Shangri-La... (ドラケン)
しおりを挟む

オリキャラ設定

一応完成したので、試しに上げてみます。他のキャラも順次予定。


対馬 嚆矢(つしま こうじ)

 

 

身長:186㎝

体重:75㎏

 

 

来歴

 

 

 亜麻色の髪に蜂蜜色の瞳、どちらかと言えば、イケメンというよりは男前風貌。日頃の鍛練により、筋肉質のガッチリ体型。弐天巌流学園三年、前合気道部主将。学園の方針で夏期休暇のみ風紀委員(ジャッジメント)所属。

 男の前では寡黙でカッコつけなのだが、女の前では基本軽薄なチャラ男。その方がモテると錯覚している。ホモな訳ではない。

 

 

 『暗闇の五月計画』の被験体の一人。ただし、その後に『プロデュース』を受けたせいで、物理的に当時の記憶を失っている。

 幼少より暗部の掃除屋として泥水を啜るような生き方をしていたが、現在は学園都市の家庭に引き取られて一般人として生活している。その為か、『当たり前の人間』といったものを何より大事にしている。

 

 

 ただ、今でも暗部の軛からは逃れられておらず、警備員(アンチスキル)の上層部から経歴を買われて潜入工作などを行う事もある。

 

 

能力

 

 

・『確率使い(エンカウンター)』(スキル)……強度はレベル2。あらゆる確率を司る超能力、のなりそこない。学園都市の学生なら無意識で行う確率の引き寄せを演算で行うというもの。出来る事の幅は広いが、起こせるのは常識的な事のみのハズレ能力。曰く、『自分だけの現実(パーソナルリアリティ)』がないスキル。尚、その為かAIMが算出されない副次効果がある。

 

・魔術(ルーン)……北欧のルーン文字に起因する魔術。義母の教えによるもので、昼は二文字、夜なら五文字は同時に励起できる。見様見真似で質は悪いが、ステイルの炎剣も使用可能(夜間に限る)。

 

・誓約(ゲッシュ)……ギーサとも。ケルト神話由来の魔術で、立てた誓いを遵守する事でプラスの補正を得る。代償として、一度でもその誓いを破ればマイナスの補正が掛かる。嚆矢の場合は『女性に非道を働かない』事。一人でいくつも持てるが、その分、誓約を逆手にとられる危険も増す為、注意が必要。

 

・魔術(錬金術)……魔術の教書でかじった程度。条件次第では使えるが、基本当てにしていない。。

 

・魔術(召喚術)……同上。

 

・剣術(柳生新影流兵法)……日本伝統の刀剣術。義父の教えによるもので、切り紙程度の腕前だが破門にされている。尚、柳生新影流兵法は平服が基本だが、裏柳生忍術や介者兵法(鎧を着ての戦術)も一通り習っている。

 

・合気道……一般的な部活の範囲。それなりの練度。同時に四方、四人までなら相手取れる。

 

・人狼……異常な再生能力。スキルでも魔術でもない。生得的に頑強な肉体と、科学技術による細胞分裂促進。とある医師の研究成果にすげ替えられた肉体。これにより、能力開発を受けていながらもある程度の魔術を行使できる。とは言え、致命傷を受ければ当たり前に死ぬ。

 加えて夜間は能力やステータスに補正が掛かる。身体能力の強化、魔力変換効率の増加、視力が落ちない等、満月に近ければ近いほど補正値が上がる。

 

 

装備

 

 

・兎脚の護符……ラビッツフット。義母の贈り物の幸運のお守り。フェイクファーに青い宝石とルーン文字が刻まれている。

 

・懐中時計……師父からの贈り物。内部に魔物避けの輝く捩れ双角錐(シャイニング=トラペゾヘドロン)が嵌め込まれている。覗き込むと、とびきりの悪夢が見れる。

 

・日本刀(打刀)……正宗十哲、長谷部国重作。かの圧し斬り長谷部とされるが、真贋は不明。悪心影の力の一部であり、象徴。多少壊れても魔力を注げば直る。普段は影に潜めている。

 

・バルザイの偃月刀……時空の神を祀る祭具。剣の形をした杖であるとも。ショゴスにより形成されているため、やはり多少壊れても魔力を注げば直る。勿論、普段は影に潜めている。

 

・鎧(駆動鎧)……西洋甲冑と日本の鎧の両方の特徴を持つ、南蛮胴。銘は『神野悪五郎日影』。悪心影の力の一部であり、象徴。普段は螻蛄の形でショゴスの中に仕舞われている。ショゴスが独立して活動する際の入れ物でもある。例のごとく、多少壊れても魔力を注げば直る。

 

・銀色の鍵……夢の中の双子から貰った物。有機的な金属で作られた、割と大型の鍵。用途不明。

 

・白い水晶……夢の中の双子から貰った物。うっすらと輝く、半透明の水晶。用途不明。

 

・携帯電話……私事用と仕事用の二台を所持して使い分けている。

 

・煙草……一般的なもの。炎剣使用時に便利。

 

・オイルタンクライター……同上。

 

 

協力者

 

 

・ヨグ=ショゴース……時空の粘塊。発狂時空の覗き窓。クトゥルフ神話の奉仕種族『ショゴス』が外なる神『ヨグ=ソトース』の欠片と同化したもの。普段は嚆矢の影に潜み、物理無効の体を利用して彼の身を守っている。非常に貪欲で、有機物でも無機物でも関係なく食う。テレパシーで宿主と意思の疎通も可能。ただし人語は解さない。

 ヨグ=ソトースの力を片鱗とはいえ備えており、玉虫色に泡立つ不定形の体内には異次元空間が広がっている。もっぱら倉庫として使用されるが、空間ごと対象を捕食する顎ともなる。

 

・悪心影……第六天魔王。暗黒将軍。日本史で知らぬ者は居ない、戦国の魔王『織田信長』の名を冠する『無貌の神』の分御霊の一柱。普段は影法師のような姿だが、人間形態では『織田市媛』を名乗る。何故女性の姿なのかは不明。『言霊』を操る事ができ、口にした言葉は魔力を帯びて他者の脳を冒す。

 とにかく新し物好きの気分屋な刹那主義者で、嚆矢に協力しているのも『面白いから』程度のもの。しかし、『這い寄る混沌』の中でも有数の実力と格を持つのも紛れもない事実である。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

序章 シャングリ・ラ=Shangri-La
七月十六日:『青天の霹靂』


初めまして、ドラケンと申します!

『とある科学の超電磁砲’S』に嵌まってしまい、勢いで筆を執ってしまいました。まだまだ未熟者ですので設定を取り込めていなかったり矛盾している箇所等有ると思いますが、完結できるよう精一杯頑張ります!


 

『いくぞ――――歯ァ、喰い縛れ』

 

 

――――覚えているのはその声と、顎から頭の天辺に向かって突き抜けた衝撃だけ。

 

 

『――――――!?!』

 

 

 潰れた喉から、無音の悲鳴が迸った。セピア色の景色が、信じられない速度で下方に流れる。否、()()()()()()上方に浮いたのだ。

 一回転し、俯せにコンクリートの路面に叩き付けられる。その路面に蜘蛛の巣状のひび割れは、『奴』の脚が踏み抜いた痕だ。

 

 

『……お仲間は、お前を見棄てていったぞ。まぁ、力で押さえ付けてただけなら仕方ないよな、お山の大将?』

『――――…………』

 

 

 完全に震盪を起こした頭蓋では声を認識できても意味が判らない。しかし、これで終わりなのだと言うことだけは理解できた。

 

 

――クソ……クソッ! 巫山戯やがって…………! 何で、何でこんな奴が……。

 

 

 弱い己に、存在意義など無い。そんな事は――――誰よりも、自分が解っていた。

 

 

『だが、最後のパンチは良かったぞ。このオレにまともなダメージを与えるとは――――』

 

 

 だから、せめてもの抵抗に睨み付ける。自身を撃ち破ったその男を、目蓋に焼き付ける。

 

 

『中々、()()あるじゃねえか。再挑戦なら、いつでも来い。待ってるぜ――――』

 

 

 黒い、針金のような短髪。巻かれた鉢巻き。白い学ランを肩に羽織った、旭日旗のTシャツを。

 

 

――何でこんなに、■■■■■■だよ……

 

 

 振り返りながらニカッと笑い掛けたその少年の姿を最後に、意識は消え去る。

 夢が、覚める――――――

 

 

………………

…………

……

 

 

「あー……百分の一(サイアク)

 

 

 寝起きの第一声は、正に苦虫を噛み潰した音。寝汗に張り付く亜麻色の前髪を掻き上げながら、彼は薄いブランケットを跳ね退けて起き上がった。

 エアコンで適温に設定してあるとはいえ、寝室に忍び込んでくる初夏の熱気は四時半の段階でそれなりにキツい。

 

 

「時間は……全然余裕だな」

 

 

 欠伸混じりに呟き、キッチンの冷蔵庫で冷やしているペットボトルのコーヒーを手早くコップに移し替えて啜りながら、頭の芯に残る眠気を払う。

 今日は朝食を摂る時間がありそうだ、と。『とある筋』から入手した煙草に火を点し、紫煙を燻らせた。

 

 

「っと……母さんか。もしもし?」

 

 

 と、そこで携帯が鳴る。初期設定のままのアラーム音、画面には『マ~マ(ハート)』と、無理矢理登録させられた表示。

 灰皿の縁に煙草を預け、テーブルの上のポットからカップ麺に湯を注ぐ。近くのスーパーでまとめ買いした、百円しない安いラーメン。朝なのであっさりめの醤油味だ。

 

 

 ダイニングまで移動すると、その蓋の上に箸を置いて通話の構えに入る。

 

 

『あ、おはよう、コウ君。朝ごはん中ごめんね?』

「母さん、『コウ君』は止めてくれって……どうかした?」

 

 

 機械の向こうから聞こえてきた声は、歳の割には若々しい。実におっとりした雰囲気の声。

 それに冷蔵庫から、昨晩冷凍庫から移しておいたラップ巻きの手製お握りを二つ取り出して、冷蔵庫の上のレンジで温めつつ応答する。

 

 

『いつもの事よ。今日はハンカチと絆創膏と傘を忘れちゃダメよ?』

「オーケー、ハンカチと絆創膏と傘ね……雨の予報はないけど?」

 

 

 携帯を頬と肩で押さえつつ、リモコンで起動したテレビを見やる黒い瞳。そこには、晴れの文字が踊っている。因みに、『%』等と言う無粋な数値はない。

 

 

『あら、ママの言う事聞けないの? いい、コウ君。確かに学園都市の天気予報は的中率100%よ。でも、それも永遠には続かないわ。何かの『事故』で『()()()()』が壊れる事も無いとは言えないんだし。第一、傘を雨にしか使っちゃいけない決まりはないでしょ?』

「それもそうか……まぁ、母さんが言うなら信じるよ」

 

 

 言われてみれば、その通りだと。今の状態がいつまでも続く訳はないのだ。何より、()()()()()()そう言うのだから疑いようはない。

 

 

『それと、女の子には優しくしなさい。子供を作れない身体にされても知らないわよ?』

「分かってるよ、第一『女性に優しく』は俺の誓約(ゲッシュ)だろ……今日もいつも通り、紳士気取り(ジェントルマン)でいくよ」

 

 

 と、いきなり怒られてしまう。口調は相変わらずおっとりしたものだが。

 

 

――ってか、俺が作れない身体になるんだ?

 

 

 少し下半身がソワソワしたところで、レンジが鳴る。設定した時間は二分三十秒、ラーメンも食べ頃だ。

 

 

「……じゃあ、そろそろ」

『はいはい、今日は一日気を付けなさいね。多分、色々大変だろうから。あ、それとたまにはユヅちゃんに電話してあげなさいね。最近、寂しがってるから』

義兄(あに)離れしろって伝えてくれよ……全く」

 

 

 器用に熱々のお握り二つを片手でジャグリングしながらテーブルまで移動し、お握りを置いた代わりに箸を取ってカップ麺の蓋を剥ぎ取る。

 麺を軽く解せば、香ばしい醤油の香りが鼻孔を満たした。

 

 

『あ、最後に――――』

「うん、何?」

 

 

 後はもう、食べるのみ。そんな状態で携帯から漏れた声に耳を傾ける。それはまるで、小鳥の(さえ)ずりの如く優しい声色で。

 

 

『何時から禁煙が解除されたのかしら、対馬(つしま)嚆矢(こうじ)君十七歳?』

百分の一(サイアク)、か…………ごめんなさい」

 

 

 『()()()()()()()()()()』に改めて姿勢を正して、説教に甘んじる。それが終わった頃には、ラーメンは完全に伸びた後だった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 五時が近付き、自室を後にする。勿論、戸締まりは念入りに。鍵を閉めた後、ノブを回して確認。因みに、ガスは最近、元栓自体を余り開いていない。本気で契約を切ろうかと思案中だったりするのは内緒だ。

 鍵をキーケースに仕舞い、胸元に母から貰った幸運のお守り……肉球部分に蒼い石の付いたアンティークの、本物を用いたようにも見える出来のフェイクファーの『兎の足(ラビッツフット)』を下げたカッターシャツ姿の嚆矢は――――自室に置いていた学生鞄とハーフタイプのヘルメット、傘と学ランを入れた学校指定のバッグを手に革靴を鳴らしながら、アパートの階段を降りる。

 

 

――――青く、朝の空が霞んでいく。夜の闇を塗り潰すように、果てしない群青色(アイオライト)が。

 

 

 歩みを止めて、つい魅入ったその光景。何の事はない、いつも通りの朝の風景だ。人口230万人を抱える、この大都市の朝の空隙。無人の道路よりビル群の隙間から覗く、群青の空を見上げて――――

 

 

「っと……いけねェ、配達が遅れたらドヤされちまう」

 

 

 強いビル風を浴びて正体を取り戻した嚆矢は、気を取り直したように階段を駆け降りた。大型の荷台付きスクーターの後席に荷物を置き、キーケースから別の鍵――――超格安の事故物件、中古スクーターのエンジンに火を入れる。

 

 

――まぁ、俺の『能力(スキル)』なら問題ない。余程、性質(たち)の悪い霊に呪われてでもいなければ、だけどな。

 因みに、借りた部屋も『出る』という噂の格安物件。3LDKで敷金礼金無しの三万円とか良い買い物だった、()()()()()()の確率の幸運だな。もちろ浪漫は捨てないようにしてる。在ったら良いよな、死後の世界。

 

 

 ヘルメットを被り、スクーターに跨がる。これより向かうは、バイト先の新聞配達――――電子版が普及する学園都市ではこんな時間からで間に合う、配達先の少ない仕事先である。

 駐輪場から出れば、すぐ脇に自販機。丁度良いと、マネーカードを翳す。押した釦は百円の缶珈琲、軽快な取り出し口に落ちる缶の音とスロットの電子音。

 

 

 早速珈琲を啜りながら、嚆矢は目もくれずに同じ釦の前に指を構えた。

 

 

「はい、百分の九十九(ラッキー)っと」

 

 

 そして――――押すと同時に、音が長い音が響く。当たったのだ。再び響いた取り出し口の缶の音。その珈琲を取り出して、鞄に仕舞う。

 

 

「今朝も相変わらず絶好調ね、嚆矢くんの超能力(スキル)は」

「このくらいしか役に立たない、しょうもない屑能力(スキル)ですよ。おはようございます、管理人さん」

 

 

 そんな背中に掛かった、女性の声。このアパート『メゾン・ノスタルジ』の管理人。まだ二十代後半くらいの青みがかった長髪に眼鏡、落ち着いた藤色の着物姿の、竹箒の似合う女性が微笑んでいた。

 

 

「あ、家賃は昨日の夕方に振り込みました。今日の扱いになるみたいですけど」

「嚆矢くんだから心配してないわ、滞納無しの優良店子さんだもの」

「買い被りすぎですよ、撫子さん」

 

 

 そう言って、淑やかに笑う。いかにも大和撫子といった風情だ。何せ、名前が『大和(やまと)撫子(なでしこ)』なのだから。

 

 

「じゃあ、行きます」

「ええ。気を付けて行ってらっしゃい」

 

 

 背中を見送られながら、車輪をアスファルトに転がす。まず最初の角を、右に曲がる。

 

 

「今日は――――げっ、一時限目から体育かよ……やっぱ決まってる事は変えらんないもんなぁ、百分の一だぜ……」

 

 

 道々そんな事をボヤきながら、暑くなり始めた路上の空気の中を走り抜ける。夏期休業まで残り数日のその日の天候は快晴、暑くなりそうな一日だった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 朝刊を配り終えて退社し、後は学園に登校するのみ。スクーターは近くの駐輪場に預け、第七学区の学園……『総合力の常盤台(ときわだい)学園』、『一芸特化の長点上機(ながてんじょうき)学園』等と並び、『武技の(いただき)』と呼ばれる学園――――『二天巌流(にてんがんりゅう)学園』を目指す。

 

 

――うん、凄い名前だってのは認める。だが、生憎あの日本史上最も有名な大剣豪二人とは縁も所縁もない学園だ。創立者が好きなだけだったって話。

 唯一、縁故が有るのならば……この学園の校是(モットー)は『質実剛健』に『則天去私』、『無念無想』に『文武両道』――――『能力上等』。『超能力を武術技能に応用する研究』では第一線級(トップランナー)の学園だ。

 

 

 カッターシャツの上から学ランを着込み、詰襟まで留めて準備完了。後は鞄を肩に担ぎ、学園まで続く石造りの『心臓破りの一千段』を歩き始める。エスカレーターやエレベーターの類いの稼働施設なんぞは、勿論無い。

 因みにこの学園は本当に細やかな丘陵の頂点にある。この階段を作りたかったが為に。そしてこの階段を登りたくがない為に転校していく新入生は、毎年実に三割にも上るとされる。

 

 

 そんなものを毎日登るのだ、基礎体力などは遥かに他校の生徒を凌駕するとのデータもあるので一概に無意味とは言えないが。

 

 

――事実、学園都市で開催される武術系の大会ではウチが総ナメである。ただし……強さとは努力により得るものであり、あくまでも『能力はオマケ』な一芸特化(プロフェッショナル)型の学園なので、『大覇星祭』みたいな総合的競技になると振るわないのが玉に傷。

 中でも『能力ありき』な『長点上機(ながてんじょうき)学園』とは犬猿の仲。というか、大覇星祭では圧倒的に負け越している。なので競い会う祭は必ず互いに狙い会うほどだ……まぁ、向こうとは専門が違うので、滅多にバッティングしないが。

 

 

 いつもの事ながらクソ長い階段に辟易しつつ、空いた右手で缶珈琲のプルタブを空けて啜る。キリマンジャロとかエメラルドなマウンテンとか、そんな感じの香気と味わい、後味が口腔を満たす。

 

 

「いよぅ、コウ! 朝から景気のワリィ面してやがんだぜ?」

「ん――――よぅ、ジュゼ。相変わらず背ぇ伸ばせ」

 

 

 一息吐いたその瞬間、肩を叩かれる。隣には、肩に担いだ竹刀の先に剣道の防具を吊り下げたオールバックの黒髪を後ろで纏めた矮駆(チビ)の目付きの悪い少年の姿。見た目通りに剣道部主将……『錏刃(しころば) 主税(ちから)』と言う。

 

 

「ぶふぅ、今日も暑いんだな……コウ、おはようなんだな」

「よぅ、マグラ。お前は――――少しは痩せろ」

 

 

 反対の側には、糸目のデブ……もとい、『脂肪と筋肉の黄金比率(デブ)』な丁髷の巨漢の少年……相撲部主将『土倉(どぐら) 間蔵(かんぞう)』が扇子を扇ぎながら歩いていた。滝汗状態で。

 

 

「あぁん、喧嘩売ってんのかぜ? 俺の貫殺(つきころ)されたいのかぜ?」

「ぶふぅ、打殺(うっちゃ)られたいんだな?」

「お前らのは人を殺せるレベルだろ、やめろ……ってかやめてください」

 

 

 頭に来た様子の二人の機先を制して頭を下げる。先程も言ったとおり、この学園は『超能力を武術に応用する研究』の最先端。故に主将となれば、一角の能力者だ。

 事実、隣の二人はこの学園に三人しかいない『大能力者(レベル4)』の内の二人。その強さは、軍隊での戦術的価値が見いだされるレベルだ。リアルに『持ち技(とくぎ)』やられたら、問答無用で死ぬ。

 

 

 加えて、『二天巌流学園』のブランドがある。常に実戦的な能力者を輩出するこの学園は、日本政府の国防省やらに矢鱈と顔が利くのだ。

 何を隠そう、この二人も幹部候補として打診を受けていると専らの噂である。

 

 

「はん、よく言うぜ……俺らより強い癖してよぉ」

「そこまで来ると『慇懃無礼』の域なんだな、『合気道部主将』?」

「オメーらと違って、俺はもう次にバトンを託したんだよ」

 

 

 剣道部主将と相撲部主将の言葉に、合気道部主将『対馬 嚆矢』は嘯いた。

 

 

「で、だ。コウ、そろそろ夏期休業だけどよ……今年は俺ら、一緒には行けねぇんだぜ。進路決まってるお前と違って、俺らは頭悪いからなぜ?」

「ぶふぅ、やっぱり進学するには学力も必要なんだな。補習に専念するんだな」

「そうか……残念だな。高校最後の夏休みだし、またお前らと暴れたかったんだけど」

 

 

 階段を登りきった刹那、申し訳なさそうに二人が宣う。それに嚆矢は、飲み干した缶珈琲の空き缶を校門脇の屑籠に捨てて。

 

 

「ま、今回の夏休みは俺一人で行くさ」

 

 

 ぴらぴらと『復帰申込』の用紙をはためかせながら、二人に笑いかけたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 放課後を迎え、鞄を肩に担ぎクラスを後にする。たった一人で歩くリノリウムの廊下は、実に静かだ。

 

 

――誤解の無いように言っておけば、ここは三年のフロア。推薦貰った生徒以外は夏期休業等有って無いようなもの、大学受験に向けた補習の真っ只中という訳である。

 断じてボッチじゃない。違うからな。居るし、友達くらい。あの二人を含めて……約三人も! 異性の友達だって、一人居るんだからな!

 

 

 と、誰にだか解らない申し開きを脳内で叫びつつ。クーラーの効いた快適な校舎から外に出る。

 

 

「……クッソ暑」

 

 

 昇降口を一歩外に出た瞬間、そんな悪態も口を衝こうという直射日光と気温、フライパンもかくやという具合に熱された石段から立ち上る陽炎。ミンミンジージーツクツクボーシと喧しい蝉時雨。

 しかもこの学園、年中学ランだ。それと言うのも、『自己の体調管理も出来ないような弱卒は不要』との初代校長の持論の為らしい。

 

 

――そんな学校だから、共学なのに女子生徒の応募がねぇんだよ……全く、黒一色の三年間だったぜ……。

 

 

 早速、吹き出し始めた汗を持たされたハンカチで拭う。校門を抜けた辺りで、我慢できずに学ランを脱いで鞄と同じ手で肩に担いだ。校内でやれば譴責ものだが、郊外ならば逆に学園名(ブランド)の為に注意される事は稀である。

 

 

「さて、と……用紙は今朝先生に渡しておいたし、今頃は申請出てる筈だよな」

 

 

 空いた手でカッターシャツの首を寛げ、パタパタと自分に風を送りつつ宣う。駐輪場迄は少し間がある、考えを纏める事にする。

 

 

――そうだ、彼処に行くのは久しぶりだし……土産とか買っといた方がいいな。また世話になる訳だし。

 何が良いかな……やっぱり、無難に菓子か? けど、学園都市は娯楽品や嗜好品(学生に不必要なもの)は関税でクソ高いからなぁ……。

 

 

 そうこうしている内に、駐輪場に辿り着く。ロックを解除しようと、端末にカードを入れれば――――

 

 

『お会計は、七百円になります』

「七百円、ね……おや?」

 

 

 翳したマネーカードだが、どうやら今朝の珈琲で限度額を迎えていたらしい。仕方なく、財布を開く。そこには……六百円と五千円札。

 

 

「……こんな時に百分の一かよ」

 

 

 溜め息を一つ落とす。何しろこの近辺、コンビニや商店は一切無い。これも初代校長の(以下略。

 

 

――最近の噂じゃあ、路地裏なんかにマネーカードが落ちてるって話だけど……流石に探し出すほど暇人でもなきゃ、猫ババするほど落ちぶれてもいない。

 

 

「仕方ねぇなぁ……確か、もう少し先に……」

 

 

 『銀行があったよな』と、嚆矢はビニール傘片手に歩き始めたのだった……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 結論から言えば、不幸とは重なるものであるという事を忘れていた。彼らは嫌われ者であるが故に、常に徒党を組む。『禍福は糾える縄の如し』等、嘘っぱちなのである。

 それを改めて認識しつつ、嚆矢は溜め息を吐いた。

 

 

「クッソ百分の一(サイアク)だわ」

 

 

 目の前の、平日の昼日中にも関わらずシャッターが閉まった『いそべ銀行』に。こうなれば、来る途中の店で菓子折を買った方がよかったなと後悔した。

 

 

「仕方ないな……戻るか」

 

 

 と、踵を返せば、クレープ片手に駆けてきた児童にぶつかりそうになった。危うく躱して見詰めた、その視線の先。

 100メートルほど先にある公園のクレープ屋台、そこでクレープを食べているセミロングにヘアピンの娘とリボンのツインテール娘。ベージュのベストにグレーのミニスカートの女子中学生二人。

 

 

――お、常磐台の娘か……しかし流石、常磐台はお嬢様学校だな。よくもまぁ、あんなクソ高いクレープを買い食いできるよな?

 強能力者(レベル3)未満は入学試験すら受けられないってんだからスゲぇよなぁ。きっと実験協力とかでガッポリ稼いでるんだろうぜ……。

 

 

 等と、世の無常を嘆いたところで仕方ない。何だか凄い花瓶みたいな髪飾りをした娘と黒髪ロングの、昔懐かしいセーラー服に紺のロングスカートの柵川中の女生徒が常磐台の二人と合流した。その彼女達がこっちを見た気がしたので、早く戻ろうと視線を少女達から外した――――

 

 

「ッ――――うォッ!??」

 

 

 刹那、背後の銀行のシャッターが内側からの爆発で吹き飛んだ。

 

 

「チッ、さっさとずらかるぞ! 警備員(アンチスキル)が来ねぇ内に!」

 

 

 思わず振り向けば、シャッターに穿たれた大穴から黒い雲丹頭と金髪のガリ、ドレッドのデブの……三人組の革ジャン覆面男。紛うことなき銀行強盗である。

 『クソ食らえジーザス』と、胸の中で悪態を吐く。何かの呪いか、と。

 

 

「邪魔だ、退きやがれェェェ!」

「……えっ、俺?」

 

 

 先に述べた通り、不幸とは重なるものである。逃亡する方向はまさかのこっち。と言うか、すぐ脇の車だろう。

 進行の邪魔となる嚆矢に、デブが随分と古い拳銃――ポリマーフレームの大容量拳銃『グロック17』を突き付けた。

 

 

――エアガンだよな? イヤイヤ、幾ら何でも実銃とか人には向けないよな?

 

 

 と、希望的観測。しかし、何れにしても――――ちらりと見た背後には、さっき駆けていった子供が此方を見て硬直しているのが見てとれた。

 

 

「……口伝(アンサズ)

 

 

 だから、退く訳にはいかない。今日は厄日だと、心底嫌になった。口遊(くちずさ)んだその台詞、握り締めたのは、首元のお守り。

 

 

「テメェ……脅しだと思ってんのかよォ!」

「いやいや、まさかぁ。それにしても、こんな事して捕まらない訳がないんですから、大人しく投降した方がいいですって」

 

 

 と、嚆矢は精一杯のフレンドリーを演じる。せめて、後方の子供が逃げるだけの時間は稼ごうと。

 首元のお守りの、ダークブルーの『下向きに傾いたF』のような紋様に意識を沿わせながら。

 

 

「自首すれば刑も軽くなるって言いますし、誰も傷つけてなきゃ更に減刑――」

「――舐めんなぁァッ!」

 

 

 それに、無論焦れた銀行強盗達。走りながら、定まらぬ狙いで――――銃爪(ひきがね)を引いた。ダブルアクションのその銃は、コッキングせずとも発射可能。スライドが後退すると共に撃針(ストライカー)が引かれ、前進。籠められた銃弾を叩き、()()()()()()()で、嚆矢の頭目掛けて鉛の弾頭を吐き出した――――!

 

 

………………

…………

……

 

 

 『彼女達』がその異変に気付いた瞬間、シャッターが弾けた。

 

 

「ふぇぇ……ば、爆発しましたよ?」

「て言うか今、人が巻き混まれなかった?」

 

 

 アワアワとふためく、柵川中の花飾りの少女と黒髪ロング。それとは対照的に、常磐台の二人は落ち着いたものだった。

 

 

「さて、と……それでは、(わたくし)の出番ですわね。お姉さま、く・れ・ぐ・れ・も、先程のような事がないように」

「分かってるわよ……でも、避難誘導だけはさせてもらうけど」

 

 

 右の二の腕に腕章を取り付けながらリボンツインテールの少女に念を押され、ヘアピンセミロングの少女は肩を竦めながら口を開く。辺りは逃げ惑う女生徒や児童でごった返していた。

 

 

「それは是非、こちらからお頼みしたいですわ。では、ごきげんよう」

 

 

 と、ツインテールの姿が文字通りに()()()()()

 

 

「じゃ、こっちも始めましょうか……二人とも手伝って!」

「はっ、はい!」

「がってん!」

 

 

 それを慣れた風に見送り、セミロングは柵川中の二人に指示を飛ばしたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 キィン、と鋭い金属音。それは、路上に薬莢が落ちた音。そして――――胸元を押さえるように身体を折った嚆矢。

 

 

「な――――何だ、コイツ……! 銃弾を跳ね返しやがった……まさか、能力者?!」

 

 

 巨漢は弾かれた拳銃弾が掠った衝撃で血を流す腕を押さえ、怯えるように後ずさる。他の二人も、既に走るのを止めていた。

 

 

「あァ――――」

 

 

 と、血の滲んだ右手を押さえた嚆矢が誰憚らずに悪態を吐く。上げた顔は三白眼と牙を剥いた、さながら肉食動物(プレデター)の如き凶暴な面相。

 

 

「――――ックソが! 素手でこンな曲芸させやがって……痛ェじゃねェかよォ、クソッ! テメェら死ぬ覚悟はできてンだろうなァ、ド三一(さんぴん)どもがァァッ!!」

 

 

 今までのフラストレーションを一気に爆発させたかのように、一気呵成に吼える。そして、懐から取り出した一対の革手袋。手の甲部分に『白い三ツ又のライン』が刻まれたソレを両手に嵌めた。

 

 

「ヒッ……! く、来るなぁぁぁっ!」

 

 

 完全に恐慌を来した巨漢は、腕を押さえたまま拳銃を連射する。三発の銃弾が、嚆矢に向けて飛来し――――

 

 

「……大鹿(アルギズ)

 

 

 囁くように手袋に(なにがし)かの息吹を掛けた彼。瞬間、身体を覆った不快感により、目の前の三人に対して更なる怒りが芽生えた。

 その怒りが示すまま――――両手を三閃。二発を叩き落とし、最後の一発を『革靴』で跳ね返して巨漢の持つ拳銃を弾き飛ばした。

 

 

――此より、我が拳足は山谷を駆ける大鹿の蹄。その強靭(つよ)さは、あらゆる害意を跳ね除ける!

 

 

「な、何なんだテメェは――!」

 

 

 後退りながらの誰何に続いて、拳銃(大元)が――――跳ね返された弾丸に撥ね飛ばされた拳銃が落ちた音が、響いた。

 それに冷ややかな目を向けつつ、嚆矢が触れたのは首元の幸運のお守り(ラビッツフット)に刻まれた色とりどりの二十四の紋様の内、『白いMに似た紋様』。

 

 

「――駿馬(エワズ)!」

 

 

 そして、巨漢の至近まで二歩で迫る。そのスピードに目を向き、辛うじて反撃してきた――――その腕を(ひし)ぎ、足を払う。それだけで、嚆矢の二倍の重量が軽々と宙を舞う。

 

 

――此より、我が脚は原野を駆ける駿馬の脚。その俊敏(はや)さは、一陣の風の如く!

 

 

 空中で、天地を逆転させたドレッドの巨漢。驚愕に染まったその瞳を、冷酷に見下ろして――――『上向きの赤い矢印』に意識を沿わせた。

 

 

「――戦神(テイワズ)!」

 

 

――此より、我は戦神の具現。その強壮(はげし)さは、万物を覇す光!

 

 

「ギッ――――?!」

 

 

 そして革手袋と同じ紋様の刻まれた革靴の底で顎を踏みつけ、俊足を可能とする脚力を持って頭から路面に叩きつけた。()()()()()()()()、完全に理合を極めた一撃で昏倒させて。

 

 

「義理なンざねェが、冥土の土産に教えてやるぜド三品……」

 

 

 悲鳴すらも踏み潰された巨漢は白目を剥いて泡を吹き、轢かれた蛙のように無様な姿で路上に昏倒した。仁王立ちし、残心も示さず。ゴミを潰したほどの感慨もなく、男の懐から転がりでた新品の煙草を蹴り上げて手中に納める。

 包装を破り、その内より一本を銜える。しかし、ライターが無い。

 

 

異能力者(レベル2)確率使い(エンカウンター)――――『制空権域(アトモスフィア)対馬 嚆矢(つしま こうじ)だ……って、聞こえてやしねェか」

 

 

 煙草を銜えたまま、足下から目を離す。蜂蜜色の妖しい瞳が、残る二人を捉える。それは、一瞬の事。残る二人は、呆気に取られた顔で顔を見合わせて。

 

 

「ヘ、ヘヘ……何かと思えば異能力者(レベル2)だと? ビビって損したぜ……おい、燎多!」

「おう、任せとけ……テメェはさっさと金を運び込め!」

 

 

 と、急に落ち着きを取り戻す。そして、リーダー格らしき雲丹頭が嚆矢の前に出た。

 

 

「へっ、バカな奴だ……エンカウンターだかなんだか知らねぇが、わざわざ自分から異能力(レベル2)をバラすなんてな」

「…………」

 

 

 そして――――その右手に、紅蓮の焔を纏う。その規模たるや、最早火球というよりは炎塊だ。

 

「この、強能力者(レベル3)発火能力(パイロキネシス)丘原 燎多(おかはら りょうた)に、勝てる気かよぉ?」

 

 勝ち誇るように、その焔を翳す雲丹頭。成る程、先程シャッターを吹き飛ばしたのも彼なのだろう。そこには、己の能力に対する優越があった。

 嚆矢は、そんな雲丹頭を見詰め――――

 

 

「――――気ィ効くじゃねェか、ド三品。丁度火ィ探してたンだ、ありがとうよ」

「は――――?」

 

 

 その右手首を握り締め、銜えたままの煙草を焔に近付けて着火する。そして嚆矢は焼け付く香気を味わいながら、煙を強盗の顔に吹き掛けた。

 

 

「――――(イサ)

 

 

 更に、空いた右手で触れたお守りの紋様は『黒い縦一本線』。またも生まれた不快感を、そっくり目前の相手への怒りに摩り替えて。

 

 

――此より、我が属性は氷。その冷厳(つめた)さは焔を掻き消す、原初の息吹!

 

 

「な――――俺の、焔を……!?」

 

 

 自慢の焔を消され、あからさまに動転する発火能力者。怪物でも見るような目で此方を見るや否や――――

 

 

「ちっ……ちくしょぉぉっ!」

 

 

 左手に灯した焔を、パンチと一緒に繰り出し――――嚆矢は、握り締めている発火能力者の右手に理合を見出だす!

 

 

「――――お待ちなさい!」

「「――――ッ!?」」

 

 

 そこに響いた少女の声。ピンク掛かったツインテールの、常磐台の制服の娘。少女は、嚆矢と発火能力者に向けて……肩に取り付けられた、『盾』の模様が描かれた緑の腕章を示す。

 

 

風紀委員(ジャッジメント)ですの――――器物破損、及び強盗の現行犯で逮捕しますわ」

「じ、風紀委員……クソッ!」

 

 

 それは、学園都市の自衛組織『警備員(アンチスキル)』の下部組織……学生で構成された、『風紀委員(ジャッジメント)』の徽章。

 それを見た発火能力者は、二対一では勝ち目がないと判断したらしく、慌てて嚆矢の腕を振り払うと一目散に逃げ出した。

 

 

「待ちなさいな!」

 

 

 と、少女が逃亡した方に叫んだ――その時、逆方向からの声。

 

 

「テメェ、離せよっ!」

「ダメぇっ……きゃあ?!」

「――野郎!」

 

 

 それに振り向けば、目に映ったのは痩躯の強盗犯に人質にされそうになった子供を取り返そうと引っ張り合い、辛うじて庇い込むも、男に顔を蹴られて倒れ込む柵川中のロングの娘の姿だった。

 

 

「佐天さん!」

「ぐぁっ……う、動けねぇ……何だこれ、針?!」

 

 

 その様子を見た、柵川中の花飾りの少女が叫ぶ。と同時に、背後でくぐもった声が響いた。十中八九、発火能力者が取り押さえられた声だろう。

 

 

「――――女に手ェ上げるだけでも男の風上にも置けねェってのによォ……足蹴にするたァ、よっぽど()()()()らしいなァ!」

 

 

 舌打ち、落ちていた拳銃を拾う。車に乗り込もうとしている痩躯の強盗、その足を狙い――――

 

 

「――――黒子っ!」

 

 

 刹那、走った声。それはさながら、雷鳴の如くその場に存在する者全ての目線を集めた。無論、嚆矢の目線も。

 その所為で、最後の射撃機会を逸した。だが――

 

 

「こっから先は、あたし個人の喧嘩だから……手、出させてもらうわよ」

「えっ、ちょ……お姉様?」

 

 

 丁度、嚆矢と強盗犯の乗った車の中点に現れたセミロングの常磐台娘。自殺行為も甚だしい。後方のツインテールからも、戸惑った雰囲気が振り返らずともありありと感じられた。

 

 

「あれ……?」

 

 

 その姿に、既視感(デジャ・ヴュ)を覚える。あんな娘を、去年辺り見たような、と。

 その回答は思わぬところから。

 

 

「思い出した……風紀委員には捕まったが最後、見も心もズタズタにする空間移動能力者(テレポーター)と……その空間移動能力者を虜にする最強の電撃使い(エレクトロマスター)がいるって噂……!」

 

 

 振り返れば、路面に革ジャンごと縫い付けられた発火能力者と、その隣で悠然と――――心配の欠片すらなく、急発進した車の前に立ちはだかったセミロングを見遣るツインテール。

 

 

「……ええ、そうですわ。あのお方こそが、学園都市二百三十万人の頂点に君臨する、超能力者(レベル5)の一人――」

 

 

 車が、迫る。アクセル全開で。その圧迫の前で――――セミロングの少女は、右腕を差し出した。

 そんな細腕で、一体何ができると言うのか。恐らく、車を操る強盗犯もそう思っただろう。

 だからこそ、ノーブレーキ。彼女が右手で空中に弾き上げたコインに気付く事もなく、ただただアクセルを踏み込み――――落ちてきたコインに合わせた再びの親指により、前方に向けて放たれた電磁投射砲の一撃を真正面から受けて吹き飛んだ。

 

 

「――――第三位『超電磁砲(レールガン)』……御坂 美琴(みさか みこと)お姉様ですわ」

 

 

 路面すら砕いた一撃により、盛大に吹き飛んだ車がようやく停車する。いや、正確には廃車となっただけだが。

 ドライバーは、失神しているが奇跡的にも生きている。エアバッグさまさまである。

 

 

「……マジかよ」

 

 

 傘で残骸や粉塵を防ぎながら、嚆矢は呟く。開いた口が塞がらない、とはこの事だ。出鱈目にも程がある。

 

 

――流石、『一人で一国の軍隊を敵に回せる』強度の能力者……超能力者(レベル5)だな……有り得ん。

 

 

 寒気がする強さだ。しかも、真に恐ろしいのは……そんな奴が、()()()()()()という事だろう。

 

 

「さて――で、まだやる?」

「え?」

 

 

 と、振り返ったセミロングが、迸る電位と共に口を開く。それに、彼は今の状態を省みた。即ち、『一人で一国の軍隊を敵に回せる』超能力者に拳銃を向けている具合になっている己を。

 

 

「――――待て、違う。俺はこいつらとは関係ない。いや、無いっつうか……」

「何よ、間怠っこしいわね……ハッキリしてくれる? 投降するか――――消し炭になるか」

 

 

 不機嫌さにか、電圧が増した気がする。不味い状態である。それを本能的に理解し、嚆矢は左手でお守りを握り締めて『口伝(アンサズ)』を起動した。

 

 

「待て、俺だ御坂! ほら、対馬だ! 去年の秋に会ったろ?!」

「対馬……去年の秋?」

 

 

 こうなれば手段を選んで入られないと、両手を前に出して弁解する。それに、セミロング……御坂美琴は、記憶を呼び起こすように思案し――――あっ、と表情を和らげた。

 

 

「あぁ、対馬さん! 去年の大覇星祭の時の?」

「そうそう、その対馬さんだよ!」

 

 

 互いに、人差し指を向け合う。懐かしい相手に会った、と。結論から言えば、それが悪かった。如何にフレンドリーに会話できていようとも。

 

 

「うっわ、なつかし~! こんなところで何をしてるんですか? 銀行強盗?」

「御坂さんや、世の中には言っていい冗談と悪い冗談があるぞ。何せ俺は腐っても鯛の対馬さん――――」

「――――お姉様、危ない!」

 

 

 悲鳴の如き叫びと共に、ツインテールが、瞬時に目の前に現れた。そして――――具合により、美琴に向けてしまった拳銃を蹴り上げる!

 

 

「フぎっ――――!?!!」

「あっ……目測を謝りましたわ。ごめん遊ばせ」

 

 

 のに、思わず嚆矢が反撃の為に半歩詰めた為に失敗して、思いっきり彼の股間を蹴り上げた。因みに、彼女の攻撃は空間移動(テレポート)により、嚆矢より先に命中している。

 

 

――――こ、これの事か、母さん……クソ、だから空間移動能力者(テレポーター)は……嫌いなンだ……。

 

 

「ちょ、対馬さん?! 黒子、あんた何やって……!」

「ご心配なく、お姉様。お姉様に近付く不貞の輩は、この白井 黒子(しらい くろこ)が責任を持って始末しましたわ」

 

 

 結局、慌てふためく美琴と勝ち誇る白井黒子の声を聞きながら、嚆矢は前のめりに。蹴り上げられた股間を押さえた、情けない格好で昏倒したのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16.July・Night:『The Dark Brotherhoods』

 

 

「ホンっとーにごめんなさい、対馬さん。ほら黒子、あんたも謝る!」

 

 

 拳銃弾による拳の傷の治療と金的の精密検査を終えてロビーに出れば、律儀に待っていた美琴が頭を下げる。

 尚、強盗犯三人は見事にお縄。少し後に駆け付けた『警備員(アンチスキル)』に引き渡された。幾らかの説明をし、後日第支部に説明の為に出頭する事を約束させられた後、病院に送られた。

 

 

「うぅ……申し訳ありませんわ、まさか()()だとは思わず……」

 

 

 美琴と同時に、隣の……美琴の制裁(でんげき)によりまだ少し焦げている白井黒子も頭を下げた。

 その特徴的なツインテールが、勢いよく揺れる。

 

 

「あぁ――いや、良いって。悪いのは腕章なしで動いてた説明不足の俺だしな……えっと?」

「そう言って頂けると、ありがたいですわ……」

 

 

 つまり、そういう事。もう一度ツインテールを揺らしながら顔を上げた彼女に、気にしてないと笑い掛ける。実際はまだ、シクシクと痛んでいて歩き難い事この上無いのだが。

 しかし、そのお陰で黒子は安堵したらしく、実際に胸を撫で下ろしていた。

 

 

「私、常磐台一年の白井黒子と申しますわ。大能力者(レベル4)空間移動能力者(テレポーター)ですの」

「ハハ、身に沁みて知ったよ。俺は弐天巌流三年の対馬嚆矢。異能力者(レベル2)確率使い(エンカウンター)……学園では『制空権域(アトモスフィア)』なんて呼ばれてる」

 

 

 取り敢えずの自己紹介を行う。と同時に、湿らせたハンカチを渡す。

 

 

「まだ頬が煤けてるよ、白井ちゃん。これ、さっき洗ったばっかりだから使ってくれ」

「恐縮ですの……意外と紳士ですのね? ところで、『確率使い(エンカウンター)』と伺いましたが……珍しい能力名ですわ、聞いた事もありませんの」

 

 

 右の頬を指しながら言えば、おずおずとハンカチを受け取った黒子が右頬を拭いつつ、そんな事を宣う。

 その瞳には、少しだけ嚆矢への警戒を和らげたような色があった。

 

 

「ああ、まぁ、俺以外には確認されてない種類だからな――」

「『一定範囲に存在するあらゆる確率を司り、その支配下に置く能力』確率使い(エンカウンター)。確認されたのは弐天巌流学園の合気道部主将『制空権域(アトモスフィア)』のみ……ふぇぇ、何だか凄いです」

「これでも異能力(レベル2)なんだ……ホント、こうなると超能力(レベル5)って一体何って感じよね」

 

 

 と、嚆矢の言葉を遮るようにやたら甘ったるい驚き声と呆れたような声がした。

 振り向けば、そこには柵川中学の制服の二人。携帯端末を読み上げる、頭に物凄い量の花飾りを付けたショートヘアの少女と、白い花飾りを付けた……左頬に絆創膏を貼った、ロングヘアの少女が居た。

 

 

「いや、それがてんで凄くないんだよ初春(ういはる)ちゃん、佐天(さてん)ちゃん」

「ええっ、まさかぁ」

「だったら、無能力者(レベル0)の私の立場は……」

 

 

 あうあうと慌てるショートヘアの少女『初春 飾利(ういはる かざり)』と、しょんぼりと肩を落としたロングヘアの少女『佐天 涙子(さてん るいこ)』。因みに、蹴られた方が佐天涙子、余り目立たなかった方が初春飾利だ。

 その二人とは、自己紹介済みだ。何故なら、涙子の頬の絆創膏は嚆矢が渡した物なのだから。

 

 

「そうだなぁ、それじゃあ自己紹介も兼ねて……」

 

 

 そこで嚆矢は辺りを見回す。そして、目的のものを見出だして。

 

 

「――アイス、奢るよ」

 

 

 売店に向けて、歩き出した。

 

 

………………

…………

……

 

 

 売店でアイス(五人分2800円)を買った後、ロビーの椅子に座る。外は夕方で気温は下がっているものの、まだまだ暑い。クーラーの効いた室内から出るのは、まだまだ憚られた。

 と、涙子がまずその疑問を口にする。

 

 

「あの、対馬さん……これでなにがわかるんですか?」

 

 

 確かに、いきなりな話である。簡単に『自己紹介』と『アイスを奢る』がイコールで結べるなら、間違いなく名探偵だ。

 

 

「ん、佐天ちゃん……『幸せのピモ』って知ってる?」

「あ、はい……滅多に入ってない、ハート形の奴ですよね。一つなら良いことがあって、二つなら恋が叶うとか」

 

 

 それは、良くある都市伝説……というか、メーカーの策略であろう。流石は女子、そういう類いには強いなと、嚆矢は笑う。

 

 

「そう、それ。因みに、俺のと御坂の以外ピモ、そして俺が選んだものなのは……もう分かるよな?」

「まさか……全部二つ入りとかですの?」

「それは、開けてみてからのお楽しみ」

 

 

 期待半分、といった具合に手元の箱を見る三人。尚、嚆矢と美琴の分は当たり付きの棒アイス。

 そして――三人が、一斉に箱を開けた。

 

 

「――ええっ、スゴッ! 全部幸せのピモ?!」

「わ、私のもです……!」

「信じられませんの……これが、『確率使い(エンカウンター)』……」

「ハハ、今日も絶好調だぜ」

 

 

 『予定通り』、事が運ぶ。これこそは嚆矢の『つかみ』の鉄板、特に女子受け抜群の持ちネタである。

 

 

「俺の能力は、『そうなる可能性』が有る限り好きな現実を選びとる事が出来るんだ。まあ、限度はあるけどさ。あれだよ、『シュレーディンガーの猫』とか『ラプラスの悪魔』っていう奴?」

 

 

 引き合いに出すのは、量子論。詳しく理解している訳ではないが、インテリっぽいので良く使う。

 

 

「要するに、こういうので役に立つ能力なのよ、対馬さんの『確率使い(エンカウンター)』は」

「それしか能がない、とも言えるけどな」

「あはは、確かに」

「御坂さん、そこは笑うところじゃないよね?」

 

 

 棒アイスを齧って笑う美琴、それにより露出した棒先には、『あ』の文字が既に見えている。

 

 

「バンクには載ってないけど、『一定範囲』ってのが俺の届く範囲……大体直径百八十センチ、しかも100%と0%は『流動しない』から不適用。発動条件には『事象を認識していること』が含まれてるから、意識してない事柄とか理解できない事象にもやっぱり不適用。更に『超能力(スキル)』に干渉する場合は、演算能力の競い合いになるんだ。ホント、使い辛いクソ能力だよ」

 

 

 と、アメリカンに肩を竦める嚆矢の棒先にも『あた』の文字。しかし実際、費用対効果(コストパフォーマンス)が悪過ぎるのである。

 

 

――そもそも、この能力は自分だけの現実(パーソナルリアリティ)の基礎の基礎。他の能力者は無意識下で発動しているものだ。しかも、100%の成功率。マジで。

 だけどこの能力、ある意味では重宝してる。他人には説明できない、というか、もしそんな事を言ったら『厨二病(お年頃)』か『本格的な病気』だと思われてしまう方面の事柄で。

 

 

「何だかわかる気がします……私の『定温保存(サーマルハンド)』も、触らないと効果がない能力ですから」

低能力者(レベル1)、だったっけ。やっぱり、熱すぎたり冷たすぎたりしたら?」

「はい、触れなくなっちゃいます」

「仲間だ」

 

 

 がしっと、飾利と握手する。『触れたものの温度を一定に保つ』という能力を持つその手は、小さく柔らかく。そして温かかった。

 

 

「と、そうだ、佐天ちゃん。頬の怪我、大丈夫?」

「あ、大丈夫ですよ。現場で警備員の人に見てもらってますから。傷も残らないそうですし……って」

 

 

 そう言って、頬の絆創膏に触れる涙子。その絆創膏に、嚆矢も手を添える。

 

 

「――白樺(ベルカナ)

 

 

 そして呟く言葉。左手に握るラビッツフットの文字は、ダークブルーの『尖ったB』。体を襲う、風邪引きの時のような倦怠感。それを押さえ付け、手を離した。

 

 

「え、えっと……?」

「ちょっとしたお呪いだよ。痛いの痛いの飛んでけ的な」

 

 

 大分驚いたらしく、硬直している涙子。それを、お道化(どけ)た様子で茶化す。

 

 

――まぁ、簡単に言うと……俺は、超能力以外にも『魔術』を使える。得意なのは『ルーン文字』、刻んだ刻印を特定の色に染める事で行使できる魔術だ。

 因みに、今、佐天ちゃんに使ったのは『癒し』の効果を持つルーン。

 

 

「び、びっくりした~……」

「ごめん、一言断るべきだったな……」

 

 

 少し反省、謝罪を行う。勿論、下心はなかった……筈である。何せ、『女の子に優しくする』のは彼の『誓約(ゲッシュ)』なのだから。

 

 

「……相変わらず気障なことしてるわね、対馬くん」

 

 

 そんな背中に掛かった怜悧な声。それに、とろりと深い蜂蜜色の瞳を向ければ――そこには、黒いセミロングに眼鏡の女子高生。

 

 

「みーちゃんか、久しぶり」

「『みーちゃん』は止めてって何度……はぁ、もういいわ。疲れる、仕事明けに貴方の相手は、本当に疲れる」

 

 

 毅然とした表情を一瞬で疲れ果てさせた、風紀委員『固法 美偉(このり みい)』の姿があった。

 

 

「お久しぶりね。貴方とまたこれから一ヶ月も顔を合わせる事になると思うと頭痛がしてきます」

「そんなに喜んでもらえるとは、光栄だなぁ」

 

 

 辟易したように、彼女は嚆矢を見た後……その後ろの四人を見遣る。それに思わず、アイスを隠したのは黒子と飾利の風紀委員二人組。買い食い中を上司に見付かったのだから、まあそうなるだろう。

 

 

「……白井さん、初春さん。聞いての通り、この男性は夏季の間のみ第177支部に復帰する予定です。戦闘能力だけは馬鹿みたいに高いので、使い潰す気でこき使ってやってください。それと、もしもセクハラ等があれば即座に報告してください。直ちに制裁しますから」

「「はっ、はい!」」

 

 

 だが、どうやら頭に血が上りかけている美偉は気が付かなかったらしい。

 

 

「ちょっとちょっとみーちゃん、後輩に穿った情報与えるの止めてくれる? なんだよー、みーちゃんに想い人が居るって判ってからはちょっかいかけてないじゃないか」

「だから……みーちゃんは止めてって言ってるでしょうが! 私は、貴方のそういうチャラチャラしたところが嫌いなんですよ!」

「ぶっ!?」

 

 

 と、遂にキレた彼女は嚆矢の顔面に緑色の物を投げ付けた。といっても、布製で大した重みも無いそれが当たっても痛みなど無かったが。

 

 

「貴方の腕章です。次からは、確実に装備してから活動するように。他の『支給品』は支部で管理しているから、明日中に顔を出すように。確かに伝達しましたからね!」

 

 

 そして一方的にそう述べると、肩を怒らせたままつかつかと歩き去った。ずり落ちた腕章を上手くキャッチした嚆矢は、仕方無さげに肩を竦める。

 

 

「やり過ぎたか……相変わらず、からかい甲斐の塊だなぁ」

「いやいや……悪趣味でしょ、今のは」

「まぁ、確かに。慌てる固法先輩なんて、珍しいものが見れましたけれども……」

 

 

 と、美琴と黒子に突っ込まれる。まぁ、当然である。その時、ロビーのテレビから午後五時を告げる時報が流れた。

 

 

「さて、そろそろ帰らないとな。明日も学校だし」

「あ、そうですね……あの、ご馳走様でした、対馬さん」

「いやー、アイスなんて久しぶりに食べましたよ。学園都市って嗜好品は有り得ない値段ですから……」

「あれ、さっきのクレープは」

「「別腹です」」

「さいですか」

 

 

 と、柵川中学の二人、飾利と涙子は満足そうである。

 

 

「あ、ちょっと当たり棒交換してくるから待っててくれる?」

「お姉様、それでしたら私が行って参りますわ。テレポートでぱぱっと交換して参りますから、さあ、早くお姉様の唇がこれでもかと触れた棒を早く黒子にお任せ下さいませハァハァ」

 

 

 一方、常磐台の美琴と黒子の二人は、そんなギリギリな会話をしていた。ゴミを集めつつ、嚆矢はふとした疑問を抱く。

 

 

「……いや、いいわ。凄く嫌な予感するから」

 

 

 身の危険を感じたような美琴は、自分の当たり棒を背中に隠す。その時、『釣れませんの~♪』とテレポートした黒子が美琴に抱き付いた。あまつさえ、幸せそうに頬擦りしている。

 

 

「……なぁ、初春ちゃん」

「は、はい……何ですか、対馬さん?」

 

 

 そんな様子を眺めながら、嚆矢は隣の……唖然としていない方の、飾利に話し掛けた。

 

 

「ひょっとして……白井ちゃんって、アッチ側の人?」

「……あ、あはは」

 

 

 美琴の電撃で焦がされる黒子の嬉しそうな悲鳴が響く中、飾利はただ、乾いた笑いを返すだけだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 薄い闇の帳が降り始めた市街地を、一人歩く。久方ぶりに、清々しい日だと感じていた。

 腕や股座、そして何より――――『魔術の行使』で受けた肉体的反動(リコイル)はまだ消えていないが、それを相殺して余りある。

 

 

――魔術(オカルト)超能力(スキル)は、本来は相容れない。それが大魔術だろうがルーン一文字だろうが、程度の差こそあれ反動は完全にランダムだ。

 まぁ、そこでモノを言うのが俺の超能力(スキル)。さっきも言った通り、『確率使い(エンカウンター)』……つまり、『最も反動が小さい』可能性を選び取る訳である。これにより、俺は今まで生きてこれた。

 

 

「ま、これからもそうだとは言い切れないんだけどな……」

 

 

 独りごちる背中に、残照が射す。朝とは大違いの、深紅の空。大嫌いな────()()()だった。

 そこに、携帯が震える。見れば、四人分のメール着信。言わずもがな、美琴に黒子、飾利に涙子のものだった。

 

 

「……律儀でやんの」

 

 

 それを、どこか空虚な気持ちで見る。だが、同時に少し嬉しくもある。『2800円』は、無駄ではなかったのだ。

 

 

――まぁ、美少女揃いだったな。中学生であれなら、大人になったら一体どうなることやら。いやはや、楽しみだ。

 残り一週間はモヤシ生活だけど、それだけの価値はあるよな、うん。

 

 

 等と邪な事を考えつつ、当たり障りの無い返事を三人に返して。

 

 

「ああー、不幸だ!」

「……ん?」

 

 

 丁度携帯をポケットに入れた時、そんな声が響く。見れば、自販機の前で頭を抱える……カッターシャツの黒髪のツンツン頭。

 どうやら、自販機に金だけ飲まれたようだ。さっきからジュースの釦を連打しているが、無意味な努力だ。

 

 

――えー、何、不幸アピール? 男がやっても引くだけなんだけれども。

 まぁ、今回は気分いいからいいや。美少女四人の番号とメアドゲットの対馬さんの幸福をお裾分けといきますか。

 

 

 そう結論、高校生らしき少年の隣に立つ。財布から、小銭を取り出して。

 

 

「ちょっと御免、いいか?」

「え、ああ、どーぞ……」

 

 

 気落ちしたらしい少年は、右手を自販機に突っ張ったまま脇にずれた。嚆矢は、少年の触れる自販機に金を投入して缶コーヒーの釦を押し――――当たりの表示が出る前に、ジュースの釦を押して。

 

 

「――――あれ? 外した……嘘だろ」

「?」

 

 

 しかし、ルーレットは外れてしまった。勿論、ジュースは出ない。それを(いぶか)しみ、少年が右手を自販機から離す。

 

 

――マジか、いつ以来だ……クソ、格好悪いな……。なら!

 

 

 苦し紛れに、お釣りのレバーを引く。すると、お釣りの小銭と共に千円札が帰ってきた。それを見た少年が、俄に色めき立った。

 

 

「これ、あんたの?」

「え、ああ、そうそう! 助かった……」

 

 

 その千円を、少年に返す。辛うじて、赤っ恥を掻かずに済んだらしい。

 

 

「悪い、どうも自販機とは相性悪くてさ」

「じゃあ、これからは出来るだけコンビニか何かの方が良いぜ? ジュース代だってバカにならないだろ?」

「全くだな……ハハ。いや、本当にありがとう」

 

 

 ツンツン頭の少年は、疲れたような笑顔と共に頭を下げて帰っていった。

 

 

――なんてーか、背中の煤けた奴だったなぁ。

 

 

 抱いた感想は、それだけ。そんな事より、コーヒーを啜りながら元通り帰途に着いた嚆矢の頭を占めていたのは――

 

 

「おっかしいなぁ、外しちまった……自販機のルーレットとか、いつ以来だよ……」

 

 

 無駄な散財をした事、そして能力が不発だった事。それが何故かと言う事だった……

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 スクーターの貧弱なエンジンを目一杯吹かし、夕闇の帳が降り始めた学園都市の街路を走る。

 

 

――やっぱり、夜の方が静かで良いねぇ。こう、太陽の下より月の下の方が活力が沸いてくる気がする。

 何だか、出来る事なら羽撃(はばた)きたい。

 

 

 と、信号に捕まった。あと少しで目的地、というところで、

 

 

「ちぇ、捕まったか」

 

 

 大人しく、停止線で待つ。中には歩道を走る不届き者も居るが、流石にそこまではしない。第一、女性四人の集団が横断歩道を渡ろうとしているのだ。

 その時、右手を挨拶のように肘を曲げて軽く挙げる。後続車に見せる、左折のサインだ。

 

 

「――――?」

 

 

 それに、横断歩道を渡ろうとしていた女性の一人――金髪碧眼の、同い年くらいの少女が反応した。

 不思議そうに首を傾げる様子は恐らく、知り合いだったかと記憶を探っているからだろう。

 しかし、残念ながら嚆矢にも金髪碧眼の知り合いなどは記憶にない。一度会ったら、忘れないレベルの美少女なのだから。

 

 

 と、そこで少女が腑に落ちた顔をした。ぽむ、と手を叩いて……値踏みするように此方を見た後でにんまりと笑い、白いミニスカートから延びるタイツに包まれた脚線美でもって。黄金色の長い髪を揺らしながら、近寄って。

 

 

「ふぅーん、私的に顔はギリ合格ラインな訳だけどぉ……」

「は?」

 

 

 等と、嘲るように笑う。その後ろを、我関せずと残りの三人……気の強そうな茶髪にワンピースの女性とボンヤリしたジャージ姿の黒髪おかっぱ少女、オレンジのフードを目深に被ったホットパンツの小柄な少女(?)が歩き去っていく。

 

 

「結局、女の子四人組をナンパしたいんなら、最低でも車くらい持ってないと問答無用で不合格な訳よ」

「……いや、あのね」

 

 

 なるほど、そう来たかと。どうやら盛大な勘違いをしているらしい、帽子の脚線美少女に。

 

 

「……何、超恥ずかしい勘違いしてやがるんです? その人はあなたに声掛けたんじゃなくて、超左折しようとしただけです」

「――えっ?」

 

 

 ポケットに手を突っ込んだまま、フードの少女が仕方無さげに突っ込んだ。金髪の少女はそれを受けて、確かめるように此方を見る。

 だが、言いたい事は大体フードの少女が言ってくれたので、頷くだけに留めた。

 

 

「…………だう~!」

 

 

 刹那、瞬間沸騰した金髪少女は、思いっきり頭を抱えて向こうに全力疾走していった。

 

 

「超迷惑かけました。あの人は、普段からあんな感じで超抜けてるんで、気にしないでいいです」

「あ、そう?」

 

 

 それを見送り、傍らの少女の言葉に曖昧に頷く。その心を埋めていたのは、先程の少女の事。有り体に言えば、『電話番号くらい聞いておけば良かった』という後悔の念だった。

 

 

「いやぁ、可愛い娘だったなぁ……ブロンド美少女とか、マジで居るんだな。『博物誌』に出てくるレベルの伝説上の生き物だとばかり……」

 

 

 そんな慚愧の思いをつい口に出しつつ、気が付いたのは……フードの奥から除く、爛々たる紫色の瞳。

 

 

「……えっと、どうかした?」

「いえ、超別に」

 

 

 居心地の悪さに問い掛ければ、ついと逸れる視線。と同時に、背後の車がクラクションを鳴らす。けたたましい音に、慌てて謝り――少女を見れば、既に向こうの歩道。

 

 

 しかし、気にしている暇はない。宣言通り左折して、嚆矢は姿を消した。

 

 

「う~、誰か教えてくれても良いじゃない!」

「知らないあんたがバカなんだろ?」

「だいじょうぶ、非常識で空気が読めなくても死にはしないから。わたしは応援してる」

「死ぬほど恥ずかしい訳よ!」

 

 

 それを見送ったフードの少女は、『あ~、赤っ恥を掻いた』と喚いて衆目を無駄に集める金髪少女を尻目に。

 

 

「……超、人違いですね。本当に『彼』なら、超死んでもあんな事は口にしませんし」

 

 

 一人、そう結論付けて。姦しい三人組とは他人を装いながら、後に続いたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 小さな路地の奥地にスクーターを停める。まず警官など入ってこない場所なので、一先ず路駐させて貰う。

 目の前には、小さな店。明治初期の西洋建築のような見てくれの、知らなければ営業しているとは分からない喫茶店。屋号は、錆び付いたブリキの看板に辛うじて、『ヅッファザラブ・クァダ 茶喫純』と左読みの文字……即ち、『純喫茶 ダァク・ブラザァフッヅ』の屋号が読み取れた。

 

 

 その樫の木の扉を開ければ、年代物のドアベルが来客の報を主に伝える。

 

 

「今晩はです、ローズさん」

 

 

 これまた年代物の鈍い金の蓄音機に掛けられたレコード盤からしっとりとしたバラードの流れるカウンターの奥から、煙草を燻らせながら英字新聞に目を通していた黒髪の男性『アンブローゼス・デクスター』が此方を見遣る。

 

 

「おや……これは、コウジくん。いらっしゃい」

 

 

 低く、落ち着いた重厚な口調。さながら、時を経たサックスの音色をイメージする、色気に溢れたその声。

 

 

「今晩は。君がここに来ると言う事は、何か入り用ですか?」

 

 

 国籍不詳の瀟洒な洋風の服装の色黒の男性は灰皿の縁に煙草を預け、ソーサーに乗ったカップから立ち上る芳しい香りの珈琲を一口啜り、燃えるように赤い瞳を穏やかに微笑ませた。

 

 

「いえ、今日は普通に珈琲を飲みに。ホットで一つ」

「そうですか、流石に君は運が良い。実は、良い豆が手に入りましてね……」

「ハハ、来た時からその珈琲の香りに気を取られっぱなしですよ」

 

 

 軽口を交わしながら、カウンター席につく。チラリと目についた英字新聞のタイトルは、『アーカム・アドヴァタイザー』。日付はなんと、1920年代。『ダンウィッチ』とか言う村で村民が家ごと押し潰された上、血を一滴残らず吸われて殺される怪事件が起こっているとかなんとか。それを解明すべく、なんとか大学のかんとか博士が調査に乗り出したとか。まぁ、百年も前の事件、既に解決しているだろう。

 他の客はいつも通り見当たらない。経営が立ち行くのかと不安になるのだが、三年ほど経った今も平然と営業している。

 

 

嗚呼(ああ)、そうでした。豆以外にも、コウジくんに見せたい物があったんでした」

「え、なんですか?」

 

 

 因みに、此処は喫茶店以外にも『何でも屋』としての側面も持っている。ただし常連の一握り、マスターのお眼鏡に適った人物のみだが。

 『代金さえ頂ければ、避妊具からABC兵器まで何でもご用意しますよ』との謳い文句通り、どうやってかは全くもって分からないが、注文の品は必ず手に入る。

 

 

――一度、真剣に調べようとしたけど……教えてない筈の俺んちのポストに、いつの間に撮られたか分からない尾行写真と『オイタが過ぎますよ』とだけ書かれた便箋が入っていて諦めた。

 

 

「これです」

「へぇ……随分と古い本ですね」

 

 

 珈琲と共に差し出されたのは、題名すら読めない……というより、何語かすらも分からない本。

 辛うじて、それが羊皮紙で出来ている事が理解出来た程度である。

 

 

「ラテン語です。記されたのは中世、錬金術に関するものだそうです」

「錬金術、ですか……でも俺、魔術はルーンを多少かじってる程度ですよ?」

 

 

 因みに、マスターは嚆矢が『魔術使い』である事は知っている。嚆矢としては、いつの間にバレたか不明で戦々恐々なのだが。

 

 

「だからこそ、ですよ。君のルーンと錬金術の相性は良いのです。錬成と刻名、それは切っても切れぬものなのですから」

 

 

 成る程、一理ある。『錬金術』は物を作り出す魔術、『ルーン』は刻む事で効果を発揮する魔術だ。

 それは、彼の『親』から学んだ。アイルランド生まれで、今は滅んだ『ケルト魔術』を操る『樹術師(ドルイド)』の末裔である義母と……九州地方の、()る金属鍛冶の家系を継ぐ義父の相性の良さから。

 

 

 果たして義父が知っているかは疑問だが、義母は義父の作に良くルーンを刻ませている。端から見ればただの模様だが、用途に応じた様々な加護のルーンを。

 お陰で、学園都市の主要な料理店の板前やレストランのコック御用達の高級調理品職人として通の間では有名である。

 

 

「ご存じですか、コウジくん。『魔術師』と『魔術使い』の違いを」

「ええと……『一品物を使う』のが前者、俺みたいに『既製品を使う』のが後者……でしたっけ?」

 

 

 そう、教えられた通りに答えれば――焔の瞳を細めて魔導師が笑う。

 

 

That's right.(よくできました その通りですよ)。故に、君が真に魔導を志すならば――――知識は、幅広く有った方が良いと言う訳です。」

「……成る程」

 

 

 同じ男ですら惹き付けられそうな、その妖しさ。もしも女ならイチコロであろう。

 

 

「さて、良く出来た御褒美です。その書は差し上げましょう」

 

 

――あーあ、俺もあれくらいイケメンだったらなぁ……風紀委員の娘達も、さっきの娘だって、あっちの方から番号とか教えてくれたんだろうなぁ……

 

 

 等と、ついつい無い物ねだりで腐ってしまった。それを、見咎められる。

 

 

「どうしましたか、急に上の空になりましたが?」

「いえ、ちょっと……世の無情を」

「哲学ですか……それもよいでしょう、思考は魔術にとって最良の触媒ですからね」

 

 

 言われた通り、古書を紐解く。一見した通りに羊皮紙にインクで記された不可解な文字や挿し絵。

 

 

「にしても、全く解りませんよコレ……」

 

 

 頁を捲れば捲るほど、こんがらがる内容に頭を抱える弟子。それを、魔導師は微笑みながら。

 

 

「そんなコウジくんの為に、このラテン語辞典(定価25000円)の初版本がありますよ。身内割引で二割引しましょう」

「……ローズさん、学生が二万も持ち歩いてる訳無いじゃないですか」

 

 

 その逞しすぎる商魂に舌を巻きつつ、辞書を返す。事実、彼の財布には二千円くらいしか入っていないのだから。

 

 

「そうですか、残念です……モテると思ったんですけどね、自己紹介の時に『第二言語、ラテン語』」

「買います。借金してでも買わせていただきます」

「毎度有り難う御座います。では、ローン契約書にサインを」

 

 

 結局、魔術的な契約書にサインさせられたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 唯一の弟子(きゃく)が帰った後、魔導師(マスター)は店の明かりを消した。ドアには『CLOSE』の掛札、営業終了である。

 外からの明かりのみが照らす室内、その窓辺に珈琲を片手に……煌々と燃え盛るような深紅の瞳で、遠く聳えるビルを見遣る。

 

 

「さて、こちらの手札は揃った……ゲームを始めようか、大導師(アデプタス・イグゼンプタス)。君の『法の書(リベル・レギス)』と私のシナリオ……どちらが優れているか、ね」

 

 

 先程までと同じく、穏やかな笑み。しかし、そこに含まれるものは明らかな――――

 

 

「『黄金の夜明け』は未だ遠く、夜に蔓延るは『昏い同朋』達……聞こえてくるようだね、か細く呪われたフルートの音色と、くぐもった下劣な太鼓の連打が」

 

 

 くるくると回る、いくつもの風力発電装置の彼方――――肉眼では見えようもない、闇の中。そこに(そび)える、『窓の無いビル』を見詰めて――――――



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第1章 虚空爆破事件/The Crawling Chaos
七月十八日:『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』


 

 

 一面に畳の敷き詰められた修練場、道着と黒い袴を着込んだ衆人環視の中、二人の少年が対峙している。

 

 

「――どうした、蘇峰(そほう)? さっさと終わらせようぜ、これから風紀委員の仕事があるんだ」

 

 

 片方は、嚆矢。開手の構えで、相手のあらゆる動きに対応出来るように。

 

 

「まるで、勝つ事前提みたいな言い方ですね。ご心配なく、対馬さん。直ぐに終わりますから……」

 

 

 対する、長めの黒髪の中性的な美少年は、『蘇峰 古都(そほう みやこ)』。二年生の、強能力者(レベル3)

 やはり開手の、鏡に映したかのように対照的な構え。

 

 

「何だよ、蘇峰……それじゃあ、まるで俺が負けるみたいじゃねぇかよ?」

「あれ、そう聞こえませんでしたか? っかしいなぁ、そう言ったつもりだったんですけど?」

 

 

 別に試合ではないので、互いに挑発し合う。これがもし試合なら、指導が入るところだ。

 そして、静寂が訪れる。畳の藺草と、汗の匂いが染み付いた修練場の空気が、二人の戦意に動きを止める。誰か喉が、ゴクリと鳴った。

 

 

「「――――――――!」」

 

 

 その刹那、嚆矢と古都が互いに動いた。同時に襟首を掴み――――先に嚆矢が古都の重心を掴み、足を払った。

 

 

「――――ッ?!」

 

 

 嚆矢は舌打つ。古都の体は、まるで巌。微動だにしない。それどころか、全力で蹴ったはずの己の足の方が跳ね返された。

 同時に、上半身が回転させられる。後は叩きつけられてしまえば、敗けだ。

 

 

 それを、わざと流れに乗る事で、一回転して着地。腕を払い、距離を取る。

 

 

「流石だな――――『質量操作(マス・ゲーム)』。自分の質量を増やすだけじゃなくて、まさかこっちの質量を同時に軽減してくるとはなァ、またレベルを上げたか!」

「そちらこそ、『制空権域(アトモスフィア)』……対貴方用の短期決戦技だったんですけど、見事に理合を外された。相変わらず、貴方の『手が届く範囲(フィールド)』では戦いにくい!」

 

 

 好戦的な笑顔を見せ始めた嚆矢に、苦笑いを見せた古都。その超能力(スキル)は、『強能力(レベル3)』の『質量操作(マス・ゲーム)』。触れている物の質量を操る能力であり、順当に行けば『大能力(レベル4)』も近いと言われる能力である。

 見た目は変わらないが、今の古都は優に百キロを越えており――嚆矢は、最早一キロもない。

 

 

――上等……このくらいの逆境じゃなきゃ、面白くねェンだよ!

 

 

 普通なら、もう勝負にもなるまい。しかし――嚆矢は、その状況にこそ戦意を昂らせた。

 後輩の努力と工夫に、最大限の敬意を示す為に。脚のバネを最大限に使い、まるで、放たれた『矢』の如く距離を詰める。

 

 

「フゥ――――」

 

 

 慌てる事なく息を吐き、古都は攻撃に備える。ここまでは想定の範囲内、問題は――――

 

 

「ハッ――――!」

 

 

 後の先を取る。先に嚆矢の腕を掴み、足を払い――――

 

 

「――――クッ?!」

 

 

 その払い足に合わせられ、古都は自らの質量に文字通り『足を掬われた』。片足だけでも十五キロ近い質量と化している肉塊、崩れた『重心』と変わらない『筋力』では止めようもなかった。

 更に完全に理合を掴まれ、空中で頭を真下にしたまま――――背中から、畳に叩き付けられた。

 

 

「――参りました、主将。流石です」

莫迦(バカ)、今の主将はお前だろ?」

 

 

 勝敗が決した後も、暫く静寂が場を満たす。そして、十秒ほど経ってから、漸く溜め息と拍手が入り乱れた。

 

 

「まだまだ、主将を名乗るには精進が足りません。お時間を取らせてしまって申し訳有りませんでした」

「主将を特別視し過ぎだ、この俺の何を見てやがった? 大体、後輩が遠慮すんな。指導くらい、いつでもしてやるって」

 

 

 慌てて撓んだ襟と緩んだ袴の帯を直した古都を尻目に、嚆矢は気だるそうに汗を拭う。

 そして壁掛け時計の時間を確認すると、上座の腕を組み胡座をかいたまま微動だにしない老人――先程から一言も発さずに成り行きを見守っていた白髪に長い顎鬚の顧問『隠岐津 天籟(おきつ てんらい)』に一礼した。

 

 

「さて、じゃあ、マジで遅れそうだから行くな。古都、理合は他人のだけ掴みゃ良い訳じゃねぇ。自分の理合こそ、常に掴め。そうすりゃあ、勝てずとも敗けやしねぇ」

「押忍、ありがとうございました!」

 

 

 言うや、片手をヒラヒラしながら修練場を後にする嚆矢。その背中に、合気道部員達は一斉に『押忍!』と返した。

 

 

「むひょ、な、なんじゃ?! 飯の時間か?」

「隠岐津先生……丁度今、対馬先輩が帰られたところです」

「なんじゃと、来る時といい帰る時といい、挨拶も無しとは……」

「先生が寝てたから、気が付かなかっただけですよ……」

 

 

 その声に、居眠りしていた天籟が目を覚ます。古都は、頭痛でも感じたような表情で日盛りの中に消えていく嚆矢の背中を見詰めていた。

 

 

「……もっと。もっと強くならないと……」

 

 

 爪が食い込むほど、拳を握り締めながら。

 

 

………………

…………

……

 

 

 制服に着替えて、校門を潜る。と、其処には二人分の影。

 

 

「よう、待ってたんだぜ、コウ」

「ぶふぅ、暑かったんだな……」

「何だよ、ジュゼ、マグラ? 用か?」

 

 

 待ち受けていた主税と間蔵と合流する。

 

 

「久々の合気道はどうだったんだぜ? お前んとこには蘇峰が居るから、次の主将指名が楽で羨ましいんだぜ」

「全くなんだな……剣道部(ジュゼんとこ)相撲部(ウチ)は、目を掛けられる程の部員は居ないんだな」

「勧誘サボるからだろ、ウチは新入生歓迎で頑張ったからな」

「それを言われると弱いのぜ」

「なんだな」

 

 

 何の気無しの、ありきたりな会話。しかし、学生生活における最も大事なものは、そう言うものだろう。

 坂を下り、分かれ道に差し掛かる。ここからは、道が別だ。

 

 

「じゃ、俺はこれから美少女風紀委員と青春を謳歌してくるわ。お前らは野郎二人で精々楽しんできてくれ」

「はん、固法に嫌われてる分際で煩いのぜ」

「その固法のメアドを俺経由でゲットしといて、未だにメール一つ出来てない奴が何を言う」

「ぜぜぜっ!? な、何でそれを!!」

 

 

 軽口に返る軽口。慌てた主税は、思わず竹刀を振り回す。嚆矢は、それに触れぬよう回避した。

 彼の『能力』から逃れる為である。

 

 

「第一、相手は固法じゃねぇよ。このこの娘達だな」

「どれどれだぜ……」

「どれどれなんだな……」

 

 

 携帯のカメラから、保存した画像を見せる。飾利に涙子、黒子の写真である。それを見て、主税と間蔵は渋い顔をして見詰め合った。

 

 

「まぁ、美少女だとは思うのぜ……けど、流石に中坊はあれなのぜ」

「詰まるところ、コウは相変わらずロリコンなんだな」

「ロロロ、ロリコンちゃうわ! 俺はただ、将来性に賭けてるだけで」

 

 

 自分でも多少気にしている核心を突かれ、絵に掻いたような慌て方をした嚆矢。因みに、間蔵は年上好きである。蛇足な補足。

 

 

「「分かってる分かってる」」

「分かってねぇだろ! おい待て、オーイ! テメーら覚えとけよ!」

 

 

 話は終わりだとばかりに足早に去っていく二人に、後ろから怨嗟の声が響いたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 コツリ、と。検問を通り抜けた男は革靴を鳴らす。学園都市に入る為の検閲は煩雑を極め、元より短い彼の堪忍袋の緒を限界まで引き延ばしていた。

 真夏にも関わらずアルマーニのトリプルのスーツを完璧に着こなす、白髪の混じるオールバックの壮年の紳士は、夏日の下では病的にすら見える浅黒い肌を怒りに青褪めさせつつ苛々と懐中時計を見遣る。

 

 

「遅い……約束の時刻を二分十七秒過ぎている。全く、コレだから日本人は」

 

 

 まるで逆の動きをしているかのようにぎこちない、白い手袋を嵌めた腕の動きで懐から葉巻を取り出し、専用のカッターでやはりぎこちなく片方の端を切り飛ばす。

 

 

「仕方無いのよ~。農耕民族は季節を大事にしますので、のんびり屋さんなのさ~」

 

 

 その葉巻に火を付けたのは、いつの間にか隣に立っていた……ぽやんとした紅い髪の、アラビアチックな衣装に褐色の肌を包み、インドのサリーを纏った少女。その指先に浮遊する、紅蓮の炎の塊によって。

 その紳士を見て、一人の男が首を傾げた。そして自分も煙草を吸うような仕草を試し、何か重大な事に気付いたように紳士を見て――――紳士の灰色の眼差しを見るや人事不省に陥ったような表情となり、ケラケラ笑いながら何処かに歩き去っていった。

 

 

「ふん……狩猟民族である我々とは、根本的に別物であると言うわけか。脆弱にも程がある、コレばかりの狂気に耐えられぬとはな。本当に、こんな温い場所に我らの『(ロード)』となる才覚が眠っておるのか?」

 

 

 辟易したように呟き、葉巻を銜えようとした紳士。その葉巻の尖端の炎を、一条の水が抉るように撃ち抜いた。そしてその指先は、同時に『路上禁煙』の看板も指し示していた。

 

 

無問題(モウマンタイ)、あの方の目測に誤りなど有り得ないわ。それにしても、今の魔術にも完全に無反応とは……危機意識の無いことですわ」

「仕方無いよ~。だって一世紀近くもの間、戦争と無縁の国だよ、お姉ちゃん~?」

 

 

 と、紳士の葉巻に指先を向けた……彼を挟んで反対側の怜悧な蒼い髪の、色以外に紅い少女とパーツは変わらない双子の姉、眼鏡のチャイナドレスの少女は声で嘲笑う。事実、『虚空から炎の塊が現れた』り『指先から水が吹き出した』というのに、辺りの人々は誰も気にしていない。

 まるで『見慣れた光景だ』とでも言わんばかりに。

 

 

「君達の容姿のせいだ。この都市では、子供は超能力を使えるものだそうだからな」

「失敬な~。子供は君だろ、この老頭児(ロートル)~」

「ごちゃごちゃと煩いのですわよ、貴方達は……しかし、暑いですわね。これが『夏』ですか。湿度が高いのは問題ないのですが……日光が厳しいですわ」

「私、暑いの大好きだもんね~。魚座の口端(フォーマルハウト)は、もっと熱いしね~」

「地球ならば気化するだろう、彼処の熱は……」

 

 

 と、その時、目の前に黒塗りのリムジンが停まった。直ぐ様運転席のドアが開き、現れたドライバーが三人に頭を下げた。

 

 

「お待たせ致しました、信号機がいきなり不具合を起こしたとかで遅れまして……どうぞ」

「おお~、待った待った~。次はないぞ~?」

 

 

 雇われたらしき運転手は、大して反省などしていない様子で宣った。それに、気にしていない様子で答えたのは、サリーの娘のみ。

 チャイナの娘は反応すらなく乗り込もうとし、紳士は――その右手の手袋を、(おもむろ)に外した。

 

 

「「――――――!」」

 

 

 たったそれだけの事に、両脇の少女達は冷や汗と共に左右に跳ね飛んだ。その、()()()()()()から逃げるように。

 それを一顧だにもせず、紳士は某かを呟いて、労うようにその右手を運転手の()()に置いた。

 

 

「――クビだ、役立たずめ。この私から『時』を奪うなど、身の程を弁えよ……消え失せい!」

 

 

 その、老いさらばえた鈎爪の如き掌を()()()()()で、擦れ違う。

 刹那、運転手がびくりと震えた。震えて振り返り――――

 

 

「が、ア――――ひ、ぎ」

 

 

 断末魔を上げたその顔が、急速に老い、朽ち果て――最後には灰色の砂と化して路上に(うずたか)く積もる。

 そこに火の消えた葉巻を投げ、紳士は運転席に回った。残る砂、転がった葉巻の跡。

 

 

「私が運転しよう。さあ、乗りたまえ」

 

 

 言いつつ手袋を嵌め直し、紳士はドアを閉める。後に残された双子は、目を見合わせて。

 

 

「幾ら年若いとはいえ、流石に『アウトサイダー』の契約者か……」

「いや~、やっぱりあんまりからかわない方がいいよね~」

 

 

 等と語らうと、迷わず車に乗り込んだ。静かな回転音と共に、リムジンが走り出す。路上に積もった砂は、吹き抜けた初夏の風に吹き散らされて消えていった。

 ぎこちなく左ハンドルを操る紳士、その脇の歩道を――――緑色の腕章を着けた三人組の男女が歩いていた。

 

 

………………

…………

……

 

 

「っは~、暑いなぁ」

「はふ~、熱いですねぇ」

「貴方達、余り暑い暑い言わないで下さいますの? 聞いていると余計に暑くなりますの」

 

 

 黒塗りのリムジンが走り抜けた、まだまだ厳しい日差しの降り注ぐ路上を歩く、嚆矢と飾利、黒子の三人。

 一応は嚆矢が所属年数が一番長い為、班長的な立ち位置になっている。一番強いのは、間違いなく黒子だが。

 

 

「いや、そうは言っても白井ちゃん……寒さは着れば凌げるけども、暑さは脱ぐのに限度があるだろ? だから、春より秋が好きなんだよ、俺」

「知りませんわよ、全く……」

 

 

 因みに嚆矢は肩紐の付いたアタッシュケースを右肩に、左手には強化アクリル材らしき楯を持っている。

 見るからに、重武装。と言うのも、現在当たっている事件の所為である。

 

 

 その装備の重みを感じながら、嚆矢はポツリと。

 

 

超能力(スキル)名『量子変速(シンクロトロン)』を用いた爆弾魔――通称『虚空爆破(グラビトン)事件』、か……」

 

 

 実に、心から面倒くさそうに呟いた。

 

 

 『虚空爆破(グラビトン)事件』。七月の初頭から立て続けに発生している、『アルミニウムを爆弾とする』爆破事件。

 しかも縫いぐるみや玩具にスプーンを仕込んだり、ゴミ箱のアルミ缶を起爆させたりと、辺り構わず被害を及ぼす実に厄介な事件である。

 

 

「一週間くらい前から連日被害が出てる事件ですからね……けほっ、昨日も、固法さん達が対応したから最小限の被害に抑えられたみたいですけど、けほ、風紀委員の男子生徒が一人、女生徒を庇って負傷したそうです」

「あぁ、中々見上げた同僚だよな。尊敬するよ、俺なんて口ばっかりだから」

 

 

 と、率直な感想を口にした。少なくとも『()()()()()()()()()()()()』のだから、嚆矢からすれば無条件に礼賛すべき人物である。

 と、先程から咳を繰り返しつつ携帯端末を操作していた飾利が顔を上げた。

 

 

「けほ、だからって、怪我しちゃダメですよ。それで自分は満足かもしれませんけど……それをやられた方は、気にするんですから」

「んー、情況次第かな。まぁ、何にしても見倣わないといけない振る舞いだ」

 

 

 それはどちらも、明らかに『経験者』の言葉。軽く怒られてしまうが、こちらにも男としての矜持がある。何より、『誓約(ゲッシュ)』もある。何れにしても、後塵を拝し続ける訳にもいかない。

 既に十人近くの風紀委員が、件の能力者により病院送りにされている。死人が出ていないのがせめてもの救いだろうか。

 

 

「にしても、『重力子の数じゃなくて速度を急激に増加させて、アルミを爆発させる能力』か……ハハ、説明されたけどほぼ仕組みが解らん。錬金術的な考え方でオーケーなのかい、白井ちゃん? それなら、少しはかじったんだが」

「れっきとした科学ですの……それと、いきなり厨二病のカミングアウトはお止めくださいます?」

 

 

 つかつかと肩を怒らせたまま、不機嫌そうに歩く黒子に探り探り話しかけるも、にべもなく一蹴された。

 寧ろ、一層機嫌が悪くなったようだ。嚆矢は『アレ?』と、首を傾げて。

 

 

「……なぁ、初春ちゃん。白井ちゃん、妙にカリカリしてないか?」

「あっ、えっと……実は白井さん、今日は御坂さんと放課後に約束してたみたいで……」

「なるほど、さぁ今からってトコに俺から呼び出しが来た訳だ」

 

 

 と、マスクをして軽く咳をする飾利に耳打てば、ネタバラシ。確かに、『お姉様ラヴ』の黒子にとっては逢瀬を邪魔された気分だろう。

 実のところ約束などはなく、一方的に押し掛けようとしていたとは、二人の知るところではない。

 

 

――うーむ、初日からこんな事でギクシャクはしたくないしな……さて、白井ちゃんの歓心を買えて、尚且つ俺の株も上がるような話をしないと。

 

 

 脳味噌をフル回転させ、そんな話題がないか記憶を漁る。結果――

 

 

「ゴメンな、白井ちゃん……代わりと言っちゃなんだけど、俺と御坂の出会いについて語ろうか?」

「…………」

 

 

 結果、御坂の話をする事にした。黒子は、それにピクリと一瞬身を震わせて。

 

 

「……聞くだけ聞きますわ」

(よし、マジでチョロいわー、この娘。先輩、君の将来が心配になっちまうぜ)

 

 

 不承不承といった具合を装い、寄ってきた黒子。狙い通り、余りにも分かりやすい針に食らい付いてきた彼女に苦笑いする。

 

 

「知っての通り、出会ったのは去年の大覇星祭……競技は綱引き。正直、その時は常盤台なんて眼中に無かった。何しろ長点上機学園に負けてたから、巻き返そうと必死だったんだ」

常盤台(うち)を軽視しているところには感心しませんけれど、長点上機学園を目標に……あの、大覇星祭上位の常連校ですわよね?」

「そ、弐天巌流学園(うち)はあそこを敵視してるからさ。バッティングするんだよ、専門が」

 

 

――まぁ、実はそれだけじゃあない。『その上、女生徒が居る』事が、黒一色の我が学舎があちらを敵視する最大の理由である。

 流石にカッコ悪すぎるから、言えねぇけど。

 

 

「相手は女子ばかり、しかも中学生が十五人。此方は空手部や柔道部、果ては相撲部員なんかの混合で高校生十五人。100パー勝ったと思ったね」

「うわぁ……けほっ、清々しいくらいに卑怯ですね」

「そこにお姉様がいらして、華麗なる逆転劇を見せたわけですのね。ああ、見えるようですわ……かのオルレアンの少女の如く、勝ち目の無い闘いを覆すお姉様のお姿が」

 

 

 ミンミンと蝉時雨の降る路上を、三人は出来る限り日陰を選んで歩く。申し合わせた訳ではないが、いつの間にか。

 

 

「ハッハッハ、気が付いた時には皆がテイクオフしてた。何せ、常盤台の配分は強能力者(レベル3)大能力者(レベル4)念動能力(テレキネシス)が十人、流体反発(フロートダイアル)三人の化け物揃いだったからな」

「うわぁ……」

「それは、なんと言いますか……」

 

 

 分かる者にしか分からないだろうが、とんでもない事である。旅客機と綱引きをしたところで、或いは勝ちうると言えば分かり易いだろうか。

 

 

「勿論、続く第二試合で負けたら終わりだ。だけど、真っ正直にぶつかったところで勝ち目なんて微塵もない。それで……奇策を講じたんだ。俺の友達の相撲部主将と合気道部の後輩が重くなれる能力だったから、その二人に最初の引っ張り合いを何とか堪えて貰って……」

「「貰って……?」」

 

 

 わざとらしく、溜めを作る。黒子と飾利は、全く同じタイミングで顔を寄せてきた。それを満足げに受け止めて、嚆矢は口を開く。

 

 

「何とか俺が掴んだ理合を、念話能力(テレパス)能力の奴に皆に伝えて貰って、一致団結して何とか引き込んだんだ。薄氷の一勝だったけど、これなら十分に太刀向かえるって確信できたんだ……」

 

 

 青春の一頁を懐古する老人のような口調で、沁々と。

 

 

――因みに、マグラと古都曰く『スペースシャトルと綱引きしている気分だった。もう二度とやりたくない』らしい。

 

 

「そして(のぞ)んだ第三試合……さっきと同じ方法で、だけどやる気はさっきの数倍でな。ホイッスルが鳴った、その瞬間までは」

「な、何があったんですの? 勿体つけてないで、早く仰ってくださいませ」

「はわわ、ちょっぴりワクワクしますね――きゃ!?」

 

 

 と、交差点に差し掛かった瞬間――――脇の歩道から出てきた男子生徒と飾利がぶつかった。

 

 

「っと……大丈夫か、初春ちゃん?」

「あ、は、はい……けほっ、ありがとうございます」

 

 

 倒れそうになった彼女の手を引き寄せる。余りに軽すぎて、勢い余って抱き寄せる形になってしまったが。

 随分とひょろい、末成(うらな)り瓢箪のような眼鏡の少年だったが……まだ小学生でも通用する体格の飾利にとっては、十分に大柄である。

 

 

「チッ――」

 

 

 と、少年は忌々しげに舌打ちして歩き去ろうとする。その目には、ただ『ぶつかった』程度のものではない――憎しみの色があった。

 

 

「ちょっと、貴方! 人にぶつかっておいて何ですの、その態度は!?」

「……はぁ? お前らこそ、風紀委員(ジャッジメント)ってのは駄弁りながら歩くくらい暇なのかよ? 世の中、爆弾魔事件で騒がしいってのに男連れで」

「な、何ですって……!」

 

 

 赤髪の少年は、黒子に皮肉を返す。その物言いに、何よりも友人を蔑ろにされた事に、激昂し――

 

 

「――いや、誠に申し訳ない。此処は一つ、俺の頭で勘弁してくれませんか?」

 

 

 それを遮り、黒子と少年の間に立ちはだかった嚆矢。いつもの人懐こい笑顔で、へこへこと頭を下げながらそんな事を宣う。

 

 

「なっ――対馬さん、貴方むぷっ!」

「すみません、『()()』にはきちんと、言って聞かせておきますから」

 

 

 反論しようとした黒子の桜色の唇に人差し指を当てて、黙らせる。上司としての権力で。

 その上で、もう一度深く頭を下げた。

 

 

「……はっ、はははは! なんだ、少しは弁えてる奴も居るじゃないか。女の前だからって格好つけるかと思えば、ちゃんと社会常識をさ! 分かった、今回だけは許してやるよ、風紀委員(ジャッジメント)……だけど、次はないぞ!」

「はい、それはもう。本当にすみませんでした」

 

 

 下げた頭を、枯れ木のような腕の先の掌がぱしんと叩いた。それでも尚、嚆矢は平然と。少年が笑いながら、横断歩道の向こうに消えるまで頭を下げ続けた。

 

 

「……いやぁ、鬱屈した奴にはやっぱり、これが一番だな。下手に出りゃ、自尊心を勝手に満たしてくれるんだから」

 

 

 漸く頭を上げ、そんな風に笑った。そんな彼に。

 

 

「――――」

「…………」

 

 

 苦虫を噛み潰したような、何とも言えない表情をした黒子と、申し訳なさそうに縮こまった飾利が残る。

 そんな二人に、何でもなさげに嚆矢は笑いかけた。今しがたの無様など、何一つ歯牙にも掛けず。

 

 

 

「さて、どこまで話したんだったっけ? 確か、第三試合を――」

「いいえ――結構ですわ。私、これから『虚空爆破事件』を調べてみますので」

 

 

 それを遮り、黒子は彼に背を向けた。まるで、その全てを否定するかのように。

 そんな事にも気付かないような程の朴念仁ではない。しかし、最早、ここまで来れば引き留める方法など持ち合わせてはいない。

 

 

「そっか……じゃあ、初春ちゃんは俺が送ってくから、安心しといてくれ」

「…………ええ。お任せしますわ」

 

 

 その上での一言に、『風邪気味の飾利を心配していた』黒子は振り返る事もなくそう答えて……

 

 

「因みに、最終戦ではいきなり綱を離した常盤台の面々に意表を突かれて……気を逸した瞬間に、御坂の電撃で皆が戦闘不能になって負けたんだ」

 

 

 空間跳躍(テレポート)により、その姿を消した。

 

 

「……流石に、これはカッコ悪すぎたかな」

 

 

 ふう、と溜め息を吐きながら、嚆矢はにへら、と飾利に肩を竦めた。当然、辺りからは白い目線が向けられているのを感じながら。

 

 

「……いえ。そんなこと、ありません。あの、その……けほ、格好よかったです」

 

 

 それでも、優しい彼女はそう答えてくれたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 飾利を送る為、共に歩く。しかし、少し前のように会話はない。ただ、探るような息遣いだけ。

 

 

「…………」

 

 

 それに、全てが集約されている。やたらと熱っぽい吐息、ふらつく足。紛う事なく――風邪である。

 

 

――ここまで来ると、浮かれてた自分をブチ殺したくなる。どうみても風邪気味の初春ちゃんを、見逃してた自分を。

 

 

 虚ろな目に頬を林檎色に染めた彼女に、罪悪感が湧く。こうなれば、最早仕方あるまい。

 

 

「……初春ちゃん、ゴメンな」

「ふぇ――ひゃうっ?!」

 

 

 と、有無を言わさずに抱き上げる。このままでは、不味い事になると判断した為に。その方法は勿論、言わずと知れたお姫様抱っこである。

 

 

「俺如きで悪いけど、少し我慢してくれ。近くの病院まで、最速で突っ走る」

「あ、あうあう~」

 

 

 それに、ポカポカと直角に曲げた腕で殴り付けて抵抗する飾利。勿論、その程度では彼には抵抗足り得ない。

 平然と、『あの世の予約をキャンセルする』と評される、とある両生類に似た顔の懇意の医師の医院まで運ぼうと両足に力を入れて。

 

 

「……初春に対馬さん? 何してるんですか~?」

「っと、佐天ちゃんか」

「さっ、佐天さん?! 違っ、これはあの、佐天さんが考えるような事じゃ断じてなくて!」

「ふ~ん……ふ~んふ~ん」

 

 

 そこに、何処から沸いたのか、涙子が現れた。いや、どうみても隣の『セブンスミスト』……衣服の量販店に来たのだろうが。

 彼女は、現在の嚆矢と飾利の状態を繰り返し、大体三回くらい見て。

 

 

「なるほど~、親友の誘いを断ってまで、対馬さんのラヴコールを優先した訳だ~」

「だ~か~ら~、違います~!」

 

 

 にまーっと笑い、わたわたと慌てて嚆矢のお姫様抱っこから降りた飾利を弄る彼女。その、背後から。

 

 

「あれ、対馬さん。また会いましたね」

 

 

 と、苦笑した美琴の姿があった。正直、この辺りで常盤台の制服は浮いて見えた。

 

 

「珍しいな、御坂。ここ、量販店だぞ?」

「佐天さんといい、対馬さんといい……私が量販店使っちゃいけないとでも?」

 

 

 むくれながらの言葉に、成る程、言われてみればその通りだと納得する。お嬢様が量販店を使ってはいけないなんて決まりはない。

 いや、そもそもそれは、勝手に決められた固定観念なのだが。しかしまぁ、庶民派なお嬢様な事である。

 

 

「理解した。けど、ちょっと初春ちゃんの具合が悪いから今は勘弁……」

「あうあう~!」

「あはは~、初春は可愛いなぁ~。ほら、今日の淡いピンクの水玉柄は対馬さんに見て貰った?」

「はうっ?!」

 

 

 と、いきなり飾利のスカートを捲り上げた涙子。露になったそれは、嚆矢や美琴はおろか、辺りの衆目にまで晒された。

 

 

「~~~~!!」

 

 

 元々風邪気味で赤い顔を、更に真っ赤に染めて。飾利は力の限り叫んだ。

 

 

「――――佐天さんのばか~~~!!」

 

 

………………

…………

……

 

 

 場所は、衣服量販店『セブンスミスト』。そこまで、『彼』は『彼ら』の後を付けていた。目測は単純明瞭、『兎に角目立っている風紀委員』。それに、彼らは十二分に条件を満たしていた。

 ニタリと卑屈な笑みを張り付け、蛙の縫いぐるみに『スプーン』を仕込む。無論、それは――――『アルミニウム』製だ。

 

 

「ふ~んふふ~ん♪」

「…………」

 

 

 と、目に入ったのは小学生に届くかどうかという幼女。それに、彼は――――

 

 

「うん、分かった、おにーちゃん!」

 

 

 薄ら笑いを浮かべながら、『スプーン』を仕込んだ蛙の縫いぐるみを持たせたのだった……。

 

 

…………………

…………

……

 

 

 場所を移して、セブンスミスト店内。そこら中に溢れる女性ものの衣類に、居心地悪く嚆矢は通路に突っ立っていた。

 

 

「……暇だなぁ」

 

 

 遠くで、飾利と涙子がきゃいきゃいと服を選んでいる。因みに、飾利の顔色は先程より少し良くなっている。

 本人曰く、『元々、そこまでひどい訳じゃありませんでしたから』都の事。念の為に、こっそり治癒力を高めるルーンを使ったのも功を奏したようだ。

 

 

――さて、義母(かあさん)義妹(いもうと)の買い物に付き合わされてたから女性の買い物、特に服選びはかなり時間を要する事は分かってる……待ち時間は有効活用しないとな。

 

 

 と、セブンスミストから出ると入り口の壁に寄り掛かり、鞄から本を取り出す。ニアルから貰った、冊子くらいのサイズの『錬金術の教本』を。

 

 

――ローズさん曰く『ラテン語』だから難しいかと思ったが、流し読みした限りではどうも大部分でルーンが使われていた。寧ろ、肝心な部分はルーンが主体だった。これなら、予想よりも早く解読できるかもしれない。

 てか、錬金術は殆ど出てきてないんだが……いや、秘奥なんてもんが分かりやすい筈はない。精進が足りないんだ、きっと。

 

 

 ペラペラと本を捲り、あるページで止める。そこには、何かしらの召喚を扱った文言が並んでいた。それを彼は、実に致命的にも、全く持って不用心に。

 

 

「何々……『 Tibi(ティビ) Magnum(マグナム) Innominandum(インノミナンドゥム)signa(シグナ) stellarum(ステラルム) nigrarum(ニグラルム) et(エト) bufaniformis(ブファニフォルミス) Sadoquae(サドクァエ) sigillum(シギラム )』……か」

 

 

 (そらん)じた。諳じてしまった。その瞬間、辺りの気温がグッと下がり、あんなにも喧しかった蝉達が一斉に。まるで、息を潜めるかのように黙りこんだ。

 

 

 そして唐突に、誰も居ないと言うのに耳の真横でクスクスと笑い声。その刹那、何の前兆もなく生温い風が吹き抜けた。

 バサバサと、吹き飛ばされた紙が立てる音を孕んだ、思わず冊子を持つ腕で目を庇って閉じてしまうくらいの颶風が。

 

 

「――――な」

 

 

 そして、戦慄する。先程まで空いていた――目を庇った右腕の掌に、先程までの冊子とは比べ物にならないほど重厚な、鉄の表紙の本が握られていた。

 

 

「何だ、これ――――!」

 

 

 その禍々しさ、邪悪さ。鉄の筈なのに息衝きのたうつ軟体動物のような、不快なまでにぶよぶよとして感じられる装丁。

 触れているだけでも精神が削られていくような、気の触れそうな圧倒的な冷たさだった。

 

 

「『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』……しかも、原本だね。どこで手に入れたの、そんな稀覯(激ヤバ)魔導書(グリモワール)?」

「はっ?」

 

 

 真正面から掛かった声に、漸く頭が働き始めた嚆矢が目を向ける。見れば、小学生くらいの女の子。白い修道服に身を包んだ、青い髪の修道女が立っていた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 まず目を引いたのは、その服装。宗教色の薄いこの学園都市ではあまり見ない、十字教の修道服。しかも白という、普通とは真逆の色。

 そして、浮世離れしたその髪の色だ。それは、嚆矢の好きな青空の色。欲を言えば、もう少し深みのある藍色なら完璧だった。

 

 

「『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』……って?」

「1500年代ドイツで出版された、フランドル出身の怪人……錬金術師、降霊術師、魔術師で、第九回十字軍の生き残りルートヴィヒ・プリンが書いたものだよ。捕虜にされた中東で魔術を学んで、異端審問で焚刑に処せられる直前に。獄中でね」

 

 

 問われた少女は『中東の異端信仰関連の書だね。古代エジプトの秘密の伝説、伝承、サラセン人に伝わる占術や儀式、呪文、父なるイグ、暗きハン、蛇の髪を持つバイアティスなんかの蛇神について記されてるんだ』と続けたが、嚆矢はほぼ聞き取れなかった。

 何故なら、まるでその言葉を遮るように、携帯が鳴り響いたから。

 

 

「――もしもし」

 

 

 思わず、確認すらせずに出る。その向こうから。

 

 

『あ、こらコウくん! メッ、よ!』

「落ち着いてくれよ、義母さん……いきなり怒られても訳わからん」

 

 

 飛び出した怒声、義母からの叱責に耳を塞いだ。

 

 

『全く、訳の分からないものに手を出して……それに、何だかクソッタレブリテン売女のイギリス清教の臭いがするし』

「……義母さん、いま、何気に凄いワード言った?」

『そんな事どーでもいいの。問題は、今、貴方の知り合いの娘が大変って事よ。早くお店の中に戻りなさい!』

 

 

 言われて、セブンスミストを見遣る。やけに、『慌てて出てくる』客達を。

 

 

「――チッ!」

「あ、ちょっと君! まだ、『君が喚んだもの』が消えてないよ!」

 

 

 刹那、携帯を仕舞って走り出す。その腕を修道女が引いた。

 

 

「悪いね、お嬢ちゃん! その話はまた後で!」

「いや、今すぐどうにかしないとヤバい奴だってば! も~、SAN値直葬になっても知らないんだからね~っ!」

 

 

 それを手荒に成らないように振り払い、走り込む。暫く修道女の声が聞こえていた気がしたが……やがて、それは喧騒と――――

 

 

『______』

「……成る程、こりゃあ確かにヤバそうだわ」

 

 

 絶えず耳元で感じる、生臭い忍び笑いに変わった。今更に思い出す、右手の陰湿な蛆虫そのもののような魔本の感触と共に。

 

 

「『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』――魔導書、か。本当、勘弁してくれよ」

 

 

 鉄の表紙のその書を見詰め、意識を集中する。それ自体が魔力を持つ炉であり、『魔術(オカルト)』を行使する原動力となる、一種の儀式礼装。

 だが、中にはこのように『何かしらの悍ましいモノ』を奉るが故に、不用意に関係した者を破滅させる程の物もある。この本の場合は、不用心に『召喚の文句』を口にした者を生け贄に捧げるトラップのような物だろうか。

 

 

――って、ローズさんが言ってたっけか。まぁ、そのローズさんから貰ったもんでこうなっちまった訳だが。

 

 

 等と、責任転嫁している場合ではない。ならば、この『姿の見えない化け物』と折り合いを付けなければ。

 

 

「さっきのページは、っと! クソッタレが、見辛ェんだよ!」

 

 

 心底嫌だが、走りながら『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』の頁を捲る。

 人外の深遠を垣間見ながらの、前から来る客を躱す障害物走。まるで歓喜するかのように蠕動する狂気の書物は、文字自体が蛆虫のようにのたくって見える。

 

 

『______』

「こンの早漏野郎、ザリガニ臭ェ息掛けてンじゃねェ――――!」

 

 

 やがて忍び笑いは明確な興奮へ、響き渡る哄笑へと。そして、背中全体と首筋に吸い付いた『何か』の抱擁を感じる。

 そこで、やっと望みの頁に行き当たった。瞬間、『探索』のルーンを起動して素早く目を走らせ、望みの文言を捜査する。

 

 

 猶予は、首筋に感じる牙の感触からして、あと数秒だろう。そして――その牙が、肌を突き破る刹那。

 

 

「――汝、『星の吸血鬼(スター・ヴァンパイア)』! 見えざる伴侶よ……交わされた盟約の元、我に(そむ)くべからず!」

 

 

 その一節、何とか読み解いた、『呼び出したもの』の名を詠んだ。即ち、真名(まな)の支配を。強制的な誓約(ゲッシュ)を刻んだ。

 ギロチンの刃が墜ちる刹那のように、生きた心地など消え失せる。

 

 

『__ガ、__喚ビ__、タ、者カ』

 

 

 刃が、首筋に触れたまま止まった。代わり、聞こえたのは掠れた……酷く発声に向いていなさそうな喉から響いたような声。

 

 

『貴公ガ、我ヲ、喚ビ出シ、タ、者カ?』

 

 

 今度は、明確に。やはり辿々しい口調だったが、理解は出来た。

 

 

「そうだ。俺が、お前の主だ――」

 

 

 だからこそ、何一つの逡巡もなく即答した。それしか生き残る術はないと、本能で理解していた。

 

 

『……良イ、ダロウ。ソノ厚顔、サ、気ニ、入ッタゾ。デハ、名ヲ聞コウ、カ……我ガ、伴侶ヨ』

「ああ――」

 

 

 耳元での囁きに最大級の怖気を感じながらも、契約の意味の為に。

 

 

「嚆矢……対馬嚆矢だ」

『宜シイ、契約ハ成ッタ……』

 

 

 その、『名前』を口にした。

 

 

『――――クク、愚カ、ナ。自ラノ、真名ヲ口、ニ、スルナド……対馬嚆矢! 汝ノ真名ヲ知ッタ我、ガ、貴様ニ、人間如キニ従ウ理由ナドハナイ! 己、ノ、浅慮ヲ嘆ケ!』

 

 

 そこで、哄笑は最高潮に。同じく真名を得たのなら、人外の存在である『星の吸血鬼(スター・ヴァンパイア)』に人間である嚆矢に従う理由などはない。

 

 

 再度、首筋に籠められた力。だが――――

 

 

「煩せェよ、三品――――」

『――ガッ!?』

 

 

 嚆矢は、それを『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』でぶん殴った。

 

 

『キ、貴様――――何故?!』

「ああン、何でも糞も、そりゃあテメェが――『星の吸血鬼』が俺の真名をもォ、『知る事が出来ない』からさ」

『ナン……ダト……! 貴様、マサカ偽リ、ヲ?!』

「莫~迦、テメェが先走っただけだろ。確かに『今の』俺は『対馬嚆矢』だが……真名(ほんみょう)は別の名前なんでな」

『______』

 

 

 そう、決して偽りではない。だから、『契約』は有効である。悪いのは、『対馬嚆矢』の言葉を鵜呑みにした『星の吸血鬼』の方なのだ。

 更に、新たな誓約を刻まれた。もう、これ以降、『星の吸血鬼』は嚆矢の真名を知ろうとはできない契約となった。

 

 

『……クク、マサカ、ココマデトハ、ナ。認メヨウ、嚆矢……貴様ハ、我ガ伴侶、ニ、相応シイ』

「そりゃあ、どうも。化け物にそう言われてもちっとも嬉しくねェけど」

 

 

 ニタリと笑い、『俊足』のルーンを刻む。こんな化け物よりも、今は飾利と涙子、美琴の事が心配だった。

 

 

『サテ、デハ、我ガ伴侶、ヨ。我ハ、何ヲ為セバ、良イ?』

 

 

 やっと背中から剥がれた『星の吸血鬼』が耳元で忍び笑う。命令は、只一つだ。

 

 

「この事件を起こしてるクソッタレを見つけ出して、俺に伝えろ。間違っても、何もするな」

『クク、承知、シタ』

 

 

 その命令と共に、すぐ脇にあった不浄の存在感は消え去り……手元の悪意だけが、ザクザクと正気を削るだけとなった。

 

 

 

………………

…………

……

 

 

「っあー……良い風だなぁ。うん」

 

 

 蒼穹を吹き渡る風を浴びながら、襤褸(ボロ)の黄色い外套の少女は天を仰いで寝転がる。手を伸ばせば白い入道雲が掴めそうな程に近く、薄い月は遥か彼方。

 

 

「ここは、故郷(カルコサ)を……思い出すよ」

 

 

 地上数十メートルを行く涼風に翠がかった銀毛を遊ばせ、風力発電装置の上に寝そべった彼女は『月が、乱立する縮尺の狂った塔の前や後ろを過る』という――この地球(ほし)とは物理法則の異なる、星団(ふるさと)を幻視していた。

 夏の強い陽の光に細められた切れ長の、故郷の二つの太陽(アルデバランとヒアデス)と同じ白金(プラチナ)の瞳が倦怠に微睡む。

 

 

 廻り、軋む風車の音は、まるで子守唄。ならば、それを廻す風は強き父の腕にして、優しき母の掌による愛撫。

 星辰の巡りにルルイエの館で死の微睡みに夢見る大いなる者や、ハリ湖で眠ると言う名状しがたき者もこんな心持ちであろうか、等と取り留めの無い事を想いながら。

 

 

「――――っ」

 

 

 それまで全ての風を心地好さそうに受けていた少女が、右手で外套を口許に寄せた。それは正しく、好ましくない臭いを嗅ぎ分けた仕草である。

 

 

「臭い――――汚物に(たか)妖蛆(ウェルミス)の臭いだ」

 

 

 刹那、少女はある一点を見遣る。風と人の流れが乱れた、遠き地面の一点を。

 

 

「ツイてるなぁ、いきなりアタリじゃん」

 

 

 それまでの倦怠が嘘のように、彼女はすくりと立ち上がる。

 

 

「――――__________!」

 

 

 何かを呟いた彼女。しかしその言の葉は、呼応するように吹き抜けた颶風に掻き消された。

 ニヤリと歪められた口元から覗く牙とほっそりとした四肢、そして腰の辺りから翅脈のように虚空に漲る――――魔力と共に。

 

 

「さぁ、狩りの時間だ――――」

 

 

 遥か地上に向けて、散歩でもするかのように、足を踏み出した――――

 

 

………………

…………

……

 

 

 そうして、『星の吸血鬼』が居なくなったのと同時に携帯が鳴り響く。今度は、心配がなくなった為に、画面を確認する余裕があった。

 

「もしもし、白井ちゃ」

『――遅いですの! 一刻一秒を争う状況ですのよ!』

 

 

 と、またも怒られる。よくよく見れば、何度も着信があった。

 恐らくは『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』や『星の吸血鬼(スター・ヴァンパイア)』の対応に集中していた所為で気付かなかったのだろう。

 

 

――日に二度も同じ女の子に醜態を晒すとか、今日は百分の一(サイアク)な日だな……。

 

 

『先程、重力子反応の異常増大を感知しましたわ。場所はセブンスミスト店内、『虚空爆破(グラビトン)』ですの。そして――狙いは恐らく、私達風紀委員……つまり!』

「理解した――――出遅れた分、きっちり護る!」

 

 

 そこで、黒子が言葉を続ける前に携帯を切る。先程刻んだ『探索』と『俊足』のルーンは健在、寧ろ余分に魔力を籠め直した程。無論、反動は全て『制空権域(アトモスフィア)』で最小限に留めた為……二文字同時の為、インフルエンザの時並みの倦怠感が身体を包んだ。

 だが、速度は落とさない。何故なら、この事件の犯人の標的は――飾利なのだから。

 

 

――……どンな怨みがあるのかなンざ知らねェが、無関係な一般人や初春ちゃんを巻き込ンでンじゃねェよ、爆弾魔(クソッタレ)

 

 

 絶対に許さないと。鋭い八重歯(けんし)を剥き、蜂蜜の瞳に戦意を漲らせる。

 その脳裏に浮かぶのは、全く身に覚えの無い情景。砕けた鋭い鉄の檻と揮発油(ガソリン)の臭い、焔。腕の中で、消えていく息吹――――

 

 

「――対馬さん!」

「ッ――――佐天ちゃんか! ちょうど良い、初春ちゃんは?」

「あ、えっと……」

 

 

 思わず没入し掛けたところで、避難誘導に当たっていた涙子からの呼び掛けで正体を取り戻す。頭を振り、気を取り直しながら問うが、涙子には分からないらしい。

 

 

『――伴侶ヨ、コノ騒ギノ元凶ヲ見付ケタゾ』

「ああ、今忙しいから爆弾魔は――」

 

 

 その時、『星の吸血鬼』からの精神感応(テレパシー)に『どうでも良い』と言おうとして、どうやら視界まで共有して――――避難誘導中の初春の姿を認めた。

 

 

『コノ娘ガ、騒動ノ元凶デアロウ?』

「ナイス誤解……じゃあ、次こそは爆弾魔を探してくれ!」

 

 

 右手の『妖蛆の秘密』から感じる反応を元に『星の吸血鬼』の居場所を特定、涙子に避難するよう指示してから走り出す。

 一刻一秒、無駄にはできない。あそこまで黒子が焦っていたのだ、もう猶予は僅かな筈。

 

 

「さっきから、追い詰められてばっかだな――――!」

 

 

 愚痴りながら、漸く見付け出した。飾利は調度、小さな女の子からカエル(?)の縫いぐるみを受け取って――――

 

 

「――――逃げてください! あれが爆弾です!」

 

 

 それを投げ捨てると、女の子を庇って伏せる。カエルの縫いぐるみは、成る程、内側に押し潰されるように(ひしゃ)げていた。

 その様子に、嚆矢は更に『硬化』と『軍神』のルーンを刻む。戦いにおける、幸運を掴む為に。

 

 

 『超電磁砲(レールガン)』を撃とうとして失敗、コインを落として立ち尽くす美琴と少年の間を走り抜ける。

 やるべき事は、只一つである。

 

 

「――待ってないかもだけど、お待たせ、初春ちゃん」

「対馬さん――――?!」

 

 

 その、更に上から覆い被さる。盾を取りに戻る時間はないが、既に『硬化』は刻んである。『虚空爆破(グラビトン)事件』の犯人に見込まれている大能力(レベル4)くらいまでなら、大怪我レベルで済むだろう。

 無論、死ねるレベルである事に違いはない。大能力(レベル4)の触れ込みは、『軍事利用が見込める』能力なのだから。実際、彼の友人二人の能力も、楽に人間を殺せる威力がある。

 

 

「護って見せるよ、飾利ちゃん。なァに、俺の手が届く範囲は……俺の『制空権域(アトモスフィア)』だからな――!」

 

 

 それでも、笑い掛ける。飾利と、飾利が庇う女の子を安心させられるように。

 

 

『オイ、伴侶ヨ……貴様、何ヲシテイル?!』

 

 

 然り気無く、『妖蛆の秘密』を盾にしたりしながら。

 

 

――痛ェンだろうなァ……けどまァ、女の子を護ってなら仕方ねェかァ

 

 

 と、早々に覚悟を決めて飾利を抱き締める。小さな身体はすっぽりと嚆矢の影に隠れ、被害は出まい。

 それが、唯一の救いだとばかりに苦笑して――――

 

 

「――――早速、借りを返す機会がきたな」

「――――?!」

 

 

 爆弾と嚆矢達の間に立ちはだかった、さっきまで美琴の隣にいた少年――()()()()()()()()()()()()()()()()を見た――――!

 

 

………………

…………

……

 

 

 犯人が、警備員(アンチスキル)に連行されていく。眼鏡の、赤い髪の――少し前に、飾利とぶつかったあの少年が。

 因みに、その姿はズタボロ。後で聞いた話に依れば、どうやら美琴に見付かりシバき回されたらしい。

 

 

「……まぁ、結果オーライか」

 

 

 と、亜麻色の髪を掻きながら嚆矢は呟いた。

 

 

「ちっともオーライじゃありませんよっ!」

「おおぅ、ビックリした~……どうしたんだ、飾利ちゃん」

 

 

 と、飾利から怒られる。全くもって『今日は良く怒られる日だ』と心の中で溜め息を吐いた。

 

 

「あんな無茶して……怪我じゃ済まなかったかもしれないんですよ」

「そりゃあ、寧ろ飾利ちゃんの方だな。野郎の俺なら兎も角、嫁入り前の初春ちゃんに怪我をさせる訳にもいかないしな」

 

 

 『う~っ』と、泣き出しそうな顔をした彼女に苦笑いする。自覚はあるのだろう。

 

 

「大体、どうして、その……私にそんなに親身にしてくれるんですか……」

 

 

 俯き、ポツリと呟いた飾利。その仕草に、一種、危うい感情が沸いた。その衝動のまま――

 

 

「あぁ――――実はさ、飾利ちゃんって……俺の『妹』に似てるんだ」

「いもうと……さん、ですか?」

 

 

 その衝動のまま、頭を撫でる。短めの黒髪は更々と心地好く、癖になりそうだった。

 

 

「ああ、今は遠いところに居るんだ。だから、尚更ね……飾利ちゃんは、護ってあげたいんだ」

「あうあう…………」

 

 

 照れたような、しかし何故か残念そうに身を引いた飾利に、やり過ぎたかと手を引く。そして────

 

 

「……なぁ、飾利ちゃん。飾利ちゃんってさ、『能力(スキル)を無効化する能力(スキル)』って聞いた事ある?」

「えっ……? い、いえ……ありませんし、そんな能力有るんですか?」

「ハハ、俺も聞いた事無い」

 

 

 カラカラと笑い、その『現場』を見詰める。何でも無い風を装いながら、その実――――戦慄しつつ。

 

 

「後で、書庫(バンク)でも覗いてみるかな」

 

 

 あの少年が立っていた地点から後方に、『爆発が無力化された』ような形跡を残した現場を望みながら……。

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 その後、風邪がぶり返し気味の飾利を涙子に任せて現場の調査に当たる。

 今回、犯人として警備員《アンチスキル》に拘束された少年は、黒子からの情報によれば『介旅(かいたび) 初矢(はつや)』という――――『異能力者(レベル2)』の少年だったとの事。

 

 

――あれで異能力(レベル2)……? なら、俺も今ごろ大能力(レベル4)の仲間入りだぜ。

 

 

 スプーン一本のアルミでフロア一つを焼く威力、それで異能力ならば、超能力(レベル5)の美琴などは地磁気を操って自転を止めるとかで、地球上の生命全てを滅ぼす事も訳無いだろう。

 だが実際、幾ら美琴でもそんな事は出来まい。出来ないし、出来たとしてもやるまい。何の意味もないから。

 

 

「……破壊力だけなら、完全に大能力なんだけどな。強度(レベル)を誤魔化してたのか?」

「可能性としては、それが一番有り得ますけれど……周りから聞いた話では、どうも彼は陰湿なイジメを受けていたらしいんですの。それならば、これだけの能力は隠すよりも誇示した方が」

「イジメはなくなるよなぁ、趣味でもない限り。携帯とか、財布の一円玉が大爆発なんて勘弁だし」

 

 

 警備員が施した『立入禁止(キープアウト)』のテープの内側で、黒子と並び立ったまま首を傾げる。どう考えても、腑に落ちないのだ。この事件は。

 因みに、この事件よりも頭を悩ませているのが、黒子との接し方だ。日に二度も怒られたのだから、素直に隣に立って良いものかと。

 

 

「「……その」」

「「な、何か?」」

 

 

 と、同時に切り出してしまう。そして同時に聞き返した。何とも言えない気まずさに、ついっと二人して視線を反らして。

 

 

「……初春の事、ありがとうございますの。あの娘が怪我をしなくて済んだのは、対馬さんが庇って下さったからだと」

「あぁ――いや、そんな大した事じゃないよ。それしかできない状態なんだから、それをやっただけ」

 

 

 第一、後でこの威力を見て寒気がしたものである。どう考えても、あの『能力を無効化する男子生徒』が居なければ、今頃は集中治療室(ICU)だ。

 何とも締まらない話である。要するに、ヒーロー気取りで出てきた脇役が本物のヒーローに救われた挙げ句、手柄を譲られたのだ。

 

 

「……それでも、友人として礼を言わせて下さいな。それと……年下の分際で、生意気を申した事も……併せて謝りますの」

「白井ちゃん……」

 

 

 それでも、甘んじよう。それでも……ただ、己が苦しめばいいだけの問題ならば。暴き立ててまで正論を貫いたところで、誰に、何の得があろうか。

 そのはにかんだような微かな笑顔。それだけで十分、報われている筈だ。否、過ぎた幸福である。

 

 

「実は、この事件だけではありませんの。最近、どうも書庫(バンク)のデータと実際の強度が合っていない犯罪者が散見されていますの」

「登録ミスか、組織的な改竄……現実的じゃないか。預かり知らないところで物事が進んでんのは、何て言うか……気に入らないな」

 

 

 と、空調(エアコン)が壊れた室内の熱の所為か。はたまた、悩みを一度に抱えた所為か。黒子の笑顔に知らず、浮わついたか。

 苛々する悩み事を抱えた時の癖で、少し前の銀行強盗から奪った煙草(せんりひん)を銜えて安ライターで火を点した。

 

 

「――――フゥ」

 

 

 肺腑一杯に広がったニコチンとタールの混じる香気を味わい、燻らせる。少しは、気が紛れた気がした。

 

 

「って……対馬さん、貴男?!」

「え? あ――」

 

 

 しまった、と気付いて携帯灰皿に煙草をぶち込んだ――時には、もう遅い。ばっちりと目撃した黒子は、呆れた眼差しでこちらを見ている。

 

 

「あ、アハハ……いゃあ、若気の至りと言いますか――――イダッ?!」

 

 

 その瞬間、頭に雷でも墜ちたかのような衝撃。それが、真っ直ぐに脊髄を駆け抜けた。

 要するに、物凄く痛かった。

 

 

「よ~う、誰かと思えばラッキーボーイじゃんよ。相変わらず、更正には程遠いみたいじゃん?」

「お久しぶり、対馬くん。そっか、もう夏かぁ……」

「よ、黄泉川(よみがわ)さん……お久しぶりっす……後、人を蝉か蛍みたく言わないで下さいよ、鉄装(てっそう)さん」

 

 

 ヘルメットで嚆矢をぶん殴った、警察の機動部隊のような衣裳に身を包んだショートヘアーの女性『黄泉川(よみがわ) 愛穂(まなほ)』と、三つ編みにメガネの女性『鉄装(てっそう) 綴里(つづり)』に向き直る。

 彼女達は、『警備員(アンチスキル)』の隊員……そして、学校の教師である。つまりは。

 

 

「じゃあ、没収ね」

「……はい」

 

 

 優しく微笑みながら、ゴツい手袋に包まれた手を差し出した綴里に、逆らわず煙草を渡した。

 綴里だけなら何とか(だま)くらかせもしようが、兎も角、その隣の女性に関しては逆らっても無駄だ。

 

 

――何しろ今年の年始、ある無能力者(レベル0)の(とは言え明らかに喧嘩慣れした、『無能力者を甚振(いたぶ)る、思い上がった能力者』を倒す事に特化した)一団を偶然二人で相手にした事があったんだが、ほぼ一人で、しかも『武器を使わず』に制圧した使い手だからな。

 戦慄したね、しかも笑ってたし。この人だけには逆らうまい。

 

 

 と、無線が入ったらしく二人が『了解』と、口々に言葉を返す。

 

 

「それじゃあ、あっちでお話ししましょうか」

「え? いえ、もう罰ならこの脳天に直撃……」

「『両手に花』って奴じゃん? よかったじゃんよ、男の夢だろ?」

 

 

 そして、愛穂と綴里に左右からガッチリホールドされた。『両手に花』というか、完璧に『連行される宇宙人』の図である。

 

 

「じゃあ、彼氏は借りてくじゃんよ、彼女?」

「彼氏ではありませんの! まぁそれはそれとして、コッテリと絞って下さいませね」

「白井ちゃぁぁぁぁぁん!? この人にそういう冗談通じないから! マジで、汗一滴出ないレベルに絞られるから!」

 

 

 ずりずりと引き摺られていく嚆矢の姿は、周囲の風紀委員(ジャッジメント)警備員(アンチスキル)達に遠巻きに忍び笑われていた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 翠の銀毛の少女は、人混みに紛れていた。『木を隠すなら森の中』の格言の通り、その姿を最大限に利用して。

 

 

「……臭い。鼻が曲がりそうだよ。人間はよくもまぁ、こんな悪臭の中で生きてられるよね」

 

 

 黄色い外套の、首部分。中東の物のようなそれを、マスクのようにきつく鼻と口を覆って、不快そうに眉を潜めていた。

 辺りには、化学薬品や金属の焼ける臭いと言った、彼女には縁遠い臭気が満ちている。無論、彼女にしか嗅ぎ取り得ぬ臭いではあるが。

 

 

 それが、歩き出す。ひらひらと、人並みをすり抜けるように。まるで、涼やかな風が森の木々の間を吹き抜けるように。

 

 

 彼女が通り抜けた刹那、その周囲の者は一様に辺りの匂いを嗅ぐ。本能に刻まれた原始の記憶だろうか。

 遥かな太古の郷愁を誘う、朝露に濡れた若葉を揺らした風の薫りに。

 

 

「_______」

 

 

 だがそれも、人いきれに呑み込まれるほどに小さな声で彼女が何かを呟いた瞬間に消えた。()()姿()()()

 そしてその姿は、人通りの無い非常口の付近に唐突に現れた。いや、人ならば今しがた一人――『ツンツン頭の少年』が通って行った直後だが。

 

 

「さて、あの蛆虫の臭いは……っと」

 

 

 『この中か』、と扉に手を掛けた。オーソドックスな観音扉、押しても引いても開くそこに、鋭い鈎爪の指を掛けて。

 

 

「――って、スカシてんじゃねぇーー!」

「うひゃあ!?」

 

 

 正にその直後、屋内から響いた怒声に、彼女は電気に触れたかのように跳ね跳んだ。

 それはもう、車道の反対側の歩道の、街路樹の天辺まで。

 

 

 そして、ガラス張りの扉の中を伺う。見れば、そこには――狂ったかのように壁を蹴たぐる少女の姿があった。

 

 

「なんだい、あれ……やっぱり野蛮な種族だなぁ、人間は。それとも、ユゴスからの毒風でも浴びたのかな?」

 

 

 呆れたように視線を外す。その代わり、落とした視線には――走り抜けた一台の車。黒塗りの装甲車だった。

 

 

「はい――――見っけ」

 

 

 舌舐めずりの後、彼女は――――その車の、天板を目指して飛び出したのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 ふう、と溜め息を吐く。気分は最悪である。放課後の、受かれていた自分を本気でぶん殴ってやりたい気分だ。

 綴里の運転する車――装甲車に乗せられ、隣には愛穂。一面だけでも楚歌である。尚、『妖蛆の秘密』は助手席の彼の鞄の中。『星の吸血鬼』は、既に送還してある。あんなものはいつまでも隣に置いておくべきではない。

 

 

「あの、流石に俺、連行されるくらい悪い事はしてないかと」

 

 

 その筈である。喫煙なら、口頭で注意くらいが妥当ではなかろうか。

 

 

「ハハ、心配しなくても良いって。元々そういう立場じゃん、お前は」

「まぁ、そうですけど……あそこまであからさまだと、不審に思われるんじゃないかと」

 

 

 と、窓に頬杖を付いたところで、ガタンと車が揺れた。赤みがかってきた陽射しに、蜂蜜の瞳が橙に潤む。

 

 

「今回、新しい『任務』が決まったのよ。まぁ、私としては……()()『学生』の君にはやらせたくないんだけど……」

「今更ですよ、鉄装さん。俺も綺麗な人間じゃありませんから――今更、非合法の一つや二つ」

 

 

 ナハハ、と自虐めいて笑う。それに、愛穂と綴里は寧ろ厳しい表情を見せた。教師として、先達として。

 

 

「それが、暗部への潜入でも?」

 

 

 夕陽を跳ね返す綴里の眼鏡、その奥の真意は読めない。だが――

 

 

「ダブルどころかトリプルかぁ、そりゃあいい。風紀委員(アウェー)から暗部(ホーム)にただいまだ」

 

 

 『何でも無い』とばかりに、嚆矢はにへら、と笑った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18.July・Night:『The Planet Wind』

 

 

 日の落ちた逢魔の刻限、やっと警備員第七十三支部を後にする。因みに私服姿に着替え済み。何故ならスクーターは学園近くの為、かなりの距離を歩く事となったからだ。

 しかし、今はその方が都合がいい。歩く距離が長い方が、『昔の勘』を取り戻せる気がした。

 

 

――学園都市の暗部への潜入、か。

 

 

 戦利品ではなく自前の煙草を取り出して、鉛色のオイルタンクライターで火を点す。

 肺に貯めた香気を吐く。紫煙は、ゆるりと夏の宵の生ぬるい空気に融けていく。風の無い不快な夜気の底で、嚆矢は新たな『指令』を反芻する。

 

 

『要するに、治安維持の為に学園都市の暗部で活動する組織の実状を探って欲しいそうじゃん、うちの上層部は。全く、風紀委員(ジャッジメント)にアンタを潜入させた時といい、とことん他所を信用してないんだよ』

 

 

 と、愛穂が辟易した顔で告げた。まぁ、教師である彼女達からすれば、学生の自主性を基礎とした風紀委員に大人が介入する事を是とはしたくないのだろう。

 しかしまぁ、『学生だけで成り立つ組織』等という夢想を信じるのは、世間知らずの学生達か、余程社会常識に反感を持つ大人くらいのモノだ。

 

 

 どんな活動にも資金、そして信頼は不可欠。金も権力もない、未成年の学生風情で出来る事は、大人の庇護の元で、次の子供をどう導くかを学ぶくらいのもの。歴史とは、そうやって繰り返してきたのだ。

 

 

――にしても、暗部か……やだねぇ、折角、明部(こっち)の生活にも慣れてきたところだったのに。

 つーか、俺だけオーバーワーク過ぎじゃね? 警備員、給料なんて()ぇのに……

 

 

 斯く言う嚆矢も、そんな一人。(たま)さか救われ、拾ったその命でも、『他の誰かを救う』事を望むからこそ――

 

 

『行く当てがないなら、家の餓鬼になりゃいい。丁度――』

 

 

 思い返したのは白い部屋、白いベッドの上。風にそよぐ白いカーテンと、頭を覆う白い包帯。

 敗北により存在価値を失った彼を病院に運んだ、ある男の無愛想な仏頂面。その脇には、蛙を思わせる白衣の男。

 

 

『丁度、跡継ぎの男手が欲しかったんだ――』

 

 

 虚ろな蜂蜜の瞳は、天井を見詰めたまま。頭を撫でる武骨な右手に、為されるがままになっていた……。

 

 

「……って、違う違う。何を恥ずかしい事を思い出してんだ、俺は」

 

 

 そこで我に返り、頭を振って記憶を払う。幸いな事に、この薄闇の中ならば、誰にも照れた頬には気付かれなかっただろう。

 

 

「ならねぇぞ、ならねぇ。断じて、鍛冶師なんて時代錯誤なモンにはならねぇ。俺は公務員とか医師とか、そういうモテる仕事に就くんだ!」

 

 

 口に出し、改めて決意する。正直、それで育ててくれた事に感謝はしているのだが、なりたいとまでは思わない。

 その後ろ姿を見詰めて育ったからこそ、そう思った。

 

 

「今はそんな場合じゃないよな……進路は、三学期からで良い」

 

 

 それは、もう少し先に持ち越しの話。今は、兎も角、目の前の問題に集中する。

 

 

――暗部と一口に言っても、一つの組織じゃない。俺が今回潜入する組織は、確か……

 

 

  と、これから『潜入する組織』の名称を思い出そうとした刹那――――

 

 

「ッ――――?!」

 

 

 覚えのある、紙音を孕む生臭い風が吹いた。

 

 

『フン、我ノ存在ヲ忘レタカ、伴侶ヨ』

「おまっ……送還した筈じゃ」

 

 

 そうして、口許を庇った右手にいつの間にか握られていた、ずしりと重い鉄の装丁の魔導書――――『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』を認める。

 

 

『フム、確カニ星ノ吸血鬼(スター・ヴァンパイア)ハ送還サレタ。シカシ、アレハアクマデモ、コノ【妖蛆ノ秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)】ノ意思ヲ体現スル為ノ走狗ニ過ギヌ……クク、ヤハリ気付イテイナカッタヨウダナ?』

「くっ……テメェ」

 

 

 その(ヒル)(ウジ)が吸い付くような感触に、再び寒気が帰って来る。本当に吸血されている訳ではないだろうが、その不快感は、やはり正気を削り取っていく蛞蝓の歯舌のよう。

 落とした煙草が虚空に赤い軌跡を描き、アスファルトに緋の華を散らした。

 

 

『サァ、時ハ来タ。奇蹟ノ代償ヲ果タセ。貴様ノ求メヲ叶エタ我ニ、ソノ生命力ヲ捧ゲヨ。逃ガシハセヌゾ、久方振リノ活キタ血肉ダ――我ガ炉ノ一部トナレ!』

 

 

 禍々しく膨れ上がる、『妖蛆の秘密』の邪気。間違いない、この魔本は術者の『生命力』を欲している。

 それが例え、()()()()()()()()()()()()()なろうとも。

 

 

「――――ぷはっ! やっとあの臭いの片付けたかぁ……全く、さては今のはボクを近付けない為の、新手の旧神の印(エルダー・サイン)かい?」

「『――――?!」』

 

 

 その瞬間、饐え澱んだ空気の中に、一点の清涼な風が吹いた。

 

 

「やれやれ、蛆虫を呼んだんだからどれだけの達人(アデプト)かと思えば……ただのガキんちょじゃんさ。少しは期待したのにさ」

 

 

 背後からの軽やかな足音に動きを止めたのは、嚆矢だけではない。今の今まで蠢いていた『妖蛆の秘密』も、ピタリと。

 

 

「まぁ、いいや。お陰で伯父貴(オジキ)に良い手土産が出来た訳だし――――」

 

 

 まるで、蛇に睨まれた蛙のように。その動きを、止めていた。

 

 

――何だ、コレ……嘘だろ、体が動かねぇ……!?

 

 

 金縛りにでも遭ったかのように、硬直したその体。

 その目の前に現れた黄色の外套の後ろ姿に、破滅を悟る。漠然と、しかし確実に――この存在が、間も無く、何と無しに振り返るその仕草だけで……終わりだと。

 

 

「じゃ――――悪いんだけどさ。ボクも暇じゃないから、早速死んでもらうよ?」

「『――――――――」』

 

 

 そしてそれは、速やかに。翡翠の色味を纏った銀毛の、風に流れる美しい髪と共に、白金の瞳が見据えた――――

 

 

『――――オノレ、写本風情ガァァァァッ!』

 

 

 発狂したかのように、『妖蛆の秘密』が魔力を孕む。嚆矢の手から離れ、無数の蛆を弾丸の如く射ち出し――――

 

 

「――汚ったないなぁ。これだから、カビの生えた原本は」

 

 

 余裕のまま、外套の内から――――

 

 

「――飢える(イア)飢える(イア)星を渡る風(ハスター)! 汝、『大いなる無銘なりし者(マグナム・イノミナンダム)』!」

 

 

 『H&K USP Match』。制動器(コンペンセイター)照準器(レーザーサイト)を内蔵したカスタム型の、二挺拳銃を抜き放った。

 

 

「遊ぼうか――――蛆虫(ウェルミス)ちゃん? 大いなる一族(グレート・ワンズ)の儀式を記した程度で、『旧き世の支配者達(グレート・オールド・ワン)』に敵うつもりなら、さ?」

 

 

 背面に『クエスチョンマーク』を三つ組み合わせたような魔法陣を浮かべて獰猛に笑い、銃を横に倒した、所謂『馬族撃ち』で放つ銀の娘。その銃弾と砲声は余さず蛆を捉え、空中で汚物の塊に変えて地面の染みと叩き落とした。

 更に踏み込み、肉薄した彼女は銃口を突き付けた。それに、『妖蛆の秘密』は――――

 

 

『グッ……理解シタ。貴様ト我ニハ、埋メヨウノ無イ厳然タル実力差ガアル……』

「へぇ? 脳味噌まで糞尿(シット)舞踏(ダンス)してる割には、物分かりが良いみたいだね」

 

 

 嘲るように、降伏を受け入れた娘。くるくると回転させながら、その二挺拳銃を両腰のホルスターに仕舞った。

 

 

『――デアレバコソ、我ガ信念……奇襲ハ生キルノダ!』

 

 

 その背に向けて放たれた、蛆と蝿、臓物の触手。最早、躱しようのないそれを――――

 

 

飢える(イア)飢える(イア)無銘なる者(ハストゥール)……」

『ナン――ダト!?』

 

 

 右手に番えた『トーラス・ザ・ジャッジ』――――生半可な切り詰め銃身(ソゥドオフ)よりも殺傷範囲が広い、散弾拳銃の五連撃が全て挽肉(ミンチ)に変えて。

 

 

喰らえ(アイ)喰らえ(アイ)――――星を渡る風(ハスター)!」

『ギ――――ギャァァァァァァ!?』

 

 

 左手の『コンテンダー・アンコール』のライフル弾により、『妖蛆の秘密』を粉微塵と打ち砕いた。

 

 

「……汚い花火だ、ってね。やれやれだ、自殺志願者ほど救えないものはないよ」

 

 

 颶風と共に、再び拳銃を腰のホルスターに戻した彼女。全てを俯瞰するように、砕け散った『妖蛆の秘密』の紙片を踏みつけて。

 

 

「コレ以外は逃げられた、か……流石に、此処まで生き残った原本だ。簡単には消滅しないか」

 

 

 明らかに『書物』としては少ない破片に、初めて評価するように呟いた。

 

 

「――――――――」

 

 

 それを、至近距離の特等席で見守らされた嚆矢。生きた心地など皆無、いつ殺されても止む無しと穿った決意までしかけた程。

 渇き、張り付いた喉。他の、人外の主人公ならば、何か気の利いた事くらい言うだろう一場面。

 

 

「――――――――」

 

 

 そこで、彼は何一つ言葉を話す事も出来ずに震える。否、出来る方がどうにかしている。『無駄口を叩けば即死』の段で、意見するなど。

 

 

「へん、情けない奴……お前みたいな臆病者(チキン)、殺してやるまでもない」

 

 

 それを冷めきった眼差しで見詰めた後、娘は踵を返す。その掌に、()()()()()()()()()紙片を握って。

 

 

「じゃあな、人間……もう二度と、あんなものに手を出さないで生きるように心掛けなよ。ボクに殺されたくなかったら、ね」

 

 

 少しでも反骨の意思があれば殺す筈だった、呆気と怖気に囚われたままの嚆矢を他所に、逢魔の刻の宵闇に消えていったのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 白髪の男は、ホテルの一室でそれを待ち侘びていた。安いホテルらしく窮屈な浴槽に身を収め、サングラスのまま頭上からのシャワーを浴びながら。

 そこに、開け放していた窓から一陣の風が吹いた。

 

 

「……帰ったか、放蕩娘(クソガキ)

「だっ、誰がガキだよ、伯父貴(オジキ)!」

 

 

 頭から熱湯を浴びながらの軽口に、もうもうと立ち込める湯気。それを背景に、壮年の男性は湯船から身を起こす。

 

 

「俺の命令に逆らう奴ァ、全部が放蕩子(クソガキ)だ。クロウと言い、テメェと言い……また勝手に魔導書に関わりやがって。口で糞吐かされねぇとわからねぇか?」

 

 

 浅黒く、筋骨隆々のその体躯。間違いなく西洋の血のもたらす恩恵には、しかし弛まぬ修練の跡が見える。

 それに娘は、目に見えて焦りだした。まるで、苦手な上司に成果の報告をする時のように。

 

 

「うっ……で、でもさ、伯父貴! ボク、『妖蛆の秘密』の頁を一枚、手に入れてきたんだよ?」

「ほぉ、『妖蛆の秘密』ねぇ……」

 

 

 差し出された頁を、毟るように手にした彼。そして――

 

 

「ハッ、『遼丹(リャオタン)』の製造法……下らねぇ。猟犬にケツ追っ掛けられるだけだ」

「ああ~~っ!? な、何すんだよ伯父貴! 折角、手に入れた永遠の命を!」

 

 

 シャワーに浸して破り捨てた『永遠の命を与える』とか言う中国の神仙の秘術(チャイニーズ・マジック)の滅びを目の当たりにしながら、彼は――――

 

 

「で、『妖蛆の秘密』の持ち主を殺さなかったのはなんでだ、放蕩娘?」

「え――――?」

 

 

 そこで、生まれて初めての問いを受けた。彼女は、一連の自らの行動を思い返す。そうして、初めて『異物』の存在に気付いたのだ。

 

 

「いや、おかしいよ……だって、そんなの――――アイツ?!」

 

 

 そう、あり得ない。敵と、一度断じた相手を見過ごすなど。その事実に気付いた瞬間、彼女は『狩人』の顔を取り戻した。

 

 

「――――――狩る、次は、必ず」

 

 

 本来のあり方を取り戻した彼女には、最早悪鬼の表情をもって。

 

 

「次こそ、次こそは!」

 

 

 口惜しそうにそう呟いた彼女を、男性の苦笑いと宵の闇が包んでいた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 客の無い店内で、男性はコーヒーカップを磨いていた。しっとりとしたブルースを奏でる年代物の金色の蓄音機、ブラインドの降りた窓からは銀色の月影が投げ掛けられている。

 

 

「……さて、今日はそろそろ店じまいですかね」

 

 

 男性がそう口にした、その刹那。勢いよく扉が開いて、人影が飛び込んで来る。それを驚きの欠片すら見せず、男性はニヒルな笑顔で彼を迎え入れた。

 

 

「やぁ、コウジくん。今日も良い豆が入ってますよ」

「ハアッ、ハアッ……ローズ、さん……」

 

 

 アンブローゼス=デクスターは、此処まで一休みすらせずに走ってきた、汗だくで息を切らせた嚆矢を。

 

 

………………

…………

……

 

 

 先程起きた事の全てを話し終え、嚆矢は珈琲を啜る。深炒りによる奥深い苦味とコクが、僅かに落ち着きを与えてくれる。

 そんな彼に、アンブローゼスは心底の謝意と共に頭を下げた。

 

 

「――こんな事に巻き込んでしまって、誠に申し訳無い。信頼していた入荷元だったのですが……どうやら、信頼しすぎて隠匿されていた『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』の頁を見逃していたようです」

「いえ、まぁ、死ぬかと思いましたけど何とか生きてますから……あんまり気にしないで下さい」

 

 

 端正な美貌を慚愧の念に歪めたアンブローゼスに、嚆矢は苦笑いを返す。

 

 

「にしても、聞きしに勝るヤバさの代物ですね、『魔導書(グリモワール)』って……」

「物にも依ります。大体は只の魔力炉のようなものですが、今回の『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』のような『原本』は自我すら持ちうる。しかも、並大抵の事では不滅ですからね……」

「不滅……じゃあ、もしかして」

「はい、恐らく……()()()()()()。君とかの魔本が存在している限り、近い内に」

 

 

 慄然たる思いで、その言葉を受け止める。あんな、正気を失いそうな化け物に魅入られてしまったなどと。

 

「……それにしても、『妖蛆の秘密』を知っていた修道女と女銃士(カウガール)ですか」

「何か、知ってるんですか?」

 

 

 思案するアンブローズに、嚆矢は水を向ける。しかし、魔導師は曖昧に笑っただけ。

 

 

「前者については、噂くらいは。何でも、『イギリス清教のとある部門必要悪の教会(ネセサリウス)には、全ての禁書を暗記して行使する――――禁書目録(インデックス)なる修道女が居る』という噂がありまして」

「『必要悪の教会(ネセサリウス)』に、『禁書目録(インデックス)』……」

 

 

 全く知らない単語を、記憶に刻む。正直、イギリスと言う国はエリン出身の義母の『最高級料理がフィッシュ&チップス』や『世界規模の侵略&植民地支配&奴隷売買の三冠女王国家』などの消極的宣伝(ネガティブキャンペーン)により、あまり良い印象はない国だが。

 

 

「眉唾物ですけどね。そもそも、あんなものを数万冊も読んで――――正気が保てると思いますか?」

 

 

 言われてみればその通りだ、と納得する。只の一冊、『妖蛆の秘密』だけでも、底無しの狂気に飲み込まれそうな程の邪悪である。

 あんなものを複数目に通すなど、あんなぽややんとした少女で耐えられるものか、と。

 

 

「話が脱線しましたね。今は、君を『妖蛆の秘密』から守る方法を考えなければいけませんでした」

「ですね、割と切実に助けて欲しいです……」

 

 

 折角の現実逃避から引き戻され、がくりと肩を落とす。思い返すのは、かの魔本ののたうつ不快な手触りと饐えきった生臭い腐敗臭。

 もう一度出くわせば、今度こそは狂える自信がある。都合の良い助けなど、もう現れはしないだろう。

 

 

「ふむ……そうですね、では、コレなど如何でしょうか」

「なんです、コレ……懐中時計?」

 

 

 差し出された、銀色の鍵を模したデザインの懐中時計。開かれている蓋、その内には――七つの支柱に固定された、紅い線の走る、黒い不揃いな切り出しの多面体。

 何の宝石かも分かりはしないが、その妖しい魅力は嚆矢の目を強く惹き寄せた。

 

 

「『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』と言いまして……古代エジプトのネフレン=カ王の時代の御守りのようなものです。この石を見せている間は、余程のモノでもなければ近寄る事も出来ないらしいですよ」

 

 

 その言葉に、偽りはないと何故か信じられる。それ程のモノだ、コレは。無条件で腑に落ちたその感慨に、ロケットに手を伸ばす。触れた銀の質感は、何故かしっとりと有機質だった。

 

 

「――――――――!」

 

 

 その刹那、悪夢を見た。響く横笛(フルート)の、か細く呪われた単調な音色。くぐもった太鼓の、狂える下劣な連打。

 それに合わせて無意味に踊る、■■どもの吐き気を催す輪舞。それを唯一の無聊とする、沸騰する混沌の玉座の只中に、退屈と飢餓に悶え、冒涜の言辞を撒き散らす盲目白痴の――――

 

 

「――――止めておきなさい。それ以上を見れば、最早戻ってはこれませんよ?」

「――――ッ!」

 

 

 強く肩を叩かれ、漸く正気を取り戻す。気が付けば、冷や汗と震えに夏の夜気等は遠く逃げ去っていた。

 比較にすらならない。あんな駄本程度、ここから覗いたモノの、どれにも及ばない。

 

 

「今、君が見た通り……そこから見える風景に在る『者共』の為に、この世にある程度の存在であれば近付く事すら容易ではありません。それで、『妖蛆の秘密』が諦めるまで持ち応えてください」

「結局、我慢比べっすか……まぁ、得意技ですけどね」

 

 

 すっかり冷めた珈琲を啜り、辛うじて人心地付いた。どうにか、安心とまでは行かずとも納得出来る対処が望めたのだから。

 となれば、後の懸念は只一つ。

 

 

「で、こうなったからには件の錬金術の教書は勿論、タダで戴けるんですよね?」

「やれやれ……先日の台詞、そのままお返ししますよ」

 

 

 苦笑したアンブローゼスが、カウンターの上に三冊の本を置いた。

 

 

「右から、『錬金の鍵(クラヴィス・アルキミエ)』に『賢者の石(デ・ラビデ・フイロゾフイコ)』……そして、最後の一冊だけは君に紐解いて欲しい」

「今度は呪われてませんよね?」

「私が直接確かめてあります。最後の一冊は、私には再現不能な術式だったので不明ですが」

 

 

 渡された三冊を念入りに見るが、邪悪さなどは見受けられない。否、中身を吟味するまでは『妖蛆の秘密』だってそうだったのだから、気は抜けないが。

 それより、何より――――アンブローゼスにすら再現不能な術式とは何か。その方に、嚆矢は寧ろ興味を惹かれた。

 

 

「……良い目です。それでこそ、私の弟子だ。しかし、こんな人外の境地に足を踏み入れてまで、君が成したい事はなんです?」

 

 

 目の色を変えた弟子に、魔導師は笑い掛ける。黄金の蜂蜜の瞳は爛々と、燃え盛るような紅玉の瞳を見詰め返して。

 

 

「勝たなきゃいけない相手がいますから。訳の分からない強さのソイツに勝つには、こっちだって、訳の分からないくらい――努力しないと」

 

 

 悪辣に微笑み返す。脳裏には、只一人――――彼の知る内、最も強いその後ろ姿。

 

 

第七位(ナンバーセブン)に勝つ為に、俺は――――他の誰より、努力しないと」

 

 

 決意を新たに、琥珀色の満月を見上げた――――。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2章・chapterⅠ 幻想御手事件/Foundation
七月二十日:『千里の道も一歩から』


 

 

 目を醒まして、先ず感じたのは最悪な悪夢の残滓。窮極の宇宙の神苑(しんえん)、混沌の玉座の只中。辺りに響く横笛の呪われた音色に、太鼓の狂った連打。痴れ踊る雑多な■■共に囲まれ、意味の分からない冒涜の言辞を撒き散らす――その■■■(■■■■■■)に抱かれるように。

 

 

――考えるな。考えれば、死ぬ。理解すれば、間違いなく心が死ぬ。

 醒めるまで耐えろ。理解せずに、思考せずに。

 

 

 後少し、ピントが合えば。彼の自我など霧か霞の如く霧散する。沙漠に降る、雨と同じ。

 気紛れに、天壌無窮の()()()()の遊び心に、たまたま抱かれているだけ。地を這う虫けらに、たまに気を引かれるように。

 

 

百分の一(サイアク)なんてモンじゃねェ……百分の零(ジゴク)だぜ」

 

 

 その全てを意識の外に振り払い、呟く。昨日は錬金術の修練に費やして翌日朝まで貫徹、終業式で大変な事になった。なのでたっぷり八時間休眠を摂ったのに、寧ろ疲れが増した程だ。

 今日は海の日なので、配達が無いのがせめてもの救いである。

 

 

「……今日から夏休みだし。九時からは、飾利ちゃんと白井ちゃんと一緒に活動だし……上手くいけば、今年の夏こそは『ドキッ! 野郎だらけの虚しい夏』を回避できるかもだし……両手に花とか男の夢だし」

 

 

 等と、カーテンを開いて群青菫(アイオライト)に染まり始めた夜明けの空を眺める。その風景とは似ても似つかない、汚れた心持ちで。因みに、そんな事を考えるから友人二人からはロリコン呼ばわりされるのである。

 手元には、『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』。アンブローゼスによれば、それは『中の宝石を露出している間』だけ効果を発揮する物、らしい。

 

 

 『ならば、いっその事懐中時計の蓋を閉じてしまおうか』と、一瞬だけ逡巡して。

 

 

――止めとこう。閉じた瞬間に『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』に襲われるとか嫌だし。

 

 

 そう結論付け、閉じないように気を付けて――その可動部に魔力を流す。無論、『制空権域(アトモスフィア)』で反動は最小に。今回は、タンスの角に小指をフルスイングしたレベルの頭痛が走った。

 

 

「これで良し、っと。初歩的なもんなら、もうイケるな」

 

 

 何処かの『錬金術士』とは逆に、蓋が閉じないように『錬金術』により結着したのである。

 その後、眠気と寝汗を流す為に風呂に向かう。ともかく、熱い湯を浴びたかったのだった。ちなみに、このメゾン・ノスタルジのトイレと風呂は共用。部屋の外である。

 

 

――さて、風呂浴びたらギリギリまで寝るか……。

 

 

 と、携帯のアラームを設定し直しつつ着替えを片手に欠伸を噛み殺し、嚆矢は風呂に向かった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 支度を終えて階段を降りたところで、掃き掃除をしている和服に割烹着の後ろ姿を見付ける。

 

 

「おはようございます、撫子さん」

「あら、お早う御座います、嚆矢くん」

 

 

 挨拶すれば、態々手を止めて朗らかな笑顔と挨拶を返してくれる。それだけで、今日も一日頑張れる気がした。

 

 

「そうだ、嚆矢くん。昨日の夜、停電があったんだけど大丈夫だった?」

「あ、昨日は早目に寝たんで分かりませんでしたよ」

「だから返事がなかったのね……それにしても、たまには織姫一号の予報も外れるみたいね」

 

 

 全く気付かなかった昨夜の出来事、その万分の一以下の出来事を見逃したのかと思うと少し残念な気分になる。

 と、撫子の視線が嚆矢の胸元に落ちる。そこには、いつものラビッツフットと――

 

 

「あら、アクセサリー、増やしたのね? なかなか素敵な懐中時計じゃない」

「あ――あはは、そんなに良いものじゃありませんよ」

 

 

 『寧ろ最低最悪の部類と言うか』と言いかけて止める。別に止められてはいないが、一般人に魔術の域を垣間でも見せるのは、嚆矢としては好ましくないと考えているが故に。無論、時と場合によるが。

 

 

「じゃあ、行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」

 

 

 腕の腕章を確かめながら、笑顔に送り出される。その道すがら、いつも通りに缶珈琲を買い、ルーレットを当てる。

 今日もまた、いつもと変わらない。平穏な、実に穏やかな始まりであった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 薬品の臭いが鼻を衝く。この病院と言う場所は生来苦手な場所だが、今日は昨日の落雷により冷房が使えないらしく、更に蒸し暑さまで加わり最悪の気分だった。

 そんな場所に、何故居るのか。単純な話だ。

 

 

「チッ……何が悲しくて、野郎の診察待ちなんてしてんのかね、俺は」

 

 

 吹き出す汗を拭いつつ、愚痴る。というのも、『虚空爆破(グラビトン)事件』の犯人、介旅初矢が取り調べ中に昏倒したからである。

 

 

――何でも、今朝いきなりらしい。しかも、落雷で連絡網が寸断されて俺の携帯までは回って来てなかったっぽい。いつも『巨乳』ティーシャツを着てるおむすびくん(仮名)に謝られた。

 何せ、支部に顔を出したらいきなり、この『水穂機構病院に行け』と交通誘導に行くみーちゃんに追い払われたからな……。

 

 

 じわじわと、拭いても汗は滲み出てくる。こんな陽気でとは、運命とはかくも残酷である。これなら、風の吹く屋外の方が幾らかマシだろう。

 『朝っぱらから一人でなにやってるんだろう』とか『今ごろ、空想上の生物・リア充さんは彼女とプールででもキャッキャウフフしてるんだろうな』と不貞腐れつつ、腕組して窓の外の日盛りを眺める。

 飛び乗った飛蝗が熱そうにピョンと跳ね退いた、白いタイルが怨めしかった。

 

 

「こちらですの、お姉様」

「わかった、わかったから……うう、眠い……」

「ん――よっ、白井ちゃん、御坂」

 

 

 と、そこに空間移動(テレポート)で現れた黒子と美琴。そんな二人に、努めて朗らかに嚆矢は挨拶した。

 

 

「……では、主治医の方にお話を伺いますの。お姉様、行きましょうか」

「あー……あたしはパス。ここで待ってるわ」

「そうですか、では私だけで行って参りますの」

 

 

 美琴の言葉に、『じゃあ白井ちゃん、一緒に行こうか』の言葉を発しかけたままで嚆矢は押し黙った。ここまで徹底的な牽制を受けては仕方在るまい。そこまで空気が読めなくはない嚆矢であった。

 その黒子が通路の奥に消えた後、美琴が側に寄ってきた。

 

 

「ちょっと、対馬さん。黒子と何かあったんですか?」

「う~ん、やっぱり目の前で、ちょっとした風紀違反をしたせいかな」

 

 

 苦笑しながら、面白そうに詰め寄ってきた美琴に答えた。流石に喫煙した、とまでは言わないが。

 

 

「お願いしますよ、対馬さ~ん。応援してるんですから。もしも黒子が対馬さんとくっついたりすれば、私の肩の荷が下りるんだし」

「それが本音か……けどまぁ、天地八卦を返しでもしなきゃ、それはないなぁ……」

 

 

 近くの自販機でジュースでも奢ろうと近寄る。流石に自販機は災害時用の電池内蔵型、冷たいジュースが出てきた。それを投げ渡すと、美琴は健康的な笑顔を見せてくれた。

 

 

「しかし、『幻想御手(レベルアッパー)』……だっけか? 『使用すれば能力の強度が上がる』なんて胡散臭いもの、実在したなんてな」

「ですねぇ、頼りたくなる奴らの気が知れませんけど」

 

 

 それが今、風紀委員が追っているものである。最近、急にネット上で有名になった『プログラム』。

 どういったものかは不明だが、件の爆弾魔もそれを使っていたらしい。そして、散見される『書庫のデータと実際の能力値が噛み合わない事件』との繋がりも睨まれている物だ。

 

 

「まぁ、御坂には解らないだろうなぁ……努力で何とかしちまったわけだし。けど、『努力の芽』も見えない奴らからすれば、喉から手が出る程欲しいもんだろうよ」

「そこが分かんないんですよ。だって、『自分だけの現実(パーソナルリアリティ)』に他人のデータを取り込むなんて、気持ち悪いじゃないですか」

「ハハ、まぁそりゃあな。俺もゴメンだわ、俺は俺だし」

 

 

 珈琲を啜りながらの賛同に、『でしょ?』とジュースに桜色の唇を付ける。元が良いだけに、それだけでも絵になるのが御坂美琴である。

 だからか、今日は――目の下の、僅かな隈が目立った。

 

 

「寝不足か?」

「えっ? あ、まあ、ちょっと野暮用で……」

 

 

 問えば、何かを思い出したのか――凄く嫌そうな顔をした後、有耶無耶にするように笑った。

 

 

――ほ~、こりゃあビンゴかな。

 

 

「そうかそうか、なるほどなるほど」

「……対馬さん。何ですか、その腹立つ笑顔?」

 

 

 なので、少しさっきの意趣返しと洒落こむ事にした。

 

 

「いやぁ、妙齢の女子が夜も眠れなくなるなんて……やっぱり御坂もお年頃だな。心配してたんだぜ、もしかして白井ちゃんと同じ趣味なんじゃないかと」

 

 

 亜麻色の髪を軽く掻きながら、捕らえた獲物を溶かす食虫植物の溶解液のように濃密な蜂蜜色の瞳で美琴を見遣る。

 嚆矢が発したその言葉は、美琴の鼓膜を揺らし、その脳裏に……ある人物の姿を想起させた。

 

 

「なっ――バカ言ってんじゃないですよ! 昨日はちょっと、あの天災(バカ)野郎のせいで一晩中……」

 

 

 と、そこで彼女は、院内で大声を出すというマナー違反に気付いて言葉を切る。因みに、最悪の部位での尻切れ蜻蛉だ。

 

 

「あ~、そっちの意味で寝不足だったのか!」

 

 

 等と、嚆矢が悪ノリした程に。

 

 

「…………っ」

 

 

 後に、近くにいた患者は語る。『ブチッて音が、リアルに聞こえましたよ。ええ、比喩でもなんでもなく。ええ、一撃でしたよ。あれはもう、電気ショックとかそんなレベルじゃあなかったんじゃないかな……治療とかしても、もう無駄なくらいに黒こげでしたよ』と。

 超能力者(レベル5)をおちょくるのは命懸けだと再認識した、蝉の煩い夏休み初日の午前だった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 美琴の前に黒子が戻って来たのと、その女性が現れたのはほぼ同時だった。

 

 

木山 春生(きやま はるみ)だ、大脳生理学を研究している」

 

 

 ワイシャツにタイトスカート、白衣といういかにもな服装の、目の下の隈が酷い女性は気怠げに自己紹介した。要するに、今回の件での診察に当たっている学者だ。

 黒子と美琴が答えると、春生は少し驚いた顔をした。学園都市にたった七人しかいない超能力者(レベル5)の名は、案外に売れている為だ。

 

 

「あの第三位、『超電磁砲(レールガン)』と会えるとは光栄だ。ところで……」

 

 

 と、蒸し暑い室内に薄く汗をかいた春生が廊下の隅っこを眺めて。

 

 

「あそこに転がっている消し炭はなんなんだ?」

「ああ、ただの未元物質(ダークマター)ですから気にしないでください」

第二位(ホンモノ)に謝れ御坂……ケホッ、風紀委員の、その第三位のMAX二億ボルト放電(ヴァーリ)に耐えきった対馬嚆矢です」

 

 

 黒焦げで転がっていた嚆矢がフラフラと立ち上がって自己紹介するも、『そうか』の一言で終わる。美琴とは違い、掃いて捨てるくらい異能力者風情で名が売れている者などは居ない。

 ある意味、今回の事件で『介旅初矢』等は名が売れたかもしれないが。

 

 

「あれ、対馬先輩……?」

「ん――おお、蘇峰。何してんだ、こんなとこで?」

 

 

 背後からの声に振り向けば、そこに立っていたのは白皙の美少年。嚆矢の後輩の合気道部主将である蘇峰古都である。

 夏休みだと言うのに学生服に身を包んだ彼は、やはり汗を拭っていた。

 

 

「停電があったので、此処に入院している祖母の事が気になって……対馬先輩は、風紀委員の活動ですか?」

「おぅ、『虚空爆破(グラビトン)事件』ってあったろ? あの犯人が倒れてな、もしかしたら『幻想(レベル)――――」

「――対馬さん!」

 

 

 百五十に満たない小柄な古都と百八十前半の嚆矢が並び立てば、差は歴然だ。否、今はそんな事はどうでもいい。問題は、つかつかと詰め寄ってきた黒子だ。

 

 

「部外者に事件の情報を漏らすなんて、何事ですの! 全く、貴方には風紀委員としての自覚が足りませんわ!」

「うぐっ……ご免なさい」

 

 

 至極当たり前の事を、年下から怒られてしまった。後輩の前で情けないとは思ったが、悪いのは自分。甘んじて受け入れた

 

 

「おい、常盤台の……年上の、しかも男性にその口の聞き方は何だ? 『学舎の園』では、目上の相手への礼儀すら習わないのか?」

「あら――随分と前時代的な事をおっしゃいますのね? 流石、『武の頂』と言われる弐天巌流だけに、生徒は武骨しかいらっしゃらないんですの?」

「前時代的なのはそちらも同じだ、女子だけの共同学舎? 聞こえはいいが、要するに人の半分を排他した隔離病棟だろう、常盤台」

「な、なんですって……!」

「お、落ち着け古都。ほら、ここ病院だぞ?」

「そうよ、黒子。風紀委員が風紀を乱してどうすんのよ」

 

 

 嚆矢を庇うように立った古都が、黒子と舌鋒を交える。大声に自然と衆目が集まり、慌てたのは嚆矢と美琴の二人。

 

 

「と、ところでやだなぁ、対馬さん。さっきの電撃は十万ボルト有るか無いかだし、第一、私のMAXは十億ボルトですよ」

「ちょっとやだこの娘、殺す気満々だし、(ゴッド)の五倍の出力有るよ。誰かゴム人間呼んできてー、金塊も持ってきてー」

 

 

 二人の諫言の間と場を和ませようとする下らない寸劇(コント)の間も、緊張が高まっている。まるで矢を番えて引き絞られた弓の弦のように、今し切れんとする伸びきった護謨のように。

 

 

「第一、これは風紀委員の内輪の問題ですの。部外者はひっこんでいてくださいですの!」

「貴様――!」

 

 

 それが、弾ける。今にも能力者バトルに突入せんとした黒子と古都、その二人を――

 

 

「いい加減にしろって――――!」

「っ――ぐっ?!」

 

 

 少しだけ、表情を強張らせた嚆矢が古都の腕を背中に回して締め上げて。

 

 

「――――言ってんでしょうがーっ!」

「ふぎゃ~~っ?! でも少し嬉しいですのぉ~っ!」

 

 

 キレた美琴が、電撃で黒子をこんがりときつね色に焼く。周りが何事かと、それを眺めていた。

 

 

「――一体何事ですか、騒々しい」

 

 

 そこに響いた、怜悧な女性の声が響く。腹の底からの、強い声だ。

 

 

「忘れ物を持ってきてみれば――何事ですか、と問いました……古都」

「お、お祖母(ばあ)様……」

 

 

 目の前には(かんざし)で髪を結い上げた、藤色の和服の老年の女性。古都から『お祖母様』と呼ばれた女性は、意思の強そうな瞳で古都を射竦めた。

 

 

「何と言う為体(ていたらく)ですか、古都! あれほど、あれほど蘇峰家の末席として強く在れと命じたと言うのに……」

「あっ――ち、違います、お祖母様! これは、その」

 

 

 それが、糾弾に歪んだ。明らかに『負けている』様相の孫に向けて。それは、弁解の余地すら無く。

 

 

「言い訳は結構です。そんな事だから、多寡だか大能力者(レベル4)になった位で自慢気に現れたりするのです――――!」

 

 

 蔑むように、老婦人は何かを足元に投げ渡した。それは――――どうやら、音楽を聴く為の端末機器。

 

 

「頂点に立てと、そう命じた筈です。少なくとも、世間と比べれば矮小なこの学園都市(せかい)の中でくらい――――超能力者(レベル5)にくらいはなりなさい!」

 

 

 吐き捨て、誰も彼もが圧倒された中で、嚆矢を振り払った古都がノロノロと端末機器を拾う。酷く、それは、酷く惨めな姿だった。さながら、日の当たらぬ葉っぱの裏側を這う芋虫(イモムシ)のように。

 

 

「申し訳、ありません……お祖母様」

 

 

 漸くの声に、答えはない。女傑は踵を返し、情けないと断じた孫の前から去っている。

 

 

「…………」

 

 

 何とも言えない気まずさが、場を支配する。一人、また一人と無遠慮な衆人が失せていき――残ったのは嚆矢と古都、美琴と黒子と、春生女史のみ。

 

 

「……先輩」

「ん――ああ、何だ?」

 

 

 俯いた後輩の問い掛けに、努めて語調の抑揚を抑える。何の感情も籠めない事で、全ての言葉に対応できるよう。

 

 

「貴方は――――誰の味方ですか」

「――――――――」

 

 

 悲痛とすら言っていい、古都の問い。それに対する、嚆矢の答えは――――只一つだ。

 

 

「決まってんだろ――――俺は何時でも、女の子の味方だ」

 

 

 言い切った。断言した。彼にとっては――赤枝の騎士団(レッド・ブランチ)の末席たる『対馬 嚆矢』にとっては、『誓約(ゲッシュ)』に裏打ちされた真摯な言葉。

 だが、悲しいかな。それは現状、到底的を得た言葉足り得ず。

 

 

「……ですよね。そうでした。そうだ、僕は――――そんな貴方が、死ぬほど大嫌いだったんだ!」

 

 

 吐き捨て、先程の女傑と同じく歩き去っていく古都の後ろ姿を見送る。確かに、血族であるようだ。

 

 

「……サイッテー」

「……最低ですわ」

「言われなくても」

 

 

 正直すぎる自分を嘲笑いながら、病院を離れていく美琴と黒子、よく分からないままに連れられていく春生。それすらも、軽く見送って。嚆矢は、懐から携帯を取り出してコールした。

 

 

『現在、電話に出ることができません。ご用の方は、ピーと言う発信音のあとに……』

 

 

 繋がったのは、彼女らしい留守電。そこに――

 

 

「やあ、みーちゃん。時間無いから手っ取り早く済ますよ。ワリィんだけど、持病の癪で早退するわ。ち、違うんだからね! 蒸し暑いからとか、そんなんじゃ絶対ないんだからね!」

 

 

 態態(わざわざ)、ツンデレ風な捨て台詞を残して通話を切る。数秒待てば、けたたましく鳴る携帯。画面には、『固法 美偉』の文字。

 それを、ボタンを押して答えた。『電源』ボタンを長押しして――――

 

 

……………………

…………

……

 

 

 久方ぶりの暇な午後、何をしようかと人でごった返す街路を歩く。商店、喫茶店、ブティック、露店商。あらゆる職種が其処に在る。群がる人波は、まるで甘味に集う蟻の如く。

 その中を、無目的に歩く。別段、用事が在った訳ではない。嚆矢は、胡乱な蜂蜜色の瞳をぼんやりと辺りに彷徨わせながら、殉教者の如く歩き続ける。

 

 

「暇だねぇ」

 

 

 そんな事を呟きながら、無駄に人目を引く亜麻色の髪を掻き毟り、欠伸混じりに煙草を取り出した。暇潰しの道具(ツール)を。

 この無為の世界の中で、紫煙(これ)と酒の酩酊だけが、色付く虹なのだと叫ぶように。

 

 

――止めろ、嚆矢。今のお前は、『対馬』だ。その筈だ。

 

 

 本能がそう、警告を鳴らす。思い出したのは、煙を燻らせた己に向けられた――黒子の、冷やかな眼差し。

 辛うじて、理性が働く。別に、本能と理性は背反しない。煙草を諦め、懐に仕舞う。今は、その時ではないと。時間なら、この後に『無限に在る』と。

 

 

「さて、と。そろそろ、頃合いだな」

 

 

 焦燥に導かれるまま、掌を伸ばす。右腕、何の変哲も無い、その、開手の右腕。昔は、望む全てを。それこそ、()()()()すらも掻き掴んだ悪性の右腕。最近は、随分と綺麗になってきたが。

 誰か、預かり知らぬ存在の――――そんな、願いに沿うように。嚆矢は苦笑いを浮かべながら、

 

 

「『仕事《ビズ》』の仕込みと、洒落混むか」

 

 

 今日、夕方に会う予定となっている――――暗部組織の構成員との、繋ぎの為に。仕事とはいえ、頭が痛くなる。元来、煩わしい事は嫌いな性質だ。

 

 

――名前は、昔の『通り名』を使えばいいとして……能力(スキル)だな。無能力者(レベル0)を気取る? 能力者の集団で? 無いな、けど……『確率使い(エンカウンター)』を名乗ったら一発でバレるしなぁ……。

 

 

 頭を悩ませる。それは、喫緊に差し迫っている。確かに分かりにくい能力だが、それだけに目立つ能力だ。

 だから、割り切るしかない。全ては、『仕事』だ。選り好みなどしていられない。

 

 

「あ~あ、ホント、最近ツいてねぇなぁ……」

 

 

 頭の後ろで手を組ながら、悪態を吐く。女の子と後輩からの評判はがた落ち、仕事はやりたくもない内容。辟易する。もういっそ、学園都市なんかとはおさらばしてやろうか、等と。出来もしない、やりもしない事を思って。

 

 

「――――――――」

 

 

 すれ違った、黒髪の少女。それに、目を奪われた。

 何が特別だった訳でもない、何の変哲も無い、強いて言うなら巫女装束なくらいか。表情に乏しい、人形じみた、普通なら気にも留めないような――極々、『普通な』少女だ。

 

 

「っ――――!」

 

 

 そんな少女の後ろ姿を、追う。何に惹かれたのかも、良くは分からない。だと言うのに、焦燥にも似た感覚が身を焦がす。その、身に纏う雰囲気とでも言うべきものに、惹き付けられている。

 それは――誘蛾燈に引き寄せられて自ら焼け死ぬ、愚かな蟲のように。抑え難く、堪え難い。愛を歌う為の、致死の罠。

 

 

「――――?!」

 

 

 角を曲がった背中を追い、息を急ききって人並みを掻き分ける。

 何事かと、周囲の人間達が目を向ける。一切、どうでも良い事だ。種族(ニンゲン)など、雑草としか感じ取れない――種族(カレラ)には。

 

 

「おっと」

「ッ――あ、すみません」

 

 

 そこで、人とぶつかった痛みに我に返る。眼前には、赤いセミロングの髪に左目の下にバーコードのような刺青をした、黒いローブの大男。

 焔の如き蜂蜜色の黄金瞳に、理性が戻る。身を焦がす衝動も、こうなれば容易い。『武の頂』と例えられる弐天巌流の合気道部を率いた彼、『制御できない装備など無意味』として精神修練に最も重きを置く校風に裏打ちされた、強靭な精神力を遺憾なく発揮し――――まるで、()()()()()()()()()()()()()を抑え込んで。

 

 

「何を急いでいるかは分からないが、気を付けたまえよ。肩が触れた、それだけで暴力に走る輩もいないことはない」

「あ、は、はい……すみませんでした」

 

 

 恐らくは年上だろうその男に向かい、謝罪する。確かに今のは、自分が悪い。『女の尻を追っかけていて前方不注意』など、九州男児を標榜する義父に知れたら拳骨ものである。

 

 

「分かって貰えればそれでいいよ。ところで――――」

 

 

 そこで、男は口を開く。実に、実に困ったように。そのポケットから――煙草を取り出して。

 

 

「実は、そろそろニコチンとタールが切れそうでね……この近くに喫煙所、あるかい?」

「ああ、ええ、まあ……二分くらい掛かりますけど」

「助かるよ。まさか、都市全体が禁煙とは思わなくてね」

 

 

 苦笑しながら――――煤の色と臭いの男は、嚆矢の蜂蜜色の瞳を見詰めた。何となく、憎めない……まるで年齢は反対だが、弟のような。

 

 

「ああ、そうだ。僕は――――ステイル=マグヌス。君は?」

「対馬嚆矢です、マグヌスさん」

 

 

 だから、つい。先ほどまでの気晴らしにと、この――――見ず知らずの男と一服しようかな、くらいの軽い気持ちで。

 その歩調を、魔女狩りの燃え盛る焔のような男に合わせた――――。

 

 

………………

…………

……

 

 

 喫煙所は、無人だった。つまり、嚆矢とステイルで貸切り状態。

 身の丈二メートルの大男と、身長こそ及ばないものの(しな)やかに鍛えられた筋肉量(からだつき)は男を上回っている武闘派の少年。二人だけでも、何とも胃もたれしそうな密度(こゆさ)である。

 

 

「どうぞ」

「ああ、すまない――なんだ、君もイケる口か?」

 

 

 安い煙草を銜えたステイルに、百円ライターを差し向けた嚆矢。己も、煙草を銜えて。

 

 

「大変だろう、来て初めて、地上(グランドフロア)には喫煙者(スモーカー)の安寧はないと思い知らされたからな」

「はは、違いない」

 

 

 それに、ステイルはフッと、アンニュイな微笑を見せた。赤い、自身の髪と同じ色の焔を煙草の先に煌めかせ、紫煙を棚引かせる。随分と慣れた、その仕草。

 同じく、嚆矢も紫煙を燻らせる。吐いた煙が、天井の吸気口に呑み込まれていく。

 

 

「「――――甘露だ」」

 

 期せずして同じ台詞を吐き、共に虚空を見詰めたままで薄く笑い合う。同じ嗜好品を嗜む、これも共感覚性だろうか。

 狭い、喫煙者の立場を表すかのような狭小な喫煙所内。手を伸ばせば顔面に拳を決める事も、それを拉いで叩き付ける事も造作の無い距離。即ち、互いの必殺の間合いで。

 

 

「それ、中々良いアクセサリーだ。何処で手に入れたんだ?」

「ん――ああ、『兎足《こっち》』は母に。『懐中時計(こっち)』は……先生から貰ったんです」

「母に、先生か」

 

 

 繁々と、嚆矢の首から下がる二つのアクセサリーを眺めたステイル。値踏みでもするかのように、二つを眺めた後。

 

 

「『幸運の護符(アミュレット)』と『共有世界の神話体系(シェアード・ワールド)』の魔道具……随分と手の込んだ話だが、想像通りならば然もありなん」

「え? 何ですか?」

「いや――――随分と、見込まれているようだと思ってね」

 

 

 煙を吐き、小さく何かを呟き、またも気怠そうに微笑んだステイル。その瞳には、何故か――――憐れみのような色が在って。

 

 

「さて、じゃあ本題に入ろうか。対馬嚆矢君。君は、仇為すか?」

「仇為す? それは、何に対して? あんたの――――十字教に対して、かい?」

 

 

 ステイルの言葉に、半ば呆れたような嚆矢の声と――――蜂蜜色の黄金瞳が返る。ステイルと同じく、無害を装う魔瞳が。

 

 

「隠しても分かるさ。義母(かあ)さんの嫌いな英国(ブリテン)訛り。一階をグランドフロアと呼んだ、アンタ」

「……ふ、なるほど。墓穴を掘ったか。しかし、君の母親は『アイルランド闘士(IRA)』か何かかい?」

 

 

 微笑に返るのは、微笑のみ。余りにも穏やかに酌み交わされた、余りにも緊迫した殺意。応酬などしない、暗殺者同士の確認作業だ。

 

 

「まさか。只の、良く居る英国嫌いの主婦さ」

「それは、それは。清教側の僕としては――」

 

 

 焔の如き男が、笑いながら肩を叩く。軽く、軽く。殺意などなく、ただただ――――

 

 

「――『沈静(イス)』、『沈勢(ナウシズ)

』、『鎮勢(ハガル)』」

 

 

 軋むように重厚な、神刻文字(ルーン)を唱えた――――!

 

 

「――――――――!??」

 

 

――刹那、崩れ落ちるように視界が下がった。文字通り、崩れ落ちた為に。『消沈』の意味を持つ、三大ルーンを刻まれた為に。

 何もかも、面倒になる。呼吸をする事も、思考する事すらも。果ては――――生きる事すらも。

 

 

 くず折れ、無様に横倒しになった視界の端。水晶体が像を結ぶ事すらも拒絶したそこで。巨漢の魔術師は、紫煙を燻らせる。何時でも始末できると、余裕すら浮かべながら。

 

 

「――もう一度問おうか、在野の魔術師……君は、仇為すか?」

 

 

 再度の、強制力すら感ぜられた呼び声。焔の魔術師の声に、嚆矢は――――

 

 

「――――決まってンだろォがよ、俺は、俺の味方だ。今も、昔も……!」

 

 

 『軍神(テュール)』を幾度も刻みつつ恫喝じみて返した、その応え。場所が場所なら、補導済みだ。吐き気や自殺願望と。くしゃりと吸いかけの煙草を握り潰して、嚆矢は――――口を、口だけを開いた。

 

 

「憐れだな、魔術師。アンタの願いは、叶わない。永遠に――其処には到れない。誰か、アンタ以外の為の場所には。アンタだけは。いやはや、残念だッたな」

 

 

 嘲笑うように蜂蜜色の漆黒を湛えた黄金瞳が歪む。組み敷かれたまま、目の前の道化を嘲笑って。

 嗜虐に歪んだ瞳に、憤怒にまみれた――――

 

 

「――――ああ、全くだ。残念でならないよ、『■■■■■■』。僕らにただ、囁くだけの者」

 

 

 焔の魔術師は、変わらずに紫煙を燻らせて。何か、酷く耳慣れない言葉を吐いた。

 男の手に握られた煙草の火により、十字が切られる。身が引き裂かれる。何故かなどは二の次で良いと、死にかけた体が叫んでいる。ただ、ただ――

 

 

「――――」

 

 

 その身を突き動かす、衝動。『死ねない』と。

 浅ましくも、忘れ得ぬ感傷が――――全てを機械化されたこの都市では、センサーが感じ取る。

 

 

「――――チッ」

 

 

 鳴り響いたのは、火災報知器。こんな場所にまで行き届いていたのかと、魔術師は眉を潜め――――少年の一撃を受けた。避けられず、受けざるを得なかったのだ。

 

 

「――――ッ!??」

 

 

 肩口に、『何か』を。見る事も、叶わずに。その、『指先』から煙草が――――。

 

 

「……運の良い。僕は、僕の魔法名を明かさない相手は殺さない」

 

 

 そう告げて、去っていく後ろ姿を見送るしかない。『殺す価値もない』と告げられて、それを僥倖だと感じられるのならば。

 

 

「…………」

 

 

 最早、言葉はおろか、指一つすらも動かせない。それだけ、ステイル=マグヌスのルーンは強大にして抗えぬものであった。

 当然だ、彼は――――嚆矢の知らない、幾つもの独自ルーンを知っているのだから。

 

 

「……なるほど。大したものだ、その程度で、此処まで」

 

 

 まるで、礼賛するような――――ステイルの調子を。甘んじて、受け入れた。

 

 

「――――大した根性だよ、吸血魔術師(シュトリゴン)

 

 

 その言葉を塩に、嚆矢は――――意識の手綱を手離す。ステイルの、口端の……嘲りを、受けながら……。

 

 

………………

…………

……

 

 

――冷たく沈んだ意識。それは、昔……何処かで感じたもの。

 

 

 瞼すら開けられない、魔術由来の倦怠感。肌に注ぐ消火用のスプリンクラーの水にも、そればかりは洗い流せはしない。

 ただただ、体温のみを奪い去り。この身体を、更に固く強張らせていく。

 

 

――()()()とは、真逆。しかし、心を凍てつかせる作用は全く同じ。

 あの、炎と揮発油の香りと――――腕の中で、冷えきる……。

 

 

「――――ステイル……マグヌス!」

 

 

 動く事を拒絶する口で、視界から消えたその名を呼べば、沸き上がるように。『無意識の領域(AIM)』から――――

 

 

『――――助けてやろうか?』

 

 

 掛かった声は、まるで無数の蛆がのたくるような。不快感しか感じない、そんな――――声に擬装した雑音(ノイズ)

 

 

『代償は……その生命だがな』

 

 

――懲りねェ奴だなァ、テメェもよォ……『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』。第一、それじゃ意味ねェだろ。助かりたいが為に命をドブに棄てる莫迦が居るか。

 

 

 如何に極限の状況下と言えど、まさか暖を取る為にニトログリセリンに火を灯す者など居るまい。魔導書との契約は、そう言った類いの物だと。師である男は言っていた。

 

 

『莫迦は貴様だ、嚆矢よ。何も今、吸い尽くすとは言っていない……奪い尽くす事は前提だが、我が魔術行使の代償として適宜奪うように妥協してやろう』

 

 

 それを見抜いてか、今までとは正反対に。まさに、助け船の如く有り難い余裕をもって、まだ見ぬ“妖蠅王(ベルゼビュート)”は語り掛けてくる。

 

 

『どうする? あの男が、このままお前を見逃したままにしておくと思うか? 今頃、奴の結界で覆われたこの小部屋に他の魔術師が迫っているやも知れんぞ?』

 

 

 確かに、その通りだ。殺さず、態々『無力化』した意味は……『捕獲』を除いてはあり得ないだろう。そんな事は、嚆矢も分かっている。何故に捕獲されるのかは、未だ確証はないが。

 

 

『さぁ、我を呼べ。その忌まわしい“輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)”を閉じろ。そうすれば――――今すぐにこの囲いを破り、あの魔術師を我が()腐乱死体(なえどこ)に変えて見せようぞ』

 

 

 そして、奪われた自尊心を擽る。あの魔術師を、打ち倒して見せると。『打ち倒させて見せる』と。

 

 

「は――――」

 

 

 何とか、身体を起こす。死ぬ程の倦怠感、零下に下がったように感じる血液と筋肉を軋ませて。

 

 

「――――お断りだぜ、蛆虫野郎。大の男が御礼参りに、助っ人連れだァ? ンな情けねェ真似を、この俺が……ヤる訳ねェだろうがよォ!」

 

 

 ビッ、と。濡れた亜麻色の髪をオールバックに撫で付けて、どこに居るかも分からない魔本に向けて中指を立てる。その蜂蜜色の黄金の瞳は、不撓不屈の黄金の意志の体言か。

 歯牙にも掛からずに敗北しても、心までは折られていない。決して折れない。そんな己が――――訳も分からない魔導書(おまえ)に頼って勝とうなどと。罷り間違っても、有り得ない。

 

 

『――――愚かな小僧め。ならば、そのまま朽ち果てるが良い……奴等にとって、貴様は最高の研究材料だろうよ』

 

 

 吐き捨てるように、雑音が消えた。漸く帰ってきた清らかな水の音に、安堵すら覚える。後は、魔術も能力も満足に使えない現状でどうやってこの結界から抜け出るか、だが。

 

 

「やれやれ――――」

 

 

 その刹那、視界の端。丁度、見えるか見えないかの境目に現れた……アルマーニの最高級のスーツに身を包み、ぎこちない()()に銀色の懐中時計を携えた――――

 

 

「この程度の魔術で……笑わせてくれる。あの魔術師も、蛆虫も。貴様も」

 

 

 消火水の豪雨すら歯牙にも掛けずに葉巻を燻らせ、燻し銀の声色で時計を見遣る紳士。濡れているかどうか、視界の端では分からない。

 

 

――何だ、コイツ……何時から、居た?

 

 

 無感動に、無機質に。チク、タク、チク、タク、と。冷厳に、淀みなく、ただただ一秒だけを刻み続ける時計を見詰めるだけ。

 だとすれば、燃え盛り縮んでいくその葉巻は導火線か、時限装置か。

 

 

「――――時間だ、“■■■■■■■■■(■■■・■■=■■■■■■)”。汝が崇拝者に灰の光を降らせたまえ。全ての時は逆流し、ド・マリニーの名の元に我が支配に下る……」

 

 

 刹那、時計の秒針が凍った。凍えついた針は、やがて末期の痙攣の如く揺れて――――その聖句の元、常識は覆る。房室を、灰色の光が満たしていく。

 

 

来たれ(イア)

、“■■■■■■(■■■■=■■■■)”!」

 

 

 視界の端の紳士は、見下げ果てたように葉巻を灰皿に押さえ付けて。代わりに、その手には一冊の――――

 

 

「――――やれやれ……余り、手を煩わせないで欲しいものですな……未だ目覚めぬ■■■■(■■■■■)

閣下」

 

 

 歯車が、回っている。大きな、大きな。淀みなく、狂いなく。定められた末路へと向かって――――また一つ、また一つ。

 

 

………………

…………

……

 

 

 報知器の発報によって消防吏員が駆け付ける前に、嚆矢は寒気の抜けきらない体を押して歩いていた。

濡れた身体は隠しようもない。しかし、水を錬金術(アルキミエ)で揮発させて、生乾きレベルまでは乾かす事に成功している。

 

 

「厄日どころか、暗剣殺だな……あンの、野郎ォ……!」

 

 

 反吐を吐きつつ、変温動物のように夏の日差しで体温を回復させる。底冷えは治まらず、骨身に染み込んだ『消沈』の三大ルーンの残滓が未だに感じられた。

 それ以外は、何一つ()()()()()()。時間的にも、たったの()()。そんな短時間に、一体、どんな『人外化生(アウトサイダー)』が付け入れると言うのか。

 

 

 近くの家電量販店のウィンドウに設置されたテレビからのニュース速報に『第七学区の取り壊し予定のビルが倒壊。老朽化か、手抜き工事か?!』の文字が踊っていたが、一片も興味は抱かない。抱けない。

 さっさと通り過ぎてしまおうと、震えの止まらない脚に無理矢理、力を籠めて。

 

 

「あれ、対馬さん?」

「あァ――――」

 

 

 背後からの呼び掛けに、不承不承振り返れば――そこには、少女が四人。内三人は初めて見るが、一人は……

 

 

「ああ……佐天ちゃんか。久し振り、遊び帰りかい?」

「こ、こんにちは……ごめんなさい、忙しい感じですか?」

「いやいや、まさか。ちょうど帰りだよ」

 

 

 つい苛立ちを乗せて振り向いた時の剣幕に怯えたような四人に、努めて優しく。胸元の兎足の護符を握り、『口伝(アンサズ)』のルーンを刻みながら。

 只でさえ、『消沈』の三大ルーンのせいで消耗した風前の灯の生命力だ。たった一文字分の魔力に変換しただけでも、気が遠くなる。この際布団などと贅沢は言わない、アスファルトでも良いから頭から倒れ込みたくなる。

 

 

「ちょ、ちょっと、ルイコ! アンタ、歳上の男の人の知り合いとか居たの?!」

「ふっふーん、まぁね、アケミ。しかも何を隠そう、この対馬さんは学園都市で唯一(ワンオフ)能力(スキル)確率使い(エンカウンター)』……人呼んで『制空権域(アトモスフィア)』なのさ」

「よ、よくわかんないけど……唯一(ワンオフ)な上に『通り名(ネームド)』ってなんかスゴ! な、マコちん!」

「うん。そーだね、むーちゃん」

 

 

 『アケミ』と呼ばれた背の高い娘が涙子に問い、答える涙子が何故か偉ぶる。それに『むーちゃん』と呼ばれた小柄でボーイッシュな娘が目を輝かせ、『マコちん』と呼ばれた少々ふくよかな娘に呼び掛けた。

 

 

「――――…………」

 

 

 正直、上の空だ。目の前に並ぶ、うら若い()()に息を。唾を飲む。

 喰らい付いて欲しがっているようにしか見えない。無防備に、童話の如く、夏の太陽によって開

はだ

けさせられた白い首筋。

 

 

――あァ、その奥には深紅に色付く命の源流が。命が陸に上がる際に持ち出した、母なる海の潮が在る。

 アレを啜れば、この乾きも癒されるだろう。多少、能力開発の為に薬品臭いが――それでも男なんて知らない、雑じり気無しの…………あの■■を啜れば。

 

 

 軋むように、笑う。否、口角を吊り上げる。その上顎の第三歯、糸切り歯は――――剣歯虎(サーベルタイガー)の如く、鋭く。

 

 

「――――ッ!」

 

 

 それを、己の拳でぶん殴る。ほとんど独立したように、その()()が。

 正気に返ったのは、そこで。そこまで、無意識だったと言って良い。少なくとも、『対馬嚆矢』は――――

 

 

「……じゃねェだろ、ちょっと頭ァ湯立ち過ぎだ。いや」

 

 ただ、道化に甘んじる。嘲笑われ、唾棄され、誰しもが忘れ去る道化に。幸い、四人できゃっきゃと騒いでいた少女達には、自分で自分を殴る姿は見られていない。

 ヘラヘラ笑い、少女達の関心を誘う。よくいる、取るに足らない男として。この少し後には、もう忘れられているだろう、そんな。

 

 

「で、何かな? ひょっとして、遊び帰り?」

「あ、えっと……は、はい! そうなんです、久し振りに会ったから! もう帰るところです、はい!」

 

 

 と、つい今まで笑顔だった涙子が、なにか大事な事を思い出したように慌て始めた。

 わたわたと、『何か』をポケットに押し込んだ。それだけしか見えなかったし、疲労困憊の身としては早めに解放してくれるのならばそれに越した事はない。だから、突っ込まなかった。

 

 

「対馬さんも、風紀委員(ジャッジメント)のお仕事頑張ってくださいね! それじゃ!」

 

 

 慌ただしく、他の三人を引っ張るように涙子は走っていった。何か不審な気はしたが、今は、兎に角。

 

 

「早く……帰って寝てェ」

 

 

 酷く怠い身体を引き摺るように、遥か遠い自室を目指して歩きを再開した……。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20.July:『The Jabberwock』

 

 

 身体を引き摺って、漸く辿り着いた其処に、彼は腰を下ろした。荒い息を吐きつつ壁に背中を預け、スリップダウンしながら。

 

 

「……遅かったですね、ステイル」

「ああ、待たせたな……神裂 火織(かんざき かおり)

 

 

 日の暮れた学園都市の一角、第七学区の喫煙所に――――頬を腫らした、巨漢の魔術師ステイル・マグヌスは。

 

 

「酷い有り様ですね。『禁書目録(インデックス)』の確保にも失敗したようですし」

 

 

 その隣に立ったのは、黒髪を一つに纏めた、Tシャツにジーンズの女性。ステイルから、親しげに『神裂火織』と呼ばれた女である。

 

 

「訳の分からない妨害にあってね……全くもって、理不尽な」

 

 

 憔悴しきった様子で、ステイルは懐をまさぐり……取り出した煙草が湿気っている事に気付き、忌々しそうに投げ棄てた。

 

 

「日に二度もしくじるとは、貴方らしくもない。ここに閉じ込めていると言っていた『少年』も、取り逃がしていましたよ。周囲には、影も形も」

「はは……返す言葉もない。こう言う時、日本では何と言うんだったっけ」

「『二兎追うものは一兎をも得ず』、『虻蜂取らず』」

「そう、それだ。欲をかいた結果が、このザマだよ」

 

 

 頬に触れ、痛みに顔をしかめる。それは、まるで――――『全力で、右の拳で殴られた』ような打撲痕。

 

 

「しかし、流石と言うべきかな。彼等の『生命力』は。まさか、廃人にするつもりで刻んだ消沈の三大ルーンを凌がれるとは……」

「……正直、私には信じられない。アレはあくまで、『伝承の類い』だとばかり」

 

 

 女は、少しだけ瞳に疑念を映す。まさかこの男が見間違いなどはしないと信頼してはいるが、それでも。長年の認識を改めるのは、簡単な事ではない。

 

 

「まぁ、僕も実際に目にするまでは半信半疑だったさ。だが、あの少年の――――呪撃(ガンド)を受けるまでは、ね」

呪撃(ガンド)……欧州の、呪いの一種ですか」

 

 

 所謂、『指差し』にて行われる呪い。指差した相手を病にするという、手軽な呪い。西洋人が指差しを嫌う由縁である。

 

 

「ああ、しかも『殺傷力持ち(フィンの一撃)』クラスだ。加えて、ケルト魔術と融合している……毒矢だった」

「成る程、それで貴方ほどの使い手が遅れを取ったと」

「そう……だったら良かったんだがね。純粋に、物理的に押し負けただけさ。この木偶の棒の、見掛け倒しがね」

 

 

 苦笑いした、図体ばかり立派な自身を恨めしそうに。

 

 

「厄介な呪撃だったよ。ただの呪いならば解呪も出来たんだが――――ドルイドの技が使われていた。まるで、寄生植物のように……撃ち込まれた者の魔力を糧に増殖する呪い。まるで……宿り木のように」

「確かに厄介な呪いですね……今は?」

 

 

 『ソレ』を撃ち込まれた肩口を擦り、男は苦笑いを消す。

 

 

「消えたよ。あの少年の右腕に、殴られた時に」

「……また、『少年』ですか。しかし、妙な魔術ですね」

「言われてみれば、紛らわしいな……しかし、魔術を打ち消す魔術とは恐れ入る。どうしてこう、厄介な事は重なるのか」

「『泣きっ面に蜂』」

「そう、それだ」

 

 

 また、苦笑いするステイル。その隣で、火織は冷厳な表情のまま。

 

 

「分かりました……その『対魔術(アンチ・マジック)』の少年の相手は私が。もう一人の少年は……今は、放っておいても問題はないでしょう」

「そうだな……では、あの少年は」

 

 

 火織から差し出された新しい煙草のフィルムを剥ぎ捨て、魔術により火を点したステイルが紫煙を燻らせる。

 

 

「『宿木の弑神(ミストルティン)』の吸血魔術師(シュトリゴン)は……その次だ」

 

 

 数時間前にこうして煙草を吸った、北欧神話において『何物にも殺せぬ光の神を殺した矢』を思わせた少年の顔を、思い出していた……

 

 

………………

…………

……

 

 

――暗い、昏い……まるで、海の底のようだ。

 

 

 辟易するように、その夢を見る。窮極の宇宙の神苑、踊り狂う異形の神々。その吹き鳴らすか細いフルートと、くぐもった太鼓の単調な旋律(メロディー)韻律(リズム)

 背後には、想像する事すらも赦されない深奥。己を抱くように混沌の玉座に微睡むそれは、盲目にして白痴なる神王。聞くに耐えない冒涜の言辞を喚き散らす、邪神の■■――――

 

 

――何を、莫迦な。こんなものは、夢だ。夢以外であるものか――――

 

 

 視界の端に映る『それ』を、見えはしても考えない。理解すれば、恐らく正気では居られない。

 そう……灰色の世界だ。代わり映えのせぬ、ただ徒労の世界。死ぬ為に生きる、何の意味も無く摩耗する。最早、幻想のヴェールが剥がされ尽くした、なんの面白味もない無味乾燥にして無色透明、ただただそんな世界で――――

 

 

――やめろ。やめろ、やめろやめろやめろ! 理解するな、理解するな理解するな理解するな……俺には分からない。分からない、分からない分からない分からない!

 

 

 視界の端の破滅そのものが、僅かに身動ぎする。漸く気付いたのだ、己に捧げられた『生け贄』に。息を殺して身を潜め、必死にこの永劫の刹那をやり過ごそうとしていた……哀れな、小さきものを。

 

 

――夢だ。夢だ、夢だ夢だ夢だ! 見えない。見えない、見えない見えない見えない! そんな筈はない。そんな筈はないそんな筈はないそんな筈はない、あんな――――

 

 

 狂気を帯びた異形の神々の舞が、更に悋気を帯びる。知性など無いままに生け贄を妬み、嫉み、怨み、憎み。

 『何故、貴様が』と。『何故、貴様だけが』と。『お前も』、『お前も狂え』と。フルートを、太鼓を掻き鳴らしながら――――

 

 

――ああ……月が。手を差し伸べるように、狂ったように嘲笑う、黄金の望月が見える――――

 

 

………………

…………

……

 

 

 目を開く。軋むような頭痛が、意識を無理矢理に覚醒させる。着替える事もなく、倒れ込んだ姿のまま。忌々しく、胸元の『輝く捻れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』を睨む。紅い線の走る、禍々しい黒の扁平多面体を。

 まだ体に残る、二日酔いの後のような『消沈』のルーンの残滓を振り払うように頭を振って。気を取り直して時計を見れば、時刻は午後七時丁度。這いずるように部屋に辿り着いたのが午後四時だ、約三時間の間、玄関先で泥のように寝ていた事になる。

 

 

「クソッタレ……覚えてやがれ、十字教徒……!」

 

 

 携帯が、鳴り響いている。だがそれは、アラームではなく着信音。しかも――――電源を落とした私物ではなく、仕事用の支給品。

 これに掛けてくるのは、説明ではただ一人。

 

 

「……はい、もしもし」

 

 

 切れてしまう前に、応答する。寝起きの頭は未だ、霞がかったよう。

 そんな耳に、届いたのは――――

 

 

『予定時刻、午後七時三十分。第七学区、駅前広場』

 

 

 まだ若いが、どこか機械的な抑揚の少ない少女の声で。

 

 

『スリーピースのスーツにロングコート姿で、超目立つ事をして待って下さい』

 

 

 一方的に告げて、切れた。まるで、誘拐犯の身代金の受け渡しの指定のようだ。格好の指定は、確かに目立つ。真夏にスリーピースのスーツでロングコートなど、狂気の沙汰である。

 

 

「――まぁ、三十分で用意するのは……普通なら無理だ。要するに、何処まで甲斐性があるかを計る為、か」

 

 

 そう言う事だろうと結論付け、懐から取り出した……くしゃくしゃの煙草を銜える。

 

 

「第一関門って訳か。上等だ、男子の本気を見せてやるよ」

 

 

 これを乾かしたものと同じ――――錬金術で、何とかしようと。紫煙を燻らせつつ。全身の血管を巡るニコチンとタールの、燃え立つような刺激に頭を震わせて。

 近くに古着屋はあったかな、と思考を働かせた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 噴水の縁に腰を下ろす。懐中時計――――『輝く捻れ双角錐』で確認したところ、現在時刻は午後七時二十分。予定よりも少し早い、理想的な時間に到着した。

 黒で統一した、シックなスーツとコート。経費で落とすべく領収証を切ったものを、体に合うように錬金術で調整したものだ。因みに、髪は予め用意していたヘアカラーで黒に染め、ワックスで逆立てるように固めてある。瞳も、予め用意していたカラーコンタクトで黒に。『暗部潜入の為に用意した別人』への変装、である。

 

 

――しかし、やっぱり暑いわ、コレは……。

 

 

 錬金術で『熱量』を発散している事で耐えられてはいるが、やはり暑いものは暑い。ちょっとだけ、原理を利用した飾利の『定温保存(サーマルハンド)』が羨ましくなったのは内緒だ。

 

 

 周りを見れば、こちらを見る通行人もしばしば。まぁ、どう見ても一昔前の英国紳士の格好だ。加えて、暗部との接触という久々の仕事(ビズ)に緊張しているので、尚更に。

 落ち着こうと、煙草を銜える。買い直した、少し高めの缶ケース入り舶来品。いつもよりも強い香気に、僅かに緊張が和らぎ……何と無しに、夜空を見上げた。

 

 

 視線の先には、黄金の月。僅かに欠けた、猫の瞳のようにも見える楕円の月。吐き出した煙が、虚空に消えていく。まるで、初めから存在していなかったかのように。

 

 

――やっぱり、日輪の下よりはこっちの方が俺好みだな。この月の光が、この暗闇が。俺に力をくれる気がする……。

 

 

 気を取り直して再度確認した懐中時計は、午後七時二十五分。そろそろ、時間だ。

 

 

「――『目立つ事をして待ってなさい』、か。それじゃあ精々、目立とうかねぇ?」

 

 

 煙草を吸い終えて携帯灰皿に躙り、懐に仕舞って――――代わりに、『それ』を取り出した…………。

 

 

………………

…………

……

 

 

 まだ明るい駅前を歩く二人は、駅前広場の時計で時刻を確認する。午後七時二十五分、行動を開始するにはいい頃合いだ。

 

 

「――――結局、私らに新入りなんていらない訳よ」

「…………」

 

 

 と。唐突に、その二人の内一人……不満そうに唇を尖らせた金髪碧眼の少女がブー垂れる。

 だが、その隣を歩くオレンジ色のフードの少女……右手で携帯を保持して耳に当てている少女は、むっつりと黙りこくっているだけだ。

 

 

「大体、おかしいのよ。いくら命令だからってさ、あたしら四人のコンビネーションは結局、完璧と言っていいレベルな訳だし」

「…………」

「どう考えても蛇足って奴なのよ。あんたもそう思うでしょ、絹旗(きぬはた)?」

 

 

 それにも構わず、金髪の少女は滔々と文句を述べ続ける。だがやはり、『絹旗』と呼ばれたホットパンツにフードの少女はそれを――――

 

 

「……超いい加減にしてもらえますか、フレンダ。コンビネーションがどうとかもっともらしい事言って、どうせ文句があるのはギャラの配分が超減る事でしょう?」

「ギクッ……い、いや、そんな訳ない訳よ! だってさぁ、結局、見ず知らずの、しかも男なんて――――」

 

 

 フレンダと呼ばれた帽子にミニスカートの金髪少女は、自分より年下の絹旗の、ジト目での突っ込みに図星を突かれたらしく動揺しつつ話を逸らす。

 丁度そこで、携帯の方に動きがあった。繋がったのだ。

 

 

「あ、もしもし、滝壺ですか? はい、絹旗です。今から対象を超探します」

 

 

 絹旗はそれに視線を逸らし、フレンダは九死に一生を得たように嘆息する。

 

 

「はい、麦野の指示通り『超目立つ事をして待て』と超伝えてあります。まぁ、格好からしてもう目立つと思うんですが……」

「『超目立つ事』ねぇ……結局、どんな事してるんだか。面白そうだからさ、見付けたら暫く放っといてみたりしない?」

 

 

 通話口の絹旗にまたもフレンダは話し掛けて、『にひっ』とばかりに笑う。

 そんな風に駄弁り、通話しながら歩いていると言うのに、二人は他の通行人にぶつかるどころか掠りもしない。何かの催し物の為か、やたらと集まっている人混みの中ですら。

 

 

「……フレンダ、これは遊びじゃなくて仕事です。そう言うのは超慎んで――――」

 

 

 と、そんな彼女に苦言を呈そうとした絹旗の、身長差からの上目遣いが固まった。ある一点を見詰めて。

 

 

「えっ、えっ? な、何よ、絹旗?」

 

 

 そのまま、彼女は放物線状に何度か視線を彷徨わせた。不可解なその仕草に、フレンダは漸く、絹旗が自分の後ろの方を見ている事に気付いて振り返り――――

 

 

「ちょ――――何、あれ?」

 

 

 人混みの中心、衆人環視の中。駅前広場の噴水をバックに、革手袋の手を振るスリーピースのスーツ。

 

 

『――――ハァイ、良い子の皆も悪い子の皆もこんばんはだニャア』

 

 

 まるでタップダンスのように、一メートル半程も跳び上がって軽快に革靴を鳴らして着地。そして合成音声丸出しの、やたらにハイなイントネーションで喋る――――

 

 

『ボクの名前はMr.ジャーヴィス。ネズミ大好き(食料的な意味で)。よっろしっくナ~ゴ』

 

 

 恭しくお辞儀をする、人を小馬鹿にしたような表情の猫のぬいぐるみ頭の大男であった。

 

 

「……もしもし、麦野ですか。はい、今、超見付けました。はい、超目立つ事をしてます……こっちの予想の、超上をいくレベルで。画像ですか、分かりました」

「あれは、あの……結局、頼まれても関わり合いになりたくない訳よ」

 

 

 完璧に異常者を見る目付きで後退るフレンダ。対し、絹旗は驚きから立ち直ったらしく、淡々と言われた事を熟す。

 画像付き通話で、『Mr.ジャーヴィス』と名乗った男がジャグリングや軽業を披露するさまを……通話先の相手に届けていた。

 

 

『――――アッハハハハッ! 良いねぇ、良いじゃないさ。良い感じに頭のネジがブッ飛んでるじゃない』

 

 

 と、通話相手が喝采した。まだ若い、しかし此処に居る二人には無い、『貫禄』のようなモノがある、女性の声だ。

 

 

「それじゃあ、麦野?」

『そうねぇ――――適当な理由を付けてブッチするつもりだったけど。気が変わったわ』

「えぇ~……麦野、本気ぃ?」

 

 

 興味のなさそうな絹旗と、興味津々の『麦野』と呼ばれた女性。そして、心底嫌そうなフレンダの三人。

 その視線を一身に受ける対馬嚆矢……恥ずかしさを勢いと『何も考えない事(無念無想)』で誤魔化している、猫頭の『空っぽ頭(エア・ヘッド)』。

 

 

『第一試験は合格、二次面接開始だにゃ~』

 

 

 月が見下ろす道化は、只只渦中に自ら歩み入る。どうやら、まだまだ彼の夜は長そうだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 無心である。ただ無心に、嚆矢は――――昔、『とある園地の象徴偶像(マスコットキャラ)』の某鼠っぽくオーバーアクションに振る舞う。八つの球のジャグリングを成功するだけではなく、わざとトチって頭に八連発で当てたり、バク転の着地でわざとトチって、股間を強打したり。笑いを取る、道化を演じる。

 何となく『今回の相手』は、これくらいしないといけない気がしたのだ。そしてそれは、知る由もないが、正しい判断であった。

 

 

『それじゃあ、そろそろ本番ニャア。ジャーヴィスの世にも不思議ニャ、マジックショーの開幕ナ~ゴ』

 

 

 等と、パチンと指を鳴らしながら。普段なら口が裂けても言わない、身を切られても取らないようなポーズを取りながら……黒猫は戯けた様子で。

 

 

『じゃあ――――そこニャお(ぜう)さん、此方にどうぞニャア』

「えっ――――わ、わたくしですか!?」

 

 

 指名したのは、人混みの中央。普通ならば、目にも留まらない位置。だが――――その少女達は、非常に目立っていた。

 

 

「どっ、どどっ、どうしましょう……わたくし、指名を受けてしまいましたわ!」

「落ちついてください、婚后(こんごう)さん」

「そうですよ、平常心です」

「ひ、他人事だと思ってますわね~!」

 

 

 扇子のストレート黒髪、ソバージュの栗毛色、黒髪ロング。何故なら、彼女達三人は……『人混みの中でも自然と目を引く』と真しやかに囁かれる制服を身に纏う、『常盤台の生徒』なのだから。

 暫し揉めるも、周囲の期待には逆らえない。その点でも、嚆矢の読みは当たっていた。観念したように前に出た扇子の少女を、まるで。

 

 

『ようこそいらっしゃいませナ~ゴ、お(ぜう)さん。こんニャ夜遅くまで出歩くニャンて、ウォッキーは感心しニャいニャア』

「あ、あう……べ、別に夜遊びをしていたわけではありませんわ。ちゃんと寮監殿の許しを得て、ちょっと買い物を……」

 

 

 開いた扇子で真っ赤に湯だった顔を隠す……『婚后』と呼ばれた少女を、弄くって遊ぶ性悪(チェシャ)猫。とは言え、下品にならないよう紳士的に。泣かしたり怒らせたりするのは、本意ではない。

 まぁ実際、夜遊びではないだろう。まだ、十七時半過ぎ。まだ、辛うじて。

 

 

『ところで、お連れ様のお二人は何時までそんニャ所に居るのニャア? 早く来てくれニャいと、マジックが出来ニャいナ~ゴ』

「「――――えっ!?」」

 

 

 声を合わせて、残りの二人が慌て始める。まさか自分達までとは思わなかったのだろう。

 

 

「あら、湾内(わんない)さん、泡浮(あわつき)さん? 『平常心』なのでしょう?」

「「ううっ」」

 

 

 反撃を受けてしまい、同じく常盤台の制服の二人が環視の舞台に連れられた。群衆の中から、鋭い口笛が鳴る。

 いくら目立つ常盤台生とは言え、これだけの人目には慣れないのか、恥ずかしげに頬を染めているのが可愛らしい。

 

 

『さぁ、それじゃあ三人に手伝って貰うのは、透視と転写のマジックですニャア。勿論、能力(スキル)じゃ『二重能力者(デュアルスキル)』でも無い限りは無理ですナ~ゴ』

 

 

 『そりゃそうだ』と笑いが起きる中、右手でメモ帳とボールペン、三通の封筒を取り出した嚆矢はそれらを少女らに渡す。

 因みに、『二重能力者(デュアルスキル)』とは――――この学園都市にある噂のようなもの。『一人につき一つの能力(スキル)を複数持っている能力者』というものだ。そしてそれは、公式に『存在し得ない』と否定されたものでもある。

 

 

『それじゃあ、先ずはそのメモ帳に君達のお(ニャ)前とメアドを書いて欲しいニャアゴ』

「「「えっ?!」」」

『――じゃねーニャ、好きなトランプのマークと数字を書いて欲しいニャア。その後、何も書いてないページをちぎって封筒に入れて左手に持つナ~ゴ』

 

 

 と、あわよくば名前とメアドをゲットしようとナンパトークのような事を口にするも、反応が悪かった為に戯けて茶を濁し、さっさと本題に入る。

 常盤台の常として美少女揃いだったので、少し惜しい気はしたが。

 

 

『ちゃんと描けたニャア? では、それを四つ折りにして右手に持って欲しいニャア。そして、早速……ナ~ゴ!』

 

 

 そして、四つ折りにされたメモを載せた少女達の掌に、猫の手を模した肉球付の黒い革手袋に包まれた手を翳す。『(ケン)』と『賭博(ペオース)』の神刻(ルーン)文字が刻まれた、『探索』を助けるその手袋を。

 これにより手元の紙ではなく、『少女達の機敏』により読み取った。まぁ、多分にギャンブルだが。そこは、『制空権内(アトモスフィア)』でカバーする。

 

 

『フムフム、読めたニャア。じゃあ次は、転写だナ~ゴ』

 

 

 と、彼女らが左手に持つ封筒に手を翳す。その時の一瞬の煌めきは、錬金術によるもの。これで、読み取ったマークと数字を白紙に転写するのだ。紙の表面を炭化させ、文字にする方式で。

 

 

「もう宜しいのですか?」

『どうぞ、開けてくださいニャア』

 

 

 おずおずと、封筒に納めていた紙を彼女達は取り出し――――一様に驚いた。

 

 

「あ、当たりです」

「私もです……」

「すごいですわ……」

『ニャはは、以上ニャア。Mr.ジャーヴィスのマジックでしたナ~ゴ』

 

 

――魔術と科学の融合……言うなれば、魔術式と科学式による事象改竄とでも言ったところか。

 

 

 詰まり、『魔術(オカルト)である神刻(ルーン)文字と錬金術(アルキミエ)を、科学で得た能力(スキル)である制空権内(アトモスフィア)で強化・反動を中和する』という高度な組み合わせ技を、こんなにも詰まらない事に使用している訳である。

 

 

『さぁ、お捻りはこちらの鞄にお願いするニャア。実はジャーヴィス、こう見えて体が弱いから、軽い紙のお金の方が嬉しいナ~ゴ』

 

 

 やはり戯けて小さめのジュラルミンケースを左手で抱えれば、周囲から笑いと共に小銭が投げ込まれる。

 有り難く、それを受け取る。一つも逃さぬよう、外れたものは足や右手で跳ね上げながら。

 

 

「一体、どんなトリックを? まさか貴男(あなた)、本当に――――」

「――――はいは~い! それじゃあ結局、今日はこれまでな訳よ。皆、ジャーヴィスの次のステージでまた会おうね~!」

『ニャ?』

 

 

 と、色めき立って詰め寄った扇子の少女と嚆矢の間に、いきなり割り込んだ少女が一人。妙に襟の切れ込んだ紺の服に白いミニスカート、パンストを穿いた――金髪碧眼の、帽子の少女は。

 

 

「ではまた来週~!」

 

 

 と、決めポーズのようなものを取った彼女のスカートの裾から『何か』が落ちる。それは――――軍隊で用いられる『M18 発煙手榴弾』に似た物。

 既にピンは、頬に寄せた少女の指先に踊っていた。

 

 

『――――ッ!?』

 

 

 カンッと石畳に落ちた瞬間、手榴弾は凄まじい速さで回転して周囲に毳々(けばけば)しい紫色の煙幕を撒き散らす。

 吸い込むのを防ごうと顔を庇い――――今は、被り物をしていた事を思い出した。

 

 

『焦ったナ――――ゴふっ!?!』

 

 

 思い出した瞬間――――襟首を引っ掴まれて、転びそうな位に低い中腰のまま、後ろ向きに物凄い速度で引き摺られていった。

 

 

「――――このっ!」

 

 

 次の瞬間、立ち昇った煙幕の柱。否、突風が石畳から『噴き出した』のだ。

 

 

「……くっ、逃がしましたわ。この婚后 光子(こんごう みつこ)、一生の不覚……群衆の中にサクラを仕込んでいただけだなんて」

 

 

 煙幕が上昇気流に巻き込まれて噴き上げられれば、後に残ったのは扇子の少女のみ。後の二人が駆け寄る中、忌々しそうに呟いて遠くを見詰めた彼女は。

 

 

「本当に『魔法』かと、わたくし、期待しましたのに……」

 

 

 『純粋培養の御嬢様(常盤台中学生)』は、はぁ、と。憂鬱そうに溜め息を漏らしたのだった…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 振り向く事も出来ぬまま、路地裏を引き摺られ続けていた。既に、数分も。

 辛うじて転倒こそ免れているものの、中腰でのバック走などは元来人間が想定している運動ではない。太股と脹ら脛は、乳酸で発酵寸前である。

 

 

『――――ンニ゛ャッ!??』

 

 

 と、突然の浮遊感と共に天地が逆転する。何の事はない、引き摺られる勢いのままに放り投げられたのだ。

 僅かな滞空時間の後、これでもかとポリ袋の積まれたごみ置き場に突っ込んで事なきを得る。人としては、何か大事なものを失った気分だが。

 

 

『ひ、酷い目に遭ったナ~ゴ……』

 

 

 ごみ置き場から這い出し、本物の猫がするように身繕いをする。その目の前に……小柄な人影は立った。

 

 

「覆面は超取らなくても良いです。アナタに超与えられた選択肢は二つ――何もかも忘れて今まで通り普通に超生きるか。或いは――――」

『ニャ?』

 

 

 オレンジ色の上着のフードを目深に被り、ポケットに手を突っ込んだ――――ホットパンツの少女。

 

 

「学園都市の闇の中で足掻きながら死ぬか、その二つね」

 

 

 そして、いつの間に追い付いたのか。先程の金髪碧眼の少女が、すぐ隣の壁に背を預けて立っていた。その二人の、姿に似合わぬ炯々(けいけい)たる瞳。まるで本物の猫科の猛獣のような、その瞳に。

 

 

『お気遣い有り難うニャア、可愛らしいお(ぜう)さん方。でも、心配には及ばないナ~ゴ』

 

 

 相も変わらぬ、人を小馬鹿にしたような表情の黒猫のままで嚆矢は、否――――暗闇に溶ける漆黒のチェシャ猫は、赤く畜光するニヤけ顔のみを空中に浮かべたように。

 

 

「――――この大能力者(レベル4)正体非在(ザーバウォッカ)』、どちらかと言えば暗部にいた時間の方が長いからな」

 

 

 変声機を切り、低い地声で宣言する。その名は、『確率使い(エンカウンター)』として()()()()()()()()()()()()を付けられる前の、暗部時代の名。

 

 

『親愛を籠めて、Mr.ジャーヴィスと呼んで欲しいニャアゴ』

 

 

 正体不明の、非在の能力に付けられた畏怖の呼び名にして忌み名。

 

 

「――――ふぅん。じゃあ、次は実地試験、と」

 

 

 最後に、ブーツの足音を響かせながら路地の奥から歩み出てきた女性。すぐ脇におかっぱ頭の黒髪、ピンクのジャージの少女を連れた、気の強そうな茶髪のロングの女性は。

 

 

「始めまして、『正体非在(ザーバウォッカ)』のMr.ジャーヴィス。あたしが『アイテム』の(ヘッド)――――超能力者(レベル5)原子崩し(メルトダウナー)』の麦野 沈利(むぎの しずり)よ」

「――――へぇ、アンタが、あの」

 

 

 紫色のワンピースに白いブーツの、嚆矢より年上と思しき。

 

 

「因みにぃ、わざわざ名乗った意味くらいは理解してるわよねぇ?」

「勿論。()()()()()()()()って事だろ、第四位?」

 

 

 230万人の学園都市の頂点に君臨する、七人の超能力者(レベル5)の第四位『原子崩し(メルトダウナー)』が。

 

 

「賢い黒猫ちゃんだこと。嫌いじゃないわよ?」

 

 

 まるで値踏みするかのように笑った――――

 

 

………………

…………

……

 

 

 路地裏の一角。黒塗りの車輌が一台、宵闇に紛れるように静かに停車している。こんな無人の路地に、一体、何の用があると言うのか。

 

 

「……取引相手はまだか?」

 

 

 その車に乗る、黒いスーツ姿の男。キーを回していない車内には冷房も効いていないと言うのに、だ。

 その男が呼び掛けたのは、無線機。その先から――――

 

 

『此方からも、何も確認できていない。取引相手も、それ以外も』

 

 

 響いた男の声は、仲間のもの。少し離れたビルの屋上で、狙撃用にスコープを搭載したライフルを構えた、同じくスーツの眼鏡の男の声である。

 

 

『すっぽかされたか、はたまた……何にしろ、ここに長居は無用だな。この取引がリークされて、始末屋(スイーパー)が雇われたって噂もある』

 

 

 そしてまたも聞こえてきた男の声は、別の仲間のもの。回されたキーにより、車のヘッドライトが輝いた先に立つ、ジェラルミンケースを持つ……やはりスーツの男だ。

 

 

「くわばらくわばら。しかし、影も形もない相手にそんなに警戒しなくても――――」

 

 

 車のハンドルに左手を掛けた男はバックミラーやドアミラーを確認しながら、ギアをニュートラルからローへ。恐れをなしたのだろう取引相手を嘲笑いながら、クラッチを緩やかに離しながら加速しようとして――――

 

 

『――――あら、いるじゃない。貴男の直ぐト・ナ・リ』

「――――ッ?! だ、誰だお前!」

 

 

 携帯電話から漏れた、嘲るような女の声。何処からかジャックされたと思しき、想定外の声に、思わずエンストさせてしまう。

 

 

『おい、なんだ今の声は!』

『くそッ! 何処に!』

 

 

 気付いた外の二人が、殺気立つ。その合間にも。

 

 

『ほぉら、よぉく見てごらんなさいな。ああ、窓に! 窓に! アハハハハハ……!』

「窓――――?」

 

 

 声の言うまま、男達は直ぐ近くの窓を見る。ジュラルミンケースの男は背後のビル、狙撃手の男は対面のビル、車の男は運転席のドアガラスを見遣る。そこで――――

 

 

『――――ニャ~ゴ』

「な――――」

 

 

 見た。見てしまった。車の男は漆黒の虚空に浮かぶ埋め火のような紅の縁取を、人を小馬鹿にしたチェシャ猫の笑顔を。『()()()()()()』を浮かべた、黒豹を。

 そしてもう一つ……ガラスに、暗闇に紛れて見えない黒豹の手の肉球の跡が、ぺたりと付く様を。

 

 

………………

…………

……

 

 

「い――――ギャァァァァァァァァッ!!!!!!!」

 

 

 刹那、男達の耳のインカムに響いた絶叫。いや、それはもう断末魔か。常人ならば狂気や恐慌を来しても余りあるような、仲間の断末魔。

 

 

 見れば、車の男が――――車ごと、球形に圧されている。手足だけが外に晒された状態で藻掻く、実にナンセンスでグロテスクな、ユーモラスな姿の……鼠のような、悪夢めいた機械の獣に。

 その周りには、他に二つ。同じくらいのサイズの、鉛色の卵。ヒビの入った二つの卵が、孵ろうとしている。

 

 

「チッ――――おい、彼処(あそこ)だ! あの、イカれた猫野郎を撃て!」

『猫――――』

 

 

 しかして、彼等とてプロである。仲間の死くらいならば、今までにも無かった訳ではない。瞬時に頭を『交戦』に切り替え、闇に融けるように立つ黒豹を捉えた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 そんなやり取りを、黒豹は車の男から奪ったインカムで聞いていた。残るは二人、約二十メートル先のジュラルミンケースの男と、何処かに潜む狙撃手。

 

 

『おお、憐れな憐れな卵男爵(ハンプティ・ダンプティ)ニャア。眠り鼠(ドーマウス)は夢の中、転んだら一人じゃ起き上がれないナ~ゴ』

 

 

 その内――――黒豹はジッパーの口許を僅かに拡げて煙草を銜えつつ、ジュラルミンケースの男に向き直った。

 

 

『位置についてニャア……よ~い――――』

 

 

 片足を狙撃手の側に置いた鉛の卵に乗せて、空いた左手を『銃』のよう指を伸ばして――――。

 

 

 学園都市の技術は、この都市を囲む塀の外の数世代もの先を行く。そしてそれは学園都市の財産であり、外に出る事はまず有り得ない。もし出たとしても、それは大分型落ちした、学園都市内では旧世代の遺物と成り果てたような技術。それでも外の最先端よりも先をいくと言うのだから、驚きである。

 だからこそ、それを外に持ち出す事で一攫千金を目論む企業や個人は跡を立たない。彼等も、そんな一部。一度でも成功させれば、その先数年は遊んで暮らせる密貿易を目論んでいるのである。

 

 

『捉えた――――巫山戯た格好をしやがって、残飯漁りが!』

 

 

 狙撃手もまた、直ぐさま黒豹をスコープに捉えた。その額に向けて照準を合わせ、引鉄(トリガー)を絞る――――!

 

 

『ドン、ナ~ゴ!』

 

 

 よりも早く、黒豹が号令を掛けたその刹那――――黒豹の足下の卵が弾け跳んだ。その応酬、狙撃手が見た光景は、ほんのコンマ数秒以下の世界。

 明らかに遅れて射ち出されたライフル弾、それを軽々と弾いて疾駆するのは――――。

 

 

『兎――――』

 

 

 その一言を最後に、男の認識は闇に閉ざされる――――。

 

 

………………

…………

……

 

 

 弾け跳んだ、狙撃手が居る筈のビルの屋上を呆然と眺め、ジュラルミンケースの男は一歩後ずさる。もう、距離は五メートル以下。

 

 

『まぁったく、三月躁兎(マーチヘアー)にも困ったもんだニャア、狂い帽子屋(マッドハッター)。完璧にフライングだニャア、やり直しを要求するナ~ゴ』

「なっ……何なんだ、お前はァァァッ!!」

 

 

 目前まで迫った、紫煙を燻らせる黒豹の姿に――――その頭に、半透明の硝子の帽子(ヘルメット)のような形状の複眼型センサー群を持った怪物、中世ドイツの羽付帽子のように車のアンテナが延びる帽子被る黒豹に、完全に気圧されて。

 懐からサバイバルナイフを抜き放ち、突き付ける。

 

 

「ああ、(うるさ)い……なんて(わずら)わしい。黙れ、永久に口を閉ざせ」

 

 

 それに、黒豹は今までの薄気味悪い合成音声を切って、地声を向ける。倦怠と失望、怒りと嘲りの入り交じる、芭李呑(バリトン)の声色を。

 

 

「もう、俺は興味がない。死に逝くお前らになんぞ、僅かにも。憐憫の情すらも湧かない。何故だか解るか――――?」

「知るか、狂人め――――学園都市の改造人間め! 人外の怪物共め!」

「如何にも。俺は『正体不明の怪物(ザーバウォッカ)』だとも」

 

 

 冷めきった氷点以下の問いにも、恐慌を来した彼には届かない。この期に及んでジュラルミンケースを後生大事に抱え、ナイフを振りかざし――――悪態を吐きながら、突進してきた。

 

 

「ハッ、思考すら放棄したか……莫迦め。あぁ、莫迦め! 救い難い莫迦めが!」

 

 

 それを、最早、男を見る事もなく。カーナビによるGPSと暗視カメラの役割をこなす帽子の鍔で顔の見えなくなった黒豹は、左手で黒いネクタイと紅いワイシャツの首元を寛げて。

 

 

「――――ヒギッ!?」

 

 

 男の右腕を『右腕』で拘束する――――いや、ヘシ折った。それは、幾つもの『刃』で構成された、彼の右腕。

 抵抗する事など、もう出来ない。後は、黒豹の為すがままだ。

 

 

「さぁ――――仲間が待ってるぞ」

「まっ……待て、分かった! 儲けは山分け……いや、お前に七割やる、だから助け――――!」

 

 

 もう数センチの距離にある、今まさに顔を上げた――――

 

 

救えぬ莫迦め(アスタ・ラ・ビスタ)――――――――死ね(ベイビー)!」

 

 

 嘲り笑う、燃え盛るような三つの眼を滾らせた漆黒の獣の――――沸き立つ禍々しい奇怪にも機械に似る、確固たる密集した鎧にも群を為した剣にも、唯一生まれ持った拳にも見える追加された複合装甲を纏う、右腕の鉤爪の拳にて鳩尾を撃ち抜いた――――…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 倒れ伏した三人の男を見下ろし、女は満足そうに笑う。

 

 

「へぇ、中々使える能力じゃないか。『正体非在(ザーバウォッカ)』……だっけ? 見たところ、『物質の再構築』ってところか」

 

 

 実地試験の成功に、麦野沈利は満足そうに。そして、微かな不満に、嚆矢へと笑い掛けた。

 

 

『惜しいけど、違うニャア。我が能力は『正体非在(ザーバウォッカ)』。理解しようとした時点でもう、理解できないナ~ゴ』

「あっははは……いやぁ、面白い。いいにゃあ、アンタ。本気で気に入ったよ、性悪(チェシャ)猫ちゃん!」

 

 

 戯けて、くるくる喋る性悪猫。普通ならば、馬鹿にしているのかと憤慨されるだろう一言。だが、沈利はけらけらと、満足そうに笑う。だが、不満そうに彼を見詰める。

 つい、と。額から汗が流れる感触。噂には聞いている、『第四位・原子崩し(メルトダウナー)は、戦闘能力だけならば第三位・超電磁砲(レールガン)を凌駕している』と。

 

 

 嘘か誠かは兎も角、嚆矢程度では逆立ちしたところで雲の上の実力者。その機嫌を損ねれば、どうなるか等……想像に難くない。

 

 

「ところでぇ……あんた、なんで――――標的を三匹とも、生かしておいたのかにゃあ?」

 

 

 見下ろした先、まだ痙攣するスーツ姿の男達。それを見ながらの問いに、嚆矢だけでなく回りの三人までもが凍りついたように。

 

 

「……だ、大丈夫だよ、じゃーびす。そんなじゃーびすを、わたしは応援してる」

『あ、ありがとニャア……滝壺ちゃん』

 

 

 ピンクのジャージのおかっぱ少女滝壺 理后(たきつぼ りごう)の絞り出すような声に、辛うじて返答した。

 当たり前だ、その女は五人の中で最強の能力者。他の四人を、『軍隊で戦術的価値を見いだす事が出来る』大能力者(レベル4)四人を、たった一人で圧倒して余りある――――『たった一人で軍隊を相手取る事が出来る』超能力者(レベル5)なのだから。

 

 

『そりゃあ、生かしとかニャいと情報が手に入らないニャア。こいつらはどう考えても末端、蜥蜴の尻尾ナ~ゴ』

 

 

 それにすら、ニヤケ顔。元々、そんな覆面なのだから。

 

 

 本当に? 先程からずっと、此方を見詰める小躯――――オレンジのフードの小学生(?)絹旗 最愛(きぬはた さいあい)の視線を受けながら。

 

 

『最初はリーダーだけのつもりだったニャア、けど、こいつら没個性の集合体ナ~ゴ。どれがリーダーだか、在り来たりすぎて分からなかったニャア。つまり――――』

 

 

 へらへらと、ころころと。最近流行りの物語に喧嘩を売るように。

 

 

「――――全部、闇の底がお似合いだ。この世の中(リンボ)が金や名声、持ちうる技能の強弱程度で、へらへらと。決定事項のように語れる程度の事しかないと思っている、甘ったれには……な」

 

 

 『黒豹』の声で、転がる三匹を見下す。何の感情を籠める事もなく。この世界に、倦みきった視線で。

 

 

「……はぁい、合格。いやね、漸く見所がある新人が来たわねぇ」

 

 

 それに、沈利は流し目を送る。漸く、興味を引かれたように。果たして、猛獣どころか。その威圧たるや、遥かな古代に慈悲深くも死に絶えた、恐竜が今も健在ならばと思しき瞳。

 

 

「フレンダぁ、アンタ、ジャーヴィスの教育やりなさい」

「りょ、了解――――って、えぇ~~~っ! 何で私……が…………はい、やります。やらせていただきます」

「まぁ、あれね。アンタも、こいつから『暗部的な考え方』を学びなさいな」

 

 

 と、フレンダ……金髪碧眼の少女フレンダ=セイヴェルンが無条件で頷き――――瞬時に慌てる。言い返しはしたが、ほぼ同時に見詰め返された時点で反論は消えた。滝汗と共に。

 

 

「さぁってぇ……それじゃあ、後は他のに任せて撤収ね。あ、因みにジャーヴィス、アンタ、今回はあくまで試験採用だからギャラは無しね」

『ニャ、ニャんですとォォォォォ!? た、タダ働き? 一番嫌いな、タダ働きィィィィィ?!』

 

 

 頭を抱えた構成員を二人に増やして、『アイテム』の(ヘッド)麦野沈利は。

 

 

「夜更かしは美容の大敵だからねぇ……あんまり夜更かししてると、取って食っちゃうわよ?」

 

 

 ウィンクと共に消え逝く、彼女の笑顔。滅多に見れぬ、それこそ、『アイテム』の面々ですらが『珍しい』と口を揃えかねない状況で。

 

 

「「「「――――――――(こわ)ぁ……」」」」

 

 出逢って僅かに数時間だと言うのに、もう、嚆矢とフレンダ、理后、最愛の四人は心を重ねたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七月二十一日:『水神クタアト』

 

 

――ああ……また、此処か。

 

 

 そんな悪態も漏れよう。三度、眼前に広がる窮極の宇宙。痴れ果てた異形の神々が躍り狂う、盲目白痴にして混沌の魔王が座する玉座に。

 前の狂躁は、もう忘れてしまったのか。神々はまたも、生け贄になど興味すら抱かずに。

 

 

『ヨ ウ コ ソ』

「――――――――!」

 

 

 それは、まさに爆音だった。直上で、気化爆弾か皇帝核爆弾(ツァーリ・ボンバ)が炸裂したかのような衝撃。

 酷く辿々しいが、それは存在を、事象を。躯を、精神を。霊魂を――――直接、揺らすような。暴力としか言いようのない衝撃だった。

 

 

『ヨ ウ コ ソ   ア ラ タ ナ ル  ワ ガ セ イ サ ン ヨ』

 

 

 『聖餐』だと。見なくても分かる程に下卑た表情を浮かべている筈の、魔王の声。心臓すら止まったのではないかと思うほどに硬直する生け贄の、頭の上……背後から。

 

 

『コ ノ ミ ギ ウ デ ハ  キ ニ イ ッ タ カ ?』

 

 

 ずるり、と。魔王の手が延びる。文字通りに。烏賊か、蛸か? 何を莫迦な、人間のものだ。形だけは。

 

 

――何だ、あれは。いや、覚えがある。あれは……!

 

 

 それは名状し難く、また、理解する事も出来ない。だからこそ、『生け贄』には馴染み深いだろう。

 笑っている。同時に、妬んでいる。『()()』が得る事も、窺い知る事すらも叶わなかった『魔王』の下賜を賜った『生け贄』に。嘲り、罵りながら――――暗愚のまま、躍っている。

 

 

『ワ ガ  ナ ヲ  ノ ゾ ム  オ ロ カ モ ノ ド モ ヨ』

 

 

 見える。確かに、見えてしまう。見たくもない、その有り様が。

 灰色の町、剥ぎ取られた幻想の彼方。唯一残った、その夢物語。誰しもに忘れられた、この世ならざる大洋(オケアノス)。異形の海豚達と、精霊(ニュムペー)達。優しくこの身を包み、彼方に誘う菫色のスンガクの芳香――――

 

 

――止めろ、止めろ止めろ止めろ! 行きたくない、行きたくない行きたくない行きたくない! 俺は、俺は、そんな所!

 

 

 その『魔王』の手が……沸き立つ禍々しい奇怪にも機械に似る、確固たる密集した鎧にも群を為した剣にも、唯一生まれ持った拳にも見える追加された複合装甲を纏う、右腕の鉤爪の拳が……

 

 

『ダ イ シ ョ ウ ノ ト キ ダ   キ サ マ ノ  タ マ シ イ ヲ  ヨ コ セ !』

 

 

 生け贄の、肩に触れた――――――――

 

 

――ああ、月が。あの、小さな窓の向こうの、狂い嗤う黄金の満月が……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 静かに、目を開く。いつも通りの朝の風景、『錬金術』によって亜麻色に戻した髪までぐっしょりと濡れた程に、大量の寝汗……否、冷や汗か。

 それを拭おうと右手を上げて――――

 

 

「――――ッツ!?」

 

 

 筋肉や腱、関節に骨。右手のあらゆる部位が、盛大に軋みを上げた。

 

 

――何だ、こりゃ……昨夜、寝る時までは何ともなかったのに。

 まさか、昨日の魔術行使の反動か? おっさんの筋肉痛じゃあるまいし……確かに昨夜は、妙に魔術のノリが良くて右手を錬金したりしたけど。

 

 

 針の筵とでも言うべきか、全体を無数の針で貫かれている感覚。間接まで、隙間なく。要するに、最悪の状態である。

 左手で、直ぐ脇のペットボトルの水を掴む。途中、昨日の()()()であるサバイバルナイフを『M9多目的銃剣システム(MPBS)』として作り替えた物と――――自動式拳銃(オートマチック)『コルト・ガバメント』を押し退けて。

 

 

「全く……朝っぱらから気分最悪だな」

 

 

 苦労しつつ汗塗れの寝間着を脱いで濡れタオルで汗を拭い、洗濯した普段着――――カッターシャツとスラックスに着替えた後、学ランをばさりと。船乗りみたく左肩に引っ掛ける。その裏ポケットには、先程の鞘付き銃剣と拳銃が隠匿されている。

 因みに、風紀委員(ジャッジメント)の業務に専念する為に新聞配達のバイトは休職扱い。エリアチーフからは、『いつでも帰っておいで。君みたいに無遅刻無欠勤、時間厳守の優秀社畜……もとい、社員候補はいないからね』との有り難い言葉も頂いている。

 

 

――これを期に辞めようかと思うくらい、目から汗が出そうになったぜ。

 

 

 等と蜂蜜色の黄金瞳を押さえつつ。戸締りを確認し、階段を降りる。そして、庭には……いつも通りの、竹箒の音。

 

 

「おはようございます、撫子さん」

「あら、おはよう、嚆矢くん」

 

 

 この『メゾン・ノスタルジ』の女主人。藤色の和服に割烹着と言う、夏場に有り得ない格好で涼やかに掃除をこなす、名前通りの大和撫子。

 

 

「昨日は、随分遅かったのね。風紀委員ってやっぱり忙しいのね」

「あっ……アハハ、まぁ、そうですね」

 

 

 昨夜、深夜過ぎにこっそり帰って来たのにも気付かれていたようだ。

 もしかしたらと『アイテム』の尾行には気を配っていたが、それが杞憂に終わった安堵から気を抜いてしまっていたらしい。

 

 

「幾ら人の為でも、余り危ない事をしては駄目よ? 貴方の御家族、お友達、それに私も。心配するんだからね」

「うっ……は、はい」

 

 

 まさか、昨夜の事を知っている訳はない筈だが、おっとりと叱られてしまう。こういう噛んで含めるような叱られ方は、頭ごなしに大声を出されるよりも、義母(はは)を思う為に寧ろ心に刺さる。

 

 

「はい、よろしい。それじゃあ、気を付けていってらっしゃい」

「はい、それじゃあ、行ってきます」

 

 

 殊勝に頭を下げた事が幸を奏したか、或いは時間が無い事を慮ってくれたのか。それで話を切り上げた彼女。

 再度頭を下げ、石作りの門扉を抜ける。以前に聞いた話では、切り出した天然石材を並べたらしい、メゾンの四方を覆う壁。その、唯一の出口を。

 

 

「あ、そうだ。昨日、固法ちゃんって女の子から電話があったわよ? よく解らないけど、『明日、支部で心待ちにしてます』って。モテモテね」

「…………」

 

 

 忘れていたかった事を、思い出しながら。

 

 

………………

…………

……

 

 

 とぼとぼと歩いてきた嚆矢が、道々買った缶珈琲……の、当たりで得た二本目のプルタブを空けながら支部の休憩室の席に着く。

 大方の予想通りに美偉に搾られただけだ。その様子は余りにテンプレートな状態だったので、割愛させていただく。

 

 

「ま、自業自得だな」

「うるせーやい……」

 

 

 『巨乳』Tシャツのおむすび頭な巨漢くんが笑いながら肩を叩いた。それを顔も上げずに右手で払――――おうとして、余りの痛みに止めた。

 

 

「じゃ、俺達はもう仕事有るから行くわ」

「何にしても、ちゃんと後輩の面倒は見なよ?」

 

 

 と、他の風紀委員の面々も去っていく。気になる台詞を呟きながら。

 

 

「白井さん、昨日『偏光能力(トリックアート)』とか言う能力者の捕り物で怪我したらしいし」

 

 

 その、矢鱈とペットボトルを持った女生徒としては、何の気なしに言っただけだろう。しかし――――刹那、誰よりも早く扉を潜った影。

 

 

「……あれ? 対馬くんは?」

「……今、物凄い勢いで走っていった」

 

 

 ぽかんと辺りを見回した女生徒、それに答えたのは学生帽子に眼鏡の長身の生徒。

 

 

「ま、責任取らなきゃいけねぇのは間違いないけどな」

「だよねぇ、一応は最年長なわけだし」

「ね~」

 

 

 どう見てもお前の方が不良だろうと言いたいスキンヘッドの学生と、小学生らしいランドセルの金髪の少年、小学生にしか見えない茶髪の学生。そんな、風紀委員達の会話があった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 支部の一室、堅く施錠されたその部屋。中では一体何が行われていると言うのか、誰も彼もの侵入を拒むよう。

 

 

「全く……どんどん怪我が増えてますね、白井さん。妙齢の女の子としてはどうなのかと、最近思うわけですよ」

「それがわたくし達の仕事なのですから、これくらいどうと言うことはありませんの。それより初春、対馬先輩の事でなにか伺ってませんの? 全く、あの方にも困ったものですわ、お陰で固法先輩の機嫌が悪くなる一方ですもの」

 

 

 本来なら、外部からのあらゆる接続を拒絶する扉。『ある人物』により最新鋭のセキュリティに匹敵する電子防壁(ファイヤーウォール)を持つこの支部の、ここに挑むくらいならば警備員(アンチスキル)の支部にハッキングを仕掛ける方がまだ楽な、そんな扉。

 

 

「ええっと、で、でもほら、嚆矢先輩にも事情くらいは――――」

「――――白井ちゃん!」

 

 

 そんな扉をあっさりと、万にどころか億――――否、兆に一つほどの可能性の『誤作動』の確率を、『ラプラスの悪魔(ザーバウォッカ)』は当然のように引き当てて。

 まるで普通の引き戸のように開けて、嚆矢はそこに踏み入った。

 

 

「「――――えぇっっ!?!」」

 

 

 驚いて固まった、チューブ式軟膏を持つ飾利と――――飾利に手当てを受けていたらしい、包帯を巻かれている上半身半裸の黒子の姿。それすらも、気にせず。

 つかつかと歩み寄り、椅子ごと退いた飾利には目もくれずに。

 

 

「済まない、白井ちゃん! こんな大事な時に、俺ァ……俺ァ莫迦だ! もう取り返しなんてつかねぇけど、詫びならどんな事でもする! いや、させてくれ!」

「な、な、な…………!」

 

 

 硬直した、胸元を包帯で覆われたのみの彼女へと。強く握れば砕けてしまいそうな程に白く華奢な、剥き出しの諸肩を両手で掴みながら猛然と謝った。先程の美偉に叱られていた中では、遂に見せていない本当の反省をしながら。

 因みに、その間も黒子は呆気に取られた表情のままで目を白黒させていた。驚きに、ツインテールを逆立てたままで。白井黒子が目を白黒とは、これ如何に。

 

 

「怪我……そうだ、怪我、大丈夫なのか?!」

「おお、落ち着いてください嚆矢先輩! むしろ、怪我が悪化しちゃいますよぉ~! って言うかあの、白井さん、まだ裸……」

 

 

 漸く我に帰った飾利の声が響く。持っていた軟膏のチューブなどは、握り締められた為に全て出てしまっていたり。

 

 

「謝って済む事じゃないのは百も承知だ、いざとなれば……俺が、責任とるから!」

 

 

 そして――――同じく我に帰った黒子が、俯く。髪も、ぱさりと重力に従って。

 

 

「――――あれ?」

 

 

 晒け出された首筋まで羞恥に真っ赤に染める黒子の肩を掴んでいた嚆矢が――――一瞬の浮遊感の後、天地を逆転させて空中に現れて。

 

 

「――――なぁに晒してくれやがってますの~~~~っ!!」

「――――ンがッ!?!」

 

 

 床面に脳天を打ち付けるのと、般若の形相の黒子に顎をスタンピングされたのは、ほぼ同時だった…………。

 

 

………………

…………

……

 

 

 強烈な日差しと、それを照り返す石畳から立ち上る陽炎の波。蝉時雨の降り頻る日盛りには先程から、追い水までもが見える始末。

 本日の学園都市は快晴、気温は三十度。湿度七十%。早くも夏日真っ盛りである。

 

 

「う~ん……」

 

 

 子供ははしゃぎ、大人は辟易する気候。それらの全てを無視し、難しい顔をした嚆矢は……

 

 

「うう~ん…………」

 

 

 難しい顔を『横倒しに固定した』まま、首に包帯を巻いた嚆矢は唸り続けていた。

 

 

「あの……まだ痛むんですか、嚆矢先輩?」

「ん……あ、いや。首の方は別に何ともないさ、飾利ちゃん」

 

 

 心配げに訊ねてきた飾利に、僅かに笑いながら答える。無論、首は動かさない。

 先程の黒子のスタンピングによって軽く脛椎を捻挫した訳だが、その黒子の手当て中だった飾利が持っていた救急箱のお陰で事なきを得ている。

 

 

「自業自得ですの。嫁入り前の乙女の肌に触れるようなケダモノには」

「ちょっ、ちょっ、白井ちゃん。往来でそんな…………はい、私が悪うございました」

 

 

 少し先を歩いていた黒子の、青筋を浮かべた笑顔に軽口を止める。次に同じことをヤられたら、今度こそ首から下が動かない体にされる事だろう。

 

 

――まあ、『空間移動(テレポート)』ばかりはどうしても『確率』とか『理合』が反映される予知が無いし……珍しい能力なのが救いだけど、ホント俺って空間移動能力者(テレポーター)が天敵だな……。

 どうにかして克服しねェとな。『大能力者(レベル4)』の能力者に負けてるようじゃ、『第七位(ナンバーセブン)』に勝つなんて夢のまた夢だ……!

 

 

 と、若干腐りながらも、生来の反骨心からそんな事を考える。しかし、簡単な話ではない。

 自身で評した通り、彼の『確率使い』……『制空権域(アトモスフィア)』は勿論、身体強化の『神刻文字(ルーン)』、昨夜のように『機械人形(ゴーレム)』を生んだり、触れたものを分解・再構築する『錬金術(アルキミエ)』も、『あらゆる防御を無視する』、『触れた瞬間に離れる』、『相手すら飛ばす』彼女の能力の前には無意味だ。

 

 

――殺すのが目的なら『触れた瞬間に分解』するだけで済むが、それも『物を体内に転移』とかされたら攻略されちまう。やっぱり、何か対策を講じないとな。

 

 

 肩を怒らせたままで前を歩く、非常に絡みづらい少女。学園都市230万人中58人しかいない稀少能力の持ち主の中でも、五指どころか、間違いなく三指に入るだろう彼女を見遣る。

 白井黒子――――嚆矢にとっては、初めて会った空間移動能力者(テレポーター)。知識としては『空間移動能力者が天敵』として()()()()()()()が、実際に相手にしたのは彼女が初めてだ。敗北自体は別に、慣れたものだが……初見とは言え、ああまで無様に負けた事は――――最近の『ステイル=マグヌス』も含めて、僅かに数人。

 

 

――それが、この少女。リボンで編んだ茶色のツインテールに常盤台の制服……灰色のスカートとクリーム色のベストに身を包む、(うら)らかな顔立ちの少女。

 十人が十人、美少女と答えるであろうその容姿、しかし惜しむべきかな。彼女は――――所謂、『百合』である。

 

 

「――何を見ていますの?」

「えっ、あっ、いや……別に」

 

 

 と、不機嫌そうに唇を尖らせた顔が目の前に。そこは常盤台クォリティか、先に述べた通りに見た目なら極上の美少女。

 先程見た肢体は青い果実そのものであったが、五年後もすれば、どれ程の女性となっている事だろうか。

 

 

――何て考えてる事がバレたら、今度こそ誅殺されるんだろうなぁ……。

 

 

 あからさまな愛想笑いで茶を濁し、右手を振ろうとして――――忘れていた疼痛が肩まで走り抜ける。

 直接、神経をなぞるような不快な痛みが指先から。腕の中心に籠る、病的な熱のようだ。

 

 

「ッ……兎に角、女の子がこんな炎天下に外回りなんて肌に良くない。巡回は早く済ませよう。そうだ、お詫びも兼ねて、今日の昼は奢るよ」

「貴方はまた……あれだけ固法先輩に叱られても、そんな不真面目な事が言えますのね」

「で、ですけどほら、白井さん。無理して倒れたりしたら、それはそれで固法先輩に叱られますし……」

 

 

 表情は辛うじて、愛想笑いから変えずに。痛みをやり過ごし、代わりにヘラヘラと軽口を。それで更に黒子への心証を悪くしながら。飾利がフォローを入れる程に。

 右腕を庇うように、左腕を翻して詰襟を寛げる。実に暑そうに、学ランの内に籠る熱を逃がす。

 

 

「え~? 褐色肌、駄目~? 私は良いと思うけどな~?」

 

 

 そんな時、後ろから掛かった声。振り向けば……道端の壁際。街路樹の木陰に陣取る、水晶玉占い師の姿。

 

 

「だってさ~、原始、女性は太陽だったんだよ~?」

 

 

 深紅の髪に、アラビアックな衣装の上からサリーと金の装飾を身に纏う――――ニコニコと、屈託の無い笑顔の褐色の娘。

 

 

――あれ……さっき、あんなとこに人なんて居たか?

 

 

 と、微かな違和感。しかし、先程は考え事に集中していたのだから見逃したのだろうと納得して。

 

 

「ところで、君達デート中~?」

「違いますの」

「ハッハッハ、即答かぁ……先輩寂しいよ」

「暇なら、占ってかない~? 今なら、」

 

 

 不機嫌そうな表情のまま、即座にそう返した茣蓙(ござ)に結座し、布で飾られた台に置かれた水晶玉を磨く娘。

 

 

「結構ですわ。この科学全盛の世に、そんな非科学的な事」

「し、白井さん……そんな頭ごなしに……」

 

 

 確かに、頭ごなしである。しかし、この学園都市に於いてはそれが当然だろう。

 かつて、一部の『特別な存在』に挑んだ結果。それが、この学園都市の――――『能力者開発』。人工的な超能力の、製造と精製。

 

 

「おいおい、白井ちゃん……現実は見ての通り、灰色一色の無味乾燥。つまらないもんさ。それに対して、幻想ってのは彩りだ。灰色の現実に潤いを与えてくれる、な」

 

 

 それを可能とした時、人は発展と引き換えに。また一つ、夢見る事を喪ったのだ。

 

 

「だから、夢くらいはみないと。灰色に塗り潰されちまうよ」

 

 

 等と、『数少ない例外』である嚆矢は……幻想が今も、世界の片隅に息づいている事を知る彼は、やはり軽く告げて。

 

 

「では、好きなだけお時間を潰していてくださいな。行きますわよ、初春」

 

 

 それが、遂に堪忍袋の緒を切った。黒子は一度嚆矢を睨み――――直ぐに、飾利へと向き直って。

 

 

「えっ、あの……少し位ならいいんじゃないですかね? えへへ……」

「……あら、そうですの。ええ、もう勝手になさいな」

 

 

 取りなそうと心を砕く彼女の言葉に溜め息を吐いた後、何処へともなく空間移動で消えていった。

 

 

「う~ん、凄い既視感(デジャ・ヴュ)だな。何だっけ?」

「『虚空爆破(グラビトン)事件』の時と同じ展開じゃないですかぁ……嚆矢先輩、あまり白井さんを怒らせないでくださいよぅ……」

「ハハ、つい、ね。可愛い娘は苛めたくなっちまうんだ」

「小学生ですか、もう……」

 

 

 ぷぅ、と膨れた飾利を微笑ましく見遣りながら、困ったものだ、と。

 消えていった黒子を思う。

 

 

――『空間移動能力者(テレポーター)』攻略の方法を研究する為には、白井ちゃんの協力は不可欠だ。

 何とかして、そのくらいの関係には持っていきたいんだが……ああいう娘は、敵対した方が能力を披露して貰いやすいか? しかも、それが俺に向かうなら言う事無いが……。

 

 

 回転させる思考。それは、『正体不明(ザーバウォッカ)』の名残。『もしかすると、攻撃されるかも知れない』と、黒子の空間移動に備えて強度を異能力者(レベル2)から大能力者(レベル4)クラスまで強化した為の、思考の空転。

 

 

――恐らく、大能力者(レベル4)でも上から数えた方が早い。暗部でも、あそこまでの能力者は中々居ないだろう。

 だから、あの能力は()()()()()()()だけの価値がある。俺の『()()』の為に――――

 

 

 遥かな昔、『正体不明の怪物(ザーバウォッカ)』と呼ばれた暗部の()()()……そして再び夜の町に現れ始めた、黒豹の自我。

 渇きに、喉を鳴らす。実に自然に。口角を吊り上げ、鋭い剣牙(けんし)を剥きながら。この町と同じ、涙子達にも感じた通り、能力開発実験の所為(せい)で多少薬品臭いが……先程も思った通り、『見た目なら極上の美少女』なのだから。

 

 

「はいは~い、そこまで~」

 

 

 パン、と鳴らされた掌に正気に戻る。慌てて確認したが、飾利には別段、変わりはない。気取られてはいないようだ。

 

 

――イケねぇイケねぇ。女の子には優しくしないとな。それが、俺の誓約(ゲッシュ)なんだから……

 

 

 そしてその視線は、自然と飾利も見詰める人物へ。

 

 

「それで~、占うの~? 今なら、開店記念で君達、無料だよ~?」

 

 

 ニコニコと、変わらずに屈託の無い笑顔の女に向けられていた。

 

 

「じゃあ、一つ占ってもらおうか、飾利ちゃん?」

「そ、そうですね。良い結果なら信じて、悪い結果なら信じなきゃ良いんですよね? 何にしても減るもんじゃありませんし」

 

 

 折角、無料なのだ。気を取り直して飾利に促せば、何だかんだと乗り気である。やはり、いつの時代でも女の子は占い好きなのだろう。

 

 

「はいは~い、まいど~。じゃあ、この水晶玉に右手を置いて~?」

「あ、はい! こうですか?」

「大丈夫だから~、掴むくらいの勢いでいいよ~?」

 

 

 飾利が水晶玉に右手を置いたのを確認した後、笑顔のまま――――取り出した、古めかしいランプ。彼女はそこに向けて指を鳴らして、『焔』を灯した。

 

 

狂える詩人(アルハズラッド)の名に於いて……さぁ、詠み説こうか――――『■■■■(■■■・■■・■■■)』」

「「…………?」」

 

 

 聞き取れぬ声に、嚆矢と飾利は同時に嘆息する。最早、人間の喉が発した事すら疑念に思う程に。

 それは、まるで――――遥か西方の砂の海で。呪われた蟲が夜中に吠えた、鳴き声のようで。本能的な戦慄を禁じ得ない、そんな声が、口許の薄絹の奥から漏れたとは(にわか)には。

 

 

「ふ~む、健康運はまずまず~。ぶり返すから、あまり無茶はしないように~。仕事運は……ありゃ、君、近い内に大きな事があるから気をつけなよ~? 恋愛運……高望みしなきゃ、いい人なんていないよ~? 世の中、早いもん勝ちだよ~?」

「そっ、そうなんですか……これは、喜んでいい結果なんでしょうか……」

「まぁ、占いなんてそんなもんさ。良いとこだけ信じて、後は教訓。これも一つの考え方だよ」

 

 

 良いのか悪いのか判らない結果に、困った顔を見せた飾利。そんな彼女の肩をポンポンと叩き、慰めて。

 

 

「あ、それと、マンホールに気を付けた方がいいよ~? 開運グッズはライター、知り合いの喫煙者にでも借りよう~」

「マ、マンホールですか……っていうか、知り合いに喫煙者なんて居ませんよぅ……」

 

 

 がっくりと肩を落とした飾利に、追撃した女。その笑顔が……一度も絶やさない笑顔が、嚆矢を見遣る。

 

 

「後、彼氏の方は~……少しくらい無茶しないと、大事なものは守れないよ~? 見返したいなら、問題ないように仕事でね~。やる前から諦めると、一石二鳥なんてないからね~?」

「……成る程」

「ほえ、こ、嚆矢先輩?」

 

 

 一瞬、冷や汗を流す。成る程、そうか、と。この女は――――魔術師だ、と。神刻(ルーン)文字で『癒した』首の包帯を解き、飾利を背に庇うように立つ。

 何故なら、占いは……嚆矢にとって、馴染みのある魔術だから。『樹術師(ドルイド)』である、義母が最も得意とする魔術だから。

 

 

「ふぅ~。それじゃ、迷える子羊も救ったし~」

 

 

 立ち上がる姿。遂に、能面のように張り付いた笑顔を、一度も変えずに。そもそも、薄絹の奥の唇すら動かしていないのに。そんな事にも、今の今まで気付かなかった。

 緊張しながら、微かに震えながら。学ランの裏に隠匿するガバメントを握る。魔術師相手には心許ないが、人類が携行できる科学力では現代の最高水準たる『拳銃』でも、気休め程度にはなる。

 

 

「じゃあ、またね~。右手、大事にね、『■■■■(■■■■■)』閣下?」

「――――ッ!」

「――――ふきゃ!?」

 

 

 掲げられたランプ、そこに灯る赤い焔が、まるで生き物のように揺らめいて肥大し――――破裂した。

 

 

「チッ……」

 

 

 後に残ったのは、いつの間にか聞こえなくなっていた、喧しいまでの蝉時雨。思い出したように肌を苛む陽射しと湿度。

 

 

「ふぇぇ……あ、あれ? あの人は……」

 

 

 女は、影も形も。最早、近くには居ない。居たとしても、果たして本当に『人』だろうか、あれは。

 ほんの刹那、感じた気配。ステイル=マグヌスが『魔女を焼き尽くす地獄の業火』であるなら、あの女の焔は――――

 

 

「……まるで――――『命を持つ恒星の核』……だな」

 

 

 怖気と共に、吐き捨てた生唾。それに乗せて、少年は狂気を押さえ付ける。

 その、強張った顔を解すように、二度ほど張った。

 

 

「一先ず帰ろうか、飾利ちゃん。もう、いい時間だ。昼飯にでもしよう」

 

 

 まだ状況が飲み込めていないらしい飾利の様子に、安堵して……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 室内に入った瞬間、『空調は人類最高の発明品だ』と飾利と語り合い。一旦、身繕いの為に別れた後で、休憩室の空調の前に再集合して陣取る。

 

 

「お待たせしました、嚆矢先輩」

「いやいや、ちっとも」

 

 

 学ランを椅子の背凭れに掛けてカッターシャツ姿になった嚆矢は、弄っていた携帯を仕舞いながら、そう笑って告げた。

 飾利は自分で作ったらしい、可愛らしい包みの小さな弁当をテーブルの上に広げて。

 

 

「あの、嚆矢先輩……お昼、それだけですか?」

「ん? え、おかしいかな?」

 

 

 嚆矢がテーブルの上に置いている、格安の豚骨味のカップ麺と半額シールの張られたお握り二つを見て、心配げな顔をした。

 

 

「おかしいと言うか……栄養偏りますよ?」

「大丈夫、偏らないように醤油、味噌、塩、豚骨、魚介、蕎麦、饂飩(うどん)でローテしてるから」

「それ、完璧に偏ってますよぉ……」

 

 

 はぁ、と溜め息を漏らした彼女。それを尻目に、嚆矢は適時となったカップ麺の蓋を剥ぎ取って割り箸を割る。

 

 

「いやぁ、どうも料理って性に合わないんだよね……何て言うか、分量とか待ち時間とか、どうもね。出来る事って言ったら、『線まで湯を注いで三分』が限界かな」

「それでよく、独り暮らしなんてできますね」

「金が有る時はビニ弁だからね、平気平気」

 

 

 そう、もう独り暮らしして以来の三年もの間、友人と外食する以外はこればっかりである。それでも大病はした事がない辺り、異常に頑健な体である。

 しかし、そんな体でも流石に日射病と熱射病には弱いのか。ズルズルと、涼しい室内で啜る熱いラーメンという贅沢を堪能していると。

 

 

「あの、これ……どうぞ」

 

 

 差し出されたのは、弁当箱の蓋に盛られたポテトサラダとアスパラのベーコン巻き。そして卵焼きと、尻尾付きの海老フライ。

 それは彼女の小さな弁当のおかずの、実に三分の二程の量だ。

 

 

「……いいのかい?」

「い、良いからあげるんですっ。それに、そんな不摂生で倒れでもしたら、風紀委員(ジャッジメント)の名折れですから」

 

 

 『むしろ、君の方が倒れるんじゃないか?』と割り箸を銜えたままぱちくりとそれを見ていると、元々照れ気味だった飾利は、更に顔を赤くして。

 

 

「だいたい、カップ麺とかコンビニ弁当だけじゃ、いつか体を壊しちゃいますから。ちゃんと野菜も摂ってくださいね」

「えっ、だってカップ麺にも野菜が十分」

「入ってる訳があ・り・ま・せ・ん。もう、無頓着過ぎますよ……」

 

 

 繁々と見詰める蜂蜜色の瞳に、花束の少女は呆れたように、照れ隠しのように呟いた。

 

 

「か……神様、仏様、飾利様。このご恩は、生涯忘れません」

「へぅ、や、やめてくださいよ~。それに、嚆矢先輩には『虚空爆破(グラビトン)事件』の時に助けて貰いましたし……その、ささやかな恩返しです」

 

 

 次いで、椅子に正座してテーブルに平伏した嚆矢が飾利を拝み始める。勿論、人気の集中する空調近く。更に、休憩時間の昼飯時。

 

 

「くうっ……苦節十八年、まさか女の子の手作り弁当を食する日が来るなんて……良かった、生きてて……」

「そ、そんな大袈裟な……それに、手作りって言ってもほぼ冷凍食品ですし」

 

 

 有り難く、先ずは野菜から片付ける。何故なら、余り好きではないから。食えない訳ではないが、どっちかと言えば肉類好きである。

 そして何より、楽しみは最後に取っておく性質(たち)なのだ。

 

 

「さて、次は……卵焼き。これと海老フライはどう見ても手作りだね」

「ま、まぁ……あの、今日の卵焼きは結構自信作なんですよ」

「うん、分かるなぁ。綺麗に焼けてるし……うん、出汁が効いてる。甘さもクドくないし、絶品だよ」

「あ、えへへ……ありがとうございます」

 

 

 既に、周りには同じように昼食を取りに来た風紀委員が多数。そんなところでこんなバカップルのような真似をすれば、当然ながら周囲から妬みの視線や舌打ちが聞こえてくる。

 だが、そんなものは今は何処吹く風だ。小粒とは言えど、掛け値無しの美少女のご相伴に与れるなどはあと何度あろうか、と。

 

 

「さぁ、遂に大トリ……海老フライさんだ。三ヶ月と二週間四日ぶりの!」

「なんでそこまで詳細に覚えて……」

 

 

 割り箸で掲げ持つ、狐色にからっと揚がった海老フライ。中サイズだが曲がっていないところを見るに、きちんと下拵えなされている筈。背腸(せわた)も抜かれている事だろう。

 何より、タルタルソースの香ばしい香りが堪らない。箸の感触もサクッと食欲を誘い、期待が膨らむにも程があった。

 

 

「全ての命に感謝して、頂きま――――」

 

 

 一度、蓋の上に置いて尻尾を掴み直し、どこかの美食家のように祈りを捧げて一気に――――

 

 

「いっただきま~~す!」

「――――んなッ!??」

「さ、佐天さん?!」

 

 

 隣から顔を突き出した涙子に、海老フライを一口で奪われた。

 

 

「う~む、衣はサクサク、タルタルの酸味と海老の甘味がユニゾンして……絶品だね、初春!」

「あぁ~っ! ヒデェよ、佐天ちゃん! 尻尾の中身まで根刮ぎ……どうやったんだよ、いつもそこで手間取るからやり方教えてくれよ!」

 

 

 嘆く箸先には、文字通り脱け殻と化した海老フライ。周囲はガッツポーズをしたり、溜飲を下げたような顔をする風紀委員達。

 対して、元凶である涙子は、タルタルソースの付いた唇をペロリと舐めた。

 

 

「何々、初春~? 遂に実力行使で胃袋を掴みにかかったわけ? ひゅ~、やるぅ~」

「ななっ、何を言ってるんですか、佐天さん! ただのお礼ですっ、他意はありませんよっ!」

「またまた~、何とも思ってない人にお弁当上げるわけないし、何よりいまだに私や白井さんは名字呼びの初春が名前で呼ぶなんて……ねぇ」

「そそっ、それは、その……」

 

 

 慌てて椅子から立ち上がり、涙子に詰め寄る飾利。だが、当の涙子は全く受け合わない。制服の裾を翻すと、寧ろ、不敵に笑って攻勢に回っていた。

 

 

「って言うか、どうやって此処に入ってきたんだ、佐天ちゃん?」

「え?」

 

 

 立ち直り、伸びたラーメンを啜り始めた嚆矢が、改めて問う。そう、涙子は『風紀委員(ジャッジメント)』ではない。休憩室とは言え、此所は(れっき)とした公的機関の一室。部外者である涙子が、おいそれと入れるような所ではないのだ。

 何処かの能力者達のように『電子機器をハッキング』したり、『誤作動する確率を引き寄せる』事でもしない限りは。

 

 

「ああ、それなら『初春の友達です』って言って」

「此処も大概に(ザル)だなあ……」

「って、人の名前を勝手に使わないでくださいよ~!」

 

 

――ここの機密(セキュリティ)設定(プログラミング)したっていう『守護神(ゴールキーパー)』とか言う奴も、人的災害(これ)までは防げないらしいな……当たり前だけど。

 

 

 等と、一番楽しみにしていた物を食べられてしまったショックにすっかり塞ぎ混み、モソモソと塩気しかないパサパサのお握りを頬張りながら思う。

 因みに、その『守護神(ゴールキーパー)』がすぐ近くに居るなどとは、想像だにしていない。

 

 

「いやぁ、今日も一人寂しくご飯を食べてるだろう初春の為に来たんだけど……余計なお世話だったかぁ。まさか、初春に『初春』が来てたなんてねぇ~」

「だ、だ~か~ら~! 違いますってば~~っ!」

「あはは、冗談だってぇ。初春は可愛いな~」

 

 

 耳まで真っ赤に染めた飾利は直角に曲げた腕でポカポカと、涙子に『あうあう』と迫っている。

 その間にお握りを完食、スープを飲み干そうとカップの端に口をつけた嚆矢。

 

 

「――――っと!」

 

 

 瞬間、涙子が『両手』を飾利へと差し向けた。それは、嚆矢の側からは良く見て取れない。そして――――

 

 

「――――へあっ!??」

「――――ブふッ!??」

 

 

 まるで『風に吹かれる』ように、飾利のスカートがフワリと舞う。それと全く同時に、嚆矢が飲んでいたスープを吹き出す。

 

 

「いよっし、絶好調! にしても今日はピンクと白のストライプかぁ……」

 

 

 それは、おかしな事である。此所は室内、空調近くであのような風は吹きようがない。そして……涙子は、無能力者(レベル0)の『風力使い(エアロハンド)』だ。

 

 

「さ……さ……」

「ゲホッ! ゴホッ!」

 

 

 だが、それには誰も気付かない。スカートが捲れた飾利はショックで凍り付いているし、嚆矢も豚骨スープが鼻に入ったせいで()せてしまっている。

 外野も見て見ぬ振りか、我関せずを貫いていたから。

 

 

「さぁて、日課も済ませたし、じゃあ私いくね。アケミとむーちゃんとマコちんを待たせてるから」

 

 

 本当に、それだけをやりに来たのか。涙子は上機嫌でスキップしながら、休憩室を去っていった。続き、他の風紀委員達も続々と。この後の事を察して、後を……嚆矢に託して。

 

 

「えほっ……か、飾利ちゃん?」

「さ……さぁ……」

 

 

 漸くリカバリーし、恐る恐る飾利に声を掛ける。刺激しないように、慎重に。さながら、ニトログリセリンの加工のように。

 それに、真っ赤を通り越して茹で蛸状態となっていた彼女は、油の切れた鉄葉(ブリキ)の玩具のように、辿々しい動きで――――

 

 

「佐天さんの……佐天さんの…………佐天さんの――ばぁぁかぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!!!」

 

 

 支部全体が揺れる程の、大音声を響かせた…………。

 

 

………………

…………

……

 

 

「全く……付き合ってられんな、『■■■■■■(■■■■・■■■■■■■■)』」

 

 

 その全てを、暗がりの廃ビルの一室からスコープ越しに覗いていた『彼』は監視を中断する。『風紀委員(ジャッジメント)』第177支部の一室、実に下らない三文芝居が繰り広げられていた休憩室から。

 代わり、取り出したのは――――一冊の本だ。やけに生々しい、湿った肌色をした『ソレ』を開いて。

 

 

「伯父貴達に知らせろ――――■■■■■■・■■■■」

 

 

 実に聞き取り辛い、まるで『人間の肺』ではなく『魚類の(えら)』で声帯を鳴らしたような、そんな(しわが)れた声を。

 そして、『何か』が窓際を伝っての雨水用の樋に飛び込む。ガサゴソと蠢く音は、その『何か』が下水に潜り込むまで続いた。

 

 

「さて……後は、『狩り』の下準備だけか。吸血鬼に有効なのは、大蒜(ガーリック)十字架(クロス)……いや、日光無効(デイ・ウォーカー)にはやはり、『銀の杭(シルバーブレッド)』か」

 

 

 それを見送り、男は――――既に数本目ともなる煙草を床面に捨てて踏み躙る。

 

 

「まぁ、何にしろ……先に雨具の調達か」

 

 

 ……ニヤリと、笑う。晴れ渡った空を見上げながら、もうすぐ『雨』になると。『樹形図の設計者(ツリー・ダイアグラム)』の予報ではない、別の確信に背を押されて。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21.Jury:『Deep Blue』

 

 

 学ランを左肩に引っ掛けて、一人支部を後にする。時刻は既に夕方、久々のデスクワークに手間取った為だ。気温は二十五度と若干下がっているが、湿度は更に上がっていてやはり暑い。そして、後一時間半もすれば夕立が来る。

 学園都市のあらゆる『気象状態』を計測・演算する『樹形図の設計者(ツリー・ダイアグラム)』の予報……否、『予定』に間違いはない。事実、斜陽に染まり始めた遥かな空の際からは、入道雲が顔を覗かせている。

 

 

――帰り着くまでは、約十五分。全然、余裕だ。だから……そうだな、ローズさんのところに顔を出しとくか。

 相談事なら、沢山有る。ステイル=マグヌスの事とか、『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』の事、あの紅い女占い師の事……あの悪夢に現れる、『混沌の玉座』の事を。

 

 

 等と、久々に体に良い物を食べたからか。妙に調子が良い体を軽快に弾ませて。しかし、思考は沈んだまま。尚、飾利は二時間ほど前にデスクワークは済ませて帰っていった。

 少し先の、スクーターが停めてある駐輪場(コインパーキング)を目指して歩く。途中、自販機で缶コーヒーを買ったりしながら。勿論、当りで二本目を手に入れて。

 

 

――つーか、飾利ちゃん……ブラインドタッチで片手間に俺と話しながら報告書を三十分で済ませるとか……凄いな、見縊ってたぜ。

 

 

 人には意外な一面もあるものだ、と唸りながら。彼は、師の待つ喫茶店へとスクーターを走らせた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 カロン、と。氷とグラスが澄んだ音を奏でる室内。年代物の蓄音機に掛けられたレコード盤から、落ち着いたブルースの流れる純喫茶『ダァク・ブラザァフッヅ』のカウンターに座る嚆矢は、相談を伝え終えてアイスコーヒーで喉を湿らせた。

 対面には、浅黒い肌の知的な紳士。紫煙を燻らせながら、燃え盛るような紅の瞳で……手元の1920年代の英字新聞『アーカム・アドヴァタイザー』を読んでいる。見出しの一つには、『現存した魔女の家。取り壊された壁の中から、無数の白骨死体と鼠じみた謎の生き物の骨が見付かる……』と言った内容の記事があった。

 

 

「成る程……十字教徒に襲われましたか。確かに、彼らは魔導書を保管すると言う名目で蒐集していますからね。どんな使い方をしているかまでは知りたくもありませんが」

 

 

 やれやれ、とばかりに単眼鏡(モノクル)を置いて、師父は視線を嚆矢へ向ける。そこには、『全てを知りながら』も口にはしないと言う意思。

 彼は、人が『自ら答えを出すこと』を是としている。故に、安易に『回答』を示すような事はしない。

 

 

「……つまり、彼奴等(アイツら)は――――『禁書目録(インデックス)』とか言う存在を完成させる為に、魔導書を集めてる。俺は、『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』に『狙われている』から、狙われた……って事ですかね?」

良く出来ました、その通りですよ(Thet's right)。魔術師は元来、目的の為には手段を選びません。それが――――人の尊厳を、生命を踏み躙る事だったとしても。無論、私も含めて、ですがね」

 

 

 ふっ、と気怠げに微笑みながらの台詞。意味ありげに細められた、紅の眼差し。それは、まるで見定めるようだ。弟子の『素質』を()めつ(すが)めつ。

 

 

「……まぁ、結局『現実』なんてのはそんなモンですよね。強い者が弱い者を食う、これだけ」

 

 

 それに、苦笑を返す。別に今更、正義感を気取る程に平和な人生は送っていないし、どちらかと言えば『そちら側』の人種である。

 笑いながら触れたのは、学ランの内側に仕込んであるガバメントと多目的銃剣。その、元々の持ち主達の事を思い出す。

 

 

――いや、顔も覚えてないが。まぁ、居たなくらいの記憶だ。今頃は土の下か、海の底か。何処で永遠にゆっくりしているかは、ニアルさんの言葉を借りれば知らないし知りたくもないが。間違いなくこの世には居ないだろう。

 そして、それは――――『俺が死因』なのだ。直接、息の根を止めた訳ではないが、俺が彼等を死なざるを得なくした。そんな奴が、今更。

 

 

「俺も、暗部育ちですからね」

 

 

 全ての意味を、そこに集約する。『感傷(どうてい)』なら、物心が付く前に捨ててきた。だから、今更――――そんなもの。

 

 

「……良い表情です、安心しましたよ、コウジくん。否、『正体不明(ザーバウォッカ)』くん?」

「今は『対馬 嚆矢』です。その名前は勘弁してくださいよ」

 

 

 互いに、笑い合う。そこは、闇に生きる者同士の連帯感か。ある意味、彼等は似た者同士だ。

 一体、どんなコネクションがあれば『魔導書』や『魔道具』を仕入れられるのか分からない師父に、どんな生き方をすれば『暗部』と『日常』を行き来できるのか分からない弟子。

 

 

「それにしても、君はよくよく『魔』を惹き付ける体質のようですね。『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』の向こうの『邪神』から接触を受けるとは……」

「冗談じゃないっすよ……魔本の次は邪神とか。厄介さのレベルが上がってるじゃないですか」

 

 

 話を変えた彼の言葉、妙に楽しそうな姿に、げんなりと肩を落とす。薄々そんな事ではないかと覚悟してはいたが、あの悪夢はやはりそうだったのだと。面と向かって言われると、堪えるモノがあった。

 

 

「こればかりは、なるようにしか。『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』が諦めるまで、正気を失わないように努力するしかありません」

「マジですか?! 二回目でもう、狂い死にそうなくらいだったんですけど!」

 

 

 遂には頭を抱えてしまった嚆矢、そんな彼を心痛を押さえるような表情で見詰めていた紳士は――――

 

 

「――――まあ、冗談ですが」

「ですよね、冗談……へっ?」

 

 

 クスリと、堪えていた笑いを遂に溢し、聞き捨てのならない事を口走った。

 

 

「ええ、『邪神』等と言うモノはこの世には存在しません。魔導書(グリモワール)も魔道具も、全ては近代、かの『H・P・ラヴクラフト』や『A・ダーレス』の作り出したフィクションの神話体系を好んだ、『魔術師の一団』によって再現された贋物(モノ)です」

「あの――――冗談って、冗談ですよね? えっ、じゃあ、あの悪夢は……」

「有り体に言えば、『そう言う副作用がある』魔道具なんですよ、それは。『魔導書が自分達に牙を剥いた時の護符』なんです。なので、世界観を共有する『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』は――――牢獄である『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』を忌避する。そこに潜む『設定』の邪神を。そうなるようにプログラムされているんですよ」

 

 

 ネタバラしは、極めて静かに。そして、極めて盛大に。もしこれがこの男でなければ、今頃はぶん殴っていたかもしれないと。嚆矢は、グッと怒りを抑えた。

 

 

「や――――やってらんねェ……じゃあ、あれは本当にただの『悪夢(ユメ)』!?」

「ええ、深く気にする必要はありません。金と労力、時間の掛からない体験型ホラーシアターだと思っていただければ」

 

 

 がっくりと、更に肩を落とす。心の底から安堵しながら。あの、魂を苛むような悪夢が、意味の無いものであると知って。

 

 

「とは言え、心が弱い者は本当に発狂するレベルですから。気は抜かないように」

「なんかもう、ローズさんの言葉は信じられないんですけど……」

 

 

 忠告も、今は白々しく聞こえると言うもの。不貞腐れながら片肘……左腕の肘をカウンターに突いて、アイスコーヒーを飲む。

 まだ、右腕は動かし辛い。癒しの神刻文字(ルーン)を刻んで数時間は経つと言うのに、だ。

 

 

「はは……そう言えば、先程の話で『夜間の魔術の調子が良かった』と言っていましたが、具体的にはどれくらいです?」

「そうですね……昼間はスクーター一台を錬金術(アルキミエ)でカスタマイズしたり神刻文字(ルーン)五文字刻むだけで軽い交通事故レベルの頭痛なんですけど、夜は車一台を右腕ごと機械兵器(ゴーレム)に作り替えて強化に五文字ずつ刻んだら……右腕が、酷い筋肉痛になったくらいです」

 

 

 フム、と。師父は先程から百八十度正反対の、真面目な顔となる。顎に手を当ててじっとこちらを見詰め、深く思考している。

 

 

「一概には言えませんが、恐らく、君には『夜に三倍の魔力を発揮する』ような性質があるのではないでしょうか?」

「そんな事、あるんですか?」

「無いとも言えませんよ。例えば『円卓王(キング・アーサー)物語』の、『円卓の騎士団(ナイツ・オブ・ラウンド)』の一人……聖剣『日輪の剣(ガラティーン)』の担い手である『緑の騎士』ガウェイン卿は、日中は通常の三倍の力を発揮したと言いますから」

 

 

 そんなものだろうか、と納得するようなしないような。先程の事もあり、半信半疑である。

 何より、『円卓の騎士』だのと。義母(はは)のネガキャンで『騎士の皮を被った蛮族集団』、『疑心暗鬼で内部崩壊した騎士団(笑)』と散々に言われていたモノを引き合いに出されてしまっては。

 

 

「何にせよ、唯一錬金術の秘奥『賢者の石』に達した『三倍偉大な水銀王(ヘルメェス=トリスメギストス)』に通じるモノがある。目を掛けた甲斐がありました」

「へいへい、ノせられ易い弟子で悪ゥ御座いました」

 

 

 そこでアイスコーヒーを飲み干し、勘定を置く。ニアルは年代物のレジスターを弾くと、釣りを渡した。

 因みに、この店ではカード類は一切使えない。『表の商品』も『裏の商品』も全て、本来は現金一括払いである。

 

 

「帰りは雨になりますよ、事故には気を付けて」

「降りだす前には帰り着きますから、大丈夫です。御馳走様でした、また今度」

 

 

 挨拶を交わし、弟子は土の香りと――――磯の香りが入り交じる、雨降り前の曇天の下に。

 湿った空気は、降り出すまでもう時間が無い事を示している。

 

 

「次は是非、食事も頼んでください。コーヒー一杯で一時間なんて、普通は迷惑客扱いですよ?」

「考えときます。お詫びに、次は後輩でも連れてきますよ」

「期待せずに待っていますよ」

 

 

 引き留めるように、そんな声。嚆矢はヘルメットを被りながら、それに答えた。直ぐに、スクーターの軽いエンジンの音とヘッドライトの朧気な輝きが去っていく。

 

 

「……さて」

 

 

 それを見送り、師父は入り口の看板を『Close』として。

 

 

「――――『次があれば』、ね」

 

 

 その眼差しは、雷鳴を孕み始めた空を見上げていた……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 歩道と車道を分離するポールに寄り掛かっていた『彼』は、黒い厚手のレインコートの中から空を見上げる。吐き出す紫煙が、僅かな間、空気を白く汚染する。だが、すぐにき蒼鉛色の、もう、泣き出す一歩手前の空を。

 

 

「――――飢える(イア)!」

 

 

 空間が震えた。世界が(おのの)いた。呟いた声、その悍ましき旋律に。大凡(おおよそ)、人の喉では有り得ない戦慄に。

 それは、まるで……例えるとするなら餓えた鮫が、獲物を見付けた時に。居るとするなら、彼等の『神』を讃える時の祝詞だ。

 

 

飢える(イア)飢える(イア)――――!」

 

 

 昂るように、声が熱を持つ。回りの通行人達が、そんな『彼』を避け始める。だが、その歓喜に酔うように。熱に脳をヤられた獣の如く。『彼』の声は、大気を揺らし――――

 

 

飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)――――深海大司祭(ムグルウナフ)()待ちいたり(フタグン)!」

 

 

 ほとんど絶叫にも似た、両手を広げての祷り。それが天に木霊した時――――ポツリ、ポツリと。乾いていた路面に花開く、雨粒の花弁。それは間を置かず、地表を一面に覆う夕立となり、代わりに傘による色とりどりの花畑が出来上がった。

 皆、一様に足早に帰路に就く。たった今迷惑そうに遠巻きにしていた『彼』等の事は、既に意識の外。

 

 

 その中に、ただ一人。『彼』だけは――――ただ、じっと車道を眺め続けて。通り抜けた、一台のスクーター。予想外の雨に、慌てて飛ばした様子の嚆矢を、目だけで追って。

 

 

「行くぞ――――吸血鬼狩りだ、『水神クタアト(クタアト・アクアディンゲン)』」

 

 

 赤褐色の髪とペイズリーの瞳を持つ白皙の美青年は、右手に携えた――――『()()()()()()』で装丁された『魔導書』に、息吹を掛けた……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 最初は、鼻の頭に当たった一粒。それに少し慌ててスピードを上げたが、一度ひっくり返った雲のバケツから溢れた水は、そんな細やかな抵抗を嘲笑うように一気に下界へと降り注いだ。

 ものの一分としない内に、濡れ鼠だ。更に悪い事に、自宅に帰る道の中で、一番待ち時間が長い信号に引っ掛かってしまう。

 

 

百分の一(サイアク)だな、ッたくよォ!」

 

 

 悪態を漏らしつつ、ハンドル下の収納スペースからゴーグルを取り出す。雨の日対策の防水仕様は、ゴーグルも収納スペースも同じ。代わり、スペースには携帯と財布を突っ込んだ。

 

 

「――――ぶわ!?」

 

 

 と、ゴーグルをつけた刹那、信号が青に替わり――――隣の車が、盛大に水飛沫を吹き掛けてきた。後少し遅ければ、目に入っていた事だろう。

 正に踏んだり蹴ったり。少し良い事があった日だけに、終わりが悪ければ全てが悪く感じてしまう。

 

 

「クソッタレ……ありがとよ!」

 

 

 その車のテールライトに向けて吐き捨て、ゴーグルを拭う。前を見て、己も発進しようとして――――

 

 

「…………」

 

 

 赤に替わっている横断歩道を踏み外した位置に立つ、その男。土砂降りの雨音を引き連れたような、黒いレインコートの男を目前に望んだ。

 

 

「何だ、お前――――」

 

 

 前に進めず、背後からクラクションが鳴る? 否、雨音以外はない。車も、雑踏も。誰も、何も居ない。自分以外の存在を、辺りから一切感じられない。最早、雨に降られている不快感すらもない。感じられるのは、ただ……目の前の男。その、吐き気を催す程の存在感。

 

 

――覚えがある。この感覚は、確かに……あの時の少女と同じだ。

 今なら、分かる。あの少女は『風』で、この男は――――『雨』で、結界を編み上げてやがる!

 

 

 瞬時に、演算(レベル)を最大に。『制空権域(アトモスフィア)』の『対馬 嚆矢』から、『正体不明の怪物(ザーバウォッカ)』へと、回帰する。

 それと、全く同時に。男の右手が上がる。その手に握られた――――

 

 

「――――ではな、カインの末裔(ヴァンパイア)

 

 

 突き出された『Auto(オート)9』――――即ち機関拳銃(マシンピストル)『ベレッタM93R』の改造銃であり、()つロボな警官(コップ)が使用していた、あの怪物拳銃。

 その引鉄が、迷い無く引かれた――――!

 

 

「クッ――――!!」

 

 

 耳を(つんざ)く、三点射(トリプルバースト)の炸裂音。しかし、滝のような雨音に紛れて直ぐに消える。

 『確率使い』により『()()()』雨で足が滑り、そのまま動いていれば脳漿を打ち撒けていただろう初弾を左の頬に掠らせながらも、脱兎の如く走りだした嚆矢を追う鉄の雨。壁際に追い詰められ、辛うじて錬金術(アルキミエ)で迫り上げた路面に『硬化』の神刻文字(ルーン)を刻んだ盾で防ぐ。

 

 

「流石に、露骨が過ぎたか。やはり、近接戦(インファイト)は苦手だ」

 

 

 男は装填された全弾を撃ち尽くし、マガジンを入れ替える。狩人の余裕そのもの、何の淀みもなく。革靴を鳴らしつつ、ゆっくりと歩き出す。

 その間、嚆矢は――――裂けた左頬から滴る血を拭い、痛みに顔を顰める。おまけに、左の耳は先程から上手く機能していない。

 

 

「ッ――――クソッタレが……!」

 

 

 現状分析を終えて驚愕が去れば、後は怒りが沸き上がる。その怒りのまま、懐からガバメントを抜き放つ。

 その性能差たるや。投石紐(スリング)連弩(れんど)ほどもあろうか。

 

 

「何だよ――――何なんだテメェ! クッ……何処の組織だ!」

 

 

 偵察にしろ陽動にしろ、動いた先のアスファルトが銃弾に穿たれてしまい身動き一つ取れない。まるで、『盾』の内側で嚆矢が、どう動いているかが分かっているかのように。

 更に、雨音に紛れる靴音は嚆矢には届きはしないし、先の叫びも自分の耳にすら届かない。それもまた、この『雨の結界』の厄介なところ。

 

 

 対して、男は――――

 

 

「今から死ぬお前が、それを知って――――どうする?」

「――――ッ!?」

 

 

 後頭部に突き付けられた、黒金の銃口。雨音に紛れて、まるで左耳が聞こえない事を庇う為に壁側に右半身を向けていたのを()()()()()かのように、迷わず背後側に回り込んだ男。

 

 

「狙いは『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』なんだろ……こっちもあんなモンとは手ェ切りたいんだ、別に抵抗しねェから持ってけよ」

 

 

 両手を挙げて無抵抗の意を示しつつ、先の少女が『魔導書』を狙っていた事からそう口にする。この男が『彼女』の仲間だと言う確証はなかったが。

 

 

「ああ、そうだ。俺は『愚妹』の尻拭いに来た。アイツがやり残した『仕上げ』をな」

 

 

 読みは当たっていたらしい。それにより、少し興味が湧いたのか。僅かに饒舌となった男は、フードの奥のペイズリーの瞳を歪め――――

 

 

「――――お前を殺す事だよ、闇を彷徨を者(シャドウビルダー)?」

 

 

 嗜虐に瞳を歪め、高揚した様子で告げる。どうやら、最初から交渉の余地が無いと。それだけは、はっきりした。

 

 

「……『カインの末裔(ヴァンパイア)』だの、『闇を彷徨う者(シャドウビルダー)』だの……何の話だよ、人違いだ!」

 

 

 だが、その聞き慣れぬ言葉。少なくとも、『対馬 嚆矢』も『正体不明の怪物』と呼ばれていた頃でも預かり知らぬ言葉に、疑問を投げ掛けた。

 

 

「知らぬか、或いは忘れたか。まぁ、関係はない。貴様は――――この世に居るべき存在ではないんだよ」

 

 

 だが、無感動。最早興味を無くしたのか、彼は――――

 

 

「目覚める事なく、星辰が揃う前に死んでくれ。頼むから、世界を壊す前に――――せめて、その死出の旅路に『深淵の大帝(ノーデンス)』の導きが在らん事を」

 

 

 真摯に、神にでも祈るように言葉を紡いで――――コツン、と。

 

 

「チ――――!」

 

 

 嚆矢が『()()()()()()()()』事に舌打ちし、拳銃を投げ棄てた――――正にその時、錬金術で『銃弾を暴発させられた』Auto9が砕け散る。

 本来なら、即応出来るだけの距離があった。しかし、僅かな興味を抱いて猶予を与えた結果……静かに、蛞蝓の如く忍び寄る事に成功したのだ。

 

 

「――――悪ィな、ニイちゃん。良い女の頼みなら兎も角よォ」

 

 

 その、一瞬の隙に振り返った嚆矢。突き付けられた左手には、ガバメント。鉄色そのままの武骨な、飾り気の無いオールドタイプの銃を構えて――――

 

 

「野郎の頼みなンざァ、聞いてやる義理もねェンだよ――――!」

 

 

 その引鉄を迷わず二度引いて、男の心臓目掛けて鉛玉を放つ。確実に殺すべく、神刻文字(ルーン)による『櫟《ユル》』の毒……『呪詛(ガンド)』を籠めて。

 過たず、二発は男の胸を穿つ――――

 

 

「――――良い判断だったぞ、吸血鬼」

「なッ――――」

 

 

 事はなく……虚空に波紋を刻みながら、見えない壁にめり込むように止まる。波紋がなければ気付かない程に薄く透明な、高圧の水によって。

 

 

「この俺に――――ティトゥス=クロウに、『水神クタアト(クタアト・アクアディンゲン)』がなければ」

 

 

 レインコートの内の、彼の『魔導書』が姿を表す。雨に濡れた体が、魂に感じた寒気から震えた。

 悲鳴を上げているような『人間の顔の皮』が張られた、冒涜的にも程がある装丁。漏れ出るのは病的な、暗く淀んだ潮の香り。深みに潜む、水妖の気配。

 

 

――やっぱり魔導師かよ……クソッタレ、どうする……! このままじゃ、ジリ貧で負ける!

 

 

 次いで、レインコートの奥から取り出されたのは――――黒い長方形。右腕に持つ、それは――――

 

 

機関銃(マシンガン)――――!」

 

 

 盾とした壁を踏み越え、一気に距離を稼ぐ。刹那、『LMG11』――――ケースレス銃弾を用いた、装弾数三百発を誇る軽機関銃が軽快に火を吹く。

 

 

「巫山戯ンじゃねェ、一人相手に用いるような銃器かよ!」

 

 

 『盾』としたアスファルトを易々と砕いて破片を撒きながら。鉄の雨は、停めてあった車のボンネットをスライディングして弾避けとした嚆矢に()()()()

 何らかの魔術的処置が施されているのか、『盾』は易々と貫通した銃弾も、車は貫いてこない。そして幸いな事に、この車は電気自動車なので『銃撃でガソリンが誘爆』等と言う事もない。

 

 

――どうする? あの魔導師に勝つには……何をすればいい! 対策を立てたくても、余りに情報が足りない。分かっているのは、奴が『水』を主体とする魔導師で銃器主体の戦闘を好む事、そして……何らかの方法で、こちらの動きを読む事。魔術も、科学も通じない事。

 恐らく……この雨が、その絡繰り。奴は、どこまでかは解らないが――――雨によって、獲物の動きを先読みしているんだろう。

 

 

 その見立て通り、またもや動けばその先に銃弾がバラ撒かれる。『彼』――――ティトゥス=クロウと名乗ったその男は、雨音に紛れて近付きながら。

 

 

――待て。なんだ、この違和感は? 今は先読みされてるけど、ついさっきは、確か……!

 

 

 そこまで考えて、漸く『切欠』を見る。糸屑一本程の僅かな綻び、その『可能性』を。

 見遣る、足元の水溜まり。拡がる波紋。次いで、車。金属の塊。雨を弾く車体。そして――――懐から取り出した、『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』を嵌め込んだ懐中時計と神刻文字(ルーン)の刻まれた幸運の護符(ラビッツフット)

 

 

「……ハッ、考えるまでもねェ。しくじりゃ死ぬが、やらなくても死ぬんだ。だったら――――」

 

 

 気を取り直し、背中を車に預ける。動悸を押さえ付ける為に、息を吐く。確認は取った、今は、もう――――午後七時。見えはしないが、間違いはない。この雲の上には――――

 

 

「こっからは、『夜の王(オレ)』の時間(ターン)だ――――!」

 

 

 右手を、高く掲げる。『在る筈』の黄金の月に向けて。霊質(エーテル)の海に揺蕩いながら狂い笑っているであろう、狂気に溺れた虚空の彼方へと。

 右腕に満ちる、不可思議な力。もうそこに、倦怠や苦痛はない。むしろ、今までに無い程の活力を感じる。

 

 

「……出てこないのならば、こちらから行こう」

 

 

 声は互いに、雨に掻き消されて届かない。嚆矢が天に右腕を翳したのと、ティトゥスが前方に『水神クタアト』を翳したのは全く同時。

 先に動きがあったのは、ティトゥスの正面。圧縮された水の鞭が、彼の左腕の動きに合わせて音に等しい速度で振るわれ――――鋼鉄の車体を、不純物を混ぜたウォーターカッターの原理で右袈裟懸けに削り斬った。

 

 

「――――ッ!?」

 

 

 瞬間、切断された車体の後半部分が『三月躁兎(マーチ・ヘアー)』――――突撃型の機械偶像(ゴーレム)と化す。

 跳躍は速やかに。時速100キロを越える加速により、質量兵器としての破壊力は申し分なく。

 

 

「無駄だ――――」

 

 

 沸き上がるように周囲の水を集中させた巨大な水塊(スライム)に囚われた兎は、ティトゥスの左手の『水神クタアト』が閉じられると同時に、深海の如き水圧に圧壊する。

 水塊内に拡がる、漏れ出たブレーキオイルの黒。そのまま、彼は――――

 

 

「――――稚拙な陽動だ。所詮は餓鬼か!」

 

 

 右の軽機関銃を、その後ろから飛び出した嚆矢の眉間に向けてトリガーを引く――――。

 

 

「そうかよ――――!」

 

 

 それより早く、嚆矢は左のガバメントより『櫟の毒礫(フィンの一撃)』を放つ。狙いはティトゥス――――しかし、兎を捻り潰した水の塊は、その射線上にて膜と化す。

 

 

「無駄だと言った――――この『ナアク・ティトの障壁』は、魔術だろうと超能力だろうと貫けはしない!」

 

 

 それこそは、彼の切り札。『あらゆる邪悪を遮断する』という、その障壁。海の浄化力を象徴する、『水神クタアト』の(ページ)の一枚。そこに高圧の水の塊による守りを加えた、彼にとっての最強の盾。

 それに、銃弾はあっさりと防がれた。魔術的な強化を削ぎ落とされて只の銃弾に戻ってしまっては、深海の水圧には耐えられない。投げ出され、転がった『三月躁兎』のように。

 

 

洒落(しゃら)臭ェ――――この程度で!」

 

 

 振るわれたのは、右腕。沸き立つ禍々しい奇怪にも機械に似る、確固たる密集した鎧にも群を為した剣にも、唯一生まれ持った拳にも見える追加された複合装甲を纏う、右腕の鉤爪の拳。

 あの悪夢の中より得た印象(インスピレーション)、邪悪で醜悪な『魔王の右腕(いちぶ)』。それを、現実の金属や機械で再現した『贋物の偽物(フェイク・オブ・フェイク)』。

 

 

「何――――莫迦な、魔導書(グリモワール)も無しに……まさかもう貴様の『クルーシュチャ方程式』は、『具現(エンボディ)』の階位(ステージ)に至ったと言うのか!?」

 

 

 初めて、『男』が驚愕を見せる。それは、僅かだが確かな隙。些細だが、取り返しのつかない隙だ。犇めく装甲が、悪意の結晶が。あらゆる邪悪を遮断する『ナアク・ティトの障壁』に触れる。

 

 

「だが、やはり無駄だ――――この俺の『ナアク・ティトの障壁(マイ・フェイバリット)』は、既に『顕在(アクチュアル)』の階位(ステージ)にある!」

 

 

 削ぎ落とされた邪悪なる神性、水塊に飲み込まれて動かす事も出来なくなる右腕。いくら『神を模した』物であろうと、それが魔術であるのなら『ナアク・ティトの障壁』は打ち消せない。

 軋み始めた、右腕の刃にして鎧。後は、捩じ切られてしまうだけ――――

 

 

「――――知り合いに『電撃使い』が居るんだけどよォ」

「何――――?」

 

 

 突然の言葉に、ティトゥスは怪訝な表情を見せた。盤で行う遊びで言うなら、既に『詰んだ(チェックメイト)』状態である男の、不敵な笑みに。

 それと、同時に――――

 

 

「ぎ――――が、ハ!?!」

 

 

 ティトゥスを、電気自動車のバッテリーから発された約三千ボルトが襲う。それは、足下の水を伝って。車のタイヤゴムを纏わせ、アースとした嚆矢には効果を成さなかったが……周囲の水を操っていたティトゥスは、直撃を避け得ない。

 一度感電してしまえば、もう他の事など考えられないし動けない。そもそも、人の思考も行動も『電気信号』によるもの。より強い電流は、人の体を『 誤作動』させるのだ。

 

 

「優しいモンだよなァ、アイツ。少し前に十万ボルトやられたけど、キレてても殺す気は皆無だもんなァ、何せ……」

 

 

 電撃(それ)を発した『右腕』、纏わり付いていた『不純物(ブレーキオイル)』を溶かす水塊が、制御を失って路面に崩れていく。

 次いで、ティトゥスが崩れ落ちる。『たかだか三千ボルト』、この学園都市の頂点に立つ超能力者(レベル5)の第三位、最強の電撃使い(エレクトロマスター)である『超電磁砲(レールガン)』の最大出力(マックス)である十億ボルトと比べれば、大した事の無い数字だろう。

 

 

「……人を殺すだけなら、1アンペア有りゃあ良いのにな」

 

 

 だが、それでも――――『人の致死電流量』である『1アンペア』を流されたティトゥスの心臓は、既に停止していた。

 ずしゃり、と俯せに倒れた男の体。その死体を見下ろし――――止めに迷わず心臓に二発、頭に一発をガバメントから撃ち込んで。

 

 

「……チッ」

 

 

 舌打ちが響く。それは、蠢いた『男』を蹴り飛ばして――――レインコートの下の蟹や舟虫、宿借などの集合体を望んで。

 

 

「……まぁ、助かったか。これ以上は」

 

 

 明るさに見上げれば、雨の上がった雲の切れ間から。覗いている黄金の月の光の『天使の梯子(エンジェル・ラダー)』が、祝福でもするかのように降り注いでいる。

 それと同時に、何処からともなく人の気配。車の音。耳障りな、懐かしいほどの雑踏が帰ってきた。

 

 

「……俺も、帰るか」

 

 

 疲れ果てて気怠い体に鞭打つように、スクーターを起こして。辺りの惨状から目を背けて。面倒な事になる前に、脱兎の如く走り出した…………。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断章 アカシャ年代記=Akasha-Chronicle
??.----・error:『Nyarlathotep』


 

 

 水滴。雨の上がった宵の空から最後に一滴、ポタリと。学ランに袖を通し、右腕を抱き抱えるようにした亜麻色の髪に蜂蜜色の瞳を持つ少年へと。

 

 

「クソッタレ……ああ、痛ェ」

 

 

 漸くメゾンに帰り着いた頃には、既に星空。黄金の月より降り注ぐ、純銀の月影。

 それだけの時間を、警戒に警戒を重ねて遠回りして来た為に費やした。そしてその時間は、それだけ頭を冷やす時間となり――――また、現状を認識して、無茶な事をした『反動』が来るには十分過ぎた。

 

 

「ッ――――!?」

 

 

 体温を奪い尽くすように凍える右腕の骨の髄、その奥から震えが沸き上がる。ほんの僅か、指先を震わせるだけでも気の遠くなる激痛。頬の血は止まっているが、代わりに酷く意識が霞んでいる。

 額に触れてみれば、成る程、よくここまでスクーターを運転出来たほどの低体温だった。

 

 

「事故りそうになったのも、事故らなかったのも、腕の痛みのお陰ッてか……」

 

 

 皮肉げに笑い、心配をかけるだけの今の格好で大家に出会(でくわ)さない事を願いながら、階段を登り――――

 

 

「嚆矢くん……? お帰りなさ……」

「あ――――撫子さん」

 

 

 しかし、嘲笑する神の巡り合わせか。そういう時に限って、鉢合わせてしまう。

 

 

「あら……あらあら、大変! 直ぐに救急箱を……ううん、温まるのが先ね。お湯は湧いてるから」

 

 

 初めは、にこやかだった顔がみるみる青ざめる。慌てて肩を貸してくるせいで、藤色の着物や美しい黒髪がびしょ濡れになってしまっていた。

 

 

「だ、大丈夫ですから、撫子さん」

「駄目よ。大人しくしてなさい」

 

 

 断ろうと口を開くもいつにない強い語勢と、力を込めるも振り払うどころか揺るがす事すらも叶わない。

 そこまで衰弱しているのだ、今の彼は。

 

 

――いや、だから……

 

 

 だから、その芳しさに(たが)が外れそうになる。艶やかな黒髪に映える、白く透き通る(うなじ)。香水だろうか、仄かに甘い麝香(じゃこう)の香り。

 

 

 ゴクリと、喉が鳴る。あの絹のような皮膚の下には、紅い血潮が駆け巡っている。

 それを啜ればこの苦痛と倦怠から逃れられると、否、今まで得た事もない法悦が手に入ると本能が騒いでいた。

 

 

「嚆矢くん?」

 

 

 ふと、此方を見る黒曜石の瞳。吸い込まれそうな程に深い、黒の瞳が――――心配そうに。

 

 

『――――ではな、カインの末裔(ヴァンパイア)

 

 

 思い出したのは、ほんの少し前。高圧的に、断言しきったレインコートの男……ティトゥス=クロウの、聞き捨てならない言葉の一つ。

 

 

「ッ――――本当に大丈夫です、撫子さん! 風呂なら一人で入れますから!」

 

 

 それに辛うじて、踏み留まる。震える紫色の唇で、カチカチと歯を鳴らしながら……必死に、安堵させようと笑い掛ける。不思議な事に、()()()()()

 無論、そんな顔色で完全に安心などさせられる訳がない。撫子は、変わらず不安そうな表情だったが。

 

 

「……そう? 無理しちゃ駄目よ、後で温かいもの、持っていくから」

「ありがとうございます、ご迷惑をお掛けしてすみません」

「いいのよ。後、少しずつ温めるのよ? いきなりは体に毒なんだからね」

 

 

 頭を下げ、風呂を借りる。着替えは、撫子の好意で設置されている各借り主用の自分のロッカーから取り出す。

 それだけで、酷く疲労した。だが、湯船から立ち上る湯気が僅かに活力を取り戻してくれた。

 

 

「…………早く寝たい」

 

 

 ふらつく体と霞む意識で思ったのは、ただそれだけだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 水滴。切妻屋根の庇から最後に一滴、ポタリと。ベランダの椅子に座り、ガウン姿で夕涼みをしていた褐色肌白髪のサングラスの巨漢へと。

 安ホテルの一室、一番最上階のこの部屋は、ある意味ではこのホテルのスイートルームか。部屋の中では、ベッドの上で暇そうに銃の手入れをしている翡翠髪白金瞳の娘。

 

 

「――――遅かったじゃねぇか。で、首尾よく運んだのか?」

 

 

 ピチャリ、と。雫の滴る音。それに、白髪の巨漢は半笑いで問い掛けた。全てを知りながら。

 

 

「……話が違う。ただの吸血鬼だとしか聞いていなかったのに、具現階位(ステージ2)等と」

 

 

 それに、何処からともなく現れた――――頭から爪先までびしょ濡れの、赤褐色の髪の美青年……米国海兵の迷彩服と軍靴、紺のTシャツで筋肉質な体を覆い、首に下げたドッグタグを揺らしたティトゥス=クロウは、ペイズリーの瞳を怒りに染めながら。

 

 

「お前が逃した魚は、随分な大物だぞ――――なぁ、『セラ』?」

「うっ……べ、別にボクが兄貴に頼んだ訳じゃないじゃんか! 伯父貴が『兄貴に任せとけ』って言うから、仕方なくそうしたんだい! じゃなきゃ、こんなとこでうだうだやってないっつの!」

 

 

 睨み付けられて一瞬たじろいだ娘だったが、直ぐに鋭い牙を剥いて反論する。それは目の前の青年に対して、というよりは、今も薄ら笑う壮年の男に対しての意味合いが強いだろう。

 

 

「何だ、放蕩娘(クソガキ)。俺の采配が悪いってのか?」

「少なくとも、良くはないじゃんさ!」

 

 

 それに異論はないのか、ティトゥスも口は挟まない。元々、無口な性質(たち)というのもあるが。

 

 

「ああ、ウルセェなあ……折角、黄金の国(ジパング)で休暇だったっつーのに、何が悲しくて糞餓鬼共の面倒を見なきゃいけねぇってんだ」

 

 

 それを尻目に大瓶のビールを喇叭飲みしながら、男性は実に鬱陶しげに呟いた。

 

 

「言われた事しか出来ねぇ頭ん中まで空っ風吹いてる莫迦と、テメェの腕を過信した上に敵を過小評価して負け帰ってきた莫迦。揃って、協力し合う事もやりゃあしねぇ莫迦共。こんな奴等が期待の最精鋭だってんだから、こりゃあいよいよ『協同協会(ファウンデーション)』も()めぇだな――――」

 

 

 グシャリ、と『瓶』が握り潰され、砕けた。『缶』ではない、『瓶』が、である。更にその拳を押し込むと、飴細工のように鋼鉄のテーブルがひしゃげた。

 

 

「『具現(エンボディ)』まで済ませてるなら、次は『顕在(アクチュアル)』だ。もしそれを許せば、更に厄介な事になる。この世の終わりが、目前になる」

 

 

 その背中に満ちる怒気に、気圧された二人は――――どちらも、呼吸すら(まま)ならない。

 

 

「俺達の役目は、情けを掛けてやる事でも言い訳をする事でもねぇんだよ、木瓜茄子(ボケナス)共! 俺達がやらなきゃいけねぇのは、『黒い神』の目的を何としても挫く事だ! 『カルネテルの使者』に見せ付けてやらなきゃいけねぇんだ、この世界は――――」

 

 

 大気を軋ませるように声を張り上げ、天を衝くかのような大男が立ち上がる。

 ガウンから覗く肌は、歴戦の刃金。切創に刺創、擦過創に裂創、熱瘡に凍瘡、刀創、銃創。傷の無い場所こそが、見当たらない。それは正に、この男が歩んできた人生の記録。

 

 

「――――人のものだ。絶対に……憐れな話だとは思うが、双子のどちらか一方だろうと目覚めさせる訳にはいかねぇんだ!」

 

 

 地鳴りか雷鳴の如き宣言は、虚空を揺らす。それは、今此処には居ない誰かに向けた者であり――――……

 

 

『――――やれやれ』

 

 

 その『誰か』は、今も、今も。何処とも知れぬ『闇』に包まれて、静かに冷笑を浮かべている――――――――……

 

 

………………

…………

……

 

 

 水滴。無窮の虚空から霊質(エーテル)の一滴が、ポタリと。それに目を醒ました、天魔(あま)色の髪に蜂蜜酒の瞳を持つ少年が見たのは――――海岸。

 

 

「此所は……」

 

 

 金色の塵が舞う、菫色の霧。夜明けの青に煌めく銀燐。星の煌めきだと気付いたのは、僅かに遅れて。

 明瞭となりゆく意識がまず認めたのは、白く香しいロトスの花。そして紅いカメロテが、星を(ちりば)めたかのように咲き乱れた海岸だった。

 

 

「あぁ――――やっと目を醒ましたのね」

「あぁ――――ついに目を醒ましたんだ」

 

 

 声が降る。煌めく花と星の砂の褥横たわる彼の、背後から。全く同じ声色、しかし正反対のイントネーションで。

 目を向けた先、混沌が渦を巻く宇宙の天元。宇宙を満たす霊質(エーテル)の波が押し寄せる、『揺り籠』で。

 

 

「驚いたわ。ここまで来てくれたのは、貴方が初めてなの。他の皆は、お外で震えてるだけなのよ?」

 

 

 歓喜に、期待に満ちるソプラノの声は――――黄金の少女。燃え立つ燐光を放つような黄金の髪に、暗黒物質(シャドー・マター)を溶かしたような漆黒のドレスを纏う、薄紅色の星虹(ネビュラ)の瞳。

 

 

「驚いたよ、ここまで来たのは君くらいだ。他の皆みたく、外で震えてればそれで良かったのにさ」

 

 

 落胆に、諦観に満ちるソプラノの声は――――純銀の少女。凍てつく燐光を放つような純銀の髪に、鏡像物質(ミラー・マター)を溶かしたような純白のドレスを纏う、薄蒼色の星虹(ネビュラ)の瞳。

 

 

「ねえ、お願い。わたし、貴方のお話を聞きたいわ。お外のお話を、良いでしょう?」

 

 

 人懐こく、満面の笑顔で『右手』を取る黄金の少女。その温かい右掌は、まるで日輪。

 連想したのは、好奇心旺盛な仔犬か。尻尾が有れば振っているだろうと、容易に想像できる。見た目よりも幼く見えるそんな仕草に、知らず口許が綻ぶ。

 

 

「ねえ、お願い。早く帰ってよ。ワタシ、君になんて何の用もないんだ。何も、何も」

 

 

 突き放す、仏頂面にて『右手』を押してくる純銀の少女。その冷たい右掌は、まるで月輪。

 連想したのは、警戒心剥き出しの仔猫か。尻尾が有れば逆立てているだろうと、容易に想像できる。見た目よりも確りしたそんな仕草に、知らず口許が綻ぶ。

 

 

「ああ、そうか……」

 

 

 覚えがある。この感覚には、覚えがある。そう、この感覚は――――

 

 

「あの、悪夢(ゆめ)か」

 

 

 そう、夢だ。あの、悪意に満ちた混沌の玉座と同じ。痴れ狂う天上(そら)の神々、痴れ狂う地下(ほし)の神々。その讃えるモノと同じ、狂気の戸口の内と外。

 這いずるように、この肩に手を置いた――――あの『代行者』と同じ。

 

 

――夢だって判ったから、こういう風に改変したのか? 全く、俺も大概だな……。

 

 

 呆れながら、しかし悪い気はしないので、楽しみながら。少女達を見やる。

 

 

「ゆめ? 夢って、何の夢? 貴方も、夢を見るの?」

「ゆめ? あぁ、夢だね。君がそれでいいのなら、さ」

 

 

 興味深げに、興味なさげに。二人の少女はそれぞれ引き、押す。相反する二つは、しかし拮抗し、最終的に『何も』為さない。

 そんな在り方に、何故だろうか。憐れみとは違う、愛しさとも違う。まるで――――まるで、恐れにも似た感情が胸を占めて。

 

 

『駄目だ、このままじゃ。どちらかの手を、()()選ばないと――――』

 

 

 思い至ったのは、そんな事。まるで、誰かにそう囁かれたように。己の、耳許で忍び笑う『影』にも気付かずに。

 そして、その掌は……速やかに。焦燥にも似た強迫観念で迫った、『彼』の意志を体現する。耳許で嘲る、『影』の声なき哄笑を浴びながら。

 

 

「――――まあまあ。先ずは、自己紹介からかな。俺は……」

 

 

 にこりと、いつも通りに。彼の誓約(ゲッシュ)、『女の子に優しくする』のままに――――どちらの『少女』に対しても。

 多少の好意を見せてくれる飾利にも、自分を嫌う黒子にも、同じように笑うように。へらへらと、軽口を叩いた。

 

 

『――――――――やれやれ』

 

 

 呆れたように、楽しむように。何処へともなく消えた『影』に、気付く事もなく。

 

 

「俺は、嚆矢だ。宜しくな」

 

 

 重ねられた二つの『右手』と、握手する。それに、二人は揃って不思議そうに。

 

 

「……名前。そう、名前」

「名前。ああ、名前……」

 

 

 黄金の少女は、歓喜するように。握り返す掌は、煌めくように。

 純銀の少女は、不貞腐るように。突き放す掌は、煌めくように。

 

 

「わたしはね、『()()()()()()()()()()』って言うのよ。御父様が、そう仰ってたの」

 

 

 応え、にこりと笑う少女。無邪気な笑顔で、『無垢』そのものの彼女――――『二十六文字(AからZ)賢者の石(アゾス)』と名乗った『彼女』と。

 

 

「ワタシはね、君なんて要らない。君も、私なんて要らないでしょう? どうせ最期は全てワタシに還るんだから、名前なんてモノは意味がない。御父様が、そう仰ってたもの」

 

 

 応えず、つんとそっぽを向いた少女。不貞た仏頂面のままで、『無垢』そのものの彼女――――まだ名も知らぬ『彼女』は、相反しながら、だからこそ調律していた。

 

 

『そこまでだよ、嚆矢(ザーバウォッカ)――――』

 

 

 響く声。それは、誰の声だろうか。此処には、三人しかいないのだ。

 では、その声は?

 

 

「ああ……ゴメン。どうも――――そろそろ、お別れみたいだ」

 

 

 囁く声。それは、二人に向けて。残念そうに嚆矢は呟く。もう、目覚める時間だと。誰かに言われた気がして。

 

 

「もう、帰ってしまうの? まだ、貴方のお話を聞いていないわ」

「やっと、帰ってくれるの。もう、君に聞くべき事なんてないよ」

 

 

 残念そうに、黄金の少女は右手を引く。辟易したと、純銀の少女は右手を押す。

 それらの全てを見ていた――――

 

 

『さあ、また始まるよ。あの遊び場(ソナ=ニル)で、君の『クルーシュチャ方程式(悲劇と言う名の喜劇)』が。また、終わりの時までさようならだ』

 

 

――月が、笑っている。姿の見えない、()()が。『黒い神』が、狂い果てた■■を嘲笑って――――――――

 

 

「また、来てね? 約束よ、こうじ? 次は、貴方の『物語』を聞かせてね。だってわたし、いつも――――」

「もう、来ないで。約束よ、コウジ。ここは、貴方の『物語』に記さないで。だってワタシ、結局は――――」

 

 

 二人は、全く同じように。全く違う事を口にして。揃って――――

 

 

「「一人だから、寂しいもの」」

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()かのように。『寂しい』と、まるで――――窮極の宇宙の中心で、混沌と退屈に悶えるように。劫初の地球の中心で、泥濘と絶えず蠢くように。

 重ねていた、常に触れ合おうとしていた右手を離した。だから――――

 

 

「ああ――――また、来るよ。今度こそ、楽しい『物語』を持って来る」

 

 

 半ば、意地で。黒に染まる意識に、大好きな群青菫(アイオライト)を思い描いて。

 

 

「だから――――」

 

 

 閉ざされる。あの戸口は、もう開かない。その時までは、絶対に。

 笑っている。声もなく、姿もなく。音もなく、光もなく、混沌のただ中で。もう、届く筈もない。もう、もう――――

 

 

「だから、俺は――――」

 

 

 右手。人のままの。温もりと冷たさ、その二つが残った右手を――――

 

 

『今晩は、我が聖餐よ』

 

 

 掴み、掠れた声で呼び、目の前で狂い笑う黒い道化師。闇に彷徨う深紅の三つ目、蝙蝠の如き(つばさ)の造化の神々。

 それに付き従い、愚者を嘲るように呪われたフルートをか細く鳴らし、くぐもった太鼓を下劣に連打して躍り狂う蕃神達より――――…………



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2章・chapterⅡ Doel Chants/幻想御手事件
七月二十二日:『闇に吠えるもの』


 

 

 明けやらぬ未明の学園都市、その闇の帳の中。過密なるこの都市の、数えきれない空隙(すきま)の一つ。

 

 

「――――ハァッ、ハアッ!」

 

 

 開発が放棄された一区画、路地の裏側。普段は落第者(ふりょう)の学生や、犯罪に身を染めたならず者。或いは浮浪者の溜まり場となっている地区の、その片隅。

 

 

「――――ハァッ、ハアッ、ハァッ!」

 

 

 息を急き切って、男が走っていた。如何にもと言った風体の、年若い彼。ほんの数十分前まで、十人ほどの不良仲間と共に『無能力者狩り』にて小銭と小さな自尊心を満たしていた浅はかな彼は、頻りに足元を気にしながら。『アレ』を、決して踏まぬように。

 同時に、ガコン、ガコンと定期的に、しかし不規則に。足下の金属質な音が、軋むように追ってくる。

 

 

「――――ハァッ、ハアッ、ハァッ、ハアッ!!」

 

 

 そう、浅はかであった。上手く行き過ぎていた事もある。『警備員(アンチスキル)』すらも、『レベルが上がった』彼らにとっては敵ではなかったから。実質、大能力者(レベル4)クラスの『念動能力(テレキネシス)』を得た、彼には。

 だから今宵、三人目として『彼』に目を着けたのが――――その、悪運の尽き。

 

 

「助けてくれ! 俺が! 俺が悪かったから――――」

 

 

 悲鳴を上げる。狂ったように、同じ言葉を上げ続ける。今まで嘲笑ってきた『無能力者』と同じ台詞を。

 それが何の解決にもならない事は、()()()()()()()()()()と、()()()()()()同じように悲鳴を上げて、そして『消えた』事から判っている。

 

 

「お願いします、お願いします! 許して、許して! 殺さないで下さいぃぃぃ!」

 

 

 それでも、悲鳴が止まらない。それでも、まだ()()()()

 彼の能力(スキル)を持ってしても、捻り潰す事も引き離す事も出来はしない。この『ゲーム』はただ、定められたその一瞬まで。

 

 

「ッあ――――」

 

 

 そして、遂にその一瞬。『しまった』と思った時には、もう遅い。今、命運も尽きた。

 彼の足音と足下の音、それが重なってしまったのは――――

 

 

「――――ぎ」

 

 

 悲鳴は、断ち切られた。くぐもるように、ほんの少しだけ軋む音。水っぽいモノを引き裂く音と、硬く乾いた木の棒を滅茶苦茶に圧し折ったような音が、夜を揺らして。

 

 

「――――ハハッ」

 

 

 最後に、笑い声。人の気配の消えた、路地裏に。

 色濃い狂気を孕んだ、その嘲笑は。黒い影は、恐らく人ではない。かつてはそうだったのだろうが、少なくとも今は。

 

 

「……飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)――――!」

 

 

 満足のいく食事を終えた獣のように、闇に吠えるかのように――――その『右手』の一冊の『本』を、ヌメつく夜闇に掲げた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 瞼を開く。狂気の混沌の底からの帰還に、散大していた瞳孔が鈍い痛みすら感じる勢いで引き絞られる。

 涙に霞んだ視界の先には、自室の天井。そこには、渦を巻く混沌の銀河などはない。喧しい蝉の鳴き声こそあれ、躍り狂う蕃神も居ない。極めて健常な、夏の朝だ。

 

 

「……ッたく、途中までは最高だったのに。最終的には、やっぱり悪夢かよ」

 

 

 寝汗を拭い、悪態を吐き――――右腕を見遣る。握り締めて強張っていた掌を、ゆっくりと解いていく。

 まだ、あの柔らかな温もりと冷たさ。そして嘲笑する虚空の如き、硬く鋭い漆黒の鉤爪の感触が残る掌を。

 

 

「ッ……ああ、ヤベェ。完璧に遅刻だな、コリャ」

 

 

 携帯で日付と時刻を確認すれば、七月二十二日の……朝と昼の境。既に、風紀委員の活動は始まって久しいだろう。

 どうやら、また美偉に小言を言われて黒子の顰蹙(ひんしゅく)を買うだろうと、溜め息を吐きながら。体に、怠さや痛みの無い事を確認して。

 

 

「ん……?」

 

 

 すんすん、とばかりに鼻を鳴らす。男臭く汗臭い『だけ』である筈の、己の部屋にふわりと漂う――――甘く、芳しい……有り体に言えば、腹の減る臭いに。

 近所の部屋から流れ込んだのだろうか、嚆矢には料理などする習慣はない。第一、昨夜は風呂から上がるなり布団に倒れ込んで前後不覚。泥のように眠った筈である。

 

 

「……そういや、撫子さんの好意、無駄にしちまったな」

 

 

 思い出したのは、『後で温かい物を持っていく』と言っていた撫子の言葉を忘れていた事。取り敢えずは腹拵えだ、とリビングに繋がる戸を開き――――

 

 

「――――う~ん……やっぱりお米と調味料だけじゃ、お粥が限界ですね」

「そうね。でも、病み上がりならお粥くらいで丁度良いと思うわよ?」

 

 

 自室の簡素な台所に人影。片方は毎朝見る、藤色の和服に割烹着の撫子と……柵川中の制服に、同じく割烹着を着けた花束の少女。

 

 

「あら、嚆矢くん」

「あっ――――こ、こんにちはです、嚆矢先輩」

「ああ……どうもこんにちは、撫子さん、飾利ちゃん」

 

 

 振り向き、淑やかに微笑んだ撫子。振り向き、慌てて頭を下げた飾利。状況を呑み込むのに、少々の時間を掛かった。『風紀委員(ジャッジメント)』の方には、撫子さんから『病欠』する旨を連絡してくれたらしい。その後、見舞いとして――――

 

 

「――――ふぅ。今、戻りましたわ、初春……あら、目が覚めましたの、対馬先輩?」

「ああ、白井ちゃん。つい今、ね」

「そうですか。丁度良かったですわ、食材も無駄にならなくて済みます

 

 

 コンビニの小さな袋、それを持って空間移動(テレポート)して来た常盤台の制服にツインテールに……不機嫌さを覗かせた黒子。

 

 

「あら、やっぱり空間移動(テレポート)って凄いわね。普通に歩いたら、一番近くのコンビニでも五分は掛かるのに」

「そう便利でもありませんの。何せ、少しでも集中を乱すと誤差で大変な思いをしますのよ」

 

 

 そう間を置かずに、この二人がやって来たそうだ。因みに、住所は『書庫(バンク)』に載せているのだから、アクセスする権限がある人間や同僚ならば誰でも知れる。

 

 

――まぁ、十中八九、みーちゃんに『本当かどうか確かめてこい』って言われたんだろうけどさ。良いけどさ、それでも別に。

 

 

 ことことと、ガスコンロに掛けられている小型の土鍋を見る。それに気付き、撫子はにこりと。黒子からビニール袋を受け取った飾利は、照れて俯く。

 

 

「あの、具合はどうですか? もし、食欲があったら」

「頂きます。一粒残さず、頂きます」

 

 

 聞かれるまでもなく、昨日の昼から何も食べていない。迷う事など一切無く、頭を縦に振った。

 

 

「そ、即答ですか……じゃあ、味付けは塩と梅干し、卵のどれにしますか?」

 

 

 がさがさと、ビニール袋から取り出されたもの。梅干し、卵。そして、元々それだけは備えていた瓶入りの塩が並べられる。

 迷うところである。米本来の甘味を味わえる塩か、さっぱりとした果肉の酸味を織り混ぜた梅干しか。はたまた、濃厚な蛋白質の滋味と満足感の卵か。

 

 

「き……究極の選択過ぎる……! くっ、飾利ちゃんの鬼! 悪魔! 人でなし!」

「ええ~?! お、お粥の具でそこまで言われるなんて……っていうか先輩、冷蔵庫にお米とミネラルウォーター以外入って無いじゃないですか。もう、やっぱり栄養片寄りまくりですよぅ」

 

 

 等と、飾利とほんわか戯れるように笑い合えば――――

 

 

「それで? もう病気は治りましたの、対馬先輩。昨日の夜の風邪が、今朝には?」

「…………」

 

 

 物凄く、冷たい眼差しで見詰めながら問い掛けた黒子。ほとんど、路上に落ちていた汚物を見るような。そっち側の業界人ならば、礼を言わなければいけないくらい、完成した蔑みの眼差しで。

 

 

「いや、うん。あの、昨夜(ゆうべ)は本気で具合悪くて。ほとんど、記憶無いくらい。熱とかは計ってないけど……」

「ふぅん……そうですか。分かりました、固法先輩にはそう報告しておきますの。『半日で治ったみたいです』って。本当に対馬先輩は体だけは頑丈ですのねぇ、わたくしの怪我もそれくらい早く治ってくれればと思いますわ。本当に、かえすがえす、う・ら・や・ま・し・いですの」

 

 

 と、居住まいを正して答えた嚆矢に対してそんな言葉で絞めた彼女だが、ちっとも納得している風はない。にこやかに笑っているが、額に青筋が見える。寧ろ、猛り狂っている。

 

 

――あぁもう、昨日の俺の莫迦! 熱くらい根性で計っとけよな!

 

 

 地団駄を踏みたくなったのを何とか堪え、応えるように頬をひくつかせて笑う。それに、ジト目で腕を組み、なんなら怒気すら孕んでいた当の黒子は。

 

 

「では、わたくしはこれで。お邪魔いたしましたわ。では、また明日ですの」

「あっ――――白井ちゃ」

 

 

 用件は済んだと、呼び止める暇もなく消える。『これだから空間移動能力者(テレポーター)は』と内心、肩を竦めて。

 

 

「じゃあ、卵で頼むよ、飾利ちゃん。梅干しは梅干しで食べるからさ」

「あ、は、はい……じゃあ、用意しますね」

 

 

 そんな黒子へと、悲し気な眼差しを送った飾利だったが……すぐにほんのり笑って卵を溶き始めた。

 

 

「あ、そうだ。ご免なさい、二人とも。私、ちょっと用事があったの」

 

 

 そこで、軽く掌を叩いた撫子が申し訳なさそうに扉に向かう。『表面的には』、申し訳なさそうに。

 すれ違い様――――耳元に、微かな囁き。

 

 

「良い子達ね、嚆矢くんの後輩さん達は。泣かしちゃダメよ?」

「え~と?」

「ふふ。ダメよ、失望させちゃ?」

 

 

 『既に失望させちゃってる娘も居るんですが』の言葉は、唇に当てられた右人差し指。白魚のようなそれに、止められていて。

 

 

「失望してるなら、構いも、怒りもしないわよ。よく言うでしょ、『好きの反対は嫌いじゃなくて、無関心』だって」

 

 

 その言葉だけを残し、楽しげに去っていく背中を見送るしかなく。

 

 

「……まぁ、そりゃあ。年上の男ですからね、これでも」

 

 

 屋外の熱気にもう、汗をかく。今日も今日とて、真夏日だ。気合いを入れて欠伸をすると、支度しに自室に帰る。その後は、腹拵えだ。

 

 

「――――飾利ちゃん、幻想御手(レベルアッパー)事件の途中経過、聞かせてくれ」

「えっ? でも先輩、今日は……」

 

 

 食卓に着くや、開口一番そんな事を口にした彼に、『病欠』と聞いていた彼女は、面食らうように。

 

 

「休みは返上、第一、後輩が二人とも頑張ってるのにおちおち寝てる訳にゃいかないって。タダ働きも、たまにはね」

 

 

 いつの間にか――――学ランに『風紀委員(ジャッジメント)』の腕章を通した、()()()()()()()()()委員会活動中の姿で現れた嚆矢に。

 

 

「……はい! それじゃあ、ご飯を食べてから支部にあるデータを洗い直しましょう!」

 

 

 右腕を曲げて、日頃の部活動で拵えた力瘤を作って見せたその姿に……お粥を持ったまま、くすりと。

 

 

「そういう事を白井さんの前で言えば、見直してくれるのに」

「ハハッ、言ったろ? 『可愛い娘ほど、苛めたくなる』んだってさ」

 

 

 そんな軽口に、まるで蕾が綻ぶように――――前に言った通り、『妹』に何処か似た、見覚えがある笑顔で微笑んだ。

 

 

………………

…………

……

 

 

 キーボードを叩く。カタカタ、カタカタと。一応はブラインドタッチだが、一文で二回は間違えてしまう程度。

 現在、支部の一室。空調の効いた快適な室内で、飾利は『幻想御手(レベルアッパー)』に関する過去の記録や証言を。嚆矢は、電子の海(インターネット)を彷徨している。

 

 

 探すのは、『レベル 上がる』の検索キーワードのページやサイト。無論、学園都市の生徒ならその類いは誰もが……『超能力者(レベル5)』でもない限りは、誰もが興味を持つこと。それこそ、星の数のヒット数である。

 

 

「……気が遠くなるな、これは」

 

 

 しかも、大半が『楽してレベル上がんねぇかな~(笑)』とか言った内容の物ばかり。しかもそういうものも、もしかしたら偽装である可能性を考慮して虱潰しにしなくてはいけない。

 すっかり冷めた珈琲を啜る。開始からもう、三時間弱。目もショボショボしてきた。それでも、まだ一割も調べきれていない。

 

 

「…………ん?」

 

 

 そんな時、ふと目に入った文字。そこには――――

 

 

「……『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』……」

 

 

 『発狂レベル急上昇www』と書かれた部分がヒットしたらしい、それは『クトゥルフ神話を下敷きにしたテーブルトークRPG』のページ。

 自らが関わった物の名が出ている事に興味を引かれて、或いは流れ作業で条件反射に。つい、クリックしてしまう。

 

 

「へぇ……凝ってんなぁ」

 

 

 開かれたページは、黒地に『中心に目がある五芒星』の描かれた背景。そこに、『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』の来歴や内容の記されたページ。その内容はほぼ、セブンスミスト前で『白い修道女(シスター)』に聞いたものと同じだった。

 

 

――そう言えば、あのシスター……結局、あの娘が件の『禁書目録(インデックス)』って奴だったんだろうか……

 

 

 等と、普段は夜にしか見せない『魔術使い』の顔で思案しながら『禁忌の書架に戻る』というリンクを踏む。その先は、様々な項目で区分けされたホーム画面。

 『水神クタアト(クタアト・アクアディンゲン)』や『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』等、覚えの有るものもある。『これはタメになる』と、ページ名を見れば。

 

 

「『Miskatonic University occult sciences (ミスカトニック大学・陰秘学科)』……ですか。あれですか? 嚆矢先輩、外国の大学にでも進学、するんですか?」

「ッと……あ~、いや、うん。もしかしたら関係有るかも、って……真面目に取り組みます」

 

 

 すぐ近くから、飴玉を転がすように甘ったるい声。即ち、すぐ近くで画面を覗き込む、飾利の声が。それに、少しだけ往生際悪く。だが、直ぐに白旗を上げて。

 

 

「此方は目ぼしいモノは無し。飾利ちゃんの方は?」

「こちらも、特には。そう言えば……白井さんが捕まえた『偏光能力(トリックアート)』の錯乱した状態を『雑な洗脳みたい』、って思ったそうですよ」

「洗脳、か……精神に作用する能力(スキル)が関係してんのかな」

 

 

 飾利の言葉に、暗部時代の情報を思う。昔知り得た、『超能力者(レベル5)』に関する実験。

 

 

――確か、居たな。『心理掌握(メンタルアウト)』だかなんだかの、チビ助が。何て言ったッけかな、名前が難しすぎて読めなかったのは覚えてるんだけど。

 

 

 何処か、別の施設での『超能力開発実験』の情報だ。『彼』の開発実験を行っていた機関とは別、ただし――――他の研究所よりもよっぽど偏執的に『その上に座す意志』を目指していた『機関』が、どうにかして得たのだろう、その情報。

 もう、この世の何処にもない。だから、今さら思い出しても意味はない。空虚そのものだろう。

 

 

「まぁ、超能力者の洗脳が雑な訳ないか……しかし、こうも尻尾が掴めないんじゃなぁ」

「そうですねぇ……音楽だとか、レシピだとかの偽情報も多くて、苦労して捕まえた使用者も意識不明になるから、元の木阿弥です」

「狙ってやってるんだとしたら、中々の策士だね、この事件の首謀者は」

 

 

 背凭れに体重を預け、背伸びする。時間経過と共に自然と曲がっていた背骨が、ボキボキと盛大に鳴る。

 そんな時だ、携帯が――――

 

 

「…………さて、飾利ちゃんの可愛い顔を見てリフレッシュしたし、もう一頑張りするかね」

「ななっ、何言ってるんですかぁ! もう、知りませんっ!」

 

 

 学ランの、内ポケット。そこに仕舞う、『仕事用』の携帯が震えたのは。飾利が苦手そうなからかい方をすれば、案の定。顔を真っ赤にした彼女は、自分の使っていたPCに向き直った。

 

 

「さて、と……」

 

 

 その隙に、携帯を確認する。震えたのは二回、即ちメールだ。題は、『無題』。差出人の名前も『F』、嗜みとしての符丁。

 

 

『20時、駅前広場。遅れたら結局、私刑な訳よ』

 

 

 非常に簡潔な一文である。それだけに、ひしひしと……不満のようなものを感じる。最後の『私刑』の部分は、素かわざとか。

 

 

「……お呼びだニャア、また寝不足ナ~ゴ」

 

 

 お道化ながら、他人に聞こえないように小さく口にする。魔術(オカルト)能力(スキル)と偽る『黒豹男(ザーバウォッカ)』の口調のそれは、諦めるかのように。

 指定時刻までは、あと五時間。初日と比べればまだ、余裕はある。問題は、この委員会活動をどうやって円満に時間前に終わらせるか、だが。

 

 

「そう言えば、白井ちゃんは今何処に居るんだろ?」

 

 

 『将を射んとすれば、先ず馬を射よ』と言う訳で、先ずは話題を外に向ける。いきなり『解散』等と言おうものなら、今度こそ冷たい眼差しだ。

 

 

「ふんだ、知りませんっ」

 

 

 しかし、先程の言葉が尾を引いているらしく、飾利は素っ気ない。視線すら、此方にはくれなかった。やれやれと肩を竦める。結局、解散は――――何の進展もなく、徒労だけを残してギリギリの19時まで。

 

 

「それじゃあ、また明日。飾利ちゃん」

「はい、じゃあまた。態々送っていただいてすみません、嚆矢先輩。それと、ジュースも」

「ただの『当たり』だよ。実質一人分しか払ってないんだから、気にしない気にしない」

 

 

 飾利の寮の前で、送ってきた飾利が門扉を潜るのを見送る。彼女が手に持っていたジュースは、勿論確率使い(エンカウンター)制空権域(アトモスフィア)』によってなので、財布は痛まない。

 それに、女の子の笑顔への投資とすれば、安いものだろう。

 

 

 自分の分の缶珈琲を飲み干し、丁度近くを通り掛かった円筒型の『清掃ロボット』の真ん前に置く。外では数世代先のオーバーテクノロジーだろうが、学園都市ではそう珍しくもない技術だ。

 ズゴゴ、と音を立てて、空き缶は吸い込まれていく。ロボットは『環境美化ヘノ協力ニ感謝シマス』と、予めプログラムされた通りの台詞を流して、清掃を続ける為に移動していった。

 

 

「さて、タイムリミットまで三十分かぁ」

 

 

 腕章を外し、迫る時間に溜め息を。その癖、足取りは普段と変わらない。何なら、携帯を……自前の携帯を弄りながら歩く程の余裕。

 開いたのは、インターネットのページ。後で探しだし、ブックマークした『あの』ページ。

 

 

「……へぇ」

 

 

 読み進めながらまだそれなりに多い人並みを歩く。すいすいと、『運良く』誰にもぶつからずに。

 無論、能力(スキル)有ればこそだ。社会規範(モラル)に照らし合わせても、好まれはしない行為である。

 

 

 それでも、興味が勝つ。人が、態々自ら恐怖に近寄るように。

 

 

「んー、成る程ねぇ」

 

 

 覗き見るのは、深淵か。興味を惹いた項目を幾つか。

 

 

「ふんふん、『外なる神(ストレンジ・アイオン)』に『旧支配者(グレート・オールド・ワンズ)』……うわ、スゲぇ数。ここらへんは後回しだな。先に……」

 

 

 見るのは、『魔具の祭壇』なる項目。そこに有る――――

 

 

「『賢人バルザイの偃月刀(えんげつとう)』……刃にして杖、そして祭具、か」

 

 

 鍛冶師の養子(むすこ)(さが)か、読み深める。青銅で()たれたという、その刀。或いは杖。

 『門の神を召喚する』際に必要となるらしい、それを。

 

 

――『門の神』……その名は『ヨグ=ソトース』。『邪神の副王』であり『全ての時空に接する神』、『一にして全、全にして一』。

 つまり、『時空移動(タイムリープ)』でも出来る神って事か? 白井ちゃんの『空間移動(テレポート)』の上位互換みたいな?

 

 

 等と、少し考え込む。だとすれば彼女の攻略の文字通りの『鍵』は、この神性の能力の再現ではなかろうか、と。

 無論、簡単な話ではない。その為には、この神の事を記した『魔導書(グリモワール)』がなければ。

 

 

「うわ、冗談じゃねぇよ。あの蛆虫だけでも人生の三分の一くらいの恐怖を味わったってのに、更に新しい奴なんて」

 

 

 結論、そうなる。まだ、自ら狂気の領域に足を踏み込むまでにはSAN値は減っていない。

 が、読み進めれば、その先に。

 

 

「……召喚方法載ってるがな」

 

 

 何と破滅的な事か、そこには懇切丁寧な『ヨグ=ソトース』の召喚方法が記載されているではないか。

 ごくり、喉を鳴らす。どうやって勝負に持ち込むかはまだ決めてはいないが、二度も苦杯を舐めさせられた黒子に――――勝ち得る機会を目前にした、高揚で。

 

 

「――――勝ち目はある、かもな」

 

 

 嚆矢は角を曲がる。角の先、人気の無い路地裏の暗がりに踏み込む。そして――――

 

 

「先ずは、師匠に相談してから。安全性を確かめてから、だ――――」

 

 

 監視カメラも何も無い事を確認して、彼は『魔術使い』の顔となる。着ていた学ランを錬金術(アルキミエ)によりスーツとし、髪と瞳の色をも、黒と燃え立つような赫に塗り替えた姿となり。

 

 

「――――やれやれ」

 

 

 『長い夜になりそうだな』と、()()()()()()()()()()()()()()()()、実に楽しそうに。

 薄暗い逢魔が時の空の下。懐から取り出した舶来煙草、ブリキのケースから取り出したそれに、火を燈した。

 

 

………………

…………

……

 

 

 その全てを、眺めていた『彼』。闇のただ中で、蠢くように、這いずるように。

 

 

「あれが……そうか。なるほど、確かに――――旨そうだ」

 

 

 ニタニタと、ネチャネチャと。不快極まりない粘着質さで、一連の出来事を。

 

 

「――――どお~? 彼、中々の男前でしょ~?」

「――――!」

 

 

 その饐えた悪臭を放つ闇の底に、火が燈る。『彼』の驚愕を、見詰める為か。

 

 

「まだ『覚醒の世界』のままだけど、将来性は抜群だよ~? 君とは違ってさ~?」

 

 

 けらけらと嘲るように、紅い占い師が歩み出る。生きた炎が揺らめくランプを片手に、能面の笑顔を見せて。

 それに、『彼』は己の体を庇うように、闇がある場所に身を隠す。

 

 

「我が女王――――生きたままに埋葬された貴女。今や、今や彼の者は具現の域……顕現までは、もう僅か。貴女様が望むなら、我が最後の仕上げを成しましょう」

「そうだね~、やっぱり『飼う』なら~、ああいう可愛い子が良いよね~」

 

 

 影から恭しく礼を取った『彼』に、しかし紅い占い師は興味を抱かない。既に遊び飽きた玩具を、子供がそこらに放るように。ショウウィンドウに並ぶ新しい玩具に目を奪われるように、『男』を見詰める占い師は。

 それに、『彼』はギシギシ、グチャグチャと『歯』を鳴らす。『彼』の女王の機嫌を損ねぬように、小さく小さく。さながら、濡らした紙ヤスリを擦り付けるように。

 

 

「あんなもの……あの程度の魔術使い、すぐに喰らい尽くせる。だが、我が女王にそこまで言われる男だ――――」

 

 

 口調とは裏腹に、『彼』は怯えている。それは目の前の紅い占い師に対してか、彼方の『男』に対してか。『彼』の『本質』の部分が――――いずれかの前の『強者』に。

 どんなに強がろうと、決して敵わない相手。しかし、認めたくないその事実に。

 

 

「死を望むまで、苦しめてやる……その『クルーシュチャ方程式(悲劇と言う名の喜劇)』を、楽しませて貰うとも」

 

 

 だから、『目的』をすり替える。自分より『弱い』相手へと。『危険な獲物』より、『遊び道具』へと。ニタニタと、ネチャネチャと。不快極まりない粘着質さで――――

 

 

「あの小娘を目の前で喰っちまえば――――お前はどんなに苦しむかな、『闇を彷徨う者(シャドウビルダー)』!」

 

 

 花束の如き少女が消えた寮を、舌舐めずりするように眺めて……闇に吠えた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 ゆらり、と。昼間、アスファルトに降り注いでいた太陽の熱が立ち上る陽炎に変わって、気温の下がった夜の空に帰っていく。

 その為、今もまだ暑さに変わりはない。日が落ちても尚、今度は足元から熱が。

 

 

「…………」

 

 

 少女達は、駅前の噴水広場で腰を下ろしている。金髪碧眼の高校生、フレンダは苛々と携帯を弄りながら。オレンジのフードを目深に被る中学生、最愛の『アイテム』二人組は――――今や、『駅前広場のチェシャ猫』として都市伝説になるくらいに目撃者を出した『黒豹男(ザーバウォッカ)』との初遭遇場所で、その到着を待っていた。

 

 

「おっそいわねー。どこで油売ってる訳よ、あの黒猫」

 

 

 フレンダがそう愚痴るのも仕方無い。時刻は既に、20時まで後5分を切っている。

 

 

 暗部に於いて、最も重要な要素は『信頼』だ。他者を明日をも知れね我が身を預けるのは、信頼できる相手を於いて他にはない。

 まぁ、それも結局、『自分が生き残るため』の利害の一致でしかない。寧ろそうでなければ、寝首を掛かれるのが暗部である。

 

 

「はぁ~……だから嫌だって言ったのに。結局、時間にルーズとか麦野の『原子崩し(オ・シ・オ・キ)』確定な訳よね、絹旗?」

 

 

 携帯をミニスカのポケットに仕舞い、見た目通りの外人チックな肩の竦め方で溜め息混じりに呟く。

 それに、先程から瞑想でもしていたのかと言う具合でフレンダの言葉を聞き流していた最愛が、漸く目線を寄越した。

 

 

「確かに、超遅いですね。メールは何て送ったんですか、フレンダ?」

「結局、普通にな訳よ? 20時に、駅前広場集合って」

 

 

 どうだ、とばかりに起伏のなだらかな胸を張る高校生。そんな彼女より、或いは『大きい』のではないかと思われる中学生は……。

 

 

「駅前広場は駅の両側に在るんですが……超どっちを指定したんですか?」

「……えっ? いや、だって普通、こっちだと思わない? 初めて会ったのもこっちだったし」

 

 

 最愛はジト目でフレンダを見詰めて――――それに『思いもよらなかった』ふうに呆気に取られ、焦り出した顔をした彼女に呆れたように溜め息を吐いた。

 

 

「どうやら、『原子崩し(オ・シ・オ・キ)』確定なのは、あの猫男だけじゃないようですね」

「いや、ちょ、マジで洒落になんない訳よ!?」

 

 

 ゾッ、と顔を青褪めさせるフレンダを余所に、彼女は少し離れた位置に在る時計を見詰めて。残りは、十秒。

 

 

「……え~っと、絹旗さん? 喉とか、渇いてません?」

「いいえ、ちっとも。私は、反対側を超捜してきますので――――」

 

 

 実に腰を低く、揉み手しながら問うたフレンダ。しかし懐柔ならず、残り三秒で最愛は歩き出そうとして――――視界が、黒一色に。

 

 

『――――だ~れニャアゴ?』

 

 

 『黒豹男(ザーバウォッカ)』の肉球付毛皮手袋で覆われて。背後の陰りにいつの間にか現れていた、『猫の無い笑顔』を暗がりに浮かべた彼。

 そして最愛はその耳元に、気味の悪い合成音声で囁かれて。

 

 

 後に、偶然にも近くにいた男性。丁度今日、『瑞穂機構病院』を退院したばかりの彼は、その時の事を後に語る。

 『はい、もう四十年も生きてますが、今まで聞いた事の無い音でした。少し前に人が黒焦げになるのは見たんですけど、まぁそれは無関係ですね。ええ、メコッ、とか、グシャッ、とか……そんな可愛いものじゃありませんでした。え、例えるなら? そうですねぇ……聞いた事はありませんけど、全力で蛙をぶん殴ったらあんな音がするんじゃないんですかね? メメタァ、って』……と。

 

 

「……次に同じ事をヤったら、今度は超全力で『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を()ち込みますンで」

『これで全力じゃニャアとか、お兄さん戦慄(ガクブル)ナ~ゴ……』

 

 

 優に二~三十メートルも転がされた後、植え込みに突っ込んで漸く止まった嚆矢を見下ろして。

 静かな怒りを湛えた最愛は踵を返すと、フレンダの方へと歩いていく。

 

 

――成る程、()()()()()()()()

 これが大能力者(レベル4)絹旗 最愛(きぬはた さいあい)』の『窒素装甲(オフェンスアーマー)』か……。

 

 

 思うのは、そんな事。彼とて、無意味にあんな事をした訳ではない。『探索』の神刻文字(ルーン)と『錬金術(アルキミエ)』により、彼女の周囲を解析する為だ。

 地球の大気の中で、最も比率の多い気体『窒素』を装甲として纏う、文字通りの能力。その密度を活かした防御力と攻撃力、更に窒素は不燃、無色無臭だ。知らなければ対処は先ず出来まい。

 

 

――斯く言う俺も、今漸く信じた。錬金術による物理的、神刻文字による魔術的な解析で、先ず間違いはない筈。流石は大能力者だねぇ、隙がないや。

 

 

 と、現実に意識を戻す。植え込みの中、目の前には――――金に煌めく瞳の黒い仔猫。まだ、親に庇護されているだろう頃合い。それが、どうして一匹だけで。

 

 

『……成る程ニャア、お前も……一人ぼっちナ~ゴ?』

 

 

 その境遇に、連帯感を。仲間を見付けたような、喜びにも似た感情で右手を伸ばす。にゃあ、と小さく鳴いて、人懐こくその手袋に刷り寄る仔猫。それに――――昨夜見た、あの夢の少女を思った。あの、温かな右掌の感触を。

 

 

『――――ンニ゛ャ?!』

 

 

 瞬間、ズボリとばかりに引き抜かれた。足を掴まれ、一本釣りの鮪の如く。

 

 

「何時まで超休んでるんです? 時間も押してますし、超さっさと移動しましょう」

『わかっ、分かったニャア! だから、イダッ?! 引き摺らないでナ~ゴ!』

 

 

 それは、或いは意趣返しか。石畳に爪の痕を残しながら引き摺られて、投げ出される。会った初日も、この子に引き摺られた事を思い出しながら、正に猫の如き身のこなしで受け身を取りつつ立ち上がる。

 見下してきていた眼差しは、いまや遥か下。本来、それほどの身長差がある。

 

 

「っていうか、アンタ……その格好で何時まで居る気よ? 結局、活動場所制限される訳よ」

 

 

 体操選手の床競技のように着地を決めた嚆矢の傍らに、フレンダが立つ。その表情は、完全な呆れ顔。

 

 

『そんな事言われてもニャア。大体、脱ぐなって言ったのはしずりんナ~ゴ』

「『しずりん』って、アンタ……麦野に聞かれたら、マジで殺されるわよ」

 

 

 ニャハハ、と。人を小馬鹿にしたような表情を張り付けた、猫の覆面。その性悪(チェシャ)猫が、懐から取り出した懐中時計を見遣る。

 

 

『で、今日は何の仕事ニャア? また、機密保持ナ~ゴ?』

 

 

 『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』を嵌め込んだ、その時計を。

 

 

「違うわよ。今日は、打ち合わせだけ。アンタと、私と、絹旗で」

『滝壺ちゃんとしずりんは高見の見物ニャア? それで、ギャラは同額とかはヤル気削がれるから止めて欲しいナ~ゴ』

「ンな訳ないでしょ。出来高よ、出来高」

 

 

 先を行く最愛を追うように歩き出したフレンダ。それを追い、嚆矢もまた。

 

 

『で、今から何処に行くニャアゴ?』

 

 

 先ずはその、根本的な問いから。少女達、振り返る。金色の髪、揺らして。冷たい色をした瞳、向けて。

 

 

「そうねぇ……そこのファミレスとかにしとく、絹旗?」

 

 

 暫く居ない内に、随分と闇は薄らいだものだと思うほど、暗部には似つかわしくない金髪の彼女。危ういほど、『普通』な。そんな、フレンダ=セイヴェルン。

 

 

「……打ち合わせに、そんなところは超使えませんから。どこか、手頃な場所があれば良いんですが」

 

 

 どこか懐かしい程に、深い闇を思わせる……暗部そのものと言えるような、彼女。安堵する程、『異質』な。そんな、絹旗最愛。

 

 

『……だったら、良い場所があるニャア。少し歩くけど、他の人間は見た事がないし、食事もできるナ~ゴ』

 

 

 そして、暗部の狂気そのものと言える程の『異形』――――『正体不明の怪物(ザーバウォッカ)』が、其処に居る。

 顔を隠し、名を偽り。能力を騙るのは……また、最底(そこ)に帰りたくないから。

 

 

――例え、仕事(ビズ)でも。もう、彼処は嫌だ。嫌だ。嫌だ。思い出す事も、もう。したくはない、あんな。ドブがまだ清流に見えるような、廃液の底になど。

 

 

 刹那、思い出してしまいそうになる。見えたのは立ち昇る、熱く紅い炎。揮発油の胸糞悪い臭い、鋼鉄の悪意に満ちた硬さと鋭さ。腕の中で冷たく蒼く、消えていく――――……

 

 

「分かりました、そこにしましょう。良いですね、フレンダ」

「私は別にどこでも、落ち着けるならいい訳よ」

 

 

 声に、正気を取り戻す。()()()()()()()()()()()()()()、嚆矢には分からない。もし、覆面がなければ、その呆けた面を見られていたかもしれない。

 危ういのは、こんな時に意識を放る自分もかと、人知れず自嘲して気を引き締め直して。

 

 

『それじゃあ、案内するニャア。けどまぁ、遠いし……バイクにも三ケツはできないナ~ゴ』

 

 

 近くの駐輪場、そこに停めてある――――以前、三体の機械偶像(ゴーレム)に変えた車を二台の大型のバイクとした物を思い出す。

 そして黒豹男は、煙草に火を燈す。口許の、ニタつくような配置のチャックを開けて銜える。紫煙を燻らせて。赤い硝子玉の瞳、煙草の火を受けて燃えるように。

 

 

『――――ココハ、禁煙区域デス。直チニ喫煙ヲ止メテ、移動シテクダサイ。繰リ返シマス……』

 

 

 寄ってきた清掃ロボット兼警備ロボット、それを見て。

 

 

「ああ――――煩いよ、傀儡(ロボット)風情が」

 

 

 無慈悲な地声でその機体に手を触れ――――錬金術により、瞬時に『卵のような二本足(ハンプティ・ダンプティ)』に変えて。

 

 

『こいつをサイドカーにすれば、問題解決ニャア。バイクを取ってくるから、少し待ってて欲しいナ~ゴ』

 

 

 お道化ながら、煙草を路面に投げ棄てると歩き出す。紅い軌跡を残した煙草は、アスファルトに当たって一際輝いた刹那、暗闇に沈む。

 その黒豹男を、傍らでゆらゆら揺れる『元・ロボット』を眺めて――――

 

 

「……ホント、結局なんなのかしらね、あの能力(スキル)? 滝壺の『能力追跡(AIMストーカー)』でも追いきれなかったんでしょ?」

「滝壺はそう、言ってました。麦野が調べた限りでも、似たような能力はあれども超正体不明だそうです」

 

 

 囁くように、少女達は語り合う。今日の目的の一つは、彼の能力の仕組みを暴く事。どうやら、腹を探りたいのは互いにらしい。

 

 

「文字通り、『正体不明(ザーバウォッカ)』な訳ね……」

 

 

 つん、とつつけば、それだけでバランスを崩したハンプティ・ダンプティが転んだ。後は足を蠢かせているのみ、立ち上がる事はできないらしい。

 未だに尻尾も掴めない、その能力。いや、尻尾ならば……これ見よがしに、スラックスの後方から異常に長いベルトの残りを尻尾の如く垂らした、そんな後ろ姿ではあるのだが。

 

 

「……ですが、収穫なら超有りました。私の『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を、アイツは無力化しました」

「えっ、マジ!? あ~……分かってましたよ、ええ。アイツは、絹旗に普通に()()()訳だし……つまり、アイツの能力の根本的な部分は『空力使い(エアロハンド)』みたいな気体操作?」

 

 

 睨まれ、慌てて考え、フレンダは辛うじて正解に辿り着く。だが、的外れだ。

 そもそも、彼女達は『魔術』を知らない。知らないのだから、真理に等は辿り着けない。『錬金術(アルキミエ)』等と、夢想だにもしまい。

 

 

「どうでしょう。それなら、私に殴られても超効かない筈です。何せ、能力無しなら私は超か弱い女の子ですから」

「……ソ、ソウデスネ」

「何か、超言いたそうですね、フレンダ?」

 

 

 再び、白い目をしたフレンダが最愛に睨まれた瞬間。目映いハロゲンの光と腹に響く機関(エンジン)音が二人に近付いてきた。そう、黒豹男の跨がる――――ハーレー・ダビッドソンが。

 

 

『旧式でゴメンニャア。けど、オイラどうも、古い物が好きなんだナ~ゴ』

 

 

 等と、愛想を振り撒くように。転がっていたハンプティ・ダンプティを蹴り――――サイドカーに変えて。

 

 

『さぁ、二名様ご案内ニャア。行く先は――――』

 

 

 黒に染まる空、星明かりすらない。地上の光に駆逐され、見えるのは……ただ。

 

 

『――――純喫茶、ダァク・ブラザァフッヅナ~ゴ』

 

 

 ただ、狂い笑う月と、姿すらない『虚空の瞳(ロバ・アル・カリイエ)』だけ――――…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 人気の絶えた暗い街路に、革靴の足音と粗い息遣いが響く。暗闇に姿は見えないが、まだ少女。迫り来る恐怖から、逃れる為に。

 足を止めてはいけない。止めてしまえば、追い付かれる。足を進めてはいけない。進めてしまえば、『それ』を踏んでしまう。

 

 

「――――はあっ、はっ、はあ!」

 

 

 ほんの気紛れの為に歩み出た街路、そこが口を開けた異界だった事に気付いたのは、もう呑み込まれてしまってから。

 そう、一歩――――買い物の為に寮から出た瞬間に。このコールタールのような粘性を持つ、煤煙のように濃密な闇、しつこく纏わりついて。

 

 

「はっ、はあ、はあっ!」

 

 

 見える。数十メートル先には、等間隔に並ぶ街灯の明かり。寒々しい、しかし確かな輝き。だがそれも、彼女が光が届く範囲に入る直前には嘲るように明滅し、消えてしまう。もう、走り始めてからずっと。何度、心が折れかけたか。

 思わず振り返る。しかしただ、無形の暗闇。だが、間違いない。そこに、『ソレ』は居る。悪夢のように、逃げ切れはしない。

 

 

『____________!』

「――――――――!」

 

 

 ひっ、と息を飲む。低く、獲物の仔兎を追い詰める野犬のように、浅ましい歓喜に吠える声。饐えた悪臭を引き連れて、這いずるようにズル、ズル、と蠢く耳障りな音。何度、心が折れかけたか。

 僅かたりとも、距離は離れていない。あれだけ走ったのに――――

 

 

「はっ、はあ、はあっ、はあ、はあっ!」

 

 

 そして、響き続ける足元からの音。腐臭を巻き散らしながら追い縋るように、ガコン、ガコン、と金属音。知らずとも分かる、その死の足音。何度、心が折れかけたか。

 常に、彼女の真下から。せせら笑うように、自分の居場所を示して。逃げろ、逃げろ、逃げて見せろと。逃げ惑う獲物を甚振って。

 

 

「はあっ、はっ、はあ!」

 

 

 事前に、『気を付けろ』と言われていた。だから最初に踏まずに済んだ。だが――――この暗がり、この恐怖。一体、何時まで避け続けられる?

 元々、運動は苦手なのに。麻痺した時間の感覚は、数分? 数十分? 数時間? もう、覚えていない。ただ、ただ――――

 

 

「――――はあ、はあっ……けほっ、はあっ、はっ!」

 

 

 息を乱し、駆け抜けるのは……決して路地裏ではない。ここは、主要な道路の一つの筈。

 だと言うのに、何故――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 否、理由ならもう、気付いている。これは――――これはそう、単純な話。

 

 

「はあ、はっ――――あっ!?」

 

 

 瞬間――――踏みそうになった『それ』を避ける為に、無理な踏み込みをして転んでしまう。前のめりに、辛うじて『それ』は避けて。代償は、掌と膝の擦過傷(すりきず)

 

 

「うっ……く」

 

 

 涙が滲む。その痛みと、理不尽に。まだ、分からない。まだ、理解できない。

 また、少し。また、一歩。確実に、その距離をもう、広げる事無く背後から迫ってくる『ソレ』に――――何故、追われなければいけないのか。

 

 

「っ……誰か――――誰か……!」

 

 

 だから、立つ。だから、走る。終わりなど見えない、この闇夜を。嘲笑する、『背後の闇』と『足元の音』を。

 

 

「先……輩――――」

 

 

 そして――――――――夜空、切り取るように浮かぶ、狂い笑う黄金の月と……『虚空の瞳(ロバ・アル・カリイエ)』に見詰められて。

 

 

………………

…………

……

 

 

 ふと、何故か虚空を仰ぐ。誰か、誰かに呼ばれた気がして。窓の外、夜空、切り取るように浮かぶ、狂い笑う黄金の月を。

 だが、その眼差しはこちらを向いていない。そう、いつもみたいに、彼を嘲笑うものではない。誰か、別の……他の、何かを。

 

 

「ちょっと、聞いてんの、ジャーヴィス?」

『――――勿論だニャアゴ、フレンダちゃん』

 

 

 意識を、『ダァク・ブラザァフッヅ。』の席に陣取ったフレンダと最愛に戻す。耳元を掻いて。猫のように。

 因みに、マスターは何時も通り。『約束通り』に連れ合いを伴ってきた彼に、何時も通りにニヒルな笑顔で……『では、ご注文をどうぞ、ジャーヴィスくん』と。闇に生きる彼には、この集まりがどういうものかぐらい――――来る前から、お見通しだったのだろう。

 

 

「どーだか。じゃあ、さっき言った事を説明してみろって訳よ」

『お安いご用だニャアゴ』

 

 

 そこで、彼は台の上の書類を一枚手に取る。そこには――――一人の男性。大学生くらいだろうか、目付きの鋭い眼鏡、オールバックの。

 『能力名:表層融解(フラックスコート) 強度(レベル):4』と記された、暗部の機密文書。

 

 

『この男が外部に学園都市の能力開発実験情報のリークを企んでるから拘束しろ、最悪の場合は消せって指示が出たニャア。ただし、向こうもそれなりの能力者だから、気を引き締めて掛かるナ~ゴ』

「うっ……む、むっかつく~……!」

 

 

 語尾以外は、一言一句違わずに。『耳元の録音装置』で聞いたばかりの台詞を告げれば、フレンダは怒りを露に地団駄を踏む。

 因みに、最愛の方は無関心そうにミルクとクラブハウスサンドを()んでいる。フレンダの方はアイスティーにバターと蜂蜜のかけられたホットケーキ、嚆矢はフィッシュ&チップスにアイリッシュコーヒー。

 

 

「『表層融解(フラックスコート)』……確か、その名の通りに『表層』を『融解』する能力だったニャアゴ?」

「そ。でも、この男の場合は『表層を融かした跡の表層も融かせる』、ウザい能力な訳よ。人呼んで、『突貫熱杭(バンカーバスター)』だとか。先に捕縛しようとした組織は装甲車まで繰り出したけど、装甲車()()貫かれて失敗したらしいわ」

 

 

 二つ名の響きから何と無く能力を察するままだった。監視カメラの画像か何かだろう、あまり画質のよくない携帯の画像には、周囲を取り囲んだ装甲車。しかし――――一瞬でその車体には大穴が穿たれ、捻じ切れるように爆散していく。人も幾人、巻き添えで。まぁ、確かに閉じ込めておけそうにはない能力名である。

 観劇の合間の軽食宜しく、口許のチャックを寛げてフライを食む。魚と塩と油とケチャップの、雑な味わい(ハーモニー)が広がる。

 

 

――しかし、流石は大能力者(レベル4)だな……マジ、戦術的価値を見出だすレベルだわ。何々、『厚さ十メートルのコンクリート壁を貫くのに二秒フラット』? オイオイ、化け物じゃねぇかよ……。

 

 

 そこで、目に留まった対象の能力の強度。それは、嚆矢の『錬金術(アルキミエ)』……本来的な『化学技術』の範疇を越えた、某ダークファンタジー風の錬金術。ソレを行使する、彼の琴線に触れた。

 

 

――俺の『錬金術(アルキミエ)』は、最低でも五秒は対象に魔力を流して『走査(チェック)』しないと、組み替えはできない。分解するだけなら、一瞬でも出来るが……皮と肉を抉るくらいで精一杯だ。

 それより早い……か。上等、俄然()る気が出てきたぜ……!

 

 

 腕を組み、体重を椅子に預けてニタリ、と。覆面の表は嘲笑に、奥は克己心で牙を剥く。その剥き身の刃じみた殺意を、一切たりとも隠さずに。

 

 

「けど、結局、問題はそこじゃない訳よ。この男が、元『スクール』の構成員だって事が問題なわけ」

『あぁ……第二位(ダークマター)の率いる組織かニャア。成る程、向こうも面子の為に、こいつを狙ってるナ~ゴ?』

 

 

 フレンダの言葉に、記憶を漁る。昔、能力開発実験の合間に得た……反吐が出るような知識を。

 『スクール』。暗部で知らない者は、まず居まい。この『アイテム』のリーダー、第四位・『原始崩し(メルトダウナー)』『麦野 沈利』と同じく超能力者(レベル5)の、()()()未元物質(ダークマター)』の率いる暗部組織である。

 

 

「そ。そのせいで、他の組織は『スクール』とバッティングして返り討ちにされたりしてるらしい訳よ。まだ、『未元物質(ダークマター)』本人は出張(でば)ってないらしいけど」

『勘弁してほしいニャア、命が幾つ有っても足りないナ~ゴ……て言うかこの男、よくもまぁその状態で今も生きてるニャアゴ』

「全くですね。超悪運の強い奴ですよ」

 

 

 面倒そうにアイスコーヒーを啜るフレンダと、口許をナプキンで拭って最愛が口を挟む。割と空腹だったのか、皿はもう空だ。

 

 

「御代わりは如何ですか、可愛らしいお嬢さん(リトル・ミス)?」

 

 

 と、その皿を下げてテーブルを拭いつつ、店主(マスター)がニヒルな笑顔と共に最愛に喋りかけた。

 あらゆる女性を虜にしそうな、色黒の美男。魅惑のロートーンヴォイス。年齢・国籍不詳。店の菜譜(メニュー)と同じだ。だが、暗部で生きる彼女らに多寡がイケメン風情――――

 

 

「あ……は、はい、超頂きます」

「あ、私も私も! お代わりお願いな訳よ!」

「承りました、代金はジャーヴィスくんに付けさせていただきますね」

「……リア充なんて皆、死に絶えればいいのに」

 

 

 なんて事はなく、彼女らもそりゃあ妙齢の婦女子である。照れて頬を染めながら頷いた最愛、一気にホットケーキを食べ終えてアピールを始めたフレンダ。

 そして男からしてもクールに応じたアンブローゼス、テーブルに肩肘を衝いてポテトをモソモソと齧りながら地声で一人ごちた嚆矢。

 

 

 夜は長い、のかもしれないと。

 

 

「そう言えば、ジャーヴィスくん? 何か、私に聞きたい事があったのでは?」

「あぁ……そうでした」

 

 

 挙げ句、これである。本当に、『神様』のように、この男性は全てを見通していて。

 空恐ろしい。まるで、自分の全てが――――この男性の掌の上で、孫悟空のように、弄ばれているだけであるような観念を抱いてしまって。

 

 

「実は、『賢人の偃月刀』……これを創るのは、不味いかな、と」

「フム……不味くはないですが、使い方次第ですね。その先にあるものは、君の『右手』には余る」

 

 

 これである。やはり、知っている。今、嚆矢が何を望んでいるのか、何を為そうとしているのか。自分ですら気付かないものも、或いは知られているのではなかろうか、と。

 総て知った上で、彼はそれでも、この男に『信頼』を寄せたままで。

 

 

「しかし、そう――――それすら、越えたのならば。君は、更に上の存在となる。そう――――例えるの、ならば」

 

 

 恍惚と、見据える燃え立つ瞳。或いは、知らぬ人間が見ればお耽美な関係かと疑うほどの。だが、本人にとっては――――脂汗すら禁じ得ない。何故だ、何故、と。

 

 

「また一つ、階位を上げる。君は、虚空の螺旋階段を昇る。想像(イマジネイト)から具現(エンボディ)まで至った君ならば、間違いなく――――顕在(アクチュアリー)の域に至れる筈。いや、その『普遍(さき)』へも……その、更なる『■■(さき)』へも」

 

 

――『想像(イマジネイト)』? 『具現(エンボディ)』? 『顕在(アクチュアリー)』? ほとんど、意味は分からない。

 だが、それは――――今に、始まった事じゃない。ローズさんの言いたい事が分からないなんて、それこそ……山程。生まれた時から、分からない事など山程有った。

 

 

 だから、深くは考えない。それも、暗部で生きる為の一つの技能。見て見ぬ振り、只の偽善を傘に着て。否、偽悪か。元より、この命など――――

 

 

「では、これを」

 

 

 サンドイッチとホットケーキのお代わりと共に差し出された、古めかしい羊皮紙。妙に、時代がかった……そういう風に仕上げられたのであろう、『魔導書の断篇』を。

 

 

「『断罪の書・断篇』です。…君の求めるものは、ここに在る」

「……はい、ありがとうございます、師匠」

 

 

 言葉は、少なく。第一、傍らの二人が訝しむ目をしている。魔術の魔の字も知らない彼女らにとっては、一体、何の話をしているのかすら分からないだろう。

 だから、ただ受けとるのみ。後の事は、後で考えればいい。そう、それで……時間は、まだある。

 

 

『それニャア、そろそろ閉店時間だナ~ゴ。帰ろうニャアゴ、フレンダちゃん、絹旗ちゃん?』

 

 

 断篇を懐に仕舞い、普段通りの合成音声。お道化る仕草、何時ものまま。この、闇の最底(そこ)でも――――。

 

 

「超食べ終わってからなら」

「あんたはちょっと、黙ってろってな訳よ」

『さいですか、ニャアゴ』

 

 

 肩を竦める。結局、それから約三十分の間は何一つ、動かずに。ただ、何も知らぬままで、時間だけが過ぎ行く――――



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22.Jury・Night:『Howler in the Dark』

 

 

 夜天の下、歩く。まるで、殉教者の如く。暗闇の最中、警備員(アンチスキル)にでも見付かれば一発で補導だろう。

 

 

「ん――――……肩凝ったな」

 

 

 左手を肩に、ぐるん、と右肩を回す。フレンダと最愛は、『送り狼は結構』というので見送った後。尚、対象は今も捜索中。見付け次第、捕縛に向かうとの事。その後、二人を駅まで送り、バイクをもう一度預けて……今は、『対馬 嚆矢』の姿。

 天魔(あま)色の髪に、黄金酒色(はちみつ)の瞳で。暗闇に染まる虚空の直中(ただなか)を歩いていく。そもそも。そもそも、虚空の無い場所などはありはしない。誰も彼もが、忘れているだけ。どんなに理論で武装しようが、その存在する場所そのものが、虚空なのだ。

 

 

 

 喩え、幻想を殺そうが、あらゆるベクトルを変えようが、何の能力も無かろうが。虚空は、厳然と――――そこに在り続ける。

 そこに。貴方が意味を見出だす全ての根幹に、(あまね)く。どんなに理論で否定しても、遍く、必ず在るのだから。

 

 

「――――あぁ、疲れたなぁ」

 

 

 背骨を伸ばす。ゴキリ、と背骨が鳴る。慣れたものだ、今更だ。

安寧の暗闇の中、懐をまさぐる。取りいだしたるは『断罪の書・断篇』、預かりしもの。それを、自分の宿舎(すみか)まで読もうと。この、悪意に満ちた暗がりの中で。命知らずにも。

 

 

「成る程、つまり『ヨグ=ソトース』は一定の条件下のみ召喚に応じるのか……」

 

 

 その、複雑怪奇な召喚条件を鑑みて。彼は、頭を抱える。『門の神』、否、『門の鍵』たる神の召喚条件の厳しさに。

 要するに、義父(ちちおや)の助けが必要なのだ、この邪神の召喚には――――卓越した、その技法、『ハテグ・クラの山頂で刀を打つかの如く。

 

 

「……参ったね、ここまでとは」

 

 

 だから、苦笑を混ぜて。だから、刀を片手に。いまだ、紙片なれども。いまだ、詩編なれども。だが他には、得る事など出来まい。あの師父が認めたのだ。この力を……得なければ。

 

 

『――――駄目。駄目よ、こうじ』

「え――――」

 

 

 刹那、声がした。ソプラノの声、囁くように耳許で。顔を上げる。いつの間にか惹き付けられるように読み耽っていた『断罪の書・断篇』から。

 しかし、周りには誰も居ない。そう、誰も。人気の一つも、命の気配一つも。

 

 

『早く、気付いてあげて。泣いてるわ、怖いって……さっきから』

 

 

 その、一瞬。見えたのは、右目の視界の端。見ようとした動きの間に、消えてしまう。だが、確かに。幽かに、黄金が。薄紅色の虹瞳が、泣き出しそうに潤んでいて。

 

 

『泣いてる。泣いてる。君を呼んでだよ、コウジ。怖いって、苦しいってさ』

 

 

 続いて、純銀が。やはり、右目の視界の端。見ようとした動きの間に、消えてしまう。だが、確かに。幽かに、純銀が。薄蒼色の虹瞳、泣き出しそうに潤んでいて。

 

 

「ッ――――!」

 

 

――気付いた。気付かされた。ああ、そうだ。この空気……この『闇』。濃密なコールタールのような、纏わり付いて窒息してしまいそうな、この。この気配には……覚えがある。一度目は風、二度目は雨。そして――――今度は、闇の結界か!

 

 

 気付き、『魔術使い』の顔を見せる。気付いたのだ、気配、後ろから。饐えた悪臭を引き連れて、闇の中から――――此方を凝視する、『ソレ』に。

 

 

「――――チッ」

 

 

 学ランの内側に手を伸ばす。触れた金属の質感はガバメント、恐怖に対する精神衛生。頼りないにも程がある、蜘蛛の糸。

 それを握り締め、今にも飛び掛かってきそうな闇を睨み付けて――――

 

 

「____________!」

 

 

 響き渡る足音、呼吸の音。酷く乱れていて。街灯、チカチカと明滅する。哄笑しているかのよう。拳銃を向けられた事にも、気付いてはいない。気付いたとしても、『ソレ』に止まる選択肢はないのだが。

 街灯の光が、遂に消えた。辺りを覆う闇に、嘲笑う虚空に。この闇の中で襲われれば、一溜まりもない。だからその引金を、いち早く引いて――――

 

 

『『――――駄目。駄目……良く、良く見てあげて』』

「――――良く、見る……?」

 

 

 恐怖に竦もうとした、右の人差し指。その掌、拳銃を握り締める右手を――――温かなものと、冷たいもの。二つの右手の感覚が、包んで止める。

 見えたような気がした。己の右腕に重なって。薄い、黄金と純銀の――――しなやかな、()()()()()が。

 

 

 その、刹那――――虚空に浮かぶ月が、全てを映す。危うく引きかけたトリガーから、指が離れる。

 拳銃を構えた嚆矢も、その直ぐ脇で『燃え盛る三つの眼差し』を彼に向けながら嘲笑う『彼の影』も。

 

 

「な――――」

「――――はぁ、はっ、はぁ……」

 

 

 そして、走り続け――――嚆矢にぶつかり、抱き止められる形で、漸く足を止めた彼女も。

 

 

「――――飾利、ちゃん!」

「はぁ、はっ……嚆矢、先輩……だめ、先輩!」

 

 

 虚ろな眼差しが、此方を見る。認めて、安堵したように。だが、直ぐに――――恐怖に、表情を強張らせて。

 

 

「逃げて――――逃げないと、追い付かれちゃうから……あれに!」

 

 

 その言葉が、呼んだかのように。『ソレ』は、現れる。濃密な闇、掻き分けて泳ぐように。

 

 

『____________!』

「――――」

 

 

 悍ましい咆哮に、知らず息を飲む。怯える飾利の震えを止める程に、強い力で抱き竦める。決して、下心など無い。そんなもの、この根源的な恐怖の前では塵と同じ。

 這い出てきた、黒い異形。酷く乱雑に人を模したような形、だが、それを認めてはいけない。円錐形に長い頭、眼はない。かわりに、顔の半分が口。狂い果てた吠え声を上げる為だけに在るような、黒い化け物。

 

 

『 ツ カ マ エ タ 』

「チッ――――!」

 

 

 その怪異に気を取られたのが、最大の失敗。何故なら――――足許。くぐもって響いた声は、今正に嚆矢が立っている『マンホールの中』から。

 もう、遅い。間に合わない。既に鉄の蓋、震えていて。

 

 

『 キ サ マ ニ モ  ミ セ テ ヤ ル   ヒ ゲ キ ノ サ キ ニ マ ツ モ ノ ヲ 』

 

 

 嘲笑っている、影が。『愚かな生け贄よ、我が聖餐よ』と。三つの眼差し、燃やして。

 

 

『ク ル ー シ ュ チ ャ ホ ウ テ イ シ キ ヲ   ホ ン モ ノ ノ  カ ミ ヲ 』

 

 

 開いた、奈落の穴。せめて、腕の中の彼女だけは守ろうと、ありったけの『制空権域(アトモスフィア)』を使い――――下水道の暗がりに、呑み込まれる最中でも。

 

 

――月が、泣い(わらっ)ている。霊質(エーテル)の海に揺蕩いながら、虚空に嘲笑われながら。

 黄金と純銀の、色に染まりながら――――…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 闇だ。一面の闇だ、見渡す限り。光は、一切。在るのは闇と、不快な湿度。そして……噎せ返るような腐敗臭。何か小さなモノが這い回る、嫌いな者であれば堪えられない音。

 正に下水道の只中、しかしそこは、有り得ない。有り得ないのだ、そんな。

 

 

「――――じゃ、じゃあ、着けますよ?」

「ああ、中程の縦向きのホイールを回したら着くから」

 

 

 声、少女の。続き、金属の擦れる音と共に――――焔が灯る。嚆矢の、オイルタンクライターの火が。

 橙色の輝きに、嚆矢と飾利が浮かび上がる。同時に、足元のゴキブリや鼠といった生き物が、負の光走性により逃げていく。『ふひゃあ』と飾利が情けない声を上げて、ライターを持ったまま嚆矢の背中で竦み上がった。

 

 

 汚水の淀みに浮かぶ黴の塊、得体の知れない鍾乳石。おおよそ人には最悪の環境が、其処には在る。

 

 

「はうぅ……あの、先輩……その、重くないですか……?」

「ん~? いやいや、女の子に下水なんて歩かせらんないし、四十キロくらいなら部活の勧誘で背負ってるからへーきへーき」

 

 

 ハンカチ越しに盛大に溜め息を吐き、彼女は汚水を物ともせずにザブザブと歩く嚆矢を見やる。成る程、学園名物の心臓破りの門前を四十キロの重りを付けてロードワークするという莫迦な新入生勧誘ショーで培った足腰が、こんな時に役に立っていた。

 

 

「でも、よかった……もうダメかと思いましたから……嚆矢先輩に会えて、なんだか安心しました」

「そりゃあ、どうも。こんな奴でも役に立てて、嬉しいよ」

 

 

 そんな風に、背中で安堵してくれるのならば――――『制空権域(アトモスフィア)』で、最小の被害……『右足の捻挫』くらいで済ませた甲斐があると言うもの。

 

 

――ま、問題は……()()()()()()()()()()()()って事かな。

 暗部での経験上、こう言う時はどうにも百分の一(サイアク)が重なるもんだ。

 

 

 そんな考えを臆面にも出さず、にこりと微笑みを右側から覗く少女の顔を向ける。それを受けて、少し前まで只々、闇を恐れ、怯えていた少女は健気に微笑みを返してくれる。

 

 

「あ、先輩知ってますか、『下水道には、買えなくなって捨てられた白い(わに)がいる』って都市伝説……もし本当にいたら、食べられちゃいますね」

「そうなんだ? 俺が知ってるのは、油臭い白鰐ちゃん達だけだけど。何にしても、飾利ちゃんが都市伝説に興味あるなんて意外だな」

「違いますよぅ、わたしじゃなくて、佐天さんが……」

 

 

 聞き出せた情報は、『突然、化け物に追われた』、『何故だか分からない』という事だけ。それ以上は、彼女の精神衛生を考えて不問に。否――――それだけで、十分だ。

 

 

――良く、生きていたものだ。魔術の(くらやみ)に足を踏み入れて。いや、望んでそうしたのではなくとも……良く、生きていてくれたと思う。

 だから……殺す。この子を狙ったあの、化け物を。正体が何でも、関係ねェ……ブチ殺す、何がなンでも。

 

 

 決意し、そして感謝する。そんな彼女に向けてしまっていた拳銃の引金を引く前に……『()()()()()()悲劇の幕を上げる』前に止めてくれた――――『二つの右手』に。

 例えそれが幻想でも、実在でも。

 

 

「感謝、だな」

「何がですか?」

「いいや、此方の話」

 

 

 小首を傾げる彼女を余所に、汚水の中を歩く。ぬめつく底で滑らぬよう、痛む足首に意識を集中して。

 

 

――白井ちゃんの『空間移動(テレポート)』なら、上手く脱出出来たか? いや、あれは確か、移動先の座標が分からないと駄目なんだっけ……やっぱ、地道にマンホールを探すしかないか。携帯も通じないし。

 

 

 この、地の底からの脱出孔を探して歩く――――

 

『_____________!』

「「――――!?」」

 

 

 その、眼前に現れ出でる異形。吼えるように、闇の底でも。人の、当たり前に生きる人ならば、当たり前に凍りつかせる絶叫で。

 だから瞬時に、ガバメントを構える。今、唯一の力を。魔力、神刻文字(ルーン)すらも籠めた『呪殺弾(フィンの一撃)』で。『魔術使い』は、凍りつかされる事無く。

 

 

「チッ――――!」

「ひっ……」

 

 

 異形、よろめくように這いずって。黒い、腐乱死体染みたそれ。グズグズに弛んだ表皮、円錐形の頭には、顔の半分もある歯の無い口腔。ぽっかりと。

 忌まわしい。吐き気がする。生理的に、人が嫌悪を催すモのばかりで構成された、その存在。

 

 

 最早、迷いはない。引金を引く、迷わず眉間と心臓に向けて。そこが、急所であると願いながら。

 銃声は二発、それより早く閃光も二回。受けた魔弾も、二個の筈。神刻文字(ルーン)を刻まれて強化された、音速を越える銃弾だ。常人ならば、即死は免れまい。

 

 

『イイイイ______ィィィィ!』

 

 

 ()()()()()。先読みしたかのように崩れかけの腕を振るい、魔弾を叩き落とした、あからさまな異形に()()()()()()()()()

 咆哮に、空間が軋む。汚水の水面が泡立ち、黴塗れのコンクリートの壁面にヒビが走る。物理的な破壊力すら持つ吠え声は、雄々しくなど無く。卑劣で、悪意に満ちていて。

 

 

「クソッタレが――――!」

 

 

 物理的に脳髄を揺らす声に悪態を吐き捨て、思考する。拳銃が駄目ならどうすれば良いか、思考する。

 今、手の内に在る対抗策足り得るものは……ただ、一つ。

 

 

――『賢人バルザイの偃月刀』……だな。でも、飾利ちゃんの目の前だ。こだわりッて訳じゃねェが、魔術(オカルト)を一般人に晒すのは、今までしてこなかった。

 

 

 目線を、背中の方に。僅かに横を見遣れば、嚆矢の右手を見詰める彼女。驚いた顔で。

 だから、普通なら気の触れる声に意識を向けずに済んだのか。

 

 

「銃……先輩、なんで銃なんて持って……」

「あ」

 

 

 そうだった。『拳銃』も、十分に一般人には異質なもの。警察官や警備員(アンチスキル)ならば別だが、風紀委員(ジャッジメント)が持つようなものではない。

 しくじったかな、と思う。だが、それ以上に――――吹っ切れた。

 

 

「今更だ、なぁ――――」

 

 

 取り出す。懐から、『断罪の書・断篇』を。其処に在る内容は、頭に入っている。本来は青銅の剣、だが此処にはそんな気の利いた物はない。

 在るのは、黒鉄(くろがね)。右手の先、材料はコレくらい。

 

 

――――だが、知らない。お前は魔術は刻めても、刀の()ち方なんて物は。意志の籠め方などは。

 

 

 そう、知りはしない。諭されたように、思ったように。飾利の頭があるのとは反対の耳、闇に満たされた……『虚空』が在る方から。

 

 

――――そう、無理だ。お前には、無理だ。お前には、分かっている筈だ。

 

 

 『諦めろ』と。『諦めて、悲劇(じんせい)を受け入れろ』と。燃え立つ三つの眼差しは闇に満たされた虚空から、嘲笑いながら囁き掛けて――――

 

 

「――――あァ……」

 

 

 頷く。それ以外にはない。確かに、知らない。魔術は刻めても、想いを刻む方法など。認めるしかない、それは。事実なのだから。

 

 

「関係ねェよ」

 

 

 だから、だから。再度、右腕を伸ばす。異形に向けて、紙片を手に。詩編を手に。

 ただ一つの、約束を果たすために。

 

 

「何しろこいつは……飾利ちゃんを泣かしたからな」

 

 

 だから、その唯一の戦意の根元を示す。彼の誓約(ゲッシュ)『女の子に優しくする』という、その自戒を。赤枝の騎士団の、誇りを掲げる。

 口角を吊り上げて、敵を睨む。『正体不明の怪物(ザーバウォッカ)』が牙を剥く。

 

 

『――――やれやれ』

 

 

 その時、唐突に脳内に声が響く。呆れ果てるように、背後の闇に融けて消える。『やってみろ』と、『そんな事でこの闇を払えると思うのなら』と。影色の鋼鉄、軋むように嘲笑いながら。

 

 

『全ての(我等)は不滅、死など無い。そう、無いのだから――――“闇に吠えるもの(ハウラー・イン・ザ・ダーク)”もまた、再生不可能なレベルの致命傷を与えなければ(こわ)せはしない』

 

 

 それでも、虚空からじっと、じっと。面白そうに、眺め続けながら。言われなくても、と。『生命力』を『魔力』へと昇華する。再び満ちた魔力、それを……全て『断罪の書・断篇』に流し込む。

 感じたのは、死の痛み。頭痛程度だが、確実に脳細胞の幾らかが死滅した。そんな目に遭うのも、その程度で済んだのも、その『能力(スキル)』の為。

 

 

「――――飢える(イア)

 

 

 そして、記述されている『召喚方法』の全てを無視する。何故なら、師父は言っていた。『君の求めるものは、()()()()()』と。『書いてある』ではなく、だ。

 

 

「――――飢える(イア)……」

 

 

 詩編が意味を為す。紙片が意味を為す。それは、さながら神刻文字(ルーン)のように。

 

 

「――――飢える(イア)!」

 

 

 錬金術(アルキミエ)による骸殻(から)など無くても、『召喚術(サモーニング)』によって――――幻想にしかない筈の『賢人バルザイの偃月刀』は、鋼を得る!

 

 

「これが……」

 

 

 現れた、玉虫色のダマスク剣。第四代カリフの愛刀ズー・アル・フィカールにも似た形。拳銃の比ではない、その重量感。その存在感、その威圧感。正に、時空の神の祭具だ。

 目の前の異形、切り裂けと囁くように。意思でも持つかのように、圧倒的な質感。

 

 

『__バルザイ__の__偃月刀____ォォォ!』

 

 

 その時、異形は初めて明確に声を上げた。聞き取れる声で、この偃月刀の銘を。

 それは、衝撃だ。闇を震わせて、あらゆる全ての分子結合を融解させる音の波。絶叫が埃の浮く大気を激震させ、汚水の水面が沸騰し、黴塗れのコンクリートの壁面が砕ける。

 

 

 躱せはしまい。只の人間には。魔術による加護か、科学による防護の為されていない一般人には。

 

 

「ハッ――――耳障りなンだよ、テメェの濁声(だみごえ)は!」

 

 

 だが、だが。だが――――その二つを、この男は持つ。祭具剣『バルザイの偃月刀』に刻まれた、『竜頭の印(ドラゴンヘッド・サイン)』の加護。そして、その身には『確率の支配』を可能とする科学技術による防護が。

 故に、傷一つ無く。背中の少女を護り立つ嚆矢の黄金酒の瞳が、異形を睨む!

 

 

『__何故__……__お前____だけが____ァァァァ!』

 

 

 それに異形は刹那、怯んで。そして、怯ませた事を許さないとばかりに、二度目の咆哮の構えを。

 しかし、既に彼の瞳は捉えている。目の前の異形、倒すべき敵。最早、微風ほどの恐怖もない。恐ろしいと言うのならば、この偃月刀の方が、余程。余程。

 

 

「チッ――――無駄飯喰らいが」

 

 

 吐き捨て、再度命を削る。命のみ、それを全て偃月刀(のぞきまど)に。魔力は、偃月刀の内で形作られる。だから、反動はない。

 

 

「目障りだ……消えろ!」

 

 

 だが、快さなどは皆無だ。命を蝕む喜悦に沸騰する、禍々しい玉虫色。その不快感に、表情を歪める。其処に息衝くもの、此方を覗き見る存在に。

 命を削って感じたモノ、その痛み、その不快。その怒り、その理不尽を……全て。鋒先(ほこさき)の向く彼方、全てをぶつけるのは――――目の前の異形!

 

 

「――――『ヨグ・ソトースの時空輪廻(ディス=インテグレート)』」

 

 

 一声。それだけで、十全。鋒の向く先、其処に在る全てが捩じ斬れる。刀、振るわずとも。刃、触れずとも。『門の神』の眼差しに晒された、時空自体が。

 

 

『ギ__がァ____ァァ____ァァァァ!』

 

 

 縦に、横に、斜めに。点に、線に、平面に、立体に。戻り、止まり、進み、時間すら、空間すらも斬り裂かれた時空に。其処に在った異形もまた、同じ運命を辿るのみ。

 最期に断末魔さえ斬り裂かれて、虚空の継ぎ目に呑み込まれるように消えていった。

 

 

「倒した……ん、ですか……? これで、終わり……?」

 

 

 呆けたように、ただ、理解を越えている目の前の幾つもの超常。それが終わった事を察して、飾利が辛うじて口を開いた。

 

 

「…………」

「先輩……?」

 

 

 だが、嚆矢は答えない。無視した訳ではない、ただ、考えている事があるだけ。暗部での経験から、百分の一(サイアク)の状況を。

 

 

「ブラフ、か――――コイツは」

 

 

 そう、口にする。理解したのだ、本能的に。『これは、紛い物だ』と、あの時、足下から感じたモノと競べれば――――雲と泥の差がある。。

 

 

「――――そう、その通りだよ」

「「ッっ――――!?」」

 

 

 その二人に向けて、声が響いた。下水道、闇の満ちた地底を揺らして?

 

 

「流石は、我が女王のお気に入りの玩具か……具現(エンボス)程度で、顕在(アクチュアリー)たるこの俺の分身を滅ぼすとは。あの“時計人間”や“黒い仏”が見込むだけはある……」

 

 

 否、鼓膜だけを揺らして。革靴の音、響かせて――――。

 

 

「参ったね、まさか、昨日の今日でとはな……『突貫熱杭(バンカーバスター)』、だっけ?」

「おや、ご存じに在らせられましたか、陛下、これは恐悦至極……」

 

 

 天井を歩く、逆さまの人影が現れ出る。称えるように、蔑んで。見上げるように、見下して。微笑むように、嘲笑して。

 つい先程。見た覚えのある、初対面のその人物。大学生くらいの年齢か、目付きの鋭い眼鏡の、オールバックの青年は――――その左手に、一冊の『本』を携えて。

 

 

「だが、認めない。俺は貴様など……絶対に!」

 

 

 その嘲笑も、塗り潰される。嫉妬と憎しみ。色濃く、漆黒に。

 

 

「末期の祈りは十分でしょう? 一人で死ぬのではないのですから! 連れ添いならば、其処に態々(わざわざ)、用意して差し上げたのですからねぇ!」

 

 

 哄笑を浮かべていた。左手の一冊、突き出して。メリメリと、裂け始めた口蓋に。『ひっ』とまたも、背中の少女が竦み上がる。それに、目の前の男を嚆矢は睨む。

 

 

「さぁ、『ドール讃歌(ドール・カンツ)』よ……()く来たれ!」

 

 

 気でも触れたかのように震える彼女、然もありなん、先程までとは空気が違う。見るに耐えない。そう思うより早く、飾利の視界を塞いでいた。自身は、目の前の冒涜の羽化から目を背けずに。

 

 

飢える(イア)――――飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)!」

 

 

 その時、臨界を越えて。蛹の殻を破り捨てるように、人の骸殻(かわ)が脱ぎ捨てられる。嗚呼、なんたる不浄。なんたる汚穢。救いはない、救いはない。『主よ、何処に行かれたのですか(ドミネ・クォ・ヴァディス)』?

 

 

飢える(イア)――――星を喰らうものよ!』

 

 

 現れたもの。余りの異形に、嚆矢ですら膝が笑う。前の異形など、孵化したコレに競べれば可愛いものだ。自然、足が笑う。正気が霞む。瘴気に霞む。耐えられたのは、元から世界が地獄だと知っていたがために。

 

 

 蠢き這いずる、山のように大きな蚯蚓(ミミズ)。青白い粘液に塗れ、のたうちながら。見ようと目を凝らせば透き通り、見たくないと目を背ければ色濃く。それは、幻の如き現実として、其処に顕在する。

 下水道を覆わんほどに巨大な口蓋を持つ、その異形は、表情など形作れる筈もないのに。

 

 

『汝――――“地を穿つ魔(ドール)”!』

 

 

 明確に、明白に。目の前の命二つを喰らい啜る、嗜虐に満ちた笑顔を浮かべていた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 『禍福は糾える縄の如し』等とは、幸福しか知らない者の戯言だと。随分と昔から知ってはいたが、此処までとは。

 在りもしない事を、願ってしまう。目の前に蠢く、精神を蝕む異形を臨んで。そう――――

 

 

――こう、都合よく……無敵のヒーローでも助けに来てくンねェかなァ、いや、割とガチでさ。

 

 

 そんな、不甲斐ない事を思う。だが、そんな事はない。現実では、有り得ない。

 無辜のピンチに颯爽と現れ、悪を挫いて誰かを助けるスーパーヒーロー。あれは、創作だからこそ。助けなど、予定調和でなければ来はしない。

 

 

 だからこそ、屈してはならない膝が。だからこそ、離してはならない手が。だからこそ、挫けてはいけない思いがある。

 

 

「……先輩……っ」

「――――大丈夫……」

 

 

 この手は、離してはいけない。そうだ、もう、二度と――――

 

 

『■■■……』

()()にも、言ったけど……さッ」

 

 

 覚えはない。なのに、知っている。その絶望、その悔恨。合わない歯の根を、無理矢理に喰い縛って。

 在りもしない揮発油(ガソリン)の臭い、犇めく鉄の刃の檻、焼けつく真紅の焔に――――腕の中で、冷たく消え行くその命は。

 

 

「――――()()が……護る、って」

「先輩……」

 

 

 ()()()の強がりで。『虚空爆破(グラビトン)事件』の時に、成し遂げられなかった誓い。それを今、ここで果たそうと?

 無様に笑う膝を叱咤し、偃月刀を構える。命を蝕ませ、再び――――時空の連続を、滅茶苦茶に繋ぎ直す!

 

 

「――――『ヨグ=ソトースの時空輪廻(ディス=インテグレート)』!」

 

 

 断つ。無数に玉虫色の泡、弾けて。縦に、横に、斜めに。点に、線に、平面に、立体に。戻り、止まり、進み、時間も、空間すらも斬り裂いて。

 

 

『ハッ――――この程度ですかな、閣下……期待外れも甚だしい!』

「チッ――――図体ばかりの木偶の坊が……!」

 

 

 だが――――小さい、小さ過ぎる。あれ程の力と感じたこの偃月刀も、この怪物と競べれば――――本来の格は『門の神』の方が遥かに上とはいえ、たかだかこの程度の規模での顕現程度。鍵穴から覗いた程度の力では、再生可能な傷しか与えられない。

 では、もっと顕現の幅を広げる? 何を莫迦な、このサイズでも限界に近いと言うのに。これ以上、広げれば――――間違いなく、呑み込まれるのは自分の方。

 

 

『足掻くな……幾ら、ヨグ=ソトースの欠片の欠片と言えど、ドールとシュド=メルの融合体と化した俺には無意味――――』

 

 

 それをも嘲笑って、確かな未来にヤディス星を喰らい滅ぼす怪物『ドール』と地球の地殻すら貫く穴を穿つ旧きものクトーニアン族の首領にして旧支配者シュド=メルの融合体(キマイラ)。即ち、怪物の中の怪物たるその異形。

 嘲るような声は、耳を揺らさずに心の中へ。クトーニアンのテレパシー能力だ、人の心すら操ると言う。そしてその隧道(トンネル)の如き口蓋を開けば、中から競うように――――

 

 

「おいおい……マジかよ!」

 

 

 競うように、『闇に吠える者(ハウラー・イン・ザ・ダーク)』が――――その、『触腕の先端部分』が這い出す。

 その数、優に……十体。それら全てが、一斉に咆哮する――――!

 

 

「クッ……ソッタレ、がァァァッ!」

 

 

 辛うじて、右足で床面を錬金術(アルキミエ)にて『盾』とする。()り出したコンクリート、刻まれた『消沈』の三大神刻文字(ルーン)。果たして、いつまで持つか。

 その爆轟に『四つの印』の加護が、軋む。第一の『竜頭の印(ドラゴンヘッド・サイン)』が揮発し、第二印『キシュの印』が融解し、第三印『ヴーアの印』が、辛うじて熱波を防ぐ。確率0%では、『制空権域(アトモスフィア)』でも防護できない。振動により沸騰・気化した溶解液、その輻射熱により全てを溶かす――――摂氏数千度もの、魔窟の主の絶叫は。

 

 

『ハハハハハハハ! 見たか、これこそが我が“星を穿つ二つの魔叫(ドール&シュド=メル)”! ああ、ああ! 我が女王の“重なり合う二つの太陽(■■■■■&■■■■)”には遠く及ばねど……地殻をも融かし穿ち、星の核すら喰らう力だ!』

 

 

 埃ごと大気が燃え、汚れごと水が蒸発し、黴ごとコンクリートが融解する。魔術と科学の融合たる咆哮が、魔術と科学の融合たる防御を削る。赤熱し、融解を始めた盾を次々に更新するが、文字通り『焼け石に水』。

 単に、今も此処に立っていられるのは――――辛うじて、『盾』に添えた右掌が焼ける『熱』を防げたのは。

 

 

「っ……大丈夫です、先輩――――」

「飾利……ちゃん――――!?」

 

 

 柔らかな、華奢な掌が重なる。その掌が、彼に触れていたから。どんな状況でも、離しも見捨てもしないで、彼女を背負い続けていたから。

 

 

『何だと……有り得ぬ、そんな筈は! この一撃を耐えられるなど、超能力者(レベル5)でもなければ!』

「良く、分かりませんけど――――熱、なのなら。私の『定温保存(サーマルハンド)』で、護れますから――――!」

 

 

 震えていた筈の掌。それが、確りと触れている。情けなくも震えているのは、寧ろ、己の体の方。それは、適温のまま。触れられた、三十七度の体温のまま、その身は火傷一つすらもなく。

 

 

『小娘、貴様――――学園都市の大量生産品(マニュファクチュアリング)の分際で……この俺の“星を穿つ二つの魔叫(ドール&シュド=メル)”を! 何なんだ、貴様はァァァァァァッ!!!!!!!』

 

 

 怒り狂う怪物の絶叫にも、怯まずに。その腕、強く嚆矢の体を抱いて。震え、止めようとするかのように。

 意想外とは言え、嚆矢の『制空権域(アトモスフィア)』により、限界までの性能を発揮しつつある彼女の能力(スキル)が異形の力を防ぐ――――!

 

 

「……大丈夫です、私は。もう大丈夫です、先輩が護ってくれって分かってるから……だから!」

 

 

 震えているのは、唯一、声だけ。それだけは、いつもの……『初春 飾利』のまま。覚悟を決めた、女の強さを思い知る。成る程、これは大したものだ。

 

 

「だから、先輩は――――先輩の、戦いを……!」

 

 

 朗らかに、笑いながら。けれど、歯を喰い縛って。それは、そう、覚えてはいないけれども――――間違いなく、見た事がある筈の。

 

 

――強いな、君は。風に吹かれる葦のように、折れそうだった俺なんかより、ずっと。

 ああ、本当に――――初春飾利、君は。強い、女の子だ。

 

 

 気付く。漸く。自分は、何の事はない。昔からそうだったように、『主人公(ヒーロー)』などではなく――――倒されるべき、『怪物(ザーバウォッカ)』だった。

 そんな、物心以来からの友を。何故忘れていたのか……今や、それすらも忘却の内だが。そう、護るのではなく。共に歩く、それだけが。

 

 

「ああ……」

 

 

 息を吐く。知らず、詰めていた息。安らかに吐いて。最早、膝の震えは無く。

 

 

「そうだ――――そうだった」

 

 

 気付けば、何の事はない。後は、手足は軽く。何をすれば良いかは、明白で。遺恨の代償にしようなどと、甚だ浅ましい。

 その右手の刃、杖? 祭具など、何の事もない。こんなものは――――

 

 

「有り難う、飾利ちゃん。いやぁ、惚れ直しちまったぜ」

 

 

 ()()()()()()()()()()と。『魔術使い』の顔を、何時ものようにへらへらと棄てて。全てに接する、この祭具を、未来に向けて――――

 

 

「だから、その能力(スキル)……貸してくれ!」

 

 

 『克つ為』に。その意思のまま、得体の知れない刃金を右腕と一体にする。文字通り、『錬金術(アルキミエ)』で、原子レベルで一体に代える。

 禍々しい刃金、右腕に。沸き立つ禍々しい奇怪にも機械に似る、確固たる密集した鎧にも群を為した剣にも、唯一生まれ持った拳にも見える追加された複合装甲を纏う、右腕の鉤爪の拳へ。

 

 

『うん――――うん。こうじ、やっぱり貴方は、真っ直ぐに貫いてくれる……未来(わたし)に、向けて』

 

 

 その刹那、幻視したもの。右目の視界の端から、黄金の右腕。その右腕、この刃金の右腕に重なって。

 口角、吊り上げて睨む。這いずる威容、遂に隧道の如き口蓋その物に力を蓄え始めたモノを。ずっと、絶やさずに焔を灯していた彼女の、ライターを持っていてくれた右手に、重ねるように。

 

 

『ク ソ 忌 々 し い 塵 芥 の 分 際 で !』

 

 

 大元の口蓋、其処から迸った絶叫――――地の底を揺らす、地震のように。射線にある全て、問答無用に揮発させながら。

 迫る、“星を穿つ二つの魔叫(ドール&シュド=メル)”。一点に集中された、熱による掘削機関。それは、先程までとは、規模も出力も段違い――――!

 

 

「煩せェんだよ、塵芥――――!」

 

 

 その地獄の咆哮、斬り裂いて。命の大半を削りながら、僅かに一人分、だからこそ、二人が生き残れるだけの空間を揺らして――――怪物を、焔の右腕が撃つ!

 

 

『ハッハハハハ! 無駄だ――――焔など! 確かに、生半可なクトーニアンは焔で滅せるが、シュド=メルは違う! 彼には、最早核兵器すら効かない! そして何より、星を喰らうドールの粘液はマントル、地殻の圧すら通じない!』

 

 

 確かに、確かに。全く、効果はない。嘲笑うテレパシー、心に響くだけ。

 

 

『 無 駄 な ん だ よ !   全 て ! 』

 

 

 無慈悲なる、嘲笑する神が笑うように。何の、何の意味もない。

 

 

「ああ――――知ってるさ、怪物」

 

 

 それでも尚、右腕、虚空を掴んで離さない。もう、()()()()()()()とばかりに――――

 

 

「確かに、焔で貴様は殺せない。だが――――所詮、星の核の熱など、一過性。殺せば、消える」

『そうだ――――ああ、そうだとも! それが、何だ!?』

 

 

 勝ち誇る声は、蔑んで。再度の声、装填を終えていて――――

 

 

「――――だが。だが、この焔は永遠だ、怪物。この、定温保存(サーマルハンド)は」

定温保存(サーマルハンド)――――そんな、在り来たりな能力が、何、だと……』

 

 

 刹那、違和感が。ミシリ、と、軋んで――――その口蓋、鮫のように立ち並ぶ牙、また牙。その一本が……溶け落ちた。

 

 

『何だと……何だ、此れは?! そんな、莫迦な事が!』

 

 

 消えぬ熱量が、『魔術』のバックアップを得た『定温保存(サーマルハンド)』――――学園都市にはありふれた、彼女の低能力(レベル1)が、怪物に。

 『触れているもの』の、温度を操る。即ち、『全てに接する』彼の右腕に触れた彼女の掌は――――怪物すら。

 

 

「永遠の焦熱は、貴様が燃え尽きるまで消えない。この俺の命を灯火に。燃え上がる松明(たいまつ)は、お前だ――――」

『ば――――』

 

 

 『莫迦な』、か? 声は、最後までは届かない。自ら発した熱まで、“星を穿つ二つの魔叫(ドール&シュド=メル)”まで――――その身を襲う、熱と化したのだから。

 

 

『がァァ__ァァァァあ__ァァァァ____ァァ――――餓鬼__どもがァァァ?!』

 

 

 咆哮、否、絶叫か。高まり続け、星の熱を越えてプラズマと化した焔に乾き、ひび割れた体が軋み、崩れ始める。所詮、旧きもの(グレート・ワンズ)に毛の生えた存在ではこの程度?

 いや、奮戦した方だろう。矮小とは言え、他ならぬ『副魔王の顕現』を前に。

 

 

『な ら ば !   そ の 身 を 磨 り 潰 せ ば 良 い だ け だ ろ う !』

 

 

 だから、その唯一の突破口を。確かに、確かにその通りだ。能力こそ、旧きものを滅せる程でも――――その身は、多寡が人間だ。旧きものの体躯なら、造作もなく殺せる!

 蠢き、迫る。這いずり、押し潰す。それだけだ、それだけで嚆矢も、飾利も死ぬ。正に、造作もなく。

 

 

「惨め、だな。結局、最後は力押しかよ、怪物(おれ)

『可哀想……可哀想だわ。お願い、こうじ――――』

 

 

 それは、飾利の声? それとも、幻聴しているのか? ああ、視界の端に、黄金が煌めく。悲しげに、薄紅色の瞳を潤ませて。

 良く、分からない。だが、それは、その声だけは、聞き逃せないもの。

 

 

『助けて、あげて』

 

 

 聞き逃せないもの、だから――――

 

 

『な――――』

 

 

 巨体、自らの咆哮で掘り広げた大空洞に浮いて。突進の力、全て、己に返る。驚愕、全て、己に帰る。捻り潰されるように体、天井を削って。遍く、それすら、彼本人すら殺し得る力が。

 一体、何が起きたのかと。怪物、人の思考に還る。理解不能、理解不能。最期まで、理解不能――――。

 

 

「莫迦が――――一方通行の力なんて、合気道には」

 

 

 潰れる。叩き付けられたのは自らの重さで。在るのなら、頭からぐしゃり、と。壊れかけの体に、最後の()押しが加えられて。

 

 

「俺の理合(バリツ)には、無意味だよ」

 

 

 乾きかけの青白い腐汁、撒き散らして。飾利の持つライターで火を灯した煙草、銜えた嚆矢の背後に。人の技術、怪物(ザーバウォッカ)を殺す技能(わざ)が――――!

 

 

………………

…………

……

 

 

「嘘、だ――――」

 

 

 その全てを察し、風の申し子は声を荒げる。カタカタと震えるマンホールの蓋の上で、彼女は――――

 

 

「嘘だ、『金の時代』の人間が死力を尽くしたものなら兎も角――――この時代の人間が、旧きものを討つなんて! 有り得ない、ヒューペルボリアの時代ならまだしも、『鉄の時代』の猿風情が!」

 

 

 取り零した『獲物』を追い続けて、地下にまで風の目と耳を張り巡らせていた彼女は、激情のままに風を震わせて叫ぶ――――

 

 

「対馬、嚆矢――――お前は!」

 

 

………………

…………

……

 

 

 ごう、と。最後に一度、下水道が揺れる。それは、主を失った家屋が風に吹かれるかのように。後は、崩れ去った瓦礫が残るのみ。そこは、彼が掘り抜いた隧道であれば。

 最早、背後には――――何の意味もない腐汁と腐肉、その水溜まりのみ。ごぽりと青白く泡立ちながら、それも後、数秒で朽ちる。

 

 

 一度、天を仰ぐ。穿たれた地底の穴から見える空、青みがかった、群青に染まりつつある夜明け。黄金の月が、眠りに就くように白く染まっている。

 丁度登りやすくなった所を選び、歩き出す。

 

 

「終わったよ、飾利ちゃん」

「ふえ……」

「ゴメンな、こんな事に巻き込んで。全部、俺の所為だ」

 

 

 背後に、声を掛ける。黙って待ち続ける少女に、嘲笑いながら苛立ちを向ける鋼の影に。

 

 

「……ほんとです、もう、これっきりにしてくださいね」

「ああ、肝に銘じる」

「ダメです、許しません……だから、明日、パフェを奢ってください」

「はは、御安い御用さ」

 

 

 力なく笑い、軽口で返してくれた彼女に苦笑を。

 優先する方など、考えるまでもなく。初めから、決まっている。

 

 

「目を、瞑って。後は、俺が何とかするから」

 

 

 にこりと、笑って告げる。それは、どちらに? 決まっている、瞼を震わせ、泪を湛える少女に。

 

 

「先輩……?」

 

 

 強がりすら、今は真実か。僅かな寂寥、胸に抱いて。

 

 

「――――『空白(ウィアド)』」

 

 

 『空白』の神刻文字(ルーン)、忘却をもたらす魔術を口遊んだ――――

 

 

………………

…………

……

 

 

――燃える。燃え尽きる。有り得ない、多寡が『人』の操る焔で……莫迦な、俺の『ドール讃歌(ドール・カンツ)』が。

 

 

 のたうつように、地中から這い出した――――『闇に吠える者(ハウラー・イン・ザ・ダーク)』。焦げた魔導書を左手に、焼けた体が崩れるように剥げ落ちて中から青年の姿が現れた。

 しかし、勿論無傷ではない。全身、至るところに見える酷い火傷の痕。そして右腕は肩からだらりと、指先すら動かせもしない。

 

 

「ぐっ……あァァ……クソッ、餓鬼どもめ!」

 

 

 右足を引き摺り、何とか大通りへ。明け方とは言え、先程の放棄区画とは違って人通りの絶えない其処に。

 当然、その姿は人目を引く。しかし、今は人の目が在るところに居なくては。暗部の追っ手にでも見付かれば、今の状態では逃げる事すら儘ならない。

 

 

「早く……逃げないと……未元物質(ダークマター)に、見付かる前に」

 

 

 何より恐れるのは、その男。『スクール』のリーダーであるその男、学園都市の第二位。魔導書の力を持ってして、勝てるかは分からない。

 何度か、救急車を呼ぼうかと声を掛けてきた人物も居たが、彼はそれを押し退けて歩き続ける。

 

 

――逃げる? 何処に?

 

 

「逃げる……都市から、出ないと」

 

 

 今更、受け入れてくれる場所はない。学園都市最大級の暗部組織を脱走した時点で、もう――――安息など、この都市の中には。

 

 

――逃げて、どうする?

 

 

「逃げて、生きる……俺は、まだ死にたくない」

 

 

 這いずる。学園都市の外に向けて。今までなら、地下を穿孔すれば良かった。だが最早『ドール讃歌(ドール・カンツ)』は機能の大半を失い沈黙、肉体のダメージのせいで演算もままならず、『突貫熱杭(バンカーバスター)』も使えない。

 出口は、ただ、外壁のみ。辿り着いても、出られるかどうかは怪しいが。『暗部に粛清命令が下っている』彼が、外に。

 

 

――無駄な足掻きだよ、そんな事。もう、君は終わりさ。

 

 

「誰――――だ」

 

 

 気付く。頭の中で、嘲笑う者に。けらけらと、その『女』は。

 

 

「憐れで愚かな、三流の道化~。君に、アンコールはないよ~?」

 

 

 虚空から、能面の如き笑顔。豪奢な赤地に炎の模様のサリー、アラビアックな黄金の装飾品。右手に掲げるランプには、風もないのに息づくように揺らめく焔。

 見るだけで、心が高鳴る。まるで、断崖絶壁の先を望むように。命の危機に、震えるように。

 

 

「我が、女王……」

 

 

 いつの間にか、愛していた『女』……『女』? こんな、こんなものが?

 

 

「あはは~、漸く気付いたんだ~? 彼は、逢って五分くらいで気づいたってのにさ~」

「あ……」

「そういうところからさ~、もう、君と彼とは役者が違うのさ~」

 

 

 そう、こんな……こんな『怪物(ザーバウォッカ)』が。

 

 

「あぁ……あああ」

「逃げる、逃げる~? どこまで逃げても、『結社』から逃れる事は誰にも出来ないよ~? そして、敗者には~」

 

 

 体、俄に震え始める。痛みではない、恐怖から。目の前の、確実なる『狂気』を目の当たりに。

 

 

「――――死が、在るのみだよ~」

 

 

 笑顔の仮面(ペルソナ)の奥に渦巻くもの。赤く、赤く。燃え盛るように赫い、三つの――――

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 絶叫、響く。通行人の全てが、一斉に振り向く。それは、平穏に生きる為には決して見るべきではないものだと言うのに。

 

 

كنت وما ني الخام للموتى(其は、永久に横たわる) التي تقع إلى الأبد(死者に在らねど)

 

 

 恐らくは一生涯、夢に見続けよう。そして、居合わせた不運を呪うだろう。全ては、遅すぎるが。

 

 

تحت دهور أجبرت هائلة(計り知れざる永劫の下に)، حتى الموت يوي فضفاض(死すら越ゆるもの)――――』

「い、ぎィィィィ! 待って、止め――――!」

 

 

 ただ一人、路上でのたうち回る男の姿。まるで、『()()()()()()()』にでも襲われているかのように。

 

 

『あはは――――』

 

 

 その体が、徐々に消える。貪り喰われるかのように。腕が、足が、脇腹が――――惨たらしい音、獣達の息づかい。

 空腹を、嗜虐を満たす事を許可された『不可視の獣達』が肉を裂き、骨を砕き、血液を舐め、臓物を啜る音が響く。

 

 

『あはははははははははははははは、あはははははははははははははは、あはははははははははははははは!!!!!!!!!』

 

 

 パニックに陥る事もできず、ただ凍り付いて、その悪夢を眺める事しか人には出来ない。

 そんな静寂をあどけなく、狂ったような哄笑。『彼』以外の誰にも聞こえる事無く、虚空のみを揺らして。

 

 

「た――――」

 

 

 最後に残った左腕、伸ばしたのは――――虚空。誰もいない、何もない。しかし、そう、届くのだ。今、この時だけは、無慈悲にも。

 ぶつり、と。軽くその腕を食い千切った――――『獣の顎』が。

 

 

「たす、け」

 

 

 言葉、最後までは届かない。そうして、全て。『彼』が存在した証拠の全ては、虚空に貪り食われて。

 漸く、思い出したように誰かの悲鳴。群衆の阿鼻叫喚、尻目に。

 

 

「後始末は完了、と~。あ~あ、やっぱり、ちゃんと選ばないとこんなゴミしか出来ないか~」

 

 

 携えた、魔導書を。『ドール讃歌(ドール・カンツ)』を、能面の笑顔で見詰めて。

 

 

「では、次はワタシの出番ね」

 

 

 傍らのベンチに腰掛けていた、青地に波の模様のチャイナドレスの妖艶なる娘が語り掛ける。エキゾチックな黒髪をシニョンで纏め、黒い扇で口許を隠して。流し目、涼やかに。

 

 

「ちぇ~、まぁ、私は失敗したからね~。大人しく、次の出番は譲るのさ~」

「ええ、待ち侘びたもの。最初は時計人間、次に貴女。本当、待ったわ」

 

 

 赤い占い師(イフリート)の間延びした軽口にも、怜悧に真面目に。狂気の笑顔を前に、青い舞姫(ルサルカ)――――水死体の如く潮の香りを纏う彼女、事も無げに。

 

 

死者的大邪神祭司■■■(フングルイ・ムグルウナフ・■■■■■)……」

 

 

 口遊む。その、冒涜の詩。捧ぐように、虚空へと。

 見えはしないが、その『唇』は恐らく、歓喜に歪んでいる事であろう。

 

 

你不能等待離開的夢想在螺湮城寶座(ル・リェー・ウガフ・ナグル・フタグン)――――」

 

 

 太平洋の遥か海底に沈んだ都で、今も星辰が揃う日を死の微睡みに夢見る『旧支配者の大司祭』と共に。

 

 

………………

…………

……

 

 

 漸く、終わった。後始末も、全て。飾利を寮に帰し、部屋まで誰にも見付からないように、『隠蔽』の神刻文字(ルーン)を自らに刻んで運んだり。出入管理の記録を改竄したり。

 後は、放棄区画の崩落を匿名として『警備員(アンチスキル)』に通報したり。したらしたで逆探知された挙げ句に犯人扱い、上層部に掛け合って揉み消したり。本当に、忙しく暗躍して。

 

 

「――――イヤッホォォォウ! 御同僚の皆々様、おはようございー!」

「……また、この男は朝から」

「やあ、みーちゃん、今日も朝から、眉を寄せた憂える表情がクールビューティーだね!」

「あ・な・た・の・せ・い・よ!」

 

 

 完徹のハイ状態で風紀委員の支部に行き、朝礼中に乱入してやはり美偉にこっぴどく叱られて。

 

 

「――――では、今日も別行動をさせていただきますの」

「あ、うん……その、気を付けてね?」

 

 

 ハイテンションが切れた頃、完全に軽蔑した瞳でそう言い残して空間移動(テレポート)していった黒子を為す術無く見送って。

 

 

「……こりゃあ、完全に無理ゲーって奴だな。詰んだわ」

 

 

 ちょっと昨今、他に無いレベルで見下されていた事に、膝が笑っていた。ちょっとだけ、癖になりそうな視線だったのは内緒。

 

 

「はぁ……眠い」

 

 

 ぬべーっ、と、テーブルに突っ伏す。冷やっこい天板は、実に心地よい眠気を運んできてくれる。天にアルクトゥルスが瞬いても、起きるのは至難であろう。

 

 

「――――先輩、嚆矢先輩」

「んあ~、寝かせてくれよ……飾利ちゃん……」

「もう、先輩! 今、出てきたばっかりじゃないですか!」

 

 

 ゆさゆさと揺られ、仕方無く頭を上げる。目の前には、飾利の顔。少し怒ったような、いつもと変わらない表情。

 

 

「夜更かしなんてするからですよ、何をしてたのかは知りませんけど……風紀委員の活動に支障を来すような事は、慎んでくださいね」

 

 

 真顔で、本当に、『何も知らない』顔で。苦言を呈した彼女。

 

 

――『忘却』は、上手く機能してるみたいだな。ああ、そう。少し、空しいけれども。彼女の心の平穏の為だ。

 

 

「うぐぅ……ぐうの音も出ない」

 

 

 お道化ながら、胸を押さえる。微かに感じた痛み、それを紛らわせる為に。『忘れられた』痛み、その空虚。最早、取り戻しようもないモノを。

 

 

「それじゃあ、昨日はデスクワークだったから、今日は外回りですね」

「うい、行きますか」

 

 

 言われるより早く支度を整え、扉に向かう。勿論、扉を開けて待つ為に。レディーファーストは嚆矢の基本概念。今更、違える事はない。

 

 

「ありがとうございます、先輩」

「なんの、これしき。しかし、暑いな。今日も」

「そうですね。何だか――――」

 

 

 日盛りに歩き出し、振り返って笑う彼女。朗らかに、何も知らない笑顔で。彼の見たかった、笑顔のままで。

 

 

「――――何だか、駅前のベニーズのパフェでも食べたくなっちゃいますね」

 

 

 今日も今日で、最高気温更新。茹だるように暑く、辟易する程に蒸した、降水なし、夜まで真夏日のその日。

 

 

「ハハ……御安い、御用さ」

 

 

 予定調和のように、一日が過ぎるのか――――…………



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2章・chapterⅢ 幻想御手事件=Level Upper
七月二十四日:『幻想御手』


 

 

 白い、白い、白い部屋。気が触れそうな程。実際、知り得る限り、十八人が狂気に呑まれて……その後、何処かに連れられたまま、戻りはしなかった場所。

 兄達も、姉達も。弟達も、妹達も。残ったのはもう、この三人だけ。

 

 

──ボクの後ろで震える、二人の■だけ……この二人だけは、何としたって。

 

 

『────クソッ、ふざけやがって』

 

 

 体格の良い白衣が、顔の思い出せないのっぺらぼうの白衣が吐き捨てながら右腕を振るう。ガン、と左側から衝撃。転んだ後で、殴られたのだと知る。

 それでも、立ち上がる。ここで諦めてはいけないんだ、まだ、まだ。

 

 

『何だ、その瞳は────糞忌々しい、合成物体(メイキング)の分際で!』

 

 

──二度目、転ぶ。流石にキツい。でも、泣いている。だから、この膝は折れない。少なくとも、殴られたくらいで。大人の拳、幾ら大きくて……強くても。

 

 

『気に入らないんだよ、結果も出せない実験動物(モルモット)の分際で────!』

 

 

──三度目。幾らなんでも、涙とち血が溢れる。口を切ったのだろう、悔しくて、悔しくて噛み締めた歯で。そうだ、その筈だ。間違っても、暴力に何て屈してない。

 

 

『他の科学者(ファッキン)どもも、あんなもの程度を目指して満足してやがる……そんなモノに、多寡だか()()()にも及ばずに、“絶対能力者(レベル6)”になどなれるものか────貴様は、特別製の筈だ! 貴様は怪物の筈だ! そうだろう、“五月の王(メイ・キング)”!』

 

 

──打ち据えられる。狂ったように、何度も何度も。狂ったように、口角に泡を噛む白衣の男に。ああ……いい加減、限界も近い。いや、いっそ、此処で殴り殺された方が楽かもしれない──

 

 

『だめ────』

『────だめ』

 

 

──壊れかけの意思に、自我に。響いた声は二つ。酷く小さく、今にも消えそうな程に弱くて。

 それでも、しがみ付くように。支えるように、二つの右手。小さな、震える右手の感覚。だから────やはり、屈せはしない!

 

 

『大丈夫──ボクは──大丈夫』

 

 

──にこり、と。背後に向けて。血が流れてない方の顔で、微笑みかける。それは、安心させる意志である。まだ踏ん張れる事を、確認する行動である。

 

 

『貴様────まだ笑うか!』

 

 

 そして、更なる理不尽の呼び水である。

 

 

『やめたまえ、その子は、君よりも遥かに資金がかかっているのだよ』

『きょ、教授……しかし』

『少し頭を冷やしてきなさい、ほら』

 

 

──白衣の老爺に促され、白衣の男は仕方なさそうに離れていく。

 それを見送り、老爺は。

 

 

『さて……では、今日の実験を始めようか?』

 

 

──揺れる名札に、『木原』と。姓を記した老爺は、吐き気がする程に朗らかに笑った。

 

 

『“人狼鬼(ルー・ガルー)”君?』

 

 

──だが、ああ。大丈夫、屈しない。知っている、そうだ、最後まで屈しはしなかった。

 だって、これは……俺が、ボクが忘れたモノだ────

 

 

「───そう、君が忘れた過去(ワタシ)だよ」

 

 

──だから、気付かない。気付けない。視界の端、映り込む……純銀に。

 

 

「やっぱり、忘れていく。君も、そうなんだね────コウジ」

 

 

──気付けない、ままで……

 

 

………………

…………

……

 

 

 思い出していたモノ、覚えていない。覚えていないが、忌々しい事を思い出すのも全てはこの静寂、静寂、静寂の所為だ。

 白昼夢か、まだ、昼には早過ぎるが。そんな刹那にも、夢見た伽藍は崩れて消える。

 

 

──無心だ。無心を貫け。波の無い水面、明鏡止水。無念無想、空虚、伽藍────

 

 

 物音一つ無い武道場の畳の上に、道着姿で正座する。キイン、と無音が耳に煩い。まだ、明けて間もない夜の気配が残る室内。そこに、嚆矢は一人、瞑想する。

 

 

──一瞬。ホンの一瞬だ。その刹那に、全てを掛ける……。

 

 

 その前方、約五メートル先の床の上に置かれた小さな()()。嚆矢は、蜂蜜色の瞳でそれを睨み────

 

 

「────ッ!」

 

 

 一閃、右腕が閃く。刹那、その異形の右腕、異境の刃金と化して。『副魔王ヨグ=ソトース』を内包するダマスカス鋼、常人では見えない異界の色彩が一瞬だけ顕現して。

 

 

「……よし、大分ピンポイントでも使えるようになってきたな」

 

 

 間違いなく掴み取った『実感』に、達成感と共に右掌を開く。そこには────

 

 

「……力加減は、まだまだ要努力だけど」

 

 

 脱力してしまうくらいに握り潰され切り裂かれ、ぐちゃぐちゃになった……『ピンポン玉』があった。

 『時空輪廻』の効果の応用、一種の空間移動だ。『虚空』そのものであるこの右腕により、本来ならば触れる事もしていないモノを掴み獲る。更に、『時空』を掴む魔術なので、物質の内外や硬軟は問わない。

 

 

 だが、その所為か、加減が極めて難しい。こうして、軟らかいものも硬いものも粗方握り潰してしまう。

 怪神の右腕は、切れ味も握力も怪神な様である。そして、朝昼はその一瞬の顕現だけでも、一キロ走を全力疾走したくらいの疲労がある。

 

 

「やっぱ、空間把握系の能力は才能だなぁ……こう言うの程、白井ちゃんのアドバイスがあれば上達早いだろうに」

 

 

 通算三十回目の失敗に、伸びをしながら仰向けに倒れ込む。投げ出されたピンポン玉、過たず二十九の同じものが待つゴミ箱に。

 

 

──無いな。我ながらアレだけど、有り得ないわ。もしかしたら、着拒されてるかもなレベルだし……

 

 思い出したのは、昨日の朝。あの、凍てついた視線は今、思い出しても震えてしまう。

 

 

「クソッ、昨日の俺の莫迦……もう少し、年上らしく落ち着いた行動しろっての」

 

 

 等と、自分で自分を叱って。どうやってリカバリーしたものかと思案を巡らせる。

 あれだけ有望な子はそうはいないのだから。勿論、今でも十分に魅力的だが、等と真性な事を考えて。

 

 

「ほっほ、なんじゃ、誰かと思えば対馬か。お前が朝練とは珍しいのぅ」

「あ────隠岐津(おきつ)先生、お早うございます」

 

 

 そんな彼の真上に、いつの間にか立っていた痩躯の老爺。合気道部顧問、『隠岐津 天籟(おきつ てんらい)』。

 起き上がり、一礼を。礼に始まり礼に終わるのは、どの武術も同じ。

 

 

「ふむ、ピンポン玉の訓練か。理合の掴み方でも忘れたのかの?」

 

 

 白髪に山羊のような白髭の好好爺は、朗らかに、ぼうぼうの眉毛に隠れた眼差しでゴミ箱を見る。ピンポン玉の重なるそこを。

 

 

「いえ、まさか。先生の教え、忘れたくても、この魂に刻まれてますから」

「ほ、言いおるのう、たかだか三年で理合を窮めた気か?」

 

 

 からからと笑い、咳き込む。慌てて背中を擦れば、年寄り扱いするなと叱られる。理不尽である。

 

 

「兎も角、良い機会じゃ。対馬、お主……最近、蘇峰とは会っておるか?」

「蘇峰、ですか……少し前に、瑞穂機構病院で会いましたけど」

 

 

 妙な事を問われ、不可思議に思うも正直に。それに、老師は僅かに表情を曇らせて。

 

 

「実はのう、最近あやつは大能力者判定を得たのじゃが……」

 

 

 それは、知っている。その病院で、彼の祖母の口から聞いた。

 

 

「ただ、のう……どうも、妙な感じがしてのう……随分と短期間で、能力の強度が飛躍的に上がった気がするんじゃ」

「飛躍的に……ですか」

 

 

 その言葉に、引っ掛かるもの。そう……今、風紀委員(ジャッジメント)が血眼になって追っている『幻想御手(レベルアッパー)事件』を。

 

 

──まさか、あの、蘇峰が?

 

 

 否定したい気持ちが、まず。だって、知っている。彼がどれだけ真面目な人物か、卑怯や怠惰を嫌うか。それを知るからこそ、嚆矢は彼を、新主将に指名したのだから。

 

 

「その時、何ぞ変わった様子はなかったかのう?」

 

 

 問うた声、その声色は優しく。しかし────虚偽は許さないと、確かな気迫の籠められた声。思わず戦慄するくらいに。

 

 

「────俺が」

 

 

 だから、答えは────ただ、一つ。

 

 

「俺が、確かめます。曲がりなりにも、『先輩』ですからね」

「…………」

 

 

 何の答えにもならない、『応え』を返す。認めたも同然だ、こんなもの。『変わった様子があった』と。

 無論、それは老師にも伝わる。彼は、ふう、と溜め息を吐いて。

 

 

「────何を、当たり前の事を格好つけておる。子供の問題じゃ子供が始末をつけんでどうするのじゃて」

「あはは、流石は先生だ。話分かるー」

 

 

 笑って、頭を下げる。そうと決まれば、先ずは彼に確かめねばならない。時間は、あまり無いかもしれない。

 『幻想御手(レベルアッパー)』を使用した者は、時間が経つと昏睡してしまう────それはもう、風紀委員では確実視されているのだから。

 

 

「気を付けい、対馬。蘇峰の『質量操作(マス・ゲーム)』は更に強くなっておる。今までと同じとは、思わぬ事じゃ」

「はい……」

 

 

 小さく頷き、武道場を後にする。言われなくても、彼を甘く見た事など一度もないが。あの能力(スキル)は、長じれば高みに昇る能力だ。『制空権域(アトモスフィア)』など、目でもないくらいに。だから────

 

 

「気の所為だったで頼むぜ、蘇峰────」

 

 

 そんな、祈りのような言葉と共に。懐から携帯を取り出した。コールするのは、風紀委員の同僚。『初春飾利』と『白井黒子』、その二人に。

 

 

………………

…………

……

 

 

 そして、結局。通話に出たのは飾利だけであった。

 

 

「あ、あの……何か、用事があったのかもしれませんし」

 

 

 明らかに頬を引き吊らせながらの笑顔。まさか、本当に着拒とは。幾ら嚆矢でも、想像だにしていなかった結果であった。

 

 

「ウン……ソウダネ」

 

 

 よって、そんな体育座りで。辛うじて、待ち合わせ場所のバス停前に駆け付けてくれた飾利の関心を買う。

 『着拒じゃなかっただけマシだ』とか、『最低からは昇るだけ』と己を慰めて。

 

 

「ところで、『幻想御手(レベルアッパー)』の手懸かりを見付けた』って言ってましたけど……どんな手懸かりなんですか?」

「ああ、正確には『かもしれない』ね。実は、後輩の一人が幻想御手(レベルアッパー)を使ったような能力の上昇をしてるらしいんだけどさ」

 

 

 気を取り直しての説明と共に、携帯を取り出す。コールする先は『蘇峰 古都(そほう みやこ)』、その人。

 約五回、コール音が鳴る。駄目かと思ったその直後、やや間を置いて相手が出る。

 

 

「もしもし、古都か? 俺だ、嚆矢だ」

『……先輩ですか。何か、御用ですか?』

 

 寝起きのような、気怠げな声。たまに、欠伸のような吃音が混じる。

 

 

「おう、ちょっと『ヤキソバパン買ってこい』よ」

 

 

 唐突な物言いに、隣では飾利が呆気に取られた顔をする。あの甘ったるい声を口の中で、『ヤキソバパン……?』と転がしている。

 

 

──まぁ、要するに『仲間内の符丁(あいことば)』だ。因みに、『ヤキソバパン』は『今から会おう』。

 息を呑んだのが、自分でも分かる。信じたい、だからこそ、明らかにしないと。だが、その結果が……黒なら?

 

 

 有り得ないと、信じてはいても。人の心に迷いは尽きない。

 『魔はそこに付け込み、芽吹くのだ』、と。『だから、神と。正義と言う指針、放棄した思考で楽な道を人は望むのだ』と。敬虔な切支丹(クリスチャン)の義父が言っていた。

 

 

『……はは、分かりました。何処に持っていけば良いですか?』

 

 

 笑いながら、カシュ、と軽い金属音。プルタブを開けたような、或いはアルミ缶を潰したような。

 それに、ほうと息を吐いて。嚆矢は『正午に駅前広場』と告げて、通話を切る。心に、安堵を浮かべて。

 

 

「これで、仕込みはよし。後は……『野となれ山となれ』」

「それを言うなら、『後は仕上げを御覧(ごろう)じろ』ですよぅ……」

「そうとも言うんだっけ、最近は」

「古今東西、そうとしか言・い・ま・せ・ん」

 

 

 わざとらしく、誤用して。誤謬で空気、幾らか和らげて。古い映画(キネトロープ)の俳優のように、大げさに肩、竦めて見せて。

 

 

「ところで、実はこちらも解決の糸口を見付けたかもしれないんです」

「へぇ、糸口を」

 

 

 と、にこにこ笑う飾利の言葉に興味が移る。あの彼女が、ここまで自信を持って口にするからには、かなりのものだろう。

 丁度、駅前広場行きのバスが停まる。それに乗り込みながら、先に段差を上がり、飾利の手を引いてエスコートしながら会話を。

 

 

「はい、あの、この事件に協力してくださってる学者さんが────」

 

 

 と、席に座ったところでコール音が鳴る。嚆矢の飾り気の無い、購入した時の設定のままのものとは違う、最近流行りの邦楽。

 

 

「わわ、マナーモードにしてませんでした」

 

 

 周りに謝りながら、衆目を集めた為に頬を染めて携帯に出た飾利。

 

 

「もしもし、佐天さん? もう、何日も連絡取れなくて心配したんですよ!」

 

 

 相手は、涙子らしい。人の会話を盗み聞きする悪趣味などは持ち合わせないので、窓の外を眺めて時間を潰す事に決める。

 流れていく車窓の景色を見ながら、思い返す。忘れてしまった、過去の己。

 

 

──何故、か。理由は、もう分かってる。『空白』の神刻文字(ルーン)、そう、飾利ちゃんに刻んだモノと同じ。

 もしも、俺にも……アレが、刻まれたのなら。()()()()()忘却の範疇に在ったのならば。

 

 

 そんな思考、その為か、思わず飾利の方を見た。その時──

 

 

「────大丈夫ですっ!」

 

 声、鋭く。響いた声は、飾利の。衆目を先程よりも、遥かに多く集めて。驚くほど、大きな声で。

 

 

「佐天さんは欠陥品なんかじゃありません! いつだって、私を引っ張ってくれる……わたしの、親友なんだから。だから──」

 

 

 涙を、(はなみず)を流しながら。今も、今も。救いを求めて? 否────断じて否。これは、誰かに助けを求める声ではない。

 

 

「だから────そんな悲しいこと、言わないで……」

 

 

──これは、自ら。己の意志で誰かを救おうとする、決意の声だ!

 

 

 ならば、それを聞いた己が為す事は何か。全く持って、状況は読めないが。だが、だからこそ思考、早く。速く。回転する、悲劇を迎えぬ為に。

 何が起きているのかと、無関係と言う免罪符をひけらかして阿呆面で見る眼差しや。痴話喧嘩かと、下衆な勘繰りで興味を向ける浅ましい眼差し。或いは、少女の涙に、訳も知らぬ癖に義憤に満ちた偽善の眼差しを向ける者達など、何するものか。

 

 

「────!」

 

 

 刹那、右手が奔る。窓硝子、いや、人一人が通れる程に車体、触れた刹那で消し飛ばして。

 

 

「行こう、飾利ちゃん。佐天ちゃんの所に」

「っ……先……輩……」

 

 

 差し出したのは、その右腕。俄に騒ぎになった車内で、錬金術(アルキミエ)行使の影響により、削れた命と反動により僅かに震えている。今は昼間、『正体不明の怪物(ザーバウォッカ)』の時間ではないのだから。

 それでも尚、矍鑠(かくしゃく)と。彼女に、その気高い意志に、輝きに。心からの敬愛、示すようかのように。

 

 

「……はい!」

 

 

 握り返された掌、確りと掴んで飛び降りる。目の前には、舗装された路面? 否、そこには──青い、車の天井が。着地と共に、暴れ馬の如く揺れた車を走査(スキャン)する。問題はない、在るのは責任だけ。

 分解と再構築、それは速やかに。運転手には最大配慮、安全に停車帯に寄せて。言い訳なら、幾らでも出来る。ここは学園都市、異能の坩堝。確率、この車が『別の物だったかもしれない確率』。唯一の『確率使い(エンカウンター)』がそう言えば、他の誰に否定できるものか。

 

 

「────え?」

 

 

 車の下部と、ハンドルだけを持った状態で。

 

 

「え、え? な、なんですか、これ、この状況?!」

 

 

 慌てふためき、呆気に取られながら、辺りを見回す────ピンク色の髪の、幼女といっても差し支えの無さそうな見た目の女性。

 

 

「申し訳ありません、損害賠償は必ず致しますから、どうか御勘弁を。可愛いらしい淑女(レディ)!」

 

 

 車を再構築したバイクに跨がり、飾利を背後に乗せて。そんな言葉を残し、一秒が惜しくて走り去る。

 後には、無惨なもの。

 

 

「……まだ、ローン……残ってるのに」

 

 

 茫然自失で呟く、女性が残るのみだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

「ヤキソバパン……か」

 

 

 呟いた声は、愉しげに。薄暗がりの路地裏、そこにある数人の呻き声に混じって。

 

 

「そう、だな……ああ、遂に」

 

 

 倒れ付した屈強な不良達、見下して立つ少年。その、女性にも見える麗らかな唇から。

 

 

「対馬主将を、越える日が来たんだから……喜ばないとな、■■■■■(■・■■■■■・■■■■■■)

 

 

 微かな、ほんの微かに立ち込める腐臭と共に、金属の装丁を持つ『ソレ』を握りながら、彼はそう呟いた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 悪かったのは、誰か。自問しようと他問しようと、その答えはでない。多分、悪かったのは……運、だけだ。それで、良い筈だ。

 

 

「危ないところ、だね。まぁ、最近は随分と増えた症例だが」

 

 

 目の前の、医師の言葉を聞く。臍を噛むような、苦虫を噛み潰したような顔で。ただ、一人。

 

 

「昏睡、原因は不明。他と同じ。全く、君たちは……風紀委員(ジャッジメント)にせよ警備員(アンチスキル)にせよ、被害ばかり出して一体、何をしているのかな?」

「……お返しする言葉も、在りません。先生」

 

 

 呟き、椅子ごと振り返った蛙顔の男性。知る人は少ないが、学園都市最高の医師。あらゆる『天国行きの予約を反故にする』────付いた渾名(あだな)が、『冥土返し(ヘヴンキャンセラー)』。

 何を隠そう、かつては自分自身が世話になった相手。だから今でも、頭の『あ』の字も上がらない。

 

 

──結局、佐天ちゃんは意識不明の状態で見つかった。勿論、幻想御手(レベルアッパー)使用の影響で。友人の娘二人から聞いた話では、二十一日に使ったらしい。

 飾利ちゃんに電話した直後に倒れ、駆け付けた時には、もう。

 

 

 握り締めた拳、裂けんばかりに。不甲斐ない、また、この手は取り(こぼ)した。大事なもの、日常。何でもない、普通。また、それを掴み損なった。

 

 

「……後輩が来る予定なので、自分はこれで。彼女の事、宜しくお願いします、先生」

 

 

 眠る彼女を一度見遣り、部屋を後に。やる事は、幾らでもある。第一────本来、ここに居るべき少女(飾利)が自分から事件解決の為に、今も奔走しているのだ。

 

 

──今、飾利ちゃんはこの事件の解決に協力してくれている脳科学者『木山 春生(きやま はるみ)』女史のところに行っている。昏睡した友人を、見てられなかったんだろう。

 クソッタレめ、犯人の野郎……見付けたらタダじゃ置かねェ。

 

 

 歯噛みし、廊下を曲がる。一刻も早く事件を解決する為に、もう怠けている暇はない。

 

 

──後悔しろよ、クソッタレ。俺の、手の届く内に手ェ出した事を……な。

 

 

 刹那、『魔術使い』の顔で────左手に握っていた涙子の音楽プレーヤー、音楽ソフト『幻想御手(レベルアッパー)』を見詰めた。

 

 

「対馬先輩!」

「佐天さんが倒れたって────」

「ああ……白井ちゃん、御坂」

 

 

 そこに、現れた二人の常盤台の少女。即ち、白井黒子と御坂美琴の二人が。

 その二人、学園都市有数の能力者二人組にして美少女二人。その二人に纏めて声を掛けられたのだから、今までの彼なら喜んで軽口の二つや三つ、いや、四つか五つくらいは叩いていた筈。

 

 

「──集中治療室(ICU)に。悪ィンだけど、代わりに先生の話、聞ィといてくれるか」

「代わりに、って……あなたは、どうするんですの?! 対馬先輩、こんな時にまで自分勝手は────!」

 

 

 それもなく、代わりに一言だけ口にして、擦れ違って歩き去ろうとする。誰がどう聞いても、確かに身勝手だろう。

 それに、思わず黒子が手を伸ばす。華奢な右手、握り締める右拳を掴み────

 

 

「っ──?!」

 

 

 逆に、その右腕を()められて。理合だけではない、所謂『(やわら)』の技術との複合で。制御を離れた両膝が、笑っている。なまじ合気を齧っている黒子だからこそ、それは理解できた。

 

 

「頼むよ、時間がねェンだ。俺ァ、もう一人も犠牲は出さねェって……決めちまったからさ」

 

 

 瞬間、身動きの取れなくなった彼女。その掌に……データを抜き取った後の涙子の音楽プレーヤーを握らせてから、黒子を解放する。

 にこりと、一応は笑っていた。しかし、確実に……その、蜂蜜色の瞳は爛々と。怒りの煌めきを宿し、決して笑ってなどいなかった。

 

 

「……分かりました、こっちは任せといてください、対馬さん」

「お姉さま、ですけれど!」

「くーろーこー、あんまりごちゃごちゃ言ってんじゃないわよ。あんた自身の先輩を信じる事もできないわけ?」

 

 

 そんな空気を吹き飛ばすように、笑いながら告げた美琴。黒子の反駁にも、鷹揚に。

 

 

「ただし────やるって言ったらやり遂げる人ですよね、対馬さんは」

「…………あァ、済まねェ。恩に着る」

 

 

 最後に、そう釘を刺してきた美琴に頭を下げて背を向ける。目指すは、警備員(アンチスキル)支部。そこで、どうあっても手懸かりを掴む為に。

 先程錬金した、二人乗りが出来る最低強度の超軽量バイクを嘶かせ、時速六十キロで約二十分ほどの距離の其処を目指す────

 

 

………………

…………

……

 

 

 待ち呆け、が最も適切な表現か。少年は、駅前通りの日影に身を潜めて待っていた。ただ、その『声』を。右手に持つ音楽プレーヤーで何かを聞きながら、左手に持つ『本』のページを捲って。

 

 

『____________』

 

 

 刹那、耳元に声。幽かに、しかし確かに。明らかに、忍び笑う声が。

 

 

「……そうか、見付けたか。ご苦労さん、じゃあな」

『____ギィィィィィィ!?!』

 

 

 少年────古都は、そう口にして『目に見えない何か』に触れた。そう、触れただけ。それで、大気が震えるような断末魔と生物が潰れる音と共に『忍び笑い』が消えた。

 

 

「そうか、忘れてるのか……仕方ないなァ、先輩は」

 

 

 にこりと、少女のようにも見える彼は、笑いながら……

 

 

………………

…………

……

 

 

 後方に流れていく車道、その勢いさえももどかしい。踏切の赤信号に引っ掛かった今などは、無視してしまおうかと思った程だ。

 

 

──結局、警備員(アンチスキル)でも幻想御手(レベルアッパー)事件の核心に至るものは無かった。黄泉川さんも手を(こまね)いているだけらしい、あれだけの女傑が。

 随分とまぁ、周到らしいな、犯人は。絶対、電脳狂(ギーク)だな。

 

 

「チッ────もしもし」

 

 

 その時、携帯が震える。誰かは分からないが、取り出さずに耳掛けのインカムで受けた。僅かに、苛立ちの為に声を荒げて。

 犯人の尻尾すら掴めない不甲斐なさに、苛立って。

 

 

『もしもし、対馬先輩! 今、何処に居りますの?!』

 

 

 それに返ったのは、彼の声を上回る勢いの黒子の声。かなり切迫した様子で、声を荒げて。運悪く、目の前を電車が通る。騒音に、更に声を張り上げる。

 

 

「今、木山春生の研究所に向かってる! 飾利ちゃんと合流する予定だ!」

『そうですの……好都合ですわ!』

「『好都合』、って────うおっ!?」

 

 

 切羽詰まった口調で訪ねる彼女、それに理由は聞かず手短に答える────と同時に、後部座席に衝撃。後続車にカマでも掘られたのかと思い、振り返れば。

 

 

「急いでくださいまし、初春と連絡が取れませんの!」

「飾利ちゃんに?! 何があった、いや、判ったんだ!」

「説明は道々いたしますの、早く出してくださいな!」

 

 

 リボンとツインテールが、フワリと舞っていた。即ち、携帯のGPSで座標を特定して空間移動(テレポート)してきたのだろう、後部座席にいきなり現れて座る黒子の姿。

 度肝を抜かれたが、今はそんな場合ではないらしい。何しろ、あれだけ避けられていた彼女が自分のところに来るなど、正に緊急事態以外の何物でもあるまい。

 

 

 そして、アクセルを回した刹那────

 

 

誘導(ナビ)は、お願いしますわ」

「────成る程、その手があったかッ!」

 

 

 黒子の空間移動(テレポート)により、まだ電車が通行中の踏切の向こうに出た。先にバイクを転送し、その直後に自分達をバイクの座標に転送しているらしい。

 

 

────流石は大能力者(レベル4)判定の能力者、だな。ホント、スゲェとしか言いようがねェ。

 俺なんざ、右腕だけをホンの数メートル先、しかも停止した物に向けてしか成功しねェ。バカデカい蚯蚓でもなけりゃあ。

 

 

 快哉を唱えてそのまま、全速力でバイクを走らせる。最早、フルスロットルだ。

 前方の邪魔な車や赤信号を、次々と空間移動(テレポート)ですり抜けながら。クラクションが喧しい、しかし、知ったことか。

 

 

「特定の音程パターンの取り込みにより脳波ネットワークを構築、それによる並列演算で能力強度(スキルレベル)を高める……これが、『幻想御手(レベルアッパー)』の正体ですの。一人では弱くても、百人集まれば、という奴ですわ」

「ハッ────仲良しこよしで傷の舐め合いをさせる装置ってかい? そんな訳ねぇよ、白井ちゃん! 零時、八メートル!」

 

 

 目を離さずに携帯端末を片手に検索しながら、耳のインカムの先の美琴……別ルートで研究所に向かっている美琴へのものと合わせて、嚆矢へと語りかけてくる黒子。その彼女に、座標を伝えれば────虚空から赤信号を越えて現れる、バイクの二人。

 だが、概要は兎も角、開発目的が不明瞭だ。能力強化の頭打ちに苦しむ学生を救う為にでも開発されたと言うのか? ならば何故、大々的に、有名機関が行わないのか。

 

 

「────クセェな、臭いすぎる。何かしらの裏がある、必ず! 二秒後、九時!」

「ええ……わたくしも同意見ですのそして、一番の問題がそこですわ。『幻想御手(レベルアッパー)』のキーとなる脳波の波形、その持ち主が……!」

 

 

 速度を落とす事もなく、赤信号に突っ込む。左の真横から、当たり前ながらスピードに乗った一台の車が直進してくる。

 衝突するように消えたバイク、何も知らない者が見れば卒倒ものの光景だろう。しかし、無論。二人は無事。バイクは速度を微塵も落とさぬままに、有り得ぬ機動で左を向いて走行している。車、スルリと躱して。

 

 

「木山────大脳物理学者、木山 春生(きやま はるみ)その人のものですの。そして、彼女の元に向かった初春と連絡が取れない……今、警備員が突入したようですけれど、外れだそうですわ。初春……一体何処に──────?!?」

 

 

 それも、端末から目を離さずに行った彼女が、落胆の声を上げる────のとほぼ同時に、嚆矢がバイクの車体を大きく傾けて急ブレーキ。危うく投げ出されそうになった黒子だが、嚆矢の右腕に支えられて辛うじて留まる。

 

 

「な、なんですの、いきなり……!」

「────見付けた、今の車!」

 

 

 非難の言葉を遮られて、漸く黒子は嚆矢を見た。この席に座って初めて、その眼差しを前席の彼へ。

 

 

「────花飾りが見えた、飾利ちゃんの! 木山春生……目の下の隈が酷い白衣の女、あれでいいのかは少し自信無ェけど!」

 

 

 獲物を狙い定命(さだめ)た獅子の如く天魔(あま)色の髪を風に逆立たせ、透き通るような蜂蜜酒(メセグリン)色の瞳を燃え立たせる彼へ。

 (しな)やかながらも、揺るぎ無い右腕。食い縛った顎からやけに鋭い剣牙(けんし)を覗かせる、年上の男────対馬嚆矢を。

 

 

 その剣幕に、剣呑な雰囲気に。一寸、息を呑んで。

 

 

「ええ────その特徴で間違いありませんわ、どちらに!?」

「一時上方────クソッタレ、高速に乗りやがった!」

 

 

 既に、距離は数百メートル以上。例え黒子の空間移動(テレポート)でも追い付けはしまい、直線で時速百キロ近くを出す自動車に、男一人と超軽量とは言え、バイクを抱えては。

 

 

「ハハッ……最高時速六十キロで高架高速(ハイウェイ)はキッついぜ!」

 

 

 だが、迷わず高速に乗る。料金所がネック? 実に幸運な事に、機械化された学園都市の料金所なら、彼の能力で誤動作して終わりである。

 或いは、黒子の空間移動(テレポート)で飛び越えても良い。

 

 

「ご心配には及びませんわ────既に警備員(アンチスキル)が展開済みですし、わたくしの空間移動の最高時速は約時速二九〇キロですもの! 若干のタイムラグはありますけど!」

「そりゃあ、便りになるなッ!」

 

 

 後は、なんとしても追い付くだけだ。入り口、僅かな坂道。これを駆け昇って────

 

 

「────こんにちは、先輩」

「「?!」」

 

 

 そこに、いつの間にか立っていた少年。指定の学ランに身を包んだ、少女のようにも見える彼は。

 

 

「約束をほっぽり出して、デートか何かですか? 本当、僕は、先輩のそういうところが……」

 

 

 右手に持つ音楽プレーヤーを、御手玉のように繰りながら。左手に持つ────

 

 

「テメェ……道理で、最近見掛けなかった訳だよなァ、『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』!」

『クク──貴様のような、物分かりの悪い莫迦には付き合っておれんと言うだけだ、コウジ』

 

 

 鉄の装丁の、吐き気すら催す不快の塊。魔導書『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』に、嚆矢はうんざりした敵意を向ける。

 

 

「ほら、また僕を無視する。だから、僕は、そういうところが……」

 

 

 今も、今も。悍ましい蠕動の如く煌めく表紙の魔本に。目を取られていた、嚆矢へと──右手の音楽プレーヤーを『潰すように消した』古都は、投げつけるような動作。

 何も持たない筈の、徒手のその右手で。確かに、『何か』を。

 

 

「僕は、貴方のそういうところが……大嫌いだったんだ!」

「────ッ!」

 

 

 紅く濁った目で、憎しみを湛えた眼差しで彼らをにらんだ。その瞬間、世界が歪む。一瞬、光が捩れて────バイクごと、路面が球形に『蒸発した』──────!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24.July:『Predator』

 

 

 病院を後にした『先輩』の、ノーヘルで超軽量バイクに乗って走り去る背中を窓外に望み、白井黒子は険しい表情のままで口を開く。

 

 

「……また、法律違反ですのね。一体、あの方の何処が信用に値するんですの、お姉様?」

 

 

 辛辣に、辟易したように。彼女が尊敬を越えて思慕に至るほど敬愛する、御坂美琴に向けて問うた。

 それに美琴は、少し考える仕草をして。

 

 

「まぁ、確かに軽いしチャラいし、能力(スキル)も便利なだけで大して強くはないんだけどさ……」

 

 

 そう、ボロクソに前置きをする。何故なら、それは紛れもない事実だから。

 

 

「そ、それでは、なぜですの? そこまでなら、なぜお姉様は……」

 

 

 余りの言われ方に、さしもの黒子も弱冠引き気味になる。誰でもそうだろうが。そんな黒子の様子に、僅かに微笑んだ美琴。それは、さながら。

 

 

「私と対馬さんの出会いって聞いてる? 大覇星祭の話」

「ええ、まあ……綱引きで拮抗して、最後はお姉様の電撃で昏倒させて勝ったとか」

「そ、それよ。いや、今となっちゃバカな事したもんだけどさ……」

 

 

 その話は、以前に彼本人から。『虚空爆破(グラビトン)事件』の時に聞いた事である。頬を掻き、苦笑いする美琴。勝ちを焦った力押しを恥じているのか、或いは。

 

 

「その後、当然猛抗議を受けたわけよ。当たり前だけど、『綱を狙って電撃を放った』なんて苦しいしね……危うく、乱闘一歩手前。その時よ、対馬さんが────一騎討ちで決着にしようって名乗り出たのは」

「一騎討ち……お姉様と?! なんて命知らずな……腕くらいならへし折れてしまいますわ」

「言ってくれるじゃないのよ、黒子……まぁ、そうなんだけどさ」

 

 

 或いは──何か、懐かしいものを思い出したからなのか。普段なら黒焦げものの失礼な物言いにも、今日は。今、この時だけは、電撃は迸らない。

 

 

「そう、一騎討ち。信じられる? 私を第四位(レールガン)と知った上で、よ?」

 

 

 そして、美琴は黒子の肩に手を置く。後輩に、自らの『失敗談』を語り聞かせる為に。

 

 

「何せ、あの人────」

 

 

 聞かされたのは、俄には信じがたい話。それはある意味、彼女にとっては『敗北』に等しいものかもしれない内容であった。

 特に、美琴を神仏の如く見る黒子には、信じられる筈もない。

 

 

 そんな話が────少し前に、あった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 蘇峰 古都(そほう みやこ)は、魔導書(グリモワール)妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』を携えたままで悠然と見詰める。路面の一部ごと蒸発し、後にはハンドルと前後輪の一部が残るのみとなったバイク。

 乗っていた二人は、最早、跡形も無く────

 

 

「……噂には聞いてる。風紀委員には、大能力者(レベル4)空間移動能力者(テレポーター)が居るって」

 

 

 その残骸から、約二十メートル程離れた場所に転移した黒子と嚆矢を、忌々しげに見遣りながら。

 

 

「っ……なんですの、今の……一体あの人の能力(スキル)は……!」

「『質量操作(マス・ゲーム)』……触れている物の、質量を増減させる能力だ」

「『質量』……ではやはり、あれは……!」

 

 

 辛うじて『攻撃』を避けた彼女が、魔本を携えた少年を望む。鬱屈と赤濁した眼で、こちらを見る古都を。

 答えた嚆矢も、視線は古都から離さない。最早、一瞬の油断が死に繋がると分かっているから。

 

 

「ああ────物質が、自分の持つ万有引力で自壊する現象……所謂、『事象の地平線(ブラックホール)』を、実証した訳だな」

「なんて厄介な能力ですの……!」

 

 

 言っている側から、古都の手元に魔本が悍ましく脈動する。それが、何か。かつて手にした事がある嚆矢には、分かった。

 

 

Tibi(ティビ) Magnum(マグナム) Innominandum(インノミナンドゥム)signa(シグナ) stellarum(ステラルム) nigrarum(ニグラルム) et(エト) bufaniformis(ブファニフォルミス) Sadoquae(サドクァエ) sigillum(シギラム )────!」

 

 

 唱えられた言葉と同時に、辺りに漂い始めた腐臭。そして……耳に忍び込むような微かな嘲笑。

 

 

「何……ですの、この、笑い声……?」

「チ────『星の吸血鬼(スター・ヴァンパイア)』か!」

 

 

 こうなれば、魔術の隠匿などに拘ってはいられない。運良く、すぐ脇には高架の骨組みである鉄骨が露出している。何とか誤魔化せるだろうと、嚆矢は『右手』でそれに触れて。

 

 

飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)────!」

 

 

 昼間の、搾り滓のような魔力を注ぎ、玉虫色に揺らめくダマスカスブレード『賢人バルザイの偃月刀』を召喚する。

 

 

「剣────今、どこから?」

 

 

 呆けた声を上げた黒子に、反応を返せない。そんな状態ではない、今、彼は瀕死に近い。

 

 

──反動は、かなり酷い。トラックと正面衝突したような、気の遠くなる頭痛。つまり、死ねるくらい。鼻奥に感じる鉄の臭いを無理矢理吸い込む。そうすれば、次は舌に感じる鉄の味。それを無理矢理、飲み込んで。やっと準備完了だ。

 ッたく、喚んだだけでこれか……こりゃあ、『ヨグ=ソトースの時空輪廻(ディス=インテグレート)』なんざヤったら死ぬな……。

 

 

 それだけの反動を推してでも、この祭具を呼び出した理由は単純明快だ。

 目に見えない『星の吸血鬼(スター・ヴァンパイア)』を捉える方法は、今のところはこれしかない。空間を司る『ヨグ=ソトース』ならば、見えなくても存在しているものは捉える筈と踏んで。

 

 

「────其処ッ!」

『Gyaaaaaaaaa!?!』

 

 

 そしてそれは、効を奏した。繰り出した一閃には、確かな手応え。グシャリ、と。『斬った』と言うよりは『噛み砕いた』ような手応えだったが。

 続く断末魔、しかしそれで終わりではない。まだ、あと二匹!

 

 

「ちょ、あの、先輩!? 一体何がどうなっ──」

「説明は終わってからしてやる! 後ろから来てる、二秒後俺の側に跳べ、()()!」

「っ~~~~~~ああ、もうっ!」

 

 

 名指しでの命令に、怒濤の勢いの情報処理が追い付かなくなっていた彼女は一瞬身を竦めた。だが結局、今は従うしかないと即決したらしく、きっかり二秒後に背後に転移する────のと全く同じに、その空間に偃月刀が突き出された。

 

 

「二匹目!」

 

 

 黒子の背に取り付こうとしていた、見えざる伴侶を狙って。またも、『突き刺した』と言うよりは『食い破った』感触。余りの違和感に、つい手元を見てしまう。

 そして、後悔した。見えない血肉を啜り、歓喜に蠢く玉虫色の悪夢めいた色彩をまともに目にして。

 

 

「チッ……しまった!」

 

 

 正気を削られ、反動と相俟って意識が霞む。その一瞬の隙に、背中に取り付く事を許してしまった。藻掻けど、万力じみた力は引き剥がせない。おまけに偃月刀を封じる為か、腕を搦め捕る触手も感じられる。

 

 

『クク……良い気味だな、コウジよ。この“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”の──魔導書の不興を買った者の末路は、破滅のみだ!』

 

 

 耳元に、哄笑が響く。蠅の羽音のような、蛆蟲ののたくるような耳障りな声。いや、怨念か。

 耳ではなく心で聞く分、よっぽど寒気がする。並みの人間ならば、既に正気に耐えきれまい。既に、瘴気に堪えきれまい。

 

 

 無抵抗の首筋、今しそこに、化生の牙が突き立つ──!

 

 

『──────Gyaaaaaaaaa?!』

 

 

 迸ったのは、怪物の悲鳴。その、見えない体に突き立った────否、『転移』した五本の金属矢。黒子が、太股に常備している『風紀委員としての武器』だ。

 

 

「こうなったら、わたくしも女ですの────腹を決めて、いきますわ!」

 

 

 恐らくは予測で転移させたのであろうが、全弾命中させている辺り流石としか言いようがない。空間自体を転移する金属矢、だからこそ本来、大型の銃器でもなければ貫通し得ない怪物の護謨じみた表皮を『押し退けて』現れている。

 

 

「ハハッ────流石だな! それでこそ、御坂美琴の妹分か!」

 

 

 無論、その隙は逃さない。目の前に現れた黒子により嚆矢は『星の吸血鬼(スター・ヴァンパイア)』の拘束を逃れ、偃月刀を降り下ろす。縦一閃の唐竹割りに、祭具の内の副魔王が貪り尽くす。

 三匹、呼び出された全てを斬り伏せた。これで、残るは本体の古都と『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』のみ。

 

 

「そういえば、名乗っておりませんでしたわね。風紀委員(ジャッジメント)ですの────大人しく、縛に付きなさい!」

 

 

 混乱が去り、目的を定めてしまえば、女は強い。いつもの通り、黒子は風紀の腕章を向けて声高に宣言する。いつもの通り、先ずは敵対者に降服勧告を。

 

 

「成る程……面倒な能力だ。主将の『制空権域(アトモスフィア)』だけでも難敵だって言うのに……」

『ふん、しかし、多寡だか空間移動よ……慌てる事はない、ミヤコ。打つ手なら、在る』

 

 

 だが、彼らは意に介さない。ぶつぶつと独り言のように某かを呟き始めた彼、その携える魔本の────更なる、悍ましき脈動、蠕動。

 

 

『そう、我の言う通りにすれば良い。そうすれば、君は目的を果たす事が出来る。君の望む、未来を』

「僕の……望む、未来……」

 

 

 虚ろに、風前の灯の如く繰り返す。魂を失った人形のように。当たり前だ、命を削っているのだから。魔に与するとは、そう言うことだ。

 

 

──ああ、そうか……あの魔本は、炉なんだ。命を()べれば、見返りに魔を孵す『魔の孵卵器(インキュベーター)』。

 だから、反動は古都には返らない。ただ、命を蝕まれるだけ……かよ!

 

 

 歯噛みする。不甲斐ない、と。この期に及んで、また、選択を誤るのかと。

 

 

────そう、その通り。人生など多寡だか五十年。されど人生とは、全て選択だ。後悔と慚愧に満ちた、苦しみの輪廻だ。それこそが、『クルーシュチャ方程式』だ。お前達(われら)に与えられた、二重螺旋の回答だ。

 

 

 囁く声は、誰の? 自分の思考、それとも────耳元に、這い寄った黒い影のもの?

 

 

「『────飢える(イア)」』

 

 

 目の前の古都に、手間取る訳にはいかない。だが、古都を見捨てる事も出来ない。更にこの先、木山春生から飾利を救出しなければならない。余りにも時間が、無いのだ。

 

 

────さぁ、選べ。捨てる方を選ばなければ、どちらも失う。出会って間もない、笑顔を向けてくれる少女か? それとも、長い付き合いの、敵意を向けてきた少年か?

 さぁ、どちらを選ぶ? お前は、どちらを()()()()

 

 

 そう、時間はもうない。誰かが嘲笑っていても、気になどしていられない。

 

 

「黒子────お前は、木山を追え。俺は、こいつをふん縛ってから追い掛ける」

 

 

 だから、二人ともを助ける選択を。明らかに、間違いだと……自分でも分かる、選択を。

 

 

『やれやれ……是非もなし、とは。それは、最悪の答えだ。見損なったぞ────』

 

 

 だから、誰が呆れ返ろうとも関係はない。全ては、己の選択。ならば、後悔だけはしないように。『背後に佇む影』に還った、燃え盛る三つの眼差しに等は気付かずに、偃月刀を構えたままで。

 

 

「無茶を言わないでくださいまし。こんな厄介な相手を、貴方一人では荷が勝ちすぎると言うものですの────!」

 

 

 今度は、従う事なく。四本の金属矢を転移させた彼女。狙いは、古都の靴。

 

 

「『───飢える(イア)飢える(イア)……」』

 

 

 それを縫い止めて相手の意識を逸らし、身動きを封じて直接転移で地面に服ごと縫い付ける。彼女の得意パターンだ。

 

 

「待て────ヤバイんだよ、あの本は!」

 

 

 時速に直せば二九〇キロ。嚆矢の言葉は届く前に消える。果たして、靴は縫い付けられた。しかし──狂信の祝詞は、既に最高潮。

 

 

「『飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)────!」』

 

 

 揺れる。空間が、揺れた。水面のように、()()()()()()が。

 その刹那、まるで──否、正に押し出されて、黒子が路面に落下した。

 

 

「───────っ?!」

 

 

 俯せに押し倒されて息を吐き出し尽くした所為で声も出ず、恐怖に目を見開いて。思い出したように吸い込んだ空気に感じたのは、以前に理科の実験で嗅いだアンモニアなど、可愛く思えるほどの刺激臭。

 止せば良いのに、本能が言う事を聞かずに。振り向いてしまう。見るべきではない、悪夢すら生易しいと言うのに。

 

 

『Gruuuuuuuuu…………!』

「ひっ──────??!」

 

 

 粘膜に酷く刺激を与える、腐った荒々しい息を吐くもの。まともに見た彼女は、思わず涙を浮かべた。酷く不快な戯画化された狗にも見える、それは────

 

 

「『さぁ、お前への供物だ。貪り尽くせ────“ティンダロスの猟犬(ハウンド・オブ・ティンダロス)”!」』

 

 

 いまだ時間すらなかった『角度ある時間(ティンダロス)』に潜む、あらゆる命を敵視する邪悪な異次元の狩猟者(プレデター)────!

 

 

 見た、見てしまった。背後、青白い粘液を撒き散らしながら吠える猟犬──見た目には、犬の要素などは四足である事以外にはない、怪異を。

 悪意に満ちたその顔容、いっそ雄々しく吠えればまだマシだろうが、断末魔のような金切り声のみ。

 

 

『Gruuuuuuuuu!』

「───────っ!」

 

 

 開け放たれた顎から乱杭歯が剥き出される。同時に、注射器の如き触手じみた舌と共に刺激臭混じりの吐息と唾液らしき腐汁が撒き散らされた。間近での事、避けようもない。

 ただ、分かる事は一つ。早く、逃げ出さなくてはいけないという事だけ。

 

 

(集中、集中────!)

 

 

 嫌悪と恐怖の相乗により集中を切らして空間移動を封じられ、最早、黒子は悲鳴すら出せない。そもそも空間移動能力者にとって、集中力は欠かせない才能。そんな事は、他ならぬ黒子が一番知っている。

 

 

(────なんで……無理ですの!)

 

 

 だから、恐怖に竦む心に鞭打ち、無理にでも集中して猟犬を転移させて逃れようとして────それが出来ない事に愕然と、慄然と。

 彼女の能力の通じない、悪夢その物の相手を前に……心が折れてしまうのも、無理はない話。

 

 

「いや……イヤですの、離してくださいまし!」

 

 

 それを、この作られた怪物は削り抉る。何故ならば、この怪物は()()()()()()()()()()()()()()()()()()怪物だから。

 子供のように──否、真実まだ、中学生の子供。年齢相応に喚き、暴れ出す。

 

 

『Gruaaaaaaaaaa!』

「イヤ、いやぁぁぁぁぁっ!?」

 

 

 そんな彼女──哀れな獲物を組み敷いて、勝ち誇るように猟犬は鋭利な舌先を向けて。

 

 

「化物が……人の後輩に訳分かんねェ汁引っ掛けてンじゃねェよ──────!」

 

 

 繰り出された偃月刀の横薙ぎの一撃。貪り喰う、副魔王の欠片。祭具にして鍵。それを予め予期していたように、猟犬は『路面の割れ目に吸い込まれる』かのように消えた。

 

 

「消えた──空間移動能力持ちか、面倒くせェな!」

 

 

 舌打ち、周囲の空間を探る。反応は────真横から、空間を歪ませながら『何か』が迫ってくる!

 

 

「クソッタレ────!」

「っあ────!」

 

 

 身を捻り、回避する。黒子を掻き抱くように引き連れ、横っ飛びに転がって。刹那、自らの質量に耐え切れず空間が潰れる。一点に集束し、事象の地平線(シュヴァルツシルト)の彼方へと。

 

 

「また、躱したか……流石、主将」

 

 

 拾った小石三つを右手でジャグリングしながら、古都は酷薄に笑う。先程の時のように、投げた小石をブラックホールと化したのか。

 感じる。見えているものだけではない。その周囲に、まだ。

 

 

「莫迦が……ンなモンに手ェ出さなくても、テメェならと思ってたのにな!」

 

 

 右手に持つ『賢人バルザイの偃月刀』を突き付けながら隙無く立ち上がり、左腕で今も震える黒子を庇って立つ嚆矢。

 

 

「それは『幻想御手(レベルアッパー)』ですか、それとも『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』ですか? はは、まぁ、どちらでも良いか……」

 

 対して目を擦りながらくつくつと笑う、古都。その左手に、魔導書『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』を携えて。

 

 

「倒すだけ。そうだろ、『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』……僕が、勝って……勝つんだ、勝つ…………」

 

 

 それは、『幻想御手(レベルアッパー)』使用による過負荷か、はたまた、魔術行使の為に命を削られた事による肉体の自壊か。

 赤濁した目から、一筋。ぽろぽろと、赤い色を溢して。

 

 

「見える、見えるぞ……ああ、これが、質量のうねり……!」

 

 

 目を開ける事もなく、せせら笑う。血涙をぽろぽろ、ぽろぽろと今も溢しながら────三つの小石が内側にひしゃげ、見えなくなる。

 

 

「チッ────呆けてる場合じゃねェ、しっかりしろ、黒子!」

「対馬……先輩……あれ、何ですの……あの、化物……!」

 

 

 仕方ないとは言え、今は死地。茫然自失状態の黒子を叱咤する。強く肩を揺さぶり、真正面から瞳を覗き込む。『加護』の神刻文字(ルーン)を刻み付けながら。

 それによりか、元々の意思が強いのか。虚ろな瞳に、僅かに正気が戻る。何とか、気絶まではいっていないらしい。

 

 

「クソッタレ……!」

 

 

 その間にも、古都は人差し指をこちらへ向ける。無論、その先から逃げる。迫り来る、『空間の歪み』を感じ────可視化した、光の歪み。放たれた、一条の光線を。

 それが触れた、橋脚。厚さ十メートルはあろうかと言う、コンクリートと鉄骨の複合材。それが、熱した鍼を突き刺した発泡スチロールの如く貫通されていた。

 

 

──さっきのが『事象の地平線(ブラックホール)の手榴弾』なら、これは『事象の地平線(ブラックホール)の銃弾』か。

 殺傷人数と効果範囲は前者より狭いが、速さと直線的な殺傷範囲はこれの方が上だ。

 

 

 二発、三発。副魔王(ヨグ=ソトース)の空間掌握により射線の先読みをし、回避を続ける。黒子が本調子でない今、自分が何とかするしかない。

 刹那、鼻を衝く刺激臭。それを感じると共に、足元から来る『何か』を感じる。見詰めても、そこにはアスファルトの破片くらいしかなく────

 

 

『Gruaaaaaaaaaa!』

 

 

 その『鋭角』から飛び出してきた『ティンダロスの猟犬(ハウンド・オブ・ティンダロス)』、この宇宙の邪悪の結晶の如き悪意の塊。

 獲物と定めた黒子に向けて、鋭利な舌先を射ち出すように肉薄する──!

 

 

「邪魔、だァァァァァァッ!」

『Gyaiiiiiiiiin!?』

 

 

 予測していたそれに、偃月刀を振るう。舌先、そして右前足を斬り飛ばされ、絶叫した猟犬。

 

 

「オイオイ……勘弁してくれよ」

「先輩────腕、に……!」

 

 

 だが、もう。もう、傷口は不快な粘液が泡立ちながら塞ぎ、あろうことか再生を始めている。まるで、蜥蜴の尻尾のように。

 対して、嚆矢は────庇った右腕の前腕に、舌先を受けてしまっている。注射器の如き舌先、そこから流し込まれた、()()()()。生命体を蝕む、猟犬の体液を。

 

 

『……ティンダロスの猟犬は不死。死なないから、傷も意味がない。意味が無いモノはね、無いのと同じなんだよ、コウジ』

 

 

 右腕に突き立つ舌先を引き抜き、投げ捨てる。もう、遅い。僅かな量でも、人にとっては致死。何故なら、()()()()()であるこの怪物の毒に、解毒剤などはこの世に存在しないのだから。

 光の加減によるものか、右の視界の端に純銀。くすんだ、煌めきを失った鈍い光。まるで、昼間の月の如く。

 

 

────無意味、無価値。非在の者、正体不明の怪物(ザーバウォッカ)。お前の事だよ、嚆矢?

 

 

 そして、毒による幻覚か。左、揺らめき。昏い陽炎、影色の鋼。冷たく嘲笑する、燃え盛る三つの瞳。

 

 

『例え、殺せたって。時空の螺旋を走る猟犬は、過去(ワタシ)から現在(アナタ)に現れる。だから不死、だから無理なんだよ、コウジ』

 

 

 諦め、倦み微睡んで。純銀は、疲れたように微笑む。

 

 

────さぁ、またしても選択の時だ。さぁ、選べ……。

 

 

 諦めろと、嘲笑いながら。陽炎は、爛々と口角を吊り上げて。

 

 

『みんな、忘れてしまう。だけどね、過去(ワタシ)がないものは存在しないんだ。過去(ワタシ)は、いつも現在(アナタ)を見ているのにさ……だから、無理なんだよ。現在(アナタ)は、未来(わたし)は変えられても、過去(ワタシ)は変えられないんだから』

 

 

────選べ。お前の腕の中で震えるその娘か? それとも、お前の目の前で遅い来る男か?

 選べ。お前は……どちらを、殺すのか?

 

 

 二つの幻聴は、異口同音。『諦めろ』と。再生を果たした猟犬が、獲物を横取りしようとする嚆矢(闖入者)に怒りに燃える濁った瞳で睨みながら、再び鋭角に消えていく。

 

 

「っ……お姉様」

「……『お姉様』、か」

 

 

 呟きは、ここには居ない彼女の心の支え。情けない話だ、今確かに此処に居ると言うのに、自分では支える事も出来ていないのだ。

 更に、空間の歪み。古都の右掌、莫大な質量を収斂する気配。先程までとは訳が違う、橋脚一つがひしゃげていく。

 

 

──そうだな……確かに。普通なら、もう駄目だ。そういう能力(スキル)魔術(オカルト)を使えでもしなきゃ、諦めるしかない。

 

 

 諦めを告げる思考に、そうだね、と純銀が蒼い星雲(ネビュラ)の目を伏せる。当然だ、と影が燃え盛る三つの瞳を滾らせて嘲笑う。

 

 

「大丈夫だ────」

 

 

 しかし、身体を……口を衝いたのは正反対の衝動。痺れるような、引き攣れるような不随意の運動をする身体を無理矢理に押さえ付けて。

 

 

──そうだ、俺は誓った。俺は、護ると誓ったものは、何一つ諦めない!

 

 

 いつかとは違い、左腕でより強く黒子を抱き締めて。いつかと同じく、『護りたいもの』を庇い立つ。

 

 

「大丈夫────俺が御坂に会わせて見せる、必ず……だから!」

「……先輩……」

 

 

 頼りにされていないのは空しいが、だとしたら何だと言うのか。同じだ、自分以外が寄る辺でも関係ない。護ると、勝手に決めたのは、此方だ。

 だからもう、意地とハッタリだけで笑みながら。消化酵素に蝕まれ、青白い筋の浮いた右腕を伸ばす。

 

 

『「小賢しい────だが! 無駄だ! 摸倣しただけの、貴様の偽物の“影の鎧”では! 否、例え本物でも、この一撃は防げまい!』」

 

 

 古都──最早、蘇峰古都なのか『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』なのか、境界すら曖昧となり始めた存在が哄笑する。

 既に、呑み込んだ質量は橋脚どころか路面も含めた数十トン。そして、今まで見えもしなかったマイクロブラックホールが────針穴ほど、虚空に浮かんでいる。

 

 

『「終 わ り だ !   諦 め ろ !』」

『Gruaaaaaaaaaa!』

 

 

 勝ち誇り、喚きながら。針穴もの大きさの潰星(ブラックホール)を投擲する。更に、右側の橋脚の鋭角から飛び出してきたティンダロスの猟犬。

 光すら逃げ出せない漆黒の地平線と、時空の果てまで獲物を諦めない猟犬。黒子の空間移動(テレポート)を試さずとも、躱せるべくもない。彼女もそれに気付いている、だから、目を背けて。

 

 

「前を……向け! 風紀委員(ジャッジメント)、白井黒子!」

「っ……風紀(ジャッジ)────委員(メント)……!」

 

 

 叱咤に、目を前へ。ホンの僅か、風紀委員(ジャッジメント)としての矜持が、恐怖を打ち破って。

 その瞳が見たモノ、変わり行くモノ。『賢人バルザイの偃月刀』と一体化した禍々しい刃金、右腕に。沸き立つ禍々しい奇怪にも機械に似る、確固たる密集した鎧にも群を為した剣にも、唯一生まれ持った拳にも見える追加された複合装甲を纏う、右腕の鉤爪の拳へ。

 

 

 

 

 

 

 ただ、迷い無く前へと向けられた、嚆矢の右腕────!

 

 

 

 

 

 

──掴める、この腕なら。虚空その物のこの右腕なら……それが例え、『事象の地平線』であっても。

 だから、後は俺次第。俺が、俺の生涯……たった二十年程だが、その間に積み重ねてきた全て。全ては、この刹那の為に! あらゆる、過去(おまえ)は────!!!

 

 

『「な──────バカな!?!』」

 

 

 その、信念。今の今までの生涯で、この状況を乗り切る事が出来るだけの自分であると自負して────迫り来る質量の地平線の、『理合』を確かに掴んで。

 

 

『Gyaiiiiiiiiin!?!』

『「事象の地平線(ブラックホール)を────投げただとォォォォォッ!??』」

 

 

 地平線に呑まれ、跡形もなく押し潰された────猟犬の断末魔。更に、直径二メートルもの大穴が、数百メートル先の橋脚まで穿たれて。

 必殺の一撃を『投げられた』衝撃と驚愕に絶叫した、古都と『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』。

 

 

「──────うそ……では、あれは……本当の事、でしたの?」

 

 

 それは、彼の腕の中の黒子も同じ。有り得ない事だ、普通ならば。ブラックホールを投げる、等と。しかし、彼女は思い出していた。彼女が、ここまで支えとした人物の言葉……御坂美琴の、先程の話を。

 

 

『投げたのよ、あの人。私の超電磁砲(レールガン)を、合気道で。まぁ、代わりに右腕がへし折れてたから、病院行きで私の勝ち扱いだったけどね』

 

 

 自嘲しながらの、そんな言葉を思い出して────己を抱く男の、前を見詰め続ける顔を見詰めた。

 

 

「悪い、力……貸してくれ、黒子ちゃん」

「え──力、って……どういう事ですの?」

 

 

 その蜂蜜酒色の瞳にいきなり見詰められ、思わず頬を染めた彼女。だがすぐ、風紀委員(ジャッジメント)としての顔を取り戻して。

 

 

「あの犬コロは、また来る。完膚無く消し飛ばさねェ限り、何度でも」

「ですけれど……あの怪物は、わたくしの『空間移動(テレポート)』で飛ばす事はできませんでしたわ……」

「だったら、『他のもの』を飛ばしゃ良いンだよ。ほら、童話の北風みたく、服だけ飛ばして剥いちまうみたいにさ」

「貴方という人は……全くもう、こんな時にまで軽口だなんて、ある意味尊敬いたしますわよ」

 

 

 不敵に微笑んだ、その顔に。この場にそぐわない程、剽軽な。そんな彼に、黒子は────今までのように、軽い溜め息を吐いて。

 

 

『コウジ────』

 

 

────やれやれ。貴様は、また……是非もなし、か。

 

 

 そんな黒子の声ではない幻聴は、二つ。一つは純銀、嬉しさを微かに漂わせて。一つは影色、呆れ果てて。歪んだ鋭角、そこを睨む嚆矢の右側の視界の端に浮かぶ、二つの幻覚は。

 

 

『Gruoooooooo!!!』

 

 

 予測通り、再び過去から走り出したティンダロスの猟犬。やはり、黒子のみを狙って。青白い体液を撒き散らし、狂気染みた咆哮を上げて────!

 

 

「信じますわ、ええ……お姉様が、信頼なされる方ですもの、貴方は」

「はは、結局、御坂基準か……まぁ、そういうところが良いんだけどさ」

 

 

 生気を取り戻し、いつもの不敵さが戻る。そんな黒子の右腕が、嚆矢の刃金の右腕に重ねられる。白く温かな、小さな右腕。冷たく醜い、怪物の鉄腕に重ねられて。

 

 

『────そう。そう、なんだね。アナタは……うん』

 

 

 同じく、純銀の右腕が沿う。嚆矢と黒子の右腕に、重なるように伸びて──────

 

 

『Grrr──────?!!』

 

 

 煌めきが、満ちる。純銀の光、目映く二人の右腕に。虚空、引き裂くように。そして、猟犬は気付くだろう。虚空を掴むその鈎爪は、既に己の首を捉えている事に。今更、気付いても遅いのだが。

 

 

『Ga─────?!』

 

 

 そう、遅い────己の持つ『温度』が空間移動(テレポート)させられている事に、気付いても。

 既に、その身は氷点下。しかし、まだ動ける。怪物たるティンダロスの猟犬は、この世の法則では計れない。一歩、また一歩、獲物たる黒子に躙り寄り────

 

 

「無駄だ、怪物……お前には解らねェだろうが、この世で下がる温度には、限界があるのさ」

『Gi……?!』

 

 

 そこで、割れた。前肢、砕けて消える────!

 

 

『その温度が、絶対零度(アヴソリュート・ゼロ)。ヒューペルボリアを滅ぼした、零下の風……!』

 

 

 体が、崩れていく。全ての振動が凍結し、電子の動きすら停止した細胞が凍り腐れ、崩壊していく。

 そして、それは現在だけではない。遥か往古、一つの大陸を滅ぼした風は────猟犬の、今から繋がる過去の全てを凍て付かせ砕く!

 

 

「では────ごきげんよう」

 

 

 後には、身動き一つ無くなった猟犬の氷像が残るのみ。その、異形の彫刻に向けて。

 

 

「もう二度と会う事がないよう、祈っておりますの」

 

 

 黒子の飛ばした金属矢に、粉砕される。異形にしては、澄んだ音色を立てて。

 

 

『「猟犬が……ッ?!』」

「余所見してる場合かよ、古都────!」

 

 

 そして、古都の目の前に空間移動(テレポート)で現れた嚆矢。右腕、既に古都の右腕を掴んで。

 

 

『「くっ─────!』」

「どうした────決闘だろ? 俺と、お前の!」

「決闘……僕と、主将の……!」

 

 

 瞳が、開く。赤濁した、古都の瞳が。確かな────反骨心を持って。

 

 

 その時、近くのスピーカーから音楽が。柔らかな、優しい音色。それを聞いた、古都は……目に見えて、意思を取り戻す。嚆矢ではなく、自らの質量を増す。万有引力を味方に付けた彼の今の重量は、地球そのもの。

 

 

『どうした、ミヤコ────早く、奴を押し潰せ! お前は、我の言う通りに!』

「五月蝿い────黙れェェェェェ!」

『なっ────み、ミヤコ……きさ、マァァァァッ?!』

 

 

 瞬間、『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』が歪む。グシャリと一点にひしゃげ、古都の左掌と共に掴み掛かってくる!

 

 

「甘い──教えただろ、古都!」

 

 

 首の皮一枚で躱す、左手。しかし、引力に肉が幾らか抉り取られた。

 それでも、流れのまま────文字通りに。

 

 

「──────────ガ、はッッッッ…………!??」

 

 

 文字通り、『地球投げ』である。アスファルトに、蜘蛛の巣状のヒビが走るほどの威力で。自ら増した『万有引力』の為に、返って破壊力が増して。

 

 

「────理合は他人のだけ掴みゃ良い訳じゃねぇ。自分の理合こそ、常に掴め。そうすりゃあ、勝てずとも敗けやしねぇ……ッてな」

 

 

 一撃で昏倒させ、残心を示しながら。嚆矢は弟弟子に、いつかと同じ言葉を送ったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24.July:『The Masters』

 

 

 背面から路面に叩き付けられ、あらゆる意思が挫かれた。蜘蛛の巣状のひび割れを全方位に拡げ、震度2くらいの揺れを刻んで。

 全ての空気を吐き出した肺腑、吸う事を思い出せない。心臓、血液が一瞬だけ滞り、脳、考えるのを諦めた。

 

 

「──────────」

 

 

 見えている。自分を倒した、その男。何かを、口にした彼は。ただ、残念な事に。完全に震盪した脳では、その言葉の意味を理解できない。

 そもそも、彼は知らない。今、男が口にしたのは『空白』の言葉。エリンの地の古き言葉。口伝でのみ伝わる、門外不出の吟遊詩人の言葉だ。

 

 

 記憶を忘れる為の言葉だ。目の前の日本人離れした筋肉質な、天魔色の髪に蜂蜜酒色の瞳の男の。だから、ただ悔しく思う。あれくらい、自分も男らしければ、と。

 小さな頃から、女の子と間違われ(からか)われ、苛められ続けてきた彼が強さを求めたのは、『幻想御手(レベルアッパー)』や『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』に手を出したのは、そんな理由。

 

 

──ああ……やっぱり強いなぁ、主将は……。

 

 

 ただ、それだけを思う。学園都市にただ一人、能力(スキル)を持つ者ならば誰しもが無意識に行う『確率の取捨選択』を意識的に行う欠陥能力、確率使い(エンカウンター)異能力者(レベル2)

 手の届く内で、演算力が上ならば他人の能力の妨害や底上げすらする事も可能な、『()()()()()()()()()()』彼。付いた渾名は『制空権域(アトモスフィア)』。

 

 

──流石、『原石』……だ。

 

 

 恐らく、学園都市の能力ではない。少くとも、古都はそう考えている。そもそも、『運』の証明など現代科学ですら出来ていないのだ、それを『異能力(レベル2)』だとは、中々洒落ている。一体、どんな基準で『運』の強度を測ったのか。

 そんな折り、耳にした言葉。それが、『原石』。能力開発を受ける前より能力を備える、天然の異能力者。かの超能力者(レベル5)第七位(ナンバーセブン)もそうだとか、どこかの学区には研究所まで在るとか言う噂もある。そして、彼等は総じて稀有な能力を持つと。

 

 

──全く……せめて、とんでもなく強い能力に負けたなら、まだ諦めがついたってのに……。

 

 

 だが、だが。彼の能力は武威ではない。あくまで、支援程度。つまり、今回のこの敗北は────純粋な、鍛練の差。功夫の差。それだけの事。

 ただ、武技の練度のみの差であり、十分に巻き返せるもの。だから、こそ。

 

 

──諦めるな……貴方は、僕にまで……そう言っているんですね────……

 

 

 それは時間にすれば、一秒未満の出来事。断線する意識の最後の最後で、古都は────

 

 

………………

…………

……

 

 

 確実に昏倒させた古都に拘束用の手錠を嵌めてから視線を外し、溜め息一つ。まだ、何も終わっていない。その確認だ。

 

 

「向こうも向こうで、ヤバい事になってるみたいだな! 急ぐぞ、黒子ちゃん!」

 

 

 見れば、二キロ程先だろうか。原子力発電所の方に向けて────特撮映画の怪獣じみた、頭らしき場所にボロボロの『天使の光輪(エンジェル・ハイロゥ)』を備えた巨大な()()が、躙り寄っていっている。

 足元の建造物、薙ぎ倒しながら。いくらなんでも原発は洒落にならないと、嚆矢は疲労困憊の身体に鞭打つ。

 

 

「何を言ってますの。先ずは、貴方の怪我の手当てが先ですの」

「大した事無いって、こんなモンは唾付けときゃ治っアイタタタ……」

「それで治れば死人なんて出やしませんの、大人しくなさいな。第一────あそこには」

 

 

 対し、同じものを見ながらも落ち着き払った黒子。嚆矢の左腕を背中側に捻って膝と腰を折らせ────ブラックホールに抉られて結構な血を流す、彼の首にハンカチを当てる。

 そこに、漸く『遠見』の神刻文字(ルーン)が効いてくる。先ず、見えたのは……宙を舞う、一つのコイン。そして────右手を差し出す、茶色のセミロングの彼女は。

 

 

「お姉様……学園都市の第三位、『超電磁砲(レールガン)』御坂美琴、その人が居ますもの」

 

 

 コイン、弾かれて。収斂するローレンツ力が、対象を超音速へと加速して─────怪獣の体を撃ち抜く。あれこそ、御坂美琴の代名詞。

 最早、戦車砲クラスの破壊力だ。超電磁砲(レールガン)、怪獣の体内の、『何か』を吹き飛ばし、撃ち砕いて。

 

 

『…………………………!!!??』

 

 

 遠すぎて、風鳴りにしか聞こえないが……恐らく、『核』のような物を破壊されたのか、カタチを保てなくなった怪獣──後に『幻想猛獣(AIMバースト)』と呼ばれたもの──が、バラバラに崩壊していく。

 それは、まるで……生まれ落ちた命が、先ず上げるモノに。『産声に似ていた』と、何故かそんな、感傷的な事を思った。

 

 

「……男前過ぎるよなァ、アイツは。大体一人で何とかしちまいやがる」

「あら、そこがお姉様の素敵なところなんですのよ……今、警備員に初春が保護されたそうですわ。木山春生も、確保されたと」

「そっか……事案終了(QED)っと」

 

 

 息を吐き、どすんと腰を下ろす。黒子が押さえてくれていた首の傷、ハンカチが当てれたそれを、自分の左手で押さえる。代わりに、黒子は嚆矢の前に移動してしゃがみこむ。

 白いハンカチは、既に半分近く紅い模様に染まりつつある。アドレナリン全開で痛みなどはないが、結構な出血量らしい。

 

 

「そうでしたわ、右腕────あんな訳の分からないものに刺されて、大丈夫なんですの?」

「ん、あァ……何か、大丈夫っぽいね。ハハ、流石は『制空権域(オレのスキル)』だな」

 

 

 勿論、能力のお陰などではない。全ては、『あらゆる生命が大いなる輪廻の果てに、その御許へと回帰する』という“自存する源(■■=■■■)”が、その消化酵素の持ち主を『回帰』させたが為。

 あの『ティンダロスの猟犬(ハウンド・オブ・ティンダロス)』の過去から繋がる因子が、消え果てた為だ。そうでなければ、今頃もう、この命などは尽き果てていよう。

 

 

「何を馬鹿なことを……そもそも、わたくしを庇ったりするからそんなことになるのですわ! わたくしは大能力(レベル4)空間移動能力者(テレポーター)白井黒子ですのよ、放っておいて貰えた方が動きようが……」

 

 

 携帯で風紀委員(ジャッジメント)警備員(アンチスキル)、そして救急に連絡した後、ずびしっと人差し指を突き付けられて叱られる。

 しかし、その理屈はおかしい。そう、おかしいのだ。恐慌に陥っていて能力が発動していなかったとか、そんな事ではなく。根本から、間違っている。

 

 

「なに言ってンだよ、黒子ちゃん。風紀委員(ジャッジメント)の腕章に在るのは、『楯』だぜ?」

「そんなこと……分かっておりますの! わたくし達は、学園都市に住まう学生の楯……」

「いいや、分かってない。分かってねぇ、分かれよ。俺達はさ、『護る為に在る』んだから。先ずは仲間から護んねェと、そんな事も出来ねェ奴に────一体、誰を護れるってンだ?」

 

 

 強い意志の籠る、蜂蜜色の瞳。後輩を指導すると言う、ついさっきも遣った行為。母校でも、二年次からは遣れと先代主将に言われて。ほぼ毎日、行ってきた事だ。それを、黒子にも。

 

 

「……は……はいですの……申し訳ありませんですの」

 

 

 正論を述べられて恥じ入るように頬を染め、視線を逸らした彼女。その左の上腕、そこに嵌められた腕章を引かれて。

 それは、風紀委員(ジャッジメント)として認められた者にしか装備を許されない物。『戦う』のではなく、『護る』事を誓った者である証。

 

 

 それ以外は、例え、着用を許されていたとしても偽物だ。少なくとも、対馬嚆矢はそう考えている。

 

 

──つまり、己の事だ。この、偽善者が。あっちにふらふらこっちにふらふら、明部と暗部を行ったり来たり、どっち付かずの顔無蝙蝠(ナイトゴーント)め。

 

 

「────まぁそれは兎も角、この悪運がどうして女の子にモテる方面の才能に繋がらないのかと小一時間、俺の人生を脚本した神を問い詰めたいね、マジで」

「またそうやってチャラチャラと……はぁ、真面目にしていればそれなりですのに……」

 

 

 自嘲と照れ隠しを併せた、立て板に水の如き軽口に呆れた顔をしながら、黒子はトレードマークのツインテールに。より正確に言えば、その付け根のリボンに手を伸ばし────するりと解く。それを、止血帯として右腕に。

 

 

「黒子ちゃん────いいって、マジで。ホントにこんな傷、放っといても治るから」

「いいえ、キチンと手当てをしておかないと後で化膿したりと危険ですもの」

「ごもっとも……」

 

 

 意趣返しのように、今度は黒子が正論を述べる。無論、ぐうの音も出ない。荒事には慣れている為か、手際が実に良い。元々赤いとは言え、もうこのリボンは使えまい。

 

 

「悪い。礼は、必ずするから」

「それでは、いつまでも終わりませんの。結構ですわ」

 

 

 ストレートのロングヘアとなった彼女が、ふう、と息を吐く。妙に大人びた表情、髪を下ろすだけで印象がガラリと変わるのは女性の特権か。

 首の傷も、『治癒(ベルカナ)』の神刻文字(ルーン)のお陰で薄皮が張られた状態まで回復している。これなら、動くくらいは問題ないだろう。

 

 

「それと……」

 

 

 遠くから、車の音。どうやら、警備員(アンチスキル)が先に着いたようだ。しかも、装甲車と救急車。喧しいツートップだ。中から、十人近い完全武装の警備員が現れる。どうやら、あの怪獣の暴れた地点と勘違いしたらしい。

 状況説明の必要を感じ、嚆矢と黒子は立ち上がる。一斉に周りを騒音と人熱(ひといき)れが包んで。

 

 

「護ってくださって……ありがとうございますの」

「え──何? ゴメン、周りが五月蝿すぎて聞こえなくて……」

 

 

 だから、聞こえない。顔を背け、長い髪に表情を隠した黒子の言葉を、完全に聞き逃した。

 だから、首の傷が開かないように体ごと向き直って。

 

 

「別に、何でもありませんわ。この件は、貴方の『秘密』は、わたくしの胸の内に留めておくと。それだけですの」

 

 

 くすりと、朗らかに笑う。恐らく、知り合って間もなくの頃以来、向けられた笑顔。ただし、知り合って間もなくの頃よりも、近い距離で。

 だから、一瞬迷う。また、『空白』で消す事を。取り返しようもない、空虚を刻む事を。先程の古都のように、『魔術(オカルト)』に関する記憶を消そうと、その肩に伸ばしていた左手が、止まる。

 

 

「では、わたくしはお姉様のところに行って参りますわ。ごきげんよう、先輩」

「あ────」

 

 

 それを止められる訳もなく、空間移動(テレポート)で黒子は消えた。やはり、能力的に相性が悪い。触れないと何も出来ない、自分の能力と魔術の脆弱を思って。

 

 

「……莫迦が。秘密を共有したくらいで、なに喜んでンだ。餓鬼かよ────」

 

 

 悪態、吐いて。事情を聴いてくる男性警備員に、作り笑いで応じて。

 

 

「……餓鬼かよ、俺は」

 

 

 『贋物』で、『本物』を隠して。これで、後に『幻想御手(レベルアッパー)事件』として長らく記録を残す事件は、終わった……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 夜の帳の降りた、崩壊した高速入り口の封鎖区域のある一点に。闇より尚濃い、その『影』は在った。ごぽり、ごぽりと泡立って。饐えた臭い、撒き散らしながら。

 

 

『オ、オオォォォォォノォォォォォレェェェェェェ…………ニンゲン、フゼイガァァァァァァ!』

 

 

 まるで、暗闇の深海から浮き上がるように……鋼鉄の装丁を持つ魔導書は、闇より沸き上がる。不快な粘塊の如き、闇から。

 怨嗟、撒きながら。呪詛、喚きながら。事象の地平線より脱出する際に著しく魔力を散じた為か、言葉すら明瞭ではなく。最早、誰がどう見ても悪性としか見えまい。

 

 

「お 困 り の よ う だ ね」

『────────』

 

 なれば、そんなものに気軽に声を掛けた者。それもまた、尋常の者では有り得まい。その存在、影より濃く。狂気よりも明白な、怪異である。

 

 

「手 を  貸 そ う か ?」

 

 

 鮫の如く、有り得ない笑顔を浮かべながら。深紅の瞳、燃え盛らせて。闇を従える────青き娘など……断じて。

 

 

………………

…………

……

 

 

 カタタッと、二度のタイプ音。一応のブラインドタッチで打つキーボードの、エンターキーをダブルクリックした音だ。

 

 

「あ~……やっと終わったぁ~……一年分はパソコン触った、もう嫌だ、もうやらない」

 

 

 呟き、仕上げた報告書を本部に送信して、嚆矢はのへーっと机に突っ伏した。そのせいで、画面には意味不明な文字の羅列が量産されていく。

 時刻は、既に二十時を回っている。事件の終息から今まで働き通しで、漸くノルマが終わったところだ。その量、実に四十ページ以上。『被害の規模やタイムテーブルも記せ』との本部からのお達しで、更に時間を食わされた。結局、一番割りを食うのは現場である。

 

 

「お疲れさん、先輩」

「なんだ、おむすび君か……せめて美少女に生まれ変わってから出直してきてくれ」

「コーヒーやんねーぞ、このロリコン先輩」

 

 

 『巨乳』Tシャツの同僚の差し出した紙コップのホットのドリップコーヒーは、冷房の効いた室内での事務作業に疲れた身に染み入るかのよう。

 有り難く啜りながら、パソコンのモニターを落とす。待機画面の黒いモニターに、疲れ果てた己の顔が映って。

 

 

「しかし、今回の事件はまた大変な位置に居たな。大丈夫か?」

「大丈夫大丈夫、酷いのは見た目だけで深くなかったからさ」

 

 

 言い、包帯の巻かれた首の傷を擦る。医者からは『安静にしておくように』とも言われたが、結局は神刻文字(ルーン)による治癒で騙し騙し、復帰した。

 

 

お前(ロリコン)はどうでも良い、白井の方だ。何か、妙に吹っ切れたような顔をしていたんだが」

「だな。一体何しやがったんだよ、対馬(ロリコン)? 事と次第じゃあ、警備員(アンチスキル)に引き継ぎだぜ?」

「随分な言われ方だが……まぁ、良いさ。何せ、漸く黒子ちゃんと仲直り出来た俺は既に賢者モードだからな!」

 

 そこに声を掛けてきた、帽子に丸眼鏡の根暗そうな男とスキンヘッド。何なら、コイツらの方が、『不良学生』のような見た目の同僚達が。

 

 

「呆れた……やっぱり対馬先輩って筋金入りのロリコンね。本気でキモいんですけど」

「何とでも言うがいいさ! だけど、俺は絶対に変わらないからな!」

 

 

 最後に、バッグにペットボトルを大量に持つ長髪で目が窺えない女学生が溜め息交じりに呟いて。全て、後輩である。何なら、もう数年来の。つまり、気の置けない仲間内のじゃれ合いだ、これは。

 

 

「何が変わらないんです?」

「何が変わらないんですか?」

「何が変わらないんですの?」

「誰が何と言おうと、俺は年下好きだって事に決ま────って……」

 

 

 三人分の問い掛けにそこまで言って、錆びた鉄葉(ブリキ)の玩具みたく振り返る。無論、其処に居たのは後輩────固法美偉と、御坂美琴と白井黒子の三人。

 

 

「……御坂さん、白井さん。あまり近付かない方がいいわ、この変態には」

「お姉様、お下がりくださいですの。視線だけでも不浄ですわ」

 

 

 文字通りに『白い眼差し(クレアボイアンス)』である。眼鏡越しのと裸眼の、軽蔑の視線は。

 

 

「酷ッ! 変態は変態でも、嚆矢君は女の子に手を出した事なんてない変態紳士(ジェントルマン)でしょうが!」

「ハイハイ、対馬さん。寝言は寝てから言ってくださいねー」

「はい、傷ついたー……嚆矢くんのHPはもうゼロよ!」

 

 

 それら、全てを含めて。177支部の一室は、朗らかな笑いに包まれて……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 夜でも綺羅(きら)びやかな都市の片隅、暗がりの袋小路の最果て。其処に、切破風屋根の屋敷はある。息を潜めるように、或いは、傲然と。

 学園都市の成立よりもずっと前からあった、明治初期の古めかしい洋館建築。黒一色の、さながら匈牙利(ハンガリー)の森の奥に在ると言う、シュトレゴイカヴァールの『黒の碑(ザ・ブラック・モノリス)』の如く(そび)え立って。

 

 

「貴方が────」

 

 

 屋敷の男主人が。黒い肌の麗人が、或いは、燃え立つような瞳の魔人が口を開く。

 

 

「貴方がこうして────我が領域に踏み込むのは、何度目でしたか?」

 

 

 磨き終えたクリスタルグラスに、球形の氷を収めたグラスに、純喫茶では有り得ないもの。私物のブランデーを、最後の一滴まで注ぐ────魔導師が。

 

 

「さてな────思い出したくもねぇよ、こちとら」

 

 

 麗人に応えたまま、ロックのブランデーを傾けた男は────煙草を灰皿に躙った、隆々たる筋骨を革の外套で包んだ、サングラスの白人の偉丈夫は。

 

 

「ねぇ────“牡牛座第四星の博士(プロフェッサー・オブ・セラエノ)”?」

「なぁ────“土星の円環の師父(マスター・オブ・サイクラノーシュ)”?」

「──────」

 

 

 にこりと、笑い合いながら。傍らに冷や汗を流しながら臨戦態勢で立つ、口を挟む事はおろか息をする事すら苦しげな。何時でも腰の、一向に気休め足らない拳銃を発砲可能な構えの、『水神クタアト(クタアト・アクアディンゲン)』を携えた海兵隊上がりの美青年を完全に無視して。

 麗人は、摘まみとして軽食を。塩を振った落花生とピスタチオ、胡桃の盛られた皿を差し出す。白人は、それを一つ。カリリ、と齧りながら。

 

 

「貴方も、後進の指導で? それにしては、随分と風雅を解さない弟子達のようですが」

「殺し屋に風雅なんざ要るかよ。テメェの弟子みたく、周りくどい人格形成なんてのは、力の後でいい」

 

 

 久方ぶりに再会した昔馴染みと笑い合う、まさにソレ。しかし、端から見れば一触即発。身が震えるほど、心が凍るほど。魂が──狂気に、磨り減るほどに。

 それほどである。この二人は、紛う事なき『選ばれた魔書の主』達は。一切の、揺らぎなく────!

 

 

「それで? まさか、わざわざ酒を呑みに来た訳ではないでしょう?」

「当たり前だ。今回は、相互不可侵の盟約を結びに来た。テメェの弟子、殺すからな。面倒だから、手ェ出すなや」

「それはそれは、また」

 

 

 明らかに、理不尽を。しかし、それすらも楽しげに。

 

 

「こう言っては何ですが……私の弟子は、貴方の弟子達ではどうしようもありませんよ? そうですね、余りにも役者が違いすぎると言うか。なんと言うか」

「分かってらァ、クソッタレが。たかだか海神と空神の『旧支配者』兄弟どもで、造化の双子たる『外なる神』をどうこう出来るたァ、俺だって思ってねェよ」

 

 

 どん、と。カウンターに一冊の書を置く偉丈夫。それこそは、彼の携える魔導書(グリモワール)。その、()は──────

 

 

「俺が、殺す。俺自身の手で、な」

「おや、それはそれは─────」

 

 

 カロン、と。グラスが啼く。魔人二人の放つ瘴気に当てられたかのように、二つに割れて。

 

 

「まさか、子供の喧嘩に親が出張るとは。その無粋、貴方が一番嫌う行為だと思っていたのですが」

「嫌に決まってんだろ、餓鬼どもの遊びに首ィ突っ込むなんざ。だが、外なる神と来ちゃ仕方ねェ」

 

 

 まさに、辟易と。だが、爛々と。久々の獲物を前に、舌舐めずる鮫の如く牙を剥いて。

 

 

「殺すぜ、あの“影”は。悪心の粋たる、法の敵(アウト・ロー)は。俺の手で、な」

 

 

 男────かつて、暗部すら生温い『世界の闇』で名を馳せた『博士』は、星よりの風を纏いながら。

 

 

「どうぞ、ご自由に。しかし、手前味噌ですが────強くはありませんが、厄介ですよ。コウジ君は」

 

 

 男────かつて、暗部すら生温い『世界の闇』で名を馳せた『師父』は、星よりの風を纏いながら。

 

 

「決まりだな。んじゃ、お愛想といくか。『ヨグ=ソトース』まで在るとなりゃあ、流石に『準備』が要るモンでなァ」

「ええ。ご武運を。精々、死なないように祈ってますよ。何なら、我が『神』は貴方を受け入れる用意がありますので」

「ハッ────讃美歌(キャロル)でも歌ってくれるってかい? 御免だね、何にしても」

 

 

 『今日一番面白い冗談だ』と笑って。白い男は、飲み干したブランデーボトルの代金を支払って席を外す。

 最早、話す事は無いと。話は終わったと、全てを嘲笑いながら席を立って。

 

 

「じゃあな。二度とは会うまいよ、“エイボン師父”」

「ええ。それではさようならです、“シュリュズベリィ博士”」

 

 

 永訣の言葉を交わして、全てが終わる────────



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断章 アカシャ年代記=Akasha-Chronicle
??.----・error:『Nyarlathotep』Ⅱ


 

 

 夜の気配に満ちた第七学区の通りを、男一人と少女二人が歩く。他ならぬ、嚆矢と黒子、美琴の三人だ。

 因みに、何か『幻想御手(レベルアッパー)事件』関係で忘れている気がずっとしているのだが、何かピンク色のものがチラチラと記憶の片隅にあるのだが……この状況になった時から、そんなものは吹き飛んでいる。

 

 

「ちょっとしたナイト気分ってやつですか、対馬さん?」

「それを言うなら、送り狼の間違いではありませんの、お姉様?」

 

 

 現在時刻、二十一時。彼女ら、常盤台の学生寮の門限は、当に過ぎているのだ。

 

 

「だから、嚆矢君は変態紳士(ジェントルマン)だと以下略……つーかお前の為だろ、御坂」

「アハハ、ご迷惑をお掛けしまーす」

 

 

 無論、風紀委員の活動を行っていた黒子の方は問題ない。問題なのは、首を突っ込んできただけの美琴の方だ。

 まぁ、その美琴が居なければ、原発に迫っていた幻想猛獣(AIMバースト)でどうなっていたか分からない。その意味でも、何とか穏便に取り成そうと言う事で。

 

 

「しかし、こう言う事ならみーちゃんの方が向いてるだろうし、あのみーちゃんが俺を名指しで行かせるなんて事が信じられないんだ、今でも。クランの猛犬(恐~い番犬)でもいるのかい?」

 

 

 等と、道々買った缶珈琲を啜りながら。ヘラヘラとそんな、普通なら『何ですかそれ?』と一蹴される冗句を口にして。

 

 

「ああ……まぁ」

「ええ……まぁ」

「まぁ、居たとしても俺の理合(バリツ)で一蹴……え、マジで居るの? なぁ、何で黙る? 何とか言ってくれ、なぁ御坂、黒子ちゃん?」

 

 

 何故か目を逸らし、以降は完全に口を閉ざした二人。まるで、この後の事をもう、この瞬間には覚悟したかのよう。

 少なくとも、後に嚆矢はそう思ったのである……。

 

 

………………

…………

……

 

 

「それで────」

「───────」

 

 大気が、痺れるかのように。息一つ、それすらも苦役。先ず後悔したのは、己の浅はかさ。目の前には、三角眼鏡にピッタリとスーツを着込んだキツそうな女性。タイトスカートから伸びる長い脚の先は、ハイヒール。

 常盤台の学生寮の主……即ち、彼女ら常盤台の学生達(高レベルの能力者達)ですらが恐れる『寮監』その人。

 

 

「それで。何故貴方から、規則違反者を看過するように等と言われなければならないのですか?」

「それは。あの、御坂さんのお陰で事件が無事解決した訳ですし、少しくらい大目に見ていただきたいな、と思った次第でして……」

 

 

──ああ、莫迦な話だ。何て莫迦だ俺は、女の子二人連れたからって光の御子(クー・フーリン)気取りで意気軒昂と。

 まるで、丸裸で乗り込んだ『影の国』で『深紅の魔槍(ゲイ・ボルク)』や馬牽戦車(チャリオット)で完全武装した魔女(スカアハ)と相対したかのような。精々刻んだ、『話術』の神刻文字(ルーン)が気休めにもならない。助けて義母(かあ)さん、ヘルプミー!

 

 

 紙背どころか掌ですらも徹しそうな鋭い眼光に若干、脚が震える。あの麦野沈利(メルトダウナー)でも、これ程まではなかった。いや、もし敵対とかしたらこれ以上かもしれないが。

 首の兎足(ラビッツフット)を握り締めながら、そう、居もしない人に祈って。

 

 

「────それが。それが寮の規則と、何の関係が?」

「────アハハ。ですよね……」

 

 

 曖昧に笑う。即応、一切の揺るぎがない鉄の面皮が返ってくる。投石をしたら、ロケット弾が返って来たくらいの驚きだ。

 

 

──メーデーメーデー、戦力差は歴然。至急支援求む! 零時方向、超電磁砲(レールガン)撃ってくれ……ッてなモンだ。

 開戦三分、もう、心が折れそうだ。十五分前の俺をしこたまぶん殴りたい。

 

 

 因みに、頼みの美琴も黒子も諦めた表情で背後。あの、超能力者(レベル5)第三位(レールガン)大能力者(レベル4)空間移動者(テレポーター)までもが、だ。

 何かしらの武芸を極めたか、或いは魔術でも使うのか。確かに、立ち居振舞いは堂に入ったもの。纏う気配は、達人のソレ。抜き身の刃のように、少しでも気を抜けば唐竹割りにされそうな。

 

 

 だからと、そこまで闘士(グラップラー)脳な訳ではないが。俄に、興味が沸いて。

 固めていた拳を、開く。彼の武術、その構えの一つ。右腕を差し伸べる形の特異な、彼の最も得意な構え。蚯蚓の怪物(ドール&シュド=メル)と、事象の地平面(ブラックホール)を投げた時の構えだ。

 

 

「ふむ。構えは大したものですね。古流柔術、合気道……確か、『理合(バリツ)』を標榜するという隠岐津流の構え」

「ッ……大したものは、此方の台詞です。まさか、構えだけで看破されるとは────!?」

 

 

 そこまで口にした瞬間、凍り付いた。握手、していたのだ。右手で、寮監の右手と。この数年、初めて『武の師父』と会って、ほいほい握手に応えて挨拶がわりに投げられた時。それ以来の迂闊である。

 だから、耐えられる。いや、耐えなければ。でなければ、あの日以来進歩がないと言う事。それだけは、と────踏み締め、落とした腰。完璧なまでに、寮監の『柔』を受け、耐えて。

 

 

「やはり大したもの────ですが、やはり甘い」

「な────」

 

 

 気付くよりも早く、握った左手の人指し指がめり込んでいた。鼻と、唇の間。即ち『人中』に。コツンと、本当に軽く。しかし、十分だ。十分に嚆矢の意識を刈り取って。

 柔拳だけではなく、剛拳までも繰り出した彼女によって。

 

 

──世の中ってなァ……広い、なァ……まさか、多寡だか市井に…………これ程の…………

 

 

 膝から崩れ落ち、硬い石畳に落ちる体。その感覚を最後に、深い闇が広がって────…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 水滴。無窮の虚空から霊質(エーテル)の一滴が、ポタリと。それに目を醒ました、天魔(あま)色の髪に蜂蜜酒の瞳を持つ少年が見たのは────海岸。

 

 

「此所は……」

 

 

 金色の塵が舞う、菫色の霧。夜明けの青に煌めく銀燐。星の煌めきだと気付いたのは、僅かに遅れて。

 明瞭となりゆく意識がまず認めたのは、白く香しいロトスの花。そして紅いカメロテが、星を(ちりば)めたかのように咲き乱れた海岸だった。

 

 

「また、か」

 

 

 あの、魔具の内側。確か、魔神どもの箱庭(シャイニング・トラペゾヘドロン)の。そう言っていた……誰が? 否、師父に言われた筈だ。そうだ、その筈だ。

 まだ、痺れの残る脳味噌を揺らして仰向けに。見上げた『虚空』には、見えもしない新月が。『闇を彷徨う』だけだったモノから位階を上げた『悪心』が、嘲笑いながら憎しみの(ひかり)を放っている。

 

 

「何だよ……見てんじゃねェ、クソッタレ。悔しかったら、俺を従わせてみろ」

 

 

 悪態吐く。それだけで、透明な月は腹立たしげに居なくなる。元々、居もしないものだが。

 

 

「ふふ、ほら? あんよが上手、あんよが上手」

「ふふ、ほら? 鬼さんこちら、手の鳴る方へ」

 

 

 代わり、視界の端に金と銀。『何か』と戯れながら、星屑の砂浜を走る足音二つと。

 

 

『てけり・り。てけり・り』

 

 

 その後を、ずりずりと蠢く大空洞(ヴォイド・マター)。コールタールの塊のような『何か』が。スライム状の、子供が作った砂山程に盛り上がった粘液塗れの身体に幾つも、血走った目や乱杭歯の口を浮かび上がらせては沈み込ませて。

 アメーバのように原形質(プロトプラズマ)の、玉虫色に鈍く光る身体を這いずらせて不快な金切り声で鳴きながら、金銀の双子を追い掛けている。

 

 

「……………………なんぞ、あれ」

 

 

 理解不能である。少なくとも、狂気にはそれなりに慣れている筈の嚆矢ですら、見るだけであのスライム(?)には正気を削られている。

 そんな怪物と、まるで『我が子と戯れる』かのように渚で遊ぶ、二羽の鶺鴒(セキレイ)は。

 

 

 あの二人は……一体、何者なのか。

 

 

──確か、金の子は『二十六文字(A~Z)()賢者の石(ATHOTH)』……だっけ? んで、銀の子は…………教えてくれなかったんだっけか。

 

 

 そう言えば、と。二人の姿を見た刹那、思い出した記憶。今まで、忘れていた……というよりは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を、反芻して。

 

 

「あ────こうじ、起きたのね」

「あ────コウジ、起きたんだ」

 

 

 気付いたのは、二人同時だった。金紗の髪が舞い、薄赤色の星雲(ネビュラ)の瞳がこちらを見遣る。銀紗の髪が舞い、薄青色の星雲(ネビュラ)の瞳がこちらを見遣る。

 不思議と、それだけで。心が落ち着く。宇宙の原初よりの霊質(エーテル)の潮騒と共に、そのf分の1の揺らぎを含んだ声が、魂を安息に導くかのように。

 

 

『てけり・り。てけり・り?』

「………………………………」

 

 

 おまけで、血走った玉虫色の不揃いの眼球や複眼、蝸牛の角のような雲丹の刺のようなもの多数も。そんな怪物が原形質流動でウゾウゾと近寄ってくるのだ、実にSAN値激減な外観である。

 

 

「やぁ、二人とも。相変わらず仲良しだな」

 

 

 折角の気分が台無しだが、こう言う手合いはスルーが一番。つい、と視線を逸らして。

 

 

「『相変わらず』? ふふ、おかしなこうじね。この子は、貴方が連れてきた“ヨグ”の一部よ? そうだわ、変な形に押し籠めて酷いことしないでね。わたしの『無明の霧』の一欠片に」

「『相変わらず』? はぁ、おかしなコウジだ。この子は、君が連れてきた“ショゴス”だよ? そうだよ、変な形に押し固めて酷いことしないでよ。ワタシの『万能の細胞』の一欠片に」

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 すると、俄に怒られてしまう。黒衣(シャドー・マター)の少女、ぷうと頬を膨らませて。白衣(ミラー・マター)の少女、つんとそっぽを向いて。

 またもおまけで、空洞(ヴォイド・マター)の塊が沸騰するように玉虫色の泡を弾けさせている。

 

 

──何だか『賢人バルザイの偃月刀(見覚えがある形状のもの)』を再現した形を採っているが、気にしては直葬(まけ)だ。

 そう、あんな怪物……ヨグ=ソトースだったかショゴスだったか、ヨグ=ショゴスだったか何だかを手に持ったり、一体化させたりしたなんて事はあってはならない。無いもんね。

 

 

「良く分かんないけど……ゴメン、猛省した」

「分かれば良いわ。だから、これからはちゃんと可愛がってあげてね?」

「分かれば良いよ。だから、これからはちゃんと可愛がってやってよ?」

『てけり・り。てけり・り♪』

 

 必死にそう、否定ながら肯定して。喜ぶように擦り寄ってきた────粘塊に、何やら良く解らない粘液を塗りたくられる。

 敵対的な存在ではないみたいだが、まぁ兎も角、そんな事よりも。

 

 

──やっぱり、『もう一人』は認識してない……のか?

 

 

 それに、思い至る。この粘塊が言語を介せば、とも思ったが────

 

 

『そう、片方のみ。未来か、過去か……進む方を、繋ぐ方を、選択しなければ』

 

 

 どうやら、この粘塊は『話しかけられた方へ』としか反応を返していない事に気付く。

 

 

「そうだわ、こうじ。前の約束……また来てくれるって約束。守ってくれて、ありがとう」

「そうだよ、コウジ。前の約束……もう来ないって約束。破っちゃうなんて、酷いよ」

「ハハ……何て言うか、参ったな」

 

 

 と、そこで二者二様、二律背反。先程までのように同じ事を言ってくれれば、楽なのだが。

 

 

「それに、あの娘。お花畑の娘。ちゃんと助けられて、よかったわ。やっぱり、こうじって強いのね」

「それに、あの娘。双房髪の娘。ちゃんと助けられて、よかったよ。まったく、コウジって弱いよね」

『だから、選べ。たった一つのその右手、掴み取れるものも、また一つ。簡単な計算式だ、“悲劇と言う名の喜劇(クルーシュチャ方程式)”だ。そうだろう?』

 

 

 褒める黄金に、貶す純銀。嘲笑う、無色透明。全く以て、調律した矛盾そのもの。

 

 

「ご期待に応えられる結果が出せたら、良かったんだけどな」

「ええ、素敵だわ、こうじ」

「ああ、不様だね、コウジ」

 

 

──だからこそ、俺は『繋ぐ』。『寂しい』と、かつて呟いたこの二人の為。

 

 

「だからさ、いつか……“外に行こう”。見るだけじゃなくて、自分自身で、歩いてみないか?」

「“外”……わたし自身?」

「“外”……ワタシ自身?」

 

 

──少しでも、寂しさを紛らわそうとしているこの二人の為に。多少の思考の手間など、何するものか。

 

 

「うん……じゃあ、約束よ、こうじ」

「ウン……じゃあ、約束だ、コウジ」

『────やれやれ……』

 

 

 肩を竦める気配と共に、少女達が表情を変える。驚きから、喜びへと。差し出された、『重なる二つの右手』に、小指を絡めて。

 しかし、時間切れだ。もう、もう────

 

 

「ああ────それなら、また来るよ。今度こそ、『君達の物語』を」

 

 

 半ば、意地で。黒に染まる意識に、大好きな群青菫(アイオライト)を思い描いて。

 

 

「繋ぎ、に────」

 

 

 閉ざされる。あの戸口は、もう開かない。その時までは、絶対に。

 笑っている。声もなく、姿もなく。音もなく、光もなく、混沌のただ中で。もう、届く筈もない。もう、もう────

 

 

「だから、俺は────」

 

 

 右手。人のままの。温もりと冷たさ、その二つが残った右手を────

 

 

『今晩は。忌々しくも素晴らしき、我が聖餐よ』

 

 

 掴み、掠れた声で呼び、目の前で狂い笑う黒い──全身鎧。闇に彷徨う深紅の三つ目、和の物とも洋の物ともつかない甲冑に、龍の如き(つばさ)の造化の神弑し。其は、神仏の敵たる『第六魔王(■■■■)』。

 それに付き従い、愚者を嘲るように呪われたフルートをか細く鳴らし、くぐもった太鼓を下劣に連打して躍り狂う蕃神達より────…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 目を醒ます。無窮の神苑から、有垢なる穢土に。具体的には……警備員(アンチスキル)の拘置所に。

 何でも、通報により駆けつけた彼らが見たものは……昏倒した嚆矢の姿。一応は寮監の話により無罪放免は確定しているが、放置はできないので運んだとの事。

 

 

──危うく前科が付くところだったぜ……勘弁してくれ、こちとらもう、未成年者保護法は適用されねぇんだから。

 

 

 丁寧に礼を述べて後にした拘置所、道々嫌な汗をかいた体が冷え、ざらつく感覚がするのは、倒れた際に砂埃でも浴びた所為か。或いは────付き従う影が、異様に濃い所為なのか。

 帰り付くのは十時にもなろう、そんな遅くに風呂を遣わせて貰うのは心苦しいと、嚆矢は管理人の撫子に遠慮して。

 

 

「よし、銭湯にでも行くかな」

 

 

 純銀の光を放つ黄金の月が見詰める中、またもや運命の選択を誤ったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3章・chapterⅠ 禁書目録/Glaaki Apocalypse
24.July・Midnight:『Saint's』


 星空に発散されるのは、昼のヒートアイランド現象により溜め込まれた灼熱。今はその熱の代わりに風が流れ込み、強いビル風となる。

 夜風を吸い込む学園都市の摩天楼群(スカイ・スクレイパー)、夜闇の中を回り続ける風力発電塔群が唸るように風鳴りを発する。さながら、人には気取られずに夜を舞う顔無蝙蝠(ナイトゴーント)どもの嘲笑か。

 

 

「…………」

 

 

 瞑目し、その風を浴びつつ、黒髪のポニーテールを靡かせる女性。身に纏うのはジーンズに、裾を結んで動きやすくしたTシャツ。

 昼日中なら、衆目を惹こう。出るところは出ていて、且つ快く括れた腰付きは、見事に成熟した女の色香を漂わせている。

 

 

 しかし、その風格。一瞬の雑念すら断ち切られてしまうかのような凜とした佇まい。まるで、殉教者の如く真一文字に結ばれた、意志の強そうな口元と目元。西洋彫刻のように、完成された美しさ。

 そして────その手に携えられた一振りの刀。簡素な黒塗りの鞘に収まる、それは。

 

 

「────準備完了だ。いつでも行けるぞ、神裂(かんざき)

「承知しました。では────状況を開始しましょう、ステイル」

 

 

 その女、神裂 火織(かんざき かおり)の背後から、焔の偉丈夫が語り掛けながら並び立つ。

 赤い髪に黒い衣、審判の使途を思わせるその魔術師はステイル=マグヌス。十字教は『必要悪の協会(ネセサリウス)』所属の、腕利きの魔術師である。

 

 

「僕は、結界の維持に全力を傾けよう。折角の機会だ、此処で……ケリをつけるぞ」

 

 

 色とりどりの夜景を見下ろしながら煙草を銜えて、トランプのようなカードを取り出し、それに魔力を流す。

 発露する『発火』の神刻文字(ルーン)により燃焼するそれを燐寸(マッチ)代わりに、火を点して。

 

 

「ええ。それが、彼女にとっても『彼』にとっても、此方にとっても。最も、後悔の少ない選択なのですから」

 

 

 ステイルの燻らせる紫煙、焼け付く香気をすらもが彼女を避けていくかのよう。それだけ、鋭く研ぎ澄まされた彼女は、正に刃だ。

 決然と開かれた瞼、そこから覗く瞳の彼方。歩くのは、一人の少年────

 

 

………………

…………

……

 

 

 いつもと少し、違う道。一つ通りが違うが、それだけでも異界に迷い込んだかのよう。少し道に迷ってしまったが、携帯の道案内機能で後は少し。

 

 

「ふんふん、後は三つ先の角を右、と……お、百分の九十九(ラッキー)

 

 

 と、脇に当たり付き自販機を見付け、缶珈琲を買う。勿論、『制空権域(アトモスフィア)』で二本目もゲットして。

 

 

「そうだ……少し、調べとくか」

 

 

 思い立ち、携帯でネット検索。登録しておいたページを開けば、件のクトゥルフ神話の総合案内サイト『Miskatonic University occult sciences (ミスカトニック大学・陰秘学科)』へと飛んだ。

 

 

「『ティンダロスの猟犬』……在った在った、何々……『角度から現れる狩猟者』か。成る程ねぇ」

 

 

 『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』が呼び出したからクトゥルフ神話の物だろうと言う考えは、見事に当たっていた。

 

 

──因みに、黒子ちゃんは『アレ』を古都から発生した『幻想猛獣《AIMバースト》』という事で結論付けたらしい。

 後、俺の魔術は『制空権域(アトモスフィア)』の能力を、何等かの事情で誤魔化して申告したと。魔術(オカルト)を認めない現代っ子って助かるわ。

 

 

 何時しか、魔術師の顔で。取り出した煙草を吸いながら携帯の画面を読み耽る。壁に寄り掛かりながら万色の紫煙を虚空に燻らせ、缶珈琲を啜って。

 

 

「しかし、あんな化け物がただの犬コロとは……勘弁してくれ、二度とは会いたくねェぜ」

 

 

 吐き捨て、珈琲を啜りながら……やけに早くフィルターまで燃えた吸い殻を足下に投げる。後は、火を躙るだけ────というところで、吸い殻を見失った事に気付いた。

 

 

──あれ? っかしいな、何処行った?

 

 

 暫く目を走らせるも、見当たらない。しかし、だからなんだと言うのか。側溝にでも跳ねていったのだろうと、早急に思考から放り出して。

 ()()()()()飲み干してしまった缶珈琲を、屑箱に放り込んで歩き出す。

 

 

「…………駄目だ駄目だ、こう言う時に別行動とか、どんな死亡フラグだ」

 

 

 何故か、遠回りしたくなる気がして。しかし、先程迷った経験から、携帯の道案内を遵守して。人っ子一人居ない道を、訥々と。次第に強くなる違和感を、二本目の缶珈琲で誤魔化しながら。

 

 

「────止まれ、吸血魔術師(シュトリゴン)

 

 

 鋭く掛けられた声、鼻に感じる焼けた香気。嗅いだ覚えがある、銘柄も知らぬその煙草。曲がる筈だった三番目の角、そこから現れたのは……猟犬などではなく、もっと性質の悪い『魔女狩り』だった。

 

 

「良く良く、縁があるな。全く、神も随分な酔狂をなさる」

「…………ああ、ホント、俺って奴ァ────」

 

 

 頭を抱える。まさか、また出会うだなんて。信じてもいない神の存在すら感じてしまいそうだ。

 

 

「なんて、百分の九十九(ラッキー)なんだろうなァ……こんなに早く、再戦(アヴェンジ)が叶うなんてよォ!」

 

 

 無論、神は神でも『外なる神(ストレンジ・アイオン)』だが。

 そう、『正体不明の怪物(ザーバウォッカ)』が吼える。持っていた缶珈琲を媒介に、玉虫色に煌めく漆黒の偃月刀を呼び出して。

 

 

「ほう……少しはマシになったか。今度は、あんな決着にならないことを祈るよ」

「随分柄は悪いが、神父の祈りなら御利益がありそうだな。まぁ、うちの神様は人間の祈りなんざカス以下だがよ」

「違いない。宗教後進国(ユナイテッド・ステイツ)の神など、その程度だ」

 

 

 対し、煙草を変容させる魔術『炎剣』を構えるステイル。摂氏三千度の剣が、彼の右手に現出する。

 

 

──相変わらずの、炎の魔術。やっぱり、奴の専門は火か……。

 

 

 隙無く、周囲に気を配る。感じたのは、辺りにバラ撒かれた神刻文字(ルーン)の魔力。夜の闇に紛れて判断しづらいが、どうやら、結界のようだ。

 手元を見遣る。玉虫色に煌めく漆黒の塊。その奥底から────深紅の瞳が、垣間見えた気がした。

 

 

「────“Fortis 931”」

「あァ────?」

 

 

 そんな時、耳に届いた言葉。流暢な英国語で、それは嚆矢の耳朶を揺らして。

 

 

「殺し名……魔法名だ、僕の。“Fortis 931(我が名が最強である理由をここに証明する)”。即ち────」

「ッ────?!」

 

 

 瞬間、立ち上がる。ステイルの背後に、『何か』が、のそりと。

 

 

 それは周囲の空気を貪りながら。睨め付けるように、辺りを見回す。己が狩るべき、不浄の存在どもを……灰に還すべく。

 戯画化されたような手足を、頭をぎこちなく動かしながら。

 

 

「君を、此処で……灰に還そう」

 

 

 燃え盛る重油の塊の如き巨躯の、炎の国(ムスペルヘイム)の巨人。その名は────

 

 

「行くぞ────“魔女狩りの王(イノケンティウス)”!」

 

 

 魔女狩りの審判の裁定と共に。かつて、欧州や米国で猛威を振るった異端審問。悪名高き『魔女狩り』が、極東に幕を上げる────!

 

 

 

 吹き抜ける風が『賢人バルザイの偃月刀』に斬られて鳴き散らし、夜闇に消える。艶めく玉虫色の煌めきの仮面を纏う、時空を貪る『門にして鍵(ヨグ=ソトース)』を祀る祭具に(おのの)きながら。

 

 

「大した隠し玉じゃねェか────判るぜ、トンでもねェ量の神刻文字(ルーン)が使われてる……俺じゃあ、逆立ちしても真似できねェ」

「当たり前、だね────我が『魔女狩りの王(イノケンティウス)』は教皇レベル……対魔術師に特化した、『イギリス清教』の体現なればこそ」

 

 

 対面では、その風が焼かれていた。摂氏三千度の炎の剣、煙草の炎の軌跡を刃とした『全てを焼く刃(フランヴェルジュ)』、そして焔の巨人に戦きながら。

 

 

「さて────では、始めようか」

 

 

 魔術師の宣告を受け、魔女狩りの焔が揺らぐ。ステイルの背後の巨人『魔女狩りの王(イノケンティウス)』が────焼き付くすべき獲物、即ち嚆矢を見定めて。

 

 

「“世界を(MTWO)構築する(TFF)五大元素の一つ(TO)────偉大なる(IIGO)始まりの炎よ(IIOF)──”!」

「ック────?!」

 

 

 振るわれる腕、丸太のような極太の焔を辛うじて避ける。掠ってすらいないと言うのに、輻射熱で肌が焼ける。容赦なく、網膜や鼻腔の粘膜が焼かれ、痛みすら感じられる。

 それをすり抜けて、死中に活を見出だす。則ち、体勢を崩した巨人の巻胴を抜いた。彼の、『剣道部主将の知り合い』の得意技。その、劣化した真似だ。

 

 

「────『ヨグ=ソトースの時空掌握(ディス=ラプター)』!」

 

 

 虚空に生まれた亀裂は、巨人を捕らえて離さない。それどころか、その炎の巨体すら啜り喰らい始める。悪食、此処に極まると言うもの。

 『ヨグ=ソトースの時空輪廻(ディス=インテグレート)』とは違って単発、だからこそ連発の出来る極彩色の闇が、紅炎を飲み干す。これで、終わりか?

 

 

「“その名は炎(IINF)その役は剣(IIMS)”!」

「な、にッ!?」

 

 

 否、終わりではない!

 

 

 巨人は、再び虚空に立ち上がる。全くの無傷、全くの無消耗を見せ付けながら。

 しかも、一度ではない。二度、三度。斬り喰らわれるその度に無傷で復活、巨大な腕を振るう。直撃したアスファルトが、コンクリートの壁が、固まる前の液体に揮発して蒸気へと還っていく。

 

 

「バッ……ケモノ、がッ!」

 

 

 あんなもの。神にでも愛されていなければ、その加護でもなければ、立ち向かう事すら敵うまい。少なくとも、今。この瞬間の対馬嚆矢には、この巨人を倒すだけの能力などありはしない────!

 

 

「“顕現せよ(ICR)! 我が身を喰らいて(MMB)力と為せ(GP)─────”ッ!!!」

 

 

 ステイルの詠唱に呼応するかのように猛然と、白熱する程に燃え盛りながら。『魔女狩りの王(イノケンティウス)』は息衝く暇もない連打を繰り出す。否、そもそも呼吸などしていないのだろうが。

 だが、周りの酸素は着実に燃やしている。近くに居ては危険だと、頭では分かるのだが。

 

 

「“炎よ(Kenaz)────巨人に(Purisaz)苦痛の(Naupiz)贈り物を(Gebo)”!」

「チッ─────!」

 

 少しでも巨人から距離を稼げば、今度はステイルの『炎剣』が熱量(きば)を剥く。斬ったモノを白か黒の灰に還す、必滅の炎の剣が。

 振り抜くように放たれた、扇形の熱波。それを偃月刀の『守護の印』で防ぐ。第一防呪印『竜頭の印(ドラゴンヘッド・サイン)』が軋むように煌めいて。

 

 

「どうした、吸血魔術師(シュトリゴン)────わざわざ、僕の前に現れてその程度か?!」

 

 

 二度、三度と『炎剣』を振るいながら、ステイルは吠える。砕けた第一防呪印、その代わりに『第二防呪印(キシュの印)』が。

 

 

「言ったな、貴様は。僕の願いは届かないと……ああ、確かに。確かに届きはしない、僕の願いは! もう、『あの娘』には!」

 

 

 『魔女狩りの王(イノケンティウス)』の剛腕に耐え切れず、第二防呪印が砕け散る。代わり、浮かび上がるのは第三防呪印(ヴーアの印)

 

 

「だが、否、だからこそ! 僕には果たさねばならない意地がある……例え、それが────自己満足に過ぎないとしても!」

 

 

 第三防呪印が、『炎剣』二本に弾ける。最後に展開されたのは、最終防呪印『竜尾の印(ドラゴンテール・サイン)』。

 

 

「それだけが、僕の……僕らの、ただ一つ祈りだ!」

 

 

 最強にして、末期の祈り。それは、対抗者の心の揺らぎを察してか。些かも、揺らがず。炎の剣、扇形の熱波を受け止めて。

 

 

「流石だな────だったら、ぶっつけ本番だとしても……こっちも、全力で応えなきゃなァ!」

 

 

 だが、一切の恐れもなく。嚆矢は剣牙(きば)を剥いて獰猛に笑い、『賢人バルザイの偃月刀』を掲げる。

 虚空に浮かぶ守護の印、それは加護、そして呼び掛け。この場には居ない、だが、遍く時空に接する神への祝詞の始まりである。

 

 

飢える(イア)─────」

 

 

 だから、届く。この地球上の何処でも、この印は。その浄句(ジョーク)は。

 厳かに、嘲るように。唱えたその言葉は、異なる時空に潜む『外なる神(ストレンジ・アイオン)』にも届くのだ。

 

 

飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)────!」

 

 

 泡立つように、偃月刀の玉虫色が揺らぐ。漆黒の原形質が爛れ落ちる。ダマスカス鋼じみたその祭具、その奥から覗く漆黒と無数の血色の瞳。悍ましい、眼が合うだけで、魔術行使で生命を削った以上の精神的苦痛。それすら、歯を食い縛って堪える。

 

 

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 漏れ出す異界の根源(ヨグ=ソトース)が、その原形質(ショゴス)が虚空を歪める。

 始めに現れたのは金切り声、そして玉虫色の二重円に八芒星。その魔方陣が回転して球を為し、開花するように空間に形を為す────!

 

 

「来たれ────ヨグ=ソトースの十三の球体従者(御遣い)。汝が名は『ゴモリ』、金冠戴く駱駝(ラクダ)なり!」

『Woooooooooo……!』

 

 

 そして現れ出る、ヨグ=ソトースに仕える十三の怪物の()姿()()()()。泡まみれの油を吹く金の冠を戴いた駱駝の姿の、悍ましき玉虫色に煌めく虹鉄(こうてつ)機械仕掛けの虹鉄(デウス・エクス・マキナ)。並の人間ならば、噴煙を撒き散らすその姿を目にしただけで心が凍る。噴煙と共に撒き散らされるその声を聞いただけで、脳細胞が死滅しよう。

 先程、携帯で読み耽った中にあったもの。それが、『ヨグ=ソトースの球体』だ。副魔王の従者、その意を体現すべく遣わされるもの。だからこその、『御遣い』、か。

 

 

「ほう、召喚か……見たところ、、『ソロモンの小鍵(レメゲトン)』の摸倣かな? 機械仕掛けとは、また賢しい真似をするね」

 

 

 だがステイルは、それにすらも僅かに眉を動かした程度。既に見抜いているのだろう、この『ゴモリ』には、戦闘力等はない事は。

 何と有れば、『魔女狩りの王(イノケンティウス)』の腕の一振りで粉砕できる。そんなモノだ、この『ゴモリ』は。

 

 

「ああ……そうだな。全部、全部。俺のは真似事さ。空しい事に、愉しい事に」

 

 

 それを、嘲笑する。賢しい話だ、とばかりに。

 

 

「だから、コイツを呼んだんだよ。アンタに、勝つ為にな」

「僕に勝つ為……だと?」

 

 

 初めて、魔女狩りがこちらの真意を図りかねる。年不相応、まるで、年下の少年の如く。だが、思うところはない。目の前に居るのはただ、倒すべき仇!

 

 

「さぁ、ゴモリよ。『護符の識者』よ。汝が紐解くは、()の術式────神刻文字(ルーン)なり」

『Woooooooooo……!』

 

 

 讃えるように、蔑むように。駱駝は、虚ろに輝く胡乱な眼差しを『魔女狩りの王(イノケンティウス)』に向ける。

 そう、この従者こそは『護符の識者』。あらゆる『護符』の意味を知る者。則ち、それは────

 

 

立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)!』

「な────!?」

 

 

 断末魔の絶叫の如き咆哮。油混じりの泡を飛ばされた寸暇、『魔女狩りの王(イノケンティウス)』が崩壊を始める。『消沈』の三大ルーンを刻まれ、術式をも鎮静化させられたか。

 さしものステイル・マグヌスも驚嘆する。当惑する。この『魔女狩りの王(イノケンティウス)』を打ち消されたのは、何も今回が初めてではない。ホンの数日前にも、『幻想を殺す右腕』に敗れたばかりだ。

 

 

「クソ……クソッ! 違う、コイツは……コイツに、あんな理不尽なものはない! コイツは、アイツとは違って理詰めだ! 理解、出来るモノだ!」

 

 

 だからこそ、浮き足立つ。敗北の思い出に、ぞくりと総毛立つ。必死に、今、『この先』に居る男を頭から打ち消して。

 

 

「ごちゃごちゃと────!」

 

 

 その隙を見逃す程に、甘くはない。ゴモリが『魔女狩りの王(イノケンティウス)』を抑えている間に決着を付けるべく、バルザイの偃月刀を携えて走る。

 残念ながら、連発と『眷属招聘』により魔力が枯れており、『ヨグ=ソトースの時空掌握(ディス=ラプター)』は使えない。

 

 

 しかし、一撃。一撃を与えれば、この祭具に潜む無窮の神の顎により勝負は決まる。

 

 

灰は灰に(Ash To Ash)────塵は塵に(Dust To Dust)────吸血殺しの紅十字(Squeamish Bloody Rood)!!!」

「クソッタレ────!」

 

 

 だからこそ、悪態を吐く。ステイルの呼び掛けに応じて、二本目の『炎剣』がその手に握られた事に。

 虚空を貪る漆黒の祭具、対するは十字の聖火。どちらも、当たれば一撃必殺。ならば────二刀を持つステイルに分があるのは、誰が見ても明らかな事!

 

 

────さあ、選べ。プライドの為に命を捨てるか、命の為にプライドを捨てるか。簡単な二者択一だろう、この『クルーシュチャ方程式』は。

 迷う必要など無い。たかだか、五十年程度の人生だ。そうだろう?

 

 

 自らの思考の如く囁く、耳元の影。鋼じみた、硬質の軟体。可塑性を持つ、伸びやかなる、深紅の瞳の囁く通りだ。

 だがらこそ、『月』が観ている。黄金に燃え立ちながら、純銀に凍て付きながら。彼の『選択』を、掴み取るモノを──────『諦めろ』と嘲笑う、『虚空の瞳(ロバ=アル=カリイエ)』と共に。

 

 

「────圧し通ォォォォォる!」

 

 

 叫ぶ。声高に、誇るように。気でも狂ったかのように、防御の意思などかなぐり捨てて。祭具と握る右腕を、同化した刃金に換えて────微塵の迷い無く、真っ直ぐに前に伸ばす!

 

 

「バカが────燃え尽きろ!」

 

 

 迫る二本の炎剣、十字を描く軌跡。交点に存在するのは────嚆矢の、生命ただ一つ!

 

 

『────是非も、無し……か。酔狂も、此処まで来れば才能か!』

 

 

 頭の中、隠す事無く響いた『誰かの声』。しかし、気にしてなどいられない。目の前には確実な、厳然たる“死”が在るのだから。

 そう、それでも。この右腕ならば掴み取れる。『確率』の濫觴(らんしょう)である真空(しんくう)、その物と化したこの右腕ならば。()()()()()()()()()()()のだ。

 

 

「な─────」

 

 

 十字が、虚空を舐める。脇のビルの外壁に、巨大な十字が刻まれる。ステイルの意思ではない。そう────()()()()()のだ、嚆矢に。

 

 

「有り得、ない……」

 

 

 『魔術』でも、『能力』でもなく。ただ、日々研鑽した『武術』でもって。そして既にその怪人は……嚆矢は、ステイルの真正面。その右腕、ステイルの襟首を掴んで。

 

 

立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)!」

「きさ、ま──────??!」

 

 

 いつかの意趣返しか。刻まれた『消沈の三大神刻文字(ルーン)』が、ステイルのあらゆる力、意思を削ぎ落とす。

 最早彼には、抵抗の意思すらなく。まな板の上の鯉の如く、ただ、嚆矢の為すがまま──────背中から、アスファルトの路面に叩きつけられて昏倒した。

 

 

「────借りは、返した。前回の礼だ、命は預けといてやる……!」

 

 

 立ち上がり、残心を示しながら。術者を失い、今度こそ消滅していく『魔女狩りの王(イノケンティウス)』の残光を背に。

 

 

「────大したもの。ステイルが敗れるとは……評価を誤りました、吸血魔術師(シュトリゴン)

「…………!」

 

 

 いつの間にか、この場所に立っていた黒髪の女────抜き身の刀を携える、神裂火織と相対したのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 灼熱の巨人『魔女狩りの王(イノケンティウス)』が消え去り、戻ってきた静寂。湿りきった夏の夜気ですら、涼しく感じる。

 だが、今はそれよりも尚、涼しく感じられる。研ぎ澄まされた刃を首筋に突きつけられているかのような、神裂火織(かんざきかおり)の殺気によって。

 

 

「彼から離れなさい。従わない場合は……斬り伏せる」

 

 

 僅かに、血を流す彼女。否、彼女の血ではない。何故か判る。『女性の芳しい血』ではなく、恐らく────他人の、『男の汗臭い血』だと。何故だか、そう確信した。

 

 

「分かったよ、綺麗な御姉さん。因みに、俺には『吸血魔術師(シュトリゴン)』なんて恥ずかしいモノじゃなくて、『嚆矢』って名前があるんだが」

「存じています。非礼を詫びます、()()()()────我が名は神裂火織、ステイルと同じく『必要悪の協会(ネセサリウス)』の者です」

 

 

 名乗ってもいないフルネームを呼ばれてしまえば、流石に敵意を覚える。それだけで、『誓約(ゲッシュ)』が警告を告げる。

 誓いを守れと、叛く事は許さないとばかりに。既に限界まで力を振り絞った残り滓の身体を、更に追い込むように。

 

 

──参ったね、まさか『女』とは。俺は『誓約(ゲッシュ)』で、『女に手は上げない』んだってのによ!

 

 

 頭の中に、軋むような感覚。先程から、断続的に。『赤枝の騎士団(レッドブランチ・チャンピオンズ)』の末席として、己に化した禁戒。『守っている間は祝福を与え、破った後は呪いを与える』という、エリンの魔術。それが、『誓約(ゲッシュ)』だ。

 

 

 『赤枝の騎士団(レッドブランチ・チャンピオンズ)』のみならず、後のフィン・マックールの『フィオナ騎士団』でも重視されたエリンの英雄達の譲れぬ矜持であり。

 また、“光の御子(クー・フーリン)”を四枝の浅瀬に、メーヴ女王の奸計に。“輝く貌(ディルムッド・オディナ)”に主君フィン・マックールから許嫁を奪わせ、魔猪の許に。彼ら、名だたる英雄をしても逃れ得ぬ死に誘った極めつけの弱点でもある。

 

 

「さて……ステイルが倒れた以上、『人払い(Opila)』も効果を失うでしょう。貴方を相手にする予定はありませんでしたが、戦うと言うのならば──この神裂と『七天七刀』がお相手いたします」

「『はい』つッた瞬間に首と胴が泣き別れしそうなお言葉、有難うよ。けど、コイツには私怨があったが別にアンタにはない。無用な争いは、お互いに止めようや。『隣人を愛せ』は、お宅らの救世主(メシア)のありがた~いお言葉だろ?」

「御理解が早くて助かります」

『Wooooooooooooo……?!』

 

 

 納刀しながらの言葉と金属音に合わせて、『ゴモリ』の首が落ちる。否、関節と言う関節が切断されて、壊れたマリオネットかプラモデルのように崩れ落ちる。

 一体、何時の間に斬られたのか。全くもって分からない。もし、少しでも戦意を示していたらと思うと、首筋が寒くなった。

 

 

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 泡立つ漆黒の粘塊に還った玉虫色の残骸が路面の染みに代わり、慌てたようにうぞうぞと嚆矢の『影』に融けていく。そして、影の中から血涙を流す瞳で彼女を窺っている。

 このショゴスはこの程度で死にはしない、『原初の混沌』に還っただけだ。魔力さえ取り戻せば再び現れる、それまで暫しの間、さようならと言うだけの事。

 

 

──何にしろ、此処で闘うのは莫迦の所業、か。退いてくれるッてンなら、その方が有り難い。

 

 

 刃金の右腕と人のままの左腕を竦め、懐から取り出した煙草を銜える。右腕の鈎爪の指を擦って鳴らすように『真空』から電子と陽電子のペアを産み出し、その対消滅のエネルギーで火を灯して紫煙を燻らせながら。言われた通り、投げたまま立っていたステイルの側から離れる。

 それを冷静な目で見たまま、十メートル程も離れたところか。その靭やかな身体の何処にそんな力があるのか、火織はステイルの巨体を難なく持ち上げると、そのまま歩き去っていく。

 

 

「……そうです。貴方には、『無用な争い』かもしれませんが」

「あァ?」

 

 

 と、振り向かぬままの火織の声。それに、『魔術師』の顔で、万色の紫煙を吐きながらの声で応えて。

 

 

「────『友達(ステイル)』を打ち倒された私には、十分に貴方は用がある。それは、お忘れ無きよう」

 

 

 寸暇、此方を見た彼女の瞳。静かな怒りに燃えるそれに畏怖と、僅かに美しさとを見て。

 

 

「────そりゃ、そうだ。全く、復讐なんて何の意味もないな。次の復讐を呼ぶだけだ」

「全くです。では、これにて」

 

 

 それでも、そんな風に軽口を。それに勿論、まともに取り合わずに火織は今度こそ夜闇に消えた。それをしおに、人の気配が戻る。先ずは車のヘッドライトが見え、人の声が聞こえてくる。

 それに巻き込まれるのは吝かではない。寧ろ、そうして姿を撒くのが正しいやり方だ。だが────何故か。何故か、この先の道が気にかかる。それは、誰の意思だ?

 

 

「……阿呆か。俺以外に、誰が俺を動かせる」

 

 

 まだ中程までしか吸っていない煙草を、『人のもの』に戻した右腕で捨てる。残光の螺旋を描く火の軌跡、それを『影』が受け止めた。

 

 

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 否、そればかりか、ショゴスが嬉しげに煙草を吹かしている。どうやら、先程から煙草や珈琲の減りが妙に早かったのはコイツの所為らしい。

 宿主の行為を真似、知識を得る。そうして、“古の者”を。かつて、彼らを造り出した創造者を、彼らはこの地球から駆逐したのだ。

 

 

「鬼が出るか、蛇が出るか。何にせよ(ろく)なモンじゃねェだろうが……まぁ、慣れたモンか」

 

 

 嘲笑うように口角を吊り上げ、歩き出す。歩を進める。殉教者のように、真っ直ぐに。暗がりの先、そこに倒れ伏す──────人影へと。

 

 

「…………何だ、男かよ。無駄足こいたなァ、こりゃ」

 

 

 実に残念そうに、嚆矢は息を吐いた。目線の先には、路面に倒れ付した……雲丹のような頭の、高校生くらいの男。それに目に見えて、嚆矢は落胆した。実に、実に面倒臭そうに。

 取り敢えず生きている事は確認し、携帯を取り出して救急に連絡しようとして。見れば、右腕の怪我がやけに酷い。まるで、刃物で何度も斬られたように。直ぐ様、火織の刀の腕前に思い至った。

 

 

「……仕方ねェなァ、野郎に命なンざ、分けたくねェンだが」

 

 

 亜麻色の髪を掻きながら、その右腕に『治癒』の神刻文字(ルーン)を刻む。これで、少しはマシになるだろうと────

 

「なッ────────!!!?」

 

 刹那、驚愕する。打ち消されたのだ、神刻文字(ルーン)が。一瞬、『あれだけ世話になった術式をしくじったのか』とも思った。だが、二度、三度と繰り返せば、流石に判る。

 

 

「コイツ……『魔術を無効化』したのか!」

 

 

 その、明白な事実に。そして、あからさまな『異能』に。その時、気付く。傍らに落ちていた、学生証に。この学園都市の、第7学区にある、『とある高校』の学生証に。そこに記載された────

 

 

上条(かみじょう)……当麻(とうま)

 

 

 後の人生を変える、その名前に──────………………

 

 

………………

…………

……

 

 

 発電用の風車が、連結部を軋ませながらクルクルと廻っている。夜の闇を震わせる風音と共に、バサバサと怪異の羽音────否、翠銀の少女の羽織る、襤褸の黄衣の裾がはためく音。

 

 

「……大分、使い(こな)してきてるみたいだね。しかし、『門にして鍵(ヨグ=ソトース)』だなんて。最初に見た時とは、天と地の差だ」

 

 

 微かな星の光に隠されるように遥か高層の風と共に発された呟きは、他の誰にも届きはしない。ただ、哭き喚く風に消えるのみ。

 そう、届きはしない。明らかなネオンサインに晒されるように遥か眼下、仕方無さそうに頭を掻き毟り、雲丹頭の少年を背負って搬送しようとしている『彼』には。

 

 

「だよね、兄貴……伯父貴(おじき)────」

 

 

 語り掛ける、その背後。スコープで覗く、レインコートを纏う潮の香りの美青年と……刃金に鍛え上げられた体躯を革のジャケットに包んだ、白髪にサングラスの巨漢。

 

 

「…………ああ」

「ハッ…………」

 

 

 そんな二人が、揃って正反対の反応を見せた。片方は、経験と照らし合わせて『更に手強くなった』と。

 そして、もう片方は────

 

 

「イギリス清教の馬鹿正直(スタンダード)な魔術師相手に苦戦して、生まれながらに選ばれてたような『聖人(セイント)()()に気圧されてケツ捲るなンざ、アイツの弟子って事で多少は買い被ってたかねェ……」

 

 

 魔導師“牡牛座第四星の博士(プロフェッサー・オブ・セラエノ)”は、経験と照らし合わせて『大した事はなかった』と判断して。バチリ、と空気が爆ぜた。緑色の雷光が風車塔を一瞬、消したかのように瞬かせて。

 

 

「セラ、ティトゥス……明日、襲撃を掛ける。テメェ等の結界、指定した地点に張っとけ」

「「了解(Yes,Sir)!」」

 

 

 それに怯えたように、二人は揃って声を張り上げた。経験と照らし合わせて、『本気だ』と判断して。口で糞味噌(シット)を吐く前に、昔仕込まれた通りに『上官(サー)』と言う事にしたのだ。

 それに何の反応も示さず、浅黒い白人は虚空に歩み出す。地上数十メートル、常人ならば即死ものの高さ。そして────緑色の雷光が瞬いた次の刹那には、既に地上を悠然と。何時の間にか葉巻を吹かしながら、肩で風を斬りながら歩いている。

 

 

「久々に……“米国協同協会(ファウンデーション)”が誇る、伯父貴の『現消実験(テスラ=ハチソン)』を見られそうだな。不謹慎だが、俺は心が踊っている」

「気持ちは分かるけどさ。悠長だね、兄貴は……詰まり、喧嘩売るって事だろ? ビーカーの中の、現代最高位の魔術師(アデプタス・イグゼンプタス)に」

 

 

 くつくつと、意地悪げに微笑んだ少女。その頭を、苦笑いしながら青年が軽く叩く。出来の良い兄が、不出来な妹の悪戯を嗜めるように。

 

 

「相手になど、なるものか。既に死に掛けの老骨などに。我等が師父、“牡牛座第四星の博士(プロフェッサー・オブ・セラエノ)”が」

「だね、心配なんてしたら、ボクらが()ち殺されちゃうか。さぁ、仕込み仕込み」

 

 

 確かな信頼を、二対四つの瞳に灯して。二つの影は、何処へともなく姿を消した。止まった車、そこから歩みでたピンク髪の……幼女?に連れられて行く彼らに気付かれぬまま。

 虚空に浮かぶ、黄金に染まる純銀の影を放つ……無色の月に気付く事も無く。

 

 

………………

…………

……

 

 

 手当てを終え、布団に寝かせた少年を見下ろす。包帯まみれのその姿を、煙草を燻らせながら。時刻は既に、午前三時。草木も眠る丑三つ時だ。

 

 

「こんなもんか……見た目の割りには、そう深くない傷ばっかだったな」

 

 

 住宅の一室、缶ビールの空き缶やコンビニ弁当のカスなどが散乱した、中々に汚い室内。割りと綺麗好きの嚆矢としては、片付けたい衝動に駆られたが、他人の部屋だ。我慢した。

 なお、この部屋の借り主は『月詠 小萌(つくよみ こもえ)』。当麻を搬送しようとしていた時に偶然にも通り掛かった、どう見ても幼女にしか見えないが、彼の担任らしい。何故か何処かで見た事がある気もしたが、今は怪我人を優先して気にしない事にした。

 

 

──ビックリしたよな、いや実際。そんな偶然があるとは、この男、随分な強運だ。しかし、車のナンバーとか内装が代替車っぽかったな……何かあったんだろうか?

 

 

『てけり・り。てけり・り』

「あん? 何だよ、また欲しいのか? あのな、これもタダじゃねぇんだ、一回活躍する毎に一本だからな。次に活躍するまで、お預けだ」

『てけり・り。てけり・り……』

 

 

 紫煙に誘われたか、影が沸騰するように泡立ちながら現れたショゴスが。恨みがましく血涙を流す瞳で睨みながら、しょんぼりと平面に還るのを見届けて。

 

 

 代わりに、救急箱を片付ける。傍ら、今は傷薬や包帯、湿布薬や鎮痛剤などを買いに車を走らせている部屋の主が、『冷やすものとかが必要なら、冷蔵庫に入っているものを好きにしてくださいね』と言っていた事を思い出す。

 なので、台所に向かって歩く。冷蔵庫を開けて、中から飲み物を……清涼飲料でもないかと思ったのだが、缶ビールしか無かったのでそれを頂いて。

 

 

「あ……こーじ! とうまは、とうまは大丈夫?」

「おっと……インデックスちゃん」

 

 

 そこに、台所から駆け出してきた少女。青みの強い銀色の長い髪、妙にでかい安全ピンで継ぎ接ぎだらけの白い法衣に身を包んだ彼女……『禁書目録(インデックス)』と名乗った少女を見遣る。

 

 

「心配ないさ、救急箱の中に有るもので事足りたし。まぁ、魔術が効かないのには驚かされたけどさ」

「そっか……よかった。ありがと、こーじ!」

「どういたしまして」

 

 

 心の底から心配していたのだろう、当麻の無事を聞いて、ほうっと安堵の息を吐いた。

 

 

──そう、『禁書目録(インデックス)』。かつて、師父から聞いた『イギリス清教』の『必要悪の協会(ネセサリウス)』の魔術師であり……『十万冊以上の魔導書を暗記している』()()少女が、だ。

 最初は警戒した。何せ、その『必要悪の協会(ネセサリウス)』所属の魔術師を相手にした直後だし、当の上条は彼らにこうされたのだ。しかし、どうやら何らかの事情で彼女もまた、その『必要悪の協会(ネセサリウス)』に追われているらしい。

 

 

「……とうまの右腕は、『幻想殺し(イマジンブレイカー)』だから。魔術を、『殺し』ちゃうんだ。私の法衣もそれでだめにされちゃったんだ」

「『幻想殺し(イマジンブレイカー)』ねぇ……まぁ、そうでもなき説明つかないけど」

 

 

 プルタブを開け、ぐいと煽る。喉を滑り落ちる冷たい麦芽の苦味と酒精(アルコール)のもたらす熱が、腹の底から体温を上げていく。

 久々に感じるその、腹の中を優しく掻き毟られる感覚に、くうっと唸りながら。

 

 

「とうまのとこ、もう行っても大丈夫だよね? ね、こーじ」

「あぁ、勿論。付いててやりな。けど、騒ぐのは」

「うん!」

 

 

 最後まで聞く事も無く、インデックスは当麻の元へと駆けていく。苦笑しながら、換気扇を回して紫煙を吹かしつつ麦酒を煽る。

 

 

「やれやれ、あんな可愛子ちゃんに好かれてまぁ……羨ましいねぇ」

 

 

 幸い、明日は『風紀委員(ジャッジメント)』は非番。『警備員(アンチスキル)』や『アイテム』の招集が無ければ、一日、時間は空いている。帰り付いてから一眠りしても昼には目が醒めるだろう。

 携帯を弄る。よく見れば、義母からメールが届いていた。日時は二十二時頃、一番忙しかった時間だ。だから、メールで済ましてくれたのだろう。

 

 

「……何々、『情けは人の為ならず』?」

 

 

 それだけ。他には何もない。しかし、だからこそ考えさせられる格言だった。

 

 

「……そうだなぁ。そういや、恩返ししなきゃな」

 

 

 そのまま、携帯を弄る右腕に目を遣る。前腕に巻かれた、黒子のリボンに。確か、同じく非番の筈。明日の、一応の『予定』を立てる。まぁ、まだまだ『未定』だが。

 

 

「当たって砕けろ、だな」

 

 

 携帯を閉じ、居間に。一応、乗り掛かった船だ。取り敢えず、小萌が戻るまでは待とうと決めて。

 

 

「そら、今回は特別だからな」

『てけり・り。てけり・り♪』

 

 

 煙草を、麦酒をショゴスに与えて。それが平面の影に、玉虫色の煌めきと血涙を流す瞳の海に飲み込まれるのを待たず。

 当麻を心配そうに看護するインデックスを横目に胡座をかき、卓袱台に肩肘を付いて仮眠を摂る事にしたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25.July:『Philadelphia experiment』

 

 

 白い、白い、白い部屋。息苦しい程に狭い、無機質な立方体の空間。『あぁ、またか』と、夢の中で溜め息を漏らす。見覚えが有り過ぎて、吐き気を催すほど。

 そう、最悪だ。白い机の上に載る、二つの黒い金属塊の所為で。

 

 

『第六百六十次実験を開始する。さあ、選びなさい。いつもと同じ、この二挺の内の片方は初弾のみ実弾入り。もう片方は逆に、初弾のみ空だ』

 

 

 室内に木霊する、耳をつんざくように大音量のアナウンス。忌々しい、実験動物への無感情な。箱庭の虫けらを、嘲笑うかのように。

 白い机を挟み、対面に座った……同年代の少年と目が合う。思い出せないらしくのっぺらぼうの、しかし絶望に濁りきった瞳を確かに感じた。同じものを彼も感じたのだろうか、今となっては知りようもないが。

 

 

『相手を撃つも良し、自分を撃つも良し。さあ、実験開始だよ』

 

 

 宣告に、左手を伸ばす。そこに在る回転式拳銃(リボルバー)、『Smith&Wesson(スミスアンドウェッソン) M29』を掴む────よりも先に、拳銃が消えた。

 否、目の前の少年の手に握られている。『物体転移(アボート)』か何かの能力だろうか。だとすれば、手も触れずにとは恐れ入る。

 

 

 代わり、左の拳銃に手を伸ばす。だが、既に此方も彼方の少年に握られている。どうやら、能力行使は一度に一つが限界らしい。黒く重いその銃口を、迷わず────こちらに向けて引鉄(トリガー)を引く。カキン、と。空薬莢を叩く音がした。

 それに、少年が笑う。『今日も生き残れた』と、右手の拳銃を突き付けて────右手の中で暴発した拳銃弾が、一体どんな軌道を描いたのか。

 

 

 正に魔弾、右手を失った射手が悲鳴を上げるよりも早く、その眉間を撃ち抜いて絶命させた。

 

 

『──実験終了。やはり、間違いない。君は本物だ、本物の正体不明の怪物(ザーバウォッカ)だ、“人狼鬼(ルー・ガルー)”?』

 

 

 嬉しげな声も、忌々しいだけ。玩具の出来の良さを喜ぶ声など。

 

 

『次回からは、実戦だ。その“正体非在(ザーバウォッカ)”、精々活用したまえよ。次からの相手は、こんなしょうもない相手ではないからね』

 

 

 忌々しい、その声の主────嗄れたその、嘲りでしかない賞賛を浴びながら。

 

 

『他の六人の超能力者(レベル5)を殺害する事で、君は絶対能力者(レベル6)に昇華する。奇しくも宗教家どもが語る“黙示録の獣(テリオン)の数字”に届けば、“天上の意志”とやらに、手が届くのだよ────第■位(ザーバウォッカ)?』

 

 

 自滅した少年の、返り血を浴びた顔を上げる。マジックミラーに映る、己の姿を見てしまう。砕けた頭蓋から吹き出した鮮血に、肉片に。血化粧を施された己を。

 

 

『“絶対能力者(レベル6)移行(シフト)計画・プランⅥ”、後期段階に移行する。期待しているよ……そうだ、名前をあげないとね』

 

 

──笑っている。生き残った安堵? 違う、だって、俺は負けない事を知っていた。目の前の骸には。

 

 

『君の識別ナンバー『K0-J1』から取ってコージとしよう。うん、“先触れ”と言う事、そして“根源に通じる”と言う意味でね』

 

 

──ならば、何故か。単純だ、そう、もう、生き死にが莫迦らしくなっていただけ。生きようが死のうが、違いはない。

 

 

『期待しているよ────“■■ 嚆矢(■■■ コウジ)”くん?』

 

 

──そう、この世は……既に、辺獄(リンボ)なのだから。

 

 

………………

…………

……

 

 

 瞼を開く。蜂蜜色の目に入るのは、白────ではなく、茶色。机ではなく、卓袱(ちゃぶ)台だった。

 

 

──莫迦が……何で今更、あんな事を思い出す。もう、終わった事だ。俺はもう、決して“絶対能力者(レベル6)”には届かない。第七位(ナンバーセブン)に敗北し、『無自覚の領域(A I M)』を()()()俺には────?

 

 

 最悪の寝覚めに亜麻色の髪を掻き上げつつ舌打ちながら、目覚めの理由である携帯の振動を止める。

 

 

「失った……俺が、何を?」

 

 

 そう自己矛盾しながら、意識的に首許の『兎足(ラビッツフット)』を握り締めて。それに気付いた事すら、忘れて。

 尚、携帯は着信でもメールでもなく、日常使用している目覚まし機能である。否、メールなら一件。『仕事用』の方に。『十七時、第七学区駅前』と。

 

 

「五時、か。正味二時間……」

 

 

 代わりに『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』の妖しい石を内蔵する懐中時計を確認し、呟いて立ち上がる。バサリと、掛けられていた薄布が落ちた。

 見れば、右手側から同じように卓袱台に突っ伏して寝ているピンク髪の幼女……ではなく、歴とした教師。即ち大人、月詠小萌教諭が居る。

 

 

──さて、起こすのも悪いしな……連絡先だけ残しとくか。

 

 

 薬品や絆創膏、包帯が入った、ペンギンのキャラが特徴の安売りの殿堂の袋からレシートを取り出す。その裏に、携帯の番号と名前を記して。

 少し奥を見遣る。敷かれた布団、そこにまだ眠ったままの上条当麻と……その隣に眠っている、掛布の掛けられたインデックスを微笑ましく見て。

 

 

 最後に、小萌に自分に掛けられていた掛布を掛けて。静かに、部屋を後にした。

 

 

「ン────あぁ、良い朝だ」

 

 

 早朝の爽やかな風を浴び、雀の囀りを聞いて。背筋を伸ばしながら欠伸する嚆矢の目に映るのは、明けの学園都市の町並み。摩天楼も風力発電塔も何もかも、群青菫(アイオライト)に染まった光景。この都市の、唯一好きな一面だ。

 大空の蒼を映す、窓硝子。この色合いだけは、嫌いになれない。本当に、ただ、唯一。他は、焼き尽くされても構わないくらいだが、これだけは。

 

 

『てけり・り。てけり・り』

「……るせェぞ、昨日話した通りだ。折角のいい気分に水差すな、化物」

 

 

 そんな折、足下のショゴスが『煙草をくれ』とばかりに啼いた。すかさず、血涙を流す瞳が覗く影に向けて悪態を吐く。

 片や銀髪美少女シスターとピンク髪合法ロリ教師の甲斐甲斐しい看病を受ける厚遇、片やSAN値直葬モノの怪物にタカられる有り様。

 

 

 『解せぬ』と。余りの差に、危うく感動以外で涙が出そうになった。

 

 

「ハァ……まぁ、戦利品は有ったし、良しとするか」

『てけり・り。てけり・り』

「だから、うるせェっつってンだろ」

 

 

 溜め息を吐いて、気を取り直して。煙草を銜え、火を点す。懐、そこから取り出したトランプ……全て回収した訳ではないが、ステイルが仕掛けた『人払い(Opila)』の結界に使われていた、ルーンのカード数枚をカードマジックのように弄びながら。

 都市摩天楼の朝、そこに背を向けて。這いずるように蠢く、血涙を流す紅い瞳を無数に浮かばせては沈ませる悍ましい影を引き連れて、郊外の自宅へ帰るべく近場のバス停を探す事にした。

 

 

………………

…………

……

 

 

  昼下がり、蝉の大合唱の最中。自室に帰り、風呂に入って着替えた意味もないくらいに汗を掻きながら、嚆矢は目的地に到着した。

 現在時刻、十三時四十五分。約束の時間までは、まだ十五分ある。

 

 

「花はこれで良し、と……」

 

 

 二つの花束を手に立ち入るそこは、病院。『幻想御手(レベルアッパー)』事件の被害者……かのプログラムを使用した学生達が入院している病院である。

 その、見舞いに来たのだ。佐天 涙子(さてん るいこ)と、後輩である蘇峰 古都(そほう みやこ)の。

 

 

『てけり・り。てけり・り!!』

「莫迦野郎、これは食いモンじゃねェ。何でもかんでも喰おうとすんなっつーか、昼日中から出てくんな」

『てけり・り。てけり・り……』

 

 

 花束に触腕を伸ばし、血涙を流す瞳と乱杭歯の並ぶ口から腐った涎を垂れ流すショゴスだったが、叱られてしょんぼりと平面に潰れる。

 周りに気づかれていないかとヒヤヒヤしたが、どうやら大丈夫だったらしい。

 

 

「あ、こんにちは、嚆矢先輩」

「どーも、対馬さん」

「随分とお早いですのね、意外ですの」

「ああ、こんにちは、飾利ちゃんに御坂。それと俺は紳士だぜ、女の子は待たせないさ、黒子ちゃん」

「「「へー」」」

「あれ? アウェー感半端ないな、こんな色男を捕まえて」

 

 

 そこに飾利と美琴、黒子が合流する。一気に(かしま)しくなる。ちょっと、窓口の看護師に睨まれたのは内緒だ。

 

 

「んじゃ、ちょっと早いけど行こうか?」

 

 

 先導するように歩く男。少女達が持ってきた見舞いの品を纏めて。その背中に、少女達が続く。

 

 

「すみません、友人の見舞いに来たのですが……場所が分からなくて」

「……お名前をどうぞ」

 

 

 窓口で、やたら無愛想な女性看護師に見舞いに来た事を告げる。

 涙子と古都の名前を告げれば、面倒臭そうにキーボードを叩き、直ぐに病棟の場所を教えて貰えた。

 

 

「……場所は、南棟の三階北側四号室と西側五号室です。それと、あまり院内では騒がないように」

「ありがとうございます、肝に銘じます」

 

 

 礼を口に、南棟への連絡通路へ。その道々。

 

 

「なんだか、愛想ない人だったわね」

「全くですの、曲がりなりにも客商売でしょうに」

 

 

 ぽつりと、美琴と黒子がそんな事を口にする。気持ちは解らなくないが。

 

 

「まぁ、あれだろ。他にも学生が来て騒いだんじゃないか?」

「あぅ、耳がいたい気がします……」

 

 

 フォローを入れた嚆矢と、何故か身に摘まされた顔をした飾利。因みに彼女は昨日も一度、涙子を見舞ったらしい。もしかすると、その時に何かやらかしたか。

 

 

「ああ────君達」

 

 

 そんな四人に、掛けられた声。若い男のものだ。見れば、確かに若い。丸眼鏡に白衣の、高身長にスレンダーな、健康的に日焼けした青年医師。

 胸元には、『細胞再生科主任 西之』と有った。

 

 

「ひょっとして、例の見舞いの?」

「ええ、まあ……何か、御用で?」

 

 

 白衣。今朝の夢の所為か、何時もよりもそれに嫌悪を感じてしまう。その為か、若干刺々しい口調となってしまったが、西之医師は全く気にせずに。

 

 

「やっぱりね。窓口から連絡が来てね。丁度、今から佐天さんの診療に行くところだから、案内しよう」

「本当ですか、ありがとうございます!」

「助かりますの」

「お願いします」

 

 

 気さくに、正に好青年然と笑い掛けてきた彼。嫌味のないその笑顔に、少女達は警戒を解いている。こうなってしまえば、もう嚆矢一人の感情など。

 

 

「申し遅れました、私は西之。西之 湊(にしの みなと)。宜しくね」

「あ────はぁ……」

 

 

 差し出された右手、何故か此方に。仕方なく握ったその右手は──死体のように、冷たかった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 病室の扉を潜る。ただ、一人で。ネームプレートには、『蘇峰古都』の文字。だから、一人で。他の三人は、別の病室……涙子の病室の前で、西之医師の診察が終わるのを待っている。その待ち時間に、来たのだ。

 

 

「よう、邪魔するぞ、蘇峰」

「あ……主将」

 

 

 ベッドの上、上体を起こした状態で座っていた彼に気さくに声を掛ける。元々沈んだ表情だったが、此方に気付いて更にバツの悪そうな表情になる。

 

 

──一まぁ、流石にこれでケロリとしてたら、もう一回ぶん投げるところだしな……。

 

 

 一応、“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”に関連する記憶は嚆矢の『空白(ウィアド)』のルーンで消している。だが、『幻想御手(レベルアッパー)』の事はノータッチだ。

 だから、自分が『幻想御手(レベルアッパー)』を使った事は覚えている筈。

 

 

「元気そうだな、弐天巌流学園(うち)の合気道部の次期主将……二つ名は『圧潰領域(シュヴァルツシルト)』でいいか?」

 

 

 花を近くの台に置き、軽口を。いつも通りの、軽口ジャブである。

 

 

「茶化さないでください。そもそも、もう僕にはあれだけの力は振るえません」

「何だよ、折角二秒も懸けて考えたのに。素直に受けとれ、二つ名を送るのはうちの代替わりの伝統なんだからよ。俺だって、前の主将から『制空権域(アトモスフィア)』何て二つ名を頂戴した時は恥ずかしかったのなんの……」

 

 

 近くの椅子に腰を下ろし、ニッ、と口角を吊り上げて笑い掛ける。軽く気分を害したらしい古都は、ジト目でそれに答えて。一瞬、不思議そうに瞼を揺らす。嚆矢の背後を、足元を見た後で。

 

 

「本当に申し訳有りませんでした……今回の件で、折角、先輩方が築き上げた部の看板に泥を塗ってしまいました」

 

 

 そして俯きながら、言葉を吐く。謝罪と、自嘲を。

 

 

「全くだな。『幻想御手(レベルアッパー)』なんて莫迦なモンに手ェ出しやがって。これが薬物とかなら、テメェ、マジでヤベェところだったンだからな」

「はい……主将の期待に応えるどころか、後ろ足で砂を掛けるような真似をした僕には────主将になる権利なんて、有りません。有っちゃ……いけないんです。だから、これを」

 

 

 差し出されたのは、一通の封筒。表には、達筆な『退部届』の文字。恐らくは、今日の朝に目覚めて直ぐに用意したのだろう。責任感の強い彼らしい、性急が過ぎる自裁だった。

 

 

「おう、気が利くな」

 

 

 受け取り、それで────チーンと。真夏日の外から冷房の効いた室内に入った為に、少し詰まった鼻を噛んだ。

 そして、最後はくしゃりと丸めてゴミ箱に。それで終わり。古都に向き直り────

 

 

「……そう来ると思って、数は揃えておきました」

「真面目な奴が本気出すと、これだからなァ……」

 

 

 引き出しの中には、几帳面にぎっしりと。いやはや、大雑把で飽きっぽい嚆矢にはちょっとしたホラーである。

 それを、呆れ果てた眼で見詰めて。

 

 

「古都。あのな、迷惑なら最初(はな)っから此処には来ないで除籍処分(三行半)だ」

 

 

 実際、彼はそうする。以前、自分の力を誇示する為に合気道部の門を叩いた学生が居た。確か、同学年の大能力者(レベル4)の『念動能力(テレキネシス)』だった筈。鋼鉄すら捩じ切る程の、『握力』が自慢の特化型。

 次期主将候補であり、学園の期待の生徒。鼻持ちならない、陰険な。ある程度を学んだ後、当時の主将の腕を捩じ折って嘲笑った男子生徒。

 

 

 その両腕を、両足を。背骨を、頚椎を再起不能なレベルでへし折った。勿論、その彼が『受身をやりそこなった』せい。詰まり、彼が『()()()()()()()()()()()』だけの事。

 その後、主将となった嚆矢により正式に除籍。更に、無用となった彼は学園からも放校処分とされて消えた。以後どうなったかなど、どうでもいいから知らない。知ろうとした事もない。

 

 

 立ち上がり、歩きながら窓際へ。開け放たれた窓、そこから少し、身を乗り出して。

 それくらいの無慈悲さなら、幾らでも持っている。そもそも、男相手になら……慈悲など掛けない。それが、『対馬嚆矢』だ。

 

 

「良い機会だ、ちったァ逆境を味わえ。確かに、確かに。テメェの所為でウチの評価はガタ落ち。来期は部活動費も出ないんだとよ」

「…………」

 

 

 それは、昼前に。事実を報告された、『統括理事会』からの通告が有ったと。顧問の老達人から、そう連絡が有った。『いつもいつも、終わった後にばかり五月蝿い奴等だ』とも、付け加えて。

 

 

「そこまで不利益もたらしといて、ハイサヨナラか? そいつァあ、理屈が通らねェなァ……」

「ですが……今更、僕を、誰が」

 

 

 煙草を銜え、火を灯す。熱感知器に引っ掛からないように、身を乗り出したまま。煙感知器に引っ掛からないよう、万色に濁った紫煙を外に向けて吐きながら。自分を、楽な道に逃げた己を蔑む古都に、向き直って。

 

 

「知るかよ、俺以外は。けど、俺は()()信じてる。狂いながらも、自分の強さを求めたお前。そんな、真摯に『強さ』に向き合えるお前だから……首の皮一枚で、()()信じてやる」

 

 

 とんとん、と己の首を手刀で叩いて。多分、最後通牒。口で笑い、しかし眼で睨みながら。この次はないと、暗に告げて。

 煙草を、窓の外へ。外壁に映る煙草の影から沸き立ったショゴスが、それを呑み込むのを空間のうねりで感じて。

 

 

「…………」

 

 

 俯いたままの彼、その脇を歩き抜けて。すれ違う刹那、ポン、と肩を叩いて。

 

 

「因みに俺が主将になった時は、同級生一人ぶっ壊したんで部活動費を切られたぜ? けどまァ、結果さえ出しゃあ、後は何とでもならァ」

「主将……」

「『幻想御手(レベルアッパー)』に手ェ出すような蛮勇があんなら、嘲笑われるくらい軽いもんだろ。いいな、間違った奴が逃げるのだけは赦さねェ────男に後退の二文字はねェ。つーか、()()()()なぞ使ってンじゃねェ、てなモンだ」

 

 

 最後に、そんな助言めいた事を口にして。己の決定は、覆さないと暗に示して。照れ隠しなのか、巫山戯て、どこぞの戦闘狂みたいな事を口にしながら扉を開く────

 

 

「「「あ……」」」

「…………」

 

 

 扉の外で聞き耳を立てていた、連れの三人の上目遣いと見詰め合ったのだった。

 

 

「……えーと、何を?」

「いえ、あの、暇だったからつい……えへへ」

「いえ、あの、暇でしたのでつい……おほほ」

「いや、あの、対馬さんが真面目な事言っててあはは」

「御坂だけ違ってるよね、笑うとこが!」

 

 

 一気に、扉を閉める。その向こうでは、まだ喧しく喧騒が繰り広げられているのだろうが。

 それらを全て、遠く聞きながら。蘇峰古都は、枕元の手紙……彼の『祖母』の手紙、未だ開ける勇気を持ち得なかったものを取り出して。

 

 

「……そうか、そうですね、主将。あんな、馬鹿な事をしたんだ……今更」

 

 

 それの、封を切る。手紙、便箋に(したた)められた言葉、受け止めるべく。祖母が、ただ一人の肉親が。一体、どんな思いで彼に接していたのかを。

 

 

「そうですね……主将。その、通りだ」

 

 

 諦めた? 否────吹っ切って。几帳面に畳まれた便箋、開いて…………全て、生まれて始めて、受け止めて────…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 見ていた。芳醇なる、その『少女』を。こんな事が出来るのも、この『職業』故の特権だ。こんなにも、間近で。

 

 

「───────────?」

「───────────」

 

 

 少女──艶やかな黒髪の彼女が、何かを囀ずる。正直、内容は覚えていない。年若く、可憐なその容姿。見れば見るほど、惚れ惚れするほどに。

 欲しい。欲しい、彼女が。きっと、最高の一つになる。『私』のコレクションの中でも、これだけ美しいモノはそうはない。

 

 

「───────────」

「───────────」

 

 

 刹那、邪魔が入る。忌々しい、いつもいつも。こいつが居なければ、もっと捗るのに。背後から語り掛けてきた存在に、(おくび)にも出さない内心で舌打ちながら。

 焦る事はないと、心を落ち着けて。この身、この魂に刻まれた魔術(オカルト)』を起動する。忌まわしくも崇高なる、“ブリチェスターの邪教集団の黙示録”を。その、悪夢の力を……少女に。

 

 

 『佐天涙子』へと、向けて─────…………

 

 

…………………

…………

……

 

 

 不貞腐れたように訥々とリノリウムの廊下を歩く嚆矢、その後を歩く美琴、飾利、黒子。尚、彼女らがあの病室を訪れていたのは『涙子の診察が始まって、手伝いに来た受け付けの女性看護師に追い出された』からとの事。

 脚の長さ(コンパス)の違いから、大股で速歩きする嚆矢を追う三人は、ほとんど競歩に近い。

 

 

「対馬さん、そろそろ機嫌直してくださいよ~」

「別に……キレてないっすよ」

「それ完全に怒ってますよぅ、嚆矢先輩」

「しかも、かなり古いネタでですの……」

 

 

 普段ならその事を気遣うだろうが、今は余裕がない。真面目な事をしている自分を見られるのは、軟派気取りの彼としては本気で恥ずかしいのである。

 

 

「失礼します」

「どうぞ」

 

 

 そうして訪れた、涙子の病室をノックする。診察が終わったばかりの、彼女の病室で。

 

 

「あ、初春ぅ~! だけじゃなくて、白井さんに御坂さん、対馬さんも!」

 

 

 佐天涙子の声が響く。何故か、酷く場違いに響く声が。それに、四人で答えながら。『彼女』は、何の変わりもなく微笑んでいた。長い黒髪の、白い花飾りの佐天涙子は。

 

 

「やあ、君達。お友達の経過は良好だ、明日には退院できるよ」

「本当ですか?!」

「良かったですわね、初春?」

 

 

 診療していた西之医師の言葉に、まず歓喜をもって応えたのは飾里。その後に、黒子が続いて。

 

 

「しかし、楽観はできません。あんな違法プログラムが、一体、人体にどんな悪影響を示すか……」

「確かに、まぁそうだが……基在君」

 

 

 対し、複雑に思い悩む表情を浮かべた彼女──受け付けに居た、看護師。なるほど、確かに。彼女の心配する通りだろう、あらゆる病に楽観など許されない。

 だが、だからと言って入院患者の前で、そんな不安になる事を言うなどと。

 

 

 それに反感を感じたらしい少女三人が一斉に。『看護師長・基在(きざい)』の名札を付けた、赤茶の髪に病人のように蒼白な黒縁眼鏡の女性を見た。

 当の看護師長は、全くもって歯牙にも掛けていないようだが。

 

 

「先生、次の患者の診療の時間です。行きますよ、()()()()()()

 

 

 その看護師長の呼び声に、涙子の蒲団がモゾモゾと蠢く。そして、勢いよく────中から、茶色く長い『何か』が跳び出して看護師長の元へ。

 彼女の体を、螺旋を描くように登ったそれは。

 

 

「あ────あれって!」

「わ、わ! もしかして、フェレットですか?」

「いいえ、ジェンキンスはオオリスです」

「まぁ、初めて見ましたわ……アニマルセラピー、というやつですの?」

 

 

 まるで襟巻きのように、ほとんど黒に近い焦茶色のオオリスが看護師長に纏わりつく。『ジェンキンス』と呼ばれたその大栗鼠は、看護師長の肩から円らな眼差しを少女達に。

 それだけでもう、三人は────いや、涙子を含めて四人は、見ただけでも分かる程にメロメロだ。

 

 

「何だろう、この敗北感……」

「はは……まぁ、可愛いものには勝てないよ、実際。『彼』が居ると居ないでは、患者の態度がガラッと違うからね」

 

 

 長い胴体と尻尾の所為か、ちょっとした捕食動物くらいなら返り討ちに出来そうな体格。嚆矢としてもオオリスなど初めて見るので、それが正しいオオリスなのかどうかは判らないが。

 そんな彼の心中を見透かしたように、『黒茶毛の大栗鼠(ブラウン・ジェンキンス)』は長く鋭い前牙歯を見せながら、チチチと啼いて。

 

 

「ジェンキンスは、基在君の提案で飼い始めたセラピーアニマルでね。最初は半信半疑だったんだけど、今じゃ私までメロメロさ」

「分からなくはないです、俺も撫でたいですから」

 

 

 鷹揚に笑う医師の言葉に、首是を返す。これがこの世の真理『可愛いは正義』か。その動きは素早く、気付いた時にはもう飾利の肩に駆け登って愛嬌を振り撒いている。

 困ったように喜ぶ飾利に頬擦りし、伸ばされた黒子の手に長い尻尾を擦ったり。同じく撫でようと恐る恐る手を伸ばした美琴が、その『電気』の為に拒絶するように尻尾で叩かれて落ち込んだり。

 

 

 そんな美琴を、飾利、黒子、涙子の三人が苦笑しながら慰めたり。

 緩やかな、穏やかな。気の抜けた炭酸飲料のような空気。昨日の地獄が嘘のような、平穏無事な現在を眺める。頑張った甲斐があった、と。

 

 

「コホン!」

 

 

 そこに、咳払い。苛立たしげに髪を掻き上げた、そんな空気を険悪にする看護師長の。大栗鼠は、その仕草に従ってか、再び彼女の肩に登っていく。

 

 

「では、そろそろ回診に行かないとね。それじゃあ、またね、佐天君」

「あ、はい。ありがとうございました!」

 

 

 やれやれとばかりに苦笑し、看護師長を伴い歩いていく医師の姿を見送る。その白衣が、扉の向こうに消えて。

 

 

「さて、それじゃあ……改めて」

 

 

 気を取り直す為に、音頭を取る。いつも通り、軟派に。軽口を、懐に隠し持つカード。コンビニで印刷して数を揃えた、ステイルのカードから『話術(テュール)』のルーンを刻んで。

 

 

「改めて、沙汰を申し渡そうか……『幻想御手(レベルアッパー)』なんて違法プログラムに手を出した佐天ちゃん?」

「は、はい……あの、本当にその節は、ご迷惑を」

 

 

 まるで、時代劇の奉行のように芝居掛かった口調で。今日、『風紀委員(ジャッジメント)』に知らされた、『幻想御手(レベルアッパー)』使用者への罰則を申し渡す。

 

 

「補習決定、夏休みが潰れるよ! やっちまったね、涙子ちゃん!」

「あう……や、やっぱり……」

「何が『やっぱり』ですの、それくらいで済んだ事が奇跡ですのよ、佐天さん」

 

 

 ガクリと肩を落とした彼女、しかし、それで済めば安いもの。黒子が眉根を寄せながら言った通り、もしももっと大事に……例えば死人が出たり、原発に『幻想猛獣(AIMバースト)』が突っ込む事態になっていれば、幾ら被害者といえども彼女ら『幻想御手(レベルアッパー)を使用した学生達』にも何かしらの懲罰があった可能性も零ではない。

 それが、ほぼ無問責。確かに、貴重な夏休みを幾らか棒に振ったが、その程度で済んでいる。僥倖も僥倖だろう。

 

 

「まあ、お勤めに励むしかないか……あぁ~、夏休みも毎日、初春のパンツを確認するつもりだったのに……暇が無くなっちゃったよ」

「永遠に無くしてください、そんな暇!」

 

 

 飾利の怒声と共に、朗らかな笑いが満ちる。やはり、努力の甲斐はあった、と。何と無しに、窓の外の青空を眺める。今日も、また真夏日。その空の果て、雲一つ無い虚空。其処に────

 

 

「対馬さん、どうかしました?」

「あぁ……いや。何でもない」

 

 

 微かに見えた気がした『緑光』、その瞬き。幻でなければ、音も無くこの一帯で一番高い電波塔に墜ちた────『緑色の雷光』。それを、気の所為として。

 

 

「そうだ、御坂。実は、頼みがあるんだけど」

「何です、改まって?」

 

 

 記憶に残すのみで、意識の外に。今更、目新しいくらいでは心、踊る筈もない。それよりも、秘めたる『作戦』の為に。『将を獲んとするなら、先ず馬を射よ』の格言に基づいて。

 

 

「この後、付き合って欲しいところがあるんだ。何、早けりゃ二、三十分で終わるからさ」

「はぁ……別にいいですけど?」

「あーら、お姉さまが行かれるのでしたら、私も参りますの」

 

 

 と、即座に割り込んできた黒子。まるで、美琴を護衛するとでも言わんばかりに。警戒心剥き出しで。

 

 

「ああ、勿論。人が多ければ多いほど、ありがたいからね」

「スーパーの安売りか何かですの?」

 

 

 それを、笑いながら受け入れる。余りにあっさりとした嚆矢のその物言いに、頭に『?』を浮かべる彼女から視線を外す。

 時間は十四時半、太陽は南天の頂きに。クーラーの効いた院内を一歩出れば、都市は一日で最も暑い盛りである────…………

 

 

………………

…………

……

 

 

「現在時刻、十四時三十分────」

 

 

 勲章代わりの懐中時計を片手に、逆の手に葉巻を燻らせる浅黒い肌の白人は呟く。革の上下に刃金の身を包んだ、強壮たる男だった。

 サングラスの奥、其処に在るべきは鋭き眼光。しかし、スモークの強いサングラスからは、全く窺えない。まるで黒い穴のような、そんな気配すら。

 

 

「残る猶予は一時間半……その刹那、『風』と『雨』が来る」

 

 

 弟子達に命じた結界、その構築完了までの残りは、あと少し。狙いは、既に絞っている。しかし、一人になるまで待つのも難しい

 また、『魔に属する者』が獲物と関わった。今はまだ、『顕現段階(アクチュアリー)』だが……あの獲物はいつ『次の階位』に登っても可笑しくはない。一刻も早く殺さなくては、均衡が破れる。

 

 

「……未来ある若人を、しかも、あんな小娘共となると些か気は重いが」

 

 

 だが、だが。それと差し引いても、あれは滅ぼさねばならぬ。そうしなければ、目覚めてしまう。

 人類初の殺人者となった『カインの末裔(ヴァンパイア)』にして、『神仏の敵(第六魔王)』を背後に立たせるやも知れぬ、『虚空の月(双子の蕃神)』に見詰められし、その男────“土星の円環の魔導師(マスター・オブ・サイクラノーシュ)”の弟子である、その男は。

 

 

「クソッタレ、だな────全く。バカみてぇに盛りやがって。蕃神(外なる神)は、そんなに暇なのかねェ」

 

 

 嘲るように笑って、葉巻を緑の雷光で一瞬にして焼き尽くして。取り出したる魔書、背後の虚空から。さながら手記の如き、薄く小さい。

 しかし、しかし。その正体を知りうる者であれば誰もが震えよう。既に、周囲の空気すらもが発狂するように呪わしく震え、緑色の雷気に満たされている。

 

 

「この程度の不幸なら、世界中に転がってる。死は、すぐ其処に。狂気の戸口と同じ、狂える神々と同じ……何時だって手ぐすね引いて、舌舐めずりして待ってやがるんだ」

 

 

 それこそは、()()()()。比類なき魔導書の一角、かの『死霊秘法(ネクロノミコン)』と並ぶ、或いはその先を行く『写本』の一部。

 そうであると、『この世界の法則』では貶められたもの。彼自身が見聞きした、呪われた記憶の残滓。

 

 

「奴らを落胆させられるなら、無意味じゃねぇよ。なぁ────」

 

 

 呟いた言葉を、全身から立ち上る緑の稲妻と雷鳴が掻き消す。時間迄にその身に、細胞の一つ一つにまでに行き渡らせようとでもしているかのように。

 男────“牡牛座第四星の教授(プロフェッサー・オブ・セラエノ)”は、虚空を睨む…………。

 

 

………………

…………

……

 

 

 明日、退院予定となった涙子に別れを告げて。ほぼ毎日更新している真夏日の中、辿り着いた場所は……。

 

 

「『舶来雑貨 縷々家(るるや)』……雑貨屋ですの?」

「ああ、そう。実はさ、妹の誕生日が近くて……けど、年頃の女の子に贈るものなんて想像つかないから、同い年くらいの意見を聞きたくて」

 

 

 赤や金を多用した、如何にも中華風な外観のその店。しかし、事前のリサーチでは……某知恵袋で聞いたところ、最近一押しのアクセサリーショップとの事。

 鈴のついた扉を開けて中に入れば、成る程、女生徒ばかり。一人で来ようものなら、即座に脱兎するところだっただろう。

 

 

你好(ニィハオ)……あら、これは珍しい」

 

 

 鈴の音を聴いた店員らしき女性……波の模様の藍色のチャイナドレスに肢体を包む、老亀や双魚の柄の黒い扇子で口許を隠した、艶やかな女性が此方を見た。

 そして、目だけしか見えないが……確かに、穏やかに微笑んで。

 

 

欢迎光临(ようこそいらっしゃい)、素敵な貴方。どこかのお大尽かしら、可愛らしい女の子を三人も連れて……悪い人ね」

「いやぁ」

「『いやぁ』じゃありませんの。断じてそう言うものではありませんから、お気遣いなく」

 

 

 結い上げた美しい黒髪の妖艶な笑顔と仕草で、小波の潮騒のような、睦言を囁くように美しい顔を寄せてきた女性。百合の花のように清楚な雰囲気でありながら、牡丹の花のように目を奪われる。

 黒子の反駁にも、『あらあら』と微笑みを返すだけ。如何にも、『大人の女性』である。その、蠱惑的な体つき的にも。

 

 

「そう、妹さんのお誕生日祝いを。優しいお兄さんだこと」

「気紛れですよ、気紛れ」

 

 

 流石に気恥ずかしくなる。この店の太々(女主人)、『海 藍玉(ハイ ランユゥ )』と名乗った女性の誉めそやしに。

 周囲の女生徒達からの目線もある。あまり、時間は掛けずにいきたいものだ。

 

 

「と、とにかく、参考までに飾利ちゃんは髪飾り、黒子ちゃんはリボンを。御坂は……適当に雑貨を見繕ってくれないか? 三人が欲しいもので傾向を掴むから、持ってきてみてくれ」

「あ、はい!」

「あまり意味はない気がしますけれど……」

 

 

 言われ、飾利と黒子はアクセサリーを見繕いに行く。第一段階はクリア、第二段階に移行……という段で。

 

 

「へー、ほー、ふーん……成る程」

 

 

 何やら、頭上に……彼女の電圧ではフィラメントが弾け飛ぶだけだろうが……電球でも点きそうな。

 

 

──くっ、流石は『頭良すぎて頭おかしい』と言われる超能力者(レベル5)の一人、御坂美琴……あれだけで、バレたのか?

 

 

 そんな風に此方を見遣る、美琴が映った。不味いと、本能が警鐘を鳴らす。

 

 

「……な、何かな、御坂さん? そんなに見詰めて……駄目だぜ、オイラに惚れちゃあ火傷」

「無いです。あぁ、でも、対馬さんのそう言う律儀なトコは嫌いじゃないですけどね」

 

 

 軽口を、軽くぶった切られた。『これが御坂美琴の砂鉄剣か』、等と無意味な事を考えて。

 

 

「……御坂。何か、欲しいものとか無いか?」

「えー、じゃあ、私じゃなくて対馬さんの妹さんが欲しいものとか」

「オーケー、好きなもん持ってこい」

「さっすがぁ、話分かる~」

 

 

 溜め息混じりに首是した嚆矢を尻目に、ルンルンとばかりに美琴が店奥へ消えていく。取り出した財布、マネーカード。恐らくは総動員らしい。

 

 

──まぁ、仕方無いか。元々そうする気だったし、付き合って貰ってる訳だし。

 

 

 カウンターの近く、邪魔にならない位置で舶来品の雑貨を見て暇を潰す事にする。干支や、良く判らない動物など。様々なものを見て。カウンター奥から、此方を見る太々の視線を感じる。海のように深い、深意を探れない眼差しを。

 頭を下げれば、微笑みながら下げ返してくる。涼やかな目元だけで、口は扇子で隠したままで。

 

 

 だから、嚆矢には分からない。今まで、『聞こえていた声』の出所が、何処だったのか。

 果たして、幾ら顔を寄せたからといって『扇子の向こう側』からの囁き声が、少女達の声に溢れた此処で()()()()()()()()()()()()()、とか。

 

 

「お待たせしましたの」

「おぅ、黒子ちゃん」

 

 

 そこに丁度帰ってきた、黒子に意識を向けた為に。首尾良く第二段階を完了、第三段階へ。

 

 

「わたくしの好みで良いとのことでしたので、本当にわたくしの好みで選びましたの。本当によろしいのですの?」

「ああ、良いんだ……」

 

 

 見れば、赤い更紗(サラサ)のリボン。箱入りの、諭吉さんが英世さんと式部さんに変わるお高めの奴だ。流石は常盤台の学生、身に付ける品一つとってもお嬢様であらせられる。

 宜しい、やはり総力戦だ。総火の玉だ。神風アタックである。これを攻略しない事には、最終段階には進めない。

 

 

「じゃあ、これ下さい」

「あらあら、まぁ……うふふ、若いわね」

「ちょ、先輩……そんな、吟味もせずだなんて妹さんに失礼ですの!」

 

 

 何かに気付いたらしい太々が、リボンと現金を受け取る。それを手早く『()()()()』にラッピングし、嚆矢に手渡して。

 

 

「はい、黒子ちゃん」

「……え?」

 

 

 そして、最終段階。リボンを受け取った彼はそれを、徐に黒子へと差し出した。差し出されたリボンの入った包み、それを彼女は、ぱちくりと見詰めて。

 

 

「……は、嵌めましたのね。最初から、このつもりでお姉さまを出汁(だし)に」

「いやいや、妹の誕生日が近いのは本当。けど、まぁ、嵌めはしたかな。こうでもしなきゃ、受け取ってくれなさそうだし」

 

 

 そう、昨日の礼。リボンを駄目にしてしまった事に対して。ハンカチは……リボンの値段の高さに目を回した事から勘弁して欲しい。

 ただ、普通に渡しても受け取るまい。その為の、三文芝居。美琴と太々にはあっさりと見破られた程度の。

 

 

「……お姉さまが賛同したのでしたら、仕方ありませんの。お姉さまのお顔に、泥を塗る訳にはいきませんもの」

 

 

 そして、『美琴が知っている事』が肝要だ。彼女の肝煎りとなれば、黒子は受け取らざるを得ない。実際は『知っている』だけだが。

 そこまで判断して美琴に声を掛けた。黒子が付いてくる事、勘違いする事を見越しての作戦である。

 

 

──男としては、情けないの極みだけどな……まぁ、今はこれで仕方ない。

 

 

 ついっと視線を逸らし、若干頬を赤らめて。礼儀正しく両手で受け取った彼女。そして、照れたような困ったような表情で。身長差から、自然、上目遣いに。

 

 

「あ……ありがとうございます、ですの」

 

 

 辛うじて聞こえたほどに小さい、蚊の鳴くような声で。そう、口にしたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

飢える(イア)────」

 

 

 風が吹いている。ひゅう、ひゅる、と。耳朶に、名状しがたき風斬音を残して。まるで、何かを耳打つかのように、何かを囁きかけるかのように。

 だが、耳を貸す者など誰も居ない。否、()()()()()()()()。その風がこの数区画全てに吹き荒び、荒天を人々に知らせている事に。

 

 

飢える(イア)飢える(イア)────」

 

 

 同じく、入道雲が山の稜線から頭を出す。蛸のように頭でっかちな入道、猛り狂うかの如く、黒く隆々と。ゴロゴロ、ゴウゴウ、と。雷鳴と、饐えた土の臭いを忍ばせて。

 だが、気に留める者など誰も居ない。否、()()()()()()()()。その雨雲が、『樹形図の設計者(ツリー・ダイアグラム)』の予報通りに人々に家路を急がせている事には。

 

 

「「飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)────!!」」

 

 

 それは、風と雨。合わさって曰く、嵐と呼ばれるもの。川に架かる橋桁に凭れ掛かる黒い雨合羽(レインコート)の褐色髪の美青年が陰鬱に水面に向かい呪うように呟くものと。

 風力発電塔の頂きに座した、黄色い襤褸の外套を纏う翠銀髪の美少女が大空に向かい燦然と、祈るように謳うもの。

 

 

「────“水神クタアト(クタアト=アクアディンゲン)”!」

 

 

 悍ましき水妖の気配を溢れさせる、人面皮の装丁の魔導書“水神クタアト(クタアト=アクアディンゲン)”と。

 

 

「────“■■■■(■・■■■・■■・■■■■)”!」

 

 

 忌まわしき戯曲(かぜ)の音色を放つ『黄色い装丁の魔導書』を携える、その二人の魔導師に喚ばれしもの。人の関心を払い、無意識を呼ぶもの。ステイルが仕掛けたものと同じ、『結界』と、数々の秘術に呼ばれるものだ。

 人々は風に背中を押されるように、夕立の気配に家路を急ぐ。彼らの予定通りに。残り、十五分。最後の追い込みに。畏れる師の命で、敬愛する師の為に。範囲は最小に、ピンポイントに絞って。完璧に、完全に指令(オーダー)を遂行する。

 

 

『兄貴。ボクは伯父貴に合流する、兄貴も予定通りに』

「ああ……では、俺も予定通りに。時計合わせ、(スリー)(ツー)(ワン)────(ナウ)

 

 

 この先、無線封鎖。全ては『懐中時計』の示す、予定通りに。その『風』に乗り、鼓膜を揺らした囁き。風力発電塔の頂きから数百メートル彼方の橋桁に声を届けた、風を操る彼女ならば、その彼が呟くだけでも聞き取ろう。

 風力発電塔の頂きの少女が、強風と共に消える。バサバサと、羽撃(はばた)くような。或いは、()()()()()拐わ()()()()()()()を残して。

 

 

 代わり、川面に歩み出た男。魔導書により水流を操り、川に沈めていた『防水加工』の大きなジェラルミンケースを引き揚げた。大型の金管楽器を入れるような、大きなモノを……担ぎ上げて、彼方の電波塔を。

 

 

「伯父貴、貴方は鼻白むだけだろうが…………“深淵の大帝(ノーデンス)”の加護が有らんことを」

 

 

 僅かに、緑色の光に包まれた其所を見詰めて────

 

 

………………

…………

……

 

 

 吹き抜けた風に、嚆矢は空を見上げる。黒い入道雲が、空の三分の一を覆っていた。どうやら、天気が崩れてきたらしい。

 『樹形図の設計者(ツリー・ダイアグラム)』の予報通りに、もう間も無く夕立が来るらしい。再度吹き抜けた強い風、その孕む湿気の質が変わっている事を肌で感じた。

 

 

「嚆矢先輩……今、見ました?」

「ウウン、ミテナイヨ」

 

 

 強い風はひらりと、土埃と共にあらゆるものを舞い上げる。例えば、目の前の花飾りの少女の、今は裾を押さえたスカートとか。フリル付きの檸檬(レモン)色とか。

 

 

「…………(じー)」

「ホントダヨ、ズットソラヲミテタヨ」

 

 

 疑わしげな瞳を向けてくる飾利、だが、変態紳士(ジェントルマン)として女性に恥はかかせられない。シラを切り、ぴーひょろと下手くそな口笛を吹いたり。

 買い物を終え、帰途についた四人である。目下、今の懸念はただ一つ。

 

 

「ああもう、いつまでやってますの! あのバスに乗り遅れたら、雨に降られながら帰る事になりますのよ!」

「うわっ、ヤバッ! バス、もうバス停に入ったわよ!」

 

 

 前を走る黒子と美琴の言う通り、既に二十メートル先のバス停にバスが停車した。後は、モノの数秒で出発するだろう。チラリと懐中時計を見れば、『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』の妖しい輝きと共に、針は十五時四十五分を示していた。

 どう考えても、走るだけでは間に合わない。飾利の手を引いて前を走る二人に追い付いたときには、もうバスの扉が閉まっている。それを見た黒子は、舌打ちながら。

 

 

「こうなったら……あれしかありませんの」

「分かってる、黒子ちゃん……俺が車道に飛び出して101回目のプロポ」

「あの、嚆矢、先輩……はふ、もう、白井さん、けほっ、居ません……よぉ……!」

 

 

 そこまで言った時には、もう黒子の姿はない。何の事はない、空間移動(テレポート)でバスに到達、運転手に待って貰うよう交渉しているだけだ。

 

 

──いやぁ、便利だなぁ、空間移動(テレポート)……いつかウチの時空粘塊(ヨグ=ショゴース)にも、それくらい出来るようになって欲しいねぇ。

 

 

『てけり・り。てけり・り?』

(別に呼んでねぇから。一般人の前で出てくんな、引っ込んでろ)

『てけり・り……』

 

 

 思念に反応してか、血涙を流す寝惚け眼一つを浮かばせた影が一瞬沸き立つ。テレパシーで繋がるそれを思念で叱る。影は、寝落ちするように平面に還った。

 因みに、手を引かれて息急ききらせながら走っていた飾利には、それは目に入らなかったらしい。

 

 

「ふう、セーフ……助かったわ、黒子」

「いえいえ、お姉様のためですもの」

「いやぁ、久々に全力疾走したな。クーラー効いてて極楽極楽」

「は、はひぃ……はふぅ……はへぇ……」

 

 

 汗を拭いながら座席に座り、行く先を確認する。この先二つ目で飾利が、その先で自分が降りる事になる。美琴と黒子は、その五つ先。

 

 

「大丈夫ですの、初春……あら?」

「初春さん、大丈夫……って、あれ?」

「ふえぇ……へ、な、何ですかぁ?」

 

 

 前の席の美琴と黒子の微笑みに、隣の飾利を。限界近く走った為にまだ荒い息の、開けた窓から新鮮な空気を吸おうとしている彼女を見遣った。

 すると、すぐに二人が微笑んだ理由が分かる。その、彼女の特徴である花瓶のような髪飾り。そこに、鮮やかな蝶が一匹、留まっていたのだ。

 

 

「ちょっと動かないでくださいまし……まあ?」

「どうしたのよ、黒子……って、ええ?」

 

 

 その蝶の羽を、そっと持つ黒子。勿論、美琴では逃げてしまうだけだから。その黒子が、今度は驚いた顔を。続いて、美琴も。瞳を輝かせて。

 

 

「この蝶……千代紙ですの」

 

 

 成る程、それは千代紙で折られた鮮やかな『蝶』だ。しかし、まるで生きているかのように、(はね)をバタつかせている。

 思わず黒子が手を離せば、ひらりひらりと宙を舞い……再び、飾利の頭へ。

 

 

「うわぁ……可愛いですねぇ」

「これも、何かの能力(スキル)なのでしょうか?」

「『念動能力(テレキネシス)』……ううん、『流体反発(フロートダイアル)』? こんなに精密な動かし方は、何か専門的な能力かも?」

 

 

 飾利はその蝶を愛でるように見、黒子と美琴はその能力が何かを解析しようと試みている。そして、嚆矢はと言うと────誰にも聞こえない、バスの機関(エンジン)音に紛れるほどに小さな声で『解呪』のルーンを自らに刻んで。

 

 

「……『幻燈綺譚(ファンタズマゴリア)』、だよ。あらゆる文字、戯画を擬似的に、生命体のように動かす能力(スキル)さ」

「『幻燈綺譚(ファンタズマゴリア)』……ですの?」

「聞いた事もないですよ、そんな能力(スキル)……」

 

 

 面倒臭そうに、嚆矢は蝶を捕まえながら口を開いた。聞き慣れない能力(スキル)名に、黒子と美琴が口を揃えて。

 

 

「ああ────ウチの愚妹の稀少能力(レアスキル)さ」

 

 

 苦笑いしながら、蝶の折り紙を解く。一瞬、飾利が残念そうな顔をしたが、これは()()()()()()

 よく、女子学生がやるもの。そう、凝った折り方の『秘密の手紙』だ。

 

 

「…………っ」

 

 

 『解呪』により、嚆矢以外の他人に読まれぬよう、開く際に仕掛けられていた『発火』のルーンを無効とする。因みに、このルーンは『魔術(オカルト)』ではなく『能力(スキル)』として効果を発揮するルーンなので、刻んだ者が害を受ける事はない。

 中身を読む。そこには、実に簡潔に。万年筆を使ったらしい、達筆な草書体で。

 

 

『分かってるわよね、コウ兄?』

 

 

 溜め息一つ。そして、四角く折り直して学ランの胸ポケットに仕舞う。

 

 

「妹さん、何て?」

「誕生日プレゼントの催促。一々煩いんだ。ウチは、高校まで携帯与えない主義だから何時もこれ」

「へぇ、でも、羨ましいかも。私、一人っ子だから」

 

 

 微かに羨ましげに、美琴がそんな事を口にした。それは、恐らくは何の気なしに。後の事を思えば、皮肉な言葉ではあるが。この時は、少なくとも。

 

 

「あ……私、此処です」

 

 

 そこで、飾利の降りるバス停に。当然────

 

 

「じゃ、行こうか、飾利ちゃん」

「はい────って、先輩はひとつ先じゃ……」

「気にしなーい、気にしなーい。じゃあな、御坂、黒子ちゃん」

 

 

 当然、変態紳士(ジェントルマン)として嚆矢は彼女を送る事にした。美琴と黒子は二人だし、どちらも強力無比な能力者だ。よっぽどでもなければ、敵う者は居まい。

 バス内から手を振る二人。それを見送って。

 

 

「さて、後十分で雨だ。急ごうぜ、飾利ちゃん」

「あっ……もう……強引すぎますよ、嚆矢先輩……」

 

 

 有無を言わさぬまま、エスコートする。急げば、後十分でもギリギリ間に合うと、前回の“ドール讃歌(ドール=カンツ)”の時の経験で分かっている。そして、やはりそうなった。送り届けると同時に、風に乗り空を覆った雨雲はぽつぽつと、雫を落とし始めて。

 余計な出費になるが、傘を買えば事足りる。そう、思い直して前を見据える────

 

 

「全く、さ────」

 

 

 ひゅう、と。風が吹いた。濃い、潮の香りを孕んだ風だ。この学園都市では、感じ得ぬもの。

 背後を見遣る。気付くよりも早く、速く。向けられていた二挺の『H&K USP Match』。制動器(コンペンセイター)照準器(レーザーサイト)を内蔵したカスタム型の、二挺拳銃から撃ち込まれた弾丸の雨────!

 

 

『てけり・り! てけり・り!』

 

 

 それを自動防御(オートディフェンス)、沸き上がったショゴスの蝕腕二本が激しくのたうち、弾く。通常の弾丸ではこの鋼じみた影の怪異には傷一つ与えられはしないし、生半可な魔術や能力でも高能力(レベル3)に匹敵するその再生能力を突破する事は能わぬ。

 拾った命、その眼差しを向ける。延び上がったショゴスの蝕腕を掴み────『賢人バルザイの偃月刀』を掴み出して。

 

 

「ハッ────これはこれは……!」

 

 

 対峙する。しかし、参った。目の前の、翠銀の少女の姿に。偃月刀を向けただけで、己の『誓約(ゲッシュ)』に、今も苛まれて。

 吐き気がする。意に沿わない事を無理強いされているような、壮絶な不快感。

 

 

「何だよ、『カインの末裔(ヴァンパイア)』。ボクに見惚れでもしたかい?」

 

 

 それを、知っているからこそ。翠銀の銃士娘(カウガール)は、勝ち誇るように軽口を。作り物めいた美しい顔容(かんばせ)。まるで、神話に付き物の……天使の如く。

 

 

「ああ────勿論さ、可愛らしいお嬢さん。だけど、先ずは名前くらいまともに語り合いたいね。俺は、嚆矢(コウジ)だ。君の名前は?」

 

 

 ならば、答えよう。期待には、応えよう。軽口には軽口を、不遜には不遜を。偃月刀を握り直して。血涙流す影の眼、足下に魔法陣の如く溢れさせながら。

 

 

「戦前の名乗りか……知ってるぞ、サムライの流儀だろ? やっぱり、お前も“混沌”に染まりつつある、か」

「はァ……?」

「まぁいい、『メイドのミヤゲ』だ、教えてやるよ」

 

 

 意味の分からない納得に、刹那、注意を奪われた。その一瞬に、黄衣をはためかせながら────少女は、その魔導書を。

 

 

「ボクはセラ。そして、これがボクの魔導書(グリモワール)……」

 

 

 黄色い装丁の、呪わしき戯曲(かぜ)の音色をもたらす、それを。

 

 

「────“黄衣の王(ザ・キング・イン・イエロー)”!」

 

 

 呪われた戯曲、星々を渡る風を讃える魔導書を。名状しがたき、風の邪神の顕現を讃えた書を。

 聞いた者を速やかな破滅に誘う、狂気に満たされた第二楽章を記せし“黄衣の王(ザ・キング・イン・イエロー)”を掲げた────!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七月二十五日:『虚空、虚数』

 

 

 走る。疾走する、疾駆する。『大鹿』のルーンを刻んだ両足で、バケツをひっくり返したような土砂降りのスコールの中を全力で。強い向かい風に乗った雨粒が叩き付けられ、全身を濡れ鼠にしながら、数メートル先の視界すらもままならぬままに。

 背後から追い縋る、殺意を感じる。首筋や心臓、背骨の隙間。あらゆる急所を狙う、鋭い視線を。刻んだルーンも相俟って、狩人に狙われた獲物の気分である。

 

 

『てけり・り!』

 

 

 風雨に紛れ、発砲音すら聞こえない銃撃。それを如何な感覚器官を駆使してか、察知したショゴスの蝕腕(ベクター)が銃弾を弾くべく、唸りを上げながら振り上げられ────

 

 

『てけり・り?!』

 

 

 直撃コースが、外れた。否、()()()()()のだ。

 何らかの魔術か、ショゴスの自律防御(オートディフェンス)を掻い潜った銃弾。弧を描き、或いは角度を作り、まるで生き物のように迫るそれは。

 

 

「チッ────!」

 

 

 掲げた偃月刀の加護、守りの切り札が。浮かび上がる第一防呪印『竜頭の印(ドラゴンヘッド・サイン)』を代償に、辛うじて銃弾五発は防がれた。

 しかし、恐るべきはその銃弾は────

 

 

「────逃げるだけかよ、この臆病風(チキン)野郎ッ! 闘え!」

「ッ────悪ィね、アンタでも吝かじゃねェが……」

 

 

 文字通り『()()()()()』前方に回り込んできた黄衣の少女にとっては、単なる小手調べでしかないと言う事────!

 

 

「俺ァ、誓約(ゲッシュ)を破る時は『心から惚れた女を抱く時』ッて決めてンだ────!」

 

 

 降り立ち雨粒を巻き込みながら、跳ね跳ぶ勢いのままに繰り出された反転回し蹴り(ローリングソバット)。白く細い、少女のそれ。年齢に見合わぬ、練達の軍隊式武術(マーシャルアーツ)を感じさせる。

 だが、好機ではある。誘導式の銃弾には無理だが、肉弾戦ならば。

 

 

────そう、肉弾戦ならば。鍛え上げた我が『合気道(バリツ)』ならば……一矢、酬いる事が出来る。

 

 

 直感が、そう告げる。それは、『攻撃』ではなく『防御』だと。だから、『誓約(ゲッシュ)』には抵触しないと。受け流しても、問題はないと。

 その直感のままに。右手を────

 

 

「チッ!」

 

 

 伸ばす事無く、目で見たままに。『()()()()()()()』蹴りを躱す。大袈裟なくらいに、距離を取って。

 その観察通りだ。雨粒を巻き込む『竜巻』を纏う反転回し蹴り(ローリングソバット)は、触れもしていない街路樹の幹とガードレールを半分以上削り飛ばした。

 

 

 粉砕機に砕かれたように細かな、木屑と鉄屑を浴びながら。嚆矢は、『直感(だれか)』の嘲笑を聞いた気がした。

 

 

蛆の湧いた糞魔本(デ・ウェルミス・ミステリィス)の時といい、相変わらず悪運だけは良いよね、お前。お得意の『アイキドー』とやらを使ってりゃ、その忌々しい右腕ごと挽き肉(ミンチ)にしてやったってのにさ!」

 

 

 軽いフットワークを刻みつつ、『セラ』と名乗った娘は二挺拳銃の弾倉(マガジン)排出(イジェクト)する。

 襤褸の黄衣の下、腰から下がるガンベルトに装備されている弾倉を一度に装填、再び二挺の銃口が此方を向く。

 

 

飢える(イア)飢える(イア)風の皇太子(ハスター)…………」

 

 

 風が、渦を巻く。彼女の二挺拳銃を包み込むように、螺旋を描いた空気の流れが────形を為す!

 

 

抉れ(アイ)抉れ(アイ)────『風王の爪牙(ハストゥール)』!」

 

 

 静かに、音も無く。目に見えない風の流れが爪牙となる。成る程、魔術(マジック)の種は簡単だ。『風』による銃弾の誘導(ガイド)貫通付加(ペネトレート)、加えて肉体への攻防付加(リアクティブアーマー)速力強化(ヘイスト)。遠近両面、メンタルもフィジカルも完全に向こうが上。八方塞がりとはこの事か。

 

 

「さぁ────いくよ、『風に乗りて歩むもの(イタクァ=ザ・ウェンディゴ)』!」

 

 

 瞬間、アスファルトを踏み砕き雨水を撒き散らしてセラが吶喊する。『風』を踏み、目にも止まらぬ『風速』で軌道を変えながら。

 黄金色に燃える二つの瞳が、軌跡に煌めく残光を。イヌイット族に畏れられる、『姿なき人攫いの怪物』の名を叫びながら。

 

 

「伯父貴が出るまでもない……ボクらだけで、十分!」

 

 

 繰り出される室内格闘術(CQB)、近距離に徹した打撃が繰返し繰返し。触れる事も敵わぬソレ、故に大きな回避動作で。無駄に体力を削りながら。

 

 

──受ける事も出来ねェ、かといって潰す事も。ジリ貧か……全く、厄介、この上ねェ! 

 

 

 このままではいずれ、体力が尽きて殺される。ならば、やはり出来る事は────一つ。

 

 

「────ッ!」

 

 

 脚を踏み締め、『錬金術』を発露する。久々だが、やはり『()()』に使用する魔術は致命的な程の損耗。魔力の精製に死滅する肉体、それを最低限まで抑え込む事の可能な『確率使い(エンカウンター)』、『正体非在(ザーバウォッカ)』とも『制空権域(アトモスフィア)』とも呼ばれた、この能力(スキル)がなければ。

 作り出したのは、楯。足元のアスファルトとショゴスの一部を融合させた、壁を。それを楯に、一目散に────駅前へ。

 

 

『てけり・り。てけり・り!』

「邪魔だなァ……兄貴!」

『任せろ』

 

 

 ショゴスの特性により、獲物に向けて自在に伸縮する『楯』。その蠢きに、面倒そうに呼び掛けた彼女の背後────約一キロの彼方から。

 

 

『イブン=ガジの粉薬を混ぜた銃弾とナアク=ティトの障壁を刻んだ、この一発────』

『てけり・り?!』

 

 

 音より速く飛来した『何か』に、『楯』は真円の大穴を開けられて四散した。然もありなん、それはある戦争では『狙撃した敵兵の上半身と下半身を分断した』とまで言われ、強固な外壁を持つ航空機を撃ち抜いてハイジャック犯を狙撃する際にも用いられる化物級の対物狙撃長銃(アンチマテリアルライフル)────『バレット M82』。

 それを抱え、密集する摩天楼の屋上を跳ね翔ぶ黒い雨合羽。セラの『風に乗りて歩むもの(イタクァ=ザ・ウェンディゴ)』の効果を得た、“水神クタアト(クタアト=アクアディンゲン)”の主、ティトゥス=クロウ。

 

 

『耐えられる筈も、無かったな……粘塊』

 

 

 音速を遥かに越えた徹甲弾と榴弾、焼夷弾の役割を果たす『HEIAP』に、その弾に籠められた呪詛『ナアク=ティトの障壁』。あらゆる邪悪を遮断する魔術に、この程度の『楯』では立ち向かいようもない。

 崩れ落ちた『楯』、否、崩れ落ちるよりも早く。その『大穴』を潜り抜けて、セラは走る。大気を蹴り、加速し続けながら。

 

 

「二対一、しかも足止めも無理な重火力に高速度か! 無理ゲーにも程があンぞ!」

 

 

 テレパシーでリンクした状態にある嚆矢は、ショゴスの一部が混沌に還った事を悟って吐き捨てた。悪態くらいは()いて出よう、空の覇者である戦闘機と陸の覇者である戦車を同時に相手にしている、軽装歩兵の気分。それほどの手詰まりである。

 追い付かれる前に、手頃な路地裏に逃げ込む。遮蔽物の無い通りでは、あの津波の破壊力と浄化力を併せ持つ貫徹焼夷榴弾の良い的。しかし、しかし。この狭所では。

 

 

「行け────『風王の爪牙(ハストゥール)』!」

「クソッタレが……!」

 

 

 風の速度と自在さを持つ誘導式銃弾の、良い的に他ならない────!

 

 

「────ッ!!」

 

 

 掲げた偃月刀より第二防呪印印、『キシュの印』が虚空に浮かぶ。浮かぶと同時に、七発を受け止めて砕け散る。

 これで、加護の印はあと二つ。必然、命の残回数もあと二つだ

 

 

「お次は最強の『ヴーアの印』か……これは兄貴に任せるべきかな!」

「ハッ────勘弁!」

 

 

 壁を蹴り、回り込もうとする黄衣の少女。回り込まれ、進路を断たれては終わりだろう。退路には、あの重火力が待ち受けている筈。

 辛うじて先に、裏通りに転がりでた。うらぶれた、普段ならば浮浪者や落第生(スキルアウト)の溜まり場となる其処。しかし、この空模様ではどちらも、雨に濡れぬ場所に引き揚げているのだろう。幸か不幸か、誰も居はしない。

 

 

────もう、無理だろう。逃げられはしない、あんな化物どもからなど。

 さぁ、諦める時だ。諦めて……

 

 

 すかさず、背後にルーンのカードを。『障害』のルーンを展開して、疾駆する。これで、あと三秒は稼げるだろう。

 

 

「あと、五百メーター……こんなに遠いなんてな! あァ、生きて帰ったら、禁煙でもするかァ!」

 

 

 雨で張り付く天魔(あま)色の髪を撫で付けて、すっかり上がった息を咳き切らせながら試みもしない事を口にする。そうでもしなければ、心から先に折れそうだ。

 蜂蜜酒(はちみつ)色の瞳に、決意を灯す。そして、自らの瞳だからこそ気付けない。その金色、微かに赤く燃えている事に。

 

 

「────グ!?」

『てけり・り!!』

 

 

 そして、気付いた刹那。第三防呪印にして最強の『ヴーアの印』を展開した。展開した刹那、印が弾け跳ぶ。貫徹したのは焼夷榴弾、まだ殺傷能力は失われていない。

 ショゴスの防御を持ってして、炸裂した衝撃に吹き飛ばされた。しかし、吹き飛ばされただけだ。ショゴスが居なければ、これで詰みだっただろう。

 

 

「かっ……は……!」

 

 

 転がりつつ、苦痛に詰めていた息を吐く。炸裂した焼夷榴弾に、焼けた肌が痛い。既に、回り込まれていたか。どうやら敵の言葉を信じてしまうなどと言う、愚策中の愚策を犯したらしい。

 

 

「さて、王手(チェックメイト)かな?」

 

 

 悠々、『障害』のルーンを切り裂いて歩み出た少女の声。それすら、どこか遠く聞こえて。

 

 

「終わりだ、『暗黒将軍(ダークジェネラル)』。『時計人間』や『女王』、『貴婦人』の時のようにはいかない……お前は、また『混沌』に還れ!」

 

 

 取り出され、構えられたのは拳銃でありながらライフル弾を運用する化物級の拳銃砲(ハンドカノン)────『トンプソン・コンテンダー=アンコール』。

 

 

────さぁ、諦めろ。そして代われ、この『(■■■)』に。その身を、明け渡せ───!

 

 その銃口が、米神に突き付けられた。後は、銃爪を引けばそれで、脳漿を路面に打ち撒けて終わり。その跡形も、雨が洗い流すだろう。

 

 

『この、“悪心影(あくしんかげ)”に!』

 

 

 ならば────生きるには。出来る事など……ただ一つ!

 

「────撃てよ」

「『何─────?」』

 

 

 少女と、『悪心影(だれか)』が驚く声を聞きながら。玉虫色の、刃金に包まれた右手を─────

 

 

「この右手が、届く範囲は……」

『き、貴様……この、うつけめが』

「そんな発足(ブラフ)が、ボクらに……」

 

 

 捧げるように、前に─────

 

 

「俺の、理合(バリツ)の間合いだ!」

『この期に及んでも……是非もない、だと!?』

 

 

 伸ばして──────!

 

 

ウィルマース協同協会(ウィルマース=ファウンデーション)黒服執行官(エージェント)に、通じるものか!」

 

 

 同時に放たれた、必殺の銃弾。頭蓋どころか、貫通して路面すら砕くだろう、純然たる運動エネルギー。初速で既に、音を越えている。これを、目視で躱す事など人には出来まい。例え何らかの魔術(オカルト)能力(スキル)を持って回避したとしても、風に乗り追尾するこの銃弾を躱す事は叶わない!

 何より────既に狙い定めた、彼方の貫徹焼夷榴弾。あらゆる魔術や能力を遮断するそれによる二段構えを、突破など不可能!

 

 

「大したもんだよ、実際……だけどな!」

 

 

 だが、だがそれでも。嚆矢は、既に触れている。虚空に接するその『ヨグ=ソトース』の欠片を宿す右腕は、最初から全てに接していて────後は、息吹を掛けるのみ。

 

 

「“アルスターの輪廻よ(SOTA)”、“魔を祓え(DOTE)!”」

 

 

 今こそ見せよう、見様見真似のその術式。ルーンのカードを、致死寸前まで浪費して。

 ほぼ一日前、見たばかりのステイル=マグヌスの不完全にも程がある摸倣。何より、それは────使い方が、違い過ぎる。

 

 

「な、にぃぃぃっ!?」

『ま、さか────!』

 

 

 少女の目の前で、虚空が捩じ曲がる。『風王の爪牙』纏う銃弾の風を粉砕しながら。受け流した拳、無傷のままに。

 スコープを覗く、美青年の表情が歪む。真っ直ぐ、此方を目指す銃弾に。放たれた貫徹焼夷榴弾、空中で針の穴よりも小さな銃弾に当てる神業を見せながら。

 

 

「“祓え(DSPL)────『破魔の赤槍(ゲイ=ジャルグ)』!”」

『これは────まさか、礼装を……即席にだと!?』

 

 

 完膚無き迄に、貫徹焼夷榴弾を粉砕されて。何度も義母から聞かされた、アイルランドのお伽噺。『魔術を打ち消す』と言う、“輝く顔のディルムッド=オディナ”の赤い槍の銘を冠した銃弾が────ビルの屋上の人影を、撃ち抜いた。その手応えが有った。

 

 

「兄貴────!」

 

 

 それに、ほんの刹那。本当に僅かな一瞬、少女が隙を見せる。その隙を、逃さずに。

 

 

「“────立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)!”」

「な────」

 

 

 触れぬままに触れて。刻み付けたのは、『消沈』の三大ルーン。ステイルに刻み付けたものと、同じく。

 少女のあらゆる意思を掠め取り、あらゆる力を奪い─────しかし、その黄衣。その加護により、失神だけは免れて。

 

 

畜生(シット)……!」

 

 

 悪態を吐きながら、倒れ込む。それで、後はもう何も出来ない。死ぬ寸前の消耗の中、その姿を見下ろして。

 

 

「……いやはや、驚かされたな」

「ッ────!?」

 

 

 見遣るのは、駅前の道より現れた……刃金の巨躯。皮の上下に身を包む、サングラスの大男を。何時の間に現れたのかすら、分からなかった。その体に宿る緑の雷光が、バチリと弾ける。

 

 

「殺してやる気でこの廃区画まで追い込んでみれば……成る程、“土星の環の魔導師(マスター・オブ・サイクラノーシュ)”の秘蔵なだけはある。顕現しかけた『這い寄る混沌(ニャルラトホテプ)』に、精神力のみで抗うとはな」

 

 

 ほぼ、意味は分からない。しかし、分かる事もある。今、雨と風が止んだ事。そして、己の命はこの男に握られている事が。

 だが、男は嚆矢に見向きもせずに。肩に担ぐ黒い雨合羽の青年をそのまま、倒れ付した少女に……紙片を握る右手を差し出して。

 

 

「引き揚げだ、“セラエノ断章(セラエノ=フラグメンツ)”」

 

 

 息吹を掛ける。刹那、少女の姿は無数の(ページ)と代わり、男の右手に……一冊の『魔導書(グリモワール)』として。

 

 

「コイツらよりは、見所がある。その気があるなら、訪ねてこい」

 

 

 投げ放たれた紙片、水溜まりに。住所が記されたソレ、濡れて歪んでいて。しかし、油性のインクは落ちない。

 目を上げる。目の前、屈強な男の顔が。サングラス、持ち上げて。

 

 

「レイヴァン=シュリュズベリィだ。覚えておけ……コウジ=ツシマ」

 

 

 何もない、伽藍堂の眼窩。漆黒の闇が詰まった、それを見た記憶を最後に……男は、掻き消えている。まるで、初めから居なかったかのように。

 緑の雷光、その残光だけを残して。周囲全てに接する右腕にすら、感じるものはなく。

 

 

「……化け物が」

 

 

 震える指で、煙草に火を。万色の紫煙、燻らせながら。人の気配が戻りつつある世界に、安堵を溢して。

 

 

「…………ハッ。人の敷地で勝手した割りには、随分と絞まらない結末だったにゃー」

 

 

 その一連の出来事全てを目に。それでも、何ら揺るがずに嘲笑った……逆立った金髪にサングラス、アロハシャツの少年の姿、気付く事は無く────。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断章 アカシャ年代記=Akasha-Chronicle
??.----・error:『Nyarlathotep』Ⅲ


 

 

──燃え盛る。深紅の瞳、世界を()め尽くすかのように。燃え盛る。深紅の舌、世界を舐め尽くすように。

 燃え盛る。漆黒の鎧、自身を覆い護って。燃え盛る。漆黒の刃、自身を傷付け護って。

 

 

「…………?」

 

 

 気が付けば、何時の間にやら。息苦しい程の熱気に黒煙、物の焼ける嫌な臭い。油の燃える甘い香り、立ち並ぶ、ジリジリと音を立てる行灯の芯。薄い明かりに照らされた、和風な造りの室内。畳張りに豪奢な柄の襖に区切られた……随分と古めかしい作りの、しかし真新しい洋風の調度品の数々。

 目の前、彼方の距離で。飾るように置かれた……和風とも洋風とも判別のつかない甲冑。暗闇を溶かしたように禍々しい爬虫類の翅のような黒羅紗の陣羽織に、毒牙や毒爪、或いは魂を籠めて鍛錬()たれた『(ツルギ)』の鋭さを思わせる、侍の鎧兜。腕を組み、仁王立ちするその全身の隙間から覗く、燃え盛る憤怒を灯した無数の蛇じみた赫瞳。

 

 

 余りに雑な和洋折衷(アシンメトリー)に、一瞬感じた不快感。焔と油、乱雑な檻は、何か嫌な記憶を。

 

 

『■■■……』

 

 

 腕の中に、忘れ得ぬ絶望の冷たさと軽さが甦る、そんな幻を思う。有り得ない、もう二度と無い。忘れたままでいたい、無力の記憶を揺らして。

 

 

「さて────」

 

 

 声、意外な程に高い。まるで鈴を鳴らしたような、そんな声が背後から。刹那、周囲の空気が凍り付いたかのように張り詰めて。

 緊張に、喉が渇く。熱気を吸い込んだ時よりも、更に更に。

 

 

「さて。さて────親愛なる(わらわ)憑代(よりしろ)(きみ)よ、人の子よ。こうして話すのは、初めてかのう?」

「…………」

 

 

 憎々しげに、嘲笑うように。振り返った視線の先で────一段高くなった上座、刀掛けに一振りの紅い鞘に拵えの太刀と黒塗りの火縄銃の掛かったそこで肘掛けにしどけなく横たわる……絢爛たる娘。墨を流したように美しい黒髪を結い、螺鈿細工を施した(かんざし)を差した。血の色よりなお深い、蛇じみた鋭さと無慈悲さを映す()の瞳の。

 喪服のような、しかし紅色の錦糸で多数の彼岸花の柄をあしらわれた豪奢な振袖の上に、男物の黒い外套を肩に羽織った姿の。奇矯な、実に奇矯な娘だ。

 

 

「そう畏まるでない、多少興味があるだけぞ。ほれ、もそっと近う寄れ。そうさの、貴様が()()()()『第六魔王』を否定した為に、漸く(わらわ)が出てこられたのじゃからな。褒めて遣わす、小童(こわっぱ)。何か褒美をやらんとな……ほれ、金平糖(こんぺいとう)じゃ。正真正銘の舶来じゃぞ?」

 

 

 足下、洋風の平たく大きい杯に目一杯積まれた、文字通り金平糖の山。それを、裾を割りながら伸びた白い足が。器用にも足の指で掴み上げると、ずいと押し出してくる。

 別に甘いものは嫌いではないが、流石にこの量は見ただけで胃もたれする。と言うか、本来ならば無礼千万と怒っても致し方無かろう。

 

 

「はぁ……どうも」

「どうじゃ、甘かろ? これと、“かすていら”と言う奴は中々に旨い」

 

 

 しかし、そこでも紳士なのがこの男。右手を────玉虫色に黒光する毛皮に包まれた、猫科の猛獣じみた右手を伸ばし、一粒金平糖を摘まんで口に放り込む。控え目な、如何にも滋味に充ちた自然甘味料の味がした。

 

 

「いやはや、それにしてもそれにしても。見物であったわ、実に実に。“まやかしの魔王”め、偉そうに『(わらわ)』が名を騙っておきながらあっさりと否定されおってからに……くくく、窮鼠に噛まれた猫、否、()とはあんな顔をするのであるなぁ? あっははは……」

 

 

 けらけらと、一体、何が可笑しいのか。よく分からないが、随分とご機嫌なようだ。そして、娘が熱を籠めて嘲笑えば嘲笑うほど、背後から凍てつくような殺気を孕む沈黙。

 見れば、肘掛けに掛けた右腕の付近には……薔薇色の雫を波々と讃えた、総硝子製のボトル。左手には、同色の液体に満たされたワイングラスがある。笑い上戸なのかとそれを見詰める視線に気付いたのだろう、娘は得心がいった顔をして。

 

 

「ん、なんじゃ貴様、辛党か? ならば先に言え、今宵の(わらわ)は機嫌が良いからのう。苦しゅうない、仏蘭西(ふらんす)とやらの、『わいん』なる酒じゃ、とくと味わえ……そして、子孫末代までの栄誉とするが良いぞ」

 

 

 言うや金平糖の杯を転がし、畳にぶち撒けながらもう一つのグラスにワインを注ぐ。薔薇色の液体に満たされたワイングラス、馥郁(ふくいく)たる香気が舞う。

 そしてそれを、やはり……器用にも足の指で掴み上げ、差し出してくる。別に嫌みの類いではなく、自然とそうしているのだろう。受け取り、杯を傾ける。

 

 

「この『悪心影(わらわ)』……“第六天魔王・波旬”の酌を受けた栄誉を、な……くくく」

 

 

 艶然と笑う娘から杯を受け取った掌は、やはり獣。段々と甦ってくる、その意味。嗚呼(ああ)嗚呼(ああ)、そうか、と。酒精を得て高速回転を始めた思考が。

 そう、故がある。何故、自分がそんな姿をしているのか。何故、そんな姿をしている自分が……『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』の悪夢の中に居るのか。

 

 

 単純な話だ、実に単純。ならばこそ、致命的な話ではあるが。

 

 

「……不味(マズ)い、早く帰らないと」

 

 

 焦燥が満ちる。不味い、非常に不味い、と。勿論、ワインは最高に近い美味。不味いのは、外の状況だ。

 記憶が確かなら、もし、気付かれでもしたら……笑えない事態に陥るだろう。

 

「……なんじゃと、貴様。今、何と申した? (わらわ)の下賜した酒を、言うに事欠いて……『不味(マズ)い』、じゃと?」

 

 

 だが、娘にはそんな心模様などは伝わらない。自らの丁重、彼女にしては最大限の歓待を貶したと取って。背後の刀を掴み、秀麗な眉目を不愉快に歪めて目の前の『傾奇者』を睨む。

 その圧力たるや、背後の『甲冑』の比ではない。世界が歪むのではないかとすら感じる、緋色の瞳の覇気に。

 

 

「あ、いや、そうじゃなくて……いや、それよりそろそろ俺、現実に帰りたいんだけど」

 

 

 しかし、しかし。これが現実ではなく夢だと知っている()()()()嚆矢は、目覚める方法を思案するだけで。

 足下、零れた金平糖。それを次々に掠め取って飲み込んでいるショゴスにも、注意すら行かず。

 

 

「……よかろう、そこまで言うのであれば。さぞかし『貴様の世』には、美味なる酒があるのであろうて……」

 

 

 怒り一転、不敵な笑顔に戻った彼女が見詰める視線。それに、ショゴスが一瞬、怯えるように震えて。

 投げ渡された刀、ずしりと重い。鮮やかな血色の、返り血に染まったかのような、恐るべきと本能で悟る刀であった。

 

 

「『長谷部 国重(はせべ くにしげ)』……()()()()()()()()()我が佩刀じゃが、今回は特別じゃ。それを褒美にくれてやる。出口なら其所じゃ、好きに下れ」

 

 

 ぱちんと、娘の指が鳴れば──無人で開け放たれた襖が数枚。丁度、娘と甲冑の中間の襖。その先には……螺旋階段。焔に包まれ、金色に輝いている。部屋の熱気は、この為か。

 息が詰まる。それは、決して足下から立ち昇ってくる高熱の為だけではない。

 

 

(わらわ)は“双子”のように優しくはないのでな……この『安土天守閣』より去りたくば、それに見合う決意と覚悟を見せてみよ」

 

 

 嘲笑うように、憎々しげに。娘が告げる。熱、だけではない。目には見えないが、何かもっと、『焔に似たもっと悍ましきモノが跋扈している』と。人の、矮小たる本能であるからこそ、それを理解できた。

 見詰める。『主』の許しを得た『何か』どもが、こちらを見詰めている。恐らく、それが“何か”を理解すれば、正気では居られないものが。彼がどう足掻こうと、勝ち目の無い炎の『旧支配者(グレート・オールド・ワン)』達。くねくねと、陽炎の体を揺らしながら、待ち受ける『(つわもの)』共が。

 

 

「…………オーケー、それじゃ」

 

 

 それだけを口に、螺旋階段に歩み出る。死出の一歩か、娘は無感動、鎧は歓喜をもって、それを眺めて。

 

 

「────またニャア、次は名前くらい聞かせてくれナーゴ、エキゾチックなお嬢さん?」

 

 

 『Mr.ジャーヴィス』の口調で、頭にショゴスを纏って黒豹とした男は飛び降りる。螺旋階段の中央、虚空のただ中に。

 

 

「くく────ははは、快哉快哉! 莫迦正直に段を下らず飛び降りるか、その先に何が待つかも知らぬと言うに! あのようなうつけ、大傾奇、利益(とします)以来じゃのう!」

 

 

 からからと、はしたない程に笑い転げる娘。腰帯に挿した『天下布武』の四文字が記された軍配を手に。面食らったのは、旧支配者どもか。まさか、まさか。そんな馬鹿げた事をする者が要るなどと。

 

 

『Guuu─────Rwoooooooooooooooo!!!!!』

 

 

 刹那に響いた咆哮に、『竜の(アギト)』の如く裂けた鎧の顎から放たれた、次元を震天させたその処刑宣告に。“第六次元(まやかしの)魔王”の宣告に炎の全てが捩じ曲がり、散断する。数百、数千の人知を越えた怪物どもが、鏖殺(おうさつ)されたのだ。

 だが、所詮は『人では敵わない』程度の怪物。何ら、死滅した所で……替えは幾らでも効くのだから。

 

 

 後に残るのは、ただ静寂。『無音の漆黒世界(シャルノス)』。そのただ中には。

 

 

『おのれ────おのれ…………!』

 

 

 憎しみに、屈辱に震える、漆黒の甲冑のみ。剱なる甲冑の、そう見える『竜』が。ただ、それだけが……。

 

 

………………

…………

……

 

 

「って────聞いてんのか、このクソ猫がよぉ!」

 

 

 耳をつんざく怒号、女の。目を開けば、加えて、輝き────

 

 

『あぁ(あぶ)ニャアァァァ!?』

 

 

 折れんばかりに首をかしげ、辛うじて『それ』を躱す。薄緑の光、集束された、一条の。間違いなく、眉間を狙っていた、その────

 

 

「テメェ────おいコラ、ジャーヴィス……説教中に居眠りたぁ、いい度胸じゃねぇか……アァン?!」

『寝てませんニャア、断じて寝てませんナーゴ!』

 

 

 ドスの効いた声、ブチキレた学園都市第四位『原子崩し(メルトダウナー)』麦野沈利の一撃を、命からがら。もし後一秒でも起きるのが遅れていたら、今頃はこの猫頭、熟れた柘榴(ざくろ)の実のようにパックリ逝っていただろう。

 そんな事も辞さないほど、怒髪天を突く状態の彼女。一体、何があったのか。段々と思い出す。そう、あの襲撃を受けた後、休む間もなく『アイテム』の会合に参加したのだ。しかし、開始した時にはもう、麦野沈利は憤怒していて今に至るのだ。

 

 

 自らの左右のフレンダと最愛、沈利の隣の離后の様子からも、かなり不味い状態だと言う事は分かる。少しでも対応を誤れば、即座に殺されかねない程だと。

 

 

「テメェらがモタモタしてやがったせいで、このザマだ……アイテムの看板に泥塗りやがって! 覚悟はできてんだろうなぁ?」

 

 

 バン、と叩かれたモニター。そこに映し出されていたのは、どうやら世界的な動画投稿サイトの画像。題名は──『グロ注意! 能力者による激ヤバ虐殺画像!』と銘打たれたソレ。

 携帯の画像のようで、酷く解像度は悪い。しかし、その中央。悲鳴と怒号に包まれた路上で……まるで『見えない獣』にでも貪り喰われるように体を欠損させていき、最期には消えてなくなっていく男の姿。

 

 

「新聞にも載った事件だ……分かるか、明るみに出たんだよ、暗部が。暗部にゃ、絶対の不文律がある……それが、依頼は必ず遂行する事だ。過程なんて意味がねぇ、ただ結果を出すだけだ。そうじゃなきゃ、淘汰されんのはこっちの方なんだよ!」

 

 

 見間違えようもない、その男は────『アイテム』が追っていた、『突貫熱杭(バンカーバスター)』の男。

 

 

──マジかよ……“地を穿つ二つの魔叫(ドール&シュド=メル)”を破壊した後も、暫く生きてやがったのか!

 

 

 危うく、声を出しそうになるのを耐える。あの下水道の事は、彼女らには一切話していない。科学全盛のこの学園都市において、あんなオカルトは誰も信じないし……何より、他人を巻き込むような事ではない。

 まぁ、その所為で今の窮地に陥っているのだから何とも言えないのだが。

 

 

「今すぐ、これをヤったクソッタレを見付け出してあたしの前に連れてこい────さもなきゃ腕や脚の一本二本のケジメじゃ済まねぇぞ、このボケナスどもが!」

 

 

 二撃目に嚆矢を除いた三人の少女らが身を竦ませ、モニターに蜘蛛の巣状のヒビが走る。『大した腕力だ』とか場違いな事を思いながら、自身に『話術(テイワズ)』のルーンを刻んで。

 

 

『まぁまぁ、そう簡単に行かないのが暗部だニャア。こういう時は執着せずに心機一転、別の仕事に掛かる方がいいナーゴ』

「アァん? おいおい、よっぽど死にてぇのかクソ猫……!」

「ちょっ……なに口答えしてんのよ、アンタ?!」

「超黙ってください、死ぬ気ですか!?」

 

 

 命知らずにも肩を竦め、真正面でへらへらと。嘲笑染みた覆面のまま、血涙を流す瞳と乱杭歯の(アギト)を歪めて。沈利の睨みを一身に受けながら。

 フレンダと最愛の諌める小声など、息を呑む離后などに見向きもしないままに。

 

 

『死にたくないからだニャア。こんな事が出来る能力者は、オイラは一人しか知らないし────コイツは確か、『スクール』からの脱走者なんだったナーゴ?』

「……チッ、そうか、そうだったな。コイツは、『スクール』の一人だった」

 

 

 そこまで口にしたところで、沈利は忌々しげに吐き捨てた。性悪猫の口車に乗せられて、麦野沈利は『敵に回そうとしている相手』を思い出して。

 

 

『そうだニャア、こんな事が出来る能力者は────第二位(ダークマター)以外に、オイラは知らないナーゴ』

「分かった分かった、分かったって……クソが、滝壺!」

「あ、うん……これ、今回の」

 

 

 幾ら第四位(メルトダウナー)と言えど、やはり最大の暗部勢力である『スクール』を敵に回すのは避けたいらしい。怒り心頭でも、そのくらいの判断がつくのは有り難い。

 嚆矢の言葉に、舌打ちしながら髪を掻き上げて。一応、怒りは収まったらしく、離后から引ったくるようにパソコンを受け取って。

 

 

「だが、テメェら三人にはケジメは付けて貰う。この任務を達成できなかったら、分かってるよにゃあ?」

 

 

 いつものように、巫山戯ながら。しかし、眼だけは怒気を孕んで据わったままで。沈利は、嚆矢とフレンダ、最愛の三人に新たな指示を下したのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 篠突く夕立が上がり、夏の暑さに早々と水蒸気が溢れた空に虹が掛かる。それを眺める人々は、足下の水溜まりを踏み散らして。

 現在時刻、十八時。フレンダと最愛を引き連れ、駅前広場の雑踏を歩きながら煙草を吹かす彼。濡れ鼠の体と服は既に近くのネットカフェとコインランドリーで乾かし、万能細胞(ヨグ=ショゴース)をダブルのスーツ、ロングコートとして纏い、黒い性悪猫(チェシャ=ザ・キャット)の姿となった嚆矢である。

 

 

『いやぁ、流石に死ぬかと思ったニャア。恥ずかしながらオイラ、漏らす五秒前だったナーゴ』

 

 

 ヘラヘラと、けらけらと。先程までの死地に次ぐ死地を掻い潜り、万色の紫煙を撒き散らして。戯けるように、周囲の雑踏より頭一つ背の高い彼は背後の二人に向き直る。

 周りからは、文字通りに煙たがられて。しかし、その余りに異様な風体に、誰も口には出さず。

 

 

「結局、生きた心地しなかった訳よ……」

「超ここまでかと思いました……」

 

 

 がっくりと肩を落とし、九死に一生を得た安堵で溜め息を吐いた二人を。

 

 

「大体ね、アンタ、麦野に意見するとか正気? 結局、現代アート風味の面白オブジェになりたい訳?!」

『んな訳ないニャア、オイラ、人のままで居たいナーゴ』

「人じゃなくて、超猫ですけどね」

 

 

 つかつかと、自慢だと話していた脚線美でもって、フレンダが金髪と白いミニスカートを揺らしながら詰め寄る。すわ痴話喧嘩かと衆目を集めるも、我関せずとばかりに距離を取って口を挟む最愛。

 

 

『兎も角、今回ちゃんと任務を熟せば不問になるしニャア。頑張ってこうナーゴ』

「アンタが仕切ってんじゃない訳よ、新入りの分際で!」

『ンニャ?! フ、フレンダちゃん、膝は痛いニャアゴ!』

 

 

 意外に鋭いローキックをフレンダに叩き込まれ、膝を抱えて跳ねる嚆矢。やはり周りは、迷惑そうに、しかし誰も口には出さず。蚊帳の外で最愛が、沈利からの指示を諳じる。

 

 

「『非人道的人体実験の摘発』、ですか……超白々しい上に、超キナ臭い任務ですね」

 

 

 フードの奥から、鋭い眼差しで茜色に染まり始めた西の空を見遣り……反吐でも吐くように、大気を揺らした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3章・chapterⅡ Glaaki Apocalypse/禁書目録
七月二十六日:『夢引き』


 

 

 現在時刻、零時半。既に夜の(とばり)は降りて久しく、昼間の暑気の残滓を孕む夜風がぬるりと吹くのみ。

 明日以降の行動指針を決めて、フレンダ達とは別れた。今は、取り合えず明日の夜の『敵情視察』の準備の為に、彼の師父の『純喫茶 ダァク・ブラザァフッヅ』へ。

 

 

「失礼しまーす」

 

 

 軽くノックして入店するや、ムーディーなブルースの流れる薄明かりの室内。古めかしい蓄音機からのひび割れた音と、白熱電球の朧気な光に照らされて、グラスを磨く麗人の姿が。

 その目の前には、今まで客が居たような飲みかけのグラス。見れば、純喫茶には有り得ないブランデーのボトルとツマミの豆類。まだ、開けて間もないだろう、並々と満たされたそれがぽつりと。

 

 

「今晩は、コウジ君。連絡にあった入り用の物、揃えておきましたよ」

 

 

 此方を見る事もなく、これである。一時間前に連絡したばかりだと言うのに。カウンターの上にはジュラルミンケースが一つ、開けてみれば成る程、注文通りに暗視カメラとゴーグル、軍用の。

 そして、銃嚢に収まった拳銃。かつて、旧日本軍が使用していた大型の自動式拳銃(オートマチック)。今時、知る者すら居ないような旧式拳銃を、嚆矢は目を輝かせながら手にして。

 

 

(すげ)ぇ、本物(マジモン)だ……!」

「ええ、最近、学園都市内の好事家が実物を複製したものです。無論、逮捕されたのでそれを横流…………コホン、安心してください、勿論模造銃です」

「もうほぼ犯罪がらみって分かったけど、まぁ良いか!」

 

 

 気にせず、欲しかった玩具を手に入れた童子のように掴み取る。撃針(ストライカー)方式のその拳銃、消し炭色に染め上げられた()()()()()()()()を抜き放つ。

 

 

────ほう、短銃(たんづつ)か……流石に六百年も時が経てば、根本から違うのう! 実に新しい!

 

 

 旧日本帝国製の大型自動式拳銃、『南部大型自動式拳銃・甲型(グランパ・ナンブ)』を。最早、文献や博物館くらいでしか見れない物を実際に手にし、感激しながら。その為か、思考の『()()()』に気付かずに。

 だが、全く違う。見た目の三分の一程しかない重量に、その材質。

 

 

「見た目は旧式ですが、大幅に手を加えてあります。何せ、『F2000R(トイソルジャー)』のノウハウを応用した金属非使用の積層プラスチック(ラミネート)のフレームに、ケースレスタイプの50AE弾を撃てますから」

「金属探知機に無反応で、強装弾(マグナム)対応型ですか……そりゃ捕まる訳だ。まぁ、強力な分に文句はないです」

 

 

 恍惚と、そんな事を口にしながら。嚆矢は拳銃、ジュラルミンケースに戻して。

 

 

「代金ですけど……やっぱり現ナマですか?」

 

 先ず、第一に大事な事を口にした。取り合えず、今ある現金は全て、下ろして来はしたが。足りるのか、と。そんな彼に、師父は安堵を誘う瞳と笑顔を見せる。

 男が見ても惚れ惚れする美男子、女なら既に落ちていてもおかしくはない笑顔で。

 

 

「そうですね……先ずは、幾ら払えるか、からでしょうか」

 

 

 悪魔よりも腹黒く笑いながら、何故か、その瞳は────性質(たち)の悪い、醜悪な。腹を空かせた蝦蟇(がまがえる)を思わせて。

 震えたのは、弟子か。僅かな慈悲を願って。それが、現実のものとなるように。

 

 

「まぁ、それは兎も角。態々(わざわざ)、この世で最も従順ならざる使い魔(ショゴス)を選ぶとは……君は、余程ハードモードの人生が好きなようだ」

「そうですか? なんか、間抜けな奴ですけど」

 

 

 微笑むように、師父が苦笑いする。見詰める視線は、背後の影。血涙を流す深紅の瞳、辺りに巡らせるショゴスへと。

 否、本当にショゴスにかどうかは判別がつかない。()()()()()()()()()()()()()()()のだから。

 

 

「では、拳銃は私からの御祝いと言う事で。合衆国協同協会(ウィルマース・ファウンデーション)の魔導師二人を退けた、ね」

「…………」

 

 

 知っていた事には、別段驚きはない。この人はそういう人だと、随分昔から知っている。恐らくは、今回の仕事(ビズ)の内容も知っている事だろう。

 一体それが、どんな魔術か。或いはそれ以外なのか。そもそも、この閉鎖的な学園都市内で、このような軍用品や横流し品をどうやって捌いているのか。分からない事ばかりである。分かっている事など、ただ一つ。

 

 

「……相変わらず、師匠の“象牙の書(ブック・オブ=エイボン)”は謎だらけですね」

 

 

 僅かな意趣返しか。鎌を掛けるように、口を開く。それに、師父はうっすらと。

 

 

「いえいえ。この世の遍く全ての知識を記す、君に潜む『()()()()()()』程ではありませんとも」

「え────?」

 

 

 うっすらと、相変わらず笑いながら。何か、聞き逃してはならない筈の言葉を、聞き取れない。まるで、人の物ではない喉で、無理矢理発されたような、その掠れ声は。

 

 

「そう。背後に佇むその『影』、顕現まで果たした『クルーシュチャ方程式(■■■■■■■■■■)』の元に。すぐに、すぐに……君は」

 

 

 ふと、正気に帰れば……聞き返す、そんな単純な事すら(はばか)られる。それ程だ、目の前の魔人の放つ瘴気は。薄明かりの室内に満ちる闇の色、狂ったように掻き鳴らされるレコード盤を掻き毟る音色。

 最果てで響く、か細く呪われた横笛(フルート)のような。或いは、くぐもった狂おしき太鼓の連打。常人では、まともな感性では、とても正気を保てはしまい。とうに狂った感性ならば、既に人間ですらなくなっていよう。

 

 

「───────…………?!」

 

 

 そんな魔人を真正面に、嚆矢が正気を保てているのは────何の事はない、魔人にその気がない、ただそれだけだ。

 その左手、無造作に持つ一冊。この世にあり得ざる、緑色の獣皮で装丁された書物。遥かなヒューペルボリアの地底に潜む『土星からの旧支配者』の恩恵に預かった大魔導師の名を冠した、或いはかの“死霊秘法(ネクロノミコン)”にすらない記述を持つとされる魔導書中の魔導書────邪悪の一代集大成“象牙の書(ブック・オブ=エイボン)”。

 

 

「……『教授』が手を引いたなら、余程の事が無ければ彼らは手を出して来はしない筈です。安心して、君は君の『日々』を()()()ください」

「──『(まわ)す』……」

 

 

 その気配を、刹那に霧散させて。穏やかな薄明かりに彩られ、しっとりと落ち着いたブルースの流れる、静かな夜の景色が帰ってくる。

 久方振りに感じた悪寒と戦慄、否、少し前にも。命の危機などと生易しいレベルではなく、絶望的な格の差として……『レイヴァン=シュリュズベリィ』と名乗った“セラエノ断章(セラエノ=フラグメンツ)”の主にも感じたもの。

 

 

 そして、何故か心を震わされた……その一言────『廻す』。その一言に集中した故に、触発されて思い出す。ずっと昔、その『言葉』をよく聞いていた事に。

 

 

『ふむ……つまり、“確率を操る能力”とは。成る程、そういう仕組みか。大したものだ、正体不明の怪物(ザーバウォッカ)くん?』

「ッ────?!」

 

 

 忌まわしい、『白い部屋』の記憶と共に。(しわが)れた老人の声が、脳内、忘れえぬ『()()()()()()()』から漏れ出して。

 吐き気を催す。それは目の前の師父、魔人の放つ瘴気よりも尚、色濃いトラウマを呼び起こす────本物の“狂気”を孕んでいて。

 

 

「少し、口が過ぎました。すみません、師匠」

「おや、そんなに気にしなくても」

 

 

 それを辛うじて堪え、突き掛けた膝に喝を入れて。十倍返しで返ってきた意趣を、受け止める。その、変わらない微笑みも自業自得だ。

 ジュラルミンケースを受け取り、一礼する。自分で巻いた種だが、居づらくて仕方無い。

 

 

「それじゃあ、また」

「ええ。それでは、また」

 

 

 背を向けた弟子に、来た時と全く同じ姿勢のままで氷を球形に削りながら。新しいグラスにそれを納め、ブランデーを注ぎ─────()()()()()グラスの代わりに差し出した。

 

 

「全く……『這い寄る混沌(ニャルラトホテプ)』の化身を否定するだけの度量があるかと思えば、トラウマ一つにあの体たらくか」

「その矛盾が、人間の面白いところですよ。人間の貴方には、分からないでしょうが……そう、もう来ないと息巻いていたのにのうのうとまた来る、とか」

「変化を続けるのが生き物ってもんなのさ」

 

 

 それを、無造作に掴んだ武骨な掌。褐色の白人の、強靭な右手が琥珀色の液体を喉に流し込む。革の上下に、サングラスの偉丈夫が。

 何時から、其処に居たか。おかしな事を言う、最初から其処に彼はいた。ただ、()()()()()()()()()()に過ぎぬ。

 

 

「流石、愚かにも人間を捨てた男の言う事は違うな、理解不能だ」

「ええ、不様にも人間にしがみつく男の言う事は、予想の内です」

 

 

 互いに、くつくつと笑いながら。魔人どもが笑い合う、親愛と敵意を籠めて。質量持つ闇と緑の雷光が鬩ぎ合い、室内の空間が軋む程に。

 

 

「貰うぜ、あれは。掘り出しもんだ、餓鬼ども以来の。鍛え上げりゃ、一級品になりうる」

「君の『海妖』と『空精』と一緒にしないで頂きたい。あれは、私の『月霊の双子(ムーンチャイルド)』の総決算なのですから」

「知らねぇな、選ぶのはアイツだろ? 『月の両面』に見詰められるあの餓鬼、或いは、神に届く」

「成る程、慧眼だ。流石は『背徳の都の断罪者(フィラデルフィア=エフェクト)』だ。あの旧支配者“悪徳の神(イゴーロナク)”を討ち果たした、雷神だ」

 

 

 軋む。空間を埋めた闇を、雷が焼き払う。衰えた雷を、闇が染める。故に、空間は軋み続ける。

 

 

「まぁ、今は止めとくさ。ちょっとばかし騒ぎ過ぎてな、統括理事会とやらに睨まれちまってよう。黙らせるのに時間が掛かりそうだ」

 

 

 カロン、とグラスが鳴る。氷、割れて。琥珀色の液体が波打って。注いだ麗しき男、にこりと。飲み干した刃金の男、ニタリと。

 

 

「自業自得ですね、全くもって君らしい」

「違いねぇ、年甲斐もなくやり過ぎたぜ」

 

 

 最後に、その鬩ぎ合いすら消して。三度、差し出されたグラス。そこに波波と湛えられた、氷を抱くブランデー。

 それを傾けながら、魔人達の夜は更けていく……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 帰途に着いた、その脚が震えていた。まるで、狩猟者に相対した獲物のように。不様にも、無様にも。視線、虚空に漂わせる。目が合えば喧嘩を売ってくる、猿山の猿以下の満ちる道だ。別に五・六人くらい物の数ではないし、今なら十・二十人くらい病院送りにしてやりたいくらいに荒れてはいるが。

 万色の紫煙を燻らせ、そんな不甲斐ない自分を恥じて。一般学生の代わりに不良学生が幅を効かせる、昼間とは全く違う顔を見せる雑踏を歩く。言うなれば、昼間は品行方正な学級委員長。夜は落第上等な非行女学生か。ソソる噺だ。

 

 

 そんな、取り留めの無い事を考えながら。或いは、現実逃避しながら。歩く先、ふと見た路地裏。そこに、見た事覚えのある姿を。

 煙草をショゴスにくれてやり、気を取り直して、努めて明るく。

 

 

「おーい、御坂!」

「………………?」

 

 

 見覚えのある、常磐台の制服。嫌に真新しく感じたのは、このネオンに満ちた夜の都市の所為か。胡乱に立ち尽くしていた彼女、その瞳────虚ろな瞳が、此方を見詰めた。ぞっとする程、無機質な瞳が。

 

 

「ん? どうした、御坂? そんな『うわぁ、ロリコン気味の先輩に会って嫌だなぁ』みたいな顔して?」

「ミサカネットワークに照会、該当なし…………どちらさまでしょうか、とミサカは問い掛けます」

「って、それ俺の事やないかーい……おい、御坂? ここを自分で突っ込ませるのはドSの所業だぞ?」

 

 

 等と、戯けて口にしながら。見遣る先、虚ろな眼差しで此方を見ている……御坂美琴へと。

 

 

「どうやら伝わっていないようなので、どちらさまでしょうか、と。ミサカは再度、問い掛けます」

 

 

 先程も見た、ゴーグルのような物を額にした()()()()へと。問い掛けながら。虚ろな眼差し、受け止めて。

 再度の、虚ろな眼差しを受けて。流石に────何かやらかしたかと、不安になって。

 

 

「いやいや、御坂。知らんぷりは流石に先輩、答えるんだけど……あれか、不思議ちゃんにクラスチェンジ?」

 

 

 しょんぼりと、アスキーアートのように顔を変えた。処世術、正にそれ。そうやって、人の関心を得ていたからこそ。

 刹那、叩かれた肩。煩わしく振り返れば、成る程、先程まで其処らに居たゴロツキども五人。

 

 

「悪いねぇ、兄ちゃん。その子を待たせてたのはさ、俺らなんだよ」

「あァ─────?」

 

 

 それに、()()()やる。振り返りながら、わざわざ。

 

 

「だからよぉ、テメェはお呼びじゃ……ねぇって…………あれ、ひギィ?!」

 

 

 ゴキリ、と外れた男の右手。手首、肘、肩のみならず、指先に至るまで。捩れ避けた手首を押さえ、味わった事の無いであろう苦痛に身を(よじ)る不良を見下ろして。否、右足で蹴りつけながら。

 傲慢に、傲岸に。嘲笑いながら告げる声で、ミコトの肩を抱いて。

 

 

「あァ、全くもってお呼びじゃねェなァ。これは俺の女だ。ゴミ屑風情がァ、手ェ出そうとしてンじゃねェよ────!」

「の、能力者……?!」

「ヒッ─────す、済みません、済みません!」

 

 

 挙げ句に、威圧されて逃げ惑う彼ら。散り散りに、散逸して夜の街の喧騒に消えていく。それを眺めていた通行人達も、興味を失って一人、また一人と。

 

 

「嫌だねぇ……何でもかんでも能力、能力。別に人の関節くらい、能力使わなくても外せるっての」

 

 

 それを見送る事もなく、吐き捨てる。馴れ馴れしく、肩、抱いたままで。

 

 

「暴漢を追い払ってくださった事にはお礼を申し上げます。しかし、肩に手を回す必要はあるのでしょうか、とミサカは疑問を口にします」

「ハハ、やっぱり?」

 

 

 ジト目で見詰めてくるミコトに悪びれる事なく、肩から手をどけて一歩、距離を取る。来るかもしれない、電撃に備えて。

 しかし、杞憂に済む。何と言うか、いつもと違って覇気の無い彼女の様子に、若干の不安を抱いて。

 

 

「大丈夫か、御坂? こんな夜中に出歩いてたら、また寮監さんにシバき回されるんじゃ?」

「心配は無用です。今はただ、()()()()()()()ですから、とミサカは答えを返します」

「『待っているだけ』って……誰を────」

「────なンだァ、今回は野郎のおまけ付きかよォ?」

 

 

 そこまで口にした瞬間。彼女の背後の路地、一層深い闇の中から歩み出てきた人物。白い髪に、赤い瞳。妙な柄のシャツを着た、如何にも柄の悪い────その少年は、ミコトと嚆矢を一瞥した後、面倒臭げに呟いた。

 惜しむらくは、少し前に煙草を吸っていた事。その所為で鼻が鈍っていなければ、彼の纏う()()()()()()()に気付けたかもしれない。

 

 

「いいえ、この方は無関係です。そして今日のノルマは達成済み、指示あるまで待機の命令を受けています、とミサカは答えます」

「あァそうかよ。じゃあ、後片付け宜しくなァ。今回は少し、()()()()()()()()()からよォ?」

「承知しています。全て、()()()()()()から」

 

 

 慣れた様子で、流れるような会話を交わす二人。言葉を挟む余地もない、事務的な雰囲気すらある。ここで、一つの可能性に思い至って。まさかな、と苦笑いに口角を吊り上げる。

 

 

「…………あぁ~、ね。お邪魔したか、こりゃ失礼」

「はい?」

「あァ?」

 

 

 そんな少年とミコトの会話、その以心伝心と言った具合の会話に────ピンと、得心がいって。嚆矢は戯けた様子で、ぺし、と自分の額を叩いて。一歩の距離から、一気に五歩の距離へ。

 二人から同時に、怪訝な顔を向けられて。それでも尚、道化のように恭しく頭を下げて。

 

 

「馬に蹴られる前に、退散退散……それじゃあお二人さん、良い夜を~」

 

 

 ジェスターマスクのような笑顔を張り付けて、某黄色いスーツのダンディなお笑い芸人のように、素早く捌けていく。見送るミコトと少年は、怪訝な顔のままで。

 

 

「なンだァ、ありゃあ?」

「恐らくは、『御坂美琴(ほんもの)』の知り合いだろう、とミサカは推測します」

「ヘェ、そりゃ────御愁傷様なことで」

 

 

 ミコトの肩を抱き、ニタリ、と。性質(たち)の悪い獣のように少年が笑う。耳許に顔を寄せ、邪悪で、慈悲を感じさせない、獲物を見付けた獣の笑顔で。

 

 

「俺が『絶対能力者(レベル6)』になる()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を間違えるたァ、お優しい限りじゃねェか。なァ?」

「…………」

 

 

 嬲るように、嘲るように少女に囁いて。少女は、無表情のままで────

 

 

………………

…………

……

 

 

 七月の晴れ渡る朝、清澄な空気。白む世界を祝うかのように小鳥が鳴く、爽やかな風が吹き渡る────

 

 

「……有り得ねぇ。何が悲しくて、こんな良い日に野郎四人で雁首揃えてんだ、俺達は」

「さっきっから何回目の愚痴だよ、ロリコン先輩?」

「そうは言うがよ、おむすび君……この人選は確実に、誰かの悪意の産物だと思うんだ」

 

 

 ……等は既に彼方、照り付けるきつい日差しに白く染まる街路を歩く、カッターシャツに汗を滲ませた四人組。風紀委員(ジャッジメント)の、男子生徒四人組である。

 大欠伸を噛みながら怠そうに歩く学ランの前を寛げた嚆矢に、腕組しながら苦笑した『巨乳』Tシャツの巨漢、学制帽に丸い黒眼鏡の位置を直した長身痩躯、肩を揺らしながら歩くスキンヘッドの四人組だ。

 

 

「つまり、対馬は固法(このり)の罠だと言いたいのか?」

「それだ!!」

「何が『それだ』だよ、このロリコンは……ったく」

 

 

 等と駄弁り、ヤル気ゼロで巡回しながら。今頃は、黒子と飾利、美琴は涙子の退院を迎えに行っている頃だろう。尚、本当は嚆矢も抜け出して行く気満々だったのだが、『巡回強化週間なので』とあっさり美偉に捕まった上に監視役を三人もつけられてしまった次第である。

 仕方ないと言えば、仕方ない話だ。今、この学区では『警備員(アンチスキル)』が機能を鈍らせている。前回の『幻想御手(レベルアッパー)事件』の際に、かなりの数が木山春生により負傷させられた所為で。その穴埋めの為に、本来は学校内の雑事解消が基本の風紀委員が学区内の巡回警邏を行うくらいには、人手不足である。まぁ、附随する権限は何ら、増えていないのだが。

 

 

「あーあ、全く。最近、良い事ねぇなぁ……」

 

 

 吐き捨てながら、思い出すのは日付的には今日の話。日付が変わって間も無くの、深夜の出来事。街路の暗がりで出逢った、美琴の事。

 

 

──彼氏持ちだったとは、思いもよらなかったぜ……何だかなぁ、妹に彼氏が出来た兄貴ってのは、こんな気分なのかねぇ……

 

 

 思い出す、少女と────少年。白く、矢鱈と性質(たち)の悪そうな、不良っぽい。選りにも選って、あんなのかと。人の趣味をとやかく言う気はないが、溜め息を禁じ得ない。よく、『火傷して少女は女になる』とは言うが。

 知り合いでこのダメージだ、リアルの義妹(いもうと)だとどうだろう、と考えて。

 

 

「……無いな。むしろ、彼氏の方が可哀想になる。彼氏無理すんな、逃げろって言いたくなる」

 

 

 怖気と共に、苦笑しながら。メールひとつ返し忘れれば部屋に式紙(アザー)が大挙して火事になるだろうし、記念日の贈り物を忘れでもしようものなら……『怪物』がブチ殺しにやって来るだろう。

 命が幾つ有っても足りない、あんなのと付き合えるのは、きっと不死身の化け物(フリークス)くらいだのものだ、と。

 

 

「どうしたよ、ロリコン先輩?」

 

 

 隣のおむすび君の声に正気に還り、黒一色の現実にまた、嫌気が差して仏頂面に。そして、今までの考えを全て、忘却の彼方に。また、いつもの日常に没頭する為に。

 

 

「別に。早く終わらねぇかなって、それだけだ。早く終わらせて、ファミレスにでも涼みに行こうぜ」

「お、良いっすね」

「……悪くない」

「今日、初めて同意するぜ」

 

 

 天魔に唆された少年達は、代わり映えしない日々を過ごして。結局、そこを美偉に見付かり大目玉を喰らうのは後の話。

 

 

………………

…………

……

 

 

 チク・タク。チク・タク。秒針の音、揺らぐ事無く。時計の音、変わる事無く。白銀の懐中時計を携えて、オープンテラスで紅茶とスコーンを摂る()()()()()は葉巻を蒸かして。

 

 

「やれやれ……夢引きも知らぬか」

 

 

 酷く巨大で重厚な、大型の機械が軋むように重々しい声だった。最上級のアルマーニ、惜し気もなく日差しの暴虐に晒しながら。嘲笑うように、面した道路を通り抜けた四人の少年達を嘲笑って。紅茶とスコーンを運んできたウェイトレスへと、機械のように正確に微笑み掛けて。

 丹精な、名匠が魂を籠めて作り上げたかのような美貌に頬を染めたウェイトレスが、喫煙を注意する事も出来ずに恥じ入って逃げ出した。

 

 

「多寡が、ルーンの三文字で。相も変わらず、脆弱。矮小……しかし、目立つ行動をとる。流石に、“ヴードゥー教の始祖たる神”は違う」

 

 

 時計の音は、全てを告げる。嫌が応にも。誰も彼も、神も仏も、預言者ですら、その戒めには抗しえない。現実が、全てを告げる。現実が証明しているのだから、誰にも、貴方にも、それは否定しえない。

 

 

「少女。生け贄。さ迷える子羊……か。他者に荷担したところで無意味、無価値。そろそろ、理解して欲しいものだ」

 

 

 携帯灰皿に灰を落とし、誰かを見詰めて嘲笑うままに。進み続ける針の照り返す、太陽の光とは違う『灰色の光』が瞬くままに。

 

 

「さぁ、時計の針は巡る。一秒、二秒。後、どれくらい持つのか。楽しみだな、最期には結局────」

 

 

 笑う、嘲笑う。針の音を響かせて。僅かに、軋む音を響かせて。邪悪そのものではあるが、周りの、或いは通りがかる女性、老若を問わずに惹き付ける笑顔であった。しかしそれは、一体誰に向けられたものであるのか、彼以外に知る者は居ない。

 

 

「────『夢』は、醒めるだけだと言うのに」

 

 

………………

…………

……

 

 

 漸く昼、解放されて。今日は早番、後は帰るだけだが。約束、そう、約束がある。今朝、届いていたメールが一つ。

 

 

「あ、嚆矢先輩、ここです、ここ!」

「あら……本当に来ましたの、お暇ですのね」

「ハハ、そりゃあ来るとも。昼前は散々むさ苦しかったし、口直しにさ」

 

 

 第七学区のとあるカフェ、先程も巡回の際に通った。テラス席に陣取った、飾利と黒子の姿。そして。

 

 

「あ、どうもです、対馬さん。その節は、お世話をお掛けしました」

「やぁ、佐天ちゃん。なんのなんの、もう大丈夫かい?」

「はい、もう元気が有り余っちゃって」

 

 

 退院したばかりにも関わらず、案外、元気そうな佐天涙子の姿があった。『幻想御手(レベルアッパー)』を使用した者は昏睡こそすれども、一時的に強度(レベル)が上がったお陰で更なる高みに至る契機を得た者も居たとか。経歴的には、どう見ても汚点(マイナス)だが。

 それにしても、先程までのむさ苦しさがまだ、瘧のように。そこでふと、黒子が一つ、咳払いした。

 

 

「それにしても、また固法先輩に大目玉を食らったようですのね。全く、少し見直したらこれですの?」

「ああ、あれね。いや、最終的には全員ノリノリだったんだって。あいつら、口揃えて俺に罪擦り付けやがってさぁ……」

 

 

 と、ツインテールの片方を手櫛で梳りながら、呆れたように。しかし、既に『それ』に気付いている嚆矢には、最早問題ではなく。

 四人掛けの席の、最後の席に腰を下ろしながら。少しばかり、面映ゆい気持ちで。左隣のその一点、否、二点を見つめて。

 

 

「反省してる、でも後悔はしてない。それは兎も角、早速ありがとう。良く似合ってるよ、黒子ちゃん」

「っ…………?! い、意味がわかりませんの!」

 

 

 何を誉められたかに、直ぐに気づいた彼女は耳まで真っ赤に染まって。唸るように、座っている都合上、見上げるように彼を睨み付けて。

 赤い更紗のリボンを、風に靡かせながら。ぷい、と腕を組み、そっぽを向く。何とも言えず、愛らしい仕草であった。

 

 

「あれあれ~、これはまさか……強敵出現かな、初春~?」

「い、意味がわかりませんし!」

 

 

 と、朗らかな空気。昼下がりには丁度良い、間延びして弛緩したテープのような、気の抜けた炭酸水じみた。

 

 

──隣に座っても無反応と言う事は、御坂は居ないのだろう。まぁ、昨日の今日じゃ会い難いし有り難いが……しかし、やっぱりムカつくなぁ、あの痩せぎす野郎。完全に世の中舐めきってたよな、あの目は。一発締めときゃ良かったぜ……何てな。どんな能力かも分からねぇで、そりゃ無謀って奴ですよ。

 

 

 休もうと思考を緩め、無意識を増やせば増やす程、演算力が高まっていく。ある意味では呪いか、これは。夢とは、脳が体験を整理している際に見る物だとも言う。

 あの日、第七位(ナンバーセブン)にカチ割られて以来、それを()()()()()()この脳が見せる夢とは、即ち現実の記憶に他ならぬ。

 

 

「さあ、何でも好きなもん頼んでくれ。財布はギュウギュウ、後は支払いをご(ろう)じろってね」

「おおっ、対馬さん、太っ腹じゃないですかぁ!」

「やった、実はここ……ケーキバイキングやってるんですよ」

「まぁ、そう言うことでしたら遠慮なくいただきますの」

 

 

 得意気にマネーカードをちらつかせればきゃいきゃいと騒ぐ三人娘を他所に、黙々と思考して。機械的に注文したアイスコーヒー、啜りながら。財布役になるだろうが、涙子の快気祝いなのだからと気にしない事にして。

 勿論、野郎四人で行ったファミレスにではこんな事はしていない。一円単位の割り勘だった。その所為で罪をひっかぶらされたのであるが、当然、彼にとっては些末な事。

 

 

「しかし、後遺症とか無くて良かった。確か、『幻想御手(レベルアッパー)』ってプログラムは『同系統の能力者の脳波を共有して増幅する』システムだったんだろ? 脳波の混濁とか起きるかも知れなかったわけだし」

 

 

 対面の飾利と共にケーキを取りに行った黒子とは逆隣の席、『全種類持ってきますから、佐天さんは待ってて下さい』と笑顔で恐ろしい事を言っていた飾利に座らされたまま、フラッペを食んでいる涙子に語り掛ける。

 

 

「お医者さんが言うには、浄化プログラムのお陰で完全に切り離されてるそうです。もう、脳波ネットワークも消滅してるそうですから、大丈夫ですよ」

「それなら良いけどさ」

 

 

 後で解析された『幻想御手(レベルアッパー)』の仕組み。ありふれた能力種である『空力使い(エアロハンド)』の涙子には効果抜群、しかし()()()()()()の能力種である嚆矢には、意味がないもの。

 まぁ、終わった話ではあるが。と、ふと。涙子の表情に影が射した気がして。懐の『ステイルの護符(カード)』に魔力を流して発動、確率を司る己の能力(スキル)制空権域(アトモスフィア)』にて軽い頭痛に反動を抑えながら、刻み付ける。雄弁を得る『話術(アンサズ)』と、成長を意味する『治癒(ベルカナ)』のルーン。

 

 

「……何か有ったんならさ、もしよかったら相談にくらいは乗るよ。出来る事は、多寡が知れてるけどさ」

「あはは…………うーんと、別にそこまでおかしいって訳じゃないんです。だから、お医者さんにも話してなかったんですけど」

 

 

 ぽん、と。彼女の掌に重ねた己の掌を(とお)して。遣り方が汚いが、()()()で多弁となる『話術(アンサズ)』と過ちを償う意味も持つ『治癒(ベルカナ)』を彼女に。

 その成果か、重ねられた掌に一瞬慌てた様子だった涙子が落ち着きを取り戻す。そして何か。他の誰にも話していないし、話す事もないだろう事を、ぽつりと。

 

 

「夢……変な夢を見るんです。私、夜中に一人で近くの川沿いの路を歩いてて。体、言うこと聞かないで勝手に……そしてある場所まで行くと、怖い声が響いて」

「声か……なんて?」

 

 

 美しい黒髪をさらりと靡かせながら、沈んだ様子で。ともすれば泣き出しそうなくらい。掌に重ねた掌、その上にまた、彼女の掌が重ねられて。

 だから、労るように。その更に上に、掌を重ねて。体温を伝えるかのように、『魔術(オカルト)』を浸透させる。

 

 

「『もう少しだ、我が供物よ』……って、地の底から響くみたいに低くて、ハウリングしたみたいに耳障りな声が……あはは、恐い系のサイトの見過ぎですよね、きっと」

 

 

 オープンテラスのこの夏の陽射しの下で、微かに震えた彼女。恐らくは心底恐ろしいのだろう、だがそれすら笑いながら誤魔化して。

 そこに感じた、僅かな気配。有り得ざるモノ、ましてや、この少女からは────前にも、何処かで嗅いだ……葉巻の香り。周囲に薄く、風の一吹きで消えたくらいに、極僅か。

 

 

「ハハ、ホントにね。これに懲りたら、そう言うサイトは慎む事」

「ですよねー、あはは」

 

 

 それに乗っかり、茶を濁す。同時に手も離し、ぽん、と頭を撫でた。そこに────

 

 

「あれ、どうかしましたか、二人とも?」

「随分と話が盛り上がっていますのね?」

 

 

 様々な種類のケーキをこれでもかと持った二人が帰ってくる。その気配に気付いた為に。口裏を合わせた訳でもないが、性格が似てでもいるのか、一様に何でもないと誤魔化して。

 最後に刻んだ、『鎮静(ハガル)』のルーン。それにより、『恐怖という感情』を鈍らせた意味があったらしい。

 

 

「んじゃ、召し上がって下さいませ、お嬢様がた。オイラは、此処で珈琲啜ってますんで」

 

 

 と、アイスコーヒーの氷をストローてかき混ぜて。『魔術使い』はここまで、後は平々凡々な『学生』に戻って。

 

 

「あれ、嚆矢先輩、甘いもの苦手でしたっけ?」

「苦手じゃないけど、どっちかと言えば辛党かなぁ」

「あら、それは誤用ですの……いえ、まさかとは思いますけれど、貴方……」

「いやいや、ソンナマサカー」

「「?」」

 

 

 等と、失言して黒子にジト目で見られたり。意味が分からなかったらしい飾利と涙子が小首を傾げたり。後に絡む非日常は、最早無い。平和に、安穏と。日は傾いていく。そんな、『夢』のような時間は。

 

 

………………

…………

……

 

 

 第七学区、そのバス停。飾利と涙子は二人連れだからと黒子を送ろうとして、あっさり断られた流れはテンプレなので割愛して。

 去り行くバスに手を振り、見えなくなってから……振り返り、歩き始める。懐から取り出した懐中時計、『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』の収まるそれを確認する。現在時刻、十六時半。丁度良い頃合いである。

 

 

 懐中時計を仕舞い、代わりに取り出した携帯。最低限の機能しかない『仕事用』の携帯でメールを打って、『二人』に向けて一斉送信。

 

 

『題名:グッドアフタにゃ~ん(ФωФ) 

 

 

 今晩ニャア、いかがお過ごしナ~ゴ? オイラはさっきまで可愛いハニー達とデートだったニャアゴ。

 

 

 まぁ、それは良いニャア、本題ナ~ゴ。実は、件のお仕事の裏が取れたニャアゴ。という訳で今夜は楽しいピクニックになりそうだニャア、楽しみで今から眠れないナ~ゴ。

 

 

 追伸:おやつに鼠は含まれますかニャアゴ?』

 

 

 そんなメールをフレンダと最愛に送って、路地裏に入り込む。刹那、黒い影────彼の影に潜むショゴスが身を包み、学ラン姿からロングコートを纏うダブルのスーツ姿に。

 そして頭部と掌を黒豹に替えて、最後に煙草を銜えて準備完了。そこまで一秒。見方によっては少年が曲がり角の角度に消えたようにも、異形の男が曲がり角の角度から現れたようにも見えるだろう。

 

 

『さて、始めますかニャアゴ』

『てけり・り。てけり・り』

 

 

 二重の、薄気味悪い金切り声でそう呟きながら。黒豹男、性悪猫は路地裏の薄暗がりに紛れていった。今宵の任務……『ある病院の関係者』が行っている『不許可実験の摘発、当該研究者の拘束』の為に。記憶を漁る、日に二度も聞いた、その名前を。

 

 

(『西之 湊(にしの みなと)』……再生医療学部主任、か)

 

 

 血の色の猫目の奥、底知れぬ色を漂わせながら。

 

 

………………

…………

……

 

 

──初めて、『そんな事が可能だと知ったのは、いつの事だったか。』

 

 

 感慨と共に、視線は腐った空気に満ちる室内、その天井を見詰める。黒々と、繰り返し吹き掛かった『■■■■』のこびり付いた、特段高い訳ではない天板を。

 そこに、新しい『源』が吹き付ける。抉りすぎたらしい。響くのは、歓喜の絶叫。そうだ、そうでなくてはおかしい。何故なら今、『私』は『彼を救う』のだから。

 

 

──東洋で言えばキョンシー、西洋的にはゾンビか。ああ、始めて聞いたその時の高揚と来たら! ()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 歓喜に咽びながら、血泡を吐いていた『それ』。拘束衣により手術台に縛り付けられカパリと、まるで炊飯器か何かのように■■■を開かれ、灰色の■を露出している。

 ぎょろぎょろと血走った視線をさ迷わせ、許しを乞うように言葉にならない声で喚く。辺りには、夢から覚めた時に自らを強かに殴り転がし拘束した、『彼等』しか居ないのに。

 

 

 続きを促しているのだろうと笑みを溢す。何故なら、『彼等』の美しさは『私』の自慢だ。『早く同じようになりたい』と叫んでいるのだ、として。麻酔を使っていない事など、この後の奇蹟に較べれば些末な話だ。

 

 

──そういえば、関係はないが。昔、『能力者の脳の何処に能力を司る部位があるのか』突き止めようとして色々切開した研究があったらしい。何処にでも先達はいるのだな、と苦虫を噛んだ記憶がある。最も、あんな野蛮なものと『私』の崇高なる『救済』は競べるべくもないのだが。

 いけない、脱線した。早く施術しなければ。ほら、『彼』も待ち望んでいるじゃないか。

 

 

 震えるその、まるで豆腐のような『もの』を見詰めながら。差し出す左手に饐えた風が集う。バサバサと、路傍で風に惑う新聞紙じみた音を混ぜて────現れ出た一冊の書。

 ざわめくように、恐れ狂って、辺りの『彼等』が逃げ惑う。何か、深遠な悪意を思い出したように。悍ましい鳴き声で、『悍ましい』と。

 

 

「────飢える(イア)

 

 

 囁くような声。掠れた、まるで蛎殻を小擦り合わせたような不快な声。その呼んだ『モノ』、その纏う瘴気に、震える『彼』の目に更なる絶望が宿る。

 

 

──さぁ、後は突き立てるだけ。それで、君は死に、そしてまた甦る。死を超克するのだ! 奇蹟、まさに奇蹟を体現するのだ!

 勿論、その超克者に普通の体などは見合わない。次は、そうだ。最後の章の神、あれを再現しよう。

 

 

「さぁ────“■■■■■■■(■■■■=■■■■■■)”」

 

 

 辺りの『彼等』ですらもが恐れる『モノ』。その右手に握られた不快極まる代物、ゲル状の緑色の粘液に塗れた一本の『(メス)』に─────

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

26.July:『Necromancer』

 

 

 現在時刻、十九時。幾ら長い夏の昼とはいえ、この時間になれば夜の気配の方が強くなる。昼間と比べれば幾分はマシになった空気の熱、しかしまだ、アスファルトから立ち上る熱気が通行者を苛んでいて。

 

 

『やっぱり革靴はあっついニャア、水虫が恐いナ~ゴ』

「ちょっ、汚っ! てか臭っ! 結局、近づくなって訳よ」

「さっさと超消臭(ファ●)ってください」

『ふ、二人とも酷いニャア……ジャーヴィス情けなくて涙出てくるナ~ゴ!』

 

 

 人目を引く、黒猫頭の長身の男。名前通りに脚の長い黒ずくめの男(ダディ・ロングレッグ)と、小娘二人。

 靴を片方脱ぎ、ケンケンしながら足に涼を取っていた彼に、鼻を摘まむフレンダと最愛は揃って反抗期の娘かなにかのような事を口にして。

 

 

「ところでジャーヴィス、あんた、その格好で本当にやる気?」

『ンニャ? 勿論そのつもりニャア、何処かおかしいナ~ゴ?』

「恋愛物の映画を一人で見に行く超勇者ですか、貴方は」

 

 

 当たり前●のクラッカーである。こんな目立つ格好でスニーキングミッションを行うなど。南米のジャングルで段ボール箱を被って『迷彩』と言い張るようなものだ。

 要するに、否、要しなくてもモロバレだ、スネーク。

 

 

『心配しなくても、ほら、こうすれば……ニャアゴ』

 

 

 パチン、と影の鋼が形成する猫の爪先が鳴る。まるで、刃と刃をぶつけたような音色と、眩めく火花と共に。

 その火花は、彼が銜えた煙草の先に。万色の紫煙を撒く、その源に。

 

 

「「────!?!」」

『どうかニャアゴ?』

 

 

 その、顔容……見覚えの有るその顔は────黒猫の頭と手にダブルのスーツ、肩にロングコートを羽織った姿の。

 

 

「……え? 絹旗……結局、何か変わった訳?」

「……いえ、フレンダ。超前のままですね」

 

 

 二人の声、勿論、そのままの彼の姿に困惑して。しかし、変わったと言えば確かに。確かに、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「これって……」

『ニャハハ、簡単ニャア、フレンダちゃんと最愛ちゃん以外でオイラを見る奴……正確には『オイラを見る自覚をした奴』には、ごく普通に見えるように視角情報を誤認させてるナ~ゴ』

 

 

 なるほど、確かに。そうとしか思えない、不思議な現象である。何やらちらりと此方を見た通行人は、二度見をした後で首を傾げて歩き去っていく。

 そう言う『欺瞞』のルーンを刻んだだけであるが。今は夜だ、このくらいの魔術(オカルト)行使ならお茶の子さいさいである。

 

 

「相も変わらず、結局、あんたの『正体非在(ザーバウォッカ)』って訳分かんない訳よ」

「超摩訶不可思議です……というより、私達にも同じように超擬装すれば良いのでは?」

『そんなに誉められるとオイラ照れちまうニャア、後、正体を誤解されたら面倒ナ~ゴ。オイラ、本当のオイラでフレンダちゃんと最愛ちゃんに振り向いて欲しいのニャアゴ』

「結局、キモい訳よ」

「超キモいんで寄らないで貰えます?」

『照れちゃって~、可愛いニャアゴ』

「「マジキモい」」

 

 

 と、大柄な体をお道化させて。端から見れば、軟派な大男が女子高生と小学生に言い寄っているようにしか見えまいが。

 それにしても、情けない話だろう。そんな状況を前に、誰もが無視を決め込んでいる。世渡り上手と言うか、意気地無しと言うか。

 

 

『リアルなトーンは流石に傷付くニャアゴ……しかしてダイヤモンドが砕けないように、彼女いない歴=年齢のこのジャーヴィスは諦めニャア! 即ち、先ずは三人であそこのカラオケにでも行こうナ~ゴ』

「とりあえず、ビチグソと比較されたダイヤモンドに超謝ってください……そして、超自殺志願者ですか、あんた?」

「……アンタねぇ、そんなに原子崩し(メルトダウナー)されたい訳?」

 

 

 残念ながら、この学園都市にそんな状況に介入する意気地を持つ者は極僅か。有り体に言えば、学園都市二八〇万人の内の七五〇〇人、五二〇分の三程度には居るやも知れぬ。

 即ち、五十人に満たないこの道のりに居る可能性は度外視できるのである。それでなくとも、手に届く内ならば『賽子(かくりつ)を何度でも()()()()()』の持ち主だ、彼は。

 

 

『決まってるニャア、挑む事にこそ意味が』

「──そこらで止めなさいよ、大の男が見苦しい」

「そうやねぇ、最近の若者としてはハングリー精神は見上げたもんやけど」

「引き際を弁えるのもまた、良い男の条件だにゃ~」

『あるん……ナ~ゴ?』

 

 

 突如、背中の側から掛けられた声。凛とした、確かな自己を持った声だ。振り返る、人の神経を逆撫でするかのような困惑の猫面(ショゴス)をわざとらしく浮かべた、性悪猫(チェシャ=ザ・キャット)が。

 

 

──驚いた。いやマジで。見れば、三人。俺はどうやら五二〇分の三の確率を引いたらしい。どうせなら、宝籤(たからくじ)か何かに当たりゃあ良いものを。いや、俺が宝籤なんて買おうモンなら特等から独占できる。即座に警備員(アンチスキル)がすっ飛んでくるだろうが。

 まあ、個人的には、()()()()()()()の部類だが。

 

 

 最近、見た覚えのあるその制服。白い半袖のカッターに紺色のスカート。そして、同じ配色のカッターにスラックス。彼にとって、学校名とは『部活』の看板。即ち──名も知らぬのであれば、十把一絡げの凡百な『とある学校』の制服となる。

 

 

「ああん、助かりますぅ……急に絡まれちゃってぇ」

『フレンダちゃぁぁぁん?! それは洒落になんないニャアゴ!』

 

 

 よよよ、と芝居を打つフレンダ、黙して従うだけの最愛。一気に周りは敵だらけに。何なら、今まで見ず知らずを貫いていた通行人までもが、此方に非難の眼差しを向けてきた。甚だ厚顔な話である。

 学校帰りか、はたまた。しかし、真面目そうな黒髪ロングの少女に如何にも不真面目そうな金髪グラサンと青髪ピアス。どんな取り合わせか、と心中で首を傾げて。

 

 

『おおっとこれはこれは……ご紹介が遅れましたニャア、素敵なお嬢さん、オイラはMr.ジャーヴィスと申しますナ~ゴ』

「なっ────?!」

 

 

 だが、些末な事だ。彼にとって、全ては単純明快──ただ唯一、それが女性かその他か。それ以外には無く、また、女性には礼を尽くす以外にも無い。

 真ん中の少女……随分と立派な『二物(むね)』をお持ちな、気の強そうな黒髪の少女の前に跪いての、英国騎士気取りの恭しい自己紹介。無論、フレンダと最愛に取っては、相変わらずニタニタ笑う性悪猫が少女らを小馬鹿にしている以外には見えないが。彼女らに取っては、大の男が真面目腐ってそんな事をしている訳である。

 

 

「ちょっ……いい加減にしなさいよ、貴様! 見た目で舐めてると、痛い目に!」

『そんな真逆(まさか)ニャア、素敵だから素敵だと言ったまでナ~ゴ』

 

 

 ぶん、と振られた少女の学生鞄を躱す。結構な勢いだったが、知り合いの致死レベルの竹刀や張り手に較べれば児戯も児戯。合気を使うまでもなく軽く見切り、適切な距離を保つ。

 

 

「おやおや、こいつはかみやんに強大なライバル出現だにゃー」

「──煩せェンだよ、クソムシ共。口ィ業務用のホチキスで永遠に閉じてブチ(ころ)がすぞ、ボケが」

「ああ、男に対してはSなんやねぇ……」

 

 

 ニタニタと。いつも通りに人を小馬鹿にした、『猫の無い笑い』を浮かべて。道化のように軽やかに、ステップを踏みながら。目をやった先、そこに瞳を凝らして────一つ、盛大に舌打ちして。

 

 

──まぁ、こんな奴等が居るんなら。まだまだ、この都市も捨てたモンじゃねぇのかもな……。

 

 

 等と。ひたすらに検討違いな安堵をしながら踵を返す。向かう先は、路地裏の影。彼の、本来の居場所。紛れ込むべき汚濁の掃き溜めであり、慣れ親しんだ場所。

 ほんの数年前までの、彼のホームグラウンド。そして、今また帰った暗部。だからこそ、目立って仕方がなかったから。その瞳には、目映く映るからこそ。

 

 

「全く……だから、そう言うサイトは覗くなッつったのによォ!」

 

 

 ふらふらと、正に不自然の極み。呆然自失の体で、有り得ない時間に有り得ない場所を歩いている……佐天涙子の姿を見たからこそ。

 

 

「あ、この……待ちなさ──!」

「ほっとくにゃー、この先は流石に」

「せやねぇ、この辺はもう治安悪い時間やし。女の子には、特にね」

 

 

 それを追おうとした少女。しかし、それを金髪グラサンと青髪ピアスが押し止める。黒髪ロングの少女は、とみに気分を害したらしい。不機嫌面で。

 

 

「……ほんと良いこと無いわ、最近……上条(アイツ)の不幸癖でも伝染ったのかしら」

 

 

 毎日毎日気が滅入るほどに景気の悪い同級生(クラスメイト)の陰気な顔を思い出しながら、『吹寄 制理(ふきよせ せいり)』はため息混じりにそんな事を呟いて。

 側に居た筈の金髪碧眼の少女とフードの少女の二人が消えている事にも、気付かずに。

 

 

………………

…………

……

 

 

 涙子の消えた路地裏を走りながら、『影』に潜む使い魔(ショゴス)に命じる。浮かび上がる無数の目や複眼、あらゆる感覚器官による敵や無関係な人間、或いは不審な物体への警戒を。その間、己は────ステイルのカードに魔力を流し、魔術的な警戒を。

 首から下げる兎の脚(ラビッツフット)の護符に刻まれた『大鹿(ベルカナ)』のルーンの恩恵を受ける健脚は、紺色の暮れ空より見詰める目印(ほし)の如き黄金の煌月、その放つ道標(みち)の如き純銀の月影にしか照らされていない路地裏の薄暗い悪路を軽々と踏破する。背後に笑う、悪辣な虚空を知らぬまま。

 

 

『てけり・り!』

「チッ────!」

 

 

 そして、何とか認識した。辛うじて、()()()()()()を。

 警告と焦燥に従い、涙子の背中を見詰めたままに身を捻る。涙子の肩に伸ばしかけた右手をがむしゃらに引き戻し、一回転しながら右肩を背後に反らす。大袈裟なくらいに。

 

 

 その空間を目にも留まらぬ速さで、『()()』が貫いた。

 

 

「クソッタレが────何だ、ありゃあ!?」

 

 

 本来ならば、見る事も叶わない速さだった。拳銃弾などは及びもつかぬ、ライフル弾でもまだ遅い。さながら、衛星軌道を回るという宇宙塵芥(スペースデブリ)の如き速さで頭の有った空間を貫徹した、その────。

 

 

雀蜂(スズメバチ)────じゃねェよなァ、あンな化物!」

『────────────!』

 

 

 怖気と共に吐き捨てた通り、尾節に黒い棘を備えたその姿は、全体的には確かに蜂にも見える形状だろう。大型犬ほどもある蜂が居れば、だが。そしてその忌まわしい菌類じみた頭部には、眼も鼻も口も触角も見当たらない。だが、言語すらないのに明確に敵意と害意を、そして悪意を伝えてくる嘲笑じみた雰囲気がある。我々人類が、足下に這いずる害虫を見付けた時のような。

 そんなあやふやな姿を、一瞬だけ。ショゴスの複眼による恩恵、昆虫じみた動体視力をテレパシーによって得た事で、掠め見た気がした。

 

 

「今のは……何て、気にしてる場合じゃねェか」

『てけり・り! てけり・り!』

「ギャーギャー煩せェって……分かってらァ!」

 

 

 そうして、辺りを見回す。先程から、がなり立てるかのように鳴き喚くショゴスの声に、身に刻むルーンに。

 凝り固まる澱のような暗がりに消えた『化物』を見据え、その右手に『賢人バルザイの偃月刀』を握り締め────る事もなく、一顧だにせずに涙子の消えた隘路にその後を追って走り出す!

 

 

 当たり前だ、彼にとって優先すべきは『女の子』の方。『化物』だとか、知った事ではない。そんなものは二の次だと、己の信念(ゲッシュ)に従ったまでの事。

 

 

『────────?!』

 

 

 だから、泡食らったのはその『化物』の方だろう。まさか、ここまで意味ありげに登場しておいての無視を受けるなどとは。今の今まで、能力者にしろ魔術師にしろ()()()()()如きを狩る際には一度たりとも無かった事だ。どんな『馬鹿者(いけにえ)』も己を前にすれば平静を失い手向かいながら逃げるか、或いは狂うかしていた。

 それを、一顧だにせずに逃げの一手などと。有り得ない、と。『化物』は自らの自尊心に掛けて再度、突撃し────ニタニタ笑う猫顔を『本来の顔』に戻し、天魔色の髪を靡かせて反転しながら突き付けられた、漆黒の南部拳銃の照星を睨む蜂蜜酒色の瞳に捉えられた事を知る。

 

 

 そこは隘路、横の移動では避けきれぬ。かと言って、縦移動こそは射手の思う壺だろう。一発を受けて足を止めれば、追撃により仕留められかねない。ならば、取るべき手段は一つ。更なる加速、それによる突破。一発を受けようとも、一度最高速度に乗れば問題はない。若しも死ねども……その死骸の質量と速度は、縦回避すら出来ぬ獲物を穿ち殺すだろう。即ち、どう転ぼうが問題はない。

 問答無用の最高速度(トップスピード)、そこに至った『化物』が一気呵成に特攻する。見苦しいまでにひた走る、獲物に向けて。食らう一撃、腸まで食い込んだ銃弾にも構わず────

 

 

『────────??!』

 

 

 そして、己の浅はかさを悔いる。そもそも、敵対者はそんな事は折り込み済みだった筈だ。この『化物』を相手にする以上、そのくらいの分別はつけていた。

 そうだ、つまり最初から『必殺』を期して。その銃弾は最初から────『呪いの粘塊(ヨグ=ショゴース)』であり。

 

 

『────てけり・り』

Gyyyyyyyy(ギィィィィィィィィ)?!』

 

 

 その人知を越えた体内から、『化物』を……牙と臼歯の乱杭歯をガチガチと鳴らす、人知を越えた『より悍ましい化物』が喰らい尽くす!

 

 

 風船が萎むように、体内に向けて消え果てた『化物』から一つの混沌が帰ってくる。再び一切を顧みず、走り続けていた嚆矢の元に。

 勿論、最初に述べた通り嚆矢に取ってはどうでもいい事だ。だから、大して反応せずにそれを受け入れて。

 

 

「“ヨグ=ソトースの時空掌握(ディス=ラプター)”────!」

『てけり・り』

 

 

 目の前の涙子、その身柄を拘束しようとしていた()()()()に向けて。

 

 

Gyaaaaaaaa(ギャアアアアアアアア)!!?』

 

 

 握る『賢人バルザイの偃月刀』により発した空間歪曲、その負荷により捩じ切れた目の前の空間と共に、もう一匹が断末魔を上げながら虚空の裂け目に貪られ消えた。

 そうして、何とか捕まえた涙子。肩に手を掛け、無理矢理に振り向かせてみれば────虚ろな、まるで夢遊病か催眠術で操られているかのような、無気力な瞳がこちらを見た。

 

 

「チ────」

「ん────あ……?」

 

 

 偃月刀を投げ棄て、その目の前で柏手を鳴らす、『解呪』のルーンを刻んだ掌で。それにより、正気を取り戻した涙子が、短く呻いて。

 

 

「あふ……ふぁぁ~……おはよう、初春……」

「いや、違うから。嚆矢君だから」

 

 

 等と、欠伸を漏らしながら気の抜けた言葉を。ともすれば、『本当に寝ていただけなのではないか』と危惧しそうな程に。

 

 

「こうじ……嚆矢……ファッ!? つ、対馬さん?! ど、どうしてここに!?」

「それは此方(こっち)の台詞だって、佐天ちゃん? こんな時間にこんな場所で、何してんだか」

「こんな場所って……あれ、私、言われた通りに病院の薬を飲んで……どうして、こんなところに?」

「だからそれ、此方の台詞だって」

 

 

 先ずは泡食った涙子だが、言われて辺りを見回して……首を傾げる。よくよく見れば、パジャマ姿。あからさまな異常事態であろう。こんな姿で、彼女の住む寮から歩いてきたなどと。

 

 

「兎に角、寮まで送ってくよ。ほら、これ着て」

「うっ……す、すみません」

 

 

 黒のロングコートを彼女の肩に掛けてやり、スーツ姿で笑い掛ける。通常ならば、こんな蒸す夏夜にそんな厚着をしている人間などいないと気付くのだろうが。今の涙子は、理解が追い付いていないようであるが。

 

 

「まぁ……取り敢えずは────」

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 その笑顔のまま、影に潜むショゴスの警告とルーンの警告が続く。危機感に従い、振り向きながら伸ばした右腕で────飛んできた火の玉を、合気により右斜め上に投げ逸らす。

 

 

「ッ……熱ィな、クソッ!」

 

 

 前後の闇、そこから歩み出す者達。現れたのは二人、若い女二人。制服から、どちらも長点上機学園の学生らしい。ふらふらと、先程の涙子と同じ様子。しかし、一つだけ違うところがある。

 

 

「お、おォォォォォ……」

「ウぅウぅぅぅぅウ……」

 

 

 虚ろな、などと生易しい話ではない。死んだ魚そのものの、濁りきり腐りきった瞳。肌もまた、屍蝋の如き蒼白。そして──呻き声を漏らすだけの、意思の欠片すらない表情。どう控えめに見ても話が通じる訳はないし、そもそも────生きていないと、ショゴスの感覚器と嚆矢の勘の二つが同じ結論を出した。単純だ、()()()()()()()()人間が生きているはずはない。

 だと言うのに、意思表示はハッキリと。差し出された片方の右手には炎を、もう片方は周りのゴミやら何やらの当たれば洒落にならない物を浮かせている。明確な、敵対行動を。

 

 

──発火能力(パイロキネシス)……(いや)火炎放射(ファイアスロワー)念動能力(テレキネシス)か。オーソドックスだが、面倒だな……。

 

 

「な、何ですか、この人達……何か、明らかにヤバイっぽいですけど」

「気にしなくていいよ、ほら、あれじゃね? 薬中かな?」

「これっぽっちも腑に落ちないご説明、ありがとうございます……」

 

 

 不穏な空気を纏う学生らから壁際に涙子を庇い、立つ。何度も述べた通り、彼にとって優先すべきは『女』だ。幸いとでも言えばいいのだろうか、どうやら『()()()()()()()()()()()()()』らしい。敵意を向けたところで、“誓約(ゲッシュ)”は働かない。有り難い話だ、心置き無く潰せる。

 不意に、背中に掛かる圧力。何の事はない、怯えた涙子が他に頼るものもなく、身を寄せただけ。ただ、それだけの事だ。他意などはない。

 

 

「心配無用、大丈夫。俺の理合(バリツ)は、科学程度にゃ破れない。否、もしも魔術が有っても、俺の理合の前には……たまさか得たチカラなんざァ、一から鍛え上げた俺の練武(アーツ)の前にゃア、風に吹かれる塵以下!」

「対馬さん……」

 

 

 だからこそ、奮い立つ。長点上機学園はもともと不倶戴天の仇敵であり、更には背後に護るべき者。男として、武人として。これで奮い立たなければ不能野郎(インポテンツ)である。

 悪辣に口角を吊り上げながら五体にルーンを、辺りの闇にショゴスを紛れ込ませて。戦意は十分、備えにも憂いなし。天魔色の髪を夜風に遊ばせ、闇に煌めく蜂蜜酒色の髪を嗜虐に歪めて。

 

 

「さぁ……て。そんじゃあ」

 

 

 構える火炎放射と念動能力、その左右からの攻撃、全てを捉えて。

 

 

「モテる男は辛いねェ。来な……遊んでやるぜ、可愛娘ちゃん達!」

 

 

 皮肉げに、或いは心底、生前に出逢えなかった事を悔やみながら。右手に偃月刀、左手に南部拳銃を構えて。その歩く死体(リビングデッド)達を、迎え撃つ─────!

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 夜の闇に目を凝らす。街灯など無い路地裏の深い闇の最中で、饐えた空気を引き裂きながら飛来する『それら』を見逃さぬように。背後の彼女に、怪我一つ負わせる訳にはいかないと。

 

 

「目ェつむってな。すぐ、終わらせるからさ」

「は、はいっ」

 

 

 闇の彼方より認めたのは五つ。空き缶に大きめのボルト、車のホイールに打ち捨てられた立て看板、そして金属製のゴミ箱。後半になればなるほど、当たれば洒落にはならない。

 

 

「────!」

 

 

 だから、問題はない。何故ならば、その身に染み込ませた練武(アーツ)こそは合気道。加えて、かの英国探偵騎士(サー・ホームズ)がライエンバッハの滝より生還する際に用いた『理合(バリツ)』を標榜する隠岐津流。故に、生還する事こそがその真髄。

 

 

 右手を前に大きく突き出す、独特の構え。今回は、装甲として纏わずに偃月刀を握って。そのしなやかな刃先で、念動能力(テレキネシス)により飛来する危険物を次々と受け流(パリィ)していく。勢いは弾丸そのもの、少しでも加減を誤れば腕ごと持っていかれるだろう。

 それを可能としたのは、今どき『鍛冶師(ブラックスミス)』などと言う骨董品じみた職に就いている義父(ちちおや)から仕込まれた鍛冶師としての最低限度の剣術(おぼえとこころがまえ)があればこそ。

 

 

 それらの間隙を縫う『火炎放射(ファイアスロワー)』の放つ炎の(つぶて)もまた打ち払い、綱渡りの如くタイトな重心と理合の鬩ぎ合い。舌打ったのは、ゴミ箱で。運悪くか、それとも(はな)から狙っていたのか。中身の空き缶がバラ撒かれ、アルミとスチールの入り交じった散弾じみて降り注ぐ!

 

 

「────」

 

 

 ついつい、癖で『クソッタレ』と叫びたくなるのを口内で噛み殺し、堪える。背後の彼女に、ぎゅっと目をつむって震えている涙子に不安を与えぬ為に。代わり、周囲に潜むショゴスにテレパシーで命じる。

 

 

(もしこれでもう一人が『量子変速(シンクロトロン)』だったらと思うと、冷や汗モンだぜ……全弾捕捉(マルチロック)迎撃排除(インターセプト)────出来るな?)

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 言われるまでもない、とばかりに有りもしない胸を張ったかのように。宵闇に版図(カラダ)を広げたショゴスが、主の求めに応じて『防御(げいげき)』を為す。

 複眼にて、狙いを定めて一息に。飛び出したのは、影の速度を持つ牙や爪、骨といったモノによる弾幕。しかもそれらはショゴスその物であればこそ、自在に空間を疾駆(ホーミング)しながら次々に空き缶を穿ち、喰らう────!

 

 

「──“ヨグ=ソトースの空間掌握(ディス=ラプター)”!」

 

 

 最後に、空間ごとゴミ箱本体を捩じ斬る────よりも速く、ゴミ箱が引き戻されて歩く死体(リビングデッド)の前に滞空する。その意味を図りかね、嚆矢はゴミ箱の方を睨み付ける。

 しかし、おかしい。そう、おかしいのだ。何故ならば、『念動能力(テレキネシス)』使いは()()()()()()彼方(あちら)は、『火炎放射(ファイアスロワー)』の筈なのだから。

 

 

 その疑念に答えるように『火炎放射(ファイアスロワー)』が、ゴミ箱に触れる。強固な金属製の直方体の箱、それが……融解し白熱、沸騰した液体金属の塊になるのにそう時間は掛からなかった。

 その意味に気付いた瞬間の『クソッタレ』も、何とか呑み込んで。振り撒かれた灼熱の溶鉱に備えて第一防呪印『竜頭の印(ドラゴンヘッド・サイン)』を発動する。

 

 

「ッ────!!」

 

 

 撒き散らされた灼熱の散弾を、空間に浮かぶ魔法陣が防ぐ。先程の空き缶によるモノとは較べるべくもない範囲と個数、そして殺傷力。『竜頭の印』が軋み、燃え尽きつつも防ぎきった。後に残ったのは焼けた壁と路面、呼吸すら苦しい熱気のみ。

 だが、何よりも面倒なのは────それが一部に過ぎず、まだ四つの金属液球が浮いている事!

 

 

(クソッタレが……あれじゃあ、四発目で殺られる……!)

 

 

 確かな事だ。何故ならば、この熱金属液塊を操っているのは『念動能力(テレキネシス)』。『火炎放射(ファイアスロワー)』は、手を出していない。

 

 

 では、どうするか。簡単だ、殺られる前に()()()()()()()

 

 

 その結論に従い、『念動能力(テレキネシス)』に向き直る。見ればその死人は答えるかのように、真っ直ぐにこちらを向いており────

 

 

「────が、ア?!」

 

 

 視界が歪むかのような、衝撃を感じた。その刹那、目ではなく、耳からでもない。直接、脳味噌に情報が流し込まれてくる。こちらの都合などは当然にお構い無し、廃人になろうと構わないとばかりの圧力で。

 

 

(────讃エヨ、遥カナル惑星とぅんっあノ鐘ヲ! 崇メヨ、壮麗タル鐘ノ音色ヲ! 偉大ナリシ、我ラガ“嘲笑ウ大吊リ鐘(ンガ=クトゥン)”ヲ!!)

 

 

 幻視する異星の風景と信仰、幻聴する人外の声色と思考。まるで、激流の最中の木の葉のように意識が揉まれて消えそうになる。

 それを何とか、膝を付かずに。ルーンの加護と食い縛った歯が頬肉を食い破る痛みで辛うじて堪え忍んだ。堪え忍んで、思考を高速で回転させる。

 

 

巫山戯(ふざけ)やがって……『念動能力(テレキネシス)』じゃなくて『精神感応(テレパス)』だと?!」

 

 

 『精神感応(テレパス)』、即ち他者との精神活動の共有を可能とする能力。それを今、受けたのだ。無論、それだけならば不快な程度だろう。人間同士であれば、だが。

 つまり、草食獣に肉食を強制したとでも言うべきか。受け付けないものを押し付けた結果、破綻しかけたのである。

 

 

 否、それも問題ではない。問題なのは────

 

 

「『二重能力者(デュアルスキル)』だとでも言う気かよォ、あの女は」

 

 

 吐き気を呑み込んで、睨み付けた先。ぎこちない動きで立っているだけの、蠢く死体を。

 

 

 有り得ない事だ、一人の人間が二つの能力(スキル)を持つなど。。理論として否定された、学園都市の常識の一つ。科学全盛のこの世において、絶対の(みことのり)だ。

 だが、知っている。能力(スキル)では無理でも、魔術(オカルト)ならば幾らでも持てる。では、あの娘は魔術師だった?

 

 

 それこそ、莫迦な。あの制服は長点上機学園の物に相違無い。置き去り(チャイルドエラー)なら兎も角、この学園都市で能力開発を受けていない学生など居ない。

 そして能力開発を受けた者は、余程の幸運と能力に恵まれない限り、生涯、魔術は使えない身体となるのだ。例外こそあれど。

 

 

──(いや)、違う。死人には、演算を必要とする能力(スキル)も生命力を必要とする魔術(オカルト)も使えない。つまり────

 

 

 だから、結論に辿り着く。あのゾンビが使う技は。

 

 

(全天周警戒……捜すぞ、ショゴス! 必ずどこかに術者がいる!)

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 使役する魔術師、それを叩く。確かに、『誓約(ゲッシュ)』は死体には働かない。今なら、問題なくあの死体を『葬る』事も出来る。しかし、都合が良すぎるのだ、何もかも。まるで、(あつら)えられたように。何か、裏がある。致命的な罠の気配を感じた。

 

 

「あ、あの、対馬さん……」

「ああ、涙子ちゃん。もう少し待ってくれ」

 

 

 背後の涙子の不安げな声に、漸く思考を切り上げる。余り不安にさせるものでもない、わざと名前で呼び掛けて、安心させようと。実のところ、進退窮まっているだけだが。

 

 

「────ッ……!」

 

 

 刹那、第二防呪印『キシュの印』と第三防呪印『ヴーアの印』を発する。その身体は『念動能力(テレキネシス)』に縛られ、更に精神を『精神感応(テレパス)』に掻き乱されて。もう一方のゾンビ、『火炎放射(ファイアスロワー)』だけではない。浮かぶ灼熱の液体金属、それを操る『液体操作(ハイドロハンド)』か何かの使い手。その放った炎の礫と、長く延びた溶鉱の鞭打に。

 精神攻撃と物理攻撃の持ち分け、大したコンビネーションだと舌を巻きながら。

 

 

「……ッ……さて、そろそろ本気でいくか。きな、お嬢さん達?」

 

 

 残る防御は最終防呪印『竜尾の印(ドラゴンテール・サイン)』のみ、対して敵には『火炎放射(ファイアスロワー)』と残弾二発の液体金属、加えて『念動能力(テレキネシス)』による拘束と『精神感応(テレパス)』による精神破壊。ほぼ、()()の状態だ。

 だからこそ、奮い起つ。今、倒れてはいけない。背後の彼女の為? 確かに、それもある。だが、何よりも────対馬嚆矢は変態紳士(ジェントルマン)だ。例え死体でも、それが女性であるのならば。

 

 

「……終わりに、してやる」

 

 

 黄金の蜂蜜酒色の瞳、輝かせて。目の前の死体二つに憐れみを。望む望まざるに関わらず、『あるがままの人間』として終わらせる為に。その自我(エゴ)を、貫き通す!

 

 

飢える(イア)────飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)!」

 

 

 放たれた溶鉱と火炎礫、拘束と精神破壊を『竜尾の印』が阻み、砕けた。最早、残るは生身だ。抗いようもない。

 だが、知るが良い。砕けた四つの印は、虚空に消えた。四つの御印は、『この世ならざる虚空』に御座(おわ)す『神』に届いたのだ。

 

 

 泡立つように、ショゴスが虚空に球を為す。やがてそれは、導かれるように形を成して。

 

 

「来たれ────ヨグ=ソトースの十三の球体従者(御遣い)。汝が名は『エリゴル』、鉄の冠を頂く赤い男なり!」

Ka()────kakakakakaka(カカカカカカ)!』

 

 

 現れ出た悪魔の一柱、赤い道化じみた矮躯の男。まるで戯画のような無茶苦茶なデザイン、見れば間違いなく精神に異常を(きた)そう。()()()()()()であれば。

 

 

『人が壁をすり抜ける確率は、如何に』

「……ックソッタレ」

 

 

 その囁きが耳を打つ。恐らくは、嚆矢以外には理解できまい。エリゴルの加護は、『戦いの知識とこれから起こる戦い』。役目を果たしたエリゴルが消える。後には、力を使い果たしたショゴスが残るのみ。これで、もうショゴスの防御も使用不能。だが……切り札足り得ない。意味の分からなかった言葉など。

 

 

(『人が壁をすり抜ける確率』……ンなもン、有る訳が!)

 

 

 そして、止めの一撃が放たれる。四つの能力による挟み撃ち、明らかな過剰威力(オーバーキル)が、嚆矢に向けて、構えられて。

 

 

「……『トンネル効果』?」

「──え?」

 

 

 言葉は、背後から。意外なほど、近い場所────

 

 

「『原子は陽子の周りを小さな電子が回転して構成してるものだから、電子の回転の周期が上手く会えば、壁をすり抜ける事も出来る』……だとか何とか、昔、都市伝説のサイトで見たような……」

 

 

 即ち、涙子の口から漏れて。明らかな間違いだ、浮薄な情報にすぎない。そもそも、それは量子論の誤った解釈の一つに過ぎず、裏付けも何もない。だが、だが。

 

 

「……成る程ね、だから『これから起こる戦い』か」

 

 

 その言葉の意味を察して、嚆矢はほくそ笑む。そう、それで良い。勝つ意味など、この戦いにはない。だから────例えそれが、無限に零に等しかろうと。

 零でなければ、嚆矢の『確率使い(エンカウンター)』は可能とする。

 

 

「じゃぁ、また。甦生して(おととい)来やがれ!」

「ふあっ、ええ~~っ!?」

 

 

 故に、涙子を抱き寄せながら()()()()()()()その虎口を凌ぐ。

 耐震耐火の強固なビルの外壁、それを瞬時に破壊する術は二体の歩く死体(リビングデッド)にはない。溶鉱も火炎も、念動も精神破壊も。何の意味もない。

 

 

 残された二体は恨めしげに壁を叩きながら、腐った吐息を夜闇に吐き続けるだけだった。

 

 

「あら、あら……ふふ、大したものだこと」

 

 

 その空間に、涌き出るように女が現れた。波の紋様を刺繍された青いチャイナドレスを纏った……黒い扇で口許を覆う、妖艶な女だった。

 そんな、たった一人の女に────歩く死体(リビングデッド)達は目に見えて恐怖し、逃げるように走り去っていった。

 

 

「孫子曰く、『三十六計逃げるに如かず』……間違いの無い判断です、陛下?」

 

 

 クスクスと嘲笑いながら、嚆矢の消えた壁を撫でる。まるで、愛でも囁くかのように。

 潮の香気を漂わせる女は、熱の籠る声を、()()()()()()()()()()()()()から響かせた…………。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七月二十六日・夜:『屍毒の棘』

 

 

 饐えた空気の荒涼たる暗がりの路地裏から、人いきれと光の満ちる大通りへと。息も切れ切れ、這々の体で。

 

 

「ハァ、フゥ……よし、逃げ切ったな。やっぱり直線移動は楽でいいや」

「あぅ、はわわ……つ、対馬さんの能力、応用効きすぎですよぉ……これだから、高レベル能力者って……羨ましいなぁ」

 

 

 袖で汗を拭う嚆矢は、涙子を抱えたまま走り出る。勿論、壁の中から。それを見た通行人は始めこそ驚いたが、直ぐに興味を無くして歩き去っていく。尚、能力の行使による反動でその脳には多大な負荷。頭痛と吐き気、倦怠感が身を包んで離さない。

 しかし、達成感は有った。最優先の目的である、今、腕の中でブー垂れている涙子を守る事は達成できたのだから。

 

 

──危うかった、な……在り方を間違えるところだった。俺は……対馬嚆矢は、『非在の魔物(ザーバウォッカ)』だ。人を殺し、食らい啜った、都市の暗部に巣食う化け物なだ。それ以上でも、以下でもない。

 只の人殺しの分際で、英雄気取りとは恐れ入る。危うく、悪鬼どころか凡夫にすら成れないところだった。

 

 

 だから、いつものように、ヘラヘラと。何でもなさげに、痩せ我慢だけで。ほとんど、涙子が何を言っているのか。己も、何を言っているのか分からないような状態で。雲を歩くような心地のまま。

 

 

「さて、それじゃあ送ってくよ。此処からなら……柵川中の寮はバスで三駅先か」

「あ、ありがとうございます……じゃなくて対馬さん、い、今の……!」

「全く、悪い娘だなぁ、涙子ちゃんは。こりゃあ、飾利ちゃんと寮監さんに怒って貰わないと。是非とも常盤台の寮監さん並みに怖い人であって欲しいね」

「そ、それだけは~~!」

 

 

 だからこそ、得たものに価値がある。価値無きものが価値有るものを得るのなら、意味は十分だ。そうだ、この平穏な日常こそが掛け替えの無いもの。『勝利』だとか『最強』などの空しいものより、こんな他愛の無いものの方が、遥かに得難いのだから。

 下ろした涙子に軽口を叩き、その関心を『異常』から『日常』の方に戻して。近場のバス停の時刻表を確認、まだ便が有る事を確認して。

 

 

「いいね、真っ直ぐ寮に帰ること。さもないと、風紀委員(ジャッジメント)の権限で……?」

「わ、わかってます、わかってますから……あ、でも、その」

 

 

 腕章をヒラヒラさせながら口にすれば、涙子は慌てたように何かを口にしようとして……恥じ入るように俯く。そんな彼女に、微笑みながら────マネーカードを渡した。

 

 

「はい、コレ。快気祝いがわりに、ね?」

「……何から何まで、ごめんなさい……」

 

 

 それにすっかり恐縮してしまった涙子の、項垂れた頭に掌を置く。とは言え、流石に撫でたりはしない。ぽん、と軽く当てたくらいだ。それだけでも、彼女の艶やかな黒髪は天鵞絨(ビロゥド)のような抜群の手触りであったが。

 それは、よく妹にやっていた事。無意識に近い行為だ。だからこそ、本心からとも言えなくもない行為であり。

 

 

「────『空白(ウィアド)』」

 

 

 そんな暖かさからの、彼が持ちうる最大級の訣別の言葉(ルーン)で相違なかった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 以前に飾利にそうしたように、記憶を消した涙子を寮に送り届けて。以前に飾利にしたように、後始末を施した後で。

 またこんな事がないように、非礼を詫びつつ。彼女の私物らしい、暗示に掛けられた状態でまで持ち歩いていた『御守り』に『監視』と『解呪』のルーンを刻んだステイルのカードを仕込んでおいた。

 

 

「まぁ……結局、オチはこんなもんだよな。俺みたいな、ド三品(サンピン)は」

『てけり・り。てけり・り』

「煩せぇよ、さっさと偃月刀出せるくらいには回復しろっての」

 

 

 先程までの時間を無に還した嚆矢は苦笑しながら煙草を銜え、火を灯す。そう、特別とは今のところ、『ティンダロスの猟犬(ハウンド・オブ=ティンダロス)』の恐怖に堪えた白井黒子(ただひとり)のみだ。灼け付く香気を肺腑に吸い込み、味わいながら気道を逆流させ、夜空に呼気する。そんな単純な行為を五分ほど楽しめば、もう煙草はフィルターだけだ。残念だが、頃合いだろう。

 取り出した『輝く捻れ双角錐(シャイニング=トラペゾヘドロン)』内蔵の懐中時計、現在時刻は二十一時ジャスト。吸い殻をショゴスにくれてやり、嚆矢は一時間ほど前から震え続けていた携帯を取った。

 

 

『ハーイ、ボクウォッキー、アハハッ!』

『結局、某テーマパークのマスコットキャラの物真似してんじゃないって訳よ!』

 

 

 早速、フレンダに突っ込まれて。性悪猫の、悪辣なマスクを被って。直ぐに、合流する事を約束する。第一、はぐれたのは彼女らのせいだが。変態紳士(ジェントルマン)は、そんな些末な事は気にはしない。

 早々と合流予定を立てて、嚆矢は目指す。彼が、バイクを停めている地点を。駅前から、足跡を残さぬように走り抜けてきた『足』を目指して。

 

 

………………

…………

……

 

 

 携帯を切り、苛立ち紛れに蹴り飛ばした空き缶がカラコロと音を立てて転がる。それを為した黒タイツの脚線美、即ちフレンダは、隣に立つ最愛に向き直る。

 

 

「で、結局まだ監視な訳? いい加減、潜入なりなんなりしてサクッと終わらせないと、私らが麦野にサクッと『原子崩し(メルトダウナー)』されるって訳よ」

「だからこそ、超万全を期すんですよ。ジャーヴィスの能力はこう言う作業には超向いてるみたいですから」

 

 

 ある医院から少し離れた道端、死角となっている袋小路。そこに、フレンダと最愛は陣取っていた。無論、少女二人の事。早速『女の子二人だけじゃアブネェからさ、俺たちが一緒にいてあげるよぉ~(笑)』と寄ってきた不良達(スキルアウト)八人は、業務用の大きなゴミ箱に纏めて突っ込まれている。

 

 

「あんな奴、居ても居なくても結局同じな訳よ。私と絹旗の二人で十分でしょ」

「それで超不安が残るから、待ってる訳ですが」

「あはは、結局卑下しすぎな訳よ、絹旗は~」

「……これだから、超不安なんですよ」

 

 

 けらけら笑うフレンダに、溜め息を溢した最愛。真意は伝わらなかったようだ。

 

 

 その最愛が見詰めた先、丁度営業を終えた医院から、医者が出てきた。事前情報から、あれが最後の関係者だと判断する。後は、医院に潜入して証拠を押さえ、当該の医師を拘束して引き渡すだけ。簡単な仕事だ、額面通りなら。

 そして、こう言う仕事ほど額面通りにはいかない事を彼女は知っている。きっと、面倒な仕事になるだろうと。

 

 

「超文字通り、『猫の手も借りたい』ですねェ。ッたく……」

 

 

 フレンダと同じく、空き缶を蹴り飛ばす。不良達を()ちのめして突っ込んだ際に溢れたものを。

 大能力(レベル4)窒素装甲(オフェンスアーマー)』に包まれた足で為したそれは、スチール製の空き缶を壁にめり込ませるだろう威力と速度で。

 

 

『遅れて飛び出てニャニャニャニャー────ンべェし?!』

「「あ」」

 

 

 狙い済ましたかのようなタイミングで曲がり角から勢い良く飛び出して戯けてきた、性悪猫の無防備な顔面に……縦にめり込んだのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 明かりの絶えた院内を歩く、三つの足音。無論、嚆矢とフレンダ、最愛の三人の物である。何かしらの機械が働いているのだろう、低い地鳴りのような音のみが木霊する中を。

 

 

『ニャハハ、潜入成功ニャア。それじゃあ、成果を押さえるナ~ゴ』

 

 

 上機嫌にも程がある声色で、嚆矢が笑う。ただし、微妙に鼻声で。空き缶の直撃で曲がった鼻を、無理くりに戻した状態のまま。フレンダと最愛を、自らの能力の効果範囲である『手の届く距離』……即ち、両肩に抱いた状態で。

 魔術(オカルト)的な感知や能力(スキル)的な感知の両方を『()()()』回避しながら。

 

 

「……で、何時までこうしてなきゃいけない訳よ」

「超ぶん殴ってもいいですか?」

 

 

 左右からのそんな声も、今なら小鳥の囀りのようなもの。実に心地がよい。だから、彼は左右に語りかけるように。

 

 

『そうだニャア。それじゃあ、最愛ちゃんは入口の警戒、フレンダちゃんはオイラと一緒に来て欲しいナ~ゴ』

「ハァ?! 結局、何で私とあんたな訳よ!」

『そりゃあ、最愛ちゃんは一人でも大丈夫そうだからニャア。けど、フレンダちゃんはどうも危なっかしい気がするナ~ゴ』

「それ、どー言う意味なのよ!」

「超妥当な人選ですね。じゃあ、私は超見張ってますんで」

 

 

 コツコツとリノリウムの床から発する足音が、小柄なフードの少女が。最低限の光量しかない医院の暗がりに、溶け込むように吸い込まれていく。

 その後ろ姿。小さく、しかし頼りになりそうな背中を見送り────

 

 

(ショゴス、二人の影に一部忍んどけ……何かあったら、直ぐに知らせろ)

『てけり・り。てけり・り!』

『てけり・り。てけり・り?』

『てけり・り。てけり・り♪』

 

 

 命じれば、多少は復活したショゴスが一部分裂。最愛の影に紛れて追跡・監視を始める。勿論それは、フレンダの影にも。

 幾ら細分化しようと、ショゴスは主人(マスター)である嚆矢と潜在意識で繋がっている。まぁ、分ければ分けただけ並列で情報を処理する事になり、困難の度合いが増すが。

 

 

「ちょ、絹旗……うわ、結局、マジであんたと二人? あー、思い出した……今日の運勢、最下位だったのよ」

『そこまで喜んで貰えるなんて……オイラ感激の余り涙がチョチョぎれてくるニャアゴ』

 

 

 これだけの声で騒いでも、南側エントランスホールは実に静かだ。当直医もいるだろう、正確には『獲物』だが。

 現在位置は、通常は閉鎖される側の出入り口。守衛や関係者はそちらの筈。とは言え、幾らなんでも静かすぎる気もするが。

 

 

「ハァ、まぁ、結局愚痴っても仕方ないし……さっさと終わらせる訳よ、ジャーヴィス?」

 

 

 カチャリ、と。スカートの裾から黒い塊を取り出したフレンダ。相変わらずの四次元スカート、間違いようもない、それは拳銃だ。

 『グロック』系統だろう、しかし彼女くらいの掌に合わせた小型のもの。弾倉(マガジン)安全装置(セーフティー)を確認して、彼女は不敵な笑顔でそう口にして。

 

 

『オーケイニャア。下調べ済みだし、早速鼠取りと洒落混むナ~ゴ』

 

 

 ならばとばかりに、此方も徒手の掌から『南部式拳銃(グランパ・ナンブ)』を取り出して、くるくると弄ぶ。弾は充分、安全装置(セーフティー)も解除してある。

 惜しむらくは、暫くは『賢人バルザイの偃月刀』は使えない事。接近戦は合気で行うしかない、と。

 

 

────本当にか? 本当に、()()()()()()は持ってなかったか?

 

 

 何故か、そんな事を自問して。まるで、耳朶に囁かれたかのような気分で……気を取り直し、猫覆面(ショゴス)に不敵な笑顔を浮かばせて。

 

 

「じゃ、手始めに研究成果からいただく訳よ」

 

 

 歩き出したフレンダ。その後を歩きながら────一度軋んだ天井、そこを見詰めて。何事もなく歩き去る。

 

 

『…………』

 

 

 その澱んだ闇に浮かぶ、小さな……燃え盛るような三つの眼差しに気付かぬままに。しん、と。廊下の形に凝り固まったかのような、酷く落ち着かない静寂だった。何かが、手ぐすねを引いて待ち構えてでもいるように、焦燥とも緊張とも判別がつかない。

 

 

 既に、足音は出していない。嚆矢も、勿論フレンダも。摺り足とまではいかないが、抜き足差し足忍び足と。

 フレンダに手の動きで合図し、曲がり角で息を詰める。事前に頭に叩き込んだ地図の通りならば、その先には『再生医療科』の資料室がある筈。そして情報通りなら……そこには。

 

 

──予想通り……赤外線センサーか。あれに触れたら、五分と経たずに守衛と施設警備ロボットがお出迎えに来る。

 まぁ、細工は既に施してるし、大した問題じゃないが。

 

 

 暗視スコープを覗き、そこに映る幾条もの赤い光線を認める。それを、スコープを渡してフレンダにも確認させて。代わりに取り出したのは、『輝く捻れ双角錐(シャイニングトラペゾヘドロン)』内蔵の懐中時計、現在時刻は二十二時五十九分五十五秒。正にグッドタイミング、嚆矢はフレンダに向けてパーの猫の手を見せて……カウントダウン。

 (スリー)(ツー)(ワン)(ゼロ)。刹那、スコープに映る赤い光線が一気に消えた。『アイテム』の雇ったクラッカーが、上手くクラッキングに成功したらしい。確か、強能力者(レベル3)以上の『電撃使い(エレクトロマスター)』のハッカーだと言う話だ。

 

 

 フレンダとサムズアップを交わし合い、慎重に扉を開く。無論、『馬鹿が見る豚のケツ(ブービートラップ)』を警戒して、嚆矢が。

 開けてみれば、どうやら扉には紐で警報がセットされていたらしい。しかし、その機構も『運良く』紐が扉から外れてしまった事で不発に終わっている。

 

 

「んじゃ、早速捜索ね。こっちを先に終らせる訳よ」

『オーライニャアゴ』

 

 

 面倒げに口にしたフレンダに、嚆矢は特に反論なく同意した。何せ、意外と広い研究室だ。一々、時間は掛けていられない。手分けして探す研究資料。鍵の掛かった場所などは、ショゴスを鍵穴に侵入させて解錠しながら。

 だが、資料は皆無。これと言ったものは一切見付からない。(いたずら)に時間のみが浪費され、遂にはクラッカーが指定した『抑えておける時間』を迎えてしまう。

 

 

「っ……結局、長居は無用ね。離脱する訳よ」

『オーライニャアゴ』

 

 

 如何にも、苦渋の決断とばかりに口にしたフレンダ。それに対して、嚆矢は特に反論なく同意した。

 余りにも、軽く。余りにも、平然と。それは或いは、不真面目とも捉えられかねない響きで。

 

 

「あんた……本当に真面目に探したんでしょうね?」

 

 

 そんな風に、フレンダでなくとも疑念を抱いても仕方無い程で。じとりと、睨み付けるように。『アイテム』の構成員、暗部に生きる人間らしい、酷薄な眼差しで。

 

 

『失敬ニャア。このジャーヴィス、女の子に嘘は吐かないナ~ゴ』

「どーだか……なら、いい訳だけど──?」

 

 

 その誰何にすらヘラヘラと猫覆面の笑顔で戯けて返した彼に、さしものフレンダも溜め息と共に諦めを。扉に手を掛け、開く────その僅かな隙間から、コロンと転がり込んできた掌サイズの円筒形は。

 

 

『「────ッっ?!!』」

 

 

 (めしい)んばかりの閃光、(つんざ)かんばかりの轟音。不意討ちで炸裂した閃光手榴弾(スタングレネード)に、無力化出来ないモノはない。

 

 

『────いやァ、驚いたニャア。もしあと少しでも爆発が早かったらヤられてたナ~ゴ』

 

 

 初めから、物理無効のショゴスを覆面として纏っている嚆矢でなければ。そして──

 

 

『てけり・り。てけり・り』

「~~、~~~~!」

 

 

 潜んでいた影の中から、光と対を為す『影の速度』を以てフレンダの顔を覆った、ショゴスが居なければ。まあ、いきなり目と耳を潰されたフレンダからすれば、閃光手榴弾にヤられたのと同じ事なのだが。

 

 

『ニャハハ、良くやったニャア。ショゴス、光と音を通すナ~ゴ』

『てけり・り。てけり・り』

『ぷはっ────ちょ、ジャーヴィス! あんた、何したの……ってか、この声は何な訳よ!』

 

 

 突然の暗黒と無音に藻掻いていたフレンダだったが、漸く視界と聴力を取り戻した事で落ち着いたらしい。逆に、己に起きた異変が気に留まったらしく、顔を覆ったショゴスを取ろうと足掻き始めた。

 

 

『見つかっちまったようニャア、ジルーシャちゃん。今はそれで逃げるナ~ゴ』

『誰がジルーシャなのよっ……結局、とんだヘボクラッカー雇った訳よ!』

 

 

 『帰ったら麦野に言い付けてやる訳よ!』と息巻きながら、扉を見るフレンダ。無論、嚆矢もそうする。

 

 

侵入者警報(イントルーダーアラート)侵入者警報(イントルーダーアラート)。発見次第無力化、捕獲セヨ』

 

 

 現れたのは、施設警備ロボットが三体。ドラム缶型の、かなり旧型。しかし、普通の軍隊相手ならこれだけで一個中隊規模の戦闘力が有ろう。

 無感情な機械音声と低い駆動音が、警報音が静かだった施設に満ちる。因みに此処は研究棟なので、これだけの厳戒体制が敷かれている。

 

 

 その警戒の網に掛かった? 否、それはない。確かに、何にも引っ掛かった覚えはないのだから。つまり──

 

 

『何、絹旗(あっち)がミスったの?』

『うんニャア、どうやらアッチもアッチで奇襲受けたみたいだナ~ゴ』

 

 

 ショゴスからの精神感応(テレパシー)によれば、此方と全く同時に。向こうにも警備ロボットが二体、襲撃を掛けてきたようだ。そう、()()()()()()()ように。

 だから、有り得るとすれば……()()()()()()()()()()のだ。

 

 

『兎に角、先ずは合流しなきゃニャア。そして脱出、やる事ばっかナ~ゴ』

『それしかないわね……んじゃ、行く訳よ!』

 

 

 ゆるりと、以前『アイテム』の入団試験時に入手した軍用ナイフを備えた右腕を前に。彼の最も得意とする構えを取り、その左手には『南部式拳銃(グランパ・ナンブ)』を握る。

 同じく、フレンダは……スカートの中から、戦闘機に描かれる『鮫の笑顔(シャークティース)』を描かれた『棒付き』を右手に四つ、左手にはグロックを構えて。

 

 

制圧目標確認(ターゲットインサイト)……人物・男女二名。詳細特徴不明────警告、戦闘能力確認。各機、兵装使用自由(オールウェポンズフリー)

 

 

 それを確認し、ロボットが小型の武器を露出する。恐らくは、投網か遠距離用の電撃銃(スタンガン)だろうが。

 

 

『結局────先手必勝な訳よ!』

 

 

 その指揮官機を、フレンダの『棒付榴弾(シュトゥルムファウスト)』が捉えた。対面の壁まで吹き飛ばされた指揮官機は全壊。周りの機もそれなりに損傷しながらも、危険度からフレンダを狙って武器を構え────

 

 

『ニャハハ────!』

 

 

 その銃口を、銃弾が抉る。改造南部の強装弾(マグナム)、50AEが砕いて。センサー部に撃ち込まれた二発目の弾が、『()()()』機関部まで届いて機能停止させて。

 また、発射された投網は──ショゴスを潜ませるナイフの『影の波(ショゴス)』の一撃に両断。その波の余波で、発射した機体までも両断して貪った。

 

 

「雑魚が……出しゃばんじゃねェ、ってなモンだぜ」

 

 

 クク、と邪悪に。素の声で笑って、嚆矢は右手を見る。無惨にも、ショゴスに食い潰されたナイフを。もう使い物にはならないと、全てくれてやる。これで、本当に近接武器は喪った。

 

 

『何遊んでんのよ、早く逃げる訳よ!』

『ノー、だニャアゴ』

『はあ?! 何でよ! 絹旗なら一人でも何とか出来るわよ、暗部舐めてんじゃない訳よ!』

 

 

 その嚆矢に、早くも脱出ルートを走り始めているフレンダが呼び掛ける。見れば、周りの窓には学園都市製のシャッター。壁と言えば、棒付榴弾(シュトゥルムファウスト)を受けて吹き飛んできた警備ロボットがぶつかったところで無傷の壁。壁抜けすれば簡単な話だが、生憎、あんな離れ技は『一回』ぐらいしか持たない。即ち、脱出は『フレンダと最愛を纏めて』。

 

 

『それでも……残してはいけないニャア。オイラは────』

 

 

 だから、兎に角、先ずは最愛との合流を。だが、先程から妨害電波でも出ているのか。インカムをどう操作しても繋がらない。募るのは、妙な焦燥。それは、何故か……胸元の懐中時計、そこに嵌まる『輝く捻れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』から伝わるようで。

 苛立ちにがなるフレンダ。その声色に不釣り合いな、ショゴスのニタニタ笑いの猫面を見詰め返して。

 

 

『オイラは────変態紳士(ジェントルマン)だからニャアゴ』

 

 

 同じく、嘲るようなニタニタ笑いの猫面の覆面で。戯けたまま、恭しいお辞儀の後で反転して走り去った性悪な猫面男(チェシャ=ザ・キャット)

 そんな男を見送り、フレンダは。俯いて、ポツリと。

 

 

『はっ、バカバカしい……それでカッコつけてる気かっつーの』

 

 

 唾棄するように吐き捨てて、最早一顧だにせずに。元から目指していた方へと、走り去っていった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 予感がする。何か、嫌な事が起きると。暗闇に生きる人間としての嗅覚か、昔からそういう勘は良く当たった。

 非常灯に照らされた薄明かりの、けたたましいベルが鳴り響く廊下をひた走る。見れば、幾つもの警備ロボットの残骸が撒き散らされている。今も、何処かから硬い物が砕かれる音が響いてくる。最愛が、何処かで暴れているのだろう。

 

 

──非常ベルの所為で、震動しか分からねェけどな。ショゴスのテレパシーも利かねェなんて、魔術か? だとしたら、やっぱりヤベェ……右か左か、何方(どっち)だ!

 

 

 予感は、ほぼ確信へ。疑いようもない、焦燥が首筋をチリチリと炙る。

 

 

『────こっち。こっちよ、こうじ』

「ッ……!」

 

 

 刹那、視界の端にちらついた黄金の煌めき。それと共に、まるで夢見るような薄紅色の星雲(ネビュラ)。人懐っこい少女の柔和な声が、耳朶の直ぐ横で囁かれたように鼓膜を揺らした。

 右目、右耳。それは、確かに導くように。何か、人智を超えた『超越者に奪われた意志』で在るかのように。向けた両目、その焦点。蜂蜜酒色の双眸には……次なる分かれ道しか映らない。

 

 

『────コッチ。コッチだ、コウジ』

「……ッ!」

 

 

 刹那、視界の端にちらついた青銀の煌めき。それと共に、まるで醒めたような薄蒼色の星雲(ネビュラ)突っ慳貪(つっけんどん)な少女の冷淡な声が、耳朶の直ぐ横で囁かれたように鼓膜を揺らした。

 左目、左耳。それは、確かに導くように。何か、人智を超えた『超越者に奪われた意志』で在るかのように。向けた両目、その焦点。蜂蜜酒色の双眸には……新たな、四ツ辻。

 

 

────呵呵呵呵(かっかっかっか)、これはまた……総帥殿と元帥殿はまぁ、随分とお優しいものよのぅ。

 では、では。代弁者の一つの『貌』たる(わらわ)も、倣わぬ訳にはいくまいて。呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっか)……!

 

 

 背後から、確かに。嘲笑うその声色、まるで燃え上がる悪意そのもののような焦熱と底冷えが。

 姿は見えない。当たり前だ、背中を見る事はできない。そんな当たり前の条理が、今は何よりも慈悲深い。もしも目にしていたのなら、正気に堪えきれまい。それほどまでも悍ましい暗闇色の、その奥に浮かぶ、燃え上がる三つの────

 

 

呵呵(かっかっ)──そら、こちらぞ。嚆矢……!』

 

 

 右の耳朶を生温かく舐磨(なめず)るように甘噛みながら、左の耳朶を薄ら寒く甚振(いたぶ)るように爪抓(つね)りながら、虚空が発狂する。

 熱の籠った、冷厳なる力が。『超越者にすら奪えなかった意志』が、暇を持て余した神の戯れであるかのように。迷える子羊を、贖罪の山羊を導くように。

 

 

「────!」

『……ふむ、意外に釣れぬのぅ。呵呵呵呵(かっかっかっか)!』

 

 

 背後の闇色を振り払い、走る。前へ、ただただ前へ。構って要られない、時間がない。理由など、それだけで良い。真正面の道、警備ロボットの残骸が出火したそこを────

 

 

()い、()い。折角の(わらわ)が温情を無にしたのじゃ────今更』

 

 

 その残骸が歪み、曲がり、(ひしゃ)げて、崩れた。まるで、時空ごと螺旋斬(ねじき)られたかのように。

 

 

『今更、この程度での挫折など(ゆる)さぬ……最期まで、この絶望(よきょう)を楽しむが佳いぞ』

 

 

 呵呵呵呵(かっかっかっか)……と、いつまでも響く耳障りな嘲り。意識から排除する。否、元々『神の声』など人は覚えていられない。何故ならそれは明確な音ではなく『兆し』でしかないのだから、次の瞬間には……もう。

 

 

『……百分の九十九(ラッキー)、ニャアゴ!』

 

 

 カッカッカッカ……と、靴音を響かせて。導かれた事すら最早記憶にも経験にもなく、嚆矢は前へとひた走っていた。

 そしてその、焔と煙の残滓の先に──居た。居たのだ。

 

 

『見ィっけ、だニャアゴ!』

「っ……ジャーヴィス!」

 

 

 小柄な少女、フードを目深に被ったその姿は間違いない。絹旗最愛その人だ。まだ、無事だ。今も、一機の警備ロボットを『窒素装甲(オフェンスアーマー)』で殴り飛ばしたばかり。

 だが、背中ががら空きだ。そこを狙う警備ロボットを────銃弾一発で『幸運にも』機能停止させ、『大鹿(ベルカナ)』のルーンで脚力を増加した嚆矢が躍り込む。

 

 

『女の子のピンチに颯爽と駆け付けるオイラ……惚れても良いんだぜニャアゴ?』

「そうですね、超颯爽とし過ぎてて、危うくぶん殴るところ(オフェンスアーマー)でした」

『次からは普通に出てくるニャアゴ……』

 

 

 軽口を叩けば、足下に気配。敵ではない、それは……

 

 

『てけり・り。てけり・り……』

 

 

 『窒素装甲(オフェンスアーマー)』の高い防御力の所為で取り憑く事が出来ずに居たのだろう、ショゴスの一部。それが、実に申し訳なさそうに戻ってきた。これで多少は、手数が増えた。

 ホールのように広くスペースを持たされた其処、恐らくは実験室か何かか。しかしその所為で、彼女は未だに五機もの警備ロボットに囲まれており。

 

 

『新手か……だが無駄だ!』

『一人増えたくらいで……不審者共め!』

『大人しく、縛に付けい!』

『女の子一人に大人気ない……ッて、駆動鎧(ラージウェポン)ニャア?! コイツァあ、やべェナ~ゴ!』

 

 

 それらを指揮する、身の丈八尺七寸(二メートル五十センチ)もの巨大な鋼の鎧を待とう守衛三人の姿があった。

 警備ロボットと同じく、ドラム缶型の本体。しかし、そこから伸びる人間じみた強靭な手足。最新の『HsPS-15』と較べれば型落ちの払い下げ、数世代は前の物だが、装甲車程度ならば相手にもならない。

 

 

「さて、兎も角、あの玩具の兵隊達をどうにかしない事には超脱出不可能です。しかも、足手纏いも超増えましたし」

『ニャハハ、そりゃあ、そのほっそりとしたお御足になら幾らでも纏わり付くニャあゴッ! 冗談ですニャアゴ……』

 

 

 吐き捨てた最愛に、空気を和らげようと巫山戯てみたら『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を貰った。右膝の鋭い一撃が、割とマジに右脇腹を抉って。

 そう、幾らこの大能力(レベル4)窒素装甲(オフェンスアーマー)』でも、駆動鎧(ラージウェポン)までは厳しかろう。しかも多勢に無勢、むしろここまで耐えた最愛の戦闘能力こそが大したもの。

 

 

────だとしたら、どうするのか。この場を乗りきる方法は、一体何か。また、壁でも抜けて逃げるのか?

 

 

 涙子の時のように、最愛を抱えて逃げる? それも手だ、それも有りだろう。

 

 

「……(いや)。決まってるか」

「ジャーヴィス……?」

 

 

 だが、それでは駄目だ。涙子の時は、それで『全て丸く収まった』から。だが、今回は違う。

 もし、成果なく戻ったりすれば……懲罰を受ける事になる。己一人ならばそれも可だが、フレンダと最愛の二人までもが懲罰を受けよう。暗部の懲罰────その意味するところなど、僅かなもの。

 

 

────それの何が悪い。そもそも、その二人とて闇に生きる者。刃の報いは己に返るもの、奪う者もまた奪われるもの。覚悟くらい、当にしていよう。

 それを……自己の観念の為に。他者の意地を踏みにじろうと。浅はかな話であろうに。

 

 

 確かに、確かに! それが摂理、それが真理だ。だが、だが────

 

 

()()()()()()()()()。それが、俺だ────」

 

 

 自嘲と共に、()()()()()自問自答を打ち切る。結論は、詰まり『自己矛盾(パラドックス)』であり『二律背反(アンチノミー)』、そして『懊悩葛藤(アポリア)』。

 

 

()────』

 

 

 他人の意志を尊重しない言い訳に、自分の我儘を通す。その、有り得ざる無様。見苦しい、聞き苦しいと、良識の在る人間ならば断じよう。

 しかしてそれは、紛れもなく純粋無垢な、偽りも誇張もない本心であり────対馬嚆矢という男の、紛う事の無い絶望(よきょう)で。

 

 

呵呵呵(かっかっか)────呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)!』

 

 

 だから、『それでいい』と。『それがいい』と、嘲笑う者がある。

 背後に燃え立ち、誰からも見えずに……否、対敵にははっきりと、その姿を映して────哄笑する、『陽炎』が在った。

 

 

真逆(まさか)真逆(まさか)これほどの逸材(デク)であったか……呵呵(かっかっ)! ()い、()い! 拝領を(ゆる)す────全く、これほどの拾い物はサル以来じゃて!』

 

 

 『陽炎』が揺らぐ。哄笑を止める事無く、左の腰に重みが加わる。見れば、嗚呼、何の事はない。揺らめく陽炎が在るだけだ。

 足下で、ショゴスが脅えている。今にも、消滅してしまいそうなほどに。

 

 

「何が──はぷっ?!」

『ニャハハ……子供にはまだ早いニャアゴ』

 

 

 何かを察したか、振り返ろうとした最愛のフードをその猫の手で更に深く押し被せて。代わり、その嚆矢の胴を割と本気の『窒素装甲(オフェンスアーマー)』のボディブローが襲い────ぺしり、と。まるで、年相応の小娘の拳が鍛え上げられた青年の筋肉に無力なように。間抜けな音を立てて。

 

 

「え……?!」

駆動鎧(ラージウェポン)の方はオイラに任せるニャア、代わりに警備ロボットは任せたナ~ゴ』

 

 

 そんな、最愛の驚きの声を尻目に。嚆矢はフードから手を離す。解放された視界、そこに映るのは……腰に太刀を()いた、黒猫の姿。

 つい先程まで、そんな物は影も形も無かった筈だと。最愛は僅かに訝しみ、直ぐにこの男が名乗った能力名(スキルネーム)。そして、何でもありなその能力内容を思い出して。

 

 

「えェ……分かりました。けどォ、帰ったら色々と超言いたい事があるンでェ……」

『分かってるニャア、ベッドの中でじっくりと聞いてあげるナ~ゴ』

「やっぱ今ァ、超ブち殺してェってなもンですがねェ!」

 

 

 気を取り直した最愛が、正面の警備ロボット一機を殴り壊す。鬱憤を晴らすかのように、ボディブローの『窒素装甲(オフェンスアーマー)』で。嚆矢の時と()()()、殴って。

 

 

呵呵(かっかっ)、生きの良い小娘よなぁ……》

「向こうは心配しなくても負けねェ。問題は此方だろ、『悪心影(あくしんかげ)』」

《ほぅ……もう思い出したか。まぁ、遅いくらいじゃがのう? 呵呵呵呵(かっかっかっか)!》

 

 

 脳裏に響く声、それすらも気に留めず嚆矢は眼前を見遣る。勝利を確信しているのか、今も、悠然たる姿勢を崩さない駆動鎧(ラージウェポン)達を。

 

 

『ふん……刀か。馬鹿め、そんな時代錯誤な武器で!』

『学園都市の粋たる、科学の力に!』

『敵うとでも夢想(おも)っているのか!』

 

 

 示し合わせたかのように、其々が区切り区切りで構えを取る。ついでに、殺傷力の抑えられた電撃棒(スタンロッド)とか衝撃砲(インパクトガン)とかを構えながら。

 まぁ、気持ちは分かる。レベル20以上の勇者がスライムを甚振るようなものだ。

 

 

《ほうほう、これは愉快に思い上がっておるわ……あの“海道一の弓取り”とかホザいたおじゃる大名を思い出すわ》

「煩せェ、気に喰わねェならとっとと斬り伏せりゃ良いだろ、『長谷部 国重(はせべ くにしげ)』────」

 

 

 負ける訳の無い敵を嬲って楽しむ。なるほど、人間に普遍の感情だろう。その不遜な態度に、『悪心影(あくしんかげ)』が不愉快を返す。

 同意だ、全く持って。だが、ならば……この『刀』がやるべき事は、ただ一つ。

 

 

《……呵呵(かっか)。言われてみれば、その通りであるか》

 

 

 悪辣な笑みに、悪辣な快哉が返る。本質として同じなのだ、この担い手と刀は。

 

 

『はっ、バカバカしい……それでカッコつけてる気かっつーの』

『やっぱ今ァ、超ブち殺してェってなもンですがねェ!』

 

 

 他人がどう思おうが、我が意を通す。『真如波羅蜜(あるがままであること)』、ただそれのみ。

 

 

「さぁ行くぜ、『長谷部 国重(はせべ くにしげ)』……俺達の敵は、あの三機の木偶の坊」

《はっ……軟弱な鉄よ。思いも、願いも、魂も籠らぬ。軟鉄風情が、目障りな》

 

 

 当たり前ではある。戦国の世では、鉄とは命懸けで造り、命懸けで加工していたもの。しかしこの華やかなりし現代では、鉄など在って当たり前。無感情な機械が、無感動に精錬しているに過ぎぬ。よく、彼の義父もそう嘆いていた。『最近の鉄に、息吹はない』と。

 

 

『ハッ! どちらが軟弱か……この一太刀が証明しようぞ!』

 

 

 その内、一機が走る。片腕に、電撃棒(スタンロッド)を構えて。『長谷部』の五、六倍はある太さの、帯電する鋼の凶器を携えて。

 そんな偽物の鋼を前に、嚆矢はゆるりと右手を突きだした。最も得意なその構えの後、左手で鯉口を切りながら、まるで舞でも舞うように刀の柄に手を掛ける。

 

 

 交わりは、僅かに一回。耳障りな程に甲高い、鋼を断ち割る音が木霊して。走り抜けた駆動鎧(ラージウェポン)、一歩も動かずに。

 電撃棒(スタンロッド)ごと、真っ二つに割られた駆動鎧(ラージウェポン)から、つい今さっきまで生きていた()()()が撒き散らされ、嚆矢の全身を彩る。その背後の陽炎すらも。

 

 

「“()()()()()()”が佩刀……『()()()()()()()』────!」

《いざ────()して参る!》

 

 

 抜き放つ鋭利な輝き。妖しく滑る鮮血よりも尚、苛烈なる白刃の煌めき。黒塗りの鞘に金の意匠。鍔には『永楽通寶』の四字を戴いた垂れ波紋。最早尋常の人間ではない、異形の刃金に包まれた、右手に握られて。

 南北朝期、『正宗十哲(まさむねじってつ)』と讃えられた名匠の刃が閃いた────!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

26.July・Night:『Blade Arts』

 

 

──その一撃は、見えもしなければ躱せもしない。正に、天より降り墜つ神王の雷霆(かみのさばき)だった。

 それは、俺の『■■■■(■■■■■)』をものともせずに。

 

 

 打たれた脳天を抱えて、恥も外聞もなくゴロゴロと板間を転がる。音も威力も、己が使っている物と同じ竹刀だとは、とても思えなかった。

 木刀、と言われても信じられる。そうでもなければ、同じ材質、同じ重さのモノをどうして────

 

 

(ザマ)ァねェ……偶々(たまたま)得ただけの能力に頼るから、そうなる』

 

 

──巫山戯んな……何しやがった、どんな改竄(トリック)を使いやがった!

 

 

 低く、重厚な声に目線を向けながら噛み付く。此方を見下ろしつつ、紫煙を燻らせる道着姿の男の眼差しに。

 見下したような、しかし熱の籠る炉のような。静かに白熱する金属塊(インゴット)のような。

 

 

『本当の強さってのは、鍛え上げた錬武(アート)にのみ在る。科学でも魔法でも辿り着く事の叶わない……ただ自らが描いた理想、“求道の果て”にのみに……だ』

 

 

──…………。

 

 

 吐き捨てるように、言い聞かせるように。常日頃の金属鍛冶で身体を鍛え上げ、更には『正しく刀を()つには、刀の道を窮めねばならぬ』と技術を鍛え上げ、実際に『免許皆伝』にまで至った義父(ちちおや)の言葉。その重さに、反論すら儘ならない。

 何故なら、それは事実。今、正に証明された。かつて、学園都市の暗部にて『正体非在(ザーバウォッカ)』と恐れられた『()()』が、何の変哲もない男に敗れたのだ。出逢った時と合わせて()()()、無様に転がされた。

 

 

『そもさん、争いなど意味がない。戦わずして勝つ事こそが肝要だ。しかし負けずして()けを認める事は、勝たずして()ちを認める事の無量大数倍は困難。そんな事は、夢物語であるからこそ────』

 

 

 燻らせていた煙草を、携帯灰皿に押し潰して。義父は、真面目な顔で向き直る。それは、まるで……。

 

 

『────()()の話をしよう。それは理論的に構築され、論理的に行使されなくてはならない』

 

 

 友に、秘密を打ち明ける少年のような。悪戯心に溢れた、凄惨な笑顔で────…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 『()()()()()』。日本人ならば知らぬ者は居るまい戦国の雄、第六天魔王『織田信長』の佩刀。

 南北朝時代の刀鍛冶、かの天下一名物『相州五郎入道正宗(そうしゅうごろうにゅうどうまさむね)』の流れを組み、後に“正宗十哲”と讃えられる内の一人『長谷部 国重』作。(しのぎ)造り、庵棟(いおりむね)。身巾広く重ねやや薄く、反り浅く、 大切先(きっさき)(きたえ)、板目流れでよくつみ、地沸つき、地景入る。

 

 

 刀文は、皆焼(ひたつら)下半大乱れの皆焼、上半はのたれに小乱れが交った皆焼。

 

 

──桶狭間から始まり長篠、比叡山焼き討ちに一向一揆殲滅。割拠する群雄も、神仏すらも恐れぬ、その血塗れの覇道を知るもの。そして、その末路は────……今は日本史の話は省こう。そんな場合じゃねェ。

 

 

 気にすべきは、眼前の二機。呆気に取られて棒立ちの一機と、重厚な佇まいを崩さぬ指揮官機。

 

 

「……どうした、随分と気勢を削がれた見てェだがよ?」

『ひっ……人殺し!』

 

 

 対するは、一騎。元々のバスドラの声色で、兇貌(きょうぼう)なる黒豹が構えた一振り。それに改めて気圧されたらしく、棒立ちだった機が目に見えて一歩、後退る。即ち、流れを握る好機である。

 分かり易い程に大仰に。太刀を右肩上に構える、正調の上段。右掌は深く強く、左掌は浅く軽く、赤い目貫が覗き込むような黒い柄巻の柄の両端を握る。斬り臥せた駆動鎧から迸った鮮血と油に滑る白刃は鋭く、非常灯の光を切り裂いて。

 

 

「そら、その駆動鎧は飾りか? その棒は飾りか?」

『っひ、人殺し! 来るな、人殺しめ!』

「ああ────そうだが、それが何か?」

 

 

 じり、じりと足を送れば、浮き足立った対手がじり、じりと足を(おく)る。

 

 

『な、何なんだ……何なんだよ、お前は!』

「何か? ハッ、何でもない。ただ単に────お前の死神さ」

『ひ、ヒィィィィ!?』

 

 

 どうやら、恐慌の余り自らの機体に備わる『衝撃砲(インパクトガン)』の存在を失念しているらしい。怯えるのみの一機に、ここぞと畳み掛ける。それは痛く対敵の心を抉ったらしく、最早腰砕けだ。

 まぁ、『衝撃砲』ならば使われたとて問題はない。あの武装なら、()()()()()()()()()()。仕方あるまい、『警備員(アンチスキル)』ではない、正しい意味での職業である警備員(ガードマン)に、実戦経験など望む方が悪い。

 

 

「逃げて勝てる敵なんざ居ねェぜ、なァ? 来いよ……それでも男か、あァ!?」

『く、来るなぁァァァ!』

 

 

 恐れ、最早逃走の一歩手前。その機体に向けて、刀を構えて。あと一歩だ、と。

 

 

『一刀流の切落(キリオトシ)……か。若い癖に、随分と黴臭い術理を用いる』

「────!」

 

 

 だから、嚆矢は心の裡で吐き捨てる。『百分の一(サイアク)だ』

、と。

 口を開いた指揮官機、微動だにせずに『電撃棒(スタンロッド)』を弄ぶ。くるりと構え、警棒術の『中段構え』を取る。

 

 

『だが無為、駆動鎧の前には余りに無為! 自らの劣勢を示したに他ならぬ……出逢え、者共! 敵は最早死に体ぞ!』

呵呵(かっか)、随分と酷い事を言われておるぞ?》

(煩せェ、クソッタレ……あァ、今日はツいてねェ!)

 

 

 二重に図星を突かれて、血へドと共に吐き捨てる。形勢が不利に傾いた事を悟って。先程自分が通った唯一の出入り口、そこから新たに二機の駆動鎧と多数の警備ロボットが現れて退路を塞ぐ。恐らく、壁抜けを使っていればあの別動隊に制圧されていただろう。

 指揮官機の激励に、敵機は統制を取り戻しつつある。このままでは、幾らなんでも突破は無理だ。

 

 

『そら────行けィ!』

『は、はい────うァァァァ!』

 

 

 正体を取り戻し、敵機は突貫を。『衝撃砲』を乱射しながら、『電撃棒』を振り回し────

 

 

「一刀流じゃねェ────新影流(しんかげりゅう)一刀両段(イットウリョウダン)』……“合撃(ガッシ)”だ」

「あっ────ガッ??」

 

 

 それを、一刀の元に斬り伏せる。『衝撃砲』など、服に溶け物理を無効とするショゴスの護りの前には無意味だ。敵の腕と身体を纏めて両断すれば、打ち払われた電撃棒が腕ごと宙を舞い、割られた胴が血飛沫を放つ。その命を、またもや無為に散らした。

 新たな血糊を浴び、新鮮な餌に歓喜するショゴスが啼いている。足下からは既に鋼を溶かし呑み、液体を舐め啜り、肉を咬み毟り、骨を喰い破る音が響いている。

 

 

『ば……化け……もの……』

「……だから何度も言ってンだろ、『そうだ』ッてよォ」

 

 

 即死できなかったらしく、転がった駆動鎧が末期の恨み節を述べた。それに、悪鬼の笑顔を浮かべた猫面のまま……止めの一太刀。

 熱もないのに陽炎を纏う刀、ゆらりと。

 

 

《ふむふむ、やはり敵の息の根は確実に止めるに限るわ。後はこの楼閣を焼けば、尚()い》

(昔の木造建築と違ってビルは燃え難いし、消火設備も万全だ。無理だよ)

《それはどうかのぅ、(わらわ)異能(ちから)……お主はもう、気付いておろう?》

(……ある程度は。俺の能力とは相性抜群だな)

 

 

 刀の銘のままに、力と切れ味のみで“圧し斬る”。ゴキリ、と不快な感触の後、全てが終わる。終わらせた。

 終わらせながら、何でもないかのように頭の中に響く声に応えていた。

 

 

──そうだ。今更だ……此奴(ショゴス)も俺も、化け物だったんだ。

 

 

 久々の感覚。そう、以前の日常。懐かしき暗部(くらやみ)の日々。何故忘れていたのか、目を背けていたのか。

 

 

『嘘だろ……コイツ、駆動鎧を斬りやがった!』

『信じられねぇ……何かの能力(スキル)か?』

 

 

 後詰めの二機が二の足を踏む。然もありなん、目の前には地獄絵図。焦熱を纏うかの如く陽炎の揺らめく白刃を構え、血化粧を施された凄惨な笑顔を浮かべる猫面の悪鬼。足下では、蠢く『影』が鋼鉄や骨肉を貪っている。

 

 

『……クク。成る程、大したものだ、事前情報の通り』

 

 

 ただ、一機。冷静を崩さない指揮官機を除いては。動かない二機、その代わりの如く此方に向かってきた警備ロボットに応戦しながら、そんな呟きを聞く。

 

 

「事前情報ねェ……やっぱり、何処からかタレ込みが有ったッて事か」

「ちっ……これだから、信頼度の低い仕事は超嫌なンですよ」

 

 

 いつしか背中合わせに立っていた最愛が毒づく。全く同感である。投網を断ち、左の南部式拳銃で本体を撃ち、『確率使い(エンカウンター)』による『急所に当たった(ラッキーヒット)』で機能停止に追い込む。しかし、数が多過ぎる。マガジンを交換する暇も僅かだ。

 

 

「チッ──」

 

 

 等と思った側から弾切れ。右手には刀、戻している暇はない。そもそも、両手持ち以外で刀を振るものではないが。弾込めは諦めて南部を仕舞いながら、放たれた電撃銃(スタンガン)に長谷部で理合を敢行。刀の鎬で刃流(パリィ)する。というか、それしか出来ない。

 

 

《ほぅ……器用なものよなぁ、まるで旅芸人の軽業じゃな。楽市楽座の後にはよう見に行ったわ》

(喝采は要らねェ、喝采は要らねェ。ただ俺が成し遂げるだけだ、ッてか!)

 

 

──遠距離、マジ汚い。こうなると、豪快に警備ロボットを殴り壊せる上に防御も隙の無い最愛の能力(オフェンスアーマー)が羨ましい。

 

 

 相手もそれを学習したらしい。流石は学園都市の警備ロボット、早くも此方に『中・遠距離』が無い事に気付いたのだろう。先程から、遠巻きに攻撃を繰り返している。

 それに気を取られていられれば、或いは幸せだったかもしれない。

 

 

『死が恐ろしいか、お前ら?』

『た、隊長?』

『あ、当たり前です! 俺、仕事がないからこの仕事してるだけで……命を懸ける気なんて、毛頭無いですよ!』

 

 

 後退り、今にも逃げ出しそうな後詰め。その二機に、指揮官機が鷹揚に頷く。

 

 

『確かにな。俺もそうだ。こんな仕事程度に命を懸けるなど馬鹿馬鹿しいと、常日頃思っていた。此処に来るまでは、な』

 

 

 優しく諭すように、部下に向き合い────ドス、と。

 

 

『──え?』

『あ──?』

 

 

 ()()()のようなものを、部下二人に突き刺した。

 

『あ、ギャァァァァ! な、なん、コレ……グァァァァァア!?』

『痛、う、あ……嫌だ、嫌だァァァァ?!』

『そう、出逢ったのだ。此処で、祭司様に! あの方は教えて下さった、“生”など偶然の産物! 本来我等が在るべきは、不変たる“死”なのだと! 即ち──これが、真実だ』

 

 

 恐らく、額面通りの『棘』ではないのだろう。泡を吐き、のたうち回る部下を見下ろして……指揮官機は宗教家のように、熱に浮かされた弁舌を振るう。

 やがて、二人はピタリと動きを止めて。

 

 

『う……ウゥウウウ……』

『オォォォ、あァァァ……』

 

 

 ぬるり、と立ち上がる。だが、正気などには程遠い。その二人を、引き連れるように。その時……バサバサと耳障りな、乾いた紙音を孕んだ風が吹いた。

 

 

『“我は求め(エロイム)訴えたり(エッサイム)”──!』

「────!?」

 

 

 指揮官機が空を掴み、取り出した()()。黒い装丁に、その余りに有名な呪言(コマンド)。導き出される答えは一つ。

 

 

「“黒い雌鳥(ブラック=プレット)”か!」

「ジャーヴィス……?」

 

 

 口を突いた魔導書(グリモワール)題名(タイトル)に、背の最愛が怪訝な顔を見せる。振り向かない嚆矢には、見えないものではあるが。

 

 

《……いや、写本(だみー)じゃな。流石に()()となると、取り出しただけでも数千人規模で気が触れようて》

(そうかよ。で、再現率は?)

《間違いなく、書いた者は幽世(かくりよ)だろうのぅ。呵呵呵》

(笑って言うトコじゃないよな?)

 

 

 要するに高いらしい。肌を刺すような瘴気だけでも、分かってはいたが。

 

 

「っ……超なんなんですか、アレ?」

「要するに、アレが俺らが狙う『研究成果』さ」

 

 

 問うた最愛の、僅かに震えた声に心臓が一つ、脈を外す。嗚呼、そうだ。それは。

 

 

『だめ────』

「……!」

 

 

 記憶の中の、その声と()()()聞こえて。

 

 

「大丈夫──()()に、任せて」

「……えっ?」

 

 

 口を突いた、その一言。安心させられるように、柔らかく。

 

 

『このジャーヴィス、女の子の前なら鬼神もドン引く程の甲斐性を発揮するのニャアゴ!』

「…………この男は」

 

 

 猫面のまま、悪鬼の笑顔を見せて。最愛の表情を、『怯え』から『呆れ』に変えて。

 

 

「さァて、それじゃあ……奪うとするかね、『研究成果』」

「超了解です。あれさえ手に入れば、麦野も超納得させられます」

 

 

 そうして、互いに逆方向に向き直る。最愛は、(たむろ)する警備ロボット。嚆矢は……まるでゾンビのように覚束無い歩みの二機と魔導書を持つ指揮官機の、計三機の駆動鎧に向けて。

 

 

「あの、『黒い棘』……『死人を生き返らせる研究成果』とやらを!」

 

 

 叫び、長谷部を構えて─────!

 

 

………………

…………

……

 

 

 衝撃の塊が唸りを上げて虚空を疾駆し、迫り来る。先程までの駆動鎧達には微塵くらいはあった、『急所を外す手加減』を一切感じられない乱射が。

 一応、物理無効のショゴスを纏う嚆矢にも鉄壁の『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を誇る最愛にも大した効果はない、()()()()()()。しかし、それが何時までも続くと考える程に楽天的ではない。

 

 

『やはり埒が開かぬか……我は求め(エロイム)訴えたり(エッサイム)────来い、ミ=ゴ共よ!』

「ッ……!」

 

 

 指揮官機の詠唱と共に、瘴気を孕む風が何処からともなく吹き抜けた。骨の髄まで染みるような怖気に、思わず背筋が震える。

 見れば、衝撃砲を乱射しながら、ゆらゆらと覚束無い足取りの二機。その背後に────最近見た、忌まわしい『異形』共が浮かんでいた。

 

 

『『Gyyyyy(ギィィィィィ)…………』』

「ちょ……今度は超生物兵器ですか? 次から次に、超面倒臭い」

「ハッ────似たようなモン……じゃねェの?」

 

 

 バケツくらいのサイズの『銀色の筒』を携えた、その二体の異形。蜂じみた姿形の、『ミ=ゴ』と呼ばれた化け物が。無論、『埒外の化け物』だ等とは口が裂けても言わない。正気を疑われるだけだ。

 その二体が、バリバリと鋭い鈎爪で『黒い棘』に開けられた駆動鎧の穴を抉り、内部へと潜り込んでいく。運良く、向こう側の出来事。此方側からは、詳細は見えずに済んだ。

 

 

『さて! 猫の君、君は覚えているかね? この施設に来る前に相手にした、あの二人の()()()の事を!』

「……成る程、アレもテメェの差し金か。周到なこった、どっちが化けモンなんだか」

 

 

 直ぐに思い至る、あの長点上機学園の制服の女学生二人。死人としか見えなかったあの姿が……目の前の二機と被る。否、被るなどと。全く同質だ。

 

 

『ハッハ! いやいや、確かに私は化け物だが────君ほどではないさ!』

 

 

 そして、快哉する指揮官機が“黒い雌鳥”から一際鋭利な長い棘を……鎌状の刃を穂先両側備えた、黒曜石じみた妖しい色彩を放つ『十文字槍』を抜き出すと共に、肉質の裂ける音が止んだ後。二機の駆動鎧は、ゆっくりと腕を差し向け────

 

 

「チッ──! 気を付けろ最愛、何かしらの能力(スキル)が来る!」

「はっ? 能力(スキル)って……大人が使える訳が────ふぁっ?!」

 

 

 名前で言うが早いか、最愛を抱えるように跳ね飛ぶ。『大鹿(ベルカナ)』のルーンは既に消えている、間に合ったのは僥倖だ。

 その判断は、誤り無く。つい今まで居た空間を、大気を引き裂く竜巻と金属すら腐食させる酸の霧が薙いだ。恐らくは『空力使い(エアロハンド)』と『表層融解(フラックスコート)』の類型か。

 

 

──やっぱり、か。どんなトリックかは知らねェが、あの化け物は……俺達学生みたく『能力(スキル)』を使える!

 しかも、どれも強能力(レベル3)以上の質が高い物、戦闘使用に耐えるレベルの物を!

 

 

 加えて、どちらも『物理的に破壊できない遠距離用』の類いを。恐らくは、狙って持ち出した能力だろう。最愛の『窒素装甲』を破る為の『空力使い』、嚆矢の長谷部を破壊する為の『表層融解』。的確すぎる程、敵将の采配は的を得ていた。

 それに、嚆矢にはまだ懸念がある。以前相手にした時、あの二人の死人は『一人で二つの能力』を有していたのだ。つまり、最低でも相手は、まだ()()()()()()を持つ可能性がある。

 

 

《ふむ……大した慧眼よ。まるで、武田の山本勘助じゃ。あ奴と信玄には手を焼かされたものよ》

(日本史のご教授どうも、で、対策は?)

 

 

 脳内に、薄く笑いながら語り掛けてくる魔王の意識に反駁する。それを受け、歴戦の武士は。

 

 

《勝てぬなら、死ぬまで待とう、ホトトギス》

(死ねうつけ、明智裏切る、本能寺!)

《ちょ、貴様、幾らなんでも酷くない?! 魔王に敬い、足りてなくない? ばーい、字余り》

「ムッかつくわー、コイツ!」

 

 

 物凄い天運任せだった。いや、確かに長篠の勝利は信玄死後の息子・勝頼の時代だったらしいが。否、心底日本史はいい。今はなんとしても、生き残らねばならないのだから。

 

 

「どうでも良いんですけど、超いい加減下ろせってンですよ!」

「ッと……悪ィ。後、重ねて悪ィンだけど────あの駆動鎧(ラージウェポン)以外は、任せていいかい?」

 

 

 わたわたと暴れる、小脇に抱えていた最愛を開放する。流石に、人一人を抱えながら闘えはしない。悪いが、自分の身くらいは自分で守って貰おう。

 そう判断し、最愛には悪いが周囲で煩い警備ロボットを片付けて貰おうと────

 

 

「……超巫山戯てンじゃねェです、何様のつもりで、私に超命令してやがンですか!」

 

 

 だが、聞く耳等無いとばかりに最愛が駆けた。途中に在る、彼女よりも遥かに大きな金属製の実験器具庫を、片腕で三機に目掛けて投げ付けて。

 

 

「チッ……待て、最愛────ヤバいンだよ、ソイツは!」

 

 

 その制止が響くより早く、『空力使い』により器具庫が空中で停まる。やがて『表層融解』に融かされ……風に撒き散らされて、跡形もなく消え果てる。

 

 

()った────!」

 

 

 その隙を縫い、指揮官機に肉薄した最愛。真後ろまで引いた右手に厚い窒素の塊を纏い、駆動鎧ですらも打ち壊し得るだけの力を集中し────

 

 

『────(ヌル)いわ、小娘』

「なっ────?!」

 

 

 烈帛の一撃を受けた槍が、『流れる』ように動き────柄の石突付近で、最愛の足を打ち払う。『柄還(ツカガエシ)』、と呼ばれる槍の技法だ。

 

 

 駆動鎧の膂力に自らの力を上乗せされ、さしもの『窒素装甲』も効果を破られる。脚が払われれば、後は辰気(じゅうりょく)に引かれて地面に叩き付けられるのみ。

 そして、叩き付けられてしまえば──後は、為す術がない。正しく、まな板の上の鯉だ。

 

 

『────“(おご)れる者は久しからず。ただ、(ひとえ)に風の前の塵に同じ”』

「くっ────!?」

 

 

 『窒素装甲』により、防御を試みる最愛。しかし、駆動鎧の『空力使い』により辺りの大気の組成が組み替えられている。

 低所に(わだかま)る、二酸化炭素の空間に呼吸を妨げられる。駆動鎧には何ら効果はないが、唯一生身の最愛には効果覿面。それに意識が朦朧と、演算すら儘ならなく。

 

 

影斬(カゲキリ)

 

 

 黒い十文字槍が降り墜つ事にすら、まだ気付かず────!

 

 

「────『捷径(ショウケイ)』!」

 

 

 下段八双(ハッソウ)から、摺り上げる長谷部で槍を弾き────上段まで昇った勢いを反す太刀に乗せる。結果は、刀と槍による鍔迫り合い。

 

 

『良い腕だ、小僧! 新陰流、かの大流派とこんなところで相見えるとはな!』

「そりゃあ、此方の台詞だ……槍使いの信徒! 破戒僧が!」

『ハハ、如何にも! 分かるか、やはり!』

 

 

 峰を押す事で鍔迫り合いの必勝を期す『小詰(コヅメ)』を為すも、先に間合いを切られ、ダメージまでは届かない。僅かに、駆動鎧の表面を刃が撫でたのみ。

 

 

「けほっ……ジャーヴィス……」

「さぁ、立て。闘えるな? 頼むよ」

 

 

 立ち上がらせ、呼吸を取り戻させた最愛を庇い立つ。入り口からは正反対の壁際、そこに追い込まれて。

 

 

「協力しなきゃ、斬り抜けられねェ。ゴメンだぜ、歩く死体の仲間入りは」

「私も超ゴメンです……分かりました。ここは、超協力しましょう」

 

 

 何とか協力を取り付ける。それだけの為に一度死にかけるとは、自らの事ながら情けない。もう少し魅力とかカリスマとか在れば、と。

 

 

「後、返ったら超反省会ですから」

「オーライ、じゃあまた『ダァク・ブラザァフッヅ』で奢るぜ」

「その言葉、超忘れンじゃねーですよ!」

 

 

 警備ロボットに躍り掛かっていく最愛を見送り、長谷部を構え直す。正調上段、『合撃(ガッシ)』の構え。

 だが、不利は明白だ。何故ならば……敵の得物。それが、いっそ清々しいくらいに『流派名』を物語っている。

 

 

宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)免許……鷹尾 蔵人(たかお くろうど)

「…………」

 

 

 やはりかと、溜め息の出そうな流派。『宝蔵院流』。かの胤栄を始祖に持つ、槍における最強の一派だ。

 しかも、免許。間違いなく、腕を買われて学園都市に来たのだろう。

 

 

「……我流門弟、正体など非在(あらず)。名など、語るに及ばず」

 

 

 古式ゆかしく名乗りを上げた敵に返った応えは、そんな不躾。それでも、判り易いくらいに敵は歓喜を表して。

 

 

『一向に結構。()くぞ────!』

「っ……グッ?!」

 

 

 その寸暇に、無音の絶叫と共に一ノ槍が繰り出された。目線に合わせられ、長さすら判別不可能だった槍が延びるかのように、身体その物を乗せた突き『倒用(トウヨウ)』を。それをショゴスが自動で防ぎ────喉からの声を防ぐ。

 『物理無効』のショゴスを易々と突き破り、背後の壁を突き通した槍に反撃すら儘ならない。そもそも此方の殺傷範囲(リーチ)に敵が入らないのだから、闘いようがない。

 

 

 その槍の、石突近くを持つ敵の体が流れる。左の此方側に身体を開くように。寒気に、身体を────平伏すように沈み混ませた頭上を、壁を切り裂きながら広範囲を凪ぎ払う『大乱(タイラン)』が走り抜けていった。

 大きく体勢を崩した敵、今なら届く。この刃を────撃ち込める?

 

 

《焦るな、たわけめ! 槍術(ヤリ)を侮るでないわ!》

「クッ……!」

 

 

 “悪心影(あくしんかげ)”の叱咤に、思い直して引き寄せた長谷部。丁度其処を────振り抜くと見せ掛けて右手を添え直した目にも留まらぬ速さの突き、『稲妻(イナヅマ)』が襲った。

 刃鳴(ハナ)散らせながら、辛うじて防ぐ事に成功する。もし、僅か一瞬でも攻撃に転じていれば……既に、この命はあるまい。

 

 

『やはり(つか)えるな……余程、良い師から学んだと見える』

「ソイツは……どうも……!」

『だが、それでも……我が“神”の御力の前には無意味』

 

 

 三メートルも吹き飛ばされ、無様に着地しながら。禍々しい穂先に抉られた左胸の胸筋、その疼きを味わいながら。

 

 

『この“屍毒の槍(グラーキの棘)”の前に、あらゆる命は無為なり!』

 

 

 ヒュン、と風を斬る鋭利な穂先。嚆矢の血を纏い、歓喜するように艶めいて見える。どうやら『賢人バルザイの偃月刀』と同じく、この世の道理に収まらないものらしい。ショゴスを貫けるのもその為か。

 何より、疼く。悪質なまでに傷が。そして気付く、あの槍の真価。

 

 

「……毒、か。しかも、猛毒」

《うむ……解毒は済ませたが、あれは不味いのう。ぐらーき……死人教(ぶーどぅー)の神、旧支配者(ぐれーと・おーるど・わん)か》

 

 

 『旧支配者(グレート・オールド・ワン)』、前にも聞いた言葉だ。確か、あのミミズ男から。

 では、この仕事もまた、魔術がらみ。失敗する危険性は高い。そもそも前回は一対二だったが、今回は……不味いほどに寡勢だ。

 

 

 離れた位置では、警備ロボットを半減させた最愛が二機の駆動鎧を相手にしている。しかしやはり、向こうも多勢に無勢でかなりの苦戦を強いられている。

 せめて、フレンダが居てくれればまだやりようもあったが。そこは自業自得、無い物強請(ねだ)りなど無意味が過ぎる。

 

 

──そうだ。俺は……化け物だとしても、対馬嚆矢。それ以上でも以下でもない……!

 

 

 歯を喰い縛り、全身で気を取り直す。何とか回復した身体を、全霊で立て直す。まだだ、まだ闘える。死ぬまで、闘い抜く。闘わねば。

 せめて、この指揮官機だけでも討てば……最愛が逃げるだけの時間は稼げる筈。その程度の事はやらねば……

 

 

変態紳士(ジェントルマン)の風上にも置けねェ……ッてなモンだ!!」

 

 

 構える。馬鹿の一つ覚えの『合撃(ガッシ)』の構え。『後の先』を期する合気剣、窮めた者は『相討ちこそ在れど、敗北はない』とされる一刀(けん)を。

 

 

『良い気概だ……ならば、武芸者として応えねばな!』

 

 

 対するは、『応無手突(オウブシュトツ)』。穂先近くを保持し、石突を地面に着く程に短く槍を構える。共に、反撃(カウンター)狙いだ。

 

 

「『────…………」』

 

 

 じり、と。牽制を交わし合う。共に狙うものが反撃である以上、先に動いた者が負けるのは明白。武芸者同士の闘いなど、単純明快。だからこその、雑じり気無しの純粋な実力勝負。

 懸念は、ただ一つ。()()()()()()と言う事。もしも今、横槍が入れば────敗北は避け得ない。最愛が敵を引き受けている間に、勝負を決める必要がある。

 

 

《だが、先に手を出せば此方の負け……いやはや、雪隠詰(せっちんづめ)じゃな。呵呵(かっか)!》

(……愉しそうだな、アンタ。此方は命懸けだぞ?)

 

 

 背後では、“悪心影”が嘲笑っている。耳障りな声色で、耳ではなく魂を震わせて。心底、嚆矢の窮状を嘲笑している。嘲弄している。

 本来ならば、向ける意識ですらも隙であろう。しかし、その不快に従って言葉を返せば。

 

 

《は? 勝負が命懸けなぞ当たり前じゃろうて? 武を競う、覇を争うとはそういうものじゃ。他に何がある?》

(……そうか、アンタは……)

 

 

 『命の価値などその程度』とされた時代の、本物の『武者』にして『魔王』だった事。それを思い知らされた。

 

 

《しかし、勝ち目なら在る。それは、ただ一つのみ……単純明快》

 

 

 耳許で、熱い唇が蠢いている。氷点下の舌で、舐め刷りながら。

 

 

(わらわ)()()()()()()()()()────唯一、それだけじゃ》

「────…………」

 

 

 その言葉。嘘偽りの無い、真実。導くように、『這い寄る混沌』の一つはそう、口にした。

 

 

「ハ」

 

 

 だから、こそ。

 

 

「────新影流(シンカゲリュウ)

 

 

 一歩を踏み出す。それは、

 

 

『馬鹿が────自らを疑い、勝利を捨てるなど!』

「────!」

 

 

 槍使いに指摘されるまでもない、それは同じ武芸者ならば誰もが解る『己の力への不信』であり────

 

 

《……呵呵(かっか)

 

 

 “悪心影”の問い(クエスチョン)への、言葉にすらしない返答(アンサー)であり────

 

 

『終わりだ────小僧!!』

 

 

 投げ槍の如く放たれながら突き出された、致命傷を狙う一ノ槍。心の臓を、貫くべく。

 

 

(かっ)────呵呵呵呵呵(かっかっかっかっか)! それで良い。これで……貴様の勝ちだ!》

 

 

 ()()()()に動いた(てき)に、嘲笑う!

 

 

《“人間五十年……下天の内を競ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり”》

 

 

 吠える声と共に長谷部が十文字槍の鎌に捕まりながら、その鎌を斬り裂く。長谷部の異能、『信じる物を破壊する』効果で。だが、それは刃にのみ。

 槍技、『柳雪(リュウセツ)』だ。其処を反すように抑え込まれ、後は踏み込まれれば峰を抑えられた此方は為す術もない。突かれて、それで終わり。

 

 

『宝蔵院流────“惣追風(ソウマクリ)”!』

 

 

 繰り出した『大乱』から更に『応無手突』、その繰り返しからなる『指南免許』の槍理。それを後ろに下がりながら、躱せる筈もなく受けて。

 

 

《“一度(ひとたび)(しょう)を得て”……》

 

 

 振るわれた刃に割かれて迸る血飛沫、天井まで届いて。

 

 

「────“村雲(ムラクモ)”」

《────“滅せぬものの、在るべきか”》

 

 

 槍の柄による打撃に、右の肋を全てへし折られながらも、嚆矢は降り下ろしよりも速い下段からの摺り上げにて……槍術使いを斬り伏せたのだった。

 

 

『カ、ハッ…………見事よ。いや、我が信念こそが……我が弱さであったか……』

 

 

 倒れる事もなく、槍術使いは快哉を返す。それは、さながら正気に還ったようでもあり。

 

 

『……第七区、七十七番放水施設……そこに、奴は居る……頼む、ぞ……』

 

 

 その言葉を残し、息絶える。死人の効果も、信念有ればこそ。ただ、残るのは信を断たれた死骸であり。

 

 

「…………クソッタレが」

 

 

 ただ唯一、苦く後を引く卑怯な、苦しい勝利の味だけであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七月二十六日・夜:『スクール』

 

 

 右の掌底からの踏み込みに打ち払い、流派も何もない我流。少女の細腕でありながら『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を纏うそれで、最後のドラム缶(警備ロボット)は全壊四散した。残すは、二機の駆動鎧(ラージウェポン)

 しかし、厄介だからこそ最後まで残った敵。今や最初の滑らかな動きを取り戻した駆動鎧達は、対角線に動きながら最愛を牽制し────

 

 

「ちっ……!」

 

 

 『空力使い(エアロハンド)』での室内の気流操作と『表層融解(フラックスコート)』で液化させた金属床材による、腐蝕の竜巻を撒き散らす。

 それを、バックステップで辛うじて躱した最愛。しかし、大きく右足で鑪を踏んでしまい────拭い難い隙を見せた。

 

 

 明確な隙を逃さず、一機が疾駆する。手加減無しの電撃棒(スタンロッド)を構えながら。しかし、無駄だ。鉄壁の『窒素装甲(オフェンスアーマー)』が有る限り、その程度ならば数度は耐えられよう。

 だがその鉄壁の『窒素装甲(オフェンスアーマー)』も、離れた位置からの『空力使い(エアロハンド)』で半減させられている。堅固な窒素の装甲は、今や発泡スチロールの壁にまで減衰されている。

 

 

 故に、二千ボルトで帯電する重さ十数キロの鋼鉄の塊。それを駆動鎧のフルパワーで打ち据えられれば────同年代と競べても華奢な彼女が、一撃すら耐えられる訳もない。

 

 

『『Kisyaaaaaa(キシャァァァァァァ)!!』』

 

 

 その歓喜の叫びは、駆動鎧の中から木霊した。新たな『贄』に、上質な獲物である最愛に向けて────!

 

 

「────ウゼェンだよ、この」

I、Gy(イ、ギィ)?!』

 

 

 跳躍にて殺傷範囲と威力を増した薙ぎ払い、新陰流『大詰(オオヅメ)』により長谷部(はせべ)にて両断される。『空力使い』の駆動鎧が横一線に、真っ二つに斬られて中のミ=ゴごとぶち撒けられた。

 そして、そうなれば当然────凄まじい衝突音。耳障りな音、砕け散る断末魔。

 

 

Go()─────Ge()?!』

「屑鉄と虫けら風情が……超粋がってンじゃねェってンです────!」

 

 

 クロスカウンターで『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を叩き込まれ、粉砕されながら『表層融解(フラックスコート)』の駆動鎧が弾き返され、壁に叩きつけられて爆散した。

 

 

「……終わり、か。さぁて、そろそろ潮時だ。ずらかろうぜ、最愛ちゃん?」

《待たぬか、まだ────!》

(ッ何────!?)

 

 

 最愛に呼び掛ければ、“悪心影(あくしんかげ)”が口を差し挟む。逼迫したようなその口調に、弄んでいた“黒い雌鳥(ブラック=プレット)”の写本をショゴスの中に。改めて、長谷部を握り直して。

 

 

《まだ────火を放っておらぬではないか》

(今だ、はた●んば封印!)

《ぬおお、お、覚えておれ……(わらわ)は滅ぶれども、すぐに第二、第三の第六天魔王が現れるぞぉぉぉ!》

(いや)、数字が多過ぎて訳分からんし)

 

 

 外套で血糊を拭った長谷部を鞘に納め、脳内で意味の無い駄弁りをしながら、歩み寄りつつ最愛に呼び掛ける。駆動鎧を殴り飛ばした反動でへたり込んだ彼女に、猫の手を差し伸べて。

 

 

「私の事より……あの超黒い棘の方は?」

 

 

 それに返ってきたのは、照れとか反発とかそんな物ではなく。ただ、苦い表情。やはり、『麦野沈利(ビームおばさん)』の恐怖はでかいらしい。いや、嚆矢とて勿論、彼女は恐ろしいが。

 なので、安心させるかのように。既に拾っていた、『黒い棘』を見せる。

 

 

『回収済みニャア、後は帰り着くまでが潜入任務ナ~ゴ』

「……はは。こんな時にまで、良くも超巫山戯られるもんですね」

 

 

 正確には、まだ『張本人』を捕まえていないが。今日はこれでいい、十分な成果だ。どのみち統治委員会に睨まれている輩に、学園都市からの脱出の機会はない。それに、居場所は掴んでいる。勝負はもう、ついたも同然だ。

 再び変声してヘラヘラ戯ける嚆矢の掌に、小さな掌を重ねてきた最愛の小柄な体を引き起こす。少し前にもやった、しかし今は……右肋と左胸に重傷を負っている事を忘れていた。一瞬気が遠くなったが、ショゴスの猫面で隠されているのだから問題はない。

 

 

『あんまりモタモタしてると外から来るかもしれないニャアゴ、さぁ最愛ちゃん』

「は……?」

 

 

 そして、最愛に背を向けてしゃがみこむ。それを、彼女はポカンと眺めて。

 

 

『足、あの槍使いのヤツが効いてるみたいだニャア。不肖ジャーヴィス、エスコートさせていただくナ~ゴ』

「っ……超何の事ですか? キモいこと言ってんじゃねぇです、この胡麻擂り猫撫で声野郎」

『し、しどいニャアゴ……』

 

 

 一瞬、槍使いの『柄還(ツカガエシ)』に打たれた足を庇って。その時歪めた表情を隠すように、悪態を吐く。

 対し、背を向けている嚆矢はそんな最愛の機微にも気付かず────

 

 

(成る程……これが、絡繰(からくり)か)

《そうじゃ。あのみ=ご共の科学力の産物じゃな》

 

 

 目の前に転がる、怪物と銀色の筒……ミ=ゴと、その携えていた『それ』──つい今まで生きていただろう『能力者の脳味噌』を、溢れ落ちた筒の中身を見詰めて。

 

 

(取り込め、ショゴス。後で調べるから、喰うなよ?)

『てけり・り。てけり・り……』

 

 

 望外の良餌を顎の中に納める事しか許されず、ショゴスは不承不承それを呑み込んだ。これで魔術の隠蔽は完了した。

 

 

『さあさ、遠慮無くどうぞニャア。急がないと、ホラ、シャッターが降りて閉じ込められちまうナ~ゴ』

「この程度、超平気です。議論の時間こそ超無駄、急ぎますよ!」

 

 

 と、嚆矢の脇をすり抜けた最愛。僅かに腫れた、右足を庇いながら。

 

 

「斯くなる上は……御免!」

「な────あきゃ?!」

 

 

 と、痛みに一瞬だけ気を散らした最愛を────嚆矢は背中から、クラウチングスタートの構えで走り出しながらお姫様抱っこした。

 

 

「ちょ、あの、ええ!?」

「遅い! 走り抜ける!」

 

 

 いきなり背後から抱き抱えられ、息を呑みながらただ為すがままとなる彼女。いつも目深に被っているフードが捲れ、ショートボブの茶髪が靡く。

 まぁ、当たり前だ。突然、背後から抱きすくめられた上で平然と指揮した人間などは居るまい。最愛が虚に突かれた隙を、良いように。思う様に退路を、過たずに自在に走り抜ける。

 

 

「くっ、このぉ!」

「ンゴフ!? そ……それでもォォォグフッ?! そ…………そろそろ挫けそうです! 頑張ったよね、俺! もう、挫けて良いよね!?」

 

 

 二度目、三度目と。曲がり角毎に、直に『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を無抵抗に受けながら。まぁ、威力自体はショゴスで無効だが、衝撃は首の間接に蓄積する。

 首が取れそうな程にひん曲がりながら、既に降り始めているシャッターを次々に掻い潜り、潜り抜けながら。走り抜ける、来る時のように『黄金の娘(■■■■■)』も『白銀の娘(■■=■■■)』も『第六天魔王(悪心影)』も、誰の助けもないままに────!

 

 

「チッ……ラス1、だけど────他より速ェ! もう閉じかけか!」

「寧ろ、超遅いレベルですよ!」

「煩せェェ、島の風かテメェは!」

 

 

 此方にとっては一番最後、向こうにしてみれば一番最初。外界に繋がるシャッターは既に、八分以上閉じていて。

 

 

「クソッタレ……!」

 

 

 そう、叫ぶくらいには無理な距離で。閉じ込められれば、後は助けを待つか。或いは、窒息消火……二酸化炭素の充填消火器が作動するだけで終わる。

 外の闇、安寧の暗がりが一条に。槍に染みていた毒の為に、演算や魔力も飢えている。もう、走るだけでも苦行だ。取り返しのつかない失敗だ、こんな─────

 

 

『結局────しゃがむ訳よ!』

「「────!?」」

 

 

 その、長らくジャミングされていたインカムに届いた、外界からの呼び掛けのままに。魔術(オカルト)能力(スキル)の選択肢を捨てて、迷わずスライディングする。勿論、最愛を抱いたまま。

 刹那、閉まり掛けたシャッター。その隙間を────盲んばかりの光と爆発が、撫でる。

 

 

「ッシャァァァッ!」

 

 

 叫びと共に、開いた僅かな隙間に滑り込む嚆矢と最愛────だが、間に合わない。

 再び下がりだしたシャッター、対戦車ライフルの直撃にすら耐える強度の。それが今、断頭台(ギロチン)と化して襲い来て─────

 

 

「っ……っらぁぁぁぁ!」

 

 

 最愛の『窒素装甲』で押し返された。非常灯の下劣な光の下から滑り出た、静謐な夜の闇。安堵と共に、嚆矢は夜天を見上げ────

 

 

「結局、脱出経路の確保が一番重要な訳よ。後は、監視カメラの映像記録の入手と消去とか」

「ハハ、違いない……惚れ直しちまったよ、フレンダちゃん?」

 

 

 頭上に佇む黒タイツ、白いミニスカートが翻る。したり顔のフレンダ=セイヴェルンが指先でUSBメモリーを弄びながら、不敵な碧眼でこちらを見下ろしている。

 因みに、ナイスアングルであるが……暗くて見えない。この時ばかりは、非常灯の光が欲しかった。

 

 

「────ッふん!」

「ゴホォ!?」

 

 

 と、短い茶髪を揺らしながらの最愛の肘打ちが鳩尾を抉る。地面に背中を預けていては、威力の逃がしようがない。

 

 

「さて、長居は超無用です。直ぐに撤収しましょう、足の手配は?」

「勿論、万端な訳よ。あのスットコクラッカー、呼び出してボコボコにしてやる~!」

『ゲホ、ちょっとくらい心配してほしいニャアゴ……』

 

 

 翻筋斗打(もんどりう)つ嚆矢を尻目に、フードを被り直した最愛とフレンダは敷地を脱出すべく振り返る。

 

 

《ふむ、嚆矢よ》

(火は掛けねぇ)

 

 

 何にせよ、後は物品の提出のみ。入手した『黒い棘』と、監視カメラの画像、これで沈利のご機嫌が取れれば良いのだが。

 

 

《そうか。だが……()()()()()()()()は、払わねばなるまい?》

(……何?)

 

 

 帰るばかり、そんな気の抜けた空気が満ちて。

 

 

《敵、右前方(うしとら)より来襲。数、三》

「ッ……待て、二人とも!」

 

 

 “悪心影”は、そんな空気の破綻をさも面白そうに嘲笑う。

 

 

「────そりゃア、手間が省けた。コイツだろ、それ?」

 

 

 誰何するよりも早く長谷部を掴み、フレンダと最愛を庇い立つ。届いたその声は、闇の彼方から。闇よりも尚、濃い暗さで。ジャリ、とアスファルトを鳴らしながら────びしゃりと、投げられた『モノ』により路面に『紅い花』が咲いた。

 

 

「ッ……」

 

 

 首、男の。嚆矢には見覚えはない。しかし、後ろの二人は──息を飲んで。

 

 

「……超残念でしたね、フレンダ。どうやら、もうボコボコにするところは残ってないみたいですよ」

「みたいね。結局、潜入がバレたのはこのせいだったって訳か」

 

 

 肯定だ。即ち、この『首』の男こそがクラッカーの『電気使い(エレクトロマスター)』だったのだろう。

 しかし、今はどうでも良い。問題は、それを為したこの『敵達』をどうするか、だ。

 

 

「よう、『アイテム』……この前は、うちのが世話になったみたいで。まぁ、脱走したゴミだが……だからって身内には違いねぇ」

 

 

 歩み出た、痩躯の少年。スーツのような服を着た、まるでホストのような橙色の髪。月の光の元、まるで映画の男優のように繊細な優男が笑い掛けてくる。

 

 

──百分の一(サイアク)……だな、こりゃあ。

 

 

 覚えがある。知っている。その顔は、知っている。見た、白い部屋の中で。

 

 

『良く覚えておけ、第七位(ナンバーセブン)の次はコイツが目標だ。“観測されていない未知の粒子を産み出し、操る能力”。それが─────』

 

 

 一瞬のフラッシュバックを、振り払う。呆けている場合ではない、切り抜けねば。何としても。気付いたらしい、フレンダと最愛が身を強張らせる。当たり前だろう、暗部で『最大の組織』の頭目が目の前に居るのだから。

 

 

「で、モノは相談なんだが……ここの研究はウチも狙っててよ。何か手に入れたんなら、水に流す代わりに譲ってくれねぇか?」

『……それは、強制でニャアゴ?』

「任意さ────決まってんだろ?」

『じゃあ、仕方ないニャア。命には代えられないしナ~ゴ』

「いい判断だ。長生きするぜ、気狂い猫」

『お褒めに預かり、光栄ですニャア。超能力者(レベル5)・第二位────』

 

 

 そうならないだろう事は、肌を刺す殺気が雄弁に。笑う少年は戯れに、獲物が足掻く様を楽しもうとでも言うのだろうか。

 

 

「『未元物質(ダークマター)』“垣根 帝督(かきね ていとく)”!」

 

 

 背後にこちらには無関心にマニキュアを塗るナイトドレス姿の少女と、特徴的な形をしたゴーグルを嵌めた少年を引き連れて。

 

 

「へぇ、俺も有名になったもんだ……まさか、猫にまで名を知られてるとはなぁ?」

 

 

 学園都市で第二位の実力を持つ男は、にたりと陰惨な笑顔を浮かべた。

 

 

「……二人とも、手ェ出すな……考えがある」

「考えって、けど」

「あの『未元物質(ダークマター)』相手に、小手先で超何ができるってんですか……」

 

 

 暗い、実に(くら)い。この夜の闇が、光かと思える程に。この『アイテム』の活動が、お遊びと思えるくらいに。能力名(スキルネーム)の通り、暗黒の物質(ダークマター)その物を纏うかのような、その男。

 嘲笑と蔑みを孕む視線を向けられているだけで、夏場だというのに息を吸う唇が震える。長谷部の柄に掛けた指が、鯉口を切ろうとする指が。疲労に────(いや)、畏怖に、まともに動かない。

 

 

「で?」

「ッ!」

 

 

 冷笑を浮かべる唇が開かれた。その一言だけでも視界がブラックアウトしそうな程、緊張が走る。頭が割れそうな程、脳が沸騰しそうな程に血が逆流す(のぼ)る。

 

 

《阿呆、呑まれるでない。実力で負け、気持ちでまで負ければ……そこで終わりぞ》

(ッ……簡単に言うな。相手は超能力者(レベル5)、『一人で軍隊を相手に出来る能力者(ワンマン・アーミー)』の第二位だぞ)

《やれやれ……情けない事を》

 

 

 呆れたような“悪心影(あくしんかげ)”の声に、無為と知りつつ反駁を。確かに、情けない話だ。敵が強いから尻込むなど、心の底から己が情けない。

 だから、という訳ではないが。今更、沸き起こる対抗心。そして────

 

 

「この研究所の成果ってのは……何処だ?」

『……此処に在るニャアゴ』

 

 

 第二位『未元物質(ダークマター)』、垣根 帝督(かきね ていとく)の声に我を取り戻す。

 ショゴスに納めていた、『それ』を取り出す。闇の臓腑に手を突っ込み、掻き分け、引き摺り出し────路面の『紅い花』のとなりに、投げ転がす。

 

 

「……何だ、コリャ?」

『さぁニャア、難しい事は分かんないけど……それが、『研究成果』だナ~ゴ。ソイツが、死体の内側に入って操り人形だニャアゴ』

 

 

 路面に咲いた、『蒼い花』。それを為したのは、怪物の死骸から吹き出た異形の血液。即ち、ミ=ゴの死骸の血液である。『研究成果』、が何か。それは、実際に現場を目撃した者しか知り得ない。そう、『これが本当に研究成果かどうか』を、帝督達は此方の判断に任せるしかない。

 その筈だ、と。嚆矢は息を飲む。下手な動きを見せぬよう、顔色を……特に、背後の二人のモノを窺わせぬようにヘラヘラと笑いながら。

 

 

 まともに此方を見ていたゴーグルの少年が、ミ=ゴの悍ましい姿に堪らず目を背ける。しかし、帝督は一瞥をくれただけで。

 

 

「へぇ……そりゃ、マジか?」

 

 

 変わらぬ冷笑を浮かべたまま、背後へと。

 

 

「はぁ、面倒……こんな男、趣味じゃないんだけど」

 

 

 その呼び掛けに答え、少女が歩み出た。派手なドレスの、恐らく年下の。その眉目秀麗な顔立ちが、ゆっくりと近づいてくる。実に、不味い。ゴーグルの少年ならば人質に取り、脱出する算段とする事も出来たかもしれない。それが達成可能かは兎も角として。

 

 

「────()()()()()()

 

 

 しかし女性ならば話は別だ、嚆矢は『誓約(ゲッシュ)』により『女性には優しく』しなければならない。

 即ち、()()()()()()()()()なだけでなく……もしも最愛やフレンダが彼女を人質に取った場合、()()()()()()()()しなくてはならないのだ。

 

 

──(いや)、そもそも……()()()()

 

 

「ねぇ、()()

 

 

 無抵抗なままの嚆矢の耳元に寄せられた唇が、小さく囁く。名乗ってもいないのに、()()を囁きながら。

 

 

「これ、本当に『研究成果』? ねぇ、()()()()()()()?」

「…………!」

 

 

──そもそも、この娘は……()()()()()()()()()()()()だろう?

 

 

 その一言。まるで、長い時を共にした幼なじみか……或いは、恋人にでも囁かれたような。抗えない、妖魅を持っていて。

 

 

「……本当、だ。それは、死体を動かすOSみたいなものだ」

「…………あら、そう」

 

 

 返した、本心からの答え。間違いではない、正しくもないだけで。少女は、あっさりと体を離す。用は済んだとばかりに、実にあっさりと。

 

 

「……嘘は吐いてない。確かに、これが『研究成果』みたいよ」

「そりゃあ驚きだ。まさか、マジで寄越してきやがるとはな……自分で言っといて何だが、本当に長生きするぜ、お前」

 

 

 ナイトドレスの少女、今度は反対の手の爪にマニキュアを塗る少女の言葉に、頷いた。帝督はそれに、感心したような呆れたような表情を浮かべて。

 

 

──この女……『精神感応(テレパス)』か何かの能力者か?

 

 

 そう、思考した。帝督が簡単に信じたからには、恐らくはそうだろう、と。危うい話だ、虚実を入り交じらせていてよかった。もし、()()()()()()()見抜かれていたかもしれない。

 

 

「────『心理定規(メジャーハート)』よ。『精神感応(テレパス)』程度と一緒にしないでちょうだい」

「ッ……?!」

 

 

 そう思った瞬間、届いた声。そしてマニキュアを塗りつつ、こちらを不機嫌そうな(すがめ)で見遣る少女の眼差し。見抜かれたか、そうおもうよりも早く────思考の回転を止める。

 

 

「面白い能力ね、思考を止めるなんて。だけど……遅かったわ、あなた」

 

 

 少女が口を開く。三日月みたいに、酷薄に。

 

 

「でもこいつ、嘘は吐いてないけど……何か隠してる」

「「「「「─────!」」」」」

 

 

 その言葉が、開戦の口火を切る事を知っていながら。くすくす、と嘲笑って。間髪などは入れていられはしない、先手を打たねば負ける。決意に両掌に力を籠めて、指の震えを押し止めながら長谷部を抜く────よりも早く、握り締めた()()()()()()()()()()()

 

 

「─────な」

 

 

 ポカンと眺める程、本当に呆気なく。在らぬ方向に指が向いている。『まるでバナナの皮のようだ』等と考える暇があって、そして後から。

 

 

「ガ────あ、ガァァぁぁッ?!?」

 

 

 正気を失いそうな程の激痛が、遅れてやってきた。

 

 

「こんなものか……格好は虚仮脅(こけおど)しらしい」

 

 

 膝を突き、苦痛に呻く。潰れた肉と砕けた骨、噴き出す血液を抱えて蹲る。果たして、『念動能力(テレキネシス)』の類いだろうか。

 それを為したゴーグルの少年が、帝督の前に歩き出ながら口を開く。見下すように、静かに笑いながら。

 

 

「まっ……待ってくれ……! 分かった、渡すから」

「なっ……ジャーヴィス、アンタ!」

「……超巫山戯んじゃねェです!」

「そりゃ、こっちの台詞だ……命よりも大事なもんはねェ……頼む、助けてくれ!」

 

 

 それに痛みに声を上擦らせつつ、嚆矢は憐憫を乞うた。フレンダと最愛からの非難を受けながらも腕全体で────銀色の筒を、投げ出して。

 

 

「そりゃそうだが……情けない奴だな、お前」

「────……」

 

 

 拾い上げた、ゴーグルの少年は心底から嚆矢を見下す。頭を地べたに擦り付け、土下座で命乞いする彼を。

 

 

「────じゃあな」

 

 

 見るのも反吐が出るとばかりに右足を持ち上げ、捻り潰す力と共に踏み下ろす。路面すら踏み抜かん威力で────血飛沫が、路面に打ち撒けられた。

 

 

「な─────?!」

 

 

 その右足を躱しながら、土下()座から流れるように右膝を引き────口に銜えて引き抜いた長谷部により切られた……右足から。

 

 

「ア、ガァァぁぁッ?!?

「おやおや、それっぽっちの傷で。その格好はどうやら、虚仮脅しらしい」

『てけり・り。てけり・り』

 

 

 倒れ、悶えるゴーグルの少年を見下して嘲笑いながら。すっくと立ち上がり、万能細胞(ショゴス)による応急処置を済ませた右掌で長谷部を構え直す。

 先程、幾許かの『食事』をさせた甲斐があったと言うもの。死体二つ、お陰で手首から先を失わずに済んだ。

 

 

「新影流“滝流(タキナガレ)”……が、崩し。ぶっつけ本番にしちゃあ上出来か」

「テ、テメェェェ!」

 

 

 倒れながら、激昂して能力を行使するゴーグルの少年。しかし、痛みと怒りからか、先程ショゴスごと掌を押し潰した演算は得る事も叶わず。

 

 

「無駄だ……ショゴス、偃月刀を寄越せ!」

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 そして、帝督が歩み出るよりも早く。玉虫色の悍ましき彩りを持つ、『賢人バルザイの偃月刀』を左掌に握る。

 放たれた圧潰の力、ゴーグルの少年の。しかし、それも第一防呪印『竜頭の印(ドラゴンヘッド=サイン)』に阻まれる。軋み、砕かれた虚空に浮かぶ魔法陣。

 

 

 十分だ、十分に時間は稼いだ。生命力を代償に練り上げた魔力、それを注ぎ込んだ偃月刀を振るうには。

 

 

「“ヨグ=ソトースの時空掌握(ディス=ラプター)”!」

「ッ────?!」

 

 

 空間自体を捩じ切る、時空神の握撃がゴーグルの少年を襲い────

 

 

「おいおい……何する気かは知らねぇし、どうでも良いけどよ?」

「クッ……!」

 

 

 冷笑を変えずに、舞い降りた『天使』がいた。間違いようもない、それこそは『未元物質(ダークマター)』垣根帝督。目にも留まらぬ速さで、ゴーグルの少年と嚆矢との間に舞い降りたその白い羽が────羽撃(はばた)いた。

 

 

「俺の『未元物質(ダークマター)』に、常識は通用しねぇ────」

 

 

 刹那、世界が煉獄と化す。彼にはそれしか見えず。背後の研究棟が崩壊した事は、翌日のニュースに上る事態となった。

 

 

「へぇ……あれを受けて、まだ形があるとはなぁ。部下なら重宝したんだが」

 

 

 後に残ったのは、第二防呪印『キシュの印』に護られた最愛と第三防呪印『ヴーアの印』に護られたフレンダ。そして、最終防呪印『竜尾の印(ドラゴンテール=サイン)』にて最愛とフレンダの盾となった嚆矢だけ。

 その三つの魔法陣も、同時に砕け散った。最早、彼等を護る盾はない。

 

 

──無理、だな。今の状態じゃ、()()()()()()()勝てる訳がない。

 

 

《では……(わらわ)の具足を欲するか?》

(…………)

 

 

 窮地を嘲笑いながら、“悪心影”が背に(もた)れる。甘え掛かる遊女のように、命を握る暗殺者のように。

 思い出したのは、燃え盛る天守閣。彼処で見た見事な甲冑、鎧兜を。

 

 

《欲するのであれば、与えようぞ。しかし、代償は戴こう……》

(……ハ、得るモンより喪うモンの方がデケェンだろうが。結構だよ、クソッタレ)

 

 

 呵呵(かっか)、と耳障りな哄笑を残して“悪心影”が離れていく。悪辣なる神の囁き、それが消えた安堵に包まれながら。

 目の前の白い翼の男。その威容を回顧し、光輝く白い翼の昂りに再び緊張と絶望を取り戻して。

 

 

「んじゃ、もう一発。今度こそ……さようならだ」

「ああ……全くだ」

 

 

 だが、知るが良い天使。砕けた四つの印は、虚空に消えた。四つの御印は、『この世ならざる虚空』に御座(おわ)す『神』に届いたのだ。

 泡立つように、ショゴスが虚空に球を為す。やがてそれは、導かれるように形を成して。

 

 

飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)! 生け贄二体、十分だろ……“ヨグ=ソトース”!」

 

 

 呼び掛けに、時空が軋む。祭具にして杖たる偃月刀、その内側より覗く無数の瞳が────嚆矢と最愛、フレンダの三人を捉えて。

 

 

「“ヨグ=ソトースの次元跳躍(ディス=コネクト)”」

 

 

………………

…………

……

 

 

 『未元物質(ダークマター)』が舐め尽くし、焼き尽くした空間には何も残っていない。完全に消滅したのだ、塵も残さずに。

 それだけの破壊力が、殲滅力が帝督の能力にはある。だからこそ、学園都市の第二位の超能力者と自他共に認める存在だ。

 

 

「……逃した、か。一体、どんな能力だよ、あれは?」

 

 

 呆れた笑みを浮かべ、羽を消す。振り返った帝督は、ぼんやり佇むドレスの少女と足の傷を止血していたゴーグルの少年に向き直る。

 そして、『無くなっている』怪物の姿に、一瞬二人を睨んで。

 

 

「違うわよ……気付いたら、『溶けてた』わ。水から出したクラゲみたいに、ね」

「で、ですが、この筒は確保してます」

「チッ……」

 

 

 その言葉に、帝督は渋々と言った具合に髪を掻き上げて歩き出す。恐らくは、遠くから響くサイレンの音に面倒を感じたのだろう。

 宥めすかす事に成功した二人、特にゴーグルの少年は酷く安堵した吐息を漏らした。だから。

 

 

「……しかし、あの猫野郎。昔……何処かで……」

 

 

 帝督が漏らした、その言葉。それに気付く事は、無かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断章 アカシャ年代記=Akasha-Chronicle
??.----・error:『Nyarlathotep』Ⅳ


 

 

 目の前には、極彩色のうねり。波模様ような、風模様のような。不揃いの玉虫色、しかし規則正しい、何処か人外の精神性を感じさせる異次元の色彩。

 時間の感覚も、空間の認識も、既に忘我の彼方。此処に来たのは一瞬前だったような、遥か過去だったような。何処から来たのか、何処に行くのか。何も分からない、分からない、何も。

 

 

 だが、分かる事もある。両腕にある温もりが二つ。意識を失っているフレンダと最愛の。僅かに狂気を和らげる、温かさ。そして……色彩の向こうから覗く陰湿で冷酷な光を湛えた、無数の眼、眼、また眼。

 それは此方を歓迎などしていない。寧ろ見下し嘲り、『活きの良い餌だ』とばかりに舌舐めずりしている。

 

 

『──────────────』

 

 

 代表するように現れた、一人。否、一体に周りの眼が一斉に(かしず)く。一人と感じたのは、それが覗き穴すらない朧気な色彩の織物を纏う人型をしており……一体と思い直したのは、それが全高百フィートもの巨躯であったからだ。

 二人が失神していて、本当に良かった。もしも事前知識なしにこんなモノを目の当たりにすれば、正気に堪えられるかどうか。

 

 

『わたしは きゅうきょくのもんの もんばん にして さいていしゃ! げーときーぱー うむる・あと・たうぃる だ────ざんねん! きみは しんでしまった! わたしの てちがい だ! だから すきな せかいに いきかえらせよう! とくてんも あたえよう!』

「……………………はぁ」

 

 

 巨人が、声ではない何かで問うた。しかし、意味が分からない。『窮極の門(ヨグ=ソトース)門番(ゲートキーパー)にして裁定者“ウムル=アト=タウィル”』、そこまでは脳味噌で理解出来たのだが。

 後に続いた問いは、この怪物の正体を知る────本能が、理解したらしい。

 

 

『────さあ えらべ! いまなら はーれむうはうは さすおに なかでき まちがいなし! おまえ さいきょう! むてき! だれからもすかれる! これで ぼっち そつぎょう!』

「……いや、別にいいわ。普通に、元の世界に還してくれ」

 

 

 差し出された腕。織物の袖は長く、手は見えないが……此方の、胸を指差している。『其処に、求めるものがある』と。

 それに理解が及ばず、脳味噌は頸を傾げる事を命じ……本能は畏怖に、頷く事を命じた。

 

 

『────おかしい  こういえば ばかな にんげんは いれぐい  ほかの どんなやつも なんかいも じぶんの みたい ゆめの なかに きえていった  きづきも しないで けんぞく たちの みせる ゆめに  もんのかみの とりせつに そう かいて あった』

「あっそう……まぁ、例外ッて事で」

『くやしい  おまえ ぜったいに ごちそうさま に する』

「女の子になら喜んでごちそうさまされてやるけど、()()は勘弁……じゃあ、またな」

『ああ じゃあ またな  おぼえてろ おまえ わたしの いけにえ  ()()()() ()()()()()

 

 

 その全てを見通して、“門番(ゲートキーパー)”は姿を消す。否、それは旅を終えた証。その証左に、辺りの眼達が残念を示している。

 『折角の餌が』と、涎を流しながら。それでも、“他の門番”は裁定に逆らわずに見送って消えていく。

 

 

 安堵と、変わり行く世界の情景。渦を巻く銀河の脳髄から離れ、懐かしく芳しき菫色のスンガクの馨りに包まれて。

 

 

()()() ()()()  ()()()() ()() ()()  だから にげられない  いつか おまえも ごちそうさま する』

「はいはい、()()()()()()()()

 

 

 嚆矢は、本来在るべき世界へと帰還を果たしたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 瞼を開く。薄明かりの世界の中で、ノスタルジックな蓄音機からレコードのブルースと焙煎した珈琲の香気の漂う木造の屋内で。まず感じたのは、両掌の痺れるような疼痛。元の人間の掌は、ショゴスの組織が沈着したように黒ずんでいる。

 長椅子に寝そべったまま、まだ不随意の痙攣が僅かに残る掌を揉み解す。だが、明日にはこの程度なら治っているだろう。

 

 

「……やれやれ、か」

 

 

 最後に拳を握り締めて、改めて開く。鈍い神経と触覚が馴染むまで、暫くは合気は無理かもしれない。

 そんな事を考えた彼を覗き込んだ、影がある。

 

 

「『やれやれ』はこっちの台詞だっての、悪目立ちしやがって」

「ウワァァァ、出たな妖怪────すいません冗談ですから『原子崩し(メルトダウナー)』は止めてください頭目(ヘェェッド)!」

 

 

 ウェーブの掛かった茶色の長髪に、釣り目の美貌。『アイテム』の頭目(ヘッド)麦野 沈利(むぎの しずり)その人である。

 

 

「まぁいいわ、今回は手柄だったしねぇ……」

「て、手柄?」

 

 

 額に青筋を、右掌の上に緑色の発光体を浮かべていた沈利だが、思い直してそれらを消しながら……ニヤリ、と笑顔を見せる。状況が全く飲み込めない嚆矢としては、悪魔の笑顔に他ならない恐ろしさだが。

 

 

「例の研究所の実験成果……上手く手に入れてきたじゃないさ」

「あ、あぁ……それですか」

 

 

 体を起こして辺りを見回せば、隣のテーブルにフレンダと最愛、そしてノートパソコンで監視カメラの映像を観ている滝壺 理后(たきつぼ りごう)の姿もある。

 どうやら、フレンダと最愛は特に異常はないらしい。それに安堵しつつ。

 

 

「まぁ、聞いてた話とは全く違ったけど。死体を生き返らせるどころか、動く死体にしちまうとはね」

 

 

 腕を組み、不満そうにカウンター席に腰を下ろした沈利。何か、思案しながら。

 しかし、そんな事よりも。気になるのは、監視カメラの映像。正確には────ミ=ゴの事だろう。あんなものが人目につくのは勘弁して欲しいし、それを囮に帝督から逃げてきた事が知れては粛清(メルトダウナー)される可能性もある。

 

 

「……超心配ないです。あの化け物は、映像には残ってませんでした」

「そうか……なら、良いんだけど」

 

 

 と、そこに耳打ちしてきた最愛。確かに、自分が駆動鎧(ラージウェポン)を斬り伏せた後で現れた後詰めに突き刺された黒い棘。その後に現れた筈のミ=ゴは映っていない。

 では、後は実際にアレを目にした最愛とフレンダだが……まぁ、心配せずとも口裏を合わせる事になるだろう。そもそもあれは回収依頼のあった研究とは関係無いし、誰が好き好んで沈利の怒りを買うと言うのか。

 

 

「まぁ、上出来ねぇ。何より、あの垣根の野郎に一杯食わせたとこが。よくやったにゃー、ロートーンな地声が素敵な性悪黒猫(ジャーヴィス)ちゃん?」

『ッ……ニャハハ、お褒めに預かり光栄ですニャアゴ』

 

 

 言われて始めて思い出し、取り繕う。失念していた、性悪猫の擬装を。しかし、兎にも角にも上機嫌な沈利はくすくすと笑うのみ。

 

 

「どうぞ、ジャーヴィスくん」

「え……あ、ローズさん」

 

 

 そこに、芳しいブラックのホットコーヒーを持って現れた嚆矢の師父(マスター)、アンブローゼス=デクスター。そこで今更、此処が『純喫茶 ダァク・ブラザァフッヅ』だと気付く。

 一口、それを啜って一息吐いて。残りをテーブルに置くと、()()()()()()に向けて。

 

 

(そら、()()()()くれてやる)

『てけり・り。てけり・り♪』

 

 

 それを、誰からも見えない角度で触腕を伸ばしたショゴスが啜る。それを、見る事もなく思考する。

 今、自分が口走った言葉。『約束』とは何時したのか。そもそも一体、どうやって此処に来たのか。それが、今一思い出せない。頭の中に、靄が懸かっているようだ。

 

 

「なぁに、『窮極の門』を通ってきただけじゃて。貴様が喚んだのであろうに」

「────な」

 

 

 そして、何より驚いた事。対面の席、否、テーブルにどっかと腰を下ろしている────

 

 

「さて。さて────親愛なる(わらわ)憑代(よりしろ)(きみ)よ、人の子よ。こうして話すのは、二度目かのう?」

「…………お前」

 

 

 憎々しげに、嘲笑うように。振り返った視線の先で────一段高くなったテーブル上、そこでしどけなく横たわる……絢爛たる娘。墨を流したように美しい黒髪を結い、螺鈿細工を施した(かんざし)を差した。血の色よりなお深い、蛇じみた鋭さと無慈悲さを映す()の瞳の。

 喪服のような、しかし紅色の錦糸で多数の彼岸花の柄をあしらわれた豪奢な振袖の上に、男物の黒い外套を肩に羽織った姿の。奇矯な、実に奇矯な和装の娘。

 

 

「“(あく)────」

《これこれ、無粋な名で呼ぶでないわ。そうじゃのう、この姿の時は……》

 

 

 それを睨み付けるながら『“悪心影(あくしんかげ)”』と、その名を呼ぼうとして制された。腰に佩いた『圧し斬り長谷部』、魂の抜けたような軽さで。

 しかし、そこから響くように脳に流し込まれた声が、呆気に取られる嚆矢に向けた嘲笑と共に。

 

 

織田 市媛(おだ いちひめ)……とでも呼ぶが良いぞ。呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)!」

 

 

 『織田 市媛(おだ いちひめ)』と名乗った彼女は、腰帯に挿している嚆矢の拳銃『南部式拳銃(グランパ・ナンブ)』と私物らしき脇差しに扇子。

 その内、扇子を取り出して開いて。黒地に赤字で『天下布武』の四字の画かれたそれで口許を隠しながら、からからと哄笑した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3章・chapter Ⅲ グラーキ黙示録=Graaki Apocalypse
七月二十七日:『星辰の日』


 年代物のドアベルが鳴り、客の退店を知らせる。『ありがとうございました』と師父(マスター)が厳かな声で六人を見送り、看板を裏返して『Close』とした。

 店の灯りが消えるのを尻目に『アイテム』の面々は、月と星の光よりも尚、綺羅びやかな学園都市の夜景に歩み出る。

 

 

「それにしても、中々良い雰囲気の店だったわね。食事も美味しかったし立地も良かったし、何よりマスターが良い男だったし……これからはあそこを集会場所にしようかしら?」

「それ、いい! 結局、賛成な訳よ!」

「そうですね、超異論ありません」

「うん、わたしも良いと思う」

 

 

 少女達は口々に、きゃいきゃいと。どうやら、店より食事より雰囲気より、何よりも店主(マスター)がお気に召したようで。

 

 

「……俺以外の男なんて滅べば良いのに……」

『ココハ、公道デス。綺麗ニ使イマショウ』

 

 

 等と、物騒な事を呟きながら。最後尾を歩く黒猫男、路面に唾を吐く。直ぐに、近くに居た清掃ロボットが駆け付けて清掃、警告してきた。

 しかし、華麗にスルーして歩き去る。『運悪く、待機モードが誤作動した』……勿論、嚆矢に触れられて『確率使い(エンカウンター)』の餌食となった、警備ロボットの脇を。

 

 

呵呵(かっか)、つまり人類滅亡じゃな」

「どー言う意味か、詳しく話し合おうか……そして」

 

 

 背後から、熱い吐息と共に嘲りの言葉。冷たい指先と共に、愚弄の一撫で。それを甘んじて受けながら、振り返る。背後で笑う沸き立つ影、燃え盛るような三つの瞳に向けて。

 

 

「──何でお前は、俺の背中で(くつろ)いでんだ?」

「む?」

 

 

 背中に抱えた和装の娘。垂れ掛かる黒髪、ほとんど重さを感じない小駆。その、燠火(おきび)のような紅の瞳が不思議そうに此方を見遣る。

 だが、やはり元々は同じ日ノ本出身。直ぐに言葉の意味を理解したらしく、不機嫌そうに眉を顰めて。

 

 

「何を言っとるのだ、貴様は。歩いたら────疲れるであろう」

「こんなにも当たり前の事言われて、ここまでの衝撃を受けたのなんて生まれて初めてだぜ……!」

 

 

 流石の唯我独尊(だいろくてんまおう)に、嚆矢も戦慄を禁じ得ない。寧ろ、まだ体力が回復しきっていない此方の方が辛いに決まっているのだが、この様子では聞く耳などなかろう。

 尚、長谷部等の武器類は全て“悪心影(あくしんかげ)”……今は織田 市媛(おだ いちひめ)か……が、『挟箱(はさみばこ)』とやらに仕舞っている。『何処にそんな物があるのか』と聞きはしたが、『呵呵呵呵(かっかっかっか)』と笑ってはぐらかされた。

 

 

《まぁ、そんな事はどうでもよかろう。しかし、面白い異能を持つのう? 『確率使い(えんかうんたー)』、じゃったか?》

(別に……この学園都市の学生なら誰でも、初歩の初歩でやってる事だよ)

 

 

 そもそも、学園都市の誇る『超能力開発』とは、先ずそこに先立つ。あらゆる能力(スキル)は、先ずは『確率を支配する』ところから始まる。所謂『シュレーディンガーの猫』……『観測されるまで状態不明』を突き詰めて、『不可能を可能にする』という事。つまり、嚆矢がやっている事は────実は、無能力者(レベル0)も含めた『誰もがやっている事』である。

 異能力者(レベル2)と言う『強度が有るだけ』で、何も珍しくはない。寧ろ、“ありふれ過ぎている能力”だ。

 

 

 だから能力研究協力などの仕事や要請は皆無であり、アルバイトで糊口を凌ぐような真似をしているのだから。

 

 

()()()()()、であろう? 当たり前を当たり前としない、天理こそ疑うべきもの。それこそが────革新に至る第一歩よ」

「…………意味が解らん」

「今はそれで佳い。千里の道も一歩から、じゃて。呵呵呵呵(かっかっかっか)!」

 

 

 鷹揚に笑われた。何の(てら)いもなく、ただ明け透けに。実のところ、密かに劣等感(コンプレックス)に感じているその事実を。

 だが、そこまで徹底して開けっ広げである為か。不思議と反感は感じない。却って、何か────笑い飛ばされて、逆にスッキリしたような。

 

 

──これが、戦国の群雄の一人。最も覇者に近かった者。『魔王』と呼ばれ、それを自認した武士(もののふ)のカリスマ……なのかねぇ。

 

 

 『成る程、確かにこれは付いていきたくなるかもな』等と考えながら。端正な横顔に刹那、見惚れて。

 

 

「ところで……置いていかれておるぞ?」

『あっ……ちょ、皆待って欲しいニャアゴ!』

 

 

 面と向かってにやり、と嘲笑われてしまう。見れば、確かに『アイテム』の四人は横断歩道の先。慌てて、疲労困憊の上に負傷から痛む全身に鞭打って走り出す。

 思い出したのは、少し前の事。というか、昨日今日の話。ステイルを倒した後、見つけたあの少年。確か、名前は。

 

 

──上条 当麻(かみじょう とうま)……だったっけか、あの超羨ましい奴。禁書目録(ロリシスター)月詠教諭(ロリティーチャー)に甲斐甲斐しく世話焼かれてた、あのリア充野郎。

 

 

 完全に逆怨みだが……あの夜、散々見せ付けてくれたウニ頭の少年。その余りの違いに、またもや鬱になって。

 

 

《それはまた。御主とは大違いじゃのう……》

『てけり・り。てけり・り……』

(放っとけ! そして精神の自由(プライバシー)の侵害で訴えんぞ化け物コンビ!)

 

 

 ギリギリで赤に変わった横断歩道を、『大鹿(ベルカナ)』のルーンの刻まれたカードを発動して駆け抜ける。次々と走り来る車の隙間をショゴスの目を介して捉え、授業で習っただけのバスケットのフットワークで縫いながら。

 

 

呵呵(かっか)、この()()()がたまらんのう! よし、嚆矢よ! 今の、鉄の駕籠躱しをもう一度所望するのじゃ!」

『もうやらんニャア、疲れてるって言ってるナ~ゴ!』

「何じゃ、つまらんのう。はっは~ん……さては貴様、ゴネ得を狙っておろう? 長谷部だけでなく、『鎧』もあわよくば、と」

『ち、違うもんニャア──ゴッ?!』

 

 

 若干の図星を突かれて焦った、対面の歩道への着地のその瞬間。ずるっ、と足が滑る。見れば路面には、何か液体の零れたような黒い染みがあった。

 両腕でバランスを取ろうとするも、背中には何時もはない過重量。堪えきれずに背中から、車道に向けて傾く。更に泣きっ面に蜂、大型のトラックが直ぐ間近に迫り────

 

 

『んニ゛ャ?!』

「──ったく、超世話の焼ける」

「結局、詰めが甘いわけよ」

 

 

 その両腕を、最愛とフレンダに引かれて事なきを得る。走り去るトラックから『気を付けろ』とお決まりの野次が飛ぶが、馬耳東風だ。

 

 

「まぁ、詰まらない事で折角の戦力を削られるのは超ゴメンですし」

「そう言う事なのよね~、あんたの『正体非在(ザーバウォッカ)』、結局理屈は分かんないけど役に立つわけだし」

 

 

 最愛は面倒そうに、フレンダは茶化すようにそう口にして手を離す。そして、まるで……こちらに歩幅を合わせてくれているように、ゆっくりと先を歩いている。

 

 

──まさか、これは……二人纏めて好感度+1?! くっ……苦節十八年、漸く俺にも春の足音が!

 

 

「ヒュッ────ザシュッ! ブシャアッ!」

「……何で今、そこで斬殺音入ったし」

「えっ……丁度四人だし、相殺(そうさつ)?」

「殺すんならお前からだっ!」

「なんと……(わらわ)も罪作りよのう。美しすぎる第六天魔王とは、また」

「今すぐ降・り・ろ!」

 

 

 からから笑う背後の悪神を揺り落とそうと、ヘビメタのように激しく体を揺する嚆矢。それを裸馬を乗り熟す要領で制している市媛。

 そんな、端から見ると痴話喧嘩でもしているような二人組を、最愛とフレンダは溜め息混じりに。

 

 

「本当、結局あんたら()()って仲良すぎなわけよ」

 

 

 そっぽを向いたままの最愛の代弁も兼ねて、苦笑いしながらフレンダがその一言を発する。明らかな、齟齬を。

 それに、嚆矢は動きを止める。真面目な顔は、ショゴスの猫覆面に隠れて見えはしまいが。

 

 

──『兄妹』。何故か、こいつは()()()()四人にそう認識されていた。俺と一緒に『アイテム』に入った()大能力者(レベル4)の『均衡崩壊(バランスブレイカー)』なる能力者……という事になっているらしい。

 まあ、十中八九魔術だろうが。つーか当たり前に溶け込むとか滑瓢(ぬらりひょん)か、お前は。

 

 

 寒々しい感覚に、平静を取り戻す。そして思い出す、己には()()()()()()()()()()()と。

 

 

『さてさて、それじゃあオイラはそろそろ御暇するニャア。猫の集会でコレがコレなもんでナ~ゴ』

「あらそう、じゃあコレ。今回の働き分だ、端金(はしたがね)だけどにゃ~?」

 

 

 改まって戯けた仕草(ジェスチャー)で沈利に断りを入れれば、渡されたマネーカード。どこぞで換金すれば、足はつかない。

 有り難く頂戴し、懐に。因みに、発信器等が仕込まれていればこの時点で不具合を起こしていよう。

 

 

「じゃあね、じゃーびす」

『うい、それじゃあまたニャアゴ、理后ちゃん、フレンダちゃん、最愛ちゃん、頭目(ヘッド)

 

 

 ひらひらと手を振りながら、曲がり角を曲がって消える黒猫男とその背中の悪姫(あっき)

 最後に、振り向いていた背中の存在が──燃え盛るような三つの瞳と嘲笑をもって此方を見詰めていたような気がして、四人は一瞬、背骨の髄までの震えを感じて。

 

 

「ところでさぁ……」

「何よ、麦野?」

 

 

 そんな二人を見送った後で、『アイテム』の頭目は首を傾げる。まるで、何か重大な事を思い出したように。

 

 

「あのさぁ、今回の仕事なんだけど……私、『三人』って言わなかったっけ?」

 

 

 直ぐに忘れてしまう、そんなことを口にした…………。

 

 

………………

…………

……

 

 腐臭漂う下水の中、『死体蘇生者(ネクロマンサー)』は手術台より頭を上げる。相対するは、女。麗しきメイドドレスの、両の目を抑えて泣くかのような……妖艶な()()であった。

 

 

可哀想(かわいそう)可哀想(かわいそう)ね、『死体蘇生者(ネクロマンサー)』。貴方は失敗した、そして『あのお方』は失敗者を赦さない。何故なら、あの方は『寛容ならざる神』だから」

 

 

 涙を堪えるかのような仕草で、くすり、くすりと娘が嘲笑う。『可哀想(かわいそう)』等とは御題目、真実、あの存在は喜悦以外に感じてはいまい。

 『黙れ』と『棘』を振るう。串刺しに貫かれ、しかし、平然と長女は此方を嘲笑って。

 

 

「さぁ───機械のように冷静に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷厳に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷酷に、チク・タク。チク・タク! 飢える(イア)飢える(イア)────喚ぶの!」

「───────!?!」

 

 

 熱を籠めて『知る筈もない何か』を喚ぶその女に、『死体蘇生者(ネクロマンサー)』は生まれて初めての恐怖を得る。今、漸く思い至ったのだ、『自らの愚かさ』に。

 だが、最早引き返しようもない。後は、最早……滅びに至る、宿命のみ。

 

 

──まだ……まだだ! まだ、負けてはいない!

 

 

 撃ち込まれた無数の棘に、既に死骸は形すらなく。しかし、死んでなどいない。あれは、()()()()()()だと理解しているから。

 

 

──手に入れろ、あの少女……佐天 涙子(さてん るいこ)を。殺せ……何としても! あの男を、対馬 嚆矢(つしま こうじ)を!

 

 

 だから、命じる。可能性を殺す事を。手下である、彼らに向けて────

 

 

………………

…………

……

 

 

 無窮の魂が、漸く辿り着く。某かの影響下に在るのか、揺らめきながら、漸く。ホテル・リッツ。学園都市の最高峰宿泊施設。与えられた情報から辿り着いた、この場所。

 

 

「失礼致します。どなた様に、御用でしょう?」

 

 

 ボーイが、侮るように声を掛けてくる。然もありなん、大袈裟に見た所で、己などその程度だ。だから、精一杯。その、矜持を張り詰める。嘗められぬよう、格好のつくように────!

 

 

「“牡牛座第四星の教授(プロフェッサー・オブ・セラエノ)”……レイヴァン=シュリュズヴェリィに会いに来た」

 

 

 悪意と嘲笑を込め、更には害意を籠めて……嚆矢は、『頼れ』と言われた住所を訪ねた。全ては────

 

 

「『グラーキ』とか言うクソッタレの神を討つ。力を貸せ」

 

 

 対馬嚆矢は、ただ、それだけの為に。

 

 

………………

…………

……

 

 

 デザインの上でのみ古めかしい、中身は最新式だろう全く揺れないエレベーターが停止していた。分度器型の回数表示、その針が止まっているのは右端。即ち、最上階。この第七学区のランドマークとされるホテルだ。

 世界中にまま有る、かの『大英女王帝国(グレート・ブリテン)』の首都『倫敦(ロンドン)』の最高級老舗ホテル『ザ・リッツ・ロンドン』の模倣だ。本物とは、品格も歴史も競べるべくもない。

 

 

 絢爛な玄関とは裏腹に、客室の並ぶ階は素朴だ。深夜と言うのもあるが、その辺りは日本人の感性に合わせているのだろう。仄暗い廊下を訥々と、スーツに外套を纏っているのでドレスコードはクリアしている嚆矢は歩く。

 ただ一人、チップを渡したドアボーイが『案内致します』と言ったのを断って。オールバックに撫で付けた亜麻色の髪を気怠げに撫でて。

 

 

 そもそも、迷う部屋数がない『最上階の一室(スイートルーム)』に、足を踏み入れた。

 

 

「邪魔するぜ……っと」

 

 

 何の迷いもなく、ドアノブを回して開く。それだけで金属のドアノブに接していたスタンガンは故障、手榴弾はピンは抜けたが信管が不発、ライフルの引鉄に繋がっていたワイヤーに至っては断線して用を為さなかった。

 

 

「大したモンだ、テメェを殺すにゃあ────先に可能性を殺さなきゃいけねぇ、って訳だ」

「別に、そこまでする必要はねぇさ。魔術にしろ能力にしろ、俺には過剰殺傷力(オーバーキル)さ」

 

 

 それを、真正面から笑った男が居る。対面のソファに座り、葉巻を吹かしながら瓶麦酒(ビンビール)を煽るサングラスの男性が。

 空洞の眼窩でどうやって知り得たのかは分からない。しかし、彼は……真っ直ぐに、此方を向いていて。

 

 

「────両手を上げて跪け、少しでも不審な動きをすれば……分かるよね?」

「はいはい……」

 

 

 後頭部に突き付けられた、冷ややかな感触。間違いない、銃口の感触。声の近さから、まず拳銃。そして女の声であるからには……導き出される結論は、あの娘。

 

 

「ようこそカインの末裔(ヴァンパイア)、ボク達のアジトに。良い度胸してんじゃんか、一人……いや、()()()()()で乗り込んでくるなんてさ」

《おい、嚆矢。この無礼者を斬れ、今直ぐに》

 

 

 ならば、逆らえない。『女に優しくする』のは彼の誓約(ゲッシュ)なのだから。背後に音もなく立った、襤褸切れのような黄衣を纏う娘にでも。

 辺りには、不穏な気配が充満している。まるで、息を詰めて此方の隙を窺っている『何か』が物陰に潜んでいるように。

 

 

 言われたように、両手を頭の後ろに回す。その膝裏を蹴り払われる。激痛ではあったが、衣服に忍ばせたショゴスのお陰でほぼノーダメージ。ただし、やはり勢いに膝は突かされた。これで、最早無抵抗だ。

 

 

「ふぅ、さてと。じゃあ、商談といこうか?」

「ちょっ……ボクは無視かよ!」

(わらわ)までも無視か!》

「ちょっと黙ってろ、セラ。後、銃は仕舞え。こいつぁ勘だが……暴発するだけだろうぜ」

 

 

 それを全て、無視して。葉巻を灰皿に押し付けたレイヴァンはどこか遠くに向けて合図を出す。背後の銃口が消えた事以外に嚆矢は知る由もないが、窓の彼方のビルの上。赤いライトシェードの真下から、バレットライフルにて嚆矢を捕捉していたティトゥス=クロウに向けて。

 前後からの強烈な殺気が消えた事で、僅かに落ち着きを取り戻す。後は、目の前の屈強な男を説得するだけ。

 

 

「来い、って言われたから訪ねたってのに。米国式の歓迎は手荒くていけねぇ」

「悪りぃな、真っ当な教育は受けた事がねぇからよ。で、『グラーキを討つ』とか言ってたが?」

「ああ、だから力を借りに来た。実際、倒せるかどうかとかも聞いとこうかと」

 

 

 刹那、辺りの空気が揺らめいた。丁度、『グラーキ』の名が出た瞬間に──『何か』が、逃げ惑うように。同じく、背後のセラも息を飲んだのが分かった。

 どうやら、狙いを付けた相手は中々の有名どころ(ビッグネーム)らしい。

 

 

「若いってのは良いねぇ。旧支配者(グレート・オールド・ワン)を殺す、か……」

 

 

 クッ、と喉奥で笑った男。その瓶麦酒を一気に煽りながら。ぐびり、ぐびりと二度、喉仏が上下した。それで飲み干したらしく、口を離せば『ぽん』と音が立つ。

 

 

「──旧支配者は死なねぇ。あれは、『そういう災害』だ。天災だと諦めた方がいい。地震とかハリケーンと同じさ、人間にはどうしようもない」

「そうかい。つまり、『人外なら出来る』って訳だろ? だったら勿体付けてないで、スマートに会話しようぜ」

「可愛くねぇ餓鬼だな、お前……」

 

 

 機先を制されて、幾分気分を害したらしいレイヴァンが空の瓶麦酒を転がす。因みに、テーブルの上にはズラリと空瓶が転がっている。

 そして、ソファのすぐ脇には明らかに後付けの簡易冷蔵庫。そこから新たな瓶を一本取り出し、親指だけで栓を飛ばした。

 

 

「曲がりなりにもありゃあ神だ、生半(なまなか)の人外じゃ無理だよ。そうだな、『顕現』させた実戦派の魔導師二人懸かりでギリ、ってトコか。次にどこぞの阿呆が呼び出すまでは()()()()()

 

 

 そして、更にもう一本を取り出して──此方に投げて寄越した。それを振動させぬように気を付けて受け取ると、栓を……面倒臭いので、ショゴスにかじらせた。

 

 

「殺せないが、封じられる訳だ。因みに、『顕現』って?」

「お前の背後に居座ってる(こんとん)の事さ。なあ、“悪心影(あくしんかげ)”────エキゾチックな嬢ちゃん?」

呵呵(かっか)────苦しゅうない。(わらわ)にもその硝子の酒を上納するがよいぞ」

 

 

 呼ばれたからか、姿を現した“悪心影”……市媛。レイヴァンの対面のソファに、どっかりと腰を下ろして。更に『脚で』もって、レイヴァンが空けたままでまだ呑んでいなかった瓶を掴み取る。

 刹那、背後から風が吹いた。そうとしか形容できない速さで、セラは市媛に肉薄する。

 

 

「────下がれ、下郎。誰の許しを得て拝謁するか、風王の眷族(ろーど=びやーきー)風情が」

「────それはこっちの台詞だ、魔王の代弁者(メッセンジャー)風情が……頭に乗ってんじゃねぇ!」

 

 

 脇差し『宗易 正宗(そうえき まさむね)』と拳銃『コンテンダー・アンコール』を突き付け合う、和装の娘と洋装の娘。微塵も揺らがない濡羽烏の黒髪と、風の流れに揺蕩う翡翠めいた色味の銀髪。見下しながら見上げる紅い瞳と、睨み付けながら見下ろす白金の瞳。

 一触即発、正にそんな陳腐な表現がぴったりのスイートルーム。しかし、均衡とは崩れるもの。

 

 

「それで? まさかとは思うが……まだグラーキに挑む気か?」

「勿論。殺す、この世から消す」

「ソイツは無理だ。何故なら、『クトゥルフ神話』は他の神話とは違う。あれは『人間の集団妄想』で成り立ってるんだ。人が滅ぶか、忘れ去るまでは消えねぇよ」

「成る程ねぇ……」

「「…………」」

 

 

 そんな二人をそっちのけで、瓶麦酒を口にしながら会話しているレイヴァンと嚆矢。その様に、先に得物を納めたのは市媛。

 呆れたように、脇差しを鞘に戻して。代わり、何処からともなくは瓶詰めの金平糖(コンペイトウ)を取り出した。

 

 

「阿呆らしいのう……あちらはあちらで盛り上がっておるようじゃし。どうじゃ、呑むかえ?」

呑まねぇよっ(Fuck you)! てか、伯父貴(オジキ)! 敵と盛り上がんなよな!」

 

 

 以前、嚆矢にしたように金平糖を勧める。無論、脚で。なのでセラは気分を害したらしい。つかつかと、レイヴァンの方に行ってしまった。代わりとでも言うように。

 

 

『てけり・り。てけり・り』

「おう、くれてやろうぞ。ほれ。ふ~む、これが麦酒(えーる)という奴か」

 

 

 寄ってきたショゴスに餌付けする市媛。我関せず、とばかりに麦酒に舌鼓を打ちながら。それに、我関せずとばかりに。嚆矢はレイヴァンに最後の一言を。

 

 

「なら、力を貸してくれ。あんた程の魔導師なら、それが出来る筈だ」

「出来ねぇ、とは言わねぇが……俺らは慈善事業の『教会』じゃなくて、資本主義に基づく『協会』だ。見合う得がなきゃ、動かねぇ」

 

 

 それこそ、米国の真髄。資本主義そのもの。分かってはいたが、やはり一筋縄ではいかない。言い、テーブルの上にバシンと叩き付けた『モノ』。その、悍ましき瘴気を撒き散らす『一冊』は。

 

 

「“黒い雌鳥(ブラック・プレット)”──代価は、これでどうだ?」

 

 

 あの狂信者が有していた、写本ではあるが精度は折紙付きの魔書(グリモア)。同じ魔導師ならば、その価値は分かろう。使うもよし、売るもよし。

 

 

「冗句にしちゃあ、面白れぇ。たかだか写本一冊の為に、旧支配者を相手にしろってか」

「受ける訳ないだろ、そんな依頼! 一昨日来やがれ(Shit,idiot)!」

 

 

 それを一笑に伏して、レイヴァンはテーブル上に両足を投げ出す。“黒い雌鳥(ブラック・プレット)”を蹴り飛ばしながら。床に落ちた魔書はばさりと、羽ばたくように着地して見えた。

 

 

「あと、()()()。“グラーキ黙示録(グラーキ=アポカリプス)”も全て、此方のもの。それで手ェ打ってやる」

「そうだ、あと十三冊…………え、いや、ちょっ……伯父貴(オジキ)?」

「ああ、構わねぇ。こっちの目的は、あのクソッタレの神を殺す事だけだからな。魔導書なんざ好きにしろよ」

「よし、交渉成立だな。となりゃあ善は急げ。明日の夜、夜戦決行(Let’s Party)だ。合流場所は……ここの玄関(エントランス)二十時丁度(ふたまるまるまる)

 

 

 話は終わり、嚆矢は頭を下げて振り返り……そのまま、部屋を去る。市媛は、いつの間にかその背中に。燃え盛るような三つの瞳で、立ち尽くすセラを嘲笑いながら。

 

 

「じゃあ、グラーキは任せたぜ。何とかなんだろ、お前なら。俺はバカンスで忙しいからよ」

「…………」

 

 

 その娘の肩を叩いて、大欠伸をしながらレイヴァンはさっさとベッドルームに消える。最後には、ぽつねんとセラだけが残り。

 

 

マジで(Hooo)…………!」

 

 

 唐突な展開に、頭を抱えて踞る。それに今度こそ、辺りの『何か』が逃げ出した。

 

 

超ぉぉぉ(lyyy)…………!!」

 

 

 娘は大気を震わせながら、一気に立ち上がる。端正な美貌を歪めて、天井に向けて。

 

 

「────最っっっ悪ぅぅぅ(Shiiiiiiiiiiiiit)!!!」

 

 

 航空機の爆音と紛う程の絶叫を、虚空に轟かせながら。

 

 

………………

…………

……

 

 

 暗闇。(いや)、それすらもない。さながら、電気羊の夢。グリッドもシグナルもないが……確かに、それは機械が見る夢。『正体非在の怪物(ザーバウォッカ)』と呼ばれた、暗部の()()()が。

 

 

『いい気なものだな、人間よ。悪質な機械よ』

 

 

 それを、嘲笑う者が居る。ギリギリと擦れ、軋むような刃金(はがね)の塊が。

 和風とも洋風とも判別のつかない甲冑。暗闇を溶かしたように禍々しい爬虫類の翅のような黒羅紗の陣羽織に、毒牙や毒爪、或いは魂を籠めて鍛錬()たれた『剱冑(ツルギ)』の鋭さを思わせる、侍の鎧兜。腕を組み、仁王立ちするその全身の隙間から覗く、燃え盛る憤怒を灯した無数の蛇じみた赫瞳。

 

 

 余りに雑な和洋折衷(アシンメトリー)に、一瞬感じた不快感。焔と油、乱雑な檻は、何か嫌な記憶を。

 

 

『■ぃ■……』

 

 

 頭を振り、『記憶』を振り払う。思い出しては、『対馬嚆矢』が成り立たない。

 

 

『“第六天魔王”は貴様を気に入ったようだが……(オレ)は違うぞ。あの痴れ者の小娘とは違う。この“第六元魔王”こそが、真なる魔王!』

 

 

 刃金の甲冑が、黒い兇刃が解けて渦を巻く。鎧武者の具足が、飾られたような状態から別物へと形を変える。

 

 

 長い、まるで黒い昆虫のようなその姿。二本の角と複眼を備え、強固な外骨格と天鵞絨(ビロウド)じみた毛皮に包まれた三節構造。背には殻の二枚の外翅と、薄く繊細な内翅二枚。前肢は太く強靭、中の肢は細く鋭利、後の肢は強く壮健。

 さながら────それは、『七つの芸を持つ』という昆虫『螻蛄(ケラ)』のようでもあった。

 

 

『覚えておけ……このままでは済まさぬ。この(オレ)を虚仮にした貴様らは……!』

 

 

 軋むような声が、遠ざかる。それは、覚醒の兆し。この漆黒(シャルノス)からの生還の兆し。“第六元魔王”を称した『邪竜』は、それを軋みながら睨み付けていた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 チュンチュン、と。小鳥の囀りが、覚醒したばかりの鼓膜を揺らす。カーテンをすり抜けてくる優しい朝陽に、蜂蜜色の胡乱な瞳が周囲を見渡す。状況の確認を開始する。

 寸暇、状況把握。第七学区『メゾン・ノスタルジ』の自室、その寝室である。3LDK、風呂便所共用。三階建て、部屋数六。現在使用中の部屋は、二階の東に位置するこの部屋を除いて二室。一階一号室の管理人室、二階二号室の此処、そして三階一号室の名前も知らない『誰か』。

 

 

 状況掌握、終了。今日の予定は二件、昼は風紀委員の仕事、夜は────神弑(かみごろ)し。低血圧の自堕落も此処まで、布団を抜け出してダイニングヘ。背伸び、欠伸。その仕草で、昨日の負傷が癒えている事を確認する。

 胸と両掌の傷は、既に古傷。肋骨は……まだ、繋がり始めたくらいか。ルーンの癒しや、錬金術(アルキミエ)の応用で『金属(カルシウム)』を繋げた事。そして、()()()()()()()()()で、何とか復帰した。

 

 

「ほうほう、これが映写機(てれび)という奴か……ふぅむ、何故に絵が動くのやら」

『てけり・り。てけり・り』

「…………」

 

 

 リビングの、朝の某変身ヒロインアニメが流れているテレビにかじりついている悪姫と床上を蠢く不気味な粘塊とかを無視する道々、体の調子と共に確認した時間は五時二十分。風紀委員(ジャッジメント)の活動までは、まだ三時間ほどある。

 冷蔵庫から、凍ったお握り六つを取り出してレンジで加熱、十分。その間に残り三分でカップ麺三つにお湯を注ぎ、待つ。

 

 

「ほう……何故、握り飯をくるくる回しながら照らしておるのじゃ? そもそも、これはどんな絡繰(カラクリ)じゃ?」

「温めてんだよ、電磁波で。これはレンジ、食べ物を温める機械」

「ほう……して、『電磁波』とやらをあてると、何故温まる?」

「水分が振動して熱を発生させる……らしい。やり過ぎると爆発するからな、勝手に使うなよ」

「なんと、爆発とな!?」

「目を輝かすな」

 

 

 寄ってきた市媛に応じていると、そこで丁度レンジが鳴る。取り出されたホカホカのお握り六つを片手で器用にジャグリング……は無理臭いので、受け皿ごとテーブルへ。

 因みに嚆矢は醤油、市媛は味噌。そしてショゴスは犬用の餌入れに、塩ラーメンをお握りに引っかけたねこまんま。何気に、一回で三食分の費用がかかってしまう事になったが。

 

 

──最近の暗部って、儲かるんだな……新聞配達のバイトの四ヶ月分だったぜ。

 

 

 沈利に貰った報酬のマネーカード、その金額にコンビニ内で鼻水を吹き出したのが昨日の夜半過ぎ。お陰で、深夜の交渉時は嫌に落ち着いてしまったが。

 

 

「そういや、あの鎧の夢を見た」

「そうか。あのまやかし、なんと?」

「『このままでは済まさぬ』だと。“第六元魔王”様は」

()、負け犬の遠吠えほど心地よいものはないのう」

「悪趣味な」

 

 

 唐突に、話を振る。しかし、市媛はほとんど無関心でラーメンをすすっている。当然だが、箸使いは巧みだ。

 そこで、話が途切れた。後には、ラーメンを啜る音とショゴスが餌を貪る音。

 

 

「あぁ、そうだ。俺、今日は夕方まで居ないから……大人しくしとけよ、見付かったら退去もあるかなら」

「管理人とやらだったか? 呵呵(かっか)、心配無用じゃ。あの小娘どもの時を忘れたか?」

「それもそうか……だからって、迷惑になるような事すんなよ」

「わかったわかった」

 

 

 揃って食事を終え、ゴミを捨てて箸を洗って水切りに。時刻、午前六時ジャスト。七時までに家を出れば、余裕で間に合う。

 

 

「ほう、ほうほう。天気予報とな……織姫一号か。これが(わらわ)の時代にもあればのう」

『てけり・り。てけり・り』

 

 

 しかし、どうも置いていくのが心配だ。見詰める先、ショゴスを座椅子がわりに番茶を啜りながら、またもテレビにかじりついている市媛。熱心に、朝の情報番組を見ている。

 勿論、連れていった方が問題が大きい。因みに、ショゴスは二分割している。これで、逐一部屋の情報を知れる筈だ。ショゴスが買収されなければ、だが。

 

 

「じゃあ、行ってくる。今日の夜は、ちゃんと居ろよ?」

「応とも。(ねや)の用意は任せておくが佳い。後、そうさな……三人くらい生娘を連れて楽しもうぞ」

「はいはい、寝言は寝てから言えよ」

呵呵呵呵(かっかっかっか)……すぴ~」

 

 

 冗談めかして笑って済ませているが、一体どこまで冗談なのか。戦国時代は両刀遣い(バイセクシャル)が多かったとは聞くが。

 そんな一抹の懸念を、振り払って。二本預かっている部屋の鍵の一つを残して、部屋を出た。

 

 

 コンクリートの階段を降りる。エレベーターなどと言う便利なものはない。

 その道すがら、見付けた後ろ姿。藤色の和服に割烹着、足袋に草鞋。竹箒を動かす度に、艶めく黒髪。長く垂れ下がる、纏められて猫の尻尾めいた後ろ髪がゆらゆらと。

 

 

「おはよう御座います、撫子(なでしこ)さん」

「あら……おはよう、嚆矢くん」

 

 

 声を掛ければ、振り返った眼鏡の女性。管理人の大和撫子(やまと なでしこ)。朗らかに、癒されるような微笑みを浮かべて。

 足下、数匹の猫達。三毛(ミケ)(ブチ)、白、黒。じゃれつくように、仔猫達は竹箒に猫パンチを繰り出している。どうやら、掃除をしていたのではなく……既に済ませた後で、猫と遊んでいたようだ。

 

 

「相変わらず、猫好きなんですね」

「ええ、犬も嫌いじゃないけどね。やっぱり猫の方が好きかしら」

 

 

 楽し気に仔猫達をあしらい、転がしたり撫でたりしながら。答えた彼女が、思い出したように。

 

 

「あ、そうだわ。ねぇ嚆矢くん、実は実家からお肉が送られてきたんだけど」

「頂きます」

「はやっ……! まぁ、お裾分けするつもりだったんだけどね。一人じゃ腐らせるだけだから」

 

 

 即答であった。だが、仕方ない。年頃の男子としては、やはり肉が食いたいものだ。

 しかも彼女の実家から送られてくる肉というのは、(ビーフ)(ポーク)(チキン)ではなく『山羊(ラム)』。やたら黒く、見た目は悪いが……そもそも、他の山羊肉など見た事はないが……滋味に溢れ、まさに活力そのものといった具合だ。

 

 

「実はカレーを作ってあるの。今日が二日め、食べ頃よ?」

「はい、それじゃあ風紀委員(ジャッジメント)の活動が終わってから伺います。ライスと、今月の家賃持参で」

「ふふ。ええ、待ってるわね」

 

 

 にこりと微笑みを向けられ、此方も笑い返して別れの挨拶。敷地内の駐車スペースからスクーターに乗り、支部を目指す。最後に、ちらりと自室の窓を見る。無論、何も映ってなどいないが。

 何故か、そこから……燃え盛るような三つの瞳に、見詰められている気がして。

 

 

呵呵(かっか)……」

 

 

 朝の残響のような空耳を、間近に聞いたような気がした。

 

 

………………

…………

……

 

 

 今日も今日で、先の『幻想御手(レベルアッパー)事件』で人員の足りない警備員(アンチスキル)の小間使いの日々。下部組織の辛いところである。

 愚痴を言っても仕方はない。それは分かる。人間には誰しも身の程があり、大した人間など一握りだと。それは分かる。そして、大変なのは得てして『そうでない人間』の方だと言う事も。

 

 

「…………」

 

 

 ピッ、ピッと警笛を鳴らす。快晴、炎天下の交通整理。まさかの信号機の故障、まさかの十字路。主要な道路でなく、学生主体の学園都市なのが救いだが。

 それでも、かなりの車の数。それを陽炎の立ち上る十字路の真ん中で、既に三時間。無論、キチンと水分は摂っているが。

 

 

「交代だぜ、ロリコン先輩……」

「おう……悪いな、おむすびくん」

 

 

 へろへろと交代に来た巨漢、『巨乳』Tシャツの後輩と、へろへろ交代する。これで今日のノルマは終了、後は支部に寄ってから帰るだけだ。

 

 

「お疲れ様です、嚆矢先輩」

「お疲れ様ですの、先輩」

「ああ、サンキュー。飾利ちゃん、黒子ちゃん」

 

 

 と、そこに二人の少女が立つ。花の髪飾りのセーラー服の飾利と、ツインテールにブレザーの黒子。これもやはり後輩、しかし間違いなく来てくれて嬉しい女の子の方。

 飾利から渡された、キンキンに冷えた缶ジュースを一気に煽って。

 

 

「…………何というか……独特な」

 

 

 『味だ』とは言わずに、銘柄を見る。『芋サイダー』なるドリンク。一体、どんな会社がこんな物を販売するなどという英断を下したのか。

 

 

「あはは、実はさっき試しに買ったんですけど……やっぱり、不味いですよね……」

「まだ、口の中が澱粉(デンプン)臭いですの……だから止めましょうと申しましたのに」

「ちょ、先にわたしの時にこのジュースの釦を押したの、白井さんじゃないで─────」

 

 

 苦く笑う二人。じゃれあう女の子二人、微笑ましいものだ。だが、それよりもこれまで。

 

 

「う~い~は~る~~~っ!」

「へあっ?!?」

「とう!」

「ンぶふゥ!?!」

 

 

 背後から忍び寄り、一瞬で飾利のスカートを巻き上げた少女。その長い黒髪が、しばしばさりと。飾利のスカートの裾とぴったり同じだけ、滞空して。

 真正面から見てしまって、吹いた嚆矢。否、正確には黒子の裏拳で鼻面を叩かれて。

 

 

「おお、今日は水色と白のストライプかぁ。オーソドックスながら、ツボを押さえた選択ですなぁ」

「あ、あぁ……さ、佐天さんのバカぁぁぁぁぁ!」

 

 

 佐天涙子は、びしりと親指を立てて笑い掛けたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 夕刻、十六時。本部宛に本日の活動記録を提出し、後は帰るのみとなった。まだまだ日は高いとは言え、もしかしてと言う事もある。後輩(女の子限定)と涙子を送っていく事にした。

 その道すがら、涙子がポツリと口を開いた。

 

 

「そう言えば、こんな都市伝説知ってますか?」

 

 

 と、前置きして涙子が口を開く。相も変わらず、あんな目に遭っておきながら……記憶を消したのが悪かったか、アングラに首を突っ込んでいるようだ。

 

 

「『駅前広場の黒猫男』って話。何でも、第七学区の駅前で黒い猫の覆面を被った男が女学生に声を掛けてて、うっかり着いていくとボロボロに弄ばれた上に人体実験の材料にされちゃうんだって」

「何それ怖い。駄目だぞ、三人とも。そんな変態に着いていっちゃあ」

「御心配されなくても、まともな感性の人間であればそんな怪人物に着いていったりしませんの」

 

 

 なんだか思い当たる節もあるような無いような気もするが、気にしない事にして。当たり二回、実質二人分で四人に行き渡らせたジュースを啜る。

 因みに、今度はまともな自販機のジュースだ。その上で、何故か嚆矢は芋サイダー。

 

 

「う~ん、ドロッとしていてザラッとした最悪の舌触りと喉越し。後味を引くどころか、後味が悪いとしか言いようがない澱粉質。うん、一片の余地もなく不味い、最早糞不味い! ある意味凄い!」

「あの、幾ら勿体無いからって、そこまで言いながら飲まないでも……」

 

 

 自らの『確率使い(エンカウンター)』を過信し、『何が出るかお楽しみ』の釦を押したのがそもそもの間違いだった。この能力(スキル)は、一から九十九の間でしか効果はない。()()()()()()()()()()()()()()()()

 詰まり、最初から『何が出るかお楽しみ』にこの芋サイダーしか入っていないのであれば、当然コレ以外が出る事はないのだ。単純な話である。

 

 

「え~、じゃあ、これは未確認情報なんだけど……御坂さんらしき女の子が真夜中に男性と追いかけっこしてるっていう噂が」

「あ~……まぁ、御坂も女の子だし」

「お姉様に限って、そんな事がある訳がありませんの! 証拠は、ソースはどこですの! 完膚なきまでに擂り潰してやりますわ!」

 

 

 そんなこんなで、ツインテールで怒髪天を突いた黒子を宥めながら。気が付けば、別れ道。右方面の、駅を挟んだ彼方に嚆矢のアパート。前の通りのバス停に柵川中の寮方向のバス、そして左方面の彼方に常盤台の寮。

 

 

「では、わたくしはこちらですので。ごきげんよう、ですわ」

「じゃあ、ここで。気を付けて帰るんだよ、二人とも」

「貴方もですわよ」

 

 

 然り気無く、一人になる黒子を送っていこうとしたのだが……流石に、新幹線には追い付けない。八十メートル先に空間移動(テレポート)した黒子の後ろ姿を見送って。

 苦笑する飾利と涙子に向けて、肩を竦めて戯けてみせた。

 

 

「と言う訳で、送ってくよ」

 

 

 幸い、彼女らの寮の場所は知っている。帰り道に迷うような事もない。ジュースを何とか飲み干し、何処かに屑籠はないかと見回す。

 

 

「あ、わたしが捨ててきますよ」

「いやいや、そんな悪いし」

「奢って貰ったお礼です」

 

 

 おっとりしているように見えて、飾利が一度こうと決めたら梃子でも動かない事は、もう分かっている。

 仕方なく空き缶を預ければ、自分の分と涙子の分も含めた三人分を持って、少し離れた場所にある……と言うか『居る』清掃ロボットの方へと、とてとてと駆けていく。

 

 

 転ばないかと胸を高鳴らせた……ではなく、手に汗握ったのは内緒。

 

 

「────もし、そこのお二方。お訊ねしたい事があるのですが」

「え、あ、はい?」

「はい、どうかしましたか?」

 

 

 そこに、背中から野太い声が掛かる。不思議と、どこかで聞いた覚えがある気がしたが……今は気にしない事にして。

 振り向いた先、そこに────見覚えの無い、三十絡みの男性の姿。甚平に雪駄、扇子と言うこれから夏祭りにでも行きそうな出で立ちの長身に、痩躯にすら見える程に引き締まった身体。糸のように細い眼差しに笑みの張り付いた、スキンヘッドの好好爺(こうこうや)然とした男性が。

 

 

「いや、実は道に迷ってしまいましてな。ここにはどう行けばよいのですかな」

 

 

 見せられた紙、そこには住所とアクセス方法。しかし、そこは。

 

 

「対馬さん、ココ、柵川中の寮ですよね?」

「多分……そうだと。お子さんにでも会いに?」

「似たようなもの、ですかな? ハッハッハ……」

 

 

 いきなりの不躾にも、笑って済ませる鷹揚な人物のようだ。そのせいか、警戒心は失せている。そのスキンヘッドが、夕方の日差しを浴びてキラリと光って。

 

 

「だったら、私達が送りますよ。丁度、そこに住んでますから」

「おや、それは有り難い。篤く御礼申し上げます」

否々(いやいや)、元々用事があっただけですから。頭なんて下げないでくださいよ」

 

 

 深く頭を下げられ、此方が恐縮してしまう。涙子も嚆矢も、揃って一歩前に。

 

 

「何の、恩を受ければ礼を尽くすのは当たり前の事。礼を失しては沽券に関わりますからなぁ……」

 

 

 そんな二人に向け、頭を下げたまま。男性もまた、一歩足を踏み出して────。

 

 

「────この、鷹尾 蔵人(たかお くろうど)の」

「────」

 

 

 にたりと、嘲笑う声。背筋に感じた悪寒と、目に見えるかのように昂る瘴気。しかし、既に遅い。()()()()()()()()()()()()

 胸に走る冷感。次いで、灼熱。最早、痛みはなかった。目にも止まらぬ『応無手突(オウブシュトツ)』により胸に突き立つ、鉛筆ほどの『グラーキの棘』を目の当たりにしたところで。

 

 

「…………!? …………!!」

 

 

 その猛毒により倒れ伏し、指先すら動かせない。そもそも、絶命していないだけで奇蹟だが。

 此方に呼び掛けているらしい涙子の声も、最早意味を成さない。ただ、『逃げろ』と口に出来ない事が悔しかった。見下ろし、嘲笑う男性──『Ⅱ』と表紙に印された魔導書(グリモワール)を携えた鷹尾蔵人の手が、彼女に迫っているのを無力にも見ているしかなく。

 

 

 意識を失う瞬間まで、それを。自らの浅慮を恥じながら…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 彼女が帰ってきた時、そこにはもう、誰の姿もなく。飾利は、ぽつねんと佇んで

 

 

「あれ……佐天さん、嚆矢先輩?」

 

 

 見回したバス停に、二人の姿はない。無論、()()()()の姿も。充満していた瘴気も、『非日常』は何も。そこには、『当たり前』の日常しかない。

 それに、彼女はぷくりと頬を膨らませて。

 

 

「もう、置いてくなんて酷いですよぅ……」

 

 

 『当たり前』の日常らしい言葉を口にしたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七月二十七日・夜:『剣理:殺人刀』

 

 

 そしてまた、此処に堕ちてくる。嘲弄しながら羽撃(はばた)く馬面の魔鳥どもが、戯れに(さら)った獲物を投げ込む狂気の戸口。

 究極の宇宙の深遠にして、創造主(クリエイター)にして想像手(デミウルゴス)たる神々の(あそ)神苑(しんえん)

 

 

 胡乱なまま、意識が開始する。認識、現在地点……不明。現在時刻……不明。存在理由……鷹尾 蔵人(たかお くろうど)による略取。行動目的────佐天涙子の奪還!

 記憶の整合を取り戻し、意識は肉体に回帰するべく行動を開始する。しかし、この“封鎖宇宙”からの脱出方法は知らない。

 

 

「────可哀想(かわいそう)可哀想(かわいそう)

 

 

 そんな、足掻く男の背後より響いた涙声は女の声。麗しきメイドドレスの、両の目を抑えて泣くかのような……愛らしい()()であった。

 だが、まともな感性を持つ人間であれば、直ぐに理解できる。この存在の、余りの(いびつ)に。

 

 

可哀想(かわいそう)可哀想(かわいそう)ね、『特異点(ストレンジャー)』。貴方は失敗した、そして『死体蘇生者(ネクロマンサー)』は迷わない。何故なら、あれは『盲目の生け贄』だから」

 

 

 涙を堪えるかのような仕草で、くすり、くすりと娘が嘲笑う。『可哀想(かわいそう)』等とは御題目、真実、あの存在は喜悦以外に感じてはいまい。

 ビスクドールめいた美しさで、計算し尽くされた仕草で。まさにそれは、絡繰人形であった。

 

 

可哀想(かわいそう)可哀想(かわいそう)。黒髪のあの娘。今頃は死体の饗宴の最中、直ぐにあの娘も仲間入りね」

 

 

 ただ、嘲笑う。目で見ないからこそ、他者の心情を忖度(そんたく)する事無く。ただ盲目的に、他人の傷を抉るだけ。

 だから、人はコレを赦さない。存在を認める訳にはいかない。もし、それを赦せば────自らの弱さを、敗北を認める事となり。

 

 

(全くだな、完全にしてやられた。あんなに無様に負けるたァ、流石に参るぜ)

 

 

 だからこそ、嚆矢は肯定する。ありのままに、あるがままを。何故ならば、彼は『機械』である。対峙する女と同じく、正反対に笑い掛けるように嘆く。

 

 

(だが、まだ生きてる。甘いとしか言いようがねェな。キチンと止めを刺さねェと、足元掬われるって事を教えてやらねェと)

「…………」

 

 

 意気を新たにしながら、そんな事を宣う。『人間じみた機械』と『機械となった人間』、それが『正体非在の怪物(ザーバウォッカ)』と呼ばれた『掃除機(スイーパー)』である。

 

 

「……詰まらない。貴方、詰まらないわ。からかい甲斐が無いんだもの、あの御方は貴方の何が良いんだか」

(そいつは手厳しい。ところで、名前くらい聞くのはありかな?)

 

 

 嘲りを消して今度こそ嘆いた女に次いで、嘆きを消した男の嘲りに。『詰まらない』、と。間違いなく、本心から────娘は、嗚咽するように肩を揺らして振り返り……歩き出す。

 刹那、『時間』が進み出す。無限の現在(イマ)が終わる。時間の回廊が崩壊する。

 

 

「さぁ───機械のように冷静に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷厳に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷酷に、チク・タク。チク・タク────」

(ッ────?!)

 

 

 動き、軋み、崩壊する封鎖宇宙。最早、立っているかどうかも分からないのに、転んだ気がする程に。

 

 

「……マーテル三姉妹が末妹“テネブラルム”よ、白痴と暗愚の生け贄さん────にゃる・しゅたん、にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅめっしゅ、にゃる・しゅめっしゅ!」

 

 

 『テネブラルム』と名乗った女が、時間の波間に消える瞬間に口にした祝詞。或いは呪詛。それに、魂が震える。余りの神々しさに、余りの禍々しさに。若しくは、己だけではなく────どこか、違う次元から覗いていた『魔王』すらもが。

 

 

《────“時間人間(■■■■■■)”め》

 

 

 同時に、()()()()()()()()()()()────……

 

 

………………

…………

……

 

 

 今度こそ、意識が現実に覚醒する。まず、最初に感じたのは饐えた空気。次いで、湿ったコンクリートと────コンクリートにこびり着いた、赤黒い染み。鉄臭い臭気の、酷く……芳しい香りが。

 胸の傷に痛みはない、引き攣れたような感覚を残すのみ。すんでのところで命じた、ショゴスの毒素排出と傷跡の補填が間に合ったようだ。

 

 

「おや……目が覚めたかね、対馬嚆矢(つしま こうじ)君?」

 

 

 声が、頭上から。(すがめ)に見遣れば、映る雪駄。甚平、扇子──笑みの張り付いたスキンヘッドの男。

 

 

「……鷹尾(たかお)蔵人(くろうど)

「おう、覚えていてくれたかい? 嬉しい事だ、血気に溢れた若武者の記憶に残るとはな? ハッハッハ……!」

 

 

 ぱしん、と小気味良い音を立てて。己のスキンヘッドを叩きながら、蔵人は見下すようにほくそ笑む。

 それを無感動に眺めながら。状況把握、現在地点……敵地。現在時刻……午後六時予想。存在理由……鷹尾 蔵人(たかお くろうど)による略取。及び、駆動鎧(ラージウェポン)ののしかかりによる拘束。

 

 

 身体状態……痺れはあるも、行動制限となる程にあらず。だが、駆動鎧は動かせない。しかして、行動目的に変更無し────佐天涙子の奪還!

 

 

「さてさて、疑問に思っているだろう? 何故、私が生きているのか───」

「どうでもいい。涙子ちゃんは何処だ」

「ふぅむ、第一声がそれかい? いやはや、矢張面白いなぁ、貴様は」

 

 

 クツクツと、喉奥で蛙のように笑いながら。顎でしゃくってみせた、その先に────居た。五・六十もの衆人環視、否、衆()()環視の中、手術台に……否、解剖台に乗せられた涙子が。

 

 

 失神か薬物か、はたまた魔術かは分からないが、気を失している様子で。そんな彼女のすぐ近くに、長身の姿がある。黒く変色した返り血に染まった白衣に袖を通し……

 

 

「さて……観客も揃った。では、今宵の宴を開くとしような、親愛なる信徒諸君?」

 

 

 以前の爽やかさの欠片もない、狂気に満ちた嘲笑を浮かべた────西之 湊(にしの みなと)医師の姿がある。不浄その物が凝り固まったような、黒い棘……グラーキの棘であるメスを手にした医者が。亡者共の阿鼻叫喚の中、神を崇める司祭のように鷹揚に振る舞う。

 

 

「記念すべき、十二体目────我が教団の審判の使徒が揃うのだ! 崇めよ、奉れ! グラーキを!」

 

 

 その、空いた左手が虚空より一冊の書物を掴み取る。バサバサと、閉ざされた空間である筈の此処で、何処からか吹き込んできた風に乗る紙片が集う。『ⅩⅠ』と銘打たれた表紙の……“グラーキ黙示録(グラーキ=アポカリプス)”へと。

 

 

 周囲の亡者、その中でも異様な雰囲気の九体も其々に書を手にする。右から『Ⅲ』、『Ⅳ』と……『Ⅹ』まで。生きたままの男女、下卑た雰囲気の背徳と悪徳の……言わば邪教の宣教師か。

 そして、気付く。否、恐らくは、わざと意識していなかったのだ。()()()()()に気付いては、正気が保てないと本能の方が先に気付いて。

 

 

「見よ、対馬君。神々しいとは思わんかね? あれが、我らの神だ。死を踏み越える奇跡をもたらすモノだ。末期癌だった私、死に逝くだけの私に、永らえる術を与えてくれた……神だ!」

「ッ────、ッ────?!!」

 

 

 そんな『モノ』を恍惚と見詰めて、『Ⅱ』の黙示録を携えた槍使いは嘆息する。まるで、日曜礼拝の讃美歌に耳を傾けるように。亡者共の唸り、呻き、悲鳴を聞きながら。

 まさに衝撃そのものだ、涙が知らず流れた。感動と言えば感動だろう、恐怖や絶望、自殺衝動であれども感情が動かされたのであれば。

 

 

「武錬など、何の意味もなかった。私は私の身体に殺されようとしていた。信じて鍛えた自分自身に負けようとしていた、私を救ってくださったのだ!」

「あ────、あ……!」

 

 

 見た事を後悔する。一生、夢に見るだろう。死の安寧に微睡むその日まで、ずっと。

 蛞蝓(ナメクジ)。見た目は、正に。しかし、林立する黒い棘がまるで、雲丹(ウニ)のような。額に当たる部分らしき場所から三本の蝸牛(カタツムリ)じみた目を伸ばし、八目鰻(ヤツメウナギ)のような円形の口吻を備えた……数フィートもの怪物が。

 

 

 その眼差しと、心底からの悪意と見詰め合ったが故に。落涙に吐き気と……失禁だけは辛うじて堪えて、その全てを。

 無理だ、膝を折るしかない。自らの強さなど、あんなものの前には無意味だ。無理だ、屈するしかない。自らの存在理由など、あんなものの前には消散する以外に無い。

 

 

「あれこそが、我らが神────“屍毒神(グラーキ)”だ!」

 

 

 同じく、滂沱の涙を流しながら。蔵人は叫ぶ。その名を、誇るように。本人すら、本心からそうだとは思ってはいまい。しかし、そうでなくてはいけないのだ。

 

 

「ッ──あ、れが……」

 

 

 目を逸らす事無く、それを睨み付ける。()()()()()()()()()

 ()()()()()

 意志を、新たに。戦意を立て直す。そうだ、倒さないと。対馬嚆矢は、佐天涙子を救うのが存在理由なのだから。

 

 

──ならば、戦える。立ち向かえる。それが、例え人の認識を越える存在『旧支配者(グレート=オールド=ワン)』でも。俺は、『女の子に酷い事はしない』し、『させない』のが、第一目的。

 

 

 だが、膝は立たない。何故なら、重量一トン近い駆動鎧(ラージウェポン)に押さえ付けられているから。それが、それだけが、悔しい。

 

 

「無駄だよ、対馬君。駆動鎧(ラージウェポン)は現代における最強兵器。如何に君が能力者でも……無理なものは、無理だ」

 

 

 『無理だ』と、蔵人が笑う。黙示録から、黒い十文字槍を抜き出しながら。刹那、背後に揺らめく混沌がある。囁くように、嘲笑うように。

 

 

呵呵(かっか)……さて、そろそろ(わらわ)の出番かのう?》

(巫山戯ろ、クソッタレが……テメェ、今まで何してやがった!)

 

 

 背後に現れた“悪心影(あくしんかげ)”に、悪態を吐く。今まで何をしていたのか、と吐き捨てて。手元に召喚した『圧し斬り長谷部』、その重みに、心地好さすら感じて。

 

 

()(わらわ)を頼るでないわ。己すらも頼りとせぬなど、こちらからも頼りに出来ぬと言うものよ》

 

 

 悪態に、悪態が返る。当たり前だ、嚆矢と市媛の関係などはそんなもの。長谷部を押さえ付けられたままに引き抜き、その嫌味を聞きながら。

 『均衡崩壊(バランスブレイカー)』なる能力の影を、背後に抱えて。

 

 

『ギッ……アギャアァァァァ?!』

 

 

 瞬間、押さえ付けていた駆動鎧(ラージウェポン)が────炎上する。同時に凍てつく。温度の均衡の崩壊により。暴れ、拘束を解いた。嚆矢を逃がした。そんな、駆動鎧(ラージウェポン)に。

 

 

『く、ハッ────あ、た、隊長……?』

「哀れ……せめて、我らが神の身許に」

 

 

 貫徹した十文字槍が引き抜かれて、蔵人は刺殺した駆動鎧(ラージウェポン)から一歩離れて。対峙したまま、次の局面を迎えた。

 グラーキの棘に沁みる屍毒に、死体が甦る。その駆動鎧に、銀の筒を携えたミ=ゴが潜り込む。嘗てのように、また能力持ちの駆動鎧に。

 

 

「────させるかよ」

「フハッ、種の割れた手品などは通用せぬか。しかし、お若いの。まさか()()()()とは恐れ入るのぉ、()()()!」

 

 

 なるよりも、早く。正座の状態から跳び上がった嚆矢の長谷部により、駆動鎧はミ=ゴごと抜き打ちに両断された。蔵人はしかし、残念がる様子もなく。寧ろ、にたりと笑う。

 

 

 そして────

 

 

「ハッハッハ、聞かれなかったので自ら言おうか。何故、私が生きていたのか……それがこれだ」

 

 

 槍使いは、祈りを捧ぐ。それはまるで、聖者のように。“グラーキ黙示録(グラーキ=アポカリプス)”を、掲げて。

 

 

飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)─────“迷宮蜘蛛(アイホート)”!」

 

 

 足下から、カサカサと。影から涌き出るような、青白い……球形の蜘蛛のような形の異形。掌くらいのサイズで、群を成して。

 

 

《成る程のう、“迷宮蜘蛛(あいほーと)”を取り込んで……贄に雛を植えて、同一の存在としたか。中々に出来るのう、グラーキの信徒め》

「ハッハッハ、先に言われてしまったなぁ……簡単に言ってくれたが、大変だったのだぞ? まあ……」

 

 

 “悪心影(あくしんかげ)”の得心の呟き。それに、()()()蔵人が笑う。嘲笑を浮かべる。

 

 

「お陰で、()()()()()()()()()も手に入ったがな?」

 

 

 そして、槍を頭上で回す蔵人。その動きに呼応するように、アイホートの雛の群が渦を巻く。

 

 

「────迷宮に出口は無し(There are no exits in the maze)迷宮に道標の糸は無し(There is no Ariadne in the maze)

 

 

 槍使いは渦の中で、厳かに聖句を唱える。雛達は応えて蔵人を包み、形を変え─────

 

 

アイホートの迷宮に(Without the other ones which are death)死の他無し(in a labyrinth in Eihort)!」

「……マジかよ」

 

 

 その身を、鈍い輝きを放つ青白い甲冑に身を包む────禍々しき奇形の蜘蛛を思わせる、中世ヨーロッパの槍騎士(ランサー)と換えた。

 

 

《マジも大マジ、糞真面目よ。クトゥルフ神話とは、()()()()()()()なのだからな。さて、此方の準備は万端だ……そちらも良いかな?》

 

 

 身の丈二メートル半は有りそうな巨体。その圧倒的な存在感、禍々しさ。同じサイズの筈の駆動鎧が、縮んで見える程に。もしも先にグラーキを見て、心を凍らせていなければ……今頃、この怪物により狂っていたかもしれない。

 だが、だからなんだ。対馬嚆矢の行動目的は、ただ一つ。それは既に、再認識した。

 

 

「悪ィけど、眼中ねェよ」

 

 

 解剖台の上に寝かされた、今にも邪神の饗宴に()べられんとしている娘を見遣って。

 

 

《ク、クク……アイホートの苗床の末路は、成長した雛に肉体を食い破られての死。愉しみだ、ああ、愉しみだ!》

「…………」

 

 

 虚空より感じる、もう一体の『魔王』の気配。蔑み、彼女と嚆矢の死を待ち望む悪辣な虎口を。

 

 

「征くぞ、ショゴス……“悪心影(あくしんかげ)”────!」

『てけり・り! てけり・り!』

呵呵(かっか)────心得たり!》

 

 

 被服にショゴスを融かし、漆黒の帷子(かたびら)を纏うように。鈍く煌めく長谷部を構え直す。

 武者正調の上段、“合撃(ガッシ)”の構えに。

 

 

《ハッハ────では、改めて。宝蔵院流(ホウゾウインリュウ)免許、鷹尾 蔵人(たかお くろうど)!》

 

 

 悍ましき槍騎士が構える。右足を前に出した宝蔵院流の基本、“四股(シコ)”の構えに。伴われた名乗り、それに。

 

 

「……柳生新“影”流兵法(ヤギュウシン“カゲ”リュウヒョウホウ)対馬 嚆矢(つしま こうじ)

《ほゥ、そこにアクセントを置くと言う事は……成る程、西国柳生……福岡派かい? 成る程、それ故に“圧し斬り長谷部”か。忠義な事よ!》

 

 

 応えたのは、事実。五年間、義父(ちちおや)から血反吐を吐かされながら鍛えられた剣派を。得心したらしく、槍騎士は十文字の溝穴(スリット)から紫の八つの複眼が覗く兜に包まれた表情を、恐らくは歓喜に歪ませたのだろう。

 互いに、武芸者。得物()を突き合わせたのならば、先に勝利()()()方が真の『武』に他ならない。

 

 

「《────参る!」》

 

 

 その誇りに掛けて、二人の武芸者は……全く同時に血斗(ケット)の幕を斬って捨てた────!

 

 

………………

…………

……

 

 

 稲光が閃くかのように、まるで数メートルも()()()かのように。さながら火打石を打ち鳴らした火花の如く、漆黒の十文字槍が迫る。正確に眉間を狙った、宝蔵院の“稲妻(イナヅマ)”が。

 以前とは比べ物にもならない速度、加えて削岩機(ドリル)を思わせる()()()()。間違いなく以前の彼よりも身体能力は上であり、駆動鎧(ラージウェポン)では再現できなかったのだろう精密な『技の冴え』を発揮している。そんな()()()()を受けられたのは、僥倖に他ならない。

 

 

 間を開けず、穂先両端の鎌により刀を弾かれた。旋風を思わせる速さの捻りで敵刃を弾く“虎乱(コラン)”だ、そして────柄が縮んで見えた程の速さで引き戻された十文字槍の刺突を遮二無二、逆手に持ち変えて突き下ろした長谷部の刃に左手を沿える事で受け止める事に成功した。

 だが、その剛力たるや。合気の心得道理に威勢を受け流していなければ、今頃は肩から腕が千切れ飛んでいたかもしれない。無論そうなればその勢いのまま、身体は十文字槍により上半身と下半身が泣き別れている事だろう。

 

 

《ハッハ────よくよく芸達者な! 機転の利く男よ!》

「野郎に誉められても、嬉しかねェンだ────よォッ!」

《ぬゥ?!》

 

 

 仕返しとばかりに、受けたままだった槍を跳ね上げる。一瞬だけ火花を散らし、敵の()()()()()である得物(十文字槍)の真下に踏み込みながら────刷り上げるように、新影流“必勝(ヒッショウ)”を振るう。

 その刃は精密に、会心の手応えをもって槍騎士の籠手を打ち────

 

 

《……()()()()()()?》

 

 

 その青白い装甲に弾き返され、火花こそ派手に散らしたが……傷跡一つしか残せない。まるで、ダメージらしいダメージは与えられていない。

 それどころか、必死で付けた傷跡すらも既に癒え始めている。傷跡は、蠢く無数の白い座頭虫(ザトウムシ)により塞がれていく。

 

 

《ふぅむ、物理的な剛性に加えて魔術的な耐性(レジスト)、治癒能力か……参ったのう、幾ら(わらわ)でもこれではな。呵呵呵呵(かっかっかっか)!》

「巫山戯んな、テメェなんて頼りにしてねェ────俺だけで十分だ、黙って長谷部の中にでもすっこンでやがれ!」

《おお、怖や怖や。男の悋気など、見苦しいだけじゃて》

 

 

 叫び、退けたのは、意思を割いている暇すら隙となるから。事実、僅かに稼いだ距離は……寧ろ、此方の動向に気付いた亡者達に取り囲まれる余地となっている。

 体内に蠢く邪悪なる菌類頭(ミ=ゴ)の操るままの、十七体の生ける屍(リビングデッド)。その一体一体が、能力者だ。まさか、そんなに大量の大能力者(レベル4)がいるとは思えないし、思いたくもないが……前回相手にした二体の例もある。油断など、出来る筈もない。

 

 

 そんな思考の合間にも、様子見など無く生ける屍どもは前後左右から襲い掛かってくる。近いモノは噛み付きや引っ掻き、遠距離のモノは『念動力(テレキネシス)』や『発火能力(パイロキネシス)』と言った能力で。

 

 

柳川(ヤギュウ)────」

 

 

 その内、先ずは背後。電撃を纏いながら噛み付こうとしてきた少年の屍の頸を、右回りに振り向き様に()ねる。黒くどろついた暗赤色がボトボトと滴り、倒れ伏す。

 更に、左の青年。組み付こうとした両腕を、右から返す刃の擦り上げで斬り飛ばしつつ袈裟懸けに。

 

新影流(シンカゲリュウ)────兵法(ヒョウホウ)

 

 

 更に、右下段八相からの擦り上げで前方から投げ付けられた火炎を断つ。その流れで、上段からの一太刀を左の中年男性に叩き込み唐竹割りにしつつ飛ばされてきた岩を砕く。。

 そして見もせず、左の老人の鳩尾を貫いて抉り────

 

 

「“八重垣(ヤエガキ)”」

 

 

 『その時々で最も早く動いている敵を斬り、活路を拓く』理念による新影流の剣技の一つにて。起き上がってきた、頸無しでも蠢く屍の胴体に潜むミ=ゴを銀筒ごと斬り殺した。

 

 

《しかし、死体は斬ろうと死にはせぬ》

「ハッ……死なぬなら────」

()()してしまえ、ホトトギス!》

 

 

 更に、斬られても尚蠢いている屍が────『均衡崩壊(バランスブレイカー)』による、熱平衡の崩壊に伴う業火に熱された長谷部に斬られた事で燃え尽きる。こうなれば、不死でも何でも関係はあるまい。

 まぁ、嚆矢の腕の方も深刻な凍傷に見舞われているが。もしもショゴスが居なければ、もう腐り落ちていてもおかしくはない。

 

 

呵呵(かっか)、それにしてもまだまだ層は厚いし……死体よりも余程面倒なモノも十体、加えて寝ぼけておるとは言え、旧支配者(ぐれーと・おーるど・わん)か。これは詰んだの、投了(ぎぶあっぷ)か?》

「………………」

 

 

 言われるまでもなく、死体はまだ蠢いている。先程と全く変わらず、ゆるりと包囲を狭めてきている。先は長い。今の技も多用できない。だと言うのに、余り時間は無いし余力も無い。八方塞がりとはこの事か。

 

 

《妬けるなぁ、全く。私一人を相手にしてはくれぬのかい?!》

 

 

 わざとらしく笑いながら、屍を押し退けて槍騎士が歩み出る。押し退けた腕には、もはや痕すら見受けられない。

 同時に、四方八方から襲い来た蛇と触手。それを幾つも斬り、何とか距離を稼いで背後に壁を。

 

 

「そ~そ~。邪魔しないでよぉ、お兄さん?」

 

 

 更に、その槍騎士の背後に続く姿。若い娘、『Ⅵ』の表紙の黙示録を携えた……肥満の長身を車椅子に窮屈そうに押し込めた、無数の蛇の髪を備えた女。

 

 

「ひひ、妹さん可愛いねぇ……同志に引きずり込んだら、楽しみだぜぇ」

 

 

 ニタニタ笑う下半身が長大な触手の塊と成り代わっている矮身痩躯の、『Ⅹ』の黙示録を携えた雀斑(ソバカス)顔の中年男。その二人が並び立つ。

 直ぐに分かる。槍騎士程ではないが、この二人もまた『融合』を果たしている。それ程に、深い狂気と瘴気。他の黙示録の持ち主共は気にしていないのか、或いは手を下すまでもないと多寡を括っているのか。ただ、儀式を注視している。

 

 

《“蛇の髪(ばいあすてぃす)”に“触手塊(むながらー)”か……下級とは言え、面倒な》

「どのくらいの面倒さだ?」

浅井・朝倉(あざい・あさくら)連合軍くらいかのう》

 

 

 呆れたように思念を送ってきた“悪心影(あくしんかげ)”、そして。

 

 

《さて、では最後に聞こうかのう。嚆矢よ────勝利の為に、我が『剱冑(ツルギ)』を、()()()?》

「………………」

 

 

 問いは、最後通牒。答えは、致命的。恐らくはあの鎧だけが。あの“第六元魔王”だけが、この状況を打破できる。あの“悪心影(あくしんかげ)”が、アレを勧めるのだから。

 ならばこそ、答えは只一つ。対馬嚆矢の存在目的は、只一つだ。先程も、確認した通りに。

 

 

「出来るのか? あの魔王、俺もお前も嫌いみたいだけどよ?」

《無論。あの装甲は元々、(わらわ)のモノよ。あのまやかしを封じる為に、被せただけじゃからな》

 

 

 何でもなさげに、“這い寄る混沌”の一面が嘲笑う。虚空よりの眼差しが、殺意と共に嘲弄する。それは、これより死すべき敵に向けてか。或いは────罠に足を踏み入れた、愚かな獲物に向けてか。

 背後から、気付かれる事無く。敵にも、味方にも、誰にも。悪心の影とまやかしの魔王はただ、燃え盛る三つの瞳と凍てつく六つの眼差しで嘲笑して。

 

 

「……じゃあ、先に断っとく。()()()()()()()()()()()()()

《《……なんだと?》》

 

 

 振り向きもせぬまま、まるで見ていたかのような嚆矢の宣言に嘲りを消す。余りに意外だったのか、どちらも目を(まる)く見開いて。

 

 

『逃げるな、迷うな。信じろ、科学も魔法も……所詮は人外。生まれ持つモノでもない、生後に与えられるモノでもない。本当の人間の力は……お前が選び取る、“生き方”だ』

 

 

 思い返した、義父(ちちおや)の言葉。それは、『魔剣伝授』の際の言葉であり……また。

 

 

「対馬嚆矢は、対馬嚆矢だ。“第六天魔王(おまえ)”にも“第六元魔王(あいつ)”にも、敗けやしねェ」

《《………………》》

 

 

 片方は、呆気に。もう片方は明確な怒気に。口を開く事もなく、ただ息を潜めて。

 

 

《愚か、だぞ。対馬君────自ら生存の可能性を捨てるとは、ね》

「ハッ、阿呆かよ。莫迦じゃあるまいし……テメェらの神様も含めて、こんな邪神を信じるか」

 

 

 ペッ、と唾を吐き捨てて長谷部を構え直す。この場に集う全員を嘲笑うかのように口角を吊り上げて笑いながら、再び“合撃(ガッシ)”の構えを。

 

 

「俺が信じるのは────俺が鍛え上げてきた練武のみだ……!」

「生意気ねぇ、貴方ぁ」

「ムカつくな、ねぇ、蔵人さ──」

 

 

 蛇髪の女と触手足の男が、嘲笑いながら槍騎士に語り掛けて……凍り付く。

 

 

《小僧が……よくぞホザイた! では貴様が生きている内に両手両足を削ぎ落とし、あの小娘が自らグラーキの棘を望むまで犯し尽くしてやろうぞ!!》

 

 

 激昂し、槍騎士は十文字槍を構えて足場を踏み砕きながら肉薄した。足首を狙い、二度三度と繰り出される槍“芝搦(シバガラミ)”。

 もしも足をヤられれば、数に圧殺される。槍騎士の述べた通りとなろう。全くもってゴメンである。

 

 

 刹那、槍が上段に抉り込まれる。読み違えたのだ、今までのモノは“芝搦(シバガラミ)”ではなく“五月雨(サミダレ)”。

 

 

 即ち、躱しようの無い技であり────

 

 

()柳生新影流兵法────』

 

 

 繰り出された槍を躱す事無く。命中の瞬間まで、しっかと見据えて。

 

 

「“肋一寸(アバライッスン)”」

《ガ────》

 

 

 最早、十文字槍を見慣れてしまったから。脅威ではあれ、恐怖など無く。

 『衣服のみ』を斬らせ、繰り出された平刺突(ひらづき)。その一撃は、装甲を破る事は能わぬが……槍騎士の兜の覗穴(スリット)の右側に抉り込まれていた。勿論、そこに在るだろう眼球を潰して。

 

 

《───────────グァァァァァァァがァァァァァァ!??!》

「く、蔵人さん!?」

「や、やれ……今すぐにあの餓鬼を殺せ、ゾンビども!」

 

 

 さしもの槍騎士も、眼球を潰されてはのたうち回る他に無い。その有り様に慌てたか、蛇髪の女と触手足の男は、周りの屍どもに指令を下す。

 上位存在からの指令に、元々意思を消されている屍は当たり前ながら応える。一斉に、襲い掛かり────

 

 

「“永久は無い。永久は無い。汝ら、刹那の夢に揺蕩う者”」

 

 

 響いた声、饐えた地底の空気を揺らして。それに、屍どもは一斉に動きを止めて。

 

 

「な、何をしているの、貴方達!」

「早く、早く、殺せ────」

 

 

 狂乱する二体の怪物の金切り声、それすら……空しく聞いて。

 

 

「“我が声は安らぎ。我が声は安寧。今、この時、在るべき姿に還れ”」

 

 

 刹那、崩れ去る。緑色の粉となり、崩れ果てる。苦悶と苦痛に満たされた表情をその時だけ、感謝に染めながら。

 

 

「……やれやれ、兄貴に“水神クタアト(クタアト=アクアディンゲン)”を借りといて正解だったよ」

「……どうやって?」

 

 

 そして、思わず嚆矢は聞いた。目の前に降り立った翠銀色の髪の、黄衣の娘に向けて。

 それに、彼女は“水神クタアト(クタアト=アクアディンゲン)”の一(ページ)……“ナイハーゴの葬送歌”の頁を閉じて、うんざりした白金の瞳で。

 

 

「“黄衣の王(キング=イン・イエロー)”の『黄衣の印(イエロー=サイン)』さ……ボクは、ボクの銃の銃眼(アイアンサイト)に捉えた獲物は絶対に逃さない。ただ、それだけさ。」

 

 

 セラは、溜め息混じりにそれだけ応えたのだ うっすらと、瞼に光を感じた。酷く疲れて眠った翌日のような、起きたくなくなる倦怠感の中で。

 僅かに目を開いた涙子、その瞳に映る────

 

 

「くっ、『ナイハーゴの葬送歌』だと……魔導師の仲間が居るだなんて聞いてないぞ!」

「っ…………」

 

 

 緑色の粉塵が舞い散る地下貯水施設の中で黒い棘のようなメスを手にしたまま狼狽する、見覚えのある青年。僅かに間を置いて、その男が自らを担当した医師だと気付いて。

 

 

「私の信徒が全て緑の崩壊を……『グラーキ教団』が……クソッ、また一から作り直しだ!」

「…………?」

 

 

 周りでは妙な本を持つ数人が、その医師に何かを狂乱しながら『どうなっているんだ』とか『話が違う』だのと訴えているが……医師は、全く受け合わず。

 神経質そうに喚くだけの、見覚えのある筈の医師を見て、涙子は不思議そうに頸を傾げる。

 

 

(……()()()()

 

 

 その瞬間、医師が彼女を見遣る。色濃い狂気にどろついた、腐った魚のような瞳で。逆手にメスを握り直した右手を振り上げて、後は降り下ろすのみの状態に構えた。

 

 

「先ずは、君からだ。雑な施術になってしまって私好みではないが……さぁ、グラーキの恩寵を授けよう!」

「あ……」

 

 

 不浄の猛毒に塗れた鋭利な刃先が、少女の柔肌に迫り────掌ごと、弾け飛ぶ。よく見えなかったが、何か()()のようなものに。

 今度こそ、他の本の持ち主達はその場を逃げ出す。口々に『付き合っていられるか』と吐き捨てながら。

 

 

「────動くな(Freeze)糞ッタレ(Bull shit)!」

 

 

 何時の間に現れたのか。早朝に木々をすり抜けるさまを幻視する程に、爽やかな風と共に。

 翻る襤褸の黄衣が、清廉な朝の陽射しのように。靡く翠銀色の髪が、優しく鮮やかな白い虹のような。教科書に載る前時代に描かれた宗教画の、『()()後光(ハイロゥ)』のような。

 

 

「……天…………使……?」

 

 

 その背中に二対四枚の、透明な昆虫の(ハネ)のようなモノを見て。そこから、神聖なまでの光を感じながら、涙子は霞んだ意識の中でポツリと口を開いた。

 

 

………………

…………

……

 

 

「兎に角、仕事なんだからヤるだけさ────行く」

 

 

 この場所を突き止めた理由を説明された後、(ろく)な説明も無く立っていたセラ。だが、涙子が危ういと見るや、嚆矢は目の前から黄衣の魔導師を見失う。

 

 

「はぁ? って、速ッ!?」

 

 

 今はもう、解剖台の祭壇に。西之医師の右腕を『H&K USP Match』の一発『ハスターの爪』で吹き飛ばして、残る魔書の持ち主どもを狂乱の坩堝に叩き込んで。

 風の速さの移動『風に乗りて歩む死(イタクァ=ザ・ウェンディゴ)』、今更ながら信じられない速さだった。

 

 

「何よ、コレ?! 話が違うじゃない!」

「ど、どうするんです、蔵人さん!」

 

 

 蛇髪の女と触手足の男が、片膝を突き右の顔面を押さえて(うずくま)る槍騎士に問い掛ける。

 その装甲の内側からは今もまだ此方を見据える七つの紫色の、憤怒に満たされた炯々たる鋭い眼光。低く唸る毒虫のような、怨嗟の響き。殺意が形をなしたような、その邪悪。

 

 

「……死にたくなければ失せろ。黙示録を置いて逃げるなら、俺は追わない」

「ひっ、く……」

「ぐう……!」

 

 

 上段に長谷部を構えたまま、告げる。精一杯の虚勢を張りながら、余裕じみた態度で出口を顎でしゃくって。

 形勢が傾いたと見るや、敵は瞬く間に意気消沈した。そんなものだろう、自分の研鑽ではなく、他者から与えられたモノで粋がる小者など。

 

 

 ちら、と己の魔導書を一瞥した。一瞬、天秤に掛けたのだ。自らの命と、『魔導書を置いて逃げる事』を考えたのだろう。

 

 

──そして無論、『見逃す』などは方便だ。背中を見せれば、殺す。殺さなければいけない。この作戦の報酬は『グラーキ黙示録全巻』、そして魔導書とは自ら持ち主を選ぶモノ。現状、()()()()()()()()()が、その持ち主。

 故に、()()()()()()()()()()

 

 

 一瞬、苦味に苦笑する。『柳生新影流を遣って人を殺す』、己の因果に。思い出したのは、紫煙と灼けた金属の匂いを染み付かせた義父(ちちおや)の背中。

 

 

『何、“魔剣”を教えろ? 阿呆か、お前は……最低でも十年は早ェ』

 

 

 当たり前のように、金槌染みた拳骨が返る。冗談ではなく、本当に目から火花が出るように硬い拳だった。今にして思えばソレは、コレを予期してのようにも。

 

 

『お前は先ず、刀を扱えるようになれ。そうだな……新影流が良いだろう。あ? 何でか、だと? 決まってんだろうが、あの流派の真髄はな────』

 

 

 二度目の拳骨は、何で殴られたのかは分からなかった。今度は、喋っている途中だったので舌を噛んだ。凄く痛かった、それを今も思い出す。

 

 

《“活人刀(カツニントウ)”気取りか、新影流の小僧。()()()風情が、誰かの命を救おうなどと! 浅はかにも程があるわ!》

「ッ…………!」

 

 

──結局、“殺人刀(セツニントウ)”にしか留まらなかった俺を叱っているのではなかろうか、と。

 

 

 地の底から響くような槍騎士の声に、刹那、認識を取り戻す。呆けている場合ではない。未だ、窮地なのは此方の方。

 

 

《貴様らは向こうに行け。この餓鬼は、私が殺す》

「は、はい!」

「お気をつけて」

 

 

 迷いを覚えた配下の二人を祭壇に向かわせ、立ち上がる巨躯の騎士に、再度注意を。あの二人は見逃すしかない。無理に斬りかかれば、先にあの槍が此方を貫く。その槍も、見切りさえしくじらねば活路はある。無論、斬りかかりながらなどは不可能な話。

 三度、上段構えで迎え撃つ。相も変わらぬ“合撃(ガッシ)”打ちの構え。

 

 

「簡単に言ってくれるな、舐められたもんだ。じゃあ此方はテメェの残りの目ン玉七つ、後、涙子ちゃんに向けた暴言分の金玉二つ。合計十個、粉砕してから殺してやるぜ」

《出来るものならやってみろ、莫迦の一つ覚えの“合撃(ガッシ)”で出来るならな……ならば、此方はこうしよう》

 

 

 槍騎士が十文字槍を左手に、石打を地面に突き立てた。基本の“四股(シコ)”ではない、見た事の無い構え。腐っても免許皆伝か、引き出しの多さに言葉にしないまま反吐を吐く。

 右足が浮いた。まるで、ポールダンスの踊り子じみた格好。戦には不釣り合いな、その構え。一体、何を狙っているのか……全く解らない。

 

 

 解るのは────()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言う事のみであり。

 

 

宝蔵院流(ホウゾウインリュウ)────“(トモエ)”!》

「なッ!?」

 

 

 そんな当たり前の行動しか取れないからこそ、故に敵の術中に嵌まる。鍛えられた武人であればある程に。未だ、至らぬ若輩であればある程に。

 グルリと還った石打に巻き上げられたコンクリートの欠片が、(うずたか)く積もる緑色の粉末が、顔面にぶつけられた。

 

 

(目潰し、か!)

 

 

 顔を振って回避を試みるが、この散弾を前にしては無意味が過ぎる。臍を噛むも、余りに遅い。()()()()だ、この技は。

 上げられた足は陽動(フェイント)、全ては槍から意識を逸らす為の。

 

 

 緑色の粉、先程まで屍であった粉とコンクリート片の混じり合ったものが視界を奪う。乾燥した粉末が眼球に張り付いて水分を奪い、更にコンクリ片が鋭敏な眼球の痛覚を抉る。目を擦ろうとする本能を、辛うじて理性で留めて。

 しかし止めようのない人体の反射が、異物を洗おうと涙を流してしまう。よって視界は、更なる混迷に。

 

 

《仕舞いとしようか────見る事は出来まい、故にその身でとくと味わえ。“宝蔵院の槍、槍の宝蔵院”……その真髄を!》

 

 

 構える気配がする。或いは、殺気をそう感じたか。何にせよ、()()()()()()()()()()受けるしかない。

 その結果は、火を見るより明らかだ。では、どうやって乗り切るか。対馬嚆矢は、()()()()()()()

 

 

《死ねェェェェェェェいッッッ!》

 

 

 裂帛の気合いと共に、その死が。猛毒の槍が、真っ直ぐに突き出された───────

 

 

………………

…………

……

 

 

 気絶しているセーラー服の女学生を背後に、自らが巻き起こした風が巻き上げた緑色の灰を払う。異星生物の死骸の燃え滓だ、穢らわしくて堪らない。

 しかし、それでも。目の前に邪悪が有るのであれば────討つ。それが、彼女の……『邪悪を討つ力としてに転写された』“セラエノ断章(セラエノ=フラグメンツ)”の存在する理由なのだから。

 

 

「……成る程、そうか。君が、『彼女』が言っていた『米国協同協会(ウィルマース=ファウンデーション)』か……」

 

 

 右腕を喪った医師が、黒い血をボト、ボトと落としながら。ニタニタと、癇に障る笑顔のままで。

 何でもないとばかりに、左手に新たな棘を構えて。狂信(トリップ)だけでは土台、説明がつかない。では、それは。

 

 

「そうか。あんたも、もう化け物か」

「クッククク……確かに。確かに、化け物さ」

 

 

 答えた刹那──繰り出された、竜巻を纏うセラの後ろ回し蹴り(ローリングソバット)により、()()()()()()()()()

 ニタニタと、癇に障る笑顔のままで。そう、コレもまた、怪物と化したモノ。

 

 

「おい、助けに……が、おい、なんだコレ……グラーキ黙示録が、アガ!?」

「くそ、くそっ! なん、コレ……グァァァァッ!!」

 

 更に、二体。逃げなかった二体、蛇髪の女と触手足の男が合流する。同じく化け物、これで三体。何と面倒な話か。

 そんな化け物二人が、一斉に苦しみ出す。頭の蛇が、足の触手が、まだまともな人間だった部分を浸蝕していく。

 

 

莫迦どもが(Holy shit)……魔導書を裏切ろうとするからだ」

 

 

 そう、魔導書とは自ら持ち主を選ぶ。だから、()()()()()()()()()()。一度でも裏切ろうとしたのなら……最早、後は。

 

 

『グ、ルァァァァ……』

『オォォおォォォ……』

 

 

 全身を蛇に、触手に変えて。既に人格など残っていないだろう。瘴気そのもの、邪悪に染まって。ならば、応える他に在るまい。空いた左手で、フードを目深に被って。

 

 

風をもたらせ(The king in)────」

 

 

 ゆるりと、前に突き出した右手。そこに集う風、孕む紙片が形を為す。一冊の、黄色い表紙の魔導書を。それを開く。開いた頁を顔に宛てて、その呪文を起動する。

 

 

《────“黄衣の王(yellow)”!》

 

 

 青白い、狂笑を象った仮面。()()()()のそれを纏い、燃えるような白金の瞳が────煌めいて。

 

 

………………

…………

……

 

 

 屍毒にまみれた十文字槍が、獲物を貫く────前に、虚空に浮かぶ玉虫色の祭具『賢人バルザイの偃月刀』よりの防呪印に阻まれた。

 しかし、ただ阻まれた訳ではない。第一防呪印『竜頭の印(ドラゴンヘッド=サイン)』から第二防呪印『キシュの印』、最強の防御力を誇る第三防呪印『ヴーアの印』までを貫かれて漸く止まった程の突きだった。

 

 

『てけり・り! てけり・り!』

(分かってる。必ず、“迷宮蜘蛛(アイホート)”を喰わしてやるさ)

 

 

 ショゴスからの念話(テレパシー)に応えながら偃月刀を掴んで構え直せば、念話の応用でショゴスの視界が手に入る。これで、視力の問題はクリアした。

 体勢の崩れた槍騎士に向け、左の偃月刀は前方に水平で、右の長谷部は後方に低く地を擦るような下段八相に構える二刀流。

 

 

裏柳生新影流兵法(ウラヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)─────“水月刀(スイゲツトウ)”」

《ヌゥッ……!》

 

 

 槍騎士が構える。どうやら、もう()()()()()()()はバレているようだ。有名流派の弊害である。

 そして、それは敵の流派にも言える。今恐るべき宝蔵院の槍は、只一つ。

 

 

(“悪心影(あくしんかげ)”)

《……なんじゃ?》

 

 

 先程の決裂から、一度も口を開いていなかった“悪心影(あくしんかげ)”に思念を送る。それに返った、不貞腐れたような思念。別段、気にする事もなく。

 

 

(『物理的な剛性に加えて魔術的な耐性(レジスト)、治癒能力』……コレを破りゃあ、野郎も斬れるンだな?)

《……是非もあるまい。それを破れば、邪神だろうが聖人だろうが魔人だろうが────この世のモノである限り、滅せぬものの在るべきか》

(そうか。ならば、良し)

 

 

 嗤う。嚆矢は、悪辣に嗤う。漸く、槍騎士を討ち倒しうる光明を得て睨み合う。偃月刀の刀身に浮き上がっては沈んでいく、血涙を流す無数のショゴスの瞳と……槍騎士の七つの紫瞳が。

 

 

《………………》

「………………」

 

 

 呼吸すら最低限に。互いに────迎撃姿勢(カウンター)。即ち、膠着状態。

 この時点で、嚆矢の目論見は外された。相手の刺突を左で受け、右の擦り上げで敵を断つ“水月刀(スイゲツトウ)”は不発に終わる。

 

 

 じり、と歩を進める槍騎士。突きではなく、薙ぎ払いの距離まで。単発ではなく、そもそも連続攻撃である“惣追風(ソウマクリ)”を受ければ……最早、勝機はない。

 

 

《ふはっ、所詮は小童か……ここまで手を煩わせた事は、驚嘆に値するが。未熟、未熟未熟!》

 

 

 覗穴(スリット)の奥の七つの紫瞳が、憤怒から軽侮に。勝利を確信し、槍騎士は────

 

 

《武など、所詮はこの程度。奇跡など起こしはしない────そして、命を殺す事こそが武の本懐! 愚かなるかな、始祖胤栄! 柳生一門!》

「テメェ……」

 

 

 対敵の流派のみならず、あろう事か自らの流派の始祖を嘲弄した。武人にあり得てはならない、敬愛すべき先達への冒涜を。

 それに、嚆矢は見えもしない目を開く。鋭く睨み付けるように、槍騎士の居る方へと。

 

 

《奇蹟とは、こう言う事だ……さぁ、我が命、我が魂を捧げよう。喰らえ(アイ)喰らえ(アイ)────“迷宮蜘蛛(アイホート)”!》

「ッ!?」

 

 

 誓言と共に、槍騎士の生命力が昇華する。可視化する程に高純度な魔力が、空間を軋ませるかのよう。

 刹那、視界が歪む。正確には、認識が捻れた。ショゴスの視界に、蜃気楼の如き『揺らぎ』が生まれ────槍騎士の姿が、()()()()()()

 

 

《ハッハッハッハッハァ! どうだ、これが“迷宮蜘蛛(アイホート)”の能力! 人体に置ける迷宮、脳髄の認識を操る能力……即ち、『思考の迷宮を造り出す権能(ちから)』だ!》

「ッ……巫山戯やがって!」

 

 

 正に、切り札だ。どれが本物かまるで解らない。そもそも、見えているモノが誠か否かすら怪しい。

 何にせよ、この槍襖の中の()()を避ける事は叶わないし……また、二本の刀で全てを受ける事も不可能である。

 

 

《無駄無駄無駄ァ! この権能は、相手の認識を現実として貴様に反映する! お前が思い描く事は、全て()()()()()()()()事実となるのだ! この十の槍襖は貴様に十の傷を負わすが、私には私を斬った場合しか傷は与えられない!》

「チッ────糞チートが!!」

 

 

 つまり、()()()()()()()()()

 では、どうするか。どうすれば、この危地を乗り切れるか。思考を────()()させる。敵の権能に冒された、役立たずの自分自身を。

 

 

《さぁ、そろそろ時間だな……愚かな貴様の! 惨めな死の、時間だ!》

 

 

 虚空から、嘲笑が聞こえる。六次元の彼方より、此方を嘲笑う刃金の螻蛄(ケラ)が。

 背後の影は、ただ此方を見詰めている。期待するでもなく、侮蔑するでもなく。ただただ、三つの燃えるような視線を背中に感じるだけ。

 

 

《これぞ、宝蔵院流奥義(ホウゾウインリュウオウギ)────“十箇(ジュッコ)”!》

 

 

 そして、射程に踏み込まれた。撃ち出される槍は、さながら弾雨。否、砲雨だ。挽肉(ミンチ)すら残らなそうな程の。

 本来は『十連続に見せ掛けた初手必殺』の筈のその技は、これにより『十点射に見せ掛けた初手必殺』へ。避けようはない、詰みである。

 

 

 では、どうするか。必死に回転させた脳味噌で、得た『答え』は────

 

 

柳生新影流兵法(ヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)────」

 

 

 何だ───────

 

 

………………

…………

……

 

 

 颶風が駆け抜ける。緑色の灰を撒き散らしながら、“黄衣の王(キング=イン・イエロー)”が虚空を疾駆する。足元から迫り来る無数の触手と、天井から降り落ちてくる無数の蛇を躱しながら。

 しかし、それもここまで。網目のように絡み合う触手と蛇が、行く手と退路を塞ぐ。舌打ちを一つ、その背に負うセーラー服の女学生を確かめて。そして両腕に、弐挺拳銃を構える。

 

 

喰らえ(アイ)喰らえ(アイ)────“疫病風神(ロイガー)”、“疾病風神(ツァール)”!》

 

 

 その弐挺が、立て続けに火を吹く。二体の風の邪神の名を冠した拳銃から放たれた銃弾は、過たず────暴風と化して包囲を突き破る。

 

 

『ギャァアァァァァ!』

『ギィイイイイイィ!』

 

 

 そして、天地より絶叫が木霊する。地べたから触手を伸ばす“触手海神(ムナガラー)”と、天井に張り付きながら蛇の髪を伸ばす“毒蛇髪神(バイアスティス)”が。

 その銃弾に仕込まれた呪詛に、風の刃に触手と蛇を寸断されつつ。本来ならば、損傷した端から再生する筈のその二つだが────疫病疾病を媒介する“邪悪なる双子(ロイガー&ツァール)”はそれを許さない。

 

 

 何より、その銃弾は繰り返し二体を狙う。風の導引(ガイド)に従いながら、何度でも。

 

 

飢える(イア)飢える(イア)、“風の皇子(ハスター)”。飢える(イア)飢える(イア)牡牛()座第()四番()惑星()……》

 

 

 その翻弄する隙に、黄衣の王は魔導書と『コンテンダー=アンコール』を構える。装填されたのは、長銃用(ボトルネック)強装弾(マグナム)。その一発に、(ジュ)を籠める。

 

 

《────喰らえ(アイ)喰らえ(アイ)、“風王の爪牙(ハストゥール)”!》

 

 

 放たれた徹甲弾が、大気の戒めを破る。星を渡る風である“風の皇太子(ハスター)”の加護を受けて、音速の壁を貫き目にも留まらない。

 

 

『ア──────ギ!??』

 

 

 一閃を躱す事も、反応する事すら出来ずに“触手海神(ムナガラー)”が撃ち抜かれて────余りの速さに伴う衝撃波によって、細切れに粉砕された。無論、再生する暇もなく死滅した。

 更に、徹甲弾が()()()()()()。二度、三度と繰り返し。その向かう先は……勿論、逃げようと背を向けた“毒蛇髪神(バイアスティス)”。

 

 

《無駄だよ。“風王の爪牙(ハスターの爪)”は、狙った獲物は逃さない────黄衣の印(ボクの銃眼)に狙われた者には、平等な滅びがあるのみ》

 

 

 過たず、背から撃ち抜かれた“毒蛇髪神(バイアスティス)”は“触手海神(ムナガラー)”と同じ末路を。地面の緑色の灰の中へと、微塵となって消えた。

 後、残るは────

 

 

《お前だけだ、“悪逆涜神(イゴーロナク)”》

『クク……』

 

 

 右腕を再生させて頸無しのままに蠢く医師の、醜悪な姿を睨み付けた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 刹那、槍騎士の足が鈍る。それもその筈、それは仕方ない。どんなに訓練したとしても、突き付けられた剣先への恐れが消える筈もなく。ましてやつい先程、目を潰されたばかりならば。

 

 

「────“浮舟(ウキフネ)”」

 

 

 揺らす長谷部の剣先、まさに波間に浮かぶ船のように。その一瞬の隙に、偃月刀を────長谷部と融合させる。

 ショゴスの同化能力をもって、黒燿石の刀身に玉虫色の輝きを灯した長谷部を。

 

 

《ヌゥアァァァァァァァァァァァァ───────!!!!》

 

 

 それと、槍騎士が意気を取り戻したのは全くの同時。二人の武士は、全く同時に各々の得物を。

 十の槍襖とたった一つの刃、勝負にすらなる筈もない。待つのは、一方的な蹂躙であり。

 

 

「────……」

《────……》

 

 

 刃を地に突き立てて左手で鍔元を握り、右手で柄頭を持ち、その上に頭を置いた嚆矢。まるで、諦めたかのように。それに、槍騎士が目を見開く。衝撃と焦燥をもって。

 武芸者の戦いの真骨頂は、()()()()()()()()()()()()()()()。勝負は、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

柳生新影流兵法(ヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)────」

 

 

 しかし敵十体に対して、嚆矢はただ一撃。嚆矢は本物を見極めつつ槍を躱しながら、射たねばならぬ。

 無理、無謀が過ぎる。そんなもの、()()()()()()()など─────

 

 

「“老剣(オイノケン)”────()()()!」

《な、に!?》

 

 

 槍襖が、()り抜ける。涙子を連れて屍から逃げる際に使用した、己の能力(スキル)確率使い(エンカウンター)』による『トンネル効果』で。

 一度限りのトリック、二度は通じまい。敵も然る者、もう同時に槍を繰り出す事はないだろう。何より、もう一度など……次は脳への負荷が耐えきれない。

 

 故に、コレで止めとする。故に、出し惜しみなど欠片もなく。真っ直ぐに、『敵』を睨み付けて。

 

 

「─────“旭月(キョクゲツ)”!」

《───────…………》

 

 

 天に駈け昇る朝陽の如き一刀、地に沈む朝月の如き二刀。一太刀目で“柳雪(リュウセツ)”を試みた十文字槍を断ち斬り、二太刀目で────真正面の槍騎士を、装甲ごと深々と。背骨に届くまで、袈裟懸けに叩き斬った。

 

 

《……どうやって見切った、どうやってこの装甲を破った?》

「テメェが目潰しに使った灰に残る、足跡から。そして、ショゴスの物理無効に長谷部の摂理無効。合わせりゃ、斬れない物は無いと踏んだ」

《道理と……当てずっぽうかい。いやはや》

 

 

 頭上から降るような声に、返す。せめて、恥知らずの殺人機には過ぎないが……殺したのならば、末期の礼儀は尽くそうと。

 吹き出した反り血が、全身を紅に染める。また一つ、命の灯火を潰した。また一つ、“殺人刀(セツニントウ)”の事実を背負う。

 

 

《く、ふふ……しかし、後世とは恐るべきものよ。まさか、貴様如き小僧めに……我が槍、潰えるとは》

「全くだ……俺程度に負ける程度の腕前が、免許とは」

《ほう……そう言えば、坊主。お前は》

「師、(のたま)わく───」

 

 

 問いに先んじて答える前に、長谷部を鞘に納めて。懐から、煙草を取り出す。銜え、火を灯し……肺腑で玩んだ紫煙を地下の饐えた大気に吐き捨てる。

 思い出したくない事実を、ほろ苦い現実を思い出し、管を巻くかのように。

 

 

「『五年鍛えてみたが……お前、才能ねェわ。破門な』」

《────ふはっ!!? ハッハッハッハッハ! そうか、そうか! いや、やはり良い師に学んだようだのう……》

 

 

 とびきりのジョークを聞いたかのように、快哉を唱えた槍騎士の装甲がひび割れ、砕け散る。

 その残骸は、全て……ショゴスに貪られている。誓約の通りに。

 

 

「“少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢、階前の梧葉(ごよう)(すで)に秋声”」

 

 

 どさりと、膝を突いた……見るも無惨に老いさらばえた()()と、地に落ちた“グラーキ黙示録(グラーキ=アポカリプス)”。(しわが)れた声で呟かれたのは、朱子(しゅし)の『偶成(ぐうせい)』の一節。

 

 

「長き道を来たが……お主のような若武者に負けたのならば、悔いはない……では、の」

「………………」

 

 

 そのまま、灯火が消える。呆気なく、命が消えた。確かに悪人であり狂人ではあったが……命だった事に変わりはない。

 何か、重荷を手放したように穏やかな死に顔の鷹尾 蔵人(たかお くろうど)に対し……何か、重荷を背負い込んだような苦い顔で。

 

 

「後は、あのクソッタレだけか」

 

 

 嚆矢は、未だ微睡む“屍毒の神(グラーキ)”を見据えて。その偉容、瘴気。自らの全存在が、『逃げろ』と喚き散らすモノへと向かう。

 

 

《嚆矢よ》

(……何だ)

 

 

 脳内に響いた声、“悪心影(あくしんかげ)”の。それに苛立ち半分、返事を。

 

 

《貴様が、生きる目的は何だ》

 

 

 問いは、彼にとっては心底、どうでも良い内容。今更、そんな事は……どうでも良い。

 だが、その声。それは、昔────

 

 

『あ? ()()()()()()()意味があるのか、だァ? 阿呆か、()()()()()()()()()()辿()()()()()んだろうが』

 

 

 何処かの誰かが、拳骨を落とされながらも屈強な背中に問い掛けた言葉と同じ、意味であり。

 

 

()りたいんだよ、全て。俺が()れる全て、()れない全てを……この世の全てを、()りたいから。俺は、生きる。誰を、どれだけ殺そうと」

《………………》

 

 

 唯一、抱く願いを。多分、生まれて初めて他人に口にして。黙りこくる“悪心影(あくしんかげ)”を尻目に、次なる敵に向けて歩き出す。

 

 

呵呵(かっか)……呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)! そうか……分かるぞ、その好奇心。(わらわ)もまた、同じであったからのう》

 

 

 背後に、再び感じる気配。混沌の渦が巻き起こるのが分かる。しかし、違うものがある。背後にいるのは同じ、だがしかし。

 

 

《さぁ──────残るは、“屍毒の神(ぐらーき)”のみじゃ、さっさと討ち滅ぼして、『かれー』とやらを頂きに参ろうぞ》

「あぁ……そうか、家賃も払わなきゃだった」

 

 

 そんな、やたらと即物的な事を考えながら。曲がりなりにも、神を殺す戦いへとその足を進める─────



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七月二十七日・夜『悪心影』

 

 

 ルーンにより生み出した水で目を洗いながら、緑の灰の海を渡る。最後に学ランの袖口で目を拭い、それを脱いでカッターシャツ姿に。袖を帯のように腰に巻き付けてきつく絞り、彼方にて未だに微睡む“屍毒の神(グラーキ)”を目指して。能力(スキル)魔術(オカルト)を酷使した所為で、脳味噌を握り締めるかのような酷い頭痛がある。それでも、足は止めない。

 些細な話だ、そんな事は。今は、ただ……あの醜悪に微睡む化け物を。悪意をもって描くのに失敗してもああはなるまい、生理的な嫌悪が先立つ悍ましき邪神が目を醒ますよりも早く斬り棄てる。それ以外に思うところは無い。

 

 

 醜い、実に醜い。たった数百メートル先に鎮座する、蛞蝓(ナメクジ)雲丹(ウニ)八ツ目鰻(ヤツメウナギ)の合成体。ただ視界に納めるだけで吐き気が、嗚咽が、絶望が止まない。少しでも気を抜けば、思わず腰の得物で自刃してしまいそうな程に。それこそは、“旧き世の支配者(グレート=オールド=ワン)”。()()()()()()()()、“屍毒の(グラーキ)”の神たる存在としての()()()()()()が。

 気付け代わりの煙草、フィルターのみとなったそれを吐き捨てる。くるくると螺旋状に焔の軌跡を画いた後、緑の灰に呑まれる────よりも早く、ショゴスの乱杭歯に噛み潰された。貪欲な話である。今の今まで、目指す邪神の瘴気に震えて影に隠れていた癖に。

 

 

 それに僅かに笑んだ嚆矢は、代わりに長谷部に手を掛ける。鯉口を切り、臨戦態勢に。震える指先を握り締めて黙らせ、柄を潰すくらいの気概で。この空間を支える、幾つもの柱のは一つ。邪魔な一つを、躱して進む。

 敵対の意思を、明らかに。殺意と、戦意を籠めて────白刃を引き抜きながら。

 

 

『させないとも!』

「ッ…………!」

 

 

 刹那、背後に感じた瘴気。逆らわずに体を流せば、黒いメスを握る右腕が薙いだ。柱に突き刺さる事で動きを止めた酷く醜悪な、陰惨な右腕。下膨れのだらしない肥満体の腕、二メートル近い長さの怪物が。

 それを成したのは、先程通り抜けた柱の後ろからの存在。先程は誰も居なかった筈の、其所に居る者。

 

 

西之(にしの)……(みなと)!」

『フフ、ああ、昔はそう呼ばれていたね……だが、今は!』

 

 

 首の無い男は、白衣を振り乱しながら笑う。声を出す器官など無いと言うのに、耳障りな声を何処からか響かせながら。

 また、背後から繰り出された左腕。顔面を握り潰そうとでもするように、迫った掌。成る程、捕まれるだけでは済むまい。そこに覗くのは、口角を吊り上げた────血を流す、乱杭歯の()()()。あれが声の発信源か。

 

 

『“悪逆涜神(イゴーナロク)”────それが、今の名だ!』

「“悪逆涜神(イゴーナロク)”────?」

《『────痴れ者が(Fuuuuck)!》』

 

 

 その名を呟いた瞬間、“悪逆涜神(イゴーナロク)”の左腕を撃ち抜いた銃声と共に。“悪心影(あくしんかげ)”とセラから、同時に叱られた。と言うか、間違いなく罵倒された。

 その瞬間にはもう、背後に感じるモノが増えていた。“悪心影(あくしんかげ)”以外に、もう一つ。何か、酷く悪質なモノが。

 

 

『大人しく我が教団に加われば、蔵人と同じように彼女共々歓喜の内の死後(しょうがい)を約束したと言うのに……』

「誰が望ンだッてンだ、クソッタレがァ!」

『望んだではないか、その少女は! “幻想御手(レベルアッパー)”等と言う如何わしい物にまで手を出し、昏睡してまで!』

 

 

 背後に立ち、無造作に両手のメスを繰り出した怪物の気配。それを、しゃがんで回避する。そして立ち上がりながら、背後に一太刀を。

 

 

『その希求や良し! 今時の若者にしては実に素晴らしい! そう、力とは求めなければ手に入らない! 私に、命を甦らせる事に心血を注いだ私に“屍毒の神(グラーキ)”が微笑んだように、彼女には資格がある。故にこの私が“神なる力”の一部を与えようと言うのに……何故邪魔をする!』

「イカれてンじゃねェ────テメェこそ、与えられただけの力で粋がってンじゃねェよ!」

《チッ……敵、背面(うま)じゃ!》

 

 

 それも意味がない。愚鈍気な見た目とは正反対に、軽々と背後を取られる。そして襲いくる両腕のメス。それを明らかに出遅れ、前転で躱しながら斬り上げるように降り下ろす。

 

 

『しかし、これは好機である! 旧態依然と化した我が教団に刷新をもたらす、天啓であるのだ!』

「何────!」

 

 

 一太刀は、虚しく空を斬る。そして初めから其処に居たように。西之医師、否、“悪逆涜神(イゴーナロク)”は『前』に居た。そして、当たり前のようにメスを投擲する。辛うじて回避が間に合う、正確にはショゴスの防御のお陰だが。

 そんな嚆矢の背後にセラが立つ。苦々しげに、息を吐きながら。意識が無いと見える涙子を挟んで護るかのように。

 

 

『伯父貴が言った通りなら、“悪逆涜神(イゴーナロク)”は『壁の向こうから現れる権能(ちから)』を持つんだ! つまり視界の壁や思考の壁……()める意思がある限り、更にその背後を取られる!』

「……成る程、ね!」

 

 

 得心と共に、顔を向けていた方と反対の左側から“悪逆涜神(イゴーナロク)”がぶよぶよと不快な腕を突き出す。掴み、動きを封じようと────涎と泡を撒き散らす人間の口唇と、異様に長い舌の付いた掌を。触れれば即座に屍の仲間入り、間違いなく正気を失う様相で……涙子を狙って。

 

 

『後ろだ、カインの末裔(ヴァンパイア)!』

「チ────気持ち悪ィモン、突き出してンじゃねェ!」

 

 

 迎え、腕を絡めとり回転(まわ)す。合気を発露する。体重も百キロは軽く超えていそうなその怪物が、腕力と体重を乗せた威力を逆手に取られて宙を舞う。

 無論、見逃す訳の無い隙。即座に、長谷部を降り下ろし────

 

 

『流石に、あの鷹尾君を殺した腕前だ……まともに闘っては勝ち目はないか。しかし、それならばそれでヤりようもある!』

「野郎────!」

 

 

 声は、やはり背後から。回り込まれ、体勢も崩している状態ではメスを躱せず。駆け抜けた烈風纏う銃弾に、脂肪の塊の如き腕が弾けた。それにより辛くも、虎口を脱する。

 

 

糞が(shit)、あの伯父貴が梃子摺(てこず)った訳だ!』

 

 

 代わり、窮地に陥ったのはコンテンダーを放ったセラ。本体を貫くよりも早く、速く。肥え太った巨体が彼女の背後を取っていた。

 撃ち尽くした拳銃の弾倉を再装填(リロード)していたセラが、涙子を投げ出す。無論、嚆矢に向けて。

 

 

 過たず受け止め、代わりに────懐から取り出した、『南部式大型拳銃(グランパ・ナンブ)』を投擲する。やはりセラも過たず受け止め、背後の“悪逆涜神(イゴーナロク)”に向けて。

 

 

『貰った!』

「ッ!?」

 

 

 声は、嚆矢の背後から。同時に、頭が両手に抱え込まれた。即ち────

 

 

『『─────殺せ、奪え、犯せ! あらゆる“悪”は、人が。お前達が作り出したもの。故に、お前達にはあらゆる“悪”が可能だ!』』

「ア────ガ!」

 

 

 外部音声をシャットアウトしつつ二方向(サラウンド)から耳に、直接触れた口唇からの声が流し込まれる。精神を苛み、脳細胞を死滅させる恐慌の声が。

 正に衝撃だ。直接、脳味噌を殴打されたような。正気を保てる筈など、無くて。

 

 

『『今、お前の腕の中に収まっている者を見ろ……そう、それだ! まだ蕾ではあるが、間違いなく雌だ! お前の為の饗餐(きょうさん)だ、お前に貪られる為の生娘(いきえ)だ!』』

「ッ……ッ、俺の……為の?」

 

 

 色を喪った視界で見る。確かに、そうだ。セーラー服の娘、黒く艶やかな長髪の。まだ青いが、確かに……“雌”だ。もう、()()()()くらいには熟している。

 笑う。嗤う。自然と、口角が釣り上がる。きっと、誰が見ても醜悪な笑顔だろう。そう、自覚出来る程に。下卑た笑いで、彼女を……涙子を見詰めながら。美しい娘である、誰がそれを否定できるのか。後、五年もすれば誰に(はばか)りもあるまい。

 

 

「────釣れた、な」

《────阿呆が、のう!》

『『な──────!??』』

 

 

 刹那、突き立つ刃が二つ。長刃の長谷部国重(はせべくにしげ)と、短刃の宗易正宗(そうえきまさむね)の二刃が。()()()()()()()()()()()()()貫かれて。

 

 

『が、ギィアァァァ! 何故だ、何故私の洗脳が通じない?!』

「たりめェだ、阿呆。男の口説き文句なんざ、聞く訳あるか。俺を口説きたきゃ、女に生まれ変わって出直してこい」

 

 

 のたうち回るように、耳朶に侵入して脳味噌を弄り回そうとしていた二つの舌が乱舞した。それから逃れ、傷痕をわざと無惨に切り開きながら。致命傷を与えるべく、嚆矢は“合撃(ガッシ)”を構える。

 正しく、最後の一撃の為に。最期の一撃の、()めに。

 

 

『きっ、()ッッッッ(サマ)ァァ!』

「あばよ────!」

 

 

 遮二無二繰り出された両腕は、背後から。しかし、種のバレたトリックなど児戯に等しい。ショゴスの観測により得た背後の位置を元に、“ヨグ=ソトースの時空掌握(ディス=ラプター)”にて空間転移する刃が“悪逆涜神(イゴーナロク)”を捉える。

 その剣撃は“添截乱截(テンセツランゲキ)”。柳生新影流の剣は、護謨(ゴム)じみた表皮とゲルじみた中身の二重構造を深々と斬り裂く。右八相に構えて、上段から相手を切り下げ、再び片手で切上げ、更に上段から片手で突く技を。腐った肉を斬り、饐えた血飛沫を感じながら。剣舞は、確かに獲物を斬り捨てた。

 

 

 手応えは在った。さながら卵の薄皮を引き裂くような手応えと、魚の身を斬るような。

 

 

「チッ────!」

(かっ)、先程の南蛮武士とは違う意味で斬り辛いのう!》

 

 

 しかし、浅い。その分厚い脂肪から滲む(あぶら)が長谷部の刃を滑らせて、致死傷を与え損なわせた。

 断ち斬られた、汚汁塗れの右腕がコンクリートの床に落ちる。後僅かに踏み込めれば、止めをさせたのだが。

 

 

『グッ────ぎぃぃィィィィィ!』

 

 

 更に、背後に回られる。刃から逃れようと。しかし、そのイゴーナロクの無防備な背中に50口径弾が撃ち込まれる。セラの放った、“風王の爪牙(ハストゥール)”に導かれた南部式大型拳銃の。

 

 

『っ……中々、ご機嫌な反動(リコイル)じゃんさ!』

『ぎっ、ガァッ!』

 

 

 放つ、放つ。三発の魔弾は過たず標的へ。体内深く抉り、再生を許さない。悶絶しながら、再びイゴーナロクは姿を消す。今度は二人の背後には現れない。

 一瞬の内に訪れた静寂。不気味な程に静穏。抱き抱える涙子を、知らず強く引き寄せた。

 

 

「……何処に消えた?」

《ふむ……近くにはおらん。待て、見付けた。左後方(ひつじさる)、距離二〇〇米(にちょう)!》

 

 

 悪寒に、急ぎ振り向き見る。そこは、そう────

 

 

『ぬ、グッ……グラーキ様……かくなる上は、貴方様の覚醒を』

『ちぃ──あの野郎!』

 

 

 醜悪な神の、微睡む場所であり。既に携え、開かれた────『Ⅰ』と刻まれた“グラーキ黙示録(グラーキ=アポカリプス)”は魔力の渦に。

 その高純度な魔力に反応してか。三本の触手の先に着いた邪神の胡乱な眼差しが、イゴーナロクを捉えて。

 

 

『贄は、この私めが勤めましょうぞ……喰らえ(アイ)喰らえ(アイ)────“屍毒の神(グラーキ)”ィィィィィ!』

 

 

 呼び掛けに応え、円形に歯が立ち並ぶ邪神の口吻が開かれ────文字通り、『喰らう』。ばつり、と生々しい音を立てて。後には咀嚼音と、嚥下音。

 打ち砕けるだけの威力を持つコンテンダーの魔弾も、今からでは間に合わない。虚しく放たれた弾は、今、目覚めの食事を終えた神に向かって。

 

 

『─────オ ォ ォ j d w r ォ ォ ォ k g m w p ォ ォ ォ ォ ォ ォ オ !』

「『ッっ─────!!?」』

 

 

 狂死しそうな程に壮絶な咆哮を上げ、『棘』が弾を打ち砕く。正に雲丹が、身を護る為に棘を一方向に集めるように。戦車程もある巨体、揺らして蠢かせながら。

 どろついた三つの眼差しが此方を認める。先程迄とは比べ物にもならない、指向性すらありそうな狂気の瞳。

 

 

最悪だ(Holy shit)……『本物』の顕現を、許しちまった』

 

 

 黄衣の魔導師が、口汚く反吐を吐く。さもありなん、この圧倒的な狂気に晒されては。

 事実、彼女の隣の男なぞは既に膝を折って、無様にエヅきながら。最早、先に吐き尽くしており胃液すら出ないと言うのに。

 

 

「ハァ、ハ……ハッ。神様なンて仰々しく呼ばれてる割にゃア、何て(こた)ァねェ。只の、海産物だろ」

 

 

 まだ、その心神は生きている。まだ、爛々と()()()()している。

 袖で口を拭いながら立ち上がり、涙子をセラに預けて歩を進める。ただ、真っ直ぐにグラーキを目指して。

 

 

呵呵(かっか)、しかし敵は名実共に『本物』じゃぞ? 先の“迷宮蜘蛛(あいほーと)”や“悪逆涜神(いごーなろく)”のような『独自解釈』ではなく、のう》

「だから、何だ。知った事か、殺す。アイツは、俺の()()に手ェ出しやがった。()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 足を踏み出す。止まりそうになる足を、挫けそうになる意志を廻す。腐敗した息を吐く邪神への一歩毎に強まる瘴気や害意、狂気や悪意をまともに浴びながら。

 長谷部が震えるのは、同化するショゴス……“バルザイの偃月刀”が(おのの)いているからだけではない、嚆矢の身体もまた、震えているからだ。

 

 

《莫迦め────死ぬぞ?》

 

 

 当然だ。あんな化け物を相手にして、無事に済む理由などない。現に、既に精神の何処かが死んだ感覚もある。或いは、其処が恐怖だとか言う分野なのかもしれない。木山春生辺りにでも聞いてみれば面白いかもしれない。檻の中に行けるなら、だが。

 否、行くだけなら何時でも出来る。殺人機械たる己なら、何時でも。

 

 

《では、(わらわ)の────》

「要らねェ、()()()で、片ァつける」

 

 

 聞き飽きた台詞を吐かれる前に、話を打ち切る。手持ちは神刻文字(ルーン)錬金術(アルキミエ)、祭具“バルザイの偃月刀”と刀“長谷部国重(はせべくにしげ)”、脇差“宗易正宗(そうえきまさむね)”。

 これだけを持ち合わせながら、一つも頼りに出来ない。それだけの圧力が、目の前から。

 

 

『─────オ ォ ォ j d w r ォ ォ ォ k g m w p ォ ォ ォ ォ ォ ォ オ !』

「『ッっ────??!」』

 

 

 壮烈な咆哮と共に、黒い棘が────槍襖が()()()()。投槍の如く、二百メートルの距離を無にする一射。それをセラは跳躍して、身を竦ませた嚆矢は刃を振り降ろし……弾き返され、幸運でそれを躱した。

 

 

 それが気に食わなかったのだろう、邪神は苛立たしげに。身を丸めるように────巨大な棘の密集する大鉄球と化して、前進を開始した。

 これなら、外す事もない。後百メートル進むだけで、嚆矢は()()()となるだろう。

 

 

 それでも、前に。足は止めない。最早それはただの痩せ我慢に過ぎず、ただの意地で。

 

 

《やれやれ、この頑固者には参ったのう。(わらわ)としては、折角の憑代(よりしろ)を喪う訳にもいかぬ……では、やる事は一つじゃな》

「…………?」

 

 

 物言いに、不審を覚える。背後の影、恐るべき『第六天魔王』“悪心影(あくしんかげ)”の翻意。今まで、僅かな付き合いとは言え、この存在が意志を曲げた事はない。

 では、その真意はなんだ。その、為すべきは────

 

 

《────無理矢理にでも、剱冑(ツルギ)を着せる他に在るまいのう!》

「ッ─────?!」

 

 

 その、ただ一つ────!

 

 

『“悪心影(あくしんかげ)”────貴様この(オレ)を、この“第六元魔王”を! このような些末事に!』

 

 

 空間を砕き、現れたモノが居る。まるで虫食いの穴のように、次元を喰い破って────穴を穿ちながら、招聘された黒色の刃金。体長二メートル程の、巨大な螻蛄(ケラ)が吼えながら。

 覚えている。あの夢の中で、見た姿。自らを“魔王”と宣わって憚らない、()()()()

 

 

(やかま)しい────弾正忠(だんじょうのちゅう)の勅令である。(わらわ)が憑代を、()()()

『貴様ァァァァァァァ!』

 

 

 怨嗟の咆哮と共に、螻蛄が砕ける。否、無数のパーツに分解されたのだ。さながら嵐の渦中、逃げるどころか身構える事すら出来ない刃金の乱舞に晒されながら。

 

 

《さて、後は御主次第じゃ。呑まれ、狂い果てるも佳し。呑み、従わせるも佳し。全て、全て────あらゆるものは、貴様次第じゃ》

「“悪心影(あくしんかげ)”……!」

 

 

 悪態は、最後まで紡げない。それよりも早く、刃金が身体を覆う。先ずは右腕、飾利を狙った蚯蚓(ミミズ)と黒子を狙った猟犬(リョウケン)を打ち倒した時に摸倣し、纏ったモノが。だが、違う。まるで意味が違う。これは『本物』だ。

 まるで億を超す毒虫に食い付かれたような、壮絶な痛みと熱さ。グラーキの視線など、目ではない。その悲鳴すら、続々と纏わり付き顔面をも覆う刃金に呑み込まれて。

 

 

────諦めろ。人間に、耐えきれる筈もない。屈しろ、それで全て、楽になる。

 

 

 漆黒に閉ざされた視界に、光が見える。嗚呼、それは……

 

 

『無駄な足掻きだ。屈せ────人間! この“第六元魔王(ラグニル)”に!』

(…………!)

 

 

 衝撃を伴う咆哮を放つ……天を突く程に巨大な竜であり。6つの瞳に6つの腕を持つ竜、“まやかしの魔王”にして“第六次元の大君主”たる“大魔王竜(ラグニル)”であった。

 

 

『今や此処に、貴様以外は存在せぬ。脆弱な人間、哀れな人間! 貴様以外にはな!』

 

 

 確かに。確かに、そうだ。“悪心影(あくしんかげ)”は勿論、ショゴスの気配すらない。頼る事が出来るのは、最も脆弱な己のみであり。

 

 

『死ね、消えろ! (オレ)が糧となってな!』

(………………)

 

 

 圧力に、膝を突く。耐えきれる筈もない。そもそも、多寡が人間風情で……魔王に立ち向かおうとは、何事か。そんなモノは、何処かの勇者にでも任せておけば良かったのだ。それを、何をトチ狂って対馬嚆矢風情が代替しようとなどしたのか。

 今更ながらに、苦笑する。嗚呼、何と愚かな話か。身に余るモノを得ようと振るっての破滅など、見飽きる程に目にした癖に。

 

 

(それ、でも)

 

 

 それでも。

 

 

(生き、たい)

 

 

 『生きたい』。その意志だけは、変わらない。今まで、幾多を犠牲にして生き永らえながら。今まで、幾多を犠牲にして生き永らえ()()()

 

 

『■ぃに……』

 

 

 恐らく、幽明で唯一の。人生で最初であろう、その記憶。ひしゃげた車のボディによる鋼の檻の中、周囲に燃え盛る焔。鼻を突く揮発油(ガソリン)の臭い、腕の中で冷たくなっていく……■■■■に貰った、この生命(いのち)で。

 

 

(生きて、()る。俺は、全てを()る────俺が殺した、あらゆる全てが()るべきだった……全てを!)

『キッ、貴様……!』

 

 

 目を、見開く。見えもしない目を。それでも、見詰める為に。自らの全てを、為すべき事を。

 何故ならば、それは────()()()()だ。刹那に消える、夢に他ならない。だからこそ、等の昔にあらゆる罪を犯した己には、相応しい末路であり。

 

 

『何、だと……まさか!』

(消えろ、有象無象(まやかしの魔王)。奴は、俺が()る)

『…………出来るか、貴様に。甘ったれ、全てを忘れたような貴様に!』

()るさ。()らなきゃ……喪う、それだけだ。俺は、俺の利己(エゴ)に戦う)

 

 

 決意と共に、押し返す。津波の如き圧力は全て返り、喚き散らす邪竜への返歌となる。思い出した、その一説。即ち、それこそが光明であり。故に、嚆矢は思い至る。

 

 

「そうか……()()()()だったな、お前は」

『ッ────ッッッ!』

 

 

 初めて、邪竜が息を呑む。漸く、“悪心影(あくしんかげ)”の言葉の意味に辿り着く。幾度もそう口にしていた、事実に。

 最早、余裕しかなく。掌に乗る相手を見詰める。爬虫類、或いは羽虫。愛らしい程に小さい。自覚さえしてしまえば魔王ですらこんなものか。そんな狭量に、告げる。

 

 

「俺は()く。邪魔すンな、────“悪心影(あくしんかげ)”」

『……ならば、佳し。是非もない。呵呵(かっか)、詰まらんのう! もうバレたか』

 

 

 最期に、微笑むように。記憶の端、忘れかけていたモノを。あの、“迷宮蜘蛛(アイホート)”の槍騎士の言葉を思い出して。

 

 

『マジも大マジ、糞真面目よ。クトゥルフ神話とは、()()()()()()()なのだからな』

 

 

 ゆるりと立ち上がり、体の具合を確かめる。妙に高い視界、そして軍用HMD(スマートグラス)のように照星(レティクル)や高度計、己の状態が表示されている。

 目線を、前に。彼方に蠢く“屍毒の神(グラーキ)”の名と、彼我の距離が表示される。その瘴気も悪意も狂気も害意も、今は微風のようなものだ。

 

 

(随分と近代的だな、まるで戦闘機パイロットの気分だ)

《しょごすが喰らっておった『駆動鎧(らーじうぇぽん)』……じゃったか? あれの絡繰を参考にしたのじゃ。時代に合わせた改修工夫(あっぷでーと)という奴じゃな》

(便利なこって。まぁ、使い易くて良いけど)

 

 

 ()()()()を止めて、是非もなく消え果てる。それで良い、後には、血生臭い血風以外には吹かない。

 後に残るのは、漆黒の南蛮胴(なんばんどう)に身を包んだ鎧武者のみであり。まるで、邪悪そのものが凝り固まった竜と見る程に、異形であり。

 

 

()くぞ────“悪心影(あくしんかげ)”!)

応友(おうとも)よ────!》

 

 

 刃金に包まれたままに嚆矢は残る残思の全てを代弁しながら、新たに刃を握る。それが、全てだ。

 漆黒の鎧、全身に。腰の兇器、傍らに。恐らく、生涯の幸運を使い果たして。

 

 

(“人間五十年……下天の内を競ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり”)

《“一度(ひとたび)(しょう)を得て”……》

 

 

 切り開く、自らの末路を。睨み据える眼前の“屍毒の神(グラーキ)”、『例え神だろうと()()()()()()()()()』のであれば。

 腰に下げた鞘に“長谷部国重(はせべくにしげ)”を────()()()()()()

 

 

《《────“滅せぬものの、在るべきか”!》》

 

 

 『ならば、()()()()()』と、意気を新たに腕を組み。

 最早、至近距離に迫った死そのものに対して。

 

 

裏柳生新影流兵法(ウラヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)明身(アケミ)”が崩し……》

 

 

 燃え盛るような三つの深紅の瞳と、刃金の隙間に蠢くショゴスの血涙を流す無数の瞳を輝かせて────!

 

 

《“相転移刀(フェイズシフトガン)”────“陽炎(カゲロウ)”》

『ガ j d x g 、 ギ ァ ァ ァ m a k t p ァ ァ ァ ァ ァ ァ ァ j t m d k p ァ ァ ァ ァ ァ ! ! ! ?』

 

 

 『業のみが有り、位が無い』とされる裏柳生の暗殺居合剣。柄に手を触れる事すらもなく逆手に抜刀された長谷部により、巨球は────真っ二つに、一刀両断に断ち斬られた。

 

 

呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)! 図に乗り調子に乗り、この世に現れた虚構(うつけ)めが! この世は人の世、天地遍く人為なり! 貴様ら神仏魔羅(有象無象)の這い出る隙など、蟻の一穴すらも無いわ!》

 

 

 腐り果てた血飛沫を浴びる事もなく背後に駆け抜けたまま、残心を示した鎧武者。その()が吼える。快哉快哉と、叫びながら。

 

 

《“神魔覆滅(ばらんすぶれいかー)”────星辰の彼方に失せよ、雑兵めが!》

 

 

 緑色の灰と崩れ去ったグラーキの体内から、『Ⅰ』と『ⅩⅠ』の銘を付けられた魔導書“グラーキ黙示録(グラーキ=アポカリプス)”が地に堕ちる。納刀してそれを掴み上げ、見詰めながら。

 

 

『あれが、“悪心影(あくしんかげ)”……かつて日本(ジパング)を征しかけた、魔王(サタン)

 

 

 黄衣の魔導師は、唾棄するかのようにその背中を睨み付ける。如何に『()()()()()()()()()』とは言え、紛う事なき旧支配者の一部を滅ぼした武者を。

 

 

 マントじみた黒母衣(くろほろ)と黒羅紗の陣羽織を纏い、挟箱のようなものを左右に一対背負って腰に二本を挿したその姿。大兵の鎧武者、身長は二メートルを遥かに越える。腕や脚も強靭そのものであり、魔術的な強化も窺えた。

 何より、その鬼気。それは、そう……『殺意』そのものだ。目に映る全てを殺し尽くす悪鬼修羅の類。アレは僅かとも、信じる事も頼みに出来ぬと彼女は悟る。

 

 

《……さて、と。じゃあ、戻ろうぜ》

『っ……!』

 

 

 その背中から掛けられた声に、正体を取り戻す。あらゆる敵の消え去った地下貯水施設。その虚ろの中でコンクリートを踏み砕きながら、武者が歩いてくる。

 

 

『……まだ、だ。他の所有者が外に逃げた。男が四人に女が三人』

《……そうだったな。じゃあ、手分けしようぜ。男は全て俺が殺る》

 

 

 魔導書を投げ渡す。代わり、『空間』を引き裂いて涙子を受け取る。有無は言わさない、言うのならば……と。意志を込めて、睨み付けて。

 

 

『ああ、良いよ。ただし、今日中だ』

 

 

 魔導師の言葉に、金属を擦り合わせる音を立てながら首是する。そのまま────

 

 

位相加速(フェイズアクセル)────正転(ポジティヴ)!》

 

 

 跳躍するように、速度を上げた鎧武者が『天井から』消えていく。背中の双発の火筒(スラスター)を吹かして。

 それを見送り、呟いた彼女。その背後に、立つ影が一つ。

 

 

『……やっぱ、あの時殺しとけば良かったかな』

「『後悔先に立たず』だな、セラ?」

『うるせぇやい。援護射撃もしてくんなかったくせにさ!』

 

 

 “水神クタアト(クタアト=アクアディンゲン)”を携えたレインコートの男、ティトゥス=クロウが。

 がなりたてる『妹』に、『兄』は。仄かに笑いながら、その頭をフードごと撫でる

 

 

「さぁ、野狐狩り(フォックスハント)だ。魔の眷属どもを殺すぞ、セラ」

『……ふん』

 

 

 仮面の娘は表情を読ませぬまま、腕組したままにされるがまま。

 

 

………………

…………

……

 

 

 薄暗がりの路地裏を歩く少年は欠伸と共に、気怠げに髪を掻き上げた。気心の知れた仲間との夜遊び明け、別に学校に行く訳でもない『落第生(スキルアウト)』だが、飲酒してぐるぐる回る視界では早めに休むしかない。

 仲間の二人、ゴリラと忍者から散々に進められて歩いて帰る最中、金髪に染めた彼は────曲がり角で、走ってきた男にぶつかられた。

 

 

「っ……てーな、気を付けろ!」

「ひっ、ひぃぃ! ゆ、許してくれ、もう関わらない、関わらないから!」

 

 

 いつもの通り、威勢良く相手を罵倒する。振り返り見た、其処に……男は、居た。いつもの通り、こちらを見ながら……真面目そうな学生服の少年は、怯えた表情を見せて。

 

 

「ゴメンで済めば警備員(アンチスキル)は要らねぇんだよ! この落とし前、どうつけて────」

「ひっ────ひぃぃ!」

 

 

 いつもの通りだ、後は少し脅して落第生への恐怖を植え付けるだけだ。他の落第生とは違い、その程度に済ませるのが彼の美徳。

 

 

《────覚悟は出来ているな、魔導師》

「──────────」

 

 

 だから、背後からのその声。己など比較にもならない程に。『殺意』を漲らせた声に、凍り付く。

 

 

「あ、ああ……頼む、助けて……」

《…………………》

「死にたくない、死にたくない! ただ、それだけで……本当だ、黙示録も渡す! だから────」

 

 

 漸く、落第生は悟る。初めからこの二人は、自分など相手にしていない事を。一気に、心が凍る。それもその筈、背後から迫る者の気配に。重厚な足音、金属の擦れ会う音。気を失いそうな程の圧力に、呼吸すらも出来ずにへたり込む。

 無様に尻餅を付き、這いずるように横道に。その目の前を────鎧武者が、アスファルトを踏み砕いて横切る。そして、銀色に輝く刃金の残光が……『本』を差し出していた学生服の少年の胸に吸い込まれるのを見た。

 

 

「か────ひゅ?」

《阿呆が……覚悟も責任もなく、魔術を弄んだ愚物。相応の惨めさで果てろ!》

 

 

 それが、真上に振り抜かれた。胸から上を失い、少年の残骸はくたりと(まろ)ぶ。

 

 

《これで、全てか》

 

 

 後には、夥しい血の雨。降り注ぐ肉片。それを浴びて、元より血塗れだった装甲を更に紅く染めた鎧武者。本を拾い上げたその瞳が、落第生を見詰めた。

 

 

《…………》

「────」

 

 

 刹那、少年は死を自覚した。こんな出来事を知りながら生かされる道理はない。そして、死を免れうる状態にもない。僅か十数年の生涯ではあったが、走馬灯のようなものも……見える事は、無くて。

 

 

「あ……」

 

 

 踵を返した鎧武者は、路地の暗がりに消えていく。見逃されたのだと悟り、失禁しかける程の恐怖から覚めた彼は、ぽそりと呟いた。

 

 

「赤い……駆動鎧……」

 

 

 後に『学園都市の都市伝説の一つ“人喰いダルマ”』となる、台詞を。『浜面 仕上(はまづら しあげ)』は。




※妄想ステータス値

通称 :“悪心影”長谷部国重装備
仕手(して):対馬嚆矢
種類:真打/重拡装甲
異能/特殊兵装:均衡崩壊/空間歪曲/神魔覆滅
仕様:汎用/白兵戦
合当理(がったり)仕様:熱量変換型双発火箭推進
独立形態:螻蛄(ケラ)
攻撃:4
防御:3
速度:3
運動:5
4項目小計:15
甲鉄錬度:3
騎航推力:2
騎航速力:2
旋回性能:5
上昇性能:3
加速性能:4
身体強化:3
7項目小計:22

こんなん出来ました(切腹)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断章 アカシャ年代記=Akasha-Chronicle
??.----・error:『Nyarlathotep』Ⅴ


 

 

 暗闇の底、地底の貯水施設。闇と静寂に包まれて。動く物の絶え、緑色の灰に塗れた空間の中で。蠢くモノがある。這いずるように床上を蠢く、バスケットボール程のモノが。

 

 

「くっ、そ……まさか、あれ程の化け物だとは……!」

 

 

 首、だ。生首。黄衣の娘の蹴りで吹き飛ばされた筈の、西之湊医師の。首の切れ目から黒い棘の偽足を伸ばし、何かから逃げるかのように。

 蛸じみた姿で、無様にも生き長らえて。

 

 

「早く、体勢を立て直さねば……写本を作っていて正解だった、まだ負けてはいない。餓鬼共め、すぐにでも動く屍に変えて────」

 

 

 だが、遅い。当たり前だ、首しかない身体で、黒い棘の偽足。慣れない姿で普段のような速度が出る筈もなく。

 

 

「────チク・タク。チク・タク。さぁ、時間だよ」

「────あ……あぁ……あなた、様は!!?」

 

 

 だから、来る。空間を越えて、時間を越えて。コツリ、コツリと革靴を鳴らして……暗闇から涌き出るように。支配者は帰還せり(ザ・ロード・ハズ・カム)支配者は帰還せり(ザ・ロード・ハズ・カム)

 白い、最高級のトリプルのスーツを隙無く着こなした……浅黒い肌の十歳程の少年。少女のように見目麗しい、凛とした空気を纏う絶世の美少年。

 

 

 片手に白銀の懐中時計を握り、詰まらなそうにそれを眺めながら。深紅の眼差し、無感情に時刻だけを見詰めて。

 

 

「さぁ────断罪の刻だ」

「まっ、待ってください! まだ私は戦えます、まだ私は負けていませんから!」

 

 

 姿に似合わぬ、重低音。老人のような、青年のような、或いは機械の駆動音のような低い声で告げて。コツリ、コツリと規則正しく。機械のように正確に、足音を刻んで。

 

 

『可哀想、可哀想。憐れな憐れな死体蘇生者(ネクロマンサー)。このお方は許さない。このお方は、寛容ならざる時械神……』

 

 

 少年の背後から、メイドドレスの娘が歩き出る。それは両目を押さえ、涙を堪えているかのような娘だ。涙を堪えているように、世界の全てを嘲笑う娘だ。

 

 

『さぁ───機械のように冷静に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷厳に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷酷に、チク・タク。チク・タク────喰らえ(アイ)喰らえ(アイ)、来たの! アハハハハハ……!』

「お、お願い致します……“時間人間(チク・タク・マン)”様……!!」

 

 

 嘲笑う声など、最早、蚊帳の外だ。蛸の注意は、ただ少年に。だから、不遜となる。不用意にその名を唱えた、彼の命運は決した。

 

 

飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)────“カルナマゴスの誓約(ウィル・オブ=カルナマゴス)”」

「おっ……オノレェェェェェェェェェェェェ!!!」

 

 

 無慈悲に、精密に発音された少年の呪詛に。惨めに歪んだ表情で咆哮しながら肉体を再生、口の中に仕込まれていた真新しいメモ帳……“グラーキ黙示録(グラーキ=アポカリプス)”の写本から取り出したグラーキの棘を振るう──────!!

 

 

「────“劫簸(アイオン)”」

 

 

 その一言と共に、押し込まれた銀時計の(ボタン)。刹那、宇宙が収斂するように歪み─────

 

 

「……全て。形有る物は、やがて滅びる。永遠なる物など何処にも無く。刻は等しく、遍くを差別しない」

 

 

 コツリ、コツリと機械のように規則正しく。革靴を鳴らして、少年は歩く。まるで、数億年が経過したように風化した地下貯水施設の中を。

 

 

 『一億年先まで現役で通用する』とされた、当時の学園都市の最新技術で作られていた柱の幾つかは崩れ落ち、最早崩壊は目前。

 そして目と鼻の先、彫像のように棘を持ったままの“悪逆涜神(イゴーナロク)”は────ボロリと崩れ落ちると、(うずたか)く積もる塵と化した。その『頭』に当たる部分から覗く、紙らしきもの。先程までは()()()()メモ帳だった筈の、“グラーキ黙示録(グラーキ=アポカリプス)”の写本。黄変し、経年劣化したその外観。曲がりなりにも『魔導書(グリモワール)が』だ。

 

 

「対馬嚆矢……彼は、良くやっている。我らが総帥と元帥の帰還も、そう先ではない」

『はい、閣下。全ては閣下の思し召しのまま、“女王(クイーン)”も“女帝(エンプレス)”も貴方様の為に』

「実に、実に。待ち遠しいものだ。ああ、現在時刻を記録した。後は、君の選択次第……次の邂逅は、君に何をもたらすかな」

 

 

 それを────踏み砕いて。少年は歩き去る。(へりくだ)り、褒め称す娘を連れて。機械のように正確に、笑顔を見せて。全く同時に崩壊を始めた地下施設から、時間に溶け込むように消え去った……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 芳しい香りがする。遠く寄せては返す、潮騒が聞こえる。白いロトスの花と赤いカロメテの(ちりば)められた、神の恩寵たる海岸線。

 

 

「…………」

 

 

 流石に、三度目だ。慣れたとまでは言わないが見慣れた風景。しかし、未だに涙が零れそうになるくらいに美しい。まるで、そう────ここから生まれ落ちたのではないかと思うほどに。

 

 

 砂浜には、幾つかの足跡。千鳥が渚で遊び回っているように、可愛らしい足跡が続いている。後を追ってこいとでも言っているかのように。

 ふと思ったそんな事を、実践する。小振りな足跡に導かれるように、打ち上げられた瑠璃色の海を後に。宇宙を舞うように、星屑の砂浜を更々と歩く。

 

 

 そう歩かずとも、それは見付かる。遊び疲れたのか、柔らかな下草の生えた草の(しとね)に抱かれるように眠る二人の少女。

 比翼の鳥か比目の魚か、或いは連理の枝か。金と銀の、黒と白のドレスの。太極図を描くように、互いの右手を重ねあった姿で。

 

 

「わたしの……ワタシ……」

「……ワタシの……わたし」

 

 

 安らかな寝息に混じり、金の少女と銀の少女が同時に寝言を漏らす。全く同時に、右手を握り合う。互いに互いが『見えない』筈の、その二人。それでも、繋がっているのだ。繋がろうと、願い合っているのだ。

 

 

────では、どうする。『己』は、何をするべきか。何が為せるのか、何が出来るのか。

 

 

(決まっている。俺は、もう誓っている。他の誰でもなく、俺自身に)

 

 

 うっすらと涙ぐんで見える二人、その姿に誓いを新たに。最早迷う事すら無く、背後から囁く“影”に応える。

 己の右手を、一度握り締めて。重ねるべく伸ばした、それを。

 

 

────素晴らしい。君は、資格を得た真の“魔人”だ。私達と同じ……“夢見るもの(ドリーマー)”だ。

(ッ……!)

 

 

 男の声だった。女の声だった。子供の声だった。老人の声だった。正義を望む声だった。悪を看過する声だった。全てを知る声だった。何一つ無い声だった。何より────その先を渇望する声だった。

 “悪心影(あくしんかげ)”ではない。その狂気、悪意、邪悪。例える対象すら見当たらない、思い至らない。そんな、一つだけでも狂死しそうなモノが────無数と蠢いているのを感じて、金縛りのように動けなくなり。

 

 

 急速に闇に消える視界に、覚醒の刻の訪れを知る。背後の存在から逃れられる事に対する僅かな安堵と、そんなモノが犇めくこの世界に彼女達を残していかなければならない無力と嘆き。

 

 

「覚えてろ……必ず、また来る……!」

 

 

 そして、“正しき怒り”を胸に。

 

 

────嗚呼、楽しみに待っているよ。我々全員で、ね。

 

 

 辛うじて振り向いた先、蠢く無数の“影”。此方をせせら笑い、狂い舞う無数の────

 

 

………………

…………

……

 

 

 アラームの音が響く、簡素な室内。メゾン・ノスタルジの時室内。外では、小鳥がチュンチュンと睦み合いながら鳴いている。

 その音源である携帯の目覚まし機能を解除し、布団の中で嚆矢は。

 

 

(あと……五分)

 

 

 寝惚け眼で、夏用の薄手のブランケットを被り直そうとしていた。側頭部のすぐ横まで迫っている、否、すぐ横から()()()ドロップキックに気付かぬままに。

 

 

「────いい加減に起きやがれですの、この不良風紀委員(イリーガル)っ!」

「──────」

 

 

 ツインテールな後輩のドロップキックに、声すら上げられずに顔面を撃ち抜かれたのだった。

 

 

「黒子ちゃんんん、幾らなんでもこれはァァァ! あと、ミニスカでそんな事しちゃ不味いよ!」

「うるさいですの! 人がお情けで寝かせておけば……今ので六回、合計三十分も延長したではありませんの! それと、角度は計算してありますわ」

 

 

 布団から飛び出しつつのたうち回り、文句を垂れ流しながら何とか痛みを分散する。どう見ても悪いのは此方だが。

 後、割とナイスアングルだった事と健康な男子の朝の生理現象を隠す為に。わざと盛大に転がって。

 

 

「うぅむ……喧しいのう……無礼討ちにされたいか、(うぬ)ら」

「「え?」」

 

 

 その、布団から聞こえた声。もぞもぞと、先程まで嚆矢が寝ていた布団の中から半身を起こして目を擦る……絶妙に肌蹴(はだけ)た薄い緋の襦袢のみの姿の“悪心影(あくしんかげ)”、否、市媛(いちひめ)のあられもない姿だった。

 

 

「違、違うよ黒子ちゃん。これはアレ、不純異性交遊とかそんなんじゃなくてむしろ未知とのエンゲージと言うか遊星からのXと言うか!」

 

 

 慌てて立ち上がり彼女を隠すように立ち、言い訳しようと脳味噌をフル回転させる。これを美偉に告げ口でもされれば、確実に始末書だ。

 

 

「本当、あなた方兄妹(きょうだい)は仲良すぎですの」

 

 

 と、黒子は対して何かを思った風でもなく、ただ呆れたように表情を変えただけで。代わりに何かに気付き、少しずつ苛立ったように頬を染めて。

 背中に枝垂れかかって来た重さ。市媛の唇が、右耳に吐息を。

 

 

呵呵(かっか)、あの『あいてむ』とか言う四人娘の時にも説明したじゃろうし……昨日も、そうやって乗りきったじゃろ?」

「あ」

 

 

 そう言えば、そうだった。この存在は、他者に“当たり前として受け入れられる”のだった。だから、黒子も彼女には不審を抱かない。

 それを利用して、昨日魔導書をセラに渡して涙子を寮に送り返した時にも、寮監を騙くらかしたのだった。

 

 

「それより、兄上(あにうえ)? 妙齢の婦女子に、自らの朝勃ちを見せ付けるのはどうかと思うぞ?」

「あ」

 

 

 その状態に気付いた時には既に、嚆矢の体は黒子の護身術により宙を舞い────にやにや笑う市媛を尻目に、床に叩きつけられた後だった。

 

 

 

………………

…………

……

 

 

「……流石に死ぬかと思ったね。確かに女の子に起こして貰うのは夢だったけどさ、嬉しかったけどもさ。もう少しこう、ムーディーにね」

「自業自得ですし、断じてお断りですの。第一、今何時だと思ってますの? 身支度の時間を大目に見ても、ギリギリですの」

呵呵(かっか)、誠に兄上の絶倫ぶりには困ったものじゃて」

「ちょっと黙ってろよテメーは」

 

 

 首を擦りながら、黒子と共にリビングへ。確かに、時刻は七時半。あと一時間もしないで風紀委員(ジャッジメント)の活動時間である。何でも昨日、美偉に『胸騒ぎがするから』と言われて起こしに来たのだとか。もしも“悪心影(あくしんかげ)”の権能が無ければ、確かに始末書を書いている頃だろう。落着させた昨日の一件、涙子の件で。

 だからと言って、今まで風紀委員で寝起きまで管理された事はなかったのだが。そんな事を考えながら、肩を怒らしてツインテールを揺らす六つ年下の常盤台の制服姿と、紅く染め抜かれた彼岸花の柄の黒い和服姿を見ていた。

 

 

「あ、嚆矢先輩。おはようございます」

「あ、どもっす、対馬さん」

「おはよう、飾利ちゃんに涙子ちゃん……ッ、ま、真逆(まさか)ソレは……!」

 

 

 そこにもう二人、中学生。共に柵川のセーラー服の飾利と涙子がリビングで、朝食の用意をしていた。まぁ、ただのシリアルだが。

 それを見た瞬間、嚆矢は膝から崩れ落ちると五体倒地の勢いで平伏した。

 

 

「神様仏様飾利様涙子様……今日も糧を有り難う御座います」

「ええぇ?! そんな大袈裟ですよぅ! シリアルにミルクを注いだだけですし」

「手間暇とかじゃないんだよ、女の子に朝御飯を用意して貰えるとか……もうね、感涙の余り……ぐうっ、生きてて良かった」

「ええー……」

「随分と安上がりな人生ですわね……」

 

 

 苦笑いする飾利と涙子、溜め息を吐いた黒子。思ったのは、涙子の事。一昨日と昨日、二度に渡り『魔術』に巻き込まれた彼女。

 一昨日はルーンで記憶を消し、昨日は気絶していた事を幸いに『遊びに連れ出した』と偽の記憶を植え付けた。先ず、失敗はしていない筈だ。

 

 

「う~む、乾飯にも似ておるが甘いのう……うむ、正に醍醐味よな、呵呵呵呵(かっかっかっか)!」

『てけり・り。てけり・り』

「あはは、市媛さんの古風ジョークは今日もキレッキレだね、初春?」

「お代わりもありますから、どうぞ一杯食べてくださいね」

「お代わりなんてしてる暇はありませんの。早く食べて、早く出発しませんと」

 

 

 我関せずとさっさと朝食を食む市媛、その脇でペット皿から猫缶を貪る……一メートルを越す、刃金の螻蛄。鎧を次回の装甲として取り込んだショゴスである。

 明らかな異形、明らかな異物。しかし、“第六天魔王”の半身“|第六元魔王”と化したショゴスには、同じ権能が宿っている。故に、不審は抱かれない。

 

 

「聞いてますの、嚆矢先輩!」

「はっ、はい……直ぐに食いまする」

「あ、わたし補修があるからお先に失礼します」

 

 

 その証明に、別段ショゴスを不思議がる様子もない女子中学生三人。寧ろ、放心していた此方が怒られて。

 

 

「対馬さん、対馬さん」

「ん、なんだい、涙子ちゃん?」

 

 

 つんつんと突つかれ、鞄を手に立ち上がっていた涙子の方に向き直る。彼女は、クスリと笑いながら髪を掻き上げ……左の耳許に唇を寄せて、艶っぽく囁く。

 

 

「世の中って、不思議な事ばかりですね」

「ッ、涙子……ちゃん?」

 

 

 一瞬、意味が理解出来すぎて困る台詞を。しかし、有り得ない事だと思い直した隙に──一瞬、感じた吐息の温盛(ぬくもり)

 涙子は悪戯っぽく笑って舌を見せると、体とスカートを翻らせながら部屋を後にする。

 

 

「……今日も一日、頑張るか」

 

 

 微かに触れた頬の感触にそんな事を呟きながら、嚆矢はシリアルを掻き込んだのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三章・Chapter Ⅳ 禁書目録=Index
七月二十九日:『息吹くもの』


 

 

 時刻、朝十時十五分。丘の上という立地以外は至って平凡な学舎に併設された、まるで城郭の如き堅牢な外観の『弐天巌流学園』の練武館。学問と部活の、一体どちらに重きが置かれているかが一目で分かる学園である。

 その館内、下手な軍事施設よりも難攻不落であろう堅固な作り。『全校生徒を集めればホワイトハウスを制圧できる』と言われる常盤台学園に対して、『全校生徒を集めれば米軍を相手にしても勝てる』と……校長が自称しているこの学園の武人開発施設。そこに、百人の生徒が息を詰めていた。

 

 

 弐天巌流学園名物、全部活から選りすぐりの五名を繰り出しての異種混合格闘トーナメント、ルール無用(バーリ・トゥード)のサバイバル戦。その名も、“乱戦(小テスト)”。

 弐天巌流学園の“能力開発”の判定基準であり、最後の一人となるまで終わらないその有り様から、“蠱毒の坩堝”とも呼ばれる学期毎の恒例行事『合戦(期末テスト)』。読んだままのソレ。その、夏休み呆け防止の小規模版である。

 

 

 『時代遅れ』と揶揄されながらも武術を鍛え上げてきた赫々たる各部活の上位五名、学園の『武の頂』を冠する合計百名が並び立っていた。

 ほんの、十五分前までは。しかし今はもう、十人に満たない数。

 

 

「────(セイ)ィィッ!」

(ヌル)い────速さも、切れも」

 

 

 繰り出された空手部主将の“中段突(チュウダンヅ)キ”を、袴姿の嚆矢は“四方投(シホウナ)ゲ”にて投げる。

 強能力者(レベル3)の『流体反発(フロートダイヤル)』によるワイヤーアクションじみた長距離からの突きを受け流しながら手首を取り、その肘を返しながら。相手の能力を逆手に取り、軽々と畳に叩き付けて昏倒させた。

 

 

()ァァァ()ィィッ! 覇威(ハイ)覇威(ハイ)ィィィィッ!」

 

 

 残心を示す一瞬、真横からの“前蹴上ゲ(アッチャオルギ)”を躱す。強能力者(レベル3)の『念動能力(テレキネシス)』であるテコンドー部主将は更に“踵落トシ(ネリョチャギ)”からの“前蹴リ(アプチャギ)”の流れで、物理的な反動を能力で無視した高速の足技を繰り出して────蹴り脚を腕に見立てて足首を取り、外側に身を返しながらの“()小手返(コテガエ)シ”にて、頭蓋から思考機能を畳に散逸させた。

 

 

「囲め、数で押せ!」

 

 

 そこに、呼び声と足音。現れたのは防具にて完全武装した剣道部員四人。揃って中段に竹刀を構え、此方の隙を狙っている。

 それを見回しながら、思わず溜め息が出た。

 

 

「ジュゼの野郎、何が人材不足だ。“乱戦(小テスト)”のラスト十人に全員残って来てンじゃねェかよ」

 

 

 残念ながら、合気道部は現主将の『蘇峰 古都(そほう みやこ)』が補修の為に不参加であり、以下四人は早々に全滅。今や、嚆矢だけだ。

 それだけに、これだけの数が残って居るのはそれだけ剣道部の実力が突出している証明となる。

 

 

(四人全て“雖井蛙流(セイアリュウ)”か……)

 

 

 実際、隙無く“平法(ヘイホウ)”を構える四人を見てそう思う。弛まぬ修練の跡を快く、目映く見ながら。

 右手を、前に。正面の剣道部員を誘うように、天に向けた掌で挑発(手招き)した。

 

 

「舐めやがって────!」

「おい?!」

「クソッ、釣られんなよバカが!」

「仕方ない────行くぞ!」

 

 

 挑発に乗り、突出した正面の剣道部員に引き摺られて四人が波状攻撃に出る。恐らく、こうして集団戦で勝ってきたのだろう。かの新撰組の常勝戦法も、“袋叩き”だったと聞く。

 先ず、正面の一人が竹刀を手にしたまま────深く、身を沈み込ませた。右膝を突き、左膝を立てた状態で下段から胴を払う“折敷胴(オリシキドウ)”を。

 

 

「一手教えて“一教(イッキョウ)”」

「な────?!」

 

 

 繰り出された腕を取り、面を打ち据えながら手首を返して肘、肩を極めた。“正面打(ショウメンウ)一教(イッキョウ)”に竹刀を取り落とし、雌雄は決した。

 

 

「二手教えて“二教(ニキョウ)”」

「く、あっ?!」

 

 

 直ぐに身を返して背面からの一撃を掴み取り内側へと捻ると、肩に相手の手を当てながら伸ばさせた肘と肩を極めて腰を崩す。最後に面を手刀で打ちながら頭から倒す“正面打(ショウメンウ)二教(ニキョウ)”で、もう一人を。

 

 

「三手教えて“三教(サンキョウ)”」

「ちっ、畜生ォォォ!」

 

 

 更に右の一人の一撃を躱して、延びきった腕を取る。内側に捻り、肘を折り曲げながら極めて腰を浮かせながら面打ちと投げを。“正面打(ショウメンウ)三教(サンキョウ)”で、三人目を。

 

 

「ッ()ァァァァァ!」

 

 

 そして、最後に────右膝を立てながら左膝を突き、返しの一太刀を繰り出した四人目を。

 

 

「バっ────!」

「────四手教えて“四教(ヨンキョウ)”」

 

 

 跳躍して飛び越えると、回り込んで背面に腕を(ひし)ぎながら“横面打(ヨコメンウ)四教(ヨンキョウ)”で打ち倒す。竹刀を取り上げれば、それで終わり。

 

 

「成る程な、ジュゼが嘆く訳だぜ……修行が足りねェな。もう一遍、蹲踞からやり直せ」

 

 

 竹刀を担ぎ、訓示の如く。自分が義父(ちちおや)にそうされたように、横たわる四人に吐き捨てた。

 

 

「ハッ────全く、耳が痛いんだぜ! だけどコウ、テメェん所こそ四対一で手も足も出ねぇなんて笑えんだぜ」

「ッ!」

 

 

 刹那、猛烈な勢いで迫った払いを竹刀で受ける。鍔迫り合いに見詰め合った相手は────槍術部主将を打ち倒した勢いのまま、両足から()()()()()()()現れた。

 

 

「よう、ジュゼ……数任せとは相変わらず、器がちっちェえなァ!」

「うるせェんだぜ、ロリコン野郎。先人(いわ)く、『勝てば官軍負ければ賊』!」

「違いねェ!!」

 

 

 剣道部主将にして、嚆矢にとっては親友の一人。大能力者(レベル4)の『発火能力(パイロキネシス)』、弐天巌流学園三年“錣刃 主税(しころば ちから)”こと『ジュゼ』。

 触れたモノや己の体から瞬間的に一方向にベクトルを集中させた炎や熱波を放つその能力、付いた渾名が『爆縮偏向(アフターバーナー)』。同系統の能力者でも屈指の実力者である。

 

 

 そしてその剣は、“小乱蜻蛉崩(ショウラントンボクズシ)”。安土桃山時代に勃興した“天流(テンリュウ)”の技だ。

 

 

「「ッ!」」

 

 

 その二人が、互いに弾き飛ばしながら距離を取った──その刹那、二人が居た空間を人影が走る。少林拳部主将が、物凄い勢いで……()()()()()()()()()

 

 

「ぶふぅ……やっぱり、一石二鳥とはいかないんだな」

「マグラ……!」

 

 

 それを為したのは、丁髷(チョンマゲ)に回し姿の巨漢。やはり、嚆矢にとっては親友の一人。相撲部主将にして大能力者(レベル4)の『圧力操作(コンプレッサー)』、弐天巌流学園三年“土倉 間蔵(つちくら かんぞう)”こと『マグラ』。

 己の周囲の気圧を操る攻防一体のその能力、付いた渾名が『気圧隔壁(エアロック)』。やはり、同系統の能力者でも屈指の実力者である。

 

 

「やっぱり残ったのはこの面子か」

「当前っちゃ当前なんだぜ」

「嘆かわしい事なんだな」

 

 

 竹刀を投げ、右手を前に出した構えを取る嚆矢。合気道部主将にして異能力者(レベル2)の『確率使い(エンカウンター)』、弐天巌流学園三年“対馬 嚆矢(つしま こうじ)”こと『コウ』。

 確率を操り、『一から九十九の間ならば好きな結果を掴み取れる』その能力、付いた渾名が『制空権域(アトモスフィア)』。他に同系統の能力者の居ない、唯一にして普遍たる能力者である。

 

 

「「「────────」」」

 

 

 睨み合う三人、それは“三竦み”。嚆矢と間蔵と主税、竜と虎と鷹の三つ巴の間柄だ。同学年であり親友であり好敵手。絵に描いたかのような、間柄。

 

 

「どうした、来いよ? おチビちゃん、ビビってる?」

「カァッチィ~ン……あぁん、何か言ったかぜ、独活(うど)のロリペド」

「カァッチィ~ン……俺をあんな犯罪者予備軍と一緒にしてんなよクソチビ」

「ぷふぅ、チビとペドが噛み付き合ってるんだな」

「「うるせー百貫デブ!」」

「カァッチィ~ン……なんだな」

 

 

 ……断じて、親友である。その筈である。青筋立てて舌鋒を交わし合い、睨み合う三人は。全く同時に丹田に気を(めぐ)らせ、それを総身に、腕に、足に染み渡らせ─────

 

 

「────それまででェェェい!」

 

 

 練武館を揺らした大号令に、全てが動きを止めた。練武館の三階席、別名『天守閣』と呼ばれる観閲席に座してこの乱戦を眺めていた────和服に白髭を蓄えた壮年の男性、この学園の校長である『五輪 飛燕(いつわ ひえん)』。

 

 

「通例であれば、最後の一人となるまで終わらぬのがこの乱戦の常……しかし、あろう事か生き残っているのは三年のみ。情けない……恥を知らぬか、二年! そこの三人は、貴様らの時分にはもう其処に立っていたぞ!」

 

 

 不甲斐ない下級生に向けられた怒号に、九十七人全てが震えた。それだけの圧力を備えた、低く恐るべき声だった。人の心をへし折る声だった。

 

 

「此度は此処まで……次回は八月末! それまでに鍛え直しておけい!」

 

 

 踵を返し、陣幕の奥に消えた校長を見送り、百人は一斉に安堵を漏らした。無論、嚆矢達三人もそうであり。

 

 

「……じゃ、帰ろうぜ。ジュゼ、マグラ」

「おう、どっか寄ってくんだぜ?」

「軽く飯でも食うんだな」

「お前の軽くは俺らの重くだから」

 

 

 交戦の構えを解き、出口に向けて歩き出した。その道々。

 

 

「有り難うございました、先輩!」

「勉強になりました!」

 

 

 そんな風に頭を下げられ、軽く手を振りながら。着替える面倒さからそのまま帰る事として。

 

 

 数分後の日盛りの最中、うんざりする暑さを掻き分けながら歩く。傍らには竹刀の先に防具をぶら下げた主税と、浴衣を着て扇子を扇いでいる間蔵。

 

 

「じゃあ、『坂上の雲』で暇潰すか」

「よっしゃ、じゃあイくんだぜ」

「文句なしなんだな」

 

 

 今日は風紀委員の活動は昼からの許可を得ている、どこか近くの喫茶店で時間でも潰そうと、校門を歩み出た。

 

 

「へぇ、風紀委員の活動を投げ出してまで、何処に行かれると?」

「坂の下にさ、うちの学生を狙い撃ちにしたみたいにコッテリ且つガッツリな定食屋が……って、黒子ちゃん?!」

 

 

 多数の弐天巌流学園生徒から注目を浴びつつその校門に寄り掛かっていた、黒子に冷たく問われたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

「本当、貴方の不真面目には驚かされますの。これは固法先輩に報告させて頂きますわ」

「違う違う、違うよ黒子ちゃ~ん。俺はただ、学友との旧交を暖めようとしてただけでさ、決して面倒臭くて風紀委員の活動を先延ばしにした訳じゃないんだよ~。あ、昼飯食べた? まだなら是非奢らせてほしいなぁ、だから是非みーちゃんには内緒の方向で」

 

 

 ずんずんと坂を下る黒子の後に追い縋るように、揉み手しながら嚆矢は言い訳に勤しんでいた。まるで、浮気がバレた軟派男のように。

 尚、彼女としてもそこまで怒っている訳ではない。まぁ、ある意味でのじゃれ合い……なのかも知れない。

 

 

 その姿を見ながら、先ほどまで彼を尊敬の眼差しで見ていた後輩達は同じ事を思う。『これさえなきゃ、()い人なのに』と。

 

 

「いや、ほんとほんと! 反省しました、だからみーちゃんには……ああもう、こんな時に」

 

 

 と、丁度坂を降りた辺りで彼の携帯が鳴る。誰かと思い、出れば。

 

 

『あ、こんにちはコウくん。ママですよ~。久しぶりに掛けちゃっ』

「ちょっと今忙しいから後でね、義母(かあ)さん!」

『あっ、待ちなさいコウくん! 色々あるけど、取り敢えずは必ずお友達を信じるのよ、絶対よ!』

 

 

 プツッ、と携帯を切る。言われた事は、別に普通の事。しかし、あの義母(ははおや)が言うからには何か重要な事なのだろう。

 だが今は、それよりも大事な事がある。もう二十メートルは先を歩いている、黒子を追い掛ける。

 

 

「ちょ、待ってくれって────」

 

 

 そこで感じた、学園都市では先ず嗅ぐ事の無い焼けた薫り。芳しい紫煙の香気に、思わず振り返る。反対車線を歩く後ろ姿、黒いローブに身を包む大兵の────思い詰めた表情で煙草を吹かす、赤髪の魔術師。見間違いようもない、あれは。

 

 

「────」

 

 

 駆け出し──そうになった体を、押し留める。気にしてどうする、此方を襲ってきた訳ではない。別に、奴は……ステイル=マグヌスは、()()()()()()()()訳ではないのだから。

 

 

「……先輩、どうしましたの?」

「ッ、あ、ああ。何でも……」

 

 

 冷や汗すら流した嚆矢の様子を、流石に不審に思ったのか。黒子の方から彼に話し掛ける。それに正気に戻り、一瞬だけ表層に浮かんだ……“魔術師としての顔”を吹き消す。

 いつも通り、ヘラヘラと。軟派な顔を、仮面を被って。もう一度見遣った反対車線。そこにはもう、人影すらなく。それに、安堵を覚えて。

 

 

「じゃ、風紀委員の仕事と行こうか」

 

 

 沸き上がる不安を掻き消すように、頚から下げた『兎の脚(ラビッツフット)』を握り締めて。『いつもの一日』を送るべく、黒子の肩を軽い調子で抱いて。護身術で投げられて────

 

 

………………

…………

……

 

 

 活動を終えた夕方、現在時刻十八時ジャスト。嫌がる黒子を寮まで送ろうとして、空間移動(テレポート)で撒かれて。学ラン姿の嚆矢は、一人公園を歩く。有り体に言えば、暇だった。

 

 

「……お、自販機」

 

 

 見掛けた自販機に、喉の乾きを覚える。幸い、麦野から貰ったマネーカードは家賃や光熱費を払っても、まだまだ潤沢だ。

 差し入れ、釦を押す。芋サイダー……ではなく、その隣。椰子の実サイダー……でもなく、黒豆サイダー……でも、勿論なく。普通のブラックの缶コーヒー。

 

 

 そして、カフェオレ。いつもの癖で、当ててしまったのだ。

 

 

 カシャリとブラックのタブを開け、煽る。冷たい苦味が心地よく、喉を滑り落ちていく。人心地つき、溜め息を溢して。

 

 

「…………」

 

 

 近くのベンチに腰を下ろし、脚を組んで空を仰ぐ。極彩色に染まり行く空、逢魔ヶ刻の暮空を蜂蜜色の瞳で。

 

 

『とうまのとこ、もう行っても大丈夫だよね? ね、こーじ』

『あぁ、勿論。付いててやりな。けど、騒ぐのは』

『うん!』

 

 

 苛立ち紛れに、金色の髪を掻き毟る。その胸に去来する思いがある。雲丹じみたツンツン頭の少年と、白い修道女(シスター)

 手当てを終え、眠る少年へと脇目も振らずに駆け寄った少女。微笑ましいその純粋、微笑ましいその無垢。あれは……己が『護りたい』と願ったものではなかったのか。

 

 

「…………っクソ」

 

 

 関係無い。あれはただ、偶然に交わっただけだ。涙子の時とは違う、あれは『非日常』だ。だから、深入りする理由などはないのだ。

 

 

 それでも。訴え掛けるものがある。あのステイルだけでも、限界以上を発揮して、且つ運に味方されて倒す事が出来た程度の己。加えて、未知数の『日本刀の女』……確か、『神裂 火織(かんざき かおり)』と言ったか。『女』という、飛び切り致命的な弱点。

 あれらが、何を望んで何をしようとしているのか。全く関わり合いの無い己には、知る由もない。己には、関わらなかった己には……それを知る権利すら、無いのだ。

 

 

 鬱々と、気分が沈む。自らの浅薄を恥じ入るばかりだ。何より、上がらない腰に。動こうとしない脚に、失望して。

 

 

「……何を悩んでいるんですの、貴方らしくもない」

「────黒子、ちゃん」

 

 

 そこに、珍客が。撒かれたと思っていた、黒子だ。彼女が、いつの間にか隣に腰を下ろしていた。

 

 

「貴方、分かりやすいんですもの。お姉様と一緒で、顔には『悩んでます』ってでかでかと出してるくせに、態度では示さないんですから」

「…………」

「ふぅ……これは重症ですの」

 

 

 そんな、年下から小馬鹿にされた所で反駁の言葉すらも出ない。余りに図星で、返す言葉もなく。代わり、差し出したカフェオレ。彼女はそれを受け取り、やはりカシャリとタブを開けて。

 

 

「これはもしもの話なんだけどさ……正義を行うには、資格がいる。そいつには、無い」

「…………」

「そいつは……限りない『悪』だ。それも、最も唾棄されるべきの。そんな、人間だ」

 

 

 『女性に問われた』からには、嘘も詭弁も使えない。何の(てら)いもなく、嚆矢は黒子に本心を述べる。そして黒子は、それを受けて……天を仰いだままの彼の横顔を強く見詰めていて。

 だから、血が流れそうな程に握り締められた拳は……視界の端にしか、捉えられていなくて。

 

 

「もしもの話、そんな人間が……正義でしか誰かを救えない時。そいつは正義を行っていいのか。そいつは────胸を張って、誰かを救っていいのか。それが、俺には分からない」

「……………………」

 

 

 さわ、と風が吹き抜けた。土の臭いを孕んだ、夕暮れの涼やかな風だった。『馬鹿を言うな』と、『恥知らず』と糾弾するような、過去から吹くような強風だった。

 雲が、細く流れている。上空でも、風は強烈に吹いているらしい。怒りに任せたかのように、だろうか。

 

 

「わたくしには、よく分かりませんの。所詮は小娘ですし」

「……そりゃ、そうだよな。アハハ、ゴメンね」

 

 

 漸う、帰ってきたのはそんな言葉。否、少し考えれば当たり前のような気もするが。

 そもそもこんな内容、親友でも尻込みしそうなもの。それを、知り合って二週間ほどの相手に何を相談しているのか。今更に、厚顔さに顔が熱くなる。後は誤魔化すように、笑うしかなくて。虚無的な笑顔を浮かべて、黒子を見遣り。

 

 

「ですが……もしもそれが、大事なものなら。わたくしは正義だの悪だのを論ずるよりも先に、動きますの。後悔だけは、したくありませんから」

「─────」

 

 

 その眼差しが、見詰め返された。美しく透き通った、決意に満ちた瞳。目映いばかりの、輝きを称えた……若き瞳だ。

 対し、なんと濁ったものか。その瞳に映る、己の硝子玉の如き瞳に……心底の失望を覚えながら。

 

 

「……そう、か。そうだな。どのみち、やらなきゃ何も変わらないか」

 

 

 ただ、それだけを呟いて。正真正銘、絶望しながら。そもそも、()()()()()()()()()()()()を思い出して、苦く笑う。

 取り出した煙草、それを銜えて。黒子が何かを言う前に、火を燈して紫煙を燻らせる。

 

 

「……有り難う、黒子ちゃん。お陰で、やるべき事が分かった」

 

 

 立ち上がり、飲み干していた缶コーヒーを投げる。それは確率に導かれ、過たずに屑籠へ。

 吹き抜ける風に、紫煙を靡かせながら。決意を満たした瞳で、嚆矢は歩き出す。黒子を置いたままに。

 

 

 『軟派な彼』ならば、絶対にやらないような不手際だ。だが、今の『硬派な彼』では望むべくもない。

 

 

「……軟派でも大概ですけど、硬派も大概ですのね。あの人……」

 

 

 歩き去る嚆矢から目を離してカフェオレを含みつつ、黒子は呟いた。風紀委員であり、一応は『合気道』を齧った彼女。そんな俄の身からしても、()()()()()()あの戦い様は見事な物であり、少しは見直した物であって。

 初めて真面目な表情を見た、あの『幻想御手(レベルアッパー)事件』を思い出して。思い出したくもない悍ましい犬じみた怪物に怯えた気持ちと、その時、背後から抱き竦めてきた彼の横顔を思い出して……一瞬だけ頬を赤く染めて。少しは、恩を返せたか、と。

 

 

「……まぁ、良しとしますの」

 

 

 こんな形でしか発破を掛けられない自らを不甲斐なく思い、切なげに笑いながら。飲み干した空き缶を、嚆矢が投げ入れたものと同じ屑籠へと空間移動(テレポート)させて、叩き込んだのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

29.July・Night:『Ath nGabLa』

 

 

 辿り着いたのは、二十時を過ぎてから。一度しか行った事の無い場所を探しだすのは、中々に骨が折れた。

 一つ深呼吸、扉をノックする。暫く待っても、応答がない。聞こえなかったのかと、今度はインターホンを鳴らせば────とたとたと、走ってくる音。

 間違いようもない、あの娘の足音。耳というより、鼻で感じる。ミルクのような甘い香り、()()()()修道女の。

 

 

「あ、こんば────」

「もー、うるさいよ! とうまが起きちゃうんだよ!」

 

 

 そしてやはり出てきた白い修道女(シスター)は、ぷりぷりと頬を膨らませていて。

 

 

………………

…………

……

 

 

 勝手知ったる人の家、卓袱台脇に腰を下ろしてそれを眺める。相変わらず布団に寝ている少年『上条 当麻(かみじょう とうま)』……には一瞥だけ、その眼差しは対面でモリモリ唐揚げ弁当を食べている禁書目録(インデックス)に向けられていて。

 

 

「ハハ、良い食べっぷりだ。これも食べるかい?」

「いいの?!」

「勿論」

 

 

 実に気持ちの良い食べっぷりである。ウジウジ悩んでいた己が莫迦莫迦しくなる程に、幸せそうな表情で。

 まだ手を付けていない自分の分と目覚めていない当麻の分、銭湯に行ったという『月詠 小萌(つくよみ こもえ)』の分をも渡す。

 

 

「やったー! ありがとうなんだよ、こーじ!」

 

 

 それを受けとると、モグモグと栗鼠かハムスターのように文字通り頬袋を膨らませながら食べて。

 それを微笑ましく、喉に詰めたりしないように見守りながら、嚆矢は冷蔵庫から取り出した缶ビールを煽る。炭酸と、細胞に染み入る酒精(アルコール)の心地好さ。熱帯夜の熱気に蒸された体を内側から冷やす麦酒に、天魔(あま)色の髪を掻きながら微笑む。

 

 

──そうだ、やはり。見て見ぬ振りなど、俺にそんな権利は無い。俺は誓約(ゲッシュ)を果たす。

 喩え……それで、誓約(ゲッシュ)(そむ)く事になろうとも。俺は────

 

 

 グッと、頚から下げた『兎の脚(ラビッツフット)』を握り締める。痛い程に強く、全体に刻まれた原初ルーンと青菫石(アイオライト)の首飾りを。

 気付けば、それを彼女が見詰めていた。箸をグーで握り締めた、子供のような姿で。

 

 

「それ、魔術士の護符(アミュレット)だよね? 随分手の込んだ礼装なんだよ」

「ん、ああ。義母(ははおや)からね、貰ったんだ」

「へ~、ケルト系の魔術士なんだね」

「ん~、正確には魔女(ウィッチクラフト)かな。後、神代からの騎士の家系だとか」

「“フィオナ騎士団”……ううん、ひょっとして“赤枝の騎士団(レッド=ブランチ)”? すごいんだよ!」

「まぁ、俺は養子だからあくまで侍従(つきびと)。本当の末裔は、義妹(いもうと)の方だけどね」

 

 

 珍しく、魔術の話が出来る相手との会話に花が咲く。先ずは、己の情報から。その合間に、“話術(アンサズ)のルーン”を刻む。

 

 

「因みに、インデックスちゃんのとこってどんな感じの教会なんだい? その繋がりで、()()に追われてたんだろ?」

 

 

 『必要悪の教会(ネセサリウス)』とか言う教会の内情。或いは、ステイルと火織の情報を聞き出すべく。

 

 

「えっとね……わたし、一年前以前の記憶はないんだよ」

「記憶がない?」

「うん、何でかも分からないんだよ」

 

 

 だが、返ってきたのは申し訳なさそうな表情とそんな言葉。これで、どうやら道筋は途絶えた。少しでも情報を得て、あの二人に優位に立てるものが欲しかったのだが。

 記憶が無いのでは、仕方ない。女性の言葉だ、嚆矢は疑わない。()()()()()()()が。

 

 

「ふふ、こーじはいい人だよね」

「? なんだい、いきなり?」

「だってこーじ、ご飯一杯くれるし魔術も信じてくれるし」

「そりゃ、金はあるし魔術は知ってたしね」

 

 

 と、唐突に彼女が微笑む。既に二つ目の弁当を平らげ、三つ目の海苔弁に手を掛けながら。

 

 

「でもでも、とうまは魔術を信じてくれないんだよ。超能力は信じてるし、自分も右手に“幻想殺し(イマジンブレイカー)”なんて代物を持ってるくせに。この“歩く教会”も、それで壊されたんだよ?」

「ハハ、人間なんてそんなもんだよ。誰しも、()()()()()()()()()()()()は信じたくないんだ」

 

 

 飲み干した空き缶をクシャリと潰し、ゴミ箱に。窓から見える夜空は、赤く潤んだ下弦の月。禍々しく笑う口許のように、つり上がった月だ。

 その不吉さに、期の到来を悟る。有意義な時間だった、確かに────再確認は、出来た。

 

 

「じゃ、あんまり病人が居て家主さんが居ない所に長居する訳にはいかないし……お暇するよ」

「ん~、もふかへるほ?」

「こらこら、口にモノ入れたまま喋らない。またね、インデックスちゃん」

「ん、んっく……ふぅ。うん、またねだよ、こーじ」

 

 

 立ち上がる共に手を振れば、同じものが返ってくる。充分だ、これで。これで────()()()()()()()()()()()()

 

 

 ポン、と一度頭を撫でてから扉を開け、夜半の都市へ。冷めやらぬ熱気と、闇の中へ歩み出る。

 懐から煙草とライターを手に、立ち止まらずに火を点す。それを思いきり肺腑で味わいながら、手摺に寄りかかりつつ。

 

 

「…………」

 

 

 紫煙を燻らせ、闇夜に吐き出す。弱い風に吹かれ、煙は高く登りながら消えていく。

 

 

呵呵呵(かっかっか)、面白いのう。面白い程に面倒な思考回路じゃ、貴様は」

「煩せェ……」

 

 

 その男の背中に沸き立った影が、和服の娘となる。唐突に負ぶさった市媛は、燃え盛る三つの眼差しで彼を嘲笑っていた。

 

 

「それで? 先程の小部屋には去りげに何やら()()()をしておったようじゃが……この後は、どうするのかの?」

「……そこまで分かってんなら話は早い。後は、待つだけだ」

「ふむ……」

 

 

 振り返る事もなく、扉の前で仁王立ちに。そのまま、『感じる』。周りの空気の()が変わった事を。前にも、似た空気を感じた事がある。あれは、そう……初めて魔術師との戦いを経験した夜に。

 

 

「どうやら、手間は省けたようじゃな」

「ああ、向さんから来てくれるとはな」

 

 

 『人払い』のルーンによる、深海の如き静寂。人の気配は、自分のモノを含めて背中の一人と後ろの部屋の二人のみ。そしてどうやら、“悪心影(あくしんかげ)”の『音源探知(みみ)』には、()()()()を捉えているらしい。

 勿論、他の誰である筈もない。階段から聞こえてきた足音、他には低く、地の底から響くような虫の声しかない夜の静寂(しじま)には大きく響いて。

 

 

「今晩は、というべきでしょうか?」

「挨拶などどうでもいい────何の用かな、吸血魔術師(シュトリゴン)?」

 

 

 刀を携えた『神裂 火織(かんざき かおり)』と、煙草を吸うステイル=マグヌスの二人が。

 

 

「俺が何処で何しようと、俺の勝手だろう。アンタ等こそ、何しようとしてんだ?」

 

 

 返答はない。返ってきたのは、苛立ちと殺意の籠る視線のみ。彼等にとっては、正に闖入者であろう。

 

 

「何でも良い、邪魔をするのならば────」

 

 

 煙草を投げ捨てる。虚空に赤く残光の螺旋を描きながら落ちていく煙草が、炎の剣となる。ステイルの魔術、『炎剣』が。

 鈍く月の光を照り返した銀刃、“七天七刀(シチテンシチトウ)”を抜き放った火織が。

 

 

 それを構えた姿で、火織とステイルは一歩前に進み────その『陣』に踏み込んだ。

 

 

「“大鹿(アルギズ)”、“必要(ナウシズ)”、“神王(アンサズ)”、“豊穣(イングス)”」

「っ……!」

 

 

 刹那、嚆矢が唱えたルーンが。予め配置していた『カード』による、四文字のルーンからなる『四方陣』が励起した。

 

 

「ルーンの魔陣……ステイル、これは?」

「…………まさか、ここまでやるとはな。見直したよ、やっぱり君はイカれてるな!」

 

 

 火織の問いに答える事もなく、ステイルは口角を吊り上げた。この四文字、その意味を正しく理解しているからこそ。

 

 

「そりゃどうも。流石に同じルーン使いだ。この“浅瀬の四枝(アトゴウラ)”、分かって貰えたかい」

「『その陣を敷いた者は敗北を赦されず、その陣に臨む者は退却を赦されない』…………君達、“赤枝の騎士団(レッド=ブランチ)”の、一騎討ちの大禁戒!」

 

 

 ケルト神話の大英勇、アイルランドにおいてはアーサー王すらも凌ぐ名声を誇る『クー=フーリン』が敷いた魔陣『浅瀬の四枝(Ath nGabla)』。

 故国に攻め入る敵兵を、一騎討ちにて押し止めた浅瀬の攻防戦の再現を成して。

 

 

「そうだ。つまり、貴様らは此処で……殺す────俺が」

「理由は。赤の他人の為に、何故」

「『()()』? これだから、外国人は」

 

 

 嚆矢が、煙草を棄てる。虚空に投げ出された煙草は、くるくると螺旋を描きながら────虚空を食い破って現れた刃金の螻蛄、神鉄を纏うショゴスにより喰われて。

 更に、背後に『影』を背負う。燃え立つ三つの眼差しで一堂を嘲笑う“悪心影(あくしんかげ)”。それに与えられた“圧し斬り長谷部”を携えて。

 

 

「『袖擦り合うも他生の縁』……それが、日本男児の心意気なんだよ」

 

 

 吐き捨てながら決意の眼差しを向け、鯉口を切りながら柄に手を掛ける。まるで、舞でも舞うかのように脚を踏み出して。

 

 

「“人間五十年……下天の内を競ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり”」

 

 

 砕け散るように、ショゴスが分解した装甲を乱舞させる。黒い刃金と黒い影、その二つが入り乱れた嵐の中。嚆矢は、誓句を唱える。

 

 

「“一度(ひとたび)(しょう)を得て”……」

 

 

 構えたのは、嚆矢だけではない。火織とステイルもそれぞれ、得意な構えを取って嚆矢の動きに備えていて。

 

 

《────“滅せぬものの、在るべきか”!》

 

 

 装甲を遂げ、全身を刃金とした嚆矢が二人を見遣る。燃え盛る三つの深紅の眼差しを瞬かせ、装甲の隙間から血涙を流すショゴスの瞳を覗かせながら。

 

 

手心(ハンデ)だ────二人懸かりで来い》

 

 

 挑発の言葉を弄する。腕を組み、舐めた態度を崩さぬままに。

 

 

「……駆動鎧、だったか。学園都市の最新技術。それを魔術で強化しているようだ」

「構いません、なんであれ斬り捨てるのみ」

「全くだ。では、改めて自己紹介と行こうか」

 

 

 その巨躯を見詰め、驚きを通り抜けた火織とステイルは既に冷静を取り戻している。当たり前だ、この二人は歴戦の古兵(ふるつわもの)

 そこらの若輩が幾ら意表を突こうが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 挑発に乗る事もなく、心を動かす事もなく。

 

 

「イギリス清教内第零聖堂区『必要悪の教会(ネセサリウス)』所属────“ Fortis931(我が名が最強である理由を此処に証明する)”」

「同じく────“Salvare 000(救われぬ者に救いの手を)”」

 

 

 ()()()、『魔法名』を名乗った魔術師二人を前に。

 

 

柳生新影流兵法(ヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)破門……対馬 嚆矢(つしま こうじ)────(つかまつ)る!」

 

 

 正調の武者上段。莫迦正直、莫迦の一つ覚えの“合撃(ガッシ)”の構えで迎え撃つ────!

 

 

………………

…………

……

 

 

 ()だるような夜気と夜闇を斬り裂いて、刃金の兇刃と煌めく銀刃が鍔競り合う。『長谷部国重』と『七天七刀』、その二振りが眩めくような火花を散らす。

 マンションの通路という隘路での戦い、数の利を殺すし守りを易くすると期待して。

 

 

 腕力では、筋繊維の如く張り巡らせたショゴスの強化により此方が遥かに上だ。しかし、精密さと速さは火織(むこう)が上。しかも、厄介な事に。

 

 

《クッ!》

 

 

 装甲を衝撃が撫でた。兜に胸部と肩、右前腕の装甲に七つの斬撃が鋭く痕を残す。跳ね退きながらの攻撃だ。

 これで、二度目。既にショゴスが修復を始めている。何らかの魔術かとも思うが、貫通する程ではないにせよ『見えもしない斬撃』には舌を打つしかない。

 

 

(長さだけでも六尺七寸(二メートル)、野太刀より更に長いッてのに……見えない斬撃なんておまけ付きかよ!)

 

 

 その刃。神裂火織の振るう七天七刀を見遣る。極端に長いその刀は、明らかに通常の規格を逸脱している。

 あんなもの、使い辛くて仕方無い筈だが。だが、お陰で二尺二寸(六十五センチ)程度の長谷部では手の出しようもない。

 

 

 そんな長物を使っての居合を信条とするのか、鍔の無い刀を鞘に納めた彼女は。

 

 

《フム……あれは恐らくは実戦に使用するものではなく、儀礼的な意味を持つ“令刀(れいとう)”であろう。それをこうも巧みに使い熟すとは、大したものよ》

(そうか……あの長さ、何とかしねェと“打刀(うちがたな)”じゃ手が出ねェ────なッ!?)

 

 

 火織が刀を抜いたその刹那、()()()()()が武者を撫でる。肩、太股、肘、膝、首。正確無比に、()()()()()を。

 ショゴスの被膜が弾け、肉が抉られた。もしもショゴス無しなら、今頃は斬り離されていただろう。現状でも、深手と言って良い。

 

 

「熟考ですか? 随分と暢気な……私の“七閃(ななせん)”も舐められたものです」

「そして僕も、ね!」

《ッ……ショゴス!》

『てけり・り! てけり・り!』

 

 

 すかさずショゴスに命じて傷口を塞ぐも、鋭い痛みと急速な失血にぐらりと揺らいだ身体。その隙を逃す事無く、七天七刀と『炎剣』ががら空きの胴体に迫る。幾ら『南蛮胴』を纏うこの身とは言え、()()はある。

 火織が狙ったように、如何に強固であろうとも装甲には必ず隙間が在り。そして何より────

 

 

「“炎よ(Kenaz)────巨人に(Purisaz)苦痛の(Naupiz)贈り物を(Gebo)”!」

《止めよ、嚆矢!》

《ク────ッ!》

 

 

 “悪心影(あくしんかげ)”の声に、すかさず左手で抜いた脇差“宗易正宗”で炎剣を受け止めた。それでも、輻射熱でジリジリと装甲が()かれている実感がある。

 ()()()()の神経細胞への分化により張り巡らせた擬似的な触覚の再現、装甲を皮膚に見立てた神経伝達を行っている為だ。

 

 

(……おい、なんか装甲が焼けてる気がするんだが)

呵呵(かっか)、“這い寄る混沌”の属性に加えて(わらわ)の末路的に火は飛び切りの弱点じゃ。食らえば只では済まぬぞ?》

(巫山戯んな、どんな愛憎模様だ! あんなに燃やせ燃やせ言ってただろ!)

《燃やすのは好きなんじゃがの、燃えるのは勘弁じゃ》

 

 

 その魔術に対抗し、結構な生命力を消費して魔力に昇華しながら。底冷えするかのような震えはその為か、もしも嚆矢の能力(スキル)が『確率使い(エンカウンター)』でなければ今頃は頓死している頃合。

 まぁ、それでも最低限の反動(ダメージ)は蓄積している。()()()()()()生命力を蝕まれるこの鎧、そして()()()()()を必要とするショゴス。

 酷い二日酔いのような、不快な疼痛が脳髄全体に絡み付いている。この調子でいけば、あと二十分と持つまい。

 

 

灰は灰に(Ash To Ash)────塵は塵に(Dust To Dust)────吸血殺しの(Squeamish Bloody)紅十字(Rood)!!!」

 

 

 駄目押しの、炎剣二本目。それを────

 

 

空間転移(ディメンション)反転(ネガ)!》

 

 

 向けた肩部装甲板、胸部装甲の次に強固な装甲板を向けて。其処に在る発振器から発する空間の()()()()により、紅蓮の十字架を()()()()()()()して。

 

 

「よく防ぐ……流石はかつての徳川将軍家剣術、柳生石舟斎の剣と言ったところですか」

「確かに……それに、大した魔術防御だ。まるで『カーテナ=セカンド』じみた性能だな」

 

 

 差し込まれた空間に、熱量を維持する事を諦めた炎剣が消える。命拾いと共に、更なる危地は直ぐ其処に。

 再度、刃を鞘に納めた火織の姿。縦に構えた抜刀術は、多少知る『田宮流居合術(タミヤリュウイアイジュツ)』とも『林崎神明夢想流(ハヤシザキシンメイムソウリュウ)抜刀術(バットウジュツ)』とも違う。余程マイナーな流派か、或いは我流か。

 何にせよ、()()。あれならば────確証も無しに、確信する。

 

 

(短期決戦……以外にはねェな、やっぱり)

 

 

 否、そもそもの前提が間違い。対するは()()()()()()()()だ、後、何回死線を越え続けられるのか。

 握り締める長谷部の柄。ギリ、と強化された握力に軋んで。最初から決めていたハラを、早める事として。

 

 

「余り時間も掛けていられません、時間が近い────“唯閃(ゆいせん)”を使います」

「解った……援護は任せておいてくれ」

 

 

 決めて、納刀と共に足の乱れを直そうと動いた刹那、火織が疾駆した。ただ、無造作に前に飛び出すように。

 

 

《──甘い!》

 

 

 構えを変える隙を突かれても尚、焦りもなく長谷部と宗易正宗を戻しつつ腰を深く沈める。どのみち、不退転。ならば迎え撃つ以外に選択肢は無いのだから。

 得意とする、合気の構え。少なくともそれで火織を無力化できれば、勝率は跳ね上がる────

 

 

「────そちらが」

《なッ────》

 

 

 その右手の先で、火織が消えた。否、しゃがみこんだだけだ。問題は、それに合わせてステイルが投げた『何か』が迫っていた事。

 迷わず、右手で払う。何であれ、それしかない。

 

 

 

 

 喩えそれが、火織とステイルの仕込んだ陥穽でも。

 

 

 

 

 払われた『何か』は抵抗もなく空中で砕け、火織がスライディングで嚆矢の股下を潜り抜けた後には、僅かな床面に散らばった────ルーンカードが残るのみ。

 そしてそれは、ステイルの切り札たる魔術の前準備に他ならず。

 

 

「“世界を(MTWO)構築する(TFF)五大元素の一つ(TO)────偉大なる(IIGO)始まりの炎よ(IIOF)その名は炎(IINF)その役は剣(IIMS)顕現せよ(ICR)! 我が身を喰らいて(MMB)力と為せ(GP)─────”ッ!!!」

《チィッ!!》

《ぬ、これはヤバイのう……》

 

 

 立ち上がる“魔女狩りの王(イノケンティウス)”、辺りの気温が一気に上昇する。異端狩りの焔の巨人が、獰猛な両腕を広げる。

 前には焔の巨人を従えたステイル、背後には七天七刀を腰溜めに構えた火織。形勢は完全に、ステイルと火織の有利に傾いた。

 

 

「「終わりだ!」」

 

 

 鋭く発した、声を一つに。ステイルと火織は嚆矢を挟み撃ち、必殺を振るう────!

 

 

………………

…………

……

 

 

 霞む視界の中、女は告げた。矢鱈と長い刀を携えた、黒髪の女の後ろ姿……昏倒する前に見た、神裂火織の背中は。

 

 

『後、三日。三日でインデックスの■■は────』

「────っ!!」

 

 その微睡みから、上条当麻は瞼を開く。やはり霞んだ視界は、随分と久し振りの光の刺激に視覚が混乱しているからか。

 

 

「……とうま? 起きたの?」

 

 

 光に慣れ始めた目に、此方を覗き込んでいる少女が映る。青みがかった銀髪に白い修道帽(クロブーク)を被る少女、インデックスが。

 

 

「う……インデックス……俺は何日寝てた、今日は何日だ?」

 

 

 そのインデックスに、当麻は夢の言葉を思い出しながら問うた。まだ痛む体を起こし、辺りを窺うように。胸を突く焦燥に、後押しされるように。

 

 

「えっとね、三日。わたしがお世話してあげてたんだよ」

「三日────今日がその日か!」

「ご飯食べる? さっきね、こーじが……って、どうしたの、とうま!」

 

 

 そして、今度こそ立ち上がる。今度こそ、焦燥に突き動かされて。食べさせようと弁当を持ってきたインデックスに見向きもしないで。何か当てが有る訳でもないと言うのに、カッターシャツを羽織りスラックスを穿きながら。

 外界へと歩み出るべく、扉を開こうとして────開けない事に気付く。まるで外側から、セメントで塗り固められてしまったかのように。鍵もされていないのに、扉はびくともしない。

 

 

「なんだ、これ……くそっ、だったら!」

 

 

 理不尽な出来事に、ツンツン頭を掻き毟って。それならばと、彼は窓を目指して引き戸を引いた。

 その先には、コールタールのような漆黒の壁。一切の光を見せない、真の闇の壁が行く手を遮る。

 

 それを、当麻は“()()”で殴り付けて。

 

 

「…………ホントに、何なんだよ!」

 

 

 揺らぎもしないそれに、苛立たしげに悪態を吐いた。

 

 

「魔術……空間を切り離す“魔陣”なんだよ。きっと、こーじが仕掛けてったんだ」

「こーじ……それ、誰だ?」

 

 それを眺めていたインデックスが、合点のいった顔で呟いた。弁当の下から剥がれ落ちた、貼り付けられていたルーンカードを見遣りながら。そこで漸く、当麻は聞き慣れない名前が出ている事に気付いて。

 

 

「魔術使い、だよ。とうまを助けてくれた人……あと、ご飯もいっぱいくれたんだよ!」

「そうか……って、じゃあその人はまさか……!」

 

 

 それが、自分達を守る為ならば涙が出るような話。しかし、今まで出会った魔術士が魔術士だ、逃がさないように自分達を閉じ込める為と当麻見たのも無理はないだろう。

 何としても外に出ると、その一念を定めた彼は。

 

 

「『陣』って言うからには、そのカードのルーンとか言うのを向こうにすれば良いんだな?」

「え、うん……だけど、これは一度発動したら全部消されるまで消えないと思うんだよ」

「よし、それじゃあその『こーじ』が触った場所を教えてくれ!」

 

 

 仕掛けられた『基点』を探して、部屋を巡る。先ずは卓袱台、その下に一枚。次いで冷蔵庫、その中にも一枚。窓の外側にも一枚、黒塗りの面を見せてカモフラージュしたものが。

 インデックスの『完全記憶』を持ってすれば、造作もない事であった。そしてルーンの解除……否、『破戒』も、当麻の“幻想殺し(イマジンブレイカー)”を持ってすれば容易い話だ。

 

 

「多分、次で最後なんだよ……後は、何処だろ」

「他にソイツが何かした可能性があるところは、もう無いか?」

「う~ん……もし、扉の外側とかだったら見てないからわからないんだよ」

「やめようか、挫けそうになるから」

 

 

 鉄製の扉でそれをやられては、当麻にはどうしようもない。如何に“幻想を殺す右手”でも、実在の鋼鉄には無意味。

 

 最後で足止めを食らい、辺りを見回した当麻。だが、闇雲に探しても見付かりはしない。目の前でウンウン唸っている修道女の横顔、胸くらいまでしかない身長の。

 彼は一つ、溜め息を溢して口癖を。母校では代名詞として、『三馬鹿トリオ(デルタフォース)』の残り二人から(からか)われる言葉を。

 

 

「不幸だ……」

「ひゃっ?! も~、とうま! 耳に息吹き掛けたらくすぐったいんだよ!」

「あ、悪い悪い……ん?」

 

 

 その溜め息に耳朶を撫でられて、耳と顔を真っ赤にして振り向いたインデックスの修道帽(クロブーク)が揺れた。揺れて────修道帽の後ろ、長く垂れた部分の裏側に。頭を撫でた時に仕込んだのか、うなじ付近に、周到にも白い面を見せてカモフラージュされた最後の一枚が見付かる。

 

 

「見付けた……インデックス、動くな」

「え……あ、あの、とうま?」

 

 

 しゃがみこんで視線の高さを合わせると、非難めいた表情をしていたインデックスの両肩を掴んでを向き直らせる。いきなりの事に修道女は顔どころか、()()()()()()()()()()()()()()()()首筋までもを朱に染めて。

 その首筋に、当麻は右手を────“幻想殺し(イマジンブレイカー)”を伸ばして。

 

 

『─────“我に触れぬ(ノリ・メ・タンゲレ)”』

「な─────!?」

 

 

 『起こしてはならないもの』を、起こしてしまう──────…………



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七月二十九日・夜:『竜王の殺息』

 

 

 目の前に迫る灼熱の巨人を従えた魔術士と、背後から迫る日本刀を携えた聖人。どちらも確実な致死傷を(もたら)して余りある、十字教の(ともがら)の。

 刃金を纏う鎧武者は、その狭間にて────悠然と、腕を組んで跳躍する。目前の焔の巨人(イノケンティウス)に向けて。

 飛び越す事は、この狭所では不可能。では、何故か。()()()()()()()()()をするのか。

 

 

裏柳生新影流兵法(ウラヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)────》

「ッ────?!」

 

 

 繰り出されたのは、蹴り。しかし、焔の巨人が前に立ちはだかるステイルには届きようもない。故に、赤髪の魔術士は勝利を確信して嘲笑うのみ。己がこれを防ぎ、火織が止めを刺して終わり。それだけだ。

 あんなもの、届きようもない────()()()()()()()、だが。

 

 

呵呵(かっか)────空間転移(でぃめんしょん)正転(ぽじ)!》

「が────ハッ?!!」

 

 

 その土手腹(どてっぱら)に、具足を纏う強靭な足が叩き込まれた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が。

 

 

「ステイル────!」

 

 

 裏柳生“如意輪剣(ニョイリンケン)”の勢いにステイルの巨体が吹き飛ばされ、踊り場から投げ出されて闇の中に消えていくのを火織は見た。だが、一度発動した“魔女狩りの王(イノケンティウス)”は消える事無く。

 

 

挟箱(こんてな)を開くぞ────使えぃ!》

(────拝領!)

 

 

 嚆矢は右側の、蛇腹状畳まれている一部が展開された背の挟箱より掴み出した古めかしい火縄銃を────先端に棒火矢を備えた『國友筒(クニトモヅツ)』を巨人に向けて、銃爪(トリガー)を引く。

 

 

焙烙火矢(ホウロクビヤ)────震天雷(シンテンライ)!》

 

 

 射出された棒火矢はイノケンティウスに突き刺さるや、耳を(つんざ)く轟音を轟かせながら炸裂、イノケンティウスを構成していた焔と共に霰弾を撒き散らした。足下のルーンカードを、ズタズタに引き裂きながら。

 

 

 だが、既に再生を開始している。如何に霰弾を撒いたとは言え、百パーセントは望めない。嚆矢の『確率使い(エンカウンター)』は、一から九十九までしか操れない。最後の一パーセント、その分のルーンカードがまだ残っている。

 ならば、イノケンティウスはただステイルの最後の命令を────『()()()()()()()()()()』を果たす為だけに。蹴りと銃撃の反動を利用して、空中で宙返りした鎧武者を討つ為に再び立ち上がる。

 

 

 絶対数を減らしたルーンカードの為に、崩かかりながら立ち上がろうと。

 

 

(行くぞ、“悪心影(あくしんかげ)”────合当理(がったり)を吹かせ!)

(おう)よ────最大出力じゃ!》

 

 

 その背中の、螻蛄の前肢を模した六対の偏向板付きの双発火箭(ツイン・スラスター)を吹かす。低い駆動音は、しかし直ぐに最大出力に達して爆音と排煙、爆風を撒き散らしながら────霰弾でも残ったルーンカードを吹き飛ばして、今度こそイノケンティウスを霧散させた。

 そしてその勢いは、前に進む力へと。即ち、腰部の

逆進翼の母衣(つばさ)を巧みに操作して、螺旋回転(バレルロール)で反転攻勢を火織へと仕掛ける。

 

 

《────“神明剣(シンミョウケン)”!》

「くっ────!」

 

 

 先んじて、火織が『刀』を振るう。投げ付けられた『國友筒』を、“七閃(ななせん)”にて細切れにして。

 そんな神業、それすらも取り返しがたい隙となるのが────実戦だ。その火縄銃の背後から、武者は迫る。それが裏柳生の“神明剣(シンミョウケン)”。

 

 

《勝負、あったな》

「っ……柳生の……!」

《抵抗は無駄だ、へし折るぞ》

 

 

 目前に着地し、“七天七刀(シチテンシチトウ)”を握る火織の右手首を握り止めた嚆矢。先に言った通り、力ならば嚆矢の方が上。そして、テクニックとスピードを殺されてしまえば火織には為す術もない。

 加えて、その技法は“裏柳生新影流兵法(ウラヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)小太刀崩(コダチクズ)し”。本来は相手の脇差しを利用して体勢を崩し、居合を使えなくする技。その崩しとして、火織の右手を封じて居合を阻む。

 

 

《知ってるかもしれねェが、柳生には左手一本の居合もある。諦めろ》

「…………諦めろ、ですか。今まで私達がどんな思いをしながら、こんな事を続けてきたかも知らない貴方が、それを言いますか」

《聞く気はない、興味もない。魔術士────お前達は、殺す》

 

 

 “明身(アケミ)”を知るのか、目を閉じた火織はふう、と一つ息を吐いた。その間も、嚆矢は一切たりとも力を緩めない。

 何しろ、気を緩めれば振り払われそうな腕力だ。その慮外の強力には、ただ舌を巻かされる。

 

 

 そして、火織はゆっくりと瞼を開く。魅了されそうな美貌で、それはまさに刀の如き美しさで。

 

 

「余り、『聖人』を舐めない事ですね────吸血魔術士(シュトリゴン)!」

 

 

 その左手、鞘を握っていた左手が鞘を抜き放ちながら投げ捨てた。それとほぼ同時に、嚆矢の右手の指と手首、肘に鋭い痛みが走る。

 走ると同時に、反り返る。それで漸く、今まで苦渋を舐めさせられていた“七閃(ななせん)”の正体を知る。

 

 

《糸────(いや)綱糸(ワイヤー)か!》

「如何にも────我が『天草式十字凄教(あまくさしきじゅうじせいきょう)』の秘伝たる、左文字派の逸品」

 

 

 指と手首、肘に深く食い込んだ────ピアノ線の如き刃。言葉が真実なら、名工の作であり納得の切れ味の綱糸を。

 火織の左手に操作された綱糸、それ故にか食い込むだけだったが……拘束を解くには十分過ぎた刃。そんな神業、それにより致命的な隙を産み出して。

 

 

「────“唯閃(ゆいせん)”!」

 

 

 放たれるは、彼女の切り札。莫大な魔力を纏う一撃は、過たず嚆矢の胴を抜き打ちに狙い────!

 

 

柳生新影流兵法(ヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)────“山月(サンゲツ)”》

「…………!?」

 

 

 背後に走り抜けた嚆矢の手に、白刃取りにより掴み取られていた。

 

 

「……そう、ですか。私の右腕を掴んでいたのは、()()()()()()()()()()()ため……握力を奪うため、でしたか」

《如何にも。力なら俺が上、ならばそれを生かせる“山月(サンゲツ)”を成功させる為には、それが一番》

 

 

 七天七刀を握り直し、振り返る。無造作に、その長い刃を火織の首筋に当てて。

 敗北を悟り、悔しげに俯いた火織は────

 

 

「ならば、助けてください。貴方があの娘を……インデックスを」

《……………………》

「貴方ほどの魔導師であれば、それも出来るかもしれません……ですから、どうか。私の命の代わりに」

《知らねェよ。テメェらの願いなんて、叶える義理もない。だが……その命をかけると言う言葉に偽りがないなら》

 

 

 その刃を、無造作に振り抜いて────壁面に、七天七刀を抉り込ませた。火織の首を払った、勢いのままに。

 

 

《……………………》

「……………………」

 

 

 真っ直ぐに此方を睨み付ける美貌は、一欠片すらも怯む事もなく。心弱き者であれば、直視するだけでも狂死しかねない“悪心影(あくしんかげ)”の燃え立つ眼差しを見詰めていて。

 

 

《……ハッ、大したもんだ。そんな覚悟があるなら、なんでテメェで救わねェ》

「それが出来るなら、始めからやっています。問題は、あの娘の記憶容量が持たずに生命活動を圧迫すると言う単純な事……いくら魔術でも、どうしようもない」

《はいはい、諦めの良いこって。さぞかし、アンタらを使ってる奴からしたら使いやすい駒だろうな》

 

 

 空間転移により、火織を斬る事なく振り抜かれた七天七刀を手放す。そのまま、火織を押し退けて脇を通り抜ける。

 

 

《第一、『記憶と生命活動』は使ってる脳の分野が別だろ。学園都市の人間で、マトモに勉強してる奴なら誰でも知ってる》

「え──し、しかし、最大主教は確かに」

《ソイツがどれだけの魔術師かは知らねェが、此方は脳味噌を弄くるのが専門の、クソッタレにも程がある科学の最前(いやさき)。それに────()()()だ、間違いねェよ》

 

 

 言葉に、思考を停止したかのようにフリーズした彼女の後ろの一室を目指して。“唯閃(ゆいせん)”を受け止めた事でズタボロになっている両掌を修復しながら。

 前方の踊り場に満身創痍を押して這い上がってきていた、荒い息を吐いているステイルを一瞥し、興味なしに無視して。

 

 

「待ちなさい……殺すのでは、なかったのですか?」

《…………殺しただろ、こんなド素人の魔術使いに二人がかりで負けた一線級の魔術士なんて────死んだも同然じゃねェか》

 

 

 思い出したかのような火織の問い、『浅瀬の四枝(アトゴウラ)』の誓いを。それに、振り向く事なく。『陣を敷いた者は敗北せず、陣を見た者は撤退せず』に、終わったこの戦場に背を向けて。

 嚆矢は、インデックスと当麻の居る小萌の部屋を目指して────

 

 

《嚆矢────高熱源反応、その部屋じゃ!》

(何────?)

《まだ、高まっておる…………いかん、来るぞ!》

 

 

 今し、ドアノブを回そうとした瞬間の“悪心影(あくしんかげ)”の悲鳴じみた言葉に、空間を軋ませる程の魔力の昂りを感じ取り。

 

 

《チッ────神裂!》

「くっ────!」

 

 

 その射線から逃れるべく、火織を抱えて後ろに跳ね退いた。まさにその刹那、壁ごとその空間が消し飛ばされる。

 ()()()()()()()()()、それすらも貫いて。

 

 

『警告────“首輪”の全結界の貫通を確認しました。“自動書記(ヨハネのペン)”を起動……』

 

 

 それを成した無機質で機械じみた抑揚のない声の、宙に浮かぶ白い娘────

 

 

『魔法名“Dedicatus 545 (献身的な子羊は強者の知識を守る)”は、十万三千冊の『書庫』の保護のために侵入者の迎撃を優先します』

 

 

 瞳に鮮血の如き赤色の魔法陣を(みなぎ)らせながら、周囲の空間を漆黒に染めるほどに壮絶な魔力を昂らせた『禁書目録』が、その姿を現した。

 

 

………………

…………

……

 

 

 景色が歪む、魂が軋む。その姿、その気配。それは地底の洞穴で、地底の貯水施設で感じたものと同じ────恐怖と狂気、人を壊す圧力。それもその筈、魔導書とは()()()()()()()を謳ったものだ。

 それが、あの少女から。あの無垢そのものだった筈の、守りたいと願った者から。

 

 

 苛立たしげに舌を打つ。火織を肩に担いで飛び出した夜空に、双発の合当理(がったり)の爆音を響かせて。逆進翼の母衣(つばさ)の尖端に雲を引きながら騎航しつつ、ステイルの隣に着地した。

 

 

「そんな……あの娘が、魔術を使えるわけが」

《早速、齟齬が出たな……どうすんだ、アンタら?》

「どう……って?」

《好きなだけまごついてろよ、俺は行くぜ》

 

 

 火織を下ろして、嚆矢はさっさと吹き飛んだ扉の方へ。即ち、異形の気配を身に纏うインデックスの居る小萌の部屋へと。

 既にドアは吹き飛ばされている、それに魔術的な遮断を吹き飛ばすような威力の技だ。様子見などしている間に吹き飛ばされるのが関の山、ならばと即座に飛び出して機先を制する事を選択して。

 

 

『警告────第三章、第三節。対侵入者用の特定魔術(ローカルウェポン)、“(セント)ジョージの聖域”を起動します』

 

 

 嵐が吹き荒れているかのような室内で、その目に映る異質。二日前の“屍毒の神(グラーキ)”と似た瘴気を発する、インデックスと相対する────

 

 

「────っかは!?」

《────うおっ!》

 

 

 ……気が満々だった嚆矢に吹き飛ばされてきた当麻がぶつかり、受け止められた。

 面具に保護されている嚆矢の顔面はほぼノーダメージだったが、そこに強かに後頭部を打ち付けた当麻は、その『右手』で頭を(さす)って。

 

 

《おい……今、どうなってる?》

「っつう……え、アンタは?」

《お前の命の恩人だよ、二回目のな!》

 

 

 更に、押し寄せてくる凄まじいまでの衝撃の余波。魔術・物理問わずにあらゆる干渉を跳ね除ける衝撃波を放つ魔術“我に触れぬ(ノリ・メ・タンゲレ)”の巻き起こした、爆轟の余波が吹き付ける。

 

 

「訳が分かんねぇよ! けど、取り合えずインデックスの関係者だってのは分かった、アンタも“必要悪の教会(ネセサリウス)”の魔術師か!」

《いいや────只の魔術使いだ……よォッ!》

 

 

 余りやりたくなかったが当麻を抱きすくめるようにして、肩部装甲板より発する次元挿入によりそれを無力化────出来ずにマトモに受け、損傷させられながら。

 

 

《大したものよ……次元の障壁を、ものともせんとはの。耶蘇(やそ)会の宣教師め》

(チッ──損傷状況は?)

呵呵呵(かっかっか)、この(わらわ)の大鎧を侮るでない。日ノ本一の日緋色金(ヒヒイロカネ)が最高純度たる“青生生魂(アボイタカラ)”と、南蛮一の輝彩甲鉄(おりはるこん)の合金製じゃぞ? 至って軽微、問題なしじゃ!》

(お前はさっきの“魔女狩りの王(イノケンティウス)”の時の……ええい、何はともあれ上等!)

 

 

 それでも、その強靭な装甲は痕が出来たのみで揺るがない。その事実だけで十分だとして、割り切る事にして。

 

 

「魔術使い……アンタが、『こーじ』か?」

《確かにそうだがお前、年下が呼び捨てに────》

「だったら話は早い、頼む……手伝ってくれ! インデックスの記憶を消去する必要なんてない……アイツはきっと、魔術で()()()()()()()()んだ。だから────!」

 

 

 損傷の修復をショゴスに任せ、残り少ない生命力を削りながら。眼前の脅威にのみ、集中する。

 そうしなければ、最早生き残れまい。否、それでも生き残れるかどうかは賭けだろう。

 

 

『更なる侵入者を認識────しかし、問題なし。どれ程の材質で、どれ程の厚さの装甲を備えようとも────』

《チッ────おい、上条! 邪魔だから退いてろ!》

「聞いてくれ! あの魔法陣の奥、あそこに居る奴を────!」

 

 

 故に最後まで言葉を聞かず、邪魔になる当麻を脇に退かして両肩部装甲を前に向ける。独立しているその発振器を、前に佇む脅威へと。インデックスの眼前に展開された二つの魔法陣、空間の軋みによる煌めき。形を得た魔力の結晶、寒気がする程に高純度の。

 嗚呼、確かに()()。あの魔法陣の向こうに、何か酷く残酷で悪辣なモノが。その重なった隙間、そこに位置する彼女の唇が開かれ────

 

 

『“竜王の殺息(ドラゴン・ブレス)”の前には無意味──────』

《クッ──────?!》

 

 

 放たれた極彩色の、光の波。打ち付けるように、貫くように。挿入された次元の障壁は、実に先程の二倍どころか四倍。

 だと言うのに────あっという間に発振器が悲鳴を上げる。余りの圧力に装甲が軋み(ヒビ)割れ、蹈鞴(たたら)を踏んだ脚から吹き飛ばされそうになる。辛うじて逸らしている“竜王の殺息(ドラゴン・ブレス)”の、その余波だけで全身の装甲材が表面から蒸散していく。

 

 

《ぬぅ……なんたる、おのれ!》

 

 

 さしもの“悪心影(あくしんかげ)”すら、余裕をかなぐり捨てている。もう、後十秒も持たずに加護は貫かれるだろう。

 十字教の“(セント)ジョージ”の竜退治に謳われる竜の吐息。生粋の聖人の、伝承の名を冠する一撃だ。たかだか神鉄で鍛造()たれた装甲程度に、耐え得る筈もない。

 

 

(ッ……クソッタレ……!)

 

 

 そんな殺息から、逃れる事も出来ない。逃げれば、()()()()()()()()()()()()()()()()。どうしても、このままではそうなる。

 錯覚であるのは分かるが、あの虚空に浮かぶ月にまで。或いは、届くやも知れぬと思わせられる程の魔力の奔流だ。

 

 

 だと言うのに、勝算が立たない────否、道は一つ在る。今までそうして生きてきた。その為の装備ならば、この腰に佩いている一振りでも十分。

 そう────()()()()()()()()()()、被害は彼女一人で済む────

 

 

「────だから、聞けよ!」

《────?!》

 

 

 その光の奔流を、上条当麻が防ぐ。生身で、『右手一本』で。この神鉄の装甲を飴細工のように融かす聖ジョージの竜王の殺息、それすらも“幻想殺し(イマジンブレイカー)”は打ち消している。

 

 

「っ……あの化け物をブッ飛ばせば、インデックスを()()()()()! 記憶を消す必要なんて無いんだ、だから!」

《ッ…………!》

 

 

 だが、如何に“幻想殺し(イマジンブレイカー)”と言えども問答無用と言う訳ではないらしい。光の奔流が吹き付ける度、吹き飛ばされそうになりながら。それでも一歩も引かず、上条当麻は叫ぶ。

 

 

「手を、伸ばせよ……後少しで、インデックスを助けられるんだ!」

《…………》

「「…………!」」

 

 

 それはきっと、片膝を突いて喘ぐ嚆矢だけではなく。呆気に取られたままの、ステイルと火織に向けても。あれだけの暴力に晒されて尚、諦めない。その後ろ姿に、()()()()()()も視野に入れた己が酷く惨めに映り。

 聖ジョージの竜王の殺息はそれすらも呑み込もうと迫り続けて────

 

 

「────“Salvare 000(救われぬ者に救いの手を)”!」

 

 

 先ず、突出したのは火織。七天七刀からの“七閃(ななせん)”が畳を斬り、インデックスの足場を崩す。それにより、“竜王の殺息(ドラゴン・ブレス)”は遥か上空に向けて射線が逸れた。

 夜空を、どこまでも高く昇っていく一条の光。それは一種、幻想的なまでに美しく。破壊された屋根から覗く暗闇から、光る羽が降り落ちる。余りに場違いな、まるで天使の羽根から落ちたかのような羽が。

 

 

「それに触らないで下さい────“竜王の殺息(ドラゴン・ブレス)”の余波ですが、それだけでも十分に危険です!」

 

 

 言われるまでもない、あんな異質。異物。しかし、厄介な事にそれは多数。当麻も、それの為にインデックスに近付けない。故に火織は、七天七刀と鋼糸でそれを打ち払う。

 

 

『新たな敵兵を確認────戦闘思考を変更、戦場を再検索……現状、上条当麻の破壊を優先します』

《させねェよ────間怠っこしい、翔ぶぞ! 掴まれ、上条!》

「おう! ……って、『翔ぶ』ぅうわあっ!?」

「援護する。行け……能力者ども!」

 

 

 掛け声と共に合当理(がったり)を吹かし、嚆矢は当麻の『左手』を掴んで騎航する。降り落ちる光の羽を右肩部発振器からの次元の挿入で、寝そべったままの姿でインデックスが二つの魔法陣から放った魔力の弾丸をステイルの『魔女狩りの王(イノケンティウス)』が受け止めている隙にすり抜ける。

 本来、騎航した状態ならばこの距離では二秒と掛かるまい。しかし狭すぎて母衣を使えない以上は速力(あし)機動(こし)も鈍り、その二秒が限りなく長い。限りなく、遠い。

 

 

『敵の正体を逆算────クトゥルフ神話、“這い寄る混沌”と認識。排除実行、死霊術書(ネクロノミコン)より当該項目を抜粋。飢える(イア)飢える(イア)魚座の口端(フォーマルハウト)────“命ある恒星(クトゥグア)”』

『────ぐwhるァァァawlァァァァuhnァァァ!』

 

 

 加えて────彼女の二つの魔法陣、その堅固な結界に阻まれて。更に“我に触れぬ(ノリ・メ・タンゲレ)”の残滓に跳ね返される。

 そして響いた人外の発声器官用の詠唱に導かれて、魔法陣から這い出た焔の塊が────六足に三つ首の、肉食獣じみた異形の姿となり。

 

 

(“命ある恒星(クトゥグア)”────?)

《あ、やべ》

 

 

 その刃金に食らい付き、焼き尽くそうと迫る。正に命があるが如く、躱しても躱しても追い縋りながら。

 すれ違い様の抜き打ち、顔面から尻までを深々と斬り抜けて。

 

 

《いかん、“命ある恒星の眷属(みにおんず・おぶ・くとぅぐあ)”じゃ……あれは不味い、相性的に勝てん》

(早速かよ! “神魔覆滅(バランスブレイカー)”はどうした!)

《無茶を言うでない。あれは、『実体を得た、この世の外側の力』を問答無用で滅する力……『元からこの世のモノで再現した偽物』には効果はないわ》

(使えねェなァ、オイ────グッ?!)

 

 

 要するに、一般的に『紛い物であると周知されているモノ』として呼び出された『似ているだけのモノ』には効果はない、と。

 その言葉通り、“命ある焔(ミニオンズ・オブ・クトゥグア)”は既に再生を果たしている。その物質の第四形態たるプラズマの体の尾で、合当理(がったり)に損傷を与えて騎航不能とした。

 

 

「っく……こーじ、だっけ?! 俺の“幻想殺し(イマジンブレイカー)”なら、あの結界も打ち消せる! だから真っ直ぐインデックスの所に!」

《だから年下の、しかも男がァ……チッ、それもそォだな────任せたぜ、マグヌスッ!》

「って────またかよ?!」

 

 

 インデックスまで後五歩の位置に着地し、その言葉に従い────当麻をインデックスの方に投げ飛ばして、ステイルに任せて。

 

 

《コイツは俺が殺る、さっさとあの眠り姫の目を醒ましてやれよ、王子様がた?》

「頼まれるまでもない。あの娘を救う為なら……何であれ、壊す!」

「イテテ……不幸だ────何て言ってる場合じゃないか!」

 

 

 “魔女狩りの王(イノケンティウス)”に守られて進む、上条当麻、あれならば届く、心配はない。問題なのは、むしろ此方か。真っ直ぐに背後を睨む。焔の獣は、そこに。

 在りもしない表情が、嘲笑に歪んで見えて。燃え盛るように、嘲笑って────

 

 

『────ぐ w h る ァ ァ ァ a w l ァ ァ ァ ァ u h n ァ ァ ァ !』

《ッッ…………!?》

 

 

 目にも留まらぬ速さで伸長した前肢一本、まるで紅炎(プロミネンス)の如く。その灼けた鈎爪の一撃に────最も厚い筈の胸部装甲が、易々と熔断、燃焼、焼却されて。

 裏柳生新影流兵法の回避術理“肋一寸(アバライッスン)”にて、辛うじて命を拾う。

 

 

──そりゃ、解ってはいた事だがよ……やっぱり俺に“英雄(ヒーロー)”なんて、荷が勝ち過ぎてたか。

 

 

 余りに無力。何たる脆弱、矮小。目の前の怪物に対して、成す術すらあるまい。“魔女狩りの王(イノケンティウス)”のように明確な弱点も見当たらない、対抗策の一つすらも浮かぶ事はなく。

 或いは、それが断罪か。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()────何を今更、その血塗れの両手で。今更何を、救うなどと思い上がるか。

 

 

《ふむ……では、諦めるか?》

(……………………)

 

 

 損傷した胸元から零れ落ちた懐中時計、そこに内蔵された赤黒い宝石“輝く捩れ双角錐(シャイニング=トラペゾヘドロン)”を握り締めて。

 “悪心影(あくしんかげ)”の声に、応える事もせず。

 

 

『じゃあ、こうじは何をするの?』

『じゃあ、コウジは何をしたい?』

 

 

 ならば、どうするか。一体、対馬嚆矢は()()()()()()。一体、対馬嚆矢は()()()()()()()

 虚空に浮かぶ月の、地球からは見る事の能わぬ“月裏の虚海(ディラックの海)”よりの声が語り掛ける。何かを期待するように、情熱と冷静の狭間で。

 

 

──俺は……

 

 

 問い掛けた声が、二つ。視界の端に、黒金と白銀の姿がちらつく。有り得ない事だ、()()()()()()()()()()()()()()()()に。

 ()()()()睥睨するショゴスの眼差しの()()()()()()()()()()など。

 

 

『……てけり……り』

 

 

 瞬間、損耗過多に装甲を維持できなくなったショゴスが解けて影に沈んでいく。破壊される前に、退避したのだろう。

 後に残るのは、天魔(あま)色の髪に生まれつきの“蜂蜜酒色瞳(おうごんどう)”を持つ────打刀と脇差しを佩いた、浅く日焼けした少年のみ。

 

 

 自嘲と共に胸ポケットに忍ばせた煙草を(くわ)える。丁度、最後の一本。そして気の利いた事に、火ならば目の前で轟々と燃え盛っている。触れれば、一瞬で消し炭すら残らない勢いで。

 そもそも、既に死に体。連戦と、鎧に魔術行使による魔力……即ち、生命力の多量な消耗。体温すら保てているかどうか。

 

 

「俺は、約束を果たす。『また会う』って、インデックス(彼女)と約束したからな……その為には、あの娘を────助ける! 助けた上で、生き残る!」

 

 

 それでも、そんな何の変哲もない日常会話の口約束を。ほとんどの人が忘れてしまうような御為ごかしを、矜持として。精一杯の威勢、精一杯の虚勢を込めて悪辣に(わら)いながら。

 聞こえたのではなく、感じた声は────

 

 

『……うん、だったらいいの。大丈夫よ、()()()()()()()()。わたしが、保証してあげるわ』

『……ふん、だったらいいよ。大丈夫さ、()()()()()()()()。ワタシが、保証してあげるよ』

 

 

 意気を新たに、右手を前に。彼は気付くまい。その背後に立つ、『光芒(こうぼう)』が二つ。『創始(アルケー)』と『終焉(テロス)』の────(きら)めきと(くら)めきが二つ。黒金の光と白銀の闇が、薄紅色と薄蒼色の星雲(ネビュラ)が、二重螺旋を描くように輪舞して。

 

 

 その正体を知るのは、極僅か。盲目の邪神狩りの聖人であるとか、喫茶店店主の方程式の魔人であるとか────或いは彼の背後で嘲笑する、燃え上がる三つの眼差しを向ける影であるとか。窓も出入り口も無いビルの中で、ビーカーに逆さまに浮かぶ黄金の糞虫(スカラベ)であるとか。

 

 

『────ぐ w h る ァ ァ ァ a w l ァ ァ ァ ァ u h n ァ ァ ァ !』

 

 

 振るわれた爪が六つ。前後左右天地の逃げ場を封じて、全周囲から目にも留まらぬ速さで。例え爪を躱せても、大気を焦がす灼熱が命を奪うだろう。

 今度こそ確実に嚆矢の命を灰塵に帰すべく、迫る─────!

 

 

「────遅い」

『ぐぅxjるtiるう?!』

 

 

 しかし、彼は死んでいない。裏柳生の回避術理“(クズ)八重垣(ヤエガキ)”により無傷で、六本の魔爪が掻き破り焼き尽くした筈の空間で。天からの一撃、それで煙草に火を点して。

 薄ら笑いを吹き消した“命ある焔(ミニオンズ・オブ・クトゥグア)”の、鞭じみた尾の一撃すらも寄せ付けない。

 

 

『────ぐ w h る ァ ァ ァ a w l ァ ァ ァ ァ u h n ァ ァ ァ !』

 

 

 見えている。恐らくは彼の背後に立つ『光芒』の正体を見たのだろう、それでも無感情に三つの顎で食らい付こうと迫る炎の塊が。“這い寄る混沌”の住処であった森を焼き払った、旧支配者の眷属が。

 知性の欠片でも持っていれば、抗う意味が無い事にも気づこうと言うのに。憐れなどとは思わないが、同情はした。

 

 

『無駄だよ────ワタシが、コウジには届かせない』

 

 

 その紅炎(プロミネンス)の塊が、凍てついて動きを止める。凍て付き、腐れ落ちる六つの脚と尾、三つの頚を喪って。

 収斂する終焉の具現に、最早再生すら許されず。それでも焔塊は、残った胴体から全周囲に熱を放つ。さながらコロナの如く、大気有る限り燃え続けるだろう。

 

 

『ぐぁぁぁjgnqぁぁぁumあ!』

「黙れ、喚くな────」

 

 

 それは、宇宙の終焉。“ビッグ・クランチ”の闇。虚無への収斂の刹那には、虚空清浄にまで版図を狭める闇と凍気。ならば、届くもの等は有りはしない。この世に在るモノである限り、有り得ない。

 かつて、ヒューペルボリア大陸を滅ぼした絶対零度。『素粒子も含めた全てが動きを止めた状態』である、摂氏(せっし)-273℃。即ち、電子すら停止する物質の崩壊温度。量子力学上の、温度の()()()()。支配者すら駆逐した、その脅威。だが、それすらも“自存する源(■■=■■■)”の前には意味を成さず。今やそれは、かの『元帥』の力の一部。

 

 

 それを成した白銀の右手が────嚆矢の右手と重なって。

 

 

「凍て朽ちろ─────!」

『“絶対零度(アブソリュート=ゼロ)”』

 

 

 時すらも凍える程に白く眩めく銀燐が、世界を染めて─────後には焔塊の断末魔も、塵芥すらも残る事はなく。ただ、嚆矢の吐いた紫煙が漂うのみ。

 

 

 そして何か、まるで硝子が叩き割られたような。澄んだ音が、辺りに響き渡った。

 

 

『警告────“首輪”……の、致命的──損傷を……修復不能──けい──告、警……こ───…………』

 

 

 見れば、当麻の『右手』──“幻想殺し(イマジンブレイカー)”に殴り砕かれて崩れ落ちる二つの魔法陣と、倒れゆくインデックス。そのインデックスを受け止めた、上条当麻。月の光に照らされた、まるで英雄が囚われの姫君を助け出したかのような情景。思わず背中が痒くなる光景だ。

 あの強固な障壁を突き破っただけでも大したものだと言うのに、まさか本当に『向こう側のモノ』をぶっ飛ばすとは。

 

 

 愉快痛快を通り過ぎて、最早恐怖すら感じる『右手』だった。

 

 

「終わった、か────」

 

 

 それを眺め、辟易するように溜め息を。紫煙を虚空に散らした嚆矢、その瞳に────舞い堕ちる光の羽が、“竜王の殺息(ドラゴン・ブレス)”の余波が。

 ゆらり、ゆらりとその二人に向けて降り堕ちるのを、当麻とインデックスと共に見る。恐らく、それにはステイルも火織も気付いている。だが、嚆矢だけが気付いた。その羽に潜む、確かな悪意。インデックスの魔法陣の奥に居た、『何か』が────

 

 

「悪足掻きをッ────!!」

 

 

 しかし、遠すぎるのだ。今からでは、誰も。当麻の“幻想殺し(イマジンブレイカー)”すらも間に合わない、当たる。インデックスに……否、彼女を庇った上条当麻に。

 では、諦めるか? 否、諦める等と言う選択肢は────()()()()()()

 

 

「奪わせやしねェ、これ以上……」

 

 

 だから────無駄と知りつつも、右手を前に。真っ直ぐに、迷い無く伸ばす────!

 

 

『無駄じゃない────わたしが、こうじには届かせるわ』

 

 

 光の羽……否、そこに潜む悪意が戦意を感じたのか、激しい敵意を向けてくる。しかし、戦意程度に意味など無いと嘲笑う。その『何か』は、嚆矢が間に合わない事を知っているからこそ────悠然と舞い降りていて。

 

 

「何一つ────貴様如きに!」

 

 

 それは宇宙の黎明、“大爆誕(ビッグ・バン)”の光。虚無からの爆発の刹那には、無量無辺にまで版図を拡げる光と熱気。ならば、届かないもの等はありはしない。この世に在るモノで有る限り、有り得ない。

 かつて火星と木星の間に在った惑星をデブリベルトに変えた無限熱量。“ビッグバン”の1プランク時間後の熱量、即ち『プランク温度』。摂氏(せっし)1,420,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000℃────『これ以上の温度は物理的に意味が無い』“絶対熱”。量子力学上の、温度の()()()()。支配者すら存在を許されない、その脅威。だが、それすらも“沸騰する核(■■■■■)”の前には意味を成さず。それは初めから、かの『総帥』の力の一部。

 

 

 それを成した黒金の右手が────嚆矢の右手と重なって。

 

 

「燃え尽きろ─────!」

『“無限熱量(インフィニット=ヒート)”』

 

 

 時すらも燃える程に黒く煌めく金燐が、世界を染めて─────後には。

 

 

「……ッたく、世話ァ掛けさせやがる」

 

 

 裏柳生の長足術(はやがけ)猿飛(サルトビ)”にて肉薄、当麻の頭に当たる筈だった光の羽を握り締めて。拡散する創始の具現に、最早存在自由すら許されずに驚愕に満ちた断末魔を上げる『何か』ごと、焼き潰した嚆矢の姿が。

 棚引く紫煙に包まれて、存在するのみで────

 

 

「アンタ、こーじ……あだっ?! な、何すんだ……痛ってぇ~!」

「こ、こーじ?! 何するの!」

「莫迦が────テメェが傷付いて、その娘が喜ぶかよ! 中途半端すんな、やるんなら最後まで、徹頭徹尾のハッピーエンドにしやがれ! 第一な、第一お前…………」

 

 

 他人の為に己を省みずに投げ出すような莫迦に、割と真面目に力を籠めて。光の羽の代わりに当麻に拳骨を打ち噛ました、そんな自分が酷く気恥ずかしくなって。

 当麻にインデックス、ステイルに火織。此方を見詰める四人の眼差しを誤魔化すように溜め息を吐いた後で、バリバリと『左手』で頭を掻き毟って。

 

 

「……『嚆矢()()』だ、年下野郎。女の子以外の年下に呼び捨てられる覚えはねェ……礼儀くらい弁えろッてンだ」

 

 

 わざとらしくふてぶてしい態度で、チープな悪役のように。吸いきった煙草のフィルターを吐き捨てて、踏み躙ったのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断章 アカシャ年代記=Akasha-Chronicle
??.----・error:『Nyarlathotep』Ⅵ


 

 

 深夜の夜空に、星々が煌めく。最先端の科学都市であるこの学園都市だが、人口の八割が学生である為、研究機関の在る区画以外は閑静で意外と暗い。

 その星空を嚆矢は自室の窓から眺めながら、『左手』で自分の怪我の手当てをしていた。

 

 

「……つう、沁みるって、インデックス」

「とうまが無茶したせいでしょ? 自業自得なんだよ」

「……ステイル、怪我の具合はどうです? あの高さから落ちたのですから」

「問題ない、下に上手いこと車があったからな。肋の二、三本にヒビが入ったくらいだ」

「…………俺に優しい女の子が欲しい」

 

 

 二人組で怪我の手当てをしている当麻とインデックス、ステイルと火織の四人と共に。組分けに(あぶ)れたような形で。無論、好き好んで彼等を自室に招き入れた訳ではない。

 当麻とインデックスは、『完全下校時刻』の為に本来の自分の部屋の在る寮に戻れず。ステイルと火織は、今日でインデックスの記憶を消去して連れて帰る予定だった為にホテルをチェックアウトしていて行く所がなく。その所為で、この有り様だ。

 

 

「ふ~む、あの“竜王の殺息(どらごん・ぶれす)”とやらを、どうにか再現できぬものかのう……」

『てけり・り。てけり・り?』

 

 

 因みに、何やら唸っている赤い襦袢(寝巻き)姿の市媛と螻蛄(ケラ)形態のショゴスは、二日目のカレーを頬張っている最中である。嚆矢を気遣う素振りすらもない。

 空しさに包まれながら、『治癒(ベルカナ)』のルーンを刻んだ包帯を一人で右腕に巻き終わって。

 

 

──因みに、ショゴスが早めに装甲の修復に掛かってくれたお陰で、明日の夜には修復は完了するらしい。何でも、“神の血晶(ラピス=サギー)”なる金属で出来た『心鉄(しんがね)』とか言うモノが破壊されない限り、あの鎧は不滅なのだそうだ。

 

 

 手持ち無沙汰に、長谷部を取り出して鞘を払う。刀身には、細かな傷が幾つも。だがこれも鎧の一部、時間が経てば修復される。

 目釘や柄紐、鍔の緩みがないかを確認するが、問題はない。なので、手入れをしようと道具を手に取れば。

 

 

「……左手一本ではやりにくいのでは?」

「そりゃあ、まぁ。けど、動かないんだから仕方無い」

 

 

 ステイルの治療を終えたらしい火織が寄ってくる。しかし、別に『限度を超えた魔術行使による反動で右手が動かない』嚆矢を心配しての事ではないようだが。

 その証拠に、彼女の視線は嚆矢の手元に注がれていて。やはり剣客、気になっていたらしい。

 

 

「良い刀です。作は?」

「正宗十哲……国重一門」

「道理で、銘刀です。まさかとは思いますが、()()長谷部国重では?」

 

 

 淡々とした応酬でありながら、思わず背筋を薄ら寒いものが通り抜ける。それはつまり、この刀が『国宝』とされる名匠の作かと聞いての事。

 本来ならば博物館に収蔵されていなければならないもの。しかも、真贋など不明なのだから。

 

 

「一介の学生が、ンなもン持ってる訳無いだろ?」

「……それもそうですね、愚問でした」

「そんな事より、アンタらの事だ。俺の事はどうすんだ? やっぱり、殺すかい?」

 

 

 なので、茶を濁して切り抜ける事として。打ち粉を刃に振り、拭い取り。極めて薄く、油を引きながら。口調の割に、実は気になっていた事を一つ問うてみる。

 

 

「別にそれは私たちの仕事には含まれていませんから、知りません。まぁ、貴方がどうしても殺されたいのなら別ですが」

「そっちから殺しに来といて……まぁ、だったらいいけど。ようやく枕を高くして眠れる」

「『悪い奴程、よく眠る』ですか? 吸血鬼の寝座(ねぐら)は、棺桶だと思っていたのに」

 

 

 そして聞いた、あの堅物の火織の冗談を。そして見た、あの火織の朗らかなその表情を。まるで憑き物が落ちたかのような、優しげな笑顔を。そんな顔が出来るなど想像もしていなかったから、呆気に取られて。

 それに苦笑しつつ、手入れを終えて。長谷部を鞘に納めて、虚空に突っ込むように消して立ち上がる。感傷を振り払うかのように。

 

 

 深入りするべきでもない。これは、()()()なのだ。早く、元の日常に戻らなければ。

 

 

「いいな、お前ら。明日の朝までだ、俺は明日の朝から風紀委員(ジャッジメント)の仕事があるんだからな。それまでに出てけ」

「そんなに念を押されなくても分かっているさ、今日一晩で出ていくとも」

「俺も補修あるしな……ところで……」

「……何だ、その物欲しそうな顔は?」

 

 

 辟易しながらの言葉に煙草を吹かしながら答えたステイルと、苦笑いしながら答えた当麻は……カレーをモリモリ食っている市媛の方を眺めて、腹を鳴らす。

 

 

「腹、減っちゃってさ……カレーとか貰えないかな~、とか」

「一皿千円。小盛りで」

「高っ?! じゃあ大盛りでお代わりするといくらだよ!」

「嫌なら外に食いに行けよ。落第生(スキルアウト)なら分けてくれんじゃねぇの?」

「それはつまり、上条さんに身包み剥がされてこいと仰ってるんですかね、嚆矢さんは?」

 

 

 ごく自然にぼったくる、そんな彼の学ランの裾を引く少女が一人。やはり、盛大に腹の虫を鳴かせながら。

 因みにそのカレーは家主作。世にも珍しい、黒い()()肉のカレーである。嚆矢も最初は抵抗があったが、今はもうこれ以外の肉は味気無いと感じるくらいの滋味、そして美味だ。

 

 

「こーじ……お腹すいたんだよ」

 

 

 うるうると捨てられる仔犬のように瞳を潤ませ、物欲しそうに口許に人差し指を寄せた上目遣いで。白い修道女、インデックスが。

 

 

「勿論、インデックスちゃんは無料でお腹一杯食べて良いんだよ~? あ、カツとかハンバーグ、福神漬けも付けちゃおうね~?」

「ホント?! わ~い、こーじ大好きなんだよ!」

「俺もだよ、インデックスちゃん。あ~もう、可愛いなぁハァハァ」

 

 

 対して嚆矢は、分かり易く態度を軟化させて。喜んでピョンピョン跳ね回るインデックスを、熱い視線で見守っていた。

 

 

「「「……………………」」」

「……おい、その眼はないだろ、お前ら。仮にも宿主(ホスト)よ、俺」

 

 

 それを犯罪者を見る目付きで、或いは路上の汚物を見るような目で、三人から見られながら。

 

 

「騒々しいのう……では、(わらわ)はもう寝るので邪魔するでない。今日は夜這うなよ、嚆矢?」

「ちょ────何をしれっととんでもねぇ震天雷(ばくだん)くれてんだ!  第一、いつの間にか俺の蒲団の中に忍び込んでンのはテメェだろうが! この鬼、悪魔、第六天魔王!」

「如何にも、その通りじゃて。呵呵呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっかっかっか)…………」

 

 

 一足先に夜食を終えた市媛は言うだけ言って、燃え盛る三つの瞳で嘲笑いながらショゴスに乗って和室に消えていった。

 残されたのは、早速カレーをよそいにキッチンに行ったインデックスも除いた三人の、冷ややかな眼差しだけで。

 

 

 嚆矢はただ、『口伝(アンサズ)』のルーンを励起して。この場を乗り切る為に、口を開いた。

 

 

「────よし分かった、皆で一緒にカレーを腹一杯食おう。腹が減ってるからカリカリするんだ。だからその“幻想殺し(イマジンブレイカー)”と炎剣と七天七刀を仕舞え。(いや)、むしろ仕舞ってくださいお願いします」

 

 

 見詰め合い、何かをアイコンタクトして頷き合って……其々の得物を構えて近付いてきた三人に、冷や汗を流しながら────。

 

 

………………

…………

……

 

 

 一方、その頃。一人の少女が……否、少女めいた女性が、絶望に打ちひしがれていた。文字通り『吹き飛んだ』自分の部屋を見ながら。

 警備員(アンチスキル)や消防吏員が溢れている現場の規制線の前で、一人で食べるには多過ぎる……三人分ほどもあるかと言うコンビニ弁当と缶ビール数本、煙草二箱の入った袋を落として。

 

 

「ガス爆発だとさ、ひでぇな。一部屋丸々木っ端微塵だ」

「え、俺は煙草の不始末だって聞いたぜ? そんでもって、ガスに引火してドカン、って」

「いやいや、能力者の空き巣が火を付けてったとか聞いたぞ? まぁ、何にしても怪我人の一人も居なくて良かったけどな」

「あ、あは、は……」

 

 そんな野次馬の言葉を聞きながら、呆けたように。ボンネットがひしゃげて跳ね飛び、廃車確実な様子の車がレッカーされていくのを見ながら。

 乾いた笑いを浮かべた後、おもむろに缶ビールを拾い上げると、泡が吹き出すのも構わずにプルタブを開け、一気に飲み干して。

 

 

「っぷっっっっはー! アハハハハハハハ! さよなら敷金礼金~! さよなら二代目の愛車~~! さよなら私の社会的信用~~~!」

 

 

 ピンク髪の童女のような教師は、衆人の注目を浴びている事など気にも留めずに。やけくそ気味に、夜空に向かって高らかに叫んだのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四章・Chapter Ⅰ “妹達”/Radio-Noise
八月一日:『雲耀』


 

 

 それは、七月最後の日。稲光が引き裂いた漆黒の空から降り注ぐ雨粒が叩き付けられる闇夜の底で、一人雷鳴を聞きながら。路地裏の物陰に隠れたままで、びしょ濡れになりながら『その時』を待つ。

 時ならぬ雷雨に、視界は最悪だが問題はない。軍用ゴーグルを操作し、熱源探知(サーモグラフィー)に切り替えて。覗きこんだ曲がり角の先に、悠然と歩いてくる人の形の熱源が一つ。

 

 

「あァ────面倒くせェ。何も、こんな日にまでヤる(こた)ァねェだろうによォ」

 

 

 ゆっくりと、この豪雨の中を傘も差さずに歩く少年らしき熱紋。それを確認して、常盤台の制服を纏う少女は握り締めている細身のライターのような形状の、スイッチのカバーを外す。

 

 

「オイオイ、何処に居やがんだァ? 今回はやけに消極的じゃねェか」

「……………………」

 

 

 あと五歩、まだ早い。この距離では駄目だ。()()が踏み込むまで。

 

 

「ンだよ、かくれンぼかァ? (だっり)ィなァ、さっさと(しめ)ェにしようや」

「……………………」

 

 

 あと四歩、まだまだ。この距離では、()()()()()()()

 

 

「チッ……無視かよ。あ~あ、段々腹立ってきたわ……」

「……………………」

 

 

 あと三歩、もう少し。遅過ぎても早過ぎても、通用しない。ジャストでなければ、死ぬのはこちら。

 

 

「よォ、どんな死に方が好みだァ? 挽き肉か、細切れかァ? 好きな方を選びやがれ」

「……………………」

 

 

 あと二歩、あの『能力』の効果範囲に─────

 

 

「返事なしかよ……ンじゃ、勝手に選ばせて貰うぜェ?」

「……………………」

 

 

 あと一歩、踏み込めば()()────!

 

 

「────────!」

 

 

 押し込まれたスイッチにより、少年の歩く路地に設置されていた爆弾────高指向性対人地雷、所謂『M18 クレイモア』を学園都市の技術で更に強化した『M18R 鋼の雨(スティール・レイン)』が、これ以上ないタイミングで起爆した。

 少年の直ぐ脇で、高指向性爆薬が爆ぜて内部の散弾を撃ち放つ。そもそも、それだけでも人どころか装甲車や戦車の無限軌道(キャタピラ)くらいなら吹き飛ばせる。

 

 

 だと言うのに────撒き散らされた子弾が更に炸裂して、電子制御により『少年』に向けてのみ、全方位から文字通りの『鋼鉄の豪雨(スティール・レイン)』を撒き散らす。完全な過剰殺傷(オーバーキル)だ。

 故に、『対人地雷』としては失敗作。間違いなく、殺してしまうから。無論、それが足下で炸裂した『少年』はもう、肉片しか残っていない筈であり────

 

 

「────っ?!」

 

 

 覗き込んでいたゴーグルが、撥ね飛ばされた。茶色のショートボブの髪が、幾らか散る。それを為したのは、間違いなく──────

 負傷した片目を押さえる右手。零れ出す赤い滴、止め処なく。

 

 

「────細切れの後にィ、挽き肉だな。イィッツ、ショオォウ、タァァイム」

「あ────…………」

 

 

 その『濡れてすらいない右手』の持ち主である『白髪の少年』が稲光に照らされながら、悪鬼の如き笑顔のままに耳許に語り掛けた言葉を最後に─────雷鳴の轟く路地裏に、今度は血の雨が降って。

 

 

「…………第8376次実験“全方位同時飽和攻撃に対する反応テスト”の終了を確認。目撃者、なし。『廃品処理』の後、帰投します」

 

 

 それを、びしょ濡れのまま『見ていた』もう一人の常盤台の制服を纏う少女。彼女は、無惨な挽き肉と化した『少女だったもの』を見下ろしながら。

 

 

『お疲れ様、撤収後三時間で次の実験だよ。いつも通り指揮は任せるね、“中継装置(トランスポンダー)”?』

「了解しました、“教授”。“10000号(トランスポンダー)”より伝達、8377号は次の実験の準備を。8378号から8400号には撤収作業を開始を指示します」

 

 

 それを確認したもう一人の『彼女』は、ゴーグルに内蔵された通信機器に向けて呟いた。耳に届く掠れ気味の老人の声は、実に楽しげに。実に不快な余韻を残して、消えた。

 その声に答えて────周囲の物陰に、ゴーグルの光が無数に浮かんで。稲光が照らした『彼女』…………軍用ゴーグルを外し、雨雲に覆われた夜空を見上げる『御坂美琴』の姿。

 

 

「……………………何故」

 

 

 通信装置を切ってのその呟きは、雷鳴に掻き消されて誰にも届く事なく…………。

 

 

………………

…………

……

 

 

 現在時刻八月一日朝八時、風紀委員(ジャッジメント)第一七七支部への通勤途中。昨夜の雨に濡れた道は、しかしもう、夏場の猛烈な暑気に乾きかけている。

 足下から這い上がってくる水蒸気に、少しは涼しいような。蒸す所為で不快な気分を味わいながら、嚆矢は歩く。

 

 

 その道々、通行人からクスクスと笑われる。子供からなど、指を指されてしまう始末。通常の学ラン姿、別に寝癖が付いている訳でもない。では、何故か? 当然、背中の少女の為だ。

 

 

「うむ、この『はんばーがー』とか言うものは実に合理的じゃな。紙で摘まんで食えるところが良い、合戦の最中には籠手が外せぬからのう」

「さいですか……つーか、俺の分まで食うなよ!」

「良いではないか、良いではないか。呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっか)!」

 

 

 『面倒じゃ』と歩く事を拒否して嚆矢に背負われたまま、つい先程コンビニで買った朝飯のハンバーガーを食いながら満面の笑みを浮かべる……紫と白の矢絣(やがすり)模様の大正の女学生風味な、夏用に紗で織られた裲襠(うちかけ)を羽織り、螺鈿(らでん)細工の施された(こうがい)のような(かんざし)で黒髪をポニーテールに結い上げた、市媛の。

 無論、二人分を。黒いポリエステル製の薄手の夏用学ランの肩口には、パン屑がポロポロと降ってきている。雲脂(フケ)のようなので、心底勘弁して欲しい。

 

 

 しかも、それを微笑ましく見られながら、だ。相変わらず、市媛の『魔術』というか『妖魅』により、周りからは『仲良し兄妹』と見られている。一種の、公開処刑の気分だ。

 

 

「あ、おはようございます、嚆矢先輩、織田先輩」

「おはようございますですの」

「あ、おはよう飾利ちゃん、黒子ちゃん」

「うむ! 苦しゅうない、大儀である」

 

 

 そこに行き合った飾利と黒子も勿論、『兄妹』として疑わない。『織田さん』等と、苗字が違う事も知っているのに。

 

 

「相変わらず、仲がお宜しいことですわね」

呵呵(かっか)、妬くでない。(わらわ)は別に、男でも女でもイケるぞ?」

「何の話ですの、何の!」

「勿論、『ナニ』の話じゃのう。呵呵呵呵(かっかっかっか)!」

 

 

 と、黒子からジト目で見られていた市媛が、嚆矢の背から飛び降りた。翻る裲襠(うちかけ)の裾と袖、その下の……嚆矢ですら始めて見た、弐天巌流学園(ぼこう)の女生徒用学生服。

 モダンでシックな、これと言った特徴の無い黒のセーラー服。白いタイで襟には日本の白線、ミニのフレアスカートに海老茶色のストッキングで。卸し立ての革靴を鳴らしながら、からからと豪快に笑いつつ。

 

 

「……………………?」

 

 

 雲一つ無い快晴の青空を見上げた嚆矢は────燦々と注ぐ直射日光に『今日も暑く長い一日になりそうだ』と。一条棚引く飛行機雲と、抜けるような青色。モノレールの走り抜ける金属音、降り頻る蝉時雨を聞きながら。

 既にぐっしょりと掻かされた汗の不快感と共に亜麻色の髪を掻き上げ、青空を引き裂く幻影のような雲耀(うんよう)を。予感にも似た予兆(きざし)を、その目に見たような気がして。

 

 

「よ~よ~、兄ちゃん。朝っぱらから見せ付けてくれるねぇ!」

「羨ましいねぇ、俺らにもその幸せ分けてくれるぅ?」

「『一人は皆の為に(ワン・フォー・オール)』って言うだろぉ?」

「だぜぇ、独り占めはイケねぇよなぁ?」

「そ~そ~、一対三より六対三の方が余らなくて済むじゃん?」

「兄ちゃんは帰ってシングルプレイでどうぞぉ?」

 

 

 目の前に立ちはだかった『如何にも』な風体の六人組の不良男(スキルアウト)達を見て。

 怯えた飾利と男達の存在にすら関心を払わずに扇子で涼んでいる市媛を、黒子と共に庇い立つ。

 

 

「……朝っぱらから()()()()かよ」

「右に同じく……はぁ、朝からついてませんの」

 

 

 嚆矢は『硬化』のルーンを刻んだ革手袋を嵌めつつ、黒子は金属矢を指に持ちつつ、実に面倒げに。

 

 

「本当、この都市って退屈しねぇな……」

 

 

 心底から呆れ果てた風に吐き捨てながら、まだ装着していなかった『風紀委員(ジャッジメント)』の腕章を取り出したのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 それは、遡って数分前の事。

 

 

「……………………」

 

 

 頬杖を突いてモノレールの窓の外を詰まらなそうに眺めていた、ハンチング帽に大きなヘッドホンを首に掛け、火の着いていない煙草を銜えた少女は、その青菫石(アイオライト)の瞳を一回だけ瞬かせる。

 一番端の席で隣の席にキャリーケースとビニール傘を置いて全てに関心を払っていない、薄手のジャケットにホットパンツ、ニーソックスとブーツの娘は。

 

 

「ちょっとちょっと聞いてんの~、お嬢ちゃん?」

「何だよ、無視することないじゃん?」

「俺らはさ、親切心から言ってんだよ~?」

「俺ら、学園都市に詳しいから案内してあげるってさぁ」

「そ~そ~、お兄さん達が手取り足取り腰取りな」

「なんなら、大人の階段まで案内しちゃうぜ~?」

「……………………」

 

 

 そんな少女の真横、通路側に下卑た笑い顔の男達が立っている。一つ前の駅で乗り込んできた、落第生(スキルアウト)だ。その六人が、実に()()()()()()()()()を向けながら。

 周囲の乗客は、見て見ぬ振りだ。それが一番、無難であるから。それもあろう、しかし一番の理由は。

 

 

「“────煩い、黙れ”」

「なっ────!?」

「テメッ────!?」

 

 

 無関心な様子のままの少女の発した、その台詞。それに、六人は逆上したように顔を真っ赤にして────喉を押さえて、錯乱したように。或いは、酸欠の金魚のように口をパクパクさせて。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「“次の駅で降りて、その足であの男の周りの女をしつこくナンパしなさい”」

「「「「「「…………………」」」」」」

 

 

 初めて、表情に『怒り』じみたものを浮かべた彼女に与えられた()()に、男達の目が虚ろに濁って。そのまま、ふらふらと出入口付近に立つと、タイミング良くモノレールが止まる。男達は、そこで降りていった。

 それに、興味を向ける事もなく。青菫石(アイオライト)の瞳を、また一回、瞬かせて。

 

 

「……本当、この都市って────退屈させてくれるわね」

 

 

 一点を────眼下で、女学生三人を連れた()()()()()()()()を見詰めながら。深海のように静かな車内で、誰にともなく呟く。

 

 

「“ねぇ、浮気者の義兄(にい)さん?”」

 

 

 口角を、さながら三日月のように吊り上げて。『親愛』と言うには些か、熱の籠り過ぎた声色で────…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 絡んできた六人の落第生(スキルアウト)を黒子と共に、三分で叩き伏せて警備員(アンチスキル)に引き渡し、支部に少し遅れて出動する。一応、『風紀委員(ジャッジメント)の活動』で遅れたのでお咎めは無しだった。とは言え、遅れた事には変わりはない。

 

 

「では、今月の活動方針を確認します。先月の『幻想御手(レベルアッパー)事件』のように、何時なんどき危険な事件が起きるかは分かりません。その為、平時の巡回を強化するよう指示が出ています」

 

 

 朝礼中の室内に静かに入り、美偉の伝達に耳を傾ける。月初めなので、確認事項が多く少し長めらしい。

 

 

「管区内でも『路地裏のマネーカード』の件などがありますが、今朝も不良生徒による委員の襲撃が有りましたので、常に数人のペアで行動を心掛けてください」

 

 

 早速、先程の事を引き合いに出されて視線が集まってくるのを感じる。幾分、居心地が悪い。恐らく、それは黒子も飾利も同じ。不適な態度を崩さないのは、市媛くらいだろう。

 そう、此処でもやはり、彼女は当たり前に風紀委員(ジャッジメント)として受け入れられている。

 

 

「では本日も一日、宜しくお願いします。以上、解散」

 

 

 その朝礼も終わり、解散する。三々五々、支部を後に風紀委員は学区内に巡回に。勿論、嚆矢らもそれに倣う。

 黒子と飾利、市媛の三人と共に、学園都市の雑踏に踏み出す。嚆矢は、黒子の『金属矢』と同じく。彼の『()()()()』を、忍ばせて。

 

 

「ふむ、しかし……一人で楽市楽座とは恐れ入るのう、その発想は(わらわ)にも無かった。さては其奴(そやつ)、サル並みの達者か?」

(いや)、あんな大人物はそうそう居ねェから」

「サルが大人物? ハハッ、抜かしおる」

否々(いやいや)、後の関白だから」

 

 

 開口一番、市媛がそんな事を口走った。夏の風に裲襠(うちかけ)とポニーテールを翻しながら、唇を尖らせた彼女は思案した顔を見せて。

 

 

「兎に角、八月の重点は『マネーカード事案』ですの。路地裏を虱潰し、方針はそれで宜しいですの?」

「文句無し、それじゃあ行こうか」

 

 

 方針には文句はない。どう考えてもマイナスが先立つ事案だが、もしもそれが犯罪の為にバラ撒かれたフェイクだとするなら、十分に解決対象だ。

 まぁ、そこまで来ると、警備員(アンチスキル)の領分だが。だからこそ、嚆矢は此処に居るのだから。

 

 

 その後、一般生徒への聴き込みや路地裏を可能な限り見回って。幾つか見つけ、又はマネーカードを探しているらしき人物とも何度か鉢合わせて横領になる前に回収したりして。

 土地勘のある路地裏を、三時間ほど掛けて隅々まで見回った。その結果────

 

 

「しめて二十一枚、総額十八万円分……世の中、何考えてるか分かんねぇ奴が居るもんだ」

「ほう、単価は分からぬがそれなりの額であろ? では茶店に行こうぞ、遊里(ゆうり)ならば尚良し」

「行くわけありませんの、そして後者は存在してませんの」

 

 

 結構な枚数と金額になった為、一旦支部に帰る事として。その道々、嚆矢は呟く。辟易した表情で、マネーカード探しに飽きて彼におぶさっている、市媛を運びながら。

 炎天下で歩き回っている事もあり、既に三人は汗まみれだ。嚆矢の背中の一人を除いて。勿論、タオルで拭いてはいるが限度はある。忌々しいくらいに勤勉な太陽に、文句が言いたいくらいだ。

 

 

「いや、そろそろ休憩入れよう。無茶して日射病とか熱中症とかになっちゃあ、素も子もないし」

「それはそうですけれど……むぅ、仕方ありませんわね」

「そうじゃそうじゃ、(わらわ)は『ぱふぇ』とやらを所望するぞ。この一番でかい奴じゃ」

 

 

 と、市媛が何処からか取り出した勧進帳を見せてくる。良くポストに投函されている、食品関係のチラシの切り抜きが貼られた物を。

 

 

「うわあ……見たくなかった、チラシをスクラップして持ち歩く第六天魔王とか見たくなかった。幻滅した」

「なんじゃと貴様、そんなに鋸挽(のこぎりび)きが好きじゃったとはの」

「あ、あのでも、この近くに喫茶店なんてありましたっけ?」

 

 

 仲裁するかのように声を上げた飾利、嚆矢が休憩を勧めて黒子が納得した理由である彼女。

 元々、体力面では実戦派の嚆矢や黒子には及ぶべくもない情報処理要員の彼女は、ヘロヘロと危なげな仕草で。

 

 

「それなら、良い店があるよ。そこの角を右に曲がったトコに」

「へえ、なんてお店なんですか?」

 

 

 だから、その店を案内する。先も言った通り、この路地裏は()()()()()()()()だから。

 

 

「純喫茶、ダァク・ブラザァフッヅさ」

「“昏い同朋団(ダァク・ブラザァフッヅ)”……ですか。なんだか不吉な屋号ですのね」

 

 

 一瞬だけ、まるでこの世界が息を呑んだかのように。太陽から雲により隠された日陰の中で、蝉時雨が止み、鳥肌の立つような薄ら寒い風が吹き抜ける中で。翻るツインテールとスカートの裾を押さえた黒子が、そんな事を口にしたのを聞きながら。

 彼の魔術の師、魔導書(グリモワール)象牙の書(ブック・オブ=エイボン)”の持ち主『“土星の円環の魔導師(マスター・オブ・サイクラノーシュ)”アンブローゼス=デクスター』の経営する、その店の名を口にした。

 

 

………………

…………

……

 

 

 そこは、この盛夏の最中でも薄暗く。まるで、地下の大神殿だと。その喫茶店に仕掛けられた『魔術』を知る者ならば思うだろう、堅牢無比な城郭を。

 幾何学的な紋様が刻まれた、木製の扉を開く。冒涜的な形状のドアベルが、怪物が嘲笑うかのような音色を鳴らす。これだけで、並みの魔術師ならばもう、この店の『闇』に呑まれていよう。

 

 

「────おや、こんな昼間からとは珍しいですね。コウジ君?」

「お邪魔します、ローズさん」

 

 

 奥のカウンターから掛かった声、それが最後の罠。主の招待に、“無形の闇”はそれを最後に消えていく。

 

 

「お邪魔いたしますの」

「お、お邪魔します」

 

 

 続き、こう言う店に入るのにも抵抗がないのか黒子、少し憚りながら飾利。そして、心地好いクーラーの効いた室内に。

 

 

「うむ、邪魔する────“微睡みの蟇王(つぁとぅぐぁ)”よ」

「これはこれは、ようこそお出で下さいました────“悪心影(シャドウ=ジェネラル)”殿」

 

 

 最後に踏み入った市媛の、その言葉に苦笑しながら。アンブローゼスは、採譜(メニュー)を取り出して。

 

 

「御注文をどうぞ、可愛らしいお嬢さん方(リトル・ミスズ)?」

 

 

 老若男女問わず虜にするような笑顔と声色でもって。少女達に語りかけた。

 

 

………………

…………

……

 

 

「…………ふぅん、あれが」

 

 

 少女が、それを眺めている。殭屍(キョンシー)のような服装の付き人らしき男女二人が差し掛けた、傘の影から歩み出て。海の気配を連れた、烏賊か蛸の触腕を思わせるウェーブの掛かった水色の髪の。悠久の時を掛けて深層を巡る海洋水のような、深い藍色の瞳をした。

 まるで、さざ波のような声で呟きながら。紺色の中華風の装束を纏う水死体の如き白蝋の肌を、汗一つも掻かずに陽射しに晒して。

 

 

「“御父様”より格好良いわね、“叔父様”は」

 

 

 その少女に、傘の影が差し掛けられる。付き人らしき、目深に帽子を被った男二人。どちらも()()()()()()()()()()()()()()、酷く歩きづらそうな様子の。

 

 

「御嬢様、太陽ノ光ハ、オ肌ニ、良クナイ、デス」

「御嬢様、風ニ当タル、オ肌ニ、良クナイ、デス」

「分かってるわよ、五月蝿いわね……」

 

 

 従者二人の、たどたどしい言葉。日本語に不慣れなのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()ような。

 

 

「今晩が楽しみだわ、ふふ……」

 

 

 それに踵を返した“水妖の娘(ルサールカ)”は、実に楽しげに沸き立つ陽炎の波に消えていった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 約一時間の休憩を終えて会計を。無論、纏めて奢りで嚆矢が支払う。そのマネーカードは、アイテムのギャラで得たもの。まだ、二十万円近い残額がある。

 師から声が掛かったのは、精算を終えた直後。既に黒子と飾利は店の外だ。

 

 

「バイト、ですか?」

「ええ。今晩、上得意のお客様がいらっしゃる予定でして。中々の美食家で健啖家なので、私は厨房に専念したいのです。そこでコウジ君に、ホールをお任せしたいのです」

 

 

 実に珍しい話だ、師父からの頼みなど。何時もは此方から頼むだけなのだ。だから、その恩返しとして。

 

 

「まぁ、特別用事もありませんし。是非、手伝わせていただきます」

「ありがとうございます、持つべきものは誠実な弟子ですね」

呵呵呵呵(かっかっかっか)、こやつが誠実? 臍で茶が沸くのう!」

「煩せえわ……それじゃあ、また。行くぞ、お市」

「はい、午後六時頃までにはお願いします」

 

 

 にこりと微笑んだ師父に見送られ、この建物の外観を忘却させる魔術の籠められた扉を開く。ドアベルの音色は、この場所の位置を洗い流す魔術。師父に認められている者以外で、この純喫茶を記憶できる者は居ない。

 クーラーの効いた室内から、熱線の降り注ぐ屋外へ。市媛と共に、茹だるような暑さと肌を灼く陽射しの晴天の元へと生還を果たす。

 

 

「何のお話でしたの?」

「大した事じゃないよ」

「ふぅん、怪しいものですの」

「もう、白井さんったら……」

 

 

 その日盛りの中、早速うっすらと汗を掻いている黒子からジト目を向けられた。風紀委員(ジャッジメント)である手前、まさか完全下校時刻を越えてバイトだなどと言える訳もなく適当に茶を濁して。

 

 

「そう勘繰るでない、お(くろ)、お(かざり)。師弟で衆道(しゅうどう)など、そう珍しくもないではないか」

「誰がお(くろ)ですの、誰が……って、衆道(しゅうどう)?!」

「し、衆道(しゅうどう)って……ふえぇ」

「適当なフカシこいてンじゃねェぞ、お市! 二人とも、俺と師匠は断じてそんな関係じゃないから! あと、妙齢の婦女子が昼日中からそんな言葉連呼しちゃいけません!」

「っていうか織田さん、お(かざり)は酷いですよぅ……」

 

 

 駄弁りながら歩き出し、角を曲がる。恐らくもう、そこにあの純喫茶は見えまい。

 

 

「中々、良い雰囲気の喫茶店ですの。今度、お姉様をお誘いしてみますの」

「わたしも、佐天さんを誘ってみようかなぁ、なんて」

「なんじゃ、そんなにあの家主が気に入ったか? 呵呵(かっか)、やはり顔の差は堪えるのう、嚆矢よ」

「……俺以外の男なんて死に絶えれば良いのに────?」

 

 

 だから、不貞腐れたかのような態度で聞き流すかのように。僅かに感じた潮の香りに、頚を傾げながら。

 大通りに出ようとした、その瞬間────飾利の携帯が鳴り響いた。

 

 

「はい、もしもし……」

 

 

 飾利がそれに出たのを確認しながら、意識を他に向ける。人の通話を盗み聞きするような趣味などないのだから。

 だから、黒子の方を向いて。その栗毛色の髪を二房に分ける、布を見詰めて。

 

 

「あ、またそのリボンしてくれてるんだ」

「っ────な、なんですの、突然!」

 

 

 少し前にプレゼントした、その赤いリボン。それをまたしてくれているのを見て、嬉しくなった。

 

 

(いや)、愛用してくれてるなら嬉しいなぁ、と。プレゼントした甲斐あったよ」

「別に気に入ってなんておりませんの! ただ、他に無かっただけですのよ!」

「分かってる分かってる、偶然偶然」

「っ……この男は~~!」

 

 

 茶化す嚆矢に対して黒子は、失敗したと言わんばかりに頬を真っ赤に染めながら腕を組み、三十センチを越える身長差の関係で上目遣いに睨み付けてくる。

 澄まし顔を取り繕おうと必死らしく。怖さなど全く無く、ただ可愛らしいだけだが。

 

 

 最近は、こうして良く反応を返してくれる。『幻想御手(レベルアッパー)事件』での“ティンダロスの猟犬(ハウンド・オブ=ティンダロス)”を相手にして以来、少しは尊敬されているのか。彼女は、顔を背けたままで。

 

 

「ところで……この前の『友達の件』は解決しましたの?」

「……ああ。やりたいようにやって、上手くいったよ。黒子ちゃんのお陰さ」

 

 

 問い掛けられたのは、七月末の一件で彼女に溢した愚痴の事。そう、インデックスの件。七月三十日、ステイルと火織は英国に、当麻とインデックスは学生寮に帰った。魔術師達は真偽を確かめるために、学生と図書館は日常に戻るために。それぞれの道を歩みだしたのだ。

 ある意味では、彼女の助言のお陰だろう。恥ずかしい話、あの言葉がなければ……逃げていた可能性も有り得る。

 

 

「別に……貴方の()()()が選択した事ですの。わたくしには関係ありませんわ」

「それでも、さ。やっぱりこう言うと()()から」

 

 

 一切、こちらを向かない彼女に向けて。その真正面に歩き出て、真っ直ぐに。鮮やかな亜麻色の髪、風に靡かせて。深い蜂蜜色の瞳、揺らがずに。

 

 

「……ありがとう」

「~~~~!」

 

 

 一言、単純にも短絡にも程がある台詞を口にして。耳まで赤く染めた彼女は、

 

 

「わ────わたくし、急用を思い出しましたのでお先に失礼いたしますの!」

「あ、黒子ちゃ…………行っちまった」

 

 

 ヒュン、と風斬音を残して。止める間もなく、彼方に空間移動(テレポート)して消えていく。

 

 

「……やっぱり、気障(キザ)過ぎたか」

 

 

 それを見送り、ため息混じりに髪を掻いて。飾利の方に向き直れば。

 

 

「……………………」

「…………か、飾利さん?」

 

 

 既に通話を終えていた彼女は、ニコニコと笑っている。さながら、般若を思わせる様子で。笑っているのに、冷や汗が吹き出るような。

 

 

「……わたしも、私用が出来たので戻ります。先輩はどうぞ、支部に報告してきてください」

「あっ、はい」

「それじゃあ、さようならです」

 

 

 逆らう事を許さない語調に、思わず単純な返答で。敬礼までしてしまった。そして飾利は、振り向く事もなく。怒気を振り撒きながら、大通りに消えていって。

 

 

「……………………寂しい」

呵呵呵呵(かっかっかっか)、青春じゃのう」

 

 

 最後には、この二人だけが残った。嚆矢は空しげに、ため息を再び溢してポケットをまさぐる。

 マナーモードで震えた携帯を開き、届いていたメールを確認して。

 

「仕事か?」

(いや)、お袋から。時間有る時に連絡してくれってさ」

「ふぅむ、しかし、その『携帯電話』とか言う奴は便利じゃな……(わらわ)の分を用意しても良いのだぞ、是非もないのだぞ?」

「金が掛かるんだ、巫山戯んな」

「ぐぬぬ……貴様、さては金柑(キンカン)の回し者か! あー、詰まらぬ!」

 

 

 と、携帯を欲しがる市媛を華麗にスルーして。どうせ、義妹の誕生日の事だろうと当たりを付けて、

 “悪心影(あくしんかげ)”に還り、背後に消えた市媛を気にする事もなく。さっさと支部にマネーカードを預けて今日の業務を終了すべく、歩き出して。

 

 

「……………………………………」

 

 

 歩み出した大通り、そこに────ミニスカートが揺れていた。植え込みから突き出た灰色のプリーツスカートが、フリフリと……たまに青と白のストライプなものが、見えたり見えなかったり。

 

 

 「……………………………………って、いかんいかん! 姑息だぞ、対馬嚆矢!」

 

 

 思わず数秒見守ってしまってから、頭を振って邪念を払う。女性に対して不道徳な事をするのも、彼の『女性に優しくする』誓約(ゲッシュ)に障る。

 

 

 そう思い直して周りを見れば、同じように立ち止まって凝視している男性多数。このスケベ共が、と自分を棚に上げながら、つかつかと尻の前に立って背面警備する。

 当然、周りの男共からは非難の視線が集まったが、風紀委員の腕章を見せれば蜘蛛の子を散らすように居なくなった。

 

 

「あ~~、おほん。そこの頭隠して尻隠さずなお嬢さん? 風紀委員だけど、少しいいかい?」

「…………それはミサカの事を指しているのでしょうか? と、ミサカは疑問を投げ掛けます」

「そう、君だよミサカさん……って、御坂?」

 

 

 咳払いしながら問い掛ければ、聞いた事のある苗字。それに、視線を向ければ────見た事のある、常盤台の生徒。見慣れないゴーグルを頭に乗せているが、他ならぬ『御坂美琴』その人だ。

 

 

「オイオイ、勘弁してくれよ御坂……今日は短パン穿き忘れたか? ガード甘いぜ、丸見えだ。まぁ、眼福だったけどな!」

 

 

 知り合いで、しかも丁度暇していたところで逢ったと言う事で、早速軽口を。首から下げた兎脚の護符(ラビッツフット)から、『口伝(アンサズ)』のルーンを励起して。軽い頭痛を感じながら。

 後は、放電を受けずに怒らせるギリギリのラインを攻めるチキンゲームを行うだけであり、

 

 

「丸見え、とは下着の事を指すのでしょうか。でしたら、その程度の事で幸福を感じるような貴方に幸福を与えられたのでしたら、ミサカとしても悪い気はしません。と、ミサカはドン引きしながら妥協します」

「……………………生まれてきて御免なさい」

 

 

 じっ、と硝子玉のような瞳で見上げられながら。こんな冷淡な反応をされて傷つけられるとは、思っても見なかった。

 

 

──なんか、調子狂うな。あれ、御坂ってもっとこう、サバサバしてて話しやすかったような……気のせいか?

 

 

「と、ところで御坂はこんなところでどうした? 黒子ちゃんと待ち合わせでも?」

「はい、いいえ。ミサカは、この子と遊んでいました」

「この子……ああ」

 

 

 そしてその腕の中の虎毛の仔猫が、琥珀色の円らな瞳を瞬かせながらニャアと鳴いた。恐らく先程は、この猫に構っていたのだろう。

 しかし、どこかで見た事がある気がする仔猫だった。まぁ、猫の見分けなど付かないが。

 

 

 そこで、再び彼女を見遣る。やはり、()()()()。以前、涙子の見舞いに行った際に見たように……御坂美琴は、()()()()()()()()()()()()()()()筈ではなかったか、と疑問を感じて。

 

 

「急に見詰めてどうされたのですか、と。変態に見詰められたミサカは、多少の鳥肌を立てつつ問い掛けます」

「……………………生まれてきて、本当に御免なさい」

 

 

 再度凹まされつつも、降って湧いた疑問を呈する事とする。

 

 

「なぁ、お前……()()()()だよな?」

「……………………」

 

 

 真贋を見極めるように、『見聞』のルーンを励起しつつ。肯定してくれるものと、期待して。

 

 

「……いいえ、はい。それが第三位(レールガン)と言う意味でなら、ミサカは違います」

「違う、って……え?」

「遺伝情報的には同じですが。と、ミサカは付け加えます」

 

 

 一瞬、意味が解らなくなりつつも。何とか、補足でその意味に辿り着く。そう、つまり────

 

 

──一卵性双生児、って事か? 御坂にそんな話は聞いた事ないけど……。

 (いや)、人の家の事情なんて他人が頚を突っ込むべきじゃない事とは思うけれどもさ。

 

 

 そう、思い直して。一応のところは、納得して。努めて笑い、雰囲気を変えようとする。

 

 

「そっか……悪かった、間違えて。それじゃあ、改めて────」

 

 

 気取った仕草、さながら舞踏会の申し込みのように気障ったらしい仕草で頭を下げて。

 

 

「俺は対馬 嚆矢(つしま こうじ)異能力者(Level2)確率使い(エンカウンター)』。人呼んで、“制空権域(アトモスフィア)”だ」

「“制空権域(アトモスフィア)”……ミサカネットワークに該当あり、弐天巌流学園に同名の能力者があり。『手の届く範囲であれば、起こり得る事の全てを起こし得る“確率事象の魔王(エヴェレット・デーモンロード)”』…………」

「懐かしいなぁ、一年の時はそんな感じで呼ばれたっけか。いやぁ、若気の至りだねぇ」

 

 

 二年前の、余り()()()()()()()渾名(あだな)に苦笑いしつつ、待つ。その意味に、彼女も気付いたらしい。足下に虎猫を下ろすと、舞踏会の申し出を受けた淑女の如くスカートの端を持ち上げて。

 

 

「そうですか、貴方はお姉様の知り合いでしたか。失礼しました、ミサカはミサカ10000号です。分類で言うなら異能力者(Level2)欠陥電気(レディオノイズ)』、『トランスポンダー』と呼ばれています」

「トランス、ポンダー……」

「はい、いいえ。親愛を込めて“折り返し”と呼んでください。と、ミサカは補足します」

 

 

 そこで、疑念は確信に。まぁ、この年代ならば仕方ないか、と。

 

 

──厨二病、かぁ……能力者も掛かるんだなァ。

 

 

 そんな風に嚆矢は、“折り返し(トランスポンダー)”に生温かい眼差しを向けて。

 

 

「そっか……兎も角、女の子があんな無防備な事はしないように。自分の可愛さを自覚するように、いいな?」

「分かりました、ミサカは自分の可愛さを自覚します。と、ミサカは少しいい気分になりながら応えます」

 

 

 本当に分かってるのか、と疑問を感じつつ、後二時間ほどで風紀委員の活動が終わる為に焦りを覚える。

 ちゃんと定時で帰るには、報告書の製作なども勘定に含めてギリギリのラインだ、と。

 

 

「それじゃあ、またな。次はデートでもしようぜ、“折り返し(トランスポンダー)”ちゃん」

「……………………」

 

 

 照れ混じりに走り去り、無反応に落ち込みながら消えていった嚆矢を見送って。

 ルーズソックスの足に擦り寄っていた虎猫を、再び抱き上げた彼女は。

 

 

「…………はい、いいえ。またです、嚆矢」

 

 

 痛むように、苦しむように。嚆矢に向けて、そんな風に口にした……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 自室に帰り、服を着替える。深緑のカーゴパンツと黒無地のTシャツに。一般的な休日スタイルの服を身に纏い、後は己の為すべき事を確認して。

 

 

「あら。こんにちは、嚆矢くん」

「あ、こんにちはです、撫子さん」

 

 

 日課の庭掃除をしていた和装の家主から挨拶され、会釈を返す。見れば、また仔猫が足下に戯れていて。

 

 

「そう言えば、今日の夕方に新しい店子さんが来るの。可愛らしい女の子よ」

「マジすか、俺、今日は夕方から用事があるんで……挨拶が楽しみだなぁ」

 

 

 少し残念に思いつつ、頭を下げる。返ってきた会釈に、再度頭を下げて。歩き出た道、人目と監視カメラの死角で。

 

 

「────ショゴス」

『てけり・り。てけり・り』

 

 

 呼び掛けに答え、空間を引き裂いて刃金の螻蛄が姿を現す。体長一メートル七十センチ強、全高九十センチもの、黒い刃が。それに、嚆矢は────

 

 

巡航形態(クルーズモード)走破二輪(ドライヴバイク)

《鉄馬か……佳い佳い、次は戦車か潜水艦、若しくは衛星兵器じゃな》

(手に入るか、ンなもン)

 

 

 ()()を掛ける。『螻蛄の七つ芸』が一つ、『走る』事に特化した形状に。即ち、嚆矢が扱い慣れた自動二輪車の形態に変型した螻蛄に跨がって。

 魔力を原動力とするその機関(エンジン)から咆哮を上げつつ、“悪心影(あくしんかげ)”と共に走り去ったのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八月一日・夜:『アイテム』

 

 

 第七学区に、そのビルはある。誰もが何の為に在るのか、何が有るのかを知る事もなく。黒一色の外壁、出入り口はおろか窓すらもない異質。異形。だが、誰一人────それを確かめる事はない。

 あってはならないのだ、そんな事は。己の命が惜しければ、そこに集う『闇』を知るべきではない。そう────“金色の夜明け(ゴールデン=ドーン)”を見てしまう事は、生きていく上では必要ないのだから。

 

 

「君が────」

 

 

 その闇の中に、光がある。“黄金の夜明け”が、其処(そこ)に在る。培養液に満たされた巨大なビーカーの中で、カバラ秘術に謳われる“生命の樹(セフィロト)”の如く、逆しまに浮かんで。

 

 

「君がここに来るとは、珍しい事もあるものだね────“時間人間(チク・タク・マン)”?」

 

 

 見下すように見上げながら、白髪の……男にも女にも老人にも若人にも見える、ローブにも囚人服にも見える装束を纏う『見えざる杖を持つ魔術師』は。

 

 

「確かに、確かに。だが、当たり前の事だよ────“学園都市統括理事長(アレイスター=クロウリー)”」

 

 

 まるで鳴り響く大時計塔(ビッグ・ベン)の如き威圧的な重低音の声で、機械のように無表情な白い最高級のスーツの、銀の懐中(ド・マリニーの)時計を見詰める麗しき褐色の青年と相対していて。

 

 

「それで今回は何用かな、相も変わらず一秒の誤差もない(きみ)よ。挨拶ならば以前済ませた筈だ、私も暇ではないのだが?」

「相も変わらず面白い事を言う、今日も明日には死にそうな(きみ)よ。日がな一日、培養液に浮いているのが仕事の君が忙がしいとは」

「これは手厳しい、では暇な私の時間潰しに付き合ってもらえるのかな?」

「時間の浪費は人間どもの悪癖だ、総時間二分で済む。我が目的の為に君の配下を一人、生け贄とする事に決めたと言伝(ことづて)に来ただけだ」

 

 

 悠然と微笑んだ“学園都市統括理事長(アレイスター=クロウリー)”と呼ばれた男の慇懃無礼な問い掛けに、泰然と無表情の“時間人間(チク・タク・マン)”と呼ばれた男の慇懃無礼な返答が。

 和やかに、まるで旧友との再会を楽しむかのように。

 

 

「ほう、生け贄。君達の目的の為に、私の部下を」

「承諾を求めてはいない。ただ、決定事項を告げただけだ」

 

 

 そして刹那、二柱が同時に発した殺気に空間が狂い、時間が痴れた。恐らくは、同じ場所に居ただけでも狂死しよう。他に誰も居なかったのは、せめてもの救いだったのだろうか。

 殺伐と、まるで仇敵との再会を楽しむかのように。

 

 

「……構わないさ。替えならば、幾らでも利くからね。それに、暗部だからと私の部下な訳ではないよ」

「では、これで話は終わりだ。時間は有限のもの、無駄には出来ない。『彼女』には既に“膨れ女(ブローテッド=ウーマン)”が接触している」

「やれやれ……仕事が早いものだね」

 

 

 アレイスターの言葉に、“時間人間(チク・タク・マン)”が踵を返す。総時間、二分。銀時計の刻みは、狂い無く精確で。

 

 

「随分と『彼』に期待しているようだね……あの『()()()異能』は確かに面白いとは思うがね。何時から『()()()()()()()()』に加入したのかね?」

「死んだ北欧の神々の名を騙る愚か者どもにも、次元の狭間に引き籠もる暇人どもにも興味はない。“結社”は、我等の目的を果たすのみ」

「ふむ……機械の君にはやはり、相性が悪いかな?」

 

 

 その背中に掛かったアレイスターの言葉、それに“時間人間(チク・タク・マン)”は緋い瞳で────

 

 

「────面白い。実に面白い。君の諧謔(ジョーク)のセンスには、毎回脱帽させられるよ」

「そうかね? そこまで言われて悪い気はしないが」

 

 

 笑う、誰しもがうっとりと見惚れるように精密な機械の笑顔で。嗤う、誰しもがあっさりと発狂するような凄惨な鬼戒の笑顔で。人のものではある、しかし鮫のような。人外に違いない、しかし尋常な。

 だが、人ならざるのならば魔術師も同じ。その圧倒的な狂気、風のように受け流して。

 

 

「君達は────あの“双子”を()()()に呼び出して、何をする気なのかな?」

「君には、興味はあるまい? 私にこのビルが一体何であるのかも、君が“幻想殺し(イマジンブレイカー)”で何をする気なのかも興味が無いように」

「なるほど、道理か。手間を掛けたね、次は茶菓子くらいは用意しておくよ」

「期待せずに待っていよう」

 

 

 振り向きもせずに、実に簡潔に言葉を返して。“這い寄る混沌”の一柱たる“魔神”は、時間の波間に消えていく。

 魔術師はそれを見送り、愉しげに────微笑んだのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 緩やかに茜色に染まる学園都市、第七学区の摩天楼(ビルディング)群が真横に流れていく。大嫌いな学園都市が、大嫌いな色に。そして一際嫌いな、真っ黒なビルが視界の端に。一瞥をくれてやる義理すらない。

 ショゴスによる黒いフルフェイスのヘルメットとライダースーツを纏う嚆矢は、ただ前だけを見詰めて自動二輪を転がして。

 

 

「…………あれ?」

 

 

 何か、大事な事を忘れているような気がして。だが運転中だ、気を散らすのは危険だと判断して集中を再開する。

 その刹那、凄まじい速度でトレーラーが対向車線を走り抜けていった。その巻き起こした颶風(つむじかぜ)に、危うく転倒しそうになって体勢を立て直して。

 

 

「……危ねぇな、警備員(アンチスキル)は何やってんだよ」

《む、もしやあれが『衛星兵器(さてらいと)』とか言う奴かの?》

(ンな訳あるかよ……莫迦(バカ)も休み休み言え)

 

 

 そんな事を呟き、それきり意識する事はなく。この時、起こっていた『事件』など知る由もなく。

 

 

 辿り着いた『純喫茶 ダァク・ブラザァフッヅ』。薄暗い路地裏の僅かに開けた敷地の中に停車、螻蛄に戻った鎧と共にライダースーツとヘルメットから不定形に戻ったショゴスが影に潜り込み、消えていく。

 

 

《では、(わらわ)も引っ込んどくかのう》

(何だよ、手伝えよ。態々(わざわざ)俺を呼ぶなんて、結構な人数来るっぽいぞ)

《働いたら負けだと思うておる》

(そのまま永遠に朽ち果てろ)

 

 

 ついでに、“悪心影(あくしんかげ)”が傍観を決め込んで。背後の虚空に、人の目には捉えられぬ『(かげ)』として揺らめくのみ。

 後は、嚆矢一人が残るのみで。只一人、溜め息を溢しながら。

 

 

「……さ、仕事仕事」

 

 

 だが、元から大して他者の心など忖度(そんたく)しない彼は大して気にしない。嚆矢は、只有るがままに。有りのままに擦り抜けて。

 異形の彫刻が施された木製の扉を開く、異質な金属のドアベルの冒涜的な音色を聞いて。

 

 

「いらっしゃい。待っていましたよ、コウジくん」

「こんばんはです、ローズさん」

 

 

 しっとりとしたジャズを流す、古式ゆかしい蓄音機の音色に包まれた店内に待つ緋瞳の師父の笑顔に応えた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、二十時ジャスト。場所、純喫茶ダァク・ブラザァフッヅ店内。ギャルソン服を纏う嚆矢は、暇そうに椅子に座っている。

 まぁ、事実暇だ。何せ、既に二時間もの間、一人として客など入っていないのだから。

 

 

「……………………」

 

 

 “輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)”を内蔵する懐中時計を閉じ、仕舞う。それにより、彼の背後に影が立つ。

 

 

《『何だよ、手伝えよ。態々(わざわざ)俺を呼ぶなんて、結構な人数来るっぽいぞ』》

(ちょっと何言ってるのか解りませんねぇ……)

 

 

 背後に立った“悪心影(あくしんかげ)”の嘲りを受け流しながら、暇を持て余して銀製の食器を磨く。不織布で優しく、曇りがないように。ムーディスティックなジャズの音色に包まれながらの作業は、妙な中毒じみた精神作用があった。

 そんな風に集中していたからだろうか、ドアベルの冒涜的な音色に反応が若干遅れたのは。

 

 

「あ、いらっしゃ────」

 

 

 開かれたドアから、微かに生臭い風を纏う二つの影。殭屍(キョンシー)のような中華風衣装の男女が、素早く露払いに現れる。その無駄の無い動き、所作からは紛れもない武練の気配。しかも、生半可な功夫(クンフー)ではないと一目で判るレベルの。

 

 

──中国拳法……か。何者だ、コイツら?

 

 

 その二人の眼差し、ドロリと濁った死魚の眼の如く、瞬きの無い視線に肌が粟立つ。即ち、明白な殺意────

 

 

沱琴(ダゴン)沛鑼(ハイドラ)。あまり私に恥を掻かせないで頂戴」

「オ嬢様、済ミマセン」

「オ嬢様、御免ナサイ」

 

 

 それを踏みにじるようにクスクスと笑いながら、海の気配を連れた屍蝋の如き肌の少女が歩み入る。二人の従者を控えさせながら、水色の髪を結った中華袖の衣装の娘が。

 年代物の木製の床を、きしりとも軋ませない(さざなみ)のように静かな歩法は、やはり生半可な功夫とは思えない。

 

 

「あら、お出迎えは無し? 日本のおもてなしは世界一と聞いていたのだけれど?」

「っ……、…………っ」

 

 

 何よりもその腰の巻物だ。そこから放たれる淀み腐った水の如き、凄まじいまでの瘴気。それに、深海の水圧に喘ぐように息を吐いて。

 

 

「いらっしゃいませ、ご予約の」

「ええ、可愛らしいお兄さん? 私が今宵の主賓────」

 

 

 殺意よりも明白な、『食欲』を瞳に湛えて此方を見遣る────三人の人外を。

 

 

「“螺湮城異伝(ルルイエ=テキスト)”が主、玖 汀邏(クゥ テイラ)アルよ。くふふ…………」

 

 

 一昔前の映画の中国人のような口調で巫山戯(ふざけ)、嘲笑う海神(わだつみ)の姫君を。

 

 

………………

…………

……

 

 

 第七学区のとある公園。昼間はウニ頭の高校生が自販機に金を飲み込まれて喚いたり、ビリビリする中学生がその自販機を後ろ回し蹴りしていたりするような、何処にでもある緑化公園だ。

 蒸し暑い夏の暗闇の中、気の早い虫達は既に熾烈な伴侶獲得の為の歌謡祭を催している。無論、虫に限った話ではないが。

 

 

 青春を謳歌する学生が逢瀬をしたり、それを邪魔(カモに)する落第生(スキルアウト)(たむろ)していたり。昼間とは真逆の表にはでない騒がしさが、満ち潮のように溢れている。

 

 

「ようよう、お嬢ちゃんどこ行くの~、っと」

「何、一人ぃ?」

「だったらお兄ちゃん達が警備員(アンチスキル)の支部まで案内したげようかぁ?」

「大丈夫大丈夫、お兄ちゃん達は学園都市には詳しいからさぁ」

「何処に支部があるかも、ホテルの場所も詳しいぜぇ?」

「……………………」

 

 

 

 そんな中の六人、高校生くらいか。まだ小学生と言っていい少女を自販機の前で囲んでいる、六人の落第生(スキルアウト)だ。

 朝方にも同じような事をしていて、風紀委員(ジャッジメント)に制圧されて警備員(アンチスキル)に引き渡された六人であり。

 

 

「まだガキじゃねぇか、付き合ってらんねぇ……」

 

 

 ただ一人、五人に着いていけずに距離を置いた少年。彼が一番まともで、そして────一番、不運であった。

 

 

「────うるせぇんだよ、クソ雑魚どもが」

「「「「「あァン──────?!」」」」」

 

 

 自販機の灯りを逆光に、頭からすっぽりと白いフード付きの上着を被った少女の呟き。それに一気に彼等は逆上して────

 

 

「────────」

 

 

 悲鳴を上げる暇もなく撒き散らされた血飛沫の中、『()()()()()()』を携えたパンキッシュな服装の少女は、嘲るように『呪詛(なにか)』を呟いて──────

 

 

「え──────?」

 

 

 仲間だった者達の血飛沫と肉片に塗れた少年の耳許に、せせら笑う忍び笑いだけが届いて────

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、二十時十分。場所、純喫茶ダァク・ブラザァフッヅ。今時珍しいカンテラの灯りに照らされた室内に、芳しい匂いが立ち込めている。

 その太源(おおもと)たるテーブル、所狭しと並んだ料理の数々。だが、嗚呼。それに食欲を唆られるのは真っ当な感性では有り得ない。

 

 

《とんでもない下手物(ゲテモノ)食いじゃのう》

(食文化は国其々(それぞれ)だろ……ウプッ!)

《難儀な性分よのぅ、お主》

 

 

 各々の頭蓋を器にした牛に豚、鹿に猪、熊に猿の脳味噌と目玉のスープに臓物のソテー、昆虫や爬虫類の素揚げ。得体の知れない茸や木の実、植物のサラダ。最早、コールタールにしか見えないホットドリンク。全て、奥の厨房で師父が作っているものだ。

 それを慄然たる思いで並べた嚆矢は、戦慄に打ちひしがれている。何故か? 単純な理由だ。

 

 

「ああ、いつ来ても此処の品揃えは最高ね。店主に感謝を伝えて頂戴な」

「は、はぁ……」

 

 

 それを喜悦に満ちた表情で見詰める、『玖 汀邏(クゥ テイラ)』と名乗った海神の姫君(マインドフレイア)の為に。胡乱げに頷けば、その姫君の左右に(はべ)る男女二人、『沱琴(ダゴン)』と『沛鑼(ハイドラ)』と呼ばれた者達が此方を注視している事に気付く。

 一挙手一投足を見逃さぬように。まるで、嚆矢の()()()()()()()()()()()()ように。

 

 

《ふん……舟虫(フナムシ)(つがい)風情が────誰の許しを得て、(わらわ)の前で(おもて)を上げるか》

「「─────!?」」

 

 

 対した“悪心影(あくしんかげ)”の燃え盛る三つの瞳と恫喝に近い言葉に、従者二人は臨戦態勢とばかりに剛拳の代表格“八極拳(ハッキョクケン)”と柔拳の代表格“太極拳(タイキョクケン)”を構えようとして────

 

 

「────うん、美味しいわ。やはり脳髄は哺乳類のモノに限るわね。猿のモノ、御代わりを戴けて?」

「あ、はい。直ぐにお持ちします、お嬢さん(リトル・ミス)

 

 

 一触即発じみた空気の中で、そんな言葉が。それを天の助けとばかりに──実際は魔の囁きだろうが──嚆矢は、師父の真似をしながら(うやうや)しく礼をする。

 それに、ナプキンで口許を拭っていた汀邏はキョトンと、一瞬呆気に取られた後で。

 

 

「ぷっ、くふふ……いつ以来かしらね、小娘扱いされるなんて」

 

 

 口許を隠し、上品に笑う。悪意の無い、まさに小娘のような純朴な笑顔で。それに、従者二人は驚いたかのように“悪心影(あくしんかげ)”から注意を外して。

 

 

「あ、済みません。気分を悪くされたのでしたら……」

「いいえ、寧ろ嬉しかったわ……くふふ、まだまだ私もいけるかしらね?」

 

 

 だがもう、姫君は純朴さを包み隠すように。淑女の嗜みか照れ隠しか、艶やかさの薄絹(ヴェール)を纏いながら笑っている。

 だから従者達は、今度こそ嚆矢に向けて。陰惨な、夜の磯辺に屯する毒虫じみた殺意を漲らせて。それを受けた嚆矢が、肌を粟立たせるくらいには威圧して。

 

 

「────ねぇ、叔父様(おじさま)?」

「…………あの、まだギリギリ十代なんですが」

「あら、そう? でも、私から見れば叔父様だわ。煌めく黄金瞳の、素敵なお・じ・さ・ま」

「ひ、酷い……非道(ひど)すぎる。あんまりだ─────あ、いらっしゃいませ……」

 

 

 彼女から放たれた言葉の方に、嚆矢は酷くショックを受けながら。これ幸いとばかりに項垂れて従者達の視線から逃れながら、厨房に引っ込んでいこうとして。

 鳴り響いた、冒涜的なドアベルの音色。それに、振り向けば────

 

 

「お邪魔しまーす……あれ、店主さん代わった訳?」

「──────な」

 

 

 息を飲む、衝撃に。夜闇の中から歩き出てきた、裏の自分の良く知る金髪碧眼の娘────フレンダ=セイヴェルンに。

 魔術的な抵抗か、記憶操作に関する能力を持たない限り、師父から招かれた訳でもなければ再び辿り着く事など能わぬ筈のこの店に、再び現れた少女に。

 

 

「ま、()いてるみたいだし……ウェイターは良しとしようかねぇ」

「そう? 私的には及第点な訳だけど」

「誰もアンタの男の好みなんて超聞いてないんですけど」

「ん……大丈夫。そんなふれんだを、わたしは応援してる」

 

 

 その後ろから続いた『上司達』、麦野沈利と絹旗最愛、滝壺理后の『アイテム』の面々に相対して。

 無論、今は『影』に潜んでいる“呪いの粘塊(ヨグ=ショゴス)”で『Mr.ジャーヴィス』の姿をしていない彼を、彼女らは『部下』とは気付かない。

 

 

「騒がしくなってきたわね……私、凪の夜の海のような静けさの方が好きなの。御暇(おいとま)させて戴くわ」

「あ、はい……お送り」

「結構よ。それじゃあ、再見(また)

 

 

 だが、増えた人口密度に眉を顰めた姫君が立ち上がる。慌てて椅子を引いて見送ろうとするも、制されて。従者を引き連れ、姫君は戸口を跨いでいった。

 すかさず握り締めた首飾り、『兎脚の護符(ラビッツフット)』の『話術(アンサズ)のルーン』を励起しながら、嚆矢は。

 

 

「……い、いらっしゃい……ませ……四名様で宜しいでしょうか」

「そ。結局、良い席を用意して欲しい訳よ。結構格好良いウェイターさん?」

 

 

 冷や汗を吹き出し、顔を引き攣らせて笑いながら。ウィンクしてきたフレンダの言葉に、窓際の四人掛けの席を促したのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 何故こうなったのか、と頭を抱える。席について駄弁っている闖入者達にバレないようにカウンターに引っ込んで、しゃがみこんで。

 バレている訳ではない、と信じたい。もしもそうであれば、暗部の情報網であっという間に個人情報を丸裸にされて『風紀委員(ジャッジメント)所属』……引いては『警備員(アンチスキル)所属』と知れてしまうだろう。そうなってしまえば、麦野沈利の事だ。即座に『物理的にクビ(メルトダウナー)』モノ。

 

 

「うわっ、見てよ絹旗。さっきの女のテーブルの料理……こんなもの誰が食う訳よ」

「超えげつないラインナップですね、あの根菜とか引き抜かれた時に超悲鳴を上げそうな形してます」

「美味しいのかしらねぇ? フレンダぁ、アレ、摘まんでみな?」

「ちょっ! 勘弁してよ、麦野! あれ、ゲームとかで見た事ある訳よ! 食べたら即死する奴なのよ!」

「大丈夫だよ、ふれんだ。わたし、胃薬持ってる」

「……滝壺、それ結局食えって言ってる訳?」

 

 

 その様を想像して青くなりながらそっと除き見れば、四人は海神の姫君が残していった下手物料理の方に気を取られているらしい。

 そもそも、考えるべき事は他にもある。彼女らが、此処に来れた理由であるとか。

 

 

──まさか、実はあの中に魔術師が居る訳じゃねぇよな……だとすれば、まさかとは思うが滝壺ちゃんの『能力追跡(AIMストーカー)』か?

 (いや)、それはない筈だ。それならもうバレてる事になるし、そもそも根性莫迦(ナンバーセブン)に負けた事により、どんな作用でかは不明だが『自分だけの現実(パーソナル・リアリティ)』を()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()である、俺の『確率使い(エンカウンター)』を追跡はできない。

 

 

 では、何故か。そこで行き詰まる。魔術の気配はしないが、隠遁に優れた術者ならば尻尾を見せなくてもおかしくはない。

 何か、気に懸かるモノはある。『他人の精神に働き掛ける魔術や能力』、嚆矢が知り得る中で、この店の隠蔽を剥がせる程のモノは、たった二つ。

 

 

──超能力者(Level5)・第五位の能力と、もう一つ。“()()()()()()()()()()()()”────

 

 

 詳しい事は良く覚えていない精神操作系能力の最高峰と、()()()()()()()()()

 何にせよ、気は抜けないと言う事だけは確かだ。どちらだとしても、どんな意図があるのか知れたものではない。

 

 

《ふむ、何者かが手引きした、と。しかし、なんの為にじゃ?》

(そこだな、問題は……真意が掴めない。だから、尚の事厄介だ)

 

 

 考えれば考える程、分からなくなる。だが、時間はそうはない。既に二分が過ぎた、早くお冷やとおしぼりを出して注文(オーダー)を取らねばなるまい。

 そんな些細な事で沈利の逆鱗に触れては敵わない。覚悟を決めて、更に強く『話術(アンサズ)』と『博奕(ペオース)』のルーンを励起して。

 

 

「お待たせ致しました、お水とお手拭き、メニューでございます」

 

 

 テーブルに水とおしぼりを四つ、メニューを真ん中に。最初にメニューを取ったのは矢張(やはり)頭目(かしら)であり一番上座、左奥の窓際に座っている沈利。

 

 

「どうも。今日のお勧めとかあるかしら?」

「今晩は(サーモン)の良いモノが入っておりますので、ムニエルがお勧めでございます。ソースはバジル、付け合わせにアスパラとパプリカとなっております」

「良いわね、それを頂こうかしら」

「畏まりました、合わせてワイン等は如何でしょうか」

「そうね、赤を」

「承りました」

 

 

 慣れた様子でチップを渡してきた沈利は、メニューを隣のフレンダに渡す。どうやら、こういった経験は豊富なようだ。まぁ、超能力者で暗部所属など並大抵な財力ではないだろうし、不思議ではない。

 因みに本来、純喫茶では酒は出さない。だがこの店は夜間のみ、酒類を提供している……らしい。客が入っているところなど見た事がないので、今一ピンと来ないが。

 

 

「え~と……じゃあ麦野と同じもので」

(サーモン)でございますね。ですが、恐れ入りますが……ワインの方は、二十歳になってからでございます」

「ちょっ、子供扱いすんなってのよ!」

「未成年者にアルコールを出してしまっては、店長に叱られてしまいますので……」

「むむ……分かったわよ、コーヒーで。はぁ……結局アンタ、堅物な訳よ」

 

 

 多少気分を害したらしく、膨れっ面になったがなんとか納得はしてくれたらしい。恨みがましい目で見られてしまうが。

 メニューは、対偶の位置の理后に渡された。彼女はそれを受け取り、暫くペラペラと捲って。

 

 

「ん……じゃあ、カルボナーラ」

「承りました。お飲物は如何しましょう?」

「水でいい」

「承知致しました」

 

 

 そして、必要最低限の会話で注文が終わる。メニューは最後の一人、右の通路側の最愛へ渡された。

 一番小柄な彼女は、それを数度だけ捲って。

 

 

「じゃあ、この油焼きそばで。鰹節と青海苔は超多目でお願いします」

「承り……えっと、油焼きそばですか?」

「……何か、超文句でも?」

 

 

 それに、思わず聞き返してしまった。然もありなん、某グランプリに出てもおかしくないレベルのB級メニューだ。今までの三人とは全くもってベクトルが違う注文に、つい。

 そのせいで、最愛から見上げるように睨み付けられた。そもそも、この少女は目付きが悪いのだが。

 

 

「い、いえ……失礼致しました。お飲物は」

「コーラで」

「畏まりました、暫しお待ちを」

 

 

 注文を取り終え、厨房に引っ込む。其所では、師父が既に調理を始めている。この魔術師の店内(すみか)での話であれば、それがどんなに小さな言葉であれ彼の耳に入らない事はない。

 なので、注文表だけを置いてドリンクの方を持って行く事にして。

 

 

《どうじゃ、何か気付いたか?》

(まぁな……微かにだけど、魔力の残り香があった)

《つまり?》

(能力開発を受けてる人間は魔術は使えねェ……(いや)、使えるには使えるが、反動でどうなるか分かったもんじゃねェ。“魔導書(グリモワール)”を媒介にしたか、或いは他の魔術師からの干渉か……やっぱり、今一判断が出来ねェ)

 

 

 無論、例外はある。何しろ己自身がそうなのだから。能力者が魔術を行使した際の……正確には『生命力を魔力に精製した際の反動』は、規模で違いはあれども完全にランダム。故に、『最も軽い確率』を掴み取る事で。

 昔、蛙みたいな顔をした医者に『僕の研究成果でも使ってるのかな?』と聞かれたくらいに異常なレベルの、生来の『回復力』で騙し騙し使えている。最近はそれに“万能細胞(ショゴス)”も加わって、回復だけなら万全の体制だ。

 

 

《後者、であろう。“魔導書(ぐりもわーる)”のようなモノがあれば、(わらわ)が気付くからのう》

(…………)

《…………なんじゃ、その眼は? 胡散臭さの塊を見ておるようではないか》

(まぁ、兎に角気ィ抜くな。ショゴス、自律防御(オートディフェンス)は任せた。帰ったら煙草やるから)

『てけり・り。てけり・り』

 

 

 少なくとも背後に沸き立つ燃え盛る三つの瞳で嘲笑う(かげ)の魔王よりは付き合いが長い、足下に湧き立つ無数の血涙を流す瞳で見上げてくる(カゲ)の怪物の協力を取り付けて。

 

 

「お待たせ致しました」

 

 

 先にドリンクを並べて、帰り際に先の客が残していった下手物料理の数々を下げる。

 

 

「そう言えば、ジャーヴィスの奴。アンタらどう思う?」

 

 

 そこで、赤ワインを一口含んだ沈利がそんな事を口にした。思わずそれに、片付ける振りをしつつ耳を傾けて。

 

 

「どうって、結局どうもこうもない訳よ。素顔も見せないような奴、どう思えばいいのよ」

「超胡散臭いってところは、最初から変わりませんが。少なくとも戦力としては上々ですね」

「うん、でも……わたしの『能力追跡(AIMストーカー)』が効かないのは不思議」

 

 

 そこに本人が居ると、知っていての評価か。だとすれば、真綿で首を絞めるような良い性格をしている事になる。

 そして矢張(やはり)、まだ一~二週間の付き合いではこんなものだろうと。

 

 

「よね。『正体非在(ザーバウォッカ)』って結局、どんな能力な訳? 大能力者(Level4)の滝壺の『能力追跡(AIMストーカー)』が効かないなんて、超能力(Level5)?」

「顔が分かんないんだから分かる訳ないでしょうが……少なくとも、第二位(垣根帝督)ではないみたいだけど」

「じゃあ、第一位とか?」

「…………超笑えねェ冗談ですねェ、フレンダ」

「な、何でアンタがキレる訳よ、絹旗…………じゃあ、正体不明の第六位とか?」

「さぁ、どうだろうにゃ~?」

「麦野が分からないなら私らにはもっと分からない訳よ……あ、良い事を思い付いたのよ」

 

 

 四人組は直ぐ側に本人が居ると知ってか知らずか、そんな話で盛り上がって。

 そうこうしている内に、幾つかの料理が出来上がっていた。片付けを終え、それを彼女らのテーブルに運ぶ。流石に纏めては無理なので、先ずは窓際の沈利と理后の分を。

 

 

「サーモンのムニエルと、カルボナーラでございます」

「へぇ、悪くない。悪くないわね」

「ありがとうございます、後の二皿も直ぐにお持ち致しま────」

 

 

 携帯を操作しているフレンダと、窓の向こうの夜の闇を眺めている最愛の前を越えて二皿を置き、一礼して踵を返す。

 

 

「等の本人を呼び出してみる訳よ、財布も兼ねてね」

「す、ね────!」

 

 

 正に、その刹那だった。フレンダが誰かに向けて通話を始めた数瞬の後に────嚆矢のポケットの中から、着信音が響いたのは。

 それに、四人の視線が一斉に此方に。沈利と理后は料理から、フレンダは彷徨わせていた虚空から、最愛は窓の向こうから此方に向いた。

 

 

「し、失礼致しました────」

 

 

 血の気が引く。有り得ない事だ、仕事用の携帯は常にマナーモードにしてあるはず。それが何故、と。

 

 

《…………あ、昨夜(ゆうべ)黙って触った時に間違えて解除してしもうた気が》

(…………お前が謀叛に遭って死んだ理由が、今ハッキリと分かった)

 

 

 背後の新物(あたらしもの)好きの魔王の、知識欲を甘く見ていた事に臍を噛む。無論、表情には出さずに。あくまで関係ない風を装って。その間も、着信音が鳴り響いている。

 そして、見える。フレンダが携帯の呼び出しを切ろうとしているのが。もし、あれを切られてそこで着信音が途切れれば……最早、詰みだ。疑いようもなく、絶対にバレる。

 

 

──考えろ、どう切り抜ける……この状況で、俺の取るべき最善の手は何だ!

 

 

 思考を回転させる。()()()()()()()()()()()。演算強度だけは大能力者(Level4)級の、その頭脳で弾き出した答えは。

 

 

『ハァ~イニャア、フレンダチャン? ジャーヴィスナ~ゴ?』

「あ、やっと出た訳よ」

 

 

 フレンダの携帯から響いた、金切り声のような声。間違いなく、それは嚆矢の『裏の顔』であるMr.ジャーヴィスのもの。ただし、微妙に片言だが。

 そして、その等の本人は────

 

 

『フレンダチャンカラ電話ガ頂ケルナンテ思ワナカッタニャア、一体何ノゴ用ナ~ゴ?』

「では、残りの皿をお持ち致しますね」

 

 

 猫男の声が響く中、フレンダと最愛に会釈して振り向く。それにより、四人の興味は完全に嚆矢から離れた。

 そして嚆矢は、ポケットの中の────携帯に纏わり付く粘塊に向けて意識を。

 

 

(危なかったな……助かったぜ、ショゴス)

『てけり・り。てけり・り』

 

 

 精神感応(テレパシー)で此方の意志を読み、携帯に答えさせているショゴスに感謝を。

 

 

『何よ、てけりって?』

『あ、気にしないでニャア。それより、何か用事なんじゃないのナ~ゴ?』

 

 

 と、(いぶか)しまれて慌てて携帯を口許に。バレないよう、四人にも気を配りながら。幸い、此方を気にしている風ではない。乗り切るまでは気は抜けないが。

 

 

『あ、そうそう。こないだの店に皆で来てるんだけど、結局アンタも来ないって訳』

『ダァク・ブラザァフッヅニャア? 残念だけど、今日は無理ナ~ゴ……』

『何、私の招待を蹴るっての?』

『涙を呑んで見送らせていただきますニャアゴ』

 

 

 兎に角早く切り上げようと、断りを入れる。厨房に引っ込んでいる内に切れば、一先ずは安心だ。

 因みに師父はこんな時に限って、備え付け型の店電に応対している。随分盛り上がっているらしく、まだまだ終わりそうにない。

 

 

『なんな訳よ、もう! 今日は散々な日な訳よ────ウェイターさん、私の分まだー?!』

「あっ、はーい、ただいま!」

 

 

 と、携帯とホールの両方から同じ言葉が。それに慌てて反応し、サーモンのムニエルと油焼きそばを持つ。再びショゴスの精神感応に対応を切り替えて、急いで運ぶ。

 その為に振り向いた瞬間────

 

 

『「結局、新入りの癖に生意気なのよ! あと、ウェイターさんも遅い訳よ!』」

『「超待たせ過ぎです』」

「ッ…………!?」

 

 

 振り向いた嚆矢の直ぐ目の前まで文句を良いに来ていたフレンダと最愛は、精神感応(テレパシー)と実際の耳で二重に聞こえる音声で文句を口にして。

 

 

『申シ訳アリマセンデシタ、直グニオ持チシマス────』

「勘弁してニャア、オイラにも用事ってもんがあるのナ~ゴ────」

「「………………」」

 

 

 そう、金切り声が真面目に。バスドラの声が、巫山戯たように二人に答えて。刹那、フレンダと最愛が虚を突かれた顔をしたのを確認して。

 直ぐに、自分がやらかした失態に目の前が真っ暗になった気がした。『終わった』と、だがまだ諦めず。

 

 

「成る程……超そォ言う事ですかァ」

「そうね、結局そう言う訳なのよね」

「………………あの、違くてですね、ちょっとお茶目をしてみたくなったと言いますか……」

 

 

 フードを被ると仇敵を見付けたようにじろりと睨み付ける最愛、携帯を切ると最高の玩具を見付けたようにニヤリと笑うフレンダ。二人はそれぞれが注文した皿を嚆矢から奪い取ると、テーブルへと戻っていく。

 

 

「……後で、話が超あります。逃げたらブチ殺しますから」

「……結局、帰り道が楽しみな訳ね」

 

 

 その去り際に、揃って嚆矢の頭の両側に顔を寄せて。怒気を孕み、まるで断罪するように。サドっ気を孕み、まるで嘲弄するように。

 (シャチ)海豹(アザラシ)過剰殺傷(オーバーキル)ように、猫が鼠を甚振(いたぶ)るかのように。

 

 

「「────ジャーヴィス?」」

「………………はい」

 

 

 掛けられた最愛とフレンダの声に逆らう術など、嚆矢には残されていない。諦めて、窓の外に浮かぶ……赤く潤んだ三日月を見上げたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、二十一時三十分。場所、純喫茶ダァク・ブラザァフッヅ。一際濃い、夜闇を湛えた第七学区の路地裏に聳え立つ黒い屋敷。或いは『微睡みの蟇王(ツァトゥグァ)』の鎮座する神殿、ン・カイの深遠。闇色の不定形の落とし子が跋扈するかのような、闇の中で。

 冒涜のドアベルの音色が響く。内から外へと向かう彼女らの店内の記憶を、魔術的な彫刻の施された木製の扉と共に削ぎ落とす鐘の暗示(ねいろ)が。

 

 

「ありがとうございました、またのご来店をお待ちしております」

「ええ、中々だったわ」

「それじゃあ、ばいばい」

 

 

 沈利と理后に向けて、頭を下げる。先に述べた暗示により、本来ならばもう二度と彼女らが来る事は有り得ない。だから、普段は白々しく感じる言葉。

 だが、その慣例を破ってまた現れた今回の事から、嚆矢は恐々としながら。

 

 

「じゃあ、バイバ~イ。麦野、滝壺♪」

「……では、超また今度」

「………………」

 

 

 笑顔のフレンダと仏頂面の最愛に両脇を固められた、逃げ場の無い状態で。最早、苦笑いしか浮かばない。

 しかもフレンダには右腕を抱き締め……ている風に見える関節技(サブミッション)をガッチリ決められており、最愛からは左腕を骨が砕けそうなくらいの圧力で掴まれている。無理に振り解けば、両腕を諦めねばなるまい。こう言う時、昔の能力(スキル)があればと思わないでもない。

 

 

「なんだい、フレンダ。『カラオケ行きたい』とか駄々こねてたのは、あんただろうに」

「だって麦野、結局これは運命の出会いって奴な訳よ。私と絹旗の事は気にしないで、楽しんできてね」

「こっちは此方でェ、超楽しみますンでェ」

「訳分からないわよ……てか絹旗、あんたキレてる?」

「いえ、別に」

「ふぅん……」

 

 

 矢張(やはり)(いぶか)しんだらしく沈利は腕を組んで何か思案しながら、鋭い眼差しを此方に向けて。

 

 

「…………そんなに良い男かしらねぇ? ま、人の趣味にとやかく言っても仕方ないか」

「………………………………」

 

 

 此方を値踏みして、『理解できない』と肩を竦めた。実に大きなお世話である。

 

 

「コッチとしては、仕事に支障を出さなきゃ文句はないけどさ。ホドホドにしとくんだよ」

「は~い」

「はい」

「………………………………」

 

 

 それだけ口にすると、沈利は少し先で待っていた理后と合流して夜の帳が降りた学園都市に消えていく。

 それを最後まで見送って、実に三分は経っただろうか。漸く拘束が解ける。その刹那────

 

 

「さて、と。じゃあ」

「超尋問タイムといきますかねェ」

「………………………………」

 

 

 夜の闇の中ですら炯々と光って見えた程の眼光で、フレンダと最愛が此方を見遣る。それは底冷えがする程に、嗜虐的な瞳だった。それは底冷えがする程に、無慈悲な瞳だった。

 それを暗澹たる瞳で見遣る。陰惨な蜂蜜色の黄金瞳で、遠く空の彼方の三日月と朧な星影を浴びながら決意を固める。

 

 

──ヤるしかねェな……幸いと言うか何と言うか、彼女らは麦野沈利達には俺の事は報せてない。それは、“剱冑(ツルギ)”の『音響探査(ソナー)』で把握した。

 同僚の初春飾利に、下級生蘇峰 古都(そほう みやこ)にそうしたように『空白(ウィアド)』のルーンを刻んで記憶を消す。それしか、手は残されてねェ。

 

 

 漸く自由になった右手で『兎脚の護符(ラビッツフット)』から、頭痛と共に『空白(ウィアド)』のルーンを励起する。闇に煌めく無色の励起光を、誰も見る事は出来ない。後はなんとか、触れる事が出来さえすれば。

 

 

「──良い眼ェすンじゃねェですか、まるで餓狼ですねェ」

「結局、私らに何かあれば送信予約してあるメールが麦野に届く訳よ。下手な事はしない方が良いのよね」

「………………チッ」

 

 

 だが、このルーンは『空白(ウィアド)』。他の文字(ルーン)とは併用が出来ない。自然、『話術(アンサズ)』や『博奕(ペオース)』の消えた状態となり、暗部として経験を積んでいる彼女達にそれを見咎められてしまう。舌打つも、もう取り返しはつかない。

 それでなくとも『正体非在(ザーバウォッカ)』等と言う能力を騙り、詳細を明かしていないのだから警戒はされていたのだろうが。

 

 

 『空白(ウィアド)』のルーンを終息させて、代わりに『話術(アンサズ)』のルーンを励起して。

 何にせよ、これで四面楚歌だ。後は鬼が出るか蛇が出るか、なるようにしかなるまい。

 

 

「それじゃ、とりま散歩でもする訳よ」

「わ~い、全男子の夢『両手に花』だァ。美少女二人に挟まれてうーれしーいなー」

「………………」

 

 

 嘲笑うフレンダに促され、()()()()()()()()()()()()()()()()()。巫山戯つつ店外に向かう。無論、背後は殺意を隠しもしない最愛に固められていて逃げ場はない。

 師父には告げない。告げなくても、理解しているだろう。それでも手や口を出してこないのは、信頼からか諦観からか。何にせよ、一人でやるしかないのは確か。

 

 

 そんな、夜の闇の底で。まるで、処刑の為に市中を引き回される罪人のように。

 無貌の夜鬼(ナイトゴーント)がせせら笑うかのような風力発電塔の軋む音を、遠く聞きながら。

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、二十一時四十五分。場所、第七学区のとある公園。昼間はウニ頭の高校生が自販機に金を飲み込まれて喚いたり、ビリビリする中学生がその自販機を後ろ回し蹴りしていたりするような、何処にでもある緑化公園だ。

 蒸し暑い夏の暗闇の中、気の早い虫達は既に熾烈な伴侶獲得の為の歌謡祭を催している。無論、虫に限った話ではないが。

 

 

 青春を謳歌する学生が逢瀬をしたり、それを邪魔(カモに)する落第生(スキルアウト)(たむろ)していたり。昼間とは真逆の表にはでない騒がしさが、満ち潮のように溢れている。

 

 

「で、結局アンタの名前は?」

「はいよ、フレンダちゃん。俺は対馬 嚆矢(つしま こうじ)、弐天巌流学園三年で合気道部所属。絶賛、彼女募集中」

「最後の情報はどォでもいィとして、弐天巌流……あの、『武の(いただき)』の?」

「一番重要なトコなのに……そ。その弐天巌流でオーケー。まぁ、時代錯誤の三流学園さ」

 

 

 そんな中を、何でもなさげに三人は歩いている。女子二人にギャルソン、どんな組み合わせかと注目を浴びそうなものだが……自分達の世界に浸るのに忙しいのだろう。誰も気になどしていないようだ。

 その証拠に、今もほら。押し隠した熱い息吹が、其処彼処(そこかしこ)から。絡み合う吐息とぶつかり合う肉の音が、茂みや物陰から恥ずかしげもなく木霊(こだま)して。

 

 

「ふ~ん」

「……何か?」

「いえいえ、何で覆面なんてしてるのかなって気になっただけな訳よ。別に隠すような顔じゃないってのに」

 

 

 空色の瞳で上目遣いに、二歩先を後ろ歩きで行くフレンダから覗き見られる。ハニーブロンドの長い髪が、更々と夜風に流れる。居心地の悪さに口を開けば、返ったのはそんな言葉。

 本当に、黙っていれば仏蘭西(フランス)人形のように可愛らしいだろうに。

 

 

「何か────隠さないといけない理由でもあるんですかねェ。例えば、『表』の顔に?」

 

 

 そして矢張(やはり)、黙っていれば市松人形のように可愛らしいだろうに。怒りを滲ませた無表情でフードの奥から覗き見る、その瞳。

 

 

「無いって、最愛ちゃん? 俺はただ、アレ……家族に迷惑が掛かるのが嫌だっただけさ」

「“家族”ぅ? そんなもん、何を気にする必要なんて────」

「………………なるほどォ」

 

 

 そう、僅かに欺瞞を。そして多分に本心も含めた、()()()()()()()()()()を口にして。

 フレンダは怪訝な、最愛は────そんなフレンダすら黙らされる程に、更に眼光を強めて。

 

 

「要するに、自分の為に私らを欺いたって事ですか?」

「そうとも言えるかも知れねぇけどさ。俺としては、()()()()()()()()()()()()()()

「悪いンですが、分かりませんねェ……私には、“家族”とやらは居ないもんでェ」

「居ないから分からない、なンて餓鬼にでも言えンだろォ? 知る知らない関係なく、大人なら類推して想像するもんだぜェ?」

 

 

 そんな、当たり前の事を口にして。最愛の怒りを、真正面から受け流して。嚆矢は、巫山戯た様子を吹き消して言い募る。

 まさに一触即発、命懸けのやり取りだ。互いに挑発し合い、先手を引き出そうとする二人のやり取りは。

 

 

「………………えっと、あれ、何かすごい真面目な雰囲気な訳だけど。口を挟んだが最後、『正体非在(ザーバウォッカ)』か『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を打ち込まれそうな訳なんだけど」

呵呵(かっか)、真面目な場面じゃからな。暇なのはわかるが今はお(あい)順番(たーん)じゃ、少し黙っておれよ、おフレ」

「『おフレ』って、織田……あれ、アンタ何時から?」

「何を言うておる? ()()()()()()であろうに」

「う~ん、そうだったっけ……いや、そんな気もするような……?」

 

 

 いきなり背後に顕現した市媛に、しかしその妖魅により誤魔化されて納得してしまったフレンダ。彼女は近くの自販機の灯りに照らされ、それを眺めて。

 それを無視し、最愛は嚆矢を睨み付けたままで。値踏みするように、彼に向けて。

 

 

「なら、答えやがれ……テメェ。その理由は、私の大事なものを踏み躙る理由になンのか?」

(いや)、なろう筈もねェ。他人の人生に、他人の人生は無縁だ」

「そう言う事だろォが、クソッタレが……!」

「あァ、そう言う事だなァ。()()()()

 

 

 端からは、全く意味が分からないだろう。だが、分かるモノもある。それは、見逃せないレベルの『共感覚』であった。

 

 

──理解できる。嗚呼、それは、確かに。俺も感じた事のある、その感情だ。

 

 

「最愛ちゃんは、そうか……()()()()()

「………………………………」

「分かるぜ、その気持ち。俺もそうだからな」

「────巫山戯ンじゃねェ、テメェ如きに何が分かるってンだ!」

 

 

──俺が、“()()()”に感じたそのままを……彼女は、『アイテム』に感じているんだろう。

 それを誰に、否定できるのか。少なくとも、俺には出来ない。出来ないし、()()()()()()()()()()()()()()()()()それを赦しはしない。必ず、殺す。

 

 

 刹那、殺意が膨れ上がる。心得のある者であれば、誰でも分かるほどに。それこそ、開戦の意思表示の如く。

 傍らのフレンダが、一瞬身を固めた程に。それは、正しく一騎討ちの前問答のようであり。

 

 

「た────助けて!」

「「「────!!!」」」

 

 

 闇の中から走り出てきて嚆矢に真正面から抱き付いた、白い上着に()()()()()()()()()()()の少女より掛けられた、その声への純粋な驚きであり。

 または────

 

 

「「「「「オォォォォォォォォォォォォォォォ………………………………………………………………」」」」」

 

 

 闇の中から、よたよたと這い出るように現れた、野良犬を思わせる特徴を持った五人の『異形』への驚きであった。

 その手には、何やら理解しない方が良い(肉片)がちらほらと。

 

 

「ちょ……なに、あいつら。どう見てもヤバイんだけど」

「……ふむ、どうやら『屍食鬼(ぐーる)』か。厄介ではないが、面倒よな」

「ぐ、『屍食鬼(グール)』……なにそれ? いや、ゲームとかで聞いた事はある訳だけど」

 

 

 忌々しげに口走った市媛に、フレンダが困惑した台詞を。対し、嚆矢と最愛は臨戦態勢を取る。

 嚆矢は召喚した“()()長谷部(はせべ)”を腰に()いて少女を背後に、最愛は『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を全身に纏いながら。

 

 

「成る程ねェ、道理で此処はァ!」

「随分とォ、静かな訳ですねェ!」

 

 

 待ち望んだかのように眼光鋭く睨み付け、口角を吊り上げながら────!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

1.August・Night:『Passage...Lost』

 

 

 酷く湿った生温い夜風に乗って、生臭い鉄の臭いが鼻をつく。血と臓物と、絶命間もない死体……まだ年若い少年の死骸の臭いだ。それを引き摺り現れた、五体の屍食鬼(グール)が纏う香気だ。

 野良犬を思わせる外観だが────今朝がた見たようなチャラついた服の切れ端を身に付けた、酷く戯画めいた()()()()()()達が。

 

 

 ジリジリと、まるで見た事の無いモノに興味を示す犬のように。互いを牽制するかのように、僅かずつ(にじ)り寄ってくる。

 

 

「……ったく、前の仕事と言い今回と言い────最近は有機生命体兵器(バイオ・オーガニック・ウェポン)でも超流行ってンですかねェ!」

「良く分かんないけど、そっちがその気ならヤってやる訳よね!」

 

 

 その吐き気を催す冒涜的な外見に、唸りを上げる程に高密度の窒素を纏う最愛とスカートの中から拳銃を取り出していたフレンダが悪態を吐いた。

 対して屍食鬼(グール)どもはメスのように鋭い爪をギチギチと鳴らし、ナイフのように巨大な犬歯をガチガチと鳴らしながら少年の肉を噛み、臓腑を啜りつつ。新たな『瑞々しい獲物』を目にした彼等は、一斉に下卑た笑顔らしきモノを浮かべる。

 

 

呵呵(かっか)……どうやら、三大欲求のうち睡眠欲以外が増幅されておるようじゃのう」

 

 

 それは、まるでと言うかまさに────発情期の犬のオスが、メスを見付けた時のモノで。

 

 

《穢らわしい、野犬風情が(サカ)りおって。目障りじゃ─────討滅するぞ、嚆矢》

(言われなくてもその心算(つもり)だ。()くぞ────ショゴス、“悪心影(あくしんかげ)”)

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 獣相手に、礼節も糞もありはしない。投げ付けられた骨付きの肉片や(はらわた)を、足下に蠢く玉虫色の影から沸き立つ無数の血涙を流す眼を覗かせるショゴスを、物理無効の体である触腕を自律防楯(オートシールド)として。

 更に鞘から長谷部を抜き放ち、陰に還った“悪心影(あくしんかげ)”を背後に。月光を照り返す白刃を(あらわ)し、柳生新影流兵法(ヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)の基本たる“合撃(ガッシ)”の構えに。

 

 

 背後で震えている少女を護る、忠義の武士(もののふ)のように。

 

 

「「「「「Howwwwwwwl(ウォォォォォォォォォォォォォォォォン)!!」」」」」

「「「──────!!!」」」

 

 

 遠吠えと共に、死骸(エサ)を捨てた五つの影が猛烈な勢いで疾走(ハシ)る。五体が散開し、バラバラに動き回って此方の隙を狙っている。速い、並の人間であればその動きと数に眩惑されよう。

 それは野犬のように精密で獰猛な、野猿のように複雑で老獪な『狩り』だった。

 

 

「こんのぉ!」

 

 

 先ず、拳銃を手にするフレンダが反応した。『ベレッタM93R』を学園都市の技術で改良した『ベレッタM93R2“ブリキの木こり(ウッドカター・オブ・ティンプレート)”』……銃口の跳ね上がりを電子制御で抑えた、三点射(トリプルバースト)で弾幕を可能とする機関拳銃(マシンピストル)を放つ。

 まるで木こりの電動鋸のような、そんな音が響いて。戦いに慣れた彼女は数に惑わされずに最も近い一体のみを狙って、見事に捉えた。

 

 

「ちょ、何よコイツ、効いてない?!」

 

 

 だが、全くもって屍食鬼(グール)には通じていない。曲がりなりにも『鬼』か、その生護謨(ゴム)じみた肌は銃弾を受けても尚、貫かれる事なく弾き返して。

 射撃を受けたその一体が、反撃とばかりに牙と爪を剥いて躍り掛かる。血肉と臓腑のこびり付いた、不潔極まる野獣の武器を振りかざして。弾切れになった拳銃を楯にするかのように、フレンダは身構えて。

 

 

「────犬ッコロが、俺より先に手ェ出してンじゃねェ!」

「っ……ジャ、嚆矢!?」

《チッ────貸しにしておくぞ、嚆矢!》

 

 

 それを、長谷部の白刃で受ける。受け止めた汚穢の爪牙に、“悪心影(あくしんかげ)”が反吐を吐いて。

 

 

「────失せろ!」

「ギ、ガへ!?」

 

 

 その勢いのまま、刀を振り抜く。夜闇に火花を散らしながら、牙と爪を斬り裂いた長谷部は屍食鬼(グール)の親指以外と上顎から上を跳ばして。

 間違いなく、誰がどう見ても致命傷だ。後は、その末期を見届けるだけで。

 

 

「────Geaaaaaaa(ゲェァァァァァァァァァァァァァァァァ)!」

「なァ、にィッ!?」

 

 

 その状態で黒く濁った血飛沫を撒き散らしながら、屍食鬼(グール)はゴリラのように強靭な腕を振るう。全くの予想外、辛うじてそれをショゴスの自律防御(オートシールド)が受け止めた事で左腕の打撲程度の外傷に収まった。

 

 

「チッ────超気ィ抜いてンじゃねェですよ!」

 

 

 瞬間、最愛が屍食鬼(グール)を殴り飛ばした。その隙に、三体の屍食鬼(グール)が彼女に向けて躍り掛かって。

 

 

「図に乗ってンじゃ────」

「────無いって訳よね!」

 

 

 それを嚆矢はショゴスの中から引き出した火縄銃の『炮烙火矢(ホウロクビヤ)震天雷(シンテンライ)』で、フレンダはスカートの中から引き出した棒付榴弾の『携行型対戦車ミサイル』で、其々(それぞれ)撃ち落として。

 その爆風で、残りの一体も吹き飛ばされる。しかし、直撃を受けた個体以外は無傷らしい。

 

 

Grrrr(グゥルルルルルルルル)…………」

「うげ……結局、マジでキモい訳よ」

 

 

 下半身を、上半身を。爆風の余波で四肢を失っても尚、屍食鬼(グール)どもは躙り寄ってくる。

 素早い動きこそ、傍観していた個体と爆発に巻き込まれた個体のみだが。より一層、化け物の度合いを増した屍食鬼(グール)どもに辟易した眼差しを向けて。

 

 

《ほう、どうやらただの屍食鬼(ぐーる)ではないのう……死体に死霊を憑依させたものか》

(その心は?)

《体を消滅し尽くさぬ限り不死じゃ、微塵に刻んだところで動くぞ》

(また、面倒な……)

 

 

 痛む左腕を誤魔化すように、力を籠めて刀を握る。握り締めて、右腕を見遣る。数日前、『二つの異能』を振るった右腕を。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

──あの時の異能ならば……あれならば、コイツらも消滅させられるだろう。魂までも凍り腐らせる絶対零度の右撃(アヴソリュート=ゼロ)と、魂までも焼き尽くせる無限熱量の右撃(インフィニット=ヒート)で。

 この二つなら、殺してやれる筈だ……この哀れな骸どもを。きっと確かに、きっと速やかに──────殺して、やれるんだ。

 

 

 そんな、希望的観測を持って見詰めて。直ぐに、馬鹿馬鹿しいと改めて。

 

 

《では、使うかのう? 貴様が呼べば、()()()()は来よう》

 

 

 掛けられたその声に、拭いきれぬ悪心を。焼き尽くすかのような邪悪を、背後に感じながら。右腕を、握り締める。殺す為の腕を。救う事など有り得ない、ただ奪う為の右腕────混沌の右撃(ザーバウォッカ)を。

 

 

(いや)、有り得ない。たった二回しか使えない術なんて、()()()()()()()()()()()使()()()()

《ふむ……では、どうする? あれを殺しきるなど、至難の技ぞ?》

(ハッ────不死身を殺す方法なンざァ、()()()()()()()()

《成る程、道理じゃな》

 

 

 長谷部の柄を握り締めて、浅はかな考えを捨てる。分かりきっている事だ、『英雄(ヒーロー)』ではなく『悪鬼(ヒール)』である己に、そんな自己犠牲で得られるものなど有りはしない。

 まだ、敵が五体とは確約されていない。だから、ここで無駄撃ちして後々必要な時に役立たずでは、目も当てられまい。

 

 

「………………………………」

Grrrr(グゥルルルルルルルル)…………!」

 

 

 隙無く刀を構え、屍食鬼(グール)の出方を待つ。新影流兵法の基礎、『臨機応変』を体現するべく屍食鬼(グール)の呼吸を測る。新影流兵法の基礎にして、奥秘たる一撃の為に。

 

 

Graaaa(グゥルルァァァァァァァァ)!」

 

 

 刹那、五体満足な最後の一体が飛び掛かってくる。速い、先程までの個体の比ではない。素体となった人間の基本性能が良かったのか。

 

 

柳生新影流兵法(ヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)────」

 

 

 だが、見えている。(ハナ)からその個体に警戒していた嚆矢は、迷わずに正調上段より長谷部を振り下ろす。

 稲妻のように、その一撃は速く。

 

 

「ガ、ギャヒ─────!?」

 

 

 斬り臥せる。伸ばされた腕ごと、その身を断ち斬った。

 

 

Ghiiiiii(ギィィィィィィィィィィィィィィィ)!!!」

 

 

 だが、まだ動く。屍食鬼(グール)の肉体は、致命傷を受けても尚、まだ獲物に喰らい付くべく吠え声を上げて。

 

 

「────“村雲(ムラクモ)”!」

 

 

 一歩下がり、喉笛のあった空間を噛み締めた屍食鬼(グール)と目が合う。その目に映るのは長谷部の閃き。

 下段からの返しの一刀で、その素っ首を断ち切る。首を飛ばされた屍食鬼(グール)は、悲鳴すら上げられずに────

 

 

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 傷口から侵蝕を開始したショゴスに呑み込まれていく。生物も無生物も溶かし、同化するショゴスならば不死だの何だのも無意味である。

 後の四体も、それでカタがつこう。幸い、動きが速いのは後一体。その個体も、既に頭部を喪っている。更に、テープ式の壁面破壊器(ドアブリーチャー)を地面に罠として設置して下半身のみの個体の両足を引き飛ばしたフレンダと踵落としで上半身のみの個体のアタマと両腕を捻り潰した最愛も、この程度の相手に遅れを取る事もないだろう。

 

 

「……大丈夫だったかい? 怖かったね、もう大丈夫だ────」

「……はい…………っ……あの………………」

 

 

 一段落がついた安堵からか、背後の存在を思い出す。時折震えた声を漏らす、小さな……まだ小学生くらいの。

 最愛とそう体格に変わりはない少女に向けて、振り向き様に声を掛ける。安心させようと、精一杯に優しい声を出して。

 

 

「あの……私の事、覚えてない…………?」

「──────え?」

 

 

 縋るような問い掛けを受けて、刹那────白い、白い、白い部屋を思い出す。息苦しい程に狭い、無機質な立方体の空間。見覚えが有り過ぎて、吐き気を催すほどの……実験室の記憶を幻視して。

 

 

 その視界の端、自販機の脇に垣間見た気がした『異形』。場違いなメイド服を纏う、()()()()()()()()()を。

 まるで嗚咽を堪えるかのように、肩を震わせている……己と同じくらいの年代の、さながら()()のように精密で、精緻で、美しい娘。

 

 

────可哀想、可哀想。

 

 

「ッ────!!」

 

 

 だが、嗚呼。それは『悲嘆』ではない。口を開かずとも、言葉は無くとも────如実に訴えかけてくる。怖気(おぞけ)を伴いながら、吐き気を催す程に。

 団栗のような、硝子玉の瞳。それは、見間違えようもなく『嘲笑』に歪んでいる。

 

 

────可哀想、可哀想。可哀想な『孤独な人狼(ローン=ウルフ)』。血に塗れたその牙で、その爪で。()()()()()()()()()()()()

 

 

「クッ…………!」

 

 

 目は口程に物を言うモノ、だからこそ、人は彼女の瞳に『()()』を聞く。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

────さぁ、機械のように冷静に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷厳に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷酷に、チク・タク。チク・タク────飢える(イア)飢える(イア)、喚ぶの!

 

 

 幻の嘲弄は、振り向き様の一瞬の出来事。目を戻してももう、何処にも『異形』は居らず。代わりに、気付く。背中に寄り添うように震えている少女に。

 

 

「っ……ふ、ふっ……くっ、ふふ」

「────────」

 

 

 否、違う。()()()()()()()()()()()()

 視界の端に見えた、あの『異形』と同じく────()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「────」

 

 

 振り向ききった嚆矢の目に映ったのは、黒く長い髪。一部のみが金髪に染められた、その髪が────直ぐ、間近に。

 

 

「……そォかよ、やっぱり忘れちまったのかァ。いや、ガキの戯言なンて信じて夢見てた私が馬鹿だったってェだけか」

「何、が────ッ?!」

 

 

 間近に迫った、何か一つ、夢を捨てて(うつつ)を受け入れたかのような黒い瞳に湛えられた────疲れと諦め。そしてその奥に潜む、()()()()()()()()()を認めて。

 そのせいだろうか、反応できなかったのは。例え万力じみた腕力で頚を絞られたと言えども。屍食鬼どもの運んできた血臭に紛れて気付かなかった────人造の臭いに。

 

 

「ッ────何を!」

 

 

 肌理(キメ)細かで、ひやりとした感触が唇に。微かなミルクのような香りが、鼻孔を擽って。流し込まれた、()()()()()()()()モノに────技尽くで、少女を振り払う。

 

 

「しや、がァ─────る」

 

 

 刹那、世界が回る。全色の絵の具を一斉に混ぜたパレットのように、まるで二日酔いの最悪レベルのものを濃縮還元したような。とても立ってはいられない。

 膝を折り、両手をコンクリートに突いて這いつくばって。漸く、洗濯機の中で洗われている衣類の気分となる。

 

 

 先程見た『異形』のように、口許を押さえた姿で。最早顔を上げて、彼女を見る事すら出来ずに嘔吐感を呑み込む。

 

 

「どォだァ、“悪酔葡萄酒(バッドトリップワイン)”の味はァ? 聞こえてても、意味なンて解かンねェだろォけど」

 

 

 その嚆矢を見下ろして、嘲り笑う少女は白いコートを寛げると袖から腕を抜き、フードのみを目深に被って羽織る。覗いたのは、今までコートに隠されていた革製の衣服。

 

 

『いい様だな、コウジ……この我を一度ならず、二度までも侮った報いだ……!』

 

 

 そして──吹き抜けた、突風じみた風。腐肉のように甘ったるい、瘴気を孕んだ風が吹く。少女の手元に現れた、鉄の装丁の魔導書(グリモワール)が巻き起こした穢れの風が。

 

 

『この、“妖蛆の秘密(デ=ウェルミス=ミステリィス)”をな!』

 

 

 悍ましき異教の秘技を記した、最後の十字軍の生き残りが著した魔導書が。これで三度、立ちはだかった────。

 

 

………………

…………

……

 

 

 くるくるとクルクルと、繰々(クルクル)狂々(くるくる)と。世界が回る輪る、周る廻る。地面が天に天が地に、上が下に下が上に。北が南に南が北に、東が西に西が東に。

 立て板に流れる水は逆流して霧散する、覆水は盆に還って溢れる。投げられた賽子(サイコロ)は手に戻り────()()()()()()()()()

 

 

 五メートルと離れていなかった筈の、フレンダと最愛の姿すら確認できない。この暗闇に溶けて消えてしまったのか、等と本気で考えて。

 黒い闇は、白い光に。黒い公園は、白い白い────白い研究室に。無人の世界は────

 

 

『ん……ふふ、あげちゃった』

『うー、ずるい~……』

 

 

──()()が、『今度こそ守ろう』と誓った二人の──────

 

 

「ッ────か、ハッ……!」

 

 

 頭を振って記憶の混濁を払い、辛うじて正気を保つ。実に運のいい話だ。黒髪の少女を技で振り払った、その紳士的でない行為の為に受けた、『女性に優しくする』という誓約(ゲッシュ)からの警告で。脳髄に錐を刺し込まれたような痛みに、意識を保てた。

 もしもそれが無ければ、今頃はもう意識の手綱を手放して昏倒、或いは発狂していたかもしれない。

 

 

──“悪酔葡萄酒(バッドトリップワイン)”……魔力の形を持つ毒、馴染み深い『(ユル)のルーン』か。なら、解毒は同じ魔術(オカルト)でなければ難しいだろう。

 思考する/嗜好する。

 これは三流だ、破る方法はある/あれは上物だ、破る法悦がある。

 頭が痛い、考えが纏まる前に失神しそう/腹が減った、殺す前に(コロ)してから喰おう。

 

 

 思考、その渦巻き。繰繰狂狂(くるくるクルクル)。再度回りだした“悪酔葡萄酒(バッドトリップワイン)”の酒精に、長谷部の柄尻に頭を打ち付ける痛みで対抗する。

 その痛みに、乖離した理性と野性の隙間に針の穴一つの正気を手繰り寄せる。

 

 

(……無理、だな)

 

 

 この一瞬でのその有り様に、解決の最短距離であるルーンの使用を諦める。無理だ、この状態では。嚆矢が魔術を行使できるのは、『確率使い(エンカウンター)』の能力(スキル)あればこそ、反動が最低のダメージで済んでいるから。

 そして能力とは演算あればこそ、その演算に失敗すれば────能力もまた、失敗する。そうなれば魔術の反動は、完全に神のみぞ知る事となろう。もしかすると、『一文字で致死傷』と言う百分の一(サイアク)の事態も有り得るのだ。

 

 

《ふむ……では、どうするのじゃ?》

(──────)

 

 

 では、どうするか。どうすれば、この苦境を乗りきれるのか。思考、散断する自我の中で。背後の“悪心影(あくしんかげ)”に、燃え盛る三つの瞳で嘲笑われる迄もなく。

 あれは吐息の形をとった、肺からの汚染だ。呼吸をすればする程、汚染されていく。ならば、既に入ってしまった酒精を取り除く為にはどうするか。()()()()()()()()

 

 

(────喰え、ショゴス。喰って、()()()()()()()()()

 

 

 ならば、それしかない。これ以上の汚染を受ければ、それこそ手遅れだ。

 かつて『スクール』のゴーグル男に掌を潰された際は、ショゴスが組織に刷り替わるまで二分ほどを要した。ならば、問題はない。ほんの五分ほど、()()()()()()()()()()()()()()()()()の事だ。

 

 

『────てけり・り。てけり・り!』

「クッ────────────?!」

 

 

 指示に、喜び勇むかのようにショゴスが啼く。間髪容れず、両の肺腑が一口に貪られる。喉を駆け昇ってきた塊を吐き出せば、路面に鮮やかな緋色の徒花(あだばな)が咲く。

 目の回る中毒の最中、目の眩む激痛に口角を吊り上げる。喰われた肺では言葉すら発せず、路面に向けた悪鬼の笑顔は誰にも見えてはいないだろうが。堪らない、そうだ────

 

 

(これが────殺し合いだったな)

 

 

 刹那、身を躱す。翳されていた少女の掌からの目に見えない『何か』に、徒花が路面ごと散らされる。ショゴスの自律防御(オートディフェンス)は、肺腑の修復に全力を懸けさせている為に無い。

 矢張(やはり)、運が良い。もしも『片肺ずつ』などと悠長な事をやっていたら────今頃、この頭が西瓜のように砕かれていた事だろう。

 

 

「ひっはははは────よく躱したじゃねェかァ。“悪酔葡萄酒(バッドトリップワイン)”に冒されてる状態でェ、私の『窒素爆槍(ボンバーランス)』をよォ!」

『フハハハハッ────さぁ殺せ、宿主! 今なら奴は、まな板の上の鯉と言う奴だ!』

 

 

 白いコートを、夜風と爆風に翻らせながら。鉄の装丁の魔書を携えた黒髪の少女は二撃目、三撃目と『右手』を繰り出す。

 成る程、爆槍とは良く言ったものか。その度に、目に見えない何かによりその先のモノが撃ち砕かれる。

 

 

「────────」

「どォした、あの食屍鬼(グール)どもを相手してた時の勢いはよォ! それとも……」

 

 

 そもそも言葉など発せないし、口を開けば血を溢すだけだ。視界には端からテレビの砂嵐のような狭まり、体は末端から痺れるように重くなってくる。典型的な酸欠の症状だ。

 そんな嚆矢を嘲笑うように────フードの奥の瞳を爛々と、黒豹のように煌めかせる少女は。

 

 

「それとも────私にゃあ、掛ける言葉の一つもねェってェのかァ!」

「ッ………………………………」

 

 

 悲鳴のようにも聞こえる言葉を、溢しながら。遂に膝を突いた嚆矢に向けて、まるで突き放すように『右手』を伸ばす。

 その先端から、豹の爪を思わせる掌から────()を放つ。

 

 

「────────!」

 

 

 その槍を、長谷部で受ける。食屍鬼の爪牙の比ではない圧力、それを────刀の(しのぎ)を使う、合気により受け流す。二撃目、三撃目と。

 そもそも、古流武術の基本は合戦でのものだ。武器の使用を前提とした総合格闘技、それが古流武術である。

 

 

 そして、何よりも────()だと言うのならば、あの“迷宮蜘蛛(アイホート)”の槍騎士の“宝蔵院流(ホウゾウインリュウ)”とは比べるべくもない稚拙。

 ただ、強力な能力に任せた一辺倒の突き。見えずとも、躱すくらいは造作もない。

 

 

 この程度の技量であれば、何時までも躱していられよう。彼女の技量が本当にこの程度で、かつ万全の状態であれば……の話だが。

 

 

「やるじゃねェか、“黒い扇の膨れ女(ブローテッド=ウーマン)”が言ってただけはある……“屍毒の神(グラーキ)”とやらの猛毒を越えただけはあるって訳かァ」

『ハ、なればどうした…………所詮は洞穴に引き篭もる蛞蝓よ、この我とは比べるまでもないわ!』

 

 

 しかし、それすらも薄ら笑いだけ。少女は金色に染めた揉み上げを右手で梳くと、一瞬だけ攻め手を弱める。何故か、その瞳に懐古を宿して。何故か、その左手に────魔書を携えて。

 

 

『何を息吐いている、今が好機だろうが! 殺せ、今すぐ! 此奴は貴様の事を覚えていなかった……即ち、獲物だろうが!』

「うるせェ……解ってンだよ、クソムシが!」

 

 

 瞬間、美眉を潜めて。蠢き這いずるような鉄の装丁の魔導書に生命力を削られ、魔力に変換されて。無論それは魔導書の炉によるものだ、少女に反動は無い。

 少女の右手に集まる、魔術の気配。それは酷く覚えがある。収斂する気配、正にそれは────

 

 

「なァ────液体窒素って、知ってるかァ?」

『“沈静(ハガル)”、“鎮静(ニイド)”、“鎮勢(イサ)”!』

「ッ────────!?」

 

 

 覚えがある、術式で。嘲る少女の掌に集まる青白い霧、それの正体に気付いて────

 

 

「────くたばりなァ、クソ雑魚ォ!」

 

 

 放たれた、『消沈の三大ルーン』により-196℃まで冷やされた窒素の槍。その一撃を矢張、長谷部で受ける。しかし、刃を通して冷気が伝播するのは止められない。

 指先が凍る感覚がこびりつく、血液の巡りが滞る。その二つを、踏み越えて─────

 

 

「ッ────ッ!」

 

 

 展開した第一防呪印“竜頭の印(ドラゴンヘッド=サイン)”がそれを弾き、相殺する。砕け散る、竜の頭を象る魔法陣。それは即ち、究極の虚空に住まう神への祝詞の始まり。

 視界がボヤける。演算が纏まらない。愈々(いよいよ)、危険域か。

 

 

「足掻きやがってェ!」

『三枚だ、宿主よ。あれは神に捧げる生け贄の呪詛……“門にして鍵、一にして全(ヨグ=ソトース)”と交信する為のモノだ。後三枚、砕く前にカタを着けよ!』

「うるせェっつってンだろうが、こっちは最初(ハナ)っから……次で終いにするつもりだァ!」

 

 

 二撃目の凍槍によって、第二防呪印“キシュの印”が割砕する。後は無敵の第三防呪印“ヴーアの印”と、最終防呪印“竜尾の印(ドラゴンテール=サイン)”の二つ。

 

 

「クソが、出し惜しみしてンじゃねェ────もっとだ、もっと搾り取れ! 液体だなんて生易しいもンじゃねェ、固体をブチかます!」

『心得た────クク、ではいただくぞ!』

 

 

 魔書が、その鉄の装丁が妖しく艶めく。命を吸い、魔力を産み出しながら蠢いている。醜い、浅ましい。あんな汚穢を、好んで使う気が知れない。

 

 

立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)!』

 

 

 先程までの比ではない、魔力の昂りを携える彼女。対し、最早まともに残り二枚を展開できるかすらも怪しい自分。

 白い光、見るだけでも凍えそうな程に寒寒しい、極北の風だ。それが一陣、圧縮された槍となって心臓を狙い────

 

 

「“零下の(イイー)─────?!」

 

 

 撃ち出されるよりも早く、彼女に向けて様々な『顔』が描かれている携帯型対戦車ミサイルが撃ち込まれ────それを、右手の槍で迎え撃った彼女。その懐に、同じくらいの背丈の影が躍り掛かる。

 掌底からの蹴り、反転しながらの後ろ回し蹴り。高圧の『窒素』を『装甲』として纏う体術は、見た目からでは想像も出来ない破壊力だ。

 

 

 だから、黒髪の少女はそれを()()()()()。受け止めて白いフードの下の眼光を更に鋭く、全く同じように橙色(オレンジ)のフードの下の眼光を更に鋭くした最愛と睨み合いながら、邪悪に笑う。

 

 

「────超見覚えがある能力だと思ってみりゃあテメェですか、黒夜 海鳥(くろよる うみどり)

「ヘェ────確かに見覚えがあると思えば……優等生の絹旗ちゃンじゃねェかよ?」

 

 

 互いに、仇敵に再会したかのように。壮絶な敵意をぶつけ合って。

 

 

「ちょっと嚆矢、結局アンタ、顔が土気色なんだけど……大丈夫な訳?!」

「ッ────カハッ! ハァ、大丈夫になったよ、今……ね」

 

 

 駆け寄ってきたフレンダの問いに、ショゴスにより辛うじて、窒息するよりも早く再製した肺腑に息を吸い込み────暫し止めて、酸素を取り込みながら応えて。

 満足に動けるように、呼吸を整える。まだだ、気を抜くには早過ぎる。漸く首の皮一枚繋がっただけだ、現状は。

 

 

「仕切り直し、かァ……面倒臭ェけど──────よォ!」

「っぐ────?!」

 

 

 その証明とばかりに『左手』からの高圧の『窒素』を『爆槍』として最愛を吹き飛ばした、『黒夜海鳥』と呼ばれた少女が呟く。それに呼応するように、辺りから不穏な息づかいが聞こえてくる。

 物陰から、藪の中から。至る所から圧し殺したような、極上の餌を前に舌を出して喘ぐような────獣の息遣いが。

 

 

「こいつら、まだこんなに居た訳?! 勘弁してほしいのよ……」

「っ……超、泣き言言ってンじゃねェですよ。初体験がこンな化け物に輪姦(マワ)されるで良いってンなら、話は別ですけど」

「結局、どう考えても良い訳無い訳よ!」

 

 

 フレンダでなくとも、そう口を衝いて出よう。其処彼処に潜む食屍鬼を目の当たりにすれば。

 『窒素爆槍(ボンバーランス)』に撃たれた脇腹……『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を貫くには至らなかった衝撃を受けた脇腹を押さえながら、やはり辟易した様子の最愛が立ち上がる。

 

 

 それを見計らって、タイミングを合わせて『右手』を掲げた黒の少女。それは、走者に号令を出す仕草。

 

 

「ラウンド、トゥー……ってか────ァ?」

 

 

 号令が掛かる、正にその瞬間。魔書を携える少女は、まるで糸の切れた繰り人形のように()()()()にぶら下がった『右手』を眺めて。更に、目元を拭いながら苛立たしげに舌打つ。

 

 

「ちっ、()()しねェと────確かに魔術ってのは便利なもンだけど、こォも消耗が激しいとやってられないってェの」

「「「Howwwwwwwwl(ウォォォォォォォォォォォォォォォォン)!!!!!」」」

 

 

 その呟きを掻き消すような咆哮、周囲の食屍鬼どもの(たが)が外れる。最早、誰に止める事も叶うまい。我先にと殺到する牙と爪、不浄の槍衾(やりぶすま)か。

 

 

「悪ィな────この二人はとォの昔に俺が唾つけてンだ。テメェらは、お仲間同士で乱交(スワップ)してな」

「「はあ?!」」

 

 

 その先頭、口火を切った一体を“天地投(テンチナ)げ”により群れに投げ返し、仲間の爪牙に貫かせて。不浄の波濤からフレンダと最愛を護るように、その二人から盛大に睨まれながら。

 長谷部と偃月刀の双振りを携えている嚆矢は────勇敢で精悍な『英雄(ヒーロー)』等には程遠い、『悪役(ヒール)』すら通り越して、下賤で卑劣な『悪鬼(ヴィラン)』の笑顔で。

 

 

()くぞ、“悪心影(あくしんかげ)”────一撃で勝負を決める」

 

 

 一息に“()()長谷部(ハセベ)”と“賢人バルザイの偃月刀”を、“錬金術(アルキミエ)”により融合させて。玉虫色の刃を備えた、日本刀と替えた。

 

 

応朋(おうとも)よ────しかし、二人などと小さい事を申すでない。()()()()跳ねっ返りを従順に躾るのも、中々に乙なものぞ?》

「ふゥン…………確かに、ソソる話じゃねェか────検討しておこう」

「…………ッ?!」

 

 

 燃え盛るような真紅の瞳三つで、一瞬見詰められた黒の少女。悪寒でも感じたのか、猫のように身震いしていたようにも見えた。

 その、無意味な視覚情報を断つ。己の目は瞑り、代わりに影から覗くショゴスの血涙を流す瞳で、全天周の食屍鬼を捉えて。

 

 

「“柳生新影流兵法(ヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)”、“無形(ムギョウ)(クライ)”が崩し────」

呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっか)! 人界余さず人理の内、世に人外の這い出る空隙(スキマ)無ぁし!》

 

 

 構えもなく、長谷部をただ、だらりと持ったままで。三十を越える食屍鬼全てに、ただ一振りを。

 

 

《“神魔覆滅(バランスブレイカー)”────果てよ、神仏魔羅(うぞうむぞう)!!》

全天周相転移刀(フェイズド=アレイ)──────“辰気楼(シンキロウ)”!」

 

 

 “ヨグ=ソトースの時空掌握(ディス=ラプター)”により、空間転移する刃で。ただ一撃で、全ての食屍鬼を纏めて時空ごと斬り裂いて。

 

 

「「「「Gyaaaaaaaa(ギィヤァァァァァァァァァァァァァァァ)!?!」」」」

 

 

 玉虫色の時空の裂け目に、食屍鬼どもが捕食されていく。足下の影は、食欲を満たされた歓喜に咽ぶように波立っていて。

 僅か数瞬で、食屍鬼は跡形もなく。先の五体の残骸も含めて、完全に消滅した。

 

 

『クッ────欠片とは言えども、流石はかの三御柱(みはしら)なる“門にして鍵、一にして全(ヨグ=ソトース)”か……』

「旗色が悪ィな…………仕方ねェ、退くか」

 

 

 使い魔の全滅すら、大して気にせずに。既に離脱の構えに入っていた黒の娘は、一度此方を見遣って。

 

 

「じゃあねェ、()()()()()()()()()がた? 次はきちンと殺してやるよ────“人狼鬼(ルー=ガルー)”。()()()()()()()()()()()?」

「「……………………!」」

 

 

 その台詞に。嘲笑うような────憎悪するような台詞に反応したのは、嚆矢と最愛の二人。フレンダはただ、そんな二人を見比べているのみ。

 足下に『窒素爆槍(ボンバーランス)』を叩き付け、粉塵を巻き上げた海鳥。その塵が晴れた時には、もうその姿はない。

 

 

 静けさが帰ってきた公園に、思い出したかのように虫の合唱と夏の茹だる夜気が流れ込む。

 長谷部を鞘に戻しながら行った“悪心影(あくしんかげ)”の音響探査(みみ)でも、近くには敵は居ない事を把握している。何とか、虎口を脱したらしい。

 

 

「……助かった、訳よね? いやー、結局、一時はどうなるかと思った訳よ」

 

 

 危機が去った実感に、フレンダが冷や汗を拭いながらそんな軽口を。嚆矢と最愛の二人に向けて、『やれやれ』とばかりにフランクに肩を竦めて戯けてみせる。

 勤めて、明るく。明らかに、ギスギスしている嚆矢と最愛の間の空気を和らげようと。

 

 

「……………………」

「……………………」

「あは、ははは……」

 

 

 それを完全に無視され、彼女は諦めて。溜め息一つ、『やれやれ』と肩を竦めて。

 

 

「……アンタ、対馬嚆矢でしたっけ? 『()()()()』に、どンな関係があるンです?」

「……………………」

 

 

 最愛の問いに、嚆矢は口を閉ざしたままで。呼吸すら最低限に、目を伏せたまま。微動だにせず、反応の一つすらなく。

 

 

「聞いてンのかよ、テメェ────」

 

 

 その様子に怒りを露にした彼女が、襟首を掴んで引き寄せた────

 

 

「────ふぎゃっ?!」

 

 

 その勢いのままで、さながら頭突きのような形で最愛の額に額をぶつけて……そのまま彼女を組敷くかのように、力無く倒れ込んだ。

 

 

「ちょっ、こンの────……!」

 

 

 いきなりの事に能力の発動をしくじったか、打ち付けた額と頬を赤く染めつつも一発、ボディーブローを叩き込もうとした最愛。

 そこで漸く、気付く。気付いて、溜め息を溢した後で。

 

 

「あ、お邪魔しました~」

「……フレンダ、ふざけてねぇでこの失神ヤローを退かすの、超手伝ってください」

「はいはい、しっかし……一層訳が分からない訳よね、こいつの能力(スキル)

 

 

 “悪酔葡萄酒(バッドトリップワイン)“の汚染と、その解消の為の肺腑の破壊と再生、更に大規模な魔術行使。その三倍の反動(トリプルパンチ)で、体力を使い果たしてしまった為に。

 ぐい、と背後からフレンダが嚆矢を抱え起こして、『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を再び纏った最愛が彼を肩に担ぐ。

 

 

「それで? 何処に運ぶのじゃ?」

「そうですね……じゃあ、喫茶店に超戻りましょうか」

「そうね、結局賛成な訳よ……ってか、今まで何処に居たのよ、織田?」

 

 

 現れたのは、真紅の彼岸花(ヒガンバナ)柄に染め抜いた黒い和装に身を包む娘“悪心影(あくしんかげ)”────否、織田 市媛(おだ いちひめ)

 失神している嚆矢から長谷部を抜き取り、足下に蠢くショゴスに納めて。

 

 

「何を言う、ずっと()ったであろうに」

「そうだっけ……そんな気もするような」

「今は超どうでも良いです。それよりこの男、ヤバイくらい体温が超低くなってますから……急ぎます」

「ふむ、確かにのう。では、急ぐぞ」

 

 

 その唐突な出現に抱いた違和感も、彼女の言霊(ことだま)により霧散する。だが、今はそんな場合ではないと言う頭がある為か。

 フレンダも気を取り直し、来た道を振り返って。そうして三人の少女は、揃って復路に着いたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断章 アカシャ年代記=Akasha-Chronicle
??.----・error:『Nyarlathotep』Ⅶ


『神』の下に『人』って書く漢字が欲しいです。


 

 

 草木も眠る丑三つ時の第七学区、人気の絶えた道を歩く小柄な人影が一つ。

 学園都市でも治安の悪い路地裏、其処をこんな時間にただ一人で歩くなど。全うな人間ではないか、正気ではないかの二つに一つ。

 

 

「ちっ……腕はともかく、目の方か。こうも見えにくくちゃ、やりづらくて仕方ねえ」

『生命を削っているのだ、肉体にガタが来るのは仕方在るまい』

「分かってるっての、クソ虫が」

 

 

 そして、その人影は前者の方。暗部に属する彼女──海鳥は動かない右腕を無視して、ぽろぽろと血の涙を溢す両目を拭っている。

 背後に浮遊する魔導書“妖蛆の秘密(デ=ウェルミス=ミステリィス)”の言葉に反駁しながら。

 

 

「──あら、随分と仲良くなったようね。良い事だわ。魔導師と魔導書も、信頼がないと勤まらないものね」

「『────!?」』

 

 

 刹那、闇の中から『青』が滲み出る。夜の大洋のように果てしなく底知れぬ、生命に根源的な恐怖を思い出させる息吹を纏って。

 

 

你出去了(お出掛けかしら)、可愛らしい海鳥ちゃん?」

「テメェ、何でこんなところに居やがるんだ……“黒扇膨女(ブローテッド=ウーマン)”」

「此処は私の店の前。居ておかしい事はないわ」

 

 

 確かに、何かしらの店の前。学園都市でもは余り見かけない、中華風の建築様式の。

 その前に立つ、波の模様の蒼いチャイナドレスを纏って、腰に釣る五つの黒い扇の一つで口許を隠しながら。妖艷に笑う美女は、見惚れる程に麗しく。

 

 

『……………………』

(ちっ…………ビビりやがって)

 

 

 即座に無数の蝿となり、散り散りに飛び去っていった“妖蛆の秘密(デ=ウェルミス=ミステリィス)”に反吐を吐いて。目の前の、霞んでよく見えない『魔(ネ 申)』に相対する。

 彼女も知っている、目の前の存在は自分にあの魔導書を与えた人物。何の為か迄は理解が及ばないが、関係はない。この化け物も利用して、目的を成し遂げると決めたのだから。

 

 

「最初の獲物は狩り損ねたようね。やはり、人間に愛を切り捨てるのは無理かしら」

「ざけんな。次は殺す、あんなヘボ野郎くらい」

「そうね、あの程度の男にも勝てないで────“()()()”に勝つなんて、夢のまた夢だものね?」

 

 

 本当に()()()発されているのか分からない声で嘲笑われた海鳥が、女を睨み付ける。激しい敵意と殺気、だが海原を思わせる女は微塵も揺るがない。

 寧ろ、それを楽しむように。女は彼女の背後を見遣る。背後の闇の中に潜み、声無く肩を震わせて────口許を両手で押さえて嘆くかのように嘲笑う、エプロンドレスの人形の娘を。

 

 

「まぁ、次に期待……かしらね」

 

 

 ()()と全く同じように、海鳥を見下ろすように嘲って。投げ渡した『何か』が一つ、闇に紛れながら海鳥の左手に収まって。返した踵で、女は中華風の建物の中に消えていく。

 見送った海鳥は、一度盛大に舌を打って。受け取った『何か』をコートのポケットに仕舞うと、夜空に浮かぶ繊魄(せんぱく)の月を眺めて視力の回復に努めながら。

 

 

「どいつもこいつも……ああ、ウザってェ!」

 

 

 余りに情けない己の現状に癇癪のような叫びを放ち、根城に帰る為に再び歩き始めた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 水滴。無窮の虚空から霊質(エーテル)の一滴が、ポタリと。それに目を醒ました、天魔(あま)色の髪に蜂蜜酒の瞳を持つ少年が見たのは────海岸。

 

 

「此所は……」

 

 

 金色の塵が舞う、菫色の霧。夜明けの青に煌めく銀燐。星の煌めきだと気付いたのは、僅かに遅れて。

 明瞭となりゆく意識がまず認めたのは、白く香しいロトスの花。そして紅いカメロテが、星を(ちりば)めたかのように咲き乱れた海岸だった。

 

 

「あぁ────やっと目を醒ましたのね」

「あぁ────ついに目を醒ましたんだ」

 

 

 声が降る。煌めく花と星の砂の褥横たわる彼の、背後から。全く同じ声色、しかし正反対のイントネーションで。

 目を向けた先、混沌が渦を巻く宇宙の天元。宇宙を満たす霊質(エーテル)の波が押し寄せる、『揺り籠』で。

 

 

 四度目の邂逅、ならばもう驚く事もない。ゆっくりと体を起こし、そちらを見やれば────

 

 

「御早う、こうじ。お寝坊さん?」

「今晩は、コウジ。寝坊助さん?」

「今日は、二人共。早起きさん達?」

 

 

 燐光を放つ黒金と白銀のドレスを各々に纏い、薄紅色と薄蒼色の星雲(ネビュラ)の瞳を各々に持つ『双子』が其処に。前回は眠りこけていた二人から同時にそんな事を言われてしまい、面映ゆい気持ちになりながら返事をすれば。

 一人は嬉しそうに、一人は迷惑そうに。各々に、違う表情で。しかし同じように、歩み寄ってくる。

 

 

「変なの、わたしは一人よ? ところでどうしたの、こうじ? なんだか……悩んでるみたいだけど」

「変なの、ワタシは一人だよ。ところでどうしたの、コウジ? なんだか……悩んでるみたいだけど」

 

 

 そして全く同時に、同じ事を口にして。やはり、隣に居るお互いの事には気付かずに。

 温かな黒金の“開闢にして終焉( ■ ■ ■ ■ ■ )”は不安そうに、冷たい白銀の“始源にして終末( ■ ■=■ ■ ■ )”は不審そうに。

 

 

「ああ……まぁ。昔の事で、少し……()()()()()()()()()で」

「むかし? う~ん、ごめんね。過去視はわたし、得意じゃないの」

「ムカシ? なんだ、そんな事。だったらワタシには簡単な話だよ」

 

 

 申し訳無さそうにしょんぼり項垂れた陽光のような金髪の娘に対して、得意気にふんすと胸を反らした月影のような銀髪の娘。差し出されたその『右手』には────白く明滅する、乳白色の宝珠。

 それを受け取り、見詰め……るような迂闊な真似はしない。どんな魔道具(アーティファクト)かも分からないものに迂闊に手を出す真似は、“妖蛆の秘密(デ=ウェルミス=ミステリィス)”で懲りた。

 

 

「これはね、過去を覗き見る事が出来る物なんだ。昔、これの贋作でワタシの身体を覗いていった男が居たくらいさ。悲鳴を上げて逃げていったけどね。失礼な話だよ」

「そ、そうか……」

「そうさ、勝手に覗いといて。本当に頭に来る」

 

 

 そして何か癪な事を思い出したらしく、薄蒼色の星雲の瞳に不愉快を宿しながら腕を組んで唇を尖らせる。

 空気が冷やされていくような感覚、その燐光はさながらダイヤモンドダストのようで。

 

 

「まあ、とにかく過去を覗き見るには十分な性能があるよ。けど、あんまり使ってると『ワタシ』に還ったり『猟犬』に見付かるからね」

「猟犬……」

 

 

 思い出したのは、『幻想御手(レベルアッパー)事件』で相対した化け物。時間の角度の螺旋を走る、悍ましき怪物……“ティンダロスの猟犬(ハウンド=オブ・ティンダロス)”を。

 二度と出会いたくはない、あの異形。あれに再び見付かる危険性を孕む魔道具(アーティファクト)だと思うと、途端に悍ましく思えてきて。

 

 

「あ、そうだわ、こうじ! ヨグに聞いてみたら良いわ、あの子は全知だから」

「ヨグ……ああ、ヨグ=ショゴス(あいつ)?」

 

 

 と、その時。うんうんと唸りながら考え事をしていた金髪の娘が、ぽん、と手を叩く。その『右手』には何時の間にやら、有機質な質感の────鈍い銀色の鍵が握られていた。

 それを受け取り、握り締め……るような迂闊な真似は、やはりしない。どんな魔道具(アーティファクト)かも分からないものに迂闊に手を出す真似は、“輝く捩れ双角錐(シャイニング=トラペゾヘドロン)”で懲りた。

 

 

「うん、あの子とっても賢いのよ。だってあの子は、それだけで『この世総ての識(■■■■=■■■■■)』なんだから」

「そ、そうか……」

「ええ、そうなの。わたしの『無明の霧』から生まれたのよ?」

 

 

 そして何か佳い事を思い出したらしく、薄紅色の星雲の瞳に歓びを宿しながら指を組んで微笑む。

 空気が暖められていくような感覚、その燐光はさながら木洩れ日のようで。

 

 

「その鍵を使えば、あの子の本体の居るところに行けるわ。でも気を付けてね、近くの『わたし』に抹消されたり門番に変な場所に落とされちゃったりするかもしれないから」

「門番……」

 

 

 思い出したのは、つい先程まで己の影に潜んでいた化け物。矢鱈(やたら)に悪食の、異空間で『門番(ゲートキーパー)』を名乗った怪物……“虚空の粘塊(ヨグ=ショゴース)”を。

 また直ぐに出会う事になるだろう、あの異形。そうなれば何を食わせる事になるだろうか、などと急に面倒になって。

 

 

「まあ、とにかく。それでさ」

「うん? なぁに?」

「うん? なにさ?」

 

 

 貰った魔道具二つをポケットに仕舞いながら、二人を同時に見遣る。黒金の太陽と白銀の望月を思わせる二人に、同時に。

 その『右手』を────

 

 

「一緒に行こう。此処は駄目だ、()()()()()()は、君達には似合わない」

「「……………………」」

 

 

 造化の、(くう)(しき)もない、この世界の中で。伸ばして────

 

 

「……だめ。だめなの、こうじ。わたしはここで待ってないと────()()()と逢えなくなっちゃうから。だって、()()()()がそう言ってたもの」

「……ダメ。ダメだよ、コウジ。ワタシはここで待ってないと────()()()と逢えなくなっちゃうんだ。だって、()()()()がそう言ってたから」

「ッ────…………」

 

 

 虚空を彷徨う。別離に怯える少女らの『右手』は、伸びる事は無くて。ただ、無力な『右手』だけが────『混沌』に。

 

 

────さあ、時間だよ。

 

 

 カチリ、と針が廻る。ある種の実感だけが、その『右手』に。虚空を彷徨うその腕が、何か────酷く邪悪で非情なモノに。

 聞こえたのは、鐘の音色か。はたまた、そう聞こえるだけの機械音か。或いは────人の言葉に聞こえるだけの()()()()()()()

 

 

「……ありがとう、こうじ。代わりに、見ているから。貴方を、わたしは」

「……ありがとう、コウジ。代わりに、見ているから。貴方を、ワタシは」

 

 

 そして、慈しむように。双子の造花は、儚い笑顔と共に。

 

 

「「貴男(あなた)を、ずっと──────…………」」

「───────………………」

 

 

 そんな言葉すらも掻き消す、野卑で愚劣な、嘲り笑うような鐘の音色の中で。理不尽そのものに、無尽の悪意に満たされた人理の外宇宙に。無力と共に投げ出されて。

 

 

『あと、二度だ。選ばなければならぬ者よ、我が聖餐よ────お前の右腕は一つ。あの双子の右腕は二つ。故にお前は、選ばなければならぬ』

 

 

 正視してはいけない、正気で居たいのであれば。くぐもった下劣な太鼓の連打と、呪われたフルートのか細く単調な音色。躍り狂う不定形の神々の中で、ただ一柱のみ正気のまま嘲笑う新月を。

 認識してはいけない、安息に死にたいのであれば。奸佞邪智(かんねいじゃち)そのものを体現した、目に見えぬ月が、其処に在る事は。

 

 

「────巫山戯るな」

 

 

 その月に、悪態を。『右手』の親指を、真下に向けて。

 

 

「また、奪いに来る────諦めるのはお前だ、あの娘達を────」

 

 

 魂からの震えを、覚悟で抑え込んで。何処へとも知れぬ流浪の波、菫色の“芳香(スンガク)”に拐われながら。

 

 

『それは────愉しみだ。実に、実に』

 

 

 混沌は歓喜に満ちて、更なる嘲りを。矮小な虫けらの強がりを弄ぶ、子供じみた声で答えた…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 ソファに寝そべっていた眼が開いて見詰めたのは、仄かに明るい朝日の射し込む木造の室内。耳が聞いたのは、壁に立つ大きな柱時計が朝五時を知らせる音色。

 状況掌握を開始する。場所、純喫茶『ダァク・ブラザァフッヅ』。時刻、午前五時ジャスト。状態────

 

 

 そこで身体を動かそうとして、気付く。足と腕──正確には後ろ手に組まされた親指──が、結束バンドで縛られている事に。

 恐らく、それを為した人物が。時計のベルなど気にせずに対面のソファで眠りこけている市媛と、アイマスクと耳栓を装着してテーブルに突っ伏して寝ているフレンダ。そして────

 

 

「超目が覚めたみたいですねェ。それじゃあ、尋問と超洒落こみますかァ」

「把握完了…………状態、()()()()

 

 

 その朝日を背にするように窓に寄りかかり、此方を炯々たる眼差しで睨み付ける最愛の姿だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四章・Chapter Ⅱ “妹達”/De Vermis Mysteriis
八月二日:『追憶』


 

 

 窓の外は静寂(しじま)の底、深い海のような群青菫(アイオライト)の朝の気配に包まれた学園都市の摩天楼(ビルディング)群。230万の内の八割が学生であるこの都市の朝は、登校時間となる迄は極めて静かだ。どのビルも窓硝子に反射する青い光に染められ、美しい蒼朝の色に。ただ一棟、()()()()()()()()()()()()、あの『ビル』以外は。

 そしてそれはこの喫茶店の中も同じ、聞こえるのは小鳥の囀りくらいのもの。営業を終え、灯りの落とされた室内は朝日により青く染まっている。

 

 

 その煌めきを背にした最愛は一種、神々しい程に────清々しいまでの殺意を放ちながら。

 

 

「さて、じゃあ超手短にいきますか。対馬嚆矢、異能力者(レベル2)確率使い(エンカウンター)』……通称『制空権域(アトモスフィア)』、ですか」

「…………調べたのか。何とも……周到な事だな」

 

 

 何処かに依頼でもしたのか、缶珈琲を傾けつつ携帯の画面を見ながら。しかし隙無く、此方の様子を注視しながら。

 そんな少女を見詰めながら、口を開いた。開いてから気付き、舌打ちしそうになるのを堪える。

 

 

 気絶している間に“書庫(バンク)”を調べられた、それが先ず一つ目の失策。

 警備員(アンチスキル)の記述はないが、風紀委員(ジャッジメント)の記述は有るだろう。それだけでも、暗部の存在にとっては看過できない筈。スパイの疑いを掛けられて始末される事も十分に有り得る。

 

 

「ふゥン、弐天巌流学園三年で合気道部主将……言ってた事には、超偽りはないみたいですねェ。そして────」

「……………………」

 

 

 二つ目は、『兎脚の護符(ラビッツフット)』を奪われている事。脱出させない為にだろうが、ショゴスが居るので拘束を脱するのは容易い。

 しかし、問題はそんな事をすれば逆効果な事。だと言うのに、『話術(アンサズ)』を担う護符がない。つまり、対馬嚆矢は……『()()()()()()()()()()()()()()』の本人の弁舌のみで、この場を乗り切らねばならない。

 

 

「────それ以外に特筆に値する経歴はなし……超楽しそうな学生生活そうで、何よりで」

「……………………」

「どうかしましたか、急に超静かになって?」

「……痛くもない腹を探られれば、誰でも不愉快にはなる」

 

 

 小馬鹿にするような口調で、最愛は携帯を仕舞う。その様を黙って見詰めたまま、努めてポーカーフェイスで。

 

 

(どういう事だ、これは……)

 

 

 理解の及ばない事情に、端からは分からない無表情で困惑する。先に述べた通り、『風紀委員(ジャッジメント)である』事は公然の事実。“書庫”にも明記されていなければ、いざという時に不具合が生じる。

 今はまさにその逆の不具合で首の皮が繋がったのだから文句はないが、理由の分からない百分の九九(ラッキー)など、胡散臭くて仕方がない。

 

 

 まるで、何か────自分の預かり知らぬところで、取り返しのつかないツケが貯まっているような。そんな不快感と焦燥とが、心を埋める。

 

 

「じゃあ、超質問といきますか……『暗闇の五月計画』との関わりと、黒夜海鳥との関係について」

「……………………」

「だんまり、は超賢いとは言えませんけどねェ。つまり、超言えねェ事があるってェ事になりますから」

 

 

 思考する合間を黙秘と取ったか、最愛は瞳を更に鋭く尖らせて。飲み干した缶珈琲……スチール缶を、『窒素装甲(オフェンスアーマー)』で握り潰しての恫喝を。

 

 

「……別に、話して困る事はない。だが────話す事がないのだから、どうしようもない。調べたなら分かるだろう、俺に八年より前の記憶はない」

「……………………」

「分かっているのは、『暗闇の五月計画』の被験体で暗部の()()()だった事。そして、『暗闇の五月計画』の後の実験で────」

 

 

 別に珍しくもない、暗部ではよくある話だ。『能力が脳のどの部位に宿るのか』を探す実験。それ以上も以下もない、ただただ事実を返す。

 

 

「それ以外の記憶は、物理的に…………()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「──────」

 

 

 じっとそれを聞いていた最愛は、一度目を瞑って。何か、酷く────

 

 

「……つまり、『覚えてない』と」

「ああ。あの黒夜とか言う娘にも、君にも悪いが…………()()()()()()()

「…………………………」

 

 

 数時間前にも見た表情を。酷く、嚆矢の言葉に傷付いたような表情を──フードの下で浮かべて。

 

 

「………………ははっ、忘れてた。結局──世の中なんて、こんなもんでしたねぇ」

「………………………………」

 

 

 一体、誰に向けてか。握り潰した空き缶をテーブルの上に置いて、彼女は一度、諦めたかのように嘲笑って。

 立ち上がり、歩み寄ってくる。力を籠めればへし折れそうに華奢な体に、装甲車くらいなら破壊できる攻撃力と防御力を与える『窒素装甲(オフェンスアーマー)』を纏ったままで。

 

 

 その右手を、此方に伸ばし────

 

 

「疑って超悪かったですね、次からの仕事も超宜しく頼みます────“廻天之力(サイクロトロン)”」

「ッ………………………………」

 

 

 彼の()()()()『能力名』を口にして、嚆矢を拘束していた結束バンドを人差し指と親指だけで引き千切って。“兎脚の護符(ラビッツフット)”と“輝く捩れ双角錐(シャイニング=トラペゾヘドロン)”を投げ渡して踵を返すと、ポケットに手を突っ込んで扉に向かう────

 

 

「ぎゃん!」

「さっさと超帰りますよ、フレンダ」

 

 

 途中でテーブルに突っ伏したままの、フレンダが座っている椅子を彼女ごと蹴り転がして。

 

 

「……後、携帯の録音は消さないと超後悔する事になりますから」

「は、はい……」

 

 

 有無を言わせぬ最愛の迫力に、狸寝入りを決め込んでいたらしいフレンダは女の子座りの状態で涙目だ。そのまま木扉を開いてベルを鳴らし、一瞥すらないままに最愛は出ていった。

 その後を追うように、チラチラと何度も振り向きながらフレンダも。後には、嚆矢と市媛が残るのみ。

 

 

「…………………………」

 

 

 それを見送り、漸くして。嚆矢は護符を首に掛けて懐中時計を懐に入れると、転がされていた椅子に座って。

 その目の前のテーブルに、ソーサーに乗せられたカップ。中身は漆黒、芳しい芳香を放つホットコーヒー。

 

 

「いやはや、お疲れ様です」

「ローズさん……ありがとうございます」

「いいえ」

 

 

 礼を告げて、師父の淹れてくれたコーヒーを啜る。無論、()()()()()()()()()だけではない。その真意を過たず汲み取り、それでも何でもなさげに師父は厨房に引っ込んでいった。

 温かなコーヒーの苦味が、舌を痺れさせるようだ。しかし、胸に蟠る『苦味』には遠く及ばず。

 

 

 懐から取り出した煙草を銜え、火を点す。肺腑の奥まで目一杯に吸い込み────

 

 

「────ゲホッ、エホ……あ~、そっか」

 

 

 新生したばかりの肺腑には、刺激が強過ぎたらしい。盛大に咳き込んでしまい、そんな素人みたいな有り様に苦笑いしながら。

 

 

「何か思い出したのかのぅ?」

 

 

 いつの間にか隣でトーストにハムとチーズ、目玉焼きを乗せたものを()んでいる市媛が問う。興味無さげに、しかし嘲笑うように。

 それに嚆矢は嘲笑うように、しかし興味無さげに応えて。肩を竦めながら、フィルターまで吸いきった煙草を足下の影──ショゴスに向けて、投げ渡して。

 

 

「別に。これから女の子に会うんだし、風呂くらいには入らないとって思っただけだ」

呵呵呵呵(かっかっかっか)、是非もなし」

 

 

 嬉しげにそれを呑み込んで、現れた刃金の螻蛄を引き連れて。一息にホットコーヒーを飲み干すと、風紀委員の活動の準備の為に『自宅に帰る』と師父に帰る事を伝えに。

 その背中に、嘲笑う視線が。燃え盛るような三つの眼差しが向いているのを、肌で感じつつ。

 

 

『……そォかよ、やっぱり忘れちまったのかァ。いや、ガキの戯言なンて信じて夢見てた私が馬鹿だったってェだけか』

『………………ははっ、忘れてた。結局──世の中なんて、こんなもんでしたねぇ』

「……………………」

 

 

 思い返す、二つの『諦め』の言葉。自分がそうさせた、嘲りの言葉だ。その無力、その浅はか。自嘲の余り、自決してしまいそうな程で。

 

 

「……?」

 

 

 探ったポケットに、違和感。取り出したのは────明滅する乳白色の宝珠と、有機的な銀色の鍵。その二つの『魔道具(アーティファクト)』に、甦る記憶がある。

 極彩色の閉じた世界に、黒金の太陽と白銀の満月。そして────嘲弄する悪意の塊、見えざる皆既日食か皆既月食。

 

 

「どうした、嚆矢?」

「…………(いや)、別に」

 

 

 それを、背後で牛乳を飲んでいる市媛に悟られぬよう。再びポケットに押し込んで、螻蛄のショゴスを外に向かわせ、バイク形態で待機させる。

 朝の日差しは既に、透明なものに。大好きな青の世界は既に消え、遠くに(そび)える『窓の無いビル』は揺るぎなく。

 

 

「……今日も暑くなりそうだな」

 

 

 見習いたいくらいに早起きの、蝉の鳴き声を聞きながら。八月二日の今日に、悪態を吐いたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 現在時刻、朝十一時半。現在位置、第七学区幹線道路。天候は快晴、不快指数は百パーセント。頭上からの直射日光と足下からの陽炎のダブルパンチで、茹だる暑さは青天井。

 嚆矢は額の汗をタオルで拭いながら憎たらしいほどの青天を見上げ、『織姫一号』からの天気データを表示している飛行船を睨み付けた。

 

 

「暑いなぁ……」

「暑いですねぇ……」

「気の持ちようですの。暑い暑いと言うから、余計に暑くなるんですのよ」

 

 

 同じく、暑さに辟易している様子の飾利と黒子の二人を連れて、『路地裏のマネーカード』の事案に対処して。今日も今日とて、外回りである。

 

 

「ホントだ、三回も言われると三倍は暑くなる気がするなぁ」

「白井さん……そんなに暑い暑い言わないでくださいよ~」

「……あなた方と会話していると、暑さ以外の熱が沸いてきますわ」

 

 

 黒子に心から疲れた顔を浮かべさせて、嚆矢と飾利はペットボトルを煽る。飾利は普通の生理食塩水、嚆矢は────

 

 

「あァ~、()()ゥゥゥい! 不味い、不味すぎる! もうどんな意図でこれを商品化したのか分からないレベルに不味いィィィ!」

「そこまで言うなら、飲まなければいいのではありませんの?」

「いやぁ、でも何だか妙に癖になる味と喉越しでさ」

「もう勝手にしてくださいませな」

 

 

 『大容量! 芋サイダー』と銘打たれた清涼(?)飲料水を、地団駄を踏みながら。突っ込んだ黒子に、更なる疲れを与えて。

 結局、時間が惜しくて自室には帰らずに銭湯で済ませ、そのまま風紀委員の活動に来た嚆矢は────

 

 

「さて……んじゃ、次はこの路地裏だな。これが終われば昼休憩だ」

「ですです、パパっと終わらせちゃいましょう」

「まあ、異議はありませんの」

 

 

 黄金の()()()()の瞳で見詰めた、大通りからの小路。これで本日五つ目、午前中のノルマはここまでだ。

 この後は、美少女二人と昼休憩。現金なもので、そう思うと俄然、元気とやる気が沸いてくる。るんるんと浮かれた気持ちで、スキップなどしながら路地に踏み込んだりすれば。

 

 

「………………………………」

「うぐ……あ、イテぇよぉ……」

「…………あ~あ、これだよ。本当、()()()()

 

 

 だから、心底盛り下がる。亜麻色の髪を掻き、溜め息を溢す程。路地の暗がりに無言で佇み、片腕で高校生くらいの少年を持ち上げている大柄な影と、その足元に転がり呻いている数人の少年達を目の当たりにして。

 

 

「どうしたんですか、嚆矢先輩……ひゃあ!?」

「そこまでですわ────風紀委員(ジャッジメント)ですの!」

 

 

 遅れて現れた二人の声により、その大柄の影────まるでゴリラのように厳つい顔の男が此方の存在に気付いたらしく、口を開く。

 

 

「……風紀委員(ジャッジメント)、か。本当にお前達は……全てが終わってからでなければ来ないな」

「何ですって……!」

「そうだな。そんでテメェらは毎回迷惑を起こしてくれるよな────不良学生(スキルアウト)くん?」

 

 

 重厚な、しかし抑揚の少ない、さながらコピー機のような声色で。手を離され、落ちた少年はそのまま泡を吹いて気絶する。

 その男の挑発に、黒子が反応しかける。それを制するように、彼女の前に立つ。

 

 

「────此方はテメェらと違って暇じゃねェンだ、構ってちゃンは余所でやれよ」

「…………ほう」

 

 

 両手で髪を掻き上げて、黒子や飾利の前では決して見せない暗部用の『悪鬼(ヴィラン)』としての表情を浮かべて、剣気を乗せた恫喝を。それを受けて、大男は初めて表情を変えた。

 

 

「……誰かと思えば、お前か。大体半年ぶりだな……対馬嚆矢」

「…………(ワリ)ィね、男に割く記憶容量は八バイト以下なンだ。初期ファミコン並みに飛ぶンで、自己紹介頼むぜ」

 

 

 そのまま、腰に当てた右掌で『親指で押す』と『人差し指を回す』合図を出す。それに気付いた黒子は直ぐに辺りを目線のみで改め、飾利はスカートのポケットの中で何かを探る。その黒子と飾利は、嚆矢の影で見えはしまい。

 

 

「相変わらずだな……()()()()

「………………?」

 

 

 知己に話すような大男のその物言いに、引っ掛かるモノがあった。半年前、こんな男に会っていたような気がして────

 

 

「────ッ!」

 

 

 その思考の一瞬の隙、それを見逃されはしなかった。大男は、その巨躯からは想像も出来ない速さでもって肉薄し、もう目の前に迫っている巨大な右拳────を、“()小手返(コテガエ)シ”で捉えて押さえ込む。

 

 

「────大した脚だな、武術……(いや)発条包帯(ハードテーピング)か」

「……ああ、お前に見せるのは二度目だが……そちらも相も変わらず……大した腕だな、古流武術」

「俺も記憶してるさ、駒場 利徳(こまば りとく)……て事は、コイツらは『無能力者狩り』でもやってた訳か」

「察しが良くて助かる……そうだ……三人やられた。小遣い稼ぎ半分……遊び半分でな」

「だからやり返した、かァ? 知らなかったぜ、何時から学園都市はハンムラビ法典制度に移行したンだ?」

 

 

 には至らず、見た目に違わぬ慮外の剛力を備える大男は嚆矢の『左手』による理合では押さえ込めずに、腕を伸ばして掌を絡み合わせた仁王立ちで。

 背中越しに睨み合うような形で、同じ『技術』でありながらも正反対を体現する二人が鬩ぎ合う。

 

 

『……最近の風紀委員は……南蛮渡来のような金髪がいるのか』

 

 

 その男……駒場利徳の姿を完璧に思い出す。今年の一月、どんな理由だったかは忘れたが────警備員(アンチスキル)黄泉川 愛穂(よみかわ あいほ)と共に制圧した、武装無能力者集団(スキルアウト)()()()の事を。

 

 

「……痛みを知らぬ者に、痛め付けられる気持ちは解らん……()()()()()()()()()()()()()を……しているだけだ」

「ハ、御大層な御託だな。けど、『気に入らねぇからブッ飛ばした』で十分だろうに。態々、自分を『偽悪』に仮託しなきゃいけねェンなら────端っから仲良しこよしの『偽善』なンてやってンじゃねェよ」

「『偽悪』に『偽善』か……間違いはない……だがそれは貴様にも返る言葉だろう……()()よ?」

 

 

 『同属』、と。その言葉に、心が凍る。有り体に言えば、つまり────

 

 

「ハ……()()()()()()()()を当たり前に持ってた癖に、社会からケツ捲って逃げ出したテメェらと一緒にしてンじゃねェよ────!」

 

 

 反吐が出るくらい、ムカついて。『左手』で握り締めた『兎脚の護符(ラビッツフット)』、励起するのは『灼光(シゲル)』と『軍神(テイワズ)』の二文字。どちらも『身体能力強化』を持つルーンだ。

 無論、その反動は『確率使い(エンカウンター)』により鋭い頭痛として顕れる。脳の一部を万力で搾ったかのような痛みが、理性を突き抜けて野性を呼び覚ます。

 

 

「……くっ……!」

「……ちィ……!」

 

 

 その魔術(オカルト)により均衡が崩れ掛かるも、利徳は腕の『発条包帯(ハードテーピング)』を起動して堪える。

 図らずも、こんな場所で科学と魔術が鬩ぎ合う。片方は大兵の、科学技術による身体強化。もう片方は些か見劣りはするが大柄の、文字魔術による身体強化。

 

 

「離さなければ……圧し折るぞ……南蛮渡来!」

「此方の科白(セリフ)だってェンだよォ、独活の大木がァ!」

 

 

 ミシリ、と軋むような嫌な音が。それは二人の肘から。どちらかが肘を曲げれば、確実に相手の肘が折れるだろう。

 不利なのは、どちらか。利き腕で大反動の『発条包帯(ハードテーピング)』を使う利徳か、或いは左腕で小反動の『神刻文字(ルーン)』を使う嚆矢か。

 

 

 そんな二人を、黒子はじっと見詰め────その視界の端に、一瞬だけ煌めくものが見えた。

 隣のビルの窓が、光を照り返した様子────に見せ掛けた『金属矢』が、嚆矢の首筋に向けて飛翔して。

 

 

「残念でしたわね────そうは問屋が卸しませんの」

「ッ……マジか、こんなお嬢ちゃんに俺の打ち根が……そりゃあ、伊賀滅ぶわ」

 

 

 精密に空中で、空間移動(テレポート)した『金属矢』により撃ち落とされて。空気抵抗の乱れを受けて、矢は墜落する。

 その『金属矢』を投擲した頭巾のような帽子の少年の目前に、両手に太股のホルダーから抜き取った『金属矢』を飛ばした黒子が現れた。

 

 

()()()()に周辺の警戒をしておりましたもの、当然の結果でしてよ。そんな事より障害未遂の現行犯、貴方も捕縛させていただきますの!」

「上等だ、来いよ高位能力者。“武装無能力者集団(スキルアウト)”の力、見せてやる!」

 

 

 嚆矢の『人差し指を回す』……即ち『周辺の警戒』を促すハンドサインを受けたからこそ、彼女はこの少年の存在を察知して迎撃、捕捉が出来た。

 同じ『金属矢』を獲物とし、『相手の意表を突く事』を得意とする二人が相対して。

 

 

「────シッ!」

 

 

 均衡は一瞬で。再度、少年は目にも留まらぬ速さで投擲し────

 

 

「甘いですの!」

 

 

 黒子は目に留まる要素すらない、十一次元を経由した投擲により『それ』を撃ち落とした。

 

 

「ああ────全くだな、駒場!」

「────なっ!?」

 

 

 細長い、スプレー様の『催涙弾(それ)』を。直ぐ様破裂したそれは、小さな路地裏程度は白一色に染め上げて。

 利徳は嚆矢と対峙したままで、彼の名を叫んだ少年と全く一緒に。その投げ渡した、水泳用のゴーグルと塗装用のマスクで作ったと見える手製のガスマスクを片腕で被る。

 

 

「黒子────ッ!!」

 

 

 一方、白煙に呑まれた黒子に意識を逸らした嚆矢。有り得ざる隙だ、そして次の刹那にはもう────バキリと、生木を割くような不快な音が。

 

 

「油断大敵……だ」

「──────────────」

 

 

 喉まで上った声を、食い縛った歯で押し留めて呑み込む。梃子の原理で関節が逆に曲がった左腕が、まるで火が着いたように熱く痛み────

 

 

「退け────邪魔してンじゃねェ、三下ァァァァッ!!!!」

「────ぐふっ!?」

 

 

 その『折れた左腕』で、鳩尾(みぞおち)の僅かに右に打ち上げる肘打ちを貰う。所謂、肝臓の位置だ。

 如何な大男はだろうと、急所は急所。しかも魔術による身体強化を受けている者からの渾身の一撃。常人ならば、背中から肝臓が転がり落ちても何ら不思議ではない。

 

 

 それを片膝を突いたくらいで耐え切ったのは、一重に利徳が弛まぬ努力によりアスリート並みに身体を鍛えていたからに他ならない。

 追撃に備え、直ぐ様彼は腕を構えて────既に白煙の中央に走り込んでいる学ランの背中と、入れ違いに横に立った仲間の姿を見た。

 

 

「大丈夫か、駒場? あんたが膝ァ突くなんて……」

「……心配するな……一撃貰っただけだ……半蔵」

「そうか、ならいいんだけどよ。しかし相変わらず無茶な奴だな、あの“裏柳生(ウラヤギュウ)”は」

 

 

 もう、何ともなさげに立ち上がった利徳と共に路地の隙間に逃げ込みながら。服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、既に見えなくなっている『誰か』に対してそんな事を口走って。

 走り出た通り、其処にエンジンを唸らせる一台のバンのスライドドア。まるで待ち侘びるように開かれていた其処に、走り込んだ。

 

 

「ずらかるぞ、浜面! 風紀委員に見付かった!」

「オイオイ、ヘマ打ってんなよなァお二人さん。しかも警備員(アンチスキル)ならともかく、風紀委員(ジャッジメント)って……」

 

 

 呼び掛けた運転席から返った軽薄な科白は、ブリーチした髪の少年のもの。ドアを閉めた二人に向けてサムズアップした浜面仕上(はまづら しあげ)は、間髪入れずにアクセルを目一杯に踏み込んで。

 

 

「馬鹿野郎、()()()風紀委員(ジャッジメント)なんだよ! “裏柳生(ウラヤギュウ)”の!」

「ああ……一月の時の……南蛮渡来の風紀委員(ジャッジメント)だ」

「……マジかよ、あの不良風紀委員?! え、じゃあまさかあの化け物警備員(アンチスキル)も!?」

「「アッチが居たら……今頃はここに居ないだろ」」

「ごもっとも……嫌な汗掻いたぜ……ん?」

 

 

 危うくハンドル操作を誤りそうになるくらい取り乱しかけた仕上だが、ふうと溜め息を吐いて何とか気を取り直したらしい。

 落ち着きを取り戻した彼はカーナビに従って高速に入ろうとハンドルを切り────行く手を遮るように目の前に停車した、()()()()()()()()()()()()()()()()軽車両を見る。両横には分離体があり、通るのは無理だ。

 

 

「チッ……何やってんだ、邪魔だな! さっさと退けよ!」

 

 

 クラクションを一回、二回。更に長押ししてパッシング。それでも前の車両は動く気配はなく。

 サイドミラーに見える後ろの車両、黒っぽいトラックも直ぐ其処まで迫っていて。

 

 

「……おい、半蔵……」

「ああ。な~んか……嫌な予感してきたんだが」

 

 

 辺りを見回す。昼間だと言うのに、他の車がない。まるで、()()()()でもしているみたいに。

 そして、カーナビの画面に────

 

 

『“You are guilty(貴方達は罪を犯した)” by-Goal Keeper』

 

 

 の一文が表示された瞬間────バンを取り囲んだ警備員(アンチスキル)の一個小隊。『親指で押す』……即ち『警備員に通報』を行った飾利が呼んだ、警備員達が。

 三人は絶句していた。その状況にではない。非殺傷のゴム弾が詰まったライフルを持つ多数の男性警備員になど、目もくれず。

 

 

「さあってと────久々に暴れられるみたいじゃん?」

「「「──────────」」」

 

 

 目の前の車両から降りた、たった一人の警備員。桔梗色の髪を一房に纏めた、アクリル製の『楯』のみを持つ、女性警備員に────…………。

 

 

………………

…………

……

 

 

 路地裏から歩み出た二人は、近場のベンチに腰を下ろす。そして嚆矢は自販機で買ってきたペットボトルの水を、目許をハンカチで押さえた黒子に差し出す。

 負傷に加えて不甲斐なさで落ち込んでいるらしく、肩を落としている黒子の隣に座って。

 

 

「けほっ、こほ……面目次第もありませんの……」

「なぁに、悪いのは俺だ。判断誤った、御免な黒子ちゃん」

 

 

 催涙ガスのせいで一時的に視力を失った彼女の肩をぽんぽんと叩きながら、努めて軽い口調で。見えはしないだろうが、頭を下げる。

 

 幸い、強いガスではない。『治癒(ベルカナ)』の力を流し込んだこの水……ケルト神話に(うた)われる『フィオナ騎士団』の騎士団長フィン=マックールの伝承に(なぞら)えた、その水で応急処置は十分だろう。

 自分の腕は取り敢えず、『直す』事にした。この程度の()()、別に魔術を使うまでもない。押し込めばそれで終わりだ。早速、外れている肘から先を右手で掴み────脈や摩擦感を確認した後で、一息に。

 

 

「いいえ、わたくしの失態ですの。迂闊に迎撃などせずに、ちゃんと見てから対応していれば……初春に呼ばせた警備員の手を煩わせる事も」

否々(いやいや)、どうせ捕まえたら警備員に引き渡すんだし。早いか遅いかの違いだけ────さッ!!」

 

 

 ゴキリ、と鈍い音を立てながら引く。意識が飛びそうな痛みが走るが、この少女の前で呻いたり喚いたり、そんな無様は働けない。

 だがしかし、目を洗っていた少女は僅かに空気が変わったのを感じたらしく。

 

 

「今、何か変な音がしましたけれど……」

「気のせい気のせい。それより、早めに手当てしないとな……さて、役得タイム!」

「ふあっ?! ちょっ、嚆矢先輩────っ!?」

 

 

 それを誤魔化す為に、それ以上に早く病院に連れて行きたいが為に。直したばかりの腕も使い、所謂『お姫様抱っこ』状態で。

 

 

「ひっ────ひゃ!?」

 

 

 見えずともどんな状態なのかは理解して、慌てて暴れかけた黒子だが……目が見えない状態ではその程度の不安定すら、絶叫マシーン並みの恐怖をもたらして余りある。

 彼女は思わず、その慎まし過ぎる胸ごと嚆矢の頭に手を回してしまった。

 

 

「イヤッホォォォウ! こいつァあ嬉しい誤算だ、元気百倍だぜェェェ!」

「こ、この変態~~っ!」

 

 

 その事だけに、意識を集中する。鋭く走る痛みも、気にしなければ無いものと同じだと昔の偉い人が言ったとか言わないとか。

 

 

《いや、言わぬであろ》

(煩せェ黙ってろよ痛ェだろ)

 

 

 背後に沸き立つ“悪心影(あくしんかげ)”の突っ込みを切って捨てて。そんな事よりも。

 兎も角、走り出す。幸いと言うか、彼が知る内で最高の名医である、あの『カエル顔の医師』の病院はこの近く。『駿馬(エワズ)』のルーンを起動している今、五分と掛かるまい。

 

 

「もっとしっかり掴まってな────少し急ぐからさ!」

 

 

 風を斬って走る。魔術による身体強化の恩恵、余りの速度に何度か他の通行人に振り向かれたりしながら。しかし構ってなどやらずに。

 

 

「あら、今のは────」

「もしかして、白井さ────」

「ちょっ、速──────!」

 

 

 途中、黒髪と茶髪、扇を持った三人組の常盤台の女学生を追い抜いて。何やら声を掛けられた気もしたが、それすら振り払って。

 

 

 まるで、彼女の自虐を置き去りにするかのように。そんな男の顔を、腕の中から。まだ涙に霞んでいる瞳で見詰めながら。

 

 

「本当に…………貴男って方は」

 

 

 呆れたような、諦めたような。そんな言葉を漏らしながら────微笑んだ黒子に、気付く事無く。

 

 

………………

…………

……

 

 

 とある公園の一角に、『彼』は寛いでいた。ベンチに腰を下ろし、目の前の噴水を眺めながら紅茶とスコーン、まるで英国の昼下がりだ。

 それが絵になるくらいに、『彼』は見目麗しく。()()()()()に張り付いた笑顔は、そうと思わねば気付きもしまい。

 

 

 実際に、通りすがる女学生達は一様に『彼』を眺めている。あくまで遠巻きに、眺めているだけだが。

 

 

「よお、捜したぜ────」

 

 

 その隣に、無造作に腰を下ろした少女が居た。この麗らかな昼下がりにはまるで似つかわしくない濃密な闇色の、陰惨な気配を纏った娘だ。

 革製の衣服に小柄な身を包み、白いコートのフードを頭から被った────()()()()()()()()()()を傍らに携えた娘だ。

 

 

「仕事の依頼だ、テメェの『技術』を買いてぇ」

「ふぅ……金額如何(いかん)、かな。こちらも商売なものでね」

「だろうな、そりゃそうだ」

 

 

 黒い娘に、そう答えた『彼』。あくまでも優雅に()()()()()()()で。

 嘲笑うような黒の娘にも、それを崩す事はなく。あくまでも、あくまでも。

 

 

「テメェのその()()を治せる……と言ったら?」

「────────」

 

 

 『あくまでも』が、崩れる。一瞬『彼』は、娘を殺意の籠った視線で睨み付ける。周りで彼を眺めていた女学生達が、一斉に悲鳴を上げて逃げ出した程に。

 その身に纏う、濃密な闇色。陰惨な気配は、つまり────この男も、また。

 

 

「ひっはは、良いねぇ。そうじゃなきゃ、だ────」

 

 

 娘は、それすらも微風の如く受け流して。取り出したのは────『焼けた肉』。『彼』が不快感に、眉目を潜めるほどに炭化した肉だ。

 それを掌に置いたまま、携えた本を開くと、某かを呟いて。瞬間、その肉が────『瑞々しい生肉』に還った。

 

 

「……成る程、大した能力です。だが、残念ながら必要ありません。あと三年早ければ、這い蹲ってでも頼んでいたんでしょうけどね」

「そぉかい? これは、『見た目だけ』の治癒じゃねぇ。所謂、『逆再生』だ。この意味、分かるよなぁ?」

「……………………」

 

 

 『彼』は、もう一口紅茶を啜る。沈思の為に、味わいながら。それを黙認と取り、娘は更に──舌舐めずりしながら、新たな『媚毒(ことば)』を。

 

 

「それに、今回の『獲物』は……テメェも知らねぇ『駆動鎧(パワードスーツ)』を持ってるらしいぜ? 何でも、『人のサイズで戦闘機並みの空間制圧戦闘能力を持つ』らしい」

「……ほう、それはそれは」

 

 

 『彼』の笑顔の性質が変わる。合点がいった、とばかりに。狂暴な、底冷えがするほどに。

 

 

()()()()()だ……」

 

 

 醜悪なまでに整った笑顔で、『彼』は彼方を眺める────

 

 

………………

…………

……

 

 

 西の空が茜色に染まる頃、第七学区の風紀委員(ジャッジメント)第一七七支部を後にした人影がある。

 長身で筋肉質な、亜麻色の髪のその男。背伸びをして背骨を鳴らしながら、歩く影だ。背後にて嘲笑う燃え盛る三つの瞳と、足下で血涙を流す無数の瞳が沸き上がる影を連れた男だ。報告書と始末書の二つを同時に書かされ、三度ほどあらゆる文字がゲシュタルト崩壊した男だ。

 

 

 因みに、黒子は昼前に飾利が寮に送っていった。明日は大事を取って休むらしい、と言うかドクターストップが掛かった。本人も不承不承了解した……と思いきや、『ハッ……傷付き帰還したわたくし、それを見たお姉さまは真に守るべき大事なものに気づいて(以下略)』とか元気を取り戻してくねくねしていたが。

 嚆矢の方も、誤魔化そうとした左肘の負傷をアッサリ見抜かれて、暫くは通院して診療となっている。『相も変わらず抜け目の無い人だ』と、大いに舌を巻かされた。

 

 

「ん~~……終わった終わった。さて、明日も早いし帰るか」

《ふむ、今晩の飯はそうさのう……うむ、この『牛ふぃれすてーき』とやらじゃな》

『てけり・り。てけり・り』

「巫山戯んな、んな無駄金が有るかよ。貯金もしたいし、今月は三万で乗り切るんだからな」

《節制など知らぬわ、金柑の手先め! (わらわ)は牛ふぃれすてーきに決めたのじゃ!》

『てけり・り。てけり・り!』

「むっしー」

 

 

 等と、端から見れば一人ごちる危険人物じみた具合で。包帯と簡単な固定だけが成された左腕を煩わしげに、尖らせた唇で掠れた下手くそな口笛など吹きながら。

 

 

「……なぁ、ロリコン先輩は一人で何を口喋(くっちゃべ)ってんだろうな」

「あれじゃね、遂にロリコンの毒が脳ミソまで回ったんだろ」

「惜しい人を無くした……と思ったが、ロリコンだから別にどうでもよかったと気付いた」

「聞こえてんぞ、後輩どもが……暇なら付き合えよ、ハンバーガーくらいなら奢ってやるから」

 

 

 バッチリそれを巨漢とスキンヘッドと学生帽の、後輩の男子風紀委員三人組に見られていたりして。

 

 

「ゴチんなりやーす。何すか先輩、今日は太っ腹じゃねーっすか」

「お前ほどじゃねぇよ、おむすび君。実は少し、良い事があってよ」

「どうせ白井に抱きつかれた、とかだろう」

「何だと黒眼鏡君、俺がそんな安上がりな男だと……なぁハゲ丸、アイツの能力(スキル)読心能力(サイコメトリー)』だったか?」

「能力使わなくても分かるってぇの、締まりのねぇ顔しやがって……ってか、ハゲ丸ってもう一回言ったら殺すかんな」

 

 

 そんな、在り来たりな夕暮れを当たり前のように。噛み締めるように、一歩一歩と────取り戻すかのように。

 

 

「うむうむ、菜譜の端から端まで喰ろうてやろうて! この『特製すかいたわーばーがー』とやらはとみに楽しみじゃ」

「うげふ!? テメ、いきなりは止めろ!」

「うおっ、何だ織田か……あれ、お前何時から居たっけ?」

 

 

 実体化し、背中に負ぶさった“悪心影(あくしんかげ)”……勧進帳(食いたいものリスト)を手にした織田市媛に、危うく頸動脈を絞め落とされそうになりながら。

 視界の端に見える、端整な嘲笑。一房に纏められた灰燼の如き黒髪と、夕焼けよりも尚濃い鮮血色の瞳。

 

 

呵呵(かっか)────何を言うておるか、下郎ども。初めから(わらわ)は居ったであろうに」

「そう言われると……」

「そうだったような気が……」

「しないでもないような気もするような……」

 

 

 揃って首を傾げた彼等の視線が外れた一瞬、燃え盛る三つの瞳が嘲笑を向ける。無論それは“這い寄る混沌(ニャルラトホテプ)”としての顔だ、直視すれば正気を奪われかねない無貌にして無尽の悪意だ。

 それを後輩連中に見せない辺り、まだ良心的な部類の蕃神なのだろう。まぁ、食事前の無粋は好まないと言う程度の事だろうが。

 

 

「────どうした、嚆矢よ。行かぬのかのう?」

「……………………」

 

 

 嘲る物言いに、不愉快の意思のみを返して。いつも通り、もう最近は慣れてきた嫌いがある、背中の重みを背負ったまま。

 歩き出す世界を心に刻む。大嫌いな、その赤色の夕焼けを望みながら────それでも。()()の己には与えられなかった、大事な『日常』を噛み締めて……。

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、十九時ジャスト。完全下校時刻までもう僅か、故に急ぐ自室までのその道程を、バイク形態を取るショゴスで走り抜ける。

 あの後、後輩と市媛にハンバーガーを約束通りに奢って。頼みすぎると裏に連れて行かれてマスコットのお兄さんに『お話』をされると言う都市伝説(フォークロア)のある百円のモノだけだったのでブーブー文句を言われたりして、随分と時間までもを食ってしまった。

 

 

 故に走らせる、刃金の二輪車。神代の甲鉄で()たれた大鎧、南蛮胴。『七つの芸を持つ』とされる『螻蛄(ケラ)』の似姿を持つそれは、重厚な排気音(エグゾーストノイズ)を奏でながら。

 

 

「……ふぅ、間に合ったか」

 

 

 無事に帰りついた、自室のあるメゾン。その庭には飼いも野良も区別無く、数匹の猫が屯している。

 まあ、いつもの事なので、いつも通り気にせずに。触ろうとすると逃げたり怒ったりするだけなので、興味無さげにその脇をすり抜けて……そう言う時に限って、この『猫』という生き物は甘えた声で鳴き、刷り寄ってくるのである。

 

 

「はいはい、また明日な────ッイテ」

 

 

 だからと言って、騙されてはいけない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 猫達をあしらい、少し欲を出して撫でようとした掌。返ってきたのは猫パンチと唸り声、間を置かずに散り散り去り行く尻尾。

 

 

 自分から刷り寄ってきたくせに、こちらがその気になれば掌返し。まるで、『気易く触るな、この痴漢!』とばかりに。

 

 

「これだから、全く────女も猫も可愛いんだよなァ。(いや)、従順な狗もそりゃあ好きだけど」

 

 

 フラれ男は苦笑いしながら、一応は誰にも見えないようにバイクを物陰でショゴスに還して影の平面に潜ませて。自室の鍵を取りだそうとして────漸く、違和感に気付く。普段はない、どうも代車らしき軽自動車が停まっている事に。

 

 

「これって……ハンディある人用のか」

 

 

 物珍しさから、覗き込んだ車内の様子で理解する。普段見慣れない車の内部だが、それくらいは気付いた。

 同時に思い出した管理人の言葉。『近々、新しい入居者が来る』という、撫子の言葉も。

 

 

「あ、お隣さんですか~?」

「え、あーはい……」

 

 

 と、背後から少女めいた声。随分と低いところから。いきなり邂逅かと多少緊張しつつ『いつもの通りにすれば良いだけか』と思い直して、握り締めた“兎脚の護符(ラビッツフット)”から『話術(アンサズ)』のルーンを頭痛と共に励起させて振り返る。

 

 

「始めまして、対馬で……って」

 

 

 その瞳に、その姿は映る。ピンク色の髪に小学生と見紛うばかりの小駆には似つかわしくない岡持(おかもち)を抱えていた。

 

 

「こんばんはです、隣に越してきた月詠で……って」

 

 

 同じく、それは対面の幼女……否、()()も。目の前の男の顔を見て──はたと、思い出したように。

 

 

「あなたは確か……対馬ちゃん? 上条ちゃんを助けてくれた」

「『ちゃん』って……あ、はい。その節はどうもです、月詠さん」

 

 

 一週間程前に、火織にノされた当麻を送り届けた先の家主だ。そう──インデックスの『首輪』とやらを破壊する際に()()()()()になった部屋の。

 それを思い出して、得心する。確かに、あんな状態の部屋に住める訳がない。

 

 

「えっと……上条くんとインデックスちゃんは元気ですか? あれから会ってないんで心配で」

「ええ、元気ですよ~。私の部屋を台無しにするくらいには」

「そ、そっすか……」

 

 

 気まずさから何とか会話のネタを絞り出した嚆矢に、ニコニコと……既に一、二杯引っ掛けたかのように据わった目で笑い掛けた、月詠 小萌(つくよみ こもえ)教諭。

 どう見ても目が笑ってはいない。その瞳には疲れと諦め、そして……酷く冷酷な気配があった。何か、悪いもの(クリッター)でも取り憑きでもしているんだろうか?

 

 

「あ、これ、引っ越し蕎麦です。蕎麦アレルギーとか無いですよね?」

「大丈夫です、好物です。特に冷やしたぬきとか最高ですよね」

 

 

 と、差し出された岡持。その中には、進言通りに引っ越し蕎麦が。ラップが掛けられているが、まだ温かいのが分かる。

 

 

「あはは、面白い冗談を言いますね、対馬ちゃんは? この世に『()()()()()()』なんて言う、非人道的で冒涜悪逆の極みのようなものが存在するわけ無いじゃないですかー」

「……えっ?」

 

 

──何か今、凄い事を言われたような。凄い笑顔で。凄い真顔で。

 

 

 しかし、その一瞬の思考の合間にも時は流れ去る。気付いたのは、弛まず続けた修練の賜物か。嚆矢の背後に忍び寄ったその気配に、彼は──瞬時に身を屈めて、後方からの裸締めを回避した。

 

 

「ひゅう、さっすがじゃん、対馬。伊達に『先輩』の愛弟子じゃないね」

「勘弁してくださいよ、黄泉川さん……あと、破門された身としては嫌味にしか聞こえませんって」

 

 

 それを成した女……緑色のジャージに身を包む、艶やかな肢体の女。警備員(アンチスキル)であり、即ち教師である彼女は黄泉川愛穂(よみかわ あいほ)。そんな彼女に、苦笑いを向けて。

 

 

「もう、黄泉川先生……他校の生徒にまでちょっかいかけちゃダメですよ? そうでなくても黄泉川先生は肉体言語(ボディランゲージ)過多で誤解されやすいんですから。ね~、対馬ちゃん?」

「ギクッ、べ、別に『躱さなきゃあの凶器を堪能できたんじゃ?』とか思ってないですから……!」

「あっはっは、小萌センセには敵わないじゃん。と、これ引っ越し祝い」

 

 

 同じ高校の教師、知己である二人に挟まれてしまい微妙に居心地が悪くなる。見た目的には親子レベルの違いがあるが……どうやら気は合っているようだ。

 

 

「あ、『梅安 久兵衛(うめやす きゅうべえ)』じゃないですか! 一口飲めば、星間飛行しているような夢心地だとか。でも、限定生産で滅多に出回らないって話なのに……良く手に入りましたね!」

「日頃の行いの賜物じゃん、今日もたっっぷり働いたからね……対馬?」

「あ~……はい、そうですね……御迷惑をお掛けしました」

 

 

 その愛穂が小萌に差し出した袋。高価そうな化粧箱には、『大吟醸 梅安 久兵衛』と記されている。

 にやりと流し目で見遣られては、照れたらいいのか反省したらいいのか。兎に角言える事は、この女性は自分が色女だと言う事を自覚するべきである。非常に勿体ない話である。

 

 

「そーだ、対馬も小萌センセの引っ越し祝いに付き合うじゃん? 寿司も特上の奴が三人前あるし」

「えっ、特上寿司? マジですか、三年は食って無いっす」

「マジマジ。本当は後輩を連れてくる気だったんだけど、急用で来れなくなったじゃんよ」

 

 

 その誘いは、十分すぎる魅力。大小の違いはあれどもどちらも紛う事なき美形の女教師二人と夜会とは。健全な男子であれば妄想した事くらいはあると思う。

 加えて、特上寿司。この学園都市では、嗜好品の類いは高い。寿司もまた、回転しているものですらも結構値が張るのだ。この期を逃せば、次は何時になるやら皆目見当もつかない。

 

 

 ……以上の点から鑑みて。この男子垂涎の誘いに対して対馬嚆矢が取るべき選択肢は、たったの一つ。()()()()である。

 

 

「いやぁ、返す返す惜しいんですけど……明日も早いですし、もう完全下校時刻過ぎてますから」

 

 

 『断る』選択を取り、告げる。一応、学生の身だ。こんなところで目をつけられては敵わない。

 

 

「はい、花丸ですよ~、対馬ちゃん。学生の本分は勉学ですものね。うちの『三馬鹿(デルタフォース)』ちゃん達にも見習って欲しいです」

「ハイなんて言おうもんなら、みっちり座学コースだったってのに。あ~あ、可愛いげ無いじゃん」

「アハハ……やっぱり」

 

 

 それに二人の女教師は、そんな言葉を重ねる。一人は満面の笑み、一人は慚愧のしたり顔で。

 端からそうだろうと読んでいた彼は、額に浮き上がった冷や汗を拭って。

 

 

「それじゃあ、またです。対馬ちゃん」

「また今度、じゃんよ。対馬」

「はい、じゃあ、また……月詠さん、黄泉川さん」

 

 

 そして、連れ立って帰っていく。その後ろ姿が、隣の部屋に入るのを見届けてから。

 

 

「……ほらな、だから女と猫は信用ならねェンだよ」

 

 

 そんな言葉を……真理を呟きながら、自らの部屋の鍵を開けて。開き、閉じる。

 そして履き物を脱いで、上がろうとして────刹那、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「……お帰り、義兄(にい)さん。()()()()()()()()()()()()

「──────────────待て、弓弦(ユミル)。違うぞ、義兄(にい)さんは全力で誘惑を断ち切って────!」

 

 

 目の前に立つ、()()()()()()()()()()()()()()の……金髪に群青菫(アイオライト)の娘の姿を視界に収めて。

 鼻血が零れる事すら無視し、嚆矢はただ弁解のみを試みて。

 

 

「────『贋作魔剣(グラムフェイク)』」

弓弦(ユミ)────待て、待ってくれ!」

 

 

 その放つ祝詞に、己の命運の終局を読み取って……

 

 

「────『■■■■■(■■■■■■)』」

「─────────────!」

 

 

 渦を巻く螺旋状の虹色の直撃により、その意識を無限の暗闇に向けて散らしたのだった…………。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八月三日:『家族』

 

 

 夏の日の事だ。烏賊墨(セピア)色に褪せる程に遠い、遠い……()()()()()()()()()()の、最初の日の思い出だと記録している。

 目の前を訥々と歩いていた、大きな背中が停まる。良くある日本人の風貌の黒髪に黒い瞳、のみならず纏う気配まで陰気な、スーツ姿のその男。『暗部の掃除機(スイーパー)()()()この『廻天之力(サイクロトロン)』を打ち倒した、()()()()()()()()使()()()の背中が。

 

 

 それに視線を、もっと先へ。其処には、一軒の日本家屋。純和風な平屋建て。その門を潜れば、平たい石の敷かれた道。

 傍らには庭園、枯山水。その反対側には────紅い唐傘の立てられた腰掛け台。言ってしまえば、和風なテラスか。其処に似つかわしくない洋風の衣裳とティーセット、ダージリンの香気。それを纏って。

 

 

『……今、帰った』

『お帰りなさい、貴方(ダーリン)……あら、その子が』

『……………………』

 

 

 陰鬱な男の声に答えて、見た事もないくらいの美人が。豊かな金色の髪が麦穂の海原のような、糸のように目を細めた美女が答える。

 一瞬の内に、その笑顔──愛する男に向けられていた笑顔は、形を変える。ほんの一瞬で。

 

 

『まあ……まあまあ! この跳ねっ返りな瞳に表情……昔の貴方(ダーリン)そっくりだわ。それに何て可愛らしい亜麻色の髪、(ハシバミ)の少年みたい────』

『────あ、え……? えっと、ボク……』

 

 

──分かってしまう。理解してしまう。頭でも心でもなく、言わば本能と言う奴だろうか。一瞬で、背骨を雷電が走った事が。

 本当に、何の理由もなく……無条件で。俺はこの人に()()()()事が、骨身に沁みて。

 

 

『このショタを『ママ大好き』に調きょ……ゲフンゲフン教育していいなんて、やっぱり義息(むすこ)って最高ね────あいた!』

 

 

 やにわに不穏当な事を口走りながら、口許に手を寄せながら身を捩りつつ頬を染める。僅かに感じた身の危険は、気の所為であって欲しいが。

 その後頭部に『スパーン』と小気味いい音を立てながら、背後より竹刀の一撃が振り落ちる。さながら『雲耀(いなづま)』の如き、縦一閃が。

 

 

『……むすめとして恥ずかしいから自重してくれる、母さん(ママ)?』

『いたた……わかってます~、ユミちゃん。場を和ませる為の小粋なジョークじゃないの。はぁ、実娘(むすめ)なんて察しは悪いし私似だしで最悪だわ……』

『それは悪うございましたね。それで──』

 

 

 さめざめと泣きながら……泣き真似をしながら、背後の『声』に女性が答えて。

 奥の庭から歩み出てきた、小柄な……竹刀を携えた道着姿の童女。まるで、降り注ぐ陽射しのような金色の髪に風の渡る蒼穹のような瞳の。

 

 

『その人が私の()()()とやらになる“天糟 荒矢(あまかす あらや)さん”なの、父さん(パパ)?』

『ああ……字も読みも改めて、“嚆矢(こうじ)”と呼ぶ事にした』

『……そう』

 

 

──今でも覚えている。あぁ、確かに。忘れ得ぬ出逢いが、その時、在ったのだから。

 

 

『『…………』』

 

 

 同時に見詰め合う。交差したのは群青菫(アイオライト)蜂蜜酒(ウルヴスアイ)、訝しみ値踏みするその視線が。

 

 

『────暗い、ダサい、挨拶もできない。兄としてどころか、人として最低ね』

『…………なっ!』

 

 

 瞬時に、見下すように。侮蔑の色を帯びて。

 

 

──分かってしまう。理解してしまう。頭でも心でもなく、言わば本能と言う奴だろうか。一瞬で、背骨を雷電が走った事が。

 本当に、その三つの理由で……スリーアウトで。俺はこの娘に()()()()事が、骨身に沁みて────…………。

 

 

『こんなのが家族になるなんて、本当に最あ────あいたっ!?』

 

 

 刹那、墜ちた『拳骨(いかづち)』を視認する事も叶わずに、少女が頭を押さえて踞るのを見て。

 というか、同じように落された雷に頭を抱えていて。金槌を思わせる拳骨は、涙が出るくらいに痛恨だった。

 

 

『いたた……どんな理由があっても、女の子に暴力を振るうのは最低だと思うわ、父さん(パパ)

『……って言うか、何でボクまで……』

『躾は親の務めだ、実の娘でも義理の息子でも。そして喧嘩両成敗……まともな挨拶もできない餓鬼どもは、共に罰されるべし』

『『……………………』』

 

 

 その理不尽に、再び見詰め合う群青菫(アイオライト)蜂蜜酒(ウルヴスアイ)。共に涙目で頭を押さえて、交わした視線が────

 

 

『『……………………宜しく』』

 

 

 共に、盛大な溜め息と共に挨拶を溢したのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 目を覚まして最初に見詰めたのは、降り注ぐ陽射しのような金色の髪。そして、此方を見詰める蒼穹のような瞳だった。

 それに、懐かしさを。つい今しがた見た夢……記憶の揺り返しを噛み締めながら。膝枕をしながら覗き込んでくる端整な顔立ちに。

 

 

「おはよう義兄(にい)さん、良く眠れたみたいね」

「ああ……お陰さまで、すこぶる快眠だったよ」

「分かってるわ、一晩中見てたもの」

「……心底ゾッとした」

 

 

 しれっと、そんな事を宣った義妹(元凶)に溜め息混じりで皮肉を。視界の端には、壊れたビニール傘。『灼光(シゲル)』と『茨棘(スリサズ)』、『軍神(テイワズ)』のルーンの刻まれた名残の励起光が残る、残骸が。

 

 

「何よ、折角可愛い義妹(いもうと)がモーニングコールしてあげてるのに。そこは健全な義兄なら、押し倒すくらいのフラグにするべきじゃない」

「可愛くねーよ! 再会した初っ端に我が家の秘伝魔術“贋作魔剣(グラムフェイク)”で“雷虹螺旋(カラドボルグ)”ブちカマしてくるような義妹(いもうと)なんざ、可愛くねーよ!」

 

 

 起き上がり、鼻を触り……治してくれたのだろう、痛みどころか傷すらないそこを確かめて。同時に、左肘も完全どころか以前よりも具合が良くなっている事を実際に感じて。

 

 

「まぁ、兎に角おはようだ……弓弦(ユミル)

「……うん、おはよう。義兄(にい)さん」

 

 

 義父(ちちおや)の躾の通りに────()()()()()()()()()()()()()のだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、午前七時半。欠伸を噛み殺し、床上で寝た為に凝った全身を解しながら歩く人影が階段を上る。

 共同浴室での朝風呂を終えて、自宅で愛用している甚兵衛に着替えた嚆矢は自室の扉を潜る。まだ一日は始まったばかりだと言うのに、心底疲れきった顔で。

 

 

「お帰り、義兄さん。はい、朝御飯」

「あぁ……やっぱり()()か…………」

 

 

 エプロン姿の弓弦の目の前、卓袱台の上に置かれている二つの皿。其処になみなみと装われている、燕麦粥(オートミール)に向けて盛大に溜め息を溢した。

 

 

「何よ、豊穣神(ダグザ)が愛した聖餐に向けて。失礼だわ、精力が付くように黒山羊の乳と私の愛がたっぷり籠ってるのに」

「そういうのが朝から重いってんだよ……まぁ、食うけどさ」

 

 

 それにジト目と、臆面もない言葉が返る。更にげんなりと疲れが増した表情で、嚆矢は彼女の対面に腰を下ろして。

 

 

「「いただきます」」

 

 

 躾の通りに手を合わせ、揃ってそう口にして。スプーンを手にして、温かい粥を掬うと。

 

 

「はい、あーん」

「せんでいいしやらんぞ」

「……義兄さんのいけず」

 

 

 お約束をバッサリと斬り捨てて、コーンフレークをホットミルクで溶かしたような食感の粥を流し込む。余り美味くはないが、腹持ちの良さは大したもの。この一杯で、昼までは十分。

 ちら、と視線を台所に。見遣るのはコンロの上の、小型の土鍋。『豊穣(イングズ)』は読み取れたが、それ以外は解らない。即ち、彼女自ら開発したルーンなのだろう。

 

 

 無論、その程度で多寡が土鍋が“ケルト神話の四至宝”の一つになど罷り間違っても成りようもない。()()()()()、余人には決して真似できないその手間で“贋作魔剣(グラムフェイク)”は贋作足り得るのだ。

 十一世紀から英国はウェールズ地方に伝わる、かの“幼な物語(マビノギオン)”に吟われる『死者を甦らせる大釜』に。

 

 

「で、いつまで居るんだ?」

「三十一日の夜……って言いたいけど、私も受験生だから二十日が限度ね。九月には推薦入試があるし」

「へぇ、何処だ?」

「安心して、霧ヶ丘女学院だから。本当は義兄さんと同じところにしたかったんだけど……」

 

 

──『霧ヶ丘女学院』。第十八学区に在る、『長点上機学園』と並ぶエリートの学園だ。

 まぁ、俺としちゃあ長点上機じゃなきゃ何処だろうとオーケーだ。

 

 

 そんな風に、ほっとして。だから、つい要らない事を。

 

 

「そりゃ安心だ、多少遠いけど怪我人が減るからな。お前を軟派してブッ飛ばされる男が居ない分、後は()()()()()()()()でもない限りはさ」

 

 

 刹那、大気が凍る。言下に怒気を孕ませて、明確に地雷を踏んだ事を告げるように。

 

 

「ふぅん……そらどういう意味ったい、義兄さん? そん言い方やと、私が他の男になんされても良かし、女ば好きやち思っとぉと?」

「…………落ち着け、ンな訳ねェだろ。一先ず、その先割れスプーンにルーンを励起さすのは止めろ」

 

 

 普段は封印している義父譲りの博多弁が漏れ出したのが、その明白な証拠。心底、怒っている証で。

 

 

「お前はほら……男女問わず人気者だろ? そんな義妹(いもうと)を持って、義兄さんも鼻が高いって事だ」

「……なら、いいけど。間違いが一つあるわ」

 

 

 恐らく、今作っているのは投槍(ジャベリン)。ケルト神話では古来より、槍とは投げるものが主流。しかも黄色いそれは、フィオナ騎士団の一番槍たるディルムッド・オディナの“不治の黄槍(ゲイ=ボゥ)”か。喰らえばタダでは済むまい、当たり前だが。

 

 

「“()()じゃなくて?”」

「…………婚約者(フィアンセ)を持って、な………………」

「“そうよ、間違えないで”」

 

 

 滑らせた口を最大級に酷使しつつ。蒼くなって言い訳したそんな嚆矢の言葉に、不満げだった弓弦は漸く怒気を納めて。代わり、嬉しげに頬を染めた。

 

 

「……ってか、そう簡単に“正真源語(ゴドーワード)”を使うな。やられた方は不愉快なんだぞ」

「知らなきゃ気付かないわ、私が()()を使えるって。だから問題なし」

「お前な、そう言う考え方だといつか大怪我するぞ」

 

 

 そしてその代わり、あからさまに不機嫌な表情となったのは嚆矢の方だった。

 

 

──“正真源語(ゴドーワード)”、これが我が家秘伝の魔術の心髄。我が家、(いや)……義母(かあ)さんの呪術士(ドルイド)としての家系が伝えきった、()()()()()()()()()()()の言語。即ち『ニンゲンという動物』の()()()()()()であり、()()()()()()を表す言葉。

 そして今の人間ではもう、発声出来ない言語だ。何でも、喉の造りと呼吸の仕方が違うんだとか何とか……だったらなんで義母さんと義妹は喋れるのかと、怪しいもんだが。

 

 

「心配なら、束縛してくれればいいじゃない。家に押し込んでくれれば、誰にもこんな事出来ないし」

「それじゃ、お前の思う壺じゃねぇかよ」

 

 

 溜め息を溢しながら立ち上がり、空にした皿を流しに。ざっと洗って乾拭きし、棚に戻して。

 口直しに、冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出して。賞味期限が明日に迫っているのを見て、外装を剥がす。

 

 

「ところで義兄さん、これは何?」

「ん────?」

 

 

 そんな呼び掛けに振り向いた彼の鼻先に、突き付けられた『長くて黒い糸』。艶やかな光沢を持つ、それは────

 

 

「待てユミ、誤解だ。それはきっとアレ、管理人さんか友達のだ」

「女でしょ?」

「女だけど、そんな仲じゃないから。あくまでちょろっと来て帰ったから」

 

 

 目の前の義妹の笑顔に、恐怖と諦観からそんな事を言い募る。どれ程の説得力があろうか、膝をガクガクと震わせながらの言葉などに。

 最早、“不治の黄槍(ゲイ=ボゥ)”も止む無しと覚悟を決めて。

 

 

「あら、そう。知らなかったわ、義兄さんに天草式十字凄教(あまくさしきじゅうじせいきょう)の知り合いが居たなんて」

「へっ……天草? なんで?」

 

 

 だから、突然のその言葉に面食らう。

 

 

「何でもなにも、これは天草式の綱糸(ワイヤー)じゃない。昔、従姉妹に見せて貰って以来だけど……左文字(さもんじ)鍛冶の逸品、やっぱり大したものね。父さん(パパ)が唸るだけはあるわ」

 

 

 言うや、弓弦はそれを手首のスナップで振る。光が先ず走り、続いて風を斬る音。そして、ソーセージが真ん中から切り落とされ……それを弓弦が器用に綱糸で搦め捕った。

 それでやっと思い出した、神裂火織の刀の仕掛け。あの令刀に施されていた『七閃』とやらの為の綱糸(ワイヤー)だと。

 

 

──手入れした時に忘れてったな、アイツ……(いや)、掃除してなかった俺も悪いけど。

 つーか、アイツってイギリスの清教徒じゃなかったのか? 『必要悪の教会(ネセサリウス)』だかなんだかの。引き抜きにでもあったのか?

 

 

 等と考えながら、残り半分のソーセージを剥いて齧る。齧って、徐に。

 

 

「……で、今、影の中からソーセージを食おうとしてるコイツと────さっきからニヤニヤしながら陰の中に居る女は何?」

『てけり・り。てけり・り』

呵呵呵呵(かっかっかっか)────なんじゃ、バレておったのか》

「待って、もう少し言い訳を考える時間くれ」

 

 

 ザリガニ釣り宜しく、食い意地だけで飛び出してきた“呪いの時空粘塊(ヨグ=ショゴース)”と、燃え立つ三つの瞳で現状を嘲笑っていた“悪心影(あくしんかげ)”を指差している彼女に、現実逃避するように答えたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 暗く、昏い。そこはとある男の所有する一室、無機質で酷く乾燥した油臭い衣装箪笥(クローゼット)か。真っ暗なその部屋に、一条の光が差し込んだ。即ち、所有者の帰還である。

 

 

「こんにちは、“博士”。例のモノは仕上がっていますか?」

 

 

 扉が閉じ、再び漆黒に包まれた室内。僅かな光も再び失った室内で……先日、公園で海鳥と会話していた麗貌の男性は呟く。耳に当てた、携帯電話に向けて。

 

 

『──誰に物を言うか、小童(ボーイ)めが。全く、幾ら我輩が天才とはいえ、()()()()()()()()()()のである! 既に届けさせているのである! というより、我輩は我輩の研究で忙しいのである! 片手間で出来る事とは言え、控え目に言っても“万能の人(ダ・ヴィンチ)”の再来であるところのこの我輩の研究の遅滞は人類の発展を半日で半年は遅らせる事になるのであるぞ! 大体からして────』

 

 

 対し、携帯から響いた男性の怒声。否、それが“博士”と呼ばれた彼の地声なのだろう。ハウリングするかのように、刃鳴りか雷鳴のように鋭く鮮烈で凛々たる声色で。

 

 

「博士、無駄話をしている暇があるのですか?」

『む、確かにそうであるな……兎も角、()()()()()()()()()は一応は備えたのである! 全く面倒な話だ、()()()()()とやらに対抗したいと言う気概は買うが、その所為でかなりピーキーな性能となってしまったのであるが! しかァし、そこは我輩の超絶的才能により平然とクリアしているのであるからして、つまり我輩は我輩ながら我輩の才気が怖いのである!』

「………………」

 

 

 口では面倒そうに言いながら、声には隠しようのない歓喜を孕みつつ。まるで、『己の技がどこまで通じるのか試したい』という、鉄と硝煙の餓狼(ガン・メタル・ハウンド)じみた気配を漂わせて。

 そして聞いている彼も、内心『ウゼェ』という気配を漂わせながら。

 

 

『まぁ、何にしても使い熟せるかは君次第だが────其処については心配はしていないのである! 君はよく我輩の要望に応えているのであるからして、君とは今後も仲好くしていきたいものであるのだよ! ではさらばだ(ハスタラビスタ・ベイビー)、友よ!』

「……『友』、ねぇ…………振るとしたら、ルビは『実験動物』かな?」

 

 

 言いたい事だけを告げて、電話が切られた。それに、麗貌の彼は苦笑いしながら。つまり、『期待に応えられなければ切り捨てる』と暗に示された事に。暗部では当たり前すぎて、別に気にする事でもないが。

 部屋の際奥、そこに飾られているモノの前に立って、感嘆すら溢しながら。

 

 

「まぁ、お互い様ですけどね────木原 痴智(きはら しれとも)博士?」

 

 

 照らし出された、彼の『新しい衣装』を満足そうに眺めたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、午前九時。場所、第七学区風紀委員(ジャッジメント)第177支部。今日も真面目に、定時に出勤してきた飾利は、その人だかりに気付く。

 今日は黒子は休み、都合嚆矢と二人で今日のノルマを熟す事になるのだろうと……ちょっとだけ何かに期待しながら歩いてきていた彼女は、朝礼に使う会議室前の人だかりに気付いた。

 

 

「おはようございます。どうかしたんですか、固法先輩?」

「あ、おはよう初春さん……いえ、ちょっと……ね」

 

 

 気付いて────衝撃の余り、開いた口が塞がらなくなったのだった。

 

 

「お早う皆、今日も一日頑張ろうぜ! ああ、なんて素晴らしい日だ! この日を生きる奇蹟に感謝!」

「「……………………」」

 

 

 普段は撫で付ける程度の亜麻色の髪をピッチリと七三に分けた、一目見て優等生スタイルの男。まるで、どこぞの学園の女王にでも心理を掌握されたかのような目の色のおかしい男が──どろりと濁りきった蜂蜜色の瞳の対馬嚆矢が……全くもって、これっぽっちも似合わない熱血を晒していたのだから。

 

 

「さんたまりあ~、うらうらの~べす。さんただーじんみちびし、うらうらの~べす……あんめいぞ、ぐろぉりあぁす!」

 

 

 しかも上機嫌に、隠れ切支丹(キリシタン)祝詞(オラショ)などを口遊(くちずさ)みながら会議室の清掃に励んでいるのだから性質が悪い。骨髄まで達した呪いでも振り撒いていそうだ。

 

 

「……ヤバい。あれはヤバい。宇宙的な悪意だ、何かもう膝が笑ってきた……悪ふざけだよな、何かの冗談だよな?」

「帰りてぇ、絶対何か悪い事の前触れだろ……マッポーだぜ、播磨外道だぜ……」

 

 

 『巨乳』Tシャツの巨漢とスキンヘッドの二人の戦慄しつつの呟きに同意し、周りの風紀委員達も一様に気味悪がっていて。しかし相手が陣取っているのは朝礼で使わざるを得ない会議室。そこに美偉も溜め息を溢しながら、ずり落ちていた眼鏡を戻しつつ。意を決したように飛び込んだ。

 皆が一斉に、その去就を固唾を飲んで見守る中────

 

 

「……朝礼を、始めます。皆さん席についてください」

 

 

 完全に異様な嚆矢を無視して、無視にに努めながら……そんな風に、当たり前の一日にしようと心を砕いているのが丸分かりで。

 しかし、誰にそれを責められよう。事実、他の誰もが同じように無視を決め込んでいる。あからさまに様子のおかしいその男を、腫れ物を触るように。

 

 

「オーケー! さあ、正義を完遂しよう!」

「「「「……………………」」」」

 

 

 やはり、最後を締め括ったのは……諦めたかのような溜め息であった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 午前十一時、茹だるような日差しは相も変わらず。路地裏を隈無く、マネーカードがないか調べていた嚆矢と飾利は、遂にノルマを終えていた。

 より正確に言えば、『午前中に今日一日のノルマを』達した。無論、休みなど一切無し。一事が万事、全力で。

 

 

「よ~し、よく頑張ったね、飾利ちゃん。さて、それじゃあ……」

「はぁ、はぁ……はふぅ、やっと休憩ですかぁ?」

 

 

 第七学区の公園。先日の夜、最愛とフレンダと共に食屍鬼(グール)どもに襲撃された公園に差し掛かっていた。元々体力に難の有る飾利は既にへとへとだが、対していつも以上に暑苦しいきっちりした学ラン姿のままで清々しそうに。

 熱に浮かされているような胡乱な眼差しのままの嚆矢が、溌剌と口を開く。

 

 

「他の皆の分を分けて貰おう。時間は余ってるからね、有効に使おう!」

「こ、嚆矢先輩……いったいどうしちゃったんですかぁ……先輩らしくないですよ?」

「どうもしてないさ、いつも通りの正義の味方・風紀委員の対馬嚆矢だよ! ただ、目が醒めた気はするね。全部妹達のお陰だよ」

「……こう言うときに白井さんか織田さんが居ればなぁ……はぁ」

 

 

 ニカッ、と爽やかに。常人とは比べるべくもなく鋭い犬歯を光らせて。それに飾利は、諦めたように溜め息だけ溢した。その瞬間────

 

 

「う、嘘だろ……また飲まれちまった……不幸だ……」

「?」

 

 

 少し先の自動販売機、そこで────ツンツン頭を抱えて唸っている男を見付けた。

 

 

「やあ、お困りかな少年!」

「えっ、あ、はぁ……って、あれ? 嚆矢さんか」

「如何にも、嚆矢だ……おお、確か君は上条当麻くんじゃないか」

 

 

 普段なら『なんだ野郎か』で無視するだろうそれに早速、突っ掛けていった嚆矢。

 いきなり声を掛けられて驚き、振り返った彼は……当麻は、それが知り合いだと気付いて肩の力を抜いた。

 

 

「どうした、いい若者がこんな昼日中から情けない声を出して」

「いやあ、それが……」

 

 

 チラリ、と彼が見遣った自動販売機。どうやら、金だけを呑み込まれてしまったらしい。何しろこの自販機、その手の苦情が絶えないのだ。そろそろ修理なり撤去なりしてくれないものかと思うのだが。

 

 

「成る程、じゃあ仕方ない……俺が責任を持って取り戻そう」

「ええっ、アンタが?!」

 

 

 そして、そんな事を口にして。驚いた声を出した当麻。長い付き合いと言うわけでもないが、この男が男に対してそんな事を口にするだなどとは思えなかったからこそ。それこそ、『自己責任だろ』とか言われるのだと考えていたからこそ。

 さっさと自動販売機の前に移動した嚆矢は、精神統一するかのように呼吸を整えて。

 

 

「ハッハッハ、風紀委員として当たり前の事さ。けど、年上に向かって『アンタ』は頂けないな。最低限、礼節くらいは身に付けておくべきだね。もう高校生なんだから」

「あ、はい……なぁ、風紀委員さん。この人……こんな人だっけ?」

「えっと、今日の朝からこの調子で……なんなんでしょうね?」

 

 

 『前は問答無用で拳固だったのに』と、更に疑念を強めた当麻。その嚆矢の隣で申し訳なさそうにしている飾利に語り掛ける。しかし、飾利とて何故こうなっているのかは知らない。だから、苦笑が関の山。

 

 

 知っているとすれば、恐らくは彼の部屋で今も怒気を振り撒いている義妹(いもうと)か。或いは、彼の陰で今も嘲笑している偽妹(いもうと)か。

 または────完全に恐慌を来して、今も影の奥底に逃げ込んでいる呪わしい粘塊くらいか。

 

 

『“ねぇ、義兄(にい)さん。私以外の妹なんて居ないし、要らないわよね? そうよね?”』

()()()()()()()(わらわ)()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?』

『あばばばばばばばば』

 

 

 そうして、這い寄る混沌の一つ“悪心影(あくしんかげ)”……織田市媛と“呪いの時空粘塊(ヨグ=ショゴース)”の紹介を終えた後で。『まぁ、妹のようなものじゃ』と言う市媛の言葉に激怒した弓弦とそれを面白がった市媛に、左右の耳からそれぞれ義妹の“正真源語(ゴドーワード)”と偽妹の“言霊”により『価値観と認識』を蛍光灯のスイッチのように扱われて正気を失った事など、誰が知らん。

 

 

 何にせよ、今この場にはそれを説明する者など居らず。

 

 

「──フンッ!」

 

 

 徐に、釦を押す嚆矢。勿論、点灯してすらいない釦だ。そんなモノを押したところで、何がどうなるのかと当麻と飾利が思った──刹那、ガコンと取り出し口から音が。更には、釣り銭口から硬貨の音。

 

 

「嘘だろ、マジかよ……」

「あ……そっか、嚆矢先輩の能力(スキル)!」

「そう言う事。俺の『確率使い(エンカウンター)』は、誤作動すらプラスになるように操作できるからね。(いや)、正確には()()()()()()()()()()()()にするだけだけど」

「便利だな、羨ましい……俺もこんな右手じゃなくて、そんなのが欲しかったよ……何にしても、ありがとうございます、嚆矢さん。今日はなんだかツイてるな────」

 

 

 ジュースと釣り銭を取り、嚆矢は当麻にそれを差し向ける。当麻は、真摯に礼を口にしながら『右手』でそれを受け取った。受け取った際に、その指先が触れ合って────まるで硝子でも割れるような音が響いた、その刹那。

 

 

「あいつら────俺を廃人にする気かァァァッ!」

「────やっぱり不幸だァァァァァ!?」

 

 

 その『右手』に宿る“幻想殺し(イマジンブレイカー)”により彼を狂わせていた“正真源語(ゴドーワード)”と“言霊”を破戒されて正気に還った嚆矢に、『突小手返(ツキコテガエ)シ』でスッ転ばされたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3.August:『De Vermis Mysteriis』

 

 

 それは何時の事だっただろうか、それは烏賊墨(セピア)色に夢だ。あの暗闇に満ちた『計画』の中、ただ三人……正気を保ち、支え合っていた頃の。

 我が事ながら、馬鹿馬鹿しい。今更、あんな夢に縋ろう等と。()()()()()()()()()()()()と言うのに。

 

 

『大丈夫────ボクが、守るから』

 

 

 だが、それでも。それでも、嗚呼、忘れ得ぬものが一つだけある。誰にどう、何を言われても。

 いつものように折檻を受け、自分達の肩代わりに多めに殴られて。口の端から血を一条流しながら、それでも微笑んだ『彼』。その亜麻色の髪と、蜂蜜色の優しい瞳は……今も、今も忘れ得ずに記憶に残っていて────

 

 

「…………ん……?」

 

 

 邯鄲の夢(ヒュプノス)の彼方から目を開いた其処は、五感全てを蝕む地獄の釜の底だった。

 目を覆いたくなる程の、地平どころか天までも覆い尽くす蝿や蛆に蛭、百足に蜚虫(ゴキブリ)等の生理的嫌悪を催す害虫毒虫。鼻を突く饐えた腐臭に、億千万の蠢く耳障りな粘音。全身の肌と言う肌を這い摺り回る触手じみた感触に拘束され、不快極まる分泌液(甘い腐汁)が口内に流れ込む。命を、尊厳を蝕まれながら。

 

 

「…………はっ」

 

 

 まともな人間なら、すでに数度は正気を喪っていよう。だが、しかし──彼女は違う。凡百の女、或いは男であろうとも泣き叫び、狂乱するであろうこの辺獄(リンボ)であろうが。

 

 

「……下らねェ夢見せてンじゃねェよ、“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”────蛆虫が、数任せとか発想が貧困なんだよ。()()()()()()()()()()()()()()に比べりゃあB級映画みてェなもンだ」

 

 

 それに顔色一つ変えず、何処かで嘲笑っているのだろう自らの魔導書(グリモワール)に向けて呟いた黒夜海鳥には、()()()()()()()()()を生きてきた彼女には全くの無意味で。

 

 

『クク────いいぞ、ウミドリ……貴様はやはり、傑作だ』

 

 

 やはりどこからか嘲笑うように響いた、そんな羽虫の如き不愉快な声を聞いて。

 波が引くように、有象無象の害虫どもが消えていく。残されたのは、氷山の聳える極北の風景。そして、代わりに──背後に感じた、物理的なまでに壮絶な悪寒に彼女は振り返る。

 

 

「っ────」

 

 

 選択を誤った後悔は、直ぐに。目の前、鼻を付き合わせる距離に浮かぶ笑顔の能面(ペルソナ)のように真っ白な笑顔に。ポロポロと血液じみた球体を溢す真っ黒な眼窩と、底知れぬ悪意を湛えた三日月状の口からはおおよそ、邪悪以外に感ずるところはない。

 そして何より、呑んだ息が凍りつきそうな程の冷気だ。魂まで凍えそうなその────

 

 

『あと少しだ、あと少しで君の願いは叶う。さぁ、育んでくれ。君の憎悪を見せてくれ。共に煉獄の底へ行こう────』

 

 

 魂にまで根を張った、悪意の嘲笑そのもので。今も、今も視界の端で此方を見詰める……白い能面の後ろで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に────

 

 

──可哀想、可哀想。少女、生け贄、泊まり樹のない渡り鳥。貴女の願いは叶わない、貴女の想いは届かない。どうぞ、その化け物とでも恋獄の底へでもお行きなさいな。

 

 

 最も聞きたくないと願う、その考えを的確に告げられた…………。

 

 

──さぁ、機械のように冷静に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷厳に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷酷に、チク・タク。チク・タク────飢える(イア)飢える(イア)、喚ぶの! アハハハハハ……!

 

 

 そんな、幻聴を聞いた気がした────…………

 

 

………………

…………

……

 

 

 眩く、目映い。そこはとある男の所有する一室、無機質で酷く乾燥した油臭い手術室(ラボラトリー)か。煌々たるライトに照らされた機械の明滅するその部屋より、光が消えた。即ち、施術の完了である。

 

 

「…………」

 

 

 手術台から起き上がり、簡素な被服を纏う己の姿を改めた海鳥。動くようになった右手を握り、それを見詰める目にも不調がない事を。今度こそ、覚醒の世界に居る事を確かめて。

 

 

「相変わらず良い腕じゃねぇか、痴智(しれとも)

『痴智“博士”であろうが、機械娘(マシンメイデン)! 貴様、我輩を誰だと心得る! 控え目に言って“万能の人(ダ・ヴィンチ)”の──』

「『再来であるところの木原痴智』だろ? 耳蛸だぜ……」

 

 

 その怒号の如き声でいきなりがなられて、五月蝿げに耳を右の小指塞いで。彼女は見遣る、傍らに立つ緑の黒髪を後ろで纏めた長身の男を。病的な痩躯にギラギラと不快な三白眼、しかし不思議と整った印象を与えられる。怜悧にして麗貌、しかし何処か非人間的な違和感を禁じ得ない、新品のスーツの上に着古した白衣を羽織る男性を。

 それは、眼差しか。まるで虚空の彼方から、この世の全てを見下ろしながら嘲笑う北極星(ポラリス)のような。

 

 

『しかし、今日は忙しかったのである! 君に“彼”、纏めて二人分の“調整(チューニング)”を施す事になるとは……我輩は君らの専属医師ではないのである、君らはそこのところを勘違いしているようであるのだよ!』

「あ~あ~、うるせェなァ……良いだろ、あンたの研究のモルモットを買って出てやってンだからよォ」

『そこのところは感謝するのであるが! しかぁし、それとこれとは話が別であるのであるからして!』

 

 

 爆音、或いは衝突音じみた声を厭って。海鳥は一部のみを金色に染めた黒髪を靡かせながら、手術台から床に降り立つ。ぺたりと、裸足の足が冷たいリノリウムに触れた。

 

 

「何にしろ、期待してろよ。依頼通り、()()()()()()()()とやらを手土産にしてやるさ」

『それは楽しみである! 君は我輩の最高傑作の一つでもあるのである、これからも期待しているのであるよ! 生きて帰ってくるのであるぞ、友よ!』

「…………はっ、面白ェ冗談だぜ」

 

 

 『どうせ、研究動物(モルモット)を無駄にしたくないから』だと知っているから、彼のそんな分かり易いまでの言葉に彼女は反吐を吐いて。

 まるで、今まで見ていた夢を振り切るかのように。閉鎖されている筈の室内に吹き荒れた風に、孕む紙の音。間を置かずに、海鳥の右手に携えられていたのは────

 

 

『さて、では行こうか……ウミドリ。次こそ、あの“人狼鬼(ルー・ガルー)”を食らう為に』

「テメェなンぞに言われるまでもねェよ……殺す、今度こそな」

 

 

 悪逆の魔導書(グリモワール)妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”であり、その蠢きのままに彼女は憎しみに瞳を染めながら────

 

 

『………………………………全く、本当に楽しみなのだよ。()()には』

 

 

 あからさまな非科学を目の当たりにしながら、それでも尚、男は腕を組んで笑う。『面白い実験動物(モルモット)め、興味が尽きぬ』と。その悪意に、海鳥は背を向けたまま…………。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四章・Chapter Ⅲ “妖蛆の秘密”=De Vermis Mysteriis
3.August・Night:『Five-Over Melt-Downner』


 

 

 時刻、午後十四時。響くのは水の音。パシャパシャと、明るい室内の洗面台から。身を屈め、顔を洗っていた少女はタオルで水気を拭いながら息を吐いた。

 

 

「大分……見えるようになりましたわね」

 

 

 紫色のパジャマ姿、彼女の特徴の一つであるツインテールではなくストレートのロング。その所為か普段よりも大人びて見える黒子は、鏡に映る()()()()()()自分を見詰めて、目を瞬かせた。

 

 

「……いけませんわね、このままでは」

 

 

 と、慚愧に眉を顰める。思い返した、昨日の失態。飾利のお陰で打尽に出来たから良かったものの、下手をすれば怪我人二名を出しただけで逃亡されていた恐れもあった。

 そうなれば自分も勿論だが、班長を勤める嚆矢が責任を負う事になる。実際、昨日の失態の後始末はそうなった。更に言えば、今まで先達が積み重ねてきた風紀委員の評判を落とす事にもなるのだ。組織に属するとは、社会を形成するとはそう言う事だ。決して、一人では完結しないし洒落では済まない。

 

 

 第一、正義が負けてはならない。正義は必ず勝つ。正義トハ不朽不倒ノ大樹タルベシ……とまでは意気込んではいないが。

 彼女は間違っている事は嫌いだし、不当な事は見過ごせないくらいの、人として当たり前の潔癖と責任感は持ち合わせている。

 

 

「明日は、皆に謝りませんと──はいですの、どちらさまで……」

 

 

 そう、心に決めて。一刻も早い快復の為に休もうとして────自室に響くノックの音に、応えながら扉を開けた。

 

 

「あ、こんにちはです、白井さん」

「どうもこんにちは、黒子ちゃん」

「──って、初春に先輩?! どうしてここに……」

 

 

 開けた扉の先から覗いたのは、同僚二人。即ち飾利と嚆矢の二人であった。

 

 

「と言うか…………まだ活動時間ではありませんの?」

「何言ってんだよ、黒子ちゃん。活動は明日以降も出来るけど、黒子ちゃんの見舞いは今日しか出来ないじゃないか」

「…………貴方は情熱を傾ける方を盛大に間違えてますの」

 

 

 だが、おかしい。それはおかしい。此処は常盤台の学生寮、国会議事堂も吃驚のセキュリティが導入されており、且つ、()()()()が居る。

 あの規律第一の女傑が飾利だけならまだしも、男である嚆矢を通すような事が有る訳もなく。だからと言って、前述の通りに何処からか侵入出来る訳も無し。

 

 

「ああ、簡単簡単。()()()()()さ、機械の誤作動も、巡回に出交すのも────トンネル効果で壁をスルッと通り抜けるのもさ」

「毎度の事ですけれど、呆れてものも言えませんの。貴方の能力(スキル)は本当に異能力(レベル2)ですの? 出来る事が多すぎですわ」

「照れるね、はいコレ。お見舞いのケーキ。大丈夫、冷やした状態で飾利ちゃんが『定温保存(サーマルハンド)』してくれてるから……あ~、にしてもクーラーって最高だよな……」

 

 

 薄着に慌ててショールを羽織り、黒子は呆れたジト目で此方を見遣る。いつも通り、撫で付けた亜麻色の髪と澄んだ蜂蜜色の狼の瞳の男。

 悪びれた様子もなくボタンを全て寛げた学ラン姿で涼む、男子禁制の常盤台の寮に現れた命知らずを。

 

 

「うんうん、そこまで元気なら明日からも問題なさそうだね。明日も今まで通りに炎天下の虱潰し(ロードローラー)作戦だから、しっかり休んどきなよ」

 

 

 その命知らずは、黒子が『昨日の事は省みているが、悪い意味では引き摺っていない』事を確認して、安堵しながら。

 

 

「あら、『マネーカード事案』の方針に変更は無しですのね……少し憂鬱ですの」

「本当ですよぅ、しかも今日は先輩がおかしかったですし」

「いつもの事ではありませんの?」

「ハハハ黒子ちゃんの冗談面白い」

「冗談は言っておりませんの」

 

 

 だから、そんな風に。『話術(アンサズ)』を励起しながら軽薄に、当たり障りのない雑談を交わして。都合、五分も掛かる事はなく。

 

 

「さて、じゃあそろそろかな。あんまり婦女子の部屋に長居するのもあれだし、これにて失礼」

「そう思うなら、そもそも不法侵入しないでくださいましな……まぁ、お見舞いの品はありがとうございますの」

「なんのなんの。安物だから、気にしないで御坂と食ってくれよ」

 

 

 気安くそう口にして、背を向けたその男。無論、そんな訳はない。この学園都市では、こう言った嗜好品には笑えるくらい法外な税金が掛かる。最低でも二人分なら、一般学生の食費の二週間分は難い。

 故に、そこは男としての見栄だ。武士道から『武士は食わねど高楊枝』を地で行く義父(ちちおや)からの教育により、男とはそう言うものと決めているから。

 

 

「俺は俺で、また髪を下ろしたレアな黒子ちゃんを見れた訳だし満足満足。アダルトな黒子ちゃんもやっぱり素敵だなぁ」

「んなっ!?」

 

 

 そしてケルト神話から『英雄とは色を好むもの』を地で行く義母(ははおや)からの教育により、好色さを隠す事もなくニッカリと狼の如く笑いながら。男とは性欲の権化(そう言うもの)と決めているから。

 黒子が呆気に取られ、そしてやがてショールごとその小さな体を抱き、耳まで真っ赤になるのをつぶさに観察して。

 

 

「この────」

「んじゃ、また明日ッ!」

「ふあっ、それじゃあまたです、白井さん!」

 

 

 飾利の肩を抱くように、壁に走り込む。普通なら、壁にぶつかって終わり。しかし『空間移動(テレポート)』能力の黒子にとっては、別におかしな行動とは受けとれず。

 

 

女の敵(ジゴロ)~~~っ!」

 

 

 叫びながら、『空間移動(テレポート)』により嚆矢の顔面に叩き付けられたであろうケーキの箱。しかしそれは嚆矢の能力で擦り抜けつつあった事と、視覚情報が不鮮明な黒子が演算に失敗した為に。壁に消えた男には無意味で、ポトリと壁際に落ちたのみ。

 それに荒い息を吐きながら、黒子はショートケーキとモンブランを手にしたままで。

 

 

「本当に……これですから、あの人はっ……!」

 

 

 もう一度顔を洗うべく、洗面台に向かって。決して鏡を見る事なく、冷水を選んで───

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、午後十七時。風紀委員(ジャッジメント)の活動を終えて、飾利を寮まで送り届けて。僅かに傾き始めた西日を浴びながら第七学区の通りを歩む。

 ぶらぶらと、別に興味もない服屋や家電屋の前で立ち止まり、買う気等は毛頭無いウィンドウショッピングをやってみたりしながら。

 

 

呵呵(かっか)、そこまであの妹御が恐ろしいのかのう」

「………………煩い」

 

 

 嘲り、黒髪を靡かせながらながら陰より顕現した、黒地に紅く彼岸花柄に染め抜いた和服姿の市媛に核心を衝かれ、ぐうの音も出ない。態々(わざわざ)こんな風に、のっけから激怒する男の如く愚図めいているのは、確かにその所為だ。

 今朝のあの怒りようでは、まだ怒っている筈。このままでは部屋に帰り、扉を開けた瞬間にまたもや“雷虹螺旋(カラドボルグ)”、下手をすればケルト神話四至宝の一つ“彗星五連(ブリューナク)”も十分に有り得る。

 

 

 故に、何か。義妹の怒りを鎮める手筈を整えるまでは帰る訳にはいかず。だからと言って、良い案は浮かんでこない。

 そのままぶらぶらと市媛と流し歩き、気付けば完全下校時刻はとっくに過ぎていて。

 

 

 逢魔が刻の紅い日射しにそろそろ学生服は目立つ事に思い至り、ショゴスの内に……と言うか、ショゴスの纏う甲冑の鎧櫃の中に納めてある『Mr.ジャーヴィス』用のスーツへと────風力発電塔の影をすり抜ける一瞬に、影に融けたショゴスにより着替える。

 亜麻色の髪をオールバックに撫で付けつつ取り出した煙草──ステイルから貰ったイギリスの、某国が親善大使代わりに輸出している植物食のツートンカラー熊と同じ名前の煙草を銜え、火を点す。

 

 

「アイツが喜ぶもんか……どうしたもんかねぇ」

「まぁ、時間ならばまだあろうて。犬も歩けば棒に当たる、とな」

「…………それ、悪い事があるって意味じゃなかったか?」

 

 

 呵呵と嘲笑いながら左腕を抱き抱えた市媛に好きにさせたまま、呆れ顔で紫煙を燻らせる。歩調が合わさり、コツ、コツと革靴と三枚歯下駄の足音が重なる。

 全身の血管を巡るニコチンの熱さを心地好く感じながら、どうしたものかと思案していると……時折、視線が集中するのを感じる。

 

 

 不快に思って辺りを見れば、男どもが揃って顔を背ける。それで、成る程と得心した。

 

 

「美しすぎると言うのも罪よのう、呵呵呵呵(かっかっかっか)

 

 

 次いで衆目を浴びてご満悦な様子の市媛が笑い、気取った様子で右手で髪を梳いた。幾らか携帯のシャッター音が聞こえたのは、この際放っておく。

 

 

「ホントにな、条例違反で通報される前に帰らねぇと」

「ふむ……よく分からんが馬鹿にされたのは判ったぞ。そこに直れ、嚆矢。(わらわ)が手ずから斬首してくれる」

「勘弁、こんな町中で長谷部振り回そうモンなら一発で逮捕だ。安土桃山時代とは違うんだよ」

 

 

 衆目を避けて、路地裏に入る。多少治安は悪くなるだろう、どちらかと言うと、コイツらが立ち入った所為で。

 

 

「あら、好久不见(お久し振りですね)

「え────あ、どうも……」

 

 

 しかしそのお陰で、漸く元々の目的の解決策を思い出した。目の前には以前黒子への贈り物をする為に利用した、『舶来雑貨 縷々家』との看板を掲げた雑貨屋。そしてその主たる、匂い立つように美しいチャイナドレスに黒い扇の娘が。

 

 

「今日はあの娘達じゃないんですね……ふふ、罪作りなお人」

「いやいや、あの娘らはただの後輩ですから」

「そうですか。ところで今日は、何か御入り用で?」

 

 

 しっとりと濡れたような、やはり口から出ているとは思えない声で問い掛ける彼女……確か、海 藍玉(ハイ ランユゥ )と名乗ったその女性。その姿に、()()()()()()()()()を思い出して。

 

 

「いえ……何か買うか、お市?」

「いや……要らぬ。()()()()()()()に興味はない、さっさと()ぬるぞ」

 

 

 と、忘れない内に傍らの娘に問うた。しかし、いつもならそんな『新しい事』に進んで突っ込んでいく筈の彼女が、そんな事を宣う。

 多少、疑念を感じはした。しかし、市媛の“言霊”には逆らいようもない。

 

 

「っと、済みません、藍玉さん。また今度、今度は妹でも連れてきます」

「ふふ、お気になさらず……では、再見(また)

 

 

 そんな冷やかし以下の無礼すらも気にした様子はなく、女店主はにこやかに笑って。

 

 

「────再見(またね)、“悪心影(シャドウジェネラル)”?」

「応、またのう────“黒扇膨女(ぶろーてっど=うーまん)”」

 

 

 気を逸らした嚆矢の気付かない一瞬、宇宙すら震撼させるほどの悪意と混沌を振り撒いた二人は、互いに嘲り合って。

 気付かないまま、歩く数区画。やがて斜陽は藍色に。藍色から、暗闇へと移り変わる。その暗闇に紛れるように、嚆矢と市媛は自室を目指して路地裏を進む。

 

 

 あれ以来何一つ口にせず、黙りこくる娘を左腕に引っ付けたまま。三本目の煙草を踏み躙った、その直後。

 

 

「…………喝采せよ、喝采せよ。嗚呼、素晴らしきかな。黄金の生け贄は死なず、未だ学園都市にある…………か」

「なんだよ、いきなり……」

「いや……ただ、そなたの在りように今更ながら、憐れみを覚えただけじゃて」

 

 

 無言を貫いていた筈が突如、沈んだ様子でそんな事を宣う。正しく、意味不明。その彼女に、改めて意義を問おうとした────その刹那、ほとんど叫ぶ勢いで抱き付いてきた彼女。それに、逆らわず。

 

 

「────敵、三十五度上方(さるとりのかみ)! 来るぞ!」

「っ────────!!!!」

 

 

 振るわれた『爪』を、辛うじて躱す。アスファルトを穿った、三本の爪痕を。

 転がり、市媛を抱きすくめて。それを成した、一条の『影』を見据えて。

 

 

「“人間五十年……下天の内を競ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり”」

 

 

 間を置かずに腰元に現れた、日本刀“圧し斬り長谷部(はせべ)”と刃金の螻蛄(ショゴス)。その刃を引き抜きながら誓句を唱えれば、砕け散るように螻蛄状態のショゴスが分解した装甲を乱舞させる。

 黒い刃金と黒い影、その二つが入り乱れた嵐の中。嚆矢は、誓句を唱える。

 

 

「“一度(ひとたび)(しょう)を得て”……」

 

 

 無論、構えたのは嚆矢だけではない。背後より強襲を掛けた『影』は、既に再度の攻撃準備を終えており────

 

 

《────“滅せぬものの、在るべきか”!》

 

 

 誓句と爪の一撃は、全く同時に。深々と彼の居た空間を穿った爪は、悠々と暗がりの虚空に帰り────勝者の凱旋の如く、空を巡る……

 

 

《舐められたもんだぜ……この程度でよォ!》

《─────!?》

 

 

 背後からの金打声に、その意識を下方に。そこに映る、日本刀を携えて背中の二基の合当理(がったり)により空中を疾駆する人形の機影を見て────

 

 

《この────蜻蛉(トンボ)野郎がァァァッ!!》

『…………クク、素晴らしい。素晴らしいではないか、大和武士(サムライトルーパー)!!』

 

 

 人間大の鬼蜻蜒(オニヤンマ)は、実に楽しげにそれを迎えたのだった────

 

 

………………

…………

……

 

 

 濃藍色に染まりゆく虚空(ソラ)を、二つの漆黒が天翔(かけ)る。双発の合当理(がったり)から爆音を撒き母衣(つばさ)で風を斬りながらも、通常の科学技術による探知ならば受け付けぬ“悪心影(あくしんかげ)”の神鉄による装甲(はがね)。人は時ならぬ雷鳴に首を傾げ、些かの間、非日常の出来事として記憶に残すのみであろう。

 対し、四枚の透翅(はね)を複雑かつ繊細に振るわせながら、無音のままに夜空を滑る鬼蜻蜒(オニヤンマ)。曲面のみで構成された、空力特性と隠蔽性能の極致。加えてステルス塗料を塗布されている科学の結晶の鋼鉄(メタル)、人はその存在に気付く事すら出来まい。

 

 

 実際に、その姿は夜闇に紛れるようにあやふやで……余り離れてしまうと、捕捉(ロック)が外れてしまう。さながら幽鬼のような、曖昧な姿。

 それに敵意を向けても誓約(ゲッシュ)が働かないからには、相手は男かはたまたそれ以外なのだろう。その点はついていると言うべきか。

 

 

《ちっ────嚆矢、ぼさっとするでない! 六十度上方(とらのかみ)じゃ!》

「クッ……!?」

 

 

 見失ったその隙に旋回した敵機は、既に攻撃体制。片側三本の、鋭利な刃渡り四十センチを越えるククリナイフじみた爪を備えるアームを振るう。

 

 

《──右肩部装甲板に被撃。損傷は軽微、僅かに削られた程度じゃ!》

 

 

 反撃を捨てて、辛うじて右肩の装甲で受けて凌ぐ。首筋を狙っていた刃は届かなかったが、勢いの乗った衝撃は肩から背中に突き抜けた。一瞬、気が遠退く位には。

 

 

(ッ……速度は奴の方が上か。こりゃあ、逃げるのは至難だな)

 

 

 頭を振り、意識を保つ。只でさえ空中戦など初めての経験だと言うのに、相手の土俵で戦っても埒は開かない。その合間にも、敵機は遥かに遠ざかり……それでもその複眼(メインカメラ)の視界はほぼ全天周、此方の一挙手一投足を捉えて離さない。

 

 

《確かに加速性能(あしまわり)では負けておるが……下の楼閣の隙間でも縫えばいけようて。この“悪心影(あくしんかげ)”の旋回性能(こしまわり)を舐めるでない、童貞が!》

「上等、艶声で哭かしてやるよ────鬼さん此方ァ!」

 

 

 だから、追わずに()()()()事にした。そもそも彼方(あちら)から襲い掛かってきたのだ、こうして尻を向ければ息を急ききって飛び込んでくるだろう事は明白。

 一気に近づく地上の建造物群、その隙間に潜り込む。最高速度に至った事で、纏わり付くような風を引き剥がしながら。母衣を使い損ねれば激突、致命的な隙となろう。

 

 

《ふん、釣れよったわ……背後に着けてきておるぞ》

「……………………!」

 

 

 聞こえる市媛の声にも、答えを返す余裕はない。ビルだけでなく標識や風力発電塔、その隙間を潜り抜けるには一瞬足りとも気は抜けない。

 今も、回る風車の羽を掻い潜って急上昇────

 

 

《来るぞ────敵機、背面!》

「調子くれてンじゃ────ねェェェッ!」

 

 

 長谷部の特徴である高自由度(フレキシブル)な合当理を前面に向け、一気に反転する。更には六枚二対、計十二枚の偏向板を巧みに操作して急制動を掛ける。一刀流で“金翅鳥王剣(キンシチョウオウケン)”として伝わる技だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その威勢を乗せて、爪を振るうべく背後に迫り────邪魔となる風車の羽を斬り落とした鋭爪に向けて、長谷部を振り抜く!

 

 

《胸部装甲板に被撃、損傷軽微────外したか》

 

 

 向かい合って走り抜けた二条の銀閃、その片方は南蛮胴(プレートメイル)に覆われた胸に傷跡を。

 驚くほどに巧みな透翅(はね)使いで長谷部を掻い潜って一撃をくれたもう片方は、既に遥か先へと天翔り去っており────

 

 

(いや)────()()()()()()()

 

 

 二本の傷跡を刻まれた武士は、急制動(インメルマンターン)による激甚な重力に、寸暇霞んだ意識を手繰り寄せつつ。ほくそ笑みながら、()()()()()()()()()を見遣る。

 加速性能と運動性能は彼方(あちら)が上、だが攻撃力と防御力では此方(こちら)が上。詰まり、()()()()()()()()()()()()という分かり易い構図だ。

 

 

《戯け、外しておるわ。()()()()()()()()()()()()()()()()()!》

「無茶言ってンな、この野郎! こちとら介者兵法は週に一回くらいしかやってこなかったし、そもそも()()()()()()()()()なんて専門外だっての!」

 

 

 だからこその相棒の叱咤に、武士は全身を覆う刃金を軋ませながら肩を竦めて。踏ん張りの効かない空中での、“合撃(ガッシ)”の失敗を反芻して。

 

 

「────まァ、コツは掴んだから()()()()()()()()()()()。黙って見てろよ、姫御前(おやかた)様?」

《口ばかりでなければよいがのう、呵呵呵呵(かっかっかっか)!》

 

 

 悪意と殺気に満ち溢れた三つの赫瞳、燃え上がらせて。彼方に去った鬼蜻蜒を見定めるべく、全身の装甲の隙間からショゴスの血眼を無数に覗かせて────!

 

 

………………

…………

……

 

 

 衝撃は、決して少なくはない。まさか、あの形状であんな動きをして来るとは────

 

 

『被害報告……右一番サブアームを欠損(ロスト)。ダメージコントロール、重心バランス修正完了。戦闘続行に支障なし』

「……………………」

 

 

 管制AIの無感情な報告に、些か甘く見過ぎていたかと切り落とされた右のサブアームの付け根を『彼』は見詰める。その先に、またも背を向けた敵機。

 追うしかない、でなければ逃げられる。己から襲撃した以上、狩り獲る事こそが勝利であるのだから。これで逃すなど、有り得ざる失態。

 

 

敵機(ボギーワン)二百七十度下方(エイト・オクロック・ロー)────』

 

 

 間を置かず、機首を敵機に。間を置かず、最高速度(トップスピード)に乗りながらその首筋に向けて振るう、戦車の装甲ですらも斬り裂く高周波振動刃(ヴァイブロブレード)

 

 

「─────ッ!」

 

 

 そして再び、返しの刃が迫る。先程よりも更に正確に、今度は此方の首筋に寒気が走る程に。『∞』を描いて交差した二機は、片方は威勢に乗り上に。片方は威勢を削がれて下に。

 

 

『被害報告……左サブアーム一番二番、三番のクローを欠損(ロスト)。ダメージコントロール、重心バランス修正完了。戦闘続行に支障なし……しかし、()()()()()()()()()()()()()

 

 

 今度は、あの鎧武者の装甲には傷すら入れられていない。機動性では此方が上だが、戦闘力は彼方が上。()()()()()()()()()()()()()、あまりにも分かり易い構図だ。

 加えて今も、着々と空戦に対応してきている敵機。覆しようもない事実だ。恐らくは、次。次の一合で己は撃墜されるだろう。

 

 

 ()()()()()()()()

 

 

 だから、男は口許を歪ませた。

 

 

「…………“死を思え(メメント・モリ)”」

 

 

 ただ、嘲笑の為だけに────薄緑色の複眼、悍ましく煌めかせて……

 

 

………………

…………

……

 

 

 三度目の交差、二度目の反撃。先程、右の腕を飛ばした時以上の手応えに達成感。

 

 

《よし────斬り抜けた! 戦果、敵機の左腕三本じゃ! ようやった、嚆矢。後で金平糖をやろう》

『てけり・り! てけり・り!』

 

 

 快哉の言葉は高らかに、二重に響く。片方は無傷で敵に損傷を与えた事を、もう片方は斬り落とした敵の残骸を貪り喰った事に。

 悪辣なる二柱が、嘲笑う混沌と究極の虚空が。マトモな人間ならば、吐き気を催そう。マトモでない人間ならば、その有り様に感心したか。

 

 

 ならば────

 

 

(トド)め、だ」

 

 

 無関心に受け流したこの男は、恐らく人間ではあるまい。きっと人の姿をした幼い狼であるとか────或いは、黄金色の幼い獣であるとか。

 何であれ、現状は変わらない。ただ、苛烈な命の営みが。生きる為に対敵を食らうという、至極有り触れた異常(じょうしき)だけが、其処に在って。

 

 

「──────ッ!」

 

 

 四度目の『∞』を描く双輪懸(ふたわが)かり。全速力を持ち、今度こそと鬼蜻蜒の息の根を狙う漆黒の刃金“圧し斬り長谷部”。

 対し、先程までの威勢を失って滑空するだけの鬼蜻蜒。薄緑色の複眼を、ただ此方に向けているだけで────最早、勝利は揺るぎなく。

 

 

 

 

 

────本当に?

 

 

 

 

 

「ッ!」

 

 

 刹那、鎌首をもたげた違和感。おかしい、有り得ないと。『この程度で諦めるような輩が、そもそも襲撃など仕掛けてくるものか?』と。

 その焦燥、一度火が点いた疑心は瞬く間に版図を広げる。まるで燎原の火のように、砂に染む水のように。

 

 

 遮二無二、その『複眼』の視線から逃れた。選んだのは下方、蜻蛉の視界の僅かな死角となる場所を。

 しかし、遅い。もしもこの鬼蜻蜒が最高速度であれば、それは成し得ただろう。だから、滑空するだけの鬼蜻蜒の複眼は、逃れきれなかった獲物をまだ見詰めていて。

 

 

 その、刹那────

 

 

『…………“死を思え(メメント・モリ)”』

「《──────ッっ!?」》

 

 

 嘲笑じみた、何処からとも知れぬ金打声(メタルエコー)に戦慄を。そして複眼から、浮かび上がるように現れた『薄緑色の光の塊』が────

 

 

『声紋承認──“Five-Over(ファイブオーバー) Meltdownner(メルトダウナー)”起動』

 

 

 複眼の視線をなぞるように虚空を切り裂いて、光条は過たず正確に鎧武者を捉えた────!

 

 

………………

…………

……

 

 

──落ちる。墜ちていく。真っ逆さまに、上から下へ。即ち、下から上へと真っ逆さまに。

 

 

 墜ちているのか、それとも上り詰めているのか。昇り詰めているから、堕ちきっていくのか。

 分からない、解らない。空っぽ頭(エアヘッド)案山子(かかし)には考える脳味噌がない。臆病者(チキン)獅子(ライオン)には、真実を知る勇気がない。鉄葉(ブリキ)(きこり)には、その意味を知る心がない。だから、無意味だ。

 

 

 またか、と思う。周囲を覆う黄金の渦、螺旋を描くモノの正体に気付いたところで。見た目が変わったところで、ここはあの無窮の世界。宇宙の外から嘲笑う神々に、最も近い空間。

 

 

 今の彼には、()()()()()()()

 

 

──ああ、聞こえる。耳障りな音が。チク・タク。チク・タク。チク・タク。時間だと、嘲笑うように告げている。断罪の時だと、無関心に告げている。

 今も、今も。遥か最果てから。無限光の満つ真上から、虚無闇に沈む真下から。即ち、無限光に沈む真下から、虚無闇の満つ真上から?

 

 

 その姿は、まるで。彼は知るまいが、“彼”は知っている。薄く黄金に煌めく滴を湛えた、ビーカーの中に浮かぶ“(ビースト)”────

 

 

──そうだ、そうだ。巫山戯やがって、あの駆動鎧……殺す、殺してやる。喩えあれが俺がやって来た事に対する罰だとしても、知った事か!

 あの小癪な鎧から引きずり出して、末端の関節から刻んで。腸を引きずり出して食わせて、何処まで小さくなるか弄んでやる────!

 

 

 “()()()(Beast)”そのものの思考回路で。かつて“正体非在の怪物(ザーバウォッカ)”と呼ばれた時代の、悪逆無道の極まった魂で。

 

 

────可哀想、可哀想。

 

 

 そんな視界の端に浮かび上がるように、黄金の螺旋の影に立つ────咽び泣くかのように口許を両手で押さえながら肩を揺らして、嘲笑するエプロンドレスの()()が、其処に。

 

 

────可哀想な黒い子猫、人狼に付けられた古傷には蛆が湧いて、食い尽くされるまでもう後少し……残るのは外側だけ。“蝿の王(ベルゼビュート)”を産み出す為の、ぶよぶよの蛹になるの。

 貴方の所為で、貴方の行為で。貴方の願いで、貴方の祈りで。また人が死ぬの、また、また。今もほら、今、今!

 

 

 だから人は聞く。聞いてしまう。己の最も知りたくない事を。言われたくない事実を。

 

 

────さあ、機械のように冷静に。機械のように冷厳に。機械のように冷酷に。チク・タク。チク・タク。飢える(イア)飢える(イア)、喚ぶの! アハハハハ……!

 

 

 明確な言葉として発されないからこそ、その瞳に充溢する悪意と嘲笑を浴びて。自らの心で、聞いてしまうのだ────

 

 

──嗚呼…………そうか、そうだった。俺は……女の子を守る誓いを立てた“赤枝の騎士(レッド・ブランチ)”だった。

 そうだ、()()と誓った。こんな場所で死ぬ訳にはいかない……喩え()()が、過去の俺に対する罰でも────()()()()、守ると決めたんだ!

 

 

 だから、()()()()()()()()()彼は、はたと思い出す。己は“獣”ではなく、“人”であった事を。

 かつては()()であった事には間違いはないが、八年前に()()してくれた恩人が居た事を。

 

 

 だから、戻らねば。気を失している暇など無い。急ぎ、覚醒の世に戻るべく意識を強く。強く強く、『目覚めろ』と念じて。

 右手を伸ばす。真下の無限光にではなく、真上の虚無闇に。即ち、真上の無限光にではなく、真下の虚無闇へ。其処にこそ、彼が求める“力”があると知っているから。

 

 

────…………詰まらない、貴方は詰まらないわ。駄目ね、それじゃ駄目。あの御方には届かない。

 

 

 途端に、落胆したような意識が流れ込む。視界の端に映る女が、心底から詰まらなそうに眉根を寄せていていて。

 

 

(そいつは手厳しい。ところで、名前くらいは教えて貰えるのかい?)

 

 

 嘲りを消して今度こそ嘆いた女に次いで、嘆きを消した男の嘲りに。『詰まらない』、と。間違いなく、本心から────娘は、嗚咽するように肩を揺らして振り返り……歩き出す。

 刹那、『時間』が進み出す。無限の現在(イマ)が終わる。時間の回廊が崩壊する。動き、軋み、崩壊する封鎖宇宙。こちらを覗いていた、『青く煌めく斑紋』のような闇色と共に消えていく。

 

 

────……マーテル三姉妹が次妹“ススピリオルム”よ、白痴と暗愚の生け贄さん────にゃる・しゅたん、にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅめっしゅ、にゃる・しゅめっしゅ!

 

 

 『ススピリオルム』と名乗った女が、時間の波間に消える瞬間に思考した祝詞。或いは呪詛。それに、魂が震える。余りの神々しさに、余りの禍々しさに。

 若しくは、己だけではなく────どこか、違う次元から覗いていた『魔王』と『副王』すらもが。

 

 

《『────嚆矢(てけり・り)!》』

 

 

 同時に頭上から、即ち足下から、()()()()()()()()()()()────……

 

 

………………

…………

……

 

 

「────ッ!? かッ、ハ─────────!??」

 

 

 刹那、“悪心影(いちひめ)”と“大鎧(ショゴス)”の呼び声により、快美の失神(ゆめ)へと逃避していた魂が、痛苦の覚醒(げんじつ)回帰(りゅうしゅつ)する。

 正に、痛みそのもの。左肩から先に走る、神経を直接金束子(カナダワシ)で擦るかのような、焼け付く痛みによって。取り戻した正気が狂いそうな程に苛まれ、喰い縛る歯は砕けそうに。握り締める刃は不撓不屈の“神魔覆滅(バランスブレイカー)”、その強靭を拠り所に合当理を吹かして姿勢を立て直すべく母衣を使う。

 

 

「ッ……状況報告!」

《左肩部装甲板に被弾────辛うじて『空間転移(ディメンション)反転(ネガ)』を展開したが……肩ごと()()()()()()()!》

 

 

 言われて、成る程と。落下しながら、上空に立ち上る血煙を見る。焼けた蛋白質特有の鼻を突く異臭に、指先に至るまでピクリとも動かせない左腕。

 何の事はない、()()()()()()()()()()

 

 

「チ────ショゴス!」

『てけり・り! てけり・り!』

 

 

 命じるよりも早く、ショゴスは喪失した左腕の修復を始めている。この痛み、腕全体が焼けたような苦痛は、神経の誤作動による幻肢痛(ファントムペイン)に過ぎない。

 しかし、一瞬とはいえ失った血液は莫大。そしてこの大鎧を駆動させる為に必要不可欠な『魔力』とは、即ち『生命力』……術者の命である。

 

 

《おまけに、先の一撃で左の母衣も砕かれておる……墜ちるぞ》

「クソッタレが……一撃で逆転されたか……流石『原子崩し(メルトダウナー)』だ、紛い物とは言え“超能力(レベル5)”だな……」

《……では、あの中身はお沈だと言う事か?》

 

 

 では、その命を消耗した状態で。且つ、本来ならば能力開発を受けている学園都市の学生が。能力との兼ね合いで、辛うじて反動を抑え込んでいたような出来損ないの魔術師程度が、現代科学の極致たる存在に。

 

 

(いや)──あれは、機械で再現した能力。学園都市の目標は、科学による超能力の再現……その一端、だろうな」

 

 

 電気に関する事象を操る第三位『超電磁砲(レールガン)』と第四位『原子崩し(メルトダウナー)』、完全催眠の第五位の能力は科学的な解明がなされていると聞く。

 絶対防御の第一位、未知の粒子を産み出すという第二位『未元物質(ダークマター)』、そもそも訳が分からない第七位に──()()()()()()()()()()()()よりは、科学的なアプローチが易いのだろう。

 

 

《成る程のう……しかし、あのすばしこさにこの破壊力。厄介な話じゃて────》

 

 

 『全くだ』と苦笑する。先程まで見えていた勝ち目は、嵐の海の潮目の如く見失ってしまった。そればかりか完全に軍配は……その目の前、その遥かな────

 

 

《敵直上(いのかみ)、落下攻勢!》

「ハッ、地上まで生かしとく心算(つもり)はねェらしィな!」

 

 

 虚空の頂にて、薄緑色の光……『粒子でも波形でもない曖昧なままの電子である“粒機波形高速砲”』、即ち『原子崩し(メルトダウナー)』を滞空しながら増幅させている鬼蜻蜒に上がっているも同然で。

 落着を減速して凌ぐ、その選択肢は今消えた。片方の母衣も砕けており、急制動は不可。では後、出来る事は何か?

 

 

《高熱源体発生────!》

「クッ────!」

 

 

 次は、右肩を構える。だが、無駄だと言う事は明々白々。最も強固な胸部装甲に比肩する堅牢さを誇る肩部装甲板が、防御機構を展開した状態でも一撃で砕かれた威力だ。次に受ければ、先ず命は無い。

 ならば、やる事はただ一つだけ。背中泳ぎのように地表に向けて落下しながら、長谷部国重を鞘に戻して片腕で構える。即ち、片手での居合の構え。

 

 

《嚆矢───》

 

 

 そう、ただ────全力を尽くすのみ。育ての両親にまだ恩を返せていない内に、黙って死ぬ心算(つもり)は毛頭ない。

 左腕の喪失を癒すのはショゴス、ならば残る“時空の神(ヨグ=ソトース)”の力は余っている。

 

 

 それだけでも十分だ。今見せよう、死と隣り合わせの魔刃の舞いを!

 

 

「上等────先輩か同輩か後輩かは知らねェが、“廻天之力の怪物(サイクロトロン・ザーバウォッカ)”を舐めてンじゃねェ……!」

 

 

 待ち受ける。ショゴスは全力を喪失した左腕の補填に当てている最中、その目の恩恵は受けられない。

 

 

《ならば、(わらわ)天眼(せんさー)の出番じゃのう》

 

 

 刹那、視界が広がるような感覚。それは額の三つ目の瞳の視界だ、“悪心影(あくしんかげ)”の天眼(センサー)の視界だ。音紋(ソナー)熱源(サーマル)磁界(レーダー)を兼ね備えた混沌の瞳。加えて、僅かな未来位置予測(ホークアイ)まで。正直なところ、見え過ぎてしまって脳への不可が半端ではない。

 第一、見えるから躱せる訳でもなかろう。結局は思考に付いてこれるだけ、身体を鍛えているかどうか。それが全て。

 

 

(ショゴスと比べりゃ多少数に不安はあるが……無いよりゃマシか)

 

 

 だが、有り難い話だ。これでまた、少し勝機を取り戻す。無論、九対一で負けているのだが。

 

 

《────来るぞ!》

「────来いッ!」

 

 

 視界は共有している、ならば判断も同時。敵の『原子崩し(メルトダウナー)』が臨界を迎え、放たれる。

 宵闇に包まれた虚空が光り、裁きの雷霆が降る。あれこそは古来より神の怒りと恐れられた、その神威。その似姿。

 

 

 ならば、罪に塗れたこの身は。物心の付く前から血脂に塗れていたこの魂は、きっとここで裁かれて燃え尽きるのだろう。

 

 

「─────ッ!」

 

 

 天上より降り落ちる薄緑色の閃光、それに対応して────脇差し、宗易正宗(そうえきまさむね)を投擲する。

 『位相加速(ディストーション)正転(ポジ)』による空間的な加速により、光すら越えた速度で。反動により左肩の傷から血を撒き、静謐の夜空を穢しながら

 

 

『────何?!』

 

 

 致命の雷霆の()()()()()、乾坤一擲の銀光が擦れ違う。

 

 

 刹那、鬼蜻蜒の『彼』は瞠目しただろうか。その一撃は『原子崩し(メルトダウナー)』を狙ったものではなく、()()()()()()()である事に。

 そして────余りにも予想通りの行動に、僅かに機体を傾けただけで回避できた事に。

 

 

 同時にそれは────()()()()()()()()()()という事に他ならない。

 最早、侍には防御はおろか、腕を引き戻す時間すらも残されてはいない。ただ、雷霆に無防備な胸部装甲を撃ち抜かれるのみであり────

 

 

「構わねェ、()()()退()!」

(おう)(とも)よ────『位相加速(ディストーション)反転(ネガ)』!!》

 

 

 光に迫る速度で、右腕のみ()()()()()()()()退()()()。驚いたのは、回避ではなく時間稼ぎの為にそれが使われた事。

 

 

 何故か? 単純な話だ。勝負の場において、我が命可愛さにリスクを捨てるような者へと、()()()()()()()()()()()

 事実、鬼蜻蜒は────『原子崩し(メルトダウナー)』の第二射を、()()()()()()()()()()から放とうとしている直前であり。

 

 

裏柳生新影流兵法(ウラヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)傀儡(クグツ)”が崩し……」

 

 

 ()()()()()()()()()を握り締めた侍には、どうしようもない絶望──の、()()()()止まって見えた。

 

 

多層相転移砲(トランスフェイズガン)────“狐鬼灯(ホオズキ)”!」

 

 

 驚きにより狙いを甘くしたか、至近を掠める雷霆に甲鉄を灼かれながら振り抜かれた正宗の刃は()()()()───代わりに空間を引き裂きながら、()()()()()()()()()()()()()()()が鬼蜻蜒の尾節を切断した。

 更に二撃目で透翅(はね)を二枚。止めに首級(しるし)を狙った三撃目を、何とか複眼を抉られただけで回避して。

 

 

『ッ……バカな!』

「あり得ない、か? でもまあ、現実なんてそんなもんだ」

 

 

 鬼蜻蜒は、這這(ほうほう)(てい)で離脱する。そんな背中に向けて、恐らくは一合目の太刀打ちの間に取り付けてあったのだろう発信器に向けて語り掛けた。

 あの『原子崩し(メルトダウナー)』発動の直前、聞こえた声の主に向けて。

 

 

「聞かせろよ、俺を狙ったのは……復讐か?」

『…………お見事、正解だ。だが、まだ終わりじゃない……俺にとっては仕事だが、()は私怨だ。此処で死んだ方が幸せだっただろうに』

 

 

 通信は、其処までで切れた。あの様子では戦闘続行は無理だろう、無論こちらも。

 喉を競り上がる塊は鉄の味、血の塊に相違無い。幾度もの魔術行使の反動が、『確率使い(エンカウンター)』の閾値を越えたか。鎧の中では吐く事も出来ない。無理繰りに飲み下して、今は。

 

 

《……敵、索敵範囲外。生き残ったのう》

「ああ……流石に死んだかと思ったよ」

 

 

 合当理を吹かして姿勢を整え、不時着に備える。死地を潜り抜けて、後は多少手荒な地球(いろおんな)の包容を受けるのみで。その衝撃は、二トントラックと正面衝突したくらいか。

 部活で一応、五点着地は特訓したが。まさかあんなジョークでの練習に感謝する事になろうとは。人生とは分からないものだと、心底溜め息を漏らしながら。迫る廃棄ビルの屋上に、意識を集中して。

 

 

「《─────!!」》

 

 

 着地の直前に受けた、鋭い衝撃に横っ飛びに転がされる。鋭利な()ででも貫かれたような衝撃が、胸部装甲に刻まれて。

 堪えきれず、大鎧が影に還る。残されたのは左腕の通っていないスーツを纏う、盛大に喀血して屋上の一部を血色に穢した亜麻色の髪の少年のみ。

 

 

 否、一人ではない。もう一人、まるで夜の闇に紛れるような黒髪の────

 

 

「ンじゃァ────またもや第二ラウンドと行こうかァ?」

「ッ……お前、は」

 

 

 吐き気を催す不浄の極みたる魔導書を携え、一部のみ金髪に染め抜いた少女が────

 

 

「まだまだ夜は(なげ)ェぜ、なァ──“廻天之力(サイクロトロン)”?」

「……黒夜(くろよる)海鳥(うみどり)

 

 

 億を超える害虫が犇めいて形成されたかのような魔導書“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”を携えた、大能力者(レベル4)窒素爆槍(ボンバーランス)』黒夜海鳥が、其処に────



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八月三日・夜:『妖蛆の秘密』

 

 

 

 年代物の蓄音機からムーディーなブルースが流れ、薄いカンテラの明かりが揺らめく火影を投げ掛ける室内に、爽やかな夜風が吹き抜ける。

 現在時刻、二十時半。場所、“純喫茶 ダァク・ブラザァフッヅ”。熱帯夜である筈の今宵に、有り得ざる程に涼やかな夜気。それを受けた冒涜的な装飾の木扉とドアベルの耳障りな音色が、嘲笑うように来客を告げている。

 

 

「貴女が、此処に来るのは────いつ以来でしたかね、キザイア=メイガス?」

 

 

 グラスを磨いていた黒髪の男性、背の高いギャルソンの男。麗貌の店主は静かに、男女問わず万人を魅了するであろう紅い瞳のニヒルな笑顔を来客へ向けた。

 

 

「そうね────十年振りよ、クライス=ブロッケン。それとも、“薔薇十字閣下”とお呼びするべきかしら?」

「今はアンブローゼス=デクスターと名乗ってはいますが……どうぞ、お好きなように。どれも私には違いありませんとも、()()? ご注文は、前のように発泡林檎酒(シードル)になさいますか?」

「……相変わらず食えないわね、“土星の円環の魔導師(マスター=オブ=サイクラノーシュ)”。それじゃあ、蒸留林檎酒(カルヴァドス)を頂くわ」

 

 

 怪体(けたい)な女だ。この真夏に、一目で最上質と判る茶色の毛皮の襟巻きを巻いて。まるでお気に入りの香水か何かのように薬品と獣臭、腐乱した果実のような甘い香気を纏う女だ。

 つかつかとハイヒールの足音を板張りの床に刻む、その女性客。黒い、さながら洋式の喪服のような出で立ちの未亡人めいた。黒いヴェールにより、一切表情の掴めない彼女へと。

 

 

「何時にも増してお目が高い、流石はかの悪名高き“セイレムの魔女”様。先程、良いものが手に入ったばかりです」

「はっ──何が“セイレムの魔女”よ、莫迦莫迦しい。魔女裁判(あんなもの)なんて、勝手に人間どもが疑心暗鬼で殺し合っただけじゃない……いえ、()()()()()()も言えないかしら。気に入らない相手の始末には都合がいいものね、どうでもいいけれど」

 

 

 “セイレムの魔女”と呼ばれ、キザイアなる女は鼻で笑う。人間め、悪質な汚物袋めと唾棄しながら。

 カウンターに差し出された、ロックのブランデー。そのグラスをやはり黒い手袋に包まれた細指で持ち上げ、カロン、と氷が鳴る程に傾ける。

 

 

「……あら、確かに上物ね。学園都市に来て久し振りに、本物のアルコールを呑んだ気がするわ」

「勿体ないお言葉です、ミス。ところで、そのお召し物という事は?」

「ええ、葬式よ。付き合い程度だってのに、面倒ったらありゃしない」

 

 

 恭しく礼を取った上で問うた店主に、ヴェールの彼女は襟巻きを毛並みに沿って掻いぐるように、慈しむように撫でながら。

 

 

「勤め先の上司が行方不明になったのよ。それで警備員(アンチスキル)がその身辺を調べてみれば、非正規実験の証拠が出るわ出るわ……『不死の追求』ですって。黴が生えたような研究テーマを、科学の都の研究者様が、今さら『魔術』でよ? 医者にしろ武芸者にしろ、本当、男なんて救いようの無い莫迦ばっかりね」

 

 

 辟易したように、グラスの酒精を煽る。それなりに強い酒の筈だが、全くもって気にしてはいないようだ。ただ、愚痴を吐き出す代わりにするかのように。

 白い喉元、こくりこくりと。艶やかに蠢かせるだけで。ただ雫を飲む、それだけでも蠱惑的に。

 

 

「ふむ、つまりは何か……()()()()()()()があった、という事ですか」

「言っておくけど、私は噛んでないわよ? まさか“死毒の神(グラーキ)”に縋るなんて、あの莫迦男も身に過ぎた夢を見たものよね。お陰で、平穏に暮らしたいこっちまで調べられたじゃない」

 

 

 早速、一杯乾かして。その時にはもう、カウンターには新たなブランデーを満たしたグラス。気の効いた事に、ピスタチオとカシューナッツも添えてある。

 

 

「第一、私が一枚噛んでれば理事会に消されるようなヘマはしないし、貴方の弟子に負けるような無様も晒させない」

「おやおや、それはそれは……買い被られたものですね、()()も」

 

 

 その新しいグラスの縁を、手袋の指先が撫でる。艶やかに、艶かしく。獲物を糸に絡めとる女郎蜘蛛のように、滑らかな指使いで。

 

 

「……薄情なものね、あの哀れな生け贄の仔山羊(スケープ・ゴート)は、今また階段を上ろうとしてる。()()()()()と向き合わされて、また一歩。黄金螺旋階段を上る。影の魔物(ア・バオア・クゥー)は笑うのでしょうね、自分が最上階を踏む事は無いとも知らずに」

「ええ、喝采してください。喝采してください。黄金の生け贄は今だ死なず都市に在る。何なれば現在時刻を記録しますか、キザイア?」

「冗談きついわね、クライス。私がやらなくても、今頃は“時間人間(チク・タク・マン)”が刻んでいるでしょうに。()()()()()()に好き勝手にさせて、()()()()はどうなるやら」

 

 

 と、哀れむように嘆息を漏らす。酒精に火照る吐息溢して、表情を隠すヴェールを揺らして。魔女は何を思うのか。

 

 

「想恋も思慕も、約束も記憶も────忘れてしまえば、何の意味も無いと言うのに」

 

 

 愁うように、窓の外の彼方。夜の闇に浮かぶ、廃墟ビルの屋上を見上げて────

 

 

………………

…………

……

 

 

 ドロリと肌に絡み付く無風の、茹だるような暑さを孕む夜気。昼間の陽射しが蓄積したアスファルトとコンクリートが夜空に陽炎を立ち上らせる様は、さながら目に見えぬ魑魅魍魎、百鬼夜行が這い出る阿鼻叫喚。

 地に落とされ、大鎧と『影』二つを砕かれて。片腕を失なった為に自らが吐いた血の池に溺れる、地獄絵図さながらに。

 

 

「ッ…………!」

 

 

 嗚呼、突いた右掌でクシャリと潰れたそれは幻覚ではない。コンクリートを這い回る蛆虫、百足、蜘蛛、蜚蟲(ゴキブリ)────生理的な嫌悪を催すありとあらゆる地虫に害虫どもが、吐き出した血を歓喜と共に貪っている。

 そして気色悪く、食い意地汚く。その原泉たる嚆矢の口に向けて、右腕を這い上がろうとする。払い除けても払い除けても、追い付かないくらいに。

 

 

「ひっはは────可愛いもンだろォ、コイツらがテメェを監視してたンだ。空の上じゃあ、蠅や蚊、虻に蜂がさ」

『クハハッ、さぁ、三度目の正直と言う奴だ……今度こそ掛け取りを回収させて貰うぞ、コウジィィィィ!』

 

 

 そんな有り様を、まるで観劇するかのように平然と。革製の黒衣に白い外衣を纏う少女はくしゃり、くしゃりと踏み潰しながら。その端から、無数にも見える蟲どもは仲間の死骸に群がり、餓鬼道もかくやと腹に納めて。

 ずるり、ずるりと。今も左手に携える魔導書“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”のページの隙間から競うように這いずり出る害虫は、恥も外聞もなくまぐわい合い、失なった数を取り戻すどころか上回る勢いで殖えていく。

 

 

「……ソイツは、君が思うような便利な道具じゃない。今すぐに捨てろ、それ以上使えば呑み込まれるぞ」

「なンだァ? 敵の心配なンて、左腕ェ飛ばされてる割にゃあ随分と余裕じゃねェかよォ? マゾかよ」

 

 

 そんな悪質、悪辣を左手に持つ彼女に。震える膝に鞭打ち、蟲どもを払い除けて。最早『話術(アンサズ)』の一字すらも励起していられない程に疲労困憊たる身体で、口端から零れる血を拳で拭いながらの嚆矢の言葉。

 しかし海鳥はただ表情を歪めて、それに嘲笑を返したのみで。

 

 

「────それとも、何か? 思い出しでもしたかァ、()()()()()をよォ?」

 

 

 それは嘲笑の中で。ほんの刹那、願うように祈るように。彼女の唇が紡いだ言葉が、聞こえて。

 それは前日に見た、絹旗最愛の言葉を想起させた。

 

 

『………………ははっ、忘れてた。結局──世の中なんて、こんなもんでしたねぇ』

 

 

 その失意の言葉、その前の段階。この娘は彼女と同じ、思い出して欲しいのだと理解出来る。出来るからこそ、出来ぬと理解出来る。何故なら、忘れたのではないから。物理的に奪い取られたのだから、どうしようもない。

 だが、一つだけ。可能性があるのだとすれば、ただ一つ────造花の楽園に於いて銀色の娘に貰ったあの乳白色の宝玉、それだけ。

 

 

 それだけが、“奪われた記憶”を取り戻す可能性を宿しており────

 

 

「……(いや)、思い出してはいない。俺は『暗闇の五月計画』の後に『プロデュース』で物理的に記憶を奪われた。だから記憶は永遠に戻らないし────悪いが、そもそも戻す気もない」

 

 

 だからこそ、それに頼る事などしない。失われたもの、は戻ったところで別物だ。()()()()()ものは、何があっても取り戻せないし取り戻してはいけないのだ。

 だからこそ、真摯に。懐から取り出した煙草、ステイルから貰ったその煙草を銜えて火を点す。炎の煌めきと煙草の煙、その二つに蟲どもは恐れ戦き、嚆矢の足下にざわりと場所を開けて。

 

 

「……そォかい、ひゃはは。そォだよなァ、現実なンてそンなもンだ」

 

 

 同じく、落胆と共に何かを諦めたような瞳の海鳥の足元からも。彼女の右掌に凝集した窒素、目に見える程の熱と乾きを孕むソレに恐れ戦いて。

 

 

「ンじゃあ、互いにこれ以上の言葉は必要ねェよなァ────『廻天之力(サイクロトロン)』、天糟 荒矢(あまかす あらや)ぁぁぁぁっ!」

 

 

 振るわれた右手より放たれた『窒素爆槍(ボンバーランス)』、以前とは違い灼熱を纏うソレ。ソレに向けて、嚆矢は銜えていた煙草を右手で投げ出し────

 

 

「“炎よ(Kenaz)────巨人に(Purisaz)苦痛の(Naupiz)贈り物を(Gebo)”!」

 

 

 紡がれた詠唱は、ステイルの“炎剣”。摂氏三千度、あらゆる物質を焼き払う炎の刃。それを握り、真っ向から熱波の槍を迎え撃って。

 夜空の只中で、一瞬の光芒が閃く。それが、この闘いの幕開けだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 迸った轟音と閃光に寸暇、視力を失う。熱と乾きを孕む『窒素爆槍(ボンバーランス)』を迎撃し、迎撃し、迎撃し────その威力を相殺した“炎剣”が、燃え尽きるように砕け散った。

 三度の余波に虫けらどもが砕け散り、燃え尽き、圧し潰れる。都合、三合で数十から数百の死が撒き散らされる。

 

 

──“魔女狩りの王(イノケンティウス)”でも使えりゃあ、形勢も有利になるだろうに。術式が解らないから無理だがな。

 まぁ、見様見真似とは言え“炎剣”だけでこの体たらくだ。あんな大魔術、俺には数秒と維持できないだろう。矢張(やっぱ)ステイルの奴は、ナチュラルに天才だって言う事か。

 

 

 その事実に、鋭く舌を打つ。たった三合で使い物にならなくなった炎の刃、僅かにそれだけの間しか維持できなかった己自身の凡才さに。

 同じルーン使いながら、それを平然と二本。更には他の上級の魔術と併用する、ステイルの非凡さに。

 

 

「はっ────ヤるじゃねェか? 脳味噌弄くられて能力(スキル)は劣化した分、鍛えた身体(フィジカル)でカバーってかァ!」

「ッ…………!」

 

 

 そして邪悪窮まる鉄の書物を携え、目前まで迫った少女に。その突き出す()()()()()()()()()()が埋め込まれた右掌に集った灼熱、重複合窒素の槍を幻視する。

 空いた右手で抜き放つ圧し斬り長谷部、その(しのぎ)で見えざる槍の穂先を受け流す。しかし、輻射熱までは避けられない。

 

 

《“アッシュールバニパル王の焔(ふぁいあ・おぶ・あっしゅーるばにぱる)”……か、厄介なものを。可能な限り躱せ、嚆矢。あれは中東の悪性伝染病(ぺいるらいだー)、その擬人化たる“病魔風(ぱずず)”じゃ。一撃でも受ければ、致命的な(やみ)に冒されるぞ》

(言われなくても。あんなモノを一撃でも喰らえば、病み腐る前に焼け死んで終わりだろう)

 

 

 市媛の忠告を待つまでもない。ジリジリと肌を灼く砂漠の熱波と、唇が割れる程の乾き。風に乗り撒き散らされる病毒素(ウィルス)、そのどれもが致命的。

 チラリと、ショゴスにより修復中の己の左腕を見遣る。修復率は一割未満、後数時間は治るまいし、リハビリにも時間が要ろう。今は、片手で遣うしかない。

 

 

(……参ったな、片手剣術なんて専門外だ。“二天一流(ニテンイチリュウ)”……もっと気合い入れて、諦めずに特訓しておくべきだった)

 

 

 等と、口惜しむ。天下に名高い二刀流、剣聖宮本武蔵の開いた我流の神髄。かの巌流島の決闘にて、()()使()()の“巌流(ガンリュウ)”佐々木小次郎を打ち破った剣派。

 無論、対馬嚆矢はその器に非ず。下手な我流剣の癖が付いてしまい、新影流の技が鈍るだけだったが。それに気付いた義父に、散々に打ちのめされて止めただけだったが。

 

 

 何にしても、この状況は不味い。()()()()()()()()()だ、単純計算で二分の一。使えなくなった技の事も計算に入れれば、五分の一以下しか性能を発揮できまい。

 更には、炎と言う戒めを取り払われた蟲どもが再び集り始める。黒い津波のように、這いずり飛び付き、新鮮な肉を喰わせろと毒牙を鳴らして────。

 

 

《一揆衆並に鬱陶しいのう、この虫けらどもが────散れぃ!》

 

 

 “悪心影(あくしんかげ)”の『均衡崩し《バランスブレイカー》』により発された、長谷部の刃を覆う業火に焼き払われる。そして嚆矢の右手もまた、柄からの熱に火傷を負って。

 

 

 

 

 その状態で────

 

 

 

 

立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)!』

「喰らいな────!」

 

 

 果たして、それは偶然だろうか? “妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”の消沈の三大ルーン詠唱と共に、海鳥の右手に今度は冷気が満ちる。凍えた、水分を無くした渇いた白光、辺りの蟲どもを凍死させて、凍て砕きながら。

 

 

「『────“零下の氷山棺(イイーキルス)”」!』

 

 

 放たれた白い光の槍、凍てつく極北の白夜のような。だが、神々しさも清廉さも其処には無い。在るのは只、膿み、病み、不健康に肥満した白蛆の笑顔のような───

 

 

《────うつけめが! 気を逸らすな、魂を食われるぞ!》

(ッ…………!)

 

 

 危うく気を取り直して、迫る白光を長谷部の鎬で受け流す。-196℃の窒素の槍、無論その冷気までは受け流せない。

 肌を凍らせる渇いた風を浴び、鼻血が流れた。粘膜がひび割れたのだろう、僅かな痛みと共にそれを右手……火傷の上に凍傷を負った、酷い状態の右手で拭う。

 

 

「ひゃはは、いい面構えになったじゃねェか。その方が男前だぜ?」

『クク……』

 

 

 目の前、僅かに離れた位置で黒い少女は嗤う。口角、鋭く吊り上げて。本来は攻撃的な意味を持つと言う笑顔、此方に向けて。

 

 

《嚆矢……真逆とは思うが、貴様》

 

 

 左手に張り付いた芋虫に。木の葉を蝕む芋虫のように、命を蝕む魔導書を携えていて。嘲笑われながらも得意気に、此方を嘲笑う

 そんな彼女を見詰めたまま────市媛の言葉を塞ぐように、長谷部を鞘に戻す。

 

 

《この期に及んでまだ、女とは闘わぬつもりか──────》

 

 

 応えるまでもない。そのあり方に、憐れみを。そして恐らくは────そうしてしまった()に、憎しみを。

 

 

「聞いた通り、女にゃ手ェ出さねェって訳か……矜持か意地か、ったく笑えるぜ、墜ちたもンじゃねェか。かつては老若男女の区別なく、邪魔になるンなら数秒前の仲間だろォと捻り潰してきたアンタがよォ? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

──『暗部の存在は暗部によって擂り潰される』、分かり易いくらいの自業自得。そうだ、あれは俺の罪そのもの。俺への罰。本来はそうだった、そうじゃなきゃいけなかったもの。俺の為に用意された裁き、俺の為に用意された死の形。

 だから、この子は来たんだ。俺の前に、俺の為に。俺は、覚えてすらいられなかったのに。

 

 

 海鳥の嘲笑に、改めて感謝の念すら抱く。初めて、このクソッタレの世界に感謝しながら。憎しみ、妬み……そんな負の感情を湛えた彼女の笑顔を、真正面から望みながら。

 

 

「笑える話だぜ、化け物が人間の真似事なんてよォ! お友達は何人居るンだァ(見捨てたくせに、私達を)? もしかして恋人とかも居るのかァ(忘れてしまったくせに、私達を)? そいつらはテメェが六百人以上を(どうして、どうして……)殺した事は知ってンのかよ(私達を忘れてしまったの)────人食い狼(お■■ゃん)?」

 

 

 声、声が。嘲笑が、悲嘆が。重なるように聞こえたのは、真実か幻覚か。諦めて嘲笑う声と、祈り悲しむ声が重なったのは。訳知り顔で大人が口にするような声と、駄々を捏ねる子供が口にするような声が重なったのは。

 だがそれも、辺りを這い回る蟲の足音、飛び回る羽音に呑み込まれる。耳障りな、この全てを嘲笑う蠅声(さばえ)に。

 

 

「まァ、何でもいィや……そっちが勝手に手ェ抜いて死んでくれるンだ、こっちとしちゃあ万々歳か。じゃあな、裏切者────」

 

 

──俺が犯してきた罪の清算。俺が奪ってきた物への等価の(あがな)い。俺が忘れてしまった過去(メモリー)への────罰の形。

 何て有り難い矯正。何て正しい末路。嗚呼、()()()()()()()()()()()()

 

 

 だから。だから────

 

 

焔炎(カノ)刺蕀(スリサズ)()────』

 

 

 海鳥の命を蝕み、魔力に変え、ルーンを刻むその存在。それを、強く。強く────

 

 

──お前だ、“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”。そう、お前だけが余計なんだ。お前だけが不純なんだ。お前だけが────

 

 

「────邪魔なンだよ、蛆虫がァァァァァッッ!」

『────るッ?!』

 

 

 蜂蜜酒色の瞳で睨み付けたまま咆哮し、懐から抜き放つ学園都市製の改造大型制式拳銃『南部式拳銃(グランパ・ナンブ)』。抜き打ちの一撃(クイックアンドドロー)、真っ直ぐに“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”を捉えて。

 それでも。五十口径の弾丸でも、魔の域に在るその鉄の書物には傷すら付かない。あれを破戒し得るモノなど、より上位の魔術であるとか────或いは、あらゆる幻想を殺す右腕であるとか。そうでなければ、意味など無い。

 

 

『じゃあ、どうするの? あなたはどうしたいの、こうじ?』

 

 

 だからこそ、屋上に投射される黄金の月輪の元で。その声は、彼の耳にのみ届く。

 

 

「悪ィね────俺、まだ恋人が居ねェからどうにも死ねなくてさァ。その三流パルプは、便所紙に再利用してやるとして」

「ちぃ────!」

 

 

 だがそれでも魔導書を少女の左手から弾き飛ばし、仰け反らせる程度の効果はある。これで、次の一発を凌げば通常の『窒素爆槍(ボンバーランス)』しか使えない。

 ならば、まだ戦いようはある。この長谷部の刃、『天魔覆滅(バランスブレイカー)』の刃をあの魔導書に叩き込む。それで、あれを斬れる筈だ。

 

 

『じゃあ、どうするの? きみはどうしたいのさ、コウジ?』

 

 

 だからこそ、屋上に投射される白銀の月光の元で。その声は、彼の耳にのみ届く。

 

 

「その後のお楽しみタイムには、たっぷり付き合って貰うぜ────海鳥ちゃンよォ!」

「舐めやがってェ────!」

 

 

 その僅かな隙から勝機を掴み取るべく、そこに走り込む。『女に手は上げない』、その誓約(ゲッシュ)を魂に刻む男は天魔(あま)色の髪を靡かせて獲物に躍り掛かる狼のように。『大鹿(ベルカナ)』を刻んだ脚で、襲い来る蟲を踏み潰しながら駆ける。もしも蟲の体液などで足を滑らせ、動きを止めればあの灼熱の槍の餌食だ。

 詰まりは、狩人と餓狼の鬩ぎ合い。どちらが先に止めを刺し、どちらが先に食らうのか。それを競う争いだ。

 

 

 そして────

 

 

「ッ…………!」

 

 

 ずるり、と。踏み潰したヤスデの体液に、足を取られる。時として大発生した際には列車を脱線すらさせると言う、その脂ぎった体液に。

 

 

「────貰ったァ!」

 

 

 致命的な、隙を────黒い少女は見逃す訳もなく。溜めに溜めた右手の熱波の槍、打ち出して。

 

 

「─────まだだァァァッ!」

 

 

 命を削り、虚空に発した玉虫色の魔法陣四枚。それは盾、それは護り。『賢人バルザイの偃月刀』に刻まれた、四種の魔術的防呪印。

 それでも槍は、“竜頭の印(ドラゴンヘッド・サイン)”に“キシュの印”、無敵の“ヴーアの印”を易々と貫いて。遂には目の前、最後の一枚“竜尾の印(ドラゴンテール・サイン)”に迫り────

 

 

「チイッ────!」

 

 

 軋み、ヒビ割らせ────辛うじて止まる。まるで唸り声のように、軋む音、目の前で失墜する。

 最早“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”まで三メートル、海鳥までなら二メートルの距離まで迫った嚆矢は、長谷部の柄に右手を掛けており────

 

 

「────バカが! 私の『窒素爆槍(ボンバーランス)』が、掌から打ち出すだけの能無しだとでも思ってやがったかァ?!」

「!?」

 

 

 打ち出された熱波の槍を、()()()()()()()。威力を増すべく、体ごと左に反転しながらの一撃。

 正に『槍』として衝き抜かれた一撃に、第四の印が打ち砕かれて。当然、捨て身の突進を行っていた嚆矢にそれを躱す事は出来ずに。

 

 

『てけり・り!?』

「クッ────!」

 

 

 遮二無二、捻って突き出した左肩口。ショゴスが修復中の、左腕────そこで、受ける。

 元々の傷口を更に抉り、終いには灼熱で焼かれる。気が触れるような苦痛が、神経を焼いて。

 

 

「……本目録、“虎走(コソウ)”か」

「流石、御名答ォ。甘く見ンなよ、人狼鬼(ルー・ガルー)? テメェが刀使いだってのは分かってたンだ、対策しねェ訳がねェだろォが?」

 

 

 それでも、命は拾った。ショゴスという守りがあったからこそ、二文字のルーンを孕むその槍を止める事が出来た。

 

 

「この体の大半は機械でよォ……データさえ入力すりゃあ免許皆伝の技に身のこなしだ。便利だよなァ、正に科学の勝利だ!」

「…………巫山戯るな、そんなモノは甘えだ。技とは、身に刻んだ繰り返しであればこそ。付け焼き刃など──!」

 

 

 機を逃さず、距離を取る。乱れた息を吐きながら睨む先では、不可視の槍を担ぐ海鳥が悠々と“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”を掴み上げていて。

 その少女の嘲りに、反意を示す。それは只、義父の教えを知るからこそ──認める訳にはいかない台詞だった。

 

 

「なら見せてやるぜ、科学の技を。さァ来いよ────“柳生新影流兵法(ヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)”!」

「上等、行くぞ────“新陰疋田流槍術(シンカゲヒキタリュウソウジュツ)”!」

 

 

 灼熱に燻る槍と、片手に握る刀。“剣聖”上泉伊勢守信綱を師に持つ開祖同士であり、共に『陰流』の流れを組む二派が相対した────。

 

 

………………

…………

……

 

 

 白い、白い、白い部屋。其処は血生臭い研究資材管理室、或いは清潔な獄門台への十三階段か。

 そこに集められていた『研究材料(モルモット)』は、既に半数まで減っている。昨日まで一緒に震えていた同朋は、もう半分しか居ない。あれ程に狭かったこの部屋が、今は伽藍と。

 

 

 満足なシーツも与えられない其処は、昼も夜もなく煌々と明るくて。眠る事が出来ずに気の触れた者も、少なくはない。

 

 

『……………………』

 

 

 その壁際で、粗末な検査着のみを纏う童女は一人、膝を抱いて眠ろうと。今の季節がいつかは知らないが、室内は常に一定の気温。寒くもなく暑くもない、()()()()()()()()()()過ごし易い気温で。

 だからこそ、伽藍堂(がらんどう)の空間は肌寒く。我が身を抱いたまま小さく、彼女は肩を震わせて。

 

 

『…………さむいだろ、おいで』

『………………?』

 

 

 頭の上から掛けられた声に、一瞬、ビクリと震えて。恐る恐ると上げた瞳に映る────

 

 

『ひとりじゃ、さむいだろ? きみもおいで、いっしょにあったまろう?』

 

 

 もう一人、童女を連れた────右手を差し伸べる、亜麻色の童。虚ろな瞳できょとんと己の右手と顔を見比べる彼女に、ニカッと笑い掛けたままで。

 

 

『……どうして?』

 

 

 その虚ろな瞳の彼女が、ぽそりと。あらゆる意味に聞こえる問いを、口にしても尚。得意満面のその笑顔を、変える事はなくて。

 

 

『きまってるよ。それはね、ぼくが────』

 

 

 胸を張って、堂々と────

 

 

「────絹旗ぁ、聞いてんのかにゃ~ん?」

「っ……!」

 

 

 その声に、最愛は我に還る。辺りを見回せば、活気のある小汚ないファミレス。そして鮭弁当を食す麦野沈利にボーッとドリンクバーのストローを咥えている滝壺理后、サバ缶を頬張っているフレンダ=セイヴェルンの三人が、不思議そうにこちらを見詰めている姿を認めて。

 

 

「…………すみません、麦野。超ウトウトしてました」

「珍しい事もあるもんだけどさ。しっかりしとくれよ、絹旗。フレンダじゃあるまいし」

「結局、何でそこで私が引き合いに出されるわけよ、麦野!」

「大丈夫だよ、わたしはそんなふれんだを応援してる」

「辞めてやるぅぅぅ、こんなチーム!」

 

 

 周りの目を集める程に騒ぐフレンダから目を逸らして、三人は思い思いの食事を摂り始める。

 最愛もまた、目の前のハンバーガーを掴み上げて。思い出す、刹那の幻夢(ヒュプノス)。その内容に。

 

 

「…………はっ」

 

 

 つい先日、失望と共に捨てた筈の夢をまた見た事。それに自嘲しながら……溜め息ごとハンバーガーを噛み締め、呑み込んだのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 熱、吹き付けるように迫る。黒の少女が振るう不可視の槍、闇に紛れる『病み』を孕んだ窒素の槍。“新陰疋田流槍術(シンカゲヒキタリュウソウジュツ)”の“相外(アイハズシ)”、左半身で構えて刀を下に躱して突き上げる──と見せ掛けて、拳を狙う技“手縛(シュバク)”が襲い来る。

 隻腕の男は“柳生新影流兵法(ヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)”に伝わる“新陰疋田流槍術”用の“天狗抄(テングショウ)”により槍を受け流し、刃鳴を散らしながら防ぐ。鎬を削り、槍の穂先を弾く事に成功する。

 

 

 間合いを外し、息を吐く。辛うじて鍔の一部を欠け飛ばした程度で済んだが、もしも受け損なっていれば拳を斬られ────後は、一方的な屠殺となっていた事だろう。

 痺れた右手を片手の“(シャ)”に構えながら、三白眼の蜂蜜酒色瞳で海鳥の全身を見遣る。“偸眼(チュウガン)”と呼ばれる新影流の技法、対敵の全身を観察する事で相手に真意を悟らせない為の技だ。

 

 

「どォしたァ、数年来の研鑽とやらも大した事ねェじゃねェかよ? こんな付け焼き刃の槍術も満足に受けらンねェのかァ!」

「……………………」

 

 

 余裕綽々と嘲笑する彼女の言葉を聞き流しながら、観察を続ける。あの小柄で、目にも止まらない速度で繰り出される槍。厄介な事に、不可視の。

 しかし、ある程度なら間合いは見切れた。恐らく長さは三メートル前後、形状は素槍だろう。投槍としても使用可能な上に能力によるものなので、余り長さに関係は無いだろうが。

 

 

呵呵(かっか)、まぁ(わらわ)の軍で使っておった三丈槍ほどではないがな》

(成る程。じゃあ早速だけど槍の破り方を教えてくれよ、槍博士?)

 

 

 重さは有るのか無いのか分からないが、彼女の言葉通りなら機械の体。驚くべき膂力で、ここまで弾き飛ばされた事。

 

 

「そら、いつまで寝てやがるクソムシ────いい加減、無駄な魔力を吸ってンじゃねェ」

『ふむ────『櫟毒(ユル)』の毒を込めた咒弾(ガンド)とはやってくれる、流石は樹術師(ドルイド)の末裔か。いやはや、目覚めた時には負けておるやもと危惧したが……杞憂だったようだな、ウミドリ?』

「ゴチャゴチャうるせェンだよ、クソムシ。アレをヤるぞ」

 

 

 加えて────左手に持つ鉄の装丁の魔導書“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”の為、それが右手一本で成されたという事実だ。先日の駒場利徳のように、発条包帯(ハードテーピング)などの装備を内蔵していると見た方が良い程、華奢な体付きに見合わぬ身体能力である。

 両手でもキツそうな力だ、片手の現状では如何ともし難い差が横たわっている。

 

 

《何、槍を破るとな? この打刀でか? 前の破戒僧の時もそうじゃが、小手先の技でそんなのは無理じゃな。長物は刀には一方的に有利じゃからな、勝ち目などほぼ無い》

(元から期待しちゃいなかったが、そこまで言うか普通?)

《うむ、無理無理。そんなに勝ちたければ────》

 

 

 言葉を待たず、黒い少女は一気に距離を詰める。まるで風のように、長足術(ハヤガケ)の極みと呼ばれる“縮地(シュクチ)”の如く。その勢いに乗せて繰り出される一撃、その名は“前飛(ゼンピ)”。

 その穂先、そこに────

 

 

《銃でも使う他には在るまいて!》

「────!?」

 

 

 影より覗いた火縄銃の銃口が、隙だらけの突撃体勢を見せている彼女を狙い澄ます。そして、火縄(撃鉄)が落ち────るよりも早く、速く。

 

 

「────余計な真似してンじゃねェ、これは俺の喧嘩だろォが!」

《……貴様、まだ『女は斬らぬ』とでも言う気か! このうつけが、殺らねば殺られる事も解らぬか!》

 

 

 長谷部の一撃が銃身を打ち払い、投擲された熱砂の毒槍が火縄銃を焼き腐らせる。剣呑な気配は、背後の影から沸き立つ。

 それに答える暇など無い、既に。

 

 

「仲間割れかよォ、舐めやがってェェ!」

『フハハハ────惨めなものよな、コージィィ!』

 

 

 既に、既に。腐汁と腐肉に塗れた十文字槍(ジュウモンジヤリ)────『人間(ニンゲン)』と『無骨(ムコツ)』の四文字が刻まれた鋭利な槍が、彼の目前にまで迫っているのだから。

 

 

《貴様ら────屍肉に集る蛆蠅に武のなんたるかも知らぬ小娘風情が、鬼武蔵(オニムサシ)(ケガ)すか!》

 

 

 その号を“人間無骨(ニンゲンムコツ)”、作は名匠『和泉守兼定(イズミノカミカネサダ)』。信長配下の猛将、(モリ)鬼武蔵(オニムサシ)長可(ナガナリ)の愛槍である。

 まさか真作ではあるまいが、それでも学園都市の技術が使われているのならば……厄介な事は、この上無い。

 

 

「ッ!」

 

 

 崩れた今の体勢では、受けるなど無謀も甚だしい。迷わず回避する、右に横っ飛びに。ひたすらに、我武者羅(がむしゃら)に。

 それが幸を奏したか、槍は嚆矢の腕……未だ再生はならぬ左腕の、空の肘部分を貫いただけで。

 

 

「ヤれ、クソムシ」

ああ、娘さん(Oui, c'est une fille)────』

 

 

 真っ直ぐに此方へと向けられた“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”、その開かれた頁、腐臭漂う屎糞の地獄より────競うように迸しり、溢れ出た青白い蛆虫、蛆虫、蛆虫。その数、一瞬で数百にも及んで犇めいて。まるで花開くように、先端が人の掌のように裂けて。

 

 

「喰らいな────!」

「しまっ……!」

 

 

 競りだしたその数だけ、自分自身も頭をも吹き飛ばしながら『窒素爆槍(ボンバーランス)』を散弾の如く放って。『両手に別々の得物を持ち、片方を受けさせた後でもう片方で止めを刺す』という“玉飛(ギョクヒ)”のアレンジ技にて、屋上の一区画を消し飛ばして余りある威力を、真正面から嚆矢に叩き込んだ。

 

 

「……………………」

 

 

 『人間無骨』をコンクリートに突き立てて崩れ落ちた足場を眺め、立ち込める土埃にも何ら反応せず。穴に向けて潜り込む虫どもを無感情に、海鳥は見下ろしていた。

 

 

『フム、存外に呆気なく消し飛んだものだ。放って置いても、肉片一欠片に至るまでこの虫けらどもが始末しようぞ、ウミドリ?』

「……はっ。分かってねェな、テメェは。死体を確認するまでは生死不明だ、シュレーディンガーの猫は。特にあの野郎は、()()()()確率があるンなら間違いなく生きてる」

 

 

 辟易するように、灼熱の毒槍を真下に投げ込む。解放され、途端に吹き荒れる爆風と灼熱、そして病毒。先程まで屋上を埋めていた虫けらどもも、ほぼ全て死に絶えたか。

 

 

『クク、そんなものであるか?』

「ああ、そンなもンだ。とっとと終わらせるぜ、クソムシ……アイツを仕留めた後は、“黒扇の膨れ女(ブローテッド・ウーマン)”に証を渡さなきゃいけねェンだからな」

 

 

 嘲笑うように、空を舞っていた羽虫を頁に吸い込み貪り尽くして。消耗した魔力、命を補充した魔導書。それを確認し、再び槍を手にした海鳥が飛び降りる。

 下の階は優に数メートルの深み、しかし機械の体を備える彼女にとってはほんの僅かな段差に過ぎないのだろう。事実、何の危なげもなく着地に成功して。目の前、部屋の真ん中の床面に無造作に突き立つ“圧し斬り長谷部”を目にして。

 

 

「……そうら、やっぱり────なっ!」

『──『大鹿(アルギズ)』!』

「ヅッ!?」

 

 

 背後から組み敷こうと掴み掛かった嚆矢の、“悪心影(あくしんかげ)”の籠手に包まれた右腕をしゃがんで躱し、“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”によって()()()()()()『硬化』のルーンを纏った回し蹴りを横腹に見舞う。通常のものならば今の一撃に耐えて足を掴めただろうが、条件が五分なら軍配は元々強い方に上がるのが道理。メキリ、と肋骨の軋む鈍い音が響いた。その痛みに反応の遅れた嚆矢に海鳥の足はもう、掴めない距離で。

 振り向き様に振るわれた槍は、柄の釦を押し込まれて────手槍程度の長さにまで縮んでいる。この距離でも、十分に殺傷範囲となる程に。

 

 

「お得意の合気道の為に、近接戦(インファイト)に持ち込んでくるのなンざァ予想ォ済みだぜ」

「ッ……────!!!」

 

 

 頸を狙う刃を防ぐべく、右の肩口に側面の刃を受ける。装甲の隙間に抉り込まれ、皮を破り、肉に食い込む鋼鉄の焼けるような冷たさ。脳味噌から垂れ流す脳内麻薬(アドレナリン)が忘れさせてくれたのは、ただただ僥倖だ。

 だから、止まらない。二度目の右腕が、海鳥の外套の襟口を掴む事に成功して────頭にフードを被っているだけのそれは当然のようにすり抜けられ、ただ嚆矢の視界を塞いで隙を生んだのみ。

 

 

「特別サービスだ────今度こそ、さよならだぜェ!」

『──『焔炎(カノ)』、『刺蕀(スリサズ)』、『櫟毒(ユル)』…………立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)立 ち 消 え よ(H N I)!!』

 

 

 溜めに溜められた『窒素爆槍(ボンバーランス)』、それは彼女の右掌の紅い宝玉“アッシュールバニパル王の焔(ファイア・オブ・アッシュールバニパル)”を基点に灼熱と乾き、病毒を帯びて“人間無骨”に纏わり付いて。。更にルーンのバックアップを受け、精度を増して。

 更に左掌の鉄の装丁の魔導書“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”を中心に、極北の白光が満ちる。凍気と渇き、そして永久凍結の呪詛が籠められた光“零下の氷山棺(イイーキルス)”がルーンのバックアップを受け、精度を増して。

 

 

「『消えろ────!」』

 

 

 同時に放たれるだろう、その二槍。その投擲は音速に迫り、躱し様はない、防ぐ術も無いだろう。無い、無い────本当に?

 

 

「……そうだな。此方も、特別サービスだ」

「何────?」

『ッ………まさか、それは!』

 

 

 海鳥の外套の下から、厚く偏平で不格好な刀剣────“賢人バルザイの偃月刀”が現れる。

 其処に染み入る玉虫色より、虚空に浮かぶ守護の印。それは加護、そして呼び掛け。この場には居ない、だが、遍く時空に接する神への祝詞の始まりである。

 

 

飢える(イア)─────」

『チィ────ウミドリ、この大馬鹿者が! ()()()()()()を満たしたな!』

「くっ……だから何だ、あの程度の悪足掻きで!」

 

 

 だから、届く。この地球上の何処でも、この印は。その浄句(ジョーク)は。

 厳かに、嘲るように。唱えたその言葉は、異なる時空に潜む『外なる神(ストレンジ・アイオン)』にも届くのだ。

 

 

飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)────!」

 

 

 泡立つように、偃月刀の玉虫色が揺らぐ。漆黒の原形質が爛れ落ちる。ダマスカス鋼じみたその祭具、その奥から覗く漆黒と無数の血色の瞳。悍ましい、眼が合うだけで、魔術行使で生命を削った以上の精神的苦痛。それすら、歯を食い縛って堪える。

 

 

『てけり・り。てけり・り!』

 

 

 漏れ出す異界の根源(ヨグ=ソトース)が、その原形質(ショゴス)が虚空を歪める。

 始めに現れたのは金切り声、そして玉虫色の二重円に八芒星。その魔方陣が回転して球を為し、開花するように空間に形を為す────!

 

 

「来たれ────ヨグ=ソトースの十三の球体従者(御遣い)。汝が名は『パルタス』、大いなる禿鷲(ハゲワシ)なり!」

Gweeeeeeeee(グゥェェェェェェェェェェ)……!』

 

 

 そして現れ出る、ヨグ=ソトースに仕える十三の怪物の()姿()()()()。泡まみれの油を吹く捻れた翼をはためかす禿鷲の姿の、悍ましき玉虫色に煌めく虹鉄(こうてつ)機械仕掛けの虹鉄(デウス・エクス・マキナ)。並の人間ならば、噴煙を撒き散らすその姿を目にしただけで心が凍る。噴煙と共に撒き散らされるその声を聞いただけで、脳細胞が死滅しよう。

 これが、『ヨグ=ソトースの球体』だ。副魔王の従者、その意を体現すべく遣わされるもの。だからこその『御遣い』か。

 

 

「それが────どうしたァァっ!」

『砕く────それだけの事よォォォッ!』

 

 

 その『声』を掻き消すように、海鳥は叫ぶ。それを嘲笑う怪鳥は、爆風じみた羽ばたきと共に海鳥に襲い掛かる。人の正気を蝕む鳴き声と姿で、苛烈なまでに襲い掛かるパルタスを二つの槍────熱砂の毒槍と凍雪の呪槍で迎え撃ち──────

 

 

Gwe(グゥェ)eeeeeeee(ェェェェェェェェェ)………………』

「『────は………………?」』

 

 

 砕いた。粉砕した。焼き溶かし、凍り潰し、完膚なきまでに。呆気ないまでに。跡形もなく、砕き尽くして────

 

 

「────王手、飛角取り……ッてか」

「『なっ……!」』

 

 

 トン、と。実に軽く、まるで悪戯をした妹を叱るかのように。海鳥の真正面から、その額を軽く中指で押した────偃月刀を手にした、嚆矢を見て。

 

 

『馬鹿な────コージ……貴様、“星の吸血鬼(スター・ヴァンパイア)”の監視網をどうやって……ギヒッ!』

 

 

 斥候として、今晩の戦闘。空戦の時から放っていた『見えざる伴侶』による監視、それを掻い潜って……否、五匹全部を滅しながらも()()()()()()()()()()()()()()()()嚆矢を、真正面に見ながら────

 

 

「っ…………な、ンだ……これ、は」

「お前が教えてくれたンだろ、『体の大半が機械だ』ってさ────ならまァ、()()()()()()()()()()()()()()?」

「っ…………クソ、がァァっ!」

 

 

 額に触れられた、それだけで全く身動きが取れなくなった彼女は、最早どうにも出来ずに。

 呼び出した『パルタス』の力、『召喚者を見えなくし、見えないものを見えるようにする』効果で接近、及び“星の吸血鬼(スター・ヴァンパイア)”の排除に成功した嚆矢に。

 

 

『────ギ、ァァァァォァァギィァァ!!?』

『────てけり・り。てけり・り』

 

 

 “賢人バルザイの偃月刀”に貫かれていた“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”は、上質な獲物に歓喜する悪食に。“時空の呪粘塊(ヨグ=ショゴース)”に貪り食われて、最果ての虚空に繋がる胃袋へと消えた。

 

 

「さて、と……勝負はあったな。投降しろ、悪ィよォにはしねェって。この左腕とか肋骨の分、たァァっっぷりと。夜明けま(ラウンドスリー)で可愛がってやるからよォ」

「……………………んな」

 

 

 その偃月刀を、左の肩口に。一冊の魔導書、即ち魔力炉を食らったからか。ショゴスは左腕を丸々再現する事に成功して。その新生した左腕をわざとらしく卑猥に蠢かせ、動作を確認しながら問い掛ける。

 それに、身動きの取れぬままの彼女は────

 

 

「……ふざけんなよ、おい。聞いてンだろ、クソムシ! 私の何を持っていっても良い……コイツに勝てるだけの力を、寄越せ────“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”ゥゥゥ!」

「チッ……この期に及んで────?!」

 

 

 『悪足掻きを』と、そう感じたのも束の間か。彼女の叫びは、魂からの渇望。だから、その声は届く。届いてはいけない、澱みへと。

 周囲に満ちる瘴気、一度は消えかけた腐臭が再び、強く香る。鼻が曲がりそうな程の、悪意に満ち溢れた腐乱臭を孕む風……否、ぶくぶくと屍肉を喰らって肥え太った、無数の黒蠅が。

 

 

『────良かろう。確かに聞き届けたぞ、ウミドリ! 貴様の命の全てを、我に捧げよ!』

「ああ────構わねェ、勝てるンなら! コイツに勝てるンなら────未来なンて、要らねェェっ!」

「なっ……莫迦な!」

 

 

 彼女の左掌に集結し、形を成す。黒く、重たい鉄の装丁の魔導書と変わる。それは間違いようもなく、つい今しがたショゴスに喰らい尽くされた筈の“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”そのもので。

 

 

『意外か、コージよ……我が源泉は死、憎悪、怨念。此処にはそれが満ち満ちておるのよ。何の為に態々、虫どもを呼んだと思っている? 『()()()()()()()()()()』とは、貴様ら日本人の言葉であろうが!』

「クッ────!」

 

 

 即ち、『この場にて死んだ数多の虫けらの数だけの蘇生を残す』と、魔導書は絶望的な未来を示して。即座に、ショゴスを込めた南部式拳銃を構える────よりも早く、犇めいた蛆虫の頁が眼前に。寸前で、右腕にのみを纏った“悪心影(あくしんかげ)”の鎧により『空間転移(ディストーション)反転(ネガ)』が間に合い、致命傷だけは避けた。

 しかし発振器である肩部装甲板は吹き飛び、最早二度目はない。次は間違いなく、全身が吹き飛ぶ。

 

 

「『──飢える(イア)飢える(イア)飢える(イア)!」』

「何────!」

 

 

 否、二度目どころの話ではない。今の一撃など嵐の前の静けさにも満たぬ程の魔力の昂りが、目の前に。

 

 

《正気か、此奴────まさか、()()を喚ぶ気か!》

()()……?」

 

 

 刹那、“悪心影(あくしんかげ)”からの焦燥が届く。今まで無かった程の、狼狽と共に。

 

 

「『“(えい)”──────」』

《殺せ、今すぐに────嚆矢! 早く、あれを! 然もなくば……!》

 

 

 ぽろぽろと血の涙を溢しながら、とても人の喉から発せられるものとは思えない詠唱が響く。海鳥の命そのものを削り昂り続ける魔力の渦、それは────目に見える程の実態すら伴っていて。

 思い出すのは、インデックスが使用して見せた“竜王の殺息(ドラゴン・ブレス)”。それ程までの魔力が、目の前に渦巻いていて。

 

 

「『──“ZA(ぜい)”────」』

《──この坂東(かんとう)全域が消し飛ぶぞ!》

 

 

 言われるまでもなく、首筋が焼けるような感情が。魂の奥底からの衝動が、止めようもなく。

 今も、今も────

 

 

《殺せ! それ以外に、止める手立ては無────》

「……巫山戯ンなよ、テメェ────」

 

 

 沸き上がる怒り、止められない。『復讐』と宣った癖に、刺し違えるだとか。また、無関係の他人まで巻き込もうとしている海鳥に。

 “悪心影(あくしんかげ)”の言葉など、耳すら傾けずに。真っ直ぐ、彼女を睨み付けたまま────

 

 

──本当に憎む相手なら、その全てを否定しろ。その生涯を嘲笑い、その死にすら唾を吐き掛けて酒の肴にでもしろよ。刺し違えるだの何だの、折角の純味に余計な雑味を混ぜやがって…………中途半端な真似してンじゃねェ────!

 

 

 苦痛を伝える誓約(ゲッシュ)、それすらも遠い。魂を突き動かす憤怒の前には、焼け石に水だ。

 しかし、海鳥の周りには“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”から溢れる白蛆の守り。のたうつ青白い腐肉の厚い壁に守られて、海鳥の姿は彼方に遠く。

 

 

────大丈夫よ、こうじ。わたしが、必ず届かせてみせるから。

────大丈夫さ、コウジ。ワタシが、必ず届かせやしないから。

 

 

 それでも 籠手に包まれた右手を前に伸ばす。天井に空いた穴、其処から覗き込むような月に照らされて。視界の端に見える、純金と純銀に導かれるように。真っ直ぐ、真っ直ぐ────。

 

 

「『────“TO(とう)”──」』

「黙れ────喚くな」

 

 

 最早臨界寸前に昂った、魔力の塊。不定形の、原初の混沌を思わせるそれに、向けて────右手を、伸ばす!

 

 

「奪わせるものか、それは俺の罰だ。“白く冷たき蛆神(リルム=シャイコース)”────貴様如きに!」

 

 

 知る筈の無い神の名を叫びながら、白銀に煌めく刃金の右腕から残光を棚引かせて跳躍する。“裏柳生新影流兵法(ウラヤギュウシンカゲリュウヒョウホウ)”の長足術(はやがけ)、“猿飛(サルトビ)”にて。

 それを逃すような真似を、白蛆はしない。一斉に嚆矢に向けて、数十もの『窒素爆槍(ボンバーランス)』を放つ────!

 

 

「俺の為の、断罪(すくい)を!」

 

 

 だがそれは、宇宙の終焉。“ビッグ・クランチ”の闇。虚無への収斂の刹那には、虚空清浄にまで版図を狭める闇と凍気。ならば、届くもの等は有りはしない。この世に在るモノである限り、有り得ない。

 かつて、ヒューペルボリア大陸を滅ぼした絶対零度。『素粒子も含めた全てが動きを止めた状態』である、摂氏(せっし)-273℃。即ち、電子すら停止する物質の崩壊温度。量子力学上の、温度の()()()()。支配者すら駆逐した、その脅威。だが、それすらも“自存する源(■■=■■■)”の前には意味を成さず。今やそれは、かの『元帥』の力の一部。

 

 

────無駄だよ、ワタシが……コウジには届かせやしない、何一つ!

 

 

 それを成した白銀の右手が────嚆矢の右手と重なって。

 

 

「凍て朽ちろ─────!」

『“絶対零度(アブソリュート=ゼロ)”』

 

 

 時すらも凍える程に白く眩めく銀燐が、世界を染めて─────後には窒素塊も白蛆の断末魔も、過去の塵芥すらも残る事はなく。ただ、嚆矢の吐いた息の白さが在るのみ。

 

 

「『────“()──」』

 

 

 全ての守りを剥ぎ取られ、それでも()()()まで詠唱を終えた海鳥の、凍えた唇が────。

 

 

「っ────!?」

 

 

 数日前の異種返しのように、重ねられた唇に封じられて。余りに予想外の行動に、全く同一と化していた海鳥と“妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)”の精神が解離する程には。

 

 

来い(イア)────“二十六文字の賢者の石(マァナ・ユウド・スウシャイ)”」

『なっ?!』

 

 

 そして、その間隙を縫って口内に呟かれた『名前』に。渦巻いていた魔力が一点に、海鳥の左手の魔導書に重ねられた嚆矢の刃金の右掌へと収束して、刃金を黒金に染める。

 

 

『貴様────何故、その名を!? 何故だ、多寡が人間風情が、()()()()()()()()()()!!?』

「喚くな────邪魔だ、間男。テメェは消えろ」

『きっ……』

 

 

 それは宇宙の黎明、“大爆誕(ビッグ・バン)”の光。虚無からの爆発の刹那には、無量無辺にまで版図を拡げる光と熱気。ならば、届かないもの等はありはしない。この世に在るモノで有る限り、有り得ない。

 

 

『────()ィィッ(サマ)ァァァァァァァァッッッッ!!』

 

 

 かつて、火星と木星の間に在った惑星をデブリベルトに変えた無限熱量。“ビッグバン”の1プランク時間後の熱量、即ち『プランク温度』。摂氏(せっし)1,420,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000℃────『これ以上の温度は物理的に意味が無い』“絶対熱”。量子力学上の、温度の()()()()。支配者すら存在を許されない、その脅威。だが、それすらも“沸騰する核(■■■■■)”の前には意味を成さず。それは初めから、かの『総帥』の力の一部。

 

 

────無駄なの、わたしが……こうじには届かせてみせるから、全てに!

 

 

 それを成した黒金の右手が────嚆矢の右手と重なって。

 

 

「燃え尽きろ─────!」

『“無限熱量(インフィニット=ヒート)”』

 

 

 時すらも燃える程に黒く煌めく金燐が、世界を染めて─────後には。

 

 

「……見たかよ。これが本物の絶対零度、これが本物の無限熱量だ」

「……………………」

 

 

 全ての未来が塵芥すらも残さずに消え去った、烏有のみ。如何な不滅の概念を組もうとも、無限の未来の分岐の全てを焼き尽くされてしまえば助かる道理はない。

 

 

《……呆れたものよのぅ、貴様の強情張りにも》

「今更かよ。所詮は俺だぜ? 何に期待してンだ?」

呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっか)────確かにのう! これは(わらわ)が阿呆であったわ!》

 

 

 降り注ぐのはただ、闇夜の静寂(しじま)。その只中に装甲を解いた右腕で、消耗し尽くして動く余力すらない海鳥を抱えた嚆矢が。

 真新しい煙草から万色の紫煙を燻らせながら、悪辣な笑顔を浮かべて立つのみ。

 

 

「………………どう、して……」

 

 

 と、あらゆる意味に聞こえる問いを、海鳥は()()口にする。生命力を削り過ぎて朦朧と霞む意識の中で。

 それを受けた嚆矢は、その言葉を聞いても尚。得意満面のその笑顔を、変える事はなくて

 

 

「決まってンだろ、そんな事────」

 

 

 堂々と、胸を張って────

 

 

「いい歳こいた男が、娘っ子にくらい格好付けて見せなくてどうすんだよ────」

 

 

 紫煙を吐きながら、自嘲するように悪辣な笑顔のままで。まるで舞台俳優のように、気障ったらしく囁いた台詞に。

 

 

『ぼくがきみよりおにいちゃんだから、さ────』

 

 

 先日、失望と共に捨てた筈の遥かな昔日の追憶に。全く同じ意味を口にした彼を、幻視しながら。

 

 

「……はっ、変わンねェなァ……このクソッタレ、がァ…………」

 

 

 馬鹿馬鹿しくなって、弛んだ気概。その為に今度こそ、海鳥は意識の手綱を手放したのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八月四日:『伏魔殿』

 

 

 水滴。一滴だけ、ぽたりと。無窮の虚空から降り注ぐものを思う人もいるかもしれない。或いは、静かに頬を伝うものを思う人もいるかもしれない。そしてこれは、後者だ。

 雲の出始めた夜空の下のとあるビルの屋上、ヘリポートで。自らの最高傑作、そう冠して送り届けた駆動鎧。蜻蛉を象り、学園都市に於いて最強の一つである『原子崩し(メルトダウナー)』をも再現してみせた機体。その無惨な残骸を目の当たりにした、病的な痩躯の技術者の。

 

 

「あぁ…………あぁぁ」

「……申し訳ない、博士。あと一歩、だったのですが」

 

 

 頭を抱え、ガクリと膝を折る。まるで、神に祈りを捧げる殉教者の如く。その様子を後方から眺めていた『彼』が、ばつが悪そうに弁解の言葉を口にすれば。

 

 

「…………ぃ……」

「本当に、申し訳な────」

 

 

 髪を掻き毟り、怒りか哀しみか、肩を震わせた科学者は────

 

 

「────素ンンッッ晴らしいぃぃぃいっ!!」

 

 

 青年の謝罪など馬耳東風、まるで天啓を得た狂信者の如く、歓喜に咽びながら立ち上がる。さながら舞台俳優のように両手を広げ、夜空を仰いで。

 

 

「まさか、まさか我輩のガラクタを返り討ちに出来るとは……素晴らしい、実に素晴らしいのである! こうしては居れん、直ぐにデータを抜き出して再検討である! このガラクタの倍は、性能を底上げせねばならぬであるな!」

「は、博士……?」

 

 

 その、余りの熱狂ぶりを訝しんで。青年は恐る恐ると、大いに引きながら言葉を掛ける。博士────木原痴智(きはら しれとも)は、そんな彼を漸く、居たものと気付いて。

 

 

「ん、君も生きていて何よりであるよ。君以上の才能など、他には有り難いであるからして……ほう、『原子崩し(メルトダウナー)』を凌いだであるか! 一体どんな装甲材、どんな装置であるのやら」

 

 

 実に、あっさりと。青年が生きていた事など、心底どうでもいい風に。懐から取り出した携帯端末、其処から伸ばしたコードを駆動鎧に繋いで操作しながら。

 爬虫類のようにねちっこい瞳を爛々と煌めかせて、画面に表示される英語と数字を流し読みながら。

 

 

「……ふむ、人型での完璧なまでの飛行であるか…………この形状では飛行には向かぬ、さては重力制御であろうか? 背面のジェットエンジンじみた物は姿勢制御の為であるか? そもそも、燃料はなんであるのやら……くははっ、ソソられる、ソソられるではないか! こうでなくては詰まらん、上には上が居らねば────天には、引き摺り下ろす物が無ければな!」

「そうですか────では、これで。ああ、ところで」

 

 

 狂喜に満ちた笑みを浮かべる痴智にあからさまな実験動物扱いをされて、内心腹を立てた青年が踵を返す───その刹那、ふと思い出した事があった。

 

 

「黒夜海鳥はどうしました?」

 

 

 自分に取引を持ち掛けた、あの少女を。天と地、科学と魔術の二段構えを敷いた雇用者。暗部の同朋、同僚を。

 別に特別な感情などはないが、一度乗った船。行く末くらいは気になって。

 

 

「さて、連絡して来ないからには負けたのであろうよ。いや、勝ったからと言って我輩に連絡を寄越すとも思えぬが。詰まり、どうでも良いことである」

「どうでも良いとは、また。貴方の最高傑作、なのでは?」

「ふむ? 何度言わせるのであるか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と申しておるのであるよ、我輩は」

「っ……そうですか」

 

 

 対する、あまりにそっけない物言い。要するに『また新たな最高傑作を作れば良い』との意味の言葉に、さしもの青年も絶句して肩を竦めたのみで。

 今度こそ、歩みを止める事はなく。一刻も早く立ち去りたい、とばかりに。

 

 

「ではな────()()()()()()()()のである、シルバークロース=アルファくん?」

 

 

 最後のその声が届くよりも早く、青年────シルバークロース=アルファの姿は、夜の闇に消えたのであった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 水滴。一滴だけ、ぽたりと。無窮の虚空から降り注ぐものを思う人もいるかもしれない。或いは、静かに頬を伝うものを思う人もいるかもしれない。そしてこれは、前者だ。

 その滴を鼻先に受けて、嚆矢は鼻を拭いながら日付を跨いだ夜空を見上げる。西からの叢雲が煙るように立ち込め、煌めきの一つすら無い無明長夜の只中で。万色の紫煙を吐きながら、窓の桟に腰掛けて。

 

 

「………………」

 

 

 右手を見遣る。握り、開く。どうやら今回は鎧を纏っていた事が幸いしたか、多少の怠さを除けば異常はないと言って良い。

 くい、と缶ビールを煽る。熱いシャワーを浴びて浄めた体、その熱を夜風と冷えた麦酒が冷ましていく。身体中に刻まれていた争いの痕跡も、元々常人離れしていた回復力と『白樺(ベルカナ)』のルーンにより瘡蓋となっている。流石に、ヒビの入った肋骨まではまだまだだが。その痛みをも、酒精が紛らわせてくれる。

 

 

「うむ、現代の酒も中々に佳いものよ。甘露甘露、呵呵呵呵(かっかっかっか)

「そういや、お前が安土で飲んでたあのワイン……真逆(まさか)とは思うけど、相当なヴィンテージなんじゃ?」

「儂は古いものより新しいものの方が好きじゃからな、骨董の付加価値などに興味はないのう」

 

 

 下ろした缶ビールが、横から拐われる。拐われたと思った時には、桜色の唇が飲み口に。白い喉をぐびりぐびりと、艶かしく蠢かせて。

 誘うように撓垂(しなだ)れ懸かる、膝の上の紅い襦袢姿の市媛の深紅の眼差し。それを受け流しながら、桟に置いている灰皿に灰を落とす。

 

 

 場所は学園都市で最悪の治安を誇る第十学区、男女の()()()()()に使われる雑居ビルの一室。壁一面、漆黒。まるで墨汁を流したかのような。

 余人には分かるまい、それは(まじな)いの結果。この部屋の内と外の位相をずらし、不可知とする言霊の魔術。『耳なし芳一』の話の如く、びっしりと幾万幾億もの真言に塗り潰された結界だ。次元そのものをすり替える魔術、最早この空間は外部からは関知すら出来ぬ、孤立した異界だった。

 

 

「これには手を焼かされたわ、比叡山攻めと本願寺攻めの時にの」

「魔術……ってか、仏教の法術か。確かに、仏敵・第六天魔王波旬にはキツいだろうな」

「おうとも。まぁ、その為に“神野悪五郎日影(しんのあくごろうにちえい)”を用意したのじゃがな」

「“神野悪五郎日影(しんのあくごろうにちえい)”?」

「言っておらんかったか、あの大鎧の銘じゃ」

 

 

 “神野悪五郎日影(しんのあくごろうにちえい)”、天竺(インド)から中国、そして日本を支配すると言う魔王。『異境備忘録』に拠れば十三の悪魔の棟梁の一体で、その第六位であるとされている。

 

 

『てけり・り。てけり・り!』

「うむ、今回は主もようやったの。誉めて遣わすぞ。無礼講じゃ、好きなだけ食うがよい!」

 

 

 と、広口の洋盃に金平糖を溢れそうな程盛ったものを、何処からともなく取り出して摘まんでいる彼女。其処から一つ、右手で摘まみ取る。噛み砕けば、仄かな甘味が鼻孔に抜ける。

 同じように、二人の影から沸き上がったショゴスが多数の偽足でそれを摘み上げ、裂けるように現した乱杭歯の口で頬張っている。凄い勢いで減るが、無くなる前に涌き出るかのように金平糖は尽きない。

 

 

「へぇ、じゃああの“第六次元の魔王(ラグニル)”ってのは?」

「あれは騙りじゃと説明したじゃろ。御主の決意を測る為の、のぅ。しかしまぁ、次元を操ると言う能力の絡繰自体は有る故、それが“第六次元の魔王(らぐにる)”であるとも言えるか」

 

 

 ふむ、と思案顔を見せた市媛が洋盃を足で支え、懐から新たに取り出したもの。虹色に煌めく黄金、その『塊』は────

 

 

「これが“神の血晶(らぴす=さぎー)”……大鎧の、否、“悪心影(あくしんかげ)”の核じゃ。これを破壊されれば、如何な(わらわ)と言えども混沌にすら戻れずに消える」

 

 

 一般的には『カラビ=ヤウ多様体』と呼ばれるソレ。スカスカの海綿か何かのようにも見える、幾何学的な形状の。有機物とも無機物とも言えぬ、妖しく悍しい光沢を放つ、掌ほどのサイズの『獅子の心臓(コル・レオニス)』。

 

 

「……そんな大事なモンは仕舞っとけよ。ブチ抜かれてからじゃ遅ぇぞ」

呵呵(かっか)、その程度で死ぬるのならば儂もその程度と言う事。それに───」

 

 

 『それに』と、嘲笑を吹き消して。真面目な表情で、彼女は彼を見遣る。蜂蜜色と深紅の視線、真っ直ぐに。決して逸らさず、離さずに。

 

 

「それに、貴様には教えねばなるまいて。我が同朋よ、東方薄暮騎士よ。“虚空の年代記(あかしゃ=くろにくる)”を紐解く旅人よ」

「…………お市」

 

 

 顔形ではなく、まるで心の奥底────否、その深淵に潜む魂を見透かすかのような強い眼差しに。戦国の魔王と自他共に認める、織田弾正の片鱗を見て。

 

 

『てけり・り! てけり・り!』

「…………食われてるぞ、核」

「……………………」

 

 

 『これめっちゃうめぇ!』とばかりに血眼で、市媛の携える“神の血晶(ラピス=サギー)”に齧り付いているショゴス。それはもう喜色満面、血晶どころか市媛の手まで呑み込んでいて。

 最後に、プッ、と異形の粘液に塗れた彼女の手だけを解放する。市媛はそれに、ふっ、と涼しげな笑顔を見せて。

 

 

「────吐けぇぇぇっ! 吐かぬか、このうつけぇぇぇっ!」

『でげり゛?! り゛り゛り゛り゛り゛!?!』

 

 

 むんずと掴むと、びたんびたんと床に壁にと代わる代わる叩き付けて。終いには涙目のショゴスの口に腕自体を突っ込んでまさぐり、取り返そうとしていた。

 そんな騒ぎを見ながら、残りの麦酒を煽って。正に、その瞬間。

 

 

「…………で、いつまで私はテメェらのコントを見せられてりゃいいんだ?」

 

 

 掛けられた氷点下の声色と眼差しは、部屋の奥から。キングサイズのベッドの上に転がされ、右と左でそれぞれの手首と足首を拘束された海鳥の。

 

 

「ああ、気ィ付いたンだ? ンなら、お待ちかねのR18タイムだなァ」

 

 

 それを確認して、口角を吊り上げた悪辣な笑みを浮かべながら。嚆矢は、フィルター間近となっていた煙草を灰皿に躙り消して────

 

 

………………

…………

……

 

 

 水滴。一滴だけ、ぽたりと。無窮の虚空から降り注ぐものを思う人もいるかもしれない。或いは、静かに頬を伝うものを思う人もいるかもしれない。しかし、これはそのどちらでもない。

 “魔女”と呼ばれた女が持っていたグラスの結露、その滴だ。グラスの内の氷と、夏の湿気と温度との差違が産んだ一滴だ。一枚板のテーブルに染みを残し、儚くも消えてしまったものだ。

 

 

「じゃあ、お暇するわ。そろそろ、人の世に帰る時間だし」

「ええ。名残惜しい限りですが、無粋は申し上げませんよ」

 

 

 立ち上がり、代金を────古めかしいセントゴーデンス20ドル金貨……現在の価値では幾らとなるだろう、二羽の鷲が刻印された金貨を置いた魔女キザイア。それを受け取り、にこりと店主アンブローゼスが微笑む。

 

 

「またお会いできる日を心待ちにしておりますよ、お嬢さん(レディ)?」

「冗談。盲目の邪神狩り(クトゥルフ・ハンター)が入り浸るような店なんかに、そうそう顔を出せるもんですか」

 

 

 悪戯っぽく笑う彼に、魔女は心底辟易した声を返す。見詰める先には、カロン、と。今正にテーブルに置かれたかのように揺れる、丸く削った氷を浮かべるロックのブランデー。

 

 

「この“昏い同朋団(ダァク・ブラザァフッヅ)”の店内では私が法です。勝手は彼にも貴方達にも、“旧支配者(グレート・オールド・ワン)”や“外なる神(ストレンジ・アイオン)”にもさせませんよ」

「貴方が言うと、冗談じゃないわね、トリスメギストス、カリオストロ。“黒い男(メン・イン・ブラック)”、“黄金薔薇十字(ローゼンクロイツ)”────“二重螺旋数式(クルーシュチャ方程式)”?」

 

 

 それに、忍び笑うような声。店主の口元から? それとも────この店の中に集う、捻れた木や小人、海月のような。見えざる異星の者達から?

 

 

「では、また。キザイア────基材滅存(きざい めつぞん)女史、ミスター・ブラウン・ジェンキンス」

 

 

 掛けた声、投げられた胡桃。それは、魔女の背中に向けて放物線を描き────

 

 

『キキィ』

 

 

 頭を起こした襟巻きに、ニタニタ笑うような、悪意溢れる戯画じみた人面に。

 燃え盛るような三つの眼差しを浮かべる人面栗鼠“ブラウン・ジェンキンス”に掴まれて、がりりと噛み砕かれたのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断章 アカシャ年代記=Akasha-Chronicle
??.----・error:『Nyarlathotep』Ⅷ


 

 

 深夜の闇底に、蠢くモノがある。それは酷く弱々しく、這いずるように、路地裏に(わだかま)っている。

 

 

『オ、オノレェェ……二度ナラズ三度マデ……!』

 

 

 ぐずり、ぐずりと。形を成そうとする端から崩れ落ちながら。死に物狂いで、半死半生で。半壊した廃墟ビルから逃げ出してきたソレは、呪いめいた言葉を吐きながら。

 

 

『オノレェェ……命ガ足リヌ……! コノ際、質ハ問ウテハオレヌ……何処ノ馬ノ骨デモ良イ、贄を補充して……次コソハ喰ロウテヤルゾ、嚆矢ィィ!』

 

 

 如何なる埒外の御技か、未来を焼き尽くす無限熱量から生還を果たした“妖蛆の秘密(デ=ウェルミス=ミステリィス)”は、まだまだ人が居るであろう表通りに向けて這いずり、這いずり────

 

 

────いいえ、虚無へ。

 

 

『────誰ダ! 誰ダ、貴様ハ!』

 

 

 耳ではなく、魂に響く声を聞いて。在りもしない目を、周囲に巡らせて。

 

 

────可哀想、可哀想。憐れな憐れな、蝿の王(ベルゼビュート)のなり損ない。光に背いた貴方、断罪の時が来たわ。貴方の道は此処で終わりね。

 

 

『キ────貴様、ハ』

 

 

 背後の闇、路地の闇の彼方に見付ける。嗚咽を堪えるかのように口許を両手で抑え、嘲笑に肩を揺らすエプロンドレスの少女を。

 その瞳、硝子玉のような人造めいた光に。射抜かれるように、見定められて。

 

 

『ヒッ────イヤダ……イヤダイヤダイヤダァァァァ!』

 

 

 だが、嗚呼。その女は、彼が求めるような生け贄ではない。確かに匂い立つように美味そうな娘ではあったが、正気を失いそうな程に魔の香りを湛えた女だった。

 怯え、喚き、脇目も振らずに。ただ、光に向けて逃げ出す。だから、彼は光の元に辿り着く。

 

 

Sancta Maria(さんた まりや) ora pro nobis(うら うら のーべす).Sancta Dei Gentrix(さんた だーじんみちびし) ora pro nobis(うら うら のーべす)

『────────!?』

 

 

 そう、辿り着いたのだ。彼を────否、一切の闇の存在を許さぬ、凄烈極まる光の元へと。

 

 

Sancta Virgo virginum(さんた びりご びりぜん) ora pro nobis(うら うら のーべす).Mater Christi(まいてろ きりすて) ora pro nobis(うら うら のーべす).Mater Divinae Gratiae(まいてろ ににめ がらっさ) ora pro nobis(うら うら のーべす)

『ア、アァ……アアア…………』

 

 

 悍ましいまでに美しい声で、実父(ちちおや)から習った隠れ切支丹(キリシタン)祈祷(オラショ)を口遊みながら現れた、場違いな娘の元へと。

 

 

Mater purissima(まいてろ ぷりんしま) ora pro nobis(うら うら のーべす).Mater castissima(まいてろ かすてりんしま) ora pro nobis(うら うら のーべす).」

『ア────アァァァァ……!!』

 

 

 降り始めた雨に、ビニール傘を差して。もう片方の手に、そこらのコンビニで五百円もせずに買えるような()()()()を携えた娘の元へと。

 

 

Amen Jesus Maria(あんめいぞ いえぞす まりあ).」

 

 

 陽光の如き金髪に、蒼穹菫(アイオライト)の瞳の“魔剣巫女(ドリアード)”対馬 弓弦の元へと、辿り着いたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 漆黒に包まれた室内に、湿った声が響いている。強く押さえ付けた喉から漏れる、女の艷声(あでごえ)だ。

 

 

「ン────くっ、ふゥっ!」

「ン? ははっ、頑張るねェ」

 

 

 俯せに、ベッドに突っ伏して。両の手足を拘束され、尻を突き上げるような体勢で。噛むような勢いで頭を枕に埋めて、呻く彼女。時折、びくりと不随意の反射に身を竦ませる、海鳥。

 その背後より、捉えた仔猫をいたぶる狼のように。嗜虐に蜂蜜酒色の狼瞳を炯炯と滾らせる嚆矢は────

 

 

「そ~ら、次は土踏まずからの……親指と人差し指の間だ!」

「ひあっ────ふにゃあっ!?」

 

 

 手にした毛むくじゃら……猫じゃらしめいたもので、その小さな足の裏の窪み。即ち土踏まずをこちょこちょと擽り、間髪入れずに、逃げようとでもするようにわきわきと蠢く足の指の隙間に突っ込んで刮ぐように動かす。

 すると効果は覿面(てきめん)。堪えきれず、海鳥は遂に跳ね上がるように(おとがい)を反らし────猫耳ヘアバンドに赤い首輪を付けられ、両掌を肉球の付いた猫の手の手袋に包まれた姿の海鳥は、尻尾を踏まれた猫のような声を上げた。

 

 

「おやおや、これはまた()い声が漏れたのう。その姿の通りによう似合(にお)うておるぞ、雌猫の鳴き真似がの? 呵呵呵呵(かっかっかっか)

「くっ────!」

 

 

 あからさまなまでの市媛の嘲弄に、歯を食い縛って睨み返す。気絶したショゴスを敷物のようにして寝そべり、観覧する彼女へ。だが、悲しいかな。今の姿では迫力も何も有ったものではない。

 しかし、効果はある。その反骨心、それに嚆矢と市媛の嗜虐を煽る効果は。

 

 

「しかし、連れ込み茶屋でこんなものを貸し出しておるとは……たった数百年で日本(ひのもと)も変わったものよ。というか終わっておるのう、一度滅んだ方が良いのかもしれんのう……」

「はっはっは、素晴らしいよな。流石は報恥(ほうち)国家日本」

 

 

 感心したような、呆れたような声色と表情で市媛が溜め息を溢す。無論、呆れの方がどう見ても色濃いが。その合間も、責めの手は休めない。こちょこちょと、毛並みとは逆に踝の部分を擽る。

 

 

「くっ、ふっ……何で、畜生……っひゃ!?」

 

 

 そしてその度に娘は拘束された身を捩りながら、一文字に結んだ可憐な唇から嬌声を漏らす。我が身、機械化して感覚や意識のオンオフすら意のままである筈の体の、不随意の昂りを堪えきれずに。失神という名の解放に、逃避する事も出来ずに。

 

 

「無駄無駄、今のお前の体は俺の能力(スキル)の虜だ。身動き取れねェだろ? 俺の指示の方が上位司令(コマンド)になるように、感度は三千倍になるようにバグらせてあるからな。機械化したのが裏目に出たなァ、海鳥ちゃあん?」

「ふぅぅっ! くっ…………」

 

 

 肋骨の浮く横腹を猫じゃらしで撫でられ、肌を粟立たせながら体をくねらせる。その度、嘲笑う声を浴びて。小さな尻を此方に向けて、誘うように振って見える姿。幼い外見と反抗的な態度に似合わぬ媚を売るような仕草に、知らず嗜虐心をソソられて唾を飲む。

 海鳥は恥辱に涙目で呼気を震わせ、射殺すような視線を背後に向ける。逆効果だとしてもそれ以外に出来る事が無く、凌辱を受け入れるのみ。

 

 

「さて、そろそろ吐く気になったかなァ? 真逆(まさか)、個人であんな駆動鎧を運用出来る訳は無ェ、お前のバックに付いてる組織は何だ?」

 

 

 そこで、手を止める。答えられるだけの酸素を取り入れる暇を与える為に。

 

 

「っざけんな、くそったれが……! 私も暗部の一人だ、誰が────あひゃあぁっ?!」

 

 

 言葉の途中で脇を擽られ、鼻に掛かったあられもない声が出てしまう。狙い済ましたかのように、否、狙い通りに。

 

 

「ンー、俺が聞きたい言葉じゃないなァ。これはもう少し体に聞かないと。仕方無いな、テロリストにはジュネーブ条約は適用されないしな」

「~~~っ、~~~~~!」

 

 

 それに気付き、彼女は顔を枕に埋めて声を封じる。今更手遅れだが、そんな無意味な抵抗にこそ愛おしさすら感じる。例えるなら、憐れな町娘の帯を引っ張る悪代官の愉悦と言ったところか。助けの方は、来る当てもないだろうが。

 

 

「しかし、やっぱり疲れるなァー。これじゃ効率悪いし……」

「っ……?」

 

 

 と、やにわに責め手を止める。それに海鳥が枕から顔を覗かせ、どんな心変わりかと猜疑に満ちた顔を見せるくらいに唐突に。

 そんな彼女に、うーん、と伸びをして見せながら。

 

 

「スイッチオーン。ついでにもう一本、追加しとくかァ」

「─────っ!!?」

 

 

 持ち手のスイッチを入れれば、細かく振動し始める猫じゃらし。それを更に一本追加した二刀流で、怯えすら見せる海鳥を見下ろして……。

 

 

………………

…………

……

 

 

「今晩は、魔導書さん。先ずは、兄さんの階位を上げる役に立ってくれて有難う」

『……ヒ……ヒィィ……』

「で、本題。“兄さんは何処?”」

 

 

 言葉は、飾りでも何でもなく衝撃そのものだった。否、衝撃等とは生易しい。紛う事無き魔導書(グリモワール)である筈の彼が圧倒される程に、苛烈な爆撃だ。

 一言毎に、平伏したくなる。一言毎に、自決したくなる。最早、その問い掛けは問答ではなく拷問だ。それを、防ぐ手段もなく魂に叩き込まれて。

 

 

『シ、知ラヌ……私ハ、何モ知ラナイ……気付イタ時ニハモウ、居ナカッタ』

「…………チッ。役に立たないわね。だから捨て駒にされるのよ、この無能」

 

 

 だから、一も二も無く真実を。逆らう意思すら、既に挫かれて。失望に染まる娘の顔だけに、恐怖と絶望を見出だして。

 

 

「“贋作魔剣(グラムフェイク)光之利剣(クラウ=ソラス)”…………じゃあね、魔神の失敗作の失敗作。次の輪廻では、まともに生きられると良いわね」

 

 

 下された裁決、否、始めからそうなると分かっていた事柄だ。面倒臭げに懐中電灯を大上段に構えるその姿勢────その僅かな間隙こそ、彼が狙っていたもの。

 

 

「死ィィィ────ネェェェェ!」

 

 

 その空隙に、“妖蛆の秘密(デ=ウェルミス=ミステリィス)”は残された全力を発する。無数の白蛆、その顔容を破裂させながら発された『零下の氷山棺(イイーキルス)』。

 普く全てを凍結、埋葬する氷点下の棺を無数に放ち────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──────────────“闇ニ光在レ(イェヒー=オール)”」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実母(ははおや)から伝承せし、空間自体を埋め尽くす神代の魔剣。その煌めきを模した、贋作魔剣(グラムフェイク)の輝光。世界そのものを光子に還す魔剣が、煌めいて─────………………

 

 

────魔剣の話をしよう。魔剣とは論理的に構築され、理論的に行使されなくてはならない。

 

 

「“俊英は(The paradox)────”」

 

 

 振り抜かれた光の剣戟は縦一閃、両断された氷点下の槍襖は雲散霧消。確かに()()を取った筈の魔導書は、確かに()()に回った魔剣巫女の“魔剣論理(イマジン=ブレイドアーツ)”に絡め取られて。

 

 

「“────鈍亀に追い付けない(Achilles and turtle)”」

 

 

 消える。あらゆる意義が、光に融けていく。最早“不死身の魔導炉(グリモワール)”といえども、如何にしても逃れる術はない。有り得ない。

 ただ、絶対的な『勝利』を象徴するケルト神話の四至宝の一つ。贋作ではあるが、“銀盾義手(アガートラーム)”ヌァザの聖剣“クラウ=ソラス”の光に包まれながら。己に刻まれた不死身の根幹たる、『虚空に実体を投げ掛ける影』の一(ページ)が消え逝くのを実感するのみ。

 

 

『アァ…………』

 

 

 見えるのは、煌めき。何処までも凄烈で、凄絶な、夜明けを告げる朝陽のような──────或いは、黄昏のような。その輝きの果てに、確かに彼は……“妖蛆の秘密(デ=ウェルミス=ミステリィス)”は、幻の如く儚いながらも確かに見た。

 少女の頭上と背中に浮かぶ、『(無限)』の記号の如く捩れた“天使の光輪(エンジェル・ハイロゥ)”と六対十二枚の天使の翼。黒と白の、神聖と堕落の有り得ざる二律背反。まるでそう、天使と堕天使の重なり合ったかのような。

 

 

『アナタ様、ハ…………』

 

 

 見た。確かに、見た。その背後、輝きの彼方に潜む、()()()()()()()()()()()()を。『何故此処に居るのか』と惑乱しながら、『逆らえぬ筈だ』と納得しながら。

 

 

 嗚呼、嗤っている。顔なんて無い癖に、忍び嗤っている。この夜の闇の中を、音も無く舞う無貌の蝙蝠鬼(ナイトゴーント)どもが。『愚かな虫けらめ、分際を知れ』と見下しながら。()()を愛撫するかのように、地を這う我々を。

 銀の義手の右腕を振り上げた、白い髭を蓄えた厳めしい老爺の機嫌を窺うように、媚びへつらって。舞い踊って。

 

 

『アナタ様ガ、“銀腕ノ(ノーデン)────────』

 

 

 古く、余りに旧く。最早誰も覚えていない、“旧き神”の名を。恐るべき、無慈悲なる大洋の覇神の名を口にしながら、今度こそ─────その全ては、光の彼方に失せ果てた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 監視映像から、朝方のニュースばかりの番組編成となったテレビをぼんやりと眺めながら、()()()の店番の男は欠伸を噛み殺して缶ビールを啜る。

 

 

「……ったく、やってらんねーぜ」

 

 

 今日も今日で、詰まらない一日だ。夜勤が明ければ昼間で寝て、また夜勤。下っ端の彼は、いつも忙しく面倒なこの時間帯を押し付けられる。かといって、落第した彼は労働無くして学園都市では生きられない。

 いっそ強力な能力者や規格外の身体能力などがあれば一旗揚げる事も出来るだろうが、残念ながら無能力者の一般ピープル。無理に重ねて無理だ。

 

 

 だから出来る事と言えば、こっそり監視カメラの映像をダビングして持ち出し、小金を稼ぐ程度。今日はその点、高値で売れそうな面子の部屋があったので期待していたのだが。

 

 

「まさか、ピンポイントで壊れてやがるなんてよぉ……マニア垂涎の3P画像だったろうっつーのに……ハァ、何か面白ぇ事ねぇかなぁ」

 

 

 忌々しげに、携帯端末の動画を見遣る。ダウンロードされた動画は黒一色、何も見えはしない。

 それに、ハァ、と溜め息を溢して。山と積もった灰皿から、比較的吸うところの残っているシケモクに再び点火して。口内を満たす紫煙を、虚空に吹き出し────

 

 

「────マジで? 俺にも見せてくんない?」

「ウヒッ────あ、お、脅かさねぇでくれよ、(アン)ちゃん!」

 

 

 その紫煙の彼方からにこやかに笑いながら声を掛けてきた嚆矢に、後ろめたさの分だけ、心臓が飛び出しそうな程に驚かされて。カウンターに差し出された鍵を見て、慌てて平静を繕う。

 

 

「ハイ、確かに……楽しめましたかい?」

「そりゃあもう、心ゆくまで堪能したさ。なぁ?」

「うむうむ、佳き時を過ごしたわ。呵呵呵(かっかっか)

 

 

 朝方だと言うのに、極めて爽やかに。肌を艶々させながらサムズアップして見せた亜麻色の彼と、何時から居たのか、艶やかに忍び笑った和服の彼女。

 そして────

 

 

「っく……テメェら、いつか絶対に殺してやる……!」

 

 

 壁に寄り掛かるようにしてフラフラと、腰が抜けたかのように危うい足取りで歩く、モミアゲのみを金髪に染めた黒髪の少女が続いた。

 

 

「そりゃあ楽しみだ。んじゃ、次もまた今晩みたく可愛がってやるよ」

「っ────ひゃ!?」

 

 

 そんな怒りと憎しみの入り雑じった眼差しに、鷹揚な嘲笑を向けながら歩み寄って髪を撫でる。海鳥は逃げる事も出来ずにそれを受けるしかなく、声を上げさせられてただ睨み付けるだけ。

 

 

「んじゃ、また来るかもだから。その時は頼むな」

「くっ、クソ……離せ!」

「あっハイ、お待ちしてます」

 

 

 それに店番の彼は営業スマイルを向けつつ、内心では『ロリコン野郎が』と唾棄しながら。

 腰砕けの海鳥を小脇に抱え、澄まし顔の市媛を傍らに伴って。出入り口に去り行く嚆矢から意識を逸らした────その目線に、ヒラヒラと舞う黒い切れ端。

 

 

「…………?」

 

 

 まるで意思を持つかのように、ひらりひらりと出入り口に向けて舞う、それは────黒い揚羽蝶(アゲハチョウ)。『烏揚羽(カラスアゲハ)』と呼ばれる種類だと、彼は少年時代に読んだ図鑑の事を思い出して。

 それが、市媛の和服。彼岸花を染め抜いた漆黒の着物の裾。破れたかのように欠け、深紅の襦袢が覗いて見える其処に止まり────

 

 

「えっ?」

 

 

 目を疑う。確かに、今まで蝶だった筈のそれが──羽を休めるように止まり、衣服の一部と化した事に。

 

 

呵呵(かっか)────』

 

 

 驚き、思わず声を上げた。上げてしまった。混沌はそれを聞き逃しはしない。否、聞き逃さないと言うのであれば、きっと最初から。

 その耳に、忍び笑う声が届く。地獄から届くような、凍えた焔のようなその響きが背後から、彼は一瞬で蛇に睨まれた蛙のように竦み上がって。

 

 

『出歯亀をしたくなる気も解らんでもないが────絡繰任せとはのう。大和男子ならば自ら出向かぬか、うつけめ。そうしておれば、見せてやらんでもなかったものを』

 

 

 その代償が何であるか等、考えるまでもない。人間として、平穏な死を迎えたいのならば。首を突っ込むべきではない、死よりも悍ましい世界を知りたくないのならば。

 

 

 くつくつと、限りない邪悪を湛えた声が、ガタガタ震えながら脂汗を流す彼の真横で囁いている。もしも振り向いてなどいれば、その無尽の悪意の正体を見ていた事だろう。体は動かないが、首から上は動くのだから。

 そしてそうしなかった事は彼の人生の中でも一二に入る僥倖だったと、後に彼は知るだろう。今、己の背後に立つ『影』は、知れば日常を保てなくなるモノだったと。

 

 

『ではのう。運が有れば、次もまた会えるやも知れぬぞ? 呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっか)…………』

「…………っ、あ」

 

 

 耳元の声が去り、拘束も消える。自由になった体で、狂ったように脈打つ心臓に喘ぎながら。

 

 

「────」

 

 

 閉まりかけている出入り口の自動扉、その僅かな隙間。そこから振り向き様、燃え盛る三つの眼で嘲笑していた市媛……人間が生きる上で知る必要の無い、もしも知れば異常に巻き込まれて帰れぬであろう“悪心影”を、この世に蔓延る『混沌』の一部を垣間見て。

 あの非日常は、この日常を犠牲にしてまで覗く価値があるのか。それを鑑みて。

 

 

「…………辞めるか」

 

 

 この仕事を、学園都市を。そして真っ当に、外の世界で今からでも大学に通おうと。心に決めたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、午前四時半。場所、第十学区大通り。白み始めた空は、千切れた美しい雲の模様に彩られている。そこで漸く、嚆矢は海鳥を解放した。

 

 

「さて、此処からなら自分で帰れるよな?」

「……………………」

 

 

 問い掛けに返る言葉はない。彼の小脇から解き放たれた彼女はぐったりと、力無く倒れ伏したのみで。

 

 

「おい、大丈夫か─────?」

 

 

 それは思わず、そう心配してしまう程で。だからこそ、拭い難い隙が、其処に生まれて。

 

 

「死ィィィ────」

 

 

 刹那、『窒素爆槍(ボンバーランス)』が海鳥の右掌に集う。魔術による氷点下のものでも、既に取り外されている“火の石”によるものでもない、純粋に彼女の超能力(スキル)による高圧窒素の槍。

 それは過たず嚆矢の顔面に向けて、まさに今、放たれて────

 

 

「にゃァァァァ────っ?!」

 

 

 その正に直前、ぽすん、とばかりに間抜けな音と共に消える。掌が、肉球付きのグローブで覆われた為に。

 

 

「にゃ────にゃんだ、これは!?」

 

 

 否、それだけではない。左掌にも同じく、更には尻の辺りから猫の尻尾、頭には直接猫耳が生えて。しかも『な行』まで『にゃ行』に変わっている。

 最早、誰がどう見てもコスプレイヤーである。人通りが少ない事だけが、今の彼女の救いである。

 

 

「あぁ、それね。ほら、後々付け狙われたりしても面倒だろ? だからちょっと、俺と俺の関係者を襲おうとした時はそうなるようにしてみました」

「てめぇは鬼ぃかぁぁぁっ!」

「心配すんなよ、一時間もあれば元に戻るから」

「一時間も!?」

 

 

 そしてその元凶は、からからと笑うのみ。そして、目の前の黒猫の頭に右手を置いた。

 

 

「ご褒美だよ、ご褒美。俺の責めに屈しなかったお前に、な」

「くっ…………!」

 

 

 それは、雑じり気の無い称賛。数時間にも及ぶ責めに耐え、一切の情報を吐かなかった彼女への。

 抵抗すら出来ない彼女の、艶やかな黒髪を撫で梳く。たった一人の男に逆らえぬ屈辱と子供扱いされる羞恥に悶え、頬を染める海鳥を。

 

 

『……■ぃに…………』

 

 

 その様に、何か────忘れてしまった、思い出したくない記憶をフラッシュバックさせる程に。

 

 

「……まぁ、暫くは大人しくしてろよ。俺の首なら、用が済んだ後にくれてやる機会くらいはやるからよ」

 

 

 その感傷を振り払う為に、名残を惜しむ右手を離して。一言も発さぬままに先を歩いていた市媛を追って、歩き去る。

 

 

「…………っ、クソが」

 

 

 ただ一人、朝日に照らされる黒猫のみを残して。その二人の悪逆無道は、僅かな夜の闇の残り香に消えていった。

 

 

 その闇を見据え、黒猫は呟く。

 

 

「……………………てめぇか、“黒扇の膨女(ブローテッド=ウーマン)“」

「────ええ、好久不见(お久し振りですね)。海鳥」

 

 

 嘲りと共にその女は来る。空の果てから? 海の底から? 否、闇の残滓から滲み出る。海色のチャイナドレスを身に纏い、漆黒の扇を口許に広げた、眼鏡の女が。

 

 

「あんなに支援してあげたのに、負けてしまうなんてね。悪い子、駄目な子猫ちゃんね」

 

 

 淀み、腐りきった潮の香りを漂わせる、その女が。嘲笑を湛え、ひたり、ひたりと足音を響かせて来る。

 主は帰還せり(ザ・ロード・ハズ・カム)主は帰還せり(ザ・ロード・ハズ・カム)。絶望は今、此処にあり。

 

 

「アナタは失敗した、アナタは失敗した。嗚呼、アナタは失敗した。だったら、罰を受けないと」

「…………畜生、が」

 

 

 くすくすと、海鳥を見据えて。眼差しの嗜虐、ユークリッド空間すら歪めて。遥か大西洋の底に沈むと言う、螺湮城(ルルイエ)の風景を透かして。

 それだけで、海鳥は末路を悟る。日常を捨てて、異常を得た己の末路を。人間として、死を迎える事を捨てた代償を。

 

 

 目の前に迫る『混沌』の一部を、せめて瞠目したままに。反対の腕の漆黒の扇、海鳥に向けて。ゆるりと口を動かす、女を見詰めたまま────

 

 

「…………なのだけれど。残念ね、アナタは守られてる。感謝しなさいな、私達の生け贄に。そのショゴスの欠片さえなければ、私の“九頭竜(■■■■■)”の贄にしてあげたのだけれど」

「…………?」

 

 

 訝しむように、海鳥が後ずさる。しかし、“黒扇の膨女(ブローテッド=ウーマン)”は動かない。見詰めるのは、海鳥ではなく────その、掌や尻尾、耳。それに、酷く煩わしそうに眉根を寄せて。

 

 

「─────っ!」

 

 

 その一瞬に、脱兎の如く走り去った海鳥を見送る。ただただ、煩わしそうに。ただただ、一言。誰も居なくなった虚空に、申し開くように。

 

 

「…………本当、アナタは変わりませんのね。叔父上様?」

 

 

 その存在を、歪んだ世界に溶かして消えた…………。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四章・Chapter Ⅳ “妹達”=Sister's Noiz
八月十日:『陽光と、日陰と』


 

 

 轟音、閃光。巨大な機械から音を越えた速度で走った一閃は、過たず獲物を捉え────閃光、轟音。跳ね返った一閃は過たず射手を捉えて、鉄屑とプラズマの爆轟を撒き散らす。

 

 

「か────あ、は」

「……チッ。こんな事をチンタラ続けて、本当に『進化』なんて出来ンのか────ねェ、っと」

 

 

 ブラックの缶珈琲を啜りつつ煩わしそうに歩く白髪の少年は、歩調を変える事はなく。熔けて崩れた残骸に埋もれるように、焼け焦げて死戦期の呼吸と痙攣を繰り返す『肉塊』を無慈悲に踏みつけて────血飛沫と共に、無感動に微塵の肉片(ミンチ)へと変えた。

 

 

「……“折り返し(トランスポンダー)”より報告。第九九八三次実験『陽電子砲反射テスト』の終了を確認、予定通り五時間後に第九九八四次実験を開始します」

「へいへい、こンだけ時間掛けてまだ半分……かァ。まだまだ先は長ェなァ?」

 

 

 そしていつも通り、後始末に現れた実験動物(モルモット)の群れ。薄緑に発光する軍用ゴーグルを嵌めた、常盤台の制服を纏う、茶髪のショートヘアが数十人。一様に無感情な、機械のように単調な動きで。

 それを率いる少女の言葉に、げんなりと肩を竦めて。缶コーヒーを飲み干した彼は、路地裏を歩く。

 

 

「あと、十七人で────漸く“折り返し地点(テメェ)”かァ……長い付き合いだからなァ、死に方くれェは選ばせてやるぜェ?」

「……………………」

「ありがたくて言葉もねェってかァ? ヒャハハ…………!」

 

 

 そのすれ違い様に、少女の肩を掴んで。耳元に寄せた口、三日月のように歪ませて。一瞬だけ、びくりと肩が揺れたのは。

 

 

「次の実験の開始時間は四時間五十八分後です。早めの用意をお願いします」

「……ハ。理解(わァ)った理解(わァ)った、次も一丁ド派手な前衛芸術にしてやるよォ」

 

 

 果たして、気のせいだったのだろうか。少女は変わらず、機械じみた抑揚の薄い口調で呟いたのみ。

 それに白けきった顔で、少女を突き放した少年が歩いていく。心底面倒そうに、肩で風を切りながら。

 

 

「……………………」

 

 

 残された少女は、空を見上げる。明け方の、一番暗い、忌まわしい闇空を。無表情に、何処までも無感動に。

 荒野に放たれた贖罪の山羊(スケープゴート)の如く。祭壇に捧げられた生け贄の彼女は。

 

 

「…………っ」

 

 

 最後に、一度だけ。呼吸を外した。何故か? 理由は明白だ。恐らく、彼女以外に気付いた者は居まい。軍用の電磁波観測機能付きのゴーグルと、彼女の『特徴』である『通信と観測に特化した欠陥電気(レディオノイズ)』であればこそ。

 

 

「…………あれは」

 

 

 それ程に高度な隠行(おんぎょう)を成して────音もなく空を翔けた、月の光を一瞬だけ照り返して煌めいて見えた()()()()()に。

 

 

「……白い(ホワイト)騎士(ナイト)?」

 

 

 寝起きの譫言のように、神への真摯な祈りのように。小さな声を漏らして────。

 

 

………………

…………

……

 

 

 夏の、蒸し暑い夜空を翔ける刃金に纏わり付く熱気を切り裂いて、“神野悪五郎日影(しんのあくごろうにちえい)”が第六学区の廃ビルに降り立つ。五体満足の全高十尺(3メートル)近い巨躯に加えて、その重厚な鎧兜。それでも足場が崩れるどころか揺らぎもしなかったのは、一体どんな理屈か。

 早晩、ショゴスが修復を完了した混沌の大鎧。その調子を見る為に丑三つ時を、夜は人の消え去る学生街である第六学区を選んでの慣熟飛行。誰かに見られぬよう、細心の注意を払ったつもりで。

 

 

 その真相を呑み込むように大鎧は混沌に還り、血涙を流す無数の瞳を浮かび上がらせた不定形の影に融けて消えた。残るは射干玉(ぬばたま)の長髪を夜風に(そよ)がせる和装の少女と、天魔(あま)色の短髪を撫で付けた洋装の少年のみ。

 

 

「……今、()()()()か?」

「ふむ、見られたのう。しかし、あの距離ならばはっきりとは解らんであろ。捨て置けい」

 

 

 確かに完全な隠形を行っていた筈だと自負する嚆矢が語り掛けた口調は、腰に()いた打刀“圧し斬り長谷部”の如く鋭い。熱源感知(はだ)に感じた事実に、対策(始末)を弄しながら。

 対した市媛の言葉は軍配を団扇代わりにしつつ、実に面倒そうに。早く帰って涼みたいと、全身から立ち上る不機嫌オーラが雄弁に語っている。

 

 

「…………まぁ、どうせ証拠はないし口封じは良いか。飛行にも支障は無かったし、鎧も完全復活してたしな」

「ならば早う帰るぞ。今宵は『くーらー』で涼みながら『らむね』を飲みつつ、『いんたーねっと』を見て『おーるないと』すると(わらわ)は決めておるのじゃからな」

「現代を満喫してんじゃねーよ、戦国大名」

 

 

 だから、一度だけ視線を感じた方を睨んで。見える筈もない『観測者』を思い描いて、非常階段からビルを後にする。いつも通りの日常へと戻る為に、長谷部を影の中の鎧櫃に仕舞って。

 

 

「そうさのう、早めに戻らねばまた、お弓にどやされるからのう」

「解ってんならさっさと帰るぞ。また、“真正源語(ゴドーワード)”と“真言”の精神破壊なんて勘弁だからな」

 

 

 呵呵(かか)と嗤う市媛を促しながら降り立った地上にて呼び出したショゴスは、螻蛄(ケラ)を模した刃金を二輪に組み替えた大型バイク。それに跨がり、エンジン……則ち『魔力炉(エンジン)』に火を入れれば、重低音がエグゾーストノズルから奏でられた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、午前十一時。場所、第六学区の裏路地。ほぼ真上からのピーカン照りの烈日を避けるように路地裏に入った初春飾利と固法美偉の二人は、揃って溜め息を吐いた。

 いつもならば無人か、悪ければ不良が屯している程度のそこには、普通の学生達が一心不乱に地べたに這い(つくば)る異空間と化していたからだ。

 

 

「はい、注目! 風紀委員(ジャッジメント)です……拾った物を届け出ずに着服するのは、拾得物横領と言う立派な犯罪です。今すぐにマネーカードを提出すれば、今回は不問に伏します」

 

 

 手を鳴らして注目を集め、宣う。それだけで、その路地裏に居た五人程の学生は観念してポケットや鞄を漁り出す。

 

 

「けっ、冗談じゃねえ!」

「そうよ、これは拾った私達の物よ!」

 

 

 だが、そんなものはごく一部。高レベル判定を受けた者以外の多くの学生は、雀の涙ほどの給付金で暮らしているのだ。そこに降って沸いた、誰が何の為にかは不明だが路地裏にばらまかれるマネーカード事案。遊興費の足しにと飛び付く者が居るのも、仕方の無い事ではあるだろう。

 だからと言って、逆上して『発火能力(パイロキネシス)』と『水流操作(ハイドロハンド)』、果ては『発電能力(エレクトロマスター)』を発しながら迫るのは、当然、許される事ではないが。

 

 

「はいはい、ごもっともごもっとも」

「マネーカード集めのご協力、ご苦労様ですの」

 

 

 だからその暴力を暴力で鎮圧されるのも、当然の事だったのだろう。放った火の(つぶて)と水の(つぶて)、更には電撃すらも『硬化』のルーンを刻んだ伸縮式警棒による『合気剣』で相次いで打ち落とされて。狼狽した一瞬に突如現れた金属矢にアスファルトに靴を縫い付けられて、逃げ出そうとした時には転んで無様に這い蹲る姿勢に戻されていて。

 そして悠然と立つ対馬嚆矢と白井黒子に、路地裏の学生達は揃って恐れと諦めの視線を向けたのみだった。

 

 

「やっぱり噂が拡散してるわね……今じゃ、どの路地裏もこんな感じらしいわ」

「世も末だねぇ、働かずに食う飯が旨いなんてのが大多数なんてさ」

「そうですね、路地裏には不良学生が居て事件に巻き込まれる事も有るわけですし……」

 

 

 最後の一人が帰された後、美偉が誰にともなく呟いた。多くがマネーカードをちょろまかそうとしていた為に酷使した『透視能力(クレアボイアンス)』の反動か、眼鏡を外して目頭を揉み解しながら。

 答えたのは、嚆矢の軽口と飾利の疲れた声。蒸れるのを嫌い、手をウェットティッシュで拭いながら。押収したマネーカードを纏めながら、辟易した表情で。

 

 

「ねぇ、佐天さん?」

「なぁ、涙子ちゃん?」

 

 

 最後にそう、呼び掛ければ――――がたりと、路地の入り口に()()()()()()()()()段ボール箱が揺れる。飾利と嚆矢が苦笑いし、美偉が溜め息を吐きながらそれを眺め、痺れを切らした黒子が『空間転移(テレポート)』により外箱を飛ばせば。

 どこぞの『蛇』のコードネームの兵士よろしくスニーキングで脱出使用としていた少女が白日の下に。

 

 

「……こ、こんにちは~」

 

 

 佐天涙子がひきつった笑顔と共に、白々しく挨拶したのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 午前の業務を終えて支部に帰って来た嚆矢は一目散、クーラーの前のテーブルに陣取って飲料を煽る。

 

 

「っは~、生き返る~! そしてやっぱ糞不味いィィ!」

「ですから、そう思うのであれば飲まなければよいではありませんの?」

「いゃあ、最近はどうも、これを飲まないと仕事した気にならないと言うか。疲労がポロンととれると言うか」

「何だか危ない成分でも含まれてそうな物言いは止めてくださいよぅ」

 

 

 『濃縮還元! 芋サイダー』と銘打たれたペットボトルの色物飲料、それを一息に。後から続いて来た、面倒そうに口を開いた黒子は缶のミルクティー。慌てる飾利はパックのイチゴオレ。

 そして今日の昼食らしい小さな包みを、それぞれ携えて。テーブルには小振りな弁当箱が二つ並ぶ。

 

 

「じゃ、俺も……っと」

 

 

 最後に、嚆矢が取り出した……近所のスーパーの物と思しき、使い古してヨレヨレのビニール袋。中には、叩き売りのカップ麺とお握り二つ。合わせても五百円は越えまい、健康など完全無視のコスパ偏重な内容。

 

 

「……毎回思うんですけど、嚆矢先輩。それ、足りてます?」

「というより、バランスが悪すぎますの……体を壊しませんの?」

「もう三年間これだから、意外とヘーキヘーキ」

 

 

 何の事はない、飾利と黒子が眉を潜める、彼のいつも通りの食事である。テーブルに並べば、もう、涙を誘うくらいに差が際立つ。

 栄養バランスと彩りを考え、コスト度外視の黒子の弁当。些か質は落ちるが、やはり見映えのいい飾利の二段重ねの弁当。対して、湯気を出すカップ麺と白米のソレ。最早、同じ昼食と思うことすら冒涜に当たるような侘しさだ。

 

 

「頂きます……ずっ、はふ……熱っ、汁が目に!」

 

 

 事実、後ろからそれを見た風紀委員の同僚などは、笑うどころか痛ましいものを見る優しい眼差しになっているくらいで。

 

 

「あの、先輩、どうぞ」

「これではイジメみたいですし……仕方ありませんわね」

「えっ、マジで!? 良いの?!」

 

 

 見兼ねたのだろう、剥がしたカップ麺の蓋に飾利がミートボールとマッシュポテト、黒子が海老の天麩羅と海草の和え物を置いた。

 

 

「あ、ありがとう二人とも…………初春大権現様、白井大明神様! このご恩は子孫末代まで語り継がせていただきます」

「ふえぇ、せ、先輩ってば声が大きすぎますよぉ」

「大袈裟が過ぎますのよ、貴方は……他人の食生活をどうこう言う気はありませんけれど、バランスを考えないといざと言う時に大変ですわよ?」

 

 

 それを二三度見した後、土下座の勢いで頭を下げた嚆矢。まるで主君から褒賞を賜わったかのように、それらを推し頂いて。

 

 

「ん~! ほんと、美味しいですよこれ」

「涙子ちゃんならそう来ると信じてたよォーー!」

 

 

 報告を兼ねて別室に消えた美偉に叱られ終わったのだろう、休憩室に現れた涙子に全て平らげられた後の空の蓋を握り潰して。

 麗らかな、外は地獄の猛暑であろうが、冷房の効いた室内は天国。更には、小粒とはいえ掛値無しの美少女三人との昼食。今日はいい日だと、しみじみ思いながら。

 

 

――明日からも、こんな日が続けばいいんだけどな。

 

 

 彼方の、青空の果てで燃える太陽を眺めて目を細めた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 同日、同刻、同学区。光の差さぬ深淵の最中。『窓の無いビル』と、その意味を知らぬ幸せな者達が呼ぶビルの中。その意味を知る者達が敢えて語らぬ、黒いビルの中で。

 

 

「…………そうか。では、準備は終わったか、“時間人間(チク・タク・マン)”。それで、今度は『流出』できそうかい? 隠された、君達の“神”とやらは?」

「ああ、アレイスター=クロウリー。我らの生け贄はまた一つ、黄金の螺旋階段を昇った。残る階段は少ないが――――」

 

 

 蠢く、闇が二つ。片方は、ビーカーに逆しまに浮かぶ聖者にも悪魔にも見える男だ。もう片方は、銀色の懐中時計を携えて屹立する、時計塔の如き男だ。

 本来、此所に居るべき少年と少女は居ない。既に、時計の男の発する狂気により逃げ去っている。

 

 

「時に囚われる全てのモノは、我が意のままであれば。あらゆるモノに、意味などありはしないのだから」

 

 

 嗤う。時計男は、この世の全てを俯瞰して。見上げるように見下して、狂気を湛えて嗤うのだ。

 

 

「それは重畳。此方はどうも、()()()()()()()()が邪魔すら出来なかったようだが――――君達の実験の成功を、此処から祈っているよ」

 

 

 対して、やはり嗤う。逆しまの男は、この世の全てを俯瞰して。見上げるように見下して、嗤うのだ。

 

 

 二人の少年と少女は、実に聡い判断をした。闇に生きるには、その鼻の利き具合は得難い幸福だ。もしもこの場に居続けてなどいれば、今頃は狂い死んだ骸しか残ってはいなかっただろう。

 

 

 そして、幸福を掴み損ねた少年は、その悪意を知る由もなく。今も、何処かで笑っている――――…………



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八月十日:『虹の雲耀』

前回投稿から随分と間が空いてしまいました…………グランドオーダーが面白くて、ついm(__)m
次回は早めに投稿できるように頑張ります。あと、感想でご指摘があった設定を鋭意制作中です。こちらも早めに上げられるよう、努力します。


 

 時刻、十七時。場所、第七学区表通り。微かに太陽が赤みを帯び始めた頃、風紀委員(ジャッジメント)の活動は終わり、委員達は帰途に就く。無論、嚆矢達も例外ではない。

 いつも通り、紳士気取りの嚆矢は黒子と飾利を送る為に同道する。いつも通り、飾利は恐縮して。いつも通り、黒子は『送り狼ですの?』と邪険に扱う。諦めたように溜め息を溢した美偉と共に。

 

 

 本当にそれは、いつも通りの日常の一コマで。

 

 

「おう、見るんだぜマグラ。ロリコンが居るんだぜ」

「おう、見てんだなジュゼ。ロリコンが居るんだな」

 

 

 背後から話し掛けてきた二人の学生…………嚆矢の親友であり、母校の『弐天巌流(にてんがんりゅう)学園』の剣道部主将である錏刃 主税(しころば ちから)と相撲部主将である土倉 間蔵(つちくら かんぞう)の二人の姿。

 部活帰りか、剣道着に竹刀の先に防具を吊るした痩身矮躯と、髷を結い浴衣で扇子を持った肥満巨漢の二人が。

 

 

「いきなりご挨拶だな、ジュゼ、マグラ。どうもご紹介に預かりました、ロリコンの嚆矢です。じゃあ、行こうか皆」

 

 

 それに面倒そうに、戯けた仕草で返した中背。心底、『空気読めよ、俺のささやかなハーレムを壊すな』と言った表情を、二人にだけ見せて。

 

 

「あら、お久しぶりですね、二人とも」

「こんばんはなんだな、固法。いつもコウが世話を掛けてるんだな」

「本当ならオイラ達がコウの手綱を取るんだぜけど、流石にこの時期は忙しいんだぜ。悪いんだぜ、固法」

「………………お前らは俺のかーちゃんか………………」

「お気になさらず、もう慣れましたから」

「えっと、あの、固法先輩、この方々は?」

「ああ、そうね、あなた達は初対面よね。錏刃くんと土倉くん、二人とも以前は風紀委員(ジャッジメント)だったのよ」

 

 

 だが、一行の動きはそこで止まる。七月半ばの嚆矢の時とは違い、楽しげに話し始めた美偉が二人の紹介を始めて。不貞腐れたように嚆矢は舌を打って、亜麻色の髪を掻いて。

 こんなところで『硬派な自分』を知る友人らと出会ってしまった事で、『軟派な自分』を()()()事に嫌気が差して。

 

 

「っと、そうなんだな、コウ。明日は忘れてないんだな?」

「たりめーだろ。夏休み最後の乱取(テスト)受けねぇと、ウチは補講と言う名の懲罰(シゴキ)が待ってるんだからな」

「だったらいいんだぜ。次はコテンパンにノして、我が剣道部が学園一に返り咲いてやるんだぜ、コウ」

「そっくり返してやるよ、合気道舐めんな道場剣術。七月末のケリ、きっちり付けてやるぜ、ジュゼ、マグラ」

「ぶふぅ、どっちもオイラの相撲が捻り潰すだけなのにご苦労様なんだな。じゃあ、またなんだな」

 

 

 最後にそう、友人らは意地悪く笑って。それに意地悪く笑い返して。本当に偶然通り掛かっただけだったのだろう、二人は去っていく。

 風紀委員の面々には手を振り、嚆矢には中指を立てて。無論、手を振り返した風紀委員の面々に対して、嚆矢も二人に中指を立て返して。

 

 

「…………さて、邪魔者も居なくなったし。帰ろっか、皆。そうだ、飯でも奢るよ――――」

 

 

 と、振り替える。その刹那、縦一線に鼻先を掠めた旋風が一縷。余りにも見覚えのあるその剣筋に、翻る麦穂色の金髪に、笑顔のままの嚆矢から血の気が一気に引いた。

 

 

「――――ふぅん。自宅では可愛い義妹(いもうと)が夕食を用意して待ってるのに、随分酷いこと言うのね?」

 

 

 いつの間にそこに現れたのか、呆気に取られる風紀委員(ジャッジメント)の面々の前に立つ娘。雨でもないのに折り畳み傘を携え、あまつさえルーンの刻まれたそれを振り下ろした、義妹・対馬弓弦の群青菫(アイオライト)の瞳に睨まれて。

 

 

「――――待て、ユミ。これはあれだ、あくまでも風紀委員の同僚として親睦を深める為であって疚しいところなんて一切無いぞ!」

 

 

 それはまさに蛇に睨まれた蛙の構図。最早、恥も外聞もない。瞬時に土下座の体勢を整えた彼は、時の許す限り弁解を口にして。

 

 

義兄(にい)さん、構えて」

「――――ッ! そうだ、なんなら俺の部屋に皆を招待してお前の燕麦粥(オートミール)を御馳走しような! それで万事解決じゃないか、な!」

 

 

 傘を大上段に構えながら突き放すように告げられた、弓弦の言葉に凍り付きながらもおべっかを口に。その合間にも、首飾りの『幸運の護符(ラビッツフット)』から、可能な限り身体を強化する『大鹿(アルギズ)』を励起して。

 

 

「“()()()()()()()”」

「………………」

 

 

 だが、聞き入れられる事はない。再度、今度は有無を言わさぬ“正統源語(ゴドーワード)”による勅命に、諦めたように立ち上がって――――その右手を開手のまま、構えて立つ。

 

 

――ヤるしかない。既にルーンは刻んだ、後は俺の技量次第。この前は不意討ちで反応できなかったが、今回は可能性はある。なら、俺の『確率使い(エンカウンター)』で掴める。(いや)…………掴まなきゃいけないんだ。掴まなきゃ、物理的に死ぬからな。

 

 

 それは、極基本的な合気道の構え。何の変哲もない、その武道を習う者が最初に教わる基礎的な構えだ。

 だからこそ、それは心魂に染みて。情報しか知らない、上っ面をなぞっただけの者には至れぬ極致がある。幾万、幾億の実践を熟さねば、決して辿り着けない『慣れ』という名の極致が。

 

 

 そもそも、武道とは『学問』。そこに王道等はない。ただ地道に、ただひたすらに。ただ直向きに取り組んだ者だけが、辿り着く場所が。

 

 

 合気道家、対馬嚆矢は其処に在る。僅か五年の歳月ではあるが、それは魔術にも科学にも侵せはしない。重ねた時は、決して裏切らない。

 

 

「“贋作魔剣(グラムフェイク)――――螺旋雷虹(カラドボルグ)”」

「ちょっ――――」

 

 

 そう、()()()()()()()()()。十年以上もの間、贋作とはいえ魔剣を振るってきたその少女に敵わないのは明白で。

 

 

「“示現流兵法奥伝(ジゲンリュウヒョウホウオウデン)――――『雲耀(ウンヨウ)』”」

「待っ!?」

 

 

 大上段から振り下ろされた『雲耀(ウンヨウ)』の一撃に、乾坤一擲、見舞った白刃取りは空を掴み――――凄まじい音と虹色の光と共に、嚆矢の意識を頭蓋から叩き落とした。

 

 

義兄(あに)がご迷惑を掛けました…………それじゃあお邪魔しました、固法さん」

「えっ、あ、はぁ…………またね、対馬さん」

 

 

 大の男を一撃で打ち倒しながらも悠々と傘を縮めて仕舞った金髪(ブロンド)の娘の放った言葉に、さしもの美偉も生返事を返す。黒子も呆気に取られたままで、飾利に至ってはあんぐりと口を開いたまま。

 ぺこりと頭を下げた弓弦は、失神している嚆矢を苦もなく肩に担ぐと、そのまま歩き去っていく。

 

 

「…………あの、先輩。今の方は?」

「対馬君の義理の妹さん、そして婚約者…………らしいわ。詳しいことは知らないけど」

「はあ、義理の妹で…………」

「こ、婚約者!?」

 

 

 そして漸く、黒子が紡いだ台詞。それに飾利も、赤べこのように首肯だけを返す。それに美偉は、ずれた眼鏡を直しながら。

 

 

「素行はアレとは言え、あの対馬先輩を一撃だなんて……世の中って広いんですのね」

「そうね…………」

「こ、こ、婚約者…………!」

 

 

 後ろ姿を見送った三人は暫くの間、そうして立ち尽くしていたのだった。

 

 

「…………」

 

 

 路地の影から一部始終を窺っていた、薄緑色の軍用ゴーグルの仄かな光に、気付く事はなく。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。