コミュ障JDに捕獲される追放TS女神 (am56x)
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第一話:現世に降臨する。

 

 白で統一された広大な空間に一人、横髪がぴょこんと跳ねている栗毛の美少女がぽつんと座り込んでいる。小柄な彼女の目の前には彼女の身の丈よりも大きなディスプレイが鎮座しており、ディスプレイには様々な情報が並んでいる。

 

 一番ディスプレイの面積を広く占めているのは、世界地図だ。地球国家とは似て非なる地形図が描かれたそれを小柄な美少女がマウスポインターで指し示すと、人口情報や言語、国家体制などの情報がポップアップしてくる。様々な情報を流し見しつつスクロールしていく中で、彼女は求めていた情報を見つけた。

 

“シュラミナ合衆国はデフコンを解除し、戦時体制から平時体制へ移行しました”

“ドン・トクラト連邦はシュドン条約機構軍に撤兵を指示し、平時体制への移行を完了しました”

“大八津火帝国は戦略原潜を基地に帰還させ、対核戦争を想定した演習名目で展開した部隊の撤退を完了。平時体制へ移行しました”

 

 求めていた情報を見つけた彼女は、強張った表情を緩めて笑みを見せた。

 

「よかった~、世界大戦防げた~!」

 

 

 

 今から百年前のことだ。狙いすましたかのような偶然の連続で起きた事故で彼女は命を落とした。いや、元々彼女は女性ではなかった。平凡なる男子大学生に過ぎなかった。

 

 だが、気が付くと彼は見目麗しい小柄な美少女に姿が変わっていて、目前には美を体現したかのような女性が立っていた。白で統一された煌びやかな衣装に、黄金の髪と瞳。

 

「単刀直入に言おう。お前は私が殺した」

 

 まるでごみを見るように冷徹な目線で地べたに座り込んでいるこちらを見下ろしてくる美女は、こちらの事情など知ったことではないと話し始める。

 

「え、え?」

「実は我が管理していた世界が滅亡しかけていてな。お前、代わりに管理しろ」

「いや、あの、えーと?」

「お前が管理しやすいようにパソコンとかいう下界の世界に似せた管理システムを用意してやった。ありがたく思え」

 

 そう言い切ると美女は背を向け、いつの間にか現れていた豪奢な門へと歩き出していく。このままでは何の説明もなしにこの意味の分からない真っ白な空間に取り残されかねないと危惧を抱いた彼女は慌てて声を張り上げる。

 

「ちょっと待ってください! 私は普通の大学生でしかないんですけど! 何をしろっていうんですかぁ!?」

 

 張り上げた声が自身とは似ても似つかぬ可愛らしい声であることを気にする余裕すら彼女にはなかった。そんな慌て切った彼女は、振り向いた美女が侮蔑に満ちた怒り顔でこちらを見てきたことで恐怖に体を震えさせる。

 

「お前はもう人ではない。我に仕えし下級女神のフラピアだ。今後一切我の許可なく我へ話しかけるな」

 

 怜悧な顔つきの美女の顔が怒りに染まるのを見て、フラピアは恐れで体が動かなくなる。彼女の怯え振りが余程気に入ったのか、美女はフラピアの顔を見て陶酔し、一言付け加える。

 

「そのパソコンで人類を救済しろ、フラピア。それはゲームではなく、現実の人間達の命がかかっているのだからな。ゲームオーバーになどすればどれ程の人間がお前へ恨みの念を抱くだろうな?」

 

 何を言っているのか、意味が分からない。どうしてこんなことになった? 私は何か悪いことをしただろうか? 家族はどう思うだろう……ここでフラピアは気が付いた。自分の家族が、自分の名前が思い出せなくなっている。いつの間にか恐怖で震えていた体は喪失感を前に震え始める。

 

「私の……私は誰? 何で、何で思い出せない?」

 

 フラピアの心を読んでいた美女はニンマリと満面の笑みを浮かべる。その笑みが恐ろしくてフラピアは思わず俯いて目を瞑った。

 

「もうそれはいらないだろうから捨ててやった。お前は我の下僕なのだからな? なあ、フラピア?」

 

 そう言い切った美女は再び背を向けて門へと消えていく。フラピアに美女を追いかける精神的余裕はなく、ただただ失った悲しみで溢れる涙に顔を濡らすばかりだった。

 

 それからしばらく彼女は何をする気も起きず無気力に体育座りをして真っ白な空間に座り込み続けていた。だが、元来優しい性格の彼女は美女が述べたフラピアが人類滅亡を救う存在だ、という言葉が気がかりでついにパソコンの方へと歩いてい……く気力はなかったので、彼女は怠惰にも寝転がりながらパソコンへと近付いた。

 

「あ、これ私がやったことあるシミュゲーぽい」

 

 だが、ゲームのデフォルメされたキャラや背景と違って、画面に映されているのはリアルな人間達と滅びかけた現状を伝えるデータ群だ。

 

「うわ、人口に対して食糧が少なすぎでしょ! わわ! 平均気温ひっく! 農作無理じゃん!」

 

 何もやることのない空間で唯一可能なのもあったが、元々この手のゲームを好んでいたこともあって彼女はいつの間にか人類救済を精力的にプレイするようになっていった。

 

 ある時は病原菌が蔓延し、ある時は火山の大噴火で寒冷化が発生し、ある時は巨大隕石が飛来し、またある時は飛来した宇宙怪獣と戦う力を人類へ分け与え……数々の苦難を乗り越え、リアル時間を百年費やしてようやく下級女神のフラピアは一度も人類を滅亡に追いやることなく現代地球に匹敵するまでの文明の生成に成功した。

 

 最後に残っていた熱核戦争の危機もどうにか乗り越え、人類が核軍縮をする様を横目にフラピアは静かに涙を流す。

 

「うう……よかったぁ……私、世界の危機を防いだぁ……」

 

 百年もの時をたった一人孤独な空間で過ごしたフラピアにとって、画面越しとはいえ人類の成長と発展は我が子を見守るようなものだった。寄る辺となるべき家族や友人、故郷の記憶もないフラピアには異界の人類こそが彼女の全てだった。

 

 だというのに。

 

「ふむ。無事に人類滅亡への道を回避したようだな」

 

 聞きたくなかったあの声が背後から聞こえて来る。かつて経験した恐怖が、百年も前の事というのに鮮明に脳裏から蘇ってくる。

 

「ではもう、お前はもういらないな。一時は上級神の連中にどやされどうなる事かと思ったが、屑も使いようといったところか」

 

 振り返りたくない。聞きたくない。私をこんな場所に閉じ込めて、これ以上どんな酷いことをしようというんだ?

 

「何、殺しはせんよ。お前が創った愛しい人類たちの世界に転生させてやろう。そういうの、お前の世界じゃ流行っていたみたいだしな」

 

 そんなどうでもいい記憶だけ残しやがってとフラピアが憎しみを抱いたところで何ができる訳でもなく、比類なき美貌を下卑た笑みに染めた美女を前にフラピアは成す術もなく白の空間から投げ出された。

 

 

フラピアが投げ出されたのはしんしんと雪の降り積もる人気のない湖の畔だった。きっと人が集まる観光スポットなのだろう。湖の周りには遊歩道がしっかりと整備され、転落防止の為に木製のオシャレな柵で囲われている。

 

時刻は夜のようだった。遊歩道沿いに設けられた街灯の明かりが宙を舞う雪に乱反射し、きらきらと輝いていた。

 

 フラピアは突然辺鄙な湖の畔に投げ出されたが、むしろあの恐怖の対象から逃げ出せて、そしてそれ以上に何の変化もない白い空間から向け出せた喜びに全身が震えて来た。

 

「おぉ……おおー!」

 

 夜闇の湖の畔で一人、フラピアは嬉しさに感極まり駆け出し、そしてすぐに雪につまずいて転んだ。姿を変えられて以来ずっと履きっぱなしのサンダルは雪上を駆けるには甚だ不適当だった。

 

「えへ、えへへへー!」

 

 しかしその痛みすらも心地よい。顔に貼り付く雪が冷たい。息を吸うたびに肺に冷たい外気が入り気味、全身が冷たくなってくる。手足がかじかんで来て、感覚が失われていく。それら全てが百年ものあいだ味わうことすらなかった感覚だった。そしてきっと姿を変えられる以前にはありふれていた感覚だ。ようやくフラピアは失った自身の一部を取り戻したのだ。

 

「んへへー、へへっへへー」

 

 しばらく嬉しさに雪に転がったまま手足をばたつかせていたフラピアだが、嬉しさに震えていたと思っていた体が段々と動かなくなっていることに気が付く。

 

「あれ?」

 

 フラピアは死にかけていた。

 

 



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第二話:捕まる。

 

 

「何だか眠い……」

 

 眠気。それさえもフラピアはあの憎き白い空間では感じることを許されなかった。だから、この睡眠欲が良くない傾向にあるとは薄々自覚は出来ていても、その快感に抗えない。百年もの間、人らしくあることを許されなかったフラピアにとってこの眠気はあまりにも甘美だった。

 

段々と瞼が重たくなる。凍死の二文字が脳裏によぎる。それでも気持ちが良いのだ。ようやく眠ることができるのだ。もしかしたら普通に起きて、そして、元の暮らしに戻っているかもしれない。

 

思考が緩慢となり、かつてをフラピアは思い起こす。フラピアの記憶は個人情報に関する粗方がかき消されていたが、それでも全てが消され切っていなかった。ごくごくわずかに残った記憶、ほとんど残っていないそれらはとても平穏で安らかなもののように思われた。普通の人として暮らしたかつての記憶、顔も声も何もかも消えたかつて自分と共にあった人々の姿がうすぼんやりとだけ脳裏によぎる。

 

 このまま意識が途絶えれば、元に戻れないか。忘れてしまった昔に戻っていたりはしないだろうか。

 

 そういった期待もないまぜにしながら、心地よい眠りへとフラピアが落ちようとしたその時だった。

 

 視界を黒い光が焼くと同時に額に激しい痛みが走る。

 

「うわー!」

 

 思わず叫ぶと同時に目を開くと、怪しげなオーラを纏った御札が額に張り付いていた。

 

「ええー!? 何で!? 何でー!?」

 

 額から御札を引きはがそうと両手で全力を込めて引っ張るも、御札はびくともしない。終わりへ向かおうとしていたフラピアの安寧は突如として妨げられた。

 

「何これ何これ!? 何で私にくっついてくるのー!?」

 

 フラピアは泣きそうになる。せっかく理不尽な空間から抜け出せたと思ったのに、今度は御札が自分を虐めて来る。こんな紙切れ如きにいいようにされている自分が情けなかった。

 

「とーれーてー!」

 

 怒り。フラピアの心に今、怒りが芽生えた。情けない自分への怒りが今、フラピアの力を全開する。フラピアの怒りの力を前に、御札は剥がれるだけでは済まない。剥がれると同時に形状すら維持できずに分子一つ残さず消滅する。

 

「と、取れ……ってなくなっちゃった。何だったの……?」

 

 力を精いっぱいに籠め、指先が痛くなるほどに握りしめていた御札が瞬間的に消滅したことでフラピアは呆気にとられる。千切れた紙片すら何処にも残っていないのだ。果たして自分は本当にさっきまで剥がれない御札と格闘していたのか。それすらもフラピアは自信がなくなりそうになった。

 

 呆然と手を見つめるフラピアの視界の端に、ふと黒いブーツが映る。ぽかんと口を開けたままフラピアが顔を上げるとそこには同じようにぽかんと口を開けてこちらを見つめる長身の女性がいた。

 

 年の頃は二十には届かないほどだろうか。何処か陰鬱な雰囲気を醸し出しているカッコいい顔立ちをした美人の女性だった。ニット帽からはみ出た前髪に半ば隠れた瞳はこちらを呆然と見つめている。

 

「人だー!」

 

 フラピアは先ほどまでの出来事の全てを忘れ、目の前に人間が立っているのを見て感動で全身を震わす。人間を画面越しでなく、直接自分の目で見るのは何年ぶりだろう。それもいきなり自分に無茶ぶりを強要するような恐るべき存在ではない、ただただ近くにいるだけの無関係な人間と出会えたことがフラピアは嬉しくてしょうがなかった。

 

 自然と瞳からは止めどなく涙が溢れ出て来る。白い空間にいた頃、悔しさで泣いた事は何度もあったがこんなに嬉しい気持ちで泣けたのは随分と久しぶりの事だった。

 

「ど、どうしたの? 大丈夫?」

 

 さらに何という事だろう。ぼそぼそとした小さな声でどもりながら、目の前に立つ女性は自分の事を心配してくれるではないか。

 

 百年間、理不尽に閉じ込められた空間の中でいつ罵倒されるかもわからない日々を過ごしていたフラピアにとってその言葉だけでも感涙ものだ。

 

「ほら……その、これ使って」

「うう……ありがとうございます……」

 

 だというのに、彼女はポケットからハンカチを差し出してフラピアの涙を拭ってくれる。フラピアは嬉しい出来事があまりに連続的に起こるものだから、思考回路が溶けて消える。これはもしや、天国か……? 天国に今自分はたどり着いたのか?

 

「さっき……あなたにくっついた御札。あれ私の。ごめんなさい……」

「うう……うう……いいんです。じぇんじぇん、気にしないでください」

 

 ボロボロの滑舌になりながら、フラピアは目の前で申し訳なさそうにする女性へ気にしていない旨を告げる。これだけ心を癒してくれた目の前の女性には感謝こそすれど苛もうなどという気持ちは欠片も起こらなかった。

 

「それで……その、あなたはどうして夜で冬なのに、そんな薄着? 寒くない? すっごく震えてる」

 

 フラピアは白いノースリーブワンピースにサンダルしか身に付けていなかった。下着すらもなく、中には何も着ていない。寒暖のない、体の代謝に伴う汗や排泄行為もなかった白い空間では問題なかった格好も、雪が降り氷点下の屋外では死に装束に等しい。

 

「しゃむい」

 

 思考レベルが幼稚園児程度まで退化していたフラピアは素直に女性へ答えを返すが、女性の方は今更ながら慌てた表情でコートを脱ぎ始める。ここは雪国だ。極稀に氷点下でも半そで短パンで意気揚々と歩く変態もいるので女性は対処が遅れたが、普通はフラピアの格好で外を出歩けば凍死する。

 

「あ、あの! これ着て!」

 

 フラピアの返答を待つことすらせず、女性は大慌てでフラピアを自身が着ていた厚手のコートに強引にくるんだ。だが、フラピアの体は既に冷え切ってしまっている。長身の女性のコートにミノムシみたいに包まれたフラピアの手を女性が握っても冷たいままだ。

 

 どうしたものかとフラピアの前で女性はあわあわと胸の前で両手を訳も分からずぶんぶんと振りながら辺りを見回すと、都合よく少し離れた場所に自販機が暗闇の中でピカピカと存在感を主張している。これだと女性は駆け出してから数秒後、フラピアの前にすぐ戻って来る。

 

「お財布、コートのポケットに入ってた」

 

 ごそごそとフラピアに巻き付けられたコートをまさぐり財布を掴み取った女性は再び雪上を駆けて、いくつかのホット飲料を抱えて戻って来る。

 

「どれ……飲める?」

 

 フラピアの前にお茶とコーヒー、お汁粉、コーンポタージュが提示される。

 

「飲み、物……!!」

 

 フラピアの眠たげに沈んでいた瞼が覚醒し、目を見開く。代謝の存在しない白い空間内で、幾度もフラピアは飢えと渇きに苛まれた。それは小腹が空き、口が渇いた程度のちょっとした欠乏感に過ぎなかった。だが、延々と解消することの出来ない欲望だった。

 

 何度もフラピアは何かちょっとでもいいから飲みたいなと夢想した。食べたいなとディスプレイ越しに食事を取る人間を見て涎を流した。

 

 そのフラピアの前に、今、飲み物があるのだ。

 

「え、えと。どれにしよう? どれにしよう?」

 

 人からのもらい物であるという事をすっかり忘れ遠慮をするだけの自制心は吹き飛んでしまい、フラピアは貰えることが前提で目の前の飲み物たちに目移りする。

 

高揚した気持ちは、声と態度にも現れる。弾むような口調でリズムを取りながら飲み物迷い、ニコニコと満面の笑みを浮かべるフラピアを見て、心配げだった表情の女性の口元が微笑ましさで緩んでいく。

 

「欲しいなら、全部飲んでいい」

「ホントですか! いいんですか! じゃあ、じゃあ! まずはねー、緑茶!」

 

 コートに包まれたフラピアはもそもそと動いて手をコートの中から伸ばし、緑茶のペットボトルを受け取る。

 

「ふふー! まずは日本人として、お茶から飲みたいと思いますっ!」

 

 ウキウキとししながらペットボトルの蓋を開けようとするフラピア。だが、かじかんだ手では力が入らず、開けることが出来ない。見かねた女性が近くのベンチに飲み物を置いてきてペットボトルの蓋を開けてくれる。

 

「お茶の匂い……」

 

 百年ぶりに嗅いだお茶の香りで、フラピアは全身に感動が走る。この心地よい余韻にいつまでも浸っていたい気持ちもあったが、フラピアはどうしても舌でお茶を味わいたくてしょうがなかった。

 

 ゆっくりと舌を湿らす程度の量のお茶を口に含む。

 

「おいちい」

 

 あまりの感動に、フラピアはまた目から涙を溢れさせた。ずっとずっと、使われることのなかったフラピアの味蕾に、お茶の味が突き刺さる。

 

 もっと飲みたい。急いたフラピアはお茶のボトルを傾けて一気に口内へとお茶を流し込む。だがそれは悪手だった。

 

「むぐぅ!?」

 

買ったばかりのお茶は未だに高温を保ち続けていたのだ。フラピアの口内は熱さに悲鳴を上げる。それでも、フラピアはお茶を吐き出すような真似はしない。喉をごくりごくりと動かして全てを胃の腑へと流し込んだ。生まれる途方もない満足感。

 

「舌がひりひりしゅる……」

「あ、慌てて飲んじゃ、駄目」

「はい……ゆっくり味わいたいと思います」

 

 舌のひりつきもフラピアにとって心地よかった。そのままフラピアはお茶を飲み、お汁粉を飲み、コーンポタージュを飲み、コーヒーすらも飲み干してしまう。量にして一リットル近いだろうか。あっという間にフラピアは全てを飲み切ってしまっていた。

 

「お腹がタプタプします」

「そ、そそっそんなに飲んで大丈夫?」

「平気ですっ!」

 

 多幸感に包まれながらフラピアはお腹をさする。大量にホット飲料を摂取し、コートがその熱を逃がさないようにしてくれたおかげでフラピアの体はぬくぬくしだしていた。それもまた多幸感を煽り、先ほどとは別の意味でフラピアは眠気を覚え出す。

 

「あの、コートも飲み物もありがとうございました」

「その、気にしないで。変な御札ぶつけたお詫び、って思ってくれればいいから」

「そうだ。あれは一体何だったんですか?」

 

 フラピアまで自立して飛行して来てはいつの間にか消失してしまった怪しげな御札。科学文明を創り上げたと思っていたフラピアは心中に疑問符を浮かべる。自分の創った世界なのに、知らない要素があるとはどういうことなのだろう。

 

「あー……あれは私の物じゃない。そのー……変な宗教団体に勧誘されて、それで貰って……どうしようって持ち歩いてて……何で御札が飛んだんだろう?」

 

 もごもごと言い訳をするように女性は話す。言い分を聞く限り、彼女の落ち度はフラピアの聞く限りなかったので、その態度がフラピアは不思議だった。フラピアは御札をぶつけられたことを全く気にしていなかった。

 

「……寒い」

 

 風が一瞬びゅごうと強く吹き、雪が視界を一時的に奪う。そのさなかに女性はぽつりと呟いた言葉をフラピアは聞き逃さなかった。女性はコートを脱いでもなお分厚いセーターに手袋、ニット帽を着ていたがそれも氷点下の屋外に居続けるには物足りない装備だった。

 

「あ、これ返しますよ」

「だ、駄目。あなたにはそれがいる」

 

 フラピアは全身に巻かれたコートを返そうとするも、女性はフラピアの腕を掴んで止める。

 

「家は、近い? それまでは……貸す」

「い、家……」

 

 家などフラピアにはなかった。さっきまでの多幸感が嘘のように現実が冷たくフラピアの心に突き刺さる。家も、お金も、衣服も何もない。目の前の女性の親切心で少し長生きできたが、それがなければフラピアは翌朝にでも遺体となって発見されていただろう。

 

 俯くフラピアを見て、女性は何も言わずにフラピアに巻き付けられたコートへ手を突っ込んで携帯電話を取り出す。

 

「タクシー、一台。白峯の湖です」

 

 しばらくタクシー会社の人間と話した後、女性は表情をこわばらせながらこちらを見下ろす。

 

「事情は知らないけど、その、私の家に来て」

「え」

「あー……と。ほら、ね?」

 

 何が「ね?」なのか、フラピアには分からなかった。

 

 



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第三話:連れ込まれる。

 タクシーに乗り移動する中、フラピアは車窓からの景色で無邪気にはしゃいでいた。何しろ何もない空間に百年もの間ずっと幽閉されていたのだ。ただ信号機が赤く灯って何台か車輛が並ぶさまやショッピングモールの眩いビル灯り、人が歩道を何人か歩いている風景ですらフラピアにとっては興奮隠せぬ景色だった。

 

「ばいばいお嬢ちゃん。また今度な」

「はい! 乗せてくれてありがとうございました!」

 

 そんなフラピアの姿を運転手と女性がニコニコ眺めながら十数分、興奮冷めやらぬフラピアは運転手が振る手の平へ律儀に手を振り返しタクシーが去っていくまで目で追い続けた。

 

「よし、来て」

 

 フラピアがタクシーを見送るまで待ってくれた女性はそう言うと、フラピアの歩幅に合わせるようにゆっくりと歩きながら十数階建てのマンションへとフラピアを案内する。若い女性が一人で暮らすには立派なマンションだった。

 

「おっきなマンションですね! ご家族と一緒ですか?」

「一人。昔は一緒に住んでたけど、仕事で両親は引っ越した」

 

 オートロックを潜り抜け、エレベーターを降りた先は屋内通路になっていた。清潔感溢れる通路を少し歩き、入り口の鍵を開けて女性はくるりと振り返る。

 

「入って。どうぞ」

「お邪魔します」

 

 室内も外観からの印象に違わず広々としている。一人だと逆に寂しくなりそうなくらいだった。

 

「コート頂戴。乾かすから。服は……多分小さい頃のがある」

 

 雪に転がりはしゃいでいたフラピアの服は水を吸っていた。そのせいで巻き付けられたコートにも水が染みてしまっていた。女性の言うがままにコートを脱いだフラピアは、自分がコートを汚してしまったことにようやく気が付く。今更ながら、服に染み込んだ水が体温で生ぬるくなったじっとりとした感触に気味悪さを覚えた。

 

「あの、こんなにしちゃってごめんなさい……」

 

 これだけ親切にしてくれた人物へ失礼を働いてしまったことが、フラピアの精神に罪悪感を根深く植え付ける。果たして自分はここまで涙もろかったのだろうかと思いつつ、フラピアは潤んだ眼を隠すように頭を下げてコートを女性へと返した。

 

「事情は後で聞く。お風呂入って。このままじゃ風邪を引く」

 

 今のフラピアは親切を押しのけられるほど、心が強くなかった。結局、フラピアは謝罪の返事は貰えないままお風呂場に押し込まれた。じっとりと肌に張り付いた衣服を脱ぎ棄てて、機能的なユニットバスに溜められたお湯に身を沈める。百年ぶりのお風呂はとても気持ちが良かった。全身がほかほかと温まっていく。浴槽の傍についた液晶パネルからリラクゼーション映像と音楽が流れ、フラピアの視覚と聴覚を癒してくれる。罪悪感に沈んでいたフラピアの心も、いつの間にかお湯の温もりに癒されていた。

 

「うえうあー……」

 

自分についた大きなお胸がお湯に浮かぶさまに感心しながらぼんやりと眺め、意味もないうめき声を上げつつ過ごしていると、液晶画面の端っこに映されているデジタル時計がふと目に入る。気付かないうちに、入浴してから一時間も経過していたらしい。

 

「うわ。いつの間にかこんな時間経っちゃってる」

 

あまり長湯し過ぎて女性を待たせるのは失礼だ、そう思いフラピアが慌ててお風呂場を出ると女性が脱衣所で待ち構えていた。

 

「これ、押入れ探してたらあった。下着も古いけど包装開けてない新品が隠れてた」

 

 お湯につかっている間にあげたうめき声やら鼻歌を聞かれていたのかとフラピアがぎょっと固まっていると、女性は気にした様子もなくバスタオルをこちらへ差し出してくる。フラピアが初めて自らの長髪を拭くのに手間取っていると、女性が手を貸してくれた。

 

「あの、ありがとうございます」

「こんなに長いのに、今までどうしたの?」

「お風呂、入ったことがなくて……」

 

 フラピアの言葉に女性は小さくえっ、と呟く。フラピアも遅れて結構な失言をしてしまったと気付くが嘘ではない故に弁解の言葉が浮かんできてくれない。

 

「……これからは毎日入るようにした方がいい」

「あー……はい。ごめんなさい」

 

気まずい雰囲気の中、フラピアは全身を拭き終えて女性から渡された衣服に手を付ける。

下着に手間取るフラピアが再度女性の手を借りて着けてもらうと、下着はぴったりと体に合ったものの上下のパジャマは丈が余ってしまった。フラピアが袖を捲ろうとすると、そのままでいいのだと女性に止められる。

 

「駄目、なんですか?」

「駄目」

「どうしてですか?」

「駄目」

「あの……」

「駄目」

 

理由は教えてくれなかったが、頑なに止められるのでフラピアは諦め袖をそのままにすることにした。ちょっと意味が分からない女性の拘りに引っ掛かりを覚えるがそれでも着替えまで恵んでくれたのも確かだ。パジャマの袖をペラペラと中空にぶらつかせながらフラピアは頭を下げる。

 

「この服も含めて色々、親切にしてくれてありがとうございます」

「気にしないでいい」

「お名前伺ってもいいですか? お互いまだ自己紹介してないですね」

 

 お風呂に浸かっている時に思い至ったのだ。フラピアにとってはあまりに久しぶりの現代文明のあれこれに気を取られ過ぎて、人としての常識的な礼儀に思考が回り切らなかったとフラピアは反省したのだった。

 

「私は篠縣伊火子(しのかたいかこ)。あなたは?」

「私は……」

 

 フラピア。フラピアはそう名乗ろうと思ったが、口をつぐむ。確かにそう名付けられた。だが、あの自身に災難ばかり振り撒いてきた存在から付けられた名前を名乗りたくなかった。

 

「名前を名乗る前に、私の身の上を話してもいいですか?」

 

 荒唐無稽な話と一笑に付されるかもしれない。頭がおかしいと拒絶され、退去を求められるかもしれない。それでもここまで親切にしてくれたのだ。フラピアは篠縣伊火子(しのかたいかこ)に対して、誠実でありたかった。

 

 なのだけれども。もし、拒絶されたらと考えたフラピアは背筋が凍りつくような恐怖を覚える。手が震えてくるのを悟られないよう、フラピアはそっと腕を後ろに回した。袖が長いのが今はありがたかった。

 

「立ったままじゃ疲れる。こっち」

 

 フラピアの震えを知ってか知らずか、篠縣伊火子(しのかたいかこ)は顔を反らして背を向けフラピアを居間にあるこたつへと案内する。

 

「じゃあ……どこから話そう」

 

フラピアは今までの自分が被ってきた出来事を篠縣伊火子(しのかたいかこ)へと話していく。誇張も虚飾もない、フラピアが体験したありのままの全てをフラピアは話す。最初は嘘と思われたらとゆっくりだった話し口は、篠縣伊火子(しのかたいかこ)が疑問を挟まずに頷いて聞きつづけてくれるうちに段々と流暢に、そして愚痴っぽくなっていった。

 

「私……私なんかが人類の命運を左右しなくちゃいけないなんて……そんなの気が重すぎなんですよー!」

「大変だったね」

「そう! 私すっごく大変だった! そう思いますよね篠縣さん!」

 

 こたつの卓を、袖の中に隠れた小さな手でぺふぺふと叩きながらフラピアは声を張り上げる。最初は対面に座っていた二人だったが、フラピアの弁舌に熱が入るにつれフラピアがどんどん篠縣伊火子(しのかたいかこ)と距離を詰めていき今ではフラピアと篠縣伊火子(しのかたいかこ)は鼻が触れそうなほどまでに近付いていた。

 

「私のお話をちゃんと聞いてくれて安心しました。冗談だって笑われると思ってましたから」

「正直全部受け止めきれてはない」

「でも、私は嘘を言ってないんですよ? 神として、この世界の人類を救ったのです!」

「神様」

 

 篠縣伊火子(しのかたいかこ)がぺちぺちと気のない拍手をするとフラピアはえへんと胸を張り、そして二人で微笑みあう。心の重荷を降ろせたフラピアの心はひどく軽かった。そんな晴れ晴れとした心持ちでフラピアは話題を名前の話に戻す。

 

「それで名前の話に戻るのですが、そんな悪逆非道な女神に付けられた名前を名乗るのが癪なので、篠縣さん。私の名前付けてくれませんか?」

「私が?」

「篠縣さんは訳も分からない私のことを拾ってくれて、服も貸してくれて、家にも招いてくれて……とにかく感謝してもしきれません! そんな篠縣さんに付けられた名前なら私も自信を持って名乗れます!」

「え……時間が欲しい。そんなすぐには無理」

「あんまり重く考えなくていいですよ? 見た目からとか、場所からとか、パッとつけてくれてオッケーです!」

「見た目……」

 

 篠縣伊火子(しのかたいかこ)はすぐ傍で名前を貰おうと体をうずうずさせているフラピアを観察する。ぴょこんと跳ねた栗色の横髪も相まって、浮かんだイメージは一つだった。

 

「犬……」

「じゃあ今日から私は犬です!」

「え、え。そんな安直なのでいいの? 姓名判断とか調べてからの方が……」

「いいんです! これでもう私はフラピアではなくなりました! 清々します!」

 

 安直どころか、人に付けるような名前ではない。だが、それでもあの負の象徴たる女神から与えられた名前から解放されたと感じたフラピア改め犬は心の底から新たな名前に感謝していた。

 

「いやでも、流石に犬は……せめて犬子とか」

「じゃあ犬子で! ほら、呼んでみて下さい!」

「い……犬子?」

「えへへー!」

 

 果たしてこれでいいのか。おずおずと名を呼んだ篠縣伊火子(しのかたいかこ)のすぐ横でフラピア改め犬改め犬子と呼ばれ理性の溶けるようなほにゃほにゃとした笑顔を見せて来る犬子を前に、篠縣伊火子(しのかたいかこ)の疑念は溶けて消え去った。

 

 可愛い。思わず伸びた手が犬子の頭頂部に乗り、気付かぬうちに篠縣伊火子(しのかたいかこ)は犬子のことを撫でていた。やってしまったと一瞬固まる篠縣伊火子(しのかたいかこ)だったが、嬉しそうに目を細める犬子を見るうちにまあいいかと流される。

 

 数十分ほど、ただただ頭を撫で続ける時間が続いていく。いつの間にか犬子は頭を抱えられ、篠縣伊火子(しのかたいかこ)の股の上に丸まっていた。

 

「あの……私、本物の犬ではないのですよ」

「んー……」

 

 今更ながらに恥ずかしくなってきていた犬子だが、篠縣伊火子(しのかたいかこ)の方はもう犬子を離す気が微塵もないようで、気のない返事で流しては抜け出そうとする犬子を拘束し続けて来る。犬子としても百年の時を経てようやく得られた人の温もりを自分から失う気にはなれず、強く抜け出そうという意思を持てなかった。

 

 このまま時間が過ぎていくのかと思われた時。小さく篠縣伊火子(しのかたいかこ)のお腹が鳴り、彼女の頬が僅かに紅くなる。照れ隠しに頬をかきながら篠縣伊火子(しのかたいかこ)は犬子をこたつに置いて距離を取った。

 

「その……お腹空いてない? 私、夕ご飯作る」

「食べます! 手伝います!」

「偉い。よしよし」

「えへへー……って、何か馴らされてる気が……?」

 

 家族向けのマンションだけあり、篠縣伊火子(しのかたいかこ)の住む部屋に設けられたキッチンは広々としたこれまた立派な代物だった。手入れも行き届いたシステムキッチンを使いこなしテキパキとした手さばきで料理を進めていく篠縣伊火子(しのかたいかこ)の隣で、負けじと犬子も包丁を握る。初めは百年のブランクが包丁さばきをぎこちないものにしていたが、心が覚えていたらしい。次第に犬子の包丁の扱いは流暢になっていく。それなりに料理をこなしてきた手つきに篠縣伊火子(しのかたいかこ)は目を見張った。

 

「上手い。料理好きだった?」

「うーん……なのかも?」

「覚えてないの?」

「はい……誰かに料理を振舞ったような気が、するんですけど」

「そっか」

 

 犬子が男だったような気がすること、自分に関する記憶が失われていることを篠縣伊火子(しのかたいかこ)は聞いていた。だが、潤んだ瞳をばれないようにパジャマの袖で拭う犬子の姿を見ていると名も知らぬ女神とやらへ怒りが湧いてきた。神とやらは犬子から大切な物をいくつも奪っていったのだ。肉体はもちろん、記憶すら奪い、あげく自身の尻拭いまで百年もかけて完遂させ、最後には捨てた。

 

 篠縣伊火子(しのかたいかこ)はこの時、明確に決意する。犬子は自分が守るのだ。

 

 二人で囲む食卓。本当は一人だけの食事だったので篠縣伊火子(しのかたいかこ)は味より手早さを重視した料理を作るつもりであり、材料もその目的のために凝った素材はなかった。ごくごく普通のカレーライスと付け合わせのサラダ、それにデザートでみかんを冷凍しただけの大した手間の掛からない料理だった。

 

だが、犬子にとっては百年ぶりの食事だった。スーパーで売っている固形ルーを利用した普通のカレーライスを口に運んで、犬子は涙した。

 

「そんな、美味しい?」

「おいじいですぅ……かりゃいですぅ……」

「次は中辛じゃなくて、甘口にしよう」

「はいぃ……でもおいしいですぅ……」

 

 一口一口を味わい尽くしながら犬子はカレーライスをたいらげおかわりをし、サラダを頬張り、ミカンを口に運ぶ。満腹時の多幸感を犬子は百年ぶりに味わう。それは、至福だった。暖房の効いた部屋でお腹いっぱいご飯を食べて、ただただのんびり座って満たされた感覚に浸る。普通の何処にでもある日常の一幕だが、犬子にとってはかけがえのない時間だった。

 

「あのさ。戸籍もお金もない犬子」

「うえ!? いきなり罵倒ですか!?」

 

 そんな幸福感はまさかの隣に座る篠縣伊火子(しのかたいかこ)によって破壊される。確かに犬子はこの世界に置いて身分を証明する何物も持っていないし、金銭的の類も一切持っていない。現実に引き戻され、犬子は泣きたくなってきた。

 

「あ、いや……でもない。でしょ?」

「まあ……はい」

 

 テンションが一気に下がり、しょぼくれた犬子。もうちょっとの間だけ、あの幸福感に浸っていたかったなと犬子は現実逃避する。

 

「私もどうしたらいいか分かんない、けど……どうにかなるまでここにいていい」

 

 篠縣伊火子(しのかたいかこ)によって軋みを上げ始めた犬子の心に篠縣伊火子(しのかたいかこ)の言葉が染み渡る。それは救いだった。

 

「いいんですか?」

 

 こくりと頷いて見せる篠縣伊火子(しのかたいかこ)を前に、座っていた犬子は勢いよく椅子から降りてべしゃりと床に転んだ後も超高速で立ち上がっては頭を下げて礼を言う。

 

「ありがとうございます! この恩は絶対の絶対に返しますから!」

「うん」

 

 犬子は目の前の篠縣伊火子(しのかたいかこ)が神様に見えた。

 

 

 




これにてハッピーエンドでいいのでは?


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第四話:篠縣伊火子。

 物心ついた頃から、(しの)(かた)伊火子(いかこ)は不思議なモノが見えていた。ソレは概ね人の形をしていて人の言葉を話すのに、篠縣伊火子の本能とでもいうべき勘が明確にソレを普通の人とは区別していた。

 

 篠縣伊火子は聡い少女だった。自分以外、ソレに目を向けず言葉に耳を傾けないことにすぐ気が付いた。だから、理由はわからないが触れてはいけない存在なのだと思って誰にもソレについて話したりはしなかった。

 

 唯一、母親にだけは秘密を打ち明けた。母親はソレの事を幽霊というのだと教えてくれ、自分しか見えない事に不安がる篠縣伊火子を優しく抱きしめ肯定してくれた。

 

 あの日まで、篠縣伊火子は両親の事を無条件に信頼していた。

 

 

 

 幼稚園最後の年の事だった。その日は、親を同伴してのクリスマス会が催されていた。篠縣伊火子もその日をとても楽しみにして、母親と一緒に幼稚園に登園した。篠縣伊火子の住む町は都会ながら良く雪の降る町だ。町はクリスマスムード一色に染まり、綺麗な電飾がきらきらと町中を輝かせていた。

 

 しかし、きっと楽しい一日になると信じ切っていた篠縣伊火子の前に汚泥に塗れた親御連れが現れたことで気分は一瞬にして冷え切る。その親子連れの足元には泥濘の沼が形成され、そこから重力に反発するように泥が二人の足元から頭頂部へと這い上がっては沼へと滴り落ちていく様を篠縣伊火子は目の当たりにしてしまった。

 

 泥の底からは背筋の凍りつくような金切り声が鳴り響き、男とも女ともつかぬその声は二人を泥濘の沼へと引きずりこもうと誘い込んでいるようだった。

 

「一つになろう……一つに……我々、と……共に……」

 

 誰も、気が付いていないのだろう。その親子連れは何食わぬ顔で友人夫婦と談笑し、子供は子供同士で笑いあっている。篠縣伊火子一人だけがあの二人の泥濘に汚れた姿を目にしているのだと、子供ながらに篠縣伊火子は理解した。

 

 だから警告したのだ。あなたたちは危険な目に遭っているのだと。何とかした方がいいと。幼いながらに拙い語彙力を駆使し、二人を救おうと篠縣伊火子は勇気を出して声を掛けたのだ。

 

 結果として、篠縣伊火子は親子連れから烈火の如き罵倒の羅列と、幼稚園側からの丁寧ながらも断固とした拒絶を受けクリスマス会に参加せずに幼稚園から出ていくことになる。篠縣伊火子もこうなるだろうと予想していなかったわけではなかった。自分しか見えないのに、誰が信じるだろうか? だから、当然と言えば当然の結果だった。大人から激しい罵倒を受けたショックは大きかったが、篠縣伊火子は既に自身を客観視することが出来ていた。

 

 そんなことより篠縣伊火子にとって悲しかったのは、母親が実は自分の言葉を信じていなかったことが明らかになったことだった。幼稚園の先生から苦情を受けて、母親は篠縣伊火子の霊視能力をただの子供の戯言だと釈明した。釈明する母親に嘘じゃないと抗弁を一度だけ篠縣伊火子は試みたが、その時初めて母親の苛立ちの籠った視線を向けられ篠縣伊火子の心は折れた。

 

 だが、その数日後にその親子連れは原因不明の死を迎える。嘘が嘘でないと証明されたが、待っていたのは迫害だった。新年が開けて登園した篠縣伊火子は同級生の園児たちから心無い罵倒を浴びせられ、帰宅したとして母親は昔のような慈愛の目で自分を見てはくれなかった。

 

 父親は母親と自身との板挟みにあい何をすることも出来ずうろたえるばかりで、家庭内はあの日以来一気に居心地の悪い空間へと変貌してしまった。

 

 それから数日を経て、篠縣伊火子は父方の祖父の家へと呼び出される。待っていたのは巌のような顔つきの祖父と、それに不可思議なオーラを纏った痩せこけた中年男性だった。

 

「菱君。どうかね?」

「驚きましたね。確かにお孫さんには力がある。それも、かなりの才をお持ちのようだ」

「だが、伊火子にはそちらの道を歩かせる気はない。やってくれ」

 

 祖父は顎をしゃくり篠縣伊火子へ冷徹な目線を向ける。篠縣伊火子が祖父と会う時には大抵その巌のような強面を笑顔にして抱き上げてくれたものだが、今の祖父にそのような暖かみはなかった。

 

「伊火子ちゃん。君には霊を見る力がある。けれどね、その力は普通の人が持っているには危ないんだ。だからその力を使えなくしてしまっていいかい?」

 

 痩せこけた中年男性は努めて優しい所作で篠縣伊火子に目線を合わせて微笑んでくれる。その優しさは篠縣伊火子にとっては久しいもので、思わず篠縣伊火子は頷いてしまっていた。

 

 中年男性はそっと篠縣伊火子の額に手を触れ、そしてそれで終わった。

 

「よし。これで済みました」

「本当かね?」

「はは、私は大仰に儀式をやって見せるようなタイプではないんです。そちらの方がウケがいいらしいですけど、ご安心を。伊火子ちゃんの霊視能力は封印しました」

 

 中年男性の言う通り、篠縣伊火子の目は先ほどまで見えていた彼の持つ不可思議なオーラを知覚できなくなっていた。その日から、篠縣伊火子は普通の女の子になった。

 

 普通の女の子になってからの日常は平和だった。悪評の立ってしまった地元から引っ越すことになってしまったが、ぎくしゃくしていた家庭内もいつのまにか暖かくなっていった。新天地で篠縣家は再び平穏を取り戻した。

 

 異能を持っていた篠縣伊火子に対し家族が何処か一線を引き、後に生まれた弟を溺愛する姿に寂しさを覚えることもあったが、それでもかつての触れることすら拒否された過去に比べればどうということはなかった。何より自分の過去を知らず無邪気に甘えてくれる弟は愛らしかった。弟さえいれば、それでよかった。

 

 

 

 十年が経過し、篠縣伊火子が高校生になった頃、祖父からそろそろ戻って来ないかと父親に声が持ちかけられた。祖父は老い、父親に自分の仕事を継いでもらうことを望み、元より父親もそのつもりでキャリアを重ねていた。

 

 両親と弟は地元である幌川市へ戻ることになり、篠縣伊火子は一人移住先である旭舘市に残ることになる。両親は篠縣伊火子についてきてほしくないとは言わなかったが、残ってほしいと言外に態度で示されているような気がしてならず、篠縣伊火子は自分から残ると宣言した。

 

 別れの際、小学校高学年の弟がぐずってしがみついてきたのは篠縣伊火子にとって救いだった。

 

 一人での暮らしに初めは苦労した篠縣伊火子だったが、すぐに慣れ高校生活へ順応していった。元よりやろうと思い至れば何でもこなせた性質の篠縣伊火子だ。一度やり始めればすぐに独り暮らしと学業の両立を実現して見せた。

 

 だが、どうにも一人きりというのは寂しくて仕方がなかった。何処か溝の入った家族関係ではあったが、両親の愛情を篠縣伊火子は感じていたし、傍にいてくれるだけで心が落ち着いていたのだと改めて実感することとなる。何より、小生意気ながら無邪気に周りをうろちょろしていた弟がいなくなったことが耐え難かった。

 

 友人がいれば寂しさも幾らか紛れたのだろう。悲しいかな、篠縣伊火子には友人がいなかった。何でもこなせるくせに無口な篠縣伊火子はクラスでは浮いた存在だった。邪険にされてもいないし、いじめにあっている訳でもない。ただただ、篠縣伊火子側にクラスメイトと仲良くする発想がなかった。幼稚園児の頃のトラウマが友人を作ることへ恐怖すら感じさせていた。そういった心の寂しさは、弟との触れ合いで解消していたことに今更ながらに篠縣伊火子は気が付いた。

 

 一生を独り身で過ごすのだろうという漠然とした思いはあったが、それがどういった暮らしになるのかをいち早く篠縣伊火子は体験することとなる。

 

 寂しさで生活リズムを崩したり、不眠になったり、そういった健康被害が出る程に篠縣伊火子の精神は脆くなかったが、何となく心のどこかが空虚で仕方がなかった。

 

 そんな心の渇きを埋めようと篠縣伊火子は色々と模索した末に、篠縣伊火子は日常系アニメと出会った。元々、篠縣伊火子はアニメをほとんど見ない少女だった。別に毛嫌いしていた訳ではなく、ただ縁がなかったのだ。

 

 可愛い女の子たちが多少の波乱はあれども、人が死ぬようなこともなければ虐めに遭うような悲惨なこともない、和やかに進んでいく日常の世界。篠縣伊火子はいつの間にか食い入るように日常系アニメを見つめていた。余暇が日常系アニメで埋められていくようになった。

 

 そして、篠縣伊火子は夢想するようになる。私にもあんな可愛らしい美少女の友達がいたら、と。

 

 篠縣伊火子が勇気さえ出せば、高校のクラスメイトから友人を作ろうと思えば作れただろう。だが、篠縣伊火子はそういったリアル系の友人ではなく、ある種理想化されたアニメの友人像を追い求めるようになってしまう。そんなものがいないことくらい篠縣伊火子も理解はしていたが、それくらい理想的な友人ならばトラウマを乗り越える勇気が出せるかもしれないと思ったのだ。

 

 それだけならば、よかった。

 

 篠縣伊火子はいつの間にか日常系アニメのキャラクターを邪な目線で見ている自分に気が付く。性欲の薄かった篠縣伊火子は、よりにもよってここで目覚めてしまった。

 

 普通異性に対しこういった感情を覚えるのではと自分自身でも困惑したが、目覚めたからには仕方がない。高校生の若き性衝動は凄まじく、どんどんと篠縣伊火子は突き進んでいってしまった。何しろ自宅には自分以外誰もいないのだ。しかも、家族向けの防音環境がしっかり整った広々としたマンションだ。性衝動の解消には困ることはなかった。

 

 一番性嗜好に合致していたのはロリ巨乳だった。自分自身が百八十センチに届こうかという高身長で、低身長で可愛い女の子には憧れがあったこと。自分自身にもかなり立派な胸が付いているが、自分についていても重いだけで意味がないのでどんなものか是非とも味あわせて欲しいこと。

 

 二つの要素がジョグレス進化を起こし、篠縣伊火子のスーパーベストマッチとなる。甘えつくし、肯定され、そんな自分の理想像を好き放題に蹂躙するのが一番に滾った。しかも蹂躙され切ってもなお理想の美少女は自分を何処までも甘やかしてくれるのだ。両親に思う存分甘えられなかった篠縣伊火子にとって日常系アニメに出て来る母性の塊のようなロリ巨乳キャラは理想の極致としてそびえ立つこととなる。

 

篠縣伊火子にかかれば十八禁を買うことがかなわなくとも自ら製作することは可能で、もし同人誌として世に出れば世間から高評価の嵐となること請け合いの三ケタページの自作本を月一ペースで生成し続け、自家発電を高クオリティに実現していく。

 

しかし篠縣伊火子はたまに現実に突き付けられるのだ。そんな理想の美少女がまさか天から降って来るなんてありえなくて、自分は空想上の理想を描いているに過ぎないのだと。そう、ありえないのだ。

 

 

 

 やべー同人誌を生成し家では自家発電しまくっているが孤高の無口系高身長美少女キャラとして高校で周りから評価されていた篠縣伊火子にある日、転機が訪れる。

 

夏が迫ろうとしていた六月の薄ら寒い梅雨の中、修学旅行で篠縣伊火子たちは帝都へと赴いた。様々な実学教育が予定されていたものの、同級生たちは揃っての遠出にみな普段よりもテンション高くはしゃぎまわっていた。学校側としてもこれから始まる本格的な受験勉強を前に最後の息抜きとしての側面も持たせた修学旅行だった。

 

 篠縣伊火子は同じクラスの同級生たちと団体行動を取ることになる。あまりクラスの面々と交遊を深めていなかった篠縣伊火子だったが、必要な事柄なら臆面なく声を上げられる性格だったので上手い事グループへ紛れ込むことが出来ていた。女子グループの面々が孤高のイケメン美少女の加入で大盛り上がりしていることなど露知らず、篠縣伊火子は人口三千万を擁する世界最大の都市、帝都へ訪れる。

 

 だが、篠縣伊火子は知らなかった。この時帝都では異界から侵入してきた怪異を相手取り、大八津火帝國はおろか諸外国の退魔師や霊能者たちが結集し全力を賭しての大決戦が行われていたことを。

 

 そして不幸にも、篠縣伊火子は怪異側の三強と目された“輝きし狭間”と遭遇してしまう。

虹色に輝きながら地面をスライムのように這う“輝きし狭間”を前に、篠縣伊火子が出来たのは修学旅行ではしゃぐクラスメイトの同級生たちを突き飛ばして自分を犠牲にすることだけだった。

 

篠縣伊火子は“輝きし狭間“の内部に呑み込まれてしまう。内部には怪物たちが蔓延るダンジョンが待ち受けていた。

 

 普通ならば、そのままダンジョンのモンスターに殺されて人生を終えるだろう。だが、篠縣伊火子は自分でも気づいていなかったが、戦闘において天賦の才を持っていた。同じように呑み込まれていた大八津火帝國政府の特殊部隊やら退魔師やら勇者パーティやらの生き残りと力を合わせ、仲間たちが次々と命を落としていく中、最後の生き残りとして篠縣伊火子は“輝きし狭間”を撃破し内部からの脱出を果たしてしまう。封印されていたはずの霊能力が数段と強化された末の帰還だった。

 

 異界からの怪異が侵攻した事件は現実世界の帝都においても数千人の死傷者を出す大災害となり、修学旅行に参加したクラスメイト達にも数名の犠牲者が出てしまう。

 

 篠縣伊火子は生き残った。だが、戦いの中でようやく見つけたと思った人と人との絆を失って戻った日常は以前にもまして苦しかった。一人でもいいから戦友が生き残って辛かった思い出を共有したかった。慰め合いたかった。

 

 帰ってきた篠縣伊火子は数週間の入院を経て日常へと戻る。ただでさえ多かった自家発電の回数は増え、自暴自棄に自分を痛めつけることも増えた。悪夢を見るようになり、睡眠が休息にならない日が度々生まれるようになった。

 

 救われたかった。

 

 だから、大学に進学した篠縣伊火子は一念発起して友人を作った。

 

 

 

そして、宗教に誘われた。

 

 

 

篠縣伊火子はため息を吐きながら降り積もる雪の中を歩いていた。既に日は暮れ、ただでさえ人気のない道は人っ子一人歩いていない。おまけにここから歩いて家に帰るとするならば、軽く一時間はかかるだろう。途中にバス停はあるが、この辺りは市街地から外れている。ダイヤを確認はしてみるが、きっと待ち時間の方が歩いて帰るまでの時間よりも長いに違いない。

 

「付き合わなきゃよかった」

 

 彼女は大学の友人に誘われ、新興宗教の会合に無理やり参加させられた帰り道だった。友人を全然作れずやっとの思いで作れたたった一人の友だったが、その友は彼女を利用することしか頭になかったらしい。篠縣伊火子は気が重くなり、今日何度目か分からないため息を吐いた。

 

 それにしても、と篠縣伊火子は思う。巷に聞く噂だと新興宗教の会合に参加などしようものならとんでもない契約を交わされてたり、逃げ出すのが困難だったりするという話がまことしやかに語られるものだが、やけにあっさりと帰ることが許された。

 

 意外と私は幸運に恵まれたのかもしれない。そうでも思わないと篠縣伊火子はやってられなかった。

 

「これ、どっしよっかな……」

 

 分厚いコートのポケットから既にしわくちゃになっている御札を取り出し篠縣伊火子は再び溜め息をつく。帰るのは許されたが、帰り際にこの御札を持っていくようにと持たされたのだ。

 

 灰褐色の紙面は紙やすりかと見紛うほどに紙質が悪く、記号群や文字は未だに若干粘性を帯びた黒色の液体で描かれている。

 

 こんな御札など途中で適当なゴミ箱に投げ捨てても良かったのだが、篠縣伊火子の霊視とでもいう力が言っている。この御札には力が込められている、と。

 

 だったらなおさら捨てるべきではある。篠縣伊火子としてもこんなやべー代物さっさと捨てたい。だが、これをもし知らない一般人、例えばゴミ捨ての業者が触れて酷い目に遭ったら……そう考えてしまうと篠縣伊火子は捨てることを躊躇ってしまうのだった。

 

「はあ……せっかく友達出来たと思ったのに」

 

 ため息をすると幸運が逃げると言うが、最早篠縣伊火子のそれは習慣となっておりやめるにやめれなかった。 

 

「げ」

 

 篠縣伊火子は立ち止まる。件の御札が何やら妙に振動しはじめ、不穏な輝きを見せ始めたかと思えばついに自力で浮遊を始めた。顔を引きつらせながら、篠縣伊火子は何歩か後方へ下がる。こんなことなら会合になんて参加しなければと後悔の念が脳内を駆け巡るが、最早手遅れだった。

 

 光り輝き、宙を浮く御札がついに飛翔を開始し、県道のそばにある観光スポットである白峯の湖へ飛んでいく。夜とあって、光る御札の航跡は簡単に判別出来た。そして。

 

「うわー!」

 

 可愛らしい少女の叫び声が湖の方向から聞こえて来る。鈴の音のように澄んでいて、それでいながら柔らかな響きの声だった。

 

 絶対に何らかの厄介事が待っているだろう。だとしても、御札が何をやらかしたのか見ないで済ませることは篠縣伊火子の良心が許さなかった。

 

 精神的にも肉体的にも重い体を引きずって篠縣伊火子は湖へと歩みを進めていく。するとそこには遊歩道に積もった数センチの雪に体を沈めた、冬にしてはあまりに簡素な格好をした美少女が顔に貼り付いた御札を取ろうともがいていた。

 

「何これ何これ!? 何で私にくっついてくるのー!?」

 

 名も知らぬその美少女は、まるで二次元から抜け出してきたかのように可愛らしい容姿をしていた。しかも、篠縣伊火子の嗜好を見通したかのように小柄で胸も大きい。顔は御札に隠れて見えないが、沈んでいた篠縣伊火子の気分は俄然高まりを見せ始めた。

 

「とーれーてー!」

 

 小柄な美少女のほっそりとした白い指が御札をしっかりと掴み、力いっぱい引きはがそうとしているものの取れそうな気配はない。この御札は霊的な力で張り付いているのだ。物理的に剥がそうとすれば重機でも持ってこなければ取れないに違いない。

 

どうしたものか、現場に到着した篠縣伊火子が手を出してもこれはどうしようもないぞと手をあぐねていると小柄な美少女から清浄な輝きが一瞬溢れ出る。

 

 篠縣伊火子が見たことのない、心の洗われるような癒されるような白い瞬き。御札が見せた邪な念をまるで感じない、寺社や仏閣の聖域で微かに感じ取れる神々しい空気の何十倍も輝かしき清浄なる光だ。

 

「と、取れ……ってなくなっちゃった! あれー?」

 

 小柄な美少女の見せた輝きによって御札は消滅してしまっていた。どうやら浄化されてしまったらしい。

 

 あれほどの邪気を迸らせていた御札を消滅させたことに篠縣伊火子は目を見張る。見る力しか持たない篠縣伊火子には到底不可能であり、篠縣伊火子が知る霊能者たちの中にもあれだけの浄化の力を見せた者はいない。

 

目の前の美少女が類まれな強力な浄化能力を持っていることに篠縣伊火子は羨望を覚え、そして同じ世界に住む人間なのだと同類意識も芽生える。

 

 親近感を抱いた篠縣伊火子が思わず歩み寄ると、ぽかんとしていた小柄な美少女の顔がこちらを向く。既に夜ということもあり全貌が見えていなかったが、いざ近付いて目にすると素晴らしいまでの美少女だった。横に跳ねた左右の髪の毛がぴょこんと耳のように動く様を見て、篠縣伊火子は犬を連想する。それはまさに篠縣伊火子が妄想で好き放題の限りを尽くした空想上の美少女とそっくりな容姿だった。

 

 

 

 普通なら篠縣伊火子が自宅へ人を招く事なんてありえなかった。それなのに、大学の友人も頑なに自室へ招き入れなかった篠縣伊火子がいつの間にか招いてしまっていた。

 

 お風呂から上がってきた美少女に渡した服は篠縣伊火子のために用意された服ではなかった。夢想の美少女を妄想の中だけでなく、現実で感じ取るためのアイテムだった。つまり、自家発電時により没入するためのアイテムであり、そのアイテムを問題なく着てみせた美少女を見て篠縣伊火子は運命的な繋がりを感じた。

 

これは、この子を迎え入れるために天が用意させた? ということは、この子は私のものなのでは? 妄想が現実化したのではと篠縣伊火子は多幸感で頭がふわふわしてくる。

 

 さらに、フラピア改め犬子という名を持つ美少女の身の上話を聞いて篠縣伊火子は胸の高まりが気付かれてはいないか不安になって来る。彼女の話が本当ならば、彼女には頼るべき存在はこの世界に一切存在しない。やっぱり、私のものなのでは? 

 

 容姿が篠縣伊火子の妄想の美少女と瓜二つだった。それ故に、篠縣伊火子は犬子と妄想の美少女を徐々に重ね合わせ始めていた。主に性欲の発散のために描き続けて来た数百にも上る自作本の数々と同一の存在と認識が改変され始める。

 

つまり、犬子はナニをしても最後には笑顔で許してくれるドスケベクソ雑魚美少女ということだ(?)

 

 篠縣伊火子の危険な思考は犬子への遠慮を見る見るうちに消失させ、うっかり犬子の頭を撫でてしまう。

 

やってしまった。妄想の美少女と似ているからといって実際に手を出してはアウトである。未だ現実と妄想の区別を付けられる篠縣伊火子は体を恐怖に固まらせたが、しかして犬子は嬉しそうに顔を綻ばせる。

 

これは私のものだな。篠縣伊火子は確信を抱いたと同時に、やべー淫乱妄想の具現化でもあるのかと期待を抱き始める。

 

 犬子の元の性別など篠縣伊火子には興味がなかった。大事なのは、今である。今の犬子は自分の妄想を体現した美少女の姿をしていて、なによりも人への繋がりに興味のなかった篠縣伊火子が隔意なく触れられる。

 

 犬子の生来の人柄が所以なのか。ただただ見た目に絆されたのか。実際は、どんな変態ドスケベ行為をしても最後には許してくれる聖女な妄想の美少女と犬子を重ね合わせて遠慮が失われているだけなのだが、それはどうでもいいと感じていた。篠縣伊火子は弟と離れて以来、久しぶりに自分の我を出しても気楽に接することの出来る存在と出会えた。共にありたいと思える存在と出会えた。それが何よりも嬉しかった。

 

 だから、篠縣伊火子は犬子を手放したくない。犬子には自立を応援するような台詞を投げたが、犬子が独り立ちすることなど篠縣伊火子は絶対に認める気がなかった。

 

 

 




これハッピーエンド?


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第五話:襲撃される。

 大きく柔らかな心地よさに包まれた幸福の中で犬子は目を覚ました。

 

「あれぇ……いつの間に」

 

 百年の孤独の中では睡眠すら休息として許されなかった。白い空間内部にあって犬子は疲れを覚えることを許されず、ただかの女神のために働くことを求められていた。

 

 それ故に犬子にとって目覚めたばかりの微睡みはあまりにも甘美な感覚で、眠るにしても起きるにしても惜しい気持ちで揺らいでしまう。ふわふわのベッドの温もりと、篠縣(しのかた)伊火子(いかこ)の温もりが犬子を再びの眠りを誘う。

 

「ん?」

 

 目の端に映った篠縣伊火子へ犬子はゆっくりと目の照準を合わせていく。それは紛れもなく篠縣伊火子で、すうすうと静かに寝息を立てて犬子の隣で眠っていた。あまりの驚きで、犬子は声を出すことも出来ずに大口を開けて震えはじめる。

 

 どうしようと犬子は焦る。篠縣伊火子は自分より三十センチ以上大柄な美人なお姉さんだ。そんな綺麗な女の人とベッドを共にするなんて恩人相手にあまりに失礼である。手を出してはいないだろうか? うっかり触れてしまってはしないだろうか? そもそも男相手にこんな無防備に眠る篠縣伊火子は無防備に過ぎる……焦りで空回りしていた思考が、自らの胸元の谷間を見て思い出す。今、自分は女だった。

 

「でも、やっぱり問題な気がする」

 

 おそらくこんな経験、初めて経験している。何となくだが、確信に近い思いを抱きながら犬子は煩悶とする。隣で眠る篠縣伊火子の体臭の甘さと体温の暖かみは魅力的で、犬子はずっとくっついていたかった。

 

 心中に浮かぶ強烈な誘惑に後を惹かれながらも、犬子はベッドの中でもぞもぞと小さな体をばたつかせてその場からの離脱を図った。欲望に負けない犬子の誠実さが光るが、篠縣伊火子は犬子の離脱を許さない。

 

「えっ」

 

 起こさないようにとゆっくりと動いていた犬子に、目を開けた篠縣伊火子ががばりと覆いかぶさって来る。

 

「えー! 起きてるのに何でー!」

「逃がさない、犬子」

 

 ぎゅうと抱きすくめられ、犬子は顔を真っ赤にしながら暴れるもあまりに体格差が大きすぎた。

 

「あにょ、あにょ……当たってる。当たってますぅ」

「ん? 何が?」

 

 恥ずかしさに呂律も回らない犬子の胸元に顔を埋めながら篠縣伊火子はにんまりと笑みを浮かべる。綺麗な顔立ちに似合わないだらしのない笑顔だった。けれど大層幸せそうな笑顔だったので、犬子はもうこのままでいいやと思った。

 

 しばらく無言でいた二人だが、篠縣伊火子の方から口を開く。

 

「昨日。いきなり犬子が寝ちゃったから、ベッドに運んで……そのまま私も寝ちゃってた」

「そうだったんですね」

 

 嘘だった。だが、それを知る術は犬子にはない。

 

「こんなに気持ちよく寝たの。すっごく久しぶり」

 

 そう言って微笑んだ篠縣伊火子があまりに可愛らしく、犬子は耳が赤くなっていくのを自覚してしまう。

 

「照れてる?」

「知らないですっ!」

 

 そっぽを向いて反意を示す犬子があまりに愛らしく、篠縣伊火子の手が犬子の頭に乗る。その手を犬子は拒否することなく、ただ撫でられるに任せる。犬子にとって篠縣伊火子はようやく得られた安寧の象徴であり、幸福の代名詞になりつつあった。

 

 身を寄せ合い、頭を撫でられている間、犬子は幸せを肌で感じ取っていた。

 

 ずっとこの人といられたら……そんな思いがふと頭を巡る。けれど、まだ犬子は篠縣伊火子のことについてはあまり知らない。生い立ちや交友関係、食べ物の好み、趣味等々……もっともっと、篠縣伊火子のことが知りたいと犬子は思った。

 

 無言の時間が数十分と続いている中、犬子はもそもそと動いて胸元に顔を埋めている篠縣伊火子へと目線を下げる。

 

「あの。篠縣さん」

 

 犬子の胸に顔を埋めている篠縣伊火子は何処か恍惚とした表情を浮かべていた。何だかいけないモノを見たような気がして犬子は心拍数が上がっていく。思考力が溶けて消え、何を言おうとしたのか分からなくなる。それでも、ここで立ち止まりたくなかった。篠縣伊火子ともっと仲良くなりたかった。その一歩を踏み出したかった。

 

 だから顔を真っ赤にしながら、思考力の溶けた頭で本能の赴くままに犬子は口を開く。

 

「あの、伊火子さんって……呼んでもいいですか?」

 

 口から紡ぎ出された言葉は、犬子の篠縣伊火子との距離を縮めたいという想いをそのままに構成されていた。果たして篠縣伊火子は受け入れてくれるだろうか。

 

流石に断られるとは思わなかった。けれど、引かれるかもしれない。そんな犬子の懸念は目をキラキラと輝かせ顔を高速で縦に振動させている篠縣伊火子が払拭してくれる。

 

「さん付けもいらない。伊火子でいい」

「あ……じゃあ、い、伊火子?」

 

 それは篠縣伊火子が豹変するトリガーとなった。何故か篠縣伊火子はものすごい勢いでその場に立ち上がる。

 

「い、犬子……!」

「あの、伊火子? 顔が怖いよ?」

 

 先ほどまでの目を輝かせていた篠縣伊火子が何処へ行ったのかと思えるほどに今の彼女の顔からは感情が消え去っている。機嫌を損ねてしまったのか? 何が篠縣伊火子の琴線に触れてしまったのかが分からなくて犬子は恐怖と困惑で身動きが出来なくなる。

 

そんな犬子をそのままに篠縣伊火子はベッドから飛び降り、何故か床に伏して四つん這いになる。

 

「うう……うぐぐ……」

「伊火子!? だ、大丈夫!?」

「だい、丈夫……」

 

 篠縣伊火子の喉から辛うじて紡ぎ出されたか細い声。とても大丈夫には見えなかった。何かを必死に堪えているような篠縣伊火子は震える手を犬子へと伸ばす。もし、その手の誘いに応じれば闇に呑まれるような危険な予感が犬子に警鐘を鳴らすが、もっと仲良くなりたいと奮起したばかりの犬子はここで篠縣伊火子を見捨てたくなかった。

 

ゆえに、勇気を振り絞って手を差し伸べる。犬子の細く小さな手が、痙攣にも等しい震えを帯びた篠縣伊火子の手に触れた瞬間だった。

 

「犬子ォ!」

「い、伊火子!? 突然何を!?」

 

 野獣のような咆哮を上げ、篠縣伊火子はベッドにいた犬子を一瞬の内に床へと組み伏せていた。引っ張られた感覚はなく、瞬間移動でもしたかのような錯覚を覚える程だった。最早何が起きているのかが犬子は分からない。どうしたらいいのかも分からなかった。

 

 犬子は縋るように自分を組み伏せている篠縣伊火子の顔を見つめる。その瞳は犬子をまるで獲物でも見るように爛々とこちらに眼光をぶつけてきていた。犬子は食べられる、そう直感し身を震わす。

 

 ……だとしても。ここで人生が終わるとしても。一日足らずとはいえ平和で穏やかな生活を見せてくれた篠縣伊火子になら、それでもいいかと犬子は思ってしまった。

 

 怖くて口を開くことすらも出来ないけれど、犬子は“許し”を篠縣伊火子へ表情で伝えようと微笑んで見せる。百年の苦行の果てのご褒美は十分に楽しめた。その感謝を表情に精いっぱい込めて犬子は笑った。

 

「あっ……ちょ、ちょっとお腹痛いからトイレ行ってくるっ!」

 

 悲愴な覚悟を決めた矢先、篠縣伊火子は犬子の目では捉えられない程に超高速で目の前から消え去った。

 

「お、お気をつけてー……」

 

 呆然としながら犬子は先ほどの奇行は腹痛に苛まれたが故だったのかと自分を納得させる。腹痛の記憶を探るも、犬子はああも取り乱すほどの代物だったとはとても思えなかったが、痛みというのは個人差があるものだ。もし再び篠縣伊火子があのような奇行に走り出したら、きっとお腹が痛いのだ。

 

一つ篠縣伊火子の内面を知れて、犬子はちょっと嬉しくなった。

 

 

 

 それから数十分が経過する。

 

「ホントに大丈夫かな」

 

 一向にトイレから帰ってこない篠縣伊火子が不安になった犬子はトイレまで様子見に行くか思案する。しかし、排泄行為に伴う音を聞かれるのは篠縣伊火子も嫌がるだろう。犬子もあまり聞かれたくはない。女性の篠縣伊火子ならばなおさらだろう。

 

行くべきここで待つべきか。悩んだ犬子は遠巻きに近づいて何か音がしたら引き返すことにした。

 

 そっと、抜き足差し足で犬子はトイレを目指す。幸い犬子は体格も小さく体重も軽い。ゆっくりと歩けばほとんど音を立てずにトイレへと向かうことが出来た。

 

そして、犬子は途中で引き返した。

 

 トイレに設営された擬音発生器の防御すら貫通し、便器に勢いよく液体が噴き出して当たる音と女性が発するにはおよそ相応しくない声が聞こえた故だった。腹痛に苦しむ篠縣伊火子が心配ではあったが、排泄音だけでなく、それに伴う下品な声が漏れたのを聞かれたと知れば篠縣伊火子は恥ずかしいに違いない。どうか治りますようにと願いながら、犬子はリビングのソファに腰を下ろし待つことにした。

 

 

 

 

 

 犬子が篠縣伊火子を気遣う一方で、トイレに籠る篠縣伊火子はあらゆる保身を忘れ快楽を貪る事のみを考え自慰行為に耽っていた。

 

 人生の中で篠縣伊火子は幾度か名前で呼ばれることもあったが、ただ名前を呼ばれるだけでこれほど気持ちが昂ったのは初めての経験だった。危うく狂喜に呑まれてそのまま犬子を犯してしまう寸前だったが、もしそれが原因でようやく手に入れた犬子との絆が切れたらという恐怖が辛うじて理性を呼び戻した。薄っぺらい理性でどうにか我慢した結果が、トイレに駆け込んでのヘビーな自慰行為だった。一人で同人誌を生成していた頃とは比べ物にならない快感に篠縣伊火子はすっかり呑まれてしまっていた。

 

 そして、篠縣伊火子に魔が差した。

 

 乱れた息を整える思考すらも残っていない性欲お化けと化した篠縣伊火子はドロドロの下半身をそのままにトイレを出る。目的地は犬子。

 

どうしても彼女の顔を見て、体臭を嗅いで、吐息に触れて頂点に達したいという欲求に抗えなかったのだった。微かに残っている理性が、もし犬子が起きていたら引き返すことを決意していたが、二時間以上の連続自慰行為により火照り切った肉体・精神共にそれが可能かどうかまでは今の篠縣伊火子に判断する余力はなかった。

 

 狭いトイレの中で延々と発情し行為に耽っていた影響で今の篠縣伊火子は凄まじき雌臭を漂わせていた。見目麗しい容姿をそのままに性欲に蕩けさせたその姿は常人の理性を軽く粉砕し間違いを犯させてしまうことも可能なだけのオーラを漂わせていることに無自覚なまま篠縣伊火子は犬子目掛け進撃を開始する。

 

 犬子を直接感じたい欲求しか脳内に残っていない篠縣伊火子は、研ぎ澄まされた嗅覚及び聴覚で一切迷いなくリビングのソファで眠りこけてしまっている犬子を捕捉する。

 

 幼い顔つきなくせに主張の激しい胸を呼吸する度に揺らす犬子を見て、篠縣伊火子はすぐに全身を露出し行為に至り始めた。それは脳内がチカチカと瞬き、神経が焼き切れていく体験したことのない快感だった。

 

 だが、快感に呑まれ過ぎた篠縣伊火子は自身の下半身から漏れ出し、飛び散っていく体液が犬子を汚していくのに気付かない。

 

 気が付けば、言い訳もしようもないレベルで犬子は篠縣伊火子の体液に濡れていた。

 

 まずい。犯してもいないのに、それに近しい姿に犬子をしてしまったことで先ほどまでの快楽に染まっていた脳内が一気に冷え切っていく。

 

 急いでどうにかしないと。焦りにパンクしそうになる脳内をどうにか落ち着かせながら、篠縣伊火子は慌てて隠ぺい工作に乗り出し始めた。

 

 

 

 

 

 犬子は何だかむずがゆい感覚に襲われ、目を覚ます。どうやら気付かぬうちに眠っていたらしい。目を開けた犬子はむずがゆさの原因を理解した。篠縣伊火子が犬子の服を脱がして着せようとしていたからだ。犬子の下半身に新しいパジャマを着せている篠縣伊火子からは、甘く爽やかな香りがした。何処かでこの匂いを嗅いだ覚えが犬子はあったが、意味不明な篠縣伊火子の行動が気になってそれどころではなかった。

 

「何をしてるんですか?」

「飲もうとした水、こぼした……から新しい服に着せ変えようと」

「はあ……」

 

 犬子は寝ぼけ眼で視界の端に昨日から来ていたパジャマをぼんやりと視界に捉える。確かに、点々と飛沫が液状に染み込んでいるようだった。

 

「そこまで濡れてるようにも思えませんけど、気にし過ぎじゃないですか?」

「そう、かな?」

 

 見たところ、暖かな屋内なら十数分もすれば渇く程度の小さな液体の染みのようだった。その程度で慌てていたであろう篠縣伊火子を想像し、犬子はくすりと笑う。

 

「伊火子は慌てん坊さんですね。このくらいなんてことありませんって」

「けど、もう新しい服を用意した。着せる?」

 

 既に下半身の着替えは完了していたが、上半身はパジャマを脱がされ犬子は半裸を晒していた。しょげている篠縣伊火子は半ば顔を隠すように新しいパジャマを見せつけてくる。

 

「服くらい一人で着られます! 貸して頂いていいですか?」

「……はい」

 

 少しの間に犬子は引っ掛かりを覚えたが、ブラジャー姿で辺りをうろつく気はなかったので気にせず新たなパジャマに袖を通す。その間に篠縣伊火子は着終えたパジャマを回収し、何処かへと去っていった。

 

ふわりと、再び爽やかな甘い香りが漂う。この香りの正体を犬子は思い出した。シャワーを浴びた時に使用した、ボディーソープの匂いだった。この場から消えた篠縣伊火子からは、その匂いが強く香っていた。心なしか、髪もいつの間にか濡れてしっとりとしていたような……寝てる間に、お風呂に入ったのだろうか?

 

「伊火子何処?」

 

 篠縣伊火子の姿が消え、犬子は僅かに心が曇るのを自覚する。思わず切なげな呼び声を発して篠縣伊火子を求めると、ひょっこりと玄関に繋がる廊下から篠縣伊火子が顔だけを出してこちらを見つめて来る。その顔が見られただけで、犬子はホッとする自分自身を自覚した。

 

「ここ。洗濯機動かしてきた」

「あ! 洗濯物出たらすぐに洗濯する派ですね!」

「……今日はそんな気分だった」

 

 篠縣伊火子は気分屋なのだろうか? その発言もひっかかる部分があったが、それ以上に犬子は篠縣伊火子がお風呂に入ったことが気になっていた。朝シャン派なのか否か。それだけの情報でも、犬子は知りたくてたまらない。篠縣伊火子の一面をもっと知りたかった。

 

「伊火子は朝にお風呂入る人ですか?」

「……それもその日の気分」

「気分次第です?」

 

 コクリと頷いて見せる篠縣伊火子に犬子は唸る。目の前の女性は思った以上に理解しきるのに時間がかかりそうだった。

 

「……それより、そろそろ朝ごはんにしない?」

 

 篠縣伊火子からそう問われると、途端にお腹が空いて来るのを犬子は自覚する。先ほどまでは篠縣伊火子への興味しか頭になかったのに、もう犬子の頭は食欲まみれになってしまった。

 

「朝ごはんは何にしますか? ご飯? パン?」

 

 果たして何を食べることができるのだろう? うきうきと犬子は目を輝かせる。これだけ嬉しそうに食事を求める人間がいては、篠縣伊火子の方も俄然やる気が湧いて来る。

 

「じゃー、パスタ。スープパスタにする」

「えー! おいしそー!」

 

 ちょっとした悪戯心から言い出した第三の選択肢に大喜びしてステップを踏む犬子を前に篠縣伊火子の頬は緩む。犬子といることで一年分以上の笑顔を消耗しているなとぼんやりと考えながら、篠縣伊火子はキッチンで料理を共にする。

 

 スープパスタはとても美味しかった。犬子はじんわりと涙をにじませながら口内でしっかり味わいながら完食する。その様を見ているだけで、篠縣伊火子は料理をした苦労以上の喜びを得られたとご満悦だった。

 

料理を食べ終えた二人はリビングへと移動する。犬子がどうしてもテレビを見たいと言ったからだった。

 

「何か、見たいの?」

「番組が見たいというより、この世界のテレビが気になって」

 

 篠縣伊火子には話したが、犬子は別世界の人間だった過去を持つ。だから、この世界のことを知っておきたかった。篠縣伊火子にテレビを付けてもらい、朝のニュース番組を見る。番組の作りは地球と同じようだった。ニュースキャスターがニュースを読み上げ、現場の様子を映し、株価が映ったり、天気のテロップが画面の上の方でゆっくりと流れていく。

 

「ここは何て言う地名なんですか?」

「旭舘市」

「あ、あさひだて……」

 

 ものすごく混ざっている。ニュースで天気予報が読み上げられると旭舘周辺の地名が読み上げられ、列島図と共に各地の主要な地名が映り出すが、とにかく混ざっていた。

 

「帝都……東京が帝都だ」

「東京って、何?」

 

 犬子は地形の生成には関わっていなかった。そこら辺はもうすでに出来上がっていたから、いじっていないのだ。奇遇にも東方にそれっぽい列島があったから、ちょっと介入したのは故郷への郷愁故だったが別に贔屓したことはなかった。

 

「ここ、日本じゃないんですもんね」

「二ホン? 二本?」

「私の元いた国の名前です」

 

 日本に似ているし、日本語も話している。漢字だって使っていてる。だけれども、ここは日本ではなく大八津火帝國なのだ。犬子は頭がこんがらがってきた。

 

「ちょっとこの世界のお勉強しようか?」

「はい……」

 

 時刻は六時前で、年末の十二月とあって外は依然として漆黒を保っていた。篠縣伊火子の部屋に戻り、インターネットで犬子へ新たな世界について勉強をしているとディスプレイ上に怪しげな赤いポップアップが飛び出て来る。

 

「伊火子っ! ウイルスに感染しましたっ!」

「違う。マンションの警備システムが稼働した」

 

 驚いてのけぞる犬子を抱き支えながら篠縣伊火子がポップアップをクリックすると、画質の荒い監視カメラ映像が映し出される。そこにはマンションの入り口ガラスを破壊し、侵入を図る不審者の姿が映し出されていた。

 

「え、え? 泥棒でしょうか?」

「違う。宗教団体“天からの産声”」

 

 篠縣伊火子には彼らの顔と服装に見覚えがあった。昨日、宗教の会合に参加させられ散々見せつけられた白を基調とした和装に黒い雲の紋様を胸の部分に描いた独特の格好を見間違えるはずもない。彼らの確認したマンションの部屋番号は篠縣伊火子の住んでいる番号だ。ここに来ると篠縣伊火子は確信する。

 

 人数はカメラの視野内だけで四人。場合によっては後続がいる可能性もあるだろう。手短に犬子へ事情を説明しながら、既に篠縣伊火子の体は逃走の為の準備に動いていた。

 

「えー! どうするんですか!? けけけ警察に通報しますか!?」

「いや、警備会社から既に通報されてるはず」

 

 だが、警察が来るまでこの部屋に留まるのは難しいだろう。ブリーチングハンマーにショットガン、さらには扉爆破用の火薬も用意しているようだ。篠縣伊火子の見る限り、彼らの持つ装備ならば一般家庭の扉程度は数秒も経たずにこじ開けられるだろう。

 

「この部屋の扉程度ならすぐ破壊される装備……逃げよう」

「え、え?」

「はい。これ着て」

 

 混乱している犬子は篠縣伊火子が渡してきたゴスロリ衣装に疑念を抱く暇もなく慌てて袖を通す。来ている途中で恥ずかしくなってきたが、今は緊急事態だ。きっと篠縣伊火子も慌てて服を選ぶ余裕などなかったのだろうし、ここで着替え直している暇などある訳がないと犬子は自分を納得させる。そもそもからして一般家庭の女児が着るような服ではないことにまで犬子は気付けなかった。

 

 モコモコとした白いコートと、履いた気配のない茶色いスノーブーツを着こみ、犬子は完全に外出モードへと移行する。何故篠縣伊火子の自室にそれだけの衣装があるのかを考察する余裕は犬子にはなく、羞恥よりも泥棒がやってきた恐怖が心を占めていた。

 

「よし……非常階段まで見張ってはいない。私たちが気付いてるとは思ってないみたい。行くよ」

「は、はいっ!」

 

 犬子の準備が終わったのを見届け、篠縣伊火子が毅然とした態度で自室のドアノブに手を掛けたその瞬間。時が停止した。

 

「え? 伊火子?」

 

 先ほどまで逃亡の経路を確認しきびきびと動いていた篠縣伊火子は微動だにしない。部屋に置いてあった壁時計の針は止まり、監視カメラの映像を映していたパソコンのディスプレイも動きを止めていた。

 

 動揺で一気に心拍数が跳ね上げるのを自覚した犬子が不安の余り篠縣伊火子の服の裾を掴むと、篠縣伊火子が動き出す。

 

「どうしたの? 早く行くよ」

「え、は、はい?」

 

 勘違いだったのか? 一瞬、自分の意識が変になっていただけなのだろうか? きっとそうに違いないと犬子が自分を納得させて、篠縣伊火子の服から手を離すと再び篠縣伊火子の動きが止まる。

 

「えー!? どうなってるの!?」

 

 意味が分からない。混乱が犬子の頭を支配し、叫んだとしても世界は停止している。誰も犬子の声を聞き届けることは叶わないはずだった。

 

「うるさいですよ。下級女神のフラピアさん」

 

 かつて見た覚えのある門が空間を裂いて現れたかと思えば美しき少女が姿を見せる。ドミニアに似た黄金の髪と瞳を持つ絶世の美少女だが、ドミニアのような釣り目ではなく大きな垂れ目がじとりとこちらを見つめて来る。背丈も篠縣伊火子すら越すほどだったドミニアに比べるとかなり小さい。犬子とどっこいどっこいなので、小学生くらいの小ささだ。

 

「どなたですか……」

「ふふ。ワタクシは中級神が一人、正義を司りしウサフォニア」

「神様?」

 

 間の抜けた声で問いかける犬子に、ウサフォニアはドヤ顔を決めながら腰に手を当てて頷いて見せる。幼い容姿も相まり、犬子には威厳を感じ取ることが出来なかった。

 

「貴方は極悪非道な中級神、阿諛追従(あゆついしょう)のドミニアの手により人から神へと変わりました。ワタクシが貴方に代わり、正義を執行致しましょう。フラピアさん、貴方の記憶をワタクシに渡しなさい」

「記憶、ですか?」

「貴方がドミニアに受けた仕打ち、その記憶です。安心なさい、貴方風に言うならば、記憶のダビングをさせて欲しいと言っているのです。消えはしませんよ」

「な、何を言って……」

 

 犬子は恐怖を覚える。記憶をドミニアに奪われ、犬子は自らのアイデンティティを失った。大切だったはずだった人々との思い出も失った。これ以上、頭の中をいじられたくはなかった。

 

 後ずさりし、無意識に犬子の手は篠縣伊火子の服の裾に伸びていた。時間停止の楔から篠縣伊火子は再び解放される。意識を取り戻した篠縣伊火子の前には、金髪ロリ美少女がいた。犬子にはあった大きなおっぱいがないが、それでも可愛らしさには何ら遜色がない。だが、篠縣伊火子にとっては小さな美少女であっても知らない人は怖かった。脅威対象ならば遠慮ない物言いも出来たが、なまじ弱そうな見た目のせいで篠縣伊火子は怖気づく。

 

「犬子。この人は?」

 

 篠縣伊火子の前に立つ犬子になるべくくっついて、口を微かに震わせているのを気取られないようにぼそぼそと小声で篠縣伊火子は声を発する。

 

「人ですって? 人間、弁えなさい」

「あわわわわ! 伊火子、この神様は神様です!」

「神、様?」

「そうです。崇め奉りなさい人間」

 

 慌てる犬子にドヤるウサフォニア。小さな二人の愛らしい態度で恐怖が和らぎほんわかしだした篠縣伊火子だが周囲の状況に気が付くと背筋に冷たいものが走る。目の前の美少女は危険だ。そう認識した瞬間、篠縣伊火子の口は先ほどまでが嘘のように流暢に動き出す。敵と認識したならば、篠縣伊火子は躊躇わない。

 

「何が起きて……時が止まっている?」

「察しの良い人間ですね」

「神様がどうしてこのような場に?」

「ふふ、そこの下級女神の仇を取ってやると申し出てやっているのです、人間」

 

 ウサフォニアは犬子にした説明を律儀に篠縣伊火子へもして見せる。それを聞いて、篠縣伊火子は素朴な疑問が生まれた。

 

「どうして、下級女神なんて蔑む相手の記憶が必要なんです?」

「うっ」

「あ、そうだ! どうしてなんですか!」

 

 先ほどまでのドヤ顔は何処へやら、あからさまに動揺してあちこちへ目を反らしながらチラチラとこちらを窺ってくるウサフォニア。しかしそれで二人の疑念の眼差しから逃れられるはずもなく、ウサフォニアは涙目になりながら犬子目掛けて突進を始めた。

 

「うるさい! それは偉い神様なりの事情があるのですよ! 記憶をよこせ!」

 

 犬子の頭部目掛け手を伸ばすウサフォニアに神の威厳は最早なく、その切迫感にびびる犬子の為に篠縣伊火子はウサフォニアの両方の手首を掴んで動きを封じた。

 

「痛い! 痛いんですけど!?」

 

 離せと体をよじるウサフォニアだが、その腕は依然として犬子の頭目掛け力が込められている。ならば篠縣伊火子が離す道理がなかった。というか、力があまりに弱い。見た目相応の力すらも発揮できない目の前の神を、篠縣伊火子は脅威対象として見ることが出来なくなりつつあった。

 

「犬子は沢山酷い目に遭ってきた。もう十分……かみょ」

 

 最後の最後でどもってしまい内心赤面する篠縣伊火子だが、幸いシリアスな雰囲気の中でウサフォニアは気付かずに馬脚を現す。

 

「はあ!? ワタクシ様が親切心見せたらこれだもんなー! 別にそっちにも損のねー話だと思うんすけどね! じゃあもーいーよいーよ! 洗いざらい話しちゃうもんね!」

「ウサフォニア様……口調が」

「え? あっ」

 

 犬子の耳打ちで我に返りようやく動きを止めたウサフォニアは顔を真っ赤にして俯く。顔を覆いたくともその腕は篠縣伊火子に取られ顔を隠すことも叶わない。羞恥に染まった美少女の泣き顔が犬子と篠縣伊火子の前に晒される。

 

 殊勝に離してくださいお願いしますと頼み込んで来たウサフォニアを篠縣伊火子は仕方なく離してやると、ウサフォニアはくるりと背を向け壁に頭をぶつけて唸る。

 

 篠縣伊火子と犬子は目を合わせ微笑みあいながら、ウサフォニアの背を生温かな目で見つめて立ち直るのを待つこと数分。ようやく立ち直ったウサフォニアが振り返り、篠縣伊火子と犬子に事情を話していく。

 

 端的に纏めると、犬子の記憶がドミニアとの戦いで必要不可欠なものらしかった。

 

「こほん。おほほ。ワタクシは正義を司る神様です故、そのぅ、大義名分とかぁ、証拠の類がないと戦闘力が向上しない特殊な神様っていうか……」

「つまり、犬子の記憶がないとドミニアに勝てない、と」

 

 篠縣伊火子にバッサリ言われながらも渋々頷くウサフォニア。もう神の威厳を取り繕う余裕すら彼女には残されていなかった。流石の篠縣伊火子もこんなか弱い生物相手ならば、コミュ障を発揮しようがなかった。

 

「でもどうしてドミニアを裁くんですか?」

「それは、もちろん下級女神のフラピアを憐れんでですよぅ!」

「嘘。ウサフォニア様はそんなガラには見えないです。正直に言ってください」

 

 篠縣伊火子の指摘を前に、くそでかため息を吐いたウサフォニアは今までの鬱憤を晴らすかのように表情を変貌させ叫びだす。

 

「あの馬鹿がムカつくんですよ。姉だからって一々マウント取って来るくせにお偉方には媚び売りまくってあーあー情けないったらありゃあしないっつうの! それにワタクシ正義司ってるのにその前で人間拉致って道具のように使いやがってよぉ! ワタクシ見逃してたら神様として商売あがったりなんだよ! こちとら人間側に立つ神やってんのに面目丸つぶれなんだよ! これでいいかってのチクショウめ!」

 

 ぜえぜえと呼吸を乱したウサフォニアは体をふら付かせ、犬子に体を支えてもらう。何て弱々しいんだと篠縣伊火子は頷く。儚さポイントをウサフォニアは手に入れた!

 

「でも、私の記憶なんかが役に立つんですか?」

「くれ! ないと負ける!」

「ええ……でも、他にも犬子と同じ目に遭った人はいるんですよね?」

「そいつらはみんな死にました。あの馬鹿姉の出世欲の生贄になってしまいました。フラピアさん、貴方はそこの人間に拾われて生き残った超ラッキーガールなんですよ」

 

 ウサフォニアの言葉に身を震わす犬子の肩へ篠縣伊火子は手を置く。ありがとうございます、そう小さく述べて微笑んで来た犬子の愛らしさといじらしさに篠縣伊火子もまた心を締め付けられる。それはそれとして華奢な犬子の肩の触り心地は宜しかった。

 

「拉致られる前にどうにか出来なかったんですか?」

「あのね、多元世界の何処かからランダムに一人の人間拉致ってんのですよ。そんなの気

付ける訳ないしー、ましてやアレは現地の神が敵対者と戦ってて人の一人や二人奪われる程度の損害無視せざるを得ない世界線にだけ手を出している卑怯者ですもの。無理無理無理ゲー」

 

 肩をすくめてみせたウサフォニアはもう神の威厳など何処かへ放り出したらしく、篠縣伊火子のベッドにぴょんと転がってみせる。

 

「ま、ムカつくことに血縁関係のワタクシだからこそ、たかが人間が数人消滅する程度の事件に気付けたのですよ。そしてその証拠さえあれば全能力値五十倍上昇補正でぶっ殺せるのですよ」

「こ、殺しちゃうんですか?」

 

 例え、自分に酷い目に遭わせた非道なる神とて死なれるのも犬子にとって負担だった。自分のせいで死んだとあっては復讐だとしても、殺したという罪悪感を抱かされてしまう。

 

それにもうあの神に思考を割きたくなかった。ただただ忘れてしまいたかった。だからウサフォニアが現れるまでは復讐なんて微塵も考えなかった。篠縣伊火子に会って貰った沢山の幸せで心を塗りつくしてしまえればそれでよかった。

 

「あー、いや死にはしませんよ。上級神ならともかく、同格の神同士では無理です。ま、権能奪って神の座から追い落としてやりますから結果的には死ぬかもしれませんし、追放先で真面目にしてたら普通に生きていく道もあるかもしれませんけど」

 

 ま、そんな殊勝に生きられる姉じゃありませんけどと冷笑するウサフォニア。

 

「それで? 神であるワタクシにここまでぶっちゃけトークさせたんだから、協力していただけるんでしょうね?」

 

 だが、報いを受けさせることが出来るのなら。それも自分が心労を抱かない形で勝手に倒れていくならそれは喜ばしかった。死なないのなら、それはあくまで正当な罰だと自身に言い訳が出来た。暗い感情の発露と自覚しても犬子は復讐心が湧き上がってくるのを抑えきれなかった。

 

「私もあの神には恨みがあります。やっつけてくれるんでしたら……私、協力します」

「やったー! んじゃ、契約成立ってことで、よろしくね!」

 

 ベッドから跳ね起きたウサフォニアは犬子に抱き付く。素直に喜べないが、犬子は腹をくくった。

 

「あのウサフォニア様。ちなみに私たち刺客に狙われていて死ぬかもしれないんですけど」

「え。死なれたら戦闘中に全能力補正消滅でボコられるからやめて。え、貴方たち今どういうシチュなの?」

 

 事情を説明して助力を求めるも、ウサフォニアは苦い顔をして断って来る。

 

「この世界に介入は出来ません。神の介入は世界が乱れます。特に、別の神が創った世界だと尚更です」

 

 変なトコで生真面目だなと不躾な感想を抱きながら篠縣伊火子は時間停止しているじゃないかと質問をしてみる。

 

「それは何もいじってないでしょう? だからオッケーなんです。まあそろそろリミットなんですけれどね」

「具体的に何分ありますか」

 

 ある程度時間があるのなら、刺客たちを拘束する余裕もあるだろう。だが、ウサフォニアは五分もないと言う。ならばもう逃げる以外の選択肢はなかった。唸っている時間など与えなければよかったと後悔しても最早遅い。

 

「頑張ってー」

 

 手を振るウサフォニアを背に、篠縣伊火子と犬子は部屋を後にした。

 

 




備考
犬子の身長:140cm
篠縣伊火子の身長:180㎝


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第六話:逃走する。

未だ日の昇らぬ冬の朝、犬子は篠縣伊火子(しのかたいかこ)と共にマンションの地下駐車場を利用して刺客たちの目を抜けて脱出に成功する。犬子としては時間停止中に安全圏まで離脱したかったのだが、篠縣伊火子が敢えて監視カメラに映る必要性があると主張したので気は進まなかったが時間停止後に部屋を出てさも日常にいるかのように演技をしながらゆっくりとマンションを後にした。おまけに身分が不確かな犬子が監視カメラに映らぬよう巧妙に監視カメラの死角に犬子を誘導するほどの周到振りだった。

 

「あんな演技、必要でしたか?」

「いる。後で警察に疑われるのは面倒」

 

 マンションの裏手へ出た二人は人通りの少ない道に点々と灯る街灯の下、雪を踏みしめて逃げる。銃火器を持った相手というのに篠縣伊火子は冷静さを崩すことなく平静そのもので犬子の隣を歩いているのが不思議だったが、その頼もしい姿のおかげで犬子も何とか落ち着きを保っていられた。

 

「人、全然歩いてないですね」

「年末だから」

 

 マンション周辺の住宅地を抜け、篠縣伊火子に先導されるがままにバスへと乗り込み二人は市街地からの逃走に成功する。朝日が昇る前の車内、客は篠縣伊火子と犬子の二人きりだった。

 

さっきまでの慌ただしい逃走劇が嘘だったかのようにバスは規則正しくダイヤ通りに運行している。それが何よりも安全を保障し、日常の枠組みに戻れたような気にさせてくれて犬子はありがたかった。

 

「何処に行くんですか?」

 

 ディーゼルエンジンの騒音と振動が響く車内で、人心地ついた犬子は追われる身となった恐怖から声を大きく張り上げるのに抵抗があったので篠縣伊火子に身を寄せて声を掛ける。

 

「決めてない。連絡が来るまでぶらぶらしよう」

「え」

「一人じゃ入れなかったお店があるんだ。ついてきてくれる?」

 

 恐ろしい追っ手には篠縣伊火子は一切動じた様子を見せなかったのに、犬子をお店に誘うのは抵抗があるらしい。情けない縋るような微笑みを見せながら、篠縣伊火子は犬子を見下ろしてきた。

 

「行きますけど……篠縣さんは凄いですね。怖くないんですか?」

「怖い?」

「え。さっきまでのこと覚えてますよね?」

 

 犬子がひそひそとさっきまでの恐怖を述べたてるも、篠縣伊火子は小さく首をかしげ数瞬考え込んだ後にああ、と呟いた。犬子にとって人生で初めて銃火器を持った人間に追い立てられた経験は新しいトラウマにもなりかねなかったというのに、篠縣伊火子は聞かれてようやく思い出す程度の出来事でしかないようだった。

 

「んー……怖さより、初めて友達と出歩ける楽しさの方が大きい」

 

 そう言いながらわくわくそわそわしている篠縣伊火子を見ていると、次第に犬子も先ほどまでの恐怖が馬鹿らしくなってきてしまう。

 

「篠縣さんは肝が据わってますね。何だか私も怖さがなくなっちゃいました。折角だし、この街の案内お願いしますね」

「……私、ぼっちだったから学校とスーパーとかくらいしか行ったことない」

 

 絞り出すような声をあげる篠縣伊火子は大柄な体躯を小さく屈めて小さくごめんねと謝って来る。刺客から逃走経路を考え動いていた時の篠縣伊火子は頼もしかったのに、このギャップはなんなのだろう。どうにもおかしくて愛おしい。犬子はこんな状況だというのに口元が緩んでいくのを自覚した。

 

「じゃ。一緒に楽しんじゃいましょっか」

「……うん」

 

 

 

 バスを何度か乗り継ぐうちに時刻は七時を過ぎ、ようやく太陽も遅まきながら顔を出してくると車内もぽつぽつと人が増えだす。

 

「ここらへんで降りよう」

 

 篠縣伊火子に言われるままに犬子が降りたのは切り立った渓谷だった。

 

「ここ、何処?」

「あー、名取(なとれ)渓谷。景勝地」

「確かに綺麗な風景ですけど……」

 

 岩の切り立った渓谷は冬とあって雪に覆われ、底を流れるマリンブルーの澄んだ川の色も相まって非常に美しい。美しいのだが、二人を除いて誰もこのバス停で下りなかったのが分かるほどに冷たい風がびゅうびゅうと吹き付けて雪が踊り狂うように舞っていた。

 

「ちょっと歩けば温泉地がある」

「おー! 温泉! 行きましょう!」

 

 しかし犬子は知らなかった。篠縣伊火子のちょっと歩くは数十分を優に超えることを。犬子の歩くペースが篠縣伊火子に大きく劣るのもあって、布癒(ほいひ)温泉街に着いたのは二時間後だった。

 

「つかれた……」

 

 すっかり燃え尽きた犬子は温泉街の入り口に置かれたベンチに座り呆けていた。吹き付ける風に降雪が混じり合い、全身を雪が散々に叩いてきたせいで犬子の体はすっかり冷え込んでしまっていた。

 

「ごめんね。温泉入って暖まろう」

「おおー!」

 

 一瞬で復活した犬子は意気揚々と篠縣伊火子の手を引いて一見さん歓迎の温泉施設に入り、女湯に入って気付く。自分、男じゃん。いや、男か? 自分はどっちだ? どっちにしても入ったら困る奴じゃん。犬子は混乱した!

 

 だが、犬子の体は冷え切っていた。幸い、他のお客さんは脱衣所で見かけない。ここで引き返すなどありえなかった。

 

「私、暖まりたいもん! 仕方ないもん!」

 

 百年の付き合いで自分の体にはもう慣れ切っている。ぽんぽんと篠縣伊火子に着せつけられたゴスロリ衣装を脱ぎ去っている横に、篠縣伊火子がいた。

 

「あ……」

 

 すっぱだかの犬子の隣で、篠縣伊火子はおずおずと遠慮しながら服を脱いでいく。それは人前で裸を見せる機会が極端に少ない故の羞恥だったが、犬子はそうは捉えなかった。平均を上回る身長をした篠縣伊火子は、スタイルもまた常人離れした肉体美をしていた。犬子が視界に入れないように目を反らしても、衣擦れの音だけでも一瞬目に入った艶めかしい体躯が頭に浮かんできてしまう。

 

 命の恩人相手に何と無礼なのだ。

 

「わ、私先行ってますっ!」

 

 顔を真っ赤に染めて犬子は駆け出し……危ないので歩幅だけは広げて徒歩で浴場へと逃走を図る。だが。

 

「待って。一人にしないで」

「ひょえー!」

 

 犬子の華奢な細い肩に篠縣伊火子の手が乗る。二時間も降雪の中歩いてきた手の冷たさが犬子の肌に突き刺さる。

 

「にゃんですか!」

「誰か来たら怖い。一緒にいて」

「はい……」

 

 目を潤めて縋って来る全裸の篠縣伊火子に抗する力など犬子にあるはずもない。ゆだるような熱さが温泉に入っても居ないのに脳を焼き始める。

 

 

 

 結局、温泉に二人が入っていたのは三十分にも満たなかった。犬子の方が限界を迎えた故の離脱だった。

 

「私に構わなくても長く入ってても良かったんですよ」

 

 コーヒー牛乳の瓶を胸元に抱えながら、犬子は隣で美味しそうに普通の瓶牛乳を一気飲みしている篠縣伊火子を見上げる。短時間の入浴だったが、犬子の全身はほかほかと温まっていた。温泉は偉大だった。

 

「やだ。一緒じゃないと私死ぬ」

「えー、大げさですね」

「気まずさで精神が死ぬ」

「私となら平気なんですか?」

 

 こくりと頷いてみせる篠縣伊火子を見て、犬子は何故だか心拍数が跳ね上がった。

 

 

 

 それから二人は温泉街で食べ歩きをした後、近くの美術館に入ったり博物館の展示を覗いたりと時間を過ごしていく。守三火(まもみが)山一帯は周辺一帯では有名な観光スポットだった。午後には鳥渡々(とりとと)湖、輝石ヶ滝なども見て回ろうときゃっきゃとはしゃぎながら予定を立てていた。

 

 すっかり朝のことなど忘れて犬子は篠縣伊火子と一緒に遊んでいた。篠縣伊火子と一緒にいられる時間がとても楽しくて、それ以外のことなど頭から吹き飛んでしまっていた。遊びという遊びを百年もの間ずっと体験できずすっかり忘れていた犬子が夢中になるには十分なほど、楽しい時間だった。幸せだった。

 

 博物館で先史文明期の旭舘市の展示を犬子に分かりやすく教えてくれる博識ぶりがカッコよかったのに、人混みが迫ると途端に威勢を失いサッと隠れる臆病なところが可愛らしく、かと思えば雑踏に埋まりかけるちっちゃな犬子をしっかりエスコートしてくれる優しさを見せ、何度も手を繋ごうとしてきては諦める姿がいじらしく、手を繋いであげるとこちらの心を陽だまりの中にいるかのような気持ちにさせてくれる。

 

犬子は、篠縣伊火子と共にいれてよかったと心の底から思えた。

 

「……あ」

「どうしたんですか?」

「すっかり忘れてた」

 

 だが、そんな至福の時は唐突に終わりを告げる。お昼過ぎ、温泉地の食事処で休憩を取っている最中に篠縣伊火子は携帯電話を取り出して慌ただしく操作を始める。

 

「何をしてるんですか」

「休眠させてたドローンを起こしてる」

「?」

「見てて」

 

 テーブルに携帯を置いた篠縣伊火子は画面を犬子と共有する。

 

「あ、篠縣さんのマンション」

 

 見上げるばかりだった高層マンションを、携帯電話越しに犬子は上空から眺めていた。正午過ぎの旭舘市は降雪が目立つ守三火山一帯と違い晴れきっていて、路面に積もった雪が陽光をギラギラと反射していた。

 

「……様子がおかしい」

「どこか変ですか?」

「ほら、硝子割れてたのに直っている」

 

 画面をトントンと篠縣伊火子が指で叩いた先、確かに玄関口にはめ込まれていた大きな硝子が何枚も粉々に割られていたはずなのにすっかり直っていた。

 

「硝子屋さんが早く来たんでしょうか」

「これ、自動ドア。そんなすぐに直るはずがない」

 

 次いで画面を操作し、篠縣伊火子はドローンを自身が住む部屋が映り込むように移動させる。カーテンがかかっていたので篠縣伊火子はサーマルセンサーを起動させ熱による室内探査に映ると、そこには荒らされきった室内が映り込んだ。

 

「あ……」

 

 朝まで二人で平和に過ごしていた部屋の無惨な姿に、犬子は胸が締め付けられる。さっきまでの楽しい思いが崩れ、不安と恐怖が再び鎌首をもたげ始めた。

 

「おかしい。警備システムは起動していたのに」

「警察沙汰になってるようには見えませんね」

 

 警備システムの全容を把握している(何でなんですかね?)篠縣伊火子にとって本来、守三火山に着く前に警察から連絡が来るのが想定内だった。犬子といちゃいちゃ観光して回るのは完全に想定外だった。それはそれで人生で一、二を争うレベルに楽しかったので悔いはないが、“天からの産声”は犬子と自身を引き合わせた呪いの御札を作成した団体だ。よって、考えたくはないが篠縣伊火子は“天からの産声”が本格的に怪異などの特異能力を保持していると想定せざるを得なかった。

 

 篠縣伊火子は監視カメラの映像のデータレコーダにアクセス(勝手にそんなことしちゃ……犯罪だろ!)し、今朝から現在にまで至る六時間ほどある映像の記録を最高速まで加速させながら十分ほどで通して見てみる。すると、映像内で何らかの能力者が破壊された正面入り口の硝子を再生させている様子が映し出されていた。また、一度はやってきた警備会社の警備員がマンションの入り口で中に入る気配もなく管理人と談笑して帰っていく様子も映っていた。どうにも、警備システムの誤動作として処理されてしまったらしい。それにしても、監視カメラの映像は見たからこそ出動したはずなのにと篠縣伊火子は首を捻る。記憶の改変能力者でもいるのか、あるいはあまり考えたくはないが警備会社に“天からの産声”信者が紛れ込んでいるか。

 

 厄介なことになった。篠縣伊火子は小さくため息をつき、高速再生された映像を判別できないので甘味を与えて放置していた犬子の頭を撫でる。スプーンを咥えながら何か用かとばかりに上目遣いしてくる犬子と目が合い、篠縣伊火子のストレスは消失した。

 

 犬子のほんにゃりだらけきった顔を見て癒された篠縣伊火子は、一応犬子にも重要な部分だけでも見せてみるかと考える。あまり期待はしていなかったが、犬子には清浄な気配で”天からの産声”に押し付けられた御札を浄化した実績もある。何か新しい発見があるかもしれなかった。

 

「犬子。不思議なモノとか見えない?」

「あー……何だかみなさん頭の上に紐みたいなのがついていたような?」

「紐……」

 

 犬子は黒い悍ましい気配を纏った糸のような物体が刺客たちの頭頂部から伸びている事を篠縣伊火子へ話す。それは犬子が注視して初めて気付いた代物だったが、一度気付いてしまうと部屋の死角に逃げ去った不快害虫が目に見える範囲にはいないのにいることを知っている嫌悪感と同じものを犬子に感じさせた。

 

「移動する」

「何処に行くんですか?」

「ポンコツ霊能者のトコ」

 

 状況を把握したらしく、手短に会計を済ませ店を出た篠縣伊火子の表情から先ほどまでの優しさは消えさっていた。戦いに赴く者のような冷たい顔つきに、犬子は慄く。

 

「あの! その人に任せて私たちはずっと逃げてちゃ駄目……なんでしょうか」

 

 だが、犬子が抱いた恐怖は荒事に立ち向かうことに対してではなかった。

 

「私、篠縣さんが危ない目に遭って欲しくないんです」

 

 犬子がこの世界に降り立ってから一日にも満たない。それでも篠縣伊火子と共にいられたことは犬子によってかけがえない想い出になっていた。心の拠り所になっていた。篠縣伊火子を万が一失うようなことがあったらと少しでも考えてしまうと、怖くて仕方がなかった。

 

「ありがと。でも、私が犬子を巻き込んだのが悪いから私が決着を付ける」

 

 後悔も怯えもない、きっぱりとした物言い。自信すら感じられる篠縣伊火子に犬子は心が囚われていく。カッコいい、と思ってしまった。

 

「行こう」

「……はい」

 

 この体になってから初めて会った人。初めて優しくしてくれた人。初めて食事を一緒にとった人。一緒にベッドで寝た人。微笑んでくれた人。意地悪をしてきた人。危機から救ってくれた人。変な服を着せて来た人。極寒の辺鄙な渓谷を二時間も歩かせてきた人。人との会話になる度こっちに縋るような眼差しを向けて来る人。自然と手を握ってしまった人。

 

一日にも満たない期間なのにたくさんの感情が篠縣伊火子に向かい、篠縣伊火子へ絡みついていく。犬子は犬子で、篠縣伊火子がいなくては生きてはいけない体になりつつあった。

 

 犬子は篠縣伊火子から離れたくなかった。離れるような目に遭いたくなかった。出来ることなら誰も来ないような、それこそあのドミニアに幽閉された白い空間でも構わない。二人だけの世界に閉じこもっていたいと思ってしまった。

 

 

 




”天からの産声”→物損したが、ちゃんと直した。
篠縣伊火子→警備システムに不正アクセスしてる。
どっちが犯罪者なんですかね?


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