Re:ゼロから始める異世界生活(ifルート ネム) (ネムりん☽︎‪︎.*·̩͙‬)
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ifルート 〖ネム〗第一章

この物語は Re:ゼロから始める異世界生活の二次創作になります。本編のifルート(双子メイドのラム・レムの妹ネムが加わった物語です。本編に沿って進行していきます。ifルートのため序盤は原作様と同じですが、中盤に連れて大きく変化が出てきますので気長にお楽しみ下さい。原作様のセリフをお借りしています。1部変更あり)



―物語は腸狩りの襲撃後ロズワール邸にて目覚めたスバルから始まるー

 

第一章【自覚する感情 if 】

 

 

 瞼を開けて最初に飛び込んできたのは、人工的な印象の白い輝きだった。光の向こうには広い天井があり、備え付けの結晶がぼんやり淡く輝いて室内を照らしている。

 寝起きの頭でそれを確認し、スバルの意識はすぐに覚醒する。寝起きの良さは体質だ。

 

「・・・・枕の感触が違ぇな。においと品質が、いつものと桁一つは値段が違う」

 

 スバルは布団の感触を堪能して、ほのかにいい香りがする寝台から上体を起こす。

 一目で上流階級とわかる一室だ。スバルの寝る寝台も、スバルが五人寝ても余裕があるキングサイズ―

二十畳近い広さの部屋に、ででんとベッドだけある妙な間取り。

 

「壁の絵とか調度品が申し訳程度にあるから逆に寂しさが増すな。客室、でいいのか」

 

 完全に覚醒したスバルは、寝台から下りると軽く手足を回して体調を確認する。肩や足回りの状態をその場で確かめ、最後に服をぺろっとめくっておなかに触る。

 

 「お腹の傷・・なーし。打撲はもちろん、切腹痕もなしか。縫い目も残らないとは、この世界の外科は優秀だぜ。俺の大活躍が妄想でなければ、だけど」

 

自らの腹を深々と切り裂かれた記憶と一連の出来事が回想する。

地球の日本国で普通の高校生をやっていたはずのスバルは、突如として異世界に召喚されて死ぬほど―文字通り、何度も死ぬほどの目に遭った。

 こうして今、命を繋いでいられるのはいくつもの奇跡が重なった偶然の産物だ。

 

「それにしても、あれからどんだけ経ってんだか・・時間のわかるもん、ねぇな」

 

きょろきょろと部屋の中を見回すが、カレンダーや時計の類は見当たらない。扉上の黄色に光る結晶が目立つのと、窓の外の暗さから今が夜だと分かったのが新しい情報だ。

 スバルは肩をすくめると、大きく深呼吸をする。そして、

 

「とにかくなんにせよ・・今回は『死に戻り』は回避できたってことだな」

 

出しかねていた結論を口にして、ようやく現実と向き合う覚悟を決めたのだった。

 

 

 

「一回無様に死んで、二回目も果敢に死んで、三回目で犬死して、四回目は死の果てに流れ弾で死亡― 的な展開は避けれたか。もし死んでたらモブ一直線だったぜ、俺」

 

 寝台に体重を預けながら、スバルは指折り自分の死因を数えてげんなりする。

 振り返ると、未遂を含めて刃傷沙汰で死んでばかりだ。しばらくは刃物は見たくもない。

 ともあれ、『死に戻り』を何とか回避して、ようやく時間が経過している。致命傷を負ったはずのスバルがこうして無事でいられるのは、

 

「状況から考えて、あの子・・エミリアの回復魔法、かな?」

 

 脳裏に浮かぶのは、銀髪に紫紺の瞳の美しい少女―エミリアだ。

 腹の傷の治療は、彼女のものと思って間違いないだろう。実際にエミリアに傷を癒して

もらった経験のあるスバルにとって、そう考えるのが自然なことだった。

 そして必然的に、スバルが休まされている客室――この屋敷の持ち主も、エミリアであるとスバルは考える。もっとも、

 

 「屋敷に関しては、ラインハルトの家の可能性もあるけどな。・・それにしても」

 

ちらと部屋の扉に目を向けて、スバルは音沙汰のない状況に不満のため息をつく。

 

 「普通、目覚めたら『起きた?』なんて枕元で看病してくれてた美少女が声をかけてくれるもんだろ。召喚のときも美少女不在だし、召喚ものとしてちょっと不備が目立つぞ・・」

 

 無双もできないし出会いも少ないし、召喚ものとしては落第点だ。

 

「それに、ここまでうごきがないとなると・・・自力で現状確認と洒落こむしかねぇか」

 

 スバルは跳ねるように立ち上がると部屋の扉にてをかける。ひんやりとした空気が開けた戸の向こうから流れ込み、素足が床の冷たさをダイレクトに伝えてきた。

 部屋の外に出ると、広がっていたのは壁や床を暖色系で統一した広い廊下だ。左右、どちらにも長々と通路が続いていて、恐ろしいことに廊下の突き当りが見えない。

 

 「豪邸すぎて、うわぁとしか言えねぇよ。超広いってか広大・・・ん、、あれ人影見えるな」

 

延々と続く廊下の向こうに小柄な人影がポツリと見える。その姿を確認しようと目を凝らすが・・

 

 「あれ、いねぇ。見間違いか・・?」

 

その姿は、ふと消えた。再度、屋敷の探索に試みる。

 素足で廊下をぺたぺたと歩きながら、スバルはその静けさに眉を寄せる。生活音というべきものがまるで聞こえないのだ。

 

「夜だってこと差っ引いても静かすぎんな・・これじゃ、でかい声を出すのも躊躇うわ」

 

 本来なら大声を上げながら「誰かいませんかー!」ぐらいやるのがスバルの性格なのだが、現在の状況でそれをするのも危ぶまれる。

 なにせスバルは現時点で、自分が安全な場所にいるかどうかも把握できていない。

 当たり前のようにスバルは好意的な人物の屋敷と判断したが、最悪、スバルが意識をなくした後に、腸大好きな殺人鬼が戻ってきて、スバルを拉致した可能性もなくはない。

 かといって、そんな可能性まで考慮していては何も行動など起こせないわけで。

 

「人生なるようにしかならんと、賢一も言ってたじゃねぇか。俺もそう思おう」

 

 ちなみに賢一、というのはスバルの父の名前だ。実にスバルの父らしい人物である。

 歩き出すスバルの足取りに迷いはない。だが、しばらく歩き、スバルは首をひねる。

「こんだけ歩いて、端に着くどころか突き当りも見えねぇとか、そんなことあるか?」

 さすがに違和感を誤魔化しきれない。きた道を戻ることも検討に入れてスバルは振り返る。

そして、「あれ?」と眉をひそめた。

 

「この絵・・最初、部屋を出たときに目の前にあったと思ったんだが・・」

 

廊下に飾られた油絵を前にして、スバルは腕を組んでうなる。

絵は夜の森を描いたもので、部屋を出て最初に目にしたものと同じ気がする。

スバルは牛歩過ぎた、などという転回でなければ、パッと思い浮かぶ可能性は、

 

「床が機械仕掛けで動いているか、まさかの場合は廊下がループしてる・・かな」

 

おそらく、廊下をある程度移動したところで、マップの反対側に転移させられているのだ。RPGなどではおなじみのフィールドトラップだが。

「もし廊下がループしてるってなら、『死に戻り』といいずいぶん縁があるもんだな」

誰にともなく同意を求めながら、スバルは手短な部屋の扉を開ける。すると、中に何も置かれていない殺風景な部屋に出迎えられた。当然ながら誰もいない。

 

「ループする廊下といくつかの部屋・・正解を見つけなきゃ出れない的な展開か?」

 

 まだ異世界召喚のことすらちゃんと受け止めきれたわけではないのに、目覚めてすぐに新たなファンタジー要素に出くわすとは頭を抱えたくなる状況だ。

 

「お約束の展開からすると、俺はこれから正解の部屋を探して何時間もさまようことになるだろうな。腹は減り、精神は擦り切れ、体力もやがて底を尽きる。それなら・・・」

 

 息をのみ、額の汗を拭って、スバルは覚悟を決めて最初の一歩を踏み出す。

油絵の飾られた正面の扉、つまりはスバルが出てきたと思しき扉のドアノブをひねり、

 

「誰かくるまで部屋で寝てよ。もしくは、ありがちな最初の部屋がゴールの可能性」

 

そんな投げ出し屋な性格と思いつきに等しい発想で、スバルは部屋の中に入り―

 

「・・・・なんて、心の底から腹立たしい奴なのかしら」

 

そして、見覚えのない書庫の中、スバルを見つめる巻き毛の少女の恨み節を受けた。

 

 

3

 

―そこはまさしく、『書庫』と呼ぶにふさわしい部屋だった。

 部屋の広さは先の客室の倍ほどもあり、天井まで届く本棚がそのスペースを埋め尽くし

ている。本棚にも本がぎっしり並べられていて、その蔵書数は想像するのも難しい。

 

「で、こんだけ本があっても俺が読めそうな本はなし・・がっかりだな」

 

 パッと本棚を見渡しても、日本語表記の背表紙は見当たらんない。アルファベットの類も

なく、王都で見かけた象形文字の数々――この世界の公用文字がずらりと並んでいる。

 何度見ても読み取れない文字を見やり、スバルは思わずため息をこぼした。

 

「他人の書架をずけずけ眺めて、おまけにため息。・・・ひょっとして喧嘩を売ってるのかしら?だったら買ってやるのよ?」 

 

「そんなツンツンしてると可愛い顔が台無しだぜ?ほら、スマイルスマイル」

 

「ベティーが可愛いなんて当たり前かしら。お前に見せる笑顔なんて嘲笑で十分なのよ」

 

 頬に指を当てて作るスバルに、少女は愛らしい顔に酷薄な笑みを張り付けた。 

 この表現も異世界で何度目になるか―美しく可憐な少女だった。

 年齢は貧民街で会ったフェルトよりさらに幼く、おそらく十一、二歳といったところだ。

フリルが多用された豪奢なドレスがやたらと似合う愛らしい顔立ちをしている。

 淡いクリーム色の髪を長く伸ばし、縦ロールに巻いているのが特徴的だ。微笑めば誰も

が頬を緩めずにはいられない可愛らしさ。

 大きめの本を抱えて、木製の脚立に腰を掛けながら、少女はスバルを見上げている。

 

「嘲笑とか難しい言葉を知ってんなぁ。あと、不機嫌なのは俺が一発で正解を引き当てたせいだろ?ごめんな!俺、こういうのって昔っからこうなんだよ」

 

 ヒントなしで複数の選択肢を用意されても、一発で正解を引き当てる才能を持つナツキ・スバル。過去にスバルがそのスキルで無意識につぶしてきたイベントは多い。さっきの廊下もその一つに加わるだろう。

 

「人がこうな労力で領域を構築したのに、それをあんな適当に・・最悪なのよ」

 

「GMからしたら全部のイベント踏んでほしい気持ちはわかるけどな。すまねすまね」

 

 軽く手を上げてスバルが謝ると、少女は恨めしげに半眼で睨めつけてくる。少女の恨みの視線に照れ笑いで応じつつ、スバルは内心で現状を慎ましく整理する。

今の少女の発言からして、廊下のループの原因はこの少女だったらしい。だが少女の目

論見はスバルの軽率な行いでおしゃかになったわけだ。

 

「まぁ、お互い様ってことで水に流そうぜ。とりあえず、ここってどこよ。教えてくれ」

 

「ふん。ベティーの書庫兼、寝室兼、私室かしら」

 

「俺は額面通りの答えにガッカリすべき?ここで寝泊まりとか自分の部屋がないの可哀想って哀れむべき?それとも、書庫を私室扱いしちゃう部分を微笑ましく思うべき?」

 

「少しからかってやろうとしたらなんたる言い草かしら!」

 

 皮肉を素で返されてご立腹の少女―自称ベティーは頬を膨らませると、脚立から腰を上げてスバルの方に歩み寄ってくる。

 

「そろそろベティも限界なのよ。ちょっと思い知らせてやるかしら」

 

「おい、何しでかす気だ、やめよーぜ! 俺って見ての通り戦闘力なしの一般人だぜ?」

 

 瞳を潤ませて小さくなりながら、小刻みに体を震わせる決死のアピール。が、少女の歩みは緩むどころか速度を増した。

 

「――動くんじゃないのよ」

 

 ゾッと、背筋を寒気が走るような感覚がスバルを襲った。

 目の前、すでに少女はスバルに手が届く位置まで近づいている。

 自分の胸ほどまでしか背丈のない少女に、薄青の瞳で見つめられて硬 直するスバル。肌が粟立ち、静寂が甲高い耳鳴りを頭蓋の中で打ち鳴らしていた。

 

 「何か言いたいことでも?」

 

 少女の問いかけに、わずかな時間だけ硬直を解かされる。許された一瞬で、スバルは何を口にすべき最善の一言を探す。視線をさまよわせ、スバルは唇を震わせた。

 

「い、痛くしないでね?」

 

「軽口もここめで徹底してると感心するかしら」

 

 本気で感心したような口調で言って、少女の手がスバルの胸に伸びる。掌が胸に当てられて、表面を優しく指先をなぞった。くすぐったい感触。

そして――

 

「ぶわぅ・・・ッ」

 

――次の瞬間、スバルは全身を炎であぶられたような錯覚を得ていた。

 すさまじい何かが体内を荒れ狂い、指先から髪の毛一本まで全てを焼き尽くされるような感覚。体の内外を、余さず火炎の指でなぞられたような痛みを伴うは不快感。

 視界が明滅し、気づけばスバルは大量の涙を流して膝から崩れ落ちていた。

 

「気絶しなかったみたいなのよ。聞いた通り、頑丈な奴かしら」

 

「な、何しやがった、ドリルロリ・・・」

 

「ちょっと体のマナを干渉しただけなのよ。おかしな循環の仕方をしているやる奴かしら」

 

少女は悪びれずに呟いて膝を折ると、震えているスバルの体を指で突いた。

 

「まぁ、敵意がないみたいなのは確かめれたのよ。それに、これまでベティーに働いた散々の無礼も、今のマナ徴収で許してやるかしら」

 

 限界に達したスバルは、突かれるだけで上体を支えれず、頭を床に落とす。それでも時間をかけてゆっくりと首を動かし、自分を見下ろす少女の嗜虐的な笑みを睨めつける。

 

「お前、アレだろ・・人間じゃねぇな。この場合、性格的な意味じゃなく」

 

「にーちゃに会ってるわりには気づくのが遅かったのよ」

 

 這いつくばるスバルを楽しげに見下ろす少女。少女の語り口は見た目以上に幼く、それがかえって羽虫の羽をもいで遊ぶ残酷な幼稚性を感じさせた。

 

「一個、訂正・・性格的にも、お前、人間じゃねぇや・・・」

 

「気高く貴き存在を、お前の尺度で測るんじゃないのよ、ニンゲン」

 

 それは少女が口にするには、あまりに冷たすぎる温度の発言だ。

 胸の内にくすぶるものをスバルは感じる。だが、感じた熱を言葉にするだけの余力が残されていない。意識はスバルの意思と無関係に、闇へと沈もうとしている。

―――――目が覚めたばっかりだってのにまた意識不明かよ。

 

「ここで死なれても死骸をまたぐのが面倒かしら。他の連中には話しておいてやるのよ」

 

――虫みたいに聞こえるから、死骸とか言うなこの野郎。違った、このガキ。

 

そんな減らず口をたたくこともできず、スバルは再び眠りへ落ちていった。

 

 

 

 

 

「あら、目覚めましたわね、姉様」

 

「そうね、目覚めたわね、レム」

 

「・・・。」

 

 再びの目覚めは、声質の同じ二人の少女とピンクの髪の少女後ろに隠れちらりと顔を覗かせている小柄な少女から始まった。

 柔らかな寝心地はどうやらさっきと同じベット。寝起きのスバルの瞼を焼いたのは、カーテンからわずかに差し込む眩い日差し――感覚的に、朝だろうかと思う。

 

「夜型人間というか、半ば夜の眷族だった俺が朝に起きるとか、胸が熱くなるな・・・」

 

 不登校中の昼夜逆転生活を思い出しながら、覚醒したスバルは上体を起こす。そのまま首を回し、肩を回し、腰を回して窓の方へ目を向ける。

 

「今は陽日七時になるところですよ、お客様」

 

「今は陽日七時になったところだわ、お客様」

 

「・・・。」

 

 声が親切に時間を教えてくれた。陽日七時――意味は伝わってこないが、想像できる字面から朝の七時、という認識でいいのだろうか。

 

「そうすると、さっきの目覚めがノーカンならほぼ丸一日寝っ放したか。まぁ、最高で二日半も寝続けた俺には大したことでもねぇけどな」

 

「まあ、穀潰しの発言ですよ。聞きました、姉様」

 

「ええ、ろくでなしの発言ね。聞いたわよ、レム」

 

「・・・。」

 

「んで、さっきからステレオチックに俺を責める君らと、その後ろの少女は誰よ、姉様方!」

 

布団を跳ね除けて勢いよく起き上がると、ベッドの左右からスバルを挟んでいた少女たちが驚き、小走りに部屋の中央で合流。後ろに隠れていた子を守るように体を寄せ合いスバルを見る。

集合する三人の少女―――――それは揃いも揃って似た顔立ちをした、二人の少女そして、その妹であろう少女たちだった。

 身長は平均150センチぐらい。大きな瞳に桃色の唇、彫りの浅い顔立ちは幼さと愛らしさを同居させていて可憐の一言だ。双子の方は髪型もショートボブで揃いにしており、髪の分け目を違えて、右目と左目を片方ずつそれぞれ隠している。

 その髪の分け目と、髪の色が桃色と青色で違っているのが見分ける特徴だった。

 後ろに隠れるもう一人の少女は幼い顔立ちに桃色の唇、姉達と違って両目を出していてその目は紫紺で綺麗な宝石をはめ込んだような目で、髪型はボブなのが特徴的だ。

 三姉妹の少女をざっと観察したスバル。その喉が、心を掻き乱されて思わず震える。

 

「馬鹿な・・この世界にも、メイドが存在するっていうのか!」

 

黒を基調としたエプロンドレスに、頭の上にはホワイトプリム。細い肩が露出する特殊な改造メイド服は、短いスカートを相まって体のラインがはっきり出て扇情的ですらある。

メイド服に関しては造詣の深くないスバルだが、この格好にデザイナーの露骨な趣味が反映されていることは間違いない――――が、三姉妹の美少女が着ている現実には違いない。

 

「メイドは俺にとって奥ゆかしさの体現のイメージだったが・・・これも悪くない!」

 

「大変ですよ。今、お客様の頭の中で卑猥な辱めを受けています。姉様とネムが」

 

「大変だわ。今、お客様の頭の中で卑猥な辱めを受けているのよ。レムとネムが」

 

「大変です。今、お客様の頭の中で卑猥な辱めを受けています。姉様たちが」

 

「俺のキャバシティを舐めるなよ。三人まとめて妄想の餌食だぜ。姉様方」

 

 両腕を交差して宙で掌をわきわき。無意味な動作にメイド三人の顔に戦慄が浮かび、二人の少女たちは後ずさり、後ろに隠れていた少女は姉達を庇うように前に出る。

 

「許してください、お客様。レムだけは見逃して、姉様とネムを汚してください」

 

「許してちょうだい、お客様。ラムだけを見逃して、レムとネムを凌辱するといいわ」

 

「許してください、お客様。姉様達だけは見逃して。ネムだけを凌辱してください」

 

「超麗しくねぇな、この姉妹愛!まともなの一番下の子だけじゃねぇか!そして俺は超悪役!」

 

 メイド三人が被害者役を押し付けあう中、スバルはどれから先に毒牙を掛けてやろうかと三白眼の目つきを細める。と、ふと気づいた。

 

「・・もっと大人しく起きたりできなかったの?」

 

 とんとん、と開いた扉を内側からノックして、四人を眺める少女が立っていた。

 腰に届く長い銀髪は、今日は解かれていて自然と背中へ流されている。服装は王都でみたロープ姿ではなく、白色のイメージが強い細身に似合ったデザインの格好。スカート丈の意外な短さと、すらりと長い足が絶妙で思わずスバルはガッツポーズ。

 

「わかってる!選んだ奴はわかってるぜ!」

 

「・・・なんのことだがわからないないのに、くだらないことってわかるのがすごーく残念」

 

 喝采するスバルを銀髪の少女――――エミリアが呆れたような目で見ていた。

 突然のエミリアの来訪に、困惑だらけだったスバルの心境は一挙に舞い上がる。

 立て続けに知らない相手―――特に最初の幼女にはひどい目に遭わされただけに、異世界召喚直後のやり取りで得た知己であるエミリアには格別な思いがある。

 

「血が足りていないところにベアトリスが悪さしたって聞いたから、ちょっと心配してきたのに・・すごーく損した気分」

 

「俺は寝起きで君の顔を見れて超いい気分だけどね。それで、ちょい聞くの怖いんだけど」

 

訝しがるエミリアに対し、スバルは両手を合わせながらおずおずと上目遣いにした。

 

「その、あの・・俺のことって、ちゃんと覚えてくれてる?」

 

「その仕草、なんか嫌。それに変な質問するのね。スバルぐらい印象が強い子って、そうそう忘れられないと思うんだけど」

 

 微笑するエミリアに名前を呼ばれて、スバルは安堵に肩を落とした。それからすぐ、女の子に下の名前で呼び捨てされていることに気付き、珍しいぐらい素で照れる。

 

「聞いてください、エミリア様。あの方に酷い辱めを受けました。姉様たちが」

 

「聞いてちょうだい、エミリア様。あの男に監禁凌辱をされたのよ。レムたちが」

 

「聞いてください、エミリア様。あの男に卑しめを受けました。姉様たちが」

 

 耳まで赤いスバルはさて置き、エミリアに駆け寄る三姉妹が事実無根の告げ口をする。三人の密告にエミリアは苦笑すると、スバルの方を横目にした。

 

「あなたたち三人にそんな悪ふざけ・・・スバルはしないなんて言い切れるほど知らないけど、きっとやらないって信じてるもの。あんまりからかいすぎないの」

 

「はーい、エミリア様。姉様とネムも反省しています」

 

「はーい、エミリア様。レムとネムも反省しているわ」

 

「はーい、エミリア様。姉様たちも反省しています」

 

ラム、レム、ネム、とそれぞれ自分を呼ぶ三人は反省の欠片も見えない反省を宣言する。三人のそんな態度に慣れているのか、エミリアはさして気にした風もない。

 

「それでスバル、体の調子は大丈夫?どこか変だったりしない?」

 

「ん、お、そういや寝る前は全身火傷したみたいで死ぬかと思ったのに、そんな感じも全然ねぇな。逆に寝すぎてちょっとだるいくらい」

 

「そのくらいで済んでるなら十分。軽く、お散歩でもする?」

 

「散歩?」

 

 小さく笑うエミリアに、スバルは首を傾げる」

 

「そ、お散歩。私も日課でお庭に出るつもりだったし、ちょうどいいでしょ?」

 

「日課・・って、何すんの?花壇に水やり?」

 

「ちょっと違うかな。精霊とお話しするの。毎朝、契約してる子たちとそうして触れ合うのが、私とあの子たちの契約条件の一つだから」

 

 精霊、という単語にスバルはエミリアと常に一緒にいた猫型精霊を思い出す。

 散歩と精霊とのお話。好奇心と下心が同時にくすぐられるナイスな提案だ。

 

「んじゃ、リハビリついでにご一緒しよっかな。エミリアたんが庭で精霊トークしてる間、歩き回ったり筋トレしたりちょこまかしてるよ」

 

「ん、大声で騒いだりしなければそれで・・・え?今、なんていったの?」

 

「おし、言質は取った。庭に出ようぜ」

 

「ねぇ、なんて言ったの?たんってなに?どこからきたの?」

 

 愛称めいた呼び名にエミリアが困惑する。素直に名前を呼べない照れ隠しを誤魔化しながら、スバルは傍らに立つメイド三人に顔を向けた。

 

「へい、メイド姉妹。俺の元の服ってどこいった?いつの間にか入院服みたいになってるし、たぶんこの屋敷で預かってくれてると思うんだけど」

 

「わかりますか、姉様。ひょっとして、あの薄汚い灰色の布切れでしょうか?」

 

「わかったわよ、レム。たぶん、あの血で薄汚れた鼠色のボロキレでしょうね?ネム、どこへやったしら?」

 

「はい、姉様。おそらく、干されているかと」

 

「かなり不適だな。その薄汚いドブネズミ色のボロだよ。無事なら持ってちょうだい」

 

 スバルの求めに三姉妹がエミリアを見る。許可を欲する視線だ。エミリアが顎を引いて応じると、三姉妹は丁寧にお辞儀をして部屋を出ていった。

 

「私から言い出したことだけど、無理はしちゃダメだからね。ひどい傷だったんだから」

 

「でも実際、もうパーフェクトに塞がってるしな。と、そういやそうだった」

 

 思い出したように姿勢を正し、スバルはエミリアにゆっくり頭を下げた。

 

「ケガ、治してくれたのってエミリアたんだよな。ありがとう、助かった。やっぱ死ぬのは恐いわ。実際、一回でいいよ」

 

「普通は一回しかないと思うけど・・ううん、そうじゃなかった」

 

 思わず突っ込みを入れてから、エミリアは紫紺の瞳を潤ませてスバルを見る。

 

「お礼を言うのは私の方。あの場所で、ほとんど知らない私のことを命懸けで助けてくれたじゃない。ケガの治療なんて、当たり前なんだから」

 

 真摯な眼差しで感謝を伝えられて、スバルは思わず息を詰まらせた。

 さらっと誠実な返事の一つも出てこない自分が恨めしい。

――――助けてくれた、というエミリアの言葉に「そうじゃない」と言いたかった。先に助けてくれたのはエミリアなのだ。

 だがその記憶はもう、スバルの中にしか残っていない。

 もう、決して伝えることのできない感謝の気持ちを呑み込んで、スバルは笑う。

 

「―――んじゃ、お互いに助け合ってプラマイゼロってことでどうよ」

 

「ぷらまい・・?」

 

「互いに貸し借りなしの対等だ!そんなわけで仲良くしようぜ、兄弟!」

 

 貧民街の住民相手なら、ここで肩の一つでも気軽に組んだところだ。だが、今のスバルにできたのは勢いで羞恥と照れを誤魔化すだけ。そんなスバルにエミリアは小さく笑う。

 

「私、こんな変な弟はいらないかな」

 

「わりと辛辣なコメントですね!?」

 

 しかもさりげなく目下扱いされているこのガッカリ感。

 そうして互いに笑い合ううち、ドアを開けて三姉妹のメイドが戻ってくる。三人がそれぞれ・・一番上はもたず、一番下と真ん中のメイドが、それぞれジャージの上下を分担して持っているのを見て、スバルはぐっと背筋を伸ばした。

 

「改めまして、一日の始まりといきますか」

 

『死に戻り』を乗り越えての一日が、本当の意味でスタートする。

 

 

 

 

 わざわざ着替えさせてくれようとするメイド三人を振り切り、独力で着替えを断行した

スバルはエミリアと屋敷の庭に出た。

 広い庭を見渡し、スバルは感嘆の息をこぼす。

 

「やっぱでけぇなぁ。屋敷もそうだけど、庭も庭ってより原っぱだ」

 

 お金持ちの屋敷の庭園―――漫画やアニメでたびたび登場する、立食パーティなどが行われるような風景が広がっている。ただっ広い庭の真ん中で、スバルはさっそくリハビリがてらに屈伸運動を始めた。

 スバルの動きを見て、エミリアが不思議そうな顔をする。

 

「珍しい動きだけど、何してるの?」

 

「あれ、準備運動の概念ってないの?本格的に体動かす前にあちこちほぐさねぇと」

 

「ふーん、あんまり見たことないかも。でも、急に体を動かすと危ないのはわかるかな」

 

「この世界の人間は準備運動しねぇのか。んじゃ、仕方ない。教えてあげようじゃあーりませんか。

俺の故郷に伝わる、由諸正しい準備運動をな!」

 

 自身満々なスバルの気迫に呑まれたのか、エミリアに隣に並ぶよう指示すると、

 

「ラジオ体操第二~!手を前に伸ばして、のびのび背伸びの運動~!」

 

「え、うそ、なに!?」

 

「俺の真似してやってみよう。ラジオ体操の真髄を叩き込んじゃるぜ」

 

 戸惑うエミリアを叱咤しつつ、スバルは全国的に有名なラジオ体操をアカペラ。

 最初は困惑していたエミリアだったが、やり切る頃には完全に没頭していた。

 二人、最後の深呼吸まで終わらせ、締めに両手を天に伸ばす。

 

「で、最後に両手を掲げて、ヴィクトリー!」

 

「び、びくとりー」

 

「よし、初めてしちゃ上出来だ。エミリアたんに『ラジオニスト初級』を授ける!」

 

 全力のラジオ体操をやり終えて、称号を授けるスバルにエミリアは感銘を受けた表情でいる。が、息を整えるとようよう最初の目的を思い出した顔になった。

 

「そだ。すごーく話がずれちゃったけど、忘れたら怒れちゃうから」

 

 そういって薄く微笑むエミリアは、懐から緑色の結晶を抜き出してスバルに見せる。

 

「あ、それって」

 

「精霊が身を宿す結晶よ。パックのことは、知ってたわよね」

 

「肝心な場面で居眠りこいた小猫だろ?その後の俺の活躍知らないんじゃないの?」

 

「あいにく、ちゃんと騒ぎが片付いた後でリアから話を聞いているよ、スバル」

 

 スバルの悪態に反応するように結晶が輝く。響いた声は中性的なもので、やがて結晶石から溢れ出した光が結集し、小さな輪郭をエミリアの掌の上に作り出した。

 

 掌サイズの小さな体、体長と同じくらいに長い尻尾。二足歩行の小猫型精霊、パックだ。

 

「や、おはよう、スバル。いい朝だね」

 

「俺にとってはわりと深夜から朝にかけて波乱万丈だったけどな。ループする廊下とタチの悪い幼女の猛威。それを乗り越えた朝、エミリアたんと一緒に情熱の汗を流し・・」

 

「人聞きの悪い言い方しないの」

 

 咎めるように唇を尖らせるエミリア。それからエミリアは掌の上のパックを見つめる。

 

「おはよ、パック。昨日は色々、無理させてごめんね」

 

「おはよう、リア。でも、昨日のことはボクの方が悪いと思うよ。危うく君を失うところだ。スバルには感謝してもし足りないくらいだね」

 

 パックは黒くて丸い瞳でスバルを見上げると、手で自分のピンクの鼻を撫でつけた。

 

「お礼をしなきゃね。何かしてほしいことはあるかな。大抵のことはできるけど」

 

「んじゃ、好きなときにその毛並み触らせてくれ」

 

 大きく出たパックに対し、スバルもまた即答で返した。

 パックとエミリアが目を丸くする。返事の早さもだが、その内容も驚きだったらしい。

 

「ちょ、もうちょっと考えて決めてもいいんじゃんない?小さくて頼りなさそうに見えるかもしれないけど、パックの力はホントにすごいんだから」

 

「少し引っかかるけど、そうだよ。こう見えて、ボクはけっこう偉い精霊なんだ」

 

「おいおい、俺みたいな一流の毛並み職人的には、触りたい哀願対象をいつでも愛でられるってのは、巨万の富と引き換えにしても惜しくない対価だぜ。いやマジで」

 

 言いながら、スバルは権利を履行してパックに指を伸ばす。お腹に顎、トドメに耳だ。

 

「耳ヤバいな!もう俺はふわふわっぷりにメロメロだよ!」

 

「うすぼんやり心が読めるからわかるけど、本気で言ってるところがすごいね」

 

 手指で自由に弄ばれながら、パックは愉快げに喉を鳴らした。

 スバルとパックが戯れる様子に、エミリアは諦めたようにため息をこぼす。

 

「それじゃ、私は微精霊の子たちとお話ししてくるから・・・スバルとパックは遊んでていいけど、邪魔しちゃダメだからね」

 

「見放されたな」

 

「見放されちゃった」

 

 おどけて肩をすくめる二人を、エミリアは無言で無視してそそくさと庭の端っこへ。地面を軽く払って腰を落とすエミリア。目をつむる彼女の周囲を、ぼんやり淡い光が取り巻き始めた。――見覚えのある光景だ。

 

「微精霊、か?」

 

「そうだよ。よく区別がついたね。準精霊と微精霊、区別つかない人が多いんだけど」

 

「当てずっぽう・・・ってわけじゃねぇけど、区別の方法とか俺も知らねぇよ?」

 

 スバルがエミリアの周囲を浮遊する光を微精霊と知っていたのは、王都で起きたループの最中で一度、エミリアの口から微精霊という単語を聞いていたからだ。

 座るエミリアは小声で微精霊と言葉を交わしており、時折、微笑むエミリアに同調する

ように微精霊たちも淡い明滅を繰り返していた。

 

「微精霊との契約、とか言ってたけど、あれって何しているとこなんだ?」

 

「精霊との契約儀式。―――誓約の履行だよ」

 

 聞き覚えのない単語にしかめ面になるスバル。

 

「えーとね。まず、精霊使いは精霊と契約しないと精霊術が使えないんだね。で、契約内容は精霊によって異なるんだよ。ここまではいいかな?」

 

「金貸しによって利息とか担保が違うってわけだな。オーケー」

 

「ボクがオーケーじゃないけど進めるね。それで、精霊が求めることは個々で違うんだけど・・・ああいう微精霊たちは術者との触れ合いみたいな、簡単な条件で契約できるんだ」

 

「お手軽っていうか初心者向けって感じな。つっても、今の言い方だとちゃんとした精霊は別なんだろ?」

 

「賢い子は話が早くて助かるよ。だから余計な脱線して話が進まないって気もするけど」

 

いやあ、と照れ笑いするスバルにパックは生温かい視線を向けて自分のヒゲを弄る。

 

「その通り、ボクみたいな意志ある精霊はもうちょっと要求が厳しいよ。その分、契約者に貢献するつもりだけど・・・ボクもリアにつけてる条件は厳しいよ」

 

「さっきから気になってたけど、そのリアって呼び方可愛いな」

 

「君のエミリアたんには負けるよー。ボクも今度からそう呼ぼうかな」

 

「―――お願いだから、絶対にやめて」

 

 二人の悪ノリに、エミリアが膨れっ面で割り込む。

 戻ってきたエミリアの周囲からは精霊の輝きが消えており、どうやら精霊トークショーは終了したらしい。スバルは立ち上がりながら尻についた草を払う。

 

「親睦会終わりかな?案外、ちょろい感じで済むんだね」

 

 言いながら差し出されるエミリアの掌に、スバルの下から移動するパックが着地。パックは丸い瞳をエミリアに向けて、含むように小さく笑った。

 

「大丈夫。探ってみた感じだけど、スバルに悪意とか敵意とか害意ってのものは見当たらないかな。ちょっと性根がねじくれてるけど、いい子だよ」

 

「ちょ・・・」

 

パックの散々な評価にエミリアが思わず絶句。それから口をパクパクとさせて、

 

「なんで本人の前で・・そんなこと、本当のことでも言われたら傷付くじゃない」

 

「あー、いいっていいって。俺みたいな素性の知れない奴、探り入れんのは当然だろう。疑るのが当たり前だ。今のエミリアたんのフォローには傷付いたけどね!」

 

 慌てて口を手で塞ぐエミリアにスバルは苦笑い。

 パックが理由もなく触れてきたわけではないのは、スバルにも予想がついた話だ。

 ここまでまともな情報一つ出さないスバルを、無警戒で受け入れるほどエミリアたちは不用心ではない。ラムやレムやネムの態度も、そういった思惑の一部だろう。

 

「とはいえ、うまく説明する手段はねぇし」

 

 記憶はあるけど戸籍はない、というのがこの世界のスバルの現状だ。

 召喚されたという真実は説明が難しい上に、頭のおかしい人物扱いされる可能性が高い。

 それならばいっそ、パックの人格判断に身を任せてしまえばいい。

 心の表層が読める上に、エミリアに信頼されるパックの言葉なら、スバルの口から説明するよりずっと説得力がある。

 

「平気だよ、リア。っていうか、スバルはそのあたりもわかってる。まんまとボクの読心を利用するなんて、悪い子だよ」

 

「光栄な評価だね。そんぽままうまくとりなしてくれよ、マイフレンド」

 

 スバルの呼びかけにきょとんとした顔をして、それからパックは笑みを弾けさせた。

 

「そんな風に接してもらうのは本当に久しぶりだよ。うん、好ましいなぁ」

 

「どうせならエミリアたんの方にしてほしい評価だな。いや、将を射んと欲すればまずは馬から。いや、猫だけど効果あるかな。・・・どったの?」

 

 顎に指を当てて真剣に悩む顔のスバルを、エミリアが驚いた顔で見ていた。

 スバルが疑問に眉を上げると、エミリアは「ううん」と小さく息を呑む。

 

「―――ホントに、スバルって不思議」

 

「ほぇ?」

 

「精霊とこんなに触れ合って、おまけに私みたいな・・・・ハーフエルフにも色目が使えるなんて。冗談でもビックリしちゃう」

 

『冗談でもなければ、そんな驚かれることしてますか?』というのがスバルの内心の発言だったが、それすら忘れてエミリアの微笑に見惚れてしまう。

 エミリアの微笑みが、王都で名前を交換したときと同じくらい透き通った笑みだったから。儚さとも切なさとも違い、見ていて思わず心が躍るような。

 美しく流れる銀髪は月の雫のように幻想的で、新雪のように透き通る白い肌。紫紺の瞳は魅了の呪いでも放っているようにスバルの意識を惹きつけ放さない。

 気高く、美しく、折れ曲がらない芯を心に抱いていることを知っている。

 自然と、感謝以外の感情を横顔に抱いてしまいそうで、スバルは自制する。

 

「あれ、二人ともどうかしたの?」

 

 と、何かに気付いたエミリアの声に、スバルも屋敷の方を見やる。

 屋敷から庭園に降り立ったのは三姉妹のメイドだ。

 三人はスバルたちの前までやってくると厳かに一礼する。

 

「――――当主、ロズワール様がお戻りになられました。どうかお屋敷へ」

 

 一瞬のズレもない完璧なステレオ音声。

 乱れない連携にも驚かされたが、三姉妹の態度の豹変ぶりにもスバルは驚いた。

 先ほどまでの軽々しさが消えて、三人から豪邸の使用人としての貫禄が感じられる。

 

「そう。ロズワールが。・・・じゃ、迎えにいかないとね」

 

「はい。それからお客様も。目が覚めているならご一緒されるようにと」

 

 パックがエミリアの銀髪の中に潜り込み、髪を撫でて受け入れたエミリアは少し固い表情だ。エミリアの横顔を見つめながら、ご指名されたスバルは首の骨を鳴らす。

 

「で、ロズワールってのは誰のこと?」

 

「この屋敷の持ち主・・そっか、説明してなかったのよね」

 

 自分の落ち度に傷付いたように、エミリアは掌を口に当てる。

 

「えっと、そうね。ロズワールは・・会えばわかるわ」

 

「説明諦めるの早いな!そんな特徴ないの!?」

 

「―――ううん、逆」

 

 エミリア、パック、ラム、レム、ネムの五人の声が同時に返ってきた。

 驚きの五重奏にスバルはポカンと口を開けてしまう。そんなスバルの口をそっと下から手で閉じさせて、紫髪の少女が厳かに一礼。

 その両隣に立つ桃髪と青髪のメイドが、屋敷を手で指し示す。

 

「どんな言葉を並べても、ロズワール様の人なりを表しきれることはできません。ご本人に会ってご理解を、お客様。ええ、お優しい方ですから大丈夫」

 

 何度も念押すのが逆に不信感を煽るのだが、三姉妹は顔を見合わせて頷き合うのみ。

 困惑するスバルに、渋々三姉妹に同意といった顔つきのエミリアがそっと手を伸ばした。

 

「――――きっと、スバルは気が合うと思うの。疲れちゃいそうだけど」

 

 スバルの肩をぽんぽんと叩いて、気の重そうな声でエミリアは呟いたのだった。

 

 

 

『―――――第一章―――――完――――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




読んでいただきありがとうございました。
あんまり原作と変わらないと思いだと思われます。ですが、ifルートはここからが本番ですので、気長にお楽しみくださると幸いです!

好評でしたら続編を書いていくと思うのでよろしくお願い致します。


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ifルート〖ネム〗第二章

この作品は原作様をベースとした二次創作になります。
原作には違った展開が待ち受けているのでどうぞ気長にお楽しみください。
前章に引き継ぎ第二章です。前章が有難くもご好評でしたので、投稿することができました。
前回よりも長くなっていますのでどうぞお楽しみください。


第二章 「約束した朝遠く if」

 

 

 

「上から見ていた感じ、アレなのよ。・・・お前、相当に頭が残念みたいかしら」

 

 朝食の場、と三姉妹に案内された食堂で、巻き毛の少女が挨拶代わりにそう言った。

 着替えるために部屋に戻ったエミリアと途中で別れたため、今、食堂の中にいるのはス

バルと巻き毛の少女だけ。少女の皮肉にスバルは盛大に嫌な顔をしてみせる。

 

「爽やかな早朝に顔を合わせていきなり何を言いやがんだ、このロリ」

 

「何かしらその単語。聞いたことないのに、不快な感覚だけはするのよ」

 

「攻略対象外に幼いって意味だ。俺、年下属性あんまりないし」

 

「・・ベティーにここまで無礼な口を叩けるのも、かえって哀れに思えるかしら」

 

 皮肉めいた少女の言葉を意識的に無視をして、スバルは広い食堂をざっと見渡す。

 食堂は中央に白いクロスのかかった卓が置かれており、すでに皿の並べられた席が点在

している。スバルの用意もあるなら、下座のどれかがスバルの席だろう。

 

「テーブルマナーその他のわからない俺に、レクチャーすることを許してやるぜ?」

 

「不遜極まるかしら。わからないなりに素直に頭を下げるがいいのよ」

 

「お前に頭下げるぐらいなら堂々と一番上の上座に座って思いっきり怒られるわ」

 

 顔を赤くして怒りを露わにする少女に、スバルは掌をひらひらと振って上座に座る。た

ぶん、ここに座るのはエミリアか当主あたりだろう。可能性は五分五分だ。

 本当に上座に尻を落ち着かせたスバルに、巻き毛の少女は呆れた顔で頭を振る。

 

「まぁ、いいのよ。それよりお前、ベティーに感謝の言葉はないのかしら?」

 

「感謝って、今まさにお前、俺の救いを求める手を振り払ったばっかじゃねぇか。その上

で感謝を要求ってどんな育ち方すると出る結論だよ。親の顔が見てみたいわ!」

 

「なんでお前が怒るのかしら!怒りたいのはベティーの方なのよ!せっかく・・・っ」

 

 売り言葉に買い言葉。スバルの返事に声を荒げた少女は、しかし最後で尻すぼみになっ

た。少女の不自然な言葉の切り方にスバルは続きを促そうとする。が、

 

「失礼いたします、お客様。食事の配膳をさせていただきます」

 

「失礼するわ、お客様。食器の配膳をさせてもらうから」

 

「失礼します、お客様。食後のデザートを配膳させていただきます」

 

 食堂の扉を開き、台車を押す三姉妹のメイドがやってきた。

 青髪がサラダやパンといった、オーソドックスな朝食メニューを食卓に並べ、桃髪が手

早くカップにお茶を注いで配膳していき、紫髪が、見なれたショートケーキのようなものを右前に配膳していく。温かな香りに、思わずスバルの腹が鳴った。

 

「おほー、いいねいいね。いかにも貴族的な食卓だ。・・・これで異世界チックなゲテモノ

ばっか並んだらどうしようかと思ったぜ」

 

 場所が異世界であるだけに、何が出てくるか心配していたスバルは一安心。

 パッと見、肉体的にも精神的にも重大な危機を及ぼしそうなメニューは見当たらない。

 テンションが上がり、背もたれに体重を預けて軋ませるスバル。椅子の軋む音が食堂に

響き、澄まし顔の少女の横顔に苛立ちが浮かぶ。

 巻き毛の少女になぜかちょっかいをかけずにいられないスバル。少女の澄まし顔をもっ

と感情的に崩してやろうと悪戯心が芽生えて、スバルは気合を入れて尻を滑らせ―――

 

「あはーぁ。元気なもんじゃーぁないの。いーぃことだよ、いーぃこと」

 

 そうする前に、新たに食堂へ入ってきた人物の嬉しそうな声が全てを中断させていた。

 長身の人物だった。

 スバルより頭半分は背が高く、濃紺の髪を背に届くぐらいまで伸ばしている。

 しかし、その体つきは細身というより華奢に近く、肌の色も病的に青白い。

 整った面貌と合わせて、どこか陰のある美青年といった風貌だ。

 左右で色違いの、青と黄色の瞳の色鮮やかさもその印象を強めている。

 ―――その配色が奇抜すぎる服装と、ピエロのような顔のメイクがなければ。

 

「・・・飯の前の余興にいちいちピエロ雇ってんのか。金持ちの考えはわかんねぇな」

 

「何を考えているのかおおよそ想像がつくけど、ベティーは不干渉させてもらうのよ」

 

「つれねぇな。ベティー。俺とお前の仲だろ?もっといちゃいちゃトークしようぜ」

 

「お前とベティーの間にどんな関係が築けたのかしら。あと気安く呼ぶんじゃないのよ」

 

 つれない態度で少女は肩をすくめて会話から離脱。少女の態度にスバルがしかめ面をし

ていると、食堂の中に踏み出すピエロがスバルと同じく少女を見て目を開く。

 

「おーぉやーぁ?ベアトリスがいるなんて珍しい。久々にわーぁたしと食事を一緒にし

てくれる気になったとは、嬉しいじゃーぁないの」

 

「頭幸せなのはそこの奴だけで十分かしら。ベティーはにーちゃを待ってるだけなのよ」

 

 馴れ馴れしい発言をすげなく切り捨て、少女――ベアトリスの視線はピエロの背後へ。

食堂の入り口からピエロに遅れて入ってくるのは、着替えてきた銀髪の少女だ。

 

「にーちゃ!」

 

 弾むように席を立ち、長いスカートを揺らしてベアトリスが走る。花の咲いたような笑

みを浮かべる姿は、これまでの少女の生意気な評価を忘れさせる愛嬌に満ちていた。

 ベアトリスの視線の先に立つのはエミリアだ。が、応じるのはエミリアではない。

 

「や。ベティー、四日ぶり。ちゃんと元気でお淑やかにしてたかな?」

 

 気楽な様子で銀髪から姿を見せる灰色の小猫、パックの言葉にベアトリスは頷いた。

 

「にーちゃの帰りを心待ちにしてたのよ。今日は一緒にいてくれるのかしら」

 

「うん、だいじょうぶだよー。今日は久しぶりに二人でゆっくりしてようか」

 

「わーい、なのよー!」

 

 エミリアの肩から飛び立ち、差し出されるベアトリスの掌の上にパックが着地。ベアト

リスは受け止めたパックを愛おしげに抱くと、その場でくるくると回りだす。

 

「ふふ、おったまげたでしょ。ベアトリスがパックにべったりだから」

 

「おったまげたってきょうび聞かねぇな・・・」

 

 和気藹々とした風景に驚くスバルに、悪戯っぽく笑うエミリアが歩み寄る。死語を使い

こなすエミリアにお決まりの返答をすると、エミリアは「んん?」とスバルを指差した。

 

「あれ、スバル。その席って・・・」

 

「あ、そうだった!いや違うんだよ。これはね、ほら、椅子の尻が冷たいと心まで荒む

かもじゃん。だから先に温めておいただけで、関節シャットダウン狙いじゃないんだよ」

 

「ごめん、ちょっと何言ってるかわかんない。それにそこ、ロズワールの席よ?」

 

 目を丸くするエミリアの前で、盛大に目論見を外したスバルが椅子から滑り落ちる。

 

「まあまーぁ、気にすることはなーぁいとも。なるほどエミリア様に君の温もりは届かな

かったかもしれないけど、そこは私がきちーぃんと大切に受け取るからねーぇ」

 

 慰めるように手を伸ばし、軽くスバルの肩を叩いて笑いかけてくるピエロ。スバルは肩

に触れる手と、道化の優しい笑顔を交互に見比べ、嫌そうに顔をしかめた。

 

「何このピエロ馴れ馴れしい。踊り子さんに触るのはマナー違反ですよ?」

 

「いつ踊り子に・・・じゃなくて、スバル、その人は・・・」

 

「いやいやいーやーぁ、構いませんよ、エミリア様。あの瀕死のところからここまで元

気になったと思えば、むしろ歓迎すべきことじゃーぁありませんか」

 

 口調に他人を苛立たせる特徴があるものの、至極まともな発言をするピエロ。ピエロは

そのままスバルたちの視線を受けたまま、椅子を引いてゆっくり座席に腰を下ろした。

 大テーブルのもっとも上座であるその席は、先ほどまでスバルが座っていた位置だ。

 

「おいおい。俺が言うのもなんだけど、そこ勝手に座ってっと偉い人に怒られっかもよ」

 

「その心配は大丈夫・・・っていうか、スバルにはやっぱり名乗ってないんだ」

 

 忠告するスバルに、ほとほと呆れた声と顔つきでエミリアが呟く。ただし、エミリアの

呆れはスバルではなく道化の方にも向けられていた。

 

「どゆこと?」

 

「それはつーぅまり、こういうことだぁーとも」

 

 スバルの疑問に椅子に座ったまま道化が、大きく両手を広げて応じた。

 

「私がこの屋敷の当主、ロズワール・L・メイザースというわーぁけだよ。無事に当家で

くつろげているようで、なーぁによりだとも。―――ナツキ・スバルくん」

 

 と、道化姿の変態貴族は清々しいぐらいに図々しく名乗ったのだった。

 

 

 

 

上座のロズワールを筆頭に、それぞれが用意された座席に腰掛けて朝食が始まった。

 

「む・・・普通以上にうめぇな」

 

 目の前に並ぶ食事から、サラダ的なものとスープ風なものを口にしたスバルの感想だ。

 

「ふふーぅん、でしょでしょう。こう見えて、レムの料理はちょっとしたものだよ?」

 

 自慢げなロズワールに頷き返し、スバルは調理担当と思わしきレムを見る。レムはスバル

の視線に手で狐のサインを作って見せた。意味がわからないが、ひょっとするとこの世界

のVサイン的なものだろうか。スバルは返礼に両手で蛙を作って応じる。

 

「この料理は青髪の・・・えーと、レムちゃんでいいのか。が、作ったの?」

 

「はい、お客様。当家の食卓はレムが預かっています。姉様たちはあまり得意ではないので」

 

「ははーん、三姉妹でそれぞれ得意スキルが違うパターンだ。じゃ、姉様は掃除が得意で、一番下の子は・・うーん・・癒し担当兼お手伝い的な?」

 

「お客様。その癒し担当とはどういう・・ネムをそういう目でみていたのですか・・」

 

「いや!違ぇよ!?ロリ好きとかじゃないからね!?」

 

「ハッ!」

 

「姉様!?今、馬鹿にしたよね!?」

 

「・・・そうです。姉様は掃除、洗濯を家事の中では得意としています。そうですね、ネムは姉様やレムの癒しを担っています、お手伝いもよくしてくれています。ね?ネム」

 

「はい、姉様。ネムは姉様たちの癒し係です」

 

「全然態度違うんだけど!?じゃあ・・レムりんは料理系は得意だけど、掃除と洗濯は苦手か」

 

「いえ、レムは基本的に家事全般が得意です。掃除、洗濯も得意ですよ。姉様たちより」

 

「長女の存在意義が消えたな!?」

 

 万能な次女と得意科目でも次女に及ばない長女。三姉妹としては逆に珍しい。

 次女の発言をラムとネムは気にした風もしない。訂正しないということは事実なのだろうが、それならそれで揺るがないラムとネムの態度は何事のなのか。

 

「もしくは分野違いか。ラムちーの方は戦闘職・・・.やはりネムネムは癒し系。お庭番と妖精メイド的な方向で一つどうよ」

 

「いーぃね、君。ラムとレムとネムの三人は個性が強いから、初対面には受けが悪いんだけどね」

 

「キャラの濃さに関しちゃ主が特殊すげて今さらなんともねぇよ。ロズっち」

 

 ロズっち、と愛称で呼ばれるロズワールだが、スバルの発言を権力者の余裕で見逃す。

 煽って相手の感情を引っ張り出す癖があるスバルからすると、思惑を外した形だ。とは

いえ、さして気にするでもなく皿の上のメニューを次々に消化して、

 

「これで飯がマズイなら考えもんだけど、このうまさだし問題なし。ね、エミリアたん」

 

 スバルの気楽な呼びかけに、口を布巾で拭いていたエミリアが渋い顔。何事かとスバル

が首を傾けると、エミリアは小さく吐息した。

 

「あのね、スバル。お食事中の私語はダメ。三人しかいないのに準備してくれたレムとラ

ムとネムに悪いし、礼儀がなってないと大事な場面で失敗しておじゃんにしちゃうんだから」

 

「おじゃんってきょうび聞かねぇな・・・それはそれとして、テーブルマナーね。この状況

からしたら、今さらじゃね?」

 

 お決まりのやり取りをしつつ、スバルは食卓を手で示す。広い食卓のスペースの中、隣

り合うスバルとエミリア。

 本来、二人の座席の距離は食卓を大いに活用するため離れていたのだ。

 

「けど、エミリアたんの近くで食べたい俺が移動してきた。ロズっちがそれ黙認した時点

で今さらじゃん?なんなら、嫌いな野菜とか俺の皿に投げてくれていいよ」

 

「じゃあ、ピーマルを・・・って、そうじゃないでしょ。もう、私が馬鹿みたい」

 

 言い負かされて唇を尖らせるエミリアが可愛くてスバルは笑う。

 それからスバルは、つい今のエミリアの言葉から疑問点を拾い上げた。

 

「ところで、ロズっち。今、エミリアたんが屋敷の使用人が三人しかいない的なこと言っ

てたように聞こえたんだけど」

 

「あはぁ、現状はそうだねぇ。ラムとレムとネムしかいなくなっちゃったよ」

 

「このでかい屋敷の管理が三人だけとか、質にこだわる以前に過労死すんぜ。それとも

・・・新しい使用人が雇えないとかって感じの状況ってこと?」

 

 スバルの問いかけにロズワールは沈黙し、テーブルの上で手を組んだ。ロズワールの表

情は笑みを浮かべているが、スバルを見る瞳の雰囲気が明らかに変わる。

 

「本当に不思議だーぁね、君。ルグニカ王国のメイザース辺境伯の邸宅まできて、事情を

知らないなんてーぇいうんだから。よく、王国の入国審査を通ってこれたもんだね」

 

「まぁ、ある意味じゃ密入国みたいなもんだから・・・」

 

 気の抜けたスバルの答えにエミリアが驚き、まるで幼子を叱るような目つきになる。

 

「呆れた。そんなのあっさり喋って。恐い人たちにぎったんぎったんにされちゃうわよ」

 

「ぎったんぎったんってきょうび聞かねぇな」

 

「茶化さないの。ねぇ、スバル。ホントに大丈夫?スバルの周りってみんなそうなの?

それともスバルだけ特別物知らずなの?」

 

 本気で心配してくれるエミリアに悪い気がして、スバルは自分の態度を反省する。

 

「あー、俺はちょっと特別物覚えが悪いかな。だから差し支えないなら、ぜひぜひご講釈

頂けると幸いに存しまして候」

 

「そういう言葉づかいできるのを聞くと、ちゃんとした家の子に見えるんだけど・・・」

 

「こんなんで社交場出たら俺の社交界デビュー詰むって。なんか、エミリアたんも意外と

この手の知識弱い?今のとか尊敬語が入り乱れてぐちゃぐちゃだよ?」

 

「う・・・否定できない」

 

 スバルの指摘に小さくなるエミリア。エミリアのそんな一面に驚くが、萎縮するエミリ

アをフォローするのは上座で黙っていたロズワールだ。

 

「君の指摘もわからないでもないけど、エミリア様は今、勉強中の身だーぁからね」

 

「勉強中、ね。そのへん、さっきの話にもひょっとして絡んでくる?」

 

「君、やっぱり考えてるね。考えれるからこそ、考えてないみたいな発言がこぼれる」

 

 感心した様子のロズワールに、スバルは肩をすくめてから自分の胸を叩いた。

 

「なんか考えて生きるのなんて当たり前だろ。八方ふさがりで死ぬか生きるの瀬戸際で、

腹の中身がぽろっとはみ出してようと、考え抜くのが人間の義務なんだから」

 

「なんかぽろっとはみ出したことがあったみたいな実感がこもってるわね・・・。ええと、

話を戻すけどスバルは今この国―――ルグニカ王国がどんな状況にあるか知ってる?」

 

「全然まったくこれっぽっちもわかってない」

 

「そんな清々しく言い切られると、スバルの生き方に驚かされちゃう」

 

 褒め言葉ではないだろうな、とエミリアの慈愛の眼差しを見て思う。保護欲をくすぐる

作戦ではないが、心の距離感が母親と幼子ぐらいになっているのは確かだった。

 

「それで、国の状況って・・・なんかマズイことになってんの?」

 

「穏当な状況ではないね。なーぁにせ、今のルグニカは『王が不在』なものだから」

 

 ロズワールの言葉を吟味し、意味を理解してスバルは息を詰めた。

 警戒の眼差しを道化メイクの男に向けて、とっさにスバルは椅子の上で身構える。

 

「そーぉんな警戒しなくても心配ご無用。すーぅでに市井にまで知れ渡った厳然たる事実

だーぁからね」

 

「さよけ。いや、危うく秘密を知られたからには生かして帰さん展開になるかと」

 

「こっちからばらしてそれじゃスバルが可哀想・・・ともかく、それで国中不安定なの」

 

 なるほど、とスバルは納得。王位が空っぽという状態は、王国の運営形態的に致命的だ。

病没かそれ以外か、いずれにせよ突然の王の『死』に国が揺れている。

 

「でも、そういうのって普通、王様の子供が跡を継いで万事解決じゃないの?」

 

 「普通はそーぉなるんだけどね。だーぁけど、事の起こりは半年前までさかのぼっちゃう。

王が御隠れになったのと同時期に、城内で流行り病が蔓延してね」

 

 特定の血族に発症する伝染病、と発表されたとロズワールは語る。

 

「病気ばっかりは本人の責めるわけにいかねぇしな。けど、そうなると国ってどうなるん

だ?王様の血筋いないし、民意優先で総理大臣選出するのか?」

 

「後半が何言ってるのか全然わーぁからないけど、現状、国の運営は賢人会によって行うわ

れている。いずれも、王国史に名を残す名家の方々だ。国の運営に問題はない。しかし」

 

そこで一度間を置き、ロズワールは表情を引き締める。

 

「―――王不在の王国など、あってはならない」

 

「そらそうだ」

 

 お飾りがあったとしても、頭の存在しない組織など成立しない。国ならなおさらだ。

 

「なるほど、段々わかってきたぜ。つまり、王国は王不在な上に王選出のドタバタで混乱

中。他国との関係も縮小して鎖国状態。そこへ現れる謎の異国人俺―――俺超怪しいな!」

 

「さーぁらに付け加えちゃうと、エミリア様に接触してメイザース家とも関係を持ったわ

けだーぁしね。状況証拠ばっかりだけど、気が早ければそれだけで・・」

 

 ロズワールが目をつむり、首に手刀を当ててギロチンアピール。ロズワールの悪ふざけ

を目にしながら、ふいにスバルは嫌な予感に冷や汗が止まらない。

 そうさっきから、たびたび気になってはいたのだ。

 

「なんで・・・屋敷の主が、エミリアたんを様付けで呼ぶ?」

 

 屋敷の中で一番地位にある人物が、最大限の敬意を払う間柄だ。

 胸の中で不安が芽吹き、黒い花を咲かせ始めるのを感じるスバルにロズワールは笑う。

 

「当然のこーぉとだよ?自分より地位の高い方を敬称で呼ぶのはねーぇ」

 

口をぽっかり開けて硬直するスバル。ギギギ、と音がしそうなほど機械的な動きでエミ

リアを見ると、渋い顔をした少女は観念したように吐息をこぼした。

 

「騙そうとか、そういうこと考えてたわけじゃないからね」

 

「―――――エミリアたんてばつまり」

 

 懲りずに愛称呼びを続けるスバルにトドメを刺すように、

 

「今の私の肩書きは、ルグニカ王国四十二代目の『王候補』の一人。そこのロズワール辺

境伯の後ろ盾で、ね」

 

 告げられた言葉に、スバルは自分の不敬ぶりが天元突破したのを感じ取っていた。

 

 

 

 

―――――異世界で巡り合った美少女は、女王様でした。

 その一分だけ切り取ると、まさしく正統派な異世界ファンタジーといった風情だ。

 正しくは女王様候補であり、その女王様候補へのこれまでの接し方を思い出すと、

 

「命三つ差し出したくらいじゃ、釣り合わねぇよな・・」

 

「その、驚かせちゃってごめんね。こんなに、黙ってるつもりなんてなかったんだけど」

 

「んにゃ、怒ったりしないって。エミリアたんてば、ホント天使みたいに優しいよね」

 

「えっ!?」

 

 ストレートすぎるスバルの言葉に絶句し、それからエミリアの頬に朱が上る。

 

「いや実際、こうしてられる原動力って全部エミリアたんから始まってるからね。そうい

う意味でも、これは本気でE・M・T(エミリアたん・マジ・天使)だよ!」

 

「・・・はぁ。なんとなく、スバルの付き合い方わかってきたかも。その誰にでも言って

そうな軽口は忘れて、本題に入っちゃえばいいのね」

 

 わずかに赤みの残る顔のまま、手を叩くエミリアが場をリセット。椅子をずらして先ほ

どの距離感に戻るエミリアに、スバルも仕方なく従う。

 

「さーぁて、んじゃまーぁだいーぃぶいい感じに脇筋それちゃったけど、本題に入るとし

ましょうかーぁね。スバルくん、準備はいーぃかな?」

 

「今の流れで首飛ばされてないってとこで、悪い話じゃないことを祈らせてもらうよ」

 

 スバルの言葉にロズワールは口笛を吹く。エミリアも意外そうな目をしたのは、今のス

バルの言動に二人の真意を探る意図があったと買い被ったからだろう。

 

「ってわけで、本題ついでに俺の予想だ。わざわざエミリアたんが女王様候補って話を振

ったんだし、それ込みで状況説明してくれんだろ?」

 

「・・・・ホントに、スバルって頭いいの?それとも頭おかしいの?」

 

「その二択ってだいぶ極限だよね!」

 

 スバルの苦情にエミリアは小さく舌を出して謝罪。可愛い、許した。

 ちょろいスバルの内心はともあれ、ロズワールがエミリアの謝罪に後を引き継ぐ。

 

「君の予想で大当たり。君の処遇、さっきの話に大いに関係ありだ。―――エミリア様」

 

「うん、わかってるわ」

 

 呼びかけに頷いたエミリアが、懐から何かを取り出してテーブルの上に差し出す。

 スっと伸ばされた白い指先、押し出されてきたそれを見たスバルの眉が上がった。

 

「―――あの徽章じゃねぇか」

 

 白いクロスの上で輝くのは、中央に宝珠をはめ込まれた竜を象る徽章だ。

 手癖の悪いフェルトという少女に盗まれ、スバルがそれこそ三度も死んだ末にようやく

持ち主のエミリアの下へ取り戻したキーアイテム。

 煌めく宝珠の深く澄み切った色は、改めて目にしたスバルに畏敬を念すら抱かせる。

 

「竜はルグニカの象徴でね。『親竜王国ルグニカ』なーぁんて大仰に名乗ってるぐらいだ。

城壁や武具のあちらこちらにもシンボルがある。中でもその徽章はとびきり大事だ」

 

 思わせぶりに区切るロズワールに、スバルは先を促す視線を送る。と、ロズワールは目

線でエミリアに続きを催促した。エミリアは目をつむって唇を震わせる。

 

「王選参加者の資格。―――ルグニカ王国の王座に座るのにふさわしい人物かどうか、それ

を確かめる試金石なの」

 

 張り詰めた声色で告げられたスバルは目を剥く。テーブルの上の徽章は両翼を広げた竜

をモチーフにしており、宝珠の煌めきが今の話の真実だと裏付ける。

 

「ま、まさか・・・王選参加資格の徽章をなくしてたのか!?」

 

「なくしたなんて人聞きの悪いっ。手癖の悪い子に盗られちゃったの!」

 

「一緒だ―――――っ!」

 

 大声で叫び、食卓を叩いてスバルは立ち上がる。衝撃で危うく食器がテーブルから落ち

かけるが、そこは控えていたレムが見事にフォロー。スバルはそれには目もくれず、

 

「っていうかマジでそれなくすとどうなっちゃうの!?それを捨てるなんてとんでもない

って言われるタイプのアイテムだろ!役所とかで再発行とかできんの!?」

 

「まーぁ、なくしましたーじゃ済まないのは間違いないだろうねーぇ」

 

 慌てふためくスバルに、ロズワールは不必要に大きい服の襟を正して答える。

 

「王とは即ち王国を背負うもの。そんな大任を負おうって人が、小さな徽章一つ守り切れ

ないとなったら言語道断。どうして国を任せようだなんて思えるんだろーぉね」

 

「そりゃそーだ。そんなんが知られたら一大事も一大事・・そういうことか!」

 

 盗られた徽章をめぐる王都での騒動。そしてこの歓待。導き出される答えは一つ。

 

「徽章をなくしたなんて公に知られたらマズイ。だからエミリアたんは徽章探しを誰にも

頼れずに一人でやるっきゃなかった」

 

「・・・・ええ、そう」

 

「実行犯はフェルトだけど、依頼者はエルザだ。あいつも誰かに頼まれたって言ってたし

・・・それって、エミリアたんが王様になるのを邪魔しようとする奴がいるってことか?」

 

「そーぅだろね。王選から脱落させるのに、徽章を奪うなんて簡単に思いつくしねーぇ」

 

 スバルの中で、昨日の出来事の様々な辻妻が合い始める。

 頑なに助力を拒むエミリア。フェルトとエルザの依頼主。そしてスバルが三度、殺害さ

れる原因になった徽章の価値。スバルがこうして、屋敷でもてなされている理由。

 

「改めて考えると俺、超GJ!これはもう、ご褒美に期待が高まっちゃうな!」

 

 思いかけず、自分の行いの功績が大きかったことを知ってスバルは有頂点。鼻息も荒くエミ

リアを見下ろし、指をわきわきさせて好色を気取る。突っ込み待ちの姿勢だ。だが、

 

「うん、そうなの。スバルは私にとって、ものすごい恩人。命を救ってもらっただけじゃ

済まないくらい。だから、なんでも言って」

 

「へ?」

 

「私にできることなら、なんでもする。ううん、なんでもさせて。スバルが私に繋いでく

れたのは、それぐらい意味のあることなんだもの」

 

 胸に手を当てて、真剣な顔つきで見つめ返されてスバルは言葉を失う。

 頬の筋肉が強張り、シリアスな周囲の空気にテンションの目盛りが合っていない。

 ――やべぇ、マジ空気読めてねぇ、俺。

 スバルは自分の空気が読めないテンションち、エミリアの真剣な眼差しの熱が噛み合わ

ずに困り果てる。結局、困り果てた挙句。

 

「・・なんなの?」

 

「いや、なんとなく手が伸びて」

 

 じっとこちらを見るエミリアの髪に、スバルの指先がそっと滑り込んでいる。

 頭を撫でる、というよりは髪に通して感触を楽しむ形だ。

 

「ご褒美ってんならほら、こんなんでも嬉しいかなぁという安い俺」

 

「・・・パックの毛並みも触ってたけど、スバルって体毛に興奮する趣味とかあるの?」

 

「髪の毛を体毛ってカテゴライズするのやめようよ!こんな綺麗な銀髪なのに!」

 

 あんまりな評価にスバルは悲鳴を上げる。エミリアの銀髪はまさしく絹糸のような触り

心地で、柔らかさでスバルを魅せたパックのものとは異なる魅力がある。

 ただ、エミリアはスバルの言葉になぜか痛ましげに目を伏せた。エミリアの仕草の理由

がわからず、スバルは首を傾げる。傾げたところで、背後から視線を感じた。

 

「あ、お邪魔だったかなーぁ?アレだったら、私たちは退室しておくけど?」

 

「そういう気遣いって口にした途端に余計なお世話になるんだよ。そして、俺の質問ター

ンはまだ終わってません」

 

 エミリアの髪を楽しむのを続行しつつ、スバルは空いた方の手でロズワールを指さす。

 

「エミリアたんが女王様候補ってのはわかったけど、後ろ盾ってご紹介のあったお前はど

んな立場にあらせるんでしょーか」

 

「周りが見えてるねーぇ、話が通じすぎるぐらいじゃーぁないの」

 

「お褒めに預かり誠に光栄に存します候。単にアニメとかラノベとかの影響で、ファンタ

ジー展開に脳みそが慣れてるってだけどな」

 

 記憶困難なオリジナル造語が入り乱れる世界観。それらをいくつも踏み越えてきた読者

の一人として、これぐらいの設定披露で頭がこんがらったりはしない。

 

「ま、隠すようなことでもなーぁいんだけどね。私の肩書はルグニカ王国の・・一応は

辺境伯って身分になるよ。もっと聞こえのいい役職なら、宮廷魔術師になるかーぁな」

 

「そう。それも、筆頭魔術師・・王国で一番の魔法使いなの、この人」

 

 スバルの言葉を引き継いだエミリアだが、なぜかちょっと不満そうな顔。ロズワールは

エミリアの反応すら快いのか、紅の引かれた唇をゆるませて笑う。

 

「それらを踏まえた上で続きの話をすると、私はエミリア様を王選候補として支援する立場。後

ろ盾って言葉を言い換えると、体のいいバトロンってーぇことだね」

 

「バトロン、ねぇ」

 

 後援者代表。それが目の前のロズワールの肩書きといったところか。

 スバルは長身の道化を改めてしげしげ眺めて、それからエミリアにそっと目を配らせする。

 

「言い難いんだけどさ・・・エミリアたん、もっと人を選んだほうがよくね?」

 

「仕方ないの。王国で頼れる人なんて私にはいないし、そもそも私に協力してくれる物好

きな変人なんてロズワールぐらいしか・・・」

 

「なーるほど。消去法なのね」

 

「二人して、バトロンを目の前に怖いもの知らずもいーぃとこだーぁね」

 

 わりと悪し様に貶められている感があるが、ロズワールは怒るどころか含み笑いで大人

の対応。器が大きいのか、あるいは蔑まれることに悦びを感じる性質なのか。

 

「で、本題だ。ロズっちがエミリアたんのバトロンってのはわかった。ちょっち振る舞いの

端々から天然さとかっぺ的な部分が見え隠れするのがキュートなエミリアたんのことだ。

昨日の王都での単独行動とかって、かなりの珍事だったんじゃねぇの?」

 

「初めてのことだろーぉね。ラムが一緒だったはずなんだけどさーぁ」

 

 苦笑してラムに話題を向けるロズワール。スバルがそちらを見ると、ラムは髪の分け目

を一個隣のレムと同じに整えて知らん顔だ。髪の色が違うから丸わかりなのだが。

 

「その自信満々に『誤魔化せたぞ、しめしめ』みたいな顔がムカつくな」

 

 当人の反省の意思はともあれ、言質を取ることには成功した。と、そこへ代わりに手を

上げるのは気まずげな顔のエミリアだ。

 

「その、ラムが悪いわけじゃないのよ。昨日は私が・・・ちょっと好奇心に負けちゃったっ

ていうか、それでふらふらとラムからはぐれちゃって」

 

「なんだその萌えキャラみたいな理由。そのエミリアたんの天然さが溢れ出たのは別とし

て、主人の命令が守り切れなかったのは事実じゃん。そこんとこどーよ?」

 

 スバルはラムは庇うエミリアを両手で指差し、そのまま指をロズワールへと向け直す。

 

「確かに一理ある。ラムの監督不行き届きは私の責任でもあるかもねーぇ。でも、それは

それとして君は何がいいたいのかーぁな?」

 

「簡単な話だ。大事な身分のエミリアたんから目を離したのはそっちの落ち度。んで俺は

そこにつけ込む悪い奴。つけ入る隙を見っけたら、絞れるとこから絞るのがやり口よ」

 

 スバルの物言いに、室内の全員が各々、表情を変えた。

 エミリアが眉を寄せ、三姉妹が申し訳なさと敵意が同居した瞳でスバルを睨み、ベアトリ

スは熱に浮かされた目をパックに向けたまま、パックは卵料理の前で滑って黄身に頭から

突っ込む大惨事。そして、ロズワールは納得とでも言いたげな微笑で頷いた。

 

「なーぁるほど。確かに私財で比較して無一文に等しいエミリア様より、バトロンである

私の方が褒美を求めるには適した相手だーぁろうねーぇ」

 

「だろ?そしてロズっちはそれを断れないはずさ。なにせ、俺はエミリアたんの命の恩

人な上に、王選からのドロップアウトを防いだ救世主的な何かだ!」

 

 席から立ち上がり、天に指を向けてスバルはポージング。

 

「認めようじゃーぁないの、事実だからね。そして、その上で聞かせてもらおうか」

 

 同じように席から立ち、ロズワールを、エミリアがはらはらと心配そうに見守っている。

 

「君は私になーぁにを望むのかな?現状、私はそれを断れない。徽章紛失、その事実を

隠蔽するためならなんでも支払おう。あーぁ、何を望む?」

 

「へっへっへ、さすがはお貴族様。話が分かるじゃねぇの。褒美は思いのまま!そして

ロズっちは断れない!男に二言はねぇからだ!」

 

「スゴイ言葉だーぁね。なるほど。男は言い訳しないべきだ。二言はない」

 

 小悪党なスバルの態度に後ろでガンガン好感度が下がる音がしているが、それらも全て

この発言を引き出すための伏線。

 ロズワールの背肯に、スバルは会心の笑みを浮かべた。

 

「俺の願いは一つ。俺をこの屋敷で雇ってくれ」

 

 長い長い前振りに反して、すっぱりあっさりと言い切ったスバル。

 スバルの申し出に、唖然としたのは背後の女性陣だ。三姉妹のその表情の変化に乏しい面

差しに困惑を浮かべ、ベアトリスは本気で嫌そうな顔をする。そしてエミリアは、

 

「わ、私が言うことじゃないけど、ちょっとそれは・・・」

 

 生まれ持った美貌と神秘性も、それだけ目を白黒させるのに忙しい効力半減だ。

 

「驚いた顔も可愛いけど、そんなに俺の提案に反対?」

 

「そういうことじゃなく、欲がなさすぎるの!」

 

 まるで我が事のように怒り、エミリアはテーブルを叩いてスバルに詰め寄った。

 

「いい?パックのときもだけど今の話も・・・違う。そもそも、王都で私の名前を聞いた

ときもそうだったもの」

 

 エミリアは自分が知る限りの、スバルが褒美を得られそうだった場面を羅列。それら全

ての成果を知るエミリアは、本当に理解できないと頭を振った。

 

「こっちの・・私の感謝の気持ち、わかってくれてないんだ。そんなことで・・・命を救わ

れたことの恩も、それ以上のことだって、全然返せたりしないのにっ」

 

 語尾が弱々しくなり、エミリアはスバルの胸に掌を押し当てて顔を俯かせる。

 エミリアの慟哭を聞いて、スバルは自分の浅慮さを痛感した。

 エミリアはずっと負い目を抱いていたのだ。恩返しに求められる対価の釣り合わなさに。

 しかし、それはスバルにとっても同じことなのだ。

 スバルだってずっと、エミリアに負い目を抱いている。

 そして、それは二度とエミリアに求めることができない負い目だ。

 もうこの世界のどこにでも、返せない恩義なのだから。

 正面、エミリアの潤んだ紫紺の瞳がスバルを見上げている。

 それからスバルは、できる限りの真摯な態度でエミリアに本心を伝えることにした。

 

「エミリアたんわかってねぇなぁ。俺は本気で心の底から、そのときそのとき

本当に欲しいもんを望んでるんだぜ?」

 

「――え?」

 

「あのとき、俺は君の名前が知りたかった。明日の見通しも立ってなくて、新天地で不安

でてんぱってて、たぶん落ち着いて考えたら欲しがらなきゃいけないものもことも他に

色々とあったんだと思う。―――でも、俺は自分に嘘をつかない男だ」

 

 三度も死んだのだ。その報酬を得るために。

 目の前の銀髪の少女の笑顔と、その名前を知るためだけに費やしたのだ。

――あの瞬間、それ以上の褒賞など望むべくもない。

 

「ロズっちへの頼みもおんなじさ。俺ってば今、徹頭徹尾の一文無し。大金せしめて豪遊

ってのも手だけど、継続的な生活基盤を手に入れるってのも手でしょ?」

 

「・・・別にそれなら使用人じゃなくても、食客扱いとかで良かったんじゃないの?」

 

「その手があったか!ロズワールさん、ぜひ俺を食客に・・・」

 

 一縷の望みをかけてロズワールを見ると、彼は頭の上で両手を×の形に交差させた。

 

「最初の要求が有効です。男に二言はないからねーぇ」

 

「うおぉーい!そうだよね!男に二言とかしないもんね!」

 

 さっきの誰かの発言が跳ね返って泣く泣く却下。

 

「今、一瞬だけすごーく真剣に見えたのに・・・気のせいだったみたい」

 

「おまけにエミリアたんからもこの評価!踏んだり蹴ったりだよ!」

 

 理想的な異世界生活穀潰し環境の成立を、自分の失言で失ったスバル。さらに美少女からの

好感度も落としたあれば拾うところがない。

 

「ともかく・・・そういうことだから。ラムちーとレムりんとネムネムだけで屋敷の維持も負担半端ないだろうし、下男的ポジションでよろしくお願いします」

 

「差し迫った問題なのは事実なんだろーぉけどね。・・・エミリア様の言う通り、やーぁっ

ぱり欲のないお話だと私も思うよーぉ?」

 

 初めて苦笑めいた表情を見せるロズワールに、スバルは立てた指を左右に振ってみせる。

 

「俺は超欲張りな男だよ。だってそうだろ?超可愛い超好みの美少女と一つ屋根の下生

活を合法的に獲得だ。距離が縮まれば心の距離も同じ、チャンスは無限大!」

 

「・・・なーぁるほど。それは確かにそうだ。好みの女性の側にいられる職場、というのは

なかなか得難いものだーぁね。うまい話だよ。まーぁったく」

 

「ま、それにだ」

 

 スバルは振っていた指を止めて、そのまま頭に持っていくと無造作に黒髪を掻く。

 

「俺みたいなわけわからん奴は、わけわからんまんま放置するより手元に置いておけよ。

その上で俺がエミリアたんにとって有用か有害か見極めてくれや」

 

 スバルは少し、都合の悪い話を知りすぎている。何の予防線も張らずに屋敷を出るよう

な事態になっていれば、きっと碌な事にならないだろうと思っての発言だ。

 

 ロズワールに何の心当たりもなければ、絶句するような言いがかりだったに違いない。

 だが、そんなスバルの気まずい心情に反して、

 

「そうさせてもらうよ。―――願わくば、仲良くやーぇっていきたいもんだね?」

 

 即座に切り返したロズワールは片目をつむり、黄色の瞳だけでスバルを見て答えた。

 その妖しい輝きの奥の感情は、スバルにまったく読み取ることができなかった。

 

 余談だが、思わず場の勢いで告白めいた発言をしてしまい、内心赤面ものだったスバル。

 が、おずおずとスバルがエミリアの表情をうかがうと、

 

「もう、スバルってホントに仕方ない子なんだから。・・・どうしたの?」

 

 そう平然と返されてしまって、スバルも口ごもるしかなかった。

 意識しすぎ、なのだろうか。これも美少女慣れしていない経験値の低さが出た結果か。

 

「好みの女の子にこんだけ相手されてねぇとか、燃えてくるな、オイ」

 

 わりと差し迫った環境にも拘わらず、だいぶ斜めの角度にやる気を燃やすスバルを横目

に、エミリアは小さな声でぽつりと呟いた。

 

「そにしても・・・ラムとレムとネム、誰がスバルの好みだったんだろ」

 

 先の発言を曲解し、唇に指を当てて見当違いな想像に胸を膨らませるエミリアだった。

 

 

 

―――長引いた朝食の場が片付き、スバルの進退の件もおおむね決着した。

 その流れを見て取り、いち早く席を立つのは巻き毛の少女―――ベアトリスだ。

 

「話もほどほどに決着したようだし、ベティーはそろそろににーちゃと戻るかしら」

 

 自分の分を片付け、早々に立ち去ろうとする少女にスバルは立てた指を横に振った。

 

「待てって。そう急ぐ必要もないだろ・・・っていうか、人任せにしないで自己紹介ぐらい

してけっつの。この場で、お前の立場だけさっぱりわかんねぇよ。ロズっちの妹?」

 

「これを親戚扱いだなんて、お前もベティーを怒らせるのが上手なようなのよ」

 

 不機嫌丸出しでため息をつくベアトリスに、散々な評価のロズワールは楽しげに笑うば

かり。スバルはベアトリスの険のある視線に肩をすくめた。

 

「ベティーはロズワールのお屋敷にある禁書庫の司書さんだよ!」

 

「にーちゃっ!?」

 

 が、言い合いの始まりそうな空気をのんびり割り込んだ灰色猫の発言が搔き乱した。

猫はパンの耳に砂糖をまぶして揚げたラスク的なデザートを齧っている。

 

「甘っ、うまっ、うにゃっ」

 

「甘味で知性失ってるっとこ悪いけど、そこんとこもちょっと詳しく」

 

 甘いのに夢中なパックに先を促しつつ、どさくさ紛れでスバルはパックの耳に触る。至

高の感触を堪能していると、堪能されるままのパックは皿から顔を上げた。

 

「ロズワールは魔術師としてそれなりだからね。代々受け継ぐ家柄でもあるし、人目に触れさ

せられない本とかもあるんだよ。ベティーは契約で、それを守ってるってこと。ね?」

 

「うん、そうなのよ。にーちゃの言うことはいつだって正しいかしら」

 

 盲信的な発言をしつつ、ベアトリスの手がおっかなびっくりスバルと反対のパックの耳

へ。指先がその毛並みに触れると、少女の愛らしい顔がふにゃっとゆるむ。

 初めて、見た目相応の愛らしい表情をスバルの前で浮かべるベアトリス。思わず息を呑

むスバル。すると、そんなに二人と一匹を傍目に見ていたエミリアが小首を傾げる。

 

「そうしてると、すごーく仲良しの二人が小猫を可愛がってるみたいに見えるわね」

 

「こいつと仲良くとか思われるのはちょっと・・・」

 

「こいつと仲良くなんて絶対にごめんかしら」

 

 エミリアの感想に、スバルとベアトリスの答えが重なる。幾分、照れ隠しの混じるスバ

ルに対して、ベアトリスは目がマジだ。

 

「ふふ、いがみ合う二人を揃って虜にしてしまう自分が恐い・・・にゃにゃにゃ!」

 

 二人に挟まれ自画自賛に忙しかったパックが、伸びてきたエミリアの指先に摘ままれて

じたばたする。その内、ぐったりと動かなくなるパックにエミリアはため息をついた。

 

「それはそれとして、禁書庫の番人って響きが俺の男の子心を激しくくすぐるんだけど」

 

 ぐったりするパックをうっとり見ていたベアトリスが、スバルの感想に表情の温度を著

しく下げる。自分の縦ロールに触りながら、それでもベアトリスは律義に答えた。

 

「さっきのにーちゃの説明がほとんどかしら。お前が入った、あの部屋がそうなのよ」

 

「ああ、あの本まみれの」

 

床が抜けないか心配になった蔵書量を思い出し、スバルは禁書庫という響きに納得。そ

の反面、あの蔵書全てが禁書扱いになると、それだけで犯罪的な感じが漂ってくる。

 

「ひょっとしてこのロリ、知らずに片棒担がされてる哀れなロリなんじゃ」

 

「何回聞いても腹立たしい単語なのよ。あと質問に答えてやったベティーを置き去りに、

世界一くだらないことを考えているのが伝わってきて死ぬほど腹立たしいかしら」

 

「カリカリすんなよ、小魚食えって。カルシウムとると心が落ち着いて背が伸びる。俺は

エミリアたんと俺ぐらいの身長差が、ラブコメするのにちょうどいいと思うんだけど・・・」

 

 憤慨するベアトリスへの一言と装って、ちらちらとエミリアに色目を使う。が、エミリ

アは今のスバルの妄言を聞き流し、ベアトリスの方に詰め寄った。

 

「ちょっと待って。ベアトリス・・・まさか、スバルを禁書庫に招き入れたの?」

 

「・・・それこそ、まさかなのよ。ベティーがこんな得体のしれない奴をわざわざ招く必要

がないかしら。勝手に『扉渡り』の正解を引きやがったのよ」

 

 額に青筋を浮かベアトリスは乱暴に席を立ち、無言で食堂の扉を押し開いた。と、

 

「あれ?廊下は?」

 

 不可解な光景を前にして、スバルは間の抜けた疑問の声を上げていた。

 眼前――屋敷の廊下へ通じてるはずの扉の向こうに、書架の並ぶ大きな部屋が広がってい

る。それは一度見た覚えのある場所であり、昏倒させられた記憶に新しい一室だ。

 

「これが『扉渡り』なのよ。その神秘を目に焼き付けて、せいぜい震えるがいいかしら。

―――にーちゃ、こっちへ」

 

 禁書庫へ足を踏み入れて、勝ち誇るようにスバルを見たベアトリスが手を伸ばす。少女

の掌に、エミリアの下から飛び立つパックが着地。

 それを確かめたベアトリスが扉を閉めて、向こう側に少女と猫の姿を隠してしまう。

 

「おお、すげぇ」

 

 目を白黒させていたスバルをさらに驚かせたのが、何も言われていないのに閉じた扉を

開けてみせたラムの行動だ。乱暴に閉じる扉の向こうには、スバルが自らの足で歩い

てきた廊下が続いている。つい一瞬前の光景が嘘のように、だ。

 

「なるほど。つまり屋敷のどことでも自室に繋げられる魔法ってわけだ。ひきこもり

御用達で、トイレがピンチな時に便利だな」

 

「案外、っていうかあんまり驚いてないのね。そのひきこもりってなに?」

 

「疲れて帰ってくる家族のために、自らを犠牲にして家を守り続ける守護神のこと」

 

「えっと・・・すごい人?スバルも、ひきこもりだったの?」

 

「ぎゃふん」

 

 煙を巻こうとして、逆に気遣ったエミリアにばっさり切られるスバル。

 

「はーぁいはい。それじゃ、紹介の続きといこーぉか。ラム、レム、ネム」

 

 事項自得で凹むスバルと首を傾げるエミリアはさて置き、ロズワールが手を叩いて注目

を集める。名前を呼ばれた三姉妹が静々と前に出て、スカートの端を摘まんで揃ってお辞儀。

 

「改めまして、当家の使用人筆頭を務めさせていただいております、レムです」

 

「改めて、ロズワール様のお屋敷で平使用人として仕事をしている、ラムよ」

 

「改めまして、当家の使用人、主に姉様たちのお手伝いをしている、ネムです」

 

「姉様急激にフランクになってんな。いや、俺が言えた話じゃねぇけど」

 

 腕を組むスバルの発言、三姉妹は手を取り合ってスバルを見た。

 

「だってお客様・・・改め、スバルくんは同僚になるのでしょう?」

 

「だってお客様・・・改め、バルスって立場同じの下働きでしょ?」

 

「だってお客様・・・改め、そうですね・・・浮かばなかったのでレム姉様にならってスバルくんは同僚になるのですよね?」

 

「おい、姉様。俺の名前が目潰しの呪文になってんぞ、それにネムネム浮かばなかったってなんだよ。少し悲しいじゃねぇか」

 

 初対面の場では必ず一度は触れられる鉄板ネタだ。もっとも、ラムとレムとネムがそれを知っ

ているはずもない。もどかしさを堪えつつ、スバルはロズワールを振り返った。

 

「俺の立場ってアレか。やっぱ執事とかって使用人見習い的な?」

 

「現状だと三人の指示で雑用、ってのが一番だろぉーうね。不満だったりする?」

 

「不満があるとすれば、雇ってと養ってを間違えたさっきの自分にしかねぇな。よろしくお願いしますぜ、先輩方。超頑張るぜー、粉骨アレしてな」

 

「砕身」

 

「ソレしてな」

 

 一瞬、出てこなかった単語を四人で指さし確認。それから「イエーイ」と手を伸ばすス

バルに三人がハイタッチで応じる。言わずとも、一番下のネムは手を重ねるように。すでになかなかの連携、というよりノリがいい。

 

「仲良きことは美しきかな。お互いのわだかまりもなーぁいみたいで、雇い主としても大

いにけっこうなことだーぁよ。ねーぇ?」

 

「不思議なことに波長が合ってな。あのロリより間違いなく相性がいいぜ!あのロリより!」

 

「よっぽどベアトリスと仲良し扱いされたのが嫌だったんだ・・・」

 

 不憫ようなエミリアの呟きが、この集まりの終わりを意味する一言になった。

 

 

 

「それじゃ、バルス。行きましょうか」

 

 そう言ったのは、ロズワール直々にスバルの教育係を命じられたラムだ。妹のレムとネムがテ

キパキと食堂の片付けを行う傍ら、手伝いもせずにラムは食堂の扉に手をかける。

 

「あ、呼び方はもう完全にそれでいく気なんだ」

 

「ええ、そうよ、バルス。ロズワール様のご指示だから、まずバルスに屋敷を案内する

わ。はぐれないでついてくるぐらいはできるでしょう?

 

「エミリアたんじゃねぇんだから、物珍しさでふらふらしたりしねぇよ」

 

「ス・バ・ル!」

 

 王都での迷子の件をからかわれて、エミリアが頬を膨らませる。

 この後、王都候補として色々とこなさなくてはならない執務や勉強があるエミリアとは

別行動だ。しばしの別れを前に、エミリアの美貌を目に焼き付けておく。

 

「んじゃま、名残惜しいけど行きますか、先輩」

 

「そうしましょう、バルス。それではエミリア様、また後ほど」

 

 スカートの端を摘まんで、去り際にお辞儀をするラム。スバルはその背中に続こうとして、

 

「スバル。私もだけど・・・スバルも頑張ってね」

 

「なにそれ、超嬉しい。やる気がモリモリ出たわ」

 

 ラムを見習い、ジャージの裾を摘まんでお辞儀。エミリアの見送りの表情を珍奇なものに

してから退室すると、通路で待っていたラムが顔をしかめていた。

 

「嫌そうな顔すんなぁ、姉様。ちょっとお茶目しただけじゃん。俺にだって別に、メイドと

下男を一緒くたにするほど、メイド文化に疎しくないぜ?そだ、制服とかってあんの?」

 

 さすがにジャージ姿のまま使用人生活スタート、というのも味気ない。

 スバルの言葉にラムは口元に手を当てて、「そうね」と頷く。

 

「服装は大事だわ。ちょうどいいサイズの服が・・・・ええ、確かあるはず」

 

「よっしゃ。じゃ、まずは着替えてからにしようぜ。俺って意外とフォーマル似合っちゃ

う気がすんだよね。優雅で、お上品に決めるぜ」

 

 親指を立てて歯を光らせるスバルに、目測で体格を測っていたラムが上階を指差した。

 

「二階に使用人の控室があるから、着替えはそこね。バルスのサイズだと、きっと先々月

に辞めたフレデリカの服が合うわ」

 

「おー、ちょうどいいタイミングで辞めてくれたなフレデリカ・・・女じゃね?」

 

「ガタイはだいたいバルスと同じくらいだったわよ」

 

「でも性別違いますよね?」

 

 足を止めたラムが白い目でスバルを見る。それから疲れたような額に触れて、

 

「優雅でお上品なフォーマル・・・いったい、何が不満なの?」

 

「全部だけど!?エミリアたんのなら金払ってでも見たいけど、俺がメイド服着て誰得な

んだよ!変な性癖に目覚めて俺得になったらどうする!俺、芽生えたくない!」

 

 無能なまま異世界トリップして女装癖に目覚める。端的に言って死んだ方がいい。だが、

死んでも戻ってくるという恐ろしい能力をスバルは持っている。救いようがない。

 そのままラムに案内されて、屋敷の西側へ向かう。ロズワール邸は真ん中の本棟、そし

て西と東に通路で繋がる二つの棟がある、計三つの棟で立っている建物だ。食堂やロ

ズワールの執務室がある本棟に対し、使用人の控室があるのは西側の棟になる。

 

「二階の控室の・・・そうね、プレートの下がっている部屋以外ならどれでもいいわ。好き

なところを私室にしなさい。そこに制服の替えも置いておくから」

 

「うーい、了解。んじゃ、そうだな・・」

 

 屋敷での私室を与えられることになり、通路の端から候補を眺めるスバル。とはいえ、

位置が違うだけで中身は一緒のはずだ。階段に近い方が移動に便利だろう。

 

「んじゃ、この部屋を・・」

 

「にーちゃ素敵。最高の毛並みなのよ、ふわぁ・・・・」

 

 何の気なしにドアを開けた瞬間、書庫の中で小猫と戯れるロリを発見した。

 気配に気づき、ゆっくりと縦ロールの視線がスバルを向く。スバルは廊下に立つラムを

振り返り、ラムが首を振るのを確認した。それから親指を立ててサムズアップ。

 

「誰にも言わないから安心しろ。人はみんな、その感触の前では愚かな者なのだから―――」

 

「壮大に馬鹿なこと言ってないでとっとと閉めるかしら!」

 

「ぎゃふんっ!」

 

 見えない力―――おそらく魔法的なものにぶっ飛ばされ、スバルは廊下の壁に激突。後

頭部を打ちつけて目を回すスバルを尻目に、激しい音を立てて扉が閉じられた。

 頭を振り、今の暴挙に物申そうとしたスバルだったが、開けた扉の中身が空っぽの客室

になっていて肩透かしを食らう。『扉渡り』の効果が発動したのだ。

 

「一度、ベアトリス様が気配を消されたらもうわからないわ。屋敷の扉を総当たりしない

限り、あの方は自分からは出てきてくださらないから」

 

 きっぱり、敗北を認めろとでもいうようにラムがそう言う。

 後ろから慰めるように肩を叩かれ、その感触にスバルは己の敗北を―――

 

「すっげぇ、ムカついた。俺が悪いみたいなあいつの態度が悪い!」

 

 認めなかった。

 ラムの手を振り切り、スバルは振り返ると廊下を全力でダッシュ。目を見張るラムの前

で、廊下の一番端の扉の所まで駆け抜けると、

 

「ここだぁ!」

 

「―――ひゃんっ!?」

 

「すごいね、スバル」

 

 少女の悲鳴と灰色の猫の賞賛。

 再び『扉渡り』を破られたベアトリスの顔に動揺が走るのを見届け、今度は吹っ飛ばさ

れまいと即座に書庫の中に転がり込む。

 書庫の中で許されないアクティブさに、ベアトリスは眉を立てて怒りを露わにする。

 

「埃がめちゃめちゃ上がったのよ!」

 

「てめぇがちゃんと職場の掃除とかしてねぇからだろうが!そもそも書庫に猫なんか連

れ込んでじゃねぇよ!厚手のカバーで爪とぎされるぞ!」

 

「ボクの手はリアに深爪されてるから平気だよ!」

 

 がなり合うスバルとベアトリスの傍ら、のんびりとパックが呟くが口論する二人には届

かない。そのまま屋敷中に響くような声で、怒声を交換し合う二人。

 遅れて禁書庫と繋がる扉に着いたラムは、二人の口論を見ながら小さい声で、

 

「仲はともかく、相性がいいのはホントのようだわ」

 

「―――そんなわけない!!」

 

 シンクロした叫びが朝のロズワール邸を大きく揺るがしていた。

 

 

 

 

 スバルの使用人生活は、そうして怒涛の勢いで火蓋を切った。

 思いがけないベアトリスとのセッションを終えて、スバルは衣装部屋でラムに手渡され

た使用人服に袖を通している。白のシャツに黒い上着とズボンは、スバルをイメージする

執事の格好と違和感なく合致する。問題があるとすれば、

 

「おーい、ラムちー。とりあえず着てみたんだけど・・・」

 

「その呼び方に物言いつけたいところだけど、何か不都合が・・」

 

 呼びかけに応じ、部屋の外で着替えを待っていたラムが入ってくる。悪態をつきながら

入室したラムは、着替えたスバルを見て言葉を途中で中断。顎に手を当てて、

 

「あったようね。問題は肩と、足の短さかしら」

 

「長さって言ってくれる!?シャツは大丈夫っぽいけど、上着の肩回りがきついわ。俺、

結構無意味に体鍛えってから、上半身ちょいマッチョなんだよね」

 

 ラムの見立て通り、肩きつさと裾の余り具合が不恰好の原因だ。特に肩回りは脇が閉

まらない不具合っぷり。個人用に仕立てた服をお下がりにしようというのだから、こうし

た問題は出て然るべきだったか。

 

「裾はまくればいいとしても、上は無理だ。裾上げぐらいなら自分でもできっけど」

 

「バルスの意外な才能はいいとして・・・いくらなんでも、そんなに貧相な格好で働かせて

おくなんてできないわ。屋敷の、ひいてはロズワール様の品位が疑われるから」

 

「本人があの格好で品位なんてどこにあるの?」

 

 無表情ながら、スバルの言葉にラムの機嫌が斜めに傾いたのがわかって閉口する。口を

閉じるジェスチャーを入れるスバルにラムは息をこぼした。

 

「中身が伴わない以上、せめて見た目ぐらい整えないと見れるところがないわ。とりあ

えず裾上げは後回しにして、上着だけでも直してしまいましょう」

 

「つっても、そっちのが難易度高いだろ?俺もさすがに経験値がねぇよ」

 

 やってやれないことはないだろうが、と自分の裁縫スキルの限界に挑もうとするスバル

にラムは「心配いらないわ」と前置きをして、

 

「レム、ネム、いらっしゃい」

 

「いらっしゃいて・・・呼び出してもそんな都合よく・・」

 

「お呼びですか、姉様」

 

重なるステレオ音声。

 

「ふぉぉぉぉぉぉ!しかも二人ぃぃぃ!」

 

 軽い調子の呼び出しに突っ込みを入れようとして、すぐ脇から現れたレムとネムに心底ビビる。

 驚きのリアクションのまま固まるスバルに、三姉妹は同じ仕草で首を傾げた。

 

「何をそんなに驚いているんです?」

 

「何をそんなにビビっているの?」

 

「何をそんなにおったまげているのです?」

 

「びびってねぇよ!ちょっちびっくらこいただけ!三姉妹パワーすげぇな!あと、ネムネムきょうび聞かない!」

 

 いわゆる三姉妹のシンパシー、離れていても通じ合えるというやつだろうか。と、感動す

るスバルの前で、ラムは「ハッ」と鼻を鳴らして、

 

「そんなわけないでしょう。通りかかったのが見えたから呼んだだけよ。おめでたいわね」

 

「最後の一言のあるかないかで、俺の心のヒビ割れ度が大きく違うよ?」

 

「それで、何のご用でしょう。あまりスバルくんに構ってる暇はないんですけど」

 

「そうですよ、スバルくん。ネムたちは忙しいのですから」

 

「お前たちはお前たちでそつのない感じで傷つけにくるな!新入りに!優しくしよう!」

 

 とはいえ、屋敷の維持にレムとネムの力が不可欠なのは事実。あまり足止めするのもよくない

はずだが、そんなレムとネムに対して長女はスバルを指さして告げる。

 

「レム、ネム、無様なバルスの姿を見て気付くことは?」

 

「肩回りがおかしいのと、足が短いことと」

 

「目つきが恐いことですか?」

 

「どうにもならない部分が二ヵ所入ってきたな!顔面偏差値は、普通の偏差と違って

本人の努力じゃどうにもならない分野だよ!」

 

 スバルの訴えを余所に、姉妹は話し合いを進めている。当事者なのに蚊帳の外のスバル

は、いそいそ長い裾をまくる作業に従事する。そして、

 

「バルス、レムに上着を渡しなさい。明日の朝までには着れるようにしておくから」

 

「それは助かる、けど・・・いいのか?仕事、山積みなんじゃ」

 

「もちろん大忙しです。ですが、ネムと分担すれば余裕がるのですぐに渡してもらえた方が」

 

「あー、わかりました。お願いします」

 

 正論を言いつけられて、スバルは脱いだ上着をレムに手渡す。上着を受け取ると、今度

はレムは衣装部屋を手で指し示し、中に入るよう顎をしゃくってくる。

 

「採寸しないといけませんから。自分ではできないでしょう?」

 

「・・・何から何まで、世話になりっぱなしで悪いな」

 

「構わないわ。この貸しはいずれ、より大きなものとして返してもらうから。ネムにも感謝することね」

 

「お前が言うと筋違いだし、嘘とも冗談とも思えねぇから恐ぇよ!あぁ・・ネムも感謝してるよ」

 

「構いません。スバルくん、姉様の指示ですから・・それに褒められますし・・ふふ」

 

「最後、チラリズムしてますよ。ネムさん」

 

 この場で誰よりも偉そうなラムと本音が漏れているネムを廊下に残し、スバルはレムと衣裳部屋の中へ。

 衣装部屋には使用人用の制服だけではなく、ロズワールの着替えの数々も保管されている。

奇抜で、いよいよサーカスか何かの衣裳部屋のように感じられる色合いの服ばかりだ。

 趣味の悪い主の衣裳ゾーンを抜けると、いくつか控えめだが華のある衣装が覗ける。王

都で見たことのある衣裳があるそこは、おそらくエミリアの着替えが並ぶエリアだ。

 

「全部、眺めて回りたいような、着てる姿が見られるまでとっておきたいような・・・」

 

「ぶつぶつと何を言っているんです?奥まできてください」

 

 いくらか険のある声で呼ばれて、さすがのスバルもそれ以上は茶化さずに指示に従う。

衣裳部屋の奥には試着室ではないが、仕切りの置かれたスペースがあり、レムがそこで細

い紐を手にスバルを待っていた。等間隔で印の入る紐は、メジャー代わりの道具だろう。

 

「そこに背筋を伸ばして立ってください。両手、肩の高さで伸ばして」

 

「ほいほい、了解。お願いします」

 

「レムに背中を向けて、スバルは指示通りに両手を伸ばして立つ。背後から小さな体を伸

ばし、スバルの腕と背中周りに紐をかけるレム。触れる柔らかな感触と息遣いに、ふいを

突かれたスバルは「うひ」と肩を震わせた。

 

「あまり変な声を出さないでください、スバルくん。不愉快です」

 

「今のは不可抗力だろ!色々とこそばゆくて男の子は大変なんだよ!」

 

 心なしか冷たいレムの言葉に応じて、スバルは気を紛らわすための話題を探す。

 

「そういえば、ロズっちとかエミリアたんの服っぽいのはちらほらとあるけど、レムたち

の服とかあのロリのドレスって見当たらないな。別室?」

 

「ベアトリス様の御着替えはご自分の私室の方に。レムと姉様とネムはこの制服以外、衣装の持

ち合わせはありませんから、着替えだけ私室にありますよ」

 

 当たり前のようなレムの答えに、スバルは眉根を寄せる。と、そんな合間に採寸を終え

たレムが手近なメモに何か書き込んでいる。そのレムにスバルは腕を組んで、

 

「制服以外持ってないって、全部、メイド服なの?お出かけとか休日は?」

 

「ロズワール様の公務に同行するときや、屋敷の仕事では問題ありません。身分を示す

意味でも、説明する必要がなくて合理的だと思いますよ」

 

「合理的とかってんじゃなくて・・・こう、美少女は可愛く着飾って、人の目を楽しませる

義務があると主張したいね、俺は」

 

「姉様やネムならともかく、レムが着飾っても誰も喜びませんよ」

 

「とりあえず、俺は喜ぶよ?」

 

「スバルくんを喜ばせて、何かいいことがあるんですか?」

 

「使用人生活に張りが出て、作業効率が上がるかもしれない。合理性の追求じゃね?」

 

 口の減らないスバルの態度に、レムは少しだけ驚いた顔をする。少女の無表情を崩して

やれたのが嬉しくて、スバルは口の端を歪めて笑った。

 

「何がスバルくんをそこまで言わせるのか、レムにはわかりかねますね」

 

「髪型とか揃えて制服まで同じでも、性格の違いで服選びには個性が出るかなーって期待

してみたり。メイド服似合ってるし、ネムは違えど、双子ってステータス的にはそれもいいけど」

 

 今の格好も、十分すぎるほどに可愛いのだが、揃いの髪型に揃いの服装。双子のお約束

ともいえるそこに、『個性』というエッセンスを加えたいのも人の情。

 そんな感覚からのスバルの提案だったのだが、

 

「―――です」

 

「へ?」

 

「余計なお世話です。レムが姉様と同じで、何か不都合があるんですか」

 

 目を丸くするスバルに、レムがこれまで以上に感情の凍えた表情でそう言った。

 さっきまでの軽口を交換する雰囲気と違ってしまい、スバルは思わず口ごもる。

 

「・・・おかしなこと言ってないで、戻りましょう。姉様を待たせすぎるわけにもいけませんし、それに

ネムにも無理をさせすぎるのもいけません、スバルくんには覚えてもらわなきゃいけないことがたくさんあるんですから」

 

 有無を言わせない態度で言い切って、レムはスバルに背中を向けて部屋の出口へ向かう。

釈然としない思いを抱えたまま、スバルは歩く背中に続きながら、

 

「姉妹、好きすぎるだろ、それは・・」

 

 口の中だけで呟いて、一筋ではいかなそうな少女との付き合いに、先行き不安な吐息

をこぼしたのだった。

 

 

 

 採寸を終えて、衣裳部屋の外でラムと合流し、代わりにレムとは別行動になった。

 

「上着の直しは夜の内に。明日の朝までには終わらせて届けますから」

 

 仕事が詰まっているはずのレムはそう言い残すと、ラムに意味深な目配らせをしてからそ

の場を立ち去った。目と目で通じ合う二人の態度に、スバルはラムの肩をつつく。

 

「なぁ、さっきのレムのアイコンタクト、何て言ってたんだ?」

 

「二人きりになるとバルスがいやらしい目をするから気をつけて、だそうよ。ケダモノ。これはネムにも共有しないといけないわね」

 

「あれだけのサインにそんな意味が・・・おい、ちょっと距離とるなよ、傷付くから!あと、なんでわざわざ姉妹共有すんだよ!」

 

「当たり前じゃない、ネムはラムとレムの自慢の可愛い妹だもの。ケダモノに襲わせるわけにはいかないわ」

 

 己の肩を抱いてスバルから離れるラムに傷心しつつ、今度こそお屋敷の使用人としての

時間がスタートだ。

 使用人控室や備品倉庫、禁書庫ではない普通の書庫などがある西棟。東棟は逆に来客を

迎える用の貴賓室や、滞在客用の客室などが並ぶ建物であり、屋敷の機能の中枢が集約す

る本棟と比べると見るべき点は少ない。

 

「おおよそ、屋敷全体の案内はこれでおしまいね。後は建物の外に庭園と、屋敷と門の間

の前庭があるわ。そっちも後で見て回るけど、ここまで質問は?」

 

「案内イベントって、エミリアたんがやってくれるべきイベントな気がしないか?」

 

「ないようだから、実際の仕事の方に移りましょうか」

 

 案内の最中、足を止めるたびにスバルの脱線に付き合わされた結果、ラム本人の気質も

相まってスバルの発言をスルーするのに慣れたものだ。

 この数時間で距離が縮まったのか判断に難しいところだが。

 

「今日のラムの仕事は、ちょうど前庭と庭園の手入れと周囲確認。昼食の準備を手伝って、

その後、陽日八時から銀食器を磨かないと・・・それをバルスにも手伝ってもらうわ」

 

「それは全然やるけど、ちょっと陽日とかって表現について聞いていいか?」

 

 今朝、目覚めのときにも聞かされた用語だ。陽日、とはおそらく明るい時間帯のことを指

しているのだと推測しているが。

 

「陽日八時とかってのは時間の表現だよな・・・時計とかって、あるのか?」

 

「トケイ・・・?魔刻結晶なら、屋敷の至るところにあるでしょう。そこにも」

 

 ラムが指差す方を見て、スバルは鋭い光を放つ結晶を見つける。廊下の壁の上部

―――元の世界なら柱時計でも置かれてそうな位置に、その結晶は取り付けてあった。

 ぼんやりと淡い緑色の光を放つ結晶に、スバルは目を細める。

 

「気になってはいたけど、あれが時計代わりか。どう判断したらいいんだ?」

 

「陽日の零時から六時までが風の刻。そこから六時間刻みで火の刻。冥日零時からが水の

刻と地の刻よ。―――――こんなことも知らないで、どこの未開の蛮族なの、バルス?」

 

「実際の未開の蛮族はその言われようにYESとは答えねぇからな」

 

 散々な言われようだが、常識力の欠落したスバルに対する評価としては真っ当だろう。

 思い返せば、スバルの目覚めた客室にも魔刻結晶とやらは設置されいた。そのときと

比べると、結晶の緑の色合いがやや濃くなっている気がする。

 

「ひょっとして、時間経過で色の濃さとかが変わるのか?」

 

「・・・・風の刻は緑。火なら赤、水なら青、地なら黄色。他に欲しい説明は?」

 

「時間関係はいいや。陽日と冥日が、午前と午後みたいな呼び方なんだな」

 

 腕を組んで頷くスバルに、額に手を当ててラムは疲れた様子だ。

 

「仕事を一から仕込むだけでも一苦労なのに、一般常識の欠落まで・・・いったい、いつか

らラムは給仕でなく調教師になったのかしらね」

 

「仕込むとか調教とか、聞くたびに怖気が立つ言葉選びするのやめましょうぜ、先輩」

 

先輩、という呼び名にラムの眉がピクリと動く。心なしか、悪くない感触であった気が

してスバルは「そういえば」と前置きしてから、

 

「今でこそ屋敷には三人しかいないけど、まさかずっとそうだったわけじゃないんだろ?

さっきも言ってた、辞めたメイドってのもいたみたいだし」

 

「・・・別邸にはロズワール様の親戚筋の方々がいらっしゃるから、これまでの同僚のほと

んどはそっちね。ラムやレムやネムはロズワール様のお世話するためだけに、本邸の方で仕事

をしているから」

 

「本邸と別邸・・・逆じゃなくて、こっちが本邸?」

 

「メイザース家の当主である、ロズワール様の邸宅が本邸に決まっているでしょう。親戚

といっても、他の方々はメイザースの分野筋でそれほどの関係が深いわけではないから」

 

 複雑な家庭環境にありそうなのは、やはりロズワールが貴族の家系だからだろうか。

 雇われの身になる以上、まったくの無関係とはいかなそうで気を引き締める。それ以前

に、女王候補のエミリアともすぐ近くで接する立場なのだから。

 

「世話する相手がロズっち一人でも、この規模の屋敷を二人で維持とか無理だろ。そのあ

たり、もっとどうにかなんねぇの?」

 

「―――今は、無理でしょうね。事情があるから。それより、無駄話は終わりよ」

 

 手を叩き、いつまでも終わりの見えない話に終止符を打って、ラムが悠然と歩きだす。

 まだまだ聞きたいことは尽きないが、常識のすり合わせは仕事をしながらでもできる。

不興を買って追い出されないためにも、まずは仕事に全力で取り組むこと。

 

「勤労経験のない俺に謎の前向きさあがみなぎる。やっぱり、美少女の存在は違う」

 

「ラムを褒めても何も出ないわよ。指導に手抜きも、温情もないわ」

 

「姉様は妹たちを見習って少し謙虚になった方がいいな!」

 

 衣裳部屋で交わしたレムとの会話を反芻して、スバルは思わずそう突っ込んだ。

 

 

 

 

「ぁだ―――――っ!」

 

 真新しい傷口から赤い血を滴らせて、スバルは半泣きで悲鳴を上げていた。

 血の出る左手を振るスバルを見て、隣で同じ作業に従事しているラムが目を細める。

 

「反省のないことだわ。バルス、上達って言葉知らないの?」

 

「けどね、先輩。俺、箸以外の調理道具を触ったことないとこからスタートなんですよ」

 

 言い訳をしながら切った指を口に含み、口内に鉄の味を感じながらスバルは膨れる。

 場所は厨房で、時間はお昼時より少し前。ラムと一緒に庭の手入れを終えて、屋敷に戻

った二人は昼食の準備するレムの手伝いをしていた。そこに、

 

「姉様たち、ただいま戻りました。頼まれた仕事はあらかた終わりました」

 

「ご苦労様、ネム」

 

「ご苦労様です、ネム」

 

「えへへ」

 

微かなに頬を赤らめ撫でられるのを気持ちよさそうにしている。

 

 一番下の妹であるネムが遅れて厨房に合流したネムに調理をしていた双子はかけより頭を撫でる。

 

「お、これぞ、姉妹愛。ついでに、俺も失礼して・・・」

 

 どさくさに紛れスバルもネムを撫でようと手を頭に伸ばすが

 

「うぅぅ・・・!!」

 

「なんだよ、俺は撫でさせてもらえないってか!うぅぅって猫かよ」

 

「ハッ、残念だったわね、バルス」

 

「ネムを愛でるのはレムたちだけの特権です」

 

 双子は顔を合わせてドヤ顔でスバルを見る。そんな姉妹愛を見せつけられる。

 

「その姉妹愛は納得いかないけど一旦置いといて、姉様まで皮むき担当って実際どうなのよ。姉の威厳とかは」

 

「得意分野は任せて、長所を活かした仕事をするの。ラムの出番はここじゃないわ」

 

「事前に得意分野でも能力値で負けてるって聞いてるんですけど!?」

 

 掃除洗濯量料理裁縫、およそ家事技能では全てレムやいなか、ネムまでにも劣ってるいるかもしれないと 

 いう現時点での情報。

実際、野菜の皮を剥くラムの手つきは十分に手慣れた人間の領域だが。

 

「姉様もネムもスバルくんも、そろそろ準備は大丈夫ですか?」

 

 そう言いながら、いつのまにか自分の持ち場に戻っていたレムが、皮剥き担当の二人が目を剥きそうな勢いで調理を進めるレムがいるのだから形無しだ。レムの手際の良さは尋常の域になく、調理作業そのもの

がパフォーマンスのように感じられるほど洗礼されている。

 隅っこで競い合うように、レベルの低い雑用に追われている二人は大違いだ。

 大鍋に材料を流し込み、かき混ぜていたレムが振り返る。そして、黙々と皮剥きする姉

と出血するスバルと姉の近くでフルーツを切っていたネムを見て、レムは何事もなかったように頷くと、

 

「さすがは姉様は、野菜の皮剥きする姿も絵になります。ネムもだんだん上達してますねいい子です」

 

「清々しいまでの身内びいきだな!俺の仕事ぶりにもコメントが欲しいです!」

 

「そのお野菜を作った畑の持ち主が可哀想です」

 

「心が痛いからやめて!」

 

 レムの視線の先、転がるのはスバルが手掛けた無惨な野菜の残骸たちだ。ジャガイモ風

の野菜は元のサイズの半分ほどになり、それでも皮が残っている体たらく。おまけにそれ

なりに深く手を切ったせいで、まな板の上には血が滴っている。

 

「バルスはナイフの扱いがなってないのよ。皮剥きするとき、野菜じゃなくナイフを動か

してるから手を切る。ナイフは固定して、野菜の方を回すのよ」

 

 なかなか血が止まらないスバルを横目に、ラムが助言しながらジャガイモを綺麗に剥

いてみせる。皮が途切れずに頭から最後まで繋がった、見事な一枚剥き。

 

「何を隠そう、ラムの得意料理は蒸かし芋よ」

 

「勝ち誇った顔で何を言いだしてんだよ!クソ、見てろ。俺の愛刀『流れ星』が、お前

に目に物見せてくれちゃるぜ!」

 

 負けん気に任せてナイフを手に取り、木製の柄を握り締めて気合を入れる。何の変哲

もない普通の果物ナイフだが、今日からこいつがスバルにとっての愛刀『流れ星』だ。

 

「うおお――――!」

 

 と、声を上げながら体を小さく丸めて、ラムのアドバイス通りにナイフは固定して野菜

の方を回す。最初に深々と身を抉ったが、その後は快調に滑り出して内心で驚いた。

 ちらと横目にすれば、指摘通りにやってのけるスバルに自慢げな顔のラムがいる。素直

に感謝するの癪なので、スバルは無言で皮剥きに集中―――と、

 

「そんな熱心に見つめられると照れるんだけど・・・どうしたの?」

 

 じっと、自分を見るレムの視線に気づいてスバルは顔を上げる。一通りの準備を終えた

レムは背筋を正したまま、作業するスバルを無言で見つめていた。それを指摘されて、レ

ムはわずかに驚いた顔をしてから言葉を紡ごうとする。

 

「―――バルスの格好の無様さが目につくんでしょう。特に頭、品がなさすぎるわ」

 

 が、レムが何かを言うよりも先にラムの言葉が割り込む。その言葉にスバルは首を傾げ、

 

「これ、自前でやっててわりとうまく切れたと思ってんだけど・・・」

 

「少なくとも、使用人として置いておくのに落第点なのは間違いないわ。――――ねぇ、レム」

 

「・・・・え、はい。そうですね。確かにちょっと少しだけほんのさわやかに気になります」

 

「だいぶ気になるみたいで悪かったですね!」

 

 奥ゆかしい物言いがかえって評価をはっきり示していて、自分の仕事にそれなりの自負

があったスバルは地味に凹む。そんなスバルにラムは「八ッ」と鼻を鳴らし、

 

「ちなみに、屋敷の人の髪はレムとが手入れをしているわ。ラムの髪の手入れや朝の着付け

もレムのお手製よ。それに、ネムの髪もレムのお手製だから完璧ね」

 

「なるほど、双子だし互いにやれば鏡映しに・・・妹もあんだけ可愛くて言い方おかしくね?」

 

 今のラムの言い方だと、まるで一方的にレムだけが奉仕している形に聞こえた。しかし、

聞き返すスバルの前でラムは腕を組んでふんぞり返る。

 

「バルスの思っているとおりよ」

 

「少しは妹たちに貢献しろよ!姉様!」

 

 ダメな部分を留まることなく発揮するラムは、スバルの叫びも素知らぬ顔だ。それから

ラムはレムが整えているという桃色の髪をそっと撫でてレムを見やり、

 

「よかったら、レム。バルスの髪、少し整えてやるといいわ、そうね、ネム。ネムもいい機会だし髪を梳くのを手伝うといいわ」

 

「おいおい、女の子に髪の毛いじられるとか、ドキドキして手元が狂うっつの、しかも二人だろ?」

 

「姉様?」

 

「姉様?」

 

唐突なラムの提案に、スバル、レムとネムが困惑を露わにする。そうして物問いたげな顔をす

る妹にラムは赤い瞳を向けて、わずかに声のトーンを落とした。

 

「―――髪が気になるから、バルスを見つめていたのでしょう?」

 

「・・・はい、そうです。ちょっと梳いて、毛先を整えるだけでも見栄えが変わると」

 

「だそうよ、お言葉に甘えるといいわ。レムとネムの手さばきで、天国に行けるから」

 

「なんかいやらしいお願いしてるみたいな言い方すんなぁ」

 

 乗り気に見えないレムとネムは、姉の態度に押し切られた形に見えて申し訳ない。

 性格の問題か、スバルに対してしすでに遠慮が欠片もないラムと違い、レムの方はまだスバルへの態度を決めかねている様子、ネムの方は明らかに壁を感じるが。距離を知事めること自体はスバルも賛成だが、

 

「嫌なら嫌って、そう言った方がいいと思うぜ。嫌がられたいわけじゃないけど!ネムに関しては顔が引きつってるし!」

 

「いえ、そんなことは。レムも少し、かなり少し、とても少し気になるのは事実ですから」

 

「そんなことありませんよスバルくん。姉様の提案ですから、承ります」

 

 すごい気にされているのはわかって、スバルは自信を喪失する。個人的には決ま

っていると思っていただけに――などと意識を疎かにするうちに、

 

「―――あ」

 

 四者の声が重なり、『流れ星』がジャガイモからスバルの指へとシフト。浅く桂

剥きに手の皮が持っていかれて、スバルの悲鳴が上がる。

 

「うおわー!やっちまった!さっくり持ってかれた―――――ッ!」

 

「愛刀が聞いて呆れる関係性だわ。愛が一方通行なら、偏愛刀に呼び変えたらどう?」

 

「姉様。そろそろお湯が湧きますので、切ったお野菜をこちらに・・・」

 

「お前ら、もうちょっと新人に興味もとうぜ!」

 

 仕事優先の姿勢は素晴らしいことだと、そう褒める気力はスバルにはなかった。

 

 

 

 

―――――時間は半日ほど経過する。

 

「つか、れた―――ぁ!」

 

 言いながら、全身でベットに倒れ込んで全力で脱力するスバル。

 場所は使用人として与えられた一室であり、今日からスバルが寝起きすることになる私

室だ。寝台と、簡易な机と椅子が備え付けられた質素な部屋で、看病されていた客室に比

べるとさすがに品格がいくらか見劣りする。

 

「まぁ、金がかかりすぎてても息苦しいし、こんなもんでいいんだよ・・・」

 

 枕に顔面を埋めながら、それでも高級感で自宅に勝る匂いと感触を堪能する。休息を味

わうスバルの格好は、制服からジャージへと早変わりしており、慣れしたんだ服には今後

は寝巻きとして活躍してもらうつもりだ。

 

「あー、こき使われたこき使われた。勤労ってすげぇわ、世の働くお父さんたちのすごさ

がマジでわかった。一日でこれとか、半端ないッスわ」

 

 軋む体をほぐしながら、一日の仕事内容を振り返って正直な感想を漏らす。

 勝手のわからなさが大きかった部分もあるが、自分の手際の悪さに失望したのも事実だ。

唯一、救いがあったとすれば教育係であったラムの態度だろうか。

 

「意外にも、スパルタではあるけど懇切丁寧に説明してくれて・・・・お?」

 

 ふいのノックの音に呼ばれて顔を上げる。と、扉の向こうから聞こえるのは、

 

「ネムです。スバルくん、今いいですか?」

 

「あ、大丈夫大丈夫。変なこととかしてないから、入っていーぜ」

 

「かえって信憑性の薄れる許可ですね。変なことしたら姉様に言いつけますからね。失礼します」

 

 扉を開けて、部屋に入ってきたのは制服姿のままネムだ。一瞬、ネムの来訪にスバル

は眉を寄せたが、彼女が手の中に黒の上着を抱いているのを見て理由がわかった。

 

「ひょっとして、もうできたのか?仕事が早いなんて話じゃねぇぞ」

 

「そこはレム姉様の手際が相まってのことですね。流石はレム姉様といったところです」

 

「姉様大好きなのはよーくわかったぜ」

 

 自慢げに話すネムから上着を受け取り、軽く広げてみてから袖を通す。直す前は脇が

締まらず、肩回りが悲惨なことになっていたが服だが。

 

「む、悔しいけど、完璧な出来栄え。綺麗に腕が回る回る・・・どうよ、似合う?」

 

「その灰色の服の珍しさと合わせて、珍奇な格好させたら右に出るものはいませんね」

 

「よーし、褒めてねぇわ。さすがにそんぐらいはわかるぜ!姉様そっくりだな!」

 

 執事風上着に下がジャージなのだから、ネムの評価は順当なところだ。むしろ受けを狙

いに走った部分があるので、姉様自慢のネムはさておき。ただ、

 

「そういえば、裾の方はどうしますか、とレム姉様が」

 

「裾・・・・ああ、ズボンの方か。やべ、忘れた。針と糸があれば自分でやれるけど」

 

「持ってきてます。ネムでもこれくらいならできますので、やってしまいましょうか」

 

 厚意で提案してくれる以上、ネムの方に悪気や悪感情はないらしい。それはそれで、素

で毒を挟まれているkとになるので問題だが、芸風だと割り切って流しておく。

ともあれ、スバルはスバルで俺だってできるんだってところを見せつけたい気持ちがある。

 

「よし、針と糸を寄こしてくれ。裁縫スキルで、今日一日の俺の評価を塗り替えてやる」

 

「今日のお昼の準備で、ネムでもできる野菜皮むきに苦戦した人の器用さに期待しろと」

 

「くくく、侮れるのも今の内だけだぜ。せいぜい、驚くリアクションを準備しておけ」

 

 自信満々なスバルに諦めた様子で、ネムが懐から出した異世界風ソーイングセットを渡

してくる。受け取り、具合が元の世界とほとんど違わないことを確認。手慣れた仕草で針

に糸を通し、いそいそと制服のズボンの膝に乗せて裾上げに入る。

 

「ふんふんふふーん」

 

「・・・・意外です。本当に、手慣れてるんですね」

 

 鼻歌まじりに生地に針を通すスバルを見て、ネムが感嘆の吐息をこぼす。

 鮮やか、といっていい手つきで針が素早く往復し、鼻歌のサビが終わる前に、

 

「うし、片方終了。ほれ、見てみ。ちゃーんと、縫えてるだろう?」

 

 自分の仕事を見せつけるように裾を伸ばしてやると、ネムを顎を引いて素直に認める。

 その応答に機嫌を良くして、スバルはもう片方の裾にも着手。そのスバルに、

 

「えと・・・スバルくん。お昼のときの、お話ですが・・・」

 

「んー、昼?昼って、なんかあったっけ」

 

「あ・・・・いいえ、忘れてるならいいんです」

 

 

 顔を上げなないスバルの前で、ネムが小さく首を横に振った。その彼女の反応に目を細め

て、スバルはそれが昼食の準備中に交わした散髪の話だと思い当たる。

 

「髪の毛の話か。あれ、その場限りの冗談かと思ってたよ、ネムまで付き合わせちゃって」

 

「いえ、それはいいんです。姉様の提案ですから、ですが、同僚といっても

スバルくんはエミリア様の恩人で、立場が違うのに」

 

「そんなへりくだるような態度とられても困る・・・つか、そんな風に思ってんの?」

 

 同僚扱いはできない、と互いの立場に隔たりを残した発言が耳に残る。

 質問に眉を寄せるネムを見て、スバルは乱暴に自分の頭を掻き毟った。

 

「正直、扱いずらい立場な自覚に欠けていたか。気、遣わせて悪い」

 

「いいえ、こちらこそどうしよもないことを言いました。忘れてください」

 

「そうも簡単にいかないのが人間の小難しいところでな。さって・・・」

 

 顎に手を当てて、スバルは目を伏せてネムを見る。失言を悔いてるようにも、ス

バルからの注意を持っているように見えるしおらしい姿だ。その姿に、言葉が決まった。

 

「じゃ、条件を出そう。それを呑んでくれるんなら、今の話はさっぱり忘れる」

 

「条件・・・?わかりました。何なりと、お聞きします」

 

 指を一つ立てて提案するスバルに、ネムは一度、目をつむってから覚悟の表情で頷く。

 そこまで大仰な内容を振るつもりのないスバルは苦笑して、それから言った。

 

「俺の髪の毛、毛先揃えて整えて、軽く梳くのネムも手伝ってくれんなら許してやるぜ」

 

「・・・・・・」

 

「沈黙選ばれるとわりと痛い感じなんだけど、俺」

 

 逆提案にネムは無言、その沈黙にすぐ耐え切れなくなったスバルが音を上げると、ネム

はその紫紺の瞳にスバルを映し、小さく吐息した。

 

「エミリア様もおっしゃっていましたけど、スバルくんは欲のない人なんですね」

 

「おかしいなぁ。呆れられるより、惚れ直させるシーン演出のはずなんだが・・・」

 

「姉様たちから、二人きりになるといやらしい目をすると聞いていました。特にラム姉様からは念押しされたので、今の提案についてもネムは正直、少し覚悟をしてしまいました」

 

「風評被害がひどいな!俺ロリコンじゃねぇし!」

 

 口さがないラムの発言が、その内にエミリアにまで飛び火してしまいそうで恐い。そう

なる前に、エミリアに対して直接予防線を張っておく必要があるだろう。

 内心でラムへの対抗策を練るスバルに、ネムはスカートの両端を摘まみ、

 

「条件、承りました。――――レム姉様にもネムから伝えておきます」

 

 と、丁寧にお辞儀して、仲直りの提案を受けてくれる。

 その芝居がかった仕草にスバルは笑い、それから手元に目を落として、

 

「ほれ、そうこう言ってる間に裾上げ完了だ。ちゃんとできてるだろ?」

 

「・・・はい、確かに。裁縫に関しては文句なしです。ただ、スバルくん自身と同じであまり使

い所が見当たりませんし、昼間のあの行いはまだ許してませんが」

 

「あれ!?仲直りした直後だったと思ったのに!?」

 

 作業完了したズボンを手に、納得するネムが遠回しに毒を吐く。それにスバルが突っ込

んで、さっきまでの気まずい雰囲気の解消だ。

 ソーイングセットをネムに返却して、それからスバルは自分の頭を撫でる。

 

「で、髪の毛だけど・・・いつにする?レムの都合もあるだろうし、さすがに今日は、もう遅くてキツイよな」

 

「そう、ですね。レム姉様は忙しいですし、ネムだけってのにもいきませんからね・・・残念です」

 

「じゃ、機会を作ってだな。散髪、人にやってもらうのとか超久しぶりだわ!」

 

 中学の真ん中ぐらいからなので、もう丸五年近くは自分で切っていたことになる。慣れ

具合としては、手で触っていれば鏡ないでも切れる腕前だ。

 

「では、そろそろ時間も時間ですから失礼します。明日も朝から仕事ですけど、ちゃんと

起きれますか?」

 

「正直、あんまり自身ねぇな。目覚まし時計があれば起きれる体質と自負してるけど、そ

んな便利な道具なさげだし。そもそもネムはちゃんと起きれるのか?」

 

「なんですか、こう見えてネムの歳は15です。朝くらいちゃんと起きれますよ」

 

「と、いいながら姉様に起こしてもらってんだろ?」

 

「なにを・・まぁ、とりあえずレム姉様かラム姉様が起こしにくることにします」

 

 そんな調子でからかわれながらもネムは助け舟を出してくれる。

 

「マジで?でも、先輩方を目覚まし代わりに使うなんて悪い気が・・・てか、しっかりネムさん寝てるじゃん」

 

「それで起きてこなくて、夕方まで寝過ごされてしまっても困ってしまいますから」

 

「しっかりシカとしますね!それにしても、どんだけ寝坊助だと思われてんだよ俺・・・」

 

「とりあえず、丸一日は目覚めないぐらいでしょうか」

 

 それがネムなりの冗談なのだと、ずいぶん遅れてスバルは気づいた。

 そんな会話を最後に、提案を受けたスバルに一礼してネムは部屋を出ていく。

 扉に遮られ、見えなくなる少女に手を振りながら、スバルは思う。

 

「口ではなんだかんだ言うけど、やっぱり姉妹だわ、あの三人」

 

 慇懃無礼なレムと、傲岸不遜なラム。それに、レムの性格に似る慇懃無礼なネム。

それでも思いやりすぎるぐらいに思いやりがあるあたり、同僚としてどこまでも好ましい三人だとスバルは思った。

 

 

 

10

 

 

―――それから。

 

 

「そーぉれで、その後のスバルくんの様子はどんなもんだい?」

 

 時刻は夜―――すでに太陽は西の空に沈み、上弦の欠けた月が夜空にかかる頃、その密や

かな報告は行われていた。

 広い部屋だ。中央には来客を出迎える応接用の長椅子とテーブルが置かれ、奥には部屋

の主が執務を行うための机と椅子が配置されている。黒檀の机には書類と羽ペンが転が

り、すぐ傍らにはまだ湯気の立つカップがほんのりと柔らかな香りを漂わせていた。

 ロズワール邸本棟の最上階、主であるロズワール・L・メイザースの執務室だ。

 椅子に腰かけ、最初の問いかけを作ったのはそのロズワールである。

 囁くような声だったが、相手には問題なく声は届いた。それもそのはず。ロズワールが

言葉を交わす相手は彼の膝の上で、体を小さくして横座りになっているのだから。

 

「あの啖呵から五日―――そろそろ、見えてくるものがある頃じゃーぁないかね」

 

「そうですね。―――全然ダメです」

 

 耳元に主の声を聞きながら、桃色の髪を撫でらられるのはラムだ。部屋にいるのはロズワ

ールとラムの二人だけで、ラムにとって半身ともいえる双子の妹の姿と一番したの妹の姿はそこにはない。

 それは単純に、今日の報告の本題がスバルのことであり、ラムが教育係のためだ。

 その教育係の明確なダメ出しに、ロズワールはきょとんとした後で噴出した。

 

「あはーぁ、そうかい。全然ダメかい」

 

「バルスは本当に何もできません。料理もダメ、掃除もヘタクソ、洗濯を任せようとする

と鼻息が荒い。裁縫だけ妙に達者ですけど、それ以外はどれも任せれません」

 

「女の子が多い所帯だし、それも含めて由々しき事態だーぁね」

 

 あの年頃なら仕方ないかなぁ、と苦笑する主を見上げ、ラムはスバルが雇われてからの

四日間を振り返る。その短く濃密な時間が克明に思い出されるたびに、ラムの端正な面持

ちが無表情の仮面を剥がされて歪むのが傍目にもわかった。

 

「君がそんな顔をするなんてめーぇずらしい。そんなにダメかい」

 

「ダメダメですね。下手のではなくて、知らない様子です。育ちがよほど良かったとし

か思えません。ですが、それにしては教養に欠けます」

 

「手厳しいねーぇ」

 

 笑いを噛み殺すロズワール。ラムは小さく吐息をつくと、主人の腕の中で体勢を変えて

横座りの身をさらに内側へ潜らせる。ラムの桃髪を、大きな掌が柔らかに撫でた。

 

「それじゃラム、肝心のお話だ。―――間者の可能性は、どうかな?」

 

 声音の調子は変わらないまま、ロズワールは笑みを崩さず問いかける。主語のない問い

かけだが、求めている答えはわかっていた。ラムは目を閉じ、少し考えこんでから、

 

「否定はできませんが、その可能性はかなり低いと思います」

 

「ふーぅむ、その心は」

 

「良くも悪くも・・・というか、特に悪い意味で目立ちすぎです。当家に入り込む手段もそ

の後も・・・そもそも、バルス自身が」

 

 口ごもりながらもズケズケと答えが出る。

我が意を得たり、とばかりの主人の微笑み。その微笑みを直接向けられたわけではないの

に、ラムは己の頬が赤くなるのを自覚していた。

 

「なるほど納得。となると、彼は本当に善意の第三者か」

 

 言いながら椅子を軋ませ、ロズワールが体の向きを変える。机に向いていた体を正反対

―――ちょうど、月明かりが差し込む大窓の方へ。

 左右色違いのロズワールの瞳が細められ、眼下の光景に口の端をゆるませる。

 

「しーぃかし、彼もめげないもんだーぁよね」

 

 執務室から見下ろせる屋敷の庭園。その一角に、銀髪の少女と黒髪の少年が談笑してい

るのが見えた、相変わらず少年が一方的に話しかける形だが、少女も嫌がってはいない。

 

「微笑ましいものだーぁね。ああいう情熱はもう、私には持てないものだよ」

 

「アレぐらい追いかけてきてくれた方が、女は嬉しいものですよ」

 

 独白めいた言葉に返答し、ラムは至近で見つめてくるロズワールの双眸と見つめ合う。

が、艶めいた雰囲気に反し、ロズワールは悪戯っぽく目を細めた。

 

「ひょっとして、意外とスバルくんを高評価してたり?」

 

「・・・・全然ダメですが、悪いとは思いません。仕事に関しても物覚えは悪くないし、ただ

知らないだけですから教え甲斐はあります」

 

 ラムが不満を瞳に宿して冷たい声で応じると、ロズワールはラムの髪を梳いていた手で

その頬をそっとなぜる。陶酔したように押し黙るラムに、ロズワールは今の答えを思う。

 ラムがこうして他人を評することは珍しい。

 知る機会を得ればもっと伸びる、と言外に進言しているのだ。よほど、黒髪の少年はメ

イド三人のお気に召したのだろう。懸命な姿は美しい、とロズワールも頷く。

 

「私の立場としては、邪魔すべきなんだーぁろうけどねーぇ」

 

 黄色の瞳だけで庭を見下ろし、可愛い逢引きにロズワールはそうこぼす。

 

「どちらも子どもですから、放っておいても何も起きませんよ」

 

「それは言えてる」

 

 かすかな笑声が執務室で重なり、少年と少女の逢瀬を見下ろしていた窓の幕が引かれる。

―――その後の執務室の様子は、月すら見ることは叶わなかった。

 

 

 

11

 

 

 月が空の中央に我がもの顔で居座る時刻、スバルは気合を入れていた。

 袖を通した執事服の皺を伸ばし、己の身だしなみを窓に映して再確認。そろそろ着用四

日目に突入し、この衣服にも着慣れていた頃合いだと自分で思う。

 

「悪くない、悪くないぞ、俺。大丈夫、やれる。風呂上りの自分って鏡で見ると五割増し

イケメンに見える。その現象が今、きてる気がする」

 

 客観的に五割増してるかは謎だが、自己暗示も十分に大事。

 雰囲気だけでもイケメンの気配をまとったまま、スバルは軽く深呼吸してから足を踏み

出す。短く刈り揃えれた庭園の芝生を踏みしめ、向かうのは緑の一角―――背の高い木々

に囲まれ、一際強く月の恩恵を受けている場所だ。

 そこに銀髪を月光にきらめかせ、淡い光をまとう少女が座っている。

 青白い輝き―――その蛍の光にも似た現象の正体が精霊なのだと、今のスバルは知ってい

る。その真実を含めた上で、その幻想的な光景には見るものの心を補えて放さない悪魔的

な魅力があった。思わず足を止め、息を呑む。

 その気配に気付いたのか、ふと目を閉じて囁いていた少女の双眸が開かれた。

 二つのアメジストが正面、歩み寄るスバルを視界に捉える。

 

「おふっ。こ、こんなとこで奇遇じゃね?」

 

「毎朝、日課に割り込んでくるくせに。それに奇遇って・・・同じ屋根の下よ?」

 

 声をかける前に見つかった動揺が一言目に溢れていて、エミリアはすでに珍しくない吐

息から入る会話の流れだ。掴みでしくじりつつもスバルはめげずにエミリアに笑いかけ、

 

「一つ屋根の下って、改めて言葉にするとなんかムズムズするね」

 

「そのムズムズって言葉、すごーく背中がぞわぞわってして、なんか嫌」

 

 じと目で見上げてくるエミリアに頬を掻き、スバルは当たり前のように彼女の隣に腰を

下ろす。距離は拳三つ分、微妙な距離感がヘタレの証である。

 スバルが隣に座ることに慣れ切ってしまい、エミリアも今さら指摘したりしない。毎

朝の日課と、食事のたびに隣にこられればそれも当然のことだろう。

 無言の許容に諦めと受け入れのどちらが強いのかは不明だが、どちらでもあってもこの距

離がスバルには嬉しい。

 

「で、で、何してんの」

 

「んー?朝の日課の延長をしているの。大体の子とは朝の内に会えるんだけど、冥日にし

か会えない子たちもいるから」

 

 エミリアの答えにスバルは納得、と頷きで応じる。

 陽日や冥日、といったこの世界独特の表現にもようやく慣れが生じてきた。

 ちなみに一日の時間はほぼ二十四時間で、人間の活動時間もおおよそ一緒。ご都合主義

と思いつつも、体内時計が狂わずに済んで一安心せざるを得ない。

 そういったこの世界の常識も、四日間の執事研修の中で一緒に進められている。もっと

も、勉学よりは使用人業務の習得が優先で、そちらはかなりスパルタを受けているが。

 

「土日休みのゆとり教育世代としては、もっと長期的な目でみてほしいというか・・・」

 

 四日間のスパルタ指導官への愚痴が漏れる。が、スバルがそうしてひとりごちる間にも、

エミリアの冥日限定のお友達との会話は進行中だ。

 幻想的な光景に魅入られるように、スバルはジっと黙ってエミリアの横顔を見ている。

 

「見てても楽しいものじゃないでしょ?」

 

 無言のスバルが珍しかったのか、ふいにそうこぼしたのはエミリアだ。

 どこか申し訳なさそうなエミリアに、スバルは体を起こして「いや」と首を振った。

 

「エミリアたんと一緒にいて、退屈と思うこととかねぇよ?」

 

「なっ」

 

 あまりにストレートな物言いに、思わず息を詰まらせてエミリアが赤面する。不意打ち

を食らったエミリアが顔を赤くするのを見ながら、実はスバルも耳まで赤い。

 狙って出た言葉ならまだしも、今のは完全に素面で出た台詞だったからだ。

 

「あ、あー、ほら、それにここ何日かはゆっくり話す機会もなかったじゃん?」

 

 照れ臭さを誤魔化すように早口になるスバル。エミリアもそれに同調して頷く。

 

 

「そう、そうよね。スバルはお屋敷の仕事を覚えるのに大変だっただろうし。うん、一生

懸命やって・・・・うん、一生懸命、だったもんね」

 

「フォローの気持ちが嬉しくて情けなくて泣きそう」

 

 雰囲気を誤魔化すための話題で墓穴を掘り、思わず悲嘆をツイートしてしまう。

 この四日間のスバルの仕事ぶりの評価は、かなり贔屓目とオブラートを多用し、上層部

に賄賂と袖の下をふんだんに贈ったとしても『使い道無し』といったところだった。

炊事、洗濯、、掃除といずれの家事技能も持ち合わせていないスバルは、屋敷のの使用人ス

キルとして必須のそれらの習得にまず追われることとなる。

 現状は先の三つのスキルはいずれもALL『C』判定だ。

 

「自分の服の裾上げと、エプロンのボタンをつけ直したときだけ『S』判定貰ったよ」

 

「ホントに一部だけ突出して器用なのね」

 

「丸く平たいつまらない奴より、とんがった鋭い男になれよって育ったもんで」

 

 親の教育方針の賜物だが、それで裁縫スキルを伸ばすスバルも両親もどうかしている。

 

「そっか、そうなんだ。よかった。スバルにも自信が持てることがあって」

 

 そんなスバルの内省も知らず、エミリアは素直にスバルが自慢した技能を賞賛する。自

分のこのように喜んでくれるエミリアに、心中複雑なスバルは笑みが引きつる。

 

「それに、他の仕事もめげずにやってて偉いじゃない。ラムとレムとネムもこっそりだけど、ス

バルのこと褒めてたりしてたんだから」

 

「マジかよ、先輩方も裏で憎いシチュエーション進行してんな。俺がナイフで手ぇ切った

り、バケツひっくり返したり、洗濯失敗したりしても好感度積んでたのか!」

 

「それはちょっと、反省した方がいいと思うな、私」

 

 失敗の目立つスバルの発言に今度はエミリアが苦笑。それから、エミリアは紫紺の瞳を

スッと細めて、間近のスバルを覗き込むように見えてくる。

 

「でも、毎日大変でしょ?」

 

「超大変マジ苦しい。エミリアたんに腕と胸と膝を借りてローテーションで癒されたい」

 

「はいはい。そうやって茶化せる間は大丈夫そうね」

 

 伸びてくるエミリアの指先が、スバルの額を軽く押す。押された力は弱かったが、スバ

ルはエミリアの指先に逆らわず、背中から芝生に盛大に寝転んだ。

 ひんやりとした草の感触と、満点の星空を見上げて感嘆が漏れる。街明かりなどの光源

のない世界では、夜空に浮かぶ星と月の美しさがスバルの知る空と段違いだ。

 

「―――月が、綺麗ですね」

 

「手が届かないところにあるもんね」

 

「狙って言ったわけじゃなかったのに、すごい心にくるコメントが返ってた!?」

 

「え、何か悪いこと言った?」

 

 ロマンティックの代名詞みたいな台詞がはたき落とされて、夏目漱石の通じない異世界

に戦慄。胸を押さえて文豪に謝罪を意を表明するスバル。と、ふいにエミリアが驚く。

 

「あ・・・・」

 

「おう、やべ、かっちょ悪い。努力は秘めるもんだよね」

 

 照れ隠しに笑いながら、スバルはエミリアが見つめていた手を背中の方へ回す。

 ――仕事での失敗が積み重なり、結果的に絆創膏だらけになっている左手を。

 舌を出して誤魔化そうとするスバルだが、エミリアは真剣な表情で瞳を伏せる。

 

「やっぱり、大変なのよね、みんな」

 

 自分を戒めるように、エミリアがそう呟いたのが聞こえた。

 エミリアの独白を耳にして、スバルは彼女が何を思ったのか静かに納得する。

 今、このロズワール邸で一から何かを学んでいるのはスバルだけではない。エミリアも

また、女王候補として学ばなければならない様々な事柄を吸収している最中なのだ。

 スバルとエミリアでは、求められるレベルも範囲も違う。比べるのが失礼なぐらい、か

かかる重圧には差はあるだろう。そんな重たいものを持たされていれば、疲れてしまうことも

あるだろう。誰にも言えないそんな悩みを、エミリアも抱いていたのかもしれない。

 

「・・・治癒魔法、かけてあげようか?」

 

 ぽつりと、問いかけてくるエミリア。

 絆創膏の下の生まれたての傷口は産声を上げ続けていて、今も意識すればひりひりとか

すかな熱を訴えている。しかし、

 

「いや、いいよ。治してくれなくても、このままで」

 

「どうして?」

 

「んー、なんか言葉にし難いんだけど・・そうだな。これは、俺の努力の証だからだ」

 

 

 らしくないことを言っているな、と思いながらスバルは傷だらけの手を力強く握る。

 

「俺って意外と努力、嫌いじゃねぇんだよ。できないことができるようになんのって、な

んつーか・・・悪くない。大変だし、めっちゃ辛いけど、わりと楽しい。ラムとレムとネムは意外と

スパルタで、あのロリはムカつくし、ロズっちは思ったより会わないから影薄いけど」

 

「そえ、ロズワールに言ったらカンカンよ」

 

「カンカンってきょうび聞かねぇな・・・」

 

 話の腰を折られたことを、スバルは腰を折り曲げて表現。それからバネ仕掛けの人形の

ように立ち上がり、右手を額に当てて綺麗な敬礼をエミリアに向ける。

 

「ま、そうやって一個ずつ問題をクリアしていくのはいい。ここじゃ俺はそれをしなきゃ生

きてけねぇし・・・どうせなら、楽しい方がいいよな」

 

 元の世界では『楽』をして生きられればそれで良かった。だが、この世界ではそんな安

穏とした生活を望めない。ならばスバルは『楽』しさぐらいは要求したい。

 それは理不尽にこの世界に放り込まれた運命に対する、スバルの維持ともいえた。

 スバルの決意表明に、エミリアは時間が止まったように表情を固くする。ただ瞼だけを

何度も開いては閉じ、それからふいに笑みをこぼした。

 

「そう、よね。うん、そうだと思う。ああ、もう、スバルのバカ」

 

「あれあれ、リアクションおかしくね!?惚れ直してもいいとこだよ、ここ!?」

 

「もともと惚れてませんー。もう、バカなんだから・・・私も」

 

 大仰なリアクションで心外を表現するスバルに、最後のエミリアの呟きは届かない。

 笑みを深くするエミリア。微笑には先ほどまでの重圧から解放されたような柔らかさが

あり、思わずスバルを見惚れさせる魔法がかけられているようだった。

 エミリアの見せるこの姿は、綺麗や可愛いといった言葉で表現できるものではない。

 

「E・M・M(エミリアたん・マジ・女神)」

 

「感動してるのにまたそうやって茶化す」

 

 少しだけ怒ったように唇を尖らせ、エミリアがまたしてもスバルの額を指で突く。

 時折、こうして触れられるとき、触れられたそこがやたらと熱を持っているような気が

するのはきっとスバルの気のせいではない。

 

「それにしても・・・頑張ってるのはわかってるけど、どうやったらそんなに手がボロボロ

になるようなことになるの?」

 

「ああ、これは簡単。今日の夕方、屋敷の近くの村までレムの買い物に付き合ったときに、

子どもたちが戯れて犬みたいな小動物に超ガブされた」

 

「努力の成果じゃなかったの!?」

 

「いや、努力の痕跡はより大きなケガで見えなくなった的な・・・・俺、あんなに動物に嫌わ

れるようなタイプじゃなかったと思うんだけどなぁ」

 

 元の世界では、子どもと小動物には好かれる、あるいは舐められる体質だったはずなのだ

が。今日の結果的ではそれも怪しい。ただし、子どもの方への効果は健在だった。

 

「村のガキども・・・容赦なく叩くわ蹴るわ鼻水拭くわで最悪だったぜ、チキショウ」

 

「なんか小さい子の面倒見とか良さそうだもんね、スバル」

 

「そりゃ勘違いだったぜ、エミリアたん。今からいい感じに手懐けておいて、いざ大きくなっ

たときに収穫する算段なのさ。これぞ、光源氏俺計画」

 

「はいはい。そんなちっちゃな意地張らないで素直に認めたらいいのに」

 

 スバルの戯言を手慣れた様子で受け流し、エミリアは空を見ながら背筋を伸ばした。

 

「そろそろ私は部屋に戻るけど、スバルは?」

 

「俺もエミリアたんに添い寝しなきゃだから戻るよ」

 

「そのお仕事はもっと今のお仕事の実力に磨きをかけてからね」

 

「言ったな。見てろよ、ここから始まる俺の使用人レジェンドぶりを・・・・・ッ!」

 

 エミリアの言葉を真に受けて、スバルはやる気をメラメラ燃やす。と、苦笑を浮かべ

るエミリアにスバルは振り返って、一つ指を立てた。

 

「そだ。よかったら明日とか、俺と一緒に村のガキどもにリベンジ・・もといラブラブデ

ート・・・もとい、可愛い小動物見学に行かね?」

 

「なんで何回も言い直したの?・・・・それに、うん、私は」

 

 口ごもり、躊躇の色を覗かせながらエミリアは目を伏せた。

 

「スバルと一緒に行くのは嫌じゃないし、そのちっちゃな動物も気になるけど・・・」

 

「じゃ、行こうぜ!」

 

「でも、私が一緒だとスバルの迷惑になるかもしれなくて・・・」

 

「よしわかった、行こうぜ!」

 

「・・・ちゃんと聞いてくれてる?」

 

「聞いてるよ!俺がエミリアたんの一言一句聞き逃すわけないじゃん!」

 

「スバルなんて大っ嫌い」

 

「あー!あー!急になんだー!?何もきーこーえーなーいー!!」

 

 耳を塞いで即座に前言撤回するスバルの思い切りよ良さに、エミリアは毒気を抜かれた

ように笑声を弾けさせる。それから瞳に浮かんだ涙の雫を指ですくってスバルを見た。

 

「もう・・。私の勉強が一段落して、ちゃんとスバルの仕事が終わってからだからね」

 

「よっしゃ!ラジャった!超っぱやで終わらせてやんよ!」

 

 デートの言質を取り、スバルはぐっとガッツポーズを決める。

 現金なスバルの様子を見て、エミリアは微笑を浮かべたまま小さく吐息を漏らした。

 

「スバルを見てると、私の悩みって小さいなぁって、そう思っちゃう」

 

「そんなことねぇよ!?そんな女王様になるかもしんないクラスの悩みを抱えてたら、

ストレス社会で胃袋ハチの巣だよ!」

 

 ついに堪えきれずにエミリアが噴出し、彼女の笑い声につられてスバルも笑い出す。

 二人してひとしきり笑い合って、この日の逢瀬は終わりを告げた。

 

「そういえば、どうしてお仕事終わった後なのにその格好なの?」

 

「いやー、そういやエミリアたんにちゃんとこの格好の感想とか貰ってねぇなと思ってさ

ぁ。どう?わりといけてね?」

 

「うん、そうね。すごい仕事できそうに見える」

 

「期待が重くて潰れちゃいそう!」

 

 最後に、そんなやり取りがあったことを、ここに記しておく。

 

 

 

12

 

 

「へい、ちゃんと寝たかよ、ロリっ子。あんまし遅くまで起きてると、成長ホルモンの分

泌が減って小さいまま大人になっちゃうぞ」

 

「・・・当たり前のように『扉渡り』を破るようになりやがったかしら」

 

 適当な扉に当たりつけ、中を覗いて適当な声をかけたスバルに、恨みがましい声でベ

アトリスが返事をした。書庫の奥、木製の脚立に座ってスバルを睨みつけている。

 

「何か、用事がってベティーに会いにきたのかしら」

 

「んにゃ、別に?寝るから挨拶しようと思っただけ。ドア三つぐらい開けていなかった

ら諦めようと思ったけど、一発目で見っけたから」

 

「お前、ホントにどんな勘してやがるのよ・・・」

 

 疲れたように縦ロールを引っ張るベアトリス。ぴよんと伸びたロールが、指から放れた

反動で弾む弾む。見ていてちょっと童心が刺激される。

 

「それやっていい?」

 

「ベティーに触れていいのはにーちゃだけかしら。・・・もういいから消えるのよ」

 

「自分だけ楽しんでずりぃ。はっ、まぁいいけどね。俺、今は機嫌いいから許すけどね」

 

 デートの約束の有頂天を書庫に残し、ベアトリスの顔に渋面を刻んでから部屋を出る。

 ただ、戸が閉まる瞬間に、

 

「―――ベティーには関係のないことかしら」

 

 そう、寂しげな声が聞こえたような気がしたのが少し気がかりだったが。

 

「つって、聞き返そうと思ってドアを開けると」

 

 開かれた扉の向こうから禁書庫は失われ、単なる客間の一室へと戻っている。

 そのまま、目の前の扉を開けたり閉めたりを繰り返し、ひょんなタイミングで禁書庫と

繋がらないものかと試してみる。

 

「・・・・さっきから何をしているんですか?扉の建付けの確認ですか?」

 

「そうそう、最近夜中に軋む音が廊下に響くのは、これが正体じゃないかって・・・レムか」

 

 スバルが扉を開け閉めする現場を目撃して、呆れた目でいるのはレムだ。レムは何も載

せていない銀色のお盆を片手に、スバルが触れていた扉を見やり、

 

「何か、気になることでも?」

 

「いや、つい今までここにロリっ子の禁書庫があったんだよ。もう消えちまったけど」

 

「ベアトリス様に、何かご用事が?よければレムが承りますけど」

 

「寝る前の挨拶しただけ。特に用事は・・・ねぇよ」

 

 扉が閉まる寸前、ベアトリスのこぼした一言が気にかかっていたが、スバルはそれを

今すぐに聞き出す必要もないと首を振って忘れる。

 

「レムの方こそ、まだ働いてんのか。明日も早いんだし、もう寝ようぜ」

 

「お盆を片付けたら休みますよ。今、ロズワール様と姉様にお茶を差し入れてきたところですから

それに、この後はネムに添い寝しにいかないといけないので」

 

「二人でこんな時間に何を・・・って、添い寝っていった?ネムに?」

 

「はい、ネムにです。毎晩姉様と交代制で添い寝しているんですよ」

 

「それはまたなんでよ・・」

 

「ネムは・・・いえ、詳しいことは教えれません」

 

 そういい口を閉ざしたレムに疑問を浮かべるがこれ以上は聞くべきではないだろう。とスバルは思う。

 

「にしても・・・こんな時間に二人でこんな時間になにを・・ああ、やっぱいいわ」

 

 時刻はそろそろ日付をまたぐかというところだ。こんな時間に二人きりで密会している

ロズワールとラムのことを問い質すのは、いかにも生々しい話題になりそうで嫌だった。

 余計なことを口にしたな、と反省するスバル。ふと、そんな自分を見るレムの視線が気

にかかった。薄青の瞳がじっと、スバルの頭の方を見つめている。

 

「あぁ、ネムから話は聞いているよな、約束の時間帯が噛み合わないな。レムも気になってしょうがなさそうだし」

 

「・・・・いえ、それほどそこまでさほども少々気にかかってもいないです」

 

「すげぇ気にしてくれてんのが伝わってきて申し訳なさが加速するな!」

 

 言語が乱れが生じるほどに、几帳面なレムの視線は鋭さと集中力を増している。

 スバルの仕事の片付けが遅く、レムが多忙なこともあって機会がなかなか訪れない。ど

うしたものか、と顔をしかめるスバルにレムが小さく手を上げる。

 

「もしもよろしければ、今からはどうですか?ネムには少し悪いですが・・・」

 

「今から・・・・って、これから?でも、もうこんな時間だぜ?ネムが待ってるならなおさらだ」

 

「毛先を揃えて、さっと洗い流せばそれほど時間はかかりません。こうでもしないと、ス

バルくんは口先だけでレムに本懐を果たさせてくれそうにありませんから」

 

「本懐とまで言い切っちゃうんだ!」

 

 無表情の顔つきの中、双眸だけにやる気をみなぎらせるレムを見て、この四日間、ずい

ぶん歯がゆい思いをさせてきたのだろうなとスバルは頬を掻く。

 できれば、その思いを遂げさせてやりたいのだが―――

 

「すまん、レム。明日はエミリアと約束があってな。なるたけ、早起きして仕事をパパッ

と片付ける必要があるんだよ。だから、夜更かしはちょっと・・・」

 

「そう、ですか。・・・いえ、レムの方こそ無理を言いました。ごめんなさい」

 

 

 交わしたばかりの約束を理由に、先約であるレムの提案を退けるのは良心が咎めた。が、

 そんなレムの姿勢に罪悪感と、言葉にし難い感情が浮かび、スバルはとっさに、

 

「だから、明日の夜はどうだ?」

 

「・・・・夜、ですか?」

 

「エミリアとの約束を果たしている前提だと、俺は仕事をちゃんと終わらせてる。明後日に

特に用事が入る予定もないし、あとはレムの胸先三寸ってとこなんだが」

 

 言いながら、同日に三人の女の子と約束を交わそうとしている自分の積極性に驚く。も

っとも、エミリアに向ける感情とレムやネムに向ける感情は別物だ。

 レムやネムに対しては好ましい仲間意識。エミリアに対しては、まだ自分もわかっていない。

 そのスバルの提案に瞑目し、それからレムは顎を引いた。

 

「わかりました。では、明日の夜に。―――今度こそ、約束しましたからね」

 

「何がお前をそこまで掻き立てるのかわかんねぇけど、約束だ。明日の夜に、ネムにもそう伝えておいてくれ」

 

 指切りでも交わそうとして、この世界にその風習があるのかどうか逡巡する。その間に、

レムはスバルの前で丁寧にお辞儀して、スカートを翻して背中を向けてしまう。

 そのまま、静々と滑るような足取りで立ち去る小さな姿を見送り、スバルは過密スケジ

ュールになるつつある明日の予定を思い、欠伸を噛み殺して自室へと向かう。

 

「明日のデートは村まで行って、適当に理由作ってガキどももまかなきゃな。おっと、その

前に見晴らしのいい場所とか、花畑の位置とかリサーチしとかねぇと」

 

 鼻の穴をふくらませ、明日への期待に胸を膨らませて部屋の中へ。着ていた執事服を脱

ぎ捨てて、ジャージへモデルチェンジするとスバルはベットへ飛び込んだ。

 そのまま布団をかぶって明日へと思いを馳せるが、目が冴えて眠気が一向にこない。

 心が体を裏切る事態を前に、しかしスバルは即座に頭を切り替えて裏技に頼る。それは、

 

「パックが一匹、パックが二匹・・・」

 

 脳内を灰色の小猫が駆け回る牧歌的な光景を思い浮かべて、それが数を数えるたびに増

えていく妄想。仮想パックが次第に現実を侵し始め、ふわふわのい感触の記憶がスバルを忘

我の境地へ導いていく。ゆっくりと、沈むように、意識は夢の中へ吸い込まれる。

 

「パックが・・・百一匹・・ぐう」

 

 桃源卿を描いたまま、意識は温かなものへ包まれて―――やがて、消えた。

 

 

13

 

 

 意識の覚醒は水面から顔を出す感覚に似ている、と目覚めのたびにスバルは思う。

 息苦しい感覚から唐突に解放されて、開いた瞼が世界を認識するまでのほんの数秒。そ

の間だけ、起きているのとも寝ているのとも違う感覚の中に生きている。

 陽光に瞳を焼かれれる感触。わずかにだるさの残る体を起こし、スバルは首を横に振る。

 しかし、今日はそんな弱気なことを言っている場合ではない。

 寝起きのいいスバルは、昨夜のエミリアとのデートの約束をしっかり反芻している。

 

「そう、ナツキ・スバル―――今日、飛躍の時を迎えます!」

 

 今日一日の幸せ未来を描く。目覚めはバッチリ、約束された勝利の一日だ。が、

 

「―――」

 

 決め顔のスバルを驚いたような顔で見る、桃髪と青髪、そして、紫髪の三姉妹の視線。

 顔を覆い、耳まで赤くしてスバルは布団に頭を押し付ける。

 

「なんだよ!いたのかよ!恥ずかしい、俺恥ずかしい!声かけろよ!うーわ!」

 

 目覚ましなしの起床については、一昨日の時点で姉妹に揺り起こされるのを卒業してい

たので油断してしまった。まさか今朝に限って。それも三人揃ってご来訪とは。

 布団の上で悶えるスバルに対し、相変わらず三姉妹の表情は変化に乏しい。指を差して笑わ

れるものもなんだが、その反応も滑ったみたいでなんか癪だ。

 

「いや、ちょっと待って、お前ら。さすがにその反応は傷付くって。人のデリケートな部分

に触ったんだから。もうちょっとこう・・あるだろ!?」

 

 せめていつものように、冷たいなり白けたなりの罵倒で三人が返してくれるのを期待。

―――罵倒待ちというのも、ずいぶんと酷い話だ。などとスバルが思った直後だった。

 

「姉様、姉様、なんだかずいぶんと親しげな挨拶をされてしまいました」

 

「レム、レム、なんだかやたら馴れ馴れしい挨拶をされてしまったわ」

 

「・・・・・」

 

 違和感。それがスバルの脳裏をかすめるような二人の囁きだ。一番したの妹も険悪な顔をしており、

 

「うん、と?なんか、変じゃね?どうしたんだよ、姉様方。わざわざ朝の出迎えもそ

うだけど、ネタ合わせしてそれなら悪趣味っつーか、それにネムネム、お顔恐いよ?」

 

 確かにそっけなさはいつもの三人なのだが―――どこかが、おかしい気がする。

 言いながら、スバルは三人から伝わる違和感の原因に気づき始めていた。

―――目、だ。

 三人のスバルを見る視線。それが、昨夜までの親しみを失って、どこか他人行儀なもの

へと様変わりしているのだ。そして、決定的な発言が飛び出す。

 

「姉様、姉様。どうやら少し混乱されているみたいです、お客様」

 

「レム、レム。なにやら頭がおかしくなってるみたいね、お客様」

 

「・・・姉様」

 

 ネムの不安に満ちたが聞こえ姉の後ろに隠れる。

 

―――『お客様』とそう呼ばれて、スバルは思わず絶句する。

 その響きは込められた敬意と裏腹に、激しく鋭い切れ味でスバルの心の内側を抉った。

 実際に痛みを錯覚し、スバルは胸を押さえる。

 

「三人、とも・・・はは、冗談きついぜ。そん、な、こと・・・」

 

 どこまでも他人を見る三人の目を遮りたくて、とっさにスバルは左手を掲げて己の視界

を塞ぐ。だが、その瞬間、目に入ったものを見てスバルは自分の行いを後悔した。

―――自分の左から、絆創膏が、消えている。

 水仕事で荒れた指先も、慣れない刃物仕事で切った手の甲も、子どもとの戯れの最中に

小動物に噛まれた傷跡も、まっさらになっていた。

 

―――遠くで、鐘が鳴っているような音が聞こえる。

 激しく押し寄せ、波のように引いては戻る繰り返す鐘の音。痛みを伴うそれが耳鳴り

であるのだと、尾を引く慟哭を上げるスバルは気付かない。

 こめかみのあたりがひどく痛み、鼻の奥に熱いものが込み上げるのを感じる。だが唇を

噛み、血の味を感じることでスバルは鋭い痛覚に意識を集中する。

 胸の内を抉るような喪失感を、全て目先の血の味で塗り潰そうと。

 事ここに至っては、スバルも現実を認めるしかない。

 目の奥から熱がくるのを感じて、スバルはさっきと違う理由で布団に顔を押し付けた。

―――今のこの顔を絶対に、絶対の絶対に、誰にも見られたくない。

 この、大好きな人たちに。

 大好きになっていけそうだった人たちに。

 大好きになっていたはずだった人たちに。

 他人のような目で見られながら、涙なんて絶対に流したくない。

 

「どうして・・・・戻ったんだ!?」

 

―――あれほどスバルを苦しませ続けたル―プが、再び彼をその渦の中に取り込んでいた。

 

 ――二度目の、ロズワール邸一日目が始まる――

 




読んでいただきありがとうございました。誤字等はお見逃しください。
また好評でしたら第三章投稿しますね。


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ifルート【ネム】第三章

前回に続き第三章投稿です!
今回の本編はあまり原作と変わりがないので・・・運営様許してください!今後の物語に必要なんです!!
とにかく皆様お早めに見てくださいね。

ではどうぞ!


第三章 「鎖、■の音」

 

 

1

 

「お客様、お客様。お加減の悪いご様子ですが、大丈夫ですか?」

 

「お客様、お客様。お腹痛そうだけど、まさか漏らしちゃった?」

 

「・・・」

 

 俯くスバルに、姉妹の心配げな声がかけれれる。

 まだ短い時間だが、聞き慣れた声だ。時に煩わしく、時に安心して、信頼を寄せた声。

—それが今、まったく別の響きをまとってスバルの鼓膜を残酷に揺らし、ふとある視線に気づいた。

 

「心配かけて、その、悪かった。なんだ、少し寝起きでボケたというか・・そのネム、どんな顔してんだよ恐いぜ?」

 

「ど、どうして・・ネムの名前を・・」

 

驚いたようにまた恐れるように姉の後ろに紫髪の少女は姿を隠してしまう。

 

「そうか・・」

 

 ため息をつき視線を感じながら応じて、スバルは呼吸を整えてから顔を上げる。

 込み上げる激情は、布団に顔を押し付ける間にどうにか波間に消えた。最初の衝撃の抜

けて、今も真綿で締め付けるように喪失感が胸の内ですすり泣きを上げている。

——全てがロズワールの悪ふざけで、スバルを騙そうとしているだけなんて考えは、ど

れだけ素敵で腹立たしくて、救われるだろう。

 自分の心の言い訳に少しだけ救われた気がして、スバルは瞼を開いて前を見た。

 

「——ああ、そうだよな」

 

 そして一瞬ぼやけてから広がる世界に、現実を押し付けられた。

 ベットの両側に立ち、寝台に手を置いてスバルを見る三姉妹。ラムとレムとネム見慣れた三人

は、相変わらずの無表情でスバルを見つめていた、一人を除いて・・。

 三人の瞳には、スバルに対する感情もない。四日間の生活で、彼女たちとの間に少

なからず積み重ねたはずの何かは、どこかへ霞のように消えたのだ。

 

「お客様——?」

 

 戸惑いの声は三つの唇から同時に紡がれていた。

 三人の視線はベットから起きたスバルを迫っている。だが、当のスバルはまるで寒気を

感じたように、急き立てられる焦燥感に従って姉妹から距離を取っていた。

 

「お客様、急に動かれてはなりません。まだ安静にしてないと」

 

「お客様、急に動かれると危ないわ。まだゆっくり休んでないと」

 

「お客様、急に動かないでください。まだ寝てないと」

 

 スバルの身を案じる三人の声と指先から、反射的に身をよじって逃れてしまう。すげな

い反応に三人の目が痛ましげに細められたが、その変化に気づく余裕がスバルにはない。

 こちらが見知った相手に、あちらからは知らない相手扱いされる耐え難い感覚。

 つい先日、スバルは同じ感覚を雑踏で路地裏で、廃屋で味わったばかりだ。

 だが、そのときとは決定的に違う。状況が違う。時間が違う。経験が違う。

 ほとんど知らなかった、エミリアやフェルトたちとのやり直しではない。

 確かに信頼を結んだはずの相手との、一方的なやり直しなのだ。知っている人間が別人

になってしまうような違和感に、得体の知れない恐怖がスバルを掴んで離さない。

 スバルの怯えるような目に、三姉妹のメイドも異変に気づき始めていた。

 室内に沈黙が落ち、互いに相手の出方をうかがって動くことができない。だから、

 

「悪い。——今は、無理だ」

 

 ドアノブに組みつき、転がるように廊下に飛び出すスバルの行動は、制止しようとした

三姉妹の動きよりも一瞬だけ早かった。

 ひんやりとした廊下の冷たさを裸足の足裏に味わい、スバルは大きく息を吐きながら駆

け出す。猛然と、目的地も定めずにがむしゃらに。

 逃げている。逃げ出した。なのに、自分が何から逃げているのかわからない。

 ただ、あの場にあのまま残り続けることだけは絶対にできなかった。

 似たような扉が並ぶ廊下を駆け抜け、スバルは今にも転びそうな無様で逃げ惑う。

 そして息を切らし、導かれるように一つの扉に手をかけた。

————大量の書架が並ぶ、禁書庫が転がり込むスバルを出迎えていた。

 

 

 

2

 

 扉を閉めれば、禁書庫は外界と完全に隔離される。

 そうなれば外からこの部屋に踏み込むには、屋敷の全ての扉を開けなければならない。

 追われる心配は消えた。肩を落として、スバルは背中を扉へ預けてへたり込む。

 座り込んだにも拘らず、膝が震えている。それを止めようと伸ばした指も、同じだ。

 

「紙相撲でもしたら、いい線いくかもな。はは」

 

 自嘲の言葉にもキレがなく、乾いた笑いは虚無感を際立たせるばかりだ。

 静謐な書庫の空気は古びた紙の臭いを漂わせ、スバルの心情にわずかに穏やかなゆとり

を注いでくれる。気休めとわかっていても、今のスバルはそれに縋るしかない。

 繰り返し、繰り返し、深く大きい呼吸を繰り返す。

 

「——ノックもしないで入り込んで、ずいぶんと無礼な奴のなのよ」

 

 陸に上がった魚のように呼吸を喘ぐスバルに、嘲りの声が書架の奥から届いた。

 薄暗い部屋の奥、入口正面の突き当たりに置かれた脚立。そこに少女が腰掛けている。

 いつも変わらず、揺るがす、スバルと距離を保ち続けた禁書庫の番人、ベアトリスだ。

 ベアトリスはその小さな体には大きすぎる本の音を立てて閉じ、スバルを見やる。

 

「どうやって『扉渡り』を破ったのかしら。・・・さっきといい、今といい」

 

「すまねぇ。少しだけでいい、いさせてくれ。頼む」

 

 両手を合わせて拝み込み、相手の返事も聞かずにスバルは目をつむった。

———静かで、邪魔の入らない場所で、現実と己に向き合わなくてはならない。

 自分の名前、ここがどこかで、さっきの三姉妹が誰なのか。目の前の少女の名前、存在。不

可思議な部屋。四日間。交わした約束。明日、誰かと、一緒に、どこかへーー

 

「そうだ、エミリア・・・」

 

 月明かりに煌めく銀髪と、はにかむことような微笑みが思い出される。

 月光の下にあってなお、満点の星空がかすむほど輝く少女、エミリアとの約束を。

 

「ベアトリス」

 

「・・・呼び捨てかしら」

 

「お前、俺に『扉渡り』をさっきと今、破られたって言ったよな」

 

 呼び捨てされた上に、ぶしつけに質問を投げつけられてベアトリスが不機嫌な顔にな

る。しかし、それでも律儀なベアトリスは辟易とした様子で肩をすくめて、

 

「つい三、四時間前に、無神経なお前をからかってやったばかりなのよ」

 

「目論見スルーしたからお前がヘソ曲げたときのことな。わかってるわかってる」

 

 力なくともベアトリスへの皮肉は忘れず、少女のヘソを改めて折り曲げる。

——三、四時間前のスバルとベアトリスの遭遇。

 今の言葉が意味するのは、ロズワール邸で最初に目覚めた時のことだ。ループする廊

下の突破口を、スバルが何の考えもなしに一発で当たりを引いたときの。

 その後、この禁書庫でスバルはベアトリスの手で昏倒させられたのだ。

 

「つまり、今の俺がいるのは・・・屋敷で二度目に目覚めたとき、だよな」

 

 記憶に引っかかる箇所を拾い集めて、スバルは自分の立ち位置に当たりをつける。

 三姉妹が揃ってスバルを起こしにきたのは朝だけだ。その後はローテンションに一人ずつ。しか

も、スバルが客室のベットを利用する身分だったのも初日だけである。

 

「つまり、五日後から四日目まで戻ってきたって、そういうことか・・・・?」

 

 王都のときと同じく。スバルは再び時間を遡行したのだ・今の状態をそう定義する。

 だが、それを理解したことと、納得することは別の話だ。

 スバルは頭を抱えて、こうして戻ってきてしまった原因が何なのか考える。

 王都でスバルが時間遡行したのは、死を切っ掛けにした『死に戻り』だ。三度の死を糧

にエミリアを救い、ループから抜け出したものとこれまで判断していた。

 事実、ロズワール邸での五日間は何事もなく、極々平和に過ぎていたはずだ。

 それがここへきて、突然の時間遡行ーー前触れも何もあったものではない。

 

「前回とは条件が違う、のか?死んだら戻るって勝手に思ってたけど、実は一週間前後

でオートで巻き戻るとか・・・いや、だとしたら」

 

 こうして、このロズワール邸初日の朝に巻き戻った理由に説明がつかない。

 時間遡行の原理は不明だが、王都でのループから解放されていないな

ら、スバルが目覚めるのは三度見た果物屋の傷顔店主の前でなくてはならない。

 

「でも、現実は傷面の中年から見た目は天使のメイド三人だ、がらっと、変わっている」

 

 受け取った心境は、天国と地獄が正反対だったが。

 ぺたぺたと自分の体に触って、スバルは無事を確かめる。何事もない、そう思う。

 これまでの条件に従うなら、スバルが戻った理由は明確。即ちーー死んだのだ。

 

「ただ、死んだとしたならどうして死んだ?寝る前までは全然普通だったぞ。眠った後だっ

て、少なくとも『死』を感じるような状況には陥ってねぇ」

 

 即死、にしても本当に『死』の瞬間を意識させないものがあるのだろうか。

 毒やガスで眠ったまま殺された可能性も想定するが、それはつまり暗殺を意味する…そ

うされる理由がスバルにないため、前提条件が成立していなかった。

 

「となるとあるいは、クリア条件未達による強制ループ」

 

 ゲームに見立ててしまえば、必要なフラグを立てなかったが故の結果だ。が、誰が目

論だフラグかわからない上に、トリガーすらも不明のクソゲー仕様。

 

「もともと、俺はすぐ諦めて攻略サイトに頼るゆとりゲーマーだってのに・・・」

 

「ぶつぶつ呟いていると思ったら、くだらない雰囲気になってきたのよ」

 

 思索の海に沈むスバルを眺め、ベアトリスが退屈そうに言って嘲笑を浮かべている。

 

「死ぬだの生きるだの、ニンゲンの尺度でつまらないくだらないかしら。挙句に出るのが

妄言虚言の類。お話にならないとはこのことなのよ」

 

 そっけない、ある意味で酷薄なほど突き放すような言いぶりだ。だが、ベアトリスの

変わらない態度にスバルは安堵を覚えた。立ち上がって、尻を払ってから扉へ向き直る。

 

「行くのかしら?」

 

「確かめたいことがあるんでな。凹むのは後にするわ。助かった」

 

「何もしてないのよ。・・・・とっとと出てくかしら。扉を移し直さなきゃならないのよ」

 

 優しさとは縁のない響きが、今のスバルには何故か心地いい。

 ベアトリス自身にそんな意図はないだろうが、スバルはその言葉に背中を押されたよう

な気分で踏み出す。ドアノブをひねり、涼風が吹きつけてくる外へ一歩。

 風に短い前髪が揺らされ、かすかに目に痛みを感じて顔を腕で覆う。

 そして風が止み、裸足の足の裏には芝生の感触——その視線に、

 

「ああ、やっぱキラキラしてるじゃねぇか」

 

 庭先でかすかに息を弾ませる、銀髪の少女を見つけて心が躍った。

 粋な計らいをしやがる、と内心で生意気な書庫の番人への悪態がこぼれる。

 

「———スバル!」

 

 スバルに気づいた少女が紫紺の目を見開き、慌てた様子で駆け寄ってくる。その唇から

銀鈴の音がこぼすのは、たった三つの音が作る最上の調べだ。

 自然と、駆けてくる少女の方にスバルも足を向ける。向かい合い、スバルの全身を眺め

て少女の目尻が安堵に下がる。が、すぐに気を取り直したように姿勢と目つきを正した。

 

「もう、心配するじゃない。目が覚めてすぐにいなくなったって、ラムとレムとネムが大慌てで

屋敷中を走り回ってたんだから」

 

「あの三人が大慌てって逆に珍しいな。それにごめん。ちょっとベアトリスに捕まって」

 

「また?起きる前にも一回、悪戯されたって聞いたけど・・・・」

 

 心配そうに顔を近づけてくる美貌ーーエミリアの無防備な姿に、スバルは思わず手を伸

ばして縋ってしまいそうになり、弱い己に心を自制した。

 ここでそれをするのはあまりに単慮だ。それこそ禁書庫で自分を落ち着かせる時間を

もらった意味がなくなる。濡れ衣をベアトリスに着せるのだけが目的ではないのだ。

 売れいい顔のエミリアに、曖昧な表情で応じるしかないスバル。スバルのらしくない態度に、

しかしエミリアはどこか余所余所しく深入りしてこない。 

 当たり前のことだ。今のスバルが『らしくない』ことなど、出会ってほんの小一時間し

か一緒の時間を過ごしてないエミリアに、わかるはずがない。

 スバルとエミリアの間には、埋まらない四日間の溝があるのだ。

 スバルだけが知っていて、エミリアの知らない四日間が、確かにあったのだ。

 

「どうしたの?私の顔、何かついてる?」

 

「可愛い目と鼻と耳と口がついてるよ。・・・その、無事でよかった」

 

 最初の口説き文句にエミリアは赤面しかけ、すぐに続いた言葉の内容に頷いてくれる。

 

「うん、私の方は大丈夫。スバルが守ってくれたもの。スバルの方こそ、体の調子は?」

 

「ああ、快調快調。ちょっと血が足りなくて、ごっそりまな持ってかれてて、寝起きの衝

撃で体力削られて、メンタルをバットでフルボッコされた感があるけど、元気だよ!」

 

「そっか。よか・・・・え?それって満身創痍って言うんじゃ・・・?」

 

「ま、平気だよ、見ての通り」

 

 両手を伸ばして、エミリアに健全ぶりを見せつけるようにその場でターン。

唇を舌で湿らせて、ナツキ・スバルを始めなくてはならない。

 

「元気ならいいけど・・・えっと、お屋敷に戻る?私はちょっと用事があるんだけど」

 

「お、精霊トークタイムだね。邪魔しないから、一緒にいていい?あっとパック貸して」

 

「別にいいけど、ホントに邪魔しちゃダメだからね。遊びじゃないんだから」

 

 首を傾け、子どもに言い聞かせるようなエミリアの言い方。そんなお姉さんぶったエミ

リアの仕草が愛おしくてーースバルの心に決意の炎が灯った。

 

「んじゃ、行こう行こう。時間は有限で世界が雄大。そして俺とエミリアたんの物語はま

だまだ始まったばかりだ」

 

「そうね・・・・え?今、なんて言ったの?たんってどこからきたの?」

 

「いいからいいから」

 

 愛称呼びに驚くエミリアの背を押しながら、庭園の定位置へ二人して移動。

 この愛称も、呼び続けるうちにすっかり訂正する気力をなくして、なし崩し的に認めら

れるのは知っての通り。それすらも、失われた四日間で築き上げる絆の一つだ。

 

「ーー取り戻すさ」

 

 納得いかげな顔のエミリアの後ろを歩きながら、スバルは小さくこぼす。

 足を止めて、遠ざかる銀髪を眺め、それから空に視線を送った。

———まだ低い東の空に、太陽が憎たらし昇っていくのが見える。

あと五回、それが繰り返され、そして約束の時が迎えらればいい。

月が似合う少女と交わした約束を、太陽が迎えにくるのを見届ければいい。

————時間はある。そして、答えを知っている。

 

「誰の嫌がらせか知らねぇが、全部まとめて取り返して吠え面かかせてやんよ。あの夜の

笑顔にゾッコンになった、俺の執念深さを舐めんじゃねぇ」

 

 空に向かって拳を握りしめ、誰にともなく宣戦布告。

 それはスバルがこの世界にきて、初めに自分に『召喚』と『ループ』を課した存在への、

明確な反逆の宣言だった。

 二度目のループとの戦いが始まる。

 ロズワール邸の一週間を乗り越えて、あの日々を続きを知るために。

 あの夜の約束を、交わした約束を、守るために————。

 

 

3

 

 昇る太陽へ啖呵を切り、二度目のロズワール邸初日が幕を開けた。

 たったの五日間、太陽が昇って沈むのを見届ければいい。

 その間の過ごし方は『できるだけ前回の流れをなぞる』というのがスバルの方針だ。

 庭園での決意の通り、最終的なスバルの目的は最終日にエミリアと交わした約束を果た

すこと。そのためにはあの月夜を越えて、もう一度約束を交わさなくてはならない。

 そしてループもののお約束として、ある程度確立された一つ結論がある。

 それは、『同じ道を通れば、物語は同じ場所へ帰結する』というものだ。

 前回と同じ流れを汲むのだから、当然の話だ。そこに関わる人物の思いや行動は重なり、

同じ結末へと向かうだろう、スバルにとって重要なのは、その繰り返すことになった結末

だけを都合よく変更し、その過程で発生するはずの思い出の全回収。

 つまり、ループを駆使した良いとこ取りこそが至上の目的だ。

 セーブ&ロードを駆使し、結末を自分好みへ誘導する、気高く邪なスバルの決意。

 

「だったのに、なんでだか、まずった」

 

 湯気たつ浴場で大の字に浮かびながら、スバルは水泡を吹いて一日目を振り切った。

 決意の朝から始まった、破竹の大失敗劇を。

 まずエミリアとの朝の日課を終え、ロズワールの帰宅を待って食堂での会談に臨んだ。

 正直、勢いで喋った細部までトレースできた自身はないが、大まかな話の流れは前回を

踏襲したはずだ。パックのご褒美、エミリアの呼び名、王戦の概要とエミリアの関係、そ

してロズワール邸におけるスバルの立場の確立。

 養われる立場への魅力を振り切り、スバルは前回と同じ使用人見習いとして屋敷の一員

に加えられた。その後は教育係としてついたラムに同行し、屋敷の案内から始まる初日の

勤労奉仕へと移ったのだが、これからがおかしかった。

 

「なんでか前回と全然違ったもんな。ばっちりカンニングペーパー用意してたのに、いざ

問題用紙見たら科目が違ったぐらいの徒労感・・・何のためのやり直しだよ」

 

 湯船から顔だけ出したスバルは、顎を浴槽の縁に乗せながら憮然と呟く。

 方針通りに前回の流れを踏襲したはずのスバルだったが、教育係に着任したラムの課す

仕事内容が、以前と様変わりしていたのだ。雑用レベル1から、レベル4ぐらいに。

 

「相変わらず雑用は雑用なんだが・・・中身の濃さが前回と段違いだったぞ」

 

 純粋に、任される仕事の質と量が増した、というべきか。

 

「前回も前回でヘトヘトだったのに、今回は今回でハードだった・・・クソ、同じ中身なら

ちったぁ楽できると思ったのに」

 

 予想と違う過酷さに口が出るが、その一方でスバルは今の状況があまり良くない状況

であると判断していた。

 前回の時間をなぞろうと努力した上での結果がこれだ。初日からこれほど内容が変わって

しまえば、二日以降も前回とすり合わせなどできようはずもない。

 小さな差異を無視したことで、やがてくる大きな問題がずれる可能性が恐ろしかった。

 

「特に今回の場合、戻った理由がわからねぇからな・・・」

 

 普通に寝て、起きたら戻ってしまっていたのが今回のパターンだ。死亡がループの条件だっ

た前回と違い、終わりが予想できない今回の対処法は考えるだけで骨が折れる。

 

「こんだけ違っちまうと、もう記憶は当てにならねぇのか・・・?」

 

 エミリアと出会った初日の王都———あの濃密な一日を思い出す。

細かな部分では毎回違った道を辿ったが、大筋として起きた出来事はどの回も共通して

いたものだ。まだ、大きなイベントを逃さなければわからない。今回の日々の中でスバル

の印象に残るイベントといえば、初日を除けばエミリアとの約束のみ。

 そこまで辿り着ければ、あとは結果を変えるだけで乗り越えれるはずだ。

 湯船に体を沈めて、無酸素で考えをまとめ上げた。そして、スバルは湯船から顔を出し、

 

「——やぁ、ご一緒してい—ぃかい?」

 

 腰に手を当てた全裸の貴族が目の前にいて、スバルは思い切り呼吸をしたのを後悔した。

 腕を伸ばせば届きそうな距離に全裸が立ち、股間の聖剣が浴場の湯風に揺られながらスバ

ルを見下ろしている。

 

「貸し切りです、お断りします」

 

「私の屋敷の施設で、私の所有物だーぁよ?私の自由にさーぁせてもらうとも」

 

「だったら聞くなよ。風呂ぐらい勝手に入れ」

 

「おーぉや、手厳しい。それにわかってない。確かにこの浴場も私の所有物だけど・・・」

 

 ロズワールは片膝を着き、伸ばした手で無抵抗のスバルの顎をそっと持ち上げる。

 

「使用人という立場の君も、私の所有物と言えるんじゃーぁないかな?」

 

「ガブリ」

 

「躊躇ないなーぁ!」

 

 顎を摘んだ不快な指先を噛んで遠ざけ、背泳ぎでロズワールから距離を取る。

 浴場の大きさは馬鹿に広く、湯船の広さは古き良き銭湯の浴槽並みだ。無駄すぎるスペ

ースの使い方は貴族の道楽趣味丸出しだが、独り占めの満足感はなかなかのものである。

 故に、仕事終わりの入浴タイムは前回を通じてスバルの憩いの時間だったのだが。

 

「また想定と違う展開だよ・・・」

 

——前回の四日間で、ロズワールと入浴を一緒にした機会は一度もない。

 それ以前に、前回のループではロズワールは多忙を極めており、ほとんど顔を合わせる

こともなかったほどだ。身の回りの世話をする三姉妹とは接していたのだろうか、スバルと

は初日のコンタクトを除けば食事以外の接触はほぼなかったほど。

 

「だってのに、何もかも俺の予想と違う方向から攻めてきやがる・・・」

 

「何に悩んでるかは知らないケーぇど、世の中うまくいかないことだらけだーぁとも」

 

 世知辛いことを言いながら、湯船に入るロズワールがスバルの隣へ。浴槽の壁に背を預

けて長い息を吐く姿はどこにでもいる普通の男性で、湯浴みの快感は世界共通だった。

 

「今になって気付いたことだけど、流石に風呂場じゃメイクは落としてんのな」

 

「ん?あーぁ、そうだね。おや、ひょっとすると私がスバルくんの前に素顔を晒すの

はこれが初めてだったりするのかーぁな」

 

「そうなるな。なんだ、普通にかっちょよくて何だよーって気分。隠す必要ねぇじゃん」

 

「あの化粧は趣味で、ベーぇつに顔を隠したいってわけじゃーぁないからね。口が裂けて

たり鼻が曲がってたり、目つきが絶望的に悪いわけでも・・・おっと」

 

「俺見て言うなよ。心の弱い三白眼なら死んでるぞ」

 

 生まれつき持った目つきの悪さは、初対面での印象にマイナス補正がすごい。こんな面構え

に生んだ親に文句を言いたくても、母親の、目つきがスバルそっくりなので何も言えない。

 両親を思い出して複雑な顔のスバルに、ロズワールが別の話題を振る。

 

「ラムやレムそれにネムとは、仲良くやれそうかーぁな?あの三人はこの屋敷で働いて長いから、

後輩との接し方も弁えているはずだーぁけどね」

 

「レムとはあんまし、ネムはそうだな・・ネム『も』かな、あまりやり取りできてねぇよ睨まれるし・・

それに引き換え、ラムとは仲良くやってるよ。むしろ、ラムは少し馴れ馴

れし過ぎる気が。先輩後輩以前に、俺がお客様の時点から態度が変わらねぇよ、あの子」

 

「なーぁに、足りない部分はレムやネムが補う。姉妹だから助け合わなきゃ。そういう意味じゃ、

あの三人はじーぃつによくやっているとも、ネムもよーぉくできる子だーぁよ」

 

「聞いてみてみた限りじゃレムやネムがフォローするばっかで、ラムは妹たちの劣化版なんですけど」

 

 あらゆる家事技能での優秀を、姉妹双方からはっきり断言されている。あらゆる技能でレムに一歩二歩及ばないラム。

ましてや、ネムにまでも及ばないかもしれない。普通なら劣等感に苛まれてる設定なのだが。

 

「なのに『姉だからラムの方が偉い』ときたもんだ。

それに、1番下の子に関しちゃ、筋金入りの姉様愛好家だよ。あの神経の太さにはビビるよ」

 

「神経の太さで言ったら、君もなーぁかなかだと思うけどねーぇ。でもそうか。そんな風

に答えていたかい。ずけずけ踏み込んで遠慮のないことだ。実にいーぃことだよ」

 

「オノマトペ込みで褒められてる気が全然しねぇなぁ」

 

 空気が読めない分、スバルは他人のテリトリーに踏むこむことに躊躇がない。それだけ

に孤立しやすい孤高の性質だ。他人の神経を逆撫でしたがる悪癖ともいえる。

 スバルの答えにロズワールは片目をつむり、左の黄色の瞳だけで天井を仰いだ。

 

「皮肉じゃないとも。実際、いーぃことだと思っているよ。あの子らは少し自分たちだけで

完結しすぎてるからねーぇ。そのあたり、ちょこーぉと他人が外から引っかき回す・・・

それで変わるものも、きっとあるんじゃーぁないかな」

 

「そんなもんですかねぇ」

 

「そんなもんですともーぉ」

 

 二人して湯船まで首を沈めて、ぬくぬくに全身を任せながら感嘆を交換する。それから

ふと、スバルは思い出したように眉を上げた。

 

「そだ、ロズっち。ちょっと聞きたいことあんだけど、聞いてもよろしくて?」

 

「まーぁ、私の広く深い見解で答えれる内容なら構わないとーぉも」

 

「自分、物知りなんですってそんな迂遠な言い方する奴を初めて見たよ。それはともかく

として、この風呂ってどんな原理で湧いてんの?」

 

 浴槽の底をこんこんと叩き、スバルはずっと抱いていた疑問を口にした。

 スバルたちの浸かる浴槽は石材でできていて、触り心地から大理石のようなイメージを

抱かせる。浴場は屋敷の地下の一角にあり、さすがに男女兼用だ。もっとも、お湯の入れ

替えは贅沢に入浴者ごとに行われており、エミリアの後に入っても充実感はない。

 

「別にお湯飲んだりはしないけどね。飲む前に気づいたし」

 

「君の冒険心には時々本当に驚かされるねーぇ。これが若さか・・・いや、しかし私が若か

った頃に君のその発想が出ただろうか」

 

 スバルの向こう見ずな若さを眩しそうに見て、それからロズワールは頷く。

 

「ともあれ、その答えは簡単だーぁよ。浴槽の下に、火属性の魔鉱石を敷き詰めてあるわ

ーぁけ。入浴の時間にはマナに働きかけて湯を沸かす。調理場でも使ってるはずだよ」

 

「鍋ってそう言う原理だったんだ。ガスないのにどうやってんだろとは思ってたんだ」

 

 レムやネムがテキパキとそれらを扱う後ろで、野菜の皮剥きをしつつ手を切るのがスバルの役

割りだ。もっとも、『マナに働きかける』という当たり前のような発言の意味がわからない

以上、シェフ・スバルの誕生は遠い話だろう。

 

「なんかさ、マナがどーたらって魔法使いじゃないとどうにもならねぇの?」

 

「そーぉんなことないよ。ゲートは全ての生命に備わっている。動植物すら例外じゃー

ぁない。でなければ、魔鉱石を利用した社会は成り立たないだろうしねーぇ」

 

 新しい単語の出現に首をひねるスバル。そんなスバルの様子を見かねてか、ロズワール

が指を一つ立てて咳払いする。

 

「よし、ここは一つ授業をしてあげよーぉうか。少し無知蒙昧な君に、魔法使いのなんた

るかを教授してあげようじゃーぁないの」

 

「色々と口応えしたい気持ちを無視して、ここは素直に受け取っておくぜ」

 

 講義してくれるというロズワールの申し出に、スバルは浴槽の中で正座してロズワール

に向き直る。ただし、双方全裸であることには変わりはない。

 

「それじゃーぁ初級から。スバルくんはもちろん『ゲート』については知っているね?」

 

「いや、そんな知ってて当たり前みたいに言われても、知らない側は、ぽかんですし・・・」

 

「すんごい急に声の調子落ちたね。そしてゲートのことも知らないか・・・控えめに言って、

え、それ、マジ?ってーぇ感じ。使い方、合ってる?」

 

 と『マジ』の用法の確認を取るロズワール。スバル発祥で元の世界の言い回しがちょ

くちょく輸入されつつあり、特に『マジ』は使用頻度の高さから馴染みが早い。

 ロズワールの使い方を満点だと評価し、互いにハイタッチをしてから講義に戻る。

 

「で、で、ゲートってぶっちゃけ何なの?それがあるとなしで何がどう変わるの?」

 

「簡単に言っちゃうと、ゲートってのは自分の体の中のマナを通す門のこーぉと。ゲ

ートを通じてマナを取り込み、ゲートを通じてマナを放出する、生命線だーぁね」

 

「なーる。MP関連の蛇口のことね・・・」

 

 ロズワールの簡潔な説明で合点がいく。

 これまで何度か耳にしたゲートという単語。おおよそ想像していた通りの内容だ。

 

「ゲートが誰にでもあるってことは、俺にもあるってことじゃね?」

 

「まーぁ、そりゃあるだろねーぇ。人間の自信があれば、君、人間?」

 

「俺ほど真人間のまま異世界に放りこまれた男はかつていねぇよ。マジ常人、マヂモブ」

 

 戦う力がなければ状況を打開する知恵もない。学力も平均やや下で、身体能力は若干高

めだが持久力に難あり。習得技能は裁縫とベットメイキング。モブ一直線。

 が、異世界にきて二番目に嬉しいかもしれない情報にスバルはそれどころではない。魔

法という魅惑の単語に胸が高鳴り、希望に瞳がキラキラと輝く。

 

「嬉しいことの一番はもちろんエミリアに会ったことだけど、これもかなりヤバいな!

きたかついに俺も夢の魔法使い・・・いや、これこそ俺が待ち望んだチャンス!」

 

「魔法の話でそこまで喜んでもらえるとなーぁると、魔法使い冥利に尽きるってーぇもん

だね。もっとも、ゲートがあっても素養の問題は大きい。自慢でしかないから自慢しちゃ

うけど、私のように才能に恵まれることはまずなーぁないもんだよ?」

 

 そのロズワールの前振りに、スバルは軽やかな音でフラグが立つのを聞いた。

 自信満々なロズワールは知らない。目の前で全裸で湯船を漂うスバルが、異世界から召

換された『招かれし者』であるという事実を。

 古来より、異世界から呼ばれた召喚者には特殊な力が宿る者なのだ。これまで武力ダ

メ、知識ダメ、運の補正もゼロどころか若干マイナスだったが、そう、魔法だ。

 

「きたぜ、ロズっち。俺の新たな希望だ!魔法、魔法、魔法トークしようぜ。今、魔法

の波がきてる。俺の輝かしい未来が、波間に漂ってるよ!」

 

「そーぉ?それじゃ続けちゃおう。魔法には基本となる四つの属性があるわけだーぁけ

ど、知ってるかなーぁ?」

 

「知らなーいー!」

 

「あはーぁ、無意味で無目的で無邪気なまでに無知で素晴らしい。気分いいから説明しち

ゃう。火・水・風・土の四つのマナ属性だ。わかったかーなぁ?」

 

「おう、基本だな。理解して吸収した。続き続き!」

 

 スバルの求めにロズワールは気を良くした様子で頷きながら講釈を続ける。

 

「熱量関係の火属性。生命と癒しを司る水属性。生き物の体の外に働きかける風属性。体

の内側に働きかける土属性。主に属性はこの四つの属性全てに適正があるよーぉ?」

 

「わぉ、自慢うざいけど形式上褒めとく、すごい!属性ってどうやって調べんの?」

 

「もーぉちろん、私ぐらいの魔法使いになるともう触っただけでわかっちゃうとも」

 

「マジかよ!きたよ待ってたよ、この展開を。見てくれよ、そして教えてくれよ!」

 

 躾のなってない犬みたいにはしゃぐスバルを生暖かい目で見ながら、ロズワールはそ

の掌をスバルの額へと当てた。全裸の男が二人、向かい合って目を輝かせる光景だ。

 

「よっし、んじゃちょこーぉと失礼します。みょんみょんみょん」

 

「うおお!魔法っぽい効果だ!今、ファンタジックしてる!」

 

 今だけはあらゆる不安材料を忘れて、スバルは目の前のロマンに思いを馳せる。

——魔法。それこそが、異世界召喚された自分の牙に、きっとなるのだ。

 確信めいた希望に瞳を輝かせ、スバルはただ診察結果を待った。

 

「——よーぉし、わかったよ」

 

「きた、待ってました。何だろ、何になるかな。やっぱ俺の燃えるような情熱的な性質を

反映して火?それとも実は誰よりも冷静沈着なクールガイな部分で水?あるいは

草原を吹き抜ける涼やかで爽やかな気性が木質とばかりに風?いやいや、ここはどっし

り悠然と頼れるナイスガイな兄貴気分の素養を見込まれて土とか出ちゃったりして!」

 

「うん、『陰』だね」

 

「ALL却下!?」

 

 耳を疑う診断結果が飛び出して、思わず悪い病気を告知されたような反応になってしま

った。そして、実際なんかそんな感じの雰囲気でロズワールは重く口を動かす。

 

「もう完全にどーぉっぷり間違いなく『陰』だね。他の四つの属性との繋がりはかなーぁ

り弱い。逆にここまで一点特化は珍しいもんだけどねーぇ」

 

「ってか、陰ってなんだよ!分類は四つじゃねぇの?カテゴリーエラーしてるよ」

 

「話さなかったけーぇど、四つの基本属性の他に『陰』と『陽』って属性もあるにはある

の。たーぁだーぁし、該当者はほとんどいないから説明は省いたんだけどねーぇ」

 

 極々わずかな例外を引いた、ということらしい。

 ロズワールの釈明を聞かされて、スバルの空回っていた気持ちも落ち着いてくる。

 そう、限りなく希少な属性ということだ。それはつまり、特別な力。

 

「なんか実はすげぇ属性なんだろ。五千年に一度しか出なくて他より超強力みたいな!」

 

「そうだねぇ、『陰』属性の魔法だと有名なのは・・・相手の視界を塞いだり、音を遮断し

たり、動きを遅くしたりとか、それとかが使えるかな」

 

「デバフ特化!?」

 

 デバフは敵を弱体化させるスキルの総称であり、補助職まっしぐらな特化性能である。

 伝説級の破壊魔法が使えたりとか、天変地異を引き起こしたりの強力無比な魔法を期待

したのだが、ぽつぽつ言いづらそうに妨害・能力低下系の効果を口にするロズワール。

 本気で申し訳なさそうなので、事実なのだろう。

 

「異世界召喚されて武力も知力もチートもなし・・そして魔法属性はデバフ特化・・・」

 

「ちーぃなみに魔法の才能は全然ないね。私が十なら、君は三ぐらいが限界値だよ」

 

「さらに聞きたくなかった事実だよ!もはやこの世には神も仏もいねぇ!」

 

 音を立てて湯船に体を沈めて、大の字に浮かびながらスバルは煩悶。まさかの使い道に

さっきまでの希望が萎むのを感じながら、しかし一度芽生えた期待はなかなか拭えない。

 

「使えるだけでもよしと考え・・・いやでも、デバフ特化する俺ってかっこいいか・・・?」

 

「かっこよさ重視は別として、覚えて損するもんじゃーぁないよ。使いたいなら教わった

らいいとも。幸い、『陰』系統なら専門家がちゃーんと屋敷にいるからね」

 

 

「そうか、それだ!この際、魔法そのものじゃなく、手取り足取り魔法を教えてもえ

ルトいうシュチュエーションに満足すべきなんだ。よし、風呂上がりにさっそく!」

 

 エミリアに魔法の手ほどきをしてもらって、さらに親密さを深めようといきり立つスバ

ル。もはや前回の内容をなぞる当初の目的を忘れかけている。

 

「勘違いしてるみたいだーぁけど、『陰』属性の専門家はエミリア様じゃーぁないよ?」

 

「な・ん・だ・よ!さっきからそんなに人の心弄んで楽しいのかよ!じゃ専門家誰

だよ、お前か!全属性適性持ちのエリート魔法使い様ですもんね!がっかりだ!」

 

「ベアトリスだよ」

 

「もっとがっかりしたよ!!」

 

バッシャーン、と盛大に水飛沫を跳ね上げて、今宵最大の叫びが炸裂した。

 

「あ、余談なんだけどよぉ・・ロズっち」

 

「すごい雄叫び上げてたけど、まだ聞きたいことがあーぁるのかい?なんだね、いってみるといい」

 

「エミリアたんや、ラム、レム、ネムの属性も気になるんだよな・・・」

 

「なーぁるほど、なぜ気になるのかはわーぁからないけど、教えてあげよう。

エミリア様は、火。ラムは風。レムは水。ネムは火。だーぁよ?」

 

「羨ましい・・なんでデバフ特化なんだよ・・・」

 

スバル自身期待していた属性を総取りされた気分になり、泣く泣く風呂を後にした。

 

 

 

4

 

 

「クソ、湯当たりした。ロズワールめ、上げて落として繰り返しやがって、釈迦の掌か」

 

 支給された着替えに袖を通しながら、脱衣所でスバルは赤い顔のままぼやいていた。

 浴場でのがっかり適正診断を終えて、先にスバルが風呂から上がったところだ。

 ロズワールとの会話で興奮したこともあるが、長風呂の影響もあって頭が重い。思い起

こせばまた、本来のケガの治療から日にちが経っていない血が足りない時期なのだ。

 

「おまけに明日は筋肉痛になってそうは体の張り具合。クソ、ラムめ、覚えてろよ。前回

より俺が有能だからってこき使いやがって・・・・」

 

「お望み通り、覚えておくわ」

 

「ふわぉぉぉう!」

 

 洗濯物を入れた籠を持って脱衣所を出たところで、タイムリーな返事をされて飛び上が

るほど驚く。弾んだ籠から散らばる下着が、脱衣所の通路に佇むラムの足下に落ちた。

 

「はぁ、まったく」

 

 ラムはしゃがんでスバルの下着を摘み、すぐ脇にあったゴミ箱へと叩き込む。

 

「目の前に洗濯しようと籠を持ってる男がいるんですけど!?」

 

「ごめんなさい。持ち上げた瞬間、生理的嫌悪感が堪えきれなくて。一秒でも早く手放し

たくてああなってしまったわ」

 

「そのわりにフォーム綺麗だったスネ!」

 

 泣く泣くゴミ箱から下着を回収し、籠に詰めてラムに向き直る。静々と廊下で待機する

ラムを見て、彼女の目的はなんだろうと首を傾げる。ラムはその疑問を察したように、

 

「残念だけど、ラムは入浴を済ませた後だから待っていても着替えたりはしないわ」

 

「全然察してねぇな!?メイドとして致命的じゃね!?」

 

「冗談よ。ロズワール様の御着替えを手伝いに待機してるだけ」

 

「甘やかしすぎじゃねぇのか?着替えくらい一人でできんだろ」

 

 世の中にはお手伝いさんに靴下を履かせてもらい、自分では一度も靴下を履いたことの

ない人間も存在するらしい。ロズワールもそういう手合いなのだろうか。

 

「まさかあの珍妙なメイクも三人にやらせてんだとしたら、少ない信頼がさらに減るぜ」

 

「ラムの前でロズワール様への不敬は許さないわ。次から実力行使するわよ」

 

 温情がある忠告に感じるが、事実なので肝に銘じておくべきだ。

 実際、ラムは屋敷の仕事も一度目はそれなりに懇切丁寧に教えてくれるが、それ以降は

同じ質問をしようもんなら容赦なく養豚場の豚を見るような目で見てくる。

 

「これ以上は藪蛇だな・・・・。そんじゃ先輩、失礼しやっす。また明日」

 

「バルス、この後は何か?」

 

「何かもクソも寝るだけだよ。明日も早いんだから当たり前だろ。チキショウ。先輩、マ

ジ朝だけは辛いっス」

 

 反骨精神と弱音がハイブリットしたスバルの返事に、ラムは小さく頷いて瞑目。

 押し黙るラムが何を言いたいのかと、じれたスバルが声をかける寸前に目が開かれた。

 

「それじゃ、後で行くから部屋で待っていなさい。ついでに、ネムも連れて行くわ」

 

「——は?」

 

と、間の抜けたスバルの声がぽろっとこぼれた。

 

 

 

5

 

 何度でも宣言しておくが、ナツキ・スバルはエミリア一筋を標榜している。

 異世界にきて以来、機会があって元の世界では遭遇するはずもない美形に立て続けに出

くわしているが、エミリアの存在は郡を抜いている。

 純粋に容姿の美しさでもあるが、なんかこう、振る舞いの一つ一つがツボに入るのだ。

 よって、どんな美貌が相手でもスバルの心がエミリア以外になびくことはあり得ない。

 

「だから、この完璧な状態のベットも俺が安らかに眠るため以外の理由なんてないんだぜ」

 

 鋭い勢いで指をベットに突きつけ、気合の入った言い訳を誰にともなく断言する。

 風呂上がりに部屋に戻ったスバルの目の前には、戻ってからの時間の全てを費やして整

えたベットがある。洗濯物も放置しての仕事ぶりは、風呂上がりなのに汗をかくほどだ。

 

「深い意味はない、深い意味はないぞ。心頭滅却。落ち着け。エミリ

アたんが一人。、エミリアたんが二人、エミリアたんが三人・・・・天国か!」

 

「騒がしいわ、バルス。もう夜なんだから、静かにしなさい」

 

「おっひょい!」

 

 大きく跳ねて壁に激突。部屋の入り口に、音もなく扉を開けたラム、その後ろに隠れているネムが立っている。

 

「だ、大丈夫ですか・・?スバルくん」

 

「はぁ・・・・これは手遅れね」

 

「何なんだ、お前の自分ルール!聞いてて常識が揺るがされるからハラハラするわ!

お前は何をどうして俺にどうなって欲しいんだよ・・・あぁ、ネム大丈夫だ・・」

 

 怒鳴り散らすスバルに対し、ラムは「ハッ」と小さく鼻を鳴らす。後ろにいるネムはそんなスバルを見て

困り顔。言葉にすらならない悔蔵の意思をぶつけられて、もはやスバルもお手上げして黙らせるしかない。

 そして黙るスバルの前を二人が横切り、ラムとネムは部屋の奥——書き物用の机へと足を向けた。

 一応、各部屋に用意されている備品だが、この世界の読み書きができないスバルには無

用の長物となっていて、机に向かった経験は今のところない。

 

「何を惚けているの。バルス、こっちきなさい。ネムはそこらへんでくつろいでいていいわよ」

 

「姉様、くつろいでいいってここ俺んの部屋だぞ?」

 

「ぽふっ」

 

 ネムは構わずベットにダイブしてくつろぎ、

 

「遠慮ないですね!?」

 

 犬でも躾けるようなぞんざいな言い方とネムの遠慮なさに憮然とした顔になるが、スバルはラムとネムのペース

に巻き込まれないと決意を新たにする。そもそも、そのやり方はスバルの領分だ。

 どんなビックリ発言が出ようとも、決して揺るがない鋼の心構えで向かい合う。まるで

戦場に向かうような覚悟で、スバルは立ちはだかるラムの前で胸を張った。

 

「それで?今度はどんな無理難題を持ってきてくれたんだ」

 

「何を言っているの?読み書きを教えれるから、早く座りなさいって言っているでしょう」

 

「初耳だよ!?」

 

 鋼の心、即座に崩壊。

 固めてあった心が一瞬でへし折られて、スバルは動揺を隠せない。机の上には真っ白の

ページが広がるノートと羽根ペン、赤茶けた背表紙の本があって息を呑む。

 冗談でも悪ふざけでもなく、本当に文字を教えてくれようとしているらしい。

 

「でもまた急に、なんで・・・」

 

「バルスが読み書きができなければ買い物も任せれないし、用件の書き置きもできない」

 

 戸惑うスバルの問いかけに、ラムは至極真っ当な答えを返した。

 驚きで魚のように口をパクパクさせるスバルに、ラムは赤い背表紙の本を見せる。

 

「まずは簡単な子供向けの童話集。これから毎晩、ラムかレム、そしてラムたちの可愛い付き添い人としてネムが勉強に付き合うわ」

 

 ありがたい申し出には違いないが、今は感謝するより困惑する気持ちの方が強い。

 

「ネムさん・・・も必要?姉様?」

 

「当たり前じゃない、ネムがいないと意味がないわ。可愛い可愛い妹だもの。ずっとそばに置いておかないと」

 

「理由にな・・・いやなんでもありません」

 

 そう言いかけたが、後ろからの目線に気づきすぐさま言葉を中断する。

 この展開も先の風呂場と同じで、前回ではあり得なかった状況だ。そしてスバル自身の

感覚としては、前回の四日目などに比べればまだ三姉妹たちとの親しさは足りていない。

 

「どうして、そんな風に親切にしてくれんだ?」

 

「決まっているわ。ラムが・・・・いいえ、楽するためよ」

 

「言い直して言い直せてねぇよ。マジぶれねぇな、お前」

 

「当たり前でしょう。バルスのやれることが増えれば、それだけラムの仕事が減る。ラム

の仕事が減れば、必然的にレムやネムの仕事も減る。良い事尽くめよ」

 

「俺がその代わりに超仕事に追われてるけど!?」

 

「・・・・?」

 

 発言の意図がわからないみたいに首を傾げるラムの反応に、口答えする気も奪われた。

 ただ、そうして呆れ果てる一方で、ラムの心遣いが嬉しかったのも事実だ。

 

「オッケー、了解だ。お勉強、しましょうじゃないですか」

 

「バルスの場合、会話の文法は大丈夫だからそこまで難しいことはないわ。言葉選びに品

がないのは今さら矯正しようがないから」

 

「フォローのふりした罵倒入ってるよな?」

 

 言いながら机の前に腰を下ろし、羽根ペンを持って準備完了。羽根ペンは軽く、ノートの上

をなかなか達筆に滑ってくれる。異世界で記念すべき最初の一筆。

 

「ナツキ・スバル参上・・・と」

 

「そんな絵を描いて遊んでる暇なんてないわ。明日も早いし、時間も限られているから」

 

「いやこれ俺の母国語なんだけど・・・やっぱ伝わらねぇよなぁ」

 

 会話の成立から、ひょっとしたら文字も書いてみれば翻訳されるのを期待したのだが、

そう都合よい展開には恵まれない。スバルにこちらの字が読めないのと同じことだ。

 

「まずは基本のイ文字が完璧になってから。ロ文字とハ文字はイ文字が完璧になってから」

 

「三種類もあんのか。聞くだに折れるな」

 

 新たな言語習得を前に、早くも挫かれそうな心が辛い。平仮名・カタカナ・漢字が揃っ

た日本語を学ぶ、外国人の気持ちと壁の高さを思い知った気分だ。

 

「イ文字を把握してから童話に入るわ。時間は冥日一時までが限度でしょう。明日もある

し、ラムも眠いし」

 

 

「最後に本音がチラリズムするそういうとこ、嫌いじゃねぇな、先輩」

 

「ラムもラムの素直なところは美点だと思っているわ」

 

 躊躇いのない切り返しだから本音か冗談かわからない。かなりの高確率で本音の雰囲気を

感じながら、スバルの文字習得レッスンが始まった。

 新しい言語の習得の基本は、文字の把握とひたすら書き取りを反復することだ。

 ラムが書き出してくれた基本の文字を、ページ一枚がびっしり埋まるように真似ていく。

ゲシュタルト崩壊を起こしそうな地道さこそが、必要な苦労だと割り切れるのが肝要だ。

 疲労と眠気に瞼の重さを感じながら、付き合ってくれるラムのためにも船をこぐことは

許されない。そもそも、こうして二回目の初日から友好的に接してくれていることが貴重

な機会だ。チャンス、と言い換えてもいい。

 

「なんつーか、楽するためとか言ってるけど、俺はそれでも嬉しかったよ」

 

 照れ臭い気持ちを堪えながら、素直な気持ちを後ろのラムに伝える。

 羽根ペンをノートに走らせるかすかな音。繰り返し同じ文字を書き連ねる作業の合間を縫

って、スバルは前回の四日間を回想する。

 思えば、時間さえあればエミリアを追いかけていた日々だったが、その間をもっとも長

く一緒に過ごしたのはラムだっただろう。

 屋敷周りのあらゆる仕事で素人同然のスバル。その教育は骨が折れたはずだ。もちろん

ラムの仕事はそれだけではなく、通常業務と兼務しながらだったからなおさらだ。

 負担は当然、レムやネムにもいっていただろう。故に、前回の四日間でレムとネムと接した時間はそれほど多くない。

優秀なレムにお手伝い上手のネムがラムの分の仕事の一部を肩代わりしていたと聞いて、関節

的に負担をかけたことはスバルの負い目にもなっていた。

 

「正直、あんま好かれてっとは思ってなかったし」

 

 ただえさえ忙しい日々の中、スバルのように使えない新人の教育など苦痛で当然だ。相

手にそう思われることだって、スバルにとっては慣れしたんだ感覚だった。

 だから、こうして否定されていないような現在が、スバルには嬉しかった。

 

「これからも迷惑かけるとは思うんだけど、なるたけ早く戦力になるから、頼むよ」

 

 椅子を軋ませて首だけを後ろに向け、スバルは無言で見守るラムとネムに告げる。

 スバルの心からの感謝と今後の意気込み。それに対してラムとネムは静かに、

 

「ネム・・ぐう」

 

「姉様・・すや」

 

 綺麗にベッドメイキングされた寝台の中で、二人抱き合って可愛らしく寝息を立てていた。

 ぱき、と音を立てて羽根ペンが折れた。

 

 

6

 

 ふと込み上げる衝動に負けて、スバルは大口を開けて欠伸をかました。

 目尻に涙となって浮かぶ眠気を袖で乱暴に拭い、ぐっと背筋を伸ばす。夕刻の空は沈む

太陽の餞別に橙色に染まり、流れる雲がゆったりと一日の終わりを労ってくれていた。

 雲を見送りながら、スバルは手足や首を回して体の調子を確認。重労働の影響は残って

いるが、初日の夜ほどの疲労感は感じない。

 

「体の強さは変わってねぇし、ちったぁ疲れない体の動かし方を学んだってことか」

 

 肉体の慣れではなく、作業への慣れによる効率改善が疲労の軽減に繋がったのだろう。

 『死に戻り』が肉体の強化につながらない以上、経験値の習熟は必須の要素だ。

 

「スバルくん、お待たせしました。——大丈夫ですか?」

 

「ん。ああ、大丈夫大丈夫。レムりんも、買い物終わり?」

 

「はい、滞りなく。スバルくんはずいぶんと人気でしたね」

 

 買ってきた荷物の入った手提げを持ち、スバルを労うのは青髪の少女——レムだ。

 着こなしたメイド服のレムは風に揺れる髪を押さえ、わずかに和らいで見える表情で

スバルを見ている。泥と埃、そして鼻水や涙で汚したスバルの方を。

 

「昔っからどうしてかガキンチョにやたら好かれる体質でさぁ。やっぱレアかなぁ、俺

の中の押さえ切れない母性的な何かが童心を惹きつけてやまないみたいな」

 

「子どもは動物と同じで人間性に順位付けをしていますから。本能的に侮っていい相手か

どうかわかるんですよ」

 

「それ褒められていないよね!?」

 

 辛辣なコメントをするレムに、そういうところがラムと双子なのだと納得させられる。

 直接的ラムと遠回しなレム。たまに、ネムも毒を吐いてくるが、それが予想以上に刺さる。三人との付き合いは精神的にタフでなければ仕事自体が立ち行かないのだが。

 現在、スバルとレムがいるのは屋敷のもっとも近くにある、アーラムという村落だ。

 あれで辺境伯、という立場にあるロズワールは、いくつかの土地を領地として保有する

一端の貴族である。屋敷の直近のアーラム村も例外ではなく、住民は当たり前のようにス

バルたちを認識すると、親しげに声をかけてきてくれる。

 買い出しなどで接触の機会が多い三姉妹はもちろん、スバルも存在だけでは周知されている

ようだ。田舎の噂の伝達速度に驚きつつも、歓迎を受けるのはむず痒いながらも嬉しい。

 

「とはいえ、あのガキ共の馴れ馴れしさはいったい・・・迂闊に触ると火傷しかねない、俺

のハードボイルドな雰囲気が理解できないのか」

 

「母性って言ったり大人を気取ったり、スバルくんは一人で忙しいですね」

 

「一人でって部分にちょっと棘を感じるけど、むしろ忙しい方が絡まれずに平穏だ

った気もすんね。やっぱレムりんの買い物に付き合ってりゃよかったな」

 

 食材の区別もできないスバルは役立たずなので、レムの買い物中は村で暇潰しを仰せ

使っていた。その隙を子どもたちに発見され、拉致された次第だ。

 

「敬いの気持ちが足りねぇんだよ。だからガキンちょってのは好きになれねぇんだ」

 

「敬うに足りるだけのものを、スバルくんはちゃんと子どもたちに見せたんですか?」

 

「正論ごもっともだよ!かといって最初から舐められてんのもなんか違うと思うんだ

けど・・・・その辺、ラムはうまくやりそうだな・・ネムはなんか輪に入ってワイワイしてそう」

 

「姉様は素敵ですし、ネムはとても可愛い子でしょう」

 

 微妙に会話が噛み合っていない。姉と妹を自慢するレムの様子は鼻高々で、そこに含むような

態度は見られないので本心なのだろうと推察する。

 

「ぶっちゃけ、ラムの性格だとけっこうな態度で軋轢生みそうな感じだけど」

 

「物怖じしないところも姉様の魅力です。レムにはとても、無理ですから」

 

「・・ネムはなんだ人懐っこいところあるのか?年もあまり離れてないだろうしすぐ馴染めそうだけど」

 

「ネムはレムや姉様にひっついてまわります。人懐こく見えますが、あまり人付き合いは苦手な方なんです。

でも、可愛いので問題ありません。そういうのはネムにあって、レムにはない良いところです」

 

 姉妹を評価するレムの言葉にはどこか物悲しくて、スバルは眉を寄せるが追求できない。

 

「そういえば、スバルくんの勉強の進み具合はどうなんですか?」

 

 とっさに言葉を見失ってしまったスバルに、レムが気を取り直すように話題を変える。

 

「着々と・・・・って答えたいけど、そうそう簡単にはいかないな。やっぱ何事も時間をかけ

てゆっくり育てねぇと。愛情と一緒だね!」

 

「途中で枯れないといいですね」

 

「今のレムりんのコメントは愛が枯れてるな!」

 

 叫び、レムの表情にわずかな微笑が浮かぶのが見て、スバルも安堵に笑う。

——ラムが夜の個人レッスンを申し出て、すでに四日が経過している。交代でスバルの

教育に当たるという話だったが、まだレムには講師役が回ってきていない。

 ネムは必ずラムについてくるのだが、それだけレムが忙しかったということだが、レムにとっては逆にそれが負い目になって

いたようだ。

 珍しく逡巡するような素振りのレムに対して、スバルは笑い顔のままで手を振った。

 

「心配すんなって。別に放置されてるわけじゃないし、ラムやネムに不満ねぇよ。いや、教えて

る最中に後ろでネムが姉様にベタベタ甘えられるとやる気が削がれるから勘弁してほしいけど」

 

「・・・姉様が羨ましいです。コホン、姉様とネムはあえてスバルくんのやる気を奮闘させようと、そう振舞ってるんですよ」

 

「本音がチラリズムしてますよレムさん。その姉妹への絶対的な崇拝、並大抵じゃねぇぞ。マジ鬼がかってんな」

 

「鬼、がかる・・・?」

 

 造語にして、最近のスバルのマイブームな言葉にレムが首を傾げる。

 

「神がかるの鬼バージョンだよ。鬼がかる、なんかよくね?」

 

「鬼、好きなんですか?」

 

「神より好きかも。だって神様って基本的に何にもしてくれねぇけど、鬼って未来の展望

を話すと一緒に笑ってくれるらしいぜ」

 

 来年の話をすると特に盛り上がるらしい。肩を組んで赤鬼や青鬼と爆笑し合う光景を思

い浮かべるスバルは、ふとレムがその表情に確かな笑みを刻んでいるのを見た。

 

「お・・・・」

 

 これまでにも何度か微笑する姿は見てきたが、こうしてきちんと笑顔を見せてくれたの

は初めてのことだ。何がレムの心を解したのかわからないが、スバルは指を鳴らし、

 

「その笑顔、百万ボルトの夜景に匹敵するね」

 

「エミリア様に言いつけますよ」

 

「口説いたのと違うよ!?」

 

 姿勢を正して神妙に許しを乞うスバル。レムはそのスバルの姿に軽く眉を上げた。

 

「その手、どうしたんですか?」

 

「ん?ああ、ガキ共が連れてた犬畜生に超ガブリされた」

 

 くっきり歯形の浮かんだ左手は、すでに止まったが血が少し滲んでいる。ちなみに執事

服の背中は鼻水で汚れているのだが、それに気付くのは屋敷に戻ってからだ。

 

「傷、治しましょうか?」

 

「え?レムりんも回復魔法とか使える系?」

 

「簡単な物ですけど、手当くらいなら。エミリア様の方がいいですか?」

 

「む、否定できない魅力的な提案だ。だけど・・・どっちも遠慮しとく」

 

 

 左手の甲に浮かぶ犬歯の跡を眺めながら、スバルはその申し出を辞した。

スバルに意識させたのも、前回のループまで得た傷の消失が大きかった。

 傷のあるなしは『死に戻り』の判断材料として有効だ。偶然にも犬に噛まれていなけれ

ば、適当な刃物なり羽ペンなりで自傷しなければならないところだった。

 

「まぁ、名誉の傷ってやつだ。誰も、生まれたままの綺麗な姿じゃ生きていけないのさ」

 

「傷跡は男の人の勲章と言いますから。ただ戦場不覚を取っただけですけどね」

 

「真実の一端かもしれないけどドライな発言やめようよ!」

 

 さらっと毒舌なレムだが、首を傾げる姿を見ると自覚がないらしい。逆に恐い。

 

「それにしても、これまでもレムりんの前で手ぇ切ったりした場面ってちょくちょくあっ

たと思ったけど、なんでさっきは急に治そうとか言い出したんだ?っていうかむしろ、

なんで今までは言い出してくれなかったの?」

 

「痛くないと覚えないですし、戒めは残ってた方がいいと思いますから」

 

「さらっとスパルタ教育方針だ・・・で、さっきの申し出の理由は?」

 

 これまで見過ごされた理由は別として、今回は見過ごさなかった理由が知りたい。

 そのスバルの問いかけに、レムはしばし沈黙を守った。

 だから、

 

「布団が吹っ飛んだ。猫が寝転んだ。ダジャレを言うのは誰じゃ!」

 

「急に頭がおかしくなったんですか?」

 

「結論が早ぇよ。違くて、さっきのレムの笑顔の理由を確かめようと思って」

 

 鬼がかる、に反応していたように思えたので、ひょっとするとと思ったのだが。

 

「屈指の親父ギャグ好き疑惑。それで機嫌良くなって、優しくしてくれんのかなぁって」

 

「もう二度と、レムがスバルくんの傷を治してあげる機会はこないと思ってください」

 

「そんなに怒ったの!?」

 

「こんなに怒ったのは、スバルくんが姉様とネムの陰口をこっそり言ったとき以来です」

 

「わりと最近で頻繁だ!」

 

 余計な一言を加えたせいで、レムのスバルを見る視線は鋭さを増した。

 慄きながらスバルは弁明を諦めて、口を閉じると空を見上げた。夕闇の向こうからゆっ

くりと夜が迫ってくる。そのことに、手足が緊張に強張るのを感じた。

——何せ、二回目の世界も今日でぴったり四日目を迎えているのだから。

 

「明日の朝を、無事迎えられるかが勝負だな。——その前に」

 

 エミリアとそもそもデートの約束ができるかどうかも。大事な勝負なのだが。

 

 

7

 

 ナツキ・スバル二度目のロズワール邸一週間、その局面は今、最大の危機を迎えていた。

 予習していた前回のループをあんまりちゃんとなぞれていない時点で、そもそも順風満

帆おと言い難い展開ではあったのだが、ここへきて最大の危機発生である。

 

「それで、ラムもレムもそれに、ネムも今夜はスバルのところに顔を出せないっていうから、私が代わり

に勉強の監督を引き受けたの。大したことはできないんだけどね」

 

 言って、可愛らしく舌を出して照れた顔をするエミリア。寝台に腰掛けて、机に向かう

スバルを見守っているエミリアに、スバルは激しい勢いで耐久度を削られていた。

——こんな夜遅くに、思春期男子に抗うスバルを誰が攻められようものか。

 

「へえ。スバルって、思ってたよりちゃんと集中して勉強してるんだ」

 

 無心と脳内で唱え続けるのに必死でまったく無心になり切れていないスバルに、立血上

がったエミリアが感心したような声をかけてくる。どうやらお風呂上がりらしく、かすか

に漂う温かな香りとエミリアの香りが合わさって、スバルの理性が滅多うち状態だ。

 勉強の進み具合を目で問いかけてくるエミリアに、スバルはどぎまぎノートを開いた。

 

「い、今は基本のイ文字ってのを書いて覚えてるとこ。この童話集が子ども向けでほとん

どイ文字って話だから、これ読めるようになんのが今のところの目標ってやつ」

 

「ふーん、童話集が目標なの・・・あ」

 

「なんか、気になるお話でもあった?」

 

 教科書代わりの童話集をめくっていた手を止めたエミリアが、スバルに小さく首を振る。

 

「んー、そこまでじゃないけど、ちょっとね。スバルも読めるようになったら、うん」

 

 音を立てて本を閉じると、エミリアは改めてベットの上へと腰を落ち着かせる。佇まい

に品があるのに、やたら無防備なエミリアに内心のどぎまぎをスバルは隠せなかった。

 

「ホントは冥日にしか会えない子たちとお話する気だったんだけど、今日はスバルを優先

してあげる。感謝して、頑張ってね」

 

「もち、エミリアたんには感謝してもし足りねぇよ。感謝の証にマッサージしようか。

日頃の感謝を込めて、手取り足取り疲労を癒して溶かしてあげよう。げへへ」

 

「なんか手つきがいやらしいから嫌。それに中断しないの。続き続き」

 

 手を叩くエミリアに叱咤されて、スバルは煩悩と戦いながら再び机に向かう。

 無心、無心と唱えながらノートに文字を書き出していくと、次第に集中する頭がスバル

を雑念を取り去っていく。

 

「やっぱり、真面目にやったら脱線なんかしないじゃない。もう」

 

「俺って一度めり込むと周りが見えなくなるから。だから好きな人にも一直線だよ!」

 

「ふーん、そうなんだ。相手も、スバルその一途さに早く気づいてくれるといいね」

 

 軽薄トイエバ軽薄なスバルの物言いを、エミリアはあくまで自分と無関係な事柄と言い

たげにかわす。スバル自身、自分がエミリアに対して向ける好意の感情が、はっきりとし

た男女間のものであるとは思っていないため、追求しようもないのだが。

 

「ね、スバル。・・・・どうして、勉強と同じように真面目にお仕事もできないの?」

 

「真面目に不真面目するのが俺のコンセプト・・・・って雰囲気じゃないね。えっと?」

 

「そう、真剣なお話。——ラムも少しぼやいてたんだから。スバルはお仕事の、合間合間

で手を抜いてる感じがするって」

 

 さすがに告げ口のような形になるからか、言葉を選ぶエミリアの表情も苦々しい。が、

それを聞化されたスバルは図星を突かれた痛みに顔をしかめるしかなかった。

 スバルが仕事の手を抜いている、というラムの認識は正しい。

 事実、スバルは仕事に本気に打ち込んでいない。

 というより、意図して前回と同じ結果になるよう調節している。

 前回、まだ使用人として何ら技能を修めていなかったときと比較し、今のスバルはほん

の少しだがマシになっているのだ。その微妙な調節を、先輩メイドは見逃さなかた。

 

「・・・・罪悪感なし、ってわけじゃないもんね。スバル、そういう変なところで律儀な感じ

はするもの。勉強サボったりもしてないし」

 

「ちょっとした事情があって・・・って、言い訳にもならねぇな。明日からは気持ちを入れ

替えてちゃんとやります故、お許しを女王様」

 

「んむ、苦しゅうない。・・・・ちょっと違うかも?」

 

 偉ぶってみた自分に違和感があったのか、エミリアが可愛らしく首を傾げる。

 スバルはエミリアの態度の軟化に安堵しつつ、今のエミリアへの誓いを明日から本物

にしようと固く心に決める。

少なくとも、前回をなぞる必要は今夜でなくなるのだ。

この四日間で受けたラムとレムとネムからの恩義を、三人に返す努力ができるようになる。

 もっとも、手抜きをやめたら即戦力になれるかというとそういうわけでもないが。

 

「こういうのは気持ちが大事。俺の一生懸命さ、それを三人には買ってもらいたい」

 

「またいいところですごーく台無しな雰囲気。・・・勉強、終わったの?」

 

「今日の分はどうにかね!そだ、エミリアたんにお願いあるんだけど聞いてくれる?

明日から頑張るためにご褒美欲しいなーって」

 

「ご褒美って?言っておくけど、私が自由にできるお金なんてちょっとだけだからね」

 

「なんかゴリ押ししたら養ってもらえそう。ま、ま、ま、それはともかく聞くだけ聞いて

よ。そう、明日から真面目に働くから・・・デートしようぜ!」

 

 親指を立てて歯を光らせ、スバルはお決まりのポージングでエミリアを誘う。

 スバル的には最高の決め顔を前に、エミリアはその大きな瞳を白黒させていた。

 

「でーと、って何するの?」

 

「ふっ。男と女が二人きりで出かければそれはもはやデート。その間に何かが起こるのかは、

恋の女神だけが知っているのさ」

 

「それじゃ、今日はスバルはレムとでーとしてきたのね」

 

「ぬおお、予想外の切り返し!ノーカン!ノーカンでお願いします!」

 

 確かに美少女とのお出かけではあったが、食品の買い出しとか所帯じみたものではなく、

もっとお互いにおめかししたりしてのものをスバルは希望する。

 

「一緒に出かけたいっていうのはわかったけど、どこに行くの?」

 

「実は屋敷のすぐ近くの村に超ラブリーな犬畜生がいてさ。あと花畑とかもあんの。エミ

リアたんと咲き乱れる花の共演、それを俺の『ミーティア』でぜひ永遠に残したい」

 

 スバルの私室の片隅に、そっと置かれたコンビニ袋は元の世界から数少ない財産だ。

盗品蔵の激闘を乗り越えた携帯電話やカップラーメンも、そのまま袋に残っている。

 

「充電ができれば、メモリ容量一杯までエミリアたんの画像で埋め尽くす野望がなぁ」

 

「うーんと・・・・村、かぁ」

 

 日替わりでエミリアの待受けを変更する妄想するスバルの前で、エミリアは頬に手

を当てて思案顔だ。そういえば前回も、デートの誘いに迷っていたとスバルは思い出す。

 前回はどうやってOKをもらったのか。記憶を再現するためにスバルは歯を光らせた。

 

「犬畜生超可愛い、行こうぜ!」

 

「でも、スバルに迷惑をかけるかもしれないの。村の人も・・・」

 

「子どもたちとかも無邪気でマジ天使の軍勢、行こうぜ!」

 

「・・・・もう、わかりました。仕方ないんだから。一緒に行ってあげる」

 

「花畑もマジカラフルでワンダフル・・・マジで?」

 

 前回よりもエミリアの抵抗が少なかった気がして、思わず素で驚いてしまう。

 肩透かしを食らったスバルにエミリアは唇は尖らせると、華奢な肩をすくめてみせた。

 

「そんなことでスバルが明日からやる気になってくれるなら、付き合ったげる。もう、あ

んまりふらふらしてちゃダメなんだからね」

 

「しないしない全然しない!もうすでにどうすれば仕事を完璧に終わらせられるかに魂

を燃やし尽くしてるぐらいだよ!」

 

「こんなとこで魂燃え尽きちゃうの!?」

 

 やる気に燃えるスバルにエミリアの驚きが重なり、それから二人して笑い出す。

 ひとしきりそうして笑った後、小さく頷くエミリアがベットから腰を上げた。彼女はス

バルの横を抜け、窓の外の空を見上げて薄く微笑んだ。

 

「うん、今夜も星が綺麗。きっと、明日はいい天気になるわね」

 

「——ああ。そして、忘れられない日になるさ」

 

「またスバルはそうやって・・・」

 

 窓枠に背を預けて振り返り、エミリアはスバルの軽口を注意しようとしていた。が、エ

ミリアの唇の動きはスバルの表情を見て止まる。

——スバルの表情が、いつになく真剣なのが見えてしまったからだろう。

 

「あんまりゆっくりしてると、眠い俺はエミリアたんを朝まで抱き枕と間違えちゃうよ」

 

「今、スバルが・・・・ううん、なんでもない」

 

「そうやって女の子に言葉を中断されると、男心ってすげぇ不安になるんだけど」

 

 意味深な態度を追求するが、エミリアは窓から離れて「なんでもなーい」とスバルの隣

を可愛く通過。そのままドアノブに手をかけて、振り返る。

 

「それじゃ、執事スバルくん。明日からちゃんと働くこと。ご褒美は、頑張った子にだけ

与えられるからご褒美なのです」

 

 軽く掲げた手で敬礼のような仕草をして、微笑みを残しながら銀髪がひるがえる。

 スバルの返答を待たず、扉の外へ消える銀色の影。

 もう手を伸ばしても届かない。部屋には愛らしい少女の残り香がわずかに漂うのみだ。

 しかし——

 

「おいおいおいおい、マジかよ。ったく。俺、超やる気になちゃったぜ。マジで」

 

 約束は再び交わされた。そしてスバルは、再びこの夜に挑むことができる。

 四日間の夜を超えて、五日目の約束の朝を迎えに行くための、朝までの六時間。

 

「さあ、勝負といこうぜ、運命様よ——」

 

 

8

 

 床に座ってベットを背もたれにして、スバルは刻々と夜が明けるのを待ち望んだ。

 冷たい床の感触も、二時間以上座り続けた今ではほとんど感じられない。ただ、その冷

たさを必要としないほど、スバルの体は覚醒の極みにあった。理由は簡単だ。

 

「こんだけ心臓がバカバカ鳴ってて、寝られる奴がいるもんかよ」

 

 心臓の鼓動は早く高く、音はまるで耳元で鳴り続けているように大きく鋭い。全身を血

が巡る感覚が鋭敏に感じ取られて、手先が痺れるような痛みを継続して訴えれいた。

 

「エミリアとの約束が待ち遠しくてこの様か。おいおい、俺ってば遠足前に寝られなくな

る小学生かよ。修学旅行で寝坊したの思い出すな」

 

 思い出で気分を紛らわしながら、スバルは何時間も見上げた空を飽きずに睨みつける。

——長い時間だ、とつくづく思う。

 朝までは四時間ほど。眠気は欠けらもないが、何が起きるのか延々と警戒し続ける状態で

は神経がやられる。襲撃の可能性を思えば、時間潰しで集中を乱すなどもってのほかだ。

 故に思考を続けること、それだけがスバルにできることだった。

 この四日間、即ち二度目の四日間を改めて振り返る。

 出だしの失調と、いくつかの一週目との差異。それらが今夜までの道のりに与たえた影響

は大きい。だが、一方でスバルの記憶に残るイベントの大半は通過できたはずだ。

 ただし、それはループの原因回避の心当たりがない、という不安要素を引きずる。

 エミリアとの関係は良好。ラムやレムやネムとの関係も良くなってる気はするが。

 

「あと、心残りがあるとすれば・・・・」

 

 今夜、ベアトリスに遭遇することができなかった、という点だ。

 前回の最後の夜、スバルはほんの短い時間だがベアトリスと接する時間を持った。それ

が今回は抜けているのと、それを抜きにしてもベアトリスと接触した時間が今回は少ない。

シビアな時間管理に追われて、この四日間はほとんど言葉を交わせていなかった。

 

「前回も、顔は見ては憎まれ口叩き合ってただけど・・・・しっくりこねぇ」

 

 ベアトリスと大した話をした覚えがないが、この二回目の世界の初日。ループの事実に

打ちひしがれるスバルの心を救ったのは、紛れもなくベアトリスの存在だ。

 突き放すような普段の態度にこそ、スバルは安堵を得て立ち直ることができたのだ。

 

「礼の一つでも、言っておくべきだったのかもな」

 

 この世界のベアトリスには心当たりのないことだし、言ったら言ったで嫌そうな顔をさ

レルのは目に見えてるのだが、それでもベアトリスを思うスバルの唇はゆるんでいた。

 

 ベアトリスとの代わり映えのない言い合いすらも、思い出せば笑ってしまう記憶だ。

 ベアトリスだけでなく、ラムやレム、ネムにもロズワールにすら言いたいことがある。

 もちろん、エミリアに万の言葉を尽くした後になるのは許して欲しいが。

 振り返れば笑いが出る。前回と今回、合わせて八日間。内心のゆるみが表に出てきたの

か、朝までまだ三時間以上あるというのに、瞼が少し重くなってきたのを感じる。

 

「ここで寝落ちとかマジで洒落にならん。ネトゲやってるときはとは違ぇんだから・・・」

 

 瞼を擦り、急に湧いてきた眠気を逃す。が、睡魔は寒気まで連れてきていて、思わず

身震いして苦笑してしまう。両肩を抱き、体温を高めようと体をさする。しかし、やって

もやっても寒気が引かない。それどころか、眠気がどんどんと増している。

——楽観的に捉えていた状況、その変化にスバルも気付いた。

 見ればジャージ姿の袖の下、肌には粟立つように鳥肌が浮かび、芯から冷たさに体の

震えが止まらない。異常だ。異世界の気候は、今の元の世界の春過ぎに近い。服の袖をま

くらなくては暑い日もあるくらいだ。それがどうして今、歯なの根が噛み合わないのか。

 

「ヤバい、まさか、これ・・・・・っ!」

 

 震えに寒気ではなく恐怖を感じ、スバルは慌てて床に手を着く。

だが、震えはすでに全身に伝播氏、腕が体を支えれない。今にも崩れそうな膝を酷使

して立ち上がり、スバルはゾッとするほどの倦怠感に吐き気を催した。

 

「だ、誰か・・・」

 

 あれほどうるさかった拍動が弱まり、呼吸に喘ぎながらスバルは部屋の外へ出る。

 助けを求める声は、しかし喉が塞がったように掠れた音しか出ない。

 暗がりの廊下に乾いた空気が漂い、肺が酸素を拒むように痙攣して足を遅らせる

 マズイ、とその考えだけがスバルの脳裏を支配した。

 自分の身に何かが起こっているのか、具体的には何もわからない。

 ただ一つわかっていることは、今、自分が命を脅かされているという事実だけだ。

 呻き、たどたどしい足取りでスバルは歩き出す。向かうのは階段、上階だ。

 通い慣れた通路を、一歩ごとに魂を削るような苦痛を引きずって進む。

 

「はぁ・・・・はぁ・・・・っ」

 

 届いた階段の、一段一段を手足を全部使って上る。上階へ到着するまでどれほどの時間

をかけたものか。それを考える気力も惜しんで、這いずるスバルは廊下の最奥を目指す。

 体の中身がぐずぐずに溶けて、全部一緒くたに掻き混ぜられたような不快感。込み上げ

る吐瀉物が口の端から廊下に垂れ流されて、涙がスバルの顔面を汚していく。

 それほどの醜態をさらしながら、這いずるスバルの脳裏にあるのはたった一人のこと。

——エミリア。エミリア。エミリア。エミリアのとこ理に、行かなくてはならない。

 使命感が、義務感が、言葉にできない感情がスバルを突き動かしていた。

 自分の命に拘泥する、ある種当然の自己保身すらも、今のスバルにはなかった。

 エミリアの居室を目指して這うスバルは、すでに虫の息に近かった。

 腕で体を引きずる力が足りず、壁に体重を預けて体を滑らせながら進む。立って歩くこ

とも、人としての尊厳もなくした姿は、憐れみ以上に嫌悪感を見るものに抱かせる。

 

「———」

 

 全身がだるい。呼吸は荒く、キンと甲高い耳鳴りが鳴り続けている。

 だから、スバルがその奇妙な音に気付いたのは、何の理由もなくただの偶然だ。

——まるで、鎖の鳴るような音だった気がした。

 違和感に体の動きが止まる。壁に預けていた肩が滑り、そのまま頭から地面に落ちる。

 

「————う?」

 

 次の瞬間、衝撃がスバルを弾き飛ばしていた。

 大きく全身がぶれ、床にや倒れるはずだった体が吹き飛ばされている。何度も地面をバウンド

し、顔面で床掃除を行って、スバルは自分が何かとてつもない衝撃を受けたと気付いた。

 痛みは、ない

 ただ、手足の末端から腹の中身まで、全てがシェイクされたような不快感がある。

 

「なに、が・・・・・」

 

 あったのか、と口にしてどうにか体を起こそうと地面に手を着く。だが、震える腕は

地面を掴んでも力が入らない。おかしい。力が、バランスが取れない。右腕がこれだけ頑

張っているのに、左腕は何をしている。どこへいった。

 わけのわからない苛立ちに、スバルは役目を果たさない左腕を睨みつける。

——自分の左半身が、肩から吹っ飛んでいることに気付いた。

 

「——あ?」

 

 横倒しになり、欠損した左半身を見つめて、スバルは呆然となる。

 左腕は肩から吹き飛び、抉れた傷から大量の血が噴き出し、廊下を赤く染めていた。

 傷口の存在に気づいた直後、痛みがスバルの全身を雷のように駆け巡る。

 もはや痛いとも熱いとも表現できないそれらは、陸に上がった魚のように跳ねるスバル

の喉を塞ぎ、絶叫する余裕すら奪ってのた打ち回された。

 視界が明滅し、赤と黄色の光が交互にちらつき、スバルの意識は屋敷から消し飛ぶ。

 死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。

生きていない。死んでないだけ。もうすぐ死ぬ。もう死ぬ。何もわからない。何もかもが

遠い。何も思い出せない。全てどうでもいい。どうでもいいから死にたい。

 そんなスバルだったものの全霊の願いは——

 

「その願い・・・・叶えてあげますよ」

 

 どこかで聞き覚えのある声、それを理解しようとした瞬間

 

「・・・・くは・・・っ」

 

 鎌のようなものを振ると鳴る聞くだけで耳が痛くなるような甲高い音を最後に、半身を真っ二つに斬り裂かれることで叶った。

 

 

9

 

 

「—————!!」

 

 自分の絶叫で目を覚ます、という経験はこれ以上なく心臓に悪いものだ。

 布団をはね飛ばして覚醒したスバルも、息を荒げながらそんな衝動を味わっていた。

 

「ひ、左手・・・・ある、あるよな」

 

 何かを掴もうとしたかのように、虚空に左手が伸ばされている。

 真っ二つに斬られて、泣き別れした下半身は健全だ。右腕で抱くようにしてそれを確かめ、スバルは

短い間に味わった喪失感の壮絶さに、空っぽの胃袋を嘔吐感に震わせた。

 内臓が痙攣するような感覚にさらされながら、スバルは復活した左手と半身を見る。

 手の甲に傷跡はもちろんない。吹き飛んだ跡も、犬に噛まれた跡もだ。

 

「また、戻ってきちまった・・・・いや、戻ってこられたって言うべきか・・・」

 

 傷跡の消失は、スバルが運命に敗北したことを意味する。

 時間を逆行してきたのだ。あるいは、リベンジの機会を与えられたといってもいいが。

 顔を上げ、スバルは自分が今、何時のどこかにいるのかを意識した。

『死に戻り』の経験則としては、戻ってくるとすれば『ロズワール邸初日』が想定した

セーブポイントだが、確信は持てない。また別の時間軸、というものもあり得る話だ。

 とにかく、まずは時間の確認を——そう思い至ったときだ。

 

「あ、ごめん、おはよう」

 

 ようやく、部屋の片隅で末っ子を守るように前に出てスバルを見る。三姉妹の姿に気付いた。

 意識不明だった男が絶叫しながら目覚めれば、それはそれは驚いただろう。

 空気の読めないスバルの挨拶にも、まるで親が子を守るように身を寄せ合うラムレム、そしてそれに隠れるネム三人は

返事をしない。頭を掻き、スバルはどうしたものかと思い悩む。

 ラムとレム、ネム三人はスバルのことを忘れているだろう。それはスバルの胸にかすかな痛

身をもたらしたが、その痛みを無視してスバルは笑みを作った。

 友好的に、こちらから誠意を込めて。

 彼女たちが何もかも忘れてしまっても、スバルは覚えているのだから。

 

「ご迷惑をおかけしました。ナツキ・スバル、再始動します!」

 

 ベットから勢いよく床に降り立ち、スバルは指を天に突きつけてポージング。

 突然の奇行に三姉妹が驚くのも構わず、スバルは決めポーズのまま、

 

「ところで、今って何日の何時?」

 

——ロズワール邸、三度目の初日が幕を開けた。

 

 




最後まで読んでいただきありがとうございました!
この先の物語で、我が絵師の先生に挿絵を描いてもらう予定なのでお楽しみにです!
(Twitterであげます)


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ifルート【ネム】第四章

少し間が開いてしまいましたが、第四章無事投稿です。
前回に引き続き、第四章となっております。
ぜひ、最後までお楽しみください!


第四章  「逢魔時の鬼ごっこ if」

 

 

—改めて記憶に残っている四日目のことを思い出し、スバルは結論する。

 

「初回の死因は、寝てる間の衰弱死ってことか・・・・」

 

 朝を待つスバルの身を襲ったのは、突然の耐え難い眠気と寒気だ。全身から体力と精力

を奪ったあの感覚は、短時間でスバルを衰弱死させるのに十分な力を発揮した。

 眠って無防備なまま同じ状態で陥れば、それこそ永遠に眠りから目覚められまい。

 

「ただ、鎖・・・いや、鎌?みたいな聞くだけで耳が痛くなる音もしたんだよな。

それにあの「その願い・・・叶えてあげますよ」って声、どこかで・・」

 

 衰弱に関しては推測も成り立つが、鎖、鎌、謎の声に関しては心にはひかかるもののわからずじまいだ。

 長い鎖が重なり合う独特の金属音に、甲高い耳の鼓膜が潰れるような鎌の音。それらがおそらく凶器で、

 スバルは全身を抉られ、切り裂かれた。

 傷跡を思い出すだけで、なくした全身に稲妻が走るように痛み出す。肉体はその体験を覚え

手いないのに、魂がその記憶を拒絶しているのだ。

 

「襲撃者がいた・・・・ってことか。衰弱と鎖それに鎌・・少なくとも二人か、同じ人物とはわからねぇが」

 

 今回の収穫といえば、下手人がいたという事実が判明した点だけだ。

 四日目の夜に行われる、ロズワール邸への襲撃。その哀れな犠牲者リストの中に、スバ

ルの名前が加えられたのだ。屋敷の他の面々の名前はどうか知れないが。

 

「俺が載るぐらいなら全員だろ。たぶん、盗品蔵と同じでエミリアの王戦絡みだから」

 

 しかし、とスバルはそこまで考えて頭を抱える。襲撃があり、狙いがエミリアたちで

あることは看破できた。そこまでは上首尾といえる。

 

「けど、それがわかっても説明できる証拠も、未然に防ぐ手段も俺の手の中にはねぇ」

 

『死に戻り』の厄介さは、死ぬ前の世界の情報を説明できないところにあるといっていい。

 ましてや今回は屋敷への襲撃の予見だ。ロズワールに対策を呼びかけることはできるが、

それで襲撃者の対応が変われば、その変化には対応できない。 

 そして襲撃者を撃退するという手段もあるにはあるが、スバルの戦闘力の低さと相手の

戦力がわからない点から選択肢としてアウトだ。

 ゲロ吐いてボロ泣きしてたら殴り殺された、というのが前回の簡単なあらましである。

 

「我ながらひどすぎる。おまけに相手の面も得物も見ていない。犬死前回じゃないか・・・」

 

 相手の素性も見てこないのでは、撃退プランすら練り始めれない。

 腕を組み、首をひねり、スバルはぐるぐると部屋を周回する。と、そんなスバルに、

 

「——死ぬほどうっとうしいから、とっととやめるか吹き飛ばされるか選ぶといいのよ」

 

 部屋の中央、スバルの円運動の中心にしたベアトリスが、心底不機嫌にそう言った。

 スバルは険悪な表情のベアトリスに振り返り、邪気のない顔で舌を出す。

 

「悪い悪い。でも、こうやって頭以外のとこも回転させてっと不思議と頭の方も回るんだ

よ。だから大目に見てくれ。俺とお前の仲だろ」

 

「ベティーとお前にどんな関係があるのかしら。まだ二回しか会ってもいないのよ」

 

「そんなこと言っても心は正直だぜ。俺をさらりと部屋に入れてくれたくせに」

 

「お前が勝手に『扉渡り』を破ってきやがったかしら。ホントに信じらんないのよ」

 

 相変わらず、スバルへの敵意を隠そうともしないベアトリス。そんな少女の態度にまた

も救われた気持ちで、スバルは目覚めの朝に禁書庫へ足を運んでいた。

 割り切ったつもりでいても、やはりラムやレム、ネムの三人に初対面扱いされるのは辛い。

 前回と違って三人に断りを入れて部屋を出たが、縋れる場所はここしかあり得なかった。

 

「まぁ、お前に迷惑はかけねぇよ。茶でも出してゆっくりさせてってくれ」

 

「そんなもん出るわけないかしら。ああもう、うっとうしい」

 

 己の縦ロールに触れながら、ベアトリスは苛立ったように口の端を歪める。

 ふと、そんなベアトリスを見て思ったことがあった。

 

「そういや、お前って見た目そんなんでも魔法使いなんだろ?」

 

「気に入らない言い方なのよ。そんじょそこらの二流と一緒にされたら困るかしら」

 

「・・・・お前、友達少ない方だろ」

 

「どうして今の話からそんな話題に飛ぶのかしら!」

 

「いや、俺も友達いないからわかるけど、お前のそれはよくないよ。さすがにその年頃か

ら高飛車キャラやってるとあとに響くって。矯正できるうちにやっとけ」

 

 顔を赤くするベアトリスを煽りつつ、スバルは咳払いで場の空気を改める。納得いかな

げな表情の魔法使いベアトリスに、スバルが折れ入って聞きたい話。それは、

 

「相手を衰弱させて、眠ったように殺す魔法・・・とかってあるか?」

 

 スバルの陥った衰弱——あれが毒や病によるものか、魔法によるものか確定させたい。

 あの夜、全身を襲った怖気と倦怠感の正体は、今のところ魔法であると疑っている。

 空発的な伝染病にかかる切っ掛けが見当たらない上に、発症してから数時間で衰弱死さ

せるほどの病だ。異世界とはいえ、そうそうあることとは思えない。

 次に毒物による暗殺の可能性も考えたが、あまり確実性に欠けているだろう。スバルを撲

殺した下手人がいた、死に際に聞こえた鎌の音と半身を抉ったおそらく鎖の音からして

 下手人は二人と予想する。だが、毒と直接攻撃が重なるのは明らかに不自然だ。

 問いかけにベアトリスは眉を寄せたが、スバルの態度に小さく肩をすくめて答えた。

 

「あるかないかで言えば、あるのよ」

 

「あるのか」

 

「魔法というより、呪いの方に近いかしら。呪術師が得意とする術法に、そんなものが多

いのよ。陰険な呪術師らしいやり方かしら」

 

 呪術師、という新たなジョブに困惑するスバルに、ベアトリスは指を一つ立てて講義。

 

「呪い師——転じて呪術師は、北方のグステコって国が発祥の、魔法や精霊術師の亜種なの

よ。もっとも、出来損ないばかりでとてもまともに扱えたもんじゃないかしら」

 

「でも、実際に他人を呪い殺せたりするわけだろ?どこが出来損ない?」

 

「そこが出来損ないなのよ。——使い道が他者を害するものしかない。マナの向き合い

方として、これほど腹立たしい術師共が他にいるものかしら」

 

 呪術への忌避感はこの世界では根深いらしく、ベアトリスは嫌悪を隠しもしない。スバ

ルも呪いを庇う理由などない。今はもっと情報が欲しいと身を乗り出して先を促す。

 

「それで、その呪術ってやつならさっき言ったみたいな方法も?」

 

「できる、とは思うのよ。でも、呪いをかけるよりももっと簡単な方法もあるかしら」

 

「簡単な?」

 

「お前はそれを、身をもって知っているはずなのよ」

 

 首を傾げるスバルに、ベアトリスがこれ見よがしに掌を向けて酷薄に笑う。少女の似合

わない禍々しい笑みと、言葉の真意からスバルは答えに辿り着いた。

 

「まさか、お前・・・あの強引なマナドレインって、死ぬ可能性があんのかよ!?」

 

「マナは生命力そのものでもあるかしら。それを強引に吸い出し続ければ、衰弱死させる

ことだってできる。呪術師なんて奴らに頼るより、よっぽど楽で確実なのよ」

 

「最初・・・いや、初日だとさっきか!さっきも下手したら殺すきだったのか!」

 

「ここで死骸になられると、お前の死骸をまたぐのが面倒だから加減したかしら」

 

「死骸って言うな。虫みたいに聞こえるだろうが!」

 

 ホントにそんな程度にしか思ってなさそうな目を向けられて、スバルはどうしてここを

安住の地に感じたのかと自分に疑問。

 

「まさか、俺を殺したのはお前じゃないだろうな・・・」

 

「死んでたならこうして話す煩わしさも消えて楽だったのよ。残念だけどベティーは忙し

胃から、お前を殺してやってる手間も惜しいかしら」

 

 両手を後ろに組み、スバルの隣を抜けて書架の前に立つベアトリス。ゴスロリな衣装の

裾を揺らし、背伸びする少女はその上背より少しだけ高い場所を目指す。と、

 

「これでいいのか?」

 

「・・・・その隣なのよ。とっとと渡すかしら」

 

「へいへい」

 

 意外と分厚い本を書架から抜き、膨れ面のベアトリスに手渡す。受け取ったベアトリス

は不満げな顔つきのまま、礼も言わずに部屋の奥の脚立に座り込んだ。

 椅子を使うよりしっくりくるのだろうか。何度も禁書庫で見かけた姿だ。

 

「それは何の本を読んでいるんだ?」

 

「部屋に入った虫を追い払う方法が書いてあるのよ」

 

「書庫に虫がわいてんのか・・・最悪だなそれ。どんな奴だ」

 

「黒くてでかくて目つきと口が悪いのよ。あと、態度もでかいかしら」

 

「ずいぶんと特徴ある虫だな、そいつ・・・」

 

 あたりを見回し、できればとっとと退治してもらいたいものだと思う。

 首をひねるスバルに、本に目を落とすベアトリスが吐息をこぼした。

 

「まだ何か用があるのかしら。何もないなら出てってほしいのよ」

 

「ああ、えっと・・・・そう、さっきのマナちゅーちゅー吸う奴って誰にでもできんの?」

 

「その表現は心外に尽きるかしら。・・・屋敷だと、できるのはベティーとにーちゃぐらい

なのよ。ロズワールにもできないかしら」

 

「へぇ、本人は万能みたいなこと言ってたと思ったけどな」

 

 ロズワールも見栄を張ったということだろうか。それとも、効果の地味さに反して意外

とレアなスキルだったりするのだろうか、マナドレイン。

 

「ともあれ、あんましべつまくなしにちゅーちゅーやるなよ。特に俺とか、真面目に今

は血が足りてねぇんだからあっさり衰弱死するぞ」

 

「ああ、モツは全部戻したけど、血までは戻らなかったかしら。まぁ、ベティーもそこま

でやってやる義理はないのよ」

 

 肩をすくめてみせるベアトリスの発言に、スバルは『ん?」と首を傾ける。

 今の文法だと、どうにもおかしな事実が浮かび上がってしまうのだが。

 

「今の言い方だと、なんか俺の傷口塞いだのがお前みたいな感じに聞こえたんだけど、エ

ミリアの手柄横取りとか性格悪いぜ?」

 

「あの半端者の小娘に、致命傷まで治せる力なんてまだないのよ。にーちゃと小娘で傷を

小康状態にして、ベティーが治療した・・・どうしたのかしら」

 

「いやマジ超複雑」

 

 思わぬところで明かされるスバル生還の裏事情。

 てっきり、路地裏で傷を治してもらったと同じように、スバルの傷を治してくれた

のはエミリアだとばかり思っていたのだが。

 疑わしさに目を細めてみるが、胡乱な顔つきのベアトリスに動揺はない。よほど肝が

据わった大嘘つきでないかぎり、事実を言っているとみていいだろう。

 つまりベアトリスは、

 

「肝が据わった大嘘つきか。マジ、性格最悪だな、お前!」

 

「他人様の厚意を素直に受け取れないお前も相当なのよ!」

 

 失礼なスバルの物言いにベアトリスが怒鳴り返し、取っ組み合い寸前にもつれ込む。

 もっとも、最終的には魔法力で弾かれたスバルが逆さに壁に叩きつけられて決着だ。

 壁にぶつかって上下反転するスバルの前で、ベアトリスが長い縦ロールを撫で付け

 

「そろそろ出ていってもらうかしら。手の震えも止まっているし、恐いのも誤魔化せるよう

になった頃合いなのよ」

 

「・・・ばれてた?」

 

「隠そうとしてたのかしら?そうそう都合よく扱われるのも心外なのよ」

 

 つまらなさそうに鼻を鳴らし、ベアトリスは虫を払うようにスバルに手を振る。

 少女の言葉に、スバルは顔の前に手を持ち上げる——指先は、震えを忘れていた。

 死ぬのも通算で五度目になるが、決して慣れるものではない。むしろ回数を増すごとに

死の経験は積み重なり、死の恐怖を再び味わうことを想像するだけで足がすくむ。

 ましてや今回は死に方が死に方、惨殺だ。戻ってきたスバルの心が絶望に軋み、指先や

足に勇気が通わないことを誰が責めるだろう。

 

「なんて言い訳タイムも終了か。優しくないね、まったく」

 

 嘆息を最後に置き去りにして、立ち上がるスバルは禁書庫の扉に手をかけた。

 振り返り、スバルの方を見てもいないベアトリスに苦笑する。

 

「悪かった。でも助かった。また頼む」

 

「次はもっとごっそりマナをいただくのよ。だからもう、くるんじゃないかしら」

 

 本に目を落としたまま、すげない口調で切り捨てる。ベアトリスのその姿勢に背中を追

われた気がして、スバルはドアノブをひねって「扉渡り』を抜ける。そして——

 

「その前にお前、さっきの虫ってひょっとして俺のことか!?」

 

「もうとっとと出ていくのよ、ぶっ飛ばされたいのかしら!?」

 

ぶっ飛ばされて『扉渡り』が行われた。

 

 

 

 

2

 

 

「えっと、大丈夫って聞いていい?」

 

「その優しさだけが俺の癒しだよ。これホント、嘘偽りなく」

 

 庭園で銀髪の少女に見下ろされながら、スバルはそう言って肩を落とした。

 ベアトリスの魔法力に弾かれ、『扉渡り』で強制的に転移させられたスバルは、庭園の

二階テラスの窓から射出されて花壇へ転落した。危うく、死因・口論である。

 

「ますます、俺を殺したのがあいつである説有力になるな・・・」

 

「その花壇、昨日にレムとネムが動物の糞を肥料にまいてたのよね・・・・」

 

「うおおおわああ、三秒ルールー!」

 

 三秒どころかがっつり三十秒は突き刺さっていた花壇から飛び出し、微妙に距離を置く

エミリアの前で、スバルは泥とひょっとすると泥以外で汚れた服を必死で叩く。

 

「ノーカン!ノーカンだよね!昨日の話だし、浄化されてるよな!?」

 

「あのね、こういうのは『ウンが付く』って幸運が付くのと言い換える考え方があって』

 

「すでにエミリアたんが慰めモードにシフトしてる!」

 

 半泣きで袖を振るスバルを不憫に思ったのか、エミリアはその端正な面に苦笑を刻むと、

そっと胸のペンダントに指で触れる。

 

「——パック、起きて」

 

 緑の結晶が、エミリアの呼びかけを切っ掛けに淡く輝き出す。光は次第に小さな輪郭を

結び、やがて小さな猫の像を結んで、エミリアの掌の上へと出現させる。

 小猫は小さな体を思い切り伸ばし、まるで欠伸でもするような仕草をした。

 

「うーん、おはよう、リア。ああ、それとスバルも起きたんだね」

 

「おはよ、パック。起きていきなりなんだけど、スバルの体、洗ってあげてくれる?」

 

 片目をつむっておねだりするエミリアに、思わずスバルの方が見惚れる。娘の頼みにパ

ックは振り返り、スバルの泥まみれの様子を見ると納得したように頷いた。

 

「それじゃ、洗うよー。それ!」

 

「洗うよーって気軽に言われても・・・うぇいっ!?」

 

 突き出されたパックの両手を起点に、青白い輝きが展開——直後、光が大量の水となり

すさまじい勢いでスバルの半身を直撃、この世の不浄を一気に押し流す。

 

「鉄砲水か——!」

 

「おっとと、バランスが悪い」

 

 半身に水を浴びてくるくる回るスバルの体を、余計な気を働かせたパックが水に角度を

調整して逆回転に。右へ左へ、抵抗もできずに回されに回される。

 

「ほら、きれいになったね。よかったね』

 

「も、弄ばれた俺の・・・・この、心は・・どうおろろろろろ」

 

 目を回し、水浸しの芝生の上でグロッキーのスバル。濡れた袖で顔を拭きながら、よれ

よれの状態でどうにか立ち上がった。

 

「あまりの勢いに腕がもげるかと・・・おい、まさか本気でお前らが犯人じゃねぇよな?」

 

「何を疑ってるのかわからないけど心外だよ、心外。ぷんぷん・・・・うにゃ!」

 

 空中でふわふわ浮きながら怒った仕草の小猫。その狭い額にデコピンを打ち込み、悲鳴

を上げさせてからスバルはエミリアに向き直った。

 なんだかこれまで一番、ありがたみの薄い再会になってしまった。本当は決死の状態

から復活したスバルを、エミリアが涙ながらに迎える感動の場面のはずだったのに。

 この状況を打開するために、まず最初に何を言うべきか——。

 

「ぷっ」

 

「ほぇ?」

 

「あはは!もう、ゴメン、ダメ。あは、ふふふふ!もう、二人して何やってるの・・・

ああ、お腹痛い。やだ、死んじゃうっ」

 

 突然、堪え切らずに笑いだしたエミリアの前に、不安が吹っ飛んだ。 

 濡れ鼠となったスバルを指差して、エミリアは整った面いっぱいに喜色を刻んで笑って

いる。予想外の反応に、スバルは自分の頭の横に浮くパックと顔を見合わせた。

 

「とりあえず、最初の悪印象は挽回!アシストありがとうございます、御父さん!」

 

「誰顔が御父さんか。そう簡単に娘はやらんよ!」

 

 スバルの図々しい言葉に、胸を反らしたパックが偉そうに言い放つ。

 それを聞いてまた、エミリアの大きく笑う声が庭園を弾けた。

 

 

3

 

 

「ラムたちに庭園に向かったって聞かされたのに、ちょっと遅いな〜って思ってたの」

 

 笑い終わって庭園の端で、エミリアはスバルを見つめてそう話した。

 エミリアの瞳にはいまだに涙が笑いの残滓となって残っており、それをすくいながらの

やり取りだ。爆笑されたスバルはちゃっかり手の中のパックを弄びながら、

 

「へぇ。遅いなーって思っててくれたってことは、待っててくれたって思っていいん?」

 

「えっと、違うわよ?確かにお礼を言わなきゃって思ってたし、下手に私が動いてすれ

違ったら嫌だなって思ってたりもしたけど、ここに残ってたのはたまたまなの」

 

「そ、たまたまだよ、スバル。色々と理由つけてボクの毛繕いを長引かせたり、微精霊相

手に同じ話を何回もしてぐったりさせたり・・・それも全部、たまたまなんだって」

 

 相変わらず誤魔化しが下手なエミリアの自爆を、パックがさらに誘爆させる。

 

「もうっ、パック?」

 

「素直になればいいのに。そこがリアは可愛いんだけど・・・・スバルもそう思うでしょ?」

 

「超思うよ!エミリアたんの何もかもが、俺には輝く一番星だ!」

 

「スバルまでからかうんだから・・・あと、そのたんってなに?どこから出てきたの?」

 

 そろそろ恒例のやり取りなりつつある呼び名への疑問。

 前回まではなし崩しにエミリアが受け入れるまで放置してきた話題だが、スバルは顎に

手を当てて悪い笑みを作って、丸め込むことにした。

 

「これはいわゆる愛称ってやつだよ。パックがエミリアたんをリアって呼んでるのと同じ

感じで、親しい二人の間柄を示す一種の愛情表現だな」

 

「・・・・私、スバルとそんなに仲良くなった覚えないんだけど」

 

「地味に傷つく発言だけどめげない俺。関係の前借りだと思ってよ。俺はこうしてエミリア

たんと愛称で呼べる関係になるぐらい親しくしたいと思ってるってこと。オーケー?」

 

 少なくとも、数日先の夜にはその呼び方を許してくれるぐらい距離を深めていたと思う。

 スバルの強引な言い分にエミリアは驚いた顔をして、それから少しだけ頬を赤らめた。

 

「ん・・・わかった。それで納得してあげます。やだ、ちょっとこっち見ないで」

 

「うちの娘。友達少ないから。呼び名とかそういうのに飢えてるんだよ。ちょろいの」

 

「俺のメインヒロインちょろいんだ!」

 

 顔を背けるエミリアの肩の上で、己のヒゲを手入れしているパックの返事にスバルは驚

く。登るには険しい壁だと思っていたが、意外と取っ掛かりが多いと気づいた気分だ。

 

「ただ、身分違いは継続中だしな・・・貴族制度とか、もうちょい詳しく調べねぇと」

 

「むぅ・・・なんだか、すごーく私にとって不本意なお話してなかった?」

 

「E・M・P(エミリアたん・マジ・プリティ)って合意に達しただけだよ。お?」

 

 エミリアの追及を戯言でかわし、ふと屋敷を振り返るスバルの目が細まる。

 

「ラムとレムそしてネム、ね。朝食の時間には、まだちょっとあるはずなんだけど・・・・」

 

 スバルの視線を追いかけて、屋敷から出てきた三姉妹を見つけてエミリアが首を傾げる。

銀髪が陽光を受けるのを目に焼き付けながら、スバルはイベントの進行を確認。

 ロズワール帰還のタイミングだ。スバルたちの前へきた三姉妹が、同時に頭を下げる。

 

「当主、ロズワール様がお戻りになられました。どうぞお屋敷へ」

 

 何度聞いても惚れ惚れするステレオ音声だ。

 エミリアが三人に頷くのを見ながら、スバルはその場で屈伸してから三姉妹に向き直る。

と、ラムとレム、ネムの三人は今のスバルの姿を上から下まで眺めて顔を見合わせる。

 

「姉様、ネム。ちょっと見ない間に、お客様が泥塗れの濡れ鼠になってます」

 

「レム、ネム。ちょっと見ない間に、お客様が汚物塗れで汚いボロ雑巾だわ」

 

「姉様、姉様。ちょっと見ない間に、お客様がずぶ濡れで見るにも耐えません」

 

「言われなくてもドブネズミになってんのわかってるよ。俺のジャージ、どこにある?」

 

 辛辣な三人のコメントに苦笑して返し、スバルは屋敷の景観を見上げた。

 着替えて、身なりを整えて、改めてロズワールと向き合うことにしよう。

——今回は、前回までと違ったアプローチをしてみるつもりなのだから」

 

4

 

 

 

——実質、三度目になるロズワール邸の一週間。

 その三ループ目の今回において、スバルが重視したのは情報収集の一点だった。

 

「キーワードは魔法と鎖、それに鎌と謎の声だけど・・・・これじゃまだまだ何もわからねぇ」

 

 わかっていることは、四日目の深夜に何者かの襲撃があるという事実のみ。

 現時点でのこの情報をロズワールたちに公開しても無下にはならないだろう。ただ、スバ

ルは情報の出所を説明できない。下手に打てばスバルも敵対する刺客の一味などと疑われ

かねない。せめて、襲撃者の背格好だけでもわかれば話は違っただろうが。

 

「だから今回はいっそ、情報収集と割り切る。『死に戻り』の条件が前回と同じなら・・・」

 

 王都のループでは三度死亡し、四度目で突破できた。その前提通りなら、あと一度は戻

ってこられるはずだ。今回の情報を活かし、四度目で世界の突破を果たす。

 

「正直、最初から諦めてるっぽくて選びたくない作戦なんだが・・・」

 

 しかし、打てる手段が限られてる以上、こうした犠牲を払う覚悟は必要だ。それにも

とより、捨て回を投げ捨てるつもりは毛頭ない。やり直す覚悟と、最初から諦めて挑むの

とでは話が違う。可能なら、今回でループを脱することも念頭に入れている。

 

「そのために、パックにはそれとなくエミリアを守るよう伝えてあるしな」

 

 庭園で戯れている最中、スバルはそっとパックにエミリアの身辺を気遣うよう耳打ちし

ていた。相手の感情が読める小猫は、スバルの真剣さに嘘はないと思ってくれたようだ。

 

「色々と曖昧な話だけど、リアを案じているのは確かみたいだからね」

 

 と、強引なスバルの話運びを寛容な態度で受け止めてくれた。

 これでエミリアの安全はある程度確保できたと考えていいだろう。

 深く追及されなかったことと、肩の荷を下ろすことができてホッとする。

 

「あとはロズワールとあのロリにそれとなく・・・それとなくって、どうやんだよ」

 

 がしがしと乱暴に頭を掻き毟り、羽ペンを鼻の下に挟んで背筋を伸ばす。

 待ち受ける難題の多さに頭が痛い。それでも、できる限りの手を尽くすのだ。できるな

らラムにもレムにもそれにネムにも、もちろんロズワールとベアトリスも、無事に四日目を乗り越えても

らいたい。山頂の高さは、挑まない理由にはならいないのだから。

 

「失礼します、お客様」

 

 椅子の背もたれに体重を預け、軋む音を響かせていたところへ外から声がかかる。

 

「おう、その声はネムか?入っていいぞ」

 

 スバルの応答を受け戸を開けて姿を見せたのは、紫髪のメイド——ネムだ。

 ネムは手に湯気立つカップを乗せた盆を持ち、机に向かうスバルを見ると眉を上げた。

 

「ん、本当に勉強していたんですね、お客様」

 

「お前、超失礼だな。仮にも現在、お屋敷のお客人ですよ、俺」

 

「食客という名の居候でしょう。ネムはそう認識しておりますよ、お客様」

 

 悪びれもない様子で部屋に入ってきて、ネムは手際良くお茶の配膳を始める。

 その作業を傍らで眺めながら、ネムの言いぶりにスバルは苦笑を隠せない。

 食客もとい居候——その表現があまりに的確に思えたからだ。

 

「どうぞ、お客様」

 

「お、ありがと。あちあちあち」

 

 受け取ったカップの中を見下ろすと、琥珀色の液体が湯気を立てて水面を波立たせてい

る。この世界のお茶は見た目や味ともに紅茶に近い。香り高さを楽しむ点も同じだ。

 そっけない態度のネムだが、こうしてお茶を入れる作法はレムに習ったのかなかなか様になっていた。

 ネムの洗練された仕草を見届け、スバルは出されたお茶をゆっくりと味わい、頷く。

 

「うん・・・やっぱマズイ」

 

「お屋敷の中でも最高級の茶葉に、罰が当たりそうな感想ですね。ネムでも美味しいと思うのですが」

 

「苦いもんは苦い。ダメだ、やっぱ俺は紅茶って葉っぱとしか思えねぇ。植物の味がする」

 

 顔をしかめるスバルを冷たい目で見て、ネムはベット付近で綺麗な姿勢で立っている。

 

「もっと気楽にしてくれてもいいんだぜ。食客だからってそんなに偉いわけじゃないしさ」

 

「そう・・ですね、では失礼します」

 

 ネムの姿勢には言葉も出ない、スバルは万歳をして椅子の背もたれを大きく鳴らす。その

音を聞きながら、ベットでくつろいでいたネムが、ふっと流し目にスバルを見た。

 

「えっと、二日後には出ていくお客様は、少しは進展とかしているのですか?」

 

 ずいぶんとストレートに聞いてくるところがラムの遠慮なさに似ているとものだと、スバルは思わず小さな苦笑を浮かべる。

——この三回目のループが始まって、すでに事態は二日目の夜に入っている。

 今回の三回目のループでのスバルの屋敷での立場は、これまでとは打って変わって客人

待遇だ。それもそのはず、最初の朝食での席でスバルがそう望んだから。

 

 客人待遇を求めた今回、スバルは客室を与えられて、レムとラムとネムに身の回りの世話をさ

れながら、前回の文字習得の勉強を継続している。

——それも全ては、後腐れなく一度屋敷を離れる理由を作るために。

 内心で先々の構想を練りながら、指先は別の意識が働いているようにイ文字を模写し続

けている。気持ち悪いほど機械的な動きで、まったく頭に入ってきてないが。

 

「その惚けた顔は集中しているからですか?それともいつも通りですか」

 

「文学青年まっしぐらな今の俺を見て良く言ったもんだぜ。一心不乱に机に向かう俺の背

中を見て、思わずときめいちゃったりしない?」

 

「品性の欠片もない発言、そしてこの読みづらい字。——文学青年が聞いて笑われてしまいますよ、お客様」

 

「本当にラムにそっくりだな、時々分身かと思うくらいだよ。もっと可愛らしいメイドになってくれよ」

 

 スバルの恨めしげな提言は爽やかに無視され、ネムは文字で埋め尽くされたページをぺ

らぺらと無に等しいの顔つきでめくっている。表情の動かないにネムの横顔を睨みながら、

こうして距離を縮めてきている態度に腑に落ちないものを感じずにはいられなかった。

 

 使用人待遇であった前回までと違い、今回、ネムたちとの接点は少ない。それこそエミ

リアを追いかけている時間以外は、こうして部屋にこもって文字の書き取りに追われてい

る。たまに、ちゃんとベアトリスをからかいに行って入るが。

 だからラムとレムとネムの三人には、使用人と客人の距離感でしか接触していない。しかし、ネムは

姉方に言われているのか、時々こうしてスバルの部屋を訪れて、スバルの様子を見守っては、

時間を過ごしていく。それが、不思議ではならなかった。

 

「じっとネムを見つめるのはやめてください。姉様に言いつけますよ。お客様」

 

「わりぃわりぃ、少し考え事しててな。姉様に言いつけるのはやめてくれ、平手打ち飛んできそうだから」

 

 気まずさを誤魔化すように目を逸らした先、赤茶けた背表紙の本が置かれている。拾い

上げたそれは参考書扱いの童話であり、点在する文字もそろそろ理解できる。

 

「つまり、時は満ちたってことだ。そろそろ、勉学の成果も実感したいしな」

 

「知らなければ恥をかくような、ネムでも知っている常識なお話ばかりです。文学青年を気取るなら、

このぐらいのイ文字は完璧でないと」

 

「俺が文学青年気取ったのそんなに嫌だった?」

 

 ネムはスバルの問いかけに応じず、机の上に残っていたカップをお盆の上に片付ける。

それはスバルの飲みかけだったのだが。

 

「おーい、まだ飲みかけなんですけど、片付けるの早くね」

 

「どうせ不味そうな顔をして飲むんですからいらないでしょう。お茶だって、どうせなら味の分かる方

に飲んでもらったほうが嬉しいですよ」

 

「だから葉っぱの味がするって感想言ったじゃん・・・ああ、もういい。俺は本に没頭する

から、姉様んとこに甘えに行くなりてけとーに時間潰すなり好きにしてけ」

 

 ぞんざいに手を振ってから、スバルは椅子に寄りかかって童話集を開いた。最初に作者

の序文と目次のページがあり、本文に入る流れは見慣れた本の書式にならっている。

 

「ええと、なになに・・・むかーしむかし」

 

 やっぱり、どの世界でもおとぎ話の始まり方はこれがしっくりくるんだなぁ、と妙な納

得をしながら物語を読み進める。童話、というだけあって物語の起承転結は非常に明快で

簡潔。子どもへのわかりやすさ優先で、想像の余地が多いところなどいかにも童話だ。

 

「教訓っぽい展開が多いのも一緒だな。もろに泣いた赤鬼みたいな話とかあるし」

 

 ちなみにスバルがおとぎ話で一番好きなものが『泣いた赤鬼』だ一番嫌いなおとぎ話を

聞かれても。『泣いた赤鬼』と答える。

 

「バットエンドもビターエンドもクソ食らえだよなぁ。全部幸せで、いいじゃんかよ」

 

「趣深い感想を言っているところ悪いですが、読み終わったんですか?」

 

「読み終わったよ。微妙な常識感の違いを楽しめて意外と面白かった。こう、まさに異文

化交流した感じ。俺も地元のおとぎ話、いくつか輸入してみようか。泣いた赤鬼とか」

 

「泣いた赤鬼・・?」

 

 異世界への著作問題を考えるスバルの呟きに、ネムが口を固くとじて反応。珍しいネム

の反応にスバルは「へえ」と眉を上げ、

 

「そういうタイトルのおとぎ話が地元にあるんだよ。なんなら話て聞かせようか?」

 指を立てて提案するスバルにネムは無言。ただ、寝台に腰を掛けたまま膝に手を置いて視

線をスバルに向ける仕草が、話の先を促しているのを表明している。

 

「んじゃ、ご静聴願おうか。『泣いた赤鬼』。むかーしむかし、あるところに・・・・」

 

 決まり切った文句から始まるおとぎ話、「泣いた赤鬼」は、人間と仲良くしたい赤鬼と、

その友人である青鬼が織りなす友情物語——そういって、差し支えない話だ。

 山で暮らす鬼の二人は、村人と赤鬼が仲良くなるために試行錯誤した挙句、村で

悪さを働く青鬼を赤鬼が懲らしめ、赤鬼と村人との溝がなくなって仲良しになるという結

末を迎える。物語の最後で青鬼はいなくなり、赤鬼はいなくなった青鬼の友情を示し方に

崩れ落ち、青鬼のために涙を流す。そんな物語だ。

 

「赤鬼は青鬼の家の前に残った手紙を何度も読んで、涙を流しました・・・・おしまい」

 

 簡略的にではあるが、スバルはそんなおとぎ話をネムに対して語り終える。スバル自身、

何回も読み直した物語だ。私見が入らないよう、留意して言葉を尽くしたと思う。

 話を聞いていたネムは口を閉し、頬を硬らせてした。そんな彼女が口を開くのを、スバルは語り終え

他のと同じ姿勢で待ち続ける。やがて、ネムは硬い口を開いた。

 

「・・・・悲しい、お話ですね」

 

 ぽつりと、そうこぼすネムにスバルは頷いた。

 

「そうだな。でも、俺は優しい話だと、そう思う」

 

「登場人物の鬼二人が報われていない気がする、とネムはそう思いますね。赤鬼も青鬼も」

 

「そいつはまぁ、納得する部分もあるな。全部肯定できるわけじゃねぇけど」

 

 三者いずれも考えが足りないのは事実だと思う。騙されるだけの村人はいざ知らず、鬼

二人はもっと話し合えば、もっとまともな妥協点は望めたはずだ。少なくとも、この二人

の間に永遠の別離が訪れる必要など、きっとない未来があったはずなのに。

 

「だから俺は、この話が大好きで大嫌いなんだよ。青鬼の自己犠牲はすげぇかっこいいけ

ど、すげぇ報われてなくて馬鹿だ。俺は頑張っ分だけ報われたいと思うタイプだし」

 

「お客様は青鬼の方をそう思うのですね。・・ネムは、赤鬼の方を救いがたいと思ってしまいました」

 

 ネムの答えにスバルは顔を上げる。ネムは、スバルの方に視線を向けず拳を強く握り、

 

「自分の望みのために青鬼を利用して、結果、自分は何も失わず、青鬼に失わせた。ネムは聞いていて

あまり気持ちよくないお話でしたね」

 

「じゃあ、お前は鬼二人はどうすりゃよかったと思うんだ?」

 

「・・・赤鬼は、本気で人間と仲良くしたいと思っていたなら、人里に下りて

時間をかけてでもゆっくり少しずつ親交を深めていけばよかったんです」

 

「時間をかけてか・・・」

 

 寂寥感に溢れた意見に、スバルは沈黙しながら考える。その様子をネムは見てとり言葉を続ける。

 

「何かを得るための対価を自分ではなく、青鬼に払わせるのはどうかと思います。欲したのは赤鬼なら、

傷付くのも赤鬼であるのが道理です。先走って判断した青鬼にも問題がありますが」

 

「厳しい見方をしやがんなぁ。鬼になんか恨みでもあんのかよ。お前」

 

「——お客様は、鬼のどちらと仲良くしたいと思うんですか?

 

「鬼、二人の?」

 

 ネムの問いかけにスバルは目を瞬かせる。その問いかけは、考えたことがあまりない。

 頷き、ネムは両手をスバルの方へ伸ばして、それぞれの指を一つずつ立ててみせる。

 

「欲するばかりで犠牲は払わない赤鬼と、自己犠牲ばかりで自分を大切にしない青鬼と、どちらですか?」

 

「なんともまぁ、言い方次第って感じの二択を・・・しかも、俺は斬新な村人設定かよ」

 

 『泣いた赤鬼』でディスカッションはしたことないが、村人の立場で物事を考えるのは

珍しい。ともあれ、スバルは差し出されるネムの両手を見つめて、少し迷ってから、

 

「・・・ふーん」

 

「なんだよふーんて、俺が『泣いた赤鬼』を読んだことある以上、どっちの手も取りたいっ

て思っちまうのが人情ってもんだろ?」

 

 ネムの両手を、伸ばしたスバルの両手をそっと押さえる。スバルの答えにネムは嘆くよ

うに吐息し、手が触れる距離にいるスバルを見つめて、

 

「片や自分本位で、片や他人本位。過ぎればどちらも側に置きたくないです」

 

「過ぎたら、な。それは傍にいる奴が教えてやればいいんじゃね?仲良くしたいって

思った赤鬼も、それを助けてやりたいって思った青鬼も悪い奴らじゃねぇだろうし。俺は

島にひきこもってる鬼を問答無用でやっつける正義より、こういう鬼のが好きだね」

 

 頬をつり上げるスバルに瞠目し、ネムは掴まれている指を見つめ、ほどき自分の両手を見る。手を

後ろに組み姿勢を整える。その様子を見て椅子に座り直し、改めてネムに向き直った。

 

「それで、ネムさん的にはお気に召しましたかね、『泣いた赤鬼』は」

 

「どっちとも仲良くしたいだなんて、お客様は欲深くて全てを拾うとするんですね。いつか後悔しますよ」

 

「そういうお話じゃなかったと記憶してるんですけど!?鬼の話とすげ変わってね?」

 

 スバルの叫びに首を横に振り、ネムは小さく手を叩いてその話を終わらせにかかる。ど

うにも性急な態度が気にかかったが、それを言葉にする前にネムが机の上の本を指差し、

 

「お客様の故郷のおとぎ話はともかく・・・こちらのお話で、印象に残ったものは?」

 

「そうだな・・・・気になったのはやっぱ、この真ん中にあったドラゴンと、巻末の魔女

の話だろ。どう考えてもこの二つだけ別枠扱いだし」

 

 ぺらぺらと童話集をめくってスバルは答える。この本の中で、スバルの印象にもっとも

強く残ったのがその二編だ。片方はまさに別格の扱い。そしてもう片方はまるで、

 

「魔女の話はなんつーか、載せないわけにはいかないから載せたぐらいの投げやり感が半

端ないけどな。起承転結とかALL無視して概要だけだぜ」

 

「・・・・魔女の話は仕方ないことです。竜の話が別扱いなのは、ここがルグニカである以

上は当然のことです」

 

「ああ、『親竜王国ルグニカ』だろ?名前の由来、やっとわかったよ」

 

 童話集を机の上に置いて、その表紙に手を添えながらスバルは頷く。

 今、スバルが滞在している大国は『親竜王国ルグニカ』と呼ばれているらしい。

 世界図で見ると、世界のもっとも東に位置するこの国が、『親竜王国』などと呼ばれる

のには理由があった。

 簡単な話だ。この国はずっと昔から、竜と結ばれた盟約で守られてきたというのだ。

 

「飢饉、疫病、他国との戦争——竜はその様々な窮地において、ルグニカを守るために力

を貸してくれたと言われています」

 

「それで付いた名前が『親竜王国』と。童話によると王族と竜の盟約だなんて書いてあっ

たし、こりゃおとぎ話というより昔話だよな」

 

「そうですね、事実ですから。今も貴きドラゴンは、この国の安寧をはるか遠方——大瀑布の彼

方より見守っている。王家と交わした約束、その成就の時までと、ネムは習いました」

 

 厳かにネムがそう告げるのを、スバルは喉を鳴らして聞いていた。

 はるか昔にドラゴンと交わされた約束。——童話にはその内容は描かれていないが。王

国の危機を何度も救ったほどの約束だ。

 そこまで考えて、スバルはふと気付く。竜の盟約、その相手がルグニカ王族ならば、

 

「あれ、ドラゴンと約束した一族って・・・ついこないだ滅んでね」

 

「そうですね。流行り病でお亡くなりになられました」

 

「それってヤバいんじゃね?いや、何がどうヤバいのか全然わかんねぇけど」

 

 約束のためにこれだけ尽くしてくれるドラゴンだ。約束の対価も相当だろう。なのにそ

れを払うべき王族が勝手に滅んだとあれば、これまでの負債はどこへ向かうのか。

 

「竜が何を求めているのか、それは童話に記されていない通りわからない。今の状況で竜

がどう動くかは・・・」

 

「——竜のみが知る。ってところです。お客様」

 

 息を呑み、スバルは暑くもないのに、額に汗が伝うのを感じていた。

 今のネムの言葉を咀嚼し、呑み込み、胃の中で掻き回して吸収してから息を吐く。強大

な力を持つ竜との交渉、それを行うのは王国の頂点。即ち、スバルの知る少女であり、

 

「エミリアにかかるプレッシャーは尋常じゃねぇな」

 

「はい、一国を背負い、その命運を両肩に乗せて、国を守るも滅ぼすも思いのままのドラ

ゴンと相対する——考えただけで、もう童話の一編になります」

 

 エミリアがこの童話集を見て、複雑な顔をしたのは前回のループの最後の夜だ。ページ

をめくるエミリアの手が止まった理由を、今ようやくスバルは悟る。

 エミリアの抱えていたものの大きさ、重さはスバルの想像を大きく越えている。あの華

奢な両肩にどれだけの重責を背負うのかと、そう考えるだけで心が悲鳴を上げるほど。

 

「仕方のないことです」

 

「——は?」

 

「誰にだって生まれ持つ資質があって、それに伴う責任があります。エミリア様は他の誰にもないような資質

を持って生まれてきた。だからその道筋が、どれだけ険しかったとしても歩んでいかなければならない」

 

「女の子一人に、そんなもん全部背負わせてか」

 

「荷物を一緒に持ってくれる人がいてもいいと思います。でも、いずれ辿り着く頂上に

は、必ずエミリア様自身の姿がなくてはならない」

 

 発生源のわからない冷酷な声音がスバルの声を震わせる。そして、それに応じるネムの声は冷

酷で無情そのもの。それがスバルの怒りを刺激しないための配慮だと気付き、肩を落とす。

 ネムにどれだけ怒気をぶつけても、それは筋違いだ。エミリアが背負う重責はネムの責

任ではなく、そもそもスバルが怒る資格もない。それが、無性に悔しかった。

 

「そうだ、ネムネム。もう一個の話なんだが・・・・」

 

 謝るのも違う気がして、スバルは話題を変えようと童話集を指さす。

 本の中央で、明らかに別格の扱いを受けていたドラゴンの話と対をなすように、巻末に

ほんの数ページだけで描かれたその物語はあった。

 題名は『しっとのまじょ』とされている。

 

「この魔女の話って・・・・」

 

「その話はネムは話す気になりません」

 

 ぴしゃりと、それこそドラゴンの話以上に断ち切るように言われた。

 思わず目を見開くスバルの前で、ネムは勢いよく立ち上がり背を向ける。

 

「長居しすぎましたね。姉様たちにも迷惑をかけれませんし、そろそろ戻ります。お客様、夕食の

ときにはまた呼びに上がります」

 

「あ、ああ・・・・」

 

 有無を言わせぬ態度で、ネムはさっさと部屋を出ていこうとする。が、扉に

手をかける直前で足を止めて、ネムは置いてけぼりのスバルに振り返ると、

 

「さっきのお話・・・鬼のことなんですが」

 

「ん、ああ。『泣いた赤鬼』がどうかしたか?」

 

「姉様たちには聞かせないでください。きっと嫌がる話でしょうから。それと・・いえ、なんでもありません」

 

 話も何も、話題がおとぎ話に転がることなどそうそうありはしない。にも拘らず、念

押しするようなネムの言葉に圧迫感すら覚えて、小さく頷くしかない。

 それを見届け、今度こそネムは部屋を出て行き、スバルは脱力感にベットに倒れ込んだ。

 最後のネムの態度。レムやラムにおとぎ話を禁じたこともそうだが、それ以上に、

 

「なんなんだよ、あの態度・・それに最後何を言いかけようとしたんだ・・?」

 

 天井に悪態と疑問をぶつけてから、スバルは童話集を拾ってページをめくる。

 最後の一篇、『しっとのまじょ」は四ページだけの短い物語だ。

 

「こわいまじょ、おそろしいまじょ。そのなまえよよぶことすらおそろしい。だれもがか

のじょをこうよんだ。『しっとのまじょ』と・・・・」

 

 起承転結も何もない、ただひたすら魔女の恐ろしさだけ伝えようとする内容。子ども

でも読める文字で描かれているだけに、より淡伯でストレートな不気味さがあった。

 

「せっかく勉強して読めるようになった本だっつーのに・・・」

 

 達成感や満足感、果ては爽やかな読後感まで、一緒くたに台無しにされた気分だ。

 スバルはベットの上で寝返りを打ち、一度、童話の内容を頭から切り離す。それから考

えるのは、あと二日だけを残した今回のループでの試行錯誤だ。

 明日一日をかけて準備を済ませて、二日後の朝から行動に移す。

 尽きない不安を一つずつ潰しながら、いつしかスバルの意識は眠りの中へと落ちていた。

 

 

 

5

 

 

 

「えーっと、それでは短い間ですが、お世話になりました」

 

 玄関ホールで屋敷中の人間(たった五人な上にベアトリス除く)に見送られながら、ス

バルは別れの挨拶を滞りなく済ませていた。

 スバルが要求した三日の逗留、その約束の期限が訪れ、旅たつ朝がきたのだ。

 ジャージにコンビニ袋を提けた初期装備スバルだが、背中にはロズワールが厚意で持

たせてくれた道具袋を背負っている。ずっしりと重い道具袋にはそれなりの金額が入って

いるらしく、ロズワール曰わく『エミリア様の件の御礼』出そうだ。

 

「ホントに大丈夫?竜車を呼んでもらって、王都ぐらいまで乗っていっても・・・・」

 

 見送りの面々の中、最後までスバルに声をかけるエミリアの表情には心配の色が濃い。

自分を案じてくれるエミリアの態度を嬉しく思いながら、スバルは力強く胸を叩いた。

 

 

「大丈夫だって。ゆっくり、のんびり行きたいんだ。いずれエミリアたんに相応しい、

強くて賢くて金持ちな男になったときは、白馬に乗って君をさらいにくるよ」

 

「ハンカチ大丈夫?飲水とラグマイト鉱石と、それからそれから・・・」

 

「完全にオカン目線!?」

 

 あれこれ心配するエミリア。終いには「一人で寂しがらずに寝れる?」とまできたもの

だから、どれだけ人恋しいと思われているのか。あるいは直感で、胸中に不安を押し隠し

ているスバルの本音を感じ取っているのかもしれないが。

 

「そーぉれじゃ、スバルくん、息災で。短い間だーぁったけど、楽しかったよ。お土産も

なくさないように。君との三日間の思い出の分だけ、ちょこぉーっと上乗せしたから」

 

 

 握手を求めながらウィンクするロズワール。その意図を察したスバルは握手に応じなが

ら、背負った道具袋を揺らして音を立てる。

 

「口止め料だろ、わかってるって。余計なことは言わない。ドラゴンに誓うぜ」

 

「君と接していると悪巧みの回を見失いそうになるね。それにこの国でドラゴンに誓う、

というのは最上級の誓いだ。疑うわけじゃないけど、努努、それを忘れないよーぅに」

 

 ロズワールの念押しに手をあげて応えて、それから上げた手を今度は道化姿の背後に立

っている三姉妹に向ける。無言で佇む三人の肩を、スバルは伸ばした手で叩いた。

 

「三人にも、超世話になった。特にレムりんはいつもうまい飯をありがとうよ。ネムネムは

姉様方のお手伝いよくやってるし、たまに手伝ってくれてありがとな。それからラムちーは

・・・・うん、なんだ、トイレ掃除とか上手だよな?」

 

「姉様、ネム。お客様ってばお世辞が絶望的にヘタクソですよ」

 

「レム、ネム。お客様ってばお世辞が致命的にセンスがないわ」

 

「姉様、姉様。お客様ってばお世辞に品のかけらもございません」

 

「やかましいな、マジで思いつかなかったんだよ。でも、ありがとうな」

 

 全員に別れの言葉を告げて、名残惜しくなる前に玄関を押し開く。

 屋敷の入り口、前庭を抜けて鉄門をぐるぐると、アーラム村まで一直線の林道が続く。基本

は道なりに街道を目指し、途中で竜車を拾って王都へ——それが、スバルの偽プランだ。

 

「スバル、色々ありがとう。何かあったら、いつでも寄ってね」

 

 最後の最後まで、優しい言葉をかけてくれたエミリアに別れを告げて、送り出されたス

バルはアーラム村への道を踏む。屋敷から、スバルが見えなくなるまで手を振る銀髪の少

女。その仕草がどこまでも愛おしく、不安に小さくなっていた使命感が再び燃え上がる。

——林道をしばらく進んだところで、足を止めたスバルは周囲に警戒の目を向ける。人

の気配や視線がないのを確認してから、道を外れて森へと入った。野生動物が多いから森

へ入るのは危険だと、ラムたちに注意されていたにも拘わらず。

 忠告を無視し、草木をかき分けながらスバルは森の奥へ向かう。いくつかの斜面を上り、

時折、枝やざらついた葉で引っかき傷を作りながらもペースは落ちない。

 そのまま、十五分ほども山中を進んだだろうか。

 

「よし、ここだ」

 

 視界から緑が晴れると、高い空がスバルを迎える。森の斜面をいくつも超えた先、ス

バルは山間の小高い丘にたどり着き、眼前の屋敷を見下ろしていた。

 見慣れた豪邸、ロズワール邸の全景を山中から見下ろせる位置だ。

 林道を回り、森と山を経由してたどり着いた絶好の覗きポイント。

 

「特にエミリアの部屋がよく見える。何か異変があれば、すぐにわかるだろ」

 

 遠目に、エミリアの居室の窓が確認できる。中まで覗けないが、騒ぎや異変があれば

確実に予兆を目視できる位置だ。四日目の夜、異常はそのタイミングで必ずくる。

 

「つまりは今日の夜だ。あとは、事が起きるのを待ち構えるだけ」

 

 今が朝で、スバルが殺された時間までは十六時間ほど——集中力は、保つはずだ。

 使用人として働くこともなく、今回は休養にした結果、気力体力は充実している。

 ロズワール邸の異変を事前に察知し、何が起きてもすぐに屋敷に飛び込んでいける条件

を作る。それがスバルの今回用意した、奇襲前提の作戦だ。

 屋敷に残った場合、襲撃者は呪いの対象としてスバルを含める。

 追撃手段に乏しく、戦闘力も低いスバルでは襲撃者に対抗する役目は果たせない。刺客

の情報が一片でも欲しい今、それは致命的なことだ。

 ならばまずはどうするか—-スバルに出した答えは、至ってシンプルなものだった。

 

「今回は死んだもんと割り切って、襲撃者の見極めと襲撃状況の把握・・・それに徹する」

 

 これまでの二度のケースから、スバルは今回の襲撃は王戦絡みの暗殺であると判断して

いる。狙いが本命のエミリアを含んでいるのか、警告のために関係者を狙っているのかは

不明。だが、二度もスバルが殺された以上、関係者は皆殺しにされる可能性は高い。

 

「対策が通じるかは別として、ロズワールも警戒はしてるっぽいんだよな・・・・」

 

 脳裏に浮かぶ道化姿の貴族、ロズワール。スバルは彼がエミリアというキングを無防備

に晒しておくような間抜けではないと想定している。

 屋敷に置かれた、ラムとレムとネムというたった三人の使用人の存在がそれを裏付けていた。

 

 「最初は正直、この規模の屋敷の維持に使用人三人とか頭おかしいのかと思ったけど・・・」

 

 忠誠心確かで、長い付き合いで築き上げた信頼関係で結ばれている主従だ。ラムの行き

過ぎた忠愛と、レムとネムの敬意を見ればそれは伝わってくる。

 ロズワールはおそらく、裏切る心配のない存在だけでエミリアの周囲を固めているのだ。

 数ヶ月前に一人のメイドが辞めているという事実や、使用人を増やせないという内容に

言葉を濁したラムの真意も、それが事実なら納得できる。

 

「問題はその警戒が機能してるのかどうか、実際に襲撃が起きたときに死んでる俺にはわ

からないってことだ。俺が死んでるだけならまだいいが・・・・・・いや、よくねぇけど」

 

 ロズワールの対策が、イレギュラーであるスバルまでは守りきれなかったのであればよ

し。そうでないなら、エミリアにも被害が及んでいることになる。

 そしてスバルは王都で三度、屋敷で二度目の死から、現実は備えに備えを重ねた上から悠

然と手を伸ばしてくると経験している。

 状況は最悪の、そのさらに下を想定して然るべきなのだ。

 

「この場合の最悪は、ロズワールの警戒むなしくエミリアは暗殺される。当然、ロズワー

ルやラムとレムとネム、ついでにベアトリスをまとめて皆殺し・・・・だ、クソ」

 

 想像するだけで胸に嫌気が差し込む、最悪のシナリオだ。

 それを食い止めるためといえ、こうして事態を外側から俯瞰しようと決断している自

分の、ご立派な合理性とやらにも吐き気を感じる。

 もちろん、非情に徹し切れないスバルは予防線をいくつも張り、何かが起きれば即座に

屋敷に駆け込み、敵襲を報せて走り回る気でいるが。

 

「相手が俺の叫びでビビッて逃げてくれる慎重派だと助かるな」

 

 希望的観測を口にしながら、道具袋からスバルはロープを取り出す。屋敷の倉庫から拝

借してきたかなり長いもので、それを手近な木の幹と自分の腰にしっかりと巻きつける。

 命綱的な使い方をこのまましたら加重で死ぬので、途中に複数の結び目を作ってだ。

 

「あとはロープ切断用のナイフ・・・こんな使い方したら、怒られるだろうな」

 

 言いながら取り出したナイフは、すっかり手に馴染んだ感触の愛刀『流れ星』だ。

 今回のループでは立場が立場だっただけに、手に取れたのは今日が初めてだが、

 

「実際は、やり直した四日と四日で何回も使ってるもんだしな」

 

 使用人として雑用に追われる中、厨房でのスバルの主な役割は野菜の皮剥きと食器洗い

だった。『流れ星』はジャガイモ的な野菜やリンガ、そして時にスバルの手を切ってくれ

た愛刀だ。今回、計画にナイフが必要になったとき、自然とこのナイフを持ち出していた。

 

「ロープを切るならまだしも、最悪の場合は・・・・な」

 

 ナイフは脱出用だけはなく、いざというときの自傷用の役割も担っている。

 呪いへの対抗手段として、自傷で痛覚を刺激すれば抗い難い眠気は退けられるはずだ。

 最悪の場合、この刃は敵に向ける可能性もある。そして本当に最悪の場合は——

 

「自害用、か。は・・・・できるのかよ、俺に。そんなおっかない真似・・・・」

 

 

 臆病で、小胆な自分にそんな決断ができるなどとは思えない。

 ナイフの刃に自分の顔を映し、スバルは喉をひきつけられて自嘲の笑みを浮かべる。

 手の中の小さな刃物を見て、脳裏を過ぎるのはラムとレムとネムと接した記憶だ。

 ナイフの扱いがヘタクソなスバルを罵るラムと、ナイフで手を切ったスバルを呆れた様

子で横目にしていたレム。そんなスバルのことを気にしつつも自分の仕事を淡々とこなしていたネム。

 変なものを切るなと、そのたびに怒られて。

 

「・・・・怒られる、だろうな。またこんな、本当の使い道と違う使い方して」

 

 ラムに見下され、レムに呆れられ、終いにネムには呆れ果てられ、怒られる自分の姿がはっきり幻視できる。

 

「怒られるだろうなぁ。・・・・怒られてぇなぁ」

 

願望が口から漏れる。何事もなく、またあの日々に埋もれてしまいたい本音が。

 

「死にたくねぇなぁ。——死なせたく、ねぇなぁ」

 

 自分に言い聞かせるように言って、スバルは別ればかりのみんなの顔を思い出す。

 スバルは次のループに備えて、エミリアたちを捨石しようとしている。今回だって前

回までと同じく、確かな絆を結んだはずの彼女たちをだ。

 疼く胸を押さえる。これは戒めだ。当然の報い、受けて当たり前の必罰なのだ。

 失うことを前提に策を立てたスバルが、絶対に受けなくてはならない類の断罪だ。

 痛ましいと、そう思いながら接した。愛おしいと、そう思いながら接した。

 生じた傷口を指で広げて、肉を抉って骨を割るような苦痛に耐えながら、スバルはこの

失われる四日を過ごしてきた。全てを忘れないために、だ。

 

「言ったはずだぜ、ナツキ・スバル。繰り返した時、みんなが忘れていても・・・

お前は、それを覚えてる」

 

 だから今回のことだって、忘れていいことだなんて思ってはいけない。

 最後の、最後の瞬間まで、スバルが欲しがるハッピーエンドを求め続けなくてはならな

い。エミリアの存在を、時の狭間に消える泡沫などと決める権利は誰にもない。

 じっと身を伏せ、木々の隙間からスバルはロズワール邸を監視する。呼吸を殺し、緊張

しているはずの体の鼓動を鎮めながら、覚悟を全身に染み渡らせていく。

 かつてないほど、自分の体が自分の意思に従う感覚。

 その得難い感覚に身を任せながら、スバルはジッと時を待ち続けた。

 

 

6

 

 

時刻が夕方に差し掛かり、夕焼けの橙色がスバルのいる丘を眩く照らし出していた。

 陽光に目を細めながら、スバルは緊張する体を動かして、固くなる手足を解す。

 すでに屋敷の監視を始めて八時間ほどが経過している。その間、屋敷にこれといった変

調はなく、至って平穏を保っている。そう、夜までは平穏だったのだ。

 

「そういや、今回はレムの買い出しがないな・・・」

 

 四日目の夕方までに起きる、レムとの買い出しイベントがない。純粋にスバル一人分の

食材が浮いたため、買い出しの必要性が減ったのだろう。微妙なイベントの違いだ。

 思い出し笑いをしかけ、スバルは自分の緊張感が緩みかけているのに気づいて頬を張る。

こんなところで、集中を切らしている場合ではない。

 

「あと八時間以上あるってのに、そんあ馬鹿やってる場合かよ。集中だ、集中——」

 

 言葉が、途中で途切れた。

 幸か不幸か、ソレはスバルが気持ちを切り替えた、瞬間を狙ってきたからだ。

 

「——————ッ!」

 

 かすかに鼓膜が異音を捉えた瞬間、スバルは体を躊躇なく横へ飛び退いていた。

 全感覚を投入した上での、事前に決めていた通りの回避行動。

 直後、聞こえたのは超重量の物体が樹木を半ばからへし折る粉砕音。薙ぎ倒される木々

が周りを巻き込み。葉が枝が、折れ散る音が乱舞する。

 その中をスバルが駆け出し、一気に身を崖の下へと踊らせていた。

 

「————っあ!」

 

 奥歯を噛んでも殺し切れない悲鳴がわずかに漏れ、落下に内臓がひっくり返る浮遊感を

味わう。が、二秒で勢いは命綱によって中断。締め付けられる痛みに悲鳴を上げ、

 

「緊急、脱出・・・・!」

 

 ナイフでロープを切断し、再開する落下の中で傾いた岩壁を靴裏で噛む。滑り、肩を打

ちつけながらもどうにか地面に乱暴に降り立ち、スバルは息をつく暇もなく走り出す。

 身を軽くするために道具袋も投げ出し、形振り構わず走って息を荒げながら、

 

「見た!はぁ・・・・見たぞ!」

 

 

 スバルを奇襲し、木々を薙ぎ倒した物体——それは人間の頭部ほどある棘付きの鉄球

だ。ぼボーリング玉に殺傷能力を持たせたといってもいいソレは、長い長い『鎖』が特徴的

な武装『モーニングスター』だ。

 

 伏せていたスバルの鼓膜を掠めた金属音、鎖の音色はまさしくあの凶器のものだった。

 その威力と凶悪さを目の当たりにして、今さらながらスバルは歯の根が噛み合わない。

 あの質量が鋭さを伴って飛来すれば、直撃を受けた体が四散してもおかしくない。スバ

ルの半身が吹き飛ばされたのも、納得がいくというものだ。

 

「しかし・・・凶器は二つのはず・・・ッ、こっちきたか!」

 

 枝を踏み、溝を飛び越え、足場の悪い道を踏破しながら唾を飛ばす。

 スバルへの襲撃と同じぐらいの可能性で、屋敷を離れたスバルへの襲撃はあるものだろう

と判断していた。関係者を皆殺しにするのが目的なら、スバルも標的だろうと。

 

「でもそれは、あの屋敷に俺がいることを何日も前から知っていたってのが前提だ!」

 

 襲撃者は屋敷を数日前から監視し、線密に計画を練っていたのだ。

 故に、屋敷を離れたスバルも標的の一人とし、襲撃を警戒していたこちらを狙って襲い

かかってきた。

 

「——————-ッ」

 

 息が切れる。肺が痛い。足がつりそうで、今にも転びそうだ。

 必死すぎて道を見失い、転ばないのを優先して獣道をひた走っている。スタミナに自信

のないスバルは、荒げた息の中で駅前の光景に舌打ちする。

 

「完全に、相手の掌の上で追い込まれてたってことか」

 

 立ち止まる先、悔しげになるスバルを閉じ込めるように崖がそびえたっていた。

 硬く鋭い破片を覗かせる石の壁は、上ることも踏み台にすることも拒む自然の要害だ。

当然、ここを乗り越える手段など今のスバルにはない。

 振り向き、乱れた息を深呼吸で整えて、身構える。

 正面、いつの間にか森の中の闇は深く、夕焼けを木々が遮るこの場所は世界から隔絶さ

れたかのような寂寥感で満ちていた。

 

「くるなら、こいや・・・・・!」

 

 弱音を強気で追払い、スバルはジャージの前を開けると上着を脱ぐ。脱いだ上着を両

手に広げて構え、襲撃者が辿り着くのを静かに待ち構えた。

 追い詰められている。追い込まれている。スバルは今や、捕食者の罠にはまった無力な

獲物に過ぎない。だが、ただで食われてやるほど可愛げはない。

 払った犠牲に見合うだけの、対価を貰っていく。

——刹那、闇の彼方から鎖の音色を引き連れて、暴力が飛来した。

 

「こんじょう・・・・入ってるかぁぁぁぁぁ!?」

 

 致死確定の一撃を眼前に、スバルの体が常識を外れた反射を見せる。

 両手に構えたジャージの上着を引き上げ、飛来した鉄球を真下から巻き取り、勢いをそ

 らして胴体への直撃を紙一重で回避したのだ。もっとも、両腕から上着はもぎ取られ、衝

撃を殺し切れずに体は岩壁に叩きつけられた。

 だが、顔を上げ、狙いを外した鉄球が壁に突き刺さってるのを見た瞬間、スバルは目

論見が成ったと飛び起きて、伸び切った鎖をしっかりと掴んだ。

 そして掴んだ鎖の反対——それを握る、襲撃者がいる方向を睨みつける。

 

「さあ、姿を見せろ、クソ野郎!その面を見るのに、散々苦労したぞコラァ!」

 

 怒声を上げ、口汚く罵ることで自らを鼓舞する。

 鎖を掴むのと反対の手に、ロープを切断したナイフを握り直す。最悪の場合、襲撃者に

対してこれを振るう覚悟はある。その必要があるなら、スバルは躊躇わない。

 どんな相手が出てきても、決して見逃さないように闇に目を凝らす。

 絶体絶命の状況だったが、どうにか命は拾った。あるいは今回を捨石にすることなく、

襲撃者を撃退することも可能かもしれない。

 一度は諦めかけた状況の中、楽観めいた光明にスバルは必死で手を伸ばす。

 その光の中にエミリアが、メイドの三姉妹が、生意気な少女やロズワールがいる。思わず

状況を忘れて、スバルは消えるはずだった彼女たちとの思い出をかき集める。

 いくつもの約束。果たそうとして、交わそうとして、いまだに届いていない約束。

 そして、

 

「————仕方ありませんね」

 

 鎖の音が鳴り、持ち主の接近に伸び切っていた鎖がたわむ感覚。

 だが、そんな些細な感覚など置き去りにして、スバルは目を見開いていた。

 唇がわななき、声にならない声が呻きとなって喉から漏れる。知らず、指先は掴んだ鎖

を手放し、首は現実を拒むように小さく力なく横に振られていた。

 草を踏み、枝を越え、闇からゆっくりと少女の姿が現れる。

 黒を基調とした、丈の短いエプロンドレス。頭を飾る純白のホワイトプリム。小柄な体

格には決して見合わぬ鉄球、それに鎖で繋がる鉄の柄を握りしめて。

 

「何も気付かれないまま、終わってもらえるのが一番だったんですが」

 

 青い髪を揺らし、見慣れた無表情で小首を傾けて、

 

「・・・・・嘘だろ、レム」

 

 守りたいと思っていたはずの少女が、スバルの前で凶悪な鉄球を振りかざしていた。

 

 

 

7

 

 瞬間、スバルの脳裏を支配していたのは完全な空白だけだった。

 目の前の光景を否定したい、などという縋るような懇願すらも思い浮かばない。

 ただひたすら真っ白に、スバルの思考は白い景色に覆い尽くされていた。

 呼吸が止まり、心臓すら鼓動を忘れたような停滞。そこからスバルを解放したのは、一

滴の汗が額を伝い、肌を撫ぜる感触がやたらと冷たく感じられたからだった。

 だが、現実に戻ったスバルを出迎えるのは、現実を否定したくなる光景なのだ。

———マズイ。マズイマズイマズイマズイマズイマズイ。

 空白に続いて思考を埋め尽くすのは、焦燥感と混乱でしっちゃかめっちゃかになってし

まった独り言だ。何もまともに考えれない。目の前にいるのは本当にレムなのか。

 慇懃無礼で皮肉屋で、そのくせ姉妹離れができていなて、几帳面というより神経質で、

傍若無人な姉に負けず劣らず、外巧内嫉な妹に優しく時に厳しい——スバルの知る、レムだというのか。

 先の戦意が霧散してしまったスバルを見ながら、レムは自分の青髪を空いた手を撫ぜ、

 

「抵抗しないでくれたら、楽に終わりにしてあげることもできますよ?」

 

「———その申し出に是非ともお願いしますって応じると思うか?クソ食らえだよ」

 

「失礼しました。そうですね。お客様は確かにそういう方でした」

 

 ぺこり、と丁寧にお辞儀をする姿はあまりにこの場面の雰囲気と乖離している。ともすれ

ば屋敷の中での一幕と錯覚しそうなほど、レムの振る舞いは普段と変わらない。

 それだけに、レムの手の中にある無骨な得物の異物感を拭い去ることはできなかった。

 

「女の子にごつい武器ってのは、確かにロマンだけどな・・・・」

 

 鉄の鎖に棘付きの鉄球。直撃した相手をミンチする致死性の打撃武器。レムにこれを

チョイスしたのは、趣味がよほど悪い人物に違いない。一度はその威力を味わい、壮絶に

命を散らしたスバルだ。意のままにレムが鉄球を操れることは実験済みである。

 現実を少しずつ噛み砕いて受け入れながら、スバルは突破口を求めて言葉を作る。

 

「どうしてこんなことを・・・って、ありきたりな台詞言っていいか?」

 

「そう難しいことじゃありませんよ。疑わしきは罰せよ。メイドとしての心得です」

 

「汝、隣人を愛せよって言葉はねぇのか?」

 

「もうレムの両手はどちらも埋まっておりますので」

 

 時間稼ぎに付き合うつもりはないのか、受け答えに応じるレムの視線は片時もゆるまず

スバルを見ている。今、動けば確実に、殺される。

 まがりなりにも五度死んだスバルの本能が、絶叫しながらアラートを鳴らしている。

 膠着状態というには一方的な詰めの場面だ。スバルはひたすら頭を回転させて、少しで

も情報を絞り出し、注意をそらせないかと苦心する。

 

「———ラムやネムは、このこと知っているのか?」

 

 ふと、口をついて出たのはレムと瓜二つの容姿を持つ姉と、双子の妹で、いつも二人の後ろ

をひっついてまわる妹の名前だ。

 愛想が悪く、口も悪く、態度も悪いと三冠王。それに対して、愛想は微妙、口は若干ラム似、態度はレム似との姉大好きメイド。

 メイドとしては妹どちらにも全て劣るラムに、姉様愛好家で片時も離れないようなネム。

そのラム、ネムすらも敵に回っているとしたら——スバルの過ごした、あの日々は。

 

「姉様やネムに見られる前に、終わらせるつもりです」

 

 だから、レムが口にした答えは、図らずもスバルが求めていた答えと言っていい。

 長い息を吐いて、スバルはレムの目を真っ向から見つめ返す。唇を舌で湿らせ、いく

らか生き返った目をするスバルにレムが眉を寄せていた。

 

「つまり、独断だな?ロズワールの指示じゃないと」

 

「ロズワール様の悲願の障害はレムが排除します。あなたも、その中の一つ」

 

「飼い犬の躾もできねぇのか。噛まれる通行人Aはたまったもんじゃね———ぶわぁっ!」

 

「ロズワール様の侮辱は許しません」

 

 レムの本心を探ろうと、軽く挑発したスバルの横っ面が鎖に弾かれる。打撃のインパク

トに視界が揺れ、鋭い痛みを発した左の頰が縦に大きく裂けていた。

 壁に突き立ったままの鉄球の、鎖部分を鞭のようにしならせてスバルを打ったのだ。

 挑発と軽口一つでこの被害だ。が、その甲斐あって拾うものはあった。

 少なくとも、レムのロズワールへの忠義は本物だ。そして、スバルの口封じがロズワー

ルのためだと信じ込んでいるのもおそらく事実。スバルのロズワール邸から外への離脱は、

王戦でエミリアを支援するロズワールの不利益になると判断されたのだ。

 そしてそれはつまり——

 

「ああ。そういうことか。——そんなに、俺が信用できなかったか」

 

「はい」

 

 躊躇なく頷かれて、スバルは胸の奥に鋭い刃物を突き込まれたような痛みを感じた。

 その答えはスバルにとって嫌な予感を掻き立てるものであり、その予感を肯定されるこ

とは屋敷での日々のあらゆる場面の彩りを変えてしまう。

 だからスバルは、その芽生えた嫌な予感を口に出さず、胸の内にしまい込んだ。

 ただ、滑稽な自分の間抜けさに対する自嘲の笑みだけは堪えきれなかった。

 

「ざまぁねぇよ、俺。うまくやってたなんて、勘違いしやがって」

 

「・・・・姉様やネムは」

 

「聞きたくねぇよ!——くらっ・・・ッ!」

 

 叫ぶ瞬間、目の前は海より青い灼熱に覆われていた。それは・・

 

「何をしようとしたのですか、スバルくん」

 

 決死の覚悟で後ろに飛び退き灼熱、業火を回避する、途端同時にいるはずのない、崖の上から聞きなれた声がした。

 上を見上げるとそこに、小柄な人影がぽつり佇んでいた・・・

 

「・・・・・ネムなのか」

 

 崖の上から飛び降りる影、否、ネムは姉であるレムを庇うように前に舞い降りる。

背中には、凶器であろう大鎌を背負い、手には細長いレイピアをスバルに向けている。おそらく、呪いで死にかけ

足掻いた挙句に這い回ったあの夜に行われた凶器で間違いないだろう。

 

「どうしてお前まで・・・・」

 

「簡単なことです。ネムがあなたを信じれないから」

 

「お前もそうだったのか・・・なら、俺はこの運命を変えて見せる!」

 

 咆哮し、レム、ネムがわずか逡巡した瞬間、今度こそとばかりとスバルはポケットから携帯電話を前に突き出す。

——直後、白光が闇に沈んだ森を切り裂き、刹那だけネム、レムの動きに停滞を生んだ。

 

「今・・・だぁぁぁッ!」

 

 飛び出し、二人の横を走り抜ける、 

 あり得ない膂力で暴力装置を操るレムと、ネムだが、僅かな停滞が生じたいまは

スバルが抜け駆けするのには十分だ。反応に遅れたのを利用し、スバルはわき目をふらずに一気に駆け抜けた。

 喘ぎ、肺に空気を押し込みながら思考と足を走らせる。

 これがレムとネムの独断ならば、スバルの命を拾う3弾はかろうじてまた立つ。屋敷へ戻り、

雇い主本人に直談判できれば可能性はあるはずだ。しかし、ロズワールの意見もレムとネムと同

痔ならば、わざわざライオンの檻から抜け出し、狼の檻へ駆け込む愚行に他ならない。

 

「それでも・・・・エミリア、なら・・・!」

 

 記憶の中で誰よりも燦然と輝く、あの銀髪の少女ならスバルの言葉を信じてくれる。

 

——王戦の当事者であり、スバルの存在がもっとも疎ましいかもしれない彼女が、本当

にスバルの言葉を信じてくれるというのか?

 

「——————!?」

 

 一瞬、脳裏を過った自分の声にスバルは雷を打たれたような衝撃を受けた。

 まぎれもなく自分が、自分声で、エミリアの心を疑ったのだ。

 あのまっすぐで、一生懸命で、他人のために損をすることを躊躇わないような少女のこ

とを、そうだと知っているスバル自身が疑ったのだ。

 

「俺は・・・・・なんのために・・・ッ!」

 

 立場が変われば考えも変わる。そうだとしても、エミリアを疑った。

 守りたいと決意の拠り所にしていた相手すら疑って、スバルは何を信じるというのか。

 守りたい相手の心を疑い、守りたいと思った相手に命を狙われて、無様に山中を逃げ惑

いながら打開策の一つもまともに出せやしない。

———何が、今回はあえて情報収集に徹する、だ。

 いざ、目の前に予想と違う形で脅威が訪れれば、こうして命を吐き出しながら生にしが

みつくしかないではないか。驕っていた。甘く考えていた。浅はかだった。

 息を荒げ、坂道を転がるように走りながら、スバルは後悔だけを垂れ流していた。

 泣き言がこぼれ、涙が視界をぼやけさせる。足取りが乱れ、ふいに木々が空いた空間に

出くわし、スバルは空の向こうに夜が迫ってきているのを見た。そして——

 

「——あ?」

 

 超高々からの斬撃の刃が一閃、スバルの右足の膝から下を斬り飛ばしていた。

 勢いのまま大きく跳ねる右足の先端を見ながら、バランスを崩してスバルは地面に激突

していた。衝撃で頬の傷口から再出血し、岩肌に打った肩の骨が爆ぜる音が響く。脳に直

接電極を指したような痛みが全身をつんざき、スバルは絶叫した。

 

「ぁああああが!足がぁぁッ!?」

 

 痛みがない。それが逆に恐ろしい感覚だった。

 右足は膝下が消失し、吹っ飛んだ断片は茂みの向こうへ飛んだきりだ。遅れて噴出する

 鮮血が大地を赤黒く染め、今さらのように訪れる痛みが神経を蹂躙した。

 

「——————ッッッ!」

 

 地面を引っ掻き、声にならない苦痛を盛大に上げる。

 傷口を押さえ、体を振り乱し、空いた右腕は地面を叩き、木を殴りつけ、爪が盛大に剥

がれ、その熱さに意識が沸騰する。苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いた。

 痛みが神経を鑢で削り、剥き出しの体中を鉋掛けさせるような感覚。一秒ごとに血が凄まじい勢いで失われ、刻々と自分が死んでいくのがわかる。

 

「レム姉様」

 

「はい、ネム。わかっていますよ・・水のマナよ。このものに癒しを」

 

 ふいに暴れ回るスバルの体が柔らかな掌に上から押さえられた。身動きを封じられて

血走った目を巡らせると、スバルは傍とその姉の後ろに立っているメイド姿の少女がいることに気付く。

 青い髪、レム。紫の髪、ネムだ。スバルの逃亡を許さなかったネム。

負った傷をレムが今、青い白い光を掌に纏い、スバルの失われてた右足に温かい魔力を注いでいる。

むず痒さに似た感覚、治療の、魔法だ。

 完全に痛みが消えたわけではないが、遠ざかる現実にスバルを驚きが支配した。

 この期に及んで、レムがスバルを治療する理由がわからない。スバルの視線を受け、レ

ムの面差しに淡く微笑の気配が浮かぶ。そこに、ほんのささやかな希望を見出し、

 

「こんなあっさり死なれては、聞き出すことも聞き出せませんから」

 

 続くレムの言葉に、それが儚く愚かな楽観であったと思い知らされた。

 応急処置を終えて立ち上がるレムが、再度鎖の音色を奏でながら構える。

 地面に仰向けのスバルの、すぐ傍の地面を大きな爪痕みたいに抉ったネムの斬撃もそうだが、

 序盤に襲撃を仕掛けてきた鉄球。それは近くで見れば見るほど

無骨で、大雑把で、ただ命を脅かすことの身に特化した暴力装置だった。

 わざわざ見える位置に鉄球を構えるレム。後ろで援護射撃のようにレイピアを向けるネム。その真意は十分に伝わった。

 お前の命は自分が握っているのだと、そう知らしめるためのわかりやすい示威行為だ。

 

「———これは、没収しておきますね」

 

 言って、屈みこむレムがスバルの固く閉じられていた掌を開く。握られていたのは、レ

ムとネムの邂逅から硬直したように手放すことのできなかったナイフだ。

 強ばった指先を乱暴に剥がし、ナイフを取り上げたレムはそれを手の中で回した。

 

「さっき、レムにこれを突き立てていれば、もう少し展開は違ったものになったはずなのですが」

 

 スバルの行いの非合理性を、理解できないと言いたげにレムは眉根を寄せている。

 だが、淡くなり始めた苦痛の中、スバルは息を押し殺しながら首を横に振った。

———そのナイフをレムにネムに突き立てることなど、できるはずがない。

 レムの後ろで、ネムやラムに教わりながら、野菜や果物の皮剥きを教わったナイフを、あの騒

がしくも優しい時間を過ごした道具を、レムやネムの体に突き立てろというのか。

———そんな覚悟は、スバルにはなかった。

無言で首を振り続けるスバルに吐息をこぼし、レムはナイフを森の茂みへ投げ捨てる。

 それから気を取り直すように鎖を打ち鳴らし、スバルを冷淡な目で見下ろした。

 

「お聞きします。あなたは、エミリア様に敵対する候補者の陣営の方ですか?」

 

「・・・・・俺の心はいつまでもエミリアのものだ」

 

 言った瞬間、たわんだ鎖がスバルの上半身を激しく打った。

 逃走中、枝などで裂けていた肌着があっけなく破れ、その下の肌にも同じだけの裂傷が

刻まれ、スバルの絶叫が森に響き渡る。

 

「誰に、どんな条件で雇われているんですか?」

 

「え、エミリアたんの笑顔に、プライスレスで」

 

 手首の返しで同様の仕打ち、まったく同じ位置を寸分の狂いなく打つ技術を体感しなが

ら、苦痛の叫びでその技量を褒めたたえる。

 その後も、似たような質問に似たような返事。

 その回数分だけ鎖の音が響き、それに続いて苦鳴と悲鳴の大合唱だ。

 意識が消し飛びそうになるたび、レムの手ずから回復魔法で治療され、治療と暴力の無

間地獄を繰り返されるスバルの精神は摩耗し、意識は何度も途切れている。

 それでもなお、レムの仕打ちに心だけは屈しなかった。

 頑ななスバルの態度に疲れを感じたのか、跳ねた血を拭うレムがふと空を見上げ、

 

「そろそろ戻らないと、夕食の支度に遅れてしまいますね」

 

「・・・・晩飯か、今日のメニューは、何なのかな・・・」

 

「そうですね。挽肉のパイ包味などいかがでしょう」

 

「ば、晩餐に並ぶのはごめんだわ・・・」

 

 最後まで軽口を叩き続けるスバルの姿勢に、レムとネムはついに吐息で感情を表現する。それ

からしばし黙り込み、いつにも増して感情の消えた瞳でスバルを見下ろして、言った。

 

「———あなたは、魔女教の関係者ですか?」

 

 重なるステレオ音声から発せられる聞き覚えのない単語が飛び出し、スバルは困惑に眉を寄せた。

 それがこの場のどんな状況に則した単語なのか、レムとネムの真意がわからず口ごもる。

 

「答えてください。あなたは、『魔女に魅入られた者」でしょう?」

 

「・・・・魔女、に?」

 

「とぼけないでください!」

 

 激昂したレムが薄青の瞳に怒気を湛えてスバルを射抜く。それは本当の意味で、スバ

ルが初対面からこの瞬間まで一度も見なかった、レムが感情を露わにした姿だった。

 白い面に怒りの朱を差し、レムは殺意すら浮かべてスバルを見下ろしている。

 

「知ら、ねぇよ・・・・そもそも、うちは代々・・無宗教・・・」

 

「まだとぼける。———そんなに魔女の臭いを漂わせて、無関係だなんて白々しいにも限度

がありますよ」

 

 憎悪。スバルを睨むレムの瞳に、その後ろから感じるネムの殺気を見た。これまでの行動の真意全てが

裏返るような感情の渦に、スバルはレムの本質の一端を見た気がして目を見張る。

 

「姉様もネム以外の他の誰も気づかなくても、レムとネムはその臭いに気づきます!その悪臭に、咎

人の残り香に、嫌悪と唾棄を抱きます。ネムは特に、苦しめられていて・・・」

 

 黙り込むスバルの前で、レムは歯軋りしそうなほど唇を噛み締め、ネムは今にも泣き出しそうなほど憎悪に溢れた顔をしていた。

 

「姉様やネムとあなたが会話しているのを見ているとき、レムは不安と怒りでどうにかなってし

まいそうでした。姉様とネムをあんな目に遭わせた元凶が、その関係者が・・・のうのうと、レム

と姉様とネムの大事な居場所に・・・!」

 

 要領を得ない恨み言をぶつけられ、怨嗟の吐息がスバルに容赦なく浴びせかけられる。

 

「ロズワール様が歓待しろとおっしゃるから、レムやネムも様子を見ていました。・・・でも、も

う監視する時間すらも苦痛なんです。ネムの悲しい寝顔も見ていられないんです」

 

 そしてレムは、さっきは口にできていなかったスバルの、決定的な一言を暴く。

 

「姉様が世話をするのを装って、あなたと親しげに振る舞っているだけと知っていても!」

 

「———」

 

 溜め込んでいた憎悪を一気に吐き出すように、レムはこれまでの感情の少なさを取り戻

すように激情をスバルに叩きつけた。言い切り、肩を揺らし、レムは瞳に憤怒を宿してス

バルを睨む。と、その怒りがふと驚きに揺らいだ。それは、

 

「———なんでだよ」

 

 憎悪を口にしたレムの前で、スバルが静かに涙をこぼしていたからだ。

 

「わかって、たよ。・・・・想像、ついてたさ」

 

 喉がしゃくり上げ、込み上げてくる熱いものが次々と瞼を通り抜けて頰に落ちる。滂沱

と止めようのない涙を流しながら、スバルは涙声で途切れ途切れに続ける。

 

「こんな目にあってんだ。・・・優しくされたのにだって、裏があんのはわかってた。でも

・・・・聞きたかぁ、なかったよ」

 

 何もできないスバルに、仕事の基本を付きっきりで教えてくれた三人。

 執事服の着方のなってないスバルを嘲るラム。サイズの合わない上着を仕立て直し、

着方の指導までしてくれたレム。文字を覚えるのに四苦八苦するスバルに、ネムは根気よ

く付き合ってくれて、様子を見守ってくれていた。レムは髪を切る約束以来、ジッとスバルを見つめることが多く

て、急かされているようで、気にされているようで嬉しかった。

 全部、忘れらない、優しい思い出だ。

 

「野菜の皮、剥くときに手ぇ切らなくなったよ。洗濯物だって、素材で洗い方違うってわ

かったし、掃除はまだ教わってる最中だけど・・・」

 

 四日と四日じゃ、それ以上の上達はまだ望めなくて。でも、いくつかの四日を乗り越え

手、その先の日々でなら、まだ知ることもできるだなんて考えていて。

 

「読み書き・・・簡単なやつだけど、できるようになったんだ。約束守って、勉強してた。

童話、読めたんだぜ。お前たちのおかげで・・・」

 

「何を・・・言っているのですか?」

 

 うわ言のようなスバルの言葉に、レムは気味の悪さでも感じたように声の調子を落とす。

スバルはそのレムの瞳を真下から見上げる。

 

「お前たちが、俺にくれたものの、話だよ・・・・」

 

「そんなこと、記憶にありません」

 

「———なんで、覚えてねぇんだよ!!」

 

 ふいに噴き出した激情に、レムの足が思わず一歩、後ろに下がり。ネムは溢れそうになっていた涙が引っ込んだ。

 寝ていた体を強引に起こし、レムとネムを睨んで歯を剥き出しながらスバルは吠える。

 

「どうして、みんなでよってたかって俺を置いていくんだよ・・・・!俺が何したっつーん

だよ・・・・!俺に何をしろって言うんだよ・・・・ッ!」

 

 感情が制御できない。八つ当たりも甚だしいとわかっていながら、それでもスバルの心

が、魂が、叫ぶのをやめられない。

 異世界に呼ばれ、理不尽に追いやられ、それでもなお歯を食いしばって過ごしてきた。

 だが、もう限界だった。

 

「何がいけねぇんだよ。何が悪かったんだよ。お前ら、どうしてそんなに俺が憎いんだよ

・・・・・。あの、約束だって・・・俺はずっと・・・・ッ」

 

「———レムは」

 

「俺は・・・お前らのこと、だい」

 

———衝撃が、その後の言葉を続けさせなかった。

 

 不意打ちの威力に声が出なくなり、その場に貼り付けられたように立ち尽くす。

 空気が抜けるような息と、水が溢れるとような音が聞こえて、スバルは視線をさまよわせる。

 すぐに、原因が見つかった。

 

「———」 

 

 喉だ。

 スバルの喉、鋭いレイピアが喉を突き刺し穴が空き、気動の途中から空気と血泡が吹き出している。

 目の前、唖然とその光景を見やるレムの顔が見えた。

 

「さようなら。スバルくん」

 

 その声を耳に響き、直後スバルの目は光を失い、ぐるりと白目を剥いた。

 声は続かない。意識も、電源を切ったように落ちる。

 遠ざかる。痛みはない。怒りも、悲しみも、感情すらも置き去りだ。

 ただ最後に、

 

「——姉様は、優しすぎます」

 

 そうぽつりと、誰かの悲しげな声だけが聞こえた気がした。




最後まで読んでいただきありがとうございました!
好評でしたら次の章も出して行きますね。
挿絵も用意してありますので、お楽しみにです。


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