる。

 

「まぁ、そんな。先程来、お兄様から伺っておりますのよ。香織お嬢様のピアノはそれはそれは心を揺り動かす名演だと」

「まぁ…そんな」

 

 羞じらいつつ、薫の足が無意識に天元の足を踏んづけていた。

 よくもまぁ、そこまで大風呂敷を広げたものだ。

 

「……ぐっ」

 

 天元は呻きつつも、心配そうに見守る淑女達に笑ってみせた。

 

「いえ。時々、長く立っていると足が痛むもので。こういう時には、それこそ妹のピアノを聴くと、治るような気になるものです」

「あら。じゃあ、一度弾いてご覧になっては? よろしいでしょう? 伊都子(いとこ)嬢」

 

 声をかけられた先には、先程まで春子と一緒にいた菊内伊都子が立っていた。

 どうやらあの後、別れたらしい。春子の姿はなかった。

 

 今更ながらに薫は伊都子を観察した。

 確かに明宣の言っていたように、多少癇が強そうな感じがする。

 だが気が強いというわけでもなさそうだ。

 

 今も一気に視線を浴びて、目を泳がせつつ、警戒心もあらわに薫を睨みつけてくる。

 おそらくさっきの横柄な態度は春子が一緒であったから…つまりは虎の威を借る狐というわけだ。もっとも、春子が虎とも思わないが。

 

 天元は伊都子の前まで足を引き摺って歩いていくと、それこそあまたの女を蕩けさせたであろう微笑を浮かべて言った。

 

「よろしいでしょうか、伊都子嬢。田舎者の一生に一度あるかないかの晴れ舞台です。妹にピアノを弾かせていただいても?」

 

 伊都子はすっかりのぼせて、ボンヤリなってしまったようだった。

 

「え、えぇ……よろしくてよ。一曲ぐらいなら」

 

 天元が素早く目配せする。

 薫は頷いた。

 

 これで舞台は整った。

 

 薫がピアノに寄っていき、椅子に座ると楽団の演奏が止まった。

 同時にダンスをしている人達はその場でなりゆきを見ている。

 

 コソコソと囁かれる声。

 中には薫が先程踊った男達もいて、隣の知り合いに薫のことを説明しているようだ。

 

 薫は深呼吸をして、長く息を吐ききってから、おもむろに鍵盤の上に指を乗せた。

 

 ショパンの『幻想即興曲』。

 

 惟親がいくつかの候補から最終的に選んだものだった。

 

「あまりに重厚感のある曲だと、さすがに夜会の華やかな雰囲気にそぐわないですし、かといって穏やかな曲ですと、なかなか耳目を集めにくい。素人が見て、技巧的に難しそうと思えるくらいで、人前での演奏に耐えうる曲となれば、この曲が一番いいでしょう。旋律も美しくて、聴き映えしますし、何より()()ですから」

 

という理由は、概ね合っていたようである。

 

 強く低い和音から始まって聴衆の耳を惹きつけた後、何かの序章であるかのような左手だけの低音のアルペジオに乗って、右手の速いパッセージが始まると、周囲の人々が軽くどよめいた。

 

「……すごい」

 

 隣で明宣が呆然とつぶやくのを聞いて、惟親は満足げに微笑んだ。

 

 よろしい。だんだんと硬さも取れてきている。

 軽やかに弾きこなすために、無理難曲を十二分に練習させた甲斐があったというものだ。

 

 一方、天元は横目で伊都子を窺った。

 案の定、面目丸潰れの、なんとも情けない顔をしている。

 ゆるやかな曲調になると、クルリと踵を返して広間から出て行った。途中で菊内男爵に呼び止められたが、無視して行ってしまった。

 

 男爵はこちらに近づいてくると、無表情にピアノを奏でる薫を見ていた。

 その目はあきらかに只者ではなかった。少なくとも上流階級で苦労知らずに育った人間の目ではない。

 

 今から捕獲する小動物の動きに耳を澄ませている梟のように、そこに感情はない。

 ただ明確な敵意だけがある。

 

 演奏が終わるなりシンと静まり返った中で、最初に拍手したのは、満面に笑みを浮かべた菊内男爵だった。

 

「素晴らしい! 実に素晴らしい演奏です!!」

 

 元は船乗りであったという太い声が響き渡ると、その場の人々が追随するように拍手した。

 

「香織嬢、素晴らしい演奏を披露していただき感謝します」

 

 菊内男爵はピアノの側まで来ると、薫に頭を下げた。

 

「いえ…そんな。こちらこそ、皆様に喜んで頂けて……これで田舎の母にも自慢できますわ。ありがとうございます」

 

 あわてて薫は恐縮したが、本心だった。

 途中で少し音が流れたところがあったが、気付いたのは惟親くらいだろう。とりあえず無事に演奏が出来たのでホッとしていた。

 

 娘の十八番(おはこ)を奪われたにも関わらず、鷹揚で寛大な態度に人々は菊内男爵を讃えた。

 天元はそこかしこで囁かれる菊内男爵への賛美を聞きながら、腕を組んでニヤリと笑った。

 

 これで却って注目を浴び、賞賛を集めたのは菊内男爵その人であるという訳だ。なかなかどうして、抜け目ない男ではないか。

 

 菊内男爵は再び楽団に演奏するよう命じると、薫に手を差し出した。

 

「老いぼれでございますが、つき合っていただけますかな?」

 

 薫はチラリと天元の方を見た。天元は頷き、

 

「どうぞ。妹にとっても誉れです」

と促す。

 

 一瞬目が合った今この時に、事態が動き出したことを二人は確認する。

 

 菊内男爵は踊りながら、まだ感動さめやらぬといった様子で褒めそやした後、おもむろに尋ねてきた。

 

「香織さん。失礼ながら、ご在所は都会からは遠く離れておいでだ。なかなかピアノの楽譜などを入手するのも難しいのではないですかな?」

「まぁ、よくご存知でいらっしゃいますわね。確かにそのせいでレパートリィは少のぅございます」

「やはりそうでしたか…」

 

 そこで音楽が鳴り止むと、菊内男爵は礼儀正しく辞儀した後、薫に提案した。

 

「でしたら、娘の楽譜を譲りましょう」

「まぁ…そんな。伊都子様に悪いですわ」

「構いません。娘にはまた新たに買ってやります。お古ということに気を悪くされないのであれば…この夜会に来ていただき、素晴らしい演奏をして頂いたお礼です」

 

 それはまったく善意としか言いようのない文句だった。もし、その通りに事が進めば。

 

 薫は少し躊躇した後、おずおずと言った。

 

「本当に…よろしいのでしょうか?」

「もちろんです。後で執事に案内させますので、そちらでお待ち頂いて。あぁ、伊都子も少し驚いてしまって部屋に戻りましたが、きっと貴女(あなた)と話したいことでしょう。よろしければ、貴女一人でいらしていただけますかな? なにぶん、娘は元君のような美男がいては、緊張してうまく話せないようですから。薩見伯爵も他の方々と歓談しておられるようですし」

 

 薫は「ありがとうございます」と頭を下げた。

 

 ―――――動いた。

 

 これで菊内男爵が令嬢失踪事件と何らか関わりがあることはほぼ間違いない。あそこまで薫に一人で来ることを強調するのであれば、尚更。

 

 薫は天元のところへ向かうと、にこやかに言った。

 

「男爵様が私に楽譜を下さるそうですわ、元兄さま」

「ほぉ…それはそれは」

「伊都子様も私と話がしたいそうですが、お兄さまがいたら緊張なさってしまうそうですから、一人で行って参りますわね。伯父様にお伝え下さい」

 

 話している間にも、早速、男爵から言われたのか執事が薫の側にやって来る。

 

「ご案内致します」

 

 薫は頷くと、後について歩き出した。

 天元はヒラヒラと手を振って送り出し、姿が見えなくなってから立ち上がった。

 

「あら? いかがなさいました?」

「少し…用がありまして」

 

 天元は如才ない笑みを浮かべた。

 貴婦人達は小用だろうと察して笑顔で見送る。

 

 広間から出て角を曲がり、人気(ひとけ)がないのを確認すると、天元は廊下にある窓からヒョイと出て屋根へと這い登っていく。

 屋根上でテールコートと白いベストを脱いで、放り出した。

 

 既にネズミ達は天元の日輪刀二本を持ってきている。

 

 天元は月光に照らされた鬱金色の大刀を持ち構えると、ニヤリと笑った。

 

「ネズミ共。準備しておけ。鬼をあぶり出すぞ」

 

 

 

<つづく>

 






次回は来週の更新予定です。



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第六章 狂宴(三)

 薫は応接室に案内された。

 舶来の調度品と思われる豪華なソファやキャビネットがあったが、どこか寒々しい部屋だった。

 なんとなく埃っぽい。もしかすると、普段はあまり使われてはいないのだろうか。

 

 薫は立ち上がって扉に耳をつけた。

 足音がないのを確認してから、こそっと呼びかける。

 

「ネズミ…さん。あの……いらっしゃいますか?」

 

 キキッと声がするなり、ネズミが火の気のない暖炉から飛び出してきた。

 薫の日輪刀を持っている。

 

「ありがとう」

 

 薫は受け取ってから、日輪刀を持ってソファに腰掛けた。

 すぐに取れるように背後に置いておいて、ドレスとショールで隠しておく。

 

 もはや菊内(きくない)男爵による何らかの関与があるのは間違いないが、今ここで仕掛けてくるのかはわからない。失踪した令嬢は皆、帰ってから消えたという話なのだから。

 

 果たして、コツコツと足音が近づいてきたと思ったら、ノックもなしにドアが開いた。

 楽譜を持って、伊都子(いとこ)が現れる。

 チラ、と薫をみやった顔は冷たく、取り付く島もないようだったが、薫が立ち上がった途端にニコリと笑った。

 

「あら、ごめんなさい。わざわざ立たなくてもよろしくてよ。どうぞ、おかけになって」

 

 伊都子は先程までの態度とは打って変わって、ひどく上機嫌であった。

 

「まさか、ピアノをお弾きになられるとは存じ上げませんでしたわ。しかも、とても上手でいらして。私、他にピアノを習っておられるご令嬢方を存じ上げていますけど、皆様、せいぜい趣味程度にしかされないので、お話にもならないんですの。貴女(あなた)でしたら、ここに持ってきた楽譜の価値もおわかりになりますわよね?」

 

 伊都子はそう言って、机の上に何冊かの楽譜を広げた。

 千佳子に習っていた時に使っていたベートーヴェンのソナタを集めたアルバムや、リストやモーツァルト、先程薫が弾いたショパンもある。

 

「まぁ、こんな貴重な楽譜…本当に頂いてよろしいのでしょうか?」

「構いませんことよ。私はすべてマスタしておりますし」

 

 薫は楽譜をパラパラとめくって、途中で一枚のカードを見つけた。

 

「あら…? これは…」

 

 取り出して見れば、それは鍵盤を模したような黒と白のカードだった。

 一瞬だけ伊都子の顔が強張って、すぐに笑った。

 

「あぁ、栞代わりですわ。どこまで練習したかわかりますでしょう?」

 

 伊都子はそう言ったものの、薫はカードを手にした途端、ドクンッと大きく心臓が跳ねた。

 頭の中で勢いよく血液が流れるのがわかる。グルグルと巡る血流が、心臓の音とは別に鼓動を打つ。

 

 急激な体の変調に、薫は気持ち悪くなって口を押さえた。

 伊都子が不思議そうに見ている。

 

「あら? いかがなさいまして?」

「いえ…大丈夫です」

「でもお顔の色が優れませんわ。ここで少しお休みなられるとよろしくてよ」 

 

 伊都子はやけになれなれしく薫の肩に手を置き、ソファへと寝かせた。

 

「申し訳ございません」

「いいえぇ。薩見(さつみ)伯爵には私から知らせておきましょう」 

 

 伊都子はそう言うと、そそくさと立ち去った。

 ドアから出て行く間際の意味深な笑みを見て、薫は確信した。

 

 おそらく明宣(あきのぶ)の妹である八津尾(やつお)薛子(せつこ)は伊都子に殺されたのだ。

 無論、直接的な手を下したのは彼女ではない。

 

 明宣が言っていたではないか。

 

 ――――喧嘩の翌日に薛子が冷静に抗議をすると、彼女も言い過ぎたとすぐに謝ってきて、かえって仲良くなったと申しておりました。

 

 おそらくそれが伊都子の処世術というやつなのだろう。

 そうして相手に胸襟を開いたふうを装って油断させ、襲わせる。

 

 鬼に。

 

 薫は起き上がると、隠してあった日輪刀の短い刀を取り出した。

 鞘から抜くなり、テーブルに置いてあったカードを刺した。

 

 ギャアアアアアァァァ!!!!!!!

 

 カードの中から、耳障りな声が響く。

 途端に窓がビリビリと震えた。

 

 薫は眉を顰めながら、カードをポイと投げると、立ち上がって二つの刀を構えた。

 

 電気がブブッと揺らめき……消える。

 

 同時に。

 

 カードの中から暗い靄が立ち昇り、ヌウッと人影らしきものが現れた。

 窓からのほのかな月明かりが、その姿を闇の中に照らし出す。

 

 目の前に現れたその()に、薫は停止した。

 思考も、体も。

 

「……嘘」

 

 思わずつぶやく。

 

 ()の右目から血が流れていた。

 手で押さえながら、ギロリと薫を睨みつける。

 

 ガシャーン!

 

 派手に窓が割れると同時に天元に怒鳴られた。

 

「何してやがる!? とっとと()れよ!」

 

 我に返って刀を構えると、()はいきなり逃げ出した。

 ドアを開けて、一目散に逃げていく。

 

「待っ……」

 

 待って、という前に天元が追いかける。

 薫はあわててついていった。

 

 長い廊下はなぜかうっすらとした暗さに包まれていた。誰かのいる気配もない。

 広間から聞こえていたざわめきも聞こえない。

 さっき執事に連れられて通った廊下と同じであるはずなのに、なぜかまったく違う場所であるかのように思える。

 

 廊下の灯りはすべて消えていた。

 だが、なぜか()の姿だけがくっきりと見える。

 それに、妙に甘い匂いがしてくる。懐かしい匂い。これは……。

 

 困惑する薫の目の前で、天元がクナイを()に投げつけようとしていた。

 

「駄目です!」

 

 薫は叫んで、クナイを持つ天元の手を掴む。

 天元はチッと舌打ちした。

 

 そうする間に()は突き当りの部屋へと入った。

 目の前でドアがバタンと閉まると、天元は立ち止まった。

 クルリと向き直った顔は冷たい。

 

「どういうつもりだ?」

「……すみません」

 

 素直に頭を下げる薫に、ハァと天元は溜息をついた。

 

「まぁ、いい。鬼にしては妙な気配だったし…とりあえず、ここに入ったら今度は邪魔するなよ」

 

 しっかりと釘をさしてから、天元はドアノブに手をかける。

 警戒しながらそうっと開けたが、反撃はなかった。

 中を窺うと、ここも月明かりだけが窓から差し込んで、仄暗くガランとしている。

 

「チッ! 逃げたか…」

 

 天元はズカズカと中に入っていって見回したが、()の姿はどこにもなかった。

 

 薫も入って…気付く。

 

 壁にかけられた絵。そこに伝う血。

 

 ドクン、ドクンと再び心臓が大きく拍動し始めた。

 

 かすかに漂う…そう、これは……ヘリオトロープの香り。

 

「…………まさか」

 

 ゆっくりと絵の前に立って見つめる。

 

 雨に濡れた薔薇園を描いた絵だった。

 手前には深紅の薔薇が幾重にも、争うかの如く美しく咲き誇っている。

 奥には雨に霞んだ東屋。

 もっと奥には雲間から差す光。

 もうすぐ雨が上がる…その一場面を切り取った繊細な絵。

 

 薫はこの絵に覚えがあった。

 いつも六月になると、ピアノの部屋に飾ってあった。千佳子のお気に入りの絵のうちの一枚だ。

 

 そっと、その絵に触れると、さっきカードに触れた時と同じような嘔吐感に襲われる。

 

「なんだ?」

 

 天元は具合の悪そうな薫を訝しんだ。

 

「音柱様…」

 

 薫は絵から手を離すと、深呼吸してから言った。

 

「おそらく…鬼の本体はここにはおりません。さっきの…()は、この絵から本体のいる場所に戻ったのだと思います」

 

 天元は眉を寄せて絵を見つめた。

 触れてみても変異はわからなかったが、額縁からポタポタと血が床に落ちているのを見て、おおよその見当はついたようだった。

 

「血鬼術か…七面倒臭ぇな」

 

 言うなり持っていた大刀で、バッサリ絵を切った。

 薫は無残な状態になってしまった絵を無言で見つめた。辛うじて隅に残っていたサインを確認して、暗い気持ちで覚悟する。

 

「行きましょう。もうここには用はありません」

「お前、鬼の棲処がわかってるのか?」

「……はい」

 

 薫は頷いた。

 

「おそらくは……かつての明見公爵邸です」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 天元と薫はそのまま馬車に乗り込み、少し遅れて惟親(これちか)がやって来た。

 

「ガラスの割れた音がしたので、少々騒然とはなりましたが、菊内男爵がうまく言って事なきを得たようですよ。私は騒ぎに紛れて出てきましたが…収穫はあったようですね」

 

 薫は暗い顔だった。

 さっき浮かんだ答えは正解なのだろうか。できれば誤りであってほしい。

 

 天元は腕を組んで、フンと鼻を鳴らす。

 

「さっきからこんな調子だよ。何を見たんだか知らねぇが…」

「どうしたんですか、薫さん」

「伯爵。明見(あけみ)侯爵邸は伯爵のお屋敷の先ですよね?」

 

 惟親は当惑して薫を見つめながら、頷いた。

 

「そう…ですが。どうして明見侯爵邸のことを?」

「そこに鬼がいる可能性が高いからです」

「まさか!」

 

 惟親は思わず大声になった。

 

「確かに火事の後には廃墟のようになっていますが、鬼がいるという話は聞いたことがないですよ。あの辺りで人が襲われたり、行方不明者がいたりすることもありませんし。まぁ、鬱蒼として不気味なので、お化け屋敷のように言われて肝試しに入る酔狂な人間がたまにいますが、そうした人間も普通に戻ってきていますし…」

 

「あの周辺の人を襲う必要はありません。鬼は…絵さえあれば、その絵の飾ってある家に直接行けるのだと思います。おそらく絵と鬼の間に血鬼術によって()が出来ているのでしょう」

 

「絵?」

「あの部屋にも絵があったな。ってことは、鬼は絵を描いた当人ってことか?」

 

 天元はすぐに察したようだった。

 問いかけられて、薫は陰鬱な顔で頷く。

 

「絵…? それに明見……」

 

 惟親はすっかり困惑した様子でつぶやきながら、自ら答えを導くと、「まさか…」と信じられないように薫を見つめる。

 

「別室で伊都子嬢から楽譜を渡された中に、一枚のカードがありました。黒と白の…まるでピアノの鍵盤のような……」

「千佳子様が…鬼になったと仰言(おっしゃ)るのですか…?」

 

 惟親が呆然として言うと、天元は眉を寄せた。

 

「ちかこぉ? なんだ、男じゃねぇのか?」

 

 薫は天元の素っ頓狂な物言いに、キョトンとなった。

 

「は? 男?」

「だって、お前…あの訳のわからん黒い人形を男だと思ってたんだろ?」

「黒い人形?」

「そうだよ。お前、あの黒人形のこと『彼』とか言ってたろうが。俺はあれは鬼の分身か何かかと思ったんだ。で、お前の話からして、どうやら知り合いっぽいから、咄嗟に俺の邪魔をしやがったのかと…」

 

 薫はまじまじと天元を見つめた。

 天元はそういえば柱であるのだ。だとすれば新たな柱となった()と会ったことはあるはずだ。

 

「音柱様には、その…黒い人形(・・・・)は知り合いには見えませんでしたか?」

「知り合いィ? 誰だっつーんだ、それ」

「…………」

 

 薫は明宣から聞いた薛子の話を思い出していた。

 

 ――――聞き間違いかもしれませんが、私を呼んでいたのです。『おにいさま』と言っていたように…聞こえました。

 

 あの時、薛子もまた、伊都子の渡したカードから現れた黒い人形に、勝手に投影したのだろうか。

 自分の望む…最も愛しい人の姿を。

 

 思えば菊内邸で()を追いかけている時も、周囲と隔絶されたかのようなおかしな感じだった。

 おそらくあの時既に、血鬼術の隧道(トンネル)のようなものが出来上がっていたのだろう。

 薛子が『おにいさま』を追っていた時も同じように、あの踊り場の絵まで音もなく運ばれた(・・・・)……?

 

 薫は推理しながらどんどん落ち込んでいった。

 こんな血鬼術を操るような鬼であるなら、どれだけ人を喰ったのだろうか。

 生前の姿からは考えられない。

 

 頭痛がしてきて頭を押さえると、昔、カナエに問われた言葉が甦ってくる。

 

 ―――――もし、あなたの知っている人が鬼となってしまったら、どうする?

 

 あぁ……。

 

 薫は奥歯を噛み締めた。

 どうしてよりによって今、思い出すのだろうか。

 

 天元は隣で深刻な顔をする薫を見て、はぁと大仰に溜息をついた。

 

「で? どうやら鬼が知り合いだったみたいだが、どうしたいんだ? お前は」

「それは…」

 

 薫は額から手を下ろしながら、その問いに答える。

 まるで用意されていたかのように。

 

「鬼になったのなら、滅殺するまでです」

 

 そう。あの時だって、カナエに言ったではないか。

 

 ――――鬼となれば、容赦はしません

 

 天元は無表情に薫を見つめた。

 前に惟親から聞いた森野辺薫評が思い浮かぶ。

 

 真面目で頑固で責任感が強い。

 こういう人間が得てして、最も厄介なのだ。

 行動動機に善意と正義しかないから。

 多少なりと利己的であった方がまだマシだ。

 

 髪を掻き上げて纏めながら、天元はフッと笑う。

 

「まぁ、これでやめるくらいなら、最初に言った必ず(・・)絶対に(・・・)遂行する(・・・・)って言葉も御破算ってことだし、鬼殺隊なんぞとっとと辞めた方がいいわな」

「辞めません!」

「返事だきゃいいな。ま、今度は邪魔すんなよ。誰の幻影を見たか知らねぇが、簡単に持っていかれてんじゃねぇよ」

 

 言われた途端に、薫は真っ赤になって俯いた。

 天元はキョトンとなった後にニヤリと笑った。

 

「なんだ…そういうことか。ま、男も女もサカる年頃だもんな」

「さっ…さか……」

 

 身も蓋もない言い方に薫は絶句したが、向かいに座っていた惟親はムッとして叫んだ。

 

「何を言っておいでですか! そんなことは許しませんよ!」

「なんでアンタがそんなに怒るんだよ。まったく…しばらく一緒に暮らして、すっかり娘みたいになってんな」

 

 天元が悪戯っぽい目で言うと、惟親は軽い咳払いの後、目線を逸らした。

 どうやら、わざとからかわれたようだ。

 お陰で暗く重苦しい雰囲気がすっかり消え、ようやく気分が落ち着いた。

 

「では、とりあえず隊服に着替えた後に明見邸に向かうということでよろしいでしょうか?」

「そういうことだな。それにしても…奇妙だな。うまくいきすぎているというか…伯爵」

「はい?」

「やっぱりあの菊内とかいう親爺は曲者だぞ。調べた方がいいな」

 

 天元の言葉を聞いて、ついこの間似たようなことを言われたのを薫は思い出した。

 

「そういえば、宝耳(ほうじ)さんも…同じようなことを言ってました」

「あいつが…?」

 

 惟親にとって宝耳は天敵の類らしい。一気に顰め面になる。

 

「なにか言っていたんですか?」

「菊内男爵には気をつけた方がいい…って。もしかすると…鬼殺隊のことも勘付いている可能性がある…って」

「なんですって!?」

 

 惟親は気色ばんだ。ギリギリと歯噛みすらする。

 

「またあの男は…勝手に……」

「まぁ、そう怒りなさんなよ、伯爵。ヤツが調べてんなら、ちょうど良かったじゃねぇか」

 

 天元は大したことでもないようにヒラヒラと手を振る。

 

「とにかく、そっちについちゃ任せるぜ。俺たちゃこれから鬼を狩るだけなんでね」  

 

 まるで弁当を持って花見にでも行くかのような軽い調子で天元が言うと、薫は今更ながら彼が柱であることに納得してしまった。

 この根拠のない安心感を与えられるのは、歴戦を生き延びた鬼殺隊士の頂点である柱しかいないだろう。

 

 

 

<つづく>

 





次回は来週更新予定です。



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第六章 狂宴(四)

 かつては白い漆喰と、海外からわざわざ取り寄せたという煉瓦で装飾された壁は、もはや黒く煤けたまま、何年も放り出されて無残に朽ちていた。

 どこからか伸びた蔦が廃墟となった館の半分近くを覆っている。

 

 鎖で施錠された門を軽く飛び越えて邸内に入ると、すぐに薔薇の香りが漂ってくる。

 かつて丹精に栽培されていた薔薇園。

 あの時、菊内邸にあった絵に描かれていた絢爛たる薔薇園も、今は誰に手入れされることもなく、荒れ放題だった。

 それでも花は関係なく季節を感じて咲いている。

 

「どうだ? 懐かしいか?」

 

 辺りを見回しながら進む薫に、天元が問うてくる。

 

 明見邸に来るまでの道すがら、薫は天元に千佳子のことを話した。

 千佳子が元は薫のピアノの先生であったこと、社交界で比類なき美しい女性であったこと、(ライ)病となって夫に捨てられるように離縁されたこと。

 

「人を恨んで鬼になるには十分な理由だな」

 

 すべてを聞いた後に天元が言ったのはそれだけだった。同情はない。

 

 薫は落ちた薔薇を見ながら口を開きかけたが、その時、館の本玄関の大きな扉がギィィと開く。

 すぐさま天元と薫は構えたが、そこから現れたのは小さな老婆であった。

 

「………キク…さん?」

 

 薫がつぶやくように問いかけると、老婆は返事をせずに深々と頭を下げる。

 

「ようこそお出でくださりました…お嬢様がお待ちでございます」

 

 天元は眉を寄せると、薫に尋ねた。

 

「なんだよ、この小っさい婆さん」

「この人は千佳子様の婆やさんです。昔は時々会ってましたけど…」

 

 言いながら薫はチラとキクを窺う。白い顔に表情はない。

 昔はいつも薫に対して厳しい目線を向けていたが、今は何も思ってないかのように佇んでいるだけだ。

 なんとなく吹けば飛ぶかのような希薄な印象だった。

 

「どうぞこちらへ…」

 

 否とも応とも言う前にキクは館の中へと歩き出す。

 怪しいことこの上ないが、いずれにしろ館には入らねばならない。そうして千佳子にも対峙する必要がある。向こうが招いているのであれば、断る理由はない。

 天元と薫は目配せして、キクの後について入っていった。

 

 中も相当な荒れようだった。

 壊れた壁から這ってきた蔦が中にまで伸びている。

 かつては豪奢なペルシャ絨毯が敷かれていた床には、黒焦げになったそれがわずかに残っていたが、その上は獣が踏み荒らし、糞があちこちに落ちていた。

 

 キクがしずしずと歩いていく。

 暗い廊下を、朽ちて落ちそうな階段を、不気味に鳴り響く柱時計の広間を通って、再び長く暗い廊下を。

 

 どこからか微かにピアノの音が聞こえてきた。

 考えるともなしにその曲名が浮かぶ。

 ドビュッシーの『月の光』。

 まさにこの廃墟の崩れた屋根や壁の間から差し込む、月の深閑とした光に重なる。

 

 薫はだんだんとボンヤリしてきた。

 

 一体、いつまで歩かねばならないのだろう?

 こんなに広いお屋敷だったろうか?

 

 長く暗い廊下がどこまでも続く。

 かすかなヘリオトロープの香りに、どこかに誘われているようだ…と思った瞬間、薫はハッと我に返った。

 

「こちらへ」

 

 キクが扉を開けた途端に、自分が既に血鬼術に入っていたことに気付いた。

 背後にいたはずの天元の姿もない。

 扉を開けたキクの姿もなく、扉すら存在しない。

 もはや後戻りは不可能だった。

 

 そこに広がる景色は、夜の森の中だった。

 ホゥホゥと梟が啼く声がする。

 月明りに木立の影が重なる森。

 

 薫は足を踏み出しかけて、ピタリと止まった。

 草や落ち葉に紛れてマキビシが撒かれている。油断なく辺りの気配を探ると、神経がピリピリと逆立った。

 

 背後からヒュッと何かが迫る音がして、薫は反射的にしゃがみ込んだ。

 目の前の幹に手裏剣が三本刺さったのを確認してすぐに跳躍する。

 ガサガサと熊笹が不自然に動いたかと思いきや、人影が飛び出してくる。

 閃く刃を見て、薫はすぐに日輪刀を抜いた。

 

 キイィンッ!

 

 金属の交わる音が響く。

 すぐに飛び退って、薫は相手を素早く観察した。

 

 闇に溶け込むような黒装束に覆面をしている。顔を見せたくないのだろうか。身のこなしも流麗で一切無駄がない。よく精錬され研磨された一振りの刀そのもののようだ。

 

 だが、ここは確かに明見邸の中であるはずなのだ。であれば、目の前のこの忍者のような格好の者も―――と考えて、思考は止まる。

 

 忍者…と言って思い浮かぶのは、いつの間にか姿を消した宇髄天元である。

 ここに彼もいるのだろうか。

 だがのんびり考える暇もなく、黒装束の人間は薫に向かってくる。

 

 振りかざされた刃を払い、横へと飛び退る。

 するとまた背後から殺気。

 薫は二つの刀で二方向から襲いかかってくる刃を受け止めた。

 

 擦れ合う刃の音に混じって、ピアノの音が聞こえてくる。この状況に不似合いな流麗で軽やかな調べの曲が、集中を削ぐ……。

 

 薫はギリと歯噛みすると、一人を蹴りつけて、自由になった刀でもう一人の黒装束を斬りつけた。ハラリと覆面が落ちて現れた顔を見た途端に、思わず声が出た。

 

まきを(・・・)さん?!」

 

 天元の妻の一人、まきを(・・・)が薫を睨みつけていた。

 額から血がタラリと流れている。薫がさっき斬った傷だろう。これがまきを(・・・)であるなら、もう一人は……

 薫に腹を蹴られて吹っ飛ばされた一人は、ゆっくりと起き上がると、自ら覆面を()いだ。

 

 雛鶴だった。

 

 眩しいほどの満月の月明かりの下で、薄笑いを浮かべている。

 その姿を見て、薫は確信した。

 これは幻術だ。血鬼術によって作り出された幻影に違いない。

 薫の知る雛鶴もまきを(・・・)も、こんな狡猾な笑い方をするような人ではないのだから。

 

 だが、どうして彼女達の姿に見える(・・・・・・・・・)のだろう?

 鬼が彼女達を知るはずもない。

 

 そういえば菊内邸でカードから現れた()を、天元は『黒い人形』だと言っていた。

 薛子(せつこ)はおそらく明宣の姿を追って消えた。

 

 鬼が対象者の思考を反映させて、幻影を作り出し錯乱させているのだとしたら、彼女達が今、薫の前に現れる意味はなんだろうか。それほどまでに自分は彼女達に心を開いていたとも思えない。そもそも今日を含めても二回しか会ってないのだから。

 むしろ彼女達の幻影を見て混乱するとすれば、天元の方であるはずだ。……

 

 考えながら二人からの攻撃を躱し続けるのは難しかった。

 幻影とはいえ、斬りつけられれば服が裂けるし、爆竹のようなものを投げられれば火傷も負う。

 彼女らを傷つけるのは正直いい気分ではなかったが、この膠着状態を続けていられる余裕もそろそろない。

 彼女らを倒すことで、何らかの突破口にはなるはずだ。 

 

 肚を据えると、スゥゥと息を吸い、細く長く吐く。

 

 鳥の呼吸 肆ノ型・改 双環(そうかん)狭扼(きょうやく)

 

 刀を素早く振り回すと、二つの円環が二人に向かっていき、そのまま首を絞めるように断ち斬る。

 断末魔の叫びと共に、二人は倒れた。

 違和感を感じたのは、消えなかったことだ。鬼の分身であれば、首を落とせば塵となって消えていくのが定石なのに。

 薫は雛鶴の真似をしていた一体の首にそっと手を伸ばした。

 

「やめろ!」

 

 いきなり背後から怒鳴られ、ビクリと震えて薫はすぐさま振り返った。反射的に構えたが、誰がそこにいるのかはわかっていた。

 

「音柱様…」

 

 薫がホッとして声をかけると、天元は呆然と凝視する。

 彼もまた、幻影であった須磨を斬ったのだろうか。腕に彼女を抱えていた。既に息絶えたのか目は閉じ、口の端には血が流れた跡がある。

 

 薫は近寄りかけてふと立ち止まった。目の前にいる天元が幻影でないという確証はない。

 逡巡してその場に立ち止まったまま、薫は注意深く天元の様子をうかがった。

 

「お前……」

 

 天元は静かに薫を見つめていた。

 だが、その目には何の感情も見えない。それなのに胸が苦しくなるような痛みを感じる。涙が(こご)って、凍りついて、そのまま硝子のようになってしまった目だ。

 

また(・・)……殺すのか?」

 

 天元が抑揚のない声で問いかけてくる。

 

 薫は困惑した。『また』?

 

「俺と戦うために…嫁を殺したのか?」

 

 須磨をそっと地面におろしながら、尋ねてくる。

 

 静かな威圧感に薫は後ずさった。

 さっきから一体、何を言っているのだろう?

 

「あの時、見逃したのは…俺を絶望させるためか?」

 

 天元はギロリと薫を睨みつけると、声を震わせた。

 怒っているはずなのに、痛々しく悲しげだった。

 一体、彼は何を見ているのだろう。

 

「そうやって俺の『弱味』を消して、俺を引きずり込む気か!? そんなに俺を殺して…『完璧』とやらになりたいのかよ!!?」

 

 激昂して天元が薫に向かってくる。

 どうにか最初の一太刀をギリギリで躱すと、大きく飛び退って間合いをとった。すぐに刀を構える。

 

 どうやら幻影ではないような気がするものの、天元の様子は明らかにおかしい。薫を誰かと勘違いし、その誰かと戦う気でいる。あるいは幻影に取り憑かれているのかもしれない。

 この状況を作り出した鬼の思惑としては、相討ちを狙っているのだろう。

 

 薫はギリっと奥歯を噛み締めた。

 さっきから苛立たしかった。この張り詰めた空気の中で、流れてくるピアノの音も、濃密なヘリオトロープの香りも。

 

「音柱様! しっかりなさって下さい!!」

 

 薫が叫ぶと、天元は目を見開いた。

 その顔に困惑と、絶望が浮かぶ。

 

「……お前…」

 

 ささやくような小さな呼び声。

 

「鬼に……なっちまったのか……」

 

 憤怒と悲哀の入り混じった顔で見つめてくる。

 だが、次の瞬間には表情を失くした。

 鬱金色の日輪刀を交差して掲げ持つと、天元は冷たく言い放つ。

 

「鬼に…容赦はしねぇ」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 月光に満たされた部屋の中には、一枚の白いキャンバスがあった。

 そこには明見邸に入ってきた二人の鬼殺隊士が絵として描かれながら、動いている。無残な薔薇園の姿を見て、思うところがあるようだ。

 彼らの横に、両頬に薔薇の紋様が刻まれた女の顔が現れる。

 

 かつての明見侯爵夫人。今や鬼となった千禍蠱(ちかこ)は艶然と微笑んだ。

 

「まぁ…こんなふうに会えるなんて、嬉しいこと。――――婆や」

 

 ずっと自分に付き従っている婆やを呼びつける。

 キクは足音もなく寄って、しずかに側に立った。

 

薫子(ゆきこ)さんがいらっしゃるのよ。ちゃんと準備をしないとね」

 

 浮き立って言う千禍蠱に、キクはかさついた声で返事する。

 

(すぐる)様の御子でいらっしゃる……」

 

 千禍蠱は一瞬、無表情に黙り込んだ。だが、すぐにクスクスと笑う。

 

「えぇ、そうよ。帰ってきてくれたの。(わらわ)の元に。あの女ではない。妾のところに。………ねぇ、薫子さん」

 

 言いながら千禍蠱は軽やかに白いグランドピアノを奏で始める。

 

「お出迎えして頂戴」

 

 命を受けて、キクは姿を消した。

 

 ドビュッシーの『月の光』。

 ピアニッシモで始まる静寂の曲。

 揺らめき煌めく音。

 

 陶然と弾くと、その音は一つ一つ、彼らの中に入っていく。

 彼らの感情の(ひだ)の中に、分け入っていく。

 

 ゆっくりと…気づかれぬよう…ささやかに。

 

 細胞のすべてに浸潤していく。

 

 ひそやかに、緩やかに。

 

 千禍蠱は少しだけ眉を上げた。

 薫は自分がいることを知っているせいか、警戒が強い。少し、手間取りそうだ。

 

「………かわいい薫子さんは後にしましょうか。邪魔をされても嫌ですしね」

 

 独りつぶやいて、千禍蠱はもう一人やって来た男の記憶を(ほど)いていく。

 

 最初は興味もなかった顔が、ゆっくりと愉悦していく。

 クックッと喉で笑った。

 

「まぁ…これはこれは。面白いこと。さすが下賤の者は…醜い」

 

 千禍蠱は恍惚となって、鍵盤を踊らせる。

 背後にある画布には見る間に鄙びた田舎の景色が浮かび上がっていく。

 

「さぁ…懐かしい故郷に……お帰りなさい」

 

 千禍蠱はうっとりと微笑んだ。

 

 

 

<つづく>

 





次回は来週更新予定です。



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第六章 狂宴(五)

 天元はずっと眉間に皺を寄せていた。

 

 どうやら厄介な鬼であるらしいのは、菊内邸で幻影らしきものを見せられた時からわかっていた。しかも鬼のいるらしい屋敷の中に入って、老婆に出迎えまでされて、奇妙なことこの上ない。

 とっとと屋敷ごと壊して鬼を殺せれば問題ないが、こんな手の込んだ血鬼術を使う鬼が、必ずここにいて、物理的な衝撃によって殺られるとは思えなかった。

 

 幽霊かのように足音のない老婆の後を薫がついていく。

 その後ろから天元はついていった。

 

 さっきからピアノの音らしきものが聞こえてくるのが、地味に鬱陶しい。

 音がまるで煙か何かのように纏わりついてくる。煙なら払いのけられるのに、音というのが厄介だ。

 

 しかも時々明らかに流れを途絶させるような音が入り混じって聞こえてくる。

 それはひどく高い音であったり、ひどく低い音であったりして一定ではないが、流れる旋律の中に点々とシミをつくっている。

 この奏者の腕前からして、それがわざとであるのは明白だ。

 

 苛々して、一瞬気が逸れたせいだろうか。

 気付くと先を歩いていた薫の姿を見失っていた。

 

「チッ!」

 

 派手に舌打ちして、天元は走ったが、突き当りはドアがあるだけだった。

 

 明らかに怪しい。盛大に怪しい。怪しさしかない。

 

 しかし後ろにはただこれまで歩いてきた長い廊下が続いているだけだ。鬼がここに自分を呼び寄せているなら、乗ってやるしかないだろう。

 

 バキィッ!

 

 思い切りドアを蹴破って入ると、そこは十畳ほどの部屋だった。

 中には例のピアノとかいう黒いデカい楽器が置いてあるだけ。蓋は閉じられ、誰かが弾いていた形跡はない。

 後は…蔦の絡まる窓から差し込む月の光に照らされて、絵が架けてあった。

 

 小さな山村の風景だ。

 藁葺き屋根と山の斜面に沿って段々に作られた耕作地。

 年老いた使役牛がぐっすりと寝ているそばには、子供が忘れていった風車がカラカラ回っている。

 午後の柔らかな光が差している村の西北には鬱蒼とした昼なお暗い森。……

 

「………」

 

 自分がそこ(・・)に立っていることに違和感を感じたのは一瞬だった。

 

 乾いた風が吹き、土埃が舞い上がる。

 風車がカラカラ回る。

 寝ていた牛が欠伸して、鼻先にとまっていた蝶が飛んでゆく。

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 それなのに、なぜか足元が覚束ない。

 

 だが、背後から名前を呼ばれると、その奇妙な感覚は霧散した。

 

「元兄ィ、嫁が決まったみたいだね」

 

 声をかけてきたのは、三つ下の妹の天花(てんか)だった。

 自分も含め弟妹達の名前には全て『天』の字がつくので、各々を呼ぶ時にはたいがい天の下の一字で呼び合うことが多い。

 

「あぁ…」

「須磨ってば長老に泣きついて、明石(あかし)から自分にしてもらったらしいよ。まぁ、明石は(しょう)兄ィの方が好きだったみたいだから、いいのかもしれないけど」

「……ふぅん」

 

 適当に返事しながら、ふと明石の事を思い浮かべる。

 

 姉の須磨が、わりと賑やかな性格であったせいか、妹の明石は大人しい物言わぬ娘だった。

 天元のすぐ下の弟である天尚(てんしょう)もまた、寡黙な性格であるのに、どうやって会話するのだろうか。

 

 弟の顔を思い浮かべると、チリチリと胸が痛痒くなる。

 天元にとって二歳年下の弟は、物心ついた自分の最初の記憶に直結している。

 

 天元がまだ言葉も十分に話せない幼子であった頃、弟が生まれた。

 小さくてフニャフニャ泣いている赤ん坊が、天元にはただただ不思議だった。

 

 じぃと見ていると、赤ん坊の方もじぃと見てくる。

 なんとなくその目の前で手を振ると、赤ん坊はまだ短い腕を必死に伸ばして、もみじよりも小さい手で天元の指を掴んだ。天元が指を抜こうとしても、ギュッと握って離さない。

 困っていると、赤ん坊は笑った。パッとその場が明るくなるような笑顔だった。

 

 それが、天元にとって初めての記憶。

 

 そう…元々、弟は……天尚は、よく笑う、誰からも愛される子供だった。

 

 大きくなり、下に弟妹達の面倒を天元と一緒に見るようになると、適当で大雑把だった天元に比べ、穏やかで優しく、よく気がつく弟は皆から好かれた。

 しかも忍びの訓練においても、優れた才能を示した。体格の優位性がなければ、天元は天尚に敵うところなどなかったろう。

 

 普段から怠惰でサボりがちの天元に比べ、真面目な天尚が才能に磨きをかければ、あっという間に兄を越すことなど目に見えている。十歳になる頃には、この一族の長になるのは弟であるだろうと思っていたし、それでいいと納得していた。

 天元にとって一族の長など重荷でしかなかった。

 

 幼い頃からの過酷な訓練。

 長ずるに従って天元の疑問は膨らんでいった。

 

 四歳だった妹が木の間に渡された綱から落ち、首の骨を折って死んだ時に、それは明らかな違和感となった。

 墓をつくって花を手向けて泣く弟妹達を見ながら、天元は泣くこともできなかった。

 

「おかしいと思わないか?」

 

 天元が言うと、天尚は眉を顰めた。

 

「元兄ィ。父上にも考えがおありなんだよ…」

 

 父は不真面目でふざけたことばかり言っている天元よりも、天尚をかっていたのだろう。

 

 子供達は厳然と格付けされていた。

 訓練において特に優秀とみなされた三名だけが、父と共に食事することを許された。

 そこにいつも入っていたのは天尚で、天元は月に一度あるかないか程度だった。

 正直なところ、父と一緒に食べてもまったく食べた気にならないので、天元としては選ばれなくて有難いくらいだったが。

 

 その後も弟妹達は亡くなっていった。

 一人は常用していた毒に耐えきれずに、もう一人は修行中に溺死して。

 弟妹達が死ぬたびに、皆から少しずつ笑顔が消えていった。天元からも、天尚からも。

 ずっと天元達を世話してきた(じぃ)が、いつものように皆に渡すはずの毒を()()()()()んで死んでしまった時に、天尚は硬直した顔で言った。

 

「『弱味』をつくっちゃ駄目なんだよ…。誰も、誰のことも……」

 

 天尚がその先に何を言おうとしていたのかは、わからない。

 だが、この時から天尚は一切の表情をなくした。怒りも悲しみも、喜びも。弟妹達の面倒を見ることもなくなり、天元と言葉を交わすこともほとんどなくなった。

 

 弟はどんどん父に似ていった。

 人を人とも思わない。無機質で凍りついた思考。

 

 もうずっと弟の笑顔を見ていない。

 幼い頃の初めての記憶は(おぼ)ろで、それが確かにあったのかすら…わからない。

 

 

 

 

 キィィィ!!!!

 

 鋭い鳥の啼き声に、天元は我に返った。

 どうもボンヤリしていたようだ。

 今は気を抜いている暇などないのに。

 

 天元達の棲処(すみか)は人里から遠く離れた集落ではあったが、時に探り当てられることもある。

 その日、天元は珍しく父に呼ばれ、直々に命を受けた。

 

「敵が山に紛れ込んだようだ。()()()()()片付けてこい…()()()な」

 

 相変わらずの鉄面皮は、もはや人形のようだった。

 敵が何人いるかは知らないが、こんな命令を下すからには一人や二人ではないのだろう。

 いよいよ(ふるい)にかけられるわけだ…と、天元は皮肉な笑みを浮かべて受諾した。

 

 敵は必ず西北の山から入ってくる。

 昼なお暗い山は、夜となれば月の光も鬱蒼とした枝葉に遮られ、一層混沌とした闇の中だった。

 

 かすかに聞こえてくる梟の声。

 風に揺れる葉のざわめき。

 小川のせせらぎ。

 自然の音の中で、少しでも異質な音がすれば、すぐさま体が反応する。

 

 才能のある弟妹達の中で、天元が唯一、誰より優れていたのは聴力だった。

 常人、それも忍びとしての訓練を積んだ者ですら聞き分けられない微妙な音を、瞬時に認識して行動する。闇における仕事では優位となる素養だった。

 だが、その長所が仇となることもある……。

 

 斜め後ろからの足音に気付くやいなや、天元は跳躍した。

 その足音の主の背後に着地すると、すぐに首をかっ切る。

 ドサリと崩れ落ちたのをチラと確認だけして、再び歩き出す。

 

 やがて、小さな滝のある場所に出た。枝葉の空間から月の光が差し込んでいる。

 その横にある獣道をオドオドと歩いている小さな人影。

 

 天元はフッと笑った。

 初任務か何かなのだろうか。随分と警戒のないことだ。

 

「おい」

 

 声をかけて振り向いた瞬間に斬りつける。

 

 覆面がとれ、その顔に天元は固まった。

 足元に倒れたその女は、震える手を懸命に伸ばして天元の足首を掴む。

 

「…うわっ」

 

 天元は情けない声を上げて尻もちをついた。

 額から血を流した女――――妹の天花は、苦しそうに顔を歪めていた。

 

「元兄ぃ…これは……父上の…試練……だ…よ…」

 

 その言葉を反芻しながら、脳裏に父の姿が浮かぶ。

 天元を呼んで、山に入って敵を掃討しろ…と命じた時、うっすらと笑っていた父。

 

 狂っている。―――――

 

 天元は思った。

 

 いや、もうずっと前から気付いていた。

 ただ、どうすればいいのかわからなかっただけ。

 

 小さい頃からここで暮らし、ここで修行し、弟妹達が死んでいっても、自分が何をすべきなのかわからなかった。

 

 考えようともしなかった。

 考えても無駄だと諦めていた。

 

 いつか自分もまた死んでいった弟妹達と同じ運命になるだろうと思って、それでもいいと投げ捨てていた。

 

 その傲慢で卑屈な思い込みのツケが、今、目の前で倒れている。

 

(はな)ッ!!」

 

 天元が抱えた時には、天花の瞳は既に生気を失っていた。

 赤く濡れた眼球を閉ざすと、頬を伝った涙の痕に気付く。

 

 天元は絶叫した。

 

 敵などいないのだ、最初から。

 ここにいたのは弟妹達だけだ。

 おそらく最初に首を掻っ切った()も、弟妹の一人なのだ。

 

 自分が殺した……二人も。

 

 何かを引きずってくる音がして、天元は泣きながら振り返った。

 

 天尚だった。

 

 両手に二人の遺体を引きずっている。

 覆面は引き剥がされており、既にこれがどういうことなのかはわかっているようだ。

 

 それでも天尚の表情は揺らがなかった。

 泣きぬれている天元と見つめ合った後に、無造作に弟妹の遺体を投げ捨てた。

 

 天元は地面に転がった二人を凝視し、かすれた声でつぶやく。

 

「……お前…なんで……」

「言ったろ?」

 

 天尚はあくまでも冷静で、恐ろしいほどに無機質だった。

 

「『弱味』をつくってはいけない…」

「弱味…?」

「『完璧』になるために」

「完…璧?」

 

 意味がわからなかった。

 弱味があれば完璧でないから、弱味を消す?

 

 それなら…弱味って、何だ?

 完璧って…何だ?

 

 天尚が刀を抜く。

 まっすぐに構えて天元を見据える。

 

「尚……」

 

 呆然とつぶやきながら、天元はようやく気付いた。

 

 自分がどうして今も生きているのか?

 弟妹達の中で、ただ年長というだけで、特に才能があったわけじゃない。

 

 自分よりも足が速いのも、体術に長けていたのも、爆薬を作るのが上手なのも、毒の耐性が強いのも、弟妹達はいつも天元より優秀だった。

 自分はただ先に生まれただけの、普通の人間だった。

 じゃあ、そんな人間が何の為に生かされていた?

 

 ―――――殺されるためだ。

 

 弟妹達の中で、最も優秀な者によって殺されるためだ。

 そうして、殺した人間の心を破壊するためだ。

 完膚なきまでに人としての情を消し去るための…自分は『駒』なのだ。

 

「尚……駄目だ…」

 

 今、ここで天尚に殺されれば、この男はもう人間でなくなるだろう…。

 

 天元は立ち上がると、静かに告げた。

 

「天尚…俺は抜ける」

 

 ビクリと天尚が震える。

 

 顔は相変わらず無表情だった。

 何の感情も映さない瞳。

 

「嫁と…この里を出る」

「………逃げるのか?」

「そうだ」

 

 答えながら震えそうになる。

 

 本当は伝えたかった。

 あまりにも真面目で一途で誠実な弟。

 父にとっての『完璧』になるために、今、天尚が殺そうとしているのは天元ではない。

 お前自身なのだ、と。

 

 だが、もう弟の心は遠い。

 天元の涙も、叫びも届かない。

 

「…抜け忍を許すと思うのか?」

 

 なんの感情もない冷たい声。

 

「許すしかない。お前は」

 

 天元は断定した。

 涙に濡れた瞳で天尚を睨みつける。噛んだ唇が震えた。

 

 天尚は何も言わなかった。

 背を向けて走り出した天元を追うこともなかった。

 

 これでもう……二度と会うこともない。

 

 そう…思っていたのに。

 

 

「お前…また、殺すのか?」

 

 天元は物言わぬ()に問いかける。

 無機質な瞳に天元が映っているが、ただの敵としてしか見えていないのだろう。

 

 闇に沈んだ森の中で、再び対峙した()を見つめながら、天元の心はゆっくりと冷えていった。

 

 あの日の自分の選択は結局、間違っていたのだろうか……。

 

 

<つづく>

 

 





次回は来週更新の予定です。


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第六章 狂宴(六)

「お前…また、殺すのか?」

 

 天元は問いかけた。

 結局、()はこの道を選ぶしかなかったのだろうか。

 

 目の前に立つ()の足元には、雛鶴と()()()が無残に殺されている。

 

 あの時と同じだった。

 闇夜の森の中。覆面をつけた人間が襲ってきた。尋常でない敵意に天元は容赦なく斬って捨てた。

 覆面がハラリと落ち、地面に倒れていたのは須磨だった。

 

 天元は目を見開いたまま固まった。

 

 心臓が奇妙に跳ねる。呼吸が乱れ、冷や汗が背を伝った。

 そっと須磨を抱き上げて彷徨する。

 

 やがてあの日と同じ滝の近くで、眩しいばかりの月光の下、雛鶴と()()()が殺される瞬間を見た。

 真っ黒な装束の()が振り返る前に、天元にはそれが()()()()()()()()()()()

 

 二人の嫁の首を落とし、その首を拾い上げようとしている姿に、嫌悪感が噴き出す。

 

「やめろ!」

 

 叫ぶと()が振り返る。だが、相変わらず冷たい顔だ。いや、何も感じていない顔…といった方が正しいだろうか。

 微かに眉間に皺を寄せて、こちらをじっと窺っている。

 

 天元は須磨をそっと地面に降ろし、静かに問い重ねる。

 

「俺と戦うために嫁を殺したのか?」

 

 

 ―――――一欠片(ひとかけら)でも人であってほしいから、里を出たのだ。

 

 

「あの時、見逃したのは、俺を絶望させるためか?」

 

 

 ―――――冷たく凍りついてしまった弟の『弱味』として生き続ける。それが弟妹達を殺した自分にできる唯一の償いだと思ったから…。

 

 

「そうやって俺の『弱味』を消して、俺を引きずり込む気か!? そんなに俺を殺して…『完璧』とやらになりたいのかよ!!?」

 

 叫びながら吐き気がする。

 どこまで…いつまで、この男は信じているのだろう…?

 

 不必要なものは淘汰する。何のためらいもなく任務を遂行する。まるでそれが正義であるかのように。もはや時代の波に消えようとする忍の長としての使命であると信じて。

 

 天元はもはや躊躇なく刀を振り下ろした。

 素早く()()は後ろに跳躍して間合いをとる。そうしてギギギと口の端を歪めると、キィヤアアァ!! と甲高い声で咆哮した。

 見る間に()の姿は変貌していった。

 額に生えた灰色の角、紅い目、耳まで裂けた口からは牙がせり出していた。

 

 天元は醜い鬼となった()に打ちのめされた。

 

「お前……鬼に…なっちまったのか……」

 

 かすれた声でつぶやく。

 もう、本当にこれで…天尚は死んだのだ。

 

 天元はギロリと睨みつけると、鬱金色の日輪刀を構えた。

 

「鬼に…容赦はしねぇ」

 

 音の呼吸 肆ノ型 響斬無間

 

 バリバリと空間が鳴動し、悲鳴と高らかな哄笑が入り混じって聞こえた。

 

 ザワザワと耳鳴りがする。やがてそれはゆっくりと消えていったが、静かな廃墟に佇む自分と、目の前で裂傷を負って床に倒れ伏した薫の姿に混乱する。

 

「………」

 

 今の今まで、何処にいたのか……わからなかった。

 ただ、自分が技を放ったことだけはわかる。屋根の一部が吹っ飛んで、月明りが真上から差し込んでいた。

 

 天元はハッとなって薫を抱き起こした。

 

「おい! しっかりしろ!!」

 

 声をかけると、薫がうっすらと目を開く。

 

「音…ば…し…さま…血、鬼……じゅ……どう、か…気を……たし…に」

 

 切れ切れに訴えかけてくる薫に、天元から殺気が失せていく。

 自分は一体、何に向かって技を放ったのだろうか? 鬼がいたはずなのに…その鬼の姿すらも、もう頭から消え失せている。

 

「どうなってんだ…おい! 寝るな!!」

 

 必死になって声をかけるが、薫はぐったりと気を失っていた。

 見たところ重傷は負っていないが、鼻血が出ていた。脳に何かしらの衝撃を受けたのかもしれない。

 

「……素晴らしいこと」

 

 緊迫した状況の中、いかにも愉しげな声が響いた。

 顔を上げると、部屋に来た時にあった絵はなく、生成色の画布の中で、白い顔の女の鬼が嗤っていた。

 額から生えた灰色の角、両目の端と頬に薔薇のような紋様がある。

 

「テメェ……」

 

 天元は薫をそっと床に寝かしつけながら、鬼を睨みつけた。

 しかし艶然と鬼は微笑む。

 

「美しい里でございましたわ。それにとても楽しい()()をされていましたのね。羨ましいので、同じような状況(シチュエション)を作って差し上げましたのよ。いかがかしら? 愉しんでいただけまして?」

 

 言葉遣いは上品であったが、天元は虫酸が走った。

 まったく悪趣味な鬼だ。どうやら天元の記憶を勝手に掘り起こして、血鬼術を張り巡らせたらしい。

 

「悪趣味なババァだな」

 

 天元が吐き捨てるように言うと、絵の中の鬼はムッと鼻の頭に皺を寄せる。

 

「あれが悪趣味だとおっしゃるなら、それはあなたの趣味が悪いということですわ。だって、あの幻影はあなたの作ったものなのですから。(わらわ)は少しばかり色をつけて差し上げただけ」

 

「あぁ…懐かしかったよ。久しぶりにな」

 

 天元は奥歯を噛み締め、刀をぶんと絵に向かって振るった。

 しかし、絵だと思ったそれは天元の刀を柔らかく撥ね返した。

 

「まぁ…さっきからなんと粗暴な輩だこと。オォ、怖い怖い。薫子(ゆきこ)さんがやっと大人しくなったことですし、彼女の()でも見ましょうかしら?」

 

 言うなりポロンと音が聞こえてくる。

 流れるようなピアノの響きが怒涛となって押し寄せてくる。

 

「う……」

 

 薫が呻いた。

 

「やめろ! テメェ、このババァ!!」

 

 天元は再び斬ろうとしたが、そこには鬼の顔はなく、また新たな絵が現れていた。

 チッ、と舌打ちしてその絵を斬りつける。

 

「うああっっ!!」

 

 途端に薫の体が跳ね、斬られた肩から血が溢れた。

 天元は絵と薫を交互に見て、ギリと歯噛みする。

 

「言ったでしょう?」

 

 ふわりとまた絵の中から鬼がささやく。

 

「幻影はあなたが作ったと。今、ここに描かれる絵も薫子さんが作っているのに、あなたが斬れば、傷つくのは彼女でしてよ」

「……クソババァめ…」

 

 つぶやいた天元の耳に、つんざくような高音が響いた。

 

「グッ!!」

 

 脳味噌に直接穴を開けられたかのような衝撃波。

 耳にぬめった感触がして触れると、血が出ていた。鼻からも出ている。

 

「耳がよいのも、良し悪しですわね…普通の人間なら聞こえない音ですのに」

 

 鬼は嗤いながら揺らめいて消えた。

 

 天元は感じたことのない頭痛に頭を押さえながら、薫の側まで来ると、肩の傷口に晒しを巻きつけた。

 

「クソ…早く目覚ませ…」

 

 ペシペシと薫の頬を打つが、目を覚ます気配はない。

 ピアノの音色は気味悪く纏わりついて、ゆっくりと周囲の景色を変えていく。

 

 天元はギリと奥歯を軋ませた。

 どうにも嫌なことになった。

 自分の経験でいうなら、この先見せられるのは薫にとっても封印したいような思い出に違いない。………

 

 

 

<つづく>

 



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第六章 狂宴(七)

「どうして…いつも…私を置いていくの…?」

 

 冴えた月の光を映した川面。冷たく吹き渡る夜の風。

 地面に突伏して泣き伏しているのは薫だ。

 

 天元はその様子を静かに眺めていた。

 鬼殺隊にいれば、誰しもが思うことだ。

 自分よりも能力のある人間、優しい人間であるほどに、先に逝ってしまう。いつも取り残されるのは自分ばかり。

 

 震えるピアノの音がしたかと思うと、また景色が変わる。

 

 一面の菊の花。

 その中で生気のない顔で薫が白菊を()っている。歌を歌いながら。

 

「シケた歌、歌いやがって…」

 

 天元は物悲しいその歌声に舌打ちする。

 

 これも自分と同じ、薫の記憶から紡がれたものなのだろうか。正直、いい気分ではない。不可抗力とはいえ、見たくもないし、薫だって見せたくもないだろう。あのクソ婆鬼はわざとそうしているのだろうか?

 

「おい、早く起きろよ!」

 

 天元はペシリとやや強めに薫の頬をぶったが、一向に目を覚ます様子はない。

 

 また景色が移り変わる。

 

「……だが………一人で、抱え込むな…よ」

 

 薫に抱きかかえられた老人が優しくつぶやく。

 土と血で汚れた顔を見るに、おそらく畳の上で死んだのではないだろう。

 周囲を取り囲む数人の男や少年の姿から察するに、この老人は育手か何かだろうか。

 

 そういえば、この任務の前に薫が言っていた。

 

 ―――――ここのところの体調不良は私の育手や兄弟子や、信頼していた花柱様が亡くなられたから…精神的なものです。

 

 天元は薫の腕の中で莞爾と微笑んで息を引き取った老人を見て、彼がおそらく出来た人物であったのだろうと思った。

 一人で抱え込むな…と薫に言った言葉は、弟子のことをよく観察した上で、互いの信頼関係がなければ出てこない。

 

 嗚咽が響く中で再び空間が揺れる。

 

 急に水の中だった。

 ゴボゴボと空気が口から漏れ出す。

 一気に呼吸ができなくなって、天元は焦った。

 だがこれが幻影であると言い聞かせて、大きく息を吸い込むと、普通に空気が鼻から入ってくる。

 全集中の呼吸だ。いついかなる時も、これが基本だ。

 

 薫は水の中に落ちていく。仄暗い水の底へと手を伸ばして…まるで、死にに行こうとするかのように。

 だが、途中でその腕を引っ張り上げたのは胡蝶カナエだった。

 

「何を考えているの?」

 

 薫の頬を殴って、カナエは口調だけは優しく言う。

 つい先ごろ亡くなった花柱を懐かしく見ながら、天元はフッと笑った。

 

 そうだ。コイツはこういうヤツだった。柔らかな物言いをしながら、一番痛覚に訴える場所に針を刺すような。それでいて全く嫌味でなかったのは、カナエに備わったおおらかな茶目っ気のせいだろう。

 

 しかしここにいるカナエは心底から薫を心配しているようだった。

 

「あなたの心が塞がっているから、息も通り道を失くしたのよ」

「……関係ありません。お願いですから、一人にしてください。今度は無茶しないようにしますから」

 

 頑なに薫は突っぱねる。カナエはそれでも我慢強く話していた。何を話しているのか天元にはよくわからなかった。女同士にはよくあるような他愛もない話だ。

 

「どうしてあなたはそんなに苦しそうなの? 誰かのことを想って過ごす日々はつらいだけ?」

「…誰かって、誰も………」

「嘘。薫はいつも………の話になると、顔色が変わるじゃない」

 

 カナエの途中の言葉が聞き取れなかった。

 天元が眉を寄せたと同時に、ピアノの音もプツリと途切れる。だがすぐにまた流れてきた。曲を変えたらしい。

 静寂を包み込んだ荘重な音色が響いてくる。

 

「う……ぅ…」

 

 気を失っている薫が呻いた。

 

「おい! 起きろ!」

 

 天元は思い切り薫の頬をぶっ叩いた。

 この際、後で恨まれようが、この先に見たくもないものを見せられるよりはいい。だが、まるでその薫を守るかのように、蔦が伸びてきて薫を包もうとする。

 

「なんだ…ッ、これ」

 

 天元はイラっとして苦無(クナイ)で蔦を切ったが、すると薫の頬に傷が入る。

 

「ゲッ! おいっ…お前…起きろっ言ってんだろうがッ!!」

 

 怒鳴っている間にも、蔦が見る間に薫を包んでいく。

 こうなった以上、手出しが出来ない。この蔦すらも、薫の作り出した幻影であるなら、斬り裂けば薫に重傷を負わせることになってしまう。

 

 ギリと歯噛みして辺りを見回すと、また情景は変わっていた。

 

 今度はどこかの家の中だった。

 夜の暗い廊下。目の前には襖が少しだけ開いた状態である。

 

「今度は何だよ……」

 

 溜息まじりにつぶやいて襖を開いた。

 

 そこはよくある畳の和室だった。

 天元の住む屋敷と同じような造りらしい。

 開け放たれた縁側からの月明かりが部屋の中を白く照らしている。

 

 部屋を見回す前に天元の目を引いたのは、庭を臨む縁廊下に座り込んだ男の姿だった。背を向けているので、顔はわからない。

 

「……誰だ?」

 

 天元がつぶやくと、ビクリと男の肩が揺れる。同時に。

 

「………う…っ」

 

 部屋の隅の暗がりから女の声。

 反射的に目を向けるとそこには薫がいた。

 布団で隠してはいるが露わとなった肩、乱れた髪。

 見た瞬間に、すぐに状況は把握できた。

 

 天元は深い溜息をついた。

 本当に悪趣味極まりない鬼婆ァだ。元は侯爵夫人だかなんだか知らないが、華族だ何だとうそぶいても、中身は下世話な出歯亀親爺と変わらないじゃないか。

 

「冗談じゃねぇぞ…オイ。俺は他人の見る趣味はねぇんだ」

 

 ブツブツぼやきながら、蔦に覆われた薫をコンと蹴る。

 

 目の前では縁側に座っていた男が立ち上がっていた。

 何を考えているのか知らないが、コトを済ました後に女をおっ()り出して月見とは、呑気でフザけた野郎だ。

 互いに馴染んだ遊女と酔客か、顔の見慣れた夫婦というならまだしも、この二人の関係がそうした(こな)れたものでないのは、すぐにわかる。

 

 振り返った顔は逆光で最初よく見えなかったが、目が慣れてそれが誰かわかると、天元は唖然となった。

 

「……不死川……?」

 

 見間違いかとも思ったが、はだけた衿元から覗くあの無駄に派手な切り傷だらけの体といい、物騒極まりない吊り上がった目といい、まず間違いなく新しく風柱になった不死川実弥に違いない。

 それを肯定するかのように、薫が呼びかける。

 

「…実弥…さん」

 

 天元はゾッとなった。

 こんなもの見たくない。冗談じゃない。

 

 襖を開いて出て行こうとしたが、その襖がなくなっていた。

 

「オイッ!!」

 

 大声で叫んだが、二人には聞こえないらしい。

 後ろを向いたはずなのに、なぜかまた目の前に幻影が現れる。

 

「薫……」

 

 間違いなくこれが幻影に違いないと思ったのは、そこに立っていた不死川実弥が微笑みながら薫に向かって手を伸ばしたからだ。

 あの男の笑った姿など想像もできなかったが、案外笑ったらそれなりに愛嬌がある。

 

「……って、感心してる場合じゃねぇんだよ……勘弁してくれ」

 

 ゲンナリして天元はその場に座り込んだ。

 目の前で転がって蓑虫のようになっていた薫がモゾモゾと動く。

 

「お前…何の夢見てんだよ……とっとと起きろよ」

 

 ボヤいている天元の目の前では、あの(・・)不死川が聞いたこともないような優しい声で薫にささやく。

 

「ずっと…一緒にいよう……」

 

 反吐が出そうな甘い台詞に天元は呆れ返ったが、その時、薫をくるんでいた蔦がビチビチと千切れていった。

 空気が唸る音がして、覆われた蔦が弾け飛ぶ。同時に薫が跳躍した。

 

 鳥の呼吸 壱ノ型 鷹隼空斬(ようしゅんくうざん)

 

 容赦なく、薫はそこで微笑んでいた不死川実弥を真っ二つに断ち斬った。

 

 

 

<つづく>

 






次回は来週更新予定です。



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第六章 狂宴(八)

 天元によって音の呼吸の技が放たれた瞬間に、薫は咄嗟に自分もまた技を繰り出した。

 しかし、とても相殺できるような代物ではなかった。

 

 全身を痛みが貫く。

 脳髄に響く振動は、頭の中で爆薬がはぜたかのようだった。

 

 呼吸を整えようとしたが、うまく出来なかった。

 力が入らない。完全にやられてしまったらしい。

 鬼の思惑通りに。

 

 ふと気付くと、天元が何か怒鳴っていた。

 

「音柱様……血鬼術です。どうか…気を確かに…」

 

 どうにか訴えたが、伝わったろうか。

 自分でもその言葉が言えたのかわからない。

 

 意識が朦朧としていく。

 目を閉じると、よりはっきりとヘリオトロープの匂いがしてきた。

 

 それにピアノの音色。間違いなく千佳子の音色だ。

 あのふっくらとした白い指が奏でる、音の物語。

 

 モーツァルトのピアノソナタKV.310。モーツァルトにしては珍しい短調の曲。

 教えてもらっていた頃は、この軽やかな音色を出すのに苦労したものだった。譜面を読むこと自体はベートーヴェンのものより簡単なのに、弾くほどにシンプルな旋律は難しく思えた。

 

 遠くで誰かがささやくような会話が聞こえていた。

 夢なのだろうか。夢であるなら見せてほしい。

 

 懐かしい東洋一(とよいち)の声がする。匡近の声も聞こえる。

 もう会うことが出来ない人達であるなら、夢でもいいからもう一度会いたかった。

 

 とろけるような穏やかな音色が薫を包んでいる。

 時折、痛みが生じたがすぐに霧散し、ふわふわとした微睡(まどろ)みの中で薫は揺蕩(たゆた)っていた。

 

 今度はカナエの声が聞こえてきた。

 一緒に滝の音がしてきて、吉野で常中の呼吸の修練を行っていた時のことを思い出す。そう昔でもないのに、ひどく懐かしい。だが……

 

『どうしてあなたはそんなに苦しそうなの? 誰かのことを想って過ごす日々はつらいだけ?』

 

 カナエの問いに薫は顔を歪める。

 あぁ…聞きたくない。思い出したくない。

 

『嘘。薫はいつも……くんの話になると、顔色が変わるじゃない』

 

 必死に薫が祈ったせいだろうか。

 カナエの声から肝心の名前だけが消えた。

 

 ホッとしたのもつかの間。不意にピアノの音が途切れた。

 すぐに流れてきたのはベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』第1楽章。

 

 静謐な、ある種の荘厳さを感じるメロディ。

 決して強調しているわけでないのに、はっきりとした存在感を醸し出す三連符が、この曲をどこか浮遊感を感じる神秘的なものにさせている。

 この曲名は作曲者であるベートーヴェンがつけたものではないらしいが、命名した人は、この冷たくも穏やかな相反するような特徴を、月に見出したのだろう。とてもしっくりくる。

 深い藍色をまとった夜の、繊細に編まれたレースのヴェールのように降り注ぐ月光。

 

 目を開くとその光を纏って()が立っている。

 

 薫は再び目を瞑った。

 

 見たくない。見たくない。

 これはもう封じたのだ。

 決して開くことのできないようにあの滝壺の水底深くに埋めてきた。

 

 誰も見てはいけない。

 自分ですらも、見ることは許されない。

 

 頼むからそのまま、あの日のように立ち去ってほしい。

 絶望だけを与えて、消えてほしい。

 

 小さくなって震えていると、有り得ない声が聞こえた。

 

『薫……』

 

 ハッとなって目が開く。

 優しい眼差しで()が薫を見つめていた。

 

『ずっと…一緒にいよう……』

 

 昔、呼んでくれたあの声で。

 あの頃と変わらぬ笑顔で。

 

 薫は一気に現実に引き戻された。

 

 憤怒で身悶えする。

 ギリッと歯噛みして、日輪刀を握りしめる。

 緩やかに自分を包んでいた繭を切り裂き、跳躍した。

 

 

 鳥の呼吸 壱ノ型 鷹隼空斬(ようしゅんくうざん)

 

 

 笑顔を浮かべたままの実弥を斬り裂く。

 

 

 キイィィィィィ!!!!

 

 

 実弥が甲高い悲鳴と共に倒れると同時に、ぐらりと景色が歪み、元の廃墟に戻った。

 

「アラアラ……」

 

 少し残念そうな、それでいて愉しげな千佳子の声が響く。

 

「せっかく、用意して差し上げたのに」

 

 ギロリと薫は白い画布の中に浮かぶ千佳子―――いや、もはやその姿は美しくとも、おぞましい鬼の化物と成り果てた千禍蠱(ちかこ)―――を睨みつける。

 

巫山戯(フザけ)るな!」

「あらぁ…だって、(わらわ)薫子(ゆきこ)さんの望みを叶えて差し上げただけよ」

「うるさい! 望んだって、あの人があんなことを言うものか!!」

 

 千禍蠱は薫の言葉にククッと喉を鳴らす。

 

「まあぁ…(ひど)い男だこと。そんな男の愛を欲して可哀相な薫子さん」

「違う!」

「何が違うというの? 妾はわかっていますよ、薫子さん。報われない愛を信じるが故に、時に人は過ちを犯すものです。妾には十分にわかっていてよ…」

 

 一瞬、翳りを帯びた千禍蠱の顔に、薫は詰まった。

 今、千禍蠱の脳裏に浮かんだのは薫の実父である卓の顔なのだろうか。千佳子を捨てて、薫の母を選んだ…。

 千佳子にとっては、許しがたい存在であるのに、憎むこともできない。

 

 苦しい。息がしにくい。全集中の呼吸が続かない。

 

「………あんな幻影で…人を…弄んで…」

 

 薫がゼイゼイと肩で息しながらつぶやくと、千禍蠱は小首を傾げた。

 

「幻影?」

 

 不思議そうに聞き返して、突然高らかに嗤笑する。

 

「…ホ…ホ。なにが幻影なものでしょう? 薫子さん、あれはあなたの望み。あなたの心の叫び。カマトトぶるのはおやめなさい。あの夜、自分の願いが叶うと信じたからこそ、貴女(アナタ)はあの男に抱かれたのでしょう? 自分の身も心も捧げる代わりに、あの男の()を欲したのではないの? そうして歓びに震えて…」

 

 千禍蠱がすべてを言い切る前に、横から鬱金色の大刀がその口を封じた。

 ザクリと容赦なく千禍蠱の顔を画布と一緒に斬り裂く。

 

「この出歯亀婆ァが」

 

 心底うんざりした様子で天元が吐き捨てる。

 

「他人の色恋にごちゃごちゃと割って入るなよ。っとに…鬼になっても井戸端にいる婆ァ連中と大差ないな」

「………貴様…」

 

 千禍蠱の顔がまた画布の別の場所に浮かんだ。蒼ざめ、震えている。

 

「一度ならず二度、三度と……人を婆呼ばわりしよって…」

「婆ァに婆ァと言って何が悪い? ネチネチとまだるっこしい嫌がらせしてんじゃねぇよ、クソ婆ァ」

 

 その言葉はよほどに千禍蠱の逆鱗に触れたらしい。

 

「オノレエェェ!!!!」

 

 咆哮と同時に猛烈なピアノの音が洪水のように押し寄せる。

 

「音柱様!」

 

 薫は周辺に向けて技を放った。

 

 

 鳥の呼吸 陸ノ型 迦楼羅(かるら)千翔(せんしょう)

 

 

 目に見えてわかる攻撃ではない。

 衝撃波のようなものが襲いかかってくるのだ。

 千禍蠱本体が未だ掴めない以上、とりあえずは技で防いでいなすしかない。

 

「おぅ…しばらく防いでおいてくれ。俺は…あとちょっとで完成する…」

 

 そう言いながらも、天元は千禍蠱からの衝撃波を日輪刀で砕いていた。

 それは天元の持つ特異な聴力の賜物だったが、薫にはわからない。虚空に向かって刀を軽く振り回す天元を訝しみつつも、薫は頷いた。

 

「はい!」

 

 何度目かの技を発動した時に、キィンと耳鳴りがした。

 一気に嘔吐感が食道を這い上ってくる。

 息ができなくなって、薫の意識がまた遠のく。倒れながら、ゴボゴボと空気が泡となって昇っていくのが見えた。

 

 また、幻影に囚われているのだろうか……?

 

 赤い夕焼け空が水面のむこうにたゆたっている。

 日の沈む間際の赤と、ゆるやかにやってきた夜の紺が、ちょうどその人の背中で分かれていた。

 

 ゆらゆらと、揺れて。

 

 その人影は泣いている。泣きながら、必死で謝っている。

 

「ごめんねぇ…ごめんねぇ……薫」

 

 苦しい。息が、できない。

 

 小さい頃からたまに、夢で見る光景。

 いつも薫はこの苦しさは水の中に沈んでいくからだと思っていた。

 だが、手を必死で自分の首元に持っていって、ようやく真実を知る。

 

 自分は首を絞められている。

 

 ―――――誰に?

 

「……ごめんねぇ…情けない母ちゃんで……苦しまんで…逝って…」

 

 弱々しく震え、しゃくりあげる女の声。

 

「………!!!!!」

 

 薫はブンと日輪刀を振るった。

 映像が切れると、床に突っ伏してゴホゴホと噎せ返った。

 

「オイ! しっかりしろ!! 絶対に遂行するんだろうが!」

 

 天元が容赦なく檄をとばしてくる。

 薫が気を失って、また千禍蠱の幻影に掴まっている間にも、防戦してくれていたらしい。

 

「ハイッ!!」

 

 薫は涎を袖で拭って、立ち上がった。

 

「気ィしっかり持て! あの婆ァにちょっとでも弱味を見せたら付け込まれるぞ。お前、知り合いだから狙ってきてやがんだよ!!」

 

 怒ったように言いながら、天元はチラと薫の顔色を窺う。

 心配そうに見てくる音柱に、薫は自分を()じた。

 

 千佳子が鬼であると知った時から、覚悟はしていたのに、どこかで迷いはあったのだろう。

 そのほだされた弱い部分を千禍蠱は確実に狙いすましてくる。

 

 向こうが知り合いであることを利用するのであれば、こちらも知りうる情報の全てを駆使するまでだ。……

 

 

 

<つづく>

 





次回は来週2022年7月9日土曜日に更新予定です。


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第六章 狂宴(九)

「音柱様、こちらです!」

 

 薫は走り出した。

 

 このピアノの音色。いつまでもどこにいても一定に鳴り響く音色。

 これこそが千禍蠱(ちかこ)の血鬼術そのものなのだ。

 

 だとすれば…千禍蠱は…ピアノを弾いている。

 黒のグランドピアノがここにあるということは、もう一つあるのは白のピアノ。特注の金の象嵌細工の施された美しいあのピアノだ。 

 

 走り出した二人の向かう先に、千禍蠱は動揺したのだろうか。

 ピアノの旋律は一層早くなり、もはや十指で弾いているはずもない音色が鳴り響く。

 

「どうやら焦りだしたようだなァ、クソ出歯亀婆ァ!!」

 

 天元は明らかに挑発していた。それは先程から相手に攻撃をさせることで、探っていたのだ。

 

 この攻撃の律動、一定の仕組み。

 西洋の音曲に詳しくない天元であっても、その計算式はさほどに難しくなかった。最終的には()()()()()()()が知れていたからだ。

 

 千禍蠱からの衝撃波をかわして、天元はクククと肩を震わせると叫んだ。

 

「よし! できたぞ、譜面が!!」

 

 同時に複数の音の呼吸の技が放たれ、爆薬が派手に弾ける。

 薫は咄嗟に耳を押さえた。今度こそ、本当に鼓膜が破れた気がする。

 

 一気にシンと静まり返った。

 天元によって壊された梁がメキメキとひび割れて落ちていく。

 

「……何を…したんですか?」

 

 薫は不気味なほどに静まり返った屋敷の中を見渡しながら尋ねた。

 天元は軽く肩をすくめて答えてみせる。

 

「どうということもない。こんな鬼なんぞ訳もないが、いちいち使ってくる血鬼術が面倒なんでな。使えなくさせたまでだ」

「使えなく…した?」

 

 どうやら天元もまた、千禍蠱の血鬼術がピアノの音色によるものだとはわかっていたらしい。

 実体のない()というモノを消滅させるとは、まさしく音の呼吸たる音柱の面目躍如といったところだろう。

 

「記憶力がいいからな、俺は。お前がさっき宴会に行く前に言ってたろ? ピアノのあの白と黒のヤツ。八十八あるって。定まった数が一つあると、計算もやり易い」

「八十……八…?」

 

 薫は聞き返しながら、自分がとんでもない情報を天元に教えたことに気付く。

 

「駄目です!」

 

 叫ぶと同時に、天元が真後ろを向く。

 薫にはその音は一切聞こえていなかったが、常人を卓越した天元の耳には低く轟く音が足元から響いてきていた。

 ほとんど考える間もなく、反射的に技を放つ。

 

 音の呼吸 壱ノ型 轟

 

 ガツッ、と鈍い音がして床が裂けた。

 天元は自分が間一髪で攻撃を凌いだことよりも、()()()()()()()()()ことに呆然となった。

 

「まさか…計算違ったのか…」

「いいえ! とにかくこっちです!」

 

 薫は裂け目がどんどんと広がっていくその場から天元を促す。

 

「音柱様が間違ったんじゃありません。私の情報が違っていたんです」

 

 走りながら、薫は早口に言った。

 

「なんだと? テメェ嘘か、あれ」

「違います! ピアノの鍵盤の数は基本的には八十八鍵です。でも、千佳子様のピアノは例外的に百二鍵あるんです」

「百二ィ? 先に言えよ!!」

「すみません!」

 

 実際にはあの時の薫の話は間違ってはいなかったが、例外というのはあるものだ。それに今となっては正確さはどうでもよい。

 

「クソッ! 十四…十三か…残りは」

 

 十三だけの個々の音であれば一つ一つを潰せばいいが、問題は馬車の中で薫が言っていたように、ピアノというのは、同時に鳴らすこともできる。

 つまりそれだけ攻撃の幅があるのだ。

 

 天元はさっき譜面によって八十八鍵から起こるすべての攻撃を駆逐したが、今からまた十三鍵の譜面を一から作るとなると面倒なことこの上もなかった。

 しかも、残ったのはおそらく普通ならば人の耳には聞き取ることのできない音だ。

 それまでの音は一つ一つの律動を譜面に織り込んでいくことができたが、人の耳に聞こえない音の律動はそれ自体を表す術を持たない。

 

 挑発して一つ一つ潰すか…

 

「あの婆ァのいるのはここかッ!!」

 

 薫の進む先に異様に美しい白の扉が見えるなり、天元は跳躍して蹴破った。

 

 月光を浴びて、真っ白なピアノがカタカタと動いている。

 真ん中のおそらく八十八ある鍵盤はすべてなくなっていた。先程の天元の譜面による攻撃によるものだろう。両端の鍵盤だけが、音もなくカタカタカタカタ動いている。

 

 だが、おかしなことにそこに千禍蠱はいなかった。鍵盤の前には優美な椅子が置かれていたが、千禍蠱は座っていない。誰も奏でていないのに、鍵盤だけが動いている。

 

「なんだぁ…どこに行きやがった、あのクソ婆ァ」

 

 つぶやくと、鼓膜を破かんばかりの高音が鋭く響き天元に向かってくる。もはや慣れたように天元は日輪刀でその攻撃を弾いた。

 

「あの…今のは?」

 

 薫が尋ねると、天元は首を回しながら事も無げに言う。

 

「攻撃だろ。その残り鍵盤()で一所懸命してんだろうが…どうやら案外と思ったようにはいかねぇみたいだな」

「…どういう事です?」

「八十八あった方の奴らは音が普通に聞こえる分、二重にも三重にも鳴って攻撃も多彩だが、残りのヤツらは音が聞こえないから、単独でしか動けない」

 

 薫は天元の言葉をすぐには理解できなかった。

 白いピアノに残った鍵盤を見つめていると、千佳子に初めてこのピアノを見せてもらった時のことを思い出す。

 

 

 ―――――この(キー)があることで共鳴が深くなって、よりいい音が響くんですのよ

 

 

 そうだ。元々この(キー)は音そのものを出すというよりも、増幅させるためのもの。

 

 薫はそっと鍵盤に指を伸ばした。が、急にバタンと蓋が閉まる。

 

「ん? なんだ?」

 

 天元が怪訝に見てくる。

 

 薫は泣きそうになった。あの時と同じだ。あの時、鍵盤に触れようとした薫に、容赦なく千佳子は蓋を閉めた。もう少しで指を挟まれるところだった。

 

 ―――――駄目ですよ、薫子(ゆきこ)さん

 

 上品な声で上品な顔で、容赦なかった千佳子。

 幼い子供の手が傷つこうとも、決して自分の愛した名器を触らせようとしなかった。

 

 今も…そう……。

 

 薫は刀を構える。

 

「……千佳子様、どうか安らかに…」

 

 小さくつぶやいて、白いピアノに向かって技を放った。

 

 

 鳥の呼吸 参ノ型 飛燕之鋒(ひえんのほう)

 

 

 悲鳴が響く。

 見る間に白いピアノは黒く焦げて無残な姿となった。屋根は焼け落ちたのかすっかりなくなり、千切れた弦も露わとなった響板の中から、千佳子の上半身だけが飛び出て、鍵盤には首が落ちていた。

 

「…痛いわ…痛い…薫子(ゆきこ)さん。どうしてこんな酷いことをするの…?」

 

 幼い子供のように千禍蠱は泣きじゃくった。

 薫は何か言いかける天元を制すると、千禍蠱の目の前に立った。

 

 薔薇の斑紋が徐々に消えて、千佳子の顔に笑みが浮かぶ。

 

「可哀相な薫子さん。あんな母親に殺されそうになったから…こんな酷いことをするようになったのだわ。さぁ、こちらにおいでなさい。(わらわ)が慰めて差し上げましょう。今度こそ、妾と(すぐる)様の子供として生まれていらっしゃい……今度こそ、妾が貴女(あなた)を産んであげるわ……」

 

 薫はクラリと眩暈がした。

 この目だ。千佳子が時々、薫を見つめていた目。

 

 熱心に教えてくれているのだと思っていたが…そうじゃない。あの時からこの人は、自分と卓の子供として薫を見ていたのだ。

 

 狂気の瞳。

 報われない愛の(かたみ)は憎しみでなく、歪んだ想像を詰めこんだ。やがて病となり、次々と人が去る中で頑なになって、そうして無惨によって彼女は鬼に落とされた。

 

 黙って立ち尽くす薫を見て、千佳子は微笑みながら言った。

 

「嫌いよ…薫子さん。ア…ナタ…少しも、卓様に…似て、ないの。あの女…そっくりだわ……私に、似れば…良かった……の…に……」

 

 目に溜まった涙が零れ落ちる前に、千佳子は塵と消えた。

 

 薫には千佳子の絶望はわかりようもなかった。それでも彼女がここまで不幸になる必要はなかったはずだ。

 彼女を最初に不幸にしたのは誰だろう? 薫の父か、母か…それとも…。

 

 ギリと奥歯を噛みしめる。

 濡れた視界の先で、千佳子の婆やだったキクの姿がボゥと浮かぶ。

 

 深々とキクは薫と天元に向かってお辞儀した後、静かに語った。

 

「……千佳子お嬢様は…救いようのない業病に(かか)られてより、明見(あけみ)侯爵を始め実家にも見放され、遠く深い森の朽ち果てた館に、籠められましてございます。ろくに食事も与えられず、日に日に弱り、狂ってゆかれました。

 月の冴えたるある夜、あの男は現れました。紅の目の美しい殿方でござりました。

 お嬢様の腐りゆく体を抱きしめ優しい声で囁いて……お嬢様は身も心も奪われ、ご自分をあの男に捧げたのでござります。

 鬼となって近くにあった村をまるごと喰い付くした後、あの男に伴われてこの侯爵邸に戻り…逃げ惑う人々を殺し尽くしました。その時に、誰ぞが火をつけたのです。それはもしかするとあの男であったのやもしれませぬ。

 お嬢様は大事な大事なピアノを守る為に、あのピアノと一体となりましてござります。ピアノとなって奏でる間だけ、昔のお嬢様の面影が見えたものでござりました………」

 

 長い語りが終わって、天元が尋ねた。

 

「で、これから婆さんはどうすんだ?」

 

 キクは天元に白い目をむけた。それは怒っているのではなく、最初から盲目であったようだ。

 また深くお辞儀する。

 

「お嬢様をお救いくださり……ありがとうございます。お嬢様が受ける罰は、すべて私めが負うてまいります」

 

 しわがれ声ながら厳然たる口調で言い切ると、キクの体はか細く消えていった。

 天元は軽く吐息をついた。

 

「幽霊になっても主に尽くすとは…忠義者のばぁやを持ったことだな」

「……本当…に…」

 

 相槌を打って、薫はその場に倒れた。

 限界だった。体中が痛い。確実に肋骨が何本か折れている。それに頭痛が酷い。

 

 千禍蠱は確実に殺したのに、ヘリオトロープの香りだけがいつまでも残滓となって漂っている。それがひどく気持ち悪かった。

 

 視界の隅で天元があきれているのが見える。

 駄目だ。起き上がらないと…鬼殺隊から…除隊される。

 

 必死に落ちかける意識に抗って起き上がろうとすると、中指でコツンと額を打たれた。

 

「馬ァ鹿。終わったから、もう寝とけ」

 

 懐かしい。東洋一(とよいち)にもよくやられたものだ。

 ホッと気が緩んだ途端、視界が暗くなった。

 

「ハァ…大した鬼でもないのに。地味に無駄に疲れた……」

 

 天元はブツブツこぼしながら、薫を抱きかかえた。

 この姿を不死川が見たらどう思うんだろうかと一瞬考えたりもしたが、すぐに阿呆らしくなった。

 

「…知ったことじゃねぇし」

 

 言い聞かせるように言うと、スタスタと歩き始めた。

 

 

<つづく>

 





次回は来週土曜日更新予定です。


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第七章 宴のあと(一)

「おや、終わったみたいやな」

 

 任務を終えて出てきた天元を出迎えたのは、いつかの不愉快な関西弁の男―――伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)だった。

 

「おやおや、お嬢さん。抱っこされて…中でくたばってもうたんかいな。もう少ししたら隠が来よりますさかい、ここに置いてったらよろしいで、音柱様」

 

 天元の腕の中で眠る(というより気を失っている)薫をまじまじと見つめて、宝耳は目を細める。

 

「いらねぇよ。お前と二人になんぞさせられるか」

「なんの心配してはるんやら。音柱様こそ、お嬢さんになんぞかまけとって、三人の奥方に叱られしまへんのか?」

 

 天元は宝耳の軽口に付き合うのもいちいち面倒で、話を断ち切った。

 

「で? その足元に転がった汚ねぇ男どもは何だ?」

「は? コイツらでっか?」

 

 言いながら、宝耳は無造作に男の一人の首を踏んづける。うぅ、と男は呻いたが、薬でもかがされたのか目を開けなかった。

 

「一人は新聞屋(ブンヤ)の成れの果てみたいなゴロツキで、もう一人は火付けしようとしとった、ただのゴロツキですな」

「火付け…?」

「ここに火ィつけて、あんたらが出てきたところをキャメラでパシャリと。次の日には『帝都を脅かす殺人結社 廃墟にて謎の放火!』とでも見出しを打つつもりやったかな?」

 

 面白おかしく宝耳が講談口調で語ると、天元は冷たく言い放った。

 

「……そんなモンできるわけねぇだろう?」

 

 いつもそうしたことにおいては産屋敷の調整力が働いて、表沙汰になることはない。

 宝耳は何が面白いのかニコニコ笑いながら言った。

 

「それは、いつもそれなりの横槍を排除して、そのように保たれてるいうことですわ。今、このときも」

 

 天元は眉を寄せて、再び宝耳の下に転がる男共を見下ろす。

 

「横槍は菊内(きくない)男爵か?」

「菊内も、こいつらと同じ…穂先の一つに過ぎまへん」

 

 宝耳は訳知り顔に微笑む。

 天元は苛ついたように、顔にかかる髪を振りのけた。

 

「面倒だな。俺はこういうまだるっこしい話は嫌いなんだよ。伯爵にしろ、伯爵に」

「ま、その方がよろしいでんな。ワイはこれから、残った穂先を片付けてきまっさ。あぁ、ソイツらは朝まで動けまへんやろから、放っておいてよろしいで。ほな、失礼」

 

 飄々と言って宝耳は去っていく。軽やかな足捌きはまるで音がしない。天元の耳をもってしても。

 

「お前が一番怪しいんだよ」

 

 天元はつぶやくと、薩見(さつみ)伯爵邸へと歩いていった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 菊内男爵は落ち着かなかった。

 

 もうそろそろケリはついたはずだ。今日来たのが平隊士で、あの年増の女鬼に殺られたとしても、運良く討ち取ったにしても、何らかの成果は出ている頃合いであった。わざわざ報告を受けるまで起きておらずとも、明日の朝に新聞を見ればわかることではあったが、どうも気になって眠れない。

 

 何杯目かのブランデーをグラスに注いでいると、キィとドアが開く。サッとそちらに目をやったが、そこには誰もいなかった。

 

「……何だ…? 執事のヤツめ、ちゃんと閉めていかなかったな」

 

 男爵は相性の悪い執事に毒づきながら、扉までせわしなく歩いて行くと、バタンとしっかり閉じた。普段はしない鍵までしてしまったのは、どこかで怯えがあったからなのかもしれない。

 

「執事さんはえぇ仕事をしてはりまっせ」

 

 暗闇からいきなり声が聞こえて、男爵はウワッ! と声を上げた。無様に尻もちをつく。手に持っていたグラスからブランデーが零れた。

 

「あーあ。勿体ない」

 

 男は暗がりからぬうっと現れると、ぶうらぶうらとこちらに寄ってくる。男爵の側で立ち止まると、持っていたグラスを取り上げ、残り少ない酒を一気に呷る。喉が熱くなったのかカーッと息を吐いた。

 

「相変わらず…ウマイなぁ、向こうの酒は。こんな上質のモンは十歳(とお)以来やで」

 

 男爵は憤慨しながら立ち上がると、荒々しく男からグラスを取り上げた。 

 

「誰だ、貴様ッ!?」

 

 男爵が怒鳴りつけると、男は乾いた声で笑った後、勿体ぶったように答えてくる。

 

「伴屋宝耳と申します。ご相伴の伴に屋号の屋に、宝の耳と書きますねん。どうぞお見知りおきを~」

 

 ふざけた物言いである上に、ふざけた名前だ。どうせ偽名だろうと、菊内男爵は取り合わなかった。驚いて尻もちをついた自分を取り繕うように横柄に尋ねる。

 

「貴様が連絡役か。…まぁいい。それで、首尾は?」

 

 仕事(・・)の報告を待ちわびていた男爵は、その男が執事の案内もなく訪ねてきたことに疑問を持たなかった。所詮、金で非合法なことも請け負うような輩であれば、コソ泥のように屋敷に忍びこむのも訳ないことであろう…。

 しかし、目の前の男はいちいち面倒だった。

 

「まぁ、そう焦らんと。今日は色々と(せわ)しゅうて大変でしたやろ? (はり)でもして、ゆるゆるお聞きあれ…」

「鍼なんぞ要らん! とっとと用件だけ伝えろ!」

「困った人やな…」

 

 宝耳が髪を掻き上げた……次の瞬間には男爵の目の前は真っ暗になった。

 驚きよりも恐怖が全身を覆う。声を上げることもできず固まった男爵に、諭すように優しく宝耳が囁いた。

 

「目ェ見えまへんやろ? あぁ…下手に動かん方がえぇ。どこぞに頭ぶつけて死んでもうたら大変やぁ」

 

 言い終わらないうちに、四肢に力が入らなくなって、男爵はその場にヘナヘナとしゃがみ込んだ。そのまま倒れてしまったのか、顔に絨毯の柔らかな毛が触れている。動けないままでいると、やがて光が戻ってきた。

 宝耳は傍らにある大理石の卓子(テーブル)の上に座って、男爵を面白そうに眺め見ていた。

 

「おぉ、男爵。目は戻ったみたいやな。大丈夫でっか? 時間が思たよりかかったな。年のせいかな?」

 

 またふざけたことを言ってくる。ギロリと男爵は睨みつけた。

 

「とっとと元に戻せ!」

 

 確かに視力は戻ったが、四肢の脱力はまだ続いていた。このままでは、どこに逃げることもできない。

 

「まぁ、大人しゅうしときなさいよ。ワイの鍼はよぅ効きますんやで。昔の古傷……例えば、修行中に痛めた腰なんかにも」

 

 意味ありげに言ってくる宝耳を、男爵は睨みあげる。その目に微かに怯えが浮かんでいた。

 宝耳はニヤニヤ笑っている。

 

「さて。首尾よく終了致しました、とでも言えばえぇんかな? あとは明日の……いや、もう今日か…朝刊を御覧じろ、ということで。まぁ、残念ながら朝刊には特に男爵のお喜びになるような記事が載る予定はございまへん。何せ、あのゴロツキ記者は今頃男爵同様に動けんようになってますさかい。朝になったら、貰ぅた前金持ってトンズラしとるんと()ゃうやろか? あぁ、火付けの方も一緒に」

「……クソが。鬼殺隊士か、貴様」

 

 男爵は忌々しそうに歯噛みして尋ねたが、宝耳は気のない様子で無視している。ホジホジと耳をほじって、ぽんと爪先を弾いた。

 

「さすがにこの年やからなぁ…現役は難しいんですわ。まぁ、ボチボチとやってますけど、最近はなんや貴方(あン)さんみたいな面倒事を抱えることが多なってきましたわ。えぇんやら、悪いんやら」

「フン。大口を利いたところで、所詮は鬼殺隊の人間だ。相手にできるのは鬼程度(・・・)だろう。十二鬼月でもない限り、鬼なんぞ頭の悪いだけの下等の生き物だ」

 

 吐き捨てるように菊内男爵が言うと、宝耳はカラカラと楽しそうに笑った。

 

「ハッハッハッ!! よぅ言うたもんやな。成程なぁ…男爵と呼ばれるまでに出世した男の言うことはさすがに違ゃうもんやなぁ……茂太(もた)

 

 男爵の顔色があからさまに変わる。

 宝耳はニコと笑った。

 

「菊内茂敬(しげたか)なんぞ言うご大層な名前より、馴染みあるやろ? 名字の方も菊内より、加西とかいう……汚い乞食の坊主を引き取って育ててくれた、人のエェ宮司(ぐうじ)の名前の方がしっくりくるんと違ゃうか?」

 

 もはや怯えを隠すこともせず、男爵―――茂太は宝耳を凝視していた。脇は冷や汗でびっしょり濡れている。

 

「お…お…お前……なにを…知って…」

「さぁて」

 

 宝耳はヒョイと卓子(テーブル)から立ち上がり、キャビネットから勝手にグラスを取り出すと、ブランデーを注いだ。

 美味(おい)しそうに口に含みながら、のんびりと茂太に声をかける。

 

「言いたいことあったら言うてみぃや。聞いたるで」

「……なん…だと?」

「これまでのこと、こうなったこと。さぞかし言いたいことが、たーんまりあるんやろ? 言うてみぃ」

 

 ソファに半ば寝転んで、宝耳は器用にブランデーを飲んでいる。茂太はギリッと奥歯を噛み締めた。

 

「貴様らが…タケを殺したんだ…」

 

 低い声で唸るように言う。

 

「タケ? 誰やろ? あいにくと藤襲山で死んで隊士にもなれなんだヤツの名前なんぞ、隊の名簿にも載らへんよってなぁ」

 

 揶揄もあらわに宝耳が言うと、茂太は激憤した。

 

「タケは…竹三(たけぞう)は、お前らに殺されたんだ! 鬼にタケを襲わせて…何が鬼から守るだ! せっかく生き残ったのに…タケは無駄死にさせられたッ!!」

 

 しかし宝耳の様子は変わりなかった。聞いているのかいないのか、手の中でブランデーの入ったグラスをくるくると回している。

 茂太は怒りに震えながら、それでも権高に言い立てた。

 

「フン! 所詮、お前らは鬼を狩るしか脳のない集団だ。今日のことだって、俺のお陰であの女の鬼を討伐できたんだろうが! 感謝されこそすれ、報復を受ける覚えはないぞ!!」

 

 宝耳はグイッとブランデーを呷って、空になったグラスをテーブルに転がすと、パンパンと拍手した。

 

「そやなぁ…ありがとうさん。まぁ、ワイは何もしとらんけど。……ほんで?」

 

 トボけた顔で、まだ促す。茂太はイラっとして吠え立てた。

 

「望みは叶えてやったろうが! お前らは鬼を狩るのが仕事…鬼を狩るしかないんだ! 俺に何ができるものか。下手なことをすれば、薩見もタダでは済まないぞ。当然、産屋敷(・・・)もだ!」

 

 宝耳は一瞬真顔になって、茂太をじっと見つめた。ややって「成程」と頷いた顔には、またさっきまでの微笑が浮かんでいる。

 

「ふん。で、言いたいことは全部済んだんやろか?」

「貴様…産屋敷直属の手下か?」

 

 宝耳は答えず、煙草入れから取り出した葉巻を咥えると、手慣れた様子で火を点けた。

 また茂太の横にあるテーブルの上に腰掛けると、フゥと息を吐く。

 

 フワリと漂ってきた匂いに、茂太は眉を顰めた。

 

「……阿片(アヘン)……か?」

「おや? 世話になったことがあるんかな?」

「馬鹿を…言え…。こんな…モノ……」

 

 つぶやきながら、すぐに視界がグルグルと回り出す。

 脳髄が徐々に痺れ、無意識に涎が垂れ落ちてくる。目が痛いほど染みるのに瞬きができなかった。

 

 茂太は必死に歯を食いしばって宝耳を睨みつけた。

 ただの阿片ではない。いくつかの麻薬が混合されたものだ。こんな濃度のものを平然と吸っている…不気味なこと、この上ない。

 産屋敷はこんな()()をいつから()()()()()のだろう…?

 

「茂太よぅ」

 

 宝耳が呼びかけてくる。

 妙に間延びした声だ。

 

 茂太は歯がカタカタ鳴った。

 寒くないのに、寒い。寒くてたまらないのに、汗が止まらない…。

 だんだんと正常な思考が出来なくなっていく…。

 

「これで首尾よく運べば、お前の復讐は果たせたんかいな?」

「そ……うだ。タケの…仇…。オノレ…産屋敷め…自らの…呪いのために……俺の…弟…を……犠牲に…して……」

「そやなぁ…弟は残念やったなぁ…。育手の師匠にも才能あるゥて言われとったいうのに…あたら若い命を藤襲山で散らしてもうたなぁ…」

「あ…あ…あぁ…タ…ケゾ……」

 

 ろれつの回らなくなってきた舌で、茂太はどうにか弟の名前を呼ぶ。涙が滂沱と溢れて止まらない。

 そうだった。弟は才能があったのだ。自分よりもずっと強かった。早かった。

 だが、自分は……

 

「ああああぁぁぁ!!!!」

 

 茂太は情けなく叫んだ。

 

「俺は無理だ。俺は無理だ。鬼狩りなんて無理だ。無理だ無理だ無理だ無理だ……無理なんだよぉ…」

 

 徐々に四肢の自由が戻ってきていたが、茂太はそのまま絨毯の上で芋虫のように丸く固まって突っ伏した。ヒックヒックとしゃくりあげる肩が大きく揺れる。

 宝耳はその肩を撫でさすってやった。

 

「そうやそうや。無理やったな…せやから逃げたんやもんなァ。あんな厳しい修行なんぞ、やってられん。今もあの時の古傷が痛むことがあるんやもんなァ…」

 

 茂太はまるで地獄で仏とばかりに、顔をガバリと上げると宝耳の膝を掴んだ。

 

「そうだ! 無理だったんだ! 俺には…お、お、鬼を…鬼なんて…怖い……怖い…」

「あぁ、怖いわなぁ。お前さんを育ててくれた宮司のおっさんをめちゃくちゃにして食べよったもんなぁ。怖い思いしたなァ、茂太」

 

 すると茂太の目には、宝耳がその育ての親である加西宮司と重なった。

 

「あぁ、おじさん! おじさん! 怖かったんだよ!! 怖かったよおォォ」

 

 子供のように泣きわめく茂太を、宝耳は無表情に眺めていた。

 最後に深く煙を吸い込んでから、ポイとそのまま葉巻を寝台(ベッド)に投げ捨てた。

 

「茂太ァ」

 

 宝耳が呼びかけると、膝に突っ伏して泣き喚いていた茂太は、あどけなく顔を上げる。笑みを浮かべた宝耳の顔が、まるで人形のように見えた。

 

「弟が藤襲山で死んだと、育手から聞かされた時、お前さん…どない思ぅた?」

「………へ?」

 

 ポカンと、茂太は涎を垂らしたままの口を開ける。

 宝耳はゆっくりと、丁寧に、言って聞かせる。

 

「最初に。悲しいよりも先に、産屋敷憎しとなる前に、お前さん、どう思ぅた? ()()()()にはわかんねんで。()()()()は何でも知っとるんや。こう思ぅたはずや、お前は。『あぁ、自分はやっぱり行かんでよかった』ー…って」

 

 茂太の顔が強張った。

 またガタガタと震えだす。

 汗が異常なほどに額から噴き出して、シャツの襟はびっしょりになった。

 

「宮司が殺された時も。隣で泣いてる弟を慰めながら、お前はこう思ぅたはずや。『自分は生き残れてよかった』…」

「うあ…うあ……うぅ…」

 

 茂太は必死に抗弁しようとしたが、まともな言葉が出てこない。

 目の前にいたはずの懐かしい宮司の姿は既になく、三日月の口をした不気味な()()が、ニヤニヤと笑っているだけだ。

 

「えぇんやで、茂太。当たり前のことや。お前は元から、()()()()の、()()()()()の男なんや…」

 

 年経るに従って肥大化していた茂太の自尊心は著しく傷つけられた。

 しかし涙を流し、鼻水も涎も垂らし、果ては失禁までしている大の男が、何を言うことができたろうか。

 

「茂太よォ…せめての温情や」

 

 宝耳はゆっくりと立ち上がった。

 カチャリ、と刀の鯉口を切りながらつぶやく。

 

「弟殺された哀れな兄として、逝かせたるわ…」

 

 抜き打ちに一刀。

 縋ろうと手を伸ばしていた茂太は、そのまま仰向けに倒れた。

 

 茂太の―――菊内男爵の開ききった目が、信じられないように虚空を見つめていた。

 

 宝耳はその頭をガシリと掴むと、首に刃を当てた。

 

「さァて。お前さんの利用価値は今からやで…男爵」

 

 

 

<つづく>

 





次回は2022年7月23日更新予定です。


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第七章 宴のあと(ニ)

「終わったぜ、伯爵」

 

 まだ夜明けまで時間はあったが、惟親(これちか)は一睡もせず起きていたので、すぐに薫を抱えた天元を迎え入れた。

 気を失っている薫を見て、一瞬蒼白になりかけたが、すぐに天元が溜息まじりに話してくれた。

 

「死んじゃいねぇよ。ちょいとばかし、面倒くせぇ鬼婆ァに糞味噌に言われただけのこった。体の方は(あばら)がいかれているかもしれねぇから、ま…頼まぁ」

 

 正直なところ、薫の怪我の大半は鬼によるものというより、天元の技を受けたことによるものだろう。自分がうっかりと血鬼術に(はま)ってしまったことも含めて、どうにも借りをつくったようで、天元としてはバツが悪い。早々に退散したかったが、当然ながら惟親は呼び止めた。

 

「やはり鬼は、明見(あけみ)千佳子(ちかこ)様…でしたか?」

「……俺は知らねぇよ。やたらとお喋りで、やたらとピアノの上手(うま)い鬼婆ァがいたってだけだ」

 

 惟親は黙り込んだ。

 ピアノがうまいかどうかなど、天元は気にするたちではない。にもかかわらず、上手だと言わしめるのであれば、おそらく明見侯爵元夫人である千佳子に違いない。

 

 ベッドに寝かしつけた薫を女中に頼んで、惟親と天元は部屋から出た。

 

「鬼は滅殺した。そこは問題ねぇ…それよりも出てきたらあの野郎がいたのは、アンタの差し金かい?」

 

 惟親は眉を寄せた。「あの野郎?」

 

「この前のでけェ鼠だよ。ブンヤだとかゴロツキだとかの口を封じて、まだ仕事があるとか抜かしてどっか行きやがった」

「仕事…?」

 

 惟親は困惑してつぶやいた。

 天元の言う鼠が宝耳(ほうじ)であるのは間違いないだろう。

 しかし、惟親は実のところ宝耳の行動の全てを把握してはいない。鬼の生け捕りや、先物取引に関しての情報収集など以外は、事後報告がほとんどだ。

 

 天元は難しい顔の惟親を見て、軽く息をもらして腕を組む。

 

「アンタらが鬼殺隊の仕事だけをしているわけじゃないのは知ってるし、こっちに面倒がかからないなら、俺が何を言うことでもないがな…正直、あの男はちょいとばかし伯爵の手には余る代物(シロモン)だと思うぜ、違うか?」

「………」

「俺の昔の稼業のヤツらの中には、二つ名で呼ばれるのがいた。それこそ鼠だとか、蛇だとか、蜂だとか…。俺に言わせりゃ、ヤツは百足(ムカデ)だ。猛毒の百足だよ。使()()するには、少々性質(タチ)が悪いやつだ。わかってて使おうってんなら、せいぜい、信用しないことだな」

 

 さすがに元忍だ…。

 惟親は天元の慧眼に感心すると同時に、その度量と信頼感に縋りつきたくなった。

 

「もしヤツが鬼殺隊に対して…お館様に対して、害為すモノなら……音柱様は始末して下さいますか?」

 

 天元の顔が無表情に固まる。

 惟親はハッとなってすぐに撤回した。

 

「失礼を申し上げました! お忘れ下さい!」

「……伯爵」

 

 天元は眉を寄せて、鬱陶しげに髪を掻き上げた。

 

「人を使い捨てする人間ってのは、どんな時代でもいるもんさ。俺もそういうヤツを嫌ってほど見てきた。アンタがその部類の一人になるってんなら、もうちっと悪人になるんだな。覚悟を人任せにするもんじゃない」

「……申し訳ございません」

 

 惟親はただただ頭を下げるしかなかった。

 自分よりも二十近く年下だというのに、諭されるとは…情けない話だ。

 

「とにかく。伯爵にとっちゃ不本意だろうが、お嬢さんは一応、任務は遂行したから、除隊の話はナシだ。ま、しばらくは休養する必要はありそうだがな」

 

 天元が話を変えると、惟親はこれにも溜息をつきながら頷く。

 

「音柱様がそう仰言(おっしゃ)るのであれば…」

「ただなぁ…ちょいとばか気にかかる。馴染み過ぎるんだよ、コイツ」

「馴染み…すぎる?」

「今回の鬼がちょいとばか特殊だったのもあるが……血鬼術に馴染み過ぎる」

 

 言いながら天元が思い出すのは、自分の記憶を基にした幻術の中で、薫が()()()()()()()ことだ。

 おそらく千禍蠱(チカコ)は薫の姿を天元にそのように見せて、相討ちさせようとしていたのだろう。実際、それは成功した。

 だが、ああまで幻影に馴染んでしまうことが天元には腑に落ちなかった。

 

 反対に薫の記憶によって幻影が張り巡らされた時には、天元は千禍蠱からの干渉を感じつつも退けていたのだ。

 でなければ、もしかするとあそこで不死川実弥に()()()()()()()のは天元であったかもしれない。

 二重の意味でゾッとする。

 

「なんだって俺が不死川にならねぇといけねぇんだよ……」

 

 ハァァ、と深い溜息とともに愚痴が出る。

 惟親がキョトンとした。

 

「は? 不死川? 新しい風柱様がどうかしましたか?」

「いや…なんでもねぇ」

 

 天元はそれ以上考えないことにした。考えたところで、あれは幻術でしかない……はずだ。

 

「とにかく、よく寝かせとけ。それと血鬼術のせいで、ちょいとばかし妙なうわ言をぶつくさ言うかもしれねぇが、気にするな」

「はぁ…?」

 

 惟親はいきなり落ち着きない様子の音柱に首をかしげつつも、了承する。

 

 美しい朝焼けの中、天元は三人の嫁が待つ家へと帰っていった。

 

 惟親からすれば若者といって差し支えない年齢であるというのに、なんとも頼もしい後ろ姿だ。

 柱という人種は、年齢を凌駕する人格を形成するものなのだろうか。絶え間ない修練と実戦で培った精神力が、彼らをして最強の剣士たると同時に、上に立つ人間としての包容力を身に着けさせるのだろうか…。

 

 年をとっても全く変わらない自身を省みながら、惟親は何度目かの溜息をついた。

 

 ふと見れば、西の空に黒く煙が上がっている。

 火事だろうか。確かあちらは……

 

菊内(きくない)の屋敷ではないか…?」

 

 惟親は眉を寄せた。

 

 ―――――まだ仕事があるとか抜かしてどっか行きやがった…

 

 もし、あれが菊内男爵邸の火事であるなら、十中八九、宝耳が関わっていると確信できる。

 

 惟親は軽く口笛を吹いた。

 鴉がフワリと飛んできて、木蓮の木に止まった。

 

清樹(せいじゅ)、宝耳に来るように伝えてくれ」

 

 首に水色の組紐を巻きつけた鴉は、すぐさま飛び立った。

 

 鴉からの伝言をどこで聞いたのか…。

 宝耳がやって来たのは、丸一日が過ぎた翌朝のことだった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「やれやれ…忙しいのに呼び出されて来たったちゅうのに…。どないした? 伯爵。暗い顔して」

 

 惟親は憮然とした顔で宝耳に新聞を投げつけた。

 

「菊内男爵邸は火事だそうだ。菊内男爵の煙草の火の不始末で…」

「へぇ…さよか」

 

 宝耳はシガレットケースから煙草をとると、火を点けた。

 うまそうに吸いながら、足元の新聞を拾ってパラパラとめくる。

 菊内邸火事についての記事で止まると、フッと笑みを浮かべた。

 

「ハハハ。菊内男爵は不眠症で薬を常用。火事に気づかぬまま死亡した模様…ってか。成程、そういうことで一件落着したわけやな」

 

 惟親はダンッとテーブルを叩いた。

 

「説明しろ」

 

 宝耳はプカァと煙を吐いて、惟親を面白そうに眺める。

 

「聞いてどないすんねや? 今更どないしようもない」

「説明しろ。私には…お前のやったことに対して、知っておく必要があるんだ!」

 

 宝耳はニヤリと嗤った。

 

「無理せんでもえぇのに」

 

 それから新聞をテーブルの上に放り出す。

 

「何からや? 菊内の正体か?」

「菊内の正体、それとこの任務の裏にあった全てだ」

「ふん…(なご)なるな。ま、えぇわ…菊内の正体は、元鬼殺隊士…でもないか。鬼殺隊士を目指していた少年剣士…いうとこかな?」

「なんだと!? 鬼殺隊の関係者だったのか!?」

「関係者言うほどのモンやないやろ。よぅある話や。水の育手の元で修行しとったけど、辛ぅなったかして、逃げ出しよったんや。育手も『無理や』思ぅて、追いかけることもなく、そのまま放っといた。一方、育手の元に残った菊内の弟は、兄と違って()()才能もあったんやろ。ちゃんと修行して、最終選別まで行った。ただ、()()程度の実力では藤襲山では生き残れんかったんやろなぁ。鬼にやられてボロボロになった弟の死体を見た兄は…()()()、鬼ではなく、鬼殺隊に恨みを持つようになった」

 

 惟親は黙り込んだ。

 菊内男爵の恨みが歪んだものとも思えない。それは弟を失った兄としては、正当な怒りだ。

 

 宝耳は先を続けた。

 

「兄は恨みを抱きながらも、生きていくしかなかった。横浜の貿易会社に紛れ込んで、商売の才能があったかして、やがて一財産築くまでに至った。その後に先代菊内男爵の借金の肩代わりやら、男爵の出戻り娘に気に入られて婿入りするのはアンタも知っとるやろ?」

「つまり…今回のことは、菊内男爵の復讐だったということか?」

 

 沈鬱な顔で言う惟親を見て、宝耳はククッと喉を鳴らした。

 

「まさか。本気でヤツが復讐を考えとったんなら、もっと前にいくらでもやりようはあったやろ。お前を血祭りにあげることだって、適当な隊士を襲って殺すことかて出来たはずや。夜会開いて女を鬼に襲わせる? 復讐にしては、随分まだるっこしいことやな…。所詮、弟の話なんぞヤツにとっちゃ自分を正当化できる、(テイ)のいい隠れ蓑や」

「じゃあ…やはり…」

 

 惟親は重苦しく黙り込むと、宝耳はピクリと眉を上げた。

 

「予想はついてたワケやな。さすがは腐っても薩見(さつみ)一族の末裔」

「黒幕は…西條(さいじょう)閣下か」

 

 苦々しく惟親が言うと、宝耳は軽く手を打つ。

 

「御名答。侯爵閣下が菊内をうまいこと籠絡したんか、菊内の方が売り込みに行ったんかは定かやないけど…ま、互いに上手い汁を吸えると思ぅて利用したんやろ」

 

 惟親は唇を噛み締めた。

 

 おそらく今回のことは、菊内男爵と西條侯爵二人の企みであったのだろう。

 鬼を使って令嬢達を失踪させ、鬼殺隊を出向させて、表舞台に引きずり出す。そうして産屋敷家の持つ絶対的な支配力に影響を及ぼそうとしていたのだ。

 

「目的は、産屋敷の財産か?」

 

 惟親が吐き捨てるように言うと、宝耳はフワーッと煙を吐き出して首肯する。

 

「いつの世も、意地汚い人間の考える動機は()や」

 

 惟親は深く嘆息した。

 鬼殺隊の存続と引き換えに産屋敷を脅す気だったのか、それとも鬼殺隊自体に介入して産屋敷の影響を減退させることで、(カネ)が自分達に回ってくるとでも思ったのか…。

 

徳川(トクセン)の世から…いや、もっとずっと前から、この手の横槍はあったやないか。公儀や政府なんていう時の権勢者からしたら、鬼殺隊にしろ産屋敷にしろ、内実が掴みにくい分、煙たいモンなんやからな。今回のことも侯爵らだけの悪知恵なんかどうか…。ま、御一新この方、忙しいてこっちにまで目の向くことなかったのが、いよいよ平和になると、余計なことを考える阿呆が出てきよるな」

 

 宝耳の言う通り。

 いつも、鬼殺隊と時の権勢とは、互いの領分を侵さない不文律の下、付かず離れずの状態でやってきた。だが長い歴史の中では、たまにこうした均衡を破る者が出てくる。

 

 今回は西條侯爵と菊内男爵の関与だけが明らかとなったが、惟親が毎日のように顔を合わせる人々の中にも、彼らに(くみ)したか…あるいは彼らを利用した人間がいるのかもしれない…。

 

「……そのようだ」

 

 重々しく頷きながら、惟親は腹を押さえた。

 さっきから胃が痛む…。

 

 宝耳はあきれたように溜息をついた。

 

「やれやれ。困ったことやなぁ。産屋敷の目付であり、()()()の薩見の長がこれでは。時の権力者相手にアメとムチでうまいこともっていくのは、ご先祖からの十八番(おはこ)やろ」

「……時代が違う」

「ハッハッ! 先祖が泣くな。ま、お前さんが動けん分、ワイが動くしかない」

「お館様は…ご存知なのか?」

「知らんワケないやろ。ワイは慈善でやっとるんと()ゃうんやで」

「………殺したのは、菊内男爵だけか?」

 

 惟親が充血した目で睨みつけると、宝耳は不思議そうに聞き返す。

 

「なんや、伯爵。殺人の多いか少ないかでお前さんの罪悪感も変化するんか?」

 

 ギリッと惟親は奥歯を噛み締めた。握りしめた拳が震える。

 

「男爵邸には、使用人も多い。無駄な人死を作る必要はないだろう!」

「心配せんでも、よっぽどのノロマでもない限り、火事が起きたんやから逃げとるやろ。一応、火事やー、起きィーて、叫んでから出て来たったがな。新聞にも菊内以外の死亡者はおらんて書いとるやろ」

「そうか」

 

 ホッと惟親が胸をなでおろす間もなく、宝耳は付け加える。

 

「ただ、まぁ、菊内の娘の伊都子(いとこ)やったか? あれは行方不明になっとるけどな」

 

 薄笑いが不気味に見える。

 惟親が暗い目で(じつ)と見つめると、宝耳は肩をすくめてみせた。

 

「ちゃんと家から連れ出したがな。煙吸って、気ィ失っとったけど」

「それで?」

「それで? お前の先祖がやってきた通りにしただけや」

 

 惟親は蒼白になって唾をのみ込んだ。

 つまりそれは、藤襲山に彼女を置いてきた…ということだ。

 

「昨日…来なかった理由は……それか」

 

 声を震わせて尋ねる惟親に、宝耳は返事する代わりに煙を吐く。

 自分の前を漂う紫煙を、惟親は陰鬱に見つめた。

 

 過去において、産屋敷家や鬼殺隊に介入しようとしてきた者に対して、惟親の先祖は直接的な方法をとることは少なかった。

 それは鬼殺隊という組織が『鬼から人を守る』ことを標榜していたせいもある。

 人を守ると言っておいて、その()を直接殺すことは躊躇(ためら)われたのだろう。そのために、彼らの対処方法はある意味凄惨であった。

 つまり()()()()()()()()、産屋敷家に対して()()を働いた人間を、藤襲山に送り込んだのだ。

 丸腰で鬼の巣窟に放り込まれた彼らの末路は想像に難くない。

 

 伊都子もまた、父親からの入れ知恵とはいえ、鬼を利用して自らの鬱憤を晴らすという子供じみた行為の代償を支払わされたわけだ。

 

 先祖の行いを初めて知った時、惟親は嘔吐し、しばらく何も食べられなくなった。

 いくら人を殺していない、とは言っても、鬼に人を殺させているという点で、何が違うというのか。とんだ詭弁だ。……

 だが、藤襲山に弱い鬼を集めて、隊士達の取捨選択(さいしゅうせんべつ)を行っている時点で、鬼殺隊そのものですら、鬼を利用していることに変わりない。

 

 忸怩たる思いで項垂れる惟親の心を見透かしたかのように、宝耳は軽い調子で言った。

 

「長い歴史の中で、人が鬼を上手いこと使ぉて儲けるなり、権力の道具にしてきた例はいくらでもあったやろが。つい先ごろで言うなら、八丈島の鬼もそやろ」

 

 惟親の脳裏に、いつも白蛇を連れ、色違いの目をした少年の姿が浮かぶ。

 彼は少しずつ回復すると、自分の従姉妹のことを惟親に頼んだ。自分を生贄にしようとしていた一族の生き残りであり、唯一の血族。

 

 数ヶ月前、あちらに行くついでに宝耳に様子を見てくるよう頼んでいたことを思い出す。

 

「伊黒一族の…あの生き残りの少女は……」

「ハッハッ! もう少女なんちゅうモンやないわ。ふてぶてしいおっ母さんになっとったがな。一族の集めた金銀財宝を我が物にして、たいそうな羽振りやで。良かったな。鬼から助けて、幸せに暮らしとるで」

「………」

 

 惟親はまた苦いものを呑み込む羽目になった。

 どうして人というのは平等でないのだろう? 苦しい思いをしてきた分、彼に平穏が与えられるべきではないのか。……

 

「なんや。その顔。気に食わんのか?」

 

 宝耳が尋ねると、惟親は苦々しくつぶやいた。

 

「……一方で、未だに苦しんでいる者もいる……」

「気に食わんのやったら、殺したろか?」

 

 まるで鶏の首をひねる程度のことだと言わんばかりだ。

 惟親はそれまで溜まった苛立ちを吐き出すように怒鳴りつけた。

 

「簡単に殺すとか言うな! 聞きたくないんだ、私は!!」

 

 しかし宝耳はまったく動じない。

 

「何やぁ、惟親…今更。だいたいなぁ、殺すの自体は簡単やけど、面倒なんは死体の処理なんやで。その点、鬼はぺろりと飲み込んだら終わりや。楽なモンやなぁ~」

「………」

「ま、八丈島(あそこ)やったら、殺して海にでも沈めといたら、あとはフカが食いよるやろから、大した手間やないか」

「……やめろ!!」

「本気にしなや~、伯爵。顔が青ざめとるで」

 

 宝耳が惟親の()()な性格で遊ぶのはいつものことだった。だが、今日はさすがの惟親も血の気が引くことばかりを聞かされて、正直、気分が悪い。

 

 宝耳は小さくなった煙草を灰皿に放り投げて、立ち上がった。

 

「まぁ、これでしばらくは静かにしとるやろ。あちらさんがこっちに直接手出しでけへんように、こちらも軽々に手は出せん。しかし、()()は据えとかんとな」

「それで…菊内男爵を見せしめにしたのか? わざわざ放火までして…」

「放火程度で、海千山千の古狸共が震えるとでも思うか? ()ゃう違ゃう違ゃう違ゃう、惟親。見せしめ言うからには、今後一切、二度と、こんな不埒なことを考えんように…もし考えた時には自分がどうなるのか……わかりやすぅ教えたらんと。ワイが西條閣下に()()()んはなぁ……」

 

 宝耳は詳しく言いたそうであったが、惟親は遮った。

 

「もういい。………私の方から西條に言うべきことがあるか?」

「そうやなぁ……まぁ、男爵のことを()()()()()()()()()()()は認めてやってもえぇんと違ゃうか。あぁ、そや…」

 

 しばし思案した後に、宝耳はにっこり笑った。

 

「奥方のご感想は? とでも聞いてもらえると……多少、肝が冷えることやろな」

 

 実のところ、宝耳の()()()を受け取ったのは西條侯爵夫人の春子だった。

 彼女は自分の婚約指輪を()()()()()()()()に卒倒し、半月近くヒステリー状態が続き、とうとう首都から遠く離れた山村の療養所に送られた。

 惟親がそのことを知るのはまだ先のことだったが。

 

「事情聴取はこんなトコですやろか? ほな、ワイはこれで失礼しまっさ、伯爵。あぁ、例の()()()の調査、頼みまっせ。そっちの方がお館様には重要なんで」

 

 足取りも軽く…実際に音もさせずに、宝耳は去っていく。

 

 惟親は心底疲れ切って、ソファに横たわった。

 

 

 ―――――使役するには、少々性質(タチ)が悪いやつだ。わかってて使おうってんなら、せいぜい、信用しないことだな…

 

 

 先日言われたばかりの天元の言葉が響いてくる。同時に、

 

 

 ―――――使役するんだよ。死ぬまで、ね…

 

 

 柔らかいまま、感情を凍りつかせた聡哉(さとや)の声も。

 

 一度も会ったはずがないのに、二人が同じ言葉を使ったことに、惟親は昨日少し驚いていた。

 

「死ぬまで……か」

 

 つくづく自分の弱々しい精神が惨めで嫌になる。

 

 聡哉も、惟親からすれば子供とも言える耀哉ですらも、産屋敷の当主として呪いを享受し、鬼殺隊のお館様として隊士の死を迎える責務を果たしているというのに。

 

 

 ―――――もしヤツが鬼殺隊に対して…お館様に対して、害為すモノなら……

 

 

 自分の言葉に惟親は嗤った。

 そんなことは有り得ない。絶対に、宝耳が鬼殺隊を…産屋敷を裏切ることなど有り得ない。そもそも産屋敷にも鬼殺隊にも忠誠がないのだから。

 ()にとって、命の源は()()そのもの。それを知っていて使()()するのが、惟親の役割。

 それなのに、あんな言葉が出るなど……

 

「信用はしない……信用はしていない…」

 

 自分に言い聞かせるように惟親はつぶやいた。

 

 

 

<つづく>

 





次回は来週更新予定です。


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第七章 宴のあと(三)

「ゲッ!!!!」

 

 思わず大声が出て、天元は咄嗟に口を押さえる。

 目の前には、明らかに困惑しつつ苛ついた様子の風柱・不死川実弥が立っている。

 

 胡蝶しのぶが蟲柱に就任したことを周知させるため、産屋敷邸に柱達が招集された。

 天元はある程度は覚悟していたのだが、襖を開くなり鉢合わせしてしまい、思わず口から素直な感想が出てしまった。

 

「なんだよ…オッサン」

 

 年長の、柱としても結構先輩な天元に対してこの言い様。

 ふてぶてしいことこの上もないのだが、不思議と天元は不死川実弥のこの態度について腹が立ったことはない。むしろ、面白がってしまう。

 

 だが、今はまずい。

 余計なことを言い出しそうで、自分の性格が怖い。

 

「いや、なんでもない…」

 

 いつも何かしら自分をからかってくる音柱が、珍しく矛先をあっさり収めたので、実弥は眉を寄せた。

 

「なんだ? 言いたいことあるんなら言え」

「………」

 

 天元は引き攣った笑みを浮かべた。

 

 言いたいことは山とあるが、聞きたくもねぇんだよッ―――とは、本人に言うワケにもいかない。藪蛇だ。ここは穏便に済ませて、素知らぬ顔でとっとと家に帰るのが一番なのだ。

 

 幸いなことにお館様が現れて、胡蝶しのぶの蟲柱就任を告げ、しのぶから流暢な挨拶があった。

 どこかの誰かさんのようにお館様相手に喰ってかかるような阿呆なことはしない。

 

 つつがなく儀式が終了して解散、となった後に、間の悪いことに廊下で天元に声をかけてきたのは薩見(さつみ)伯爵だった。

 今日は、執事として産屋敷家に詰めていたらしい。

 

「音柱様、しばらくぶりでございます」

 

 例の鬼退治の後、二週間ほどが過ぎている。

 

「おぅ…伯爵」

 

 普通に薫の調子はどうか、と尋ねたかったが、背後から近づいてくる実弥が気になって、天元はぎこちなく相槌を打っただけだった。

 

「先立っては、お世話になりました。とりあえず、あれで落着致しました」

「う…ん。そうか、良かった」

 

 上の空の天元を訝しみながら、惟親(これちか)は自分の横を通り過ぎる柱達に丁寧にお辞儀する。

 

「柱の皆様におかれましては、いつも隊務精勤のこと上々至極にございます」 

 

 惟親ら産屋敷家の使用人の言うことは、たいがいこの言葉なので、柱達は特に気にも留めない。

 皆、軽く頷いて通り過ぎていくのを見送った後で、惟親は天元に向き合った。

 

「ところで最近、音柱様の奥方様が度々、我が家にお()でになるのですが…」

「へ? あ…そう、だったかな?」

 

 天元はあの後から遠征に行っていたので、気にかけている暇はない。そういえば、そんなことを須磨あたりが喋っていたような気もするが…。

 

「はい。薫さん…あ、いや森野辺くんと仲良くなったようで…色々と面倒を見てくださっておられます」

 

 その名前を聞くなり、惟親の背後で足の止まった実弥に、天元はあーあ…と内心で嘆息する。

 案の定、振り返った顔はわかりやすく動揺していた。

 自分を睨むように見つめてくる実弥の視線を、天元はシラーっと逸らした。

 

「それで、奥方のお一人が音柱様が着用になられた燕尾服を是非引き取らせてほしいと仰言(おっしゃ)ってまして。まだ使うこともあると思うのでこちらで保管しようと思っていたのですが、ご入用でしたら預けておきましょうか?」

 

 惟親は本当にどうでもいいことを言ってくる。

 天元としては、その背後から迫ってくる威圧感をどうして感じられないのかが不思議だ。

 

「あ? あー…どっちでも……」

 

 適当な返事をすると、惟親は人のいい笑顔を浮かべる。

 

「奥方達も、音柱様のあの姿には惚れ惚れなさっておいででしたからね。では、預けておくことにします。そういえば、一度写真館に行きたい、とも仰言っておいででしたよ。知り合いの腕のいい写真師を紹介しておきました。今度、お暇な時でも四人で行かれるとよろしいです。奥方達のドレスは家内のをお貸してもよろしいですし、仕立てるおつもりであれば……」

「あぁ…いや、うん。また今度な、伯爵」

 

 思わぬ長話につかまった天元は早々に逃れようとしたが、惟親は決定的なことを言ってくる。

 

「あ、音柱様。森野辺くんですが、なかなか回復が思わしくなくて…」

 

「オイ!」

 

 とうとう実弥が惟親の肩を掴んだ。

 

「はい?」

 

 惟親は振り返ってギョッと声を詰まらせた。

 元からあまり人相のよろしくない風柱が、今や鬼の形相で惟親を睨みつけている。

 

「森野辺ってのは、森野辺薫のことかァ? 回復がよくねぇってのは…どういうことだァ?」

「へ…いや…あの……」

 

 へどもどと言いよどむ惟親に、天元は同情しつつ溜息をついた。

 

「やめとけよ。森野辺薫は今、伯爵の家で療養中なんだからな」

「療養? アイツ、また具合悪くしてんのか…」

 

 実弥は軽く眉を寄せると、惟親をジロリと見た。

 

「で?」

「はい? あ…いえ、少々回復に時間がかかっているので、蝶屋敷での養生を勧めたのですが、本人がなぜか遠慮していまして。音柱様のお屋敷ですと蝶屋敷からも近いので通えますし、奥方様達も是非にと仰言っておいでですので、移って……」

 

「駄目だ!」

 

 なぜか天元でなく、風柱が反対してきたので惟親はますます困惑した。

 天元の方を見ると、頭を抱えながらもどこか口元が笑って見える。

 

「おいおい、風柱。随分、お怒りだな。心配なのはわかるが、ちーたぁ落ち着け」

「うるせぇ。怪我してんなら、とっとと蝶屋敷に行きゃあいいだろうが。なんでテメェん()に行くんだよ」

「そりゃあ、俺にも責任があるからな。今回の森野辺の怪我は、ほとんど俺の技をくらったせいで肋折れたのが原因だし」

「はぁぁ!? テッ…メェ…何してんだッ」

 

 一気に怒りがこちらに向けられるのが、天元はむしろ面白かった。

 なんともわかりやすい男だ。悪戯心がムクムクとわいてくる。

 

「仕方ないだろ。血鬼術で妙な幻影を見せる鬼婆ァにとっ捕まっちまったのさ。俺だって、森野辺薫とわかってりゃ技なんぞ放つワケない。しかし実際に怪我させた事実はあるからな…伯爵からの頼みもあるし、嫁も賛成してるんなら俺が拒否する理由はねぇわな」

「テメェ、元忍者だろうが! 何を幻術なんぞに惑わされてんだよ!! テメェの技なんぞ受けて、あいつがまともでいられるわけがあるか! とっとと隊から外せ」

「それは…除隊させろ、ということですか?」

 

 間から惟親が恐る恐る口を開くと、天元と実弥の二人から睨み据えられる。

 

「そうだ!」

「そんなもん、なんで風柱(コイツ)が勝手に決められるんだよ」

 

 惟親は亀のように首をすくめた。

 どうして柱二人から責められているんだろうか? 自分は薫の話をしただけなのに…。

 

「すみませんが…風柱様は、森野辺くんとお知り合いなのですか?」

 

 惟親がこの問答が始まってからずっと疑問だったことを聞くと、実弥は憮然として即答する。

 

「同門だ」

「あぁ、なるほど。そういうことですか」

 

 惟親はようやく得心して頷いた。

 妹弟子のことであるので、心配をしているのだろう。

 

 しかし、天元はフッと笑った。

 

「同門ねぇ。それだけか?」

「………なんだと?」

 

 実弥の顔がまた険しくなる。

 

 天元はチラと惟親を一瞥した。

 意図を感じて、惟親は頭を下げると辞去を告げた。

 

「それでは…私はまだ仕事がございますので」

 

 惟親が去った後、二人だけになると実弥はますます感情を露わにする。

 

「テメェ…さっきからなんだ?」

「なんだ? なんか気に障ったか?」

「とぼけてんじゃねぇぞ、オッサン。今日は最初(ハナ)っからおかしいと思ったら…アイツのこと、黙ってたな」

「………ふん」

 

 天元はクスッと笑みを浮かべると、腕を組んで実弥を見下ろす。

 

「なんだって俺がお前にいちいち森野辺薫のことでご注進しなきゃならねぇんだよ。どういう仲だ、お前らは」

 

 あけすけに天元が問うと、実弥の顔は強張った。

 

「妹弟子の心配…にしては、妙にこじれた怒り方だよな。除隊させろとは…本人の意思も無視して」

「アイツが…足を引っ張るからだ…」

「お前ねぇ…言ってもあのお嬢さんだって丙だろ? そこまでひどくもねぇよ。確かに少々、気になるとこはあるけどな…」

「なに?」

「気になるか?」

 

 実弥はギリッと歯軋りした。

 その様子を見ながら、天元はいよいよ意地の悪い自分に酔ってくる。

 

「今回の任務は色々と面倒でな。正直、あのお嬢さんじゃないと出来ないことも多かったんだ。例えばドレスなんての着て、手に手を取って踊るとか……男と」

「………」

「なかなか綺麗だったぞ、あのお嬢さんのドレス姿は。さすがは元令嬢だけあって、立ち居振る舞いが自然だった。あの格好でピヤノなんぞ弾いて、そこらにいた男共は全員魂持ってかれてたなぁ…」

「………テメェ…いい加減にしろ」

 

 さすがに天元が面白がっているのを感じたのだろう。実弥は低い声で唸るように威嚇した。

 これ以上つついたら、手が出てきそうだ。今はお館様のお屋敷内ということで、この男も最大限に堪えている。妙なところで常識があるのだ。

 

「ま、あのお嬢さんがどこで療養しようがどうでもいいが…俺の家が嫌だとか抜かすなら、お前が引き取れよ。お前ン()からも近いだろ? 蝶屋敷」

「ハアァ!? フザけんなよ、オッサン! なんで俺の家で…」

「妹弟子だろ?」

 

 天元はツイと実弥の胸を突く。

 

()()()()()()だろ。それだけだろ?」

「ッ…!」

 

 実弥の耳が赤くなるのを見て、天元はニヤリと笑って続ける。

 

「不甲斐ない妹弟子の容態を心配して、自分の屋敷で面倒見るくらい普通のことだし、()()()()()()()()()()()……だろ? 療養が終わったら、回復訓練に付き合うことだってできるもんな」

「………無理だ」

 

 珍しくうろたえた様子で実弥がつぶやく。

 天元は首を傾げた。

 

「なにが?」

「………アイツが許さない」

 

 天元はしばらくまじまじと実弥を見た後、ブッと噴き出した。

 

「笑うな! オッサン!」

 

 実弥が怒るのが、ますますツボに入って、しばらく天元は大笑いした。

 

「お前らって…どういう仲なんだよ、ホントに」

「うるせぇ…」

「ハイハイ。もうこれ以上は何も言わねぇよ。最初(ハナ)から関わる気はなかったしな…。ま、気になるなら様子だけでも見に行け。まだしばらくは伯爵の屋敷で休んでるだろうからな」

「………行かねぇ」

 

 実弥は踵を返して足早に去っていった。

 

 やれやれ…と、天元は軽く溜息をもらす。

 

 そんなつもりもなかったのに、結局、余計な口出しをしてしまった。

 どこかで、あの天邪鬼のクソガキを少々懲らしめたい気持ちがあったのだろうか。

 

 

 ――――望んだって、あの人があんなことを言うものか!!

 

 

 血反吐を吐くかのような薫の叫び。

 

 その通りだろうと天元も思う。

 しかし、ツンケンした言葉とは裏腹のあの態度。

 まったく、どうにも不器用で見てられない。

 

 天元は今日、明日あたり薩見邸を張ってやろうかと思った。

 必ずヤツは来るだろう。だが…

 

「ま、それやっちゃ、正真正銘、出歯亀親爺になっちまうな…」

 

 肩をすくめると、ぶらぶら歩き出した。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「ホントーに、ごめんねぇ。天元様のせいでこんなになっちゃって…」

 

 奈津子に案内されてやって来た須磨は、薫の顔を見るなり飛びつくように謝ってきた。

 

「あ…いえ…」

 

 薫があわてて起き上がろうとするのを、()()()がさすがの身のこなしで素早く止める。

 

「起きなくていいよ! 肋折れてんだろ? 天元様の技をくらったんだ…それくらいで済んで良かったよ」

「……はぁ…」

 

 薫がきょとんとしていると、一番最後に入ってきた雛鶴がニコリと笑った。

 

「骨折に効く薬湯を持ってきたの。食事の後で、煎じてもらって飲んでね」

 

 どうやら天元は薫の怪我が自分の技によるものだと、妻たちに話したらしい。これまでの天元の戦歴の中で、そんな勘違いは初めてのことで、相当に気にしていたようだ。

 天元がハッキリ言わないまでも、態度から妻達は感じ取って、忙しい夫に代わって謝罪に来たらしい。

 

「そんな…血鬼術のせいですから…」

 

 薫は恐縮した。

 だが、ふと考える。

 

 薫の記憶から作り出された幻影。

 だとすれば、薫が見たあの空間もまた天元の記憶から作り出されたものなのだろうか。

 

 暗い森の中。

 黒装束で現れた須磨達。

 薫と対面した天元が放った言葉。

 

 

 ――――そんなに俺を殺して…完璧になりたいのかよ!?

 

 

 あれは、どういう意味なのだろう?

 一体、誰に向かって言ったものだったのだろう……。

 

 あれが過去に起きたことであるなら、妻達が知っている可能性は高い。

 

「あの……」

 

 聞こうとして薫は逡巡した。

 

 自分だって、見たくもない過去を見せつけられたのだ。しかも勝手に(いじ)られて。

 天元の幻影もまた、天元にとって一番触れられたくないものである可能性がある。

 

「なぁに?」

「どうかしたかい?」

 

 須磨と()()()が尋ねてきたが、薫はしばし言い淀んで、結局、その事に関しては口を噤んだ。

 

「いえ…あの音柱様にお伝え下さい。任務であれば、想定外のことも起こりうるのだから、気になさらないようにと」

 

 実のところ天元は妻達に、自分にかけられた幻影のことを話していた。

 弟妹を殺したあの日が再現されたことも、薫が弟の姿になって現れたことも。

 

「いきなり訳の分からねぇことで怒鳴られて、アイツも面食らったろうな。どういうことかと訊かれりゃ、答えないわけにもいかねぇだろうな……」

 

 妻達に天元はバツ悪そうに言ったものの、その顔は暗かった。

 天元にとってその記憶がまだ生々しく、痛みを伴うものであることを妻達は全員わかっていたので、実のところ薫がどういう態度を取るのか観察していたのだ。

 

 三人は素早く目配せした。

 どうやらこのお嬢さんはまともな人間だ、と三人各自で安堵する。

 

「まぁね。柱になってからは単独任務が多かったから、久しぶりの共同任務でちょいとばかし調子が狂っちまったのかもしれない。でも、ま、天元様の技を食らってこの程度で済んでるんだから、お嬢さんもなかなかやるんだね」

 

 ()()()は薫を褒めるついでに、それとなく天元を持ち上げる。

 

「それより、ピアノ弾けるって、ホント?」

 

 須磨がいきなり尋ねてきた。

 

「え…あ…はい。少し…」

「今度聴かせてよ!」

「須磨。まだ治ってもないのに、無茶なこと言わないの」

 

 たしなめる雛鶴に、薫は「大丈夫ですよ」と笑った。

 

 その後、なんだかんだと気にかけてくれるのか、もしくは須磨曰く「天元様が遠くに仕事に行っちゃってつまんない」からなのか、三人の妻は度々、療養中の薫を訪ねてくるようになった。

 当初の険悪な出会いからすると意外なほどに仲良くなったことに、薫は戸惑いつつも嬉しかった。

 

 いつも(少々騒がしいほどに)元気な須磨と、口達者な()()()がやり合い、冷静に雛鶴が取り纏める…という三人ながらのやり取りを見ているだけでも楽しかったし、冗談を交えながらも天元の話となると、三人それぞれに素直な愛情が伝わってきた。

 

 天元とこの嫁達の関係が薫には羨ましかった。

 

 自分には、決して手に入らないものだ……。

 

 

 

<つづく>

 




次回は来週更新予定です。


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第七章 宴のあと(四)

 その日、惟親(これちか)は帰ってきて、応接室から聴こえてくるピアノの音に聞き耳を立てた。

 

「もう先生は終わりですよ」

 

 妻の奈津子が声をかけると、惟親は苦笑する。

 

「そんな厳しい顔をしていたか? いや、随分と上手になられた…」

 

 正直、ホッとする。

 薫は千佳子のような情熱的で繊細なテクニックを持たないが、とても素直でまろやかな音色を奏でる。

 

「シューマンですか」

 

 部屋に入って尋ねると、ちょうど薫が『トロイメライ』を弾き終えたところだった。

 

「あ、お帰りなさい、伯爵」

 

 薫はすっかり慣れた様子で惟親に挨拶してくれる。伯爵、という言葉が別の言い方に置き換われば、娘であったとしても違和感がない。

 

「さっきまで、音柱様の奥様達がいらっしゃってて…雛鶴さんがシューマンの『子供の情景』を気に入っていらしたので…少しだけ練習しているんです。習ってない曲も多いので」

「そうですか…まぁ、あまり無理しないように」

 

 肋が折れている上に、左耳の鼓膜も傷ついて少し聴こえにくいらしい。それに貧血状態が続いていて、食事療法をしているものの、元からなのか食欲がないのか食事量も少ない。まだ任務復帰には時間がかかるだろう。

 

「はい。少しずつ体を慣らしていくつもりです。それで、あの…聞きたいことがあるんですが」

 

 薫はおずおずと切り出す。

 惟親が忙しいので、じっくり話せる時間がなかったのだが、今であれば聞けるかもしれない。

 

「なんでしょう?」

「千佳子様のことです。菊内(きくない)男爵と千佳子様は…結託していたのでしょうか?」

 

 惟親の顔が曇る。

 実のところ、今日、そのことについて惟親に声をかけてきたのは、薫だけではなかった。

 

 

◆◆◆

 

 

薩見(さつみ)伯爵!」

 

 人気(ひとけ)のない廊下を歩いていると、突然呼び止められた。

 振り返ると、頭頂部の禿げた、初老の紳士が立っている。西條(さいじょう)侯爵だった。

 一気に惟親は無表情になった。

 

「いやぁ、ようやくお会いできて何より!」

 

 惟親が挨拶する前に、侯爵は大股に歩み寄ってきて、大仰に手を掴んできて握手する。

 

「是非にも誤解を解いておきたかったのだよ!」

「誤解?」

「ホレ…あの……鬼のことだ」

 

 西條侯爵はそっと惟親の耳に近づけて囁く。

 惟親は眉を寄せながら、苛立たしげに手を振り離した。

 

「……なんのことでしょう?」

「伯爵、誤解をしないでくれたまえ。元々はあの鬼…明見(あけみ)夫人が家内の春子を狙ってきおったのだ。我が家にあの女の絵を飾っておいたのが裏目に出たのだろうな。夜中にいきなり襲ってきたのだよ。春子は卒倒してその時のことは覚えておらんが……それで、儂が頼むから妻は助けてくれと、懇願したのだ。そうするとあの鬼が、若い女を自分に捧げろと言うから……」

 

 西條侯爵は早口に弁明しながら、自己保身を欠かさない。

 まったくいちいち浅ましいことだ。

 

 しかし全てが侯爵の言う通りではなかろうが、鬼となった千佳子との最初の遭遇はそのようなものではあったのだろう。

 その後に侯爵がこの出来事を奇貨として利用することを考えついたのは、鬼殺隊への復讐を考えていた菊内男爵からの助言だったのか、それとも侯爵からの指示で男爵が利用されたのか。

 

 いや、侯爵自身も利用されていたのだとすれば、今、こうして惟親に必死に言い繕うのは、今回の事件においての責任を取らされた上で、切り捨てられようとしているのだろう。

 惟親への弁明というよりも、姿()()()()()()への必死の忠義立てといったところだろうか……。

 

 いずれにしろ、菊内男爵は死に、西條侯爵は()()生きている。

 

 惟親は冷たく侯爵を見つめた。

 

「西條侯爵。奥方のご感想はいかがでしたでしょうか?」

 

 宝耳に言われたことをそのまま尋ねる。

 本当はもっと早くに言ってやりたかったのだが、例の宝耳(ほうじ)からの()()()が相当にこたえたのか、西條侯爵はここのところ姿を見せなかったのだ。

 

「む…ん…ん…そ、それは……」

 

 いきなり侯爵の頭頂部は汗でテラテラと濡れた。

 目が落ち着きなく泳ぐ。

 

「侯爵閣下…」

 

 惟親は一歩、近寄った。

 後ずさる侯爵の肩を掴む。

 

「明見侯爵家を断絶させただけでは、足りませんか?」

「な…なに…」

「明見の親族に侯爵家を相続させるのを阻止して、明見家所有の銀山を手に入れただけでは、飽き足りませんか?」

 

 静かに惟親が尋ねると、侯爵はガタガタと震え、顔は青を通り越して紫になった。

 

 そっと惟親は侯爵の肩を離した。

 よろけた侯爵がベタリと無様に尻もちをつく。

 

 睥睨しながら、惟親は冷たく言った。

 

「あなたの欲望に興味はありませんが…分を弁え限度を知ることです」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 侯爵の前では冷静に対応したが、正直なところどっと疲れた。

 つくづく自分はこうしたことに向いてないのだ。だから帰ってきて、薫の奏でるピアノを聴いた時、どんなに心が安らいだことだろう。

 

 目の前で返事を待つ薫を見て、惟親は目を伏せた。

 この子に全てを話すには、あまりにも()()()()

 

「……どうやら、そのようです」

 

 まったくの嘘ではない。

 西條からの指示であるのかは不明だが、直接的に千禍蠱(ちかこ)に生贄である令嬢を送っていたのは菊内男爵だ。

 

「男爵邸には千佳子様の絵がありました。もしかすると、最初に狙われたのは伊都子(いとこ)嬢であったのかもしれませんね」

 

 薫の推理はそう遠くもない答えを探り当てていた。

 

「伊都子嬢は、自分の身を守りたいが為に必死にご令嬢方を鬼に差し出していた…ということでしょうか」

「……そうであったとしても、彼女の行為を正当化はできません」

「えぇ。もちろん……そうです」

 

 薫は静かに頷いた。

 

 自分にとって少しばかり気に入らないだけで、伊都子は明宣(あきのぶ)の妹・薛子(せつこ)までも鬼に襲わせたのだ。

 

 あの封筒にはおそらく薫が見たのと同じ、鍵盤を思わせるカードが入っていたはずだ。

 カードから現れた千禍蠱の操る()()()()が、薛子にとって最も慕わしい人物の姿となって招き寄せた。

 

 千禍蠱は薛子に甘美な夢を見せながら、喰らったのだろう……。

 

 その人にとって最も小さく弱く震える部分を、えぐりとってみせる。

 狂気を帯びた優美。

 美しいものを愛し、美しくあることに固執した千佳子。

 奏でるピアノの音色そのままに、華麗さの中に陰を含んだ不安定さ。

 

 侯爵夫人として何不自由ない生活を送りながらも、彼女は時々虚ろな顔をしていた。

 本来、美しくおおらかで屈託ない千佳子にそんな表情をさせたのは……

 

「もし…千佳子様が父と結ばれていたのなら、鬼とならずに済んだのでしょうね」

 

 薫が冷たい表情で言うと、惟親は眉を寄せた。

 

「そんなふうに考えるものではありません」

「でも…そう思わざるをえません」

 

 

 ――――今度こそ、妾と卓様の子供として生まれていらっしゃい……妾が今度こそ貴女を産んであげるわ……

 

 

 あれは千佳子の本心だ。

 

 ずっと慕い続けていた。

 自分を捨てて、旅芸人の女と駆け落ちした男のことを。

 

「千佳子様が父と結婚していれば、普通に、楽しい家庭を築けたはずです。病気となって見捨てられることも、無惨に騙されて鬼となることもなかった。あの人には、幸せになる権利が十分にあったんです。美しくて明るくて、誰もに愛される人だったはずなのに…」

 

 千佳子の末路を思うほどに、薫は胸が絞めつけられた。ましてその遠因となったのが自分の父であり、母であり、自分はその子供だ。

 

貴女(あなた)はご自分の両親の気持ちを無視するのですか? 今、ここに貴女という人が存在するのに」

 

 惟親は厳しい口調で言った。

 薫が千佳子を懐かしみ、悼む気持ちはわかるが、これ以上、薫に自分自身を傷つけてほしくはなかった。

 

「私…ですか……」

 

 しかし薫は皮肉めいた笑みを浮かべた。

 

 千禍蠱の幻術は本当に正確だ。

 本人ですら忘れていた記憶の奥底を呼び起こす。

 

 

 ―――――ごめんねぇ…ごめんねぇ……薫

 

 

 ボロボロと泣きながら、薫の首を絞めていたのは……母だった。

 

 溺れて息が出来なくなっているのだと…ずっと思っていた。

 けれど違っていた。

 あれは千禍蠱の幻術ではない。

 はっきりと思い出した。

 

 母は、薫を殺そうとしていた。

 

 ずっと不思議だった。

 幼い頃を思い出す時、母に郷愁を感じながらも、薫はどこかで母の存在を忌避していた。

 顔もはっきりと思い出せなかった。

 母に似ていると言われることも、嫌だった。

 

 無意識に、自分は母を恐れていたのだ。

 

 何が…自由恋愛だ。

 結局、逃避行の先で、貧困によって父は死に、母は病に罹り、娘は切羽詰まった母親から殺されるところだった。

 

 赤い、朱い空。

 水の中から見えた空。

 たゆたって、ゆらめいて、自分は川の中で死んでいく……はずだった。

 

「薫さん。あまり明見夫人のことを考えるのはおよしなさい。鬼への同情は、要らざるものです。何があったにしろ、彼らを正当化することはできません」

 

 惟親は厳然として言った。

 

 薫はコクリと頷く。俯いた顔に生気はなかった。

 

「もうお休みになった方がよろしいのでは?」

「えぇ…。あと一曲だけ弾いて…よろしいですか?」

 

 惟親は言外に、一人になりたいという薫の願いを理解した。

 軽く息をついてから、部屋から出ると、ゆるやかなピアノの音色が聴こえてくる。

 

 ベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』第2楽章。

 

 一番好きな曲なのだと言っていた。

 この曲を聴いて、ピアノを習うことにしたのだと。

 

「やさしいけど…どこか物悲しい曲ですわね」

 

 奈津子が少し心配そうに言う。

 

「あぁ…だがレクイエムよりはずっといい」

 

 惟親はその愁いを帯びた、やわらかな旋律を聴きながらつぶやいた。

 

 

◆◆◆

 

 

 ――――懐かしい…

 

 聴こえてきたピアノの音色に、実弥の顔が少しだけ緩んだ。

 

 昔、育手である篠宮東洋一(とよいち)の元へと向かう前に、街で薫を見かけ、追いかけた先で聴こえてきた旋律。

 あの時は切れ切れだったが、こうしてちゃんと聴くと、美しいが寂しげな曲調だ。 

 

 天元に言われて行かないと言ったものの、結局、こちらに来るついでに(という言い訳を自分にしてから)、実弥は薩見邸に入り込んでいた。当然、無許可である。

 薫を探す必要はなかった。ピアノの音色をたどれば、そこに薫がいたからだ。

 

 電燈の下、ピアノを弾く薫の姿は、以前に比べ少し痩せた気がした。

 顔も白くて、まるで本当に病人のようだ。こんな脆弱な様子では、とても隊務に戻ることなどできないだろう。

 一貫して実弥は薫を辞めさせたいと思っているが、今の薫は鬼殺隊においては中堅の上位に位置しているので、そうそう本部も手放さない。当人からの希望で除隊するのが一番すんなり事は運ぶが、薫が言い出す訳もない。

 

 溜息をついて空を見上げる。

 煌めく星の中に、死んでしまった兄弟子であり、唯一の友の姿が思い浮かんだ。

 

 匡近が生きていたら…東洋一に言う通りに育手となって、薫と二人、穏やかで平凡な暮らしを送っていてくれていたら…こんな心配をする必要もなかった。

 

「……なんでお前が死ぬんだよ……」

 

 匡近を失ったあの日から、何度となくつぶやいた。

 きっと匡近が聞いていたら「ごめんごめん」と苦笑して謝っているだろう。

 

 いつも朗らかで、穏やかな……自分の苦しみなど微塵も感じさせずに笑っていた。そんな男が、死ぬまで実弥にすら話さなかったことを、薫には話していたのだ。

 きっと誰より薫に知っていて欲しかったから……。

 

 実弥は匡近の気持ちが痛いほどわかったからこそ、薫に対して思わず怒りがこみ上げた。

 

 

 ―――――お前が(うん)と言って、一緒になりゃ良かったんだァ。そうすりゃ匡近は……

 

 

 思わず口走ってしまった。

 完全に自分が悪い。まるで匡近の死が薫のせいであるかのように責め立ててしまった。

 

 ごめん、という一言が出てこれば簡単なのに。

 どうして言えないのだろうか。

 薫を前にすると、思ってなかった言葉が出てしまう。

 本当に言いたいことは、いつも一つも言えない。

 

 悶々として沈んでいると、急にダーンとピアノが耳障りな音を立てる。

 実弥はビクッとなって、思わず窓から中を覗き込んだ。

 

 薫がピアノに突っ伏している。

 泣いているのだろうか。肩が細かく震えていた。

 しばらく見ていると、前のめりになって押さえていた手に力が入ったのか、キィとわずかに窓が開いた。

 

「…さん……匡近さん…」

 

 震える声で呼ぶ名前に、実弥の顔が固まった。

 スゥ、と冷たいものが心臓を這いのぼってくる。

 

「どうして…いないんですか? 今…話したいことがいっぱいあるのに…」

 

 その言葉はいつものようにか細く消えるものではなかった。

 切実に求めて、訴えていた。

 

「誰にも言えないんです…誰も知らない……私は…また一人です……」

 

 空虚につぶやく顔は、あの頃…川を眺めていた姿そのままだ。

 

 実弥は拳を握りしめて、そっとその場を離れた。

 自分が匡近なら、あの数歩先にいる薫をそっと抱きしめることができたのだろう。でも、自分は匡近ではない。薫が会いたいと望んでいるのは自分じゃない。

 

 逃げるように走り出す。ひどく惨めな気分だった。

 

 どこかで…無意識に、薫は自分の()()だと勘違いしていた。

 傲慢で思い上がりも甚だしい。

 とっくに薫の心は離れていたし、離れて当然のことをしたと…自分を戒めていたはずなのに。 

 

「ッツ…!」

 

 石に躓き、よろけて塀にドンと体を打ちつける。

 鈍い痛みに顔を顰めながら、ハァと息をついた。

 

 情けない顔を手で覆う。

 本当にどうしようもない。こんなに苦しくなるなんて、どうかしている。もうとっくに諦めていたと思っていたのに……匡近を求める薫に今頃、動揺するなんて。 

 

「クソッ!!」

 

 怒鳴りながら、塀をドシンと叩く。

 土壁に罅が入り、パラパラと土の欠片が落ちた。

 

 濃紺の空に浮かぶ半月を見上げながら、実弥は心底自分に失望した。 

 

 

◆◆◆

 

 

 薫は最後まで弾き終えることはできなかった。

 急に心細くてたまらず、叫びたくなる。

 

 バァーンと鍵盤に苛立ちをぶつけて、不協和音が静寂に響いた。

 そのまま突っ伏して、涙が止まらなくなる。

 

 脳裏に去来するものは、薫にはもう受け止めきれなかった。

 胸をえぐるようなことがいくつも重なって、窒息しそうだ。

 

 昼に天元の嫁達と楽しく過ごした反動なのか、夜になるとひどく気持ちが落ち込む。

 

 

 ―――――もし、あなたの知っている人が鬼となってしまったら、どうする?

 

 

 また、カナエが問うてくる。

 いつか薫がこの問いを現実として考えねばならないことを、予想していたのだろうか。

 自分はなんて浅はかであったのか…と、薫は自分が情けなかった。

 

 

 ―――――鬼となれば、容赦はしません

 

 

 まるで盲目的に、鬼だから斬る、そう答えただけだ。

 何も考えていなかった。

 それがこんなに虚しく悲しく苦しいものだとは。

 

 薫は心の中でカナエに呼びかけた。

 

『お願いします。叱って下さい。なんて馬鹿な子だと…カナエさん。お願いです、一言でもいいから言葉を聞かせて…』

 

 けれど薫の中のカナエは沈黙している。

 何の返事もない。

 

『先生…お願い。大丈夫だと、笑って。どんなに苦しいことでも、必ず立ち直れると…励まして……』

 

 いつもなら思うだけで東洋一の懐かしい笑顔が脳裏に浮かぶのに、今日は姿を現さない。

 

「先生…カナエさん……匡近さん……」

 

 薫はいつの間にか声に出して、呼びかけていた。

 

「どうして…いないんですか? 今…話したいことがいっぱいあるのに…。誰にも言えないんです…誰も知らない……私は…また一人です……」

 

 虚ろにつぶやく。

 濡れた頬に、風が触れた。

 

 窓へと目を向けると、少し開いていた。

 

「………宝耳さん? あなたですか?」

 

 薫はあわてて指で涙を拭った。

 返事がないので、訝しみながら窓からテラスに出る。

 キョロキョロと辺りを見回すが、誰の気配もない。

 

 スン、と鼻を啜ってから、薫は深呼吸をした。

 危ないところだ。こんな感傷的になっていたら、宝耳であっても弱音を吐いてしまうところだった。

 

 ザァァ、と葉擦れが波のような音をたてる。

 強い風が薫の髪をたなびかせた。

 

 ふ…と、見えない風の中に実弥の姿が思い浮かんだ。

 

 

 ―――――自分の身も心も捧げる代わりに、あの男の心を欲したのではないの?

 

 

 本当に…真実はなんて鋭く、深く、心を抉るのだろう。

 

 千佳子の言う通りだ。

 

 あの日…最終選抜に向かう前日。

 いきなり変貌した実弥に驚き、恐怖しながら、薫は思ったのだ。

 

 彼は自分を選んでくれたのだと…。

 選んで、求めているのだと………信じた。

 

 あの日、誰より貪欲だったのは薫自身だ。

 彼の痛んだ心も、傷ついた体も、狂おしい熱も、その先の未来もすべて、手に入れようとしていた。手に入ると…勘違いしていた。

 

 

 ―――――薫……ずっと…一緒にいよう……

 

 

 幻影が囁いた夢のような言葉。

 

 あれが、あの時も今も変わらない薫の本心だ。

 一番、求めた言葉だ。

 

「………馬鹿ね。言うわけないのに…」

 

 ポツリとつぶやいて、薫は震える唇を噛み締めた。

 

 見上げた空に半月が浮かんでいた…。

 

 

 

第四部 了

 

<第五部につづく>

 





これにて第四部終了です。第五部再開まで、しばらくお時間を頂きます。


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伴屋宝耳外伝
< 眞白の穴 ー壱ー >


 涙、というのを見たのはその時が初めてだった気がする。

 

「お…まえ……ど……して…」

 

 苦しいだろうに、口の端から血を流しながらその女は問うてきた。

 必死に見開いた瞳が、ふるふると震えて、そこから透明な液体が流れる。

 

 最初はそれが何なのかわからなかった。

 激しく痙攣して死にゆく女の顔よりも、その液体だけが気になった。

 何となく手を伸ばして指で触れると、熱い。指についたその液体をしげしげと眺めた後、ぺろと舐めてみる。不味(まず)い。生ぬるい塩の味。ペッと唾ごと吐き出す。

 

 女の首筋に手をあて、指先を打つ拍動がないことを確認する。それから館の中を歩き回って、倒れている人間の数と、その死を確認した。

 一、二、三、四、五………十一。

 馬丁の男はどこだろう? 探したら勝手口の手前で倒れていた。十二。これで全員。

 

 庭に出ると、馬も死んでいた。あの井戸の水をやったのだろうか。口から薄紅色の泡を噴いて目を剥いて動かなくなっていた。

 

 屋上に出て、花火を上げた。

 しばらくするとおじさんが来る。長細い袋を担いだ男も二人。

 

「生きてる奴ぁいないな?」

 

 おじさんが確認してくる。頷くと、ヨシと言って男達に目配せした。

 男達が袋から取り出したのは、白く固まった小さな男の子だった。口の端から流れた血が乾いていた。

 男達は手荒い動作で男の子の着ていた粗末な服を脱がせていく。

 

「シャオ、服を脱げ」

 

 おじさんに言われて服を脱いだ。

 カシミヤ織りのチョッキ、コールテンのズボン、白い絹のブラウス。靴下もズボン下も。毎日洗濯して、きちんとアイロンのあてられた綺麗な服だ。

 おじさんはそれらを男達に渡し、男達から男の子の着ていた汚い服を受け取ると、ズイと差し出した。

 

「着ろ」

 

 男達は男の子に綺麗な服を着させて、さっき不味い液体を流していた女の傍に寝かせた。

 

「よし、行こう」

 

 おじさんと男達に挟まれて館を後にした。

 外に出て少し寒い風と、色づいた銀杏の木を見て、少しだけ残念になった。

 

 ここに来たばかりの時、白く(けぶ)るように花咲く木があった。細かな白い花が木を綿のように包んで咲き、その花びらは雪のように風に散華していた。

 いつまでも見惚れていると、この家の娘が教えてくれた。

「それはアーモンドの木よ」と。(彼女は自室の寝台の上で動かなくなっている。)

 

 あれはもう一度見てみたかった気がする。

 

「早くしろ」

 

 おじさんが背中を蹴ってきた。

 あわてて車に乗り込む。すぐに動き出した。

 男たちに挟まれて目を瞑るとすぐに眠くなってきて、しばらく寝ることにした。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 それが[彼]にとって初めての記憶だった。年齢にすれば四、五歳ぐらいだろうか。正確な年齢(とし)はわからない。いつ生まれたのかが定かでないからだ。

 阿片窟で薬漬けにされた女の股の間で泣きわめいていた赤ん坊が、どこをどう巡って、表は鍼師の、裏は殺し稼業をやっている金柑(きんか)頭の親爺のところにたどり着いたのか。……

 そのまま放り出されて餓死するか、凍死するか、あるいは遊び半分で薬漬けにされて、なぶり殺されなかっただけマシというべきだろう。

 

 生きることを至福として考えるのなら。

 

 いずれにせよ[彼]は長い間、自分というものを意識することなく生きてきた。

 目に見える手が自分の手だと認識しても、自分が何なのかはわかってなかった。

 

 自分がないからこそ、何にでもなれた。

 

 身寄りのない孤児として、華僑の裕福な家族の養子となって可愛がられることも、租界に移住してきた英国人の使用人として都合よく使われることも、偏屈だが頭脳明晰な暦学者の弟子としてその非凡な才能を認められることも、反政府組織の一員となり、優秀な間諜(スパイ)として幹部に気に入られることも、どれも造作ない。

 人間というのは自分が信じたいと思う人間を信じるのだ。だから信じてもらえば、あとは簡単だった。

 

 おかしなことになったのは、日本という国に来てからだ。

 

 上海(シャンハイ)から初めての船に乗って長崎に着くと、[彼]は仕事の都合のためにしばらく『香麗(こうらい)屋』という娼館で働くように言われた。そこにやって来る何人かの男について調べた後、手配が整えば仕事が始まる。

 それまでは少しばかりドジで、無口な中国人の子供のフリをして、女郎共の汚れ物を洗い、旦那衆へと手紙を渡す使いをし、たまに置屋の主人の癇癪につき合って殴られていればいい。

 

 手引の女―――つまり、[彼]の素性について知っている女が一人だけいた。

 雪弥(ゆきや)という名前の、南国生まれにしては肌の白い、黒目がちのどこかあどけない顔をした女だった。

 

小猫(シャオマオ)

 

 彼女は[彼]をそう呼んだ。仕事を用意してくるおじさんが、時々そう呼んでいたからだ。

 別に何でもよかった。名前など、ずっとない。

 

 女郎屋に潜り込んで三週間が過ぎた頃に、[彼]は違和感を感じ始めた。

 それは幼い頃から長くこの仕事をこなしてきたからこそ、身につけた嗅覚だった。

 

 普段は酒浸りのおじさんも、仕事が入っている時には断酒し、定期的な連絡を怠ることはない。しかし、この一週間は音沙汰がなかった。連絡係の男も来ない。雪弥に訊いても、わからないようだった。

 

「どうしたのかしらねぇ…。私も怖いわ。シャオマオ、お願いね。一緒に居て頂戴ね」

 

 ひどく不安そうな顔をして、雪弥は身を寄せてきたが、なんのことはない。

 裏切者はこの女だった。

 

 雪弥の淹れた茶を飲んで四肢から力が抜け、意識が朦朧となった。ほどなくして敵対していた紅幇(ホンパン)の一味に捕らわれた。

 口を塞がれ縄で全身を縛られた[彼]を見て、雪弥はやはりあどけなく笑って言ったのだ。

 

「シャオマオ、御免なさいね。私、(チャン)さんが好きなの。だから、御免なさいね」

 

 張というのが、調べていた男共の頭目であるということ以外、わからない。

 

 いずれにせよ拘束され、麻袋に詰められて、男共に運ばれた先には穴があって、[彼]はそこに投げ込まれた。

 上からどんどんと土が降ってくるのがわかった。

 埋められていっている。

 その先がどうなるのかは、考える必要もない。

 

 真っ暗な視界の中で、必死にもがいた。

 生きている実感がないと、死というものの訪れを感じることはできない。だから、その時にひたすら動こうとしたのは死のうとしている自分を畏れたのではない。『死』なんて概念よりも先に、本能が縛られた体を動かしていた。目を閉じさせなかった。耳も異様なほどに聞こえた。土の向こうで仕事を終えた男達の笑い声すら聞こえた。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 これは、[彼]が後から聞いた話。

 

 その時、任務終りに山道を歩いていた伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)は、道の脇に円匙(シャベル)が落ちているのを不審に思った。

 しばらく佇んでいると、微かな聲が聞こえてくる。

 

 

 ―――――ココニイル! ココニ!! ココニ!!

 

 

 妙な感じだった。

 聲自体はとても小さいのに、ひどく切羽詰まって聞こえる。

 

 伴屋宝耳には特殊な能力があった。

 昔から人の心の聲を聞き、感情のゆらぎを感じることができた。

 そのせいで家族からも敬遠され、しかもお人好しな性格が災いして、無実の罪で投獄されそうになったところを鬼殺隊に救われ、隊士となっていた。

 

 土の中で、猿ぐつわをされて声など出せなかった[彼]の叫びが、宝耳には聞こえたのか。

 

 幾人かに踏まれたらしい羊歯(シダ)やクマザサに覆われた獣道を進むと、不自然に落ち葉が積み上げられた場所があった。足でザッと払うと、明らかに周囲の色と違う、人の足で踏み固められた土。

 宝耳は道に置きすてられていた円匙(シャベル)で、あわてて土を掘り起こし、袋を破って[彼]を救った。

 

「大丈夫かッ!?」

「…………」

 

 しかし[彼]は数分乃至十数分、土の中にあって軽く酸素欠乏の状態であったせいだろう…それまでの記憶を全て失っていた。元からあったのか、なかったのかわからない自分というモノも含めて、何もかも忘れていた。

 

 ただ……

 

 麻袋の中から這って出た[彼]の目に、白い霞を纏ったように花を咲かせる木があった。風が吹くと、月明かりの中で花びらがヒラヒラと舞い、散っていく。

 じっとその木を見つめる[彼]の目線を追って、宝耳もまたその木を見ると、朗らかな笑みを浮かべた。

 

「ああ…桜やな。こんな山の中で一本だけ、健気に咲いとるわ…」

「………」

 

 その木を[彼]は昔、どこかで見たことがあると思った。

 それは最初の仕事で潜り込んだ華僑の屋敷の庭にあったアーモンドの木であったのだが、[彼]はそのことは思い出せなかった。

 

「綺麗か? ずっと見ときたいけど、とりあえず、さっぱりして…メシでも食おか。な?」

 

 そう言って宝耳は古着屋で着物を買ってくれ、風呂屋で泥や汚れを流し落とすと、小料理屋に連れて行ってくれた。言われるままに、食べたいだけたらふく食べると、途端に眠気が襲ってきた。

 

 気がつくと、[彼]は宝耳に背負われていた。反射的に右手が動いて宝耳の首に巻き付く。自分が身動きできない状態であるのかと思い、その状態を作り出した()を排除しようとしていた。

 

 しかし宝耳はその腕を片手で掴んだ。何人もの男を(くび)り殺した[彼]に抗えるほど、強い力だった。

 

「おいおいおいおい。何を勘違いしとるんや。飯奢ったったのに、殺される覚えないど」

「………」

「怖い夢でも見たんか? 大丈夫やから、もうちょい寝とけ」

 

 宝耳は言いながらパと手を離すと、なだめるように青筋の浮いた[彼]の腕をペチペチと叩いた。

 

 その時、もし[彼]に記憶があったなら、そう簡単にこの男を信用しなかったろう。けれど記憶を失った[彼]にとって、宝耳は親同然だった。生まれたばかりの雛鳥が、初めて見たモノを親と思うのと同じだ。

 柔らかなその言葉遣いに、ふっと力が抜ける。

 

「寝とけ。もうちょっとしたら宿屋に着くよってに…」

 

 宝耳がもう一度言った。その言葉は安心していいと…体が思ったのだろう。[彼]はゆっくりと再び目を閉じた。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 宿屋で朝までぐっすり寝た後、宝耳は[彼]に尋ねた。

 

「お前さん名前は?」

「…………」

 

[彼]は黙って首を振った。

 

「わからんか…。ほなら年は? 十…二か、三ぐらいか?」

「…………」

 

 他にも色々と尋ねてきたが、記憶を失っている[彼]には答えようもなかった。もっとも、記憶が残っていたとしても特に話せることはない。

 

「しゃーないなァ。ほなら、ワイと一緒に旅するか? お前放っといたら、なんやヤバい気ぃもするし」

 

 宝耳は軽く言ったが、袋に詰められて土に埋められている時点で、[彼]という存在が誰かにとって邪魔なものであることは間違いない。ここに居ることはきっと危険であろう…と推察していた。

 それに昨日、風呂に入った時に見た体には無数の傷、痣、火傷の痕まであった。明らかに虐待されている。一人にしておけなかった。

 

 とりあえず[彼]は宝耳と一緒に東京まで行くことになった。

 

 

 道中で宝耳は自分の仕事について語った。鬼殺隊という鬼を狩る仕事。自分は十七歳の時に入隊し、四年目の今年になって水柱という、まあまあ偉い役に就いたということ。

 

「柱になったら正直、お金の苦労はそうせんでえぇからな。お前を一等客車になんぞ乗せることができるのもそのお陰や」

 

 車窓に流れる景色をボンヤリ見ながら[彼]はその話を聞いていた。

 本来ならば鬼という存在も含めて、信じないか、信じても好奇の対象となるので、宝耳を始めとする鬼殺隊の人間は一般の人にそんな話をすることはなかった。

 

 しかし[彼]は特に興味を示さなかった。

 宝耳はいつもは潜めている自分の能力を研ぎ澄ませて[彼]の心を()()()としたが、[彼]は何も考えていなかった。

 窓の外に広がる長閑(のどか)な田園風景を見ても、晴れ渡った空に聳える富士山を見ても、雑多な都市部の人の群れを見ても、[彼]の心は微塵も揺らぐことはなかった。

 

 宝耳に感じられたのは、果てない不毛の地。

 眞白に塗り籠められた闇。

 音の絶えた真空。

 

 底のない意識に引きずられそうになって、宝耳は首を振ると、それ以上[彼]の心を()()のを止めた。

 

 

 東京の居宅につくと、宝耳は既に先住していた[彼]と同じ年頃の少年三人と、老人を紹介した。彼らは血色の悪い、無表情な[彼]に対して、あからさまな不審感を抱いた。

 

 三人の少年というのは、水柱である宝耳の継子だった。彼らはまた一人、継子が増えることを喜ばなかった。家事万端をやってくれている引退した元老隠も、「多すぎると、多忙な柱としての仕事に差し支ます」と諫言した。

 だが宝耳は笑って彼らに伝えた。

 

「あれは継子やない。まぁ、しばらく面倒はみるけどな」

 

 

<つづく>

 




次回は2022.09.17.更新予定です。


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< 眞白の穴 ー弐ー >

 宝耳(ほうじ)は自分が任務に行く時には、[彼]に家で待っているよう言った。

 だが[彼]は勝手について行った。一回目、鬼に遭遇する前に、宝耳は[彼]に気付き「あかん、帰り」と諭した。

 

「あンなぁ…ワイの仕事は人間相手やないんや。理屈や人情の通じる相手やないんやで。危ないから、ついてきたらアカン」

 

 [彼]はそれでもついて行った。

 バレてしまうと「あかん」と言われるので、こっそりついて行った。

 自分で知る由もないことだったが、[彼]には気配を消す(ワザ)が既に備わっていた。

 

 しかし五回目の時、とうとう宝耳に気づかれた。

 

「阿呆! 危ない言うてるやないか! 死んだらどないすんねん!!」

 

 その怒声にビクビクっと、[彼]は震えた。

 記憶の中で、何かが蠢いた。

 それは幼い頃から刻み込まれた恐怖感だったろう。

 大人達に絶えず怒鳴られ、殴られ、半殺しにされた。記憶を失っていても、あの惨めな感情はしつこく心の中にこびりついていたのだ。

 

 

 ―――――コワイヨォ……コワイヨォ…

 

 

 宝耳は[彼]の感情が恐怖に震えるのを()()()

 すぐさまハッとなって謝る。

 

「あぁ……すまん」

 

 心の中をすべて押し殺して、無表情なまま、棒のように立ち尽くした[彼]をあわてて抱きしめた。

 

「すまんな。すまんすまん。怒って悪かったな。仕事の後やから、ちょっと気ィが立っとったんや。お前のことが嫌いなんと()ゃうんやぞ。心配しただけや」

 

 [彼]の目がジワリと(うる)む。

 それまでに感じたことのない何かが胸の辺りに疼いて締めつけた。

 

 [彼]は目から零れ落ちた(しずく)を指で触った後、まじまじと眺めた。

 ペロ、と舐める。

 それは最初の殺人の時に、養母であった華僑の夫人から零れたものを舐めた時と同じ匂いと味がしたのだが、その時の[彼]にはどうしてその味に覚えがあるのかがわからなかった。

 

「なにを涙なんぞ舐めとんや、お前は」

 

 宝耳はケラケラと笑った。

 

 [彼]はそれが『涙』というのだと、その時知った。

 

 

 それからは宝耳はもう[彼]がついて来ることを拒まなかった。というより、初めから一緒に行くようになった。

 

「ええか。ワイが仕事している間は離れたところにおるんやで。もし、鬼が来そうやったら、すぐに逃げるんや。ワイを助けようとしたらあかん。ええな? 約束や」

「……わかった」

 

 それまで言葉を発してなかったので、(おし)だと思われていたが、この時はじめて声を出したのを見て、宝耳はひどく嬉しそうだった。

 

「なんやー、お前喋れんのかいな。ほぅか……ほぅか……ひどい目に合うたから、喋られへんようになってたんやな」

 

 実際には土に埋められる前から、[彼]に言葉はなかった。

 

 無論、仕事を任されている間には話した。

 それは広東(カントン)語でも日本語でも。時には英語や魯西亜(ロシア)語を話すことすらあった。

 

 けれど[彼]自身に言葉はなかった。

 だから自分の言葉というのを発したのは、この時が初めてだった。

 

「お前、名前は?」

 

 ようやく名前を聞けるとワクワクした顔の宝耳に、[彼]は首を振った。

 その時になって、ようやく宝耳は[彼]がどうやら記憶を失っているらしいことを察した。

 本来であればもっと人間らしい感情の揺らぎがあるはずなのに、[彼]からは一切感じられないのもそのせいだと結論づけた。

 

 しばらく思案した後、宝耳はニンマリ笑って宣言した。

 

「ほなら、ワイがつけたる。お前はな、真吾(しんご)や。ええな? そう呼ぶからな」

「わかった」

 

 その時から[彼]は真吾になった。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 何度か宝耳と共に任務に行くようになって、真吾は不思議に思うことがあった。

 

 宝耳は鬼を殺した後に、塵となって消えていくその姿に必ず手を合わせ、必ず最後に言い添える。

 

「今度は、普通に…鬼になんぞならんように……」

 

 最初はそれが普通なのかと思ったが、他の鬼殺隊の隊士と一緒に仕事をした時には、そうした態度を非難されていた。けれど宝耳はそのことについてニヘラニヘラと笑っていなし、弁明することなく、改めることもなかった。

 

「鬼は…人殺し…」

「ん?」

「人殺し…だから…悪い…?」

 

 真吾がポツリポツリと確認するように言うと、宝耳は優しく笑った。

 

「あぁ、そやな」

 

 言いながら、小さくなってきた焚き火に枝をくべる。

 仕事後、野宿して夜明かしすることになり、二人で小さな岩屋の中にいた。

 

「悪い…のを殺す…あんたはいいこと…している」

「……それは、肯定でけんな」

 

 しばらく考えてから否定する宝耳に、真吾は首をかしげる。

 宝耳は苦笑いを浮かべて言った。

 

「鬼は確かに人殺しや。せやからワイらは奴らを殺る。せやけどアイツらは元々は人やったんや。どういう経緯でか、あるいは望まずして鬼となった者もおるやろう。人として生きていれば、殺人を犯す必要もなかった」

「鬼が人…やったから……手を合わす、のか?」

「そやな…。人として生きられへんかった。せめて死ぬ時には人に戻ってほしいと思う」

 

 その声音はやさしく、寂しく響く。

 真吾は尋ねた。

 

「………戻るの? 人に。鬼は」

「わからん。でも、哀れやないか。最期の最後まで鬼なんて。闇夜の中でしか生きられへんようになって、人を喰ろうて、それでも生きなあかんなんて、苦しかったやろうな…て思うんや」

 

 宝耳はその耳で鬼の断末魔の心の叫びを何度も()()()いたのかもしれない。

 鬼となった自分を呪い、人であった頃のことを思い出して慟哭する。……

 彼らの苦しみを知っていたから、せめて自分だけは手を合わせて救済を願っていたのだろうか。

 

 だが真吾にはわからない。

 人を殺すから、それが悪い…ということも含めて。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 継子達は、始終一緒に宝耳と行動を共にする真吾にいい感情を持たなかった。

 当然のようにいじめのような行為があったが、それは一度きりだった。

 

「真吾、やめぇ!」

 

 道場で継子達と相対していた真吾は、宝耳に止められるとすぐに手を引いた。

 

 継子達は恐怖に固まっていた。

 自分達よりも年少であろう真吾に、殺されかけたからだ。

 

 一人は足蹴にされただけで吹っ飛んで壁に頭を打ち付けて気を失い、一人は持っていた木刀をいつの間にか奪われると即座に胸を突かれ、一瞬息が止まって動けなくなった。残る一人は首を掴まれて、凄まじい膂力によって持ち上げられ、そのまま縊り殺される寸前だった。

 

 恐ろしいのは、真吾はそれらをほとんど時間をおかずにやっていた。

 息も切らしておらず、無表情な顔には手加減などというものは当然ない。

 

 宝耳は継子達の介抱を老隠に頼むと、真吾を庭へと連れて行った。

 

「なぁ、真吾。ワイの名前なぁ…宝耳いうのな、これな本名と()ゃう」

 

 いきなり宝耳は言い出した。

 

「御館様に初めて会った時にな…あの御仁はまだ今のお前よりも小さかったのに、随分と老成してはる人でな…ワイのこの、妙な力のことを聞いてな……」

 

 

 ―――― あなたの耳は素晴らしい耳だよ。人の痛みを知り、声なき声を聞くことのできる宝の耳だよ。きっと鬼殺隊(ここ)では役に立つだろう……

 

 

「と…仰言(おっしゃ)って下さったんや。ほんでワイはものすごぉ嬉しいてな。その言葉をそのまま名前にしよー思て、『宝耳』いう名前にしてん」

 

 真吾はボンヤリとその話を聞いた後、宝耳にまじまじと見つめられた。

 意味はよくわからなかったが、コクンと頷く。

 宝耳はニッコリと笑みを浮かべた。

 

「お前の『真吾』は、『(まこと)』の『(われ)』ゆうことや。今すぐやのぅてもえぇから、いずれ真の己を知って、生きていってほしいんや」

「……わかった」

「ホンマにわかっとんのかいな…」

 

 宝耳は呆れたように言った。

 

 実際、真吾は何もわかってなかった。

 おそらくは…今でも。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 ある日のこと、真吾は蟻の行列を見つけた。

 しばらくまじまじと眺めていると、子供が二人、不思議そうに真吾の隣に寄ってくる。

 

「あ! アリ!」

「アリ! やっつけろ!」

 

 子供達は無邪気に踏んづけて蟻を殺していく。

 それを見ていたらしい、別の少し年上の子供が桶に水を汲んで持ってくるなり、行列の蟻の上にバシャバシャかけていく。

 

「ハハハ! アリが溺れてる!」

「アリ、殺せ! 殺せ!」

 

 彼らが笑って楽しそうに蟻を殺していく間にも、真吾はじっと蟻を見つめていた。

 踏んづけられて動かなくなった蟻、あるいは頭だけは踏まれなかった半死半生の蟻、水の中でもがく蟻、溺れて流れていく蟻。

 

 見ながら頭の中に様々な人の顔が浮かんだ。

 

 厚い鉄板に挟まれて、徐々に押し潰されながら絶叫する男。

 腹を切り裂かれ、出てきた自分の臓物を手に持ちながら、信じられないように見ていた女。

 出されたお茶を飲んだ途端に土色になって、泡を吹いて倒れた老人。

 四肢を押さえつけられ、濡れた半紙を次々と顔の上に被せられた子供は、しばらくの間、体をくねらせてもがいていたが、やがて全身が溶けたように力を失った。

 

 ボンヤリと真吾は彼らは誰なのだろうか…と思った。

 しかし、それ以上考えることもなかった。

 

「コラコラ! 無益な殺生すな!」

 

 宝耳がどやしつけると、子供達は三々五々に散っていく。

 

「……ったく、一寸の虫にも五分の魂やというに…」

 

 ぶつぶつと宝耳は言いながら、じっと自分を見つめる真吾に気付くと、ニコと笑った。

 

「お前は、もうああいうのはせぇへんな」

「…ああいうの?」

「蟻をむやみに殺したりすることや。子供の内はたいがいやってまうやろ」

 

 真吾はしばらく考えてから、プルプルと首を振った。

 記憶はないが、おそらく自分は蟻をあのように殺すことに面白さを感じることはないだろう…と、なんとなく思った。

 そして、それは実際に[彼]には経験のない遊び(・・)だった。

 

 宝耳は意外そうに唸った。

 

「ほぅ…そうか。子供はああいう残酷なことを、無邪気にやってまうもんやけど…お前は小さい頃から優しい子やったんやな」

 

 真吾が首を傾げると、肉厚な手が頭をポンポンと軽く叩く。

 目尻に皺の寄った、優しく穏やかな微笑み。

 

 真吾はなぜだか急に泣きそうになった。

 柔らかなその眼差しは、暗闇を照らす小さな灯火のようだった。

 真吾を傷つけず、ただその先の道へと連れて行ってくれる。

 

「……宝耳も、やさしい」

 

 返事以外でほとんど口をきくことがない真吾が、いきなりそんな事を言うので、宝耳は真っ赤になって、照れ隠しのように大笑いした。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 真吾の記憶が戻ったのは宝耳と一緒にいるようになって、二年ほどしてからだった。

 

 久しぶりに宝耳と一緒に長崎を訪れた。

 遊郭内で鬼が出るとの情報があって、数名の隊士が向かったが、すべて殺されるか行方不明になっており、とうとう柱である宝耳が行くことになった。

 

 老隠は遠征に向かう前に、真吾に薬を持たせた。

 

「水柱様は具合がよろしくないからな……お前さん、ちゃんとお世話するんだぞ。日頃からさんざ世話になっているんだ。ちゃんとお返しせにゃ」

 

 世話…お返し…という言葉の意味がわからなかったが、真吾は薬を受け取り、その用法を頭に叩き込んだ。

 

 宝耳が病気であるのは、実のところ真吾が一番早くに知っていた。

 ある日の任務の帰りに突然血を吐いたからだ。

 しばらく休憩して、近在の医者に診てもらい、急場の薬をもらって帰った。

 宝耳は真吾に誰にもこの事を言わぬように、今後も口にしないよう口止めしたので、真吾はその通りにしていた。

 

 あまりよくない病気であることはわかっていた。

 けれど真吾は助けることも、仕事をやめろと言うこともしなかった。

 自分にそれを言う理由があると思わなかった。

 

 昼過ぎに入った花街は、生暖かい海風の湿気に蒸れて、どことなく淫靡で気怠い静けさに包まれていた。

 

「ちょいと訊いてくるさかいな。真吾、お前ここおれ」

 

 裏道にある小さな足袋屋の前で、真吾はつくねんと立っていた。すると、いきなり呼びかけられた。

 

小猫(シャオマオ)っ」

 

 嘘のようだが、その声を聞いた途端に、真吾は全て思い出した。

 

 その声で、その名を呼ばれたことが、それまで封じていた扉を開けたように、一気に記憶が押し寄せた。

 

 雪弥(ゆきや)はそんなに時間が経ったわけでもなかったのに、随分と老けて見えた。

 走り寄ってきて腕を掴まれた時に独特の匂いが鼻につく。おそらく阿片中毒であったのだろう。

 

「生きてたのっ? 生きてたのねっ?」

 

 どうして雪弥がそんなに嬉しそうなのか、わからなかった。

 けれど、その時に[彼]が思い出したのは『本来の仕事』のことだった。

 

「雪弥……(チャン)さんのところにいるの?」

 

 尋ねると、雪弥は頷きながらはにかんで笑った。

 

「わたし、もうすぐ赤ちゃん産まれるのよ」

「そう…。じゃあ、お祝いしなきゃね。ねぇ、張さんのところに連れて行ってくれる?」

 

 雪弥は既に頭がおかしくなっていたのだろう。

 赤ん坊のこともきっと妄想に違いない。

 そうでなければ、どうして仕事の標的であった頭目の元に[彼]を連れて行くだろうか。

 あるいは二年経って、あの時のことをすっかり忘れていたのかもしれない。

 

 雪弥と並んで歩きながら、[彼]にはただ一つの目的しかなかった。

 

 

 

<つづく>

 




次回は2022.09.24.更新予定です。


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< 眞白の穴 ー参ー >

 その日は、久しぶりに沢山の殺人を行った。

 おそらくこれまでの[彼]の仕事の中でも、一、二を争うほどであったろう。もっとも死人の数を数えたのは、最初の仕事の時だけなので、真偽はわからない。

 

 (チャン)のいる船会社に入るなり、玄関にいた手下の男を小刀で一突きして殺した。

 雪弥(ゆきや)はヒイッ! と潰れた悲鳴を上げると、腰を抜かしながら階段を這うようにして上へと逃げる。

 気付いた男達が次々と襲ってきたが、躱しながらほとんど一度の動作だけで殺す。それからは殺した人間の持っていた武器で確実に仕留めていった。

 

 三階建ての洋館の最上階で、とうとう最後の一人になった張は、震えながら小判の入った箱を開いてみせた。

 

「これを全部やる。……今更だろう? お前の師匠はもう死んでる。これからは俺が使ってやってもいいぞ……」

 

 [彼]は言われながら、首をひねった。

 師匠…というのは、あるいは[彼]に殺人術を教えてくれた鍼師の(ジジィ)のことだろうか?

 

 成程、世間ではああいうのを師弟関係というのか。

 酒が切れたと癇癪を起こして、殴って蹴って、半殺しの状態で豚小屋に放置する。

 阿片狂いの仲間と一緒になって、異様な興奮状態に陥ったまま、()()を慰みの道具にする。………

 

 張を殺した後、[彼]は目の前の殺戮に言葉を失って震えるばかりだった雪弥の手を掴んだ。

 

「行こうか」

「………ど、どこ……」

香麗(こうらい)屋だよ。あそこの人間はみんな、殺さなきゃ」

 

 ヒィィッと雪弥はまた悲鳴を上げて、あわてて駆け出した。

 走って、走って、何度も転ぶ。阿片のせいで、まともに足も動けなくなっているのだろう。

 

 [彼]はゆっくりと追った。

 やがて懐かしい娼館にたどり着いた。

 

 日が傾いて、辺りには夜の帳が下り始めていた。

 店の軒先に吊られた大提灯には火が灯され、薄暗くなってきた道を明るく照らしている。

 

 その夜は何かの祭りか、あるいは御大尽の大判振舞でもあったのか、遊郭内は騒がしかった。あちこちで爆竹が鳴らされ、太鼓や笛の陽気な音が鳴り響いていた。

 

 赤丹で塗られた格子の艶めかしい玄関から入るなり、[彼]は隅に控えていた用心棒に飛刀を投げつける。

 用心棒が刀を抜く前にドスリと飛刀が胸に刺さった。ウッと呻いた用心棒の体が傾く前に、[彼]は匕首(あいくち)でその頸動脈を斬り裂いた。

 そばにいた遊女は悲鳴を上げる間もなく、白い首を掻き切られる。

 

「いやあぁぁ。助けてぇぇ」

 

 雪弥がわめきながら奥へと逃げていく。

 その場にいた者達がそれぞれに悲鳴を上げる。

 何事かと階上から覗いて見た者達は、血まみれの惨状にしばらく呆然となった後、思い出したように声を上げた。

 

 有難いことだった。

 ここにいると教えてくれて。

 

 目に入る動くモノは全て、殺していく。

 これは復讐ではない。

 仕事でもない。

 仕事は(チャン)を殺したところで終わっている。

 

 自分を……小猫(シャオマオ)としての自分を知っている人間を全て、殺す。

 そうすれば、自分は『真吾』として生きていける。

 何もない人間として、まっさらになって、再び宝耳(ほうじ)と一緒に生きていく。

 そのためには、ここにいる人間は全て殺さねばならない……。

 

 [彼]が[彼自身]の動機を持って殺人を犯したのは、これが最初で最後だった。

 

 すっかり日が沈んだ頃。

 

 納戸の隅に隠れて生き残っていた禿(かむろ)の少女を抱きしめて、雪弥がブルブル震えながら必死に命乞いをしていた。

 

「ねぇ! もうやめて!! もう…あなたのいた紅幇(ところ)はとうになくなっているのよ! 今更意味がないのよ!! 助けて!」

 

 [彼]は顔を歪め、首を少し傾けて雪弥を見た。

 醜い…と思った。

 

 今まで殺す相手に対して特に何も思ったことはなかったが、雪弥には奇妙なほどの嫌悪感を覚えた。

 それはひとときであっても、姉弟(きょうだい)のように一緒に暮らしたからだろうか。

 時に自分のご飯を分けてくれ、酔客に殴られた怪我の手当してくれた姿を思い起こす。

 あの美しく、優しかった雪弥と今を比べる程に、その醜悪な様に失望が募る。

 

 殺した客の男から奪ったピストルを雪弥に向けて発砲するのと、呼ばれたのは同時だった。

 

「真吾ッ!!」

 

 宝耳の声が聞こえた途端に、[彼]は我に返った。

 

 だが、我に返る…とは何だろうか?

 我なのは、誰だ?

 

 混乱して硬直し、背を向けたままの[彼]を、宝耳もまたしばらく呆然と見つめた。

 

「鬼が出たと聞いて……来たら……。これは…お前なんか……?」

 

 宝耳の声は震えていた。

 怒りなのか、恐怖なのか。

 

 ゆっくりと振り返って見つめると、宝耳は長い間凝視した後に、グニャリと顔を歪めた。その目から涙が滂沱と落ちる。

 

「お前は……鬼やない。鬼やないんや………」

「……俺は」

 

 俺は、真吾。

 そう言うはずなのに、声が出なかった。

 

 背後からの殺気を感じたと同時に避けたが、背中を抉られた。

 焼けるような痛みに唸り声を上げて、真吾は倒れた。

 

「………痛いじゃない」

 

 雪弥が抱きしめていた禿が、立ち上がってじっとりと見つめていた。

 頭に空いた銃痕が消えていく。

 

「目立たないようにゆっくり一人ずつ殺して食べてたのに、どうしてこんなことするの? ひどいわ」

 

 異様なほどに白い顔をした少女は、そう言ってニイィィと嗤った。

 真っ赤な唇が裂けんばかりに吊り上がる。

 真吾に向かって、手が伸びる。

 鋭い爪が真吾の首を掻き切る前に、宝耳がその白い腕を断ち斬っていた。

 

 

 水の呼吸 弐ノ型 水車

 

 

「鬼狩りかッ!」

 

 禿は吠えるように言うなり、ズズッと成長した。

 髪が床につくまで伸びて、大人の女のような姿になると、足は黒く細い八本の脚となった。まるで蜘蛛のようだ。

 

「オノレ! いつも厭わしい!!! 妾の爪の先でせいぜい踊るがいい」 

 

 ザアアァと白い糸が宝耳に向かって降り注ぐ。

 すぐに宝耳は呼吸の技を繰り出した。

 

 

 水の呼吸 参ノ型 流流舞い

 

 

 糸は切れたが、宝耳は膝をついた。

 ポタ、ポタと口の端から血が垂れ落ちる。

 

 鬼の攻撃ではなかった。

 蜘蛛女がアハハハハと甲高い声で嗤った。

 

「なぁに? お病気? 大変ねぇ、人間は。そんなになっても、鬼退治に行かねばならないなんて…鬼狩りはよほど人がいないのね」

「……やかまし」

 

 宝耳は辛うじてそれだけ言うと、立ち上がる。

 

「自分だけでも大変なのに…お可哀そうな鬼狩りさん。この木偶(デク)人形も助けるの?」

 

 言うなり蜘蛛女はその場で固まっていた真吾へと糸の雨を降らせた。

 

「真吾ッ! 逃げえッ!!」

 

 宝耳が叫ぶと同時に真吾は立ち上がろうとしたが、既にその時には鬼の糸に絡められていた。

 助けようとした宝耳もまた、蜘蛛女の織り上げた巣の中に入っていた。

 

「……っぐ!!!」

 

 宝耳は腕に絡みついた糸を切ろうとして、急にガクンと膝をついた。

 仰向いて、ポッカリと口を開けて、白目になっている。

 そのまましばらく停止していたが、ビクンと動くと、ぎこちなく立ち上がった。

 

「いらっしゃい、鬼狩りさん。さぁ……」

 

 蜘蛛女はそう言うとキャキャキャと楽しそうに笑った。

 

 ブルブルと異様なほどに宝耳は震えている。

 う、う、と呻きながら真吾を見て、口を動かした。『逃げろ』と。

 

 だが、真吾にはどうやって逃げればいいのかわからなかった。

 周囲の景色はさっきまでいた部屋なのに、どこか現実感がない。宙に浮いているかのような感覚。足元には白い糸で織られた蜘蛛の巣が広がっている。

 

 何かが違う。

 出口がない。

 

 ゆっくりと宝耳がこちらに近づいてくる。

 逃げろ、逃げろと口だけ動かしながら。

 右手の刀が、震えながら徐々に上がっていく。

 

 真吾はボンヤリとその青鼠色の刀を見上げた。

 丹念に手入れしていて刃こぼれもない。美しい日輪刀。

 あれを振り下ろされたら、真吾は死ぬだろう。

 

「さぁ…殺セ!」

 

 蜘蛛女が叫ぶと、宝耳の日輪刀が真吾へと襲いかかる。

 真吾は逃げなかった。

 そのまま宝耳の懐に入り込むと、自分を殺そうとしていた右手を掴み上げる。ギリギリと力を加えると、やがて宝耳の手から日輪刀が落ちた。

 

「……ど…うして」

 

 明らかに動揺して蜘蛛女はつぶやいた。

 

 真吾は日輪刀を拾った。思ったよりも重い。いつも宝耳は軽々と振り回しているので、もっと軽いものだと思っていた。

 

 蜘蛛女は刀を持ちながらも攻撃してこない真吾を見て、ニヤリと笑った。

 

「益体もない……いっそ、あなたに殺してもらいましょうか。ついででしょ? これだけ殺した後なんだから」

 

 そう言って再び蜘蛛の糸を投げつけてくる。

 頭や腕、足に絡みついた細い粘着質なその糸を、真吾は面倒くさそうに払ったが、はりついた糸はとれない。

 

「さぁ……殺りなさい」

 

 蜘蛛女は指を動かして糸を操った。

 だが手応えがない。

 真吾はだらりと刀を持ったまま、立ち尽くしている。

 

 蜘蛛女の顔色が変わった。

 

「お前……どうして……」

 

 どんよりとした真吾と目が合って、蜘蛛女の目に恐怖が浮かんだ。

 

 一方の真吾は首をひねった。

 

 蜘蛛女の瞳の中には文字が浮かんでいた。

『下弦参』。

 あれでモノが見えているのだろうか? 不思議な目だ…。

 

「お前……死んでるの? 一体…」

 

 怯えを含んだ問いかけに、真吾はしばらくその言葉を反芻した。

 そうしておそらく初めて笑った。

 

 言い得て妙だ。

 死んでるのか? とは。

 

 そうか。自分は死んでいるも同然なのか。

 最初から。

 生まれ落ちたその時から。

 

 誰にも望まれず、自分が生きていることを感じたこともない人生の中で、いつの間にかそんな存在になっていたのか。

 

 ずっとずっと自分は死んだまま生きてきた―――――。

 

「……()ゃう」

 

 宝耳がくぐもった声でつぶやいた。

 

「お前は生きてる。生きて…行くんや」

「………なぜ?」

 

 真吾は聞き返した。

 宝耳の目からまた涙が流れる。

 

 その先の言葉を待っていた真吾の首に、蜘蛛女の放った糸が巻き付いた。

 

「もういいわ。一息に死ねばいい」

 

 操ることを諦め、真吾の首を締めにかかる。

 

 だが、攻撃に対しての真吾の動作は素早かった。

 日輪刀を逆手に持つと、すぐさまその糸を断ち切る。

 

 蜘蛛女は真吾に自分の血鬼術が通じないことで、相当に焦っていたのだろう。

 宝耳にかけていた術が弱くなった。

 

「真吾、下や! 蜘蛛の巣の中心を刺せ!!」

 

 宝耳が指示する。

 真吾は言われるままに、日輪刀を足元に広がる蜘蛛の巣の中心へと突き刺した。

 ブブブブ…とまるで蝿の音のような振動音と共に、元の部屋へと戻る。

 

 体が自由になると、宝耳は真吾から日輪刀を取り上げて、すぐに技を繰り出した。

 蜘蛛女は遮二無二、糸を放つ。

 

 

 水の呼吸 肆ノ型 打ち潮

 

 

 うねる刀の軌道は蜘蛛女が繰り出した細い糸をすべて寸断した。

 

 蜘蛛女の額からグググと角が伸びた。

 ギロリと真吾を見るなり、一足飛びに目の前に立った。

 

「この死神が!!」

 

 伸びた鉄色の爪が真吾に襲いかかる。

 後ろへ回転して避けようとした時に、宝耳の呼吸音が聞こえた。

 ひどく…荒い。

 

 

 水の呼吸 捌ノ型 滝壺

 

 

「キャアアアァァァ――――ッ!!!!」

 

 耳をつんざく甲高い悲鳴が響き、コロリと蜘蛛女の首が転がった。

 

 宝耳は鬼を討ったと同時に、その場に膝をつく。

 肩を激しく上下させながらも、またいつものように片手で拝みながらつぶやいていた。

 

「どうか……今度……は……」

 

 最後まで言う前に、ぐらりと体が揺らいで倒れた。

 真吾が助け起こすと宝耳は「すまん」と小さく言って、塵となって消えゆく鬼を見つめた。

 震える唇で必死に言葉を紡ぐ。

 

「普通に…生きて……幸せに……」

 

 息も切れ切れに言う宝耳に向かって、少女の姿に戻った鬼が手を伸ばしてくる。

 真吾は身構えたが、宝耳はその白い手を握った。

 

「大丈夫や……大丈夫……」

 

 鬼の心の声を聞いたのだろうか。

 やさしく呼んだ。

 

千鶴子(ちづこ)……」

 

 ボロボロと鬼の手は崩れて消えた。

 

 ホッとしたように笑いかけてから、急に宝耳は咳き込んだ。

 鮮血が真吾の作り出した乾いた血痕の上に飛び散る。

 しばらく止まらない。

 真吾は宝耳の背中をゆるゆるとさすった。

 

「……真吾」

 

 宝耳はようやく咳が止まると、真吾の手を取った。

 

「えぇか…ワイが死んだらな……お前は聡哉様のとこに……行け」

「さとや?」

「あの人なら…お前を救ってくれる、きっと」

「…………救いなんていらない」

 

 無表情に言う真吾に、宝耳はいつものように優しく笑いかけた。

 

「お前は嫌かもしれんけど……」

 

 だんだんと小さくなる声。

 日輪刀が手からすべり落ち、震える手で真吾の頬を撫でる。

 

「生きてて…欲しいんや」

「…………」 

 

 じいっと宝耳を見つめる真吾の目から涙が溢れた。

 自分の手を伝い流れる涙の熱さを感じながら、宝耳は静かに目を閉じた。

 

 聲が聞こえる。………

 

 

 ―――――シナナイデ…シナナイデ……。ヒトリニシナイデ…。

 

 

 土の中から呼びかけられて以来、滅多と()()ことのなかった真吾の聲。

 その聲は目の前でただ呆然と泣いている、大人びた顔の少年からは程遠く、哀れなほどに幼かった……。

 

 

<つづく>

 

 





次回2022.10.1.更新予定です。


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< 眞白の穴 ー肆ー >

「やぁ……珍しいな。こんなところで客人に会うなんて」

 

 産屋敷聡哉(さとや)は満開の藤棚の下で佇む少年を見て、声をかけた。

 

 本当はそんな場所に見知らぬ他人が立っていることなど有り得ないのだから、心底驚いてもよかったのだが、聡哉は不思議と今日、この日に、この少年に会うのは必然であるように思った。

 

 少年は聡哉じっと見つめて問うてくる。

 

「あんたは…さとや?」

 

 聡哉は答えず、問い返した。

 

「君は?」

「………」

 

 少年は黙り込む。何か逡巡しているようだった。

 しばらくして答えた。

 

「名はない」

「……そう」

 

 そこまでで、一旦対話は中断された。

 

「聡哉様!!!」

 

 走ってきた隠達の先頭で、聡哉の幼馴染であり、産屋敷家における将来の執事でもある薩見(さつみ)惟親(これちか)が叫ぶ。

 すぐさま庇うように少年と聡哉の間に立った。

 

「何者だ!? 貴様ッ」

 

 怒鳴られても、少年の顔色は変わらなかった。怯えても、怒ってもいない。

 隠達は少年を取り囲んだが、皆、この不気味な少年を怖がって手を出せなかった。

 

「何をしてる!? 早く取り押さえろ!」

 

 惟親が苛々して怒鳴ると、一人の隠が恐る恐る一歩、少年へと足を踏み出す。

 

 その後は一瞬だった。

 

 少年に向かって足を踏み出した隠が手を取られて地面に叩き付けられ、その隣にいた二人は腹を蹴られて池に落ちた。

 惟親の隣にいた隠は掌底で喉元を打たれて吹っ飛び、残る一人は背後に回って腕を取られ、(こうがい)を目の先に突きつけられた。

 

 聡哉は一瞬のことに驚きながらも、笑みを浮かべた。

 ゆっくりと隠の首を締め上げる少年へと近寄ると、その腕をポンポンと叩いた。

 

「ごめんね。いきなり驚かせたね。もう何もしないから、その腕を離してあげてくれないかい? 彼らは戦闘行為には慣れてないんだよ」

「あんた……さとや?」

「うん、そう。僕は聡哉だよ。少し話しをしよう。離してあげてくれる?」

 

 あきれるほどあっさりと少年は隠を離した。

 

 聡哉は少年に背を向けて歩き出す。

 呆然と立っている惟親の腕をグイと引いた。

 

「惟親。彼らに無体な命令をするものじゃない。殺されるところだよ」

 

 いつもは柔和な目が厳しく閃く。

 惟親は固まった。

 

「すっ、すみませ……」

「客人だよ。案内(あない)しておくれ」

「………はい」

 

 惟親は頭を下げて聡哉を見送ると、チラと少年をみやった。

 

 静かな表情だった。

 その顔で五人を血祭りにあげようとしていたのか……。

 

「こちらに…」

 

 とりあえず神妙に、惟親は少年を屋敷の中へと案内した。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 産屋敷邸に護衛はない。

 それは隊士が多いときであっても、柱から口を酸っぱくして進言されても、代々の当主が断ってきたことだった。

 今や不文律になってしまっている。

 もっとも、先代の当主は幼い頃より特に病弱で、ひどく気鬱になる性質であった為に、親とも慕っていた風柱をほぼ常駐させてはいたが。

 

 惟親にしてみれば、その息子である聡哉もまた、それくらい気弱であってくれれば、柱を護衛につけることも許されたろうに…と思わずにいられない。まして今日のように、闖入者が入り込んだ時には。

 

「今、柱の方々を呼んでおります」

 

 惟親が言うと、聡哉は「いらないよ」と笑った。

 

「こんなことで柱を呼ぶものではないよ、惟親」

「しかし…ここに隠の案内もなしに入るなんて……」

 

 惟親の動揺は仕方なかった。

 

 護衛をつけない代わりに、産屋敷邸は幾重もの結界で守られていた。

 この結界は万単位に及ぶ暗号からなり、隠達はその暗号を解いていって、次の結界への門を開く。

 

 柱合会議などで柱達をここに連れてくる時には、二十人近い隠達によって暗号を次々に解析していくことで、一見、一つの道をただ歩いてくるかのように導いているのだ。

 

「それを…あの男は一人で、ものの三十分ほどで解法して入ってきたのですよ!」

「そう…じゃ、無理に結界を破ったという訳ではないんだね」

 

 聡哉は言いながら、さすがに驚いた。

 暗号を解くための式は、五分ごとに現れる。つまり五分以内に式を解いて、解を示さないと結界は開かない。

 結界門は全部で九つあり、それらを全て解いた上、三十分で入ってくるとなれば、その計算速度の早さは尋常でない。

 隠達はいつも特殊な計算機を使って、この結界門を解錠していくが、それでもギリギリだったり、時に時間切れになってしまうこともしばしばあった。

 

「すごいな…。関孝和の生まれ変わりかな?」

「ご冗談を言っている場合ですか!?」

「ハハハハハ。さすがの惟親も焦っているね。今日はいつもは見られない珍しいものがよく見れる。さて、と。では、彼と話をすることにしよう…」

「私も行きます」

「いいけど…今度は邪魔しちゃ駄目だよ。壁になっておきなさい」

 

 聡哉は心配性な幼馴染に釘をさして、少年の待つ部屋へと向かった。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

  ―――――君は?

 

 と、訊かれた時、[彼]は『真吾』と答えることができなかった。

 なぜなら[彼]にとって『真吾』であるのは宝耳(ほうじ)の前でだった。宝耳以外の人間に『真吾』として認識されるのは違う気がした。

 

 出されたお茶に毒は入ってないようだったが、[彼]は飲まなかった。喉は乾いていない。

 色とりどりの花が咲く庭を見つめていると、シャッと襖の開く音が聞こえた。

 

「やぁ、待たせたね」

 

 朗らかに言って、聡哉は上座に設えられた座布団の上に腰を下ろす。

 そこに座れば、下座の人間はたいがい平伏するが、目の前の少年は胡座をかいたまま、どんよりとした目で見つめてくるだけだった。

 

「さて、名無しのお客人。今日はどういったご用件だろう?」

「……宝耳に言われた。サトヤ様に会えと。だから来た」

「宝耳?」

 

 意外な名前に聡哉はさすがに顔色を変えた。

 

 伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)

 水柱だったが、二週間前、任務中に結核の発作を起こして死亡している。

 鬼に殺られたのではなかったが、むしろ、無理に仕事を続けたことで死期を早めたのだろうと思うと、聡哉としては後悔が残る。

 

「君は…水柱と知り合いなのかい?」

「……水柱は知らない。宝耳だ」

「あぁ、成程」

 

 聡哉は気を引き締めた。

 この少年には一言一言、言葉使いは慎重に行わねばならない。間違えば、彼は貝のように口を閉ざす。

 

「そう。宝耳と知り合いなんだね。彼が君に私に会い行くように言ったのかい?」

 

 少年は頷く。

 

「彼がこの場所を教えてくれたのかい?」

「いいや。あんたに会えと言っただけだ」

「じゃあ、ここをどうやって知ったの?」

 

 少年は無表情に滔々と語った。

 

 宝耳の死後、隠達が現れて処理を行った。

 その時に隠に宝耳の言葉を伝えると、「馬鹿言うんじゃない!」と怒鳴られた。その時の会話で『産屋敷邸』という言葉を聞き、その場所を他の隠に尋ねたが、皆が皆、教えてくれなかった。

 

 宝耳の死体とともに東京に帰り、屋敷にいた老隠に尋ねると、産屋敷邸の場所は鬼の襲撃を回避するために秘匿されており、柱ですらも隠の案内なしで通ることはできないのだと言われた。

 

 仕方ないので、焼き場から宝耳のお骨を拾って持っていく隠の後をつけた。

 彼らは骨を産屋敷邸近くの墓場へと持っていく…と言っていたからだ。

 

 そうして後をつけた途中に、奇妙な空間を見つけた。

 なぜかその場だけが歪んでいるかのような違和感があった。

 

 辺りをよくよく見ると、土の中に埋まっている門の一部を見つけた。

 偽装されていた草と土を払いのけると、埋もれた門があった。(かんぬき)でしっかり閉じられている。触ろうにも閂の両側は土に埋まっているので動きそうもなかった。

 閂を受け止めている二つの閂鎹(かんぬきかすがい)は、柔らかく白い微光を帯びていた。

 

 太い閂には見覚えのある数式が墨で書かれてあったが、その式はしばらくすると薄まって消えて、再び別の式が浮かび上がってきた。

 不思議な現象を二回ほど見送った後、微光を帯びた閂鎹にその答えを指で書いてみる。するすると、まるで指に墨でも塗っていたかのように書いた漢数字が浮かび上がり、門は消えた。

 

 気付けば、それまで鬱蒼とした緑に覆われていた前方に、道が出来ていた。

 その後は道々にある門だったり、高札だったり、不自然な木箱などに表示された暗号を解いていき、その都度現れた道を進んでこの屋敷にたどり着いたのだという。

 

「あれは呪術的なものも含んだ複雑な数式だと聞いていたんだけどね?」

 

 聡哉はやや遠回しながら、暗号をなぜ解法できたのか問うた。

 少年はなぜそんなことを聞くのか不思議だったのか、少し眉を上げたが、簡潔に答えた。

 

「………いくつかは見たことがある。(シン)にいた頃に、暦を作る男の家の本棚にあった。見たことのないものも、応用すればいいだけだ」

「やれやれ…」

 

 聡哉は肩をすくめた。

 全ての数式については記された本が残っているので、一応開いてみたことはあるが、聡哉にはただただ意味不明な記号と数字の羅列にしか見えなかった。

 

「僕には理解不能だ。難しいことはあまり考えたくないからね。ま、つまり君は暗号を解いて、ちゃんと正面から入ってきたという訳だね」

 

 問いかけたが、少年は静かな顔で黙り込んだ。

 

「君は、宝耳の継子ではないの?」

「……知らない。一緒にいただけ」

「そう。いつから?」

「……わからない。桜が咲くのを二度見た」

 

 聡哉はフフッと笑った。

 

「いいね。桜を見た回数で年を知るのは。さて―――と。それじゃあ、どうしようかな……」

 

 言いながら聡哉は立ち上がると、縁側に出て庭を眺めた。

 

 風が強い。

 藤の花びらがここにまで飛ばされて、沈丁花の葉の上に落ちた。

 

 伴屋宝耳は柱にしては珍しいくらい、腰の低い男だった。

 あのやわらかい上方の言葉で話されると、緊迫した柱合会議でも皆、気が抜けたようになってしまい、厳格な性格の岩柱からは注意されることもしばしば。

 その都度、頭を下げて笑っていた。

 皆、彼を呆れ顔で見ていたが、おそらく全員から好かれていた。

 果てしなく優しい彼の眼差しは、殺伐とした鬼殺隊の、より厳しい任務を遂行せねばならない柱にとって、安らぎだった。

 

 この少年にとっても…それは同じだったのだろうか?

 

 聡哉は部屋に戻って少年の隣に座ると、ニコリと笑いかけた。

 少年の表情は変わらない。

 相変わらず、何を考えているのかわからない。色素の薄いその赤茶の瞳には、一切の感情はない。

 

「君のことを教えてくれるかい?」

「………」

 

 少年は少しだけ眉を寄せた。

 聡哉は少年の鼻先を指をさす。

 

「そう……君のこと。今までの君のことをすべて。君が知っていること、君がやってきたこと…すべて話せるかい?」

 

 少年はコクリと頷くと、まず話したのは最初の殺人の仕事であった。

 それが覚えている一番最初の記憶だと語ったのだから、おそらくは三つか四つほどの年の頃の話だ。

 

 聡哉は少年に勘付かれないように、ゴクリと唾を呑みこんだ。

 

 目の前にいるこの少年を、宝耳は一体自分にどうしろと言うのだろうか……?

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 水柱・伴屋宝耳が死ぬまでの話を全て聞き終えた時、壁としてずっと黙っていた惟親は汗に滲んだ手をそろそろと開いた。

 我知らず手が震えている。……

 

 そっと少年を窺った。斜め横から見える少年の姿は、惟親とさほどに変わらない。いや、何なら自分よりもおそらく少しばかり年下だろう。

 

 少年が生まれた時には既に父母は不明。

 正確な自分の年齢もわからない。

 最初に自己紹介した時に名乗らなかった少年に、惟親は『何を勿体ぶって…』と内心、その不敬な態度に業を煮やしていたが、彼は間違っていない。

 なぜなら本当に『わからない』のだ。

 

 名もなく、年もわからず、彼は殺人を生業にして生きてきた。それが罪であるという意識すらもないまま。

 

 聡哉は少しばかり顔色が悪くなっていた。

 午後の休息時間はとうに過ぎていた。体も疲れているであろうし、おそらく精神的にもかなり衝撃を受けているに違いない。

 

「聡哉様…少しお休みなっては…?」

 

 少年が語り終えても、黙りこくったままの聡哉に惟親が声をかけると、手で制された。

 

「大丈夫だ…惟親。ああ……大丈夫だよ」

 

 二度目の大丈夫は、おそらく自身に向かって言ったものだったろう。

 聡哉は溜息をついてから、縁側からそのまま庭へと降り立つ。

 

 少年はさすがに喉が乾いたのか、用意されていたすっかり冷めたお茶を一気に飲み干した。

 表情に変化はない。

 初めて会った時から今に至るまで。

 恐ろしい殺戮を繰り返してきた半生を語っている時ですらも。

 

 聡哉は庭をゆっくりと歩き回った。

 

 考えなければならない。

 宝耳が託した意味を。

 彼をこのまま世に解き放つことはできない。

 

 人の心のゆらぎや、聲を聞くことのできる宝耳は、彼の正体がわかっていたはずだ。

 彼に()()()()()ことを。

 ()()()()()()でしかない彼を、それでも人間にしたかったのだ…。

 

 この少年が記憶を失くした二年の間に宝耳に出会えたことが、せめてもの神の配剤だったのだろうか。

 聡哉は今更ながらに神仏を恨みたくなった。

 本当に神というのは、一体なにをもって人の世にこれほど陰惨な現実を与えたもうのか。 

 

 聡哉はギリと歯噛みして目を瞑った。

 深呼吸をして、甘い沈丁花の香りを胸に含ませる。

 

「ねぇ…こちらに来てくれるかい?」

 

 振り返って聡哉は少年を呼んだ。

 

 少年はすぐに縁側までやって来る。

 聡哉は縁側に腰掛けると、少年に横に座るよう促した。

 

 だが聡哉は長い間、黙っていた。

 

 沈む夕日に合わせて朱色に染まる空を見上げる。

 少年はまっすぐに、自分が最初に佇んでいた藤棚を見つめている。その瞳は、まるでなんの感情もない穴そのものだった。

 やがて東の空から徐々に藍色の帳が降りて、一番星がキラリと光り始めた。

 

 聡哉は息を吐いた後に、軽い口調で言った。

 

「提案があるんだよ」

「………」

「君はね、宝耳になるんだよ」

 

 その言葉に少年は首を傾げた。不思議そうに聡哉を見つめる表情は、ひどく幼く見えた。

 

「今まで君はいろんなものに()()()きたんだね。きっと、君は何かに()()ことがとても上手なんだろう。君は宝耳のことはよく知っているよね? だったら()()()()()ことは、簡単じゃない?」

 

 虚ろに見つめていた少年の瞳に、キラリと楽しげな光が浮かぶ。

 

 聡哉はその様子に泣きそうになった。

 ああ、この子にとって宝耳はこんなに煌めく存在であったのか。楽しげに、優しく包むように笑いかけていたのか。

 

 ニイ、と少年の口の端が上がって…やがて満面の笑みになる。

 

 聡哉は問いかけた。

 

「さぁ……君の名前は?」

「ワイは、宝耳やで。伴屋宝耳や」

 

 声までが、先程までの暗くボソボソした話し方から、上方の宝耳の喋り方そのままに、明るく陽気なものとなっていた。

 

 聡哉はニッコリと笑った。

 内心に、凍りついた心を貼りつかせて。

 

 本物の宝耳であれば、きっとわかったであろうその聡哉の哀しみに満ちた心を、目の前にいる『伴屋宝耳』が知ることは永遠にない。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

「あれで……いいんですか?」

 

 ()()が去った後、惟親はおずおずと尋ねた。

 

 夕闇に沈んだ庭を見つめる聡哉の顔は、今までに見たことがないほど、冷たく暗かった。

 

「………惟親、僕はね…自分に出来ることは見極めているんだ」

 

 聡哉はっきりと言った。

 その覚悟は、齢四歳でお館様として鬼殺隊の隊士達の親となった、その日から常に心に持ち続けているものだ。

 

「あの子は影なんだよ。何かの影でしかない。宝耳はあの子を影から生身の人間にしたかったのだろう。きっと僕にもそれを求めていた。でも、僕には自信がない。自分が生きている間に彼を人間にすることはきっと出来ない。彼が何かにならねばならないのなら、()()()()()()()()()()()()()()になってもらうのが、一番都合がいいんだ。それが彼にとっても、僕らにとっても平和なことなのさ。違うかい?」

 

 惟親は何も言えなかった。

 

 要するに少年は見放されたのだ。

 彼は亡き水柱・伴屋宝耳の望んだ『人』となる道を閉ざされた。おそらく永遠に。そして、その事を知りもしない。

 

 聡哉は人として非情なことを言っている。

 わかっていて言っている。自らを弁護することもなく、受け容れている。

 覚悟した人間に、自分の薄っぺらな正義感を押し付けて、一体何になるのか? 

 

「鬼は……無惨だけで十分なんだよ」

「……聡哉様」

 

 聡哉はしばし沈黙し、瞑目する。

 遠い過去の人となった宝耳に呼びかける。

 

 

 ―――― あの子を救うことができたのは……君だけだったんだよ、宝耳。

 

 

「それで…あの少年……()()を、これからどうするんです?」

 

 惟親は緊張した面持ちで尋ねた。

 たとえ伴屋宝耳に成り代わったとしても、いきなり水柱としての任務ができる訳もない。人殺しと鬼殺しは違うのだ。

 

 聡哉は再び冷淡な表情で、闇へと沈む庭を見つめた。

 

「仕事をさせるよ。彼は…僕らの手中にあって、働いてくれる限りは害となることはない。こちらが手綱を握っている限り、鬼になることはないはずだ。有り体に言えば…使役するんだよ。―――― 死ぬまで、ね」

「…………は」

 

 惟親は唾を呑み込み、頭を下げた。

 軽く聡哉が手を上げると、そのまま部屋を出て行った。

 

 沈丁花の甘ったるい匂いが宵闇に漂う。

 東の空には月が光り、遠く遠くに聞こえる汽笛の音。

 

 聡哉はフッと笑った。

 それは自身に向けた嘲笑だった。

 

 お館様などと崇められ、常に仁愛を持って隊士達を自らの子供のように慈しみながら、結局、自分はたった一人の少年を救うこともできない。柱として今まで戦ってきてくれた男の今際の際の願いを叶えることすらできない。

 

 だが無力な自分を嘆くことだけはしたくなかった。

 自虐の果てに待っているのは、父の辿った道だ。たとえ無力で、情けない人間であったとしても、自分は生きることを許された年月、生き抜く……。

 

 

 聡哉の懊悩を知らず、()()()()は口笛を吹いて月明かりの道を歩いていた。

 

 もう[彼]の中に、真吾はいない。

 

 

 

<伴屋宝耳外伝  眞白の穴  了>

 




読んでいただき、ありがとうございます。
第五部開始までしばしお待ち下さい。

pixivの方では、作者のひとりごとをくっちゃべっております。
(ハーメルンさんは規約の関係で、小説以外のことでの投稿は駄目みたいなので)
お暇なときに読んでいただけると嬉しいです。




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閑話休題 其の肆
<初恋の人>


 家族の夢を見るのは久しぶりだった。

 

 鬼となった母を殺し、その鬼となった母に殺された弟妹たちの遺骨を墓に納めて以来、実弥にとって休息というものはなかった。

 そんなものはいらない。

 ゆっくりと夢見る暇などがあるのなら、鬼を一匹でも多く殺してやりたい。

 一匹が十匹に、二十、三十……鬼をどんどん殺していけば、いずれ無惨にたどり着くはずだ。

 それまでは、懐かしい家族に会えることなど考えない。

 夢の中であっても。

 

 それでも夢というのは無邪気に実弥の心を映す。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 懐かしい長屋の並んだ下町の、雑多な音、匂い。

 その中に佇む自分に違和感を覚えたのは一瞬で、声をかけられると、当たり前のように返事する。

 

「兄ちゃん、おかえり」

 

 ポンと背中を叩かれて振り返ると、玄弥がいた。

 実弥は本当に一瞬だけ戸惑った顔になったものの、すぐにフッと笑った。

 

「お前もな。なんだ、それ?」

 

 手に持っている風呂敷包みを指さすと、玄弥はそれを軽く持ち上げた。

 

「あぁ。親方に持ってけって。今日、お得意さんのところで餅まきがあったらしいんだ」

「おぉ、そりゃありがたいな」

 

 言いながら兄弟二人でぶらぶらと騒々しい長屋の細道を歩いて行く。

 近所の子供にそろそろ日暮れだから帰れ、と声をかけながら。

 

 いよいよ我が家の前まで来て、薄い障子戸の向こうから妹達の甲高い歓声が聞こえてきて、実弥は顰め面になった。

 

「女どもはうるせぇなァ」

 

 玄弥が大人の口ぶりを真似て言う。

 実弥はまったくだと思いつつ、障子戸に手をかけたのだが、そこで聞こえてきた声にピタリと止まった。

 

「……じゃあ、寿美(すみ)ちゃんの好きな人は弁吉くんなのね」

 

 子供のわりに落ち着いた声音。

 やさしく妹に話しかけているのが誰なのか、実弥はすぐにわかった。

 母が通い女中をしている子爵家のお嬢様。

 

 森野辺(もりのべ)(かおる)

 

 その(かおる)という名前で呼ぶのは実弥だけで、妹達は母に倣って『薫子(ゆきこ)お嬢様』と呼んでいる。

 母の忘れ物を届けに来て、その後に妹の寿美と偶然会うことがあったらしく、二人は気が合ったのか、しばしば一緒に遊ぶようになった。

 こんな汚い長屋にもまったく頓着せずに遊びにやって来る。

 今では寿美や弟妹達だけでなく、近所の子供とまで鬼ごっこなどするらしい。

 時々、遊び呆けて遅くなったのを、実弥が子爵家の近くまで送り届けることもあった。

 最近では子爵家の方から、庭師の爺や、お付きの女中が迎えに来ることが多かったが。

 

 ――――にしても。

 一体、なんの話をしているんだ、女どもは。

 

 眉を寄せる実弥など知らぬように(実際に知らぬのだから仕方ない)、恥ずかしそうな寿美の声が障子ごしに聞こえてくる。

 

「やぁだ! 弁吉はァ、やさしいけどぉ…お玉ちゃんにもやさしいし、誰にでもやさしいからねェ」

「じゃあ、吾郎は? スミ姉ちゃんのこと好きだって言ってたよ?」

 

 幼い貞子の舌っ足らずな声。

 

「あんた、あの子私よりも年下じゃない! しかも、あいつこの前にまた寝小便して布団干されてたんだから。冗談じゃないわ」

「…………」

 

 実弥はよく仕事場の男たちが「女三人寄ればかしましい」と言っていたのを思い出した。

 女というのは、こんな子供でも三人寄ると、井戸端に集まる(カカァ)連中のようになってしまうものなのだろうか? 誰かが好きだの、惚れただのハレただのと…。

 

「兄ちゃん、どうしたの?」

 

 玄弥は戸口に立って、戸を開きもせずに溜息つく兄に首をかしげる。

 

「いや…」

 

 実弥は首を振って、いざ開けようとしたのだが、その時にまた寿美が余計なことを言い出す。

 

「薫子お嬢さまは? 初恋の人って誰?」

 

 妹の問いかけに実弥はまた固まってしまった。

 そのまま、また聞き耳をたててしまう。

 

「私? 私は……」

 

 中で薫は思案しているのか、困っているのか、すぐに答えない。

 パン! と手を打つ音が聞こえて、貞子が大声で言った。

 

「わかった! お兄ちゃんでしょ!?」

 

 実弥は一気に顔が赤くなった。

 貞子め…とんでもないことを言い出す。

 妹が目の前にいれば、すぐにでも口を塞いで余計なことを言うなと小突いて叱りつけたかったが、残念ながら実弥は盗み聞きしている身だった。 

 

 薫がまだ答えないので、寿美までもが囃し立てる。

 

「あー! そうだそうだ。だって、前に言ってたよね? あそこの川で、お兄ちゃんと小さい時に会ったって?」

「……うん。そのとき、小さい貞ちゃんにも会ってるのよ。覚えてる?」

 

 薫が尋ねると、貞子は考えていたのか、しばらく間をあけてから「覚えてない!」とはっきり言った。

 

「そうよね。小さかったもの。私もまだまだ小さかったし、まだこちらに来たばっかりで道も知らなかったから…」

 

 なんの話だろうか?

 

 夢の中の実弥は意味がわからず首をひねっていたが、それを()()()()()()は、すぐに思い出した。

 

 まだ東京に来て間もない頃に、薫が森野辺の家を抜け出して迷子になった時の話だ。

 師走の寒い時期にしるこ屋の前で偶然に会って、薫にしるこをおごってやった時、食べ終えて川べりを歩きながら薫が言ったのだ。

 

 

 ――――― 実弥さん、私、ここで実弥さんに会ったことがあるんですよ!

 

 

 なんだ。

 あの時は、ついさっき思い出したみたいなことを言ってたのに、本当はずっと前から思い出してたんじゃねぇか。

 

 悪態をつくが、そういう自分はあの時も、この盗み聞きしていた時でも、薫に初めて会った時のことを思い出せなかったのだ。

 

 ずっと忘れている。

 

 今も……今も……今も……?

 

 

*****

 

 

 ふっと目を閉じて開けると、そこは小さな川へと続く道だった。

 

 幼い貞子がずっと先をトテトテ走っていく。

 実弥は懸命に追うが、なかなか追いつかない。その時は、父に殴られたときに足首をひねって痛めていたので、全速力で走れなかったのだ。

 

 もうあと少しで貞子が川に落ちてしまう…という寸前に、実弥は川べりにぼんやり立っていた子供に向かって叫んだ。

 

「止めてくれッ!」

 

 女の子はぼんやりしていたわりには素早い動きで、貞子を抱きとめてくれた。

 邪魔されたとわぁわぁ泣きわめく貞子を小突いて、実弥は女の子を見つめる。

 

 菊結びのついた朱色の綸子の綿入れ被布に、同じ色合いの小花柄の着物を着た女児。

 豪奢な衣に身を包みながら、その顔はどこか虚ろであった。

 

「あんがとな、助かった」

 

 実弥が礼を言っても、表情はあまり変わらず「ん」と頷くだけ。

 

 睫毛の長い黒目がちの瞳や、ツンととがった小さな唇は、たしかに薫の面差しがある。

 しかし、幼い薫はどこか生気がないように見えた。

 ボーっとしていて、何を考えているのかわからない。

 

「どした? 迷子か?」

 

 尋ねると、ようやく自分で迷子だと気付いたようにキョロキョロと辺りを見回している。

 

「一緒についてってやっから」

 

 手を差し出す。

 重ねられた手は冷たく、自分と同じようにカサついていた。妹たちよりも痩せていて、固かった。

 どうしていい着物を着たお嬢さんが、こんな手なんだろうか…と、うっすら違和感を持ったのを覚えている。

 

 

*****

 

 

「いつ会ったの?」

 

 またいつの間にか長屋の前に戻ってきていた。

 寿美が興味津々と尋ねる声が聞こえてくる。

 

「……九つのときだったかな」

「うわぁ。じゃあ、お兄ちゃんが初恋なの?」

 

 ワクワクした様子で聞いている妹達と一緒になって、思わず実弥は息を呑む。

 そんな夢の中の自分を()()()()()()()()()()()も、息を呑んでいた。

 なんで、この事を忘れていたのだろう? 忘れられっこないようなことなのに、どうして自分は今まで忘れていたんだろうか?

 

 ずいぶんと長い間があって、薫がはっきりと言った。

 

「ううん。初恋は……違うかな」

「ええぇぇーーっっ!!」

 

 残念そうに声を上げる妹達よりも、夢の中の実弥はわかりやすく肩を落としていた。

 

「……に、兄ちゃん…」

 

 後ろから気遣って呼びかける玄弥の声にも反応しない。

 

「誰?」

「誰、誰?」

 

 妹達は残念がったのも一瞬で、薫の初恋相手をなんとしても聞こうと、必死になって問いかける。

 ややあって少しはにかんだように――― 実際に見えはしなかったが想像で――― 薫が言った。

 

「銀二さんっていう人」

「ぎんじ?」

「私に文字を教えてくれたり…助けてくれたの。初めてお母さん以外で、安心できた人だったから…」

「えぇぇ? どんな人?」

「かっこよかった? 役者みたいな人?」

 

 矢継ぎ早な妹たちの質問にも、薫はおっとり答えていたようだが、実弥の耳には入ってなかった。

 それは夢の中の実弥だけでなく、それを()()()()()()()()もまた、呆然となっている。

 

 わかっていた。

 そうだ。

 そんなことがあった。

 ずっと忘れていたのに、どうして今頃になってまた夢なんかで思い出す羽目になったのか……。

 

 お陰でまた……チクチクと痛む。どこが痛むのかわからないが、なにせチクチクする。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 朝の光で目が覚めて、むっくりと実弥は起き上がった。

 頭を抑えて呻くようにつぶやく。

 

「誰だよ……銀二って…」

 

 

 

<閑話休題 初恋の人 了>

 

 





読んでいただき、有難うございます。
本編再開までもうしばらくお待ち下さい。


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無惨外伝
<光りの果て - 序 - >




 スピンオフの『桎梏の闇』『椿の涙-鬼殺隊列伝・五百旗頭勝母の帖』とリンクした内容になっておりますので、そちらを一緒に読んでもらえると、より香ばしく読めます。

※ 必読というわけではありません。



「あぁっ! す、みません…」

 

 角を曲がってぶつかってきた男は、それでも抱えた本を落とすこともできず、ヨロヨロとよろけながら、不安定に揺れる本のバランスを取っていた。謝ってはきたが、こちらを見る余裕もないようだ。

 

 眉間に皺を寄せつつも、御堂(みどう)月彦(つきひこ)はとうとう重力に負けて落ちてきた本を数冊、空中でキャッチした。

 

「おわわ…すみません。本当に」

 

 男はようやく月彦の方を見た。眼鏡奥の丸い目がまじまじと月彦を見つめて、急にニコッと人懐こい笑みを浮かべる。

 

「もしかして、平川教授を訪ねていらしたんですか?」

「………えぇ」

「教授の部屋でしたら、こちらですよ。西棟の方がこの前ボヤで使えなくなってしまって、臨時でこちらに移られたんです」

「そうでしたか」

「こっちです、どうぞ」

 

 そのまま男はまだ不安定な本をかかえて歩き出す。

 月彦は手にもった三冊の本を見るともなしに見た。

 

 どれも外国の文字の題名だ。

 アルファベットという文字はとても機能的だ。たった二十数文字であらゆる言葉を表現する。日本語と違って、効率が良く、見た目も覚えやすい。

 

「あれ? どうしました?」

 

 男が振り返ってくる。

 振り返ると同時に本も一緒に動かすので、またゆらりと上の本が落ちそうになる。

 月彦はややあきれつつ、落ちてくる前に男のかかえていた本の山から、落ちそうになっていた五冊ほどを取った。

 

「手伝いましょう」

 

 目を細めて笑みを作る。

 男はまるで警戒もなく、また屈託ない笑顔を見せた。

 

「ありがとうございます! 助かります!」

 

 そうして両手に本をかかえて、二人並んで歩き出す。

 

「お読みになるのですか?」

 

 月彦が尋ねると、男はキョトンと首を傾げた。いかにも間抜けそうなその顔に、月彦は内心で苛立ちつつも、口元に浮かべた笑みをかろうじて保った。

 

「この本です。随分と熱心ですね。外国の書籍も混ざっているようですが」

「あ、ハイ。この下の三冊は教授から頼まれたものなんですけど、あとは僕がちょっと調べようと思って、気付いたらちょっと多くなってましたねぇ」

 

 のんびりとした口調。丸眼鏡の奥の目は、実験室で飼われているネズミのように無知で愚かそうに見える。それでもこの大学の研究棟で白衣を着てうろついているということは、優れた頭脳の持ち主であるのだろう。

 

 見た目に相違した、卓越した技量と豊富な知識。

 いつも穏やかに笑っていた男の姿が、忘れていた記憶からすっと甦ってきて、月彦は一瞬、眉を寄せた。

 胸がひどくざわめいて、落ち着かない。

 

「すみませんねぇ、お客様に荷物を運ばせてしまって」

 

 男は月彦が何を考えているのかも知らず、申し訳無さそうに言いつつも、人の良さげな笑みを頬に浮かべている。月彦は、一旦軽く瞼を閉じて、嫌な気持ちを追い払った。

 

「いえ、構いませんよ。それにしても、これだけの本をお読みになられるとは、よほど優秀な方なのですね」

「いや~、優秀なんて」

 

 照れたように否定する男に、月彦は笑みを貼りつかせて尋ねた。

 

「失礼ですが、お名前をお聞きしても?」

「あっ、ああ失礼しました。僕の名前は那霧(なぎり)旭陽(あさひ)と言います。那智勝浦の那に、霧雨の霧と、旭はえーっと……ホラ、あの九っていう字の横をビョーンって伸ばして、その上に小さいお日様をのっけた旭です。あ、でも『旭』一字で『あさひ』じゃなくて、『ひ』は太陽の陽なんです」

 

 そこまで詳しく尋ねてもいないのに、いちいちご丁寧に教えてくれる。だが、その名前を脳裏に並べた途端、月彦は自分でも理解不能な心の震えを感じた。

 

 那霧(なぎり)旭陽(あさひ)。あさひ。旭に陽。

 

「…………旭陽(きょくよう)………」

 

 つぶやくと、聞こえていたのか旭陽は頷いた。

 

「ああ! 言われてみれば、音読みだとそうですね。はい、そうです。キョクヨウと書いて旭陽(あさひ)と呼ぶんです。なんでも父が漢籍から取ったとか言ってたみたいですけど、幼い時に亡くなったのでよくわからないのですが…」

 

 べらべらと聞いてもいないことをしゃべる旭陽のことなど、もはや月彦の念頭になかった。

 自分が無視されていることにも気付かず、旭陽はおしゃべりを続けていたが、月彦が黙り込んでいることに気付いたちょうどそのとき、教授の部屋にたどり着いた。

 

「平川教授、お客様ですよ。この前からちょくちょくいらしている……あ! そういえば、名前を伺ってなかった。お名前なんておっしゃいましたっけ?」

 

 机に本をよいこらしょ、と置きながら旭陽が尋ねてくる。

 

 微妙な間があった。返事がなくて不思議そうに顔を上げる旭陽と、強張った顔に素早く笑みを作る月彦。二人は一瞬、目を見合わせてから、月彦が取り澄ました顔で名乗った。

 

御堂(みどう)月彦(つきひこ)と申します。ご案内、ありがとうございます。那霧君」

 

 旭陽はくしゃりと笑った。

 その笑顔に月彦は遠い遠い過去の記憶が戻ってきて、心底苛立たしかった。

 

 

 ――――― 月読君(つくよみぎみ)のそばに、いついかなる時も離れずおりますよ……

 

 

 懐かしい呼び名。

 同時に思い出した男は、遥か昔に月彦が殺した医者だった。

 

 伊南(いなみ)旭耀(きょくよう)

 

 かの男も、()()()耀()()を意味する名前だった。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

 明治。日本はまだまだ世界列強の中では貧しく弱い国ではあったが、どうにか植民地となる道は避けて、それまで知り得なかった『世界』というものから貪欲に、新たなる知識を吸収している途中であった。廃仏毀釈運動などもあったように、古いものへの尊崇は薄れ、新たなる文化こそが正義で、真理であると言わんばかりに、人々は文明開化に酔いしれていた。

 

 月彦は長く生きてきても知り得なかった海外の文化を吸収することに夢中だった。

 小さい国で生きてきただけでは知り得ない知識は、ひどく刺激的だった。

 彼らの考え方は非常に合理的で、かつ機知に富んだものだ。それに先進的な学問。これを追究すれば、あるいは()()()()の言っていた『完全体』となるための薬も作れるかもしれない。

 

 そのために月彦はこの国の中で、最も叡智の集まる場所で、様々なコネクションを作ることにした。

 政府からの補助があるとはいっても、彼らはいつも研究のために金を欲しがっていたし、熱心な篤志家として彼らを助けてやり、時に情報を仕入れることは無駄にならない。

 少なくともめくらめっぽうに探し回っている愚鈍極まりない(バカ)どもより、まだしも使い出があるだろう。

 それに用がなくなれば、殺せば済むだけのこと。家畜と変わらない。

 

 月彦にとって唯一、予期せざることで一点シミとなっているのは那霧(なぎり)旭陽(あさひ)の存在だった。

 本を運ぶのを助けてやって以来、妙に懐かれてしまって、顔を見ると犬か猫のように寄ってくる。

 いつもは温厚な紳士を演じている月彦だったが、旭陽にだけは、遥か昔に殺した男の面影がチラついて内心苛立ち、冷たい態度になりがちだった。

 しかし旭陽はまったく頓着しない。気付いているのか気付いていても関係なしに、ニコニコ笑って挨拶してくる。

 

「こんにちは、御堂さん! 今日はあいにくの雨ですね」

 

 月彦の機嫌など無視して、どうでもいいことを話しかけてくるあたり、本当にそっくりだ。まったく腹立たしい。

 普段であればすぐさま殺しているだろうに、そうできないのは、この能天気な男が見た目と裏腹に、非常に優秀だったからだ。

 独逸(ドイツ)という国に留学して、その国の言語に精通してるうえ、実家が薬種問屋であるせいか、薬学についての知識は豊富で、お抱え外国人の教師ですら、時に教えてもらうほどであるらしい。それだけでなく、月彦が薬学について興味があって独学で勉強していると知ると、こっそり実験室に招いて、様々な実験の方法なども教えてくれた。

 

「御堂さんは、学生よりも熱心ですね。それにとても優秀です。一度言えばすぐに理解されるし、僕の下手くそな説明からよりよい仮定を導いて、効率的な実験方法なども提案してくださいますし。どうして大学に進まれなかったのですか? 失礼ですが、お金にも難渋されているように見えないのですが」

 

 そのことを聞いてきたのが旭陽以外であったのなら、月彦は一気にどす黒く広がった怒りのままに殺していたかもしれない。

 だが、内心と正反対に、秀麗な面に上品な笑みを浮かべた。

 

「できうればそうしたかったのですが…実は若い頃はひどく脆弱な体質だったのです。朝、目覚めることができず、日の光が強いと、それだけで倒れてしまうほどに。そんな状態では学校に通うことなど到底…。今は医者の調合してくれた薬のおかげで、多少は動けるようになって、父の会社の手伝いなどもできるようになりましたが、まだ朝に起きるのはつらいものでしてね…」

 

「あぁ、なるほど。聞いたことがあります。光の刺激に弱い体質なのですね。もしかして…」

 

 旭陽は月彦の前に立つと、いきなり顔を近づけてきた。

 

「ちょっと失礼」

 

と、月彦の顎を軽く掴むと、クイと上げて、まじまじと見つめてくる。

 

「……なんでしょう?」

 

 月彦はわずかに仰け反りつつ尋ねた。ワナワナと震える手の爪が急速に伸びてゆく。

 

「あぁ、失礼。やはり、そうですね。御堂さんの瞳は一般的な日本人の瞳の色からすると、薄いです」

「……は?」

 

「黒というよりも、薄い灰色というのでしょうか? 虹彩は緑がかった淡墨色、瞳孔は赤みを帯びた茶色ですね。もしかすると、普通の日本人よりも目から受ける光刺激に敏感なのかもしれません。卒倒されるということであれば、それが脳などにも作用している可能性があります」

 

 冷静に分析する旭陽の姿に、月彦はとりあえず怒りを抑えた。爪も元通りに戻る。

 

「そうですか」

 

 それとなく後ろに下がって旭陽の手から逃れると、月彦は目を細めた。

 

「そのようなことを言われたのは初めてですよ。さすがは異国の地で学問を修めた方は違いますね」

 

「いえいえ。偶然、あちらでも御堂さんのような症状の方の臨床に当たったことがあるのです。彼も光に当たると非常に気が錯乱したり、貧血で倒れてしまって。あとはひどい疝痛(せんつう)に悩まされてました。だから、ずーっと昼間は暗い部屋に閉じこもって、夜にしか出歩かないんです。そのせいで顔が青白くって、歯なんかも尖ってて、具合の悪い鬼みたいでしたね」

 

 なにげなく言った旭陽の言葉に、月彦は口の端を歪めた。

 

「鬼…ですか。あなたにも、私はそのように見えているのでしょうか?」

 

「え? あ…いえいえいえいえ! 御堂さんはご立派な方ですよ!! 症状が彼と似ているというだけで、あんな癇癪持ちとはぜんぜん月とスッポンです。ん? あれ? この言い方って合ってるのかな? あ、いや…そういうことじゃなくて……失礼しました! ご不快に思われたのなら謝ります。本当にすみません!」

 

 旭陽はすっかりあたふたした様子で、ペコペコ頭を下げてくる。

 月彦はにっこりと笑った。

 

「気になさらず。大変興味深い話です。遠い外国にも私と似たような症状の方がいらっしゃるとは存じ上げませんでした」

 

「本当にすみません。いつもこんな感じで、気がついたら人を不快にさせてしまって…妻にも、よく考えてから口に出せと叱られているのですが」

 

細君(さいくん)がいらっしゃるのですか?」

 

 月彦は思わず聞き返した。

 まさかこんな素っ頓狂な男に妻がいるとは思っていなかった。

 見てくれからしても、学生を卒業したばかりくらいに見えたので、まだ独身であろうと思っていたのだ。

 

 旭陽は急に照れたように顔を赤らめると、もじもじしながら頷いた。

 

「あ、えぇ。はい。実はいるんです」

「左様ですか。那霧くんの細君であれば、さぞよくできた人なのでしょうね」

 

 そこにはうっすらと皮肉がこめられていた。

 旭陽のような落ち着きのない、軟弱そうな男の嫁になるなど、奇特な女もいたものだと思う。あるいは見合いであれば、選びようもなかったのかもしれない。肩書だけであれば、この男は確かに出来の良い人間に思えるであろうから。

 

 しかし月彦は自分の安易な発言をすぐに後悔した。

 旭陽は「そうなんです!」と大声で叫んで、延々と妻の自慢を始めた。

 

「ちょっと怖いんですけど、とても可愛らしい人でして…正直、お料理とかはとても食べられたもんじゃないんですけど、一生懸命にやろうとするのがまたいじらしくて…掃除とかを任せたら必ず何かを割ったり壊したりしちゃうんですけど、それを必死に隠したり子供みたいな言い訳したりして…普段は颯爽として格好いいのに、ちょっと風邪をひいただけで、ものすごく弱気になって甘えてくるのが……」

 

 いったい、なにを聞かされているのか…。

 交互に繰り返される妻への批判と愛情表現。

 もう少しで伸びた爪が、とどまることのないノロケ話を吐く口を切り裂こうとしていたが、急に旭陽は沈んだ顔になった。

 

「………さっきは安易に鬼なんて言ってしまって、本当にすみません。御堂さんを、()()()()()と一緒にするつもりはなかったのです」

 

()()()()()?」

 

「鬼なんて…あんな悪逆非道な、忌まわしい存在に似せて語るなんて。妻が聞いたらきっとまた叱られます」

 

 月彦はクスリと笑った。

 悪逆非道で忌まわしい存在。(すが)しいほどの嫌悪だ。いっそ嬉しくさえある。ゾクリとした快感が全身を貫いた。

 

「構いませんよ。ただの喩えでしょうから。それにしても那霧君はよほどに鬼というものがお嫌いなのですね。まるで、鬼に襲われでもしたみたいに」

 

「それは……」

 

 旭陽は言いかけて珍しく逡巡した。

 言い淀んで俯く旭陽に、月彦は軽く肩をすくめる。

 

「べつに無理に言わなくともいいですよ。ただ、少し残念ですね。那霧君とは随分仲良くなったつもりでしたが、まだ、私を警戒されるとは思っておりませんでした」

 

「ちっ、違います! ただ…あまり人に言っても信じてもらえることでもありませんし、妻の仕事にも関係してくるので…」

 

「仕事? 細君は何かお仕事をされておられるのですか?」

 

 月彦が尋ねると、旭陽はまた一瞬黙り込んでから、決意したように口を開いた。

 

「その…実は僕、昔、鬼…と呼ばれるモノに襲われたことがあるのです。あわやというところで助けてもらったのですが、そのときに助けてくれたのが妻なんです」

 

「ほぉ?」

 

 月彦は微妙にピクリと眉を動かしたのみだった。

 

「細君に助けられた…?」

 

「えぇ。詳しくは申せませんが、妻は…長く護国平和のために、悪鬼と戦っていたのです。いえ今も……直接にではありませんが、そうした仕事を生業とする人たちの手伝いをしております。彼らが毎夜、命懸けで戦っているのを知っているのに……どうして僕は安易にあんな喩えをしてしまったのか。まったく我が事ながら情けないです」

 

 言い切ってから旭陽はハアァと自省のため息をつく。

 月彦は肩を落として項垂れる旭陽を冷たく見下ろした。

 

 心の中で無数の声がざわめく。

 

 

 ――――― この男を殺さねばならない。この男は殺さねばならない。

 

 

 まさかよりによって鬼狩りの妻を持っていたとは…どこまでも巫山戯(フザケ)た男だ。

 

 だが、さっきから何度も殺したいと思っていたのに、いざ殺さねばならなくなったとき、なぜか爪は伸びなかった。意識ははっきりと殺そうとしているのに、何が邪魔しているのかというと、目の前にいる男があの日の旭耀に重なるからだ。

 

 あの日 ―――― いつまでも自分を治すことのできない無能な医者だと、怒りをぶつけた月彦に、旭耀は静かに頭を下げて言った。

 

 

 ――――― 申し訳ない、月読君。焦られる気持ちはわかっております。ですが…あと一歩なのです。どうか、どうか、あと一年待って下さい。さすれば花が咲くのです。青い……

 

 

 月彦は唇を噛みしめ、拳を強く握りしめた。

 

 あの日、あの男を殺さずにおけば…一年という月日を待つことができれば、今頃、自分は(まった)き存在と成り得たのであろうか。

 

 一年。

 

 あの頃にはひどく長く、もはや永遠に来ないとすら思えた時間は、今や瞬きの間に過ぎる程度の須臾(しゅゆ)なる時だ。

 

 

 ――――― たった一年ではありませんか…

 

 

 か細く震える女の声が響く。

 月彦は眉を顰めた。この数百年近く感じたことのなかった痛みが、頭をえぐってくる。

 

「っつ……」

 

 頭を押さえてよろめいた月彦を、旭陽があわてて支えた。

 

「大丈夫ですか? 御堂さん」

「……問題ありません。ですが、少々おしゃべりしすぎたようですね。今日はお暇することにします」

「そうなさって下さい。ひどく顔色が悪いです。なんであれば医者に診てもらった方が…」

 

 月彦はこの期に及んでもすっとぼけたことを抜かす旭陽に、苛立ちつつも苦笑した。

 お前も医者だろうが、と言ってやりたい。このうすら馬鹿には、自分がれっきとした医師免許を持った医学博士だという意識がないらしい。

 

 旭陽の手をやんわりと押しのけて、月彦は帽子を取って被った。

 

「大丈夫です。家に戻って薬を()んで寝ておけばよいので。あぁ…また、本をお借りしますが、よろしいですか?」

「えぇ、もちろん。でも、今日は安静になさって下さい。本はいつ返して頂いてもよろしいですので」

「有難うございます。では失礼します」

 

 月彦はそのまま研究室から出た。

 

 まだズキズキと頭が痛む。

 廊下の暗がりまで進んでから、伸びた爪で耳上をブスリと刺す。

 ズブズブと脳味噌を貫く爪で痛みの(もと)を掻き出したかったが、そんなものはどこにもなかった。

 

 

 

<つづく>




次回は2022.12.17.に更新予定です。



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<光りの果て - 破 - >



 スピンオフの『桎梏の闇』『椿の涙-鬼殺隊列伝・五百旗頭勝母の帖』とリンクした内容になっておりますので、そちらを一緒に読んでもらえると、より香ばしく読めます。

※ 必読というわけではありません。


 それからしばらく、月彦は研究室に行かなかった。

 

 すでに自らであの大学と同程度の機材を備えた研究室は出来て、実験の方法なども教えてもらったので一人で試薬なども作れるようになっていたし、どうしても行く必要があるわけでもなかったのだ。

 それに何より、再び那霧(なぎり)旭陽(あさひ)に会うかもしれぬ…と考えただけで億劫だった。

 

 鬼殺隊士の妻(正確には鬼殺隊士だった妻)を持つ男になど、好んで接触したいとも思わない。

 無論、月彦の素性がバレたとしても、その妻もろとも殺せばいいだけだ。鬼狩りごときを怖がるわけもない。

 

 月彦がそれでも敬遠したのは、旭陽を見るたびに伊南(いなみ)旭耀(きょくよう)を思い出すのが嫌であったためだ。自らの手で殺したあの医者の、愚かで人の良い笑顔。白々しい同情に、腹の底から虫酸が走る。

 それに旭耀を思い出すと、同時に女の声が響く。するとしばらく頭痛が続いた。

 

 こんな状態になる自分が疎ましい。

 まだ昔の…無力で脆弱だった頃の自分。

 忘れていたはずの忌まわしい過去。

 顔のない女の声だけが、鬱陶しく耳に残る。

 

 紅の目で闇を見据える。

 

 闇。

 

 いつまでも続く…無明の闇。

 

 老いることもなく、永遠にも近い命を持っていても、今の自分はあの頃と何ら変わらない。あの、塗籠(ぬりごめ)の中に籠もっていた頃と同じ。陰鬱に纏わりつく闇の中に沈んだままだ。

 

 

 ――――― 闇の中を進むがいい…

 

 

 (おさな)くもあり、年経た老人でもあるような不思議な声が、冷たく言い放つ。

 

 

 ――――― 手に入らぬものに手を伸ばして、(くう)()く虚しさは永遠に続く…

 

 

「うるさいッ」

 

 怒鳴ると同時に、目の前でなにやら報告していた鬼を数匹殺していた。

 いきなり理由もなく殺されたことに納得できなかったのだろう。コロコロと足先に転がってきた(イボ)だらけの青黒い肌の鬼の首は、恨みがましい目で月彦を睨みつけた。

 

「……知っているか?」

 

 月彦はその首を鷲掴みすると、自分の目の先に持ってきて語りかけた。

 

「鬼は()()()()()()()()()()()()らしい」

「む…ざん…さ……な……ぜ?」

 

 首が切れ切れに問いかけるのも、月彦には聞こえていない。

 

「鬼狩り共は()()()()()()()()()()()()()()()()いるんだそうだ」

 

 心底楽しそうに笑ってつぶやく。

 掴んでいた鬼の首は、ゆっくりと棘のある蔓で覆われていき、青黒い肌すらも見えなくなると、やがてジャクジャクと咀嚼する音が響いた。

 

「他愛もない…」

 

 月彦は物足りなさそうにつぶやいてから、再びソファに腰かける。

 

 ぼんやりと視線を動かしてゆき、やがて机の上に置かれた本で止まる。

 旭陽から借りっぱなしになっているものだ。

 

「………」

 

 気怠げに立ち上がって、その本を手に取った。

 灰色の装丁の洋書。独逸(ドイツ)語で書かれたものだ。

 独逸語は、ほぼ独学で習得したが、それでも時々、辞書にすらない専門用語については、旭陽に教わった。

 お人好しの、能天気の馬鹿に見えて、語学力が並外れていることも、また旭耀を思い出させる。

 

 あの男も唐語やサンスクリット語などを読んでいた。

 そのことを知ったのは、殺した後に旭耀の住処で、例の『薬』についての記述を探し回ったときだ。

 あらゆる古今、世の東西の文献を渉猟(しょうりょう)し、細かい注釈を加えていた。その厖大な知識量は、おそらく当時の大学寮の学者など到底敵わなかったはずだ。

 そうやって他者より優れた才を持ちながら、まるで大したことでもないように振る舞っていたことも、腹立たしい。

 (なが)い時を生きても尚、旭耀の辿り着いた場所に至らない。

 千年近い月彦の苛立ちの原因は、すべてあの男に帰結する。

 

 

 ――――― この旭耀と………は、きっと君をお救い申す。

 

 

 救う?

 よくも言ったものだ。

 人をこんな中途半端な身体(からだ)にしておいて、無能な医者めが。貴様などは殺されるべくして殺されたのだ。なんの文句が言えようか。

 

 

 ――――― …もう薬は頂けませぬ。あなたが、殺したのです…

 

 

 静かな…泣くことを押し殺した女の声が、また響く。

 

「……っぐ」

 

 いきない脳髄を刺されたかのような痛みと悪心(おしん)に、月彦の体がグラリと揺らめく。

 目を閉じると、旭耀の姿と同時に何かがよぎる。

 赤い切袴。粗末な(うちき)。赤茶色のうねった髪。………

 

「……なん…だ、これ……は」

 

 うめくようにつぶやきながら、月彦は何かを思い出しかけそうだったが――――…

 

 

 ――――― 二度と、………は貴様の前には現れない。

 

 

 冷たい声とともに、痛みが消え、思い出は霧散した。

 

「………」

 

 月彦はしばらく呆然としていた。

 

 自分は何を見た? いや、何も見ていない。

 自分は何を考えた? いや、何も考えてはいない。 

 

 それなのに、どうして心臓はやかましく鳴動しているのだ?

 動揺? この自分が?

 いったい何に…?

 

 月彦は押さえていた頭から手を離し、本を落としていたことに気付いた。例の灰色表紙の独逸語で書かれた本だ。拾おうとして、本の間から何かが飛び出していることに気付く。

 

 本を取り上げて、その隙間から飛び出た一片のものを引っ張り出した。

 写真らしい。

 被写体は花だった。それも形状からして彼岸花だと思われる。

 

 白黒写真の色はわからない。

 どうせどこぞの道端に咲いていた()の彼岸花でも撮ったのだろう。

 ほかの花ならまだしも、よりによって彼岸花を写真に撮っていることも、月彦には業腹だった。つくづく旭陽という人間は、月彦を苛立たせる法を心得ているかのようだ。

 興味もなく、なんとなしに裏返して、月彦は固まった。

 左端に小さく走り書きがされている。

 

『アオヒガンバナ…?』

 

 確信が持てないらしく、最後に疑問符がある。

 月彦は再び裏返して、写真を見た。

 確かに彼岸花に似ている。月彦ですら最初はただのよく見る()い彼岸花だと思ったのだから。だが、この彼岸花の色が()であるなら? 

 

「ア…ハ…ハハ……ハハッ…」

 

 月彦は笑い出し、しばし止まらなかった。

 暗い部屋の中で、哄笑が長く響いた。

 

 

*** ** ***

 

 

「あれ? 御堂(みどう)さん。お久しぶりですね!」

 

 会うなり嬉しそうに駆け寄ってくる旭陽に、月彦はいつにない笑顔を浮かべた。

 

「ご無沙汰してしまい、申し訳ない。また体調が思わしくなかったものですから」

「あぁ…あの日からですか? 確かに顔色が悪かったですしね、今は随分と良くなったようですね。とても生気にあふれているというか…嬉しいことでもありましたか?」

 

 相変わらず能天気で(さと)い。

 月彦はそれでも今日ばかりは苛立つことはなかった。

 

「えぇ…」

 

 愛想よく返事してから、まずは旭陽から借りていた本を返した。

 

「長くお借りして申し訳ない。とても興味深く拝読させていただきました」

「ハハッ。いやいや、病床にあられても本の虫だけは治まらなかったようですね」

「それで、今日はお聞きしたいことがございまして…」

 

 月彦は言いながら、胸元のポケットから例の白黒の彼岸花の写真を取り出した。

 

「こちらの写真が、本の間に挟まっていたのです。見覚えがあると思うのですが」

「ん? なんですか、これは…彼岸花……かな?」

 

 旭陽は月彦の差し出した写真を見ながら首をひねる。

 月彦はペラリと裏返すと、走り書きを指さして言った。

 

「ここに、『アオヒガンバナ』とあります。なかなか珍しいもののようですが…」

「アオヒガンバナ? …ってことは、青い彼岸花なんでしょうかねぇ? はて? こんな写真がどうしてこの本に差し挟まっていたのやら…」

「覚えはないのですか? ご自分で撮影されたのでしょう?」

「いやぁ~、僕は写真にはとんと疎くて。写真機なんてものも持ってませんし」

 

 月彦は一気に鼻白んだ。

 思わず呆けてしまっている間に、旭陽が写真を取り上げていた。

 

「うーん……」

 

 裏返したり、また戻したりしながら、旭陽は考え込んでいた。

 

「この文字は僕じゃないですねぇ」

「え?」

「僕、罫線がないと字がまっすぐに書けないんです。いつも右肩上がりになっちゃって。それに『ヒ』っていう字も、僕が書いたら最後の()()が、()()になっちゃうんですよ」

 

 そう言われて見てみれば、写真裏の言葉はまっすぐで一文字一文字が手本でもあるかのように綺麗な文字だった。

 何度か旭陽に教えてもらって知っているが、旭陽の字はもっと癖の強い、正直悪筆に近いものだった。

 

「それにしても、なんだってこんな写真が本に挟まってたんでしょうか…? 誰かに貰ったのかなぁ…」

 

 まったく悪意のない旭陽の能天気な声が、月彦を一気に奈落に落とした。

 急に黙り込んだ月彦に、旭陽は怪訝に首をかしげる。

 

「どうかされましたか? 随分とまた、顔色がおもわしくないようですが……」

「いえ……あなたがこの花のことを知っていると思っていたものですから」

「『アオヒガンバナ』ですか? 僕は知りませんが……もしかして御堂さんはご存知でいらっしゃるのですか?」

「………いえ。見たことはないのです。ただ…聞いたことが…あって…」

「そうなんですね。見たいんですか?」

 

 月彦は眉を寄せた。

 屈託ない旭陽がまた苛立たしい存在となってくる。

 

『見たいんですか?』だと?

 よくもぬけぬけとそんな愚問をしてくるものだ。

 

 月彦は拳を握りしめて、伸びる爪を抑えた。

 

「実は…この花は私の病気の薬となる成分を含んでいると考えられるのです」

「えっ?」

「私の病を治すために薬を調合してくれた医師は、随分と昔に亡くなってしまったのですが、彼の残した記録から薬の調合に『青い彼岸花』という花が必要であることはわかっているのです。ただ、どこを探しても見つからず……手がかりさえ掴めなかったものですから、今回、この写真を見て…てっきり那霧君がご存知かと思って」

 

 旭陽は思っていた以上の重大さに、すっかり泡食った様子で何度も頭を下げた。

 

「うわわわ! そ、それは本当に…本当に、申し訳ないです! そんな大事なことと知らずに、能天気なことを言ってましたね、僕。ちょっと…ちょっと待って下さいよ! 思い出してみます。えぇっと…えーっと…」

 

 旭陽はうーん、うーんと唸りつつ一生懸命に思い出そうとしているようだったが、ガックリとうなだれた。

 

「駄目だ、まったく思い出せない」

「…………そうですか」

 

 月彦の顔は無表情に凝り固まった。

 もう何度目かわからない。こうして糠喜びさせられるのは。

 いつもであれば、すぐこの目の前の男は殺される。だがなぜか月彦の考えに、その選択肢は出てこなかった。

 

 旭陽は月彦がひどく落ち込んでいるのだと思ったらしい。

 重くなった空気を変えようとしてか、明るい口調で尋ねてきた。

 

「御堂さん。もし、その花を手に入れて病気が治ったら、なにがしたいですか?」

 

 思いもかけぬ問いに、月彦は詰まった。

 今、この時に聞くことか? と言ってやりたい。

 しかし旭陽は、地蔵のように柔らかで優しいほほえみを浮かべている。

 

 結局、思いつくものなどない。

 

「は…ハハ……考えたことも……ありませんね…」

 

 渇いた声で言うと、旭陽はますます相好を崩す。

 

「じゃあ、僕と出かけませんか? 是非、御堂さんにお見せしたいんです」

「……なにをですか?」

「矢車草と、湖と、空です」

「……はい?」

 

「昔、友人たちと山登りに行ったときに、偶然に矢車草が群生している場所を見つけましてね。そこから湖が見えるんですが、晴れた日に行ったら、空の青、湖の青、矢車草の青っていう…見事なくらい青の美しい景色が広がっているんです。とても幻想的なんですよ。まさしくエリュシオンって感じで」

 

「………」

 

 エリュシオンとは、ギリシア神話に出てくる死後の楽園と呼ばれる場所だ。

 おそらく『青』つながりで矢車草を思い出して、月彦を慰めようとしたのだろうが、その短絡的な思考がますます腹立たしい。

 

「……それはまた、随分と素朴なものですね」

 

 月彦は皮肉っぽく言った。

 エリュシオンだかどこだか知らないが、何が楽しくてこの苛立たしい男と物見遊山になど行かなねばならない?

 

 しかし旭陽はフフッとおかしそうに笑った。

 

「素朴かぁ…そうですね。でも、御堂さんは素朴なものが好きですよね?」

「私が? そうでしょうか? そんなことは考えたことがありませんが」

「そうですか? でも、美しいものが好きでしょう? それもなんというか、複雑で難解なものよりも、単純なものが好きというか…」

「………私は那霧君ほど頭が良くもありませんしね」

 

 月彦がやや投げやりに言うと、旭陽はまたあわてて言い繕った。

 

「あ…いやいや違うんです! どうも言葉が足らなくてすみません。なんと言えばいいのかな…僕が思ったのは、御堂さんは『複雑性の極致としての単純なもの』が好もしいと思う人なんだな、ということなんです。だから、つまり…ものすごく直感的な頭の良さと、単純なものを美しいと思える理解力を備えた人なんだなってことです。……伝わりました?」

 

 正直、言われたことは意味不明で、大して興味もなかった。

 だが最後に旭陽が情けなく尋ねる姿が滑稽で、思わず月彦は本気で笑ってしまった。

 

「とりあえず…褒められたと思っておきましょう」

 

 旭陽はめずらしく月彦が声を出して笑ったので、ホッとした顔になった。

 アオヒガンバナの写真をもう一度眺めて、考え込んでから尋ねてくる。

 

「このお写真、お借りしてもいいですかね?」

「それは…お借りするも、元は貴君のものですし」

 

「あ、そうだった。いや、さっき矢車草の群生する場所のことを思い出したのも、この彼岸花が青だっていうのを聞いて、青い花といえば…って、思って。で、今度はその景色のことを考えてたら、山登りしたことを思い出して」

 

「山登り?」

 

「えぇ。趣味なんです。で、この写真ももしかしたら、山に行ったときに撮ったものかもしれないな…と思って。山登りの仲間の中に、写真が趣味の人間がいまして。わざわざカメラなんてもの持ってきて、色々撮っていたんですよね。たぶん…佳喜(けいき)君だったんじゃないかなぁ…?」

 

「心当たりがあると?」

 

 月彦はぐっと身を乗り出す。旭陽は月彦の剣幕に目を丸くしつつも、ニコリと笑った。

 

「えぇ、はい。もしかすると、手がかりが掴めるかもしれません。少し、待ってていただけますか?」

 

 

 ――――― どうか、どうか、あと一年待って下さい。 

 

 

 旭陽の言葉と、あの日の旭耀が重なる。

 月彦は苦いものを飲み下しながら、微笑んだ。

 

「もちろんです。ずっとお待ちしていますよ」

 

 そうだ。

 ずっと、ずっと……千年近く待ってきたのだ。

 今度こそ、お前を殺さずにおいてやる。

 だから、見つけてこい。

 私のために、今度こそ完成させろ…!

 

 月彦の心の叫びも知ることない旭陽は、すっかり興奮しているようにみえる月彦を見て、嬉しそうに微笑んだ。

 

「よかったです」

 

 穏やかに月彦を見つめる旭陽の姿は、もはや旭耀そのもの…いや、生まれ変わりとしか思えなかった。

 

「御堂さんはやっぱりすごいですね。長く病にあって、きっと不自由な思いをなさってきたことでしょうに、決して諦めておられない。僕は医者ですから、患者さんが治るのを助けはしますが、やっぱり最後には患者さん自身の生きる希望に左右されるところは大きいのです。前にもお話しましたけど、長く病気を患っていると、どうしても投げやりになる人は少なくないのに……御堂さんは病を克服することを諦めず、一生懸命でおられるのが、とても素晴らしいです!」

 

「……ありがとうございます」

 

 月彦は礼を返しながら、その目は一瞬、紅く閃いた。

 

 やはりこの男は嫌いだ。

 いちいち月彦の生への執着まで美化してくる。そのくせそこに嫌味も皮肉もない。

 

 嫌いだ。

 嫌いだ。

 旭陽の素直で屈託のない心が、心底嫌いだ。

 

 

<つづく>

 





次回は2022.12.24.に更新予定です。


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<光りの果て - 急 - >

 スピンオフの『桎梏の闇』『椿の涙-鬼殺隊列伝・五百旗頭勝母の帖』とリンクした内容になっておりますので、そちらを一緒に読んでもらえると、より香ばしく読めます。

※ 必読というわけではありません。


 その後、月彦は研究室をたびたび訪れて進捗を聞いたが、那霧(なぎり)旭陽(あさひ)の返事は捗々しくなかった。

 

「それが、あの写真を撮った子が今は留学中らしいんですよ。一応、手紙を書き送ったんですが、向こうに着くまでにも一ヶ月以上かかりますし、とりあえず今、僕の書いていた日記にそれらしい記述がないのか読み返しているところなんです」

「そうですか…」

 

 落胆も露わな月彦に、旭陽は励ますように言う。

 

「まぁまぁ…そうがっかりするものでもありません。何の収穫もなかった頃にくらべれば、前進していることは確かなのですから! 果報は寝て待てと申しますし、御堂(みどう)さんは元気になったら何がしたいのか…のんびり考えておいて下さい。そうそう! 矢車草の咲く山にもね、是非一緒に参りましょう。本当にそれは美しい光景なんです」

 

 前に訊かれたときにも「行く」などと言った覚えはないのに、勝手に行くことにされている。内心であきれながらも、今はこの男の歓心を買わねばならない。

 まったく興味もなかったが、月彦は旭陽にどうでもいいことを尋ねた。

 

「那霧君は、矢車草がお好きなんですか?」

「え? うーん…そうですね。確かに好きかもしれません。たまに咲いているのを見たら、思わず立ち止まってしまいますしね。なんというか…あの、凛としていて美しいけど、愛らしくもある姿が好きなんですよね。ちょっと僕の妻に似ているのかな?」

 

 また、妻の話か。

 この男と話していると、三度に一度は妻の話になる。元鬼狩りであったという妻。反吐が出る。

 しかし穏やかな微笑を浮かべている月彦の心の裏側など、旭陽が知りうるはずもない。

 

「僕の妻は例の仕事で片目を失明してしまったんです。とてもつらい思いをしたのに…それでも長い間、第一線で頑張ってきました。今は…ようやく子供も生まれたので…」

「子供!?」

 

 まったく興味がなかったのに、思わず聞き返したのは、旭陽に子供がいたのがひどく意外であったからだ。

 

「ええ! そうなんです!」

 

 旭陽は嬉しそうに頷いて、頼んでもいないのにポケットから懐中時計を取り出すとパカリと開けて、蓋の裏に貼り付けられた写真を見せてきた。

 

 家族三人の写真。

 真ん中にいる男児は熨斗目(のしめ)柄の長着に縞の袴姿で、碁盤らしきものの上に乗っている。その両脇に両親 ――― 右に満面の笑みを浮かべた旭陽が、左の固く強張った顔をして、こちらを睨みつけるように写っているのが、(くだん)の妻であろう。

 片方の目に眼帯をしている。鬼にやられたのか。いかにもふてぶてしそうな、不遜な顔だ。残された目の眼光は鋭く、鬼狩り特有の暗さがある。いつ見ても厭な目だ。積もりに積もった恨みの(こご)った、救いようのない目。まったくいつまでもしつこい。

 

 月彦は旭陽の妻についての言及は避け、息子について当たり障りのない話をしておいた。

 

「可愛らしいお子様ですね。御着袴(ごちゃっこ)ですか」

「え?」

袴着(はかまぎ)でしょう? この後、碁盤の上から南に向かって飛んだのでは?」

 

 言いながら、自分の時のことを思い出してしまい、月彦は我知らず眉間を寄せた。

 白絹の袴を履かされ、右手に檜扇、左手に松と橘を持って立たされたものの、碁盤の上が高くて眩暈を起こしてしまったのだ。

 脆弱で無力だった幼児の頃の自分。あまりにも昔で、今の今まで忘れていた。

 

 しかし旭陽は感心したように言う。

 

「いやぁ、そんなことをご存知とは。御堂さんは、さすが博識でいらっしゃいますね」

「……いえ」

 

 月彦はフッと視線を逸らして立ち上がった。さしたる収穫もないのであれば、ここに長居する理由はない。

 ただでさえ、旭陽に会った後には気分が良くない。

 

「申し訳ありませんが、今日はこの後、所用があるので失礼します。また近いうちに参ります」

「あ、そう何度も足を運ばれるのも大変でしょう。わかったことがあれば、ご連絡差し上げますよ。ご自宅はどこに?」

 

 旭陽の申し出に、月彦は笑って首を振った。

 

「すみません。正直なところ、家族は私がこうして歩き回ることにいい顔はしていないのです。もし、那霧君が訪ねてきても、無礼なことを言うかもしれませんので」

 

 まかり間違って、その使いとやらを旭陽の妻がするようなことがあれば、色々と面倒くさい。長く鬼殺隊士であったというなら、鬼の妖気などにも、あるいは気付くかもしれぬ。

 殺すは容易いが、そうなれば旭陽からの情報も得られなくなる。

 なにより、この男がこれほどまでに愛する妻の死を目の前にして、平常でいられるわけがないだろう。そうなれば、また『アオヒガンバナ』についての情報が遠ざかる。

 ようやく長年切望してきたことが叶う目前だというのに、つまらぬことで頓挫するのは避けたかった。

 

 旭陽は月彦の言葉に同情めいた表情を浮かべて、申し訳なさそうにつぶやく。

 

「しかし、せっかくご足労いただいても、今日のように何の進展もないことも…」

「構いませんよ、私は。今までも『アオヒガンバナ』のことがなくとも、こちらには伺っておりましたから。それとも『アオヒガンバナ』のこと以外については、もう那霧君と議論することはないのでしょうか?」

 

 少し憐れっぽく言ってみると、旭陽は真っ赤になって否定した。

 

「いいいい、い、いや…そんなことは……」

「ではまた数日中に参ります。些細なことでも結構ですので、わかったことがあったら教えてください」

 

 帽子をかぶって軽く頭を下げる月彦に、旭陽は思い出したように叫んだ。

 

「お気をつけて。あ! でも来週の木曜は僕、休んでいると思います」

「来週の木曜? 学会か何かですか?」

「いえ! 息子の誕生日なんです。六歳なんですよ。早いもんです。朝から息子の大好物を作っていく予定でして。ケーキなんかも作るつもりなんです」

「誕生祝い…ですか」

 

 月彦が微妙な表情になると、旭陽が照れたように笑った。

 

「いやぁ、日本じゃ珍しいかもしれませんが、ドイツなんかではわりとよくある風習でして。子供が生まれた日に、生まれてきてくれたことを祝うんです。ご馳走を作って食べて、贈り物をして…素敵でしょ?」

「そうですね」

 

 月彦は曖昧に微笑むしかできなかった。

 くだらない風習だ。そんなことが喜べるのは、望まれて生を享けた、愛されることを約束された子供と、その親だけだろう。

 自分のように望まれもせず、何であれば生まれたその日には焼き焚べられようとしていた子供には、言祝(ことほ)ぎではなく呪詛が、贈物ではなく供物が与えられるのだ。

 

「御堂さんにも僕の自慢のミートローフを食べてもらいたいものです。(さん)がミートローフの中のうずらのタマゴを先に食べてしまって、穴あきミートローフになっちゃうんですが…」

「サン?」

 

 月彦が聞き返すと、旭陽はキョトンとしてから「あぁ」と合点する。

 

「『燦』っていうのは、僕の息子の名前です」

「サン……変わった名前ですね」

「そうですか? 太陽が燦々と照る、の『燦』なんです。これ、実は英語ではSUNといって、『太陽』っていう意味なんです」

 

 月彦は眉を寄せた。太陽を意味する名前を持つ子供。それだけで、ひどく禍々(まがまが)しい。

 

「僕の妻が僕の名前をとてもいいって言ってまして。なんでも鬼というのが、太陽の光を嫌うらしいんです。名前が太陽に関係があるから無事、ってわけでもないんですけど、それでも何かしらお日様のご加護のあるように…って、名付けたんです」

「そうですか」

 

 ニッコリ笑って答えながら、月彦は今日にでもその息子とやらを喰ってやろうかと思った。名前ごときで、鬼の牙から逃れられるはずもない。

 しかしそれも結局はできまい。

 妻を殺さぬ理由と同じで、またここで子供を喪えば、この男は『アオヒガンバナ』どころではなくなるだろうから。 

 

 白けた内心とは裏腹に、心にもない台詞が口をつく。

 

「那霧君のご子息は幸せですね。こうして父親手ずから料理を作ってもらえるなど」

「ハハハ。いやぁ、もう僕としては、僕みたいな親のところに生まれてきてくれたというだけで有難いくらいで。難産の末に生まれてきて、産声も上げなかったんです、最初。それで体も丈夫じゃなくて、しょっちゅう熱を出して寝込んでいるような子だったんですが、それでも僕の作ったごはんをおいしそうに食べてくれるのが、本当に嬉しくて、愛しくてたまらないんですよ」

 

 話しながら、旭陽はまた懐中時計の写真を見つめた。その目は言葉通り、愛しさが満ち溢れている。

 この男の子供であれば、その愛情に疑いを持つこともないのだろう…きっと。

 

「………うらやましい」

 

 ボソリとつぶやいた言葉に、月彦は自ら動揺した。自分が今、何を言ったのかと反芻して、愕然とする。

 旭陽もポカンと口を開けていた。

 

「失礼します」

 

 月彦は旭陽が何かを言い出す前に、足早に部屋を出た。

 

 ギリギリと歯噛みしながら、暗い廊下を歩く。

 

 つくづく苛立たしい男だ。

 旭耀(きょくよう)に似ているだけでなく、自分にこんな思いをさせるということが、許せない。

 アオヒガンバナさえ手に入れたら、とっとと殺してしまおう。それが一番、月彦(じぶん)に安寧をもたらすのだ。

 

 だが、その日は永遠に来なかった。

 

 月彦の中の旭陽は、愛しげに子供のことを語る姿のまま、止まった。

 

 

*** ** ***

 

 

「御堂さんですか? 那霧さんから預かっているものがあるんです」

 

 子供の誕生日だという木曜から、二週間ほどして、月彦は旭陽を訪ねた。期間が空いたのは、もちろんあの日のことで旭陽がまた何かしらお節介なことを言い出しそうなのが鬱陶しかったのもあるし、旭陽といると調子を狂わされるのがよくわかったので、距離を置きたかったのもある。

 

 憂鬱な気分で開いた扉の向こうにいたのは、旭陽ではない男だった。ときどき旭陽の実験の手助けをしている助手の学生だ。

 

「那霧君は?」

「それが…運の悪いことに、お子さんが麻疹(はしか)にかかってしまったらしくて」

「はしか? 確か、この前は誕生日だと…」

「そう。その誕生日の前日に、急に熱を出して、それからずっと具合が悪いようなんです。それで、そのうち御堂さんが訪ねてくるだろうから…って、これを渡されまして」

 

 助手の男が手渡してきたのは、小さな茶封筒だった。

『御堂さんへ』と宛名書きされている。

 

 中を見れば、便箋が一枚と、切り取ったらしい画用紙。

 画用紙には青い彼岸花を描いた絵。間違いなく、あの写真と同じ形の青い彼岸花だった。解剖した臓器のスケッチなどをしていたせいか、旭陽の絵は細密画のように丁寧だ。

 

 便箋を開くと、旭陽の汚い字で、文章が綴られていた。

 

 

『アオヒガンバナ。スケッチブックに書いてあったのを、見つけました。山で見つけたのは間違いないようですが、どこの山かは不明です。おそらく関東近辺の山であったろうとは思われます。

 日記をつけていたノートを数冊、逸失しておりまして…探しているのですが、なかなか見つからないのです。数年前に部屋の整理をしたときに、もしかすると一緒に処分したのかもしれません。

 至らなくてすみません。他の方法での特定を急ぎますが、しばらくは息子の看病のため休むことになります。

 待たせてばかりですみません。いずれまた。那霧旭陽』

 

 

 ぐしゃり。

 月彦は手紙を握りつぶす。

 

 驚いた様子の助手の男の間抜けヅラが苛立たしくて、首を掻っ切ってやろうかと爪が伸びる。

 しかしその時、バタバタと廊下から慌ただしい足音が聞こえてきたと思ったら、いきなり研究室の扉が開いた。

 

「大変だ! 那霧君が亡くなったそうだ!!」

 

 飛び込んできた白髪頭の男が叫ぶ。

 月彦は最初、何を言われたのかわからなかった。

 

「えぇ?! 息子さんじゃないんですか?」

 

 助手の男が信じられないように聞き返す。白髪頭の男 ――― 平川教授は首を振った。

 

「その息子さんも、昨日亡くなったらしい」

「なんてことだ……父子同時に死ぬなんて」

 

 目の前で交わされるやり取りは遠くに聞こえ、月彦の視界に入らない。

 声も出ず、思考は途絶する。

 

 固まったままの月彦に気付かず、平川教授と助手は話していた。

 

「那霧君も息子さんの看病で弱っていたんだろう。研究で徹夜していたりすることもあったし、体調が悪かったのかもしれない。麻疹というやつは、体が弱っていると、一気に重篤化するからな。大人が罹ると特に……」

「研究のこと以外でも、何か調べておられるようでしたよ。何かの薬の原料になる花があるとかで、その生息地を調べていたみたいです。山野草の図鑑だとか、手当たり次第に読んでました」

「まったくただでさえ忙しいというのに、そうやっていくつも手を出すから…」

 

 平川教授は嘆いて天を仰いだが、ようやくそこで月彦がいたことに気付いたらしい。 

 

「し、失礼! 御堂さんがいらっしゃっているのを失念しておりました」

「いえ…」

 

 月彦は無表情に言ってから、渇いた声で教授に尋ねた。

 

「那霧君が亡くなった、と?」

「えぇ、そうなんです。これから研究すべきことも多くあったというのに…本人も無念でしょう」

 

 沈痛な面持ちの平川教授を見て、月彦はうっすらと笑みを浮かべた。

 

「無念なのは、教授の方では?」

「は?」

「ずいぶんと多くの論文を書かれているようですが、私の聞く限り、ほとんど那霧君がまとめたものだったようですね。弟子が栄達に興味がないのをいいことに、あなたは彼が研究に没頭できる環境を与える代わりに、その成果については自らの手柄とした」

「なっ、なにを!」

「失礼ですよ! 御堂さん!!」

 

 二人の男があわてふためく様子を、月彦は腕を組み、つまらなそうに眺めた。

 

「くだらない。貴様らのような益体(やくたい)もない人間が残って、あの男が死ぬなど…」

「なんと失敬な! 絹笠伯爵からの紹介だからと、ここの出入りも大目に見ていたが、本来、貴様のような者が気軽に出入りしていい場所ではな………い」

 

 平川教授が激昂して怒鳴っている途中で、月彦はいつの間にか教授の近く、その冷たい息が頬にかかるほどそばに来ていた。白い陶器のような形良い指が、平川教授の顎を掴み、その爪が伸びていって皮膚を割って入っていく。

 

「誰に、何を、禁じるというのだ? まさか私に言っているのではあるまいな?」

 

 急速に伸びていく爪は平川教授の頭蓋骨を締め付けてゆき、ビキビキと骨に罅が入る。耳からビシュッと血が噴き出して、目からも血が流れ出た。ガクガクと痙攣して、やがて力なく項垂れる。

 

 月彦は死体となった教授を放り出すと、振り返って助手を見た。

 

「ヒィッ!」

 

 助手は月彦の紅い目を見て、腰を抜かした。

 

「たっ、助けてくれっ!」

 

 みっともなく泣きわめきながら、そのまま四つん這いになって逃げようとする。

 

 月彦は面倒そうに髪をかきあげ、その腕を男へと向けた。

 巨大化した腕は男の体をズッポリと掴み、悲鳴がくぐもって聞こえた。ジュワッと酸で溶ける音がする。腕はビクビクと蠢き、やがて動きを止めると元の大きさに戻った。

 

「鳴女」

 

 月彦が呼びかけると、髪の長い琵琶を持った女が現れた。

 

「そこのを片付けておけ」

(うけたまわ)り」

「那霧の家だ」

「すぐにも」

 

 女が琵琶をビオンと奏でる。

 

 月彦が研究室のドアを開けると、桜の花の咲く静かな月明かりの庭に立っていた。 

 

 

*** ** ***

 

 

 屋敷は静まり返っていた。人の気配がない。留守なのかもしれない。しかし死者のにおい(・・・)はする。

 この屍臭とも違う特有のものは、嗅覚を刺激するわけではなく、もっと直接的に月彦の脳髄にまで踏み込んでくる。抗いようのない、月彦にすらもどうすることもできない自然の変容。

 

 行き着いた場所、十畳ほどの部屋には布団が二つ敷かれて、その上に仰臥する人の姿があった。

 一つは大人で、もう一つは子供だ。

 

 月彦は息を吐いた。

 ひどく苛立たしかった。できるなら、この目の前の二体の死体を千々に刻んでやりたかった。だがそうしたところで、もはや旭陽は死んだままなのだ。

 

 大人の死体のそばに立って、顔を覆った白い布をとる。

 思っていた通りの安らかな、そのまま笑いかけてきそうな穏やかな顔だった。

 

 

 ――――― 月読君のそばに、いついかなる時も離れずおりますよ…

 

 

 その通りに、旭耀は生まれ変わって月彦のもとにやって来たのだろうか。だが、相変わらず口先だけの男だった。

 結局、何も変わっていない。

 青い彼岸花は見つからず、旭陽は月彦を救うこともなかった。

 

「……貴様」

 

 月彦は陰鬱な声で呼びかけた。しかしその後に続く言葉は出てこなかった。

 胸には悪口雑言が溜まっていたし、それをぶちまけてやりたかったが、ここで眠る男は、もう眉をへの字にして「すみません」とヘラヘラ笑いながら謝ることもないのだ。

 

 憎んでもよかった。

 恨みを、怒りを、叩きつけてもよかった。

 だがそうできないのは、そんな感情が一寸(ちっと)も月彦の中に湧いてこないからだ。

 

 月彦にあったのは、ただ失望だけだった。

 それは約束を守らずに死んでしまった旭陽へ向けたものではない。

 誰に対してでも、何に対してでもない、ただの(・・・)失望だけが月彦の心を重くさせた。

 

 いつもいつも自分はこうして叶わぬ願いに手を伸ばしては、虚空を掴むだけだ。

 

 

 ――――― その花を手に入れて病気が治ったら、なにがしたいですか?

 

 

 ふと耳元で旭陽の言葉が蘇る。

 今も結局、その答えは月彦の中にない。

 

 青い彼岸花を見つけて、太陽を克服し、完全体となること…それだけが望み。願い。その先の希望など、考えたこともない。

 

 月彦は旭陽の顔を見つめたまま、急に自らが空虚そのものになったような気がした。

 足元が揺らいで、底の見えない(おり)の中に沈んでいく。

 縋るように旭陽の言葉を探した。

 

 あの時、旭陽は何と言っていたのか…?

 

 思考が混乱してなかなか思い出せずにいると、鋭い声が響いた。

 

「誰だ!?」

 

 突然の誰何に、月彦は驚かなかった。

 廊下を進む足音もしていなかったが、そこにやがてやって来る者が誰なのかはわかっていた。

 おそらくは旭陽の妻であろう。元鬼殺隊士であったという妻。

 見るのも億劫だ。

 

「そこで何をしている?」

 

 低く問う声は、幼い鬼であればそれだけで慄えるような冷徹な恫喝だった。

 この貫禄、この気迫。

 あるいはただの鬼殺隊士ではなく、柱であったのかもしれない。

 勝手に家に上がりこんだ上、気付かれることもなくそこにいた月彦に対して、相当に警戒しているのだろう。それでも手を出さないのは、ここで眠る夫と子供のためか。

 

 月彦はゆっくりと顔を上げ、旭陽の妻を見た。

 眼帯をしていない目が、じっと月彦を見据えている。写真と同じだった。すべての鬼を滅殺するまで、諦めることをしない、執念を宿した鬼殺の目。

 

 月彦は興味もなく、妻の視線から目を逸らすと、その手に持っていた花を見た。

 

 青い花だ。だがもちろん、青い彼岸花ではない。それは――――

 

「矢車草か?」

 

 一瞬の間に移動して、月彦は問いかける。

 

 気がつけば自分の前に立っている月彦に、旭陽の妻 ――― 那霧勝母は、うっと詰まったまま硬直した。

 目の前の男が異常なのはわかっている。

 勝母にすらも気配をさとらせることなく、この家に入った、それだけでも十分に異様だ。

 

 しかし勝母が手出しできなかったのは、この場で眠る夫と子供の安息を邪魔したくなかったのと、そこまで異常でありながら、男に一切の脅威を感じなかったからだ。

 蒼白い肌と、気怠(けだる)げな美しい顔は常人の域ではなかったが、それでも勝母は男に危険性を感じなかった。ひどく落ち込んだ様子なのが、むしろ気になった。

 

「もらうぞ」

 

 月彦は勝母の返事を待たずに、その手にあった矢車草から一輪とった。

 

 青い矢車草。

 凛とした美しさと愛らしさのある花だと、旭陽は言っていた。その姿が妻に似ていると。

 

 月彦は再び勝母を見た。

 あきらかに異様な状況でも、恐怖に怯えて縮むこともなく、すっくと伸ばした背筋。月彦を見返す真っ直ぐな瞳。だが、思っていたよりも小さくて、背の高い旭陽の横に並べば夫婦というより親子に間違われそうだった。

 なるほど、と心の中で合点したが、それ以上の感想はない。

 

 月彦は勝母に背を向け、眠っている旭陽のそばまで行くと、その胸にそっと矢車草を置いた。

 

「那霧君が、細君はこの青い矢車草に似ていると言っていましたよ」

 

 振り返らずに言うと、勝母が意外そうに尋ねてくる。

 

「あなたは……夫の知り合い…か?」

「………いろいろと話はしました」

 

 つぶやくと、勝母の方へと向き直る。

 そのまま歩み寄って、横を通り過ぎた。

 

「っ…待てッ!」

 

 背後から呼び止められると、月彦は足を止めて、ジロリと目だけを動かす。

 勝母はその瞳が一瞬、紅く光ったのを見て、一気に警戒した。とっさに腰に手を伸ばすが、当然ながら昔そこにいつも差してあった日輪刀はない。

 

 月彦は、勝母の背後に眠る旭陽を見やった。

 

「那霧君に感謝することだ」

 

 ボソリと独り言ちる。

 

「さもなくば、貴様を生かす理由などない」

 

 

*** ** ***

 

 

 もはや誰もいない、深更の道を唯一人、歩く。

 ふと空を見上げて、気付く。今日は新月だ。どんよりとした雲に覆われた空には、星もない。

 見慣れた闇の景色を、月彦は冷たく凝視した。

 

 

 ――――― 闇の中を進むがいい…

 

 

 また、聞こえてくる耳障りな声。

 耳を塞いでも直接、頭に響いてくる。

 

 

 ――――― 手に入らぬものに手を伸ばして(くう)をかく虚しさは永遠に続く…

 

 

「うるさい」 

 

 月彦は苛々と頭を押さえた。ズブズブと指が肉にめりこんでいく。

 痛い。また、痛みがくる。この声が聴こえてくると、頭が痛む。

 

 

 ――――― それが貴様に与えられた罰…

 

 

「なにを言っている!?」

 

 静かに諭す声に、月彦は毒づいた。

 

「何が罰だ! 私が何をした? 悪鬼滅殺? 護国平和だと? 奴らはただの異常者だ。いつまでもいつまでも、己の不幸に目を瞑り、耳を塞いで、認めようとしない、ただの愚か者の集団だ!」

 

 

 ――――― どうか…これ以上、罪を重ねないで下さい……

 

 

 悲しく震える女の声。ますます月彦は苛立った。

 

「私が罪だというのか? 私の何が罪だというんだ? ただ望みを叶えたいと願って何が悪い!?」

 

 慟哭のような叫びに、旭陽がにこやかに励ます。

 

 

 ――――― 元気になったら何がしたいのか…のんびり考えておいて下さい。

 

 

「………」

 

 月彦の思考はまた止まった。

 

 望み。

 太陽を克服し、完全な体になって…それから……それからは……この世を、この世界を……。

 

 執拗に巣食うかに思えた痛みが(ほど)けていく。

 

 だが、全身が凍ったように冷たかった。

 頭にめりこんでいた手を離す。

 月彦は蒼白な顔で、しばらくその掌を見つめていた。

 

 望みを叶えたとき、自分はその先に何を願うのだろう?

 不老の時を生きて久しい自分にとって、不死が叶えられたその時に、いったい何を望むというのか……? 

 いや ――――

 

 世界は(・・・)自分を望む(・・・・・)のか?

 

 

 ――――― 矢車草の咲く山に……是非一緒に参りましょう。

 

 

 あのときの、旭陽の言葉をようやく思い出す。

 だが、もう旭陽はいない。

 旭耀もいない。

 誰も、待っていないのだ。いつも月彦(じぶん)を一番にしてくれていた存在ですらも。

 

 

 ――――― 月読君……

 

 

 懐かしい呼び名。

 

 旭陽の息子の名前は、太陽を表していたという。昔、同じように太陽を示す名前をもっていた者がいた。いつもそばにいてくれて、共にあることが当たり前の存在だった。

 

 

 ――――― 兄…様……

 

 

 懐かしい呼び声。

 (かな)しく響き、やわらかく月彦を縛る……。

 

「………ひ……の……」

 

 あと少しでその名も、その顔も、姿もすべてを思い出そうとしていたのに、遮ったのは猗窩座のかしこまった声だった。

 

「無惨様」

 

 背後から呼びかけられた名前は、無惨(・・)を現実に戻す。

 

 

 ――――― 貴様は……と、………を喰ろうて鬼となるのだ………鬼舞辻無惨

 

 

 また、あの忌々しい声が告げてくる。

 

 あの日……自分が『鬼舞辻無惨』となった日。

 

 すべての終わり、すべての始まり。

 

「ハッ!」

 

 無惨は急激に冷めた。

 口の端に皮肉な笑みが浮かぶ。

 

 のぞみの果てを夢見る前に、やるべきことはいくらでもある。

 

 鬼殺隊の全滅。産屋敷の抹殺。太陽を克服する鬼の生成、あるいは青い彼岸花の発見。

 

 すべてが叶ったときにどうするかなど、そのときになれば自然と思い浮かぶだろう。

 感傷的になっていた自分が、ひどく疎ましい。

 

「………馬鹿馬鹿しい」

 

 吐き捨てるようにつぶやいた。

 

 猗窩座は眉を寄せた。

 その夜の主は、いつもと少しだけ違うように感じた。

 

 

 

<光りの果て 了> 




本編更新までもうしばらくお待ち下さい。


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第五部
第一章 焦燥(一)


 刀鍛冶の里は紅葉の中、里全体が赤く彩られていた。

 山裾に広がる村の中を歩けば、あちらこちらから刀を打つ音が聞こえ、陽光山からは毎日、猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石を採る人足達の歌が聞こえてくる。

 

 目の前にひろがる秋の景色も、穏やかな村の一日も、本来であれば心和ませるものであったろう。ましてこの数年の間、鬼狩りという殺伐とした日常を生きてきた者にとっては。

 

 しかし、薫は憂鬱だった。

 

 

◆◆◆

 

 

 千禍蠱(ちかこ)との戦いの後、薫は天元からの攻撃による傷を癒やすためにしばらく休養していたが、二月(ふたつき)ほどで任務に復帰した。

 しかし、まだ全快ではなかったらしい。

 復帰後に三つの任務を遂行したものの、三体目の鬼を滅殺した後に、また倒れてしまった。

 

 その頃には薫の関東方面での任務拠点は薩見(さつみ)伯爵邸になっていた。

 隠によって薩見邸に運ばれ、そのまま療養することになったのだが、なかなか思うように回復しなかった。

 医者に診てもらっても、はっきりとした理由はわからない。とにかく貧血であるらしい。その上、微熱も続き、少しでも修練のために体を動かせば、その日の夜は嘔吐したり、頭痛でまともに眠れなかったりした。

 それでも朝に走ったりしていたのだが、そうした無理を重ねたせいか、ある日、とうとう骨を折ってしまった。

 

 林の枝々を跳躍して渡っていく修練の途中で、ズルリと足を滑らせて落ちてしまったのだ。

 薫は自分で自分が信じられなかった。

 こんな初歩的な訓練すら、まともにこなせなくなっている自分にひどく焦った。

 

 落ちたまま呆然として動けなくなっている薫を見つけたのは、先の任務で一緒に戦った音柱の宇髄天元だった。

 元々、この林は天元が自分で作った修練場であったのだが、もう使わなくなったので、薫が借りていたのだ。

 薫が木から落ちた後、薫の鎹鴉である祐喜之介(ゆきのすけ)が天元の鎹鴉・虹丸に知らせ、そこから天元に伝わったらしい。

 

「なにやってんだ、お前は」

 

 天元は地面に突っ伏したまま横たわっている薫に、あきれたように声をかけた。

 

「………」

 

 薫は突っ伏したまま動けなかった。

 ただでさえ自分が情けなくてたまらないのに、よりによって柱の天元に見られるなど、恥の上塗りだ。

 

「まだ本調子じゃねぇんだろ? 伯爵が言ってたぞ」

「………大丈夫です」

「お前の大丈夫って、なんの信用もないよ」

 

 天元はあっさり言ってから、一緒に来た隠に担架を作らせる。

 担架に乗せられ運ばれる間、薫は悔しさで泣きそうだった。

 噛み締めた唇が震えて、血が滲む。

 

「お前、ここにいたらまともに体、治そうとしないから、ちょっと離れたほうがいいかもな」

「冗談じゃありません!」

 

 薫は担架の上で体を起こそうとしたが、どうやら腰のあたりを強打したらしく、痛みに顔を顰める。

 天元はだるそうにポリポリ頭を掻いた。

 

「そんな不完全な状態で無理に訓練なんぞして、腰痛めるなんてな、馬鹿滑稽極まりないんだよ。グダグダ言ってないで、刀鍛冶の里でも行って、湯にでもつかってこい」

「……行きません!」

「ふん。俺の言葉が聞けないってんなら、風柱にでも説得してもらった方がいいか?」

 

 平然と言う天元を、薫はハッとして見つめる。強張った顔で尋ねた。

 

「どうして……風柱様が出てくるんですか?」

「別に。兄弟子だったら、説得もしてくれそうだし、お前も言うこときくかと思っただけだ。それ以外になんかあるのか?」

「………」

 

 薫は気まずくなって目線を逸らした。

 天元は、そんな薫の態度にフン、とあきれた溜息をもらした。腕組みして、しれっと言う。

 

「ま、伯爵に伝えておくからな。それで三日以内に出発してなけりゃ、不死川に灸を据えてもらうか」

「勝手なことをしないでください!」

「生憎と、俺は柱なんでね。隊士の人事に口出す権利は一応あるんだよ」

 

 確かにそれは事実であったが、今までそんな権利があっても、天元が使ったことはなかった。

 全国を飛び回って鬼退治するだけでも一苦労だというのに、そんな隊内の些事に関わるなど面倒極まりない。

 それでも目の前の地味に不器用な女には、ちょくちょく世話を焼いてしまう。これは前の任務で()()()()()()迷惑をかけたせい…というのもあるし、天元の三人の嫁達が森野辺薫とすっかり仲良くなり、まるで妹のように接しているせいもあるだろう。

 

 嫁達はたびたび薩見伯爵邸に薫を訪ね、いつも帰ってくると天元に話して聞かせた。

 

「なんか…どーもイマイチ顔色が悪いっていうかー」

 

 ()()()が眉を寄せて言うと、須磨がうんうんと頷いて、

 

「せっかく持っていったあんぱんも一口しか食べないしねー」

 

と残念そうに溜息をつき、

 

「薩見家の方にも聞いたら、食事をとっても、すぐに吐いてしまったりするんだそうです」

 

と、雛鶴は心配そうに小声で話す。

 

「吐くゥ?」

 

 まさか…と天元は思ったが、察した()()()がヒラヒラ手を振った。

 

「言っとくけど、孕んだとかじゃないよ。本当にただ調子が悪いの。まともに食べられないから、ずーっと顔色が悪くってさぁ。あんなんで鬼狩りなんて行った日にゃ、確実に殺されちゃうよ」

 

 そういうわけで、森野辺薫はしばらく傷病休暇扱いだった。

 天元からの助言をうけた薩見(さつみ)惟親(これちか)伯爵も、鬼殺隊の運営管理を行う者として、すぐに音柱の意見に賛同した。

 

「音柱様の言う通りです。刀鍛冶の里には骨折に効くという温泉もありますから…」

 

 今回の落下事故で痛めた腰のことも気遣って、伯爵は薫に養生を勧めた。

 そこまで言われると、言う事をきかない自分が我儘にも思えてくる。確かに自分の無茶で怪我などしたのだから、早々に治して任務に復帰することこそ必要なことだろう。

 薫はどうにか自分を納得させた。

 

 行くまでの間、目隠しされおんぶで運ばれるのは申し訳なかったが、位置を特定されないためだと言われては仕方なかった。

 日輪刀を作ってくれる刀鍛冶の集う里は、鬼殺隊にとって、お館様の住居と並ぶ重要拠点だ。もしまかり間違って、鬼にこの里の場所が知られれば、間違いなく鬼殺隊の危機となりうる。

 

 何人もの隠の背中を経由して、ようやくたどり着いたとき、刀鍛冶の里は夕暮れを迎えていた。

 目隠しをとられ、瞳を射抜くかのような強烈な西日に薫は顔を顰めながらも、赤や黄色に色づく山に囲まれた、小さな村里の景色に見とれてしまった。

 

 村の中央を流れる小川には種々の紅葉が落ちて、まさしく『からくれなゐに水くくる』とばかりに、綾なす錦に彩られている。

 紅葉する木々とは対照的に、姿変わらぬ針葉樹の真っ直ぐ伸びる姿も凛として美しい。

 風にのって漂ってくる金木犀の匂いは、目の前に広がる景色にうっすらと金の薄衣を纏わせているかのようだ。

 

「この時期が一番綺麗なんですよ。隊士さん同士で紅葉狩りなどされる方もおられます」

 

 最終的に、薫をこの里に運んできてくれた隠の言葉に、ハッと我に返った。

 本来の目的を思い出して、気を引き締める。

 物見遊山に来たのではない。まして紅葉狩りなどしている暇もない。

 自分はここで体を癒やし、早く任務に復帰するために来たのだから。

 

 

◆◆◆

 

 

 刀鍛冶の里に来た翌朝。

 薫は久しぶりに自分の刀を制作してくれた刀鍛冶・宮古鐵(みやこがね)に会った。相変わらず、この里の風習であるひょっとこの面をつけている。

 受け取った宮古鐵は刀の状態を見て、「ありがとうございます」と頭を下げてきた。

 

「どうして…お礼なんて」

 

 薫が不思議がると、宮古鐵はニコリと笑った。

 

「よく手入れされています。丁寧に扱って頂いているようで…」

「そんな…最近は体調不良が続いて、ほとんど鬼を狩ることもないせいです。むしろ不甲斐ない証です」

 

 薫は自嘲をこめて言ったが、宮古鐵は笑みを崩さなかった。

 

「まさか。乙にまで出世された隊士が、不甲斐ないなどと…」

「乙?」

「違いましたか? そう伺っておりますが」

「ちょっと待って下さい」

 

 あわてて腕をまくって階級を示すようにつぶやくと、手の甲に『乙』の部分が浮かび上がる。

 

「どうして?」

 

 訳がわからない。

 自分のここ最近の任務で、特筆すべきものなどない。

 千禍蠱を討てたのも天元の手助けがあってのことだし、そもそもあの任務は薫にきたものではない。あくまでも薫は天元を手伝ったにすぎない。

 

「生半可なことで乙までいくことなどあり得ませんよ。それにしては刀の状態が良いので、日頃からよほど丁寧にお手入れして頂いているのだろうと…感心しただけのこと。皮肉などではございませんから、言葉通りに受け取ってください」

「いえ…すみません。私こそひねくれたことを言ってしまって」

「ハハハ。まぁ、療養でこの里に来られる方は、概ね二種類に分かれます。森野辺さんは己に厳しい人のようですね。しかし、自分に甘くして、のんびりとこの里での暮らしに慣れた隊士の方が、復帰は早いようですよ」

 

 宮古鐵はそう言って、刀を持って帰っていった。

 目方を少し増やして強度を増すように打ち直してもらうのだ。

 

 薫は宮古鐵の助言の通りに、少しはこの里での休暇を楽しもうとしたのだが、その日の夜からひどい悪心(おしん)に襲われた。実際に宿舎の方で出された夕食は、ほとんど吐いてしまった。

 そこから二日ほどは、ほとんど食べ物も喉を通らず、寝たきり状態であった。

 ようやく(とこ)を離れて散歩できるようになっても、体は重く、せっかくの野山の錦を楽しむ余裕もない。

 

 

 ――――― 本当に良くなるのだろうか…?

 

 

 日に日に疑問が募り、憂鬱になった。

 

 医者には判別できない病気に冒されているのだろうか。

 もし、このままどんどん体調が悪くなって、鬼殺隊にいることができなくなったら…?

 

 それを考えると、薫は一気に足元が覚束なくなった。

 

 また…自分は失くすのだろうか?

 ひたすらに修行し、死を掻い潜って、ようやく自らの手で掴みとったこの場所を…。

 

 

 

<つづく>

 





次回は2023.01.14.更新予定です。


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第一章 焦燥(二)

 宝耳(ほうじ)は木々の間を通り抜ける鴉の後を追って山道を歩いて行く。

 のんびりと紅葉狩りでもできればよかったのだが、生憎とこの山はほとんどがミズナラやアカガシ、ツガなどの常緑樹で、あまり紅葉はない。

 獣道を歩いていくと、時々、何かの罠のあとがある。兎を捕らえるには大きすぎる穴。

 

「……やれやれ。さすがや」

 

 嘆息しつつ罠を避けて宝耳は先へと急いだ。

 

 この山林そのものが、元水柱のものだった。

 柱であった時点に相当に貯め込んで、育手となる時に未練なく使ったのだろう。

 しかし豪快な金使いに相違して、その水柱の住まいは質素であった。猟師の山小屋と言ってもいい。なにか煮炊きしているのか、いいにおいがしてくる。

 

 宝耳はそろりとその小屋に近寄った。

 トントン、と何かを切っている音がする。

 光と風を取り入れるため小屋上部に開かれた小窓から、そっと中を窺う。

 

 土間の方では、白髪の老人が立っていた。どうやらこれが元水柱らしい。

 そこから奥の暗がりへと視線をやれば、暗い部屋の中に布団が敷かれている。誰かが寝ているのか、それとも老人が布団を敷きっぱなしにしているのかはわからない。

 

 宝耳は小屋から離れると、キュエェ! と鋭い声を上げた。雉の鳴き声を真似たものだ。

 すると木々の間で鴉がカァカァと騒ぎ出す。小屋から出たところに見える木々に向かって、クナイをいくつか放ってから、小屋脇に素早く身を隠して気配を消した。

 

 すぐに小屋から老人が姿を現す。

 天狗の面が厳しく辺りを見回している。

 まだ鴉たちは上空で騒いでいた。

 

 老人はスタスタと歩き、一本の木の前で立ち止まった。木にささったクナイに気付いたようだ。さっと振り返って、周辺を油断なく見回している。

 天狗の面をしているので、どういう顔をしているのかはわからないが、警戒しているらしいことは見て取れた。

 しばらく立ち止まっていたが、また木立の中にクナイを見つけたのだろう。そちらへと進んでいく。

 

 十分に離れたのを見計らって、宝耳は小屋に入り込んだ。

 息を潜めてゆっくりと進む。

 カチャリ、と一応、腰の短刀がすぐに出せる用意をしておいて、奥の部屋へと進む。

 

 昼でも光の差し込まない暗い部屋の中、目を凝らすと、敷かれた布団に眠っている少女の姿が見えた。

 まるで死人かのように真っ白な顔をしているが、可愛らしい少女だ。スヤスヤとよく眠っている。

 唯一おかしな点があるとすれば、口に咥えた青竹だが……。

 

「………用件は?」

 

 背後から声をかけられる。同時に閃く刃が首に押し当てられていた。

 宝耳は口の端にニヤリと笑みを浮かべた。

 

「やれやれ…早ぅにお帰りや」

「フザけた造作をして、おびき出したつもりか?」

「いやいや。反応を見るために乗ってくれはるやろ…思いましてな。元水柱殿であれば」

 

 宝耳がかつての呼び名を口にすると、かすかに老人が息をつく。

 

「………鬼殺隊の者か?」

「遠からず」

「この子のことを殺しにきたか?」

「この子、ねェ。この()、ではなく?」

「…………」

 

 老人は無言になる。

 殺気が消え、首元に当てられていた刃が下ろされた。

 宝耳は振り返り、ニッコリと人の良さげな笑みを浮かべて呼びかける。

 

「お話しましょうや、鱗滝殿」

 

 

◆◆◆

 

 

 元水柱である鱗滝左近次の住まいから妙な気配がする…という鬼蒐(きしゅう)の者からの話を聞いたのは数週間前のことだった。

 その話を持ってきたのは、宝耳が最も信頼している春海(はるうみ)だった。

 

「……鬼、としか思えぬのに、おかしなことに鬼気を感じませぬ」

「ふぅん…」

 

 春海は元は別の鬼を追っていたのだが、元水柱である鱗滝左近次の山に立ち込める暗い靄に心がざわめいて、立ち入ったのだという。

 だがあまりにも静かな気配で、迷った末、そのままにして降りてきた。

 本来であれば、本部へ報告すべき案件なのだが、その鬼の気配があまりに闘気も何もなく、まるで眠っているようなので、宝耳に相談してきたのだ。

 

「元水柱殿が鬼を拘束でもしとるんか?」

「わかりませぬ。もしそうであったとしても、その鬼は望んで拘束されておるのやもしれませぬ。非常に静かな…凪いだ気配故」

 

 春海はそう言ってから、そういえば…と付け加えた。

 

「どうやらその育手の弟子らしき少年がおりました。とても澄んだ心根の、美しい少年でございました。もし、鬼がおれば、あのような無垢なる魂は、たちどころに喰われておってもおかしゅうないというのに」

「ほぉ? 珍しいな。お前さんがそこまで持ち上げる人間がおるなんぞ」

「……私がこのまま探索を続けようか、山を降りようかと迷ぅておりましたら、目の見えぬ私が道に迷ぅたと勘違いしたのか……麓の道まで手を引いて案内(あない)してくれました。触れ合ぅても、おぞましい心は感じませなんだ。久しぶりのことにございます」

「ほぅ、ワイと一緒か?」

 

 宝耳はまぜっ返すように言ったが、春海は深々と頷いた。

 

「左様にござります。宝耳様と同じ…曇りなき心でございました」

「…………」

 

 宝耳は目を細めて、煙管(キセル)を吸ってからふぅ、と息を吐いた。

 紫煙が乾いた空気の中を広がり漂う。

 ポイと灰を捨てると、立ち上がった。

 

「フン。ほな、ワイが一度見て来ようやないか。も少ししたら最終選別やし、その頃やったらその弟子も藤襲山に行っとるやろ」

 

 そうして訪れたのが今日であったのだが、思惑通り弟子は不在だった。

 宝耳は囲炉裏端に座り、鱗滝左近次の出したお茶をすすってから、単刀直入に尋ねた。

 

「ほんで、あの鬼の娘を()()()はるんでっか?」

 

 

◆◆◆

 

 

 飼っている…という言い方に、左近次は面の中で眉を顰めたが、当然ながら目の前の男 ――― 伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)と名乗った ――― には見えていない。

 それでも返事はやや苛立ちを帯びた。

 

「禰豆子は鬼だが……人を襲うことはない」

「ほぅ?」

「もし、人を襲った場合には私が成敗する。その後に切腹することも厭わぬ」

「ハハッ」

 

 宝耳は笑った。

 ずいぶんとご執心だことだ。

 元柱が()に。

 

「今、人を襲わずともこうして鬼を匿っている…殺さぬこと自体が、鬼殺隊への裏切りと見做される…とは、思いまへんか?」

「………」

「『悪鬼滅殺』を掲げて、誰より鬼を殺してきた一人である鱗滝殿が、そのようなことを仰言(おっしゃ)られるとは、()()()()が知れば、騒ぎ立てて、すぐにでもここに数十人の隊士を向かわせることでしょうなァ」

「お前は?」

「ワイ?」

「お前は、この事を知ってどうするつもりだ?」

「さて…どないしたもんやら」

 

 宝耳は肩をすくめると、立ち上がった。

 奥の間へと歩いていき、柱に寄りかかって昏々と眠る少女を見つめる。

 青竹で作った(くつわ)を咬まされたまま、すぅすぅとよく眠っている。

 

「あれは…人を咬ませんためでっか?」

「そうだ。この二年の間はずっと眠っている。一度も人を殺したことはない」

 

 左近次の言葉に、宝耳は振り返ってせせら笑った。

 

「二年眠って起きた途端に、村一つ失くすような鬼になるとは思いまへんか?」

「そうはさせぬ。この二年の間、毎日暗示をかけておる。人は守り、慈しむもの。鬼は敵だと…」

「さて、それがどこまで効果があるんやら」

 

 フン、と宝耳は鼻で嗤う。

 人を小馬鹿にした宝耳の態度に、しかし左近次は怒らなかった。

 当然の反応だ。鬼が人を守るわけがない。左近次とて、ずっとそう思って生きてきた。今もその考えがなくなったわけではない。

 だからこそ、こうして面倒を見る一方で、自分に最も重要な責務を課している。

 

「……もし、禰豆子が人を襲った場合には、私が成敗する」

 

 自分に言い聞かせるように、左近次は再び言った。

 しかし宝耳は嘲り笑う。

 

「さて、御老体にどこまでできるもんやら。こうして面倒まで見て、情が移っとらんとは言えんでしょう?」

「………私で始末できねば、我が弟子によって始末させる」

「弟子いうのは、現水柱の……なんやったか…確か……トミタ…いや、トミタニ……」

「冨岡義勇だ」

「あぁ! そうそう、あのキレーな顔のお坊ちゃんでんな? やれやれ、師の不始末を弟子に片付けさせる気でっか?」

 

 あきれたように言う宝耳に、左近次はムッとして言い返した。

 

「元はあやつが二人を寄越してきたのだ」

「二人? あぁ…今、藤襲山に行っとる弟子でっか? ふぅん。そいつはこの娘の身内なんですな? この鬼のお嬢ちゃんの年の頃からして、兄、いうとこかな?」

 

 はんなりした関西弁に騙されそうになるが、いちいち言葉尻を捉えては、素早く洞察してくる。まして弟子がいることも、既に知っていたというなら、随分と前から目をつけられていたのかもしれない。

 

 左近次は目の前の男に、ますます警戒を強めた。

 

「なるほど。ということはすべての元凶は水柱の冨岡殿、というわけでっか?」

 

 宝耳がなにかしらの言質をとろうとしているのを感じて、左近次は慎重に言葉を選んだ。

 

「………あやつは道を示しただけだ。炭治郎は禰豆子を人に戻したいと思っている。鬼殺隊に入れば、鬼と関わる中で、あるいは救えるかもしれぬと考えたのであろう」

「たんじろうに、ねずこ、ね」

 

 宝耳は小さくつぶやいて、その名を頭に刻み、また振り返って眠っている鬼の少女を、品定めするようにしばし見下ろした。

 やがて興味もなさそうに背を向けると、囲炉裏にかかっていた鍋からさっと里芋の煮たのをつまんで、土間へと向かう。素早く草鞋の紐を結んで、立ち上がり、左近次に軽く頭を下げた。

 

「ほな、とりあえずはこの辺で。ごっそさんです」

 

 そのまま帰ろうとするのを、左近次は呼び止めた。

 

「どうする気だ? この子を」

「さぁ? ワイが決めることやおへん。それくらいは元柱であれば、わかっておられますやろ?」

「貴様、お館様の……」

 

 左近次は言いかけたが、宝耳は笠をかぶってそのまま出て行ってしまった。

 

 

◆◆◆

 

 

「義勇がね…そう」

 

 宝耳から鬼となった娘についての話を聞いた産屋敷耀哉は、静かに微笑んだ。

 

「意外だね。鬼となれば容赦ないと思っていたのに…」

「可愛い鬼っ()でしたからな。ほだされたんと()ゃいます?」

「そういう君こそ、すっかり参ってしまったんじゃないの?」

「いやぁー! そうかもしれまへんなぁ!」

 

 混ぜっ返すように大仰に笑う宝耳に、耀哉はクスリと微笑む。

 それからすぐに怜悧なお館様の顔に戻った。

 

「ずいぶんと興味深いものを見つけてきてくれたものだ。さて、どうしようか…」

「鱗滝老人は、禰豆子いう鬼に暗示をかけとるようです。人間は守るもの、慈しむもの、いうて。鬼にどれだけ効くんかはわかりまへんけど。ただまぁ、実際にワイは襲われることもなく帰ってこれましたわ」

「ということは、君もその禰豆子という少女を殺したくないんだね?」

「はて? どないですやろ? 所詮は鬼やし。下手にこの先強ぅなってからでは、手出しもでけへんようになるかしれまへんし、今のうちに処分しといた方がえぇんと()ゃいますか」

「それは本心?」

「ハハハ。ワイに本心も嘘もありまへんわ」

 

 耀哉は宝耳の言葉に冷えた笑みを浮かべる。

 確かにこの男には嘘もないし、本心もない。

 

 幼いころに、耀哉は宝耳とよく遊んだ。父はその様子を微笑んで見守りながら、帰る宝耳の後ろ姿をいつも冷たく、無表情に見つめていた。

 やさしい父の普段は決して見せることのない表情が、幼い耀哉は少し怖かった。

 父が亡くなる少し前、耀哉は父に聞いた。

 

「どうして宝耳をあんな冷たく見るのですか?」

「そんな顔をしていたかい?」

 

 耀哉がコクリと頷くと、父は寂しげに笑った。

 

「耀哉…どうしようもなく救いようのない存在に対して、我々はひたすらに滅殺してきた。けれどそれが殺すことを許されない存在であるなら…とるべき道はなんなのだろうね?」

「……どういうことですか? 宝耳は…」

 

 詳しく聞こうとした耀哉を止めるように、父は耀哉の名を呼んだ。

 

「耀哉…宝耳は影法師なんだ」

「影法師?」

「あの男は『伴屋宝耳』の影として存在しているだけだ。……いいかい、耀哉。もし、お前の代で鬼舞辻無惨を殺すまでに至ったのなら――――…」

 

 その父の遺言を聞いたとき、耀哉は意味がわからなかった。だが、長ずるにつれ、宝耳にお館様として接することが増えて、少しずつ父の言っていたことの意味がわかってきた。

 

 影法師 ――――― 宝耳に実体はない。彼は心を持たない。彼はひたすらに『伴屋宝耳』を演じている。

 それこそが、彼に与えられた『任務』の一つなのだ。

 

「どないしますか? 殺した方がえぇんやったら、一応、隊士を何人か…そうやなぁ、庚以上を五人は用意してもらわんと。できれば一人は甲か柱並の(もン)を。せやないと、あの元水柱は厄介でっせ」

 

 頭の中で素早く算段して、宝耳は言ってくる。

 言葉だけを聞いていたら、いかにも元水柱諸共にその鬼の少女を殺したいかのような口ぶりだが、別に本気でそう考えているのではない。あくまで仕事の話をしているに過ぎない。

 

「いや。殺さないよ。これは…いい兆候だ」

 

 耀哉が否定すると、宝耳は意外そうに眉を上げた。

 

「ほぉ?」

「そう…()()はしばらく様子を見ることにしよう。例の()()()共々、うまく運べば無惨への重要な突破口となるかもしれない。鬼の娘と、そう…珠世といったね、()()()の名前は。二人が出会えば、新たな潮流が生まれる。……しばらく()()を見ておいてくれ」

「ふん。()()()()…でっか」

「あぁ。余計な手出しはしなくていい。いずれ彼らには……会える気がする」

 

 宝耳はうっすら笑って頷いた。

 どうやら例の()()()()()()()で、耀哉にはおおよその未来が()えているらしい。

 

「ほな、これにて失礼しまっさ」

 

 立ち上がって宝耳は帰っていく。

 耀哉はほとんど見えなくなってきている目で、その背を見つめた。おそらく自分もまた、あの時の父と同じ顔になっているのだろう……。

 





次回は2023.01.21.更新予定です。


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第一章 焦燥(三)

「やぁ~ん。気持ちいいぃぃ~」

 

 最初は熱いと思った温泉にしばらく浸かっていると、じんわりと体に熱が伝わっていく。同時に、自分でも気付いていなかった凝りや痛みが熱によってゆっくり解けていく感じがして、それがとても快い。

 甘露寺蜜璃はしばし目を閉じて、その快感を味わった。

 

 最終選別を経て隊士になって以来、休む間もなく働いてきた。

 もちろん文句はない。鬼を倒して、殺されそうになっている人を助けるのは、わかりやすく自分を肯定してくれる。

 ここにいていい。

 ここに自分の生きる道がある、と。

 

 だから蜜璃は体の動く限り、どこへでも出向いて鬼と対峙し、成敗してきた。

 

 夜明け前に鬼を殺し、帰ってごはんをたっぷり食べたあとに二、三刻ほど寝て、起きて()()お櫃二杯ほどを食べてから、今度は夕暮れ近くまで修練。またたっぷり食べてから、夜には鬼狩りに向かい、成敗して、常に持参している特大握り飯を二つ平らげたあとに、深夜の任務に向かう……こんな超人的なことが出来るのは、柱並みの体力がないと無理なことだった。

 

 蜜璃の行動は一般隊士にはとてもついていけるものではなかった。隊士達の多くは、蜜璃の尋常でない食欲も含めて『バケモン』と呼んだ。

 

 ――――― ここでもやっぱりそうなのかな…。

 

 蜜璃は少し……いや、かなり悲しかった。

 

 見合い相手からひどい言葉で罵られてから、蜜璃は自分の()()()に気付いて、普通の生活の中に自分の居場所を見つけられないでいた。

 それが鬼殺隊のことを知り、煉獄杏寿郎の元で修行を積む中で、世の中には自分よりもずっと凄い人がたくさんいるのだとわかり、どれだけ嬉しかったことか。(もちろん、この時に将来の旦那様となる人もきっとこの中にいるに違いない…と思って、より蜜璃の向上心に火をつけた)

 

 しかし自分などまだまだヒヨッコだと思っていたのに、一生懸命、隊務に精励するほどに、また蜜璃は鬼殺隊内でも浮いた存在になっていく。せっかく自分よりも強い殿方がいっぱいいそうだと楽しみにしていたのに、次々と追い抜いていってしまう自分に、蜜璃は少しばかり嫌気がさした。

 

 だが、まだ蜜璃は希望を捨てていなかった。

 

 森野辺薫 ―――― 蜜璃を鬼殺隊へと導くきっかけとなった人は、かなりの上位にいるのだという。

 やはり、あの人は強かったのだ。 ()であれば、蜜璃を同等に見て、やさしく笑いかけてくれるはずだ…。

 

 

 ―――――その髪の色。めずらしいですけど、あなたに似合ってます…

 

 

 気味悪がられていた蜜璃の髪を、家族以外で初めて認めてくれた人。

 

 

 ―――――甘露寺さんは桜の精ですね…

 

 

 涼やかな微笑みを思い出して、蜜璃の顔がボボボボと、より赤く、熱くなる。

 

「罪だわーッ! 罪よーっ、あんな笑顔ーっ」

 

 バシャバシャとお湯に顔を何度も打ち付けて、蜜璃はわめきたてた。

 途中でお湯が鼻と口に同時に入って、ゴホゴホと咳き込む。

 

「大丈夫ですか?」

 

 心配して、誰かが声をかけてきてくれた。

 恥ずかしい…と蜜璃は赤面しながら、顔を上げた。

 

「大丈……ぶっ!!」

 

 そこに立っていた人物の懐かしい顔に、蜜璃は湯の中でそっくり返ってこけそうになった。

 

「危ない!!」

 

 声をかけてきた人が蜜璃の腕を掴む。

 

 鬼殺隊に入って以来、ずっと再会を願っていた人。

 蜜璃に懸命に生きて、居場所を見つけるようにと励ましてくれた人。

 

 ずっとずっと会いたかった人が、目の前にいる。

 

 蜜璃は嬉しさのあまり泣きそうになったが、その人の名前を呼ぼうとして顔を上げてから、しばし固まった。

 

 ―――――ん? 今、わたし………何か見た?

 

 一旦、見上げて合った視線をゆっくりと下へとさげていく。

 

 白い湯気の中、おぼろげに見える。

 自分よりも多少小さいが……その、膨らんだ胸が。

 それよりもっと下げても、小さな弟達と一緒に入っていた時にみえた()()はない。

 

 蜜璃はまたゆっくりと顔を上げた。

 

「薫……さん?」

 

 蜜璃は嬉しさに固まった顔のまま呼びかける。

 目の前に立っていた彼…女は、しばらく蜜璃を見つめた後に「あっ」と驚いた声を上げた。その声は温泉を囲む岩に反響して、妙に艶めかしく響いた。

 

「蜜璃さん…でしたよね?」

「……………ハイ」

 

 蜜璃はニッコリ笑ったまま、ゆっくり倒れそうになった。

 いや、倒れた。

 あわてて薫が抱きとめてくれたのだろう。頬に確実な女の胸の弾力を感じて、蜜璃は自分の初恋が無残に散ったのを悟った。

 

 

◆◆◆

 

 

「すみません。宝耳(ほうじ)さんから伺ってから、ずっと訂正しようと思っていたんですが…」

 

 温泉から上がった後、宿舎へと戻る道で薫がすまなそうに言う。

 蜜璃は上気した顔でパタパタ手を振った。

 

「いいえ! ぜんぜん! ぜんっぜん、気にしてませんから! 薫さんのせいじゃないですよ!」

「蜜璃さんが炎柱様のもとで修行されていると聞いて、煉獄家に訪ねた際にでも会えたらと思っていたんですが……結局お会いできないまま、放ってしまって申し訳ございません」

「そんなことっ! 私、私が勝手に勘違いしていたのが悪いんです! 気にしないで下さい!!」

「………驚かれたでしょうね」

 

 薫は先程の湯治場での蜜璃の顔を思い出したのか、苦笑いを浮かべながらつぶやく。

 蜜璃はますます申し訳なく思いつつ、藍地にススキの描かれた浴衣に身を包んだ薫を見て、どうして自分が今まで薫を男だと思っていたのか…もうわからなくなっていた。よくよく見れば、切れ長の瞳の楚々とした美人だ。端正な面差しの中に、女の色気が感じられる。

 

 ―――――男ではなかったとしても、やっぱりキレイでかっこいいわ!

 

 蜜璃はすぐに失恋から立ち直った。

 美しいもの、かわいいもの、かっこいいもの、おいしいもの…蜜璃にとって世の中は感動であふれている。幼かった自分の勘違いの恋も、やがて楽しい話し草になるだろう。

 

「正直…驚いたは驚いたんですけど……でも、もう傷ついたりはしていません! 大丈夫です!」

 

 明るく言う蜜璃に、薫はニコリと笑って尋ねた。

 

「ところで甘露寺さんも、ここには休養ですか?」

「あ、はい。それもあるんですけど、本当の目的は、新しい日輪刀を作ってもらうことになってて」

「新しい…日輪刀?」

「はい。隊士になってから、とりあえず普通の打刀を作ってもらって、それを使っていたんですけど、私、自分で新しい呼吸を作ったので、それに合わせた刀の方がよりいいだろう…ってことになって。色々と注文してたら、なんか難しかったみたいで、結局、鉄珍さまっていう、この里で一番えらいおじいちゃんみたいな人に作ってもらうことになったんです」

「まぁ、鉄珍さまって…」

 

 薫が聞いた話では、確か鉄珍というのはこの刀鍛冶の里の長であったはずだ。日輪刀を作る多くの鍛冶師の中でも、飛び抜けた腕前だという。

 最近では確か胡蝶しのぶの刀を作ったのが、彼だというのを聞いた。毒を注入するという特殊な形状の、しのぶにしか扱えない打突に特化した日輪刀。

 

「きっと、いいものができるでしょうね」

「そうですね。薫さんは? どこか怪我でもされたんですか?」

「えぇ…」

 

 薫は途端に自分が情けなくなって俯いた。

 

「少し体調が優れなくて…ここで治すようにと言われて来たんですが、なんだかいつまでも良くならなくて……」

「薫さん…」

 

 暗くなった薫を蜜璃が心配そうに覗き込んでくる。

 薫はハッとして、顔を上げた。

 

「すみません。弱音なんか…情けないですね」

「そんなことないです! 私で良かったら、バンバン弱音吐いちゃって下さい。あ、だからって、何かいいこと言えるってワケじゃないんだけど……。でも、ホラ! 言うだけでもラクになるってこともありますし!」

 

 懸命に励ましてくれる蜜璃に、薫は久しぶりにホッとした気分になった。やはり、ここに来てから、ずっと張り詰めていたのかもしれない。

 宮古鐵(みやこがね)に言われたことを思い出す。

 

 

 ―――― のんびりとこの里での暮らしに慣れた隊士の方が、復帰は早いようですよ

 

 

 焦ったところで、体調が良くならない限り任務に戻るわけにもいかないのだ。こんな状態で戻って、もし共同任務が割り当てられたら、他の隊士たちにも迷惑をかけることになる。

 とにかく今は治すことを第一に、専一に考えなければ…!

 だが、薫はすぐに自分の堅苦しいまでに真面目な性格にため息をついた。

 こういう考え方がよくないのだ。もっとおおらかに…悠揚に…。

 

「薫さん?」

 

 また思い詰めた様子の薫を、蜜璃が不思議そうに見つめる。

 薫は蜜璃の緑色の瞳を見つめた。まるで子供のような純真さがそこにはある。

 

「蜜璃さん。まだ、しばらくはこちらに逗留されるのですか?」

 

 薫の急な問いかけに、蜜璃は「へっ?」と驚きながらもうなずいた。

 

「は、はい。まだしばらくは鉄珍さまもかかるって言われてますから…」

「じゃあ、お願いがあるんです。いやだったら、断ってもらってもいいのですが…」

「えっ? な、な、なんでしょう?」

 

 蜜璃はあわてふためきながら、頬を上気させる。

 薫からのお願い! それがどんな頼みでもきいてあげるつもりだ。それこそ、ここからひとっ走りして木村屋のあんぱんを買いに行けと言われれば、すっ飛んでいくだろう。

 

「私、自分一人だと、どう休めばいいのかわからなくて…ここにいる間、一緒にいてもいいですか?」

「え?」

 

 蜜璃は思わず聞き返してしまった。

 心の中で悶絶して転げ回る。

 

 ――――― なにその極楽。嘘でしょ、いいの? 私と一緒にいたい…って、本気で言ってますぅぅ??

 

「私、一人でいるとあれこれ考えて、どうしても焦ってしまって。蜜璃さんと一緒だったら、少しは気が紛れるかと…すみません。失礼なことを言ってますね。でも、蜜璃さんとお話ししていると、なんだかホッとするんです」

「ホッ…ホホ…そんなぁ、私なんて全然…ぜんっぜん、大したことない人間で~」

 

 蜜璃は訳がわからなくなって、柄にもなく奇妙な謙遜をする。

 すると薫はふっと悲しそうに目を逸らした。

 

「すみません、急に。おかしなことを頼んでしまいましたね…」

 

 自分勝手な要望だったと反省し、薫はすぐに取り下げようとした。しかし蜜璃はあわてたようにガシリと薫の手を掴んだ。

 

「ぜんぜん、いいです! ここにいる間、一緒に休みを満喫しましょう!」

 

 力強く蜜璃が言う。

 薫は少し驚いた後、ニッコリ笑って頭を下げた。

 

「はい。宜しくお願い致します」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 薫と蜜璃が出会い、改めて ()()()の親交を深めるようになって一週間ほど経った頃 ――――

 

 刀鍛冶の里に、騒々しい来訪者が現れた。

 

「とっとと出せ! 明日までに出せ!」

「そんなせっかちな…」

 

 いきなりやって来るなり、がなり立てる風柱・不死川実弥に、刀鍛冶の銕吉(かねよし)は、やれやれとため息をつく。

 

 最初に会ったときから、忙しない男であった。

 なにせ鬼殺隊士になって初めての刀は、届ける途中でひったくって、その足で任務に向かってしまったのだから。あれから六年近い付き合いで、柱にまでなったことには驚いたが、相変わらずの短気な性格にはあきれるしかない。

 

「お前さん、柱になったんだから、ちーとはその短慮な性格を改めたらどうなんだ? 威厳がないぞ、威厳が」

「うるせぇ、オッサン。グダグダ言って茶ァ飲んでる暇があンなら、仕事しろォ」

「悪いが、今日の仕事は終了だ」

「なんだとォ!?」

「ま、せっかく来たんだ。ゆっくり紅葉狩りでもして行けばえぇじゃろ」

 

 言いながら、銕吉は立ち上がった。

 今日はこれから晩酌の予定だったが、残念ながら予定は変更だ。そもそも横でこうまで騒がれては、灘の生一本だって不味(まず)くなる。

 

「オイ待て! どこ行く?」

「さぁてな~」

 

 ヒョコ、ヒョコ…と、びっこを引いて歩く銕吉に、神速とも呼ばれる風柱が追いつかないわけがない。やろうと思えば引っ掴んで、鍛冶場に無理やり連れて行くことはできただろう。

 だが実弥はその場に留まって、いまいましげに舌打ちし、あきらめたようだった。

 なんだかんだと文句を言いながらも、無理強いすることはない。

 そういう絶妙な気遣いをするところが、なかなかどうして可愛げがあるというか…。

 

 それにしても ―――…と、銕吉は嘆息する。

 

 一体、何本目だろうか。

 ひぃ、ふぅ…と数えて五本目で止まる。

 実弥の刀を作るようになってから、これまでに五本が折られた。今回作るもので、六本目の刀になる。

 

 当初はあまりに頻繁で、堅い鬼の首を無理にねじ斬ったり、勢い余って岩にでもぶち当てているのだろう…と思っていたのだが、原因はそこではなかった。

 銕吉が不死川実弥という少年の実力を正確に認識していなかったのだ。

 

 いわゆる一般隊士に比べ、実弥の剣技は速かった。

 ましてそこに呼吸が伴えば、その威力は数倍数十倍、下手をすれば数百倍にもなる。

 あまりにも速い技の圧力に、刀が耐えられず折れるのだ。

 

 これは製作者である銕吉の問題だった。

 せっかくの実力を十二分に発揮できない武器を作るなど、刀鍛冶として力量不足と言われても仕方ない。それから銕吉は様々に工夫したのだが、五本目が一番長く()って、一年ほどであった。

 

 実弥の日輪刀は一筋縄ではいかなかった。

 ただ、重量を重くして丈夫に作ればいいというものではない。

 風の呼吸は打撃を主とする岩の呼吸と違い、()()ものだ。

 風を起こし、鬼の首を薙ぎ切ることを一義とする。

 技の鋭さを減じるようなことになっては意味がない。

 

 そのためには絶妙な()()()をもたせることが重要なのだが、これがあまりにも柔らかすぎると折れるし、反対に強すぎても、実弥の巻き起こす風圧に耐えられずに罅が入って折れてしまう。

 風の呼吸独特の柔剛併せ持った技は、実弥の持つ身体能力に比例して強さを増す。

 これでもう大丈夫だと思って作っても、あの時期の少年の成長は凄まじく、銕吉の想像を簡単に追い抜いて、より強く、より(はや)くなっていく。

 

 実は銕吉は既に六本目の刀を作り終えていた。

 先々代の、伝説の風柱と呼ばれた人の刀を作ったという刀鍛冶の手記などを参考に、今までの中では納得のいくものを作り上げたと思っていたのだが、先程現れた実弥を見て、すぐに「駄目だ」と悟った。

 

 背はもうさほどに伸びることはなかったが、手足の筋肉も、晒した胸も、より分厚く精強に、体全体が一回り大きくなった印象だ。

 確実に、また強くなっている。

 これではおそらく数ヶ月と()たずに、また新たな刀を作る羽目になるだろう。

 

 銕吉は鍛冶場に置いてあったその刀を金槌で叩き折った。

 

「……まったく、いつまで成長しよるんだ、あの風柱は」

 

 あきれたように言いながら、銕吉は(ホド)の火をおこし、準備を始めた。

 

 

<つづく>




次回は2023.01.28.投稿予定です。


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第一章 焦燥(四)

「薫さーんっ! こっち、こっち。綺麗ですよぉ、この池」

 

 蜜璃が大きな声で呼ぶ。

 薫は一度、大きく深呼吸してから答えた。

 

「はーい。今行きますー」

 

 歩くほどに重くなっていく足を、どうにか前へと運ぶ。

 一体、自分の体はどうなっているんだろう? この程度の山を登ったぐらいで、こうまで疲れるなんて…。

 

 陽光山の中腹に翡翠沼と呼ばれる池がある…と、蜜璃が世話してくれている隠から聞いたのは、昨夜(ゆうべ)のことだった。

 

「泳いだりはできないらしいんですけど、本当に翡翠を溶かしたみたいに、きれいな青緑の池らしいんです。この時期だと、紅葉とあいまって絵みたいだって…行ってみません?」

 

 蜜璃が興奮した様子で話してくる。

 しかし気安く誘ってから、薫が今朝まで寝込んでいた病人だと気付くと、あわてて謝ってきた。

 

「ご、ごめんなさい。まだ、本調子じゃなかった…ですね」

「いいえ。もうすっかりいいの。今日は食事もできたし…いつまでも寝てばかりいても、治るものでもないし、行きましょう。私も見てみたいです」

 

 そのときは、本当にもうすっかりよくなったように思えたというのに、結局、起きて動き回ると、途端に体が重くなる。胸がむかついて、胃液が上がってきそうになる。それでも薫は懸命に足を動かして、ようやくその池の縁に立っている蜜璃に追いついた。

 

「大丈夫ですか? 顔色が悪いような…」

 

 心配そうに見てくる蜜璃に薫は無理やり笑顔を浮かべると、それとなくそばにある木の幹にもたれかかりつつ、翡翠沼と呼ばれる池を眺めた。

 確かに言われていた通り翡翠を溶かしたような、美しい青緑色だ。

 

「本当に…翡翠みたい。どうしてこんな不思議な色をしているんでしょう?」

「えっと、えっと…なんか水の成分がどうとかなんとか言ってたと思うんだけど…。直接、薫さんが隠の人に聞いたほうが早い気がします」

「そうですね。今度、聞いてみます。あっ…アオゲラが飛んでいきましたね……」

「えっ? どこどこ?」

 

 こうして時々二人で出歩いて、たわいない話をする日常(こと)が、薫にはなによりの気分転換だった。

 

 一人だと気ばかり焦ってしまって、無理に修練などした挙句に、また体を壊してしまう。

 この数ヶ月はそうした悪循環が続いていたが、蜜璃と過ごすようになって、多少は良い方向に向かっているようだ。やはり宮古鐵(みやこがね)の言ったように、のんびりと過ごした方が治りは早いのかもしれない。

 

「そろそろ帰りましょうか?」

 

 それでもまだ万全とはいえない。

 池を半周ほど巡ったところで、蜜璃が気を遣って声をかけてきた。蜜璃の話に笑って頷きながらも、薫の顔が強張っていたことに気付いたのだろう。

 

「すみません」

 

 薫は素直に頭を下げて同意する。ここで強がって、無理をすればかえって蜜璃に迷惑をかけることにもなる。実際、首元を冷や汗が伝っていた。

 

 薫の足取りに合わせてゆっくりと山を降りながら、またとりとめのないおしゃべりをする。

 

「じゃあ、薫さんは今は乙なんですね。すごいなぁ。もう将来は柱ですね」

 

 藤襲山での話から、互いの階級についての話題になった。

 

「まさか。こんな状態じゃ、とても…。蜜璃さんは、今は? 炎柱様の継子でいらしたのなら、きっと優秀なのでしょうね」

「私ですか? 私は…えーと…」

 

 蜜璃は言われてあわててグッと拳を握って力をこめる。

「階級を示して」と早口につぶやくと、すぐに手の甲に文字が現れた。

 

「あ……」

 

 薫は息を呑む。

 蜜璃は屈託ない様子で、自分の手の甲に現れた文字を告げた。

 

「丙ですね~。さすがにずっとここにいるから、上がってないや~」

 

と言うのであれば、よほど頻繁に蜜璃の階級は上がっていたのだろう。

 

 薫は呆気にとられて、蜜璃を見つめた。

 一体、どんな任務をこなせば、こうまで急激に階級が上がることがあるのだろう?

 

「あれ? 薫さん? どうかしました?」

 

 蜜璃は固まった薫に首を傾げる。

 

「あ…いえ」

 

 薫はあわてて強張る顔に微笑を浮かべて取り繕った。

 

「確か、去年に隊士になられたばかりだと伺っていたから…まだ庚ぐらいかと…すみません。勝手に過小評価してしまって」

「やだやだ、そんな! ちょっと人より多めに任務に行ってるってぐらいで!!」

「そう…なんですか?」

「そうなんです。一度なんて、日が落ちてから夜明けまでで、あちこち回って四体ぐらい片付けたことがあって」

「まぁ、大丈夫だったんですか?」

「大丈夫ですよ~。その都度、隠の人に握り飯もらったり、途中で夜鳴き蕎麦食べたりできたんで、ぜんっぜん元気でーす」

「…………」

 

 薫が言ったのは鬼と対峙するにあたって、怪我をしたりしなかったのか…という心配だったのだが、蜜璃にとっては鬼の掃討などは大したことでもないらしい。むしろ腹具合の方を気にするあたり、さすがは一人前のご飯の量がお櫃ひとつ、という人なだけある。

 

「蜜璃さんは……柱になられますね」

 

 薫はまじまじと蜜璃を見つめて言った。

 急に真面目な顔になって、自分をじっと見つめてくる薫に、蜜璃は真っ赤になって否定する。

 

「え? えぇっ? そんなそんな、まさかまさか……」

「いえ、きっとなられると思います。私は今までに柱の方々、数人に会う機会があったのですけど、どなたについても思うのは、格が違うんです。まるで、最初から立っている場所が違うみたいに……異次元の強さをお持ちです」

「そ、そうなんですか?」

「えぇ。蜜璃さんと一緒に任務をしたことはありませんが、今のお話を聞いていると、蜜璃さんも彼らと同じものを感じます。柱として必要な非凡なる才能です」

 

 自分で言いながら、つくづく薫は思った。

 

 自分には決してない才能(モノ)

 どうあがいても、宇髄やカナエ、実弥の域には行き着かない。

 背を伸ばし、手を伸ばしてそこにやっと触れる…そうであれば、薫にも目指すことはできた。だが、あそこにいる人達は、手を伸ばしても影すら掴めぬ位置にいる。

 

「あのー」

 

 険しい顔で宙を見据える薫に、蜜璃はおそるおそるといったように声をかけた。

 

「柱の皆さんって、強い…ですよね? やっぱり」

「えぇ、それはもう」

「じゃあ、やっぱり強い殿方を探すとなったら、柱を目指すべきかしら?」

 

 蜜璃はある可能性に気付いて言ったのだが、薫は質問の意味を計りかねて聞き返した。

 

「……はい?」

「あっ! あの、いえ、あの…私、前にもお話ししたんですけど、たいがいの男の子に勝っちゃうんですよね。だから、自分よりも強い殿方に憧れるというか……そういう人がいないかなー? と思って…それも鬼殺隊に入った理由なんです」

「…………」

 

 薫は目が点になって、しばし呆けた。

 しかし、蜜璃の気まずそうな顔にハッと我に返る。

 

「あ、そうなんですね。えぇ、柱の方であれば、きっと強い方ばかりですよ」

「ですよねー! 実は師範…あっ、もう師範じゃなかった ――― 煉獄さんが炎柱になってから、何人かの柱の方と稽古させてもらったことはあるんですけど、その時もトキメいちゃって…ウフフ、恥ずかしいわー。ごめんなさい。本当はこんなこと考えるなんて、()()()()()ですよね!」

 

 蜜璃は恥ずかしそうに言って、上気した頬を押さえた。

 薫は苦笑しつつ、蜜璃に尋ねた。

 

「そうは言っても、蜜璃さんのことですから、きちんと稽古はされておられるのでしょう?」

「アハハっ! それはもちろん! ちゃんとしておかないとコテンパンに()されちゃいますから! でも、そっかぁ…柱になればもっとたくさん、強い殿方とお知り合いになれますよねー。うーん…憧れるなぁ」

 

 薫は思わず笑ってしまった。

 鬼殺隊が創設されて千年、強い殿方に出会いたいからと、柱を目指した者などいないだろう。けれど、隊士になって一年そこらで丙にまで昇格する蜜璃の実力であれば、きっとそれは遠くない確実な未来に思える。

 

 ひきかえ ―――― いつまでも足止めしている自分の不甲斐なさよ。

 

 ズキリと胸が痛み、薫はふっと視線を下に向けた。

 

 きっとこの数ヶ月の後には蜜璃に追い抜かれるだろう。

 自分でもわかっている。

 今の自分の階級は、ずっと無理をしてきた成果なのだ。

 たとえ体調が万全に戻ったとしても、もうこれ以上の成長は有り得ない。

 柱になど到底追いつかない…。

 

「あれっ? 不死川さん?」

 

 前を歩く蜜璃がいきなりその名を呼ぶ。

 薫は息が止まりそうになった。いや、一瞬、止まった。

 

 引き留める間もなく、蜜璃が大声で呼びかける。

 

「おぉーい! 不死川さーんっ」

 

 ブンブン振る蜜璃の手の間から、忘れようもない彼の姿が見えて、薫はその場で固まった。一気に背に冷や汗が吹き出る。

 一体、どうしてここにいるのか…?

 

 一方、実弥は急に上から呼びかけられ、眉を寄せながら顔を上げた。

 どうやら女らしい。逆光で顔はわからない。しかし、太く編んだ長い桃色と緑の髪が見えた途端に、そこで手を振っているのが甘露寺蜜璃だと気付く。

 あんな奇天烈な髪色をした女は一人しかいない。

 

「おめェ、甘露寺だったか? なにしてやがる?」

 

 土を削って作った不揃いな階段を、大股で登りながら実弥が尋ねると、蜜璃ははしゃいだ様子で答えた。

 

「山歩きです。この先に綺麗な池があって、見に行ってきたんです」

「あぁ、翡翠沼か」

「不死川さんも今から行くんですか?」

「そんなとこ今更行くか。ちょっと行った先に…」

 

 階段の上にいる蜜璃のところまでたどり着いて、ふと蜜璃の背後に誰かいることに気付く。

 燦々と照る太陽の光の中で、消え入りそうな弱々しい姿。

 

「…………」

 

 実弥は一瞬、言葉を失った。

 立ち尽くす薫を、ぼうっと凝視する。

 だがすぐにギリッと奥歯を軋ませ、苛立たしげな表情になった。

 

「……テメェ、なにしてやがる? こんなところで」

 

 低く唸るように問いかける声は、剣呑としていた。

 蜜璃は急に機嫌の悪くなった実弥に困惑した。

 

「あ、あの薫さん…森野辺さんと一緒に行ってて……」

「………」

 

 実弥は黙ったまま、何も言わずに佇んでいる薫を、睨みつけるように見た。

 なんて顔色だ…悪すぎる。

 

「養生に来たんじゃねぇのか?」

 

 刀鍛冶の里に来ている…ということは、刀のこと以外であれば、身体を癒やしに来ているのだろう。それなのに蒼白い顔をしてうろつき回っている薫に、実弥は怒鳴りつけたいくらいだった。

 

「……はい。そうです」

 

 ようやく返事した薫の声音は、静かだった。

 

「だったら、ちゃんと寝てろ。どういうつもりだ、山歩きなんぞ」

「あ、あ、あの…あの、私が誘ったから」

 

 蜜璃があわてて言うと、実弥がギロリと睨む。

 

「なんだとォ?」

「蜜璃さんは悪くありません」

 

 鋭く言うと、薫はようやく動いて蜜璃を庇うように、実弥と相対した。

 

「私も楽しみにしていたんです。この数日は体調も良かったですし、大丈夫かと思って…」

「どこが大丈夫な顔だ?」

「………もう、帰ります」

 

 薫はそのまま実弥の横を通り過ぎようと一歩、足を踏み出したが、急にぐらりと視界が回った。へたり、と地面にしゃがみこむ。

 

「おい!」

「薫さん! 大丈夫?」

 

 あわてて横に来て薫を支える蜜璃に、薫は苦しそうに微笑んだ。

 

「すみません、蜜璃さん。せっかく誘ってくださったのに…」

「いいの! そんなのいいから…大丈夫? 抱っこしましょうか? 私、力持ちだから、薫さんくらい平気」

 

 薫はフルフルと顔を振ると、「肩だけ貸して下さい」と蜜璃に頼んで立ち上がった。

 まだ、眩暈がしている。

 

 軽くお辞儀してその場を去ろうとしたが、実弥は呼び止めた。

 

「おい」

「………なにか?」

「今のでわかった。……お前はもう無理だ」

「………どういう意味です?」

「前から言っている。鬼殺隊を辞めろ。そんな状態で、鬼狩りなんぞできっこねェ」

 

 薫は唇を噛み締めた。

 

 自分の不甲斐ない状態は、誰よりもわかっている。

 自分だけでなく、蜜璃にだって薄々わかっているだろう。薫の症状が湯治程度で治るものではないことは。

 それでも少しずつ自分を奮い立たせていたのに…。

 

 どうしてよりによって、今、一番会いたくない人に会って、一番聞きたくない言葉を聞かされるのか。

 

「蜜璃さん、行きましょう」

 

 何か言いたげな蜜璃を促して、薫は山を下っていった。

 背に痛いほどの視線を感じる。

 きっと実弥は怒っている。情けない妹弟子に、あるいは…結局はお嬢様だと呆れ返っているのかもしれない。

 

 薫は隣で支えてくれている蜜璃をそっと窺った。

 健康な体だ。

 髪色は奇抜だが、愛らしい顔つきも、弾けそうなほど筋力のある肉体も、今の薫には持ち得ない。

 彼女の実力を目にしたことはないが、一年で丙までになる才能は、きっと想像を遥かに超えた素晴らしいものなのだろう。

 

 薫は情けなくなった。

 自分は今、蜜璃に嫉妬している。

 自分よりも後輩である彼女は、この先もどんどん成長し、いずれ自分を超えていく。

 

 そのうえ ――――

 

「蜜璃さん、風柱様とお知り合いなんですか?」

 

 尋ねた自分の声音が思っていたよりも冷えた感じで、薫はすぐに打ち消すように謝った。

 

「ごめんなさい。さっき、お名前を呼ばれていたから」

「あ。はい…えっと、あの、さっきも言ってた師範…煉獄さんと一緒に稽古させてもらった方の一人です。そのときに紹介されて…」

「あぁ……そうなんですね」

 

 薫は頷いたが、眩暈がひどくて笑う余裕もなかった。

 蜜璃は暗い表情の薫に、いよいよ沸き起こる好奇心を抑えることができなくなった。

 

「あ、あのー……薫、さんは?」

「え?」

「そのっ、不死川さんとは?」

「あぁ、あの…兄弟子なんです」

「へっ? あっ、そ、そうなんですか」

「はい。すみません。仲が悪くて…気詰まりな思いをさせてしまいましたね」

「いえ、そんなことは…」

 

 答えながら、蜜璃はチラと後ろを見た。

 実弥はまだこちらを見ている。

 表情はわからなかったが、なんとなく想像できた。

 

 いつも怒ったような顔をしている人だが(今もそうだったが)、さっき薫がフラついてしゃがみ込んでしまった時は、隠している心配が表に出てきてしまったようだった。

 日頃は隊士から恐怖の権化のごとく恐れられている風柱が、あんなにまで取り乱すなんて。

 

 

 ――――仲が悪い…っていうより、こじれてる? 感じ?

 

 

 蜜璃は直感的にそう思ったのだが、それ以上、薫に尋ねるのは控えた。蒼い顔をした薫は、本当に具合が悪そうだったからだ。

 

「薫さん、ちょっと失礼」

 

 蜜璃は急に姿勢を低くすると、あっという間に薫をおんぶしてしまった。

 

「しっかり掴まっててくださいね。あっという間におりますから」

 

 言うや否や、蜜璃は薫の返事を待つことなく、走って山道を降りていく。

 道に突き出た石も軽やかに跳ねて避け、途中の小川も飛び越えて、人を背負っているとは思えぬ早さだ。

 

 薫はますます心が沈んだ。

 

 蜜璃はなんて、強くて優しいのだろう。おまけに薫と違って素直で、とても愛らしい。

 きっと、彼女のような人は誰もに好かれるのだろう。

 自分のように蒼い顔をして、いつも物欲しげにしながら諦めているような女より。

 

 

<つづく>

 




次回は2023.02.04.投稿予定です。


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第一章 焦燥(五)

「テメェ、何やってんだ!?」

 

 その姿を月明かりの下で見た途端、実弥は声を荒げた。

 

 驚いたのか、近くの椎の木にとまっていた梟が、バサバサと羽音をならしてどこかに飛んでゆく。

 

 ここは刀鍛冶の里に作られた、怪我をした隊士たちが回復訓練を行うための修練場だった。

 陽光山とは別の、鬱蒼とした木々に覆われた山だ。

 だが少し開けたこの場所は、枝が打ち払われて、月明かりが差している。

 

 薫は木々の間に消えていく梟の姿を見送ってから、振り返って実弥を見た。

 

「……修練です」

 

 当然のように言ってから、尋ね返す。「風柱様もですか?」

 

「馬鹿が…フザけんなよ」

 

 実弥はツカツカと歩み寄ると、薫の持っていた木刀を掴んだ。

 薫は取られまいと力を込める。

 

「離せ」

「嫌です」

「離せっ()ってんだろうがッ」

「嫌です! そっちこそ離して下さい!!」

 

 怒鳴りあって、しばらく睨み合う。

 ブルブルと木刀が小刻みに震えた。

 

 実弥は歯噛みすると、チッと舌打ちして手を離す。

 後ろへ二三歩よろけながらも、薫はグッと踏みこたえた。

 

「何考えてんだァ、テメェ。昼にはあんな真っ青な顔してたクセに…」

「もう、治りました」

「嘘つけ。まだ顔色が悪いだろうが」

「月明かりが白いから…そう見えるだけです」

 

 そう言う薫の顔は、言葉通り白く、透き通ってみえた。

 まるでそのまま、月の光の中へ消えてしまいそうなほど、儚い。

 

「いいから、帰って寝ろ。修練なら、朝にでもやりゃいいだろうが」

 

 その言葉に薫はフッと目線を落とす。

 唇を噛みしめて黙っていたが、しばらくして反論した。

 

「鬼を狩るのは夜なんですから、夜に修練した方がより実戦に近いでしょう」

「……なんだ、そのつまらねぇ言い訳は」

「私は…風柱様や蜜璃さんのように、昼の修練だけでやっていける人とは違うのです。今は任務に携わることもできない。せめて、実戦に近い環境で鍛えておかないと…」

 

 実弥は眉を寄せた。

 薫にしては、ずいぶんと卑下した言いようだ。らしくない…。

 

「お前、何を焦ってる?」

「……え?」

「今は休めと言われたから、ここに来てるんだろう? だったらしっかり休んで、体を治してからだろうが。中途半端なことして、無駄に時間を潰してんじゃねェよ。そんなだから、とっとと鬼殺隊を辞めろっ()ってんだァ」

 

 薫は固まった。

 実弥の言うことは、いちいちもっともだ。なんの反論もできない。ずっと前から、音柱の宇髄天元からも言われている。

 それでも、一向に体調が戻らない自分に焦って、成長ができなくとも、せめて今の技量を維持しておきたいと、ジタバタあがいている。

 

 ザアアアァァと、風が鳴る。

 強い風が吹くと、雲が動いて月を隠す。

 みるみるうちに灰色の雲は重なり合い、星は見えなくなった。 

 

「……関係ないじゃないですか」

 

 凍りついたまま、薫はボソリとつぶやいた。

 

 小さな声は実弥に聞こえなかった。

「なんだとォ?」と聞き返すと、薫がじっとりとした目で見上げ、睨んでくる。

 

「私が無理をして体調を崩したとしても、風柱様には関係ないでしょう? 倒れたら、それ見たことかと嘲笑っていればいいじゃないですか」

「テメェ…」

 

 実弥は信じられないように薫を見つめた。

 今までにも何度も薫には辞めろと言ってきた。そのたびに「否」と言われるのもいつものことではあったが、ここまで嫌味ったらしい反撃をしてきたのは初めてではないだろうか。

 実弥は苛立ちを拳に押し籠めた。

 

「いい加減にしろォ、テメェ。そんな状態で無理に復帰して、鬼狩りができると思ってんのか? 今のお前なんか、簡単に鬼にやられるぞ」

「それが?」

 

 薫は冷たく言った。

 

「私が鬼に殺されても、風柱様には関係ないでしょう?」

 

 実弥は絶句した。

 見開いた目に、無表情な薫が映る。

 実弥を見ながら何も映さないでいる瞳は、冷たく、暗く、陰鬱な翳を宿している。

 

 ポツリ、と灰の雲に覆われた空から滴が落ちてきた。

 徐々にその水滴は多くなってゆき、大粒の雨となった。

 風の唸りと一緒に、ザアアァと雨音が上から降ってくる。

 

 実弥はその雨が自分にだけ降ってくるのかと思った。

 全身を冷たく濡らして、じわじわと寒くなっていく。

 

 薫の言葉は、鋭い刃だった。

 実弥はあっさり傷ついて、すべてを丸裸にされた。

 

 薫に死んでほしくないから、鬼殺隊を辞めろと言ってきた。

 悲しんでほしくないから、関わりを絶ちたかった。

 自分には未来なんてないから。一緒にいても、明日を繋げる確証はないから。

 

 こんなに想っていることを、わかってくれない薫に、憎悪にも似た苛立ちが募る。

 だが同時に、自分が今までその『想い』を必死に隠してきたということも、わかっていた。

 

 実弥は俯いて、薫の目から逃れた。

 

「……今日は、もう帰れ。雨も降ってきた…」

「鬼を狩るのに雨なんて関係ありません。むしろ、雨の時は昼でも跋扈するというのに…」

「いいから帰れ!」

 

 実弥が怒鳴ったが、それは悲鳴のようにも聞こえた。

 

「それ以上、何を鍛えてお前が強くなるっていうんだ?! お前はもう限界だ! だから体が悲鳴をあげてんだろうがァッ!!」

 

 薫は反論の代わりに木刀を振るった。

 ビュン、と闇を裂いた剣先は実弥を叩き斬る勢いだったが、実弥が反射的に腕で防御すると、木刀はあっさり砕けた。

 ささくれだった木の破片で腕が切れ、血が流れた。

 

 薫が我に返ったように、強張った顔になる。 

 

「……あ……」

 

 持っていた柄だけの木刀がボトリと落ちた。

 震える手が何かを掴もうとする。しかし、虚空をむなしく掻いて、よろめくと薫はその場に崩折れた。

 

「もう……私には……無理だと言うんですか?」

 

 薫は俯いたまま問うた。

 

 ややあって実弥が短く、はっきりと答える。「ああ」

 

 ザリッと、薫は雨に濡れた地面を掴んだ。

 

「じゃあ…私は、どうすればいいんですか?」

「…………」

 

 いつも顔を合わせれば言っていたのに、肝心なときにその文句は出てこない。

 実弥はギリッと奥歯を噛み締めた。

 

 黙っている実弥に、薫が叫んだ。

 

「鬼殺隊を辞めて、どこに行けと言うんです!? また、私の居場所を奪うんですか!?」

 

 必死なその眼差しを、実弥は受け止めきれずに、また目を逸らす。

 

「………お前だったら、鬼殺隊を辞めたって、どこででもやってけるだろうが…」

「どこででも? 簡単に言うんですね。私を突き放す人はみんな、簡単に言う。私がその場所にいるために、どれほど必死になって生きてきたかなんて、知ろうともしない…!」

 

 薫は今までこらえてきたものが、一気に吹き出したようにまくし立てた。

 

「あなたに何がわかるんですか! ずっと、ずっと一人で生きていくしかない者の気持ちなんて。あなたにとっては大したことのない日常であっても、私はそこで生きるために必死なんです。誰かに必要とされるために、必死になるしかなかった!」

 

 母を失って天涯孤独となった幼い頃から、今までの日々が脳裏を駆け巡る。

 

 北国の冷たい川で襁褓(おむつ)を洗い、かじかむ手足を擦りながら一人ぼっちで寝ていた日々。

 みすぼらしい孤児に文字を教えてくれた優しい人は消え、懸命に働いて認められたかと思えば、森野辺の養女として引き取られ、新たな父母に気に入られるために勉強して、ようやく心が通じ合えたと思ったら、鬼によって彼らは殺され、薫は再び一人になった。

 

 孤独。

 

 それは絶えず薫につきまとった。

 ぽっかり空いた穴は、覗き込んだらどこまでも暗く何も見えない…。

 

 虚ろな表情で薫はつぶやいた。 

 

「あなたは…私の努力が無駄だと、言うんですね……」

「そうじゃねぇ……薫」

 

 名前を呼ばれると、薫はビシャリと掴んだ土を実弥に向かって投げつけた。

 

「どうして…」

 

 震える声でつぶやきながら、薫は胸を押さえた。

 ひどく胸が痛い。

 苦しい。

 

 実弥は薫の息遣いが荒くなったことに気づき、しゃがみこんで、少しためらいつつ肩を掴んだ。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 薫は必死で呼吸を行おうとしていた。だがどうしてもうまくできない。

 徐々に焦りが募ってくる。

 

 すがるように、実弥の着物を掴んだ。

 

「どうして……言ってくれなかった…の…」

 

 か細い声が雨音に混じって訴える。

 

 実弥は聞き返した。「なに?」

 

()()()()…振り向いてくれたら……一緒にいよう…って……手を…伸ばして、くれ…たら……」

 

 切れ切れにつぶやいて、涙が一筋、頬を伝って落ちる。

 実弥の着物を掴む手が力を失い、泣きぬれた瞳が閉じた。

 

 実弥は凝然として何も言えなかった。

 

 あのとき ―――― が、いつを指すのかは、もはや二人の間で言葉にする必要もない。

 気を失った薫を抱えたまま、実弥はしばらく動けなかった。

 

 最初から…間違っていたのは、自分だった。

 

 ずっと前から、薫の心は孤独で寂しいのだとわかっていたはずなのに、求めてきた手を振り払って拒んだのは実弥自身だ。

 乱暴に薫を引き止めておいて、突き放した。

 

 

 ――――― 救いがたい…。

 

 

 実弥は自分を呪いたくなった。

 

 どこまで自分は傲慢なのだろうか。

 我ながら、馬鹿すぎる。

 これで薫のためだなんて…どの口がほざくのだ。

 

 ずっと自分のことしか考えていなかった。

 薫の気持ちなど、考えることもなかった。

 理解されなくてもいいのだと自分に酔って、相手のことなど何一つ、理解しようともしていなかった。

 

 実弥は雨に濡れた薫の白い顔を見つめた。

 ずっと見ていると、まるで死人のように思える。

 急に不安になって、そっと口の先に手のひらをかざす。かすかな息の気配を感じて、ホッと胸をなでおろすと、そのまま薫を抱き上げた。

 

「………ごめん」

 

 短くつぶやいた言葉は、雨の中に消えていった。

 

 

<つづく>




すみません。
しばらく本編休止し、その間『椿の涙-鬼殺隊列伝・五百旗頭勝母の帖』の連載を再開します。
今後の物語に多少関わる予定ですので、よろしければご覧下さい。



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第二章 育手と弟子(一)

「薫、悪いが、膏薬(こうやく)作りを頼めるかい? また三人ほど怪我人が来るようだ」

 

 勝母(かつも)に言われて、薫はすぐに立ち上がった。

 繕い物をしていたが、針を針山にさして手早く片付ける。

 

「すぐに準備します」

 

 勝母と反対方向に小走りに向かい、薬を作る部屋に入る。

 人気のない部屋の中は、凍えそうに寒かった。

 ストウブに火をつけて、薫は薬の瓶から手慣れた様子で分量を量っていく。ストウブの暖気が部屋を暖めるまで、薫は何度もかじかむ手を擦った。

 ハァ、と息で指先を温めて、チラリと窓の外を見つめた。

 

 雪は降っていないが、陰鬱な空だった。いまにも雨が降り出しそうだ…と思っていたら、降ってきた。

 この天気であれば、鬼も動いているだろう。

 冬が近づくほどに、薄曇りの日が多くなって、夜にだけ跳梁跋扈する鬼が昼日中でも歩き回る。しばらくは鬼殺隊にとっては忙しい日が続く。

 

 それでも薫はまだ、復帰できていなかった。

 

 刀鍛冶の里を逃げるように去ってから、今、薫は吉野の那霧(なぎり)勝母(かつも)の元で暮らしている。

 あの後、気を失った自分がどうやって帰ってきたのかわからない。

 翌朝になって宿舎の布団の上で目が覚めたということは、実弥が修練場から運んでくれたのであろう。

 蜜璃はちょうど鉄珍に呼ばれたとかで不在で、薫は申し訳なく思いながらも、簡単な書き置きをした後で、即座に里を出た。

 

 とにかく実弥に会いたくなかった。

 自分が何を言ったのか、おぼろげに覚えていることを思い出しても、彼に対して八つ当たりであったのは間違いない。

 多くの人が実弥のことを天の邪鬼だと言い、薫もそうだと思うが、最終的に彼が優しい人であることは知っている。

 だからこそ甘えてしまった。

 自分の不安や焦燥を彼にぶつけて、当たり散らして……みっともないこと、この上もない。

 

 謝るべきだとわかっていたが、会いたくなかった。

 今の自分はあまりにも弱い。弱くて惨めで情けない。

 風柱として極悪な鬼と対峙しながら、なお強くあり続ける彼には及びもつかない。

 また彼に会えば、自分はきっと嫉妬する。同時に彼の優しさにすがって、また怒鳴り散らすのだ……。

 

 刀鍛冶の里を出ても、まだ体調が良くなったとはいえない状況で、薩見(さつみ)惟親(これちか)の元に戻るのも憚られた。

 しばらく考えた後、薫は久しぶりに吉野の那霧勝母を訪ねることにした。

 

「あんた…なんて顔色だい!」

 

 会うなり勝母は叱りつけるように言って、心配そうに薫の両頬をさすった。

 

「なんだって、こんなひどい顔色してんだろうね。まともに食べてないんじゃないのかい?」

 

 そう言って、薫が改良した臓物煮込みを早速食べさせられた。しかし不思議とその日は食欲が戻って、久しぶりにきれいに平らげた。

 薫は自分の体調について勝母にも相談し、勝母も詳細に調べてはくれたものの、結果はやはり判然としなかった。

 

「ま、いいじゃないか。あんた、ずーっと働き詰めで、疲れが溜まってたんだよ。ここで養生しながら、私や律歌(りっか)の手伝いをしてくれるといいさ。律歌も最近じゃ、東京の方にたびたび呼ばれるようになっちまってね…」

「律歌さんが、東京に?」

「あぁ。どうやら無惨をはじめとして十二鬼月は、ほぼ関東一円を根城にしているようだね。あちらでの被害が多くなってきている。隊士の動員も、今や三分の二近くがあちらに振り分けられているよ。そのせいで、救護者を手当するのも蝶屋敷だけだとおっつかないようでね」

 

 勝母の言葉通り、薫と再会して三日後には律歌は東京へと旅立ってしまった。

 薫は勝母の手伝いをしながら、時々、翔太郎と一緒に復帰にむけた回復訓練をして過ごしている。

 

 

 

◆◆◆

 

 

「いやー、薫さんと一緒に修行なんてホント久しぶりだなー」

 

 楽しそうな翔太郎の傍らには、いつも仏頂面の星田(ほしだ)八重(やえ)がいる。

 勝母の弟子である彼女は、翔太郎とずっと一緒に訓練してきて、すっかり気心の知れた仲なのだろう。何かというとすぐに口喧嘩を始める。

 

「しゃべってばっかいないで、ちゃんと修行をしなさいよ」

「やってんだろ! いちいちうるさいな。だいたいなんでお前までいるんだよ!」

「私は勝母先生の弟子なのよ! ここで稽古して何が悪いのよ! むしろ、アンタが居座っているんじゃないの! ちょっとは遠慮しなさいよ!」

「なーにが居座って…だ。お前だって似たようなモンじゃねぇか。今年の最終選別にも行かせてもらえなかったくせに!」

 

 その指摘は八重にはきついものだったようだ。強張った顔になって、黙り込む。唇を噛み締めて、拳を震わせた。

 

「翔太郎くん、そんなふうに言うものではないわ」

 

 薫は少し強い語気で言った。「最終選別へ行くのかどうかは、育手の裁量によるものよ」

 

「だから、その育手にまだまだだ、って言われてるってことじゃないですか」

「……早く行ければいいというものじゃないわ。呼吸の技をきちんと身につければ、勝母さんだって許可をだすでしょう」

「つまり、まだまだってことだ」

 

 翔太郎が嫌味たらしい口調で言うと、八重はとうとうその場から走り去った。一瞬、薫の方をジロリと睨むように見た目に、涙が光っていた。

 

「……翔太郎くん」

 

 薫はあきれ半分、怒り半分で声をかける。翔太郎は気まずそうに目をそらして、ぶつぶつと言い訳がましくつぶやく。

 

「だって…フツーさぁ…普通、一年くらい修行してれば、最終選別に行くぐらいはさせてもらえるんじゃないの? まして、あの勝母さんの下で、あれだけ厳しい修行してて、行けないってさぁ…」

「あら、じゃあ翔太郎くんは一年ほどの修行で行けたの?」

「そりゃあ、そうですよ。っていうか、俺の師匠は一年で行けないんだったら、諦めろっていう人だったし」

「まぁ…厳しいのね。私が翔太郎くんと同門だったら、きっと破門されていたでしょうね。私は一年半以上かかったもの」 

「え?」

「人それぞれよ。育手の考え方も。同じ呼吸ですら違うのだから、花の呼吸を習得しようとしている八重ちゃんと、翔太郎くんとでは違っていて当たり前ではなくて?」

 

 翔太郎は形勢不利となるや、途端にしょぼくれた。

 薫は笑って、翔太郎の肩をポンと叩く。

 

「あとで、ちゃんと謝りなさいね。言い過ぎた…って」

「…………はい」

 

 そのあとは翔太郎と簡単な打ち稽古をしてから、薫は以前に足繁く通った滝の方へと向かった。

 

 全集中の呼吸・常中を身につけるために、何度もこの道を往復した。

 夏の強い日差しと、鬱蒼とした木々の作り出す木陰の影の濃さと対照的に、冬の日は弱く、うっすらと雪の積もった木々は葉を落としてうら寂しい。

 

 この道を登っていると、胡蝶カナエのことが思い出された。

 百日紅(さるすべり)の木の下、淡い桃色の花をつややかな髪に散らして、仙女のように美しかった人。

 美しく、気高く、誰より強い。

 そのくせお茶目で、ときどき悪戯(いたずら)っぽい目で冗談を言ってはからかってきたりする。

 

 今でも時々、この坂道を登りながら薫は錯覚しそうになる。

 あの滝壺の縁の岩の上に胡蝶カナエがいて、現れた薫に親しげな笑顔を向けて、手を振ってくれるのではないのか…と。

 

 しかし薫が滝壺の見える場所まで来ると、そこにいたのは胡蝶カナエではなく、星田八重だった。

 

 

◆◆◆

 

 

「あ、八重ちゃん」

 

 薫が声をかけると、八重は素早く振り返り、ギッと睨みつけてくる。

 

森野辺(もりのべ)さん…」

 

 薫は翔太郎と同じように名前で呼んでくれていいと言ったのだが、八重は頑なに薫を『森野辺さん』と呼んだ。単に目上だからと気を遣っているというのではなく、八重はどこか堅苦しく、薫に他人行儀だった。

 

「なんですか? ここで修行されるんですか?」

 

 思っていたよりも険のある八重の口ぶりに、薫は少し面食らった。

 

「あ…えっと…」

 

 すぐに返事できないでいると、八重は眉根を寄せたまま軽くため息をついて、岩場から降りた。

 

「……ほんと…他人(ひと)の都合も考えないで……」

 

 薫の横を通り過ぎざま、ボソリとつぶやく。

 あえて聞こえるように言っていた。

 

「八重ちゃん、あの…」

 

 薫は振り返って、八重の肩を掴んだ。

 すぐに八重は苛立たしげに腕を振って、肩に乗せられた手を払った。

 

「やめてもらえます?! 私、あなたに八重ちゃんとか呼ばれたくないんですけど!」

 

 薫は払われた手を握りしめながら、八重をじっと見つめた。

 

「……ずっと言いたかったのは、それ?」

 

 八重ははっきりと薫を睨みつけてしばらく黙っていた。

 薫は八重の反抗的な態度の理由がわからず問いかけた。

 

「私、なにかしたのかしら? もし、何か気に障ること…」

「そういうところよ!」

 

 八重は苛立たしげに薫の言葉を遮った。気を落ち着かせるようにふぅと息を吐き、腕を組んで、冷たく薫を見据えた。

 

「苦労してきたかしらないけど、所詮は華族のお嬢様なんでしょ。あなたになんか、その日食べるのにだって苦労して、生きてきた人間の気持ちなんてわかるわけない。いかにも情け深い顔して、上辺の優しさで声かけてこないでよ」

 

 薫は思いもよらないことを言われて、目をパチパチとしばたかせた。

 何も言わない薫に、八重はそれまで溜め込んでいた不満をぶちまける。

 

「他人からすれば、あなたはさぞ優しい人に見えるんでしょうけど、実際のところ、あなたがやってることは、私の邪魔ばっかりよ。今だって、私がここでやってるのに、わざわざやって来て……こんな状況、私が譲るしかないじゃないの」

「譲らなくてもいいわ。私は他の場所に行くから」

「そんなことを言われて、私が『はい。有難うございます』って、素直に従えると思うの? そんなことをすれば、翔太郎から後になって言われるのよ。どうしてあなたに譲らなかったんだ? って!」

「そんなこと…じゃあ、翔太郎くんには私の方から言っておくわ」

 

 フン、と八重は鼻をならして嘲笑った。

 

「『わたしが()()()()()()から、八重ちゃんを稽古()()()()()()』って? いかにも華族のお嬢様が言いそうなことね。勝手に恩を着せてきて、いい人ぶって…」

 

 嫌悪も露わな八重の言葉に、薫は心底困惑した。

 何をどう言っても、八重にはねじれて聞こえてしまうようだ。

 

 どう弁解すればいいのか考えあぐねていると、のんびりとした声が割って入ってきた。

 

「まぁ、まぁ…黙って聞いとったら、たいそうなことをお言いやなぁ」

 

 薫も八重も声のした方を振り返る。

 

「アコさん!」

 

 薫は驚いた。

 去年まで主に関西方面で仕事をしていたときに、たびたび共同任務に行っていた三好(みよし)秋子(あきこ)だった。

 薫の任地が東京方面に移ってからも、互いに手紙のやり取りなどをして、頻繁に連絡はとっていたものの、こうして会うのは久しぶりだ。

 

 秋子は坂道を登ってきて、ふぅと一息ついてから、薫に手をあげた。

 

「お久しぶりやねー、薫ちゃん。なんや、またべっぴんさんにならはって」

「アコさんこそ、とっても大人っぽくなって」

 

 以前はおさげ髪に丸眼鏡という姿だったのが、いつの間にか耳下でばっさり髪を切っている。

 

「いやぁ、鬼に掴まれることがあってん。そン時にバッサリ切ったついでに、もー切っとこー思て」

「いいじゃないですか、お似合いです!」

 

 薫がニコニコ笑っていうと、背後で八重がボソリと吐き捨てるように言う。

 

「しらじらしい」

 

 薫は振り向くと、さすがに非難をこめた眼差しで八重を見つめた。

 せっかくの旧友との再会までも水を差すような嫌味な言い方だった。

 

「どういう意味です? 八重さん」

 

『八重ちゃん』と呼ばれるのが嫌だということはわかったので、薫は()()付けに変えたが、八重の不機嫌は治らないようだ。

 腕を組んで秋子と薫を交互に見てから、ふんと鼻を鳴らした。

 

「自分が美人だってわかってて言ってるんでしょ。自分の方が上だって思ってるくせに」

 

 あまりに悪意に満ちた八重の言葉に、薫はもはや呆気にとられた。

 

 呆然となった薫の隣で、秋子がジロリと八重を睨んだ。かと思うと、ハアァーっとわざとらしいほどに大仰なため息をもらす。

 

「ホンマになぁ、妬まれるほどの美人やのぉて良かったわ。()()()()可愛いと、比べてもうて、(うらや)んでまうんよなぁ……誰かさんみたいに」

「なっ! 私は羨んでなんかいないわ!!」 

 

 カッとなって怒鳴る八重に、秋子は平然とうそぶいた。

 

「へぇ? ウチは何もアンタやとは一言もいうてへんで。たいがいこういうこと言われて、怒り出すんは、脛に傷を持つ人やから、まぁ、自分でそない思うんやったら、せいぜい反省して、礼儀いうんをも少し勉強しはった方がえぇんと()ゃいます?」

 

 八重は自分よりも背の低い秋子を内心で馬鹿にしていた。しかし、思ったよりも口が達者で、下から睨め上げてくる冷たい目に思わずたじろぐ。

 秋子は隙を見せた八重に容赦なく、一歩詰め寄った。

 

「さっきから聞いとったら、ホンマあんた不幸やな。自分で言えば言うほど情けのぉなっていっとるんと違ぅの? それともなんや? 惨めで哀れっぽいこと言うて、可哀相に…って、同情されたいん?」

「………なにを…」

 

 八重はあからさまな秋子の皮肉に、ワナワナと身を震わせた。

 目に涙が浮かぶ。

 

「自分で自分の言うたこと、よぅよぅ思い返してみぃ。それで反省できたら、アンタにもまだ幸せになる道が残されとるわ。あとは自分でどれだけ頑張るか、や」

 

 冷たく突き放すように秋子が言うと、八重はギリと唇を噛み締めて、その場から走り去った。

 薫は声をかける間もなく去った八重の後ろ姿を心配そうに見送った。

 

「………ホンマに、薫ちゃんは相変わらずやなぁ」

 

 秋子が隣で呆れたように言った。

 薫は振り向いて、さびしそうな笑みを浮かべた。

 

「正直、あそこまで嫌われると思ってなくて…ちょっと驚いて」

「驚く、て。怒りぃや。アレ、めっちゃ八つ当たりやん」

「そうなんですか?」

 

 秋子はため息をついて首を振った。

 八重の去った方角を見てから、薫に向き直る。

 

「なんや心配やわぁ。薫ちゃん、ああいうのに弱いやんか。わかっとる? 理不尽なこと言うてんのはあっちやで。薫ちゃんが申し訳ない顔する必要ないんやから」

「申し訳ないとは思わないけど……色々と大変な思いはしているんだろうから…」

 

 多くの鬼殺隊士と同じように、八重もまた、たった一人の親族だった母親を鬼に殺され、勝母の元にやって来た。

 肉親を失った喪失感も癒えないまま、必死に鬼狩りとしての修練をする日々の中で、なかなか上達しない己への不安や焦燥は薫にも理解できる。

 

 しかし秋子はビシリと言った。

 

「あかん、あかん。そんなんは」

 

 厳しい秋子の表情に、薫は何も言えなくて口を噤む。

 

「えぇか、薫ちゃん。世の中には、自分の不幸に胡座(あぐら)かいて、他人(ひと)を傷つけてもえぇなんて勘違いする奴がたんまにおるんや。あの子もそういう手合いや。そんなんに同情する必要なんかあらへん。自分で不幸になっていっとるだけなんやから」

 

 秋子の言うことは確かにもっともなことかもしれなかったが、薫は逡巡した。

 その不幸は八重が望んで作り出したものではない。被害者である彼女に、自らの心の弱さまで克服しろと、強要できるだろうか。……

 

 秋子は返事をしない薫に、少しバツ悪そうに肩をすくめた。

 

「正直なとこウチもな、これまでに何回か言われたことあんねん。『親も殺されたことのない奴に、なにがわかんねん』て。そら、わからん。ウチは家族を養うために入った、()()()()の鬼殺隊士やしな。せやけど同じ現場で戦う以上、なんとしても鬼を倒す、いう気持ちだけは負けへん気でやっとんねん。もしこの気持ちが()ぅなったら、そン時は鬼に殺されるか、鬼殺隊から逃げるかしとるんやろな」

 

 秋子はやわらかい口調で言いながらも、その眼鏡の奥の目には強靭な光を宿していた。

 覚悟をもった瞳だった。

 

 そうだ、この覚悟だ。

 どんな事情であれ、鬼殺隊士である以上、己の不幸に振り回されて嘆いているようでは、鬼と対峙することはできない。

 

 自分もまた、ここで、この場でカナエに言われたではないか。

 

 

 ――――― 認めなさい。自分の弱さも、醜さも。全て認めて、前に進みなさい

 

 

 カナエは強かった。

 それは柱として、単純に技量があったというだけではない。

 

 自分の迷いも弱さも見つめて、心が挫けそうになりながらも、燃え尽きることのなかった、鬼を滅殺するのだという強い意志(おもい)

 鬼殺隊士としての覚悟。

 それを持てない人間は、鬼狩りという命の狭間で生きていくことなどできないのだと、薫に教えてくれた。

 そこに生半可な同情はなかった。

 

 薫は軽くため息をつき、秋子に言った。

 

「すみません、アコさん。私も、少し気が弱くなっていたみたいです。ここのところ、体調が思わしくなくて、焦って……少し、自分を見失ってました」

 

 秋子はハハッと笑って、薫の背をポンと叩いた。

 

「えぇやん、えぇやん。そうやって自分の弱いところを、打って、打たれて、鍛えていくしかないんや、ウチらは。隊士になってからも、修行や」

「……そうですね」

 

 薫は秋子の言葉に頷いて微笑んだ。

 

 今の自分が、カナエのように八重を教え導くことなどできるのかわからなかったが、それでも彼女に迷いがあるのなら、できるだけ受け止めてあげよう。

 たった一人で抱えていたら、重くなっていくだけだから。

 

 

◆◆◆

 

 

 秋子は怪我した隊士の付き添いで来たらしく、その日のうちに帰っていった。

 帰る間際に思わぬ情報を教えてくれた。

 

「そうそう、そういえば。笠沼(かさぬま)さんて覚えとる?」

 

 秋子が唐突にその名前を出してきて、薫は驚いた。すぐに頷く。

 

 笠沼は薫にとって初めて共同で任務にあたった、日村(ひむら)佐奈恵(さなえ)の恋人だった。

 その任務が終われば、佐奈恵は隊士を辞めて隠となり、笠沼と結婚する予定だった。だが佐奈恵は鬼に殺され、笠沼は佐奈恵を失った悲しみから、薫に恨み言を吐いて、そのまま行方知れずとなってしまった。

 

「あの人な、今、隠やっとんねん」

「え!?」

「いつの間にか戻ってきとってなぁ。最初、ウチも知らんかったんやけど、升田(ますだ)が教えてくれてん。たまたま、鬼を倒した後の事後処理で来とって、ウチ、めっちゃ文句言うたったわ! どの(ツラ)下げて戻ってきとんねん! って」

「あ……」

 

 なんとなくその姿は想像できた。

 隣で升田がとりなすさままで思い浮かぶ。

 

「せやけど、色々、反省しとったし……ま、ようやく自分でもケリつけたんやろ。そのうち薫ちゃんにも謝りたいーて、言うとったしな。元の、佐奈恵さんといた頃の優しい顔に戻っとったわ」

「そうですか……よかった」

 

 薫はホッとして微笑んだ。

 ずっと一緒にいた幼馴染であり、恋人だった佐奈恵を思い、笠沼がまだ暗澹とした気持ちをかかえて放浪しているのではないかと思っていたが、彼は彼なりに時間をかけて己の心に向き合ったのだろう。

 

「ま、そうやって時間かけて戻ってくる人もおる。あの子も、ちょっとずつでもわかってくるやろ。あんまり気にしすぎんようにし」

 

 秋子は励ますように薫の肩をぽんと叩くと、手を振って去っていった。

 

 

 

<つづく>

 




次回は2023.04.01.更新予定です。


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第二章 育手と弟子(二)

「どうやら、八重(やえ)が色々とあんたに失礼なことを言ったみたいだね」

 

 勝母(かつも)が薬草の葉をむしりながら話しかけてくる。

 薫は隣でその葉を鍋で煮ていたが、返答に困って黙り込んだ。

 

「あんたが悪く思うことじゃないさ。実際、あの子には覚悟が足りない」 

「覚悟…」

「まだあの子は、母親を鬼に殺された日で止まったままなんだ。鬼への恐怖と、母親を失った悲しみの中で、自分を哀れむことしかできないでいる」

 

 勝母の言葉はその通りかもしれなかったが、薫は容易に頷けなかった。誰しも、恐怖に足がすくみ、身内を殺されたことを嘆くのは、当然のことではないだろうか。

 

「冷たいかもしれないが、そこを乗り越えないと隊士になるなんぞ到底無理な話だ。自分を哀れむ暇があるなら、ひたすらに鍛錬するしかない。恐怖しながらでも、勝手に体が動くほどに鍛錬を積まなけりゃならないんだ」

 

 話しながら、勝母の手はブチッブチッと止まることなく葉をちぎっていく。赤い葉の汁が指先を紫色に染めていた。

 

「でも、あの子は基礎訓練で手を抜いている。当人はうまく誤魔化しているつもりだろうが、こちらも伊達(ダテ)に三十年近く育手をやってるんじゃないんでね。すぐにわかるんだよ。昔からよくいるのさ。呼吸の型さえ出来て、日輪刀さえあれば、簡単に鬼を殺せると思っているような奴が」

 

 勝母の言葉に、薫はさっと目を伏せた。

 まだ鬼殺隊士になることすらも考えていなかった頃、深夜の河原で出会った鬼殺隊士の青年に刀をねだった自分が恥ずかしい。確かに、あの頃の自分も日輪刀さえあれば、鬼を殺せるのだと安易に考えていた。

 

「どうしたんだい?」

 

 勝母は気まずそうな薫に首をかしげ尋ねた。「申し訳無さそうな顔して」

 

「いえ…耳が痛くて」

「はぁ?」

「昔、まだ鬼殺隊のことなんかもよくわかっていなかった頃、私も同じようなことを考えたことがあったんです。たまたま出会った鬼殺隊士の方に、日輪刀をくれないかと無理なことを頼んだりして……」

 

 勝母は驚いたようにあんぐり口を開いた後、大笑いした。

 

「ハッハッハッ! そりゃあ、その隊士も随分と驚いたことだろうねぇ!」

「いつか会えたら謝りたいとは思っているんですが、なかなか機会がなくて。生きておられるといいんですが…」

「名前は聞いてないのかい?」

「はい。青い刀だったので、水の呼吸の方じゃないかと思うんですが…」

「水の呼吸は多いからねぇ。太刀筋なんかは覚えてないのかい? 今のアンタから見たところ、どうだい? 生きてる可能性はありそうだったかい?」

「そうですね……」

 

 薫は記憶を辿って、あの時、自分と子供を救ってくれた少年の立ち回りを思い出す。

 凄まじい勢いで近づいてきた影。

 なんらの躊躇もなく薫の頭の上を跳躍したと思った刹那、響いた鬼の断末魔の悲鳴。

 まさに一刀両断。

 鮮やかで、無駄のない剣捌きだった。 

 

「かなりの遣い手だと思います。呼吸の型を繰り出すこともなく、鬼を倒していましたから」

 

 そう。そうして鬼を斬ったあとも、平然としたものだった。走ってきたはずなのに、息切れ一つしていなかった。

 うっすらとつむった薫の瞼の裏に、風にはためく羽織が見えた。

 

「あ、そういえば。弁柄(べんがら)色と、亀甲(きっこう)柄の片身替わりの羽織を着ておられました」

「弁柄色と亀甲柄の、片身替わりの羽織…?」

 

 勝母はしばらく考えて、該当しそうな人物を一人思い出した。

 フフッと笑みがもれる。

 

「ご存知なんですか?」

「いや。それらしいのがいるにはいたと思うがね…そいつなんだかどうかはわからない。ま、私の考えている奴なら、そう簡単に殺られることもないだろうから、そのうち会えるだろうよ」

 

 薫は少々残念だったが、勝母がそう言うのであればいずれ会うこともあるのだろうと、あえてそれ以上詮索することは控えた。

 勝母はむしった葉を、薫のかき混ぜる鍋の中に放り込みながら、感慨深そうにつぶやく。

 

「そんな無知なお嬢さんも乙とはね。時間は過ぎるもんだよ」

「………乙になったのは、半分は音柱様のお陰のようなものです。その後はずっと体を壊して、ろくに働くこともできないでいますし……申し訳ないです」

「ハハッ! 階級が上がって、しばらく療養するなんてのは、ザラにあることさ。あんた、これまでがトントン拍子だったから、今、足踏みしてるように思えるかもしれないが、普通はみんな今のアンタみたいにえっちらおっちら療養して怪我を治しながら、どうにかこうにか上にあがってくもんだ」

「……そうでしょうか?」

「そうだとも。いけないねぇ。アンタの近いところにいる人間が尋常じゃないから、焦っちまってるんだね?」

 

 薫の脳裏に実弥を筆頭にして、カナエや匡近(まさちか)、最近出会ったばかりの蜜璃の顔も浮かぶ。

 考えてみれば、彼らは皆、図抜けていた。彼らがいわゆる普通の規格からズレているのはわかっているのに、どうしても引き比べて落ち込む自分に嫌気がさす。

 黙って考え込んでいる薫をあきれたように見ながら、勝母は三好秋子のことを思い出した。

 

「そういや、アコだったかね。あの子も何度か怪我してはその度に療養しちゃいるが、それでも長く隊士をやっているせいか、最初に比べると随分と気力が追いついてきたよ」

 

 勝母がまた洗った薬草の葉をむしりながら話す。

 

()()?」

「あぁ。気迫、覚悟、自信…。どれか一つに偏ることもなく、自らの力を信じてやっていく気持ち、とでも言えばいいのかねぇ。うまく言えないが、まぁ、技術的な部分に精神面が追いついてきた、ってことさ。ブレない心は強い剣を生む。階級としてはまだまだかもしれないが、若手の指南役としては随分、重宝されているようだよ。将来的には育手になってもいいかもしれないね、あの子は」

「育手…」

 

 薫は鍋の中でぐるぐる回る草を見つめながら、ふと匡近のことを思い出した。

 

 

 ――――― 薫も一緒にやらないか?

 

 

 あの日、彼の言葉に頷いていたら、今頃自分はもっと気楽でいられたのだろうか。

 

 急にボンヤリと黙り込んだ薫を、勝母はチラリと見た。

 

 まただ。こちらに来てから時折、薫はこんなふうにボンヤリと何か考えている。

 なかなか自分の体が本調子にならないことに思い悩んでいるのもあるのだろうが、それ以外のことがあるような気がしてならない。

 というのも、最近になって急に大人びた顔を見せるからだ。まぁ、言っても薫もこの年で十九歳になるのだから、大人なのだし当然といえば当然なのだが。

 

「どうしたんだい? なにか考えてんのかい?」

 

 軽い調子で問いかけると、薫はハッとして「いえ」と、止まっていた菜箸を再び回し始める。

 

「顔色は悪くないようだが…気分が良くないなら、無理しなくていいんだよ」

「いえ。それは大丈夫です。こちらに来てから、本当にとても良くなっているので…」

 

 その言葉は事実だった。

 休養で訪れた刀鍛冶の里では、良くなるどころか、毎朝嘔吐感と頭痛に苦しめられ、食欲も落ちていたのが、吉野に戻ってからは普通に食事も摂れるようになっている。理由はよくわからないが、いわゆる水が合うというものなのだろうか。

 

「そりゃ良かった」

 

 勝母はにっこり笑ってから、今度はじっと薫を見つめる。

 

「体調も悪くないっていうのに、浮かない顔だね。今もボンヤリしちまって……なんだい? ようやっと好きな男でもできたかい?」

「………まさか」

 

 薫は勝母の軽口に、ふっと歪んだ顔になった。

 その悲しげな、泣きそうな表情に、勝母は少し驚いた。

 いつもの薫なら、真っ赤になって否定し、それを律歌(りっか)と勝母と…カナエもいればきっと、一緒になって囃し立てて面白がったろう。

 

 薫はしばらく黙ったまま、菜箸を動かして薬草をかき混ぜていたが、小さくつぶやくように言った。

 

「匡近さんに…一緒に育手にならないかと誘われたことがあったんです」

「へえっ?」

 

 勝母は今度は完全に驚いた。

 脳裏に人の良さそうな微笑を浮かべた粂野匡近の姿が思い浮かぶ。

 

「おや、まぁ。なんだかんだと、あの男も言うときには言うもんだねぇ!」

 

 かつて自分がけしかけたこともあったのだが、そのことは勝母はすっかり忘れていた。

 面白そうに笑う勝母に、薫が問いかけた。

 

「やっぱり、()()()()()()だったと思いますか?」

「まぁ、そりゃそうだろうよ。っていうか、それ以外どう思うんだね?」

 

 勝母が当たり前のように言うと、薫は俯いた。

 

「私、言われたときにはよくわからなかったんです。自分が鬼殺隊を辞めるなんて、考えることもできなくて。まだまだ自分の中で、鬼狩りとして十分に働いたとも言えないのに」

「アンタ……」

 

 勝母は沈んだ薫の顔をまじまじ見つめたあとで、フフッと笑った。

 

「それで粂野に対して申し訳ないと思ってるのかい? ちゃんと()ってやりゃ良かったって?」

「振るなんて……私は、匡近さんのことも好きでしたし…ただ、一緒に育手になるとか、そういうことが、言われたときには考えられなくて」

「なるほどねぇ」

 

 勝母は頷きながら、薫が無意識に言葉に混ぜた煩悶の正体に気付いたが、あえてそのことについては言及を避けた。

 また草の葉をブチブチと取りながら、勝母は断定する。  

 

「悪いが、アンタにゃ育手は無理だね、薫」

 

 薫は意外そうに勝母を見た。

 今まで、道場でも同輩や後輩の修練に付き合う中で、きっといつか育手となったときには、優秀な弟子を養成できるだろうと皆から言われてきた。

 人にものを教えるということは、時に難しくもあったが、工夫を重ねて当人が成長することは嬉しかったし、自分もまた共に成長できる面もあるので、少しは自信の持てる分野ではあったのだが。

 

 しかし勝母は自らが育手としてやっていく中で、いわゆる技術を指導する育成者としての才能と、弟子を育てて隊士となるべく送り出す育手としての才能は別物である、と痛感していた。

 久々に昔のことが思い出される。

 

「昔、アンタの師匠が…東洋一(とよいち)が珍しく泣き言を言ってきたことがあった。最初の弟子が鬼に殺されたときのことだ。すっかり気落ちして、もう育手なんぞ辞めると。その時にいた弟子も放り出そうとしてねぇ…その子が良く出来た子だったんだよ。私のところに来て、どうにか説得してくれんかと、言うんだ。まったく面倒な話だったが…あの男に育手になって、当時、すっかり少なくなっていた風の呼吸の継承を行うように命令したのは私だったんでね。仕方なく、見に行ってやった。髭も剃らずに、着流し一枚で、痩せこけてねぇ…みっともない格好だったよ。私は奴に言ってやったんだ……」

 

 

 ――――― そんな感傷は、欺瞞だ…

 

 ――――― 鬼殺しという死地に弟子を送る…そういう矛盾を飲み込んで育手は弟子を仕込むんだ…

 

 ――――― 私らは、代々の育手達が継いできた意志を、連綿と続いてきた負託を受け止める義務があるんだ……

 

 

「……キツイ言葉だったろうね。だが、最終的に東洋一は育手を続けた。あの男なりに覚悟が定まったんだろう」

 

 勝母の話を聞きながら、薫は金木犀の下にある墓の前で佇む東洋一の姿を思い出した。

 不意に東洋一の声が聞こえる。

 

 

 ――――― すまんなぁ…儂は、育手としては未熟者だ

 

 

 寂しそうに言っていたのはいつのことだったろう?

 薫がまだ最終選別に行く前だ。

 

 きっと勝母に発破かけられても、東洋一はずっと悩み続けていたのだろう。

 それでも自分に課せられた()()から逃げなかった。

 自分に同じことができるだろうか? 自分の育てた、まだ子供のような彼らを、いつ殺されてもおかしくない戦場(いくさば)に送り出すことなど、本当にできるのか?

 その答えを、勝母は既にわかっていたようだ。

 

「アンタにゃ無理だ。アンタは優しい。とても優しいし、育手としての責任感も強いだろうから、きっと必死で耐えるよ。でも送り出した弟子が何人も死んでいくごとに、あんたの心も少しずつ死んでいく。最終的には自ら死を選ぶかもしれない。そんな奴は育手になっちゃいけない」

 

 薫は愕然とし、沈黙を呑み込んだ。

 優しい、という勝母の言葉が、そのまま自分の未熟を()いているように思えた。

 

 勝母は最後の葉をブチリととると、山盛りになっていた葉を鍋にぶちこんだ。

 呆然と固まっている薫から菜箸を取り上げて、ぐるぐる混ぜながら淡々と話す。

 

「私が昔、アンタは私の若い頃に似ていると言ったのを覚えているかい?」

「………いえ」

「大昔の私は一人で平気だったんだ。一人でも十分に強かった。伊達に十三で柱になったわけじゃないんでね。自分は強いと思っていたし、誰もが認めた。認めさせたよ、有無を言わさず。その強さは血反吐を吐くぐらいの修練で得たものだったから、私にとっては絶対的なものだった」

 

 勝母はそこまで言ってから、しばらくの間、鍋を見つめていた。黒くグツグツと煮立っている中に、過去の己を探しているのだろうか。

 

「私には強くならなければならない理由があった。カナエや律歌からも聞いたろうが、私の父は鬼殺隊を裏切って鬼になった。私の祖母を殺し、母と弟を喰ったんだ…私の目の前で。その時から私にとって父を殺し復讐を果たすことこそが、すべての目標になった。だから、その目標が叶ったとき ―――― 父をこの手で殺したときに、私は強くなる理由を失った。花の呼吸の終ノ型を使ったせいで、右目の視力は完全に失われたし、いっときは両目とも見えない状態だったんだ。正直、鬼殺隊を辞めるつもりだった…」

 

 薫は聞きながら胸が痛くなった。

 淡々と語るほどに、いままで生きて、今こうして穏やかな笑みを浮かべるに至った勝母の、その凄絶な境遇に沈黙するしかない。

 

 この話はかつて東洋一にも聞いたことがあった。

 東洋一はきっと父娘(おやこ)同士での戦いをさせたくなかったのだろう。鬼となった勝母の父を、自らが討てなかったことを悔やんでいたようだった。

 父を殺した勝母が、生きる希望も、意味も、己すらも失くしてしまうことがわかっていたから。

 

 勝母は痛ましい顔を伏せている薫を見て、フッと笑った。

 

「ところが具合の悪いことにねぇ…その時は、柱が何人もくたばっちまって。お館様もまだ幼くていらしたし、私もやる気がなくなったんで辞めます…ってなワケにはいかなかったのさ。それでも、きっと一人だったら、私は再び立ち上がることなんて、できなかった…」

「一人じゃ、なかったんですね」

 

 薫がホッとしたように言うと、勝母は少し照れたような、むず痒そうな顔になる。

 

「酔狂な奴がいたんだよ」

「それが、旦那様だったんですか?」

「あぁ…やめやめ! 年寄りになんの話をさせてんだい、アンタは」

 

 勝母は急に恥ずかしくなったのか、大声で無理やり話を打ち切った。

 薫はあえて大げさに溜息をついてみせる。

 

「残念です。もうちょっと詳しく伺いたかったのに。先生も勝母さんの旦那さんのことは、一目置いていらっしゃったみたいだし」

「へぇっ? 東洋一が? 何を余計なこと言ったんだい、あの男」

「勝母さんの旦那さんが、勝母さんにとって、とても大事な存在だった…って」

「ば…っ」

 

 勝母は言おうとしていた文句を呑み込んだようだ。いつになく顔が真っ赤だった。

 どうやら東洋一の言葉は間違ってなかったらしい。きっと勝母にとって、亡くなった夫は一番つらいときに支えてくれた人であったのだろう。それは今も、ずっと。

 

「やれやれ。もういい、もういい。ホレ、ザルと新しい鍋をここに置いとくれ。濾すよ」

 

 薫はクスクス笑った。

 今日の勝母は少しだけ、少女の頃に戻ったかのように初々しくて、可愛らしかった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 その夜、修練を終えて自室に戻ろうとする薫と鉢合わせた八重は、ギョッとして立ち竦んだ。

 

「あら? こんな遅くにどこかに行くの?」

「……森野辺さんこそ、こんな遅くまで何を…?」

 

 八重の声音は固かった。振り返りもせず、ジロリと睨む目には、まだ薫への嫌悪があるようだった。

 

「私はいつも通り、回復訓練よ。昼にできなかった分を、やっておきたかったから」

「それって、私のせいだって言いたいんですか?」

 

 苛立たしげに問いかける八重に、薫はさすがに厳しい顔になった。

 

「八重…さん。どうしてそんなふうに考えるの? 私はそんなことは言ってもいないし、勿論、思ってもないわ。昼過ぎから勝母さんのお手伝いをしていたから、時間がとれなかっただけよ」

 

 理路整然とした反論に、八重は黙り込んだ。怒りをこらえた肩が震えている。

 薫は一息ついてから、静かに八重を見つめ返した。

 彼女の苦境は理解しているつもりだった。だが、八重にとっては薫に理解してもらうことすら、腹立たしいのかもしれない。

 

「あなたが私のことを嫌っているのはわかったわ。ここから早く出て行って欲しいと思っているのでしょうね」

「………」

「でも、私もようやくここに来て、回復訓練がまともに出来るようになってきたの。私は鬼殺隊士よ。あなたのような弟子と違って、早く復帰して鬼を退治しないといけないの。そのためには、正直なところ、あなたの我儘や癇癪に付き合っている暇はないわ」

「なんですって?」

 

 八重は声を荒げて、くるりと薫に向き直る。

 その手に持っている刀に、薫は一瞬、眉を寄せた。紅梅色の柄巻(つかまき)になんとなく見覚えがあるような気がする。

 八重は薫に見られていると気付くと、あわてて刀を後ろに隠し、またギッと睨みつけてきた。

 薫は軽くため息をつくと、冷たく八重を見据えた。

 

 八重の気持ちもわかるが、ここでの修練は勝母にも許されたことだ。

 薫のほかにも回復訓練に励む者はいるし、翔太郎もその一人だ。

 個人の好悪の感情だけで、修練場所を追い出されてはかなわない。

 ここは勝母の監督下にある場所だが、所有は鬼殺隊であり、鬼殺隊士は全員ここで修練できる権利を持っている。

 

「私はこれまでにここで何度かお世話になっています。そのたびにあなたのような弟子の人とも一緒に修練に励んだわ。彼女らは私を始めとする現役の鬼殺隊士と練習する中で、より技を磨いていったものよ。あなたはもっと私を利用すべきだわ」

「利用?」

「そうよ。弟子同士で稽古するのと、実戦を経た人間と稽古するのとでは、吸収できるものが違うわ。決してあなたにとって無駄にならないはずよ。あなたがもっと自らを高めたいと望むなら―――…」

 

 薫が言い切る前に、八重は薫の頬を張った。

 パチンと鋭い音が、冷えた空気を切り裂いた。

 信じられないように見つめた薫の前で、八重はブルブルと震えている。

 

「よくもそんなことを…」

 

 恨みのこもった目に涙をにじませながら、八重は怒鳴った。

 

「なにが利用して、よ。なにが自分を高めたい、よ。()()()()から人を見下ろして馬鹿にするのは、さぞ気持ちがいいことでしょうね! そうやって言葉巧みに、先生にも私のことを悪く言ったんでしょう!!」

「そんなこと…」

 

 薫は驚きながらも、すっかりあきれてしまって、言葉が出なかった。

 八重に嫌われていることはわかっていても、こうまでひねくれた見解をされるとは思わなかった。否定しかけるものの、それさえ受け入れてはくれなさそうだ。

 

「あんなこと言われて…もう私、ここにいられないじゃない! あんたのせいよ!!」

 

 悲鳴のような叫びを薫に浴びせて、八重はその場から駆け去った。

 

 

 

<つづく>

 



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第二章 育手と弟子(三)

 翌朝になって、八重(やえ)が姿を消したらしいことがわかった。

 

「すみません…」

 

 薫は素直に謝った。

 あのあと八重を追いかけなかった。追いかけても振り払われるであろうし、少し頭を冷やしにでも行ったのだろう…と軽く考えていたのだ。

 しかも勝母(かつも)の長年愛用してきた日輪刀も一緒に持って行ったことを知り、あのときに見た紅梅色の柄巻(つかまき)と合致して、ますます申し訳ない。

 

「あのとき、きちんと注意すべきでした……」

 

 薫の謝罪に勝母はフンと鼻をならし、皮肉げに頬を歪めた。

 

「馬鹿な子だよ。刀を持ち出したところで、あの子じゃ鬼を狩るどころか、重くて振ることもできないだろうに。売ったところで無銘(むめい)モノ。二束三文ってとこだ。売りにでた時点で隠が動いて、アシがつくってのにさ」

 

 心底あきれた様子で勝母は話す。

 暗い顔の薫を見て、ポンと励ますように肩を叩いた。

 

「アンタが気にするこっちゃないさ。今までだって逃げ出す奴はいた。去る者は追わず、だ。ま、本気でやる気があるなら、戻ってくるだろう」

「……そう、ですね」

 

 頷きながら、昨夜の八重の涙を思い出す。

 

 自分はいったい、どうするべきだったのだろう?

 なんと言ってあげれば、彼女を励ますことができたのだろう?

 

 いや、何を言っても、ただそばに寄り添うことすらも、八重には苛立たしいのだろう。

 薫に怒りをぶつけることでしか、彼女は自分の気持ちと向き合えないのだ。

 勝母に弱音を吐くこともできないし、翔太郎(しょうたろう)には馬鹿にされる。

 

 実弥に八つ当たりして逃げてきた自分のことを思い返し、苦い気持ちが胸に広がった。

 

 勝母はそんな薫を見て、軽く首を振った。

 

「まったく、アンタはなんでも自分のせいにしがちだね。昨日、薬事室でアンタとしゃべってたろう? あのとき、私は八重が来ているのを知っていたんだ」

「え?」

「本人がいるのをわかっていて、言ったんだよ。『覚悟が足りない』んだと。途中でどこかに行っちまったが。これまでにも同じようなことは当人に言ってきたんだよ。でも、どうもわかってない…聞く耳を持たなかったんでね。あえて、恥をかかせたんだ」

「どうしてそんなことを?」

 

 薫にはわからなかった。勝母は本来そんな意地悪をする人ではない。

 

「アンタの前で自分のことを批判されたとなれば、あの子の矜持(きょうじ)は傷つくだろう。しかし、逃げてきたものに、真正面から向き合わせるためには、荒療治が必要でね。それでも、こうしてトンズラしちまったってことは、やっぱりあの子は逃げることしかできないんだろう。最終的に逃げるやつは、鬼殺隊には()らない」

 

 きっぱりと言い切る勝母に、薫は非情なものを感じつつも、否定できなかった。

 単独任務であれ、複数任務であれ、逃げ癖がついた者がいては、他の隊士に迷惑になり、助けるべき人も助けられない。

 

 勝母は久しぶりに厳しい元柱としての顔つきに戻っていた。

 

「同情するかい?」

「いえ…その通りだと思います」

 

 首肯(しゅこう)しながらも、やはり後味の悪さが残る。

 

 

 ――――― もう私、ここにいられないじゃない!

 

 

 八重なりに必死にここでの暮らしを、鬼殺隊士としての自分を掴み取ろうとしていたのなら、薫は彼女の居場所を奪ったことになる。

 

 

 ――――― 鬼殺隊を辞めて、どこに行けと言うんです!?

 

 

 実弥に怒鳴りつけたことを、自分がしてしまっているなんて…本当に因果応報とはこのことだ。

 暗い顔でうつむく薫に、勝母は嘆息した。

 

「あの子がどんな道を選ぶにしろ、誰のためでもない、自分のためのものでなけりゃならない。誰かのせいにして選んでいては、結局のところ、どこかで(つまづ)くのさ…」

 

 言ってから勝母は苦く笑った。

 また若い頃の自分を思い出す。

 

 こんなことを言う自分も、昔はずいぶんと年上の人間を困らせたものだ。

 今になってみれば、あんな我儘な小娘に、よく耐えていてくれたものだ。

 年寄りの昔話を鼻で嗤っていた自分が、まさかその昔語りをするようになるとは……本当に年月は誰の身にも平等に降り積もる。

 

「アコも言っていたが、あの子は自分の不幸しか見えてない。私もそうだった。私も若い頃には自分ほど不幸な人間はいないと思ったもんだ。だからこそ、この不幸に負けるものかと必死になって技を磨いたがね……自分の殻に閉じこもって、自分しか見えず、周りの人間に迷惑をかけたこともある。しかし、最終的に私を救ったのは、もしかしたら私の弱さかもしれない。たった一人で、立っていることもできないくらいに弱くなっても、寄り添ってくれる人間がいるとわかったとき、私はより強くなる道を掴んだんだ。自分の強さを求める心が、何のために()るのかをようやく理解できたんだよ」

 

 勝母は話しながら窓辺へと行き、窓を開けた。

 昨日、日が沈んでから冷え込みが強くなってきたと思っていたが、とうとう夜更けに降ったようだ。

 うっすらと白い雪が木々の枝に積もっていた。

 しかし今はやみ、差し込む光が凛とした勝母の姿を明るく照らす。

 悠揚と笑みをうかべた顔には、誰も傷つけることのできない強固な自信があった。

 この自信は覚悟と背中合わせなのだ。

 

 薫はふと、三好秋子の言葉を思い出した。

 

 

 ――――― あの子も、ちょっとずつでもわかってくるやろ…

 

 

 深く傷つき、癒やしが心に平穏をもたらすために必要とする時間は、皆が同じわけではない。早くに前を向いて立ち直る者もいれば、なかなか現実を受け入れられずに背を向ける者もいる。

 笠沼だって、ようやく立ち直ったところだというのだから。

 

「きっと、戻ってこられますよ」

 

 薫はようやく笑顔になって、勝母に言った。

 勝母は大きく頷いた。

 

「あぁ。待つさ。年寄りにできることなんて、それくらいだ」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「おい」

 

 いきなり声をかけられ、しかもその声の主が普段滅多と話しかけてこない風柱・不死川実弥であったので、産屋敷家執事・薩見(さつみ)惟親(これちか)の返事は一拍遅れた。

 

「は……はい?」

「アイツは帰ってきたのか?」

「は? あいつ……と申されますと?」

 

 すぐに思い当たらず問い返すと、実弥の眉間に苛立たしげな皺が寄る。

 ややあってボソリとつぶやいた。

森野辺(もりのべ)薫だ」

「ああ!」

 

 ようやく得心して、惟親はホッとした。

 風柱である実弥が具合の悪い妹弟子を心配しているのだとわかったからだ。なにせ顔つきだけでは、いつも怒鳴られそうな形相なので、何を言われるのかとビクついてしまう。

 

「森野辺くんでしたら、刀鍛冶の里に湯治で治療に行って…」

「それは知ってる」

 

 強い口調で遮られ、惟親は言葉を途切らせてから首をかしげた。

 

 なぜ薫が刀鍛冶の里に行ったことを知っているのだろうか?

 薫当人が知らせた?

 いや、そうであれば今、彼女の行方について尋ねてくるのも妙な話だ。

 

「それで? それから帰ってきたのか?」

 

 実弥は不機嫌な顔で、答えを急かしてくる。

 惟親が答えようとすると、背後からトン、と肩を叩かれた。

 振り向けばそこに立っていたのは、音柱の宇髄天元だった。

 

「柱合会議もうわの空の理由はそれか? こんなところで執事殿捕まえて、何をコソコソと…」

 

 肩に乗せた手はそのままに、天元は惟親そっちのけで実弥に話しかける。

 からかうような口調に、実弥はギロリと天元を睨みつけた。

 

「うるせぇ、テメェに関係ねぇだろうがァ」

「ほー。そんなこと言っていいのかねぇ?」

 

 天元は(うそぶ)くように言って、惟親をチラリと見てくる。

 軽く顎を実弥の方へと向けるので、惟親は頷いてから、先程言いかけた話を続けた。

 

「森野辺くんは刀鍛冶の里での療養が今ひとつ効果がないようなので、現在は吉野にいらっしゃる那霧(なぎり)勝母(かつも)様の元で療養しております」

「吉野…」

 

 実弥は目を見開いて、つぶやいた。

 明らかにホッとしたように、息をつく。

 見た目が怖いのでわかりにくいが、相当に心配していたらしい。

 惟親は実弥の性根が透けて見えた気がして、少しだけ微笑ましく思った。

 

 しかし背後の天元がクックッと愉しげに大きな体を折り曲げて笑うと、すぐに実弥の顔はまた不機嫌になった。

 

「なんだァ、テメェ…」

「いやいや」

 

 天元は笑いを収めると、腕を組んで実弥を見下ろした。

 

()()()()心配でたまらない風柱に一つ提案がある」

「うるせぇ。心配なんぞしてねぇ」

「まぁ、聞け。ここに…」

 

 天元はズボンのポケットをゴソゴソ漁ると、紙切れらしきものを取り出した。

 

「切符がある。京都までの」

「………」

「俺に討伐しろと命令が来てるわけだが、俺も嫁を密偵に行かせているところでね。正直、こっちを離れたくないんだな」

「………」

「だーれーかー、代わりに行ってくれる奴いねーかなー?」

 

 わざとらしい大声で呼ばわる天元を、実弥は鬱陶しそうに見つめる。

 しかし天元はその渋面に対しても、惚れ惚れするようなつややかな微笑を浮かべてみせた。

 

「なぁ? 執事殿。別に今回のこの任務、どうしても俺じゃないといけないってわけじゃないよな?」

 

 また意味深な目で尋ねられ、惟親は天元と実弥の顔を素早く見比べてから、天元の方を向いて(というより実弥に目を合わさないようにして)、頷いた。

 

「はい。とりあえずは柱のどなたかに行ってもらうべきかと判断しまして。音柱様にお任せしたのは、以前にも何度か訪れておられるようでしたので、土地勘がおありだろうと思いまして」

「風柱も以前に関西方面で活躍されておられたようだから、あの辺りはわかるよな。な?」

 

 実弥はふっと視線を逸らして答えない。

 やれやれと天元があきれた溜息をついた。

 惟親は迷ったものの、勇気を出して実弥に願い出た。

 

「風柱様、もしよろしければ…一度、森野辺くんに会ってきてもらえませんか? 吉野に行ってからは、まだ何の連絡もなくて、正直私も心配ではあるのです。もちろん、那霧様が万全の対応はして下さっているでしょうが、そうでなくとも彼女はすぐに無理をする性格ですので、あまり焦らぬようにと風柱様からもご指導いただければ助かります。兄弟子からの言葉でしたら、無下にすることもないでしょうし…」

 

 惟親の無意識の言葉は、実弥に鈍い痛みを与えていたが、無論のこと善良なる執事はそんなことを知る由もない。

 スッと、天元が無言で実弥の面前に切符を示す。

 実弥はまたジロリと天元を睨みつけた。

 しかし最終的にチッと舌打ちすると、天元の指に挟まれてあった切符を掠め取った。

 

「ふん…仕方ねぇ」

 

 さも不本意であるかのようにつぶやく実弥を、惟親は微笑ましく眺め、天元はまた小刻みに肩を揺らした。

 

「じゃ、これは貸し借りナシってことでいいよな?」

 

 天元が言うと、実弥はムッとなって言い返した。

 

「お前が嫁と離れたくねぇとか抜かすから、代わってやんだろうがァ」

「あぁ、そうだ。要は、お互い様だ。そうだろ?」

 

 どうにもこうしたことでは、天元と実弥とでは勝負にならないようだ。

 気まずそうに口を噤んだ実弥の肩をポンポンと軽く叩くと、

 

「今度は喧嘩するなよ」

 

と言い残して、天元は去っていった。

 

 

<つづく>

 




次回は2023.04.15.更新予定です。


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第二章 育手と弟子(四)

 

 ――――― 椿の君…!

 

 夢に久々に出てきた、まだまだ若造であった頃の夫の姿に勝母(かつも)は苦笑した。

 

 なにが椿の君だ。

 まだ鬼殺隊士として飛び回っていた頃、憲法黒の羽織の後ろ身頃に一輪染め抜かれていた椿の花。

 それを見て、名も知らぬ勝母のことを『椿の君』と呼んでいたらしい。

 再会出来るようにと、近所の稲荷神社にいなり寿司を持っていって、願掛けをしていたというのだからあきれる。

 

 出会ったときから、頓狂でおかしな男だった。

 頭はいいのだろうが、ぜんぜんそうは見えない間抜け面で、しょっちゅう鴨居に頭をぶつけて、(かまち)に足を引っ掛けて…ドジで騒々しい奴だった。

 

 勝母はしょっちゅう怒っていたが、それこそ馬耳東風で、見事なくらい聞き流していた。

 人の話を聞かないくせに、時々鋭く、痛いところをついてくる。

 他人に無関心にみえて、実のところ、当人ですら気付かぬ本心を(さと)らせてくれた。

 

 それは勝母だけにではなく、おそらく多くの人間に対してそうであったのだろう。

 だから嫌われることもあり、反対に好かれる人間にはとことん愛された。

 患者の中には、神様仏様の次のお題目に唱える人間もいたほどだ。

 

 けれど亡くなったときには、その嫌っていた者すらも泣いていた。

 結局、誰からも愛され、必要とされていた人だった。

 

「…………」

 

 勝母は布団の中でつらつらと亡き夫のことを考えていたが、ふと我に返った。

 どうして今朝はこんなに思い出すのだろうか。夢にまで出てくるなんて…。

 きっと妙な話を聞いたせいだろう。

 

 昨日、その話を持って、雪の降る中を訪れたのは、伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)だった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「あぁ~、とうとう降り始めましたな。さむ、さむ」

 

 激しく擦りながら、宝耳は来るなりストウブに手をかざす。

 

「まったく、手袋くらいしておきな。霜焼けになっちまうよ」

「ほんまにな~。誰ぞ作ってくれる、器用で心優しいオナゴなんぞおりまへんやろか?」

 

 何気なく宝耳が言った言葉に、勝母は眉を寄せた。

 

「……薫に余計なこと頼むんじゃないよ」

「へぇぇ? なんでいきなりお嬢さんの話になんぞ…。こっちに来てますんか?」

 

 どうやら宝耳は薫が来ていることは知らなかったらしい。

 勝母はチッと小さく舌打ちした。

 

「余計なことを言っちまった」

 

 宝耳はニヤニヤ笑って、案の定、図々しいことを言い出す。

 

「いや~。そうなんや~。確かにあのお嬢さんやったら、この寒い中、遠路はるばるやって来た中年男を憐れんで、手袋くらいは縫ってくれそうやなぁ」

「やかましい。アンタに作ったら、他にも作ってくれと身の程知らずにも言ってくる奴がわんさといるんだ。勝手なことをおしでないよ!」

「へぇへぇ。鬼より怖い花柱様の言うことに従わぬ阿呆はおりまへん」

「なにが花柱だい。アンタがまともに隊士をやってる時にゃ、とうの昔に私は辞めてたろうが」

「そないでしたかな? なんや、誰ぞから聞いたような気がしたんやけど。ま、こんな話はどうでもよろしいわ。今日は折り入って聞きたいことがありますねん」

「聞きたいこと?」

「ご夫君のことですわ。亡くなった那霧(なぎり)旭陽(あさひ)博士について、お伺いしたいことがございましてな」

 

 勝母はグッと厳しく宝耳を睨みつけた。

 あからさまな警戒と、妙なことを言い出したら容赦なく叩き切りそうな気迫が漲る。

 なまじの人間であれば、そこで震えて声も出せなくなったであろう。

 しかしそこは宝耳であった。ふてぶてしいまでにニッコリと笑みなど浮かべる。

 

「ま、ま、そう最初から(いき)り立つモンやありまへんわ。ワイの話、気になりますやろ?」

「ふん。何が言いたいんだか知らないが、聞きたいこととやらをとっとと言いな」

 

 勝母は意味深な宝耳の態度に、苛々と早口になった。

 宝耳は特に気にするでもなく煙草を取り出し、火をつけながら尋ねてくる。

 

「ご夫君のお知り合いに、御堂(みどう)月彦(つきひこ)いう男がおりまへんでしたか?」

 

「御堂、月彦?」

 

 勝母は鸚鵡返しに言ってから、しばし夫との思い出を掘り起こしてみたが、その名に聞き覚えはない。

 

「知らないね」

 

 すげなく答えた勝母に、宝耳は煙を吐いてから、サラリと言った。

 

「左様でっか。実はこの男、無惨かもしれまへんねん」

 

 実にあっさりと、とんでもないことを言う。

 勝母は愕然としながら、ますます警戒を深めた。

 

「その男とウチのが、どう関わってるっていうんだい?」

「……さぁ、詳しいところはわかりまへん」

 

 宝耳はフゥと煙を吐いて、その立ち昇る煙を見つめながら話し始めた。

 

「那霧博士はなかなかご優秀な方やったようですな。外国に行って、ようけ勉強しはって、技術も知識も身につけて帰ってこられた。ケチな人間やったら、なかなかそういう自分が苦労したことを勿体ぶって教えへんかったりするもんやけど、那霧博士は誰にでも、それこそ興味のある、熱心な人間には、たとえそれが学生や研究者やのぅても、出し惜しみせずに教えてくれはった……というのは、ある年寄りの町医者から聞いたことですわ。そのご老人、元は代々漢方医の家で、にわかに増えた外道の医者に負けるもんかと、一念発起して独学で新しい医学を学んではったらしいんですわ。でも、独学でできる限界もあって、そんなときに那霧博士を紹介されて、すっかり意気投合しはったそうで。お互いに本の虫、新しい知識を学ぶことが好きで好きでたまらんかったと…これは、そのご老人が言うてはったんですけど、()ぅてます?」

「………ああ」

 

 勝母は言葉少なに頷いて、在りし日の夫を思い浮かべた。

 確かに宝耳の言う通り、医学の知識はもちろん、それ以外のことでも自分の興味を惹くことには、ひたすら追究していたように思う。

 ずっと本を読んで、研究をして、徹夜することも少なくなかった。(そのことでよく勝母は怒っていたが)

 

 宝耳の言うように、自分の得た知識を独り占めすることはなく、誰かの為になることを喜ぶ人であった。

 宝耳は静かな勝母の声に、フと笑みを浮かべてから話を続ける。

 

「御堂月彦言うんは、那霧博士のおった研究所にいっとき、足繁く通っておった節がありましてな。それが那霧博士の死亡と合わすようにして、ふっつり姿を見せんようになった。ただこれは、当初は那霧博士が死んだことによるもの…というよりも、同時期に平川いう教授が行方不明になったから、と思われとったようです」

「行方不明?」

「知りまへんか? 平川橋蔵教授。旦那さんの直属の上司やった人やけど」

「…すまないが、夫は仕事について話すことは少なくてね。あれで、家族と仕事との区別はしっかりする人間だったんだ」

 

 これは外国で過ごした影響なのだろうか。

 夫が仕事仲間を家に招くことは一度もなかった。

 教え子がたまに本を借りに来たり、夫の忘れ物を取りに来たりすることはあったが、基本的には自らの仕事について、勝母に詳しく語ることはなかった。

 もっとも聞いたところで、勝母もわからなかっただろう。

 夫の論文などを見せてもらったこともあるが、ほとんどアルファベットと呼ばれる見慣れない文字で綴られており、読めなかった。

 

 ふと今日のような雪の降る寒い夜に、ずっと論文を書いている夫に紅茶を淹れてやったことを思い出す。

 

 ――――― 紅茶を淹れるのが上手になりましたね、(みゆき)さん…

 

 今となっては誰呼ばれることもない名前を思い出して、勝母は目を伏せた。

 いけない。年をとるとこれだ。

 死んだ人間のことを思い出すだけで、目が潤む。

 

「今も、その平川教授とやらは行方不明なのかい?」

 

 感傷的になりかける自分を追い払うように、勝母は尋ねた。

 その問いに宝耳がニヤリと意味深長な笑みを浮かべる。

 

「それが妙でんねん。その時に行方不明になったんは平川教授だけやのうて、その弟子も一人、行方不明でしてな」

 

 長年、鬼殺隊で過ごしてきた勝母はすぐに察知した。

 

 多くの場合、鬼の凶行の現場に遭遇しない限り、そこに鬼が存在するかもしれないと考えられる一番の理由は、行方不明者が出ていることだ。しかもその地域で頻発していたら、鬼の仕業であることが濃厚だった。

 鬼は人を喰らう。

 当然、殺してからその人物は跡形もなくなるから、残された家族などが行方を捜す中で、各地の藤の家や、巷間(こうかん)に潜ませた情報収集を行う隠、鬼蒐(きしゅう)の者などを通じて、鬼殺隊に情報が伝わってくるのだ。

 

「その『御堂』とかいう奴の仕業だってのかい?」

 

 勝母が尋ねると、宝耳は「さぁ?」とうそぶいた。

 

「見たわけやありまへんし、行方不明になってんのはその二人だけで。しかも弟子の方は賭け事でけっこうな借金もあったみたいやし、警察の方では弟子が教授を殺して、どこぞに埋めて、そのまま金持って逃げてるんと()ゃうか…? みたいなことも考えとったみたいですけど、結局は迷宮入りですわ。それよりも色々と詳しく聞き込んだら、むしろ『御堂』と昵懇(じっこん)やったのは、那霧博士の方やったと」

 

 また夫の名前が出てきて、勝母はかすかに眉を寄せる。

 

「……それで?」

 

 静かに促す勝母に、宝耳は淡々と続けた。

 

「ワイが聞き込みした人の中に、当時、大学の図書室で働いてはった人がおりましてな。この人が、那霧博士とウマが合ったんかして、よぉ覚えてはりましてん。曰く、那霧博士はその『御堂月彦』のために、なんぞ調べ物をしてはったようなんですな」

「調べ物?」

「そう。なんでもその『御堂月彦』は病に罹ってて、その病気を治すために必要な薬草……あ、いや、花か。珍しいんやけども、普通は珍しくない花、みたいなことを言うてはった…て」

「珍しいが、珍しくない? なんだい、それは。頓知か何かかい?」

「さて、それが…ワイにもよぉわかりまへん。そのご老人の記憶では、珍しい花じゃないんやけども、その探してる花は珍しいもんなんやと。よぉわからん説明をされたことは覚えてはったんですわ。なんとも奇々怪々な花もあったもんですわな」

 

 勝母はしばらく腕を組んで黙り込んだあとに、宝耳に鋭く尋ねた。

 

「アンタの話からすると、その『御堂』というのが、私の夫に、訳の分からない花について探させた…ということは、無惨がその花を欲しがっていた、ということかい?」

「まぁ、そうなりますな」

「…………」

 

 勝母はまた考え込んだ。

 夫がその『御堂』というのが鬼であることなど知っていたはずがない。知ったが最後、殺されただろう。もし殺されずに済んだとしても、そんな重大な事実を勝母に言わないはずがない。

 

 しかし不思議だ。夫はあの性格だ。無害そうな顔して、わりと言いたい放題なので、敵を作りやすかった。

 鬼の性状は、多くは傲慢で尊大で我儘、残忍。

 総大将である無惨であれば、それは数十倍、いや数百倍くらい倨傲(きょごう)であろう。あの夫相手に、よくも殺さなかったものだ。それほどにその『花』とやらが必要だったのか、あるいは……。

 

 勝母はずっと記憶の奥底に押し籠めていた、夫が亡くなった日のことを、ゆっくりと思い出した。

 前日にたった一人の息子を失って、ただでさえ精神的に疲弊しきっていた勝母に追い打ちをかけるように、亡くなった夫。

 もう自分が生きているのか、死んでいるのか、わからないくらい勝母の心は壊れた。

 

 同じようなことは昔にもあった。

 父を殺して、自らの存在意義を見失っていたときだ。

 だがあの時は夫がいてくれた。悲しむことすらできなかった自分のそばに寄り添って、見守っていてくれた。

 

 そう。

 あのときは、夫が ――― 旭陽(あさひ)がいてくれた。だから立ち直れた。けれど旭陽が死んだ、そのときには……

 

「あ…」

 

 勝母はふと思い出した。

 旭陽が死んだ日、訪れていた奇妙な男のことを。

 

 

 ――――― 那霧君が、細君(さいくん)はこの青い矢車草に似ていると言っていましたよ…

 

 

 

<つづく>

 




次回は2023.04.22.更新予定です。


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第二章 育手と弟子(五)

「あの人が死んだ日に、一人、やってきた男がいる」

 

 勝母(かつも)は宙の一点を見据えながら、記憶を辿る。

 宝耳(ほうじ)の目が鋭くなり、次の言葉を待った。

 

「……おかしな男だった。勝手に家に上がり込んでいたのに、私は気付きもしなかったんだ。だから、警戒した。警戒したが…危険には思えなかった」

「ほぉ…?」

 

 宝耳は首をひねる。勝母は矛盾したことを言っているが、自分でもわかっているのか、その顔には疑問が浮かんでいた。

 

「普通の、少しばかり顔色の悪い、(ヤサ)男にしか見えなかった。ひどく、沈んだような…暗い顔をしていた」

「なんぞ話はしましたんか?」

「……そのとき、私は夫の好きだった花を持っていたんだ。青い矢車菊だよ。庭に咲いていたのを()って持ってきたところで、その男があの人の眠っている布団の傍らに立っていたんだ。あんまりにも気配がなくて、青白い顔してるから、死神か何かが来たのかと思った。私の方を見て、近付いてきて、矢車菊を一本、取ったんだ。それを夫に手向けた」

「………」

 

 宝耳は目を細めた。

 死者に花を手向けるとは、えらく洒落たことをする。鬼であれば、勝母を見た途端に、その場で殺してもおかしくないはずなのに。

 ましてそれが鬼殺隊の元柱となれば、もっとも苛立たしい存在であろうに。

 

 勝母が鬼殺隊の人間であることを知らなかったのだろうか?

 だとすれば、鬼の惣領(そうりょう)にしてはずいぶんと迂闊なことだ。

 いや、それとも鬼舞辻無惨という数百年近い時を生きてきた兇悪なる鬼の宗主であれば、()()()()は歯牙にもかけないということか…?

 

「それで? なんも言わんと消えましたんか?」

「ちょっと待ちな。なぜなんだか、この辺りのことは靄がかかったみたいに、薄らボンヤリしているんだよ」

 

 勝母はそう言って、頭を強く押さえた。

 眉間に深い皺を寄せて、苦悶の表情になる。

 

 宝耳は黙って待った。

 本来、史上最年少にして最長期間、柱を務めた五百旗頭(いおきべ)勝母(かつも)という人間が、一人の男の妻になるなど、想像もできない。にも関わらず、結婚し子まで()した仲であるならば、勝母はよほど夫を頼りにしていたに違いない。

 その夫の早すぎる死。

 おそらく勝母にとって、相当深刻な衝撃だったろう。

 

 人というのは、つらい記憶をいつまでも鮮明に覚えておけるほど、強くない。

 つらく、苦しく、悲しいほどに、必死で覆い隠そうとする。

 ある者は何重もの扉の先に、ある者は濃い霧の向こうに、ある者は深く暗い沼の底に、自らを傷つける記憶を遠ざけるのだ。…… 

 

「……感謝しろ、と」

 

 やがて勝母はポツリと言った。

 

「感謝?」

 

 宝耳が聞き返す。

 勝母は頭を押さえていた手を徐々に離して、呆然と言った。 

 

「夫に感謝しろ、と。あぁ、そういえば…夫のことを『那霧(なぎり)君』と呼んでいた」

「ふん。ということは、その男が旦那さんの知り合いということは間違いないようでんな。しかし感謝しろ…とは、旦那さんはよっぽどその男に恩を売りはったようですなぁ」

 

 宝耳は感心したように言って、目線で勝母に続きを問う。

 勝母はひどく重苦しい溜息をついた。

 

「……どうやら、私は夫のお陰で命拾いしたらしい」

「ほぉ?」

「『那霧君に感謝しろ。さもなくば、貴様を生かす理由などない』。そう言って、去っていったんだ……」

 

 勝母は今更ながらに思い出した。

 

 あの日、自分を一瞥した冷たい瞳。

 赤く閃いた気がして、思わず腰に日輪刀を探したのだ。だが結局、勝母は動けないまま、男の後ろ姿を見送るしかなかった。

 あきらかにおかしな男だと認識していながら、勝母はどこかで否定したかったのかもしれない。

 去っていく男の背中は、ひどく寂しげで、ひどく疲れたように見えた。

 夫を失って虚脱している自分と同じものを感じた。

 

 感傷に浸りかけた勝母を、宝耳のがさついた声が引き戻す。

 

「さて、どちらにとって僥倖やったんやら。()()花柱が、無惨と知っておいて、放っておくはずもないですやろし」

 

 暗くなった雰囲気を混ぜっ返すように、宝耳がトボけた口調で言う。

 勝母は最前までの痛みと哀しさを、再び胸の奥底に追いやった。

 

「それを言うなら、向こうだって恨み骨髄だろうよ。もっともあの頃にはもう私は隊を離れて久しいし、子供を産んでからは育手も休んでいたからね。どこまで太刀打ちできたか…」

「おやおや、らしくもなく謙遜を。今かて、若い鬼であれば造作もなく殺せますやろ?」

「若い鬼ならね。無惨となれば、そう簡単でなかろうさ。上弦ですらも、異次元の強さだというし…」

 

 話しながら、ふと東洋一(とよいち)の言葉を思い出す。

 

 ――――― あんな鬼がいくらもいたら、この世は既に滅んでいる…

 

 それこそ()()篠宮東洋一をして、そこまで言わせるだけの鬼が上弦であるならば、鬼の首領たる無惨の強さなど、およそ推し量れるようなものでないのだろう。そんなのと自分が、それこそ触れ合うほどの近さにまでいたなど……信じられない。

 

「その男が『御堂(みどう)』だっていうのかい?」

 

 勝母が問うと、宝耳は軽く目を閉じてフゥと紫煙を吐く。

 

「その可能性は高いですな…」

 

 勝母はしばらく考え込んでから、また宝耳に尋ねた。

 

「そもそも、なんだって、その『御堂』とかいう男が無惨だと思うんだい?」

「そうでんなぁ…」

 

 宝耳は短くなってきた煙草を灰皿にポイと投げ入れて、新たな煙草を取り出した。火を点けながら、まるで世間話をするかのように話す。

 

「…いくつか理由はありますんやけど、一番奇妙なことは、『御堂月彦』という男が存在しとらんということでしょうかな」

「存在してない?」

「その『御堂月彦』。元々その研究所に来るキッカケになったのが、どこぞのお偉方からの紹介やということなんですけど、そのお偉いさんもどういう経緯で知り合ったのか、今となっては知りようもありまへん。ただ周辺について調べれば調べるほど、『御堂月彦』なんぞという男は存在せぇへんのですわ」

 

 勝母は眉を(ひそ)めた。

 

「戸籍もないってことかい?」

「戸籍はあります。ただ、戸籍通りであれば『御堂月彦』は六歳で死亡してますねん」

 

 黙り込む勝母の前で、宝耳はなんてことない様子で煙草を()む。

 

「裏社会で経歴を買う人間は、いくらでもおりますけど、死んだ子供なんてのはあんまり使い道もないように思いますんやけどな。ただ、名前を借りたかっただけなんか…まぁ、いずれにせよ那霧博士の死亡と前後して、ふっつりと『御堂月彦』は姿を消した。おらんようになった時に、研究所では二人の男が行方不明になった」

 

 宝耳はそこで話を途切って、フゥと煙を吐いた。

 チラリと勝母を見ると、納得していない顔だ。案の定、反論してきた。

 

「それだけで、『御堂』を無惨と断定とするのは早いんじゃないのかい?」

「勿論、ただの鬼かもしれへんし、ただの犯罪者かもしれまへんな。せやけど、ただの鬼にしては上手いこと人間に化けてますし、犯罪者にしては、金に執着がない。さて、そこでもう一歩進めて考えてみましょうや。そもそも『御堂月彦』が無惨やとした場合、なぜ()()()()()()()()()()()()()()? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 挑戦的な宝耳の視線に、勝母はすぐに察した。

 

「………『花』か」

 

 勝母がつぶやくと、宝耳は軽く口の端を上げた。

 

「実のところ、『御堂月彦』のような、身許不詳で存在する人間いうのは、間々おりましてな。ワイが最近、入れあげてる芸妓(げいこ)もなかなかに捉えどころのない、えーェ女ですねん」

 

 勝母は一気に白けた顔になった。冷たく言い放つ。

 

「商売女の身の上なんぞ、聞いたところで本当だか嘘だかわかったもんじゃないだろ」

「まぁ、そないですけど…せやし、あの界隈には上手いこと鬼が紛れ込みやすいのも、昔からのことですやんか。盆暮れとなく顔出して、あっちこっちの花街を渡り歩いとったお陰で、ようやっと()()女性(にょしょう)に会えたようでしてな。(ほだ)し絆され、最近では頼まれ事もされるような間柄ですわ」

 

 勝母はいきなり聞きたくもない(おんな)の話を始めた宝耳に、最初は呆れていたが、だんだんと疑念が湧いた。

 なぜ、今、この男はこんな話をするのだろう?

 

「お前、何が言いたいんだい?」

 

 怪訝に尋ねた勝母に、宝耳は目を細める。

 

「不思議なことでっせ…」

 

 ゆっくりと白い煙を吐いて言った。

 

「その芸妓が『青い彼岸花』が欲しいんやと言いますねん」

「『青い彼岸花』?」

「そう()()()()()。不思議やおまへんか? さっき、ワイ話しましたやろ? 那霧博士が『御堂月彦』に頼まれて探していた花の特長。()()()()()()()()()()()()()()()。赤い彼岸花はたいして珍しィもないけど、『青い彼岸花』()うんは、なかなかに珍しい…とは、思いまへんか?」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 結局、勝母の話がどれくらい宝耳にとって有用であったのかはわからない。

『御堂』(なにがし)については何も知らなかったし、夫である旭陽(あさひ)と、無惨に繋がりがあるかもしれないなど、そうそう信じられることでもなかった。

 

 しかし雪が止んだ帰りがけ。

 勝母は珍しく宝耳に注意した。

 

-----------

 

「アンタ、()()()()()()()()()()()んじゃないよ」

「ハハッ。ホンマにおっ母さんみたいなことを仰っしゃりますな」

 

 笑って茶化そうとする宝耳を、勝母は厳しく戒める。

 

「……その(オンナ)が無惨の手下だったら、油断すれば寝首かかれるかしれないんだよ!」

「そうでんなぁ。いや、事と場合によったら、手下どころか無惨本人かもしれまへんしな」

「馬鹿なことをお言い! そんなだったら、とっくにアンタの頭と胴は離れているよ!!」

「せやけど、無惨本人と会ってるかもしれまへんのに、こうしてしっかりくっついたまま生きて、今も口やかましぃ怒鳴ってはる人もいますしなぁ」

 

 婉曲に自分のことを言われて、勝母はむぅと不本意に口を噤んだ。ややあって、憮然とつぶやく。

 

「……無惨は、男だろう?」

「さぁ? 誰も無惨を見たこともないのに、男と断定してえぇもんやら」

「………」

「何事も、初手から決めてかかってはあきまへん。ありえへんことが起きるのが、この世の常。まして相手は鬼だっせ?」

 

-----------

 

 諭すように言う宝耳を思い出して、勝母は渋い顔になった。

 まったく、年寄りは頑固になると言うが、自分もご多分に漏れず、年々頭が固くなっているのかもしれない。

 確かに宝耳の言う通り、無惨を見たことのある者など、誰もいないのだ。いたとすれば、それは裏切者か、既に死んだ者だけだ。

 無惨という名前と、伝承からだけで()と決めつけていたが、相手は千年近くの時を生きてきた化物だ。女に変ずる(すべ)くらい持っていてもおかしくない。

 

 勝母はハァと息を吐いて、起き上がり、手早く着替えた。

 箪笥(たんす)の上に置かれた懐中時計をいつものように手に取ると、懐に入れかけて手を止める。久しぶりにパカリと蓋を開くと、もはや動くことのない文字盤と、蓋裏に貼られた色褪せた写真があった。

 五歳になった息子のお祝いのときに、せっかくだからと写真師を呼んで撮ってもらったものだ。

 何度も撫でたせいだろうか。写真に写る夫も息子も、もう顔の判別ができないくらい薄くなっていた。

 

「まったく……妙なのとつるんだもんだね、アンタは」

 

 勝母はあきれたように写真の中の夫に呼びかける。

 生前から素っ頓狂な人間であったが、死んでからもこんなふうに驚かせてくるのだから、本当に油断がならない。

 こうやって時々、思い出させてくれているのだろうか?

 

 

 ――――― ずっと、そばにいますよ……

 

 

 あの日、祝言の席で、そっと耳元で囁かれた言葉。

 

「なにが……ずいぶんと先に逝ったくせに…」

 

 勝母は鼻の奥にツンと沁みてくる悲しみをのみこんだ。

 

 息子と夫を立て続けに亡くした後、勝母は茫然とするばかりだった。

 生きている意味すらわからなくなった。

 昔の仲間たちが来て励ましてくれたが、それでも家族を失った勝母には、彼らの言葉は遠かった。

 

 元に戻るきっかけをくれたのは、結局、夫 ――― 旭陽(あさひ)だった。

 丹念に綴られた旭陽の日記を、毎日少しずつ読んで、少しずつ勝母は心を取り戻した。 

 

 日記の最後は、死の三日前。

 震える手で書いたのだろう。ただでさえ悪筆なのに、いっそう文字は乱れていた。

 書かれていたのは、たったひとこと。『ありがとう』。

 勝母はその文字を見た瞬間に、目の前で旭陽が言うのを聞いた気がした。……

 

 パチンと時計の蓋を閉じてから、ふと気付く。

 

 あの日記に、それこそ『御堂』某について書いているかもしれない。

 宝耳に渡してやってもよかったが、読めるだろうか?

 夫独特の勉強法というか、勘を忘れないようにと、ある時期から日記はすべて英語で書かれていたのだ。そのせいで、勝母は辞書片手にゆっくりゆっくり読み進めて、すべてを読み終えるのに一年以上かかってしまった。正直、どうしても解読できず、読み飛ばした部分もある。

 

「しまったね。昨日のうちに渡せば良かった…」

 

 しばらく考えてから勝母は机に向かい、ささっと(ふみ)をしたためる。

 

『夫ノ日記有リ。必要ナラバ来イ』

 

 文をこより状にしてから、窓を開いて鎹鴉を呼んだ。

 

檀弓(まゆみ)、すまないね。行ってもらえるかい? 戻ってきたら鶏肉をやろう」

 

 足に手紙をくくりつけると、鴉は曇天へと羽ばたいていった。

 ハァと息を吐く。白いゆらめきが、冷えた空気に溶けていく。

 

「寒いね…また雪になるかね」

 

 つぶやいてから窓を閉じ、部屋を出ていこうとして、机の上に置きっぱなしの懐中時計に気付く。

 さっき宝耳への手紙を書いているときに置いて、そのまま忘れていた。すぐに取りに戻り、懐にしまいこむ。

 

「そばに…いてくれるね…?」

 

 そっと胸に手を当ててつぶやく。

 言ってから、勝母は少し恥ずかしくなった。

 

 

 

<つづく>

 




次回は2023.04.29.更新予定です。


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第三章 死闘(一)

 勝母(かつも)の助手である房前(ふささき)律歌(りっか)は、本部からの要請で、しばらく関東方面での隊士たちの看護を行っていた。

 同時にそうした看護の仕方や薬の調合などを、(かくし)らに指導し、そろそろ彼らが一人前に動けるようになってきたので、ようやく吉野の勝母の元に戻ることになった。

 

 これで関東方面における、隊士らの主要な医療施設は蝶屋敷と、今回新たに作られることになる施薬(せやく)医療院の二つになる。これまで重傷者の手当が蝶屋敷に集中していたせいで、せっかく柱となった胡蝶しのぶも、鬼狩りとして十分に働けない環境にあった。いや、むしろこの二つの業務を、眠る時間も削ってこなしていたのだが、これでずいぶんと軽減されるはずだ。

 

 律歌としては、ひとつ肩の荷が下りた気分だった。

 新たに蟲柱となった胡蝶しのぶは、律歌にとっては可愛い妹弟子であったカナエの妹だ。姉と違って生真面目で、ついつい無茶をしがちな娘で、そのくせ意地っ張りなので、わかりやすく手助けしようとしても突っぱねられる。

 その点、今回のお館様の采配は見事だった。

 今後の鬼殺隊の為と言われれば、しのぶも否やは言えない。

 

「やっぱりお館様はよく人を見ておられるわ」

 

と、話した相手は同期の岩柱だった。

 彼も最近は関東方面での仕事が多く、何度か顔を合わす機会があったのも、嬉しいことだった。

 

 そんな盛り沢山の東京での仕事を終えて、ようやく律歌は帰ってきた。

 

 雪降る中、降り立った駅の乗降場(ホーム)でウーンと伸びをする。はあぁ、と吐いた息は口から出た瞬間に白くなった。

 汽車を下りた途端に吹きつける北風の冷たさに、人々は逃げるように乗降場(ホーム)から去っていく。

 

 それでも帝都の人の多さに辟易していた律歌は、人の少ないその場所でしばらく佇んでいた。

 ふと、同じように人気のなくなった寒風吹きすさぶ乗降場(ホーム)に立っている人に気付く。黒い外套を着た男は、雪雲の向こうに霞んで見える山々を睨むように見据えていた。

 

「あれ?」

 

 律歌はハラハラ舞う雪の向こうに見えたその姿に目を瞬かせた。

 よくよく見つめようと、サササッと近付くと、男は不自然な律歌の動きにすぐに反応して、鋭い視線を向けた。

 が、律歌と目が合うなり、ギョッとした表情になる。

 

「あー! やっぱり! 不死川じゃないの、久しぶりー」

 

 声を上げると同時に律歌は風柱・不死川実弥の外套をはっしと掴んだ。

 

「おい! なんだよ、離せ」

 

 怒ったように言ってくる実弥に、律歌はすぐにパと離す。

 ヘヘヘと笑って、両手をヒラヒラさせた。

 

「あー、ごめんごめん。つい反射的に掴んじゃった。逃げられそうでさ」

「なんで俺が逃げるんだよ」

「だって、昔はよく逃げてたじゃないのー、コ・レ! から」

 

 律歌はおどけたように言って、ピンと反るくらいに人差し指を伸ばす。

 注射針のつもりだ。

 

 鬼が好む稀血、その中でも当人が鬼から聞いた(げん)で言うならば、不死川実弥の血は『極上の稀血』らしい。

 勝母が調べたところ、その血は輸血の際には非常に役に立つものだった。

 血というものにはそれぞれ固有の型が存在し、それらの型が同じもの同士で輸血せねば拒否反応が起こってしまう。だが実弥の持つ稀血は、どの型の血液にも拒絶反応を起こさない。そのためこれまでも何度となく実弥は、生死の危険がある重傷隊士のために、己の血を分けてやっていた。

 だが、日頃は泣く子も黙る鬼殺隊随一の狂犬(と一部隊士に呼ばれている)にも、苦手なものはあるようで、それが注射だった。

 

 律歌の示すものに、実弥は眉を寄せ、元から不機嫌そうな顔が愈々(いよいよ)仏頂面になった。

 剣呑とした相変わらずの雰囲気は、知らない人間からすれば恐ろしく感じたろうが、律歌には懐かしいくらいだった。

 

「で? なに? こっちで仕事?」

「仕事は……昨日終わった」

「あら? 帰るとこ?」

「……婆さんに用事だ」

「なんだ、一緒じゃないの。じゃ、行こー」

 

 快活に言って、律歌はさっさと歩いて行く。

 実弥はしばらく動かなかったが、数歩先を進んだ律歌に大声で呼ばれた。

 

「おーい! 行くよー。薫に会いに来たんでしょー」

 

 不意をつかれて、実弥の顔がギクリと強張る。

 反射的に「違うッ」と叫んだが、律歌は大して聞いていなかった。

 

「ハイハイ。とりあえず行こっかー」

 

 のんびり言って歩き出す。

 お構いなしの律歌に実弥は嘆息したが、あきらめて後をついていく。

 どう言い訳したところで、律歌の言う通り百花(ひゃっか)屋敷に向かうつもりであったし『薩見(さつみ)惟親(これちか)に頼まれた』ことでもある。

 歩きながら、自分に言い聞かせた。

 そう。あの気弱そうに見えて、わりと図々しい執事に()()()()()()()()()()、様子を見に行くだけだ。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「降ってきたねぇ…」

 

 勝母はどんどんと降ってくる雪で、白くなっていく景色を見てつぶやいた。「今日は休んだらどうだい?」

 

 隊服だけを着て、修練に向かおうとする薫に呼びかける。

 

「あらゆる気候での戦闘に備えるのは必要なことですから」

 

 薫は言いながら、寒くなって手がかじかまないように、両手を握っては開く…を繰り返す。

 

「大丈夫っすよ、勝母さん! 薫さんが無理しがちだったら、俺がしんどいーって、連れて降りてきますから」 

「あぁ、頼んだよ」

 

 勝母は笑って、翔太郎の肩を叩いた。

 右腕を失くし、左肩も刺し貫かれて、下手をすれば左腕も使い物にならないかもしれないと思ったが、翔太郎は若さで乗り越えた。

 体力的なことだけでなく、精神的にも元からの楽観的な面もおおいに手伝って、将来(さき)への希望を失わなかったというのもある。

 口減らずで、少々甘いところのあるお坊ちゃんと思っていたが、翔太郎は案外と粘り強かった。

 勝母の課した地味な回復訓練にも、真面目に取り組んで、着実に状態を元に戻していった。今や、薫との立合稽古においても、時には一本取りに行くまでになっている。

 

「じゃ、行ってきまーす!」

 

 雪降る中を山の頂上に向かって走っていく二人を見て、勝母は目を細めた。

 若いものだ。

 自分も昔はこのくらいの天候で逡巡することなどなかったのに、年を経て、子を産むと、どうしても親の目線が加わり、心配が先に立つ。   

 

 木立の中に消えていく二人を見送ってから、勝母は百花(ひゃっか)屋敷に戻った。

 門を入ってしばらく歩くと、大きく育った椿の木に赤い花がいくつも咲き、そこに白い雪が積もっている。

 この椿は、勝母のかつての住まいである花鹿(かじか)屋敷の離れに植わっていた椿の木だった。

 今は蝶屋敷となったあの場所には、祖母が『必勝』と名付けた桜の木があったが、さすがにそれを移植するには大きすぎたし、下手をして枯れさせては元も子もないので、そのままにしておいた。考えてみれば、あれは祖母が未来の隊士たちに向けての励ましとして植えたものなので、柱となる者の屋敷に植えられているのが正解だろう。

 

 馴染み深い花鹿屋敷の庭から、持ってきたのはこの椿の木だけだ。

 勝母はふと、その椿の太くなった幹に触れた。

 

「………」

 

 無言の中に過ぎ去った、苦く、悲しく、楽しい日々は、遠い思い出になる。

 

「父上、(みゆき)は強うなりましたぞ」

 

 骨すらも残さずに死んだ父に向かって、力強く勝母は言った。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

「やぁやぁ…こりゃすごい」

 

 翔太郎は頂上近くの道を走りながら、愉しげに言った。

 

「いつもだったら見晴らしがいいところなのに、もう何も見えないや」

 

 薫は眼下の濃い雲霞に眉を寄せた。

 

「これだけ雲が厚かったら、鬼も活動しているでしょうね」

「そうですね。わっ! 薫さん、見てくださいよ。ホラ、あれ、もう雲ですね。雲が目の前を横切ってますよ」

 

 翔太郎が道の上を通り過ぎていく霧の塊に声を上げる。

 確かに、山の下から見上げれば雲に見えたことだろう。それくらい冷えた空気が下へと押し寄せてきているということなのだろうが。 

 

「そろそろ帰りましょうか」

「そうっすね」

「帰り道の方が危険だから、油断しないように」

 

 薫は注意すると山を下っていく。

 本当はこの頂上のひらけた場所で、技をつかった訓練などを行うつもりであったが、唇が紫色になっている翔太郎を見て、薫はすぐ帰ることにした。

 今日は、薫にとっては久しぶりに気分も良くて、もっと訓練を行いたかったのだが、ここで無理をして翔太郎の体調が悪くなっても困る。それに一度、翔太郎を百花屋敷に送ってから、自分はまたここに戻ってきて、一人で修練することもできるだろう。

 

 背の低い灌木と、枯れた草が少し生えているだけのゴツゴツとした岩肌の道を過ぎて、勾配の急な下り道に入ると、冬枯れの森は降り始めた雪でうっすらと白く覆われていた。鈍色の空から降る雪にぬかるんだ悪路が、足元を危うくする。何度か転びそうになりながら、薫は木々の間を抜けていった。

 

「薫さん、待ってぇ~」

 

 翔太郎が情けない声を上げる。

 薫は足を止めると、振り返った。頬に笑みが浮かんでいる。

 翔太郎がああやってわざとに情けない声を上げるのは、いいところを見せたい時だった。

 

 今も薫が見ていると確認すると、少し段になっている岩場から跳躍して、張り出していた柏の太い枝を片手一本で掴む。そのままブランブランと振り子のように、体を大きく振って、こちらに向かって飛んできた ―――― 刹那。

 

 ビュウウツ!!

 

 空気を切り裂く音がして、翔太郎の足に紐のようなものが巻き付いた。

 翔太郎が体勢を崩して落ちる。

 その翔太郎の向こうで、木々が次々に倒れていった。

 バリバリと木の幹が割れる音が、静かだった森の様相を一気に変える。

 

 ズズズと足元から低く響いてくる土の揺れに、薫はよろめきそうになって、地面に手をついた。

 ゾクリと背筋を這いのぼる緊張は、この数年で刻み込まれたものだった。

 考える前に、足首につけていた訓練用の砂袋を取り払う。体力強化のために重量のある砂袋をくくりつけて訓練をしていたのだが、敵が襲来してきた今は邪魔となる。

 

「っつッ!」

 

 ぬかるんだ地面に倒れた翔太郎が呻いた。

 薫は立ち上がると同時に刀を鞘から抜くと、翔太郎の足に絡んでいた、不気味な灰色の紐のようなものを切った。切ったと同時に、その切り口から赤紫の液体がほとばしり、白い雪に汚いシミをつくる。

 

「触手か…」

 

 薫はつぶやいて、その触手が伸びてきた方を睨みつけた。メキメキと周囲の木々を根元から倒しながら、雪混じりの土煙をあげて、ソレは現れた。

 

「いィ…たァ…なァ……」

 

 妙に甲高い、間延びした声。

 気分が昂揚しているのか、喜んでいるように聞こえる。

 

 見間違えようはずもない。

 再び現れた忌々しい、呪わしい鬼。

 

紅儡(コウライ)…!」

 

 薫と翔太郎はほぼ同時に叫んだ。

 

 

 

<つづく>

 




次回は2023.05.06.更新予定です。


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第三章 死闘(二)

 心中の憤怒を隠さず、翔太郎も薫もゆっくりと近付いてくるその鬼を睨みつけた。

 見紛おうはずもないその姿。

 

 灰白の顔に赤の隈取り。逆毛立った朱色の髪。相変わらず異様に盛り上がった右肩には、大きな紅い目が瘤のようについていて、ギョロリとこちらを見ている。

 ただ灰白の身体に以前はあった黒い模様はなくなり、腰から下は無数の触手が足らしきものを形作っていた。不規則にうねうねと蠢くその姿は、大量の白い蚯蚓(みみず)が群がっているようで、ひどく気味悪い。

 

紅儡(コウライ)…」

 

 薫はもう一度、その名をつぶやきながら思った。

 

 

 ――――― やはり、あれが最後じゃなかったということね…

 

 

 脳裏に、あの日のことが甦る。

 東洋一(とよいち)によって成敗されたあと、惨めな涙を浮かべながら、訴えていた。

 

 

 ――――― 東洋一さん。助けて…。……死なない。死ねない……

 

 

 あのとき浮かべていた涙も忘れているのだろうか。

 再び目の前に現れた紅儡の表情には、後悔も悲しみもない。

 最初に会ったときと同じ、気味悪く、卑しい、ただの鬼だ。

 

風波見(かざはみ)のオォ……」

 

 紅儡はニヤニヤ笑って、翔太郎に呼びかけた。

 

()()()()()血筋め…せめて鬼狩りとなるを諦めるならば、見逃してやったのになアァ」

「なにを…」

 

 翔太郎はギリっと歯噛みして睨みつけた。

 怒りのままに突進しそうになるのを押し留めて、ギュッと刀の柄をきつく握りしめる。

 

 薫と勝母(かつも)から、おおよその事情は聞いている。

 かつて風波見家の弟子で風の呼吸の剣士であった男が鬼となったこと。

 個人的な恨みから執拗に風波見家を狙い、古くは自分の祖父母が、三十年の時を隔てて自分の母と妹が殺された。

 自分もまた右腕を斬られ、まともに刀を握れるまでに、一年以上かかった。

 

 隊士になるために修行していた弟子時代よりも、肉体的にも精神的にも過酷であった勝母からの回復訓練。本来、翔太郎は地味な稽古を敬遠しがちだったが、怠惰に流されそうになると、鏡の前に立って変わり果てた自分の姿を見て戒めた。

 前と同じであってはいけない。利き手をなくした自分が、前と全く同じように出来るわけがないのだから。

 

 母と妹を殺した鬼が、どういうわけか殺しても何度も復活したかのように現れるのだということを聞いた時には、翔太郎は内心で喜んだ。

 これで自分の手で復讐できる。薫は風波見の血を引く自分を狙って現れるかもしれないと心配していたが、むしろ翔太郎は待っていた。

 来るがいい。来たらば最後、必ず殺してやる。何度も来て、何度も殺してやる…と。

 

 そうして今、目の前に、ヤツは来た!

 

 翔太郎はじっとりとした目で()めつけた。

 シイィィ、と深く息を吸って、肺を大きくする。

 いざ技を繰り出そうとしたときに、紅儡がブンと足を回し蹴るように振った。

 

 ベキベキと倒木を跳ね上げ、土を割りながら、紅儡の背後から白い壁のようなものが、凄まじい勢いで迫ってくる。

 薫と翔太郎はその場からすぐさま飛び退った。

 

「やああぁッッ!!」

 

 甲高い悲鳴に薫は目を瞠った。

 八重だった。

 

 紅儡の無数の白い触手によって、一畳ほどの大きさの壁状のものがつくられ、そこに八重が手足を絡め取られて、身動きできないようになっていた。

 紅儡を守る盾かのように、薫らの前に立ち塞がっている。おそらく触手は紅儡の足と繋がっているのだろう。

 

「なにやってんだ……あの馬鹿」

 

 翔太郎は忌々しげにつぶやいた。

 薫はグッと顔を引き締めると、跳躍して、八重を縛る触手を斬った。

 しかし束になった触手はぶよぶよとしていて、力が吸収され刃が沈む。それでも数十を断ち切ったが、八重を解放することはできなかった。

 再生能力は遅いが、なにせ量が多い。

 

「やめて! やめてよォ!! 殺さないで!!」

 

 薫に傷つけられると思ったのか、八重が泣き叫んだ。

 

「うるせぇ! この馬鹿!! テメェがとっ捕まるからだろうが!」

 

 翔太郎が怒鳴りつけると、八重はヒクっと喉を鳴らして押し黙る。

 メソメソ泣きながら「ごめんなさぁい…」と、しつこく繰り返した。

 

 薫はギリッと奥歯を噛みしめた。

 同じだ。あの時も赤子と、三郎を人質に取った。

 生身の人間を盾にして、己が最も効果的に攻撃できる機会を窺っているのだ。

 薫が逡巡する間に、翔太郎が素早く八重の真下へと走ってきて叫んだ。

 

「目ェつむってろ!」

 

 言うなりシイィ…と息を吸い込んで、技を放つ。

 

 

 風の呼吸 肆ノ型 昇上砂塵嵐

 

 

 下から上に向かって吹く風の刃が、八重を縛る触手を遮二無二斬る。八重自身にも傷がついたが、軽微なものだった。多少なりとも手加減したのだろう。だが、そのせいで完全に八重を触手から解放することができなかった。

 右腕一本を残して、ブラリと八重が垂れ下がる。

 薫は息を呑んだ。

 八重の手に握られていたのは刀。あれはおそらく勝母の日輪刀だ。

 

「いやああぁッ! 助けて! 助けてェッ」

 

 八重の悲鳴が響く。

 うしろで隠れている紅儡の哄笑が聞こえた。

 

 薫は両手の刀を交差させると、八重の右腕の上を狙って技を放った。

 

 

 鳥の呼吸 肆ノ型 円環(えんかん)狭扼(きょうやく)

 

 

 鋭い円形の刃が、八重に絡みつく触手を断ち斬った。

 勝母の刀と一緒に、八重がドサリと雪の上に落ちる。

 

「あっ」

 

 拾う間もなく、紅儡の足から伸びてきた触手が勝母の刀を持ち去っていった。

 薫は追いかけるように紅儡へ向かっていく。

 翔太郎も続こうとして、足を掴まれた。

 

「た、た…助け…」

 

 八重がガクガク震えて助けを求めてくる。

 翔太郎はギリッと歯軋りすると、八重に怒鳴りつけた。

 

「うるせぇ! とっとと逃げて、勝母さんに知らせろ!!」

 

 ビクリと八重は震えて翔太郎の足を離す。

 翔太郎は八重を冷たく睨みつけると、「早く行け」と吐き捨てるように言って、薫を追った。

 八重は呆然とその場に座り込んでいたが、やがてヨロヨロと歩き出した。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 人質である八重が去ったのを目の端で確認すると、薫はいよいよ本格的に紅儡への攻撃を開始した。

 

 

 鳥の呼吸 参ノ型 飛燕之鋒(ひえんのほう)

 

 

 上下から襲いくる刃を、紅儡はいつの間にか手にしていた勝母の刀で跳ね返す。

 

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 

 強風に煽られるように、薫は後方に何度か回転していなした。

 間合いが開き、薫は再び構えながら紅儡を睨みつけた。

 この期に及んで、まだ風の呼吸を使ってくるのが、本当に忌々しく、苛立たしい。

 しかも、これ見よがしに、右手に持つ刀を掲げていた。

 さっきまで八重が握っていた勝母の日輪刀。まだ紅儡の血肉によって作り変えられてはいないようで、銀色のつややかな刀身のままだった。『悪鬼滅殺』の文字もくっきり見える。

 

「ハハッ……ハハァ……花柱の刀だ」

 

 紅儡が愉しげに嗤う。「柱の刀……三人め…だァ」

 

 翔太郎はケッと吐き捨てた。

 

「馬鹿が。お前が持ったって、柱になるわけねぇだろうが」

「う…う…うるさ…い」

 

 紅儡は震える声で言ってから、ブゥンと刀を振るう。

 

 

 血鬼術 乱刃(らんば)嵐剳(らんとう)

 

 

 四方八方から襲いかかる風の刃を、翔太郎は技で相殺した。

 

 

 風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹

 

 

 薫は翔太郎に集中する鬼に気付かれないように、なるべく音を消して枝から枝へと飛び移った。

 紅儡の、あの触手で創られた足は、当人も完全に思うように動かせないようだ。

 八重という盾を自分の前に持ってくることはできたが、その場から紅儡自身が動くことはない。

 さっき八重を解放している間も、攻撃してこなかった。最初に会った頃の紅儡に比べれば、今の行動は鈍重なくらいだ。しかも、触手の再生能力も遅い。

 このぶんであれば、まだまだ体調十全とは言えない薫や、片腕を失くした翔太郎にも、十分に勝機はある。

 

 先程、翔太郎が八重に勝母へ(しら)せるように頼んでいたが、鎹鴉の祐喜之介(ゆきのすけ)は薫が指示するよりも早くに、救援を呼びに行っていた。こういうときに古参鴉は行動が早くて助かる。もうすぐ勝母も来るだろうし、周辺にいる隊士にも知らせてくれるだろう。

 

 薫の意図を察し、翔太郎は紅儡を引きつけるように攻撃を繰り返す。

 呼吸の技が放たれ、傷つけられた紅儡が「痛イィ!!」と、子供のように叫ぶのが耳障りだった。

 

 薫はほぼ紅儡の背後の位置につけると、スゥゥと静かに息を吸い込む。

 肺にたっぷりと空気を送り込み、技を発動するために跳躍する。

 自身の作った呼吸技の中で、最も攻撃力の高い技。

 

 

 鳥の呼吸 壱ノ型 鷹隼(ようしゅん)空斬(くうざん)

 

 

 落下によって重さを増した斬撃が、紅儡の首と右肩を同時に落とす。

 

 

 ヒギャアアアア!!!!!

 

 

 甲高い声が響き、薫は顔をしかめた。

 耳をつんざく声が鼓膜に残る。

 気分が悪い…と感じると同時に嫌な予感が閃き、予感はすぐに現実となった。

 

 

 ドクンッ!

 

 

 鼓動が強く鳴る。

 吐き気が喉元までせり上がってくる。

 グラリ、と視界が回ると薫はガクリと膝をついた。

 

「ぐっ…」

 

 視界がかすみ、平衡感覚がなくなって、地面に両手をつく。

 内心で『()()か…』と歯噛みした。

 

 これこそ薫が隊務を休むことになった原因だった。

 鬼との戦闘中に急に心臓が不規則な拍動をし、立ち眩み、時に呼吸困難を起こすことも、今日のように吐き気に襲われることもある。

 

 薫は本当に自分で自分が苛立たしかった。

 どうしてよりによって、今、この場の、この瞬間に…!?

 

「薫さん!」

 

 よろめいて地面に手をついた薫に、翔太郎が血相を変えて走ってくる。

 

「大丈夫ですか?」

「……問題ないわ」

 

 薫は軽く頭を振ると、自分に言い聞かせるように決然と言った。

 今は戦闘中なのだ。どんな泣き言も鬼に通じるわけもなく、一緒に戦う仲間に迷惑をかけるわけにはいかない。

 助けようとする翔太郎の手を制して、自分で立ち上がろうとして気付く。

 

 目の前には紅儡が倒れていた。

 おかしい。なぜ塵となって消えないのだろう?

 

 薫が落とした紅儡の首と右肩は、既に黒い塵となって雪風の中に消えた。

 しかし残された体は、雪がまだらに積もった地面に倒れたまま、消えていく気配もない。

 

 なぜ?

 

「薫さん…?」

 

 翔太郎が呼びかけたが、薫には聞こえなかった。

 まじまじと紅儡の()()を見つめていると、足を形作っていた触手が緩慢に動きながら、紅儡の体をゆっくりと地中に引きずり込もうとしている。

 

 薫は思わず手を伸ばした。

 ダラリと力をなくした紅儡の左腕に触れる。―――――

 

 急に。

 

 頭の中で見たこともない人や光景が凄まじい早さで流れていく。

 人の話し声が洪水のように押し寄せて、不気味な呪文のように聞こえた。

 

「うっ……」

 

 薫は反射的に目を閉じた。

 処理しきれない。断片的な何かの記憶のようだが、なにせ膨大な量で整理できない。

 

 ふと、シンとなった気配に、薫は目を開いた。 

 

 

 そこは仄暗く、生ぬるい空間だった。

 地面も空もない。

 自分が浮いているのかもわからない。

 

 見渡すと、遠くに小さくうずくまる人の姿が見えた。

 しかし見えたと認識したと同時に、その人が近付いたのか、それとも薫が近寄ったのか、気付けば隣には子供がいた。

 膝をかかえて小さく縮こまっている。

 男の子のようだ。

 

「………コウ」

 

 紅儡、と呼びかける前に、子供が顔を上げた。

 

 薫は息を呑む。

 

 子供の顔はのっぺらぼうだった。―――――

 

 

「………アッ」

 

 我に返ると地面が間近にあった。

 薫はしばらく浅い呼吸を繰り返した。

 

「薫さん、大丈夫ですか?! 薫さん! 薫さん!」

 

 翔太郎が薫の肩を掴んで叫んでいた。

 

 

 ――――― 今のは…なに?

 

 

 呆然としている薫の目前で、紅儡の死体(・・)が土に呑み込まれていく。 

 

「待っ……」

 

 薫はまた手を伸ばしたが、触手は紅儡もろともに土の中に消えた。

 薫は直感した。

 

 頭の中で不思議なくらい鮮明に、()()()()が見えている。

 

「翔太郎くん! 紅儡の本体は…」

 

 薫が言いかけたその時、地面が上下に揺れたかと思うと、土を割って紅儡が現れた。

 薫も翔太郎もすぐさま立ち上がって、刀を構える。

 

 二人は()()を見ていたが、それぞれに()()()()を見ていた。

 互いに死角のないように、背中合わせになって、臨戦態勢をとった薫たちを囲むように、()()()()()がニヤニヤと笑っていた。

 

 

<つづく>

 




次回は2023.05.13.更新予定です。


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第三章 死闘(三)

 窓の外を見れば、雪が勢いを増していた。

 

「こりゃ…下手すりゃ吹雪になるね」

 

 勝母(かつも)は眉を寄せて、つぶやいた。

 帰ってきたらすぐに入れるように、風呂でも沸かしておこうかと、縁廊下を歩いていると、バサバサとあわただしい羽音が聞こえてくる。

 

「…祐喜之介(ゆきのすけ)?」

 

 声をかけると、鴉は一目散に勝母に向かってきた。

 

「敵襲! 鬼、鬼! 交戦中!!」

 

 勝母はカッと(まなじり)を決すると、すぐさま日輪刀を置いてある自室に向かおうとして、チッと舌打ちした。そういえば、不肖の弟子が持ち出していた…と気付く。

 踵を返し、修練場の横にある小部屋に向かった。

 

 そこにはかつての弟子達の日輪刀が保管されている。

 任務によって重傷を負い、隊士を引退した者。隊士であることに疲れ果て、刀を置いて姿を消した者。……鬼によって殺された者。

 彼らの多くは、続く弟子達の(たす)けになるようにと、刀を勝母に託した。

 この部屋に入るたび、数十本はある刀の多さに、勝母はやるせない気持ちになる。

 しかし今は感傷に浸っている暇はない。

 

 目に入った数本を手早く持って、一番重く感じたものを腰に差す。

 それでも、いつも持っていた自分の刀に比べれば軽かった。満身の力で技を繰り出せば、折れるかもしれない。文句を言っても仕方ないが。

 

 祐喜之介の先導で走りながら、勝母は現れた鬼というのが紅儡(こうらい)であろうと目算していた。

 薫からの話と、自分の経験からして、あの鬼がいずれ復活するであろうことは予想できた。復活すれば、風波見(かざはみ)家の生き残りである翔太郎を、このままにしておくとは思えない。

 

 鬼となれば人であった頃の記憶は薄れてなくなると聞くのに、あの鬼に限ってはしつこく覚えている。それほどに恨みが深く、憎しみが枯れることもないのだろう。

 

 激しさを増してきた雪が、容赦なく勝母の顔に当たってべシャリと溶けた。

 走り、呼吸しながら、勝母の血が徐々に熱くたぎる。もはや一人の育手ではなく、一人の鬼狩りに戻りつつあった。

 

 やがて倒れた木々の間から、戦っている薫と翔太郎の姿が見えた。

 そのほかにも朱色の髪をした、右肩が白く膨れ上がった鬼の姿。しかも一体ではない。

 勝母は苛立たしげに歯軋りすると、跳躍した。

 

 

 花の呼吸 陸ノ型 渦桃

 

 

 その場にいた紅儡の分身二体が、勝母の豪速の剣撃によって切り刻まれていた。

 薫も翔太郎も呆気にとられた。

 

「なんだい、他愛も無い」

 

 勝母は薫の隣にストリと着地すると、隙なく構えながらも、あきれたように言った。

 

「アンタたちも、こんなのサッサと始末しちまいな」

「してますよ!」

 

 翔太郎は叫んで技を放ち、目の前の一体を倒す。薫も頷いて、技を繰り出す。

 

 

 鳥の呼吸 参ノ型 飛燕之鋒(ひえんのほう)

 

 

 上下からの剣撃によって、紅儡の首と右腕が落ちた。

 勝母が来る前に始末したのも含め、紅儡のすべての分身を倒したものの、薫は構えを崩さなかった。

 

「勝母さん、来ます」

「そのようだね」

 

 さすがに勝母は説明を受けずとも勘づいていた。

 足元からゴゴゴと響く振動。バリバリと地面が割けると、また紅儡が姿を現した。

 今度は八体。

 すべての紅儡の足は触手によって形作られ、それは木の根のように土中に潜っている。

 

「本体は地下というわけか…」

 

 勝母は皮肉げに頬を歪めた。

 睨みつける左目がギラリと光る。

 

 翔太郎はゴクリと唾を飲み下した。

 いつもは少しばかり口やかましい婆様ぐらいに思っていた勝母の、凄まじいほどの闘気を感じて圧倒される。

 かつては毎日のように鬼を(ほふ)っていた柱。その戦いぶりは獅子(しし)搏兎(はくと)とごとく、一切の手加減を許さない阿修羅の剣とも呼ばれた、花柱・五百旗頭(いおきべ)勝母。

 年経ても、いざ鬼を前にすれば、現役の頃の気力が戻る。

 

「雑魚ばかりを相手にしても仕方ない。翔太郎、薫、あんた達は技で土を掘るんだ。あいつらは私が引き受けよう」

 

 言うなり勝母は駆けていくと、たちどころに二体の紅儡の首と右腕を斬り落とす。

 

「……あの人、まだ現役でもいいんじゃないの?」

 

 翔太郎はなかば呆気にとられて言った。

 薫も同意したかったが、今はゆっくり話している暇はない。

 

「翔太郎くん、やるわよ!」

 

 声をかけるなり、薫は土に向かって技を放つ。

 

 分身の紅儡は、いつも輪になって現れた。今も、薫らを囲うようにして八体が土から出てきた。であれば、おそらく各々の分身の対角線上の中心部に、本体がいる可能性が高い。

 

 薫は渾身の突き攻撃である漆ノ型磐穿喙(ばんせんかい)を、翔太郎は風の呼吸の壱ノ型を地面にぶつける。大きく罅割れた地面から、蠢く触手が伸びてくる都度斬り落としつつ、地面をえぐっていく。

 

 その間にも勝母は分身をあらかた倒すと、再び出現する前に薫らの方にやって来て、自らも技を叩き込む。

 

 

 花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬

 

 

 連続九回の斬撃は地面を深くえぐりこんで、現れ出る触手も一緒くたに断ち斬る。

 

 コオォォ…と不気味な咆哮とともに、再び紅儡が四体の分身となって現れた。

 そのうちの一体が、刀を振り上げている。

 

「あっ!」

 

 薫は声を上げた。

 あれは勝母の刀だ。最初に現れた紅儡の首と右腕を切断したあとに、拾う間もなく、新たに分身との戦闘に突入してそのまま置き捨てられていた。

 

「まさか、あれは私のかい?」

 

 勝母は目を(すが)めて、見覚えのある刀を見つめる。泥にまみれていたが、鬼の持つ手の間から、紅梅色の柄巻(つかまき)が見えた。

 

「そうです」

 

 薫が頷くと、勝母はさっとあたりを見回した。

 

八重(やえ)は?」

「あっ…さっき助けて、逃しました」

「そうかい。じゃ、問題ない」

 

 勝母は瞬時に理解した。

 刀を持って逃げた八重は、おそらくこの鬼に捕まった。

 日輪刀を持っていることで鬼殺隊士と思われ、人質にされたのかもしれない。あるいは八重が翔太郎の居場所を教えたのか…?

 

 考えながら、勝母は自分の刀を持っている紅儡に向かって一目散に走っていく。

 

 

 花の呼吸 肆ノ型 紅花衣

 

 

 大きい円を描く斬撃は、一瞬の間に紅儡の首も右肩も落とした。

 黒い塵と消える右手から地面に落ちていく刀を、勝母は空中で取ると、続いて攻撃してくる二体目の紅儡をなんなく一刀両断する。

 

 

 花の呼吸 壱ノ型 椿の火影(ほかげ)

 

 

 ざっくりと斬りつけられた紅儡は、ヒギャアアアア! と、けたたましくわめいた。

 

 勝母の握る日輪刀は、見る間に真朱(まそほ)に染まる。その赤い刀身は、まるでそれ自体が熱を持っているかのようだった。

 

「あぁ、これこれ」

 

 勝母は手に馴染む柄を握りしめて笑った。

 この太さ、この重さ。

 さっきまで持っていた刀はやたら細いのと、軽いのとで、技の精度に納得がいかなかったが、自分の日輪刀であれば、現役時代の八分程度には力を発揮できるだろう。

 

「さぁ、やろうか」

 

 低く唸るように勝母が言うと、紅儡の紅い瞳に怯えが浮かんだ。

 

 

 ――――― 所詮、お前は雑魚だ…

 

 

 記憶に刷り込まれた女の言葉と、目の前の女の醸す充溢した気合が重なり合う。

 紅儡()()は、土の中に逃げようとした。

 

 逃すまいと勝母は広範囲の技を繰り出す。

 

 

 花の呼吸 参ノ型 零れ桜・散華

 

 

 呼応するように薫と翔太郎も、土に向かって技を放った。

 

 

 風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ

 

 鳥の呼吸 漆ノ型 磐穿喙

 

 

 ようやく本体らしきものにぶち当たった。

 土に隠れていた紅儡の大きな紅い目。おそらく腕にあるものだろう。この大きさからすれば、本体はどれほどに巨大なのか…?

 

 薫は刀を振り上げたが、紅儡はその紅い目玉を落ち着きなく動かしてから、薫をじっと見つめてくる。

 

「この野郎! 一気にえぐり出してやる!!」

 

 翔太郎はようやく見えた本体に息巻き、重ねて技を繰り出そうと刀を構える。

 

 薫はハッとした。

 紅儡の紅い瞳から、涙が溢れ出していた。

 

「待って!」

 

 あわてて制止するや、妙な声が響く。

 

 

 ――――― 逃ゲテ!

 

 

 いきなり呼びかけてくる声に薫は混乱した。

 頭の中に直接、訴えてくる。何度も。

 

 

 ――――― 逃ゲテ!

 ――――― 逃ゲテ!

 

 

「な……」

 

 問い返すことはできなかった。

 ゾワリと、全身に悪寒がはしった。

 

 同時に―――――

 

 

 ドオォォォォン!!!!

 

 

 山鳴りが起きたのかと思うほどの衝撃が襲った。

 それがただの地の鳴動でないのを、薫は反射的に悟っていた。ほとんど無意識に防御の技を放ちながら、自らの体を切り刻もうとする()()を必死でかわす。

 それでもおそろしいほどの威力をもったその攻撃によって、薫は吹っ飛ばされた。

 伸びた枝に手足や顔を傷つけられながら、木々の間を抜け、腐って折れた巨木にぶち当たると、地面に落ちた。

 

「ぐ…」

 

 頭をしたたかに打ちつけたのか朦朧とする。

 必死で意識を保とうとするが、瞼が抗いきれずに落ちてくる。

 急速に闇が薫を包み、そのまま気を失うかに思えたが ――――

 

「キャアアアァッ!」

 

 甲高い悲鳴が、一瞬の安息を破って響き渡った。

 

 

 

<つづく>

 




次回は2023.05.20.更新予定です。


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第三章 死闘(四)

 薫はハッと目を開いた。

 八重(やえ)の声だ。

 逃げたはずの八重が、なぜここにいるのかと思ったが、その理由を考えている暇はない。

 

「先生! 先生ッ!! 誰かッ! 誰か助けてえッ!!」

 

 助けを求めて泣き叫ぶ声。

 もしかすると、勝母(かつも)も今の衝撃をくらったのだろうか。

 

「……う……くッ」

 

 薫は呻きながら、ゆっくりと体を起こす。

 すべてが重かった…体も頭も。

 本当はあのまま眠っていたかった。

 けれど今は、微睡(まどろ)みに沈んではいけない。

 

 薫は立ち上がって、脇腹から溢れてくる血に気付いた。

 いつの間にか、やられたらしい。

 衝撃波と一緒に襲ってきたあの異様な攻撃を、完全に避けることはできなかったのか…?

 グッと腹筋に力を込める。

 常中の呼吸を行い、ゆっくりと傷口をひき絞る。それでもチリチリとした痛みが続いた。

 

 いったい、なにが起きたのか?

 

 薫はヨロヨロと歩き、木に刺さっていた自分の日輪刀を引き抜いた。

 もう一本は、折れて地面に落ちていた。

 おそらく防御したときに、剣撃の圧に耐えきれなかったのだろう。

 この前、打ち直してもらったばかりだというのに、どれほどの力によって、こうまであっさりと折られたのか。

 

「くっ…」

 

 痛みに顔を歪めながら、のろのろと歩く。

 どこに向かっているのか自分でもわからない。だが、そこに行きたくなくとも、足は勝手に動く。まるで吸い寄せられるように。

 

 泥濘の道なき道を進んでいると、水の流れる音が聞こえてきた。

 熊笹の茂みの向こう、切り立った山岨(やまそわ)の下に川が流れていた。何度となく常中の修練のために訪れた、あの滝壺の上流の川だ。戦いの間に、だんだんと下に降りてきていたらしい。

 

 薫は強く降る雪に抗うように顔を上げた。

 重くたれこめた雲が、暗澹たる予兆を感じさせる。

 

 やがて折れた木々と、吹きすさぶ雪の間から、奇妙な物体が見えた。

 最初は小さな山かとも思ったが、山にしては歪な形だった。

 薫はもう一歩足を進め、凝視する。

 泥にまみれているが、隙間に覗く灰白の肌と、そこに這う緑の血管は、すぐさま紅儡(こうらい)を思い起こさせた。

 

 不意に。

 

 

 ――――― ドクンッ!

 

 

 また心臓が強く打つ。

 

 薫は胸を押さえ、木肌がめくれ上がった小楢の幹に寄りかかりながら、紅儡らしきものの姿をじっくりと見つめた。

 時間がかかったのは、()()が巨大であったせいだ。

 薫は離れた場所から見たからわかった。目の前にあったら、いったい何なのか、まったくわからなかっただろう。

 

 それは腕だった。

 おそらくは紅儡の腕。

 首も胴もない。

 ただ巨大な腕が地面の上に()()()()()

 太くなった肩のあたりから白い無数の触手となり、今はまるで気息(きそく)奄々(えんえん)と、数本だけが緩慢に動いていた。

 

 薫はあれが地中にあった紅儡の本体だと、直感した。

 いや、確信していた。

 それはさっき紅儡の()()に触れたあと、脳裏に浮かんだその姿そのままであった。

 

 手の平を地面につくように倒れ伏していた()は、いきなりビクビクと震えたかと思うと、跳び上がって回転した。

 ズシン、と地面が揺れ、土煙が舞う。

 その姿はまるで陸に打ち上げられた魚のようだった。

 どうやら斬られたらしい。

 赤紫の血が噴き上がり、雪で覆われ始めた地面に雨のように降った。ベロリと灰白の皮がめくれあがって、生々しい赤い肉が露わとなる。

 白い触手が痙攣したように激しく蠢いた。

 

 薫は顔を(しか)めた。

 また、気分が悪くなってくる。

 

 のたうちまわる()の間から、着物姿の男の姿が見えた。

 気味悪いほどに静かな佇まい。

 吹き荒れる雪と、長い黒髪に遮られ、顔はよく見えない。

 

 

 ――――― ドクッ、ドクッ!

 

 

 薫の心臓が飛び出さんばかりに強く拍動する。

 

「醜い…モノだ…」

 

 小さなつぶやきが聞こえてくる。この距離で聞こえるわけがないのに、耳元で囁かれているのかと勘違いするほど、その微かな息遣いですらも、薫には聞こえた。

 黒く長い髪を後ろで一纏めに縛りあげ、その手には不穏な気配を纏った刀が握られている。点々と仄赤く光る、不気味な刀。

 

 薫はその場から逃げたい衝動にかられた。それなのに足は一歩も動かず、目を逸らすことも、瞑ることすらもできない。

 

 

 ――――― ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……

 

 

 鼓動が早く、胸を叩き割らんばかりに強く打つ。

 カチカチと歯の根が鳴り、汗が全身から噴き出した。

 

(くびき)を外し…あの御方から…逃れられると…思ったか…?」

 

 男は静かに問いかける。

 紅儡の()はひっくり返って、手の平を上に向けるように倒れていた。上腕部分にある大きな紅い瞳からは、涙らしき大量の透明な液体が流れ出る。

 

()()()……お前は…要らぬ」

 

 男はなんの感情もない声でつぶやくように言うと、再び刀を振り上げた。そのとき ――――

 

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 

 繰り出された呼吸の技は、薫からは見えない。紅儡の巨大な()の向こうから放たれたようだ。

 紅儡の()の手首部分を切り裂き、男にも襲いかかる。

 しかし、男はあの不気味な刀を一振りするだけで、その攻撃を散らした。

 反対にやられたのか、翔太郎のうめき声が聞こえた。

 

 男は翔太郎の急襲にも、まったく驚いていなかった。

 むしろ既に気付いていたかのように、うっすらと、本当に微かな笑みが口の端に浮かぶ……そんな気配を、薫は感じ取った。

 

 男は刀を構えると、相変わらず小さな声で告げる。

 

「二人…ともに…逝くがよかろう…」

 

 男の刀が一閃する。

 そうして信じられないことに呼吸の技を放った。

 見たこともない、けれど間違いなく強力な剣技。

 

 

 月の呼吸 参ノ型 厭忌月・銷り

 

 

「ウアアァッ!」

 

 翔太郎の悲鳴と共に、切り刻まれた紅儡の()が、木々を倒しながら吹っ飛んでいく。

 チラリと紅儡の肉片と一緒に、翔太郎の足が見えた。

 異常な剣撃はそこいらの木々も、土も、岩をも砕き、それらはすべて、切り立った崖上から谷底へと落ちていった。

 

 男が立っている場所は、一瞬の間に、開けた平地になった。

 あまりにもあっという間のことで、薫は愕然と見ているしかなかった。

 土煙は強い風にあおられて早々に消え、男は刀をブランと無造作に下げたまま、薫に背中を向けて佇立している。

 

 

 ――――― ドクンッ!

 

 

 薫は胸を押さえた。

 跳ね上がる鼓動の音が、相手にも聞こえそうだ。

 

 木々を渡る風の陰鬱なうなり声が、ふぶく雪の間を錯綜する。

 

 薫は柄を強く握りしめた。

 呼吸の技を使うのであれば、鬼殺隊士であるかもしれないが、同じく呼吸の技を使った翔太郎を、紅儡もろともに攻撃するなど、味方とはいえない。

 では、敵なのか…?

 

 薫はそろりと一歩、足を進める。

 ぐっと腰を落として、男に向かって行こうとしたが、急に腕を掴まれるや、引き倒された。誰何(すいか)する隙も与えず、口を塞がれる。

 

「……静かに」

 

 勝母が声をひそめて囁く。

 薫はふっと、強張った体の力を抜いた。

 

 先程の衝撃波でやられたのだろうか。勝母のこめかみからは血が流れ、腕や胸も切られて着物に血が滲んでいた。

 しばらく押し黙ったまま、気配を殺している。

 おそらくは、あの不思議な呼吸の剣士に気付かれないため。

 

 相手に動きがない…と感じたのか、勝母はひそひそと囁いた。

 

「……薫、八重を連れて逃げとくれ」

 

 薫は勝母の隣で口に両手を押し当てて、半泣きになっている八重を見た。恐怖のあまりに腰を抜かして立てないようだ。

 

「八重さん、逃げたんじゃ…」

 

 薫が問いかけようとするのを、勝母はシッと口元に人差し指をたてて制した。

 

「気付かれるよ、あの鬼に」

「鬼…なんですか?」

「わからないかい? あんまりにも異様で、今までのとは比べ物にならないからだろうが…あれは鬼だよ。それも…」

 

 勝母は言いかけて止めた。

 今はむやみに怖がらせる必要はない。それに丁寧に説明している暇もない。

 

「私が出て、ひきつけてる間に、アンタは八重と一緒に谷の方へと逃げな。技は使えるね?」

 

 勝母が最後に確認したのは、薫に谷へと()()()()()()逃げろ、ということを示唆していたからだ。落下時に地面に叩きつけられないように、技で相殺する必要がある。つまり、走って逃げることなど許されないほどに、あの鬼は強い…と。

 

「駄目です。相手なら私が…」

 

 薫が即座に断ろうとすると、勝母は首を振った。

 

「私じゃ、この子を背負って走ることもできないんだよ」

 

 そう言って、勝母は左の腿を軽く叩く。

 よくよく見れば、勝母の藤色の袴は、血に染まって黒く色を変えていた。相当な深傷(ふかで)を負ったらしい。

 おそらく八重をかかえて逃げることを選んだ瞬間に、勝母は死ぬだろう。

 それでも薫はゆるゆると首を振った。

 

「………駄目…です」

 

 声が掠れる。涙が出そうになるのを、喉奥で押し留める。

 勝母は微笑みを浮かべてから、キッと顔を引き締めると、薫の肩を叩いた。

 

「頼むよ、薫」

「………」

「あの鬼は、私が相手する必要がある。ずっと待ち望んでいた父の……仇だ」

 

 薫は慄然として勝母を見つめた。

 

 見えることのない右目。

 それは昔、勝母が鬼となった父と戦ったときに、花の呼吸の大技を使用したことで光を失ったもの。

 父という存在を殺した勝母の葛藤が如何程のものであったのか……薫には考えも及ばない。

 それでも今、薫を見つめる瞳は穏やかで、一点の曇りもなかった。

 

 薫は項垂れるように深々と勝母に頭を下げた。

 自分などには到達でき得ない場所で、勝母はもはや覚悟を決めている。

 顔を上げ、もう一度勝母の顔を目に焼き付けてから、薫は八重の腕を掴んだ。

 

「あ……先せ…」

 

 八重は身をよじって勝母に手を伸ばす。

 勝母はその手を一瞬だけ握りしめると、グイと押しやった。

 

「…いきな」

 

 勝母は短く言った。

 

 薫は無理やり八重を背負うと、走り出した。

 さっきまで紅儡の腕が倒れていた場所をグルッと回り込むようにして、ガサガサと茂みの間を縫うように走り抜ける。

 

 背後から勝母の凛とした声が響いた。

 

「待っていたよ、黒死牟とやら!」

 

 

 ――――― 黒死牟……

 

 

 その名前を胸に刻む。

 

「先生ッ!」

 

 八重が体をひねって叫んでいた。

 薫は翔太郎と紅儡の落ちていった谷の断崖まで来て、スゥゥと息を吸い込んだ。

 

「八重さん! しっかり掴んで!!」

 

 後ろを向いて叫んだときに、ホォォォと不気味な呼吸音が聞こえてきた。

 半身だけこちらを向いた鬼 ――― 黒死牟と目が合う。

 紛うことなき鬼だとわかる、六つの目。

 その真中の瞳に刻印された文字は、『上弦・壱』。

 

 ゾワ、とまた悪寒がはしった。

 ドクリ、と鼓動が強く胸を打つ。

 

 勝母と、黒死牟の技がぶつかった。

 突風が吹き寄せる。

 

 薫は跳躍した。

 念じるように、祈るように、呼吸の技を放つ。

 

 生きて…勝母さん。必ず、生きて――――!

 

 

 

<つづく>

 





次回は2023.05.27.更新予定です。


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第三章 死闘(五)

「待っていたよ、黒死牟(こくしぼう)とやら!」

 

 薫たちが崖の方へと向かうのを確認してから、勝母はその場に立ち上がった。

 手には長く愛用してきた真朱(まそほ)の日輪刀が握られている。

 

 呼ばれた鬼がゆっくりと振り返った。

 (あか)く光る、六つの金の瞳。真ん中に刻まれた『上弦、壱』の文字。

 聞いていた通りだ。

 勝母はゾクリと背筋が寒くなるのを感じながら、笑った。本当に笑うしかない。

 

 父を殺した後、鬼殺隊に残ることを決めたが、どこか釈然としないものが勝母の中で(くすぶ)っていた。

 しかし篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)から裏切者である鏑木(かぶらぎ)浩太の話を聞き、その裏切者と偶然にも遭遇して、戦いの中で父を鬼としたのが上弦の壱たる黒死牟なる鬼だと知った。

 

 この時、勝母は素直に嬉しかった。

 これで自分にまたひとつ、鬼殺隊士でいる意味ができたと思った。

 いずれその鬼に会い、滅殺することを心に決めて鍛錬を積み、柱として東西南北、どんな鬼でも殺してきた。

 だが結局、現役の間に邂逅は訪れなかった。

 

 こればかりは仕方ない。

 有象無象の鬼はいても、十二鬼月、まして上弦など…百年の歴史を紐解いても数えるほどしか出現していない。

 育手となって自分の研鑽した剣技を弟子たちに伝え、いずれ無惨も含めて討ち取ってくれようと…諦めを含んだ夢を託した。

 

 だが、今、ようやくヤツは現れてくれた。

 今になって、ということが勝母には何か意味があるように思えた。

 

 一方の黒死牟は勝母を見ても、何らの感慨もなさげだった。

 ホオォォ、と不気味な呼吸音が響いたのち、無言で刀を振るう。

 

 

 月の呼吸 壱ノ型 闇月・宵の宮

 

 

 勝母は奥歯を噛みしめて、防御の技を繰り出す。

 

 

 花の呼吸 参ノ型 零れ桜・散華

 

 

 技を放つと同時に、不規則な軌道を描いて旋回してくる剣撃をかろうじて(かわ)した。……と思ったが、飛び退って地面に降り立った途端に、耳から血が(ほとばし)る。

 右耳をザックリと斬られていた。

 あと少し躱し損ねれば、首が血を噴いて転がっていたはずだ。

 

 勝母は首筋にヒンヤリとした死を感じた。

 自分は今、糸のように細い生死の境に立っている。

 刀を持つ手に力を込め、再び構えて、黒死牟を睨み据える。

 

 黒死牟は自分の剣撃を相殺させ、かつ躱した目の前の年老いた女に、少しだけ目を(みは)った。

 もっともそれは勝母にすらもわからぬほど、わずかな表情の変化だ。

 

「たいしたもの…」

 

 抑揚のない声で称賛され、勝母は口の端に笑みを浮かべた。

 

「そう思うなら手加減などいらぬさ、上弦の。それとも婆相手に本気を出すのも億劫かい?」

 

 黒死牟は軽く目を細めた。

 自分の剣気までも見抜くとは、相当に場数を踏んだ手練(てだれ)と認める。

 

「死ぬ…算段は……出来たか?」

「ほぉ。やはり待っててくれたわけかい」

 

 勝母は感心したようにうそぶいた。「女のおしゃべりは長くてね」

 

 薫に八重(やえ)を連れて逃げるように話している間、勝母は黒死牟が気付いているだろうとわかっていた。いつ攻撃されてもおかしくなかったが、薫が逃げていき、先程、勝母が呼びかける時まで、手出ししてこなかった。

 

「さすがは剣士であっただけの度量は持っているようだ。もっとも、鬼ごときが持ったところで、宝の持ち腐れ。豚に真珠の類だがね」

 

 勝母が揶揄(やゆ)すると、黒死牟の顔はわずかに歪んだ。

 

「……(さか)しらなる…ことよ…」

「まったくだね。年寄りは口減らずだよ。もっともアンタの方がもっと年寄りか」

 

 こうして軽口をききながらも、勝母の顔を除く全身からは冷や汗が噴き出て、少しでも気を緩めようものなら、その場にくずおれそうだった。もしそうなれば、この目の前の鬼はたちどころに勝母を微塵に切り刻むだろう。

 

 

 ――――― あんな鬼がいくらもいたら、この世は既に滅んでいる……

 

 

 かつて、この鬼に遭遇して立ち合った篠宮東洋一の言っていた意味がようやくわかった。

 確かに異様なまでの重圧。凄まじい闘気。

 その場の引力すらも変えて、空気が絶えず振動しているかのような、異常な緊張感が勝母を圧迫してくる。

 

 これで上弦の壱。頭目の無惨はいかほどのものか…。

 

「逃がすため…か。狡智に…長ける」

 

 ボソボソと話す黒死牟の言葉は相変わらず抑揚がなく、あきれたようにも、苛立たしげにも聞こえる。

 勝母はニヤリと意地悪く笑った。ただの腕自慢ではなく、しっかり頭も働くようだ。わざと勝母が会話などして、薫らが逃げる時間を稼いでいることに、とっくに気付いていたらしい。

 

「婆の無駄話につき合わせてすまないね。ついでに一つ聞こう。五百旗頭(いおきべ)卓磨(たくま)という男を知っているか?」

「…五百旗頭…」

「岩の呼吸の剣士だ」

 

 返事を待ちながら勝母は呼吸を始める。

 わずかに開いた口から、静かに息を吸い込む。

 つとめて冷静に、心を平らにして、全身の知覚を開放する。

 

 ようやく会えた。

 今、この時を逃してはならない。

 

 勝母は目を(つむ)った。

 かつて使ったその技は、その後、二度と使われることなく、勝母の中で封印されていた。

 弟子にも、これぞと思う者――― 例えば胡蝶カナエといった、一定以上の実力を持った者にしか教えなかった。

 

 この因業深い技は、創作者の恨みと憎しみを昇華させた、諸刃の剣だ。

 

 浅い呼吸。

 死へと向かう呼吸。

 全身へと送り出す熱を一点に集中させる。

 チリチリとした痛みと膨張感。

 ひどく乾いた瞳から、末期(まつご)の涙が零れた。

 

 

 花の呼吸 終ノ型 彼岸朱眼

 

 

 再び開いた左眼は、視力を失った右目と同じく、真っ赤に染まっていた。

 

「父を魅了した貴様の力、とくと見せてもらおう」

 

 低く唸るように言うと、黒死牟が訝しげにつぶやいた。

 

「……父……?」

 

 勝母は大きく踏み出すと、技を繰り出した。

 

 

 花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬

 

 

 普通の鬼ならば避けることなどできず、相殺するために血鬼術を繰り出すくらいしかできない早さの剣撃。しかし黒死牟には、そよぐ風ほどのものであったのだろうか。緩やかな動作ですべてを躱し、平然と立っている。

 

「年老いて…これほどの剣気……かつては…柱か」

「大昔さ。お前には、昨日も三十年前も変わりなかろうがな…」

「よかろう…」

 

 黒死牟はユラリと刀を構えた。

 

「非道なる父殺しの技……見せてみよ」

 

 平坦な声の中に揶揄を感じ、勝母は掠れた声でつぶやいた。

 

「………よくも」

 

 血管を流れる血が一気に沸騰する。

 怒りは直ちに飽和し、勝母の瞳に目の前の鬼の一挙手一投足、毛の一筋たりとも見逃さない、視覚の極地にある世界を見せた。 

 

 

 花の呼吸 壱ノ型 椿の火影

 

 月の呼吸 弐ノ型 珠華ノ弄月

 

 

 ほぼ同時に放たれた技。

 黒死牟の変幻なる剣撃は、あっさりと勝母の技を包容して無力化し、反対に勝母は有り得ない角度から襲いくる月の刃を躱すのが精一杯だった。しかもこれは今、終ノ型を発動しているから可能で、もし、先程のように何もせずに臨めば、もはや手加減のない黒死牟を前に、あっさり命を奪われていただろう。

 

 大きく間合いをあけて、再び向き合って対峙する。

 勝母はスゥゥゥと呼吸を深くした。

 太腿から流れ出る血が、足元に大量の血溜まりをつくる。筋肉を引き絞って血止めの技をしても、もはや止めるのは難しいようだ。

 

「惜しむべきよ…。その技…精強なりし時のままに保つこと…できぬ。……すべて、人なる時しか…生きぬゆえ…」

 

 黒死牟は六つの目を細めてつぶやいた。

 勝母は八相に刀を構えながら、フッと笑った。

 

「そう思うか?」

「老いは…すべてを無に帰す。哀れな…こと…」

 

 訥々(とつとつ)としたつぶやきは、どこかに同情を含んでいるようにも聞こえた。

 しかし勝母は黒死牟のその言葉を聞いた途端に、呵々(かか)と笑った。

 しばらく大笑いしてから、勝母は目の前の鬼を、まるで未熟な弟子に対するかのごとく、慈愛をもって見つめた。

 

「…そうだな、お前は強いのだろう。だがな、私は今この時にあって、己の強さを信じて()ける。お前は何得ることもなく、己の中にある強者の(おご)りによって、その身を滅ぼすだろう!」

 

 叫ぶと同時に、走り出す。跳躍して、その首を取りにゆく。

 

 

 花の呼吸 陸ノ型 渦桃

 

 

 黒死牟は勝母の言葉を反芻することもなく、技を放つ。

 

 

 月の呼吸 陸ノ型 常世孤月・無間

 

 

 異様な早さをもった一振り。

 それだけで無数とも思える斬撃が勝母に襲いかかる。

 

 あと少しで首に届くかに思えた真朱の刀は、しかし黒死牟の有り得ない重さを持った斬撃によって、バキリと折れた。

 同時に、避けることなど到底できない縦横無尽の攻撃が、勝母の両腕を断ち切った。

 

 ――――― オノレ…!

 

 勝母はそれでもあきらめることはなかった。

 

 大きく口を開くと、目の先に飛ぶ折れた自分の刃を、ガキリと咥えた。

 裂帛なる気合は声にならず、見開いた瞳はさらに赤く染まり、視力を失って久しい右目の周囲から頬にかけて、奇妙な紋様が浮かび上がる。

 

 今や、勝母は一つの火の玉と化していた。

 凄まじい昂揚に、身体中の血が蒸発するかに思える熱さを帯びる。

 鬼狩りであった頃の勢いのままに、勝母は疾走した。

 (まなじり)を決した赤い瞳は斬撃をかいくぐり、老いたとは思えない俊敏な動きで、黒死牟を追い詰めんと向かっていく。

 

 黒死牟は軽く動揺したのかもしれない。

 自分でも気付かぬ間に、虚哭(きょこく)神去(かむさり)をまた振るっていた。

 無数の目に覆われた刀が一閃し、勝母の首を斬った。

 しかし、それでも勝母はその口に欠けた日輪刀を咥えたまま、黒死牟に迫った。

 

「………!」

 

 黒死牟はわずかに後退(あとずさ)って、向かってきた頭を止めるように、刀を前へと押し出す。

 光を失って久しい赤い右目を、虚哭神去が刺し貫いた。

 

 ゆっくりと、勝母の口から真朱の刃が落ちた。

 

「首だけで来おった、か……見事。…だが……執拗也」

 

 黒死牟はつぶやき、ブンと刀を振った。

 (きっさき)に刺さっていた勝母の頭が飛んで、ゴロリと泥の上で転がった。

 

 しばらくの間、黒死牟はその赤く染まった左目を見つめていた。

 カッと見開かれたまま、もはや何も映すことのない瞳は、それでも黒死牟を凝視している。

 

 赤い目に、ヒラリと雪が舞い落ちた。

 まだ熱があるのか、ジュワリと溶けて消える。

 

 いつの間にか雪は小降りになっていた。

 見上げれば鈍色(にびいろ)の雲がどんどんと流れていく。

 地上はそうでもないが、空の方は強い風が吹いているようだ。

 

 黒死牟はゆっくりと勝母の頭に近寄ると、血のこびりついた髪を無造作に掴んだ。

 

 

<つづく>

 





次回は2023.06.03.更新予定です。


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第三章 死闘(六)

 八重(やえ)は後悔していた。

 

 どうしてこんなことになっているのだろう?

 自分はいつもどこかで何かの選択を間違える。

 

 母を亡くしたときも、自分が無理に祭りに行きたいなどと駄々をこねなければ…。

 早く帰りたいから近道をしようと、竹藪の暗い夜道を歩かなければ…鬼に襲われることもなかった。

 

 今も。

 

 勝母(かつも)の日輪刀を持って出ていくなんてことをしなければ、きっと鬼に襲われることもなかっただろう。

 けれど自分としては出て行くつもりはなかった。ただ、自分にだって、日輪刀さえあれば、鬼を殺せるんだということを、勝母に示したかっただけなのだ。

 

 それに、今回の行動については自分は悪くない。

 

 翔太郎の言葉通り、いったん逃げた。

 仕方がない。勝母の日輪刀はもう手になく、自分がいたところで邪魔になるだけだと思ったから。勝母に知らせることを頼まれ、それを必死に遂行しようとした。

 山道を何度も転びながら必死に百花(ひゃっか)屋敷に向かう途中で、勝母が獣道を走っていくのが見えて、あわてて追いかけた。()()()()と言われたから、その通りに行動しただけだ。

 

 そうしたら急に恐ろしい鬼が現れて、勝母が重傷を負った。

 八重は必死に助けを求めて声を上げた。

 誰か、誰でもいい。この際、あの大嫌いな森野辺(もりのべ)薫であってもいいから、助けてほしいと願って、必死に叫んだのだ。

 けれど勝母は、その八重の口を塞いで、黙るように命令した。

 いつも厳しい人であったが、そのときの勝母はもう育手というよりも、百花屋敷に訪れる血気盛んな鬼殺隊士と変わりないほどに、殺伐とした雰囲気だった。

 八重は何も言えず、自らの手で必死に悲鳴を押し込めるしかなかった。

 

 震えながら、八重はずっと後悔していた。

 

 こんなことなら、勝母の日輪刀を持って出ていくなんてしなければよかった。

 いや、そもそも百花屋敷から出ていかなければよかった。

 いいや、もっと前…隠に紹介されるまま、那霧(なぎり)勝母という厳しい育手を選ばなければ…。

 いや、いや、それよりもっと……母を亡くしたそのときに、鬼殺隊士になりたいなどと思わなければ…。

 

 後悔はどんどんと過去の自分を追いかけてゆき、八重にありえたかもしれない現在を夢想させる。だがそれも恐怖を目の前にして、罅割れ霧散するだけだ。

 

 逃れようもない現実を前に、八重は絶望して死にたいくらいだった。

 いつも自分を導いてくれたその人に向かって手を伸ばし、(すが)った。

 常であれば、勝母はそんな八重の惰弱を叱りつけ、手をはじいていただろう。しかしそのときは、八重の手を握ってくれた。

 しっかりと、励ますように。

 

 ――――― いきな。

 

 短く言って送り出した師匠。

 あの言葉は「行きな」だったのだろうか、それとも「生きな」だったのだろうか? ……

 どちらにしろ、二度と会えそうもない。

 それがわかったから、離れたくなかったのに、無情にも()()() ―― 森野辺薫は、先生を捨てて逃げ出した。

 

 八重を逃がすため、きっとそんな言い訳をするだろう。

 まだ未熟な弟子を逃がす為に仕方なかった…そうやって八重を理由にして、自分の行為を正当化するに違いない。

 本当に、忌々しい。決して許さない。

 そんな白々しいことを言わせないためにも、自分は生きるのだ! 

 

 憤りの中で、八重は意識を取り戻した。

 どこにいるのかと思ったら、川のせせらぎの音が聞こえてくる。

 うっすらと目が開き、何度か瞬きをしたあとに、霞んでいた視界が鮮明になると、自分の見ているのが河原の石だとわかった。どうやら自分は河原にうつ伏せになっているらしい。

 起き上がろうと手を動かしかけて、痛みに声をあげた。右手で触れているものを掴もうとしただけなのに、激痛がはしる。手首の骨が折れているのかもしれない。まったく手が動かない。

 寒さで硬直しているのか、全身が固まっていた。

 それでもなんとか渾身の力で頭を持ち上げてみると、先の方で薫が倒れていた。体の半分が川に浸かっている。

 

 八重は思い出した。

 薫が無理やりに八重をおぶって、谷底へとむかって落ちたのだ。衝撃を緩和すべく繰り出された技は、十分に守ってくれず、八重(じぶん)は怪我をしたのだろう。

 文句を言いたかったが、それよりも今はともかく寒い。このままでは、凍死しそうだ。

 

 骨折していない左手でどうにか地面を押して、体を持ち上げる。それだけでも息が切れた。

 辺りを見回すと、大きな岩場の影で何かが一瞬光った。

 立ち上がることができなくて、四つん這いになって近寄ると、そこにあったのは刀だった。見覚えのある風切羽を模した鍔。

 

「翔…太郎…」

 

 つぶやいて、八重はおそらく逝ってしまったであろう友を思い、涙を流した。

 口減らずでも、的確に八重の苦手を指摘し、改善するための稽古につき合ってくれた。

 彼との関係は八重にとって、とても心地良いものだった。……薫が来るまで。

 

 もう一度、薫の倒れている方向を睨むように見てから、八重の顔が強張った。

 何かが、動いている。木々の枝がパキパキと折れる音もする。

 熊かなにかだろうか? ゾクリと、背筋に悪寒がはしる。

 森がやけに暗く、不穏に思えた。

 バサバサと鳥が逃げるように四方八方に飛んでゆく。

 

 八重はすぐさま岩陰に身を隠した。翔太郎の刀を抱きしめて。

 

 ザク、ザクと河原の石を踏みしめる足音。やがて止まる。

 

 八重はそうっと岩陰から窺い見て、即座に隠れた。

 現れたのは、あの六つ目の鬼。

 悲鳴をあげたいくらいだったが、喉が痙攣して声が出なくなった。

 

 ブラリと鬼が片手に持っていたのは、人の頭だった。

 口を塞ぎながら、八重はしばらく硬直したままだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 薫は勝母に言われた通りに谷へと落ちてゆきながら、呼吸の技を放った。

 

 

 鳥の呼吸 壱ノ型 鷹隼(ようしゅん)空斬(くうざん)

 

 

 薫の創った呼吸の技の中で、もっとも威力の高いその技は、岩を砕き、地面をえぐって、強力な風圧をつくる。それでも冷たい川の水に体を叩きつけられ、その拍子に薫と八重は離れた。薫は流れていく八重を必死に追いかけて衿を掴み、河原の方へと引っ張って行った。

 ようやく浅瀬までたどり着いて、ゼェゼェと激しく呼吸する。

 眩暈がしていた。吐き気もする。

 落ちたときに、水中の岩にぶつけたのか左肩が痛い。

 

 途切れそうな意識の中で、勝母の言葉を思い出す。

 

 

 ――――― 頼むよ、薫…

 

 

 薫は奥歯を噛みしめた。

 せめて八重だけでも救わなければ。このままでは冷たい川の中で凍え死んでしまうだろう…。

 強張って、握りしめたままだった刀を、どうにか離した。

 衣服が水を吸って重くなった八重の体を、片手で運べるほど、薫の力は残っていない。技の発動と、寒さと、痛みで、力がいつものように出なかった。

 八重の両肩を掴み、川の中から引きずり出す。

 河原の乾いた場所に寝かせて、一息ついてから、刀を取りに行った。

 

 フラフラと歩くその視界は暗い。

 相当に出血しているのかもしれない。

 脇腹の傷はもはや感覚もなかった。

 全身が冷えて凍っているかのようだ。

 

 再び刀をその手に取った…そこで、意識は途絶した。

 

 気付くと倒れていた。

 かすかに瞼が持ち上がる。

 どれほどの時間が経ったのかわからない。突っ伏した顔を横に傾けると、視界の端に曇り空が見えた。雪はいつの間にか止んだらしい。

 

「……久しいことだ…」

 

 低い声が聞こえたと同時に、またドクッと心臓が飛び跳ねた。

 

 薫はハッと目を見開く。

 ボンヤリと霞がかっていた意識を無理矢理に覚醒させた。

 

 鬼だ。

 あの鬼がいる。

 

 勝手に手が震えだした。

 頭の中でキィーンと耳障りな高い音が響いて、一気に痛みが増大する。

 ゴクリと唾を飲みこんで、薫は縋るように日輪刀を握りしめた。今、この時に頼るものは、己の剣しかない。

 

 ブンッ、と振るって起き上がり、鬼と対峙する。

 次の瞬間に目に入ってきたのは、勝母の首だった。

 

「……あ……あ…」

 

 呼吸が乱れて、喘ぎながら薫は膝をついた。

 スルリと日輪刀が手から抜け、石に当たって無情な金属音を響かせた。

 左目を真っ赤にしたまま、絶命した勝母の泥まみれの首が、目の前でブラブラ揺れていた。右目はもはや眼球もなく、暗い穴があるだけだ。

 

 一気に走馬灯が(はし)る。

 

 

 ――――― ずっと待ち望んでいた父の……仇だ…

 ――――― 父をこの手で殺したときに、私は強くなる理由を失った…

 ――――― アンタは昔の私を思い出す…

 ――――― 自らの強さだけを追い求めた剣は、必ず己を蝕む…

 

 

 勝母が伝えてくれた数々の言葉。

 だがそれよりも何よりも。

 

 

 ――――― 私は那霧(なぎり)勝母(かつも)というんだ…

 

 

 初めて会ったときから、勝母の堂々とした佇まいは、それだけで頼もしかった。向けてくれる笑顔は温かで、厳しさの中の慈愛は誰よりも深かった。

 

 その勝母の最期に臨んで、赤く染まった左の目、右目に空いた大きな穴、咆哮をあげそうなほどの迫力のまま凝り固まった面貌に、薫は言葉を失った。

 

 勝母の髪を掴んでいた手が離れ、無造作に薫に向かって(ほう)られる。

 目の前で転がった勝母の頭は、横を向いて止まった。

 右目の周囲から頬にかけて、不思議な紋様があった。

 

「よき…育手であったな…」

 

 なんの感情も含まぬその声に、吐き気がした。

 薫は震える手で勝母の泥のついた頬に触れた。まだ熱の残るその肌。ついさっきまで生きていたのだと、戦いの果てに殺されたのだと、はっきりと実感する。

 

 凄まじい怒りが薫を包み、もはや恐怖を駆逐した。

 顔を上げて、目の前に立っている鬼を睨みつける。

 

 (あか)い光を帯びた、六つの金の目。

 上弦の壱、その名は――――

 

「黒死牟…」

 

 薫は暗い声で唸るようにつぶやく。

 

 黒死牟はしばらく無表情に薫を見ていたが、やがてスゥと目を細めた。

 

「やはり…そうか……」

 

 その声音に、かすかな驚きと、興味深そうな響きを感じて、薫は混乱する。

 

「な…に?」

「忘れたか? あの時もお前は…河原で…死にかけて…いた…」

 

 薫は絶句し、同時に心臓がドクリとまた跳ねた。

 

「……知らない」

 

 我知らずつぶやく。

 ドクッ、ドクッと心臓が鼓動を打つたびに、有り得ない光景が脳裏に浮かぶ。

 

 

 

 ――――― 薫、ごめんねぇ…

 

 泣きながら、薫の首を絞める母。

 川の中に沈み、流れていった自分。

 水面(みなも)から見えた赤い空。

 赤い、(あか)い……空。

 やがて光は遠のき、紺の宵闇が天空を包みゆく中、川を下っていく…

 

 

 

「…知らない」

 

 薫はまたつぶやいた。

 自分に言い聞かせるように。

 今、頭の中で再生していく景色が、自分の記憶でないと、否定するように。

 

 

 

 目を開くと、星があった。

 六つの金の星。

 手を伸ばせば届くほど近くにあるのに、まったく眩しくないのは、その星が(あか)く光っているからだ。

 ボンヤリとした視界に、ユラリと長い髪が揺れて。

 それが母の髪だと思って、細い手を伸ばす…

 

 

 

「……知らない」

 

 無意識につぶやく。

 何を知らないでいるのかも、わかっていないのに。

 

 

 

 ――――― 母ぢゃん…… 

 

 呼びかけると、星は軽く瞬き、笑うかのように細くなった。

 何か声をかけられる。

 そこでようやくそれが星じゃないとわかった。

 あれは…(あか)く…光る……目、だった。………

 

 

 

「河原で…死にかけていた……みすぼらしい…餓鬼(がき)

 

 鬼の…黒死牟の言葉に、薫の視界がグニャリと歪んだ。

 心臓が不規則な鼓動を打って、呼吸ができない。

 胸を押さえながら、必死に黒死牟を睨みつけた。

 

「違う…」

 

 蒼白になった顔で否定する。

 だが、否定すること自体が、記憶していることを肯定する。その矛盾が薫を引き裂こうとして、全身が痛み出す。

 

「汚く…醜い…餓鬼であったが…」

 

 黒死牟の声は、無表情なその顔に反して、面白がっているように思えた。 

 

「生きて…再び私の前に現れたは…奇縁也」

 

 金の目が、また細く(わら)う。

 

 薫は総毛立った。

 決して相容れることのない違和感が、ザラリと皮膚を撫でたかのようで、不快極まりない。

 

「お前など、知らぬ」

 

 言い切ったのは、祈りだ。そうであってほしいという願望だ。

 しかし黒死牟は見透かしたかのように言う。

 

「…母と(たが)えて…連れてゆけと言うたは…そなたであろう」

「……嘘だ」

「忘れたか? 私に…恩義あるを…」

「違う。そんなもの…」

「我が血を与え……生き長らえたものを」

「……!」

 

 一気に喉が干上がり、もはや声も出なかった。

 一瞬にして、その喉に落ちていった(なまぐさ)い血の感触が甦る。

 

 黒死牟は不意に手から何かを放った。

 ぐさりと、肩に刺さったその痛みと熱に、薫は悲鳴を上げた。

 

「その首の老女の日輪刀よ。欠片となっても、よく陽光を吸うた鉄。肉を()く痛みを感じるであろう」

 

 薫はその刀を抜こうとしたが、手に持って力を加えると指に刃が食い込んできて、痛みに思わず手を離す。冷や汗が噴き出し頬を伝った。

 

「気まぐれゆえ…忘れ果てていた…が……よもや鬼狩りとなって、再び(まみ)えるなど……盲亀(もうき)浮木(ふぼく)、とは…この事…」

 

 耳を塞ぎたいくらいだった。

 けれど身動(みじろ)ぎできぬほどに、肩の痛みが増していき、呼吸することすら苦しい。

 

「娘よ…」

 

 黒死牟は恐ろしい言葉を口にしながら、薫の肩から折れた刀を掴むと、造作もなく抜いた。

 薫は呻きながら、その場に倒れ込んだ。

 荒々しく息しながら、ギロリと横目で黒死牟を睨みつける。

 

「誰が…お前など……」

「私を親と縋り、我が血を享けた…。娘同然であろう…。再び会えば、喰らうと約したが……気が、変わった…」

 

 真上から聞くもおぞましいことを言われて、薫は意識が遠のきそうだった。けれど必死で抗いながら、先程落ちた日輪刀を探す。(つか)に触れた途端、薫はギュッと握りしめた。今、黒死牟が近くまで来ているこの時を逃すわけにはいかない。

 呼吸をどうにか整え、振り上げようとした刹那 ――― バキリと踏まれて、呆気なく日輪刀は折れた。

 

 薫は目の前が暗くなるのを感じた。

 これでもう、何もできない。

 

「再び……試そう…」

 

 黒死牟は薫の日輪刀から足を離すと、自らの親指の爪で人差し指の先を刺した。

 フツリと血が玉となって指先に丸く溜まる。 

 

「この(のち)三度(みたび)の邂逅を果たした…その時…あの方に、お前を鬼としてもらおう…」

「ふざ……け…るな…」

 

 喘ぎながら、薫はギロリとその六つの金の瞳を睨みつけた。

 しかし黒死牟は無表情に薫を見下ろすのみだ。

 

「鬼狩りとして…逆らうなら……喰らうまで」

 

 抑揚のない声で言いながら、人差し指を薫の傷ついた肩の上へと持っていく。

 ペトリ、と落ちた血の感触に、薫は慄えた。

 血の中にある()()()()()が、湧き立つように蠢く。確実に自分の中の()()を感じた。

 

 考える暇などなかった。

 最善の道は一つしかない。

 

 薫は折れた刀の、まだ柄に残る刃を首に押し当てた。

 血が迸り、河原の石に赤く飛び散る。

 

「誰が……鬼…に…など…」

 

 切れ切れにつぶやいた怨嗟にも、黒死牟の表情は揺らがない。

 かすかに苛立ちを含んだ吐息が聞こえたような気がしたが、薫の意識は急速に閉じられた。

 

 黒死牟はその場に立ち尽くしていた。

 ふと手を伸ばしたのは、薫を喰おうと思ったのか、それとも連れて行こうと思ったのか、自分でもわからない。

 しかし、その時に雲が途切れて、切り立った断崖に日光が差すのが見えた。

 一気に本能的な恐怖が足元まで這い寄ってくる。

 黒死牟は踵を返すと、森の影へと逃れた。

 

「救援ッ! 救援ッ!!」

 

 入れ替わるように、切迫した祐喜之介(ゆきのすけ)の鳴き声が響く。

 導かれて河原の道を走ってきたのは実弥だった。

 

「薫ッ!!」

 

 悲鳴に近い叫びが山峡に(こだま)した。

 

 

 

<つづく>

 




次回は2023.06.10.更新予定です。


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第四章 深淵(一)

「薫ッ! オイッ!!」

 

 血まみれで河原に突っ伏している薫を見るなり、実弥はその首に当てられた刀を忌々し気に取り払った。持っていた止血用の(さら)しで傷口を押さえ、気道を塞がないように手で圧迫する。

 

 ギリッと奥歯を噛みしめて、後に続いて来ているはずの律歌を呼んだ。

 

房前(ふささき)ッ! 早く来いッ!!」

「あんたが早過ぎなんでしょお…」

 

 文句を言いながらやって来た律歌(りつか)は、薫の姿を見るなり一瞬、棒立ちになった。

 けれどすぐに走り寄ってきて、薫の胸に耳を当てる。

 弱々しいながらも、鼓動を感じると、ホッとした顔になった。それからすぐにテキパキと診察しながら処置していく。

 

「脇腹もやられてるわね…首の傷は……深くはないわ。この分だとすぐに縫合(ほうごう)すれば…」

 

 話している間にも、翔太郎の鴉によって(しら)せを受けていた隠たちが、わらわらと走ってくる。

 

「このままあんたは薫を運んで。おっ母様に言って輸血の準備を…」

 

 言いかけて、律歌はふと、倒れた薫から少し離れた所に転がっているものに気付いた。

 岩陰に隠れてさっきまで見えなかった()()()()を見て、律歌はそのまま硬直する。

 実弥は怪訝に律歌の目線の先を見やって、同じように固まった。

 

 そこに勝母の首が落ちていた。

 石の間に転がって、傾いた顔。

 赤く(こご)った目は、それでもまだ何かを睨みつけているかのようだ。……

 

「嘘…」

 

 律歌はボソリとつぶやいた。「嘘、嘘…」と唱えながら、ほとんど這うようにして首へと近寄る。

 震える手で、そうっと泥で固まった髪に触れると、一気に涙が溢れた。

 

「おっ母様!! 嫌! どうしてッ!?」

 

 律歌の悲鳴に切り裂かれたかのように、雲が千切れて、朱色の光が勝母の頭を照らした。

 その場に駆けつけた隠たちも、長らく彼らを指導してきた元花柱の突然の死に呆然とする。

 サラサラと流れる川の音と、欷歔(ききょ)する声に沈みそうになった彼らに、実弥の怒号が響いた。

 

「やることやれッ! 生存者の救護を優先しろッ!!」

 

 隠たちは風柱の言葉に、ハッと我に返ると、あわてたように作業を開始した。

 

「こちらにも生存者います!」

 

 隠は岩陰に隠れて、固まっている八重(やえ)を見つけた。大丈夫か? と問われても、八重はあまりの恐怖の連続で、声がでなくなっていた。

 

 律歌もまた、実弥の叱責に自分の役割を思い出した。

 

 唇を噛みしめて、そっと勝母の顔を空に向かせる。

 右目は刀で刺されたのか、暗い穴が虚無を覗かせている。

 律歌は開ききったままだった左の瞼を下ろした。

 そばにいた隠の一人が、懐から手拭いを出して、勝母の顔に被せた。

 

「ありがとう」

 

 律歌は礼を言うと立ち上がった。

 

「薫を最優先にする。不死川、一緒に来て。輸血が必要だわ」

 

 手短に言って、律歌はその場のことを隠に任せると、担架に乗せられた薫と一緒に山を下った。

 勝母亡き今、療養所で手当をできるのは律歌(じぶん)だけだ。

 

 

◆◆◆

 

 

 百花(ひゃっか)屋敷に戻ってきて、律歌はすぐさま薫の首と脇腹の縫合を行った。

 麻酔もなしだったが、薫は昏睡状態にあるのか、痛みで意識が戻ることはなかった。

 濡れた隊服は既に手術前に切り裂いて取り除けてしまっていたので、薄物の長襦袢(ながじゅばん)だけを着せる。

 

「さて…」

 

 律歌はしばし考えてから、傷口に障らないよう薫を横向きに寝かせた。

 こういう時のためにと勝母が外国から取り寄せた、特に温かくて軽い羽毛の掛け布団を被せると、襖を開けて実弥を呼んだ。

 

「首の傷はそんなに深くなかったけど、出血はひどいわ。やっぱり輸血が必要だから、お願い」

「わかった」

 

 すぐさま腕をまくって、薫の隣に腰をおろした実弥に、律歌は付け加えた。

 

「あぁ、悪いけど一緒に寝て」

「はァ?」

「わかるでしょ? 出血多量で、しかもあの冷たい川に浸かってたのよ。体が冷えてるの。温める必要があるのよ。だから一緒に寝てやって」

「な…ば…馬鹿言えっ」

 

 狼狽する実弥に、律歌は眉をひそめる。

 

「なに恥ずかしがってんのよ? 助けたいんでしょ」

「それは……じゃあ、温めるのはお前がやれよ。俺は血はやるから!!」

「アンタふざけてんの? 私は忙しいのよ。薫だけじゃない、八重だって怪我してるみたいだし、薫と同じように体が冷えてるなら、温めてあげないといけないの! 翔太郎の行方もわからないし…」

「他に、女いねぇのかよ!?」

「いないわよ! 来てる隠も男しかいないし。だいたい、鬼殺隊に女が少ないことくらい、柱だったら十分に知ってるでしょ! そんなに嫌なら、他の男に頼もうか? アンタ目の前で輸血しながら、他の男に温めてもらう薫見ておくの!?」

 

 実弥は黙り込んだ。

 そんなことを想像するのも無理だった。

 

「輸血も必要だし、保温も必要なの。四の五の言わずに、とっととやれッ!!」

 

 律歌の剣幕は、勝母を彷彿とさせた。

 かつて稀血で鬼をおびき寄せるために、自らの体を傷つけていた実弥を、一刀両断にどやしつけた。……

 

 

 ――――― そんなモンを利用しないと鬼を()れないようじゃ、鬼狩りとしちゃ三流どころか外道だね! この馬鹿ガキが!

 

 

 あの婆さんがいたら、同じように叱りつけられていたことだろう。ついでにドッスリと重い平手で背中を打たれたかもしれない。

「シャッキリしな!」と。

 

 しかしのんびりと回想している暇はなかった。

 律歌は無理やりに実弥の上着を脱がせると、眠っている薫の隣に寝るよう指示…というより、命令する。

 薫は横を向いて寝かされており、その背中側に実弥は逡巡しながらも横になった。

 

 律歌は輸血の準備をするために少しその場を離れていたが、器具を持ってきて、()()()()()に寝ている実弥を見て、頬をひくつかせた。

 掛け布団をガバッと取って、大声で怒鳴りつける。

 

「いつまで恥ずかしがってんだーッ! そんなんで温められるかあッ! 雛鳥抱く親鳥みたいに、抱きかかえなさーいッ」

 

 大声でわめきながら、ゴロリと実弥を半回転させると、無理やりに薫の腕の上に実弥の腕を被せるように乗せる。

 

「おいッ! これ…」

 

 反論する実弥の目の前に、律歌は注射針を閃かせた。

 

「動くな。寝ろ。このまま輸血する」

 

 平坦で無機質な声音は、いっそ怖かった。

 押し黙ると、すぐさま腕に針が刺される。

 

「ちょっと、動かないように薫の手首握ってて」

 

 律歌は次から次へと、無理難題を注文してくる。

 実弥は必死で心の中で『治療、治療』と何度も唱えながら、薫の手首をそっと握った。

 

「…………」

 

 おそろしく冷たい。ゾクリと寒気が背筋を這う。

 

 律歌は薫の手首にも器用に針を刺した。

 管に血が通っていくのを確認すると、当然のように言った。

 

「動いたら駄目だから、そのまま握っててよ」

「え?」

「なによ?」

「………」 

 

 こうなるともう動けない。

 ひたすら早く終われと念じる実弥に、律歌はバサリと布団を被せながら無情に言った。

 

「輸血自体は、そう時間かからないけど、終わっても体温が戻るまでは抱いておいてあげてね」

「はぁ? 冗談…ッ」

 

 思わず声をあげる実弥に、律歌は即座に聞き返す。

 

「な・に・よ?」

「…………」

 

 勝母とはまた別の、静かな剣幕が怖い。

 返事をしない実弥を、律歌はじーっと見てボソリと言った。

 

「……やらしーこと考えないように」

「当たり前だッ!」

「ハハッ! じゃ、頼んだわよ」

 

 ヒラヒラと律歌が手を振って出て行った後、実弥は歯噛みした。

 なんだかんだでうまく丸め込まれた気がしなくもない。

 それでもさっき、薫の手首を握ったときの冷たさを思うと、律歌がふざけているわけでないのはわかる。

 

 実弥は自由のきく方の手で薫の額に触れてみた。

 さっき手首を掴んだとき以上に、もはや凍っているのかと思える冷たさにゾッとする。

 

 ――――― 冗談じゃない…

 

 途端に焦り出す。

 

 律歌にしつこく言われても、薄い長襦袢だけの身体(からだ)には触れないように添わせるだけだったのを、思いきってくっつくと、本当に冷え切っていた。

 

「クソ…馬鹿が…」

 

 それこそ背後から抱きかかえるように、寒さに震える鳥を(いだ)くように、そっと温める。

 血がゆっくりと管を伝っていくのを感じながら、実弥は薫を見つけたときのことを思い返していた。

 

 確かに首に刃を当てていた。

 それも自分の手で。

 つまり……自死をはかっていた、ということになる。

 

 実弥は険しい顔になり、唇を噛みしめた。

 

 いったい、何があった?

 

 これまでにも薫にとってつらいことは幾つもあった。

 養父母の死から始まって、仲の良い同僚の死、師匠の死、そして……匡近の死。

 

 鬼殺隊にいる限り、死は隣り合わせにある。

 それでも自ら死を選ぶことだけはしなかったはずだ。

 歯を食いしばって、残された者の責務として、生きることから逃げたりしない。

 そういう奴だったはずだ。

 

 実弥はまだ湿っている薫の後頭部を見ながら、ふと薩見(さつみ)邸で泣いていた姿を思い出した。

 

 

 ――――― 匡近さん。どうして…いないんですか?

 

 

 ズキリと胸が痛む。あのときと同じように。

 ここに匡近がいてくれたら…と痛切に思う。

 自分では慰めることなどできない。傷ついた薫の心を癒すことも…できない。

 

 

 ――――― あなたに何がわかるんですか!

 

 

 悲痛な叫びに、何も言えなかった。

 今まで自分が薫のためだと思っていたことが、薫にとってはすべて棄てられたも同然の仕打ちだったのだと、ようやく気付く。

 でも、もう遅い……。

 

 

 ――――― 一緒にいよう…って、手を伸ばしてくれたら…

 

 

 あえかな声で訴えた薫の、希望の絶えた白い顔。

 

 ずっと昔、川べりを歩く薫が、死人のように何の感情もない目で、川の流れを見ていた姿が重なる。

 

 あのときからずっと、気付いていたはずなのに。

 目の前の大人びた顔をして笑う少女が、本当はひどく傷ついているのだと。

 幼いながらに何度も繰り返された別離の中で、少しずつ自分を削られて、息絶えそうになりながら生きてきたことを。

 

「………」

 

 かすかな溜息とともに、実弥は冷たい薫の肩に顔を埋めた。

 

 後悔しかない過去の日も、この先も、実弥には自分がどうするべきなのか、わからない。

 

 ただ、今は……

 

「生きろ…頼む」

 

 祈り、念じて、薫の身体(からだ)を包む。

 

 自分の血も、熱も、今は腕の中にいる彼女のためだけにある。……

 

 

 

<つづく>

 





次回は2023.06.17.更新予定です。


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第四章 深淵(二)

 (かおる)は、たゆたっていた。

 

 ゆっくりと川を下り、徐々に夜へと消えていく夕焼け空を見ている。

 水面越しの朱の空。間近に揺らめき、遠くに広がる。

 浮かぶ雲は黄昏の空に黄金に煌めいていた。

 

 母は言った。

「あそこに父ちゃんがいるよ」と。

 

 あの美しい雲の峰の先の先に。

 顔も覚えていない父がいるのだと。

 

 だから……

 

「一緒に……行こうね」

 

 そう言った母の顔は笑っていた。赤い夕陽に照らされて、頬を伝う涙が光っていた。

 

 

 

 

 女中頭の言いつけで干してあった襁褓(むつき)を取り入れ、一枚一枚、丁寧に火熨斗(ひのし)をあてて乾かし、きちんと畳んで持って行く。その後は特にほかの用事も言われなかったので、薫はそっと屋根裏の自分たちに与えられた部屋に戻った。部屋といっても、使わなくなった長持や文机など置いてある物置の隅に、起居することを許されたという程度のもので、年中埃っぽく、光も差さない。

 

 病気でほとんど寝たきりだった母が、珍しく起き上がっていた。

 

「母ぢゃん…! 大丈夫?」

 

 あわてて薫が駆け寄ると、母は笑って頭を撫でた。

 

「大丈夫、大丈夫。ごめんねぇ。あぁ…こんな冷たい手ぇして。可哀相に…」

 

 そう言って、冷たくなった薫の手を包んでハー、ハー、と吐息で温めてくれる。薫は少しくすぐったくて、笑った。

 

「くすぐってぇ…」

 

 母は微笑みながら薫の手を離すと、どこかうつろな顔で問うてきた。

 

「薫…つらくない?」

 

 薫は首をかしげた。

 問いかける母こそ、つらそうだ。

 だからニッコリ笑って言った。

 

「つらぐね! 母ぢゃんがいる!」

 

 母はしばし固まってから、ハラハラと涙を流した。

 薫は自分がいけないことを言ったのかと、急に不安になる。

 母は薫を抱きしめて、しばらく静かに泣くばかりだった。

 

「母ぢゃん…つれぇ?」

 

 薫は尋ねた。

 病気でつらいのはわかっていたが、薫は毎日、母のために歌をうたったり、蜜のある花を摘んで吸わせたりして、その度に母が笑顔になってくれるので、少しは嬉しかろうと思っていたのだ。

 けれどやはり母は苦しくて、つらいのだろうか?

 

 母はじっと虚ろな顔で薫を見ていた。

 ややあって、ニコリと笑う。

 

「つらくないよ…」

 

 薫の頬にやさしく触れながら、母は言った。「寂しいだけだよ」

 

「寂しい?」

(とと)がいなくて、薫も寂しかろ?」

 

 薫は全然そんなことはなかった。

 薫が物心つく前に亡くなった父だ。不在は当たり前で、今更寂しいなんて思わない。

 

 けれど、今の母に「寂しくない!」と言い切ったら、なんだかとても悪い気がした。

 きっと、母が傷つくような気がした。

 どう答えればいいのかわからなくて、黙ってうつむく薫の頭を、母はまた優しく撫でた。

 

「可哀相に……」

 

 病気になって寝たきりになってからは、母はよくこの言葉をつぶやいた。

 薫は否定したかったし、たまに「そんなことない」と言ってみたりもしたが、母を元気づける言葉にはならなかったようだ。

 

「母ぢゃん…」

 

 薫が途方にくれて呼ぶと、母がコンコンとつらそうに咳をした。

 すぐに背中に回り込んで、一所懸命に母の背をさする。

 もうほとんど食べなくなった母の背は、痩せて、骨ばっていた。コン、コン、と咳き込むたびに、骨が動いて皮膚を破いてしまいそうだ。

 

 ようやく咳が止んだとき、母の顔はまた一層暗く、落ち窪んだ瞳の表情は見えなかった。

 

 いきなり、腕を掴まれる。

 薫はびっくりした。

 母はこんな力がまだ残っていたのが意外なくらい、強く薫の腕を掴んでいた。

 

「…おいで」

 

 切迫した短い言葉。

 返事をする前に母はよろけながら立ち上がる。

 薫はあわてて支えてやった。

 久しぶりに立って、母は歩き出した。

 

「母ぢゃん、大丈夫?」

 

 薫は何度も聞いたが、母は返事をしない。

 ゆっくりと、それでもきっと母にとって精一杯の力で歩いて行く。

 急な階段を降りることも厭わない。

 

「母ぢゃん…どこ行くの?」

 

 薫が尋ねても母は答えない。

 薫はしばらく考えてわかった。

 川向こうにある、お社が一つあるきりの小さな神社。滅多と人が来ない寂れた神社だったが、母は暇が出来ると、そこに薫を連れて行って遊ばせてくれた。

 

 逢魔が刻の夕の暮。

 店の人間は作業場から帰ってきた男衆の世話に忙しくて、薫ら親子のことなど見えていても、気にかけもしない。穀潰しの厄介者の親子が出ていくなら、出て行けとばかりに無視を決め込む。

 通りを過ぎる人々も家路に向かうのに忙しく、乞食同然の親子のことなど目に入りもしない。

 

 母は河原に降りていく。

 そこで薫は首を傾げた。

 

 神社に向かうのじゃなかったの?

 

「薫、あそこ…」

 

 母は空に浮かぶ雲を指し示すと、振り返ってようやく笑った。

 

「あそこに、(とと)がいるんだよ」

「………お空?」

「そう。空の、雲の重なる先に、待っててくれてる」

「ふんだら、空飛べだら行げるがなぁ?」

 

 薫の無邪気な答えに、母は微笑んだ。

 

「空を飛べなくても、いけるよ」

「どうやって?」

「………おいで」

 

 母はまたうつろな顔になり、薫の手を引いて川へと向かう。

 

 茂る(よし)を掻き分けて進み、開けた場所に出ると白い石が続いていた。

 広い河原だ。

 梅雨時には水に覆われる場所だったが、今は中程をそれでも滔々と流れている。

 川べりに立つと、向こう岸は遠い。さすがに泳ぎの得意な子供であっても、むやみに飛び込んでいい川幅ではない。

 

 薫は母が川に入っていこうとするので、あわてて止めた。

 

「母ぢゃん!」

 

 大声を出した薫の唇に、母は指を押し当てる。

 

「大丈夫。薫、ここを渡ったら…この川を渡ったら、(とと)に会えるんだよ」

「………」

 

 薫は途端に不安になった。

 逃げ出したかったが、寂しい顔の母を置いてはいけない。

 

「もう…冷たいよ」

 

 晩秋の川の冷たさは、十分に知っていた。

 毎日、お襁褓(むつ)を川で洗っていたから。

 母が川に入ろうとするのを止めるために言ったけども、母は弱々しく笑って言った。

 

「大丈夫。入るときに、ちょっとだけ…冷たいだけ」

「母ぢゃんは…(とう)ぢゃに会いたいの?」

 

 母はじいっと薫を見つめ、また涙を流しながら頷いた。「うん、会いたい」

 

 薫は母を見つめ返した。

 

 寂しくて、悲しくて、毎日泣いて、泣いて、疲れ切ってしまった母。

 可哀相な母と可哀相なじぶん。

 きっともうここには、じぶんたちの場所はないのだ……。

 

 薫は唇をかみしめてから、無理やり笑った。

 

「わかった」

 

 頷くと、母の顔がかすかに微笑む。

 

「一緒に…行こうね」

 

 

 それでも川の水は冷たくて、薫はやっぱりすぐに後悔した。

 

「母ぢゃん、帰ろう!」

 

 必死に言うが、母は川の中程まで無理矢理に薫を引っ張っていく。

 

「母ぢゃん、寒いよ。冷たいよ…帰ろう」

「ごめんね…」

 

 掠れた声でつぶやいた母の顔は、赤い空を背にして翳り、暗かった。

 急に首を掴まれたかと思うと、ザブリと川の中に押し沈められる。 

 

「母ぢゃ……」

 

 ゴボゴボと水の中で息ができなくて、必死で母に手を伸ばす。

 

「ごめんねぇ…ごめんねぇ…薫」

 

 母は泣きながら謝っていた。

 苦しげに歪んだ顔はすっかり痩せ細って、やさしく美しかった頃の面影は微塵もない。

 

「……ひとり置いていったら…アンタも…寂しかろ…。お願いじゃ…苦しまんで……いって……」

 

 震える声が妙に間近に聞こえた。

 薫は自分の首を絞める母の腕を掴んでいたが、その手をそっと放した。

 

 わかっていた。

 母が薫を愛してくれていることは。

 だから自分も心に決めたのだ。

 母を悲しませることはしないと。

 病で体が弱り、心も弱っていった母を、これ以上追い詰めたくはなかったから。

 

 ゆらゆらと、水面を通して母の背中の向こうに広がる茜色の空を見つめた。

 

 苦しくない。

 苦しくない…。

 苦しい顔をしたら、母が悲しむ。

 もう十分に母は悲しんで生きてきたから、自分だけは母を悲しませたくない…。

 

 水面越しに見える薄暮の空。

 美しい。

 綺麗。

 一生懸命、気を逸らそうとしたけど、そうやって苦しさから逃れようとしたけど、駄目だった。

 

 ゴボッ!

 

 肺に入る水の苦しさに、顔がゆがむ。

 

『助けて…!』

 

 声にならない叫びを母は聞いたのだろうか。 

 

 ハッと顔を強張らせると、母は薫の首から手を離した。

 驚き、放心する母。

 もはや涙も涸れ果てて、ただただ虚ろな顔で薫を見つめていた。

 

 それが、薫の見た母の最期の姿だった。

 

 薫はゆっくりと…川を下っていった。

 母がどこに行ったのか…探す力もない。

 

 ちゃぷん、ちゃぷんと耳元で撥ねる水の音。

 

 揺らめく黄昏の空は遠く、父のいるという雲の峰々は金色に輝きながら、徐々に夜の中へと消えていく。

 

 綺麗だな…と思った。

 きっと自分もあそこに行けるんだと思った。

 

 あぁ、そうか。

 母の言ったことは本当だったんだ…。

 

 その時になって、やっと、わかった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「………」

 

 何か聞こえた気がする。

 実弥(さねみ)はやや眠気の訪れつつあった目を(またた)かせた。

 

 起きた…か? と、そっと背後から窺うが、薫が目を覚ました気配はない。相変わらず、息しているのかと疑いたくなるくらいに、しずかな呼吸音が聞こえるだけだ。

 

 既に輸血は終了していたが、律歌(りっか)は注射針をとった後も、このままの体勢でいるようにと()()してきた。

 

「……女の隠とか呼べよ」

「今更なに言ってんのよ。あんただって、輸血の後なんだから安静にしておかなきゃいけないんだし、ちょうどいいじゃないの」

「これのどこが安静…」

 

 実弥が渋い顔でつぶやくと、律歌は腰に手を当てて傲然と言った。

 

「安静でいられないのは、アンタの精神修養が足りないからよ」

 

 実弥は吐息をついた。もはや何を言っても無駄だ…。

 

 すでに障子の向こうに光はなく、夜になっていた。

 まだ他にも救護者がいるのか、バタバタと走り回っている足音が聞こえてくる。

 

 勝母(かつも)のあの姿を見たときには相当動揺していたが、忙しい状況は律歌にはむしろ救いであるようだ。勝母の分も頑張らねばならないと、必死で己を鼓舞しているのだろう。

 

「母ぢゃ……」

 

 小さく震える声に、実弥は体を起こした。

 しばらく見ていると、薫の瞼がかすかに震えて持ち上がる。

 

「起きたか?」

 

 実弥の問いかけにも、ぼんやりとして聞こえているのかわからない。

 

「母ぢゃ…連れて……って」

 

 ひどく哀しそうな言葉は、小さく、弱く、響いて…しずかに涙が零れ、目は閉じた。

 

 実弥は薫の頬を伝う涙を指で拭った。

 まだ、冷たい。

 

 軽く吐息をもらしてから、再び横になる。

 思いきって薫を抱きしめて目をつむった。

 この状況から逃れられない以上、一番得策なのは、寝ることだ。幸いにもけっこうな量の輸血をしたせいか、横になって目をつむると、徐々に睡魔がやってくる。

 

 ふと懐かしくなった。

 そういえば、昔はこうやって弟妹たちと抱き合いながら寝たものだ。

 

 そんなことを考えながら寝たからだろう。

 

 夢の中で実弥は久しぶりに弟妹たちと一緒に寝ていた。

 玄弥、寿美、弘、貞子、就也、こと……一人ひとりの姿を確認して、最後に出会ったばかりの頃の、少女の薫を見つける。矢絣模様のリボンをつけたまま、すぅすぅと気持ちよさそうに眠っている。

 

 不思議と、実弥は自然に受け入れた。

 安らかな薫の寝顔を見ながら、夢の中でも眠った。

 

 

 

<つづく>

 





次回は2023.06.24.更新予定です。


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第四章 深淵(三)

 薫の夢は続いていた ―――――

 

 

 ちゃぷん。

 

 水の撥ねる音で薫が再び目を開いたときには、辺りはもうすっかり夜になっていた。

 背中にゴツゴツとした石の感触がある。

 いつの間にか浅瀬にきていたらしい。

 起き上がろうと思えば、起き上がることはできたのだろうか。けれどその気力は、とうに失われていた。

 いっそあのまま流れ流れて、沈んでしまえばよかったのに…。

 

 半身は水に浸かったまま。

 耳元でちゃぷん、ちゃぷんと水の音がする。

 入るときには冷たくてたまらなかったのに、今はもう何も感じない。

 

 母はどこに行ったのだろう?

 

 ボンヤリと考えるけれど、頭に思い浮かべる母の顔は霞んでいた。

 父のところに行ったのだろうか?

 黄昏(たそがれ)の雲の峰の向こうに…。

 

 茫とした目に映るのは濃紺の空。

 今日は晴れていたから、星が綺麗だ。

 白い星、橙の星、青い星……

 

 ふと…ザリ、ザリ、と河原の石を踏みしめる音がした。

 星空が急に翳ったかと思うと、星が六つ、闇の中に浮かんでいる。

 不思議な星だ。

 金色なのに、(あか)く仄かに光っている…。

 

「あ……」

 

 とても近くに見えたから、薫はその星に向かって手を伸ばした。取れるんじゃないかと思ったのだ。

 するといきなりその手を掴まれて、ザパリと引き揚げられた。

 そのまま造作もなく河原に放り出され、薫は小さく呻いた。

 

 痛みに顔をしかめながら、自分の手を掴んだらしい人の姿を視界の端に見つける。

 長い黒髪が風にたなびいていた。

 

「母ぢゃ……」

 

 体をひねって、手を伸ばした。

 震える声で必死に呼ぶ。

 

「母ぢゃ……連れてっ…て……今度…は…苦しまね…から……連れでって……」

 

 懸命に頼み込んだ。

 きっと…あのとき苦しい顔をしたから、母は自分を置いていってしまったのだ。

 今度は最後まで絶対に苦しい顔はしない。

 耐えてみせるから……連れてってほしい。

 一人にしないで……。

 

 そこで、記憶は一旦途切れている。

 

*** * ***

 

 急に色を失くした景色は、薫の脳に刻まれた覚えなき記憶。

 不快な音がずっと耳朶を震わせている。……

 

 

「私を……母と(たが)えるか……」

 

 低い声には、なんの抑揚もない。

 薫を見下ろす金の目がすぅ、と細くなる。

 

「哀れな……醜き餓鬼が……」

 

 言葉には何の感情もない。

 

 ザリ、と河原の石を踏みしめる音。

 ぼやける視界の中に、伸びた爪。

 爪の先から、一滴の血。

 それだけが(あか)く色づいて。

 ゆっくりと落ちてくる。

 

 ポトッ。

 

 唇に跳ねた血。

 わずかに開いた口の中に垂れて、ねっとりと喉を伝って胃の腑へと落ちていく。

 

「餓鬼よ…」

 

 気の所為(せい)か、どことなく(たの)しげにも聞こえる声。

 

「鬼の…気まぐれで…生き延びた……なら…」

 

 ザリ、とまた石を踏む音。

 

 遠ざかる気配のなかで、確かに聞こえた。

 

「再び()うたとき…お前を…喰ろうてやろう」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 実弥はハッと目を覚ましてから、自分がすっかり寝入っていたことに気付いた。

 素早く今の状況を確認すると、薫がいつの間にかこちらを向いて自分の腕の中で眠っている。

 間近に薫の顔があって、実弥は焦った。

 あわてて飛び起きようと体を動かすと、薫が顔をしかめる。

 

「あ…ぁ……」

 

 喉を絞められたかのような、苦しげなうめき声が漏れたかと思うと、いきなりひどく咳き込んだ。

 実弥は驚きながら身を起こすと、丸くうずくまった薫の背をさすった。しばらくさすっていると、徐々に咳は止んだが、激しく肩を上下させていた。

 

「……起きた…か?」

 

 問いかけるが返事はない。

 ややあって「薫…」と呼びかけると、薫はゆっくりと身を起こし、重たげに顔を上げた。

 助けたときよりは血色は戻っていたが、やはり顔色は悪い。

 

「私……」

 

 かすれた声でつぶやく。「生きて…?」

 

「あぁ」

 

 実弥はいつものようにぶっきらぼうにならないように、なるべく優しい声音で頷いたが、途端に薫は慄然として固まった。

 

「う……う…」

 

 また苦しげにうめいたかと思うと、両手を首に持っていく。巻かれた包帯に触れ、急に激しく首を掻き毟った。

 実弥はすぐに薫の両手を掴んだ。

 だが薫はさっきまで気を失っていたとは思えぬほど、強い力で抗う。

 

「馬鹿! やめろ!!」

 

 実弥は怒鳴りつけたが、薫は「ううーっ」と獣のような唸り声をあげて抵抗する。

 しばらく抵抗して両手の自由がきかないとわかると、虚脱したように宙の一点を見つめた。

 

「おい……」

 

 実弥は嫌な予感がした。

 ギュッと掴んだ両手に力を込めて声をかける。

 

 だが薫は震える口をおもむろに開いていく。

 血の気のない唇から、赤い舌が見えた瞬間に、実弥は理解した。

 

「やめろッ!!」

 

 叫びながら、舌を噛もうとする薫の口を塞ぐ。

 ゴツリ、と額がぶつかった痛みと、薫の歯で噛まれた舌の痛みに、顔をしかめた。

 

「…()ッ!」

 

 薫はすぐに実弥の舌を離して、飛び退(すさ)った。

 

 実弥の血が布団や、薫の着ている長襦袢の衿に点々と落ちていた。

 薫は自分の手の甲に落ちたその血を見て、ブルブルと震えだした。

 

「違う……違う…私は……」

「薫…」

 

 実弥が声をかけると、ビクリと顔を上げて、怯えたように見つめてくる。

 見る間にその瞳に涙があふれ、頬をつたった。

 

「違うの……ちが…」

 

 一体何に狼狽しているのか、薫の様子は明らかにおかしかった。

 実弥は一旦薫の手を離し、唇を垂れる血を拭ってから、軽く息をついた。

 

 あの河原で薫を見つけたときのことを思い返す。

 やはり、自死しようとしていたのか ―――― 。

 

「落ち着け。たいして切ってねぇ…」

 

 なんでもないように言って、実弥は手を伸ばす。

 また、首に持っていこうとしている薫の両手をそっと掴んだ。

 

「やめろ。頼むから……こんなこと、やめてくれ」

「……駄目なんです」

 

 ポトリ、と薫の涙が実弥の傷だらけの手に落ちた。

 

「私は……死なないと…」

 

 いつもの薫からは考えられないほどに弱々しい声。

 

「死ぬな!」

 

 実弥は怒鳴りつけると、薫を抱きしめた。「絶対に死ぬな…」

 

 そう言う実弥の声も震えていた。

 

 薫が死ぬ ―――?

 

 考えるだけでも、息が止まりそうだ。

 その想像は、篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)の家で薫に再会したときから、絶えず実弥を悩ませ、怒らせた。血が凍りつきそうなほどの悪夢だった。

 

 より強く抱きしめたのは、薫が勝手に消えていきそうだったからだ。

 胸の中で薫は泣いていた。

 いつの間にか痩せた肩が細かく震え、かそけき嗚咽が薄暗い部屋に響く。ダラリと垂れていた右手が、そっと遠慮がちに実弥の背を掴んだ。

 

 何度目になるのだろう。

 薫がこうして声にならない『助け』を求めるのは。

 

 実弥は唇を噛みしめた。

 

 結局自分はどうしたいのだろうか。

 薫が望むものと、自分が望むものが重なることなどない。

 実弥は薫の幸せを願っていても、そこに自分はいない。

 鬼狩りとして生きる以上、差し伸ばされた手を振り払うしかないのだ。

 

 だが今、この手を離したら、薫は今度こそ永遠に実弥の前から消えるのだろう。

 しかも、自殺なんていう愚行を選んで。

 

 一体、何があった?

 どうして、そんな救いのない選択をする?

 

 問いたかったが、今の薫はすっかり理性を喪失している。なにかに怯えきっているようだった。

 

「もう少し……眠れ」

 

 実弥はトントンと優しく薫の背を叩きながら言った。

 昔、泣いていた弟妹たちをあやしていたときのように。

 

 正解が見えない。

 

 ただ、眠りにつくまで、そばにいてやりたかった。

 一人じゃないのだと、安心させてやりたかった。

 

 どれくらい経ったのか…。

 

 実弥の背を掴んでいた薫の手が、力を失って落ちた。

 ゆっくりと腕の力を緩めて、再び眠りについた薫を見つめる。幾筋もの涙の跡に、髪の毛が貼り付いて固まっていた。そっと取り除けて、布団に寝かせ、穏やかな寝息を確認する。

 

「……一緒に…」

 

 言いかけたときに、カツリと縁側で音がした。

 カァ、となるべく寝静まった周囲に注意したような鴉の声。

 実弥はすぐさま立ち上がって障子を開いた。

 

「任務ゥ……東の都に戻れェ…」

 

 いつもなら返事するのも惜しいくらいの勢いで飛び出すだろうに、そのとき実弥は動けなかった。

 

 結局、こうなる。

 

 一緒にいたいと願っても、今、この時にどれほど離れがたくとも、自分は鬼狩りで、柱で、任務は何よりも優先される。

 母を殺したその日から、玄弥から母を奪ったあの日から、ひたすらに鬼を殺すことだけが、自分のいる意味だ。それ以外の意味を欲したくなかった。

 

 実弥は上着を着て、日輪刀を腰に差した。

 

「……仕事?」

 

 縁側から声をかけてきたのは律歌(りつか)だった。こちらもほとんど寝ずに仕事をしていたらしい。目の下に隈ができていた。

 

「あぁ…」

 

 実弥はそのまま行こうとしたが、律歌がズイと四角い風呂敷包みを出してくる。

 

「汽車の中で食べておきなさい。血が足りなくなって、任務中に倒れられたら、私が怒られちゃうわ」

 

 実弥は正直食欲もなかったが、受け取りながら言った。

 

「アンタも無理するなよ」

「ご心配なく。私は頑張る程度をわきまえてるの。倒れるほどに自分を酷使したりしません」

 

 少しだけ実弥は頬に笑みを浮かべた。

 律歌は勝母(かつも)亡き今、もっとも傷つきながら、その嘆きの中で沈むことはない。この頼もしさもまた、常日頃行動を共にするうちに、勝母から受け継いだのだろうか。

 

 一歩踏み出してから、実弥は振り返った。

 部屋で眠る薫をしばらく見つめる。

 

「薫のことなら、ちゃんと見ておくわ」

 

 律歌が汲み取って声をかけてくる。それでもすぐに動けなかった。

 

「あぁ……頼む」

 

 そう言うしかない自分がひどく苛立たしかった。

 それでも自分は行くしかない。

 

 うっすらと白み始めた空に有明の月が光っていた。

 

 

<つづく>

 





次回は2023.07.01.更新予定です。


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第四章 深淵(四)

「なんや、なんや。えらいせわしないなぁ…」

 

 宝耳(ほうじ)は普段とは違い、妙に張り詰めた百花(ひゃっか)屋敷の雰囲気に目を丸くした。

 隠の人数も多く、皆やって来た宝耳に目もくれず忙しく走り回っている。

 

「ぎょうさん、死によったんかいな…? 困ったな」

 

 ブツブツとつぶやきながら歩いていると、ようやく見知った顔が廊下の曲がり角から現れた。

 

「おう、律歌(りつか)よ。どないした? えらい忙しそうやないか」

 

 律歌はやや寝不足なのもあって、しばらくまじまじと宝耳を見つめてから、ようやく目の前の男が誰かに思い至ったようだった。

 

「あぁ…誰かと思ったら。宝耳さんじゃないの。なに? なんか用?」

「なんか用とはぞんざいな。ワイはこれでもおっ()様に呼ばれてきたんやで」

 

 くだけた口調で、この屋敷の主人の呼び名を言った途端に、律歌の顔は曇り、目が潤んだ。

 宝耳は瞬時に異変を悟った。

 

「どないした? まさか…死んだんか?」

 

 律歌は目から零れ落ちた涙をぬぐい、コクリと頷いた。

 

「……おそらく鬼にやられたの。首を斬られてた」

「首やと?」

 

 宝耳の胸がざわついた。

 若い鬼であれば、今でも難なく討伐できるだろうと…そんな話をしたのはつい一昨日のことであるのに。

 

「おそらく…ゆうことは、まだその鬼についてはわかっとらんのか?」

「えぇ。詳細を知っていそうな(かおる)翔太郎(しょうたろう)は意識不明で、弟子の八重(やえ)はよっぽど怖い目に遭ったのか、口がきけない状態なの」

 

 宝耳は眉を寄せた。

 確か、一昨日、勝母(かつも)と会ったときには、その弟子の娘は出奔したと言っていた。勝母の日輪刀を持って行ったので、もし市場に出回るようなことがあれば回収を頼むとも言われていたが、戻ってきていたのだろうか?

 

 宝耳が考えていると、律歌はスンと(はな)をすすって尋ねてきた。

 

「それで…おっ母様に呼ばれたって?」

「おぅ。いや、一昨日(おとつい)にもここに来たんやけどな、ちょいとばかし話があって。そのときに言い忘れとったことがあったみたいでな…手紙もろたんや」

 

 話しながら、宝耳は律歌に勝母からの文を渡した。

 律歌は受け取って、その手短な用件だけの手紙の、見慣れた太い文字にまた目を潤ませた。

 

「おっ母様の字ね…。『夫ノ日記有リ。必要ナラバ来イ』か。これを貰いに来たの?」

「あぁ。忙しいとこ悪いけど、見せてもらえんか?」

「うーん。私も東京からこっちに戻ってきたばっかりで、いきなりこの状況なのよ。おっ母様の部屋に用意してあるのかもしれないけど…悪いけど、自分で確認してもらってもいい? あ、それ以外には勝手に触っちゃ駄目よ」

「わかっとる、わかっとる。どこで勝母刀自(とじ)の目が光っとるやしれんのに、そないな恐ろしいことするかいな」

 

 わざとらしくブルブル震える宝耳に、律歌は笑って言った。

 

「その前に、おっ母様に挨拶していってね」

「おぅ…なんぞ手伝えることあったら言い。おっちゃんの手ェでよければ貸したろ。猫よりは役に立つで」

「ありがと。そのときには遠慮なく頼むわ」

 

 律歌は少しだけホッとした顔になると、呼びに来た隠について走っていってしまった。

 

 宝耳はしばらく考えてから、屋敷の離れの方へと向かった。

 そこは死亡した隊士たちを一時的に安置する場所だった。

 

 鬱蒼とした木々に囲まれ、濃い影の中にある離れ家は、洋風の建築になっており、床がコンクリートで下足のまま入っていけるようになっている。夏場でもひんやりとしているが、冬の今は足先から寒さが染みてくる。

 

 ガランとした部屋の中に、白木の棺が一つあった。

 蓋はまだされていない。

 宝耳は無表情に棺の側まで来てから、両腕を斬られ固まった遺体にかすかに眉を寄せた。

 

 切断された左右の腕は、歪な形のまま白く固まっており、胸の上には折れた刀が置かれていた。

 面を覆う白い布を取り除けると、瞼の閉じた左目の安らかさとは対照的に、右目は暗い穴が空いていた。

 恨めしげに宝耳を見つめているようだ。

 顔はある程度、綺麗に拭かれていたが、それでも切創が残っている。特に口周りは、まるで裂けたかのように深く抉れていた。

 宝耳はよくよくその傷口を見つめてから、フッと笑った。

 

「さすがでんな、勝母刀自。おそろしいほどや…」

 

 確証はない。だが、おそらく勝母は両腕を斬られたあと、刀を口に咥えてでも鬼に迫ったのだろう。

 その気魄、その執念。

 さすがは老いたりとはいえ、往時には最強を冠した花柱だ。刀を持てなくなっても、最期の瞬間まで諦めなかった……。

 

 宝耳は再び布を顔にかぶせると、軽く黙礼してから、離れを出て行った。

 

 本来の目的である那霧(なぎり)博士の日記を探さねばならない。

 勝母の部屋に向かっていると、途中で不自然に辺りを見回しながら、廊下を歩いて行く娘の姿が目に入った。

 

 宝耳は首を傾げた。

 確か、あれは勝母の弟子ではなかったろうか?

 今となっては、最後の弟子となった星田八重。

 もっとも勝母からは修行に耐えきれず、出て行ったと聞いていたが…。

 

 キョロキョロと見回す八重に気付かれる前に、宝耳はさっと物陰に身を隠した。

 八重のほうもバタバタと走り回る隠たちに気付かれないように、柱の影に身を潜ませたりしながら、東にある療養部屋へと向かっている。

 

「あの坊主、意識が戻ったはいいが、鬼に助けられたとか言ってるらしい」

「ハァ? 頭でもぶつけたのか?」

 

 屈み込む宝耳の頭の上辺りで、隠たちは噂しながら走り去っていく。

 こちらもまた気になる情報であったが、隠たちを始めとして屋敷の人間はどうやら意識の戻った坊主の方へと集中しているらしく、すっかりこちらの棟は人気がない。

 無人となった廊下を歩いて行く八重の顔は蒼白で、見開いた目は、ひどく切羽詰まっていた。

 宝耳はそのまま八重を追った。

 やがて風通しのために半分障子戸の開いた和室の前に来て、八重が懐から短刀を取り出したのを見て、宝耳はニヤリと笑った。

 どうやらこちらを選んで正解だったようだ。

 

 そろそろと八重は中に入ると、部屋の中央で眠る人物をしばらく血走った目で見つめていた。

 

「……お…お…」

 

 低く呻いて、八重が短刀を振り上げる。

 しかし眠る人物の首元を狙った剣先は、すんでのところで止まった。

 

「怪我人を殺すなんぞ…穏やかやないなァ」

 

 ニンマリ笑って宝耳が言うと、八重がキッと睨みつける。

 

「う…ぐッ!」

 

 腕を振り払おうとするが、宝耳はガッチリ掴んでいてびくともしない。それどころか腕を掴む力がどんどん増していき、とうとう八重の手からぽろりと短刀が落ちた。

 宝耳は短刀を踏むと、すぐさま廊下の方へと蹴飛ばした。

 

「うっ……ううっ」

 

 八重は振りほどこうと腕を振り回すが、宝耳はまったく気にする様子もなく掴んだまま、そこに横たわっている人をチラと見やる。

 

「なんや、お嬢さんやないか」

 

 薫が眠っているのを知って、尚の事、八重の腕を掴む力が増した。

 

「これはこれは、面白いことやな。えぇ? 勝母刀自の弟子っ子が、なんでまた怪我して意識のないお嬢さんを殺そうとするんや?」

「う……おお…お」

 

 八重は必死に何かを訴えようとしていたが、言葉にならない。

 宝耳は首を傾げた。

 

「なんや、お前さん。しゃべられへんのか?」

 

 問いながら、さっき律歌に言われたことを思い出す。

 そういえば弟子の娘は、口がきけなくなっていると、言っていたような気がする。

 

「喉が痙攣しとるんか?」

 

 尋ねた宝耳に、八重は口をパクパクと鯉のように動かす。

 宝耳は眉を寄せ、その言葉を読み取ろうとした。

 

「……お……に…?」

 

 だが、全てを言う前に、廊下から聞こえた律歌の声に、八重はビクリと身を震わせて固まった。

 

「もー、ちょっと。誰よ、こんなところに懐刀(かいとう)を放り出して…しかも剥き出しで」

 

 律歌はパタパタと足早に近づいてくると、廊下に転がっていた短刀を拾い上げようとして、部屋を見た途端に血相を変えた。

 

「ちょっと! なにしてんのよ!?」

 

 大声で宝耳を制止したのは、腕を掴まれた八重が痛そうに顔を歪めていたからだ。

 律歌は大股に歩み寄って、宝耳を叱責した。

 

「いったい、なに考えているのよ!!」

「いや、ちょいと話を聞こうとして…」

「話? 八重は今、喋れないんだって言ったでしょ?」

 

 宝耳が律歌に気を取られて力を弱めた隙に、八重は素早く腕を振りほどくと、よろめきながらその場から(のが)れた。

 途中で廊下に落ちたままの短刀を拾うと、裸足で庭に飛び降りる。

 

「八重! どこ行くの!?」

 

 律歌は叫んだが、八重は庭を縦断して走り去っていく。

 あっという間の出来事に、律歌はしばらく呆然と庭を見つめていた。

 

「いったい…何?」

 

 誰にともなくつぶやいたが、宝耳が背後から声をかける。

 

「なんなんやろなぁ、ホンマに」

 

 律歌は振り返ると、宝耳をジロリと睨んだ。

 

「なにやってるのよ? ただでさえ忙しいってのに。八重はもしかしたら、おっ母様を殺した鬼を見てるかもしれないのよ? 貴重な証人なのよ?」

「せやけど、なんも喋られへんやないか。よっぽど怖い目に遭ぅたんかして、話そうにも喉が痙攣してまうみたいや」

「………」

 

 律歌は眉を寄せると、静かに薫のそばまで来て、相変わらず青ざめた寝顔を見て溜息をついた。

 

「お嬢さんも、その鬼と戦ったんか?」

「……わからない。さっきも言ったでしょ。私はこのひと月近くは東京に行ってて、昨日、帰ってきたばかりだったの。ここに向かう途中で鴉からの救援要請を聞いて、あわてて駆けつけたのよ」

 

 昨日戻ってきて今日に至るまで、律歌は動き回って気の休まる暇もない。顔には疲労の色が濃かった。しかし宝耳は頓着することもなく、また新たな事実を伝える。

 

「ふん。ほな、さっきの弟子っ子が逐電しとったいうのも知らんのやな」

「えぇ? なに、それ? どういうこと?」

「そのままや。ワイがここに一昨日(おとつい)に来たときには、勝母刀自から弟子が逃げたと聞かされたんや。しかも何を考えとんのやら、勝母刀自の日輪刀を持って逃げよった」

「はぁ?! なに考えてるの、あの子!」

 

 律歌は憤然となったが、宝耳は仕方なさそうに肩をすくめた。

 

「ワイにもよぉわからんことばっかりや。ほんの前に来たときには、勝母刀自と二人で茶ァ飲んで、昔話なんぞしてもろとったゆぅのになぁ…。手紙もろてトンボ返りで戻ってみれば、百まで生きると思とったお(ばば)様は亡ぉなって、お()はん一人でキリキリ舞いしとるし、お嬢さんはこの通り、枕元で騒いどっても、なーんも知らんで寝入っとるし」  

「そうだ。八重はここに何しに来たの?」

 

 律歌はふと思い出して問うたが、宝耳はゆっくりと首を振った。

 

「さぁ…なにがしたかったんやら?」

 

 あえて八重が薫の命を狙ったことについては言わなかった。

 一応、律歌にこれ以上心労をかけるのもよくないだろう…という言い訳はできたが、結局のところ、なんとなく言わないほうがいい気がしたというだけだ。

 

 律歌はしばらく考え込んで、薫の顔を見ながらつぶやいた。

 

「もしかしたら、薫にお礼がしたかったのかしら?」

「お礼?」

「八重は薫が倒れた場所の近くで見つかったの。あの子だけが意識もあって、そんなに大した怪我もなかったのよ。もしかしたら、薫が助けたのかもしれないわ」

「ほぉ。それで声が出んでも、一目、顔見てお礼がしたかった…と?」

「ちょっと偏屈な子だから…私やあなたがいて、恥ずかしくなっちゃったのかもね」

「ふぅん」

 

 宝耳がやや白けたように相槌を打つと、律歌は眉を寄せた。

 

「なによ。そもそもどうしてあなたがここにいるのよ?」

「ワイか? いや、お嬢さんも怪我しとるいうから、一応見舞いにな」

「あぁ、そう。じゃ、顔も見たし、さっそく手をお貸しいただける? 八重を連れ戻してちょうだい。あの子だって、軽傷とはいえ怪我してるのに」

「えぇ? さっきのお()はんの言葉を借りるなら、偏屈な恥ずかしがりなんでっしゃろ? 追うたら逃げよるんと()ゃいます? むしろ、ここで待っとけば、そのうち()()()()()()来ますやろ?」

 

 律歌はしばらく思案した。確かに宝耳の言う通り、八重は妙に気難しいところがあり、追えば逃げるような性格ではある。それにそもそも修行を嫌がって出奔していたのなら、なおのこと今ここで治療を受けるのは、本人にとってはいたたまれないものがあるのかもしれない。

 

「そうね。ま、死にはしないでしょ」

 

 とりあえず律歌は八重については、置いておくことにした。

 正直、仕事は山積みで、逃げ出した弟子にかかずらっている暇はない。

 

「ほな、ワイは勝母刀自の部屋で探しものさせてもらいますわ」

 

 宝耳は片付いたとばかりに、さっさと立ち去っていく。

 律歌はその後姿を見送りながら、ふと以前に勝母に言われた言葉を思い出した。

 

 

 ――――― 伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)は優秀だよ。でも、アイツのすべてを信用はできない…

 

 

 いつもフラリと現れては、とぼけたような態度で本心を見せない男。

 律歌は時々、宝耳と話していると、どこか空虚なものを感じることがあった。

 嘘つきというわけではないのだが、彼の言葉はうわすべりしているように思えることがあるのだ。

 

「う……」

 

 薫のうめき声に我に返ると、律歌は元々の用事を思い出した。

 そもそもは薫のガーゼなどを交換するついでに、傷口の状態などを診に来たのだ。

 

「……助け…て……さ…み…さ…」

 

 包帯を巻き直していると、薫の顔が歪み、苦しげにその名を呼ぶ。

 あまりよくない夢を見ているようだ。

 

「薫、薫」

 

 軽く揺すってみたが、悪夢はすぐに消えたのか、また静かな寝息に戻った。

 律歌は軽く息をついて、手当てのためにはだけていた肌襦袢の衿を合わせる。

 そっと布団をかけてやってから、ポンポンと上から軽く叩いて、励ますように呼びかけた。

 

「不死川は仕事終わらせたら、すぐに飛んで来るだろうから…それまではゆっくり寝てなさい」

 

 

 

<つづく>

 





申し訳ありません。
都合により、次回の更新は二週間後の2023.07.15.になります。


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第五章 虚実(一)

 三ヶ月後 ―――――

 

 

 その日は心地よい風の吹く、春うららの陽気だった。

 桜の花はとうに散って、桜蘂(さくらしべ)が地面に赤の絨毯を広げている。

 

「あれ? あんた…えーと…確か…」

 

 翔太郎(しょうたろう)はしばし考えてから、思い出すと、やや大きな声で呼びかけた。

 

「あ! 伴屋(ばんや)さん。伴屋…ホウジ? だったっけ?」

 

 宝耳(ほうじ)は読んでいた本 ―― 正確には那霧(なぎり)旭陽(あさひ)博士の日記を下ろすと、ニコリと笑った。

 

「元気そうで何よりやな、()ン。ようやっと歩けるようになったか。お前もなかなかしぶといもんや。さすがは風波見(かざはみ)の…いうとこか?」

「そんなの関係あんの?」

 

 言いながら翔太郎は部屋に入ってくると、宝耳の周辺に散らばった綴本(とじほん)らしきものの一つを手に取る。中身をペラリと開いて、ゲッと声をあげた。

 

「なに、これ? 外国の文字じゃんか?」

「あぁ、そやで。アルファベットやな」

「ア…ファベト? なに? あんたそんなの読めるの?」

「まぁ、英語やったらわりと読める。これを書いた御仁、日記やからゆうて好き放題でな。時々、ドイツ語とかもあるから、難儀しとんねん」

「………」

 

 翔太郎は目の前の白髪交じりの中年男をまじまじと見つめた。

 すっかり色褪せた消炭色の隊服、顎にうっすらと生えた無精髭、目の前で大欠伸して臭い息を吐くおっさんが、こんな細かい字の外国語をスラスラ読める?

 疑念と敬服が入り混じった翔太郎の複雑な表情に、宝耳はプッと吹いた。

 

「なんや。信じとらんな? まぁ、ワイが読めようが読めまいが、坊ンが読めへんのやったら、本当(ホンマ)なんかどうかもわからんやろ」

「いや。読めるんだろうと思うよ。俺には何がなにやらサッパリだし。でも、どこで習ったんだ? そんなの」

 

 宝耳は傍らに置いてあった灰皿から煙草をとると、軽く吸いながら、遠くを見る。

 

上海(シャンハイ)租界(そかい)で、英国(エゲレス)人のボーイしとったからな」

「ぼーい?」

「下僕や。まぁ、丁稚(でっち)みたいなモンやな」

「ふーん…」

 

 翔太郎は色々訊きたくはあったが、ただでさえ見慣れない文字列を見て頭がこんがらがっているのに、宝耳の出してくる情報が突飛すぎて、もはやついていけなかった。

 ひとまず宝耳の謎の経歴については置いておくことにして、そもそもこの部屋を訪れて、この男の姿を見たときの最初の疑問。

 

「ところで、なんだってここにいんの?」

 

 翔太郎が尋ねたのは、ここが療養中の(かおる)の部屋だったからだ。

 

「病人が寝てるってのに、横でなにのんびりしてるのさ?」

「えぇ? 一応、律歌(りっか)からお嬢さんが起きたら知らせるように言われて、付き添っとるんやないか。ボケーっとしとっても何やから、ついでに勝母(かつも)刀自(とじ)が用意してくれとった、旦那はんの日記に目ェ通しとっただけやがな」

 

 宝耳としては勝母があらかじめ用意してくれていた那霧博士の日記をざっと読んで、無惨や青の彼岸花と関わりのありそうな部分だけ借りていくつもりだったが、これが表記がほとんど英語であったために、さすがの宝耳もざっと読むというわけにはいかなかった。

 いくら過去に英国人の屋敷で働いていたとはいえ、最近ではとんと使用していなかった言語の勘を取り戻すのは容易でない。最初の一冊は勝母の部屋にあった英和辞典と首っ引きで読み進め、昔とった杵柄を発揮できるようになったのは、二冊目を読み終えた頃だった。

 

 いずれにしろ百冊以上ある日記を読んでいくには、時間もかかるし、持ち歩ける量でもない。

 百花屋敷(ここ)でしばらく逗留してのんびり読むことにして、ついでに薫の部屋に張り付いたのは、八重(やえ)を待ち伏せしていたからだ。

 三ヶ月前、薫の命を狙った八重は、あのまま姿をくらまし行方不明となっていた。だが宝耳は八重がいずれまたやって来るだろうと思っていた。ただの勘だったが、妙に確信していた。

 しかし現れたのは八重ではなく、つい先頃まで鬼に襲われて寝たきりであった風見(かざみ)翔太郎(しょうたろう)であった。

 

「勝母さんが用意した…? 旦那さんの日記? なにそれ?」

 

 怪訝に尋ねてくる翔太郎に、宝耳はフフンと笑った。

 

「早ぉに亡くなりはった勝母刀自の旦那はんの日記でんがな。まぁ、日記以外のモンも混じっとるけど…。大したもんでっせ、この人。元は鬼の血について研究しとって、その過程で色々と新しい実験方法やら見つけて、治療にも活かしてはる。血液型やら、血液凝固を防ぐ方法やら…これまともに論文にして発表しとったら、とんでもないことになっとったやろな。鬼殺隊で重傷者が死ににくなったんも、こン人のお陰かもしれん」

「はぁ…?」

 

 翔太郎はますます目の前の男への疑問が膨らんだ。

 この男が、ただの鬼殺隊士ではなく、ただの鬼の生け捕り師でもないことは、薄々感じていたことだった。

 

 先代のお館様の命令で、翔太郎の実家である風波見家が、鬼殺隊と絶縁した理由について調べていたことも聞いている。

 その調査中に翔太郎の曾祖母が彼に助けられたことも。

 

「そういや、俺、アンタにちゃんと礼を言ってなかったかもしれないな」

「ん? なんや?」

「大お祖母(ばあ)様のことだよ。助けてくれたんだろ? 今更だけど、有難うございました」

 

 宝耳はハハッと笑ってから、翔太郎に問うた。

 

「ワイへの感謝はえぇから、その大ばば様に会いに行ったらどうやねん? まったく気丈なことやで。あんなことがあったいうのに、あの家で今も一人、暮らしてはんで」

「……知ってる」

 

 翔太郎は俯いた。

 

 紅儡(こうらい)の襲撃によって、母と妹が殺され、曾祖母自身も重傷を負った ―― その現場となった風波見の屋敷。

 陰惨な痕跡が残っているというのに、曾祖母はそれでも一人、その家を守っている。

 

 一度だけ、翔太郎は曾祖母から手紙をもらった。そこには早急に鬼殺隊を辞めるように書かれていた。

 おそらく翔太郎が片腕をなくしたことを聞いたのだろう。戻ってきて結婚して家を継げと、しつこく書かれていた。

 

 翔太郎はもう曾祖母と話す気持ちがなくなってしまった。

 この期に及んで、そんなことを言っていることが、翔太郎には残念であったし、正直呆れ果てた。

 もう、この曾祖母とは一生分かり合えることはないのだと、区切りをつけてしまった。

 

『もはや会うに及ばず。曾祖母様が永く壮健であられることをお祈り申し上げます。』

 

 翔太郎が曾祖母からの手紙に返したのは、それだけだった。

 事実上、縁を切ったのだ。だからもう自分は風波見とは、何の関係もなくなったと言っていい。

 しかし、紅儡(こうらい)にはそうではなかったようだ。

 

「それにしても、坊ン。貴方(あン)さん、えらい妙な命拾いをしたもんですな」

 

 沈み込んだ翔太郎を見て、宝耳は話題を変えた。

 風波見家についてはいまだに不明なことも多く、聞きたいこともあるが、他人様の家庭の事情について興味はない。

 

 翔太郎は顔を上げた。

 そのことについては、翔太郎自身、疑問に思っていたのだ。

 

「そうなんだ。妙なことに…俺、どうやら助けられたようでさ」

 

 土中にいた紅儡(こうらい)の本体を攻撃しようと、薫と二人で地面に呼吸の技をぶつけている最中に、いきなりとんでもない衝撃波に襲われて吹っ飛ばされた。

 木の幹にでも頭をぶつけたのか、翔太郎は一時意識を失っていたが、気付くと目の前には巨大な紅儡(こうらい)らしき物体と、その前に超然と立っている古風な出立(いでたち)の男がいた。

 

 吹きすさぶ雪と、ビクビクと揺れる紅儡(こうらい)の白い触手に遮られて、男の顔は見えなかった。

 ただ、手に持っている刀らしきものが点々と紅くほのかに光っていて、不気味だった。

 翔太郎は声を上げたかったが、なぜか喉に詰め物でもされたかのように、出なかった。今にして思うと、あれは恐怖だったのかもしれない。

 あまりに圧倒的な、凄まじい剣気の重量のようなものを感じて、体中の骨が震え、重さに(たわ)んでバラバラになってしまいそうだった。

 

 それでも翔太郎にとっては、紅儡(こうらい)を殺すという意志のほうが(まさ)った。いや、意志というよりも激しい復讐心が恐怖を駆逐してしまった。だがそれは同時に、本来であれば備うるべき慎重さや思慮を欠いたものとなった。

 

 男がボソボソと何かをつぶやいて、紅儡(こうらい)に向かって刀を振り上げたとき、翔太郎は焦った。このままだと復讐の機会を逸することになるかもしれないと思ったからだ。

 

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 

 咄嗟に技を繰り出し、紅儡(こうらい)の巨大な肉塊の一部を叩き斬った。

 その鋭く深い斬撃はそのまま、紅儡の前に立っていた男にも襲いかかったが、男はいとも簡単にその攻撃を無効化した。

 あの不気味な刀が一閃したかと思うと、次には翔太郎は地面に倒れていた。

 自分のうめき声が遠くに聞こえた。

 耳がおかしくなっていたのかもしれない。

 

「二人…ともに…逝くがよかろう…」

 

 男の声は低く、不気味に響く。

 翔太郎は呆然となった。

 確実な死が()えていた。あの男が次に刀を振り下ろすと同時に、自分は死ぬ。あまりにあっけなく、唐突に訪れた死期に、翔太郎は為す術もない。

 

 男が見たこともない呼吸の技を使って、あの不気味な刀を一閃させる ――― と、ほぼ同時に、翔太郎を何かが包んだ。

 何が起きたのか…翔太郎には訳がわからなかった。

 気付けばぶよぶよとした紅儡(こうらい)の触手に抱えられるようにして、崖へと吹っ飛んでいた。

 

 男の技によって引き千切られた紅儡(こうらい)の叫びが響く。

 まるで子供の泣き声のようだった。

 翔太郎は崖下へと落ちてゆきながら、自分を守るように包みこむ紅儡(こうらい)の触手を掴んだが、それは手の中で灰となって消えた。

 

 それらの記憶は、翔太郎が意識を取り戻してから、ある程度再構築したものだった。

 

 正直なところ、風の呼吸の技を放ったあたりで、翔太郎は精根尽き果てていた。その時点で意識は朦朧としていて、記憶は曖昧だった。

 だが、その状態の自分がこうして生きているのは、どう考えても紅儡(こうらい)が守ったからというしかなかった。

 あのとき、あの奇っ怪な男の攻撃をまともに喰らっていたのなら、確実に死んでいたはずなのだ。

 

「見たこともない呼吸の技を使う……鬼、でっか」

 

 宝耳がボソリと言って、静かに煙草を吸う。

 翔太郎は顔をしかめた。

 

「あれ…やっぱり鬼なのか」

「まぁ、貴方(あン)さんの話を聞く限り、人ではありませんやろ。しかし鬼やとしても、百戦錬磨の元花柱がそんじょそこらの鬼にやられるわけもない」

 

 翔太郎は黙って頷いた。

 紅儡(こうらい)と戦っているときに現れた勝母(かつも)の戦いぶりを思い返しても、現役と遜色ない立ち回りだった。

 分身とはいえ複数体現れた紅儡(こうらい)に対して一人で相手し、そのうえで薫と翔太郎が地中の紅儡(こうらい)本体を掘り起こすのまで手伝ってくれていた。

 やはり柱であったのだと、今更ながらに思い知らされる。

 

「鬼の中でもおそらくは十二鬼月。下手すりゃ…上弦」

「上弦…」

 

 翔太郎はつぶやいて、ゴクリと唾をのんだ。

 確かにあの空気が重くなったような威圧感は、今まで翔太郎が戦ってきた鬼とは桁違い…というよりも、もはや異質のものだった。

 

 宝耳は薫のほうに目を向けると、しみじみと言った。

 

貴方(あン)さんも、目が覚めて、いきなり勝母刀自が死んだと聞いたときには驚いたやろけど、お嬢さんも起きたらびっくりやろな。いや、もしかしたら…もう知っとんのかもしれん」

「まさか…」

「律歌が鴉からの連絡を受けて、駆けつけた先で、お嬢さんが倒れとった。そのそばに勝母刀自の首が落ちとったという話やからな。有り得んことでも、おまへんやろ」

 

 翔太郎は痛ましげに薫を見た。

 もし、そうなら…薫にとっては相当の衝撃だったろう。

 

 体調を崩してからは特に自分に自信が持てず、塞ぎがちになる薫を、勝母はいつも温かく見守り、時にはあまりに真面目すぎるその性格を笑い飛ばして励ました。

 刀鍛冶の里での療養でかえって体調が悪くなったのが、百花屋敷(ここ)に来て快方に向かったのは、多分に勝母という存在が薫に安心感を与えていたからだろう。

 

 薫にとって勝母は、もはや母同然の存在だった。

 律歌のように気安く「おっ()様」と呼ぶことはなかったが、勝母に対する薫の気持ちは、おそらく家族同然であったはずだ。

 その勝母の死。―――――

 

「人が弱るときは、たいがい内側から崩れていくもんや。もう容態も安定して、いつ目覚めてもよさそうなもんやのに、いまだに意識がないーゆうのは、お嬢さんが自分で自分に鍵でもかけとるんかもしれん。起きてもぅたら、勝母刀自が死んだことに、嫌でも向き合わんとあきまへんからな」

 

 宝耳の話は(もっと)もだったが、翔太郎は認めたくなかった。

 翔太郎にとって薫は、いつもひたむきな人だった。たとえ僅かでも自らの成長を信じて、努力することを諦めない人だった。現実逃避して、殻に閉じこもるような弱い人間ではない。

 

「元々、薫さんはここに療養に来たんだ。ずっと具合悪そうにしていたから、もしかしたら今回の戦いで、無理がたたったのかも…」

 

 翔太郎は異を唱えたものの、その声は小さかった。

 

「そういや、そんなこと言うてましたな」

 

 宝耳は頷きながら、ふと目の端にチラと何かの影が動いたのに気付いた。

 素知らぬ様子で煙草をふかしながら、庭のほうへと意識を向ける。

 常緑の灌木(かんぼく)が植えられた一角が、かすかに揺れている。

 

 ようやく来たらしい…。

 

 宝耳は内心でニンマリ笑うと、いきなりパン! と手を打った。

 薫の寝顔を見ていた翔太郎が、ビクリとして振り向く。

 

「な、なに?」

「さぁさぁ。いうても、貴方(あン)さんかて、まだまだ病人でっせ。顔を見て安心したなら、そろそろ寝床に戻って休んどき」

 

 宝耳は急に立ち上がると、翔太郎の腕をグイと掴んで立たせた。

 

「えぇ? ちょっと…なんだよ、いきなり。まだ大丈夫だって」

「あきまへん、あきまへん。そうジロジロと寝てる女子(おなご)の顔を見るもんやおまへん。お嬢さんもこれで嫁入り前なんですからな」

 

 もっともらしいことを言う宝耳に、しかし翔太郎は納得がいかない。

 

「あんたはどうなんだよ?」

「ワイはせやし、見てまへんやろ? そばで本読んどるだけや。おじちゃんは、そういうのは心得てますねん。若いモンにはきついやろけど」

「きついってなんだよ?」

「精気の抑えがきかん…云う話ですわ」

「バッ…馬鹿か、クソジジィ! そんなこと考えるわけないだろ!!」

 

 あけすけに言う宝耳に、翔太郎は真っ赤になった。

 

「ホイホイ。ともかく行きましょ」

「オイ! なんであんたまで出てくるんだ?」

「ワイは貴方(あン)さんを送ったあとで、小用を足しに行きまんねや」

「勝手に行けよ! 俺は送らなくていい!」

「ホイホイ」

 

 宝耳は聞く耳を持たないとばかりに、翔太郎の背を押して部屋から出た。

 文句を言う翔太郎を適当になだめながら、廊下を進んでいく。

 角を曲がったところで、いきなりクルリと回れ右するなり、ストンと腰を降ろして壁際にへばりつく。

 

「え? なに?」

 

 翔太郎は訳がわからず戸惑っていると、宝耳は口許に指をあてて、静かにするよう目くばせしてくる。

 角からそっと薫の部屋の前あたりを窺っていた。

 翔太郎も宝耳に倣って気配を殺し、そうっと、さっき歩いてきた廊下を見やる。

 

 庭から何者かが来て、辺りの様子を窺っていた。

 鈍色(にびいろ)の布で頬かむりをしているので顔は見えない。

 着ているものは粗末であったが女物で、背格好からしても、おそらく女であろうと推察できた。やがて誰の気配もないことを確信したのか、土足で縁側に上がり込んでくる。

 

 翔太郎は眉をひそめた。すぐにも出て行って咎めたかったが、宝耳がガッチリと翔太郎の足を掴んでいた。しかも翔太郎の焦燥を悟ってか、より力が増す。翔太郎は痛みに顔を歪めたまま、立ち尽くす女を注視した。

 

 女はしばらく廊下から部屋の中を見ているようだった。

 そういえば出てくるとき、宝耳は障子を閉めていなかった。宝耳がわざとこの状況を作り出したとわかっても、意図が読めず、困惑する翔太郎の目の前で、女が頬かむりを取った。

 

「や……」

 

 翔太郎が声をあげそうになると、宝耳がすぐさまその口を塞いだ。頬に笑みを浮かべていたが、翔太郎を見つめる目はいつになく鋭い。翔太郎がコクコクと頷くと、静かに手を離して再びそっと廊下を見る。

 翔太郎もさっき以上に慎重に、息を殺して、庭から忍び込んできた人の姿を確認した。

 

 やはり、八重(やえ)だった。

 

 三ヶ月前に姿を消した八重が、なぜ再び、しかもこっそりと人目を忍んで、薫の部屋へとやって来たのか…?

 だが、その疑問について考える暇はなかった。

 ゴソゴソと懐を探る八重を怪訝に見ていると、ギラリと光る刀身が抜かれた。

 

 声を上げる間もない。

 八重は短刀を持って薫の部屋へと入っていく。

 

 宝耳がすぐさま飛び出した。

 翔太郎もあわててあとに続く。

 しかし、翔太郎と宝耳が廊下を走るその目前を、影がヒュッと横切ったかと思うと、薫の部屋から怒声が響いた。

 

「テメェ! なにしてやがる!?」

 

 

 

<つづく>

 





次回は二週間後の2023.07.29.更新予定です。


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第五章 虚実(二)

 凶刃はまたしても(かおる)に届かなかった。

 前回は宝耳(ほうじ)が止めたが、今回、短刀を振り上げた八重(やえ)の腕をがっちりと掴んでいたのは、風柱である不死川実弥だった。

 

「何の真似だァ? テメェ…」

 

 ただでさえ凶器のような風柱の顔と、ドス黒い怒りに満ちた声が低く響いて、八重は一気に蒼白になった。へなへなと腰が抜けたように座り込む。

 

「おやおや、まぁまぁ…今日はお嬢さんに珍客がよう訪れることですなぁ」

 

 のんびりと宝耳が入ってくると、実弥はギロリと睨みつけた。

 

「なに呑気なこと言ってやがる? テメェ、房前(ふささき)に頼まれて、見張ってたんじゃねぇのか?」

「見張りとはまた穏やかやないな。ただの付き添いでんがな。お嬢さんがもしも容態が急変したときに…いうことで」

「似たようなもんだ。テメェがここを離れたから、こんな女が忍び込んできたんだろうが」

「そない殺生な、風柱様。ワイかて小便くらいさせてもらわんと」

「……だったら、そこの野郎を置いていけばいいだろうが」

「この坊主はまだ怪我から本復(ほんぷく)しとりませんねや」

「いや、俺大丈夫…」

 

 翔太郎(しょうたろう)は思わず会話の流れで言いかけたものの、背後からの凄まじい怒号にかき消された。

 

「なにやってんのよぉッ! アンタたちッ!!」

 

 律歌(りつか)は部屋に入るなり、その惨状に混乱した。

 土足で上がり込んだのであろう、点々とついた足跡。はねた泥で汚れた布団。転がった灰皿。

 すっかり散らかった部屋の中で、病人の枕元に群がる男共と、久しぶりに姿を現した八重。

 しかもその手には短刀が握られ、その八重の手を実弥が握り潰す勢いで掴んでいる。

 

「いったい、なんなの? これは」

 

 困惑気味につぶやいたが、すぐに答える声はない。

 実弥が八重の腕をギリッとひねって、手に持っていた刀を奪い取ると、無理やり立ち上がらせて、律歌へと押しやった。

 

「この女が薫を殺そうとしていた」

 

 吐き捨てるように言った実弥の言葉に、律歌は目をしばたかせる。だが実弥の手に握られている短刀の閃きは、贋物(ニセモノ)ではない。

 先程までの状況を考えても、実弥の話が嘘でないことはすぐにわかった。

 よろけるように自分のところに来た八重の肩を掴んで、律歌は泣きそうになりながら叱りつけた。

 

「いったい…なにやってんのよぉ…あんたは」

 

 律歌はもはや情けなかった。

 親を鬼に殺され隊士になりたいとやって来て、それでも修行が厳しくて逃げるのは、今までにもいたし、それを咎めるつもりはない。だが、この数ヶ月、律歌は亡き勝母(かつも)に代わって、薫の治療にあたってきた。勝母もまた、きっと薫や翔太郎を守るために戦って死んだはずだというのに。どうしてそれを踏みにじるような真似をするのか…理解できない。

 

「おっ()様に申し訳ないと思わないの? あんた、勝手におっ母様の日輪刀を持ち出して逃げたというじゃないの。そればかりか…薫にだって、助けてもらったんでしょう? それなのに、どうしてこんな…」

 

 しかし八重は律歌の涙まじりの非難に、ギリっと奥歯を噛みしめた。

 暗い目が薫を睨む。

 不穏な気配を察して、実弥が視線を遮るように立つと、八重はまた捕まってはたまらないと思ったのか、障子戸の近くまで後ずさった。

 

「八重…お前、なに考えてんだ?」

 

 翔太郎もまた理解不能だと言わんばかりに非難すると、八重は我慢ならなかったのか、とうとう叫んだ。 

 

「私は悪くないわ!」

 

 叫んでから、ハッと口に手をやる。

 律歌が呆然としながら問いかけた。

 

「八重…あんた……声が、戻ったのね…?」

 

 八重は自身でも意外であったのか、驚いた様子であったが「わたし…わたし…」と何度かつぶやいて、声を取り戻したことを確信すると、傲然と胸を張った。

 

「そうよ! 私は悪くない! 私は鬼を殺しに来ただけなんだから!!」

 

 その場にいた全員が、キョトンとして八重を見つめた。

 自分に集中する視線にも八重は臆することなく、眠る薫をビシリと指差すと、勝ち誇ったかのように言いきる。

 

「その女は鬼よ!」

 

 一気に、シンと静まり返り、全員が固まった。

 最初に怒鳴りつけたのは実弥だった。

 

「フザけんな、テメェ! ンな嘘、誰が信じるかッ!」

「そうだ! お前、なに言ってんだ? 殺しにきた挙句に、そんな馬鹿な嘘でごまかせると思ってんのかよ!?」

 

 翔太郎も詰め寄って、八重の襟首を掴む。

 しかし八重は翔太郎の失った右手の、まだ痛みの残る脇の辺りをグイと押しやって逃れた。

 翔太郎が痛みに顔をしかめ、八重が少しだけ申し訳なさげに手を引っ込めた瞬間に、いつの間にか近づいてきていた律歌がパシリと八重の頬を()った。

 

「いい加減にしなさいよ…」

 

 律歌の声は震えていた。それが怒りなのか悲しみなのか、本人にも区別がつかない。

 

「あんたが…薫に対して、いい感情を持っていなかったのは知ってるわ。薫が元華族の令嬢だからっていうだけで、苦労知らずのお嬢様だと決めつけて、勝手に羨んで…翔太郎が、薫に好意を寄せてることだって、あなたには許せなかったんでしょう。自分勝手に妬んで敵視した挙句に、そんな根も葉もない嘘を……」

 

 八重は律歌に殴られた頬を震える手で押さえながら、ギロリと目の前に立つ二人を睨みつけた。

 

「嘘じゃないわ! 私、聞いたんだから!! 六つ目の鬼が、その女に向かって言ってたのよ!『娘』って! 間違いなく聞いたんだから!!」

「うるせぇ! まだ言うか!!」

 

 翔太郎は手を振り上げたが、八重は顔を庇いながらまだ続けた。

 

「久しぶりに会った…って、言ってたのよ! ずっと、この女は私たちを騙してきたんだわ! 鬼のくせに鬼殺隊に入って…そうよ! もしかしたらこの女と一緒に任務に行って死んだ隊士は、この女が殺して食べたのかもしれないわ!!」

 

 律歌と翔太郎はその禍々(まがまが)しい言葉に、もはや怒りを通り越して呆気に取られた。

 固まった二人の後ろで、無言で動いたのは実弥だった。

 ずっと薫のそばで立っていた実弥は、音もなく近寄って、気付けばその伸ばした手で八重の頭を鷲掴みにしようとしていた。

 

 いきなり目の前に現れた風柱の、狂気を宿した瞳に射抜かれて、八重は真っ青になってまたその場にへたり込む。

 だが八重の頭を掴もうとしていた傷だらけの左手は、宝耳によってすんでで止められていた。

 

「お怒りはごもっともやけど、風柱さまが手出しするような相手でもございまへんやろ。隊士でもない、修行を嫌がって逃げ出すような、根性なしの弟子っ子風情でっせ」

「離せ」

 

 静かに実弥は言ったが、その迫力は普通であれば聞き入れるしかないほどに恐ろしい恫喝を秘めていた。

 

「離す前に、ワイにも少しは喋らせてほしいもんですな。―― 律歌よ…」

 

 宝耳はその場の雰囲気を和ますためにか薄笑いを浮かべ、のんびりと言ったものの、律歌に向けた視線は鋭かった。

 

「なに?」

「お()はん、治療しとったなら気付いとるはずや。お嬢さんの首の傷、あれ、鬼にやられたもんと()ゃうやろ?」

 

 宝耳の問いかけに、顔を強張らせたのは律歌だけではない。実弥も眉を寄せ、唇を噛み締める。その沈痛な面持ちに、宝耳は確信を深めた。

 

「お嬢さんは自刃しようとしはった…そういうことやな?」

「嘘だ!」

 

 すぐに否定したのは、翔太郎だった。

 

「薫さんが自殺なんて…そんなこと考えるわけがない!」

 

 しかしこれもまた八重が声を上げた。

 

「そうよ! この女、首に刀を押し当ててたわ。鬼に食べてやるって言われて、怖くなって、自分で死のうとしていたのよ!」

 

 実弥の、圧死させるかのような視線からジリジリと逃げつつ、八重はそれでも半笑いの上ずった声で、必死になって叫ぶ。

 律歌はすぐさま反論した。 

 

「確実なことはわからない。鬼にやられたのかもしれないわ」

「ふん。そやなぁ」

 

 宝耳は頷いてから、目の前で俯いている実弥に尋ねた。

 

「風柱様は、どない思います? 可愛い妹弟子のことや。なんぞ心当たりありまへんか?」

 

 実弥は唇を引き結び、答えない。

 やがてじっとりと宝耳を睨んで言った。

 

「そんなことは、どうでもいい。問題は、この女が療養中の鬼殺隊士を殺そうとしたことだろうがァ…」

 

 しかし宝耳は実弥の焦り(・・)を見過ごさなかった。

 

「ふ…ん。あえて話を変えはりますか…?」

 

 ニンマリ笑って、実弥を探るように見てくる。

 実弥は右手の拳を強く握りしめた。宝耳の推測を否定できない。事実、実弥の目の前で薫は死のうとしていたのだから…。

 

 

 ――――― 駄目なんです…私は…死なないと…

 

 

 気丈で、ときに強情ですらあった薫の、信じられないほどに弱々しい声。

 宝耳は不意にずっと掴んでいた実弥の左腕を離すと、何かに気付いたかのように「あ…!」と声を上げた。

 

「そういえば、さっきそこの弟子っ子から、風柱様が取り上げた短刀(みじかがたな)…どこにやったかなァ?」

 

 八重が薫を襲ったときに持っていた短刀は、実弥が取り上げたあと、宝耳が「お預かり致します」と申し出てきたので渡しておいたが、今、宝耳の両手には何もない。あわてたように懐や袂をパタパタと触っているが、どこにも見当たらないらしく、「はてさて…どこへいったんや」とつぶやく声は、鬱陶しいほどにのんびりしている。

 

 実弥は顔色を変え、すぐさま薫のもとへと走り寄った。

 しかし薫は、この大騒ぎの中でも、昏々と眠っていた。手の届く範囲に、短刀は落ちていない。

 

 軽く安堵する実弥の背後で、宝耳が八重に鞘を出すように言うのが聞こえた。振り返ってみれば、宝耳は鞘を受け取り、チンと刀身を収めている。

 実弥が凝視すると、気付いた宝耳は、短刀を軽く振って笑った。

 

「テメェ…」

 

 ギリッと実弥は歯噛みしたが、口を噤んだのは、一瞬、薫がかすかに呻いたからだ。

 宝耳はあいた間を逃さず、おもむろに話し出す。

 

「さぁて……どうやらこの困った弟子っ子の言うことすべてが、嘘とも限らんようですな。さっき、坊ンも言うとったように、お嬢さんはすこぶる責任感の強いお人や。そう簡単に自殺なんぞ選ばんやろ。せやけど、この娘の言う通り、自分が鬼になったとしたら…自ら命を絶とうとしてもおかしぃない」

「そんなことあるわけないだろ! 薫さんは太陽が出てるときだって、普通に修練してたんだ!」

 

 翔太郎が反論したが、実弥はふと思い出した。

 刀鍛冶の里で、夜中に修練していた薫。

 鬼が跋扈する夜にしたほうが効果的だと言っていたが、昼見たときの顔色の悪さや、ひどく苦しげな様子に比べると、確かに夜の方が動き回る余裕はあったのだ。

 それに刀鍛冶の里では結局、体調は戻らなかった。……

 

 言葉なく立ち尽くす実弥の前で、律歌が戸惑いながらも、翔太郎に同調して言い立てる。

 

「そうよ。この部屋にだって日が差し込んできて、寝てる薫に太陽の光があたることだってあるわ。でも、こうして普通に寝ているじゃないの。鬼だったら、とうの昔に灰になって消えてるわ」

「さて。そういう細かい理由がわからんよって、詳しい話を聞かんとあきまへん。お嬢さんがまだ意識不明で寝てる以上、とりあえずはそこの弟子っ子から」

 

 宝耳は指さしてニコリと笑ったが、八重は不気味なものを感じて返事しなかった。

 

「コイツのいうことなんか信じられるか! 薫さんを(おとし)めるためには、平気で嘘だってつくんだからな!!」

 

 翔太郎が侮蔑も露わに言うと、八重はすっくと立ち上がって、猛然と抗議した。

 

「嘘なんか言ってない! 私はこの目で見たんだから!! 六つ目の鬼が、自分の血の繋がった娘だって…そうしたら、この女は自分で自分の首を切ったのよ」

 

 言いながら、八重の目から涙が溢れ出た。

 この数ヶ月、悩みに悩んだ。

 声も出なくなって、文字もまともに書くことのできない自分では、誰かに伝えることも難しい。

 そもそも森野辺薫が鬼であることを知っているのは自分一人なのだから、放っておけばいいのだ。

 もう鬼殺隊も鬼も関係ない。自分だけが穏便に暮らしていけばいい…。

 

 そうして八重は、ひたすら忘れようとした。

 けれど、どうしても夢を見る。

 鬼となった森野辺薫に、翔太郎や律歌が襲われて死に、何も言わずに逃げた八重を責める夢を……。

 

 迷いに迷って、八重はここに戻ってきた。

 元凶となる薫を葬るために。

 もし運悪く薫が鬼になっていたらば、自分も殺されるかもしれない。そんな恐怖を(いだ)きながらも、必死の覚悟で帰ってきたのだ。

 それなのに助けようと思っていた二人は、まったく八重の言葉を信じない。それどころか八重を嘘つき呼ばわりし、ひどく軽蔑した目で見てくる。

 

「お前、さっきから見た見たって…じゃあ、なんでそのときに薫さんを助けなかったんだよ! 何もせずにただ見てたってのか?! とんだ卑怯者じゃねぇか!」

 

 翔太郎に厳しく糾弾されると、八重はヒクッとしゃくりあげた。

 勝母の首を持って現れたあの鬼の姿を思い出し、途端に蒼白になってガタガタ震え始める。

 

「無理よ…無理……だって、先生の首持って……あの…鬼……」

 

 宝耳は異様なほどに怯える八重をチラと見てから、ポンと翔太郎の肩を叩いた。

 

「まぁ、そないに責めるのは無体というもんや、坊ン。お()はんかて、その鬼を目の前にして、怖なって声が潰れたと言うてたやないか。見たこともない呼吸の技を使う、異様な鬼やったと」

「じゃあ、あの鬼が、こいつの言ってる六つ目の鬼だってのか?」

「今、この娘がぶつくさ言うとったやろ? 勝母刀自の首を持って現れたのやとしたら、十中八九、同じ鬼やろうで」

「馬鹿な! あの鬼にまともに会って、生きてなんかいられるわけ…」

 

 言いかけて翔太郎は口を噤んだ。

 それこそ八重の言った理由であれば、鬼が薫を殺さずにいたことも納得できてしまう。

 宝耳は急に黙り込んだ翔太郎を見てから、座り込んだままの八重に手を差し出した。

 

「ホレ、いつまでもへたり込んどってもしゃあないやろ。立って、おじさんと一緒に来てもらおうか。それともここにおって、坊ンと律歌(ねえ)さんにくどくどと説教されたいか?」

 

 八重は正直なところ、この得体の知れない男と一緒に行きたいと思わなかったが、ここにいても自分が歓迎されないのだということはわかった。

 少なくとも目の前の男は、自分の話を聞いてはくれそうだ。

 仕方なく、差し出された手を取って立ち上がる。

 

「ほな、行きまひょか」

 

 宝耳が部屋を出ようとすると、それまで黙っていた実弥が「待て」と低く呼び止めた。

 

「何を勝手にテメェが決めてんだ? この女が薫を殺そうとしたことは事実だろうがァ」

「…さいでんな」

「だったらこの女の身柄をテメェに預ける理由なんぞねぇ。牢屋にブチ込んで終わりだ」

「ふむ」

 

 宝耳はしばらく考えてから、ニッコリ笑った。「見逃してくれまへんか?」

 

 実弥は宝耳の厚顔に、一瞬言葉を失った。

 ヒクッと苛立ちで頬の肉が引き()る。

 

「なにを…フザけたこと抜かすな」

「フザけとりまへん。この事については、ワイに預けてもらいたいんですわ」

「テメェにそんな権限があるとでも思ってんのか?」

「権限でっか…」

 

 宝耳の目がスッと細くなる。

 ヒュウと高い口笛が響き、バサリと鴉の羽音がした。

 土で汚れた廊下に、一羽の鴉が降り立つ。

 

月蘭(ユエラン)

 

 宝耳が呼びかけ、左の腕を上げると、鴉は大きな羽を広げ飛び上がり、ゆっくりとその腕に乗った。

 鬼殺隊士であれば珍しくもない光景だ。

 ただ、宝耳の腕に乗った鴉の首に巻きつけられた紫の組紐に、実弥は眉を寄せた。

 

 実弥が知るかぎり、紫の組紐をつけた鴉は、お館様である産屋敷耀哉の鴉だけだった。執事の薩見(さつみ)惟親(これちか)も鎹鴉を持っているが、彼の鴉の首には水色の組紐が巻いてあった。

 

「この子は…お館様の鎹鴉とは兄妹(きょうだい)でしてな」

 

 宝耳が実弥の内心を読み取ったように言った。

 

「同じ巣で生まれ育ったせいか、以心伝心、ほかの鴉と比べても、早ぅにお館様に伝えてくれますねん。今日のことも、すぐさまに」

 

 そう言って宝耳がかすかに腕を動かすと、月蘭と呼ばれた鴉はその場から飛び立った。

 宝耳は実弥の顔を真正面に見つめ、粛然と言った。

 

「これより、この娘の件については、お館様預かりとなります」

 

 実弥はギリッと歯噛みした。

 

「テメェ…何者だ?」

 

 問いかけられ、宝耳はまたヘラっと笑みを浮かべると、わざとらしく頭を下げた。

 

「これはこれは…そういえば、まだ風柱様にはきちんとご挨拶しとりませなんだな。ワイは伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)と申します。隊士も隠もやってますねんけど、一応、鬼殺隊の監察部(かんさつぶ)にも所属しとります」

「監察部?」

 

 実弥は問い返した。

 今までそんな部署を聞いたことがなかったからだ。だが理由はすぐに知れた。

 

「まぁ、監察部なんぞというても、実質ワイ一人ですわ。隊内にたまーに、ちょいとばかし困ったようなことをする隊士がおったときに、取り締まる必要がございましてな。ま、鬼退治に専念してはる柱の皆様方には、縁のない部署でございます」

 

 慇懃な言い方に実弥は苛立ちながらも、宝耳の言葉を無視することはできなかった。

 実弥の腕を掴んだときの力や、柱である自分にもまったく臆することのないこの態度、それに先程の紫の組紐の鎹鴉。

 只者でないことは、すぐに知れた。敵に回せば、かなり厄介そうであることも含めて。

 

「その女の言うことだけを鵜呑みにして決めるなら、黙っちゃいねぇからな」

 

 ほとんど恫喝するように言うと、宝耳は「まさか」と肩をすくめた。

 

「そこは、お館様を信じておられる風柱様であれば、そのようなことが起こらんことは、重々承知でございましょう? 当代の耀哉様は、聡明であられた先代に比べても、道理を弁え、知略に優れた御仁でっせ」

 

 わざとらしい笑顔を浮かべる白髪混じりの男を、実弥は不信感も露わに睨みつけた。だが、お館様の名前まで出されては、面と向かって文句を言うこともできない。

 

 一方、律歌は目まぐるしい状況の変化に唖然として立ち尽くすばかりであったが、八重を連れて部屋を出ていく宝耳にあわてて呼びかけた。

 

「あ…ちょっと! どうするのよ、この…おっ母様の旦那様の日記!」

「あぁ…また来るよって、置いといてくれ。それと、律歌よ。お嬢さんをよぉ見ときや。勝手にどこぞに行って、勝手に死なへんように…」

 

 宝耳は薄笑いを浮かべ、実弥に意味深な視線を向ける。最後の言葉は律歌に向けてではなく、実弥に言っていた。

 ギロリと去っていく宝耳の背を睨みつけ、実弥はつぶやいた。

 

「誰が…させるか…」

 

 

 

<つづく>

 





なかなか更新できず、すみません。
次回、2週間後の2023.08.12.更新予定となっております。


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第五章 虚実(三)

 宝耳(ほうじ)八重(やえ)を連れて去った後、実弥は(かおる)が不意に起き出して、自傷したりすることのないように見張っていた。宝耳に言われるまでもなく、当初から実弥はそのつもりで百花(ひゃっか)屋敷を訪れていたのだ。

 翔太郎(しょうたろう)も一緒にいると言ってきたが、それは律歌(りつか)が許さなかった。

 

「私は一人で忙しいの。あんた、元気なんだったら手伝ってちょうだい」

 

 有無を言わさず引っ張って行き、翔太郎はものすごく未練たらしく喚いていたが、実弥は無視した。

 

 あれだけ騒ぎ立てていたというのに、薫は一切目を覚まさなかった。

 静かすぎる眠りと、相変わらずの白い顔。

 時折、心配になって手首の脈をとる。弱々しいかすかな拍動に、ホッと息をつくが、首に赤黒く残る傷を見ると、胸の痛みと同時になんともいえぬ焦燥感が湧き立った。

 

 星田(ほしだ)八重(やえ)勝母(かつも)の弟子だったという。

 律歌はしばらく東京にいて知らなかったが、どうやら修行の厳しさについていけず、逃げだしたクチらしい。そのまま逃げるだけならまだしも、勝母の日輪刀を持ち出していたというから、あきれる。

 そんな盗人同然の娘の言葉を、お館様がまともに信じるわけもないが、連れて行った伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)という男の得体の知れなさが、実弥を落ち着かなくさせる。

 

 結局、実弥は薫が自殺を図ったことを言わなかったが、宝耳は察していたようだった。

 宝耳が短刀をなくしたと言ったとき、実弥はすぐさま薫を見た。もし、それが薫の周囲に落ちていて、不意に薫が意識を取り戻すようなことがあったら、その短刀で自ら首を斬るだろうと確信していた。

 

 宝耳は実弥の狼狽を見逃さなかった。それでいて理由を尋ねることもなかった。

 つくづくやりにくい男だ。

 老人というわけではないが、ある種の老獪さを感じる。お館様がそれと知って使っているのであれば、尚の事、文句を言うわけにもいかないが。

 

 そんなことを、壁にもたれてうつらうつらしながら考える。

 昨晩はこちらに向かいがてら、鬼を二匹片付けてきた。そのため、ほとんど寝ていない。

 春の温かさが残る心地よい風と、静寂とともに訪れた夕闇の気配に、実弥は自らも気付かぬ間に睡魔によって眠りに落ちていた。

 

「…かぁ……ぢゃ……」

 

 誰かのかすかな声に、実弥は瞼を開く。同時に自分が眠っていたことに気付いて、あわてて身を起こした。

 部屋はすっかり暗くなっており、ずいぶんと時間が経ったように思える。すぐに薫を確認しようと目を向けて、実弥は固まった。

 薫は起き上がっていた。背筋を伸ばし、膝にかかった布団の上で手を重ね合わせて、じっと真っ直ぐ、前を向いている。

 

「薫……」

 

 呼びかけるというよりも、口をついて出た。つぶやくような声だったが、薫はすぐに反応し、今度は真っ直ぐ実弥を見つめた。

 実弥はすぐに違和感に気付いた。

 実弥を見る薫の瞳にいつも浮かんでいた戸惑いや、悲しさ、怒り、寂しさといった複雑な揺らぎが、一切なかったから。

 その瞳はまるで真っ暗な穴だった。なんの感情も見えない。

 

「……薫?」

 

 少しだけ近づいて呼びかける。薫はやっぱり無表情に実弥を見てから、ゆっくりと首を傾けた。

 ややあって、かすれた声で尋ねてきた。

 

()ぁンれ?」

 

 

◆◆◆

 

 

「時々あるの。あんまりにもひどい経験をして、自分を守るために記憶をなくしたり…薫の場合は、おそらく時間が小さい頃に戻ってしまったのね」

 

 律歌はそう診断したが、治癒の方法などはまったくなかった。外傷と違い、精神的なものなので、治しようがない。原因すら、今はわからないのだから。

 

 薫の意識が戻ったら、聞きたいことはいっぱいあった。

 それこそ、星田八重の言ったようなことが本当にあったのか? どうして自ら命を絶とうとしたのか? なぜ、死なないといけないのか?

 だがその全ての問いは、今や封印するしかなかった。薫が自ら、答えることを封印したように。

 

 ようやく目を覚ました最初の言葉が、「誰?」という少しだけ訛りのある言葉だったときに、実弥の中で何かが罅割(ひびわ)れたような音がした。

 自分という存在が薫から消えてしまったことと、薫自身が今まで懸命に生きてきた自分を手放してしまったという深刻さに、ひどく心が重くなる。

 だが実弥はその時、目の前で子供のように無垢に自分を見つめてくる薫に、なんとか笑いかけた。

 実弥のことを()()()()()()であれば、きっと今の実弥(じぶん)は恐ろしいだろう。

 

「俺は…さねみ、だ」

「…ねみ…」

 

 ずっと寝ていたからだろうか。薫の声はかすれてしまい、本人ももどかしそうにコンと小さく咳払いした。

 

「喉、ヘンなのか? 白湯(さゆ)でも飲むか?」

 

 なるべくやさしい口調で……それこそ昔、風邪を引いて気弱になる弟妹たちを、看病していたときのように、実弥は尋ねた。

 薫は黒目がちの瞳でじーっと実弥を見てから、コクリと頷く。

 枕元に置いてあった湯冷ましを茶碗に入れて差し出すと、両手で持って、ためらうことなくゴクゴク飲み干した。

 

「喉、渇いてたのか?」

 

 実弥は笑って言い、また茶碗に湯冷ましを注ぐ。薫はまたゴクゴクと飲み干してから、小さくゲップした。

 まるで本当に子供のようだった。普段の薫であれば、ぜったいにそんな姿は見せない。

 薫は喉を潤して少し人心地ついたのか、思い出したようにキョロキョロと辺りを見回した。

 

「どうした?」

「……母ぢゃん」

 

 心細げに呼びかける。訛りがきつかったが、実弥はすぐにその言葉の意味がわかった。

 

「母ちゃんか…」

 

 実弥がつぶやくと、薫はコクリと頷いて尋ねてくる。

 

「母ぢゃん、どご?」

「………」

 

 答えられない実弥を見て、薫はフッと目を伏せ、また無表情に戻った。その顔は昔、川べりを歩いていたときに、ふと見せたものと同じだった。

 

「ごめんな。わかんねぇんだ」

 

 素直に言うと、薫はまた実弥をじいっと見てから、コクリと頷いた。

 ()()にしては聞き分けがいいが、実際に目の前にいるのは、すっかり大人の薫だ。実弥はその落差に、ひどく心がかき乱された。

 

 その後、律歌に薫の意識が戻ったと知らせにいくと、律歌は喜んだものの、一転、深刻な症状に呆然となった。一応の診断は下したが、力なく首を振った。

 

「私には…よくわからない。専門のお医者様に診てもらったほうがいいのかもしれない」

 

 最終的に律歌は自分の手に負えないと言った。八重の話も含めて、それこそ本部の関係者に指示を仰ぐ必要があるだろう…と。

 本部と聞いて、すぐ実弥の頭に浮かんだのは薩見(さつみ)惟親(これちか)のことだった。昔の親友の娘である薫のことを、それこそ娘同然に面倒見ているのだと、音柱の宇髄天元から聞いたことがある。彼であれば、薫のために何かしらの手立ては講じてくれるだろう。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 しばらく任務がなかったのもあるが、実弥は容易に百花屋敷を離れられなくなった。

 

 薫は、目が覚めて一番最初に会った実弥だけに心を許したようで、実弥が持ってくるもの以外の食事は受け付けなかったし、実弥以外の誰かがいる前では決して食べることもしなかった。

 それこそ殻を破って出た雛が、一番最初に動くものを親として認識する習性があるのと同じように、現在のところ薫にとっての親代わりとなっているのは実弥であった。

 

 だが、それでも薫は一日に数度、尋ねてきた。

「母ぢゃんは?」と。

 

 そのたびに実弥が口ごもると、ただ目を伏せて、それ以上は何も言わなかった。

 

 翔太郎は薫の意識が戻ったことには喜んだものの、幼女のようになってしまった薫に、すっかり困惑してしまったようだ。

 

「薫さん? 薫さん!? なんで! どうしてこんな…!!」

 

 当人の肩を掴みながら、まるで非難するように叫んだので、薫は翔太郎から逃げた。

 翔太郎としては薫本人に文句を言いたかったのではなく、薫の身に生じた理不尽への憤りから出た言葉ではあったのだが、()()()は自分が怒られたと思ったらしい。

 それからは翔太郎がどんなに謝っても、なだめすかしても、まったく近づこうとしなかった。

 翔太郎の姿を見るなり、実弥のうしろに隠れてしまうほど。

 

「俺…嫌われちゃいましたね…」

 

 しょぼくれる翔太郎を、実弥はあきれた目で見ながらも、どこか気分が良かった。

 

 ただ、それも最初だけだ。

 

 薫は、()()にしては少々静かすぎる子だった。

 母親のことを訊いてくる以外は、ほとんどしゃべることもない。

 どんよりとした、何を考えているのかわからない瞳は、いつも俯きがちで、ほぼ目が合うことはなかった。子供らしく感情を爆発させることも、なにかに夢中になることもない。

 

 一度、律歌が折り紙を持ってきてくれて、それで風船をつくったが、風船以外のものを折ることもなく、一つだけ作った風船をつまらなそうに掌の上で打っていた。様子を見に訪れた翔太郎がうっかり踏み潰してしまったが、ひしゃげた風船を見ても、怒ったり、残念がったりすることはなかった。ただ淡々と受け入れて、その風船をつまんで塵箱(ちりばこ)に捨てた。

 

 実弥には意外だった。

 昔、弟妹たちと無邪気に遊ぶ薫を見て、きっともっと幼い頃は、近所の子らと、はしゃぎまわって鬼ごっこでもしていたのだろうと思っていたが、そうでもないようだ。

 静かでおとなしいが、年不相応に大人びているというのとも違っていた。とにかく活気がないのだ。

 

 どんより曇ったような、何も映さぬ薫の瞳に、川べりを歩いていたときに一瞬見せた表情が重なる。

 そういえばこの前、森野辺(もりのべ)の養女になったばかりの頃の薫と、会ったときのことを思い出したが、あの時もこんな感じではなかっただろうか?

 子供にしては、ひどく虚ろな目と、言葉少な ――― というよりも、ほぼ話さなかった。きれいな着物を着ていたのに、握った手はカサついていて、骨ばって痩せていた。

 

 実弥は眉を寄せて、薫の幼い頃の境遇について考えた。

 昔、母から子守奉公をしていたと聞いたことがあるが、つらい労働環境であったのだろうか……?

 

 律歌の持ってきたビー玉を畳の上に散らしたまま、遊ぶこともなく、薫はその光の影を見つめている。

 ゆらゆらと揺らめく光が思い出と相まって、川の水面の照り返しのように見える。

 そんな実弥の心中を見透かしたかのように、薫が突然つぶやいた。

 

「川…」

 

 実弥は自分がちょうど川を思い浮かべていたので、少しばかり驚きながらも、やさしく問いかけた。

 

「川? 川が、どうかしたのか?」

「川に、母ぢゃんがいる」

「へ?」

「川…川……」

 

 薫は急に立ち上がって、歩きかけたものの、三ヶ月近く寝込んでいたので、足の筋力が衰えてしまい、数歩でへにゃりと崩れ落ちてしまった。それでも手で無理やり縁廊下へと向かっていく。

 

「おい、ちょっと待て。危ないから、待てって」

「川…行ぐ」

 

 ここまで強硬に自分の意志を示すのは、記憶をなくしてから初めてだった。実弥は困惑しながらも、少し嬉しくなった。

 薫の肩を掴んで、言い聞かせる。

 

「わかった。連れてってやるから、ちょっと待て」

 

 

◆◆◆

 

   

 律歌に一応許可をもらいにいくと、納屋にしまっていた車椅子を出してきてくれた。

 

「さすがに体は子供じゃないんだから、抱っこしていくのも大変でしょ?」

 

と言われて、実弥はそういえばそうだと今更になって気付いた。

 

 もちろん薫が子供でないことはわかっている。だが、時々実弥を見つめてくる瞳は頑是ない子供のようで、そうだと思えばこそ、実弥もまともに相手できるのだ。

 

「俺も行きます!」

 

 話を聞きつけた翔太郎が案の定言ってきたが、律歌が一睨みして低い声で脅しつけた。

 

「アンタ…私一人であの一面のカミツレを採取しろっての?」

「え…あ、明日には手伝いますよ」

「遅い! もう在庫も残り少ないし、最近暑くなってきたから、アブラムシがついちゃうでしょ。今日中に摘みきるつもりでやるわよ!!」

「えぇ~っ!」

 

 またも有無を言わさず、律歌は翔太郎を連れて行った。

 

 色々と手間取ったが、どうにか薫を車椅子に乗せて、滝壺の下流にあるやや流れのゆるやかな川原まで来ると、薫がボソリとつぶやいた。

 

「……違う」

「違う?」

「………」

 

 薫は黙りこくり、しばらく川を見つめていたが、急に前へと体を傾けた。

 

「おい!」

 

 実弥はあわてて肩を掴んだが、薫は無理に行こうとする。とはいえ、この数ヶ月寝たきりで、すっかり肩の肉も薄く、力などないに等しかった。むしろ下手に力を入れれば、折ってしまいそうだ。

 実弥は薫の前へと行くと、腰を落として問いかけた。

 

「ここから川を見るだけじゃ駄目なのか?」

 

 薫は実弥の顔をまじまじと見つめてから、コクリと頷く。

 さすがに水辺までとなると、大小の石やちょっとした岩などもゴロゴロと転がっているので、車椅子で進むことはできない。

 実弥は深くため息 ――― というよりも深呼吸をしてから、腕を広げた。

 

「ほら、来い」

 

 薫は小首を傾げて、しばらく実弥を見ている。実弥は仕方なさそうに言い訳した。

 

「ここらは車椅子じゃ入ることができないんだ。抱っこして連れてってやるから」

 

 薫はその言葉でようやく意味を察したようだ。パチパチと目を瞬かせてから、おずおずと手を伸ばしてきて、実弥の首に腕を回した。

 もう一度、実弥は深呼吸した。昔、祭りの帰りに眠くなって、抱っこをせがんできた妹たちのことを思い出してから、薫を抱きしめた。

 

「よいせっ…と」

 

 わざとらしく掛け声をして立ち上がったものの、あまりに思っていた以上に軽すぎて、かえってよろける。薫が反射的に強くしがみついた。

 

(わリ)い…」

 

 実弥は謝ってから、ザッザッと石だらけの川原を足早に歩いていく。

 首から上が、めちゃくちゃ熱かったが、無視した。着物越しに感じる柔らかな胸の感触も、無視した。必死で無視した。

 たいした距離ではなかったのだが、水際に辿り着いたときは、妙に疲れた。

 

「ここらでいいか?」

 

 尋ねると薫が頷く。

 実弥はそっと、大きな平たい岩の上に薫を降ろした。

 

 いびつな三角形の岩は、細く伸びた先の部分が川に浸かっている。薫はその先端部分に座り込んで、じいっと水面を見つめていたが、やがてポツリとつぶやいた。

 

「……母ぢゃん…」

「ん?」

「母ぢゃん…母ぢゃん!」

 

 急に叫んだかと思うと、水へと手を伸ばす。実弥はまたあわてて、肩を掴んだ。

 

「危ない! 落ちるだろ!」

 

 少し厳しく言ったが、薫はそれどころではないようだった。何度も「母ぢゃん」と繰り返し、どうしても離そうとしない実弥に水面を指さして言った。

 

「母ぢゃん、いだ!」

 

 実弥は意味がわからなかったが、薫と一緒に岩の上から覗き込むと、ゆらゆらと揺れる川面に薫の顔が反射していた。そうしてようやっと理解した。今の薫はまだ幼い頃の自分しか知らず、成長した自分を母親と見間違えているのだ。

 

「…お前、母ちゃん似なんだな」

 

 実弥は少しだけ笑って、薫の頭をポンとやさしく叩いた。薫は気付かず、じいーっと水面に映る自分を見つめている。そっと手を伸ばして『母ぢゃん』に触れると、その姿は揺らめいて消える。何度も繰り返して、薫は手を引っ込めた。

 それからはまたどんよりした瞳で、黙って水面に揺らめく『母』の姿を見ていた。

 

 実弥はゆっくりと背を伸ばし、腰に下げていた水筒を取った。

 いつの間にか喉がカラカラだった。喉を潤して一息つき、森を渡ってくる風を胸の奥まで吸い込む。奇妙な状況ではあるが、久々に穏やかな気分だった。

 

 ここのところは去年の比じゃないほど忙しいうえに、知らない間に玄弥が鬼殺隊に入っていたり、鬼になった妹を連れ回す隊士なんかのために招集がかかったりして、本当に苛立たしいことばかりが続いていた。

 

 吉野(ここ)に来るのも、正直楽しいことではなかった。

 薫の意識が戻ったら、何をいうべきなのか、何と言ってやるのが正解なのか…悶々と考えながら来たが、現時点では先送りするしかない。……

 

 再び胸奥深くまで清しい空気を吸い込み、渓流の上を飛び回る小さな鳥を見るともなしに見る。

 ふと薫に視線を戻したところで、実弥は息を呑んだ。

 

「馬鹿ッ! やめろ!」

 

 川に顔をつけている薫を無理に引き上げる。

 薫はプハッと息を吐いてから、じぃとやっぱり無表情に実弥を見つめた。

 

「危ねぇだろ!」

 

 実弥が叱ると、薫は前髪からポタポタ垂れてくる滴を軽く拭ってから言った。

 

「苦すくねように…」

「は?」

「水さ入っても苦すまねようにすねど…」

「…頼むからゆっくり言ってくれ」

 

 さすがに訛りがきつくて、早口に言われると何を話しているのかさっぱりだった。

 薫は言われるままに、ゆっくりと繰り返す。それでどうにか実弥にもなんとなくわかった。わかったらわかったで、どうしてそんな妙なことを言い出したのかが、わからない。

 

「水に顔なんかつけたら、苦しいに決まってるだろ。息ができなくなるんだから」

 

 実弥が言うと、薫は珍しく悲しげな顔になり、コクリと頷いた。

 

「んだがら、母ぢゃんはオラば置いでいった」

「置いていった?」

「一緒に父ぢゃんのどごろに行ぐべど、言ってだ。父ぢゃんは夕焼げ空の雲の向ごうにいっから、会いに行ぐって」

 

 実弥は途中から怪訝な顔になり、薫に注意深く尋ねた。

 

「薫…お前の父ちゃんって、どこかに行ったのか?」

「死んだ。んだがら雲の向ごうにいる」

 

 実弥の眉間の皺は深くなった。

 この先のことを聞きたくないが、聞かねばならないような ―――

 

「お前、それで…母ちゃんと一緒に父ちゃんのところに行こうとしたのか?」

 

 薫はコクリと頷き、川を指さした。

 

「母ぢゃんと一緒さ川に入った。んだげんと、うるがされで(*水に浸けられて)、口にも鼻にも水がいっぱい入ってぎで、オラは苦すくなったっけ」

 

 訛でわかりにくいところはあったものの、実弥は薫の言う状況を概ね理解した。

 同時に、慄然として薫を見つめる。

 

 困窮からか、あるいはそれ以外の要因なのか ――― 薫の母は、おそらく娘と一緒に心中しようとしたのだ。先に亡くなった夫の後を追って。

 自分の娘を ――― 薫を川に沈めて…殺そうとしていたのだ……。

 

 薫は何ともいえない目で自分を見つめる実弥に、いつもの無気力な様子と打って変わって、必死になって訴えた。

 

「『苦すまねでけろ』って、母ぢゃんが言っだのに、オラが苦すい顔すたがら、母ぢゃんはオラば置いでいった。んだがら、オラは苦すまねようにすねどいげね」

「…………」

 

 実弥は何も言えなかった。何の言葉も思い浮かばなかった。

 硬直したまま、記憶だけが揺らめく。

 

 

 ―――― 見てたら、自分が消えてくから…

 

 

 死人のようだった白い横顔。

 

 

 ―――― 誰かに必要とされるために、必死になるしかなかった!

 

 

 血を吐くような悲痛な叫び。……

 

「………あぁ…」

 

 全身の力が抜けそうなくらいの無力感に、思わずうめき声がもれる。

 どうして、もっと疑問に感じなかったのだろう…。

 

 何故、幼い薫に笑顔がないのか。

 何故、いつも虚ろな目をしているのか。

 

 今、実弥の目の前にいるのは、母を失い、一人ぼっちになって途方に暮れている、幼い孤独な子どもだ。

 傷つき、傷つけられ、自らの中でその『傷』を消してしまった、絶望に満ちた小さい薫だ。

 

 実弥は薫の心に巣食っている虚無が見えた気がした。

 

 殺されそうになっても、薫は母親のために耐えようとしたのだ。それが母の望んだことだったから。けれど、できなかった。当たり前だ。水の中で平然と息を止めておくことなど、大人だって簡単ではない。そうしてできなかった自分を、薫は今も責め続けている。――――

 

 実弥は溜息をついて天を仰いだ。初夏の日差しは眩しくて、目に染みる。

 

「……薫、お前の母ちゃんはお前を置いていったわけじゃない」

 

 実弥は自分を見つめる無垢な瞳に話しかけた。

 

「お前を、まだ…連れて行っちゃ駄目だって思ったんだよ」

「……なすて?」

「お前が……まだ小さいから」

 

 薫は小首をかしげ、尋ねる。

 

「大ぎぐなったら連れでってける?」

 

 実弥は唇を噛みしめ、苦い笑みを浮かべた。

 

「いや、そうじゃなくて…その…やりたいこととか、あるだろ?」

()ェ」

 

 迷いもせずに即答する薫に、実弥はため息をついた。実際、今の薫には何もしたいことなどなさそうだった。

 実弥は眉を寄せ、しばらく考えていたが、顔を濡らしたままの薫に気付いて、手ぬぐいで拭いてやった。濡れた首筋に手ぬぐいを巻いてやりながら、訥々(とつとつ)と言葉を紡ぐ。

 

「お前にやりたいことが()ぇから、連れて行かなかったんだよ。やりてぇこと見つけて、一所懸命にやって、出来ても出来なくても、やりきったって思えるまでは、連れて行ってはもらえねぇんだ……たぶん」

「………」

 

 薫は長い間、実弥を見つめていた。だが、その視線の先に映っているのは、なにか別のもののようだった。震える声で何かを言いかけたが、急に涙が溢れた。薫は自らの涙に驚いたかのように、呆然となり、それでも泣くのをやめることができないようだった。

 

「…帰ろう」

 

 実弥が優しく声をかけ、手を伸ばすと、薫は泣きながら実弥の胸に顔を(うず)めた。

 声も上げず、細かく震えて泣き続ける薫の背を、実弥はしばらく撫でさすってやった。

 それくらいしかできない自分が、本当に情けなかった。

 

 

 

<つづく>

 





次回は2023.08.19.更新予定です。


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第五章 虚実(四)

 (かおる)が(精神的に)幼子に戻ってから、実弥は度々任務の合間に吉野を訪れた。

 当初は実弥にしかなつかなかった薫は、徐々に律歌(りつか)には心を許したようだ。任務で一月(ひとつき)近く実弥が来れないこともあったので、さすがにその間ずっと断食もできなかったのだろう。

 

 もちろん律歌が親身に世話したのもある。

 なかなか心を許さない幼い薫に、さすがの律歌も難渋したが、一度熱を出して寝込んだときにつきっきりで世話すると、やはり申し訳なく思ったのか、それからはわりと打ち解けるようになったという。

 ただ、訛りがきつく、本人も自分と違う話し方の人間ばかりであることを気にしてか、ますます無口になってしまったが。

 

 そんな訳で、薫は今も吉野の百花(ひゃっか)屋敷で暮らしている。

 最近では律歌の手伝いもするようになり、裁縫などは以前と変わらぬ手際の良さだという。そういうものは頭よりも、手に染み付いているのだろう。当人が、かえってびっくりしていたらしい。

 ただ、翔太郎(しょうたろう)には相変わらず、よそよそしいのだという……。

 

「よーっぽど、()()()印象が悪かったみたいね。翔太郎も翔太郎で、やっぱりまだ、薫の中身が小さい子供だってことに違和感があるみたい。正直、どう接したらいいのか、わからないみたいね」

 

 律歌が言うのを、実弥は涼しい顔で聞いていた。

 傍らでは薫がすぅすぅと眠っている。

 久しぶりに川に行ったのだが、日差しが強くてのぼせたらしい。途中でグッタリしてしまい、あわてて連れ帰ってきたのだ。

 

 薫は実弥が来ると、必ず川に連れていくように頼んだ。それは実弥が、

 

「川には勝手に行くな。俺以外の人間と行くのも駄目だぞ」

 

と薫に言い聞かせたからだ。

 

 律歌は足が不自由だし、翔太郎も片腕しかない。もし、薫が幼い頃のことを思い出し、発作的に川に飛び込んだりしたとき、二人では助かるどころか一緒に溺れてしまう可能性もある。実弥としては真面目に考えた上でのことだったが……

 

「あんた、今、ものすごーく意地の悪い顔してるわよ」

 

 律歌に言われて、実弥はムッとなった。

 

「どういう意味だァ?」

「薫が翔太郎に()()()()()のが嬉しそーな顔」

「……バカバカしい」

「うわー。今の顔も、なんか勝ち誇った感じ? 出てるし」

「勝つ、ってなんだよ。訳わかんねェこと言うな」 

 

 言いながら、薫の頬上を飛び回っていた蚊をうちわで追い払うと、寄り付かないように、蚊遣器を近くに持ってきてやる。

 

「まったく。同じ気遣いが、()()()にはどうしてできないのかしらね?」

「………」

「都合悪くなったら黙るし」

「……うるせぇ」

 

 律歌の指摘はもっともで、実弥もこれが()()()()()()であれば、こんなふうに出来ようはずもないことは、十分に承知している。

 今の薫は、まだ森野辺(もりのべ)(かおる)として実弥と出会ってもおらず、鬼殺隊士であったことすらも忘れている。実弥のことも近所のお兄ちゃんくらいの感覚でしかない。自分を不死川実弥であると認識していないからこそ、実弥は薫と向き合えている。

 だが……

 

「あんた、どうすんの?」

「あぁ? なにが?」

「薫がこのままだったら…?」

「……まさか」

 

 実弥は思わずつぶやいた。何となしに、いずれ薫が記憶を取り戻し、元通りになるものだとばかり思い込んでいた。その可能性が絶対だと、誰に言われたわけでもないのに。

 

「わかんないわよ。この前、薩見(さつみ)さんの紹介で来てくれたお医者様も、完全に元通りになるかどうかはわからないって言ってたもの」

 

 律歌の言葉に、実弥は奥歯を噛み締めた。

 

 ()()()()()()()()薫は、実弥にとって妹たちといたときのような、なつかしさと安らぎをくれる。

 けれど、ずっとそうあって欲しいとは微塵も思わない。

 いずれは戻ってくれる…戻ればまた、ギクシャクとした関係になってしまうとわかっていても、実弥は薫に元に戻ってほしかった。そう願い、信じていた。

 それなのに戻らない可能性があるというのなら、いったいこの先どうすればいいのだろう…?

 

 不意に爽籟(そうらい)がカアァァと鳴く。

 その声にすぐ反応したのは薫だった。

 ピクリと肩が動き、むくりと起き上がる。無理して起きるから、まだ目も開ききっていない。

 

「すっかり、鴉の鳴き声に反応するようになっちゃったわねー」

 

 律歌が笑った。

 この数ヶ月、実弥は何度か来たが、鴉に出動を命じられては去っていくので、薫は鴉が鳴くと実弥が帰るのだと覚えてしまった。

 

「起きなくていい、ってのに…ホラ、起きたんなら湯冷まし飲んでおけ」

 

 実弥はお盆に置いてあった湯呑に湯冷ましを注ぐと、薫に差し出す。

 薫は受け取って、コクコクと飲み干すと、実弥をぼんやり見上げた。その無表情に近い顔に、実弥はなんともいえぬため息をつく。

 薫はこうして起きても、実弥に特に何も言わなかった。それこそ子供のように行くなと駄々をこねるわけでもなく、寂しそうな顔をするわけでもない。ただ去っていく実弥を見送るだけだ。

 

「南西ノ町ニテ鬼ノ気配有リィ! 隊士二名負傷ォ!」

 

 爽籟の指令に律歌が、ポンと薫の肩を叩く。

 

「あら、良かったわねー。近くみたいだから、実弥()()()()、お仕事済ませたらまた帰ってきてくれるってー」

「勝手に決めんな。あと、なんで俺がおじさんだ」

「あ~ら。()()()からすれば、あんたなんて十分におじさんだと思うけど~?」

「俺がおじさんなら、アンタだっておばさ……」

「刺すわよ」

 

 即座に真顔で言い返してくる律歌に、実弥は軽く背を反らせてボヤいた。

 

「……アンタが悲鳴嶼さんと仲がいいってのが、わからない」

「あら~? どうして~? お似合いでしょ~?」

 

 いけしゃあしゃあと言ってくる律歌に、実弥は軽く目を閉じた。心の中で合掌する。

 

 柱の中でも最年長で筆頭とも言うべき悲鳴嶼行冥は、目の前にいる房前(ふささき)律歌(りつか)と同期らしいが…おそらくこの女相手では、いつもの威厳も形無しだろう。それでも実弥が律歌のことで、ちょっとした愚痴をこぼしただけでも、悲鳴嶼の機嫌はすこぶる悪くなるのだから、なんだかだ頼りにしている部分は多いようだ。

 

「じゃあ、行ってくる。けど…帰ってこれるかわからねぇし、そのまま他の任務に行くかもしんねぇから、起きてるんじゃねぇぞ。寝ておけよ」

 

 力を込めて言ったのは、一月(ひとつき)ほど前にも近場での任務があって戻ってくると、薫が今寝ていた縁側で待っていたからだ。しかも大雨の日だったので、ずぶ濡れであった。行くときに、下手に「すぐに戻る」などと言ったのが悪かった。

 律歌は薫に寝るように言ったが、ちょうどその時に怪我をした隊士が数名運び込まれてきて忙しく、とても薫にまで目配りできる状況でなかったのだ。

 

 薫は帰ってきた実弥を見ると、特に何を言うこともなかった。ただ見て、帰ってきたということを確認しただけ。そうしてそのまま眠り、翌日から高熱を出して寝込んだ。――――

 

 そんなことがあって、実弥はもう一度念を押した。

 

「いいな? 待ってるんじゃねぇ。ちゃんと、布団で寝ろよ。いいな?」

 

 薫はじーっと実弥を見つめてから、コクリと頷いた。

 不満があるのかないのかわからない、相変わらずの無表情。

 実弥はふと、薫の口の端に貼り付いた髪が気になった。指先でとろうとするが、案外と頑固に貼り付いていて、とれない。手の平で頬をつつむようにして、ゴシゴシと親指でこすると髪は取れた。

 パチパチと瞬きする薫と目が合う。

 

「……っ」

 

 実弥は急に恥ずかしくなって、赤くなった顔を見られる前に背を向けた。そのまま足早に、廊下を歩き出す。

 

「あ……っ」

 

 背後から薫の声が聞こえて、実弥は思わず振り返った。

 珍しいことだ。薫はいつも黙って実弥を見送るだけだから。

 薫は口を開いたまま、止まっていた。じっと実弥を見つめる目が、潤んで揺らぐ。

 実弥は一瞬、その瞳に以前の()を感じた。

 

「お前……?」

 

 しかし実弥が一歩踏み出した途端に、その目はいつものどんよりとした無表情に戻る。

 実弥は踏み出した足を止め、再び踵を返すと、その場から立ち去った。

 

 

◆◆◆

 

 

 薫は自分がどういう状態なのか、よくわからなかった。

 例えるなら一番近いのは、眠る直前のような、ウトウトとした微睡(まどろ)み。

 頭の中はずっと霞がかっている。

 だから何も考えられない。まるで薄い繭の中にいるかのよう。

 ただ、光景だけが流れていく。

 そこから見えるもの、聞こえるものは、どこか現実的でなく、けれど自分がそこにいるのだという認識はある。

 奇妙な感覚。けれど心地よい。温かい。

 永遠にこのままでいいとすら思える。

 

 なぜならここから見る実弥は優しかったから。

 いつか千佳子の見せた幻惑のような、薄っぺらな、見せかけのやさしさではない。

 薫のことを心配してくれて、見守ってくれている。

 語りかけてくる声も、時々乱暴な言い回しであったり、ぶっきらぼうに聞こえても、やっぱり薫を気遣ってくれているのがわかった。

 

 あぁ、自分が望んでいた日常だ。―――――

 

 薫はぼんやりとした思考の中で微笑む。

 このままでいいのだ。

 このままでいれば、実弥はずっとそばにいてくれる。

 どこかに行っても、自分の元に帰ってきてくれる。笑いかけてくれる。

 嬉しそうに。楽しそうに。

 

 久しぶりの安らぎ。思い描いていた幸せな日々…。

 薫は満足だった。

 満足に違いなかった。

 十分に満足だった……はずだ。

 

「いいな? 待ってるんじゃねェ。ちゃんと、布団で寝ろよ。いいな?」

 

 鎹鴉に呼ばれて、仕事へと向かう実弥の言葉は、いつものように少し乱暴だった。

 けれど、薫のことを気にかけてくれているのがわかる。

 何度も子供に言い聞かせるように念押ししていた。

 薫はかすかに笑う。

 本当に心配性だ。まるで実弥の妹か、子供にでもなったような気分だ。

 

 そのまま行くのかと思っていたら、実弥が何かに気付いたように手を伸ばしてくる。

 不意に、感じた。

 実弥の温度を。

 頬を伝って、じんわり流れ込んできた。

 

 ビクリと震えた心は、あっという間に薫の柔らかな幸せを駆逐した。

 

 もっと()れて。

 もっと(さわ)って。

 私を見て。

 私だけを見て。

 手を握って。

 掴んで。

 抱きしめて。

 強く。

 離さないで。

 行かないで。

 一緒にいて。

 一緒にいて。

 一緒にいて。

 ずっと、一緒に―――――

 

 次から次へと溢れ出る欲望に、繭が蠢く。

 

 薫は自分から噴き出す貪欲な感情に、吐き気がした。

 さっきまで満足だったのに、一気に自分がおとしめられた気になる。いや、おとしめたのは自分だ。自分の醜い独占欲が、自らの安寧な幸福を奪ったのだ。

 

「お前……?」

 

 実弥の声が、冷たく響く。

 

 気付かれた…?

 ゾッと背筋に悪寒が這う。

 

 薫は必死になって目をつむった。

 目の前の実弥をもう見られなかった。見たくなかった。

 

 もう一度、繭を編もう。

 その中に閉じ籠もろう。

 

 自分は望んではいけない。

 望むものは、いつも手に入らない。

 手に入れてはならない。

 なぜならば自分は■■なのだから。

 

 耳を塞ぎ、悲鳴を押し殺し、闇へと潜っていく。

 もう一度、あの幸せなときに戻りたい。

 ひたすらに願う。

 懸命に自らを覆う糸を紡ぐ。

 けれど、あの柔らかで温かな繭はもう作れなかった。

 

 もう戻れない。

 もう戻れない。

 

 泣きそうになりながら、膝をかかえて薫はうずくまる。

 冷たい闇の中で、独り。

 長い間そうしていると、いきなり胸に痛みが走った。

 ザワザワと耳鳴りがし、動悸がどんどん激しくなっていく。

 

 一歩、薫は進んだ。

 そこに恐怖しかないとわかっているのに、足は止まらない。

 

 暗闇の中、鼻を刺す血の臭い。

 懐かしさすらも感じる、禍々(まがまが)しい■■の血。

 血管を破り、皮膚を裂いて、薫を醜く変貌せしめる元凶。

 

 その場に立つ血まみれの実弥の姿に、薫は悲鳴を上げた。

 

 

 ――――― コワイ! コワイ! ヤツラだ!! ■■■■だ!

 

 

 過去に薫が(ほふ)ってきた■■が叫ぶ。

 恐怖に(おのの)く彼らの心が、薫の心臓を絞め付ける。

 

 無数の悲鳴。断末魔の咆哮。絶望の涙。

 

 逃げ惑い、闘いの果てに散っていく…亡骸も残さず。自らのいた痕跡は何一つなく。あまりにも無情で、あまりにもあっけない、彼らの死。

 

 

 ――――― ■■は……元々は人だったのだから…

 

 

 急にカナエの言葉が聞こえた。

 ■■を『人』として数えていたカナエ。彼らと心通わす日を願い、彼らが二度と苦しみの中に堕ちぬようにと願って刀を振るっていた…。

 

 

 ――――― 憐れんだとしても……殺すしかないのですもの…

 

 

「あ…あ……」

 

 薫は泣いた。

 

 濃厚な血の臭いは、もう抗いようもなく薫に囁いてくる。

 お前も同じだ、と。

 逃れることなどできない。いずれお前はお前が最も憎み、忌み嫌った存在になるのだ、と。

 

「あぁ…あぁ……あ…あ……」

 

 薫はその場に崩折(くずお)れて、天を仰いだ。

 カナエが生きていたら…彼女ならば、泣きながらでも薫を殺してくれたのに。

 薫の幸せを、来世での幸せを願って、斬ってくれただろうに。

 

「薫!」

 

 実弥の声が聞こえる。

 

「薫! オイ!! しっかりしろ! 薫ッ」

 

 ついさっきまで、優しく聞こえていた彼の心配そうな声が、今は疎ましかった。

 自分を心配などしてほしくなかった。気遣ってほしくなどない。()()()のように突き放して、お前など要らないのだと、棄て去ってくれればいいのだ。

 

 そう。

 

 今さっき殺してきた(オニ)のように、(ワタシ)を殺してくれればいいのだ……。

 

 

◆◆◆

 

 

 実弥は百花屋敷に戻ってきたものの、そのまま薫のところに行くことは控えた。まだ夜明け前であったので、律歌も起こさないように、外にある井戸で体を洗うつもりだった。

 大した鬼ではなかったのだが、斬ったときにひどい返り血を浴びてしまったのだ。

 ガラガラと釣瓶を引っ張っていると、視線を感じた。

 

「………」

 

 呼びかけることもなく、視線のするほうへと目を向けると、そこには呆然と立っている薫がいた。

 実弥は驚かなかった。なんとなく強い視線が薫のものだと感じていた。だが、月明かりの下で実弥を凝視する薫の目は、無気力な子供のそれではなかった。

 瞬間的に実弥は悟った。薫が元に戻ったのだと。

 ホッと安堵すると同時に、まごついた。

 昨日までは普通に話せていたというのに、もう何を言っていいのかわからない。

 

「あ……」

 

 足を踏み出した途端に、薫が悲鳴を上げる。

 夜の静寂を切り裂く悲痛な叫び。

 涙を流し、ゆっくりと崩折れていく。

 実弥はあわてて駆け寄り、地面に倒れる前に薫を抱きかかえた。

 

「薫!」

 

 呼びかけるが、薫の瞳は実弥を見ているようで見ていない。

 

「薫! オイ!! しっかりしろ! 薫ッ」

「…ころし……て」 

 

 掠れた声で、薫が言った。

 

「………」

 

 実弥はまた絶句する。

 先程まで、鬼の討伐で昂ぶっていた感情が、一気に凍りついた。

 

「………この馬鹿」

 

 ギリと歯噛みしながら、薫を強く抱きしめる。

 しばらくすると、強張っていた薫の体がフッと力を失うのがわかった。

 そっと腕の力を緩め、気を失った薫の顔を見つめる。

 

 眉に苦悶を滲ませ、蒼ざめた表情は、もはや()()()()()()()ではない。間違いなく、薫は元に戻ったのだ。

 

 実弥はまたそっと薫を抱きしめた。

 本心から、良かったと思った。元に戻ってくれたことが、嬉しかった。それなのに、また死を望むようなことを言う薫が、腹立たしかった。

 

 一体、なにがあったのか。

 勝母(かつも)を亡くしたあの日に、なにが?

 

 

 ――――― その女は鬼よ!

 

 

 薫を殺そうとした女の声が耳奥でこだまする。

 

 実弥は唇を噛みしめた。

 バカバカしいにも程がある。

 この数ヶ月の間だって、薫は実弥と一緒に夏の眩しい昼日中に、川に行ったりしていたのだ。あんなに日の光を浴びて、ケロリとしていられる鬼がいるものか。

 

 数ヶ月前に、鬼になった妹を連れた鬼殺隊士だとかいうフザケたのがいたが、その妹だって日が照っている間は、(はこ)の中に入っていたのだ。

 

 ザッザッと走ってくる音が近づいてきて、実弥の後ろで止まった。

 

「一体…どうしたんです?」

 

 翔太郎が息切れしながら問うてくる。

 実弥は答えなかった。何があったのか、など実弥が聞きたいくらいだ。自分が水浴びしようとしていたら、薫が立っていて、いきなり悲鳴を上げた。それ以上のことは実弥もわからない。なぜ死ぬことを望むのかも含めて、いまだに謎のままだ。

 

「とりあえず、寝かせましょう」

 

 翔太郎から少し遅れてやってきた律歌に声をかけられ、実弥は薫を抱きあげた。

 

「チッ…!」

 

 背後で翔太郎が舌打ちするのが聞こえた。律歌が軽くたしなめている。

 

 昨日までの実弥であれば、その翔太郎の苛立ちを笑い飛ばすこともできたろう。だが、今度目を覚ませば、薫はきっと翔太郎に笑いかける。自分に笑いかけることなど、もう…ない。

 わかっていたのに、想像したら思っていた以上にモヤモヤしたものがこみあげてきて、実弥は軽く首を振った。

 

 一体、自分は何がしたいのだろう?

 薫に何を望んで、こうも苛立つのだろう…?

 

 

 ―――――ちゃんと、お前の……人生を……生きろ、よ

 

 

 今際(いまわ)(きわ)の友の言葉が響く。

 

 自分の人生……それは一体何なのだろう?

 今の自分にとって生きる意味は、ただ鬼を殺すということだけ。一匹でも多くの鬼を殺し、やがては首領である鬼舞辻無惨を滅殺するために、腕を磨くことだけ。

 

 だが、それは自分の望んだことか?

 

 少なくとも、鬼となった母を殺し、玄弥以外すべての弟妹たちを失った朝よりも前には、自分がこんな日々を生きることになろうとは想定していなかった。

 あの日のあの朝が来ずに、いつも通り、母の炊事の音に目を覚ますような朝であったなら……。

 ぐずる弟や妹を、叱りつけながら起こす朝であったなら……。

 自分は、一体何を望んでいたのだろう?

 

 考えながら、眠る薫の顔を見つめる。

 ありもしない…有り得ない想像が脳裏をかすめて、実弥は強く唇を噛みしめた。

 

 あのときも、今も、変わらない。

 薫が自分のものになることなど、永遠に有り得ないのだ……。

 

 

 

<つづく>

 




次回は2023.08.26.更新予定です。


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第五章 虚実(五)

 目を覚ますと、(ひぐらし)が鳴いていた。

 カナカナと夕暮れの風の中に響く鳴き声は、物悲しく、わびしく、なぜか過去を思い起こさせる。

 

 

 ―――― お()ェなぁ…今は辛ぇし、死にたくなることもあるだろうけどなぁ……

 

 

 古い記憶だ。

 ひとりぼっちで、何も変わらない、灰色の日々を生きていた(かおる)に、生きろと言ってくれた人。生きていれば、いずれ良かったと思えるようになるのだと…今の苦しい日々も懐かしくなるのだと、諭してくれた。

 

「……ぎん…じ…さん」

 

 ずっと忘れていたのに、どうして思い出したのだろうか。

 幼い頃に字を教えてもらった、ヤクザ崩れの男。

 店の番頭も手代(てだい)も、いい顔をしなかった。あんな男とは口を利くな、と何度も注意された。

 それでも薫は毎日河原に行った。来ていることも、来ていないこともあったが、薫は行った。雨が降っても、毎日、毎日、行った。

 

 とうとう銀二がまったく来なくなったとき、不思議と薫はすんなりと受け入れた。

 悲しむことも、寂しいと思うことも、なかった。そう思ったら泣いてしまうから。自分が可哀相な人間になってしまうから。

 涙を封じ、銀二に言われた通り、懸命に生きて自分の居場所を探した。そうすれば、きっといつか銀二にまた会えるような気がした。頑張ったな、と頭を撫でて褒めてくれる気がしたのだ。

 

 忘れ物を届けた縁で、不死川一家の子どもたちと仲良くなり、実弥とも時々話すようになったとき、薫はふと実弥と銀二を重ねている自分に気付いた。

 ちょっとぶっきらぼうで、口は悪いが、二人とも優しい。

 薫は嬉しかった。また、銀二に会えた気がした。

 

 だが、別離は突然だった。

 実弥だけでなく、志津も寿美たちも、薫の前からいきなり消えてしまった。一つ一つ、大切に積み上げてきた居場所。大事な日常がひとつ、失われた。

 

 無気力になった薫に、手を差し伸べてくれたのは、養父母だった。

 薫はずっと養父母に対して負い目があった。

 幼い頃、自分の(なまり)を直すべく厳しく指導した家庭教師は、薫に言った。

 

「あなたの本当の両親は身分違いの恋愛にうつつを抜かした挙句、駆け落ちなんかして、子爵様にとても迷惑をかけたのです。にも関わらず、子爵様は広い心であなたのような()()()血の入った娘を養子にして下さったのですから、あなたは決してご夫妻の迷惑になるような人間であってはなりません!」

 

 だから薫は、養父母の()()を素直に受けることはできなかった。いつも遠慮しなければならないと思った。

 けれど信州にまで迎えに来てくれた母は、ずっと薫が耐えてきてくれたことを知って、抱きしめてくれた。

 母が薫に示してくれたのは()()ではなく、たった一人の娘に対しての()()だった。

 

 実弥たちを失って傷つき、弱り果てた自分に、またできた居場所。

 薫は少しずつ自信を取り戻していった。

 

 しかし平和は長く続かなかった。

 不死川家が不意にいなくなったように、養父母もまた唐突に薫の前から消えた。

 また薫は茫然と、孤独に佇むだけ…ではなかった。

 もはや薫はただの力のない子供ではなかった。

 親子としては短い間であっても、自分を愛してくれた存在がいる。この自信は薫に新たな道 ―― 復讐 ―― を示した。

 薫を愛し、慈しんでくれた優しい養父母は、そんなことは望まなかったかもしれない。けれど薫は、これまでのように空虚に、ただただ耐えることはもう()めた。

 

「弟子にしてください!」

 

 篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)の門を叩いたのは、彼が知己であったからではない。老人の、どこかいい加減そうな飄々とした雰囲気の中にある、一切の妥協を許さぬ厳しさを感じたからだ。

 だがそこで思わぬ再会が待ち受けていようとは、想像もしていなかった。

 

 久々に会った実弥は、あまりに雰囲気が変わっていて、当初薫は気付かなかった。

 東洋一から兄弟子の一人であると紹介された彼に感じたのは、ヒリヒリとした痛ましいほどの焦燥と、底知れぬ憎悪。

 自分も親を殺されたように、この人も大事な人を亡くしたのだろう。

 すぐに薫は思い至ったが、あまりにすさんだその様相に、やさしいお兄さんだった実弥が思い浮かぶことはなかった。

 

森野辺(もりのべ)(かおる)です」

 

 挨拶すると彼はガチャンと湯呑を落とし、薫は濡れた着物を拭おうと近くに寄って、ようやく気付いた。

 

 あのときの嬉しさを、どう表現したものだろう。

 もう会うことはないだろうと、完全にあきらめていた。

 東洋一のところへ行く前に、不死川家の墓前に花を手向けながら、寿美たちに謝った。実弥の行方よりも、自分の復讐を優先させることに。そうして彼が幸せに生きていてくれることを祈って、旅立ったのだ。

 

 それなのに目の前にいる。

 ずっと会いたかった実弥が。

 

 薫は飛びついた。

 実弥が生きていたことに安堵し、会えたことが嬉しくてたまらなかった。きっと実弥もそうだろうと思ったのだが、予想に反し、実弥は薫に冷たかった。

 

「俺は認めねェ。お前なんかが鬼狩りなんて……。とっとと去れ!」

 

 それからはしつこく、東洋一に薫の破門を要求してきた。

 呆れ返る東洋一の愚痴を聞きながら、薫は本当にささやかに、ほんの少しだけ期待した。

 これほどまでに隊士になってほしくないと言うのは、薫が未熟であるという以外にも、理由があるのではないか。

 本当は薫のことが心配で、家族のように思ってくれているのではないか。

 それはつまり、自分を好いてくれているのではないか…と。

 

 一瞬、芽生えた希望に、薫の想像は一気に膨らんだ。

 それこそ東洋一に言われたように、結婚し、妻となり、夫を(たす)けて、子供を育てる……そんな平凡な日々を思い浮かべた。そこで夫として想像したのが誰であったのかは言うまでもない。けれどすぐさま薫は否定した。

 匡近(まさちか)が言ってくれたことを思い出したからだ。

 

「実弥にとっては妹の友達だ。そんな子が鬼殺隊に入る、なんて言ってきたら、そりゃあ……心配するよ」

 

 薫はビシビシと頬を打って、自分の浮かれた精神を叱咤した。

 匡近の言う通り。実弥は心配しているだけだ。

 ()()()()が、危ない道を行くことがないように、気遣っているだけなのだろう……。

 

 くだらぬ妄想を戒め、いよいよ最終選別へと向かう前夜。

 あれほど必死に自らを律したのに、ほころびが生じたら、気持ちを止めることはできなかった。

 

「自分の願いが叶うと信じたからこそ、貴女(アナタ)はあの男に抱かれたのでしょう? 自分の身も心も捧げる代わりに、あの男の()を欲したのではないの?」

 

 千佳子が容赦なく薫の真実をえぐる。

 その通りだった。

 あの日、あの夜。

 実弥の剥き出しの欲望に驚き、戸惑いながら、狡猾な情欲は、とうとう彼を手に入れたと歓喜していたのだ。

 実弥はそんな薫の醜さに気付いていたのだろうか……?

 

「お前は……元の生活に戻れ。普通の男と結婚して……暮らせ」

 

 顔を合わせもせずに言われたとき、薫の心は一瞬にして冷たく固まった。

 自分の甘え、自分の欲望に気付き、吐き気がした。

 一時であっても、実弥にそんな自分の醜態を見せた……そうして、拒否された。こんな恥ずかしいことはない。

 

 それからは必死で隠した。あれは恥の記憶でしかない。

 実弥は自分を嫌っている。あきれている。軽蔑している。

 彼は(じぶん)を求めていない。

 自分は彼にとって、何者にもなり得ない……。

 決して、彼が自分を好きになるなんてことはないのだ。

 そう思っていたのに……。

 

「やめろ。頼むから……こんなこと、やめてくれ」

 

 ―――― どうして、そんなに哀しそうな顔をするの?

 

「死ぬな!  絶対に死ぬな…」

 

 ―――― どうして、そんなに必死に抱きしめるの?

 

「……薫、お前の母ちゃんはお前を置いていったわけじゃない」

 

 ―――― どうして、そんなに温かく慰めてくれるの?

 

「…帰ろう」

 

 ―――― どうして、そんなふうに手を差し伸べてくれるの?

 

 ()()()()()があってすらも、振り返ることなく捨て去っていったのに、どうして…今になって、やさしいの?

 

 疑問が膨らんでいき、実弥が相手しているのが()()ではない、幼く愚鈍だった少女の薫であると徐々にわかると、薫自身の心は黒く染まっていった。

 

 私を見て。

 私を。私だけを……。

 私に触れて。

 私を求めて……。

 私を ―――― お願い。愛して……。

 

 

◆◆◆

 

 

 薫は川べりに立っていた。

 

 

 

 少し前に目を覚ましたとき、そばにいた実弥は()()()()()()()()()薫に戸惑って、口ごもった。

 薫は同じ自分であっても相手にされない己に、少しだけ皮肉げな微笑を浮かべた。

 

「……なんだ?」

 

 実弥が問うと、薫は「いえ…」とつぶやいて、ゆっくりと身を起こした。支えようと手を伸ばしかけた実弥を鋭く見ると、実弥の手が引っ込む。

 

「実弥さん……川に行ってもいいですか?」

「川?」

「はい。勝手に行っては駄目だと…仰言(おっしゃ)っていたでしょう?」

 

 薫が苦笑しながら言うと、実弥は目をしばたかせた。

 

「記憶、あるのか?」

 

 実弥の問いに、薫はうっすらと笑った。

 

「なんとなく。ボンヤリとですけど……声は聞こえていました」

「あ……そう、か」

 

 実弥は頷いて、少しきまり悪そうに目をそらす。

 薫はその姿を愛しく思いつつも、どうしようもない寂寥感(せきりょうかん)に唇を噛み締めた。

 

「優しかったですね。実弥さん、子供が相手だと優しいですね。昔から」 

「あァ? なにを言って……」

「昔、寿美ちゃん達にも勿論やさしかったですけど、近所の子供たちからも慕われていたじゃないですか」

「いつの話だ……」

 

 赤面してそっぽを向く実弥に、薫はフフッと笑ってから、立ち上がろうと体を傾けた。

 

「オイ! 急に……」

「大丈夫です」

 

 薫は実弥を制して立ち上がると、縁側へと歩いていく。

 実弥も立ち上がり、沓脱石(くつぬぎいし)にある草履を履いて出ていく薫の後に続いた。

 

 川までの道を、二人は無言で進んだ。

 夕闇が迫り、西の空は藍色と橙と赤がゆるやかな階調を描いて広がっている。

 いつも来る川べりにまで来て、薫は暗い川面に映る自らの姿を陰鬱に見つめた。

 

 ―――― 母ぢゃん!

 

 必死に叫んだ自分の姿を思い出す。

 

 なんて哀れで愚かな娘だろう。

 自分の顔と母親を間違えるなんて。

 

 そうまで似ているのだろうか。

 自分の中の母は、もう朧げで、ただただ痩せ細った弱い女でしかない。

 あのときに母がちゃんと自分を殺していてくれたら……こんな思いをすることもなかったのに。

 そう考えると、足が自然と川へと入っていこうとする。

 だが、やはり背後にいた実弥に止められた。

 

「馬鹿なことするなァ」

 

 腕を掴まれて、薫は項垂れた。

 この人は、どういうつもりで自分を助けているのだろう? 本当の意味で助けてくれるのならば、今、この場で、腰にあるその刀で殺してくれたらいいのに……。

 

「どうして助けるんですか?」

「は?」

「私は……あなたに助けてもらう資格なんてないんです」

「うるせぇな…そんなモンどうでもいいんだよ。俺の目の前で死ぬなァ」

「あなたの目の前でなければいいんですか?」

 

 ギリッと実弥が歯噛みして、薫を睨みつけた。

 

「ふざけんなァ、テメェ」

 

 ドスの効いた声で、怒りを露わにする。

 

「どこででも死ぬな。勝手に、俺の知らないところで、知らないうちに、死のうとなんかしやがったら、タダじゃおかないからな!」

 

 本気で怒っている実弥を、薫はしばらく無表情に見つめていたが、不意に涙がこぼれた。途端に実弥が動揺する。

 

「ッ……おい、なんで……お前、これくらいで泣くやつじゃないだろ」

「……そうですね」

 

 薫は涙を拭うと、もう一度実弥をまっすぐ見つめた。

 

「実弥さん、私はもう鬼狩りはできません」

「………なに?」

「鬼に……なってるんです。私」

 

 自分で思っていたよりもあっさりと、薫は言っていた。どこか他人事にも思えた。

 実弥は目を見開いたまま固まって、うめいた。

 

「馬鹿な…こと……」

 

 鼻で嗤おうとしていたが、引き攣って笑みにもならないようだ。

 薫がゆっくりと首を振ると、息を震わせながら吐いて、怒鳴った。 

 

「ふざけんな! 今、お前ここに来るまでに、どれだけ日の中にいた? そんなのが鬼なワケがねェ!!」

 

 粂野匡近に導かれて鬼殺隊士になるまでは、遮二無二鬼と闘い、彼らを縛って日の光で焼いていた実弥には、鬼にとっての日光がどれほどの恐怖であるのか、身に沁みて知っていたのだろう。その強烈な光が瞬時にして、彼らを葬るさまを何度も見てきたのだろうから。

 

 けれど薫にはわかっていた。

 今も、流れる血の中に確実に異質なモノを感じる。

 それは確かに日の光に怯え、やってくる夜に安堵している……。

 

「……私にもよく、わかりません。けど、あの鬼が……黒死牟という鬼が、私に血を与えたことは、確かです」

 

 静かな薫の告白を、実弥は信じられないように見つめるばかりだった。

 

 薫は空を見上げて、きらめく一番星を眺めた。

 川に浮かんで流れながら、星を見ていたのを思い出す。そうして星はやがて……紅い目になった。

 苦いものが込み上げてきて、薫は無理やり唾を飲み下した。

 

 しばらく沈黙が続くうちに、日が落ちた。

 暗い川のせせらぎと、どこからかコオロギの鳴く音が響く。

 

「実弥さん…」

 

 薫は呼びかけた。

 

 ―――― 私を殺してくれますか?

 

 言いかけて、うつむいた実弥の悄然とした姿を見た途端、口を噤む。  

 

「……なんだァ?」

 

 何も言わない薫に、実弥が反対に問いかけてくる。

 薫は迷った。さっき言おうとしたことは、なぜか声にならない。あてどもなく考えて、なんとなく問いかけた。

 

「私……実弥さんにとって、何なんでしょうか?」

「あァ? なにィ?」

「実弥さんにとって、私は何なんですか?」

 

 とくに答えを必要としたわけではない。

 咄嗟に口をついて出ただけの、あまり意味のない質問。

 けれど実弥はひどく狼狽した。

 

「……ッ…なにって……」

 

 暗くて顔色はわからなかったが、急にゴシゴシと強く口元をこすって、なんだか必死に表情を隠しているように見える。

 

「…ンなこと……訊くなァ…」

「どうしてですか?」

「どうして…って……」

 

 薫は小首をかしげた。

 単純に不思議ではあったのだ。

 自分が子供のようになっていた間、どうして実弥はあんなに気にかけてくれていたのだろうか、と。

 任務もあって忙しいだろうに、わざわざ吉野にまで来て。

 いくら中身が子供に戻っていても、見た目は成人した女だ。そう可愛げがあるわけでもないだろうに……。

 

 薫が答えを待っていると、実弥は口を隠していた手を降ろして、ボソリとつぶやいた。

 

「言わなきゃ……わかんねェのかよ……」

「……え?」

「ンなこと……いちいち言うようなことでも、ねぇだろうがァ……」

 

 実弥にしては珍しいくらい、小さな声。だが、薫を見つめる瞳に、()()()と同じ熱を感じた。

 

 それまでの実弥の冷たかった態度や言葉が、薫の脳裏を駆け抜けた。それこそ顔を合わせれば、何度も「鬼殺隊を辞めろ」と言われてきた。再会した時から、今に至るまで。大阪の道場でも、刀鍛冶の里でも。

 それはきっと、妹の友達としての……少しばかり互いの昔を知っているという、いわば親切の途上にある思い遣りなのだろう…と、思っていた。

 そこまでなのだ、と言い聞かせてきた。

 

 けれど……本当は?

 言いたくない……その、先にある言葉は?

 

 自然と浮かんだ答えに、薫はフワリとやさしく包まれたような気持ちになった。

 こぼれそうな涙を指で止めながら、誤魔化すようにつぶやく。

 

「勘違いします、私。そんな言い方をされたら……」

「……勘違いじゃねぇ」

「本当に?」

「…………」

 

 次の言葉を待ってみたが、やっぱり実弥はそれ以上は言ってくれない。

 今もきっと真っ赤になった顔を隠したいのだろう。薫のほうを見ようともしない。けれど、もう十分だった。

 

 嬉しさが心を満たすと同時に、苦く冷たい事実に薫は慄然とした。

 

 さっき、自分は何を聞こうとしていたのだろう?

 自分を殺してくれるか? なんて。

 なんて非道(ひど)いことを……考えていたのだろうか。

 

 口にすることなかった自分に、薫は安堵していた。

 こんな情けない自分であっても、一応、良心は残っているようだ。

 

 薫は唇を噛み締めた。

 

 彼に、自分を殺させるわけにはいかない。

 実弥が、(じぶん)を大切に思ってくれているのならば、なおのこと。

 

 また、涙が頬を伝う。

 けれどこれは、嬉し涙だ。

 生きてきた中で、きっと一番幸せな涙だ。

 

「……ありがとう……ございます」

 

 薫は笑った。

 そして、決意した。

 

 彼に二度までも、自らの手で大事な人を殺させるようなことをしてはならない。…… 

 

 

 

<つづく>

 





次回は2023.09.02.更新予定です。


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第六章 彷徨(一)

 (かおる)が吉野の百花(ひゃっか)屋敷から失踪して、一月(ひとつき)が過ぎようとしている……。

 

 

 その間に、鬼殺隊では稀有なことが起こっていた。

 音柱の宇髄天元を始めとする三人の鬼殺隊士によって、とうとう上弦の陸が討たれたのだ。

 百年近く続いた膠着状態を塗り替える出来事だったが、その戦闘は激しく、天元は左目と左腕を失う重傷を負い、柱の引退を余儀なくされた。

 蛇柱の伊黒小芭内は、音柱苦戦の情報を受けて向かっていたが、着いたときには戦闘は終わっていたらしい。戦闘後の天元と会って、婉曲な激励をしたようだが、岩柱・悲鳴嶼行冥に次ぐ古参であった音柱は、妙に清々した様子で若手が育ってきていることを伝えた。

 その若手の中には、例の忌々しい鬼の妹を連れた隊士・竈門炭治郎もいたらしい。一緒にその妹も戦い、なんであれば鬼の放った毒で死にかけていた天元を助けたというが、本当に鬼が人を助けることなどあるのだろうか? もし、それが本当なら……。

 

 そこまで考えたところで、実弥は軽く頭を振った。

 どう考えても、薫が鬼だなんてことは信じられない。

 その妹だって、太陽の光に当たれば灰となることを恐れて、日中は必ず(はこ)の中に入っているのだから。あんなに太陽の照りつける場所を歩いていた薫が、鬼であるはずがない。

 

 だが、あのとき薫は言った。

 

 

 ―――― 鬼に……なってるんです。私……

 

 

 落ち着いた顔で、落ち着いた声で、薫は告げた。嘘とは思えなかった。こんなフザけた嘘をつくような奴ではない。

 それでも信じられない実弥に、薫は自らが昔、鬼に血を与えられたのだと言った。静かな声音だったが、体は耐え難い事実にか細く震えていた。

 実弥は何をどう言えばいいのかわからなかった。

 

 どうにもできない沈黙が流れたあとに、薫が問うてきたことを思い出すと、いまだに顔が火照ってきそうになる。なんだって、あんな場面であんなことを訊いてきたのだろう。ぶっきらぼうに答えた自分に、どうして泣きながら笑っていたのだろう……?

 

 

 ―――― ありがとう……ございます……

 

 

 錯覚かもしれないが、うれしそうに見えた。幸せそうだった。

 けれど嗚咽に震えた声は、哀しげに響いた。

 

 嫌な予感がした。嫌な予感しかなかった。

 

 本当ならずっと薫に張り付いて、どこにも行かないように見張っておきたかった。

 けれど、柱の身で許されるはずもない。

 

 互いに一言も話さないまま百花屋敷に戻ると、爽籟が帰京するよう指示してきた。今回はさすがに長くこちらに逗留していて、そろそろ来る頃だろうと思っていたから、仕方がない。後ろ髪引かれる実弥に対し、薫の態度は淡々としていた。

 

恙無(つつがな)く任務を果たされますよう、お祈り申し上げます」

 

 そつのない見送りの言葉に、実弥はギリッと歯噛みした。

 なんだか気に入らなかった。

 一歩、薫に近づいて、釘をさした。

 

「……ここにいるんだぞ。いいな?」

 

 薫は下げていた頭を上げると、実弥をじっと見つめる。その瞳だけは、()()()()()()()のように、どこかあどけない。

 だが不意に哀しげに潤んで、寂しそうに目を伏せた。

 

「オイ!」

 

 思わず大声で怒鳴ってしまったのは、そのまま薫が消えてしまいそうだったからだ。

 なんであれば、精神を病んで幼女となっていた頃よりも危うく思える。

 どこにも行けないように、実弥は薫の細くなった手首を掴んだ。

 

「いいか! どこにも行くなよ!! お前はここにいるんだ! ここで待ってろよ!」

 

 薫はパチパチと目をしばたかせて実弥を凝視してから、困ったように身じろぎした。

 

「あの…離してもらっても……?」

 

 おずおずと言われて、実弥はハッとなってあわてて薫の手を離す。

 隣で見ていた律歌(りつか)はニヤニヤと訳知り顔に笑みを浮かべ、その後ろに控えていた翔太郎(しょうたろう)はあからさまに白眼視した。

 実弥はすぐさま踵を返して歩きかけ、振り返って薫の姿を確認すると、もう一度だけ念を押した。

 

「勝手にどっか行くなよ!」

 

 薫は上気した頬に手をあてながら、笑って言った。

 

「はい。待っています……」

 

 そう ――― 言っていたくせに。

 

 

 数日後、鬼狩りを終えて一眠りしていた実弥に、薫が失踪したと律歌から知らせが届いた。

 

 

◆◆◆

 

 

「お前、ちゃんと寝てんの? なんかすげーひどい顔してっけど」

 

 久々に見た元音柱は、着流し姿で髪も下ろし、さっぱりした姿だった。鬼殺隊にいた頃のやたらジャラジャラとした、目にやかましい格好は鳴りを潜めている。

 

「問題ねェ」

 

 実弥は言葉少なに言って、ジロリと宇随と一緒に入ってきた女三人を見た。

 

「相変わらず剣呑としてるねェ、風柱。で、今日はなんの用だい?」

 

 天元は殺伐とした実弥から、それとなく妻三人を守るかのように、身を乗り出して尋ねてくる。眼帯をしていない天元の右目が、実弥をなだめつつも、軽く威嚇していた。

 実弥は自分が相当に切羽詰まっていると気付いて、態度を改めた。

 

「あ……いや、すまねェ。ちょっと、その…アンタの奥方達に訊きたいことがあって」

「私たちに?」

 

 問い返したのは真ん中に座っていた()()()だった。

 

「なにー?」

 

 のんびりと尋ねたのは、()()()の隣にいる須磨だ。斜向(はすむか)いの天元と()()()に挟まれて座っている雛鶴は、一度チラと天元を見てから、問うてきた。

 

「どういったことをお訊きになりたいんでしょう?」

 

 それぞれに問われて、実弥はしばし言いあぐねた。

 薩見(さつみ)惟親(これちか)から薫が天元の嫁たちと親しかったことを聞いてやって来たものの、どこからどう説明すればいいのか……。

 唇を噛み締めながら逡巡する実弥を見て、天元が見かねたように口を開いた。

 

森野辺(もりのべ)(かおる)のことか?」

 

 まともにその名前を出されて、実弥はそれとわかるほどに動揺した。思わず立ち上がって、天元の襟首を掴んだ。

 

「いるのかッ!?」

 

 天元はいきなり怒鳴りつけてきた実弥を見て、唖然としたように見つめてから、自らの襟首を掴む傷だらけの手をペシペシと打った。

 

「おいおいおい。人に物を尋ねる態度じゃねぇなぁ。余裕がないのはわかったから、ちーとは落ち着け。先に言うと、森野辺はここにはいねぇし、来てもいねぇ」

「あ……」

 

 実弥は我に返ると、天元の襟首を離して、その場にストンと座り込んだ。

 すっかり意気消沈した実弥を見て、天元はため息をつき、雛鶴たち奥方らは心配そうに様子を窺った。

 

「正直、姿をくらますのはいいとしても、俺にも嫁にも挨拶もナシに行きやがったのは癪に障るこったよ。何を考えてんだか……」

 

 天元は乱れた襟を直しながら、少しばかり怒ったように言ってから、ジロリと実弥を睨みつけた。

 

「お前、原因じゃねぇだろうな?」

「……どういう意味だァ?」

「あのお嬢さんの四角四面の堅真面目な性格からして、世話になった人間に挨拶もなしに消えるなんてのは考えにくいんでな。よほどの事情がねぇと」

 

 実弥はギリと畳に爪を立てた。

 ここで薫が失踪した理由を言ったところで、信じてもらえないだろう。そもそも実弥だって信じていない。だが最も厄介なことに、薫当人が信じ込んでいる。そんなはずがないと、皆が口を揃えて言っても、薫は信じきっている。自らが鬼に堕ちた……と。

 

「体調が……悪ぃんだよ。なかなか治らねぇから、ちょっと自暴自棄になってやがんだ」

 

 実弥は目を伏せて、つぶやくように言った。そういう言い方しかできないことに歯がゆさを感じる。

 天元は奥歯に物が挟まったような答えに、フンと鼻をならした。

 

「どうにも…いつもの風柱じゃねぇなぁ。まぁ、いい。ともかく、ウチに森野辺薫は来てねぇよ。ただし、消息を訊きに来たのは、お前ェが初めてじゃねぇ」

「え?」

「お前、知ってるか? 白髪混じりの薄汚ぇオッサン。伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)っていう……一筋縄じゃいかなそうな、インチキ臭いジジィ。奴が先だって来てなぁ、根掘り葉掘り、しつこく訊いていきやがった」

 

 実弥の脳裏にすぐに人を食ったような笑みを浮かべる男の姿が浮かぶ。

 一気に顔が険しさを増した。

 

「奴が……? なにを……」

「なんでも、お館様の命で森野辺を探してるとか言ってたな。相変わらず、いやらしい奴さ。こっちにゃ喋らせておいて、そっちの話はしやがらねぇ。突っ込んで訊こうとすりゃ、『お館様の下知』だから、自分には『何がなんやら』わからねぇ、と抜かしやがる。っとに、小狡(こずる)いジジィだ」

 

 実弥はゴクリと唾を飲んだ。

 まさかあの聡明なお館様が、あんな滅茶苦茶なことを喚き散らす女の言葉を信用するとは思えなかったが、鬼殺隊の監察という宝耳の役割を考えると、精神的に不安定な薫を拘束することは考えられなくはない。

 

 鬼殺隊士は多く鬼に殺られるが、生き残った者の中には時折、精神を病む者もいて、そうした人間は本部の方で療養させるらしい。刀を持っている以上、そのままにしていると、一般人に害なす(おそ)れもあるからだ。

 考え込む実弥に構わず、天元は話を続ける。

 

「なんだかボソボソ言ってやがったよ。()()()()生きてる人間に会いに行くのは控えているようだ、とかなんとか。だから、死んだ人間には挨拶に行ってるかもしれねぇ……って」

「死んだ人間……?」

 

 実弥はオウム返しにつぶやくと、立ち上がった。

 そのまま出て行こうとする実弥に、天元が声をかけた。

 

「おい、お前。追いかけんなら、覚悟を決めろよ」

「……なに?」

 

 実弥は天元が薫の事情について知っているのかとギクリとなったが、どうやら鬼になった云々についてではないらしい。

 

「ようやく見つけたとして、お前が受け止める気もなきゃ、お嬢さんはついて来やしねぇよ。どうする気もねぇなら、いままで通り放っておけ」

「いままで通り……って」

 

 実弥は天元の言葉に反駁しようとしたが、結局、何も言い返せなかった。

 ギリリ、と唇を噛みしめる。

 

 いつも置いてきたのだ。

 ()()()から、自分勝手な本心と欲望は、置き去りにしてきた。自

 分には必要ないものだと、薫になすりつけて。

 

 こんな薄情な男に愛想をつかせて、薫が匡近を好きになるなど当然なのに、そうなったらそうなったでまた勝手に傷ついた。

 匡近の死後、久しぶりに会った薫が、その形見の数珠を持っているのを見たとき。

 それを匡近から託されたのだと聞いたとき。

 匡近が鬼殺隊に入る原因となった弟のことを、既に薫が匡近本人から教えてもらっていたと知ったとき。

 実弥は自分を打ちのめすかのように、匡近との思い出を積み上げていた薫に、理不尽な怒りが湧いて止まらなかった。

 傷つけるつもりはなかった……。

 心の表面ではそんなふうに取り繕っても、奥底のどす黒い嫉妬は、もはやこの世にいなくなってしまった友ではなく、目の前の薫を傷つけた。

 傷つけてやろうと思って、傷つけたのだ。

 

 

 ―――― お前が(うん)と言って、一緒になりゃ良かったんだァ。そうすりゃ匡近は……

 

 

 とんだ詭弁だ。

 死んだ友への哀れみを借りて、密やかで獰猛な妬心は、薫が傷つき、後悔し、心を痛めることを望んだ。

 あのとき、実弥(じぶん)は最も醜い生き物になっていた。吐き気がした。自分にこんな感情があることが信じられなかった。認めたくなかった。

 そうしてまた、その(よこしま)な気持ちと一緒に薫を封じた。――――

 

 実弥は顔を上げて天元を見た。

 一つだけになった目は、穏やかさと厳しさを含んで、実弥を見つめている。一瞬、いつも実弥を励まし、叱咤してくれた匡近の姿が重なった。

 

「あいつが……なにか言ったのか?」

 

 実弥は苦い気持ちを押し殺して問うた。

 匡近亡きあと、天元は薫にとって、相談相手だったのだろうか。吉野に向かわせたときの態度からしても、自分たちの関係について、なにか知っているような気がしてならない。

 しかし天元はあっさり否定した。

 

「いいや。何も聞いてねぇよ。あのお嬢さんが、俺に相談なんぞすると思うか?」

「………」

 

 黙り込む実弥に、天元はベシッと額を打ってきた。

 

「おい。妙な勘違いする前に言っとくがな。俺が森野辺薫と一緒に行った任務があったろう? あそこで鬱陶しい鬼婆ァにぶち当たってな。そいつの血鬼術のせいで、互いに見たくもない過去を見せつけられたんだよ」 

「見たくもない……過去?」

「お互い様だからな。向こうも訊いてこないし、俺も訊かねぇ。今更どうしようもねぇ過去の記憶(こと)なんざ、蒸し返すだけ無駄に気持ちが(すさ)むだけだ。そこんとこ、あのお嬢さんは大人だよ。しかしお前は……わかりやすいねぇ」

 

 心底呆れ返ったように言う天元に、実弥はすべてを見透かされた気がして、一気に血が上った。

 

「うるせぇ! ともかく……アイツがここに来たら、知らせろよ。オッサン、いいな!」

 

 誤魔化すように怒鳴って、実弥は逃げるように出て行った。

 まさしく一陣の風が吹き去ったあとのような静けさが、宇髄家の四人を包む。

 

「なぁに、あれ。いきなり来たと思ったら、いきなり帰っちゃって……」

 

 須磨があきれてつぶやくと、()()()は眉間に皺を寄せて、ムッとしたように口を尖らせる。

 

「薫のことが心配で来たんでしょうけど……なーんか感じ悪いの」

「心配しているのでしょうけど、風柱様は相当に素直じゃありませんね」

 

 雛鶴までもがあけすけに言うと、天元は大笑いした。

 

「やれやれ。俺の嫁たちを敵に回して、風柱も難儀なことになったもんだ……」

 

 

<つづく>

 





すみませんが、来週はお休みします。
次回は2023.09.16.更新予定です。


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第六章 彷徨(二)

『死んだ人間には挨拶に行ってるかもしれない……』。

 

 伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)の残していった言葉を頼りに、実弥がすぐさま向かったのは粂野匡近の墓だった。しかしそこには、風になよやかに揺れる白い花が飾ってあるだけで、誰もいない。

 期待した分、消沈して家に帰ると、(まもる)が待ちかねていたかのように出てきた。

 

「風柱様! 今日、粂野さんのお墓に行ったら、これ……」

 

 両手に乗せて大事そうに出してきたのは、琥珀の数珠だった。匡近の形見で、薫がいったん匡近の実家にまで持って行ったが、家族の意向で薫に譲られた……と守から聞いている。

 

「来たのか?」

 

 実弥が尋ねると、守は残念そうに首を振った。

 

「今日……粂野さんの墓参りに行ったら、石灯籠の中に置いてあったんです」

「……これだけか? 他には?」

「あとは白い秋明菊(しゅうめいぎく)が供えられてあっただけです」

 

 実弥は風に頼りなげに揺れていた白い花を思い出し、それを供えただろう薫の姿に重ねた。

 やはり薫は匡近に会いに来ていたのだ。だが……

 実弥は守の手から数珠を取り上げた。琥珀の玉が連なって、途中に二つある木の玉からは、寺社のお堂で焚く香のような匂いがしていた。

 

「一週間前に行ったときにはなかったはずなんです。そのときに供えた花も、秋明菊(しゅうめいぎく)じゃなかったし。でも、今日行ったら、なんとなくお墓が綺麗になっていて」

 

 守は忸怩たる思いがあるのか、くやしそうに唇を噛み締めた。

 

「たぶん花の状態からして、この二、三日ぐらいのことでしょう。毎日でも行って待ち伏せしてればよかった……」

「………」

 

 実弥は数珠を握りしめた。

 すれ違ってしまったようだが、ともかくも、あの胡散臭い男の言ったことは間違っていないようだ。だとすれば……

 

「ちょっと出る。そのまま任務に向かう」

 

 実弥は数珠を隊服のポケットにつっこむと、踵を返す。

 

「えっ? あの、ちょっとは休んだほうが……」

「いらん」

 

 守が心配そうに言うのを、実弥はすげなく一蹴し、ふたたび外に出た。

 

 薫が失踪したと知って以来、従前通りに柱として任務をこなしながら、休息できる昼日中には薫の捜索を行う実弥に、守は何度となく休むように言ってきたが、実弥の耳には入ってこなかった。

 浅い眠りの中で何度となく薫が自ら命を絶つ姿を見て、そのたびに息が止まりそうな思いをして目覚める。もういっそ、眠りたくなかった。

 

 既に匡近の墓に挨拶に来ているのならば、他にこの関東近辺で行きそうな場所は限られている。

 実弥は数年ぶりに亡き弟妹たちの眠る不死川家の墓を訪れた。

 まだ真新しい供花の中に、匡近の墓で見た白い秋明菊を見つけて、薫が来たことを確信する。本来であれば実弥や玄弥がするべき掃除などもしてくれたのだろう。おそらく自分たち兄弟以外参る人などいるはずもないのに、墓は磨かれたように綺麗だった。いつも薫が訪れたあとは、そうだった。墓に生えた苔や、周囲の雑草などまできれいに取り除いてくれている。

 

 薫が来訪したのか確認したかったが、小さい頃から知っている和尚は先年に亡くなり、新たな和尚は剣呑たる雰囲気を滲ませる実弥に警戒して、まともに話をすることもできなかった。仕方なしに寺の小僧に、それらしい女が来なかったかと訊いてみたが、やはり判然としない。

 またガックリ肩を落とし、今度は薫の両親の墓を探そうとしたが、その場所はすぐにわからなかった。

 旧森野辺(もりのべ)邸の周辺で聞き込んでも、あの大きいお屋敷は既に別の人間の手に渡っており、かつてそこで働いていた人間も離散していた。

 

 

 ―――― 鬼殺隊を辞めて、どこに行けと言うんです!?

 

 

 薫の悲痛な叫びが聞こえる。

 もう、本当に……薫には居場所がないのだ。

 

 忸怩たる思いで、なんとなく昔、薫と歩いた河原の道を歩いていると、馴れ馴れしく声をかけられた。

 

「おや、風柱様。こないなとこまで来られるとは……」

 

 いちいち癇に障る上方(かみがた)言葉。

 振り返ると、案の定そこには、白髪まじりの蓬髪(ほうはつ)を無造作に束ねた、古びた隊服姿の男が立っていた。

 

「テメェ……伴屋、宝耳」

「ワイの名前を覚えてくれてはったとは、嬉しいことや」

 

 宝耳は嬉しそうに笑ったが、実弥は信じなかった。

 この男の陽気で剽軽(ひょうきん)に見える物言いや態度をそのまま受け取るほど、馬鹿ではない。

 

「なんでテメェがここにいる?」

「そら、もちろん。風柱様と同じ理由ですわ」

「……なんだとォ?」

「せやから、ちゃあんと見とけと言いましたやんか。せっかく人が釘さしといたぁ言うのに、結局逃げられはって……案外と信用されてまへんな、妹弟子に。もっとも……」

 

 宝耳は言葉を切ると、スッと目を細めて、いやらしく笑った。

 

()()()()()()()()()のなら……ま、色々とご事情もございますやろな」

 

 実弥はグッと拳を握りしめた。

 目の前の男の挑発に乗せられて、肝心なことを忘れては意味がない。

 

「……薫を探す理由はなんだ?」

 

 感情を押し殺した声で尋ねると、宝耳は天元に言ったのと同じように答える。

 

「それは、お館様から探すように……」

「だから、それがなんでなんだよ!!」

 

 実弥は恐ろしい速さで宝耳の目前に迫ると、襟首を掴み上げた。

 並の人間とは思えぬ移動速度といい、絞め付ける力といい、その鬼気迫る顔とあいまって恐ろしいほどだったが、それでも宝耳の態度はのんびりしたものだった。

 

「えぇんでっか? また、すれ違いになってまいますで。お嬢さんの養父母の墓、探しとりますんやろ?」

「……知ってるのか?」

「ここから、そう遠ぉもない場所ですわ。一緒に行きまひょか」

 

 言いながら、宝耳は襟首を掴んだ実弥の腕を掴む。

 実弥は唇を噛みしめると、掴んでいた襟首を離し、忌々しげに宝耳の手を振り払った。

 軽くよろめいて、宝耳は「やれやれ」とつぶやく。

 

「余裕のないことでんなぁ、風柱。鬼との戦いにおいては、冷徹無比とも言われておるのに、どうにもあのお嬢さんのこととなると、頭に血が上りやすくなるようでんな」

「うるせェ。さっさと歩け」

「へぇへぇ」

 

 宝耳は肩をすくめてから歩き出す。

 言っていた通り、隣町の小さな寺社にある墓地の隅に、ひときわ立派な墓が立っていた。

 

「おや。ここも一足違い」

 

 宝耳は供えられた白の秋明菊を見て言った。

 不死川家の墓と同じように、おそらく苔などを取り除いて、きれいに掃除したのだろう。洗い清められた墓石に供えた線香はすでに燃え尽きて、御影石の上に灰が落ちていた。

 ここで手を合わせている薫の姿が思い浮かぶ……。

 

「さぁて、ここもおらんとなれば……あとは、ちょいと遠出せななりませんな」

 

 宝耳はそう言って、軽くため息をついた。

 

「どこだ?」

 

 実弥が問うと、宝耳は「さぁ?」とまた、わざとらしくすっとぼける。

 

「殴られる前に吐け」

 

 実弥が冷たく、殺気すらにじませて言ったとき、カアァァ! と頭上で爽籟が鋭く鳴いた。

 

「西ノ村! 西ノ村ニテ鬼ノ気配アリィ」

 

 実弥はギリと奥歯を噛み締めた。

 目の前で宝耳は薄笑いを浮かべている。

 

「あぁ、もう大禍時(おおまがどき)の頃合いか。誠に風柱様におかれましては、いつも隊務精勤のこと上々至極にございますゥ」

 

 慇懃無礼とはこの事とばかりに、宝耳は実弥の苛立ちをますます逆立てる。

 実弥は音もさせずに剣を抜き、宝耳の鼻先に鋭く(きっさき)をむけた。

 

「一度で言え。お前は今からどこに向かう? 薫に会って、どうする気だ?」

 

 宝耳は自分の鼻先、小指一本分の位置にピタリと構えられた刀をまじまじと眺めてから、フンと鼻をならした。

 

「少し考えればわかりそうなもんですやろ。ここら近辺の、お嬢さんと関わりの深かった知り合いの墓はほとんど参ってはる。風柱様とお嬢さんの同門やった人の墓にも、先だって亡くなられた花柱・胡蝶カナエ様の墓にも、同じ仲間であった者たちの墓にも……それぞれにあの白い菊が揺れておりましたわ。おそらくここらでの墓参りはあらかた済んで……となれば、あとは……信州あたりに行かはるんと()ゃいます?」

 

 信州と聞いて、すぐに実弥は思い当たった。

 薫と実弥の育手であった篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)は、一昨年に鬼との戦闘で亡くなっている。こうして自らと繋がりのあった故人の墓を参る薫であれば、必ず行くはずだ。

 そうして自らと縁のあった人の墓をすべて回った後に、薫が何を考えるのかは、言うまでもない。

 任務さえなければ、すぐにでも向かいたかった。

 だが、足は動かない。

 目の前の男を恨めしく睨みつけることしかできない。

 

「それで、薫をどうするつもりだ?」

「お館様のご指示通りに」

「だから、それを聞いてんだろうがァッ!」

 

 実弥は焦りも隠さず怒鳴りつける。

 夏の盛りも過ぎた今、夕暮れの時間はだんだんと早くなっていた。空は急速に太陽の光を失い、東から藍色の(とばり)()り始める。日が沈みきる前に、一刻も早く任務に向かわねばならない。

 

「やれやれ。心配が多ぉて……大変なこっちゃなぁ。風柱様も」

 

 ポリポリと宝耳は頬を掻いてから、静かに言った。

 

「もし……万々が一、あの勝母(かつも)刀自(とじ)の弟子っ子の言うように、森野辺薫が鬼となっておれば、即時滅殺。あるいは可能であれば、生け捕りにして藤襲山へ。ま、鬼殺隊士としては当たり前のことですわな」

「あいつは……鬼になんかなってない」

「そうであってほしいもんですな。鬼になんぞなって、人を襲いでもして、ワイも殺されでもしたら、あるいは……風柱様が相手せなあかんかもしれん」

 

 宝耳は言ってから、ジロリと下から覗き込むように実弥を見つめた。感情のない、どこか粘着質なその視線は蛇のようだ。

 実弥はグッと(つか)を握りしめ、ゆっくりと鞘にしまった。

 この男はまったくもっていけ好かないが、今は自分の代わりに、薫を追ってくれる唯一の人間だ。しかも自分と違って、そうした探索にも長けている。()()()()()()ぐらいの気持ちでなければ、まともに相対できない。

 

「うるせぇ。とっとと鬼を殺してすぐに行くからな。テメェ、勝手なことすんなよ」

 

 剣呑と言う実弥に、宝耳はスゥッと目を細めた。

 

「さて? ワイよりも早ぉに風柱様が会うかもしれまへんで」

「……どういう意味だァ?」

「風柱様が今から向かわれる先にいる鬼が、森野辺薫やったら……?」

 

 宝耳が言い終える前に、実弥の傷だらけの拳がその頬にめり込んだ。

 ズサササッと音をたてて、宝耳が後ろへと吹っ飛び転がった。

 

「…テメェ。……今度、余計な口叩きやがったら、テメェがお館様の何であろうが叩っ斬る」

 

 実弥は無様にのびている宝耳を無表情に見下ろすと、冷淡に言った。抑揚のない声は、いつもの凄みのある恫喝以上に、空恐ろしく響く。

 そのまま宝耳の返事を聞くこともなく、実弥は踵を返して走り出した。

 

 

 一方、のびたフリをしていた宝耳は、足音が遠ざかり聞こえなくなると、ゆるゆると体を起こした。

 

「やれ…なんとも…素早い……ことや」

 

 つぶやいてから、詰まった鼻血をフンと吹く。

 

「で、風柱様が向かったのは、どんな鬼や?」

 

 宝耳が尋ねると、ひっそりと墓石を囲む木立から現れたのは、春海(はるうみ)だった。

 鬼殺隊の特殊組織である鬼蒐(きしゅう)の者の一人、常人には持ち得ぬ特殊能力によって彼は鬼の所在を特定する。今回の実弥に滅殺命令が下った鬼も、彼が気配を感じて本部に通報したものだった。

 

「僧侶であった者のようにござります。数年前より家族諸共に姿を消して、探索しておりました。この一年の間にも寺付近に住む村人が五人、隊士方も数名向かわれましたが、行方不明となり、先日隊士と思われる方の足と、日輪刀が見つかりましてござります」

「坊主が家族喰ろうて、鬼となったか……因果なことや」

 

 宝耳はとくに感慨もなく言うだけ言って立ち上がると、パンパンと服を叩いて土を払った。

 

「大丈夫にござりまするか?」

「大事ない。ハ……さすがに風柱。()()()()()()()すんでのところで()()()()()()。癖やな。向こうも手応えが無かったよって、気付いとるやろ。申し訳ないから、踏まれでもしよかと思ぅて転がっとったんやけど、さすがにそんな弱い者いじめはせんわなぁ、柱は」

「風柱様は、情実のある御方にござりますれば……」

 

 春海の言葉に、宝耳はフ…と皮肉げに頬を歪める。

 

「その()()が、風柱の忠実(まこと)を狂わせることがなけりゃえぇけどな」

 

 ポケットから煙草とマッチを取り出すと、手慣れた動作で火をつけた。

 

「向かわれますのか?」

 

 春海が尋ねると、面倒そうに煙を吐いて宝耳はぶらぶらと歩き出す。

 

「行かんワケにもいかんやろ。あぁして、期待(・・)されとっては」

「……そのようなことを仰言(おっしゃ)って、心配されておられるのではありませんか?」

「心配? ワイが? 誰を? 風柱をか?」

「森野辺薫様を、です」

「ふ……ん」

 

 宝耳はしばらく煙草を味わってから、すっかり紺色となった夜空に向かって煙を吐き出した。

 

「まぁ……あと十年ほどしたら、好みには入るかもしれんけど。まだ、乳臭いガキやな。ワイからすると。風柱とお似合いやろで」

 

 宝耳のあけすけな物言いに、春海はふ、と微笑してから、少し硬い表情で尋ねた。

 

「好みといえば……深川の女性(にょしょう)はいかがなりました?」

「あぁ、(ねえ)さんか。ふん、案の定というべきか……最近、とんとお目にかかれんわ。上弦の一角が崩れて、向こうもいろいろと蠢動し始めとるようや」

「では……やはり、あの女は……」

「はて、さて。那霧(なぎり)博士の日記も読み終えて、青い彼岸花の場所も特定できそうやというのに、姿を消されては、ワイの努力が報われへんからな。どうにかまたお会いしたいもんやけど……」

「……危険にござります」

「ハハッ! 心配してくれとんのか?」

 

 宝耳は笑いながら軽く春海の肩を叩くと、耳元で囁いた。

 

「お()はんは『珠世様』と『愈史郎』の居所を確実にせぇ。お館様はここらで一気にカタをつける気や。利用できるモンは何でも利用して……何としても自分の代で無惨を()す気でおる。気ィ引き締めていけ」

「………は」

 

 春海は頷くと、そのまま離れて夜の闇へと消えた。

 宝耳は紫煙をくゆらしながら、ボソボソとつぶやく。

 

「……そやな。利用できるモンは、利用せなあかん。鬼の協力者も、鬼の娘も、()()()()()()()()()()も、せいぜい役に立ってもらおうということや……」

 

 

 

<つづく>

 





いつも読んでいただき、誠にありがとうございます。
申し訳ございません。他作の執筆に加え、作者の体調不良のため、本作の執筆が進んでおりません。次回の更新は来月以降になります。長くお待ちいただいている読者の皆様には、本当に申し訳ございません。気長にお待ちいただけると有り難いです。


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第六章 彷徨(三)

 翌日、実弥は朝一番の汽車で、久しぶりに亡き篠宮(しのみや)東洋一(とよいち)の家に向かったが、やはり薫に会えず、伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)の姿もなかった。

 薫がここに来たのは間違いないようだったが、どうやら吉野を出てから、先にこちらを訪れたらしい。吉野からの順路を考えればそのほうが自然だ。ここに来て東洋一に挨拶したあとに、東京へと向かったのだろう。

 

「薫さんは夜の間に来たみたいで……書き置きと、お金を置いていかれました」

 

 東洋一亡きあと、出家して僧侶となった三郎は、今はその家を管理しながら、東洋一を始めとする兄弟子たちの菩提を弔っている。実弥は三郎から薫が残していったという書き置きを見せてもらった。小さな紙片には、繊細で美しい薫の手蹟が残されていた。

 

『事情あり、お会いすること叶わず。わずかながら、お役立て下さいませ。 森野辺(もりのべ)(かおる)

 

 短い文面に薫の心境はない。

 実弥は唇を噛み締め、その書き置きを三郎に戻してから尋ねた。

 

「胡散臭ェ野郎が訪ねてこなかったか? 汚ねぇ格好した、上方(かみがた)言葉の、いけ好かねェフザけたクソジジィだ」

 

 いかにも憎々しい様子で言う実弥に目を丸くしながら、三郎は心細げに問い返す。

 

「あ、あの……伴屋宝耳、様でしょうか?」

「あんな奴に()なんぞつける必要はない。で、野郎はどこに行くと言っていた?」

 

 実弥にここのことを教えたのであれば、どうせ次の目星もつけているはずだ。後を追うしかない実弥を馬鹿にして(わら)っているだろうが、そんなことはどうでもいい。

 しかし三郎は首を振った。

 

「いえ。特に何も……」

「なんだとォ?」

「え? えっと……あの、その……困ったような顔されてました。これでもう、八方塞がりや、とか言って」

 

 実弥はギリと歯噛みした。「あの野郎……」

 すぐさま踵を返して出て行こうとする実弥に、三郎があわてた様子で叫んだ。

 

「あ、あのっ、どこに行くとは言っておられませんでしたけど、東京には戻っていかれなかったみたいです」

 

 実弥はピタリと足を止めて振り返った。

 

「……どういうことだ?」

「あの、こちらには汽車に乗ってこられたみたいなんですけど、帰りは別の道を行かれたみたいです。山間(やまあい)の峠道を歩いていかれるのを、木樵(きこり)の平三郎さんが見かけたと言ってました」

「山間の……どこに向かう道だ?」

「隣町ですが」

「隣町ィ? そこに薫の知り合いでもいるのか?」

「さぁ? 僕は聞いたことないです。お師匠様も薫さんは真面目で、遊びに行くなんてことしていなかったと言っておられましたし、近所には親戚筋の藤森さんもいらっしゃいますから、隣町にまで足を運ばれるようなことはなかったと思いますが……」

 

 実弥はしばし考え込んだ。

 あの伴屋宝耳のことだ。隣町に薫がいる可能性があるならば、そのことを三郎に言って、実弥が来るように仕向けていそうなものだ。なんであれば、待ち伏せしてまた「遅かったでんな~」と、フザケた登場をしそうだ。

 実弥と一緒になって思案していた三郎が、ポツリと言った。

 

「もしかして……越後のほうに抜けたのかな?」

「なんだと?」

「その道を進めば、北国(ほっこく)街道に出ます。街道をずっとゆけば、直江津の港にたどり着きますから、そこからどこかに向かったのかも」

「…………」

 

 結局、それ以上のことはわからなかった。

 あの人をくったような男の言うことであれば、実際に薫の行方については手掛かりが尽きたのかもしれないし、或いはまったく別の任務をお館様から仰せつかった可能性もある。

 いずれにしろ薫の行方はいよいよもって、不明となった。

 

 実弥は暗然とした顔で、東洋一の眠る墓の前に一人佇む。

 いつもそこで同じようにその墓を見つめていた東洋一の姿が思い出された。弟子時代にはその姿が寂しげで、ひどく孤独に見えて、いつも声をかけた。だが今、信頼していた人を次々と失い、鬼籍となった彼らを偲ぶとき、どうしても祈らずにはいられない。

 

『頼むから……守ってくれ……』

 

 あのとき東洋一はきっと、この墓に眠る弟子たちに頼んでいたのだろう。

 匡近が無事に任務を完了し、一日でも長く生き延びるように…と。それはきっと、実弥がここを巣立った後には実弥のことも、薫が出た後には薫のことも、祈っていただろう。

 内心に危惧と焦燥を秘めて、飄々(ひょうひょう)と実弥らに接していた東洋一のことを思うと、今更ながらに自分の(おさな)さが苛立たしい。どうしてもっと、穏やかに薫を受け止めてやれなかったのだろう。そうであれば、ただの兄弟子としてであっても、自分を頼ってくれたかもしれないのに。

 

 ハァァ、とため息をついた実弥の頭上を影がさす。見上げると爽籟が旋回していた。

 

「………」

 

 憂鬱に見上げて、一度目をつむる。正面を向いて目を開いたときには、いつもの獰猛なる風柱の鋭い目つきに戻っていた。

 

「産屋敷邸ニテ柱合会議ィ。戻レェ……」

 

 爽籟が告げると同時に、実弥は歩き出した。

 

「面倒かけたな」

 

 実弥の迷惑にならぬようにと、部屋に戻って写経をしていた三郎に声をかける。

 

「もう、帰られるのですか?」

「あぁ。戻らねぇと。また、今度は酒持ってくる。今日は急だったからな。ジジィが文句言ってそうだ」

 

 三郎は笑って「お待ちしてます」と頭を下げた。

 

 門を数歩出てから、実弥は立ち止まった。

 いつかの日の光景が、中天の太陽の光の中で揺らめく。

 

 

 ―――― お前、なにした?

 

 

 後にも先にも、あれほどまでに怒りをあらわにした東洋一を見たことはない。結局あの後、ここへの足は遠のいた。いくら薫が無事に最終選別を突破したとしても、合わす顔などあるわけがない。

 若い頃の東洋一の写真を見に行くという口実で、匡近が無理やり実弥を連れ出したのも、何かしら東洋一と実弥の間にある確執を感じていたからだろう。あの日、紅儡(コウライ)が現れず、いつものように平和に東洋一と対面していたら……どうなったろう?

 仮定を考えても、何も思い浮かばない。

 ただ、思い出されるのは東洋一の最後の言葉だけ。

 

 

―――― 頼むぞ……

 

 

 あれは、きっと……薫だけのことではない。鬼殺隊の行末も含めて、望みを託したのだ。自らも鬼狩りとして生きてきた、長い人生の末に、それでも自らの代では叶えられなかった思いを、実弥に託した……。

 

「あの、不死川さん」

 

 三郎が黙ったまま立ち尽くす実弥に声をかけてきた。振り向くと、少しこわばった顔で、じっと実弥を見つめてくる。

 

「あの…きっと不死川さんは柱のお仕事もあってお忙しいだろうから、僕、僕が……一度、街道の方で探してみます。伴屋さんがどこに行ったのか、もし、直江津まで行っていたら、どの船に乗っていたのか聞いてみます」

「……いいのか?」

 

 実弥が意外そうに聞き返すと、三郎はニコッと笑った。

 

「えぇ。不死川さんや、ずっと修行に励んでいる守に比べたら、暇な身です。きっとお師匠様も、ずっと家にいないで、いい機会だから少しは出歩けって、言ってると思います」

 

 ひたむきに自分を助けようとしてくれる、三郎の柔らかい微笑みに、ふと玄弥の顔が重なった。

 まだ自分に笑顔を向けてくれていた頃の、幼く優しい弟。あれほど反対したのに、あの(バカ)は、とうとう鬼殺隊に入ってしまった。呼吸の剣士としての才能がないと言われながらも、なぜか岩柱・悲鳴嶼行冥の許で修行に励みつつ、隊務をこなしているらしい。

 どうしてあいつは、こうして穏やかに生きてくれないのだろう……。

 

「すまねぇな。でも、無理すんな。わかる範囲でいい。どうせあの野郎のことだから、またフラっと現れて、思わせぶりなこと言いに来やがるだろう」

「はい。お任せください」

 

 決然として頷く三郎に、実弥はどこかしら安堵を感じて、軽く肩を叩いてその場から去った。

 

 自分一人では、どうにもならないことがある。

 誰かに頼るしかないこと、誰かを信じること……。

 

 今はただ進む。

 鬼狩りとして、一匹でも多くの鬼を滅殺し、やがては無惨を葬り去るために。

 自らを焼き尽くしそうな焦燥感を押し籠め、実弥は必死に言い聞かせた。

 

 薫は鬼になってなどいない。なることなどない、と…。

 

 

◆◆◆

 

 

 草木も眠る真夜中の、人っ子一人いない橋の上。

 

 薫は橋の欄干(らんかん)に肘をつき、月夜を映して流れる川を見つめていた。

 久しぶりに見たその川は、あの頃と変わらず滔々(とうとう)と流れている。街も、電柱や電線などが道々にあって、着々と西洋化が進んでいるようにみえたが、それでもやはり田舎特有の閉塞的な空気はどんよりと重苦しい。

 ここは薫にとって、灰色の世界であった頃のままだ。

 

 吉野から出てきたとき、薫は死ぬことを決めていた。いや、実弥に「待っている」と嘘をついて見送ったときから、それは必然なのだと覚悟していた。

 そのつもりだったからこそ、せめて最後の挨拶と思って故人の墓を巡り、生前の感謝と、こんなふうになってしまった結末を詫びた。

 

 それから、死ぬつもりだった。死のうとした。何度も。

 だが、生きる欲というのは心だけではどうにもならないものらしい。

 細胞が生きることを欲するとき、人の気持ちなど簡単に無視される。しかも下手をすると、そうした生命に危機が及ぶときにこそ、体内に潜む()の血はより強く蠢き、そのまま意識を手放せば、鬼の世界(・・・・)へと引っ張っていかれそうだった。

 

 吉野から出て一月(ひとつき)も過ぎた現在(いま)では、自死はもはや選択肢になくなった。きちんと(・・・・)死ねればいいが、もしまかり間違って中途半端に生き残った挙句に、鬼として(しょう)が現れて、罪のない人々を喰い殺すようなことになってはならない。

 

 鬼殺隊士の誰かに殺してもらうことも考えた。だが、それには二つの問題があった。一つは彼らが果たして、見た目には人間にしか見えない今の薫を殺すことに、同意するのかということ。同意したとしても、彼らに余計な負い目を与えるのは本意でない。

 そのうえで人でもなく、鬼にもなれぬ薫にとって脅威であったのは、彼らに染み付いた鬼の匂いだった。普通の人間と違い、日常的に鬼と接する彼らからは、たとえ目に見えずとも鬼の匂いがした。鬼の返り血を浴びた隊服に、その匂いはこびりついていた。

 

 あの日もそうだ。

 鬼を殺して帰ってきた実弥の全身から、殺された鬼の匂いがした。同時に薫の体内にあるナニカ(・・・)がざわめき立ち、鬼の思念の残滓(ざんし)が聞こえた。

 

 

 ―――― コワイよォ……コワイよォ……鬼狩リ……鬼狩リ……鬼狩リだアァ……

 

 

 鬼の血によって、自らに潜む受け入れ難いモノが呼び覚まされるのならば、なおのこと鬼殺隊士に会うわけにはいかない。というより、その鬼の残留思念こそが、薫から鬼狩りを忌避させていた。

 鬼殺隊士らしき羽織姿に黒い隊服を着た彼らの姿を見ると、勝手に体が震え、足が止まった。隠してはいても、日輪刀から放たれる太陽の鼓動のようなものを感じる。それは鞘の中にあっても発光するかのような、強力な波動だった。

 自分が持っていた頃には、そんなものを感じたことはなかったのに……。

 あの日、再び黒死牟によって血を与えられたときに、やはり何かしらの変異が起きてしまったのだろうか?

 

 だが、ふと薫は思った。

 今までにも、もしかすると出会った鬼によって、薫の中に潜んでいたその不穏な血が作用されることはあったのかもしれない。

 最初の任務で出会った鬼となった息子のために、孤児の子どもたちを生贄にしていた男―― 栃野(とちの)は、不思議そうに言った。

 

 

 ―――― 一体、どうして勝手にあなたは入れたのかな? 私が連れて行く前に。

 

 

 血鬼術で作られた絵画の中に、薫は案内人たる栃野の手を借りずに入り込めた。あの時はただ子供たちを助けることに夢中でわかっていなかったが、今であればその理由も、なんとなくわかる。

 薫の中に眠る鬼の血が、あの鬼の結界たる血鬼術を無効化したのだ。そうして馴染んだ鬼の血と、気配、同じように蠢く細胞の中に、鬼とされてしまった彼の気持ちが伝わってきた。

 

 

 ―――― 父さん……助けて……

 

 

 涙をこぼしながら、灰と消えた少年の鬼。

 自らの本意でなく、鬼に堕とされ、自分と同じ子供を喰らって生きねばならなかった彼の苦しみと痛み、哀しみがジワリと薫の胸に沁み込んでくる。

 だが薫は瞬時に、その気持ちが、自分の感傷によるものだと断じた。自らの弱さを鞭打ち、強固に封じ込んだ。だから最後に臨んで栃野()を乞い、伸ばした彼の手ですらも、刺し貫いて微塵にその希望を砕いた。

 それからはひたすらに鬼を(ほふ)りながら、彼らの声に耳を塞いだ。

 

 

 ―――― おヌシ…その……

 

 

 佐奈恵と一緒に戦った三つ頭の鬼。

 あの時に()えた、鬼の恐怖。

 大柄で(たくま)しい隊服姿の鬼狩りが、鎖につながれた鉄球と斧を振り回して追いかけてくる姿。あんな鬼殺隊士を薫は見たことがなかった。薫の記憶にない以上、あれは鬼の記憶なのだ……。

 

 いったん(たが)が外れると、膨大な鬼たちの記憶と本心は、奔流(ほんりゅう)のように薫の中でのたうち回った。

 鬼となった彼らの人生、彼らの恨み、憎しみ、哀しみ。

 無惨によって鬼とされて以降、飢餓にも近い生命(いのち)への渇求(かっきゅう)によって喰らい尽くした、人間たちへの愛惜(あいせき)

 精神(こころ)の奥底深くに封じられた人としての罪悪感は、確かに彼らの中にあった。

 

 

 ―――― 彼らは…人であったのだから……

 

 

 苦く微笑みながら言ったカナエの言葉が、今まで鬼狩りとして冷酷無情に鬼を屠ってきた薫を刺し貫く。

 あのとき、薫はカナエに言ったのだ。鬼に同情などできないと。鬼に容赦などしないと。たとえ自分にとって親しい人間であったとしても……。

 

 

 ―――― 嫌いよ…薫子(ゆきこ)さん。

 

 

 薫を否定する言葉を吐きながら、優しく薫を見つめていた千佳子(ちかこ)

 たとえそれが歪んだ愛情からのものであったにしろ、彼女は鬼となってなお、愛した男の娘である(じぶん)を憎むことはなかった……。

 

 薫はヒクッと喉奥に涙を呑み込み、拳を握りしめた。

 一体 ――― 自分はなんなのだろう?

 本当の親のように慕った養父母たちを殺され、その復讐のために鬼殺隊士となる道を選んだ。

 迷いはなかった。

 いずれ必ず両親を殺した鬼の、その元凶の祖である無惨を殺す。

 その日のために、ただひたすらに鬼狩りとしての実績を積み、懸命に自らの居場所をつくってきたのではなかったのか?

 鬼殺隊の一員として、鬼を殺し、殺して、殺しまくった果てに、自らの希望はあるのだと思っていたはずなのに……!

 

「…………」

 

 橋の下を流れる暗い川を見つめる。

 この川に身を投げれば、あるいは死ねるのだろうか。川底に沈み、身が腐り、魚たちに肉を食われて、この呪われた体から逃れられるのなら……

 

 まるで川から呼びかけられるように、薫が欄干から身を乗り出したとき、いきなりグイと腕を掴まれた。

 

「見ィつけた」

 

 皓々(こうこう)とした満月を背に負って、そこに立っていたのは伴屋宝耳だった。

 

 

 

<つづく>

 





長らく更新が滞り、誠に申し訳ございません。とりあえず第六章は終えようと思います。それからまた、しばらくお時間をいただくことになりますが……本当にすみません。
次回は来週に更新予定です。


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第六章 彷徨(四)

「やぁ、お嬢さん。えぇ夜でんな」

 

 相変わらず、人を食ったような話しぶりだ。だが薫は、その顔を見た途端にホッとなった。

 

「久しぶりですね、宝耳(ほうじ)さん」

「まったくでっせ。いやはや……まさかと思うたけど、ここにまで戻ってきはったとは。で、世話になった方々への挨拶はできましたんか?」

「…………」

 

 薫は俯いた。

 会うことはできなくとも、どんな様子かぐらいは見ようかと、幼い頃に世話になった播磨屋(はりまや)を訪ねたのだが、店はもう跡形もなくなっていた。周辺の店に事情を聞いてみれば、あの後、事実上播磨屋を取り仕切っていた奥方のコウが急死。新たに迎えた後妻がどうやらタチの悪い女であったようで、散財を重ねた挙句に店の金にまで手をつけて、とうとう身代(しんだい)持たずに倒産し、家族も離散してしまったらしい。

 亡くなったコウの墓を教えてもらったが、誰一人身寄りが参ることもなくなった墓は、石も崩れ、周囲には雑草が生い茂っていた。薫は草を取り除いて簡単に掃除し、道辺に咲いている野菊くらいしか供えられないことを詫びながら、手を合わせてその場を後にした。

 

 実父母の墓にも訪れて線香をあげたものの、顔も覚えていない両親である。正直、あまり感慨はなかった。美しい御影石で出来た墓石を見ながら、これを建ててくれたのが、森野辺(もりのべ)の父であったと思い出すくらいだ。

 薫の母の墓は、当初、粗末な卒塔婆(そとば)が一本建てられただけのものであったが、薫を引き取りに来てくれた森野辺の父が、ずっと母が持っていたらしき父の遺骨と一緒に、同じ墓に埋葬し直してくれたのだ。その後、養父母らと一緒に何度か来たが、森野辺の家を出て鬼殺隊に入ってからは、一度も訪れたことはなかった。

 今回、久々に故郷に戻ってきたついでにやっては来たが、墓石の前に立っても、彼らに話すことなどない。昔のことを思い出し、母にも事情があったのだと理解はできても、感情は納得できない。実の母に殺されかけたという事実(トゲ)は、いつまでも薫の中に鈍い痛みを与え続ける。……

 

 それからは特に故郷(ここ)でやることもなかったのだが、どうしても一番にお礼を言いたい相手のことが引っかかっていたのだろう。あてどもなくその人(・・・)の墓を探して回り、そうこうする間に日々は過ぎて、既に涼秋(りょうしゅう)の頃になっていた。

 

「銀二という男の墓を探してますんやろ?」

 

 宝耳はそんな薫の心を見透かしたかのように言ってくる。薫はさすがに驚いた。

 

「どうして……?」

「ハハハ。いやぁ、お嬢さんの考えてることなら何でもお見通し、と言いたいところやけど、生憎(あいにく)と情報提供者がおりましてな」

「情報提供者?」

「昔、オナゴ同士で盛り上がりましたんやろ。初恋の相手やら、なんやら。秋子が言うてましたわ。なんでも字ィ教えてくれたんやて? ハ…博徒(ばくと)、ゴロツキの類にしては学のある人間やったようでんな」

 

 秋子の名前を出されて、薫はすぐに納得できた。

 確かに昔、秋子や他の女隊士たちと任務終わりの宿などで、そんな話をしたことがある。そのときに、自分が幼少期に東北の片田舎で暮らしていたことも、子守女中で働いていたことも、秋子には言ってあった。

 宝耳は秋子に鬼殺隊に入ることを勧めたという間柄だから、訊くのはたやすかったろう。

 

「まさか…銀二さんのお墓が、わかったんですか?」

 

 ちょっとだけ期待して尋ねてみると、宝耳は申し訳なさそうに頭を掻きながら首をすぼめる。

 

「いやぁ~。さすがに時間がありまへんわ。一応、ここら根城にしとる親分さんから、話でも聞こうか……と思ぅとったら、こうしてお嬢さんに会えましたんでな」

「そう……ですか」

 

 薫は頷いてから、自分の身勝手さに頬を歪めた。

 そもそも宝耳には銀二の墓を探す理由などないのだ。薫を見つけるために、その手掛かりについて調べようとしていただけ。それなのに当たり前のように教えてもらおうなど、おこがましいにも程がある。

 

 薫は顔を上げると、まっすぐに宝耳を見つめた。

 

「秋子さんにまで聞き回って、こちらにいらしたということは、私をお探しだったということですね?」

「ハァ。まぁ、そうでんな」

「また、あの鬼たちのときのような、勝手な単独行動ですか?」

 

 以前に薫が仕留めようとしていた二人の鬼を逃したとき、宝耳はその理由と目的を明確にしなかった。どうして本部と連携をとらないのか、と怒った薫に、のらりくらりと意味のわからない説明をして、結局彼の意図はつかめないままだ。

 しかし今回は、明確な返事がかえってきた。

 

「いいや、今回はしっかりお館様からのご命令でっせ」

「…………」

 

 薫はそれを聞いて、表情を固くした。

 薫が鬼になったと八重(やえ)が主張し、宝耳がお館様のもとへ連れて行ったのだということは、聞いている。この話をしてくれた律歌(りつか)翔太郎(しょうたろう)はまったく信じておらず、馬鹿馬鹿しいと吐き捨てていたが、八重の言葉が真実であることは、薫が一番よくわかっている。

 

 八重は黒死牟と薫が話しているのを聞いていたらしい。

 黒死牟はおそらく八重がいたのに気付いていただろうが、見逃したのだろう。八重が下手に鬼殺隊士ではなく、恐怖で怯えて声も出ずに震えていたことで、かえって捕殺対象にならなかったようだ。

 薫はその話を聞いたとき、八重が生きていてくれたことに安堵(あんど)した。ともかくも、勝母(かつも)との約束は守れたのだから。……

 薫はふっと目を細めた。

 その八重の話を聞いて、宝耳がここに来ているということは……目的はもう明らかだ。

 

「よかったです、あなたが来てくれて」

 

 薫がしみじみと言うと、宝耳はキョトンとした。

 

「ワイが来て良かった? なにが?」

「あなたでしたら、きちんと処理して下さると思うので」

「………ほぅ」

 

 宝耳は腕を組んで唸った。「覚悟は固めておられるようでんな」

 

 薫はこの数ヶ月、ずっと持て余してきた自分が、ようやくすっきりと旅立てるのだと思うと、いっそ清々(すがすが)しくて、自分を探し当ててくれた宝耳に感謝したいくらいだった。

 

「良かったです。自分ではうまく死ぬこともできなくて、かといって誰かに頼むこともできなくて……ずっと迷っていたので」

「ハハ。ワイやったら、なーんも悩まんとバッサリ()るやろて? やれやれ。なかなかお嬢さんもキツイこと言われますなァ。ワイとお嬢さんの仲で」

 

 宝耳が茶化したように言うのを、薫は真面目な顔で見つめていた。

 初めて会ったときから、この人は変わらない。飄々(ひょうひょう)として、本心を語らない。だが、果たしてそうだろうか? そもそも彼に本心など、存在するのだろうか?

 どこか裏がありそうでいて、その実、宝耳には隠し事などないような気がする。良くも悪くも彼は無色透明で、透けて見える向こうに彼がいると思っていたら、まったく別のものを見ているだけなのかもしれない。

 薫はぼんやりとそんなことを考えてから、ポツリと言った。

 

「あなたは、神様みたいな人ですね。宝耳さん」

「………カミサマ? ワイが? なーんのご利益もございまへんで。ワイは」

 

 大仏のような仕草をする宝耳に、薫は首を振った。

 

「神様にご利益なんてないですよ。いつだって、見てるだけ。苦しいことも、悲しいことも、何もせずに見ていられるから、神様なんですよ……」

 

 薫の中で、神様にお願いするなんてことは、とう昔に失われていた。諦観(ていかん)をこめたその言葉に、宝耳は神妙な顔になる。

 薫は顔を上げると、またニコリと微笑んだ。

 

「あなたはきっと、私を殺しても、明日には平然と忘れていられるでしょう?」

「そら、ひどいなぁ」

 

 宝耳は渋い顔になったが、否定もしない。

 薫は笑ったまま付け加えた。

 

「褒めているんですよ、一応」

「やれやれ……」

 

 宝耳はポリポリと頭を掻くと、珍しく困ったような笑みを浮かべた。

 

「泣きわめいて助けてくれとせがまれたら、一思いに殺してやろと思いましたのに、そうも諦観されておっては、こちらもやり(にく)ぅおまっせ」

「あら、そうですか。じゃあ一応、戦いますか? でも私、日輪刀を持ってないんですけど」

「お嬢さんがホンマに鬼になったんやったら、血鬼術の一つ二つ出せるんと()ゃいますのん?」

「生憎と……そんな異能を持てるほどではなかったようです」

 

 そう言いながら、薫は宝耳の前にしゃがみ込むと、膝をついて首を垂れた。

 手を合わせながら、忠告する。

 

「ちゃんと首を落として下さい。下手に命をつなぐと、私の理性が切れて、あなたを襲ってしまうかもしれません」

「…………」

 

 宝耳は黙り込んだ。

 じっと待つが、刀の鯉口が切られる音もしない。

 薫はあまりに長いので、顔を上げた。

 宝耳が無表情に薫を見下ろしている。

 

「……宝耳さん?」

 

 薫が戸惑って尋ねると、宝耳はフンと鼻を鳴らした。

 

「生憎と、ワイも滅多(めった)矢鱈(やたら)と殺して回ってるワケやおへん。必要とあらば……と、前にも申しましたやろ」

「でも、お館様のご命令なんでしょう?」

「さいでんな。人に(あだ)なす存在であれば、即座に滅殺とは言われましたわ」

「だったら……」

「但し今後、無惨を始末するにあたって、協力するというなら……連れて来いと言われとりましてな」

「協力?」

 

 薫が驚くと、宝耳はポケットから何かの瓶を取り出し、差し出した。中には藤色の液体が入っている。見た途端に、ザワリと鳥肌が立った。

 

「これ…は…?」

「藤の花からつくった……まぁ、鬼からしたら毒ですわな。ワイが鬼を生け捕りにするのに使ってるんと、ほぼ同じ薬効のモンですわ」

 

 薫は震える手で、その瓶を取った。それが自分にとって毒であるということは、にじみ出てくる汗が証明している。瓶を掴んで青い顔をしている薫に、宝耳は抑揚のない声で話してくれた。

 

「今、無惨を確実に始末するために、より強力な鬼の毒を精製するという実験をしてましてな。しかしご存知の通り、鬼というのは毒をくらってその個体は死んでも、別の鬼にはもう効かん。どうやら鬼同士で、毒についての情報を共有して、解毒してまうようですねん。今後は以前、お嬢さんも会った二人の鬼、あれと連絡とって、共同でその毒を開発しようかという話が持ち上がってましてな。向こうの持つ鬼としての情報は、今までこちらが入手してきた知見(ちけん)とは比べ物にならんやろうし。その上、こっちには最近、鬼のくせして人間を助けるような、奇妙な鬼娘も手に入りましてな……」

「人間を……助ける……鬼?」

 

 薫は聞き返しながら信じられなかった。

 前に宝耳が話していた二人の鬼が、人間に協力的であったという話だって半信半疑……というより、全く信じられなかったのだ。

 だが、今となればその言葉は、薫にある一つの可能性を示してくれる。

 

「しかし、ここでひとつ問題が生じとりますんや。毒を作ったとしても、実際に鬼で試すわけにいかん。向こうに筒抜けになってまいますからな。そこで鬼娘の血液を使って、どこまで効果があるのかを見てますんやけど……これがなかなかうまいこといきまへん。ワイがつい最近、勝母(かつも)刀自(とじ)の旦那の日記やら、研究資料やらを調べてても、頻繁に嘆いてはるのが、『標本(サンプル)』いうのが少ないゆうことですねん。要は実験体が多いほどに、より精度の高い、無惨にも効果の期待できる毒が作れると……こういうことですねんけど、そうそう()りまへんやろ? 鬼の血を持ってる人間なんぞ」

 

 薫は震えた。それは恐怖ではない。喜びだ。こんな自分ですらも、鬼殺隊で役に立てることがあるのだと。それが、何よりも嬉しい……。

 

「これ……飲めばいいのですか?」

 

 震える手で、瓶の蓋を取る。途端に立ち昇ってきた匂いに、軽く頭痛がした。

 

「もしかしたら、お嬢さんにとっては劇薬かもしれまへんで。舐めただけでも、悶え死ぬかもしれまへん」

「そうであれば、それでいいです。……死ぬことすら、叶わないのかと思っていたんですから」

 

 宝耳はなんとも言えない顔で首をひねる。薫は構わずに、瓶の中の液体をすべて飲み干した。

 

「…………あれ?」

 

 なんの反応もなくキョトンとしていると、急に喉が焼けつくように痛みだした。

 

「うぅっ……」

 

 猛烈な吐き気がして、空っぽの胃から酸っぱい胃液がせり上がってくる。ゴホゴホと()せながら、今飲んだばかりの藤色の液体を吐き出した。

 ハァハァと呼吸が荒くなる。

 うまく息ができない。

 ビリビリと四肢から始まって、全身が痺れてきて、薫はその場にバタリと倒れた。

 急速に意識が朦朧としてくる……。

 

「やっぱりキツいようでんな。ま、死にはしまへんやろ。少々、眠ってもらって……」

 

 宝耳が言うのが、遠くに聞こえた。液体はほとんど吐き出してしまったのに、やはり藤の毒は自分にとって致命的なものだったのだろうか。

 視界が暗くなり、薫は目を閉じた。

 

 もし、このまま死ぬのであれば、それもいい。

 でも、もし、生き延びることができたのなら。

 自分のような者にも、役立つことがあるのならば。

 そのときは……鬼殺隊のために生きて……死のう……。

 

 

<つづく>

 




次回は2023.11.11.更新予定です。


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第六章 彷徨(五)

 藤の毒はやはりほとんど吐いてしまったようで、効力としては薄かったらしい。一時的に気を失った数時間後には、薫は意識を取り戻していた。

 それこそ宝耳(ほうじ)と初めて会ったとき、生け捕りにされた鬼のように、手足を縛られた状態で格子木の箱の中に籠められ、周囲に藤の香が焚かれていたのは致し方ない事情だろう。自分の意識が消えたときに鬼としての本性が現れ、罪のない人々を(あや)めることは、薫にとっても恐怖であったのだから。

 だが、薫の正気が保たれていることがわかると、宝耳はそれで一安心したようだった。

 

「とりあえず、東京に戻らなあきまへん。すんまへんが、しばらく足の自由だけ()らせてもらいまっせ」 

 

と言って、足の腱のあたりに(はり)を打たれると、薫は途端に立てないようになった。

 そのまま、いつの間にか集まっていた隠らによって荷車に乗せられて駅に向かい、汽車に乗った。

 隠たちは別車両におり、この車両には薫と宝耳しかいない。そんなことがどうして可能なのかはわからなかったが、おそらく本部が手配しているのだろう。

 

 

 

 東京へと戻る道すがら、宝耳は奇妙なことを訊いてきた。

 

「お嬢さん、干支は何やったかな?」

「私ですか? 丙申(ひのえさる)ですが……」

「丙申かー。つーことは……今年で二十歳(はたち)ゆうとこやな」

「えぇ……満年齢でしたら」

 

 薫は答えながらも、どうして急に宝耳がそんなことを訊いてきたのか、釈然としない。

 宝耳は聞いておいて、「ふーん」と適当な相槌を打っただけだった。

 薫は、車窓の景色を見るともなしに見ている宝耳を、じいっと見つめた。

 

「そないに熱心に見つめられたら、穴が開いてまいますわ」

 

 宝耳は茶化したが、それでも薫は目を逸らさない。宝耳はやれやれ、と前髪をかきあげた。

 

「いや、もしかしたら勝母(かつも)刀自(とじ)の旦那はんと、()ぅたことがあったんやろうか…とも思いましたんやけど、有り得まへんな。ちょうどお嬢さんが生まれはった年の、その前の年に亡くなってはるわ」

「勝母さんの旦那様と私が……どうして会ったと思われたんですか?」

「お父さんから聞かれたことありまへんか?」

「父……ですか?」

 

 薫が一瞬迷うと、すぐさま宝耳は付け加える。

 

「あぁ、実際には伯父さんでしたかな? ワイが指してるのは森野辺(もりのべ)佳喜(けいき)子爵のほうですわ。どうやら、昔に勝母刀自の旦那はんと交流があったようでしてな」

 

 言われて薫は驚いた。父からはもちろん、勝母からもそんな話は聞いたことがない。

 呆然となる薫に、宝耳が更に話して聞かせてくれた。

 

「実際に交流があったのは、随分と昔の話ですわ。お嬢さんが生まれる十年以上前、今からすると三十年以上前ですからな。そのあとには互いに忙しかったんかして、没交渉になってもうて、那霧(なぎり)博士……あぁ、これが勝母刀自の旦那はんなんですけど、博士がちょいとばかり探しものがあって、お嬢さんのお父さんに連絡を取ろうとしとった……いうところで、病気で亡くなられはってな」

「父と……勝母さんの旦那様が……?」

 

 薫は驚きと同時に、その頃から自分に勝母との縁が繋がっていたのだということが意外で、素直に感嘆した。

 

「なんだか、世の中は狭いと言いますけど……そんなこともあるのですね」

「さいでんなぁ。ワイも勝母刀自から預かった、この那霧博士の日記を読んでて知りましたんやけどな……」

 

 話しながら、宝耳が懐から一冊の帳面のようなものを取り出す。目の前に差し出され、薫は手を伸ばして受け取った。開いてみると、まずびっしりと書かれたアルファベットが目に入って、思わずページを閉じてしまった。

 

「ハハハ、さすがのお嬢さんも、アルファベットがそうもびっしりと書かれておっては、閉口しますか」

 

 宝耳が余裕綽々と言って笑うので、薫はムッと顔をしかめた。

 

「そんなことを仰言(おっしゃ)る宝耳さんは読めたというのですか? これが」

「生憎とこう見えまして、ワイも無駄に長く生きてきただけあって、それなりに博学でしてなァ。どうにか読めましたんや。お嬢はんが、ぐっすり寝てはる横でも、ずーっと読み(ふけ)っておりましたんやでぇ」

 

 正直なところ信じられなかった。宝耳が人生経験が豊富であろうということは想像できても、まさか外国語にまで精通しているとは思いもよらない。

 薫はちょっと対抗意識が芽生えた。

 森野辺の家にいる頃、父に習って、英語は多少見覚えがある。父が英国から取り寄せたという、あちらの童話の本なども、一緒に読んだことがあった。父が読み上げる向こうの言葉は、なんだか心地よい音楽のようで、聞いているだけで異国情緒を感じ、うっとりしたものだ。

 

 薫は宝耳をキッと睨みつけてから、再びその帳面を開いた。しかし数行も読まないうちに、頭を押さえた。

 なんとか読もうとしたが、正直…………字が汚すぎる。

 父は日本語もそうだが、英語を書くときも、とても美しい文字を書いた。時々、父にねだってアルファベットを点線で書いてもらい、よくなぞって遊びながら勉強した。なぞっているだけだったが、見慣れない異国の文字を書いている自分に、これもちょっとうっとりしたものだった。

 だが、ここに記載されている文字は、正直、あの頃の薫が書いていた字よりも汚い気がする。勝母の旦那様で、偉い博士様に対して、非常に失礼なことではあるが。

 興味深げに見ていた宝耳がハハハと笑った。

 

「ま、仕方おへんわ。これ、日記なもんで、当人もまさか人に読まれると思ぅて書いてまへんからな。そら字も汚いし、正直、誤字脱字もようけあるし」

「本当に読めたんですか? これ」

「なんとか。ま、なかなか根気のいる作業でしたけど、その分、有益なことも多く知れましたわ。この御方が、字は汚くとも相当な切れ者やったということもわかりましたし、勝母刀自のことも相当に好いてはったんやということも、いや、ハ……もう、ホンマに惚気(ノロケ)もえぇ加減にせぇというくらいに、恥ずかしげものぉ、書き綴られておりましたわ」

 

 宝耳はあきれ返って言ったが、薫はちょっと興味を引かれた。

 結局、恥ずかしがりの勝母からは、昔亡くなった夫について詳しく聞くこともなかった。いずれ、そのうちに……と思っていたら、別れは突然にやって来ていて、気がつけば勝母は思い出を語る人ではなく、思い出の中の人になっていた……。

 薫はもう一度、じっくりと文字列を追った。

 だが、ふと我に返る。

 これは個人の日記で、本来勝手に読んでいいものではない。宝耳には理由があったようだが、薫の好奇心はこの日記を読む理由にはならないだろう。

 薫はパタリと日記を閉じると、宝耳に返した。

 

「父と、勝母さんの旦那様にどういう接点があったのでしょう? 確か、お医者様でしたよね? でも、父は医者でもないですし……」

 

 話を戻し尋ねると、宝耳は日記帳を懐に戻しながら答えてくれた。

 

「山ですわ。山」

「山? あぁ……そういうことですか」

 

 薫はすぐに納得した。

 基本的には仕事熱心であった父だが、わりあいと多趣味で、登山はその中でも子供の頃から長く続けてきたものだったらしい。東京近郊の山はほぼ制覇したと豪語していたし、登山仲間と一緒に、日本アルプスまで『遠征』することもあった。無論、海外に留学した際にも、マッターホルンなどに行った話をしてくれた。そのときに撮った写真などと一緒に。

 この写真も父の趣味の一つで、器材を運ぶのは大変だったようだが、よほどの重装備が必要とされる山でもない限り、必ず持って行った。途中にある滝や、高山植物、頂上の景色などを写真に収めて帰り、一人暗室で現像しアルバムに貼り付けるまでが、父にとっての『登山』であるらしかった。

 宝耳は薫がすぐに納得したので、話が通じると思ったらしい。少し身を乗り出した。

 

「そうですねん。那霧博士も若い頃は山登りに興じておられたようでしてな。その縁で、お嬢さんのお父上と出会ったようですわ。年は一回り近く離れておったようですけど、趣味に年は関係ないようでんな。それにお嬢さんのお父上は若いながらに、博士も一目置くくらい、頭が良かったようですわ。さっきも申しましたように博士は、相当にデキた人やったもんやから、なかなか話の合う人間が少なかったみたいで……」

 

 薫は聞きながら曖昧に笑っていた。

 父のことを褒められるのは素直に嬉しかったが、薫が父を思い出すとき、父が頭脳明晰であったことはあまり印象として残っていない。おそらく父自身、自分が頭が良いなどと思ったこともなかったのだろう。

 いつもいつも難しい本 ―― それは多く外国語の本だった ―― を夜遅くまで読んでいた姿が目に浮かぶ。どうしてそんなに本を読むのかと尋ねた薫に、父は言っていた。

「こうやって毎日勉強しないと、すぐに忘れてしまうんだよ」と。

 頭の良さを決めるのは、結局のところ他人だ。しかし当人は他者の目からは見えない部分で、必死に足掻いているものなのだ。……

 宝耳は薫が思い出に浸るのも構わず、話を続けていた。

 

「……ま、そういうことで、お嬢さんのお父上と一緒に、博士は東京近郊の山に登りに行ったんですが、そこで少々変わった花を見つけましてな」

「花?」

「そう。珍しい花ということで、お嬢さんのお父上が写真に撮られて、それを那霧博士がもろぉたようですねん。そのままそのことは忘れておられたんですが、それから十年ほど過ぎた頃に、その()()()()()と博士が知り合われましてな。博士は花の咲いていた場所を見つけようとしましたんやけど、自分の記憶が判然としない。それでお嬢さんのお父上に連絡を取ろうとしはったんですが、生憎とその頃にはお嬢さんのお父上は留学されておったようでして……」

「あぁ…そうですね。大学を卒業してから、英国に行っていたと聞いています。もっと詳しく勉強したかったのと、見聞を広げるために」

 

 ただ、その留学も道半ばで帰国せざるを得なくなった。

 弟(薫の実父)が素性の分からぬ女と駆け落ちし、ショックで当主であった父親(薫の祖父)が倒れてしまい、急遽、森野辺家を継がねばならなくなったからだ。

 勉強熱心な父の将来を奪ってしまったことも、薫が森野辺の両親に対して申し訳なく思う原因の一つではあった。

 

「その後に結局、那霧博士は亡くなってもうて、お父上とは連絡の取れぬまま。その花についても所在不明のままになってもうたんですわ」

「そうなんですね。いったい、どんな花だったんですか? 特徴とか、わからないのですか?」

「特徴というか、ある花の変異種と言ぅたらえぇのんか……。『青い彼岸花』ですねや」

「青い彼岸花?」

 

 薫は尋ね返して、すぐに思い出した。

 

「あら、それでしたら一時期、森野辺の家に植わってましたよ」

「へ?」

 

 宝耳にしては珍しく、唖然とした様子だった。だが、すぐさま真面目な顔になり ―― これもまた珍しく ―― 身を乗り出して尋ねてくる。

 

「お嬢さん、貴方(あン)さん……『青い彼岸花』を見たことがおありですのんか?」

 

 薫はいつになく興奮した様子の宝耳に少々戸惑いつつ、頷いた。

 

「え、えぇ。一度だけ、ですが……」

 

 森野辺の家に植えられていたその青い彼岸花は、父が珍しく一人で登山に行き、そこでもらってきたものらしかった。大事に育てていたが、なかなか花をつけることはなく、辰造が毎年、嘆いていた。

 

「とっても育てるのが難しいらしくて、私も花が咲いているのは、一度しか見たことがありません。ようやく残った一株でした。咲いていると教えてもらって、あわてて見に行った数分後には、散ってしまいました。それでもまた来年には咲くかもしれないと、抜かずに置いておいたんですけど……」

「ほな、まだ森野辺の屋敷に行けばありますんか?」

 

 宝耳は少し焦ったように問うてきたが、薫は苦笑しながら首を振った。

 

「それが間違って抜いてしまって。あのお花、花が咲いてないときは、ちょっと大きな土筆(つくし)みたいなんですよ。だから、どこからか種が飛んできたんだとでも思ったんでしょうね。料理の具材にちょうどいいや…って、庭にあったのを、新米の使用人が知らずに抜いてしまって……」

「…あっちゃー!」

 

 宝耳はペシリと額を打って、力が抜けたように後ろの背もたれに倒れ込んだ。

 薫はクスクスと思い出し笑いしながら言った。

 

「大変だったんですよ、その後。みんなお腹を下してしまって。お母様は一日だけでしたけど、入院されましたし、お父様は後でそれが貴重な最後の一株だったのを知って、それはそれは落胆されて。間違えた使用人は死んで詫びるとか言い出して……ちょっとした騒動でした」

 

 幸いにも誰も大事には至らなかったが、ずっと丹精込めて世話してきた辰造の落胆は父よりも大きかった。もう辞めるとまで言い出して、薫も、父母や他の使用人たちと一緒になって、必死に辰造を慰めたものだった。

 また思い出に浸りそうになった薫を、宝耳が呼び戻す。

 

「フン、しかしお嬢さんは、なんや他人事みたいでんな。自分も腹下したんなら、思い出話でも、多少の恨みは入るもんでっせ」

「私は、特にどうということもなかったんです。まぁ、小さい頃はそれこそ道端の草でも食べてましたから。たいがいのものには、耐性がついていますよ」

 

 薫が軽く肩をすくめて言うと、宝耳はハハハと笑った。

 

「そういや、そうや。せやから、お嬢さんをただのお嬢さんと思ぅてたら、手痛い目に遭うんや」

「あら。私が何かしました?」

「いや、いや……」

 

 宝耳は形勢不利とみるや、すぐに話題を変えた。

 

「しかし残念なこっちゃなぁ。せっかく近場にあると思うたのに……」

「私の家にあったものは残念ながら、全滅してしまいましたけど、元々はお父様が山登りに行ったときにもらってきたものですから、そこに行けば見つかるかもしれませんよ」

「おぉ、それそれ。それが聞きたかったんや。どこにあるのか、聞いたことありまっか?」

「えぇ。何度か聞きましたから」

 

 緑がかった茶色の、その大きい土筆のようなものを見て、不思議がる薫に父が語ってくれた話。

 念願叶って、ようやく青い彼岸花が咲いたときにも、同じように話してくれた。

 

「雲取山、と言ってました。確か」

「雲取山……か」

 

 薫の言葉を、宝耳は神妙な面持ちで反芻する。

 薫は頷いて、父から聞いた話を続けた。宝耳に話すためというよりも、父を思い出したかったのかもしれない。

 

「その山には、父一人で行ったそうです。でも途中で木の根に足を取られたのかして、転んでしまって。足を捻って、動けなくなってしまったんです。運悪く雨も降ってきて……どうしようかと思っていたときに、ちょうど通りかかった炭焼きのご老人に助けられたそうです。しばらく家で休むようにと、膏薬なんかも塗ってくれて。それからしばらく、その老人と話していて………あ! そうだわ!」

 

 薫は話しているうちに気付いて、思わず声を上げた。

 宝耳が怪訝に薫を見て、首をかしげる。

 

「どないしました?」

「考えてみれば、父がその山に行くキッカケになったのは、その花を探しに行ったからだったんです。なんでも、古い友人からの手紙が見つかったから……って……」

 

 薫は言いかけて止まる。

 宝耳もすぐに悟ったようだ。

 

「それは……」

 

 さっき宝耳の言っていた話と、昔、薫が父から聞いた話は、意外な合致をみた。

 つまり那霧博士が薫の父に連絡を取ろうとしていた…ということは、手紙を送ったのだろう。だが当時、薫の父は外国にいたので受け取ることはなく、その後にどこに仕舞われていたのか、十年ほどしてから宛名の人物の手にようやく渡った。

 

「父は那霧博士のために行ったんですね。古い友人としか聞いていなかったので……」

「ま、お嬢さんに言ったところで、もう死んでしまわれた後ですからな。まさか、大きくなってから、妙な縁で繋がるなんぞと思うわけもなし」

「そうですね……」

 

 おそらく父のことだ。その手紙をくれた那霧博士が亡くなったとわかっていても、生前に気にかけていたことを知って、じっとしていられなかったのだろう。せめて、その花を故人に手向けたかったのかもしれない。

 しんみりした薫に、宝耳はしかし続きを求めた。

 

「すんまへんけど、その後、お父上がどうされたんか聞きたいんやけど」

「あ、はい。そう、それで父が青い彼岸花を探していると言ったら、その老人が知っておられたんです。ちょうどその時期だと花は咲いてないので、普通ではわからないだろうから、とわざわざ案内してくれて。おそらく父が那霧博士のことも話したのでしょうね。故人の回向(えこう)の為ということで、数株、抜くのを手伝ってくれたようです。そのご老人が亡くなるまでの間は、なにかしら贈り物を送り合ったりして交流があったようですけど、亡くなられたあとは、疎遠になってしまったようです」

「ふーん。なるほどなぁ…」

 

 宝耳はやや無精ひげの伸びた顎をさすって得心してから、鋭く薫を見て問うてきた。

 

「雲取山か……。ちなみにその炭焼きの老人の名前なんぞはわかりますか?」

「えぇと……確か火の感じのする…いかにも炭焼き職人のような名前だったんですけど……」

 

 薫は一生懸命、思い出の中の父の言葉を繰った。

 確かナントカ老人と言っていたのだ。火を想像させるような名前だった。

 

「なんだったかしら? えーと…炭火でもないし、薪炭(しんたん)練炭(れんたん)……違うわ。炭じゃなくて、もっと身近にあって使う……火鉢? じゃなくて、囲炉裏(いろり)……(へっつい)……」

「……竈門(かまど)

 

 ポツリと宝耳が言う。

 薫は思わずパチンと手を打った。

 

「そうです! 竈門! 竈門老人、って仰言ってました」

 

 

 

<つづく>

 



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第七章 宿願(一)

 (かおる)宝耳(ほうじ)が産屋敷邸へと向かっている間に、また鬼殺隊においては一大事が起こっていた。

 先だって上弦の陸を討ったばかりだというのに、今度は上弦の肆と伍をほぼ同時に討伐したのだ。

 刀鍛冶の里を襲ったその鬼たちを撃退したのは、前の戦闘においても稀有な働きをした竈門炭治郎、それから霞柱の時透無一郎、恋柱の甘露寺蜜璃、また不死川玄弥も含まれていた。

 玄弥の名前を聞いた途端に、薫はすぐさま確認した。

 

「無事なんですね? 玄弥くんは、生き残ったんですよね?」

 

 宝耳は自らの鎹鴉の頭を撫でてから空に飛ばして、肩をすくめた。

 

「とくに死亡とも言うとりませんから、無事なんでっしゃろ。あの坊主も、兄の風柱同様にちょいとばかし奇妙な特性を持ってますからな」

「奇妙な特性?」

「鬼喰いですわ。鬼を喰らって、一時的にその鬼の特性を自分のモンにしよる。しかし色々と副作用なんぞもあるやろうから、蟲柱が定期的に体調管理はされとりますし、ま、問題ないですやろ」

 

 サラリと宝耳は言ったが、薫は眉をひそめた。

 鬼を喰らう……そんなことをして、無事でいられるものなのだろうか。それにそのことを実弥は知っているのだろうか。そもそも玄弥が鬼殺隊に入ることには大反対していたのに、そのうえ大事な弟がそんな危ないことをしていると知っていたら……。

 

 薫の危惧を推し量ったように、宝耳が釘を刺した。

 

「あ。不死川玄弥の鬼喰いについては、風柱様には内緒でっせ。岩柱様からも黙っておくようにと言われておりましてな」

「じゃあ、やっぱりご存知ないんですね」

 

 薫は軽くため息をついた。このことを知ったときの実弥の怒りが容易に想像できる。それこそ足の骨を折ってでも、無理矢理に弟を鬼殺隊から追い出しそうだ。

 

「まぁ、いろいろと…あの兄弟は仲がええのんやら悪いんやら……七面倒臭いんですわ。お嬢さん、下手な世話焼きはご無用に願いまっせ」

 

 宝耳に早々に釘を刺されて、薫は複雑な顔になる。

 小さい弟妹たちの兄として、互いに支え合っていた二人の兄弟。

 玄弥は誰より実弥を慕っていた。それはあの兄の弟らしく、わかりやすい愛情表現ではなかったが、いつも彼は兄の役に立てることを一番喜んだ。兄から褒めてもらうのが、一等嬉しそうだった。

 

「……玄弥くんは、どうしてそんなことを……」

 

 薫がつぶやくように言うと、宝耳が肩をすくめた。

 

「それが、どうやらあの坊主、呼吸の技が習得できとらんようでしてな」

「え?」

「兄の方も篠宮(しのみや)老人に弟子入りするまでは、相当なやり方で鬼狩りをしとったようやけど、弟も兄に倣ってというべきか……いやはや、まったくもって恐ろしい兄弟ですわ。呼吸の技も使えず、剣の腕もそれほどでもなし……で、藤襲山で生き残りよるんですからな。ま、ちょいと粗暴なところはあっても使いよう。それに鬼喰いなんぞして、もし歯止めがきかんようなってもアカンから、本部としても放っておけんかったんでしょうな」

 

 薫は粛然と固まったまま、拳を握りしめた。

 鬼の肉を喰う……そんなおぞましく、恐ろしい行為を選ぶまでに至った玄弥の思いが、痛々しい。

 自分に鬼殺隊士になる才能がないと、そう頭で理解しても、玄弥は追いかけたかったのだろう。実弥のあとを。あの頃と同じように。

 あの日、大好きな家族を失ったのは実弥だけではない。玄弥も一緒だ。だから、残された唯一人の家族である兄から、何としても離れたくなかったのだろう。

 

 薫には玄弥の気持ちが、なんとなく想像できた。

 自分も実弥には何度も鬼殺隊を辞めろと言われてきた身だ。けれど聞き入れることは、結局なかった。

 今、こんな状況になってすらも、鬼殺隊のために尽くしたいと思う。それは両親や親しい人間を殺されてきた恨みも勿論ある。だが、今まで戦ってきた自分のためにも、戦いの中で自分を信じてくれた人のためにも、自分はやはり最後まであがき続けたいのだ。

 出来うることをできる限りやって、できるならばやりきって、残していく未来(かれら)に希望を見せたいのだ。

 

 

 ―――― やりてぇこと見つけて、一所懸命にやって、出来ても出来なくても、やりきったって思えるまでは、連れて行ってはもらえねぇんだ……

 

 

 ふと浮かんだのは、幼くなっていた自分に言われた実弥の言葉。

 不器用に言葉を紡いで、小さい薫を励まそうとしてくれていた……。

 

 薫はあわてて顔を車窓へと向けた。そっと伝い落ちそうになる涙を、指ですくい取って止める。

 

「……どないしはった?」

 

 宝耳が怪訝に問うたのは、涙を浮かべた薫が微笑んでいたからだ。

 

「いえ……」

 

 スンと洟をすすって、涙を押し籠めた薫の顔は、どこか晴れ晴れとしていた。

 

「早く、実弥さんに会いたいと思って……」

「ほぉ? しかし風柱様は、大層お怒りでっせ。勝手に姿(くら)ましてからにー……いうて」

 

 宝耳は少しばかり意地悪く言ったが、薫は笑った。

 

「そうですね。久しぶりに、怒られるでしょうね。でも……ようやく、伝えたいことができたんです」

 

 まるで観音菩薩のような、穏やかで美しい薫の表情に、宝耳は今回も風柱が『負ける』だろうと予想した。なんだかんだと言っても、ホレてしまった弱みというのは、そう覆せないものだ。…… 

 

 

◆◆◆

 

 

 宝耳に連れられて、不思議な道を辿った先には、それこそ平安時代の貴族の邸宅かのような、広く雅やかな屋敷が待っていた。

 いくつもの廊下を渡った先、開かれた(ふすま)の向こうに、彼の人は待っていた。

 

 産屋敷耀哉。

 鬼殺隊を束ねる総帥。鬼舞辻無惨の因業(いんごう)を今なお受け続ける、宿命の一族の若き(おさ)

 呪われた一族の体質ゆえに、彼もまた短き生が終わるその手前にいる。今もその病は彼を蝕んでいっているのだろう。もはや座ることもできない状態で、それでも彼は自らの運命を放擲(ほうてき)することもなく、諦観(ていかん)することもなく、ただ短い生を燃やしていっている。

 布団に横たわったままの彼の傍らには、白い髪を結った美しい女性と、同じく白い髪のおかっぱ髪の女の子が二人、静かに座っていた。

 

「お館様……森野辺(もりのべ)(かおる)をお連れしました」

 

 宝耳は軽く頭を下げると、挨拶もなしに唐突に用件を告げる。クス…とかすかに笑うような気配がして、布団に寝そべっていた耀哉が軽く手を上げた。

 

「さすがだね、宝耳。仕事が早い」

 

 宝耳は特に何を言うこともなく、再び頭を下げるとその場を去った。もはや彼らの間には、主従としての礼法も必要としないらしい。

 一方、一人残された薫は、目の前に並ぶ人々らの(かも)す雰囲気に気圧(けお)されて、ただ頭を下げることしかできなかった。

 

「薫……よく来たね」

 

 病床にあるのであろうその人の声は、意外なほどに強く聞こえた。

 涼やかで、軽やかで、それでいて深く心に沁み入るように響く。

 不思議な声音だった。

 いつまでも聞いていたいような(こころよ)さと、ここにいてもいいのだという安心感が一気に広がる。

 

「……私など…お目通りがかない、(おそ)れ多いことにございます」

 

 恐縮して薫が答えると、クスリとまた笑い、コホンと軽く咳払いする。傍らに座っていた女性、おそらく耀哉の妻であろうあまねが、気遣わしげに見たが、耀哉は「心配ない」と声をかけていた。

 

「いや……実弥に怒られるかと思ってね。許しもなく勝手に『薫』なんて、気軽に呼んだら」

「そんなことは……!」

 

 薫はまさかお館様である耀哉から、そんなことを言われると思わず、真っ赤になってすぐに否定した。

 

「風柱様が私を気軽に呼ばれるのは、それは……単純に昔そう呼んでいた癖みたいなものですから。それにお館様に向かって怒るだなんて、そんな失礼なことをなさるわけがありません」

「そう? でもきっと、今から君に頼むことを話したら、僕は実弥に叩きのめされるだろうよ。そうなっても、僕は文句が言えない」

 

 耀哉の冗談めかした口調の中に、張り詰めた緊迫感を感じて、薫はさっと身を引き締めた。

 

伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)氏から伺いました。……鬼の血を()けて、もはや生きる価値もない私に、お役目を与えていただけると知り、有り難く思います。鬼舞辻無惨討伐のために、この不肖の身、いかようにもお使い下さいませ」

「……君の決意が天晴(あっぱれ)であるほどに、哀しいね。薫。実弥は、きっと望まないだろう。彼にとっては、君が鬼殺隊に居続けることだって心配でたまらなかっただろうに、僕が頼もうとしていることは、確実に君を苦しめるのだろうからね」

「私は……自分になしうることを、ただやるまでです。できることがあるだけ、幸せだと思っています。もし、機会を与えて頂けるのでしたら、風柱様に直接会ってお話したく存じます。(つたな)いかもしれませんが、私の気持ちをお伝えして……。今すぐにご理解いただけずとも、いずれ納得していただけると……信じております」

 

 耀哉はフゥーと長い吐息をついた。

 沈黙の中を、涼秋の風が通り抜けていく。

 コン、と耀哉が小さく咳をすると、少女の一人が立ち上がって縁側の障子をしめた。

 

「……君たちは、家族だね」

 

 ポツリと、耀哉は言った。

 薫は一瞬、その意味がわからず顔を上げる。

 障子戸越しに微かな明かりが差し込むだけの薄暗がりの中、布団の中の耀哉がこちらを向くのがわかった。その病に侵された顔が、穏やかな笑みを浮かべているのも。

 薫は否定しようとしたが、ほろりと頬を伝う涙に自分のことながら驚いてしまい、言葉が出なかった。

 どうして目の前のこの人は、会ったばかりだというのに、薫の最も望む言葉をくれるのだろう。今このときも病に冒され、痛む身体をかかえて、なぜ他人のことを思い遣れるのだろう。この数ヶ月、鬼になってしまった自らの不遇を嘆いてばかりで、誰のことも考えられなかった自分とは比べ物にならない。

 

「どうぞ」

 

 いつの間にか近くに来ていた白いおかっぱ髪の少女が、白い手巾(ハンカチ)を差し出してくる。薫は恥ずかしさに頬を赤らめながらも、おずおずとその手巾(ハンカチ)を手に取った。涙を拭うと、無理矢理に笑みを作って、軽く首を振る。 

 

「……家族なんて、おこがましいことです。ただ、昔からの知り合いですから……少しは、他の人に比べれば、大事に思ってくださっているのだろうと、それは……お互いにそうなのだろうと、思っているだけです」

「君は……実弥にとって、君の存在が、その程度だと思ってるのかい?」

 

 耀哉は楽しげに聞き返してきて、フフフと悪戯っぽく笑う。

 あまねがそっと布団に手を置いて、まるで子供に言い聞かせるようにそっと声をかけた。

 

「お館様、いけませんよ。おからかいになっては……」

「ハハ……お見通しだね。あまね」

 

 耀哉は自分の胸元近くに置かれたあまねの手に、そっと手を重ねた。

 薫は目の前の二人の、穏やかでありながら強固な関係性を感じて、胸がじんわりと熱くなった。

 

「薫。これからのことは、惟親(これちか)に差配を頼んである。彼の指示に従ってくれ」

「は……」

 

 薫は短く頷いて、再び深く頭を下げた。

 白いおかっぱ頭の少女たち二人が同時に立ち上がり、耀哉と薫の間にある襖のそばに歩いてきて、静かに襖を閉めていく。

 薫は襖が閉まる寸前に、チラリと耀哉のほうを窺った。気の所為(せい)かもしれない。だが、深い慈愛をたたえた瞳と目が合って、薫は瞬時に確信した。

 おそらくこれが、耀哉と話す最初で、最後になったのだろうと。 

 

 

<つづく>

 




長くお待たせして申し訳ございませんでした。
次回は2024.03.16.更新予定です。


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第七章 宿願(二)

「無事で……」

 

 薩見(さつみ)惟親(これちか)は久々に薫の姿を見て、目を潤ませた。だが、すぐに自分の役目を思い出したのだろう。ぐっと唇を噛みしめると、震えながら深呼吸を一つしてから、鹿爪らしい顔になって言った。

 

「……この度は、無惨討伐のための研究に協力してくれるとのこと、はなはだ有り難く思います。早速ですが、今後、あなたと一緒に研究を進めてくれる人を紹介しますので、ついてきてください」

 

 言われるままに惟親のあとに従うと、産屋敷邸を出て、用意されてあった馬車に乗るように示される。どこに向かうのだろうかと、小さな窓から外を眺めていると、次第に懐かしい景色が目に入ってきた。

 

「……蝶屋敷に向かっているのですか?」

 

 薫が尋ねると、惟親は「いや」と首を振った。

 

「正確には蝶屋敷ではありません。ですが隣接しています。この研究については、今から会う者たちも含め、当然ながら蟲柱様のご助力なくば成立しませんからね」

 

 惟親の言う通り、馬車は蝶屋敷の前を素通りすると、背の高い鉄製の格子に囲まれた、こじんまりとした洋館の前で止まった。

 惟親は軽く咳払いすると、鍛鉄(ロートアイアン)の門扉を開けて入っていく。薫も続くと、奥まった(ひさし)奥の扉が開いた。影が濃くてよく見えなかったが、どうやら男性が一人立っているようだ。

 

「その女か?」

 

 鋭い声が問うてくる。惟親はやや緊張した面持ちで頷いた。

 

「早く入れ、女。あぁ、お前はもういい。帰れ」

 

 男の横柄きわまりない態度に、惟親はムッと顔をしかめつつも、軽く頭を下げた。半身を薫に向けて、中へと促す。

 

「この先のことについては、彼らに任せています。ただ、あなたの鎹鴉は今まで通り、そばにいるので、何かあったらすぐに知らせてください」

「……何があるというんだ、まったく」

 

 言葉尻を聞きつけて、男はぶつくさと文句を言いながら、建物の奥へと去っていく。薫はとりあえず惟親に頭を下げると、あわてて後を追った。

 館の中は暗かった。宝耳(ほうじ)の話だと、鬼でありながら協力してくれているというから、当然ながら日光を避けるために、鎧戸などもすべて閉め切っているのだろう。二度ほど廊下を曲がった先の、行き止まりの扉の前で男は止まった。

 

「珠世様」

 

 コンコンとノックして、声をかける。中から「どうぞ」と、柔らかな女性の声が返ってくると、男はそっと扉を開いた。さっさと入って行かれて、薫は入っていいものか迷ったが、そっと閉まりかける扉を押して部屋の中へと足を踏み入れた。

 部屋の中は明るかった。天井から吊り下がった電灯の白い明かりの下、白い割烹着のようなものを着た女が立っている。どうやら彼女が「珠世様」であるらしい。

 

 その顔を見て、薫はすぐに思い出した。以前、任務で斬り殺そうとしていた鬼の女。千佳子(ちかこ)に似ていると思ったせいで覚えていたのだろう。だがあのときもそう思ったが、絢爛たる牡丹のような美しさであった千佳子に比べると、ひっそりと匂い立つ芍薬(しゃくやく)のような、静謐(せいひつ)とした美しさだった。

 あのとき、宝耳はまるでこの鬼の女を守るかのように、薫の邪魔をしてきた。今にして思うと、こうなることを予期していたのだろうか。

 

「……貴女(あなた)

 

 臈長(ろうた)けた風情ながら、意外に愛らしい声で、珠世は呼びかけてくる。やや強張った表情とかすかに震える声に、薫は彼女が自分のことを覚えているのだとわかった。その場に(ひざまず)くと、頭を下げた。

 

「この度は、お館様の声がかりにより、宿年の仇敵(きゅうてき)である鬼舞辻無惨滅殺のご助力をいただけたこと、誠にありがとうございます。鬼殺隊に身を置く者として、心より御礼申し上げます。ただ……」

 

 薫は顔を上げると、真っ直ぐに珠世を見つめた。

 鬼であるというのに、その目は赤くない。人間(じんかん)に紛れてしまえば、きっと気付かぬことだろう。だが、薫は己の血に潜む鬼の性によって、彼女が鬼であることを確信できた。しかも今まで薫が討伐してきた鬼たちなどとは比べ物にならないほどに、長く久しい時を生きてきている……。

 

「かつてあなた方を鬼として滅殺しようとしたこと、これを謝るつもりはございません。私は鬼殺隊士で、鬼を狩るのが仕事です。今、このような状況になったとしても、かつての自らをすべて否定するものではありません」

 

 薫の話を聞いているうちに、男の方も思い出したようだった。

 

「あっ! お前……そうか、あの時のッ」

 

 赤い瞳がギラリと光って、薫を睨みつけてくる。薫はチラとだけ男を見たものの、正直、男の方についてはさほど記憶になかった。

 珠世はしばらく薫を見つめたあとに、ため息まじりにゆるりと首を振った。

 

「立って下さい。貴女を責めるつもりはありません。ただ、あの時……貴女に初めて会ったときに、私は妙な感じを受けたんです。そのときは、ハッキリとわからずにいましたが、伴屋(ばんや)様から貴女のことをお聞きして……さらに今日こうしてお会いして、わかりました。私はあのとき既に、貴女からかすかに鬼の気配を感じていたのです」

「え……?」

 

 薫は固まった。あのときにはもう、鬼として自分は目覚めていたのだろうか? 知らぬ間に自分は鬼として、誰かを傷つけるようなことをしていたのではないのか?

 急に宿った疑問は、一気に薫を恐怖に陥れた。顔から血の気が引き、かすかに震えていると、そっと肩に白い手が乗せられた。いつの間にか目の前に、珠世が立っている。微笑みを浮かべた顔は、それこそ観音菩薩のように穏やかなものだった。とても鬼とは思えない。

 

「心配する必要はありません。おそらく貴女は鬼とはなっていない。まだ(・・)

「……まだ?」

 

 薫が問い返すと、珠世はコクリと頷いた。

 

「詳しいことは、これから貴女の血をもらって調べますが……伴屋(ばんや)様からの話を聞く限り、黒死牟なる鬼から()けた血がわずかであったために、貴方は鬼の血の影響をあまり感じることなく生きてきたのでしょう。けれど、おそらく鬼殺隊に入って、数々の鬼を討伐していく中で、徐々に反応するようになっていったのでしょう……」

 

 薫は混乱した。珠世の話がすぐに理解できない。

 呆然とする薫に、珠世はにっこりと()んだ。

 

「とりあえずはご挨拶しましょう。私は珠世と言います。この子は、愈史郎。貴女のお名前をお聞きしても?」

 

 その声は愛らしいながらも、まるで母親のような安堵感があった。薫はホッと息をついてから、自らを奮い立たせた。大丈夫、と言い聞かせる。自分がどういう状態であるのかを知って、その上で役立ててもらうためにここに来たのだ。

 珠世の笑顔に返すように、薫もニコリと笑ってみせる。

 

森野辺(もりのべ)(かおる)と申します。珠世様、愈史郎様、お世話になります」

 

 

 

 それから一週間ほどは、安穏と過ぎた。

 薫はおそらく心配をかけたであろう律歌(りつか)や、秋子に対して鎹鴉を通じて手紙を送ったが、薩見惟親からの指示で、居場所については伏せておくように言われていた。理由は珠世達の安全を確保するためだ。

 

「今、彼らとの間に無惨討伐のための協約を結んだとはいえ、一部の血の気の多い隊士の中には、鬼であれば関係ない、すぐさま殺す、と息巻く者も少なくない。例の刀鍛冶の里で上弦を相次いで滅殺してからは、鬼も急に姿を潜めていてな。正直、隊士たちは元気が有り余っているのだ。そのことについては柱の方々が色々と考えてくださっているようだが……。ともかく、あの鬼たちの存在は一部の人間にしか知らせていないから、君もそこは協力してほしい」

「はい、もちろんです」

 

 無惨滅殺の悲願を果たすためである。それに珠世たちもまた、無惨に対しての憎悪は深い。それはこの数日、彼らと暮らし、話をする中で折々に感じたことだった。

 詳しいことは聞かなかったが、珠世がかつては平凡に生きてきた女性であったことも、その穏やかな暮らしを奪ったのが無惨であることも、彼女と仲良くなるに従って、薫は自然と感じ取った。ときにその洞察は、自分でも深みに(はま)っていくような感触になることがあって、怖いほどであった。

 珠世はそうした薫の戸惑いにも、すぐに気付いてくれた。

 

「森野辺さん。おそらくそれが、あなたのいわゆる血鬼術といった能力に近いものなのですよ」

「……私が、血鬼術を操っていると?」

「不完全なものですが。……元々、血鬼術というのは無惨によって与えられるものではありません。鬼はそれぞれに固有の能力を持ちますが、それは人間の頃から持ち得た能力をより伸長させたものに近い。貴女の場合、おそらくは鬼の心を読むのでしょう。あるいは鬼殺隊士として、鬼を(ほふ)るための、より(・・)有効な手段として、無意識に作り出したのかもしれませんね」

 

 珠世の推察はいちいち的を得ていた。

 それは自分が鬼の血を享けたことを思い出す以前から、鬼と対峙するとき、時々奇妙に思っていたことでもあったからだ。

 千禍蠱(ちかこ)との戦いのあと、一緒に戦った音柱・宇髄天元にも指摘された。

 

 

 ―――― お前、あの女の血鬼術に馴染みすぎだぞ……

 

 

 あのときは千禍蠱という鬼が、かつて薫が慕っていた千佳子という女性であったから……昔馴染みであったことへの思慕や同情が、そうさせたのだろうと思い込んでいた。だが、知らず知らずのうちに、薫の中に潜んだ鬼の血が、千禍蠱の内奥(ないおう)を知ろうとしていたのなら?

 天元の言う馴染みすぎ(・・・・・)という言葉も、得心がいく。

 

 あの任務のあとに、薫の体調は急激に悪くなった。それこそ刀鍛冶の里に行っても、治らなかった。いや、今にして思えば、鬼の血が強く表れ始めたからこそ、太陽光が充溢する刀鍛冶の里では、どんどん容態が悪くなっていったのだろう。

 何も知らず、ただただ自分を追い詰めることしかできなかった日々。どんなに頑張っても身体は恢復(かいふく)せず、周囲の人間との差に焦燥を募らせ、ときに嫉妬までした。

 

 

 ―――― お前はもう限界だ! だから体が悲鳴をあげてんだろうがァッ!!

 

 

 実弥の指摘は、ある意味当たっていたのだ。

 鬼殺隊士として鬼と対峙することで、薫の中に眠る鬼の(しょう)は、少しずつ呼び覚まされ、抑え込もうとする人としての体力が、限界にきていたのだろう。

 

 薫は実弥のことを思い出すと、申し訳なかった。

 おそらく失踪した薫のことを、もっとも心配しているのは、実弥だろう。わかっていたが、薫は実弥に手紙を出せずにいた。理由は二つある。一つは惟親から止められたからだ。

 

「風柱様も大層心配されておいでですが、しばらく連絡は控えてください。必ず折を見て……必ず、会う機会を設けますので」

 

 惟親としては、あの風柱の性格上、ここに薫がいると知れば、乗り込んでくるのは間違いなく、そのときにまかり間違って珠世や愈史郎に危害を加えることを懸念したのだった。

 柱であるので、実弥は当然珠世らのことも知っていたが、やはり多くの隊士同様に、鬼の協力者について懐疑的であった。元々よく思ってないところに、失踪した薫が一緒にいて、しかも無惨を弱体化する毒を開発するために、その薫を利用していると知れば、ただで済むはずがない。薫と会わせるにしても、今回の研究について十分に説明したうえで、理解してもらうことが重要と考えてのことだった。

 

 だが、この惟親の老婆心ともいえる配慮は、薫にとっても有り難かった。正直なところ、実弥に対しては後ろめたくもあり、きまり悪くもあった。吉野で嘘をついて、悲壮なまでの覚悟で出てきたのに、今こうしてノコノコと戻ってきてしまった。せめてここで、ちゃんと役立てる人材であることを示せないと、とてもではないが合わす顔がない。

 

 意気込んで来たものの、珠世はひとまず薫の血液を採取したのちに、簡単にこれまでの経緯 ―― 特に黒死牟から血を与えられた時期やその量など ―― を問診しただけで、これといって薫の負担となるようなことはなかった。せいぜい愈史郎の隣で、実験についての口述筆記を手伝った程度である。

 現状において、薫の負担といえばこの愈史郎くらいなものだった。

 以前薫が襲ってきたことについてネチネチと嫌味を言ってきたり、珠世に対するやや度を超えた愛情の現れであろうが、いちいち比べては薫を蔑むのも面倒であった。

 

「……まったく、お前など、珠世様とは比べ物にならん!」

 

 その台詞も何度目だったか、もう数えてもいない。だが、いい加減薫も辟易(へきえき)して、昨日、ついに言い返してしまった。

 

「愈史郎さん。珠世様は確かに貴方の仰言る通り、素晴らしい御方です。言われなくともわかっています。ですから、そういうお言葉は心に秘めておいてください。正直……鬱陶しいです」

「なっ……!」

「おそらく珠世様も、少し(・・)困ってらっしゃると思います」

「う……!」

 

 それから今に至るも、愈史郎はおとなしかった。どうやら珠世からもやんわりと釘を差されたらしい。本当に珠世にだけは、どこまでも従順だ。

 

「森野辺、珠世様がお呼びだ」

 

 その日、薫を呼びにきた愈史郎は相変わらず不機嫌そうであった。まだ気にかけているのだろうかと思ったが、どうやら理由は違ったらしい。コンコンといつものように扉をノックすると、珠世の「どうぞ」という声が聞こえる。ゆっくりと扉を開き、そこに座っている人物を認めた瞬間に、すぐに愈史郎の仏頂面の理由がわかった。

 

「よッ! お嬢さん。元気にしてまっか?」

 

 軽妙に挨拶をしてきたのは、数日ぶりに会う伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)だった。

 

 

<つづく>

 

 





更新ペースを変更し、次回は明日2024.03.17.に更新します。


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第七章 宿願(三)

 まるで自分の家さながらに、宝耳(ほうじ)は応接用のソファにどっかり腰かけていた。

 愈史郎はわかりやすく苦虫を噛み潰していたが、珠世は特に気にもしていないように、薫を呼ぶ。

 

森野辺(もりのべ)さん。こちらに」

 

 珠世の前にある診察用の椅子へ促されて、薫が腰掛けると、ソファの背もたれ越しに宝耳が顔を出して、まじまじと見つめてくる。

 

「ほぉ? 随分、顔色良くなりましたやんか。やっぱり鬼同士わかりあうところがありますんやろか?」

 

 悪気があるのか、ないのか、軽い調子で言ってくる。

 薫はやや眉をひそめた。

 

「宝耳さんは、相変わらず意地悪なことを仰言(おっしゃ)いますね」

「うん? なんぞ気に(さわ)ったかいな?」

「……返答に困ります」

 

 薫がムッとして睨みつけると、宝耳はわざとらしく肩をすくめる。

 その姿を見た珠世は微笑しながら、やんわりと否定した。

 

「残念ながら、森野辺さんは『鬼』とはいえません。今回はそのことについて、詳しく説明するためにお呼びしました」

 

 そう言って、珠世は物書き用の机に置かれた薫のカルテを、数枚繰った。一体、採血して何を調べていたのか知らないが、そのカルテはちょっとした冊子並に分厚かった。

 

「まず、森野辺さんはこれまでに二度、鬼の血を与えられています。一度目はおそらく六、七歳頃。冷たい川を流れる中で、おそらく貴女(あなた)は死にかけていたのでしょう。そんな貴女を助けるためであったのか、上弦の壱である黒死牟は自らの血を与えた」

「妙なこともあるもんや。鬼が子供を助けるなんぞ」

 

 宝耳は混ぜっ返すように言ったが、その疑問はもっともだった。薫も信じられない。鬼が、しかも無惨に最も近しい存在であるはずの、上弦の壱である鬼が、死にかけの、みすぼらしい子供を助けるなど。

 

「上弦の壱ともなれば、そのへんのガキ程度であれば情けをかけますんか?」

 

 宝耳の問いかけに珠世はゆるゆると首を振った。

 

「私にもわかりません。その黒死牟という鬼に直接会ったこともありませんし……相当に長く生きているとは考えられますが。助けたというより、ただの気まぐれであったかも……」

 

 言われて薫はハタと思い出した。

 

 

 ―――― 鬼の気まぐれで、生き延びたなら……

 

 

 遠く霞む記憶の中、黒死牟の囁きが聞こえる。

 薫はギリッと奥歯を噛み締めた。その気まぐれに翻弄されている己が情けない。しかもあの鬼は、そんなことを言っておきながら、背を向けたが最後、薫のことなど忘れていたのだ。……

 

「いずれにしろ、その鬼の血によって、一時的に細胞が活性化され、貴女は生き延びた。このとき大事なのは、鬼の血が本当にごくわずかであったということと、貴女がまだ成長著しい子供であったということです」

 

 微量の血の中にあった、鬼を作り出す因子 ―― これを珠世は『鬼の(タネ)』と呼んだ ―― は、まだ子供であった薫の体内に潜み、成長期に起こる頻繁な細胞増殖によって、本来の器質を作り変えていった。つまり奇跡的に、『鬼の(タネ)』は薫の身体(カラダ)に順応していったのだ。この変化も含め、与えられた血があまりにも微量であったことで、無惨からの呪縛を逃れたのだろう……と、珠世は言った。

 

「本来、鬼は無惨からの血を()けることで、鬼となります。そうなれば無惨によって縛られ、思考すらも自由にならなくなる。けれど今回、薫さんの事例でわかりました。単純に鬼の血を体内に入れただけでは、鬼とならない……」

 

 おそらく鬼の血に含まれる『鬼の(タネ)』を覚醒させる何かしらの刺激があって、人は鬼となるのだろう。そのことは薫だけでなく、玄弥の事例からも明らかであった。

 

「彼は鬼の血を吸収して、鬼の能力を一時的に我がものとしますが、無惨による呪縛の対象とはならない。彼が鬼として()()していないからです。だから彼の鬼化は不完全であり、人に()()ことが可能なのです」

 

 その話を聞くうちに、薫の中で封印していた記憶が再び甦った。

 あの日、はからずも再会した薫に、再び血を与えながら黒死牟は言っていた。

 

 

 ―――― …その時…あの方に、お前を鬼としてもらおう…

 

 

 その言葉の意味するところ……つまり()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということだ。

 

「確か、あのとき、黒死牟が言ってました。『あの方』に……おそらく無惨に…『鬼にしてもらおう』って」

 

 薫があの日、黒死牟と交わした会話について話すと、珠世は静かに頷いた。

 

「そうです。本来、無惨だけが鬼を作り出せるのも、それが理由でしょう。私も人を鬼とする施術を何人かに試みましたが、成功したのは愈史郎だけでした。……簡単なことではないのです」

 

 珠世は重苦しい口調だった。そこにはたとえ本人の了承があったとしても、人を鬼としてしまったことへの、取り払えない罪悪感がにじみ出ていた。

 

「珠世様……」

 

 哀しげな珠世を見た愈史郎が声をかけようとしたが、宝耳がまたその沈んだ空気をかき回した。

 

「しかし、そうやとしたら……お嬢さんはよほどに運が良かったんですな。子供時分に鬼の血ィもろて、そのまんま無惨のところに連れて行かれて鬼にされとったなら、今頃、鬼殺隊に殺されとったかもしれまへんで」

「………そうですね」

 

 薫は相槌をうちながらも、内心は怒りに震えていた。

 あの時 ―― 再会した薫に、黒死牟は心底驚いていた。

 

 

 ―――― 気まぐれゆえ…忘れ果てていたが、よもや鬼狩りとなって、再び(まみ)えるなど……盲亀(もうき)浮木(ふぼく)、とは…この事……

 

 

 そもそも黒死牟は、ほんの一滴の血だけで、死にかけの子供が本当に助かるとは、思っていなかったのかもしれない。だからこそ無惨にも伝えず、そのまま忘れ去っていたのだ。それが思いがけず再会し、しかもその助けた幼子が鬼狩りになっていたことに、よほど興味をそそられたのか……。

 本当に忌々しく、腹立たしい鬼だ。

 

 宝耳は言葉少なな薫に構わず、珠世に再び問いかけた。

 

「ほんで、青い彼岸花の効能は?」

「それについては、未知数のところが多くて、はっきりと診断できかねます。無惨が青い彼岸花を探していたのは確かですが、それが果たして薫さんが食したものと同一であるのかもわかりませんし、必要とされるのが花であるのか茎であるのか根であるのか、あるいは全てなのか……詳細は無惨しか知らぬのでしょうから」

 

 あの青い彼岸花が、実は無惨にとって重要な意味を持っていたのだと知ったのは、つい最近のことだ。詳細については不明だが、無惨は随分と前からこの花を探しているらしい。珠世は昔、無惨と行動を共にしていたこともあったそうだから、知っていてもおかしくはないが、宝耳がなぜそれを知っているのかは不明だった。いつものことだが、宝耳は聞くだけ聞いて、自分のことは教えてくれない。文句を言ったところでこの男には痛痒も感じないだろう。今も、しれっとした態度で、珠世の話を聞いていた。

 

「……なので、はっきりとは申せませんが、あるいは補強にはなったのかもしれません。薫さんの記憶では、その彼岸花を間違えて食べた頃から、寝込んだりすることは少なくなったんですよね?」

 

 珠世に問われ、薫はためらいがちに頷いた。

 

「はい……たぶん。しっかりと日記に書いたりしていたわけではないので、おぼろげではありますが。小さい頃はしょっちゅう熱を出していたんです。でも、ある時から急にそうしたことが少なくなって……両親は大きくなって体力がついたからだろうって言ってたから、そうだと思っていたんですが」

「フン。まぁ、当て推量のようなモンでんな。青い彼岸花については」

 

 宝耳はさっさと結論づけてから、薫の顔をじっと見てきた。

 

「なんですか?」

 

 薫が眉を寄せて尋ねると、ニタリと意味ありげな笑みが頬に浮かぶ。

 

「いや。それにしても、ようもウマいこと難を逃れはったもんやと思いましてな」

「……なにが言いたいんですか?」

「いや、いや。皮肉なもんやと思いましてな。ご両親のことは気の毒としても、そのままあの堅物の坊々(ボンボン)にでも嫁いで、子爵夫人にでもなっとれば、安穏と生きれましたやろに。鬼殺隊に入ったばかりに、鬼と関わるようになって、己の中に眠っていた鬼の血が()()()()ことになってしもて……。ホンマに、お嬢さんには()()()()()()()()()()()んですな。今となれば『辞めろ、辞めろ』としつこく言うてきとった風柱様のお言葉も、身に染みる忠言であったと、思いまへんか?」

 

 薫はジロリと宝耳を睨みつけたものの、すぐに目を伏せた。嫌味だというのはわかっていても、反論できない。鍼治療さながら、宝耳は正確に薫の痛い処をついてくる。

 珠世は黙り込んだ薫の、握りしめた拳をポンポンとやさしく叩いて励ますと、話を変えた。

 

「そうそう。その風柱という人に関することで、興味深いことが発見できました」

「風柱の? なんですねん。稀血と関係おますのか?」

「あら、流石(さすが)ですね。伴屋(ばんや)様。その通りです。今まで稀血が鬼にとって、非常に魅力的な摂取物であることは知られていましたが、今回、薫さんの体内で起きた変化によって、別の側面があることがわかりました」

「私の体内で?」

 

 薫は首をかしげた。

 黒死牟から無理やり与えられた鬼の血を出すために、薫は自ら首を切った。そのとき大量に出血したために、緊急措置として実弥の血を輸血したのだと、律歌(りつか)から聞いている。そのときのことも、うろ覚えに……覚えている。だが、自分の中で特に何か変化したという自覚はなかった。

 珠世はおおきく頷いて、カルテを繰る。顔はいつものように穏やかではあったが、薫は珠世がめずらしく、やや興奮気味であることを感じ取った。

 

「これは二度目に、黒死牟から血を与えられたときのことです。貴女は血を()けましたが、即座に出血させたことによって、体内に残された量としては、ごくわずかでした。その後に大量の稀血が供給されたことで、驚くべき変化が起こったのです。貴女に与えられた鬼の血を、稀血の中にあった、ある種の物質―― 那霧(なぎり)博士はこれを『Χ(カイ)』と仮名しておられましたが、その『Χ(カイ)』が破壊していたのです」

 

 

<つづく>

 




次回は2024.03.23.更新予定です。


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第七章 宿願(四)

「え……?」

 

 (かおる)はただただ唖然とするばかりだった。珠世(たまよ)はなるべくわかりやすい言葉で話してくれてはいたが、やはり即座に理解するのは難しかった。

 

「え……と、あの……つまり、稀血(まれち)が鬼の血を消した……ということですか?」

 

 頭の中で整理しながら聞き返すと、珠世は頷いてさらに続けた。

 

「そう。つまり稀血は鬼にとって最上の栄養源であると同時に、最悪の毒でもあるのです。一つの器 ―― 例えば森野辺(もりのべ)さんの体内において、稀血が鬼の細胞よりも少なければ、鬼の細胞が彼らを侵食して栄養素とします。けれど今回のように、鬼の血に対して、稀血の量が大きく上回った時、稀血の中にある『Χ(カイ)』が、鬼の細胞を駆逐するのです。この現象は、森野辺さん個人の資質によるものではなく、他の培地(ばいち)においても確認されました」

「……は…ぁ」

 

 薫は途中から専門用語についていけず、曖昧に相槌をうつのみだった。

 一方、いち早く理解した宝耳(ほうじ)が珠世に問うた。

 

「つまりそれは、無惨を弱体化させるための、極めて有効な発見……いうことでっか?」

 

 珠世は宝耳のほうを向くとコクリと頷いてから、ニコリと笑った。

 

「このことについては、伴屋(ばんや)様にもお礼申し上げねばなりません。貴方(あなた)が訳してくださった那霧(なぎり)博士の覚書が、とても役に立ちました。恐るべき御方です。研究の熱心さに加えて、非常に優れた洞察力をお持ちだったのでしょう。あんなに少ない手掛かりから、よくもこんな仮説を考えられたものです」

「ハハ。そら良かった。亡くなった那霧博士も、まさかそないなことで貢献できるとは思っておりまへんでしたやろけど。こうなると無惨の運も、那霧博士という人物を手に入れ損ねた時点で、尽きてたのかもしれまへんな」

 

 軽く宝耳がその名を出すと、珠世の顔は途端に曇った。憂いを帯びた瞳とは対照的に、内心には(うず)()のようにいつまでも消えぬ怒りがある。軽く唇を噛みしめると、かすかに頬を歪めて言った。

 

「……あの男は傲慢ですが、自分よりも優秀な人間には、奇妙な寛容を見せるのです。卑屈さゆえに、認めることで優位に立とうとするのか……。確かに、貴方の言うように、もし、那霧博士が生きて、研究を続けておられれば、あるいはあの男の長年の望みも叶ったかもしれませんね」

 

 普段の穏やかで柔らかな口調からは想像できぬほど、そのときの珠世の声は暗く、怨念に満ちていた。

 珠世の無惨への恨みの深さが伝わってきて、薫は無言で胸を押さえた。まるで刀で貫かれたかのように痛く、傷口を焼かれたかのように苦しい。

 こんな気持ちを抱えて、長い時を……人には長すぎる時を生きてきたのだと思うと、その先の見えない日々にゾッとなる。只人(ただびと)であれば、もはや狂って、太陽に()かれて灰と消える道を選んだだろう。だが、珠世がそうした辛苦(しんく)を背負いながら生きてきた理由もまた、この燃え尽きることのない憎悪なのだ。

 

「ほな、これでかねてからの鬼を人間に戻す薬も含めて、ますます研究も進みそうでんな」

 

 重苦しくなった空気を剥いだのは、またも宝耳の暢気(のんき)な声だった。

 しかし薫は宝耳の言ったその言葉に、すぐに反応した。

 

「『鬼を人間に戻す』? そんなことが可能なのですか?」

 

 思わず身を乗り出して珠世に詰め寄ると、「おい!」と愈史郎(ゆしろう)が声を荒げた。

 珠世は愈史郎を手で制すると、複雑な表情で薫を見つめた。

 

「……森野辺さん。貴女の望みはわかります。稀血によって、新たに享けた鬼の血はほとんど消滅しましたが、幼少時に享けた血は消えていない。これは貴女の成長と同時に、鬼の血が、極めてゆっくりと、貴女の細胞と混ざり合って変異したからです。既に単純な鬼の細胞でなくなっている。だから貴女は鬼にならなかったけれど、同時に私の作り出した鬼から人に戻す薬は、貴女には効きません。あれは鬼でないと(・・・・・)、効果がないのです」

 

 薫は一気に脱力した。

 (にわか)に期待して、あっという間に再び絶望の淵に戻ってきたかのようだった。

 鬼でなかったことに安堵したのが、今度は苛立ちに変わる。いっそ鬼となっていれば、珠世の薬で人間に戻れたのだろうか。つくづく中途半端な自分がもどかしい。

 珠世は憐れむように薫を見ていたが、フイと目を伏せると、静かに話を続けた。

 

「……貴女という人に来てもらったのは、貴女の血を調べるだけではありません。貴女は稀有な存在です。貴女の中にある『鬼の(タネ)』は、覚醒していない、いわば鬼となる前の原初の状態で固定されているがゆえに、あらゆる角度からの研究が可能なんです。だから……」

 

 そこまで言って、珠世はキュッと眉を寄せると口を噤んだ。

 

「珠世さん…?」

 

 薫が問いかけると、愈史郎がまるで珠世を守るかのようにズイと出張ってきて、冷たく言った。

 

「お前を呼んだのは、無惨を弱体化、出来うれば殺傷できる毒薬を開発するための実験体としてだ」

「あ……」

 

 薫はハッとなって、珠世を見た。

 柳眉(りゅうび)に寄せた皺に、苦々しい痛みがよぎる。数日一緒にいただけだったが、薫は珠世がとても繊細で、誠実な、温かい心の(かよ)った(ひと)だとわかっている。人を実験体として使うことなど、彼女の本来の優しい性格からすれば、相当に抵抗があるのだろう。それこそ愈史郎を人から鬼に変えたことも、彼女はいまだに自問自答しているのだから。

 

「やれやれ……」

 

 やり取りを見ていた宝耳が、またものんびりと割って入った。

 

「相変わらず身も蓋もない言いようやのぉ、愈史郎。珠世様はゆぅっくりと話してきかせようとしとったというのに」

 

 愈史郎はギロリと宝耳を睨みつけ、すぐさますげなく言い返す。

 

「お前に愈史郎などと呼ばれる覚えはない」

「そっちに覚えはなくとも、こっちは覚えとるから、そら名前で呼ぶわ。そやなかったら、なんや? 鬼の書生さんとでも呼ぼか?」

「……貴ッ様ァ」

 

 ここに来てから、宝耳は先程も言っていた那霧博士の資料を渡す用件などもあって、何度か訪ねてきていたが、愈史郎との仲は絶望的に悪かった。もっともこれはしのぶなどと違って、愈史郎が鬼であることに起因しているというよりも、ただただこの二人の相性の問題であるようだ。

 薫は愈史郎と宝耳の滑稽なやり取りに、少し心がほぐれた。

 にっこりと笑うと、さっき自分がしてもらったように、珠世の両手を取って、そっと包んだ。

 

「珠世様。大丈夫です。ある程度、宝耳さんからお話は伺っています。どうせ死のうとしていた身です。お役に立てることがあればと思って志願したのですから、今更、嫌だと駄々をこねる気はありません。ただ……」

 

 一度、言葉を切って深呼吸する。

 我儘だと知りながらも、捨てきれない……それは薫にとって、唯一といってもいい希望だった。

 

「ただ……もし、可能であるならば、皆と……鬼殺隊のみんなと一緒に戦いたいのです。今、こうして研究に(たずさ)わることも彼らの支援になっているとは思います。でも、やはり私は彼らと共に……」

 

 話しながら、これまで一緒に戦ってきた仲間の姿が思い浮かんで、薫はそれ以上言うことができなかった。

 秋子にも久々に会いたかった。翔太郎もきっと腕を磨いているだろう。升田(ますだ)や、信子など、今となっては古参になった懐かしい仲間。そこに加えて死んでしまった人たちの顔も浮かぶ。……

 珠世は震える薫の両手をそっと握り返した。

 

「確約はできません。与えられた時間がどれほどあるのかもわからないから……。でも、なるべく貴女の意志を尊重します」

「ッ……ありがとうございます!」

 

 薫はあわてて顔を見られないように頭を下げた。

 この前から、本当に情けないくらい、涙もろくなっている。しかもそれは、大概の場合、嬉しくて出てくるのだ……。

 

「さァ……いよいよ、大詰めかな」

 

 パン、パン、と宝耳がわざとらしく拍手する。

 

「お前が(まと)めるな」

 

 愈史郎がムッと睨みつけると、ぺろりと舌を出しておどけてみせた。

 

「ハ、さよで。では、ここでの用件も済んだようですから、ワイも別件のほうに行くことにしまっさ」

「……まだ、何かあるのですか?」

 

 薫はあわてて涙をこすって胡麻化し、宝耳に尋ねた。

 鬼がすっかり鳴りを潜めているこの状況において、もはや鬼を生け捕ることもない。

 どうやら無惨はこれを機会に鬼殺隊を一掃しようと考えているらしい……というのが、お館様の予知を含めた推測であった。

 そのため、今は鬼殺隊一丸となって来るべき決戦に備えて、いよいよ柱直々の稽古が始まると、惟親(これちか)から聞いている。今更、何かまだ調査する事柄があるというのだろうか?

 薫の疑問に、宝耳は苦笑して手を振った。

 

「いやいや。ま、懇意にしとる女性(にょしょう)からのお願いをまだ、叶えておりまへんのでな。そちらのほうに専念しようかと」

「あ、そうですか」

 

 薫は一気に冷めた顔になった。

 今、皆で無惨に向かっていこうと、珠世との協力も再確認していたというのに、まったく相変わらずフザけきった人だ。

 

「ハハ。こら、すっかり呆れられましたな」

「当たり前だ。とっとと帰れ」

 

 愈史郎も本来赤いはずの目を白くする勢いで、冷たく宝耳を睨みつける。宝耳はへぇへぇ、と肩をすくめて立ち上がると、おとなしく扉へと向かった。

 が、珠世が鋭く呼び止めた。

 

「伴屋様。その()は、まだ貴方にお願い(・・・)とやらを申しておりますのか?」

「………いや。最近はとんとお目にかかれておりませんのでな。でも、いずれ会うときに、手土産(・・・)でも持っていけば、喜んでくれるかもしれまへんやろ?」

「………それが、貴方の覚悟であるならば、止めることは致しません。けれど、その()はもはや必要としていないでしょう。もう、太陽を克服した鬼(ねずこさん)がいるのですからね」

 

 薫も愈史郎も当惑した。

 珠世と宝耳の間に流れるピリピリとした空気が、肌を刺してくるようだった。そのくせ宝耳の態度は、いつもながらのお気楽なものなのだ。

 

「そうでんな。ま、ただの余興ですわ。さほど心配されるようなことではおへん」

「………さようでございますか」

 

 珠世の言葉は丁寧であったが、丁寧である分、滲み出る不快感が露わだった。だが、その珠世の怒りを内包した返事にも、宝耳は笑顔で手を振る。

 

「ほな。しばしのお別れ。皆さん、せいぜいおきばりやす~」

 

 最後の最後に下手くそな京ことばを吐いて、宝耳は出て行った。

 

 

<つづく>

 




次回は明日2024.03.24.に更新します。


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第七章 宿願(五)

森野辺(もりのべ)くんが、見つかりました……」

 

 実弥(さねみ)(かおる)のことを知らされたのは、薫が珠世(たまよ)らの寓居(ぐうきょ)に身を寄せた翌日のことだった。教えたのは本部の取り纏め役であり、産屋敷(うぶやしき)家の執事でもある薩見(さつみ)惟親(これちか)である。 

 実弥はしばらく驚いて固まっていたが、次の瞬間には恐ろしい顔が、惟親の間近に迫っていた。

 

「どこだァ?」

 

 それこそ襟首を(ねじ)り切らんばかりの勢いで、脅すように問うてくる。

 惟親はゆっくりと背を反らして、実弥を両手で制した。

 

「お、落ち着いてください。風柱様」

「どこだッ()ってんだ。早く言え!」

「それは、その……言えません」

「ハァ?! フザけてんのかッ、テメェ!」

「フザけてなどいません。今はその……森野辺くんの体調も考えて、その……療養所……のようなところで、養生……しております」

 

 実弥はようやく冷静になると、一歩下がった。だが、ギロリと惟親を睨むように見る瞳は、まだまだ不満げだった。

 

「療養? 蝶屋敷か?」

「いっ、いいえ。蝶屋敷ではございません」

 

 惟親は即座に否定した。

 まさかその隣の洋館にいるとは思いもしないだろうが、隣接しているだけに、いつバレるかと思うと、落ち着かない。

 それでも風柱の凶悪……(もとい)、極めて強い視線から逃れることなく、惟親は必死でその赤く充血した目を見つめていた。

 

 薫が失踪したと聞いてから、忙しい任務の合間に、休息もろくに取らずに探し回っていたと聞いている。そのため一刻でも早く伝えようとは思っていたが、これからの計画のことを考えると、おいそれと薫の所在を告げるわけにもいかなかった。

 実弥が柱として非常に責任感が強いことは知っていても、こと薫に関して、冷静でいられないのは明らかだ。惟親でさえも今回の件における薫の処遇については悩ましいのに、これだけ薫のことを心配している彼に伝えるのは、相当な慎重さを要する。

 惟親がゴクリと唾を呑み込み、何から伝えようかと思案していると、急にフイと実弥のほうが目を伏せた。

 

「……容態は? 悪いのか?」

 

 暗い声で尋ねられて、惟親は一瞬、どういう意味かわからず押し黙った。すぐに返事しない惟親に、再び実弥の鋭い瞳が突き刺さる。

 

「悪いのかァ?!」

 

 一歩、にじり寄って問い詰められ、惟親はあわてて首をブンブン振った。

 

「いっ、いいえ! 至って、元気に過ごしております。大丈夫です。心配なさるような、ひどい状態ではありません」

 

 惟親としては、薫に実際に会っていて、確かに以前に比べるとやや痩せた気配はあったものの、変わりなく気丈で凛とした姿であったために、およそ病人としては考えていなかったのだ。だが、実弥からすれば『療養』と聞けば、体調を崩していると思っても無理ないことではあった。

 

「申し訳ございません。ご心配をおかけする言い方になりましたが、一応、念のために、身体についても詳しく調べたほうがよかろうということで、療養…施設に入ってもらっております」

「……で、どこにいる?」

 

 再び実弥が尋ねてくる。惟親は繰り返される質問に、そこはかとない疲労を感じつつ、同じように返答した。

 

「それについては……今は、申し上げられません」

「………」

「申し訳ございません。風柱様のご意向に逆らうことは本意ではございませんが、森野辺君の処遇については、お館様(やかたさま)のご判断も含まれております。どうかお察しいただきたい」

「……あんたも奴と同じか」

 

 実弥は深々と頭を下げる惟親に、吐き捨てるように言った。

 

「は?」

「野郎だよ。伴屋(ばんや)だか宝耳(ほうじ)だか知らねぇが…フザけた上方訛(かみがたなま)りの。アイツも二言目にゃ『お館様』だ。アンタら、勘違いしてんじゃねーのかァ? 俺はお館様本人には頭を下げるがなぁ、『お館様』を錦の御旗にしてブン回すような野郎共は、旗持ってる腕ごと斬り捨ててやりてぇぐらいなんだァ」

 

 いよいよ本来の風柱の凶悪な一睨みに、惟親の足元から頭まで一気に悪寒が這い上った。蒼い顔を強張らせて、それでも惟親がかろうじて冷静さを保てたのは、長年柱と呼ばれる人々と対面してきたという経験であったろう。

 

「お怒りはごもっともです。ただ、今はひとまず森野辺くんの今後の体調面も含めて管理するためにも、診察を受けてもらい……その後に、必ず対面していただく場を設けますので、どうか……ひとまずお待ちいただけませんでしょうか?」

「………わかった」

 

 気迫のこもった眼差しがふっと翳ると、実弥はボソリと言って、そのまま(きびす)を返して行ってしまった。

 惟親は拍子抜けすると同時に安堵もし、ひとまず深呼吸する。

 それから、一体いつ二人を会わせたがよかろうかと考えていたのだが ―――

 いよいよ柱稽古が始まり、薫のほうも本格的な実験に協力するようになると、それこそ会っている状況ではなくなってしまった。

 

 

◆◆◆

 

 

 珠世(たまよ)はやはり薫本人を実験体扱いすることに抵抗を感じていたようで、多くの試薬の実験はほとんど薫の血液を使って行われた。ただ、それでも避けようのないものについて、いくつかは薫も服用してその効果を確認した。薬の副作用なのか、日に何度も嘔吐したり、発熱したりと、相当に体力も消耗し、苦しんだが、薫が文句を言うことは一切なかった。なすすべなくさまよっていた日々を思えば、今は目的があるだけ、苦しみにも意味があると思える。

 しかもありがたいことに、愈史郎(ゆしろう)は相変わらず素っ気ないものの、薫の実験の結果については詳細に教えてくれた。自分が明確に役に立っていることがわかると、ただ寝ているだけでも無為な時間を過ごしているのではないと思える。そのことを珠世に言うと、うれしそうに微笑んだ。

 

「そうなんです。素直じゃないところもあるのですけど、あの子は……愈史郎は、人の心を温めてくれる子なんです」

 

 薫はその言葉に、愈史郎が一方的に珠世を慕っているのではなく、珠世もまた愈史郎に救われてきたのだと感じた。それこそ数百年にわたって、自らの身を呪いながら生きてきた珠世にとって、ようやくできた同胞ともいえる存在だ。ただ自らが作り上げたというだけではない、言葉に尽くせぬ思いがあるのだろう。

 一方で ―――

 

「無理に被検体になる必要はないんですよ」

 

 共同研究者である(むし)柱の胡蝶しのぶは、隣の蝶屋敷からやって来るたびに、薫にやきもきしたように言った。

 しのぶはお館様である耀哉(かがや)から薫の状態を聞き、珠世から提出された検査結果も見た上で、薫が極めて特殊な体になっていることは理解したものの、それでも納得がいっていないようだった。

 

「いくら鬼の(タネ)を持っているとはいえ、今の貴女は鬼になっているわけじゃないんです。(タネ)の萌芽を抑え込む薬を服用して、鬼に関わらないように生きれば、命を全うすることだってできるんです!」

 

 しのぶの少しきつい言い方の中ににじむ優しさを、薫はニッコリ笑って受け止めた。

 

「そんなことを仰言(おっしゃ)るしのぶさんだって、ご自身に鞭打つようなことをなさっておられるでしょう?」

 

 しのぶが鬼に自らの身を喰わせる覚悟で、藤から抽出した猛毒を日頃から服用していることは、薫もいくつかの試薬研究を手伝う中で知ったことだった。本当ならば、それこそ自分よりも年若いしのぶにそんな無茶なことはやめてほしかった。カナエがこの場にいたならば、絶対に妹にそんなことはさせなかっただろう。ただ、カナエが生きていれば、それこそ自らが猛毒を仰いで、鬼に喰らわせる方法を選んだであろうことも、容易に想像できた。それを咎めればどう言い返してくるかも……。

 

「私は……柱ですから!」

「…………」

 

 薫はその返答に苦笑するしかなかった。この姉妹は本当に考えることまでもそっくりになってきた……。

 

 

◆◆◆

 

 

 蟲柱である胡蝶しのぶとの共同研究は、思いの外、進んだようだった。

 ある日、珠世は最終的に薫に一つの薬を渡した。

 

「これはすぐに効果が現れるものではありません。今後、貴女(あなた)が鬼の影響を多く受けたとき、あるいは無惨によって鬼として覚醒させられたとき、いずれの場合にしろ、鬼の(タネ)が変化すると、即座に貴女の細胞のすべてを殺傷するものとなっています。実際に貴女がどのように変化するのかはわかりませんが、鬼として覚醒すると同時に、この薬は毒となって貴女を死に至らしめるでしょう」

 

 薫は珠世の差し出した瓶を手に取り、まじまじと見つめた。薄い赤の液体に、今まで殺してきた鬼たちの瞳の色が重なる。

 

「私……感じたことがあるんです」

 

 薫は吉野の百花(ひゃっか)屋敷を出たあと、各地を放浪していたときのことを思い出していた。

 鬼殺隊士となって五年近く。

 隊服を脱いでも自らに染みついていた鬼の残滓(ざんし)は、おぼろげに夢の中に現れては、薫に語りかけていた。

 

「鬼は……おそらく人間の気質を完全に失ってはいないのです。彼らは心の奥底では人間を求めています。鬼狩りに殺されることを求めているのです。そうでないと、自らが救われないことを知っているから……」

 

 その想念は、おそらくその鬼ですらも理解していない、無意識領域のものだった。

 人を恨み憎んで鬼となった者ですらも、多くはやはり善良なただの人間であったのだ。かつての同胞を殺し喰らうという鬼としての(さが)を忌み、自らの行動への嫌悪と悲哀の中で、終息が訪れることを祈っていた。

 

「太陽を恐れ、鬼狩りを恐れて、闇の中を生きる日々を楽しんでいる者など、ほとんどいませんでした。だからといって自ら死ぬこともできない。ドス黒く重い恐怖が、常に彼らから自由を……自らのことを考えることすらも、奪っていたからです」

 

 その恐怖は今や薫の中にすらもわずかに芽生えていた。これは理屈でどうこうできるようなものではない。動物が火を恐れるように本能的な、それでいてまるで神であるかのような、脅威的な畏怖だった。

 珠世は薫の話に痛ましそうに顔をゆがめた。おそらく今は無惨の(くびき)から離れたとはいえ、その根源的な恐怖感は今なお珠世にも残っているのだろう。組み合わせた手はわずかに震えていた。

 薫もまたギリッと唇をかみしめて、瞳を閉じた。すぅと深呼吸してから、瞼を開く。

 

「……私は鬼に両親を殺され、復讐のために鬼殺隊に入りました。それは今も変わりありません。でも今は、その時よりも強く思うんです。必ず無惨を殺す、と。鬼によって殺された人々のためだけではなく、彼によって不本意に鬼に堕とされた人のために。彼らを救うためにも、必ず、絶対に、無惨を討たねばならない」

 

 静かに、けれどふつふつとした怒りを抑え込んで、薫は宣言すると、瓶の蓋を取って一気に飲み下した。

 

「森野辺さん……」

 

 心配そうに見る珠世と目が合って、薫は思わずフフッと笑った。

 

「なんだ?」

 

 愈史郎が眉をひそめて尋ねてくる。

 

「いえ……思っていたよりも、甘くて美味しかったものですから」

 

 薫が薬の味について感想を述べると、珠世が目を丸くしてから、コロコロと優しい声で笑った。愈史郎もあきれたため息をつきながら、微笑を浮かべる。

 薫は空になった瓶を珠世の前に置いて、深々と頭を下げた。

 

「ありがとうございます。これで、心置きなく皆と一緒に戦えます」

 

 珠世は約束を守ってくれた。

 最後まで鬼殺隊の皆と一緒に戦いたいと言った薫の意志を汲んで、本当であれば作る予定もなかったであろうこの薬を作ってくれたのだろう。

 もし、薫が鬼となってしまったとき、薫にとって最も避けたいのは、今まで一緒に戦ってきた仲間を手にかけることだ。そんなことになったら、今こうして珠世たちを手伝って苦しい思いをしてきたことも、無意味になってしまう。だからこそ彼らに少しでも危難が及ぶことのないようにと、考えに考え、薫の気持ちを十分に(おもんぱか)った上で、作り上げてくれたのだろう。

 

「本当に……ありがとう……ございます……」

 

 薫は頭を上げられなかった。

 また涙が出てくる。また、嬉し涙だった。

 

 

◆◆◆

 

 

 その頃、伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)は蝶屋敷で療養中のある隊士を訪ねていた。

 先頃立て続けに上弦の鬼を三匹片付けたという手練(てだ)れ。鬼となった妹を連れて歩き、共に鬼相手に戦ってきたという、長い鬼殺隊の歴史の中でも異色の隊士。

 どんな偉丈夫であろうかと、宝耳は少しばかり楽しみにやって来たのだが、案内されて目に入ってきたのは、広い額に火傷痕の残る、まだまだ幼さを宿した少年隊士だった。 

 

「ほ……これはこれは意外」

 

 宝耳が思わずつぶやくと、その隊士は小首をかしげた。

 

「なんでしょうか?」

「あぁ、いやいや。失敬。貴方(あン)さんが竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)はんで良かったかな?」

「はい、そうです。僕が竈門炭治郎です」

 

 はきはきとした受け答えに、曇りのない透徹とした心が見える。

 宝耳は一瞬、眉をひそめた。

 自分の奥底から、何か懐かしい声が呼びかけてきたような気がしたからだ。だが――

 

「どうしました?」

 

 不思議そうに尋ねてくる炭治郎少年の、やや赤みがかった瞳に、あわてて笑みを浮かべた。

 

「あぁ、いやいや。貴方(あン)さんの瞳の色が、珍しいように思いましてな。さすがは代々炭焼きを生業(なりわい)にしとった家の子でんな。いわゆる赫灼(かくしゃく)の子、いうやつでんな」

「へぇ! よくご存知ですね。前にも鋼鐵塚(はがねづか)さんに同じことを言われたことがあります」

「鋼鐵塚? あぁ、あの腕はいいが偏屈の刀鍛治か……」

「ご存知なんですか?」

「知っとるけども、会わんようにしとります。なんぞ合いそうにない気がしましてな」

「そうですか? 時々困ったことする人ですけど、いい人ですよ」

「ハハハ。なんや、坊ンにかかると大抵の人間はいい人になりそうでんな」

 

 宝耳が軽く笑って言うと、炭治郎少年は微笑み返して尋ねてきた。

 

「それで、どうして僕の家が炭焼きを生業にしてたことをご存知なんですか?」

 

 宝耳はすっと笑みを引っ込めた。細くなった目が油断なく目の前の少年を見つめる。

 

「存外と……頭も回りはるようや」

「え?」

「いやいや。これはご挨拶もせずに失敬。初めまして、ワイは伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)と申します。一応、坊ンと同じ鬼殺隊士ですけど、もうオッサンですんで、最近ではめっきり実働よりも(かくし)みたいな裏方仕事をさせてもうてます」

「あ、じゃあ先輩ですね。初めまして、竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)と申します」

 

 炭治郎少年は律儀にベッドの上で正座になると、また名乗り、ぺこりと頭を下げた。

 宝耳はふっと笑った。ピリリと張り詰めた緊張感を途切れさせることのない、隙のない所作でありながら、真っ直ぐに自分を見つめてくる瞳は澄んでいて、好奇心を隠すこともない。

 

「上弦を続けざまに倒した希代の隊士や、ゆうことで前々から()ぅてみたいとは思とりましたんやけど、今回は偶然にも妙な巡り合わせで訪問することになりまして、療養中ですのに、すんまへんな」

「いえ。もうそろそろ復帰してもいいって言われてるんです。例の柱稽古、でしたっけ? 早くみんなと一緒にしたくって」

「ハハハ。坊ンなら明日からでも大丈夫そうでんな。そうなる前にと思うて、今日は来ましたんや。実は、聞きたいことがございましてな」

「はい。なんですか?」

「その前に確認しますけども、坊ンの家は雲取山で間違いおまへんな? そこで代々、炭焼き職人をしてきた、竈門家のご長男はん……いうことで」

「はい。そうです。本当によくご存知ですね」

「ハハハ。疑問に思うのも無理おへん。色々と紆余曲折あって、ワイもようやく坊ンにたどり着きましてな。元は坊ンのお祖父(じい)さん……ん? いや曾祖父(ひひじい)さんかな? ……そこは、ま、面倒やし、お祖父さんいうことにしときまひょか。坊ンのお祖父さんが、森野辺(もりのべ)子爵いう人の頼みで『青い彼岸花』を探すのを手伝ったようでしてな」

「あぁ……青い彼岸花ですか」

 

 炭治郎少年がすぐに頷いたのを見て、宝耳は軽く息をのんでから、笑みを崩さないように気をつけて、慎重に尋ねた。

 

「あ、やはりご存じでっか?」

「はい。何度か、母に連れられて見たことがあります」

「そうでっか~。あぁ、ほなやっぱり、雲取山に青い彼岸花はありますんやな」

 

 宝耳がはーっと安堵のため息をつくと、炭治郎少年がまた小首をかしげる。

 

「青い彼岸花がどうしたんですか?」

「探して回ってますねや。かれこれそうでんな……一年? いや、二年かな?」

「それはまた……随分と熱心に探されていたんですね。どうしてです?」

「どうして、って。そら、珍しい花ですやんか。坊ンかて、彼岸花いうたら、たいがい赤いのしか見たことおへんやろ?」

「まぁ、それはそうですけど」

 

 (いぶか)しげな炭治郎少年に、宝耳はハハハと照れくさそうに頭を掻いてみせた。

 

「いやぁ~。お恥ずかしい話、実は女からの頼まれごとでしてな」

「……女の人からの?」

「そうでんねん。ワイのコレがね……」

 

 話しながら宝耳はクイクイと小指を動かす。炭治郎はよく意味がわかっていないようだったが、黙って話の続きを聞いていた。

 

「……珍しモン好きの、ちょいとばかし酔狂な女ですねんけど、これが『青い彼岸花いう珍しい花があるらしいんやけど、見てみたいわ~』と、こう言うもんやからね。女の頼みを無下にもできまへんやんか」

「ああ! そういうことなんですね!」

 

 炭治郎は一拍おいてから、ポンと右手の拳で左の掌を打った。ようやく得心したらしい。だが、すぐに困ったような顔になる。

 

「でも……あの花って、なかなか咲かないんですよ。咲いても、すぐに(しぼ)んじゃって。花が咲いてないと、土筆(つくし)みたいで見つけにくいし」

「そのようでんな。さっき言うてた森野辺子爵も、坊ンのお祖父さんから(もろ)て帰りはったけど、花を咲かせるのは難しかったみたいですわ。ようやく一株だけ花が咲いたんやけど、それこそ土筆みたいになっとるときに、頓馬(とんま)な女中が抜いてしもうて、えろう残念にされとったいう話ですからな。ま、それはさておき。坊ン、それでその青い彼岸花のある場所、なんぞ目印になるようなモンでもありまへんか?」

「目印かぁ……うーん。近くにマテバシイの大きい木があったけど。あとは、石が重ねてある場所の周辺なんですけど……」

 

 宝耳は一生懸命に思いだそうとする炭治郎少年を注意深く見ながら、ポケットからあわてた様子で小さなノートとペンを取り出した。

 

「すんまへんけど……貴方(あン)さんの家からのわかりやすい地図とか、書いてもらえまへんやろか?」

 

 

<つづく> 

 




次回は2024.03.30更新予定です。


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第八章 柱稽古(一)

 珠世(たまよ)から薬をもらった(かおる)が、鬼殺隊に復帰できたのはそれから一週間ほど過ぎた頃のことだった。もうすでに柱稽古が始まっており、まず基礎体力向上のために元音柱・宇髄(うずい)天元(てんげん)のもとへ向かうと、薫を見るなり、飛びついてきたのは須磨(すま)だった。

 

「よかった~! いきなりいなくなっちゃって、どうしたのかと思ったよ~」

「すみません。ご心配をかけて」

 

 薫が謝っていると、()()()雛鶴(ひなづる)もやって来る。

 

「お元気になられたんですね」

 

 雛鶴の問いかけに、薫はニコリと微笑んだ。

 

「はい。でも、まだ完全じゃありませんから、皆さんに負けないように体力をつけないと」

「アンタならすぐに元に戻るさ」

 

 ポン、と()()()が励ますように肩を叩く。

 

「はい、頑張ります!」

 

 薫が力強く返事すると、杖をつきながらやって来た天元が、やや皮肉げな口調で話しかけてきた。

 

「あんまりお前にゃ頑張ってほしくねぇと……風柱あたりは思いそうだけどな」

 

 実弥(さねみ)のことを出されて、薫は少し気まずい顔になった。

 すぐに須磨が「そうだ!」と声を上げる。

 

「あのこっわい風柱と会った? 前に探しに来てたんだよ」

「え?」

 

 薫が聞き返すと、()()()が頷く。

 

「そうそう。もう血相変えてさぁ……ウチで薫を隠してるんじゃないのかっ、て。もし隠してたら、教えるわけないよねぇ」

「大変、心配されておられましたよ。兄弟子だと伺いましたが……ご連絡はされましたか?」

 

 雛鶴が気遣わしげに尋ねてくる。

 薫はどんどん実弥に申し訳なくなってきて、顔を伏せた。

 その姿を見て、天元がフッと笑う。

 

「まぁ、そのうちに会うんだろうさ。奴だって、稽古つけるんだからな。風柱の稽古に行くときには俺に教えろよ」

「え? どうしてですか?」

「見物。面白そうだからな」

「意味がわかりません。風柱様の稽古は普通の打合(うちあい)稽古と聞いています」

「フツーね。あれをフツーと言っていいのかどうか……。ま、とりあえず知らせろよ。お前相手にあの風柱がどうなっちまうのか、ミモノだからな」

 

 楽しげに言う天元を、薫は少し睨みつけたが、それくらいで怯むような相手でないのはわかりきっている。小さくため息をついてから、話を変えた。

 

「音柱様がご無事でよかったです。上弦の陸と激闘の末、勝利されたと聞いて……奥方様たちもご無事で本当になによりでした」

「あぁ、あれな。まぁ、俺にしちゃ無様な話さ。派手にやられちまったし、いいところはガキにもってかれちまった」

「そんなことはありません。音柱様の的確な指示と、援護あってのことと聞いています」

 

 天元は肩をすくめて三人の嫁と目を見合わせてから、ニヤッと笑って薫を見た。

 

「いやぁ~、本当はなぁ……あこそにはお前に潜入してもらおうかと思ってたんだぜ」

「えっ?」

「嫁もそうだが、遊郭なんだから女が行くのが一番目立たねぇだろう。生憎、ちょうどお前、吉野の方で休んでたもんだから、あきらめたけど……いや、ありゃあ今考えたら、お前に頼まなくてよかったな」

「それは……」

 

 薫は複雑だった。

 確かに天元が遊郭の鬼を探索して、退治していた頃の薫といえば、黒死牟(こくしぼう)の件で身体だけでなく、精神的にも不安定であったので、とてもではないが鬼狩りとしての仕事をこなすことはできなかったろう。そんな自分が歯痒くて情けない。

 だが天元の理由は薫が不調であったということではなかった。

 

「もし、お前なんか連れてったら、風柱(ヤロウ)黙ってなかったろうからな。知ったが最後、お前を揚屋(あげや)から掻っ攫っていって、俺は軽く数発は殴られてたろうな」

「そっ……! そんな……ことは」

 

 薫の顔がみるみるうちに赤くなる。

 須磨が「やだ、真っ赤っか」とおどけたように言い、まきを(・・・)は「やれやれお熱いねぇ」と肩をすくめ、雛鶴はクスクスと微笑んだ。

 

「いいんだよ。今回はあのカマボコどもに頼んだのが良かったんだからな」

「カマボコ?」

「そのうちお前も会うだろうさ。一人は額に火傷痕のある馬鹿で、一人はまっ黄っきの頭した馬鹿で、一人は猪の被り物した馬鹿だ」

「……馬鹿しか言ってないような気がするんですけど」

「あぁ? ホメてんだぜ、俺ゃ」

「そうですか。……そうですね」

 

 薫はつとめて冷静に返事した。そうだった。この音柱はいちいち素直じゃない人だった。馬鹿、と気軽に言えるほどに、彼らは天元の信頼を得ているのだろう。

 

「ま、ともかく……お前もここに来たからにゃ稽古だろ」

「はい!」

 

 薫はようやく本題となって、ピシリと背を伸ばした。「よろしくお願いします!」

 

 

◆◆◆

 

 

 天元のもとでの稽古は、徹底した走り込みであった。基礎的な体力、持久力の増強。これが十分でなければ、これからの稽古はもちろん、対無惨(むざん)になど立ち向かってゆけるわけがない。だが柱稽古と銘打つだけあって、その厳しさは、東洋一(とよいち)の下で修行していた当時を思い起こさせるに十分であった。

 天元から認可が下りるまでは、次の柱の元へ稽古に行くことはできない。天元の稽古が終わった後には、料理の用意をする雛鶴らの手伝いをすることもあった。

 

「薫ちゃ~んっ!」

 

 番重(ばんじゅう)*1におにぎりを詰め込んで運んでいた薫に、大声で呼びかけてきたのは三好(みよし)秋子(あきこ)だった。

 

「アコさん!」

 

 薫もうれしくて、愛称で呼びかける。少しよろけそうになって、あわてて床几(しょうぎ)の上に箱を置いて振り返った。

 相変わらず小柄だが、耳下でバッサリと切った髪と、おそらくその後にも鬼狩りとして生き残ってきたという自負がそうさせるのであろう。出会ったばかりの頃の、やや自信なさげな様子はすっかり消えて、キリッと立つ姿勢は熟達した女剣士そのものであった。

 

「元気になったんや! 久しぶりやなぁ」

 

 秋子は嬉しそうに薫の手を取って叫んだ。

 その声に後ろからついてきた升田(ますだ)があきれたように言った。

 

「っとに……あんだけ走った後だってのに、なんだってそんな元気が残ってんだ。お前は」

「うるさいわ! そんな疲れなんぞ吹っ飛ぶゆぅねん! アンタかて嬉しいくせして、素直に喜びぃや」

「はぁ……ま、よかったな。いや、いいのか? 今回のことじゃ、お館様も無理して参加する必要はないって言ってるんだぜ。無惨との最終決戦ってことで、逃げたい奴は逃げろってさ。アンタもこんなとこいつまでもいないで、安全なところに行ったほうがよかないか?」

 

 升田は無精髭を伸ばして、以前よりも顔の傷も増えて、ますますいかつい容貌にはなっていたが、こちらも中身はさほどに変わりないようだ。深刻な内容でも、どこか他人事のようにのんびりと問うてくる。

 

「まさか、そんなこと……」

 

 薫はゆるゆると首を振った。

 升田の言う通り、柱稽古が始まる前に、お館様からの通知として、鬼殺隊の面々にはここで隊士を辞めても咎めず、勤続年数等に応じた支度金を用意してくれることになっていた。しかし隊士たちの多くが親しい者を奪われたという復讐で入った者が多い上、無惨滅殺が鬼殺隊の宿願であることは、全員の共有認識となって久しい。この時点で隊士を辞めるのは、隊士となって日が浅く、高給目当ての者がほとんどだった。

 

「そんな奴ら、()るだけ邪魔やから、居無(いの)ぅなって清々(せいせい)したわ」

 

 秋子はおにぎりをパクつきながら話す。

 

「でも、秋子さんは……よろしいのですか?」

「なにが?」

「ご家族もいらっしゃいます。弟さんや妹さんたちも、待っているでしょう」

 

 秋子は元々、親兄弟を殺された復讐のために鬼殺隊に入隊していない。彼女は経済的な事情によって、遊郭に売られるよりはまだいいと、宝耳(ほうじ)の紹介で鬼殺隊に入ってきた。待っている家族がいるのならば、なにも危険な戦いに赴く必要はない。まして秋子のこれまでの経歴であれば、支度金は十分に用意してもらえるだろう。

 秋子はもぐもぐとおにぎりを一気に飲み込むと、ニカッと笑った。

 

「それな。ウチも図々しいよってにな、本部に交渉? いうやつ、してん」

「交渉?」

「辞めるやつに払える金があるんやったら、これから命賭けて戦う人間にも出して欲しいてな。これまで養ってきた家族が~言うて泣きついたら、けっこうガッポリもらえたで。それ渡しといた。ま、贅沢せんかったら、お母ちゃん死ぬまで十分にあるやろ。兄弟が多いから、任せられるしな!」

 

 あまりにさっぱりした表情で言う秋子に、薫は圧倒されつつ、彼女の覚悟に胸がしめつけられた。

 

「もう~、そないな顔するもんやないて。別にウチ、死ぬつもりやないねんで。しっかり生き残って、その時にも、またちゃっかり貰おうって思てんねんから」

「ホントにがめついやつ」

 

 升田があきれたように言いながら、豚汁を啜る。秋子はやかましわ、と言いながら、二つ目のおにぎりを頬張った。

 

「ほんで、薫ちゃんは手伝いしてんの?」

 

 尋ねられて、薫は首を振った。

 

「私も参加してます。秋子さんたちと一緒です」

「へっ?」

 

 秋子は思わずおにぎりを食べるのを止める。ほろりと口の端からごはんが零れたのを、あわてて拾ってから、ごくりと飲み下す。升田も豚汁を喉に詰まらせて、しばらく胸を叩いていた。

 

「嘘やろ!」

「本気か!?」

 

 二人から責められるように問われて、薫はポカンとなった。

 

「薫ちゃん、無理せんとってや。律歌(りつか)姐御(あねご)から聞いとるんやで。勝母(かつも)さんが()うなったときに対決した鬼に、相当やられたんやろ? 寝たきりで、もう剣も握られへんようになったって……」

「それは……一時はそうだったんですけど」

 

 薫は少し言い淀んでから、思いきったように立ち上がった。緊張した面差しで二人を見つめ、すぅと息を吸い込む。

 

「皆さんの足手まといにならないように頑張りますから、一緒に戦わせてください。お願いします!」

 

 いきなり頭を下げられて、秋子も升田もキョトンとしてから互いに目を見合わせた。

 

「いやぁ……」

 

 ボリボリともみあげを掻きながら、升田がぼそりとこぼす。

 

「俺はまぁ、アンタが決めたことにとやかく言うつもりはないんだけどよ。しかし……風柱様が許すかね?」

「え?」

 

 薫は顔を上げた。困り顔の升田の横で、秋子もうんうんと頷いている。 

 

「薫ちゃんの調子が良くないて聞いて、一回、風柱様に聞きに行ったことがあるんや。『なんか具合が悪いみたいですけど、なんぞ聞いてはらしませんかー?』て。そしたらあン人、もぅごっつぅ渋い顔して、しばらくは無理やからそっとしといてくれー言うてはって……」

「いや、俺なんか任務が一緒になったときに聞いたら『もし治ったとしても、戻らせるつもりはない』って言ってたんだぜ。だからもぅ、俺はてっきりアンタは鬼殺隊を辞めるか、裏方に回るのかと」

「そうですか……」

 

 薫はその話を聞いて、フッと笑みを浮かべた。

 以前の自分であれば、何を勝手に決めてくれているのかと怒っただろう。けれど、今は実弥の無骨な優しさが嬉しかった。自分のことを大事に思ってくれているのだと感じられて、胸に温かさが宿る。

 とはいえ ――― 。

 

「なにか勘違いされておられるみたいですね。今度、会ったときにしっかりお話ししておかないと」

 

 にっこり笑った薫を見て、秋子と升田はまた目を見合わせた。近日、風柱とその妹弟子による喧嘩が勃発するだろう。しかもその勝者がどちらになるかも、二人には予想できた。

 

 

 ―――― 風柱様も、大変だな……

 ―――― やれやれ、難儀なこっちゃで……

 

 

 久しぶりに会っても、相変わらず薫の頑固な性格を思い知って、升田は小さくため息をつき、秋子はカラカラと笑った。

 

 

<つづく>

 

*1
長方形の浅い箱




次回は明日2024.03.31.更新予定です。


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第八章 柱稽古(二)

 音柱・宇随(うずい)天元(てんげん)のもとで行われた走り込みの訓練をひとまず卒業すると、次には霞柱である時透(ときとう)無一郎(むいちろう)による高速移動の訓練であった。

 年下で、まだまだ幼さの残る顔つきながら、やはり柱。その剣技はひときわ抜きん出たものがある。

 実弥(さねみ)のような鋭さや速さとはまた違った意味で、緩慢でありながら目にも留まらぬ動作で技を繰り出す様は、まるで手品師のようでもあった。

 多くの隊士は無一郎の淡々とした態度に戦々恐々であったが、薫は特に彼を恐れることもなく、一週間ほどの修練の間に、霞の呼吸独特の緩やかでありながら、無駄のない重心移動などをつぶさに観察した。

 まるで能の舞のごとく、精緻でつきつめられた動作。それを可能にするだけの筋力。

 まだ十四歳そこらでしかないということが信じられないほど、彼の技術は熟練者の域に達していた。まるで研ぎ澄まされ、磨き抜かれた一振りの剣そのものだ。

 

「……いいでしょう、森野辺(もりのべ)さん。次に行ってください」

 

 淡々と稽古の終了を告げられ、薫は深々と頭を下げた。

 

「ありがとうございます。勉強させていただきました」

「森野辺さんは、風から派生した呼吸を使われると聞いてます」

「え? あ、はい。そうですが」

「一連の稽古が終わったら、もう一度自らの技を練り直したらいいと思います。たぶん、体の使い方が以前よりもずっとよくなっているはずですから」

 

 薫が無一郎を観察するように、無一郎も薫の動きを見ていたらしい。

 普段は無口で、稽古が終わって挨拶しても「……ん。はい」としか返ってこない彼が、初めて指導者らしいことを言ってくれたので、薫はニコリと笑った。

 

「はい。わかりました。覚えておきます」

「……素直ですね」

「えっ?」

「普通、たいがいの人は僕が年下ですから、あんまり言うこと聞こうとしないんです」

「年下であっても、霞柱様の実力を見くびるようなことはしません。有益な助言は素直に受け取ったほうが、私にとっても有難いですから」 

 

 薫が真面目に答えると、無一郎はニコッと笑って手を差し出してきた。

 

「頑張ってください」

 

 薫は頷いて微笑み返した。

 それまで無表情というか、ボンヤリとして何を考えているのかわからぬところのある霞柱であったが、その笑顔は年相応の少年の、屈託ないものだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 翌日。

 薫は甘露寺(かんろじ)蜜璃(みつり)の屋敷に向かった。久々に会った蜜璃は相変わらずだった。

 

「あーっ、薫さーんっ。待ってましたよーっ」

 

 顔を見せるなり、飛び跳ねるようにやって来る。

 

「ご無沙汰しております、恋柱様。いつぞやはご挨拶もなく、勝手にいなくなってしまって、本当にご迷惑を……」

「いいのいいのー。私こそ、薫さんの具合が悪いのわかってたのに、連れ回しちゃったりなんかして、申し訳ないことしたなと思ってたから。元気になって良かったー」

 

 心底ホッとしたように言う蜜璃に、薫は本当に申し訳なかった。

 あの頃。

 蜜璃と刀鍛治の里で再会した頃は、一番精神的に追い詰められていた。そのせいで、蜜璃に嫉妬までした。

 一つは同じ鬼殺隊士として、どんどん強くなって階級も上がってゆく仲間としての嫉妬。

 もう一つはちょうど同じ頃に刀鍛治の里を訪れた実弥と接する彼女の、親しげで気安い態度に、女として嫉妬した。

 今考えたら、どうかしているとしか思えないが、それくらいあの頃は追い込まれていたのだ。

 

 蜜璃はあれからたった一年の間に柱となり、しかも上弦の鬼を討った。とても比べるべくもない。

 もはや以前のような妬心(としん)は湧いてこなかった。蜜璃のような強さを手に入れることはできないかもしれないが、今は一緒に戦えることが嬉しい。

 

「よろしくお願い致します、恋柱様」

「やだー、改まっちゃって。でも、うん。それじゃよろしくお願いします」

 

 蜜璃は薫の前で恥じらいつつも、自らの役目を思い出したのか、あわててキリリと居住まいを正し、柱らしく訓練内容を述べる。

 蜜璃のもとでは、体の機能性を高める柔軟運動が主に行われた。

 その際にいわゆるバレリーナが着用するような、レオタードという服の着用を求められたが、あまりにも胸や尻の形が露わになり、とても修練に集中できそうにない。

 

「甘露寺……いえ、恋柱様。このレオタードというのは、必ず着ないといけないのでしょうか?」

 

 薫がおずおずと尋ねると、蜜璃はあっさりと否定した。

 

「ううん。隊服でもいいよ」

 

 薫以外にも女の隊士の多くはレオタードに不満があったのか、薫が許されたことを知ると我も我もと隊服で修練を受けることになった。反面、男の隊士たちのほうはレオタードのままだった。おそらく言えば蜜璃は男の隊士たちにも隊服での稽古を許したのだと思うが、誰も恋柱に話しかけられなかったらしい。

 

 柔軟については、薫は珠世の館にいるときから、日々のなまった体を引き締める意味もあって怠っていなかったので、あまり苦痛はなかった。

 女の隊士は基本的に戦闘において、膂力(りょりょく)力業(ちからわざ)では男には敵わないため、日頃から柔軟性と俊敏性に重きを置いた修練を行う。そのため、基本的に蜜璃の稽古において悲鳴を上げているのは男の隊士で、女隊士は平均的に三日から五日ほどで切り上げていった。

 薫も三日目には稽古終了を言い渡され、次の蛇柱の屋敷に向かう前に、蜜璃に呼ばれた。

 

「ねぇ、薫さん。その……風柱の不死川(しなずがわ)さんとはもう会った?」

「え? いえ……お忙しいでしょうし、いずれこのまま進んだら稽古をつけてもらうことになると思って」

「あっ、そっかー。確かにそうだ」

 

 蜜璃はポンと手を打ってから、パクッとパンケーキを一切れ食べる。

 今は蜜璃と二人でお茶の時間であった。

 蜜璃の屋敷は他の柱と違って、洋風と和風が混ざり合った瀟洒(しょうしゃ)な建物で、庭などの造作もどちらかというと西洋風であった。そのため蜜璃は頻繁に庭のテラスにテーブルを用意し、そこでお茶会を開いて、数名の隊士と歓談することがあった。

 恋柱の『地獄の柔軟』は多くの男隊士に悲鳴を上げさせたが、ここで饗されるおやつはひとときの憩いの時間として、つらい柱稽古の中での唯一の安らぎとなっていた。

 薫はローズティを飲みながら、その香りに目を細めた。

 今度、珠世の家に行くときに、この茶葉を持っていくといいかもしれない。珠世はほとんど飲食をしないが、紅茶だけは好むのだ。

 

「実弥……風柱様がなにか言ってこられましたか?」

 

 薫がパンケーキを切り分けながら尋ねると、蜜璃はアハハッとごまかすように笑った。

 

「あ、ううん。不死川さんはね、何も言ってきてないの。っていうか、私が聞こうとしたら、ホラ、音柱の宇随さんに止められちゃって」

「音柱様が?」

「うん。今は柱総掛かりで稽古してやってんだから、森野辺のことなんか言って、風柱を悩ませるなよ、って」

「……そうですね」

 

 天元の言う通りだった。

 今は実弥も風柱として隊士たちへの指導に専念せねばならない。そのことは薫も天元から言われていたので、あえて実弥に会いに行かなかったのだ。

 ただ、正直なところ、薫が柱稽古に参加していると知れば、実弥はすぐにでも飛んでくるのではないか……と、若干期待していたので、いまだに何も言ってこない実弥に、少し寂しい気持ちになっていたのは否めない。

 だが、その裏事情(からくり)はすぐに知れた。

 

「なんかね、音柱様が必死になって隠そうとしてるみたいなのよね」

「え?」

「不死川さんから、薫さんのこと。この前、わざわざ秋子さんとか、ほかの隊士達にも根回ししてたみたいで。ぜーったいに風柱には、薫さんが柱稽古に参加してることを教えるなーって」

「…………」

 

 薫は眉を寄せた。

 どうして天元がそんなことをするのか理解できない。

 首を傾げる薫に、蜜璃は少し声をひそめて言った。

 

「どうもね、音柱様、ちょっと企んでるみたい」

「え? たくらむ……って、なにを?」

「不死川さんが薫さんに久々に会って、吃驚(びっくり)するところを見たいんだって!」

 

 その話を聞いた途端に、前に天元に言われたことを思い出す。

 

 ―――― 風柱の稽古に行くときには俺に教えろよ……

 

 薫は眉間を押さえた。

 本当に、何を考えているんだろうか。あの人は。忙しいはずなのに、そんな馬鹿馬鹿しいことを……。

 あきれる薫に、蜜璃は無邪気に続ける。

 

「だから周辺には、絶対に薫さんのことを言うなって……えーと、カイコウレイ?」

「……箝口令(かんこうれい)ですか?」

「そうそう! カンコウレイっていうの、やってるの!」

「……そうですか」

 

 薫はニッコリと頷きながら、内心で天元に毒づいた。

 だとすれば実弥が来てくれない、などと拗ねていた自分が、随分と滑稽な話ではないか。

 すっかりあきれてため息をつく薫に、蜜璃がおずおずと尋ねてくる。

 

「やっぱり伝えたほうがいい? 薫さんも、会いたい……とか、思ってたり、する?」

「え……いえ、そんなことは……」

「我慢してるんだったら、協力するよ!」

 

 力いっぱい言われて、薫は呆気にとられた。

 しばらく蜜璃と見合ってから、ぷっと吹き出すと大笑いした。

 

「いえ。もう、どうせですから、私も実弥さんのびっくりした顔が見たいですし。お世話かけますけど、しばらく黙っていてください」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべて言うと、蜜璃がホッとしたように笑った。

 

「うん。薫さんなら伊黒(いぐろ)さんのところもすぐに突破できると思う。そしたら次だもんね!」

「そうですね……」

 

 頷いて実弥の顔を思い浮かべると、急に落ち着かなくなった。

 もうすぐ会えるとなった途端に、いざ会ったときに何を言うべきなのか、どう接すればいいのかわからない。そもそも、吉野で別れたときには二度と会わないつもりであったのだから。

 キュッと胸が痛む。

 薫はあわてて首をブンブン振り、実弥の姿を脳裏から追い出した。

 

「どうしたの? 大丈夫?」

 

 蜜璃が胸を押さえた薫を心配そうに見てくる。

 

「大丈夫です。ともかく今は、一つ一つの稽古に集中しないと」

 

 薫は自分に言い聞かせるように言ってから、残っていたパンケーキを平らげると蜜璃に稽古の礼を言って立ち上がった。

 

「あっ、そうだ。そういえば薫さんって、ピアノ弾けるんだって聞いたけど」

 

 別れ間際に、蜜璃がまた突拍子もないことを尋ねてくる。

 

「はい……少しは」

「じゃあ、落ち着いたら聞かせてね。私、ちょっと憧れてるの。ピアノを聴きながら、美味しいマドレーヌ食べて紅茶飲むの~」

「じゃあ、それまでにまた練習しておかないとですね」

 

 薫は微笑んで了承する。

 決して約束はできなかったが、このことをきっと忘れずにいようと思った。

 

 

◆◆◆

 

 

 翌日からは蛇柱・伊黒(いぐろ)小芭内(おばない)による太刀筋(たちすじ)矯正の稽古だった。

 迷路のような室内、場所によっては狭隘(きょうあい)になる空間で、蛇柱の変幻自在の剣に振り回されて一日目は終わった。

 

「無駄な動きが多い。二刀でやるならば、もっと刀を自在に扱えるようにしろ。突きのときに脇が開きすぎだ。隙をつかれる。動きで相手を攪乱(かくらん)させるなら、もっと素早く動け。筋力が足らん」

 

 終わったと同時に、息継ぎもせずに一気に注意点を並べ立てられる。薫はまだ息を切らしていたが、目の前の蛇柱はまったく平然としたものだった。普段は寡黙(かもく)で、おとなしそうに見えるが、やはり柱は柱。稽古も苛烈で、言葉も辛辣(しんらつ)だ。

 正直、蜜璃の稽古で多少、のんびりと弛緩(しかん)していた気持ちを見透かされたかのようだった。蛇柱の色の違う目は、そんな不思議な力が宿っているように見える。

 

「あ……ありが……」

 

 いつもであれば稽古終わりに礼を言う薫も、息を整えることができず、言葉が出てこない。

 そのまま蛇柱は背を向け、道場から出ようとして、ふと立ち止まると一言付け加えた。

 

「……柔軟性は甘露寺から聞いていた通り問題ない」

 

 恋柱と蛇柱が仲が良いという噂を思い出して、薫はハッとなった。きっと蜜璃から薫のことを聞き及んでいたのだろう。

 

「あ……ありがとうございます!」

 

 かろうじて姿が消える前に大声で礼を言う。

 その日の夜に早速、指摘された箇所について自分なりに修正を加えていく。

 蛇柱の訓練においては、徹底的に動きの無駄を()かれた。

 

「むやみ刀を交えようとするな。基本的に敵からの攻撃は()けろ。あくまでも()けろ。力勝負で鬼に(かな)うと思うな。いなして隙をつけ」

 

 どうしたって男の隊士に比べて膂力(りょりょく)のない女隊士には、基本的に鍔競り合いなどの力業(ちからわざ)は忌避された。蛇柱は女隊士にも容赦なかったが、そこの指導については厳密に区別していた。

 彼は各人の力量や癖に合わせて、もっとも有効な攻撃法を示してくれた。薫には二刀使いをするのであれば、それを活かした攻撃についての駄目出しが繰り返された。

 薫は以前から試行していた新たな鳥の呼吸の型についても、蛇柱の意見を聞いた。

 

「それだと風の呼吸の晴嵐(せいらん)風樹(ふうじゅ)と変わらない。しかも威力も低いし、攻撃範囲も狭い。新たな技としては、あまり意味がない。むしろそれくらいなら、不死川に直接教えを乞うて、晴嵐風樹を磨いたほうがマシだ」

 

 蛇柱は蜜璃と一緒にいるときには、ほとんど話をせず聞き役に回っているので、寡黙(かもく)(たち)かと思っていたが、いざ話すと存外忌憚(きたん)なく、厳しく、ズバズバ指摘してくる。

 薫はわりと長い間、その技については創意工夫を重ねてきていたので、ガッカリと肩を落とした。しかし返す言葉もない。実際のところ、薫自身もこれでは駄目だと思っていたからこそ相談したのもある。

 

「……その通りです。すみません。お忙しいところを」

 

 消沈する薫に、蛇柱は眉を寄せると、ボソリと言った。

 

「自分の呼吸の型があるだろう」

「え?」

「せっかく自分でつくった呼吸の型があるのだから、そこから工夫を重ねたほうがお前に合ったものができるだろう。もう時間もあまりないから、一から作ることを考えるよりは、今までのものをより極めるか、あるいは二つの技を組み合わせて練るか……」

「それは……そうですね……」

 

 薫は蛇柱からの提案に頷くと、先程までの暗い顔から一変して笑顔になった。

 

「ありがとうございます! 蛇柱様のご意見、参考にさせていただきます」

「……勝手にしろ」

 

 蛇柱は蜜璃以外にも、実弥と仲が良いと秋子らから聞いたことがある。ぶっきらぼうに言って去って行く後ろ姿に、なんとなく同類のにおいがした。

 

 

<つづく>

 




次回は2024.04.06.更新予定です。


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第八章 柱稽古(三)

 珠世(たまよ)らの館でいつもの薬をもらい、簡単な診察を受けた後、(かおる)は風柱の屋敷に向かった。

 いよいよだと思うと、多少緊張してくる。

 深呼吸を繰り返しながら、長い塀の横を歩いていると、門の前で少年が一人立ち尽くしていた。

 薫は立ち止まり、その少年を凝視した。

 懐かしい面影……。けれど、記憶に残る姿と比べると、彼はすっかり大きくなっていて、果たして自分の脳裏に思い浮かんでいる彼なのかどうか、確信が持てない。

 

「……玄弥(げんや)……くん?」

 

 おずおずと問いかけると、薫が近くまで来ていることに気付かなかったのか、少年はビクッ! と半歩飛び退(すさ)った。

 大きく開いた目が、まじまじと薫を見つめる。

 

「……え? まさか、あの……薫子(ゆきこ)お嬢……さま?」

 

 小さな声で問いかけられて、薫は一気に笑顔になった。

 

「玄弥くん! やっぱり、そうなの?!」

「え? え? なんで、なんで……ここに、薫子(ゆきこ)お嬢さまが?」

 

 玄弥はおろおろとうろたえたが、薫は頓着しない。すっかり大きくなった玄弥の両肩をポンポンと叩いたり、とさか頭をツンツンしたりしながら、しみじみ言った。

 

「大きくなったわねぇ。実弥(さねみ)さんより大きくなったんじゃない? 私なんてもう見上げちゃうわね」

 

 玄弥はまともに薫と目が合うと、顔を真っ赤にさせて、ドンと薫を押しやった。薫が思わずよろけると、すぐにハッとした様子で心配そうに見てくる。

 薫はニコリと微笑んで、一度気持ちを落ち着けた。

 

「ごめんなさい。嬉しくて……本当に玄弥くんがいる、って思ったら、嬉しくて……急に触ったりなんかして、失礼だったわね」

「あ……いや、そういうんじゃ……すみません」

「いいの、いいの。私が興奮し過ぎたわ。そうよね。玄弥くんも鬼殺隊に入っていたのよね」 

 

 以前には匡近(まさちか)からも聞いたことがあったし、最近では宝耳(ほうじ)からも話は聞いていた。いずれ会うだろうとは思っていたのに、実際にこうして会うと、驚く以上に嬉しくてたまらない。

 しかし玄弥のほうはというと、むしろ薫がここにいて鬼殺隊の隊服を着ていることこそ、理解不能であったのだろう。

 

()……って、まさか薫子(ゆきこ)お嬢さまも?」

「あ……そうそう。ご紹介が遅れました。私、今は薫子(ゆきこ)じゃないの。元々の名前を名乗ってて、森野辺(もりのべ)薫と言うのよ」

「森野辺……」

 

 玄弥がつぶやきかけたとき、鋭い声がまさしくその名を呼んだ。

 

「薫!?」

 

 背後から呼ばれて振り返ると、声のした位置から一足飛びにでも来たのか、実弥は真後ろに立っていた。強い力でグイッと両肩を掴まれる。驚きと、心配と、安堵と……色々な感情の入り混じった実弥の顔。ひどく動揺した様子に、薫はポカンとなってしまった。

 

「お前ッ……」

 

 実弥は怒鳴りかけたものの、パチパチと目をしばたかせて自分を見上げる薫に唇を噛みしめた。ゆっくりと息を吐いてから確認するように問うてくる。

 

「無事、か……?」

「…………はい」

 

 薫は小さく返事した。途端にホッと力が抜けて、実弥に寄りかかりそうになる。だが、すんでのところで、ここが風柱の屋敷前であることを思い出した。

 

「あ、あああ、あの! 玄弥くんが、来てます」

 

 あわてて実弥の胸を押しやろうとするが、また逃げるとでも思っているのか、実弥はガッチリ薫を掴んだまま離さない。その状態でギロリと玄弥を睨んだ。

 

「……テメェ、何しに来たァ?」

 

 唸るように問いかける。

 玄弥はサッと顔を伏せた。「ごめん、兄ちゃん」

 

「うるせぇ。とっとと失せろ。俺に弟なんかいねェ」

 

 薫はギョッとなった。昔の仲のいい二人の姿しか記憶にないので、今の実弥の発言がにわかに信じられない。だが玄弥はそんな兄に怒ることもなく、悄然(しょうぜん)として去って行く。

 

「玄弥くん!」

 

 呼びかけるが、玄弥は振り返らなかった。

 薫は実弥に激しく抗議した。

 

「実弥さん! どうしてあんなこと言うんですか!? 玄弥くんは実弥さんの弟ですよ。それに、今日だって柱稽古に来たのでしょう?」

「あいつには稽古なんぞつけねぇ」

「どうしてそんなこと……玄弥くんだって、鬼殺隊の隊士ですよ」

「辞めさせる」

「また、そんなこと言って!」

 

 薫が怒って睨み上げると、実弥はジロリと薫を見て眉を寄せた。

 

「お前……なんだァ、その服は」

「なにって、隊服ですが?」

「なんでそんな格好してやがる?」

「もちろん、柱稽古を受けるためです。今日からお世話になります、風柱様」

 

 薫が真面目くさった顔で言うと、ギロリと実弥は睨んで、吐き捨てるように言った。

 

「ふざけんな。お前は駄目だ」

「どうして? ちゃんとここまでの柱稽古は受けて来ました」

「関係ねぇ。お前はもう鬼殺隊を辞めたんだ」

「そんなこと言った覚えはありません!」

「鬼狩りはできねぇって、あの時言ったろうが」

 

 ふと吉野の河原で話していたときのことを思い出す。自らが鬼となった恐怖から逃げて、幼い精神状態になっていた薫が、ようやく自分を取り戻したとき。夕闇迫る川べりで、薫は確かに告げた。

 

 

 ―――― 私は、もう……鬼狩りはできません……

 

 

「それは……あのときは……ご迷惑をおかけしました……」

 

 過去の、自信を喪失した自分。忸怩(じくじ)たる気持ちに、薫は唇を噛みしめる。

 しかし……

 

「でも、今は……今度こそちゃんと……!」

 

 薫の訴えを、実弥は聞く気もないとばかりに途中で遮った。

 

「うるせぇ。玄弥にもお前にも、稽古はつけねぇ。とっとと吉野に戻れ」

「聞いてないんですか? 吉野の百花(ひゃっか)屋敷は閉鎖です。律歌(りつか)さんは今後はこちらの治療院で隊士の治療に当たられる予定です」

 

 珠世の館に寄寓(きぐう)するようになってから、律歌には明確な所在は告げぬものの、鎹鴉(かすがいからす)を通じて手紙のやり取りをしていた。いよいよ今後の戦いに備えて、前に開設した施薬(せやく)治療院で隊士らの健康管理を含めた全般について、律歌が取り仕切ることになったのだという。

 実弥もまたそのことについては耳にしていたのだろう。「あぁ……」と思い出したようにつぶやくと、にべなく言った。

 

「……じゃあ、房前(ふささき)のとこに行って手伝え」

「行きません! 私は今日、鬼殺隊士として、風柱様の訓練を受けにやって来たんです」

「だからしねぇ、っ()ってんだろ! とっとと失せろ!!」

「だったらいい加減、離してください!」

 

 薫が身をよじると、そこでようやく実弥はずっと薫の肩を掴んでいることに気付いたらしい。パッと手を離すなり、睨みつけてくる薫から半歩、退(さが)った。

 しばらく互いに睨み合って、先に目を逸らしたのは実弥だった。

 

「……俺は認めねェ」

 

 ボソリと言って立ち去る実弥の背に、薫は宣戦布告する。

 

「認めてもらうまで、あきらめませんから!」

 

 

◆◆◆

 

 

 ひとまず怒っている実弥のことは()いて、薫は玄弥を探した。

 去って行った道を歩いていくと、三つ辻の横にある少し大きな岩の上で、膝をかかえて座っている玄弥を見つけた。

 

「玄弥くん」

 

 声をかけると、弾かれたように玄弥が顔を上げる。

 薫を見て、また困惑した表情を浮かべる。

 

薫子(ゆきこ)お嬢さま、あの……大丈夫ですか?」

「え? なにが?」

「兄ちゃんと、喧嘩してたんじゃ……怒られてないですか?」

「あぁ。全然、気にしてないわ。あれくらい慣れてるもの」

「慣れてる?」

「えぇ。入る前からずーっと言われ続けてきたもの。『鬼殺隊に入るな』『お前なんか無理だ』。入ったら入ったで『とっとと()めろ』……もう耳に胼胝(たこ)よ」

 

 半ばあきれたように言う薫に、玄弥はますます戸惑った様子だった。

 薫はニコリと笑って、玄弥の横に座ると、自分が鬼殺隊に入った経緯(いきさつ)を話した。実弥の妹弟子になったことも。

 玄弥にとっては、華族のお嬢様である『薫子(ゆきこ)』しか知らなかったので、今の薫が鬼殺隊に入っているだけでなく、まさか自分よりも階級が上であるなど思いもしなかったのだろう。

 

「じゃあ、俺なんかよりずっと長い間、戦ってきたんですね」

「そうねぇ。この一年は、ほとんど実働していないけど。でも、玄弥くんよりは先輩よ。これでも」

「……呼吸の技が使えるなんて、すごいです」

 

 沈んだ口調で言う玄弥に、薫は言葉をかけられなかった。

 鬼殺隊にあって、呼吸の技が使えないなど、戦力にならないばかりか足を引っ張る存在だ。それでも隊士となるべく、とうとう鬼喰いという凄絶な方法まで選んだ玄弥の、必死の思いを無視することはできない。彼もまた、兄と同じく母を亡くし、弟妹を失った。どうして復讐の道を選ばずにいられるだろうか。まして兄だけに、その重荷を背負わせることなど、絶対にできなかったのだろう。二人は、本当に仲の良い兄弟だったのだから。

 薫はポンと玄弥の肩を叩いた。

 

「正直、実弥さんの言うこともわかるわ。私に対してすらも、ああして口うるさいんだから。まして玄弥くんに対しては尚のこと……。冷たくもなるでしょうね」

「兄ちゃんが冷たいのは仕方ないんです。俺、あの時にひどいこと言ったから……」

「ひどいこと?」

「兄ちゃんに『人殺し』って……」

「…………」

 

 薫は口を噤んだ。ふと、思い出す。誰もいなくなった不死川(しなずがわ)家を訪れたときに、出会った乞食がつぶやいていた言葉。

 

 

 ―――― 母ちゃん、母ちゃん……ガキが何度も叫んで……死体がボロボロ崩れてったァ……

 

 

「あの日……みんなが鬼に殺されて、朝になったら母ちゃんが死んでて……俺、俺、混乱して訳がわからなかった。ただ、母ちゃんは殺されてて、朝日の中でボロボロになって消えて……兄ちゃんは血まみれで……」

 

 

 ―――― なんで母ちゃんを殺したんだよ! 人殺し! 人殺しィー!!

 

 

 玄弥は頭を抱えて、膝の間に顔を埋めた。

 

「俺が悪かったんだ。兄ちゃんは、俺たちを……俺を守ろうとしてくれてたのに、俺は……俺は……兄ちゃんを悪者にして――!」

 

 うぐっ、とうめいて玄弥は肩を震わせた。必死にこらえた嗚咽(おえつ)が切れ切れにもれる。

 薫は玄弥の隣で、暗い顔でうつむくしかなかった。

 きっとその日、実弥は世界を失ったのだろう。母親と、きょうだいたちと作り上げてきた、温かな家庭。笑い声の絶えなかった日常。鬼となり、殺され、朝日の中で消えていく志津(はは)を見送り、弟の悲鳴を聞きながら、自らの幸せを封印したに違いない。

 

「ねぇ、玄弥くん」

 

 薫はそっと玄弥の背を撫でて、呼びかけた。

 

「どうして実弥さんが、私にしつこく鬼殺隊を()めろって言ってくるのだと思う?」

「それは……」

 

 玄弥は少し恥ずかしいのか、頬の涙をこすりながら、そっぽを向いて答える。

 

「心配してるんだと思います。薫子(ゆきこ)お嬢さまみたいな人が、こんなとこいたら、そりゃ……はやく辞めろって言うに決まってます。俺だって……そう思います」

「あら、二人して私を辞めさせようとするのね」

「それは……だって、薫子(ゆきこ)お嬢さまだったら、もっと安全な場所で、普通に生きていられるじゃないですか」

「さっきも言ったでしょう。私も両親を殺されたのよ」

「そうかもしれないですけど! でも、薫子(ゆきこ)お嬢さまに、戦うなんてしてほしくないんです!!」

 

 玄弥は半ば怒ったように叫んでから、ハッと我に返る。すぐに反省して、申し訳なさそうな顔になる玄弥に、薫は微笑みかけた。

 

「ありがとう」

 

 心から感謝する。この二人の不器用な兄弟に。

 

「そうやって玄弥くんが私のことを心配してくれるように、実弥さんも心配してくれているのよね。……他人の私にすらも、そうやって親身になって、本気で怒ってくれるくらいですもの。玄弥くんのことを……たった一人残った肉親であるあなたを、誰より大事に思わないわけがないわ」

 

 薫は真っ直ぐに玄弥を見つめ、断言した。だが玄弥はこれまでにも、よっぽど冷たく、けんもほろろに実弥に拒絶されてきたのだろう。容易には信じられぬようだった。

 

「でも、今回の稽古も追い出されたし。俺の鬼喰いのことも……ものすごく怒って……」

「それは当たり前よ。大事な弟が、そんな危ない真似をして怒らないわけがないでしょう」

 

 薫もそこについては実弥に完全に同意する。玄弥の切羽詰まった選択を尊重はしても、やはり感情としては、一度はきっちり怒りたくもなる。

 

「今更、グチグチ言うつもりはないけど、ちゃんと定期的に蟲柱様の診察を受けて、少しでもおかしいと思ったらすぐに言うのよ。鬼との戦い以外では、無理しないこと。最低限、それだけはちゃんと守ってね」

「…………はい」

 

 玄弥は薫の勢いに圧されるように、頷いた。

 

「じゃ、行こっか」

 

 薫は岩の上から降りると、玄弥を誘う。

 

「どこに?」

「もちろん、風柱様のお屋敷よ。稽古、つけてもらわないと」

「俺……駄目なんです。本部から、兄ちゃんと接触禁止令が出てて」

「えぇ? そんなことになってるの?」

 

 薫は驚いた。本部までが口を出すとは、なんとも盛大な兄弟ゲンカになっていることだ。それだけが理由ではないかもしれないが。

 

「……そう。じゃあ、ここでお別れね。玄弥くんは次の岩柱様の稽古に行くの?」

「あ、はい。あの、でも……薫子(ゆきこ)お嬢さんも、たぶん断られるんじゃ……」

「断られたわよ、さっき」

「え? じゃあ、無理なんじゃ……」

「あれくらいで尻尾巻いて逃げ出すわけないじゃない。私、これでけっこうしぶといの。あきらめも悪いし」

「はぁ……」

 

 玄弥は呆気にとられたように薫を見た。ずっと玄弥の中にあった『薫子(ゆきこ)お嬢様』の面影を残しながら、ずっと図太く、快活になった今の薫がまぶしく映る。

 

「じゃあ、またいずれ」

 

 ヒラリとマントを翻して去って行こうとする薫に、玄弥はあわてて呼びかけた。

 

「あの、薫子(ゆきこ)……じゃなくて、薫さん!」

 

 薫が振り返ると、玄弥はギュッと拳を握りしめ、思いきったように叫ぶ。

 

「他人じゃないから! 俺も、兄ちゃんも、薫さんのこと家族と一緒だって思ってるから!!」

 

 薫はしばし固まった。

 その言葉がゆっくりと胸に沁みていくと同時に、泣きそうになるのをこらえねばならなかった。

 

「ありがとう……!」

 

 満面の笑みで手を振る薫に、玄弥は少しだけ恥ずかしそうにしながらも、小さく手を振り返した。

 

 

<つづく>

 




次回は明日2024.04.07.更新予定です。


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第八章 柱稽古(四)

 玄弥(げんや)と別れて、再び実弥(さねみ)の待つ屋敷へと戻ると、門の前で(まもる)が立っていた。

 

「あっ、(かおる)さん!」

 

 薫の姿を見つけるなり、タタッと走ってくる。

 

「守くん。久しぶり」

「よかったです。本当に……本当に、無事で良かった」

 

 守は泣きそうな顔で言って、安堵の長い吐息をつく。薫は心底申し訳なくなった。こんな少年にまで心配させていた自分が情けない。

 

「ごめんなさいね、心配をかけて」

 

 薫が謝ると、守はぷるぷる首を振ってから、軽いため息をもらした。

 

「俺なんか……風柱様に比べたら、全然なにもできなかったです。本当に心配されていたんですよ。任務の前にも後にもあちこち行って、人捜しなんて慣れないことして……いっときは、おはぎだって食べないくらいだったんですから」

「それは……大変……ね」

 

 薫は今更になって、実弥に相当の負担をかけていたことに思い至った。

 心配をかけているのはわかっていたのに、何が驚かせよう、だ。天元のせいになどできない。珠世の薬で、皆と一緒に戦えることが嬉しくて、すっかり浮かれきっていた。ずっと実弥は薫の無事を気にかけてくれていたのに。

 

「あの……」

 

 守がひどく言いにくそうに、薫に囁いた。

 

「風柱様に言われてて。薫さんを中に入れるなって」

「…………そう」

「怒ってるんじゃないですから。あの、薫さんの体調を気遣ってて……だから、悪く思わないでください」

「わかってるわ。ありがとう、守くん。ごめんなさいね、いろいろと面倒をかけます」

 

 ぺこりと薫が頭を下げると、守は恐縮したように手をぶんぶん振った。

 

「いや、俺は皆さんの手伝いくらいしかできないから。手伝いって言っても、洗濯したり、ご飯つくったりくらいだけど」

「まぁ、大変でしょう。守くんはとても器用だから、なんでも出来ちゃうんでしょうけど……無理はしないようにね」

「大丈夫ですよ。さすがにたくさんの人の分の用意しないといけないんで、隠の人とか、隊士の中でも料理好きの人とかに手伝ってもらってます」

「そう」

 

 薫はにこりと笑ってから、門の向こうへと目を向けた。チラホラと隊士の姿が見える。以前訪れたときには、ひっそりと静まりかえった屋敷だったのに。

 

「とりあえず、今日のところは帰るわ。実弥さんに話を聞いてもらえるように、なんとか考えてみるわね」

 

 薫は笑って言ったものの、ここに向かっている間の高揚感はすっかりなくなっていた。

 しょんぼりと寂しげに去ろうとする薫に、守が思わず声をかける。

 

「あの! よければ、薫さんも手伝ってもらっていいですか?」

「……え?」

「あ、あの……風柱様って、なんでも食べるんですけど、玉子焼きにちょっとこだわりがあるみたいで」

「玉子焼き? おはぎじゃなくて?」

「おはぎは、まぁ、いつも行ってる店のものを出しておけば、だいたい問題ないんですけど、おはぎばっか食べておくわけにもいかないじゃないですか」

「それはそうね」

「だから普通のごはんのときに玉子焼きをつけたら、三度目くらいに『玉子焼きはいらん』って言われてしまって。お嫌いでしたか? って聞いたら、そうじゃないけど、味がなんか合わないって」

 

 薫は少しだけ考えた。何となく思い当たることがある。

 実弥の母の志津(しづ)は、わりとおっちょこちょいで、よくドジをしたが、一つだけ特技があった。それは卵料理だ。志津の実家は、その頃には珍しい養鶏業を営んでいたらしく、小さい頃から卵を使った料理に親しんでいたらしい。薫も志津に作ってもらった卵料理をよく食べたし、一緒に厨房で教えてもらって、作ったりしたものだ。

 

「じゃあ……でも、いいの? 私を入れるなって言われているんでしょう?」

「それは、薫さんが柱稽古をしに来るのは止めろってことで、お料理の手伝いは僕がお願いしたことですから」

 

 守はへへっと悪戯(いたずら)っぽく笑う。

 薫も微笑んだ。存外、守は実弥とうまくやっているようだ。

 最初は実弥が風柱ということで畏怖して、遠慮がちであったが、一緒に暮らしている間に、見た目は凶暴な風柱が、存外優しくて不器用な性格であることがわかっていったのだろう。

 厨房に入ると、数人の(かくし)が忙しく動き回っていた。稽古が終わって、ひとっ風呂浴びた隊士が、わらわらとやって来ては、料理の並べられたお膳を一人一人持って行く。

 ちなみに稽古中、風柱の屋敷に起居するのは男の隊士だけで、女の隊士は基本的に急遽改修した空き家にて暮らし、各柱の稽古に向かうことになっていた。なので今ここにいるのは、男隊士がほとんどであった。

 

「薫さん、こっち。こっちでお願いします」

 

 守が台所の隅にまで連れてきて、置いてある素焼きの焜炉(こんろ)を示した。上に銅板作りの玉子焼き鍋が乗っている。卵、それを入れて混ぜる大きめの丼、菜箸、あとは調味料をいくつか置いて、

 

「こんなものでしょうか?」

 

と、守が尋ねてくる。薫はひとしきり準備してくれたものを見てから、一つだけ頼んだ。

 

「みりんはあるかしら?」

「はい。もちろん」

 

 用意してもらうと、薫は昔、志津に教わったことを辿りながら、作っていく。使い込まれたらしい銅の玉子焼き鍋は、卵が貼り付くこともなく、思った通りに焼けた。守がちゃんと道具の手入れをしているのだろう。

 

「守くん、できたわよ」

 

 薫が出来上がった玉子焼きを皿に乗せて運んでくると、守は受け取ってお膳の上に置き、その膳を薫にはい、と渡してくる。

 

「え?」

「僕、忙しいので。すみませんけど、これ風柱様のところに持っていってください」

「…………」

 

 薫は一瞬、呆気にとられた。守がまさか、こんな用意周到に事を進めると思っていなかったのだ。

 守はニコリと笑って言った。

 

「仲直りしてくださいね」

 

 やんわり釘をさされてしまった。どうやら先程の実弥との喧嘩を見られたか、誰かから聞きつけたのだろう。

 薫は恥ずかしいやら、おかしいやらで、軽く肩をすくめると恭しくお膳を受け取った。

 

「はい。肝に銘じます」

 

 お膳を持っていくように言われたのは、賑やかな道場近くの棟と反対側。前に薫も訪れたことのある客間だった。

 縁側に面した障子戸は開け放されている。

 薫は部屋に入る手前で腰を下ろし、一度膳を置いた。

 

「お食事、お持ちしました」

「あぁ、そこ置いて……」

 

 ちょうど何かの書き付けを読んでいたらしい実弥は、振り返ってそこにいるのが薫とわかると固まった。

 

「失礼致します」

 

 薫は硬直した実弥に構わず、部屋の中に入ると、指示された場所にお膳を置く。それから、少し離れた場所に端座(たんざ)した。

 

「……なんの真似だ?」

「とりあえず、食べられてはいかがですか? お味噌汁が冷める前に」

「入って来させるなと、守に言ったはずだ」

「えぇ、守くんはちゃんと言いつけ通りにしました。私が頼んで、入れてもらったんです。稽古じゃなくて、夕餉のお手伝いですから、いいでしょう?」

「…………」

 

 実弥はむぅと眉を寄せたまま、薫を睨みつけたあとに、チラと膳の上の並べられた料理を見た。

 すかさず薫は言った。

 

「玉子焼き、作ってみたんです。お口に合うといいんですけど」

「……そんなことで俺が許すとでも思ってんのかァ?」

「そんなつもりはないですよ。ともかく召し上がってみてください。一応、昔、志津さんに教わった通りに作ってみたんです」

「お袋に? お前が? なんで?」

「志津さん、卵料理が得意だったじゃないですか。私も好きだったから、教えてもらったんです」

 

 実弥はお膳の上の玉子焼きをにらむように見つめると、チッと軽く舌打ちしてからドスリと膳の前に腰を下ろした。

 黒い塗り箸を手に取ると、むっすりした顔で玉子焼きを一口食べる。もぐもぐと食べていると、表情がわずかに動いた。

 

「上手くできてますか?」

 

 おずおずと薫は尋ねた。

 実弥は眉を寄せたまま、低くかすかに「あぁ」と返事する。

 相変わらずの素っ気なさであったが、薫は嬉しくて、思わず志津に教えてもらった玉子焼きの調理法をペラペラと話し出した。

 

「私もその玉子焼き大好きで、教えてもらったんです。志津さんの玉子焼きの甘味付けは、砂糖じゃなくて、煮切りみりんなんですよね。だからほのかに甘くて香ばしくて。ただ、すぐに焦げるから手早くしないといけないって……」

 

 実弥は話を聞いている途中に、また玉子焼きを一切れ口に放り込んだ。黙って咀嚼(そしゃく)しながら、ジロと薫を見て目が合うと、さっと()らしてご飯を頬張った。

 

「志津さんが卵料理得意だった理由、知ってますか?」

 

 薫が尋ねると、実弥は一瞬考えるかのように止まった。だがすぐに、味噌汁をずずっと啜る。

 無言をつらぬく実弥に、薫は話を続けた。

 

「旦那様がお好きでいらしたらしいですよ。だから志津さん、わざわざお料理屋さんに手伝いで入って、そこで教えてもらったりして、いっぱい練習したんだって言ってました」

 

 カタン、と実弥は飲み干した味噌汁椀を置いた。虫唾の走ったような剣呑たる表情になっている。

 

「……俺の前であの野郎の話をすんなァ」

 

 実弥にとって父親はロクデナシの、いまだに嫌悪の対象であった。

 薫はふと笑みを消してうつむいた。余計なことを話してしまったと、後悔する。

 

「すみません。失礼します」

 

 頭を下げて出て行こうとすると、実弥が呼び止めた。「待て」

 薫が振り返ると、眉間に深く皺を寄せたまま、軽く息をつく。

 

「……あの?」

「言いたいことがあるんだろうが。とっとと言え」

 

 ぶっきらぼうな言いようであったが、その科白(せりふ)に薫は少し驚いた。正直、問答無用で追い出されても文句は言えないと思って来たのだ。

 薫はまじまじと実弥を見つめた。粗暴に見えて、元々誠実で真面目な人だ。柱という責任を担うようになって、多少、心境の変化もあったのかもしれない。

 

「ありがとうございます」

 

 薫は再び向き直って、居住まいを正すと、深く頭を下げた。

 

「どうか稽古に参加させてください」

「…………体の具合は?」

「大丈夫です。一応、定期的に蟲柱様をはじめとする方々に()てもらっていますし、もし、なにか問題があれば、すぐにも……皆様に迷惑をかける前に、稽古は中断するようにします」

 

 薫は素直に話した。

 実際、珠世の薬は定期的に服用して、経過を観察する必要があった。それにしのぶにも「くれぐれも無理は禁物」と何度も念押しされている。

 薫はもう一度、頭を下げた。

 

「本当に、この数ヶ月の間、すみませんでした。柱としてお忙しい実弥さんに無理をさせて、心配もさせて……」

「一回だけだ」

 

 それ以上、謝罪を聞きたくなかったのか、実弥は遮るように言った。

 薫が目を丸くして見つめていると、ギッと睨みつけて繰り返す。

 

「お前には一度しか稽古はつけねぇ。それで十分だ」

「……え、あ、は……はい」

「わかったら、今日はとっとと帰れ。こんな野郎どもばっかのとこに、いつまでもいるんじゃねぇ」

 

 急に、今更めいたことを言い出す実弥に、薫は首をかしげた。

 

「どうして急にそんなこと……? 気にしていませんよ、私」

「俺は……!」

 

 言いかけて実弥はさっと目を逸らす。「はい?」と薫が尋ねると、いつも通り怒鳴りつけてきた。

 

「いいから、早く帰れ! さもねぇと、さっき言ったこと取り消すぞ」

 

 薫はあわてて頭を下げて礼を言うと、その場から立ち去った。

 廊下で守に会って、どうにか稽古をつけてもらえるようになったことを伝える。

 

「よかったです。仲直りできたみたいで」

 

 屈託なく言う守に、薫は曖昧に笑った。

 

「うん。そうね……たぶん」

「どうしたんですか?」

「また、最後に怒らせてしまって。よくわからないけど」

「あぁ」

 

 守は実は途中から廊下で話を聞いていたので、すぐにクスッと笑った。

 

「心配なんですよ、たぶん」

「心配?」

「薫さんにほかの男が ――― 」

 

 言いかけた言葉は、実弥の拳骨で遮られた。

 いつの間にか、きれいに食事を平らげた膳を持って実弥が立っている。

 

「余計なことを抜かすなァ」

 

 凄味(すごみ)をきかせて言うものの、守も負けてなかった。殴られた頭をさすりつつ、お膳を受け取って言い返す。

 

「そうやって怖い顔してたら、まーたヘンに勘違いされちゃいますからね!」

 

 言い逃げとばかりに、守はお膳をかかえて小走りに去って行く。実弥は振り上げた拳の行き場をなくして、チッと舌打ちして下ろした。

 薫はクスクス笑って言った。

 

「守くんは、よくわかっていますね」

「なにが……口減らずなガキだ」

「嫌いじゃないでしょう?」

「……早く帰れ」

「はい。玉子焼きも食べていただけたので、今日は満足して眠れます」

 

 薫はまた頭を下げて立ち去ろうとしたが、実弥がボソリと問うてきた。

 

「……お袋はお前に話してたのか? あの野郎のこと」

 

 薫はハッとして実弥を見上げる。

 その顔は暗く、どこか傷ついているようにも見えた。

 

「そんなには……聞いていません。ただ、昔、優しかった頃のことは、時々話していらっしゃいました。そのときだけは楽しそうに……」

 

 薫は志津の夫に会ったことはない。だが、志津に対して暴力を振るっているらしいことは、周囲の使用人の話から聞いていたので、正直、大嫌いだった。

 けれど志津が時々、昔話としてその男のことを語るとき、ひどく幸せそうで、とても愛しそうだった。

 その夫が死んだと聞いたときには、思わず「よかったね」と言ってしまったのだが、それこそ子供っぽい同情だった。

 志津は困ったように微笑んだあとに、哀しい顔になって「そんなこと、言わんでください……」とか細い声で言って、泣いた。

 薫はすっかりあわてて、慰めようとして訳がわからず、結局、一緒になって泣いてしまった。かえって志津が驚いて、慰めてくれたものだ。……

 薫は寂しげにうつむく実弥に言った。

 

「夫婦のことは、わからないそうです」

 

 ピクリと実弥の眉が動く。薫は淡く微笑んだ。

 

「私も、父に言われたことですけど。家族でも、両親の間のことは、子供には理解できないことがあるものですね……」

 

 それは薫自身も、実父母のことなどいまだに理解できぬし、したくないという気持ちがあるからだ。おそらく自分の両親の男女間のことなど、子供は永遠に理解したくないのかもしれない。

 

「それでは、失礼致します」

 

 薫は軽くお辞儀して、その場を去った。

 残された実弥は、障子戸によりかかって、しばらく宵闇の空を見るともなしに見ていた。

 

 

<つづく>

 




次回は2024.04.13.更新予定です。


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第八章 柱稽古(五)

「まったく不死川(しなずがわ)さんも容赦ない……」

 

 しのぶはプリプリ怒りながら、(かおる)の腕や足にできた打ち身に膏薬(こうやく)を塗りつける。

 

「これでもマシなほうですよ。手加減されていたのだと思います」

「そんなこと言って、打合が終わったあとに盛大に吐いたって聞いてます」

「それは私だけじゃなく、皆さんそうですよ」

 

 薫は苦笑して言った。

 ようやく実弥(さねみ)から許可をもらった次の日に、薫は早速、打合稽古に(おもむ)いたのであるが、これがこれまでの稽古における総集編とも言うべきようなものだった。

 体力、持久力、柔軟性、素早い身のこなしと、無駄のない所作。それらを総動員して風柱に挑む。

 終わりのない打合は、風柱が待ったをかけるまでと言われたが、たいがいにおいては挑戦者である隊士が、さんざんに打ち据えられて反吐(へど)を吐いて終わるか、立つ気力もなくなって白目を剥いて倒れて終わった。

 薫の場合、なんとかやり合ったものの、長すぎるその稽古にとうとう身体が耐えきれず、庭の隅で嘔吐してしまい終了を告げられた。

 

「本当は、もう一番、お願いしたかったんですけど」

「冗談でしょう。十分です」

 

 しのぶはピシャリと言って、膏薬をぬった箇所に包帯を巻いていく。言葉は昔と変わらず厳しいが、それも心配の裏返しである。普段の蟲柱は亡き花柱同様に穏やかで優しい雰囲気を見せていたが、薫相手には以前の態度のままであった。

 

「体調は大丈夫ですか? 薬の副作用は出ていませんか?」

「思ったほどではありません。最初はずっと胃が重い感じがあったんですけど、何度か()んでいる間に、慣れてきたみたいです」

 

 溌剌(はつらつ)として薫は言ったが、しのぶはその言葉に眉を寄せた。

 薫の()んでいるものは、薫にとっては毒ともなり得るものだ。いまは普通に過ごせていても、この先、無惨との最終決戦において、薫の体内に残る鬼の(タネ)が芽吹いたそのときには、一気に毒として命を奪うだろう。そして、その可能性は低くない。

 しのぶは小さな声で薫に尋ねた。

 

「……不死川さんには伝えているのですか?」

「え?」

「薬のことです」

「…………いいえ」

 

 薫は言ってから、暗い顔でうつむいた。

 実弥にはいまだに詳しいことは話せていない。

 

 珠世(たまよ)らを中心とした、対無惨の毒薬精製については、いまだに鬼殺隊内においても一部の人間しか知らない。柱の中でも、しのぶを除き知っているのは、最年長である悲鳴嶼(ひめじま)行冥(ぎょうめい)だけだった。

 自分の身体について秘匿(ひとく)しておくよう厳命されたわけではなかったが、薫はやはり怖かった。果たして今の自分の状態を素直に話して、実弥や秋子、その他の鬼殺隊士たちが受け入れてくれるのか……。

 しのぶは包帯を巻き終えると、心臓の聴診などいつもの診察を行う。

 すべてが終わって、息をついた。

 

「問題ないですね。珠世さんにも伝えておきましょう」

 

 薫は衣服を整えると、立ち上がってからしばし逡巡したあとに、しのぶに尋ねた。

 

「風柱様にお伝えしたほうがよいでしょうか?」

「……最終的には薫さんが決めることです」

 

 しのぶは薫をじっと見つめてから、率直に言った。

 

「私が不死川さんに伝えたほうが良いと思ったのは、あの人であれば、きっとあなたがそんな状況だと知れば、すぐにでも鬼殺隊から離そうとすると思ったからです。あなたの薬については、珠世さんから処方箋もいただいています。少し練習すれば、あなた自身が調合することも可能でしょう。鬼のいない場所で静かに暮らせば、十分に天寿を全うできます」

 

 薫はじぃとしのぶを見つめてから、ふっと笑みを浮かべた。

 

「でしたら、尚のこと、実弥さんにはお知らせできませんね」

「駄目ですか?」

「駄目です。決して、風柱様の耳に入らぬようにして下さい。私も気をつけます」

 

 薫が念押しすると、しのぶは少し頬をふくらませ、むくれた。

 

「……いっそ訊かなきゃよかった」

「ありがとうございます、しのぶさん。でも、私は鬼殺隊のみんなと一緒に戦いたいのです。最後まで」

「あなたのような人は、犠牲にならずともよいと思うんですよ。私みたいに、鬼殺隊(ここ)でしか生きられないわけでもないでしょうに」

「そのお言葉、そのままお返しします。私より年少でいらっしゃる蟲柱様が何を仰言(おっしゃ)ってるのかしら」

「もう! 意地っ張りな」

「鏡をご覧なさいませ」

 

 薫は堅牢な微笑みを浮かべ、しのぶはその澄ました顔を睨みつけ……しばし見合っていたが、途中でおかしくなったのか、しのぶが吹き出した。クスクスとしばらく笑ってから、やれやれ……と、首を振る。

 

「さすが、姉さんにすらも頑固者と言わせただけありますね。薫さん」

「あら。花柱様にも、蟲柱様にも、ご姉妹方々からお褒めにあずかり光栄です」

「まったくあきれます」

 

 しのぶは嘆息してから、ふっと沈んだ顔になった。

 

「正直なところ、あなたの事情(こと)は珠世さんのことも含めて、極秘事項になっています。説明すればわかる人間もいるでしょうが、感情的に許せないのは誰しも同じですから……暴発する隊士が出ないとも限りません。そうなれば毒の精製も頓挫(とんざ)して、無惨を殺すための手段が一つ消えてしまいかねない。だから、本来薫さんの判断が正しいのです。鬼殺隊の為にも」

 

 しのぶとしては、柱としての責任もあり、自分から機密を暴露することはできかねたのだろう。だが、薫本人が信頼する実弥に言うのであれば、それは許してもいいと思ったのか……。

 

「お気遣いいただき、ありがとうございます」

 

 薫は頭を下げた。

 しのぶはふっと笑って手を差し出す。

 

「頑張りましょう、互いに」

「えぇ」

 

 薫はしのぶの手を握った。

 ひんやりと冷たく、細い腕。

 その華奢な体の中には、普通の鬼であれば一滴で即死するほどの凄まじい毒が巡っている。こうして普通に会話することさえ、常人であれば耐えられぬであろう。

 だからこそ、しのぶのこの笑顔を、決して忘れないでいようと薫は思った。

 

 

◆◆◆

 

 

 診察を終えて蝶屋敷の門へと続く飛び石の上を歩いていると、庭のほうから言い争う声が聞こえてきた。

 

「私は直接、勝母(かつも)先生から教えてもらっているの!」

 

 キリキリと怒る声に聞き覚えがある。薫が声のするほうへと向かうと、案の定、そこには八重(やえ)がいた。

 かつて勝母(かつも)の弟子であった少女 ―― 星田(ほしだ)八重(やえ)

 薫と黒死牟(こくしぼう)が話すのを聞いて、薫が鬼の手先となったと思い込み、意識のない薫を殺そうとしていたらしい。結局、実弥に阻止された後、宝耳(ほうじ)に連れられて、お館様のお屋敷に行ったと聞いていたが……。

 

「あなたなんかよりも、ずっと詳しく教わっているし、勉強もしているわ! それにお館様のお屋敷でだって重宝されていたんだから。知ったかぶって、あれこれ指図しないで頂戴!」

 

 キンキンと甲高い声で怒鳴りつける先には、蝶屋敷において、しのぶの下で看護など救護者の世話全般を行っている女の子たちがいる。中心にいるのは、確か『アオイ』と呼ばれている子だったろうか。あまり頻繁に話したことはないが、きびきびと指示している様子は手慣れていて、無駄もない。しのぶに「有能な助手さんですね」と言うと、

 

「助手ではなくて、彼女は立派な看護者です。患者の状態については、私よりも詳しく把握しています」

 

と、言っていた。相当に信頼されているのだろう。それに――

 

「あなたの経歴がどうあれ、ここではここのやり方があるんです! それを教えているだけなのに、どうしてお館様のお屋敷で重宝されていたことを持ち出してくるんです? それ、関係ありますか?」

 

 薫が出るまでもなく、ちゃんと言うべきことも言える子らしい。

 

「くっ……」

 

 八重は忌々しげに詰まったが、ギロリと睨みつけて吐き捨てた。

 

「なによ! せっかく隊士になれたくせに、鬼が怖くて逃げ出した臆病者が!」

 

 それはアオイにとっては、最も心をえぐる言葉であったのだろう。言われた瞬間に顔が固まり、悔しげに唇を噛みしめてうつむいた。

 八重はそれを見て、ますます快哉を叫ぶかのように、言い立てた。

 

藤襲山(ふじがさねやま)でも、霞柱さまと一緒だったんでしょう、あなた。道理で生き残れるはずよね。鬼は全部霞柱様が退治してくれたんだから! 他人の手柄で生きながらえておいて――」

 

 あまりの言いように、薫はさすがに黙っていられなかった。

 

「いい加減になさい!」

「何言うてんねん!」

 

 ほぼ同時に、アオイと八重が言い争う現場を差し挟むように声が交差する。

 泣きそうなアオイと、彼女の周囲にいた女の子たちが一斉に顔を上げて、キョロキョロと見回した。

 

 薫がその場へと歩いていくと、同じように屋敷の渡り廊下から出てきたのは、秋子と数名の女隊士だった。以前に任務で一緒であった信子をはじめ、この柱稽古の期間に秋子に紹介されて、仲良くなった面々が一様に厳しい顔で八重を見ている。

 

「アコさん……」

 

 秋子はニヤッと笑って、軽く手を上げた。しかしすぐに厳しい顔になって、八重を睨みつけた。

 

「さっきから聞いとったら、なんやぁ、アンタ。しばらく見ん間に、ますます性格がねじくれたもんやな。我らがアオイちゃんに向かって、なんつぅ口の()きようや」

「な……わ、私はここで治療の手伝いをするように言われたから、少しでも役に立つようにと思って」

 

 八重は言いながらも、薫をチラチラ見ながら距離をとる。顔には恐怖が滲んでいた。

 薫はふっと目を逸らした。怯えさせるつもりは毛頭ないが、実際に八重は黒死牟と対峙している薫を見ていたという。あの鬼を見ているならば、その恐怖を忘れるのは難しいのだろう。

 だが、だからといって、アオイに無体なことを言って、傷つけるのは間違っている。

 

「役に立とうという気持ちがあるのであれば、尚のこと、この蝶屋敷で看護の指揮を執っているアオイさんのことは、立てるべきでしょう」

 

 薫が言うと、八重は信じられないように、薫を凝然と見つめる。

 前にもそうだったが、この子は自分の考えに固執しすぎて、現状を見誤るところがあるようだ。

 

「八重さん。あなたが勝母(かつも)さんの下で、薬学や怪我人の手当について学んでいたのは間違いありません。ですが、それは十全(じゅうぜん)ではない。アオイさんは今も忙しい中、しのぶさん……蟲柱様から学んで、自らも本を読んで勉強されています。あなたも彼女と一緒に、まだ学ぶことがあるのではありませんか?」

 

 薫はなるべく冷静に諭したが、八重はプイと顔を背けた。話を聞く気もないようだ。その様子を見て、秋子があきれたようにため息をもらした。

 

「ホンマに、けったいな子やな、アンタは。そら、アンタも勝母のおっ母様のところで、似たような経験はあるんやろうけどな。郷に入れば郷に従え。まずは新しい環境に馴染むことが肝心と()ゃうんか? そのうえで、おかしいと思うところがあるんやったら、そのことについてのみ、進言すればえぇんや。今ここで、アオイちゃんが隊士にならんかったやの、何やのと……関係ないやろ。今のアンタの言葉は、ただ攻撃するためだけの言葉やで。それをアンタわかってて言うとるやろが。せやから、性格がねじくれとる言うねん」

 

 秋子がビシリと言うと、一緒にいた女隊士たちも頷いて、それぞれに遠慮無くあげつらう。

 

「ほんまやで。だいたいアンタ、勝母さんトコでも、大して役に立っとらんかったやないか」

「ほとんど律歌(りつか)姐さん任せだったわよ」

「包帯巻くの下手くそやし」

 

 形勢不利となった八重は、ブルブルと震えながら小さく身をすぼめた。さすがにこれだけ周囲から一斉に非難されてはいたたまれないだろう。

 

「役に立とうとする気持ちはあったのでしょう? 今はまだ慣れない環境だから、戸惑っていたのよね」

 

 薫は優しく声をかけたが、八重は拳を握りしめて、低くつぶやいた。

 

「…………なによ。わかったような顔して」

 

 不穏な八重の様子に、薫は首をかしげ、秋子はギュッと眉を寄せる。

 八重はとうとう我慢ならぬようにぶちまけた。

 

「どうしてアンタがここにいるのよ! 鬼のくせに!!」

「ハァ!?」

 

 すぐに反応したのは秋子であった。「なに言うとんねん、アンタは!」

 

 しかし八重は数歩下がって薫から距離をとると、ギリギリと歯噛みして睨みつけた。ビシリと指をさして、吠えるように叫ぶ。

 

「みんな、騙されているのよ! この女はね、鬼なの! 鬼と会えば、鬼になっちゃうのよ。鬼の娘なのよ。鬼に言われてたんだから! しかも上弦の鬼に!!」

「えぇ加減にせぇ! さっきから何言うとんねん、アンタは!!」

 

 秋子がそれこそ大音声(だいおんじょう)で怒鳴りつけ、一緒になって信子や他の女隊士も怒りだした。

 

「せっかく、薫さんが助け船出してくれとるのに、なにを意味のわからんことを!」

「鬼ィ? 鬼がこんな太陽が燦々(さんさん)と照ってる場所で、のんびり立っていられるわけないでしょ! 禰豆子(ねずこ)ちゃんでもないのに」

 

 しかし今度ばかりは、八重も黙っていなかった。

 

「今は薬で抑えてるのよ! だから太陽のあるところでも平気なだけで……馬鹿なのは、アンタたちだわ! このままこの女を放っておいたら、鬼と戦ったときには、この女は裏切って、アンタたちを殺すでしょうよ! そのときになって、私の言葉を思い出して後悔しても、知らないんだから!」

 

 秋子は途中から聞く気にもなれなかったらしい。ハアァーと長いため息をついて、薫に向き直る。

 

「阿呆なこと言うてんで。なぁ、薫ちゃん」

 

 しかし薫は同意を求める秋子に返事できなかった。

 八重の言っていることが間違いでないことは、なにより薫が一番よくわかっているからだ。

 本当はもっと、ゆっくりと伝えたかった。心をこめて話せば、きっと秋子は理解してくれたろうから。さっき、しのぶからは秘密だと言われたが、秋子であれば誰に言うこともなく、胸に納めておいてくれただろう。

 言葉の出ない薫に、秋子は困惑したようだった。信子や他の女隊士も互いに目を見合わす。

 八重が勝ち誇ったように、ニヤリと頬を歪めた。

 

「見てご覧なさいよ。本人が認めてるじゃない。だから言ってるでしょ! この女は ――― 」

 

 八重の言葉は途中で止まった。

 見開かれた視線の先で、伴屋(ばんや)宝耳(ほうじ)が腕を組んで立っていた。不思議なことに、笑っているのにその顔は、まるで何かの仮面であるかのように無機質だった。

 

「約束を守れん悪い子はどこやぁ?」

 

 のんびり言いながら、歩いてくる。

 

「あ……あ……」

 

 八重はよろよろと後退(あとずさ)ったが、低い灌木(かんぼく)にあたって、それ以上逃れられない。

 

「困った子やでぇ。お館様からも、あまね様からも、お嬢様方からも散々に注意されて、十分に諭されたはずや、ゆうのに……こないな困った騒ぎをつくりよる」

「わ、私は……間違ったことは ―― 」

 

 八重は震える声で抗弁しようとしたが、それもまた宝耳は中途で封じた。

 

「間違っとるんや」

 

 あっさりと断定して、宝耳はズイと大きく一歩、八重へと近付く。 

 

「吉野から逃げ出して、今に至るまで、お()はんの選択は間違ってばかりや。いや、そもそも鬼殺隊に来たんも間違いや。それよりも前に、母親と一緒に祭りに行ったのも、とっとと帰ろう思て、藪道に入ったのも間違いや。そんな間違いばっかの女の言うことを、誰が信じるんや」

「…………」

 

 八重はブルブルと唇を震わせて、真っ青になった。それは普段、押し隠している八重の罪悪感を正確に撃ち抜く言葉だった。

 

「妄言を吐き散らかして、今は一致団結して、無惨に向かわなあかんとなってる隊の和を(みだ)すのであれば、監察方としては見逃せんなァ。さっき藤襲山がどうやこうやと言うとったが、あそこの鬼が全部いなくなったんかわからんし、お()はんに確認しに行ってもらおうか」

 

 八重はヒッと恐怖に顔を歪めた。プルプルと頭を小刻みに振る。

 

「わ、わ……私は……ただ、みんなの為になると……思って……」

「さっき、さんざそこのお嬢さん相手に、やれ逃げて卑怯やの、他人の力で生きながらえただのと抜かしておったくせして、今更『みんなの為』?」

 

 クックッと喉の奥で笑いながら、宝耳は立ち尽くす八重まで近付いていき、腕を掴むとボソリとつぶやく。

 

「まるで鬼のように腐った性根やな」 

 

 八重はわななき、ブンと手を振って宝耳の手を振りほどくと、その場から駆け去った。

 

 

<つづく>

 




次回は明日2024.04.14.更新予定です。


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第八章 柱稽古(六)

「あぁ~あ、逃げてもうた」

 

 宝耳(ほうじ)がのんびりと言うと、秋子がムッと眉を寄せて食ってかかった。

 

「なにしとんや、オッサン。いきなり口出してきたかと思たら、柄にもないことしくさって」

「ひどいなぁ。ああいうオイタする子には、年長者がビシッと言うもんやないか」

「なーにが年長者や。いっつも混ぜっ返してばっかりのくせして。あの子になに言うたんや?」

「別に。ワイが大したことを言うわけないやろ」

 

 八重は腕を組むと、胡散臭そうに宝耳を見つめる。

 宝耳はニヤニヤ笑って尋ねた。

 

「なんや? 追いかけて連れ戻すか?」

「いらん」

 

 秋子は即座に答えた。

 

「たとえ隊士でなくとも覚悟のない者、仲間の足を引っ張って溜飲(りゅういん)を下げるような馬鹿は、おっても邪魔や」

 

 厳しい意見に、宝耳はおほっ、と愉しげに笑う。

 パンパンと拍手する音が聞こえてきて、松の木の陰から現れたのは律歌(りつか)だった。

 

「さすが隊内随一の女丈夫、三好(みよし)秋子(あきこ)

 

 まるで歌舞伎のかけ声のごとく律歌が言うと、秋子は「もう勘弁してぇや」と相好(そうごう)を崩す。

 

「律歌さん……」

 

 薫が声をかけると、律歌は横目で軽く制してから、アオイの前に進み出て頭を下げた。

 

「ごめんなさい。八重がまた、情けないことを言ってたみたいね」

 

 アオイはあわてて手を振って、律歌の頭を上げさせると、元気よく言った。

 

「大丈夫です! あれくらいで凹むほど、ヤワな神経してませんから!!」

「そうよね。荒くれ者の鬼殺隊士を押さえつけなきゃいけないときもあるんですものね、私たちは」

 

 律歌は笑って、ポンとアオイの肩を叩く。それは、例え直接鬼と対峙する者でなくとも、彼らを支える者としての矜持(きょうじ)を奮い立たせる言葉だった。

 

「忙しいのにつまんないことで時間とらせたわね。さ、仕事に戻って戻って」

 

 追い立てるようにアオイたちを屋内へと送り出す。

 秋子らも「ほな後でまた」と、次の稽古へと向かった。

 律歌は手を振ってそれぞれ見送ってから、(キッ)と宝耳を見た。

 

「さっき、あの子を藤襲山に送るとか言ってたけど、本気じゃないでしょうね?」

「さぁて。どうやろか」

 

 相変わらずのらりくらりとした宝耳の返答に、律歌は特に怒る様子もなく、懐から少し分厚く膨らんだ封筒を取り出した。

 

「これ、あの子にやって頂戴」

 

 宝耳は受け取って、フンと鼻をならす。

 

(カネ)で片付けようてか、(あね)さん」

 

 律歌はひとつため息をついてから、苦々しく言った。

 

「もう、あの子には期待どころか、いてもらいたくないわ。治療院を手伝ってもらおうかと思ってたけど……厄介を起こされるのは御免よ。あの子の処遇はあなたに任すわ。市井(しせい)に戻して、身が立つようにしてやって頂戴」

 

 宝耳は肩をすくめると、ぶらぶらと歩き去って行く。

 その姿を見送って、薫は律歌に尋ねた。

 

「よろしいんですか? 治療院の人手も必要でしょうに」

「…………」

 

 律歌は答えなかった。

 黙って薫をまじまじと見つめる。

 じいーっと見つめてくる。

 穴が開きそうなほどに凝視して、

 

「薫ーっ!!」

 

 いきなり抱きついてきた。

 薫はびっくりして固まった。

 先程までの深刻なものと打って変わった雰囲気に唖然となる。

 律歌はぎゅーっと薫を抱きしめてから、やにわに身を離すと、コツリと薫の額を指で(はじ)いた。

 

「コラ! 心配させて……本当に、もう」

 

 涙ぐむ律歌に、薫は途端に申し訳なくなった。

 

「すみません。ご迷惑をかけて……」

「いいの、いいの! 手紙で散々謝ってもらったから、もう『ごめん』はいらないけど、本当に無事で……良かった」

 

 声を詰まらせて、律歌は薫の手を握りしめる。

 きっと薫が失踪してから、ずっと心配していたのだろう。宝耳に保護されて、珠世(たまよ)らのもとに居る間に手紙は書き送っていたものの、こうして実際に姿を見るまでは安心できていなかったのかもしれない。

 薫は唇をかみしめて、律歌の手を握り返した。本当に申し訳なくて仕方ない。

 

「おーい。ちょっと、そろそろいいッスかね? 姐御(あねご)

 

 律歌の背後から呼びかけたのは翔太郎だった。

 律歌はハーッとため息をついてから、ムゥとした表情で振り返る。

 

「まったく……感動の再会の邪魔をするわね」

「いや、俺だって感動の再会なんですけど」

 

 翔太郎は軽く肩をすくめた。

 とぼけた口調は明るく、一瞬湿っぽくなった空気をカラリと吹き飛ばす。

 

「久しぶり、翔太郎くん。元気そうで良かった」

 

 薫が声をかけると、翔太郎はあきれたように言った。

 

「こっちの科白(せりふ)ですよ、薫さん。本当に、元気になられたみたいで良かったです」

「えぇ、一応ね。翔太郎くんは……あなたも柱稽古に参加を?」

「当然ですよ」

 

 翔太郎は残った腕をブンブン振り回して言った。「()()らないうちは、俺が引退することはないです」

 

 薫は翔太郎の決意を痛ましく思ったが、これまで彼が必死に行ってきた、苦行とも言えるような厳しい修練を知っていたので、なんとも言えなかった。まさしく言葉通り、翔太郎は母と妹を殺した鬼 ―― 紅儡(こうらい)を滅殺することだけを考えて、ここまでやって来たのだ。もはや生き残ることなど露程も考えていないだろう。

 

「頑固でさぁ。ホントに。やになっちゃうよ」

 

 律歌がため息交じりに言うと、翔太郎は「なに言ってんですか」と言い返す。

 

「律歌姐御だって、やっぱり自分もやるーって息巻いてたくせに。お館様と岩柱様が説得しなかったら、このまま音柱様の訓練に参加する気だったでしょ?」

「律歌さんも?!」

 

 さすがに薫はそれには驚いた。いずれ鬼殺隊に戻りたいと、前々から律歌は言ってはいたが、勝母亡き後は医療院での仕事に専念するものと思っていたのだ。

 律歌はハアァーと長いため息のあとに、首を振った。

 

「不本意だけど、仕方ないわよ。病床のお館様にも頼まれるし、同期にまで頭下げられちゃね。しのぶも決戦ともなれば出張(でば)らないといけないわけだし、治療に当たる人間がただでさえ少ないのに、私まで放り出すわけにはいかないでしょ」

 

 律歌にとっても苦渋の決断ではあったのだろう。

 自分の信念と義務。

 どちらも重要で、けれど選択できるのは一つだけ。

 考えた末、律歌は死を覚悟して戦いに(おもむ)く者を見送ることに決めたのだ。だからこそ、先程アオイにも同じ立場の者として、励ましたのだろう。

 

「ありがとうございます、律歌さん。心強いです」

 

 薫は心底から言った。

 勝母(かつも)もカナエもいなくなった今、しのぶまでも最終決戦に臨むのであれば、誰かが治療行為の指揮をとらねばならない。どれほどの戦いになるにしろ、必ず怪我人は出る。おそらく今までの比でないほど大量に。

 

「ま、私が参戦したって大した戦力にもならないからね。ここは後方支援に徹したほうが、よっぽど役立ててもらえるってんなら、そっちで踏ん張るしかないよ」

「じゃあ、お手紙にあった通り、もうこちらで治療に当たられるということですね?」

「うん。もうあっちじゃ鬼も出なくなってるからね。私は主に医療院のほうでやってく予定よ」

 

 首都を中心とした関東周辺において鬼の発現率が増えていることから、つい先頃蝶屋敷とは別に施薬(せやく)医療院が開設されている。律歌はこの施設の立ち上げにも尽力したので、今回、最終決戦に当たっての救急看護の役を任されることになったのだろう。

 

「そうなんですね。あの……勝母さんはあちらで埋葬を?」

 

 薫が幼児退行から戻ったとき、勝母の遺骨はまだ葬られず、骨箱(こつばこ)の中に入れられて、勝母の私室に置かれていた。今回、長年暮らした百花(ひゃっか)屋敷の敷地内に葬られたのかと思ったが……。

 

「ううん、持ってきたよ。おっ()様の遺言だからね」

 

 言いながら、律歌は翔太郎の背負っていた背嚢(はいのう)の中から骨箱を取りだした。

 白い布に覆われた骨箱は小さく、生きていた頃を(しの)ぶには軽すぎる。

 

「遺言……ですか?」

 

 薫が問うと、律歌は骨箱を抱きかかえながら微笑んだ。

 

「そ。自分が死んだら、骨は東京にある那霧(なぎり)家の墓に埋葬してほしい……って」

 

 勝母は鬼殺隊士を辞めたあとも、もし自分が急に亡くなるときのことを考えて、常日頃から遺書をしたためていたのだという。その存在は律歌には知らされており、『自分が死んだことを確認したら、すぐさま読んで実行するように』と言われていたらしい。

 

「おっ母様さ、小さい頃から……それこそ物心ついたぐらいから、ずっと鬼殺隊のために生きてきたんだよね。柱を辞めたあとも、育手(そだて)としてずっと……。だからさ、死んだら、もう旦那さんと息子さんと三人水入らずで、ゆっくり過ごしたいんだって」

「…………」

 

 薫は言葉が出てこなかった。

 涙が目の端に浮かぶ。

 

 幼い頃から、血反吐を吐くような修練を繰り返し、父親への復讐のためにひたすら強さを求めてきた勝母。

 柱として最強とまで呼ばれ、育手として胡蝶カナエを始めとする弟子を育成し、その存在は長く鬼殺隊にとって、まさしく『母』であった。

 だが本来の勝母が望んでいたのはきっと、愛する夫と息子とのありふれた幸せであったのだろう。

 

「ご苦労さまでした、勝母さん」

 

 薫は勝母に頭を下げた。深く。

 

 鬼となった父を殺すという運命を呪い、恨み、苦悩し、凄絶な生涯を生きてなお、苦難から逃げなかった勝母。

 最期の最後まで、彼女は強く、潔く、凜として散った。

 きっとそうであったはずだ……。

 

「本当に、ありがとうございました……」

 

 つぶやく言葉と一緒に涙がポツリと落ちて、地面に小さな染みを作った。

 

 

◆◆◆

 

 

「お()はんが酒を飲むようになったとは、時の流れは早いもんやな」

 

 月が中天に浮かぶ夜半に、一人、歩いていた秋子を呼び止めたのは宝耳(ほうじ)だった。

 

「オッサンこそ、てっきり酒の匂いを嗅ぎつけて、来るもんやと思てたけど珍しく()んかったな」

 

 律歌の歓迎会が治療院にある律歌の私室で行われ、めいめいが酒やらつまみやらを持って参集した。多くが以前、関西方面で任務にあたっていた隊士たちで、久しぶりの邂逅を喜び合ったあとには、この数週間に及ぶ柱稽古のキツさを言い合う愚痴慰労会となった。

 当然、言い出しっぺの一人である秋子も参加していたのだが、ひとしきり食べて飲んで、大いに語り合ったあとには、昼の柱稽古での疲労もあって、気がつくと眠ってしまっていた。

 その他の者たちも似たり寄ったりであったのだろう。

 夜中に秋子が尿意を催して起きると、みな雑魚寝(ざこね)して、すっかり宴は果てていた。

 

 (いびき)の音が響く月明かりに照らされた部屋で、秋子は妙に目が冴えてしまった。明日の朝食当番であったことも思い出して、あわてて起き上がると、よく寝ている同僚たちを起こさないように、そっと治療院を出た。

 そうして柱稽古の期間中、女隊士用に割り当てられていた宿舎に向かっていたのだが、小さな疎水(そすい)を渡る橋に来たところで、宝耳に声をかけられたのだ。

 

「ハハ。いやまぁ、律歌の姐さんにくれぐれも……と頼まれたんでな。面倒見るしか()ぅなってもうて」

「あぁ、あの子か。そら、ご苦労さん」

 

 秋子はすぐに八重(やえ)のことだと理解して、宝耳をねぎらう。

 

「どうしよったか、気にならせぇへんのか?」

「なんでウチが気にせなあかんねや。他人(ひと)の温情に、足蹴して砂かけるような奴のこと、考えるのも勿体ないわ」

「ハ……厳しいことや。さすがは(ひのと)になるまで生き残った女丈夫やな」

 

 言いながら宝耳は煙草を取り出して火をつけた。

 秋子が黙って立っていると、「()むか?」と、一本差し出してくる。

 

「いらん。煙草はなんか好かん」

「あぁ……なんや息がしづらいやとか言うのがおるな。そんなもん呼吸鍛錬しとったら、ヤニも吹き飛ぶやろが」

「さぁ? よぉわからんけど、ウチはいらん」

 

 にべなく秋子が言うと、宝耳は「さよか」と差し出した煙草をしまった。自分はふぅと紫煙をくゆらして、低い橋の欄干に腰掛ける。

 

「なんや、オッサン。なんぞ言いたいことあるんか?」

 

 秋子は気になって尋ねた。

 出会ってからこの方、この年齢不詳のオッサンの考えはよくわからない。だが、こうして声をかけてきたのならば、何か言いたいことがあるのだろう……という推量ができる程度の仲ではあった。いっても長いつき合いだ。

 

「ホ……話のわかることや。わざわざそっちから水向けてくれるとは」

「オッサンにしては、まだるっこしいこっちゃな。とっとと言い」

 

 秋子がぞんざいに言うと、宝耳は「ほな」と切り出した。 

 

「お()はん、そろそろ除隊したらどうや?」

 

 秋子はその言葉の意味がすぐに理解できなかった。「は?」と眉を寄せて、聞き返す。

 

「なんやて? オッサン」

 

 宝耳は軽く肩をすくめ、ハァーと白い煙を吐いた。

 

「いよいよ無惨との決戦も近ぅなって、本部から言われとるやろ。除隊したいと思っとる奴は願い出ろって。(ひのと)やったら、退職金もまぁまぁもらえるし、そろそろ潮時とちゃうか?」

「アホか」

 

 秋子は即座に却下した。「何を言い出したかと思たら、阿呆らし」

 

 吐き捨てるように言う秋子に、宝耳はため息をつく。

 

「秋子ォ。お前は鬼になーんも恨みないやろ。元々、金のために入っただけなんやし、家族もお前の仕送りのおかげで十分に生活できとる。おっ母さん、ちゃんとお前がいつ辞めて帰ってきてもえぇように…いうて、お前の仕送りの中からちゃあんと貯金しとるんやで。いつでも嫁入りできるように、てな」

「……そんなん、いらん。何ぞに役立てるよう言うといて」

「そぉ意固地になんなや、秋子ォ。お前に母ちゃんも弟やら妹がわんさといるのも、周りはみな知っとるやろ。今、お前が離脱したところで、()ァれも文句なんぞ言わんわな」

 

 秋子は眉を寄せ、ギロリと宝耳を()めつけた。

 

「オッサン……鬼に恨みがない、言うたな? そら、ウチは家族を鬼に殺されたりしたわけやない。でも、鬼殺隊(ここ)に入って、死んだ仲間は、もう何人どころやないねん。昨日まで仲良う喋っとった僚友(りょうゆう)を殺した鬼に、恨みを持たんわけないやろ?」

「隊士は、鬼に殺されることは前提やろが」

「…………」

 

 秋子の目は一層、冷たさを孕んで強く宝耳を刺した。今にも叩き斬らんばかりの憤怒(ふんぬ)を押し込めて。

 だが宝耳はその真っ直ぐな視線を受けても、無表情に見返すだけだ。

 しばらくの間、秋子は宝耳を睨みつけていた。いつの間にか握りしめていた拳を、さらに固くする。だが一つ、深呼吸してゆっくりと開いた。もう一度、深呼吸してからうんざりしたように言う。

 

「アンタは、昔っからそういうとこあるな。隊士を人間扱いしとらんというか……」

「実際、そんなもんやないか。毎年毎年、よぅも飽きもせんと入ってきよるわー、思うしなァ。ま、最近じゃ ―― 」

「アンタにわかってもらおうと思わへん」

 

 秋子はピシャリと遮った。

 決して怒っているわけではない。

 ただ宝耳を見返す瞳は透徹(とうてつ)として迷いがなく、何者にも(くじ)くことのできない硬骨とした矜持を感じさせた。

 

「あんたはきっと自分も、隊士も、使い勝手のえぇ駒みたいなモンやと思てるんやろうけど、隊士は駒やない。人や。一緒に戦った仲間や。そいつらを何人も何十人も殺されてる、目の前で。十分な恨みになるやろ」

「…………そんな義理、意味ないで」

「意味は、ウチだけが持っとればえぇんや。誰かに認めてもらいたくてやっとるんと()ゃう」

 

 強い眼差しに、宝耳は無言になった。

 秋子はそのまま立ち去りかけたが、ふと止まる。振り返って宝耳に声をかけた。

 

「オッサン。あんたもな」

「あ?」

「あんたも駒とちゃう。ウチには恩人や。命、大事にせぇ」

「…………」

 

 ボンヤリと(ほう)ける宝耳を置いて、秋子は去っていく。

 

 

 ―――― 生きてて……欲しいんや……

 

 

 かつて、何の価値もない自分に向けて(のこ)された言葉。時を経て、まさか同じことを言われるとは。しかも、秋子に。鬼殺隊を紹介したときには、まだまだチビの子供(ガキ)でしかなかったというのに。

 

「やれやれ、負うた子に教えられ……や」

 

 宝耳は独り()ちて、遠く小さくなっていく秋子を見送った。

 

 

<つづく>

 

 




次回は2024.04.20.更新予定です。


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第八章 柱稽古(七)

 実弥(さねみ)のところでの柱稽古を終えると、次は岩柱である悲鳴嶼(ひめじま)行冥(ぎょうめい)の訓練を受けるはずであるのだが、これはあまりに過酷であることから、女隊士は軒並み断られた。

 轟音響く滝行、丸太担ぎ、それから自分の背近くある岩を一町先まで押し歩く……。

 こればかりは男隊士であっても、途中での辞退が認められるくらいであった。

 

 だがもちろん、(かおる)は不満であった。

 さすがに同じ内容のものをこなせと言われてもできないだろうが、かといってこのまま各自が自主訓練に終始するのは勿体ないように思えた。ここまで隊一丸となっての稽古はなかったことで、確かに連日の厳しい稽古に音を上げる者は後を絶たなかったが、反面、隊内の結束力が増したのは間違いない。

 薫は同期であったという律歌(りつか)を通して、岩柱に面談を申し込んだ。

 

「岩柱様の訓練の邪魔にならぬ場所で、女隊士たちも稽古を積むことができるように、許可をいただきたいのです」

 

 悲鳴嶼行冥は願い出た薫に目を向けたが、光を失った瞳に薫が映ることはない。しばしの沈黙のあとに尋ねた。

 

「具体的には、どこでだ?」

「岩柱様の稽古が行われている川の少し下ったところに支流があります。その場所近辺に、簡易ながら修練場を作らせていただけないでしょうか。女隊士は膂力(りょりょく)はありませんが、その分、俊敏性や柔軟性、平衡感覚を養う訓練をすれば、より自らの剣技にも磨きがかかると思います」

「…………一体、何を行う気か?」

 

 薫の説明に眉を寄せた悲鳴嶼に、明るく言ったのは律歌だった。

 

「わかりやすく言うなら、吉野の百花(ひゃっか)屋敷での修練場をここに作ろうってことよ」

「百花屋敷の?」

「そう。吊った丸太の上での打合稽古だったり、川にある岩を使った跳躍訓練だったり。あと、あっちの川の方には、小さなお堂に行く石段もあるから、それこそ背負子(しょいこ)重石(おもし)担いで、階段上ったりね。まぁ、昔からやってたことだけど、仲間も多いと、それだけみんな楽しいし、何より負けず嫌いが多いから、競い合うだろうしね。隊士の士気も上がって、一石二鳥か三鳥くらいにはなると思うんだけど……どうかしら、岩柱様」

 

 ズイッと悲鳴嶼の前に進み出て、挑戦的に律歌が問う。

 悲鳴嶼は困ったように眉を寄せてから、やや後ろに退()がった。

 

「逃げないでよね、岩柱様」

「……逃げてない」

「そう? で、どうでしょう? 岩柱様」

「……房前(ふささき)

 

 悲鳴嶼が低く、律歌の姓を呼ぶ。

 薫はいつも律歌の名前しか言わないので、そういえばそんな名字だったのだと、少し新鮮だった。

 

「はい。こちらにおりますよ、岩柱様」

「その……岩柱様はやめろ」

「あら? 嫌だった?」

「…………」

 

 困ったように黙りこむ悲鳴嶼を見て、律歌はニンマリ笑っている。

 薫は端から見ていて、律歌の少々意地悪な悪戯に苦笑した。

 それくらいで満足したのか、律歌は少し悲鳴嶼から距離をとると、いつものように呼んだ。

 

「で、悲鳴嶼くんの意見は?」

「……いいだろう。お館様や、本部にも伝えておく。設備の普請(ふしん)については、(かくし)はじめ手の空いた男隊士にさせよう」

「ありがとうございます!」

 

 薫が嬉しそうに礼を述べると、隣で律歌も深々と頭を下げた。

 

「ありがとう、悲鳴嶼くん。さすが同期。話が早くて助かるわー」

 

 明るい律歌の声に、悲鳴嶼はまた渋面になった。

 

「……お前はやるなよ、房前」

「なによー。ちょっと体を動かすくらいいいじゃないのさ」

「怪我人を診るべき者が、怪我しておっては示しがつかんだろう」

「私がドジなことくらい、みんなご承知よ」

「房前!」

「はいはい。わかったわかった」

 

 笑いながら律歌は立ち上がって、手を振った。

 

「じゃあね。お願いしますよ、岩柱様」

 

 むっすりと悲鳴嶼は頷く。

 薫もあわてて頭を下げると、律歌に続いて部屋を出た。

 廊下で待っている律歌にあきれたように声をかける。

 

「律歌さんってば、おからかいになるのも大概にしないと」

「ハハハッ! だって、いかにも柱でございーってな顔してるのが、可笑(おか)しくって」

「岩柱様は柱の中で最年長でいらっしゃるのでしょう? 柱らしく、貫禄があって当たり前じゃありませんか」

「そうかしらねぇ? 私にゃ、ただの猫好きの気のいい(あん)ちゃんなんだけど」

(あん)ちゃんって……律歌さんと岩柱様は、年齢はそう変わりないはずじゃ……?」

 

 言いかけて薫は口を噤んだ。

 にこやかに笑っている律歌からの圧がすごい。

 

「薫~。妙齢の女に、年齢のことを話題にするのは得策じゃないわよ~」

「……肝に銘じます」

「よろしい」

 

 律歌はピシリと言って、歩き出す。

 片足が不如意(ふにょい)であるはずなのに、なぜだか颯爽として見えるのは、いつも背筋を伸ばして歩く律歌の姿が(すが)しく見えるからだろう。真っ直ぐで凜とした、曇りない心そのままに。

 

 薫はふ……と笑った。

 きっと岩柱の悲鳴嶼のあの態度も、ただ同期だからというよりも、律歌のこの性格によるところが大きい。

 柱の重鎮として、誰よりも強くあらねばならず、上に立つ者としての責任を背負う悲鳴嶼にとって、律歌はある意味、忌憚なく語り合える唯一の友であるのかもしれない。 

 

「……いい関係性ですね、律歌さんと岩柱様は」

 

 薫がポツリと言うと、律歌は振り返って微笑んだ。

 

「ま。長ーいつき合いですから」

「…………」

 

 なんとなくそこに、たった二人残った同期という以上の信頼関係を感じたが、薫は言わずにおいた。

 

 

◆◆◆

 

 

 翌日。

 新たに岩柱・悲鳴嶼行冥の山に造成される訓練場について、詳細な希望などを聞きたいと本部に呼ばれた。

 薫は秋子にも一緒についてきてもらい、具体的な設備について意見を出した。訓練に関わる設備のほかにも、一時的な休息兼更衣室として、女隊士専用の小屋なども必要であることなどは、薫にはない視点であったので、秋子についてきてもらったのは正解だと思った。

 基本的にはこの訓練場は女隊士専用のものとし、薫や秋子ら古参の上位階級者がそれぞれに指導する。時々、律歌や恋柱の甘露寺(かんろじ)蜜璃(みつり)蟲柱(むしはしら)の胡蝶しのぶなども時間に余裕がある状況であれば、臨時で指導にあたることとした。

 

 鬼殺隊における本部の統括役でもある薩見(さつみ)惟親(これちか)は、薫と秋子の意見や提案を取り入れたうえで、

 

「あまり大がかりなものを作っている暇はありませんから、あくまでも簡便なものになるのはご了承下さい」

 

と言い、それでも、

 

「できうる限り早く……そうですね。三日……いや、二日で完成させましょう」

 

と気忙しげに言うと、早急に取りかかるからと、挨拶もそこそこに行ってしまった。

 

 惟親とのあわただしい接見を終え、薫と秋子は部屋を出た。

 

「……なんや。(せから)しい人やなぁ」

 

 渡り廊下を歩きながら、秋子があきれたように言う。

 薫は笑ってとりなした。

 

「仕事熱心な方なんですよ。あれでのんびりされている時もあるんですけど……」

 

 言いながら、惟親が奏でるピアノを懐かしく思い出す。

 秋子はすぐに頷いた。

 

「ま、すぐに動いてくれはるのは助かるこっちゃ。こっちもいつ、戦になるかわからんのやし、訓練できるのは早いほどにえぇしな」

「……そうですね」

 

 薫は固い表情になって、ふと考える。

 無惨を殺傷するための毒はできたのだろうか?

 薫が珠世(たまよ)らの館を出てからは、週に一度の間隔で薬をもらいに行っては、簡単な身体検査を受けるだけになっている。愈史郎(ゆしろう)に進捗を聞いても教えてくれないし(それが意地悪でなのか、単純に機密扱いであるのかはわからないが)、毒の精製についての情報はまったくの不明だ。そうこうする間に無惨が鬼を引き連れて襲ってきやしないか……と、薫は心配になるが、たとえそれが今日の今になるにしろ、一年後になるにしろ、するべきことはただ一つ。修練して、より技を、身体機能を磨くしかない。

 

 考えながら歩いていると、角からいきなり現れた人と肩がぶつかりそうになった。

 薫はあわててよけようとしたが、向こうも同じ方向によけてしまって、結局正面からぶつかった。

 

「すみません!」

 

 謝って顔を上げると、どこかで見たことのあるような、端正な顔の青年が見下ろしている。

 薫はまじまじと彼を見つめた。

 何となく見たことがあるのだ。特徴的な赤錆色と亀甲柄の片身替わりの羽織にも見覚えがある。

 

「あの……」

 

 薫が問いかけようとすると、秋子が隣で頭を下げた。

 

「失礼致しました。水柱様」

「水柱様?」

 

 聞き返してから、もう一度、目の前の青年剣士を見る。

 茫洋(ぼうよう)とした表情に怒気はなかったが、薫はあわてて謝った。

 

「失礼致しました、水柱様」

 

 水柱の冨岡(とみおか)義勇(ぎゆう)

 確か現柱の中では三番目の古株である。

 そんな人を前にして、知り合いだろうかとまじまじ見ていた自分が恥ずかしい。

 ここのところ、実弥を始めとして、蜜璃にしろ天元にしろ、柱相手であるのに親しく話したりしていたせいで、すっかり図々しくなっていたようだ。

 水柱はしばらくその場で沈黙していたが、やがてボソリと言った。

 

「……お前、隊士になったのか」

「え?」

 

 思わず顔を上げて、また水柱と目が合う。

 冷たく思える無表情。静かに凪いだ瞳……。

 

「あっ」

 

 薫は声をあげた。ようやく脳裏に記憶が甦る。

 まだ鬼殺隊に入る前、父母を殺され、鬼への恨みと憎しみを持ちながら、どうすることもできず、何を為すべきかもわからず、ただ生きていた日々。悪夢から逃れるように、真夜中過ぎに家を飛び出すと、偶然に鬼に襲われる子を見つけて助けようとした。だが日輪刀もない身にはどうすることもできず、自分もまた一緒に鬼に殺されそうになったとき、現れた鬼狩り。

 

「あのときの……」

 

 見覚えのある理由がわかって、薫の顔は一瞬ほころんだが、同時にとんでもないことも思い出して、すぐにあっと口を開いたまま強張った。

 

 

 ―――― その刀……頂くことはできませんか?

 

 

 できるものなら、その場で過去の自分を張り倒したいくらいだった。

 いくら鬼殺隊に入る前で無知だったとはいえ、初対面の、しかも助けてもらった恩人に対して、よくもそんな厚かましいことが言えたものだ。

 

「あ、あ……あの折は、大変失礼致しました!」

 

 薫はまた深々と頭を下げた。

 本当に恥ずかし過ぎて、穴があったら入りたいとはこのことだ。

 だが、水柱の表情に変化はなかった。ただ、自分の目の前でひたすら恐縮して頭を下げる薫をぼーっと見たあとに、ポン、とその頭に手を乗せた。

 

「…………え?」

 

 薫は驚いて、思わず顔を上げる。

 

「精進したな」

 

 またボソリとつぶやいて、水柱はクルリと背を向けると去って行った。

 薫はしばし呆然としていたが、最後の言葉があの日から鍛錬を重ねて鬼殺隊士になった薫への(ねぎら)いとわかると、途端に満面の笑顔になった。

 

「ありがとうございます!」

 

 思わぬ人からの、思わぬ激励に、薫は胸が震えた。この道を選んだ自分を、ようやく認められた気がする。

 去って行くその背に向けて、薫は再び長く頭を垂れた。

 

 

◆◆◆

 

 

 一方、その水柱・冨岡義勇と薫との一連のやり取りを、非常に複雑に見守っていた面々がいる。

 

「……知り合い……だったんでしょうかねぇ?」

 

 蜜璃は隣から伝わってくるただならぬ気迫を感じながら、誰にともなく言った。

 

「聞きゃいいだろうが」

 

 あっさり後ろから言ったのは宇髄(うずい)天元(てんげん)だ。

 

「うっ、宇髄さん! そんないきなり!!」

「ここで悶々としてても仕方ねぇだろうが。なぁ、風柱?」

「うるせぇ……」

 

 低く唸るように実弥は言ってから、くるっと背を向けるとその場から立ち去った。

 

「おーい。そのまま戻ったら、冨岡と鉢合わせる羽目に……って、行っちまった」

「私、止めてきます!」

 

 蜜璃があわてて追いかけようとするのを、天元はすぐさま止めた。

 

「やめとけ、やめとけ。どーせ冨岡に会ったって、あの野郎のことだ、なーんも言えねぇよ」

不死川(しなずがわ)さんだったら、何か言う前にド突き回すかもしれませんよ!」

「おぉ。そりゃ、派手に面白ぇな。見物に行くか」

「もう、面白がってる場合ですか。柱同士で喧嘩なんて」

 

 心配する蜜璃に、天元はふっと笑った。

 

「大丈夫さ。そんなことにはならねぇよ。まさか自分がヤキモチ焼いてるなんてのを、よりによって冨岡に知られるなんざぁ……ヤツにとっちゃ、弱みを握られるも同然だからな」

「ヤキモチって……やだっ! 宇髄さんってば、そんなこと!」

 

 蜜璃は真っ赤になって、恥ずかしさを紛らすかのように、バシバシ天元の背中を叩きまくる。およそ女とは思えぬ力強い打撃に、天元は「痛ぇっ」と喚きながら、その場から飛退(とびすさ)った。

 

「あ……すみません」

 

 蜜璃はすぐに手を引っ込めた。

 庭を挟んだ向こうの渡り廊下を歩く薫たちの姿を見送ってから、また心配そうにつぶやく。

 

「不死川さん、冨岡さんには何も()()()()としても、薫さんに文句言ったりしないでしょうか?」

「はぁ? 森野辺(もりのべ)に?」

「『俺以外の男としゃべるなー』とか」

「クッ、ハハハハハッ!!」

 

 天元は大笑いした。可笑(おか)しくてたまらないのか、しばらく止まらない。

 蜜璃もあきれるほど笑ってから、どうにか(こら)えつつ教えてやった。

 

「あのなぁ、甘露寺。男の嫉妬なんぞ、みっともねぇだろ。ましてそれを、惚れた相手に知られた日にゃ、面目丸潰れだぜ。(オス)の意地の張り合いは、(オス)同士でするもんさ。間違っても、(メス)相手になんぞするもんじゃねぇよ」

「はぁ……?」

 

 蜜璃は頷きながらも、よくわからなかった。

 天元はニヤリと笑って、最前から背後に感じる殺気に向かって、流し目をくれる。

 

「あそこで蛇を首に巻いたヤツと同じさ」

「え?」

 

 蜜璃は天元がくいと背後に向けた指の先を見る。

 首をかしげると、天元の太い腕の向こうに蛇柱・伊黒(いぐろ)小芭内(おばない)の姿があった。

 

「あっ、伊黒さーんっ」

 

 蜜璃はすぐさま声を上げ、手を振って伊黒の元に向かって走り出す。

 途端に消えた殺気に、天元はまたしばらく笑いが止まらなかった。

 

 

<つづく>

 




次回は明日2024.04.21.更新予定です。


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第八章 柱稽古(八)

 惟親(これちか)の仕事は早かった。

 言葉通り二日で訓練用の設備をほぼ作り上げ、秋子の要望していた休憩所についても、簡単な炊事などもできるようにと、囲炉裏を備えたものを建ててくれた。これらは(かくし)達による夜通しの作業によって為されたものであり、建設中には女隊士たちによる感謝の粕汁(かすじる)が用意された。

 

 そうして岩柱の山の一隅で、女隊士たち共同の訓練が始まった。(一部、翔太郎(しょうたろう)のように身体が不自由であるために、岩柱の稽古を受けるのが難しい男隊士も参加が許されたが、当然ながら更衣と休憩は、岩柱の稽古場にて行うよう指示された。)

 いざ始まると、(かおる)や秋子らだけでなく、あれほど悲鳴嶼(ひめじま)から釘を刺されていた律歌も毎日のように訪れて、女隊士たちを指導し、丸太の吊り橋上での打合稽古には、音柱・宇髄(うずい)天元(てんげん)の嫁たち三人が相手をしてくれることもあった。彼女らの身のこなしはさすがにくノ一と言うべきもので、助言も的確であったので、女隊士たちの人気も高かった。

 

 そうして一週間ほどが過ぎた頃。

 

 薫が訓練場に入ると、ザワリと奇妙な空気が流れた。

 隣にいた秋子や、一緒に来た信子らもすぐに感じたのだろう。

 

「なんや、なんかあったんかぁ?」

 

 信子があえてのんびりとした口調で尋ねると、固まっていた女隊士たちは互いに顔を見合わせ、譲り合うように目配せする。やがてその中の一人が、一歩、進み出た。

 

「あの……岡島さんが、星田っていう女の子に会って……」

「星田?」

 

 薫も秋子も、すぐにそれが誰かはわからなかった。

 気がついたのは、先に素振り練習を始めていた翔太郎だ。

 

八重(やえ)が? あいつ、まだこの辺ウロついてんのか?」

 

 八重という名前を聞いて、薫も秋子もこの異様な空気の理由がわかったが、双方の反応は明らかに違った。

 

「なんやぁ、あの子。まだ、しょーもないこと言うてんのかいな。性懲りもない」

 

 あきれたように言う秋子と対照的に、薫は沈鬱な顔で黙りこんだ。何の反論もしない薫に、最初に声をあげた女隊士 ―― 城戸(きど)綾子(あやこ)と名乗った ―― が、固い顔で尋ねた。

 

「星田さんは、森野辺(もりのべ)さんが鬼の血をもらった、と言っていたそうです。だから、いつ鬼に変貌するかもしれないと……」

「馬鹿馬鹿しい」

 

 吐き捨てるように言ったのは翔太郎だった。「あんな奴の言うこと、信じるほうがどうかしてるよ」

 

「森野辺さんは、彼女の言うことを否定しないのですか?」

 

 厳しい顔で再び薫に問いかける綾子に、また翔太郎が割って入る。

 

「馬鹿らしすぎて、否定する気にもなれないだけさ。あの馬鹿、前っからそうなんだ。何かっていうと、薫さんに嫌がらせするんだよ。まともに取り合う必要ねぇ」 

「ホンマになぁ……前に吉野で会ったときも、なーんやけったいなことで、薫ちゃんに文句つけとったもんなぁ」

 

 秋子も頷いて、その場に集まった隊士たちを散らそうとしたが、綾子は動かなかった。じっと薫を見つめて、もう一度尋ねた。

 

「森野辺さんって、やたらと蝶屋敷に行かれますよね? それに定期的に、何かの薬をもらってきていますよね?」

 

 薫は綾子を見た。引き結んで白っぽくなった唇に、綾子の緊張が見て取れた。彼女は八重のように、ただやみくもに糾弾したいのではない。ただ、真実を知りたいようだった。

 薫がどう言えばいいのか逡巡していると、翔太郎が苛立たしげに怒鳴った。

 

「だから何だってんだよ! 薫さんはずーっと体調が悪かったんだ。だから診察してもらって、薬をもらってるだけだろ!」

「その薬が、鬼になるのを一時的に止める薬なんだって、言ってたんです!」

 

 勇気を出して声を上げた綾子を(かば)うように、翔太郎に抗議したのは、八重から話を聞いた当人である岡島スエだった。

『鬼』という言葉に、またざわざわと動揺が広がる。

 スエは溜め込んでいた疑問を、ここぞとばかりに吐き出した。

 

「でもそんなの、実際に鬼と戦うまで効果があるのかどうかわからないから、もし()かなかったら、鬼になってしまうだろうって。そうしたら皆、鬼になった森野辺さんに殺されるんだ……って」

 

 言っている間に恐怖がにじり寄ってきたのか、だんだんと涙声になる。ひくっ、と喉を引き()らせながら、彼女はそれまで()き止めていた不安を一気に吐露した。

 

「一緒にやろうって、みんなで戦おうって頑張ってるのに……そんなこと考えてたら、怖くて、気になって仕方なくて……。だって星田さんの言ってること、本当にそうなんだもん。森野辺さんが頻繁に蝶屋敷に行くのも、その隣の館に入るのも見たし、天気のいい日はなるべく影にいようとしたり、そのまま具合が悪くなって、帰って寝込んでいたこともあったし……」

 

 薫は静かに目をつむった。

 誰かを責めるつもりなどない。スエにしろ、綾子にしろ、最初は八重に言われても信じなかったのだろうが、薫の態度を見ていて疑問が募ったのだろう。一緒に戦う仲間への不信は、とてもつらいものだ。疑う側に誠意があれば、なおのこと。

 

「薫ちゃん……?」

 

 さすがに秋子も、この期に及んで何も言わぬ薫に、違和感を持ったのだろう。小さく問いかけてくる。

 薫は目を開くと、集まった人達を見回した。心の中で言い聞かせる。

 

 ―――― 信じてもらうならば、信じなければ……。

 

 ニコリと笑って静かに告白した。

 

「えぇ。そうです。八重さんの言う通り、私の体には鬼の血が紛れています」

 

 シン、と場は凍り付いた。

 川のせせらぎ、森の間を飛び回る小鳥の鳴き声、風そよぐ木々の葉擦れの音。

 いつも賑やかしい声が(こだま)する訓練場は、今、恐ろしいほどの緊迫感を孕みながら、静まりかえっていた。

 誰も身動きできず、咳することすらできない。

 

「上弦の鬼に捕まって、私は鬼の血を()けました。わずかですが、その血はまだ体内に残っています。そのせいで鬼と対峙すれば、誘発されて鬼となる可能性を秘めています」

 

 薫は一旦、話すのを止めた。

 ゆっくりと囲む人々を見回す。

 誰もが困惑していた。

 特に翔太郎は、ずっと吉野にいる頃から八重が言うのも聞いていて、それでも薫を信じてくれていたのだから、一層混乱していることだろう。だが、その翔太郎は文句を言うこともなく、ただうつむいて黙りこんでいた。

 隣にいる秋子も、薫と目を見交わすと、何も言わず頷く。それだけで、秋子の信頼がまだそこにあるのだと、信じることができた。

 

「……ただ、薬については少し違います。あれは鬼となるのを抑止するための薬ではありません。もちろん、そういう効果も多少はありますが、本来の効果はもっと別です。あの薬は私が鬼となったとき、即座に私を殺傷するためのものです」

 

 ひっ、と誰かが息をのんだ。

 ザワリと、それまで凍り付いていた空気が動く。

 秋子が真剣な表情で尋ねた。

 

「それは、つまり……毒、()うこと?」

 

 薫はコクリと頷いて続けた。

 

「少し複雑な話になりますが、私の中にあるのは鬼となる可能性を秘めた(タネ)のようなものなのです。ですから今後、鬼との戦闘の中で突発的に萌芽(ほうが)することもあるやもしれません。そのときに皆さんへの影響を最小限にできるよう、この(タネ)が芽吹いたその瞬間に、私諸共に殺すことのできる毒を作ってもらいました。私が入って行った館というのは、この毒を作っているところです」

「嘘だ……」

 

 震える声で言ったのは翔太郎だった。よろよろと後退(あとずさ)って力なくつぶやく。

 

「だって、今だって……太陽の光を浴びてるじゃないか……」

「それはさっきも言ったように、私が完璧な鬼というわけではないからです」

 

 薫は極めて冷静に答えた。

 

「もし鬼殺隊に入らずに、鬼から遠ざかって暮らしていれば、何も気付かぬまま人に紛れて過ごしていたでしょうね。日差しの強い日に、多少、体調を崩すにしろ、それくらいは人にもあることでしょうから」

「じゃあ、鬼と関わらなければ、普通に……?」

 

 綾子が困惑しつつ問いかける。

 薫が頷くと、翔太郎がすぐさま叫んだ。

 

「だったら、鬼殺隊なんて辞めればいい!」

 

 つかつかと歩み寄ると、薫の腕を引っ張りながら怒鳴りつける。

 

「早く、ここから出て下さいよ! いつ、無惨やほかの鬼が襲ってくるかもしれないのに!!」

 

 翔太郎が必死に自分を逃そうとしてくれているのを、薫は有難いと思った。だが、それは到底受け入れられないことだ。

 

「ごめんなさい、翔太郎くん」

 

 薫は翔太郎の手を掴んで、自分の腕から引き剥がした。

 それから秋子や、信子、綾子、スエら、取り囲む隊士たちの顔を一人一人、脳裏に焼き付ける。

 

「私のことを、あなた達が不安に思うのは無理もないことです。でも、お願いします。私は鬼殺隊士として、戦いたいのです。あなた達と一緒に。どうかお願いします」

 

 薫は深く頭を下げた。

 朝の清々しい澄んだ空気とは裏腹に、重い沈黙が続いた。

 

「もし、薫ちゃんが鬼になって、毒が効かんかったら、ウチが斬る」

 

 決然と宣言したのは秋子だった。

 驚いて顔を上げた薫を、秋子はほとんど睨みつけるかのように、見据えてくる。だがその瞳は真っ赤で、強く噛みしめた唇は血色を失い、ブルブルと震えていた。

 秋子は(はな)をスンとすすると、「信子ッ」と(かたわら)らで呆然と立ち尽くす信子に怒鳴りつける。

 ビリッと震えてから、信子はピシリと背筋を伸ばした。一度、深呼吸してから力強く誓う。

 

「ウチも……アコさんと一緒に!」

 

 固く決意した二人を見て、綾子もしっかと薫を見つめながら頷いた。

 集まった隊士たちも、それぞれに頷く。

 泣きそうな者、ぐっと拳を握りしめる者、固く顔を強張らせる者。それぞれに(はら)を固めて、薫を見つめた。

 

「ありがとうございます……!」

 

 薫は泣きそうになるのをこらえて、もう一度頭を下げた。

 そのまま愁嘆場になりそうな、湿っぽくなった雰囲気に喝を入れるように、パンと秋子が手を叩く。

 

「さぁ! みんな、手ェ抜いてられへんで! 今日もしっかり稽古せんと!!」

 

 その掛け声で、隊士たちは三々五々に散っていった。

 訓練を始めると、もはや誰も薫の体のことについて口にしなかった。

 

 薫はしばらく頭を下げたまま動けなかった。

 皆が信じてくれたこと、一緒に戦うと決めてくれたことが、ただただ有難かった。

 

「薫ちゃん」

 

 小さく秋子が呼びかけてくる。

 薫がゆっくり顔を上げると、途端にギュッと抱きしめられた。

 

「絶対、薫ちゃんに誰も、殺させへんからな……!」

 

 喉奥に涙を押し込めたその声は、掠れながらも強く、薫の胸に響く。

 何も言わずとも、秋子はわかってくれていた。薫がもっとも恐れていることを。

 

「……ありがとう……ございます」

 

 薫は唇を震わせながら、感謝する。

 こらえきれなかった涙が一筋だけ、頬を伝った。

 悲壮な二人の決意を、翔太郎だけが複雑な顔で見つめていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 隊士たちに稽古をつけたあと、霞柱である時透(ときとう)無一郎(むいちろう)と地稽古、その後に柱合会議で呼び出された実弥(さねみ)が帰路についたのは、すっかり夜も更けた頃合いだった。

 ふと見上げれば、青く冴えた月が浮かんでいる。

 ほんの一月(ひとつき)ほど前であれば、夜にのんびりと月見しながら歩くなんてことは考えられなかった。

 それもこれも、あの太陽を克服したという鬼 ―― 禰豆子(ねずこ)という少女の鬼のせいだ。

 実弥はどうしても、人間を助けるとかいうその鬼の少女のことを信じられなかったが、彼女の血鬼術によって、音柱の宇髄天元が一命を取り留め、弟である玄弥(げんや)までもが助けられたのだと聞くと、認めざるを得なかった。

 まして()()()()()()()()までもが、禰豆子と類似する存在になってしまったとなれば、否が応でも受け入れるしかない。

 

「森野辺様には、無惨を倒すための毒の調合を手伝っていただいております」

 

 薩見(さつみ)惟親(これちか)に薫の状態について(しつこく)尋ねていると、偶然通りかかったあまねが教えてくれた。

 

「体調がお戻りになられれば、風柱様の(もと)へもおいでになりましょう」

 

 にこやかに釘をさされたのは、それ以上、産屋敷(うぶやしき)家の執事を困らせるなということと、薫が実弥の許を訪れるまでは、そっとしておくように……ということだった。耀哉(かがや)ほどの特異な魅力はなくとも、あまねもまた静かな挙措(きょそ)の中に、どこか抗いがたいものを感じさせる懐の大きさがある。

 あまねは薫に再会したときに、実弥がどういう態度をとるのかまでも見通していたのだろう。柔らかく念を押した。

 

「森野辺様が参られた折には、よくよく、話をなさいますように」

「…………はい」

 

 実弥は仕方なく了承したが。

 

 

 ―――― どうか稽古に参加させてください!

 

 

 案の定というべきか、性懲りもなくというべきか……。

 ようやく元気な姿を確認できたと思えば、相も変わらぬ薫の態度に、心配した分、腹が立った。それこそ弟の玄弥や、例の石頭の隊士同様に、問答無用で拒否するつもりであったのに、結局のところ認めてしまったのは……。

 

 思い出してギリッと奥歯を噛みしめた実弥の目線の先に、見覚えのある顔が立っていた。

 風見(かざみ)翔太郎(しょうたろう)だ。

 門扉の柱に背を(もた)せかけていたが、実弥の姿を見つけて、あわてて駆けてくる。

 

「風柱様!」

 

 実弥は渋面になった。

 正直、翔太郎のことは苦手だった。本来の風柱の嫡流(ちゃくりゅう)家の子孫であるということもそうだが、なにしろ薫に関することで、いちいち実弥につっかかってくるのが鬱陶しい。なるべく相手にしたくなかったが、こうして真っ向から来られては無視するわけにもいかない。

 

「なんだァ?」

 

 仏頂面で尋ねると、翔太郎はひどく思い詰めた顔で見つめたあとに、いきなり頭を下げて叫んだ。

 

「お願いします!」

「はァ? なんだ、いきなり……」

「薫さんを……止めてください!」

 

 その名を聞いた途端に、実弥は固まった。

 本来であれば、翔太郎が薫のことで頼み込んでくるなど有り得ない。その翔太郎がわざわざ夜中に実弥の屋敷にまで訪れてくるほど切羽詰まった状況であることに、一気に全身が冷えた。

 何があったのかを聞くのももどかしい。走り出そうとする実弥の前に、さっと遮るように立ったのは三好秋子だった。

 

「あかんで、風柱様。薫ちゃんの邪魔はさせへん」

 

 手を広げて、秋子は実弥を睨みつける。

 

「どけ」

「どかへん」

 

 押し問答をしていると、背後から翔太郎が怒鳴った。

 

「三好さん! あんただって、本当はあんなのおかしいって思ってるだろ!」

「思わへん! 勝手なこと抜かすな、翔太郎!」

 

 気迫のこもった秋子の怒声に、翔太郎がうっと詰まる。

 実弥はチラと翔太郎を見てから、秋子を静かに見つめた。

 一重の細い瞳は、風柱である実弥を前にしても、落ち着き払っている。長年の戦歴から考えて、それだけの度胸があってもおかしくない。

 

「風柱様……いや、不死川(しなずがわ)さん。あんた、本気で薫ちゃんを救いたいと思うか?」

 

 問うてきたのは、意外にも秋子のほうだった。実弥が眉を寄せると、重ねて尋ねる。

 

「背負う覚悟もなしに、ただ『あかん』やの『駄目』やのと言うつもりなんやったら、薫ちゃんに会わせるわけにはいかん。会ったところで、薫ちゃんが考えを変えるとも思えへん」

「さっきから何をグダグダとホザいてやがる……」

 

 実弥は秋子を睨みつけて言った。

 

「いきなり夜中に来て、あいつに会わすだの会わさないだのと……そんなモン、俺の勝手だろうがァ」

「…………そらそやな」

 

 秋子はあっさり(ほこ)を収めると、フゥとため息をついた。

 実弥の傍らに立つ翔太郎をジロリと見て、顎をしゃくる。

 

「ほな、言うたら? 翔太郎。アンタ、それ言いに来たんやろ」

「なんだァ、一体……」

 

 二人から睨まれて、翔太郎は一歩後退(あとずさ)ってから、小さな声で言った。

 

「薫さんは、毒を()んでるんです。鬼になったとき、すぐに死ねるように」

 

 

<つづく>

 




次回は2024.04.27.更新予定です。


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