恋は雨上がりのあとで (なでしこの犬)
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おもひで、けむり
青春が逃げていく。
無くしてから気付くそれは、煙草の煙となって空に舞う。そして青春のように消えて無くなる。
すでに一度、肺を通ったそれは味気なくなっていて、目的もなく高く舞い上がり、やがて消える。口と鼻に残る苦味に取り憑かれた男は、代わり映えのしない駐車場を眺めたままもう一口、煙草に命を吹き込む。
(……良い天気だ)
冬の終わりはもう目の前。肌寒さが残る中で、春を感じさせる太陽の光がこの地上を照らす。十五時前の眠くなる時間。何かと忙しくなる季節を止めてくれるようなフワフワとした感覚に陥る。
まるで、自身が若返ったような違和感。ファミリーレストラン「ガーデン」の店長である
四十六歳、バツイチの一人暮らし。冴えないファミレス店長――――。近藤の自己評価はそんなモノだ。実際、周囲の目を引くような存在でもない。どこにでもいる中年オヤジである。
一時的に吸い飽きた煙草の火を消して、近藤はスタッフルームに煙が籠っていないか確認する。そのまま仕事に――――とは不思議とならなかった。サボりではなく、休憩だと言い聞かせて。窓を開けたまま、もう一度代わり映えのしない駐車場を眺める。
(最近、雨降らないな)
ここ二週間、ずっと青空だった。晴れは嫌いではない。実際のところ気分は良い。それなのに、近藤は妙な寂しさを抱く。
手で千切ったような歪な形の雲が浮かぶ。パズルのように、組み合わせたらどんな形になるのだろう。顔を上げて無意味な思考を巡らせても、寂しさは消えない。それだけ、彼にとって雨は
忘れたわけではない。ただ考えないようにしていただけ。
それでも、雨を見ると脊髄反射のように浮かぶのだ。
「――――何黄昏てるんですか店長」
「えっ? あ、あぁ久保さん……すいません」
「暇な時間だからって、あんまりだらけないでくださいよねぇ」
「……はい。すいません」
立場的には近藤の方が上だ。しかし、自身よりも年上のパート、久保には彼も頭が上がらなかった。
ガーデンの中でも古参の彼女は、アルバイトなどの面倒見もいい。何かと店を空けることもある近藤の代わりに店を仕切ることも少なくないのだ。だからペコペコと頭を下げる。だが、彼女はそれが気に食わないのである。今さらソレを問い詰めるつもりもないらしいが。
近藤が苦笑いを浮かべていると、久保は呆れた様子でスタッフルームを出て行った。扉が閉まると、彼は分かりやすくため息を吐く。
開けっ放しの窓に背を向けて、並ぶロッカーを見つめる。背中には肌寒さが残る風を浴びる。
入れ替わりが激しいファミレスのスタッフ。使う人間もその都度変わる。誰がどのロッカーを使っていたかなんて、一ヶ月もすれば忘れてしまう。実際、近藤もそうだ。
だが、眺めてしまう。……何故か?
それは近藤自身が、一番よく分かっている。
『――――店長』
よぎる声。ぶっきらぼうな声。でも、すごく素直な声。
居なくなった彼女のことを、思い出すのだ。いつもいつも、怒っているような視線を投げかけてくる彼女を。でもスラッとしていて、まるでモデルのような。
彼女がバイトを辞めてから、一年以上経った。四十五年も生きていれば、一年一年があっという間に過ぎるとよく言う。しかし近藤はこの一年、倦怠感に襲われていた。
いつぶりだろう。この青春の沼に浸かり切った倦怠感。汚い中年のくせに、と再び自嘲する。
近藤は、彼女と出会ってから自分で自分を貶す機会が増えていた。あまり良いことではないが、彼女と対比でいるためには必要なこと。そう言い聞かせて深く考えないように。
『――――あなたのことが好きです』
「あぁ……」舌打ちしたくなかったから、そんな言葉を漏らす。これでも彼なりに、彼女へ気を遣っているのだ。
雨の中、ちょうどこの場所で。傘を差し出した近藤にそう告げた彼女。彼が忘れていた青春の味を思い出すきっかけになった
揶揄っているわけではない。本気なのだ。本気で、周りの目なんか気にならないほどに。十七歳の女子高生が、四十五歳の中年オヤジに恋をした。その現実的ではない現実に、近藤は直面した。
(……俺には眩しすぎたんだ)
誰も入ってこない部屋を眺めながら、考える。
まだ十七歳。怖いもの知らずだからこそ出来た恋だ。彼女的には何も気にかける必要はない。しかし、近藤は社会で生きてきた。その目がある。倫理的な問題だって出てくる。彼女が思っていた以上に、弊害は多いのだ。
だから、近藤は一線を引く覚悟を決めた。去年の初詣。大雪で帰れそうにない彼女は「店長の家に戻ろう」と意気揚々と。
でも、彼はソレを許さなかった。そうして居たら、きっと今頃。抜け出せない沼に嵌まり込んでいたに違いない。この店でも、気が付けば彼女を視線で追っていたりしたぐらいだから。
――――近藤もまた、彼女に恋をしていたのだ。
ぶるっと、体を走る寒気。背中に当たる風が痛く、体の芯まで届く。少しサボりすぎたと近藤は軽く後悔する。
比較的薄着の制服。窓を閉めようと両手で腕をさすりながら振り返る。
面白みのない駐車場。そこに人影。ぽつんと。
近藤の方を眺めているようで、彼は目を細める。見覚えのあるシルエットが少しずつ近づいてくる。思わず固唾を飲んで、彼女のことを待った。
十五メートルぐらいだろうか。彼女の走りがゆっくりと見えた。まるでスローモーションの世界のようで、体温の上昇とともに、寒気が吹き飛んでいく。
「――――店長っ!」
駆け寄ってくる制服姿の少女。近藤と目が合ったことでルンっ、と跳ねるようにコンクリートを蹴る。
あぁ、変わっていない。相変わらず綺麗に伸びた黒髪が美しく、さっきまで痛みでしかなかった冬の風が春色に変わるような。桜が舞った。そこでようやく、スローの世界から抜け出した。
「橘さん! どうしたのー」
まるで久々に会う親戚のように。意識しないように。
咳払いをして喉を開く。一年以上会っていない割に、普通に声掛け出来た。それが自分でも不思議だったのか、近藤の声は少し上の空だ。
橘あきらは、風で乱れた髪を手櫛で整える。
あぁ、変わっていない。一年以上会っていないというのに、アルバイトしていた頃と変わらない。あれだけ見慣れた人なのに、こうして会うと胸が熱くなる。
「会いにきました。友達として」
「……そっか」
「その……忙しくないですか」
「……大丈夫。今から休憩するところ」
久保に文句を言われることを承知で。
あと五分だけ。近藤は、二本目の煙草に手を伸ばした。
原作が好きなので勝手に続編()
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おもひで、けむり(二)
久々に鼻を抜ける、どこか懐かしい匂い。それは煙草の残り香となって、少女の心を覆い尽くしていく。胸に染み込んだ記憶はそう簡単に消えることはない。
窓から顔を覗かせる近藤に寄り添うように、あきらは事務所の壁に寄りかかる。決して綺麗とは言えない壁でも、年頃の少女は気にしない。
懐かしい。懐かしくて瞳が揺れる。
横目で確認する、すぐ隣に居る親子ほど歳の離れた男。ほんの少しだけ、あの頃より白髪が増えているように見える。
その奥は、毎日のように通っていた場所。近藤と青春の一ページを刻んだ場所。蘇ってくる記憶の数々。自らの存在を実感するだけの思い出がこの事務所にはあった。
「それにしても久しぶりだねー。元気、してた?」
久しぶりに聴く彼の声。煙草で掠れていて、剃刀負けしているような憂鬱さを纏った低音である。これもまた、あの頃と変わらない。
「はい。店長も、お元気そうで」
「そんなことはないよ」と否定しそうになった近藤は、苦笑いに逃げた。こんな
普段よりも長くなった休憩時間を気にしていた彼はもう居なくて、ちらりちらりと視線が彼女に向かってしまう。本人の意図していないところで、何かしらの力が働いているみたいに。
目の前に居る彼女は、あの頃よりも明らかに大人びていた。時間の経過とともに現れる老化ではなくて、自身の知っている少女が大人の階段を登ろうとしている、その事実に近藤は少し寂しさを覚えていた。
「橘さんは進学かい?」
「はい」
「大学でも陸上を?」
あきらは彼の目を見ず、コクリと頷くだけ。
自身の青春の一ページを彩った男が隣にいる。競技中とは違った意味で胸が痛んだ。相変わらず綺麗に伸びた黒髪は冬の風に
年頃の女子特有の香りであった。近藤にとってそれは甘くて、蕩けてしまうぐらいの劇薬であった。
「そっかあ。良かったねぇ」
感心しているような声色だが、本人にそのつもりは無かった。と言うのも、その劇薬を嗅いでしまったせいで、彼の中の理性が揺れ動いたのである。つまり、咄嗟に自身を取り繕っただけの動揺であった。
「あの、店長」
「んー」
煙草を吸いながら返事をする。彼女にかからないよう顔を背けて煙を吐く。
久しく呼ばれていなかったこともあり、ちくりと胸を突かれた気分であった。
「私、ここで働けたこと、すごく良かったと思ってます」
あまりにも重くて、真っ直ぐな言葉だった。近藤も身構えていなかったせいで、思わずクスリと咳き込みながら笑う。
「どうしたの急に」
「どうして笑うんですか」
「あー……いや、そんなつもりじゃなくて」
怒っていると言うよりも、拗ねているような表情を見せた。近藤はそんな彼女を見て苦笑いする。
いや、まだまだ子どもっぽい部分が残っていて、安堵しただけかもしれない。彼はキリリと鋭い彼女の視線をくぐり抜けるように空に目線をやった。
「橘さんが来て、随分と変わったよ」
言葉の意味は言わずとも、二人を包み込む空気が鳴った。意識と共鳴するみたいに、切なく熱く、記憶がゆらゆらと。
彼女は彼に恋をして、彼は彼女に恋を感じた。でもそれは青春の穴埋めでしかなくて、互いの心に眠っていた感情を誤魔化すだけの道具にしか過ぎなかった。
走りたい。書きたい。
駆け抜けたい。書き殴りたい。
風を感じたい。言葉に溺れたい。
立ち止まったままだった青春の一ページが出会い、葛藤し、揺れ動き、互いに踏み出した。二人が過ごしたあの時間は、紛れもなく青春であり、偶像なのである。
「それは、私もです」
けれど、橘あきらが近藤正巳に恋をしていた事実は消えない。近藤正巳が橘あきらに青春を投影していた事実も消えない。
友達という区切りは決めたものの、あまりにも中途半端な状態であることには変わりない。歳の差もそうだが、アルバイト先の店長と女子高生という二人の関係性は、それ以上でもそれ以下でもない。だから、友達ということ自体が可笑しな話なのである。
「ねぇ橘さん」
近藤は呼び掛けたが、後悔した。これから自分が言おうとする言葉は、あまりにも無粋であったから。
「……店長?」
「あぁ、いや。君も卒業かと思うと、俺も年取ったなって」
誤魔化されたと直感が言う。あきらは無愛想な視線を送る。けれど、煙草を片手に空を眺める近藤があまりにも様になっていたから、思わずその横顔に見惚れてしまった。
(何しに来たの、って言うのは無粋か……)
あきらでなければ、きっと近藤も言っていたに違いない。バイト先のOB・OGが裏口からやって来ることは極めて珍しいケースである。まずそう問いかけるのは至って自然な流れである。
「店長は、書いてるんですか?」
「ん、まぁ、ぼちぼちかな」
九条ちひろの顔が浮かぶ。ぶんぶんと首を振ってデフォルトされたニヤケ顔を消し去る。
随分と手の届かない場所に行ってしまったかつての盟友も、会えばあの頃に戻る。その切なさを知っていたから「あはは」と苦笑いするしかない。
彼の才能に嫉妬する自分も居た。橘あきらに当たったことだってある。虫の居所が悪かったという言い訳は捨てている。一度だけとは言え、バイトの子に接する態度ではなかったと、近藤は思い返すたびに頭が痛む。
「そろそろ戻んなきゃ。久保さんに叱られちゃう」
携帯灰皿に煙草を押しつけて、彼女の顔を見る。あきらは、あの頃と変わらないぐらいに真っ直ぐな視線を近藤に向けた。
それは不満だったり、寂しさだったり、高揚だったり。彼女の中で処理しきれなかった色んな感情が混ざっていた。
「変わってないね。橘さんは」
意図せずして、近藤は言葉をこぼした。
無意識であったせいで、あきらはもちろん、言った本人が戸惑いを見せる。
「あーいやそうじゃなくて、橘さんはすごく大人っぽくなったと思う! ただこれはそういう意味じゃなくて、そのぉ……」
慌てて弁解する彼を見て、あきらはポカンとした様子。やがてそれは、いつかのやり取りみたいで可笑しくなって。クスッと空気を切り裂いて、口角が上がっていく。
「店長も、変わってない」
無邪気に笑う彼女を見て、近藤の心はわずかに揺らいだ。久しく見ていなかったこの表情。春を望む青空によく似合う。
彼女はいつも、雨とともにやって来た。それなのに、今日は雲ひとつない快晴の下で笑っている。橘あきらは変わっていないとしても、この世界は着実に変化し続けている。
今日何度目か分からない苦笑いを残して、近藤は仕事に戻って行った。残されたあきらは、壁にもたれたまま青空を見上げる。さっきまで彼が見ていた景色である。
「……寒い」
春の香りを待ち望む彼女は、微笑みながらつぶやいた。
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