彼氏に振られて傷心中の女の子を慰めた結果 (naonakki)
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第1話

 ……しくしく

 

 ……どうしてこうなったのだろう?

 

 僕は今、某ショッピングモールのエレベーター内にいた。

 白い無機質な壁に囲まれたそこは、どこにでもあるような一般的なエレベーターであり、特筆すべき点は何もない。

 しかし現在、そのエレベーターは停止し、天井に備え付けれた電灯も消え、代わりに非常灯から照らされる弱々しい光がエレベーター内を照らしていた。

 つまり僕は今エレベーターに閉じ込められているというわけだ。

 ショッピングモール内の4階にある喫茶店で勉強をしていたら寝落ちし、閉店間際で従業員に起こされ、急いで帰ろうとエレベータに乗ったらこうなったというわけだ。

 エレベータ内に備わっていた緊急用の電話でショッピングモールのスタッフの人に連絡をとったところ、軽度のシステムエラーが原因でエレベータが止まっているということらしい。

 一応20分もすれば動くようになると聞いているので、今は復旧待ちというわけだ。

 つまりエレベータが止まっていることはさして問題ではないのだ。

 そう、今僕が陥っている状況に比べればそんなことは些細なことだろう。

 理由? それは……

 

 ……しくしく

 

 ……。

 

 先ほどからずっとエレベーター内に反響し鳴り響いている嗚咽を交えた泣き声にとうとう耐えられなくなった。

 我慢の限界だ。

 壁を背に体育座りで座り込んでいた僕は、恐る恐るゆっくりと、それまで見ないようにしていた泣き声の発生源に視線を移す。

 

 その視線の先には、非常灯から漏れ出る淡い光に照らされた女の子がいた。

 

 彼女は、僕と同じように体育座りで床に座り込み、顔を自らの膝にうずめ、ずっと泣き続けていた。

 暗くて見づらいが、まず目がいくのは腰まで伸びた流れるような黄金色の髪だ。

 次に、身に着けている学校の制服から伸びる細くすらっとした手足だ。座っていてもそのスタイルのよさがうかがえる。

 さらに補足すると彼女が着ている制服は僕と同じ高校のものだ。

 とはいっても彼女はずっと顔を俯かせ泣いているので、誰かまでは分からない。

 まあ、髪色とスタイルから誰かは予想がつくが。

   

 ……さて、なぜ目の前の女の子がずっと泣き続けているのかだが理由は明白だ。

 

 「……ひ、ひぐっ、ど、どうして急に、別れるだなんて……。」

 

 と、ご丁寧にも悲痛に満ちた独り言がちょくちょく聞こえてくるからだ。

 要は彼氏に振られて悲しんでいるのだろう。

 少なくともエレベータに閉じ込められていることなど、どうでもいいというくらいには、まいっているらしい。

 気持ちは分からないでもないが、この二人きりで閉鎖された空間でずっとこの状況はこちらの精神的にもよくない。めちゃくちゃ気まずい。

 なんだかんだ15分はこの感じだし。

 本当に早くエレベーター復帰してくれないだろうか?

 

 ……しくしく

 

 ……仕方がない、声をかけてみよう。

 

 もしかしたら、彼女も人と会話をすれば多少は気がまぎれるとかあるかもしれない。

 そんな割と軽い気持ちで僕はその女の子に声をかけた。

 

 「……あの、大丈夫ですか?」

 

 僕が声をかけると、女の子はピクッと反応し、鳴き声が鳴り止む。

 瞬間、シンとした沈黙が辺りを支配する。

 急に静かになったことで、否応もなく緊張してしまう。

 そんな中、女の子がその顔をゆっくりとこちらに向けてくる。

 ゴクリと唾を飲み込み、静かにその様子を見守る。

 そしてとうとう女の子の目と僕の目があってしまった。

 

 暗がりであったが、不思議と目の前の女の子の姿は明瞭に見えた。

 

 大きくパッチリとした澄みきった蒼い目、日本人離れした彫りの深い顔の造形美は、さながら絵画作品から出てきたモデルのようであった。

 しかしその綺麗な顔は今尚溢れ出ている涙により、顔はくちゃくちゃになっており、目も充血してしまっている。

 

 彼女のことは知っている。というより予想通りの人物だった。

 名前は、中野ゆりかさん。

 同じ学校の一つ下の後輩だ。

 その中野さんは暮らしはずっと日本らしいが、母親がどこの国かは忘れたが外国の方であり、所謂ハーフなのだ。

 そしてその類まれなる容姿もさることながら、男女隔てなく愛想よく接するその抜群のコミュニケーション能力により、入学早々学内でも話題の中心となっていた有名人だ。

 当然、学校中の男子は中野さんに夢中になった。

 毎日、告白の嵐であり、誰が中野さんと付き合うのかと毎日話題になっていたほどだ。

 そして中野さんが最終的に彼氏に選んだのはバスケ部の主将の人だったはずだ(名前は忘れた)。イケメン、スポーツ万能、頭脳明晰といったどこかの主人公ですかというくらいの完璧人間だったはずだ。

 というわけで誰もが認める美男美女のカップルとして、有名になったのだ。

 そしてそのカップルは順風満帆であり、幸せの絶頂にいた、ということになっていたはずだが……。

 どうも、そうではなかったらしい。

 

 向こうは、潤んだ目をこちらに向けていた。

 彼女が何かを期待しているように見えたのは、果たして僕の自意識過剰だろうか?

 どちらにせよ、この状況ではこちらがなにか喋らなくては。

 そうは思うが気の利いたセリフが思いつかない。

 しかし、このまま黙っているわけにもいかない。

 脳をフル回転させひねり出した言葉が

 

 「あの……、大丈夫?」

 

 だ。いや本当、一生懸命頑張ったことは評価してほしい。

 しかし、傷心中の中野さんはそんな言葉でも胸に来るものがあったのか、それまで以上の涙をボロボロと流しながら

 

 「う、うわああんん!! わ、私、彼氏に振られちゃったのおぉ!!」

 

 突如、決壊したダムのようにむせび泣く中野さんを見て、思わずこう思ってしまった。

 

 ……うわぁ、面倒くさそう、と。

 

 他の男ならば、メンタルが弱っている今の中野さんを見て、優しく慰め、あわよくば自分が次の彼氏に、なんて思う輩がいるかもしれない。

 確かに中野さんは可愛いと思う。

 しかし僕には既に’凄く’可愛い彼女がいるのだ。

 つまり他の男子と違って、僕には中野さんのことは最初から眼中にないわけだ。

 もちろん、中野さんが実は仲の良い友達や身内であったならば色々力になれるように頑張るだろうが、僕たちは完全に他人同士だ。

 そして他人の別れ話ほど面倒くさいものもそうないだろう。

 

 ……でも、そうも言ってられないよな。

 

 目の前で、わんわんと泣く中野さんを見て、遠い目をしながらそう思う。

 それに流石にこの状況で中野さんに冷たくあしらうのは人としてどうかと思う。

 

 「……あの、よければ話くらいは聞くよ?」

 

 というわけで、そう提案する僕。

 まあ、これも人助けだと思おう。困ったときはお互い様というやつだ。

 

 「……うぅ、ほ、本当、にぃ?」

 

 中野さんは、まるで地獄で仏に会ったかのように、潤んだ瞳でこちらを見つめ、嗚咽を交えながら、そう確認してくる。

 不覚にも少し可愛いなんて思ってしまった。

 それを誤魔化すよようにわざとらしく咳ばらいをして口を開く。

 

 「本当だy」

 

 本当だよ、と僕が答えようとしたとき、急にエレベータ内に明るい光が戻り、ガコンという音と共にエレベータが再び動き出した。

 どうやら、復旧したようだ。やった。

 僕が立ち上がると、中野さんも続くように立ち上がった。

 せっかくエレベータが動いたというのに、中野さんの顔は心なしか落ち込んでいるように見えた。気のせいだろうか?

 

 そのまま、エレベータは目的の1階まで下りていき、ポーンという到着音と共に扉が開いた。

 エレベータの扉の外にはこのショッピングモールの責任者らしい人と数人のスタッフがいて、こちらが無事だとわかるとすごい勢いで謝罪をされた。

 お詫びに1万円相当の商品券をもらったので個人的にはむしろ感謝したいくらいだった。

 ……大変だな、ショッピングモールの責任者というのも。

 閉店時間を過ぎていることもあり、普段大勢の人で賑わうショッピングモール内に人影はなかった。ただ、僕たちへの配慮なのか電気だけはついていた。

 外へと続く出口はエレベータから出てすぐのところにあり、僕は静まり返ったショッピングモール内をスタッフの人の先導で出口に向かっていた。

 後ろからぴったりと中野さんもついてきた。

 その間、特に会話はなかった。

 スタッフの人も、僕と中野さんの様子を見て何を思ったのか声をかけてくることはなかった。

 

 そんなこんなあり、僕はようやくショッピングモールの外へと出ることができた。

 時刻は21時半を回っている。親には遅くなるとスマホで連絡をいれているとはいえ、早く帰らないといけない。

 そう思い、今日初めて喋った関係とはいえ、流石に無言で立ち去るのも失礼だと思い、中野さんに「じゃあ」と短く挨拶を投げ、そのまま帰路についた。

 

 しかし

 

 ……ぎゅっ

 

 と、僕の着ている制服のブレザーの袖を弱々しく握り、引き留めてくる存在が。

 それが何かは振り返らなくても分かった。

 

 「……私の話、聞いてくれるって言った。」

 

 ゆっくりと振り返る。

 もちろん、そこにいたのは中野さんだ。

 相変わらず涙声であるものの、少しむっとしたようにそう言う中野さんは、僕を逃がす気はないらしい。

 

 「……そのつもりだったけど、エレベータの外に出られたし、もっと気の知れた友達とかに聞いてもらった方がいいんじゃない?」

 

 僕がそう言うと、なぜか中野さんは傷ついたような表情を浮かべた。

 ……何かまずいことを言っただろうか?

 しかし、こちらが結論を出す前に、中野さんは表情を切り替え、こちらを責めるようにすこし睨みつけてきて、

 

 「……嘘ついたの?」

 「……いや、そうじゃないけど。」

 「……なら、いいよね?」

 

 お願い、と潤んだ目で訴えるようにこちらを見つめながらそう言ってくる中野さん。

 今日初めて言葉を交わした程度の僕にここまで食いついてくるなんて……。

 なぜここまで僕にこだわるんだ?

 中野さんにならもっと仲の良い友達がいるだろうに。

 しかし僕も話を聞くといった手前、ここで断るのは申し訳ない。

 とはいえ、夜遅いのも事実だ。やはり断ろう。

 ここは、やんわりと……。

 

 「……でも、もうこんな時間だし、下手したら警察に補導とかされるかもしれないよ?」

 「……じゃあ、私の家に来たらいい。」

 

 ……ん?

 

 今、なんて言った?

 『私の家に来たらいい』?

 ……どうしてそうなるんだ?

 予想外の返しに一瞬思考が追い付かなくなる。

 中野さんが冗談を言っているようには見えない。

 

 「ほら、いこ。」

 

 僕が、固まっていると中野さんはこちらに寄ってきて腕を強引に引っ張て来て歩き出そうとする。

 中野さんからフローラルの香りが漂ってきて僕の鼻腔ををくすぐってくる。

 そこで、僕の硬直が解けた。

 

 「ちょ、ちょっと待って! 僕たちは男女で今日会話したばかりの関係だ。それなのに、いきなり家に行くだなんておかしいよ。家の人もこんな時間に人が来たら迷惑だろうし。」

 

 僕にしては大きな声でそう言うと中野さんはピタリと止まり、顔を俯かせ、震える声で小さく呟いた。

 

 「……家には誰もいない。……それに私には相談できるような友達もいない。」

 「……え?」

 

 その時の中野さんは、とても小さく、今にも壊れてしまいそうな儚い存在に見えた。顔は見えないが、とても悲しい顔をしていたに違いない。

 

 ……それにしても今の言葉はどういう意味なんだ?

 

 僕はどうすればいいのか分からなくなり、その場で突っ立ていると、中野さんは顔を上げてくる。

 その顔は僕が予想していたよりもずっと、悲しげで見ているこちらが押しつぶされそうなほどだった。

 そこに中野さんから一言

 

 「……迷惑、だった?」

 

 僕は親にさらに遅くなるとだけ、連絡しておいた。



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第2話

 ……うわぁ、中野さんお金持ちだったのか。

 

 ショッピングモールから出発して約15分後、ほぼ強制的に中野さんに連れてこられた先には豪邸があった。

 2階建ての大きく立派な家の横にはこれまた大きな庭がある。

 その庭にはテラスがあり、周りの草木は手入れが行き、悠々とした空間が広がっていた。車2台が停められそうな駐車場もあったが、今は両親が使っているためなのか、そこに車はなかった。どうせ高級車なのだろう。

 ……これが貧富の差というやつか。

 ちなみに僕の一家はアパート暮らしだ。

 まあ、僕は気にしていないけどね。いや本当に。

 

 ショッピングモールからここまでの道中、終始中野さんは無言だった。

 僕が逃げないように腕をがっしりホールドした状態でずんずん歩を進める中野さんと、引きずられるように付いていく僕の姿は周りから奇妙に映っていたようで、かなり注目を浴びてしまった。そもそも中野さんは、日本人離れした見た目とその可愛いさから注目を浴びやすいんだろうけど。

 結構恥ずかしかったが、中野さんはなんともなかったらしい。そんなことを気にする余裕がなかっただけかもしれないが。

 ……同級生に見られてなかったらいいけど。変なうわさがたっても嫌だし。

 

 「ちょっと待っててね。」

 

 久しぶりに口を開いた中野さんはそう言うと、手慣れた手つきで家のドアにカギを差し込みドアをガチャリと開いた。

 そして僕の方へ振り返り、「どうぞ」と家の中へ招いてきた。

 心なしか、その顔は少しだけわくわくというか、何かを楽しみしているように見えた。

 

 「……あの、もう一回考え直したら? 今日知り合った男を家に上がらせるのなんてやめた方がいいよ? ほら、僕おとなしそうに見えるかもしれないけど、何をするか分からないよ?」

 

 僕は最後の抵抗を見せるが、中野さんの先ほどよりも声をワントーン下げた「どうぞ」という言葉に折れた。

 有無を言わさないとはこのことを言うのだろう。さっきまでずっと泣いていたとは思えない。

 ……しかし、本当に女の子の家に上がるとなると少し緊張してきた。

 いくら興味のない女の子とはいえ、初めての他人の家というだけで多少の緊張は生まれてしまうものだろう。

 

 「……お邪魔します。」

 

 一応礼儀として、そう言いながら広々とした玄関へ足を踏み入れる。

 外観と同様に清掃と整理整頓が行き届いた室内だった。

 凄いな……。ここから見えるだけで、ドアが5つくらい見えるんだけど……、何の部屋なんだ?

 まっすぐ伸びるフローリング床の廊下の左右にはドアが複数設置されており、奥の方には2階へ続く階段が見える。

 僕が、自分の家とのあんまりな差にショックを受け、立ち尽くしていると

 

 「私の部屋、2階だから。」

 

 僕の心中など露知らず、中野さんはそう言うと、ついて来いとばかりに足早に廊下を突き進んでいく。

 仕方がないので、僕もその後から大人しくついていく。

 中野さんの部屋は階段を上がったすぐ右手のほうにあり、中野さんはその部屋のドアをガチャリと開き、中へ入っていく。僕もそれに続く。

 中野さんの部屋に入った瞬間、一気にフローラルの香りに包まれた。中野さん自身から漂ってきたあの香りと同じものだ。

 ……前から思っていたけど、なんで女の子ってこんなにいい匂いがするんだろうか?

 若干早まってしまった鼓動を誤魔化すように部屋の中を中野さんにばれない程度に見渡してみる。

 女の子らしいピンクを基調とした部屋は、やはり整理が行き届いており清潔さを感じさせた。

 ぬいぐるみなんかがいくつかあるところを見ると、乙女な部分もあるのだろう。

 部屋が広いことには最早驚きはしなかった。

 

 「どこか適当なところに座って?」

 

 中野さんは、学校指定のカバンを壁に設置されていたフックに掛けるとこちらを振り返り、そう促してくる。

 中野さんは肌触りの良さそうなカーペットが敷かれた部屋の中央付近に女の子座りの形で腰を下ろした。

 僕もそれにならい、中野さんから気持ち距離を開け、腰を下ろす。なぜか正座で。

 

 ……。

 

 そして室内を支配する沈黙。

 

 ……え? どうしろと?

 

 中野さんは、じっとこちらを見つめるばかりで自分から声を発するつもりはなさそうだ。こちらから切り出せということだろうか。

 ……面倒くさいな。

 とはいえ、このままでは僕が解放されるのも遅くなってしまうだろう。

 明日は土曜日とはいえ、今日は早く帰りたい。

 ここは、いち早く中野さんをいい感じに慰めるとしよう。

 

 「えと、じゃあ話を聞こうかな? 何があったの?」

 

 なるべく、笑顔を浮かべながらそう切り出してみる。苦笑いになっていないことを祈る。

 しかし、そんな心配は杞憂だったようだ。

 中野さんは待っていましたとばかりに、急に口を開くとマシンガンを彷彿させる勢いで、彼氏と別れるまでの経緯を話し始めた。

 

 

 

 「……だからね! 結局私の体が目的だったのよ! 酷くない、ねえ? ねえ?」

 「……ソウダネ。」

 

 この家に来てから、既に30分以上が経過していた。

 僕の表情は今どんなだろうか?

 多分だけど枯れ果てているんじゃないだろうか?

 時間的に眠くなってきた上に、元々、面倒だと思っていたこともあり、こちらのメンタルが死にそうになってきた。

 とはいえ、ここで僕が死んだら中野さんが何をしでかすか分からない。

 我慢だ僕。

 

 ちなみに中野さんは、今回は泣かない代わりに大層怒っていられる様子で、自分がいかにひどい目に遭ったかを力説してきた。

 確かに話を聞いていると中野さんの彼氏さんはあんまりだと言わざるを得なかった。

 他の女の子と平気で浮気をし、デートの際にはお金を中野さんに払わせることもしばしば。

 そして、今日放課後にショッピングモール内でデートをしているときに、彼氏がホテルに行こうと中野さんを誘ったらしい。

 付き合って1か月しか経っていなかったこと、色々彼氏に対して不満があったこと、そして貞操観念がしっかりしていたらしい中野さんがそれを断ると、彼氏が逆切れをしてきたらしい。

 そんな女なんかこちらから願い下げだ、と訳の分からない理由で振られてしまったらしい。

 ……まあ、そんな振られ方したら泣きたくもなるか。

 実際、中野さんはいろいろ抱えていた感情が爆発し、ショッピングモール内のベンチに座り込み、泣きに泣いていたらしい。

 しかし閉店時間になったので、泣きながらも、帰るためになんとかエレベータに乗り込んだら、僕がいて、エレベータが停止した、ということらしい。

 個人的な感想としては、そんな彼氏と一か月で縁を切れたのだから良かったじゃんと思っている。

 中野さんなら引く手あまただろうし、少なくともその彼氏よりは、いい人とは出会えることだろう。

 

 中野さんは、ひとしきり不満を口にしたことで気が晴れたのか

 

 「……ふぅ、スッキリしたぁ。」

 

 と、満足げだ。

 ……よかったよ、本当に。……これで帰れる。

 部屋の壁に設置されている、可愛いらしいデザインが施された時計を見ると、時刻は23時に差し掛かろうとしていた。

 

 「じゃあ、話も聞いたことだし僕は帰るよ。もう遅いし。」

 

 そう言い、カバンを持ちそそくさと帰ろうとした時だった。

 

 「……ねえ、ちょっと待ってよ。」

 「……なに?」

 

 部屋のドアノブに手をかけたタイミングで中野さんから待ったがかかった。

 中野さんの話を聞くという当初の目的は達成したはずだ、一体何なんだ?

 何となく嫌な予感がしつつ、中野さんの方へ振り返る。

 そこには、真剣な眼差しでこちらをじっと見つめている中野さんがいた。

 泣いていた時とも、愚痴を吐きまくっていた時とも、また雰囲気が違った。

 何となく、ちゃんと聞いた方がいいのかなと思い僕も聞く体勢をしっかりととる。

 中野さんはしばらく僕を見つめた後、その小さな口を開き、こんなことを聞いてきた

 

 「……私のこと、可愛いと思う?」

 

 ……?

 

 一体、この子は何を言っているのだろうか?

 予想だにしていない質問だったため、ポカンとした表情を浮かべ立ち尽くしてしまう。

 しかし、中野さんの表情はいたって真面目であり、ふざけているわけでも冗談を言っているわけでもないことは伝わってくる。

 なので、僕も疑問に思うことは置いておき、質問に答える。

 

 「可愛い……とは思うよ。」

 

 本当にそう思っていたからそう答えたのだが……。

 ……結構恥ずかしいな。

 彼女にだって面と向かって可愛いだなんて言ったことない僕にとっては、女の子に可愛いという言うことは、かなりハードルが高かったらしい。

 顔が熱くなるのを感じながらも、努めて冷静を装い、中野さんの反応を窺う。

 一方の中野さんは、可愛いなんて言葉は言われ慣れているのか、特に恥ずかしがっている様子はない代わりに、不思議そうな表情を浮かべていた。 

 

 「……ふ~ん? でもその割には私に対して興味が薄いよね、ショッピングモールの時から思ってたけど。部屋に二人きりのこの状況でも、そのまま帰ろうとするし。他の男なら必死に私を慰めてきて、ワンチャン狙ってくるのになぁ、絶対。」

 

 ……何が言いたいんだ中野さんは。

 唐突にそんなことを言ってきた中野さんの真意をつかみきれない。

 後、見たくもなかった女性の腹黒い一面を見てしまった気がする。

 校内での中野さんの性格は、明るく気が利き謙虚で、誰とでも仲良く、と絵に描いたような子と聞いていた。少なくとも、いまのようなセリフを言うような性格ではなかったはずだ。

 猫をかぶっていたのだろうか?

 僕が色々思考を巡らせる中、中野さんは何を思ったのか、こちらを試すような挑戦的な目を向けてきて

 

 「……もしかして、ただ単に意気地なしなだけ? まあ、見た感じ積極的なタイプには見えないもんね。草食系男子ってやつ? ぷっ、今時流行らないよ、そんなの。」

 

 と、馬鹿にしたようにこんなことを言ってきた。

 普段感情を表に出さない僕だったが、さんざん話を聞いてくれた相手にそれはないだろうと、流石にイラッときてしまった。

 

 「……言っておくけど僕には彼女がいるんだよ。中野さんは確かに可愛いとは思うけど、僕の彼女の方がもっと可愛い。だから中野さんなんて最初から眼中にないんだよ。それだけだ。」

 

 と、感情に任せてそんなことを言ってしまった。

 すぐに我に返り、しまったと後悔する。

 ……何を年下の女の子に熱くなっているんだ?

 ムキになるだけこちらの浪費になるだけだ。

 ……早く帰ろう。こんなことになるなら無理やりにでも帰ればよかった。

 そう思いながらも、僕の言葉を受け中野さんがどんな反応をしているのか少し気になり、ちらっと中野さんの方を見た。

 そして僕は止まってしまった。

 

 

 

 中野さんが嬉しそうな笑みを浮かべていたからだ。

 

 

 

 思わず、その姿に魅入ってしまう。

 ……どうして今の流れでそんな顔をしているんだ、という疑問すら出てこなかった。

 中野さんの心の底から浮かべているような笑みは、これまで学校も含めて見かけたどの中野さんよりも可愛いかった。

 澄んだ蒼色の目をキラキラと輝かせながら、中野さんは立ち上がり僕の目の前にまで近づいてきた。僕は一歩も動けない。

 

 そして、僕の目の前に立った中野さんは、バッと頭を下げた。

 中野さんの動きに合わせて金色の艶がかった髪が舞う中、

 

 「さっきは試すようなことをしてごめんなさい! そして、話を聞いてくれてありがとう!」

 

 ときた。

 僕は何が起きているか分からず、ただただ中野さんを見つめることしかできなかった。

 しばらくその体勢でいた中野さんはバッと勢いよく顔を上げると、満面の笑みを浮かべて

 

 「ねえ、私たちお友達になりましょうよ!」

 

 だそうだ。

 

 ……もう訳が分からない。眠いし。

 

 「……ごめん、正直状況が分からなさ過ぎて困ってる。」

 

 僕がそう正直に言うと、中野さんは何が楽しいのか、僕の顔を下から覗き込んできながら、悪戯っぽい笑みを浮かべ

 

 「ふふ、まあ簡単に言うとあなたは、この超美少女の私とお友達になれるという、すごくラッキーなことが起きています!」

 「自分で言うか……。」

 

 げんなりしながら、僕はそう答える一方で、尚嬉しそうに中野さんが、

 

 「はい、じゃあ今更だけど、早速自己紹介ね! あなたは私のこと知ってるみたいだけど。」

 「……まだ友達になるとは言ってない。」

 「私は、中野ゆりかです! はい、あなたの番。」

 

 相変わらずこちらの意見は無視で、友達になるのは強制らしい。

 まあいい、なんでもいいから早く帰って寝たい。

 適当に合わせよう。

 

 「……高坂ひろです。」

 

 かなりのローテンションで自己紹介をしたつもりだったが、それを満足げに見届けた中野さんは、とんでもないことを言ってきた。

 

 「じゃあ、お友達になった記念として今日はお泊り会ということで!」

 

 ここでまたも、中野さんは爆弾を投下してきた。

 流石にそれはまずい。

 まったく状況を理解していないが、確かなのはこのまま流されたら本当にお泊りする流れになる、ということだ。

 彼女がいる手前、他の女の子の部屋に来てる時点でギリギリなのに、その上泊まってしまったら完全にアウトだろう。

 

 「いやいやいや、さっきも言ったけど僕には彼女がいるんだよ。女の子と二人きりでお泊り会なんてできない。今日はもう帰るよ。また、話くらいならいつでも聞くからさ。」

 

 そう言って、半ば無理やり部屋を出ていく。

 

 「ちょ、ちょっと待ってよ。」

 「待たない、帰る。」

 

 慌てたようにこちらを追ってくる中野さんだが、構わずそのまま部屋を出て、玄関まで足早に向かう。

 玄関まで到着し、靴を履いていると、ドタドタと中野さんが追い付いてきて、

 

 「ちょ、ちょっと! 待ってって言ってるじゃない!」

 「流石に今日はもう帰るよ。もうすぐ日が変わるし、早く帰らないと。」

 

 僕がそう言うと、中野さんは、むーと不満気に頬を膨らませ、こちらを恨めしそうに見つめてくるが

 

 「……わかった、今日はもう解散ね。じゃあ、連絡先だけ教えてよ。」

 

 何とかあきらめてくれた。よかった。

 

 「はいこれが僕の連絡先ね。」

 

 僕は、ポケットから格安スマホを取り出すと、L〇NEのIDを中野さんに見せる。

 それを中野さんは素早く自身のスマホに打ち込むと

 

 「ん、それにしても味気ないアイコンね……。」

 「……いいじゃないか別に。」

 

 だめなのだろうか、アイコンが犬の画像では。

 

 「……ねえ、明日は暇なの?」

 「……予定はないけど。」

 

 嫌な予感がしつつも、事実予定はないのでそう答えると、中野さんは嬉しそうに笑いながら

 

 「そっか! じゃあ今日はありがとう! おやすみなさい!」

 「……おやすみ。」

 

 というわけで、僕の奇妙な一日は幕を閉じた。

 色々起きて、いまだに状況が理解できていないが、とにかく終わった。 

 

 ……はぁ、疲れた。

 

 長い溜息をつきながら、トボトボと帰路についた。

 するとすぐにピコンッと軽快な通知音がスマホから鳴った。

 恐る恐る、スマホの通知画面を見ると

 

 明日、朝8時に私の家に集合で♡

 

 と、メッセージが来ていた。

 差出人は、言うまでもないだろう。

 

 ……8時は早すぎるよ。

 



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第3話

 ……うるさい

 

 突如、鳴り響いた電子音に僕の意識が無理やり現実に引き戻される。

 ぼんやりとした頭でその音がスマホから放たれる着信音だと、なんとか理解する。しかし昨日色々あった疲れもあったからなのか、或いは、眠りにつく時間が遅かったためか、僕の意識はまたすぐに夢の世界へと誘われていく。

 そして、しばらくすると着信音が鳴り止んだ。

 こちらが一定時間内に応答しなかったため、自動的に着信が切れたのだろう。

 辺りに静寂が戻り、本格的に僕の意識が途切れようとしたとき、

 再びの着信音。

 

 ……。

 

 流石に起きた。

 重い瞼を持ち上げ、顔を横に向けるとそこには不快な着信音をまき散らしているスマホが目に入った。

 視線をずらし、部屋の壁にかけている時計を見ると、短針が8を少し過ぎている部分を指していた。

 再びスマホに視線を戻す。

 通知画面をよくよく見ると、そこには『中野さん』という文字が表示されていた。

 特に何をすることなく、ぼおっとスマホを見つめているとまた着信が切れた。

 そして、間髪入れず再び鳴り出すスマホ。

 仕方なくスマホを手に取り、画面に表示されている応答マークをタップする。

 

 「……もしもし。」

 

 スマホを耳に当て、寝起きと一発でわかる酷くしゃがれた声で応答する。

 

 「遅いっ!!」

 

 鼓膜が破れた。

 というのは冗談だが寝起きの一発に中野さんの大音量の声は脳内によく響いた。

 そしてこちらが何かを反応する前に矢継ぎ早に言葉が放たれてくる。

 

 「今日8時に私の家って言ったでしょう! 今何時か分かってる? ねえ? というかさっきの感じ、もしかして今起きたの?」

 

 ……朝からこのテンションはきつい。

 僕は、いわゆる低血圧で朝はかなり弱い。

 正直、今も中野さんの言っていることのほとんどが、耳の右から左へと流れていくような感覚だ。

 

 「ちょっと! もしもし? もしも~し! 聞いてる?」

 

 こちらの反応が薄すぎるせいか、中野さんはかなりイラついている様子だ。

 

 「……ごめん、実は今起きた。」

 「それはわかっているわよ!」

 「……そっか、後僕は低血圧なんだ。」

 「……で?」

 

 おっと、中野さんの怒りのボルテージがどんどん上がってきている。これはまずい。

 一応、昨日寝る直前に、8時は早いからせめて昼からにしてほしいとメッセージは送っといたのだが。

 ……まあ、返事は見てないけど、どうせ却下とかいう返事が来ているのだろう。

 でも僕は負けない。土曜日の朝くらいゆっくりしたいというものだ。

 軽く息を吸い、口を開く。

 

 「……お昼からにしてくれない?」

 「却下。すぐに来ないと次学校に行ったとき……」

 

 

 

 後・悔・す・る・わ・よ・?

 

 

 

 そして、通話は切れた。

 

 

 

 

 

 「あれ? ひろが休日のこんな時間に起きてるなんて珍しいね?」

 

 温かなぬくもりを提供してくれていた布団をかなぐり捨てて飛び起きた僕は、そのまま洗面所へ直行し顔を洗っていたのだが、そこへ姉ちゃんがやってきた。

 

 「……まあね、色々あるんだよ。」

 

 タオルで顔を拭きながら姉ちゃんに向きなおる。

 姉ちゃんは僕よりは先に起きていたようだが、まだ起きてからそう時間が経っていないのか、肩の高さで切り揃えられた短めの黒髪は所々がはねており、上下お揃いのダラッとしたゆるめのデザインのスウェット改め寝間着に身を包んでいた。

 こんな姉ちゃんだが、それなりに整った顔とスタイルを持ち、弟の僕から見ても、そこそこモテるんだろうなという感想である。

 実際、これまでちょくちょく告白されていたみたいで、今は同じ3年生のサッカー部の伊達さんという人と付き合っている。その伊達さんとは、姉ちゃんを通じてそれなりに仲良く接してもらっている。誠実そうで裏表のない爽やかイケメンという感じだ。少なくともどこぞのバスケキャプテンよりはできた人間だろう。

 姉ちゃんは、ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべ近づいてきて

 

 「何々? 唯ちゃんとデートにでも行くの? この間初めて手を繋いだったんだっけ?」

 

 僕の肩に腕を回し、がっちりとホールドし、もう片方の手で僕の頬をぐりぐりしながら、そう言ってくる姉ちゃん。

 ……鬱陶しい。

 初めて唯さんと手を繋げたその日、テンションが上がりきってしまい姉ちゃんにすべてを喋ってしまったことが失敗だった。以来、毎日こうしてからかわれ続ける始末だ。

 

 「違うよ、そうであってほしかったけど。……ちょっと’友達’と遊ぶ約束があってね。」

 

 嘘は言っていないはずだ。

 ……それにしても本当、唯さんとのデートだったらどんなによかったか。

 憂鬱オーラ全開でそう答えた僕に違和感を覚えたのだろう、姉ちゃんが怪訝そうな表情を浮かべてくる。

 

 「……ふ~ん? ’友達’ね~? まさか女の子とか?」

 

 ……なんなんだ姉ちゃん? エスパーなのか?

 いきなり核心的な質問をとばしてくる姉ちゃんに思わず、畏怖の念を抱いてしまう。

 そして、どう答えたものかと黙り、考え込んだのがいけなかった。

 姉ちゃんは僕の反応からビンゴだと確信したのだろう。面白そうなものを見つけたとばかりに僕の肩に回していた腕に力を込め、グイッと期待に満ちた顔を近づけてくる。

 

 「え? え? 本当に女の子なの? 誰なの? ねえねえ? 教えて教えて~? ……というかもしかして浮気?」

 

  ちなみに、この態勢になったら答えるまで絶対に離してくれないので、教える以外の選択肢はない。

 と、普段なら諦めるが中野さんのことを言ったら根掘り葉掘り聞かれるに違いない。中野さんの家に早くいかないと僕が後悔する羽目になる。具体的にどう後悔するのかは知らないけど。まあ、逆にそれが怖いのだが。

 ……ここは徹底抗戦だ。

 

 「……確かに女の子だけど、ちょっと今は急いでるからまた今度にして。後、絶対、浮気じゃないから。」

 

 特に最後の言葉を力強く言い放ち、姉ちゃんの拘束から逃れようとする。

 ……ていうか、気にしないようにしてたけどノーブラでくっついてくるなよな。

 実の姉の自宅内でのだらしなさに呆れながらも、抜け出すため体を捻ったりと力を込め続ける。

 

 しかし、ここで姉ちゃんに耳元でこうゾクリとするような冷ややかな声色で囁かれる。

 

 「話してくれないなら、唯ちゃんにひろが休日の朝から女の子と遊びに行ったって言っちゃうよ~?」

 

 

 

 僕は、昨日からの出来事を1から10まで包み隠さずにすべて話した。

 姉ちゃんは、最初は面白がって話を聞いていたものの、話が進むにつれその表情は困惑を含めたものになっていった。

 その姉の様子を疑問に思いつつも、話を続けた。

 そして僕が話し終わった後、姉ちゃんは困ったように一言

 

 「……ひろ、あんた厄介なことに巻き込まれたね。」 

 「それは間違いない。」

 

 僕はそう間髪入れず同意する。

 昨日からの僕に対する中野さんの言動を見ていればそれは明らかだ。

 しかし、うんうんと頷く僕を見た姉ちゃんは少し笑いながら

 

 「違う違う、ひろが言っているのは中野さんのことでしょ? 私が言っているのは高橋君のことだよ。」

 

 ……高橋君? 誰だそれ? 芸人だろうか?

 心当たりがなさ過ぎて、ポカンとした表情を浮かべていると姉ちゃんが呆れた表情を浮かべてくる。

 

 「あんたねぇ……、中野さんのことを振った張本人のことよ。バスケ部のキャプテンもやってるし、見た目はイケメンだからそこそこ有名だと思うけど。」

  

 ああ、そういえばそんな名前だった気がする。忘れてたよ。

 というより、3年生の姉ちゃんでも1年生の中野さんのことを知っていたんだな。まあ校内で知らない人はいないか。

 

 「その高橋君だけど、あまり性格がよくないんだよね。私、高橋君とは同じクラスだから分かるんだけど、プライドが高い上にねちっこいというか器が小さいというかさ……。高橋君が、中野さんのことをこれっきりで完全に縁を切るとは思えないんだよね。高橋君、中野さんにベタ惚れだったしね。」

 「……ちょっと待って。なんでベタ惚れなのに、高橋さんは中野さんのことを振ったんだ?」

 「だから高橋君は器が小さいのよ。ホテルに行くのを断られてプライドが傷ついたから、カッとなってって感じだと思うよ。」

 

 ……なんだそれ? そんな馬鹿みたいな人が本当にいるのだろうか?

 にわかには信じがたいが、昨日、中野さんからも高橋さんがいかに酷い人かというのは、嫌というほど聞いた。恐らく本当なのだろう。

 中野さんも男運がないな……、やはり人間中身も重要ということなのだろう。

 その点、僕の彼女は中身も見た目も完璧なのだから、神様は不公平だと思う。

 

 「というわけで、中野さんと関りを持っていたら、ひろまで高橋君に目を付けられちゃうよってこと。」

 

 なるほど、それで厄介といったのか。

 まあ確かに厄介なのかもしれないけど……

 

 「それは分かったけど、今はとにかく早く中野さんのとこに行かないと。それこそ厄介なことになるんだよ……。」

 

 高橋さん……いや、高橋が何をしてくるかなんてこと、今はどうでもいい。

 とにかく急いで中野さんの家に向かわなければならない。

 まずは目の前の危機を避けるべきだ。

 ……って、もう9時をすぎているじゃないか!?

 スマホで時間を確認すると、すでに中野さんから電話があってから1時間ほどが経過していた。姉ちゃんと長く喋りすぎた。

 僕が時間を確認した途端に慌てだしたのを見て、姉ちゃんは可笑しそうに笑いだした。

 

 「ひろのそういうマイペースなところ、お姉ちゃん大好きだよ!」 

 「……どこがマイペースなんだよ。完全に中野さんペースじゃないか。後、抱き着いてくるな。」

 

 おもむろに抱き着いてきた姉ちゃんをなんとか引きはがそうとするが、姉ちゃんは自分からすっと離れていく。

 そして戸惑う僕の顔を覗き込むと、ニコッと満面の笑みを浮かべて

 

 「……まあ、ひろに何か酷いことしようものなら、私が黙ってないから安心しなさい!」

 

 なんて、頼もしいことを言ってくれた。

 ……これだから、姉ちゃんのことは憎めないんだよな。ずるいと思う。

 そしてようやく姉ちゃんは満足したのか、洗面所から出ていく。

 しかし、姉ちゃんは洗面所から後一歩のところで立ち止まり、こちらを振り返ってくる。

 その姉ちゃんの表情は、先ほどまでとは違う少し真剣なものだった。

 なんだ? と思っているとそこへ姉ちゃんから一言

 

 「……最後に、あまり中野さんに優しくしないようにね? あんたには唯ちゃんがいるんだからね。」

 

 そう言うと、「あ~ぁ、もっと軽くて弄りがいがある話が聞けるって期待してたのにな~」なんてぼやきながら去っていった。

 

 ……どういうことなんだ? 

 少し考えてみたものの、結局姉ちゃんの言葉の意味は分からなかった。

 

 ……と、そんなことより早く行かなければ。

 僕は再び準備に取り掛かった。

 

 

 

 

  

 「……何してたの? ……今10時だけど?」

  

 急ぎ、中野さんの家にやってきた僕を出迎えてくれたのは、絶対零度の表情を浮かべる中野さんだった。

 これはいけない。怒りのあまり中野さんの眉間に皺が寄ってしまっている。

 ここは少し冗談でも交えて場を明るくしよう。 

 

 「ほら? 男の子は朝の準備に時間がかかるんだよ、はは。」

 「は?」

 「……。」

 

 だめか。慣れないことはするものじゃないね。

 まあいいか。

 この最悪の雰囲気だ。もしかしたら、『もう帰って』とか言ってくれるかもしれない。それはそれでラッキーだ。

 僕が心の中でそんなことを考えていると、中野さんは何かをあきらめたように長い溜息をついた後、 

 

 「……まあいいわ。はい、どうぞ?」

 

 と、意外にもあっさり許してくれて家の中へ招いてくる。

 もっと色々面倒なことをされると思っていただけに拍子抜けだ。

 

 「意外とすぐ許してくれるんだね?」

 「意外って何よ。ていうか許さないほうがいいの?」

 「いや、そんなことはないけど。」

 

 見ると、中野さんの不機嫌オーラは今はほとんどなくなり、逆にこれからのことが楽しみだと言わんばかりにご機嫌オーラが出ているようにも見えた。

 そんなに楽しみだったのだろうか?

 ……こんなに簡単に許してもらえるならもっとゆっくり来ればよかった。

 なんてことを考えながら、渋々中野さんの後に続く。

 

 ……それにしても、中野さんの恰好、少し気合が入っているように見えるのは気のせいだろうか?

 季節感にあった白を基調とした可愛いらしいシャツの上に薄いピンク色のカーディガンをはおり、下には紺色のスカートを身に着けていた。その姿は非常に本人に似合っており、街中を歩けば注目の的だろうというものだった。

 ……まあ、唯さんの次くらいには可愛いんじゃないだろうか。

 そんな感想を抱きつつ、玄関に入る瞬間、ちらりとガレージに目を向ける。

 今日もそこは空で両親はいないようだった。

 

 「両親は結構忙しいの?」

 

 気になったので聞いてみた。

 

 「……うん。パパはお医者さんで、ママは弁護士の仕事でここ最近はずっと家に帰ってないんだ。」

 

 自分の部屋に向かいながら、そう答える中野さんの声は凄く寂しそうだった。

 なるほど、医者に弁護士か。お金持ちそうですこと……。

 しかし、家に誰もいないというのは寂しいだろうな。

 うちも両親共に毎日残業で遅く帰ってくるが、姉ちゃんがいるので正直寂しさはあまり感じたことはない。

 僕は、「そっか」と返すことしかできなかった。

 

 少し気まずい空気のまま、中野さんの部屋に到着し、中に入っていく。相変わらず、良い香りが立ち込める中、中野さんは昨日と同様に部屋の中央付近に腰を下ろした。僕も昨日座った場所と同じところに腰を下ろす。

 

 「……それで何をするの?」

 

 気まずい空気を払いのける目的もあって、そう問いかける。 

 というか、純粋に今日何をするつもりで僕を呼んだのかも気になったこともある。

 しかし、ここで予想外の返答。

 

 「う~ん、そうねぇ。なら高坂君の彼女のことを教えてよ?」

 「え……嫌だけど?」

 「拒否権はないわよ。」

 

 なんなんだ急に?

 なぜ、朝に呼び出されて彼女のことを中野さんに喋らなくてはいけないんだ。

 何がしたいんだ?

 中野さんは意地悪そうな笑みを浮かべて、なんとしても聞いてやると言わんばかりだ。

 

 「いいじゃない、恋バナってやつよ。昨日は私の恋バナを聞いたでしょう? 今度はそっちの番よ。」

 

 ……昨日聞いた恋バナって、もしかして高橋に対する不満のことですかね。

 あれ、恋バナっていうのだろうか?

 

 「とにかく嫌だ。絶対。」

 

 僕が断固拒否の姿勢を見ると、中野さんは、むっとした表情を浮かべ、こちらに詰め寄ろうとしてくる。

 何をされても絶対に喋らない。

 そんな強い意志を持つと同時に僕のスマホが鳴った。

 この音は、今日の朝にも聞いた着信音を知らせるものだ。

 

 急に室内に鳴り響いた音によって、中野さんも動きを止めてこちらを見つめている。

 ……よかった、誰か知らないけどナイスタイミングだ。

 このままでは、中野さんに詰め寄られるところだった。

 僕は、スマホをポケットから取り出し、表示画面を確認する。

 

 そして、僕の思考、動きがすべて止まる。

 

 

 

 ……前言撤回、バッドタイミングだ。

 

 

 

 スマホの画面には、『唯さん』と表示されていた。

 



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第4話

 部屋内に鳴り響く着信音

 

 ……唯さんからということは、あのメッセージを見たのだろう。

 というのも、流石に唯さんに無言で二度も中野さんの家に来るのはまずいだろうと、事前に

 

 『急にすみません。一年生の後輩の女の子と会うことになりました。事情は明日絶対話しますので。』

 

 という内容で唯さんに取り急ぎメッセージだけ送っていたのだ。

 唯さんの同意を得ない一方的な内容だとは分かっていたが、やむを得なかった。本当はせめて電話で事情を話したかったが、昨日は夜遅かったし、今日の朝もそんな時間はなかった。

 そして、メッセージの内容を見た唯さんから電話で折り返してきたのだろうと思われる。

 ……でも、まさかこんなタイミングで折り返してくるなんて。

 流石に中野さんも今は、誰から電話が掛かってきたかまでは分かっていないはずだけど、ここで電話に出てしまうと、会話の内容からすぐに彼女から電話が掛かってきたのだと分かるだろう。

 そして、僕の彼女がどんな人なのか問われているこの状況でそれが分かった時、中野さんはどんな行動に出るだろうか……。

 分からないけど、絶対碌なことにならない。

 着信を無視するようで心苦しいが、ここはいったん見送ってすぐに中野さんの邪魔が入らない別の場所で折り返そう。

 

 「……電話出ないの?」

 

 中々電話に出ない僕を訝し気に見つめてくる中野さん。

 ……まずい、怪しまれてる。

 頬に冷や汗が一筋滴る。

 

 「あ、ああ、うん。そこまで急ぎじゃないから後で折り返すよ。」

 

 しかし、中野さんは、そんな僕の不自然な振る舞いを見逃してくれない。

 引き下がるどころが、こちらに全身ごとじりじりと詰め寄ってくる。

 

 「……いいじゃない、今出れば。私気にしないわよ?」

 「……いや、今はいいや。本当に。」

 

 僕があくまで今は電話に出ない姿勢を見せると中野さんは、何かを確信したのか、僕のスマホを凝視した後

 

 「えいっ!」

 「あっ!」

 

 なんと、僕のスマホを取られてしまった。油断も隙もない。

 急なことでこちらが戸惑っていると、中野さんは僕のスマホ画面に表示されている文字を確認してくる。

 一瞬、ピクリと眉が反応した後、じっと画面を見つめる中野さん。

 そして中野さんの中で何か合点がいったのか、こちらに視線を戻してくる。

 

 「……ふ~ん、唯さんね。はい、応答しといたから。」

 

 そう言った中野さんは僕にスマホを返してくる。

 慌ててスマホを受け取り画面を見ると、中野さんが言った通り、既に通話が始まっていた。

 なんてことをしてくれたんだ。

 この中野さんの行動にはかなり腹が立ったが、それをどうこう言うのは後だ。

 

 「もしもし。」

 

 こちらが電話に出ると、スマホ越しにどこか安堵したように息を吞む音が聞こえてくる。

 

 「……あ、出てくれた、よかったあ。ひろ君、もしもし?」

 

 すべてを優しく包み込むような母性に溢れた声が僕の耳をくすぐってくる。

 ……あぁ、この声を聴くだけで癒される。

 先ほどまでの中野さんへの怒りはどこへやら、僕の心が浄化されていく。

 

 「出るの遅れてすみません、唯さん。色々あって……。さっきのメッセージの件ですよね?」

 「……うん。ごめんね。メッセージを今見て。私少し心配になっちゃって……。」

 

 不安を交えたような唯さんの声色に僕の心がズキリと痛む。

 ……それはそうだよな。

 僕だって、急に唯さんが別の男と会うなんて聞いた日には居ても立っても居られないだろう。

 こうなることは分かっていた。本来は、中野さんの誘いを無理しても断るべきだったのだろうけど……。

 そう思いながら、ちらりと目の前にいるはずの中野さんの方へ視線を向ける。

 しかし、いつの間にか中野さんが消えていた。

 あれ? と思いつつあたりを見渡そうとすると、すぐ隣から濃いフローラルの良い香りが漂ってきた。

 ……ん? ってうわっ!?

 香りが漂ってきた方へ視線を向けるといつの間に中野さんが移動してきたのか、僕のすぐ隣にやってきており、自身の耳を僕のスマホの裏側にピタリとくっつけていたのだ。電話に集中していて気付かなかった。

 目的は言わずもがな。僕と唯さんがどんな会話をしているか聞き取るためだろう。

 会話を聞かれるのも嫌だけど、問題はもっと別。距離が近すぎるのだ。僕と中野さんの間には薄いスマホ分の距離感しか空いていないわけで、近いのなんの。中野さんの吐息がうっすら聞こえてくる始末。否応なく緊張感が僕の全身を襲う。

 のけ反って何とか距離を取ろうとするも、中野さんはこちらが距離をとってもすぐに詰めてくる。

 ……くっ、ここでこれ以上抵抗したら逆に中野さんに厄介なことをされる気がする。

 仕方ない、ここはこのまま通話続行だ。中野さんの存在は忘れろ。

 

 「……本当にすみません。明日会った時に詳しい事情はすべて話しますので。」

 「ううん、こっちこそ電話なんかしてごめんね? ひろ君のことだから、困っている人の手助けをしているんだろうなとは思ったんだけど。……その、もしかして私捨てられちゃうじゃないかって考えだしたら怖くなっちゃって。」

 「そ、そんなことあるわけないじゃないですか! 僕は唯さんのことが大好きですよ!」

 「え、……そ、そう。う、うん。ありがとう。」

 

 ……はっ。

 うっかり、本当のことをそのままドスレートに伝えてしまった。

 羞恥のあまり、顔が熱くなっていくのを感じる。恐らく僕の顔は今真っ赤だろう。

 しかしこちら側だけでなく唯さんも、嬉しそうにはしてくれているものの恥ずかしそうに、「うぅ~」なんて言っている。可愛い。

 唯さんの可愛い反応が見れたことでこちらの羞恥心などどこかへ飛んでいき、心に余裕が戻ってくる。

 

 「というわけで今事情を話してもいいんですけど、直接会って話した方がいいと思うので、明日にまた話しますね?」

 「……え? う、うん。分かった。じゃあ明日のデート、楽しみしてるね!」

 「はい! 僕も楽しみです!」

 「うん、だから今日は気兼ねなく中野さんの力になってあげてね?」

 「……ははは、なんとか善処します。」

 

 締まらないセリフと共に幸せな唯さんとの会話が終わった。

 ……はぁ、やっぱり僕の彼女は最高だ。

 こんな僕の愚行にも寛大な心でもって許してくれるんだから。

 それどころか中野さんの心配までするなんて……。

 どこまでできた人間なのだろうか。

 僕が、幸せの余韻に浸っていると、突然

 

 ……ふぅっ

 

 「うわぁっ!」

 

 突然耳に息を吹きかけられ、全身に電流が流れたような感覚に陥る。

 もちろん、犯人は中野さんだ。

 

 「何するんだよ!」

 

 流石の僕も驚いてしまい、大声でそう怒鳴ってしまう。

 しかし、中野さんはそんな僕の様子をつまらなさそうに一瞥すると、

 

 「……別に。ただ、なんとなくむかついたから。」

 「なんだよそれ……。」

 

 中野さんは息を吹きかけた後、元の位置まで戻り昨日見たように体育座りで不貞腐れていた。

 ……もしかして、目の前で順調なカップルの姿を見せつけられたからそうなっているのだろうか?

 まあ、自分が失恋したばかりだからその気持ちは分からないでもないけど、自分から無理やり電話に出させたくせにそれはないだろう。

 しかしそんな正論をぶつけても中野さんの機嫌は直らないだろう、むしろ悪くなるまである。

 ……さて、どうしたものか。まったく相変わらず面倒だなあ。

 そう思っていると意外にも中野さんから口を開いてくる

 

 「……ちゃんと彼女さんに私と会うこと伝えてたんだね? 私の名前も言ってたし。……私の元彼とは大違いね。」

 「まあ、そうだけど。流石に高橋と一緒にはしないでほし……ん?」

 

 あれ?

 今の中野さんの言葉である違和感に気づく。

 そうだ、確かに唯さんはさっきの電話で「中野さんの力になってあげて」と言っていた。

 ……でも僕、唯さんに

 

 

 

 今日、『中野さん』に会うということを伝えてたっけ?

 

 

 

 唯さんには『後輩の女の子』と会うとしか伝えていなかったはずだけど……。

 中野さんがいくら校内で有名といっても、唯さんにとっては学年も違う他人になるだろうから、敢えてそう伝えていたのだ。

 

 「どうしたの?」

 「……いや、何でもない。」

 

 ……まあいいか。電話の最中で僕がポロリと言ったのだろう。気にすることでもない。

 それより今は、目の前の中野さんに意識を向けるべきだ。

 中野さんは相変わらず、不機嫌なオーラを帯びつつも僕に話しかけてくる

 

 「唯さんって3年生の藤宮唯さんだよね?」

 「そうだけど、知っているの?」

 「うん、そりゃあね。3年生の女子の中ではトップクラスで可愛いってそこそこ有名じゃない。」

 「トップクラスじゃなくてトップだけどね。」

 「……あ~はいはい。」

 

 僕が力強く主張するも、面倒くさそうにあしらわれる僕。

 ……今更だけど、僕、一応中野さんの先輩だよね? なぜここまで舐められなくてはいけないのか。

 僕が静かに怒りを感じていると、中野さんは何かを考えるような仕草を見せた後、妙なことを言いだした。

 

 「……う~ん、藤宮さんとは中学の時も一緒だったけど、その時、藤宮さん絡みで何か事件があったような……。」

 「なんだよ、事件って? アイドルにスカウトされたとそんなんじゃないの?」

 「う~ん……、思い出せないわね。」

 

 ……僕の意見は無視ですか。まあいいけど。どうせ大したことでもないだろうしね。

 それにしても僕は唯さんとは中学は一緒じゃなかったらちょっぴり中野さんが羨ましく思える。

 中学生から一緒だったら、その時に告白していたのに。

 

 「……まあいいわ。それにしても明日デートらしいわね?」

 「……まあ。」

 「ふ~ん……。で、どこに行くの?」

 「どこでもいいだろう。」

 「で、どこに行くの?」

 「……水族館に行くんだよ。」

 「ふ~ん。……水族館、ね。午前中から?」

 「……そうだけど。」

 「ふ~ん、そう。」

 

 しっかりと記憶に刻み付けるようにそう返事をする中野さん。もはや何がしたいのか謎だ。

 すると中野さんはいったんは満足したのか、こちらを改めて見つめてきて

 

 「さて、じゃあ恋バナの続きを聞かしてもらおうかしら。」

 「……はいはい、もう抵抗するのはあきらめたよ。何が聞きたいの?」

 「いい心がけね。じゃあ……」

 

 にやりと妖しく笑みをこぼした中野さんを見て、僕は先ほどの発言を後悔した。

 

 

 

 

 

 「……もういい?」

 

 二日連続でゲッソリした僕は、中野さんにそう問いかける。

 あれから1時間以上、告白からデート内容に至るまで根掘り葉掘り喋らされた僕は、既に瀕死状態である。

 まさか、姉ちゃん以外にここまで僕の恋愛事情を喋ることになるとは。

 

 「そうね、面白かったわよ? お疲れ様。」

 

 淡々と帰ってきた中野さんの言葉に僕の中の力が一気に抜けていく。

 ……やっと終わった。

 

 と、思っていたのだが。

 

 「じゃあ、今から何して遊ぶ? あ、でもその前にランチの時間ね。」

 

 僕の中で何かが崩れて落ちていく。

 ……終わりじゃなかったのか。遊びって。

 

 ここで、僕の中に昨日から感じていた疑問がまた再浮上してきた。

 中野さんは僕なんかに構わず他の友達と遊べばいいのだ、会って二日目の僕に拘る必要はないはずなのだ。

 つまり、中野さんが僕に拘る理由が何かあるはずなのだ。

 しかし、昨日中野さんが漏らした言葉、『相談できるような友達がいない』これが気になっていた。

 校内での噂だけを信じるなら中野さんは両の指で数えきれないほどの多くの友達がいるはずなのだ。

 しかし現実はそうなっているようには見えない。

 中野さんは十中八九、何かを悩みを抱えていることは明白だった。

 

 ……少し踏み込んでみるか。

 じゃないと僕の平穏な日々も帰ってこなさそうだしね。

 



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第5話

 「私が料理を作ってあげるわ。結構上手なんだから。」

 

 僕の恋バナ?を聞いてすっかり機嫌の直った中野さんは楽し気な様子で「何を作ろうかしら」なんて呟きながら思考に耽っている。

 

 「ねえ、中野さん。……学校は楽しい?」

 

 そんな中野さんに僕は言葉を投げかける。

 その瞬間、ピタリとまるで冷水を浴びせられたように動きを止める中野さん。

 先ほどの楽し気な表情は見る見る萎れていき、そして僕の方へ濁った碧眼を向けてくる。

 

 「……どうしてそんなこと聞くの?」

 

 重々しい口が開き出てきた言葉には、怒りと悲しみが入り混じっているようだった。先ほどのまでの明るい雰囲気から一変、ピリピリとした緊張が感が室内を包み込む。

 ……この反応、やはり何か問題を抱えているな。

 

 「別に? ただの世間話だよ。……で、どうなの?」

 

 僕は、中野さんの様子の変化に敢えて気付いていないふりをして、そう問い詰める。

 ここで引くわけにはいかない。このまま中野さんが問題を抱えたままでは僕がずっと中野さんに絡まれ続ける可能性があるからだ。

 何か問題があるならば、それを解決してやればいい。

 ……簡単に解決できるような問題だといいけれど。

 

 

 「……楽しくなんてないわ。はい、これでおしまい。……じゃあ私お昼作ってくるから。」

 

 一方的にそう言って部屋から逃げるように出ていこうとする中野さん。

 僕はそんな中野さんの腕を掴み、無理やり引き留める

 ……なんて、どこかのドラマの主人公たいなことはせずにそのまま見送った。

 できるわけがないだろう、僕がそんな真似。

 ……さて、本人が喋ることを拒否する以上こちらから調べるしかないか。面倒だけど。

 原因が学校生活にあることが分かっただけでも成果と考えよう。

 ということでもう今日は帰りたいけど……。

 そんなことを思いながら、思考を切り替えて、今起きている状況を改めて確認し、まずいことになっていることに気付く。

 中野さんお昼ご飯作るって言ってたっけ?

 ……それは困る。

 明日の唯さんとのデートで初めて唯さんの手料理を食べる、ということになっているのだ。

 付き合って2ヶ月、念願の彼女の手料理を食べることができるのだ。

 その前に別の女の子の手料理を食べるなんて論外だ。

 

 「ちょっと待って、中野さん!」

 

 急いで中野さんの後を追いかけ、部屋を飛び出す、ドタドタと騒がしい音を立てながら階段を駆け下りていく。

 中野さんは、階段を降りきったところにいて、僕が慌てて降りてる来る様子を見てギョッとしたように驚いている。

 

 「何よ、うるさいわね!」

 「それはごめん。でも……」

 

 その後、中野さんに事情を説明した。先ほど恋バナと称してすべて話したこともあって、正直に包み隠さず全てを話した。

 どうせ色々ごねてくるのだろうと思いきや、

 

 「……ふ~ん、じゃあしょうがないわね。」

 

 と、意外にも素直にそう納得してくれた。

 中野さんの顔色を窺うも、ほぼ無表情のため、何を考えているかよくわからない。

 逆に怖いな……。

 そんなことを思いつつも、とにかくも危機が回避できたことに、ほっと胸を撫でおろす。

 

 「じゃあ、外食をしましょうか。」

 

 ……休まる暇がないね。そう来たか。

 

 「……解散という選択肢は?」

 「私、パスタが食べたいわ。駅前に行ってみたかったお店があるのよ。」

 「……わかったよ、でもパスタを食べたら本当に解散だからね。これ以上は唯さんに申し訳ないから。」

 

 流石に一日中付き合うわけもいくまいと、僕が少し強めにそう言うと、中野さんは僕の顔をじっと見つめた後、

 

 「……わかった。」

 

 と、小さな声で呟き、同意を示してくる。

 その声は、か細く寂しげであり同情を誘うものであったが、心を鬼にしそれに敢えて反応しない。

 

 「じゃあ、早速行こうか。」

 「……うん。」

 

 

 

 

 

 というわけでパスタ屋に行くことになり、駅前まで徒歩で向かうこととなった。ここから駅前までは歩いてもせいぜい10分ほどになるが、問題が……。

 

 まあ目立つのだ。

 

 何がって? 中野さんに決まっているだろう。

 道行く人のほとんどから視線を向けられているということがはっきり分かる。はっきり言って不愉快だ。

 昨日も目立っていたが、夜ということもあり、人通りは少なかった。しかし今は昼時でしかも駅に近づくにつれ、人通りも多くなってきて向けられる視線の数が比較にならない。

 中野さんは、中身は難ありではあるものの、見た目については、絶世の美少女だ。無理もないのかもしれないけど、普段からこんなに注目を浴びていると思うと少し同情してしまう。

  

 「わぁ、お人形さんみたい」「ね~」「いるんだねぇ、ああいう人って」「芸能人みたい」「男の人の方も結構かっこいいね」

 

 酷い時はこんな風に会話が聞こえてくることもある。

 まあ、今のような内容ならまだいいのだが

 

「うわ、すげえ美人」「やりてえな〜」「な、隣歩いてる男が羨ましいぜ」

 

などという下品なセリフが聞こえてくる時もあるのだ。当人たちは、こちらに聞こえているとは思っていなのだろうけど。

 横目で中野さんの様子を確認するも、中野さんは気にした風はなく淡々としていた。

 ……凄いな。まあ小さい時からずっとこんな風に見られていただろうから慣れているのかもしれないけど。

 

 そしてようやく僕にとっては居心地の悪い移動時間も終わり、ようやくパスタ屋についた。

 そこは最近できたお店らしく、落ち着きのある雰囲気の良さそうなところだった。

 普段は混んでいることが多いらしいが、今回は運のいいことにすぐに席につくことができた。

 

 「で、何にするの?」

 

 来たかったお店に来れたからなのか明るさを取り戻した中野さんが、うきうきしながらそう尋ねてくる。

 ……落ち込んだり、明るくなったり忙しいな。

 

 「カルボナーラで。」

 「……即答ね。」

 

 パスタはカルボナーラと決まっているだろう。あのクリームがたまらないんだよね。食い気味で答えてしまったせいで、中野さんは若干引いているが、僕は家でもパスタをちょくちょく作る程度には結構パスタが好きなので仕方がない。

 正直パスタ屋に行くと聞いた時も密かにテンションが上がってしまったほどだ。

 

 「何? パスタ好きなの?」

 「まあね。特にカルボナーラには目がない。」

 「……ふふっ、そう。ならよかったわ。」

 

 中野さんは、そんな僕のことを見て何がおかしいのか少し笑った。意図せず漏れてしまったといった自然な笑顔だった。

 

 「……何がおかしいんだよ。」

 「別に? ただ、いつも感情を表に出してこないくせにそんな顔もできるんだなって。」

 

 ……僕の顔、そんなに変だったのだろうか?

 だめだ、好きなものを目の前にするといつも我を忘れてします癖があるんだよな……。ちょっと恥ずかしくなってきた。

 

 「いいだろう、別に。」

 「別に何も悪いなんて言ってないじゃない? 可愛かったわよ?」

 「……。」

 

 頬杖を尽きながらニマニマしてくる中野さんを見て、羞恥と悔しさがこみ上げてくるが、言い返すことが見つかなかったので、なるべく感情を顔に出さないようにし、黙っておいた。

 しかし、中野さんはそんな僕の心中はお見通しといったように、ずっとニヤニヤしながらこちらを見ていた。

 

 その後、届けられた素晴らしい味のカルボナーラを頂いた。ちなみに中野さんもカルボナーラを注文していた。中野さんもカルボナーラが好きだったらしい。ちょっと親近感が湧いてしまった。

 他愛もない世間話をしながら食事を進めているとあっという間にパスタを平らげ、お会計の時間となった。

 

 「さて、じゃあおそろそろ行きましょうか。お店も混んできたみたいだし」

 「そうだね。」

 

 見ると、確かに店の入り口には何人かのお客さんが待っていた。本当にすんなり席につけたのはラッキーだったらしい。

 

 「今日は付き合ってもらったわけだし、私が全部奢ってあげるわね。」

 

 と、美味しいパスタを食べられたことで上機嫌なのかは知らないけど、中野さんはやや高いテンションでそんなことを言ってきた。

 ……どうして変なところで律儀なんだ?

 勿論、年下の女の子に奢らせるなんて男としてのプライドが許さない。

 

 「いいよ、自分の分は自分で出すよ。」

 「いいからいいから、その代わり今度また来ましょうね!」

 「……だったらなおさら自分で払う。」

 「ほらほら、他の人の邪魔だからお店の外にいて。」

 

 といって、ほぼ強制的にお店の外に押し出されてしまった。

 後輩に奢られるということになった上に次があるとか……。

 僕が項垂れていると、店の中から妙な視線を感じた。僕がウインドガラス越しにそちらへ視線を向けると、テーブルに座っている同い年くらいの4人の女の子のグループがいて、一斉に視線を逸らされた。そしてヒソヒソ話をしだす。

 ……んん? と訝しげに見ていると、その女の子たちは今度は今まさにレジで会計をしている中野さんを指さし、またヒソヒソ話をしだす。

 何を話しているんだ? と思っていると店の中から中野さんが出てきてそちらに意識が奪われ、女の子たちのことはすぐに意識外へといってしまった。

 

 「ふう、美味しかったわね。」 

 「はい、やっぱり自分の分くらいは払うから。」

 

 そう言って財布からお金を取り出し中野さんに差し出す。

 中野さんはそれを見ると、

 

 「いいわよお金は。……というかその財布に付いている犬のキーホルダーは何? そんなの付けてるの?」

 

 中野さんはお金を一瞥すると僕の財布に付けてあるキーホルダーに興味を示してきた。マルチーズをモチーフにしたフワフワとした触感を楽しめる愛嬌のあるキーホルダーだ。

 僕が犬が好きだと言ったら、なんと唯さんがプレゼントしてくれたのだ。

 ’妙な’重量感はあるものの、個人的には結構好きだ。

 しかも「何かに付けていつも持ち歩いてくれたら嬉しいな」なんて可愛いことを言ってくれたこともあり、財布に付けているのだ。財布は大体肌身離さず持ってるしね。

 

 「いいだろう? 唯さんがプレゼントしてくれたんだよ。」

 「……へぇ。まあいいかどうかはノーコメントだけど。」

 

 と、何やら温かい目で見られてしまった。解せぬ。

 でも姉ちゃんにも「いや~、男子でそれはちょっと……」と言われたな、そういえば。やはり解せぬ。

 いいじゃないか、可愛い彼女からのプレゼントなんだから。

 

 「まあ、とにかく今日は楽しかったわ。色々高坂君のことも知れたしね。」

 

 と、満面の笑みを浮かべた中野さんのその言葉でその日は解散となった。

 何とか最後には満足してくれたようでよかった。

 

 ……やっと解放された。

 でもカルボナーラは美味しかったな。

 

 そんな感想を抱きつつ、帰路についた。

 

 

 

 

 

 髪型よし。

 服装よし。

 財布よし。

 携帯よし。

 シャワーも浴びた。

 今日の予定も完璧に記憶している。

 

 ……準備は完璧だ。

 

 中野さんに振り回された次の日、すなわち日曜日であるこの日。

 唯さんとのデートだ。

 

 集合は9時だが、僕は低血圧による障害を気合で乗り越え、6時に起きて、入念に準備を行っていた。

 服装や髪型についても事前に姉ちゃんに何度も相談したうえで決めた完璧なものになっている。姉ちゃんは服のセンスとかは抜群にいいからいつも助けてもらっているのだ。

 逆にどうも僕は服のセンスが抜群に悪いらしく、姉ちゃんから僕が独断で服を買うのを禁止されているほどだ。

 ……そんなに悪くないと思うけど。

 

 現在の時刻は8時。

 今から出発しても8時半には集合場所に着くだろうが、何が起きるか分からないのだからこれくらいの余裕は持っておいていいだろう。

 

 

 

 

 

 というわけで、集合場所である駅前にやってきた。

 昨日もここに来たが、朝早い時間ということもあり、人通りは昨日ほど多くなかった。

 

 そして8時35分という、僕がここに来て5分くらいしてからのことだった

 

 「お~い! ひろ君!」

 

 と、やや遠くから可愛らしい癒しの声が聞こえてきた。

 光の速さで声のした方へ振り向くと、唯さんが小走りでこちらに向かっている様子が見えた。

 

 ……あぁ、やはり可愛い。というか画になる。

 

 亜麻色の柔らかく艶のある手入れが行き届いた髪は腰の長さまで伸び、唯さんの動きに合わせて上下に揺れ動いている。

 長いまつ毛、垂れ気味の目、小さな口はどれもが、完璧な黄金比率を満たしており、高名な芸術家が創り出した芸術作品を彷彿させる。

 白を基調としたブラウスにベージュ色のスカートから伸びるか細い腕と足は、透き通るような乳白色の肌で包まれている。

うん、可愛い。

 

 ……さあ、最高の一日が始まるぞ。

 



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第6話

 「ごめんね、遅れちゃって。」

 

 集合場所へやってきた唯さんは、ほんのり荒い息を吐きながら、そう謝罪をしてくる。

 

 「とんでもないですよ。まだ集合時間まで20分以上ありますし。逆に早いですよ。」

 

 むしろ集合時間より早く来てくれて嬉しい感情でいっぱいだ。唯さんも少なからず、このデートを楽しみにしてくれているということなのだから。

 まあ、仮に1時間以上遅れてきたとしても、僅かな怒りすら湧いてこない自信があるけどね。

 

 「えへへ、ひろ君なら早めに来てくれてるかなって思って。私もひろ君に早く会いたくて早めに来ちゃった。」

 「そ、そうですか。」

 

 そう言って、悪戯っぽい表情を浮かべて僕の顔を覗きこんでくるものだから、思わず顔を背けてしまう。からかわれているとは分かっているが、僕はこれに反抗する術を知らない。

 ……やばい、顔が熱い。

 

 「……あ、お弁当作ってきてくれたんですね。」

 

 せめて話題を逸らしにかかろうと、唯さんが持っているバスケットを指しながらそう聞いてみる。

 そこで気付いたのだが、唯さんのバスケットを持つ左手の人差し指に絆創膏が貼ってあった。何か怪我でもしたのだろうか? 金曜日にはそんな怪我はしていなかったと思うが。

 

 「うん! 腕によりをかけて作ってきたよ! 初めてひろ君に食べてもらうから張り切っちゃった!」

 「……そうですか、本当に楽しみです。早くお昼になってほしいです。」

 「あはは、そこまで期待されちゃうとちょっぴりプレッシャー感じちゃうな。」

 

 そんな会話をしていると、ふと視界の端にどこかで見たような金色の何かが目に入った。

 ……ん?

 そちらに視線を向けると、そこには何もなかった。

 おかしいな、何かいた気がするんだけど。

 というか、さっきの金色の何か、まさか……。

 ふと頭によぎる、一人の存在。

 ……いや、流石にないよな。たぶん疲れているんだ僕は。

 

 「どうしたの?」

 

 僕が一点を見つめながら何かを考える様子を見せていたため、それを不思議に思ったのか唯さんが、きょとんしながら、そう聞いてくる。

 

 「いえ、なんでもないです。それより早速水族館に行きましょうか。」

 「そう? ……うん、そうだね!」

 

 少々の逡巡の後、僕は唯さんの柔らかい左手を僕の右手で優しく握る。

 唯さんは、「……あ」と少し驚いた様子を見せ、健康的な白い肌を僅かにピンク色に染めながらも、優しく僕の手を握り返してくる。

 唯さんと距離を近づけたことで、唯さんからシトラス系の落ち着いた清涼感のある香りが漂ってくる。

 僕の顔は今、緊張と照れで真っ赤だろう、見なくても分かる。

 

 その後、僕と唯さんは電車に乗り、目的地である水族館がある最寄り駅まで向かった。

 休日の朝早い時間ということもあり、電車の中は最初、そこそこ空き席が目立っていたが、目的地に近づくにつれ、同じく水族館に向かうのであろう家族連れやカップルが増えていった。

 今日向かう水族館は一か月前にオープンしたばかりの新しい水族館だ。イルカショーやペンギンとの触れ合いなど、魅力的なアトラクションが沢山あり、休日は人でごったがえしているらしい。

 正直、人が多い場所は得意ではないが学校でもその水族館は最近一押しのデートスポットであると話題になっていたこともあり、今日その水族館に行くことに決めたのだ。

 

 ……それにしても人多いな。

 電車に揺られること30分、目的地に到着したわけだが周りを見渡す限り、人、人、人だ。

 オープンから一か月も経っているし、まだ開園から間もないこともあり、それなりに人も少なくなっていると予想していたが、完全に裏切られる形になってしまった。

 

 「わ~、凄い人だね。」

 「……そうですね、まさかここまで多いとは。」

 「う~ん、でもそれだけここが魅力的な場所だってことだよ、ね!」

 

 唯さんは、この人ごみを前に嫌な顔をすることなく、眩しい笑顔でそう言ってくる。

 ……本当に、僕には勿体ないほどの彼女だよ。

 これが中野さんなら「人多いわね、鬱陶しい」くらい言いそうなものだ。

 しかし、そんな中野さんの姿を想像すると、なんだかおかしくなり思わず笑みがこぼれてしまう。

 

 

 

 ……って、僕は何を唯さんとのデート中に中野さんことを考えているんだ?

 

 

 

 はっとなり、中野さんのことを頭から振り払うように軽く頭をぶんぶんと振る。

 その後、気持ちを切り替えて事前に購入していたチケットで水族館内に入館した。

 

 結果から言うと、人ごみが気にならないほど夢中になり楽しむことがきた。

 色とりどりの鮮やかな熱帯魚、大迫力のサメであったり、巨大な水槽を優雅に泳ぐエイなどなど普段見ることのできない存在を前にいつしか心を奪われていた。

 唯さんも同じように目をキラキラさせながら水槽を見つめていたので楽しんでくれていたようだ。

 満足してくれているようで、本当によかった。

 

 そして、いよいよ待ちに待ったお昼だ。

 僕たちは、芝生が敷かれた大きな広場にやってきた。

 澄み渡るような青空、真上に昇った太陽から暖かな陽の光が降り注ぐそこは、心地よい風が吹き抜け、昼寝をするにはもってこいの気持ちよさそうな空間が広がっていた。

 この大きな水族館には、このように子供が走り回ることもできる施設もあり、少し離れた場所には遊具がある。これも家族連れに人気がある要因の一つだろう。

 さらにここは、持ち込みのお弁当を食べることができ、周りには、レジャーシートを広げ、食事を楽しんでいる家族やカップルが多く見受けられた。

 僕たちも適当な場所を選び、そこにレジャーシートを広げ、食事の用意を始めた。

 そして

 

 「はい! どうぞ召し上がれ!」

 「……。」

 

 笑顔でそう言った唯さんの前に並べられた弁当箱の中には、おにぎりをはじめとした唐揚げや玉子焼き、ポテトサラダと言った色とりどりの美味しそうなものが沢山詰まっていた。

 僕はあまりの感動に言葉を発せない。

 ……僕の為にこれだけのものを作ってくれるなんて。

 おそらく朝早く起きて色々準備して作ってくれたのだろう。その事実だけで僕の心の中は幸せで満たされる。

 

 「……じゃあ、頂きます。」

 「うん!」

 

 なんとか、そう言葉を出し両手を合わしてから、まずは玉子焼きを口に運ぶ。

 

 「お、おいしい……。」

 

 柔らかく仕上げられ、しっかり味付けのされた玉子焼きは本当に美味しかった。

 僕も姉ちゃんと交代でご飯を作っているが、ここまでの玉子焼きを果たして作れるだろうか?

 何を使っているのかは分からないが、この塩味? のようなものが何ともいえない味わいを出している。後でどんな調味料を使っているのか聞いてみよう。

 そんなことを思いながら、続いて唐揚げやおにぎりも口に運んでいくが、どれも本当に美味しい。

 そして、そのどれにも玉子焼きを食べた時と同じ調味料を使っているようだった。

 それはどの食材にも合っていた。

 

 その後も夢中になって「美味しい、美味しい」と食べていたが、ふと唯さんに視線を向けると、そこには食事に手を付けず、頬を朱色に染め、恍惚とした表情を浮かべこちらを見つめている唯さんがいた。

 ……どうしたのだろうか?

 こんな表情を浮かべる唯さんをみるのは初めてなので少々戸惑ってしまう。僕、何かしただろうか?

 その唯さんは、なぜか絆創膏を貼った右手の人差し指を左手で優しくさすっている。

 ……痛むのだろうか? 

 

 「唯さん、その指どうしたんですか?」

 「……え? あ、あぁ、えっとそのお料理をしている時にちょっと切っちゃってね。」

 

 急に声をかけられ、驚いたような反応を見せる唯さんは我に返ったように、慌てたようにそう答えてくる。

 唯さんでもそんな失敗をするものなんだと、少し意外に思った。

 唯さんは、見た目と性格に続き、頭も良い、運動神経もよいと、なんでもそつなくこなす天才型なのだ。なので余計そう思ってしまった。

 ……しかし、唯さんの綺麗な指に傷をつけるとは、包丁許すまじ。

  

 その後、お昼も食べ終わり、ゆっくりと日向ぼっこをしながら雑談をしていたが、トイレに行きたくなった為、唯さんに一言断りをいれて、トイレに向かった。

 

 ……えーと、トイレはと、こっちか。

 案内板に従ってトイレに向かっていると、何やら不思議な光景が。

 

 

 

 ……あそこにいるのって、もしかしなくても中野さん?

 

 

 

 僕の視線の先には、なぜか中野さんがいた。

 あの流れるような金髪とモデル顔負けのスタイルだ、見間違えるはずもない。

 ……何しているんだよ、こんなところで。

 というか駅前で見た金色の何かは中野さんだったのか?

 この水族館に中野さんがいるのも問題だが、さらに別の問題が。

 

 ……中野さん、絡まれてないか?

 

 何やら、二人組の茶髪の男二人に絡まれているようだ。

 男達の方は見た感じ大学生に見える。その二人は中野さんを壁際に追い込み、必死に口説いているように見えた。

 中野さんの迷惑そうな顔を見るにほぼ間違いないだろう。確実にナンパだ。

 

 迷った。

 このまま中野さんを見て見ぬふりしてやり過ごすか、助けるかをだ。

 

 ……ぱっと手助けして、唯さんの元に帰ろう。

 

 思考の末、このまま無視するのは後味が悪いという結論になり、助けることにした。

 友達として一緒に来たという体でいけばいいだろう。

 そんなことを考えながら、中野さんの元へ近づいていき、

 

 「やあ、中野さん探したよ。……このお二人は友達?」

 「……え?」

 

 中野さんは、僕の登場に心底驚いたように、目を真ん丸に見開いてこちらを見つめてくる。僕のとった行動がとても意外だとでも言いたげだ。

 そして、男の二人も突然の僕の登場に、訝し気な視線を向けてくる。

 

 「……あ、えと、お、遅いわよ! ずっと待ってたんだから!」

 

 すると、中野さんは何を思ったのか僕の元へタタタと小走りで近寄ってくるとあろうことか、僕の腕に自らの腕を組んできた。

 

 「ちょ!」

 

 ぶわぁっと強烈なフローラルの香りと中野さんの柔らかい腕やら体の一部の感触がいっぺんに襲ってきて慌てふためいてしまう。

 僕は友達として声をかけたつもりだが、中野さんは恋人として演じようとしているのだと勘違いしたらしい。

 すると、中野さんはなぜか嬉しそうに満面の笑みを浮かべて

 

 「じゃあ、早速続きを楽しみましょうか!」

 

 そう言って、ナンパしてきていた男たちには目もくれず、ずんずんと歩き出す。勿論腕は組んだまま。

 その中野さんの行動に男たちは「……男連れかよ」「……まあ、そりゃそうか」などと言いながら退散モードだ。

 結果的に、中野さんを助けることには成功したが、その過程がよくない。

 男たちが完全に去ったことを確認すると、僕は無理やり中野さんの腕を引き離す。

 

 「……あ。何よ、もう少し優しくしなさいよ。」

 

 中野さんは、物寂しそうな表情を一瞬浮かべた後、一変、ぷんぷん怒ってくる。

 

 「……どうしてここにいるんだよ?」

 

 僕はそんな中野さんの主張を無視してそう質問を投げかける。

 僕が今日ここで唯さんとデートをすることは昨日中野さんに伝えている。それなのに、この場に中野さんがいるということは、そこに何かしらの目的があることは明白だ。

 元々中野さんが今日ここに来る予定があったならば別だが、そんなことは昨日言っていなかったし、一人で来る場所でもないだろう。

 

 「……別に、昨日高坂君が水族館に行くって言うのを聞いて私も来たくなったから来ただけだし。……でも人は多いし、ナンパはされるし、それに――見失うし。」

 

 バツが悪そうに顔を背けながらそう言う中野さんはそれっきり黙ってしまった。

 最後の方は何を言っているのか分からなかったが、やはり僕には言いにくい何かしらの目的があったらしい。

 デートに来ていた僕に嫌がらせにでも来たのだろうか? そうでないと祈りたいけど。

 

 「……まあいいけど、じゃあ僕は行くよ。」

 

 色々問い詰めたいことはあったものの、ここで中野さんに時間を割くわけにはいかないので僕は早足でその場を離れる。問い詰めるのは後日だ。

 しかし

 

 「あ、ちょ、ちょっと待ってよ。」

 

 中野さんから待ったがかかった。足を止めて顔だけで振り返る。

 

 「そ、その……、助けてくれてありがとう。」

 

 中野さんはちらちらとこちらの様子を伺いながら恥ずかしそうに、しかし嬉しさの感情も含めたようにそう感謝の言葉を紡いできた。

 一瞬、普段とのギャップを感じさせるその姿に目を奪われるものの、すぐに我へと返り

 

 「……どういたしまして。まあ、ナンパには気を付けて。」

 

 そう言って、僕はそのままトイレへと向かった。

 ……何だか締まらないなぁ。

 

 

 

 

 

 「お待たせしました。」

 

  無事、用を足し唯さんの元へ帰ってきた僕を、ほっこりとした笑顔で僕を迎えてくれた。

 そんな唯さんは、しかし何かに気付いたようにこちらにその端正な顔を近づけてきた。

 ……え、なんだ? 

 突然の唯さんの行動に、心臓が跳ね上がり、固まってしまう。

 そんな僕に構わず、唯さんは僕の首元に自身の鼻を近づけると、スンスンと臭いを嗅いできた。

 そして、すっと離れ、じっとこちらを見つめてくる。

 

 「……ねえ、ひろ君。」

 「え……は、はい。」

 

 唯さんは、相変わらず笑顔を浮かべている。しかし、その表情はどこか無理やり作っているような、ちぐはぐしたようなものに見えた。

 そして、その口調。いつもより気持ちトーンが下がったように聞こえたそれは、これまで聞いたことのない重圧のようなものを感じさせた。

 言いようのない緊張感に包まれ、自然と背筋を正し、唯さんの次の言葉を待つ。

 

 「……本当にトイレに行っただけなんだよね?」

 「……。」

 

 も、もしかして中野さんを助けたことがばれた?

 いや、隠していたつもりもないが。

 先ほど、唯さんは僕の臭いを嗅いでいた。

 そう言えば、中野さんからはフローラルの香りがしている。もしかして中野さんが腕を組んできたときに臭いが移ったのだろうか?

 

 「……えと、実はなぜかトイレに行く途中に中野さんがいて、ナンパに困ってたので助けました。」

 

 と、正直に答えた。

 唯さんは、笑顔を崩さないものの中野さんというワードを聞いた瞬間、その眉をピクリと動かした。

 しかしその心中までは測り得ない。

 

 「そっか~、ひろ君は本当に優しいね。」

 「……い、いえ。」

 

 そう言う唯さんだが、その言葉はどこか棒読みであり、本心からそう言っているわけではないと分かる。

 唯さんの変わりように動揺を隠し切れない。

 ……怒っているのだろう。

 やはりデート中に他の女の子と接点を持ってはいけなかったのだろう。

 ……反省だ。そうだよ、ああいう場面に遭遇してもここのスタッフに通報するなど他に手段はあった。

 昨日に引き続き、唯さんには申しわけが立たない。

 

 「……あの、すみません。デート中に他の女の子と絡むような真似をしてしまって。」

 「ううん。困っている人がいたら助ける、人として当然のことだよ。でもそっか……」

 

 

 

  

 

 中野さん……ね……。 

 

 

 

 

 

 ゾクリ

 思わず僕の背中に何か冷たいものが走ったような気がした。

 最後にそう呟いた唯さんの表情は、にこにことしていたものの、その奥に何か形容しがたい負の感情のようなものを感じた。

 しかしそれもほんの一瞬。

 ……なんだ今のは? 見間違い?

 

 「じゃあ、そろそろ行こっか。お昼からはメインのイルカショーだもんね。」

 

 唯さんは、この話は終わりとばかりに話を切り替えてくる。

 その表情はいつもの、優しく癒しを与えてくれるものだった。

 先ほどの雰囲気が嘘のようだ。

 唯さんの変化に戸惑うこともあったが、僕も気持ちを切り替える。

 何はともあれ、悪いのは全部僕なんだ。今後はもっと自身の行動に気をつけよう。

 

 「そうですね。ここのイルカショーは迫力が凄いって噂ですから楽しみです。」

 「ふふふ、そうだね。」

 

 そういうわけで僕たちは、その後、ペンギンとの触れ合いゾーン、イルカショーといったこの水族館の目玉を回った。

 ……これが本当に楽しかった。

 午前中も当然楽しかったが、午後の特に、イルカショーは噂通り、いや噂以上に面白かった。

 

 この水族館デートは成功といっていいだろう。唯さんを怒らせてしまったことは失態だったが、それは僕が今後気を付ければいいだろう。

 中野さんがなぜ、水族館に来ていたかは明日聞くとしよう。

 ちなみに昨日の中野さんとのやり取りも約束通り話そうとしたけど、「ひろ君のことは信じているから」と言ってくれたので、中野さんとのやり取りを話すことはしなかった。

 夕方頃には唯さんと別れ、それぞれ帰路についた。

 足取りも軽やかに自宅であるボロアパートにたどり着いた僕は、その日あったことを姉ちゃんに報告し、次の日の学校に備えて早めに就寝した。

 

 ……あ、そう言えば唯さんが何の調味料を使っているのか聞くの忘れたな。

 まあいいか、今度聞こう。

 

 

 

 そして次の日の学校。事件は起きた。

 



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第7話

誤字修正報告して頂いた方、ありがとうございましたm(__)m

今回少し長めです。


 朝礼が始まるまで15分といったこの時間帯。

 今登校してきた者、部活の朝練を終えた者、多くの生徒が慌ただしく校内を動き回り、自身が所属するクラスの教室へと向かう中、ここ屋上へと繋がる階段の踊り場は異様なほど静寂に包まれていた。

 屋上は、昼休みでこそ人気のスポットではあるもののこの時間帯に屋上に来るもの好きはいない。

 そんな屋上へと続く階段の踊り場に二つの人影。

 

 「それで先生、こんな時間に私を呼び出して何の用ですか?」

 「あぁ、ごめんね。急なお願いで。」

 

 僕のことを先生と呼んだこの子は、一年生の立花まいかさん。

 しっかりとケアの行き届いた光沢のある真っ黒な髪は、両サイドを耳より低い位置で結ったカントリースタイルのツインテールであり、整った顔であるもののどこか鋭利な印象を与える少しだけ吊り上がったその瞳が特徴的だ。

 アイロンのかけられた制服を校則通りに着用する彼女は、平均よりも低めの身長であり、思わず守ってあげたくなるような小動物的な可愛らしさがある。

 その立花さんはなぜ呼ばれたのかと、見当がつかないようで訝し気にこちらを見つめてくる。

 僕が今日立花さんを呼び出した理由は一つだ。

 中野さんの学校生活を調べるためだ。中野さんのことを調べるためには同じ学年の女の子に聞くのが一番よいと思ったからだ。

 なぜ立花さんかというと、それは僕に一年生で信用のできる知り合いの女の子が立花さん以外いないという情けない理由によるものだ。

 

 「今日呼んだのは、中野ゆりかさんについて聞きたいからなんだ。」

 

 ぽかん、と吊り気味の目を見開き、意外そうに僕を見つめてくる立花さん。

 まあ、そういう反応になるよな……。

 

 「……すみません、予想外のことだったので少し戸惑ってしまいました。中野さんというと、あのハーフの綺麗な方ですよね? でもまたどうして? 先生のことですから何か理由があるのでしょうけど。」

 

 だが、ここは聡明で真面目な立花さん。姉ちゃんと違ってふざける様子もなく、真摯な態度でこちらに続きを促してくれる。

 本当、立花さんの爪の垢を煎じて姉ちゃんに飲ませたいくらいだよ。

 

 「……まあ、色々あってね。訳を聞くのはできるだけ遠慮してほしいんだけどいいかな?」

 

 姉ちゃんには話してしまったが、訳を全部話すとなると中野さんのプライバシーに関わるので僕がそう聞くと、立花さんは顎に手を当て、少し考える様子を見せた後、

 

 「……そうですね、今週一日多く勉強を見てくれるならばいいですよ。」

 「そんなことでいいの? まあこちらとしてはありがたいけど。」

 

 少々S気味な性格の立花さんのことだからもっとキツイ条件を出されるかと思いきや、存外軽い条件であったためほっと胸を撫でおろす。

 

 「私としては凄くありがたいことですよ? それとももっと厳しい条件を出してほしかったのですか?」

 「いえ、結構です。」

 「……そこまで食い気味に答えられると、厳しい条件を出してやろうと思ってしまいますね。」

 「……え。」

 

 獲物を見るような目で、ニヤリとした笑みを浮かべながら見つめてくる立花さんを見て思わず冷や汗が吹きだしてくる。

 ……余計なことを言ってしまったらしい。

 

 「……冗談ですよ、そこまで怯えられるとショックを受けてしまいます。それで何を聞きたいんですか? 中野さんとは同じクラスですので、ある程度は答えられると思いますよ。」

 

 立花さんはそう言い、素の表情に戻るとそう促してくる。

 心臓に悪いのでそう言うことはやめて欲しいものだ。

 

 「えぇとね、では改めて。中野さんが学校生活を楽しんでいそうかどうかを聞きたいんだ。」

 「……はぁ、また妙なことを聞きますね? 中野さんと言えば今や学校のアイドル的な存在でしょう? 楽しんでいるかどうかは、火を見るよりも明らかだと思いますが。」

 「それがそうでもないみたいなんだよ。確かにうわさだけを信じると楽しんでいるんだろうけどね。」

 「そうでもないというのは、本人から聞いたのですか?」

 「……まあ、ね。」

 

 少し迷ったものの、そこは正直に答えた。

 僕の答えを聞いた立花さんは、「ふむ、なるほど」と言うと、何やら考える様子を見せる。

 僕が本人から聞いた、という点については追及してこない。このように立花さんは、相手が追及されたくなさそうなこと察すると必要以上に詮索してこないので、ありがたい。

 そして立花さんが顔を上げてくる

 

 「……思い当たるとすれば、女子生徒からの嫉妬でしょうか。」

 「嫉妬?」

 「ええ、中野さんは入学以降毎日、たくさんの男子生徒に囲まれています。その輪の中には、女子生徒もいますが中野さんが目的というよりは中野さんに寄る男子生徒が目的と言った感じですね。真に中野さんと仲の良い友達はいない、と思います。恐らくですが。」

 「……そうだったのか。もしかして虐めとかも?」

 「いえ、虐めなどにはつながっていないようです。中野さん自身、非常に謙虚で誰に対してでも優しく接していますからね。でも女子生徒からはどこか距離を置かれているようには見えますね。」

 

 ……謙虚で明るい、ね。

 誰だそれ?

 やはり、中野さんは学校では猫を被っているようだ。

 

 「……まあ、虐めに繋がっていないならまだよかった。でも男子とは仲良くしているということだよね?」

 「……どうですかね。確かに中野さんは誰に対しても愛想よく接しているのでそう見えますね。ただ私から見れば下心丸見えの男子に囲まれて果たして幸せなのかって感じですけどね。」

 

 顔を顰めながらそう言う立花さんの言葉に、中野さんと一緒に町中を歩いたときの記憶が蘇る。常に注目され、男の劣情が見え隠れするあの日のことを。

 中野さんは、何ともないように振舞っていた。しかし、だからといってそういった人たちと仲良くできるかどうかはまた別の問題だろう。

 僕が、そんなことを考えていると立花さんが「でも」と続ける。

 

 「3年生の高橋先輩と付き合い始めて多少はマシになりましたけどね。誰もが認めるカップルでしたし、言い寄る男子生徒もかなり減り、女子からの嫉妬も減ったように見えます。まあ、あくまでも個人的な見解ですが。」

 

 ……なるほど、高橋と付き合ったことは失敗とばかり思っていたけどそんな効果もあったのか。

 でも、その高橋と別れてしまったことが校内に広まれば、また元の状態に戻ってしまうのでは?

 それに姉ちゃんから聞いていた高橋の厄介な性格ゆえに下手したら前より酷い状況になる可能性も……。

 思っていたよりも状況が深刻なことに思わず頭を抱えていると

 

 「私から教えられることはこれくらいですかね。何やらややこしい問題を抱えているようですが、私で力になれることがあればいつでも力になりますので。」

 

 と、心強いことを立花さんが投げかけてくれる。

 ちょうど、校内にも朝礼5分前の予鈴が鳴り響く。頃合いだろう。

 

 「ありがとう、助かったよ。それより約束の勉強を見る件だけど、いつにしようか?」

 「そうですね、迷惑でなければ今日でいいでしょうか?」

 「了解、じゃあいつも通りの時間に行くね。」

 「はい。楽しみにしてますね、先生。」

 

 立花さんは柔らかい笑みを浮かべると丁寧にお辞儀し、落ち着いた足取りでその場を去って行った。

 ……本当にいい後輩だよ。

 立花さんの小さくなっていく背中を見ながらしみじみそう思う。

 たまに僕をからかってくるのはいただけないけど。

 

 そういえば、立花さんと知り合ってもう3カ月ほどになるのか……。

 僕と立花さんの関係性は、家庭教師とその生徒だ。

 僕の家庭は、残念ながら世間一般から見れば、あまり裕福でない部類に当てはまってしまう。そのため、他の家庭の様に親からお小遣いをもらうことはできず、お金が欲しいなら自分で稼ぐしかないのだ。

 そこで僕は現在、アルバイトとして週に1,2度のペースで家庭教師をしている。

 実は僕は結構勉強を頑張っている。学年でも常に5位以内の順位はキープしており、何度か1位の座にもついている。理由は明白でお金がかからない国公立の大学へ行き、さらには大学へ進学後に奨学金補助を受ける為、一定以上の学力は維持するようにしているからだ。

 そういった意味では家庭教師というアルバイトはうってつけだった。

 立花さんも相当頭がよく、この間の中間テストでも2位という好成績を残している。その立花さんに勉強を教えることは、自身の復習にも繋がるからだ。

 通常、高校二年生である僕が高校一年生の後輩の家庭教師をするという構図がおかしい気もするが、これは立花さんの希望だ。というのも立川さん曰く、年の近い人に教えてもらったほうが勉強を教えてもらう上で近い目線で共感できる部分が多いということや、受験に対してどのような対策を練っているか等のリアルな情報を得れるということに利点があるらしい。

 凄いと思うのが立花さんの行動力だった。一年生の入学式のその日に、なんと立花さんは直接僕のところに来て家庭教師になってくれと依頼してきたのだ。なんでも一番成績が良い先輩に直接依頼する方が手っ取り早いということらしい。僕が直近のテストで1位をとった時だった為、それを知った立花さんは僕のところに来たらしかった。

 二年生である僕の教室まで乗り込んできたものだから、クラス内が軽い騒ぎになったのを今でも覚えているよ。

 それまで僕はコンビニのバイトをしていたが、どう考えても家庭教師の方が、僕側にしても学力向上のメリットがあり、それなりの時給も提示してくれたので、二つ返事で承諾した。それ以降、僕は立花さんに先生と呼ばれているというわけだ。

 

 これは、唯さんと付き合う約1カ月ほど前の話になるが、一応年下の女の子に勉強を教えるという構図には変わらないので、今は唯さんの許可も得たうえで引き続き家庭教師をしている。

 本当は、唯さんと付き合ったタイミングで家庭教師のバイトを辞めようとしたのだが、自分のせいで好条件のアルバイトをやめてほしくないと唯さんに逆にお願いされたのだ。

 僕はそんなことは気にしなくていいと、少し言い争いになったが、唯さんが全く折れる様子がなかったため、結局そのまま今に至っている。

 ……唯さんの気持ちは凄くありがたいけど、もう少し自分の欲求も出してくれるとこちらとしても嬉しいんだけどね。

 唯さんはいつも自分の意見は隠し、僕の意思を尊重する節がある。謙虚なことはいいし、僕としてもそれを非難する気にはなれないけど、どこか距離を感じちゃうときがあるんだよね。

 まあ、これからもっと距離を詰めてもらえるように頑張れってことか。

 そんなことを思いながら、教室へ向かった。

 

 

 

 

 

その後、授業の合間に中野さんの問題についてどうすれば解決すればいいかと考えていたが、解決策としては、中野さんに新しい彼氏さんを作ってもらうくらいしか思いつかなかった。

 勿論、問題は山積みだ。

 まずは中野さんがストレスを抱えず、何もかもさらけ出すことのできる人のいい彼氏さんである必要がある。そうでないとまた別れることになりかねないからね。

 さらには、高橋も含めた男子生徒と女子生徒も皆が中野さんの彼氏として相応しいと認めざるを得ないような人物が望ましい。でないと、未だ中野さんに未練があるであろう高橋や他の男子生徒からの嫉妬や嫌がらせ等で彼氏さんが潰されてしまう恐れがあるからだ。ドラマのように周りの批判を乗り越えて二人の愛を貫いてくれればハッピーエンドだが、現実はそう上手くいかないだろう。

 理想はある程度高橋のスペックに近い男子生徒でそれなりに人望がある人物だ。

 しかし、そんな人いるのだろうか……。

 まあそもそも、今の中野さんは高橋のせいで彼氏という存在そのものに嫌気がさしているような節さえあるが……。

 本当に、高橋が良いとまで言わなくても普通の性格をしていれば万事解決だったのに……。

 

 うむむと、昼休みにも自席で頭を抱えていたが埒があかないので気分転換に屋上に行くことにした。

 クラス内の仲の良い友人たちにも「難しい顔をしているけどどうした?」「何か悩み事?」と心配されてしまったしね。

 僕の周りに集まり雑談をしていた数人の男女の友人に断りを入れ、教室を出て屋上へと向かう。

 

 「あれ、ひろじゃないか!」

 

 僕が屋上へと向かう階段を上っていると、後ろから元気な明るい声をかけられる。

 振り返ると、そこには伊達さんがいた。姉ちゃんの彼氏さんだ。

 伊達さんは友達数人と行動してたようだが、その人たちに先に教室へ行っておいてくれと伝えている。

 短く切り揃えられたスポーツ刈りと日焼けした肌がよく似合う爽やかイケメンという感じだ。

 その伊達さんはニカッと眩しい笑顔を浮かべながら僕の元へ寄ってくる。

 

 「どうも、お久しぶりです、伊達さん。」

 

 姉ちゃんの彼氏さんとはいえ、先輩であることに変わりはないので、軽くぺこりと敬語で挨拶を返す。

 

 「そうだな! それより、あいから聞いたぜ? 藤宮さんとうまくいっているらしいじゃないか。昨日も水族館デート楽しんだんだってな?」

 「……どうして昨日の今日で伊達さんがそれを知っているんですか? 後、声が大きいですよ、僕が唯さんと付き合っているのは非公開なので。」

 

 そう、なぜか唯さんはあまり周りに付き合っていることを知られたくないらしく秘密のお付き合いをしているのだ。唯さんと付き合っていることを校内で知っているのは、姉ちゃんと伊達さん、後は立花さんと中野さんの4人のみだ。

 

 「あ、そうか悪い悪い。……そういえば、なんで藤宮さんと付き合っているの非公開なんだ? 別にやましいことがあるわけでもないだろう?」

 「僕は別にいいんですけどね。唯さんがあまり周りからそういう恋愛に関することを聞かれたくないらしくて。」

 「ふ~ん、まあ彼女さんがそう言うなら仕方ないわな~。」

「そういえば、高橋……先輩に何か変わったことありませんでした?」

 

 姉ちゃんに忠告された高橋の危険性も多少気にしていたので、折角なのでそう聞いてみた。

 

 「ん? 健太のことか? ……そういえば彼女がどうのこうの言ってたような気がするけど。でもひろ、健太と面識あったっけ?」

 「いえ、別に面識はないんですけど、ちょっと。」

 「そうか? まあいいけど。」

 

 彼女のこと、つまり中野さんのことをどうのこうの言ってたのか……。

 伊達さんの口ぶりからそれなりに高橋とは仲が良さそうだが、詳細までは知らないようだ。

 ……まずいな。何をするつもりか知らないけど、中野さんが面倒毎に巻き込まれたら僕がまた中野さんに振り回される可能性があるじゃないか。

 とはいえ、対策があるわけでもない。やはりここは気分転換に屋上へ行こう。

 

 「そうですか。ありがとうございます。じゃあ僕は屋上へ行って外の空気を吸おうと思うので。」

 「お、なら俺も行こうかな。久しぶりに彼女の弟ともコミュニケーションをとらないとだしな!」

 

 ということで、二人で最近行ったデートスポットでどこがよかったなどと、雑談をしながら屋上へと向かっていく。

 伊達さんは裏表のないさばさばした性格で、変に勘ぐったりしない真っすぐな思考回路の持ち主であり、僕のことも凄く可愛がってくれるので僕も伊達さんにはかなり信頼をよしている。なにより唯さんのことを相談できる唯一の同性であるということもかなり大きい。

 あっという間に屋上の扉の前に到着し、厚めの鉄製の扉を開いていく。

 太陽光が視界いっぱいに入り、一瞬目を細め、すぐに目をゆっくりと開いていく。

 そこには、既に僕達以外にもそれなりの生徒達がいて、それぞれ思い思いの時間を過ごしていた。おしゃべりに夢中になる女子生徒達、ふざけ合っている男子生徒達、それらから発せられる声が空気に溶けていくこの空間は平穏そのものだった。

 僕たちが適当な場所を探すため、歩いていると突如、穏やかな雰囲気を切り裂く、荒々しい声が聞こえた。

 

 

 

 「はぁ!? もう恋人には戻れないってどういうことだよ!!」

 

 

 

 屋上にいた生徒たちが一斉に何事かと、その声の発生源に視線を移す。

 先ほどまで鳴り響いていた声は止み、シンと静寂が屋上を支配する。

 僕と伊達さんも同様にその発生源に目を向ける。

 そこには

 

 「だから私は、もう先輩とはお付き合いできませんと言いました!」

 

 なんと、今日一日中僕の思考の中心であった中野さんであった。

 学校の制服に身を包む中野さんはある男子生徒に迫られていた。

 昨日もそうだけど、中野さんはよく絡まれてるなぁ……。

 嘆息しながらもその様子をしっかりと観察する。

 中野さんに迫っている男子生徒は、しっかりセットされた髪型に端正な顔立ち、スタイルもよく男の僕から見てもイケメンだと言わざるを得ない。恐らく高橋だろう。

 状況から見て、復縁を迫った高橋を中野さんが拒絶しているのだろう。

 ……高橋、本当に中野さんのことを諦めていなかったのか。姉ちゃんの言う通りじゃないか。

 その高橋は、中野さんからはっきりと拒絶されたことを理解すると、その顔を怒りで赤く染め、

 

 「……このっ! 調子に乗るなよ! この前のデートのことは忘れてやるって言っているのに!」

 「ふざけないで! 体目的の人となんて付き合えないって言っているのよ!」

 

 この二人の言い争いを聞いた生徒たちがザワザワと騒ぎ出した。

 それはそうだろう、校内一の美男美女が言い争っているこの状況を気にするなというほうが無理だ。伊達さんも「おいおい、凄いことになってるな……」なんて漏らしている。

 

 「うるさいっ! お前は黙って俺の言うことを聞いていればいいんだ!」

 

 乱暴な言葉を吐きながら、高橋は中野さんの肩を強引に掴み出す。

 結構な力で掴まれているのか、苦悶の表情を浮かべる中野さんは「ちょ、痛い……」と、目尻に涙を浮かばしている。腐っても高橋は運動部だ。高橋の力に中野さんがあらがえるはずもない。

 周囲も「ちょっと、先生呼んだ方がいいんじゃないの?」と焦りの声が出てきた。

 しかし、どう見ても今の高橋は怒りによって半分理性を失っている。

 果たして先生を呼びに行っている時間があるだろうか?

 その間に中野さんが無事な保証があるだろうか?

 そこまで考えた時には体が動いていた。

 

 

 

 「……あ~、その辺にしたほうがいいですよ。高橋先輩。」

 

 

 

 気付けば僕は、高橋と中野さんの元へ走り寄り、そう声をかけていた。

 極力、中野さんには関わりたくなかったが、流石に泣きそうになっている女の子を前に無視を決めるほど僕も腐ってはいない。一応、友達でもあるらしいからね。

 衝動的な行動だったとはいえ、僕はそこそこ冷静だった。

 姉ちゃんから事前に高橋の危険性を、そして伊達さんからも先ほど高橋についての情報を入手していたこともあり、こんな事態になるかもと予測できたことも大きかったかもしれない。まあこんなに早く事が起きるとは思わなかったけど。

 ここは高橋にこの場で騒ぎを大きくしても誰も得しないですよと忠告してやればいい。

 高橋は半分理性を失っているが、逆に言えば半分は理性がある。

 一応、高橋も賢いはずなので冷静に刺激しないように誘導すればその矛先を収めてくれるだろう。

 根本的な解決にはならないだろうが、先延ばしにして解決のための策を練る時間を稼ぐことはできるはずだ。

 そんな考えの元での行動だった。

 

 「あぁ!? 誰だお前は!」

 

 鬱陶しそうにこちらを振り向き、怒りを隠すこともなく叫んでくる高橋。

 はっきり言って怖いが、ここで引き下がるわけにはいかない。

 中野さんも僕の存在を確認するが、いつもの強気な姿勢はなく、今にも崩れそうな表情を浮かべ助けてとばかりに揺れる瞳でこちらを見つめてくる。

 ……そんな目で見てくるなよ。

 

 「僕は、二年生の高坂ひろと言います。何やら言い争いをしているようでしたので事情を聞こうかと。」

 「……高坂? あぁ、高坂の弟か。今こっちは忙しいんだ。ほっとけ!」

 

 向こうが僕のことを知っていたのは意外だったが、今はそんなことどうでもいい。

 ……さて、ここからどう高橋を説得していくか。

 僕が、どうすれば平和的にこの場を収められるか思考を働かせている時だった。

 

 

 

 ……ぎゅ

 

 

 

 僕に気を取られて高橋の手が緩んだのだろう。中野さんは高橋に掴まれていた手を振りほどき、僕の元へ駆け寄ってきて高橋から隠れるように僕の背へ回り込み、儚げに俯き、いつかのように僕の制服の袖をそっと掴んできた。

 僕は高橋に視線を向けていたし、思考に集中していたこともあり、袖を掴まれるまで中野さんの行動に気付かなかった。

 

 ……ナニシテルノ、ナカノサン?

 

 その構図はまるで僕が、酷い振る舞いを続けてきた元彼から悲劇のヒロインを守るという、正義感に満ちたどこかのイケメン主人公のようだ。

 漫画だったらこのまま高橋を撃退して、主人公とヒロインが結ばれてチャンチャンだが、当然そんな訳にはいかない。

 

 「……おい、てめえ。これは、どういうことだ?」

 

 当たり前と言えば当たり前だが、こんな光景を見せられた高橋はあらぬ誤解を受け、半分あった理性もどこかへ飛ばす勢いで怒りに顔を包み、こちらに迫ってくる。

 ……ちょ、これはまずい! 何とか誤解を解かないと。

 

 「これはごか――」

 

 『きゃー!! 修羅場よ!!』

 『一人の女の子を奪い合うなんてまるで恋愛ドラマじゃない!』

 『しかも高坂君っていえば、高橋先輩にも引けを取らないイケメンよね! イケメン二人が争うなんて、熱すぎるわ!』

 『高坂君に彼女がいないのはおかしいって思ってたけど……こういうことだったのね!』

 『そういえば、私この前の休日に中野さんと高坂君が二人で駅前のパスタ屋で楽しくデートをしているところを見たわ!』

 『私も町中を二人で歩いているところを見たわ! 凄く絵になっていたし、いい雰囲気だったわ!』

 

 などと、僕の声は辺りにいた女子生徒の黄色い叫びにかき消された。

 男子生徒も面白いことが始まったとばかりにわらわらと集まってきた。

 これを聞いた高橋は、完全にぷっちん。今にも殺すと言わんばかりに殺気に満ちた目でこちらを睨みつけてくる。

 

 

 

 ……どうしてこうなったのだろう?

 

 

 



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第8話

 「高坂弟……お前、俺の女を誑かしていたのか?」

 

 女子生徒の黄色い叫びと男子生徒の野次が飛び交う中、地の底から鳴り響くような声色で僕にそう問いかけ、詰め寄ってくる高橋。

 今にも殴りかかってきそうな勢いだ。

 

 「……高橋先輩、落ち着いてください。僕は中野さんを誑かしていませんし、そもそも中野さんと知り合ったのは三日前である金曜日の話です。」

 

 何とか誤解を解くため、なるべく穏やかな口調でそう宥めるが

 

 「嘘をつくんじゃない! でなければ、ゆりかが俺の誘いを断るわけがないだろう!」

 

 ……厄介だな。完全に考えることを放棄している様子だ。

 最早、自分が正しいと思っていることが真実と疑っていない様子だ。

 ここで高橋の言葉を聞いた中野さんが、僕の背後から顔だけを出し高橋を睨みつけるように見据えると

 

 「……高坂君は嘘をついてません。後、これまでお付き合いしてきた女の子はどうだったのか知りませんが、誰もかれもが自分の思い通りに動くと思ったら大間違いですよ。」

 

 と、僅かに震える声でもって援護射撃をしてきてくれる。

 フォローしてくれるのはありがたいけど、まずは僕の背後に隠れるのをやめてもらえないだろうか……。周りから見たら僕と中野さんが既に恋仲にあるように見えるじゃないか。

 後、高橋にさえ敬語なのに僕に対してはタメ口とはこれいかに。

 

 「お前ら……連携して俺を陥れようとしているな? この卑怯者どもめがぁ!」

 

 中野さんの言葉に、とうとう高橋は我慢の限界が来たのか、そう叫ぶや否や僕に殴りかかってくる。

 運動部のエースとして活躍する高橋が、その鍛え上げられた足で踏み込んでくるが、運動部でもない僕はそれに反応できるはずもない。

 僕を殴れる射程圏内にあっという間に入ってきた高橋はそのまま腕を振り上げてくる。

 女子生徒から悲鳴が聞こえる中、僕は無意識的に、背中から顔を出していた中野さんに万が一にも被害が及ばないように、高橋に背中を見せるようにして中野さんを抱きしめる体勢をとり、目を瞑る。

 大事なことだから繰り返すが、本当に無意識だった。

 

 ガッ!

 

 鈍い音が鳴り響くがこちらに衝撃はない。

 そっと目を開き、高橋の方へ視線を戻すと

 

 「ひろ、ナイスガッツだったぜ? 争いごとを嫌うお前が飛び出していった姿、しかとこの目に焼き付けさせてもらったぜ。それでこそ、あいの弟だ。」

 

 そこには、高橋の拳を自身が広げた手の平でしっかりと受け止める伊達さんの姿があった。伊達さんは、高橋を見据えたままそんな言葉を僕に投げかけてくれる。

 伊達さんは「……さて」と続ける。

 

 「……健太。正直俺には何が起きているのか分からないが、暴力はだめだろ? 一度落ち着いたらどうだ?」

 「かいと……。ちっ、うるさい、これは俺と高坂弟の問題だ! 横から入ってくるんじゃない!」

 「おっと。冷静な時の健太ならともかく、今の荒れた状態の健太にやられるほど俺もヤワじゃないぜ?」

 「……ちっ。」

 

 高橋は止めに入った伊達さんを振り払おうとするも、そうはさせない伊達さん。

 高橋はしばらく抵抗をしていたようだが、遂に諦めたのかその拳を下ろした。

 伊達さんはそんな高橋を見ると

 

 「健太、横から入ったことは謝るよ。でも、やっぱり人間話し合いが大切だぜ?」

 

 と、いつものように笑顔を浮かべて、明るい口調でそう言う伊達さんのおかげで周りもほっと安堵の息をついている。

 高橋は、そんな伊達さんのことを恨めし気に見つめるも、再び殴りかかってくる様子は見せない。

 ……伊達さん、格好良すぎるだろ。こりゃ姉ちゃんも惚れるわけだ。

 しみじみそう思いつつ、伊達さんの逞しい背中を見つめる。

 

 しかし、ここで異変が。

 穏やかな空気になったのも束の間、またもやザワザワと騒がしくなりだした。

 しかし、先ほどの恐怖に満ちた悲鳴の類ではない。

 女子生徒の「きゃー、大胆」なんて言う黄色い叫びと男子性から「フー」なんて冷やかすような声が上がってくる。

 そして、そんな周囲の視線が見つめる先には……僕?

 そこで改めて僕は、自分がどういう状況なのかを見つめなおす。

 

 力強く中野さんを抱きしめる僕。そして耳まで茹蛸のように真っ赤に染め、抵抗することなく僕に抱きしめられている中野さん。

 中野さんの体は、これまでの強気な態度からは想像もできないほど細く今に折れてしまいそうだった。そしてその中野さんから感じるほのかな体温と柔らかさが僕のすべてを優しく包み込んでくる。

 相変わらず、フローラルの良い香りが漂ってくるものの、距離感ゼロなものだから、これまでと比較にならないほどの強烈で麻薬にも思えるようなそれが僕の鼻腔に吸い込まれていく。

 

 そんな今の僕の状況を理解した途端、顔があり得ないほど熱くなるのを感じながら、バッと中野さんから離れる。

 心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響いている。

 中野さんは僕から解放されると、恥ずかしいのか顔の赤さはそのままにずっと俯き、手をもじもじさせている。

 そんな僕と中野さんの様子を見た周囲はさらに盛り上がっていく。高橋でさえ、その雰囲気に押され、何もできず固まっている。

 「あれ……これ、やばいんじゃ?」と、この場で中野さんを除き、唯一、僕に彼女がいることを知っている伊達さんがそう呟いている。

 

 ……ぼ、僕はなんてことを。

 

 咄嗟のことだったとはいえ、またも周りに誤解を与える真似をしてしまった。

 ……ど、どうすればいい。

 脳内で解決策を練ろうとするも、色々なことが起こりすぎて混乱している為か、思考がまとまらない。どうしても先ほど中野さんを抱きしめていた時の温もりや柔らかさの感触がフラッシュバックしてしまう。

 僕がその場でまごまごしていると、周囲から「キスしろ!」「告白しろ!」なんて言葉が投げかけられる始末。

 ……く、このままじゃいけない。とにかく口を開け。誤解を解くんだ。

 今更、誤解を解くことができるかという疑問を頭の片隅で感じつつ、まとまらない思考のまま口を開く

 

 「ち、違うんです! 確かに今の僕の言動を見ていれば、中野さんとその……そういう関係だと勘違いしてしまったかもしれません。けど、僕と中野さんは……そう、ただの友達なんです!」

 

 これまでの人生で一番声を張り上げたんじゃないかというくらいの勢いでそう訴えかけるも、「おいおい、男を見せろよ!」「照れるなよ~」なんていう反応しか返ってこない。

 どうすればいいんだよ。

 しかし、ここで誰かは分からないが、「じゃあ中野さんは高橋君と高坂君のことをどう思っているの?」という言葉が投げかけられた。

 不思議とその言葉はあたりに響き、シンと静まり返り、全員の視線が中野さんに集まる。

 中野さんは、注目されていることに気付くと

 

 「え……えぇと、その私は……」

 

 と、中野さんもかなり頭が混乱していたのか、そう狼狽えるが、少し考える様子を見せると

 

 「とりあえず、もう高橋先輩とのお付き合いは、もう考えられません。」

 「なんだt――」

 

 中野さんが外向きスタイルなのか、妙にしおらしい態度でそう答えるとまたも、高橋が喚きかけるが、それを周囲の「おー」「それでそれで?」「高橋君のことはもうどうでもいいよ」という反応が高橋の入ってくる余地を完全にかき消す。

 

 「そ……それで、その高坂君のことは……その、え、と……。」

 

 と、なぜかここで中野さんは言葉に詰まってしまう。

 大丈夫だ、中野さん。ここで中野さんが僕と同様に友達と言えば万事解決だ。

 そんな僕の想いを込めて中野さんをまっすぐ見つめる。

 中野さんはそんな僕の視線に気づくと恥ずかしそうに、ふいっと視線を逸らした。

 さっきのことで恥ずかしいのは分かるけど、あまり乙女らしい反応をすると周りが勘違いをするのでぜひやめて頂きたい。まあ、抱きしめた僕のせいなんだろうけど。

 ここで、待ちきれなくなったある生徒によって「好きなの?」とシンプルな質問が投げかけられる。

 これに対し中野さんは、元々赤かった顔をさらにボッと顔を赤くしてしまう。

 その中野さんはなぜか僕の方を一瞬チラリと見た。

 そして、一瞬、本当に一瞬だった。周りが気づかないような、ほんの刹那の瞬間。

 

 

 

 中野さんが、妖しく笑ったように見えた。

 

 

 

 ……え、なんだ今の? 見間違い?

 背筋になにか冷たいものが通ったような錯覚を覚える。

 しかし、もう一度中野さんを見るも、その表情は先ほどまでの羞恥に満ちたものであった。

 ……何だか嫌な予感がする。

 やがて中野さんは何か決意をしたように顔を上げ僕の方を見つめてきた。

 その顔は、未だ赤いままであったものの、そこに戸惑いはなかった。

 その雰囲気を周囲も感じ取ったのか一斉に静まり返る。

 夏前だというのにどこか冷たい風が僕たちの間を駆け抜けた。

 そして

 

 

 

 「私は高坂君のことが……好きです!!」

 

 

 

 ……は?

 

 

 

 中野さんの言った意味を理解できず、情けなく口をポカンと開くことしかできなかった。

 そんな僕の心中とは対照的に、屋上が爆発したように一気に盛り上がる。

 「新しい校内一のカップル誕生だ!」「わぁ、本当にドラマみたい!」「素敵!」などという、祝福の言葉が投げかけられる。

 そして、続いてその周囲にいた人たちが迫ってきて、まるで壁のようになり、僕を押してきたではないか。

 なんだ? といっそう混乱していると、中野さんも同様に背後に回った人たちが壁となり前に押されていることが分かった。

 まるで僕と中野さんを近づけているように。

 ……まさか

 

 「そのままキスしちゃえー!」「そうだそうだー!」

 

 という野次が飛んでくる。やはりそうか!?

 僕は何とか抵抗するが多勢に無勢であり、じりじりと中野さんの元へ押される。

 挙句「キース、キース」なんてキスコールしだす始末。

 伊達さんのみ唯一、「こういうのはよくないぞ」と抵抗してくれているが、こちらも僕同様に多勢に無勢であり、蚊帳の外へ放り投げられてしまった。

 中野さんの方もちらりと様子を見るが、中野さんはまんざらでもなさそうにチラチラとこちらの様子を窺っている。

 ……く、僕が唯さんと付き合っていることは知っているはずなのに何を考えているんだ?

 だめだ、このままでは本当にキスをする流れになってしまう。

 ……やむを得ない。

 唯さんとの約束は破ってしまうが、僕と唯さんが付き合っていることを告白するしかない。

 最早それくらいしかこの場を切り抜ける手段が見つからない。

 ……すみません、唯さん。

 心の中でそう謝罪を述べ、大声を出すため息を吸う

 が、しかしここで

 

 

 

 「こらー!! 何してるの!!」

 

 

 

 と、騒ぎ立てるこの場にも響く大声が駆け抜ける。

 ……今の声は。それはとても馴染があり安心感を与えてくれるものだった。

 何事かと周りにいた人たちは、大声のした方向に視線を移す。

 そしてその存在を認めた人たちは例外なく息を吞むと、ぞろぞろと左右に分かれていく。

 モーゼのようにその間を突き進んできて姿を現したのは、予想通り姉ちゃんだ。

 そしてその横に控えるように立っているのは、なんと唯さんだった。

 その手には、何やらイヤホンがさされた小型のメディアプレイヤー? のようなものを持っている。

 

 「さて、と、この状況は……。」

 

 姉ちゃんは、周囲から向けられる視線には気にも留めず、あたりをぐるりと見渡す。その視線は、まず伊達さんで止まり、次に高橋、中野さんと止まり、最後に僕にきたところでその視線が止まった。

 姉ちゃんは僕の姿を確認すると、すべてを安心させるような穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめてくれる。

 

 ……どうして、姉ちゃんがここに?

 いや、それよりもだ。

 唯さんまでどうして?

 

 僕は、姉ちゃんから視線を逸らし唯さんにシフトさせ、見つめる。

 しかし、唯さんはこちらを見つめていなかった。その視線の先には中野さんがいた。

 

 その唯さんの瞳は、どこまでも冷たく感情を感じさせないものだった。

 

 しかし、唯さんはこちらの視線に気づくと、ニコリといつもの優しい笑顔を向けてくれる。

 ……なんだ、今の唯さんの目は?

 色々なことが起きすぎて幻覚でも見たのか?

 思わずそんなことを思ってしまうほど、先ほどの唯さんの姿が信じられなかった。

 でも、さっきの感じ、どこかで……。

 ……そうだ、昨日のデートの時にも同じような雰囲気を漂わせていた。

 あの時は僕が唯さんを怒らせたからだと思っていたけど……。

 先ほどの唯さんの視線の意味が分からず胸中がザワザワしているところに姉ちゃんが僕の元へゆっくりと歩み寄ってくると、

 

 「大丈夫ひろ? 酷いことされてない?」

 「え……、あ、あぁ、ギリギリ何とか。」

 

 咄嗟に僕がそう答えると、姉ちゃんはにっこり微笑むと、「そっか、ギリギリ……ね。」と、呟く。

 その様子を見て、しまったと思うが、時すでに遅し。

 姉ちゃんは、相変わらず笑顔を浮かべているが額には血管が浮かび、目も笑っていないことが分かる。

 その姉ちゃんは、改めて周囲に視線を移すと

 

 「じゃあ……私の可愛い弟をおもちゃにして遊んでいた皆に、何が起きていたか説明してもらおうかな? かいとも含めて、ね。」

 

 と、地獄から鳴り響くような声色でそう言葉を投げかける。

 周囲を取り囲んでいた生徒と何も悪いことをしていない伊達さんは一斉にその表情を青白く染めていく。

 

 

 

 言い忘れたが、姉ちゃんは結構なブラコンだ

 



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第9話

 高坂あい

 

 その類まれなる容姿もさることながら、元気が服を着ているような明るく誰かれ構わず接する彼女は、男女隔てなく絶大的な信頼と人気を得ている。

 その人気は同学年にとどまらず、1,2年生にも及ぶのだとか。

 学習面は残念ながら芳しくなく、テストの度に周りに助けを求める姿は哀れの一言に尽きるが、そんな面も含めて周りから愛されている。

 ……という風に以前僕のクラス内の友達から聞いた。

 僕からしてみたら、見た目はともかく、お節介で少々鬱陶しいくらいのイメージしかないのだが、周りからは姉ちゃんはそのように評価されているらしい。

 しかし、その姉ちゃんのおかげで、3年生の先輩方に高坂弟じゃないかと、可愛いがられることもしばしばあるので、そこは感謝している。

 ……勉強はもう少し頑張ってほしいと思っているが。

 まあ、そんなことはどうでもよくて。

 その皆から愛されている姉ちゃんが、心の底から怒ったらどうなるか?

 

 こうである。

 

 「そ、それで、高橋先輩が高坂君に殴りかかって――」

 

 運悪く姉ちゃんの目に留まった2年生の女子生徒が涙目になりながら姉ちゃんに、事の経緯を説明する時間が流れていた。ちなみにその子は僕のクラスメイトでそれなりに喋る程度には仲も良い。といっても、クラスメイトの人はみんな基本的に仲はいいけどね。

 先ほどまで騒いでいた生徒たちは皆そろって口を閉じ、その場に直立しており、その女子生徒と時折相槌を打つ姉ちゃんの声だけが屋上の空へと吸い込まれていく。

 滅多に怒らない人が起こると凄く怖い、これがまさに今起きていた。

 人でも殺しかねない表情を浮かべる姉ちゃんに、何かを言い返せる人がいるだろうか?

 さらに、今の女子生徒の発言で姉ちゃんが動いた。

 

 「はぁっ!? 殴りかかったぁ!?」

 「ひぃっ! で、でもでも、伊達先輩が高坂君を守ったので怪我はありませんでした!」

 

 鬼の形相と化し、迫ってくる姉ちゃんに、必死にそう言葉を投げかける女性生徒が指さす方向にはなぜか正座をさせられ、俯いている伊達さんがいた。

 なぜ伊達さんが正座をしているかというと、姉ちゃんが「なんであんたがいるのに、こんなことになってるの?」という尋問から始まり、気づいていたら伊達さんが正座させられていたのだ。意味が分からないと思うが、僕もなぜそうなったのかよく分からなかった。

 当然、僕は伊達さんは守ってくれたことを説明しようとしたが、今の姉ちゃんの耳には入らなかった。

 伊達さんが僕を高橋先輩の暴力から守ってくれたと聞いた今でさえ、姉ちゃんは「まあ、当然よね」と、あんまりな一言で片づけている。格好良かったのに。

 

 「すみません、本当に。」

 

 こっそり伊達さんの傍に寄った僕はそう謝る。本当に申し訳ないと思う。

 

 「……いいんだよ、ああいうところも含めて俺はあいに惚れているんだよ」

 

 伊達さんは、そんな僕の方にニコリと笑顔を向けてくるとそう答えてくれた。

 嘘を言っているわけでなく、本心からそう言っているのだと、その目を見て分かった。

 ……なんて、できた人なんだ。

 そんな伊達さんに僕は感極まって思わず、

 

 「……伊達さん、これからも末永く姉ちゃんをよろしくお願いします。」

 

 と本心からの言葉を投げかけたのだが、伊達さんは、なぜかバツが悪そうに

 

 「……そうだな、末永く……か。」

 

 と、何やら含みを持たせたような答え方をされてしまった。

 顔を逸らされてしまったのでその表情は伺えなかったが、そんな歯切れの悪い伊達さんを見るのは初めてだった。

 何となく……本当に何となくだが、嫌な予感がした。

 そのことを伊達さんに追求しようとしたところで姉ちゃんが高橋に詰め寄っていることが分かり、そちらに意識を刈り取られてしまった。 

 

 「……高橋君、今の話は本当なの?」

 

 姉ちゃんは、隅っこの方で不機嫌そうに立っていた高橋にそう問いかける。その声には明確な怒りが含まれていた。気の弱そうな人ならこれだけで失禁するのではないだろうか。しかし、唯一この場で姉ちゃんの圧に押されずいるその高橋の姿には、少しだけ凄いと思ってしまった。

 その高橋は、姉ちゃんを鬱陶しそうに一瞥すると

 

 「あぁ? お前の弟が俺の女を奪ってきたんだ。何をされても文句は言えんだろうがよ。」

 

 と強気な態度で、あくまで今回の一件はすべて僕が悪いという主張を変えない。

 この答えには、中野さんを含め、ほとんどの生徒が渋い顔を浮かべる。明らかに高橋に対する嫌悪感を表すものだが、当の本人がそれに気づいている様子はない。

 まあ、先ほどまでの高橋の言動は明らかに自己中心的で傲慢なものだった。この反応はごく自然なものだろう。

 そして姉ちゃんが、この高橋の言葉にキレた。まあ、元からまあまあキレてたけど。

 

 「はぁっ!? 私の尊く可愛い弟が他所の彼女を奪う真似をするわけないでしょうが! 高橋君が中野さんに振られたのは必然でしょう! 色々聞いているんだからね! 彼女がいるのに平気で浮気する、女の子にお金を払わす、すぐに性行為に及ぼうとするとか! あんたと付き合った子はみんな失敗だったって言ってるわよ!」

 

 この姉ちゃんの言葉に高橋は「……な」と初めて狼狽える様子を見せる。

 明らかに動揺し、すぐに言い返せなかったことが、周りにもそれが真実だと伝わることになってしまう。まあ、実際に中野さんもそんなことを言っていたしその通りなのだろう。

 その結果

 

 「……まじかよ」「……最低」「……幻滅ね」「……女の敵」

 

 と、学年にかかわらず、周りの生徒たちから非難の言葉と、ごみを見るような視線を向けられ、高橋が「……くっ」と焦りのためか額に冷やせを浮かばせている。

 高橋は周りをぐるりと見渡し味方がいないことを悟ると、最後に渇望と怒りを混じらせた視線を中野さんに向ける。中野さんはその高橋の視線に一瞬たじろぐも、まっすぐにそれを受け止め、敵意を含めた視線を向け返す。

 高橋は数瞬の後、その中野さんから視線を逸らすと「ちっ、どけえ!」と、取り囲んでいた他の生徒たちにそう怒鳴り散らし、無理やり道を作ると、そこからそそくさと校内へと駆け込んでいってしまった。

 

 「今度私の弟に手を出したら、ただじゃおかないからね!」

 

 そんな、高橋の背中に容赦のない姉ちゃんが怒鳴り散らす。一瞬、ビクリと高橋の全身が反応していたのように見えたのは、気のせいだろうか?

 そんなこんなあり、高橋問題は姉ちゃんの登場により、瞬く間に解決してしまった。

 あの様子なら、しばらく高橋が僕と中野さんに突っかかってくることはないだろう。

 ……姉ながら凄いな。怖いけど。ブラコンだけど。

 

 姉ちゃんは、高橋に怒りをぶつけたおかげで少しは溜飲が下がったのか、多少穏やかになった口調で、

 

 「それで? どうしてさっきのキスコールに繋がったの?」

 

 ……あー、やっぱりそこも聞くか。

 できれば、高橋を撃退してくれたところで、終わりにしてほしかったがそうはいかなかったようだ。

 チラリと唯さんの様子を窺うと、唯さんもこの話題には興味があるようで、聞く気満々のようだ。

 そして、先ほどまでビビりまくっていた女子生徒も、この話題になった瞬間、流暢にきゃぴきゃぴしながら話始めたではないか。なんでだよ。

 

 「それでその後、高坂君が高橋先輩から守るため、中野さんを力強く抱きしめたんです。」

 「……え? それ本当?」

 「はい! それはもう力強く……。見ているこっちが恥ずかしくなりそうなくらい……。」

 「……。」

 

 女子生徒は、例のシーンを思い出しているのか、その頬に朱を差し、うっとりとした様子を見せている。周りにいる女子生徒も同様の反応を見せている。

 一方、姉ちゃんはというと先ほどまで見せていた怒りはすっかり冷め、ここに来て初めて焦ったような表情を浮かべている。

 それはそうだろう。隣には唯さんがいて、本当はその唯さんと僕が付き合っているのだから。それを知る姉ちゃんが焦らないわけがなかった。

 その姉ちゃんは、恐る恐る唯さんの方へと首を向けていく。

 僕にも同様に焦りが襲ってきて、全身から冷や汗が一気に出てくるのを感じる。

 ……事実とはいえ、何もそんな乙女な反応をしながら言わなくてもいいじゃないか。

 ゆっくり……と、唯さんの方へ視線を向ける。

 

 

 

 ニコニコニコニコ

 

 

 

 そこには、心の底から笑顔を浮かべている、さながら地上に舞い降りた天使……のように見える唯さんがいた。

 それは今まで見た中の笑顔の中でも一二を争うというものだ。

 普段の僕ならその笑顔に見惚れてしまったのだろうが、この状況だ。

 むしろ違和感しかなく、言いようのない恐怖心さえある。

 思わず、ゾクリと全身が震えた。

 それは、姉ちゃんも同じだったのだろう。

 

 「……そ、それで? 続きはどうなったの?」

 

 早くこの話題を終わらせるべきだと思ったのだろう、続きを促す姉ちゃん。

 

 「は、はい。その後は、中野さんが高坂先輩のことが好きだと……そう伝えたんです。」

 「……。」

 

 キャーと一人お花畑の雰囲気を漂わせる女子生徒とは対照的に姉ちゃんの顔は青ざめ始めている。僕もだ。

 そして、その女子生徒はあろうことかこんなことを言い出した。

 

 「……確かに無理やりキスを迫ったのは反省ですし、申し訳ないと思っています。でも、本当に高坂君と中野さんはお似合いのカップルだと思います。」

 

 そして、この女子生徒の言葉を皮切りに「本当、お似合いよね」「美男美女で絵になるものね」「まあ、高坂なら中野さんを任せられるよな」「ああ、嫉妬もわかないな、納得できるわ」などなどざわつきだす。

 姉ちゃんはそんな周りの様子に「くっ、確かにひろは、イケメンだし、性格もいいから否定できない……」なんて、悔しそうにそう呟いている。何を言っているんだ、姉ちゃんは?

 しかし姉ちゃんがそうなった以上、強制的にキスをさせられる流れは無くなったものの、状況的には姉ちゃんが来る直前と何も変わっていない。むしろ唯さんがいる分、悪くなったまである。

 結局、中野さんの告白に僕が答えなければならない状況だ。

 

 そして、そんな状況に追い打ちをかけるように

 

 「で、結局高坂君は中野さんのことをどう思っているの?」

 

 この質問に再び周りがシンと静まり返る。中野さんは怯えるように、しかし何かを期待したような視線をこちらに向けてくる。

 ……本当にどうすればいいんだよ。

 そもそも中野さんは一体どういうつもりで、まさか本当に僕のことを……? 

 いや、まさかね……。

 やはり、ここは唯さんと付き合っていることを公表するべきか。

 どう対応するべきか思案しているところに、鈴のように透明な声が響く。

 

 「もう昼休みも終わるし、高坂君も急で困っているだろうから、返事は放課後まで待ってもらったらどうかな?」

 

 唯さんの言葉だった。

 慌てて唯さんの方へ視線を向けると、唯さんはにっこりと微笑みを返してくれた。

 いつもの柔らかい笑みだった。

 

 「……そうですね。放課後にしてもらえるとありがたいです。」

 

 唯さんの意図は分かりかねたが、何か目的があってのことだろうと、そう承諾しておく。

 周りも「うわっ、本当だ。後3分で昼休みが終わる!」「まじか!」「返事は放課後か~」「絶対、見届けるからね~」といった感じで、慌てて周りにいた生徒たちが自分たちの教室へと向かいだす。

 その騒がしくなった状況で唯さんがこちらへ近づいてきて、そっと耳打ちをしてきた。

 

 「……私に考えがあるから後で少しだけ話そうね。」

 

 とのことだった。

 勿論、断る理由もなかったので、こくりと頷き、その場を後にした。

 去り際に見た中野さんは、ずっとこちらを見つめていた。

 その表情は、切なげで不安で思わず守ってあげたくなるものだった。

 ずっと見ていると、こちらがおかしくなりそうだったので、すぐに視線を逸らし自分の教室へと急いだ。

 

 

 

 

 放課後、僕と中野さんは再び、屋上へとやってきていた。

 周りには、昼休みとは匹敵にならないほどのギャラリーが控えていた。その数は100人以上はいると見た。

 どうも、昼休みの一連の流れを聞いた生徒たちが集まってきたらしい。

 その生徒たちは、僕たち二人を取り囲むように陣形を形成しており、中心にできた円形の空間に僕と中野さんが向かい合っていた。

 中野さんは、もじもじと緊張と不安に包まれている様子を見せていた。まさに恋する乙女の姿だった。

 ……唯さん曰くこれは『演技』らしいが、恐れ入るよ中野さん。女優を目指せるんじゃないか?

 

 そんな感想を抱きつつ、僕はその中野さんへ優しく柔らかい口調で話しかける。

 

 「じゃあ、中野さん。昼休みの告白の返事をするよ。」

 「う……うん。」

 

 

 

 ……唯さん、これでいいんですよね。

 

 

 

 心の中でそう呟き、一瞬天を見上げた後、中野さんをじっと見つめる。

 中野さんは、頬を赤く染め、その潤んだ目で僕を見つめ返してくる。

 そして

 

 

 

 「中野さん、告白ありがとう。こんな僕でよければよろしくお願いします。」

 

 

 

 その瞬間、校内に新たなカップルが誕生した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……あぁ、イライラする。

 

 あまりのストレスに今すぐ髪をかきむしり、何か物にでもあたってしまいそうにな衝動にかられてしまう。

 イヤホンから聞こえてくる男女の楽し気な会話を聞いていると、ストレスが際限なく溜まっていくのを感じた。

 こちらが指示したこととはいえ、聞いていて気持ちの良いものではない。

 しかし、ひろ君のあの女を救うという目的を達成するにはこうするしかなかった。

 

 中野ゆりか、この女が現れてからずっと狂いっぱなしだ。

 立花まいかも、こちらを舐めている上に何を考えているか分からない相当に目障りな存在だが、中野ゆりかの存在はそれをも上回る。

 付きまとうだけに飽き足らず、まさか告白してくるなんて。

 何を考えているのだろうか、あの女は? 

 頭がおかしいとしか考えられない。

 ひろ君の優しさを勘違いして、哀れな女。

 

 ……ひろ君は私の彼氏なのにね?

 

 でも、これであの女を救うというひろ君の目的は達成された。

 もうひろ君があの女のことで罪悪感に苛まれることはない。

 

 頭の中で、自分の愛する人を思い浮かべる。

 その瞬間、さきほどまでのストレスが嘘のようにどこかへいき、幸せな感情で満たされる。思わず頬が緩んでしまうのが分かる。

 

 

 

 あぁ……ひろ君。大好き。

 

 

 

 ひろ君のためなら、私はなんだってする。

 ひろ君のことはすべて知りたい。

 ひろ君のことを独り占めしたい。

 ひろ君の喜ぶ顔が見たい。

 ひろ君のお世話をしたい。

 ひろ君に私だけを見てもらいたい。

 ひろ君が悲しんいるのならば、それを慰めてあげたい。

 ひろ君がけがをしたならば私が看病をしてあげたい。

 ひろ君が悩むならそれを解決してあげたい。

 ひろ君ともっと一緒にいたい。

 ひろ君と体を交らわせたい。

 ひろ君のために死ねるならば、喜んで死ねる。

 

 

 

 ……もう、中学生の時のような思いはしたくない。

  

 

 

 ひろ君……私の運命の人であり、王子様のような存在。

 

 

 

 好き……好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き

 

 

 

 ひろ君も私のこと好きなんだよね? 

 

 

 

 だから、そんな私たちの愛を邪魔する存在は……

 

 

 

 

 

 『排除』

 

 

 

 

 

 すべきだよね?

 



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第10話 

すみません。最近忙しくて更新が遅れました。次の更新も遅くなると思います、、


 中野さんと付き合うことになって数時間経った今でも僕の心はざわついていた。

 僕が唯さんから呼びだされた後、まずは僕視点での今回の告白騒動の経緯を簡単に説明した。あの頭の中がお花畑の女子生徒の説明では色々と勘違いをされてしまう恐れがあったからね。

 その後、僕は唯さんに中野さんに関わるこれまでのやり取りを全て打ち明けた。以前、唯さんに中野さんとのことを話そうとした時「信じているから」と言ってくれたので結局話していなかったが、ここまで事が大きくなってしまったこともあり、話さなくてはいけないと思ったからだ。

 しかしそれを聞いた唯さんはまるですべてを知っていましたとばかりに冷静にそれを受け止めると、こう提案してきたのだ。

 

 『中野さんの告白を受け入れ、しばらくの間、本当の恋人のように振舞ってほしい。』

 

 とのことだ。当然なぜそんなことをする必要があるのか聞いたみたが、「これで中野さんの抱えている問題も解決できるし、すべて上手くいくから信じてほしい。中野さんにも私から説明しておくから。」と言われたのだ。そう言われてしまえば僕はもう何も反論できなかった。しかし釈然としなかったのは言うまでもない。……確かに結果から言うと、不思議と僕と中野さんが付き合うことを大部分の生徒が祝福してくれたので、今後中野さんが学校で居心地の悪い思いをするということはないだろう。……でも僕ならどんな事情があろうと、唯さんが振りとはいえ他の男子と付き合うことになったら嫌だろう。唯さんはこれでよかったのだろうか。それともこれは僕の心が狭いだけなのだろうか……。

 ……そして何より、なぜ中野さんは僕に告白してきたのだろうか?

 分からないことだらけだ。

 

 「先生、どうしたのですか?」

 

 僕が思考に耽っていたところに、透き通った声が僕の耳をくすぐってきた。はっとし、意識を現実に引き戻す。見ると制服に身を包んだ立花さんが僕の顔を下から覗き込んでいた。少し距離が近く立花さんのやや吊り上がった可愛いらしい目やら長いまつ毛やらが目にはいる。さらにはシャンプーの匂いなのか立花さん自身の匂いなのか、ふわりとたミルクっぽい甘い香りが漂ってくる。 

 

 「あ、あぁ、ごめんね。少し考え事をしていたよ。」

 

 思わずドキリとし、やんわり距離を取りつつそう答え、動揺を押し殺す。

 ちなみに立花さんが制服を着ているのはその方が気が引き締まるかららしい。

 

 「そうですか? 今は一応お仕事中なのですから私のことだけに集中してくださいね?」

 「……うん、ごめんね。」

 

 何となく立花さんの言い回しが気になったもののそう答えておく。

 今は立花さんの家庭教師の時間だ。綺麗に整理整頓された立花さんの部屋は、あまり娯楽品の類の物はなく、シンプルな部屋模様となっているが、本棚には参考書がびっしりとそろえられている。部屋をみるだけでも立花さんの真面目な性格が窺える。その部屋の壁際に備えられた学習机の正面に立花さんが座り、僕がその隣に座り勉強を教える構図となっている。

 立花さんの指摘通り、仕事中に他の考え事をしていることはよくないと、頭を切り替え、立花さんが提示してきた現在難航しているという問題の解析に思考を移す。仕事の流れとしては、立花さんが自己学習中に分からなかった問題を提示してきて、僕がその解き方を教えていくというスタイルだ。立花さんが提示してくる問題はどれも高レベルなので、こちらとしても気が抜けない。だからこそこちらの復習に繋がり、自身の為になるのだけどね。

 

 その後、なんとかすべての問題を解説した頃には時刻は19時に差し掛かっていた。ほぼ頭をフル回転させていたのでどっと疲れが押し寄せてくる。

 

 「ありがとうございました先生。今日の解説も凄く分かりやすかったです。」

 

 立花さんは、静かに立ち上がると礼儀正しく頭を下げ感謝の言葉を投げかけてくれる。毎度ちゃんと解説できているかと不安になるので、こう言ってもらえると素直に嬉しい。「どういたしまして。」と返し、帰り支度をしていると

 

 「先生、中野さんと付き合うって本当なのですか?」

 「……やっぱり知ってた?」

 「あれだけ騒ぎになっていたら嫌でも耳に入ってきますよ。藤宮さんとは別れたのですか? 今日の朝にも中野さんのことを聞いてきましたが。」

 「……いや、別れていないよ。中野さんとは振りだけだよ。」

 

 立花さんは、よくわからないといった風な表情を浮かべている。しかし、持ち前の頭の回転の良さですぐに合点がいったのか

 

 「……生徒からも信頼が厚く、高橋先輩と近いスペックを持つ先生が付き合うことにより、中野さんを守った……といったところでしょうか?」

 「……スペック云々は分からないけど、結果的にはそうなったのかな。みんな認めてくれているみたいだしね。不思議だけれど。」

 

 本当に不思議だと思う。そりゃあ、自分で言うのもなんだが、僕の顔やスタイルは平均以上だとは思っている。顔とスタイルがそれなりに整っている姉ちゃんと同じ血が流れているわけだし、唯さんの隣に立っても恥ずかしくないように美容や見た目にも気を遣っている。姉ちゃんの助けも借りながらファッションにだって気を回している。しかし勉強はともかく運動はからっきしだし、生徒からそれなりに信頼があるのも姉ちゃんの存在が大きい。とても高橋と張り合えるようなスペックを持っているとは思わない。まあその高橋は今や姉ちゃんの制裁により、生徒からの信頼度は地べたを這いずり回っていることだろうが。

 

 「不思議って……、先生はもう少し自信を持つべきだと思います。人によっては嫌味だと思われてしまいますよ? 先生とそのお姉さんは校内でも美男美女兄弟と噂されていますし、先生自身誰にでも優しく接する王子様みたいな人だと女子の間では有名ですよ?」

 

 呆れたようにそう言ってくる立花さんの言葉に驚愕してしまう。

 え、なにそれ恥ずかしいんだけど。そんな風に噂されているの? 王子様って……。

 しかし、その噂が本当なら唯さんの提案にも納得がいく。僕が恋人になることで中野さんが守られると確信があったのだろう。それでも個人的には、そんな提案はしないで欲しかったが、何も解決策を見出せなかった僕がとやかく言えることでもないだろう。

 まあ、そもそもその噂が本当かどうかは疑わしいけれど。

 

 「……しかし、それをよく藤宮さんが許容してくれましたね。」

 「というより向こうから提案してきたんだよ。恋人の振りをしてほしいって。」

 「えっ、向こうからですか?」

 

 なぜかここで立花さんは驚いた様子を見せる。驚いた拍子にツインテールもぴょこんと跳ね上がる。普段冷静な立花さんが珍しい。立花さん自身、そのことに気付いたのか、コホンと恥ずかしそうに可愛いらしい咳払いをすると

 

 「……藤宮さんが中野さんと付き合うように指示してきたのですか?」

 「そうだよ。」

 「一体どういう……、独占欲の強いあの女がそんなことをする?

 

 立花さんは何やらブツブツとこちらに聞こえない程度の声で呟きながら思考に耽ってしまった。これは立花さんが難問を解くときの癖だが、今のやりとりのどこに不思議な点があったのだろうか? しかしこうなってしまうと周りの声が聞こえなくなってしまうので仕方なく、ぼうっと待つことにする。

 すると数分後、「なるほど、恐らくは……。」となにやら答えを導くことができたのか、顔を上げこちらを見つめてくる。

 その表情は何やら期待と嬉しさを滲ませたものだった。普段、表情を表に出さない立花さんがこのような表情をするとは……。よほど嬉しいことでもあったのだろうか?

 

 「どうしたの立花さん?」

 

 流石に気になったのでそう聞いてみるものの

 

 「……いいえ、何でもありませんよ。ただ、近々良いことが起こりそうな気がしましたので。」

 「……そう?」

 「ええ。」

 

 ニッコリとほほ笑んでくる立花さん。その脳内で一体何を考えているのか見当もつかないが、本人が嬉しそうなので良しとしよう、話してくれる気もなさそうだし。

 そこで帰ろうとした時、立花さんから声がかかる。

 

 「……ところで、先生。藤宮さんの中学生の時の話で何か知っていることはありますか?」

 

 そんな質問を投げかけてきた。心なしかその声色にはどこか冷たいものが含まれているようだった。

 

 「いや、唯さんはあまり中学生の時の話をしたがらないから聞かないようにしているよ。」

 

 そう、唯さんは中学生の時のことを断固として話したがらない。何か事情があることは明白だったので、僕も聞かないようにしている。人間誰にだって話したくないことの一つや二つはあるものだしね。

 

 「そういえば立花さんは、唯さんと同じ中学の出身だっけ?」

 

 中野さんもそうだが、立花さんも唯さんと同じ中学の出身だったはずだ。唯さんの通っていた中学はこの高校からかなり離れていること、そして僕たちが今通っている高校はそれなりの進学校で学力が高く入学が難しいことから唯さんと同じ中学に通っていた人はそう数がいなかったはずだ。僕のクラスにも一人だけとかだったはずだ。

 

 「……ええ、そうですよ。ふふ、それにしても話したがらないですか、そうですか。……まあ、そうでしょうね。」

 

 何か含みを感じさせる物言いをしてくる立花さん。その表情はどこか嗜虐的なものを感じさせた。中学生の時に唯さんに何かあったのだろうか? ……そういえば中野さんも何か言っていたな、事件がどうのこうのと。まあ、何があったって過去の話だ。唯さんが話したがらないことを詮索するつもりはない。立花さんの発言は少し気になったものの特に深堀することもなく、その日は帰宅した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先生が帰宅した後、私は自室で机の前に立っていた。

 その視線が捉える先にあるのは、何の変哲もない椅子だった。その椅子は、さきほどまで先生が座っていたものだ。

 私はそっと手を伸ばし、その椅子の座る箇所を、つまり先生がお尻を接させていた箇所をゆっくりと舐めるようになぞっていく。まだ先生が去ってから時間が経っていないこともあり、僅かな温かみが指を通じて伝わってくる。ただそれだけのことで動悸が早まり、イケナイ感情が沸々と湧き上がってくる。僅かに呼吸が荒くなる中、私は幸せな感情に満たされていた。

 

 「ふふふ……藤宮唯、あなたが何をしたいのかは、何となく想像できます。恐らく、自身がかつて受けた屈辱と同じものを中野さんにも与えるつもりなのでしょう。」

 

 誰に話すわけでもなく、虚空に向かって放たれる透き通った声はあたりの空気に溶け込んでいく。

 

 「実に浅はかで分かりやすいですね。中学生の時から何も変わっていない。……ですが、ふふ。私にとっては好都合に他ならないですね。」

 

 どうやって先生を奪ってやろうかとずっと考えていましたが、向こうから動いてくるなら話は早い。私はそれを利用するだけだ。

 

 

 

 ……ふふ、先生。私だけの先生になってくれる日までもう少しですよ。

 先生のように優しく聡明な方には、私こそが相応しいのですから。

 

 

 

 そのまま私は、先生が座っていた椅子に座り込み己の幸せな未来を想像しながら湧き上がる劣情に身を任せていった……。

 



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