透の住んでる世界 (ミックス)
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透の住んでる世界

『住んでる世界が違う』って自慰的言葉、あれは間違っている。なぜなら俺と透は、確かに同じ世界に住んでいた。

 

 

  ◆

 

 

「おいお前ら、先生が説明してるんだからイチャつくならウチでやれ」

 

 俺と透は今週の土曜に釣りに行こうと盛り上がっていて、そんな会話に割って入ったのが数学教師の男だった。

 いつでも明るく、授業では生徒たちを楽しませて学ばせようとする良い教師だっだが、〝こういうところ〟があった。

 とっさに黒板の方に体を向けたが、俺の心は引きつって、ちょっとの間動けなくなる。

 

「わかったな?」

「はーい」

 

 後ろの席から、涼しげな声が応えた。聞き慣れた透の声だ。

 すると四方八方からさまざまな言葉が飛んできた。

 それは聞き分けるほどのものではない軽い言葉たち。

 恥ずかしくてたまらなかった。どれも俺と透をからかう内容だったからだ。

 

「ふたりって付き合ってるの?」と聞かれることは何度かあった。「あいつら付き合ってるのか?」と遠くから聞こえることも何度かあった。

 ただそれは単純に気になっただけであり、他意はほとんど含まれない。

 しかしこれは違う。

 いたずらにからかうものであり、いやな視線が集まるのを感じた。

 

「うるせーよ! 授業に集中しろ!」

 

 とりあえずみんなを黙らせたくてそう言ったが、その反応が面白かったのか、再熱してしまう。しまいには数学教師が収めるまでの盛り上がりになってしまった。

 みな中学生ながら、これまでは俺と透の仲をあまりずけずけと言うことはなかったのだが、さきの数学教師の軽口から「いじってもいいもの」になってしまったのだろう。

 

 恥ずかしいという感情が首から上を支配して、落ち着かなかった。もちろん、透がいまなにを考えているかなんて考えもしなかった。

 

 あの授業終わりの休み時間から、クラスメイトたちは鬱陶しいほどに俺と透に絡んできた。それがいやでたまらなく、俺は物理的に透から距離を取った。しかしそんな抵抗をしても「彼女ひとりにして寂しそうじゃん」とか「いつもみたいに並んで歩けよ」とか言われる。

 授業中も、休み時間も、給食中も、清掃時間も。

 なにをしてもなにか言われるような、不祥事を起こした芸人を思わせる扱いだ。

 

 そうしてやっと学校が終わる。

 帰りの挨拶を済ませ、さっさと教室を出る。

 頼むから誰も、なにも言わないでくれ。

 

「おい彼女置いてくなよー」

「……」

 

 早歩きで校舎を出て校門を潜る。

『帰る』『誰にも遭遇しない』

 それだけを頭に詰めて歩く。

 

「……」

 

 しばらくして、駆ける足音が近づいてきて俺の右斜め後ろに着くと、あたりまえのように並んで歩きだす。服の匂いですぐに誰かわかる。

 

「……」

 

 いつものように言葉を返したかったが、クラスメイトたちの顔が浮かんで言葉が喉につっかかる。そんな形にならなかった言葉をため息に溶かして、無言で歩き続けた。

 

「あれ、どうかした?」

「……」

 

 お前はどうかしないのか。そんな視線を向けたが、透はのほほんとしていた。

 彼女は昔から、なにを考えているのかわからなくなる時がある。もうそこそこの付き合いだから言葉少なく通じることは多いが、自分以外の誰かを知り尽くそうなんて無理な話だ。

 

「……」

「……」

 

 無言が続く。

 いつもであれば気にならない間が、今日はやけにむず痒くて、息が詰まる。

 

 帰路も終わりにさしかかり、いい加減黙りっぱなしではいられないと思い口を開くが、俺の言葉が発されるより先に透が切り出す。

 

「ねぇ」

「…………なに」

「ほんとに付き合ってみる?」

「は……はぁ?」

 

 うまく自分を動かせなかった。

 頭の悪いCPUのオートモードに乗っ取られたみたいな。先のことを考えられず、その場の最適解も探せず、道化じみた挙動しか許されないような、そんな感じ。

 

「……」

「いや……はっ、なに言ってんのお前。俺たちそんなんじゃねぇだろ。意味わかんね。なんなんだよ急に」

「……」

 

 俺は透の顔を見ていなかった。見れなかった。

 別に透の表情を知りたくなかったわけじゃない。ただ、恥ずかしくて、それを悟られたくなかった。

 

「そっか」

「……」

「ふふっ。ごめん。変なこと言った」

「……ほんとだよ」

 

 つまずいた感覚があった。

 足が、じゃない。なにかもっと、計り知れないくらい大きな大きなつまずき。

 

 このとき頭の悪いCPUが俺を操っていなければ、つまずいた先から現れた空虚な穴に気付けただろうか。

 そして、へりにでも縋りついて引き返せただろうか。

 

 でも俺は、まだ子供だった。

 子供にわかるわけがない。人生の選択を誤ったときの感覚なんて。

 

 

 その日は水曜日で、次の日、また次の日と透と登下校を共にしたが、会話はなかった。

 俺がなんとなく壁を作ってしまって、透はその壁に触れないよう静かに隣を歩いていた。

 相変わらずクラスメイトたちにからからかわれ、冷静になる暇なんてない。

 

 そして土曜日。

 一緒に釣りに行く予定だった日、家のインターホンが鳴る。母が俺に、透が来たことを伝えた。

 だが俺は、外出していることにしてもらう。

 

 再び襲う、鈍く深いつまずきの感覚。

 

 母が俺の部屋を去ってから三十秒ほどして、閉ざされたカーテンの端に指でわずかな隙間をつくって道路を見下ろす。

 

 見上げる透と目が合った。

 極々小さな隙間しかなかったが、透の澄んだ真っ直ぐな視線はしっかりと俺を捉えていた。

 

『ばいばい』

 

 そう言ったんだと思う。

 窓越しに、こんな距離で声は届かないけれど、俺にはわかった。

 

 それから透は、いつもとどこか違う小さな笑みを見せ、ひらひらと手を振る。

 

 次の日透は引っ越し、高校二年生となった俺はあの日以来彼女を見ていない。

 

 

 

 

 なにかが欠けた毎日。

 友達もいて、勉強も申し分なく、俺に好意を寄せる女子との交流も、悪くはない。

 社交性がなかったり、勉強が苦手だったり、縁のないやつから見れば、俺はよっぽど充実した高校生に見えるだろう。

 でもそんなものは見せかけにすぎない。

 社会的な価値なんて結局は有象無象の他人の価値なんだ。

 

 俺が欲しいのはそんなものじゃない。

 

 あいつはそれをわかっていた。

 他人は他人と割り切っていた。

 

 俺もあんな風になりたかったのかもしれない。

 どこまでいっても俺は凡人で、どれだけあいつの立ち方を真似ても、なりきれない。

 他人の価値なんて、他人の評価なんて、と切り捨てようとしたって、流される。

 凡人が「自分」でい続けることは困難なことだ。

 

 最近はもう、ずっとそばにいたあいつの残り香も消えかけて、『普通』が俺に語りかけてくる。

 

 同調しろ。

 同化しろ。

 褒められろ。

 認められろ。

 競え。

 優位に立て。

 追え。

 右にならえ。

 みんなが認めるものが素晴らしい。

 より数が多い方が素晴らしい。

 

 みんなと一緒なら正しい。

 

 もう『普通』でいいのかもしれないと、俺の心は傾き始めている。

 普通が一番楽だから。もう俺は楽になりたい。

 

 浅倉透という存在に出会ってしまったために、俺は『ズレ』てしまった。だがその原因となった透は姿を消した。

 

 ならもういいじゃないか。

 なんの葛藤もなく『普通』に甘んじても。

 

 

 学校が終わり、友人と買い物に行き、電車で帰宅する。なんとなく一日をこなして、リビングのソファに腰を沈める。母がつけっぱなしにしていたのか音楽番組が垂れ流しで、SNSでメッセージのやり取りをしながら適当に眺めていた。今流行っている曲がやるなら観ておくか、くらいの心構えで。

 

「……嘘だろ…………」

 

 そして、俺と透は再会した。

 

 俺は自宅のソファの上で、彼女は豪華な舞台の上。

 液晶の向こうに、浅倉透がいた。

 

 

  ◇

 

 

 目が醒めた感じがする。

 俺はあの日から寝ぼけて生きてきたんだろう。

 

 ただ、そうか。

 あれだけ整った顔立ちで、他にない独特の雰囲気を持っている透が芸能界に入るのは必然だったのだろう。

 

 しかし、あの頃と比べ随分と変わったし、全然変わってない。変な感じだ。

 その日の夜に卒業アルバムを引っ張り出して眺めた。集合写真以外、俺と透はいつも一緒にいる。

 

「あんま変わんないな……」

 

 透の目鼻立ち、輪郭、肌、

 ――笑顔。

 

「……」

 

 音楽番組でノクチルというアイドルのユニットが踊っている様を思い出す。

 あのときの笑顔、不思議だ。

 いつもすぐ隣にあったあの笑顔が、電波に乗って日本中で見られていたのだ。

 

「なんだろなぁ……この感じは」

 

 これ以上はあまり考えたくないな。

 アルバムを閉じて元の場所にしまおうとしたけれど、結局片付けられずに勉強机の上に置いた。

 

 なんだか体が重く早々にベッドに入るも、夜は浅く寝られるはずなどなかった。

 

「はぁ……くそ……」

 

 俺を眠らせまいと悪夢みたいな思い出が次々と脳裏を駆ける。

 

 透の投げた雪玉がうちの窓にヒビを入れて、母にふたりで怒られたときのこと。

 

 透と一緒に初めて子供だけで電車に乗ったときのこと。

 

 透とカブトムシを捕まえて大はしゃぎしたときのこと。

 

 透が膝を大きくすりむいて俺の方が泣いたときのこと。

 

 透とふたり自転車で隣の県まで走ったときのこと。

 

 透と近所の林に秘密基地を作ったときのこと。

 

 透の部屋で漫画を読んだときのこと。

 

 透の家でゲームをしたときのこと。

 

 透を男だと思ってたときのこと。

 

 透がうちに来た最後の日のこと。

 

 透のことが好きだったこと。

 

「………………だめだ」

 

 頭を振っても湧いて出る透との記憶。

 耐えがたい苦痛だった。

 

 考えるな。考えなくていいんだ。

 俺たちは、もう……。

 

 

 次の日。

 学校が終わり友達と遊ぶ予定だったが、急用ができたと言って断る。

 俺はただただ静かにいつも通りの帰り道を辿る。

 最寄りの駅を降りて向かったのは公園だった。

 

 やってくると、小学生たちが遊びまわっていて、ああ、ここはもう自分の領域ではないんだなと感じつつ、端のベンチに腰掛けた。

 

 俺は子供たちの世界の端っこから公園を眺め、思いを馳せる。

 透と初めて会ったときはどんな感じだったっけ。

 まったく掘り返さなかった記憶は随分と埃をかぶっていて不明瞭だった。すでにほとんどなにも覚えていないと言ってもいいくらいには色褪せている。

 

 でもいくらか記憶を眺めていると思い出すことはあった。

 

「ジャングルジム……か」

 

 透はジャングルジムを眺めてたんだ。

 それから、なにを言ったんだか、俺たちは一緒にジャングルジムに登って、それから一緒に遊ぶようになった。

 

 ぼけっと過去に浸っていれば、いつのまにか日は暮れ落ち空が青黒く染まっている。遊んでいた子供たちの声はなくなっており、時折りウォーキングをする人の姿が見えるのみだった。

 

 街灯がついてすぐ、俺は立ち上がる。

 自然と体はジャングルジムを目指していた。

 俺は悠々と鉄の格子をのぼっててっぺんに辿り着く。

 

 ジャングルジムは俺が小学生だった頃から随分小さくなってしまったようだ。

 きっと俺が大きくなったんじゃなくて、世界の方が小さくなってるんだ。

 だって子供の頃、世界はずっと広かった。

 いま俺は、窮屈だ。

 

 

 気づけばノクチルを追っていた。

 ノクチルは同じ学校の生徒である四人組からなるアイドルユニットで、まだまだ駆け出し。

 ラジオに出れば必ず聞くし、曲は何度も何度も聴いた。テレビはもちろん録画した。CDは五万円分買った。エゴサーチと言っていいかどうかわからないが、SNSや掲示板でのノクチルの評価を片っ端から見ている。

 

 でもライブにだけは行かなかった。

 透にどんな顔して会えばいいというのか。

 自分から突っぱねといて、有名になった途端会い行く。そんなの不愉快極まりない人間だ。

 ……というのが自分への言い訳であることは承知している。

 俺だと気づかなかったら。

 俺に対する興味を失っていたら。

 それが怖い。繋がりが途切れている事実を知るのが、吐き気を催すほどに恐ろしい。

 

 でもこれでいい。

 俺はいま以上を求めていいほど大した人間ではないのだ。

 

 

 ノクチルを追っていると、なんだか満ちていくものを感じる。友達のなかにアイドル好きはいなくて、そのことをからかわれたりすることもあるが気にならない。

 俺のことが好きらしい女子は、最近ノクチルとアンティーカの曲を聴き始めたらしい。あの子にノクチルの良さがわかるのなら気が合うかもしれない。

 

 アンティーカとは俺がノクチルにハマる前から名が売れていたアイドルユニットで、CMで見かける機会も少なくないほどには露出がある。

 なんでもそのアンティーカとノクチルは283プロダクションという同じ事務所に属しているというのだ。

 知名度に差がありすぎる。283プロダクションはアンティーカをあれだけ売り出す力があるのなら、同じようにノクチルも押してもらいたい。

 

 こうしていると、俺と透の「差」というものが見えてくる。

『住んでる世界が違う』なんていう言葉が思い浮かんで、首を振る。住んでる世界は同じだ。人間が足元の小さな虫に気付かないみたいなことは人間同士でも起きる。

 

 これが俺の日常。

 足元のちっぽけな虫の日常なんだ。

 

 なんたってもう、俺の隣に透はいないのだから。

 

 

 そういうふうに俺の日常は再編され、完成されようとしていた。

 

 しかし、日常は水物だ。

 いついかなるときも、掬ったその手に留まらない。

 

 

 

 

 浅倉透が来るらしい。

 いまノクチルのメンバーが自身の地元をまわり、その土地の魅力を紹介する企画の撮影をしている。市川雛菜、福丸小糸、樋口円香の三人がそれぞれ出身地域で撮影している目撃情報が挙がっており、あとは浅倉透を残すのみとなっていた。

 

「……」

 

 SNSを徹底して監視すれば撮影現場に行くこともできるだろう。

 

「……どうするかな…………」

 

 答えは出ず、一週間が経とうとしていた。

 

 

 結局、撮影現場には行かないことにした。

 おそらく数日後にこの街に来るだろうと掲示板では予想されているが、テレビにはさまざまな都合がある。実際どうなるかはわからない。

 俺はこの数日間考えていたことがもうひとつある。

 それは、浅倉透という存在とどう付き合っていくのか、だ。

 

 

 辿りついた結論は、浅倉透はアイドルで、俺はファン一号、というもの。

 俺は誰より先に、浅倉透に憧れた。だからファン一号。幼馴染だとかはもういい。そんなものに囚われていたら、『自分』でいられず『普通』にもなりきれない。

 俺はちゃんと、透のいない日常を生きていかないといけない。

 どれもこれも、この場にいない透に押し付けるのは身勝手すぎる。

 

 だから幼馴染の浅倉透とは決別する。

 

 俺の中の浅倉透は、アイドルの浅倉透だ。

 

 

 土曜日の朝、俺は公園に向かった。

 儀式のようなものだ。これから透と一番縁のあるあの公園に立ち寄り、そしてもう二度と近づかない。

 気分は澄み切っている。

 俺にまとわりついていたいろんな感情が鎮まっていくのを感じる。

 ようやく過去から解放される。

 

 

 朝早いこともあり公園に人影はなかった。

 あのジャングルジムに近づき触れてみる。ここから全部はじまったんだ。

 

「すごい。あるんだね、運命って」

 

 後ろから涼しげな声が聞こえた。

 聞き慣れた透の声だ。

 聞こえていたさまざまな音が消える。

 驚いて振り返ると、そこには私服らしい洒落た服の透が立っている。

 

「は……?」

「久しぶり」

「久しぶり……。幻覚?」

「かも」

 

 透が近づいてきて、俺の肩、腕、首元を触る。

 

「幻覚じゃないみたいだね」

「そう……だな……」

 

 透の顔が間近にある。本物だ。

 ただ俺の知っている匂いと違う。香水だろうか。

 

「なんでここに……」

「下見。……あー……下見っていうのは……」

「わかる。大丈夫」

「知ってるんだ」

「うん」

 

 緊張はなかった。

 透が目の前にいるとなんだか昔に戻ったような感じがする。

 透は俺の隣に並んだかと思っとジャングルジムに手をかけた。

 

「よいしょ」

「登る気か?」

「うん。登るでしょ?」

「……ああ」

 

 のせられ俺もジャングルジムを登る。

 一瞬でてっぺんについて、並んで腰掛ける。

 

「聴いてるんだ。私たちの」

「え? ああ、うん。なんで?」

「服」

「ん?」

 

 自分の服を見下ろすとノクチルのファングッズのひとつであるTシャツだった。最悪だ。このシャツは10枚持っているのでなにげなく着てしまっていた。

 

「ファン?」

「まぁ、うん。ファン……だな……」

「そっか。嬉しい」

 

 透はにっと笑い、その顔が昔の透の姿と重なる。胸に痛みが走った。俺の隣にはとどめておけない笑顔は、相変わらず可愛かった。

 しばらく特に話すでもなくジャングルジムの上に陣取っていたが、透が何かを言い出しそうだったので先んじて俺が口を開いた。

 

「ごめん」

「え?」

「透が引っ越す前の日さ、俺家にいたんだよ。でも気まずくていないフリしてた」

 

 謝るときの言葉は何度も何度も反芻してきたから、すらすらと口から出た。

 

「知ってるよ」

「そうか」

「釣り、行きたかった」

「悪い」

「…………ごめん、私も」

「……いいよ」

 

 

 引っ越しのことを言っているのだろう。

 事情があるのだろうが、理由なんて何でもいい。

 

「サイン書くよ」

「あ、あー。でも俺いま色紙とか持ってないぞ」

「服」

「ははっ。いいか?」

「うん」

「ペンは……」

「持ってる。降りない?」

「だな」

 

 ふたりして地面におり、俺は背中を透に向ける。

 

「前の方服掴んで。しわ伸ばさないときれいに書けない」

「わかった」

 

 背中側の生地が伸びきるように腹部に布をぎゅっとまとめる。

 

「くすぐった」

「我慢して」

 

 透は慣れた手つきでささっと背中にサインをしてくれた。

 

「売らないでね」

「売らないよ」

 

 売るわけがない。

 

「……あっ、時間。行くね」

 

 そう言うと、透はいきなり立ち去ろうとする。

 

「あ……透!」

 

 本当に時間がないのか小走りで去ってしまった。俺の呼びかけには片手を上げて応えたが、それだけ。

 

「透……」

 

 再会の感動はあるものの、空振り感があった。

『この程度なのか』と思ってしまった。

 

 俺は透にとって特別な存在だと感じてた。

 でも、齟齬があったようだ。

 昔からそうだったのか、離れている間にそうなったのか。

 

「……なに期待してんだ俺は。決別するんだろ、今日で」

 

 俺は今日ここに決別しにきたのだ。

 だから心のどこかにあった、透はあのとき本当に俺に好意があったんじゃないか、とか、まだ俺のことを想ってくれてるんじゃないか、とか、そんな期待は期待に過ぎなかった。

 

「情けなっ………………」

 

 なんか、泣けてきた。

 危うく着ていたTシャツで顔を拭きそうになるが思いとどまり、公園の水道で顔を洗って家に向かった。

 

 人通りも出てきて、道ゆく人はいい歳して泣き顔を晒している俺をちらちらと見てくる。鬱陶しい。

 

 めちゃくちゃな感情のまま玄関を抜けて自室に入る。そのままベッドに倒れ込んだ。今日一日泣き晴らそうと決めたそのとき、はっと気づく。透にサインしてもらったシャツを着たままでは皮脂や汗で汚れてしまう。

 すぐさまシャツを脱ぎ去り、ぱたぱたと振って埃を落とす。

 

 そしてシャツの背中側が見えた。

 デカデカとした文字でこう書かれてある。

 

 

 

        好

        き

 

 

 

 そういえば透のサインは漢字のフルネームだった。ささっと書けるわけがない。

 

「…………返事くらい言わせろ」

 

 なんか、泣けてきた。

 

 

  ◇

 

 

『住んでる世界が違う』って自慰的言葉、あれは間違っている。やっぱりほら、俺と透は同じ世界に住んでいた。



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