穴の開いたこの身では、愛はただ零れていく (ブラウン・ブラウン)
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第1話【痛いほどの愛】

虐待って許せませんよね。私もそう思います。
数話で終わる予定。


「ねえアナタ。アナタはこの子がどんな子に育つと思う?」

 

 病院のベッドに横たわった女性が、大きく膨れ上がった自分のお腹を愛しそうに撫でている。外はすでに日が落ち、窓ガラスが反射して中の様子を映し出していた。

 青い病院服姿の彼女は、隣の椅子に座っている男性に問いかける。

 

「うーんそうだなあ。きっとキミに似て、頑張り屋さんの元気な男の子になるんじゃないか?」

 

「アナタに似て、負けず嫌いな子になるかもしれないね」

 

 間もなく生まれてくる我が子への想像が、2人の間で膨らんでくる。こんな子になってほしい、あんな子になってほしい。これまでも何回も繰り返した、もう何度目になるか分からないほどの討論会。

 交互に互いの想像を話し合って、けれど最後は決まってこの意見で締めくくられる。

 

「そして絶対足が速い子だな」

「そして絶対足が速い子ね」

 

 そう言うと2人はベッドの上にある、あるものに目をやった。

 それは、燦然と輝く2つの銀色のメダル。側面には英語で競技名が書かれている。どちらも陸上種目のもので、男子と女子1枚ずつのメダルだ。

 日頃から大切に扱われているのだろう、表面は一点の穢れもなく、病室の蛍光灯の光を反射して煌めいていた。

 

「結局僕たちは世界を取ることはできなかったけど」

 

「この子なら絶対、輝く金色を掴んでくれるに違いないわ」

 

 今までのやり取りとはどこか違う、想像と言うよりも確定した未来の話をしているかのような喋り方。お腹の中にいる我が子にも言い聞かせているような口調で確信をもってそう言い切った。

 その発言を聞いて何か思ったのか、お腹の中の子が母親のお腹を蹴飛ばしてみせた。

 その出来事に彼女は笑みを浮かべる。

 

「あっ、言ってる傍からこの子、今私のことを蹴ったわ」

 

「はははっ! 銀メダリストを足蹴にするんだから、こいつの将来はスーパースター間違いなしだな」

 

 男性は我が子の明るい未来を確信してとても嬉しそうにしている。

 それから女性の膝の上にある、自分の銀色のメダルをそれぞれ手に取って窓ガラスの方に向けた。窓に反射した銀色のメダルが、2人の目にはだんだんと金色のメダルに変わっていくように見えた。

 2人がそんな会話をした、およそ20時間後──

 

 「おぎゃぁ~! おぎゃぁ~!」

 

 

──両親の期待を一身に背負った、元気な男の子が誕生した。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 走る。走る。ただ走る。

 ザッザッザッと地面をこする自分の足音だけが耳の中に入ってくる。

 この最後の1周が終わればようやく少し休憩できる。

 

「ほら! もっと強く腕を振らないとダメでしょ!」

 

「ただでさえお前は、ハイハイも歩き始めも他の子より遅かったんだから真剣にやれ!」

 

「ハッ、ハッ、ウオェ……はい、分かりました……」

 

 砂っぽくなった口から胃液が出そうになるのをなんとか堪える。

 今日も何周したか分からないグラウンドで、ボクはうつ伏せに倒れた。10以上は数え方を知らないから何て言うか分かんないけど、10が2回来たところまでは覚えている。

 

 走り疲れて声があまり良く聞こえないけど、2人ともボクのためにアドバイスしてくれているんだからしっかり聞かなくっちゃ。

 うずくまる背中の後ろからは、おとうさんの冷たい視線を感じる。

 またボクのせいで、おとうさんにもおかあさんにも”怒らせて”しまった。

 ボクが生まれてからもう4年も経っているらしいけど、ボクは一度もおかあさんたちに笑顔を向けられた記憶がない。

 

 でも、それもこれも全部ボクのせい。ボクの足が遅いせいだ。僕の足が2人の期待に応えないせいだ。

 

「全く、大して動いても無いのにそんなに休まないの! "世界"は待ってくれないのよ」

 

 お決まりの文句とともに、おかあさんはそう言ってボクの前に立って手を差し伸べてくれた。

 

「ご、ごめんなさい。ありがとう、ございます……」

 

 何もできていない自分を心配してくれるおかあさんに申し訳なさを感じる。

 でも感謝は相手の目を見て伝えろ、と教えてもらっているから、顏に付いた土を腕で拭いてから顔を上げておかあさんを見る。

 手を引かれ、おかあさんと目が合う。

 けどその目はボクには向けられていない。

 おかあさんの目は、いつもボクなんかよりもずっと遠くに向けられているような気がする。多分”せかい”ってやつなんだと思う。

 おかあさんもおとうさんも、よくこの言葉を口にする。"せかい"に勝て、"せかい"に置いて行かれるって。

 

「さあ、30秒も休んだからもう十分でしょ。今日はまだあと4セット残っているんだから早く始めましょ。ほら立って」

 

「……はい」

 

 服に付いた土を払って立ち上がる。足に痛みが走るけど、そんなものは無視だ。

 今日もまた走る。

 ちょっと大変だけど頑張らなくっちゃ。

 

 "せかい"に置いて行かれないように。…………おかあさんたちの期待を裏切らないように。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

──ピッ。

 

 

「──タイムは……はぁ。おいおい昨日のタイムよりかなり遅くなっているじゃないか」

 

「ええっ嘘! どうしてよ」

 

「うーん、食事はきちんと食べさせてるし、睡眠時間も十分だったよな。……ほらやっぱりアレじゃないか? 昨日プロテインを取らなかったから」

 

「えーそれは仕方ないでしょ。昨日は買ってくるの忘れちゃったんだから」

 

「でもほかに原因が思いつかないんだよなあ」

 

 たくさん走って走って走って、一日の最後に100メートルを1本走ってタイムを計る。これがボクの毎日の生活。

 今のでやっと今日の僕の日課が終わった。

 達成感なんて何もない。酸素を体の中に吸収するのが精一杯で、頭の中は真っ白になって何も考えられない。

 走り終えた途端、足の骨が抜け落ちたみたいにグラウンドに頭から崩れ落ちた。足が肉と皮だけの棒状のゴムになった気分で体を支えられない。

 頭を地面に打ったけど、それすらもどうでもよくなるくらい疲れた。

 

 でもまだやることがあるから、いつまでも寝転んでいる訳にもいかない。だけど膝が震えてうまく立ち上がれない。

 目だけ動かして足の方を見てみると、ふくらはぎがパンパンに赤く腫れている。手で触ってみても、足には触られている感覚が無く、赤いところから発せられる熱だけが手のひらに感覚として伝わってきた。

 じんわりと伝わってくるその熱だけが、ボクがここで生きているという実感を与えてくれるものだった。

 

「はぁまあいいわ。それじゃあ今日の分を始めましょ。ええーっと……昨日がこのタイムだから……」

 

 ボクのタイムを記録してあるノートを見ながら、おかあさんは自分のポケットの中に手を突っ込んで何かを探し始めた。

 

 

 

──辺りの空気が一気に冷たくなった気がした。

 

 

 

「あっ、ああ……はぁあ、はぁあ……」

 

 呼吸が乱れる。疲労による震えとは違う種類の震えが、体全体に襲ってきた。周りの音が聞こえなくなるほど心臓の鼓動がうるさい。

 今は9月でまだ気温は高い。空が暗くなってきたとはいえ、寒いわけでもないのに歯がカチカチと音を鳴らして止まらない。

 深呼吸をしようにも、肺が無くなったかのように空気が吸えない。意味を持たない呻き声だけがボクの喉から発せられる。

 なんとか地面を這いつくばっておかあさんの元に行き、その足にしがみつく。

 

「ぁぁ、ごめんなさい……もっと頑張るから……だから」

 

「もう、いつも言っているでしょ。お母さんだって本当はやりたくないのよ? でもあなたの才能を活かし切れない、この悪い足にはお仕置きをしなきゃいけないの。分かるわよね?」

 

 おかあさんがしゃがんでボクの顔を覗き込む。相変わらず、目は僕を向いているのに意識は別のところに行っているように見えた。

 真っ白だった頭の中は、これからのことを思うだけで赤く染まってきた。

 もう何回もこのやり取りをやってきた。もっと頑張るからお願いします、と。そしてボクのこの願いはただの一度も通ったことがない。

 

 故にボクは諦めるしかなかった。

 

「は、はい……分かります。ボクが悪かったです……」

 

「うんうんそうそう。分かればいいの。良い子ね」

 

 ぼくの頭をなでてくれる。以前一度だけ見たバラエティ番組で、おかあさんの手は温かいと言っていた。子への愛情があるからおかあさんの手は、親の手は温かいのだと。

 

 けど、そんなの嘘だ。

 

 だってボクの頭に乗せられたおかあさんの手はすごく冷たいんだから。ボクをこんなに愛してくれているのに、冷たいわけがないんだから。

 そんな嘘つきな番組を見るよりも、いつも点いている世界陸上の映像を見ていたほうが、よっぽどボクのためになる。

 嘘の知識を身に付けるよりも、"せかい"を見ていたほうが2人の期待に応えられる。

 

 言葉だけを聞けばおかあさんは笑っているようにも聞こえるけど、多分おかあさんは笑ってくれていない。

 理由なんて分かり切っている。ダメなボクに向けてくれる笑顔なんてあるわけないんだから。

 

「今日は何本なんだっけか?」

 

「んーと昨日よりも1.7秒も遅いから17本ね」

 

「はぁこれまたずいぶん多いな。しかも割り切れないし。取り出すの大変だろ、手伝うよ」

 

「ん、ありがと。じゃお父さんと準備してるから、先に靴と靴下脱いで待っててね」

 

 ボクに指示を出してから、おかあさんはポケットからあるものを取り出した。

 それは、金色に輝く”画鋲”。持ち手が平らになっていて、奥までしっかり刺し込めるありきたりな画鋲だ。

 ビニール袋の中に入れられていて、合計30本くらい入ってそう。

 それを二人で1つずつ取り出して今日の分を数えている。

 

 半年くらい前から続いている日常の光景を、ボクは震えた両眼で見ていた。

 

 恐怖でお腹の底から冷えてくる。そして、その冷たいものが全身に広がって体温がどんどん冷めていっている気がした。

 気づけばさっきまで火照っていた足も、いつの間にか冷たくなっていた。

 

 ボクも早く準備しないと怒られる。

 疲れた体を無理矢理動かして、どうにかこうにか上半身を起こす。かじかんだように動きにくい手で靴を脱ぎ、靴下も脱いでいく。

 そして足首から下が露わになる。

 

 そこにあるのは大量の"アザ"。

 小指サイズにも満たない、そう例えるなら画鋲サイズのそのアザは、ボクの足首から下に表裏関係なしに無数に点在している。

 全部が黒くなったアザもあれば、周りが墨のようにくすんで中心だけ少し赤銅色になった傷もある。

 走ったときに破けたのか、一部の傷口はカサブタが裂けて血がにじみ出してきていた。

 

「よし、これで17本っと」

 

「それじゃ私は晩御飯の支度をしに先に帰るわね」

 

 もう日は完全に落ちた。辺りも暗く、人の気配もない。

 今から作らないと遅くなっちゃう、とおかあさんは家の方角に帰っていった。

 

「ああ頼んだ。コッチも終わらせたらすぐ戻るよ」

 

 お母さんに手を振り終えたおとうさんは、それからボクの方に体を向けて、

 

「じゃあ左足からやろうか」

 

 と言った。準備ができたおとうさんに左足を差し出す。右手には鋭い画鋲が一つ握られている。

 

 

──ああ、今日も"お仕置き"が始まってしまった……。

 

 

 何の抵抗にもならないけど、これから来る痛みに備えて、空気をたくさん吸って息を堪え目をつぶる。

 次の瞬間、冷えた異物が足裏に侵入してきた。

 

「くぅぅうう、があああ!!」

 

 ため込んだ空気が絶叫となって口から飛び出ていく。

 痛い痛い痛い痛い痛い。冷たく感じていた足が突如として灼熱を抱き始めた。

 突き刺さったままのソレは、確実にボクの体に穴を刻んでいる。その穴から血とともに、何か大事なものまでこぼれ落ちていくような……そんな気さえしてくる。

 この痛みから何とか逃れようと体をねじるも、足をおとうさんに掴まれて固定されているから動けない。

 

「こらこら、そんな暴れるな。画鋲がうまく刺さんないだろ」

 

 そう言っておとうさんは、2本目の画鋲を足に突き刺した。

 

「あああぁぁいたいいたいいたい!!」

 

 痛 痛 痛。そればかりが頭の中で点滅する。

 自分が絞り出す絶叫の中、聞こえるはずのない足の肉の裂ける音が聞こえた気がした。

 この場所は滅多に人が来ない所だから、どれだけ叫んでも迷惑にはならないし見に来る人もいない。

 そして3本目、4本目、5本目……と先ほどよりも速いペースで次々と刺し込まれていく。

 体の構造的に足の裏側の方が差しやすいみたいで、足の甲にはあまり刺さっていない。

 

「よし、これで8本。ようやく折り返したな」

 

「……ああっ、あ、あぁ……」

 

 6本目を超えたあたりから、ボクの口からはまともな声が出て来なくなった。

 両目から涙が止めどなく流れてくる。痛さを耐えるのに必死で涙を拭う余裕もない。

 左足だけに8本刺さっているから、画鋲の数だけ左足が不自然に重たい。

 

「んじゃ今度は右足をやっていくぞ」

 

 ボクの了承も得ないうちにおとうさんは右足を掴んで持ち上げた。掴まれるところが悪く、昨日の傷の上から押されてしまってカサブタが破れてしまった。

 鋭い痛みがわずかに走る。でもそんなことには全く気が付かないおとうさんは、そのまま強く握って9本目を突き刺した。

 

「うぅ、いたい……いたいよぉ……」

 

「そんな泣いてもお仕置きはやめないぞー。これはお前のためなんだからな。お前には才能がある、確実にな。なにせお父さんとお母さんの子なんだから。世界トップクラスの2人から産まれてくる子が遅いわけがないだろ?」

 

 子守歌よりも聞かされたボクの練習メニューについて語られる。

 

「でもお父さんたちは走り始めるのが少し遅くてな、金メダルは取れなかったんだ。お前にはそんな悔しい思いはしてほしくないんだよ」

 

 説明している間にも、次々と画鋲はボクの足と一体化していく。徐々に重みが増してきて、両足とも自然な重さに統一されていく。

 話を聞くことに集中すれば、ほんの少しだけど痛みが和らぐような気がする。それでも刺される瞬間はどうしようもなく痛い。

 これはお父さんたちからの"愛"だということは分かっているんだけど、なんでだろう……すごく悲しくなってくる。

 

「んで、どうやっていこうかお母さんと話し合ってな、速く走れるようになるには毎日0. 1秒ずつでも速くなればいいって気づいたんだ。これ気づいたのお母さんなんだよ、なかなか冴えてるだろ?」

 

「……ぁぁ、すご…ぃね……」

 

 きっとこの悲しさは、自分の無力さに対する気持ちなんだと思う。

 

「ホントうちのお母さんは天才だよ。でもな、お父さんだって思いついたんだ。少しくらいは緊張感があったほうが伸びやすいってな。ほら受験勉強とかそうだろう? って言ってもまだ分からないか。はははっ」

 

 涙でにじんだ目から見えたのは、誇り気に自慢げに話すおとうさんの姿だった。

 

「そこで2人の案を合わせて今の形になったんだ。"毎日0. 1秒以上ずつ速くなる。なれなかったら遅くなった分お仕置きをする” ってな。今日はいつもよりも多いお仕置きの量だけど、これはお父さんたちからの ”愛” なんだからな、お前のことを想ってやっているんだ」

 

「……ぁりが……ござ……ぅ……」

 

「鉄は熱いうちに打てって言うだろ? ってことは早ければ早いほど良いってことだ。こんな早い頃からやってる奴なんてまずいない。期待しているからな、頑張れよ。……よし! これで最後だ!」

 

「っが、ああ!!」

 

 終わりの合図のように、計17本刺さった両足をぺちんと叩かれて、電流のごとき痛みが体を流れる。

 少し雑なその扱いに、もう出尽くしたと思った涙がまた出てきた。

 お仕置きが終わって、ほんの少し息つく間ができる。

 

 

 

──けれどもまだ終わらない。

 

 

 

「ほら、最後に”誓いの言葉”を言ってお母さんのところに帰ろう。今日はカレーなんだってさ楽しみだ」

 

「うん……」

 

 "誓いの言葉"。これはボクがお仕置きを受けた時に最後に言う、明日の自分に対する誓い。

 

「あっ、あぐぅ……うっぅ……」

 

「そーだ。いいぞ、ちゃんと立って言わないとな」

 

 "誓いの言葉"はしっかり自分の足で立ってから言わないといけない。

 自分の重さで足の裏に刺さった画鋲がさらに深くねじ込まれていく。なんだか絵本で見た針山地獄に似ている。針がズブズブと体を突き刺さる。結果を残せなかった悪いボクにぴったりだと思う。

 だから泣いちゃいけない。どんなに痛くっても終わるまでは泣いちゃいけない。

 だって悪いのはボクなんだから。

 

「"ボ、ボグは……ひぐっ…ぁ明日、もっどもっど、もっど速ぐ……なります"……うわあああぁぁんん!」

 

「お―しおしおしよく頑張った。泣かずに言い切れたな。それじゃ早く抜いて、お母さんのところに帰ろう」

 

 ボクをひょいと抱き上げ地面に座らせて、刺したばかりの画鋲を抜いていく。

 予防接種のときの注射と同じで、刺される時よりも抜かれるときの方が痛みが少ない。

 赤い色をした命の液体が、じんわりと足元から流れ出ていく。

 

「今日はいつもよりも多かったからな、おんぶで帰ろうか」

 

「……やったぁ」

 

 滅多にしてもらえないおとうさんのおんぶ。やっぱりおとうさんは優しい。この優しさに応えられるようにボクももっと頑張らなきゃ。

 おとうさんが取り出してくれた包帯を足に巻きつけて、おんぶしてもらう。

 月の光がボクたち親子の影を作る。ボクをおんぶしてくれる優しいおとうさんの影。

 前に見たバラエティ番組でも似たような写真がでていた。父親が子をおんぶして、その隣を歩く母親の3人仲のよさそうな写真。今の僕たちにそっくりだ。

 そこだけはホントのことを言っているな、と昔のことを思い出していると、だんだん眠くなってきた。

 

「……ねぇ、おとうさん。なんだかねむたくなってきちゃった」

 

「ん? ああ寝てもいいぞ。着いたら起こしてやるから」

 

「んーありがと……」

 

 おとうさんの広い背中の上でまどろんでいく。やっぱりおとうさんの背中は落ち着くなあ。足にはもうほとんど力が入らないので、腕の力だけでギュッとおとうさんに抱きつく。

 

 どうしてか分からないけど、お父さんの背中は冷たかった。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

「おかえりなさ〜い。今ちょうどカレーが出来たところよ。ほら手を洗ってきて」

 

 出迎えてくれたおかあさんに従い、おとうさんと一緒に手を洗いに行こうとする。

 玄関でおとうさんに下ろしてもらった時、足に痛みが走った。穴が開いたばかりだし、そんなこと気にしても仕方ないから無視をすることにする。というか、こんなのいつもの事だから何の疑問にも思わない。

 足を引きずりながら席に着くと、冷えたお腹が温まりそうな、温かい匂いのするカレーが運ばれてきた。今日は野菜が大きく切られたゴロゴロカレー。

 中に入っているお肉はもちろん鳥のササミだ。これには"たんぱくしつ"っていうものがたくさん入っているらしい。"せかい"を取るためには絶対欠かせないものだとおとうさんが言っていた。

 

「みんな席に着いたね? それじゃ、いただきまーす」

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

 スプーンで掬って食べていると、テレビがつけられた。いつも見ている録画した世界陸上の番組。

 腕の振り方はこうしたほうがいい、スタート合図に対する反応速度を上げよう、などと、見ながらボクにアドバイスをくれる。

 そのアドバイスをカレーと共に咀嚼してよく味わってから体内に取り込む。自分の体に定着して欲しい、そう思いながら食べていく。

 カレーだからそんなに時間もかけることなく、お腹も心もいっぱいになった。

 

「おかわりはいいのか?」

 

「うん、今日はもういいや」

 

「ならもう少し食べようかな」

 

「それなら私がよそってくるよ。ちょうどお茶も飲みたいし」

 

「お、それじゃお願いする」

 

「ボクは先にごちそうさましておくね。ごちそうさまでした」

 

「はい、お粗末様でした」

 

 一足先に空になった食器を台所まで持っていく。水に漬けておくと洗いやすいらしいから、水を出して食器をすすいでおく。

 それが終わった後、石鹸で手を洗ってからコップが入っている棚の前に立つ。

 その引き出しを開けて、自分のコップとお目当てのものを取り出す。

 

 取り出したのはプロテイン。お父さんが言うには、これを飲めば筋肉がついて速く走れるようになるらしい。

 ココア味の粉末状のプロテインを底の深いコップに三杯くらい入れて、そこに牛乳を少しだけ入れる。スプーンでよく混ぜて粉っぽさが無くなったら、ラップはしないで電子レンジに入れて2分10秒加熱する。

 するとプロテインがどんどん膨らんできて、コップ型のスポンジケーキみたいに形作られる。下に皿を敷いてコップをひっくり返し、中のプロテインを取り出せば、筋肉がつく温かくて美味しいケーキの出来上がりだ。

 

 前はいちいちシェイカーに入れて振ってから液体状のを飲んでたけど、おとうさんに飲みづらいと相談したらこの方法を教えてくれた。

 ボクでも1人で作れて、しかもおいしいからよくオヤツで食べている。原因はよく分からないんだけど、ボクはよく吐いちゃう癖があるから、たくさん食べて吐いた分を取り戻さないと。

 ボクには友達がいないけど、もし友達ができたからこの食べ方を教えてあげたいと思う。

 

 カレーで使ったスプーンでプロテインケーキを食べ終わったら、台所の隣に置いてあるランニングマシンに乗り込む。

 今日はこれから3時間走らないといけない。今は9時だから終わるのは針が真上に来る頃か。

 今日はいつもと違って、足に包帯しているから少し走りにくい。穴は開いたまんまだし、普通にズキズキ痛むけど休んでる暇なんてない。

 

 だって”せかい"は待ってくれないんだから。

 

 

 

 

 

 

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「ハァハァっ……ハァ……」

 

 今日はいっぱい愛してもらったからか、いつもよりも疲れるのが早い。何度か間に合わずに転げ落ちてしまった。さっきも顔からぶつかって鼻血が出た。

 なかなか血が止まらなかったから、お母さんに助けてもらおうと思ったんだけど、もう11時を過ぎたからおかあさん達は寝てしまっていた。

 どうすれば止まってくれるのか分からなかったから、とりあえずティッシュで鼻血をかんで、出てこようとする血を出し尽くしてみた。

 何とかうまくいって5分くらいで血は止まったんだけど、鼻の血管がやけにドクンドクンと脈打ってて、なにか間違っちゃったことをしたんじゃないかと緊張した。

 

 眠くなってきたのか、視界が白くなってきて意識がだんだん遠のいてきたとき、ピーピーとアラーム音とともにランニングマシンのタイマーが切れた。

 

「ヒュー、ヒュー……ゲホゲホッ」

 

 うまく止まれずに転げ落ちて、壁まで飛ばされる。幸い毎日のように飛ばされているから、受け身はバッチリだ。

 この時間になると下半身の感覚が消え失せる。ちゃんと足がついているのか見てみると、足に巻かれた包帯は赤い靴下みたいになっていた。

 どおりでいつもよりもコケるわけだ、と原因が分かってスッキリする。

 いつもならこのまま電気を消してから床で寝てしまうんだけど、今日は包帯も取らないといけないし、この鉄っぽいにおいもどうにかしないと明日臭いって怒られちゃう。

 

 ……でも今日はちょっともう無理かもしれない。まぶたが重たすぎる。電気も点いたまんまだし片付けだってしないといけないのに。

 体が少しも動かない。意識が、だんだん遠く、な、る。なにもかんがえ、られ…………

 

 

 

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「──」

 

 暗闇が揺れる。大きな波の揺れを感じる。

 

「──い。おき──」

 

 体に衝撃を感じる。暗闇が徐々に晴れていく。

 

「おい、起きろって」

 

「──がッあ!?」

 

 鋭い痛みに跳び起きると、目の前にはおとうさんがいた。どうやら痛みの原因は、足をつねられたからだったみたい。

 

「? あれ、ボクは……」

 

「まったく電気も消さずに散らかしたまま寝て……、さっさと起きて片付けろ」

 

 寝ぼけまなこをこすっていると、昨日のやり残しが目に入った。辺りには鉄の臭いが充満している。眠気は一瞬にして吹き飛んだ。

 

「ご、ごめんなさい! すぐにやります!」

 

「5時からの朝の走り込みもサボって、もう7時だぞ? 分かってるのか?」

 

「はいごめんなさいっ!」

 

「片付けなかった分は今日の夜に2時間、今日の分の走り込みをサボった分は明日の朝に2時間追加でやるんだぞ」

 

「はい、分かりました」

 

 昨日のボクなんで寝ちゃったんだ! 本当にダメだなボクは。

 今日の夜に2時間多く、明日の朝に2時間早く起きて走らないと。2つもやらなきゃいけないことをやらなかったのに、明日1時間も寝させてくれるなんて、おとうさんは本当に優しいなぁ。

 ……っておとうさんの優しさに感動している場合じゃない、早く片付けないと。

 

 その後起きてきたおかあさんにも怒られて、気が沈んだ状態で今日が始まった。

 今日もまたいつもの練習をして、2人の期待に応えようと頑張る。

 今日も明日も明後日も、”せかい”に負けないように走っていく。

 疲れてても、眠くっても、足が痛くっても走り続ける。

 

 よく風邪をひいてしまう秋も走り続けた。

 寒さで意識が遠のいてくる冬も走り続けた。

 お花見を楽しむ人がでてくる春も走り続けた。

 暑さで汗が止まらなくなって何度も倒れる夏も走り続けた。

 ひどい雨と台風が来る秋も走り続けた。

 あかぎれがひどくなる冬も走り続けた。

 

 走り続けて走り続けて走り続けて──

 

 

──そして季節は春になって、ボクは小学校に入学した。

 



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第2話【擦りむけた愛】

ーーピピピピッ、ピピピピッ。

 

 機械的な音で目が覚める。

 まどろんでいる暇なんてない。早く止めないとおとうさんおかあさんにまで迷惑がかかっちゃう。

 上に乗っかって寝てしまっていたのか、血が止まっていてしびれる腕を無理矢理動かし、寝袋から腕を伸ばして目覚まし時計を止める。

 

ーーピピピピッ、ピッ。

 

「はあ~さむい」

 

 寝袋から出した手が気温の冷たさで熱が奪われていく。4月とはいっても、朝はまだ一ケタしか気温がない。

 まだまだ温まっていたいけどもう5時、起きなきゃいけない時間だ。

 

 寝ているおとうさんおかあさんの眠りを妨げないように静かに寝袋をたたんで、足につけた赤くにじんだバンソウコウを取り換える。それから昨日のうちに枕元に用意しておいた運動服に着替え、玄関で靴を履いて外に出る。

 扉を開けると風がビューっと吹いてきて朝の冷たさを感じる。音をたてないように扉を閉めて、まだ太陽が昇っていない空を見上げて深呼吸する。

 息を吸うたびに外の冷たさで肺がチクチク感じて、吐くたびに温められた空気が眠気とともに外に漏れ出て行く。

 それを何回か繰り返して、完全に目が覚めたら準備運動。

 特に足の部分を入念に伸ばしてから、外に向かって駆け出していく。

 

 今日はいつもよりもたくさん寝たから体が軽い。

 なんて言ったって今日は入学式。初めての学校生活が始まるんだから。

 

 走ることはいつものことだけど、昨日は入学式だからと早めに寝かせてもらえたし夕食はから揚げだったしでとっても嬉しかった。きっと入学式って言うのはすごいものなんだと思う。

 小学校に入ったら、公園で見かけた丸いものを蹴り合っている子たちみたいに、ボクにも友達ができるのかも。

 小学校ってどんなところなんだろう? 何をするんだろう?

 ちょっと不安だけどすっごく楽しみ。早く行きたいなあ。

 

 そんなことを考えていたらもう家の前に戻ってきていた。そこで1つ閃く。

 よし、朝の走り込みを早く終わらせて準備しよう。先月から毎朝始めた、学校に行くのに迷わないようにするための通学路10往復。今ので1往復だから終わりまであと9往復。もう学校までの道順はバッチリだ。

 腕に付けた細い腕時計をちらと見る。うん、このペースだったらいつもよりも早く終わりそう。

 

 ウキウキ気分でボクは2往復目に取り掛かった。

 

 

 

 

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 途中で転んじゃって膝小僧を怪我したから、予定よりも30分も遅れて朝の走り込みが終わった。時計を見ると7時半を過ぎている。これは絶対に怒られる。

 恐る恐る鍵を開けて中に入ると、思っていいた通りおかあさんが飛んできた。

 

「やっと帰ってきた。いつまで走ってるの、早く支度しなさい」

 

「ご、ごめんなさい。あ、あのね、おかあさん……」

 

「何? お母さんも忙しいんだから早くして」

 

 遅くなった弁解をしようと試みる。

 

「えっとね、転んじゃってね、それで遅くなりました」

 

 そう言うと、おかあさんは驚いた表情でせわしなく動いていた動きを止めた。

 

「え?」

 

「足も手もケガしちゃってね、ほら見てよ」

 

 転んだ拍子に擦りむいた手のひらをおかあさんの方に向ける。

 そうすればおかあさんがボクの元まで走り寄ってきて、ボクの目の前でしゃがみ込んだ。

 

「ねえ今、足をケガしたって言った?」

 

 しゃがんだおかあさんは、表情が乗っていない顔をグッとボクの顔を近づけてきた。

 あまりの迫力に1歩後ずさりするも、すぐに扉にぶつかってしまった。

 

「う? うん。あ、でもね! ちゃんと言われた通り練習はして──」

 

「あんた何してるのよ!!」

 

──パン。

 乾いた破裂音が聞こえてきた。それと同時にボクの視界は反転する。

 体は弾き飛ばされ、そのまま直線状にあった靴入れに頭をぶつけて床に崩れ落ちた。

 すぐさま硬い衝撃が頭にきて、見慣れた不快な赤い液体が右の鼻から流れ出ている感じがする。

 

「ぶっ……っあぁ」

 

 かすれた視界でおかあさんのほうをみれば、ひどく慌てた様子でボクのもとに駆け寄ろうとしていた。

 

「あんたの足は世界の足なのよ! 大丈夫? まさか折れたりなんかしてないでしょうね」

 

 倒れているボクのズボンを無理矢理引き抜いて脱がされ、足を掴まれおかあさんの方に引っ張られる。その際に床に置いてあった靴に顔をぶつけ、再度頭が何度も何度も床に打ち付けられる。

 ちょうど片足で宙づりになっている操り人形みたいな格好になった。

 

「あああこんなにすりむいて! 血が、血が! 世界が、私たちの世界が傷ついているじゃない!」

 

「ん―どうしたんだ、そんな大声出して」

 

「お父さんこっち来て見てこの足。 この子ったら転んで足を擦りむいたのよ!」

 

「あ? なんだって!?」

 

 リビングで朝食をとっていたおとうさんも慌てて駆け寄ってきた。二人に揉みくちゃにされているボクは、頭が下になっているからだんだん血が上ってきて、思考がうまくまとまらなくなってボーっとしてきた。

 

「大丈夫か、折れてないんだろうな!?」

 

「たぶん大丈夫だと思うけど、早く消毒しなきゃ」

 

「お、おう分かった。すぐ持ってくる」

 

 駆け足で去っていく音が聞こえる。

 鼻血が眉毛の辺りまで流れてきて気持ち悪い。おぼつかない動作で顔をこすると、嗅ぎ馴染んだ鉄の臭いが広がった。

 気持ち悪さを取り払うために上体を起こす。頭にあった血がじんわりと、痺れに似た感覚が体全体に流れていく。起き上がるときに傷ついた手のひらをついて起き上がったから、ヒリヒリと両手が痛む。

 

 まずおかあさんに謝らなきゃ。怒られた時はごめんなさい。あんまり怒られている理由がよくわからないけど、とにかく言わないと。

 

「おあ、おかあ、さん……」

 

「何、今あなたのことでお母さん忙しいんだけど」

 

「えっとね、その転んで? ごめん、なさい……」

 

「本当よこんな忙しい時に。いい? 今度からは足をケガしたら何よりもまず先にお母さんたちのところに来るのよ」

 

「うん」

 

「あなたのこの足はね、私たちにとっての宝物なの。世界を取るための、いえ最早この足は世界なのよ」

 

 怒りを含んだ表情が、話が進むにつれだんだんと嬉々としたものに変わっていく。

 世界。2年くらい前から言われ続けているこの言葉。よくわからないけど、おかあさんが言うにはボクの足は世界なのらしい。

 ボクの足はおかあさんたちの宝物。その愛の言葉だけでものすごく嬉しくなってくる。朝の寒さのせいだろうか、冷えていたボクの心も今のでポッカポカに温まってきた。

 自然と笑顔になる。

 

「うん分かった! 大事にするね」

 

「おい、消毒ってこれでいいんだよな?」

 

「ええそうよ。ありがとう」

 

 消毒を探しに行っていたおとうさんが帰ってきた。それを受け取ったおかあさんによって、すりむいた膝小僧が消毒されていく。じくじくと傷口に染みて痛い。

 

「いてててて」

 

「これに懲りたらもう転んじゃだめだからね」

 

「はーい」

 

「消毒だけじゃ心配だから包帯も巻いておくわよ」

 

 そう言って、ぐるぐるぐるぐると何重にも包帯が巻かれていく。

 

「って言っても包帯なんてやったことないしな……確かこんな感じだったような……これで大丈夫よね?」

 

 巻きながらおかあさんが何かぶつぶつ言っている。

 

「おかあさん?」

 

「ううん大丈夫よ。はいこれでおしまい」

 

「わぁありがとう」

 

 少し涙目になりながらお礼をしたとき、ポタリと太ももに鼻から鼻血が垂れてきた。

 

「あっ鼻血」

 

「さ、時間もないし早く準備しましょ。急がないと入学式に遅刻しちゃうわ」

 

「おかあさん鼻血出た。どうしよう」

 

「あー服には付けないでよね、洗い落とすの大変なんだから」

 

「あっうん」

 

「そんなもの放っておけば治るだろ。そんなことよりほら、食え」

 

 お化粧をしに洗面所に向かっていったおかあさんに代わって今度はおとうさんが来た。手には茶色いプロテインが入ったボトルが握られている。

 それのフタをおもむろに開け、握っていないほうの手をボクの顎に当ててボトルを思いっきり口の中に突っ込んできた。

 

「うぐっ……ッ!」

 

 口を塞がれ呼吸ができない。声にならない声を上げて苦境を訴えるも、おとうさんはお構いなしに液体を流し込み続ける。

 

「いつも言ってるだろう? 運動した後はプロテインなんだよ。ちゃんと飲めよー」

 

 有無も言わせずに飲まされていく。肺から空気が漏れ、代わりに液体が流れ込んでくる。ただの液体ではないドロッとした舌触りのせいで、飲み込もうにも喉に絡みついて離れない。

 

「ごぶぉっ、げほっげほ……」

 

「おいおいこぼすなよ。牛乳も入れているんだから床に臭いがつくだろ」

 

 肺の変なところに入ってむせてしまった。そのせいでボトルに入っていた3分の1くらいの量を床に吐き出してしまった。

 うずくまってなんとか肺から出そうとするけど全然出て行かない。

 

「ごほ……っかぁ……」

 

「ま、これで朝ごはんも取れたし良かったろ。父さんも着替えたりしてくるからお前もそろそろ着替えてランドセルとか用意しとけよー」

 

「…………」

 

「あ、床の掃除ヨロシクなー。自分で出したごみは自分で片づける、これ小学校に入っても大事なことだからな」

 

 自分の咳が激しいせいで、おとうさんが何を言っているかよく聞こえない。咳をするたびにさっきぶつけた頭が痛む。全身に力を入れているから、足裏のカサブタが裂ける。

 これだけ騒いでいるのに、なぜかカサブタが裂ける音がやけにはっきりと聞こえた。

 しかし、その痛みに喘ぐことも今はできない。

 ようやく呼吸が落ち着いたころには、玄関にいるのはいつの間にかボクだけになっていた。

 

「あー……」

 

 むせて興奮したから、さっきよりも勢いよく鼻血が出る。ぽたぽた、ぽたぽた。床に撒いたプロテインの上に一粒一粒落ちていく。

 とっさに上を向いて鼻血を止めようと、転んだときに手をついて汚れ擦りむいた両手で鼻を覆う。けれども、ぽたぽた、ぽたぽた、何かが落ちる音が聞こえる。

 気づけば目からも液体が流れていた。

 悲しくない。悲しいわけがない。悲しいと思うはずがない。なのに涙があふれてくる。涙は痛いときに流れるものなのになんで今なの?

 愛されてこんなにも心が温まっているはずなのに、目からは冷たい涙が落ちてくる。

 喉が震える。視界がぼやける。

 さっきまでの楽しい気持ちが、冷たい涙によって流されていく。

 声は出さない。前に声を出して泣いたら近所迷惑だと怒られたから。だから喉だけ震わせ、心の中でだけ大声を出す。

 なんで泣いているのか、この気持ちは一体何なのか。何もわからない。

 

 涙でしみた手のひらの傷がやけに痛かった。

 



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第3話【浮遊した愛】

小学校の入学式とか知らん。


 入学式の開始の時間に間に合わなくなるからと、涙も鼻血もまだ止まっていないうちに出発の準備をすることとなった。

 

 ちょっと痛む足を引きずって部屋の奥まで進み、自分のランドセルが置いてあるところまでたどり着く。窓際に置いてあったランドセルは朝の太陽の光をきれいに反射していて、黒色の生地がピカピカ光っている。手に取って触ると、ほんのりと温かくなっていて気持ちよかった。

 

 中を開いて昨日の夜にも確認したけど、もう一度忘れ物がないかを確認しておく。持っていくものはほとんどないけど、初日から忘れ物なんてしたら恥ずかしいし大変だ。

 どうやら昨日の自分は優秀だったみたいで、準備していた荷物に忘れ物はなかった。完璧だったけどそれに追加で、今鼻血が出ているからティッシュを多めに入れておくことにした。

 たまに足の裏から血が出てきちゃって靴下が汚れてしまう時があるから、ティッシュは血も止めてくれるし持っているだけでちょっと安心する。

 

 朝ごはん……はさっきおとうさんに食べさせてもらったから、その後は運動用に着ていた服を脱いでシャワーを浴びることにする。お金がもったいないというのと、おとうさんが言うには冷たい水を浴びると自分を強くしてくれるって言っていたから、ボクはお湯を使ってはいけない決まりがある。えっと、たきぎょう? とかいう名前の修行方法だったと思う。

 だからいつもお風呂に入る時のシャワーは冷たくって、急がないと風邪を引いてしまう。

 最近はもう慣れてきたから風邪を引かないよう上手くできるようになってきたけど、それでもタイムが遅かった日とかは足がもつれて上手くいかなかったりする。

 

 最後に、この日のために、とレンタル屋さんから借りてきた入学式用の服装に着替える。この時にはすでに鼻血も止まっていたから、血が垂れて洋服を汚しちゃう、なんて心配もなかった。

 初めて着る服だったから着るのに手間取って、目の前には忙しくしているおとうさんおかあさんがいるのに自分だけジッと立ったまま指先を動かしていると思うと、なんだか申し訳ない気がしてきた。

 

 ようやく着終わってボクの準備が終わったタイミングで、おかあさん達の支度も終わったみたい。速くならなきゃいけないボクが遅かったらまた怒られちゃう。

 

「時間もちょっとあれだし、少し小走りで行きましょ」

 

「車で行きたいけど、駐車場が無いからこういう時学校って不便だよな」

 

「って車持ってないじゃない」

 

「そういやそうだったか」

 

「バカ言ってないで早く行くわよ。忘れ物ないわね?」

 

「うん!」

 

 バッチリだとランドセルを弾ませて答えると、おかあさんはボクを一瞥して頷いた後、小走りで歩いていった。

 今日まで何度も走った通学路。道はもう完璧に覚えている。いろんな足の傷に気を使いながら、おかあさん達に遅れないようボクもその後を追いかけ走った。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 今まで門までしか行けなく中には入れなかったから、門をくぐり抜けて中の景色を見た時はとってもウキウキした。

 初めて見る同年代の子。驚くほどの人の数。真っ白くって大きな建物に付いている、これまた大きな時計。遠くには、えっと……なんだっけ? プール? も見える。気になって見に行こうとしたけど、おとうさんにどこ行くんだと手を引かれて止められてしまった。

 他の人にあいさつもできないまま、入学式が始まると学校の人に言われたから、みんなで体育館に向かった。別に知っている人なんていないけど、少しくらいは話してみたかったな。

 

 体育館で大人たちが代わる代わるよく分からない話をしゃべるのをしばらく聞いて、この学校の人たちによる校歌の合唱も聞いたりした。それから最後にクラスの先生の紹介があって、入学式が終わった。

 

「お母さんたちはこっちだから」

 

「頑張って来いよー」

 

「う、うん……」

 

 この後はおかあさん達と別れて教室で先生からお話があるらしい。事前にクラスの通知が家に来ていて、ボクは1-2のクラスだって分かっているけど、一人で行けるか心配だ。

 考えてみれば、自分一人だけでの行動は初めてかもしれない。今まではおとうさんかおかあさんか、何をするにしてもどちらかは必ず一緒にいた。でも今からは自分一人だけで、しかも初めて来る場所で頑張らなきゃいけない。

 

 緊張しながらもクラスに入ると、どうやら僕が最後だったみたいで、ほとんどの子が席に着いた状態でいた。

 初めて遭遇する密室での人の多さに目を見開かせていると、黒板の前に立っていたおとうさんよりもずっと若い男の人が、にこやかな笑顔をボクに向けてきた。さっきの入学式でも見た、このクラスの担任の先生だ。

 

「おっ来たね。ええっと、何君だっけか……んまぁいいや。黒板に書いてある席に座ってほしいんだけど、まぁ多分君の席はあそこだよ。他のところは埋まっているしね」

 

「は、はい」

 

 言われた通り見渡してみると、確かに入り口側の後ろの方の席が一つ空いていて、他の席にはそれぞれの子の荷物が置いてあった。

 先生に言われた通り席に着くと、後ろからトントンと肩を叩かれた。振り返ると、後ろの席に座っている男の子がボクを呼んできた。髪の毛が短く切り揃えられていて、ボクと同じくらい日に焼けた肌の色から、何かスポーツをやってそうな見た目をしている。

 

「よっ。俺タイガって言うんだ。お前は? なんて言うんだ?」

 

「あっその、ボ、ボクは……」

 

 初めての会話にうまく言葉が出てこない。何も言葉が出てこない状態で口をパクパクさせていると、

 

「ん! よしこれで全員揃った……揃ったよな? んで次は、とりあえずみんなー席についてくれー。お話ししてる人も一旦ストップなー」

 

 話そうと思ったタイミングで、全体に向けて先生から指示が飛んできた。不安気な声で、教卓に置いてある紙の束をめくっている。

 話しかけてもらった手前、どうすればいいかアタフタしていると、また後でな、とタイガが話を切り上げてくれたので、声が出ないなりに大きく何度も頷いてから前を向いて先生の話に注目する。

 

「えーっと、はい皆さんおはようございます。先生の名前は……あー、先生でいいかな。これからみんなはたくさんの先生の名前を覚えなくちゃいけないからね、僕くらい適当に先生って呼んでくれればいいよ。

 先生も今年から先生になったばかりの皆さんと同じ新入生です。だからぶっちゃけこの学校のこととか聞かれても先生もよくわかりません。一緒に学んでいきましょう」

 

 なんだかすごく適当な先生な感じがする。

 

「それで、まず先生が学んでいきたいのはみんなのことだね。早速1人ずつ自己紹介をしていってもらおうかな。言うのは、んー、自分の名前と好きなことにしよう。

 みんなの名前くらい覚えてから来ようと思ったんだけど、昨日は徹夜でゲーム……じゃなくて仕事してて覚える時間がなかったんだよね」

 

 ボクはこんなに緊張しているのに先生は少しも緊張してなさそうで、やっぱり大人はすごいと思った。

 それじゃ席順でいこうか、と自己紹介の時間が始まった。最初に指名されたのは女の子で、椅子から立ち上がって堂々とした様子で発表して、その後も続々と自己紹介が進んでいった。

 ボクの好きなことってなんだろう。自分の番が来てもいいように考えていたら、思いつくよりも前にボクの番が来てしまった。しかも他の人の話をほとんど聞いていなかったから参考にすることもできない。

 

 とにかくまずは椅子から立たないと。

 勢いよく立ち上がろうとしたその時。ほんの一瞬、ほんの一瞬だけだけど、地面が消えた……ような気がした。

 気がついたらボクは教室の床に倒れていて、先生が驚いた様子で駆けつけてきていた。

 

「おいおい大丈夫か? 貧血か寝不足か、それとも熱があったりしないか?」

 

「えっ……あはい、大丈夫? です」

 

 驚いている先生には悪いけど、それどころじゃない。

 なんか今、足の感覚がなくなったような気がしたんだけど……気のせい?

 恐る恐る足を触ってみても、手にも足にも触っている感覚、触られている感覚がしっかり伝わってくる。

不思議に思いながらも、足に力をこめて立ち上がってみる。心配とは裏腹に、足はなんの支えもいらずに立ち上がってくれた。一体なんだったんだろう。

 

「っておいおい膝から血が出ちゃってるじゃないか。バンソウコウ……は先生は持ってないし。保健委員……は中学や高校じゃないんだし、てかそもそも決まってないし」

 

 言われてみれば、今朝転んだところからうっすらと血が滲み出ていた。これくらいいつものお仕置きに比べればなんともないから大丈夫と言おうとしたんだけど、

 

「んーよし、保健室に行こう! 他のみんなはここでちょっと待っててな」

 

 と強引に手を引かれて保健室に連行された。

 こうしてボクの自己紹介の時間は、他の人の名前もほとんど聞いていなく、自分の紹介も出来ないまま終わることとなった。

 

 それにしてもなんで転んだんだろう。ちゃんと足ついているのに。



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第4話【遊んだ愛】

「はーいみんな席について」

 

「あっ先生だ」

 

 6月。気温もだんだんと高くなってきて、蒸し暑いと感じるようになってきた。ここ最近の天気にしては珍しく雲がほとんどない空で、太陽からの熱い熱が直に肌にあたってくる。

 教室で、入学式で仲良くなったタイガとこんな日にはプールに入りたいと話していると、教室の扉を横にスライドして先生が中に入ってきた。

 

「じゃまた後でな」

 

「うん!」

 

 会話を切り上げて、言われた通り席に着く。

 ボクたちが席に着くのを待っている間、先生は「あぢー」と手で自分をあおぎながら扇風機のリモコンを強にしていた。

 そして少し気だるそうな様子で教卓に立ち、列ごとにプリントを配り始めた。

 

「そんじゃ今日も今日とて朝の会を始めまっす。あーまずはじめに、前も言った通り、大変残念だけど今年はうちの学校のプールで大掛かりの改装が入るので、今年1年間まるまるプールが使えません。よって今学期のプールの授業は ”無し” となりました」

 

「「「えーー」」」

 

 入学したての時に先生から聞いていたことだけど、今日は一段と暑い日ということもあり、みんなから不平不満の言葉が先生にぶつけられた。

 

「分かってる分かってる、先生だって暑いしプールには入りたいさ。でも改装じゃ仕方ないだろ?」

 

 困っている先生をよそに不満は尚もぶつけられる。ボクとしてはプールに入ったことなんてないから結構楽しみにしてきたけど、経験したことないからうまく残念がれない。

 回ってきたプリントには、見出しの部分に大きく「今学期のプール授業の中止のお知らせ」と書いてあった。

 内容は、どうしてプールの授業が中止になるのかという理由が難しい漢字も混ざって書かれていて、その下にはプール授業の補填の内容も書いてあった。

 

「プリントにも書いてある通り、プール授業の代わりに今年はみんなで”さっかー”をすることになりましたー」

 

 先生のその言葉に、男の子は声を出して喜んで、逆に女の子はどっちでもいいようなそんな様子をしている。

 ”さっかー”。また聞き覚えのない言葉だ。

 先生もめんどくさそうにしているしいいや、ということで後ろを振り向いてタイガに話しかけよう……としたときとタイガが話しかけたタイミングが同じだった。

 

「なあサッカーだってよ! 楽しみだな! 俺サッカー大好きなんだよ」

 

「ね、ねえ”さっかー”って何?」

 

「……サッカーを知らない? 嘘だろ。お前試合とかテレビで見たりしないのか?」

 

「うん。うちのテレビはそういうの映さないし」

 

「はーー」

 

 尋ねるとタイガはひどく驚いた顔をしながらも、またか、といった様子で、

 

「サッカーってのはな、ボールを蹴って相手のゴールに入れるスポーツだ」

 

「へー」

 

「んでもって、俺の将来の夢でもある」

 

「夢?」

 

「そ。俺はおっきくなったらサッカー選手になって活躍するんだ」

 

 ボクにとってはまだよく分からないことだけど、タイガが楽しそうなんだったら別にいいや。

 サッカーか。タイガがこんなに楽しそうに話すものなんだったらきっと面白いものなんだろうな。

 

「そうだ! 昼休み……は別のやつと遊ぶから、放課後一緒にサッカーやろうぜ。クラスのみんな集めてさ!」

 

「あっ、うんと……学校が終わったらすぐ帰って来いってお母さんに言われてるから……やらなきゃいけないこともあるし……」

 

 とっても行きたいけど、学校が終わってからの走りこみがたくさんあるから無理そう。昨日も学校の宿題がなかなか終わらなかったから走り始めるのが遅くなって、いつもよりも寝足りないから眠たいし。こんな体調じゃタイガと遊んでも迷惑かけちゃうかもだし。

 

「そんな不安そうな顔するなよ、大丈夫だって! そんな長くやんないしすぐ終わるって」

 

「ああ、うん……すぐに終わるんだったら、それじゃあ……」

 

「よし決まりな! あー放課後が楽しみだなー!」

 

 行こうかな、というよりも先に放課後サッカーすることが決まった。

 その時のタイガの笑顔はボクの不安を吹き飛ばすくらいの満面の笑みで、なんでか分からないけどタイガの言う通り、大丈夫な気がしてきた。

 と、そこまで話していると後ろから大きな影が伸びてきた。

 

「ほー良いな。先生も入れてよ」

 

「うん良いぜ! 先生も一緒に……」

 

 恐る恐る振り返ってみると、そこには先生が立っていた。でも怒ってなさそう。

 

「ま、仲の良いことは良いことだからな。怒りはしないけどちゃんと先生の話はほどほどに聞いておいた方がいいぞー」

 

「「は、はい!」」

 

「ん。じゃこれで朝の会を終わらせるぞ。1時間目は10分後に始まるからトイレとか行きたい人は今のうちに行っとくんだぞー」

 

 絶対怒られると思ったからユルイ先生でよかった。これがお父さんとかだったら画鋲何本分だったか分からない。想像しただけで足がジクジク痛んできた。

 

 ビシッとした姿勢を先生が離れていくまで続ける。

 ガラガラと扉を開けて先生が廊下に出て行ったのを確認すると、緊張が解け2人してホッと息をついた。

 

「あービックリした」

 

「ふぅ、本当だよ。タイガの声が大きいから」

 

「なははっ。次からはもっとバレないようにするって。放課後楽しみだな」

 

「そうだね」

 

 タイガの意見に賛同してから、放課後までの時間を見ようと黒板の上にある時計に目を向ける。

 チクタクチクタクと円状に動いているその時計で計算してみる。

 

「ええっと、2時過ぎに学校が終わるから……」

 

 指とか紙に書いた方が早いけど、暗算でできた方がかっこいいから暗算で頑張る。

 チクタクチクタク。時計の秒針はゆっくりと弧を描いて進んでいる。思っていたよりも暗算に時間がかかって、秒針が進むのが速く感じられる。

 

 その時ふと、"目を背けたくなった"。

 何から目を背けたくなったのかは分からない。強いて言えば、今見ていた時計、なのだろうか。

 時計を見ていただけなのに、急に心が落ち着かなくなってきて、それで……──

 

「5時間くらいか!? もうすぐだな!」

 

「──!」

 

 タイガの声で意識が戻った。急に耳の中へ入ってきた声に、驚きで心臓がドクンドクンいってる。

 

「? どうした?」

 

「いや、大丈夫……」

 

「ふーん、ならいいけど。俺授業そろそろ始まるしトイレ行ってくるけど」

 

「それも大丈夫かな」

 

「オッケー、なら1人で行ってくるわ」

 

 そう言ってタイガは教室を出て行った。

 自分の席から見送ってすぐに心臓のドキドキはおさまった。胸に手を当てて深呼吸しても異常無し。

 

「うーん、何だったんだろう?」

 

 最近こういう変なことが多い。歩いていると足の感覚が薄くなってコケそうになったり、今みたいに変な気持ちになったり。

 

「まっいいや。よく分かんないし」

 

 そんなことよりも次の授業の準備をしないと。

 ランドセルの中から教材を出し終えた頃には、さっきまで考えていた事はすっぽり頭から抜けていた。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 頬が、痛い。

 鏡を見なくても赤く染まっていることが確信できるほどの痛み。

 目の前には今までで一番怒っているおかあさんがいる。

 

「なんでこんな遅くまで! どこでどうしたのよ、その足は!」

 

 胸の辺りを掴まれて、もう一度同じ頬をはたかれた。

 目玉が飛んでいきそうなほどの勢いに意識が薄れる。体全体が吹き飛ばされそうになるけど、掴まれているから脳みそだけ頭の骨で跳ね返って、頭の中がぐわんぐわんとかき混ぜられる。

 

「顔は色々とまずいだろ、もっと見えないところじゃないと、な!」

 

 おかあさんのことを止めてくれるわけもなく、おとうさんがボクの頭にゲンコツを振り下ろしてきた。

 骨と骨がぶつかり合う鈍い音と痛みが襲ってきて、ついさっきまでの楽しかった時間の記憶が抜け落ちてしまうような、そんな威力だった。

 

「うおおお痛って!? こんなん手折れるわ!?」

 

「ちょっと何やってるのよお父さん」

 

 おかあさんの注意がおとうさんに向いている間に、説明できるよう息を整える。深く呼吸をしようとするも歯がガチガチと音を立てていうことを聞かない。

 それでも何とか三度四度呼吸をして震える口を落ち着かせる。

 

「ちょっと友達と、サッカーしてて……こ、この足はその時に、その……擦りむきました」

 

「ちょっとっていう時間じゃもうないだろ」

 

 家の窓から外を見るおとうさんの目線を追えば、太陽がオレンジ色に染まっていてもうすぐ沈みかけようとしていた。

 

「それにサッカーなんて、俺たちは教えた覚えはないぞ」

 

「あなたの足はサッカーをするためについているんじゃないのよ!? 走るためにあるの! 分かっているの!?」

 

「…………はぃ」

 

 時間を忘れて遊んでしまった自分が悪い。そう思う。そう思い込む。

 

「全く、これだから幼稚園には行かせなかったっていうのに。義務教育が邪魔をするなぁ」

 

「いい? 学校に行かせているのは義務だからであって、その義務が終わったのなら次はあなたの義務を果たすために行動しなさい。あなたの義務は何?」

 

「……走る、こと」

 

「そう。走ればいいの。走っている時にだけ価値があるの。次からは遊んで来ました、なんて言わないで。しかも怪我までしてくるなんて……ホント信じられないわ」

 

「いいか? 優先事項は友達よりもお前だ。自分を最優先にして行動するんだぞ。分かったな?」

 

 頭がフラフラする。口がうまく回らない。

 

「 は い──」

 

「あっ、おい!」

 

 そう返事したところでボクの意識は完全に途切れた。疲れた体にゲンコツは流石にダメだったみたいだ。

 

 意識を手放した世界で見た夢は、数十分前までのクラスみんなでサッカーをしていた記憶だった。

 そこにはタイガも先生もいて、みんなが思い思いに楽しんだ笑顔あふれる幸せな時間だった。

 




次がターニングポイントです。


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第5話【暑い空の下、愛は暴かれた】

いつも読んでいただきありがとうございます。

前話から一年間、時間が飛んでいます。


 小学校2年生、夏。

 昨日まで嫌になるほど降っていた梅雨の雨も今日は見事に止み、お久しぶりの太陽が顔を出している。

 今日はみんなが待ちに待っていたプール開きの日。タイガなんかは、晴れてほしいからてるてる坊主を作るんだ、と昨日言っていたから晴れてよかった。

 にしても昨日の大雨のせいでとってもムシムシする。こんな蒸し暑い日はプールに入ってさっぱりと体を冷やしたいところなんだけど……、

 

「あれ? お前なんで水着持って来てないんだ?」

 

「あー……ボク、お腹がちょっと痛くって、今日は入れないかも。あ痛たたたた……」

 

 ボクはプールに入ることができない。

 その理由についえは、今日の朝までさかのぼる。

 

 

 

──朝。

 

「いい? 前にも言ったけど、今日からのプールの授業のことだけど、お腹が痛いーとか水着忘れましたーとか理由つけて見学にしてもらうのよ?」

 

 おかあさんがボクの顔を覗き込んでそう告げる。

 

「あなたの毎日の努力の証を見て、妬む子も出てきちゃうからね。ほら、才能あるものはそれをひけらかしたりしないものなのよ。暑いけど、これも暑さに慣れる修行だと思って頑張るのよ」

 

 まあ今までプールなんてなかったし今更だけどね、と冗談のように話す。

 ボクはプールに入ることができない。これは去年から言われていたことではあった。去年は結果としてプールの授業自体が無かったから、特に何も思わなかったけどやっぱり残念な気持ちになる。

 昨日もクラスのみんなと、明日のプールの授業で何をするのかを話し合ったから余計にその感情が強くなる。

 

「見学が難しいようだったら、プールの授業の時間が終わってから登校でもいいわよ。お母さんたちの仕事が朝早かった時用に、前からカギも持っているしね」

 

 でも決まった、決まっていたことだ。

 

「うん……うん! 分かってるよ大丈夫!」

 

「はい良い子ね、お母さん嬉しいわ。それでこそ私たちの子よ」

 

 おかあさんの腕がボクの方へ伸びてきて、身構える必要が無いのに思わず目をつむってしまう。けれどその腕はボクの頬を通り過ぎて、頭の上に手を置かれてわしわしされた。ぶたれるわけもない、ただ頭をなでてもらっただけだった。

 なぜそう思ったのかは分からない。訳の分からない自分の体の硬直を不思議に思っていると、

 

「はいお話はお終い。ほーら、目なんてつむってないで、もうそろそろ登校時間でしょ。早く支度しなさい」

 

 お母さんに言われて時計を見てみれば、もう時間がほとんどない。

 

「わっ! い、急がないと!」

 

「分かっていると思うけど、”通学路では?”」

 

「”歩かない”でしょ、分かってます。それじゃ行ってきます」

 

「いってらっしゃい」

 

 一年生の時からの決まり事。小学校に入って今まで通りの練習時間が取れなくなったから、少しでも多く練習ができるようにと、ボクの移動手段は”走り”だけに限定された。

 クラスの友達は自転車に乗って移動するのを見るけど、ボクは自転車には乗れないし、走ったほうが自分のためにもなるから別に問題もない。

 持っていっても仕方がない水着は袋からも出さずにタンスにしまったまま、ランドセルを背負ってボクは玄関を飛び出した。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 こんなわけで、担任の先生に "痛くもないお腹が痛いです報告" をした後、今保健室で休んでいる。

ボク以外に他の患者さんはいなく、保健室の先生もボクをベッドに寝かしつけた後、ちょっと用があると言って出て行ってから、もうかれこれ10分以上帰ってこない。たった一人の空間に今僕はいる。

 もう一度保健室の中に誰もいないことを確認してから、上履きを脱いでベッドの上に寝転んだ。

 

 耳をすませば、外から楽しそうなみんなの声が聞こえてくる。その場所に自分がいないことに多少の寂しさを感じた。

 それを少しでも紛らわそうと、自分の足を体の方に引き寄せて、靴下を脱ぐ。

 

 見慣れた黒ずんだ足が顔を出した。焼け焦げた魚のしっぽみたいな色をしている。最近では足裏だけでなく、足の甲やくるぶし付近もお仕置きの対象区域になった。

 裸足でどろんこ遊びをしたような、そんな状態にボクの足はなっている。自分の体のことだけど、どこか気持ち悪く感じてしまう。

 でも、おかあさんたちが言うように、これは僕の努力の証であり、そして努力できなかった証でもある。気持ち悪いだなんて思っちゃいけない。

 この足が黒く染まっていく度、おかあさんたちの期待を裏切っていることになる。しかも最近はタイムが上がらなくなってきて、不満げな表情をさせてしまっている。

 なんとかしないと。

 

 ……原因は分かっている。

 日が経つにつれて増してきている、若干感じる浮遊感が原因だ。

 これのせいでよく転ぶようになったし、けがもなんだか治りにくくなってきた。足の感覚が鈍くなったんだろうか。

 お仕置きの時に感じる鋭い痛みの感覚も少し鈍くなってきたから、悪いことばかりじゃないんだけど、とても走りにくい。重力が少し和らいだ状態のような感じがする。

 こんなこと、人に言っても理解されないだろうし、どうしたらいいか分からない。足のことは秘密にしろって言われているし。

 

 まあこんな傷だらけの足じゃ、プールに入っても傷口に染みて痛いだけか。

 ここは保健室。この部屋はなぜか落ち着いていて過ごしやすい。ここならなんだか傷の回復も早くなりそうな、そんな気までしてくる。

 黒くなった足を抱きしめながら、ボクはプールが終わるまでを保健室で過ごした。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

「あれ? 今日も水着忘れたのか? お前ホント忘れっぽいなー」

 

「うん忘れちゃった。ははは……」

 

 

 

 

 

「おっ今日は学校来たんだな」

 

「うん昨日は熱が出ちゃって……。もう大丈夫だよ」

 

「そりゃよかった。それでさ、聞いてくれよ。昨日のプールの授業でまたアイツがさ──」

 

 

 

 

 

「またお腹が痛くなったのかー? ホントは泳げないの恥ずかしいから休んでいるんじゃないのかー?」

 

「ち、違うよ! ホントにお腹が痛いんだって……」

 

「カマキリは泳げないって聞いたことがあるぞ。お前もひょろひょろだし、実はお前カマキリなんじゃないのかー?」

 

「そんなわけないよタイガ!」

 

「なははっゴメンて。んじゃそろそろ行くから、ちゃんと保健室の先生に診てもらえよ」

 

 

 

 

 

「ここのところプールの授業に一回も出てないようだけど、大丈夫か? 何か心配事があるなら先生聞くぞ?」

 

「だいじょう、ぶです先生。ちょっとお腹が痛くなりやすい、だけです……」

 

「んー、前に水に入ったときに何かあって、そのトラウマで入れないとかか?」

 

「あっまぁ、そんな、ところです……」

 

「そういうものは早いうちに克服しておいた方が良いぞー。……まあ成績には響くが、無理強いするのもよくないことだからな。先生も出ては欲しいが、無理に出ろとは言わないよ。自分が出てもいいと思えるタイミングで出席してもらえればいいからな」

 

「…………はぃ」

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

「お母さんは今日、早く行かなきゃいけない日だから、戸締りよろしくねー」

 

「はーい」

 

 自分が食べ終わった食器を洗いながら返事をする。

 ドアがバタンと締まり、この家には僕しかいなくなった。

 

 今日はボクが家を出る前の時間におかあさんたちが家を出る日。

 そして……、

 

「一回くらい……だいじょうぶ、かなぁ……」

 

 今日はプールの授業がある日だ。

 自分のタンスがある場所に行き、一番上の引き出しを開ける。開けられた引き出しの一番上から、まだ未開封のボクの水着が顔を出した。

 あるはずも無い人目を気にしながら、ビニール袋を開封する。

 心臓のドキドキが止まらない。いけないことをしている事は分かっている。けど、毎週クラスのみんなから聞かされるプールの授業の話はとても楽しそうだし、自分だけついていけないのも居心地が悪い。

 だから一回だけ、一度だけでいいから入ってみたい。

 でもこれをおかあさんたちに言っても絶対に許してはもらえないと思う。

 だから今日なんだ。今日だったらバレずに参加できる日なんだ。

 

 袋の中から取り出した水着を眺める。これが水着、毎週忘れていたボクの水着。うれしさのあまりに履いてみた。未使用の水着はぴっちりと体にまとわりついて安心感を覚える。

 初めての水着に感動していると、いつの間にかボクの登校時間ギリギリになっていた。

 慌てて着替えてランドセルに詰め込み、ドアの鍵を閉めて家を飛び出す。勢い余ってか転びそうになる足をなんとか踏みとどまり、朝っぱらからの転倒を回避した。

 今日は転ぶこともなかった。そのことに幸先のよさを感じ、足取り軽やかに校門まで走っていった。

 

 

 

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「じゃーん! 今日は忘れなかったしお腹も痛くないよ!」

 

「おお! ようやくじゃん!」

 

 一番の友達のタイガと男子更衣室ではしゃぎだす。

 

「よっし、ようやく全員揃ったな! これで水かけ合戦で偶数ずつにチーム分けできるぞ」

 

「ボクはタイガとは敵チームなんだよね」

 

 話しながら着替えていく。水着を履いて靴下を脱いで、後はタオルを持てば完了かな。

 

「ああ、ボコボコにしてやるぜ!」

 

「負けないよ!」

 

 気合も十分、やる気も十分。なんならクラス一あるかもしれない。

 プールの授業はそんなに残されていない。多分今回がボクにとって最初で最後のプールの授業になると思う。たっくさん楽しまなくちゃ。

 話している間に着替え終わったから、大きなタオルを片手に更衣室を出ようとする。と、タイガから声がかかった。

 

「おいまだ靴下履いたまんまだぞー」

 

 笑いながら後ろから肩を叩かれる。

 けれど、そんなはずはない。

 靴下はさっきちゃんと脱いだ。

 足元を見てもちゃんと脱いでいる。

 

「ちょ、嘘はやめてよ。びっくりしたじゃん」

 

 笑いながらそう返すも、タイガは逆にびっくりした表情を浮かべた。

 

「いや、だって黒い靴下履いて、ん……じ……………………ぁ」

 

「──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこからのことは、あまり良く覚えていない。

 ただ覚えているのは、更衣室にいた男子全員がボクを見て悲鳴を上げて逃げ出したこと。

 先生が大慌てで僕のもとに来て、何かをたくさん聞いてきたこと。

 そのときボクの心臓が異常なくらいドキドキしていたこと。

 

 それから数日経って、おかあさんとおとうさんが逮捕されたこと。

 

 

 そして……

 

「…………キモっ」

 

 あの日、更衣室で一番僕のそばにいたタイガにそう言われたこと。

 その時のタイガの言葉は冷たくって鋭くって、いつも味わっているお仕置きのガビョウなんかよりも辛く、ボクの心に突き刺さった。




平和な学校生活は終わりました。


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第6話【虚ろに優しさが注がれる】

いつも読んでいただきありがとうございます。
話の進行上、ここでの逮捕の仕組みなどは、現実とは異なると思います。


 

「…………」

 

ーーーーーー。

 

『……では……の天気は……しょうか?』

 

「…………、んっ……」

 

 どこかからか音声が聞こえてきて、鼓膜の震えで目が覚める。

 最初に目に飛び込んできたのは、白。これまで見てきた何よりも白い色の部屋が視界を埋めつくす。

 

『……関東地方では晴れ。最高気温は30℃にもなりますので、今日も熱中症に注意してください。こまめな水分補給を忘れずに……』

 

 だんだんとテレビの音がはっきりと聞こえてきて、おぼろげだった意識も覚醒していく。

 テレビから伸びる黒いコードをたどってみれば、ボクの左耳に行き着く。どうやらイヤホンで聞きながら寝落ちをしてしまったみたいだ。

 今の状況も徐々に思い出してきた。そうだ、ボクは今、入院中なんだった。

 ……でも、

 

『……のコンビニに強盗が入りました。犯人は今も立てこもりを続けており、警察による必死の説得が続けられています……警察によると犯人は……』

 

 でも、どうしてだっけ……? なんで入院してるんだっけ?

 寝起きのせいなのか、記憶がまだはっきりしない。

 クラスの子から聞いたことしかなかった、生まれてこの方初めて見るまともな朝のニュース番組をなんとなく眺めながら、ひとまず寝ていた体を起こして、足を自分のところまで持って来て体育座りをする。この姿勢が一番落ち着く。

 引き寄せた足の先には幾重にも包帯が巻かれているのが見えた。足に痛みはほとんどなく、しかし包帯が巻かれているんだから圧迫感があってもいいのに、何故かほとんど何も感じない。

 

『……世界最速のリニアモーターカーがついに半年後、ここ○○駅に開通します……』

 

 テレビの音声が頭の中を通過する。映像には"世界最速・最高速度は時速600㎞” の文字が大々的に映し出されている。

 初めて見る自分の知らない社会のニュース。気にならないわけは全くないけど、今はそれよりもこっちの方が気になる。

 何も感じないわけないだろう。そう疑問に思いもう一度、今度は触るだけじゃなくしっかり握って確かめようとすると、

 

『……では次のニュースです』

 

 ふと、何かを感じ、うずくまった姿勢から顔を上げる。

 そこには、ボクのおとうさんとおかあさんが映っていた。

 

『○○市で、小学2年生の男の子を虐待したとして、男の子の母親と父親が児童虐待の疑いで逮捕されました』

 

 服で顔を隠した2人がたくさんの人に囲まれている。

 

『警察によると、母親の……と父親の……は2年間以上にわたって男の子に過剰に運動をさせ、”おしおき”と称して画鋲を足に突き刺すなどの暴行をした疑いが持たれています』

 

 テレビの言葉にズキンと足の裏が痛くなったような気がした。

 

『容疑者の2人は「私たちが取れなかった世界を取るための教育だった」と供述しており虐待の容疑は否認しています。しかし2人に陸上の大会の出場経歴はなく、精神疾患の可能性も含めて・・・』

 

 ニュースはその後も続いているけど、ボクの耳には入ってこなかった。

 

「うえっ、ぷ……はあ、はあ……」

 

 吐き気がする。気持ち悪いこの感情を口から全部吐き出したくなる。

 けれどここは知らない病院。吐き出そうにもトイレの場所も分からない。汚してまた誰かに殴……怒られたくないから、無理にでもつばを飲み込んで吐き気を抑え込む。

 

 ようやく記憶もはっきりした。

 あの日、クラスのみんなが大騒ぎになった後、担任の先生が怖い顔をしてボクの所にやってきて、すぐに着替えて保健室に行くように言われた。いつもは常にメンドくさそうにしている先生がすごく怖い表情をしていたからみんなびっくりしていたのが印象に残っている。

 押されるように急かされて、服を着ると先生に抱き上げられた。

 

『よし、このまま保健室に行くぞ』

 

『ちょ! 先生恥ずかしいよ』

 

『いいから。じっとしてろ』

 

 みんなが見ていたからイヤだったのに、抵抗も空しくボクはそのまま運ばれていった。

 行く途中、先生はたくさんの質問をしてきた。質問の内容は『その傷はだれにつけられたものか』『いつごろからなのか』『痛くないのか』などなど。

 けど、おかあさんから『秘密の特訓だから、誰かに聞かれても言っちゃダメ』と言われていたから先生に『おかあさんから内緒って言われてる』って返した。

 そうしたら先生、顔にたくさんしわができるくらい顔を歪めさせて、下唇を嚙んでいてとても痛そうだった。

 しばらくそのままの顔が続いて、校舎に入り下駄箱に来た時に、先生は何か思いついたのか噛んでいた下唇を解放させて、

 

『ちょーっと待っててな』

 

 とボクをゆっくりと地面に下ろした後、ポケットに入れていた携帯を取り出してどこかに電話をかけ始めた。

 

「ーーはい。はい。ーーでは」

 

 電話の間何をしていよう、と考える間もなく先生の電話はすぐに終わった。

 

『先生誰と電話してたの?』

 

 と聞いてみれば、

 

『お前の、利根川のお母さんにちょっと、な』

 

 と返ってきた。

 

『! 先生おかあさんの番号知ってるんだ!』

 

『ん、っまあ、な。おう、知ってる……知ってるぞ。んでな……今お母さんから、先生になら言ってもいいって言われたんだ。ほら、先生は利根川の先生だからな』

 

『へ-! そうなんだ!』

 

『ああ、だからさっきの質問に答えてくれるか?』

 

『うん、それだったらいいよ!』

 

 おかあさんの許可ももらったところで、先生の質問に答えていった。

 保健室についてからは保健室の先生も加わって質問してきた。先生が言うには、保健室の先生も先生の友達だから言っても大丈夫なんだとか。

 初めて入った保健室はとてもきれいで、あれで寝たらきっと気持ちよく寝られるだろうな、と思わせられるベッドが3つ置いてあった。

 保健室の女性の先生に案内されて、そのベッドの一つに腰かける。上履きと靴下を脱がされて、ちょうど今見ていたニュースに出てきた事に似た質問をされた。

 

『それで、この足は誰にやられたものなんだ?』

 

『おとうさんとおかあさんだよ。でもこれは”おしおき”だから二人は悪くないよ?』

 

『…………どういうことだ?』

 

『だってボクが速く走れないのが悪いんだもん。おとうさんもおかあさんも走るのがとっても速かったって言ってたから、ボクが速く走れないのは悪いことなんだって! だから悪いのはボクなんだよ』

 

『…………いったん次に行こう。それで、その”おしおき”はいつからなんだ?』

 

『ええっと、小学校に入る前からだったと思うけど……よく覚えてないよ。ずっと朝5時とか6時から起きて遅い日は夜の2時とかまで走ってたし』

 

『…………』

 

 先生はさっきみたいに、くしゃりと顔を歪めさせていた。

 そのまま何も言わなくなった先生に代わって、今度は保健室の先生が聞いてきた。

 

『その……足を見る限り、なにか細いものを刺されたみたいだけど……って聞いて大丈夫かな?』

 

『うん? おかあさんから良いよって言われてるんだよね?』

 

『え? ……ちょっとどういうこと?』

 

『詳しくは後で説明するから……ああ、ちゃんと良いって言われてるぞ』

 

『そうだよね。えっと、画鋲だよ? 毎日成長できていない分だけ刺すんだ。すっごく痛いんだけどね・・・』

 

 などと話していると、そのうち校長先生が来て、またしばらく話した後、先生に病院に連れて行かれた。

 そうしたらとんとん拍子に入院が決まって、先生にお母さんたちのことを聞いても何も教えてくれなくって……、

 

 その日も次の日もたくさんの知らない大人に囲まれて質問をされたから、少し熱が出たんだっけ。

 ボーっとしてたから、大人たちが帰った後、誰かが来て看病してくれたような気がしたんだけど──、

 

 

──コンコンコン。

 

 病室の扉がノックされた。

 こんな朝早くから誰だろう? おかあさんたちかな?

 

「は、はーい?」

 

「──走一くん!? 起きたのかい?」

 

「うわっ! ……びっくりした、おばあちゃんか」

 

 勢いよくガラリと開けられた扉から入ってきたのは、おばあちゃんだった。

 おかあさんのおかあさんで、年に数回しか会っていないけど、おっとりとした性格で優しい大好きなおばあちゃん。

 

「昨日来たときはフラフラしていたけど、熱は下がったのかい?」

 

「久しぶりって思ったけど違うんだね。うん、もう大丈夫。心配かけてゴメンね」

 

「そうかいそうかい、それはよかった」

 

 安堵する表情から、本当にボクのことを心配してくれていたことが伝わってくる。……おかあさんたちからは一度も向けられたことのない顔だ。

 

「昨日の夕方のニュースで馬鹿娘が捕まったってみてね、車をすっ飛ばして来てみれば走一くんは熱を出してるしで……」

 

 そう言いながらおばあちゃんはボクの背中に両手を伸ばしてギュッと抱きしめてくれた。

 

「まさかあんなことをしていたなんて……気が付けなくってごめんね…………」

 

 とても、とても優しい温もりを感じる。

 

「熱で頭は回らないだろうけど、一人で無音じゃ寂しいだろうと思って、テレビカードを買って置いておいたけど、気づいたかい?」

 

「うん。たぶん、聞いたまんま寝ちゃってた」

 

「おおそうかい。それはよかった……ほんとうに、よかったよ…………」

 

 次第にか細くなってくるおばあちゃんの声。

 

「もうここにはあの馬鹿たちはいないからね、安心していいからね……一人にしてごめんね………」

 

 ぽたぽたとおばあちゃんの目からこぼれ落ちる優しさの結晶。それが頬に垂れてきて、ボクの心に染みてくる。

 生まれた時からぽっかり空いた心の穴に、優しさが注がれていく。

 気がつけば、なぜかボクも泣いていた。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

「えへへ…………泣いちゃった」

 

「泣いたっていいさ。男の子だからって泣いちゃいけないわけじゃない。泣いた後にどうするか、何事もやった後のことが肝心さ」

 

 二人して赤くなった目をこすっていると、再び病室の扉がノックされた。

 

「はい、どうぞ」

 

「失礼します。お目覚めになられたのですね、利根川走一さん。おからだの調子はどうですか?」

 

 入ってきたのはお医者さんだった。きれいな白衣に身を包んだ背の高いお医者さんだ。

 

「どうも先生。お邪魔しています。走一の祖母です」

 

「先日もお越しになっていましたね。改めまして、担当医の石原です」

 

「よろしくお願いします」

 

「よ、よろしくお願いします」

 

 3人してぺこぺことお辞儀をすると、先生からお話が始まった。

 

「ではお婆様もいらしたのでご説明しますね。走一さんの足の件ですが……ちょっと失礼します」

 

 包帯が巻かれている足の甲をお医者さんが触る。けれどさっき自分で触ったときと同じようにほとんど触られている感覚がない。

 

「今触っていますが、分かりますか?」

 

「い、いえ……あんまり感じません」

 

「ではこれは?」

 

 今度は軽くポンポンと手のひらを広げて弾ませる。けれどこれも感じない。

 

「いや……」

 

「先生、これは今何をやっているんですか?」

 

 おばあちゃんが心配そうにそう尋ねると、お医者さんは神妙な面持ちで、

 

「検査が途中なのでまだはっきりとは申し上げられませんが、走一さんの足はひどく神経を損傷して、足の感覚が無くなっている可能性があります」

 

──そう告げた。



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第7話【体から愛が抜け落ちない】

いつも読んでいただきありがとうございます。
少々差別的な表現があるので、ご注意ください。


──絶望からはなかなか抜け出せないものだ。

 

 自分では抜け出せたと思っても、他人から見ればそれは未だ絶望の中だったり。抜け出すと言っても抜け出すべきその方角が分からず、結局のところその場に立ちすくんでいるだけだったり。

 絶望は沼のようで泥のようで、それであって這い出ようとする人を飲み込もうとしてくる。飛び立とうとした翼には絡みついて深く沈ませようとしてきて、飛び出そうとした足には縋るようにいつまでもまとわりつく。

 希望を目の前にして、今一歩どころではない途方もない距離で手が届かない。

 

 

──絶望からはなかなか抜け出せないものだ。

 

 

 万が一、何かきっかけがあって絶望から解放されたとしよう。そして逃げのびた先に待っていたのが、誰の目から見ても希望なものだったとしよう。

 それはきっと、とても素晴らしい素敵なことのように思えるだろう。ハッピーエンド、そう呼べるのかもしれない。『絶望に囚われていた少年は、助け出されて幸せに暮らしましたとさ』と。

 

 けれどもそれは気のせいで、希望が見せるまやかしだ。

 絶望に刻まれた傷は希望では癒えることはなく、洗っても洗っても絶望は身体にへばりついている。

 ハッピーな気持ちでは終わらないし、なによりこの物語は終わっていない。

 

 どう抗ってもあがいても、過去の絶望からは逃れられない。

 そう、思った。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 足の感覚が無くなっている可能性がある──。

 そう、目の前にいるお医者さんから告げられた。

 

「────」

 

 静寂が、訪れる。

 無くな……って、え?

 

「…………ぇ?」

 

「どういう、ことですか?」

 

 混乱からいち早く復帰したおばあちゃんがお医者さんに尋ねる。その表情はいつになく真剣そのもので、向けられていない身内のボクでも恐ろしさを感じる。

 その表情に呼応して、お医者さんも神妙な面持ちになった。

 

「走一君がいる前ですが、彼も聞いておいた方がいいでしょう。走一君の足は両親から受けていた虐待の影響で足、特に足の裏側の神経が破壊されてしまっています。今は包帯をしているので見えませんが、走一君の足は黒く壊死もしています」

 

 走一君は分かっていますね、と目で語りかけてくる。

 おばあちゃんは今来たばかりだから、ボクの顔と足とを交互に見合わせ、手を伸ばしては引っ込めてを繰り返している。

 

 確かにボクは知っている。

 そのせいでボクはクラスのみんなに、タイガに……、

 チクリと口元に痛みが走る。どうやら知らず知らずのうちに下唇を噛み締めていたみたいだ。

 

「切除、とまでは症状が進行していないことが不幸中の幸い、とでも言いますかね……。申し訳ございません、私の力が足りないばかりに完全に治すことができませんでした」

 

 もうどうしようもないことだと言わんばかりにボクたちに謝罪をするお医者さん。

 け、けどさ……ちょっと待ってよ……。

 

「い、いや……大丈夫だって心配しないでおばあちゃん……。お医者さんだって、早とちりしすぎだよ……歩けないわけ、ないじゃん。さっきまでボク歩けてたんだよ……? 気のせいだって」

 

 自分でも笑えてくるほど声が震えている。まるで北極にあるかのように唇がガクガクと震え、ちゃんとボクの言葉が伝わっているか不安になる。

 いや、伝わっていなくてもいい、行動で見せてあげよう。だってボクは歩けるんだから……、

 

 

 

 

 

──ガタンッ!

 

 

 

「……ぅぶっ」

 

「走一君!」

 

「大丈夫ですか!?」

 

 

──世界が反転した。

 

 頭が、痛い。

 病院の床に突っ込んだ衝撃で、意識にヒビが入る。

 鼻柱はその衝撃で折れ曲がり、奥の方から慣れ親しんだ赤い熱が流れてくるのを感じる。

 

 覚悟していなかった衝撃の影響で、視界が暗転しだす。

 倒れ伏したボクに駆けつけるおばあちゃんとお医者さんの気配を感じながら、

 

──ああ、本当に変わっちゃったんだ……。

 

 そう思ったところで、ボクは意識を手放した。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

──幸運が度重なるように、不運も連鎖する。

 

 

 あれから杖を使った生活が始まった。杖といっても松葉杖だ。

 結局のところ、ボクの両足は地面を踏みしめる感覚を失っていた。けれども他の部分、膝とかは普通に動くから変な感じだ。

 お医者さんの話だと、今までも徐々にこの症状は進んできていたんだとか。言われてみればところどころ思い当たる節があったりする。

 

 足が動くとはいえ、地面の感覚が感じられないというのは、地面のない水の中を歩いた時と似ているんだろうか。まぁボクは結局プールに一度も入れなかったから分からないけど。

 

 おばあちゃんに支えてもらいながらの歩行練習は、おばあちゃんの温かみが伝わってきて、今までやってきたどの練習よりもやりやすかった。

 転んだ時に謝る癖はおばあちゃんを泣かせてしまうけれど、やめようと思っても身に魂に刻み込まれているのか止めることができない。いや、やめるなんて思考が挟まる余地なんてないほど、気がついたら謝り続けているような感じだ。

 そしてこの自己の矛盾に吐き気がして、病院の廊下で嘔吐してしまうという流れが最近ルーティーン化してきた。

 

 

 そんなボクの様子を見かねて、おばあちゃんが車いすを持ってきてくれたけど、それすらもボクの身体には合わなかった。

 

 車いすに乗っていると、吐き気がする。

 

 今まで車いすには縁もゆかりもなく、見たことすらなかったはずなのにどうしてなのか。

 数日間にわたって今までのボクの日常をお医者さんに伝えたり検査をしたりすると、ある一つのことが判明した。

 

 どうやらボクは、“回転するもの” がダメになっているらしい。

 

 お医者さんが言うには、そんなに長時間ランニングマシンをやる事は本来ありえない事で、お仕置きのことも相まって体が拒絶反応を出しているからだと言う。ランニングマシンの回転する音やモーター音に似た音を聞くたびに体が拒絶反応を感じて、今回の場合は車いすの車輪の回転する音に拒絶反応を示して吐き気につながっているらしい。

 ひどい場合にはアナログ時計にも反応してしまうかもしれないと言うお医者さんに、時計を見て違和感を覚えたことがあると伝えると、眼鏡の奥から哀れむような視線を投げられた。

 その話をした10分後にはもう、おばあちゃんの手によってボクが目につく時計は全てデジタル時計に変更された。

 

 

 お医者さんや看護師さん、それにおばあちゃんから散々言われて、以前のボクの生活は異常だったのだと教えられた。

 実際に病室の窓から眺めてみれば ”世界” となんて戦わず、本気でもなんでもない追いかけっこをして遊んでいる子が目に入る。自分の体が傷ついたって笑うか泣くだけで、謝りもしない。

 

 今はおかあさんもおとうさんも、どっちもいない。

 本当だったらおばあちゃんの願い通りに、自由になったんだからあの子供たちのように自由に遊んだほうがいいんだと思う。

 けれど……、

 

「助かって……よかったの、かな…………?」

 

 病室で一人でいる時、思わず口から思いが溢れる。

 囚われていた前よりも、解き放たれた今の方が苦しい。

 痛い事はあったけど、前は1人で歩けていた。

 辛い事はあったけど、前は隣にタイガがいた。

 吐く事はあったけど、世界が歪んで見えてなかった。

 

 解き放たれてなお、檻に繋がっている。

 鳥籠は取り外された。けれどその足は止まり木と鎖で繋がれたままで飛び立つことはできない。

 空を知らない以前よりも一層、空に焦がれてしまっている。

 でもこの鳥は翼を折られて、飛び立つことは夢のまた夢になってしまった。今のボクはそんな状態だ。

 

 助からないほうがよかったのか。

 助けられてなお頭に浮かぶのは、助けてくれたおばあちゃんではなく、おかあさんとおとうさんのことだった。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 そんな気持ちのまま、さらに数日が経った。

 取り返しのつかない傷以外の傷はほとんど癒えて、完璧とはいえないが多少は松葉杖にも慣れてきた。

 

「本当に大丈夫?」

 

「大丈夫だよー。もう、今日これで何回目?」

 

「でもね……」

 

 渋るおばあちゃんをよそに、車から降りる。

 今日何回言われたか分からないおばあちゃんに笑顔で返す。

 ……ちゃんと笑えているだろうか。

 

 今日から久しぶりの学校だ。

 最後にまたみんなの顔。それが頭から離れない。

 またあの目を向けられたらどうしよう。みんなの前で吐いちゃったらどうしよう。

 そんなことを延々と頭の中で繰り返すも、それでもやっぱりみんなに会いたいという気持ちが勝って今日ここにいる。

 着替えとかの準備に手間取って、またいきなりだと他の生徒もびっくりしちゃうからと2時間目からの登校になっているから周りには他に誰も生徒がいない。

 

 校門までおばあちゃんに送ってもらって、下駄箱までたどり着く。

 感覚のないならない足で手探りに上履きを履いて、一階にある自分のクラスまで杖をついていく。

 

キーン コーン カーン コーン

 

 ちょうど1時間目の授業が終わったみたいだ。

 

「あっ、先生!」

 

「おお来たか! 松葉杖はもう慣れたのか?」

 

「んー、まだ微妙ですね……」

 

 先生は入院中に一度お見舞いに来てくれていたからボクが松葉杖をしているのも知っている。練習に付き合ってもらったくらいだ。

 

「っと、先生と話すなんかより友達と話したいよな。みんな待ってたぞ」

 

 前の方の扉を指差してそう言う先生。

 

「先生は次の授業の準備があるから、また後でなー」

 

「は、はい!」

 

 手をひらひらとはためかせながら先生は2階にある職員室へと消えていった。

 それを見届けてから今一度教室に耳を寄せる。

 ざわざわとして一単語ずつは聞き取れないけど賑やかなのは分かる、いつも通りのクラスの雰囲気だ。

 

「ふぅー、……っよし!」

 

 一度深呼吸をして教室の中に入る。

 

「お、おはよう…みんな」

 

 緊張と幾ばくかの不安で想定よりも声が上ずった。

 やっちゃった、と気恥ずかしさに顔に熱が入り赤くなるのを感じる。

 

 と同時に、血の気が引いた。

 

 1年間一緒のクラスで過ごしてきた人が、久しぶりに病院から帰ってきたのだ。みんなとは言わないまでも誰か、それこそタイガなんかはあんな事があったけど、すぐに声をかけてくれるはず。

 そう思っていた。思っていたんだ。

 

 ボクが教室に入った瞬間、クラス全員がこっちを見てきた。かと思うと今度は一斉に目を逸らされ、中には体ごと反対向きにする人までいた。

 そして始まる得体の知れない不快な囁き声。

 

「あ……おはよう、タイガ」

 

 そのうちの一人、タイガに声をかける。

 ……ちゃんと笑えているだろうか。

 

「こっち来るなよ “靴下” 」

 

「くつ、って……えぇ?」

 

 くつした、って靴下? あの足を履くやつ?

 タイガのその言葉に意味がわからないでいると、タイガは汚物を見るような目でその意味を教えてくれた。

 

「お前のことだよ、気持ち悪くって汚い足した “靴下” 野郎!」

 

「ーーーー」

 

 ボクの足を指差しながら声を張り上げる。

 一歩でも接近を許さないと言った激情の眼差しでボクを見つめてくる。

 

──あぁ、最初に入った時に感じた違和感はこれだったのか。

 

 見渡せば、その強度に違いはあれどみんな一様にタイガと同じ目をしている。

 緊張は吐き気へと変化し、不安が心から漏れ出てくる。

 

「それになんだよその杖。 “棒人間” じゃねぇか」

 

 続くタイガからの中傷。

 “棒人間”。自分の足で立つこともできない人間。まさしくボクぴったりの言葉だ。

 

 仲が良かった、友達だと思っていたタイガからの罵声に心が震える。その震えはすぐに実際に体の震えへと変化していった。

 震える足は宙に浮き、ぷらんぷらんと小刻みに揺れていた。

 



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第8話【愛に絡まれ沈んでいく】

 下校のチャイムが鳴った。20分くらい前のことだったか。

 大多数の生徒はもうクラスの教室から出て、下校を始めている。

 残っている生徒は、クラブ活動をしているか、今日の授業で分からなかったところを先生に質問しに行っているか、それか……、

 

「気持ち悪いんだよ!」

 

──押される。

 

「そんな汚い足で学校に来るなよ、”靴下”!」

 

──叩かれる。

 

「コイツの持っている棒、使えんじゃん。さすが ”棒人間” だな」

 

──突き飛ばされる。

 

「ちょ、こっちに飛ばすなよー」

 

 ここでボクを囲んでいる ”みんな” くらいだろう。

 校庭の隅、体育館の隣にある体育館倉庫の近くで、ボクを見て笑っている。

 口々に聞こえてくるのは、ボクの名前ではなく別の呼び名。

 

 ”靴下” そして”棒人間”。

 それがクラスのみんなに付けられた、ボクの新しい名前だった。

 

 そして──、

 

「ホント気持ち悪いよ、お前」

 

 みんなの中央にいる、一番仲良くしていた彼。ボクの松葉杖を両手で持って、ボクのお腹めがけて振り抜いてくる彼。

 ボクの人生の支えだったタイガは、ボクの人生の敵になった。

 

「てか、そろそろゲームする時間無くなるし、帰ろうぜ」

 

「そうだな、こんなやつ相手にしてる場合じゃなかったわ。今日はタイガん家だっけ?」

 

「おう! 今日も負けないぜ!」

 

 いじめるのにも飽きたのか、持っていた松葉杖をボクに投げ捨てて、和気あいあいと立ち去っていく。いや、立ち去っていく音が聞こえる。

 頬が地面の砂利について、視界の9割が灰色の地面で埋め尽くされている。倒れた体は杖を叩き付けられた痛みで動かすこともできない。

 

「うぅ ぁ……」

 

 痛い。痛い。

 叩かれた肩も蹴られたお腹も、倒された衝撃で裂けた足のカサブタも痛い。

 けれど一番痛いのは、心。

 

「とも だ、ち……」

 

 1年間一緒のクラスで過ごした、友達だと思っていた。

 心がヅキヅキする。足の痛みに似た、出血しているように痛む。心も出血しているんだろうか。

 

 いっそ血が出てくれたなら。

 目に見えてケガをしているのが分かるし、カサブタが少しかゆくなるけどいつかは治る。薬も塗れるし飲み薬も飲めるのに。

 

「げほっげほ……っぷ」

 

 口の中に入った砂利が気持ち悪い。

 

「……あ?」

 

 灰色が占める視界の端に、何か黒いものが入ってきた。

 痛む体をわずかに傾けて、その物体を視界の中央に寄せて見る。

 それは、アリだった。

 

 どこにでもいる、虫の代表格みたいな存在の生き物。学校で一番見かける虫だと言ってもいいかもしれない。

 足が6本あるとっても小さな生き物。

 そう、足が2本しかないボクとは違って、足が6本もあるのに……、

 

「どうして、そんなに足が遅くいられる、の……?」

 

 足が6本もあるという贅沢。なんて贅沢なんだろうか。

 ボクだったら6本もあったら、絶対もっと速く走れるのに。そしたら、そしたらもしかしたら、お仕置きされなかったかもしれないのに……。

 

 痛みをこらえて、手に足が伸びる。

 痛みを思い出すこの足。けれど今になってどこか懐かしさ、というのか温かさみたいなのを感じる。

 痛い。痛い。足も体も心も痛い。

 泣きたいぐらい痛かったのに、なぜか温かさを感じて涙が引っ込んだ。

 自分でも意味が分からない。けど、1つやらなきゃいけないことを思い出した。

 

「そうだ。走らなきゃ……」

 

 ゆらゆらと体を起こしていく。

 近くに落ちている杖を手繰り寄せて、足の裏をふんだんに使って地面を踏みしめ立ち上がる。

 やらなきゃいけないことがある。そのためにはうずくまっている暇はない。

 だって、ボクは ”せかい” を取らなきゃいけないんだから。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「ただいま」

 

「おや、おかえり。遅かったわねぇ。久しぶりに友達と出会えて楽しかったかい?」

 

「うん、楽しかったよ」

 

「そうかい、それは良かった良かった。もう少しで晩ごはん出来上がるから待っててね。今日はハンバーグよ」

 

「やったー、ちょうど食べたいと思ってたんだ」

 

 ちゃんとおばあちゃんと会話できているだろうか。痛む足と自分の情けなさに、すべてが上の空になる。

 

「じゃあボク部屋で待ってるね」

 

 そうおばあちゃんに言い残し、手を洗ってから自分の部屋に入っていく。

 ドアを閉めて、おばあちゃんからボクの姿が隠れたことを確認する。

 

「さぁやらなきゃ、な……」

 

 走り終わった後でやることはもちろん1つしかない。

 机の引き出しを開けて、思い出の品を取り出す。

 

「ええっと、今日のタイムはこれだったから」

 

 昨日と今日を引き算して、その差分の個数を数えて取り出していく。

 ギラリ、とはもう光らない。ボクの血で黒く固まっているから。でもその鋭さは全く失っていないもの。

 もちろん”画鋲”だ。

 

 心臓が高鳴る。けど仕方ない。

 頭の中で、『世界を取れ』とおとうさんとおかあさんの声が聞こえてくる。そんな気がするんだ。

 でももう、2人はいなくなってしまった。

 だから──ボクがやらなくちゃいけないんだ。

 

「ぐっ、んああぁぁああ!」

 

 声は殺さなきゃ。おばあちゃんに気づかれてしまう。とっさに袖を噛みしめて声を抑える。

 そしてそのまま、1本また1本と刺していく。

 

 やりたくない。でもやらなくちゃ。

 声が聞こえるから。”せかい”を取らなくちゃいけないから。

 そうだ、きっと ”せかい” を取れば、みんなとまた仲良くなれるかもしれない。

 

 でもどうすれば……?

 ボクにはアリと違って、足は2本しかない。体のパーツだから後4本取り付けることもできない。

 毎日頑張っているのに、最近はもうタイムが早くなっていない。これじゃあいつまで経ってもおかあさんたちの期待に応えられない。この声が消えない。

 

「ごはんできたわよー」

 

「っ! はーい今行くねー」

 

 扉を隔てておばあちゃんの声が聞こえた。

 まだ途中だったけど、さすがにこれ以上時間をかけていたら心配をかけてしまう。

 そこら辺にあるタオルをきつく足に巻いて、その上から靴下を、本物の靴下を履いて食卓へ向かう。

 

「祝・学校に行けた記念! ってことで、おばあちゃん頑張ってデミグラスソースも作ってみたのよ。よかったら食べてみて」

 

「うわ~よく分からないけど、すっごいおいしそう!」

 

 初めて見る黒っぽいソースがかかったハンバーグ。以前は脂分が多すぎる、と半年に一回くらいしか食べさせてもらえなかったからテンションが上がる。

 それともう1つうれしいことがある。

 テレビが点いているのだ。しかも走っている人が映っているのではなく、1回だけ見たバラエティ番組というやつ。

 興味津々でテレビの画面を見ていると、上の方に突然文字が出てきた。

 

「あーそんなものがあったねえ。この駅はここから近いし、せっかくだから申し込んでみるかい?」

 

 と、おばあちゃん。聞けば臨時のニュースが入ると、こうやって上の方に文字が出てくるらしい。

 そこにはこう書いてあった。

 

『○○駅に開通予定の世界最速のリニアモーターカーの試乗会の抽選が、明日12時から開始されます』

 

「……っ、うん! 行きたい!」

 

「そうかいそうかい。じゃあ明日申し込んでみようか。さっ、テレビもいいけどご飯冷めちゃうわよ」

 

 ”世界最速”。これを使えば、ボクも最速に……そうすれば、また……。

 

 




次の話で最後となります。


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最終話【そして愛は世界となる】

いつも読んでいただきありがとうございました。


 

──パリッ。

 

 朝、カサブタが裂ける音とともに目が覚める。ソーセージが食べるときのように簡単になるその音は、5年間ほど連れ添っているボクの目覚まし時計だ。

 細く、けれど深々と割れたソレからは、しかしながら血は流れて来ない。肌に乾いた谷が出来上がるだけだ。

 前は血がにじみ出てきていたけど、体もいちいち出すのに嫌気が差したのか、肌が黒色に近づいていくにつれて出て来なくなった。体から染み出る液体が服にべったりくっついて剥がすときに痛かったから、出て来なくなって良かったと思う。

 

 けれど裂ける痛みはあるわけで、さらに裂けないように傷口を押さえながら起き上がる。

 片手に杖を持って立ち上がり、タンスの中から靴下を取り出して近くの椅子に座る。 ”靴下” と呼ばれるボクの足に本物の靴下を履かせていく。

 履くときにカサブタが靴下に引っかかってさらに剝がれそうになるのもよくあることだ。

 それからズボンを履いて上を着て、と着替えを済ませていく。

 

 ドアを開けてリビングに行けば、おばあちゃんが朝ごはんの用意をしてくれていた。

 

「おはよう走一くん。よく眠れたかい?」

 

「うん! おばあちゃんおはよう」

 

「もう少し待っててね。今ごはんよそってくるから」

 

「はーい」

 

 おばあちゃんの隣を横切って洗面所へと向かう。最初は冷たい水も、少し経てばすぐに温かい水へと変化して、それを顔にかけるかたちで顔を洗っていく。

 これをすれば、顔についていた眠気もきれいさっぱり落とせるってわけだ。

 

「明日はちゃんと1時間早くご飯炊いておくからねー」

 

「! うん! 楽しみにしている!」

 

 そうだそうだそうだった。

 今のおばあちゃんの言葉で、完全に頭が覚醒する。

 そうだ、明日にはアレに会える。

 世界に、リニアモーターカーに会える!

 これでやっと……愛が知れる。

 

「痛ッ……」

 

 興奮したせいで足がズキンと痛む。経験から考えるに、さっきの傷口がさらに開けたんだろう。継続的な痛みが足裏にもたらされる。

 足を持ち上げて確認してみれば、久しぶりに見た血液が靴下越しにそこから出ているのが確認できた。かなり盛大にやっちゃったみたい。

 

 ボクの足には、おかあさんとおとうさんの愛情が詰まっている。だって一番2人に愛されたのが足だから。

 「愛を浴びて心は成長する」

 そんな言葉をおばあちゃんと生活をすることになってからテレビで聞いた。

 ということは、ボクの心は”足”にあることになる。なるほど確かにボクもそう思う。成長できているかは自信がないけど……。

 鮮血色の赤い愛。たくさんもらって、時にはもらい過ぎて足からこぼれ落ちてしまうほどたくさんもらった。

 

 けれど、今やその色は見る影もなくなっていた。

 ”赤”というよりも”黒”に近い血液が、ボクの靴下を我が物顔で侵食していた。

 

「ぅあ……なに、これ…………」

 

 世界になってほしいと言われたのに全然なれないから愛の色が変わっちゃった……?

 それとも、もらった鮮血色の赤い愛は全部こぼれちゃった……?

 愛の変化に背筋が寒くなる。

 痛いけど、愛をくれるのはおかあさんとおとうさんだけだから。おばあちゃんもボクのことを大事にしてくれているけど、何かが違う気がするんだ。

 

 明日になれば、世界に会えば変わるはず。

 

 早く会いたい。そう思いながら洗面所を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 おばあちゃんと朝食をすまして学校に行けば、いつものようにタイガ達が教室の後ろ黒板の辺りで集まって話しているのが目に入った。

 

「お、おはよう……」

 

 ガラガラと教室の扉を開けて入っても、誰も挨拶を返してはくれない。それどころか顔を背けられてしまったり距離を置かれたりされてしまう。

 いつものことだ。そう思い少しの悲しさを抱えながら、教室の奥にいるタイガのところまで進んでいく。

 

「お、おはよう……タイガ」

 

「あ? 話しかけんなよ。黒いのが移んだろ」

 

「……っ、ご、ごめんね……」

 

 今日もまた嫌な顔をされてしまった。嫌われてしまってからも毎日話しかけているんだけど、毎回嫌な顔をされるし、たぶんこの後は痛いことをされると思う。

 昨日はサッカーボールを当てられたし、その前は体育の授業中にたくさん砂をかけられた。おとうさんみたいに殴ってきたり蹴ってきたりもする。

 おとうさんはボクのことを思って、愛を注ぐために殴っているんだって言ってた。なのに、タイガ達からたくさん殴られているのに、朝に見た血液は ”黒かった” 。

 

 タイガ達ではあの愛は戻せない。

 やっぱり世界に会いに行かないと。愛が戻らない。みんなと以前の関係に戻れない。

 以前おばあちゃんに見せてもらったメールを思い出す。

 

 

『チケット抽選のお知らせ

 

 この度は抽選にお申込みいただきありがとうございました。

 厳正なる抽選を行った結果、お客様はご当選されました。

 当選内容は以下の通りです。

 

[当選内容]

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■

□■■■■■■■■■■■■■■■■

□■■■■■■■■

…………………………………

…………………………………………

                            』

 

 

 最初はリニアモーターカーが発車する駅のセレモニーのチケットを取る予定だったんだけど、思った以上にお金と申し込んでいる人が多そうだったから、通過する駅の観覧席のチケットを取ることにした。

 結果はメールの通り当選。おばあちゃんが言うには、一瞬で終わってしまうからあんまり楽しめないかも、と言っていたけど、そっちのほうが世界を感じられそうだから良かった。

 

「あ……いや、タイガ……」

 

 明日世界を見ればきっと変わるから。

 

「今度の月曜日、一緒に遊ばない……?」

 

 またみんなで遊べるようになるはずだから。

 初めてのボクからの遊びの誘い。タイガもボクの初めての行動に目を見開かせて驚いているみたいだ。

 久しぶりのタイガの嫌な顔じゃない表情。良い調子だ。畳み掛けるように杖を片手にやって握手を求めてみる。

 

「………………」

 

 ……なかなか反応が返ってこない。タイガもそのまわりにいるみんなも石像みたいに動かなくなっている。

 笑顔が足りないのか? そう思いできる限りの笑みをタイガに向けてみる。

 

「…………きもっ」

 

 心が、冷えていく。

 

「遊ぶわけねえじゃん」

 

 そう言いながらタイガはボクに背を向けて、後ろ黒板に置いてある黒板消しを取って戻ってきた。

 そして差し出した手にバンッと黒板消しの軟らかい方を当ててきて、さらにボクが伸ばしている手を通り過ぎて胴体を突き飛ばされた。

 

「うわぁっ! な、なにす……ケホッケホッ!」

 

「遊ぶわけないじゃん何言ってんだよ、気持ち悪い。……はぁ、行こうぜ。あぁ、触っちまったから手洗わないとじゃん……メンド」

 

「ま、待ってよタイ……ケホッ」

 

 僕の制止の言葉も力無く、タイガ達はボクを置いて遠くへ行ってしまった。

 その背中はあたりに舞ったチョークの粉のせいか、むせて涙目になっているせいか、ぼんやりとしか見えなかった。

 

 明日。明日になれば世界がボクの世界に新たな風を送り込んでくれるはず。

 明日になれば、ボクは世界のことがわかってタイガ達とも仲直りできるはず。

 

 タイミングは一瞬しかないらしい。

 その一瞬でボクは、ボクの世界を変えられるくらいの世界を感じないといけない。

 

 思考の途中で、朝のチャイムが鳴った。

 今日ばかりは授業よりも感じられる方法について頭を働かせよう。授業よりも世界の方が、愛の方が大事に決まっているんだから。

 愛を感じなければ、世界は静止したままなんだから。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

【リニアモーターカー実装当日】

 

 

 たくさんの人が、ボクの人生で見たこともないほどの数の人が、リニアモーターカーが通過する駅に詰めかけていた。これみんなチケットに当たって世界を見に来た人たちか……!

 

「おばあちゃんからはぐれないようにね」

 

「うん分かってる」

 

 ちょっと恥ずかしいなんて言ってられない。今日のボクの目的達成のために、はぐれないように手を繋ぐ。おばあちゃんの大人の手はボクの小さな手を丸ごと包んで、はぐれないようにしっかり握ってくれた。

 

 駅の人にチケットを見せて、案内された通りに進んでいく。

 来るのが少し遅かったのか、ホームの前の方にはすでにたくさんの人がリニアモーターカーが来るのを今か今かと待ち構えていた。

 

「あら、こんなに人がいるの? これじゃちょっと1番前からは見えないわねぇ」

 

 おばあちゃんが困った表情を浮かべているけど、ボクも困った。これじゃ考えていたことが全然実行できない。人混みをかき分けて進んでみようとするも、おばあちゃんでは大人たちの密度に弾かれてしまった。

 

「どうしましょうね……隙間からは一応見えるけど、それでも大丈夫?」

 

「……。あ、うん! 大丈夫だよ。見えないんだったらヤだけど、ここからでも見えるし」

 

「そう? ごめんねぇ」

 

「平気平気!」

 

 後でおばあちゃんと離れて行動するから問題ないからね。

 

 昨日一日中考えて、ボクが目一杯世界を感じられる方法を思いついた。

 "目"だけじゃない。目だけじゃ足りない。"体全体"で世界を感じればいいんだ。

 そのためにはどうすればいいか。そんなの簡単、"リニアモーターカーに向かって飛び込んでみればいいんだ"。

 きっと世界一速いんだったら、ボクがジャンプして地面に降り立つよりも早くボクの体を世界最速まで持っていってくれるだろう。

 世界の世界を感じるにはこれが1番いい方法だ。

 

 愛を取り戻さないと。

 そう思いながらしばらく待っていると、ようやくホームにアナウンスが流れてきた。

 

『まもなく当駅をリニアモーターカーが通過します』

 

 そのアナウンスに、ようやく来たかと周囲から歓声が上がる。

 よし、時間だ。そろそろおばあちゃんと別れないと。

 

「やっと来るって。ね、走一くん」

 

「あのね、おばあちゃん」

 

「ん? どうしたんだい?」

 

「来るってわかったら緊張してトイレ行きたくなっちゃった」

 

「我慢は……できそうにないねぇ」

 

 少し大袈裟に足をバタつかせて漏れちゃうアピールを試みる。

 トイレ作戦実行だ。

 

「もう漏れちゃうからボク、トイレ行ってくるね!」

 

「場所はわかるかい? おばあちゃんもついて……」

 

「大丈夫! 行ってきまーす!」

 

 かなり強引だったかもだけど、これでおばあちゃんからの手繋ぎも解除できた。

 もちろんこのままトイレに行くわけもなく、しばらくトイレがある方向に進んでからホームへ方向転換する。

 小学生の体は、大人たちの足の間をなんとかすり抜けられる大きさで、それでいて弾き飛ばそうとするには可哀想と思ってもらえる大きさだと思う。人混みの中を今度はするりするりと抜けていって、世界が来る前にどうにか最前列まで来ることができた。

 

 同時にさらに大きな歓声が沸き起こる。

 釣られて顔を左に向ければ、遠くの方からリニアモーターカーの顔が接近しているのが見えた。

 

「来た!」

 

 ボクを変えてくれる世界が!

 おかあさんに言われてきた世界が、おとうさんに言われてきた世界が、目の前にやってきた。

 想像していたよりも何十倍も速い! これを感じられればボクは絶対に……絶対に、"幸せ"になれる。

 

 みんなリニアモーターカーに目を取られて、小さいボクのことを見ている人は誰もいない。

 あたりを探せば、撮影用に持ってきた脚立に乗って写真を撮ろうとしている人が目に入った。

 

 あれにしよう。

 時間もない。本当にごめんなさいだけど、脚立に乗っている人を突き飛ばして脚立を貸してもらい、そこからジャンプしてホームドアを飛び越える。

 

 けれどその時に踏ん張ったせいで、昨日のカサブタが再度開かれる。足が真っ二つになったのかと思うほどの激痛に顔が歪むけど、これを乗り越えればまたタイガたちと遊べるようになる。そう思うと力が湧いてきて、痛みを乗り越え飛び越えることができた。

 

 後ろからは突き飛ばした人の鈍い音が聞こえてきて、申し訳ない気持ちが高まる。

 けれど謝罪は後。まずは君だ、世界。

 

 

 「死にそうなくらい危険な目に遭ったときは、世界がゆっくり動いているように見える」。

 これも聞いた言葉だけど、これはちょっと違かった。

 世界がゆっくりに感じるのではなく、ボクの動きがゆっくりに感じられた。まるでボクの時間だけが止まったかのように、宙に縫い付けられているかのように思えた。

 

 そして、そんな世界に世界はありえない速度で突っ込んできてくれた。

 『世界を獲りなさい』『愛してほしい』『もっと速くなりなさい』『愛されたい』『気持ち悪い』『痛い』『愛している』『もっと速く』『世界が』『速く』『世界』『世界』『世界』『速く』『世界』『世界』『世界』『速く』………………『愛してほしい』。

 

 これでボクは世界になった。世界一速くなった。

 これでおかあさんにもおとうさんにも愛してもらえる。ボクを見てもらえる。

 クラスのみんなもすごいって言ってもらえる。

 タイガもまた遊ぼうって言ってくれる。

 

 体に触れる金属でできた世界が、ひんやりとしていて気持ちいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう思ったのは一瞬にも満たない瞬きで、次に気がついた時には、ボクは空高くに打ち上げられていた。

 

「……がぁ………ぇ……?」

 

 逆さまになった視界には、ホームにいる大勢の人が目に入った。この中からおばあちゃんを探すのは大変だなぁ、なんて状況に似合わないことを思ってしまった。

 

 次に感覚として伝わってきたのは、寒さ。

 心臓の温かみが無いのだ。見れば胸も手も顔からかなり離れたところで回転しながら宙を舞っていた。

 

 血が、愛が零れていく。

 穴も穴、大穴が開いたこの身から愛がこぼれ落ちていく。

 

 あぁ、寒い。

 愛が零れていくのは、なんて寒いんだろう。

 

 ……でも大丈夫。

 だってボクは世界になったんだから。零れてしまってもまたおかあさんとおとうさんが愛を注いでくれるから。だから大丈夫。

 

 血溜まりの中で、そう思った。

 

 

 

 

 

──その日、ボクは世界で1番速い人間になれた。

 8年間の人生の中で見つけた夢を、叶えることができたんだ。

 




お風呂の湯船に足を入れた時に 熱っ! となった出来事から、この熱さが痛みだったらどうだろう? と連想して生まれた本作品は、これにて完結です。
 
素人初心者感MAXな本作を読んでいただきありがとうございました。


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