繋ぎ目の光陰 ( K . K )
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始めに&登場人物紹介&プロローグ

 多分お初にお目に掛かります、K.Kです。この度は、繋ぎ目の光陰を開いて下さり誠にありがとうございます。

 

 物語を始める前に、作文担当の私から、何点か諸注意をさせて頂きます。大事な事ですので、初見の方は1度目を通すよう、ご協力お願いします。

 

 まず一点。この作品、私K.K1人の作品ではございません。後述する6人の合作です。文章を書いているのは私ですが、主にプロットとキャラメイクは6人(後述)共同で行っています。私一人の作品ではないこと、お忘れなきようお願い致します。

 

 それから、この合作にはテーマがあります。それは、『自分の性癖を詰め込んだキャラを一所に集めよう』です。因みにストーリーにも大きく反映されています。ですので、多少の無理のある設定、何故か世界観が大きく異なるキャラなどなど複数の難点があると思います。しかし全力で性癖を叫んでいくつもりですので、生暖かく見守って頂ければと思います。

 

 最後に! この作品は不定期更新予定です。一応Twitterで更新報告はしますので、後述する私のTwitterアカウント、又は繋ぎ目の光陰アカウントをフォロー下されば、いち早くお読み頂けると思います。

 

 以下、制作メンバー

 

 KASAGO

 皆様こんにちは。焔火 狛也(マスター)とモニアの親のKASAGOです。

 主にイラストとホームページ管理等を行っております。

 音楽制作や動画作成も好きです。

 どうぞよろしくお願い致します。

 Twitter▶@_kasago

 

 K.K

 作文方面担当ですよろしくお願いします! チャドリカはうちの子。私の名前は良いのでうちの子の名前を覚えて帰ってください。女の子の方が梨香さんで男の子の方がチャドです。覚えやがれ下さい。神字書き目指して全力を尽くす所存。

 Twitter▶KK58897877

 

 ぴくるす

 ミト博士と天使くんのママです。たまに絵を描きます。美少年とレースが好きです。

 Twitter▶@pikpikpikurusu

 

 モツオ202

 神尾さんとネクロくんの創作主です。鎖骨って素晴らしいと思います。

 Twitter▶@YeGO3t0SeQWLrek

 

 ゆゆ

 セツとヨツバのママです。イケメンお姉様を世界一愛してます。

 Twitter▶@goyu_1203

 

 あやか

 佑也と芹那の生みの親です。

 シリアス死ネタバドエンメリバが主食です。

 

 繋ぎ目の光陰公式アカウント▶sousaku_kenka

 

 それでは、どうぞ

 

 

 ──────────

 

 登場人物紹介

 

 焔火狛也

 アパートの経営者兼バーのマスター。他の住人からはマスターと呼ばれている。基本面倒臭がりだが、根っこはお人好しで意外と面倒見がいい。風呂好きなのでたまに突発的な温泉旅行を企画する。料理が上手。

 

 モニア

 いつもマスターと居る少女。バーの仕事も手伝っているが、人と話すのが苦手。人見知りが激しいので、初対面の相手や苦手な人物に対してはマスターの後ろに隠れてしまう事も。首に下げている勾玉はマスターに貰った大切な物らしい。

 

 チャド

 その辺にいそうな二十数歳の青年、と見えて実は百五十年生きているハーフヴァンパイア。元々旅暮らしをしていて、その場のノリとテンションで生きている。たまに迷子になっているが、悪運が強いので何だかんだ帰って来る。

 

 ミト・ミト

 科学者。いつもサイズの合わない白衣を着ている。常に部屋に籠って何かしており、たまに妙な音が聞こえて来る。専攻は生物学だと言うが、何故か機械にも強い。技術班ミトミト。口調は常に高飛車で、男か女かは意見が分かれる所。本人は頓着していない。

 

 天使くん

 謎の少年。何が謎かと言えば全てが謎。素性は勿論、普段何しているのかも謎。存在そのものがアパート七不思議の一つ。常に楽しそうで、口癖は、だって、僕は天使だからね♪ 更に神出鬼没で、いつの間にか隣にいたりする。

 

 神尾桃真

 街の歯医者さん。アパートの近くに診療所がある。おおらかな性格で物腰も柔らかい、のは平常時。中身は歯フェチの変態で、他人や動物の歯を見る為なら手段を選ばない。にこにこ顔で迫って来る。怖い。そして歯医者の筈だが外科の方面にも明るい様子。

 

 五日市梨香

 貴重な常識人枠。しっかり者と言われる事が多いが、結構抜けているところもある。手先が器用で裁縫が得意。なのに料理は苦手。お酒好きなのでよくバーで飲みながら他の住人と話している。

 

 セツ・カンザキ

 背筋がピシッと伸びている女子高校生。誰に対しても固い敬語で接し、自己主張が激しいわけでは無いが頑固。しっかり者で責任感が強いせいか、いつもヨツバのフォローに奔走している。パーカーは基本脱がない。

 

 木崎芹奈

 小さな喫茶店でウェイトレスとして働いている十九歳。明るくフレンドリーなので、コミュニケーション能力が高い。甘いもの好きで休日は良く食べに出かけている。そしてそれに何故か佑也が付き合わされている。

 

 瀬戸佑也

 小説家。バーでもよくノートパソコンを開いている。ぶっきらぼうだが悪い人では無いので、話しかけると答えてくれる。イケメンの上無自覚女たらしなのでたまにトラブルになっているとかいないとか。

 

 ヨツバ・ムラカミ

 セツに纏わりついている少女。セツは大分嫌そうな顔をしている。やりたい事を見つけるとすぐ突っ走るので、何か妙な事が起きている時は大体ヨツバかミト博士のせい。彼女の口から両親の話が出てくるときは、大抵昔の話。

 

 ネクロ・ミッチェル

 十五歳の少年。口が悪いが根は真っすぐ。神尾に目を付けられている為彼の姿を見るとなるべく逃げる。その時の逃げ方が凄いアクロバティック。そして足が速い。でもたまに捕まっている。大人に憧れているのか、酒やタバコに挑戦しては撃沈している。

 

 ──────────

 

 Prologue.ようこそ

 

 

 

 やぁ、こんにちわ。

 

 君、今暇? こんな所に居るんだから、きっと暇だよね♪ 暇潰しに、僕が面白い話をしてあげよう。

 

 君は、世界はいっぱいあるんだって言ったら、信じる? 

 

 信じられないかなぁ。でも、本当の事だよ。世界は、いーっぱいあるんだ。星よりも、いっぱい。

 

 でね、世界には所々、見えない穴が開いてるんだ。ちっちゃい穴が。大体ね〜、人一人分くらいの大きさかな? だから、たまにその世界の出入り口にしている人が居るんだ。

 

 穴から、世界の外側に出て、他の世界と道で繋いで、その世界の穴から中に入る。僕もよく知らないんだけど、そう言う風に道を作る方法があるんだって。凄いよねぇ、誰がそんな事考えたんだろう♪ 

 

 世界の外側はどうなってるのかなぁ。何にも無いかもね。調べた人は居ないらしいよ。でも穴の方はね、今色んな人が調べてるんだ。何かに使えるんだって。君は、何に使えると思う? ふふ、急に言われても、分からないかな? 

 

 え、僕ならどうするかって? うーんそうだなぁ、僕なら……色んな世界の穴を、一か所にぎゅって集めて、そこを繋ぎ合わせる! そうしたら、いろんな世界に行けるよね。繋ぎ目の部分は、どこの世界にもあるって言えるから。あれ、どこの世界にも無いのかな。どっちだろう、分からないや♪ 

 

 でも、これほんとはね、僕が考えたんじゃないんだ。本当に、そういう事をした人が居たんだよ。

 

 うん、知ってるよ。その人の事も、そこに居た人たちの事も、いーっぱい! だって僕は、天使だからね♪ 

 

 ねぇ、聞きたい? そこに居た人たちの話。繋ぎ目での話。

 

 そうだね、君はこんな所まで来る物好きさんだもんね♪ 時間は、いっぱいあるもんね。

 

 でも、気を付けて? ほら、言うでしょう? 光陰矢の如し、って! 

 

 それじゃあ、よろしくね♪ 

 

 

 




初回です。話始まってないけど。後書き部分には小ネタなどなどくっつけるのでお楽しみに。挿絵なんかも載るかも……しれないかもしれないとかなんとか……
告知や投稿のお知らせは繋ぎ目の光陰Twitterアカウントから行うのでよろしくお願いします_(._.)_


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序章 温泉旅行
1.夜道


 カツ、カツ、カツと、ヒールがコンクリートを叩く音が道に響いていた。冷たい風に背中を押されて、思わず身震いをする。

 

 今日も疲れたなぁと、五日市梨香は一人夜空を見上げた。真っ暗な都会の空に浮かんでいるのは、細く尖った三日月だ。雲もない代わりに星も見えない空で、ぽつんと所在無さげに佇んでいる。

 

 そんな月を見上げていると、尚更疲れが身に染みて、梨香ははぁと溜息を吐いた。疲れているせいか、どうにも気分が沈んでしまう。もっと、別の事を考えよう。例えば……そう、今日の晩御飯とか。

 

 そう言えば、昨日のきんぴらごぼうは美味しかった。今日も出てこないだろうか。他の住人にも評判が良かったから、ひょっとしたら出てくるかもしれない。ああ、それに、今日は金曜日だった。それはつまり、明日は休みという事だ。

 

 その事を思い出して口角が上がり、家へと向かう足が自然と速くなる。

 

 それなら今日は、いつもより遅くまで飲んでも良いかもしれない。更に言えば、明日はずっと前から行ってみたかった毛糸の店に行くつもりだった。ネットで見かけてから、ずっと気になっていた可愛いお店。そんな事を思い出したら、気分が上を向いた。

 

 さっきよりも大分上機嫌な足取りで、梨香は曲がり角を左に曲がる。バラバラなデザインの家が立ち並ぶ住宅街の中に、古びたアパートが一つあった。無個性な直方体の側面に並ぶ、全て同じパターンのドアの列。そこの一室が、梨香の家だ。

 

 しかし梨香は自分の部屋のドアには向かわずに、建物の通りに面した壁へと向かった。

 

 普通のアパートなら、そこには何も無い。しかしこのアパートのその壁には、黒いドアが一つついていた。そしてその横にあるのは、『BAR 焔火』と書かれた看板だ。地面に置くタイプのそれは、内側にある電球に照らされて、夜道にぼんやりと浮かび上がっている。

 

 そのドアを押し開けると、中には階段が続いていた。その階段を照らし出している灯りは小さくて、扉の中は外と変わらない程に薄暗い。けれど梨香は特に躓く事も無く、慣れた様子で階段を下っていった。

 

 階段を下った先には、また扉があった。さっきの物より少し重いそれを押し開ける。中から漏れ聞こえてくるのは、誰かの話すざわめきだ。

 

 一歩足を踏み出した店の中は、随分と賑わっていた。夕食時のこの時間帯としては、少し不自然なほどだ。しかし、その全てが客という訳ではない、というか、この中に客は一人も居ない。ここに居るのは全員、上のアパートの住人なのだ。そして実を言うと、ここは普通のアパートじゃあない。

 

 

 

 もしあなたが普通の人間なら、恐らくアパートと言う単語を日常的に目にしている筈だ。それほどアパートと言う物は、日本中に無数に存在する、普通な物の一つだ。言うまでも無いことかもしれない。きっと、バーと言う類の店についても、同じ事が言えるだろう。

 

 しかし、そのアパートとバーが一緒になった所と言うのは、中々聞かない。少なくとも、ちょっと気になって調べた範囲では無かった。それもここは、単にバーとアパートが同じ建物にあるという訳ではなく、アパートの経営者が趣味でバーのマスターをやっているのだ。

 

 で、これはちょっと余談になるが、そのバーのキッチンは、バーのマスターが自分の食事を作るのにも使っていた。それにある時、自炊の出来ない住人が便乗しようとしたらしい。そしてそれに更に他の住人が便乗した結果、今では朝晩の食事がバーに行けば食べられると言う学生寮の様なシステムまである。

 

 まぁでも、それくらいだとちょっと珍しいの範囲を出ないかもしれない。実際、このアパートが普通じゃない一番の訳は、別にあるのだ。

 

 このアパートは、他の世界に繋がっている。

 

 そう最初に聞いた時、私はどういう事か全く持って分からなかった。でも、事実なのだ。世界は私が居るここ以外にもたくさんあるけれど、物理的には繋がっていない。しかしこのアパートは、そのいくつもある世界と繋がっているのだと言う。私に理解できたのはここまで。マスターに何度かそうなっている“仕組み”も聞いたけれど、一ミリも理解できなかった。

 

 まぁ、繋がっている仕組みも、他の世界がある事も、実際は大して重要じゃない。大事なのは、このアパートには色々な世界から来た住人が居て、それぞれの世界で暮らしているという事。それが分かっていれば、何も問題は無い。他の世界の存在なんて、意外とどうでも良い物だったりするのだ。

 

 

 

「おかえりー」

 

 そう言って椅子に座ったままこちらを振り返ったのは、他の住人からチャドと呼ばれる青年だった。その隣の席に座って、梨香は「ただいま」と返す。

 

「いつもより遅かったな、なんかあった?」

 

「電車の遅延。原因は知らないけどね」

 

 駅の人混みが何時にも増して酷くて、大変だったのだ。そんな話をチャドとしていると、不意に左側からそっと茶碗が差し出された。

 

「お疲れ、さまです」

 

 そう言って夕食を運んできてくれたのは、桜色のふわふわ髪の少女、モニアだ。バーの手伝いをしている少女で、いつも着けているエプロンはマスターのお下がりらしい。少々人見知りが激しい子だが、ちょっとした事から、梨香はこの少女と仲が良くなっていた。

 

 梨香はモニアにお礼を言って、夕食を受け取る。残念な事に、きんぴらごぼうは無かった。

 

「マスター。昨日のきんぴらごぼうって、もう無くなっちゃったの?」

 

 カウンターの奥に立って他の住人と話している男——マスターに向かって、そう声を掛ける。

 

 このバーのマスター兼アパートの管理人は、本名を焔火狛也と言うらしい。左右で白い長髪と黒い短髪に分かれた髪型が特徴的な男だ。声を掛けられて、マスターはこっちへ振り返る。

 

「あ? 昨日お前らが酒のつまみに全部食べただろうが」

 

 返って来たのは、そう言う若干呆れた声だ。昨日は比較的早い時間に引き上げた筈なのだが。まぁ、あのきんぴらごぼうが美味しかったのが悪い。そう結論付けて、梨香は一人で頷いた。

 

「あれ美味しかったから、しょうがないわね。また作ってよ」

 

「ごぼうが安かったらな」

 

 その気があるのか無いのか良く分からない返事だが、恐らく数日の内に、またきんぴらごぼうが出て来るだろう。さて、今日のメニューは白米、お味噌汁、ブリの照り焼きに、ほうれんそうのお浸し。思いっきり和食だ。手を合わせて、食べ始める。

 

「ああ、そうだ。他の奴等にはもう話したんだけどな」

 

 それと同じタイミングで、マスターがそう話を切り出した。口の中に物が入っていたので、梨香は頷いて続きを促す。

 

「温泉旅行に行こうと思うんだ、全員で」

 

「へぇ、良いんじゃない? いつ?」

 

 白米を飲み込む。そして、何気ない調子で、梨香は聞いた。マスターも、何気ない調子で返す。

 

「明日」

 

「……明日!?」

 

 つい、素っ頓狂な声が口から飛び出した。明日という事は、明日である。日付が変わるまでにあと四時間も無いのだ。しかも聞けば、既に宿は予約済みだと言う。控えめに言って何言ってんだこいつと、梨香は思わず胡乱気な視線を向けてしまう。しかしマスターはそれを気に留める事も無く、さらりとこう言った。

 

「何だ、行かないのか。箱根は有名な酒処だぞ」

 

「………………行く!」

 

 お酒には勝てない。

 

 

 

 




序章はキャラ紹介を兼ねているのでサクサク行きますよ〜


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2.初めての旅行

 翌朝、太陽が昇り切った頃。

 

「ねぇセツ! はやくはやく!」

 

 そう言いながら外へ駆けていく幼い少女——ヨツバ・ムラカミの後ろ姿に、セツ・カンザキは今日だけで何度目かになる溜息を吐いた。

 

 唐突に温泉に行くと言う話が持ち上がったのが、昨晩の事。その時、それに対してセツは反対しなかった。一泊二日と短い日程で、特筆するべき用事もなく、反対する理由が無かったと言うのが主な理由だ。少しの面倒だと言う感情も、周囲の事を考えれば飲み込むのが最善だと判断した。

 

 ——今にして思えば、その時ヨツバの反応を予想しなかったのが、全ての過ちだったのだ。

 

 旅行の話が持ち上がったその場では、ヨツバは全く持ってマスターの話を聞いて居なかった。ニンジンと格闘中だったのだ。だから、ヨツバが明日何をするのか具体的に知ったのは、セツとともに部屋に戻る途中だった。

 

 明日は皆で出かける。いつもと違う所で寝る。広いお風呂に入る。

 

 そう聞いたヨツバは、正に“大騒ぎ”をした。着替えを詰める為のカバンをトランプやお菓子で一杯にし、温泉や目的地についてセツを質問攻めにし、etc……。まぁ、言い出したらきりがない。

 

 特に、目的地である箱根について聞かれたのには困った。セツは、箱根なんて場所の事を知らない。何故なら、セツもヨツバもこの世界——住人たちの間では、人間世界と呼ばれている——の出身では無いからだ。二人が暮らしているのは、軍事世界と呼ばれる世界。文化などは人間世界によく似ているのだが、科学技術の発達度合いや世界情勢が大きく異なっている。

 

 まあ、そんな訳で、昨晩ヨツバを寝かしつけるのに大きく消耗したのに加え、やっとの事でヨツバが寝てからもやる事が中々片付かず、今日のセツは若干寝不足気味であった。

 

 ちらりと腕につけた時計で時間を確認する。7:45。集合時間の八時には、十二分に時間がある様だ。

 

「セーツ! セツってば! おそいー!」

 

 しかしヨツバは、少し先でぶんぶんと大きく手を振って、セツの事を急かしている。仕方なしに、セツは歩く速度を少し早めた。そしてそこにある、いつもは無い物に気付く。どうやら、ヨツバのテンションが上昇一直線なのはそれのせいの様だ。

 

 アパートの前のアスファルトの地面の上に、一台の車が止まっていた。黄色のボディに、丸みを帯びた形状の四輪車。大きさからして、街でよく見かける自家用車、と言う類の車だ。敷地内に停められている事からして、他の住人の物だろうか。しかし、一体誰の? 

 

 何となく、あの中で車を持っていそうな人物が思い浮かばない。そんな事を考えていたセツは、ふと、さっきからヨツバの声が聞こえない事に気付いた。顔を上げて見れば、セツを急かしていた筈のヨツバは忽然と姿を消している。

 

 一体どこに行ったのだろうかと、辺りをきょろきょろと見渡す。しかし、ヨツバはどこにも居ない。その代わり、アパートの方からマスターが荷物を持ってくるのが見えた。その後ろには、モニアもついてきている。

 

「おはようございます」

 

 セツは二人に向き直って、何時もの様に挨拶をする。マスターはそれに手をひらひらと振ってこたえ、モニアはぺこりと小さく頭を下げた。

 

「おはよーさん、思ったよりも早かったな」

 

 もっとゆっくりでも良かったのにと言いながら、マスターは車のトランクを開ける。どうやらこの車は、マスターの物だった様だ。思ったよりもトランクの中は広く、二つの鞄を置いてもまだ十分に余裕があるようだった。

 

「って、まさか、この車で旅行に行くんですか?」

 

 トランクの広さは兎も角、車のデザインからして、この車に乗れるのは五人が限界だろう。加えて、他に車がある様にも見えない。これじゃあ、半分も乗れないじゃないかと、セツは訝し気な視線を向ける。しかしマスターは、にやっと笑って頷いた。

 

「まあ、良いから乗って見ろ。きっと驚くぞ」

 

 どういうことか分からず、セツははぁ、と頷くに留めた。アパートの方から人の声が聞こえる。時刻は8:02。そろそろ、他の住人も集まってきそうだ。

 

「そう言えば、ヨツバはどうした」

 

 ふと気付いたと言う様に、マスターがそう聞く。

 

「それが、気付いたら居なく——」

 

 居なくなっていたと答えかけたセツの目の前で、車の後部座席のドアが勢いよく開いた。ドアを開けたのは誰であろう、ヨツバである。いつの間に乗り込んでいたのだろうと驚いた顔をするセツに、ヨツバは勢いよく言い放った。

 

「セツ! 来て来て! すっごい広いよ!」

 

 一体何が広いのか、とセツの脳内に疑問符が浮かぶ。しかしそんな事を聞く間も与えずに、ヨツバはセツを車の中へと引っ張り込んだ。

 

 余りにもヨツバが勢いよく引っ張る物だから、セツはよろけてしまい、半ば転がり込むような格好で車の中へと入る。ひょっとして、今日一日、ヨツバはこのテンションのままだろうか。そんな事を思いながら、顔を上げた。

 

 さっきも言ったが、この車は、街でよく見かけるような自家用車と同じくらいか、それより一回り小さい位のサイズだ。だから、乗れるのはせいぜい四人か五人。普通に考えたらそうだろうと、セツは思っていたのだ。

 

 しかし、その予想は、綺麗に裏切られた。

 

「……成程、確かに広いですね」

 

 訳が分からない程に、とセツは付け加えた。車の中には、ざっと数えて十と少しの座席があり、マイクロバスの様に廊下を挟んで二列に並んでいる。見た目の容量を超えているのは、言うまでもない。一体何がどうなっているのか、と少し呆れた様に思う。まぁ、このアパートで摩訶不思議なものを見るのは、今に始まった事じゃないのだけれど。

 

「ヨツバここ!」

 

 そんなセツの横を通り抜けてヨツバが座ったのは、運転席である。また溜息を一つついて、セツはヨツバを抱え上げた。

 

「そこには乗れませんよ。ほら、私の横に座ってください」

 

 そう言って、適当な席にヨツバを座らせる。ウロチョロされる前に、シートベルトをさっと締めた。居ても居なくても問題を起こすのなら、目の届く範囲でなるべく制御した方が色々楽だと判断しての事だ。

 

「これやだ! とって!」

 

 予想通りそう言って騒ぐヨツバに、

 

「ほら、これをあげますから」

 

 と、事前に買っておいたグミを渡す。甘い物の食べ過ぎは良くないのでいつもならこんな事はしないが、車内で長時間騒がれてはこちらの精神が持たない。苦肉の策である。

 

 予想通り静かになったヨツバの隣の席に、セツも座る。少し遠くから聞こえて来るのは、他の住人の声だろうか。それを聞きながら、目を瞑って窓ガラスに寄りかかる。朝から疲れてしまった。旅行とは、疲れる物なのだろうか。分からない。

 

 セツだって、これが初めての旅行なのだから。

 




Q.どうしてヨツバちゃんにあげるお菓子がグミなんですか?

A.ずっと噛んでいるので静かになるから


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3.好奇心

 ネクロ・ミッチェルは、この日初めて、車と言う物に乗った。

 

 そう。彼もまた、セツやヨツバの様に、この世界ではない世界からやってきたのだ。魔法や妖怪が存在する、だいぶこの世界と異なるその世界は、西洋世界と呼ばれている。

 

 そんな訳だからネクロは、この世界の事について少しばかり疎い。ようやく慣れて来たとは思っているが、まだまだ驚く事の連続なのだ。しかしそれ以上に、好奇心がくすぐられる物も多い。実を言うと、車と言う物の存在は知っていたので、一体どんな物なのだろうと、今朝も少しワクワクしていたのだ。

 

 それと同時に、この日初めて、車酔いと言う無情な現実を知った。

 

 

 

 酷く気分が悪かった。具体的に言い表し様の無い気持ち悪さが、未だ胸の奥辺りに居座っている。目を閉じたまま、頭を少し動かすと、窓ガラスのひんやりとした感触が額に触れた。薄く目を開ける。車が止まった。どこかに到着したようだ。

 

「ネクロくーん?」

 

 うわ、来た。そんな気持ちが声にならずとも、表情に出てしまう。声を掛けて来たのは、神尾桃真だ。ネクロは返事をせずに、寝たふりをする事にした。

 

 実を言うと、と言うほど隠している事でも無いが、ネクロは神尾の事が苦手だ。その原因は、十割程が神尾にある。

 

 他の住人から神尾先生と呼ばれるように、神尾は歯科医院を営んでいる歯医者だ。そのせい、と言う訳でも無いだろうが、神尾は他人の歯を見るのが大好きな変態なのだ。そしてネクロは、その神尾に気に入られて、事あるごとに歯を見せろと迫られていた。つまり、一番の被害者という事である。

 

「あー、駄目っぽいですねぇ。ネクロくん、寝ちゃったみたいです」

 

 神尾が皆に向かってそう言うのが聞こえる。本当は寝たふりをしているだけだが、面倒臭いので黙って置く事にした。実際、まだ動けるほど気分は良くなっていないし。

 

「そんなら、車の中に残してくか。昼飯は、売店で買っておきゃ良いだろ」

 

 そう言うマスターの声も聞こえる。どうやら、みんなで昼食を食べに行くらしい。そこへ、がやがやと車を降りる声に混じって、ある人物の言葉が聞こえた。

 

「それなら、私も残ろう。子供一人で車内に残しておくべきでは無いからな。ああそうだ、私の分の昼食も買ってきてくれたまえ」

 

(いやそれあんたが外に出たくないだけだろ!)

 

 悪びれることなくそう言い放ったのは、ミト・ミト。常に白衣を纏っているので、ミト博士と呼ばれる人物である。あまりにも裏の意図が透けて見える発言に、思わず心の中で突っ込んでしまったのはネクロだけでは無い筈だ。

 

「あー、分かったよ。何が良い?」

 

「菓子パンを頼む」

 

 呆れた様な声のマスターとミト博士が、そう言葉を交わすのが聞こえる。それからどんどん足音や話し声が遠ざかって行って、車の中は急に静かになってしまった。寄りかかっている窓ガラス越しに、降りて行く皆が見える。その中に神尾を見つけて、ネクロは視線を反射的に逸らした。

 

「何だ、起きているじゃないか」

 

 すると、入口の方から歩いてきたミト博士と、ばっちり目が合ってしまった。何となくネクロは気まずく感じてしまうが、ミト博士は全く気に留めず、自分の席に戻っていく。まるでこっちに興味があるのか無いのか分からない言動に、ネクロの頭の中にいくつも疑問符が浮かんだ。

 

 ネクロは住人の中でも一番の新参者なので、正直な所、まだ他の住人の事を理解しかねているところがある。その中でも、ミト博士は一番近寄り難い相手だった。

 

 生物学の博士を自称しているものの、一日中部屋に籠っており、何をしているのかは誰も知らない。夕食や朝食にも毎回来る訳ではなく、他の住人ともあまり話さない。分かるのは、気難しい人なんだろうなという事ぐらい。

 

 しかしそんな彼の事を、他の住人はある程度理解している様だった。そのうえで、思い思いの距離感で彼に接している。どうすればそうできるのか、ネクロには分からない。でも、その関係性は、とても自然に見えて。それを見ていると、どうしても思ってしまう。やっぱり、自分の居場所なんて、どこにも————

 

「君、ちょっと良いか」

 

 急に声を掛けられて、ネクロは驚いた。振り向けば、ミト博士がこちらに来いと手招きをしている。不思議に思いながらも、それに従ってミト博士の所まで歩いていく。車酔いは、いつの間にか直っていた。

 

「普段、トレーニングで何をしている?」

 

「トレーニング?」

 

 一瞬何を聞かれたのか分からず、そう聞き返す。

 

「いつも、敷地で走ったりしているだろう。何か、特別な事をしているのか?」

 

 何だ、そんな事かと、少し拍子抜けする。そう言えばこの前、ミト博士に「君のその身体能力はおかしい」とかなんとか言われて、あれこれ調べられたのだった。終わった話だとばかり思っていたが、ミト博士はまだ色々やっていたらしい。

 

「特別な事は、別に何も。走ったりしてるだけだし。てか、何で知ってんだ?」

 

 トレーニングは完全に習慣で続けて居る物だから、特に誰かに言ったことは無いのにと、ネクロは訝しむ。しかしミト博士は、さらりとこう言った。

 

「私の部屋からは良く裏庭が見えるからな。そうなると、やはり後天的な物では無いのか? 確かに、この部分は——」

 

 そして、何かをぶつぶつ呟きながら、ミト博士はパソコンの画面を難しそうな表情で見つめている。邪魔にならない様にこっそりのぞいてみたが、そこには意味の分からない数字が羅列されているだけだ。こんな小難しい事をして、原因が分かるのだろうか。そしてそれが分かった所で、一体何になると言うのだろう。神尾と言い、ミト博士と言い。

 

「何で、そんなに調べたがるんだよ。こんなん、毒にも薬にもならないだろ」

 

 知らず知らずのうちに零れ落ちた言葉は、誰にも言うつもりの無かった、紛う事無き本音だ。

 

「逆に、何故知りたいと思わないのだ?」

 

 パソコンの画面に視線を向けたまま、ミト博士がそう言う。答えが返ってくるなんて思っていなかったネクロは、思わずその目を見開いた。

 

「活用出来る出来ないに関わらず、知識と言う物には価値がある。毒になるか薬になるかは、調べないと分からないものだ」

 

 きっぱりとした口調で、ミト博士は言い切った。そしてパソコンの画面からネクロの方に視線を移して、更に言えば、と付け加える。

 

「私は私が知りたい事を研究する。意味は、後から付いて来るのだ」

 

 そう言ったミト博士の態度は堂々としていて、傲慢とすら言えそうなものだった。どうしてこんなに自信満々で居られるのか、ネクロには分からない。相変わらず、一つも。ただ、少しだけ。

 

「……何だよ、それ」

 

 思わずと言った様に、ネクロは少し笑ってしまう。

 

 少しだけ思ったのは、この人は、とても素直な人なのかもしれない、という事だった。

 




〜皆が車から降りた直後の話〜
マスター「どうした? 車の方なんて見て」
神尾「一瞬、ネクロくんがこっちを見ていたような気がしたのですが……気の所為ですかね、何も見えません」

※車の中は外から見えないようになっています


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4.時間の流れ

それからまた数時間が経ち、一行が宿に到着したのは、五時を少し過ぎた頃合いだった。チェックインの手続きはマスターが済ませ、荷物も皆部屋に運び込んだ。夕食には、まだ少し時間があるらしい。そんな訳で、皆思い思いの行動を取っている中、瀬戸佑也は、部屋のベランダでタバコの煙を燻らせていた。

 

遠くに見える山の稜線が、沈みかけの太陽の明かりに照らされて、薄い茜色に染まっている。その上を、宵闇色の鳥が二、三羽、すぅっと飛んでいくのを、佑也はぼんやりと見つめていた。東京より少しだけ日の入りが早いように感じるのは、気のせいだろうか。

 

綺麗な景色だな、と、素直に思う。

 

旅行は、好きでも嫌いでも無い。大人数だと、少し面倒だなと思うだけ。でも、こう言う普段見られない綺麗な物を見ていると、悪くないと思える。綺麗な景色を見るのは、結構好きだから。何にも関係なく、ただそこに綺麗なままであるものと言うのは、貴重だ。

 

ぼんやりと、考えとも言えない取り留めも無い事を考える。タバコから、ぽろりと灰が落ちた。

 

「ゆーやー、何やってんの?」

 

聞き慣れた声に、振り返る。見れば、ベランダの入口に、芹奈が立っていた。そっと、タバコをベランダの手すりに押し付けて、火を揉み消す。タバコはハンコの様に、手すりに歪んだ丸形の痕を白く付けた。

 

「いや、別に。どうした?」

 

「コンビニにさ、お菓子買いに行こうと思って。ついてきてくんない?」

 

それに「ああ」と頷いて、ベランダから部屋に入る。聞けば、コンビニまでは十五分ほど歩くらしい。標高が高いせいか、日が沈んでいるせいか、外は大分寒い。上着を持って行った方が良いだろう。

 

「ていうかお前、昨日もお菓子買ってなかったか?」

 

ふと思い出して、芹奈にそう聞く。確か昨日の夜も、こうして買い出しに付き合わされたのだ。車の中で食べるとかなんとか言って結構買い込んでいた記憶がある。

 

「ああ、あれ? もう無くなっちゃったの」

 

「また買うのか?」

 

「無いよりはある方が良いでしょ?」

 

「……そんな食ったら太るぞ」

 

「もう! 別に全部一人で食べる訳じゃ無いから!」

 

そんな風にぽつりぽつりと言葉を交わしながら、電灯の少ない道を二人は歩いた。耳を澄ませば、どこからか虫の声も聞こえる。背中を押す風は冷たくて、見上げた空は濃紺色だ。都会よりもいくらか澄み渡ったそこには、一つ二つと、もう星が輝きだしている。

 

あぁ、冬が来るんだな。大した理由も無く、そう感じた。

 

まだ残暑が居座っていたのが、昨日の事の様だ。けれど、空気は日増しに冷たくなっていっている。冬が来たら、年が明けるのだろう。まだ二ヶ月はあるけれど、何て言っている内に、あっという間に。そうして季節は移り変わって、年月は流れていく。過去が引き離されていく。月並みな言葉ではあるけれど、時間の流れは無常だとしか、言い様がない。

 

止めよう、と佑也は首を振った。悲観的になるのは、悪い癖だ。芹奈にもよく、そう言われる。

 

顔を上げると、数メートル先にコンビニが見えた。暗い夜道で、そこだけが都会と変わらず、煌々とした明かりを灯している。

 

「はい、これ持って」

 

コンビニに入ると、そう言う芹奈に買い物カゴを持たされた。そしてそのカゴの中に、芹奈はポイポイとお菓子を入れていく。

 

「買い過ぎんなよ、晩御飯もあるんだから」

 

「何とかなるって! じゃあ、佑也も何か食べたいもの入れなよ」

 

何がじゃあなのか良く分からないし、そんな事を話している内にもカゴはどんどん重くなっていく。コンビニ袋一つに納まるのだろうかと、佑也は思わず訝しんだ。

 

 

 

両手に一つずつコンビニ袋を持たされて、佑也は芹奈と来た時と同じ道を歩いていた。佑也の機嫌は、行きよりも若干悪い。コンビニ袋が重いのと、行くときは下りだった道が帰る時は上りになっているからだ。ちょっと意味は違うが、何となく『行きはよいよい帰りは恐い』と言うフレーズが浮かんだ。

 

「にしても、重てぇな」

 

がさがさと膝に当たるコンビニ袋が鬱陶しくて、そんな呟きが零れる。

 

「まぁまぁ、旅行の夜にはお菓子パーティが定番でしょ?」

 

良く分からない芹奈の言い分に、肩を竦めて返そうとする。が、コンビニ袋が重い。何度でも言うが、本当に重いのだ。

 

「私さー、こういう買い出しとか、結構好きなんだよねぇ。ほら、高校の時の文化祭とかでもやるでしょ? the、非日常って感じがするし」

 

そう言って笑う芹奈に、佑也は何も答えなかった。ただ黙って、芹奈の後ろをゆっくりと歩き続ける。

 

「……来年もまた、皆で来れるかなぁ」

 

夜空を見上げて、芹奈は息を吐き出した。その横顔を見つめて、佑也は呟くようにそれに答える。

 

「来れるんじゃねぇの、多分」

 

季節なんて、あっという間に過ぎ去っていく。時間は、決して止まらないのだから。一年なんて、瞬きする間に経っているかもしれない。だから、きっと。

 

「そうだと、いいなぁ」

 

こちらを振り向いて、気が抜けた様に、芹奈はまた笑った。

 

 

 

 



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5.星空を見て

 お酒は、美味しい。それが、旅行先で飲む地酒なら、尚更だ。

 

 梨香は内心でそう呟いて、機嫌良く缶ビールを煽った。この旅行に参加した最大の目的は、無事達成されつつあるようだ。

 

 時刻は十二時の少し手前。一部の住人が、男子部屋に集ってちょっとした宴会を開いていた。居るのは、梨香、チャド、マスター、神尾、佑也。神尾は今トイレに行っていてこの場に居ないが。まあ要は、よくバーで飲んでいるいつもの面子である。

 

 因みに子供達——主にヨツバ——も夕食が終わってからトランプだのなんだのをこの部屋で広げていたが、一時間程前にセツが向こうの部屋に連れ帰ってしまった。その時までは結構騒がしかったのだが、今こっちに居るのは布団で寝ているネクロだけなので、大分静かだ。

 

 卓袱台の上に広げられたつまみの袋を一つ取り上げる。が、中身が無い。他の袋を掴むが、それも空。つまみを探して、がさがさと袋をより分けていく。しかし驚いた事に、残っていたのは袋半分にも満たないチー鱈だけだった。

 

 よくよく見てみれば、大分買いこんだ筈の酒瓶も缶もほとんど空になっている。人数が多いと、消費が早い。そういう事にしておこう。

 

「おい梨香、そっちに酒無いか?」

 

 日本酒の小瓶で手酌していたマスターに聞かれて、梨香は首を横に振る。

 

「お酒どころか、おつまみも無いわよ」

 

「なんだ、もう無いのか。ま、しょーがねぇな。そろそろお開きだ」

 

 無い物はしょうがないと、マスターがお開き宣言を出した。梨香も、手に持った缶の中身を飲み干す。このビール、この辺りの地酒の一つらしい。美味しかったので、帰る前にどこかで買い込んで行こう。

 

「ただいま……おや、もうお開きですか」

 

 そう言いながら部屋に戻って来たのは、トイレに行っていた神尾である。寒かったのか、両腕を浴衣用の上着の裾に入れている。

 

「そう言えば皆さん、空見ましたか? 星がとても綺麗でしたよ」

 

 少し離れた所に落ちていたあたりめの袋を拾い上げながら、そんな事を神尾が言った。その袋を受け取って、マスターがそれに答える。

 

「何だ、珍しく(歯のこと以外で)テンションが高いと思ったら、そういう事か」

 

 へぇ、と二人の会話に相槌を打ちながら、梨香は内心で少し驚いていた。神尾が、星空とかそういった“普通のもの”に興味を持つタイプだとは知らなかった。

 

「何か、意外ねぇ」

 

 思わずと言った様に、そう呟く。

 

「いや、こいつは意外とこう言う奴だぞ」

 

 それに、マスターはビニール袋の口を縛りながら言葉を返した。ガサガサと、袋の中に詰め込まれた空き袋が音を立てている。

 

 純粋に、綺麗な物が好きな奴なのだ。その“綺麗な物”の範囲が、常人とずれているだけだと考えれば、まぁ納得がいく……事もあるかもしれない。

 

 最後の方は少々自身無さげではあったが、マスターはそう言って笑った。それに、梨香とチャドは思わず顔を見合わせる。

 

「……ひょっとして二人って、結構長い付き合いだったりする?」

 

 前から気になってたんだけど、とチャドが口を開く。それに今度は、神尾とマスターが一瞬顔を見合わせた。

 

「そうですねぇ……どう思います?」

 

 しかし神尾が言葉と共に返したのは、何時もの曖昧な笑顔だった。何と言うか、相変わらず食えない人である。そう思って、つい四人は苦笑した。

 

 

 

 そんな中、がらりと、勢いよく部屋の襖が開いた。反射的に、五人の視線がそちらに向く。

 

 そこに居たのは、ミト博士だ。服装はいつもと変わらないが、その髪の毛が珍しく濡れているのに気付いて、佑也がひょっとしてと声を上げる。

 

「ミト博士、風呂行ってたのか?」

 

「ああ。気が向いたからな」

 

 本人は何でもない事の様に答える。そして驚く五人に頓着する事無く、

 

「意外と悪くは無かった。やはり、人のいないであろう時間帯を選んで正解だったな」

 

 と言って、その手に持ったバスタオルを部屋の隅に置いた。そのまま部屋の奥に置いてある自分の荷物の所へ行くミト博士を見て、ふと疑問が浮かぶ。

 

 男湯と女湯、一体どちらに入ったのだろう。

 

 恐らく、五人全員が同じ疑問を抱いたはずだ。けれども、何となく誰も言葉には出来ず、凍り付いた五人の間には、暫く不思議な空気が流れていた。

 

 

 

 




部屋割り
男子組▶マスター、チャド、ネクロ、神尾、佑也、ミト、天使くん
女子組▶梨香、芹奈、セツ、ヨツバ、モニア
ミト博士は「煩いのがいるから嫌だ」と男子組に行きました


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6.お土産を

 そんな風にして夜が更けて、朝日が昇って。十二人の旅行は、順調に終わりに近づいていっていた。一泊二日と、短い日程ではあるが書き切れないほどに盛沢山だった旅行。長いか短いかは、人によって意見が分かれる所であろう。

 

 

 

 朝食を食べ、チェックアウトを済ませた一行は、車で『道の駅』に寄っていた。田舎によくある、コンビニとお土産屋をごっちゃにした様な店だ。目的は勿論、お土産を買う為である。

 

「なぁなぁ梨香、これ面白くね?」

 

 が、何故か梨香の方についてきたチャドは、謎のキーホルダーで一人盛り上がっていた。お土産屋にしか売っていないが、日本全国にあるあれである。さっきまで眠そうな顔で欠伸を噛み殺していたのにと、梨香は呆れた様な表情でそれを見ていた。

 

「好きねぇ、そう言うの」

 

 その腕に下げられたカゴには、既に二箱ほどご当地クッキーが入れられている。値段と量が釣り合った、我ながらベストチョイスのお土産だ。

 

「てーか、そんなに買ってどーするつもりだよ?」

 

「お土産。職場の人にあげるのよ。ま、人付き合いの一環だしね」

 

「お土産かぁ、俺も買おっかな~」

 

「誰に買うのよ、誰に」

 

 そんな話をしながら、二人は地酒コーナーへ歩いていく。昨晩の目論見通り、美味しかった地酒を買い込むようだ。

 

「でもさぁ、これとか結構いいと思うんだよな」

 

 そう言って、チャドが手に持ったキーホルダーを幾つか見せて来る。いつの間にかあのコーナーから取って来ていた様だ。が、何故かどれも……なんと言うか、キモカワ系である。相変わらずこいつのセンスはちょっとおかしいなと、梨香は思わず苦笑した。あ、でも。

 

「これは、まぁ、結構可愛いかもね」

 

 そう言って梨香が指さしたのは、ゆるいウサギのキーホルダーだった。どこかで見た事のあるキャラクターである。思い出せはしないけど。そう言いながら、梨香は缶を手に取ってカゴに入れた。

 

 

 

 一通りお土産を物色し終わった梨香は、カゴを持ってレジに並んだ。それについてきていた筈のチャドは、いつの間にか姿を消している。まぁ、チャドが出先でフラフラするのは、今に始まった事じゃない。多分出発する事には戻って来るだろうと、梨香は特に気に留めず、会計を済ませて車に向かった。

 

 どうやら、他の住人は殆ど戻ってきている様である。最後になってしまったのかと少し思ったが、後ろから近づいてくる足音に、そうでは無いと気付いた。

 

「どこ行ってたのよ?」

 

 振り向いて、そこに居たチャドにそう声を掛ける。しかしチャドはそれには答えず、へへ、と笑って言った。

 

「なぁ、手、出してみて」

 

 何だろう、と思いながら、右手を差し出す。その手の上に載せられたのは、一つのストラップだった。ゆるいデザインのウサギが、ゆるい表情で笑っている。いつの間に、と梨香は少し目を見開いた。

 

「どうしたの? これ」

 

「お土産! さっき話しただろ?」

 

 満面の笑みで言われて、思わず梨香は呆れた表情をしてしまう。これじゃあ、お土産じゃなくて、ただのプレゼントになるんじゃないだろうか? 

 

「あのねぇ、私に渡してどうするのよ?」

 

「いーじゃん、俺が渡したかったんだしさ~」

 

 けれど、いっそ能天気ともいえる調子で言われて、梨香はそう言う物かと少し笑ってしまう。相変わらず、妙な所で素直な奴だ。そういう事なら、素直に受け取って置こう。そう心の中だけで呟いて、二人で車に戻った。

 




うちの子回!にしては字数が無いですね


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7.また、今度

 

 窓の外に広がる空は、真っ赤な夕焼け色に染まっていた。西日に照らされて、雲は鮮やかな色彩に変化して、赤い空を彩っている。そしてその雲そのものも、風に吹かれて、ゆっくりと流れていた。その様子を、モニアは飽きることなく、じっと眺めている。

 

 昨日も、こうして車の中で変わる空を眺めていた。空の色の変わり方は、場所が違っても変わらないらしい。そんな事を、この旅行で初めて知る事が出来た。それが、嬉しい。

 

 そして空より下の景色も、どんどん見慣れたものに近づいて行っていた。行きにも見た景色なのに、順番を逆にして見るだけで、不思議な安心を感じる。この感覚も、今初めて知った。何と言えば、良いのだろう。

 

 モニアには、このアパートに来る前の記憶が無い。それがどうしてなのかも、分からない。最初のころは、それがとてもとても不安だった。あまりにも、空っぽすぎて。

 

 けれど、日々は平和なまま、ゆっくりと変化を続けながら、流れて行ってしまう。そして、それが積み重なるにつれて、モニアの中にも、何かが積もっていった。少しずつ、ゆっくりと、着実に。

 

「それは、良い事かな?」

 

 不意に声を掛けられて、モニアははっと横を向いた。横に立っていたのは、一人の少年である。にこにこと変わら無い笑みを浮かべたまま、天使くんと呼ばれるその少年は、モニアを見つめていた。彼は、少し不気味なくらいに、不思議な少年だ。けれどモニアにとって、彼の視線は不思議と、居心地のよいものだった。

 

「はい」

 

 小さく首を動かして、モニアは頷いた。

 

「とっても、大事なものです」

 

 

 

 車は細い道に入りだし、幾つかの角を曲がって、アパートの敷地へと到着した。

 

「ほら、着いたぞ——って」

 

 運転席から振り返ったマスターは、後ろの席に座る面々の様子を見て、その顔に呆れの表情を浮かべた。全員、綺麗に寝落ちしている。ヨツバやネクロは当然として、セツや神尾まで。どうやらこの車の中で起きているのは、マスターとモニアだけらしい。

 

「ったく、こいつらは……」

 

 苦笑気味にマスターはそんな事を言って、一足先に車から降りる。その後に続きながらモニアは、ゆっくりと言葉を返した。

 

「皆、楽しそう、でしたから」

 

 柔らかな表情を浮かべてそう言うモニアを、マスターはじっと見つめている。

 

「……お前は?」

 

「え?」

 

「お前は、どうだった。楽しかったか?」

 

 聞かれて、モニアの視線がゆっくりと動いた。いつもの癖で、胸に下げた勾玉のペンダントを握り締めて、目の前の虚空を見つめる。

 

「わたしは……わたし、も、楽しかった、です。本当に」

 

 言いながら、自然と顔を綻ばせるモニアを見て、マスターもふっとその頬を緩める。

 

「そりゃ良かった」

 

 そう言うマスターの顔を、モニアは見上げた。そして、ゆっくりと口を開く。

 

「また、連れてって、くれますか?」

 

 言われて、マスターは少しだけ目を見開く。こんな風にモニアが自分から言い出すなんて、珍しいと。けれどすぐに、何時もの様に笑って、言った。

 

「あぁ、連れてってやるよ。絶対にな」

 

「絶対、ですよ」

 

 胸の中に、また何かが積み重なっていく。それを確かめるモニアの後ろで、日は、ゆっくりと沈んで行っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 報告書

 

 藤峰軍事基地 基地長 タダシ・フジモト大将  殿

 西暦 2×××年 10月 25日

 任務番号:167009

 報告書番号:13

 

 内容

 10月19日~20日にかけて、監視対象11名が、人間世界の箱根【注1】と呼ばれる地域へ出向き、40時間ほど登録地点Aを離れていた。直接的な害は無いと判断し、監視者一名がそれに同行。特段不審な点は見られず、あくまで娯楽目的の行動だと思われる。任務にも支障はなく、引き続き監視を実行する。

【注1】後日調査した所、我々の世界において箱根と呼ばれる地点と地理的に一致する点が見られた。人間世界は、その他の世界に比べ、我々の世界との類似点が多く見られる。類似点、また、相違点の原因については、今後も調査が必要だと思われる。

 

 報告書製作者:藤峰軍事基地 第二部隊部隊長 少将 セツ・カンザキ

 

 

 

 

 

 

 次章予告

 

 住人の中でも群を抜いて真面目と評される、セツ・カンザキ。

 

 そのセツに纏わりつく無邪気な少女、ヨツバ・ムラカミ。

 

 二人は、どうしてこのアパートに来たのか、このアパートに居るのか。

 

 第一章、「私がここに居る訳は」

 

 乞うご期待! 

 




これで序章は終わりとなります。次の投稿から、1章が始まる!予定!ですが!!ちょっと投稿頻度が下がります。詳しい事はTwitterへどうぞ

繋ぎ目の光陰公式アカウント▶@tsunagime_kouin


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第一章 私がここにいる訳は
1.あの子の笑顔


「ねぇマスター、“ははのひ”ってなーに?」

 

 五月のある昼下がり。マスターは、宿題をしていた筈のヨツバに、そんな事を聞かれた。ヨツバの手元に広げられているノートは、真っ白なままである。セツが所用だと言って席を外した時から、全く進んでいない。

 

「ん? あぁ、母の日な。お母さんに、いつもありがとうって言う日だよ」

 

 一応、聞かれた事に答える。そう言えば、母の日はカレンダーにも書いてあった。しかし、そんなに珍しい記念日では無い筈だ。てっきり、セツ辺りが教えている物だと思っていたのだが。

 

「おかーさん……」

 

 そう、ヨツバがポカンとした表情で呟いたのを聞いて、マスターははっと気が付く。そう言えば、ヨツバの両親はどこに居るんだ? 考えてみれば、ヨツバの口から両親の話と言うのはほとんど聞かない。ヨツバが、毎晩のようにセツの部屋に泊まっている事に気付いてしまえば、想像は簡単に付いた。

 

「ま、まぁ、お前の場合は、セツに言った方が良いんじゃないか? 花屋でカーネーションでも買えば、喜ぶと思うぞ」

 

 やってしまったかもしれないという焦りから、少し早口になってそう言う。そして、財布の中から五百円玉を一枚取り出した。カーネーション一本なら、簡単に買える金額だ。

 

「ほら、これで買ってこい。花屋は——」

 

 五百円玉を渡しながら、マスターは花屋への行き方を教えようとする。しかしヨツバはその目を輝かせ、硬貨を手に握りしめるなり、

 

「分かった!! ヨツバ、かーねーしょん買ってくる!」

 

 と言って、外へ駆け出して行ってしまったのだった。

 

 

 

「まぁでも、何回か行ったことのある所だし、そんな距離のある所じゃないし、多分、大丈夫だろ」

 

 そう言って、マスターは事の次第を締め括った。それを聞いているのは、所用とやらから戻ってきたセツである。話を聞いて居る間中無表情のままで、ヨツバを心配しているのかいないのか、どうにも読み取りづらい。しかし、セツは話を聞き終わるなり、

 

「分かりました。迎えに行ってきます」

 

 と言って立ち上がった。

 

「いや、迷子になるほどの距離じゃ——」

 

 マスターは、迷子になるほどの距離じゃないと言ってセツを止めようとする。しかし、セツは全く話を聞かず、再び外へと出て行った。何となく、デジャヴを感じる光景だ。

 

「あいつも、大概過保護だよなぁ……」

 

 またまた一人となってしまったバーの中で、マスターはぽつりと呟いた。

 

 

 

 アパートの近くには、ちょっとした商店街がある。ヨツバが向かったのはそこの花屋だろう。そう考えたセツは、その商店街への道を足早に歩いていた。

 

 頭の中をぐるぐると渦巻いているのは、ヨツバに対する心配——と言う訳ではない。頭の中にあるのは、ヨツバが起こしそうな問題に対する心配、である。

 

 ヨツバは、無邪気な幼い子供だ。しかし、その無邪気さ故か、後先を考えない所がある。それが全力で災いした結果、一体今までどれほどの騒動が起きた事か。どれほど、自分がその騒動の収束の為に苦労する羽目になった事か! 

 

 そんな事を考えて思わず苦い表情になりながら、セツは目の前の角を右に曲がる。すると、目の前にヨツバが現れた。

 

「あ! セツ!!」

 

 ヨツバもこちらに気付き、勢い良く駆けよって来る。それを危なげなく受け止めて、セツは安堵のため息をついた。問題は起きていなかった様だ。ひとまず安心して良いらしい。

 

「良いですか。次から、一人で知らない所に行ってはいけません。ほら、帰りますよ」

 

 言いたい事は色々あるが、まずは帰るのが先だと、セツは歩き出そうとする。

 

「待って、セツ!」

 

 しかし、そう言うヨツバに手を引かれて、直ぐに立ち止まった。そして、振り返る。

 

 ヨツバは、セツへ、満面の笑みでカーネーションを差し出した。真っ赤な花は、ずっと握りしめられていたせいか、少しだけ元気が無いように見える。それでも、ヨツバは心の底から嬉しそうに、笑っていた。

 

「あげる!」

 

 そう言われて、セツは右手を伸ばした。そして、どこかおずおずとした様子で、その花を受け取る。ありがとうございますと、言うべきだ。分かっている。分かっているのに、どうしてか、言葉が喉に突っかかる。

 

「いつもありがとう、セツ!」

 

『ありがとうね、セツちゃん』

 

 ヨツバの声に引き摺られるようにして、脳裏に誰かの声が蘇った。高い、子供の声。

 

 私の、良く知る、“あの子”の声。

 

 どうして。

 

 どうして、思い出したんだ。

 

 どうして、こんなに胸が苦しくなるんだ。

 

 ヨツバは、立ち止まったままのセツを置いて、アパートの方へ駆けていく。

 

 その後ろ姿を黙って見送ったセツの手の中で、カーネーションの茎が、ぽきりと折れた。

 

 

 

 ずっと昔の話だ。ずっと、ずっと。私が、ヨツバと同じか、それよりいくらか年上だった頃の話。

 

 私の両親は、軍の将校だった。両親だけじゃない。祖父母も、そのまた両親も、軍人だった。私は、由緒正しい軍人の家に生まれた一人娘。当たり前の様に、私も軍人となる事が決められていた。

 

 不満は、無い。誰かがやらなければいけない事を、私がやっている。ただそれだけの事だ。

 

 けれど、軍人となる為には、それも将校を目指すのならば、一定以上の能力が必要だ。それを身に着ける為、幼い頃から私は教育と訓練に明け暮れていた。自分を、そして何よりも、人々を守るために。他の事をする余裕なんて、とてもじゃないが無かったのだ。

 

 けれど、そんな私にも、友達と呼べる少女が一人居た。

 

 “あの子”は、普通の家に生まれた普通の女の子で、ブランコが好きで、少し大人しい子だった。特別頭が良い訳でも、強い力がある訳でも無い、ただの女の子。

 

 そんな“あの子”が、私の唯一の親友、だっのだ。

 

 でも、あの子は死んだ。私のせいで。

 

 静かな部屋の中で、私は布団の上に座っていた。隣には、ヨツバも居る。穏やかな寝息を立てて、眠っていた。洋服が閉まってある棚の上にあるのは、ガラスのコップだ。茎が折れて、短くなってしまったカーネーションが、生けてある。

 

「ヨツバは、“あの子”じゃない」

 

 そう、自分に言い聞かせる。

 

 だって、似ても似つかないじゃないか。“あの子”は、ヨツバみたいに騒ぎを起こしたりしなかった。“あの子”は、静かに私の名前を呼んだ。“あの子”は、“あの子は”————

 

「セツ……」

 

 びくりと、肩が跳ねる。けれど、ヨツバが寝言を言っただけだった。手を伸ばして、そっとその額を撫でる。

 

 “あの子”の事は、思い出してはいけない。

 

 

 

 




わぁーい、一章が始まりましたぁ!
そろそろキャラ絵を掲載したい。したいだけ。恐らくもう少しかかります。


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閑話 ブラウニー


こちらは本筋に全く関係しない短編となります。世界観の説明やキャラの掘り下げをお楽しみください。



 

「見て見て、セツ! すごいでしょ!」

 

 目の前の少女に1枚の紙を突きつけられ、セツ・カンザキは視線をそちらに向けた。それは、ヨツバの通っている小学校のペーパーテスト。どことなく懐かしさを感じさせるテスト用紙の右上には、赤いペンで『100』と記されていた。

 

「頑張りましたね」

 

 褒めろと言わんばかりにドヤ顔で立っているヨツバの頭に手を置いて、淡々とした声でセツはそう言う。それでも幼いヨツバは単純で、更に目を輝かせた。そして元気いっぱいの声で続ける。

 

「あのねあのね! マスターとね、次のテストで100点取ったら好きなおやつ作ってくれるって約束したの! 見せに行こーよ、セツ!」

 

 何故自分がついて行かなければいけないのか、とセツは少し思う。がしかし、そんな事を言ったとしてもヨツバはセツの手を離さないだろう。駆け出そうとするヨツバを危ないからと止める。半ば諦めたような気分で、セツは大人しく階下のバーに向かったのだった。

 

 

 

「マスター! 100点!」

 

 ヨツバはバーに駆け込むなりそう言った。満面の笑みで突き出されたテスト用紙を受け取って、マスターはいまいち分かっていない顔をする。

 

「おー…………凄い、な?」

 

「もう、忘れないでよ! 約束したじゃん、百点取ったら好きなおやつ作ってくれるんでしょ!」

 

 そう言いながら、ヨツバはカウンター前の高い椅子に登ろうとする。落ちそうになっているヨツバを抱えあげて椅子に乗せると、セツもその隣の席に座った。

 

「あー。そーいや、そんな事言ったっけな」

 

「アイスがいい! アイス!」

 

「流石にそれは無理だ」

 

 1番の好物を断られ、目に見えてヨツバはガッカリする。それに苦笑しながら、マスターはヨツバの頭に手を置いて言った。

 

「クッキーでいいか? それならすぐ出来るしな」

 

「むー…………仕方ないなぁ。チョコチップ入ってるやつがいい!」

 

 代案であっさりと機嫌を直したヨツバの単純さに、セツは内心で少し呆れてしまった。しかし直ぐに、子供なんてそんなものかと思い直す。

 

 今日は皆用事があるのか、バーには2人以外に誰も居ないようだった。それとも昼間はこんな物なのかもしれない。賑やかな場所が好きな訳では無いが、普段とのギャップが多いと素直に違和感を覚える。隣で何かを喋っているヨツバに適当な相槌を打ちながら、セツはそんな取りとめもない事を考えていた。

 

 ここに来てから、なんだかそういう時間が増えた気もする。そのせいと言うべきか、以前は考えなかったような考えが思いもよらない所から飛び出してくることも増えた。良い事かは、分からない。

 

「なぁヨツバ。クッキー、明日でもいいか?」

 

「えー!? なんで?」

 

 キッチンから顔を出したマスターに言われて、ヨツバがそう言う。ぼんやりとしていたセツは、その声で思考の渦から引き上げられた。

 

「いや、買い物行くの忘れててな。これから行くとなると、時間が足りないんだよ」

 

「えー、やだやだ! 約束したじゃん!」

 

 夕飯の仕込みもそろそろ始める予定だったから、時間がかつかつになってしまうらしい。しかしそんな話でヨツバは納得せず、駄々をこねるような調子であーだこーだと不満を訴えた。マスターは困った様な表情でしばらく考え込んでいたが、「そうだ」と呟いてセツの方に視線を向けた。何となく、嫌な予感がする。顔には出さないけれど。

 

「悪いんだが、ちょっと買い物に行ってきてくれないか」

 

「……私が、ですか」

 

「そうしてくれたら、まだ何とかなるんだが」

 

 やっぱりかと思いながらそう返すと、ヨツバまでがセツを説得するようなことを言いだした。

 

「セツお願い! セツだって、クッキー食べたいでしょ? ヨツバもついて行くから!」

 

 別にそんなことは微塵も思っていない。更に言うなら買い物に行くのはいいとしても、ヨツバを連れて行くのは嫌だ。そんな数秒の逡巡の後、セツは仕方ないとため息をついて続けた。

 

「買い物は構いませんが、ヨツバは連れて行きませんからね」

 

「え、なんで!?」

 

「大騒ぎするのが目に見えています。宿題があるんでしょう、私が帰ってくるまではそれをやっていなさい」

 

 にべも無い返答にヨツバは不満顔をする。しかしここで駄々を捏ねたらセツが買い物に行かないことは理解しているのか、不満顔で「わかった」と頷いた。

 

「すまんな。買うものと、店までの道はここに書いてあるから」

 

 マスターからメモと買い物かごと代金を受け取る。ヨツバの「ちゃんと買ってきてね!」という声に見送られて、セツは1人アパートを出た。

 

 

 

 買い物に出た世界は、人間世界と住人の間では言われている世界だ。因みに、セツの世界の通称は軍事世界。人間世界は生活形態も、存在する国名も軍事世界とかなり近いのだが、セツはどうも、この世界の空気が苦手だった。

 

 軍事世界は、戦争の多い世界である。だから常にどこかピリピリとした空気が漂っていて、それはアパートを知るまで気づかなかったほどに普遍的なものだった。だからこそ、よく似ているようで正反対なこの世界の空気は、自分の何かを鈍らせるような気がする。

 

 考えてみれば、アパートやその住民の空気にも通じる所がある。何かが緩むような、むず痒い空気。平和ボケした空気、とでも言えばいいのだろうか。嫌い、と言いきれる訳では無い。ただ、苦手だ。ひょっとして自分は、それが羨ましかったりするのだろうか? 軍人の仕事は戦争。それを疑ったことは無い。けれど、生まれた時から続いているそれに、自分は少し疲れている? 

 

 歩きながらの思考に、益体もないと1人首を振る。面倒な事など考えず、自分はやるべきことを果たせばいいのだ。今はさっさと買い物を終わらせるべきであるように。自分は下される命令に従うべきだ。自分は、それを守らなくてはならないと、セツは1人で呟いた。

 

 

 

 買い物を済ませてアパートに戻ると、ヨツバがカウンターで寝ていた。言われた通り宿題をしていたようだが、ノートには途中から落書きが増え、明らかに集中できていない様子がみてとれた。何をやっているのかと、呆れた気分で溜息をつく。

 

「お、戻ってきたか。ありがとな」

 

 キッチンから出てきたマスターに、買ったものとお釣りを渡した。寝てしまったヨツバは、部屋に連れて行った方が良いだろう。そう思ってヨツバを抱え上げたセツを、マスターが引き止めた。

 

「なんですか?」

 

「ちょっと待ってくれ……ほい、口開けてみな」

 

 言われた通りに開いた口に、何か甘いものが入る。行儀が悪いと思いながらもそれを咀嚼し飲み込んで、セツは呟いた。

 

「ブラウニー……」

 

「お駄賃ってほど大したもんじゃないけど、買い物のお礼だな」

 

 胡桃の入ったそれは甘くて、初めて食べた味がした。自分の世界では甘い物は貴重だからだ。どちらかと言えば、いや結構、好きな味でもある。その一方で、なんでそんなものがと首を捻った。

 

「おまえさん、チョコレート好きだろ。なら好きかなって」

 

「なん、で、そんなこと知って……」

 

 好きな物の話なんてした事ないのに。気付かれて困るような事でも無かったけれど、知らない内に自分の事を知られていたという事実にセツは若干動揺する。

 

「ヨツバには言うなよ、煩いだろうから」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 何と言うか少し迷って、当たり障りのない返事を返す。ヨツバを抱えたまま部屋に戻るセツの脳裏では、あの益体もない考えの答えがグルグルと渦巻いていた。

 

 あのむず痒い空気はきっと、他人を気遣う余裕。誰もが自分のことで精一杯な自分の世界には無い、他人を見る余裕。それが羨ましいとは言わない。セツは自分の世界を否定しようとは思わないから。それでも、あの空気が悪いものでは無い事はわかった。

 

 





短編でした。おしまい。だいぶ前に書いたものなので最初から書き直そうと思っていたのですが、無理でした☆

あ、世界の説明をしますね
この物語には、複数個の世界が存在します。主に出てくるのが、①人間世界 ②軍事世界 ③西洋世界
①人間世界
私達の世界によく似た世界です。梨香さんとか、神尾先生、マスターあたりがこの世界の出身。治安は普通。
②軍事世界
軍事に偏った世界です。イメージは大日本帝国でしょうか。セツさん、ヨツバちゃんが代表。治安はちょっと悪い。
③西洋世界
魔法と妖怪がいる世界です。イメージは産業革命前のイギリス。ギルドなんかがあるバリバリファンタジーな世界。チャドとかネクロくんがこの世界の住人。治安は悪いどころの騒ぎじゃない。


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2.モニアの一日 前編

 

 苦しい。

 

 痛い、怖い、苦しい。体の奥から込み上げるそんな思いに、首を絞められている様で、息が止まってしまいそうだ。

 

 誰かが、こっちを見ている。誰だろう。分からない。ただ、目だけが見える。酷く冷たい視線が、突き刺さる様で、痛い。その目があまりに冷たくて、怖い。見つめられていると、上手く息が吸えなくて、苦しい。

 

 その視線から逃れようと、もがく事すらできなくて。また一つ、強い思いが込み上げてくる。

 

 助けて。

 

 誰か、助けて。

 

 

 

 冷たい物が頬に触れて、モニアは目を覚ました。見上げているのは、自分の部屋の天井。ゆっくりと体を起こすと、ポティーが心配そうにこちらを見詰めていた。ポティーと言うのは、ライオンによく似たモニアのペットだ。どうやら、頬を舐めてモニアを起こしたのはこの子らしい。手を伸ばして、そのふわふわのたてがみを撫でる。

 

「おはよう、ございます」

 

 布団の上で伸びをして、モニアはその目を擦る。そして欠伸を一つすると、いつもよりも更にゆっくりとした仕草で身支度を始めた。その表情は眠たげと言うよりかは、どこか考えこんでいる様子だ。

 

「……ねぇポティー、今日、は、変な夢を、見たんです」

 

 身支度を済ませたモニアは、またポティーのたてがみに手を伸ばす。話しかけられていると理解しているのかいないのか、ポティーは撫でられる感触を楽しむ様に目を細めた。

 

「何だったんでしょう……」

 

 ぎゅっと、服の下の勾玉のペンダントを握り締める。不安になった時の癖だ。深刻な表情で考え込むモニアを急かすように、ポティーは小さく咆えた。そろそろ下に行かないといけない時間だ。今日も、変わらない一日が始まる。

 

 

 

 下のバーに降りて行くと、マスターが朝食の準備を始めていた。モニアもエプロンを付けて、カウンターの中に入る。

 

「おはよう、ございます」

 

「おう、おはようさん」

 

 二人の朝は忙しい。朝食を食べに、アパートの住人が次々とバーにやって来るからだ。住人は皆起きる時間がばらばらだし、食べ終わると仕事や学校に行ってしまう住人も居るので、体感的には夜よりも忙しく感じる。

 そして面白い事に、朝食に来る順番が大体決まっているのだ。やっぱり、仕事なんかに行く住人は比較的早い。神尾や梨香、セツ、ヨツバ、芹奈あたりがそれだ。そしてその後に、特にそういう事が無いネクロやチャド、佑也が姿を現す。逆に、気分屋な天使くんと、生活リズムが乱れまくっているミト博士はあまり規則性が無い。ミト博士なんて、来ない日もあるぐらいだ。

 

 モニアは朝食を載せたお盆と共に忙しく立ち回りながら、他の住人の様子をよく見ていた。会話が得意ではないモニアだが、その分観察眼はピカ一だ。慣れも手伝って、実にタイミングよく配膳をこなしている。

 そして、それが一段落した頃。

 

「おいで、モニアちゃん」

 

 櫛を手に持った梨香にそう声を掛けられて、モニアはぴたりと足を止めた。梨香の方に視線を向けて、次にマスターに向ける。マスターが小さく頷いたのを見ると、モニアは手にお盆を持ったまま、梨香の隣の席にちょこんと腰かけた。

 

「女の子なんだから、綺麗にしないとね」

 

 そう言って、梨香はモニアの髪の毛を梳かし始める。桃色の髪の毛が櫛の動きに合わせて揺れ動いた。それに、モニアは気持ちよさげに目を細める。これが、二人の最近の日課だ。

 

「結構伸びて来たわねぇ。このまま伸ばしたら、結べるくらいになるわよ。お団子とかにしたら可愛いんじゃない?」

 

「お団子、ですか?」

 

「そう、この辺で結んだりしてね。でも、短く切っちゃってもいいかもよ? そっちの方が、モニアちゃんっぽくはあるわね」

 

「どっちが、良いんでしょう……」

 

 髪の毛が伸びた自分なんて想像できないと思いながら、モニアは呟く。

 

「まぁ、伸びるのにはもう少しかかるでしょうし、ゆっくり考えたらいいと思うわ。はい、終わり」

 

 終わりと言われて、モニアは椅子から立ち上がる。櫛を鞄に仕舞うと、梨香も椅子から立ち上がった。もう仕事に行く時間らしい。

 

「じゃ、行ってきます」

 

「行って、らっしゃい」

 

 小さく手を振って、梨香を見送る。それを皮切りに、仕事や学校に行く住人が立て続けに出ていく。それを同じ様に見送り終わった頃には、やる事も殆ど終わっていた。モニアはカウンターの内側に戻る。これから、マスターと二人で朝食を食べるのだ。

 

「……大丈夫そうだな」

 

 卵焼きを頬張っていると、ふとマスターがそう呟いた。何だろうと、モニアは首を傾げる。

 

「いや、朝ちょっと顔色悪そうに見えたから何かあったのかと思ってたんだが、平気そうで良かった」

 

 言われて、思わずぱちくりと瞬いた。ひょっとして、変な夢を見たからだろうか。自分でも調子が悪いとは思わなかったけれど、確かにちょっと気分は沈んでいた。マスターは良く見ているなぁと、モニアは内心でそう呟く。

 

「今日、変な夢、を見た、んです」

 

 卵焼きを飲み込んで、モニアはゆっくりとそう言う。

 

「夢?」

 

「はい。でも、大丈夫です。良く、覚えて、いませんから」

 

 心配そうな表情になるマスターに向かって、モニアはそう言う。それに、ここならきっと大丈夫だから。

 根拠なんて無かったけれど、不思議とそう思えた。

 

 

 

 朝食とその片付けが済むと、それを見計らった様にポティーがやってきた。その口にはボールがくわえられている。どうやら、遊んでほしいらしい。

 

「今日は、外に、行きましょう」

 

 そう言って、ポティーと二人で外へ出る階段を上る。外は随分と良い天気だった。五月らしく、上着が無いのが丁度良いぐらいに暖かい。そこに誰も居ない事を確かめると、ポティーが持って来たボールで二人は遊び始めた。と言っても、モニアが投げたボールをポティーが取って来ると言うだけだけれど。

 

「何してんの?」

 

 そんな風にして暫く二人で遊んでいると、そこへネクロがやってきた。汗びっしょりの様子でパーカーを小脇に抱えている。辺りを走ってきたようだ。

 

「遊んで、ました」

 

 投げようとするのを止めて、モニアはネクロの方に律義に向き直った。ポティーは、少し離れた所でボールを待っている。

 

「ふーん……あ、そうだ」

 

 そう呟くと、ネクロはポケットから袋に包まれた何かを取り出した。『雪の宿』と書かれたそれを差し出されて、モニアはぱちくりとその目を瞬く。

 

「これ、何、ですか?」

 

「せんべい。ジョギング中によく会う婆ちゃんがくれたんだ。やるよ」

 

 そう言うネクロの右手から、モニアはそっとお煎餅を受け取った。

 

「初めて、見ました」

 

「うん、俺も」

 

 ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、二人は乾いたアスファルトの地面に座る。モニアは開けようともせず、お煎餅の袋を物珍しげにしげしげと眺めていた。その上を、雲がゆっくりと流れていく。

 穏やかだなぁ、とネクロは思った。良い天気なのも相まって、少し眠くなるくらいのんびりしている。うまく言えないけれど、何と言うか、こういうのはとても良い。

 

 けれど、遠くでずっとボールを待っていたポティーには気に入らなかった様だ。駆け足でこちらに来たかと思えば、バッとネクロに向かって勢いよく飛び掛かった。悲鳴が上がって、思わずモニアは立ち上がる。

 

「ポティー! ダメ、ですよ!」

 

 思い切ってそう大声を上げると、ポティーはぴたりとその動きを止めた。そして直ぐに振り返って、元気良く返事をする。じゃれていただけなのか、ネクロに怪我は無かった様だ。その事にホッとすると同時に、驚いたまま固まっているネクロの表情が不思議とおかしく見えて、思わずモニアは吹き出した。

 

「な、何だよ」

 

「ご、ごめんなさい。でも、ふふっ、ちょっと、面白かった、です」

 

 笑われた事に怒ればいいのか、それとも一緒に笑えばいいのか。その二つで迷ったネクロは、結局どちらも選ばずに、溜息を吐いて地面に座り直した。モニアもまた、その横に腰を下ろす。そしてずっと持っていたお煎餅を食べようと、袋を開けた。

 

「はい、どうぞ」

 

 取り出した一枚の白いお煎餅を、モニアはまずポティーへ差し出した。ポティーはそれを口で器用に受け取ったかと思うと、一口で平らげてしまう。そして、二枚目のお煎餅を取り出すと、モニアはそれを二つに割った。

 

「どうぞ」

 

 そしてその半分を差し出されて、ネクロは思わず目を見開く。けれど、何だか断るのも逆に悪い気がして、半分に割れたお煎餅を受け取った。

 

「ありがとう」

 

「どう、いたしまして」

 

 そう言葉を交わして、二人でお煎餅を齧る。変わらず太陽は元気で、雲は緩やかに流れている。

 白いお煎餅は、思ったよりも甘い味がした。

 

 

 

 





はい、もにちゃん回です。当初は1話の予定でしたが、気づいたら前後編に別れてましたね……ホノボノッテムズカシイ

皆さん、夢は見ますか? 私は普段あんまり見ないんですが、夢は記憶の整理の役割があるそうですよ。だから記憶力弱いんですかね?


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閑話 バレンタイン 前編

はい、唐突に始まる学園モノパロディ。基本設定は以下の通り

先生▶マスター、ミト博士、神尾先生
学生▶梨香、チャド、佑也、芹奈、ネクロ、モニア、セツ、ヨツバ、天使くん

と言うことで多少の年齢操作が含まれますよ、お気を付けて。まぁ今回出てくるのはほぼチャドリカゆうせりです。恋愛回です。


 今朝も、教室の中は誰かが話す声でざわざわと騒がしかった。時計の針はそろそろ八時半を過ぎそうで、教室のドアはひっきりなしに開いたり閉じたりしている。その度に、芹奈は誰が入って来たのかを確認しているのだが、目的の人物はまだ来そうになかった。

 

 また、引き戸が勢い良く引かれる音がして、芹奈はスマホから顔を上げた。見れば、教室に入って来たのは佑也だ。教室を真っ直ぐ横切って芹奈の後ろの席まで歩いてきた幼馴染は、芹奈が何か言う前に口を開いた。

 

「行きに一個、下駄箱に二個、ロッカーに三個」

 

 言いながら、佑也は自分の机の上に手に持った箱やら何やらを纏めて置いた。そのぞんざいな手付きとは裏腹に、それらはどれも可愛らしくラッピングされている。店で買ったような高級そうなものから、手作りらしい素朴なものまで、よりどりみどりだ。

 

「そんで、机の中に——二個」

 

 そして言葉の通りに、机の中から似たような二つの包みが出て来る。心なしか、それを机の上に置く佑也の顔はうんざりだと言っている様に見える。それに少し苦笑しながら、芹奈も自分の鞄の中から小さなラッピングバッグを取り出した。

 

「で、私からのも合わせたら全部で8個と。いやぁ、今年も大量だね」

 

 そして、それも山になった包みの上に載せる。思わずと言った様に、佑也は溜息を吐いた。

 まぁ、致し方ない。なんて言ったって今日は、バレンタインデーなのだから。日本全国津々浦々の女子が、思いの丈を意中の男子に伝える、例のお菓子会社の策略がドンピシャで成功した忌まわしき日である。

 

 なんてことを佑也は思っていそうだなと、芹奈は冗談交じりに考えた。佑也が女子にモテるのは、幼馴染の芹奈からしたら今に始まった事ではない。バレンタインデーが大変な事になるのも、最早毎年の事なのだ。佑也も面倒臭がるような事を言うが、あれで毎年断り切れずに貰ってしまっているのだから、恐らくもう色々諦めているのだろう。

 

 また、教室のドアが開く。見れば、チャドと梨香が一緒に入ってくる所だった。途中でばったり会ったのだろうか。

 

「お、2人ともおはよう」

 

「おはよ、芹奈」

 

「はよー……って、何だよその量」

 

 早速、チャドが佑也の机の上の山に反応した。それに佑也が何かを返し、2人がじゃれあい混じりに会話し出す。それを横目に、芹奈は梨香をそっと肘でつついた。

 

「ねぇ、あれ、ちゃんと持ってきたよね?」

 

「そりゃあ、まぁ……」

 

 あれ、と言うのは例に漏れずバレンタインチョコレートの事だ。持ってきた、とは言いながらも、梨香は何とも言えない微妙な表情で視線を逸らした。どうやら、いざとなって決心が揺れているらしい。

 

「ちょっとちょっと、昨日あんなに頑張ったじゃない」

 

 実を言えば、今年は芹奈と梨香の二人で作ったのだ。作ったのは、フォンダンショコラ。ハプニングは色々あったけれど、なかなかいい物が出来たと芹奈は自負している。しかし、梨香はどうも自信なさげにこう言った。

 

「で、でも、ちょっと焦げちゃったし、美味しいかも分かんないし」

 

「もー、作っちゃったんだから覚悟決めなって。私だってちゃんと佑也に渡したんだから」

 

 優柔不断なのは相変わらずだと、芹奈は苦笑する。それに、梨香はちょっとムキになって言い返した。

 

「そりゃあ、あんた達は幼馴染なんだから簡単でしょ。でも、私、料理得意じゃないし、それに——」

 

 梨香が更に続けようとした時、チャイムの音が鳴った。教室に担任の先生が入ってきたのを見て、芹奈も慌てて自分の席へと向かう。

 それにしても、幼馴染なんだから簡単でしょ、ね。そりゃあ、何度も繰り返してきたのだから今更ドキドキも何も出来ないけれど。

 

 でも、毎年期待してガッカリするというのも、これはこれでしんどいのだ。

 

 

 

「で、いつ渡すの?」

 

 それから数時間たった昼食時。昼食を食べていた梨香は、芹奈にズバリ突っ込まれて気まずげに目を逸らした。

 

「後でよ、後で」

 

「それもう聞いたってばー」

 

 芹奈は二つ目の菓子パンの袋を開けながら、やれやれと大袈裟な動作で首を振る。それに思わずと言った様に梨香が反論しようとした。

 

「だ、だって……」

 

 しかし、何を言おうとしたのか梨香はそこで言い淀む。芹奈が菓子パンを頬張ったまま続きを促すと、ようやく梨香はぼそぼそと理由を言った。

 

「……だって、断られるの嫌なんだもん」

 

 ぎりぎり聞き取れた微かな声に、芹奈は思わず吹き出してしまった。そしてツボに入ったのか、そのままけらけらと笑いだす。梨香はちょっと頬を赤くして、それに抗議するような声を上げた。

 

「な、なによぉ」

 

「ごめんごめん。だって、あんまりにも可愛い事言うから……フフッ」

 

 言いながらも、芹奈はまだ肩を小刻みに震わせている。それに不満そうな顔をした梨香は、手早くお弁当の箱を片付けると、ぴしゃりと言った。

 

「はい、この話おしまい! 次の授業——」

 

「ダメでーす」

 

 同じように菓子パンの袋をコンビニの袋に突っ込んだ芹奈は、その梨香の台詞を遮る。そして面食らった表情をする梨香が反論を思いつく前に、勢いよく立ち上がり、こう言い放った。

 

「よし、今から渡しに行こ!」

 

「……はぁ!?」

 

 何を言っているんだと言わんばかりの声を上げる梨香の机にかかったスクールバッグを、ぱっと掴んで持っていく。このバッグの中に、例のフォンダンショコラが入っているのだ。

 

「ほらほら、渡さないなら私が渡しちゃうからね~」

 

「ちょ、芹奈! 待ってよ!」

 

 こうなってしまえば、流石の梨香も立ち上がるしかないのであった。

 

 

 

 チャドはいつも、佑也やネクロと昼食を中庭で食べている。そんな訳で、芹奈は中庭に向かった。

 

「ちょ……せり、芹奈……待って……」

 

 そして、その後ろをついて来た梨香はぜぇぜぇと息が上がっている様子だ。ちょっと早く走り過ぎただろうか。しかし、急がないと昼休みが終わってしまう。

 

 早足で中庭に繋がる渡り廊下に出ると、丁度三人が見つかった。予想通り、この寒い時期に中庭に居るのは三人だけ……じゃない。予想外の四人目が居る事に、芹奈は思わず目を見開く。

 その四人目は、モニアだった。いつも本を読んでいるイメージのある、大人しい女子。確か、佑也と同じ図書委員会に入っているのだっただろうか。それぐらいしかあの三人との接点は思い当たらない。

 

 そんなモニアが、どうしてこんな所に居るんだろう。何となく嫌な予感がして、芹奈は訝しげな顔をしながらその場で様子を見守った。

 

「芹奈? 行くんじゃなかったの?」

 

 そう言って不思議そうな顔をする梨香を、人差し指を立てて合図する。良く分かっていない表情をしながらも、梨香は口を噤んだ。

 

 モニアは三人に用事があるようだった。ここからじゃ声は聞こえないが、話しかけられた三人のちょっと驚いている表情が見える。

 そして、モニアが何かを手渡すのが見えた。彼女の手の平より少し大きいぐらいの、可愛らしくラッピングされた包みを。三人それぞれに一個ずつ。

 

 予想していなかったと言えば嘘になるが、芹奈はそれを驚いた気持ちで見つめていた。まさか、あの奥手そうなモニアがこんな事をするとは思わなかった。十中八九義理で間違いない筈だけど。義理だ。多分、絶対。

 

「って、梨香、どこ行くの!?」

 

 不意に、隣で見ていた梨香がぱっと踵を返した。ちゃんと芹奈が持ってたスクールバッグを取り返して、随分な早足で教室の方へ戻っていく。と、言っても芹奈は陸上部だ。そのまま駆け足で距離を詰めて、梨香を引き留めようとその肩を掴んだ。

 

「梨香、どうし——」

 

 そう言いかけて、芹奈は思わず口を噤んだ。こっちを振り向いた梨香の目に、涙が盛り上がっていた。どうにか慰めなければと、慌てて言葉を探す。けれど、芹奈が何かを言う前に、梨香は固い声できっぱりと言った。

 

「いい」

 

「え、でも、まだ——」

 

「もういいから」

 

 そして、また振り返ると早足で行ってしまった。追いかける事は簡単だ。慰めの言葉だって、言おうと思えば出て来る。それでも、何だかそれは逆効果な気がして、芹奈は黙ってその後ろ姿を見送った。

 

 梨香を追いかける代わりに、芹奈はスマホを取り出す。手早く画面を操作して開いたのは、LINE。そして佑也との個チャを開く。手慣れた動作で、キーボードに打ち込んだメッセージは、『義理だよね?』の一言。

 

 それに返信があったのは、五時間目の授業が始まる直前だった。画面に表示された通知には、『義理だろ』と短い言葉。その言葉に少し安心しながら、芹奈は梨香の席の方にちらりと視線をやった。あれ以降、梨香とは一言も言葉を交わしていない。

 

 義理とか、義理じゃないとか、梨香にとってはそういう問題じゃ無いのだろう。どうしたもんかなぁ、と思いながら、芹奈は溜息を吐いてスマホを机の中に仕舞おうとした。が、通知に画面が光ってその手を止める。メッセージを送って来たのは佑也だ。

 

『無理やり渡させる事無いんじゃねぇの』

 

 通知をスライドして、またLINEを開くと同時に二つ目のメッセージも送られてくる。

 

『渡す渡さないは個人の自由だろ』

 

 芹奈は、何と返信するか少し考えた。確かに、他人事と言えば他人事だし、佑也の言っている事は正論なのだろう。でも、芹奈がこうするのに特に難しい理由がある訳でも無い。ただこう言う話が好きだという、それだけの話で。

 

『恋は叶った方がうれしーじゃん?』

 

 そう打ち込んで、送信ボタンに指を伸ばす。

 それに、誰かの恋が叶う度に、自分の恋にもまだ希望が持てるような気がする。そんな単純な理由も、あると言えばある。

 

 

 

 




せりなちゃ可愛いよ可愛い

これはチャドリカ回の皮を被ったゆうせり回。次、本番はバレンタイン当日に出すよ!! 楽しみにしててね!!

補足:ゆうせりが幼なじみ。あとリカせりが仲良くなってます。同い年効果で。


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閑話 バレンタイン 後編

 

 帰りのHRが終わって騒がしい教室の中で、梨香はバッグのファスナーを勢い良く開けた。隅っこの方に入れて置いたラッピングバッグを見ないようにして、教科書を数冊仕舞う。ジッと音を立ててファスナーを閉じると、バッグを肩にかけ速足で下駄箱へ向かった。

 

 そして唇を固く引き結んだまま、携帯を取り出して芹奈にLINEを送る。口を開けば涙が零れてしまいそうだから、今日は一人で帰りたい。それでも送信ボタンを押すと、少し胸が痛んだ。

 アドバイスをしたり、背中を押してくれたり、本当にいつも芹奈には頼りっぱなしだ。なのに、こんな態度を取って良いんだろうか。良心がそう囁くのを聞くと、苦い自己嫌悪が酷く沁みた。

 

 靴を履き替えて、校門へ向かう。後ろから、自転車のベルが聞こえた。止せばいいのに、梨香はそれに振り返ってしまう。思った通り、後ろから来たのはチャドだった。

 

「梨香ー、一緒に帰ろうぜー」

 

 チャドはいつもの調子で、軽く声をかけてくる。こっちの気も知らないでと、理不尽に腹が立った。断ろうと思って口を開く。そしたら、案の定涙が零れた。ぎょっとチャドが目を見開くのが、ぼやけて見える。

 

「ど、どした!? 怪我でも——」

 

「違う」

 

 溢れてくる涙を両手で押し留めようとしながら、何とかそれだけ絞り出した。それだけで済ませればいいのに、口は勝手に続けようとする。

 

「良いから、放って置いて」

 

 その言葉が酷く自分の耳に突き刺さって、梨香はその場から逃げ出す様に駆けて行った。

 

 

 

 いつも、いつもこうだ。私の周りにいる人は皆優しくて、本当に良い人たちばかり。なのに、私は嫌な事ばかり言ってしまう。その度に、私は私を嫌いになる。皆だって失望しているだろう。でも、馬鹿で、不器用で、自分勝手な私なんて私が一番嫌いだ。自信なんて持てない。こんなんで、チョコなんて渡せる筈が無い。

 

 ぎゅっと目を瞑れば、昼間に見た中庭での光景が鮮明に蘇ってきた。モニアとはたまに話す事がある。優しくて、大人しい彼女は、きっと料理もうまいのだろう。何を作ったのかなんて分からないけれど、少なくとも私が作ったのよりかは上手なはずだ。ラッピングでどうにか誤魔化しては見たけれど、私が作ったガトーショコラはどう見ても焼き過ぎで、焦げてしまっていたから。

 

 何をどれだけ頑張っても、周りと比べて不安になる。不安だからいつも一歩を踏み出せない。今日だって、芹奈がいなければチョコを準備する事すらしようとしなかった筈だ。何でいつもこうなんだろう。誰かが居ないと、何も出来ない。でも、誰かが居たらその誰かと比べてしまう。

 

「もーやだぁ……」

 

 帰りたい。そう思って、梨香はようやく立ち上がった。駅の中のトイレは狭くて、軽く肘をぶつけてしまった。それだけで、更に気分が落ち込んでくる。きっと、顔は涙でぐしゃぐしゃになっているのだろう。折角ちょっとメイクもしてみたのに、全部全部台無しだ。今すぐ、テレポーテーションで家に帰れたら良いのに。

 

 そんなあり得ない事を願いながら、梨香はトイレから出た。下を向いたまま数歩歩いたら、誰かにぶつかりそうになってしまう。慌てて、顔を上げた。すると

 

「「あ」」

 

 そんな間抜けな声が揃った。ぶつかりかけた相手は佑也だ。こんなぐしゃぐしゃな顔でクラスメイトに会うなんて、ついていない。気まずくなって、ついつい視線を逸らす。

 案の定、佑也も大分気まずそうだ。なまじ事情を知っている分、大体の状況が分かってしまったらしい。何を言えば良いのかも分からなくて、梨香は黙ってその場を離れようとする。

 

「あのさ」

 

 しかし、呼び止められて反射的に足を止めた。振り返ることは出来なかったけれど、佑也は特に気に留める事も無く続ける。

 

「別に俺が言うべき事じゃないから、嫌だったら聞き流して良い。でも、渡してやれよ」

 

 梨香は、振り返らないまま「なんで」と小さく呟いた。だって、佑也がそんな事を言う訳が分からない。芹奈みたいに、他人にアドバイスするような性格にも、見えないのに。

 聞かれて、佑也は少し面倒くさそうに溜息を吐いた。

 

「あいつ、ずっと待ってたぞ」

 

 その言葉に、梨香ははっと目を見開いた。

 

「今日一日中ずっと煩かったんだからな。そんなに気になるなら、自分で聞きに行きゃあいいのに」

 

 そう、まるで悪態の様な調子で佑也は言う。梨香は、暫く黙っていたけれど、やがて呟くようにぽつりと呟いた。

 

「……分かった。ありがとう」

 

 テレポーテーションで家に帰らなくて良かったなんて、少し思った。

 

 

 

 日が沈んだ空を見上げて、梨香ははぁと白い息を吐き出した。まだ瞼は少し腫れぼったくて、直したメイクで誤魔化せているのかも分からない。本当は、そんな事せずにあの場で真っ直ぐ行けばよかったかもしれない。でも、どうせなら、出来るだけ可愛くありたいから。好きな人の、前でくらいは。

 

 ぎゅっと、バッグの柄を握り締めた。不安で不安でしょうがない。どれだけ化粧を直しても、ラッピングを頑張っても、それは変わらない。ふとした瞬間に、胸が押しつぶされてしまってもおかしくない。

 

 でも、待ってるって言ってくれたから。芹奈が手伝ってくれたから。それに、捨てるのは勿体無いから。

 そうやって、自分に言い訳を重ねていく。絶対成功するなんて、口が裂けても言えない。最悪の予想なんて、簡単に思いつく。それでもどうやっても、訳の分からない理由を自分に言い聞かせてでも、渡せればいいのだ。多分、きっと、それが一番マシな、筈。

 

 チャドの家の住所は、芹奈がLINEで教えてくれた。全部終わったら、何かお礼をしなくちゃな、と思う。何時も何時も、頼りっぱなしだから。だから、もう逃げることは出来ない。

 

 着いた。住宅街でよく見かけるような、そこそこおしゃれな家だ。インターホンに指を伸ばす。押す、前に深呼吸。胸の中の不安を全部無い事にして、梨香はラッピングされた包みを取り出した。そして、もう一度インターホンに指を伸ばす。今度こそ、押した。

 微かな音が鳴る。でも、それも心臓の音に掻き消されてしまいそうだ。いち、にぃ、さん。数を数えて見ても、心臓の鼓動は収まる気配も無くて、不安で不安で死んでしまいそうで。ようやく、インターホンの向こうから声が聞こえた。

 

『はーい』

 

「あ、えっと」

 

 しまった。何を言えば良いのか考えていなかった。反射的に口から出たのは、間抜けな戸惑いの声だ。どうしよう。返事は無い。心臓が、さっきまでの比にならないくらいに早鐘を打っている。

 

 ガチャリと玄関の開く音に、梨香は飛び上がった。見れば、チャドが慌てたように玄関の扉を押し開けていた。その目は、驚いた様に真ん丸に見開かれている。何を言えば良いのかお互い分からず、数秒奇妙な沈黙が訪れた。

 

「えっと……上がる?」

 

 家の中の方を差しながら言われて、梨香は首を振った。流石に、こんな時間に他人の家に転がり込むのはまずい。動きそうにない口をこじ開けて、何とか声を絞り出した。

 

「きゅ、急にごめん。でも、その——」

 

 あ、そう言えば、部屋着だ。それに気づいたせいで、言おうとしたことが一瞬で脳内から消えた。言わなきゃいけない事、言いたい事、全部がごっちゃになって、順番を無視して我先にへと口から飛び出していこうとする。

 

「────帰りの時は、ごめん!」

 

 その結果、全くこれじゃない台詞が飛び出した。今すぐ頭を抱えてしまいたい。逃げたい、切実に。でも、駄目だ。折角ここまで来たのに。というか、こんな状況で帰ったら変な奴過ぎる! 

 

「そ、それで、これ!」

 

 言いながら、ばっと包みをチャドに押し付けた。ぎゅっと目を瞑ったまま、テンパった口が勝手に動き出す。

 

「あ、違うの、これは、別にお詫びとか、そういうんじゃなくて、その、えっと……」

 

 バレンタイン、だから。

 

 そう言った筈の声は、余りに小さすぎたかもしれない。それでも言い直す勇気も余裕も気力も無い。これ以上は、無理だ。

 

「そ、そういう事だから! じゃあね!」

 

 叫ぶような勢いでそう言って、梨香は踵を返した。走って、最初の曲がり角を曲がる。誰も居ない事を確かめてから、力が抜けた様にその場に座り込んだ。口から安堵のため息が零れる。

 

「わた、せたぁ……!」

 

 作って良かった。ちゃんと、渡しに来て良かった。全部全部、やって良かった。心からそう思えて、少しだけ自分を許せた気がして。それに、何よりも。

 

 部屋着なんて、見ちゃったし。

 

 立ち上がる。スマホを取り出す。芹奈に、一番に報告しなくちゃ。ありがとうって言おう。今度の休みに、何か可愛い小物でもプレゼントしよう。折角だから、佑也にも。あの時背中を押してくれたのは、確かに佑也だし。

 白い息を吐きながら、梨香は何時にない上機嫌で駅までの道を辿って行った。

 

 

 





Happy Valentine !!

と言うことで後編です。これぞチャドリカ回。うちの子を沢山書けて私は満足だ。

あ、感想欄ログインしなくても使えるようになっているのでよろしくお願いします。


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3.モニアの1日 後編

 昼食の片づけが終わって大体三十分ぐらい経つと、セツとヨツバが帰って来る。しかし、いつも元気いっぱいに帰って来るヨツバは、今日はどこか沈んだ——と言うか、不機嫌な様子であった。

 

「今日全部やんなくてもいーじゃん! だって、あしたもあさってもあさってのあしたもお休みだよ!?」

 

「明日も明後日(あさって)も明々後日(しあさって)も遊ぶのでしょう。だから今日中に終わらせなさいと言っているんです」

 

 そう言い争いながら、セツとヨツバはいつもの席へと向かう。どうやら、論点は宿題についてらしい。

 

「でもぉ!」

 

「それじゃあ、毎日やれるんですか。無理でしょう」

 

 尚も反論しようとするヨツバに向かって、セツはぴしゃりと言った。何も言えなくなってしまったヨツバは、むぐぐと唸りながらランドセルを下ろす。そして不貞腐れた表情で、その中からピンク色の筆箱を取り出した。

 

「しょーがないなぁ、やれば良いんでしょ」

 

「そう、やれば良いんです」

 

 わざとらしい仕草で首を振りながらヨツバが席に座り、セツは表情を変えないままその後ろに立つ。そうやってセツに教えられながら、ヨツバは難しそうな表情で宿題を始めた。

 

「大変そう、ですね」

 

 その様子を見て居たモニアは、思わずぽつりと呟いた。セツの意識を少しでも宿題から逸らそうとしたヨツバが、それに反応する。

 

「モニアちゃんは行かないの? 学校」

 

「……学校?」

 

 言われて、モニアはぱちくりと目を瞬いた。学校、と言う言葉自体は知っている。でも、よく考えてみればそれがどういう物かは良く知らなかった。

 

「同い年の子供が集まって、皆で勉強するところだよ」

 

 そうモニアが思っているのを察してか、カウンターの中から出て来たマスターが説明してくれる。モニアはそれに、更に質問を重ねた。

 

「勉強って、何を、するんですか?」

 

「えーっと確か……国語と算数と、社会科、だったか?」

 

「もっといっぱいあるよ! 生活でしょ、体育でしょ、あと音楽とか。でも、勉強よりもみんなで遊ぶ方が楽しい! 今日はね、中休みに皆で鬼ごっこしたんだ! あとはかくれんぼとか、だるまさんが転んだとか——」

 

 マスターが言ったのに、ヨツバが付け加える。しかしその話がどんどん勉強から遊びの話へとずれていくのに、思わずと言ったようにセツが口を挟んだ。

 

「ヨツバ、学校は勉強するために行く所です。遊ぶために行くのではありませんよ」

 

「えー、だって勉強難しいし、楽しくないんだもん。それに、何で勉強しなきゃいけないの?」

 

 ヨツバは不満顔でセツの方を見上げた。そして口にしたのはよく聞く、ありきたりな疑問だ。けれどセツは、それによどみなく答える。

 

「力をつけるためです」

 

「なんの?」

 

「誰かを守るための。さあ、お喋りはここまでですよ。宿題を続けなさい」

 

 そうセツが言って、二人はまた宿題を始めた。それを邪魔しないように黙ったまま、モニアはその様子をじっと見つめている。

 

「学校、行ってみたいか?」

 

 何気ないマスターの問いに、モニアはゆっくりと首を横に振って答えた。まだ少し、人の多い所は怖いから。

 

「でも、勉強は少し、だけ、やって、みたいです」

 

 やってみたいと言うよりは、やった方が良いのかもしれないと言うのが正しいのかなと、言ってから少し思う。

 

「じゃあ、今度問題集でも買ってみるか」

 

 そうマスターが言うのに、モニアは黙って小さく頷いた。

 誰かを守るための力は、モニアが一番欲しい物だから。

 

 

 

 八時を過ぎたあたりから、夕食が始まる。帰ってきた住人達が、またバーに集まって夕食を食べるのだ。そして食べ終わった後に、一部の住人が晩酌を始めるのが何時もの流れである。今日も、そうだった。当然それもバーの仕事だから、モニアもそれを手伝うつもり、だったのだが。

 

 モニアは眠い目を擦りながら、大きな欠伸をした。時計を見ると、もう十時だ。何だか最近、眠くなる時間が早くなった気がする。毎日、色々な事が起こるからだろうか。

 

「モニア、眠いなら上に戻ってていいぞ」

 

 本当は掃除や片付けなんかがあるから、この後も結構忙しい筈なのだ。けれどあまりにも眠いので、モニアはマスターの言葉に素直に甘える事にした。

 

 ポティーと共に階段を上って、自分の部屋に戻る。パジャマに着替えていたら、また大きな欠伸が出た。パジャマの下にペンダントを仕舞って、さあベッドに入ろうとした時。

 夢の事を思いだした。水の中の様に息苦しい夢の事を。また、同じ夢を見てしまうのだろうか。そんな事を思って、不安になる。

 

 不安から逃れようとするように、モニアは今日あった事に思いを馳せた。

 今日は、今日も、変わらない穏やかな一日だった。朝は梨香に髪を梳かしてもらって、マスターと朝食を食べて、それからポティーと遊んで、ネクロと話して、セツとヨツバから知らない事を知って、夜は皆でご飯を食べて。

 

 知らず知らずの内にペンダントを握り締めていた手から、ふっと力が抜けた。布団の中に横たわったモニアは、ゆっくりと瞼を閉じる。

 

 また悪夢を見てしまうかもしれない。でも、大丈夫だ、ここなら。

 

 根拠のある自信を抱いたまま、モニアは穏やかな寝息を立て始めた。

 

 

 

 




ちょっと遅くなりましてごめんなさい
それはさておき、今日はマーブルチョコを食べました


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閑話 モブ兵日記

 モブ兵くんプロフ

 男、21歳。実家は果樹栽培をやっている農家。しかし次男だったことと、戦争の煽りを受けた不景気から軍へ。一応職業軍人。訓練所での成績は中の下。桃が好き。

 

 

 ✕月3日

 

 今日、実家から桃が届いた。めちゃくちゃでかい大箱で、だ。確かに俺は桃が好きだが、だからと言ってこんなにあると困る。仕方が無いので、同室の奴らにも振舞った。評判は上々だった。当然だ、俺の故郷の桃は旨い。

 

 が、それでもやはり半分が限界だった。男6人でも、甘い桃となるとまぁこんなものかもしれない。オオムラはいっぱい食ったんだがな……てかあいつ、あんな食った後にめっちゃ晩飯食ってたな。どーなってんだ。

 あ、そうだ、良い事を思い付いた。明日、新兵の部署が発表になる。配属される部署はまだ分からないが、そこの人達に桃を振舞ったらどうだろう。部隊ともなればかなりの人数が居るんだろうし。

 それにしても、俺はどこの部隊に配属になるのだろうか。第一大隊はまぁ無いだろう。あそこは特に成績の良かった奴が行く所だ。俺は平々凡々を絵に書いたみたいな成績だったし、第一夜間演習でとんでもない事をやらかしたりもした。あん時の教官、怖かったな……

 工兵がメインの第三大隊も面白そうだ。俺の得意な機械いじりも存分にできるだろう。ただ、あそこは変人が多いらしいからな。上手くやって行ける自信はあんまり無い。

 ただ、死亡率で言うなら第二大隊が1番ましかもしれない。そもそもあの隊はあまり戦地に行かないしな。噂じゃ、高官の娘が居るから依怙贔屓されているとかなんとか……ま、根拠の無い噂だろう。噂好きのオオムラが話していた事だし、正直信用はできない。しかし、他の奴まで第二大隊を嫌がっているのは意外だった。何でも、随分厳しいらしい。確かにそれはちょっと嫌だ。

 でもまぁやっぱり、男なら夢見てしまう。もし俺が第一大隊に配属されたらなんて──

 と、消灯時間だ。今日はここまでにしよう。

 

 

 ✕月4日

 

 配属先が決まった。勿論、第一大隊では無かった。俺が配属されたのは第二大隊だ。意外とほっとしている自分がいる。まぁ、死にたくないのは当然だ。しかし驚いたのは、配属先が第二大隊の中の第二部隊だったことだ。部隊長はカンザキ少将。例の高官の娘だ。依怙贔屓は多分、噂だけだと思う。少なくとも、甘やかされて育った感じはしない。まだ一目見ただけだけど。

 何でも、カンザキ少将は今特別任務に就いているらしい。そしてその上で普段の業務までこなしていると言う。良く考えると、結構凄いかもしれない。だって、こう言っては失礼になるんだろうが、カンザキ少将は俺の妹より年下だ。最初は普通に大人なのかと思ってたんだが、全然そんなことは無かった。18歳、バッチリ未成年だ。

 一緒に配属されたオオムラはちょっと不満気だった。まぁ、あいつは結構プライドの高い奴だから、年下の女子にあれこれ指図されるのに思うところもあるのだろう。ただ、カンザキ少将の方が大村より強いと思う。これは勘だけど、一応大村にそう忠告しておいた。

 あ、桃、配り忘れた。忙しくてそれどころじゃなかったからな。まぁいいや、今度にしよう。腐る前に捌ければいい。

 

 

 ✕月7日

 

 今日、ようやく桃が全部捌けた。結構ギリギリな奴もあったから、一安心だ。部隊内でも評判は上々だった。オオムラなんて、丸々一個平らげたのだ。部屋でも食ったくせに。親父に教えたらきっと喜ぶだろう。が、また大量に送られてきたら困るな。

 それで、桃で騒いでいたらカンザキ少将に怒られてしまった。仕事が終わってからにしなさいという事だ。なので、仕事を終わらせてからカンザキ少将にも勧めてみた。しかし、まだ仕事があると断られてしまった。手伝おうと思ってその仕事が何か聞いたのだが、教えてはくれなかった。機密事項らしい。例の特別任務だろうか。

 しかし、仕事が終わっても仕事か。彼女に残業代は出ているのだろうか。ちょっと心配だ。でも、俺が心配すると言うのも逆に失礼に思える。年下の女の子だが、上司だしな……いや、上司の心配をするのも部下の務めか? 

 まぁ、カンザキ少将の分の桃は別の皿に取っておいてあるし、今度余裕のある時に食べて貰おう。桃は塩水に付けると変色しにくくなるのだ。勿論、何もつけなくても旨いが、ちょっとしょっぱい桃と言うのもこれはこれで旨い。

 

 

 ✕月12日

 

 今日はオオムラがボコボコにされた。カンザキ少将に、だ。

 事の発端は書類作成中に起こった。俺はその場に居なかったのでこれは先輩からの又聞きだが、ちょっと反抗的な態度を取ったオオムラを、カンザキ少将が軽く煽ったらしい。そして、「不満があるなら、実力で黙らせてみなさい」と言い放ち、決闘ということになった。先輩曰く、焚き付けて実力差を思い知らせる意図があったそうだ。有り体に言えば、オオムラは見せしめにされたって事らしい。まぁ、軽い挑発だけで上司との決闘に臨むあいつもあいつだと思うから、同情はしないでおく。

 で、その決闘は俺も見たが、なんというか、流石だった。

 オオムラは男の中でも結構大柄な奴なのに、カンザキ少将の動きに綺麗に翻弄されていた。で、最終的にあいつは手も足も出せずにボコボコにされたのだ。ちょっと可哀想なぐらいに。と言うか、訓練所で散々上下関係を叩き込まれたのにどうして逆らおうと思うかな。意外と反骨精神の強い奴なんだろうか。

 まぁ、そんな訳で華麗な勝利を飾ったカンザキ少将は最後、地面に転がったオオムラに手を差し伸べ、「これで、私が貴方の上に立つ訳が分かりましたね」なんて言ってた。いや、もうなんか、もう、めちゃくちゃカッコよく見えた。凄い。凄すぎて語彙力が消えてしまった。まさか妹より年下の女の子にカッコイイなんて思う日が来るとは思わなかった。でもカッコよかった。この部隊に配属された事を神に感謝した。俺の家無宗教だけど。

 しかしちょっとウザイのは、ボコボコにされた筈のオオムラがカンザキ少将の話ばかりする様になった事だ。確かにカンザキ少将はかっこいいが、そんなに話しかけられると書類が全く進まない。そして案の定、口ばっか動かしてたのでタカダ先輩に怒られてた。外周5周、いい気味である。

 が、あいつがタカダ先輩に引きずられていく前に言っていたことが気になる。ふぁん……なんちゃらだ。ファンヒーターかな? 

 

 

 オオムラ

 モブ兵くんの同期で同室の仲。家は肉屋。子供の頃近所でガキ大将をやっていたので体を動かす事には自信があった。が、ボコボコにされた。憐れ。セツさんは無自覚部下タラシだといいなって。彼しか同期が出てこないのは考えるのが面倒だか((




こんな緩いのもたまにはいいよね(ネタ切れ)
仕事してるセツさん絶対かっこいいと思う。


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閑話 定休日

※付き合ってないです


 

 

 

 自分の部屋の隣のドア、つまるところ梨香の部屋のドアの前で、チャドは立ちつくしていた。握りしめた右手をノックでもするようにそっと上げ、そして下ろす。かれこれ10分ほどこれを繰り返しているのだが、未だに決心はつきそうになかった。

 

 ちょうど後ろに広がる空は茜色に染っている。時刻はちょうど夕食時。何時もなら、バーまで降りていってマスターの晩御飯が出来上がるのを待っている頃だ。

 しかし、今日は月に一度、のバーの定休日なのだ。定休日は当然バーに入れないし、マスターは姿を表さない。従って、晩御飯も自分で調達しなければならない。普通に考えるならその辺のファミレスにでも行けばいい。

 

 が、金が無い。

 

 そんな訳で、チャドは梨香の夕食に便乗しようとしているのだった。何か分かんないけど料理上手そうだし、手先器用だし。

 しかしこの通り、チャドはさっきから二の足を踏んでいる。だって、梨香の部屋を訪れるのはこれが初めてなのだ。緊張しないはずがない。立ち尽くしたまま、脳裏ではぐるぐると思考が渦巻いている。

 けれど、そんな事をしている間にも時間はどんどん通り過ぎていってしまう。この調子では、夕食時何てとっくに通り越してしまいそうだ。

 

 空腹に押されて意を決したチャドは右手を握りしめ、ドアを軽く叩く。ドキドキしながら暫く待っていると、軽い足音と共にドアが開いた。

 

「はーい……って、チャド?」

 

 ドアを開けた梨香は、チャドを見るとちょっと驚いたような表情をする。そんな梨香に向かって、チャドは軽く右手をあげた。

 

「なぁ、もう晩飯終わった?」

 

「まだだけど、何か用?」

 

 聞かれて、へへっとチャドは笑った。

 

「晩飯たかろうと思って!」

 

「帰れ」

 

 つれない態度はちょっと心にくる。ひでぇ、と大袈裟に騒いでみせると、梨香は呆れたようにちょっと笑った。

 

「晩御飯ねぇ……まぁ、取り敢えず上がれば」

 

 部屋の中を指し示されて、チャドはその言葉に従った。

 

「態々来て貰って悪いけど、家、今何も無いわよ?」

 

「え、そなの?」

 

「そ。冷蔵庫空っぽだし、面倒だからカップラーメンでも買ってこようかと思ってた所」

 

 へぇ、と相槌を打ち、チャドはちょっと意外だなと呟いた。

 

「何となく自炊してんのかと思ってた」

 

「……悪かったわね、料理は苦手なの」

 

 苦手なのか。これまた意外だ。しかもちょっと気にしているらしく、腕を組んでいる梨香の表情はちょっと不機嫌そうになってしまっている。これはよろしくない。

 

「と言うか、そういうあんたはどーなのよ?」

 

「へ、俺?」

 

 不意に話の矛先が自分に向いて、チャドはパチクリと目を瞬いた。

 

「料理、出来るの?」

 

「……まぁ、出来なくはないけど」

 

「へぇ、意外」

 

 まぁでも、あんた結構器用だしね、と、梨香が言う。しかし、何を思っているのかチャドは微妙な表情だ。梨香はそれに気づいているのか居ないのか、あ、そうだ、と呟いた。

 

「それならさ、今日の晩御飯作ってよ」

 

 そして、飛び出たのはこんな言葉である。思いもよらない提案に、チャドはその緑色の目を丸く見開いた。

 

「まさか、俺が?」

 

 聞き返されて、梨香はあんた以外に誰がいるのよ、と笑う。

 

「材料代は私が出すからさ。それならwin-winでしょ?」

 

 チャドは微妙な顔のままだったが、ね? と言われてまぁ、と頷いた。

 

「じゃ、スーパー行きましょ。冷蔵庫空っぽだし」

 

 決まりだと言わんばかりに、梨香は部屋の隅においてあった鞄を手に取った。そして玄関に向かう梨香の後にチャドも続く。

 

「そんならビール買おうぜ。ツマミも」

 

「いいわね、何が良い?」

 

「あれが良いな。何だっけ、前バーででてきたチョコレートの奴」

 

「それじゃあおつまみじゃなくてお菓子でしょ」

 

 そんな他愛ない会話に被さるようにして、玄関が音を立てて閉まった。

 

 

 

 十数分ほどで到着したスーパーの中には、あまり人がいなかった。丁度ピーク時の少し後の様だ。

 

「で、何作るの?」

 

 入口近くに並んでいる銀製のカートを1つ引き寄せるチャドに、梨香が聞く。

 

「んー、ある物見てから決める」

 

 でも、込み入ったものを考えるのは面倒だから、多分炒め物になるんだろう。まぁ、一日限りの自炊だし、適当でいっかとチャドは内心でそんな事を考える。

 

「そーいや、梨香、なんか食べらん無いものは?」

 

「特に。あんたよりかは好き嫌い少ないと思うわ」

 

「それは余計なお世話な」

 

 そんな事を言い合いながら野菜コーナーに向かう。そこには特に長居せず、もやしとにんじん、セロリを手早くカゴに放り込んで次に向かった。

 

「手前のやつの方が綺麗じゃなかった?」

 

「そう? ま、炒めちゃえば変わんないって」

 

「相変わらず適当ねぇ」

 

 そしてそのまま、二人は隣接する肉類のコーナーへ歩を進める。並んだパックの中から、チャドはぱっと目に付いたものを手に取った。

 

「肉は……これでいっか」

 

「ストップ」

 

「何だよ?」

 

「それ、高い奴でしょ。しかも牛じゃない。隣の豚肉にして」

 

「相変わらず細かいなぁ」

 

「煩いわね。お金出すのは私なんだから当たり前でしょ?」

 

「じゃ、その分ちょっと良い酒買おうぜ」

 

「なんのための自炊よ」

 

 そんな余裕があったら普通に食べに行くと言われて、チャドは肩を竦めた。腹の立つ仕草に、思わず梨香の足が出る。

 

「いって! 何だよ、踏むこと無いだろ?」

 

「ハイハイ、次の所行くわよ」

 

「次って、酒?」

 

「お米よ」

 

「えー、それくらい家にあれよ」

 

「だって普段自炊しないし。パックのレトルトでいい?」

 

「れと……? まぁ、食えりゃなんでもいいけど」

 

 カゴに入れられたお米のパックを、チャドは物珍しげに眺める。何でも、電子レンジで温めるだけで食べられるらしい。相変わらず、この世界は色んなものが便利だ。

 

「あ、一応聞くけど、食器はあるよな?」

 

「馬鹿にしないで、それぐらいあるから……結婚式の時に貰った引き出物だけど」

 

 でも、それも平皿ばかりで、茶碗と箸は一人分しかないらしい。仕方がないので、チャドの分はここで適当に見繕っていくことにいた。

 

「大きめのスーパーで良かったわね」

 

「なんでも売ってんだなぁ」

 

「何が良いの?」

 

「何でも良いや」

 

「じゃ、これね」

 

「……流石にそれは冗談だろ?」

 

 子供用のアニメのキャラクターが描かれたものを指さされて、思わず表情が引き攣る。そんなチャドを見て、梨香はニヤッと笑い、それを棚に戻した。

 

「流石にね。これで良いでしょ」

 

 そして結局カゴに入れたのは、隣にあった空色の茶碗だった。シンプルなデザインではあるが、優しい色合いは何となく晴れた空を思わせる。箸もそれと同じ様なデザインのものを選んだ。

 

「じゃ、次こそお酒ね」

 

「そーだな、ツマミも買おう」

 

 結論を先に言ってしまうと、酒とツマミを選ぶのに一番時間がかかった。

 

 

 

「……物が増えた」

 

 冷蔵庫の中を見て、思わず梨香は呟いた。冷蔵庫の中には、今日買ったばかりの調味料やら何やらが並んでいる。

 普通の家庭に比べれば全然少ないのだろうが、いつもビール数本しか入っていなかったこの冷蔵庫にとっては大きな進歩だ。

 

 横に視線を向ける。流しの横の台に置いたまな板の上で、チャドが野菜を刻んでいた。リズム良く包丁を動かすその後ろ姿は、馴れた手つきのせいか妙に様になっている。

 

「で、結局何作るの?」

 

「野菜炒め」

 

 サクサク音を立てながらセロリが輪切りにされていく。その様子を邪魔にならないように見ていると、ちょっと前から思っていたことが自然と口から零れ落ちた。

 

「さてはあんた、料理得意でしょ」

 

「別に? 親父に一通りのこと教わっただけだしなぁ」

 

 親父。その言葉に、梨香は思わずその目を瞬いた。チャドの口から家族の話題が出るなんて珍しい。

 

「梨香、フライパンってどこにあんの?」

 

 けれど、その話題を掘り下げようとする前に、チャドがそんな事を聞いた。どこにやったっけ、と思い出すのに数秒時間がかかる。

 

「確か……流しの下の所にあったと思うんだけど」

 

「無いぜ?」

 

「え、嘘。あ、上の棚だったかも」

 

「こっち?」

 

「そう。あった?」

 

「……お! あったあった」

 

 よいしょ、なんて言葉とともに、上の棚からフライパンが引っ張り出された。重くて黒い、いつ買ったかも覚えていない奴だ。

 

 チャドは埃を被ったそれを軽く水で注ぐと、さっと布巾で水滴を拭い、コンロの上に乗せた。

 

「油はあるよな?」

 

「そんな物ある訳ないでしょ」

 

「無いのかよ」

 

「買ってくる?」

 

「んー……バターとかは?」

 

「あ、マーガリンならあるかも」

 

 食パン用のやつだけど、と言いながら梨香は冷蔵庫の中からマーガリンのケースを取り出す。そのケースを受け取り、大きなスプーンで削り取ったマーガリンをフライパンに落とす。ツマミを捻ると、チッチッチッ、と小さな音を立てて火が付いた。

 

「そーいや、梨香は何で料理苦手なんだ?」

 

 じんわりと溶けだすバターを、菜箸を駆使して広げながら、チャドが話を切り出す。

 

「何でって……苦手だから苦手なのよ」

 

「切っ掛けがある訳じゃ無いんだな」

 

 昔から、と言いかけた声が、フライパンに入れられた野菜の立てる音に遮られる。その音が収まるのを待ってから、梨香はため息をついて続けた。

 

「昔から、料理に挑戦して無事に終わった事が一回も無いの」

 

「具体的には?」

 

「クッキー作る時に絆創膏5枚使った」

 

「何がどーなったらそーなるんだよ?」

 

 思わず、と言ったようにチャドが苦笑混じりにそう言う。梨香は私が聞きたいわ、と、憮然とした表情だ。

 

「どーせ私は料理に向いてませんよ。はい、もうこの話終わり」

 

 丁度いいタイミングで電子レンジがピーピー鳴り出した。中のレトルト米のパックを取り出そうと、梨香はそっちを振り返る。

 

「あ、鍋つかみとって」

 

「はい」

 

「ありがと」

 

 取り出したパックのビニールの蓋を開けて、自分の茶碗と、買ったばかりのチャドの茶碗にそれぞれよそう。それを持っていき、食器なんかを並べて食卓の準備を終わらせた頃には、野菜炒めの方も出来上がったようだった。

 

「全部よそっちゃっていいよな?」

 

「良いと思うわ。もうビール飲むでしょ?」

 

「飲む!」

 

 元気に返事をしながら、チャドはフライパンの底に張り付いたもやしを菜箸でつまみ、皿に落とす。これで盛り付けは終わりだ。

 

「俺こっち?」

 

「こっち」

 

「野菜炒め真ん中?」

 

「真ん中」

 

「もう持ってくる物無いよな?」

 

「無い」

 

 白い平皿をローテーブルの中央に置き、梨香の向こうに腰を下ろす。示し合わせた様に、2人は同時に手を合わせた。

 

「「いただきます」」

 

 そして、2人の手は全く同じようにビールの缶に伸びる。プシュッと小気味いい音が、2回部屋の中に響く。スムーズな手つきで缶の中からコップに黄金色の液体を注ぎながら、そう言えばさ、とチャドが話を切り出した。

 

「野菜炒め、別に残してもいいからな」

 

「へ? 何でよ」

 

「上手くいったか分かんねぇし」

 

「味見しなかったの?」

 

「したけど……」

 

 何とも言えない表情で、チャドは言い淀む。

 実の所、チャドは料理は出来ると言えば出来るが、クオリティに関しては全く自信が無いのだ。そんな事もあって、何だかいざとなって不安になってきた。特段、何か失敗したという訳では無いのだけれど。

 

「不味そうには見えないし、大丈夫じゃない?」

 

 そんなチャドの葛藤を察しているのかいないのか、梨香は軽い調子でそんなことを言う。そして箸で取った1口分の野菜炒めを、ひょいと口の中に放り込んだ。

 

「あ、おいし」

 

 ふっと、梨香の表情が明るくなる。

 何だ、やっぱり上手なんじゃない、なんて言われて、チャドも自分で作った野菜炒めに箸を伸ばした。放り込んだ野菜を咀嚼して、飲み込む。感想は、味見した時と何ら変わらない。特別不味くも美味くも無い。当たり前だけど、マスターの料理の方がずっと美味しいだろう。

 

 ただ、それでも。

 

「次の定休日もまた作ってよ」

 

「えぇ〜、どーしよっかなぁ」

 

 その申し出に苦笑いで答えるのは、相変わらず自分の料理に自信が持てないから。断らないのは、それでも、美味しいと言って貰えて嬉しかったから。

 

「次はちょっと良いお酒買おうと思うけど」

 

「何作って欲しい?」

 

 現金な反応に、梨香が分かりやすい奴と笑う。柄にも無く、次までに料理を練習しておこうなんてチャドは思った。

 

 

 




普段は省略している2人の会話をできるだけ書き表すとこうなる。

因みに日本文学において男女2人きりの食事はs…xを意味するとかいう話を聞いた事があったりなかったり(ソース無し)。まぁまだ付き合ってないので流石に……ね?


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閑話 集合写真

「げほっ……やっぱ大分ホコリ被ってるな」

 

 ある夜のことだ。そんな事を言いながら、マスターが随分旧式の写真機を引っ張り出してきた。歴史の教科書にでも載っていそうな、古い古い埃まみれの写真機だ。どうしてそんな物があるのかと、芹那と話していた梨香は、半ば呆れた気持ちで呟く。

 

 マスターが言うには昼間、部屋の大掃除をしていた最中に見つけたらしい。まだ動きそうだから、持ってきたとの事。

 

 と言う事は、そこの隅に積まれている雑多な物は捨てる物だろうか。それならせっかくだし、後で古着でも貰っていこうか。最近、リメイクにハマっているのだ。

 

 そして捨てるものとは別に、写真機と一緒に持ち込まれた何やら雑多なものもカウンター周りに広げられていた。マスター曰く『懐かしい物』らしいが、どれもこれもいつのものか分からないほど古い物である。一体、ここのマスターはいくつなんだか——

 

 内心でそんな事を呟きかけて、そこで思考を打ち切る。こんなおかしなアパートで、そんな事を邪推し始めたらキリが無いのだ。ある程度は踏み込まないのが、賢い選択だと自分に言い聞かせる。

 

「あ、そうだ! 折角だからさ、皆で写真撮ろうよ!」

 

 カメラを物珍しげに眺めていた芹那が、いつもの調子でそんな事を言い出した。その横に座ってコーヒーを飲んでいる佑也は、特に興味無さげな様子だ。

 

「でもこれ、動くのか?」

 

 そう言いながら、ネクロが埃まみれの写真機を突っついた。その埃を拭き取ろうと、カウンターの奥にいたモニアが濡れ雑巾を持って出てくる。

 

「拭いて、みます。そしたら、動く、かも」

 

 そう言いながらモニアは背伸びをする。けれどあと少しと言う所で、天辺に届かない。モニアが爪先立ちになろうとした所で、バーの扉が開いた。公園に行っていたヨツバとセツが、帰ってきたのだ。

 

「わー! 何それ!」

 

 帰ってきたばかりだと言うのに、ヨツバはいつものハイテンションで、写真機へと駆けて行った。いや、駆けて行ったと言うよりは、突撃と言った方が正しいか。

 

「あっ……」

 

 その突撃していく先は当然、モニアが拭こうとしている写真機だ。そしてヨツバに驚いたモニアは、写真機を巻き込んでバランスを崩してしまった。ガッシャーンと、派手な音が鳴る。

 

「ああ、もう。何やってるんですか」

 

 溜息をつきながら、セツが事態の収拾へと動く。

 

「ただい……ま?」

 

 そこへ、神尾が帰ってきた。主に写真機周りの惨状を見て、その頭上にはてなマークが浮かぶ。

 

「皆、一体何をしているんですか?」

 

 聞かれて梨香は、簡単に事情を説明した。

 

「写真を撮ろうかって話になったのよ。で、モニアちゃんが写真機を拭こうとしてたんだけど……まぁ、いつもの感じであんな事に」

 

 それだけで大体の流れが分かったのか、神尾は苦笑気味に頷いた。そして今度は、隣に座っていた筈のチャドが反応する。

 

「えっ、写真とんの?」

 

「……あんた、話聞いてなかったの?」

 

 若干呆れ気味に言えば、「だって寝てたし」と返された。さっきまで芹那と話していて気付かなかったが、どうやらいつの間にか居眠りしていたらしい。

 

「なぁネクロ、写真の真ん中に映った人は魂を抜かれるらしいぜ?」

 

「えっ、そうなのか?」

 

「いつの時代のデマよ、それ……」

 

 なんでまたそんな古いネタをと、呟きながら突っ込む。なんだ違うのかと、ネクロがほっと息をついた。

 

「しかし、実際撮れるんですかねぇ?」

 

「何でよ?」

 

 モニアとヨツバの様子を眺めていた神尾が、ふと呟いた。どういう意味だろうかと、梨香は聞き返す。確かにあの写真機は古びてはいたが、動きそうではあったのに。

 

「だって、ほら」

 

 しかしそう言いながら神尾が指さした先の惨状を見て、すぐに納得した。

 倒れた時の衝撃で、写真機は固定されていた台座から落ちてしまったらしい。そしてその衝撃で、レンズが外れてしまっている。

 

「おーい、フィルムあった……ぞ」

 

 そこへ、自室にフィルムを探しに行っていたマスターが戻ってきた。言葉が途切れたのは、写真機周りの惨状を見て瞬時に事情を察したかららしい。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

「ヨツバ何もしてないよ!」

 

 そして少女ふたりが、実に対極的な反応を見せる。それに疲れた表情のセツが説明を付け加えた。

 

「すみません、ヨツバが壊し「何で! ヨツバ何もしてない!」……壊してしまいました。直せるでしょうか?」

 

「あー、流石にこれは……まぁ、壊れても問題は無いしな。写真は今度にするか」

 

 仕方ないと、苦笑しながらマスターが言う。写真撮影が中止になったと聞いた皆の反応は様々だ。ガッカリする者、仕方ないと苦笑する者、そもそも話に興味を持っていない者、などなど、十人十色の……あれ? 

 

「そう言えば、天使くんが居ないわね」

 

「あれ、ほんとだ」

 

 そろそろ夕食時だと言うのに、珍しい。何時も皆が集まり出す頃には必ずいるイメージなのに。逆に、ミト博士もこの場に居ないがそれはらしいと思える。いつも、丁度夕食が出てくる頃合に来るのだから。

 

「ただいま~♪ 準備できてる~?」

 

 とか何とか話していると、三度バーの扉が開いて、件の天使くんがひょっこり現れた。その後ろには、仏頂面のミト博士もいる。どうやら、写真撮影の為にわざわざ呼びに行っていたらしい。何をどう説得されたのか、ミト博士はあからさまに不機嫌な様子でこう言い放つ。

 

「やるなら早く済ませてくれたまえよ」

 

「いや、それがさ。カメラ、壊れちゃったんだってさ」

 

 チャドが簡単に状況を説明すると、ミト博士はこれ幸いと踵を返した。しかしその白衣の裾を天使くんに掴まれて、きっと振り返る。その表情には分かりやすく苛立ちが滲み出ていた。

 

「何なんだ一体! 撮らないのだろう!?」

 

「だって~、ミト博士ならあれくらい直せるでしょ~?」

 

 まさか、出来ないの? と煽り気味に聞かれて、ミト博士は即座に答えた。

 

「できる。がしかし、私は理由も無しにそんな事はしない」

 

 実にらしい返答だ。しかし天使くんは、ニコニコ顔のままこう言い放つ。

 

「え~、それじゃあ、直してくれるまで離さない! 早く直して早く撮ったら、早く部屋に戻れるよ♪」

 

 どうやら、この台詞は大分効いたらしい。暫く『絶対に嫌だ』という顔で考え込んでいたミト博士は溜息を一つつくと、写真機の元へ向かった。散らばった写真機の部品を拾い集め、どこからか取り出した工具で手早く組み立てる。そして元の姿に戻った写真機を再び台座に載せると、右手をスっと振りかぶった。ガスン! と音を立てて、綺麗な斜め四十五度のチョップがカメラにヒットする。

 

「これで直ったはずだ。さあ、早く済ませてくれたまえ」

 

 その一言で、一気に騒がしさが増した。全員が、思い思いの場所に行こうとするのに、芹那がテキパキと指示を出していく。

 

「モニアちゃんはそこ! 動かない! ほらマスター、モニアちゃんの後ろ立って。あ、ちょっと佑也、そのコーヒー避けといてよ? 梨香さんはもう一歩右! と言うかみんな全体的に中央によってよって!」

 

 そう言われるがままに、梨香は一歩動く。しかし全体的にぎゅっと寄っているせいか動きづらく、バランスを崩して少しよろけてしまった。

 

「大丈夫?」

 

「っと、ごめん……って、なんか楽しそうね」

 

 そう指摘されたチャドはふへへと笑って言う。

 

「俺写真撮られるの初めてだからさ。前から興味はあったんだけど」

 

「へぇ。私はあんま得意じゃないけど、でも——」

 

 と、梨香が言いかけたところで、パシャリと音がした。唐突なシャッター音に、つい全員が顔を見合わせてしまう。そしてカメラの方を見やれば、天使くんがいつの間にかカメラを覗き込んでいた。

 

「お〜、撮れてる撮れてる♪ よ〜し、この調子で本番も行ってみよ〜!」

 

 その一言で、全員がカメラの方を向く。梨香は、あまり写真を撮られるのが好きじゃない。どうしても、上手く作り笑いができるか不安になってしまうから。でも、たまになら。それで、ここでなら。悪くは無いかななんて、思うのだった。

 

 

 

 それから数日後の事。

 

 難しい顔で、マスターが写真を見つめていた。その写真は、少し前に撮った集合写真だ。あまりにも写真機が古いので心配だったが、近くの写真屋に頼んだら快く現像してくれた。写っているのは、十二人。そう、おかしなことに全員写っているのだ。

 

 よく考えてみてほしい。写真を撮る時には、一人シャッターを押す人が必要なのだ。あの時それを担っていたのは確か、天使くんだった筈。

 

 が、その天使くんは、しっかりと映っている。端の方で、いつにもましてニコニコ顔で、両手でピースサインまで作って。

 

 当然、あの古臭い写真機にセルフタイマーなんてハイカラな機能は無い。ひょっとして、自分の記憶が間違っているのだろうか。しかし、それでも話は変わらない。現像された写真には十二人全員写っているのだから。

 

 一体どういう絡繰りなんだと、マスターは暫く一人で考え込んでいた。

 

 




多分12人全員が1度に出ているのはこれが初ですね

あ、これは宣伝ですけど、千字に満たない小ネタをTwitterの私のアカウントで消化していくことにしました。見に来てね★


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4.マンティコア 上

「それじゃあ、おやすみ、なさい」

 

 そう言って、モニアが上の自分の部屋へと戻っていく。そしてその後ろをポティーもついて行った。そんな二人(一人と一匹?)を見送って、マスターはぽつりとつぶやく。

 

「あれも随分懐いたな」

 

 あれと言うのは、ポティーの事だ。その言葉に、カウンターで酒を飲んでいたチャドが苦笑交じりに応じる。

 

「ほんとだよなー、最初の時からじゃ想像できねぇよ」

 

「最初……そう言えば、あの子が来る前になんか騒ぎがあったんだっけ?」

 

 そう言えばポティーがここに来た経緯を何だかんだ知らなかったと、梨香が聞く。何故か今まで、ポティーがどこから来たのかすら触れられていなかったのだ。

 

「騒ぎって程でも無いだろ」

 

「にしては、大分苦労したけどな」

 

 事情を知っているらしい二人はそういって顔を見合わせる。しかし、知らない梨香にとってはさっぱり意味が分からず、頭上に? が浮かんだ。

 

「あー、何だっけその話。確か……ミト博士がどーのこーのって言って無かった?」

 

「私はネクロ君が酷い目にあったって聞きましたけどねぇ」

 

 そこに、その話が気になったらしい神尾と芹奈も会話に加わって来る。段々、情報が増えてごちゃごちゃしてきた。

 

「ま、あいつがちょっと暴れたってだけの話だな」

 

「いや全く分かんないから。一から説明してよ」

 

 それを乱暴に纏めたマスターの言葉に、思わず梨香が突っ込む。そんなので分かったら苦労しない。しかしマスターは実に面倒くさそうな顔をした。

 

「つったってなぁ、俺だってそんなに良く知らねぇんだよ。あんときはモニアとここに居たしなぁ」

 

「俺に丸投げしただけだしな」

 

 そんなマスターの言葉に、グラスを傾けながらボソッとチャドが突っ込む。

 

「って事だからチャド、お前が説明しろ」

 

「俺かよ」

 

 また丸投げじゃんかとかなんとかぶつぶつ言いながらも、チャドは手にしたグラスを置いた。その視線が、記憶を掘り起こそうと空中を彷徨う。

 

「えーっと、いつの話だっけ? 四月?」

 

「三月」

 

「そう、この前の三月。多分平日だったんだと思うんだけど、そん時はなんか天気が良くてさ——」

 

 

 

 段々と風の冷たさが緩んできた、三月のある日の事。バーの中は何時になく閑散としていた。夜の賑やかな様子からはかけ離れているが、昼間はまぁ、大体こんな物である。

 とは言え誰も居ない訳ではなく、カウンターではチャドが座ってだらだらと喋っていた。それに食器を拭きながら適当に相槌を打っているのがマスターで、モニアは拭き終わった食器を棚に仕舞っている。話している内容に特筆すべきことも無く、正に普段のアパートの昼間の姿だった……のだが。

 

 突如として、何か重い物が吹っ飛ばされたような音がアパート中に響いた。まさしく建物の上から下までを貫く轟音に、驚いたモニアが手に持った食器を取り落とす。しかし陶器が砕ける音は、間を空けずに響いた獣の咆哮の様な物に掻き消された。

 割れた食器の破片を拾い上げようとするモニアを手で制し、マスターは上を見上げる。

 

「何だ? 上からだよな、聞こえたの」

 

 微かにではあるが、ぎしぎしと床が軋む音も聞こえる。大きな動物か何かでも入り込んだのだろうか。しかし、一体どこから? 

 見てこようかと、チャドが立ち上がる。しかし上から聞こえてくる者とはまた別に、一人分の足音を聞きつけてすぐに立ち止まった。

 

「お、誰か来るよ」

 

 その足音の主は、何時になく急いでいる様子だった。勢いに任せて扉を押し開け、息を吐く間もなく言い放つ。

 

「マスター。少々大変な事になってしまった様だ」

 

 ミト博士は肩で息をしながら、その場に膝をついた。体力切れの様だ。

 

 

 

 マンティコアと言う怪物の名を聞いたことは無いだろうか。いわゆるキメラの一種である、想像上の生物の事だ。主な特徴は赤い体に人の顔、大きさはライオンほどで、尻尾の代わりにサソリの毒針を持つと言う。まぁこの手の生物によくある様に、そのあたりの特徴は文献などによって少しずつ差異が見られるのだが。

 兎も角、紆余曲折あってそんなマンティコアに関する伝承を調べていたミト博士は、思った。ライオンとサソリの遺伝子を組み合わせてあれやこれやすれば、この怪物を再現できるのではないだろうか、と。

 

「勿論、完璧な再現は難しい。それは分かっていたさ。しかし、もどきと言えるまでに近づける事は現代技術でも十分に可能だ。そうは思わないかい?」

 

 珍しく走って乱れた息を整えるなり、ミト博士はとうとうとマンティコアに関する説明を述べた。そして最後を締めくくった文言に、マスターは渋い顔で言う。

 

「で、作ったのか」

 

「……可能性があれば、挑戦するのが科学者の使命だよ」

 

 視線を逸らしながらも、ミト博士はその言葉を遠回しに肯定した。一応、不味い事をやらかしたと言う自覚はあるらしい。思わず、マスターは深い深い溜息を吐いた。

 

「しかし、余り悠長な事を話している余裕はないかもしれない」

 

 そう言いながら、ミト博士はカウンターに座り足を組んだ。あまり焦りのある態度には見えない。

 

「実験をする前に逃げられてしまったので確かな事は言えないが、伝承ではマンティコアは人を喰うらしいのだ。万が一、敷地外に出て通行人でも襲われて居たら事だ。ここが表沙汰になったら大惨事だろう」

 

 あまりぞっとしない話だ。しかしマスターはいつもの調子で、問題ないと請け負った。

 

「さっき、アパートを取り囲む結界を張った。目に見えない壁みたいなもんだ。マンティコアだろうが何だろうが、壊せるようなもんじゃないから安心しろ」

 

「そうか、それなら暫くあれの行動を観察したいのだが——」

 

「それは無理だな」

 

 ミト博士が言い切る前に、マスターはその要望をバッサリと切った。あからさまに、ミト博士は落胆した様子を見せる。あくまで実験重視のミト博士の姿勢に、マスターは苦笑交じりにその訳を説明した。

 

「そろそろ買い物行かねぇとなんねぇんだよ。あれが外に出られないって事は、俺達も出られないって事だからな」

 

「……分かった。それなら、あれの実験はまた後日に回すとしよう。捕獲が先だ。で、その捕獲は誰がやるんだ?」

 

 まさか私がやれると思っているのか? とミト博士は腕を組んで無駄に尊大な態度を取る。

 

「にしたってなぁ、あんなの捕まえるなんて、相当めんど——骨が折れるぞ」

 

 マスターも自分が行く気は無い様だ。そして二人の視線は必然的に、カウンターで事の成り行きを見守っていたチャドに向いた。

 

「俺だってやだよ! 今日、めっちゃ天気いいんだからな」

 

 しかし、そのチャドも気が進まない様子だ。

 

「お前が行かないんだったら誰が行くんだよ」

 

「それこそマスターが行けよ。別に俺は外出れなくても困んねぇし」

 

「お前なぁ。入る事も出来ねぇんだから、誰かが帰ってくる時に困——」

 

 そこでマスターは言葉を切った。モニアが服の裾を引いたからだ。どうしたのかと振り返れば、モニアは少しおずおずと口を開く。

 

「あ、あの、ネクロくん、が、戻って、来ません」

 

「「「……あ」」」

 

 言われた意味に気づいた3人の声が、綺麗に揃った。そう言えば、ネクロは昼食を食べ終わって直ぐに裏庭に行ってしまっていたのだ。当然、それから戻ってきてはいない。

 

「チャド、行ってこい!」

 

「りょ、了解!」

 

 流石にこれ以上何か言う事も出来ず、チャドは慌てて立ち上がった。

 

 

 

 




アクション始まるよー


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5.マンティコア 中

 ネクロは、西洋世界出身の少年だ。従って学校などに行く必要もなく、貯金を切り崩して生活しているので、特にどこかに出かけるという事も無い。そんなネクロが普段何をしているのかと言えば、運動と言うかトレーニングである。とある理由から習慣となっていたそれを、ネクロは毎日続けて居た。特にやめる理由も、やる事も無いからと言って。

 

 トレーニングの内容は日によって様々だ。近所を走り込んでくることもあれば、部屋の中でストレッチをしている事もある。そして今日ネクロがしていたのは、綱渡りの練習だった。

 綱を結んでいるのは一階の空き部屋の窓の桟と、隅の方に一本だけ生えている木との間だ。丁度裏庭を一直線に横切る形となるように張られたロープの高さは、大体人一人分。この高さでは、落ち方が悪ければ怪我をするだろう。

 

 しかしネクロは怖気づく事も無く、その上を行ったり来たりしていた。スキップしてみたり、縄を鉄棒の様にして回って見たり。一つ一つの動作に危な気は無く、随分と慣れた様子だ。

 

 そこへ、突如として轟音が響いた。ミト博士がマンティコア(仮)に吹き飛ばされた音である。しかし、そんな事を知る由もないネクロは、驚いて思わず足を滑らせた。右足がロープを踏み外し、その体が前のめりに滑り落ちる。

 

 しかし、あわや地面に激突する直前、ネクロは右手でロープを掴んだ。地面すれすれのところをつま先が掠める。あーびっくりしたと、思わず一人で安堵のため息をついた。

 ロープの上に再度体を引っ張り上げ、何かあったのだろうかとアパートの方を見やる。けれど特に異常が合ったようには見えない。少し考える素振りを見せながらも、ネクロはまた練習を再開した。

 

 両手を真っすぐ横に伸ばし、すっと立ち上がる。やじろべえの様な格好でバランスを保ちながら、ロープの上をゆっくりと歩いた。足を踏み出す度にロープが揺れ、しなる。

 そんな風にして、木の方の端に辿り着いた。そしてまた同じことを繰り返そうと、木の幹に背を向ける様にして振り返ったその時。ネクロは、その目をぎょっと見開いた。

 

 建物の陰から、異様(……)な姿形をした生物が姿を現したのだ。

 大きさは普通のライオンほど。顔も足もたてがみも、普通のライオンのそれであった。しかしその体毛は所々抜け落ち、皮膚が見える筈の所には黒光りする蠍の鱗が顔を覗かせていた。そして何よりもそれをライオンから一直線に遠ざけていたのは、随分と巨大化した蠍の尻尾である。何かを威嚇する様に高々と持ち上げられたその尻尾の先には、しっかりと毒液の滴る針もついている。

 

 不気味な生物にネクロは思わず顔を引き攣らせ、慌ててロープからそっと降りた。考えずとも対処法は分かる。怪物——マンティコア(仮)はまだこちらには気付いていない。気づかれる前にこの場から離れるべきだ。

 そう考え、ネクロは足音がしないようにゆっくりと道路の方に後退っていく。しかし、道路とアパートの敷地との境界線を越えようとした所で、透明な壁にぶつかってしまった。マスターの張った結界にぶつかったのだ。しかしそんな事情をネクロが知っている訳が無い。いったいこれは何の嫌がらせだと、ネクロが軽いパニックに陥りかけたその時。

 

 マンティコア(仮)がネクロに気付いた。しかも何故か怒ったような咆哮を上げて、こちらに襲い掛かって来る。さして広くない裏庭を数歩で横切って、マンティコア(仮)はあっという間にネクロとの距離を詰めた。振り上げられているのは、鋭い鉤爪が光る前脚だ。避けなければと頭では思う。けれど足は竦んで動かない。もうだめだ、とネクロは意味も無くぎゅっと目を瞑る。

 

 ——しかし、衝撃は何時まで立っても来なかった。棒立ちしたまま、ネクロはその目を恐る恐る開く。

 見れば、マンティコア(仮)はネクロに背を向け、別の誰かに飛び掛かっていた。しかしその相手——チャドはそれを慌てる事も無く避け、手に握ったナイフを投げて攻撃している。ナイフは、不思議な事に突き刺さった途端に消えてしまう。けれど、マンティコア(仮)の体からは確かに血が流れていた。大ダメージと言う感じでは無いが、目に見えて苛々している。そのせいか、ネクロの事はすっかり忘れてしまったらしい。

 

 襲い掛かって来た鉤爪をチャドは軽く避け、大ぶりな尻尾の攻撃をナイフで弾く。よく見ると投げているのは左手のナイフだけで、右手のナイフは少し大振りだ。噛み付いてきたマンティコア(仮)の頭を跳んで避け、まるで踏み台を踏む様に上から蹴る。

 

 その様子を完全に蚊帳の外の状態で眺めていたネクロは、はっと気が付いた。こんな所でぼうっとして居る場合じゃない。しかし、外に逃げることは出来ず、あの中に割って入る事等論外だ。それなら一体どうすれば良いのか。

 

 答えは簡単、地下のバーに逃げるのだ。

 

 

 

 薄暗い階段を滑り落ちるほどの勢いで駆け下り、バーの扉を勢いよく押し開ける。そしてマスターにマンティコア(仮)の事を伝えようと顔を上げ——そこに広がる光景に口を閉ざした。

 

 バーの床の丁度中央に、ミト博士が座り込んでいる。そしてその周りには、ありとあらゆる雑多なものが広げられていた。何かのネジがあっちこっちに散らばり、少し離れた所には一本足の部分を外された椅子が転がっている。何故か食べ物らしきものも見える中、雑多な周囲を全く気にかけることなく、ミト博士は手元の筒を工具でいじっていた。

 

「ミト博士、何やってんの?」

 

 今が緊急事態という事も頭から吹っ飛び、ネクロは思わずそんな質問をする。聞かれて、ミト博士はようやくネクロに気付いたらしい。顔を上げ、手に持った筒を掲げて見せた。

 

「上のマンティコア(仮)を捕らえる為の武器を作っていた」

 

 武器と言う割には、ぶん殴る以外の用途があるようには見えない。ひょっとしてこれは、あの椅子から取り外された脚の部分だろうか? 呆気にとられるネクロをよそに、ミト博士はラップを被せてあるコップを筒の片方の端に押し込んだ。

 

「丁度いい。少々重くなってしまった事だし、これは君に任せる」

 

 そしてそんな事を言いながら、筒をネクロに渡す。渡された筒は妙に重い。

 

「いや待て、何のことだか全く分かんないんだけど? まずこれは何か説明しろよ」

 

 訳が分からず、ネクロは混乱する。無理もない。しかしミト博士は我関せずと言った表情で、周囲に散らばったものを片付け始めた。そうだなぁ、何て呟くその様子は余裕たっぷりと言った感じだ。

 

「これは言うなれば、バズーカ砲だ。ここの穴に火のついたマッチを差し込むと、中の気体が爆発する。するとその爆発の勢いによって、ここに詰め込まれた網が対象に向かって発射される。網にはハエ取り紙が付いている。動きを止めるには十分だろう」

 

 物凄く細かい所を端折った大雑把にも程がある説明を何とか飲み込んで、ネクロはその筒をまじまじと見つめた。そしてまた、質問をする。

 

「ミト博士って、何者なんだ?」

 

「学者だ。専攻は生物学だよ。あぁそれから、マッチはここにある。健闘してくれたまえ」

 

 ポンとその手にマッチ箱を握らされて、ネクロは釈然としない思いを抱えたまま裏庭にとんぼ返りする事になった。

 

 




ちょっとした設定
 西洋世界の人間は大体魔法が使えます。チャドが使っていたのもその一種です。生成魔法と言い、手のひらサイズの物なら大体作れます。衝撃に弱く、魔力が元なので壊れると跡形もなく霧散します。戦闘シーン以外に活用予定がないので覚えなくて良いです。
 チャドの格好良いシーンは戦闘以外に無いのかもしれない。


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6.マンティコア(仮) 下

 

さっきまでと変わらず薄暗い階段を、ネクロは大急ぎで駆け上っていった。その胸中では、ぐるぐると不安が渦巻いている。

 

チャドは無事だろうか。あの様子を見るに、荒事に慣れていそうではあった。けれど相手は正体不明の怪物だ。大けがなんてことも有り得るかもしれない。あるいは——

ふっと最悪の予想が浮かび、慌てて頭を振ってそれを追い払った。兎に角、一刻も早くこれをチャドに届けなければならない。そう自分に言い聞かせながら、半ば体当たりのような勢いで扉を押し開けた。

 

外に出ると、眩しい陽光に一瞬目が眩んだ。今日寒い割に天気が良い。眩しいのを堪え、裏庭の方へと回る。さっきから聞こえて来る物音は、マンティコア(仮)が暴れている音だろうか。見つかったらまずいと、ネクロは建物の陰からそっと裏庭の様子を窺った。すると

 

「ネクロ! どうした?」

 

そういうチャドの声が上から降ってきた。声の聞こえた方に視線を向ける前に、勢いよくチャドがネクロの真横に着地する。まさか、吹き飛ばされたのだろうか。それにしては、随分高い所から落ちてきたようだけれど。

 

「え、えっと、これ。ミト博士から預かってきた」

 

しかし、土埃にまみれてはいるものの、特に大きな怪我があるようには見えない。その事に少しホッとしながら、ネクロは例のバズーカ砲を見せた。そして目を丸くするチャドに、ミト博士から聞いた説明をそのまま伝える。

 

しかしチャドがバズーカ砲を受け取る前に、マンティコア(仮)がこちらに気付いた。慌ててナイフを構え、チャドはその場から駆け足で離れていってしまう。当然、バズーカ砲は再び建物の陰に逃げ込んだネクロが持ったままだ。

 

「え、ちょ、こ、これ!」

 

「ごめん! それ持って逃げるの多分無理!」

 

そして返ってきたのはそんな言葉。こんな物をどうしろと言うのかと言う顔をするネクロに向かって、チャドは再び声を張り上げた。

 

「とりあえず、それはネクロに任せた!」

 

「は!?」

 

「合図したら撃ってくれるだけで良いから!」

 

「……分かった!」

 

何か考えがあるのだろうかと思い、少し迷いながらもネクロはそう叫び返す。準備だけはしておこうと、ポケットに放り込んでおいたマッチ箱を取り出した。そしてまた、建物の陰から二人(一人と一匹?)の様子を窺う。

 

振り上がったマンティコア(仮)の前脚を、チャドは左手のナイフで薙ぎ払う様にして弾いた。耳障りな金属音に、マンティコア(仮)が苛立つように咆える。思いっきり後ろに引いた右手にはナイフが三本。しならせるように腕を振って、目を狙う。しかしマンティコア(仮)はそれを甲羅に覆われた尻尾で防いだ。当たった端から消えていくナイフに舌打ちをして、飛び退る。

 

段々攻撃が通らなくなってきた。どうやら、こっちの動きを学習しているらしい。トリッキーな動きを長所とするチャドにとってはまずい流れだ。

適当にナイフをばらまきながら考える。とにかく、打開策をネクロが持っている以上、今は自分に意識を集中させた方が良い。防衛戦は苦手なのだ。ネクロの方を狙われるなんてことになったら目も当てられない。

 

考えながらも、手は止めない。しかし、段々と相手の動きは良くなって——いや、こっちが疲れてきているのだ。

 

「クソッ、これだから昼間は嫌なんだよ」

 

思わず、苛立ち混じりに悪態をついた。日の光が差していると言うだけで、いつもより明らかに動きが鈍くなるし、疲れるのも早くなるのだ。吸血鬼と言うのも楽じゃない。半分だけど。

 

余計な事を考えていたせいか、それともやっぱり疲れのせいだろうか。視界の端に、黒い尻尾が映った。ほんの一瞬、避けようとする動きが遅れる。しまったと思うと同時に、衝撃が襲ってくる。思いっきり尻尾に薙ぎ払われて、チャドは吹き飛ばされた。

 

「チャド!」

 

思わず、ネクロがそう叫ぶ。しかし返事は無い。勢い良く木に叩き付けられたチャドの体は、力なく地面に崩れ落ちた。好機と見たのか、マンティコア(仮)は勢い良くチャドに飛び掛かっていく。その尻尾を、まるで興奮を表すかのように高く掲げて。何とかしなければと、ネクロはマッチ箱からマッチ棒を取り出す。けれど、到底間に合いそうには無い。マンティコア(仮)の牙は容赦なくチャドの首を狙っている。予想される惨状に、思わずネクロは目を背けようとした。

 

しかし、ネクロの予想は華麗に裏切られた。

 

鼻面が触れるか触れないかと言う段階になって、チャドの体が突如として動いた。その足は力強く地面を蹴り、高く高く飛び上がる。そして重力を嘲笑う様に、黒い蝙蝠の羽が空中に翻った。

 

突如として目の前から獲物が消え、流石のマンティコア(仮)も一瞬動きを止めた。面白いくらいぴたりと静止したマンティコア(仮)目掛けて、チャドは空中からまたナイフを放つ。今までのよりも少し大振りなそれは、尻尾を覆う甲羅の隙間に突き刺さり、それでも勢いを殆ど失わずに尻尾ごと木に突き刺さった。

 

尻尾を刺された痛みか、それとも動きを止められた怒りか、マンティコア(仮)が咆える。その声に掻き消されないよう、チャドは声を張り上げた。

 

「ネクロ!」

 

呼ばれて、ネクロははっとする。そして、慌てて手に持ったマッチに火を付け、バズーカ砲に点火した。焦りからか、その手付きは若干おぼつか無い。それでも、バズーカ砲は問題なく作動した。

 

バゴン! と言う鈍い音が裏庭に響いた。思ったよりも反動は大きく、思わずネクロはその場に尻もちをつく。バズーカ砲から飛び出したのは、ハエ取り紙が巻き付けられたロープだ。網状に広がったそれに絡め取られ、マンティコア(仮)は動きを止めた。

 

「っし! やった!」

 

何とかロープを解こうともがいてはいる物の、ハエ取り紙が巻き付いて逆に絡まってしまっている様だ。そして自棄になったのか、マンティコア(仮)は絡まった状態のまま逃げ出そうとする。しかし、

 

「逃がすかよ!」

 

そう言うチャドの全体重をかけた踵落としによって、無事気絶させられたのだった。

 

 

 

その後、マンティコア(仮)は再びミト博士の部屋の中に運び込まれて行った。今度は逃げ出さないようにとしっかりぐるぐる巻きにされていたが、何となく哀れみを誘う表情だった。よく考えてみると、あのマンティコア(仮)こそが真の被害者なのかもしれない。

そして黒幕たるミト博士は、チャドとネクロからたっぷりと文句を言われ、マスターからバズーカ砲を作るのに使った物の請求書を突き付けられ、ついでに次は無いとしっかり釘を刺されていた。まぁ、十分に温情のある処置だったと言えるだろう。

 

こうして、このマンティコア(仮)事件は幕を閉じ、アパートには元の日常が戻ってきた。——いや、こんな事件も含めて、これがこのアパートの日常なのだった。

 

 

 

全ての後片付けがようやく終わったのは、太陽が西に傾き出した頃だった。茜色に染まった空を自分の部屋の窓越しに見つめて、ミト博士はぽつりと呟いた。

 

「今日は、疲れたな」

 

部屋の中は静かで、聞こえるのはミト博士の高くも低くも無い中性的な声だけだ。

 

「それにしても、あの結果には驚いた。そもそも、ベースにした生物には無い形質が——」

 

何時もの様な調子で、いや、いつもよりも少し静かな調子で、ミト博士は一人ぶつぶつとそんな事を話し出す。

 

「——ねぇ、先生。私は今回の実験で、一つの仮説を得たんだ」

 

そして、ふと、ミト博士の口調が変化した。部屋の奥に置かれた机に視線を向けて、その上に並んだ標本の筒の中から、一つを摘まみ上げる。筒の中のホルマリンが、ちゃぷりと揺れ動いた。

 

「ひょっとしたら、ここには私の知る法則よりも優先される“何か”があるのかもしれない」

 

ミト博士の視線は机から、摘まみ上げた筒の中の標本へと向く。一人しかいない静かな部屋で、ミト博士は誰かに向かって話し続けた。

 

「それは私の知らない別の法則かな。でも、人の意思かもしれないなんて思ってしまうんだ。少々馬鹿げた仮説に聞こえるかな」

 

丸い標本が、ホルマリンの中でくるりと回転する。標本となった眼球の瞳孔が、ミト博士の視線とかち合った。

 

「でも、それなら、ここで先生を蘇生する事が出来るかもしれない」

 

にんまりと、ミト博士の口が弧を描く。

 

「どう思う? 先生」

 

当然ながら、光を失った眼球は、何も答えない。

 

 

 

「ここまでが俺の知ってる話。でも、何でモニアに懐いたのかは良く知らないんだよな」

 

そう話を締めくくり、チャドはマスターの方を振り返った。マスターは、話の間中キッチンの片づけを進めていたらしい。話を振られ、マスターは大きな鍋をカウンターの下に仕舞ってから、顔を上げた。

 

「ん? あぁ、モニアがあいつに餌やってたんだよ」

 

「だってさ」

 

言われて、あぁと納得した様な声が上がった。

 

「あいつ、食べ物に直ぐ釣られるもんな」

 

そう言ったのは、カウンターの端で居眠りしていた筈の佑也である。そう言えば、佑也もたまにポティーに餌をやっていた。餌と言うか、お菓子を。

 

「佑也、何時から起きてたの?」

 

「丸投げの下りから」

 

「最初っからじゃん」

 

「ポティーって名前にしか反応しなかったのは、そういう事だったのね」

 

軽い調子で言葉を交わす芹奈と佑也を横目に、梨香がそんな事を言った。

当初、住人達は急に現れたポティーの事を好き勝手な名前で呼んでいた。しかし、当の本人がそれには全く反応しなかったのだ。唯一反応したのが、モニアのつけた『ポティー』と言う名前。そんな訳で、いつの間にか皆がその名前で呼ぶようになった。

 

「だろうな……あの見た目にしちゃあ、ちょっと可愛らしすぎる気もするが」

 

そんなマスターの言葉に誰かが反応して、何時もの様にだらだらと会話が続いていく。それを一歩引いた態度で見ていた神尾が、ぽつりと呟いた。

 

「それにしても、一体どうしてミト博士はあんなものを作ろうと思ったんでしょうねぇ……」

 

その答えを知っている者は、ここには居なかった。

 



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閑話 エプロン

 ある平日の夜の事。カウンターに座った梨香は、一人ちびちびとグラスを傾けていた。

 そのグラスの中身はもう半分ほどに減ったウイスキーで、隣の小皿に入っているのはおつまみのミックスナッツである。これが最近お気に入りの取り合わせなのだ。

 ふと時計に視線を向けると、もう十時を過ぎそうだった。今飲んでいるのが終わったら、そろそろ引き上げた方が良さそうだ。明日も何時も通り仕事なのだから。

 

 それはさておき。

 

 少々奇妙な成り行きでこのアパートに越してきてから、早い物でもう二週間が経った。最初こそ多少の不安もあったが、何だかんだ仕事に追われて居たらいつの間にか馴染めてしまっていたのである。こうして、一人でふらっと晩酌するぐらいの余裕も出来ていた。

 

 しかし最近、一つ気になるものがあるのだ。

 

 梨香の視線はその気になる物を追いかけて、グラスからゆっくりと持ち上げられていく。

 カウンター席に座っているのだから、上げた目線の先にあるのはまずカウンターだ。その中には、いつも通りマスターとモニアが居た。マスターは片付けをしながら、奥の席に座っている神尾の話し相手をしていて、モニアは話に加わることも無く、片付けを黙々と手伝っている。この、何の変哲もない正によく見る光景の中に、梨香の気になる物が一つあった。

 

 梨香が気になっている物とは、モニアがいつも着けているエプロンなのだ。茶色の少し古びたそれは、モニアの体格に合っていないのか、それとも上手く結べていないのか、よくずり落ちてしまっている。それが何だか不憫に見えて、どうにかしてあげたいと前から思っていた。

 

「ねぇ、モニアちゃん」

 

 少し心の準備をして、梨香はそう声をかける。すると、モニアは酷く慌てたような様子で勢いよく振り返った。その拍子に、また少し肩紐がずれる。

 

「そのエプロン、大分大きいけど、動きづらいんじゃない?」

 

 少し遠回しに話を切り出してみた。しかしモニアは、言い淀むばかりで中々返事をしない。

 

「良かったら、丈とか直そうか? あ、私裁縫とか得意なの。嫌だったら、良いんだけど」

 

 そう言って、梨香はモニアの返答を待った。ちょっと言い淀んでしまったのが恥ずかしい。が、しかし、モニアはウロウロと視線をさ迷わせるばかりで答えない。と言うよりは、どう答えたものか分からないようだ。迷いながらエプロンを見て、次に梨香を見て、そして助けを求める様にマスターに視線を向ける。

 

 話の行方を黙って見守っていたマスターは、視線を向けられて、苦笑気味に口を開いた。

 

「あー……梨香なら大丈夫だと思うぞ」

 

 言われて、モニアは迷いながらも意を固めた様だ。そっと腰の前で結んでいた紐を解いてエプロンを脱ぐと、畳んで梨香へと差し出す。それを受け取って、梨香は少し不安そうにしているモニアに励ます様な言葉をかけた。少し、笑顔が引き攣らないかどうかが気にかかる。

 

「大丈夫、可愛く直して見せるわ」

 

 まだ、モニアがこちらを信頼してくれたとは思えない。それでも頷いてくれたので、頑張らなくちゃと梨香は自分に言い聞かせたのだった。

 

 

 

 翌朝。モニアはエプロンを付けず、そわそわとカウンターの中で梨香を待っていた。やっぱり、エプロンが無いとどうにも落ち着かない。別に、具体的に無くて困る事は無い。でも、大事なものだから。

 

 モニアはまた、ちらりと時計に視線を向ける。普段通りなら、そろそろ梨香が起き出してくる時間だ。けれど、カウンター横の住民用の扉が開く気配は無い。

 バシャバシャと水音をたてて洗い物をしながら、モニアは待つ。しかし、十分、二十分と経っても、扉が開く気配は無かった。

 

「さて、そろそろ行きますかねぇ」

 

 そして遂に、ご馳走様と言って神尾が席を立った。いつも大体梨香と同じ時間に出発する神尾がだ。いよいよ不安になりだしたモニアの背中を、冷たい汗が伝う。すると

 

「おはよ!」

 

 酷く慌てた様子で、カウンター横のドアから梨香が姿を現した。と言っても、何時も通りに化粧も服もちゃんと整えているのは流石だ。

 

「どうした」

 

「寝坊したのよ! 見て分かるでしょ!! あ、朝ご飯は良いわ。食べてたら間に合わないし」

 

 慌てた梨香につっけんどんな様子で言われて、マスターはよそおうとしていた茶碗を下ろした。

 

「行く前に、これだけ渡そうと思って」

 

 そう言いながら、梨香はカバンの中から何かを取り出す。綺麗にアイロンまでかけられたそれは、間違いなくモニアが昨晩渡したエプロンだった。

 

「もう出来たのか。早いな」

 

「おかげで寝坊しちゃったのよ……ま、アラーム掛け忘れたのが悪いんだけどね」

 

 そんな事を言う二人を他所に、モニアは早速とばかりにエプロンを広げた。

 まずぱっと見で分かったのは、丈が短くなった事だった。モニアの背丈に合わせて切り詰められ、丸く可愛らしくなっている。そして肩にかけて結ぶ二本のリボンは切り取られ、首に引っ掛ける部分と、腰に回して結ぶ部分に分かれていた。

 具体的な事は良く分からないけれど、間違い無く着やすくなったし、随分手間が掛かっている事も、一目で分かった。

 

「って、こんな話してる時間無かったわ。もう行かないと」

 

 そそくさと、梨香が出発しようとする。その服の裾を、慌ててモニアは掴んだ。どうしても、言わなきゃいけない事があった。

 

「え、えっと……」

 

 でも、口は上手く言う事を聞いてくれず、言葉が詰まる。いつもの事だが、今日は何時にも増して焦りが募っていった。そしてそうなればなるほど、言うべき言葉も分からなくなってしまうのだ。

 

 急いでいるんだから、速く伝えなきゃ。その思いだけが先走って、モニアは服を掴んだまま立ち尽くしてしまう。すると、梨香は小さく笑った。

 

「大丈夫、ゆっくりで良いわよ」

 

 言われて、少しだけモニアの緊張が緩んだ。大きく息を吸って、吐く。大丈夫、たった一言、それだけ伝えられればいいのだから。

 

「…………あ、ありがとう、ござい、ます」

 

 その言葉を聞いて、梨香は本当に嬉しそうに笑った。

 

 

 




ハッピーバースデー記念にモニアちゃん(3/20)と梨香さん(3/27)の馴れ初めでした。梨香さんはお裁縫が上手なのでたまに他の住人の繕い物を引き受けてたりします。この前はミト博士の白衣にクマちゃんワッペンを付けて「外せ!」と言われてました。
「可愛いじゃないの、このクマちゃん」
「煩い。そんな物は不要だ」



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閑話 三つ編みは可愛い

 重い扉を体全体で押すと、ぎぃっと低く軋む音がした。扉の向こうから明るい明かりが差し込んできて、モニアは思わずその目を瞬く。

 

「おかえりー! あ!! モニアちゃんだ!!」

 

 ヨツバの元気な声が聞こえた。身を滑らせるようにしてバーの中に入ったポティーの後に続き、モニアはカウンターの方へ歩いていった。

 

「ただいま、です。ヨツバちゃん、梨香さん」

 

 ヨツバの声に比べると随分小さく聞こえてしまうが、モニアの声はきちんと2人に届いた様だ。おかえり、と梨香も言う。

 

 が、その手は忙しなく動いていて、何やら忙しそうだ。邪魔にならないようにと思いながら、モニアは2人の方をじっと見つめた。

 

 しかし、見ても何をしているのかはよく分からない。梨香の手の中にあるのは、膝の上に座っているヨツバの髪の毛だ。何時もならツインテールに結ばれているそれは、解かれてそしていつもと違う形に変えられている。

 

「何、を、してるんですか?」

 

 梨香は忙しそうだからと、モニアは楽しそうにしているヨツバに聞いた。

 

「三つ編みしてもらってるの!」

 

 すると、ニコニコ笑顔での言葉が返ってくる。三つ編み。そんな髪型もあるのか。モニアは興味深く思いながら、再び梨香の手元を見つめた。柔らかなヨツバの髪を、梨香は手馴れた様子で動かしている。何だか魔法みたいな動きで、見ているとわくわくしてきた。

 

「ヨツバちゃん、そこの髪ゴムとって」

 

「できた!?」

 

「後ちょっとだから、動かないでね〜」

 

 ヨツバから髪ゴムを受け取って、梨香は三つ編みの先端をくくる。ヨツバの付けてる白い髪飾りは、いつもと違う位置に収まって揺れ動いた。終わり、と合図されて、ヨツバは待ちかねたように梨香の膝から飛び降りる。

 

「できた!! 可愛い!?」

 

「やっぱり似合うわね」

 

「可愛い、です」

 

 2人に褒められて、ヨツバはえへへと笑う。そして部屋にいるセツに見せに行こうと、小走りでバーから出て行った。

 

 その後ろ姿を見送るモニアの目が、何時になくキラキラと輝いている。

 

 そのことに気付いて、梨香は反射的にモニアの髪の毛に視線をやった。モニアの桜色の髪は綿毛の様にふわふわとしていて、柔らかく、何と言うか……三つ編みをするには、少々長さが足りない。

 

「あの、髪型、三つ編みって、言うんですね」

 

「そうね。3つの束で編むから、三つ編みって言うのよ」

 

「難しいん、ですか?」

 

「ううん、簡単では、あるんだけど……」

 

 梨香は、思わず言い淀んでしまう。その視線はやはり、モニアの髪の毛に向けられていた。できるだろうか……しかし、モニアをガッカリさせるのは非常に胸が痛む。どうしよう、と悩む梨香と、わくわくと未だ目を輝かせているモニア。

 

「……モニアちゃん、このピン留め付けてみない?」

 

 その後、子供の気が移りやすいことに、梨香は感謝した。

 

 

 

 〈オマケ〉

 

 ヨ「セツ見て見て!! 可愛いでしょ!!」

 

 セ「そうですね」

 

 ヨ「セツもやってもらいなよ!」

 

 セ「遠慮しておきます」

 

 リ「あら、ちょっとやってみたかったんだけど」

 

 セ「………………遠慮しておきます」

 

※最終的にやられた




ごめんなさいね短くて。しかも図らずもまた同じ2人がメインですね……
三つ編みって可愛いんですよ


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閑話 碌でもない

 休日の街だなんて禄でも無い。

 

 そんな事を心の中だけで呟いて、佑也は溜息を吐いた。目の前に広がっているのは店が立ち並ぶカラフルな通りと、そこを右往左往する人の群れ。空に昇った太陽は段々とその力を増してきていて、雑踏のざわめきが酷く耳障りだ。正直な所、もう帰りたい。

 

 がしかし、今日は個人的な用事では無く、芹奈達との約束があって来ているのだ。従って、中々帰れない事は予想済みだった。久しぶりに四人で買い物に行けると、芹奈が数日前から楽しそうにしていたし。と言ってもどうせ買い物するのは芹奈と梨香の二人で、連れ回される自分とチャドは荷物持ちかナンパ避けが良い所だ。頼まれたのが芹奈じゃなきゃ絶対に断っていた。

 

 そんな事を考えていると不意に信号が赤に変わって、人の流れが滞った。ぼーっとしていた佑也はそれに対応しきれず、人にぶつかってよろけてしまう。地面に尻もちにつきそうになるが、特段運動神経が良い訳でも無いので咄嗟に出来るのは手をつくことぐらい。しかしそんな佑也を、伸びて来た一本の腕が支えた。

 

「大丈夫?」

 

 佑也の腕を咄嗟に掴んだのはチャドだった。その腕に縋って何とか立て直して、佑也はこくりと頷く。

 

「ありがと」

 

 しかし辺りを見回すと、芹奈と梨香の姿が見当たら無かった。佑也ははぐれてしまったかと慌てて携帯を取り出し、

 

(……合流してもどうせ買い物に付き合わされるだけだしな)

 

 直ぐに仕舞う。どうせなら、はぐれてしまったという名目で好き勝手しよう。そう思って、佑也は支えてくれていたチャドの腕を掴み、さっきまでとは反対方向に歩きだした。

 

「どこ行くんだ?」

 

「いや、決めてねーけど」

 

 どうしようか。この時間帯ならカフェなんかは混んでいるだろうし、だからと言って特にやりたい事も無い。ぼんやりと目的も無く二人で歩いていくと、ふと佑也は一つの店に目を惹かれた。

 

「なぁチャド、ジェラート食わねぇ?」

 

「お、良いな。あっちぃし」

 

 何人もの人が列を作っているそれは小さなジェラートの店だった。一組のカップルの後ろに男二人で並ぶ。冷たいジェラートはこの暑い日にうってつけだ。そう考えるのは皆同じらしく、直ぐに自分達の後ろにもまた人が並んでいく。

 

 しかしそれにしても、休日の原宿と言うのはそこら中にカップルが居る。右を見ても左を見ても前を見ても、だ。別に他人の幸せをやっかみはしないが、こうもいっぱいいると少しうんざりしてしまう。

 

 この街に居るカップルのうち何組が、数年後も一緒に居るんだろうか。

 

 不意にそんな考えが浮かんで、佑也は趣味が悪いと自嘲気味に苦笑した。人間は残酷なまでに気紛れだ。好きだのなんだの愛を囁いても、数年後には他の相手に同じ事を言うのが“普通”なのだから。まぁそんな事、こんな自分が言えたことでは無いけれど。

 

「なぁ、梨香達何食うと思う?」

 

 チャドに話しかけられて、佑也の意識は取り留めも無い思考から引き戻された。数秒考えて、ジェラートの味の話をしているのだと悟る。

 

「溶けるだろ、待ってるうちに」

 

「あ、そっか」

 

 何言ってんだかと肩を竦めれば、照れ隠しの様な笑みが帰って来る。そんな事をしている内に列はスムーズに進んでいき、ついに自分達の注文の番がやってきた。

 

「で、何にすんの」

 

「チョコ」

 

「纏めて払っとくから、席取ってきて」

 

「りょーかい」

 

 ピッと敬礼の様な仕草をするチャドから視線を離して、佑也は店の売り子と相対する。メニューにざっと目を通してみた。どうやらサイズが三つぐらいあるらしい。まぁ、一番ちっちゃい奴で良いだろう。メニューに載っている長いカタカナの名前を二つ並べ、佑也は二人分の代金を払った。

 

「隣の商品受け取り口でお待ちください」

 

 作り笑顔の売り子に言われて、佑也は右に一歩ずれた。そして辺りに視線を巡らせて、チャドがどこの席を取ったのか探す。

 チャドはすぐに見つかった。ここから直ぐ近くの、植木の前に置かれたベンチに座っている。ぼんやりとむけられた佑也の視線にチャドは気づかない。それを良い事に、佑也はそれとなくベンチの座るチャドの姿を観察した。

 

(なんかあいつ、結構人好きのする見た目してんな)

 

 自分の好みでは無いけれど、と心の中だけで嘯く。まぁでも、世間一般に言う顔が良いの部類には入るのだろう。服装さえ何とかすれば、それなりにモテる様になるかもしれない。

 

 とか何とか思っていたら、二人の女がチャドに話しかけに言った。話している内容は分からないが、その二人の意図がうっすらと透けて見えて、佑也は思わず嫌な顔をしてしまう。いわゆる逆ナンと言うやつか。男女を問わずそう言う事をする人の事を、佑也はどうしても理解できないのだった。

 

 しかし話しかけられたチャドは何を思っているのか、いつもと変わらない調子で接している様だ。やってきたジェラートをさっきと同じ売り子から受け取り、佑也はその二人が離れていくのを見計らってチャドの元へ歩いて行った。ああ言う手合いに絡まれるのはなるべく避けたい。

 

「おまたせ」

 

「お、お帰り。いくらだった?」

 

「四百円」

 

「……高くね?」

 

「そんなもんだよ」

 

 そう言ってチャドに茶色い方のジェラートを渡し、佑也もベンチに腰掛けた。ジェラートをスプーンですくいながら、佑也はそれにしても、と話を始める。

 

「お前、ああいうのの相手よく出来るな」

 

「何が?」

 

「さっき知らん奴と話してただろ」

 

「あぁ。道聞かれただけだよ」

 

 俺も分かんねぇけど、とチャドはケラケラ笑った。それを見て、佑也は微妙な表情になる。

 

「……ほんとに道聞かれただけだと思ってんのかよ」

 

「まっさかぁ」

 

 そこまで初心じゃ無かったらしい。溶けたジェラートが指まで垂れたのを舐めて、チャドはでも、と続けた。

 

「旅は道連れ世は情けってな。実際道分かんなかったら俺も他人に聞くしさ」

 

 そんなものだろうか。ああ言うのに絡まれて碌な目に合った事の無い佑也には理解できない考え方だ。

 

「その緑のやつ何味?」

 

「ピスタチオ」

 

「ぴすた……」

 

「豆だよ、要は」

 

「ふーん、旨い?」

 

「旨いよ」

 

 そう言いながら、佑也はチャドの方にスプーンを差し出す。上に載っているのは溶けかけたジェラート。それをチャドはぱくりと口に含んだ。冷たさに少し顔を顰め、口からスプーンを引き抜く。

 

「ん、旨い。俺のも食う?」

 

「いる」

 

 はい、と差し出されたジェラートにはスプーンが付いていない。どうやらチャドはスプーン無しで食べていたらしい。仕方ないので、佑也は返された自分のスプーンで小さくチョコ味のジェラートをすくう。口に含んだジェラートは自分が食べていたものとはまた違う風に甘くて、同じ様に冷たい。

 

「そーいや、お前梨香のこと好きなの?」

 

 スプーンを咥えたままふとずっと気になっていた事を聞けば、チャドが面白い位に凍り付いた。

 

「な、ななな、なん、なんで、その事を……」

 

「見てりゃ分かる」

 

 あれだけ分かりやすい反応しておいて、どうやらバレていないつもりだったらしい。あんなのに気付かないの本人ぐらいなものだって言うのに、相変わらず変な所で抜けている。

 

「………………まぁ、否定は、しない」

 

「じゃ、目の前でああいう事するの止めとけよ。軽く見られるから」

 

「なるほど……?」

 

 分かってるのか分かってないのか、チャドは首を傾げながらジェラートのコーンにかぶりついた。ぱりぱりと軽い咀嚼音が聞こえるのに混じって、佑也の携帯が小さく通知音を上げた。芹奈からのLINEが入った様だ。

 

『どこ行ったのよ~』

 

 軽い口調のメッセージに続いたのは、腹を立てているらしい犬の緩いスタンプ。佑也はコーンを咥えて、キーボードに指を走らせる。

 

『ジェラート食ってた』

 

『え! いいな!』

 

『ここにいる』

 

 手早く携帯を操作して携帯の位置情報を送ると、帰って来たのはこっちに走ってくる犬のスタンプ。最近芹奈はこればっかり使う。お気に入りらしい。

 

「二人ともこっちくるってさ」

 

「ん、わふぁった」

 

 コーンを全部口の中に押し込んだらしい。もごもごと暫く口を動かして、チャドはそれじゃあさと話を切り出した。

 

「佑也は好きな人いねーの?」

 

「いない」

 

「じゃあ、芹奈とよくいるのは?」

 

「あれは……」

 

 口を開いてから、どういった物か悩む。芹奈との関係は色々と複雑で、だからこそあまり深く考えたくない物でもあった。明るい空とは裏腹に、陰鬱な事を考えてしまいそうだから。

 

「……友達、だよ」

 

「ふーん」

 

 信じているのか、いないのか。分かんねぇなと呟いて、佑也はぐしゃりとコーンを覆っていた紙を握りつぶした。タバコを吸いたい。でも、確かこの辺は歩きタバコ禁止だ。確かにこんな人混みで吸ったら危ないだろうし。あぁ、人混みなんて禄でも無い。

 

「お、あれ梨香達じゃね?」

 

 不意に遠くに視線を向けていたチャドが立ち上がった。チャドが大きく手を振れば、小柄な方の人影が降り返してくる。多分芹奈だろう。こいつら、よく人前でこんなことできるな。そう思いながら、佑也もベンチから立ち上がる。

 

「どこ行くんだ?」

 

「トイレ」

 

 本当はタバコ吸いに行くつもりだけどそう言う。近くの喫煙所、どこだっただろうか。そんな事を考えながら人混みを掻き分けるようにして歩いた。頭の中を渦巻いているのは、取り留めも無い下らない考えだ。

 

 羨ましいと思った。

 さっき軽く馬鹿にしたカップル達が、理解できないと一蹴したあの女達が、誰かを好きだと隠さずに認められるチャドが。

 

 恋は、愛は、好きだと言う感情は、いつも自分を悩ませる。きっとそれは皆同じだと言われるのだろう。けれど佑也にとって自分のそれは、他の人のそれと比べてずっと醜くて汚くて後ろ暗い物に見えてしょうがない。だから、悩んでしまう。

 

 どうしたら良いのだろう。どうすれば愛されるだろう。どうしたら誰かに好きと言えるだろう。一人は寂しい。それでも、拒絶される方がずっと怖い。

 

 ようやく喫煙所を見つけて、佑也はそこに入っていった。入り口近くの壁にもたれかかって、ポケットから煙草の箱を出す。乱暴な手つきで一本取り出して、火を付けた。立ち上るのは嗅ぎ慣れた匂いの白い煙。深呼吸する様にして煙草を吸えば、口いっぱいに馴染んだ味が広がった。洒落たジェラートの甘い味よりかは自分に合っている。

 

 喫煙所の中は誰も居ない。街は混んでいるのに珍しい。最近喫煙者が減ったとよく聞くからそのせいだろうか。そんな事を考えるけれど、気を紛らわす役には立たなかった。

 

『じゃあ、芹奈とよくいるのは?』

 

 不意に脳裏にさっきのチャドの言葉が蘇って、なるべく思い出さない様にしていた陰鬱な考えが堪えかねたかのように噴き出してくる。

 

 芹奈が自分の事を好きだなんて、ずっと前から分かっていた。でも、佑也は出来れば友達で居たいのだ。

 

 だって、もし仮に芹奈が自分の望んでいる物をくれたとしても、佑也は同じ物を返せる気がしないから。芹奈と自分の感情は違うから。どうしてと聞かれれば、ずっと前からそうだったからだとしか言いようがない。

 それなら、一刻も早く芹奈との関係を断ち切るべきだろうか? でも芹奈は純粋に良い人で、出来るなら友達のままで居たいくらいには好きだった。それが逆に芹那を傷つけるなんてこと、分かっているのだけれど。

 

「あー……」

 

 白い煙と共に意味のない音を吐き出した。なんか、疲れた。凄い疲れた。空は綺麗に晴れているのに、佑也の心情は曇り空も良い所だ。

 

 ずるずると足から力が抜けて、喫煙所の灰だらけの床の上に佑也は座り込む。早く戻らないとなぁとも思うけれど、あと十分、ここに居る事にした。どうせあの二人もジェラート食べているんだろうし。

 

 それに、こんな自分には青空の下のベンチより灰塗れの喫煙所の方が似合っているから。

 

 

 

 




絡ませたかっただけ。2人は友達。

この4人はたまに出掛けてるらしいですね。


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7.暇を持て余して

 

ある穏やかな日の昼下がり。暇を持て余したヨツバは、裏庭で一人ボールを相手に遊んでいた。最近、クラスであんたがたどこさが流行っているのだ。上手に出来る様になりたくて、さっきからずっと練習している。が、あまりうまく行ってはいなかった。

 

「あーんたがーたどーこさー」

 

歌う、と言うよりも呟く様に言いながら、ボールをバウンドさせる。そしてさ、で足をぱっと上げたが、ボールは足首に当たり、あらぬ方向へ跳ねて行った。

 

あー、とがっかりした様な声を上げて、ヨツバはそれを追いかける。しかし、ボールはヨツバが追い付く前に、別の誰かによって拾い上げられた。

 

「おー、天使くん!」

 

「やっほー♪ 何してるのー?」

 

ヨツバの前に姿を現した天使くんは、ぽんぽんとボールで遊びながらそう聞く。

 

「あんたがたどこさ! 天使くんもやろ!」

 

「そっかー♪」

 

良いとも悪いとも言わず、天使くんはぽぉんとボールをひときわ高く上空へ打ち上げた。青いボールが、青い空に吸い込まれていく。そのボールにつられて、ヨツバの視線も真上を向いた。受け止めようと、その足が動く。

余りにボールが高くまで上がり過ぎたせいか、それともボールが空色をしていたせいか。一瞬、ボールを見失ってしまった。その拍子にヨツバはバランスを崩して尻もちをつく。ボールが地面に着地した音が聞こえたが、どこに着地したかは分からなかった。

 

「ボールは!?」

 

「あっち~♪」

 

天使くんが適当に指差した方に、ヨツバは走っていく。すると、裏庭に一本だけある木の陰にボールが落ちていた。それを拾い上げ、そしてヨツバはある物に気づいた。

 

裏庭は、道とアパートに面した二面以外をフェンスに囲まれている。その古びた緑色のフェンスに、穴が開いていた。大きさは、人よりも一回り程小さいぐらい。今まで気づかなかったのは、丁度木の陰になっていたからだ。

 

その穴を見つめて、ヨツバは違和感に首を傾げた。この穴、向こうに何があるのか全く見えない。まるで、黒いベールで仕切られているかのようだ。けれど、そっと伸ばされたヨツバの手は何にも触れることは無かった。あまりに簡単に手を突っ込めたのが逆に不気味で、ヨツバは慌てて手を引っ込める。

 

「入らないの~?」

 

「うわぁっ!」

 

急に後ろから声を掛けられて、ヨツバは思わず叫んだ。見れば、いつの間にか天使くんもこっちに来ていた。

 

「これ、なーに?」

 

「穴だよ」

 

ヨツバの問いに、天使くんは悩むでも無く簡単に答えた。

 

「ここはちょ~っと空間が不安定だから~、こーゆーのが出来やすいんだ~♪」

 

天使くんが何を言っているのか殆ど理解できず、ヨツバの頭上に?マークが浮かぶ。

 

「じゃあ、この中には何があるの?」

 

「う~ん、そ~だな~……」

 

ここで、天使くんはわざとらしく悩む素振りを見せた。しかし、体を左右に揺らすその動作は随分楽しそうだ。

 

「誰かの秘密、かな?」

 

そう言って、天使くんは微笑む。ヨツバはそれを不思議そうな表情で見つめ、そして穴の方に視線を向けた。

誰かの、秘密。一体誰の? 分からない。でも、それって、見ても良い物なのだろうか? 何だろう。秘密、か。ちょっとだけ、怖いような気もする。でも、それよりもとっても、ワクワクしてきた!

 

ヨツバはそぉっと穴に近づいてみた。やっぱり、中に何があるかは分からない。不気味さを飲み込んで、右足をゆっくりと踏み入れた。頭が穴を通り抜ける瞬間、何が見えるのだろう。ふとそんな事が気になったけれど、その瞬間どこからか強い光が差してきて、結局ぎゅっと目を瞑ってしまった。

 

瞑った拍子にバランスを崩したようだ。ヨツバは、左足を穴の縁に取られてこけてしまう。どべっ、と顔から地面に着地した。ちょっと痛い。涙がほんの少し滲んだのを振り払って、ヨツバは目を開けた。

 

「……わぁっ!」

 

思わず口から、驚き混じりの歓声が飛び出した。だって、穴の先は全く知らない場所だったのだ。そこら中に木が生えていて、高く伸びた枝葉が空を覆い尽くしている。そのせいで日光は殆ど地表まで届いておらず、辺りは薄暗い。けれど、葉の隙間から見上げた空は綺麗な水色だ。

踏み締めている足元にはまばらに草が生えている。舗装なんてされて居る訳も無い。さて、どこから探検しようかとヨツバがきょろきょろ辺りを見回していると、鳥の鳴き声に混じって、誰かの声が聞こえた。

 

その声は、歌っていた。知らない言葉で、知らない歌を歌っていた。その歌が持つ意味も、当然分からない。分からないけれど、ヨツバはその声がとても気になった。だって、どこかで聞いた事がある様な気がしたから。

 

殆ど無意識に、ヨツバはその声の聞こえる方へ歩き出した。最初はゆっくりと、次第に早足になりながら、歌声の主を探して知らない森の中を進んでいく。森の中は音で溢れていた。鳥が仲間を呼ぶように歌う声、風に揺れた葉が奏でる優しい音、踏み締められた土が立てる微かな音。けれど、ヨツバの耳に届くのはあの歌声一つだけだ。

 

獣道とも言えない様な道を、進み続けて約十分。ヨツバは、木が無く開けた空き地を数歩先に見つけた。そして、そこにヨツバの探していた人物が、居た。

そこには、何にも遮られずに日光が降り注いでいた。土は柔らかな芝生で覆われ、所々に白い花も咲いている。その芝生の中央に、茶色い髪の少女が座っていた。歌を歌っているのは、その少女——モニアだ。

 

ヨツバは、慌てて走り出そうとした足を止めた。何故だろう、分からない。でも、いつもそうだ。

ヨツバは基本的に、だれに対しても変わらない態度で接する。それでも、モニアが相手となると、どうしてもいつもの調子で突っ込んでいくことはできなかった。彼女が持つ、独特な空気のせいだろうか。ヨツバは、モニアの事が嫌いな訳でも無いのに。向こうだって、きっとそうだと思うんだけど。

 

だから、ヨツバはその場に突っ立ったまま、モニアを見ていた。モニアは、まだヨツバに気付いていない。その声を張り上げる事も無く、けれど何時もの様に小さい訳でも無く、心地良い声量で歌っていた。高く澄んだ歌声は、空に昇って、ゆっくりと森中に染みわたっていく。

 

モニアが歌っている歌は、さっきのからは変わっていた。でも、やっぱりヨツバの知らない曲だ。多分外国の歌なんだろう。どちらかと言えば明るいメロディで、でも、その歌は酷く悲し気に聞こえた。どうしてだろう、とヨツバは声に出さずに呟く。

どうして、あんなにモニアは悲しそうに歌うんだろう。どうして、こんなにこの歌は悲しそうに聞こえるんだろう。

 

それが分からない内に、曲が終わってしまった。モニアは、ふぅと息を吐いて、そっと握りしめていた右手を解く。胸元で、ペンダントが弾んだ。黄色の、勾玉型のペンダント。そしてまた新たな歌を歌い始めようとしたところで、モニアははっと視線に気づいた。ヨツバの視線と合った目が、驚きに見開かれる。

 

「ご、ごめんなさ——」

 

「すごい! すっごいよ、モニアちゃん!!」

 

反射的に謝ろうとしたモニアの声は、ヨツバの大きな声に遮られた。ヨツバは大はしゃぎの様子で、目をキラキラと輝かせている。モニアの顔に、戸惑いの色が差した。

 

「歌うのすっっっごい上手だね! なんで教えてくれなかったの? さっきのなんて歌?」

 

「う、歌。あ、えっと、その、私も、よく、知らなくて……」

 

ヨツバは怒涛の勢いで喋る。それに目を白黒させながらも、モニアは何とかそう返した。ヨツバが、きょとんとした顔で聞き返す。

 

「知らないの?」

 

「は、はい。どこかで、聞いた事が、あるだけで」

 

多分、もっとずっと昔に聞いた。セツやヨツバ達が来る前。それこそ、マスターと出会うもっと前。

 

あれ、でも変だな、とモニアは気づく。だって、マスターと出会う前の事なんて、何も覚えていないのに。一体、どこでこの歌を聞い——

 

「ねぇモニアちゃん! もっと歌ってよ!」

 

「え?」

 

モニアの思考は、ヨツバの声に遮られた。思いもよらないヨツバの言葉に、モニアは戸惑ったような声を上げる。

 

「ねぇ、おねがいおねがいおねがい!!」

 

「え、えっと……」

 

押しに弱いモニアが、勢いのあるヨツバの頼みを断るのは難しい。戸惑い、迷いながらも、つい小さく頷いてしまった。やったぁ! と、ヨツバは飛び上がる様なテンションで喜ぶ。

 

「で、でも、皆、には、内緒に、してください」

 

「うん、分かった!」

 

本当に分かっているのか、ヨツバはこくこくと頷く。そして、モニアは一つ、二つと深呼吸をした。目を瞑って、いつもより少し硬い声でゆっくりと歌いだした。でも、歌いだせば、そこに人が居る事など気にならなくて、硬さはすぐに抜けていく。

 

柔らかくて、暖かくて、でも少しだけ寂しそうな歌声が、ゆっくりと森に沁み込んでいく。ヨツバは、それを静かに聞いて居た。

 

 

 

そんな話を、セツは不意に思い出した。数日前にヨツバが聞かせてくれたのだ。「今日はモニアちゃんと遊んだんだ!」と言って。そう、内緒と言われていた話を、聞かせられたのだ。何とも微妙な気分になったのをよく覚えている。こういう事があると、本当に自分の正体をヨツバが黙っていられるのか不安になるのだが……

そんな訳もあったから、ヨツバにはしっかりと言い聞かせた。幸い、最初に自分に話した様だったから、モニアは約束を破られた事に気付かないだろう。

 

それにしても、歌か。意外といえば意外な特技だが、何となくモニアと言う少女のイメージによく合っている気がする。少しだけ、自分も聞いてみたいかもしれない。

何て、他愛のない事を考えながら、セツは自分が勤める藤峰軍事基地の廊下を歩いていた。要は出勤中である。何度も辿った道を真っすぐ進んで、見慣れた扉を押し開ける。中では既に数人の部下が仕事を進めていた。一番奥の席に向かって、机の上に置かれている書類に目を通そうと椅子を引いた時。あっ、と、一番扉に近い席に座った部下が声を上げた。

 

「カンザキ少将、そう言えば、フジモト大将がお呼びでしたよ」

 

「フジモト大将が、ですか」

 

小さく呟いて、続きを促す。

 

「はい。なるべく早く、会議室に来るようにと。用件は、提出された報告書についてだそうです」

 

セツは、直ぐに席を立ち上がった。提出された報告書とは、恐らくアパートの住人達についての報告書の事だ。この国に害をなす又は益となり得る存在がいないかどうかの確認として求められ、求められた通りに出した。

 

「分かりました。それでは、少々席を外します。私がいなくても、きちんと業務を進める様に」

 

最後の言葉だけ、少し厳しめに言って部屋を出る。あの最近入ったばかりの部下——確かナカヤマと言ったか——は、どうもお喋りが多い。仲間意識は大事だが、馴れ合いになって仕事が滞るのは困る。

それはそれとして、と、セツは思考を報告書の方に切り替える。一体、何故呼び出されるのだろう。まさか、不備があったとか? まぁ、こちらから進言したい事もあったし、タイミングが良いと言えば良いのだが。

 

どうにも不穏なものを感じながら、セツは会議室へと歩いて行った。

 




イメージは野ばら

ストックマジで足りない


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8.新たな指令

 少々緊張した心持ちで、セツは扉の前に立ち尽くしていた。目の前にある木製の扉はこの基地にある殆どの扉と同じデザインで、セツの目線の少し上に付けられているプレートにはただ、『執務室』としか書かれていない。

 しかし、この部屋はただの執務室じゃない。ここはこの基地の中で最も権力を持つ最高責任者、フジモト大将の執務室なのだ。そう、セツを呼び出した張本人であり、セツの直属の上司でもある。

 

 セツは覚悟を決めると、軽く張りつめていた息を吐いた。その身に少しの緊張を纏ったまま、そっと握りしめた右手で軽く扉をノックする。

 

「入りなさい」

 

 三回きっかりのノックの後、すぐに低い声での返事が返ってきた。セツは銀色のノブを軽く捻り、扉を開ける。

 

「失礼致します」

 

 そして入り口で軽く一礼してから、セツは部屋の中に足を踏み入れた。黒光りする軍靴が、緑色のカーペットを音も無く踏み締める。部屋の中は薄暗く、静かだ。

 

 大将の執務室は、やはりほかのどの部屋よりも広く上等に作られていた。その中でも、正面にある窓を背にして置かれた大きな執務机が一際目を惹く。そして、その机に座り書類に目を通す男が一人。当然、この部屋の主である大将だ。

 

 大将はセツが部屋に入って来るのを目にするとすぐに立ち上がった。

 

「そろそろ来る頃だと思っていたよ。まぁ、座りなさい」

 

 応接用のソファとテーブルがある方を示されて、セツは大人しくその言葉に従った。その間に、大将は紅茶の準備を始めた。本来ならそれ用の係でも設置するべきなのだろうが、フジモト大将は紅茶が趣味らしく、こうして部屋に客がある度に自ら振舞うのだ。今では慣れてしまったが、最初の頃は酷く恐縮したのを覚えている。

 

「君は、ミルクはいれないんだったね?」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 暫くすると、大将はセツの前に湯気の立つ紅茶のカップを置いた。そして自分も同じく紅茶が入ったカップを持ってセツの向かい側に座る。セツはその一挙手一投足を窺いながら、話を切り出すタイミングを計っていた。が、しかし

 

「紅茶が冷めてしまうよ」

 

 と柔らかな声で言われてしまい、渋々カップに手を伸ばす。本当の事を言えば、紅茶を味わえるほど余裕のある気分では無いのだが。

 

「味はどうかな?」

 

「……美味しいです」

 

「それは良かった。さて、それじゃあ本題に入ろう。今日、君を呼び出した訳だが」

 

 セツの答えに満足げに頷いて、ようやく大将は本題について話し始めた。セツはカップを置き、口を開く。

 

「提出された報告書について、と伺っていますが」

 

「あぁ、確か伝言にはそう言ったな。しかしより重要なのは、報告書と言うよりもその任務についてなのだ」

 

「任務、ですか」

 

 セツは大方予想通りの内容に、やはりと内心で呟く。

 

 任務。それは、あのアパートを見張る任務の事だ。

 

 これは帝国民なら誰でも知っている話なのだが、例え自分が所有する敷地内だとしても、建物を建てる際は政府に対する詳細な届け出が必要となる。つまる所それは、この国にある建築物は全て政府が間取りなどの詳細を把握しているという事だ。

 

 しかし、あのアパートは違った。届け出が無かったどころか、近くの駐屯地の職員でさえ存在を知らなかったのだ。明らかな異常事態である。その為何度か調査部隊も送り込まれたのだが、人の気配は全く無く、報告書の写真に写っていたのはまるで何十年も放置された廃墟だったのだ。

 そうしていよいよこの建物を怪しみだした軍上層部が送り込んだのが、このセツである。未成年であるその見た目と少佐を務める能力を買われ、アパートの実態、そして現れた目的を探るために、セツはあのアパートへと赴いたのだ。

 

「まずは、あの場所に対する、君の率直な意見を聞かせてほしい」

 

 そう言われて、セツははっと背筋を正す。この質問は何気ない様に聞こえるが、きっと大きな意味を持っているだろう。恐らく、上層部は本格的にあのアパートに対する対処法を考えようということしているのだ。

 何を言うか、頭の中で整理するのに少し時間がかかる。そのせいでシーンと静まり返った部屋の中で、セツはゆっくりと口を開いた。

 

「率直に申し上げますと、私は、あの場所がそこまで危険だとは思えません」

 

 こんな意見、絆されたのかと難色を示されるのも覚悟のうちだった。けれど、大将は何も言わず、静かに続きを待っている。もう一度大きく息を吸い込んで、セツは続けた。

 

「確かに、1部の住人は危険要素足り得ます。しかしその他の住人はあくまで一般人であり——その世界においての一般人であり、我々を害そうとする意思は全く持って見られません。加えて、軍事的利用価値も大して見い出せませんでした。他の世界と比べても、我が国の軍事技術における水準は非常に高いためです。防衛的観点に置いても、技術的観点に置いても、あの場所を制圧する意味はほぼ無いと言って良いでしょう。その為、今後も監視を続けるのが最善かと思われます」

 

 報告書に書いたこととほぼ変わらない内容をそのまま述べる。セツの話を聞き終えると、大将はふむ、と小さく頷いた。

 

「成程、一理ある。しかし、問題はその危険要素に成り得る一部だ。まさか、君がそれを考慮していない訳では無いだろう?」

 

 そういった大将の口調は、いっそ穏やかとも言える。けれど、ここの返答次第であのアパートに対する対処は大きく変わってくるだろう。微かな緊張を感じて、セツはその手をぐっと握りしめた。

 

「……彼らが持つ力の実態は、未だ私が把握しきれていない所でもあります。しかし、彼らは烏合の衆であり、統率された敵軍ではありません。恐らく、我が軍が彼らを制圧する事はほぼ間違いなく出来るでしょう」

 

「つまり、その気になれば制圧出来るから放っておけば良いと?」

 

「それは違います」

 

 セツは真っ直ぐに大将の目を見つめ返した。

 

「制圧出来るというのは、我が軍が全精力をつぎ込めば、と言う事です。これは知りえた情報からの推測ですが、一部隊程度では返り討ちにされる可能性が高いでしょう。そして、彼の敵国と戦っている我が国に、その様な余裕はありません。幸いにして、私は彼らの信頼を得ることが出来ました。彼らに我が国と争う意思が無い以上、こちらから争いを仕掛けるのは得策とは言えません」

 

「……成程。君の考えは良く分かった」

 

 口元に微かな笑みを浮かべて、大将は頷いている。分かって貰えたのだろうか。胸の中で渦巻く不安に混じって、僅かに期待が芽ばえる。けれど、続く大将の言葉にそんな微かな期待は吹き飛ばされてしまった。

 

「しかし、それはあの場所に軍事的利用価値が無いと仮定した場合の話だろう」

 

 セツは大将の発言に違和感を覚え、不可解な顔をする。あのアパートに軍事的利用価値は無い。それは仮定だが、限りなく事実に近い仮定だった筈だ。

 

「それは——」

 

 何かがおかしい、間違っていると感じる。けれど、大将は全くおかしいと思っている素振りは見せない。まるでこう思っているようだ。あの場所に——

 

「——あの場所に、何かがあるという意味ですか」

 

「そうか、君は知らないのだったな」

 

 間接的な肯定に、セツはその目を見開いた。そんな事、ちらとも知らされていなかったし、当然あそこにいる間にそれらしいものを見た覚えも無かった。立地さえ除けば、セツの目から見てもあそこはただのアパートだったのだから。

 しかし、大将が全て冗談だと言い出す気配も当然なく、淡々とした調子で話は続いた。

 

「君の報告書の中に、モニアと言う少女が居ただろう」

 

「……彼女がカギを握っていると?」

 

「いいや、彼女自身がだ」

 

「!?」

 

 まさか、信じられない。あんな普通の少女が? そんな様な文言が、セツの脳裏で渦巻く。一方大将はセツが驚くのを予想していたらしく、少し待って言葉を続けた。

 

「君が知らないのも無理は無い。あれは十数年前に彼の敵国から確保された兵器なのだよ。非人道的な実験の産物ではあるが、強力な力を秘めている。従って、彼の国に対する切り札となり得ると判断され、何度か運用もされたのだ。しかしどうにもコントロールが難しく、不安定でね。暴走の末行方不明になっていたのだ」

 

「……この任務の最終目的は、彼女の奪還だったのですか」

 

「いいや? あんな所にいるとは、上層部も予想していなかった様だ。しかし彼女の存在がある以上、君が言ったような判断を上層部が下すことは無いだろう。それ程までに上層部はあれを、いや、あれが他の勢力の手に渡ることを恐れているのだ。度々の暴走の結果を思えば、無理もない事だが……」

 

 セツは黙したまま視線を伏せた。すんなり呑み込めない事実が多すぎて、考えが上手くまとまらない。何よりも、モニアが恐ろしい兵器だなんてとてもじゃ無いが納得できなかった。

 

「本当に、あの少女が? 人違いの可能性は無いのですか?」

 

 抑えきれなかった疑問が立て続けに飛び出していく。不躾だと小さな理性の声が囁くが、それを受け入れられないほどにセツは混乱していた。

 

「仮に彼女がそうだとしても、暴走をするような兆候は全く持って見られませんでした。マス——彼女の保護者が彼女を兵器の様に運用する可能性も非常に低いと思われます。上層部が懸念するような事など、何も——」

 

「君は、あの場所と争いたくないのだね」

 

 しかし大将の小さな呟きにも近い言葉に、反射的にセツの口は閉ざされた。本音を見抜かれてしまった事に酷く動揺するが、努めてそれを表に出さない様にする。しかし出来たのはそれだけだった。混乱は助長され、言うべき言葉は全く持って見つからない。

 

「……そう言えば、十年前のあの事件を覚えているかい?」

 

 不意に大将がそう切り出した。唐突な話の切り替えに怪訝な顔になり、セツは聞き返す。

 

「あの事件、とは?」

 

「あっただろう、この近くの公園で……あぁ、公的にはガスの爆発事故として処理したのだったか」

 

「……まさか、それは」

 

 公園、そして爆発事故。その二つのワードによってセツの記憶の中に一つの事件が浮かび上がってきた。今度こそ、隠し切れなかった動揺が表情に出てしまう。それを見た大将は、微かに人の悪い笑みを浮かべた。

 

「彼女が、あの事件を引き起こした張本人だ」

 

 セツはその目を大きく見開いた。まさか、有り得ないと思う一方で、もしかしたらともう一人の自分が囁いている。

 

「こう言えば、その危険性は理解できるだろう?」

 

 セツは肯定する事も否定する事も出来なかった。しかし大将は「決まりだ」と呟き、椅子から立ち上がった。窓から差し込む日差しが遮られ、机の上に人型の陰が落ちる。

 

「第二部隊部隊長、カンザキ少将。命令だ、あの建物を制圧し、“モニア”を確保しろ」

 

 有無を言わせぬ命令にセツが返した敬礼は、いつになく覇気の無い物だった。

 

 

 

 




ようやく話が動き始めます

いよいよ投稿頻度が下がりだします


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9.古い記憶

 もう、十年も前になってしまったあの日、私——セツ・カンザキは家から何時もの公園までの道を急ぎ足で歩いていた。友達と公園で遊ぶ約束をしていたのに、その前の予定が押してしまって約束の時間に三十分も遅れてしまっていたのだ。

 

 友達との約束、だなんて、八歳の子供が道を急ぐ理由にしてはつまらない程にありきたりで、普通だ。でも、私にも居たのだ。普通の子供の様に遊んで、笑い合える相手が。当然その子は普通の子供だったけれど、私にとっては何よりも掛け替えのない親友、だった。

 

 家から公園までは子供の足で二十分ほどの距離があった。と言っても道はほぼ直線で、車通りの多い大通りだ。迷う訳も無いので、本当なら全力疾走したかった。

 

 でも、その日の道は何時になく混みあっていて、しかも進行方向から来る人が多かったのだ。従って、まだ体の小さかった私は人混みに潜り込む様にして進まなければならなかった。

 道行く人は皆、何かを恐れるような小さな声で何かを囁き合っていた。その囁きからは殆ど何も聞き取れなかったけれど、ただ事ではない様子が私を酷く焦らせた。だと言うのに道は進み難いし、時間はどんどん過ぎていくしで、誰に対してか分からない苛立ちを感じた事をよく覚えている。

 

 そうしていつもより大分苦労して公園に向かっていると、一人の女性に声を掛けられた。その人の事は、正直あまりよく覚えていない。ただ覚えているのは、彼女のあっちで事故があった、危ないから近づかない方が良いと言う言葉を聞いて、私はすぐに走り出したという事だ。

 

 事故があったのは事実らしかった。いつの間にか、道にはだれも居なくなっていた。きっとみんな避難したのだろう。希望的に考えるのなら、私と待ち合わせをしていた“あの子”も避難した可能性はあった。でも、何故だろう。私は胸中をざわつかせる嫌な予感を振り払って家に帰る事が出来なかった。この理由は未だ分からない。

 

 どれくらい走ったのか、私は不意に立ち止まった。目の前に奇妙なものが一つあった。道を塞ぐ、大きな瓦礫。私は慌てて辺りを見回した。

 

 辺りはすっかり様変わりしていた。よく知っている筈の道なのに、何一つ以前の記憶と違っている。建物は鉄球でもぶつけられたかのように所々が抉れていて、道の所々に大きなコンクリートの瓦礫が落ちていた。まるで、巨人が気紛れに辺りをちぎって投げ捨てたかのように。そんな光景は、戦場を知らなかった私の目にまるで地獄の様に映った。

 

 ハッと気づいて、私は瓦礫を避けてまた走り出した。“あの子”の所に行かなくちゃ。あの公園に居ない事さえ確認すればいい。もし逃げ遅れていたら最悪だ。そんな事をぐるぐる考えながら様変わりした道を走った。物が燃える匂いがした。きっとどこかで火事が起こっていたのだろう。

 

 私が様変わりしてしまった公園に迷わず辿り着けたのは、奇跡的にブランコが半分残っていたからだった。古い古い、いつもあの子が座って待っていたブランコ。それは、私の背丈ほどの瓦礫にもう半分を押しつぶされていた。鉄の匂いがつんと鼻をついた。

 

 私は慌てて公園の中を見回した。誰も居ない。“あの子”が居るどころか、烏一匹見つけることは出来なかった。

 

 自分の顔から血の気が引いていることを自覚しながら、私はブランコを押しつぶした瓦礫に一歩近づいた。鉄の匂いが強くなる。瓦礫の下が、何かの液体で染まっていた。地面が茶色いせいか、色は良く分からない。

 

 瓦礫に触れるほどに近づいて、それでも不安が拭えなかった私は、瓦礫を回り込む様にまた一歩を踏み出した。

 

 そうしたら、あの子の白い足が見えた。前に、お気に入りだと教えてくれたあの子の花柄のワンピースが赤く染まっているのが見えた。鉄の匂いの正体に、私はようやく気が付いた。

 

 叫びも涙も出なかったのは、その光景に酷く現実味が無かったからだ。何かが欠けた頭で私は考える。この瓦礫を私一人で動かすことは出来ない。第一、この様子では助かりそうにない。もう助けられない。

 

「……どうしよう」

 

 やけに静かな公園で、私はそう呟いた。思えば、あの時私が呟いたのはその言葉が初めてだった。

 

 私は幼い頃から軍人の何たるかを教えられてきた。何度も何度も、悪をくじき、弱きを助け、民を守る。そう、繰り返し聞かされてきた。私は守らなければならない。民を、皆を、“あの子”を。でも、どうやって? だって、“あの子”はもう死んでしまった。助からない、助けられない、守れない。

 

「守れ、なかった……?」

 

 誰かに答えてほしかった。でも、その場に生きているのは私一人しかいなかった。一人で考えるしかなく、一人で答えを出すしかなかった。

 

 座る事も立ち去る事も出来ないで、私は考え始めた。

 

 もう、どうしようもない。ゆっくりと時間をかけてその事実を飲み込んだ。だって、死んでしまった。生き物は死ねば全てが終わりだ。助けられる事も、守られる事も、生きる事も、何もかもできなくなってしまう。

 

 鈍く胸が痛んだ。どうして“あの子”は死んでしまった。今更のようにその事を疑問に思った。私はまた考えた。考えて、考えて、考えた挙句……

 

「私のせい、か」

 

 出たのはそんな結論だった。だってそうだろう? 私が約束に遅れていなかったら、“あの子”を守れた。ただ、遅れさえしなければ、それだけで“あの子”は無事でいられたのに。

 

 民を守るべき軍人が、それを怠った。そのせいで“あの子”は死んだ。

 

 実に単純明快な答えだ。さぁ、最初の質問に戻ろう。奇妙な程に冷静な頭で私は考えた。

 

 私は、どうすれば良い? 

 

 答えはそう難しくなかった。罪は、償なわなければならない。

 

 そうしたらきっと、“あの子”は私を許してくれるだろう。

 

 

 

 それからの記憶は少し曖昧だ。多分、私はまっすぐ家に帰って、父上に全てを報告した。事故があった事。“あの子”との約束に遅れてしまった事。そのせいで、“あの子”が死んでしまった事。一つも漏らさずに報告したけれど、父上は私に何も罰を与えなかった。母上も、何も言わなかった。

 

 そう、その時点で問題が一つ生まれてしまった。償う方法が分からなくなってしまったのだ。私は初め、事実を全て打ち明ければ父上がそれにふさわしい罰を与えてくれるだろうと思っていた。でも、事はそう甘くなかったのだ。甘ければ、償いにはならないという事だろう。

 

 それから私は考えた。何をすれば償いになるか、どうすれば“あの子”は私を許してくれるか。考えて、考えて、考えた。でも、答えはどうしてもわからなかった。そのまま月日が流れ、もう十年も経ってしまった。私は、昨日の事のようにあの日の事を覚えているのに。

 

 でもようやく、目の前にその答えが現れたのだ。

 

 私は机の上に置かれた一枚の紙に視線を落とす。書かれているのは、さっき聞かされた命令とほぼ変わらない内容。アパートを制圧し、モニアを奪還する事だ。

 

 私はずっと、“あの子”が死んだのは事故だと思っていた。私の過失さえ無ければ防げた、悲しい事故。でも、事実はそうでは無かった。あれはモニアが引き起こした事件だったのだ。“あの子”が死んだ直接的な原因は、モニアだった。

 

 もし私がモニアを確保して、軍に引き渡したら。今度こそ、きちんとモニアを軍の管理下に置いたら。そうしたら、きっと“あの子”の様な不幸な死を迎える子供も居なくなって、そして、“あの子”の敵を討った私は、ようやく——

 

「——許される」

 

 小さな呟きを掻き消す様に、音を立てて机から立ち上がった。直ぐ近くの席で書類仕事をしていたタカダ軍曹が気付いてこちらに視線を向けてくる。それに、私は短く指示を出した。

 

「今すぐ第二部隊の隊員を全員集めなさい。この部屋にです。新しい任務に関しての説明をします」

 

「新しい任務、ですか? 分かりました」

 

 そう返事をして、タカダ軍曹は足早に部屋から出ていく。それを見送って、私はもう一度机の上の紙に目を通した。

 

 命令は遂行する。そうでなければならない。

 

 

 

 




なんか最近不備が多すぎますね。ごめんなさい


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10.あたしのヒーロー!

 

その一時間ほど後、ヨツバの通う小学校の教室では丁度帰りの会が終わった頃だった。教室の中は、子供たちの話す声でザワザワと騒がしい。

 

「ねーヨツバちゃん、途中まで一緒に帰ろうよ」

 

ランドセルの蓋を閉めて帰る支度の真っ最中だったヨツバは、そう言う友達の声に振り返った。そして満面の笑みで答える。

 

「いーよー、一緒に行こ!」

 

ヨツバはランドセルを背負うと、その友達と連れ立って歩きだした。どこの学年も授業が終わったらしく、学校の廊下は右往左往する小学生達と甲高い声で溢れ返っている。

 

「ヨツバちゃんってお姉ちゃんいたんだね。知らなかった〜」

 

そんな人の群れを掻き分けながら歩いていると、不意に友達がそんな事を言った。身に覚えのない発言に、ヨツバはきょとんと首を傾げる。

 

「え? いないよ?」

 

「そうなの? でも、昨日わたし見たよ。ヨツバちゃんが、知らない人と歩いてるところ。お姉ちゃんじゃないの?」

 

「あ、それセツだ!」

 

多分、昨日は帰る前にセツと一緒に公園に行ったからその事だろう。納得したヨツバは一人で頷いているのだが、友達はセツの事を知らない。当然首を傾げると、不思議そうに

 

「セツってだーれ?」

 

と聞いた。それにヨツバは答えようと口を開く。

 

「セツは……」

 

しかし、すぐに言葉に詰まってしまった。よく考えてみれば、セツとヨツバの関係を一言で表すのは難しい。家族でも無いし、友達と言うのもちょっと違う。でも、間違いなくセツはヨツバにとって信頼できて、憧れで、大切で……

難しい顔をしてヨツバは考えている。すると、やがてゆっくりとぴったりの答えが思い浮かんできた。ヨツバはにんまりと笑うと、そのまま思い浮かんだ言葉を口にした。

 

「……セツはね、ヒーローだよ」

 

「ヒーロー?」

 

「そう! 世界で一番カッコいい、あたしのヒーロー!」

 

 

 

友達と別れて何時もの道を歩いていくと、藤峰軍事基地が見えて来る。その門からちょうど見覚えのある人影が出て来るのを見つけて、ヨツバは慌てて走り出した。

 

「セツ!」

 

名前を呼ばれて、ヨツバに気付いたセツが振り返る。ヨツバが飛び掛かる様にして抱き着くと、セツはそれを危なげなく受け止めた。

 

「ねぇねぇセツ聞いて聞いて! 今日ね今日ね、体育の時間にね——」

 

そして二人は手を繋いで、アパートまでの何時もの道を何時もの様に辿っていく。ヨツバが今日あった事を気ままに話すのも、セツがそれに相槌を打つのも、何時もと同じだ。

 

けれど、ヨツバは話しながらなんとなくセツの反応に違和感を覚えた。何だろう、具体的にこうとは言えない。でも、セツは何かに気を散らしている様で、ヨツバの話をあまり聞いてくれていない気がする。いつもなら、何だかんだきちんと聞いてくれるのに。

 

「セツ、なんかあった?」

 

そんな疑問を、ヨツバは素直に口にした。セツは虚を突かれて、一瞬だけ面食らったような表情を見せる。

 

「……いいえ、何も」

 

しかし、その表情をすぐに打ち消すと、セツは低い声でそう言った。何にも無いのか、とヨツバは心の中だけで呟く。正直違和感はまだ拭い切れていないけれど、セツがそう言うならそうなんだろう。

素直なヨツバはそう納得して、また話を始めた。セツもまたその話を聞きながら、二人で道を歩いていく。

 

 

 

アパートに到着したのは、そんな風にして十分ほど歩き続けた頃だった。薄暗い階段を下り、セツが重い扉を押し開けると、ヨツバは元気良くバーの中へ走って行く。

 

「ただいま!」

 

そう言うヨツバの声に、バーに居た住人達が口々にお帰りと答える。いつもならセツもヨツバに続いていくのだが、今日、セツは扉の近くに黙って佇んでいた。違和感に気付く者は、まだ居ない。

 

小さく息を吸って、短く吐き出す。軽く瞑っていた目を開けて、セツは真っすぐ前に一歩を踏み出した。

 

バーの中を一直線に横切って、セツはカウンターへと歩いていく。その固い雰囲気に何人かが気付いたが、セツは誰かが何かを言う前に口を開いた。

 

「マスター、お話があります」

 

「……どうした、急に」

 

セツの改まった様子に、声を掛けられたマスターは思わず怪訝な顔をする。しかしそれを気にしているのかいないのか、セツは表情も声音も変えないままに続けた。

 

「誠に勝手ながら本日限りで退去させて頂きます。短い間でしたがお世話になりました」

 

息継ぎも無い、はっきりとした言葉にバーの中は一瞬静まり返った。静寂の中、セツは疑問も異議も拒絶する様にきっぱりとカウンターに背を向ける。そして、速足で扉から出て行ってしまった。誰もそれを止める事が出来ないままに。

 

最初に我に返ったのはヨツバだった。セツが出て行った扉をぽかんと見つめていたかと思うと、ハッと気付き、慌てて駆け出した。重い扉を一人でどうにかこじ開けて、階段を駆け上り、少し先の道に居たセツの背中を追いかけて走る。

 

「セツ!」

 

名前を呼ばれても、セツは振り返らなかった。ただ変わらない速度で歩き続けている。ヨツバは今までで一番、体育の授業の時よりも、全力で走った。そして、振り返らないその背に抱き着く。

 

「セツ! なんで行っちゃうの!? たいきょってなに!? ねぇセツ! セツったら!」

 

揺さぶる様にしながら言われて、それでもセツは頑なに振り返らなかった。

 

「ヨツバ」

 

「なに!」

 

静かに名前を呼ぶ声に、ヨツバは大きな声で返す。

 

「私と約束をしてください」

 

「約束? なんの?」

 

「もう、あの場所には、あのアパートには関わらないと」

 

「……なんで?」

 

突拍子もない言葉に、ヨツバはきょとんとした表情になって聞く。セツはまるで準備でもしていたかのように、ヨツバの問いに淀み無く答えた。

 

「危ないからです」

 

「危ない? そんな事無いよ。だって、みんな遊んでくれるし、マスターはおやつくれるし、それにそれに——」

 

ヨツバは必死に言葉を紡ぐ。分からない。どうしてセツが行ってしまうのか、こんな事を言うのか。今日は分からない事ばかりだ。それでも、話すのを止めたら本当にセツがどこかに行ってしまいそうで、怖くて、だから頑張って話し続けた。

 

「約束、出来ますか」

 

けれどセツはヨツバの話を無視して、そう聞いた。今日のセツは変だ。訳の分からない事を言うし、ヨツバの話をちっとも聞いてくれない。

 

「でも、だって、だって、それならあたし、どこに行けばいいの? あそこじゃないの?」

 

「ちゃんと、割り当てられた孤児院があるでしょう。そこに居なさい」

 

「やだ! だって、あそこの人達誰も遊んでくれないんだもん! おやつだって無いし、セツだって居ない! そんなのやだ!! やだやだやだ!!!」

 

首を振って、叫んで、駄々を捏ねる。そうすれば、セツはしょうがないですねと言って少し優しくなるのだ。ヨツバは知っている。だって、ずっとセツと一緒に居たから。お母さんもお父さんも居なくなっちゃったあの日から、ずっと——

 

「……約束、出来ないんですか」

 

「やだ! 約束なんてしない! ずっとあそこにいようよ!」

 

ヨツバは殆ど泣き出しそうになりながら、全力でそう叫んだ。そうであってほしいと、心から思って叫んだ。セツは怒ったら怖いけど、でも、本当はとっても優しくて、セツは、セツは、あたしの——

 

「それなら、もう知りません」

 

冷たい言葉がヨツバの言おうとしたことを封じ込めた。酷い言葉過ぎて、受け入れたくなくて、思わず涙も引っ込んでしまう。

 

「これ以降、私には関わらないで下さい」

 

そう言って、セツはヨツバの手を振り解いた。酷く簡単に、あっさりと。去っていくその後ろ姿を、ヨツバはどうしてか追いかける事が出来ない。

 

「……なんで?」

 

ただ、黙ってそう呟く事しかできなかった。分からない。何も分からない。どうして? なんで? 脳裏を渦巻くのはそんな言葉ばかり。セツは、本当に優しくて、本当にかっこいい、ヨツバのヒーロー。その筈なのに。

 

 

 

ハッと気づいた時、セツはどこにもいなかった。泣きながら、ヨツバはアパートまで初めて一人で帰ったのだった。

 

 

 

今日は新月らしかった。見上げた夜空はただただ暗いばかりで、月も星も見当たらない。物寂しい夜空に向かって吐き出した煙草の煙が、まるで溜息の様に空中に溶け込んでいった。そんな様子を見ていると、何だかますます気分が落ち込んでくる。その原因は、ただ今日が暗い夜だからと言う訳では無い。

 

マスターが今居るのは、アパートの屋上だ。柵も何も無いつまらない場所だが、殆ど誰も来ない事もあって、一服するときはここに来るのが知らない内にマスターの習慣になっていた。他の住人の前では煙草を吸わないから、きっとこの事は誰も知らないだろう。

 

ちゃり、とポケットの中で小さく音を立てたのは、セツの部屋の鍵である。セツは立ち去る前に、カウンターの所に自分の部屋の鍵を置き去りにしていたのだ。それが意味するところはやはり、セツはもう、ここに戻ってくる気は無いという事。

 

「どうしたもんかなぁ……」

 

また煙草の煙を吐きながら、マスターは低い声で呟く。鍵は返されたけれど、まだ部屋をどうこうすると言う段階には至っていない。何て言ったって、あまりに唐突な話だったのだから。だからこそ、まだ納得いっていない事が多い。

 

その最たるものが、部屋にセツの荷物がそのまま残されて居る事だった。普通、退去の手続きと言うのはそれなりに手間がかかる。鍵を返してはい終わり、なんて事にはならないのを、あのセツが分かっていない筈が無い。

予想できる理由は二つ。本当は戻ってくる気があるか、それともそこまで切羽詰まって行動しなければならない理由があったか、と言った所だろう……まぁ、余り前者の可能性が高いとは思えないが。

 

一際冷たい夜風が吹いて、煙草の煙を散らしていく。鬱々とした考えばかりが続いている事に気付いて、マスターは一度思考を切り替える事にした。

 

取り敢えず今自分が決めなければならないのは、セツの部屋をどうするか、だ。しかし、正直片づけは面倒だからやりたくない。それにヨツバは戻ってきたから、きっとあの部屋を使うだろう。

 

セツの問題は自分にはどうにもできないから、本人に頑張ってもらうしかない。従って考えるのは時間の無駄。部屋はそのままで良し。こう考えてみると、思ったより問題は複雑ではない様だ。

 

手に落ちた煙草の灰を軽く払う。さて、そろそろ寝る事にしようか。煙草の吸殻を適当にポケットに突っ込み、マスターは下に向かう階段の方に向き直った。

 

「……何も無いと良いが」

 

その拍子に、思わずそんな呟きが漏れる。そしてそれと同時に、セツが帰って来てくれればとも思ってしまうのだった。

 

 

 

 




実は関係ない短編挟もうかとも思ったんですけど、書いてたらボツになったのでちゃんと本編出すことにしました。


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11.吸血鬼

 

 

 それから何も起こらないまま、けれどどこか不穏な空気のまま、一週間が過ぎた。セツの退去についての詳細はその日の内に住人全員の知る所となったが、当然誰もその理由を察することは出来ず、皆未だに戸惑っている様だった。

 

 しかし、一番セツに懐いていた筈のヨツバはと言えば、ひとしきり泣いたかと思うと

 

『ヨツバ、もうセツの言うことなんか聞かないもん! ずっとここに居る!』

 

 と、声高に言い放ったのである。何と言うか、随分と強かなものだ。しかし話を聞いてみると、ヨツバはセツの一連の行動に対して少々怒っているらしい。

 

 そしてヨツバにしては珍しく、その怒りは一朝一夕で消える物では無かった様だ。それをマスターが知ったのは、あの日何があったのかと言う話をそれとなく宿題中のヨツバに振ると、思ったよりも威勢良く話が始まったからだった。

 

「——でもセツはね、ヨツバの話全然聞いてくれなかったんだよ? そんなの酷い! マスターもそう思うでしょ?」

 

 そう同意を求められて、マスターは苦笑気味に頷いた。ヨツバはマスターが出してくれたオレンジジュースと共に宿題を広げながらも、鉛筆を放り出したまま話続けている。

 今は平日の真っ昼間だから、バーの中に居る人は少ない。でも、雨が降りそうだからと何時もなら外に居るチャドやネクロが中に居るから、いつもに比べたら少し多いと、何とも微妙な感じであった。

 

「それにね、最近ヨツバが“きち”の所に行ってもセツに会えないの。セツ、あたしの事避けてるんだ! 何でそんな意地悪するんだろ」

 

「きち?」

 

「うん、きちだよ。セツが毎日お仕事してるところ。だからあたし、毎日そこにセツをお迎えにいってたんだ!」

 

 唐突に知らない情報が出てきて、マスターは思わずその目を見開いた。セツは学生、そう認識していた筈だ。が、数秒考えて誰がそう言った訳でも無い事に気付く。ヨツバはおろか、セツ本人でさえもセツが学生だと言ってはいなかったのだ。ただ、見た目の年齢から周りがそう推測していただけであって。

 

「……ヨツバ、そのセツがしていたお仕事って、何だか分かるか?」

 

 半ば恐る恐る、と言った調子で聞けば、ヨツバは何でもない事のように——いや、若干自慢げに答えた。

 

「うん! セツはね、軍人さんなんだよ!」

 

 カッコいいでしょ、と言うヨツバは無邪気に言い放つ。が、マスターが予想外のその言葉に目を見開き驚いているのを見ると、ヨツバはその表情を一変させた。そしてしまったという思いを隠さず

 

「あ──ー!!!」

 

 と声を上げる。その大声に、別の意味でまたバー中が驚いた。しかし、ヨツバはそれを全く意に介さずに頭を抱えて叫ぶ。

 

「どーしよー! 内緒ですよって言われてたのに!  忘れてた! セツに怒られるー!!」

 

 大袈裟と言えるほどのヨツバの騒ぎ様に、かえってマスターは冷静になった。セツは軍人だった。しかも、ヨツバに口止めをしてまでその事を隠していた。冷静になったおかげで、その二つの事実をすんなりと飲み込む事が出来る。

 

「それにしても、軍か……」

 

 厄介だな、と思わず眉を潜めてしまうのは、ひとえにこのアパートが普通では無いからだ。諸々を法律に照らし合わせれば、グレーゾーンに片足突っ込んでいるどころか、半分くらいはアウトの範疇まで踏み込んでいる事は想像に難くないと思う。その為、政府だの軍だのと言った所謂お偉いさん方とは余り仲良くなれそうにないのだ。

 

 で、と心の内だけで呟いて、マスターは実はその仲良くなれそうにない軍人であったセツの事に思考を戻す。

 セツの性格や諸々を鑑みるに、軍人であったことを隠してまでこのアパートに居たのには何らかの理由があるのだろう。そして勿論、唐突に退去だ何だと言い出した事にも、同じ様にきっと何かある筈だ。どっちにしたって、それが軍がらみである可能性は非常に高い。ああ、面倒だなと、マスターが思わずため息をつきかけたその時。

 

 バンッ

 

 と、鋭い音がその場に響いた。さっきのヨツバの叫び声と同じか、もしくはそれよりも少し大きいその音に、バーの中は一瞬にして静まり返る。そしてバーの中に居た全員の視線が、音の出所——即ち、バーの扉に向いた。

 

「セツ!」

 

 真っ先に動こうとしたのは、やっぱりヨツバだった。セツの名前を呼ぶや否や、慌てて背の高い椅子から飛び降りようとする。マスターがそんなヨツバの首根っこを慌てて掴んだのは、セツが非常にピリピリとした雰囲気を纏っていたからだった。今ヨツバが話に入ってきたら、間違いなくややこしいことになるだろう。そんな予感がして、マスターはヨツバの口を軽く塞ぐ。

 

 ヨツバ以外は、セツの雰囲気に気圧されてしまっている様で、誰も何も言う事が出来ない様だ。ふと左に視線を向ければ、モニアが布巾を握ったまま不安そうにマスターとセツを見比べている。そんなモニアに安心させるように小さく微笑んでから、マスターは話を進めるべく口を開いた。

 

「久しぶりだな」

 

「……えぇ、お久しぶりです」

 

 セツは未だ何か言おうともがいているヨツバから視線を逸らし、静かな声で答える。いつになく静かなその目は、セツの思考を全く窺わせなかった。不穏な空気を緩和しようと、マスターは少しふざけた調子で言う。

 

「なんだ、忘れ物か?」

 

「いいえ。今日は——そうですね、一軍人としてご忠告に参りました」

 

 一軍人、と言うその言葉に、話の不穏さが跳ね上がる。セツはそれを意図しているのかいないのか、入り口から数歩程度の所に留まったまま、マスターを射貫く様に見た。その視線は物でも切れそうなほどに鋭く、真っすぐで、まるで他の物を視界に入れまいとしているようにも取れる。

 

「単刀直入に言います、モニアをこちらに引き渡してください」

 

 左に居るモニアの肩がピクリと跳ねた。その表情に、どうして自分がと分かりやすい動揺が現れる。そんなモニアをさりげなく片手で庇いながら、マスターはセツへと疑問を投げかけた。その表情は、いつになく険しい。

 

「どういうつもりだ? お前らとモニアに何の関係がある?」

 

「貴方がたには関係の無い事です」

 

 しかし、セツはマスターの言葉をたったの一言で切り捨てた。その射貫くような視線は、まるで一挙手一投足を見逃すまいとでもするように、マスターにしっかりと固定されている。

 殺気と見紛うばかりのピリピリとした空気に埋め尽くされて、バーの中は窒息しそうなほど息苦しかった。ヨツバさえ、二人の気迫に押されてもがく事を止めてしまっている。

 

「モニアをこちらに引き渡すのならば、他は全て見逃しましょう」

 

 セツの言葉に、ただでさえ張り詰めていた空気が更に険悪な物になっていく。マスターはもう敵意に近い警戒を隠す気は無いらしく、セツも、それを向けられる事を何とも思っていない様だった。

 

「仮に引き渡したとしたら、どうするつもりだ」

 

「私からはお答えできかねます。それで」

 

 セツの目が、すぅっと細められる。

 

「引き渡していただけるのでしょうか、いただけないのでしょうか」

 

 それに釣られるようにマスターの眉間の皺も深くなり、そして

 

「断る」

 

 その口から端的な答えが飛び出す。

 即座にセツの右手が動いた。ぶれて見えるほどの速度で、軍靴に仕込まれた軍刀を抜き、振りかぶる。殆ど反射の様に、庇おうとマスターの右腕が動いた。しかし今更躊躇う訳も無く、セツは軍刀を振った。

 しかし、感じた手応えは人を切りつけた時の物では無かった。

 見れば、軍刀の切っ先は縫い留められたかのように、虚空に固定されている。前に体重をかけても動かない。しかし、何か硬い物を切りつけている様な手ごたえを感じる。不可解な現象に戸惑い、一瞬セツの動きが止まった、その時。

 

「モニア!」

 

 マスターが大声でモニアを呼んだ。モニアの肩が驚いた様に跳ねる。

 

「ネクロとヨツバと畑の方に逃げろ!」

 

「え、えっと……」

 

「大丈夫だ、俺も後から追いかける」

 

 ここでモニアを行かせる訳には行かない。そう思いセツは刀を引いた。そして追いかけようとカウンターを乗り越えようとする。

 しかし、それは叶わなかった。

 ぐんっと身体が後ろに引かれた。反射的に右手の刀を振るう。切っ先が向いたのは、左斜め後ろ。

 

「あぶねっ」

 

 空振った手応えと、頭を逸らして刀を避けた人影。

 

「……貴方も、邪魔をするのですか」

 

 その人影に視線を向けて、セツは溜息を吐く。面倒な、と言う思いを込めて。

 

「そりゃあ、なぁ?」

 

 そう言ってにやっと笑ったのはチャドだ。そして背後から乱暴な扉の開閉音。しまった、逃がしたとセツは扉の方に駆け出そうとする。しかし、その一歩先をナイフが阻んだ。身を捩る間に、一気に懐に踏み込まれた。迫るナイフを何とか刀で受け止める。

 

 耳障りな金属音が甲高く鳴り響いた。滑らせるようにして弾けば、チャドは壁際まで飛んで大きく間合いを取る。チャドの右手に、新たにナイフが三本。腕を振り被って、今にも投げようとしている。軍刀だけでは分が悪い。

 

 そう判断し、セツはスカートのポケットから銃を取り出した。携帯電話を模したそれはガシャン、と音を立てて自動小銃へと変形する。そんな事をしている内に飛んできたナイフを、身を捩って間一髪で避けた。ブーツの底に仕込まれていた弾倉を抜き取り、勢いよく嵌める。

 

 この距離だ、多少狙いが粗かろうと避けるのは難しい。軍刀を投げ捨てた右手で雑に照準を合わせ、引き金を引く。

 

 狭い室内を連続した銃声が埋め尽くした。雨あられとばかりに襲い来る銃弾の群れに追いかけられて、チャドはバーの中を逃げ回る。その巻き添えを喰ったテーブルや椅子は、あっという間に瓦礫と化して地面に転がった。戦況は、一気に覆ったかに見える。

 

 しかし、銃声はガチッ、と言う異音を立てて唐突に止んだ。弾切れである。この狭い室内で、予想以上に良く逃げ回られたせいだ。勢いよく銃をその場に投げ捨て、セツは転がった軍刀を再び手に取る。そして、チャドが反応する前に勢い良く切りかかった。

 

 斜め上から切り下すがいなされる。横なぎに払った刃は微かに服を引っ掛けただけ。刀を返す前に蹴りが飛んできた。一歩引いて避ける。その隙に距離を取られそうになった。一歩二歩と刀を振るいながら踏み込む。

 

 また遠距離に持っていかれるのは不味い。チャドが気付いているかは分からないが、もう銃弾が無いのだ。ここで引くのは自殺行為である。しかし、このままではジリ貧になっていくだろう。そうなれば、分が悪いのは明らかにこちら。

 

(……こんな早く使うつもりでは無かったのに)

 

 しかし、ここで負けては元も子もない。セツは右手で刀を振るいながら、左手をポケットの中に突っ込んだ。中にあるのは通信機。視線を向ける事も無く手早く操作して、セツは合図を送った。地上に居る、自分の部下達へ。

 

 と、そちらに気を取られていたせいだろう。右手に強い衝撃を感じた。強く弾かれた刀が宙を舞う。しまった、と内心だけで顔を顰めるが、口に出す余裕は無い。追撃は、大きく距離を取ることで回避する。

 

 セツは素早く視線を巡らせて、弾き飛ばされた軍刀の位置を確認した。あった、右斜め前方だ。勢い良く地面を蹴り、回収しようと手を伸ばす。しかし、その手は刀を踏みつけたブーツを見て止まった。

 

「もう反撃の手は無いんだろ? 諦めたら?」

 

 答える代わりに、セツはパーカーの袖口からナイフを抜いて切りかかる。しかし無理のある反撃はあっさりと交わされ、右手首を掴まれてしまった。そしてそれを振り払う間もなく、セツは両手首を捻り上げられる。

 

 悪あがきだと分かっていても、セツは身を捩る事を止めなかった。一番まずいのは、ここで身動きできなくされてチャドがマスター達と合流してしまう事だ。そうなればより一層モニアの奪還が難しくなる。

 

「別に命まで取る訳じゃ無いってのに。意外と諦め悪いんだな」

 

 微かに苦笑しながらチャドがそんな事を言った、その時。

 

 幾人もが階段を駆け下りる重たい足音が聞こえた。それが誰なのかを考える間もなく、乱暴にバーの扉が明けられる。戸口から姿を現した重装備の兵士達に、セツは戸惑う事も無く、ただ一言

 

「撃て」

 

 そう命じた。先頭に立っていた兵士が間髪入れずに手にした銃を構え、引き金を引く。チャドがセツを離して銃弾を避けるには、余りに時間が足りなかった。

 

 一発の銃声。そして、人の体が地面に倒れる音。

 それを聞き届けて、セツは振り返った。チャドが地面に付しているのが見える。それだけを確認して、セツは兵士達の方に視線を向けた。部下である兵士達が、一斉に自分の方に注目する。

 

「予備の銃と軍刀を」

 

 短い命令に即座に反応したのは、さっき銃を撃った兵士だった。鞘に納められた軍刀を腰につけ、銃に弾が込められている事を確かめる。

 

「少将、この男はどうしますか」

 

「生きているのなら縛っておきなさい」

 

「了解しました」

 

 倦怠感が薄く全身を包んでいて、特にさっき強く弾かれた右手が鈍く痛んでいた。しかし、ここからが勝負なのだから、まだ弱音は吐けない。そう自分に言い聞かせて、気を引き締める。そうして鋭敏になったセツの耳へ、ある異音が届いた。

 

 それは、ナイフが何かを切り裂く音と、人の呻き声——それも、自分の部下の。

 

 セツが慌てて振り返ると、他の部下も異変に気付いたようだった。さっき、チャドの生死を確認しようとしていた部下が一人、後ろから羽交い絞めにされている。何人かが慌てて銃を構えるが、丁度部下の体を盾の様にされているせいで引き金を引く事が出来ない。

 軍刀を持っていたセツは、即座に刀を抜いて鞘をその場に投げ捨てた。しかしある事に気付き、思わず切りかかろうとするのを止めてしまう。

 

 部下の、切り裂かれた軍服の首元、そこに牙が突き立てられていた。つぷり、つぷりと赤い滴が零れ落ちて、軍服の上に赤い染みを残していく。趣味の悪い作り話の様な異常な光景に、誰も物音一つ立てる事が出来なかった。

 

 忘れていた。いや、忘れていたと言うよりも、今まで意識する事すらしていなかった。けれど、今はっきりと事実を認識する。確かに、この男は、こいつは——

 

「——吸、血鬼」

 

「悪いね。人間には負けられないんだ」

 

 にやりと笑った口から赤い牙が覗いていた。

 

 

 

 




テストの野郎のせいで一月近く更新が途絶えてしまいました。それの贖罪というわけではありませんが、今回5000字以上あります。ぶっちぎりの長さです。

そしてオマケに、セツさんの普段の装備
・右のブーツ側面に軍刀
・左のブーツの底に弾倉
・パーカーの左の袖口にナイフ
・ポケットに携帯電話から変形する自動小銃と無線機
・左のブーツの底に携帯食料


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12.失敗

 

「なぁ、本当にここで大丈夫なのか?」

 

一方その頃。ネクロは不安そうな表情で、目の前の何かをいじっているマスターに問いかけていた。

マスターに言われ三人が逃げ込んだそこは、まさかの畑だった。裏庭を囲うフェンスに空いた穴の先に行けと言われた時は何が何だか分からなかったし、今も少し不安だ。先程の問いは、そんな不安が現れたものだった。

 

「ここが駄目ならこのアパート全部駄目な時だからな、大丈夫だろ」

 

しかしマスターがさらりととんでもない事を言う。ネクロどころかモニアまでもが不安そうな表情になってしまい、マスターは慌てて付け加えた。

 

「つまり、そんな事態はそうそう起きないって事だ。安心しろ」

 

「そんな事言ったって、でも——」

 

言いながら、ネクロは辺りを見回す。上空に広がるのは綺麗な青空で、中庭で見た今にも振り出しそうな曇り空とは正反対だ。辺りには支柱に支えられた野菜やら何やらが立ち並び、緩やかに吹き抜ける風に青々と茂った葉を揺らしている。

普段なら素直に長閑な景色を楽しめるのだろう。しかし、この異常事態に照らし合わせてみれば、何時も通り過ぎる情景はかえって異常に感じられた。それに——

 

「——ただの畑にしか見えないんだけど、ここ」

 

曇り空の筈なのに晴れているだとか、季節じゃない野菜が実っているだとかは些細な事だ。それがこの異常事態を解決してくれる訳でも無いのだろうから。こんな所に逃げ込むくらいならとっとと外に逃げた方が良いのでは無いだろうか、とネクロが言うのに、マスターは

 

「無理だろうな」

 

と、あっさりと返した。

 

「まず、セツが単身で乗り込んできて来ている訳が無い。他の奴も絶対にいる。それなら建物の辺りを囲まれている可能性も高い。そうなると俺一人でそれを突破するのは結構無理があるな。それにな、ここは守りやすい造りなんだよ。そこをわざわざ捨てるのは悪手だ」

 

「でも、だからってセツの方をチャドだけに任せっきりにするのは……」

 

「あー、まぁ、しょうがねぇなぁ。他に相手できそうなやつも居ないし。まぁ、なんだかんだ生き意地汚い奴だし、死ぬことは無いだろ」

 

よく考えているんだか適当なんだかよく分からかない説明に、ネクロはなんとも微妙な表情になってしまう。

一方、マスターはさっきからずっと続けて居た作業が終わったらしい。立ち上がって膝を軽くはたくと、その足元に何かあるのが見えた。

 

「それ、何?」

 

「触んなよ、危ないから」

 

ネクロは少し大きな石の様に見えるそれに興味を引かれ、そう聞いてみる。しかしマスターは答えになっていない答えを返し、不意に畑の入口の方に視線を向けた。

釣られてネクロも同じ方向に視線を向ける。すると、入り口の方からチャドが歩いてくる所だった。少し目を凝らすと、その背に誰かが背負われているのが分かる。

 

「セツだ!」

 

ネクロが気付くのと同時に、蟻の行列をいじっていたヨツバがハッと気づいて駆けだした。ネクロとモニアもその後に続き、マスターは最後にのんびりと歩き出す。

 

「よ、お疲れさん。思ったより遅かったな」

 

「勘弁してよ。俺、結構頑張ったんだぜ? 報酬はきっちり貰うからな!」

 

どうやらそういう約束になっていたらしい。いつの間に、と言う顔をする周囲を無視して、マスターは「はいはい」と苦笑した。

 

「で、何で連れてきた?」

 

そう言いながら、マスターはチャドに背負われているセツの方にちらりと視線を向けた。チャドは思わずと言った様に苦い顔になり、気まずそうに口を開く。

 

「あー、その、さ。結構首尾よく片付けたんだぜ? 他の奴等も乱入してきたけどそいつらは気絶させて縛って置いたし。

でも、セツだけ倒れる時に頭打ってさぁ。結構良い音したし、不味いかなーって……」

 

思わず、と言った様にマスターが溜息を吐いた。そしてあはは、と誤魔化す様に笑うチャドの背から、気絶したままのセツの体を引き取る。

 

「一回戻って救急箱持ってこい。そしたらお前の手当てもしてやるよ」

 

「へーい。巻き込まれてなきゃ良いけどな」

 

踵を返し来た方向に戻っていくチャドを見送って、四人はセツの手当てが出来そうな所を探す事にした。

 

 

 

失敗した。

 

意識を落とす前、そう強く思った。

 

だからだろうか。意識を取り戻した直後、私は同じことを痛烈に実感した。

 

失敗した、失敗した、失敗した!

 

あの時と同じだ。でも、分からない。間違えてはいけなかったのに間違えた。見誤ってはいけなかったのに見誤った。それは分かっているのに、痛い程理解しているのに、どれだけ考えても正解が、答えが分からない。

 

私はどうすればよかった? どうすれば、命令を遂行できた? どうすれば、あの子は許してくれる?

 

答えてくれる人は居ない。考えろ、と鈍く痛む頭に命令する。動け、と横たわったままの体に力を込める。

立ち上がらなければ。考えなければ。それが出来なければ何も出来ないのだから。

 

けれど、脳みそは鈍い痛みを主張するばかりで、体を動かそうとすれば全身が軋む。暫く格闘して、出来たのはやっと瞼を持ち上げる事だけ。

 

ゆっくりと暗闇が薄れて、青い空が見える。不明瞭な視界を動かす事も出来ず、私は、どうして、と思った。

だって、今日は曇り空の筈だ。少なくとも、こんなに綺麗に晴れてはいなかった。

 

ここは、どこだ? あたりに充満している青臭い匂いを嗅ぎながら考える。私はバーであの吸血鬼に気絶させられたはずだ。そこからどこかに移動させられたのか? でも、こんな所が、あの辺りに——

 

私の思考はそこでぶつりと途切れた。視界を掠めた桜色の物が急速に私の注意を引いたからだ。そして、気付く。

 

まだ終わってなどいない。失敗してなどいない! だってモニアがここに居る。この少女さえ壊せば、私は——

 

腕が動く。気力だけでもなんとかなるじゃないかと、私は思わず笑みをこぼした。

 

 

 

どさりと音を立てて落ちたのは救急箱だった。モニアがセツの手当てをしようと持っていた、白くて大きい救急箱。

 

それを不審に思って、マスターは振り返る。セツが起きたのだろうかと単純な予想を立てながら。けれど、そこに広がっていたのはその予想の斜め上の物だった。

 

セツが、モニアの首を絞めている。

 

マスターは慌ててセツの腕を掴んだ。しかしその手は固く、引き剥がせそうにない。

 

いや、この言い方では語弊がある。正確には、穏便(・・)に(・)は(・)引き剥がせそうにない、だ。流石に躊躇いながら、マスターはモニアの様子を窺う。

白い首にはしっかりと指が食い込んでいた。細い腕が辛うじて抵抗する様にセツの腕を掴んでいるが、大した障害にはなっていない。その目から、苦しさに耐えかねた様に涙が零れ落ちた。

 

「チッ、恨むなよ……」

 

気はひけるが、やるしかない。セツの腕を掴む手に力を込める。まぁ、腕の一本程度なら後で治せるのだからと、心の中で言い訳したその時。

 

「セツ!」

 

そう言って、ネクロと居た筈のヨツバがセツに抱き着いてきた。一瞬、驚いたようにセツの力が緩む。その隙に、マスターは力強くセツの腕をモニアの首から引き剥がした。

 

首を抑えて咳き込むモニアを、マスターは慌てて受け止める。そして、細々とした傷の手当て中だったチャドを呼んだ。

 

「モニア連れて先に戻ってろ。こっちは俺が何とかする」

 

「りょーかい、ネクロも連れてく」

 

チャドが二人を連れて遠ざかっていく。それを横目で見送り、マスターはセツとヨツバの方に意識を向けた。

 

「放しなさい、ヨツバ」

 

「セツ、でも!」

 

流石にヨツバを力づくで振りほどくことは出来なかったらしい。藻掻くセツを、ヨツバは縋りつく様にして捕まえている。

 

肩で息をして、セツは息も絶え絶えの様子だ。それでも衝動に突き動かされる様にして、藻掻くのを止めない。一体どうしてそこまでと思いながら近づいていくと、その口が小さく動いているのが見えた。

 

「わたし、は」

 

掠れた小さな小さな声でセツが一体何を言うのか、素直に興味を引かれてマスターはヨツバの方に人差し指を立てて合図した。ヨツバは不安そうな顔になりながらも口を噤む。

 

「命令を、守らなければ、いけない」

 

「あの子に、償わなければいけない」

 

「私は、守らなければ——」

 

途切れ途切れになりながら、何とか絞り出した言葉。それを聞いたマスターは、思わず呆れ顔になった。いかにもセツらしい、クソ真面目な台詞じゃないか、と。

 

「なんだよ、いけないって。そればっかじゃねぇか」

 

とうとう限界が来たのか、セツはその場に崩れ落ちる。ヨツバはまだ口を噤んだままだ。よく我慢している。

 

「お前は、どうしたいんだ」

 

一瞬、その場が静寂に包まれた。聞こえるのは、風にそよぐ葉が立てる音ばかり。今の状況を忘れてしまえば、今日は、本当に長閑な日だという事を感じさせる。

 

「——私に、やりたい事なんて、無い!!」

 

それを破ったのは、初めて聞いたセツの怒声だった。

 

「私は、あの子と居たかった。それだけで良かった!」

 

地面に雫が落ちた。黒く地面を濡らしたそれは、セツの目から立て続けに零れ落ちる。

 

「でも、もうそんな事、叶いっこないんです」

 

立ち上がろうとし続けていた足から漸く力が抜けた。

 




クライマックス前編です。難産


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13.願い&Epilogue.私がここに居る訳は

13.願い

 

足から力が抜けたのは、体に限界が来たからでは無かった。足だけでは無い。もう、全身から力が抜けてしまいそうだ。倒れ込まずに済んでいるのは、意地なんて下らない物があるから。

 

「でも、もうそんな事、叶いっこないんです」

 

そう言った声はあまりにか細くて、情けなくて、弱々しい。口に出してしまえば、絶望がゆっくりと体の中を満たしていった。そうして、馬鹿な私はようやく、“あの子”が死んだことを実感する。

 

あぁ、馬鹿げている。だって、あの子が死んだのはもう十何年も前だ。それなのに、私は心のどこかでそれを受け入れられていなかったのだから。

 

「それだけじゃないだろ」

 

「……何を、言っているんですか」

 

それは違うと言いたいのだろうか。そんな見え透いた嘘に慰められるほど、私は馬鹿じゃない。そう口に出す前に、滲む視界の中で目の前の男が口を開いた。

 

「だって、お前はこんなに頑張ってるだろ。それなら、その理由がある筈だ。違うか?」

 

頑張っている? 私が? あぁでも、それは理由にならない。だって、私は考えない様にしていただけなのだ。義務感で自分の体を引っ張って、無理やりに動かしていた。そうやって何かに没頭すれば、“あの子”の事を忘れられたから。その内そうとも思わなくなったのは、その状況にただ慣れたと言うだけの話だ。

 

「義務感だけで生き続けられるほど、人間は真面目な生き物じゃねぇよ」

 

けれど、目の前の男はそんな、私の心を見透かす様な事を言う。訳が分からず混乱していると、誰かの呟くような声が聞こえた。

 

「……許され、たかった」

 

違う、これは私だ。間抜けな事に痕から気付く。気付いて、私は納得した。

 

そうだ、許されたかった。ずっとずっと、そうだった。

 

罪を償わなければならないと思っていた。許されなければいけないと思っていた。でも、それは全部全部、私の唯の願望だったのだ。

 

あぁ、なんて下らなくて、滑稽な話だ。償う相手も、許してくれる相手も、もうとっくにどこにもいないのに。

 

叶わない願いの為に、こんなボロボロになって、死に物狂いになって。

 

私は一体、何をしているのだろう。

 

乾いた笑いが口から零れる。これじゃあ、これじゃあ、私はまるで——

 

「——まるで、馬鹿な道化ですね」

 

それでも、思う。

 

「でも、私は」

 

この期に及んで、性懲りもなく、願う。

 

「許してほしい。守れなかった私を、弱い私を」

 

「いいよ」

 

はっと顔を上げた。そこに居たのはヨツバだ。私と同じ様に涙と鼻水と土とでぐちゃぐちゃの顔で、必死に泣くのを堪えながら、いつになく静かなまま私にしがみ付いているヨツバは、言葉を繋ぐ。

 

「ねぇセツ、あたしは、あたしね、セツが大好きだよ」

 

私は、今始めて見たとでも言う様に、ヨツバの顔をじっと見つめた。ヨツバは、臆することなく私を見つめ返してくる。

 

「ダメだよ、ケンカしちゃ。セツ、あたしにいつも言うでしょ」

 

ヨツバの瞳は、溜まった涙のせいでいつもより大きく見える。その瞳には、私が写っていた。あちこちボロボロで、酷い顔をしている私の姿が。

 

「セツ、あたしは、セツを絶対に一人にしないよ」

 

ぼろりと、その姿が崩れた。ヨツバはボロボロと涙を流しながら、私にしがみ付く。その静かな泣き顔を、私は一度だけ見た事がある。でも、違うと思った。だって、この子はもっと——

 

「……かえ、ろぉ」

 

不意に、ヨツバは震えた声を出す。あれ、と思っている内に、声を上げて泣き出した。

 

「かえろぉよぉ。いなくなっちゃやだぁ」

 

やだやだやだぁ、と、何時もの様に声を上げて、ヨツバは泣きじゃくる。その声が騒がしくて、そうだったと思って、私はつい息を吐く。

 

——この子は、ヨツバはもっと、騒がしい子だ。

 

「分かりました。分かりましたから、そんなに泣かないで下さい」

 

ゆっくりと、少し距離感を図りながら、その小さな頭を撫でる。服に涙が沁みる感触を感じて、私は自嘲した。

 

私が許される事と、ヨツバが泣いてしまう事。一体どちらが大事か、それすらも分からなかったなんて。

 

「帰りましょうか」

 

あぁ、これは、後片付けが大変だろうな。

 

 

 

「——一言でこの結果を纏めると、失敗、と言えます」

 

それから数日後。セツは少し身構えながら、その台詞で報告を締めくくった。目の前のソファに座るのは、フジモト大将。奇しくも数日前と同じ光景の室内で、セツは大将の反応を窺う。

 

「……そうか」

 

大将は、深く溜息を吐いた。この様子だと、何らかの処罰が待っていてもおかしくないかもしれない。降格も有り得るだろうか。そんな嫌な想像が脳裏を過る。

 

「それで、君の意見は?」

 

「え?」

 

「君は失敗したからと言ってのこのこ帰って来るような性分じゃ無いだろう。やり返す策でも何でも、言ってみると良い」

 

しかし、大将が告げたのは思いもよらない台詞だった。何と言うべきか、セツは考え込む。

 

「……私は今回、この件に私情を挟みました」

 

「ほう、珍しいね」

 

「はい。恐らく、この点が今回の作戦の失敗の大きな原因です。そうでなければ、私はこの作戦を決して実行しなかったでしょうから」

 

驚いた様に、大将は細い目をほんの少し見開いた。

 

「実行しないなら失敗しない、か。言い得て妙だな……その理由は?」

 

「必要無いからです。あの場所の制圧も、モニアの確保も」

 

セツは、以前と同じ様で少し違う意見を述べる。

 

「その根拠として、まず、彼らに敵意が無い事が挙げられます。今回の私達の攻撃に対して、動きを封じられたにも拘らず指揮官たる私が生きている事がその証拠となるでしょう。

次に、仮にモニアが暴走したとしても、あの場所なら食い止められる可能性が高いです。これも、我々が返り討ちにされた事からその戦力が窺えるかと」

 

「しかし、彼らが今後敵意を持たないと言う保証は出来ない。違うだろうか?」

 

「そうですね。しかし、それに関しては簡単な解決策があります」

 

「聞かせて見たまえ」

 

「監視を置けばいいのです。今までのように」

 

そこでセツは一旦言葉を切った。テーブルの上に載せられている紅茶に手を伸ばし、喉を湿らせる。

 

「更に付け加えれば、彼らは私に対してそれなりの情を抱いている事が推測されます。その情を利用すれば、彼らを利用する事も将来的には可能でしょう」

 

「情、か……それは君も同じなのではないか?」

 

思わず言葉に詰まる。見れば、大将は隠すことなく人の悪い笑みを浮かべていた。あぁそうだ、この人はこういう人だったと、セツは思わず苦い顔になる。

 

「……否定は、出来ません。しかし私は、私自身の目的の為に軍に居る事に決めたのです。その目的の為ならば、私情等歯牙にもかけないでしょう。そしてその目的は、軍の存在意義とずれが生じる物では無い」

 

必死になって繋いだ言葉は、確かにセツの本心だった。

 

だって、そうだろう。一人の少女が悲しむような判断が、行動が、正しい訳無いのだから。

 

「そうか。それでは、上層部には私から報告しておこう。そして藤峰軍事基地基地長として、君には、新たな指令を——」

 

柔らかに笑い、フジモト大将が発した指令と言う言葉に、セツは反射的に背筋を正した。

 

「第二部隊部隊長、カンザキ少将。命令だ、引き続き、あの建物並びに住人を見張る様に」

 

「は、はっ!」

 

破棄を込めた敬礼を返す。セツは予想外の命令に、冗談交じりで内心呟く。

 

間違いなく暫く干されると思っていた。そうしたら、ようやく肩の荷が下りたと思ったのに、と。

 

しかし、ヨツバは喜ぶことだろう。

 

 

 

Epilogue.私がここに居る訳は

 

「ただいまー!」

 

「ただいま帰りました」

 

元気な声と静かな声。そんな対照的な言葉と共に、バーの扉が開いた。するとおかえりと、他の住人達が口々に答える。

 

「ねー、今日のご飯なにー?」

 

「ハンバーグだって」

 

「ほんと!? やった!」

 

ハンバーグにはしゃぐヨツバを何時も座る席に座らせ、セツもその向かいに座る——事は無く、一人マスターのいるカウンターへと向かう。

カウンターの中では、マスターがモニアと共に夕飯の準備に追われていた。そんな中呼び止めるのは悪いが、早めの報告は鉄則である。耳だけこちらに傾けてもらい、セツは話し出す。

 

「今日、基地にて報告をしてきました」

 

「おぉ、どうだった」

 

「引き続き、私がここの監視を続ける様にと」

 

「ほぉーん、良かったじゃねぇか」

 

忙しいからだろうか、マスターの淡白な返答を訝しんで、セツは怪訝な顔をする。

 

「本当に良いと思ってるんですか?」

 

「思っちゃダメか」

 

「そういう訳では。でも……私は、あの子を傷つけようとした人間ですよ」

 

少し言い淀みながら告げられた言葉にも、マスターは大して表情を変えない。

 

「まぁ、今回だけは見逃してやるよ。次は無いけどな」

 

「……それなら、分かりませんよ。もし彼女が暴走をして、その上で命令が下されたのなら、私は恐らくそれに従います。結局の所、私は軍人ですから」

 

「大丈夫だ」

 

マスターは平皿にブロッコリーを盛り付けながら、躊躇なく言い切る。

 

「俺が、絶対にそんな事態にはしない」

 

「……そうですか。それなら、良いんです」

 

「ほい、これお前さんらの分。持ってけ」

 

話は終わりだと言わんばかりにハンバーグの皿を二つ、押し付けられる。それを持って、セツはヨツバの待つテーブルへと急いだ。

 

「ハンバーグだ!」

 

「ヨツバ、椅子の上に立ってはいけません。行儀が悪いですよ」

 

「はーい」

 

はしゃぐヨツバを宥めて、テーブル席に二人分の夕食を並べ、手を合わせて食べ始める。

 

「ヨツバ、ブロッコリーも食べなさい」

 

「えー、やだー」

 

「やだじゃありません。食べないと大きくなれませんよ」

 

辺りの騒めきも、交わす言葉も、嫌いな野菜に顔を顰めるヨツバの顔も何時もと同じ。あっという間に日常になってしまった光景を眺めながら、セツは一つの疑問が湧きたってくるのを感じた。

 

「ヨツバ」

 

「なあに?」

 

名前を呼べば、ヨツバは素直にこちらを見る。その目を見て、セツは疑問をそのまま口に出した。

 

「貴女は、どうして私の隣に居るんですか?」

 

「……なんでだろ」

 

ポカンとした表情で、ヨツバはそう呟く。流石にこの質問は難しすぎただろうかとセツは思い、取り消そうとした。しかし、その前に

 

「あー、分かった!」

 

とヨツバがポンと手を叩く。

 

「あたしが、居たいからだ!」

 

そう言ってこっちを見るヨツバの顔は、キラキラとした、満面の笑みで。出てきた答えは、難しさの欠片も無い単純な物だ。

 

それで、良いのかもしれない。

 

 

 

 




クライマックス後半andエピローグ!!
文字数足りない祭り!!
一章はこれで終わりです!!
二章は今プロット書いてるのでもうちょっとかかるよ!!
しばらくのんびり待っててね!!


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閑話 ひとりにしないで

 空が赤く染まっていた。上空を流れる雲も、西日に照らされて薄い茜色に染まっている。どこかに設置されたスピーカーから、電子音のメロディが流れ始めた。多分、何かの童謡だ。誰でも知っている様な一般的な歌だった筈だが、名前が出てこない。ぼんやりと思いだそうとしながら、私ことセツ・カンザキは、夕暮れの道を一人で歩いていた。

 

 今日は比較的平穏な一日だった。いつもの業務をこなして、午後には簡単に纏めた報告書を提出してきたのだ。おそらく明日には、上司から指摘や追加の指令が下りてくるのだろう。今度は、どんな事を言われるのだろうか。

 

 そんな事を考えていたら子供の甲高い声が聞こえて、私は反射的に顔を上げた。しかし前を横切って行ったのは、全く関係のない子供。学校帰りに遊んでいたのか、ランドセルを背負ったまま友達を追いかけて走っていく。どこか拍子抜けした様な気分でその後ろ姿を見送って、私は自嘲気味に苦笑した。

 

 一瞬、ヨツバが来たのかと思ってしまった。この辺りにヨツバの通う小学校があるせいかもしれない。しかしそれを抜きにしても、そんな早とちりをするとは思わなかった。あの騒がしい少女が隣に居る事に、私はいつの間にか慣れてしまっていた様だ。だから何と言う訳でも、無いけれど。

 

「セツ!」

 

 間違え様の無い、聞き慣れた声に振り返った。今度こそ、そこに居たのはヨツバだ。何時もの様に赤いランドセルを背負って、こちらへと走って来る。突進のような勢いのそれを受け止めて、私は少し不審な点に気付いた。ヨツバの目が若干、赤く腫れている。

 しかし何があったのか聞くべきだろうかと迷う暇も無く、ヨツバが怒涛の勢いでその訳を喋り出した。

 

「ねぇねぇセツ聞いて聞いて! 今日ね今日ね! 先生に怒られたの! 先生ったら、ひどいんだよ! あたしが男子を叩いたからって——」

 

 怒られたと言う割には、落ち込んでいる様子は無い。どちらかと言えばヨツバも怒っている様で、その説明はいつも以上に分かりにくくなっている。再び歩き出しながらヨツバの話を聞き終えて、私はその説明を一文に纏めた。

 

「つまり男子と喧嘩して、先生に怒られたんですか」

 

「そう! でもヨツバが悪いんじゃないよ。あいつがひどいこと言ったんだもん!」

 

「酷い事?」

 

 男子と喧嘩沙汰になるとは、余程酷いことを言われたのだろうと思って、私はそう聞き返す。するとヨツバは更に語気を荒くして、こう言った。

 

「あいつがね! 『軍人なんかとつき合わないほうが良いぞ』とか言ったんだよ! でね、あたしがね、『それってセツのこと?』って聞いたらうなずいたの。だから叩いてやった!」

 

 ……成程、思ったよりも大した話では無かった。少し拍子抜けして、私は内心でそう呟く。

 軍人が嫌われているなんて、今更言うまでもない話だ。私は決してそれを良しとは思っていない。けれどたった一人の子供が何を言った所で、白い眼を向けられる事実を変えられる訳でも無いのだ。そこは賢く立ち回るべきだろう。しかしこれは、ヨツバにはかなり難しい話かもしれない。どう伝えるべきかと、少しだけ悩む。

 

「実際に、軍人というのはあまりよく思われていません。その男子が言った事は間違いではありませんよ。出来れば軍人とは付き合わない方が、一般人は平穏に過ごせるでしょう。それは理解していますか?」

 

 予想通り、話を聞いていたヨツバはぽかんとした表情でやがて、「よくわかんない」と言った。まぁ、こんな子供に理解しろと言うには難解すぎる話か。けれど、似たような事をこの先言われないとは思えない。その度にトラブルを起こされては、たまったものではないし。どう説明した物か……

 

「あたしは、セツの所に居たいから居るだけだよ? なのに、なんでそんな難しい話をしなくちゃいけないの?」

 

 悩む私を他所に、ヨツバが不満げな表情でそんな事を言う。その言葉に、私は思わず言葉に詰まった。さっきまで考えていた筈の事が、気付けばどこかに行ってしまっている。

 

「……どうして、私の所に居たいんですか?」

 

 そのせいか、ついいつも気になっていた疑問が零れ落ちてしまった。慌てて取り消そうとするも間に合わず、ヨツバは満面の笑みで言葉を返した。

 

「だってあたし、セツのこと大好きだもん!」

 

 笑って、彼女は、そう言った。

 記憶が蘇る。どうしようもなく焼き付いたその表情は、どうして、目の前の物と酷似しているのだろう。

 やめて、やめて欲しい。その顔で笑わないで、その顔で同じことを言わないで。あの子の事を、私に、思い出させないで。

 

「それに、それにね、セツだって、ひとりぼっちは嫌でしょ?」

 

 でもそれは、全て私の我儘だから。吹き出した感情を無理矢理抑え込む。そのせいでヨツバがなんと言っているかは聞き逃してしまった。けれど、聞き返すことはしない。ヨツバがまた、違う話を始めたから。

 ころころと変わるヨツバの話を聞きながら、私達は家路を歩いて行った。

 

 

 

 ふと気が付けば、ヨツバは学校の近くにある公園の入り口に立っていた。いつも友達と行く、お気に入りの公園だ。空は綺麗に晴れていて、穏やかに風がそよいでいる。けれど辺りは怖いくらいに静かで、周りには誰も居ない。いつも賑やかな公園とは、まるっきり別の場所の様に思えた。

 

「……セツ?」

 

 静寂に耐えきれずにそう呟いたヨツバの声は、ただ虚空に響いてあっという間に消えてしまった。いつも隣に居るはずのセツは、どこにも居ない。

 

 何だろう、ここは。どうしてだれも居ないんだろう。セツは、どこに行ってしまったんだろう。こんなの、まるで、まるで、ひとりぼっちじゃないか。

 

 自分の頭の中に浮かんだひとりぼっちと言う言葉に、ヨツバの目に見る見るうちに涙が盛り上がっていく。そしてその涙が零れ落ちそうになったその時、風がそよいだような、不思議な声がヨツバの耳に届いた。

 

『あ、ああ、泣かないで!』

 

 聞いた事のない声に、ヨツバははっと顔を上げる。いつの間にか目の前には、少女が立っていた。黒い髪に、白い服。ぱっと見では、ヨツバより二つ三つほど年上に思える。特徴のある見た目では無いけれど、きっと笑えば可愛らしい少女なのだろう。

 

「あなた、だれ?」

 

『え、えーっと……ごめんね、それは言えないの』

 

 名前を聞かれた少女は、困った様に笑ってそう言った。そしてヨツバの手を取って、少し早足で歩き出す。少女が真っ直ぐに向かったのは、年季の入ったブランコだった。

 

『わたしね、このブランコで遊ぶのが好きだったんだ。ヨツバちゃん、乗る? 後ろから押したげよっか?』

 

 ブランコに腰掛けた少女の問いに、ヨツバは首を振った。ヨツバはどちらかと言えば、ボール遊びなんかが好きだったから。今はボールを持っていないけれど。

 

『そっか。あぁ、でも、遊ぶ時間は無いかもなぁ』

 

 断られた少女はさして残念そうにするでもなく、そんな事を呟いた。その横顔が不思議と寂しそうに見えて、そしてそんな寂しそうな横顔をどこかで見た気がして、ヨツバは少し首を傾げる。

 

『ねぇヨツバちゃん。ヨツバちゃんはひとりぼっちって言われた事、ある?』

 

 ブランコを小さく前後に揺らしていた少女が、唐突にそんな事を言った。聞かれたヨツバは少し考え、首を縦に振る。そして口を開いて、いつもと変わらない調子で喋った。

 

「あるよ。あたしのお父さんとお母さんがね、居なくなっちゃった日に、みんなあたしに『ひとりぼっちになっちゃったね、かわいそうに』って言ったの」

 

 しかしそこでヨツバは、笑った。

 

「でもあたし一人じゃないよ! 友達だっているし、それに、それにね、セツがいるもん!」

 

『そっかぁ』

 

 そんなヨツバを見て、少女もまた、笑う。嬉しそうに、優しげに。少女とは思えない、母親の様な柔らかな表情で。

 

『ヨツバちゃんは、セツちゃんが大好きなんだね』

 

「うん、大好き! セツはね、とっても強くてかっこいいの! 怒ったらちょっと怖いけど、でも、優しいよ!」

 

 無邪気に嬉しそうに話すヨツバの様子に、少女は眩しそうに目を細めた。そして呟くように話し出す。

 

『そうだね。セツちゃんは、とっても優しい。知ってるよ。わたしも、セツちゃんのお陰で、ひとりぼっちじゃなくなったから』

 

 そこで少女は、悲しそうな笑顔を見せた。泣くのを我慢している様な、酷く苦しそうな表情。そして小さな声で、続ける。

 

『でも、そしたらわたしが、セツちゃんをひとりぼっちにしちゃった』

 

 ぎゅっと胸が締め付けられるような気がして、ヨツバは知らず手を握り締めた。何だろう。この感覚も、初めてじゃない気がする。けれど少女はその笑顔をすぐにまた柔らかな表情で覆った。そしてヨツバに、語り掛ける。

 

『だからね、ありがとうヨツバちゃん。セツちゃんの隣に居るのがヨツバちゃんで、本当に良かった。でも、一つだけ、教えてほしいんだ』

 

 そこで少女はブランコから立ち上がって、柵に寄りかかっているヨツバの方へ一歩を踏み出した。公園は変わらず静まり返っていて、少女が砂利を踏み締めた音すらも鮮明に聞こえる。

 

『どうしてヨツバちゃんは、セツちゃんの隣に居るの?』

 

 隣に、居る理由。それは、ヨツバにとってセツはヒーローで、そしてセツの事が大好きだから。あれ、でも、それだけじゃない気がする。

 

『……どうして、私の所に居たいんですか?』

 

 瞼の裏に、今日の夕方、そう言ったセツの表情が蘇った。寂しそうな、ぎゅっと胸が締め付けられるような感覚も、蘇る。苦しい。嫌だ。セツのそんな顔を見ると、いつも苦しくなる。だから、嫌だ。セツには笑ってほしい。そんな顔をしないでほしい。だから、決めた。

 

「決めたの。セツの隣にいるって」

 

 難しいことはよく分からないけれど、大好きな人には、寂しいままで居てほしくない。ああ結局は、大好きだからと言うだけの、単純な事だった。

 

「だからあたしは、セツを絶対に一人にしないよ!」

 

 満面の笑みで、いつもの調子で、力強く、ヨツバは少女に向かってそう宣言した。そしてそれを聞いた少女も、心からの笑みを浮かべた。

 

『ああ、本当に良かった。ヨツバちゃんなら、セツちゃんを救ってあげられるよね』

 

 そう安堵した様に少女が言って、そこでヨツバは目が覚めた。

 

 

 

 ゆっくりと意識が覚醒する。今日は、何があっただろうか。確か、報告書を昨日提出したから、それに指摘や追加の指示が返ってくるはずだ。ああ、あと他にも何か——

 

 今日の予定を思い出しながら、体を起こそうとする。しかしその途中で右手を引かれて、私は動きを止めた。どうやら寝ている間に、ヨツバと手を繋いでいた様だ。これは……外さない方が良いのだろうか? 

 

「ひと……に、しな……」

 

 夢でも見ているのか、寝言を呟くヨツバの前髪をそっとかき上げる。こうしていれば、年相応に可愛らしい少女に見えるのだから不思議だ。

 

「ちゃんといますよ、ここに」

 

 不思議とそんな言葉が、零れ落ちた。

 




1章を書くにあたって元にした短編です。


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閑話 花火 feat.焔火狛也

 

 花火大会がある。それは知っていた。少し前からあいつらがよく話していたから。芹那が貰ってきたと言うポスターをわざわざカレンダーの横に貼っていたので、それが今夜だという事も、まあ、何となく知っていた。

 

 そしてそのポスターが貼られるよりも少し前に、押入れの大掃除をしていたのも覚えている。随分とほったらかしにしていたので、存在すら忘れていたものがかなり出て来た。当然そんな物は殆どがガラクタで、適当に分別してごみ袋に突っ込んでおいた。そしたら梨香が古着のリメイクにハマっているとかなんとか言って一部を持って行ったのも、ちゃんと記憶にある。

 

 だが、しかし。まさか花火大会のためにわざわざ浴衣を用意しているなんて知らなかったし、当然、それに自分の古着が使われるなんて思いもしなかった。更に言うのならば、その古着の中に“あの頃”の服があったことなんて完全に忘れていた。

 

 だから、こんな形で“それ”を目にするなんて、俺は思ってもいなかったのだ。

 

 

 

 夕飯の為の買い出しを終えて戻ってきた俺がバーの方に顔を出すと、カウンターの辺りが何時になくとっ散らかっていた。あちらこちらに広げられているのは、浴衣ばかり。それも、男物。

 何となく見覚えがある様な気がしたのは、それが二週間程前に梨香に持っていかれた古着だから。しかしそれを思い出しても、その持って行かれた古着がどうしてこんな所にあるのかは、良く分からなかった。

 

「あ、マスター。お帰り、なさい」

 

 声の聞こえた方を振り向けば、モニアがすぐそこに居た。横には芹那も居て、二人とも何故か浴衣姿だ。何を話していたのか、モニアの頬が珍しく朱く染まっている。楽しい事でもあったのだろうか。

 

「ただいま。妙に洒落た格好だな。どうしたんだ、その浴衣」

 

「今日は花火大会でしょ? だから、梨香さんと用意してたのよ。因みにモニアちゃんの布の柄は私が選んだの。可愛いでしょ!」

 

 ドヤ顔でそう言った芹那に、モニアがはにかんだ様に笑った。楽しそうなその様子に、自然と頬が緩む。

 

「に、似合い、ますか?」

 

「ああ、似合うぞ、良かったな」

 

 ポンとその頭に手を置いて撫でてやる。髪飾りが揺れ動いて、モニアはくすぐったそうな顔をした。

 

「で、そこの二人は何してるんだ?」

 

 カウンターの端の方で何時もの様にあーだこーだ言い合っているチャドと梨香の方を指さして聞く。

 

「着物の裾上げだっけ? なんか、サイズ合わせてるんだって。元々男子の分は作って無かったんだけど、古着がいっぱいあったから。花火大会だし、皆の分あった方が楽しいしね」

 

「……成程なぁ」

 

 それであんな風にとっ散らかった訳か。よくやるものだと少し思いながら、二人の方へ視線を向ける。そこで俺は、ようやく“それ”に気付いた。

 

 “それ”は俺が持っていた服の中でも特に古い物で、どれくらい前の物だったかは分からない。ただ、残っているとは思わなかったほど古い物なのは確かだ。あまりにも古すぎて、“それ”は必ず俺に嫌な記憶ばかり、思い出させる。だけど、捨てる事も出来なくて、ずっと押し入れに押し込んでいた、古い古い浴衣。何の因果か、それを着ているのはチャドだった。

 

「適当に結んでおくんで良いじゃん。動けりゃ問題ないって」

 

「そんなの駄目に決まってるでしょ! ほら、後ろ向いて」

 

 しかし皮肉な事に、“それ”はチャドによく似合っている。それでも言い様の無い何かが、のどに刺さった小骨の様に、引っ掛かった。

 

「……よりによって、あいつが“あれ”を着るなんて、なぁ」

 

 ……よりにも、よって。ほとんど無意識で零れたその言葉が、少し気になった。どうしてこの光景がこんなにも引っ掛かるのか。どうして、『よりにもよって』なのか。しかしモニアが俺の服の裾を引いたから、思考を遮ってそっちに顔を向ける。

 

「マス、ター。花火、見ましょう?」

 

「……そうだな」

 

 ああ、そうだ。今日は、花火大会だから。

 

 そんな、理由になっていない理由を付けて、俺はその考えをしまい込む事にした。“それ”を押入れの奥に押し込んだ様に。しょうもない事だと、笑える様になるまでは。

 




続けて閑話。マスターのちょっと不穏な話。詳細が分かるのは大分先かもしれないですが……
因みにfeat.で気づいた人もいるかもしれませんが、この閑話は三部作です。


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閑話 花火 feat.セツ・カンザキ

 

 何処からともなく聞こえてくるお囃子の音と、派手な色に塗られた出店ののぼり。そして、通りを行ったり来たりする人々の騒めきが、その通りには溢れ返っている。それを見た私——セツ・カンザキは、思わず溜息を吐いた。

 

 これは、用事を済ませるのに骨が折れそうだ。祭りと言うものはこの世界でもそう変わらず、騒がしい物らしい。いっその事違えばよかったのに。と言っても、毎年遠巻きに見ていただけで、別に祭りに行った事など無いけれど。

 

 ああいや、一度だけあった。とても昔の話だ。あの時、どうして私は祭りになんて行こうと——

 

「ねぇセツ見て見て! 金魚すくい!」

 

「そうですね」

 

 そう言いながら駆け出していこうとするヨツバの手を掴んで止める。こんな人混みの中で迷子だなんてことになったら洒落にならない。第一、走り回ったら帯が解けてしまうかもしれないと注意されたばかりだと言うのに。

 

「走らないでください。ほら、綿あめを買うんでしょう?」

 

 人にぶつかりかけながら、そう言ってヨツバの手を引いて先へ進む。

 

 そもそも、こんな所に来たいと思ってきた訳じゃ無いのだ。発端は、ヨツバが何時もの様に綿あめが食べたいだなんて我儘を言い出した事。正直、それだけの為にここまで来るのは気が進まなかった。しかし駄々を捏ねられるよりかさっさと買って満足させた方が楽だろうと思い、わざわざこんな所まで来ることにしたのだ。が、その判断は些か早計だったかもしれない。

 

「しかし、何故綿あめだなんて……」

 

 人混みで上手く前に進めないせいか、それとも慣れない服装で動きづらいせいか。気づかない内に、私は苛々とそう呟いていた。特に誰に聞かせようと思った訳でも無い、殆ど無意識での呟きだ。

 

「……お父さんがね」

 

 だから、返事が帰って来るなんて思っていなかった私は、思わず足を止める。

 

「お父さんが買ってくれたの、綿あめ。いつもお祭りに行くとね、買ってくれたんだ」

 

 ちらりと下の方に視線をやってもヨツバの様子は寂しげでは無く、むしろどこか楽しそうに話している。私は何も言わずに、ゆっくりと歩き出した。

 

「それでいつもね、『お祭りだからな』って言うんだ。お母さんは、『ちゃんと歯磨きするのよ』って言うの。でも——ねぇセツ! あれ何!?」

 

 屋台の一つに目を惹かれて、ヨツバは急に話をぶった切った。何とも言えない気分になりながらも、ヨツバが指さした方を見る。そこにあったのは、飴細工の屋台だった。夜の灯りを反射してキラキラと輝く飴細工が、台の上に幾つも並べられている。

 

「あれは飴細工ですね……欲しいんですか?」

 

「うん! ねぇセツお願い! お願いお願いお願い!」

 

「今日は綿あめを買いに来たんですよ」

 

 まさか二つも買って貰えるとは思っていないだろうと思ってそう言うと、ヨツバは明らかにしまったと言う顔をする。そこまで考えが回って居なかったのだろう。難しい顔つきをして考え始めたかと思えば、深刻な顔つきでこんな事を言った。

 

「……両方、ちゃんと食べるよ。ねぇだからいいでしょセツ! 買って!」

 

 残す残さないの問題ではないのだが。呆れた様な気分でそう思ってから、私は少しだけどうするか考える。普段なら、どちらかだけと言えば良いのだが……

 

「一つ下さい」

 

 私は手に持った財布から百円玉を三枚取り出して、店の店主に渡す。それと引き換えに受け取った小さな金魚の飴細工を差し出せば、ヨツバは分かりやすく目を輝かせた。

 

「やったー! ありがとうセツ!」

 

「お祭りですからね」

 

 自然と、そんな台詞が零れ落ちた。そしてその台詞と、ヨツバの笑顔に引き摺られて、ふっと“あの子”との記憶が脳裏に浮かぶ。

 

『だって、セツちゃん、今日はお祭りだからね!』

 

 そうだ。そう言うあの子に連れられて、私は——

 

 しまい込んだ、古い古い記憶が蘇る。あの日も、こんな風に人が多くて、煩くて、暑くて。ああ、それで、楽しかった。楽しかったのだ、私は。

 

 だからだろうか。だから、今日は苦しくならないのだろうか。あの日が楽しかったから、“あの子”の笑顔を思い出せるのだろうか。それとも——

 

「今日が、お祭りだから」

 

 それこそ柄でも無いと、もう一度呟いた言葉に少し苦笑した。

 

 




短いですね。2つ目はセツさんです。


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閑話 絆されたのは

※今回は唐突な軍パロかつ死ネタです。チャドリカ以外出てきません※

・ざっくり設定
 梨香………従軍看護婦。兵士を看取る為の名ばかりの病院の一応施設長。
 チャド……敵軍の兵士。ボロボロの状態で梨香に拾われた。逃げ出してきたらしい。
 舞台は小さな野戦病院。前線からもそれなりの距離があり、前線に復帰できないとみなされた兵士が療養している。


 

 

 

 今日は随分と風が強いらしい。部屋の窓から建物の裏手を見下ろして、チャドはそんな事を一人思った。窓からは裏手に広がる森がよく見える。木々の間で揺れる白いシーツをぼんやりと見つめるその目は、何だか物思いに沈んでいる様にも、悩んでいる様にも見えた。溜息でも吐きそうに開いた口から、小さな声での呟きが漏れる。

 

「……暇だなぁ」

 

「それ、今日だけで三回目よ」

 

 それに答えたのは、たった今部屋の扉を開けて入ってきた梨香だった。呆れた様に言われて、チャドは「だってさー」と口を尖らせる。

 

「俺、一週間もこの部屋に閉じ込められてるんだぜ?」

 

 そういってチャドは自分が今いる部屋をぐるりと見回した。一人きりの部屋は随分と殺風景で、広い訳でも無いのにがらんとしているように感じる。置かれた机も今自分が寝ているベッドも、壊れかけてずっと物置に仕舞い込まれていたものらしい。その証拠に、ベッドなんて寝返り一つでぎしぎしと悲鳴を上げる様な骨董品だ。自分の立場を思えば、まぁ妥当な扱いではあるのだが。

 

「しょうがないでしょ。あんたみたいなのを匿ってるのがバレたら、この病院潰されちゃうわよ」

 

 至極最もな意見に、チャドは何も答えず溜息だけ吐いた。しかし、相変わらずその視線は窓の外へ向けられている。その未練がましい様子に、そんなに外に行きたいのか、と梨香は思わず苦笑してしまった。その手に握られているのは新しい包帯。どうやら、チャドの包帯を変えに来たらしい。

 

「ほら、腕見せて」

 

「ん、分かった」

 

 梨香の短い言葉に、チャドは右手だけで掛け布団を押し退けベッドの端へ座った。その右手は三角巾で吊るされていて、一目で骨折したと分かる姿だ。後ろに回り込んだ梨香は、チャドの三角巾を外すと、慣れた手つきで作業を始めた。毎日繰り返した包帯の取り換えという作業は、一分と掛からずあっと言う間に終わる。

 

「順調みたいね、良かったじゃない」

 

「そ? 何も変わんないみたいに見えるけど」

 

「だからよ。悪化してないってことでしょ」

 

 そんなもんかなぁ、と首を捻りながら、チャドはベッドの中へ再び戻った。窓を閉め切っているとはいえ、今は一月だ。建物の端っこであることも相まって、部屋は随分と冷える。毎日忙しく働きまわっている梨香は、あまり寒さを感じていないようだけど。

 

「……あ、そうだ」

 

 おもむろに、梨香がスカートのポケットから何かを取り出した。長方形の、こなれた革の表紙。その上部に印刷されたタイトルを見て、チャドは怪訝な顔をする。

 

「なんこれ。聖書?」

 

「そうよ。暇ならこれでも読んでなさい」

 

「えー……」

 

 何とも微妙な顔で、チャドは梨香を見上げた。その表情には、“何でこんなの”と分かりやすく表れている。

 

「何でこんなの」

 

「こんなのしかなくて悪かったわね。これを機に、ちょっとは信心深くなったら?」

 

 反省しないと天国には行けないわよ、ただでさえ不真面目なんだから、とからかい交じりに梨香が言った。それに、チャドは少々自虐的な表情を見せる。

 

「どうせ俺は地獄行きだよ。今更反省したところで……」

 

 やれやれ、という副音声でも付きそうな仕草でチャドは肩を竦めた。あまりらしいとは言えない、妙に悲観的な言葉だ。しかし梨香はそれ以上突っ込まず

 

「ま、好きにしたら? 完治までにはもう暫くかかるでしょうけど。それじゃ、また来るから」

 

 と言い残し、部屋を出て行ってしまった。一人きりになり、一層がらんとしてしまった部屋に取り残されたチャドは、気が抜けた様に枕へ寄り掛かる。気を紛らわす様にパラパラと梨香が残していった本のページをめくるが、目は文章の上を滑るばかりだ。

 

「……確かに、舌は抜かれたかないけどさ」

 

 嘘吐きは地獄行き。地獄で閻魔様に舌を抜かれる。そんな故郷の下らない迷信は、こっちの国でも通用するのだろうか。そんな些細な事が、無性に気になって仕方がなかった。

 

 

 

 梨香の日々は忙しい。昼間は当然として、日が落ちてもやる事は尽きないのだ。それは今日も変わらず、梨香が自室で書類との格闘を終えたのは時計の針が一時を過ぎた頃だった。人の気持ちとは不思議なもので、たったそれだけで強く疲労を感じてしまう。

 

 口から出かけた溜息を飲み込んで、梨香は立ち上がった。そして、机の端に置いてあったカンテラを手に取る。これから寝る前の日課、夜の見回り兼戸締りをするのだ。

 

 昼間から吹いていた風は、日が暮れるにつれて強さを増していた。窓ガラスをがたがたと鳴らす様はどうにも不穏で、嵐でも来るのだろうかと思ってしまう。ひょっとしたら屋根でも剥がされてしまいそうだ。只でさえ最近老朽化が進んでいるのにと溜息をつきながら、梨香は廊下を歩いていった。

 

 患者達が寝ている部屋、食堂、他に勤めている看護師達の部屋、台所……と、一つ一つ部屋とその窓やドアの鍵を確認していく。そうして建物の中を練り歩いた最後に訪れるのは、この建物の一番北側にある、元物置だったチャドの部屋だ。

 

 梨香がチャドを保護した経緯は単純だった。朝に建物の前で倒れているのを見つけて、慌てて運び込んだ、それだけ。しかし、やはり見捨てるべきだったのだろうな、とたまに思ってしまう。

 

 だって、あれは敵国の人間で、それも兵士だ。この建物に居る患者の殆どが敵国の兵士によって傷付けられてここに居る。その事実を鑑みれば、そんな事をしたって誰も梨香を責める事はしないだろう。

 

 それでも、どうしてか梨香はチャドを見捨てる事ができなかった。何人もの兵士を看取って錆び付いた梨香の良心は、どうしてかこんな余計な時ばかり働く。その事実が、たまに酷く煩わしく感じられる時がある。そして梨香は、そんな自分が嫌いだ。

 

 足音を殺して階段を上る。ゆらゆらと揺れるカンテラの灯りに影を揺らされながら、そっと元物置の扉を開けた。がらんとした部屋に細く灯りが差し込んで、部屋の中をわずかに照らし出す。

 

 いつもなら、ここから目視で窓の鍵を確認して終わりだ。部屋の中に踏み込みまではしない。けれど、今日はいつもと違った。

 

「……?」

 

 耳が、床が軋む音とも違う微かな異音を聞き取って、つい足が止まる。小さくて、低い獣の声の様にも思える音。ある意味聞きなれたそれが何かを察するのに、さして時間はかからなかった。扉を静かに押し開けて、梨香は部屋の中へ入る。

 

 異音の正体は、チャドが魘されている声だった。寝苦しいのか額は汗でじっとりと湿っていて、前髪がへばりついている。手のひらを当ててみるが、熱は無いようだった。

 

「……り、か?」

 

 おもむろにその瞼が持ち上がる。ぼんやりと焦点の合わない目は、微妙に意識がはっきりしていない事を伺わせた。熱が無いのなら寝起きのせいだろう。

 

「なん、で。いま、なんじ……?」

 

「まだ二時よ。魘されてたみたいだけど、腕、痛む?」

 

 梨香の問いに、チャドはゆっくりと首を振った。怪我のせいでもない、と。昼間見たときに変わった様子は無かったし、精神的なものだろうか? まぁ、魘される患者はここじゃ少なくないし、取り立てて心配する必要も無いのかもしれない。

 

「それなら良かった」

 

 表情を緩めて言った。こういう時に過剰に心配したり、原因を探ろうとするのは逆効果だ。そんな経験則から、梨香は努めて普段通りに振る舞う。

 

「それじゃあ、私、行くわね。何かあったら、下まで——」

 

 下まで来て、と言いかけて、梨香は言葉を切った。チャドがその手を引いたからだ。

 

「……れ、なん……って……」

 

「?」

 

「俺、なんか言ってた?」

 

 梨香は、そういったチャドの表情に少し違和感を覚えた。何故だか妙に焦っている様に見える。少し気になってしまったけれど、詮索をしないのはずっと前から決めていた事だ。秘密がある事なんて、分かり切っていたから。だから、梨香はただこう言った。

 

「大丈夫、何も聞かなかったから」

 

 実際嘘では無い。しかし、それでもチャドから不安そうな表情は拭い切れなかった。何だかんだ心配性なのかしら、と内心だけで呟いて、梨香は微笑んで見せる。

 

「大丈夫だから寝ちゃいなさい。朝になったら、何とかなってるわよ」

 

 いっそ無責任とも言えるほど楽観的な言葉だ。けれど、その言葉を聞いてようやくチャドの表情からふっと険しさが抜けた。そして、眠気に耐えかねたかのようにゆっくりその瞼が下りていく。それでも、やっぱり右手は梨香の手を掴んだままだ。

 

 どうしてだろう。そんな子供っぽい様子が、妙に愛おしいと思えた。

 

 

 

 さて、それから半月後の事。日々は何事もなく流れ続け、冬は順調に深まっていっていた。数日前に降った大雪のお陰で、窓から見える景色もすっかり純白の雪景色になっている。

 

 今日も今日とてそれをぼんやりと見つめるチャドは、頬杖をつき、珍しく物思いに沈んでいる様だった。柄にもなく真面目腐った顔をして、さっきから同じ事をぐるぐるぐるぐるずぅっと考えている。解決策は無くて、そんな事とっくに分かっていて、でも、堂々巡りから抜け出す事も億劫で。

 

「……いっそ、言えたら楽なのにな」

 

「何を?」

 

「んー、俺が、スパイだって——」

 

 言葉を切り、チャドは慌てて振り返った。その目を最大限に見開いて、いつの間にか部屋に入ってきていた梨香をまじまじと見詰める。その頬を一筋汗が伝ったのに、堪え切れず梨香は噴き出した。

 

「……ッフ、フフフフッ、何よその顔、アハハハハ、おっかしい」

 

 そしてそのままケラケラ笑い出すが、チャドにとっては全く笑い事じゃない。というか、梨香にとってだってその筈だ。予想していたのとは正反対な反応に、チャドは戸惑いを隠せない。

 

「言えて良かったわねぇ、楽になったじゃない」

 

「よかねぇよ! え、えぇ……っと、ひょっとして、気づいてた?」

 

「全然?」

 

 構えながら聞くと軽い調子での返答に、思わず拍子抜けした。ついついチャドは梨香がこの話の重要性を分かっているのか思わず訝しんでしまう。そんなチャドの思いに気付いているのかいないのか、梨香はでも、と続けた。

 

「そりゃあ、何か隠してる事ぐらい最初から分かってたもの。深く突っ込まないって私が決めてただけ」

 

 怪しい点なんて追求しだしたらキリが無いと言われて、チャドは思わず反論の言葉を失くした。確かに、よく考えてみれば梨香の言う通りだ。

 

「……うん、まぁ、逃げ出して来たってのは嘘だよ」

 

 そうして、もう隠す意味も無いと悟ったチャドは、ぽつりぽつりと話し始める。奇襲をかける作戦があった事。自分がその事前調査の為に送り込まれたスパイだという事。そして、だんだんとそれに嫌気が差してきている事。

 

「——調査は、皆が寝静まってからこっそり抜け出してやってた。あんまり難しくなかったよ。左腕が使えないのは不便だったけど」

 

 骨折は流石に誤魔化せないだろうという事で、事前にわざと折ったらしい。取り繕う素振りも見せず、チャドは淡々と事実を語る。それはこの事実がバレたらお互いタダでは済まないと分かっているからだろうか。

 

「……でもさ、なんか急に、全部面倒臭くなっちゃって。騙すとかなんだとか、俺、向いてないみたいだし。それにさ、こんな事の為にわざと腕折ってんだぜ? ほんっと、めっちゃ痛かったのに。だから、もういっそ逃げちゃおうかなって、考えてて」

 

 段々と、その声に弱々しさが混じり始めた。そう感じて、梨香は少し心配そうな視線を向ける。すると目が合って、チャドはふにゃりと笑った。

 

「まぁ、こんな腕じゃ、それも無理があるけどなぁ」

 

 その言葉に、梨香ははっとこの部屋に来た目的を思い出した。

 

「そうだ、腕の事なんだけど——」

 

 でも、そう言いかけて何故だか言葉に詰まる。どうしてか、と自問して、梨香はすぐに気づいた。チャドの腕が治るってことは、つまりもう、ここに居る理由も何もなくなってしまうという事。そしてそれは、二人の別れとそのままイコールだって事に。

 

「……梨香?」

 

 でも、不思議そうな表情のチャドに続きを促されて、梨香は口を開く。どうしてこんなに口が重くなるのか、その理由を察しながら。

 

「——そろそろね、包帯はもう付けなくてよくなると思うの」

 

 その言葉に、チャドは目を見開く。分かりやすく、期待でその目を輝かせて。

 

「え、じゃあ、もう」

 

「そうね。もう、安静にしなくても大丈夫」

 

 さっきまでとは違い、チャドはその言葉を聞いて素直に嬉しそうにした。よっぽど右腕が使えないのが窮屈だったのだろう。それを見て、梨香は笑う。少しだけ、寂しさを滲ませて。

 

「そしたら、行っちゃうんでしょう?」

 

 梨香の言葉に、部屋の中は静まり返った。チャドは、少しだけ意外そうな顔をして、でも、梨香が何か言おうとしたから静かに続きを待つ。

 

「でも、すぐ無茶してまた怪我しそうよね。それなら、治してくれる人が必要だと、思うの。だから……」

 

 この言葉を聞いて、チャドは梨香が何を言わんとしているのかを察した。しかし、やはり口を挟む事はしない。

 

「だから、私の事も連れてってよ」

 

 後から後悔することなんて、その時にはもう分っていた様な気がする。けれど、何故だかダメだという様な気にもなれず、気が付いたらチャドは首を縦に振っていた。

 

 

 

 二人が病院を抜け出す事に決めたのは、その一週間ほど後の真夜中、偶然にも、チャドがこの病院を訪れてから丁度一月経つ日だった。

 

 準備するものはそれ程無かった。数日分の食料と路銀、それから少しの着替えとちょっとした手当ての為の道具。あまり荷物が多いと移動しにくいとチャドが言ったからだ。

 

 出発から五分ほど経った頃、雪が降ってきた。息を白く吐き出しながら、二人は白い欠片が舞う中を歩き続けた。はしゃぐほど浮かれておらず、かと言って沈んだと言える気分でもない、不思議な心地がした。

 

 そうして、いったいどれほど歩いたかもわからなくなった頃。前を歩くチャドが、不意に立ち止まった。反射的に、梨香の足も止まる。その肩から荷物の入った袋が静かに滑り落ちた。

 

「梨香、あのさ」

 

「どうしたの?」

 

「……ずっと、言ってなかったことがあるんだ」

 

 梨香が違和感を覚えたのはチャドのその言葉ではなく、話を切り出したタイミングだった。だって、ここは何も無い森のど真ん中で、町からも、出てきた病院からも特別近いとは言えない。さっきから降り続けている雪のせいで確かなことは言えないけれど、でも、それは確かに不可解な点だった。

 

 しかしそれを聞く事は出来ないまま、チャドが話を進める。

 

「普通、スパイっていうのはさ、腕の一本や二本で諦める様な奴に、任せられるもんじゃないんだよね」

 

 迂遠な言い回しに、梨香はチャドが言わんとしている事を理解できない。立ち止まった足を前にも後ろにも動かすことができないまま、梨香は怪訝な顔で話の続きを促した。

 

「それに、面倒だってだけで全部投げ出そうと思えるほど、ぬるい教育されてる訳も、無いんだよ」

 

「……ねぇ、それって、どういう——」

 

 それでもチャドははっきりとした事を言わない。痺れを切らした梨香が、問いただそうと一歩踏み込む。

 

 すると、チャドは梨香の右手を引いた。いつかの様にそっと、しかし振り払えない強さで。そうして引き寄せた梨香の体を、両腕で包み込む。近づいた人の体温に、梨香は思わず顔を赤くする。しかし振り払おうとしないのは、治ったばかりの左腕を気遣っているからだろう。

 

 それに、チャドが付け込んだとも知らずに。

 

 梨香が気付く前にと、チャドは素早く事を済ませた。気付かれないようにナイフを抜いて、暗がりで鈍く光る刃をその背に突き立てる。

 

「今更、裏切られる訳ないじゃん」

 

 そう呟いた声は、聞いたことも無いほど冷たく、平坦で。それが耳に届いた時、梨香は背中を刺された事を悟った。

 

 よろめいた梨香の体を支えたのは、逃がすまいと力を籠めるチャドの腕だった。その表情は、普段はよく笑うだなんて思えないような、感情の抜け落ちた無表情。それに、刺された物とは全く違う痛みを感じて、梨香はしがみつく腕に力を込めた。

 

「梨香、ごめんな? 俺、梨香の事絆してたんだ」

 

 まさか、付いてきてくれるまでとは思わなかったけどと言って、チャドは笑う。寒々しい笑い声は、あっという間に木々の間に吸い込まれて消えていった。

 

「怨んでいいよ。全部、俺が付いた嘘だったんだからさ」

 

 そういって、チャドは笑顔を形作った。無理やり口の両端を釣り上げたような笑顔。普段のものとかけ離れたそれは、どうしても似合わないと感じてしまう。

 

「馬鹿だなぁ」

 

 そんな泣き笑いの顔に、梨香は手を伸ばそうとした。しかし、それは叶わない。背中に刺さっていた冷たい物が消えて、代わりに激痛が梨香を襲ったから。

 

「ねぇ、梨香」

 

 体をくの字に曲げて、梨香は咳き込んだ。口の中を通り過ぎる鉄の味に、喀血していると知る。ぽたりぽたりと白い雪の上に落ちた血が、微かな体温を伴って小さな窪みを作った。白地を背景にした赤は、暗がりでも毒々しいほど鮮やかに目に映る。

 

「なんで、俺なんかに付いてきちゃったの」

 

 そういった言葉はまるで嘲る様な調子で。でも、その顔が笑っているとはどうしても思えなくて。けれど、霞む視界にもうそれを確かめるすべは無いと梨香は悟る。

 

「なんで、俺なんかのこと信じたの」

 

 その言葉に答える者は、もう居ない。

 

「なんで、俺なんか助けたの」

 

 行き場を失くした言葉は、白々しく森の中にこだました。雪はさっきからずっと振り続けて、何もかもを覆い隠そうとし続けている。木々も、血の跡も、梨香の体さえも。隠されないのは、チャド一人だけだ。

 

「なん、で」

 

 掠れた声での言葉が上ずる。

 

「なんで、こんな所で、出会ったの」

 

 堪え切れなかった雫が、梨香の体に降り積もった雪を少しだけ溶かした。

 

 

 




花火は三部作だと言ったな、あれは嘘だ。ごめんなさい力尽きました。
ということで唐突に始まる軍パロ。ちょいスランプ気味だったのでリハビリがてらうちの子だけで好みを詰めてたらこんなに時間がかかりました。ちなみに発端はかさごちゃんが描いてくれたちょー可愛い絵。その時の感動のままの死ネタです。このオチは誰も予想できなかったろ(確信)

この後チャド君はスパイ大作戦が成功し、その功績によって出世し、平民出身吸血鬼にしては随分な役職を貰い、スパイの経験を買われて軍内部の裏切り者を洗い出す仕事をするご予定です。


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