1998年11月1日「消された天皇賞覇者」 (防人の唄)
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プロローグ&物語設定


本作は現実の競馬界及びウマ娘公式を貶める意図はありません。



*****

 

(プロローグ)

 

 

彼女は輝きを失った眼光から、この世界の全てを達観したような笑顔を見せて、夕焼けに染まる大空を仰いだ。

そして再び、僅かに紅みが残った唇から言葉を絞り出した

 

「この有馬記念を、私のラストレースにするの。レース中に身体の限界を超えて…二度と走れない脚になって、そのまま還るわ。私は、そうしなければならないから…」

 

 

 

*****

 

 

 

物語設定

 

 

 

ウマ娘 

異世界(現実世界)の競走馬の名前と魂を受け継いで生まれてきたとされる種族。外見は腰から馬のような尻尾が生え、馬のような耳が頭頂部付近にある。超人的な走力を有するが、それ以外は普通の人間の女子と変わらない外見をもつ。

一定の年齢になると、トレセン等のウマ娘専門の学園に入り、競走ウマ娘としてレースに出場する。(現実世界の競馬と同じ。)

 

トレセン学園

東京にある、ウマ娘が通う大規模な学園&レースのトレーニング施設。単に競走能力を鍛えるだけでなく、ウマ娘や社会についての知識も学ぶ。入学年齢は決まっているが、卒業・退学年齢は決まっていない。実績をあげ3年以内で卒業するウマ娘もいれば、実績をあげられず5年以上在籍しているウマ娘もいる。在園生徒数は約6000人。

 

 

レース

ウマ娘達が闘う舞台。単に栄光だけでなく、生き残りを懸けた重大な勝負の場でもある。

 

ウイニングライブ

初勝利・あるいは重賞以上のレースで1着〜3着に入ったウマ娘達によって行われるライブ。

 

 

 

(以下は、本作のみの独自設定。)

 

 

〈重大設定〉

本作のウマ娘は、『走る為に生まれた種族』なので、将来的には必ずトレセンに入るることが決まっている。生物としての違いがかなりある為、人間と同じ職業や進路には殆どつけない。

 

〈帰還・還る〉

本作で多く登場する言葉。本作独自の設定で、ウマ娘の死を意味する言葉。

ウマ娘は、この世の生を終えると“ウマ娘の世界(人間でいう天国)にいく(還る)”とされている為、そのような表現となっている。

 

 

 

〈ウマ娘の足の怪我と「予後不良」「特別手術」〉

 

ウマ娘が脚の怪我や故障をした場合、いずれも重傷でなければ命に別状はなく、治療すれば再び走ることも出来る。だが、快復も困難とさえる程の重傷を負った場合は、為、予後不良の診断が下される(ウマ娘の身体の構造の特徴で、脚の不自由が全身にも悪影響を与え、やがて帰還に至る為)。

予後不良の診断を下されたウマ娘は、苦しみから解放させる為に「安楽帰還」の処置を取られ、ウマ娘の世界へ還る。

 

なお、重傷の度合いでは安楽帰還の処置の他に「特別手術」という選択もある。

特別手術後は日常的な歩行程度はぎりぎり出来るが、走ることは生きてる間ほぼ不可能となる。ただ、この「特別手術」を受けれるのは、殆どが優秀な実績を残したウマ娘だけで、その他のウマ娘は、帰還となる者の方が多い。また実績のあるウマ娘でも、走れなくなくなる辛さや苦痛から精神的に追い詰められること可能性が高い為、「特別手術」を受けずに帰還を選ぶ者が多い。

「特別手術」も不可能な重傷の場合は帰還しかない。

 

また、最後の手段としてウマ娘から人間になる手術を受けるという選択もあるが、これは99.99%のウマ娘が拒否している。

 

 

 

 

〈クッケン炎(通称“死神”)〉

 

クッケン炎とは、俗に〈死神〉と呼ばれ、ウマ娘に最も恐れられている脚の病。これに罹ると患部が腫れ、焼けるような熱と痛みをもつようになり、レースで怪我や重傷を負う危険が非常に高くなる。どんな頑丈なウマ娘でも罹りうるうえ、不治の病であり、ただ患部の腫れと熱がおさまるのを待つしかない。治療にはかなりの苦痛も伴い、また一旦おさまってもレースでまた再発する可能性も高く、これに罹った7割のウマ娘はレースから引退(卒業・退学)する。(競走生活を終えれば再発は殆どしないので、日常生活に支障はきたさない)

 

 

 

〈ウマ娘療養施設〉

 

学園とは遠く離れた地域にある、トレセン学園ウマ娘専用の病院兼療養所。病気や大きな怪我を負った学園生徒のウマ娘が治療・療養の為に生活している。不治の大怪我や病気により回復が見込めなくなったウマ娘達が、ウマ娘の世界へ還る為の場所もある施設である。

 

 

 

 

〈レース引退(卒業・退学)したウマ娘のその後〉

 

G1或いは重賞(G3以上)のレース何度も制した者、そうでなくとも血統が優秀なウマ娘は、引退(卒業)後も学園に残り重職(生徒会・コーチ・チーム創設)につくか、或いは全国の次世代ウマ娘達(未入学の幼いウマ娘)育成等の仕事や『コウハイ』(後述)の仕事与えられ、その後のウマ娘人生を保証される。

 

血統も凡庸で目ぼしい実績も上げられず、その後の引き取り先もなく引退(退学)したウマ娘達は、

(1)ウマ娘の特徴&能力&記憶を消去する手術を受けて人間(女性)として新たにて生きていくか

(2)本世界で永遠の眠りにつき、ウマ娘の世界へ還るか

このいずれかの選択を迫られる。

過去、二択を迫られたウマ娘は、99.99%以上がウマ娘の世界へ還ることを選んでいる。

(選択迫られる理由は、ウマ娘は経済的・生物的な面から人間社会での生活が難しい為)

 

なお、人間になる手術を受けた場合も、寿命はウマ娘と変わらない。

 

 

 

 

 

裏設定

 

 

 

〈ウマ娘の家族〉

 

原作設定

 

ウマ娘は人間の男と結婚し、家族となれる。

生まれる子供が全てウマ娘なのかは明確ではないが、ウマ娘はウマ娘からしか生まれないという設定。

(異世界からきた競争馬の魂が胎児に宿ると、ウマ娘として生まれるらしい)

 

 

本作設定

 

ウマ娘は、ウマ娘同士から生まれる。

ウマ娘には、子孫を授けられる『授け種』(牡)と、子孫を産める『産み種』(牝(原作ではティアラ?))に分かれている。

 

史実の牡馬・牝馬と同じで、サイレンススズカやライスシャワーやオフサイドトラップらは授ける種。

ダイイチルビーやエアグルーヴ・メジロドーベルらは産み種。

 

なので、トウカイテイオー・ツルマルツヨシは、シンボリルドルフの子。

メジロブライト・メジロドーベルは、メジロライアンの子。

サイレンススズカ・スペシャルウィーク・ステイゴールドも親が同じ(サンデーサイレンス)。

オフサイドトラップ・ウイニングチケット・エアグルーヴも親が同じ(トニービン)。

 

ただ、この世界で姉妹関係と言われるのは、産みの親が同じな場合のみ(パシフィカスから産まれたビワハヤヒデ・ナリタブライアンなどがそれ)。

なので、授け種の親が同じでも、姉妹感情はない。

 

 

 

〈ウマ娘の結婚・子孫についての本作設定〉

 

ウマ娘の世界に、結婚はない(出来ない)。

 

理由として、より走る為の能力に優れたウマ娘の子孫を残す為の『コウハイ』の仕事があるから。

『コウハイ』は、学園卒業後のウマ娘に与えられる僅かな仕事の一つで、ウマ娘にとって最も大きな意味のある仕事。

(史実で使われる『交配』とほぼ同じ。片仮名の理由は、漢字の『交配』だと人為的な要素が入る為)

 

 

 

〈ウマ娘と『コウハイ』について〉

 

実績が優秀な授け種のウマ娘、また実績が乏しくても優れた血統を持つウマ娘は、より多くの優れた子孫を残す為、産み種のウマ娘とコウハイすることが将来的にほぼ約束されている。

反面、無実績かつ血統も冴えない授け種のウマ娘は、誕生する子孫の能力に期待がもてない為、殆どコウハイさせられない。

 

コウハイ後、授け種はそこまでが仕事なので、その後授けた産み種と関わることはない。

特に優れた授け種は、年間で数十回以上のコウハイをする。

 

一方、産み種は、子供が胎内に宿ると、約1年後出産する。

優れた産み種は毎年のように子供を授かるので、育児の為に人間の支えも多くいる。

(また、そういった育児等の専門の仕事をするウマ娘も希少だがいる)

 

出産後は、トレセン学園に入るまでの約5年間、ウマ娘専用のジュニアスクール等に通わせながら子育てをする。

 

以上の設定により、ウマ娘は産み種の親(母親)とは明確な親子関係やその感情があるが、授け種の親(父的親)とは親子関係や感情はあまりない。(メジロ家などといった一族を構成しているウマ娘達は例外)

ただ、表向きでそういった感情がないだけで、授け種とその子の間にも本当は深い感情が在るかもしれず、明確には不明。

 

 

〈コウハイ方法について〉

注(一応作者として設定は考えているが、問題の可能性があるので、読者それぞれの想像に任せる)

 

 

〈授け種と産み種の差〉

 

トレセン学園卒業後、産み種のウマ娘は無実績かつ血統が冴えなくとも、子孫を残す為に多くの者がコウハイの仕事を与えられる。(学園卒業後も余生を送られるウマ娘のうち、8割以上が産み種)。なので、授け種の方が現実的には厳しい状況に置かれている。

 

 

(作中でコウハイの描写はなし)

 




物語が進むにつれ、設定が多少変わるかもしれません。
また、作中で設定について描写することもあると思います。




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登場人物(ウマ娘)

アニメ&アプリとはかなり違う点がありますがご了承下さい。


*****

 

 

主な登場人物(ウマ娘)

 

 

オフサイドトラップ 

ステイゴールド

サイレンススズカ

 

ホッカイルソー

スペシャルウィーク

メジロマックイーン 

ライスシャワー 

 

ナリタブライアン

サクラローレル

 

 

 

人間

 

三永 美久(みつなが みく)

渡辺 椎菜(わたなべ しいな)

沖埜 豊(おきの ゆたか)

岡田 正貴(おかだ まさたか)

大平 赳夫(おおひら たけお)

 

 

 

主な登場ウマ娘の年齢 (およそ。()は人間でイメージした年齢)

 

メジロマックイーン 14歳(30〜32歳)

ライスシャワー 12歳(26〜28歳)

オフサイドトラップ 10歳(22〜24歳)

ホッカイルソー 9歳(20〜22歳)

ステイゴールド・サイレンススズカ 7歳(16〜18歳)

スペシャルウィーク 6歳(14〜16歳)

 

(*ウマ娘の容姿は、11歳(25歳)以降は齢をとらなくなる)

 

 

 

 

主な登場ウマ娘達の情報(ややネタバレを含んでいるので、割愛されても大丈夫)

 

 

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*****

 

 

*****

 

 

オフサイドトラップ

チーム『フォアマン』の生徒。学園でもかなりの年長。今秋の天皇賞覇者。しかし周囲の評価は低く、非情で自己中なウマ娘と言われている。

 

ステイゴールド

中々勝てないが、大レースで好走を続ける新鋭生徒。身体は凄く頑丈。スズカと同期の親友で、オフサイドと同じチーム『フォアマン』に所属。

 

サイレンススズカ

『神速』と称される程の、天性のスピードを持つ生徒。実力だけでなく人気も非常に高い。だが今秋の天皇賞でレース中に大怪我を負う。再起不能は免れたが、リハビリは難航している。

かつて『フォアマン』に所属していた。

 

 

ホッカイルソー

オフサイドの一年後輩で、『フォアマン』のチームメイト。デビュー後はレースで優秀な成績をおさめ続けG1制覇も近いと評されていたが、2年半前重度のクッケン炎にかかり、今なお療養中。

 

スペシャルウィーク

スズカの一年後輩で、『スピカ』のチームメイト。今年のダービー覇者で、次世代最強と言われている新星。スズカを深く慕っており、親友以上の仲にある。

 

 

 

ライスシャワー

かつて「最強のステイヤー」と呼ばれた元生徒。レース中に再起不能の怪我を負い、奇跡的に助かったもののそのまま卒業した。現在は学園近くの喫茶店『祝福』の店主として暮らしている。

 

メジロマックイーン

名族「メジロ一族」の一人。学園生徒会長。現在のウマ娘隆盛の立役者として評価が高い。現役時代は「真女王」の異名でターフに君臨した。

 

 

 

サクラローレル

名族「サクラ一族」の一人。オフサイドの親友で、『フォアマン』のチームメイト。寮では同室生活していた。度重なる故障を乗り越えて大レースを制し、ブライアン卒業後は第一人者と呼ばれるようになる。だが昨年秋の海外遠征中に大怪我を負い、今なお現地で治療中。

 

ナリタブライアン

「ウマ娘史上最強の一人」と呼ばれていた元生徒。オフサイド・ローレルの同期の親友で『フォアマン』チームメイトだった。2年前にクッケン炎を患い卒業。そして天皇賞直前に突然重病に罹り、帰還した。

 

 

 

 

人間

 

三永 美久(みつなが みく)

学園に勤めているカメラマン。ウマ娘達の幸せな姿を撮影する仕事をしている。『祝福』によくいる。

 

 

渡辺 椎菜(わたなべ しいな)

ウマ娘療養施設のクッケン炎専門医師。帰還処置を執行する職務も受け持っている。

 

 

沖埜 豊(おきの ゆたか)

スズカ・スペが所属するチーム『スピカ』トレーナー。稀代の天才トレーナー呼ばれている。

 

岡田 正貴(おかだ まさたか)

オフサイド・ゴールドらが所属する『フォアマン』の元トレーナー。天皇賞・秋後の騒動の責任を取り退職した。

 

 

大平 赳夫(おおひら たけお)

トレセン学園理事長。

 

 

 

 

その他のウマ娘

 

ミホノブルボン

生徒会役員。ライスシャワーの無二の親友。

 

 

メジロパーマー

生徒会役員。家族として同胞としてマックイーンを深く慕っている。

 

 

ダイイチルビー

生徒会副会長。ウマ娘界屈指の名族『華麗なる一族』の令嬢。

 

 

ダイタクヘリオス

生徒会役員。パーマーの親友。

 

 

 

フジヤマケンザン

『フォアマン』元リーダー。2年前に卒業した。

 

 

ダンツシアトル

オフサイドの先輩で、かつてクッケン炎を患っていた生徒。ライスシャワーが大怪我した宝塚記念の勝者。宝塚記念後に再発したクッケン炎により、間もなく学園を卒業した。

 

 

シグナルライト

ルソーの同期で『フォアマン』の元チーム仲間。2年半前のレース中に大怪我を負い、還った。

 

 

プレクラスニー

7年前の天皇賞秋「勝者」。その後怪我で活躍出来ず引退。卒業後は不遇な生活を送る。今年初め学園に戻ったが、一月も経たずに不慮の事故で帰還した。

 




物語が進むにつれ、新たに登場人物(ウマ娘)を追加する可能性があります。



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『第1章』
祝福(1)


*****

 

 

12月上旬の、ある日の夕方。

 

 

カランカラン。

「いらっしゃいませ。」

店の扉が開く音と吹き込んだ北風の冷たさを感じ、喫茶店『祝福』の店内で読書をしていた店主の黒鹿毛ウマ娘、ライスシャワーは顔をあげた。

 

「久しぶりです、ライス先輩。」

入店したのは、一目でトレセン学園の生徒と分かる紫と白の制服姿をした、ピンとした覇気のあるウマ娘だった。

「あら、ゴールドさん。」

客のウマ娘よりも小柄な身体のライスは、黒髪に隠れてない片眼を綻ばせた。

 

「2ヶ月ぶりかな?京都大賞典の前以来だね。」

「そうですね。京都行く前に“今度こそ勝ちます!”て気炎をあげてましたね。…結果は4着でしたけど。」

「うふふ。何飲む?」

「いつもので。」

微笑んだライスにぷくっと頬を膨らませながら、ウマ娘は席に腰を下ろした。

 

 

入店したのは、黒鹿毛ウマ娘のステイゴールド。

トレセン学園在籍の3年生の生徒だ。

同じウマ娘でかつ学園の先輩だったライスを慕っていて、この『祝福』が開業して以来頻繁に訪れている。

チーム仲間や親友に言えない悩み事を相談しに来ることも多く、先輩ウマ娘としてかなり頼りにしていた。

 

 

「どうですか、最近の調子は?」

注文されたオレンジジュースをゴールドに出すと、ライスは彼女の前の席に座った。

「まーまーです。」

ゴールドは可も不可もない表情で頬杖をつきながら、ストローでジュースをぐるぐるさせた。

「今度の有馬記念こそ勝ちたいと思ってるんだけど、どうもなかなか気合がつかなくてー。」

 

ゴールドは今年、目覚ましく飛躍したウマ娘の一人。

入学からしばらくは目立った成績ではなかったが、今春から立て続けにレースで好走。

特に大レース(G1)の天皇賞・春、宝塚記念、天皇賞・秋では3戦とも2着に入り、大きな印象を残した。

勝ち星にこそ恵まれてないが、大レースを制するのも時間の問題と評される程の実力者とされていた。

 

「大したものです。大レースで3度も2着に入れるなんて。」

「褒めてくれるのは嬉しいんだけどさー。」

ニコニコしているライスと対照的に、ゴールドは冴えない表情で、夕焼け空に北風と枯葉が舞う窓の外に目を向けた。

「やっぱり勝てないと悔しいよ。好走こそしてるけど、直近で勝ったのは去年だもん。“カミノクレッセ先輩やナイスネイチャ先輩、ロイスアンドロイス先輩の再来じゃないか”とか言われたりもしてるしー、…何より『アカンコちゃん』なんて嬉しくない仇名もつけられたし。」

ゴールドは餅のようにプクーと頬を膨らませた。

『アカンコ』とは、ゴールドが直近で勝ったレースの名前(大レースと比べ、かなりレベルの低い条件戦レース)で、暗にゴールドを揶揄する仇名だった。

 

「こないだのJC(ジャパンカップ)こそは!と思ったけど、全然ダメだったし(10着)ー。」

「まあ、後輩の天才達と先輩の女帝に意地を見せつけられたわね。」

「エルコンもエアグ先輩も強すぎーて感じ。」

「ま、経験よ経験。私も長く勝てない時期もあったし。」

悔しがる後輩に対し、ライスは愛でるような視線を送っていた。

 



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祝福(2)

 

カランカラン。

 

ライスとゴールドが談笑していると、再び店の扉が開き、数名の若い男女の客が来店してきた。

「あ、ステイゴールドさんじゃん!」

入店した客はゴールドの姿に気づくと驚いたように声を上げ、彼女の側に寄ってきた。

 

「ステイゴールドさんですよね?」

「ええそうですけど。」

「サインください!」

客は羨望の眼差しと共に色紙を差し出してきた。

どうやら皆、ゴールドのファンらしい。

 

ウマ娘は単に走るだけの競争娘ではなく、レース後にはイベントとしてウイニングライブを行うアイドル的存在でもある(ウイニングライブとは、レースに勝利したウマ娘が立つことを許される、観客と勝利の喜びを分かち合うライブステージ。レースで3着までに入ったウマ娘がステージに上がり、勝利したウマ娘がセンターを務める。なお、ライブを行えるレースは初勝利、あるいは重賞以上のレースのみ)。

今年大活躍したゴールドはセンターにこそ立ててないが、大レースのウイニングライブに何度も立ち、大きな存在感を示した。

ウマ娘のファンにとって、ゴールドは新たなスターアイドルでもあるのだ。

 

「今度の有馬記念、勝ってくださいね!」

『真っ直ぐGO!』とサインされた色紙を受け取った後、ファンの客はゴールドにエールを送った。

「最近、スターと呼ばれるウマ娘が多くなってきたけど、俺達の一番のスターはゴールドさんです。」

「…どうも。」

ゴールドはぎこちなく笑っている。

宝塚記念の後くらいから、彼女のファンがかなり増えた。

少々人見知りのゴールドはまだ慣れておらず、笑顔がなかなかうまく出来ない。

だが勿論、ファンから応援を貰えることは、内心凄く嬉しい。

 

「今度の有馬は優勝候補はゴールドさん一択だよな?」

「もっちろん。スペシャルウイークは出ないしエルコンドルパサーは海外遠征でいないからね。」

「いるとしたらエアグルーヴとメジロブライトぐらいだけど、その二人には何度も先着してるしね!」

「いや、新星のセイウンスカイとグラスワンダーも侮れないだろ?」

「なーに、その二人はまだ経験不足さ。大レースでのゴールドさんの経験値舐めんな!」

 

「…あはは。」

ファン同士の論争を前に、ゴールドは思わず笑った。

今名前の出たウマ娘は、ゴールドと違ってみんな大レースを1度以上制している。

「経験値といっても、あたしは2着ばっかりですけどね。他のみんなは殆ど大レースの覇者なので、あまり意味のない経験値じゃないかなー?」

自虐気味に、ゴールドは呟いた。

 

「そんなことはないですよ。」

ゴールドの言葉を聞いて、ファンはイヤイヤと手を振った。

「大レースの勝者でも、大した実力のないウマ娘もいますでしょ?例えば、今秋の天皇賞覇者のオフサイドトラップとか。」

 



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祝福(3)

 

「…オフサイドトラップ先輩?」

「ええ、」

目の前のゴールドと、カウンターで注文された品を用意しているライスの表情が曇ったことに、ファンは気づかず話し続けた。

「あんな、レベルの低くなってしまったレースで勝って大喜びしてるようなウマ娘もいますからね。」

「とんでもない大アクシデントのおかげで勝ったというのにねえ。」

「長く学園にいるのに、ほんと非情でエゴイストなウマ娘だよな、オフサイドトラップは。」

口々に言うファンの口調には、かなりの嫌悪感が含まれていた。

 

「…あのー、」

私、そのレベルの低いレースで2着だったんですけど。

ゴールドがそう言おうとすると、ファンはその前にいやいやと手を振りながら口を開いた。

「いや、ゴールドさんのことを貶してはいませんよ。同期のサイレンススズカが大怪我した衝撃で、本気で走れなかったということは分かってますから。」

「それが普通。むしろ、あんなレースで勝っても誰も喜ばないから良かったです。」

「ゴールドさんは、今後何度も大レースを制するウマ娘のスターですからね!」

 

「…はあ。」

ゴールドは曖昧に頷いた。

「とにかく、今度の有馬記念、是非勝って下さい!ウイニングライブでゴールドさんがセンターで踊るの、楽しみにしてます!」

最後にそうエールを送ると、ファンの客は飲み物を手に店を出ていった。

 

 

 

ファンが居なくなった後、ゴールドはライスにジュースのおかわりを注文した。

ジュースのおかわりが来ると、ゴールドはそれを飲みながら、表情と同じような憂鬱色に染まっていく夕闇空を、しばらくの間ずっと眺めていた。

 

「ゴールドさん、」

店内に他の客の姿がいなくなると、ライスは自身のブラックコーヒーを用意し、再び彼女の前の席に座った。

「最近、サイレンススズカさんの怪我の容態はどう?」

「…ぼちぼち。」

ゴールドはストローから唇を離し、素っ気ない口調で答えた。

「怪我の具合もそうだけど、精神的なショックがかなり大きいわ。リハビリの始まりもまだ不透明だし…読書ばかりしてる。」

「読書?」

「メンタル回復の為にね。まだ復帰の見込みはたたないわ。」

「そう…。」

ライスは、何か思い出すように、視線を空に向けた。

横顔に着けている黒と青薔薇色の帽子、その下の黒髪に隠れている右眼が悲しく光って見えた。

 

 

そして、ライスは視線をゴールドに戻すと、コーヒー杯を置いて再び尋ねた。

「オフサイドトラップさんは…どう?」

 

「…ライス先輩も知ってるでしょ。」

ゴールドはちょっと睨むような視線でライスを見返し、それからすぐに俯いた。

「オフサイド先輩は、もんのすごい集中攻撃を受けたせいで、心身ともボロボロ。おまけに誰も助けてくれなかった。…だから、オフサイド先輩は、もう駄目かもしれない。」

 

俯いているゴールドの表情は、夜闇空より翳って見えた。

 



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神速のウマ娘(1)

 

 

今年は、様々なウマ娘がレースを賑わせた。

 

自在の逃げ足で皐月賞・菊花賞を制したセイウンスカイ。

天才トレーナーの悲願であったダービー制覇を果たしたスペシャルウイーク。

入学2年目で国際大レースのJC(ジャパンカップ)を制したエルコンドルパサー。

超良血のプリンセスとして三冠《クラッシック》を賑わせたキングヘイロー。

名族の貴公子として長距離戦線を制したメジロブライト。

“女帝”として今年も第一人者の活躍をみせたエアグルーヴ。

短距離戦線で圧倒的な強さを見せ、海外の大レースも制したタイキシャトル&シーキングザパール。

そして、勝ち星こそないが大レースで大活躍したステイゴールド。

彼女らの活躍によって、ウマ娘界は史上最高といえる盛り上がりを魅せている。

 

しかし、数多くいる新星ウマ娘の中でも、別格の輝きを放つウマ娘がいた。

名は、サイレンススズカ。

 

 

サイレンススズカ、入学3年目の栗毛のウマ娘。

入学当初から、その非凡なスピード能力は注目されていた。

だがメンタルにやや不安があり、レース直前にパニックを起こしたり所属チームを何度も変えたりするなど何度もゴタゴタがあった。

そのせいかレースの内容も毎回不安定で、期待されたクラシックでも結果を残せないまま、燻った状態で2年目までを終えていた。

 

だが3年目、新たにチーム『スピカ』に入ってから、彼女のメンタルは安定し、同時に走りは一変した。

一変というよりは、秘めていた能力が一挙に覚醒したというべきか。

 

年初のバレンタインS(ステークス)での圧勝を皮切りに、スズカは中山記念(G2)・小倉大賞典(G3)・金鯱賞(G2)と重賞戦線を連戦連勝。

特に金鯱賞では、前年のG1レース覇者を含めた相手達に2秒近い大差をつけて圧勝するという驚異的な強さを見せつけ、一躍スターとして躍り出した。

 

彼女のウマ娘としての最大の魅力は、そのレースでの内容だった。

先行逃げ切り、或いは後方からの追い込みといった基本的なレース運びではなく、スタート直後から先頭に躍り出てハイスピードで飛ばし、そのまま最後まで逃げ切るというのが彼女の戦法だった。

 

普通、スタートから最後まで先頭で逃げ切るというのは至難の戦法。

ましてやハイスピードでの逃げ切り戦法など、自爆覚悟の危険な戦法だとされていた。

 

ウマ娘の歴史でも、その戦法をとっていた者は希少といえる程少ない。

その戦法を使っていた数少ない一人であるツインターボというウマ娘は、何度か勝利を重ねたことがあるが、それ以上の数の惨敗を重ねた。負ける姿は“逆噴射”などと揶揄された。

またメジロパーマーというウマ娘も、その戦法で宝塚・有馬記念という大レースを制したことがあるが、そのレース内容はギリギリで、またそれ以外のレースは振るわないものも多かった。

 

 

唯一、その戦法で結果を残し続けたウマ娘は、20年以上前に活躍したカブラヤオーという大先輩のウマ娘のみ。

ただカブラヤオーは極端な臆病ウマ娘で、他のウマ娘と群れで走るのが怖いから、超ハイペースの逃げ戦法をとっていた。

臆病ゆえ使わざるを得なかったその戦法と走りは、レースの最後にはカブラヤオー含めた全ウマ娘達がバテバテでゴールインしターフ上に倒れ込むという凄まじい結末となっることもあり、『狂気&恐気・殺ウマ娘的な逃げ』と称された。

カブラヤオーはその戦法で、皐月賞・ダービーを制覇し、通算で9連勝含めた13戦11勝というウマ娘史上屈指の好成績を残した。

だがそれでも、戦法ゆえか結果と裏腹にレース内容は辛勝も多かった。

 

サイレンススズカは、そのカブラヤオーを超えたのではと思う程の強さを見せていた。

何故なら、ハイペースで先行したまま最後まで脚色が衰えることなく、表情も全く変えないまま他のウマ娘との着差を引き離しての圧勝を繰り返していのだから。

 

つまり戦法ではなく、スズカはただ気持ちよく走ってるだけなのだ。

ただ気持ちよく走るだけで、他を圧倒する程のスピードを備えているという、稀代のウマ娘だった。



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神速のウマ娘(2)

 

年明けから圧倒的な連戦連勝を重ねたスズカは7月、大レースである宝塚記念に挑んだ。

 

このレースには、エアグルーヴ・メジロブライト・シルクジャスティスらといった先輩・同期のG1レース覇者に加え、ステイゴールドといった同期の精鋭も混じっていた。

だがスズカは一番人気。

錚々たるG1覇者よりも、実力は既に上と見られていた。

その期待に応え、スズカは完勝で初のG1レース制覇を果たした。

レース内容も、流石に硬くなったかいつものように気持ちいい走りではなかったが、それでも余裕をもっての1着入線だった。

 

 

宝塚記念の完勝で、名実とともに現役ウマ娘最強と呼ばれるようになったスズカ。

そして秋、彼女の前に最強の相手が立ちはだかった。

 

10月に開催された毎日王冠(G2)。

大レースではないものの、このレースはそれ以上の注目を集めていた。

何故なら、現役最強となったサイレンススズカに対し、海外出身の入学生であるエルコンドルパサー・グラスワンダーといった二人の後輩かつ無敗のウマ娘が挑むという一戦だったから。

 

エルコンドルパサー。

海外から入学した彼女は、デビューから連戦連勝。2年目の今年も同期との大レース等を楽勝で制し、既に実力は国内を越えて世界級と評価されていた。

実際、彼女は既に来年から海外のレースに出場する意向を固めていた。

グラスワンダー。

今年こそ年初に負った怪我の影響でまだレース出走はないが、デビュー当時は圧勝の連続。

特に1年生の大レースである朝日杯では圧倒的な強さでレコード勝ち。

同じ海外からの入学生として20年以上前に大活躍した伝説ウマ娘「マルゼンスキー」の再来と称された。

 

現役最強から史上最強への道を突き進むサイレンススズカに対し、史上屈指の強さを誇る海外入学ウマ娘2人。

その注目度は、レース当日にG2レースでは異例の10万人以上の観客が押し寄せたことからも明らかだった。

 

 

そして10月11日、全ファンが固唾を飲んで見守る中で、発走した毎日王冠。

スタート直後、いつも通り先頭を切ったスズカ。

すぐ後ろでそれを追うエルコンドルと、やや後方からのスタートとなったグラス。

いつものように気持ちよく走るスズカと、後方の差は4バ身程。

そしてレースの半分を通過した第3コーナー過ぎ、怪我明けのグラスが一気にペースを上げて勝負を仕掛けた。

直線に入り、グラスが必死に差を詰めにかかる。

しかし、ハイペースにも関わらずスズカの脚色は全く落ちず、彼女を捉えることは出来なかった。

一時は並びかける寸前までいきながら、怪我明けのグラスは力尽き失速、バ群に沈んでいった。

グラス失速後、猛然と追い込んできたのがエルコンドル。

文字通り怪鳥みじた化け物的末脚の持ち主である彼女は、直線で一気にペースを上げてスズカに迫った。

だが、残り200を切ってもスズカのスピードは落ちない。

怪鳥の末脚ですら、スズカの影を踏むことは出来なかった。

ようやくスズカのペースが落ちたのはゴール寸前、勝利が確実になって自らスピードを抑えた時だった。

 

1着サイレンススズカ、2着エルコンドルパサー、5着グラスワンダー。

力の差を見せつけられ悔しさのあまり号泣するエルコンドルと、怪我明けとはいえ殆ど勝負にならなかったことに項垂れるグラスを尻目に、スズカはいつもと変わらない飄々とした姿で、10万以上の観客の大歓声に応えながらターフを引き上げた。

 

 

この毎日王冠での快勝で、サイレンススズカの評価は“現役最強ウマ娘”から、“史上最強ウマ娘”へと変わった。

戦法も何もいらない、ただ気持ちよく走るだけで圧勝するウマ娘。

まさに、理想中の理想とするウマ娘の誕生だった。

 

年明けには海外に挑戦することも決まり、世界への飛躍も期待された。

そして海外遠征の前に、ファンに夢の走りとその勇姿をなるべく見せておきたい為か、スズカの次のレースは毎日王冠の翌月に行われる天皇賞・秋に決めた。

 

そう、第118回天皇賞・秋に。



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神速のウマ娘(3)

 

*****

 

 

夜になった頃、ゴールドは喫茶店『祝福』を出、帰路についた。

 

 

「おいおい、大丈夫かよ。」

学園寮への帰路の途中。

電車で車窓を流れる夜景を眺めていると、座席でウマ娘新聞を読んでいる乗客の会話がゴールドの耳に聞こえた。

「サイレンススズカ、回復にかなり手間取ってるようだぜ。」

「まあ仕方ないだろ。再起不能になってもおかしくない大怪我だったらしいしな。まだ復帰の目があるだけ幸運だって言われてるし。」

「まーな。しかし残念だ。」

新聞を閉じた片方が、大きく溜息を吐いた。

「夢の海外遠征もなくなったどころか、また走れるかどうかすらわからないだからな…。」

「復帰出来たとしても、またあの走りが見れるかわからないからな…神様は残酷だ。」

「神様?」

片方が笑った。

「神様なんているわけないだろ。いるんだったら、大怪我するのはスズカじゃなくてオフサイドに決まっているだろ。」

「まあそうだよな。何でスズカのような最高のウマ娘が怪我して、オフサイドみたいなエゴイストが怪我しないんだろうな。」

 

「…。」

ゴールドは帽子に隠れた両耳をピョンと塞ぎ、乗客の会話が聞こえない場所へ移動した。

 

もう何十回と、今のような内容の会話を聞いただろう。

別車両に移動したゴールドは、空いてる座席に腰を下ろした。

あの天皇賞・秋を振り返る人々が話すのは、大体あんな内容だ。

時たま、2着の自分もことも出てきたりするが、主に会話で出るウマ娘の名は二人。

一人は「サイレンススズカ」、そしてもう一人は「オフサイドトラップ」。

 

スズカのことを話す時は痛々しく、惜しむように。

オフサイドのことを話す時は蔑み、嫌悪するように。

 

 

 

*****

 

 

 

毎日王冠から約一カ月後の、11月1日。

 

その日は、天皇賞・秋の大レースが開催された日だった。

だが、ファンも観客も、そして観戦したウマ娘の殆ども、このレースで誰が勝つか、ということは注目していなかった。

〈サイレンススズカがどれ程のスピードでゴールするか〉

それだけに注目していた。

 

先に行われた毎日王冠でエルコンドルパサー・グラスワンダーという最強の挑戦者相手に完勝した後、もうサイレンススズカに敵う相手は見当たらなくなっていた。

同時に、この稀代のスピードを持つウマ娘への人気は絶頂に達していた。

圧倒的な強さだけでなく、観てるもの全てを魅了し爽快にさせるそのスピードと走る姿の美しさ。

『奇跡の逃げ足』・『神速のウマ娘』・『ターフの神』といった異名すら名付けられた。

もはやサイレンススズカは、勝敗の次元を超えた域に達していた。

 

この天皇賞も、サイレンススズカにとっては自分の速さを測る為の場に過ぎない、そうみられていた。

ウマ娘新聞含めた報道も、勝敗予想などし殆どていない。

スズカがどれほどのタイムでゴールするかを予想していた。

従来のレコードタイムを更新することはもはや当然。

ではどのくらい更新する?0.5秒?1秒?いやもっと?そんな予想ばかりだった。

 

天皇賞へのニュースがスズカ一色な中、同レースに出走する他のウマ娘の特集も勿論ありはした。

大レースなので当然、実績が高く実力の強いウマ娘も数多く出る。

メジロブライト・シルクジャスティスといったG1覇者もだ。

だが、スズカにはとても勝てそうにないという予想が大多数だった。

周囲の予想だけでなく、彼女ら自身もその事実を内心では受け入れざるを得なかった。

 

ブライトもジャスティスも決して弱いG1ウマ娘ではない。

ブライトは、昨年のクラッシック成績では当時のスズカよりも遥かに優れた成績を残し、今年は天皇賞・春を制し名実とともにG1ウマ娘となった。

またその他のレースでも好走を続け、無敗ではないがスズカに次ぐ好結果を残していた。

ジャスティスも今年こそ成績は冴えないが、昨年の有馬記念ではマーベラスサンデー・エアグルーヴといった格上の先輩G1覇者をゴール寸前まとめて差し切るという離れ技やって勝利し、強烈な印象を残した。

 

だが、その二人ですら弱気になってしまう程、サイレンススズカの輝きは全てを圧倒していた。

 

その他、同走で初の大レース制覇に挑むウマ娘達も、やはりスズカが出るとあっては殆どが萎縮せざるを得なかった。

彼女らは1着は諦め、それ以下でなるべく上の着順を目指してレースに挑む構えだった。

出走するウマ娘達がそのような状況では、レースの勝敗が注目されないのも当然だったかもしれない。

 

だが、そんな状況下でも、密かにレースへの勝利に執念を燃やすウマ娘が、僅かに二人いた。

一人は、大レース含めで2着続きで勝ち星から見放され、今度こそ絶対勝ちたいと強く願っていたステイゴールド。

そしてゴールド以上に、異常な程に勝利を目指して燃え滾っていたのが…

 

 

*****

 

「…オフサイドトラップ先輩。」

座席に座っているゴールドは眼を瞑り、眼元に手を当てた。

 



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神速のウマ娘(4)

*****

 

 

30分後、ゴールドは学園寮に帰寮した。

 

 

自室に戻って部屋着に着替えると、ゴールドは帰りに買った弁当を手に自室を出、別の寮部屋へと向かった。

 

コンコン。

「先輩、いますか?」

目的の部屋に着くと、ノックしながら室内に問いかけた。

返事はないが、ドアノブを握ると鍵は空いていた。

そのままドアを開け室内に入ってみると、ベッドで寝ている先輩の姿があった。

 

「先輩、先輩。」

ゴールドはベッドに近づくと、毛布を頭まで被っている先輩を起こした。

「先輩、夕食買ってきましたよ。」

「…。」

揺り動かされ、ベッド上のウマ娘は目元を擦りながら起き上がった。

「…お帰り、ゴールド。」

あまり生気のない先輩の眼を、ゴールドは努めて明るく見返した。

「一緒に食べましょう。今晩のお弁当は、先輩の大好きなニンジン弁当です!」

「…。」

好物のお弁当を手渡され、栗毛のウマ娘オフサイドトラップは薄い微笑を浮かべながら、ゆっくりとベッドを降りた。

 

 

オフサイドトラップとステイゴールド。

二人は、トレセン学園のチーム『フォアマン』に所属してるチームメイト。

現在、同チームで活動している生徒はこの二人だけで、その為オフサイドとゴールドは密接な仲にあった。

ただ学年は、ゴールドはまだ3年生なのに対しオフサイドは既に6年生と、学園でもかなりの年長生徒だった。

 

 

「美味しいすね、ニンジン弁当。」

並んで座ってお弁当を食べながら、ゴールドは時折明るい口調でオフサイドに話かけた。

「私、普段あんまニンジンは食べないけど、これだったら幾らでもいけそーすね。大のニンジン好きのスペシャルウイークがめっちゃこの弁当推してたのも分かるわー。」

「…。」

やたら陽気に食ってるゴールドと対照的に、オフサイドは寡黙に箸を進めている。

好物のニンジン弁当を食べてるというのに、全く表情が冴えない。

食欲もあまりなかったのか、結局、半分くらい残して箸を置いた。

 

「明日のトレーニング、どうします?」

弁当を食べ終えた後、ゴールドはペットボトルのお茶をゴクゴク飲みながら尋ねた。

「…ゴールドの予定は?」

「特にないです。出来れば、先輩とトレーニングしたいっす。」

「私と?」

「久々に、二人で軽くランニングでもしませんか?気持ちいいと思いますよ。」

「…いい。」

オフサイドはお茶を一口飲んで、小声で答えた。

「私に構わず、ゴールドは好きにトレーニングして。」

「“構わず”って、」

ゴールドは困った顔をした。

「チーム仲間ですから構いますよ。」

「チームとか気にしなくていいよ。もう、『フォアマン』はおしまいだから。」

ペットボトルの口に目を落とし、オフサイドはポツリと呟いた。

 

「そんな悲しいこと言わないでください。」

オフサイドの呟きに対し、ゴールドはちょっと怒った表情を浮かべ、お茶をがぶ飲みした。

彼女がお茶を飲み干すのを確認すると、オフサイドは再びベッド上に戻った。

「先輩。」

「お弁当美味しかったわ、ありがとう。でももう部屋に戻って。一人にさせて。」

そう言うと、オフサイドは毛布を頭まで被った。

「おやすみなさい。」

ゴールドも残念そうに言うと、空の弁当箱を手に、オフサイドの部屋を出ていった。

 

 

 

自分の部屋に戻ったゴールドは、シャワーを浴びて汗を流し、寝巻きに着替え就寝の準備を整えると、机の前に座って鞄からチーム日誌を取り出し、今日の記録を記した。

 

『12月9日 チーム活動 

朝 

ゴールド カノープスの面々と練習。ランニング3000m・柔軟体操・真っ直ぐ走る練習

オフサイド 不明

 

放課後

ゴールド スピカの面々と練習。坂路往復3回・2500走2回・柔軟体操・真っ直ぐ走る練習

オフサイド 不明。

 

備考

故障離脱中のメンバー 

ルソー

諸事情で離脱中のメンバー

スペリアー・ツルマル・コマンダー・エアデール・ラスカル・テイエム

 

有馬記念まであと18日』

 

 

寂しい日誌を書き終えると、ゴールドはふーと大きく背伸びし、憂鬱そうに溜息を吐いた。

“…『フォアマン』はもう終わりだから”

先程、オフサイドが呟いた言葉が、耳に強く残っていた。

 

 

なんで、こんなことになってしまったんだろう。

私もチームの仲間達も、オフサイド先輩も、…誰も悪いことなんてしてないのに。

 

全ては、あの天皇賞・秋のせいだ。

あの天皇賞・秋を境に、何もかもが壊れた。

チームも仲間達もバラバラになった。

 



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沈黙の日曜日(1)

*****

 

11月1日、東京府中競バ場。

第11レース『第118回天皇賞・秋』

 

レース発走直前、13万人を超える観客が入った場内の盛り上がりは異様な高さに達していた。

1枠1番で発走するサイレンススズカが、果たしてどれ程のタイムで1着入線するのか。

新たな歴史を目撃することへの期待が、場内から溢れんばかりに沸きかえっていた。

 

 

すっごい声援…

スタート地点、7枠10番のゲート前に立ったゴールドは、地鳴りのようなその声援に驚いていた。

スズカへの声援が凄いだろうとはある程度覚悟していたが、まさかこれ程とはね。

宝塚の時と全然違うわー。

 

このレースに出走するウマ娘は、スズカ・ゴールドを含めて全12人。

圧倒的一番人気のスズカ、二番・三番人気のブライト・ジャスティス両G1覇者に次いで、ゴールドは4番人気。

…私に期待してくれるファンもいる!

ゴールドは圧倒されそうな心を奮い立たせ、ゲートに入った。

相手がスズカだろうがなんだろうが、負ける為にこのレースに出た訳じゃないから。

 

やがて、他のウマ娘達もゲートに入り始めた。

凄まじい声援の中、いつもと変わらぬ涼しい顔のスズカ、気圧されながらもG1覇者の誇りを保つブライトとジャスティス、毎日王冠で大善戦したサンライズフラッグ、スズカと同じ逃げウマ娘サイレントハンター、そして、その他のウマ娘も全員ゲートに入った。

 

『13万を超える大歓声の中、この栗毛の怪物(サイレンススズカ)を捉えるウマ娘は現れるのでしょうか!第118回天皇賞・秋、スタートです!』

実況の声と同時にゲートが開き、スタートがきられた。

 

 

スタート直後、先頭に立ったのは1枠1番サイレンススズカ。

いつも以上に抜群の好スタートを切り、あっという間に後続との差を引き離した。

2番手は同じ逃げウマ娘サイレントハンターだが、既にスズカとは10バ身離れていた。その更に10バ身後方に、メジロブライト・ステイゴールドら3番手以下が続いていた。

 

はっや!

懸命に追走しながら、ゴールドは遥か前方をゆくスズカの速さに驚嘆した。

前に彼女と走ったのは宝塚記念だったが、その時とは桁が違うスピードだ。

2番手のサイレントハンターですら普通より早い位の逃げスピードなのに、スズカはそれより更に速い。

 

やがて、スズカが1000m地点を通過してゆくのが見えた。

タイムは…57秒くらいじゃん⁉︎

数年前にメジロパーマ・ダイタクヘリオス両先輩が先頭集団全員を巻き添えにして大惨敗したレースと同じタイムだ。

スズカ、正気なの⁉︎

 

だが、ゴールドの視界に映ったのは、普段と全く変わらぬ涼しい表情で駈け続けるスズカの表情だった。

嘘でしょ。

愕然とすると同時に、一際大きな観客の大歓声が聞こえた。

驚愕の通過タイムと、全く変わらない美しい走りを魅せているスズカへの歓声だと直ぐに分かった。

こんな、勝てる訳ない…。

あまりにも別次元の走りを見せる同期の姿に、ゴールドは思わず諦めかけ、顔を俯かせた。

 

 

するとその直後、再び凄まじいどよめきが起きた。

…今度は何?

嫌々と、前方を見たゴールド。

 

その時、…え?

目を疑うような光景が視界に入り、ゴールドの唇から茫然とした呟きが漏れた。

「うそ⁉︎」

「どうしたの⁉︎」

前後で懸命に追走している他のウマ娘達も、その光景に愕然とした。

13万の観衆も同じだった。

その一瞬、時が止まった気がした。

 

 

何故なら、大欅の向こう側を過ぎたあたりのコース上で、サイレンススズカが苦痛に表情を歪ませ、急激にスピードを落としていく姿が映ったから。

 

 

『おっと?ここで急に手応えが…?ここで急に抑えるようして…ああ⁉︎ちょっとこれは⁉︎…サイレンススズカ、サイレンススズカに故障発生です‼︎なんということだ、3コーナーをまわることなくレースを終えたサイレンススズカ!沈黙の日曜日…!』

 

悲鳴にも似た実況の叫びが、全ての人々の耳に響き渡った。

 

*****



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沈黙の日曜日(2)

*****

 

 

12月10日。

 

朝早くトレセン学園に登校したゴールドは、早速朝のトレーニングをしようと、体操服に着替えて運動場へ向かった。

 

 

寒ー。

運動場のコースに立ったゴールドは、肌に感じる冬の寒気に両腕を組んで歯をガチガチ鳴らしていた。

12月の早朝はもう凍えそうな寒気だ。

寒い寒い寒い。

そうだ、なにか暖かいこと考えよー。

ニンジン鍋・ニンジン鍋・ニンジン鍋・ニンジンスープ・ニンジン鍋・ニンジン鍋…

 

「なに一人で美味しそうなこと言ってるんですかー?」

頭の中に鍋物を敷き詰めていると、後ろから爽やかな声がした。

振り返ると、チーム『スピカ』所属の2年生、黒鹿毛ウマ娘スペシャルウイーク(通称スペ)が、涎を垂らしそうな顔で立っていた。

 

「おはようございます!ゴールド先輩!」

「やー、おはようスペ。今日も寒いね〜。」

二人はチームは違うが、よく一緒にトレーニングする仲であった。

「ですねー。では一丁、軽くランニングしますか!」

ゴールドと同じくちょっと寒そうだったスペはぽんと手を叩くと、早速コースを駆け出した。

「待ちーや。」

ゴールドは慌てて後を追った。

 

「あんた、やっぱ速いわね…。」

グラウンドを10周ほどした後、ゴールドはゼーゼー青息吐息になりながら、一汗かいた程度の疲れしかみせてないスペを見上げた。

普段はただの爽快大食いド天然のスペだが、ダービーを圧倒的な強さで制したその実力は世代最高峰と評されている程高い。

今年はもうレースへ出走しないらしく、来年の飛躍へ向けて日々励んでいる。

「まだまだです。」

寝っ転がって呼吸を整えているゴールドの傍らで、スペはうんしょうんしょと柔軟体操をしながら、笑顔で首を振った。

「この程度では、エルコンドルパサーさんにもスズカさんにも到底敵いません。」

 

スペシャルウィークは、同じ『スピカ』のチーム仲間であるサイレンススズカの親友であり崇拝者。

1年生時に目の当たりにしたスズカの走りに魅了され、チームを共にしてからは一層魅了されるようになり、現在は彼女の走りを越えることを目標としている程だった。

現在、大怪我の治療をしているスズカの看護も誰より献身的に行っており、二人の仲は他も認めるほど非常に親密な関係にあった。

 

「ねえ、ゴールドさん。」

少し経った後、腕の柔軟体操をしながら、スペはふと言った。

「良かったら、来年から『スピカ』(うちのチーム)に入りませんか?」

「え?」

前屈運動をしていたゴールドは、思わず動きを止めた。

「なんで?」

「ゴールドさんが所属している『フォアマン(チーム)』、今年で解散すると聞いたんです。」

 

「…どこで、そんな話を?」

硬直したゴールドに対し、スペは邪っ気ゼロの明るい口調で続けた。

「学園内での噂です。でも、結構本当らしいですし、新しく所属するチームも早く決めておいた方が良いのではと思って。うちのチーム、トレーナーさんも仲間達もゴールドさんの事をすごく評価してます!大歓迎しますよ!」

 

「考えとくわ。」

完全に好意で誘ってきた様子のスペに苦笑しながら答えると、ゴールドはつとその場を離れ、一人でランニングを始めた。

 

チーム解散か…

コース上で真っ直ぐ走る練習をしながら、ゴールドは先程スペから言われた言葉を脳裏で反芻していた。

その可能性は非常に高いことは、ゴールド自身もよく分かっていた。

チーム名声の没落、所属生徒の激減。

それだけでなく、トレーナーも学園を去っていなくなった。

新トレーナーもまだ決まってない。

何より、ある生徒がチームにいることが、解散させられる一番の理由だ。

ゴールド本人ではなく、もう一人の生徒、他ならぬオフサイドトラップだ。

 

 

 

その後、早朝の練習を終えたゴールドは、制服に着替え直した後、運動場の隣にあるチーム施設、『フォアマン』チームの部室へと向かった。

 

また落書きされてるなー。

部室の扉や壁に書き殴られた『冷血ウマ娘』『最低ウマ娘』『お前が怪我すれば良かった』等の文字を見て、ゴールドは溜息を吐いた。

郵便受けにも多くの投書が詰め込まれている。

内容は落書きと同じような中傷と罵倒ばかりだ。

悪質なウマ娘ファンによるものが殆どだけど、もしかすると学園の生徒がやったのもあるかもしれないなー…

 

苦々しく思いながら、ゴールドは殴り書きされた落書きを殴り返すような勢いで消し、投書をチギッチギに破り捨てた。

もうこんな日常は一ヶ月くらい続いているから慣れた。

といって、受け入れた訳ではないけど。

 

「なんでこんな目に遭わなければいけないのさっ!」

掃除を終え、誰もいない部品も殆どない殺風景な部室に入ると、ゴールドは落書き消しに使った布切れを悔しそうに床に叩きつけた。

オフサイド先輩が、一体何をしたってのさ…

 

オフサイドトラップ。

彼女のことを、“第118回天皇賞覇者”…と呼ぶ者は殆どいない。

殆どが、“非情・冷血・自己中《エゴイスト》・ウマ娘にあるまじき者”、などと呼ぶ声が多かった。

 



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沈黙の日曜日(3)

*****

 

再び、第118回天皇賞・秋。

 

全ウマ娘ファンの夢を乗せてターフを翔けていたサイレンススズカは、大欅の向こう側で故障発生。

大観衆の悲鳴と共に、競走を中止した。

 

 

…嘘でしょ。

夢にも思わなかったスズカの故障に、ゴールドも我が目を疑った。

他のウマ娘も同様だった。

しかもスズカは意識朦朧としてるのか、コース上でふらついている。

このままでは衝突しかねない。

2番手で追走していたサイレントハンターはなんとかスピードを落とし、大きく外側によれて衝突を辛くも逃れた。

ゴールド含めた後続のウマ娘達も失速し、スズカを避ける進路を必死に探した。

 

その時。

後続の一人が凄まじいスピードで、故障したスズカの内側のコースを駆け抜けていった。

最小限のロスで衝突を避けたそのウマ娘は、避けるのに手間取った他のウマ娘を尻目に第4コーナーを回ると、失速したサイレントハンターをかわし直線で先頭に立った。

『先頭はここでサイレンス…オフサイドトラップ!オフサイドトラップが先頭にたった!』

動揺しながら、実況が驚愕する様に叫んだ。

スズカのまさかの故障に場内が騒然とする中、直線で先頭に躍り出たウマ娘は、出走メンバーで最年長、かつステイゴールドと同じチームメイトのオフサイドトラップだった。

 

オフサイド先輩⁉︎

残り400m地点で猛然と先頭にたった先輩の姿をみて、ゴールドは驚愕した。

同時に、スズカの故障へのショックから、ターフで闘う現実に戻った。

前後を見ると、ブライト・ジャスティス・サンライズ・サイレントら他のウマ娘もショックから立ち直って、オフサイドの背を必死に追い出している。

負けるもんか!

ゴールドも地を蹴って、一気にスパートをかけ始めた。

このレース、私は勝つ為に出走したんだ!

 

場内騒然とした雰囲気の中、レースは残り200mを切った。

先頭に立ったオフサイドは最年長とは思えない力走を続け、1番手を死守していた。

最年長ウマ娘の驚異の粘りに、後続勢はジリジリと引き離され出した。

G1覇者のジャスティス、続いてブライト、そしてサイレントも。

サンライズも必死に追うが届きそうにない。

そんな中、ただ一人オフサイドの背後に肉薄するウマ娘がいた。

他ならぬG1制覇に執念を燃やすゴールドだ。

 

もう少し!

オフサイドの背中がジリジリと迫って来たのを前に、ゴールドは歯を食いしばって必死にスパートをかけ続けた。

スズカのことはもう彼女の頭にはない。

オフサイド先輩の粘りは凄いけど、直線早々先頭に立ったせいでもう末脚の限界が近い筈。

あたしはまだ余力がある!捉えられる!

先輩をかわせばもう前には誰もいない。

悲願の、本当に悲願のG1制覇まであともう少しの頑張りだ!

そして残り100m、驚異の粘りをみせていたオフサイドの脚色が遂に鈍った。

今だ!

ゴールドも最後の力を振り絞ってラストスパートをかけ、オフサイドの背中に迫った。

よしっ!捉えた!

 

ところが。

…なんで?

捉えたと思ったオフサイドの背中が、何故かまた少し遠ざかり始めた。

見ると、鈍った筈の彼女の脚色が、まるで2段ロケットのように再び力を取り戻していた。

嘘よ、そんな…ありえない!

信じがたい現実を前に、悲痛な心の叫びが漏れた。

同時に、スパートをかけ続けていたゴールドの脚がもつれ、走りが斜行し始めた。

そんな、もう少し、もう少しなのにいっ!

ゴールドの無念の叫びは、声にならなかった。

そのまま目の前で、オフサイドはゴールを駆け抜けた。

 

『オフサイドトラップ先頭!内の方からステイゴールド!しかしなんと、オフサイドトラップです!オフサイドトラップ優勝!』



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沈黙の日曜日(4)

*****

 

コンコン。

部室の扉をノックする音に気付き、ゴールドは我に返った。

誰だろうと思いつつ、扉を開けた。

 

「おはよう、ゴールドさん。」

訪れたのは、ライスシャワーだった。

 

「これはこれはライス先輩、おはようございます。」

「まだトレーニング前だったかしら?」

「いえ、もう終わって着替えたところです。」

「なら、少しお茶しない?」

持参してきたコーヒー用具一式を手に、ライスは片眼を笑わせた。

 

喫茶店『祝福』店主のライスは時折、学園OBとして後輩達の様子を見に来る。

『フォアマン』だけでなく、『スピカ』や『カノープス』、他のチームの後輩達の所にも。

ただ見に来るだけでなく、差し入れ(大体コーヒーだが)を持ってきたり後輩の相談に乗ってくれたり、様々なアドバイスを与えてくれたりする。

なかなか面倒見が良いということで、多くのウマ娘からも慕われている名OBだ。

 

だが早朝に来るのは珍しい。

ゴールドがその理由を尋ねると、

「昨日、喫茶店でのあなたの様子が気になったから。」

ということだった。

喫茶店…ああ、そういえばあの時も、ファンから色々言われたなー。

もう数が多すぎて、忘れていた。

 

「あなた一人だけ?」

部室に入ると、ライスはゴールド以外誰もいない部室を見渡した。

「ええ。…まあ事情は知ってるでしょうけど。」

「本当だったのね…。」

寂しげに呟きながら、ライスは持ってきたコーヒー、コーヒーミル、カップを取り出した。

 

 

「ライス先輩、」

小気味いい音をたてて豆を挽いているライスを頬杖ついて眺めながら、ゴールドは口を尖らせて言った。

「なんで、こんなことになってしまったんでしょうね。何が、悪かったんでしょうね。」

「…。」

ライスは何も言わず、黙々と豆を挽き続けた。

 

 

*****

 

 

第118回天皇賞・秋を制したのは、6番人気の伏兵オフサイドトラップだった。

 

「やった‼︎」

ゴール板を先頭で駆け抜けた後、オフサイドトラップは雄叫びをあげ、騒然とする場内の観衆など全く気にせず、何度もガッツポーズを繰り返した。

ゴールド他、2着以下に終わったウマ娘達の悔しさや複雑さが入り混じった表情の群れの中、唯一人勝利の喜びを爆発させていた。

 

オフサイド先輩…

歓喜を包み隠さず爆発させて地下通路に去っていく先輩の姿を、ターフ上のゴールドは大息を吐きながら唇を噛み締めて見送った。

また、また2着か…クッソオッ!

悔しさのあまり、ゴールドは芝生上に何度も拳を叩きつけた。

 

だがやがて、昂った気持が落ち着いてくると、彼女の視線は大観衆や他のウマ娘達と同じく、第3コーナーの大欅の向こう側へと向けられた。

 

…スズカ。

故障発生し競争中止したサイレンススズカは、駆けつけたチームメイト・トレーナーに支えられ、救急車に運び込まれようとしていた。

仲間の腕の中で意識を失っている彼女の表情が見え、怪我の重さを窺わせた。

ターフビジョンでも、その深刻な様子が映し出されていた。

「スズカ、嘘だろ⁉︎」

「スズカ、しっかりして!」

「スズカー!」

場内の大観衆からは、悲鳴や泣き声も多く聞こえた。

ゴールド含めたターフ上のウマ娘達も茫然とした様子で、スズカを乗せた救急車が発進するのを見送っていた。

 

救急車が場内を去った後。

ターフビジョンの映像は、控室で優勝者インタビューを待つオフサイドトラップの姿に移り変わった。

悲痛な雰囲気に満ちた場内とは全く対照的に、オフサイドの表情には達成感に満ちた笑顔が浮かんでいた。

 

既にその時、場内には不穏な雰囲気が流れ始めていた。

 

そして、オフサイドへの優勝インタビューが始まった。

『第118回天皇賞優勝ウマ娘はオフサイドトラップです。おめでとうございます。』

「ありがとうございます!やっと報われたという嬉しさでいっぱいです!」

『こちらに戻ってきてからも、何度も歓喜の雄叫びを繰り返していましたね?』

「はい!もう気分良く走れて、最後は全て出し切って…。本当に勝てるなんて、夢みたいで、笑いが止まりません!」

 

“笑いが止まりません”。

オフサイドの口からこの台詞が流れた時、ターフビジョンを観ていた大観衆から、凄まじいどよめきが巻き起こった。

スズカが快走していた時に巻き起こったものとは全く違う、一面を黒雲で覆い包むようなどよめきだった。

 

何これ…

コース上でターフビジョンを観ていたゴールドは、場内で新たに巻き起こったその異常な雰囲気に、スズカが怪我した時以上の悪寒を感じた。

 

 

*****

 

 

再び、『フォアマン』部室。

ライスとゴールドは、挽きたての豆で淹れたコーヒーを一緒に飲んでいた。

 

「オフサイドさんは、学園に来てる?」

「ええ、まあ一応登校はしてます。」

コーヒーの苦さを表情に出さないようにしながら、ゴールドはライスの質問に答えた。

「“一応”?」

「一応っす。まじで一応って状態です。」

「そう。」

肘ついているゴールドと違い、ライスは行儀良く両掌にカップを抱えていた。

「私、オフサイドさんと話がしたいと思ってるの。」

「え、先輩と?」

「うん。彼女が負った傷を、少しでも癒やしてあげたい。」

 

かつての天皇賞覇者であるライスシャワーはそう言うと、眼を瞑りながらコーヒーを飲んだ。

 



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非情で自己中なウマ娘(1)

*****

 

…ん。

目を開けると、カーテンの隙間から眩しい朝日が目に入った。

 

時計の針を見ると、8時になろうとしている。

丁度いいな…

ふあっと欠伸を漏らすと、オフサイドトラップはベッドから起き上がった。

 

 

洗面をし、軽く朝食を摂って、制服に着替えたオフサイドが学園寮を出たのは8時半過ぎ。

既に遅刻は確定だが、彼女は最近敢えてこの時間帯に登校していた。

 

やがて駅に着き、ホームで電車を待っているオフサイド。

冬の朝らしい澄んだ空気と対照的に、彼女の表情にはあまり生気がなかった。

眼の光も雨雲のように暗いし、ウマ娘らしい身体の張りも殆どなく、まるで病人ように元気がない。

まさか彼女が、全ウマ娘の夢である天皇賞制覇を成し遂げだウマ娘だとは、彼女を知る者以外では誰一人として思いも気づきもしないだろう。

いや、気づかない方がいい。

今のオフサイドにとってはそれが一番望ましい。

もし気づいたとしたら…

 

ポトッ。

突然、電車を待っている彼女の足元に、丸められた紙が転がってきた。

「…。」

飛んできた方を振り向かず、オフサイドはそれをそっと拾い上げ、広げてみた。

“冷血ウマ娘”

「…。」

無言でそれを傍らのゴミ箱に捨てると、オフサイドは到着した電車に乗り込んだ。

 

電車に乗ってる最中、オフサイドに対しては周囲から幾つもの視線がぶつけられていた。

ウマ娘はその姿格好からして目立つ。

おまけに、オフサイドは有名ウマ娘(*****)だ。

といって、彼女に集まる視線は羨望や憧れではなく、敵意と侮蔑だったが。

 

やがて、トレセン学園前の駅に着いた。

電車を降り改札口を出ると、彼女の姿に気づく人間と視線はより多く強くなった。

「…みて、あのオフサイドよ」

「うっわ、こんな遅くに登校なんて、さすがエゴイストは違うね〜」

「…冷血ウマ娘。いつになったら学園辞めるのかな…」

コソコソした罵声も聞こえる。

「…。」

ずっと無表情だったオフサイドは早足になり、両耳を閉じながら学園へと急いだ。

 

 

学園に着くと、オフサイドは校舎へは向かわず、チーム『フォアマン』の部室へと向かった。

 

部室に着くと、ほんのり香るコーヒーの匂いに首を傾げながら、どさっと椅子に腰を下ろした。

ふーと大きく吐息をすると、額から滴り落ちていた汗を拭い、死んだように眼を瞑った。

 

しばらく経った後、眼を開けたオフサイドは鞄を開け、ある物を取り出した。

それは、第118回天皇賞の盾だった。

彼女はずっとその盾を、自分のもう一つの生命のように、常に身近に携帯していた。

 

苦しいな…苦しいよ。

盾を胸に抱きしめながら、オフサイドは胸の中で呟いた。

なんで、なんでだろう?どうしてこんなに苦しいの?

私が求めていたものは、何よりも欲していた栄光は、こんなものだったの?

 

彼女の瞳の奥には、もう涙すら失われていた。

 



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非情で自己中なウマ娘(2)

 

第118回天皇賞・秋のレース後。

 

ニュースや報道の内容は、サイレンススズカの故障一色に染まった。

意識不明のまま救急搬送されたスズカは命も危険なほどの容態になっており、終夜を通して必死の救命治療が行われた。

世間では、彼女の容態に関するニュースが四六時中報道された。

ウマ娘ファンでなくとも、この大スターの存在を知らない人間はいなかった。

全ての者が彼女の悲劇に悲嘆し、その無事を祈り続けた。

 

そして数日後、予断を許さなかったスズカの容態が落ち着き、命は助かったという発表がされた。

また、再起不能も避けられるかもしれないという発表もあった。

そのニュースは速報や号外でいち早く世間に伝えられ、人々はその朗報に安堵し、涙し、歓喜に沸いた。

 

スズカ容態安定のニュースで、世間全体がショックから少しずつ立ち直り出すと同時に、人々はあの天皇賞の回顧を始めた。

 

*****

 

スズカの容態安定ニュースから数日後の朝。

 

トレセン学園『フォアマン』チームの部室では、オフサイドとゴールドと仲間《チームメイト》達が、天皇賞・秋のレースを回顧する報道紙・雑誌・専門誌を集め、皆でその内容を調べていた。

 

「うーん…。」

回顧内容に目を通す仲間達は皆、戸惑った表情を浮かべていた。

何故ならその内容は、似たようなものばかりだった上、勝者であるオフサイドの名が殆ど見当たらなかったからだ

〈スズカは故障しなければ10バ身以上の差で勝っていたとの専門家の分析〉

〈完走してればレコード勝ちは確実だったスズカ〉

〈メンバーからしても、スズカが負ける訳ないレース〉

〈最高の仕上がりだったスズカ。故障までは毎日王冠以上の内容だった〉

〈優勝タイムは平凡。故障がなければスズカが間違いなく千切って勝っていたとトレーナーの分析〉

〈沈黙の日曜日…偉大な歴史の誕生は大欅の向こう側で消える〉

〈稀代の神速ウマ娘に待っていた悪夢。夢のレースは幻に〉

〈ファンも無念!スズカの為にあったレースが悲劇に〉

 

「オフサイド先輩の名前、どこにもありませんね…。」

報道紙を片っ端から調べていた仲間の一人が、溜息を吐いた。

スズカの故障でしばらく天皇賞の回顧はされないのは当然だと理解していたが、ようやくされ始めた回顧の内容がまさかここまで極端だとは予想してなかったようだ。

「いくらスズカさんが注目されてたと言っても、オフサイド先輩やゴールド先輩のこと無視し過ぎじゃない?」

「勝者はオフサイド先輩なのにー。」

オフサイド先輩の勝利を称える記事を楽しみにしていた後輩の仲間達はかなり残念がっていた。

「…。」

紙面の一つ一つに眼を通しているオフサイドの表情も冴えてない。

 

その傍ら、ゴールドは一部のレース回顧の内容にかなり表情をしかめていた。

〈スズカの故障により、天皇賞はG2レベルのレースへ〉

〈スズカ故障後、天皇賞の残骸レースの勝者はオフサイドトラップ〉

〈史上最も悲鳴と嘆きに満たされた天皇賞の覇者はオフサイドトラップ〉

〈結果的な勝者はオフサイドトラップだが、この天皇賞には価値がない〉

〈スズカの悲劇は永遠に忘れまいが、この天皇賞の勝者は誰も覚えないだろう〉

いくらなんでもこれは酷過ぎないか?

先輩や私に喧嘩売ってんのかしら。

ゴールドは思わずその紙面を破り捨てたくなった。

 

と、その時、部室をノックする音が聞こえた。

扉を開けてみると、驚いたことに外には多くの報道陣が集まっていた。

「オフサイドトラップはいますか?」

「はい!」

訪れた報道陣とその数を見て、一瞬オフサイドの表情は綻んだ。

…ようやく栄光への取材が来たか。

彼女だけでなく、ゴールドも他の仲間達もそう思った。

 

ところが、ドタバタと部室内に入って来た報道陣の質問は、そんな願望を砕いた。

「オフサイドトラップ、優勝インタビューで“笑いが止まらない”と発言してましたが、あれはサイレンススズカが怪我したことに対してですか?」

 

「…はい?」

オフサイドもゴールドも仲間達も、呆気にとられた。

「…そんなわけ」

オフサイドが答えるより先に、他の記者達から次々と質問が殺到した。

「スズカの怪我を喜んだのですか?」

「スズカの故障、気分良かったそうですね?」

「あんなレースで勝って笑いが止まらない、それはウマ娘としてどうなんですか?」

「スズカの強さに嫉妬して、怪我を願ってたのでは?」

「非情で自己中ですね。良心とかないんですか?」

「スズカの故障に笑った理由を聞かせてください!」

「悲しみにくれていた全国の人々に謝罪しろ!」

 

質問をぶつけながら、報道陣は一気に部室になだれこんできた。

呆然としていたオフサイドの姿は、怒涛のように押し寄せた報道陣の群れにあっという間に覆い包まれた。

「うわっ、何⁉︎」

「危ない!」

ゴールドや他の仲間達はその群れに押しのけられ、身の危険を感じ全員が部室の外へ逃れた。

 

「…何これ?」

「…どうなってるの?」

レース回顧の内容に続き、常軌を逸した突撃取材の群れを目の前に、チーム仲間達は呆然と立ち竦んでいた。

「…。」

ゴールドも同じように呆然としつつ、あの天皇賞の時を思い出していた。

優勝インタビュー中に場内の大観衆を包んだ、悪寒が走る程のどよめきを。

 



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非情で自己中なウマ娘(3)

*****

 

「先輩、オフサイド先輩。」

 

呼びかける声と同時に肩をポンポン叩かれる感触を感じ、オフサイドはハッと眼を開けた。

盾を抱いて座ったまま、いつのまにか彼女は眠ってしまったらしい。

オフサイドを起こしたのはゴールドだった。

「おはようございます、先輩。」

「…おはよう。」

「休むのはいいですけど、寒い中で寝たら風邪をひきますよ。」

言いながらゴールドは着ていたコートを脱ぎ、オフサイドの肩に被せた。

 

「今、何時かな?」

「2時限目が終わって休憩時間のところっす。先輩が来てるかと思って、ウチここ来たんすよ。はい、先輩これ。」

答えながら、ゴールドは温めなおしていたコーヒーを淹れ、彼女に差し出した。

「…いらない。」

「ライス先輩からの差し入れです!」

ゴールドはぐいっと差し出した。

 

「…。」

オフサイドは黙って受け取ると、コクっと一口飲んだ。

…苦、ライス先輩らしい苦みの濃いブラックコーヒーだ。

でも、不思議と身体が暖まる美味しさがあった。

 

「ライス先輩がここへ?」

半分程飲んだ後、オフサイドは尋ねた。

ライスがここに来るなんて天皇賞前以来だから、ちょっと気になった。

「何か、要件でもあったんですか。」

「別に何も。」

自分のコーヒーも淹れると、ゴールドはカップを手にオフサイドの傍らに座った。

「早朝に、差し入れ持ってきたよーって突然来て、コーヒーを飲みながらちょっと話をしただけです。」

「話?」

「…まあ、最近の色々とか、オフサイド先輩のことでです。どうやらライス先輩、オフサイド先輩と話がしたいみたいでした。」

コーヒーの苦さにちょっと顔を歪ませながら、ゴールドは返答した。

 

「最近の色々…私と話を?それって、まさか…」

「あ。」

しまった。

「まさか、天皇賞のこと?」

突然オフサイドは、杯を握ったままガタガタと慄え出した。

「やだ、絶対やだ…。」

 

「せ、先輩!」

落ち着いて下さいと、ゴールドは慌てて彼女の慄える肩を抱こうとした。

が、

「離して!」

オフサイドはゴールドの腕を払い退けた。

パリンッ。

弾みでカップが床に落ち、破片と液体が飛び散った。

「先輩!」

「出てって!今すぐ出て行って!」

机に突っ伏して頭を抱え、耐えがたい苦悶の表情を浮かべながらオフサイドは叫んだ。

 

「…はい。」

ゴールドは素直に従い、狂ったように苦悶する先輩を置いて、部室を出ていった。

 

やってしまったー。

部室を追い出されたゴールドは扉を背に腰を下ろし、地雷を踏んでしまったことを後悔する様にパチーンと額に手を当てた。

オフサイド先輩は今、身体も精神も再起不能な程にボロボロだ。

あの天皇賞の後、騒然と沸き起こった、先輩への理不尽な攻撃のせいで。

 

 



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非情で自己中なウマ娘(4)

*****

 

報道で天皇賞の回顧がされ始めた頃、同時にあるウマ娘の言動が大きなニュースとなり、やがて世間を騒然とさせた。

 

それは天皇賞のレース直後、スズカの故障で沈痛とした雰囲気に包まれた場内で、ただ一人歓喜を爆発させていたレース勝者、オフサイドトラップの言動だった。

同じウマ娘が大怪我を負ったというのに、そのことを全く気にしない喜び方が、多くの人間に不信感を与えた。

 

そして、それより遥かに世間を激昂させたのが、優勝インタビューで彼女が発した“笑いが止まらない”発言だった。

その発言はスズカが怪我したことを喜び、なおかつ小馬鹿にしたと、世間では受けとられたのだ。

 

報道も、あのオフサイドへの騒然とした取材の後で、それを徹底的に糾弾した。

『“笑いが止まらない”!オフサイドトラップ、同じウマ娘の怪我を嘲笑う!』

『天皇賞ウマ娘にあるまじき言動!』

『非情かつ自己中、『フォアマン』チームのリーダー』

『低レベルな天皇賞の覇者は、ウマ娘性は史上最低レベル』

『トレセン学園はこの自己中かつ冷血なウマ娘を追放すべき』

『ファンに夢を与えるウマ娘、その中に巣食うエゴ連中チーム』

 

次々と放たれるオフサイドトラップへの非難の報道、それを受け、世間も一気に沸騰した。

『フォアマン』へは連日、チームとオフサイドへの非難と中傷の投書が殺到。

同内容の落書きまでされるようになった。

学園にも、『オフサイドトラップから天皇賞を剥奪し退学させ、『フォアマン』を解散させるべき』との投書&電話が殺到、門前ではビラまで撒かれるようになった。

 

学園側も、トレセン学園史上かつてなかったこの騒動に混乱していた。

解決手段としてオフサイドに釈明(謝罪)会見をするよう要請したが、過熱した報道陣に恐怖を感じたオフサイドはそれを断り、それが更に彼女への攻撃に拍車をかけた。

おまけに学園のウマ娘達の中にも、スズカの人気が高かった為かオフサイドへの非難に全てではないが同調している者が多く、オフサイド及びチームは追い詰められていった。

オフサイドへの物理的攻撃の危険もあった為、登下校の際はチーム仲間が護衛するように行動を共にしていたが、それすら非難の的となった。

結果、チームからの離脱者が続出。

遂にはトレーナーが責任をとって退職し学園を去るという事態にまでなった。

 

騒動がようやく落ち着いたのは、11月末に行われたJC(ジャパンカップ)が行われた後。

同レースで1・2・3着となったエルコンドルパサー・エアグルーヴ・スペシャルウイークといった新世代ウマ娘及び第一人者ウマ娘の大活躍が、世間の注目を再びレース上のウマ娘達に戻したのだ。

それを境に、天皇賞騒動は収束へと向かい、報道及び世間のオフサイドへの攻撃も収まりはじめた。

 

そのまま、現在に至る。



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非情で自己中なウマ娘(5)

 

未だに、チームへの投書や嫌がらせ、そしてオフサイドへの攻撃は現状のように続いている。

それでも、JC前までに比べれば相当減った。

それが消える日もそう遠くないだろうと、ゴールドは校舎への道を戻りながら思った。

 

…あの大騒動は、スズカの大怪我への悲しみ、そしてあの神速の走りがもう二度と見れないかもしれないという人々の嘆きが巻き起こしたんだ。

その行き場のない感情が、理不尽にオフサイド先輩へ向けられた…

ゴールドは、内心でそう考えていた。

世間がその嘆きから少しずつ脱出しつつある頃、あのJCが行われた。

国際G1の同レースで、史上初めて1・2・3着を日本ウマ娘勢が独占した。

それも、1着と3着の座に次世代の新星ウマ娘を輝かせて。

その快挙と新スター誕生が、ようやくみんなをスズカの怪我への悲しみから救い出したんだ。

 

いずれ、スズカはターフに戻ってきてくる。

そして、あの神速の走りを再び魅せてくれる。

その日を誰もが願い、待ち望んでいるだろう。

そのスズカと、スペ・エル・グラス・そして自分(ゴールド)がターフで闘う日も、ファンは待ち望んでいるだろう。

その時には、この騒動も完全に収まっている筈。

 

 

…だけど。

ゴールドは不意に制服のポケットに手を入れ、中から常に持ち歩いている古い紙面を取り出した。

〈スズカは故障しなければ10バ身以上の差で勝っていたとの専門家の分析〉

〈レコード勝ちは確実だったスズカ〉

〈メンバーからしても、スズカが負ける訳ないレース〉

〈優勝タイムは平凡。スズカが無事なら千切っていたとトレーナーの分析〉

〈スズカの故障後、天皇賞はG2レベルのレースへ〉

〈スズカ故障後、天皇賞の残骸レースの勝者はオフサイドトラップ〉

〈結果的な勝者はオフサイドトラップだが、この天皇賞には価値がない〉

未だ、引きちぎってやりたいくらいの不快感を覚える内容が記された記事だ。

これらのレース回顧は、果たして変わるのだろうか。

 

そして、

「失われたものを、取り戻せるだろうか。」

紙面をポケットにねじ戻し、ゴールドは呟いた。

理不尽に奪われた、『フォアマン』の栄光を、仲間達を、そして何より…

「オフサイド先輩の、心を。」

 

ゴールドは、どうしても納得出来ないことと、許せないことがあった。

納得出来ないことは、オフサイドトラップが『第118回天皇賞覇者』と認められていないこと。

許せないことは…オフサイド先輩のことを『冷血・非情・自己中・他の不幸を喜ぶウマ娘』と中傷されたこと。

 

冷血?自己中?他者の不幸を喜ぶ?冗談じゃない。

オフサイド先輩は、世界一優しいウマ娘だというのに!

先輩は、世界中の不幸な人々・ウマ娘の為に、そして、還った盟友の為に命を賭して走ったというのに!

 

つと,ゴールドは足を止め、青く澄みきった上空を仰いだ。

仰いだまま、口元で呟いた。

 

「サクラローレル先輩、早く戻ってきて。オフサイド先輩を助けてあげて。」

 

遥かな地にいるかつてのチーム先輩に届いて欲しいと、心から願った。

 



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写真(1)

 

その後時間は経ち、放課後になった。

放課後のトレーニングを終え下校路についたゴールドは、昨日と同じように『祝福』へ向かっていた。

 

午前のオフサイドとの一件後、ゴールドは先輩の状態に配慮して、あの後は部室には行かなかった。

放課後のトレーニング前後も行かなかったので、オフサイドとは午前以降学園で会わなかった。

 

 

『祝福』に着くと、店内ではライスシャワーと、彼女の親友である三永美久(みつながみく)(二十代前半くらいの人間女性・トレセン学園専属カメラマン)がいた。

 

「あらステイゴールド、こんにちは!」

座席でライスと談笑していた美久が、来店してきたゴールドの姿に気づいた。

「学園の新星さん!今日もお疲れ様!」

彼女は持参していたカメラをゴールドに向け、明るく問いかけながらシャッターを切ろうとした。

だが寸前でそれを止め、カメラを下ろした。

何故なら、ゴールドの表情に笑顔がなかったから。

 

「どーも美久さん、こんちは。」

学園専属カメラマンの美久とはかなりの顔馴染みであるゴールドは、相変わらずですねーと挨拶しながら、彼女とライスがいる席の側にきた。

何してるのかなーと覗いてみると、テーブルの上には、美久がここ最近撮影した写真が多く並べられていた。

どうやらライスにそれを見せている最中だったらしい。

「お疲れ様、ゴールドさん。」

「どうもライスさん。今朝は苦いコー…ゴホン、美味しいコーヒーをありがとうございました。」

「いいのいいの。何飲む?」

「いつものやつで。」

 

ライスに飲み物を注文した後、ゴールドは再びテーブル上の写真を一つ一つ眺めた。

写真に写っているのは、レースを制したウマ娘達、トレーニングに励むウマ娘、授業や休憩時間を過ごすウマ娘、プライベートの時間を楽しむウマ娘達…など。

撮影された写真の現場や状況はそれぞれ異なるが、共通しているのは写真に映っているウマ娘達がみんな笑顔で幸せそうな表情を浮かべている点だ。

美久は、ウマ娘達の幸せな姿、笑顔に満ち溢れた姿を撮影するカメラマンなのだ。

 

「相変わらず、明るい写真ばっかりすね。」

ゴールドはそう言いながら、いくつかの写真を手に取った。

レース関係の写真が、まず眼を引いた。

菊花賞でライバルを圧倒し、世界レコードの樹立と共に二冠達成したセイウンスカイ。

エリザベス女王杯で女帝を破り優勝した名族令嬢メジロドーベル。

マイルCS(チャンピオンシップ)で世界を制した強さをまざまざと見せつけたタイキシャトル。

JCで上位を独占したエルコンドルパサー・エアグルーヴ・スペシャルウイークの3人。

他には、大穴で驚きの重賞制覇を果たしたユーセイトップランや、初のG1レースでかつ最低人気ながら健闘し、最後はヨレヨレながらも4着に入り喝采を浴びたナギサとかの写真もある。

レース関係の他には、トレーニングに励む『リギル』・『スピカ』・『カノープス』などのチームの写真、または日常の学園におけるウマ娘達の様々な姿が撮影されていた。

 

みんな楽しそうだな、生き生きしてる。

写真を次々と見ながら、ゴールドは羨ましく思った。

特に、トップランと一緒に写っている彼女の仲間《チームメイト》のエガオヲミセテなんて、名前通り良い笑顔を見せているなー。

 

そう思う中で、彼女は全ての写真の中で、ある一定の者が映っていないことにも気づいていた。

一定の者、それは『フォアマン』の面々だ。

 

「うちのメンバー(離脱中だが)、あたしも含めて一人も映っていませんね。」

「そうなのよね。」

ゴールドの言葉に対し、撮影者の美久もそれが分かっていたらしいく、うーんという表情をした。

「『フォアマン』メンバーの明るい写真も撮りたかったんだけど、誰一人としてそういう場面を見れなくてね。」

「マジすか?こないだ初勝利を挙げたエアデールも?」

「エアデールちゃんね…。一応笑ってはいたけど、どこか影のある感じがしたから、私は撮れなかったわ。」

「マジかー。」

「彼女も、他のコ達も、まだ中々笑顔にはなれないみたいだわ。」

美久はそういいながら、テーブル上の写真を鞄にしまいはじめた。

「出来ればJCで、あなたの明るい笑顔を撮りたかったけどね。」

「すんませんねー、勝てるどころか10着で。」

「ごめん。」

「気にしないでください。」

あのレースは自分でも不甲斐なかったと自覚してる。

「普段のあなたの笑顔も期待してるんだけどね。」

「すんませんねー、曲がった仏頂面で。」

 



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写真(2)

 

「そういえば、」

思いっきり膨れ面を見せた後、ゴールドはつと美久に尋ねた。

「オフサイド先輩の写真ってありますか?あ、天皇賞以前のものですけど。」

 

「あるわよ。」

美久は頷くと、すぐに鞄を探って2枚の写真を取り出した、

どうやら普段から持ち歩いているらしい。

「これが七夕賞の、そしてこれが新潟記念の写真よ。」

「どうも。レース以外のもあります?」

「勿論。」

再び鞄を探り、今度は写真が入った封筒を取り出した。

中身を覗くと、かなりの量だ。

 

「これ全部先輩のすか?」

「そうよ。」

重量にちょっと驚いたゴールドが尋ねると、美久はうんと頷いた。

ほんとかなーと思って中身を出し、写真を調べてみた。

確かに、全ての写真にオフサイドが写っていた。

だがその殆どは、ターフや学園ではないある場所で撮られていた。

『ウマ娘療養施設』。

 

「ほんとだ。」

ゴールドは、なんとも言えない表情で、一枚々々写真をめくった。

ウマ娘療養施設で撮影されたオフサイドは、他の多くの療養仲間と一緒に写っていた。

治療中・リハビリ中・療養仲間と談笑&食事中…やや暗い表情が抜けきらない療養ウマ娘達が多い中、オフサイドだけは力強い、明るい笑顔を見せていた。

どの写真も、どの写真も、どの写真も…。

 

…そう、オフサイド先輩のほんとの表情はこれなんだ。

写真を見ているゴールドは、胸の中で呟いた。

この明るい、そして力強い笑顔が、先輩の素顔なんだ。

この笑顔と、そこから溢れる優しい不屈のウマ娘性に私達は惹かれ、憧れ、そして支えられてきたんだ。

 

でも、それなのに、それなのに…。

『…やだ、絶対やだ…出てって!今すぐ出て行って!…』

不意に今朝、部室で目の当たりにしたオフサイドの錯乱した姿と叫び声が、ゴールドの胸と脳裏に突き刺さった。

今先輩は、オフサイド先輩は、もう…

 

「ゴールドさん?」

彼女に注文されたオレンジジュースを用意して来たライスは、写真を手に取って見ている彼女の身体が震え出していることに気づいた。

「…なんで、」

ライスの言葉に反応せず、ゴールドは震える手で写真を握りしめ、唇から途切れ途切れに言葉をもらし出した。

「なんで先輩は…あんなにされてしまったの?…誰よりも強かった、優しかった先輩が…」

 

「ちょ、大丈夫?」

ライスに続いて美久もゴールドの異変に気づき声をかけたが、ゴールドは反応しないままだった。

…この笑顔を浮かべる先輩はもういない。

何もかも、奪われた。

奪われて…消えちゃったんだ…。

「…ひくっ…うっ…」

彼女の口から、嗚咽がもれだした。

二度と、写真のような先輩の笑顔は見れない…

「もう…ひくっ…戻れないよっ!…わああああっ…」

 

悲痛な叫び声を上げると同時に、ずっと仏頂面の奥に堰き止めていたものが、ゴールドの両眼から溢れ出した。

彼女は写真を握り締めたまま床に崩れ落ち、声を上げて泣き出した。

 

「ゴールド!」

「ゴールドさん⁉︎」

駆け寄ったライス・美久は、泣き崩れたゴールドを抱き支えて声をかけたが、ゴールドは少女のように身体を震わせて泣き続けた。

「…わああああ…ひくっ…オフサイド先輩が…なんであんな仕打ちを…わああああん…ひくっ…うっ…ひどすぎるよ…うわああああん…」

彼女の眼から溢れ出した涙が、床に落ちたオフサイドの写真を瞬く間に濡らしていった。

 

 

ゴールド…

号泣するゴールドを美久と一緒に抱き支えて慰めながら、ライスも泣きそうな表情で唇を噛み締めた。

ライスには、ゴールドの心の痛みがよく分かっていた。

普段は仏頂面で、斜めっているところが垣間見えるゴールドだが、実は真っ直ぐで純粋で、思いやりがウマ娘一倍強い心の持ち主。

そんな彼女にとって、大切なチームが、何より大好きなオフサイドトラップがあんな仕打ちに遭いボロボロになるまで追い詰められたことが、ものすごく辛かったのだと。

 

ライスは勿論、美久だって知っている。

オフサイドトラップは非情で自己中なウマ娘ではない。

むしろウマ娘史上稀有といっていい位、ものの痛みを知っているウマ娘だと。

 

…オフサイドトラップ。

ゴールドの溢した涙に濡れた写真、そこに写っているオフサイドの笑顔を見、ライスは彼女が生きてきたその壮絶な学園生活に、思いを馳せた。

 



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写真(3)

*****

 

そして時刻はしばらく経ち、陽はがすっかり暮れて夜になった頃。

 

 

カランカラン。

閉店時間近くなり、ライス一人になっていた『祝福』に、一人のウマ娘が来店した。

学園帰りのオフサイドトラップだった。

 

「あら」

「こんばんは。」

久々の彼女の来店に驚いたライスに、オフサイドは暗い瞳で挨拶し、それから頭を下げて続けた。

「今朝、ライスさんがチームに差し入れをしてくれたと、ゴールドから聞きました。そのお礼と、お詫びに…」

「“お詫び”?」

「私の不注意で、お店のカップを割ってしまいました。」

オフサイドは破片を集めた袋を出し、再度頭を下げた。

「あらら、怪我はしてない?」

「大丈夫です。あの、割れたカップの代金を…」

「要らない要らない。」

財布を出した彼女に手を振りながら、ライスは袋を受け取った。

すみませんともう一度頭を下げると、もう用はないのかオフサイドは出ていこうとした。

 

「待って。」

少し話をしない?と、ライスは言おうとした。

だがそれより早く、

「天皇賞のことは話せません。」

扉前で立ち止まったオフサイドは、背を向けたまま言った。

「私に構わないでください。ライスさんにもご迷惑がかかりますから。お願いです。」

 

…。

ライスはオフサイドの背中を悲しい眼で見つめた。

分かったわ、と頷き、その代わりあることを伝えた。

「さっき、ステイゴールドさんがお店に来たわ。」

「?」

「私や美久さんがいる前で、大泣きしたの。“先輩(あなた)が受けた仕打ちはひどすぎる”って。」

背を向けていたオフサイドの身体が微かに動いた。

後ろからでは表情は見えなかったが、何か感情が動いたように見えた。

だが彼女は何も言わず、背を向けたまま店の外へ出ていった。

 

 

 

オフサイドが店を出た後、ライスは誰もいない店内の一席で、ブラックコーヒーを飲みながらしばらく黙念としていた。

 

そして、30分程経った頃。

「ただいま。」

美久が店に戻ってきた。

 

オフサイドが来店する一時間くらい前。

先に来店してライス・美久を前に大泣きしたゴールドは、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。

眠ってしまった彼女を、美久は車で学園寮まで送り、今戻ってきたのだ。

 

「ゴールドさんの様子はどうだった?」

「寮に着くまでずっと眠っていたわ。寮に着いて起きた後はいつものように明るくお礼を言ってたけどね。」

ライスが淹れた労いのコーヒーを喫しながら、美久は答えた。

「あの子もかなり疲れているみたいだわ。」

「疲れというより、かなり傷ついているわね。」

美久の前に座って、ライスは憂げに言った。

「あの子やんちゃだけど、かなり純粋な子だからね。慕っているオフサイドさんがあそこまでバッシングされて、内心平気でいられる訳がないわ。」

先日のJCの惨敗もそれが理由だろうとライスは思った。

 

その後、ライスは美久と一緒にコーヒーを飲みながら、先程オフサイドが店に訪れたことを話した。

 

「あんな哀しい後ろ姿の天皇賞ウマ娘、見たことなかったわ…。」

天皇賞を制した歴代のウマ娘は、余程の例外を除いて誰もが誇りと自信を手に入れていた。

ライス自身、天皇賞の盾を手にした時は、周囲の声如何に関わらず自らに誇りを持てた。

だが、オフサイドには全くそれがなかった。

隔絶された不毛の地で、一人朽ちてゆくような絶望感しかなかった。

 

「絶対に、彼女を救わなければいけないわ。」

ライスがそう呟いた時、黒髪に隠れた片眼が光った。

彼女が現役時代、レースでラストスパートをかけた際に出る特徴が不意に現れた。

「オフサイドを救えなかったら、それはウマ娘史上永遠に残る悔恨になってしまう。」

「そうね。」

美久はライスの眼光に少し驚き、それからこくりと頷いた。

「あの子を救えない限り、私も幸せな写真が撮れない。」

天皇賞以後も、大レースを制したウマ娘達の華やかな写真を撮影し続けてきたが、その度にオフサイドのことが胸につかえていた。

天皇賞の盾を手にしたオフサイドの、笑顔に満ちた写真を撮りたい。

美久もそう願っていた。

 

 

その後、美久も店を後にした。

彼女が帰るとライスシャワーは店を閉め、店舗の上の自宅に戻った。

 

痛い…

自宅のベッドに横になると、ライスは少し顔をしかめながら両足、特に左足をほぐした。

ライスはG1レースを何度も制した元スターウマ娘だが、レース中の怪我で引退した。

その怪我の影響で、走ることはおろか歩くことすら実は不自由だ。

日常生活でも常に痛みが伴う程だ。

普通のウマ娘には耐えることも大変なくらいなのだが、ライスは決して人前で辛そうな素振りは見せない。

それは彼女が現役時代に培った鋼の精神力の成せる業でもあり、また現役時代最大の『悔恨』を忘れない為でもあった。

 

足をほぐし終えると、ライスは窓際に立って、夜空の月へ眼を向けた。

ライスシャワーの、現役時代最大の『悔恨』。

それは大記録を阻んだ2度のレースではない。

ツインターボの大駆けをくらう番狂わせにあったオールカマーでも、その後の不甲斐ないレースでもない。

最後のレースとなった宝塚記念のことだ。

あのレースで、ライスは一人のウマ娘を不幸にしてしまった。

 

サイレンススズカにもオフサイドトラップにも、あの悲劇の二の舞にはなって欲しくない…

夜月を見上げるライスの両眼からは、月光と同じような青白い光が放たれていた。

 



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真女王(1)

*****

 

翌日、12月11日。

 

この日も朝早く登校したステイゴールドは、学園に着くと軽く汗を流しただけで、いつもより早く朝練を切り上げた。

 

体が重いな…

落書きや投書を処分して部室に戻ると、ゴールドはうーんと肩を回しながらどさりと椅子に腰を下ろした。

最近の心労が、身体に出てきたのかな。

チーム仲間のコマンダー(離脱中)と並んで学園屈指の頑丈ウマ娘と言われている自分だけど、何でだろう。

 

そっか、支えてくれる人がいないからだ。

ゴールドは誰もいない部室を見回した。

以前までは、頼もしいトレーナーがいた。

賑やかなチームメイトもいた。

そして、心の支えであるオフサイド先輩がいた。

でも今は、ゴールド以外誰もいない。

 

「…。」

何気なく、ゴールドは資料が詰まった部室の棚を開け、これまでの部の記録が記された日誌集を取り出し、その記録を読み返し始めた。

かつてのチームの記憶に、思いを馳せるように。

 

「…。」

しばらく過去のチーム日誌を読み耽っていたゴールドは、つと時計を見た。

時刻は8時半を示していた。

いいや、今日はサボろう。

身体も重たいし。

一旦日誌をしまうと、ゴールドは机に手枕をし、眼を瞑った。

がらんとした部室に、彼女は一人きりだった。

 

 

ふわー…

30分程経った後、ゴールドは欠伸を洩らしながら身体を起こした。

「ヒクシュッ、うー寒ー」

暖房器具をつけずに寝てしまったようだ。

12月だから室内といえやっぱり寒い。

いかんいかん風邪引いちゃうと、ゴールドは鼻をすすりながら、鞄から慌ててコートを取り出そうとした。

 

あれ?

コートを取り出す前に、ゴールドは自分の身にコートがかけられていることに気づいた。

これは…

その茶色のコートを手に取って、ゴールドは驚いた。

オフサイド先輩のじゃん!

 

室内にはゴールド以外誰もいない。

コートを手に慌てて部室の外に飛び出した。

「…おはよう、ゴールド。」

部室の外の扉のすぐ横で、缶コーヒーを両手に包んで座っているオフサイドがいた。

 

「オフサイド先輩!おはようございます。」

「これ、飲みな。」

飛び出してきたゴールドを見ると、彼女は無言で包んでいた缶コーヒーをゴールドに投げ渡した。

「どうも。」

ゴールドをそれを受け取ると、礼を言いながらコートを返し、彼女の傍らに座った。

「寒い中で寝ては駄目。体調には気をつけなさい。」

「はーい。」

ゴールドはテヘッと舌を出し、缶コーヒーを空けた。

 

並んで座ったまま、二人はしばらく黙っていた。

窶れた表情で冬の澄んだ青空を眺めているオフサイド。

彼女の傍らで、ゴールドは糖分入りの温かいコーヒーを飲みながら、何度か口を開こうとしたが、ここは待った方がいいと我慢した。

久々に、オフサイド先輩が何か話をしてくれるかもと期待したから。

 

10分程経った頃。

「エアデール、」

「はい?」

「この間、エアデールが初勝利を挙げたらしいね。」

空を見上げたまま、オフサイドが呟くように言った。

「は、はい!」

ゴールドは笑顔でぶんぶん頷いた。

オフサイドから口を開いたのはかなり久しぶりだ。

嬉しい!

「デビュー戦での殿負けのショックを乗り越えて、凄い圧勝でした!」

 

エアデールとは、『フォアマン』チーム仲間(諸事情で大半が離脱中)である、1年生のティアラウマ娘・フサイチエアデールのこと。

彼女は先週のレースで、念願のデビュー後初勝利をあげていた。

 

「エアデールは喜んでた?」

「あー、私は映像で観てたので、そこまでは分からないです。」

「じゃあ、写真はある?」

「写真すか。えーと…」

ゴールドはスマホを取り出し、エアデールの初勝利ニュースを検索して彼女の写真を探した。

「あ、ありましたよ。」

ゴールドは見つけると、それをオフサイドに見せた。

その写真には、現在(臨時だが)所属しているチームの仲間に祝われているエアデールが映っていた。

また別の写真には、初勝利のウイニングライブをセンターで踊っている彼女の姿があった。

「良かったわ。」

両方の写真を見て、オフサイドはほんの少し微笑った。

「ゴールドはお祝いした?」

「ええ、まだメールだけですけど。」

 

そう言った後、ゴールドはずいっと身を寄せて言った。

「実は今度、みんなでエアデールの祝勝会をしようと思ってるんです。」

「“みんな”?」

「『フォアマン』の仲間達で、です。」

ゴールドは、積極的な笑顔で言った。

「やっぱり初勝利は特別ですから、ここはみんなでお祝いしたいと思いましてね。こないだコマンダーやラスカルに相談したら、賛成してくれました。多分他のみんなも賛成すると思うので、出来れば明後日の日曜日にでも…」

 

「私はいいわ。」

みなまで聞かずオフサイドは断り、立ち上がった。

「私を除いた仲間達で祝賀会はやって。」

 

「えっ…でも、先輩が来たらきっとエアデールもみんなも喜ぶと」

「ゴールド、」

引き留めようとしたゴールドの手を払い、オフサイドは背を向けたまま言った。

「私のせいで、あの子達がどれだけの苦痛を味わったか覚えているでしょう?私に、皆の前に現れる資格なんてない。」

そう言うとオフサイドは歩き出し、その場を離れようとした。

 

「先輩!」

ゴールドは缶コーヒーとコートを投げ出して駆け出し、オフサイドの前に立ち塞がった。

「私達が受けたあの仕打ちは、先輩のせいだなんて誰も思ってません!第一、一番辛いしてるのは先輩じゃ…」

 

「ゴールド、」

ゴールドの言葉を遮ったオフサイドは、窶れた表情に寂しい微笑を浮かべて言った。

「それ以上は何も言わないで。私は“非情で自己中、同胞の不幸を喜ぶウマ娘”なのだから。」

 

その言葉を最後に、オフサイドはゴールドの傍を通り抜け、何処かへ歩き去っていった。

 



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真女王(2)

*****

 

それから少し後のこと。

 

場所はトレセン学園の裏庭。

花畑や遊歩道があるその場所は、休憩時間や放課後は生徒達で賑わう場所だが、授業時間の今は生徒の姿はなく閑散している。

 

そこに、一人の生徒が現れた。

生徒といっても、彼女は既にレースから引退した元生徒、現在は名誉生徒として生徒会長の座にある芦毛のウマ娘。

名は、メジロマックイーン。

 

 

裏庭の奥で日課の所用を終えたマックイーンは、この後の予定が記してあるメモ帳を見ながら校舎への通路を歩いていた。

今年も残すところ一ヵ月を切った。

残るレース開催日は6日、その中には朝日杯・スプリンターズS・有馬記念の大レースも残っている。

もう一踏ん張りだなと、マックイーンはメモ帳をしまって唇を引き締めた。

今年は画期的な出来事もあり、また思いがけない騒動もあった。

昨年までに比べれば少々大変だった一年だが、最後は無事に全日程を終えられればと、彼女は思っていた。

 

と、閑散とした裏庭のベンチに、一人の生徒がぽつんと座っているのが見えた。

授業時間なのに誰だろうと思ってみると、栗毛の髪と、その両腕に抱いている天皇賞の盾が目に入った。

オフサイドトラップですか…

 

「おはようございます、オフサイドトラップ。」

「…生徒会長、おはようございます。」

自分の側にきたマックイーンを見ると、オフサイドは盾をしまい、立ち上がって挨拶した。

「授業はどうしました?」

「当分の間、欠席すると届出しています。」

「なるほど。ですが、授業時間内に外を出歩いてる姿を見せるのはあまり良くありません。部室か図書室に戻りなさい。」

 

「はい。」

生徒会長の指示を受け、オフサイドは了承したように頭を下げた。

だが、マックイーンがその場を去った後も、彼女はしばらくベンチから動かなかった。

マックイーンはそれに気づいてたが、振り向こうとはしなかった。

 

 

その後、マックイーンは校舎に戻った。

するとそこでは、まだ午前中なのに下校しようとしている一人の生徒と鉢合わせした。

「ステイゴールド。」

「あ…。」

靴紐を結んでいたゴールドは、マックイーンの姿を見ると、先程のオフサイドとは違い、不愉快そうな表情を浮かべた。

「風邪引いたので、今日は早退するんです。」

聞かれるより先に早口で言うと、さっと立ち上がった。

「そうですか。お大事に。」

「お構いなく。」

爪先をトントンしながら、彼女はぷいと顔を背けてさっさと外へ出ていった。

 

 

恨まれてますね…

校門の外へ去っていくゴールドの後ろ姿を眺めながら、マックイーンはかけていた眼鏡を外し小さく溜息を吐いた。

恨まれるのも当然だ。

あの天皇賞後の騒動で、生徒会は『フォアマン』…いや、オフサイドトラップを守ってやれなかったのだから。

 

いつか、時間が解決してくれれば。

そんな思いが胸をよぎったが、決してそうはならないことは分かっている。

何故なら、そう遠くない未来、あの騒動の結末が待ちうけているのだから。

 

逃げ道など、決してない…

マックイーンは胸の中で呟くと、眼鏡をかけ直し生徒会室へと戻っていった。

 



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黄金と神速(1)

*****

 

その後時間は経ち、午後のこと。

トレセン学園から100㎞程離れた、豊かな山並みと緑に溢れた高原地帯。

 

都会の喧騒とは全く無縁の静謐でのどかな空気に満ちたその地域には、トレセン学園の生徒専用の療養所、通称『ウマ娘療養施設』がある。

ウマ娘療養施設は、主に脚部の怪我、或いは脚部の病などで長期の治療・療養が必要な生徒達の為にある施設。

現在は200人程の生徒が、治療や療養をしながらここで生活している。

 

療養施設は怪我人専用・病人専用と二つの病棟に分かれている。

その怪我人専用の病棟に、今しがたここに到着したばかりのゴールドの姿があった。

 

 

ゴールドは制服姿だった。

どうやら学校を早退した後そのまま此処に来たらしい。

彼女の手には、これから面会に向かう患者生徒への見舞いの品が幾つか用意されていた。

 

ゴールドが面会する患者は現在、病棟の最上階にある「特別患者」用の病室で生活している。

特別患者といっても重い故障を患っているわけでなく、その患者は諸事情の関係で他の患者達と同室で生活出来ないからだ。

 

エレベーターで最上階に上がると、廊下に何人かマスコミの番記者がいた。

「おやステイゴールド、見舞いに来たんですか?」

「…。」

記者連中を無視して、ゴールドは特別病室に入った。

 

今面会出来ますかと患者の担当医師に尋ねると大丈夫だと許可を受けた。

そのまま、ゴールドは患者がいる奥の病室へと向かった。

 

 

一番奥の病室に入ると、室内の患者はベッド上で読書をしていた。

「やっほー!スズカ、元気?」

「ゴールド!」

明るい笑顔で手を振りながら現れたゴールドを見て、清廉な表情で読書していた栗毛のウマ娘サイレンススズカは、頬に笑みを浮かべた。

 

「スズカ、読書中だったんだ。」

「うん。」

「何の本読んでたの?l

「トウカイテイオー先輩の自伝。」

「へー。」

本の表紙を見てなるほどと頷いた後、ゴールドは笑顔で見舞いの品を取り出した。

「ケーキ買って来たわ。一緒に食べよ!」

 

ステイゴールドとサイレンススズカ。

二人は、共に3年生の同期の親友。

トレセン入学前から同じウマ娘ジュニアスクール(トレセン学園入学前のウマ娘が通うスクール)に通っており、幼い頃からの知り合いだった。

 

今はチームこそ違うものの、親友関係は何ら変わってない。

普段はチームメイト含め誰に対しても礼儀正しく言葉使いも丁寧で学園の模範生といわれるスズカだが、ゴールドに対してだけは一つ屋根の下で暮らす姉妹のような素の態度で接している程、二人の関係は濃かった。

 

先の天皇賞・秋での大怪我後、スズカは奇跡的に一命を取り留めたが、まだ長期の治療が必要であり、その為ここに入院している。

特別病室にいるのは、まだ殆ど身体を動かせない状態であるのが大きな理由だ。

彼女との面会も、彼女のチーム仲間と生徒会、その他僅かな者しか現在許されていない。

ゴールドはチーム仲間ではないが、特にスズカと親しい者なので、面会を許されていた。

 

 

「今日来るとは驚いたわ。」

ゴールドが買ってきたケーキを一緒に食べながら、スズカはゴールドに話かけた。

「あはは、実は学園サボったの。」

「サボった?」

「風邪ひきましたーって担任に言ったら、お大事にしなって早退させてもらえたわ。」

スズカの枕元でパクパク食べながら、ゴールドはニッと笑った。

「え、もしかして仮病?」

「いや実際風邪気味だよ。全然大したことないけど。ヒクシュッ!…ね?」

言いながら、ゴールドはくしゃみした。

アハハと、スズカはおかしそうに笑った。

「なら明日来れば良かったのに。休日なんだから。」

「いや、土日はスペがずっとあんたの面倒見てるでしょ。あんたと二人きりの時間とるの大変そうだから今日来たの。」

 

そう言った後、ケーキを食べ終えたゴールドはずいっとスズカに身を寄せ、片腕で彼女の頭を抱き寄せた。

「良かったわ。前来た時よりスズカの顔色が良くなってて。」

「…。」

スズカはケーキを食べていた手を止め、頭上のゴールドの手を握った。

「私を支えてくれる皆さんのおかげよ。こんなになってしまった私を、絶望の底から救い出してくれたのだから。」

スズカの視線は、ベッドの毛布に隠れている自分の左脚に向けられた。

あの天皇賞で大怪我した左脚は、一月以上経った現在でも、まだ動かすことすら出来ない状態だ。

いつ完治するのか、その見込みもたってない。

一命を取り留めたのが奇跡だった程の重傷だから、それは当然だろう。

生きていることに感謝するべきだとも思う。

 

でも…

「…ゴールド、怖いよ。」

急に、ゴールドの手を握ったスズカの手が震えはじめた。

「もう、2度と走れないかもしれない。脚が悪化して、やっぱり助からないかもしれない。そう、毎日不安になってしまって、凄く怖いの…」

 

「大丈夫。」

スズカの震えている手の上に、ゴールドは更に手を重ねた。

「大丈夫だから。絶対大丈夫。だって、あんたには私がいるから。私が支えてあげるから。」

不安に震える親友にそう強く優しく言うと、ゴールドはニっと白い歯を見せた。

「拭えない不安や他人に言えない不安は、いくらでも私にぶちまけな。不安も何もかも全部吹っ飛ばしてあげるから。」

「吹っ飛ばす?」

「そーよ。“おい不安このヤロウ、スズカにファンは必要だけどな、お前ら不安はいらねんだーっ!”てね!」

本気なのか冗談なのか分からないが、ゴールドは明るい笑顔で答えた。



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黄金と神速(2)

 

「さすがゴールドね。」

 

明るく励ましたゴールドに、スズカの震えは止まり、再び微笑がもれた。

「同期一元気なウマ娘と呼ばれるだけあるわ。」

「そりゃ、クラスのダチから『勝負強さのステータスを体力に全振りしたアカンコちゃん』なんて言われてる私だしねー。」

枕元のイスに戻り、ゴールドは自虐も込めて笑った。

「まあその体力バカの座も、コマンダーにとられそうだけど。」

「スエヒロコマンダーさんに?」

「ああ、アイツやばいよ。まだ2年生なのに通算でもう24戦走ってんだから。」

「24戦も⁉︎」

「めっちゃ燃えてるのよ。“来年こそはスペもエルもみんな倒すー”って。」

「へー、相変わらず元気なのね。」

 

そう笑ったあと、スズカはふと思い出したように言った。

「オフサイド先輩は元気?」

 

「え…まあ、元気よ。」

ゴールドは表情こそ変えなかったが、一瞬口籠もってしまった。

「?どうしたの?」

ちょっと気になったようにスズカが尋ねると、ゴールドはなんでもないよと笑顔で手を振った。

「ふーん…。」

スズカはそれ以上は気にせず、窓の外の山並みの景色に眼をやりながら、ぽつりと呟いた。

「会いたいな、オフサイド先輩に。」

 

「オフサイド先輩と?」

「うん。」

ゴールドの顔に汗が浮かんでいたが、外の方を向いているスズカはそれに気づかず、続けた。

「あの天皇賞、優勝したのがオフサイド先輩だったんでしょ?」

「あ、…うん。」

「だいぶ最近になってからそれを知ったんだけど、凄く嬉しかったわ。私がこんなになっちゃたからまだ何も言えてないけど、早く会ってお祝いしたいな。凄いよ、オフサイド先輩。」

「…うん。」

ゴールドはそっと汗を拭きながら、小さく頷いた。

 

「会いたいな。会いたいよ、オフサイド先輩に。」

そう呟き続けると、不意にスズカはゴールドを向いた。

「ねえ、何でオフサイド先輩は来ないの?」

「え?」

「トレーナーさんも、スペさんも、その他の皆さんも、ゴールドも頻繁にお見舞いに来てくれて、凄く嬉しい。けど、どうしてオフサイド先輩だけは来てくれないの?」

オフサイド先輩なら真っ先にお見舞いに来てくれる筈なのにと、スズカは寂しそうに言った。

 

「あ、あのねスズカ、」

ゴールドは努めて表情を変えず、ぎこちなくも笑顔で答えた。

「まだ、スズカと面会出来る者は限られているの。オフサイド先輩は…」

「え、オフサイド先輩は面会許されてないの?」

じゃあ私が面会したいとお願いすれば、とスズカ言おうとすると、ゴールドは慌ててそうじゃないよと首を振った。

「えーと、オフサイド先輩はね、天皇賞の後は取材やら何やらで色々忙しくて、なかなか時間が空かなくてね。それでまだ来れないの。ほら、スズカも宝塚記念の後そうだったでしょう?」

「うん。でも,そんなに長く忙しくはなかったけど。」

既に天皇賞からは一か月以上経っている。

そのことをスズカが指摘すると、

「それはほら、オフサイド先輩は史上最年長の天皇賞制覇だったし、他にも色々とエピソードがあるし、それへの世間の関心が強くてね。未だに引っ張りだこなのよ。」

ゴールドは思考を巡らせてなんとか答えた。

 

「そうなんだ。じゃ、仕方ないね。」

スズカはまだ少し疑ってそうだったが、どうやら納得したようだ。

「うん、仕方ないの。」

ゴールドはスズカの頭をよしよしと撫でながら、続けて言った。

「落ち着いたら、オフサイド先輩もすぐにスズカをお見舞いしたいみたいだからさ。」

「ほんと?」

パッと、スズカの表情が明るくなり、それから胸に手を当ててほっと吐息をついた。

「良かった。オフサイド先輩、そう思ってくれてたんだ。」

「え、何か心配してたの?」

「いや、もしかして私、オフサイド先輩に嫌われたのかなと思ってて。チーム離脱のこと、本当は快く思われて…」

 

「絶対それはないよ!」

スズカの言葉を遮り、ゴールドは大きな声を出した。

ちょっと驚いたスズカに構わず、ゴールドは彼女の両肩を強く握るとぐいっと顔を近づけた。

「オフサイド先輩は、そんな些細なことで誰かを恨んだりしないわ。スズカのことだって間違いなく愛してる。あの人は世界一優しい、そして強いウマ娘なんだから!」

 

「…どうしたの?」

急に語気が変わった親友に対し、スズカは戸惑った表情を浮かべた。

「あ、ごめん。」

ゴールドは慌てて手を離した。

取り乱しかけてしまった…

フーッと胸の中で大きく深呼吸すると、改めてスズカを見た。

「とにかく、そういう訳でまだオフサイド先輩はお見舞いに来れないの。でもいつか、必ず来てくれるから待っててね。」

 

「ありがとう。」

スズカはニコッと、彼女特有の清らかな微笑を浮かべた。

「楽しみに待ってるわ。」

「そうね。スズカもちゃんと元気になるんだよ。」

「うん。頑張ってる姿を、オフサイド先輩に見てもらいたいな。」

そう言うと、スズカは再び窓の外へ眼を向けた。

 

その後ろで、ゴールドは気づかれないように目元を拭っていた。

 



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黄金と神速(3)

 

その後、ゴールドとスズカは他愛ない雑談をし、夕方頃になって別れた。

ゴールドはまた来週来ると約束(明日からの土日は前述のようにスペがつきっきりでいるだろうから)し、スズカは嬉しそうにそれを了承した。

 

「ステイゴールド。」

スズカの病室を出ると、ゴールドはスズカの担当医師に呼び止められた。

さっき、彼女の大声が聞こえたことが気になったらしい。

別に大したことはないと答えると、医師は更に尋ねた。

「例の騒動のことは、一切言ってない?」

「当たり前です。」

「そう。」

不機嫌そうに答えたゴールドに対し、医師はほっとした顔をした。

「でも、スズカさんを余り刺激しないように注意してね。徐々に回復してるけど、まだ精神的には」

「はいはい、分かってますよ。」

みなまで聞かず、ゴールドは不機嫌な口調で答えながらさっさと特別病室を出ていった。

 

「ふう。」

病室外の廊下にいた記者陣の質問を全て振り切って療養施設を出たゴールドは、大きく深呼吸すると一度スズカのいる病室を見上げ、悲しみが混じった視線を向けた後、施設を去っていった。

 

 

一時間後。

スズカ…

帰りの特急電車の中、自由席に座ったゴールドは夕焼けに染まった山並みを車窓から眺めつつ、無二の親友のことを思った。

 

天皇賞後、初めてスズカのお見舞いに言ったのは、秋天から2週間近く経った頃。

例の騒動の真っ最中ではあったが、親友代表としてスズカと会って看護して欲しいという生徒会からの極秘の頼み(その頃スズカはまだ面会謝絶の状態だった)を受け、こっそり見舞いにいった。

その時は、これがあの天翔ける神速のウマ娘なのかと疑う位、スズカの様子は暗かった。

怪我だけでなく、精神状態も相当落ち込んでいた。

自分と会うと少し会話は出来たが、果たして回復出来るのかと心底心配な程の容態だった。

 

その後、幾度も見舞いを重ねていくにつれ、スズカの様子は少しずつ良くなっていった。

どうやら彼女の所属チーム『スピカ』の仲間であり崇拝者のスペシャルウイークが、彼女につきっきりで献身的に看護してくれているおかげらしい。

他にもスズカ自身が言ってたように『スピカ』のトレーナー&仲間、他の学園の友達やファンの励ましもあって、大分精神的に立ち直れてきたのだろう。

 

今日の様子を見た所では、もう精神面で立ち直れる目処がたったかな…

ゴールドはそう感じていた。

不安は私が全部吹っ飛ばしてやるし。

 

 

だけど一つ、大きな憂いがあった。

それは、スズカが言ってたあの願望。

“オフサイドトラップ先輩と会いたい”。

「…はあ。」

ゴールドは額に手を当て、眼を瞑った。

 

彼女の言葉で分かるように、スズカは例の騒動のことは全く知らない。

彼女の容態が安定して間もない時にそれが起き、騒動がおさまったのは彼女がようやく人と面会できる状態になる直前だったから。

彼女と会う医療関係者、見舞いに訪れるトレーナー・ウマ娘達には、例の騒動のことは一切言わないようカンコウ令がしかれていた。

また、各報道の記者陣はまだ直接の取材を許可されてないので、彼女は未だ騒動を知らないままなのだ。

 

何故スズカに騒動を秘密にしているのかというと、彼女にショックを与えない為だ。

もしスズカが、自分がレースで怪我したことが原因でこんな騒動が起きたと知ったら、その精神的ショックは計りしれない。

落ち着きつつある容態がまた危険になる可能性だってある。

ましてや、これは殆どの者が知らないことだが…

「『フォアマン』…いや何より、スズカが深く慕っているオフサイド先輩が、酷い目にあったと知ったらね…。」

絶対、大変なことになるよ。

ゴールドは眼を瞑ったまま呟いた。

 

さっき、スズカは“チーム離脱のこと”と口にした。

あれは騒動のせいで『フォアマン』を離脱した面々のことではない。

スズカ自身のことだ。

そう、実はサイレンススズカは、かつて『フォアマン』に所属していたウマ娘だったのだ。

 

 

 

その後夜遅くになった頃、ゴールドは学園寮に戻った。

 

自室に戻ると、ゴールドは制服姿のままベッドにどかっと横になった。

夕食は帰りの途中で食べてきた。

オフサイドには今晩は遅くなると予想していたので、療養施設に行く前に弁当を買って部屋に届けておいた。

ニンジン弁当を買っておいたけど、食べてくれたかな。

 

しばらくオフサイドのことを考えていたが、やがて思考はスズカの方へと変わった。

そういえばスズカ、トウカイテイオー先輩の本を読んでたな。

ふと、それを思い出した。

 

トウカイテイオー。

かつてクラシック2冠を含むG1レースを4度制した、トレセン学園のスーパースター。

また、ウマ娘史上に残る復活劇を見せつけた奇跡のウマ娘。

彼女もまた、現役時代は『フォアマン』の一員だった。

奇跡の復活…

ゴールドは勿論、その伝説のレースを知っている。

ウマ娘ファンだって…いや、ウマ娘にあまり興味のない人達ですら、知らない人はいないかもしれない。

 

あれは本当に凄かったなー。

そのレースを脳裏に思い起こしつつ、オフサイドの姿がふと重ね合わさった。

オフサイド先輩も、テイオー先輩みたいになりたかったんだろうな。

不屈の、奇跡のウマ娘に。

思わず、ゴールドは目元に指を当てた。

 

そのまま、ゴールドは眠った。

 

 

 

*****

 

 

「オフサイド先輩…」

 

療養施設の特別病室。

就寝時間を前に、スズカはトウカイテイオーの本を読んでいた。

かつての先輩ウマ娘が起こした“奇跡の復活”の物語を読みながら、スズカはこの間、奇跡の復活…いや、“不屈・体現・勝利”を成し遂げた元所属チームの先輩の姿を思い浮かべていた。

 

「私も、先輩のようになれるかな…。」

呟きながら、スズカはまだ動かすこともできない左脚に、そっと手を当てた。

 

*****



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『第2章』
祝福と真女王(1)


*****

 

12月12日、朝。

 

ふぁー。

目覚めたゴールドは起きると気持ち良さそうに背伸びした。

時計を見ると7時。

今日から土日で学園は休みだ。

 

洗面と着替えを終え寮の食堂に向かうと、スペシャルウイークが親友の栗毛ウマ娘グラスワンダー(チーム『リギル』所属・2年生)と朝食をとっていた。

「スペ、グラス、おはよう。」

「あ、おはようございますゴールドさん!」

「おはようございます、ゴールド先輩。」

三人はそれぞれチームは違うが、以前からよくトレーニングを共にしており、親しい仲だ。

 

ゴールドは朝食をトレイに用意すると、二人と同じテーブルに座った。

「ゴールドさん、昨日は放課後トレーニングに来ませんでしたね。」

「ああ悪い。昨日は風邪引いたんで早退したんだ。もう治ったけど。」

答えながら、ゴールドは二人の朝食の量を見た。

「相変わらず凄い量食べてるね…。」

スペもグラスも、茶碗の上に白飯の塔を建てている。

二人ともターフでの強さは学年で数本の指に入る猛者だが、その大食いぶりも数本の指に入るだろう。

ちなみにゴールドの食量は極めて普通。

 

「今日の予定はどうなってるの?」

朝食を食べながら、ゴールドは二人に尋ねた。

「私はこの後すぐにスズカさんのお見舞いに行きます!明日まで泊まりがけの予定です!」

「…でしょーね。グラスは?」

「私は、午前〜夕方まで学園でトレーニングします。夜はチームの皆さんとディナーの予定です。」

「あー、じゃあ私もトレーニングに混ぜてもらって良い?」

「はい、喜んで。」

ゴールドの頼みに対し、グラスは特有の穏やかな笑顔と口調で承諾した。

 

 

朝食後、ゴールドとグラスは学園に行き、一緒にトレーニングを始めた。

 

「調子良さそうね。」

並んでランニングしながら、ゴールドはグラスの走りを見て言った。

「はい、脚の具合もかなり良くなりました。」

グラスは光る汗を拭って微笑すると、少しペースを上げた。

昨年の朝日杯を制し1年生王者となった後、故障により長期離脱していたグラスは、復帰戦となった秋の毎日王冠でスズカの5着に敗れた後、次の重賞レースでも6着と惨敗した。

1年生時の快進撃が霞む惨敗の連続に、ファンや専門家からは、グラスはただの早熟ウマ娘だったのか、という厳しい声も聞かれるようになった。

だがグラス本人は、惨敗の理由は単に怪我した脚の状態が良くなかったからだと思っている。

実際、脚の状態が良好になった最近は、トレーニングも大分順調にこなせるようになった。

「今度の有馬記念は、かなり良い状態で臨めそうです。」

脚に視線を落としながら、グラスは自信ある口調で言った。

 

有馬記念…そうか、あと二週間後か。

ゴールドは気付いたように思った。

年末のグランプリ、有馬記念。

ファン投票の最終結果は今夜発表されるが、中間投票の結果からしてゴールドもグラスも選ばれることは確定的だろう。

「グラスは、勝つつもり?」

「勿論です。」

ゴールドの言葉に、グラスは温厚な瞳を光らせた。

「復帰以来不甲斐ないレース続きで、私を応援して下さるファンの皆様をがっかりさせてしまいました。だから、次のレースは絶対負けられないんです。」

 

「絶対負けられない、か。」

ぽつりと、ゴールドはその言葉唇元で反芻した。

「どうしました?」

「いや。」

なんでもないわ、とゴールドは首を振った。

 

 

 

その頃。

学園の生徒会室では、有馬記念のファン投票の結果が、生徒会長のマックイーンに伝えられていた。

 

 

*****

 

 

午後。

場所は変わり、学園寮。

暗い寮部屋で一人読書をしていたオフサイドの元に、寮長から来客が訪れるという連絡がきた。

 

誰ですかと聞くと、来訪者は生徒会長のマックイーンだということだった。

生徒会長か…

誰とも会いたくなかったが、生徒会長ではやむを得ない。

オフサイドは了承した。

 

10分後、制服に着替え部屋の整理をし終えた頃、マックイーンが部屋に訪れてきた。

マックイーンの来訪は、これまでにも何度かあった。

 

「突然お邪魔して申し訳ありませんわ。」

「いえ、お気になさらず。」

生徒会長にお茶を出し、向かいあって座るとオフサイドは早速尋ねた。

「ご用件は何でしょうか?」

「はい。」

マックイーンはお茶を一口飲んだ後、懐から一通の書類を取り出し、オフサイドの前に差し出した。

「有馬記念の投票結果をお伝えに来ました。」

 

本来、こういった通知はトレーナーが学園で受け取るものなのだが、現在『フォアマン』にはトレーナーがいない為、リーダーのオフサイドが受け取ることになっている。

とはいえ、わざわざ生徒会長の方から訪れて手渡しするのは異例だが、そこは状況を考慮したマックイーンなりの配慮だった。

「…。」

オフサイドは無言で会釈し書類を手に取ると、それに記されている人気投票上位に選ばれたウマ娘のメンバーを見た。

その中に、ゴールドの名前はあったが、オフサイドの名前はなかった。

だが、彼女は特に表情も変えなかった。

 

オフサイドが結果を確認したのを見ると、既に結果を知っているマックイーンは再び口を開いた。

「有馬記念への出走はどうされます?」

ファン投票で選ばれた者から出走辞退者が出た場合、過去の実績が高い者から優先出走権が与えられる。

オフサイドは今年、天皇賞・秋を含め重賞3勝を挙げており、辞退者が出た場合はかなり優先的に出走権が与えられられるのは間違いない。

マックイーンが出走するかとまで尋ねたのは、既に投票人気上位者のうち数人が出走しないことが明らかになっているからだ。

 

マックイーンの尋ねに、オフサイドはしばらく考えこんだ。

その間マックイーンは上品な仕草でお茶を飲みながら、静かに彼女の返答を待っていた。

 

30分程経った頃。

「有馬記念に、出走登録させて頂きます。」

オフサイドは表情を俯かせ、小声で答えた。

 



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祝福と真女王(2)

 

その後。

オフサイドとの要件を終えたマックイーンは学園に戻り、いつものように生徒会室で他の生徒会役員と共に執務にとりかかっていた。

 

生徒会役員は皆が元生徒。

この日はレース開催日の為、殆どの役員がそちらに行っており、この日学園にいる役員はマックイーンの他はダイタクヘリオスだけだった。

 

夕方になり、この日の執務も殆ど終わった頃。

「失礼します。」

マックイーン1人になっていた生徒会室に来客が訪れた。

ライスシャワーだった。

 

「あらライス、こんにちは。」

「こんにちはマックイーンさん。まだお仕事中でしたか?」

「少々お待ち下さい。もうすぐ終わりますから。」

コーヒー用具一式を持参してきたライスに、マックイーンは笑顔で答えた。

ライスは来訪者用の席に座り、執務が終わるのを待った。

 

10分後、執務を終えたマックイーンは、ライスを待たせている席に移動した。

「今日もお疲れ様です。」

待っている間に淹れたてのコーヒーを用意していたライスは、それを差し出した。

 

「苦いですわね、相変わらず。」

橙色の夕陽が差し込む生徒会室。

コーヒーを一口飲んだ後、マックイーンは上品な苦笑を浮かべた。

ライスは時折生徒会室に訪れ、その度にコーヒーを淹れてくれる。

これが実に苦いのだが、苦味が去った後の後味が素晴らしく良い。

どんな豆を使ってどんな挽き方淹れ方をしてるのか分からないが、マックイーンはこのコーヒーが好きだった。

ライスもそれを知っているので、嬉しそうな表情をしている。

現役生徒にはイマイチ不人気だが、生徒会にはこのコーヒーは人気があるので、淹れ甲斐がある。

副会長のダイイチルビーや役員のミホノブルボンには特に好まれていた。

今日はレース開催日なので誰もいないのが残念だが。

「今日はマックイーンさん一人で執務を?」

「いえ、先程までヘリオスもいました。先に執務を終えて帰りましたが。」

「はー、相変わらずヘリオス先輩は仕事が早いですね。」

「全くです。」

 

「そういえば、」

自身のコーヒーも淹れ、ライスはマックイーンと向かいあって座ると言った。

「今日は有馬記念の投票結果発表の日ですね。」

「ええ。午前中にこちらに集計結果が届きました。先程、各報道やチームトレーナー達に伝え終えたところです。」

そろそろ報道されてる頃でしょうと、マックイーンは生徒会室にあるTVをつけた。

 

『有馬記念のファン投票の最終結果が発表されました。』

丁度良く、TVでは有馬記念の投票結果を伝えるニュースが流れていた。

『結果は以下の通りです。1位サイレンススズカ・2位エルコンドルパサー・3位エアグルーヴ・4位セイウンスカイ・5位スペシャルウイーク・6位メジロブライト・7位グラスワンダー・8位ステイゴールド・9位メジロドーベル・10位シルクジャスティス・以上の10人に、有馬記念の優先出走権が与えられます。』

 

「サイレンススズカさんが1位ですか?」」

「ええ。」

TVを消した後、マックイーンは意外な表情を浮かべているライスに同調するように頷き、コーヒーを飲んだ。

「ですが、まさか本気で出走欲しいと思ってサイレンススズカに投票した人はいないでしょう。あくまでこれは、大怪我からの復活を目指す彼女への、ファンのエールだと見ています。」

「なるほど。」

マックイーンの推測を聞き、ライスは納得したように頷いた。

確かに、それは全てのファンの夢だからね…

 

一方で。

「オフサイドトラップさんは外れたんですね。」

「…。」

その指摘に対し、マックイーンは両掌にカップを抱えて沈黙した。

当年の天皇賞ウマ娘が人気投票圏外になったのは史上でも殆ど例がない。

今年はそれだけ実力者が多かったといえばそれまでだが、決してそれだけが理由でないことは明らかだ。

「スズカさんだけでなく、人気投票上位のエルコンドルパサーさんやスペシャルウイークさんもレースは辞退と聞いてますから、上位でなくとも出ようと思えば恐らく出れるでしょうけど…。」

 

「オフサイドトラップは出ますわ。」

「え?」

「先程、本人に直接会って確認をとって来ました。」

マックイーンは、そのことをライスに伝えた。

 

「わざわざ、マックイーンさんの方から会いに行ったんですか。」

「ええ。彼女の方から学園に来てもらうのは、あまりに酷ですから。」

マックイーンは少し視線を落とした。

オフサイドが学園に登校するだけでも大変だということは、生徒会も知っていた。

 

 

「一つ、お伺いします。」

ライスは静かにカップを置き、さっきまでとは違う視線でマックイーンを凝視しながら、尋ねた。

「天皇賞後の騒動でオフサイドさんが受けた“事”に関して、学園側はもう何の行動も起こさない方針なんでしょうか?」

 

ライスの被っている紺色の小帽子の下、漆黒の髪に隠れた片眼が、蒼く光った。




トレセン学園の現生徒会メンバー

生徒会長 メジロマックイーン
副会長 ダイイチルビー
その他役員 メジロパーマー・ダイタクヘリオス・ヤマニンゼファー・ミホノブルボン・ビワハヤヒデ・マヤノトップガン


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祝福と真女王(3)

 

「…。」

瞳を蒼く光らせて問いかけたライスに対し、マックイーンも瞳を翠色に光らせ、カップを置いた。

 

「あなたになら、教えても構いませんわね。」

ポツリと呟いた後、彼女はライスの蒼眼を翠眼で見返した。

「実を言いますと、学園側は騒動で起きた幾つかの事態に対して行動を起こせる準備は整っています。ですが、それを実行するか否かに関して、学園上層部で意見が分かれている状況なのですわ。」

「意見が分かれている?」

「ええ。」

 

マックイーンは一枚のメモを取り出し、以下のように書いた。

『天皇賞・秋後に起きた主な事

(1) 学園所有物への物的被害、及び学園への不法侵入

(2)オフサイドトラップ及び『フォアマン』チームに対する過激な取材攻撃

(3)オフサイドトラップの優勝インタビューに対する世間の過度なバッシング・中傷

(4)オフサイドトラップの天皇賞勝利を正当に評価せず、無意味・無価値だと貶め名誉毀損した世間・報道・専門家・学園関係者の発信・発言』

「天皇賞後の騒動で起きた“事”は主にこの四つで、学園が対処を検討しているのもこの四つです。」

 

マックイーンはメモ用紙をライスに見せながら説明した。

「(1)に関しては、いずれ法的措置をとる方針で一致しています。物的被害ですから当然です。」

「いずれ?今すぐではないのですか?」

「その理由は、後ほど説明します。」

ライスの質問を逸らした後、マックイーンは続けた。

「(2)に関しても、法的措置を取るべきとの見方が強いです。オフサイドトラップだけでなく、他の『フォアマン』のメンバーも被害を受けたのですから。ただ相手が報道陣である為、実行には慎重の姿勢です。それに問題として、一番の被害者であるオフサイドトラップが、それを希望してない現状がありますわ。」

 

「オフサイドさんが希望してない?」

「ええ。正しくは、希望云々どころではないのですわ。」

マックイーンは僅かに表情を険しくさせた。

天皇賞騒動が収まりかけた頃、マックイーンはその件の法的措置について相談する為オフサイドと直々に会った。

だが、話を聞いた途端オフサイドは平静さを失って慄えだし、即拒否した。

現在オフサイドにとって、報道陣はもう消えようのない悪夢のような存在になっており、法的措置以前に彼らのことを考えただけで正気を失って倒れかねないくらいだった。

「オフサイドトラップが希望せずとも、他のメンバー或いは生徒会長である私が希望して法的措置に踏み切ることは可能ですわ。ですがそれによって、あのような状態の彼女を再び世の荒波の中に出すのはあまりにも危険過ぎます。慎重にならざるを得ませんわ。」

「…。」

ライスは蒼い瞳を瞑り、無言でコーヒーを一口飲んだ。

自身も数日前に、オフサイドの現状を目の当たりにした。

確かに、今の彼女にまた精神的なショックを与えかねない行動をとるのは危険だ。

(1)の問題に関してもまだ措置に踏み切ってないのはそれが理由かとも理解した。

 

続いて(3)。

「これに関しては…極秘ですが、意見が対立していますわ。」

「対立、ですか?」

「中傷・バッシングされたのはオフサイドトラップの優勝インタビューのせいだという理事会側と、オフサイドの優勝インタビューは全く問題ないという生徒会側の対立ですわ。」

要するに、人間(理事会)とウマ娘(生徒会)の対立ですと、マックイーンは優雅な威厳に満ちた彼女らしくない憂げな溜息を吐いた。

 

オフサイドの天皇賞後の優勝インタビュー。

“笑いが止まらない”発言を含むインタビューの内容は、報道や世間だけでなく、ウマ娘への理解度が深いトレセン学園理事会の人間達もかなりの不快感を示していた。

例えオフサイド自身にスズカの怪我を嘲笑う気はなかったにせよ、誤解を生むようなインタビューをしたことは事実であり、世間や報道で責められるのは至極当然だという見方だった。

ましてや『神速のウマ娘』と呼ばれ、幾千万のファンの夢と希望をのせていた大スターの身に起きた悲劇の際の発言。

理事の中には、報道と同じように、オフサイドに対して退学も含む厳しい処分を与えるべきだという者もあった。

 

それ対して、生徒会側は全く反対の意見だった。

オフサイドの優勝インタビューは全く問題ない。

スズカの怪我を嘲笑ったなどとは完全な言いがかり&中傷であり、名誉毀損も甚だしく断固として法的措置をとるべきだという意見だった。

また、出走メンバーに関係なく、レース中に他の出走者に不幸が起きたとしても、レースの勝者ましてやG1を制した者が喜びを表現するのは当然であり、また勝者の義務でもあるという見方で一致していた。

 

「勝者の義務…」

「ええ。生徒会全員、同じ意見でした。パーマーもトップガンも、そしてルビーも。」

再び蒼眼を開いたライスに対し、マックイーンも深い自然のような翠眼を光らせた。

ダイイチルビー・メジロパーマー・マヤノトップガン。

上記の三人の生徒会員は、いずれも自身が制したG1レースで不幸が起きた経験がある。

ルビーのスプリングターズSでは後輩のケイエスミラクルが、パーマーの有馬記念では後輩のサンエイサンキューが、それぞれレース中に悲劇に見舞われた。

また、トップガンの天皇賞・春では後輩のロイヤルタッチが、幸い重傷ではなかったが痛々しい姿で競走中止した。

しかし、同胞の不幸にも関わらず、三人ともレース制覇後は笑顔を見せ、勝利の喜びを表現した。

そして世間も、それを全く咎めなかった。

 

彼女らの例だけでなく、他にもレース中に不幸が起きた例は多々ある。

26年前の天皇賞・秋などは、レース中にキクノハッピー・コンチネンタル・タマホープの3出走者が故障。

うちハッピーとネンタルは競走中止後に即救急搬送される程の重体で、その後の懸命の治療も及ばず、二人とも還った(注)。

なんとか完走したホープも、レース後の検査で競争能力喪失の重傷と判明し、引退に追い込まれた。

そのような史上に残る惨劇的なレースでも、勝者であるヤマニンウエーブは笑顔で勝利を喜び、それを誰も責めなかった。

 

ウマ娘にとって勝利というのはそれ位重いものであり、夢であり生きがいでもあるのだから。

そのことは従来、観る側の人間達もずっと理解していた。

いや、理解している筈だった。

 

 

「(4)について、話して頂けますか。」

まだ蒼く眼を光らせたまま、ライスは最後の項目の説明を催促した。

「(4)…これが一番の問題です。」

マックイーンの翠眼が、急に険しくなった。

「絶対にあってはならないことが起きたのですから。」

 




(注)還った=ウマ娘の世界へ還ること。人間でいう「あの世にいく」と同義語。


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祝福と真女王(4)

 

レースにおけるウマ娘の勝利は、如何なることがあろうともそれが無視し貶されることは決してなかった。

 

例えファンがそれを期待していなかったウマ娘が勝ったときでも、前述のようなレース中の不幸が起きた時でも、勝者には称賛が与えられ、正当な評価がされた。

 

希少な例外としては、22年前にダービーを制したクライムカイザーが、1番人気のトウショウボーイに対し一見ラフな戦法を使った為『汚い勝利・犯罪皇帝』などとバッシングされたことがある。

例外はそのくらいだし、それもほんの一時的で、後には『実はかなり強い勝ち方だった』と彼女を再評価する声の方が多くなっていた。

勝者への称賛と正当な評価。

これは、ウマ娘のレースの歴史が始まって以来、一度も揺らいだことはなかった。

 

だが今回、それが破られた。

 

「恐らく、オフサイドトラップがあのような状態になってしまったのは、これが一番の原因でしょう。」

マックイーンは厳しい表情で続けた。

ウマ娘にとって、レースでの勝利を否定されることは生きていることへの否定に等しい。

前述のカイザーもほんの一時的なバッシングではあったが、その影響か彼女は以後のレースで精彩を欠き、遂にダービー以後は勝てないまま引退した。

オフサイドの場合はカイザーの時より悲惨で、未来永劫それが続くような否定のされ方だ。

おまけに味方すらいない。

報道も専門家も彼女の勝利を正当に称賛せず、それどころか逆に酷評するか或いは無視している。

 

「否定される理由は、タイムですか。」

「そのようですわね。」

天皇賞・秋(2000m)でのオフサイドトラップの勝ちタイムは1分59秒3。

前年の優勝タイムより0.3秒遅く、レコードタイムよりも1秒以上遅い。

対して、サイレンススズカは天皇賞・秋の前走の毎日王冠(1800m・天皇賞と同じ府中競バ場開催)での優勝タイムが1分44秒9と非常に速かった。

それも1000m通過が57秒7とハイペースだった上、上がり3ハロンのタイムも35秒1と全く失速していないという驚異的な勝ち方だった。

それを考えれば、天皇賞・秋のレースでは毎日王冠以上の好調さで出走した上、前半1000mを57秒4で通過した彼女が無事に完走していれば、オフサイドトラップの勝ちタイムより遅くゴールするわけがない、おそらく1分57秒台のレコードタイムでゴールし後続を10バ身はちぎって優勝していただろう、というのが世間・報道・専門家達の一致した見方であり、オフサイドトラップの優勝を評価しない理由だった。

 

だが、マックイーンはそれを否定するように言った。

「タイムで優勝が評価されないなんて、あってはなりませんわ。」

タイムは、勝敗とは別に考えるべきだ。

速いタイムでの勝利はもちろん評価されていいが、かといって遅いタイムでの勝利を貶していいものではない。

一例として、ウマ娘史上最高のレースの一つと称賛されてる、8年前のオグリキャップが優勝した有馬記念がある。

その優勝タイムは従来のレコードタイムより2秒半遅く、当日開催された同距離の格下レースよりも劣っている。

だが誰も彼女を低レベルな優勝などと評さず、奇跡のラストランとして高く称賛し続けている。

それは、オグリがスターウマ娘だったという理由もあるだろうが、タイムと勝利は別だと分かっていたからでもあろう。

 

また、タイムは、レース展開(ペース)によって大きく変わる。

前述のオグリの優勝タイムが遅かった理由は、レース展開が非常にスローだったのが理由でもある。

対して、今回の天皇賞・秋のタイムが平凡だった理由は何か。

世間・報道・専門家達は、『スズカが故障したことにより低レベルなレースになったから』或いは『スズカがつくったハイペースについていけなかった為』という見方だが、実際のところはどうだろう。

 

「このレースについては、展開とかタイムはあまり振り返らないべきですね。」

ライスはポツリと言った。

もしレース展開を非情に厳密に振り返るとしたら、『スズカが1000m57秒台のハイペースで駆け、その後先頭のまま第4コーナー手前で故障し、“後続の進路を妨害”かつ“精神的動揺”を与えた展開』という内容も加えなければいけなくなってしまうからだ。

実際にレースではスズカの故障後、彼女の動きを見極めスピードを落としつつも素早く進路をとったオフサイドやステイゴールドは少ないロスで済んだが、進路を取り損ねてスズカを避ける為に外に振られたサイレントハンターやメジロブライトはかなりのロスを受けた。

またスズカの大怪我を目の当たりにした全出走メンバーが、かなり精神的に動揺したことは想像に難くない。

出走メンバー全員、そのことについては何も語ってないが。

うっかり語りでもしたら、彼女達もオフサイドのように袋だたきにされ中傷を受けかねないだろうし、それ以前にウマ娘として言い訳じみたことはしたくないのだろう。

 

いずれにしても、このような大アクシデントが起きたレースは、展開やタイムは語るべきではない。

だがこのレースに限っては、展開はともかく、誰もが執拗にタイムに固執している。

その理由は、このレースを観ていたほぼ全ての者が求めていたものが、勝敗よりもタイムだったから。

そう、稀代のスターであり『神速のウマ娘』サイレンススズカが、どれだけのタイムを出して勝利するかを。

それはおそらく、『サイレンスズカ、後続をぶっちぎり圧勝!タイムは驚愕のレコード!』という結果を期待してたのだろう。

 

だが、現実の結果は『サイレンススズカは故障により競走中止。』

全てのファンが抱いていた夢と期待は、悪夢と絶望に変わった。

 

そしてファンの誰もが、絶望がなかった未来…すなわちスズカに抱いていた期待と夢の先のゴールを想定し思い描くようになり、現実の勝者オフサイドトラップと比べはじめた。

 

結果、オフサイドの勝利は低レベル・無価値・悲劇の恩恵などと酷評されることになった。

 



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祝福と真女王(5)

 

「本当に、本当に辛いだろうと思いますわ。」

 

マックイーンは厳しい表情のまま、オフサイドの身を慮るように呟いた。

立場関係なく言わせて貰えれば、オフサイドへの酷評の内容は殆どタラレバの塊で、正直それこそ酷評したいくらいだ。

恐らく専門家や学園関係者もそれは分かっていたのだろうが、スズカを惜しむあまりついそのような批評をしてしまったのだろう。

それが共通認識となって一気に世界に広まってしまい、オフサイドの勝利は日の目を見れなくなった。

更に追い打ちをかけるようにインタビュー問題が起きてしまい…

 

…やめよう。

マックイーンはそれ以上の思考を停止した。

気の毒を通りこして想像するのも辛いし、それに、私に彼らを責める資格なんてないのだから。

 

「ライス、かつて同じような経験をしたあなたなら、彼女の苦痛がお分かりになるでしょう。」

思考を止めたマックイーンは、つとライスを見た。

「…。」

ライスはふっと眼を閉じた。

 

私の時とは全然違います…

むしろ近いのは同期のキョウエイボーガンだろうとライスは思った。

6年前の菊花賞で、彼女は11番人気ながら、大本命の二冠ウマ娘ミホノブルボンに勝ってレースを制する為、玉砕覚悟の戦法をとった。

結果は玉砕し16着。

だが道中で彼女の戦法にペースを乱されたブルボンは、最後の最後でライスにかわされ三冠を逃した。

レース後ボーガンは、『弱いくせに三冠の邪魔をしたウマ娘』などと多くの非難・中傷を受けた。

三冠の邪魔をしたなど言いがかりも甚だしかったが、ボーガンは“16着に終わった自分が悪い”と中傷を受け入れた。

ただやはりショックだったのか、その後の彼女は惨敗続きのまま退学。

現在は、菊花賞で自分のファンになってくれたという人間と出会い、その人間の保護のもと余生を送っているらしい。

 

ボーガンと比べ、オフサイドは…

やはり比較は出来ないと、ライスは眼を閉じたまま思った。

オフサイドはボーガンのように大本命のペースを乱したわけでもなく、惨敗したわけでもない。

自分の走りをして、そして勝った。

何も非難されるようなことはしてない。

といって、自分とも違う。

確かに自分も大本命の偉業を立て続けに破ったことで随分と心ない非難や中傷をされたことがある。

だけどそんなに苦しくなかった。

菊花賞の時も天皇賞・春の時も、レース中になんのアクシデントもなくタイムもレコードで、ゴールした自分のすぐ後ろにブルボンさんやマックイーンさんがいましたから。

中傷を受けようが何されようが、そのレース内容で黙らせることが出来た。

オフサイドは違う。

ずっとスズカが前にいて、そのままいなくなってしまったのだから。

 

「…。」

マックイーンは残りのコーヒーを全て飲み、表情を戻した。

「この(4)につきましては、恐らく何の措置も行われないでしょう。」

ウマ娘ファンのほぼ全て(約1億人)だけでなく、ウマ娘に長年携わってきた幾多の専門家、更に学園の関係者が同じ見方をしてしまったのだ。

それに中傷や物的被害を与えるなど、法に触れる事をしたわけでもない。

サイレンススズカへの悲劇への悲嘆の集まりが、無意識のうちに膨大な力となってウマ娘の歴史と掟を破り、オフサイドトラップに襲いかかった。

そう、それだけだ。

誰も責められない。

誰も責められないけど、オフサイドはそれによって、地球外の惑星にたった一人捨てられたような状況にされてしまった。

 

「…そういうことだったんですね。」

全てを聞き終えたライスは、髪の下の蒼い眼を閉じたまま頷いた。

重たい沈黙が、生徒会室に流れた。

 

やがて、重い沈黙を破って、ライスが再び口を開いた。

「先程、オフサイドさんが有馬記念に出走するということを聞きましたが、本当に出走するんでしょうか?」

「分かりません。」

マックイーンは首を振った。

「出走登録をしたということは、走りたいという意思はあるのでしょう。」

そう言った彼女の表情には、非常に複雑な感情が入り組んでいた。

それを見てライスは更に何か尋ねようとしたが、それは思い留まった。

 

 

やがて、ライスは帰ることにした。

執務を終えたマックイーンも帰ることにし、二人は一緒に生徒会室を出た。

外は既に夜になっていた。

 

校舎玄関を出た二人は、並んで校門まで歩いていた。

「マックイーンさん、」

冷たい夜風が靡く中、ライスがポツリと口を開いた。

「私、現役時代に一つ、大きな悔恨を残しているんです。」

「“悔恨”?」

「何だか、お分かりですか?」

ライスの言葉に、マックイーンは少し考え込んだ。

「オールカマーでの敗戦ですか?」

「いいえ。」

「JC・有馬記念での惨敗かしら?」

「違います。」

ライスは数回首を振った後、自分の左脚を見下ろしながら言った。

「宝塚記念での怪我です。」

 

「…。」

そうでしょうね。

内心では最初から分かっていたマックイーンは何も言わなかったが、ライスは続けて言った。

「私が怪我してしまった為に、一人の後輩が不幸になってしまった。それが一番の悔恨です。」

「後輩を不幸に?」

「はい。」

意外そうに聞き返したマックイーンにライスは片眼の美しい睫毛を伏せながら答えた。

「ダンツシアトルさんのことです。」

 

「なるほど…」

ライスの言葉とその意味を汲み取り、マックイーンは静かに頷いた。

「あなたがこの件に関わろうとしているのは、それが理由ですか。」

「仰る通りです。」

ライスは眼を伏せたまま頷き返した。

「サイレンススズカさん、オフサイドトラップさんには、私やシアトルさんの二の舞には絶対にしてはならないんです。二人をこれ以上不幸にしないこと、それが私の、残された使命です。」

 

“残された使命”。

その台詞を聞き、マックイーンはつとライスの左脚を見た。

かなりゆっくり歩いているライスの足取りは不自然には見えない。

けど、もしかして…

マックイーンは何か言おうとしたが、それを止め、黙々と彼女の隣を歩いた。

 

 

やがて校門を出ると、マックイーンとライスは別れた。

 

 

マックイーンは待たせてあった車に乗り、メジロ家への帰路についた。

 

“悔恨”、ですか。

車中、マックイーンは先程ライスが口にした言葉を脳裏に思い出していた。

私にも一つ、大きな悔恨がある。

彼女よりも罪深い、取り返しのつかない大きな過ちが。

 

生徒会長である彼女も、ライスと同じようにこの件に関しては特別な思いをもって臨んでいた。

7年前の天皇賞・秋で、運命を狂わせてしまった同期の存在を胸に刻みつけながら。

 

「プレクラスニー。」

車窓から夜空を眺めながら唇元で呟いたマックイーンの脳裏には、その同期の姿が浮かんでいた。

 



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祝福と真女王(6)

*****

 

一方その頃。

 

この日のトレーニングを終え帰路についたゴールドは、その途中にスマホで見たニュースで有馬記念人気投票の結果を知った。

 

スズカが1位⁉︎

自身の結果よりもまずそれに驚いた。

どんなバカ共が投票したんだと一瞬思ったが、すぐにこれは彼女へのファンのエールだと理解した。

…バカとか思ってごめん。

それにしてもスズカ凄いなー。

これほどまでにファンに愛され、復活を心待ちにされてるなんて。

それに引き換えあたしは、8位か。

出走権を取れて一安心すると同時に、なんか悔しさも感じた。

2年生が4人も上にいるし、同期のブライトもあたしより上…キーッ。

まあ今年G1レースで2着3回とはいえ1回もレースで勝ってないから当然か。

早く『アカンコ』ちゃんから卒業しないとなー。

 

思い直すと、ゴールドは再び投票結果が表示されたニュースを見直した。

薄々予想してたとはいえ、オフサイドトラップの名がない。

「…はあ。」

ゴールドは溜息を吐くと、スマホをしまった。

 

 

学園寮に帰ると、ゴールドは途中で買って夕食の弁当を手に、オフサイドの部屋へと向かった。

 

だがオフサイドは部屋にいなかった。

弁当を置いて戻ろうかと思ったが、一応寮長の所へいきオフサイドがどこにいるか尋ねた。

すると、オフサイドは寮庭を散歩していると返答があった。

ゴールドは弁当を持ったまま、寮庭に出た。

 

冬の澄み切った夜空の下、オフサイドの姿を探しながら寮庭を歩いていると、寮棟の裏にあるベンチに彼女の姿を見つけた。

何故か制服姿でコートを羽織り、いつものように盾を抱いて座っていた。

窶れた表情の中、彼女は何か考え事をしているように、じっと夜空を仰いでいた。

 

「オフサイド先輩。」

ゴールドが声をかけると、オフサイドはチラッとこちらを振り向いた。

「お帰り、ゴールド。」

「夕食買ってきました。部屋に戻って一緒に食べましょう。」

「…。」

ゴールドが促すと、オフサイドは盾を抱いたまま無言で立ち上がった。

 

オフサイドの部屋に戻ると、二人は一緒に夕食のお弁当を食べた。

食事中、いつものようにゴールドは何度か明るく話しかけたが、オフサイドは殆ど反応せず暗い様子で箸を進めていた。

 

「ゴールド、」

半分程食べ終えたところで箸を置くと、オフサイドは口を開いた。

「有馬記念のファン投票結果は見たかしら?」

「あ、はい。ニュースで見ました。」

「選ばれてたね。おめでとう。」

「どうも。」

ゴールドはあまり嬉しくない表情で答えた。

 

それきり、オフサイドは再び黙った。

ゴールドも黙りこくって箸を進め、弁当を食べ終えるとあとは軽く挨拶しただけで、オフサイドの部屋を後にした。

 

 

ふざけた話ったらありゃあしないわ。

オフサイドとの夕食を終えた後、部屋に戻ったゴールドは着替えを終えると、不愉快な様子でベッドに寝っ転がった。

ふざけた話とは有馬記念の投票結果だ。

オフサイド先輩が外れるとはどういうことよ。

確かに、今年は多くの新星が台頭し、また実力者も結果を残したから、G1覇者といえども外れる可能性はあった。

実際、オフサイド以外でも落選したG1覇者はいる。

だが、当年のG1覇者、しかも天皇賞の覇者が外れるなんて前代未聞だ。

いたとすれば、18年前の天皇賞・秋覇者のプリテイキャスト先輩くらいだ。

彼女が落選した理由は、天皇賞・秋の勝利がフロックとみなされたから。

オフサイド先輩も同じように見られているんだろうなー。

 

だが、フロックとみなされてたとはいえプリテイが制した天皇賞・秋のレースは、ウマ娘史上に残る衝撃的な勝ち方だと未だに語り草になってるし、彼女には多大なる称賛が寄せられた。

対してオフサイド先輩は…

ゴールドはぶんぶん首を振り、思考を止めた。

あの不快極まるレース回顧の数々を思い出しそうになったから。

 

 

衝撃的といったら…

ゴールドは他のことを考え出した。

プリテイ先輩のレースは生まれる前だったから生では見てないが、自分が生で観た衝撃的なレースといえば…あれだな。

入学する2年前に全て現地で観た、あの先輩のレース。

あれは衝撃的だった。

いや、というかあの先輩は、衝撃的な勝ち方しかしなかった。

 

「…ナリタブライアン先輩。」

ゴールドは、ほんの2ヵ月間だけだがチーム仲間だった偉大な先輩の姿を思い浮かべ、それから2ヵ月半前の出来事を思い出した。

「うっ…」

思わず胸が込み上げ、慌てて眼を瞑った。

 

そのまま、彼女は眠った。

 

 

12月12日、有馬記念まであと15日。

 



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陽陰(1)

*****

 

12月13日、日曜日。

 

ウマ娘療養施設のある高原は、この日も素晴らしく空気の良い朝を迎えた。

その澄んだ空気を切り裂いて、ニンジンをくわえながら施設への道をダッシュで駆け上がっているウマ娘がいた。

 

 

「おはようございますー!」

…あ、スペさんだ。

施設の最上階の特別病室。

病室の外からスペシャルウイークの元気な挨拶が聞こえると、ベッド上で朝食を食べていたサイレンススズカの頬に自然と微笑が浮かべた。

「おはようございます、ースズカさん!」

「おはようございます、スペさん。」

思いっきり爽快な笑顔で病室に現れたスペに、スズカは丁寧な笑顔で挨拶を返した。

 

スズカとスペは、チーム『スピカ』の仲間。

学年はスズカが一年上。

今年初めにスズカが『スピカ』に加入して以後、二人は非常に親密な仲になった。

前述のようにスペはスズカを崇拝する程に慕っており、スズカが天皇賞・秋で大怪我してからは誰よりも彼女の看護を行なっていた。

 

「スズカさん、実はビッグニュースがあります!」

スズカが朝食を終えた後、スペは満面の笑顔で、今日のウマ娘新聞を取り出した。

「ビッグニュースですか?」

「はい!みて下さい!」

外界からの情報を殆ど遮断されている状態のスズカは、スペが差し出した新聞を受け取った。

すると、一面にデカデカと記された記事が眼に飛び込んできた。

〈有馬記念ファン投票結果発表!一位はなんとサイレンススズカ!〉

 

「これは…」

「ビックリですよね!」

驚きの表情を浮かべたスズカの横でそれを一緒に読みながら、スペはあっかるい笑顔で続けた。

「スズカさんがどれだけファンの方々に愛されてるか、夢をもたれているか、私感動しました!」

 

愛されてる…

初めは驚いたスズカだが、絶対出場出来ない自分を何故ファンは1位にしてくれたのか、その理由が分かると胸が震えた。

これは、有馬記念に出て欲しいという思いでの結果じゃない。

大怪我に苦しむ私への、ファンの皆さんのエールだ。

ファンの皆さんの夢は、私がこの怪我を乗り越えて復活すること。

その思いを、この投票で示してくれたんだ。

記事の内容も、そのような推測をする内容だった。

 

「…嬉しいです。」

こんなになってしまった私を、ここまで励ましてくれるなんて…

スズカはちょっと涙ぐんだ。

「そうですね。」

傍らのスペは、感激に震えている彼女の手をぎゅっと握った。

「怪我を治して、必ずターフに戻りましょう。みんな待ってますから!」

「はい、必ず!」

スズカは目元を拭い、微笑しながらその手を握り返した。

 

その後、スペは自主的に室内清掃をはじめ、スズカはそのお礼を言いながら、ウマ娘新聞の他の記事を読んでいた。

大怪我を負って以後、彼女の耳に入ってくる情報は僅かなもの(天皇賞・秋とJCの結果だけ)。

報道紙を読むのは怪我して以降初めてだ。

とはいえ、記事は有馬記念に関することが殆どだった。

それ以外特にめぼしい記事がないのを確かめると、スズカは再び有馬記念の記事を一つ一つ読んだ。

 

8位にゴールドが入ってるわ。

ファン投票選出メンバーに無二の親友の名を見つけると、スズカは嬉しそうに笑った。

今年、勝つことは出来なかったけど凄い活躍だったもんね。

本人はあまり嬉しくなさそうだけど。

今度の有馬記念こそ、絶対勝ちに行くだろうな。

ゴールドの負けず嫌いな表情を思い浮かべ、スズカは胸のうちでクスッと笑った。

他は…スペさんが有馬記念に出ないことは知ってたけど、2位のエルコンドルパサーさんも出ないのか。

記事によると、彼女はJC制覇を最後に海外挑戦を決めているらしい。

 

海外…

スズカは眼を瞑った。

私も、海外遠征を目指していた。

もし、怪我をしなかったら…

 

だめ。

苦しくなりかけた胸を抑え、スズカは深呼吸した。

海外への夢は消えた。

でも消えきった訳じゃない。

この怪我を乗り越えられれば、心が折れさえしなければ、また夢への希望を灯すことが出来る。

脳裏に、先日読んだトウカイテイオー先輩の自伝を思い返した。

テイオー先輩は幾度の怪我でもう駄目だろうと言われながら、何度もそれを覆し大レースを制した。

もっと昔のタニノチカラ先輩やホウヨウボーイ先輩だって、大怪我による一年以上の苦節を乗り越え、現役最強ウマ娘の称号を手にした。

今、私が目指すべきは、そういった不屈の軌跡を残した先輩達の背だ。

そう、“不屈”。

現に、身近にもそれを体現した先輩がいるのだから。

オフサイドトラップ先輩…

 

あれ?そういえば…

スズカはハッとしたように、新聞に記されている有馬記念のファン投票結果を見直した。

「どうして?」

何度もそれを見直した後、スズカは不思議そうに呟いた。

オフサイド先輩の名前がない。

 

「どうしたんですか?」

スズカの呟きが耳に入り、スペは清掃の手を止めた。

「ファン投票、オフサイド先輩は選ばれてないんですか?」

「あー、オフサイド先輩ですか。」

スペも紙面を覗き込み、それを確認した。

「確かに選ばれていないですね。なんででしょう?人気高い方が多かったからじゃないですか?」

スペも不思議そうに、首を傾げながら言った。

人気…確かにそうかもしれないな。

昨年から今年にかけて、ウマ娘界は実力者と新星が多く結果を残した。

G1覇者でなくとも人気の高いウマ娘も出現したし(ゴールドとか)、また今年不振でも昨年結果を残した者もいる(グラスワンダー・シルクジャスティス)。

現在のウマ娘界は、群雄割拠の状態なのは確かだ。

 

とはいえ、オフサイド先輩が選ばれない?

あれだけの偉業を成し遂げたのに?

 

スズカはかなり不思議に思ったが、それ以上は何も尋ねず、お礼を言いながらスペに新聞を返した。

 



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陽陰(2)

*****

 

一方、その頃。

療養施設内の食堂では、多くの療養ウマ娘達が朝食をとっていた。

 

朝食の際、彼女達の間で話題になっていたのは、やはり有馬記念の投票結果に関することだった。

「スズカさん凄いね。ファンのみんなからあれだけのエール貰えるなんて。」

「みんなに夢を与える走りをしていたからね。あの神速ぶり、私も魅了されたもん。」

「私も!どんな凄いタイムを出すのか、いっつも楽しみにしてた!」

「来年からは海外遠征も決めてたもんね。世界一のウマ娘になれる日も遠くなかったのに…。」

「本当に可哀想ね、スズカさん。」

「でも、いつか必ず、スズカさんはターフに戻ってくるよ。ファンのみんなだけでなく、同胞の私達だってそう祈ってるんだから!」

 

「…。」

賑やかな食堂の片隅で、一人黙々と食事しているウマ娘がいた。

彼女は食事を終えると、手元にあるウマ娘新聞を取り、有馬記念投票結果の記事を見た。

ゴールドは8位、オフサイド先輩は外されたか…

溜息を一つ吐いて新聞をしまうと、彼女はトレイを持って立ち上がった。

 

松葉杖をつきながら食堂を出た彼女は、『病専用』病棟の病室に戻る途中、廊下で一人の医師と会った。

「あら、おはよう。」

「おはようございます、椎菜先生。」

医師は、彼女が患っている病気〈クッケン炎〉の専門医。

名前は渡辺椎菜(わたなべしいな)

 

「どう、今朝の足の具合は?」

「まあまあです。特に熱はありません。夕べは熟睡出来ました。」

「良かった。じゃあ予定通り、11時から治療するね。」

「了解です。」

彼女は椎菜に頭を下げると、彼女の傍らを通り過ぎた。

 

と、

「そういえば先生、」

数歩通り過ぎてから、彼女は椎菜を振り返って尋ねた。

「有馬記念の投票結果のニュース、見ました?」

「見たわ。話は治療の後にしましょう。」

椎菜は答えた後、彼女が続けて何か言おうとする前にそう告げた。

「…はい。」

トレセン学園5年生、チーム『フォアマン』メンバーの一人である黒鹿毛ウマ娘ホッカイルソーは、素直に頷くと病室へ戻っていった。

 

 

 

11時過ぎ。

ウマ娘療養施設の、『クッケン炎』専門の治療室。

 

「痛い。」

ベッドに横になって、脚の患部の治療を受けているルソーは、汗を滲ませて治療の苦痛に耐えていた。

「我慢、我慢。」

医師の椎菜は、ルソーの脚の患部にレーザを当てての治療を行いながら、彼女の痛みを和らげようと声をかけ続けていた。

「大丈夫だからねルソー、あと少しで終わるから。」

「痛い!痛いよ…。」

ルソーは歯を食いしばりながら、涙も滲ませた。

「もうやだ!やめてっ!還りたい…ああっ!」

「頑張って!ほら、もう終わるからっ!」

苦痛に耐えられず暴れ出しかねない彼女を助手と一緒に抑えながら、椎菜も汗を散らして治療を続けた。

 

やがて、治療は終わった。

苦痛から解放されたが半ば気を失った状態のルソーの傍らで、椎菜は彼女と自らの汗を拭いていた。

 

 

それから約一時間後。

治療を終えたルソーと、休憩時間になった椎菜は、施設の外にある遊歩道のベンチにいた。

 

水色の患者衣姿のルソーは、治療中とはうって変わって落ち着いた様子に戻っていた。

「有馬記念の投票結果、見ました?」

高原の澄んだ空気と、太陽の暖かい陽射しを浴びながら、ルソーは口を開いた。

「ええ、見たわ。サイレンススズカが1位だったわね。」

「そして、オフサイド先輩が圏外。」

両手で、意味が分かりませんというポーズをした。

「どうなってるんでしょうね、これは。」

「例の騒動は収まったけど、彼女の天皇賞制覇は依然全く評価されてないってことだろうね。」

棒飴を咥えている椎菜は、不快そうに答えた。

遊歩道の向こうにある芝生には、山鳥が集まって囀っている。

「凄く残念です。そして、オフサイド先輩が気がかりです。」

 

長期の療養生活を送っているルソーは、オフサイドとは天皇賞・秋以後まだ会ってない。

天皇賞制覇後に電話でお祝いしたっきり。

後で起きた騒動については、報道やチーム仲間のゴールド、或いは椎菜や時折施設に訪れる美久の口から知り得ていた。

一回だけ、騒動中の彼女があまりにも心配になったから学校寮まで会いに行った。

だがその時は、彼女は寮に引き篭もってしまっている状態であった為、結局会えなかった。

その後、騒動が収まると彼女は登校を再開したが、未だ深刻な傷心状態だと言うことを聞いている。

 

「また、私の方から先輩に会いには行けませんか?」

「駄目。」

椎菜は即却下した。

前回、ルソーは無理してオフサイドに会いに行ったせいで、脚の患部の状態が悪くなった。

「今無理したら今までの苦労が水の泡になるわ。医師としてそれは許可出来ない。」

「…。」

ルソーは無言で、悔しそうに患部に手を当てた。

 

と、

「ホッカイルソーさん。」

施設の係員が、彼女を呼びに現れた。

「なんですか。」

「ただいま、ルソーさんと面会したいという方が施設に来られました。」

「面会?」

誰だろう、ゴールドかな。

ルソーは首を傾げながら立ち上がった。

 



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陽陰(3)

 

ルソーは、松葉杖をつきながら施設内に戻った。

 

受付前に戻ると、面会者らしきウマ娘が待合席に座っていた。

「え?」

制服姿なのでトレセンの生徒だとすぐに分かり、またそれが誰かもすぐ分かったが、その表情はルソーが知っている彼女とは別人かと思うほど窶れていた。

「オフサイド…先輩?」

「久しぶり。」

自分の姿を見て、驚愕というか茫然とした声を上げたルソーに対し、オフサイドは薄い微笑で返した。

 

オフサイドは、ルソーの後から来た椎菜にも気づいた。

「お久しぶりです、椎菜先生。」

「オフサイドトラップ…。」

椎菜も、天皇賞後に初めて見たオフサイドの、変わり果てた姿に愕然とした。

 

「病室、行こ?」

オフサイドは椎菜から眼を逸らし、ルソーに言った。

「は、はい。」

ルソーは動揺を隠せないまま、オフサイドを連れて病室へと向かっていった。

「…。」

椎菜も思わずその後を追おうとしたが、時計を見て思い留まった。

休憩時間は間もなく終わりだ。

仕方ない、終わってから会いにいこう。

椎菜は飴を噛み砕き、白衣を翻して医務室へ向かった。

 

 

やがて、ルソーとオフサイドは病室に着いた。

「なにか、飲みます?」

「これ、買ってきた。」

オフサイドは見舞品としてもってきたロイヤルミルクティーを取り出した。

「どうも。」

ベッドの傍らの椅子に、二人は並んで腰掛けた。

 

ルソーとオフサイドは一年違いの『フォアマン』チームメイト。

ただルソーは故障による長期離脱中で、数年前から殆ど学園に登校しておらず、その為彼女のことを知っているチーム仲間はオフサイドとゴールドしかいない。

 

「ルソー、」

ミルクティーを飲みながら、オフサイドは後輩に尋ねた。

「最近、体調はどう?」

「まあ、良好です。」

「脚の具合は?」

「ぼちぼちです。椎菜先生によると、大分良くなってきてるとのことです。」

「そう。治療の方は、どう?」

「最近は二日に一回位です。今日は治療があって、ついさっき終わったところです。」

「苦しくなかった?」

「ハハ、大丈夫ですよ。もうとっくに慣れてますから。」

「そう。」

ぎこちない笑顔を見せたルソーに、オフサイドも薄く微笑をみせた。

「強いね、ルソーは。」

「何言ってるんですか。先輩に比べれば、私なんて…」

 

ルソーはミルクティーを飲みながら、先輩の質問に答えていた。

内心では、オフサイドから受けた質問は、全て彼女に返してやりたかった。

傍目から二人を見れば、ルソーよりもオフサイドの方が重病と思う程、彼女は窶れている。

ゴールドやその他の者達から、彼女の現在の状態について聞いてはいたが、まさかここまでとは。

かける言葉が、見つからなかった。

 

「有馬記念、」

ミルクティーを注いだカップを両掌に抱え、オフサイドが再び口を開いた。

「私、今度の有馬記念、出るわ。」

「出るん…ですか。」

「うん。」

ファン投票の結果には触れず、オフサイドは特に感情のない声で言った。

「そうですか。」

ルソーも特に尋ねず、ただ頷いた。

例えファン投票で選ばれなくとも、希望すればG1覇者である彼女が有馬記念に出走出来るであろうことはルソーも分かっている。

だけど、こんな状態で、2週間後に迫ったレースに出走出来るの?

どう見てもレースどころではない状態の先輩を前に、かなり心配に思った。

 

 

「そろそろ帰るわ。」

ミルクティーを飲み終えると、オフサイドはゆらっと立ち上がった。

「え、もう帰るんですか?」

まだ施設に来てから20分位しか経ってない。

「あなたの様子を見にきただけだから。」

言いながら、オフサイドは茶色のコートを羽織った。

「待って下さい。」

すぐに去りかけた彼女の袖を、ルソーは慌てて掴んだ。

「病症仲間と、会ってもらえませんか。」

「…。」

「みんな、先輩のことを心配しています。天皇…いや、とにかく、一目だけでも仲間達と会ってあげて下さい。」

 

「ごめん、ルソー。」

オフサイドは袖を掴んでいる後輩の指をゆっくりと引き離した。

「私は、あなたも含めて、あの子達に泥を塗った。みんなの未来を閉ざした。」

「は?何言ってるんですか?」

オフサイドの言葉に対して、ルソーは呆然というか訳の分からない表情を浮かべた。

その後輩の表情を見つめて、オフサイドは続けた。

「私は“非情で自己中、同胞の不幸を喜ぶウマ娘”なの。そんな私に、あの子達と顔を合わせる資格なんてないわ。」

そう言った彼女の表情は、胸が潰れそうなくらい切ない微笑を浮かべていた。

「先輩…。」

「じゃ、元気でね。」

言葉を失ったルソーにそう言うと、オフサイドはゆっくり病室を出ていった。

 

しばし愕然としていたルソーは、我に返ると松葉杖をつきながら慌てて彼女の後を追った。

すぐに追いついたが、もう彼女を引き留めようとはせず、その傍らを一緒に歩いた。

「先輩。外まで送ります。」

「ありがとう。」

 

 

二人は、一緒に施設の一階まで降りた。

 

そのまま正面出口まで行こうとした時。

「…!」

突然、オフサイドは凍りついたように立ち止まった。

「どうしたんです…?」

声をかけきる前に、ルソーはハッとした。

オフサイドの表情が、悪魔でも見たかのように真っ青になってたから。

まさか…

彼女の視線の先を見ると、受付前のベンチに、数人の報道陣らしき者達が集まっているのが見えた。

いけないっ!

 

「…あああっ…!」

ルソーが彼女の姿を隠そうとするより早く、オフサイドは頭を抱えて脇の通路に逃げ込んだ。

 



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陽陰(4)

今日はトウカイテイオーの誕生日。


 

「先輩!」

「やだ…やだ…助けて…」

通路脇に逃げ込むや、そのままオフサイドは頭を抱えて崩れ落ちた。

 

指先まで慄えながら苦悶している先輩を庇いながら、ルソーは受付前の様子をそっと見た。

物音で気づかれたのか、報道陣含めたその場にいる者達がこちらを怪訝そうに見ている。

まずい、こっちに来かねない。

通路の先は行き止まりだし、左右にある部屋の扉も全て鍵が閉まっている。

どうすれば…

 

「記者のみなさーん!」

突然、受付前から元気な声が聞こえた。

そっと見ると、報道陣の前に今しがた施設に戻ってきたらしいスペシャルウイークが現れ、笑顔で報道陣に声をかけながら買ってきた差し入れを彼らに渡していた。

 

…スペ、ナイス。

彼女が皆の上手く気を逸らしてくれてるうちに、このまま外まで先輩を脱出させよう。

ルソーは松葉杖を置いて、慄えているオフサイドを抱きあげるように立たせ、彼女の身を隠しながらゆっくりと移動し始めた。

受付前の者達は、皆スペに気を取られている。

よし、このまま…

気づかれないように、報道陣共の後ろをそーと移動し、やがて出口の扉の前に着いた。

 

そっと振り返ると、報道陣はオフサイドに気づくことなく、まだスペと何やら会話している。

スペ、ありがと。

ほっとすると、ルソーはスペにそう視線を送った。

と、視線に気づいたのか、スペもこちらをチラッと見た。

 

ところが、そのまますぐ眼を逸らしてくれるのかと思いきや、スペは不思議そうな表情をして、

「あれ、何してるんですか?」

こちらを見たまま、思いっきり良い声でそう言った。

は⁉︎

瞬間、背中に悪寒が走った。︎

スペの行動は全部偶然だったの⁉︎

それに気づいたがもう遅い。

報道陣含めた場の全員は一斉にこちらを振り向いた。

 

「スペシャルウイーク‼︎」

突然、受付前の彼女を呼ぶ声が大きく響いた。

皆びっくりしてそちらを見ると、病棟への通路から椎菜が現れ、スペの前に来た。

「廊下にこれが落ちてたわよ。」

そう言って彼女は、持っていたニンジンを差し出した。

「あ、すみません!」

「また鞄を開けっ放しにしてたようね、注意しないと駄目よ。」

「はい…。」

スペは恥ずかそうに顔を赤くしながらそれを受け取った。

全く、と椎菜は腕を組みながら、ちらと出口の方を見た。

そこに誰もいなくなっているのを確認すると、椎菜はもと来た通路を戻っていった。

 

 

ハア…ハア…

施設の外。

椎菜の機転によって辛くも脱出することが出来たルソーとオフサイドは、そのまま遊歩道の方まで逃れ、裏の方にあるベンチまで来るとそこでようやく一息ついた。

 

「大丈夫ですか、先輩…。」

自身の脚をさすりながら、ルソーはオフサイドを見た。

「…。」

オフサイドは依然慄えたまま、地べたにうずくまっていた。

悪霊に取り憑かれたような、血の気のない真っ白な表情で。

「う…うぇ…」

不意に彼女は両膝をつき、嘔吐した。

「先輩!」

ルソーは悲痛な表情で彼女の背をさすった。

 

「はあ…はあ…」

嘔吐してから数分後、オフサイドの慄えはおさまり、彼女はゆっくりと身を上げた。

「…ごめん、もう大丈夫。…助けてくれて、ありがとう…。」

乱れた身を整えながらルソーに言うと、オフサイドは蒼白な表情を無理矢理微笑させた。

「…じゃ、またね。」

 

「待って下さい!」

ルソーは再び、去ろうしたオフサイドの腕を掴んだ。

「本当に…大丈夫なんですか?」

「…大丈夫だから。」

オフサイドはまた、ルソーの指を解いた。

「…有馬記念に出るまでは、絶対に大丈夫だから…。」

そう言うと、オフサイドはコートを羽織り、ルソーの前からよろよろと去っていった。

 

 

 

…あれ?

療養施設の『怪我人専用病棟』の最上階。

特別病室のベッド上から、窓の外の風景を眺めていたスズカは、施設を去っていく一人のウマ娘の姿を見つけ、ハッとした。

茶色のコートに栗毛、あれはオフサイド先輩の格好だわ。

だが、その後ろ姿は遠くから眺めても分かるくらい肩が落ちており、足取りもまるで病人のようだ。

オフサイド先輩があんな姿するわけない。

違う人だとスズカは思い、視線を他に向けた。

 

でも…

再び、スズカはその後ろ姿を眼をこらして眺めた。

かなり、オフサイド先輩に似てるわ。

 

と、

「ただいま戻りました!」

買い出しに行ってたスペが、元気良く病室に戻って来た。

「お帰りなさい、スペさん。」

「ドーナツ買ってきました!」

「わあ、美味しそうですね。」

「たくさん買ってきたので、お腹いっぱい食べて下さい!」

「随分買ってきましたね。1、2…5…8…15個も?」

スズカは、クスッと微笑した。

「もしかして、スペさんも食べたいのですか?」

「ううん。全部スズカさんが食べて下さい。その為に買ってきたのですから。」

「滝のように涎を垂らしてらっしゃいますが。」

「あ…えへへ、じゃあ、一緒に食べましょう!」

笑顔で言うと、スペはスズカの傍らに座り、彼女にぴったりと肩を寄せてドーナツを手に取った。

「はいスズカさん、あーん。」

「あーん。」

スズカは口を開け、スペの差し出したドーナツをパクッと頬張った。

もぐもぐ。

「美味しいですか?」

「はい!とっても美味しいです。」

「良かったです!」

スペも、残ったドーナツの欠片を頬張った。

 

もぐもぐドーナツを頬張りながら、スズカはつと窓の外を見た。

先程見えたウマ娘の姿は無くなっている。

気のせいだったようね…

スズカはそれ以上考えることなく、スペとドーナツを食べながら楽しい時間を過ごしていた。

 

 

 

一方。

施設を後にしたオフサイドは、少々ふらつきながらも無事駅前に到着し、帰りの特急電車に乗り込んだ。

そして最後尾の車両の席に座ると、そのまま死んだように眠った。

 

う…ん…

かなり時間が経った後、オフサイドは目を覚ました。

特急電車はとうに高原前の駅を発車し、いつの間にか学園最寄りの降車駅近くまできていた。

2時間くらい眠ってたみたいだ。

そのまま永遠に目覚めなければ良かったのに…

思わずそんなことを思い、オフサイドは溜息を吐いた。

 

と、ポケットに入れているスマホからメールの着信音がした。

見てみると、ゴールドからだった。

『今夜、学園駅前の〇〇店でエアデールの初勝利祝いをします。18時に駅口で待ち合わせです。故障離脱中のルソー先輩は残念ですが、他のメンバーは全員来ます。個室ですので、安心して下さい。皆待ってます!』

「…。」

オフサイドは、無表情でスマホを閉じた。

 

 

 

来てくれるかな、オフサイド先輩…

メールを送信し終えたゴールドは、祈るようにスマホの画面を見つめていた。

 



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陽陰(5)

今日は本作主人公オフサイドトラップの誕生日。



*****

 

18時前。

 

学園駅口に、6人のトレセン学園生徒のウマ娘達が集まっていた。

1年生のラスカル・フサイチエアデール・テイエムオペラオー。

2年生のダイワスペリアー・スエヒロコマンダー・ツルマルツヨシ。

彼女達は皆、諸事情で現在離脱中の『フォアマン』のチーム仲間だった。

 

「寒いねー。」

「確か天気予報だと今夜は雪が降るらしいよ。」

「マジー?」

「積もることはないみたいだけど、どちらにしろかなり寒くなるね。」

「ま、雨よりはマシですよ。雪だったら、何かお祝いしてくれてる感じもしますし。ね、エアデール。」

「そうね。」

 

6人がガヤガヤ話していると、

「お待たせー!」

3年生のゴールドが手を振りながら彼女達の前に現れた。

「えーと…みんな来てるね、よし!」

1、2年生メンバー全員が来てるのを確認すると、そのうちの一人を呼んだ。

「コマンダー、あんた皆を連れて先に店行ってて。」

「あーはい。ゴールド先輩は?」

「私はもうちょっとここで待ってる。」

「イエッサー。」

コマンダーは了解すると、メンバーを連れて駅口を出ていった。

 

来て、オフサイド先輩…。

冷たい北風が吹く中、駅口を行き交う人の群れの中で、ゴールドはオフサイドが現れるのを待っていた。

10分、20分。

ゴールドは待ち続けた。

しかし、30分近く待ってもオフサイドは現れなかった。

仕方ないか。

ゴールドは残念そうに呟くと、手早くメールを打ち、駅口を出て店へと向かった。

 

店に着き、予約していた個室に行くと、後輩共は既に注文して運ばれてきた料理をばくばく美味しそうに食べていた。

「こらー!先輩を差し置いてー!」

「あー先輩。お先に頂いてまーす。」

「“お先にー”じゃない!」

「だってお腹減ってたのでー。」

「あーそう。まあ仕方ないわね。」

ゴールドはコートを脱ぎ、真ん中の席に座った。

「乾杯はもうした?」

「乾杯はまだです。」

「じゃ、しよっか。」

メンバーは、それぞれ飲み物を注文した。

飲み物が運ばれてくると、皆はそれを手に乾杯した。

「エアデール初勝利おめでとー!」

 

「エアデール、凄い勝ち方だったねー。」

乾杯の後、チームメイト7人は料理を食べながら談笑を始めた。

「10バ身くらい差をつけての圧勝劇。観てて凄かったよ!」

「えへへ。ダントツ1番人気に推されてたから緊張したけどね。」

「そうだね。デビュー戦と同じくらい人気だったもんねー。」

「ちょっとコマンダー先輩!トラウマを掘り起こしちゃダメよ。」

「いーじゃん別に。エアデールは4戦目での初勝利でしょ?あたしなんて初勝利まで8戦もかかったんだから。あ、ラスカル醤油とって。」

「デビュー戦は誰でも緊張するからね。勝てたのはツルマル先輩くらいでしょう。」

「あはは、褒めるなよテイエム。お、ニンジンハンバーグがきたよ。切り分けるから、食べる者挙手。」

「はい!」

「お願いしまーす!」

「あたしも宜しく。」

「あれ、ニンジン苦手なゴールド先輩も食べるんすか?」

「最近はよくニンジン食べてんのよ。」

「へー、健康を重視した食意識改革ですか?」

「別に。はーい皆、今から飲み物注文するけど、他に注文したい者挙手。」

「は−い、ニンジンジュース一つ。」

「私もそれお願いします。」

「うちはニンジン茶。」

「ニンジンジンジャーエール。」

「…そんな飲み物あるの?」

「ありますよ、ほら。」

「あーほんとだ。じゃー私もニンジンジンジャーエールで!」

「私もニンジンジンジャーエール!」

「うちもニンジンジンジャーエール。」

「ニンジンジンジャーエールお願いしまーす!」

「うるせえなジンジンジンジン。」

頭がジンジンしそうだと笑いながら、ゴールドは飲み物を注文した。

 

コンコン。

飲み物を注文した後、個室をノックする音が聞こえた。

「こんばんはー!」

現れたのは、カメラを持った美久だった。

 

「美久さん!どうしてここに?」

「私が呼んだの。」

美久を席に案内しながら、ゴールドが答えた。

「エアデールの祝勝会の写真を撮ってもらうよう頼んでね。」

「そ。はい、エアデールさん笑ってー。」

美久は座ると、早速エアデールに向けてカメラを構えた。

「はっ、はい!」

「あ、私も!」

「はいポーズ。」

エアデールの両側にいるラスカル・スペリアーも身を寄せ、明るい笑顔を浮かべた。

美久は嬉しそうに、シャッターを切った。

「美久さん、私も撮って!」

「私も!」

「はいはい。」

 

…良かった。

メンバーの笑顔と、それをカメラにおさめる美久を見ながら、ゴールドは嬉しく思った。

先日、美久からチームメイトの笑顔の写真が撮れていないということを聞いた。

それは寂しいと思った彼女は、この祝勝会を企画した。

チームメイトの集いなら皆笑顔になれると思い、美久も呼んだ。

結果として、仲間達は全く翳のない楽しい明るい笑顔を見せ、美久も楽しくその姿を撮影してる。

目的は達成出来たな。

ニンジンジンジャーエールを飲みながら、ゴールドはほっと息を吐いた。

 



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陽陰(6)

 

やがて21時近くになり、祝勝会は終わった。

 

店を出ると、外は雪が降っていた。

『フォアマン』メンバーは最後に店の前で記念写真を撮って、祝勝会は解散となった。

 

「美久さん、ありがとうございました。」

後輩達を先に帰らせた後、ゴールドは美久にお礼を言った。

「こちらこそ。あなた達の笑顔を撮ることが出来て良かったわ。すぐに現像して、みんなに送るからね。」

「はい、楽しみにしてます。」

 

笑顔で答えた後、ゴールドは雪の降る空を見上げ、少し寂しそうな表情をした。

「オフサイド先輩が来れなかったのは残念でした…。」

先日、彼女が祝勝会を断った時の様子からして、それは難しいと分かっていた。

けど、やっぱり来て欲しかったな。

「オフサイドさんにも、今日の写真を沢山送るわ。」

ゴールドの表情を見て、美久は彼女の頭にそっと手を当てた。

「かけがえのない、大切な仲間であるあなた達の笑顔を見れば、オフサイドさんの心が少しでも癒されることは間違いないのだから。」

「…そうですね。」

手を乗せられたまま、ゴールドはこくりと頷いた。

いつか、また仲間全員で集まりたい。

オフサイド先輩も、そして今長期離脱中のルソー先輩も一緒になって、当たり前だった時間を過ごし、笑顔をわかちあいたい。

「必ず、きっと…」

思わず涙がこみ上げかけ、ゴールドは顔を振った。

そして顔を上げ、微笑をみせながら口を開いた。

「オフサイド先輩を、必ず…」

 

そこまで言いかけた時。

突然、ゴールドの言葉が止まった。

彼女の視線は美久の後方を凝視し、微笑は歪んだものに変わった。

 

「…?」

急変した彼女の表情を見て、美久も後ろを振り返った。

そして、彼女も表情を変えた。

…マックイーン!

10m程後方に、数人の生徒会役員と共にいるメジロマックイーンの姿があった。

 

 

「三永氏、ゴールド。」

自分の姿に気づいて表情を変えた二人の元に、マックイーンは微笑しながらゆっくりと歩み寄った。

「奇遇ですわね。こんな所で会うとは。」

「…こんばんは。」

当初は驚いていた美久だが、すぐに笑顔に戻った。

「生徒会長は、今中山からお戻りに?」

「いえ。朝日杯の表彰式に出席した後、主催者の方々との懇親会を終え、一時間ほど前にこちらに戻りましたわ。先程、ゼファー・ヘリオスと近くのレストランで夕食をとりまして、これから帰るところです。三永氏とゴールドはどちらに?」

両隣にいる役員二人を見ながら答えると、マックイーンは美久に尋ね返した。

 

「私達は」

「祝勝会の帰りです。」

美久が答えるより早く、ゴールドが先程までとはまるで違う暗い表情で前に出てきた。

「祝勝会?」

「チームメイトの初勝利祝いですよ。」

マックイーンの優雅な気品に溢れる表情を、ゴールドは普段全くみせない歪んだ笑顔で見返しながら続けた。

「バラバラにされた仲間達が久しぶりに集まることが出来ましてね。みんな、碌に笑顔にもなれない辛い日常を送ってきましたから、少しでも楽しくなれる時間がつくれて良かったです。とはいえ、ボロボロにされたオフサイド先輩はまだ来れませんでしたけどね。」

 

吐き捨てるように言うと、ゴールドはマックイーンと両隣のヤマニンゼファーとダイタクヘリオスをジロジロ見た。

「生徒会長はお仲間と一緒に優雅にディナーですか。バラバラにされた私達とは違って、実にお幸せそうですね。…オフサイド先輩を見捨てたことに対して良心の呵責が全くないことを見せつけてくれますね!流石ですよ!」

「ゴールド!」

「構いませんわ。」

側で聞いてたゼファーとヘリオスがその無礼を咎めようとしたが、マックイーンは表情を変えずにそれを制し、改めてゴールドを見た。

「一昨日風邪で早退してましたが、どうやら治ったようですね。良かったですわ。」

「とっくに治ってます。心配もしてないくせに気遣いなんてしないでください。」

不愉快を露わに答えると、ゴールドは後ろの美久を振り向いた。

「美久さん、ではまた。」

軽く頭を下げると、ゴールドはマックイーン達を押し退けるように歩き出し、駅の方へと消えていった。

 

「…。」

雪の舞う中、しばし彼女の後ろ姿を見送っていたマックイーンは、やがて美久を振り向いた。

「三永氏も、ゴールド達の祝勝会に?」

「ええ。」

ゴールドの言動にややショック受けた様子の美久だが、声をかけられるとすぐに普段の表情に戻った。

「彼女達の写真を撮りにですか。」

「はい。」

「そうですか。彼女達は、笑っていましたか?」

「ええ、凄く楽しそうでした。おかげで沢山写真が撮れました。」

美久は首に提げてるカメラを手に取り笑顔を見せた。

それは良かったです…

マックイーンも、ほっと微笑をみせた。

 

それ以上は特に何も尋ねず、数言会話を交わした後、マックイーン達と美久は別れた。

 



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陽陰(7)

*****

 

その頃、ウマ娘療養施設。

 

この日の医務を全て終えた椎菜は、コーヒーでも飲もうかと医務室を出て病棟の食堂に向かっていた。

あと30分程で消灯時間になる施設内はしんと静かで、椎菜の歩く音だけが聞こえるだけだった。

 

と、暗くなっている受付前を通った時、エレベーターが下りてくる音がした。

誰だろうと見ると、エレベーターから出てきたのはスペだった。

「スペ、まだいたの。」

「はい!」

椎菜が声をかけると、大きなリュックサックを背負ったスペは持ち前の無邪気な明るい笑顔で頷いた。

「ギリギリの時間まで、スズカさんと一緒にいたかったんです!」

「大分遅いけど大丈夫なの?」

「大丈夫です。終電の時間も調べてますし、寮長さんからもスズカさんの看護でなら帰りが遅くなってもいいと許可をもらいましたので。」

そう、と椎菜は頷いた。

「じゃ、気をつけて帰りな。鞄のチャックはちゃんと締めてる?」

「締めてますよ。ではまた。」

ペコっと挨拶すると、スペは元気よく施設を出ていった。

 

 

スペと別れた後、椎菜は食堂に着いた。

多くの電灯が消えて薄暗くなっている食堂内には誰もいない、と思ったら、隅っこの方で一人黙念とお茶を飲んでいる療養ウマ娘がいた。

ルソーだった。

 

何を思ったか、椎菜はコーヒーを用意すると、彼女の側に向かいその前に座った。

「…。」

椎菜に気づいたものの、ルソーは何も言わずに、かなり憂げな表情で一人思考に耽っていた。

 

「今日、クッケン炎で療養していた4年生と2年生の子の2人が、退学を表明したわ。」

コーヒーを飲みながら、椎菜はルソーの憂いげな表情に眼を向けつつぽつりと呟いた。

「…またですか。」

溜息を吐いて反応したルソーに、椎菜は続けた。

「4年生の子は実績があるから、なんとか引き取り先があるみたいだけど、2年生の子は実績もなく引き取り先もないから、還ることになったわ。」

椎菜は、大きく嘆息した。

 

「…最近多いですね。」

ルソーは痛ましく憂げな表情のまま言った。

「ここ一ヵ月で8人目。うち3人が還ったわ。」

「〈死神〉が、猛威をふるってますね。」

私の脚にもだけどと、ルソーは包帯を巻いている自らの片足を見た。

 

 

ウマ娘療養施設で療養生活しているウマ娘達。

そのうち、脚の病の為入居している者は100名程いるが、そのうち半分近い者が患っている病が『クッケン炎』、通称〈死神〉と呼ばれる不治の病だった。

 

クッケン炎。

ウマ娘に最も恐れられている脚の病。

これに罹ると患部が腫れ、焼けるような痛みと熱をもつようになり、レースで怪我や重傷を負う危険が非常に高くなる。

どんな頑丈なウマ娘でも罹りうる病で、重症であれば1年以上、軽症でも半年近い療養生活が必要となる。その上治療にもかなりの苦痛が伴う。

また、患部が発病前の状態に戻る例はまれであり、一旦おさまってもトレーニングやレース中に病が再発する可能性も高く、競走能力に著しい悪影響を及ぼす。

その為、この病に罹った7割のウマ娘はレースから引退(卒業・退学)する。(競走生活を終えれば再発は殆どしないので、日常生活に支障はきたさない)

こうした症状から「不治の病」ないし「ウマ娘のガン・死神」と称されているのだ。

 

 

「一時は少なくなってたのにね。」

椎菜はコーヒーを飲みながら嘆いた。

最近、クッケン炎の治療を諦める者が増えてきた理由は、病症仲間の希望が消されてしまったせいだ。

そう、長年にわたって〈死神〉と闘い続けた希望の星が、あのような目に遭ってしまったせい。

 

「あなたはよく耐えてるわね、大したものよ。」

「私はずっとここにいるから、単に治療に慣れただけです。オフサイド先輩には足元にも及びません。」

オフサイド先輩は、〈死神〉との激闘を何年にも渡って繰り広げた。

チーム仲間として、また闘病仲間としてオフサイドと長い期間密接な関係にあったルソーは、その壮絶な闘いとそれを支えた彼女の強靭な精神を誰よりも間近で目の当たりにしていた。

 

「それを、誰も知らないんですよね。」

ルソーは心底、無念そうに呟いた。

天皇賞・秋後の世間の反応や報道を見たらそれがよく分かった。

タイムだか夢だか知らないが、よくもまあ、あそこまでオフサイド先輩のウマ娘としての名誉も栄光も踏みにじれたものだ。

あんな姿にされるまで…

ルソーは思い出したくない昼間のことを思い出した。

久しぶりに会った先輩の姿…ゴールドから聞いてはいたけど、まさかあんな状態になってたとは。

 

 

「非常に深刻な状態だわ。」

椎菜もぽつりと呟いた。

「オフサイド先輩ですか?」

「オフサイドもそうだけど、クッケン炎の闘病者達が。」

天皇賞・秋の騒動の影響からか、彼女達の間で絶望的な空気が満ちはじめている。

このままじゃ、療養を諦める者が続出しかねない。

「ルソー、あなたも辛いだろうけど、どうか病症仲間を支えてあげて欲しい。」

〈死神〉の闘病者としては最古参の存在である彼女に、椎菜は心の底から願うように言った。

「…はい。」

ルソーは重たく頷き、お茶を一気に飲んだ。

 

 

 

*****

 

 

その頃。

場所は変わり、学園寮。

 

オフサイドは自部屋で、誰かに電話をかけていた。

 

「もしもし、ケンザン先輩ですか?…実はお願いが…………以上です。…宜しいでしょうか。…ありがとうございます。では明日から、そちらにお世話になります。では…失礼します。」

 

 

12月13日、有馬記念まであと14日。

 



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富士山(1)

*****

 

12月14日、月曜日。

 

ゴールドはいつものように早朝に登校し、トレーニングに励んだ。

この朝一緒にトレーニングを行った相手はスペ。

お互いスズカと密接な仲の人間として、彼女のことについて話しあった。

 

「スズカさん、かなり元気になってました!」

並んで柔軟体操をしながら、スペは土日のことをゴールドに詳しく話していた。

一緒に朝ご飯食べたこと、お薬を飲むお手伝いしたこと、一緒に本を読んだこと、お絵描きをしたこと、お昼ご飯食べたこと、差し入れのニンジンをいっぱい食べたこと、買ってきたドーナツをお腹一杯食べっこしたこと、医師の先生とリハビリに向けての相談をしたこと、夕食が美味しかったこと、今度はもっとニンジンを持ってこようと思ったことなど。

 

「お見舞いありがとね。」

食べ物関連のことばっかりじゃないかと思いつつ、ゴールドはスペにお礼を言った。

スペは天然で抜けてるところも多いが、その明るさは天性のものがあり、彼女と接していると誰でも笑顔になれるようなウマ娘だ。

スズカが快復してきたのは彼女の力が大きいと、ゴールドも認めている。

まあそれ関係なく、スズカとスペの仲はちょっと違う次元だ。

その点、私よりも彼女の方が今スズカにとって重要な存在だろうなと思う。

ま、その代わり私は、スズカの幼馴染としてスペに出来ない役割をしているけど。

 

「医師の先生によると、スズカさんは今週中にリハビリを始められるかもしれないそうです。」

「そうなの?」

「脚はまだ無理ですが、上半身の方はぼちぼち出来そうだということでした。それと、車椅子を使っての生活も始められそうだということです!」

「へぇー、ほんとに!」

ゴールドも笑顔になった。

怪我直後のどん底だった頃を思うと、信じられないくらい良い快復ぶりだ。

「復活、出来るかもしれないね。」

「“かも”ではありません。絶対復活出来ます!」

「あはは、ごめん。」

スペに咎められ、ゴールドは謝った。

内心、ゴールドだってスズカが必ず復活出来ると信じてる。

「頑張ろう、スズカ復活の為に!」

「はい!」

ゴールドとスペは、誓うように掌を合わせた。

 

 

*****

 

 

その後。

朝練の時間は終了し、学園の授業が始まった頃。

 

コンコン。

扉をノックする音を聞き、生徒会室で他の役員達と共に執務を行っていたマックイーンは顔を上げた。

「どうぞ。」

「失礼します。」

入ってきた生徒を見て、その場の誰もが驚いた。

オフサイドトラップ…

天皇賞後、彼女が生徒会室に自ら赴きにきたのは初めてだった。

 

役員達が驚く中、オフサイドはそれを気にする様子もなく、生徒会長席に歩み寄った。

「何の御用ですか?」

「生徒会長にお伝えしたいことがありまして。」

努めて平常な表情で尋ねたマックイーンに対し、オフサイドは暗い表情を伏せがちに、要件を切り出した。

 

「そうですか。」

数分後、オフサイドの要件を聞き終えたマックイーンは、優雅な威厳を湛えた表情のまま頷いた。

「クラスや寮にはそれを伝えましたか?」

「寮長とクラス担任の先生には伝えて、既に了承を得ています。会長からの許可を頂きましたら、このまま向かう予定です。」

「分かりましたわ。」

マックイーンはそれを了承するように頷いた。

「あなたが向かう先を知ってる人、緊急時の連絡先等は決められてますか?」

「それは、こちらになります。」

つと、オフサイドは懐から、それを記してあるメモをマックイーンに差し出した。

「…。」

マックイーンはそれを受け取った。

「私の他に、これを知っている人はいますか。」

「ライスシャワー先輩と、施設の渡辺椎菜先生にもお伝えする予定です。」

「ステイゴールドには伝えないのですか?」

「手紙は書いておきました。ただ詳細までは、あの子には何も伝えません。」

「そうですか…。」

メモを持ったまま、マックイーンは再度頷いた。

「では、お気をつけて。何か緊急事がありましたら、すぐにそちらに連絡します。」

「ありがとうございます。」

オフサイドは頭を下げると、重い足取りで生徒会室を出て行った。

 

オフサイドが出ていった後、マックイーンはしばらく渡されたメモを見ていた。

有馬記念はあと13日後ですね…

やがてマックイーンはそれを懐にしまうと、再び執務に取り掛かった。

 



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富士山(2)

*****

 

それから30分後。

場は変わり、喫茶店『祝福』では、ライスが開店の準備をしていた。

 

カランカラン。

開店前なのに、店の扉が開く音がした。

誰かしら?

客席を整えていたライスは不審そうに眼を向け、途端に眼を身張った。

「オフサイドさん!」

「突然失礼します、ライスさん。」

遠出用の大きなキャスター付きバッグと共に現れたオフサイドは、驚いているライスに頭を下げて挨拶した。

 

「どうしたの、こんな格好で。」

取り敢えず座席に座りコーヒーを出してから、ライスは尋ねた。

「実は、」

オフサイドは一口だけコーヒーを飲み、口を開いた。

「しばらくの間、学園を離れることにしました。」

 

「学園を離れる?」

「はい。有馬記念までの間ですが。その間は、こちらの方にいます。」

言いながら、オフサイドはマックイーンに渡したメモと同じ内容が書かれたものを渡した。

 

なるほど…

オフサイドの言葉と、そのメモの内容に眼を通したライスは、彼女の行動を大体理解したように頷いた。

「有馬記念は、出走するのね。」

「はい。生徒会長にも、その旨を伝えておきました。」

投票上位者から複数辞退者が出る以上、出走登録出来るのは間違いないだろう。

「それまで、こちらの方で一人調整すると。」

「…。」

オフサイドは黙って頷いた。

 

それから、少し俯きながら続けて言った。

「実は、このことはゴールドには話していません。」

「え?」

オフサイドは、ライス以外にこのことを伝えている二人の名を言ったあと、その理由を言った。

「ゴールドも有馬記念に出ます。彼女のレースへの集中を乱さない為にも、私への心配はさせたくないんです。」

「だったら、伝えておいた方がいいんじゃないかしら。」

「一応、学園を離れて調整するという旨の置き手紙は書いておきました。それをどこでやるかは伝えてません。」

「なるほど。でも勘のいい彼女のことだから、私にあなたの行き先を尋ねてくるかもしれないわ。その時はどうすれば良い?」

「大丈夫です。」

ライスの予測に対し、オフサイドは軽く首を振った。

「手紙に、私のことは詮索しないよう指示しておきました。ゴールドなら素直に従ってくれる筈です。」

「そう、分かったわ。」

ライスはそれ以上は尋ねず、立ち上がった。

「気をつけていってらっしゃい、オフサイドさん。」

「はい。」

 

優しく言ったライスに、オフサイドは小さく頭を下げ、『祝福』を去っていった。

 

 

そのまま、オフサイドは駅に向かった。

 

15分後、駅に着いた。

トレセンの制服姿に大きなキャスターバッグを提げている為、かなり目立つ。

「見て、あれオフサイドトラップだ。」

「大きな荷物持ってるってことは、遂に退学処分になったのかな?」

「マジで!拡散しとこ!」

周囲から様々なヒソヒソ声が聞こえたが、オフサイドは一切反応せず、無感情の表情で改札口をくぐっていった。

 

電車に乗ってからも、彼女に対しては敵意や侮蔑が含まれた視線がいくつもぶつけられていた。

半月前と比べ騒動はほぼ収まっているのだが、それでもオフサイドに対する人々の感情はあまり変わってない。

でも、どれほどの敵意をぶつけられようと、もうオフサイドは何も感じなかった。

有馬記念さえ終われば、もう苦しみから解放されるんだから…

 

 

そして、昼過ぎ。

オフサイドは、学園から遠く離れた田舎駅に着いた。

雄大な富士山が目の前に君臨する、都会の喧騒とは全く無縁の静寂な地。

 

彼女はそこからバスに乗り、富士山の麓の方へと向かった。

 

やがて、家屋も少ない山道に入った停留所で、オフサイドは降りた。

 

そこからまたしばらく歩くと、山間にある大きな公園にたどり着いた。

競走用のグラウンドだけでなく、野球・テニス・サッカーなど様々なスポーツ専用のグラウンドもあり、また遊び用の施設や遊具もある大きな広い公園。

今日は平日なので閑散としているが、休日は多くの人達で賑わいそうな場所だ。

オフサイドは荷物を持って、公園の管理室に向かった。

 

公園管理室の前。

そこに、オフサイドを待っていたウマ娘がいた。

「オフサイド。」

「先輩、お久しぶりです。」

 

オフサイドを待っていたのは、2年前に引退した『フォアマン』の先輩、鹿毛のウマ娘フジヤマケンザン。

現在、この公園の管理人を務めながら生活している。

 



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富士山(3)

 

オフサイドはケンザンと共に、管理室と隣接する彼女の自宅に上がった。

 

「しばらく、お世話になります。」

彼女専用の一室に通されたオフサイドは荷物を置くと、先輩に頭を下げて礼を言った。

「気にするな。」

ケンザンは先輩らしい笑顔で応えた。

 

昨夜、有馬記念出走を決めたオフサイドは、かつての先輩であるケンザンに電話をし、有馬記念までそちらで調整させて貰えないかと頼んでいた。

ケンザンは多くを聞くことなくそれを承諾していた。

 

「ここにある生活用品は何でも使っていい。食料や医療品が必要になったら私に言いなさい。」

「はい。」

「じゃ、私は仕事があるから。」

そう断ると、ケンザンは部屋を出ていった。

 

ケンザンが出ていった後、オフサイドは直ぐに体操服に着替え、外のグラウンドに出てトレーニングを始めた。

 

…。

公園の手入れの作業をしているケンザンは、グラウンドで一人ランニングを始めた後輩に気づき、しばらく手を止めてその様子を眺めていた。

動き、相当悪いな。

遠目からでもそれがすぐ分かった。

騒動の影響か、殆どトレーニングも出来なかった影響がもろに出ている。

ケンザンは眼を逸らし、作業を再開した。

 

 

数時間後。

夕陽が富士山の彼方に暮れた頃、オフサイドはトレーニングを終えた。

 

ケンザン宅に戻るとシャワーを浴び、部屋着に着替えた。

その後、氷水を洗面器に用意し、右足をしばらくそれに浸けていた。

それを終えると包帯を取り出し、それぞれ両脚の古傷部分に巻き付け、その上から靴下を履いた。

普段から靴下で隠してて見えないが、ここ4年以上、彼女の脚に包帯がなかった日はない。

 

脚の手当てを終えると、少しの間オフサイドはドリンクを飲んで身体を休めていた。

やがて休憩を終えると、机の前に座って鞄からノートを取り出し、何か書き物を始めた。

 

 

 

*****

 

 

 

その頃。

学園から帰ってきたゴールドは、自身の寮部屋の前に置かれていたオフサイドの手紙を読んでいた。

 

『ゴールドへ

直接伝えずごめんなさい。

私は有馬記念に出走することを決めました。その調整の為、しばらく学園から離れます。私の心配はしないで。必ず有馬記念には出走するから。あなたも私に構わず、有馬記念に向けてしっかり調整してください。』

 

有馬記念…出るのですか。

それを予想してなかったゴールドは、まずそれに驚いた。

天皇賞・秋後の騒動せいでオフサイドは殆どトレーニングは出来ていないし、それに天皇賞での激走の影響で脚部の状態はかなり厳しい筈。

例え、ファン投票で選ばれてても出走はしないだろうとゴールドは予想してた(それでもせめてファン投票では選ばれて欲しかったが)。

この有馬記念を引退レースにするつもりなのだろうか。

でもこんな状況で満足に引退レースなんて出来る訳ない。

 

だとすれば…

「優勝する気ですか。」

ゴールドは手紙をしまった。

そうだ、それ以外、出走する理由はないな。

並み居る強豪が集結する有馬記念で優勝すれば、あの天皇賞制覇を罵倒し酷評した連中達を黙らせることが出来る。

オフサイド先輩は、そこに希望を見出したのか。

「分かりました。」

ゴールドは眼を瞑り、彼女に念じた。

有馬記念で、お会いしましょう。

 

胸中、オフサイドの状態が大丈夫なのかという不安も凄く大きかった。

出来れば今すぐ先輩を探し出したかった。

だけど、ゴールドは手紙の内容を信じた。

オフサイド先輩は、必ず有馬記念に出る。

こんな状態と状況でも出走するということは、尋常でない覚悟と決意があるのだろう。

今度は負けませんよ…

チーム仲間であり、彼女を誰よりも慕っているゴールドは、勝負師の表情に変わった。

あの天皇賞の残り100m。

追いつきかけた私を再び引き離した、オフサイドの鬼気迫る走りを思い出した。

今度は、絶対に差しきって、優勝しますから。

その結果、オフサイド先輩の希望が消えたとしても…

 

「…。」

ゴールドは揺らいだ思いを消す為、首を振った。

ターフで闘う相手に対して憐憫は禁物だ。

それはウマ娘として最大の無礼だ。

そんな感情にさせない為に、先輩はこの手紙を書き残したのだろう。

全力で有馬記念に挑めるよう、集中しなければ。

 

ゴールドは胸に手を当て、心に強く誓った。

 



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富士山(4)

*****

 

夜、ケンザン宅。

 

オフサイドが書き物を始めてからしばらく経った頃、ケンザンが夕食の準備が出来たと呼びに来た。

食事は一人でとるつもりだったのだが、この日は先輩の厚意を受けることにした。

 

食事中、ケンザンとオフサイドは何言か雑談を交わした。

その内容は料理の味や、ケンザンのここでの生活とか他愛ないものが殆どだった。

ここに来た理由や脚の状態、学園のことなどはお互い一切触れなかった。

 

食後、オフサイドは夜のトレーニングをすると、再び着替えて寒夜のグラウンドに出ていった。

富士山の麓は都心に比べ格段に寒いが、オフサイドはジャケット1枚羽織っただけで特に寒そうな素振りも見せず、黙々とグラウンドを走っていた。

また寒い分、夜空も空気も都心とは異世界かと感じる位澄みきっていた。

電灯がなくとも、トレーニングをしているオフサイドの姿が星明かりだけではっきり観える位だった。

 

…。

自宅の窓から、ケンザンは後輩のトレーニングする姿をじっと眺めていた。

『有馬記念まで、そちらでしばらく生活させて頂けますか。』

オフサイドから電話でそう頼まれたのは昨夜。

突然のことだったが、ケンザンはすぐに承諾した。

2年前に引退するまで『フォアマン』のリーダーだったケンザンは、引退後もチームの後輩達の面倒をよくみていた。

なので当然、天皇賞後の騒動の際はオフサイドに会って、理不尽に追い詰められていた彼女をなんとか支えようとした。

だが力及ばず、オフサイドは心を病んでしまった。

自らの無力さを痛感したケンザンは、騒動がほぼ収まって以降はオフサイドと会わずにいた。

しかし、彼女のことはずっと心配していた。

そうした中で彼女からの頼みがきたのだ。

 

本当に苦しいだろうな…

オフサイドのトレーニングを眺めながら、ケンザンは彼女の心境を思いやった。

あの天皇賞秋優勝後、オフサイドはようやく掴んだG1の勲章を誇りに現役を勇退するつもりだった筈。

それが、価値なき優勝と酷評を浴び、更にはバッシングまで受け、勇退なんて出来る状況じゃなくなった。

四面楚歌の中、心まで失った彼女が唯一見つけ出した活路が、有馬記念なのだろう。

ゴールドと同じく、ケンザンもそう考えていた。

有馬記念で結果を出せれば、踏みにじられた誇りを取り返すことが出来る

その為に出走を決断し、調整に集中する為ここに来たのだ。

 

でも、それはあまりにも無謀過ぎる。

ケンザンは動きが良くないオフサイドを見てそう思った。

騒動の影響で殆どトレーニング出来てない上、心身も安定とは程遠い状態のままだし、懸念である脚の具合も良くなさそう。

おまけに有馬記念は距離不適正(オフサイドは2000m以下が主戦場。有馬記念は2500m)。

どこを見ても、オフサイドが勝てる要素がない。

正直、出走は止めた方が良いと思っている。

 

だけど、止められないな。

ケンザンは唇を噛んだ。

彼女は“非情で自己中なウマ娘”の烙印を押され、名誉も何もかも失ったのだ。

時間が経てばその烙印は消えるかもしれないが、天皇賞制覇の栄光の方は、称賛される未来が全く見えない。

それがオフサイドにとって一番辛いはずだ。

だから、彼女は無謀でも有馬記念制覇を狙っているのだ。

そんな悲壮な決心を、止められる筈がない。

止めたところで、現状の彼女を救える手段が他にあるのか?

ない。

例え、酷評や理不尽なバッシングした連中全てがオフサイドに謝罪したとしても無理だろう。

彼女の心には取り返しのつかない程の傷が刻みつけられのだから。

 

 

やがて、オフサイドはトレーニングを終えて戻ってきた。

 

ケンザンは彼女に温かいお茶を用意し、それを渡すと一言だけ声をかけた。

「頑張れ、オフサイド。」

「…。」

オフサイドは汗を拭い、ちょっとだけ微笑した。

窶れた表情に、僅かな明るさが見えた。

 

その後、シャワーを浴び脚の手当てを済ませたオフサイドは部屋に戻り、就寝につくまで書き物の続きを書いていた。

 



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富士山(5)

*****

 

場は変わり、喫茶店『祝福』。

この日の営業を終えた店にマックイーンが訪れ、店内の一席でライスと話をしていた。

 

内容は、オフサイドが有馬記念への調整の為しばらく学園を離れたことに関してだった。

「なんとか、誰にも行き先を知られずに目的地に行けたようです。」

マックイーンはまずそのことにほっとした様子だった。

昼間、遠出姿のオフサイドを見た人間達がその姿をツイートしてた影響で、ネット上では多くの憶測が流れているが、その目的や何処に行ったかまでは周知されていないようだ。

マックイーンも、オフサイドが悪質なファンや報道陣やらにつけられてないか心配で、ケンザン宅がある公園周辺にメジロ家の者を手配して調べさせたが、つけた者はいないということだった。

「随分と労力使われましたね。」

「生徒を守る為ですから、この位は当然ですわ。」

 

とはいえ、報道は今現在、オフサイドのことに興味はなくなっているだろうと、マックイーンは見ていた。

有馬記念で注目されるのはセイウンスカイ・メジロブライト・エアグルーヴ・グラスワンダーらといった新旧のスター達。

彼女達と比べ格下と見られているオフサイドのことは、騒動がほぼ収まっている現状殆ど注目してないだろう。

だが、天皇賞後の言動であれだけの非難(中傷)を浴びた末、ファン投票からも外されたオフサイドがそれでも出走すると知ったら、また騒ぎ立てるかもしれないが。

出走メンバーの発表は20日(日)。

問題はそれ以降だ。

 

「それと、」

マックイーンはコーヒーを飲み、別の話を切り出した。

「療養施設からの情報ですが、サイレンススズカが、有馬記念のことを知ったようです。」

「それは、ファン投票の結果のことですか。」

「ええ。」

ライスもマックイーンも、僅かに表情が険しくなった。

「詳細は知りませんが、どうやらスペシャルウイークが彼女に新聞を見せたようです。」

「スペさんが、ですか。」

「サイレンススズカがファン投票で1位だったことが嬉しくて、つい見せてしまったようですね。」

「それで、オフサイドさんがファン投票から外れたことも知ってしまったと。」

「その通りですわ。」

マックイーンは憂げに頷いた。

報告によると、スズカはそれに対して疑問には思いスペに尋ねたが、スペが良く分からないと答えるとそれ以上は深く尋ねなかったらしい。

 

「それは…良かったですね。」

ライスはほっと息を吐いた。

二人とも、スズカがかつて『フォアマン』に所属していたことは知ってる。

そして彼女が、オフサイドのことを深く慕っていることも知っていた。

ただその事実は、スズカの快進撃が始まったのが『スピカ』加入後である為であるのと、彼女がその前に何度かチームを変えていたこと(『フォアマン』→『別チーム』→『スピカ』)もあり、あまり知られていない。

また、元『フォアマン』メンバーだったことを知っていたとしても、スズカがオフサイドを慕っていることを知っている者は極めて少ないだろう。

『フォアマン』の辞め方が辞め方だったし。

 

「スズカさんが、騒動のことを知ってしまったら、どうなりますかね。」

「それも、大きな憂いですわ。」

翠眼を伏せながら、マックイーンはコーヒーのおかわりを淹れてもらった。

もしスズカが、自分の怪我が理由でオフサイドが悲惨な目に遭ったことを知ったら、罪悪感で2度と走る意欲が湧かなくなるだろう。

まだそれなら良い方かもしれない。

スズカの繊細な性格からしたら、もっと深刻な事態になる可能性だってある。

実は生徒会で、その点に関して対処を検討しているが、良い案が浮かばない。

「生徒会だけで検討を?」

「理事側からの答えは大体分かりますから。」

カップを手に、マックイーンは冷たい口調でライスの言葉に答えた。

オフサイドに非があると見ている以上、理事側は彼女に責任を取らせるつもりだろう。

「マックイーンさんは、どのような対処をお考えですか。」

ライスはカップの縁に唇をつけ、尋ねた。

 

マックイーンは、カップを卓の上に置いた。

「取り敢えず、彼女に騒動のことは決して知られないよう手は打っていますわ。」

スズカと接する者達には、騒動のことに関して絶対喋らないよう厳命を敷いている。

報道陣にもそれを要求しているので、今の所それは大丈夫だろう。

あとは、

「オフサイドトラップ次第です。」

彼女の状態が良好になるまでは、それを続けなければいけない。

オフサイドは現在、有馬記念に向けての調整に出てはいるが、果たしてどのような状態で戻って来れるか。

騒動の影響を払拭させて戻ってくれれば一番だが、…それはかなり厳しいだろう。

もし、オフサイドが立ち直れる見込みがたたなかったら…。

 

「もしかして、あの騒動を隠し通すおつもりですか?」

ライスの眼が、突然蒼芒を帯びた。

「サイレンススズカを守る為なら、それが一番良いかも知れませんわ。」

マックイーンはライスの蒼眼に全く気圧されず、翠眼でその眼を射返した。

「スズカさんを守る為なら、オフサイドさんが受けた仕打ちの全てを、闇に葬ろうとお考えに?」

「これ以上騒動の犠牲者を増やすことは、避けねばならないのです。」

 

数十秒間、二人の間に蒼と翠の眼光が激しく交錯した。

 

「…そうですか。」

ライスは蒼芒を閉じ、追及をやめた。

ただのOBの私と違い、マックイーンさんは生徒会長だ。

立場と責任が違う以上、あまり問い詰めるようなことはしたくなかった。

 

「まだ、そうすると決めた訳ではありません。」

マックイーンも翠眼を穏やかに戻した。

「オフサイドトラップのことだって、絶対に見捨てたりはしませんわ。」

額に僅かにかいた汗をハンカチで拭った。

そう、絶対に見捨てない。

もう誰にも、あの子のようになって欲しくないから…

 

マックイーンの脳裏に、年初のある記憶が蘇った。

 

 

 

*****

 

「プレクラスニー!」

 

誰もいない、夜の学園。

マックイーンは、ぐったりした銀髪のウマ娘を膝に抱き抱え、必死に呼びかけていた。

「嫌よ…嫌…クラスニー!目を覚ましてよ!…プレクラスニーッ!」

どんなに泣き叫んで呼びかけても、そのウマ娘は眼を開かなかった。

 

*****

 

 

 

「ローレルさんの件は、どうなってますか。」

ライスが、別の話題を尋ねた。

記憶を止め、マックイーンはいつもの自然な表情で、その質問に答えた。

「サクラローレルには、有馬記念にオフサイドトラップが出走するということは伝えました。ですが、彼女もまだ帰国出来る程には快復していないようです。果たして、間に合うかどうかは分かりません。」

 

答え終えると、マックイーンは窓外の遥かな夜空に眼をやった。

ライスは両掌にカップを抱えて両眼とも閉じ、それ以上は何も尋ねなかった。

 

有馬記念まで、あと13日。

 



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笑顔(1)

*****

 

12月15日。

 

早朝のウマ娘療養施設。

ルソーは、後輩の病症仲間と朝の散歩に出ていた。

 

クッケン炎を患っている仲間のうちで、ルソーは学年・実績・療養期間からしてリーダー的存在にあり、病気に苦しむ仲間が慕う存在でもあった。

今、ルソーが散歩に連れている後輩数人は、いずれも実績的には無名のウマ娘で、病気の重さと療養生活の大変さから、心身ともかなり疲弊しており、いつ諦めてもおかしくない状態にあった。

 

「本当辛いよね、こんな生活。」

寒さに覆われた高原に上がったばかりの朝陽が暖かい光を与えてくれる中、ルソーは後輩達に話しかけていた。

クッケンを患ったが最後、走ることが奪われ、いつ終わるか分からない苦痛と未来への希望が見出せない日々が始まる。

それはウマ娘にとって、地獄のような生活だ。

 

「あなた達もひょっとして、もう諦めたいとか思ってたりするのかしら?」

「…。」

後輩は首を振る者、無言で認める者といた。

無理ないよ、とルソーは後輩の心情を理解するように言った。

「私だって、クッケン炎を患った日から今日に到るまで、何度本気で諦めようと思ったかな?多分10回ぐらいは本気でそう思ったわ。」

「10回もですか?」

「誇張じゃないよ。」

驚いた後輩達に対し、ルソーはアハハと笑った。

「だってもう30ヶ月以上ここでの生活が続いてるんだよ。治療時間は合計で1000時間超えてるし、学園の敷地も競バ場のターフもずっと踏んでないし。重症だったとはいえ、1年くらいで復帰できると思ってたんだけどね。参ったよ、ほんと。」

「30ヶ月以上…」

彼女の4分の1も療養生活を送ってない後輩達は、その数字に驚愕の表情を浮かべていた。

「…どうして、諦めなかったんですか?」

「んー、」

後輩の単刀直入な質問に、ルソーは頬に指を当てて少し考え込んだ。

「なんでだと思う?」

「え?えーと、」

逆に尋ねられ、後輩達は慌てた。

「仲間が、支えてくれたからですか?」

「夢があったから…」

「治ると信じてるから…」

後輩達の返答に対し、ルソーはまあまあ当たってるわねという表情をしながら、答えた。

「歴史を創りたいからよ。」

 

「歴史を創る?」

「そ。」

怪訝な表情を浮かべた後輩達に、ルソーは眩しそうに朝陽を仰いだ。

「簡単にいえば、この地獄から生還して、レースの頂点に立ちたいの。」

クッケン炎を患ったウマ娘で、その後頂点(G1制覇)に立てた者は史上殆どいない。

それだけ、クッケン炎は恐ろしい病なのだが、ルソーはそれを逆に考え、そこに希望を見出そうとしていた。

「私達がここからG1制覇を果たすことが出来れば、もうそれだけでウマ娘史上に残る快挙よ。それを目指してるの。」

 

「…。」

笑顔のルソーと対照的に、後輩達は何とも言えない表情をしていた。

「何よ、その顔。」

「無理だと思います。」

「無理?なんで?」

「クッケン炎を患ったウマ娘がG1制覇するなんて、奇跡が三つくらい重ならないと無理だからです。…それに、例えその三重の奇跡が起きたとしても、快挙とは称えられないと思います。…オフサイド先輩みたいに。」

 

…。

ルソーは一瞬表情が険しくなったが、すぐにそれを打ち消した。

「まあ、無理だと言われたり笑われる夢だとは分かってるわ。でも私はそれを目指してる。そこに諦めない理由があるのだから。」

そう言った後、ルソーは表情の暗い後輩達に最後にこう言った。

「あなた達も、まだ諦めたくないのなら、何か一つでも理由や目標を見つけて、療養生活にあたりなさい。どんな辛い現実に直面しようと、夢や希望をもつことは絶対に自由なのだから。」

 

 

後輩達との散歩を終えたルソーは、食堂にいき朝食をとった。

 

状況は厳しいな…

一人黙々と朝食を食べながら、ルソーは病症仲間達のことを思った。

先程接した後輩達もそうだが、全体的な絶望感が深刻だ。

クッケン炎という〈死神〉もさることながら、あの天皇賞・秋の影響が大きい。

 

病症仲間の希望の星だったオフサイドトラップの天皇賞制覇。

長年の闘病を乗り越えてG1制覇を果たした彼女の快挙には、病症仲間達も沸いた。

勿論、サイレンススズカの故障があったので、あまり表に出すことは出来なかったが、誰もがオフサイドの優勝を喜んでいることは明らかだった。

あの時は、誰もが彼女後に続こうと大きな希望をもったし、クッケン炎がもたらす絶望的な雰囲気を打破しかけていた。

 

さっき、ルソーが後輩達に言った“歴史を創る”という言葉。

あれは実は、闘病生活を送っていた頃のオフサイドのが良く口にしていた言葉だ。

厳密には、“死神(クッケン炎)におかされたウマ娘でも、諦めなければ頂点にたてるという歴史を私が創る”。という言葉。

当時、その言葉を聞いた者達は、さっきの後輩と同じように無理だというか呆れて笑うかだったが、オフサイドが復帰以後重賞戦線で好成績を出し始めた頃は、誰も無理とも言わず笑いもしなくなった。

そして、オフサイドが重賞を連勝し、天皇賞・秋に挑んだ時は、誰もがその言葉の体現を祈った。

それは、クッケン炎がもたらすこの絶望しかない空間に、大きな明るい希望が欲しかったから。

 

そして、オフサイドは歴史を創った。大きな希望を、病症仲間達に与えてくれた…筈だった。

 

それが、僅か2週間程で以前以上の絶望に覆われてしまった。

天皇賞後、オフサイドを襲った酷評とバッシングの嵐。

彼女の壮絶な闘病生活なんて全く顧みられず、その苦難の末に掴んだ栄光が称賛されることもなかった。

そのことが、病症仲間達の間に新たな絶望を生み出してしまった。

即ち、“自分達はいらないウマ娘なんだ”という絶望。

 

絶望し過ぎと言われるかもしれないが、それ位、天皇賞後の騒動で仲間達が受けたショックは大きかった。

何しろ、誰よりも闘病に闘病を重ねた末に栄光を手にしたオフサイドが認められなかったのだ。

『誰を魅了する華やかなスピード・美しさ・強さをもつウマ娘のみが、この世界では必要とされる。だから、不治の病を患って理想の走りと無縁になった自分達など、価値のない存在なんだ』

スズカの怪我という不幸な要因があったとはいえ、オフサイドが否定された事実が、仲間達にそういった絶望を与えてしまった。

 

今は、私が皆を支えるしかないな。

朝食を食べ終えると、ルソーは再び散歩に出た。

実績や経験がある彼女は、今回の事に関してそこまで絶望はしてない。

オフサイド先輩が受けた仕打ちに対しては内心激怒しているが。

心理的余裕がある分、絶望に襲われている仲間達を救けなければ。

高原の澄んだ空気を感じながら、ルソーはそう胸に誓った。

 

 

と、しばらく遊歩道を歩いていると、急に施設の入り口前が騒がしくなった。

何事だろうとそちらを見ると、数名の医師に付き添われた車椅子の患者が、報道陣と一緒に表へ出て来たのが見えた。

サイレンススズカか…

ルソーはすぐに目を背け、裏の方へ去っていった。

 

 

ああ…

車椅子に乗せられながら、施設の外に出たスズカは、眼を瞑って大きく深呼吸した。

大怪我を負って以来初めて吸った外の清らかな空気とその香りに、彼女の胸は感慨で一杯になった。

もう2度と、この空気を感じることは出来ないと思ってた。

大怪我による苦痛とショック、それによる絶望…本当に辛かった。

何度、還ろうと思ったことだろう。

でも、スペさんやゴールド、トレーナーにチーム仲間、その他私を励ましてくれた学園の皆やファンの方達、医師の先生のおかげで、ここまで快復することが出来た…

 

「サイレンススズカ、今の心境を一言。」

「はい。」

記者の質問に対し、スズカは眼元を拭うと、カメラのフラッシュの中で清廉な微笑をみせた。

 

「ここまで私を支えて下さった皆様に深く感謝します。まだまだ道のりは長いですが、必ずターフに戻って、ファンの方々の夢を叶えるような走りをお見せ出来るよう頑張ります。」

 




ホッカイルソー(5年生)の現時点の実績

17戦4勝 2年生時、皐月賞4着・ダービー4着・菊花賞3着。3年生時、日経賞(G2)優勝・天皇賞・春3着。
その他 重賞2着1回3着2回 デビュー2戦目以降16戦連続4着以内


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笑顔(2)

*****

 

場所は変わり、トレセン学園。

 

朝の競走場では、ゴールドが知り合いのグラスワンダー・セイウンスカイらと共にトレーニングに励んでいた。

 

「はぁーっ!」

競走場のコースを走るゴールドの姿は、昨日までとは明らかに違っていた。

相変わらず少々斜行してはいるが、スピードにもキレにも気迫と力が漲っている。

「凄い熱の入りようだね。」

「ええ。」

ゴールドの疾走する姿に、後方を走るスカイとグラスはやや気圧されていた。

何か、彼女の中で吹っ切れたようなものを感じる。

チーム内のことで随分ご心労があったようですが、どうやらそれがなくなったようですね。

だとすると、G1に何度も手が届く手前まできている彼女の実力だ。

例え真っ直ぐ走られなくとも、有馬記念では相当手強い相手になるだろう。

「負けられません。」

グラスも、青いオーラを身体から放出し、彼女の背を追い出した。

「私だって負けないよー。」

今度の有馬記念では1番人気を争うであろうスカイも、脚元に自在な旋風を巻き起こして二人を追った。

 

 

その後、充実した朝のトレーニングを終えたゴールドは制服姿に戻り、校舎へ向かった。

そのまま教室に行く前に、彼女の足は生徒会室へと向かっていた。

本当は生徒会室など行きたくもないのだが、一応確認しなければならないことがあった。

 

「失礼します。」

生徒会室に入ると、ゴールドは他の生徒役員には目もくれずつかつかと生徒会長席の前に来た。

「おはようステイゴールド。何のご用ですか?」

「どうも生徒会長。長話は嫌なので手短かに聞きます。オフサイド先輩の事はご存知ですか?」

「勿論です。昨日、調整に行かれる前こちらに挨拶に来られましたから。」

「そうですか、あ、別に行き先とか伺うつもりはありませんから。」

そう言った後、ゴールドは会長席の机に両手をついて、マックイーンに顔をぐいっと近づけた。

「あまり期待はしてませんが、どんな妨害があろうとも、オフサイド先輩の有馬記念出走だけは、絶対に果たさせて下さいね。」

「約束しますわ。」

血気盛んな後輩生徒に対し、マックイーンは余裕ある微笑を漂わせて頷いた。

 

「じゃ…」

「待ちなさい。」

用件を終えさっさと出て行こうとするゴールドを、マックイーンはつと呼び止めた。

「今朝のニュース、見ましたか?」

「ニュース?」

特に見てませんけど、と答えると、マックイーンは続けた。

「今朝、サイレンススズカが大怪我後初めて外に出れたそうです。」

「え?」

「勿論車椅子でですが、久々に外の空気を吸えたそうですわ。」

 

「そうですか。」

仏頂面だったゴールドの表情が、みるみる明るくなった。

「あなたやスペシャルウイークが献身的に彼女を支えてくれておかげです。」

笑顔になったゴールドに、マックイーンは感謝の気持ちを込めて礼を言った。

 

 

生徒会室を出たゴールドは、教室への廊下を歩きながら早速スマホニュースを見た。

〈サイレンススズカ、奇跡の復活への第一歩!〉

トップニュースで、スズカの記事が載せられていた。

ニュース内容は彼女が天皇賞・秋以来初めて外に出れたことと、自分を支えてくれた方々への感謝の言葉が、今朝撮影された彼女の笑顔に満ちた写真と共に綴られていた。

スズカ、ここまで立ち直れたのね。

彼女の笑顔を見て、ゴールドは少し胸が詰まった。

スペ、滅茶喜んでるだろーな。

「ゴールドさーん‼︎」

そら来た。

 

スマホを見ているゴールドの後ろから、彼女の姿を見つけたスペがあっかるい笑顔で駆け寄って来た。

「ニュース、見ました?」

「今、見てるところよ。」

「良かったです!」

スペはゴールドに抱きつきながら、スマホニュースを覗き見た。

「スズカさん、笑ってますね。スズカさんらしい、清らかで優しい美しさに溢れた笑顔です。」

「そうね。この笑顔がみせれるくらいまで、元気になったのね…。」

 

大怪我を負ってから間もない頃、スズカは深い絶望とショックの闇に沈んでいた。

その姿を、ゴールドもスペも目の当たりにした。

あの時は、彼女の表情から笑顔は永遠に失われたのかとすら思う程だったけど。

やっぱり凄いな、スズカの精神力は。

でも、これは決して彼女一人の力だけでここまで快復出来たんじゃない。

 

「スペ、あなたのおかげよ。」

ゴールドは、感激でポロポロ泣き出しているスペの肩を抱き寄せた。

親友以上に特別な存在であろうスペが、スズカを誰よりも元気づけてくれた。

彼女の愛情がスズカをここまで快復させた大きな要因だと、ゴールドは思っていた。

「ぐすっ…ゴールドさんだって、無二の親友としてスズカさんを支えてくれました。麺には麺を入れるくらいの心遣いで…」

「“念には念”ね。」

少しは食べ物から離れようよと思いながら、ゴールドはスペの頬を伝う涙を指先で優しく拭ってあげた。

 



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笑顔(3)

今日はサイレンススズカの誕生日。




 

スペと別れ教室に戻ると、そこでも多くのクラスメートがスズカのニュースのことを話題にしてた。

 

「スズカのニュース見た?」

「見たよ。」

「すごいよねー。あんな大怪我したのにここまで立ち直れるなんて。」

「そりゃー、スズカは『神速のウマ娘』だもん。復活のスピードも桁が違うのよ。」

「あはは、そうだね。」

「凄いなぁスズカさん。早くまた、あの美しい走りを見たいなぁ。」

「見たいね。あの全ての人達を魅了する走りを。」

同期の間でも、スズカは非常に尊敬されているウマ娘だ。

 

「まあ、あんまり急かしちゃダメよ。」

ゴールドも、スズカの話題で盛り上がっている彼女達の輪に入った。

「過度な期待は、かえってプレッシャーになるわ。重圧をかけないように、優しく見守ること。それが一番大切よ。」

「何よゴールド。スズカが復活出来るか不安なの?」

「まさか。私は世界で2番目に、スズカが復活出来ると信じてるウマ娘よ。」

「2番目?」

「1番目はスペシャルウィーク。」

こればかりは認めざるを得ない。

「アハハ、そこまで2番手になってどうするのよ。」

そんなんだから『アカンコ』から脱却出来ないのよと揶揄われ、ゴールドはぷくっと頬を膨らませた。

「私だっていつまでも2番手に甘んじてないわよ。来年は必ずこのステイゴールドが、ターフの王者に君臨してやるんだから!」

その為に、まずは年末の有馬記念だ。

後輩も同期も先輩もみんなぶち破って優勝してやる。

そう言うと、ゴールドは席に戻った。

 

そう、有馬記念。

席に戻ったゴールドは、2週間を切った年末のグランプリに思いを馳せた。

今年、G1レースで3度も2着(その他G2やOPレースでも1回ずつ2着)に甘んじた悔しさを晴らせる最後の機会だ。

それに、もう一つ。

私が優勝すれば、解散の危機にある『フォアマン』を存続させられる可能性が高くなるんだ。

有馬記念覇者がいるチームはかなり存在感が強くなる。

そしたら、オフサイド先輩を守れるかもしれない。

あの騒動の際、理不尽な酷評とバッシングに晒された先輩を守れるだけの力が、私にはなかった。

スター達が集うこのG1を制覇出来れば、それなりの力を手に入れられる。

勿論それは権力とかじゃなく、“大レースを制したウマ娘の説得力”というものだけどね。

でもそれはもの凄く大きな力だ。

私が優勝、そして…非常に状態が厳しいと思うけど、オフサイド先輩が2着、或いは掲示板以内に入ることが出来れば、あの騒動でのバッシングも酷評も見返すことが出来る。

そうなれば、オフサイド先輩に対する世論も変わる筈。

勿論、先輩に理不尽かつ無実の汚名を着せて苦しめたことは到底許せないが、それは別として先輩の未来は拓けるだろう。

それが、ゴールドにとっての最大の望みだった。

 

本当は、有馬記念関係なしにオフサイド先輩の汚名を晴らして欲しい。

でも、世間も報道も全く意識を変えてないし、学園の生徒会・理事会も全く役立たずだ。

いくら思いがけない事態があったとはいえ、騒動の当初で学園が毅然とした態度をとってくれてれば、あそこまでオフサイド先輩がボロボロにされることはなかったわ。

世論と報道はもう論外だけど。

いくらスズカが大スターだったとはいえ、彼女だけに視線を集めて他を全く無視とはどういうことよ。

『沈黙の日曜日』なんていう悲劇感しかないフレーズをレースに名付けて、その上タイムやら何やらあらゆるタラレバの限りを持ち出して先輩の栄光を否定するなんて…

そこまでスズカへの夢が大切だったのかしら。

そういえば、JCでエルコンドルパサーが優勝した後、“エルに毎日王冠で完勝したスズカはやはり凄い”と、彼女の強さを更に評価する声が巷に溢れてた。

あれで一層、オフサイド先輩の栄光が省みられなくなった感がある。

 

頬杖をして一人思考に耽りながら、ゴールドは舌打ち混じりの溜息を吐いた。

スズカは確かに、JCを制したエルを相手に完勝したわ。

でも、だからといって天皇賞は無事に走りきってさえいれば負ける訳がなかったとかいう論評は、もういい加減にして欲しい。

ゴールすら出来なかったウマ娘がなんで…

 

「…。」

ゴールドは胸をさすりながら首を振って、それ以上の思考を止めた。

なんか、凄く苦しい感情が湧き上がってくる気がしたから。

とにかく有馬記念だ、それ一つに集中しよう。

 

ゴールドはふーと深呼吸した。

 

 

 

*****

 

 

 

同じ頃、喫茶店『祝福』。

店主用の椅子に座りながら、ライスもスズカのニュースを見ていた。

 

もう、外出出来るまで快復しましたか。

ニュースと写真を見ながら、ライスは感嘆したように呟いた。

私の時は外出ですら3ヶ月以上かかったのに凄いですね。

大怪我で引退を即断した私と、現役復活を目指した彼女との差かしら。

或いは、年齢や元来の体力の違いもあるかな。

どちらにしろ、かなり良好な快復ぶりだ。

精神面も、かなり良さそうですね。

スズカの笑顔を観て、ライスも自然と笑みが溢れた。

 

と、不意に昨日の、マックイーンとの会話を思い出した。

“もしスズカが、オフサイドが受けたバッシングを知ったらどうなるか”

…。

ライスはスマホを閉じ、眼を瞑った。

 

天皇賞後の一連の騒動。

現在、そのことはスズカに知られないよう徹底して隠していると、マックイーンは言ってた。

報道陣にも、オフサイドの話題は絶対出さないよう要求してるとも言ってた。

ただそれも、彼らがどこまで納得して守ってくれるか分からないが。

何しろ、世論の大半は、“同胞の不幸を笑ったオフサイドに非がある”という見方で一致してる状況だ。

なので止むを得ず、“オフサイドの発言を知ったスズカがショックを受けない為に”という理由で口止めを頼んでいるので、なんとか守ってくれてる状態らしい。

学園側も意見が割れてる以上、マックイーンは現在そのような苦渋の対応をしているのだろう。

 

それに…

ライスは片眼を薄く開けた。

バッシングは別として、あの偏向したレース回顧問題もある。

勝者の存在が消されたかのようなレース回顧。

あれを知ったら、スズカは罪悪感に苛まれるのは間違いない。

可能性ではなく、絶対にだ。

私が、そうなのだから。

 

「うっ…」

不意に左脚にはしった激痛とともに、3年半前の記憶がライスの脳裏に蘇った。

 

*****

 

『ああーっ⁉︎どうしたんだライスシャワー⁉︎ライスシャワー転倒‼︎…故障発生、ライスシャワーに故障発生‼︎…レースを制したのはダンツシアトルですが、第三コーナー下りで大アクシデントー‼︎…』

 

『ライスシャワーの故障が辛くて…とてもダンツシアトルを祝う気にはなれない』

『ライス先輩があのようになってしまって、素直に喜べないです…』

 

『ウマ娘史上最も見たくないレース』

『ライスシャワーの悲劇が印象強すぎて、誰も勝者を覚えていないレース』

 

*****

 

私と同じような後悔はさせたくない…

限界が近づきつつある左脚をさすりながら、ライスは心からそう思った。

 



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笑顔(4)

今日はスペシャルウィークとホッカイルソーの誕生日。



*****

 

昼過ぎ、ウマ娘療養施設。

怪我人専用病棟で療養しているウマ娘達の間でも、スズカの話題で盛り上がっていた。

 

「スズカさん、凄い快復ぶりね。」

「ニュースにはこう書いてあるわ。“奇跡の復活へ一歩前進”だって。」

「私、今朝スズカさんの姿を見ちゃったわ。」

「え、マジで!どんなんだった?」

「多くの人達に囲まれてたからよく見えなかったけど、凄く美しかった。まさに理想のウマ娘って感じだった。」

「この写真からみても笑顔が綺麗だよね。…復活して欲しいな、スズカ先輩。」

「そうね。でも、私達も頑張らないと。スズカ先輩がこんなに頑張っているんだから。」

 

病室の一つに集まって話しているウマ娘達は皆、トレーニングやレースで全治3ヶ月以上の怪我を負った面々。

中には重傷だったり、怪我が相次いだ影響で1年以上療養生活を続けている者もいる。

そんな彼女達の誰よりも重傷であるスズカがここまで頑張っていることに彼女達は感激し、そして励みにしていた。

 

「もしスズカ先輩が復活出来たら、本当に物凄いことだよね。トウカイテイオー先輩以上の快挙かな?」

「んー、そうだね。ただトウカイテイオー先輩は再起不能な程の重傷ではなかったから、スズカさんとはちょっと違うかな?」

「似てるとしたら、タニノチカラ先輩やホウヨウボーイ先輩じゃない?」

「古っ!そんな昔に遡らなくても、最近でいるじゃん。」

「え…あ、そうだ。」

サクラローレル先輩がいると気づき、そのウマ娘は頭を掻いた。

「サクラローレル先輩かー。あの先輩は凄いよね。私、先輩が復帰したレースを現地で見たけど、やばかったよ。」

「うちも!入学する直前だったけど、先輩の走りをTVで観て衝撃を受けたわ。」

「スズカ先輩も、ローレル先輩みたいに奇跡の復活出来るかな…。」

「出来るでしょ。確かスズカ先輩とローレル先輩、一時期同じチームだったんだし。」

「え、そうなの?」

「知らないの?去年の秋くらいまでは確か同チームで、ローレル先輩がいなくなった後、『フォアマン』を辞めて、しばらくした後に『スピカ』に加入した筈。」

「へー、そうなんだ。」

「スズカさんが覚醒したのが『スピカ』加入後だからあまり知られてないだろうけど、確かそうだよ。」

「なるほどね。へー、スズカ先輩はローレル先輩を慕ってたのかー。」

「そういえば、二人の走り方は何処か似ている気がするわね。『フォアマン』で彼女の走り真似したのかな…ん?」

一人が、ハッとした。

「どうしたの?」

「ということは、スズカ先輩はオフサイドトラップ先輩ともチームメイトだったってこと?」

「あ…、そういえば、そうだね。」

明るく会話していた彼女達の間に、少し微妙な雰囲気が流れた。

 

「なんか可哀想だよね、オフサイド先輩も。」

「そうね。」

怪我と病気の違いはあるが、オフサイドのことはこちらの病棟でも知る者が多かった。

「私、よく病気病棟のコとも話すんだけど、向こうじゃオフサイド先輩は凄い尊敬されてるウマ娘らしいよ。」

「私もそれ知ってる。医師の先生とかも言ってたわ。“あんな不屈のウマ娘は史上でも稀有だろう”って。」

「あんなバッシング、ないよね。」

ウマ娘療養施設の者達にも、天皇賞後の騒動のことは報道等で周知の事実になっていた。

「スズカ先輩は、あの騒動の件は知っているのかな?」

「いや、知らないでしょ。ていうか噂によるとカン口令が敷かれているみたい。」

「カン口令?」

「スズカ先輩が、それ知ったらショック受けるかもしれないからだって。スズカ先輩とオフサイド先輩の仲とかは全く分からないけど。」

「へー。もしかして、隠し通すつもりなのかな?」

 

「さあ、何とかうまくやるんじゃない?」

そう言うとそのウマ娘は、うーんと背伸びした。

「スズカ先輩は皆の夢だからね。彼女の復活を最優先で考えるでしょ。」

「オフサイド先輩は、どうなってるのかな?」

「さあ…よく知らないけど、大丈夫なんじゃない?スズカも助かったし、バッシングはあったけど、それよりも天皇賞制覇出来た喜びの方が大きいんじゃないかな。」

「そうだね。」

流石に病棟の違いや当事者ではない点からか、彼女達のオフサイドに対する推測はやや甘かった。

もし彼女達がオフサイドと同じチーム仲間だったら、或いは一昨日ここに訪れたオフサイドの姿を一目でも見ていたら(一昨日オフサイドの姿を見たウマ娘は殆どいない)、その推測が間違っていると分かっただろう。

勿論、当事者でない彼女達にはなんの非もないのだが。

 

 

そしてその頃、隣接する病気専門病棟では、オフサイドのチーム仲間であり、一昨日その彼女と会ったウマ娘が、クッケン炎の治療を受けていた。

 

「…ん…う…」

いつものように椎菜から患部の治療を受けているルソーは、歯を食いしばってその苦痛に耐えていた。

「大丈夫?」

「…大丈夫…です…」

先日まで、彼女は治療中何回かは苦痛の叫びを上げていたが、この日は言葉も殆ど発さずにじっと耐えていた。

汗を滲ませて眼を瞑っている彼女の脳裏には、昨日のオフサイドの姿と、病症仲間達の姿が浮かんでいた。

彼女達の姿を思うことで、治療の苦痛に耐え続けた。

 

治療が終わると、少し休憩ののち、二人は施設の外へ出た。

 

ルソーは椎菜と遊歩道を散歩しながら、今朝見たスズカのことを話題に出した。

「スズカ、かなり快復してるんですね。」

「ええ。怪我してからしばらくは元気がなかったけど、最近になって急速に良くなってきたわ。」

「支えてくれる人達のおかげなんでしょうね。」

「うん。特に、スペシャルウィークとストーンコールドの二人が、献身的に看護してくれてるお陰でね。」

「ステイゴールドですよ。」

彼女はバギーで乱入したり缶ビールを煽ったりしませんよと笑った。

 

「それにしても、ゴールドが献身的な看護をしてるんですか…。」

ルソーは青空を仰ぎながら、2つ後輩のチーム仲間の姿を思い浮かべた。

実は、ルソーとゴールドは学園では殆ど会ったことがない。

ゴールド(とスズカ)が入学しチームに入ったのとほぼ同時期にルソーはクッケン炎を患い、以来ずっとここでの療養生活が続いているからだ。

年末や新メンバー加入の時くらいしか学園には戻っておらず、チーム仲間と会うのはここに彼女達が見舞いに訪れた時が殆どだ。

それもそんなに頻繁ではなかったが、ゴールドは親友や仲間に対しての愛情が強いウマ娘だということは、数少ない会う機会の中でもよく分かった。

 

今回に限らず、彼女はチームが大変な時でも常に強気で、仲間達を鼓舞してた。

特に、昨年秋〜今年の春にかけてチームが非常に暗くなりそうなことが相次いだ時も、彼女は強気な姿勢を崩さず、トレーナーと共にチームを支えた。

今、このようなやるせない状況の中でも、彼女は強気を保ち続けている。

「凄いです、ゴールドは。」

闘病の身である為、あまりチームの力になれてないルソーは後輩に対して感謝していた。

それに、彼女は単に強気なだけじゃなく、精神力も相当だ。

 

「私が彼女の立場だったら、多分壊れてます。」

「壊れてる?」

「ええ、」

その台詞に反応した椎菜を見ながら、ルソーはこくりと頷いた。

「だって、スズカとオフサイド先輩の二人を支えているんですよ。心情的に相当複雑なものがある筈です。」

恐らくそこは、何も考えないようにしているのだろう。

彼女にとって、スズカもオフサイドもこの世界で最も大切な存在なのだろうから。

 

「あなたは、違うの?」

「私は…そうですね。」

椎菜の問いかけに、ルソーは心境を表情に出した。

「今朝、久々に外出が出来たスズカが、多くの人に快復を祝われている姿を見たんですけど、心から良かったと思えなかったんです。オフサイド先輩はあんな状態なのにと。」

勿論、スズカは何も悪くないし、不慮の大怪我を負った不憫なウマ娘だということも理解してるけど。

「ウマ娘失格ですね、同胞の快復を素直に喜べないなんて。」

「…。」

椎菜は、ルソーを慰めるようにポンと肩を叩いた。

ルソーとの付き合いが誰よりも長い椎菜には、その心境の苦しさが良く分かっていた。

 

でも。

「スズカが一命を取り留めた時、心の中で一番喜んだウマ娘は、多分あなたじゃないのかしら?」

「スペシャルウィークでしょう。或いはゴールドか、オフサイド先輩か。」

「いや、私はあなただと思うわ。」

 

「…。」

言葉を重ねた椎菜に対し、ルソーは何も言わず、松葉杖を持って立ち上がると、彼女を置いて施設内に戻っていった。

 

 

12月15日。有馬記念まであと12日。

 



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翌12月16日。

 

この日も、ゴールドは他チームのライバル達と共に激しいトレーニングを行った。

有馬記念へ向けて彼女の気合いの入りようは凄まじく、ライバル達もそれに触発されていた。

 

ウマ娘療養施設では、スズカがこの日も車椅子での外出をし、また近いうちにリハビリを開始することを示唆するなど、快復ぶりを見せていた。

一方でルソーはいつものように治療に励みながら、暗い病症仲間と明るい話をしたり散歩をしたりして元気づけようと頑張っていた。

 

そして、富士山麓の公園で唯一人調整に励むオフサイドは、この日も一人淡々とトレーニングをこなしていた。

動きは相変わらず悪く、傍目ではとても有馬記念までに仕上げられるとは思えなかったが、彼女はひたすらトレーニングに集中していた。

トレーニングが終わると脚の手当てを行い、夜は部屋で一人書き物をしていた。

そんな後輩の様子をケンザンは不安そうに観察していたが、彼女を信じて何も言わなかった。

 

 

 

そして、翌12月17日。

 

この〈17日〉は、『フォアマン』の仲間達にとって特別な日日だった。

 

その早朝。

 

富士山の近くにある公園の管理室と隣接するケンザン宅では、まだ夜が明ける前に、オフサイドが寒風吹き荒ぶ表へ出て来た。

昨日もかなり早朝に出てトレーニングを行っていたが、今朝は更に早い。

だが、服装はなぜか体操着ではなく制服姿だった。

と、オフサイドに続いてケンザンも家から出て来た。

2年前に卒業した彼女も、やはり制服姿だった。

 

二人は、公園内にある高い展望台へ向かった。

そこに登ると、富士山を中心に夜明け前に周囲の景色が一望出来る。

ケンザンもオフサイドも、薄らと朝陽の明かりが浮かび上がった方角を向いていた。

 

やがて、朝陽が山々の彼方から昇ってきた頃。

「先輩。」

「うん…。」

二人は目で合図をすると、朝陽に向かって瞑目するとともに、僅かに礼拝しながら手を合わせた。

脳裏に、かつてチーム仲間だった一人のウマ娘の姿を思い、そして祈るように、手を合わせて瞑目し続けていた。

 

 

 

同じ頃。

ウマ娘療養施設の屋上でも、制服姿に着替えたルソーが、朝陽の方角へ向かって手を合わせて瞑目していた。

「…うっ…ひぐっ…」

時折、瞑目している彼女の瞼からは、嗚咽と共に雫が溢れ落ちていた。

 

 

*****

 

 

夜が明けた頃、トレセン学園。

 

登校したゴールドは、この日はすぐにトレーニングには入らず、学校の裏庭の奥にある敷地へと向かっていた。

彼女の手には、ささやかな花束が握られていた。

 

学園の裏庭の、奥の敷地。

そこは普段、生徒もあまり立ち入らない場所。

何故ならその場所は、レース中の不幸や事故によりウマ娘の世界へ還った元生徒達の碑がおかれている場所だから。

 

ゴールドは敷地に入ると、その碑の前に立った。

碑に刻まれた何百人もの生徒達の名前の中に、探していたウマ娘の名を見つけると、彼女はその前に持ってきた花を供え、静かに手を合わせて瞑目した。

それを終えると、ゴールドは敷地を去っていった。

 

 

ゴールドが去った15分程後。

ゴールドと同じく花束を手にしたマックイーンが敷地に現れた。

 

あら…

敷地に入ったマックイーンは、碑の前に供えらている花に気付き、その前に刻まれている生徒の名前を見た。

そう…今日は、あの子の月命日でしたか。

だとしたら、この花を供えたのは『フォアマン』の生徒…恐らくゴールドですわね。

『フォアマン』のメンバーではないが、石碑に刻まれた生徒の名とその最期のレースを知っているマックイーンは、静かに手を合わせた。

 

その後、マックイーンは“プレクラスニー”の名が刻まれた碑の前で手を合わせ、花を供えた。

彼女はプレクラスニーが還った日から、毎日これを続けていた。

 

あのレースからも、3年近く経とうとしてるのですね。

敷地を出て校舎への道を歩きながら、マックイーンは先程見た碑の生徒の名と、そのレースでの出来事を思い返した。

あの時、既に生徒会役員だったマックイーンも現地にいた。

思い出すのも辛い程の事が、レースの最中に起きた。

当事者であった『フォアマン』の面々には、月命日にここに訪れるくらいなのだから、絶対に忘れられない悲劇なのだろう。

 

“非情で自己中・同胞の不幸を喜ぶウマ娘”…。

ふと、天皇賞後にオフサイドを誹謗中傷した言葉を思い出した。

あの言葉を投げかけた者達は、あのレースを知っているのだろうか。

あのレースで起きた悲劇と、現場にいた『フォアマン』の面々がとらざるを得なかった行動… あの中には、オフサイドもいた。

それを、知っているのだろうか。

 

 

テンポイント。

シャダイソフィア。

サザンフィーバー。

サクラスターオー。

マティリアル。

ケイエスミラクル。

グロリークロス。

ワンダーパヒューム。

ニホンピロスタディ。

オースミサンデー。

ホクトベガ。

 

また、碑に記されていた幾百ものウマ娘達。

夢・命・未来をかけて、レースに挑んだ彼女達を襲った悲劇の数々。

マックイーンも、その多くを知っている。

現地で目の当たりにしたものも幾つかある。

いずれも悲しく、忘れることの出来ない重い記憶だ。

その重い記憶の中でも、『フォアマン』のメンバーを襲ったあの悲劇は、マックイーンにとって特に悲しく、重い記憶だった。

 

あの光景を見ても、オフサイドに対して同じ言葉が吐けるだろうか。

胸苦しさと共にその重い記憶を脳裏に思い返しながら、マックイーンは思った。

 

 

12月17日。有馬記念まで、あと10日。

 







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『第3章』
神速と最珠歩(1)


*****

 

12月18日、金曜日の夕方。

 

トレセン学園は、今年最後の授業日を終えた。

 

「お疲れ様でしたー!」

放課後、2年生の教室を勢いよく飛び出したスペシャルウィークは、一直線に『スピカ』部室へと向かっていた。

部室には、おっきな遠出用のリュックが置いてある。

彼女はこのままウマ娘療養施設へ向かい、しばらく泊まりがけてスズカの看護を行う予定だ。

 

リュックを背負って部室を出ると、トレーニング中のゴールドと会った。

「おうスペ。もう行くのか?」

大きなリュックを見て、何処に行くか分かったらしい。

「はい!ゴールドさんは?」

「私は明日に行く予定だから、スズカに宜しく。」

「了解です!」

スペはあっかるく頷くと、元気よく駆け出していった。

 

駅前でお見舞い品を沢山買うと、スペは高原に向かう特急電車に乗り込んだ。

 

 

スズカさん元気かなー。

電車の中でお見舞いに買った品をもぐもぐ食べながら、スペはスマホの待ち受け画面にしているスズカの写真を見入っていた。

天皇賞で怪我して以降、会える時間はあまり多くなかったけど、今日からはしばらく一緒にいられるね。

もぐもぐしている表情を綻ばせ、ぎゅっとスマホを胸に抱き締めた。

 

 

サイレンススズカとスペシャルウィーク。

学年が1つ違うこの二人は、昨年末に初めて出会った。

ただ、スペは出会う前からスズカの走りと美しさに魅了されていた。

 

スペがスズカの走りを初めてみたのは、昨年の天皇賞・秋。

当時スズカは他チームに所属しており、まだ走りが安定していない時期だった。

このレースで彼女は、並み居る先輩達を相手に道中10バ身以上引き離す大逃げを敢行。

最後はとらえられ6着に敗退したが、場内を大いに盛り上げた。

 

当時1年生だったスペも、その盛り上がった1人だった。

だが、それだけではなかった。

レース前半、唯一人ターフを疾走していくスズカの姿を観た時、不思議なことに彼女は全身に電気が走るような衝撃を受けたのだ。

 

それ以後、スペはスズカから目が離せなくなった。

スズカが大勝と大敗を繰り返していた過去のレースも観た。

うっかりゲートを潜ってしまい困っていた弥生賞も観た。

大暴走して大惨敗したマイルCSも観ていた。

優れたスピードはもってたものの、内容が不安定なうえ実績もそんな目立ったわけでない彼女に何故そこまで惹かれたのか、スペにもよく分からなかった。

 

そして年末。

スズカが所属チームを辞め、『スピカ』に加入するという話を聞き、スペはものすごくビックリした。

トレーナーがもともとスズカの素質に眼をつけていたこともあり、彼女は間もなく正式に加入、スペ達とチーム仲間になった。

 

そして年明けから、スズカの快進撃は始まった。

トレーナーの優れた指導と本人の素質&精神の成熟によって磨き上げられた、観ている全ての者を魅了する美しいフォームと異次元のスピード。

破竹の連戦連勝で重賞3連勝、宝塚記念も制し、更には最強次世代2人との対決も圧勝。

彼女は彗星のようにウマ娘界の頂点と駆け上がっていった。

 

スズカがターフで輝き出す中、スペも負けじと奮戦した。

スペだって、1年生の時から世代一の大器と呼び声が高かった有望生徒。

クラシックでは皐月賞こそ3着だったが、続くダービーでは後続に5バ身差つける圧勝。

世代最強と言われるようになった。

 

共にターフで大活躍する中、二人の仲も次第に親密になっていった。

もともとスズカに惹かれていたスペに対し、スズカも加入した時からスペの実力やその天然な明るさを愛していた。

なのですぐ、二人は親友になった。

スズカの素質が開花したのはトレーナーの指導もさることながら、スペの存在も大きかったかもしれない。

彼女の邪っ気が全くないウマ娘性が、精神不安定に悩んでいたスズカにとって大きな心の安らぎになってたから。

スペも、スズカとチーム仲間になってから以前より一層彼女に惹かれるようになった。

単に強さや美しさだけでなく、清廉で静謐な優しさと癒しに満ち溢れたウマ娘性に。

そうした日々を重ねていくうち、二人は段々と親友以上の仲になっていた。

 

 

そして、あの天皇賞・秋。

 

チーム仲間として現地で応援していたスペは、スズカがどれだけ美しい走りを魅せてくれるのか楽しみにしていた。

最高のスタートをきり、1000mをかつてないスピードで通過した時は、これ以上ない位心が躍った。

あの時ほど、スズカの姿が美しく映った時はなかった。

 

だけど…スズカの姿が大欅を過ぎた次の瞬間、スペの眼に映ったのは、全く想像してなかった、この世界で最もおそろしい光景だった。

 

あの時、スペは無我夢中でコースに飛び入り、故障したスズカのもとへ走った。

現場に駆けつけた時、ターフ上で意識を失い俯せに倒れていた彼女の姿と、故障した左脚の深刻な腫れを見た瞬間、普段は一点の曇りもないスペの脳裏にすら、最悪のことが頭によぎった。

スズカさんが終わった…

全身の力が底なしの闇穴に吸い込まれていくような感覚の中、スペはぐったりしたスズカに縋りついて泣き叫んだ。

力を失った手を握って、血色のない頬に触れて、何度も何度も愛する彼女の名を呼んだ。

でも、スズカは答えなかった。

 

その後、スズカが救急車に乗せられ病院に搬送されてる間も、病院で精密検査がされてる間も、スペはスズカの手を握りしめて必死に彼女へ呼びかけ続けた。

治療不能・再起不能・安楽死。

悪夢のような言葉が何度も耳に入ったが、スペはスズカが緊急治療室に運び込まれるまで、ただひたすらそうし続けた。

 

そして数日後。

生死の境を彷徨った末、スズカは一命を取り留めたという報告を聞いた時、スペは大泣きした。

良かった、本当に良かった…

またスズカの走りが見れるとか、ターフに戻って来て欲しいとかそんな思いはなく、ただスズカが助かったことが嬉しかった。

もうスペにとって、スズカは『神速のウマ娘』なだけでなく、『ウマ娘のサイレンススズカ』でもあったから。

 

その吉報から一週間程経った頃、スペは生徒会からの頼みを受け、スズカの無二の親友であるゴールドと共に、療養施設にいるスズカの見舞いに行った。

そこで目の当たりにしたスズカの姿は、奈落に取り憑かれているように真っ暗だった。

怪我の苦痛もさることながら、走りを失ったという絶望感が彼女の心を浸していた。

彼女の心を察したスペは(ゴールドもだが)、スズカに再び希望を持たせようと精一杯彼女を励まし続けた。

トレーニング中を除いて、スズカを快復させる事以外一切何も考えなかった。

何か学園では天皇賞の勝者のウマ娘のことで騒がしいことが起きてたが、一切気にしなかった。

 

 

そして今、スズカさんはここまで快復することが出来た…

感激で、嬉し過ぎて、涙が出るのがどうしても耐えられないなと、スペはスマホを抱きしめながら頬を拭った。

勿論、彼女の復活への道のりはまだまだ長い。

でも、笑ってさえいれば、明るいことを忘れさえしなければ、その時は必ず訪れるとスペは信じてる。

あの『沈黙の日曜日』を越えて、『栄光の日曜日』を駆け抜ける日も遠くないと。

いや、それよりスペが内心で最も望んでいることは、ただ二人で手を繋いで歩くこと。

それだけかもしれないけど。

 



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神速と最珠歩(2)

 

やがて夜になった頃、特急電車は高原前に着いた。

スペはいつのまにか減っていたお見舞いの品の量に首を傾げながら、療養施設へと向かった。

 

療養施設に着くと、一目散に最上階の特別病室へと向かった。

 

「スズカさんこんばんはー!」

病室に入ると、スズカは丁度夕食を食べていた。

「こんばんは、スペさん。」

わあー。

スズカの笑顔を見ただけで、スペの胸は幸せな気持ちで一杯になった。

思わず抱きつきたくなる衝動を抑え、スペはスズカの傍に腰を下ろした。

 

「夕食中だったんですね。」

「ええ。スペさんはご夕食は食べられましたか?」

「食べてないです。でも、何故か不思議とそんなにお腹空いていないんです。」

「…そうですか。」

不思議そうな表情のスペを見て、スズカはクスッと微笑った。

いつものことだけど、多分お見舞いの品を途中で食べてしまったのですね。

「うー、でもスズカさんがご飯食べてるの見たら、なんだかお腹が減って来ました。」

ちょっと夕食買ってきますと、スペは立ち上がった。

「今日はニンジンは持ってないのですか?」

「はい。ニンジンは鞄には入りきらないので、これからは宅配で届けてもらうことにしたんです!」

「宅配便ですか?」

「明日の朝、10箱千本分がここに届くよう頼んで起きました!」

呆気に取られているスズカに対し、涎を垂らしながらそう言うとスペは病室を出ていった。

 

療養施設の食堂でニンジン定食弁当(5人前)を買うと、スペはすぐに特別病室へ戻り出した。

と、エレベーターを待っている途中、

「あら、スペシャルウィークじゃない。」

松葉杖をついた見知らぬ患者ウマ娘に声をかけられた。

「えーと…どなたですか?」

「アハハ、知らないの。」

まあそうだよねと笑いながら、そのウマ娘は自己紹介した。

「私、ホッカイルソーていうの。」

「ホッカイルソーさん、ですか。」

「ゴールドと同じ『フォアマン』のチーム仲間よ。」

「あ、ゴールドさんのチーム仲間ですか。」

彼女の名を聞くと、スペはぱあっと笑顔になった。

「あなたが彼女とよくトレーニングしてくれてると聞いてるわ。ありがとね、」

「そんな…私こそ、ゴールドさんみたいな強い先輩とトレーニング出来て感謝です。」

スペはペコっと頭を下げた。

「今晩は、スズカのお見舞いかい?」

「はい、しばらくの間、ここでスズカさんの看護をさせて頂く予定です!」

「はは、そうか。」

スズカの名を口にした時のスペの幸せそうな笑顔を見て、ルソーは何か思うような温かい笑顔を返した。

やがてエレベーターが来て、二人は別れた。

 

病室に戻ったスペは、スズカの隣に座って買ってきたニンジン定食弁当を食べていた。

先に夕食を食べ終えたスズカは、パクパクと勢いよく箸を進めるスペを微笑しながら見つめている。

ちょっとお腹が空いただけで5人前を食べるとは、流石は学年1大食いのスペさんだ。

食量が多いウマ娘は沢山いるし、その理由は『レースに向けて体力・体格をつける為に食べてる』というのが殆どだけど、スペさんの場合は『食べるのが大好きだから食べてる』という気がする。

彼女のそんな子供のように純心なところも、スズカは好きだ。

でも純心なだけでなく、スペは既にスターと言われている実力の持ち主。

来年は恐らく彼女がターフの中心に君臨するだろう思っている。

 

スペさんと、いつかターフで闘いたい。

つと、スズカは思った。

この左脚を必ず治して…走りを取り戻して。

スズカにとってスペは、チーム仲間そして親友以上の存在であるだけでなく、ターフへの復活を目指す大きな理由である存在だった。

 

やがて、スペはお弁当を綺麗に食べ終え、片付けを終えると再びスズカの側に座った。

「ご本、読みませんか?」

そう言いながら、鞄から持参してきた本を何冊か取り出した。

「ありがとうございます。でも、今は良いです。」

受け取った本を傍らの傍らに置き、スズカは少し頬を紅くしてスペを見つめた。

「今はただ…スペさんの手を握っていたいです。」

 

「…はい!」

スペは嬉しそうに頷き、ずいっとスズカに身を寄せた。

「スズカさん。」

「スペさん。」

二人は肩を寄せあい、手と手を握った。

お互いの想いを繋ぎ合わせるように、固く固く握りあった。

 

 

 

一方。

スペと別れた後、ルソーは食堂で夕食を食べながら先程のスペの笑顔を思い出した。

 

…いい笑顔だったな。

あの幸せな笑顔はどういうものか、私もよく知ってる。

親友以上の想いがこもった笑顔だ。

天然快活で元気いっぱいな生徒のスペと清廉静謐で模範的な生徒になったスズカとは、中々いいコンビじゃない。

 

最近暗いことばかりだったルソーの心に、ちょっとだけ温かい灯りができていた。

 







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神速と最珠歩(3)

 

*****

 

場所は変わり、メジロ家。

 

執務を終え学園から帰ってきたマックイーンは、ウマ娘療養施設・富士山麓の公園・その他報道など各所に派遣した使いの者達と連絡を取り、情報を収集していた。

 

療養施設のスズカは特に変わりなし。

夜にはスペが訪れ、しばらくスズカの看護にあたるらしいとのことだった。

先日ちょっと危なかったから、スペに報道資料は持ち込まないよう約束させ、彼女も承諾したので一応懸念材料はない。

 

富士山麓の公園は、今日もその周辺に不審な者は現れなかったとの報告だった。

公園に訪れた一般人はまあまあいたようだが、オフサイドは人が多い時は外に出なかったようで、彼女の姿を見た者はいないとのことだった。

まあ、田舎なのでオフサイドの姿を見てもウマ娘と気づくだけで誰かまでは分からないだろうから、そちらも心配はいらないだろう。

 

報道の使いの者には、有馬記念出走希望のメンバーが知られてないか尋ねた。

オフサイドも含めて、出走メンバーの情報は知られていないとのことだった。

よし。

一番懸念していたことが無事だと分かり、マックイーンはほっとした。

 

使いの者全員との連絡を終えると、マックイーンは一息吐いて椅子にもたれた。

明日、有馬記念出走希望者が選定され、出走メンバーが全員決まる。

生徒会では既に選定を終えており、あとは理事会の承認をもらうだけだ。

 

問題はそこからだ。

間違いなく、選定メンバーにオフサイドトラップが入っていることが問題になるだろう。

多分、理事会側は彼女の出走に異議を唱えるだろう。

でもここは、なにが何でも押し切る構えだ。

 

どんなに反対されようと、オフサイドは今年、天皇賞・秋を制しただけでなく、七夕賞・新潟記念(共にG3)を制した実績がある。

今年の成績だけで言えばOP、G3、G1で7戦3勝2着3回3着1回。

希望メンバーの中では頭一つ抜けている。

例え天皇賞・秋を否定されようとも、彼女を除外させることは難しい。

騒動のことを蒸し返してくる可能性だってあるだろうが、事が荒立つのを好まない理事側がそれをするのは考えにくい。

恐らく押し切れるだろう。

 

出走さえ決まれば、彼女の出走を約束した私の最低限の責任は果たせたことになる。

さすれば、後の問題にはいくらでも対処出来る。

後の問題とは、オフサイド出走に対する報道や世間の反応だ。

それに対しては、その状況を見極め、適切に行動すれば良い。

オフサイドの出走メンバー入りまでは漕ぎつけられたのだから。

 

マックイーンが恐れていたのは、オフサイドが出走を希望したことが発表前に彼らに知られてしまい、選定前に騒ぎ立てられることだった。

だがそれは免れた。

 

闘いはこれからですわね…

マックイーンはフッと息を払い、唇を引き締めた。

オフサイドの問題もあるが、スズカのこともある。

彼女の周辺が騒がしくならないよう、療養施設に報道規制を敷くことも考えねば。

 

そして、富士山麓にいるオフサイドにも。

現在彼女と居るケンザンとも連絡をとって、彼女の身を守ってやらないと。

 

とにかく一番大切なのは、これ以上不幸の犠牲者は出さないことですね。

状況を見据え適切に行動し、学園そして生徒達を守ることが重要です。

それが、生徒会長の義務ですわ。

ゆったりと椅子にもたれてつつ、心でそう思いながら、やがてマックイーンは眼を瞑った。

 

 

 

銀髪のウマ娘が目の前に立っていた。

輝きのない眼で、マックイーンを見つめていた。

…プレクラスニー?

マックイーンは、怯えたように後退りした。

銀髪のウマ娘は、音もなく近づいてきた。

やめて…そんな眼で私を見ないで…

怯えたマックイーンの眼から全く視線を離さないまま、彼女のすぐ側に近づいた銀髪のウマ娘は、突然マックイーンの胸に冷たい手を当てた。

ドクン…ドクン…

心臓の音と共に、自分の心を握られた感覚がした。

離して!…嫌だ!

ウマ娘の手を引き離そうとしても、その手はいつのまにかマックイーンの胸に溶けたように融合し、ズルズルと心を引きずり出そうとしていた。

嫌…やめてっ!

心が彼女に暴かれていく…自分の心が見透かされていく。

輝きのないウマ娘の眼から、ポロポロと涙が溢れ出した。

違うの…違うのよっ!

ウマ娘の涙を見て、マックイーンは懸命に叫んだ。

私はオフサイドのことを見捨てない!あの子の未来を思ってる!あなたのような悲劇は、もう起きて欲しくないの…だから…私は…

 

 

 

「はっ…。」

マックイーンはガバッと身を起こした。

胸に手を当てると、トクントクンと心臓の音がした。

夢…でしたか。

椅子に座ったまま眠っていた自分に気づき、マックイーンはほっとした。

使いの者にお茶を頼むと、深呼吸して心を落ち着かせながら、静かに汗を拭った。

 

 

12月18日。有馬記念まで、あと9日。

 



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検索(1)

*****

 

12月19日。

 

早朝のまだ暗い時間帯、トレセン学園の競走場では、ゴールドが一人でトレーニングを行っていた。

 

5日前にオフサイドから手紙を貰って以後、彼女のトレーニングは他のライバル達もおされる程の気合いが入っていた。

有馬記念出走メンバーの中で彼女は特に目立った実績はない(2着の数はダントツ)が、その分優勝への執念は非常に強い。

それに加えチーム・先輩を守りたいという思いが、彼女の闘志をより高めていた。

 

 

その後、ゴールドは午前中にトレーニングを終え、学園を後にした。

この日は、療養施設へいく予定だったから。

 

学園からそのまま療養施設へ向かったゴールドは、高原前の駅に着くとそこでお見舞いとして肉饅を15個買い、療養施設へと向かった。

 

昼過ぎに療養施設に着き、最上階の特別病室に行くと、スズカが午後の検査を受けているところだった。

病室にはスペもいた。

「やっほー!」

「あ、ゴールド。」

病室に現れたゴールドを見ると、スズカはぱあっと明るい笑顔を見せた。

「ゴールドさんこんにちは!」

室内の隅っこで大人しく検査を見守っていたスぺも元気に挨拶してきた。

「やあスペ、はいこれお土産。」

「わー!ありがとうございまーす。」

ホカホカの肉饅を見て涎垂らして喜んだスペに2個くらい残しといてと頼みながら、ゴールドはスズカを見た。

「今検査始まったところ?」

「ううん、もうすぐ終わるわ。」

無二の親友にしか見せない陽気な笑顔と口調で、スズカは答えた。

了解と、ゴールドはスペの隣で検査が終わるのを待った。

と、室内の向こうの隅に大きな段ボール箱が10箱ぐらい重なっているのに気づいた。

…ニンジンだな。

産地直送と書かれている文字を見て苦笑した。

 

10分後、スズカの検査は終わった。

医師が出ていった後、三人は側に集まってゴールドが買ってきた肉饅を一緒に食べた。

既にスペは半分以上食べ終えていたが。

 

「美味しいです!」

10個目の肉饅を頬張りながら、スペは大満足の笑顔を浮かべていた。

「美味しいんだったら、もう少し味わって食べなさいよ。水を飲むような勢いで食べちゃって全く…。」

「だって美味しいんですもの。モグモグ。それにあったかい内に食べたいですしー。」

「うふふ。スペさん、顔に欠片がついてますよ。」

「え、どこですか?」

「とってあげます。」

スズカは腕を伸ばして、スペの頬についた肉饅の欠片を指先でとってあげ、それをペロっと口にした。

スペは思わず顔が紅くなり、スズカは清廉な表情でにっこりした。

 

めっちゃ濃くなってんじゃん…

ゴールドは吹き出しそうなのを堪え、目を逸らして淡々と肉饅を食べた。

元々、この二人が親友以上の関係なのは知っていたが、最近それが更に深まったようだ。

まあそうだよね。

スズカが大怪我負ってから、スペは彼女の為にほんと献身したもんね。

そのお陰でスズカが立ち直れてきたのだから、仲が深まるのも当然だ。

良いことじゃん。

ゴールドは揶揄いたくなるのを堪えつつ、二人の様子を見ながら時折微笑していた。

 

やがて、三人とも肉饅を食べ終えた(ゴールド1個・スズカ0.5個・スペ13.5個)。

少し休憩の後、三人は散歩に出ることにした。

 

 

「良い天気ですね。」

施設の遊歩道。

スズカを乗せた車椅子を押しながら、スペは青空を見上げた。

素晴らしい冬晴れで、癒しの粒を散りばめた空気が高原一面に満ち溢れていた。

療養施設に相応しい場所だと、その空気を感じて思う。

「何か、昔を思い出すね。」

「うん。」

車椅子の傍らで歩いてるゴールドの言葉に、スズカはこくんと頷いた。

二人が学園入学前に通ってたジュニアスクールも、このような高原地帯にあった。

懐かしい…。

「スズカさんとゴールドさん、どれくらい前から親友なんですか?」

二人のやり取りを聞き、スペが尋ねた。

「えーと、ジュニアスクールにも2年くらい通ってたから、その頃からね。」

つまり、かなり幼い頃からだ。

「はー。何か、当時の思い出話とかあります?」

「思い出話か。…そうね、」

ゴールドは腕を組んだ。

「実はね…私も随分だったけど、スズカも当時は凄いヤンチャだったのよ。ジュニアスクールでも授業をよくサボってた。」

「ちょ、ゴールド!」

「えー、そうなんですか?」

「面白いのはね、スズカはサボって何してるのかと思えば、ただ外を走ってるのよ。」

ゴールドは思い出しながら笑った。

授業に連れ戻そうとする先生と逃げるスズカの追いかけっこは、スクールでは日常茶飯事の光景だった。

当時からスズカはスピードが優れていて、逃げるのが上手かった。

「おまけに身体が柔軟だからねー。ほんとすばしっこかったわー。」

私もよくサボって先生に追っかけられたけど、スズカと違い上手く真っ直ぐ走れないから、大体はあちこちにぶつかりまくった末に捕まってた。

「まあ、私はただの悪ガキだったけど、スズカは結構素直だったし可愛かったし癒し系なところもあったから、みんなから愛されてたよ。ちょっとスペと似てるかも。」

「え、本当ですか!」

「大食いではないけどね。」

「もー…やめてよゴールドー。」

スズカは恥ずかしそうに頬に両掌を当てていた。

 

「いいですね…。」

二人の思い出話を聞いて、スペは楽しそうに笑った。

スズカさん、昔はそんなんだったんだ。

だとしたら、あの弥生賞でのゲート潜りは逃げ回っていた頃の癖が出ちゃったのかな。

それにしても…。

ニヤニヤ悪戯っぽい笑顔のゴールドと、ちょっと頬を膨らませているスズカを交互に見た。

普段は癒しの神様みたいなスズカさんでも、こんな表情を見せれる親友がいるんだ。

ゴールドさんが、学園でももっと身近な存在になってくれたら、スズカさんの為にも凄く良いはず。

「ねえ、ゴールドさん。」

「なにスペ。」

「前にもお誘いましたけど、ゴールドさんやっぱり、『スピカ』に入りませんか?」

以前から何度か思っていたことを再び思い返したスペは、笑顔でゴールドに言った。

 

「は?」

「?」

スペの言葉を聞いてゴールドは硬直し、スズカは目を見開いて驚いた。

 

驚いてるスズカに、スペは笑顔のまま説明した。

「ゴールドさんが所属している『フォアマン』チーム、近々解散されるらしいんです。」

「え?」

「私も詳しくは知らないんですけど、何か色々あったみたいです。トレーナーさんも辞められてましたし。」

「…それ、本当なの?」

スズカは驚きの表情のまま、ゴールドを見上げて尋ねた。

 

「アハハ、そんな訳ないじゃん!ただの噂よ。」

スズカの尋ねに、ゴールドは快活に笑いながら答えた。

「噂?」

「トレーナーが退職したのは事実だけどね。それだけで根も葉もない噂が流れてるだけよ。」

そう言うと、ゴールドはスペを見た。

「スペも、そんな下らない噂を迂闊に信じちゃダメよ。」

「え、でも」

 

「スペ。」

戸惑った様子でまだ何か言おうとしたスペに、ゴールドは釘を刺すような口調で続けた。

「はっきり言っておくわ。例え、何かあってどうしようもなくなった結果『フォアマン』が解散に追い込まれたとしても、私は『スピカ』にもどこのチームにも行かない。その時は、私も『フォアマン』と一緒に消えるわ。」

 

寒風が三人を吹きつけた。

いつの間にか太陽に雲がかかって、高原一帯が薄暗くなっていた。

 



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検索(2)

 

時間は経ち、夜。

療養施設の食堂では、スペとゴールドが夕食を買っていた。

 

「ゴールドさん、ごめんなさい。」

夕食を買って病室に戻る間、スペはゴールドに謝った。

昼過ぎ、三人で散歩に出た時に、不用意な質問をしたせいで彼女を怒らせてしまった。

そのことを謝罪した。

「気にしないで。」

ゴールドは気さくな笑顔で応えた。

スペに悪意がないことは分かっていたし。

それに否定したものの、彼女が言ってたことは理不尽だが半分事実なのだ。

とはいえ、配慮が足りなかったことは否めない。

「スズカ、かなりびっくりしてたからね。私はいいけど、彼女にはショックを与えないように気をつけないと。」

「はい。」

スペはこくりと神妙に頷いた。

 

 

病室に戻ると、二人はスズカと一緒に夕食を食べた。

 

夕食後、ゴールドは帰る前に、スズカと屋上で二人きりで話したいと頼んだ。

スズカもスペも承諾し、二人は病室を出た。

 

療養施設の屋上に出ると、そこは幾つかベンチがあるだけで、他は何もないがらんとした場所だった。

「怖。柵もないんだ。」

「ほんとだ。でも、その分景色が綺麗だわ。」

柵がないので、一面に無限の星々が煌めく夜景が広がっていた。

「本当、綺麗だね。」

スズカもゴールドも、しばらくその絶景に見惚れていた。

 

「ねえゴールド、」

夜景を眺めながら、スズカが口を開いた。

「昼間のあの話って、何なの?」

あの話とは、スペが言ってた『フォアマン』解散のこと。

ゴールドがそれをただの噂だと一笑したのでそれ以上会話に出ることはなかったが、スズカの胸にはそのことがずっと突っかかっていた。

「何でもないよ。スペの早とちりさ。」

聞かれることが分かっていたゴールドは、昼間と同じように答えた。

「まあ、どんな時でも良くない噂や憶測を流す連中はいるからね。スズカも経験したでしょ?」

「そうね。」

スズカは少し重たく頷いた。

彼女も年明けからの怒涛の快進撃で連戦連勝を重ねていたが、内容に関してコースがとか相手がどうこうとかの指摘を受け、中々実力を認めてもらえなかった経験がある。

まあそれは極一部の中の極一部で、殆どの者達は彼女を評価していたし、彼女自身もレースの結果と内容でその期待に応え、低評価を覆してきた。

「それと同じようなものよ。だから心配しないで。」

「分かったわ。」

スズカは納得したように微笑した。

 

「でも、『フォアマンが消えたら私も消える』とか、言わないでね。」

スズカは、それがちょっとショックだったらしい。

「アハハ、ごめんね。自分としては、チームへの愛情を正直に表現したつもりだったんだけど。」

「ゴールドらしい表現とは思ったけど、一瞬ドキってしちゃったわ。『消える』なんて言うから。」

「ごめんよごめん。」

ゴールドは車椅子の傍らにしゃがみこんで、申し訳なさそうに無二の親友の手を握った。

「でも私にとっては、それ位『フォアマン』のことが大切なの。スズカも分かるでしょ?」

「うん。」

言われるまでもなく、それはよく分かってるよとスズカは頷いた。

「私が『フォアマン』を辞める時、大変だったからね。」

 

 

昨年秋。

当時まだ『フォアマン』に所属していたスズカは、レースの成績&内容の不安定に苦しんでいた。

その悩みから、トレーナーの指導に対して反発することも多かった。

おまけに当時、チーム内では悪いことが相次いでおり、その状況も繊細なスズカを一層悩ませていた。

そんな状態で出走した神戸新聞杯で、スズカは実にまずい負け方をした。

その敗北を受け、彼女は遂にチーム脱退を決意した。

 

 

「そうね。」

スズカの言葉に、ゴールドは当時を思い出した。

あの頃、チーム状況は本当に大変だった。

先輩達に故障や引退が相次ぎ、1年生以外でまともに活動出来てたのはゴールドとスズカくらいだった。

だけど、負けず嫌いのゴールドは、そんな状況でもチームを引っ張ろうと意気込んでいた。

頑張っていれば必ず状況は変わる、絶対に報われないことはないと。

だから尚更、スズカの脱退を聞いた時はショックだった。

親友である自分にすら事前になんの相談もなかったし、突然のことだったから。

 

「あの時は滅茶喧嘩したね。」

「うん。」

ゴールドとスズカが喧嘩したのは、幼い頃にプリン争奪戦をした時と、一緒に授業サボって逃げてる時に斜行した彼女とぶつかって二人仲良く捕まった時と、その時の3回だけだ。

「ゴールド、物凄く怒ってたね、『チームが大変な時に辞めるなんて‼︎』って。」

「覚えてるわ。」

スズカがいなくなるショックもさることながら、更に怒りまで沸いた理由は、彼女が苦しいチーム状況から自分だけ逃げだしたと受け取ってしまったから。

「トレーナーはあなたの決断を理解し尊重していたけど、私はバカだから理解出来なかったわ。」

脱退を伝えたスズカに対し、ゴールドは激怒して随分な言葉を吐きかけた。

とんだ弱虫だとか、成績不振を他人のせいにしてるとか、軟弱で身勝手な逃げウマ娘だとか。

「私も言い返したね。『私はこのままじゃ駄目だと思ったんだ!理想の走りの為に、苦渋の決断したんだ!何よそれも理解しないで、この体力と斜行ばかりが取り柄の能無しウマ娘!』って。」

スズカも懐かしそうに言った。

 

大喧嘩の末、二人は危うく絶交寸前まで行きかけたが、話を聞いたオフサイドが療養先から駆けつけ、双方を宥めかつ仲直りをさせたことで、その事態は免れた。

最終的には彼女の言葉に後押しされ、スズカはチームを去った。

 

「あの時は、オフサイド先輩の仲介に救けられたね。」

スズカは、かつてのチーム仲間で今もなお慕っている彼女の姿を思い浮かべた。

彼女のおかげで、スズカはゴールドや他の仲間達と仲違いせず、綺麗にチームを去ることが出来た。

「本当に、ゴールドと疎遠にならなくて良かったわ。」

チームを辞めてからも、ゴールドとの親友関係はずっと変わらず今に至ってる。

それが一番嬉しい。

「私も同じよ。腐れ縁かもしれないけど、あんたとはずっと親友でいたかったから。」

今思えば子供のような大喧嘩だった気もするが、絶交寸前までいきかけた時は怖かった。

それは、スズカも同じだったろう。

「うん。」

スズカは、自分の手を握っているゴールドの手を握り返した。

 




これまで多くのご感想を頂き、ありがとうございます。

物語が佳境に入り出したので、ご感想への返信が難しくなってきました。
申し訳ありませんが、しばらく返信は控えさせて頂きます。
宜しくお願いします。

また、勝手ではありますが、ご感想を頂くと非常に励みになりますので、今後も頂けると嬉しいです。


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検索(3)

 

「でもね、不安は残ってたんだ。」

 

ゴールドの手を握ったまま、スズカはポツリと言った。

「不安?」

「うん。私がいなくなった後の『フォアマン』にね。」

 

スズカは、『フォアマン』を辞め、その後『スピカ』に加入したことは全く後悔していない。

自分の将来を考えた末の大きな決断だったし、結果としてもそれは間違ってなかったと確信してる。

しかし、自分を育ててくれた『フォアマン』の動向はやはり気になっていた。

自分が辞めた後、チーム状況が更に悪化していたら…

その不安と後ろめたさはずっとあった。

 

だけど、『フォアマン』は復活した。

ゴールドは辛いチーム状況の中で奮戦し続けた末、年明け後はG1戦線で大活躍を始めた。

更には、4度目の長期離脱から復帰したオフサイドトラップ先輩が天皇賞・秋制覇という歴史的偉業を成し遂げた。

他のメンバー達も、ダービーで3着になったり、デビュー後僅か1年半で20戦以上出走したりするなど、それぞれ活躍している。

そのことで、不安も後ろめたさも全て消えた。

「ゴールドのチーム愛もすごいし、オフサイド先輩の不屈の精神も凄いよ。二人とも『フォアマン』そのものだって思ったわ。」

スズカは、心から敬意を表するように言った。

 

「…。」

スズカの言葉に対し、ゴールドはしばらく眼を瞑って何も答えなかった。

「どうしたの?」

「ううん。」

ゴールドは、スズカには分からない胸中の嬉しさと苦しさを抑え、ニッと笑った。

「褒めてくれるのは嬉しいけどさ、それ間違ってるよ。」

「え?」

「『フォアマン』の信条は“不屈”“体現”“勝利”でしょ。オフサイド先輩は全部当たってるけど、私は勝ったっけ?」

「あ、そっか。」

ゴールドは『アカンコ』のままだ。

「今、アカンコとか考えた?」

「ううん!」

図星をつかれ、スズカは慌てて首を振った。

その頭を突っついた後、

「でも、私はもうその仇名とは卒業するわ。」

そう言ってゴールドは立ち上がった。

 

「有馬記念ね?」

「うん。」

ゴールドの眼は夜空で最も輝いている一等星を射抜いた。

「今度の有馬記念、絶対に優勝してみせるわ。」

夢の舞台で、今度こそ先頭でゴールを駆け抜けてやる。

「そうなれば、私とスズカで春秋のグランプリ連覇よ。」

「あ、そうだね!」

スズカは気づいたように笑った。

 

「勿論、相手もみんな強いから、簡単ではないね。」

出走メンバーは明日発表されるので全員はまだ分からないけど、強敵揃いなのは確かだろう。

セイウンスカイ・エアグルーヴ・メジロブライト・グラスワンダー・シルクジャスティス・そして…

「オフサイド先輩もいるだろうし。」

スズカが、言った。

 

「え?」

知ってたの?と驚いて聞くと、スズカはううんと首を振った。

「オフサイド先輩がファン投票から漏れたことは知ってるけど、多分出るんだろうなーとは思ってたわ。だって、全然お見舞いに来てくれないんだもん。理由として、有馬記念出走に集中してる以外考えられないから。違うかな?」

違う、とは言える訳ない。

「まあ…そうよ。」

ゴールドは努めて平静に頷いた。

「そっか、そうだよね。」

スズカは少し寂しそうな表情をした。

「有馬記念が終わったら、来てくれるかな?」

「来るわ、絶対に!」

寂しい表情をしたスズカを、ゴールドは車椅子の後ろから思わず抱きしめた。

 

スズカは何も知らない。

オフサイドがどんな目に遭ったのかも、心を失うくらいボロボロにされたことも一切知らない。

もし知ったら…

無二の親友のゴールドには、どうなってしまうか大体想像がついた。

 

だから、有馬記念は絶対に勝たなければ。

勝って、チームもオフサイド先輩も守る。

そしてオフサイド先輩の心を復活させて、スズカと会わせる。

オフサイド先輩の心もスズカの心も救えるのは私だけ。

機会はこの有馬記念しかない。

「だから待っててね、スズカ。」

 

「うん。」

突然の抱擁に戸惑っていた様子のスズカだが、やがてそっと彼女の腕に自らの腕を添えた。

「有馬記念、頑張ってね。ゴールドも、オフサイド先輩も。」

 

 

 

その頃。

誰もいないスズカの病室の隅っこで、スペは一人ニンジンを食べていた。

 

ゴールドさんに悪いことしちゃったなー。

ニンジンをもぐもぐしながら、スペはバツの悪い表情をしていた。

『フォアマン』解散なんて、ただの根も葉もない噂だったんだ。

それは、ゴールド先輩も怒りますよね。

スズカさんも驚かしちゃったし、うー、私のバカバカバカー。

申し訳なさで、傍らの段ボール箱から取り出したニンジンをどんどん口に放り込んだ。

 

それにしても…

モゴモゴしながら、スペは首を傾げた。

なんでそんな根も葉もない噂が出たんだろ?

スペは、自分が知る限りの『フォアマン』の現状を思い返した。

 

最近、『フォアマン』の人達の姿をあまり見てないし…特に、天皇賞・秋を制したオフサイド先輩の姿を全く見てない。

チームで練習してるところも全然見ないし。

第一、新しいトレーナーもいないし…やっぱりなんか変だよ。

考えながら、スペは再び首を傾げた。

 

そういえば。

ニンジンを飲み込んだ後、スペはふと思い出した。

スズカさんのことで頭が一杯だったから、しばらく他のことは全く頭に入らなかったけど、天皇賞後のオフサイド先輩の言動で、学園内が何かしばらく騒ついていたことは微かに覚えている。

でも、言動がどんなものだったかは知らない。

 

殆ど気に留めてなかったけど、ちょっと調べてみようかな。

何気なく、スペはスマホを取り出し、検索ページを開いた。

 

えーと、天、丼、の、秋…と。

わあー!美味しそうな天丼がいーっぱい!

…違います違います。

えーと…『天皇賞・秋 オフサイドトラップ 言動』で、検索っと。

 

あ、出ました出ました!出ま…し……

 

〈“笑いが止まらない” オフサイドトラップ、同じウマ娘の怪我を嘲笑う〉

〈天皇賞ウマ娘にあるまじき言動。スズカの悲劇は自らの幸運と笑顔〉

 

 

スズカの悲劇に笑いが止まらない

 

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

 

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

 



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検索(4)

 

やがて、ゴールドとスズカは屋上から病室に戻った。

 

病室に戻って間もなく、ゴールドは帰る支度を始めた。

 

「またね、ゴールド。」

「うん。」

「次来るのは、有馬記念の後かな?」

「そうね。必ず、勝ってくるよ。」

「現地に行けないのは残念だけど、ここから応援しているわ。」

「ありがと。」

支度を終え、ゴールドはコートを羽織って立ち上がった。

「じゃあ。元気でね、スズカ。」

「うん、バイバイ。」

スズカは、笑顔で手を振った。

「スペ、スズカを宜しくね。」

「はい!」

スペがあかるい笑顔で頷くのをみて、ゴールドは病室を出ていった。

 

頑張ってね、ゴールド。

病室を出ていく後ろ姿へ、スズカは最後に念じた。

有馬記念が終わったら、オフサイド先輩と一緒に来てくれるのを待ってるわ。

 

念じた後、スズカはスペに眼を向けた。

「スペさん、ニンジンはまだ余ってますか?」

「余ってますよ!私まだ30本くらいしか食べてませんから。」

今日届いたばかりなのに、もう30本食べられましたか…流石はスペさんだ。

スズカは可笑しそうに微笑した。

「私にも、ニンジン頂けますか?」

「はい!是非どうぞ!スズカさんの為に届けて貰ったんですから!」

スペは嬉しそうに言うと、早速段ボール箱から10本ばかり取り出した。

「あ…そんなに多くはいりません。」

「あ、じゃあ15本くらいが良いですか?」

「増えてますよ。」

1本だけで良いですと言うと、スペは特に品質の良いものを取り出し、スズカの傍らにきた。

「はいスズカさん、あーん。」

「大丈夫ですよ、自分で食べられます。」

「そうですか。じゃあ一回だけ、あーん。」

「分かりました。」

スペが差し伸ばしたニンジンを、スズカは癒しの微笑を浮かべながらパクッと咥えた。

もぐもぐ。

「凄く美味しいです。」

「本当ですか、良かったです!」

スペはぱあっと無垢な天使の笑顔を浮かべ、自分も段ボール箱から5本ばかり取り出すと、スズカと一緒に仲良く食べ始めた。

 

 

一方。

スズカの病室を出たゴールドは、すぐには施設を後にせず、隣の病気専門病棟の方へ向かった。

チーム仲間のルソーに会う為だ。

 

だが、クッケン炎患者の病室にルソーの姿はなかった。

病床仲間に聞くと食堂にいるらしいとのことだった。

 

そのまま食堂に行くと、奥の方の席に一人でお茶を飲んでいるルソーの姿を見つけた。

 

「ルソー先輩。」

ルソーの側に行き、ゴールドは挨拶した。

「あら。」

彼女の姿を見て、黙念としていたルソーはやあと手を上げた。

「ゴールド、来てたのね。」

「ええ、スズカのお見舞いに。」

ゴールドは、彼女へ用意していた見舞いの品を鞄から取り出し渡した。

「あ、ライス先輩の喫茶店のコーヒー豆ね。」

コーヒー好きのルソーは嬉しそうに受け取った。

「以前飲ませて貰ったとき美味しかったから気に入ってたの。ありがとう。」

「どういたしまして。あと、これを。」

ゴールドはコーヒー豆に続いて、写真の束が入った封筒を渡した。

「これは?」

「先日、エアデールの祝勝会をしたときに、美久さんに撮って貰った写真です。」

「あーそれね。」

後でゆっくり観ようと、ルソーは礼を言いながらそれを受け取った。

 

「他に、何かあるかしら?」

貰ったものをしまった後、ルソーはゴールドを見た。

「一つ、お伺いしたいことが。」

ゴールドは、ルソーの前の席に腰掛けた。

「先輩は、オフサイド先輩が有馬記念に出ることはご存知ですか?」

 

「勿論よ。」

ルソーは表情を憂げにして頷いた。

先週、直に彼女からその意志を聞いたし、椎菜から彼女が現在学園を離れて一人で調整中だということも聞いた。

どう見ても出走出来る状態には見えなかったけど。

 

「先輩も相当の覚悟があって出走を決めたのだろうから、信じるしかないわ。ただ、」

ルソーは眼を瞑り、ぽつりと言った。

「先輩は勝つ気で出走するんだろうけど、私の思いとしてはただ無事に走りきって欲しい。それだけだわ。」

 

その後、少し雑談を交わした後に、ゴールドはルソーと別れた。

 

 

無事に走りきって欲しい、か。

施設を出たゴールドは、駅への道を歩きながら、ルソーの言葉を思い返した。

彼女がそう思う根底には、〈17日〉の出来事があるからだろうな。

実はゴールドは、その出来事の時は入学前のことだったので、それを詳しくは知らない。

チームの先輩達も、その出来事の詳細を後輩達に語ることは全くなかった。

だが、月命日には欠かさず学園の碑に訪れていたので、今月は先輩達に代わって供花にいった。

 

「…。」

ゴールドはつと立ち止まり、胸に手を当てた。

〈17日〉のことは全く知らないが、自身、先日の天皇賞で親友のスズカが大怪我に見舞われた経験をした。

あのレース後、彼女はスズカのことが心配でパニックになった。

容態安定のニュースが出るまで、スズカは還ってしまうのではと一日中震えていた。

夜も全く寝付けず、オフサイド先輩に頼んで添い寝して貰ってなんとか休める状態だった。

もう2度とあんな思いはしたくないと、心の底から思う。

 

とはいえ、オフサイド先輩に無事に走りきってとか思いたくなかった。

レースで闘う相手として失礼だし、それに現在の彼女に“無事に”なんて口が裂けても言えない。

既に心身とも無事じゃなくされてしまってるのだから。

 

それに。

ゴールドはこれまで何度も思い返している天皇賞・秋でのオフサイドの走りを再び思い返した。

あのレース、オフサイド先輩はこれ以上ない位鬼気迫った状態で出走した。

その結果、道中スズカの故障にも動じず、並みいる後輩達を千切り捨ててゴールを駆け抜けた。

あの時、信じられないような粘りと執念を間近で見せつけられた。

今度の有馬記念で、その再現をするつもりだろう。

ゴールドはそう思っている。

それを考えれば、尚更“無事に走りきって”なんて思える筈がなかった。

レースに挑むゴールドの思いはただ一つ。

オフサイド先輩が最高のレースをしようと、私はその上をいって優勝する。

それだけだ。

 

待っててね、スズカ、ルソー先輩。

ゴールドは、彼方に遠ざかった療養施設を振り返った。

今度来る時は、私はGP優勝の勲章を、オフサイド先輩は秋の盾を持って来るから。

 

レースが終わった後、オフサイド先輩の状態が良くなっていることを信じて。

『沈黙の日曜日』が『不屈の日曜日』になることを願って。

 



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検索(5)

*****

 

場所は変わり、トレセン学園。

 

この日、学園で理事を交えて行われた有馬記念出走メンバーの選定会議を終えたマックイーンは、喫茶店『祝福』に訪れ、ライスと会っていた。

 

今日の会議は、予想通りオフサイドトラップの出走選定についてかなり紛糾した。

案の定、理事会側は彼女の出走に難色を示し反対した。

天皇賞後の言動に対する処分をしてないのに出走させるのは学園の名誉に関わるという意見もあったし、例えここで出走を許可させても世論の猛反発は必至だから止めといた方が穏やかだという意見もあった。

だがマックイーンは、その責任は全て自分が負うとしてその意見を封じさせた。

例年なら30分もかからず終わる会議は数時間以上にわたる激論の結果、生徒会が押し切る形でオフサイドの出走は認められた。

 

「とにかく、第一関門突破です。」

マックイーンは、ライスが淹れた苦いコーヒーを飲んだ。

「次は、報道と世論への対応ですね。」

「どのようなご対策をお考えに?」

自分のカップにコーヒーを注ぎながら、ライスは尋ねた。

「まず、療養施設にしばらく報道陣が立ち入れないようにしますわ。」

現状一番怖いのは、スズカが騒動を知ってしまうこと。

それを防ぐために、その処置をとる。

幸い、療養施設にいる医師・ウマ娘達はオフサイドをよく知っており、先の騒動では偏向した世論や報道に反感を持った者が殆どだ。

彼女達ならその処置を理解してくれるだろうし、行動にも気をつけてくれるだろう。

勿論、それはスズカを守る為だ。

 

「あとは、オフサイドとゴールドです。」

当事者の『フォアマン』二人も、報道&世論から守らないと。

特にオフサイドは。

「現在彼女は極秘に、富士山麓でケンザンと共にいますから、報道や世論が捜索したとしてもすぐ見つけるのは難しいでしょう。」

万が一、彼女の在処が知られたら、その時は即座に使いを手配し、メジロ家で彼女を保護する予定だ。

一方のゴールドは、そこまで追われはしないだろうけど、有馬記念に悪影響が出ないように、オフサイドに関する取材はしないよう報道陣を牽制しておく。

 

「その処置に報道・世論が難色を示した場合は、こちらもカードを切ります。」

「カード?」

「先の騒動で学園が受けた被害への法的措置(注・第57話参照)です。」

マックイーンの翠眼が光った。

(1)と(2)のそれを断行する。

これは、学園では理事会側もそれをするべきと声が多かったもので、オフサイドの身が心配だったから断行しなかっただけ。

今は、彼女が行方をくらましてるので、懸念はない。

勿論、有馬記念の前にそんな騒がしいことはなるべくしたくないのだが、やむを得ない時はそれを断行する。

 

「あとは、状況を見ながら適切に行動しますわ。」

そこまで言うと、マックイーンはカップを置いた。

「…?」

ライスはその最後の台詞に、引っかかるものを感じた。

 

「一つ、お伺いしても宜しいでしょうか。」

コーヒーを一口飲んだ後、ライスは再び尋ねた。

「どうぞ。」

「マックイーンさんは、オフサイドさんの有馬記念出走に対して、本当に賛成しているのでしょうか?」

ライスの髪に隠れている片眼が蒼く光った。

 

「何を仰るのですか?」

質問に対し、マックイーンは口元を抑えて微笑した。

「彼女が出走する為に、今私がどれだけ手を尽くしているのか、お分かりでは?」

現在遠地で一人調整している彼女の警護、出走に反対する理事会との対峙、今後起こるであろう報道&世論からの反発への対応。

「全ては彼女の出走の為です。反対してるのなら、こんな苦労する必要はありません。」

 

だが、マックイーンの返答を聞いた後も、ライスはカップを手にしたまま彼女の瞳から蒼い眼光を逸らさなかった。

…。

昨夜の悪夢を思い出し、マックイーンはつと眼を逸らした。

その瞬間、ライスは次の言葉をぶつけた。

「あなたは、これ以上騒動の犠牲者を増やさないことを最重要と見てた筈では?」

 

天皇賞後の騒動。

あの件で犠牲になったのは、いうまでもなくオフサイドトラップと、彼女のチーム仲間である『フォアマン』の者達。

そして、次の犠牲者と懸念されているのが、療養中のサイレンススズカだ。

彼女が騒動を知ったら、間違いなくそうなる。

彼女をそうさせない為には、収まりかけている騒動が再び蒸し返されることを極力避けるべきだ。

だが、オフサイドが有馬記念に出走するとなると、同時に騒動が再燃する可能性が高い。

もう犠牲者を出さない為ならば、彼女の出走を止めるのが正しいはず。

「数日前に話した時、マックイーンさんはそのようなことを言ってたと記憶してますが。」

眼を蒼く光らせたライスの身体からは、黒い不気味な雰囲気が滲み出ていた。

 

「意外ですね。」

黒い雰囲気を醸し出した彼女を、マックイーンは透き通るような翠眼で射返した。

「あなたはオフサイドトラップの出走を後押ししているのかと思ってましたが、まさかそのようなことを仰るとは思いませんでした。」

「私は反対ではありません。出走したいというオフサイドさんの強い意志を尊重します。」

ライスは微動だにせず、蒼眼の光を一層強くした。

「例え、サイレンススズカが犠牲者になる危険があろうともですか。」

オフサイドの出走の為に尽力している筈のマックイーンは、刺すような口調でライスに問いかけた。

その質問に対し、ライスは両眼をやや俯かせて、答えた。

「私は、私のせいで笑顔を閉ざされたままターフを去った後輩の存在を、もっと早く知るべきでした。」

 

なるほど…

ライスの返答の真意を、マックイーンは理解した。

「あなたが意志を示されたのなら、私もそうしないといけませんね。」

マックイーンは、コーヒーを全て飲み切った。

 

だけど、例え相手がライスであっても、ここで本心を表す訳にはいきません…

そう心奥で思ったマックイーンは、ただ一つ偽らずことだけを、カップを置いてから静かに言った。

 

「私が今回、第一に考えていることは、…“プレクラスニーの悲劇”を再び起こさないことですわ。その為に、オフサイドトラップもサイレンススズカも、必ず守り抜く決意です。」

 



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検索(6)

 

それから少し経った後。

マックイーンはライスと別れ、『祝福』を後にした。

 

『私のせいで笑顔を閉ざされたままターフを去った後輩を早く知るべきでした』

メジロ家の車中。

マックイーンは車窓の外を眺めながら、ライスが言ってた言葉を思い返した。

彼女が言ってた“後輩”が誰なのかは、以前に聞いた彼女の言葉などからしてもう分かっていた。

笑顔を閉ざしてしまった、ですか。

ライスのその悔恨は、かつて彼女と頂点をかけて闘い、彼女の競走ウマ娘としての生き様をずっと見ていたマックイーンには、胸が張り裂けそうな位よく分かった。

 

 

ウマ娘『ライスシャワー』。

彼女は、誰よりも栄光と祝福を求めてターフを走り続けた。

だが幾度も栄光を掴みながら、祝福を受けられなかったことに苦しんだ。

更には栄光からも見放され、祝福とは無縁の時代を長く送った。

 

それでも、ライスは祝福を忘れなかった。

自らが敗れたレースでも、勝者のウマ娘達(テイオーやブライアン)を笑顔で祝福し、その栄光を称え続けた。

そうした姿は、観ている者達も感銘を受け、段々と彼女の栄光を望む声が大きくなった。

 

そして、遂に彼女は長い長いトンネルを抜けて再び盾の栄光を手にし、最高の祝福を浴びた。

あの時、マックイーンはブルボンと共にそのレースを観戦し、彼女の勝利を見届けると一緒に泣いて喜んだ。

ようやく彼女が、夢だった最高の祝福を受けれたんだと。

 

だが、その2カ月後。

生涯最高のファンの夢と希望を背に出走した宝塚記念。

その第3コーナーで、ライスは崩れ落ちた。

 

あの後、誰もが彼女の悲劇を悲しみ、生還を祈った。

その声が届いたのか、ライスは生還不可能と思われた大怪我から、奇跡の生還を果たした。

ターフからは去らざるを得なかったが、そのウマ娘としての軌跡は素晴らしい見事なものだったと誰もが称賛し、賛辞を惜しまなかった。

勿論、マックイーンもその1人だった。

 

 

だけど。

マックイーンはライスの言葉から、本当のことを知った。

あなたは、ずっと苦しんでいたのですね。

誰よりも栄光と祝福を求めていた自分が、あの宝塚記念でそれを奪ってしまったことに。

 

そう思った時。

一週間前に学園から帰る際に彼女から聞いた言葉が、マックイーンの脳裏に蘇った。

『スズカさんとオフサイドさんを不幸にしないこと、それが私の残された使命です』

 

「…。」

マックイーンは両膝に視線を落とした。

実はマックイーンはライスに対して、事にあたっての自分の本心の他に、もう一つ隠していることがあった。

それは、先日にその言葉を聞いた後、彼女の状態を極秘で調べていることだ。

 

その調査の結果がどんなものかは、ある程度、覚悟はしている。

もしかすると私だけでなく、生徒会仲間のミホノブルボンも既に察しているかも知れない。

 

ライス、あなたの脚はもう…

マックイーンは視線を落としている両膝上に両拳を握りしめ、唇を噛み締めた。

 

 

*****

 

 

マックイーンが帰った後の『祝福』では、ライスが店内の後片付けを終え、上の自宅に戻っていた。

 

プレクラスニー先輩、ですか…

ベッドに座り脚の手当てをしながら、ライスもマックイーンが口にしたそのウマ娘のことを思い出していた。

プレクラスニーとメジロマックイーン…そうか、あれも7年前の、天皇賞・秋でしたね。

クラスニー先輩は、あのレースの悲劇で全てを失っ…

 

いや、違う。

ライスは、ハッと手を止めた。

クラスニー先輩は、あのレースで『失って』はいない。

そうだ…クラスニー先輩の、真の悲劇は…。

それに気づいた時、脳裏に思わぬ推測が浮かんだ。

「まさか、マックイーンさんは…」

 

ズキッ。

「うっ…」

不意に、左脚に激痛が走った。

ライスは僅かに表情を歪ませ、左脚を抑えた。

 

数分後、激痛は治まった。

ライスは脚から腕を離し、額の汗を拭うと、そのままベッド上に横になった。

 

もう、その時が近いのは分かっています…

ベッド上で眼を瞑りつつ、ライスはまだジンジンと痛み続ける左脚を感じながら、それを悟っていた。

その覚悟は、既に3年半前から出来てる。

恐怖なんてない。

 

だけど。

ライスは、祈るように左脚に手を当てた。

スズカさんとオフサイドさんの未来が拓けるまでは、還るわけにはいかないわ…

 

だからどうか、あと少しだけもって。

私の左脚…

 

ライスの美しい両眼は、まだ確かに、蒼月のような輝きを帯びていた。

 

 

 

*****

 

 

夜遅く。

 

都心から離れた場所にあるウマ娘療養施設には、面会や見舞いで施設に訪れる外来者用の宿泊室が幾つかある。

 

しばらくの間、スズカの看護に専念することにしているスペは、その宿泊室の一つで寝泊まりしていた。

出来ることなら就寝時もスズカと一緒にいたいのだが、ベッドで添い寝するのはまだ無理みたいだ。

ならばとこの間はテントを用意してきたが、病室にそれを張った瞬間医師の先生にテントごと摘み出された。

寝袋もハンモックも持ち込み禁止と言われた。

ではベッド以外の場所で寝ようとした(床・ベッドの下・天井・段ボール箱の中)がそれも禁止らしく、やむを得ずこの宿泊室に一人寝泊まりしている。

就寝時、スズカと一緒にいれないのはすごく寂しい。

なのでスペは就寝時(学園寮でもだが)、スマホの画面にスズカの写真をアップして、それを抱きながら眠っていた。

 

 

だけどこの日、寝巻きに着替えベッドに横になったスペの手に握られているスマホの画面には、スズカの姿はなかった。

その代わり、ある動画が流されていた。

スペはそれを見ず、音声だけを聴いていた。

 

『天皇賞優勝ウマ娘はオフサイドトラップです』

『ありがとうございます!嬉しさでいっぱいです!』

『何度も歓喜を繰り返していましたね?』

『もう、気分良く走れて…笑いが止まりません!』

 

ピッ。

スペは耐えきれず、動画を切った。

 

ゴールド先輩…

スペはスマホをしまい、真っ暗な天井を仰いだ。

嘘、つきましたね。

根も葉も、ありましたね…

普段、優しい笑顔が絶えない筈のスペの頬に、悲しみの涙がつたっていた。

 

でも。

スペは頬を拭った。

ゴールド先輩のことは、理解出来ます。

チーム仲間だし、スズカさんの心を守る為だし、悪意もありませんから。

 

ですが…

オフサイド先輩は、無理です。

 

“…スズカさん‼︎しっかり下さい‼︎…”

『嬉しさでいっぱいです!』

“…嫌だ…嫌だよスズカさん…起きてよ…眼を覚ましてよ…”

『気分良く走れました!』

“…還らないで…スズカさんっ!…”

『笑いが止まりません!』

 

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない…

 

「…う……く……」

大欅の向こう側の記憶とオフサイドの言葉が胸中を冷たく浸し、スペはベッドの中で声を押し殺して泣いた。

理解出来ません…許せません…

 

 

 

*****

 

 

一方。

真夜中、富士山麓のケンザン宅。

 

 

〈残骸レースの勝者はオフサイド〉

〈悲鳴と嘆きに満たされた天皇賞覇者〉

〈この天皇賞には価値がない〉

 

「ハア…ハア…もうやめてっ!……」

 

〈非情かつ自己中なウマ娘〉

〈低レベルな天皇賞の覇者はウマ娘性も最低レベル〉

〈この自己中かつ冷血なウマ娘を追放すべき〉

 

「…ア…アアア……うっ…ゴホッ…ウェ…」

 

『スズカの怪我を喜んだのですか』

『スズカの故障は気分良かったそうですね』

『あんなレースで勝って嬉しいのですか』

『スズカの怪我を願ってたのでは』

『良心とかないんですか』

『スズカの故障を笑った理由を聞かせてください』

『悲しみにくれていた人々に謝罪しろ』

 

「…ゴホッ……ゲボッ…ゴホッ、ゴホッ……」

 

就寝中、また脳裏に蘇った悪夢の天皇賞の記憶に耐えきれず、オフサイドは真っ暗な洗面所で頭を抱え、苦しみにのたうちまわりながら嘔吐を繰り返していた。

 

 

「…はあ…はあ……」

やがて苦悶から解放され、薄らと眼を開けると、ケンザンの膝上に抱き支えられている自分に気づいた。

 

「大丈夫か?」

「…はい、大丈夫…です。」

冷静な口調で問いかけたケンザンに対し、オフサイドは息絶え絶えながらなんとか答えると、彼女の膝上から起き上がった。

身を起こした後、オフサイドは壁にしがみつきながら必死に歯を食いしばって立ち上がり、そのままケンザンを振り返ることなく部屋へと戻っていった。

 

もう少し、もう少しだから…

オフサイドは部屋に戻ると、倒れるように布団に横になった。

有馬記念…有馬記念さえ終われば、もうこの苦しみから解放されるから。

 

 

有馬記念まで、あと8日。

 



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『閑話』 4年前「輝石・北哲・青信号」

*****

 

4年前の春。

 

「彼女達が、新しいメンバーだ。」

『フォアマン』部室には、新しく加入した一年生3人が、チームの先輩達を前に緊張した面持ちで並んでいた。

 

自己紹介するようトレーナーが促すと、彼女達は一人ずつ挨拶を始めた。

 

「私の名前はフジキセキです。通っていたジュニアサークルでは“キセ”と呼ばれていました。先日引退したテイオー先輩のような強烈なスターになるのが夢です。今後とも宜しくお願いします!」

「わ…私の名前は……ほほほホッカイルソーです!あまり大きなことは言えませんが…とにかく伝説のウマ娘であるマンノウォーさんみたいに強いウマ娘になりたいです!頑張ります!」

「シグナルライトです!シグナルとお呼び下さい!座右の銘は『いつでもどこでも青信号!』です!皆さんと明るく楽しい学園生活を送れるよう、精一杯頑張ります!宜しくお願いします!」

 

「三人とも宜しく!」

それぞれ個性的な新メンバーに対し、チームの先輩達(フジヤマケンザン・ナリタブライアン・オフサイドトラップ・サクラローレルの4人。セキテイリュウオー・ウイニングチケット・マイシンザンは故障や里帰りで不在)も挨拶を返した。

 

挨拶とチーム訓示の後、先輩達と新メンバーは様々な会話を交わして仲を深めた。

 

「シグナル。」

「なんでしょうか、ブライアン先輩。」

「挨拶で言ってた座右の銘のことだが、あの言葉の意味を教えてくれるか。」

「はい。まずあの言葉の由来ですが、実は私の名前からきています!」

名前?

「“いつでもどこでも青信号”の、信号の部分かしら?」

話を聞いたオフサイドが尋ねると、シグナルははい!と頷いた。

「“シグナル”は『信号』、そして“ライト”で、『青信号』です!」

「あれ?シグナル=信号は分かるけど、どうしてライト=青になるの?」

ライト=光ではないかと指摘すると、シグナルはいいえと首を振った。

「ライトは“光”の意味ではなく、“右方向”の意味のライトです。」

「あ、成る程ね。」

シグナルの説明に、皆は納得した。

シグナル=信号と、信号の右=青で、『青信号』か。

「シグナルライト=青信号か。なかなか気がつかないわね。工事現場や交通整理でよく見かける点灯棒かと思ったわ。」

「ぷくー、ルソーさんそれは違います。」

今までにそれ結構言われましたけどと、ルソーの言葉にシグナルは少し膨れたが、それでも笑顔だった。

「ジュニアスクールで先生から、『名前のように、どんな時でも前進することを忘れずに頑張りなさい』と言われたので、この座右の銘を掲げました!」

 

「へー、面白いですね。」

ローレルが、ちょっとおかしそうに笑った。

「シグナルさん、明るさといいその言葉といい、バクシンオーさん(サクラバクシンオー。ローレルと同じサクラ一族の先輩)と似ていますね。」

超短距離戦線で大活躍している彼女も、口癖がいつもどこでも爆進爆進爆進爆進爆進爆進爆進爆進爆進爆進ばっかりだ。

「バクシンオー先輩ですか!あの先輩は私の憧れです!」

偉大な先輩と比べられ、シグナルはぱあっと明るくなった。

「先輩みたいな元気いっぱいの明るい走りを、私もターフでみせたいです!」

「バクシンオー先輩に憧れてるのか。じゃあ君も短距離戦線で活躍する気なんだね。」

キセの言葉に、シグナルは明るい笑顔を変えずに答えた。

「いえ、長距離戦線で頑張ります。」

そこは超短距離戦線でと言おうよ…

シグナルを除き、全員ガクッとコケた。

 

「とにかく、『GOGO レッツゴー!青信号!』です!」

コケた皆に全く気を留めず、シグナルは腕を突き上げた。

「あらゆる困難にも立ち向かって青信号を灯し続け、栄光を掴んでみせます!いざ、シグナルライトの“青信号伝説”の始まりです!おー!」

「ものすごい元気ね。」

爆進よりも元気いっぱいに明るい青信号を見て、先輩達も釣られて笑った。

「まあ、長距離戦線なら、“爆進”より“青信号”の方が、結果は良さそうだな。」

「そうですね。」

爆進じゃあすぐ大失速しそうだし。

「明るいのはいいことだ。チームにとっても大きな力になる。」

リーダーのケンザンはそう呟くと、シグナル・キセ・ルソーに対して改めて言った。

「今日から我々は『フォアマン』の仲間だ。共に切磋琢磨して、栄光を目指そう。宜しくな!」

 

「はい!」

リーダーの力強い言葉に対し、元気いっぱいのシグナルは勿論、優等生の雰囲気溢れるキセも、やや緊張気味だったルソーも、力強く返事した。

 

 

青信号、か…。

シグナル他、新メンバーの姿を微笑しつつ眺めながら、オフサイドはふと思った。

名前の意味って、なんだろう。

ブライアンは『強い』。

ローレルは『雄々しさ』。

同期の二人は分かるけど、私は…なんだろう?

確か…

 

 

 

これは、4年前の春の出来事。

 

*****

 



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再燃前夜(1)

*****

 

12月20日、日曜日。

 

朝の富士山麓の公園。

この日は、早朝から冷たい雨が降っていた。

 

雨の降る音だけの、凍えるような寒さと白い霧に覆われた中、オフサイドはこの日も淡々とトレーニングに励んでいた。

相変わらず動きは冴えてない。

だが、ここに来たばかりの時と比べると、それでも大分良くなった。

勿論、天皇賞の時と比べると50%にも届かない状態だけど、僅か1週間足らずでここまで持ち直してきたのは流石はオフサイドだなと、競走場の側で彼女の様子を見守っているケンザンは思った。

 

“流石”。

本来、それは敬意を表する時に出る言葉だ。

勿論その通り、ケンザンはオフサイドに対して敬意を表している。

だけど、心からそうは思い切れなかった。

だって彼女の姿が、あまりにも痛々しいから。

命を削りながら有馬記念へと向かっているようにしか見えないから。

 

そう、命を削って。

それはオフサイドだけでなく、レースに挑む他のウマ娘達もみんなそうだ。

命懸けで鍛錬を重ね、命懸けでレースを走って、栄光と未来を掴みに行く。

何もオフサイドだけに限ったことではない。

でも、彼女のその次元はちょっと違う。

 

右脚…

ケンザンの視線は、ランニングをしている彼女の右脚部に向けられた。

着けている体操着の下に、包帯が巻かれていることは分かっている。

4年半前、彼女が『クッケン炎』という〈死神〉に侵された日から、その脚に包帯がなかった日はない。

それどころか、ケンザンが引退する1年くらい前からは、その包帯の下の患部を、誰も目の当たりにしていない。

普段の着替えの際も、レース前やトレーニングの際も、彼女はチーム仲間にすらそれを隠して行っていた。

今でも隠し続けている。

多分、ここ3年で彼女の素の右脚を見たものは、トレーナーとクッケン炎専門の医師だけだろう。

一体どんな状態なのか…。

クッケン炎を患わずに現役を終えたケンザンには、その状態が想像出来なかった。

ただ、一度だけ、今年の春に会ったトレーナーから、彼女の患部の状態を表現した言葉を聞いた。

『某アニメ映画で祟神に呪われた主人公の右腕状態』だと。

 

〈死神〉も、祟神と似たようなものだな。

ケンザンは白い溜息を吐いた。

彼女が現役として『フォアマン』のリーダーだった時代、前述のように彼女自身こそその病とは無縁だったが、仲間内では実に6人がそれに侵され、うち4人はレースを奪われ引退に追い込まれた。

残った2人のうち、ルソーは2年以上の闘病をしながらも未だ復帰出来ず、唯一人レースに戻ったオフサイドも、長年続いた〈死神〉との激闘の影響で、右脚はトレーナーの言葉状態。

 

オフサイドの場合、〈死神〉はクッケン炎だけじゃなかったけどね。

天皇賞後のことと、昨晩の夜中の出来事が、ケンザンの胸に暗い影を落とした。

 

 

『ピリリリリ…』

ポケットにしまっているスマホの着信音が鳴った。

着信相手の名を見て、ケンザンは屋内に戻り、それに出た。

「もしもし。」

『フジヤマケンザンですか。メジロマックイーンです。報告があって連絡しました。』

 

手短に話しますと言って、電話をかけてきたマックイーンは続けた。

『オフサイドトラップの有馬記念出走が決定しました。報道にもそれを伝えましたので、昼過ぎにはニュースになると思います。』

「了解しました。ありがとうございます。」

ケンザンは礼を言い、電話を切った。

 

マックイーンから連絡を受けたものの、ケンザンはそれをオフサイドに伝えようとはせず、先程までと同じように彼女のトレーニングをじっと観察していた。

何故なら出走決定までは出来るだろうとケンザンも予測していから。

マックイーンもそれを伝えたのではなく、暗に闘いはこれからだということを知らせたのだろう。

あと一週間後か…

果たしてその日まで、無事に漕ぎつけられるだろうか。

 

いや、絶対に漕ぎつけなくては駄目だ。

右脚に巣食う〈死神〉に命を削られながらも必死に調整に励む後輩を観て、ケンザンは心底からそう思った。

 

 

 

そして、昼過ぎ。

有馬記念の全出走メンバーが、ニュースで一斉に報道された。

出走メンバーは、以下のウマ娘。

()内は主な実績。

 

メジロブライト(天皇賞春優勝)

セイウンスカイ(皐月賞・菊花賞優勝)

エアグルーヴ(オークス・天皇賞秋(昨年)優勝)

グラスワンダー(朝日杯(昨年)優勝)

メジロドーベル(オークス・秋華賞(昨年)・エリザベス女王杯優勝)

シルクジャスティス(有馬記念(昨年)優勝)

ステイゴールド(天皇賞春秋・宝塚記念2着)

マチカネフクキタル(菊花賞(昨年)優勝)

オフサイドトラップ(天皇賞秋優勝)

キングヘイロー(皐月賞3着)

サンライズフラッグ(天皇賞秋3着)

ユーセイトップラン(重賞2勝)

エモシオン(菊花賞3着)

ビッグサンデー(重賞3勝)

オースミタイクーン(重賞2勝)

ダイワオーシュウ(菊花賞(昨年)2着)

 



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再燃前夜(2)

*****

 

昼過ぎ。

 

出走メンバー発表と同時に、報道陣はそのウマ娘達の元へ取材に向かった。

トレセン学園で、一人トレーニングをしていたゴールドの元にも、報道記者達が訪れた。

 

「有馬記念への意気込みは?」

「普通です。」

「調整は上手くいってる感じですか?」

「普通です。」

「痛い所でもあるんですか?」

「不痛です。」

「闘うライバル達へ向けて一言。」

「普通です。」

記者達の質問に対し、ゴールドは無愛想な返答を続けていた。

記者達は不満そうだったがゴールドはお構いなし。

ていうか、よくもまあ平然と私の前に現れたわね。

チームを滅茶苦茶にしたことも忘れてさあ…

と、キレるのは流石に堪えた。

私の相手は報道陣じゃなくて、ターフのライバル達だ。

迂闊なことしてレースに悪影響が出るのは避けたいから、放っておくのが一番だ。

 

と、

「ところで、」

記者の一人がこれまでと違う質問をしてきた。

「オフサイドトラップは、何処にいるんですか?」

 

「さあ。」

ゴールドはトレーニングを止め、ふーと心を落ち着かせながら首を振った。

焦ったのではなく、危うく手が出そうになったから。

「チーム仲間なので、一緒にいると思いましたが。」

「チーム仲間でも、ターフでは闘う相手だわ。一緒にいなくても不思議じゃないでしょ。」

つーか、天皇賞・秋の時も私とオフサイド先輩は別々に調整してたけど、それも忘れたのかしら。

「何処で調整中かは知ってますか。」

「さあね。私も知らないわ。」

例え知ってても、あんた達には絶対に教えたりしないけどねと内心で吐き捨てた。

 

その後、ゴールドは記者達の質問に答えることなく、トレーニングに集中した。

 

 

*****

 

 

一方。

マックイーンは、この日開催されるスプリンターズS(G1)の、レース後の表彰式に出席する役目がある為、副会長のダイイチルビーと共に中山競バ場に来ていた。

 

レース出走を待つ彼女のもとには、学園にいる生徒役員達からオフサイドに関する連絡が来ていた。

曰く、報道陣から彼女の所在先を教えるよう要求されてるらしい。

彼女の所在先を知っているのはマックイーンを含めて4人だけ。

他の生徒役員達も知らない。

 

「彼女の所在先は生徒会も知らないと、報道陣に答えておいて下さい。」

『“生徒会が知らない訳ない、生徒会長なら知ってるだろう”と連中は喚いていますが。』

「では、“地球にいるのは知ってるから、人工衛星でも使って探して下さい”と答えておくといいですわ。」

マックイーンは冷徹な口調でそう命じ、電話を切った。

 

「いよいよ、また始まるようね。」

マックイーンの通話を傍らで聞いていたルビーは、超名家のお嬢様らしくない硬い面持ちをしていた。

「そうですわね。想定通りではありますが。」

マックイーンは両手を後ろに組み、レースが行われるターフに目を向けた。

「前回の時は、私は生徒を守る立場でありながら何も出来ませんでした。ですが今度は、絶対にその過ちを繰り返しません。」

「気持ち、よく分かるわ。」

ルビーはマックイーンの言葉に頷いた。

彼女も生徒会長を支える立場として、その責任を感じている。

「今度は、生徒会は一致団結して事にあたるわ。外部ではライスシャワーも協力してくれるみたいですし、絶対、二の舞は繰り返さないようにしないとならないですね。」

「ええ。」

 

 

やがて、スプリンターズS出走の時間になった。

このレースは、短距離戦線で国内外のG1レースを制し、世界一の短距離王と称された大スターウマ娘、タイキシャトルの引退レース。

人気は彼女が超ダントツの1番人気、2番人気はかなり離れて、同じく世界レースを制したシーキングザパール以下と続いていた。

 

「タイキシャトルの人気、凄いですね。」

G1レースなのに、彼女一人あまりにも抜きん出ている。

天皇賞・秋でのスズカより支持が高い。

シーキングや他のメンバーも決して弱いウマ娘ではないのにだ。

「サクラバクシンオーの引退レースみたいね。」

かつて世界最速のスプリンターと言われた後輩ウマ娘を思い出した。

彼女は4年前の同レースで圧巻の走りを魅せて優勝し、ターフを去った。

今回のタイキも、彼女に劣らぬ勝ち方でターフを去るかもしれない。

バクシンオーのような相手がいれば別だが、生憎この場にはターフではなくTV席に〇〇バクシンオーと仇名される実況者がいるだけだ。

場内の大観衆もタイキの勝利は全く疑わず、彼女がどのようレースで有終の美を飾るか楽しみにしている雰囲気だ。

 

だが…

「分かりませんわ。」

「そうね。」

タイキの勝利を予想しながらも、この二人はそれを確信まではしていない。

何も、先の天皇賞・秋のような事が起こるのではとか思っているのではない。

ターフに100%がないということは、彼女達が現役時代にそれを痛いほど思い知らされた経験があるからだ。

共に7年前、ルビーは高松宮杯で、マックイーンは有馬記念で。

「勝敗はともかく、見届けましょう。世界的スターウマ胸の最後の走りを。」

タイキを含めた出走メンバー全員がゲート前に集まったのを眺めながら、マックイーンはそう言った、

 

マックイーンの言葉に対し、

「そうね。…でもそれよりまず、無事に皆が走り終えられるよう、祈りましょう。」

ルビーはそう言うと、懐からロザリオを取り出し、胸にあてて眼を瞑った。

 

7年前の同レース。

当時現役だったルビーは2番人気で出走し、見事優勝。

2度目のG1制覇を果たした。

だがその道中、ルビーのライバルで1番人気だった後輩のケイエスミラクルが、最後の直線で故障発生し競走中止した。

レース後の検査で治療不能の重傷と判明し、ミラクルはそのまま還ってしまった。

それはルビーには一生忘れられない、重い記憶となった。

それ以後、ルビーはこのレースの開催時は毎年会場に訪れ、レースが無事に終わるよう祈っている、

 

…。

瞑目したままロザリオを握って祈り続けるルビーの傍ら、マックイーンはゲートへ視線を向けたまま、彼女と同じことを祈っていた。

レースの勝負に絶対がないように、レースの無事も絶対はない。

それは、決して忘れてはいけないことなんだ。

 

ファンファーレが鳴り、場内が大歓声に包まれる中、トレセン学園の生徒会長と副会長は、出走メンバー全員が無事にレースを走りきれるよう、静かに祈り続けていた。

 



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再燃前夜(3)

*****

 

夜になった頃。

 

ウマ娘療養施設の食堂では、多くの患者ウマ娘達が集まって夕食を食べていた。

 

彼女達の間で話題になっていたのは、この日開催されたスプリンターズS。

タイキシャトルの引退レースは療養中のウマ娘達も注目しており、多くの者がTVでそのレースを観戦した。

誰もがタイキの必勝を予想していたが、結果はなんと7番人気の伏兵2年生ウマ娘マイネルラヴが優勝。

彼女との直線での競り合いに敗れたタイキは後方から追い込んできたシーキングにも交わされ、まさかの3着に終わった。

 

「こんなことってあるんだね。」

「ですねー…」

観戦していたウマ娘達は、レースからかなり時間が経った今もまだ、衝撃の結果の余韻にいた。

「タイキ先輩、5バ身くらいの差で圧勝すると思ってたわ。」

「私も。疲れはあったのかもしれないけど、有終の美を飾るのは間違いないと思ってた。」

「タイキ先輩、初めて連対を逃したんだよね。びっくりな結末。」

「TV観戦でも、場内のどよめきがよく分かった。」

「ていうか、引退式の時、電光掲示板に通算成績が映し出されてたけど、このレースが3着じゃなくて1着と誤表示されたね。」

「開催側もタイキ先輩が勝つって決めつけてたんでしょ。まあ私達もそう思ってたけど。」

 

「ま、勝負に100%はないってことよ。」

ガヤガヤ話している後輩達の会話を聞いて、側を通りかかったルソーが言った。

「あのナリタブライアン先輩だって、絶対負ける訳ないと思われてたレースで負けたことあるんだし。」

そのレースは、ルソーもチーム仲間として現地で観てた。

「だから、勝った方を褒めるべきね。つまりラヴを。」

「確かにそうね。」

ルソーの言葉に、皆頷いた。

「ノーマークだったとはいえ、タイキ先輩を競り落としシーキング先輩の追い込みを凌いだラヴは凄かったね。文句の付けようがない勝利だわ。」

「ラヴ、普通に滅茶強かったよね。なんで人気低かったんだろ?」

「これまでの実績がそこまでだったからじゃない?他のメンバーも強いかったし。」

彼女達は、またガヤガヤ会話を始めた。

 

「あ、そういえばルソー先輩。」

場を去ろうとしたルソーに、つと一人が声をかけた。

「有馬記念のニュース見ましたよ。チーム仲間のステイゴールドさんとオフサイドトラップ先輩が出走するそうですね。おめでとうございます!」

 

「…ありがと。」

後輩達の賛辞に対し、ルソーはぎこちない笑顔をみせた。

内心は不安だらけなのだ。

また騒動が再燃するかもしれないし、そもそもオフサイド先輩が走れる状態なのかも怪しいし。

と、ルソーの表情を見て察したのか、後輩達は言葉を続けた。

「大丈夫ですよ。」

「何が?」

「この療養施設では、オフサイド先輩のことを悪く思うウマ娘はいませんから。」

 

ここにいる後輩達は皆、怪我病棟の患者だが、2年以上ここで生活しているルソーや、長年ここ闘病生活を送っていたオフサイドとは顔馴染みになっており、皆彼女達のことを慕っていた。

「天皇賞・秋後のあの騒動は、オフサイド先輩への酷い中傷だと、みんな一致した見方です。」

「ここでオフサイド先輩と会ったことありますけど、本当に優しい先輩でした。」

「“笑いが止まらない”発言だって、あれはスズカさんの故障に対してのものではないと100%分かっていますし。」

「本当、色々と中傷被害を受けて辛かったと思いますけど、今度の有馬記念も好成績を残せるよう応援しています!」

彼女達は口々に、励ましと応援の言葉を述べた。

 

 

「ありがと…」

隣病棟の後輩達の言葉に、ルソーはちょっと涙ぐんでしまった。

彼女のいる病気病棟の仲間達(主にクッケン炎患者)は、先の騒動のショックが大き過ぎるせいで、オフサイドの出走ニュースを聞いてもあまり良い反応はなかった。

けど、怪我病棟の仲間達は…。

彼女達がこんなにオフサイドのことを慕っていたとは思わなかった。

それが凄く嬉しかった。

「オフサイド先輩に伝えておくわ。」

目元を払った後、ルソーは笑顔で言った。

「療養施設の仲間達はみんな先輩を応援してるって。」

 

 

その後、ルソーは食堂を出た。

 

あら…

松葉杖をつきながら病室への廊下を歩いていると、途中で自販機の前に立ってスマホを見ているスペを見つけた。

…?

あれ、スペにしては珍しく表情が硬ってる。

 

「…スペ?」

「わっ‼︎」

声をかけると、スペは癇癪玉でも踏んだようにもの凄くびっくりした。

あわわわわとスマホをお手玉し、辛うじて口でキャッチ。

「モガモガ、プハー…。あ、ルソー先輩でしたか。びっくりするかと思いましたー。」

「びっくりしてたわよ。」

ルソーの方もスペの反応にびっくりしてたが。

「どうしたの、こんな所で?」

「スズカさんの飲み物を買いに来たんです。」

スペはいつものあっかるい笑顔で、自販機を指した。

あーそうとルソーは頷いて、それから気になったように尋ねた。

「なんか顔が硬くなってたけど、どうしたの?」

「えっ!ほんとですか!」

スペはまたびっくりしたように、自分のほっぺたをぷにぷにした。

「顔、柔らかいですけど。」

「いや…」

そういう意味じゃないのだけど…

 

ルソーはスペの無邪気な仕草に微笑し、思わずその頭を撫で撫でした。

「何か、悩みでもあるのかしら?」

「え?何もありませんが。」

「何か相談したいことがあったら、私に言いな。」

「ルソーさんにですか?」

「ふふ、こう見えても、私はここの療養者のうちでは最古参だからね。話相手には慣れてるのよ。」

自慢できることでもないけどねと、ルソーは胸を張った。

「ありがとうございます!」

ルソーの言葉に、スペは嬉しそうに頭を下げた。

 

そして自販機で飲み物を買うと、ルソーと別れスズカの病室へと戻っていった。

 

 

その後、ルソーは病室に戻った。

 

似てるわ…

ベッドに横になると、ルソーは外の月明かりを見上げながら、先程のスペの笑顔を思い出していた。

本当に似てる。

無邪気な所も元気いっぱいな所も、そして何より、明るいところも。

…青信号と。

 

ルソーは、こみ上げたものを堪える為にぐっと眼を瞑った。

瞑りながら、願った。

スペシャルウィーク・サイレンススズカ。

あなた達は、なんとしても幸せになってね。

 

 

一方。

 

硬いかなー?

飲み物を抱えながらスズカの病室に戻っていくスペは、何度も自分のほっぺたを触っていた。

硬くない、とてもぷにぷにです。

学園の友達やチーム仲間のみんなからも『スペのほっぺたはすごく柔らかい』って褒められてますし。

硬くなるなんてないですよね。

 

でも、一瞬だけそうなってたのかな。

さっき、悲しいニュースを見たから。

オフサイドトラップ先輩が、何事もなかったように有馬記念出走メンバーに入ってたニュースを。

 



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再燃前夜(4)

*****

 

夜遅く。

喫茶店『祝福』。

 

この日の営業は既に終え、上の自宅に戻っていたライスは、いつものように脚の手当てを行なっていた。

 

行なっている最中、店の呼び鈴の音が聞こえた。

夜遅くに誰だろう?マックイーンさんかな?

既に部屋着に着替えていたライスはジャケットを羽織り、慎重に下に降りて、扉を開けた。

え…

来訪者を見て、ライスはちょっと驚いた。

マックイーンではなく、同期で生徒会役員の一人であるミホノブルボンだったから。

 

「ブルボンさん…」

「こんばんは、ライス。」

口元に手を当てたライスに対し、生徒会制服姿のブルボンは礼儀正しく頭を下げて挨拶した。

「どうされたんですか、こんな遅くに。」

「大した用事ではありません。生徒会長から、これをライスに渡すよう頼まれただけです。」

言いながらブルボンは、鞄から一通の封筒を取り出し、ライスに渡した。

「今日は、マックイーンさんはいないのですか?」

「生徒会長は、この日は仕事で中山に行ってます。私は学園で留守番だったので。」

「あ、そうでしたか。」

ライスは納得したように頷くと、手紙を受け取った。

 

「では。」

「あ、待ってくださいブルボンさん。」

帰ろうとしたブルボンの制服を、ライスは慌てて掴んだ。

「コーヒー、飲んでいってください。」

「良いのですか?もうお休みの準備されてたようですが。」

「構いません。一休みされていって下さい。」

黒髪に隠れた眼を微笑させ、ライスは店内の明かりを点けた。

「では、お言葉に甘えて。」

ブルボンはライスの誘いを受け、店内の一席に座った。

 

その後、ライスはコーヒーを淹れた二つのカップを用意し、それを持ってきた。

「どうぞ。」

「ありがとうございます。」

ブルボンは恭しく受け取ると、それを一口喫した。

心地よい苦味が口内から全身に暖かく染み渡り、鉄仮面のようだった彼女の表情は自然と綻んだ。

「やはり、いつ喫しても美味しいですね。ライスの淹れるコーヒーは。」

「えへへ。」

ライスは照れくさそうに笑って、彼女の前に座った。

同期の戦友であるブルボンとは、他のウマ娘達とは違って、肩に力をいれず接することが出来る。

「久々にブルボンさんとコーヒー飲めて、ライス嬉しいよ。」

口調も、自然と現役時代のものになった。

「最近は色々大変なことが相次ぎましたから、中々来れませんでした。」

「気にしないで。何があったかはライスもよく知ってるから。」

自身、その渦中へ身を踏み込んでいるライスは、労るように言った。

 

ほんの10分程で、ブルボンはコーヒーを飲み終えると立ち上がった。

「もう帰るの?」

「ええ。明日も早いですから。」

明日から、有馬記念へ向けての大変な日々が始まる。

生徒会は今年一忙しくなるだろう。

それはライスもよく分かっていた。

 

「気をつけてね、ブルボンさん。」

ライスは、店の外までブルボンを送りに出た。

「有馬記念が終わったら、またここに来てライスとお話ししようね。」

「はい。来れるよう頑張ります。」

「きっとだよ。ライス、待ってるから…。」

…?

ブルボンは、ライスがちょっと涙ぐんでいるのに気づいた。

「ライス、泣いてるんですか?」

「ちょっとね。大丈夫よ、悲しいわけじゃないですから。」

ライスは夜空を仰いで涙を払い、それからブルボンを見て微笑んだ。

「ただ、ブルボンさんと会えて良かった。そのことが嬉しくて、ライス泣いちゃったの。」

かつての健気さが混じったその微笑は、夜空に輝く蒼月と同じくらい美しく、ブルボンの眼に映った。

 

「相変わらず泣き虫ですね、ライスは。」

ブルボンは鉄仮面だった表情を緩め、妹を慰める姉のような微笑を浮かべた。

そして彼女の側に近寄ると、その頬にそっと掌を当てた。

「事が終わったら、また会いましょう。必ず。」

「うん。ライス、楽しみにしてるから…」

 

ライスはブルボンの掌に触れ返しながら、微笑し続けた。

一方のブルボンは、ライスの左脚を幾度か見ながらも、最後まで微笑を崩さなかった。

 

 

*****

 

 

その頃、メジロ家。

 

中山から帰宅したマックイーンは、メジロ家の使いの者や生徒会役員達と連絡をとりあい、各所の情報を収集していた。

 

スズカのいる療養施設は変わりなし。

富士山麓も同じ。

学園のゴールドにも特に目立った行動なし。

 

学園側に、気になる情報はなかった。

 

続いて、報道や世論の動きについて収集した。

既に世論は、ネットを中心に過激な声や動きが出始めているようだ。

一方報道は、今のところ特に動きはない。

ただ世論の反応を見て、明日には動きを起こす可能性が高いとのことだった。

 

特に気になる点として、世論の中で幾つか報道で取り上げられそうな声があるとの報告が来た。

一つ目は『あのような内容のレースで勝ったオフサイドトラップを天皇賞ウマ娘と認めていいのか』という声。

二つ目『レース中に故障者が出た場合は、そのレースを中断するべきでは』という声。

三つ目は『天皇賞後に大失言をしたウマ娘になんの処分もせずに出走させて良いのか』という声。

 

他にも大なり小なり気になる声はあるみたいだが、大きく取り上げられそうなのはその三つだということだった。

 

「報告ありがとうございます。以後も何かあったらすぐに連絡をお願いしますわ。」

礼を言って情報収集を終えると、マックイーンは一息ついた。

それから、メモに記したその三つの項目を改めて見た。

 

騒動再燃は避けられませんね。

マックイーンは腕を組み、翠眼を険しく光らせた。

 

しかし、これは流石に…

マックイーンの眼は、一つ目でも三つ目でもなく、二つ目の項目に注がれていた。

今、このような内容を大きく取り上げるのですか?

 

オフサイドトラップはともかく、ホッカイルソーがどう思うか、少し恐ろしいです。

 

騒動再燃への緊張と別に、マックイーンの脳裏には3年近く前の記憶と、その時目の当たりにしたルソーの姿が強く蘇っていた。

 

 

有馬記念まで、あと7日。

 



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暴流(1)

*****

 

12月21日、月曜日。

 

この日は早朝から、TV・ネット共に有馬記念関係のニュース・特集が流れていた。

また、一般のファンの間でも、有馬記念が話題になっていた。

 

 

TV報道では、キャスターやコメンテーター達が様々な議論をしていた。

 

 

『既にファン投票で選出されたセイウンスカイやメジロブライト、グラスワンダーといった優勝候補のウマ娘、また、引退レースと表明しているエアグルーヴらの調整も順調にきているようです。』

『なお、天皇賞・秋を制したオフサイドトラップも出走メンバー入りしていますが、報道陣の前には現れませんでした。』

 

「オフサイドトラップもメンバー入りしましたか。驚きですね。」

「ええ、ネットなどの世論でも、オフサイドの出走は大きな議論を巻き起こしているようです。」

「特に多い声は、天皇賞・秋後の問題発言が有耶無耶なままで出走させていいのかというのものです。」

「ああ…笑いが止まらない発言ね…あれは確かに酷いね。」

「何の説明責任も果たさないまま出走するオフサイドに対しては、ファンから非常に厳しい声が上がっています。また、それを許した学園側の良識を疑う声も強くなっており、今後の混乱は必至です。』

 

 

「オフサイドの出走について世論調査を行ったところ、絶対に出走するべきでないが65%、出走してもいいがその前に謝罪すべきが10%でした。なお、その他の25%は、即座に退学するべきというものです。」

「これはまた厳しいですね…」

「まあ、当然ですね。スズカの怪我のおかげで勝てたにも関わらず、彼女へ気遣いをするどころか嘲笑した訳ですから。」

「スズカの怪我のおかげ?」

「ええ。何しろ、彼女のゴールタイムは1分59秒3という非常に凡庸なものです。スズカが無事に走りきっていれば、間違いなく1分57秒台でのゴールでしたから、オフサイドなんて10バ身以上千切られて勝負にすらならなかったでしょう。」

「そちらに関しても、世間の人達の声を聞いてみました。もしサイレンススズカが怪我しなければ、天皇賞・秋の勝者は誰だったかという内容のアンケートでしたが、ほぼ100%がスズカが優勝という声でした。」

「はー。」

「また、どれくらいのタイムで優勝してたかという問いに関しては、1分57秒後半〜前半という声が多かったです。」

「凄いですね。やはり、彼女がゴールする姿を見たかったですね。」

「他に、もしスズカが出走してなかったら、他の11人のうち誰が優勝してたかというアンケートも取りました。結果はメジロブライトが1位、次いでステイゴールド、サンライズフラッグやシルクジャスティスなどと続きました。」

「メジロブライトが1位予想ですか。そういえば、スズカのトレーナーもスズカを避けたロスがなければ彼女が優勝してただろうと言ってましたね。」

「オフサイドトラップは入ってないんですか?」

「オフサイドは特にロスもなく立ち回って、結果があのタイムでしたから、優勝予想の声はほぼ皆無でした。」

「なるほど、結局、オフサイドはやはり、スズカが怪我があったから優勝したということですね。」

「その通りですね。スズカの怪我に他のメンバーが一瞬動揺した隙をうまく衝きました。」

「あのインタビューからしても、かなりしたたかなウマ娘だったようです。」

 

 

巷でも、有馬記念のことは話題になってた。

 

 

「しかし、この有馬記念にサイレンススズカの名がないのは残念ですね。」

「彼女が無事だったら、エルコンドルパサーやスペシャルウィークも出走して、歴代最高のメンバーだった可能性が高いのに。」

「なんで、スズカは怪我しちゃったんだろうね。」

「ほんと、何故なんだろう…。スズカのトレーナーや、専門家も言ってたね。“怪我の原因はない”って。」

「そうなの?てっきり飛ばし過ぎたのが原因だと思ってたけど。」

「何言ってんの。スズカにとってはハイペースがマイペースよ。これまでのレースもそうだったし。」

「そうだよね。確かに怪我の原因じゃなさそうね。…ターフに潜む魔物に捕まっちゃたのかな。」

「魔物…あーそういえば、“罠にかけられた”って説はあるみたい。」

「罠?なんの?」

「ほら、スズカが怪我した後のレースで優勝したウマ娘はオフサイドトラップって名前らしいんだけど、その名前の由来は某スポーツの戦術からとっていて、その意味は『単騎で駆け抜けた相手を罠にかける』ってものらしいんだ。」

「えーマジで!まんまそれじゃん!」

「まあ、勿論ただの偶然なんだろうけど、…彼女が優勝インタビューで言ってた“笑いが止まらない”発言を思うと、もしかしてスズカが怪我するの狙ってたんじゃないかなー…とかって噂されてるし、少なくともそれは本当だろうね。」

「怖っ!同胞の不幸を願うウマ娘なんているんだ。」

 

 

「オフサイドトラップ出走するんだ…やだなー。」

「ん、どうしてさ?」

「だってさ、スズカの怪我を笑ったんだよ。勝負に徹してといえばそうかもしれないけど、血も涙もないウマ娘はやだよ。」

「確かにな。彼女が天皇賞ウマ娘って称されてるのも納得出来ないし。本来こうなる筈じゃなかった歴史だもんな。」

「それに、彼女の名前見る度にあの天皇賞のスズカの悲劇を思い出すし。」

「あーそれ同じ。ていうか、スズカの怪我のショックで後のレース覚えてないし、悲劇思い出したくないからVTRも観てない。」

「ネットに上がってた天皇賞のレース動画も、スズカの故障以降は誰も観てないようだからね。ファンの中じゃ、あの天皇賞は大欅の向こう側で終わってるのよ。」

「スズカが怪我した時、出走したウマ娘達はみんな止まってやれば良かったのにね。そうすれば、あんな胸が痛いシーンだけで終わらなかったのに。」

「いや、後続のみんなはスズカの故障を観て一瞬止まりかけてたよ。あの時点で既に大勢は決してたんだから。ただ、オフサイドトラップがスズカの悲劇を全く無視してレースを続けたせいで、みんなスズカを置いてレースを続けるしかなかったみたい。」

「それでオフサイドが勝ったのか。なんかな。大本命が怪我したレースなんかで勝って嬉しいのかな。」

「嬉しいんでしょ。気分が良いとか笑いが止まらないとか言ってたし。」

「酷い。6年生なのに、性格悪すぎるウマ娘だね。」

「大丈夫だよ、ファンのみんなは分かってるから。オフサイドは天皇賞に値しないウマ娘だって。有馬記念のファン投票からも外れてたし。」

「でも、それでも出走するみたいじゃん。」

「だから阻止しないと。こんな非情で自己中なウマ娘が天皇賞の称号と共に有馬記念に出るなんて、ウマ娘の歴史で最大の汚点だよ。全ファン一致して、オフサイドトラップを歴史から消さないと。」

「だな。既に報道や世論・ネットも動き出している。あの天皇賞・秋のオフサイドトラップの言動は、絶対に許しちゃいけないし、忘れちゃいけないからな。」

 

 

再びの、異様なうねりが起きようとしていた。

 



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暴流(2)

*****

 

昼過ぎ。

療養施設の、クッケン炎の患者達が集まった病室。

 

 

『オフサイドの有馬記念出走に対して批判殺到』

『失言問題の責任を果たす意向なし』

 

「またですね。」

かつてオフサイドと闘病を共にしたウマ娘達は、報道紙やニュースを見て深い溜息を吐いた。

「見てて辛いな。」

「あまり読まない方がいいよ、還りたくなるから。」

 

暗い表情の一人が、ふと気になったように口を開いた。

「ルソー先輩は、どこにいるのかな?」

「先輩は、今朝からずっと病室にこもっているみたいよ。再燃が相当ショックだったみたい。」

「ルソー先輩、チーム仲間なだけでなく、オフサイド先輩をもの凄く尊敬しているからね…。」

私達もだけどと、また溜息がもれた。

 

と、

「大丈夫かな。」

会話を聞いていた一人が、不安そうな表情で呟いた。

「さっき、報道紙を見てたルソー先輩と廊下ですれ違ったけど、表情がめっちゃ怖かった。」

「え?」

「あんな怖い表情のルソー先輩、初めて見た。」

「それは、ルソー先輩にとってオフサイド先輩はチーム仲間でもあるからね。ショックだけじゃなく怒りも湧くわよ。」

 

そう言った仲間に、最初に呟いたウマ娘は少し震えながら続けた。

「いや、ルソー先輩が見て激怒していたのは、“故障者が出たらレースは中断するべき”とか、“大本命が故障したレースの価値は低い”とか、そういうニュースのものだったわ。」

 

…え?

その会話を、病室の外を通りかかった椎菜が聞いていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

4年前の秋、トレセン学園。

 

 

「疲れました…」

放課後の練習中、坂路でのトレーニングを行っていたシグナルライトは、疲れた様子で坂路上にぐだーと寝た。

 

「ちょっとシグナル、まだトレーニング中よ。」

彼女と一緒にトレーニングしているルソーは、呆れたようにシグナルを見た。

「早く起きなさい。ケンザン先輩やブライアン先輩に見つかったら叱られるわ。」

「は、はーい。」

シグナルはよろよろと立ち上がった。

「ルソーさん全然疲れてませんね。凄い体力で羨ましいです。」

「あんたが疲れるの早過ぎるだけ。長距離が得意なくせにだらしない。」

「むー、ルソーさんひどいです。」

「はいはい。さっさとトレーニング続けるわよ。それとも何、もう体力は黄信号なの?」

 

「むっ!」

シグナルは、急にシャキンとした。

「シグナルはいつでも青信号です!GoGoレッツゴー青信号です!」

そう言うと、先程までの疲れが嘘のように元気よく坂路を走りだした。

 

30分後。

「はあ…はあ、シグナルもうやめよー…。」

「ルソーさん!まだまだいきましょう!」

先程とは状況が逆転していた。

 

坂路を何本も走ってまだ余力あるシグナルに対し、ルソーは疲れきった様子で坂路上に腰をついていた。

「あんた、やっぱりスタミナあるわね…。」

「それは当たり前です!シグナルはいつでも青信号ですから!疲れ切ることなどないのです!」

さっき疲れきってたじゃん…

「キレはないけどさすがは体力バカだね、シグナルは。」

「キレがないは余計です。」

シグナルはぷくーと膨れながら、ルソーに手を伸ばした。

「ルソーさんもまだ青信号でしょう?まだ頑張りましょう!」

「無理。私もう青黄色の信号」

「そんな信号色はありません!」

 

「おいシグナル、もうそのへんにしておけ。」

練習の様子を観察をしていたトレーナーが、苦笑いしながら二人に声をかけた。

「これ以上やるとオーバーワークだ。デビュー戦間近で気合いが入ってるのは分かるが、やり過ぎて調整失敗したら元も子もない。」

「はーいトレーナー!」

シグナルは素直に答えると、ルソーの手を掴んで起こした。

 

ルソーを起こした後、シグナルは嬉しそうに笑った。

「うふっ!今日はシグナルの勝ちですね!」

「は?何が?」

「坂路での耐久勝負です!これでルソーさんとの坂路通算成績は、私の77勝65敗です!」

「あんたさっき白旗あげてたじゃん。」

「あげてません!シグナルは決して赤信号にはならないのです!」

「あーそうですか。」

ルソーは呆れたように頷き、それからちょっと意地悪そうな顔した。

「ま、坂路では私の方が分が悪いけど、平地でのマッチレースは何勝何敗だっけー?」

「ルソーさんの11勝、キセ(フジキセキ)さんの27勝です!」

「私とキセじゃない!私とあんたの成績だよ!」

「…私の4勝、ルソーさんの35勝です。」

「んー、よく聞こえないわねー?」

「知りません!」

少女のように頬を膨らませたシグナルは、プイっと悔しそうに背を向けるとルソーをおいてその場を走り去っていった。

ルソーは笑いながら、その背を追いかけた。

「確か私の30勝でシグナルの0勝だよねー?」

「違います!そんな極端な成績ではありません!私だって何度か勝ってます!」

「えー、じゃー何回くらい?」

「知りません!…くー今に見てて下さい、いつか平地の成績も私の青信号でいっぱいにしてやりますから!」

 

 

…それは、4年前のある日の記憶。

 

 

 

 

*****

 

 

 

再び、現在の療養施設。

 

…ゴールド、オフサイド先輩、勝手な行動を許してください。

 

自分の病室で、ルソーは患者服から制服に着替えていた。

その表情は恐ろしく蒼白で、これ以上ない位の怒りに満ちていた。

足元には、凄まじい力で捻られ引き裂かれた報道紙の残骸が散らばっていた。

 

「ルソー!」

突然病室の扉が開き、クッケン炎担当医師の椎菜が入って来た。

制服姿に着替え終えたルソーの姿を見るなり、椎菜は彼女が取ろうとしている行動が分かった。

「あなた、まさか…」

 

「止めないで下さい!」

椎菜が言葉を発する前に、ルソーは松葉杖を向けてそれを遮った。

「私はずっと耐えてきました!オフサイド先輩が侮辱された時も、クッケン炎の仲間達が理不尽に追い詰められていく中でも、私は必死に耐えて、仲間達を支えてきました。…ですが、今回のこればかりはもう無理です!」

ルソーは足元の、『故障者が出たレースは中断するべき』という内容が記された報道紙の残骸を踏みにじった。

「最悪です!動機が奸悪です!これはレースに散った同胞達への凄まじい侮辱です!黙って耐えるなんてもう出来ません!」

ルソーの眼は血よりも紅く光っていた。

 

「待ちなさい!」

自分を押しのけて病室を飛び出したルソーを、椎菜は背後から必死に抱き止めた。

「離して下さい!」

「あなた、何するつもり⁉︎」

「決まってます!腐った性根でこんな声を上げた連中達を問い詰めにいくのです!場合によっては帰還も辞しません!」

そう叫んだルソーの脚からは、異様に険悪な気が溢れだしていた。

「駄目っ!絶対駄目っ!」

「離して椎菜先生!」

「離さないわ!誰か、誰か来てっ!助けてっ!」

 

椎菜の叫び声を聴いて、近くの病室にいたクッケン炎仲間のウマ娘達が現場に駆けつけた。

「どうしたんですか!」

「早く!ルソーを止めてっ!」

「は、はいっ!」

状況を見て愕然としていたウマ娘達は、椎菜の命令で一斉にルソーを取り押さえにかかった。

「ルソー先輩!一体何を⁉︎」

「うるさい!離してっ、お願い!」

 

5、6人の仲間達に抑え込まれながら、ルソーは眼を血走らせ、松葉杖を振り回してもがき続けた。

脚が危ない…

暴れ続けるルソーの状態を見て、椎菜は決断した。

「ルソーを床に抑えつけて!」

「っやめろ!離せっ!何をするっ」

「ルソー先輩!落ち着いて下さい!」

「退いて!」

ルソーが皆に床に押さえつけられ、、身動きがとれなくなった一瞬、椎菜は素早く注射器を取り出し、即座にそれを彼女の二の腕に突きたてた。

 

「あっ…」

「大丈夫、これは麻酔よ…」

注射を見て凍りついた患者達を安心させるように説明すると、椎菜は額の汗を拭いながら、床に抑え込まれているルソーを見た。

「椎菜…せんせ…」

ルソーは愕然とした眼で、片腕を伸ばし椎菜の胸ぐらを掴んだ。

「なんで…止めたん…ですか…」

「ごめん。でも、あなたを行かせる訳にはいかないの…。」

胸ぐらを掴んだルソーの手を両掌に包んだ椎菜の眼から、涙が溢れだしていた。

「あなたまで…不幸になって欲しくないの…」

 

「……。」

薬が効いてきたのか、ルソーの腕が力なく椎菜の手から落ちた。

後輩達が離れた後も仰向けに倒れたまま、次第に意識朦朧としてきた彼女の首元に椎菜は涙を溢し、床に両手をついた。

「…まだ、耐えて。お願いだから、どうか…どうか…。」

 

…。

泣き崩れて懇願する椎菜を目の前に、意識を失いかかったルソーの眼からも涙が溢れ、頬を横につたって床に滴り落ちた。

「…ねえ……シグナル…」

輝きを失った彼女の眼は、虚空へ向けられた。

虚空を見つめたまま、彼女の唇からは、震えた声がもれていた。

「…私達も…必死に…生きてるんだよね……シグナル……そうだよね……」

その言葉を最後に、ルソーは意識を失った。

意識を失った後も、彼女の頬には涙がつたっていた。

 

「…。」

椎菜はルソーの涙をハンカチで拭き取ると、ぐったりした身体を抱き上げ、この状況に茫然としたままのウマ娘達に眼を向けた。

「ありがと、助かったわ。もう戻って大丈夫よ。」

「あの、これは…」

「今は聞かないで。また改めて話すわ。」

尋ねたいことだらけの彼女達の質問を逸らし、椎菜は目元を拭いながら続けた。

「ルソーのことは心配しないで。私が看護するから。…このことは誰にも話さないで。」

 

「分かりました。」

ルソーのことがとても心配そうだったが、彼女達は素直に頷き、病室へと戻っていった。

 



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心底(1)

*****

 

場所は変わり、喫茶店『祝福』。

店の入り口前には、当分休店するとの張り紙が貼られていた。

 

誰もいないしんとした店内の一席で、ライスはコーヒーを飲みながら報道紙を読んでいた。

 

やはり、再燃しましたね。

オフサイドさんの栄光の否定・歓喜への糾弾・更には、レース自体への疑問符まで出ましたか。

先の天皇賞後よりも、深刻なことになりそうです。

 

でも、少し安心しました。

ライスは報道紙を置き、コーヒーを一口飲んだ。

もう騒動は終わったことにされる方が不安でしたから…

そう思った彼女の眼は、妖しい蒼芒を帯びていた。

 

 

卓上には報道紙以外に、昨夜ブルボンから渡された、マックイーンからの手紙が置かれていた。

既に読み終えていたが、ライスはそれを再び手に取った。

 

 

『ライスシャワーへ

 

しばらく会えなくなりますので、手紙でお伝えさせていただきます。

 

先日まで、オフサイドの件に関して何度も私の相談相手になって下さった事に、深く感謝します。

またその際、幾つもの提言をしてくれたこともお礼いたします。

 

ですが、一つお願いがあります。

騒動が再燃した際、独断での行動は決してしないで下さい。

 

数度の相談をしたことで既にお気づきでしょうが、この件に対する私とあなたの思いは同じではあるものの、対処の方法や結末の青写真に関しては意見が相違しています。

もしあなたが自身の意見を行動に移した場合、私達の行動に支障が出ることは必至です。

それだけは避けたいのです。

 

これは、あなたの戦友であり親友でもある私からのお願いではありません。

現役を退いた元生徒ライスシャワーへの、トレセン学園現生徒会長メジロマックイーンからの要求です。

もしこれを聞き入れず、あなたが独断行動をとった際は、こちらも相応の処置を取らせて頂きます。

 

宜しくお願いします。』

 

 

 

“行動を慎んで下さい”、ですか…

ライスは手紙を置き、蒼芒を閉じて思考に耽った。

 

文面の通り、マックイーンとライスはこの騒動に対して、“オフサイド&スズカの二人とも不幸にさせない”という覚悟をもって臨んでいたが、目指す結末や方法に相違があった。

特に、現状何も知らないサイレンススズカに対して騒動を隠し切るか否かで、考えが合わなかった。

マックイーンは、スズカの身の為にもそれを絶対に隠し通す方針。

一方のライスは、まだはっきりと明言してはいないが、彼女にそれを教えるべきという考えだった。

 

立場の違いもあるのでしょうか…

スズカさんを守ろうとするマックイーンさんと、スズカさんも知らねばならないという私の意見が違うのは…

 

 

メジロマックイーンとライスシャワー。

二人とも、現役時代はウマ娘史に残る人気と実績をあげた大スターで、そこはあまり変わらない。

だが今は、一喫茶店の店主でしかないライスに対し、マックイーンは数千人のウマ娘達を束ねるトレセン学園の生徒会長。

現在、立場による責任の大きさは全然違う。

 

もしこの騒動に関わった際に、ライスが何か失敗しても、それは彼女個人のことだけで済む。

だがもしマックイーンが失敗したら、彼女個人だけでなく学園全体に影響を与える。

勿論個人だけでも、失敗に対する批判や追及は桁違いだろうけど。

 

だから、立場の重い人達は穏やかさを最優先して行動するんだ…

ライスはコーヒーを再び飲んだ。

それはその人達の人格(ウマ娘格)がどうこうというより、その重い立場の恐ろしさがそうさせているのだろう。

今回の騒動で、学園側の対応が後手後手に回ってしまったのもそれが理由だとみている(しかも学園内では意見対立まで起きてたし)。

勿論、そのせいでオフサイドさんや『フォアマン』があのような状態にされてしまった、その責任は負わなければならないかもしれないけど。

ライスは責める気になれなかった。

自身は騒動時に何も出来なかったし、…それに、もし仮に自分が生徒会長の立場だったらどう対応しただろうか。

史上でも類のない、あの膨大で異様なうねりを前に、毅然とした態度を取れただろうか。

 

無理ですね、私では多分何も出来ません。

 

私と違い、マックイーンさんは凄いです。

カップを持ったまま、ライスは思った。

騒動の対応は失敗したが、その後は責務を全うしようと必死になってる。

学園が受けた被害への対応、意見が相違する理事会との折衝、そして何より、オフサイドの有馬記念出走の為の準備と根回しだ。

生徒会を団結させてそれを直前まで隠し通し、公表と同時に報道規制を示唆(既に療養施設には昨日よりそれが敷かれている)、更には、先の騒動で学園が受けた被害をカードに、法的措置をちらつかせて報道&世論を牽制しようとしてる。

再燃した異様なうねりを、一身で受け止める覚悟だ。

無論怠りなく、オフサイドの身の安全も考えてる。

私には、そこまで出来ません。

 

勿論、この異様なうねりが簡単におさまるとは思えない。

何しろ数が膨大な上、かなり本気でオフサイドを排除しようとしてる者も多いのだから。

だけど、マックイーンさんだって引かないだろう。

退路を断つ為、全責任を背負うと公言してるし…それに、彼女は単に生徒会長なだけでなく、メジロ家の名誉も背負ってる。

ウマ娘界を長年背負ってきた名族の誇りにかけても、闘い抜く気だ。

 

トレセン学園の生徒達も、そして彼女の仲間である生徒会の者達も皆、マックイーンのその姿勢を支持し、信じていると思う。

勿論、ライスだって信じたい。

彼女の立場や覚悟を尊重したい。

 

けど、やはりどうしても、スズカに騒動を隠し切るという方針だけは、同意出来なかった。

これに同意出来ないのは、ウマ娘の中でライスだけかもしれないのだが。

 



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心底(2)

*****

 

同じ頃、トレセン学園の生徒会室には、マックイーンをはじめその他の生徒会役員数名が集まって、会議をしていた。

 

「…。」

会長椅子に座っているマックイーンの表情には、微かに疲労の色が滲んでいた。

彼女はつい先程まで、学園に押しかけた報道陣への対応をしており、その影響だった。

 

「マックイーン、大丈夫?」

彼女の顔色を見て、役員の一人で同じメジロ家の令嬢であるメジロパーマーが心配そうに声をかけた。

「大丈夫ですわパーマー。それにここでは生徒会長と呼びなさい。」

マックイーンは翠眼を冷徹に光らせた。

普段は穏和な雰囲気の強い彼女だが、今は霜のように張り詰めていた。

 

「ではヘリオス、現状の報告を。」

「はい。」

マックイーンの言葉に促され、ダイタクヘリオスが立ち上がった。

「昨日の有馬記念出走メンバー発表後、学園にかかってきた抗議電話の数は千回を超えています。現在も絶え間なくそれが続いてる状態で、ゼファーとトップガンがその対応にあたっています。」

「了解です。レース主催者や協賛者への対応はどうなってますか?」

「そちらは、ビワとルビーがあたっています。今のところ、レース開催に支障が出ることは無さそうですが、今後の状況次第では予断を許さないとのことです。」

「二人に、粘り強く対応を続けるよう伝えてください。」

二つの報告を聞いたマックイーンはそう言った後、ヘリオスとパーマーを見た。

「あなた方は引き続き、情報収集にあたって下さい。報道や世論の動向だけでなく、療養施設・富士山麓の状況も含めて。宜しくお願いしますわ。」

「分かりました。」

二人はマックイーンの指示に頷き、生徒会室を出ていった。

 

ふう…

パーマーとヘリオスが出ていった後、マックイーンは会長席に座ったまま、額に指あててしばらく休んでいた。

少し、疲れましたわ。

騒動再燃して間もないのにだらしない、他の役員達の方が大変なのにと内心で自らを叱りつけたが、ちょっと疲れた。

 

さっきの、報道陣への対応が、かなり精神にきた。

 

 

 

 

数十分前。

 

マックイーンは生徒会長として、オフサイドの有馬記念出走に対する見解を報道陣に伝えた。

当然、オフサイド出走に疑問を呈する報道陣と言葉の応酬になった。

 

「メジロマックイーン。あなたは、オフサイドトラップの出走に対して反対ではないと言うことですね?」

「はい。反対する理由がありませんわ。」

「反対する理由がない?あんなウマ娘格を疑うような問題発言をしたのに?」

「問題発言?なんのことですか?」

「は?優勝インタビュー中の“笑いが止まらない”発言に決まっているでしょう!」

「どこが問題発言なんでしょうか。優勝したウマ娘が喜びを表現するのは当然でしょう。」

「…観てないんですか?オフサイドは、サイレンススズカの故障を嘲笑していたんです。」

「そんな訳ありません。」

「本当ですよ!でなければ、同胞に悲劇が起きたのに笑えるわけがないでしょ!」

 

「あなた方は、我がメジロ家の先輩である、メジロデュレンをお忘れですか?」

興奮している記者達に対し、マックイーンは彼女らしい穏やかな口調で、つと話題を変えた。

「11年前、デュレンが勝った有馬記念では、1番人気のサクラスターオー先輩(デュレンは10番人気)がレース中に重傷を負って競走中止されるという痛ましい出来事がありました。ですが、デュレンをはじめ我が一族の者は、表彰式で歓喜を現していました。当時そのことは全く咎められませんでしたが、何故今回のオフサイドトラップの言動は咎めるのですか?」

 

「それは…。」

「“それは”、何でしょうか。」

一瞬言葉が詰まった記者に、マックイーンは言葉を続けた。

「まさか実は、デュレン達もスターオー先輩の故障を笑っていたとお思いなんですか?」

 

「オフサイドとは違います。」

マックイーンのその言葉に、別の記者が答えた。

「デュレンは、スターオーの故障を笑っていません。メジロ家の人達もそうです。」

 

「あら、オフサイドトラップと違うと言い切れる根拠はなんでしょうか?」

マックイーンの尋ねに、その記者はこう答えた。

「デュレンは、泣いて喜んでいましたから。オフサイドは泣いてません。」

 

「…はい?」

呆気に取られかけたマックイーンに対し、記者は続けた。

「メジロデュレンは、悲劇が起きた場内の空気をちゃんと読んで、喜びを表現しました。オフサイドトラップとは全然違います。100歩譲って、彼女がスズカの怪我を嘲笑してなかったとしても、あの喜び方は皆の気分を害させるものと言わざるを得ない軽率なものです。」

 

記者が言葉を終えるより早く、更に別の記者が口を開いた。

「それにデュレンの場合は、メジロ家初の有馬記念制覇でもありましたし、表彰式では数年前に亡くなったメジロ家の大恩人の遺影を掲げて表彰台に上がってました。それは感動的でしたし、メジロ家の人達も感涙に咽んでいたのを記憶しています。その光景は非常に絵になっており、スターオーの悲劇にショックを受けてた観衆やファンの心を癒してくれました。だから皆、デュレン…いや、メジロ家悲願の栄光を称賛し祝福したのです。だから、彼女達がスターオーの故障を喜んだなんて、誰一人として思ってもいません。」

 

「…。」

ずっと穏和だったマックイーンの表情が、僅かに硬った。

称賛したとの言葉の陰に、ものすごい侮辱のようなものを感じたから。

 

彼女の表情が変わったのを見逃さず、記者陣は言葉を続けた。

「それに、その有馬記念と今回の天皇賞・秋はレースの内容も全然違います。」

「…。」

「スターオーもスズカも同じ一番人気ですが、支持の高さが違います(スズカは1倍台・スターオーは4倍台)また、優勝したデュレンも人気こそ低かったですが、かつては菊花賞を制した実力者。無実績かつ無名のオフサイドとは比べられません(デュレンは10番人気だが24倍・オフサイドは6番人気だが42倍)。デュレンの優勝は、実力を発揮したものです。オフサイドのように、大本命の怪我の恩恵で勝ったものでもありません。」

 

記者陣が言葉を並べる最中から、マックイーンの後ろ腰に組んでいる両手が、青筋をたてて震えはじめていた。

 

 



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心底(3)

マックイーンの様子が明らかに変わっていく中、記者達はなおも言葉を続けた。

 

「デュレンと引き換え、オフサイドの勝利は完全なラッキーです。」

「スズカが大怪我を負う前の時点で、既にレースの大勢は決してました。」

「残り800m程の時点で、後続との差は15バ身、それも単独の2番手との差で、更に10バ身後方にオフサイド以下という戦況でしたから。これまでのスズカのレースぶりからしても…」

 

「その口を閉じて下さい。」

記者達の言葉を遮り、マックイーンは唇を震わせた。

深い大自然のような翠眼が、怒りに燃え上がっていた。

「無名?無実績?よくもそのようなことが言えますわ。レースの上では、そんなもの何の関係もありません。」

知名や実績だけで勝負が決まるなら、私はダイユウサク先輩に負ける訳がなかった。

「こんなこと言いたくはありませんでしたが、あなた方はオフサイドトラップがどのような競走人生を歩まれてきたかご存知ないのですか?それを知っていれば…」

 

「勿論知ってます。」

怒りを隠しきれずに尋ねたマックイーンに対し、記者の一人がこちらも声を震わせて答えてきた。

「知ってるに決まってるじゃないですか。」

「勿論!」

「みんな知ってますよ。オフサイドトラップが3度のクッケン炎を乗り越えてきたウマ娘だということは。」

他の記者達も、これまでと違う感情を込めて口々に言った。

 

…知っていた?

マックイーンは湧き上がる激怒を抑えつつ、意外の念で言葉を続けた。

「知っていたのなら、なぜここまでオフサイドトラップを攻撃するのですか?」

「彼女には、心の底から失望したからです。」

「失望?」

「あまりにも軽薄かつ常識を疑われる言動をしたからです。」

 

記者達は、険悪な様子で言葉を続けた。

「オフサイドトラップ。同世代でも特に柔軟で優れた素質の持ち主としてデビュー。しかしながら2年生の夏以降は、度重なるクッケン炎や故障に苦しみ、目立った実績を挙げることは出来ないまま長期離脱を繰り返して、しばらくは勝利からも見放される。だが諦めることなく治療と復帰を繰り返した末、今夏6年生にして3年半ぶりの勝利を初重賞制覇で飾る。そして遂に、2年生時のダービー以来4年半ぶりのG1レースであるこの天皇賞・秋への切符を手にする。実績が目立たないので知名度は低いですが、まごうことなき名ウマ娘です。」

 

「よくご存知ではありませんか。」

「天皇賞・秋に出走するウマ娘達を調べるのは当然ですから。」

少し落ち着いたが、依然燃えているマックイーンに対し、記者達は険悪さを隠そうとせずにー続けた。

「我々も、最近までオフサイドのことはあまり知りませんでしたが、その経歴を知ると非常に敬意を覚えました。今回の天皇賞・秋のレース、注目はサイレンススズカが中心となったのは当然なのですが、レース後にはオフサイドのことも大きく取り上げるつもりでした。」

「無論、スズカの勝利は固いでしょうけど、例えオフサイドが敗れても、クッケン炎を乗り越えてここまで復活した事実は称賛されるものです。実際、天皇賞後に彼女を称える記事を用意してましたから。」

記者の一人が、スマホに下書きのまま残していたそれを見せた。

〈『神速のウマ娘・サイレンススズカ』の快挙の陰で、感動の復活を果たした『不屈のウマ娘・オフサイドトラップ』〉

 

「…。」

それを見、マックイーンは淡々とした口調で尋ねた。

「そこまでオフサイドトラップのことを知ってるのなら、何故全く真逆の仕打ちを彼女にしてるのですか?」

「最初に言ったでしょう。あまりにもひどい言動をしたからです。」

 

スマホをしまった後、記者達は険悪に満ちた雰囲気から、重苦しい雰囲気に変わった。

「クッケン炎は『不治の病』。これまでにも幾多のスターを含め、多くの現役ウマ娘達がその病のせいでターフを奪われました。それを3度も患い、ターフを走れない期間が長期あったオフサイドなら、その苦しみが誰よりも分かる筈です。また、他の怪我した者達への思いやりも非常に強い筈です。…我々はそう思ってました。」

「サイレンススズカの悲劇は本当にショックで、大観衆も私達も絶望のどん底に叩き落とされました。ですが、オフサイドトラップが優勝したことで、少し絶望が和らぎかけたんです。…彼女なら優勝インタビューで、我々のショックを癒してくれるような言葉を述べてくれるだろうと。信じたくない絶望の現実の中で、一縷の望みを託しました。」

 

「それなのに…」

記者の中で特に若い女子記者が、涙を滲ませながら唇を噛み締めた。

「オフサイドトラップの口から出てきた言葉は、“気分が良い、笑いが止まらない”。敬意も望みも何もかも、全てを消し去る暴言でした。」

 

 

*****

 

なんて展開でしょうか…

 

会長席で眼を瞑ったまま、マックイーンは深い溜息を吐いた。

こんな理不尽なことになっていたとは…

 



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心底(4)

*****

 

「理不尽も甚だしいですわ。」

 

“オフサイドトラップに失望した”

報道陣の、オフサイドに対するその言葉を聞いたマックイーンは、まさかの事実に衝撃を受けつつも、言葉を続けた。

 

「オフサイドトラップは、あなた方も思っていたように心優しきウマ娘で間違いないですわ。」

「信じられません。いや、例え私達が信じたとしても、大勢の人間達にどう信じさせろというのですか?サイレンススズカが、あまりにも痛ましい姿でターフ上に倒れ、10数万人の大観衆が悲嘆にくれていたというのに、あのような発言をした彼女が心優しいと?」

「間違いないです。彼女のこれまでの競走生活をもっと詳しく調べれば…」

 

「無理です。」

マックイーンの言葉を遮り、さっき涙を滲ませた女子記者が口を開いた。

「例え彼女がこれまで、まるで聖ウマ娘のような日々を送ってきたとしても、数千万のファンの殆どは、オフサイドトラップの過去など知りません。そのファン達が初めて目にした彼女の姿は、スズカの悲劇で沈痛している雰囲気の中で一人大喜びしていた姿なのです。その姿が、あまりにも皆の耳目に強烈に焼き付いてしまったのです。だから…どんなに過去の彼女を称えようと、“でもオフサイドは、スズカの悲劇で大笑いしてたじゃないか。長年闘病を続けてきたその集大成があの発言か”と否定されてしまうのです。」

 

 

「一つ、例えてみましょう。」

女子記者を慰めながら、今度は別の記者が口を開いた。

「マックイーン、あなたは確かプロ野球の某球団の大ファンですね?」

「え…ええ。」

「兎でしたっけ?」

「いえ、亀です。」

「亀?」

「失礼、虎です。」

「ああそうでした。…もし、あなたが応援しているチームに、スター選手がいたとしましょう。その選手が二刀流で試合に出場し、打で活躍し投手としても好投し、何十年ぶりかの快挙を目前にしながら、某相手バッターに打たれた球が頭に直撃して、快挙はおろか今後の選手生命すら危ぶまれる状態になって降板したとします。その後、試合は相手チームが勝ち、ヒーローインタビューにその打球を離った選手が選ばれたとします。そのインタビューでその選手が、その打席を振り返って“会心の一打でした!最高です!”とでも発言したら、あなたはどう思われますか?」

「…勝負の世界ですわ。責めることは出来ません。」

「だとしても、良い気持ちはしないでしょう?ましてやその選手は、実は他人に対して労りの心が厚いと言われても、信じられますか?」

「…。」

 

「いや、この例えの方が良い。」

別の記者が、口を開いた。

「フィギュアスケートはご存知ですか?」

「スケート…ルドルフ先輩とオグリ先輩の…」

「違う違う、アイスではなくフィギュア。」

お互い少なからず興奮しているせいか、やや話が噛み合っていない。

 

「フィギュアスケート…世界大会等はTVで観たことはありますわ。」

「そのフィギュアスケートの世界大会で、最高得点を更新し続ける圧倒的な大本命の新スター選手がいたとする。その選手は、従来の演技でも優勝は確実だったにも関わらず、更なる高みの演技と得点を挙げようとし、後半まで完璧にそれをやり遂げながら、最後の最後の何でもない所でアクシデントに遭い、脚に大怪我して演技中止となってしまったとする。その後その大会は、長年怪我に苦しんだ無名のベテラン選手が歴代最高とは程遠い点数ながら優勝し、だが優勝インタビューで怪我した大本命の存在を無視して“気分が良い、笑いが止まらない”と発言したら、『この選手は怪我に苦しみながら復活した不屈の選手なんだ』と心から思い、祝福出来る?」

 

「この例えならどうですか?」

…まだあるのですか。

「水泳界に、至宝と呼ばれる選手がいます。その選手が国内最大の水泳大会で、他の選手達を大きく引き離し、驚異のレコードタイムを叩きだす直前で、突然思いもよらない病気が発症して溺れてしまい、命が危険な状態になった…レース結果はその選手の先輩が凡タイムで優勝し、優勝インタビューで全くその選手のことを顧みない…」

 

 

「もう結構ですわ。」

マックイーンは我慢出来なくなったように記者達の言葉を遮り、翠眼を険しく光らせたまま改めて連中達を見据えた。

「どのような言葉を並べようと、どのような言い分があろうと、我々生徒会はオフサイドトラップの有馬記念出走を止めません。無論なんの処分も与えません。そして、オフサイドトラップを理不尽に追い詰めたあなた方報道陣・世論に対して相応の処置をとる所存ですわ。どうぞ記事にでもなんでもされて結構です。オフサイドトラップを守ると決めたこのメジロマックイーンの決意は揺るぎませんから。」

レースに絶対はなくとも、このマックイーンの決意には絶対がありますわ。

少々肩で息をしながらだったが、マックイーンは断固とした口調でそう言った。

 

「ご心配なく。このことは記事にしません。」

マックイーンと対照的に、記者達は一様に落ち着いた様子に戻っていた。

「ですが、相応の処置をとってもらって結構です。我々だって、生半可な思いでオフサイドトラップを糾弾してる訳ではありませんから。解雇も覚悟して、胸に辞表を入れてますし。」

そう言った後、記者達はマックイーンを改めて見据えた。

「マックイーン、少し落ち着いたら、もう一度考えて下さい。あのオフサイドの言動を目の当たりにした時の、十数万人の観衆やTVで観ていた数千万のファン達の心境を。」

最後にそう告げると、記者達は去っていった。

 

 

 

*****

 

 

 

なんですの、この展開。

同じことを何度も思いながら、マックイーンは眼を開いた。

ひどいにも程がありますわ、救いがなさすぎます。

理不尽を正当化するなんて、あってはならないことですわ。

 

 

だけど…

マックイーンはつと立ち上がり、生徒会室の窓辺に立った。

 

怒りに震えながらも、記者が述べた理不尽な言葉の中で、マックイーンの胸に刺さったものがあった。

“数千万のファンは、オフサイドトラップがどんなウマ娘なのか知りません。そのファン達が初めて目にした彼女の姿は、スズカの悲劇で沈痛している雰囲気の中で一人大喜びしていた姿なんです。その姿が、あまりにも強く焼き付いてしまったのです”

 

「…。」

窓辺から見える方々でちらほらいるトレーニング中のウマ娘達の姿を眺めながら、マックイーンは思考を続けた。

 

私達はウマ娘の一番深い世界で生きてるから気づかないけど…

数千万のファンはウマ娘の世界(ターフ)で生きてるわけではないから、全員がこの世界を深く理解し、また多くのウマ娘達の名前を知ってるわけではない。

恐らく、今いる数千万のファン全員が共通して知っている現役ウマ娘の名は(天皇賞・秋前の時点で)、サイレンススズカやその他のスターウマ娘のみで、多分20人にも満たないだろう(在学生徒総数は約6000人)。

実績がそのまま知名度になる点、オフサイドトラップは直前にG3レースを2勝したのみの6年生ウマ娘であるから、かなり熱心なファンでない限りは彼女の存在は知らなくて不思議でない。

要するに、殆どのファンにとってオフサイドトラップは未知のウマ娘で、初めて見た言動が、同胞の生命が危険な状況下での“笑いが止まらない”発言だったということ。

 

善悪抜きにして、その事実は認めざるを得なかった。

 

その数千万の人間達が、オフサイドトラップに良くない感情を抱くのは、…或いは当然なんでしょうか?

我々レースで戦っているウマ娘は、殆ど疑問も覚えなかったのに…

 

 

オフサイドトラップに対する理不尽な仕打ちは許せない。

タイム云々など、レースの尊厳をおとすようなことを持ち出したことも許せない。

 

だけど、これが…

人間とウマ娘の、理解し合える範囲の限界なのか…

 

トレセン学園生徒会長メジロマックイーンは、窓ガラスに腕と拳を押し当てた。

 

 



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心底(5)

 

他にも、いくつか人間のスポーツに例えた仮定の話を持ち出された。

 

「野球ファンの目線ですか…。」

心を落ち着かせながら、マックイーンはポツリと呟いた。

 

さっき記者に言われたように、マックイーンはプロ野球の某球団の大ファン。

TV観戦や現地観戦などして応援することも多い。

確かに、試合でチームの主力打者が死球を受けた時は「あっ」と思うし、そのまま負傷交代を余儀なくされたら、当てた相手投手に思いっきり静かに怒りたくなる。

ましてや低迷中のチームで唯一人最多安打のタイトル争いをしてた選手が手首にでも死球を受けて戦線離脱を余儀なくされ、その上試合に負け、その相手投手が勝ち投手になってヒーローインタビューで、その死球に全く触れず“会心の投球が出来ました、最高です!”などとでかい声で言った暁には、場内真っ暗にして鐘の音と共に登場してツームストンでも食らわせたくなるかもしれない。

でもそれは一ファンの立場としてだし、第一思ってもそんな行動はしない。

そもそも出来る訳ない。

 

それ以前に、無論自身には善悪の区別もあるので、どのようなことがあろうと選手を理不尽には責めない。

現地観戦中、相手投手が途中降板した時だって、一定の人達のように『蛍の◯』とか歌わず、一人で歌でも口ずさんでる。

だから例え、酷い負け方して相手選手容赦ないインタビューを聴くことになろうと、勝負事だからそれを受け入れる覚悟はある。

“次は1回10失点KO&即2軍行きでお返ししましょう”とは呟くかもしれんけど。

 

それにしても…

マックイーンは窓ガラスから手を離し、悔しそうな表情に変わった。

随分と、このメジロマックイーンに対して一方的に言ってくれましたね。

 

私だって…

『記者陣…あなた方はプロでしょう。世でも大きく認められている栄光を称えるのは簡単ですわ。理不尽な仕打ちを受けた者を守るのが本来の務めであるし、そこが生き甲斐なのでは?ましてや憎しみまで入れて、誤った認識をしている世間を扇動して無実の者に理不尽な攻撃するとは何事ですか!笑いが止まらない発言で全て台無し?世はそれで全てを否定しにかかってる!その発言の真意を解き明かし、世の過ちを正すのが報道本来の姿でしょう!数千万の世間を敵にするのが怖かったのか何なのか知らないですが、…〈死神〉と闘い続けたオフサイドトラップの爪の垢でも煎じて飲みなさい!』

と、思いっきり言ってやりたかった。

 

けど…。

マックイーンは表情を冷静に戻し、窓の外に眼を向けた。

何度も思っているように、世論&報道が暴走してしまった責任は騒動発生時に毅然とした対応を取れなかった我々学園側にもある。

色々と言い訳はあるが、だとしても当初から事態を予測し完璧な対応を取れていれば、世論を鎮静化出来たし、報道もオフサイドトラップへの糾弾をすることはなかっただろう。

対応のまずさが、世論&報道陣を“我々が正しい、オフサイドトラップが悪い”と暴走を助長させてしまった。

 

それに、マックイーンは報道の世界のことは殆ど知らない。

その世界で生きたことがないからだ。

なのに、『報道とはこうあるべき』などと言うのはどうかと思うし、もしそれが過ちだったら、自分もオフサイドトラップへの糾弾と同じことをしてることになる。

 

 

とにかく、報道陣(&世論も)が全く行動を変えないと分かった以上、これ以上彼らと争ってもしょうがないですわ。

 

私の義務は、状況を見極め、適切な行動&指令をすること。

それを怠らないようにしなければ。

 

限りなく可能性は低いが、あの報道陣達も、もしかするとオフサイドトラップの“笑いが止まらない”を始めとした言動の真意を分かっているのかもしれませんし。

 

 

「オフサイドトラップの言動の“真意”…」

いや、ないですわ。

マックイーンは淑女的な容貌のうちに再び翠眼を光らせた。

 

この真意に気づくのは、非常に過酷な経験と、それを乗り越えた経験が必要だから。

何故なら、その真意に辿り着く前に、あまりにも残酷な真実が待ち受けてますから…

 

サイレンススズカの悲劇を嘲笑し、その恩恵に喜んだのではと思ってしまってる世論・報道陣達には、真意に辿り着くなど到底不可能です。

 

そして、同胞であるウマ娘達の多くですら、それに気づいていません。

何故なら、彼女達の殆どが思っているように、遂に掴んだ栄光に歓喜して出た言動ではないのですから。

 

恐らくその真意に気づいてるのは、私や当人のオフサイドトラップの他では、生徒会副会長のダイイチルビー・療養施設のホッカイルソー・富士山麓のフジヤマケンザン・『祝福』のライスシャワー・海外療養中のサクラローレル。

 

以上のウマ娘達とそして、もし彼女達にも届いてるのなら、ナリタブライアンとシグナルライトやその他ターフに散った幾多のウマ娘達。

 

そのくらいの、極僅かだと思う。

 

本意ではない…

心を失ったオフサイドトラップでも、それが公にされることを望んでいないでしょうが…現状ここまでに至った以上、その残酷な真実と、真意を、公に表さなければならないのでしょうか…

 

 

 

重たい気持ちで、マックイーンがそう思った時だった。

…!

不意に、マックイーンは息を呑んだ。

目の前の窓ガラスに、銀髪のウマ娘の姿が映ったから。

 

…クラスニー…?

マックイーンの淑女的表情が真っ青になり、全身を恐怖に震わせて後退りした。

同時に、彼女の脳裏に無数の記憶音声が、蜘蛛の糸のように張りめぐった。

 

 

 

 

 

“やっと闘えるね!”

“楽しみですわ”

“雨かー、でも負けないよ”

“私の力、たっぷりお見せしますわ”

“スタートで一気に行くわ!”

“私も遅れません!”

 

“フフ、どうでしたか?”

“ハア…ハア…強すぎ!”

“バ場が味方しましたわ”

“くー、でも仕方ない!”

“次はあなたの舞台で受けて立ちますわ、クラスニー”

“くー言ってくれるわね…でもあなたのそんな所が好きよ。マックイーン!”

 

“え…?”

“…なに…これ…?”

“何故?…納得出来ませんわ!”

“…嘘…でしょ…”

“…どうして、私がこんな目に…”

“…………”

”…おめでとう…クラスニー…”

“…………”

 

 

“…なんで、こんなことになっちゃたんだろうね…”

“………”

“…辛い…辛いよ…”

“………”

“…っ何か答えてよマックイーンっ!”

“……ごめんなさい…”

 

“…私達…もう会わない方が良いかな…”

“……そうですね…”

 

 

“『怪我の影響で卒業することになった。マックイーンは頑張ってね。春秋天皇賞制覇出来るよう祈ってるわ!』”

“………”

 

 

“…クラスニー⁉︎…”

“…あはは、無様でしょ?”

“…なんで?…どうしてこんなことに?”

“…あんなレースで盾を手にした報いだわ…”

 

 

“クラスニー!しっかりして!”

“…もう…駄目だわ…私…”

“まだ間に合うわ!医者を…早くっ…”

“…マ…マックイーン…”

“…クラスニー?”

“…ごめ…んね……”

“え…?”

“………”

“…クラ…スニー…?”

“………”

“…嫌よ…嫌…クラスニー…目を覚ましてよ!プレクラスニーッ!…”

 

 

 

 

 

コンコン。

「失礼します。」

 

生徒会室のドアをノックする音を聴き、マックイーンは我に返った。

夕陽が差し込む窓ガラスには、自分の姿しか映っていない。

…。

マックイーンはゆっくり深呼吸し、ハンカチを取り出して額に掻いた汗を丁寧に拭った。

 

「会長、おられないのですか?」

「どうぞ。」

会長椅子に座ってから、マックイーンは来室者の声に答えた。

 



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心底(6)

 

「失礼します。」

生徒会室に入ってきたのはブルボンだった。

 

「どうしたのですか。」

生徒会役員の一人である彼女には、先に出てきた役員達とは別のある役目を指令している。

何の用件かと聞くと、ブルボンは一通のFAX用紙を取り出しながら答えた。

「生徒会長宛に、療養施設の渡辺椎菜医師からの通知が届きました。」

 

「…。」

用紙を受け取ると、ブルボンが待機する前でマックイーンは無言でその内容に眼を通した。

 

『今朝、レース中断云々の報道を見たホッカイルソーが正気を失う程に激昂し、施設を飛び出して報道陣達と刺し違えることを示唆する行動をとりかけました。なんとか寸前でそれを食い止め、現在彼女は私の看護下に置いています。外部には一切情報は漏れてませんが、一応報告までに。』

 

やはり…

マックイーンは用紙を置き、珍しく表情を歪ませて唇を噛んだ。

 

それはそうですわ。

レース中断云々の報道は、内容もさることながら、それを出すタイミングがあまりにも悪い。

レース中断の内容だけなら…まだこちらも冷静に対応出来たかもしれませんが、タイミングと動機が醜悪過ぎます。

これを報道した者や支持した者は一度、この学園の奥地にある『碑』に参拝にくるべきですわ。

これまでどれだけのウマ娘達が未来の為に命懸けで走り、しかしその半ばでレースに散ってきたか。

それを目の当たりにすれば、どれだけその動機が愚かなことかよく分かるでしょう。

 

しかし、それにしても…

マックイーンは表情を戻し、再び用紙を見た。

“ルソーが正気を失う程激昂し、刺し違える行動を取りかけた”

あのホッカイルソーが、そこまでなりましたか。

 

ホッカイルソー。

オフサイドトラップとは1年後輩のチーム仲間で、経歴も実績も彼女とよく似てる。

大人しく真面目なオフサイドが病症仲間に尊敬されている存在なら、どちらかといえば陽気で激情家のルソーは病症仲間の姉貴分といった存在か。

更に彼女は、世界ウマ娘史でも伝説となっている某偉ウマ娘の、希少な末裔の一人。

ウマ娘の尊厳や誇り、使命を人一倍分かっている生徒の筈だ。

 

そんな彼女が、危険な行動をとった。

ちょっと信じらない。

彼女の経歴や療養施設での評判からしてそんな行動をとるようなウマ娘ではない筈だが…。

 

シグナルライト、ですか…

天皇賞・秋関係でもクッケン炎関係でもない。

ルソーが激昂したのはそれ関係以外考えられない。

 

マックイーンはあまり考え過ぎないようにした。

理由はなんであれ、彼女ほど忍耐の精神力が強いウマ娘がこのような行動をとった。

驚くと同時に、彼女達(クッケン炎)の間に拡がっている絶望感に慄然とした。

先週も、2人のクッケン炎発症生徒から退学届が提出されましたね。

 

しばし思考を続けた後、マックイーンは待機しているブルボンを見た。

「ブルボン。」

「はい。」

「今夜に、療養施設の渡辺椎菜医師と連絡が取れるよう準備をお願いします。あと、富士山麓のフジヤマケンザンにも同様のことを。遅い時刻でも構いません。パーマーとヘリオスには私から説明しておきます。」

「かしこまりました。」

指令を受け、ブルボンは生徒会室を出ていった。

 

 

渡辺医師…

長年、療養施設でクッケン炎専門の医師として奮闘している彼女とは、現役時代クッケン炎にこそ罹ったことないが怪我で療養した際に何度か会っており、引退後に生徒会員として所用で会うことも多くかなり顔見知りだった。

彼女が、療養施設でも特に貴重で重要な存在であることは知っている。

現状がかなり切迫することが明確になってきた以上、彼女と生徒会の意思疎通は非常に大切になってくる。

ここは直々に、私と彼女で連絡をとった方が良い。

 

そして、富士山麓のフジヤマケンザンとも慎重にコンタクトをとらねば。

勿論用件の相手はオフサイドトラップだが。

あのホッカイルソーですら正気を失うような行動をとった点、オフサイドトラップだって同じ行動を起こすとも限らない。

心を失ってしまった状態とはいえ、彼女の桁違いの精神力ならそのような行動は決して起こさないと信じているが…。

念のため、彼女の意思関係なく、ここはメジロ家で彼女を保護し調整させた方が良い。

我々よりケンザンが側にいた方が心が安全というならば、ケンザンにもメジロ家に来てもらう。そのことを彼女に伝えようかと考えていた。

 

 

「険しい道のりですわ…」

マックイーンは再び立ち上がり、暮れかかった夕陽に眼をやった。

まだ夕方でしたか…

 



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妖精の歌(1)

*****

 

深夜、療養施設。

 

何かしら…。

特別病室で就寝していたスズカは、不意にパチリと目を覚ました。

病室には彼女以外だれもいない。

だけど、何かの音が聴こえる気がするのだ。

 

隣にある医務室からではない。

外?

スズカは身を起こし、ベッドの傍らにある窓をゆっくりと開けた。

 

高原の冬の冷たい風がカーテンを揺らして室内にふわっと入ってきた。

それと一緒に、誰かの歌声が混じって聴こえるのが分かった。

この歌声は…

この歌声の主は、特別病室のすぐ上の屋上(スズカの病室は5階の施設最上階)で歌っているようだ。

 

寒風に混じりながらだが、その歌声は小さくもはっきり聴こえた。

この冬夜空の中にふさわしい、美しい歌声だ。

人なのかウマ娘なのかは分からないが、その声色は耳に覚えがある。

多分同じウマ娘だろうけど、誰だったかしら。

スズカは首を傾げつつ、冬の澄みきった空気とともに流れこんでくるその歌声に聴き入っていた。

 

 

 

その屋上。

柵のない一番奥の場所に腰掛け、夜景を眺めながら歌を口ずさんでいたのは、ルソーだった。

 

「…ラララ…ララララララ…ララララ…ララララ…ラララララーララ……」

 

チーム仲間のゴールドと似て、陽気で姉貴肌のルソー。

なので普段、暗い表情や悲しい表情は見せない。

だが今屋上でたった一人、施設の芝生広場と煉瓦の遊歩道を眼下に、高原と星空が重なった神秘的な夜景が拡がっているのを眼前に、歌を口ずさんでいる彼女の瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。

 

「…ララララー…ひくっ……ラララー…ララララーー… …ララララーー…ラ…うっ…ララ…ラー……」

歌の最後の方、ルソーの歌声は嗚咽混じりになっていた。

 

歌い終えた後も、彼女は何か独り言を言ってるのか口を何度か動かしただけで、しばらくその場から動かなかった。

 

やがて、彼女は眼元に指を当て、溢れそうだった涙を拭い払った。

そしてゆっくりと立ち上がり、一面の夜景を前にぽつり呟いた。

 

「…さよなら。」

 

 

 

 

*****

 

 

 

時刻は数時間前に遡る。

 

夕食の時間帯、療養施設の食堂では多くのウマ娘達が集まって夕食を食べていた。

 

療養施設といえども、食事の時間帯は結構賑やかだ。

特にここ最近は、とんでもない大食ウマ娘が施設で生活し始めたので一段と賑やかになってる。

言うまでもなくスペのことだ。

この日の彼女の夕食は、ニンジン定食7人前。それを水でも飲むかのような勢いで食べている。

それもすごく美味しそうに。

実力・人気共に学園屈指の彼女だが、フードファイターウマ娘としても学園最強レベルだろう。

 

「ごちそうさまでしたー!」

ご飯粒一つ残さず食べ終えると、スペは大満足そうに手を合わせた。

「スペ先輩、早いですねー…。」

彼女の傍らで食べていた患者ウマ娘達は、彼女の食べっぷりに感嘆と呆れが混じった表情をしていた。

「だって美味しいんですもん。」

スペは口元を綺麗にしながら思いっきりあっかるい笑顔で答えた。

「学園寮の食事もすごいですけど、ここの食事も最高です!皆さんが元気になる為にって愛情が凄く感じられて。」

「アハハ。でもスペはそれ以上元気にならなくてもいいじゃん。元気過ぎるとみんな吹き飛ばしちゃうわよ。」

「いえ!スズカさんを元気にする為にでしたら、もっとエネルギー補給が必要です。」

スペは口の手入れを終えて食器を下げると、

「では、皆さんまた明日!」

あっかるい声で場にいる患者ウマ娘の皆に挨拶し、食堂を出ていった。

 

「噂通り元気なウマ娘ね、スペシャルウィークは。」

スペが出ていった後、患者ウマ娘達は彼女のことを話題にしながら夕食を進めていた。

「ですね。まさに明るい天使って感じのウマ娘です。」

「でも、あれでいて実力は物凄いんだよね。」

「そうそう。ダービーの勝ちっぷりとかやばかったし。」

「憧れるなー、スペシャルウィーク先輩。」

患者ウマ娘達は、スズカの怪我に頻繁にここに訪れるようになったスペと親しくなっていた。

スペ自身も、スズカの事で頭がいっぱいではあったが、いずれスズカが彼女達とも生活することなども考慮し、自分も友達になりたいと考えているようだった。

…まあ単純にスペはウマ娘たらしなほどのウマ娘望というか魅力があるので、何も考えずに自然と親しくなっているのかもしれない。

 

 

ただ、スペと親しくなっているのは、殆どが怪我の患者ウマ娘達。

食堂の奥の方で、やや暗い表情を並べて食事している病気患者ウマ娘、特にクッケン炎(〈死神〉)の患者達とは、まだあまり親しくなっていない。

 

「スペ先輩、元気ですね。」

クッケン炎のウマ娘達も、スペの事を話題にしていた。

「ああ、羨ましいな。」

「怪我のウマ娘達とは、一気に親しくなってるね。彼女の明るさと魅力は凄いよ。ああいう子、うちの病棟にも欲しいね。」

「それは厳しいさ。この〈死神〉に取り憑かれたら最後、明るさとかとは無縁になる。」

「でもスペだったら、万が一この病気に罹ったとしても明るいままでいられるんじゃ…」

 

「絶対ないわ。」

言おうとしたウマ娘の言葉を、他のウマ娘が遮った。

「もし仮にスペが〈死神〉に罹ったら、即卒業するに決まってるわ。G1制した実績あるんだし、リスクが高い闘病なんてする訳ないよ。」

「そうね。」

別のウマ娘が、同意する様に頷いた。

「G1制覇とか大きな実績を挙げた後、〈死神〉に罹ったウマ娘の先輩達は数多くいたけど、殆どが闘病せずに引退してったもんね。」

古くはマルゼンスキー先輩、最近ではビワハヤヒデ先輩・ウイニングチケット先輩・ナリタブライアン先輩・マヤノトップガン先輩、みんな引退した。

「仕方ないよ。ていうか正しい選択だよ。だってこの〈死神〉に罹ったら、二度と全力で走れなくなるんだもん。そんなの、G1制覇した実力者ウマ娘には耐えられるわけない。それに、闘病を選択した先輩達だって…」

サクラチヨノオー先輩・ナリタタイシン先輩・ネーハイシーザー先輩…

彼女達は〈死神〉に屈せず闘病してターフに戻ったが、かつての栄光とは程遠い走りと敗北が続き、果てには〈死神〉再発、或いは自信喪失で引退した。

「…〈死神〉にボロボロにされるスターウマ娘の姿なんて見たくない、本人も周囲も悲しい。だから、〈死神〉に罹ったスターはターフを去るのが…凄く無念だろうけど正しいんだよ。」

 

「じゃあ私達は、なんでそんな無謀な闘病をしてるんだろうね…」

「当たり前じゃん、生きる為だよ。」

一人が、薄い笑みを浮かべて言った。

「私達はターフの実績もない、その他の能力や素質もない。生きる為には、〈死神〉を打ち破ってターフに立って勝って、実績を挙げるしかないんだもん。」

「可能性は限りなく低いけどね。」

 

「いーじゃん!まだ心は折れていないんだから!」

暗い言葉ばかりに耐えられなくなった一人が、不意に大きな声を出した。

「そりゃ辛いし、痛いし、おまけに治ると限らないし、もう苦しいことしかないけど、それでも諦めたくないもん!いや、まだ還りたくないの!」

こんな、レースとは世界一遠い最果ての場所で、絶望のまま還りたくない。

 

「ルソー先輩が言ってた。“まだ諦めたくないのなら、何か一つでも希望を持ちな”って。“どんな辛い時でも夢や希望をもつことは絶対に自由なんだから”って…。だから…私はまだ還ることを選ばないわ。例え可能性は1%以下でも…。」

明るい表情を浮かべたくても引き攣りを隠せずに言ったウマ娘の眼は真っ赤だった。

 

いつもの重い空気が食堂の一角に立ち込めた。

 

その空気の中、一人が周りを口を開いた。

「ルソー先輩は、ここにいないのかな?」

 

「ルソー先輩は、多分リートと食事しているわ。」

「リートと食事…」

そうか…

そういえば、そうだったね。

また、場の空気が重くなった。

「ルソー先輩、朝から体調不良で椎菜先生のとこで休んでたんじゃなかったっけ。」

「もう大分良くなったらしいわ。前から今晩リートと会うことは決めてたみたいだし、多少無理でもおしたんでしょ。」」

「すごいね、ルソー先輩。」

 

詳細は知らないが、体調不良の理由が何なのかは病室仲間全員分かっている。

それでも、後輩の為…いや、仲間の為に、心身を奮いたたせて。

「オフサイド先輩の生き様を誰よりも見てきたウマ娘だもんね、ルソー先輩は。」

 

 

 

その頃ルソーは、ある病症仲間の病室で、その病室で生活していたウマ娘と二人きりで食事をしていた。

 

そのウマ娘は、ルソーよりかなり後輩の2年生で、まだ幼さが残る生徒。

ピンク色の髪が特徴で、名前はエルフェンリート。

皆からは“リート”って呼ばれている。

 

彼女は昨年夏、入学間もない時にクッケン炎を発症し、以来ずっとここで療養を生活していた。

なので、まだレースの舞台にすら立ったことがなかった。

 



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妖精の歌(2)

 

「あなたの好物、ニンジンうどんなのね。」

 

病室内。

ベッドの傍らのテーブルで向かい合って夕食を食べながら、ルソーはリートに話しかけた。

「はい。私、麺類が好きなんです。」

「へー、珍しいね。ウマ娘は基本飯類好きが多いけど。」

「まだトレセンに入学する前、ジュニアスクールの帰りにお店でよく食べてて、それ以来好きになりました。」

答えながら、リートは麺をチュルチュルッと小気味良い音をたてて美味しそうに啜った。

スペと同い年のリート。

同年代の中ではスペもかなり子供っぽいが、リートは更に幼く見える。

麺を啜る仕草も、ジュニアスクールのウマ娘(人間で言う小学生)のような無邪気さが感じられた。

 

やがて、二人は夕食を食べ終えた。

 

食後にリートは、ベッドの枕元に置いてある写真立てをルソーに見せた。

その写真には、トレセン入学前のリートの他に、数人の人間の子供達が仲良く映っていた。

 

「これは?」

「地元の友達です。入学する直前に、みんなで記念にと写真を撮ったんです。」

「そうなんだ。」

仲良さそうね…

写真に映っている面々の笑顔を見て、ルソーは微笑んだ。

「この子達はみんな同い年なの?」

「いえ、みんな年齢は違います。でも友達です。…元々は、私が一番幼かったんですけどね…。」

2年前の、人間でいえば10歳くらいの自分の姿を見ながら、リートはポツリと呟いた。

 

ウマ娘は生まれてからの成長が早い。

今、リートは人間で言えば14〜15歳位の女子だが、年齢ではまだ6歳だ。

ウマ娘は生まれて以降、1年ごとに人間の3倍くらい成長する(3歳以降は2倍くらいになる)。

なので、リートは友達の中で一番の年下ながら、その成長ぶりでは彼女達の多くを追い越していた。

 

「入学後も、彼女達とは仲良いんだね。」

「はい。」

リートは写真を見つめながら、笑顔で頷いた。

「療養施設で生活を始めてからも、みんなからは多くの励ましの手紙を貰いました。時には内緒の相談事とか、普段の楽しい出来事とかを書き送ってくれました。」

ある友達はお祭りの日にずっと会いたかった人と会えたとか。

姉妹の友達はお父さんお母さんと毎日楽しく生活してるとか。

またある友達は最近歳上の男の人が気になるとか、また別の友達は画家を目指す為海外に行くとか。

 

「私も先日、みんなにお手紙を送りました。」

リートは写真立てをもとの場所に置き直し、その後もそれを見つめながら言った。

「“トレセン学園を退学して、第二のウマ娘生の為に遠くの地に行きます”。“しばらく会えなくなるけど、また会える日を楽しみにしてるね”と。」

 

…。

ルソーは無言で、背後から彼女の肩に、掌を強く優しく当てた。

リートは背を向けたまま、その手に触れ返し、言葉を続けた。

「本当のことは、伝えられませんでした。」

 

「もう一度、会いたかったな。」

胸中の声が、リートの唇からもれた。

 



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妖精の歌(3)

 

先日、リートはクッケン炎の治療を止め、ターフへの復帰を断念した。

 

それは学園を退学するということであり、また、レースでの実績が皆無で血統やその他の能力も殆どなく、また引き取り手もなかった彼女にとって、今後の未来に二者択一の決断をせねばならないことを意味していた。

 

一つは、ウマ娘の特徴&能力&記憶を消去する手術を受け、人間(女性)として新たにて生きていく選択。

もう一つは、本世界で永遠の眠りにつき、ウマ娘の世界(天国)へ帰還(還る)する選択。

 

既にリートは、そのいずれかの決断を下していた。

そして今晩、あと数時間後に、その処置をとることになっていた。

 

 

病室の、リートの身の周りは綺麗に整理されていた。

療養生活中に使用していた物品はほぼ全て処分されており、後に残っているのは、枕元の写真立てと、ベッド上に用意されたトレセン学園の制服だけだった。

 

 

写真のことをルソーに話してからしばらく経ったあと、リートは患者服から制服に着替え始めた。

「1年以上ぶりですね。」

療養生活を始めてからそれを着る機会がなかったリートは、少し嬉しそうに着替えていた。

「あれ、ちょっと小さくなってますね。」

「1年前のだからね。」

仕方ないよと、ルソーは着替えを手伝いながら言った。

 

「出来ました!」

着替え終えると、リートは鏡の前から笑顔で振り向いた。

ややきつそうだったが、それがまだ幼さが残るリートにすごく似合っていた。

「すごく可愛いよ。」

「本当ですか!」

「初々しい、天使みたいなウマ娘に見えるわ。」

「えへへ。」

リートの表情から、思わず無邪気な笑みが溢れた。

 

それから少し経ったあと、二人は病室を出て、病気病棟専用の大きなリハビリルームへと向かった。

 

リハビリルームに着くと、クッケン炎の病症仲間のほぼ全員がリートを待っていた。

その他にも繋靱帯炎や重度の骨折と闘病中のウマ娘の姿もあった。

「エルフェンリート!」

リートが室内に現れると、皆は一斉に彼女に視線を集めた。

 

30人余りいる病床仲間の前に立つと、リートはまず挨拶した。

「皆さん、集まってくれてありがとうございます。私の最後のわがままを聞いて下さり、感謝しています。」

 

療養生活最後の日を前に、リートは生徒期間中に叶えられなかったあることをしたいと皆にお願いしていた。

それは、皆の前で歌を歌うこと。

 

リートは名前通り、歌が好きなウマ娘だった。

そして実際、優れた歌声の持ち主だった。

大きなレースに勝って、ウイニングライブのセンターで歌うのが、彼女の一つの大きな夢でもあった。

その夢を叶えることは出来なかったが、最後にここで皆の前で歌いたいという希望をしていた。

病床仲間はその望みを叶える為、ここに集まっていた。

 

「リート!頑張れよー!」

歌う準備を始めたリートに、病症仲間達は明るく声援を送った。

「一世一代の大舞台よ。最高の歌声聴かせてね!」

「病床の歌姫ー!」

病症仲間達も、リートの歌声の良さはこれまで何度か聴いたことがあるので知っている。

皆、湧き上がる感情を抑えて、笑顔で彼女を励まし続けた。

「…頑張ります!」

リートも、身体を震わせながら必死に笑顔をつくった。

「アカペラで歌います。曲は…◯◯◯◯◯◯です。」

 

曲紹介すると、リートは目を瞑って大きく深呼吸した。

その周囲、ルソーも病床仲間達も、目と耳を見開いて、リートの夢を待った。

 

 

 

五分後、リートは夢を叶えきった。

 

「ありがとうございました!」

歌い終えたリートは、観衆の仲間達に深々と頭を下げた。

「良かったよ、リート!」

「最高!」

「初ライブでこれ以上ない出来だったわ!」

観衆の仲間達は、大きな拍手と共に惜しみない賛辞をリートに送った。

 

「そんな…」

リートは嬉しそうに恥ずかしそうに顔を赤らめ、やがて感激でいっぱいになったのか口元を抑えた。

「私…幸せです!こんなに…皆さんに喜んでもらえるなんて。」

涙はなんとか堪え、何度も何度もお礼を言った。

「頭下げすぎよ!」

仲間の何人かがリートの側に来て、彼女の頭を撫で回したりくすぐったりした。

「はわわわ、先輩くすぐったいです〜。」

「晴れ舞台なんだから、もっと胸を張っていいの。本当に良い歌声っだったわ。」

「はっ、はいー。」

 

久々に賑やかな、笑顔が溢れた時間が続いていた。

だがやがて、少しずつ静かになり、現実に戻されていった。

 

「長い間、お世話になりました。」

現実の静寂さに戻された空間で、リートは最後の挨拶をした。

「私は〈死神〉に負けてしまいました。でも、どうか皆さんは、〈死神〉に打ち克って、再びターフに戻って下さい。そして、夢と栄光と未来を掴みとって下さい。それが私の、最後の願いです。」

 

その挨拶を最後に、リートはルソーと共にルームを出ていった。

彼女が去った後、残ったウマ娘達も、一人また一人と腰を上げ、それぞれの病室に戻っていった。

 

 

リートとルソーは、病室に戻った。

「歌、良かったよ。リート。」

彼女にお水の入ったペットボトルを渡し、ルソーは労いの言葉を送った。

リートは無言でにっこりと笑顔を浮かべてベッド上に腰を下ろし、ルソーから受けとったお水を飲んだ。

 

一息吐くと、ルソーは時計を見た。

「まだ、時間あるわね。」

どうする?と、聞くと、リートは汗を拭い、立ち上がった。

「最後に、外の空気を吸いにいきたいです。」

「そう。じゃあ行こうか。」

制服姿のリートに笑いかけると、ルソーも持参していたコートを患者服の上から羽織った。

 

二人は、施設の外に出た。

そのまま一緒に並んで、遊歩道や芝生の上を歩き続けた。

だが先程までと違い、二人は殆ど会話を交わさなかった。

あったのは冬の高原の澄みきった空気と一面の星空、そして迫りくる刻の足音だけだった。

 

 

 

やがて時間は経ち、療養施設は消灯時間となった。

クッケン炎の患者達も、それぞれの病室で就寝についていた。

 

だが彼女達の殆どは、ベッドの中で中々寝付けなかった。

リートの面影と、彼女の歌声が、頭に響き続けていたから。

そして、耐え難い無念の思いもあった。

クッケン炎…いや〈死神〉は、なんであんな良いウマ娘の夢まで、奪ってしまうんだ。

それも、たった一度のレースの機会すら与えずに。

 

 

 

丁度その頃、リートとルソーも、施設内に戻って来ていた。

 

二人は、病室に戻った。

 

リートは腰を下ろさず、枕元の写真立てを手に取ると、ルソーを振り返った。

「行くの?」

「はい。」

写真立てを胸に、リートは頷いた。

流石に笑顔は浮かべられなかった。

「…送るわ。」

「大丈夫です。一人で行けます。」

「一人で?」

「はい!場所も分かってますから。」

そう返答すると、リートは精一杯の笑顔を見せて頭を下げた。

「ルソー先輩。本当に長い間、お世話になりました!」

 

「あなたこそ、本当によく頑張ったわ。」

ルソーも笑顔を返し、つとリートの小柄な身体を抱きしめた。

「強い子だよ、リートは。」

「先輩、」

リートも、ルソーの背を抱きしめ返した。

「先輩は、リートのことを覚えていてくれますか?」

「当たり前じゃない!忘れるわけないわ!」

私だけじゃなく、病症仲間のみんなも絶対忘れないよと、ルソーは強く抱きしめた。

 

「そうですか…良かったです。」

リートは微笑し、ルソーから身を離した。

「…では先輩、お元気で。」

「…うん。」

最後の挨拶を交わすと、制服姿のリートは胸に写真立てを抱き、病室を出ていった。

 

リートの姿が廊下の奥に見えなくなった後、ルソーも病室を出ていった。

 

 

病室を出たリートは、施設の奥にある、地下の某部屋へと向かった。

途中何度か足を止め、呼吸を整えながら、震えそうな足を必死に奮い立たせて、その部屋へ向かって歩き続けた。

 

やがて、部屋の前に近づいた。

その部屋の前に、彼女が来るのを待ってる医師がいた。

椎菜だった。

 

「一人で来たの?」

「はい。」

「…。」

強気に答えたリートに、椎菜はそうと頷いただけで何も言わず、無表情で部屋扉を開けた。

 

部屋の中は、治療室と大して変わらない広さ・明るさだった。

その隅の方に椎菜の助手が二人、隅の方で待機していた。

そして室内の中央部には、固定用のベルトが着いたベッドと、その傍らには幾つかの注射器が用意されていた。

それが目に入った瞬間、リートの心臓の音が大きく鼓動した。

だが彼女は迷わず、室内に足を踏み入れた。

 

 

前述した二者択一の選択。

リートが選んだのは、これまで同様の決断を迫られた過去のウマ娘達の殆どと同じく『帰還』だった。

 

 

 

『…水、飲む?』

『…いえ、大丈夫です』

『じゃ、ベッドへ』

『…は…はい…』

 

…リート。

病室を出たルソーは、施設の屋上に移動していた。

冷たい寒風に吹かれながら、ルソーは、耳に付けたイヤホンで、その室内での様子を聴いていた。

 

ルソーは慄えていた。

聴きたくなかった。

想像したくなかった。

逃げ出したかった。

 

でも、聴かねばならなかった。

想像しなければいけなかった。

人知れず還っていく同胞を忘れない為に。

クッケン炎と闘い敗れた同胞達の現実から目を逸らさない為に。

 








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妖精の歌(4)

 

制服姿で写真立てを抱えたリートは、室内中央にあるベッドの上に座った。

 

ここまで気丈に振る舞っていた彼女だが、鼓動の乱れと身体の震えまでは隠せなくなっていた。

椎菜は助手達を待機させ、リートの傍らに座り、その震える肩を抱き寄せた。

無言で、無表情で。

だが、リートの震えは中々おさまらなかった。

 

そのまま、数十分が経過した。

無言の椎菜に肩を抱かれ続けているリートの視線は、時折、ベッドの傍らにある台上の注射器を見ていた。

 

だがやがて、

「もう大丈夫です。」

リートは震えをおさまらせ、椎菜を見上げて小声で言った。

…。

椎菜が手を離すと、リートは自ら、ベッド上に横になった。

 

「椎菜先生、」

横になった後、リートは天井の電灯に視線をやりながら、身体は助手と一緒にベルトで固定している椎菜に言った。

「これが終わった後、私は火葬されるんですね。」

「うん。」

「その時は、私を制服姿のまま、この写真立てと一緒に焼いてくれますか。」

「分かったわ。」

 

椎菜はベルトでリートの身体を固定し終えると、彼女の枕元にある台の前に立ち、手袋をはめ、用意していた注射器を無表情で手にとった。

 

それを見て、リートはつと尋ねた。

「…痛いですか?」

「痛くないわ。」

「でも、一瞬はチクッとしますよね?」

「多分ね。注射だからね。」

「痛いの苦手です。」

「注射は苦手なコ多いわ。」

リートの言葉に、椎菜は無表情で答え続けた。

「あのトウカイテイオーだって、あなたと同じ位の頃は注射が大の苦手だったらしいわ。」

「え、そうなんですか?」

「うん。何か他にも主治医とやらがワケワカラナイヨとかどうのこうのとか…。」

「はー…あ、じゃあ今怖がらなければ、私は当時のテイオー先輩よりも注射には強いってことになりますね!」

「確かにそうなるね。」

 

笑ったリートの言葉に、ちょっとだけ椎菜は微笑したが、すぐに無表情に戻った。

リートはまだ少し笑顔を浮かべていたが、やがて静かな表情に戻った。

 

「じゃ、いくよ。」

リートの腕元に、椎菜は注射器の針を近づけた。

「はい。」

ベッド上、身動きできないよう固定されたリートは天井を向き、眼を瞑って頷いた。

 

眼を瞑ったままのリートに対し、椎菜は眼を見開いて、彼女の腕に注射器の針を当てると、躊躇わずに打った。

 

 

 

「終わったわ。」

「え、終わったんですか?」

さっさと注射器を台に戻し、手袋を外し始めた椎菜を見て、リートは拍子抜けしたように言った。

椎菜は頷きながら助手達を退がらせ、枕元に椅子を持ってきてそれに座った。

「痛かった?」

「いえ、全然。痛くない注射は初めてでした。凄いです、椎菜先生。」

「そう。」

もう何百回やってるからね、という言葉は胸の奥にしまって、椎菜はリートに告げた。

「あと20分くらいで、あなたは永遠の眠りにつくわ。」

 

「あと20分…」

そのことは、この処置を受けると決めた時から大方知っていた。

「何か、最期にお話したいことはある?」

「いえ。」

リートは首を振った。

「もう覚悟は出来てました。皆さんともしっかりとお別れすることも出来ましたし、夢も叶えられました。…あとは静かに、最期の時を迎えたいです。」

 

 

 

5分、10分、時間は刻々と過ぎた。

 

そして、15分程経った頃。

 

「…先生…お別れ…みたいです…」

リートの意識がぼやけてきた。

「…。」

リートの様子を見ると、椎菜は彼女を固定していたベルトを外した。

 

身体は自由になったが、もうリートは身体を動かせなくなっていた。

「リート。」

「…先生…」

枕元で自分の手を握った椎菜の掌を、リートは最期の力を込めて握り返した。

「…長い…間…お世話になりました…」

「…。」

椎菜は無言で、眼をいっぱいに見開いて、リートの閉じかかった瞳を見つめた。

 

椎菜のその眼を見た時、リートの瞳からこらえてたものが一筋流れた。

「…ごめん…なさい…」

「え?」

「…私……嘘…ついて…ました…」

「嘘?」

「…一度で…一度いいから…レースを走りたかった……」

 

「リート…」

「…さよなら………」

 

椎菜の手を握ったまま、リートは最期にそう呟くと、静かに眼を閉じた。

やがて椎菜の手を握っていた手も解け、静かにベッド上に落ちた。

 

これ以上ない静寂が、室内を満たした。

 

 

 

それから数分後、椎菜は意識を失ったリートの脈・心音を確かめた。

 

それらが全て停止していることを確認すると、手帳を取り出し、記した。

『××××年12月21日(月曜日)午後11時53分。第〇〇期入学生・エルフェンリート(6歳・2年生)、クッケン炎による未来不良の為、帰還の処置。』

 

記し終えると、椎菜は再びリートの枕元に立った。

リートの頬に残っていた涙痕を拭き取り、その亡骸に静かに白布をかけた。

 

「…終わりました。」

そう誰ともなく言うと、最後に遺体に対して深く一拝した。

 

 

 

 

場は変わり、屋上。

 

『…終わりました…』

…っ

イヤホンからその言葉が聴こえると、室内での一部始終を聴いていたルソーは音声を切った。

 

…リート…

屋上の出入り口前にあるベンチに座ったまま、ルソーは唇と奥歯を噛み締めて嘆きを堪えていた。

だめだ…。

また一人病症仲間が還ったという現実と、リートの最期の言葉(その無念は分かっていたとはいえ)が、ルソーの心をこれ以上ないくらい締め付けた。

 

仲間の帰還の状況を最期まで聴き届けたのは3回目。

もう苦しかった。

苦し過ぎた。

自身、〈死神〉にかかってから2年半、幾多の仲間達との永別を経験してきたが、その最期がどのようであるかまでは見届けてなかった。

これほど苦しいなんて…

 

オフサイド先輩、あなたは何十回も、こんな経験を積み重ねてきたんですか…

 

悲嘆・苦痛・絶望が胸中を渦巻く中、先輩の姿を脳裏に浮かべながら、ルソーは松葉杖をついて、屋上の柵のない奥の方へと歩き出した。

 



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妖精の歌(5)

 

再び地下室。

 

リートの遺体を別室に移動させると、椎菜はその後のことを助手達に頼み、地下室を出た。

 

自分の医務室に戻ると、椎菜はスマホを取り出した。

そして、マックイーン宛てにメールをうった。

『今夜の電話相談の件ですが、明朝に変更をお願いします。』

 

送信後、すぐに返信が来た。

『了承致しましたわ。明朝連絡をお待ちしています』

 

マックイーンの返信を確認すると、椎菜は再び医務室を出た。

 

出入り口前の自販機で缶コーヒーを買うと、それを手に施設の外へ出た。

 

 

外は凄く寒かった。

冬の高原なので寒いのは当たり前だが、今の椎菜には特にその寒気が身に沁みた。

彼女は遊歩道のベンチの前に来るとそれに腰掛け、缶コーヒーの蓋を開けた。

 

“たった一度でいいから…ターフを走りたかった…”

冷たい夜景を前に、椎菜の脳裏に響き続けているのは、リートの最期の言葉。

 

みんなそうだった…

コーヒーを飲みながら、椎菜は無表情で思った。

この療養施設で働き始めてから十数年、彼女は数百人のウマ娘達の帰還に立ち会い、また百回を優に超える処置を執り行ってきた。

還っていくウマ娘達は皆、悲しさと無念さを隠しきることはできず、還っていった。

 

だけど。

椎菜は缶口の辺りを噛んだ。

ターフに一度も立てないまま、帰還に追い込まれたウマ娘は希少だった。

 

だから、リートの最期の言葉があまりにも重かった。

治してあげたかった。

治らずとも、一度でいいからターフに立てる状態にさせてあげたかった。

 

クッケン炎(死神)の医師として、椎菜も無念だった。

ずっと無表情で感情を現すことなく処置を執り終えたが、本当は泣きたかった、

叫びたかった。

数百回の経験で、もうそんな感情は完全に封じ込めていた筈だったけど、今日は溢れ出しそうだった。

 

今朝、ルソーの件があったから。

 

ルソー…

溢れそうな感情を堪えながら、椎菜は彼女のことを思った。

今朝、あの報道を見て半狂乱になったルソー。

麻酔薬まで使って何とか彼女を静止させたが、彼女が受けた心の傷はどれだけのものだろうか。

いや…

椎菜はコーヒーを飲んだ。

ルソーは、もともと心にとてつもない大きな傷を負っている。

今回のことで、抑え込んでいたそれがあわや決壊しかけたんだ。

 

 

そんなことを考えていた時。

…?

不意に天空から、静かな歌声が聴こえてきた。

誰?

夜空を見上げると、それは屋上から聴こえていた。

 

初めは誰だろうと思っていたが、やがて驚いた。

この歌声は、ルソー?

あなたが、歌っているの?

 

驚きながら、椎菜はその歌声に聴き入った。

一面の澄みきった夜空の下、ルソーの歌声は、靡き続ける寒風と共に施設を包みこんでいた。

 

…ララララ…ララララ……

ベンチに座っている椎菜も、その歌を唇で口ずさんだ。

 

やがて、その歌声は止んだ。

止むと同時に、椎菜はベンチを立ち上がると缶コーヒーを飲み干し、施設内へと戻っていった。

 

胸中、彼女に対し強く思った。

あなたは本当に強いウマ娘ね…

心の傷が決壊しかけた…それは耐えがたい苦痛の筈なのに、仲間のことは決して忘れなかった。

…私も、乗り越えなければ。

悲しすぎる運命に直面して心が折れそうになっても、彼女達を救う為に

 

 

 

一方。

 

「ララララー…ひくっ…ラララー…ララララーー… …ララララーーー…ラ…ララ…ラー…」

 

屋上で一人、夜景を前に腰掛けて、リートが最期に歌った歌を口ずさんでいたルソーは、時折嗚咽しながらも、最後まで歌い終えた。

 

歌い終えた後、ルソーは膝を抱え、彼女のことを思った。

 

リート…辛かったろうね。苦しかっただろうね。

1年以上、闘病を頑張ったのに報われず、ターフに一度も立てずに還ってしまったなんて…同胞として、考えただけでも、胸が張り裂けそうな程辛いわ…

 

 

そこまで痛切に思いつつも、ルソーは胸中の苦しさ・絶望を、奥歯を噛み締めて抑え込んだ。

 

そして、心の奥底から誓った。

 

あなたの…いや、これまで〈死神〉に敗れた仲間達の無念…絶対に忘れないわ。

リート、あなたが私達に残した最後の願い…“〈死神〉に打ち克って、再びターフに戻って下さい”

その願い、叶えてみせるわ…

 

今後どんなことがあろうと、仲間達が、オフサイド先輩が、今以上に絶望に覆われてしまったとしても、私は絶対に屈しない。

そして、〈死神〉と闘うウマ娘(私達がいる世界)を知ろうともしない者達、或いは理解しようとしない者達とも闘ってやる。

例え相手が人間だろうと、同胞のウマ娘であろうと、この世界のことを絶対無視させない。

天皇賞での言動の真意を全く理解されなかったオフサイド先輩を救う為、いや真意を想像すら出来てない者達をそれと向き合せる為にも。

 

とても残酷なことだろうけど、それがこの私の、オフサイド先輩の生き様を誰よりも見、幾多の病症仲間達との永別を経験し、そして…最愛のウマ娘をレースで喪った私の出来る、唯一のことだから。

 

 

ルソーは目元に溜まっていた涙を払い、松葉杖を手に立ち上がった。

そして、夜空を仰いで、静かに言った。

 

「さよなら、リート。」

 

 

12月21日、有馬記念まで、あと6日。

 



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『第4章』
始動(1)


*****

 

12月22日、早朝。

 

メジロ家。

起床したマックイーンは洗面等を終えると、自室で朝のニュースを観ていた。

TVでは今日も、オフサイドトラップの有馬記念出走問題を取り上げている。

彼女が身を隠していることも、かなり問題視していた。

 

プルルルル。

TVを観ている最中、マックイーンのスマホが鳴った。

椎菜からの電話だった。

「もしもし。」

『生徒会長ですか、渡辺です。』

 

「渡辺医師ですか。お忙しい中恐れいります。」

『いえ、こちらこそ昨晩は勝手に約束を変更させてしまい失礼を。』

「気になさらないでください。」

 

挨拶を数言交わした後、マックイーンは用件を切り出した。

「用件は二つです。一つは、昨日通知を頂いたルソーを始めとした〈クッケン炎〉患者の現状。もう一つは、あなた個人へのお願いがあります。」

『私にですか?』

「はい。」

 

 

約15分後、マックイーンは椎菜との電話を終えた。

 

 

その後、制服に着替えると、朝食を取らずにメジロ家を出た。

 

メジロ家の車に乗って彼女が向かった先は、学園ではなかった。

車は、ある人物への屋敷へと向かっていた。

 

 

一時間後。

 

その人物の屋敷の前に着くと、マックイーンは車を降りた。

 

その屋敷の使いの者に案内され、彼女は屋敷内の和室に通された。

そこに、その人物は茶を淹れて待っていた。

「おはよう、生徒会長。」

「おはようございます、理事長。」

 

マックイーンを待っていたのは、トレセン学園の理事長・大平赳夫(おおひらたけお)

 

「朝早くに呼ばれるとは驚きましたわ。」

「会うとしたら、人の動きが少ない早朝が最適だと言ったのは君だろ。」

言いながら理事長は、前の座布団に座ったマックイーンに薄茶を差し出した。

マックイーンは恭しくそれを頂き、一口喫すると、腕を膝元に置いた。

「ですが実際、こんな早朝に招かれるとは思いませんでした。それも昨晩突然の連絡で。」

「突然呼び出すのも呼び出されるのも、お互いの立場からしてよくあることだ。」

理事長も粗茶を喫し、腕を置いた。

 

「それで、こんな早朝に呼び出した用件というのはなんでしょうか。」

「勿論、オフサイドトラップの事に関してだ。」

理事長は、マックイーンを見据えた。

「彼女の有馬記念出走を止める手筈は、出来ているのか?」

 

「出来ているわけ、ありませんわ。」

マックイーンは、無表情で翠眼を光らせた。

「先にもあなた方にお伝えしましたが、私は彼女の有馬記念出走を止める気はありません。」

 

「意外だな。聡明な筈の君がそこまで意志を曲げないとは。」

「ウマ娘だからです。人間である理事長には分からないことですわ。」

「気色ばむな。」

冷静ながらも強気をみせたマックイーンに対し、理事長は余裕の微笑を浮かべた。

「大局的にみれば、そして未来志向でみれば、この状況下でのオフサイドトラップの出走は適切でない。それは君も分かっているだろ、生徒会長。」

 

「理事長。」

マックイーンは、表情を動かさず、やや強い口調で言った。

「理事長は、オフサイドトラップの言動に対し、一般大衆や数人の理事のように誤解した見方はされてないのでは?」

「勿論だ。彼女の言動に全く問題がないことも分かっているし、もしかすると真意は別にあった可能性も分かっている。」

「では、何故オフサイドトラップの有馬出走に反対を?」

「世の中全体の状況を判断してだ。」

 

理事長は再び、お茶を飲んだ。

「君も、生徒会長になってから色々経験して分かっただろうが、世の中は理不尽なことが多い。それも、当の本人達がそれに気づかずそれを行っているということもある。…今回の件のようにな。」

「理不尽というよりは、理解・想像力の乏しさによるものだと思います。」

「どちらでも良い。問題は、その声の大きさと勢力だ。今のオフサイドトラップには、それが悪霊のように付き纏ってしまっている状態だ。そんな状況の彼女が有馬記念に出るということは、レースにもかなりの影響が見込まれる。それは、あってはならないことだ。」

 

理事長は、理事の中では最もウマ娘への理解が深い人間。

それでいて冷徹で聡明、合理的な思考の持ち主。

そんな理事長がオフサイドトラップの出走に反対してるのは、レースが無事に開催される為だった。

 

理事長は淡々と続けた。

「有馬記念はオフサイドトラップだけの為にあるものではない。彼女だけでなく他の出走メンバー、そのメンバー達の調整の為に尽力してきた関係者達全員の為にあるものだ。それを、一人の出走者の為にレース開催に悪影響が出るようなことは避けなければいけない。」

「オフサイドトラップは何も悪いことはしていませんわ。それどころか…」

「分かってる。だが、その真意に気づいているのは同胞である君達の中でも僅か数人だ。それでは、この膨大な理不尽の嵐をすぐ止ませることは難しい。もう、有馬記念まではあと一週間を切ったのだ。」

 

「一つ、お伺いします。」

マックイーンは、淡々と話す理事長に尋ねた。

「理事長は、今回の騒動に対して、全てオフサイドトラップに背負わせて収拾を図るつもりなのでしょうか。」

「馬鹿な。」

理事長は即座に否定した。

「そこは君と同じだ。彼女が受けた理不尽な中傷と仕打ちに対しては、いずれ世論にも報道にも責任をとってもらう。現状、それに関しては他の理事内では意見が割れているが、必ず断行する。…私自身、同胞の人間達の愚かさには呆れているからな。」

理事長は、やや嫌悪感が含まれた口調で呟いた。

「君達の世界の明るさ・華やかな点ばかりしか見ないから、このような事が起きた時に思考が偏る。…最近はその傾向が顕著になっていたから、このような事態は起こるべくして起こった、というべきだな。…情けない。」

 

「…。」

険しい表情で言う理事長に対し、ウマ娘のマックイーンはただ無言だった。

表情を変えず、理事長は続けた。

「オフサイドトラップは、法的措置は別として、この私が責任をもって彼女の名誉を回復させるつもりだ。」

 

なるほど…

「理事長のお気持ちはよく分かりました。」

マックイーンは、謝意を込めた口調で言い、ですがと続けた。

「私は、オフサイドトラップの出走を止めたくありませんわ。私情を入れる訳ではありませんが、彼女はもう6年生で、更には脚部の状態も厳しい。騒動とか関係なく、今回がラストレースとなるでしょう。そのレースは、ウマ娘にとって最高の夢舞台である有馬記念。周囲の状況は関係なく、走らせてあげたいのですわ。」

 

「その思いはよく分かる。」

理事長は頷き、厳しい口調で続けた。

「だが、オフサイドトラップは、例えこの有馬記念で競走人生には終止符をうつとしても、ウマ娘としての生涯が終わる訳じゃない。引退後の生活、それを考えれば、世間を敵に回した状態というのは非常にまずい。それも、栄光が認められてない現状つきだ。かつて、君の盟友が」

 

「プレクラスニーの話はやめて下さい!」

理事長の言葉を遮ってマックイーンは叫んだ。

昨日の報道陣との対応時でさえ感情を極力抑え込んでいた彼女の表情が引き攣っていた。

 

「すまない。」

不用意な発言を、理事長は謝罪した。

「だが、オフサイドトラップの出走については今一度考慮して欲しい。こんな状況下でも走りたいという彼女の思いはよく分かるし、それを止めない君達の思いもよく分かるが、もしもの時に失われるもののリスクが大き過ぎる。学園やレース開催だけでない、彼女のあの天皇賞・秋の栄光にも影響する。」

 

もし、というかその可能性は非常に高いとみてるが、オフサイドトラップが有馬記念に出走し、結果が惨敗だったとしたら、彼女の天皇賞・秋制覇を認めない連中達が『それみたことか』と都合良くそれを加速させるだろう。

それを危惧していた。

 

「その点は、私達は踏み込めません。」

冷静に戻ったマックイーンは答えた。

内心では、自身も同じ事を危惧していた。

オフサイドトラップの心身の状態+不適性の距離。

寧ろ惨敗を予想しない方が不思議だ。

「ウマ娘は、レースに出走するからには勝利を目指します。オフサイドトラップも、出走するからには勝つつもりなのでしょう。」

 

 

話が終わった雰囲気を感じ、マックイーンは立ち上がった。

「メジロマックイーン。」

立ち上がった彼女に対し、理事長は最後に言った。

「この件に関しては、君は責任を背負い過ぎなくていい。愚かなのは我々だ。責任を第一に取るのは私でいい。」

 

「…。」

マックイーンはただ無言で、静かに会釈した。

いいえという意味を込めて。

「君はやはり、責任をとりたがってるのか?」

「…。」

何も答えず、マックイーンは部屋を出ていった。

 



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始動(2)

 

理事長宅を後にしたマックイーンは、そのまま学園へと向かった。

 

理事長…

車に揺られながら、マックイーンは理事長の話のことを考えていた。

 

理事長はマックイーンにとって、尊敬している数少ない人間の一人。

彼とは現役生徒以前の幼少期から会っていて、その人間性から多くを学んでいた。

 

理事長はかつて、某プロスポーツの超一流選手で、引退後は監督もしていた。

後には政界にも進出し、国の重職も務めたことがある。

要するに、勝負の世界で頂点に立ち、かつ責任の最も重い立場も数多く経験してきた人間。

マックイーンのウマ娘としての略歴と似ていた。

 

マックイーンも名族メジロ家の令嬢としてトレセンに入学した。

デビュー後しばらくは成績も存在感も目立たなかったが、2年生の秋に菊花賞で優勝して以後は、引退までの3年間ずっと第一人者であり続けた。

3年生以後、G2以下では全て1倍台の圧倒的人気を背に5戦無敗全て圧勝。

勝ちが確定し過ぎてつまらないと言われた。

G1は8戦3勝2着3回。

G1の舞台でも、人気はトウカイテイオーに奪われた天皇賞・春以外は全て1番人気だったし、その天春はテイオーに10バ身の力量差を見せつけて差しあげましたわ。

2着に敗れた3戦だって、勝った相手が100%以上の状態で出走して、生涯最高の走りをした結果だ。

特にあのダイユウサク先輩はそうでしたわ。

それほどの状態でなければ、このメジロマックイーンを破ることなど不可能。

そう皆が認めざるを得ないくらいの力量&内容&美貌&安定&威圧を誇っていた。

 

5年生秋にケイジンタイ炎を発症し現役生活を断たれたが、あれがなければその後の天皇賞・秋もJCも有馬記念も全部獲ってやるくらいの力と自信はあった。

引退後は、すぐに生徒会入り。

数年間役員として下積みを積んだ後、2年前に学園ウマ娘トップの生徒会長の座についた。

有無を言わせない、ウマ娘としてのここまでの人生だ。

 

とはいえ。

マックイーンは小さく吐息した。

周囲のウマ娘、またファンの皆からはこれ以上ないくらい理想的なウマ娘としての略歴だと思われているだろうが、少々の悔恨もあった。

 

特に現役時代に、二つ。

 

一つは、7年前のあの天皇賞・秋。

もう一つは、当時もそれを思ったし今このような事態が起こってからは痛切に感じているが、ケイジンタイ炎で引退を決めたこと。

 

その故障以前にも一度、重い骨折で一年近く休んだことがあったので、その病を患った際は、年齢や身体、また治療にかかる期間も考慮し、やむなく引退を決めた。

 

だけど、あれが本当に私の限界だったのだろうか?

 

自身が引退した後の次世代…特にナリタブライアン・サクラローレルらのように重い故障と闘いながらターフを必死に走り続けた後輩達を目の当たりした際、そんな思いが何度も胸をよぎった。

そして、その彼女達の同期にしてチーム仲間のオフサイドトラップが…

 

 

オフサイドトラップ…あなたは恐ろしいウマ娘ですわ。

騒動は別にして、マックイーンはオフサイドトラップという、実績も実力も格下の後輩ながら、畏敬の念を禁じ得ないこの同胞のことを思った。

 

昨夏、マックイーンと同じ5年生時に、オフサイドは3度目の〈死神〉の魔の手に罹った。

確かな噂で聞いたところでは、実はあの時点で、彼女には引退後の道が用意されていたらしい。

2度の〈死神〉&故障に苦しんだ彼女だが、その間に出走し続けたレースで、その道が用意される程の実績(最低限ではあるが)は挙げれていた。

つまり、もう〈死神〉と闘う必要はなかったのだ。

 

…。

マックイーンは何気なく、ケイジンタイ炎を患った左脚に手を触れた。

重度の骨折は別として、ケイジンタイ炎はウマ娘から恐れられる最も大きな故障の一つ。

マックイーンですら、未練がありながらも引退を決めたのは、その病の恐ろしさを知っていたから。

治療も苦しいし、治ったところで以前のような走りが出来るとも限らない。

それに、ターフはおろかトレーニングですら再発する可能性が高かったから。

 

それと匹敵する故障であるクッケン炎(死神)。

昨夏に罹った時点で、オフサイドは2度のそれと、その影響による別の故障で計3度、期間にして合計2年以上の闘病生活を余儀なくされてた。

正直、それだけの闘病&離脱を重ねながら、そこまで走れたこと事態が奇跡レベルだったし、未来への道も掴めたことは充分な称賛に値する不屈ぶりだった。

もし自分がオフサイドの立場だったら、躊躇わず引退を決断してると、マックイーンですら思う。

なのに、オフサイドは〈死神〉との3度目、関連故障も入れると4度目の闘いに踏み切った。

 

信じられませんわ…

他のウマ娘だったら、100人中100人諦めますわ。

オフサイドのチーム『フォアマン』の先輩で、『3度の骨折』を乗り越えた不屈の代名詞的存在であるトウカイテイオーでも、『3度のクッケン炎』には屈せざるを得ないでしょう。

それなのに、オフサイドトラップは一体なぜ…

 

はっきりいえば、彼女は目立った実績も素質もない、よくいる重賞善戦レベルのウマ娘だ。

その程度の彼女が、テイオーですら恐れそうな闘病生活に自ら飛び込んだ。

彼女にそこまでの行動をとらせたのは、一体なんなのだろう。

道半ばでターフを去った盟友の存在か、或いは闘病仲間への思いか、または栄光への執念か。

それとも、『フォアマン』の信条である“不屈・体現・勝利”を成し遂げん為か…

 

 

彼女に引き換え…

左脚に触れながら、マックイーンは軽く唇を噛んだ。

自身はこの厳しい故障を前に、復帰の為の闘病生活をしなかった。

だから、〈クッケン炎〉をはじめとした故障と闘う同胞達の気持ちが分かりきれていない。

ターフに戻れるかは別として、後に生徒会に入ることを考えれば、少しでも闘病するべきだったと、それが悔恨だ。

 

無論、その闘病自体が脚に負担がかかるので、今のように無事でいられた保障はない。

メジロ家の令嬢に相応しい幾多の栄光と実力を見せつけきった自分には、引退が正しい決断だったとも思う。

それに、重い骨折による1年間の大変な療養生活を乗り越えた経験だって現役中にあったから、自分も不屈だという自負もある。

けどやはり、最後の最後で悔いが残った。

 

 

まあ、今更そんな後悔しても無意味ですわ。

マックイーンは咳払いした。

幾ら未練を並べても、現在はこのメジロマックイーンしかいないのですから。

 

 

後悔の念を止めると、マックイーンは脳裏で、懸案である騒動に対する今後の方策の整理を始めた。

 

先程会った理事長が考えているであろう今後の方策は大体読めている。

オフサイドの有馬記念出走を断念させ、騒動を沈静化させる。

その後、彼女が引退し(現役でも可)、スズカが心身とも完治した頃に、世論&報道への法的措置へ踏み切る予定だ。

恐らく、一連の世論&報道の理不尽な行為は、全て記録として残しているのだろう。

時勢がスズカの完治(復活)によって落ち着き、そしてオフサイドへした行為を後悔するか、蓋をし始めた時に断行するつもりだ。

 

理事長は冷徹で合理的。

それでいて人間界でも顔が広い。

政界の経験も豊富だから、バランスを考えて完膚なきまでの法的措置は取らないだろうが、オフサイドの名誉を回復させるだけの結果を出すことは容易いとみているだろう。

 

ですが。

マックイーンはその方針に反対の意向だった。

正直理事長には、サイレンススズカがどれだけの人気と実力を持ったスターウマ娘かは、分かりきっていないと感じていた。

同胞の人間達が愚かだと嘆いていたが、どれだけ膨大な人間が彼女の走りに魅了され、熱狂したか。

なんたってほぼ全国民(一億人)だ。

かつてスターと言っていいプロスポーツ選手だった理事長でも、彼女程の人気は集めてなかっただろう。

このマックイーンですら、自身の現役時代より人気が高いと認めざるを得ないくらいだ。

 

その熱狂が、僅か一年くらいで収まるとも思えない。

多分、その処置によって三たび騒動再燃するだろう。

 

その再燃時に、怪我から復活したスズカが…勿論その前に騒動のことを知ったという条件つきだが、彼女がオフサイドのことを擁護すれば、騒動再燃は避けられるかもしれない。

多分、理事長はそれを考えているのだろう。

 

だが、余計混沌とする可能性だってある。

スズカは学園に無理矢理オフサイドを擁護させられたとか、或いはスズカが逆恨みされる展開とか…

それに、いくら完治したと言っても、スズカが騒動を知ったらどれだけのショックを受けるか…恐ろしい。

 

第一、そこまでやらなければオフサイドトラップの名誉は回復出来ないのか。

何より、オフサイドトラップがそんな結末を望むだろうか。

 

 

マックイーンは、車窓から朝の街並みに眼を向けた。

 

ここは極力、リスクのない解決策を目指した方が良い。

つまり、このメジロマックイーンが責任を負う解決策だ。

なんの罪もない理事長がとる必要はない。

 

私には明確な罪がある。

初期対応の拙さ、そして7年前の天皇賞・秋。

 

実は、まだ理事長にも仲間の生徒会役員達にも明かしていないが、マックイーンはある一つの解決策を胸に秘め、それに向け着々と行動を進めていた。

その素振りは全く見せていないので、誰一人として気づく訳がありませんわ。

ただ…

 

ただ一人、その解決策を見抜かれていると感じたのは、あのライスシャワー。

 

だから、彼女だけは警戒している。

理事長は学園内の組織人で立場を分かってるから、独断での行動はしないからそこまで注視してない。

ライスは組織外の者で、行動は自由だ。

 

そして、この騒動に関してはライスも、自分の意志で取るべき行動を計画し実行しようとしている。

勿論それは、マックイーンの解決策とは異なるものだ。

 

ライスに動かれてしまっては、解決策が水の泡になる。

彼女の行動を極力抑える為、あの手紙を送った。

 

無論、従わないことも分かっている。

なので、彼女には見張りのウマ娘をつけている。

彼女の友であり、生徒役員のミホノブルボンだ。

 

 

まさか、貴方と闘うことになるとは…

メジロマックイーンは眼を瞑り、ライスシャワーの嫋やかな姿を思い浮かべた。

仕方ない。

私もライスも、全く譲る気はないのだから。

ライスには3年前の宝塚記念が、私には7年前の天皇賞・秋がある限り。

 

あなたの時間が残り少ないことは分かっていますが、譲れません…

 

思考を巡らせているマックイーンを乗せた車は、いつのまにか学園近くまできていた。

 




ケイジンタイ炎=繋靭帯炎。


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始動(3)

 

マックイーンが学園に着いたのは、10時前だった。

 

生徒会室に入ると、メジロパーマーとダイタクヘリオスがいた。

「あ、おはよう、マック…生徒会長。」

「おはようございます。ヘリオス・パーマー。」

マックイーンは挨拶しながら、会長席に座った。

「何か報告事項がおありでしょうか?」

「幾つかあります。」

 

現在、情報収集の担当をしているパーマーとヘリオス。

まず、ヘリオスが口を開いた。

「まずは報道から。今日は生徒会長に一切取材しないとのことでした。」

今日は、ですか。

「他は?」

「療養施設の報道規制に関しても、報道は現状特に動きはありません。世論のネットの方は騒がしいですが、彼らの方は比較的大人しいです。」

「なるほど。」

理事長が、根回ししてくれたようですね。

一時的かもしれませんが、感謝します。

 

「サイレンススズカの容態は如何ですか。」

「順調に快復しています。今日から少しずつ、脚以外のリハビリを始めるとのことでした。」

「リハビリ?もうですか?」

「スペシャルウィークの看護が大きいようです。心身共に予想以上の快復速度だと、医師の先生方も驚いているようです。」

「脚の方は?」

「脚の方は、やはりまだしばらく動かすことは出来ないようです。ただ、完治までの期間が予想より長引く可能性はないという見方だそうです。」

そうですか…

ヘリオスは嬉しそうに報告していたが、マックイーンはそうでもなさそうだった。

 

「富士山麓の方は?」

「それなんですが。」

パーマーが、心配そうな口調で答えた。

「ネット内での情報で、オフサイドトラップがそこにいるという情報や指摘が出てきています。先週、彼女が遠出する姿を見た者も多かったので、どうやら嗅ぎつけられたようです。」

「なるほど。」

マックイーンは、特に動揺も見せなかった。

 

報告を聞き終え、マックイーンは二人を労い、退がらせた。

 

生徒会室で一人になった後、マックイーンは富士山麓にいるメジロ家の使いの者に連絡を取った。

 

「オフサイドは、もう発ちましたか?あ、そうですか。ご苦労ですわ。」

マックイーンは連絡を終えると、特に表情も変えず一息ついた。

 

パーマーから報告を貰うより早く、マックイーンは既に昨晩、富士山麓に連絡し、身柄をメジロ家に移すよう要請していた。

要請といっても、『報道に嗅ぎつけられましたので、すぐにメジロ家へ』という、強引な命令に近かったが。

 

今朝、オフサイドは使いの手によって富士山麓を発ち、メジロ家へと向かっている。

ケンザンの方は、公園での仕事があるので、数日後にメジロ家に来るということだった。

 

フジヤマケンザン…彼女の存在も重要ですわ。

かつてオフサイドの先輩だった彼女は、今のオフサイドの状態を悪化させないためには不可欠な存在だ。

彼女がいれば、私の解決策も遂行に近づく。

 

あとは、サクラローレルが戻ってくれれば…

だが、今すぐ帰国出来るほど、彼女の容態は安定してないとのことだったから、それは厳しいようだ。

残念ですわ…

 

 

そして…

マックイーンの思考は、療養施設のスズカの方に変わった。

 

サイレンススズカ、何という快復の早さでしょうか。

もともと全く怪我とは無縁のウマ娘だったから、治りも早いのでしょうか。

 

マックイーンは、決して感心しているのではない。

むしろ不安に思っていた。

快復が速すぎますわ…

本人は一日でも早く復帰して、ファンの夢を叶えたい一心なのでしょうけど。

もう無意識な無理は、絶対にしては駄目ですわ。

 

 

憂鬱げに、スズカのことを考えていると、

「失礼します。」

生徒会室をノックする音と共に、ブルボンが入室してきた。

 

「…。」

マックイーンは無言で、ブルボンを迎えた。

 

ブルボンは会長席の前に立つと、特有の無表情で言った。

「ライスが、動き始めました。」

 

 

 

*****

 

 

 

場は変わり、学園の競走場。

 

ゴールド・グラス・ブライトら、有馬記念に出走するウマ娘達が、集中したトレーニングを行っていた。

 

その競走場の側で、極力彼女達の邪魔をしないよう、その様子を撮影したりメモを取っている報道陣。

その中には、学園専属カメラマンの美久の姿もあった。

 

みんな気合充実してるわね!

調整に励むウマ娘達の姿を次々とカメラにおさめながら、美久は非常に楽しそうだった。

学園でカメラマンとして勤め始めてから約4年、ずっと在学ウマ娘達の幸せな姿を撮り続けている。

 

特に美久が好きなのは、レースに挑むこの段階のウマ娘達だ。

真剣勝負前なのでそんなに笑顔は撮れないが、すごく生き生きした彼女達の姿を撮ることが出来る。

それが何故か、すごく好きだった。

 

 

やがて昼前になり、ウマ娘達のトレーニングは休憩となった。

美久は、今日は友達のライスの喫茶店で休憩しようと思い、『祝福』へと向かった。

 

 

と、

「あら?」

『祝福』近くまで来た美久は、つと脚を止めた。

何故なら、店の前に10人近い報道陣が集まっていたから。

何かあったの?

不安が胸をよぎった。

 

すると。

“ようこそ”

店から、ライスが出て来るのが見えた。

彼女は、集まった報道陣達に挨拶し、彼らを店内に招き入れていた。

 

え、ライスが報道陣を呼んだの?

美久は驚いた。

何の為に?

考えるとすぐ、二週間程前にライスが発した言葉が美久の脳裏に蘇った。

“オフサイドトラップを絶対に救わないといけない、救えなければウマ娘史上に残る悔恨になる”

 

 

美久が驚きの視線でライスの様子を眺めている中、彼女から少し離れた場所で、同じく『祝福』に真っ直ぐ視線を向け、無表情でその様子を観察しているウマ娘がいた。

 

生徒会役員のブルボンだった。

 



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始動(4)

*****

 

「今日は、よく来て下さいました。」

 

『祝福』店内。

ライスは、招き入れた報道陣を前に椅子に座ると、改めて頭を下げた。

 

この報道陣を呼んだのは、ライスシャワー。

天皇賞・秋後に起き、今また再燃しているオフサイドトラップの件に対して、取材を受けて見解を伝えたいと、昨晩報道陣達に彼らに要望したのだ。

 

「まさか、あなたが自ら取材を要望するとは思いませんでした。ライスシャワー。」

『祝福』に集まった報道陣達は、まずそのことに驚いていた。

3年半前の宝塚記念で競走中に大怪我を負い、辛くも一命を取り止めたが、引退を余儀なくされたライスシャワー。

その後は表舞台から姿を消し、『祝福』を経営しながら隠遁に近い生活を送っていた。

なので、彼女が報道の前に現れたのも引退後初めてだった。

報道陣側も、この騒動中に彼女に取材を要請したかったようだが、無理だと諦めていた。

それが、ライスシャワーの方から要望がきた。

 

「それだけ、あなたもこの件に対して大きな関心があるということですね。」

「はい。」

報道陣の問いかけに、ライスシャワーは嫋やかな笑顔で頷いた。

「関心ではなく、この件に行動を起こすことが、私の使命だと思っています。」

「はー。」

ライスの言葉に、報道陣達はどよめいた。

「よく分かりませんが、それほどの思いがあるなら、是非TVの生放送番組で、見解を述べた方が良いのでは?」

「いえ、その必要はありません。この形の取材で見解を述べた方が、良いと思いました。」

 

そう答えたライスの瞳に、僅かに蒼芒が宿っていた。

 

 

*****

 

一方、生徒会室。

 

「ライスの取材は、TVではなく普通の取材ですね。了解ですわ。」

ブルボンからの報告を受けたマックイーンは、殆ど動揺もみせなかった。

 

報告を受けた後、マックイーンは会長席に座ったまま、黙想した。

 

TV生放送ではありませんでした、か。

ライスシャワーらしい慎ましさ、そして賢明さですね。

 

マックイーンは、遂に動き始めた彼女の、その行動は予測していた。

 

ライスが、報道陣と対決する気はさらさらないことは見抜いている。

もしTVだったら、見解を述べた際に、間違いなく亀裂や溝が生じることを彼女は分かっているのだ。

何故なら、報道陣が期待するライスの見解と、本人の見解は180度以上と言っていいくらい違うのだから。

 

見解自体は、ライスと同じであるマックイーンは、彼女のこの行動に干渉するつもりは全くない。

どころか、その見解自体は自分の口からよりもライスの口からの方が遥かに力があるから、寧ろ望んでいたことだった。

 

まあ間違いなく報道は、ライスの見解を記事に公表しないでしょう。

 

ライスもそれが分かって取材を受けている。

目的は、その見解を残すことと、報道陣達にそれを聞かせること、でしょう。

それだけでも、オフサイドトラップの件に対する報道陣の行動に、かなりの影響が出ることは間違いないですし。

それでもなお、ライスの見解を無視して、オフサイドトラップへの理不尽な非難をやめないのなら、もう此方は法的措置を断行するだけ(もともとするつもりだが)です。

 

 

問題は、この後のライスの行動ですわ。

まず、世論に対しては何もしないでしょう。

報道陣は理解出来る能力がありますが、世論は膨大なだけの有象無象です。

恐らく、ウマ娘史上屈指のスターであるライスの言葉も理解出来ないでしょうし、出来たとしてもだんまりか、或いは掌返しで内輪揉めして報道陣以上に責任を回避しようとする筈。

全員がそうではないと思いますが、少なくとも罵詈雑言でオフサイドトラップを中傷した者達はそうでしょう。

ま、例えこの私が慈悲を考えても、理事長は絶対逃がさないでしょうが。

 

 

思考が逸れた…

マックイーンは咳払いをした。

 

問題は、次のライスの次の行動。

間違いなく、療養施設へ行きますね。

サイレンススズカと会い、一連の騒動を伝える為に。

 

マックイーンは腕を組んだ。

それだけは阻止しなければ。

 

スズカは、その全てを受け入れられる程、まだ精神的に成熟しきっていない。

ましてや大怪我で還る寸前まで追い込まれたばかりだ。

そこで騒動のこと聞いたら、折角ここまで快復してきた(快復速度の良し悪しは別として)彼女が再びどん底に叩き落とされる。

 

それを分かりながらも、ライスシャワーは騒動の全てを彼女に告げるだろう。

勿論、あのオフサイドトラップの言動からその真意を含めて、全て。

 

その結果、もしサイレンススズカが最悪の事態になったとしても…

 

最悪の事態…

ライスシャワーの実体験・罪悪感からすれば、例えそうなったとしても、真実隠蔽よりは良いと確信してるのでしょう。

そう、3年半前の宝塚記念の結末よりは。

 

そして、その行動は誰にも咎めきれない。

何故なら、ライスはスズカと同じ経験をした唯一の生き残りウマ娘なのだから。

しかも、彼女にはもう時間がない。

 

 

だが…

マックイーンは腕を組んだまま、翠眼を鋭く光らせた。

私は、それを絶対に止めなければ。

 

レース以外での危険は絶対に避けなければ。

例え、真実を隠蔽してでも。

 

今、真実は隠蔽されても、いずれ明らかになる機会はある。

 

だけど、還ってしまったものは、永久に戻らない。

もし騒動を知ったスズカが、本当にそうなってしまったら…

想像しただけで、マックイーンの肌に悪寒が走った。

 

サイレンススズカを失いたくない。

マックイーンは、胸の痛みとともに吐息した。

あんな良いウマ娘を、走りもウマ娘性も一点の曇りもない青空のように美しいスズカを、喪いたくない。

ずっと生き続けて、天命を全うして欲しい。

その為だったら、真実の隠蔽だってする。

 

勿論、オフサイドトラップだって見捨てない。

彼女だって、救われて栄光を称賛され、天命を全うすべき奇跡のウマ娘。

このマックイーンが名誉の全てをかけて、彼女の未来切り拓いてみせますわ。

 

 

だからライスシャワー、あなたは余計なことはしないでください。

マックイーンの翠眼が、冷徹に翳った。

取り敢えず、私の警告文を無視されましたので、処置をとりますわ。

 

腹黒ウマ娘とでも、何とで思ってくださって結構ですわ。

 

マックイーンは感情を無にし、スマホを取り出した。

「ブルボン、あなたにお願いがあります。」

 

 

*****

 

 

一時間後。

 

ライスシャワーの取材を終えた報道陣が、『祝福』からぞろぞろ出て来た。

全員、なにかショックを受けた様子で、表情が暗かった。

 

『祝福』を出た記者達は、深刻な顔を突き合わせていた。

「これどうする?記事にする?」

「出来るわけないよ。もししたら袋叩きだよ。」

「ライスシャワーがこんな見解だったとはね…理解出来ない。」

「理解しろってのが無理だよ。」

「だけど、説得力はあるな。」

「やめな。幾らライスシャワーの見解でも、これは記事にしちゃダメだ。」

 

記者達が手にしている取材手帳には、ライスシャワーの見解が記されていた。

その中に、大きく目立つ一文、取材にてライスが述べた重要な言葉が記されていた。

 

 

『天皇賞・秋のレース関係で、まず最も責められるべきウマ娘は、サイレンススズカです』

 



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始動(5)(ライスシャワー回想話)

 

取材を受け終えたライスは、店の上の自宅に戻り、脚の手当てしていた。

 

手当をしながら、ライスは過去のことを思い返していた。

 

 

 

*****

 

 

 

忘れられない、3年前の6月4日。

私ライスシャワーは、幾多の栄光を重ねてきた淀のターフに立っていた。

 

最強の好敵手あり、無敗の3冠目前だったミホノブルボンさんを破った菊花賞。

最強王者メジロマックイーンさん&春秋GP覇者のメジロパーマーさんとの激闘を制した天皇賞・春。

そして2ヶ月前、2年ぶりの勝利を挙げた天皇賞・春。

全て、私の栄光は、この淀の京都競バ場で掴み取った。

そしてこの日、私は生涯最高のファンの後押しを背に、この舞台にたっていた。

 

正直、身体は万全じゃなかった。

昨年の脚の怪我、また5年生という年。

前走で復活勝利を挙げたものの、その疲労が残っていた。

 

でも、どうしてもこの宝塚記念に出走したかった。

ファン投票は、初めての1位。

長い間不甲斐ない走りが続いていた私を支え応援してくれたファンの人達が、私をそこまで推しあげてくれた。

その恩に、感謝に報いたかった。

 

そして、第36回宝塚記念のレースは始まった。

 

私は最初から、後方待機でレースを進めた。

実はレースが始まった直後から、脚に違和感を感じていた。

故障ではない。

けど、慎重にレースを進めようと決めた。

もうその時点で、私はレースに勝つことを考えないようにした。

このレースは無事に走りきることだけを考えよう。

そう決めた。

 

だけど、第三コーナーを迎えた時。

私はそれを忘れてしまった。

 

栄光を手にし続けてきたこの淀のターフ。

私は第三コーナーを過ぎた辺りから、いつもスパートをかけていた。

それを、身体が本能的に思い出してしまった。

 

そして、その第三コーナー下り。

思わずスパートをかけ始めたことに気づくより早く、その瞬間はきた。

 

“ビキッ…”

左脚が、砕けた。

身体の真芯を抉られるような激痛に、私は声にならない叫び声をあげて崩れ落ち、全身をターフに打ちつけながら倒れた。

 

『ライスシャワー故障‼︎ライスシャワー故障‼︎…第三コーナー下りで大アクシデントー‼︎…』

場内実況の絶叫と、大観衆の悲鳴が聴こえた。

 

ターフに転がったまま、私は朦朧とした意識の中で、激痛で無感覚になった左脚を感じ、全てを悟った。

私、還るのか…

トレーナー・マックイーンさんにブルボンさん、ステージチャンプさん達が駆け寄ってくる姿が微かに視界に映る中、私は意識を失った。

 

そのまま、私はこの世を去った。

その筈だった。

 

 

眼が覚めたのは、療養施設のベッド上。

左脚は全く動かせなかったが、医師の先生から、集中治療の末私は奇跡的に助かったことを知らされた。

既に、宝塚記念からは3週間以上経っていた。

 

その後、1年以上にわたる治療・リハビリをした後、私は退院した。

同時に、学園を引退した。

引退と同時に、学園から特別賞を貰った。

 

その後は、喫茶店『祝福』を開き、表舞台には出ず今日まで暮らしている。

他の華やかな職業を薦められたこともあるが、脚の状態を理由に全て断った。

 

 

何故なら、人前に出たくなかったから。

こんな罪深いウマ娘、そうそういないだろうと思ったから。

 

何が罪深いって、私はあの宝塚記念を長い間振り返ろうとしなかったことだ。

ようやく、向き合う気になったのは、そのレースから2年近く経ってからだった。

 

レースの記録映像を観て、愕然とした。

本当に愕然とした。

 

私が怪我した瞬間じゃない。

 

レース後、誰も勝者のダンツシアトルさんを祝福してなかった。

みんな、完走すら出来なかった、敗者の私を注目してた。

 

愕然に、更に追い打ちがかかったのは、ダンツシアトルさんの勝者インタビュー。

『ライスシャワー先輩の怪我がありましたので…素直に喜べないです。』

 

そして、観戦したみんなが異口同音に言った言葉…

『ライスシャワーの怪我がショック過ぎて、とてもダンツシアトルを祝う気になれない』

『最も見たくないレース』

『ライスシャワーの故障以外、何も覚えていないレース』

 

 

更に更に、追い打ちがかかった。

ダンツシアトルさんは、このレース後にかつて患った故障を再度発症し、長期の治療も報われず、ターフに戻れないまま学園を去っていた。

 

栄光を称賛されるどころか、競走生活最高の走りすら顧みられないまま、彼女はターフと別れてしまった。

 

ウマ娘として、これ以上の不幸があるだろうか。

 

 

ダンツシアトルさんは、海外から入学した素質の高い、将来を大きく嘱望されてたウマ娘。

でも、脚部不安があり、デビュー後すぐにその影響で10ヶ月の長距離休養を余儀なくされた。

ようやく復帰したものの、数戦のレースを走った後、今度は〈クッケン炎〉発症。

絶体絶命の危機に追い込まれたが、1年以上にわたる長期療養を乗り越え、復活した。

その後は怒涛の快進撃で、重賞制覇から一気に宝塚記念までも制覇した。

2度の大きな故障、それも一度は〈死神〉にかかったのに復活し、G1を制したすごいウマ娘だ。

 

なのに、彼女は何の称賛も浴びなかった。

そして、恐らく失意の中で再び〈死神〉に罹り、ターフに戻れないまま学園を去ってしまったのだ。

 

 

誰のせいで?

あんなに強い勝ち方したのに。

脚部不安にも〈死神〉にも負けなかったのに。

 

そうなった最大の原因は、このライスシャワーだ。

私が競走中止しなければ、無残な姿で倒れなければ、ダンツシアトルさんは栄光を称賛され、然るべき祝福を受けていた。

 

その事実、知るのが遅過ぎた事実に私は絶望した。

 

 

何が「祝福」…

何が「愛されたウマ娘」…

何が「ヒールからヒーローへ」…

何でこんな私が、「特別賞」なんて貰ったの…

ターフで大怪我して可哀想だから?

気の毒だから?

そんな言葉、ターフにあってはならない言葉だわ。

レースにあってはならない感情を持ち込ませたのは、このライスシャワーだ。

 

私が一命を取り留めた後、ファンの皆さんも、同胞のウマ娘達の多くも、「ライスシャワーが救われて良かった」と安心し、それで満足した。

冗談じゃない。

私よりも、一番に救われるべきは、ダンツシアトルさんだった。

 

かつて、私は菊花賞と天皇賞・春を勝った後、色々と文句を言われた。

でも、そんな文句は、レースの内容で全部捩じ伏せた。

世間からはヒールだとかで非難やら同情やらを浴びたが、何とも思わなかった。

そんな周囲の声など、レースの内容で全部黙らせられたから。

 

ダンツシアトルさんは、レースすら観て貰えなかった。

私と同じように、強い内容で、レコード勝ちだったのに。

 

私がそのレースを、皆の視界から永久的に閉ざしてしまったんだ。

 

 

 

その事実を知った後、一体何度、私は自発的に還ろうと思ったことだろう。

 

申し訳なくて、生きていること自体が辛かった。

世間から「悲劇のウマ娘」とか、「幸せにしてあげたいウマ娘」とか、「宝塚記念がない世界が望ましかった」とか、そういう言葉をかけられるのも辛かった。

はっきり言って、可哀想そうとか気の毒とか同情されること程、私にとって屈辱で苦しいことはなかった。

 

でも、私は何も言えない。

言う資格もない。

一種の罰だと受け入れるしかなかった。

そのことだって絶対口にしない。

同情的な人気が上がるって分かるから。

ただじっと、他人の口から、責められる日を待っていた。

 

でも、誰も私を責めようとしなかった。

 

一人、私を責めようとしてくれたのは、メジロマックイーンさんだけ。

私が故障した時、生徒会役員だったマックイーンさんは、私を処罰することを検討してたらしい。

だが、ターフでの故障による競争中止は処罰の範囲にはなかったので、それをしなかった。

 

 

罰はなかった。

責められもしないまま、私の身体の状況はまた変わってきた。

脚が、限界に近づいてきていた。

長らく耐えてきたけど、もうその時は刻々と近づいてきている。

そして、私がこの世界で生きていられるのも、そう永くないということも…。

 

 

でも、私は還る前にやらなければいけないことがあると思った。

それは、次世代のウマ娘達に私のような過ちを侵させないこと。

そして、ダンツシアトルさんの二の舞を絶対起こさせないこと。

 

そう強く胸に誓って、私は今日まで生きてきた。

 

 

 

そして、それが起きた。

先の天皇賞・秋で、サイレンススズカが私と同じ状態になった。

しかも、私よりも重い爪痕を残す形で。

 

そして彼女は、私と同じく、自分が侵した罪に気づいてない。

このままでは、私の二の舞だ。

 

だけど、まだ救いは残っている。

何故なら、オフサイドトラップがあのような言動をしたから。

そして世間が理不尽に徹底的に彼女を糾弾している。

だからこの天皇賞・秋は、絶対に有耶無耶で終わらなくなった。

 

私が言えたことではないけど、あの宝塚記念では、ダンツシアトルさんは周囲に気遣いをしてしまった。

その結果、ダンツシアトルさんの栄光は、顧みられなくなった。

彼女自身が、それを望まないという言動につけ込まれて。

 

何でしたっけ、ダンツシアトルさんの宝塚記念制覇を、このように言う人がかなり多かった。

『気の毒な栄光』

『誰も悪くないけど、称賛されない栄光』

『救いがない栄光』

そんな同情的見方のもとに、栄光を封印された。

 

対して、オフサイドトラップさんは“気分が良い、笑いが止まらない”と言った。

そして、その真意を全く理解出来ない者達が激昂し、彼女を憎み攻撃した。

結果、オフサイドトラップさんは心をズタズタにされてしまった。

 

けど。

ダンツシアトルさんの時よりは、良いと思う。

だって、ダンツシアトルさんは同情という名目で無視された。

でもオフサイドトラップさんの場合は、憎まれてるが無視されてない。

だから、まだ救われる可能性がある。

オフサイドトラップさんも、サイレンススズカさんも。

 

償うのは私だけで良い。

 

 

サイレンススズカさんに教えなければ。

彼女にその罪を教え、それと向き合うことを諭さないと。

 

罪を知った私が何度も還ろうかと絶望したように、スズカさんもそれ位絶望するだろう。

まだ精神的に成熟してない彼女なら、その可能性と危険性は高い。

 

だけど、彼女にはスペシャルウィークさんがいる。

彼女を純心一途に深く愛し、ずっと傍で支えてくれるウマ娘がいる。

そして、無二の親友であるステイゴールドさんもいる。

 

彼女達がいれば、サイレンススズカさんはきっと大丈夫だ。

 

 

勿論、一抹の不安はある。

彼女達は、レースの恐ろしさを体験してない。

特に、スペシャルウィークさんは。

どこか、笑顔だけで何もかも乗り切ろうとしてる。

 

本当に乗り切る為には、目を背けたくなることとも、向き合わないといけない。

そうでなければ、ただの気休めでしかない。

それでは、更なる悲劇が起き続けるわ。

 

だから、私が救える範囲までは救わなければ…

それが、今日まで生きてきた私の、最後の使命。

 



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始動(6)

*****

 

ピンポン。

 

手当てが終わった後、自宅の呼び鈴が鳴った。

出てみると、来訪者はブルボンだった。

 

「ライス、」

ライスよりも一回り体格の大きいブルボンは応対に出た親友を前に、ピンとした無表情の美貌で口を開いた。

「用件はお分かりだと思います。お話し宜しいですか。」

「はい、どうぞ。」

ライスは頷き、自宅にブルボンをあげた。

 

ライスとブルボンは、部屋で向かいあって座った。

一昨日会った時とは違う緊張感が、双方に流れていた。

 

「ライス。あなたは、先日私がお渡しした生徒会長からの手紙は、お読みになられましたか?」

「はい。」

「最後の一文まで、読みましたか?」

「勿論です。」

 

ライスの返答を確認すると、ブルボンは懐から手紙を取り出した。

「生徒会長から、これをライスへ渡すようにと。」

 

「随分と早いですね。」

私が従わないことを見越して、既に手紙を用意してたのか。

その確かな推測と迅速さは流石ですね。

 

感心と畏怖を覚えながら、ライスは手紙を受け取った。

 

 

『元トレセン学園生徒ライスシャワーへ

 

先日の私の要請を無視されたようなので、処置を執らせて頂きます。

今後、あなたの行動は生徒会役員ミホノブルボンの監視下に置かせて頂きます。

私用以外、外出や外部への連絡も含めて、彼女の許可が必要となります。

ご了承を。                         トレセン学園生徒会長メジロマックイーン』

 

 

…。

簡潔な宣告文を読み終えると、ライスはブルボンを見た。

ブルボンは現役時代の仇名のように、美しい顔を機械のような無表情にしてライスを見据えていた。

 

「ブルボンさんが、私の監視を?」

「はい。」

マックイーンさんらしい冷徹な人選だ。

「監視下ということは、ブルボンさんは私と同居するということですか?」

「ライスが望むならそれでも構いません。あくまでも監視ですので、此方からはそこまでしません。ただ、何か行動する際は私=生徒会長の許可が必要だということです。」

「もしそれをしなかったら?」

 

「その時は、」

ライスの問いかけに対し、ブルボンは再び懐に手を入れ、先程とは別の手紙を差し出した。

「こちらに記してある処置を取るとのことです。」

 

「…?」

ライスはそれを受け取って内容を見た。

瞬間、ライスの嫋やかな表情が強ばり、瞳が険しい蒼色を帯びた。

 

『あなたの脚の状態、そしてその時まで時間が残り少ないことを、報道及び世論に、有馬記念直前に公表します』

名族令嬢らしい達筆で記された文面が、ライスシャワーの肺腑を抉った。

 

本当に恐ろしい方です、マックイーンさん…

手紙を握ったまま、ライスはぎこちない微笑すら浮かべらずに内心で震撼した。

冷汗が滲み出るなんて、どれくらいぶりだろうか。

他はどんな処置であろうと、少しも怖くなかったのに…

 

既に、私の脚の状態は調査済みでしたか。

まず、それに驚いた。

まだ誰にも気づかれていないと思ってたのに。

 

そして、その後の文章。

『有馬記念の直前にそれを公表します』

その一文に、ライスはこれ以上ない寒気を感じた。

 

これが公表されたら、オフサイドの騒動もスズカのことも、世の注目から外れる。

それだけでも良くない上、それを有馬記念の直前にですか…

 

レースが翳ってしまう。

3年前のあの宝塚記念の二の舞だ。

 

ライスシャワーの致命的な箇所を、これ以上ないくらい衝く内容だった。

 

 

凍りついた様子のライスを前に、ブルボンはじっと正座したまま、全く表情も変えなかった。

 

覚悟が違いますね…

ライスシャワーは心を落ち着かせる為大きく深呼吸し、額の汗を拭った。

こんな冷酷で狡猾な示唆は、普段の彼女からは考えられない。

それだけ、マックイーンさんも追い詰められているのですか。

 

立場だけでなく、悔恨に対する思いも含め、私とマックイーンさんの覚悟は桁が違うのか…

まだ、償いきれる可能性が残っている私と、もうその可能性がなくなったマックイーンさんとでは。

 

マックイーンの威厳あふれる姿を脳裏に浮かべながら、ライスはそれを肌が粟立つほど痛感した。

 

 

******

 

 

ライスシャワー、これでも私を無視して行動しますか?

 

学園の生徒会室。

マックイーンは窓際に立ち、無感情に光る翠眼を冬の曇り空へ向けていた。

 

先日、あなたの悔恨を聞いた時から、それがどのようなものか推測しましたが、恐らく私の想像通りでしょう。

 

例え有馬記念が翳っても、私は構いません。

それに多分、レースや出走者達に悪影響もないでしょうし。

あなたの心情にとって致命的なだけですから。

 

理解出来ましたら、手をお引き下さい。

 

あとは、この私が明確な目的をもって解決にあたります。

 

私の目的は、サイレンススズカ・オフサイドトラップを守ること。

そして、プレクラスニーの悲劇を繰り返さないこと。

 

 

今朝、本件の最重要人のオフサイドトラップが、我がメジロ家に身柄を移しました。

なので私も、解決策実行へ向けて行動を起こしますわ。

 

マックイーンは会長席に座り、スマホを取り出した。

そして、生徒会役員の一人宛てにメッセージを送信した。

 

 

『パーマーへ

後ほど、極秘でメジロ家の秘密別荘へ御同行お願いします』

 

 

送信し終えると、マックイーンは会長席の引き出しの鍵を開け、二通の書類を取り出した。

彼女が極秘で思考し書いたその書類は、まだ彼女以外一人として見ていない。

 

それぞれに、大きな文字でこう書かれていた。

 

 

『オフサイドトラップの有馬記念出走を断念させる為の計画書』

『サイレンススズカを引退させる為の計画書』

 

 

本心を隠し、極秘で事を進める為には、周囲だけでなく自分の言動や思考でもそれを隠すことが必要ですわ…

二つの書類を胸にしまい、マックイーンは呟いた。

 

 

なんとか、ここまでは計画通りきた。

オフサイドトラップの有馬記念出走を、私が後押ししてた、という行動は残せました。

あとは、如何にそれを阻止するかです。

 

そんな私の考えは、学園も報道も世論も含めて誰一人見抜いていない。

ただライスにだけは見抜かれていたようですが。

でも構わない。

知られているのがライスだけに留まるなら、別段計画の支障にはならないのですから。

 

とはいえ彼女でも、サイレンススズカへの計画については予想してないでしょう。

 

 

私は、サイレンススズカを守ると決意しています。

ですが、ターフに戻してはならないと思ってる。

…彼女は、レースにおいてやってはいけないことをやってしまった。

いえ、ウマ娘としてなってはならないものになってしまったと言った方が正しいでしょうか…

 

 

ライス…

マックイーンは、思考を彼女に戻した。

 

私があなたにしたことを公表しても結構です。

 

私は、誰に憎まれてもいい。

人間からもウマ娘からも、メジロ家の者からも、理事長から、生徒会からも。

オフサイドからもスズカからも、…そしてライスシャワー、あなたからも。

 

誰にも理解されなくていい。

この世界に大切なのは未来・結末。

そして、責任者の存在。

 

オフサイドトラップもサイレンススズカも、責任を負っては駄目。

責任を一身に負うのは、この生徒会長メジロマックイーンだけでいい。

 

 

「プレクラスニー。私、間違ってないよね?」

不意に、マックイーンはぽつりと呟いた。

冷徹な表情のうちに、寂しそうな色が浮かんだ。

 

 

*****

 

 

場は再び、ライス宅。

 

「もう一つ、生徒会長から手紙があります。」

マックイーンからの文面を見て沈黙しているライスに、ブルボンは再三懐から手紙を取り出した。

ライスは固い表情のまま、それを受け取った。

 

その手紙は、それまでの達筆で淀みない文面と異なっていた。

 

手紙や文面の端々に、濡れ痕が残っていた。

 

 

『追伸

 

先日、あなたの脚の状態に関して、極秘に調べました。

 

調査した結果、私はそれを知りました。

覚悟は出来ていましたが、涙が止まらないです。

 

どうかお願いです。

あなたはもう無理をせず、1日でも永く生きることを優先してください。

あなたには生きていて欲しいんです。

叶うのなら、私より永く生きて欲しい。

生きて、生きることだけ考えて下さい。

 

この件が無事に結末を迎えたら、また『祝福』でお会いしましょう。

だから、生きていて下さい。

その時は、ミホノブルボンも含めた三人で、楽しく思い出話でもしましょう。

その日が訪れることを、心から希望にしています。

 

お願いだから生きて。

絶対に還らないで下さい。』

 

 

12月22日は曇り空。

だが雲の群れも橙色に光り、間もなく夕方になることを告げていた。

 








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別荘(1)

*****

 

時刻は早朝に遡る。

 

まだ夜明け前の富士山麓のケンザン宅前には、メジロ家の車が停まっていた。

その車両の前に、オフサイドトラップとフジヤマケンザンの姿があった。

 

ここに来た時と同じ姿のオフサイドは、キャスター付きバッグを手にケンザンを向いた。

「ケンザン先輩、お世話になりました。」

「いいさ。私も、所用が済んだら向かうから。それまで気をつけてな。」

「はい。」

オフサイドは先輩に頭を下げると、メジロ家の車両に乗りこんだ。

 

そしてそのまま、オフサイドを乗せたメジロ家の車は、ケンザン宅を去っていった。

 

 

「…。」

オフサイドを乗せた車を見えなくなるまで見送った後、ケンザンは自宅に戻った。

 

昨晩、マックイーンから彼女のもとに急連絡がきた。

報道&世論に、オフサイドがここにいると嗅ぎ付けられた情報が入った、安全の為、彼女の身柄をメジロ家で保護したいという内容だった。

連絡を受け、ケンザンはオフサイドとも相談した末、それを受け入れることにしたのだった。

 

今はオフサイドのみ経たせてケンザンはここに残ったが、諸々の整理がついたら彼女もすぐメジロ家へ向かう予定だ。

マックイーンさんもそれを望んでいるようだったし、早ければ明日にでも経たねば。

ケンザンはそう思った。

 

 

 

一方。

 

富士山麓を経って数時間後、オフサイドを乗せた車はメジロ家の屋敷に着いた。

 

メジロ家屋敷といっても、メジロ家の本屋敷ではなく、大分離れた山奥にある別荘。

富士山麓より人気のない、静謐な場所。

身を隠すには最適な場所だった。

 

オフサイドは使用人に案内され、別荘内の一室に通された。

 

通された後、ここでの行動は使いの者を同行させれば自由などの説明受けた。

 

「では、今からトレーニングを始めても宜しいでしょうか。」

「はい。別荘裏にメジロ家専用のトレーニング場がありますので、ご案内します。」

「それでは、早速。」

「お着替え、お手伝いいたします。」

「いえ、一人で出来ます。…着替えが終わるまで、室外で待ってもらえますか?」

「かしこまりました。」

使いの者は、部屋を出ていった。

 

一人になった後、オフサイドは制服姿から体操着に着替え始めた。

右脚の包帯もしっかり巻き直し、体操着姿になると、使いの者に案内されて競走場へ向かった。

 

メジロ家専用の競走場は広かった。

 

競走場に着くと、オフサイドはすぐにトレーニングを始めた。

競走場の傍で、使いの者は彼女のトレーニングを見守っていた。

 

 

1時間程トレーニングした後、オフサイドは少し休憩した。

 

思い出すな…

水を口に含みながら、オフサイドは競走場とその周囲の山並みを眺めた。

昔、こんな場所で『フォアマン』の皆で合宿した記憶がある。

確か、5年くらい前のことだ。

まだデビューもしてなかった、1年生の夏。

あの頃は、随分と先輩達に鍛えられたな。

グローバル先輩、ケンザン先輩、チケット先輩、マイシン先輩…懐かしい。

そして、同期として切磋琢磨した仲間の…ブライアン、ローレル。

オフサイドの脳裏には、先輩だけでなく親友二人の姿も浮かんだ。

 

…。

オフサイドは、何かを振り払うように頭を振った。

容器を置いて立ち上げると、トレーニングを再開した。

 

 

そして、数時間後の昼過ぎ。

オフサイドはトレーニングを終えた。

 

いつもより大分早かったが、この日は移動による脚の負担があったから。

ここで壊れる訳にはいかないので、大事をとって切り上げた。

 

別荘の部屋に戻ると、オフサイドはいつものように脚のケアをしてから制服姿に着替え直した。

マックイーンが彼女の為に医師を用意していたようだが、脚は誰にも見せる訳にいかないので辞退した。

 

少し休んだ後、オフサイドは鞄からノートと筆記用具を取り出し、室内にある机へと向かった。

ノートには、かなりの量の文章が書かれていた。

ケンザン宅に身を移した時から書き続けているそれは、彼女の競走人生の回想録だった。

 

入学後の『フォアマン』チーム加入&ブライアン・ローレルとの出会い。

3人でクラシックを目指した日々。

そして、クッケン炎との闘いの始まり。

大怪我で還りかけたローレルや、3人での療養生活…。

 

それらを含めた、競走生活の全てを記している。

 

記してないのは、シグナルライトのことだけ。

あれは、レース上でのことしか私には書き残せない。

あとのことは、ルソーだけしか書き残せない。

 

それ以外は、9割方書き上げた。

 

だけど、ここ数日は筆が止まっている。

もう時間がないのに、まだ書けない箇所があった。

 

一つは、天皇賞・秋。

書くどころか、思い出すだけで耐えがたい苦痛に襲われるから。

 

もう一つは…

 

オフサイドは、再び鞄に手を伸ばした。

学園寮を離れた後もずっと持参している天皇賞の盾。

それと一緒に、もう一つ肌身離さず持っている、小さな箱があった。

 

オフサイドはそれを取り出し、掌に抱えてそれを開けた。

中には、二つのシャドーロールが入っていた。

片方は自分のもの。

もう片方は、ナリタブライアンの。

 

オフサイドは、ブライアンのシャドーロールを手に取った。

丸まっていたそれを、両手の上に拡げた。

 

未だ書けないもう一つの出来事は、ブライアンにこれを託された、9月27日のこと。

 

 

「ブライアン。」

オフサイドは、シャドーロールを握り締めた。

私は、あなたの為に走った。

史上最高のウマ娘のあなたから何もかも奪った〈死神〉を倒したかった。

その為なら、例え何もかも失ったって構わなかった。

 

結果、何もかも失っただけだったわ。

 

ごめん、ブライアン。

シャドーロールを見つめるオフサイドの窶れた瞳からは、何も溢れなかった。

私、向こうであなたとは会えない。

 

もう、その決意を決めたから。

 



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別荘(2)

*****

 

夜。

 

オフサイドがいる山奥の別荘へ、メジロ家の車が走っていた。

車内には、共にメジロ家の令嬢であるマックイーンとパーマーが乗っていた。

 

「あの、生徒会長。」

学園から帰ろうとしてた所、マックイーンに突然同行を要求されたパーマーは、車中で何度も戸惑った様子で傍らの彼女に話しかけていた。

「話しって、一体何ですか?」

「別荘に着いてから、お話しますわ。」

マックイーンは、車中でずっと眼を瞑っていた。

彼女の雰囲気は、普段の厳しくも優雅なものじゃなくて、氷のように冷えきったものになってた。

パーマーですら、そんな雰囲気のマックイーンはあまり見たことない。

マックイーンと対照的に明るい雰囲気の強いパーマーは、少々恐そうだった。

 

やがて、車は別荘に着いた。

 

マックイーンとパーマーが別荘に入ると、使用人達が迎えていた。

マックイーンは彼らの姿を見るなりすぐに尋ねた。

「オフサイドトラップは、どうしていますか?」

「えっ?オフサイドトラップ?」

「オフサイドトラップ様は、ずっとお部屋の方にいらっしゃいます。」

「そうですか。」

驚いているパーマーを尻目に、マックイーンは使用人達に礼を言いながら別荘に入った。

 

 

二人は、別荘の奥の一室に入った。

 

「あの、生徒会長。」

夕食が用意された卓の前に向かいあって座ると、パーマーは車中の時以上に戸惑った様子で尋ねた。

自分一人だけ突然呼び出されるし、しかも場所は秘密別荘。

どう考えても穏やかなことじゃない上に、ここにオフサイドトラップがいる?

「私、何がなんだか訳わからないんだけど。」

 

「パーマー、ここではマックイーンとお呼び下さい。」

 

マックイーンは、水を一口飲んでから口を開いた。

「詳しくは後でお話ししますわ。その前に、まずお聞き頂きたいことがあります。」

「は、はあ。」

マックイーンの翠眼が異常な程の冷徹さを帯びているのを見、パーマーは内心恐怖しながら頷いた。

 

「まず、この会合は絶対に秘密にして下さい。」

「秘密?」

「私とあなただけの、です。メジロ家の者にも生徒会の者でにも、絶対に口外しないで下さい。」

「…。」

言いたいことは沢山あったが、パーマーはマックイーンの眼光を前にただ頷くしかなかった。

 

「では、まずこれを。」

マックイーンは、懐から例の二通の書類を取り出した。

 

「…は?」

受け取ったパーマーは、その二つの書類の大文字を見て硬直した。

オフサイドトラップの有馬出走を止める?

サイレンススズカを引退させる?

天皇賞・秋以降、マックイーンが執ってきて、私達生徒会が支持してきた方針と真逆じゃないか。

「これ、なんなの?」

「現状起きている事態の解決の為の計画ですわ。」

「本当に?」

「本当ですわ。」

 

「どういうことなの、マックイーン。」

当初は驚愕していたが、やがて疑問の数々と一緒に、沸々とした怒りが沸きあがってきた。

「もしかして、あなたはずっと、私達生徒会の仲間を騙してたの?」

 

パーマーの言葉に、マックイーンは冷徹な表情を変えずに答えた。

「私は、トレセン学園生徒会長ですわ。在学する約六千の同胞の最高責任者。かつ、全ウマ娘達の象徴的存在。状況に応じて適切な行動を取るのが、私の義務です。」

「そんなこと聞いてるんじゃないの。」

マックイーンの冷徹で無感情な眼を、パーマーは燃える眼で見返した。

現役時代、メジロ家の令嬢に相応しい王者として君臨していたマックイーンに対し、パーマーだってマックイーンですら出来なかった春秋グランプリ制覇をやってのけたウマ娘だ。

威厳や風格こそ劣るかもしれないが、生徒会役員に相応しいウマ娘だという誇りや自負は強くあった。

 

「あなたまさか、オフサイドトラップを見捨てる気?」

「…。」

「あなたが、こんなことをするウマ娘だとは思わなかった。」

パーマーは名族令嬢らしくなく、怒りと失望の感情を剥き出しにした。

「私だって誇り高いウマ娘の一人よ。こんな計画に易々と賛成する訳ないじゃん。」

 

オフサイドトラップを出走させない?

全く理解出来ないわ…

そんな素振りは見せてこなかったが、恐らく現生徒会のメンバーの中で自分程、オフサイドトラップの立場の辛さが分かるウマ娘はいないだろうと、パーマーは内心で思っていた。

 

 

メジロパーマー。

同じ名族の令嬢でありながら、彼女はマックイーンと比べ競走生活は歩みがかなり違った。

クラシックから頭角を現し以後はG1の舞台で王者として君臨し、メジロ家の象徴のような存在になったマックイーンに対し、パーマーはずっと成績が上がらず、メジロ家では不遇な時代を長く過ごした。

 

4年生になってようやく重賞を勝ち始め、G1レースにも挑めるようになったが、それでも不遇だった。

宝塚記念で低評価を覆して悲願のG1を獲った時も、表彰式にはメジロ家の者はいなかった。

誰もパーマーが勝てると思わず、応援にすら来てなかったから。

有馬記念の時ですら、パーマーが勝てると思ってなかったのか、レース後すぐ帰れる準備をしてたと彼女は後に知った。

勝たなければ認められないというこの世界の厳しさは、不遇な時代を長く送ったパーマーは肌身沁みてよく分かっている。

とはいえ、不遇だったのは成績が悪かったせいだと、自分でもそこは納得してる。

逆に言えば、勝てば認められるのだ。

そう思ってたが、実際は、パーマーは両グランプリを勝ってもまだ認めてもらえなかった。

宝塚記念の時はメンバーが弱かったからと言われ、有馬記念の時は大本命のトウカイテイオーが絶不調だったのに他のメンバーが彼女をマークしてしまい、その隙をついた勝利だと評された。

 

パーマーは悔しかった。

その後の阪神大賞典では3着王に驚異の粘り勝ちしたのに、本番の天皇賞・春はマックイーンにもライスシャワーにも、更にはG1未勝利のマチカネタンホイザにすら劣る4番人気。

どこまで認められないんだと歯噛みした。

そして、競走生活の全てを捧げた激走で、天皇賞・春を勝ちにいった。

結果は完敗だった。

直線でライスに千切られ、マックイーンにも食らいついたが僅かに及ばず3着。

そして、激走の疲労が残ったまま出走した宝塚記念。

人気こそようやくマックイーンと対抗出来る程に押し上げたが、もう力は残っていなかった。

同じ天皇賞・春を激走した者同士なのに、平然と1着で駆け抜けたマックイーンに対し、4秒近く遅れた惨敗。

その後は遂に栄光を手に出来ないまま、引退した。

 

マックイーンを一度でも越えたかった。

そうすれば、本当に認めてもらえたと思う。

 

でも、届かなかったとはいえ後悔はない。

完敗だったとはいえ、あの天皇賞・春は全てを出し切って走りきれた。

負けたあと、パーマーは強いウマ娘だとファンの皆から称えてもらえるようになった。

メジロ家でも、メジロ令嬢に相応しい存在だと認められた。

 

また、誰よりもマックイーンが認めてくれた。

彼女と走ったレースは、全てマックイーンが私より先着した。

そんな彼女が、天皇賞・春の後に、私を強いウマ娘だと言ってくれた。

本当に嬉しかった。

 

今のオフサイドトラップは、事情はかなり違うけど、私と似てる。

パーマーはそう思っていた。

勝ったのに認めて貰えない、称賛を送ってもらえない。

あの天皇賞・秋のレース後、異様な雰囲気で行われた表彰式は相当辛かっただろうと、宝塚記念でたった一人の表彰式を経験したパーマーは胸が痛む位に思い遣っていた。

その辛さを、悔しさを、無念さを乗り越える為には、また次のレースに出るしかない。

だから、パーマーはオフサイドの有馬記念出走を強く支持した。

 

なのに…

 

 

「ねえ、マックイーン。どうしてなの?」

書類を爪が立つくらい握りしめながら、パーマーは侮蔑と怒りを込めた視線をマックイーンの瞳に当てていた。

「これがあなたの本心だとしたら、ちょっと許せないよ。…ねえ、マックイーン。」

「ご覧いただきましたか。」

マックイーンは、パーマーの言葉を無視していた。

「それでは、本題に」

 

「マックイーン!」

パーマーは、手に持ていた書類を傍に放り捨てた。

「私の質問に答えてよ!」

「それは大事な書類ですわ。」

マックイーンは立ち上がり、放り捨てられた書類を拾いにいった。

「乱暴な扱いはしないで下さい。これは今後の為の…」

 

「馬鹿にしないで!」

無視を決めつけるマックイーンに、パーマーは遂に切れた。

卓上にあった水の入ったコップを手に取ると、それをマックイーンの顔目掛けてぶちまけた。

バシャッ…

マックイーンの顔は、かけられた水によってびしょ濡れになった。

 

マックイーンは一瞬硬直したが、すぐにハンカチを取り出すと、表情を変えずに無言で顔や衣服にかかった水滴を拭い始めた。

 

「一体どうしたの、マックイーン。」

思わず感情を爆発させてしまったパーマーは、水かけられてもなお淡々としたマックイーンの姿を前に少し後悔しながら、だがまだ怒りをこめた口調で尋ねた。

「突然過ぎて、理解出来ないわ。詳しく話して。そうでないと私、一切聞く耳持たないわ。」

 

「…。」

パーマーの言葉に、マックイーンは水滴を拭き取り、衣服の乱れを整えてると元の席に戻り、それから口を開いた。

「私は、私の独断でこの計画をたてました。」

「あなたの独断?」

「ええ。他の誰とも相談せず、私だけで。他人に打ち明けるのは、あなたが初めてです、パーマー。」

「私が初めてなの?」

「見抜かれている者は別として、あなたが初めてです。そして、あなただけです。」

 

「なんでまた、私だけ?」

「あなたは家族です。家族だったら、理解してくださると思ったから。それに、この計画の為には家族の協力が不可欠なんです。」

 

マックイーンの言葉に、パーマーは大きく息を吐き、そして言った。

「目的と詳細、話してくれる?」

「はい。」

深呼吸しながら腕を組んだパーマーに対し、マックイーンは頷くと、冷徹な表情のまま続けた。

 

「私の計画と目的は、オフサイドトラップの引退後の未来を考えてのことです。…卒業後、彼女が穏やかな余生を過ごせる為に。不遇な扱いを受けず、世間に無視された状態などにならない為に。」

 

穏やかな余生、不遇な扱い…

「なるほどね。」

その台詞を聞き、パーマーには、すぐに察することがあった。

「プレクラスニーの二の舞は絶対に起こさせない、ということね。」

 

「…。」

それへの返答はしなかったが、マックイーンの瞳の力が弱まって見えた。



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7年前の悲劇(1)(メジロマックイーン回想話)

 

*****

 

私メジロマックイーンには、親しい同期のウマ娘がいた。

銀髪が美しく、優れたスピードの持ち主。

彼女の名前は、プレクラスニー。

 

入学前はなんの接点もなかったが、クラスが一緒で席も隣同士だったことから、彼女との運命は始まった。

 

クラスニーは、真面目だけど明るいウマ娘。

長距離が得意な私に対し、彼女は短距離〜中距離が得意。

同期の短距離主戦ウマ娘は、素質の高い者が多かった。

彼女はそのトップを争う一人で、いずれは短距離王になるのではと期待されていた。

 

私は他人とそんなに関わらない主義だったけど、何故かクラスニーとは親しくなった。

なんでだろう…彼女が時折銀髪を掻き分けたり、靡かせたりする仕草を見て、胸が熱く揺れ動くのを感じることが何度もあったから。

 

年月を重ねて3年生になる頃、私とクラスニーはかなり親密な仲になった。

私が天皇賞・春などを制し第一人者となって秋へ続く大舞台に向け調整している頃、クラスニーも短距離戦線で一気に成績をあげ、同距離の王者の座を狙い始めていた。

 

そして、秋の大舞台緒戦。天皇賞・秋。

私は勿論、得意距離であるクラスニーもそのレースへの出走を決めていた。

 

私とクラスニーはチームは違うけど、トレーニングはよく共にし、時に2000mの距離で模擬レースなどをした。

私の方がやや強かったが、ほぼ互角だった。

それ以上の距離なら私が圧倒だったけど、中距離〜短距離、特に1800〜2000mにかけてのクラスニーの強さは際立っていた。

特に彼女は、その年の夏以降で急成長を見せていた。

本番ではどうなるか、正直分からなかった。

 

でも、天皇賞・秋が近づく中、レースへの緊張感は別として、私とクラスニーの仲はより濃くなった。

クラスニーは勝敗よりも、まず私と闘うことを楽しみにしてた。

プレッシャーも殆どなさそうで、いつも明るかった。

私も、自分にはない彼女のポジティブさが好きだった。

銀髪と笑顔が本当に美しく映えていたし。

クラスニーも、絶対に負けないという私の気概を好きだと言ってくれた。

勝敗は必ずつく、それでも気持ちのいいレースが出来そうだと、私は思っていた。

 

 

そして、その日は来た。

7年前の10月27日。

第104回天皇賞・秋。

 

当日は朝から強い雨が降っていて、コース状態は不良バ場だった。

もうその時点で、パワーでは他の追随を許さない私がかなり有利な状況だった。

人気は圧倒的に1番人気。

史上三人目となる天皇賞春秋連覇という大記録もかかる中、私は自信に溢れていた。

一方のクラスニーは3番人気。

唯一怖い相手だったが、バ場状態もあり負ける気はしなかった。

 

そして、発走の時を迎えた。

 

スタート直後、7枠で珍しく絶好のスタートをきれた私は、直後の第2コーナーのカーブ前で先頭に出ようと、なるべく内側に進路をとりながら加速した。

そうはさせじと、私より内枠での発走だったクラスニーがスピードをあげて競りあってきた。

その時、私とクラスニーが走る後方で何かごちゃつく音と悲鳴のようなものが聞こえたが、気にしなかった。

 

いきなりの競り合いは、結局私が譲った。

クラスニーは先頭にたってレースを進め、私は3番手でレースを進めた。

 

そのまま、レースは最後の直線に入った。

不得意の不良バ場状態の中、クラスニーは懸命に走って先頭を死守していた。

そんな彼女の背を、不良バ場も得意の私はすぐに捉えた。

残り200mまでクラスニーは粘った。

でも、相手が悪かった。

200mで私は先頭を奪うと、後は独走した。

 

結果、私は1着でゴール。

6バ身後方で、プレクラスニーが2着入線。

私以外の後続の追撃は振り切っていた。

 

レース後、私とクラスニーは健闘を称えあった。

クラスニーは春秋連覇おめでとうと言ってくれ、私も、不良バ場じゃなかったら分からなかったと、不得意なバ場で奮戦したクラスニーを褒めた。

また来年、この舞台で闘おうと約束した。

 

だけど、私もクラスニーも気づいてなかった。

電光掲示板に、『審議』の青ランプが灯っていたこと。

そして他の出走ウマ娘達の多くが、異様に不機嫌だったこと。

 

レース後、私達出走メンバー全員が、採決室に呼ばれた。

そこで、審議の内容を知った。

『第2コーナー手前で、マックイーンが進路を内側にとろうとした際、後続のウマ娘達の進路を妨害したことについて』

 

進路妨害したなど夢にも思わなかった私に対し、妨害を受けたとされるウマ娘達は口々にそれをされたと出張した。

集まった彼女達のトレーナーの中には、危険な妨害だと怒りを露わにする者もいた。

 

騒然とした雰囲気の中、一人一人が事情聴取を受けた。

勿論私も。

そこで私は、第2コーナー手前のパトロールビデオを観せられ、愕然とした。

私が内側に切れ込んだ瞬間、内枠を走っていた後続メンバーの進路が一気に狭くなり、衝突したり転倒寸前になった者もいた。

プレジテントシチーはあわや転倒&大怪我しそうな程バランスを崩していたし、後で聞いた話では、衝突に巻き込まれたカミノクレッセは、重い怪我を負った。

無論私には、そんな意図などは毛頭もなかったが、斜行による進路妨害は認めざるを得なかった。

 

結果、私は斜行妨害を受けたメンバーの一人であるプレジテントシチー以下となる、最下位18着への降着処分となった。

同時に繰り上がりで、プレクラスニーが1着となった。

 

勿論、その結果を受けて周囲は騒然となった。

メジロ家のおばあ様は降着処分に納得いかずに採決委員達と激論になり、場内の大観衆は怒号と悲鳴と戸惑いの声が溢れる異常事態になった。

 

そうした中、私はただ黙って控室に消えるしかなかった。

 

そして、控え室に戻るその途中、優勝インタビューを受けているクラスニーと眼があった。

クラスニーは、少しも嬉しそうじゃなかった。

泣きそうな顔をしてた。

 

何か声をかけようかと、一蹴脚を止めた。

 

けど、その気になれなかった。

私も、自分が悪いことは分かっていたけど…納得しきれていなかった。

天皇賞・秋の盾も逃し、春秋連覇の偉業も泡と消えた。

悔しさと無念さで、心がいっぱいだったから。

 

そのまま、クラスニーから視線を逸らし、私は場を去った。

 

 

ウマ娘史上初の、G1レース1着入線者の降着処分&繰り上がり優勝者誕生。

またその異常事態の影響で、この日のウイニングライブも史上初めて中止になった。

 

第104回天皇賞・秋は、それで終わった。

 

 

だけど、そこからがプレクラスニーにとって、本当の悲劇の始まりだった。

 



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7年前の悲劇(2)(メジロマックイーン回想話)

 

第104回天皇賞・秋の後。

 

天皇賞ウマ娘となったクラスニーを待ち受けていたのは、ぎこちない祝福の雨だった。

 

世間だけでなく、学園のウマ娘達も微妙な雰囲気でクラスニーを祝福していた。

レース内容が内容だっただけに、クラスニーもぎこちない返答しか出来なかった。

 

おまけに、

〈繰り上がり天皇賞ウマ娘〉

〈6バ身差で負けた天皇賞ウマ娘〉

〈クラスニーは斜行の恩恵の勝者〉

〈普通に走ってればマックイーンの勝ちだった〉

〈クラスニーも実は加害者だった〉

こんな言葉が、世間では普通に囁かれ始めていた。

ただでさえ辛い状況にそんな言葉まで耳にするようになり、クラスニーは心を病みかけていた。

 

心を蝕まれてる中、クラスニーはこの状況を乗り越える為には、私に勝って正真正銘のG1制覇をするしかないと決意した。

そして、元々は得意距離G1のマイルCS(1600m)に定めていた次走を変更し、有馬記念に定めた。

有馬記念・距離2500m。

短距離主戦のクラスニーにとって不適正の距離。

しかも急遽ローテーションを変えての決断。

 

これが、更なる悲劇に繋がった。

 

そして迎えた有馬記念。

クラスニーはハイペースの展開の中、持ち前のスピードを発揮して先行し、第3コーナーから先頭にたった。

第4コーナーを回り、適正距離を超えた直線に入ってからも、先頭にたったまま粘りに粘った。

絶対に、絶対に今度こそ正真正銘の栄光を手にして、称賛される為に。

 

だが残り100mで、遂に距離の限界か、力尽きた。

私もダイユウサク先輩の激走を前に2着に敗れたが、クラスニーは私の2バ身後方の4着。

天皇賞・秋の無念を晴らすことは出来なかった。

 

そして、不適正な距離での激走&ローテーションの急遽変更の代償は、クラスニーの身体に現れた。

彼女は有馬記念後に脚部故障を発生。

その後の長い療養も実らず、遂にレースに出走出来ないままターフを去ることとなった。

 

悔しい、不本意な競争生活だったと思う。

しかしそれでも、彼女には積み上げた実績があった。

通算15戦7勝。

G1を含む3度の重賞制覇。

芝1800〜2000mのレースでは10戦7勝2着3回。

確かな実力と能力があるのは間違いなかった。

 

彼女には今後、次世代のウマ娘を残すという第二の人生と夢が待っていた

 

筈だった。

 

 

 

それから幾星霜。

 

私がクラスニーと再会したのは、今年の1月だった。

あの天皇賞・秋から6年以上経過し、クラスニーが引退してから5年経っていた。

 

5年ぶりに学園に訪れ再会した彼女の姿を見て、私は愕然とした。

クラスニーは、かつてG1を制したウマ娘とは思えない程、暗く窶れた姿になってたから。

余生に苦しんでいるのが明白だった。

 

訳が分からなかった。

取り敢えず彼女を学園で保護し、クラスニーに一体何があったのかすぐに調べ始めた。

余生を約束される筈のG1ウマ娘が、何故こんなことになってしまったのか。

 

調べてみて、戦慄的な事実が次々と明らかになった。

 

クラスニーは引退後から、殆ど仕事をもらえてなかった。

G1ウマ娘なら間違いなく就ける筈の仕事を、全くと言っていいくらいもらえなかったのだ。

 

理由は、あの天皇賞・秋だった。

プレクラスニーというウマ娘は、〈実際は6バ身差で負けていた繰り上がり天皇賞ウマ娘〉という印象だけが、完全に世間にもウマ娘界にも定着してしまっていたのだ。

 

他の重賞レース、特に毎日王冠で短距離G1を制した先輩・同期の強豪ウマ娘達を一蹴してレコード勝ちしたことや、先の芝1800〜2000mの好成績などは、殆ど顧みられなかった。

 

彼女の象徴的・代表的なレースは、あの天皇賞・秋だと決めつけられていた。

要するに『G1ウマ娘に値しない実力のウマ娘』だと。

 

その低評価のせいで、クラスニーは、G1ウマ娘とは思えない苦境の日々を送った。

彼女より実績が低いウマ娘よりも、苦しい状況だった。

例えば、同期のウマ娘で、重賞戦線以上で長く活躍したがG1は獲れなかったホワイトストーン(あの天皇賞・秋にも2番人気で出走。7着)は、それでも引退後に3年間で100回近くの仕事を貰った。

比べてクラスニーは、初めの1年は僅か10回。

通算5年間での仕事はたった28回。

…一体、どこの地獄ですかこれは。

 

夢の仕事も殆ど与えられず、生活も精神的にも苦しくなったのか、クラスニーはボロボロになっていた。

生きる為の最後の望みとして、この学園に戻ってきたのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

メジロ家の別荘。

 

「オフサイドトラップの現状は、プレクラスニーと酷似しています。」

口を開いたマックイーンは、淡々とした口調でパーマーに説明した。

「世間から全く顧みられない栄光、そして、それを払拭する為の無茶な調整とレース挑戦。彼女の二の舞になる可能性が高いですわ。だから、止めなければなりません。」

 

「…。」

パーマーは、腕を組んだまま何も言わなかった。

 












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オフサイドトラップ回想録(1)

*****

 

 

5年前の春、私はトレセン学園に入学した。

 

入学前から優秀なウマ娘として評価されていた私は、明るい競走バ生活を夢見て、学園の門をくぐった。

 

加入を希望したチームは『フォアマン』。

憧れのトウカイテイオー先輩がいるチームだ。

勿論、私以外にも多くの同期がチーム加入を希望していたので、選抜試験が行われた。

 

私は試験の結果、運命の仲となるナリタブライアン・サクラローレルと共に『フォアマン』に新加入した。

 

 

その後、私はチームメイトと共に切磋琢磨しながらデビューを迎えた。

ブライアンは凄い勢いで快進撃を続けてたけど、私やローレルは脚の不安もあり中々デビュー出来なかった。

 

ようやく迎えた年末のデビュー戦は2着。

次もまた2着。

既に朝日杯を制し、世代王者となったブライアンとは大きく水を開けられてしまった。

 

でも年明け、初勝利を挙げるとその次も勝って連勝。

トライアルも勝って、皐月賞への切符を掴んだ。

デビューが私より遅れたせいで皐月賞を逃したローレルの悔しさも胸に、私は圧倒的1番人気の盟友との闘いに挑んだ。

 

 

だけど結果は、今思い出しても凄まじい強さをみせたブライアンが圧勝。

彼女にとっては、ハイペースの展開なんてなんの関係もなかった。

私はただ、直線を割くような勢いでぶっちぎったブライアンの背中をただ茫然と眺めることしか出来なかった。

 

親友のあまりの強さに、心を折られた私はダービーに向けての調整にあまり気合いが入らなかった。

 

そんな中、ダービー一週間前にショッキングなことが起きた。

皐月賞出走こそ逃したが、ダービー出走権はトライアルレースで獲得したローレルに故障が判明し、彼女はダービーに出走出来なくなったのだ。

私は、トライアル後にダービー出走権を獲得したローレルの喜びぶりを見ていた。

その喜びと努力が全て水の泡になったことに物凄くショックを受け、ローレルの心境を思うと涙が出そうなくらいだった。

 

でも、ブライアンは違った。

ローレルの怪我を聞いても動揺せず、落ち込んでいた彼女に対しても慰めの言葉はかけず、ただ一層ダービーに向けての調整に集中した。

そうしたブライアンの行動を、私も見習うことにした。

ローレルの傷心を癒せるのは言葉ではなくターフでの走り。

そう思ったから。それに、私達の姿を見ている後輩も既にいた(フジキセキ・ホッカイルソー・シグナルライト)。

後輩達に対して、情けない姿は見せられない。

ローレルの怪我によって、私のダービーへの思いが変わった。

皐月賞と同じく、ブライアンに勝つと言う思いに。

 

 

そして迎えたダービー当日。

チームの先輩後輩そして車椅子姿のローレルの前で、私とブライアンは生涯一度の夢舞台に出走した。

 

結果はブライアンの優勝。

直線で大外に持ち出しながら先頭に並び、残り200mからみせた彼女の末脚は、皐月賞よりも凄まかった。

実況が『千切った千切った千切った!』と連呼する、5バ身差の圧勝。

対する私は、4コーナーでかなりの不利を受けてしまったこともあるが8着の惨敗。

ブライアンには2秒以上千切られた。

でも後悔はしなかった。

半端な気持ちで走ったわけじゃなく、全力は出し切れた。

私にとって、距離的に菊花賞が厳しい以上、ダービーが最後のクラシックレースだった。

惨敗こそしたが、夢舞台の終わりは悪い形ではなかった。

ローレルにもチーム仲間達にも恥ずかしいレースぶりではなかっただろうという自負もあった。

そして、また千切られたけど、優勝した盟友の背中からも目を逸らさなかった。

 

いつか必ず、あの背中に追いつく日を目指す為に。

 

 

だけど。

 

 

ダービーから一カ月ほど経った7月始め、私は秋の天皇賞を目指す為、2年生限定の重賞レース、ラジオたんぱ賞(G3)に出走した。

2番人気の評価をもらったけど、結果は4着。

このレース中、私は右脚に明らかな違和感を感じた。

 

入学前から、この右脚に不安はあった。

デビューが遅れたのもそのせい。

ローレルも脚部不安はあったけど、私の脚は彼女と違う不安を抱えていた。

それは、ある病の兆候があったから。

 

その病は発症したら、もう2度と走ることは出来ないと恐れられる難病。

現にチームの先輩が一人、その病に冒されていた。

だから、トレーナーも私も、その病が発症しないよう慎重に慎重を重ねた日々を送っていた。

おかげで、皐月賞にもダービーにも出れた。

もう、病気の心配はないかな。

私は内心で、希望的に思っていた。

 

なのに。

 

なんで、どうして。

嫌だ…嫌だよ。

嘘だといって!間違いだって言ってよ!

まだ還りたくない!嫌だっ!

 

たんぱ賞後、病院で違和感を感じた私の右脚の検査をした後、告げられた結果は、〈クッケン炎〉発症。

どんなに否定したくても、私の右脚のごまかしようのない熱と痛みがその事実を伝えていた。

 

 

**

 

 

2年生の7月始め、レース後に判明した“右脚クッケン炎発症”。

 

終わった。

これで私の生涯は終わったと、そう思った。

 

これまで、クッケン炎を発症したウマ娘は、殆どが引退・退学に追い込まれている。

一度治ろうとも、また発症する可能性が高い〈死神〉。

最近では、サクラチヨノオー先輩・アイネスフウジン先輩らG1を制した先輩達もこの病に冒され、引退を余儀なくされた。

実績のないウマ娘は引退せず、必死に闘病しながら現役を続けているが、そのうちの99%は再度の発症で走れなくなるか、成績不振により退学に追い込まれ、大半はそのまま還る。

実績のない私にとって、実質的にクッケン炎の宣告は死の宣告だった。

 

もっと走りたかったな…

クッケン炎の宣告を受けた後、私は絶望の中にいた。

グローバル先輩やテイオー先輩は奇跡の復活をすることが出来たけど、私は絶対無理。

だって怪我じゃなく不治の病なんだから。

この病に冒されてから復活したウマ娘なんて史上見当たらない。

大レースを制した生徒や、名族出身である生徒なら、引退して新たに生きていくことは出来る。

でも、実績もなく名族でもない私は、絶望と苦痛の中で消えていくしかない。

ならもう、早い方がいいかな。

治療も踏み出せず、還ることばかり考えていた。

 

でも、そんな私を必死に励ましてくれたのは、他ならぬチーム仲間だった。

後輩でやたら明るいシグナルライトや、リーダーのケンザン先輩、トレーナー。

 

そして、ブライアンとローレル。

 

私達同期三人には、約束した夢があった。

『大レースの舞台で、一緒に闘う』

 

ブライアンとローレルは何度もそれを口にし、私を励ましてくれた。

そしてもう一人、1年前からクッケン炎と闘病しているマイシン先輩が、“一緒にこの病に打ち克とう”と言ってくれた。

チームのみんなの声に支えられ、私は、闘病を決意した。

 

 

7月中旬、私は学園を離れ、ウマ娘療養施設での生活が始まった。

 

療養生活は、辛かった。

まずクッケン炎による痛みと熱が苦しかった。

酷い時は何日も寝ることが出来ないくらい程の苦痛だった。

治療方法は、患部を氷水に浸し、その後レーザーを当てる。

それの繰り返し。これもかなりの苦痛が伴う。

これを毎日20分〜30分、長い時は何時間も行う。

その日々の辛さもさることながら、何より一度治ってもまた再発する可能性が高いという不安、更にこの病に罹って大成したらウマ娘は過去1%もいないという事実が苦しかった。

毎月、何人もの病症仲間が治療を断念して退学し、その中には還っていく者もいた。

どうしようもない不安と絶望感が、私を蝕もうとしていた。

 

それでも、私はその絶望に耐え続けることが出来た。

それは仲間達が支えてくれたから。

特に後輩のシグナルが、トレーナーと一緒に毎週のように療養施設に見舞いに来てくれた。

彼女はすごく明るい面白いウマ娘で、信号の色を言うのが口癖だった。

また、リーダーのケンザン先輩・リュウオー先輩達もレースの合間を縫って見舞いに来てくれた。

ブライアンとローレルは菊花賞に向けて集中していたので中々来れなかったが、電話で話はよくした。

 

 

そうした中、菊花賞一週間前の天皇賞・秋(優勝はネーハイシーザー先輩)のレース後に悲しいことが起きた。

レースで敗れた現役第一人者のビワハヤヒデ先輩と、『フォアマン』チーム仲間のウイニングチケット先輩が、レース中にクッケン炎を発症したことが判明したのだ。

 

結果二人とも、引退を表明した。

ウマ娘界のスターの引退に、大きな衝撃が拡がった。

同時に、クッケン炎の恐ろしさを、現実で見せつけられた気がした。

更なる絶望感が病症仲間達に広がる中、私は、引退した二人の戦友であるナリタタイシン先輩(4月にクッケン炎発症)らと共に必死に治療を続けた。

 

 

二人の引退の衝撃が残る中、菊花賞の日を迎えた。

ローレルは怪我の影響か、成績が上がりきらず出走を逃した。

注目は、ブライアンが三冠制覇を果たすかの一点に絞られていた。

 

そして結果は、7バ身差の圧勝。

チーム先輩と血縁者の悲運を乗り越え、ブライアンは史上5人目の三冠ウマ娘となった。

 

私は施設でのTV観戦となったけど、彼女が直線で後続をみるみる引き離していく圧巻の末脚を観た時は心が震えた。

こんなすごいウマ娘がいるのか…

でもそれは、皐月賞の時みたいに心が折られるような感情じゃなかった。

もう一度、この怪物と同じターフに立ちたい。

私は心からそう思ったのだ。

 

 

だけど、そうした中で新たな悲報もあった。

秋口にクッケン炎の症状が治まり、1年半ぶりにレースに復帰したマイシン先輩が、再びクッケン炎を発症してしまったのだ。

僅か一月2戦の出走だけで、先輩は再び療養施設に戻ってきてしまった。

現実はこうなんだ。

心底落ち込んだ先輩を見て、私はそう思った。

でも、絶対に諦めない。

 

 

一方で、菊花賞のあと位から、私のクッケン炎の症状は治まりはじめていた。

熱や痛みをあまり感じなくなり、走ることも少しずつできるようになった。

 

そして11月下旬。

検査の結果、クッケン炎が治まったという結果を受け、退院が決まった。

 

その結果を聞いた時、私は嬉しさに泣いた。

クッケン炎にかかった時は、もう帰還を覚悟していた。

療養生活も、本当に苦しかった。

諦めて還ろうと、何度も思った。

でも、諦めなくて良かった。

 

 

私は、5ヶ月ぶりに学園に帰ってきた。

 

チーム仲間はみんな復帰を祝ってくれた。

シグナルは大泣きしてくれたし、ローレルも泣いて喜んでくれた。

三冠ウマ娘になったブライアンも、久々に笑顔になってくれた。

トレーナーやケンザン先輩も、よく帰ってきたと労ってくれた。

 

そして12月。

私は5ヶ月ぶりとなる復帰戦のレースに出走した。

結果は3着だったけど、脚に痛みもなく良い走りが出来たと思った。

何より、またターフにたてたという嬉しさが大きかった。

来年は沢山トレーニングしてレースで良い成績を出して、また大舞台に立ちたい!

そう目標をたてた。

 

 

年内のレースは、その復帰戦が最後になった。

他のチームメイトは、1年生のフジキセキがデビューから無敗の3連勝。

年末の朝日杯も制して1年生王者となり、来年のクラシックの最有力候補に名乗りを上げた。

ルソーも6戦走って2勝と2着1回3着2回とかなり良い成績を挙げた。

シグナルは1戦だけだったが1勝。

クラシックへ青信号だと自賛してた。

 

先輩達に関しては、前述のチケット先輩の引退・マイシン先輩のクッケン炎再発の他、リュウオー先輩も怪我で離脱が多く結果は残せなかった。

リーダーのケンザン先輩はOPで2勝挙げたが重賞以上ではあまり結果を残せなかった。

ただ、年末に悲願の海外遠征を敢行した。

結果は勝てなかったが、目標を叶える為、6年生になる来年も現役続行を決めていた。

 

そして、同期の親友二人。

ローレルは不運もありクラシック出走は叶わなかったが、目標を来年の天皇賞・春に切り替え、年末は連勝で締めくくって弾みをつけた。

三冠を達成したブライアンは年末の有馬記念でも先輩達を相手に圧巻の走りを見せ優勝。

来年は名実とともに史上最強ウマ娘の称号を手にしようと目標を掲げていた。

 

こうして、私の2年生は終わった。

 

そして翌年。

私も『フォアマン』全体も大激動となった年を迎えることになった。

 

 

 

***

 

 

 

3年生。

 

私の年明け初戦は金杯(G3)になった。

 

学園の先輩達と闘う初めての重賞レース。

そのメンバーの中には、チーム仲間のローレルもいた。

私が療養している間、彼女はどんどん強くなっていた。

昨年末のレースの内容から、彼女がブライアンを倒す1番手ではないかとも言われていた。

でも、私だって負けない。

一度は諦めかけたターフに戻ることが出来たんだから。

人気は私が1番、ローレルが2番だった。

 

レースの結果は、ローレルが勝った。

2番手に3バ身をつける完勝で、重賞初制覇を飾った。

対する私は、気負い過ぎたのかまずいレース運びをしてしまい8着の惨敗。

でも、レースに負けた悔しさは当然あったけど、ローレルの勝利が嬉しくもあった。

これまで何度も怪我に泣かされ、クラシックに出走出来ず悔しい思いばかりしてきたローレルが、こんなに強くなった。

同じ脚部不安を抱える身として、すごく勇気つけられて気がした。

私だけでなく、チームのみんなも彼女を祝福した。

 

 

そして2月。

私はバレンタインステークス(OP)に挑んだ。

前レースは惨敗だったけど、それでも1番人気に支持された私は、今度こそと意気込んで出走した。

結果は、マーメイドダバン先輩とのハナ差の闘いを制し、約1年ぶりの勝利を上げた。

 

やった!

本当に嬉しかった。

クッケン炎を患った時は2度と走れないと絶望感してたのに、また復帰できて、しかも勝つことが出来たんだから。

トレーナーもチームのみんなも、私をこれ以上ないくらい祝福してくれた。

後輩の3人は泣いて喜んでくれた。

特にシグナルはボロ泣きして鼻水までつけてきた。

トレーナーもケンザン先輩も、そしてブライアンもぎゅっと力強く抱きしめて祝福してくれた。

ローレルも、二人きりになった時に泣いて抱きしめてくれた。

本当に、本当に嬉しかった。

 

翌日、奈落のような悪夢が待ち受けているなんて夢にも思わなかった。

 

 

***

 

 

復活勝利の翌日。

 

学園への登校中、私は右脚に違和感を感じていた。

その違和感は、覚えのある最悪な痛みと熱を伴っていた。

嘘でしょ…

必死に誤魔化していたけど、だんだん痛みが強くなった。

朝の練習は疲れがあるから、とこっそり休もうとしたが、トレーナーの眼は誤魔化せなかった。

 

*****

 

(情景描写)

 

「行くぞオフサイド!」

「嫌っ!離して下さい!」

 

朝の『フォアマン』部室。

病院に連れていこうとするトレーナー・チーム仲間達と、それを拒むオフサイドが、目を背けたくなるような状況を展開していた。

 

「離して!私は大丈夫ですから!」

「どこが大丈夫だ!」

靴も靴下も脱げ露わになったオフサイドの右足首から下部分は、明らかに腫れ上がっていた。

顔が、痛みと涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だーっ!」

オフサイドはトレーナーの腕を跳ね除け、ケンザンの手を振り切り、ブライアンの腕に噛みついて、泣き叫びながら必死の抵抗をしていた。

その様を見ている後輩3人は、怯えていた。

「オフサイド先輩!」

シグナルの眼からは、昨日の歓喜の涙じゃなく、悲しみの涙が溢れていた。

ローレルは後輩達をしっかりと抱き寄せて、その場を見守っていた。

 

「うっ…」

三人の腕を逃れて駆け出そうとしたオフサイドは、半歩もいかないうちに右脚を抑えて崩れ落ちた。

「痛い、痛いよ…」

また…

「なんで…なんで…よ…」

呻き声を上げて、オフサイドは力尽きた。

 

「…。」

ローレルは、気を失ったオフサイドの側に近寄った。

彼女の頬を伝っている涙を拭き取ると、ぐったりした身体を抱き上げた。

「ブライアンさん。」

「…。」

ブライアンはオフサイドに噛まれた腕をさすりながら、ローレルと一緒にオフサイドの身体を抱き上げた。

「行きましょう、トレーナー。」

ローレルとブライアンは、オフサイドの身を抱き抱えて車へと向かった。

 

 

*****

 

 

病院に運ばれた私を待っていた検査結果は、“右脚クッケン炎再発”。

それも、1度目の時より重症という結果だった。

 

神様なんていない。心からそう思った。

 

 

2度目の療養生活が始まった。

でも、治そうという気力は失われていた。

チーム仲間の言葉も、耳には聞こえたがそれ以上は響かなかった。

適当に治療を受けている中で、もう私の心は決まっていた。

もう、還ろうと。

 

でも、すぐに還る訳にはいかなかった。

せめて、ローレルとブライアンが2ヶ月後の天皇賞・春で対決するまでは生きていようと思った。

ローレルは私が倒れた後の重賞で惜敗したが2着に入り、天皇賞・春への出走を確定させていた。

後輩のクラシックまではとても気力が持ちそうにないけど、せめて同期の勇姿だけは、特に同じ脚部不安に苦しみながらも這い上がったローレルの姿だけは、最期に見届けたかった。

 

 

そして、2度目療養生活が始まって3週間程経った、3月初めの日のことだった。

 

忘れもしない、その日の夕方。

治療を終えて病室で休んでいた私とマイシン先輩(1度目と同じく彼女と同室になっていた)のもとに、チームから電話が来たと連絡があった。

二人以外いないので、私とマイシン先輩はスピーカーホンで電話に出た。

 

「もしもし。」

『マイシン先輩…オフサイド先輩…』

電話の相手はシグナルだった。泣き声だということがすぐに分かり、私達は怪訝な表情になった。

「どうしたんだ?」

『ローレル先輩が、赤信号になってしまいました…』

「は?」

『ローレル先輩、トレーニング中に怪我して、救急車で運ばれて…そしたら、もう再起不能だって…』

 

シグナルの後、ケンザン先輩が電話に代わり、状況の詳細を教えてくれた。

ローレルは学園でのトレーニングで走っている際に怪我を負って転倒し、病院へ搬送された。

診断の結果、両脚に重度の骨折を負った事が判明し、医師から『競走能力喪失・再起不能』との判断を下されたということだった。

 

私達はすぐにローレルに会いに行くことにした。

自分の脚の状態なんて構ってられなかった。

医師の先生の協力もあり、私達はローレルが搬送された病院へ全速力で向かった。

 

病院に着くと、待合室にはチーム仲間全員が集まっていて、まるで通夜みたいな雰囲気だった。

シグナルだけじゃなくキセもルソーも泣いてたし、彼女達の傍らにいるリュウオー先輩もケンザン先輩も口を真一文字に険しい表情をしてた。

そしてブライアンも、蒼白な表情をしてた。

病室にいたトレーナーが、ローレルが会いたがってると呼びに来た。

トレーナーの表情もかなり憔悴していた。

 

ローレルの病室に行くと、彼女は両脚は包帯が分厚く巻かれ宙に吊るされた格好でベッドに寝ていた。

入って来た私を見て、彼女は弱々しく笑った。

もう、悲しむ気力すら残ってないようだった。

 

私とローレルしかいない暗い病室で、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。

 

2年にも満たない学園生活だったけど楽しかった…

クラシックにもG1にも出れなかったけど、脚に不安を抱える中で通算15戦もレースに出れたことは良かったし、重賞を含めて5勝出来たことは誇りに思える…

抱いてたロンシャンへの夢には遠く及ばなかったけど、幸せな夢だった…

 

そんな言葉を、ローレルは心が抜けた笑顔を浮かべて話してた。

 

 

やめてっ!

ローレルの姿に、私は耐えきれずに叫んだ。

 

ローレルの無気力な姿なんて見たくなかった。

諦めの言葉の数々なんて聞きたくなかった。

私にとって、ローレルはもう一つの生命のような存在だった。

数々の試練を乗り越えて、ブライアンという偉大な同期に立ち向かって行く雄々しいウマ娘だった。

一緒にいるだけで勇気つけられるような誇り高いウマ娘だった。

そんな彼女の心が折れてしまったなんて、信じたくなかった。

 

だから、私は言った。

諦めないで!

この大怪我を乗り越えて、またターフを走ろうよ!

 

無理ですよ…

ローレルは、私の言葉を即座に否定した。

もう私は、やれるだけのことはやりました…

何度も何度も脚の不安という壁にぶつかり、その度に乗り越えてきました…

でも、もう限界です…

私は、負けました…

 

だめ!

 

私はベッド上のローレルを抱きしめ、心の底から叫んだ。

絶対に諦めないで!

私も、私も諦めないから!

このクッケン炎から蘇って、必ずターフに戻るから!

絶対に、…絶対にこの〈死神〉を克服してみせるから!

だからあなたも、諦めないで!

 

 

〈オフサイド回想録(2)に続く〉

 



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別荘(3)

 

(86話より続く)

 

「理解して頂けましたか?」

 

プレクラスニーの件を例に自らの思考を述べた後、マックイーンはパーマーに再度問いかけた。

 

「んー…」

マックイーンの問いかけに、パーマーは腕組みを解き、渋い表情を浮かべながら髪をかき分けた。

「ごめん、難しくてよく分かんない。」

「パーマー。」

「私、あなたみたいに頭良くないから。でも、オフサイドの出走阻止だけは、どうしても賛同は出来ないわ。」

パーマーは、そこだけは頑として譲らないと示した。

 

「レースに出走するのは、ウマ娘にとって生きがいも同じよ。特にオフサイドトラップにとってはそうでしょ。」

パーマーだって、オフサイドがどういう競争生活を送ってきたか知っている。

「それに彼女には、未来とかそういうこと考えている余裕なんてなかった筈だわ。毎日毎日命懸け。〈クッケン炎〉との闘いに明け暮れた。数多の同胞との別れを経験した。自分もいつ心が折れるかもしれないという恐怖に襲われ続けた。…全部想像だけどね。あたしもあんたも、そんな日々とは全くの無縁の競走生活だったから。そんな世界で生きてきた私達が、全く別世界で生きてきた彼女に、ウマ娘としてのに生き方とかをあれこれ言って、レース出走を止めるなんておかしいよ。」

 

「彼女達は、永遠に苦しむためにターフを走ってきたわけではないでしょう。」

パーマーの言葉に対し、マックイーンは表情を変えずに言い返した。

「平穏な日常・余生を目指して、闘病を乗り越え栄光を手にしようという思いは当然あった筈です。その道を掴み取りそして歩んできた私達には、彼女達にその道を示す義務がありますわ。」

 

「オフサイドトラップに話してみたら?」

平行線で終始しそうだと思い、パーマーは溜息を吐いた。

「私達であーだこーだ議論しても、当人の意思聞かなきゃ大して意味ないよ。」

 

「ええ。」

マックイーンは、その通りですわと頷き、更に続けた。

「この後、オフサイドトラップに、有馬記念出走について話にいく予定です。つきましては、あなたもその場にいて頂きたい。」

「私も?」

「はい。」

 

そう言うと、マックイーンは使用人を呼んだ。

「オフサイドトラップは自室ですか。」

「はい。」

「では、少しお話しの時間を頂けないかと頼んで下さい。」

「かしこまりました。」

 

5分後、使用人が戻ってきた。

「オフサイドトラップ様から、お話頂けますとのことでした。」

「そうですか、では。」

 

マックイーンはすぐに行こうとしたが、制服が濡れていることに気づき、着替えを頼んだ。

 

「パーマー、」

新たな衣服に着替えながら、マックイーンはパーマーに告げた。

「この後のオフサイドとの話に際して、あなたは私に構わず、自由に発言や見解を示して下さって結構です。」

「自由に?あたし、オフサイドが出走の決意を固めてたら間違いなくそれに賛同するけど、良いの?」

「構いません。ただ、話はしっかりと聞いていて下さい。」

「はあ…」

パーマーは、マックイーンの意図がさっぱり読めなかった。

 

「いきましょう。」

現役時代の勝負服に似たスーツに着替え終えると、マックイーンはパーマーを促した。

 

パーマー。

廊下を歩きながら、マックイーンは内心で思った。

私は、生半可な決意でオフサイドを止められるなんて思ってません。

彼女を相手に小賢しい作戦なんて無意味ですわ。

 

通じるとしたら、捨て身かつ無私の策。

それだけです。

 



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別荘(4)

 

マックイーンとパーマーは、オフサイドが待つ部屋へと向かった。

 

オフサイドは制服姿で、使用人が用意した話し合いの部屋で待っていた。

二人が部屋に訪れると、彼女は一礼して二人を迎え入れた。

 

「オフサイドトラップ。お忙しい中、お時間頂きありがとうございます。」

使用人を下がらせ、用意された席の椅子に向かいあって座ると、マックイーンはまずオフサイドに頭を下げた。

「いえ。こちらこそ、畏れ多くもメジロ家の屋敷に匿って頂き、感謝しています。」

「お気になさらず。生徒を守るのは生徒会長の当然の務めですわ。」

 

ひと通りの挨拶を終えた後、マックイーンは改めてオフサイドの姿を見た。

一週間前に生徒会室で会った時と比べ、彼女の顔色はかなり良くなっていた。

身体の張りも感じる。世間の荒波とは無縁の、トレーニングの一点だけに集中できる空間にいたからか。

だとしても、僅か一週間でここまで調整してきましたか。

10%もない状態から、短期間で70%くらいまでの状態に戻ってきていることに、内心感嘆した。

「体調の方は、大分良くなられたようですね。」

「ええ、調整に集中出来ましたので。」

「流石、天皇賞ウマ娘ですわ。」

「…。」

オフサイドは、ほんの少し微笑した。

 

「ですが、脚の状態は、あまり思わしくないようですね。」

マックイーンの視線は、オフサイドの右脚に向けられた。

包帯が巻かれているので素足は見えないが、その包帯の分厚さが状態の良くなさを思わせた。

「慣れてます。」

オフサイドは、あまり気にしていないようだった。

もう4年以上、この脚部と闘い続けているのだから。

「今度の有馬記念で最後ですから。もう一踏ん張りだと思ってます。」

オフサイドは、包帯に覆われた右脚部にそっと触れた。

 

オフサイドのその言葉を聞いたマックイーンは、無言でテーブルにある紅茶を手に取り、それを一口飲んだ。

優雅な名族令嬢の表情のうちに、言い難い苦悩と葛藤が窺えた。

 

やめようよ、マックイーン…

彼女の隣に座っているパーマーは、その表情を見て思った。

同じウマ娘としての心情なら、あなたはオフサイドの出走を絶対に止めたくない筈なんだから。

いくら、あなたが自分の行動が正しいと思っていても、本心に逆らってまでそれを示すのは、とても良策とは思えないよ。

 

「オフサイドトラップ。」

マックイーンは紅茶のカップを置き、マックイーンは口を開いた。

「僅かな期間で、ここまで調整を上げてきたことに対して、心から敬意を表します。ですが、」

マックイーンは一度深呼吸し、それから続けて言った。

「あなたに、このトレセン学園生徒会長メジロマックイーンからお願いがあります。」

「…?」

傍らで息を呑んだパーマーと対照的に、オフサイドは特に表情も変えず、次の言葉を待った。

マックイーンは、冷徹な眼光でオフサイドを直視した。

「有馬記念出走を、止めて頂きたいのです。」

 

しばらくの間、沈黙が流れた。

時間にすれば1分にも満たない時間だったが、静謐な場所であることも相まって、異常に長く感じられた。

言葉を告げたマックイーンも表情を変えず、告げられた側のオフサイドも、殆ど動揺を見せなかった。

一番動揺してたのはパーマーだった。

 

「あなた、驚かないの?」

緊張に耐えられなくなったのか、パーマーは滲み出た汗をハンカチで拭いながら、沈黙を破ってオフサイドに尋ねた。

オフサイドは、動揺どころか余裕がある微笑を見せながら、パーマーの言葉に答えた。

「予想してました。」

 

「え、予想してたの?」

「私の今の状況を考えれば、生徒会長から出走を止められることも容易に考えられましたから。」

「マックイーンは、ずっとあなたの有馬記念出走を後押しする姿勢を示してたのに?」

「私は、絶望が常に隣合わせにいる生活を送ってきましたので、何事も信じ切ることは出来ないのです。」

「絶望と隣合わせ…。」

 

だと思いましたわ…

ちょっと戦慄しながら呟いたパーマーの傍ら、マックイーンは特に表情も変えず、再び紅茶を一口飲んだ。

マックイーンの方だって、オフサイドに自分の意志を見抜かれている可能性は想定してた。

何しろ彼女は、学園史上屈指な程に〈死神〉との闘病の日々を送ったウマ娘だ。

それに病気だけでなく、彼女はターフでの仲間の帰還も、また盟友の帰還すらも経験した。

故に、危機に対する感覚の鋭さや聡明さは相当なものの筈。

パーマーは気づいていないようですが、あの天皇賞・秋後の言動の真意に(多分だが)気付いている私には、これは想定出来ましたわ。

 

「生徒会長、」

オフサイドは、沈黙したパーマーから、カップを手にしているマックイーンの方に視線を向け直した。

「私は、有馬記念出走を止める気はありません。」

 

私のさいごのレースですから、という言葉は胸の奥に留めた。

 

 

*****

 

 

約一時間後。

 

オフサイドとの話を終えたマックイーンは、パーマーと共に自室に戻っていた。

 

話し合いの結果は、パーマーが予想した通り、不調に終わった。

マックイーンはクラスニーの件なども持ち出して、出走を止めるよう説得にあたったが、オフサイドがそれを受け入れる筈もなかった。

結局、パーマーが殆ど口出すこともなく、マックイーンは説得を止め、話し合いは終わった。

 

 

分かりきってたのに…

椅子に座って紅茶を飲みながら、パーマーは、話し合いを終えた身体をソファで休めているマックイーンを見ながら思った。

幾ら彼女がオフサイドの為と思って出走を阻止させようとした所で、オフサイドが首を縦に振る訳ないじゃない。

確かに、オフサイドを取り巻く世論・ファン目線は相変わらず酷い状況だけど、その状況で出走を決意した彼女には相当強固な意志があるに決まってる。

その意志は、例え生徒会長のあなたでも動かせないのは容易に想像出来た。

クラスニーの件があったとはいえ、マックイーンらしくない無意味な行動だったよ。

 

「マックイーン、」

つと、パーマーはマックイーンに声をかけた。

「あなた、この後どうするの?」

オフサイドが断固として出走すると表明した以上、これ以上それを止めようとしても意味がない。

「今まで表面上でやってた通り、オフサイドトラップが出走出来る為に尽力するつもり?」

「…。」

瞑目したまま答えないマックイーンに、パーマーは更に続けた。

「このことは、あまり気にしないでいいよ。オフサイドの出走を止めようとしたことは私しか知らないことみたいだし。私も絶対に誰にも言わないから、隠していればなにも起きないわ。オフサイドだってあなたのことを悪くは思わないだろうし、今後は彼女が無事に出走まで…」

 

「パーマー、」

自分を気遣いしてくれるパーマーに対し、マックイーンは瞑目したまま言葉を発した。

「先程の、オフサイドトラップと私の話は、全て聞いてましたか?」

 

「え。まあ、うん。」

自分の言葉を全く聞いてなさそうな言葉に、パーマーは戸惑いつつも頷いた。

「私がオフサイドトラップの有馬出走を止めようとしたし、彼女がそれを明確に拒否したことも、ちゃんと憶えてますね。」

「勿論だけど。」

それがどうかしたの?と、答えながらパーマーは怪訝な表情をした。

するとマックイーンは、安心したような微笑を見せ、ソファから身を起こした。

その微笑が、パーマーの眼には非常に孤独な色に映った。

 

まだ何か考えてるの…?

パーマーは、また少しぞっとした。

パーマーのその表情を見て、マックイーンは微笑したまま言った。

「ここまで、全て私の想定…いや、計画通りですわ。」

 

「え、計画通り?」

「はい。私が先程の話し合いで求めたのは、有馬記念に出走したいというオフサイドトラップの強固な意志。そして、それを阻止しようとする私と、それを拒否する彼女のやり取りを目の当たりにした者の存在でしたから。」

 

「???…?」

予想外のマックイーンの言葉に、パーマーの思考回路は完全に混乱した。

「ごめん、全然意味が分からない。もう少し分かり易く説明してくれる?」

パーマーの言葉に、マックイーンはテーブルの上にある紅茶を淹れたカップを手に取りながら、改めて説明した。

「私が彼女の意志を無視したと証明出来る場を、あなたに証人として記憶してもらったのです。」

「意志を無視?それってまさか」

「ええ。私はこの後、オフサイドトラップの意志関係なく、私の判断で彼女の出走を取り消す予定です。」

 

「…正気?」

「狂ってますわ。狂気の沙汰です。」

頭を抱えながら思わずそう言ったパーマーに、マックイーンは微笑を消し、冷徹な眼光に戻った。

「でも、オフサイドトラップの未来の為なら、狂ったことだってしてやりますわ。汚名だって被ります。メジロ家からも追放されたって構いません。…オフサイドトラップの栄光と未来が閉ざされることだけは、絶対に絶対に絶対に避けなければいけないんです。」

 

「今、世の中は膨大な群れでオフサイドトラップを理不尽に責め続けていますが、ここを彼女が耐え抜ければ、やがてそれはおさまるでしょう。そして間違いなく、世の中はまるで狂酔から醒めたように、彼女を理不尽に責めたことも忘れて、手のひらを返すように同情し始めますわ。そうなれば自然と、誰もが彼女を理不尽に追いつめた犯人を探し求めます。その時に犯人として糾弾される立場…即ちオフサイドトラップの名誉を回復させる為に必要な『悪』の立場に、私はならねばいけないのです。」

 

カップに唇つけながら淡々と述べたマックイーンの表情は、まるで何かに取り憑かれているように、パーマーの眼には映った。

 

 

*****

 

 

一方。

 

生徒会長、非常に苦しんでるようですね…

別荘内の部屋で一人、右脚のテーピングの巻き直しをしているオフサイドは、先程のマックイーンとの話と、その際の彼女の様子を思い出していた。

 

生徒会長。

先程の話の中で、あなたは私の未来の為にと、必死に有馬記念出走を止めようとしてくれました。

それが嘘も偽りもないことは、はっきりと感じました。

 

ですが、それは受け入れられません。

私にはもう、未来も希望もありません。

私が最後に出来ることは、今度の有馬記念で〈死神〉との闘いに終止符をうつことだけです。

 

それでも、今後なおも生徒会長が私の為に苦しまれることを選択されるのでしたら…

 

テーピングを付け直し終えると、オフサイドはぽつりと呟いた。

「あなたを、その苦しみから解放させてあげたいです。」

勿論、有馬記念不出走という選択以外で。

 

その方法は…

オフサイドの思考内では、既にそれを見つけ出していた。

 



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別荘(5)

 

一時間後。

 

マックイーンは別荘を去り、メジロの屋敷へ帰っていった。

パーマーは、この日は別荘に泊まる事にしたので残った。

 

マックイーンの馬鹿…

マックイーンが帰った後、パーマーは一人で別荘内の庭を散歩しながら、悲痛な気持ちで彼女を思った。

オフサイドだけじゃなく、あなたまで心を失いかけてるじゃん。

 

 

さっき、パーマーはマックイーンの計画の全貌を聞いた。

 

彼女曰く、自分が悪になればオフサイドが救われると語っていた。

今の状況下、オフサイドがどんな行動をしても、世の中から非難と中傷が注がれるということをマックイーンは見越していた。

有馬に出走しようがしなかろうがそれは同じ。

彼女に対する風当たりは、現状容易におさまりそうにない。

 

でも、いつかはおさまる。

時期的には、スズカが完全に復活した頃だと。

その時、世の中は彼女の復活に歓喜すると同時に、オフサイドへの理不尽な行動を後悔し始める。

でも、反省することはしないだろう。

誰もがあれこれ理由を探して責任逃れしようとするに決まってる。

 

それでは結局、オフサイドトラップは運が悪かったからとかいう同情で無視される未来しかない。

 

それではいけない。

彼女を理不尽な目に合わせた犯人が必要だ。

 

だから、マックイーンは自らが犯人になろうとした。

即ち『オフサイドトラップの意志を無視して有馬出走を独断で止めた悪人』に。

 

その悪事を証明する役に、私を選んだのね。

あの話し合いの場に私を呼んだのはその為か。

つまり、いずれこんな報道がされることを望んでるのかしら。

『衝撃事実発覚。生徒会長(マックイーン)が一生徒(オフサイド)の有馬出走を独断で取り消し。証言者は身内(パーマー)。』

 

それがきっかけで、オフサイドのことが振り返られれば良い。

彼女が被害者の立場になれば自然と名誉だって回復される。

世の中は彼女に理不尽なことをしたことなどうまく誤魔化しながら忘れ、その栄光を讃えるだろう。

騒動の責任は全てマックイーンに負わせて。

 

『世の中なんてそんなものですわ。』

計画を明らかにしたマックイーンは、そう言った。

 

 

理解出来ないな…

パーマーは頭を抱えた

正直、内容が難し過ぎてよく分からない。

 

ただ一つだけ分かるのは、マックイーンが罰を受けることを目的で悪いことをしようとしてることだ。

 

そこまでする必要ある?

ていうか、他に方法はあるんじゃないの?

パーマは頭を抱えながら思った。

マックイーンが表面上で画策してたように、オフサイドは有馬出走させて、その後彼女に理不尽なことした連中達への対応をすればどうなの?

 

マックイーンがたてた計画は、正直狂ってるよ。

まるで何かに取り憑かれてたような謀だよ。

 

 

でも。

マックイーンがこんな狂気じみた計画を立てたその理由と背景は、パーマーだってよく分かってる。

クラスニーの件だ。

もしクラスニーが、現在も無事でいたのならば、マックイーンはこんな無茶はしないに決まってる。

もっと賢明な行動を選択した筈だ。

 

だけど、プレクラスニーはもうこの世にいない。

 

今年の1月。

窶れた姿で5年半ぶりに学園に訪れマックイーンと再会した後、クラスニーはしばらく学園で生活していた。

だが、二週間も経たない1月末、彼女は学園内を移動中に誤って転倒する事故を起こし、その際不運にも脚に致命的な重傷を負った。

その後の懸命の治療も実らず、クラスニーは還ってしまったのだ。

 

あれは事故だった。

本当に不運な事故だった。

それはマックイーンだって分かっている筈。

だけど彼女は、クラスニーの遺体を前にした際、他人から想像できないくらい大きな傷と罪悪感を心に負ってしまった。

自分のせいで不幸になってしまった盟友を、全く救えなかったという罪悪感を。

 

 

その傷心…マックイーンはそれを表面に表すことは決してなかったが、それが深く刻まれた状態のまま、今回の騒動が起きた。

奇しくも、7年前と同じ天皇賞・秋の舞台で。

状況も非常に似てる。

 

今度は絶対に、クラスニーの二の舞にはさせない決意なんだろうね。

クラスニーがあのような最期となってしまった点、このままではオフサイドトラップも同じような最期になってしまうとマックイーンは危惧しているんだ。

それを阻止する為なら、例え自らが悪になろうと、破滅しようと、生徒会長としてあるまじき行動を取ろうと、一向に構わない気だ。

 

パーマーに計画の全貌を話した最後、マックイーンはこう言った。

『オフサイドトラップと違い、私が罰を受けるのは至極当然です。理不尽な責め苦も報いだと思って受けいれます。私一人いなくなったところでメジロ家は大丈夫ですわ。あなたやライアンがいるのですから。学園の未来は、ビワやトップガン達に託します。私は、ウマ娘界の未来のために、負の過去に終止符をうたなければいけません。』

 

「私は嫌だよ…」

寒い夜空の下、パーマーは庭に座りこんで呟いた。

マックイーン、あなたは家族だわ。

大切な大切な、かけがえのない家族。

私には、家族を訴えるなんて出来ない。

家族が不幸になるなんて嫌だよ。

 

そもそも、なんで今回の件であなたが責任負わなきゃいけないのさ。

今回の件で一番悪いのは、理不尽にオフサイドを貶した世論と報道じゃん。

 

 

「メジロパーマー先輩。」

庭でうずくまっている彼女に、声をかけた者がいた。

見上げると、オフサイドトラップだった。

 

「オフサイド。どうしたの?」

「少し外の空気を吸いたくなったんです。」

答えると、オフサイドは何を思ったか、パーマーの隣に腰掛けた。

 

腰掛けるなり、オフサイドは口を開いた。

「先程の話での、生徒会長の真意は、私の出走を止めることだけなんですか。」

「えっ?」

「もしや、もっと深刻なことを考えているのではないかと思ったんです。」

 

「…。」

パーマーは何も答えなかったが、それが答えでもあった。

やはり…。

オフサイドは内心頷きながら、更に言った。

「生徒会長に、お伝えください。私の為に苦しむ必要はありませんと。」

 

オフサイドの言葉に対し、パーマーは小さく溜息を吐いて答えた。

「マックイーンは、あなたの為だけに動いてるんじゃないわ。」

「…?」

オフサイドは首を傾げたが、それ以上は何も聞こうとしなかった。

 

「ねえ、オフサイド。」

今度は、パーマーの方が何気なく尋ねた。

「あなた、何の為に有馬記念に出るの?」

「決まってます。夢の大舞台で勝って、栄光を手にする為です。」

「負けることとか、脚の状態がもっと深刻なことにならないかとか、そういう不安はないの?」

「…。」

パーマーの言葉に、オフサイドは無言の微笑で返した。

 

「…ごめん。」

その微笑を見てパーマーはすぐに謝った。

ずっと脚部不安と闘いながら走り続けている彼女に対して、失礼な質問だった。

 

「オフサイド、」

パーマーは立ち上がった。

「マックイーンのことは気にせず、あなたは有馬出走だけに集中して。マックイーンは、家族である私や、生徒会の仲間達でなんとかするから。」

 

そう言うと、パーマーは去っていった。

 

 

生徒会長には伝えるべきかな…

一人になった後、オフサイドは庭を歩きながら、マックイーンの冷徹な姿を思い浮かべた。

私が有馬記念に出走する目的を。

 

本当は、栄光なんてもう考えたくない。

未来も求めない。

称賛だって必要ない。

 

私はただ、死に場所が欲しいだけ。

そして〈死神〉との闘いを終わらたいだけだから。

 

 

 

*****

 

 

11月1日。

天皇賞・秋の出走者入場直前、オフサイドは控え室でトレーナーと二人きりだった。

 

その時刻になった時。

「オフサイド、」

控え室を出ようとしたオフサイドに、トレーナーは祈るように言った。

「どうか、無事に生きて帰ってくると約束してくれ。」

 

「はい。」

首元に二重のシャドーロールを着けたオフサイドはそれに触れながら、尋常でない決意と闘志を滾らせた表情で頷いた。

「必ず生きて、天皇賞の盾を獲って、此処に戻ってきます。」

 

*****

 



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別荘(6)

 

*****

 

その頃。

 

喫茶店『祝福』の上にあるライスシャワーの自宅。

ライスは、ベッド上に横になっていた。

そのベッドの傍らでは、ブルボンが彼女を看護する様に寄り添っていた。

 

ライスは体調を崩していた。

理由は、夕方に届いたマックイーンからの手紙。

ライスの弱点を抉るように衝いたその内容に、ショックを受けてしまったのだ。

 

「熱がありますね。」

ライスの口から体温計を取り出すと、ブルボンは特有の低い無感情な口調で言った。

「寒いですし、このまま休まれていた方がいいでしょう。」

ブルボンは、ライスの額にのせていた手拭いをとった。

「…。」

ライスにしては珍しく、何も返答しなかった。

 

ピンポン。

家の呼び鈴が鳴った。

「誰かしら。」

「私が出ます。」

ライスの代わりに、ブルボンが応対に出た。

 

「どちら様ですか?」

「私、美久です。」

扉を開けると、来訪者は三永美久だった。

 

「ミホノブルボンさん。どうしてここに?」

訪れた美久は、応対に出たブルボンの姿に驚いた。

「所用がありまして。三永氏は?」

「私はライスに会いに来ました。ライスはどこに?」

「どうぞ。」

答える代わりに、ブルボンは美久を屋内に招きいれた。

 

美久は、ベッドで横になっているライスの姿を見て驚いた。

「どうしたの?」

「ちょっと熱出しちゃってね。」

ライスは身を起こし、訪れた親友を迎えいれた。

 

「そうなんだ…」

美久は、ベッドの傍らに座った。

昼間、ライスが多数の報道陣を招いているのを見たので、何があったのかを伺いにきたのだ。

だが、ブルボンがここにいることに違和感を感じて、それを尋ねられなかった。

 

すると、

「美久、」

ライスの方が口を開いた。

「丁度良い時にきてくれたわ。実は、あなたに頼み事があったの。」

「?何かしら?」

「明日、私を療養施設に連れていって欲しいの。」

 

「え、療養施設に?」

「!…」

美久が答えると同時に、その隣で新しい手拭いを用意していたブルボンの眼が光って見えた。

 

「ライス。」

手拭いを手に、ブルボンはいつもの口調で問いかけた。

「生徒会長からの手紙の内容、お覚えですか。」

「覚えてます。」

ライスは怯えつつも、瞳を蒼く光らせてブルボンを見返した。

「マックイーンさんにお伝えください。“ライスは遂行します”と。」

 

「ライス。」

「帰っていただけますか、ブルボンさん。」

何か言おうとしたブルボンに、ライスは蒼眼のまま冷然と言い放った。

「看護してくださりありがとうございました。もう大丈夫なのでお帰り下さい。」

 

「分かりました。」

ライスの言葉を受け、ブルボンは何の感情も見せずに頷いた。

「ライス、お大事に。」

コートを羽織り、最後にそう言うと、ブルボンはライス宅を出ていった。

 

「何があったの?」

ブルボンが帰った後、美久は心配そうにライスに尋ねた。

昼間のことといい、生徒会役員のブルボンがいたことといい、かなり不穏に感じた。

「使命を果たす時がきたの。」

ライスは熱でかいた汗を拭うと、ベッドから下りた。

 

 

 

一方。

ライス宅を後にしたブルボンは、すぐ外の路上で、生徒会長のマックイーンに連絡をしていた。

『ライスは、療養施設へ向かう意向を示しました。』

 

数分後、マックイーンから返信がきた。

『了解です。あなたも、療養施設に向かわれて下さい。』

『例のことは、公表するのでしょうか?』

『まだ様子を見ます。あなたは、ライスの側にいてあげて下さい。』

 

“ライスの側にいてあげて下さい”

「かしこまりました。」

ブルボンはスマホをしまい、夜道を帰り出した。

 

 

*****

 

 

ライス、動きますか。

メジロ家へ帰る車中で、ブルボンからの連絡を受けたマックイーンは、悲しそうな表情をした。

ご心配いりません、あなたの状態は公表しませんわ。

幾ら私でも、そこまで出来ません。

 

ですが、当初から決めてるように、あなたをサイレンススズカに会わせることだけは阻止しますわ。

表情は悲しげだったが、マックイーンの翠眼は冷徹なままだった。

 

 

 

*****

 

 

夜遅く。

メジロ家の別荘。

 

オフサイドは、自室で二通の手紙を書いていた。

一つはマックイーン宛。

もう一つはステイゴールド宛。

 

マックイーンのは、明朝学園に行くパーマーに手渡して貰う予定だ。

ゴールドのは、寮に郵送する。

先程書き上げた回想録と一緒に。

 

それらの整理を終えると、オフサイドは就寝についた。

 

明日はトレーニングはせず、朝からある場所に行く予定だ。

ある場所とは、自身の生涯の大半を過ごした療養施設。

 

椎菜やルソー、クッケン炎の仲間に、最後の挨拶をする為に。

 

 

そして…叶うならば、どうしても会いたいウマ娘がいた。

そのウマ娘の名は、サイレンススズカ。

 

 

12月22日。有馬記念まで、あと5日。

 



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泥沼(1)

 

*****

 

12月23日、早朝。

 

ウマ娘療養施設。

夜が明けたばかりでまだ薄暗い中、施設外の遊歩道を散歩しているウマ娘がいた。

 

一人は車椅子に乗っているサイレンススズカ。

もう一人は、その車椅子を押しているスペシャルウィーク。

 

「寒いですね。」

「そうですね。」

二人とも上着を羽織っていたがかなり寒そうだった。

「何か飲み物買ってきましょうか?」

「いえ、大丈夫です。」

 

「寒いですけど、気持ちいいですね。」

スズカは白い吐息をつきながら、あたりの光景を見渡した。

夜が明けたばかりの高原は、空気が澄みきっている。

その空気が身体の内部にも浸透して、心身ともに清く浄化される気がした。

 

30分程遊歩道を散歩した後、二人は施設内に戻った。

 

特別病室に戻ると、既に朝食の用意がされていた。

スズカは、朝食を持参してきたスペと一緒にそれを食べた。

スペが施設で寝泊まり始めて以降、食事は朝から晩まで二人で一緒にしていた。

スズカの朝食は並の量だが、スペは朝から量が多い。

そして、すごく美味しそうに食べる。

その光景が、見てて実に気持ちいい。

勿論、その気持ち良さは、スズカ自身の彼女に対する特別な想いもあるからだけど。

 

スズカは、今日から身体のリハビリを始める予定だ。

当初の予定より大分早い。

その理由は、スズカの心身の急速な快復だ。

もともと今回の大怪我を負うまでは、故障とは全く無縁の柔軟な身体だった。

快復が早いのはそれもあるだろうが、一番の理由は心の安定が大きいからだ。

勿論それは、スペの存在が大きかった。

スズカのことを誰よりも愛している彼女の献身的な看護が、怪我直後からずっと不安定だったスズカの心を支え続け、同時に身体の状態も一気に上向きにさせた。

 

スズカは、自分をここまで立ち直らせてくれたスペに、心から感謝している。

彼女の献身に応える為にも、ただひたすら自己の快復だけに集中してきた。

外界の情報は殆ど入ってこないが、スズカ自身もそれを余り求めていないので特に気にしてない。

今の私が最優先するべきことは、この怪我を1日も早く治し、ターフに復活すること。

まだ両脚で立つことすら出来てないだから。 

 

「スペさん。」

朝食を終えた後、スズカは食後のお茶を飲みながら、スペに言った。

「今日からリハビリ始まりますが、精一杯頑張ります。」

「はい!私も、精一杯スズカさんのサポートします!」

スペは、天使の明るさと笑顔で応えた。

それだけで、スズカの心は暖かく満たされる気がした。

この怪我負って以降、以前から抱いていた彼女への特別な想いが一層強くなった。

チーム仲間・ターフで闘う好敵手としてだけでなく、一人のウマ娘として。

 

つと、スズカはスペの手を握った。

「スペさん。私達、ずっと一緒ですね。」

「は、はい!勿論です!」

スペは顔をちょっと紅くし、あっかるい笑顔で頷くと、その手を握り返した。

「永遠に一緒です!」

 

 

 

*****

 

 

場所は変わり、メジロ家の別荘。

 

前日、ここに泊まったパーマーは、いつもより早目に起き、学園に行く支度をしていた。

 

「パーマーお嬢様。」

支度中、使用人がパーマーのもとに現れた。

「オフサイドトラップ様から、お頼み事があるとのことで、お伝えにきました。」

「オフサイドから頼み事?」

なんだろうと思っていると、使用人は一通の手紙を差し出した。

「これを、マックイーンお嬢様にお渡し下さいとのことでした。」

「了解。」

何の手紙だろうと考えながら、パーマーはそれを受け取った。

「オフサイドはどうしてる?」

「オフサイドトラップ様は、自室の方にずっとおられます。」

「そう。」

学園行く前に、昨日のことについて少し話そうかと思ったが、やめた。

 

 

 

一方のオフサイドは、自室でゴールド宛ての手紙と、回想録の完成にとりかかっていた。

 

ゴールド宛ての手紙を入れた封筒の表面に、オフサイドはこう記した。

『この手紙は、有馬記念終了後に見て下さい。』

完成すると、オフサイドはそれを鞄に入れ、外出の支度を始めた。

 

パーマーが別荘を出た一時間程後に、オフサイドも外出の支度を整え、別荘を出た。

ただ、一人で外出するつもりだったが、マックイーンの指令なのか、メジロ家の使いの者も付いてくるということだった。

 

 

*****

 

 

場所変わり、学園。

 

誰よりも早く学園の生徒会室に現れたマックイーンは、会長席で早速事務にとりかかっていた。

 

〈オフサイドトラップ、有馬記念出走取消〉…

マックイーンは、独断で決めたそれを遂行する決意を固めていた。

まだオフサイド本人に計画の全貌を明かしてないので、今すぐはしないが、今夜もう一度彼女と会い、それを打ち明ける。

昨日の話だけでは彼女も納得できてなかったが、1日考える時間を与えれば、頭のいい彼女のことだから私の計画が正しいと分かってくれる筈だ。

オフサイドが受け入れてくれれば、猛反対していたパーマーだって協力に踏み切るしかないわ。

 

ガラガラ。

生徒会室の扉が開き、今しがた着いたばかりのパーマーが入ってきた。

「おはよう、マックイーン。」

「ここでは生徒会長と」

「そんなことどうでも良いわ。」

パーマーはつかつかと会長席に歩み寄ると、鞄から一通の手紙を取り出し、マックイーンに手渡した。

「これは?」

「オフサイドトラップから、あなたに渡してくれって頼まれたの。あの子、滅茶察しが鋭いわ。もしかしてあんたの狂気の計画も全部見抜いてるかもよ。」

冷ややかな口調でそう言うと、パーマーは自席に戻っていった。

 

…。

マックイーンは無表情で、渡された手紙の封を開けた。

 

それを一読した時、マックイーンの冷徹な無表情が蒼白くなった。

 

 

『生徒会長メジロマックイーン様

 

昨日、有馬記念の出走に関してお話を頂いた際、私は出走の目的を『勝つ為・栄光を手にする為』と答えました。

あれは虚偽の返答であり、お詫びいたします。

 

有馬記念に出る真の目的は、『〈死神〉との闘いに終止符を打つ為』です。

 

それが終われば、私はもう何も求めません。

栄光も未来も称賛もいりません。

あとは、盟友が待つ場所へいくだけです。

 

なので、どうか有馬記念に出させて下さい。

生徒会長は、私の未来や名誉を思って出走を止めようとして下さってるようですが、そのようなことはされなくて構いません。

 

どうかお願いです。

私に、死に場所を下さい。    オフサイドトラップ』

 

 

“死に場所”…?

その言葉を見つめ、マックイーンは蒼白な表情の中、胸中で呟いた。

それは、競走生活の最期の場という意味?

それとも、命の意味?

 

…まさか、ね。

マックイーンは軽く首を振った。

そんな訳がない。

オフサイドトラップが、そんなことする訳がない。

あれほど、命に対して真摯に向き合い、命の重みを誰よりも感じて生きてきたウマ娘が、そんな愚かなことを考える訳がない。

だけど、もしかして…

 

マックイーンは手紙をしまうとスマホを取り出し、使いの者に連絡をとった。

 

「オフサイドトラップはどうしてますか?」

『オフサイドトラップ様は、他の使いの者共に外出されています』

「外出?どちらに?」

『それは分かりませんが、夜には戻られるとのことです』

「分かりましたわ」

 

連絡を終え、マックイーンはスマホを閉じた。

「パーマー。」

スマホをしまい。パーマーに話しかけた。

「事態が、変わったかもしれません。」

 

「…?」

自席に座ったまま、怪訝な表情のパーマーが見たのは、机に両肘をつき口元に手を結んでいるマックイーンの蒼白な表情だった。

「どうしたの?」

パーマーには、マックイーンのその表情に記憶があった。

今年初め、クラスニーと再会し、その姿を目の当たりにした時と同じだ。

 

「マックイーン…」

「何も聞かないで下さい!」

パーマーの言葉を遮り、マックイーンは珍しく大声を出した。

高貴な名族令嬢の顔に、冷たい汗が滲み出していた。

 

この日、朝から濃い曇り空で、冷たい雨が今にも降り出しそうな天気だった。

 



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泥沼(2)

 

*****

 

午前9時過ぎ、ウマ娘療養施設。

 

朝食を終えたルソーは、いつものように遊歩道に出て朝の散歩をしていた。

 

今日は曇り空。

雨か雪か、今にも降り出しそうな天気だ。

気温もかなり低く、肌身に染み渡る寒さに覆われている。

この寒さは患部に堪える。

いや、心にも堪えるな。

ルソーは、遊歩道の傍らにあるベンチに腰掛けた。

 

一昨日、病症仲間の中でも特に年少のリートが還った。

その影響が、昨日から仲間達の間ではっきりと出ている。

彼女の最期の言葉を受け、〈死神〉に打ち克てるよう決意を固めた者も僅かにいるが、大半は重たい悲しみと絶望に浸された。

状況は厳しくなるばかりだ。

 

私は絶対に折れない…

リートの最期の瞬間を聴きとっていたルソーだけは、全く心は揺らいでなかった。

最古参の私が折れさえしなければ、仲間達は大丈夫だ。

そう自分に言い聞かせていた。

 

 

散歩を終え施設内に戻ると、椎菜と会った。

 

「おはよう、ルソー。」

「おはようございます、椎菜先生。」

「体調はどう?」

「至って健康です。」

 

挨拶の後、椎菜はスマホを取り出しながらあることを伝えた。

「さっき、オフサイドから連絡があったわ。」

「オフサイド先輩から?」

「午前中に、ここに来るみたいだわ。」

「えっ?」

ルソーは驚いた。

「先輩、有馬記念に向けて調整中なのでは?」

「うん。」

オフサイドから、ケンザン宅で極秘で調整するという報告を貰ったうちの一人である椎菜は、やや厳しい表情だった。

「単に調整の休息日として、ここに来るだけだと思いたいけどね。ここに報道規制が入っていることも知ってるだろうし、特に不安はないけど…」

何故だろう、胸にざわめきを感じた。

 

「天皇賞・秋の時は、レース前の一か月間、療養施設には全く来ずに調整に集中してたのに…」

「天皇賞・秋は別でしょう。」

ルソーはぽつりといった。

あのレースは、オフサイド先輩はこれ以上ないくらい重い決意と覚悟で臨んでた。

今回は、正直目的が分からない。

普通に考えれば勝つ為に出るんだろうけど。

 

考えても意味がないな。

ルソーはそう思った。

「分かりました。オフサイド先輩が来訪することは、仲間のみんなにも伝えておきます。」

 

 

ルソーと別れた後、椎菜は医務室に戻った。

ルソーには話さなかったが、実はここに来ると連絡があったオフサイドから、ある要望をされていた。

それは、『サイレンススズカと会いたい』というものだ。

 

スズカと会う…ここに来る彼女の目的はそれだと分かった。

何故今なのかとか、会って何を話すのかとか、そういうのは詮索しないことにした。

通るかどうか不明だが、まず取りあってみようと椎菜は決めた。

 

 

 

*****

 

 

「オフサイドトラップが、サイレンススズカとの面会を希望?」

 

学園。

マックイーンは療養施設からその連絡を受けていた。

 

全く予想してなかったオフサイドの行動に、マックイーンは驚いた。

 

しばし熟慮した後、返答した。

「構いません。面会させてあげて下さい。」

 

 

*****

 

 

再び療養施設。

 

施設内の一室で、スズカは初めてのリハビリに励んでいた。

 

「…う…ん…」

リハビリそのものは簡単なものであったが、2ヶ月近くも殆ど身体を動かしていなかった為、それでもかなりきつそうだった。

「頑張って、スズカさん!」

医師の指導の元、汗を滲ませながらそれを行うスズカを、スペは傍らで励まし、時には手を貸したりして支えていた。

 

リハビリ初日、この日のそれは30分程で終わった。

その後スズカとスペは、特別病室に戻った。

 

「お疲れ様でした。」

ベッド上に戻ったスズカに、スペは優しい笑顔で労いながら、温かい飲み物を差し出した。

「ありがとうございます。」

スズカは疲労した様子ながらも、微笑を浮かべてそれを受け取った。

 

「かなり疲れてしまいました。」

何口か飲んだ後、スズカはぽつりと呟いた。

怪我して以降、初めて身体をまともに動かしたが、上半身だけでもかなりきつかった。

覚悟はしていたけど、想像以上だった。

復活への道のりは大変だな。

最近は心身ともに順調な快復を続けてきたけど、今回現実的な壁にぶつかった気がする。

 

「大丈夫ですよ、スズカさん。」

スペは明るい笑顔のまま、スズカに言った。

「ホウヨウボーイ先輩やトウカイテイオー先輩など、これまでにも多くの偉大な先輩方が奇跡の復活を遂げてきました。スズカさんにも出来るはずです。いえ、絶対に復活出来ます!」

「絶対に、ですか?」

「はい。」

スペはスズカの傍らに身を寄せて、飲み物を置くとスズカの両掌を包み込んだ。

「だってスズカさんは、優しくて美しくて、そして誰よりも速い『夢を叶えるウマ娘』なのですから!」

 

「…。」

スペらしい無邪気な励ましを受け、スズカは顔がちょっと紅くなった。

優しいとか美しいはあまり関係ない気がするが、それでも励まされると嬉しい。

夢。

スズカもスペの掌を包み込んだ。

「スペさんの夢って、なんですか?」

「私の夢、ですか?」

「はい。」

 

スズカの質問に、スペは少し考えこんでから、答えた。

「私の夢は、『誰よりも速くゴールを駆け抜けるウマ娘』になることです。入学した時から、その夢は変わっていません。」

「つまり、誰よりも強いウマ娘になるということですね?」

「はい。もう何度も負けてしまいましたけど。」

言いながら、スペはちょっと悔しそうな表情をした。

「うふふ。」

その表情を見てスズカはちょっと先輩らしい笑みを見せ、スペの頭を撫でた。

大丈夫ですよ、スペさんは必ず、ウマ娘界の未来を背負う程の存在になりますから。

 

「スズカさんの夢は、なんですか?」

頭を撫でられながら、スペはスズカに尋ね返した。

「はい。」

スズカはスペの頭を撫でたまま、微笑をもって答えた。

「私の夢は、『先頭の景色を決して譲らない』ウマ娘になることです。でも、」

つと、左脚に視線を落とした。

「このようなことになってしまった以上、その夢は諦めなければいけないかもしれません。」

 

「え…」

「決して悪い意味ではありません。」

心配しないでくださいと、スズカは続けた。

「私が新たに目指すべき理想のウマ娘像は、トウカイテイオー先輩のような『不屈のウマ娘』になることかもしれません。それで、私の走りを観てくれる皆さんが幸せになってくれるのなら、それに越したことはありませんから。」

 

「みんなの幸せ、ですか。」

「はい。私がずっと先頭で走り続けたのは、私の能力がそれに適していたこともありますが、その走りで勝ち続ける中で、皆さんの笑顔が沢山観れたからです。走ることしか出来ない私が、皆さんに幸せを与えられた。それが凄く嬉しかった。」

スズカは、その光景を思い出すような表情をした。

「今回の怪我で、例え従来の走りが出来なくなったとしても、私のウマ娘としての理想は『みんなを幸せにするウマ娘』です。そう、それこそテイオー先輩のような…。その為に、復活したいのです。」

 

「素敵です。」

スズカの言葉に、スペは感嘆した。

やっぱり凄いな、スズカさん。

確かに、スズカの走りはみんなを幸せにした。

観ている人達の想像を越えたスピードと強さを、ターフで魅せ続けてきた。

誰もが、スズカに遥かな夢を抱いくようになった。

スペもその一人だ。

 

だから、あの天皇賞・秋でスズカさんを襲った悲劇に、誰もがあれほど悲しんだ。

でも、スズカさんはまだ諦めてない。

みんなの夢を叶えるウマ娘、それを目指している。

この苦しい状況でその夢を失っていないことに、スペは感嘆しそして感激した。

 

「勿論、『先頭を譲らない』走りを諦めた訳ではありません。」

うるうるとした瞳で自分を見上げているスペに、スズカは更に続けた。

「まだその走りをすることが叶うのならば、それに越したことはありません。でもその走りが出来なかったとしても、私は絶望せずに、前述の夢と理想を持ってターフに立てるよう、頑張ります。その時は、」

スズカは、眼光を少し強くして、スペの瞳を見つめた。

「あなたと闘いたいです、スペシャルウィークさん。」

 

「私もです!」

スズカの強い眼光に、スペも明るい笑顔ながら闘志を込めた視線を返した。

「完全復活し、万全の状態になったスズカさんとターフで一緒に走って、そして勝ちたいです!」

 

「スペさんらしいですね。」

スズカは眼光を緩め、またちょっと微笑を浮かべた。

闘いたいまでじゃなく、勝ちたいまで言うなんて。

でも、スペさんのそういう純心なところが好きだなと、心から思った。

「好きです。」

明るく無邪気で、真っ直ぐで負けず嫌いなところも…

 

「ど、どうしたんですか?」

スペの戸惑った声を聴き、スズカはハッとした。

彼女は無意識のうちに、スペの身体を抱き寄せていた。

「あっ、ごめんなさい。」

戸惑ってたスペの紅くなった表情を見て、スズカは慌てて謝りながら腕を離した。

 

 

丁度その時。

コンコン。

病室の扉をノックする音がした。

 

「はい、どうぞ。」

一度深呼吸してからスズカが返事すると、担当の医師の先生が入ってきた。

どうやらリハビリ後の状態を聞きにきたようだ。

 

「身体の具合はどう?」

「少し疲れました。」

「患部以外に痛くなった場所とかは?」

「ありません。」

「リハビリ中、吐き気とかは?」

「ありませんでした。」

医師の先生の質問に対し、スズカはいつもと全く変わらない様子で淀みなく答えていた。

一方傍らのスペは、真っ赤になった顔を隠す為、椅子に座ったままずっと下を向いていた。

 

一通りの質問が終わった後。

医師の先生は、あることをスズカに伝えた。

「実は、今日の午後にあなたと面会したいというウマ娘がいるんだけど、どうする?」

「どなたですか?」

ゴールドかな、と思ったスズカに、先生は答えた。

「オフサイドトラップよ。」

 

「えっ!オフサイド先輩ですか!」

スズカは珍しく、驚きの声をあげた。

「先輩、有馬記念間近で調整に集中してると聞きましたが?」

「詳しくは知らないけど、今日あなたに会いたいらしいわ。どうする?」

先生の尋ねに、スズカは驚きと笑顔が混じった表情で即答した。

「勿論会いたいです!」

「了解。」

スズカの返答を受けると、先生は出ていった。

 

オフサイド先輩が、来てくれる。

ずっと会いたかった、心から尊敬する先輩がようやく来てくれる。

ようやく会える。

スズカの胸は、嬉しさで一杯になった。

 

 

 

感激しているスズカの傍ら、スペはまだ下を向いたままだった。

だが表情は、真っ赤な色から、純心な彼女とは思えない蒼白なものに変わっていた。

 

オフサイド先輩が、スズカさんに会いに来る?

 

『…気分良いレースが出来ました!笑いが止まらないです!…』

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

スズカの悲劇に笑いが止まらない

 

耐えがたい記憶と言葉、そして重い感情が、スペの心に湧き上がっていた。

 



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泥沼(3)

*****

 

時刻は経過し、昼前。

 

ウマ娘療養施設から少し離れた場所に、一台の車両が到着した。

その車はメジロ家の車で、中から降りてきたのはオフサイドだった。

 

「送って頂きありがとうございます。…はい、一人で行けます。…ええ、二時間程で戻りますので、では。」

送迎してくれたメジロ家の使用人にお礼等を言うと、オフサイドは療養施設へ向かって歩き出した。

 

高原地帯にある療養施設は、高原内でも特に高い丘の上にある。

そこへの坂道を、オフサイドは一人歩いていた。

 

 

やがて、療養施設が見えてきた。

 

大丈夫だよね…

オフサイドは鞄から手鏡を取り出し、自分の外見を確かめた。

顔色も雰囲気も眼つきも窶れた色なく問題ない。

 

 

オフサイドは療養施設に着いた。

すると、施設内の入り口前で、松葉杖をついて彼女を待っていたウマ娘が眼に入った。

ルソーだった。

 

「ルソー。」

「オフサイド先輩。」

薄い微笑を浮かべて歩み寄りながら挨拶してきた先輩の姿を見て、ルソーは思わず胸が詰まった。

窶れ果ててた10日前とはまるで違う。

顔色も良くなってるし、肌や口調にも張りが戻っていた。

…。

ルソーは思わず松葉杖を手離し、オフサイドに抱きついた。

「どうしたの?」

「いえ、オフサイド先輩が元気になった姿見たら、嬉しくなって…」

言いながら、ルソーの眼が潤み出した。

 

〈死神〉と闘う最古参として、懸命に仲間達を支え続けてきたルソーだが、ここ最近はリートを初めとした仲間達との相次ぐ別れ、また例の報道など、心身を蝕む辛いことが相次いだ。

気丈に振る舞ってはいたが、彼女にも泣ける場所が欲しかった。

今、誰よりも慕い、そして誰よりも心配していた先輩が立ち直った姿を見て、彼女の心の堰が外れたのだ。

 

ひくっ…うっ…

声を押し殺して、ルソーは泣き出した。

「ルソー。」

オフサイドは何か言いかけたが、何も言わず、後輩の肩を優しく抱き返した。

 

 

それから少し経った後、二人は施設内に入った。

 

施設に入ると、オフサイドは椎菜に会いにいった。

ルソーは病症仲間達のもとへ戻っていった。

 

 

椎菜の医務室に着くと、オフサイドは扉をノックした。

コンコン。

「どうぞ。」

「失礼します。」

室内に入ると、椎菜が椅子に座って待っていた。

 

「オフサイドトラップ。」

「お久しぶりです、椎菜先生。」

オフサイドは、自らも長年お世話になった〈クッケン炎〉担当医師に恭しく挨拶した。

「体調は良さそうね。」

向かいあって座ると、椎菜はオフサイドの姿を見つめてそう言った。

10日前にここに訪れた時のオフサイドは、今にも倒れそうな枯れ木のような状態だったが、今はかなり心身ともに落ち着いてみえる。

調整に集中してたとはいえ、僅か10日間でここまで快復するとは…

「凄いわね、流石は〈死神〉を乗り越えたウマ娘だわ。」

「…。」

オフサイドは薄く微笑した。

 

「最近、病症仲間達の状態は、どのようなものですか?」

何言か言葉を交わした後、オフサイドは椎菜に尋ねた。

「はっきり言って、厳しい状況だわ。」

オフサイドに誤魔化しは通用しないから、椎菜は正直に答えた。

「ここ一か月で、10人近くが闘病を諦めた。うち3人が還ったわ。一度もターフに立てなかった子も含めてね。」

「…それはもしかして、エルフェンリートのことですか。」

「覚えてたのね。そう、彼女よ。一昨日に還った。」

 

「…。」

オフサイドは瞑目した。

心の内で、還った仲間達のことを想っているようだった。

瞑目している彼女に、椎菜は続けた。

「現状、ルソーが懸命に仲間達を支えることで、なんとか保っている状況だわ。私も頑張って、治療を続けている。苦しい状況はまだ続きそうだけど、なんとか耐え抜いて希望を求めなければと決意してるわ。」

 

「苦しい状況…」

オフサイドは眼を開き、悲しそうに言った。

「やはり原因は、あの天皇賞・秋が」

「あなたのせいじゃない。」

椎菜はオフサイドの言葉を遮った。

「原因は、〈死神〉と闘うウマ娘達のことを、誰も知らなかったことだわ。」

「…。」

オフサイドの表情が、少し蒼くなっていた。

「…オフサイド、」

椎菜は、オフサイドの手を握った。

彼女の手は冷たかった。

「今度の有馬記念、あなたがどのような決意で出走するかは分からない。けど、どうか無事に走り終えて。あなたは、〈死神〉に勝利した希少な生還者なのだから。」

 

ごめんなさい…

言いかけたその言葉は心の奥に戻し、オフサイドは無言の微笑で答えた。

 

オフサイドは立ち上がった。

「もう、いくの?」

「はい、スズカに会いにいきます。」

既にここに来る前に椎菜から、スズカとの面会が可能という連絡は受けていた。

「スズカに会いに行く前に、病症仲間達と会って欲しいわ。そろそろ昼食の時間だし。スズカとの面会はその後の方が良いと思う。」

午後から面会、と伝えているしね。

「分かりました。」

オフサイドは了承した。

スズカの面会後に仲間達と会うつもりだったのだが、別に順番は気にしてなかった。

 

 

椎菜の医務室を出たオフサイドは、食堂へと向かった。

食堂に着くと、まだ昼休憩前なので誰もいなかった。

 

オフサイドは食堂のテーブル席の一つに腰掛けた。

彼女は学園寮の食堂より、この食堂で食事をした回数の方が多い。

病症仲間達だけでなく、一時期は怪我で療養生活を共にしていたローレル・ブライアンとも、ここでテーブルを囲んだ。

懐かしいな。

盟友二人の姿が瞼に浮かび、思わず胸が込み上げかけた。

 

 

過去を思い起こしている中。

タタタッと、療養施設に似合わない元気な足音と共に、一人のウマ娘が食堂に現れた。

「こんにちはー!」

そのウマ娘はオフサイドの姿に気づかず、厨房の従業員さん達に元気良く挨拶しながら、昼食のお弁当を幾つも受け取っていた。

あれは…

オフサイドはそのウマ娘の姿と様子を見て腰を上げ、その側に歩み寄った。

 

「スペシャルウィーク?」

「はい?」

不意に後ろから声をかけられ、スペはお弁当を重ね持ったまま振り向いた。

 

…!

オフサイドと眼が合った瞬間、スペの腕からお弁当が落ちた。

 



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泥沼(4)

 

「あっ…」

 

スペは慌てて屈み込み、足元に落ちたお弁当を拾った。

「大丈夫?」

オフサイドもそれを手伝おうと屈み込んだが、

「大丈夫です!」

スペは素早く全てを拾い、腕の上に重ね直した。

 

「初めまして、だね。」

オフサイドはスペを改めて見た。

4歳違いでチームも異なる二人は初対面だった。

とはいえ当然、それぞれの名前や実績は知っている。

「初めまして、オフサイドトラップ先輩。」

明るいスペにしては珍しく、小声で挨拶した。

「すみません、スズカさんを待たしているので、失礼します。」

早口でそう言うと、スペは挨拶もそこそこに、お弁当を持ったまま駆け足でオフサイドの脇を通り抜き、食堂を去っていった。

 

 

「わっ!」

食堂に向かっていたルソーは、その入り口から突然飛び出してきた人物にびっくりした。

スペ…?

幾つもの弁当を手に駆けていく後ろ姿を見て、ルソーはふーと息を吐きつつ意外に思った。

彼女なら、ぶつかりそうになった時一言謝罪しそうなものなのに…。

なにか急いでたのかしら。

ルソーは首を傾げた。

 

と、

「…?」

自分の衣服に、水滴が付いてるのに気づいた。

これは、涙?

よく見ると、スペが駆けていった廊下のあちこちに、それが溢れ落ちていた。

何かあったのかしら?

 

気になりながら食堂に入ると、まだがらんとしている堂内のテーブル席に一人腰掛けているオフサイドに気づいた。

 

「オフサイド先輩。」

「あらルソー。あなたも今から食事?」

「ええ。先輩は?」

「私は来る前に食べてきたわ。」

「そうですか。」

食堂には、オフサイド以外誰もいない。

「先輩、スペシャルウィークと会いました?」

「うん、挨拶したわ。」

「他は何か?」

「?別に何もなかったけど。」

「そうですか…。」

じゃあ何故、スペは泣いてたんだろう。

不思議に思いながら、ルソーは昼食を取りに行った。

 

「あなた、スペと親しいの?」

食事をトレイに用意して同じテーブル席に座ったルソーに、オフサイドは尋ねた。

「いえ、特に親しいという訳ではありません。初めて会ったのも一週間前くらいですし、その後も話したのは数回程度ですから。」

「彼女、よくここに来るの?」

「よく来るどころか、最近はずっとここで生活してます。」

「なるほどね。」

それ以上は聞くまでもなく、オフサイドにはその理由が分かった。

 

 

*****

 

 

一方その頃。

特別病室では、スズカとスペがいつものように昼食を一緒に食べていた。

 

「スペさん、どうしたんですか?」

食事中、スズカは気がかりな様子でスペに声をかけた。

食事中も快活なスペにしては珍しく、寡黙な様子で箸を進めていたからだ。

「あ、ちょっと考え事してまして。」

何も悪いことはしてないのに、スペはすみませんすみませんと謝った。

「…?」

スズカは不思議に思った。

けど、あまり気にしないことにした。

たまにはスペさんも静かな時があっておかしくないし。

それより…

今のスズカは、オフサイドと会えることの方に意識がいっていた。

 

「スズカさん。」

寡黙ながらも5人前のお弁当を全て食べ終えた後、スペはスズカに言った。

「私、しばらく散歩にいってきます。」

「散歩?」

「はい。今日は天気が良いので、外の空気を吸いたくなりました。」

「…そうですか、分かりました。」

今日の天気はかなりの曇り空なのだが。

私がオフサイド先輩と二人きりで会えるよう気を使ってくれたのだと、スズカはそう思った。

ありがとう、スペさん。

 

 

*****

 

 

再び、食堂。

 

オフサイドは、昼食に訪れた〈クッケン炎〉病症仲間達と会い、彼女達と会話を交わしていた。

10日前に訪れた時はルソー・椎菜以外会ってないので、仲間達と会うのは久しぶりだった。

会話の内容は、療養生活のアドバイス等もあったが殆どは他愛もない内容だった。

天皇賞・秋のことは、双方とも全く話題に出さなかった。

 

 

仲間達との時間をしばらく過ごした後、オフサイドは食堂を出た。

ルソーも一緒だった。

 

「先輩、もう帰るんですか?」

食堂を出た後、ルソーは松葉杖をついてオフサイドの傍らを歩きながら尋ねた。

「ううん。この後、会う予定のウマ娘がいるの。」

「へー、誰ですか?」

「サイレンススズカよ。」

 

「えっ!」

病症仲間の誰かと思っていたルソーは驚いた。

「事前に彼女には連絡したわ。生徒会長からも許可貰ったから大丈夫よ。」

「は、はあ。」

驚いた様子のルソーに、オフサイドは続けた。

「スズカとの用件が終わったら、あなたにもう一度会いにいくわ。待っててくれるかしら。」

「はい。」

スズカと会って一体何を話すのか、凄く気になったが、尋ねるのは自制した。

 

 

その後、受付前でオフサイドはルソーと一旦別れ、一人でエレベーターに乗って、特別病室のある最上階へと向かった。

 

エレベーターは最上階に着いた。

オフサイドはエレベーターを降りると、スズカのいる特別病室へ向かおうと廊下を歩き出した。

 

その時。

「オフサイドトラップ先輩。」

彼女を呼び止める声がした。

声の先を見ると、エレベーター横の廊下に、スペが待ち構えていたように立っていた。

 

「スペシャルウィーク。」

「少し、お話しの時間を頂けますか。」

そう静かに話しかけたスペの眼光は、いつもの明るく可愛いそれとは違い、レースに挑む時よりも険しい敵意と悲しみがこもった眼光になっていた。

 

やっぱりか…

食堂でスペと会った際、彼女自分の傍を駆け抜けた一瞬、その眼に涙が溜まっていたことにオフサイドは気づいていた。

だから彼女が自分を呼び止めた意図は瞬時に察していた。

遠いな、遠いよ…

 

「…。」

スペの要求に、オフサイドは黙って頷いた。

 

 



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泥沼(5)

 

「何しに来たんですか。」

 

エレベーター前で会ってから数分後、療養施設の屋上。

一面灰色の雲に覆われ、時折寒風が吹きつける空の下、スペは対峙する様にオフサイドと向かいあっていた。

 

「スズカに会いに来たわ。」

「スズカさんに会いに来た…それだけですか?」

「彼女と話したいことがあって、来たの。」

 

「それは、謝罪しに来たということですか。」

「謝罪?」

 

やっぱりですか…

オフサイドの平然とした表情を見て、スペは唇を噛み締めた。

「オフサイド先輩…。先輩にはやはり、何の罪の意識もなかったのですね。」

「罪…?」

少し眉を潜めたオフサイドに、スペは睨みつけるような視線と共に言った。

「どうしてオフサイド先輩は、スズカさんの怪我を喜んだのですか?」

 

「私が、スズカの怪我を喜んだ?」

「とぼけないで下さい!」

スペは思わず大きな声を出した。

黒髪の中にある白毛の前髪が寒風に揺れた。

 

 

*****

 

 

?…

屋上のすぐ下の特別病室。

ベッド上で、読書をしながらオフサイドが来るのを待っているスズカは、ふとページをめくる手を止め、窓の外に眼を向けた。

今、スペさんの声が聞こえた気がする。

 

と、雨が降り始めたのが見えた。

気のせいかな。

スズカは開けていた窓を閉め、再び手元の本に眼を向けた。

 

 

*****

 

 

〈…気分良く走れました…笑いが止まらないです!…〉

 

「忘れたとは、言わせません。」

スペは、その優勝インタビューの音声を持参していたスマホで再生させ、オフサイドに突きつけた。

「明らかに、スズカさんの怪我を意識しての発言ですね、これは。」

 

「…。」

オフサイドの表情が、少し蒼くなった。

スペの表情はそれより蒼かった。

 

「“笑いが止まらない”…G1レースの優勝インタビューにそぐわない、ぞんざいで軽薄な言葉です。普通なら、絶対に出てこない言葉だと思いました。」

実際、過去の同インタビューでもそんな台詞は聞いたことがない。

「何故オフサイド先輩がこんな言葉を言ったのか、私なりに考えました。」

スペはスマホをしまった。

「結論から言いましたら、『オフサイド先輩はスズカさんの怪我を喜んだから』だと、確信しました。…違いますか?」

 

「違うわ。」

オフサイドはやや苦しげな表情をしながら、それを否定した。

「…では何故、あんな言葉を使ったのですか?」

「…。」

「答えられないですよね!歓喜の表現だけなら、もっと丁寧な言葉が出るに決まってますから!」

 

沈黙したオフサイドの態度が、見苦しい言い逃れを探しているように映ったスペは、普段とはまるで違う容赦ない口調で続けた。

「…こんなことを言うのは間違ってるかも知れませんが、敢えて言わせて頂きます。あのレースは怪我しなければスズカさんが絶対に優勝してました。調子もスタートもレース運びも完璧でしたから。それに、ただ勝つだけなら、スズカさんはあそこまでハイペースで走らなかったと思います。スズカさんは勝つだけでなく、スピードの向こう側…皆の夢を叶える為に、最高の走りをしようとした。そして、身体が持ち堪えられる速度の限界を超えてしまいました。あんな悲劇さえ怒らなければ、どれほどのタイムでゴールを駆け抜けていたでしょうか。」

 

「スズカさんの身に起きた悲劇に、誰もが悲しみました。レースで闘っていた皆さんも、スズカさんへの心配で一杯になってました。でもオフサイド先輩だけは唯一人、笑ってました。スズカさんの怪我を。そうですね、スズカさんが怪我しなければ、オフサイド先輩が勝てる筈ありませんでしたから。タイムにも表れてますし。それは、笑いたくもなるかもしれませんね。」

 

一瞬、スペの表情に嫌悪感が滲んだ歪な笑みが浮かび、すぐに消えた。

 

「その感情は、勝負師としては理解出来なくもないですが、同じウマ娘としては、私は全く理解出来ません。あの時…スズカさんは生死の瀬戸際にいたというのに…」

言いながら、スペの眼に涙が滲み出て、ポロポロと頬から足元に溢れ落ちた。

ターフに倒れたスズカの姿が胸に蘇ってしまったから。

 

「先輩にとって、スズカさんの身などどうでも良かったのですか?後輩の命の心配よりも、自身の勝利を喜ぶ方を優先にして、良心の呵責はなかったのですか。ウマ娘は走ることで皆に幸せを与えることが役目の一つだった筈ですが、それも忘れてしまったのですか。」

そこまで言うと、スペは言葉を止めた。

普段は純心無垢な彼女の表情は、非情と侮蔑が入り乱れて蒼白になっていた。

 

 

「…。」

スペの一連の詰問に対し、オフサイドは何も答えず、不意に背を向けた。

 

「何処に行くんですか?」

「帰るわ。」

「帰る?」

「体調が悪くなったの。会えなくなったと、スズカに伝えてくれるかな。」

 

「待って下さい!」

去ろうとしたオフサイドの袖をスペは掴み止めた。

「なんでずっと黙ってるんですか!せめて…スズカさんに謝罪しようとは思わないのですか。」

 

「スペシャルウィーク。一つ、尋ねてもいい?」

背を向けたまま、オフサイドは重たい口を開いた。

「…どうぞ。」

「あなたは、スズカが故障する可能性を考えてた?」

 

「え?」

「スズカがあれほどのスピードで走り続ける中で、いつか限界を超えてしまうのではないかという危惧はしてたの?」

 

「してません。」

スペは首を振った。

「スズカさんの身体は、怪我の心配が全くないくらいに頑丈かつ柔軟な身体でしたから。あの怪我の原因は、前述のようにスズカさんの走るスピードが速すぎて、脚が限界を超えてしまったからです。本当に、運が悪かったんです…。」

 

スペの返答に対し、オフサイドは背を向けたまま、言った。

「私は、スズカが怪我する可能性を考えてた。」

「…。」

「どんなに頑丈でも、どんなに周囲が大丈夫だと言っても、ターフに絶対の無事はないの。私はそれを何度か見てきた。チーム仲間の後輩が、なんでもないただのホームストレッチで、突然脚が…」

 

そこまで言いかけて、オフサイドは言葉を止めた。

あの出来事は、私は絶対に語ってはいけないことだわ…

 

胸を抑えながら、オフサイドは蒼白な表情でスペを振り向いた。

「一つ、あなたの質問に答えるわ。」

「…どうぞ。」

「あの天皇賞・秋のレース後、私が何故あれだけ喜んだのか。その理由は、喜ばなければいけなかったから。」

 

「どういう意味なんですか?」

オフサイドの返答に、スペは意味が分からないという表情をした。

あのようなことが起きたのに、喜ばなければいけない?

「スズカさんの悲劇があったのに、ですか?」

「スズカの悲劇があったからよ。」

「え?」

「私が言えるのはここまでだわ。」

オフサイドは再び背を向けた。

「スズカに伝えて。“会えなくてごめんなさい”と。」

 

最後にそう言うと、オフサイドは屋上を去っていった。

 

いつのまにか、冷たい雨が降り出していた。

 



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泥沼(6)

 

オフサイドと別れた後。

スペは、スズカのいる特別病室の戻った。

 

「お帰りなさい、スペさん。」

予想より早く戻って来たスペにスズカは声をかけた。

あれ、スペさんにしては珍しく表情が暗いな。

「どうしたんですか?」

「いえ…」

スペは気にしないで下さいと軽く微笑して、それから伝えた。

「先程、オフサイド先輩と会って、伝言を頼まれました。」

「はい?」

「先輩、体調を崩されたようで、スズカさんと会えなくなってしまったとのことです。」

 

「え…」

スズカの手にあった本がパタリと落ちた。

オフサイドと会えることを心から楽しみにしてた彼女の表情は、陽が翳るように一気に暗く落ち込んだ。

「急に体調を崩されたのでしょうか?」

「分からないです。」

 

「そうですか…」

スズカは、雨の降り出している窓の外へ眼を向けた。

会いたかったな…

自然と涙が込み上げてきたが、顔を振ってそれが溢れるのは堪えた。

 

「…。」

スズカの瞳に涙が込み上げていることに、スペはすぐ気づいた。

いつもならすぐに掌を握って元気よく励ましてあげるのに、この時はただ黙ってぎこちない微笑をしながら隣に座り寄り添うだけだった。

 

スペも、心が深く疲れていた。

生まれて初めて、誰かを責めたから。

 

 

*****

 

 

一方。

 

オフサイドは、一階に戻っていた。

だがすぐにはルソーに会いに行かず、彼女は手洗い場へと向かっていた。

 

…うっ…うぇっ…

誰もいない手洗い場で、オフサイドは極力声を殺しながら嘔吐していた。

…はあ…うっ…はあ…はあ…

嘔吐がおさまると、胸を抑えながら崩れるように床に腰を下ろした。

 

苦しかった…

スペに呼び止められた時から責められるのは覚悟してたけど、やはり苦しかった。

『良心の呵責はないのですか』

『無事ならあのレースはスズカさんが勝ってました』

『スズカさんの怪我がなければ先輩の勝利はなかったでしょう』

スペからぶつけられた言葉の数々が、オフサイドの心を容赦なく抉り回していた。

 

しばらく床に座り込んだままだったが、やがて心が落ち着くと、ゆっくりと立ち上がった。

以前までは一度嘔吐したら気が狂いそうな位に苦悶していたが、心の決意が定まった今はそこまでならなくなっていた。

 

 

その後、オフサイドは約束通りルソーに会いに向かった。

 

ルソーの病室に着くと、ルソーは椅子で読書をしていた。

「あれ、結構早かったですね。」

オフサイドの姿に気づくと、ルソーは少し意外そうに本を閉じた。

「うん。」

オフサイドは軽く頷きながら、外で話をしようと誘った。

 

オフサイドとルソーは施設の外に出た。

雨はみぞれ混じりに変わっていて、寒さが肌に刺さるようだった。

 

二人は雨宿りのあるベンチに行き、そこに並んで座った。

「寒いね。」

「ええ。」

自販機で買ったお茶を掌に抱えながら、二人は身を寄せた。

オフサイドは制服の上から、ルソーは患者服の上からそれぞれジャケットを羽織っていたが、それでも寒そうだった。

でも、二人きりで話す為にはここが最適だから、我慢した。

 

「あの、」

温かいお茶を飲みながら、ルソーはつと尋ねた。

「先輩は、スズカと、どんな話をしたんですか?」

 

「会えなかったわ。」

「え?」

「スズカとは会えなかったの。」

オフサイドは掌のお茶に視線を落としながら、雨音よりも寂しい口調で答えた。

 

「どうしてですか?」

ルソーは驚いた。

スズカと会うのが目的でここに来て、許可も下りてた筈だ。

「スズカと会うのを誰かに止められたんですか?」

「そういう訳じゃないわ。私が判断しただけ。」

 

誰かに止められたんだ。

オフサイドの言葉が信じられず、ルソーは確信した。

 

誰に止められたのかしら…あ。

ルソーはすぐに、その者が思い当たった。

「まさか、」

出来れば、それは間違いであって欲しかった。

でも、彼女以外考えられなかった。

「スペシャルウィークに、止められたんですか。」

 

「…。」

「そうなんですね。」

オフサイドの無返答で、それが間違ってないことが分かった。

 

と、オフサイドは小声でポツリと言った。

「止められたわけじゃないの。ただ、責められちゃった。」

 

「“責められた”?」

ルソーは思わず大きな声を出した。

よく見ると、オフサイドの顔色はスズカに会いにいく前と比べて悪くなってる。

まさかスペは、先輩を責めたの?

あの、理不尽な連中達みたいに。

 

ルソーの中で、明るく愛おしく思っていた後輩の姿が一気に許し難いものに変わった。

 

スペシャルウィーク…

冷たいみぞれが降りしきる中、ルソーは松葉杖を手にすっと立ち上がった。

 



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泥沼(7)

 

「待ちなさい。」

 

立ち上がったルソーの腕を、オフサイドは素早く掴み止めた。

「どこに行くの?」

「スペに会いに行きます!あなたに何をしたのか、問い詰めに行きます!」

「やめなさい。」

スペへの怒りを露わにしている後輩の腕を、オフサイドは頑として離さなかった。

「今は、スペを責めないであげて。」

 

「何故ですか?」

「あの子は、この世界の残酷さを深く知らないだけだから。」

息を荒げているルソーを見上げ、オフサイドは言った。

「それに、スペシャルウィークの過去を知ってるでしょう?彼女が背負っているものを考えれば、彼女を安易に責めてはいけないわ。」

 

 

 

*****

 

 

特別病室。

 

スー…スー…

オフサイドと会えないことに落ち込んでいたスズカは、リハビリの疲れも出たのか、いつのまにか静かな寝息をたてて眠っていた。

枕元に寄り添っていたスペはスズカにそっと毛布を被せ、枕元を離れた。

 

スペは病室の隅にいき、そこにある段ボール箱からニンジンを数本取り出すと、床に座り込んでそれを食べ始めた。

別に空腹だったわけでもなく、味もあまり感じなかったが、スペは黙々と食べ続けた。

そうでもしなければ、声を上げて泣き出しそうだったから。

 

お母さん…

私は、スペシャルウィークは、生まれて初めて誰かを責めました。

ニンジンを食してる最中も、自然と出てくる涙だけは堪えられなかった。

 

 

スペシャルウィーク。

ダービーを圧倒的な力で制し、その他の大レースも全て3着以内に入るなど、新世代の最強ウマ娘と評判が高い彼女は、一点の曇りもない青空のような笑顔を持ち合わせている純真無垢なウマ娘であり、生徒からの人気も非常に高い生徒。

彼女といると誰でも自然と笑顔になれる、そんな天性の明るさを持っている。

スペ自身、みんなを笑顔にするのが大好きであり、そのことに生き甲斐を感じているようなところがあった。

 

彼女がそのようなウマ娘になったのは、天性なだけでなく、幼少期の実体験に由来していた。

 

 

スペは実の母親と、生後間もなく死別していた。

 

母親はスペを産む直前から重い病にかかっており、最期の力を振り絞ってスペを産んだ後、還った。

母と死別したスペは、亡き母の親友に育てられた。

育ての親はスペを熱心に育ててくれ、おかげでスペは無事に元気なウマ娘に育った。

 

でも、時々、スペは実の母親の姿を思い出すことがあった。

生後間もない頃に死別したとはいえ、スペの記憶には母親の面影が微かに残っていた。

そして何より、母親が命をかけて自分を産んでくれたということを、体内の血が記憶していた。

 

その記憶が蘇る度、スペはすごくさびしさを感じた。

時には、“自分が産まれなければお母さんは…”と思ってしまうこともあった。

 

そしてある日のこと。

母を思い出したスペが悲しくなってしまって泣いてしまった時、育ての親は慰めながら、スペが産まれた時のことを話してくれた。

 

“スペが産んだ時、お母さんはあなたを抱きながら、『ありがとう』と微笑みかけていたの”

“『ありがとう』?”

“そう。あなたは産まれたことで、お母さんに笑顔をあげたのよ”

“ほんと?わたしがうまれたこと、お母さんはよろこんでくれたの?”

本当よ。だから、後悔なんてしちゃダメよ”

 

“うん”

育ての親に諭され、スペは泣くのをやめた。そしてこう言った。

“わたし、みんなをえがおに、しあわせにするウマムスメになるわ!”

 

 

それ以後、スペは常に明るさと笑顔を振りまくようになった。

天性のそれも相まって、スペは人気者になった。

育ての親と別れトレセン学園に入学してからも、それは変わらなかった。

 

だが一時、彼女が暗くなってしまった時期があった。

入学してしばらく経った頃、自分が育った地元で大きな火災が起き、幼少期に仲良かった友達も含め多くの知り合いが亡くなってしまうという惨事が起きたのだ。

 

地元の悲報に、当然スペは凄く悲しんだ。

一時は走る気力がなくなりそうだった。

 

でも、スペはそれを乗り越えた。

自分は、みんなに幸せと笑顔を与えるウマ娘。

その為に走るんだと、懸命に自分を奮いたたせた。

 

その後、スペは性格だけでない天性のウマ娘の能力を開花させた。

クラシックではダービーを制し、皐月賞と菊花賞も3着・2着に食い込み、先輩達との対決となったJCでも3着に入り、次世代のスターとしてターフに名を轟かせた。

 

 

スペシャルウィークは『みんなを幸せに、笑顔にする為に走るウマ娘』を目指している。

その理想の裏には、亡き母そして友達の面影が色濃くあった。

 

 

 

*****

 

 

「スペシャルウィークは生まれながらに命の重さを感じているウマ娘よ。例え悲劇にあったのがスズカじゃなくても、私を責めた筈だわ。」

「…。」

オフサイドの言葉を聞き、ルソーは黙って傍らに座り直した。

 

だが、急速に湧き出したスペに対する怒りと悔しさはおさまってなかった。

「でも、スペはオフサイド先輩の言動の真意を、全く分かっていないでしょう。それに、私達が生きている世界も知らない。そしてレースのの恐ろしさも…今回の件でそれは少し分かったかもしれませんが、それでもレースの残酷さだって。」

唇を噛み締めながら、ルソーは言った。

 

「あなたは、私の言動の真意を分かってくれてるの?」

「当然です。」

オフサイドの問いかけにルソーはすぐに頷いた。

「私は、あの日のことを決して忘れてませんから。」

「…。」

オフサイドは、つと眼を瞑った。

あの日とは、一昨年の3月17日、シグナルライトが散った日のこと。

オフサイドだって、決して忘れていない。

 

「ルソー。あなたにお願いがあるの。」

眼を瞑ったまま、オフサイドは言った。

「今すぐでなくていいから、いつかスペとスズカに、私達が生きていた世界のことと、シグナルライトのこと、そして私の言動の真意を伝えて欲しいの。」

「私がですか?」

「私からは伝えられないの。これは、私以上にこの世界の苦しみを知ってるあなたしか伝えられないわ。…そして、」

 

オフサイドは眼を開き、微かに微笑を浮かべて言った。

「スズカとスペを、守ってあげて。」

 



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泥沼(8)

 

「スペとスズカを守れと?」

「うん。あの二人を、あなたに守って欲しいの。」

 

怪訝な表情のルソーにそう言うと、オフサイドは立ち上がった。

そして、フーッと大きく深呼吸しながら、みぞれの降る空を仰いだ。

 

…?

空を仰いだオフサイドの姿を見て、ルソーの胸にさっと冷たいものが走った。

一昨日の、還る前のリートと似た雰囲気を感じたのだ。

 

「あの、先輩。」

冷たい不安が胸に走る中、ルソーは尋ねた。

「スズカとスペを守るって、どういうことですか?」

 

「いずれ、分かるわ。」

多くを答えずそれだけを言うと、オフサイドはルソーに視線を戻し、まだ微かに微笑を残した表情で言った。

「後は、頼んだわ。」

 

 

その後、オフサイドはルソーと別れ、療養施設を後にした。

 

待機していたメジロ家の車に戻ると、オフサイドは運転手に別荘に帰る前に某場所に行きたいと頼んだ。

運転手は承諾し、車はその場所へと向かっていった。

 

 

*****

 

 

一方、オフサイドと別れたルソーは、施設の自分の病室に戻っていた。

 

オフサイド先輩…

スペへの怒りは一旦別にして、ルソーはオフサイドが最後に見せた不可解な言動が非常に気になっていた。

スズカとスペを守れというのもよく分からないが、何より気になったのは最後のあの雰囲気だ。

 

あの、どこか全てを達観したような澄みきった雰囲気。

これまで何度か目にした、帰還する覚悟を決めた仲間が醸し出すものと同じものだった。

 

まさか、ね。

オフサイド先輩がそんなことする訳ない筈…。

何度も〈死神〉の魔の手にかかっても、相次ぐ仲間達の帰還に心が折れかけても、先輩は決して屈しなかった。

そんな先輩が、まさかね。

 

ルソーは思考を止め、自らの額に掌を当てた。

私、少し疲れたのかな。

オフサイドへの不安もさることながら、スペへの怒りも依然として胸中に大きく鼓動している。

落ち着いた思考が出来そうにない。

少し休もう。

ルソーは、ベッドに横になった。

 

横になると、ルソーはつと胸中から一枚の小さな写真を取り出した。

それは、彼女がいつも肌身離さず持っている写真。

映っているのはルソーと、シグナルライト。

 

シグナル…

スペと似た、無邪気な明るい笑顔で映っているシグナルの姿を見つめながら、ルソーは毛布を被った。

ウマ娘の世界にいるあなたなら、今のオフサイド先輩の心がどのような状態か分かるかしら?

もし…もしオフサイド先輩が心底まで追い詰められているのなら、どうか守ってあげて。

 

写真を抱きしめながら、ルソーは眼を瞑った。

 

 

*****

 

 

何もない、真っ暗な部屋。

目の前で、スズカが仰向けに倒れていた

 

『スズカの怪我は、もう手の打ちようがありません』

“…嘘…嘘ですよね⁉︎”

『苦しみから一刻も早く解放させる為、帰還の処置をとります』

“嫌だよ!待って!”

ぐったりしているスズカの腕に、注射器が当てられた。

“駄目…やめてっ!”

…身体が動かない…ただ叫ぶことしか出来ない…

目の前で、スズカの腕に注射針が刺入された。

“スズカさんっ…あ…あ…ああ……

全身の感覚が消えた。

 

 

「ハッ…」

特別病室で、スペはガバッと跳ね起きた。

夢、でしたか…

床に座ってニンジン食べつつ泣いてるうち、いつのまにか眠っていた自分に気づいた。

すぐにベッド上を見ると、まだ穏やかな寝息をたてて眠っているスズカの姿があった。

 

ハア、ハア…

全身に汗を感じながら、スペはほっとしたように大きく息を吐いた。

だがすぐ涙が込み上げてきて、慌てて口元を抑えた。

 

スズカさん…

先程の悪夢がまだ身体の慄えに残っているのを感じながら、スペはスズカの枕元に座って、涙を堪えながらその穏やかな表情を見つめた。

悪夢のせいか、それともオフサイドを責めたせいか、最近はなくなっていたスズカへの危機感が、スペの胸中に大きく沸き上がっていた。

 

それを振り払うように、スペは心で誓うように叫んだ。

私、絶対にスズカさんを守ります。

なにがあっても…例え自分がどんなに苦しむことになっても、必ず守ります。

 

 

 

*****

 

 

夕方前。

オフサイドを乗せたメジロ家の車は、彼女が頼んでいた目的地に着いていた。

車を降りたオフサイドは、近くにある花屋で一輪の花を買うと、そこへ向かった。

 

オフサイドがたどり着いたその場所は、大きな霊園だった。

 

霊園に入ったオフサイドは、敷地の奥の方へと歩いた。

敷地内にある墓石・墓碑の殆どにはウマ娘の名が刻まれていた。

 

やがてオフサイドは、一つの大きな墓碑の前に着いた。

その墓碑には、以下の文字が大きく刻まれていた。

 

〈史上5人目三冠ウマ娘“シャドーロールの怪物”・ナリタブライアン〉

 

「久しぶりだね、ブライアン。」

墓碑を見つめ、オフサイドは薄い微笑を浮かべながら呟いた。

 



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泥沼(9)

 

霊園内にはオフサイド以外誰もおらず、しんと静謐な雰囲気に満たされていた。

 

ブライアンの墓碑の前に立ったオフサイドは、買ってきた花を供えた。

「ごめんね。天皇賞の盾を必ずみせると約束したのに、それが出来なくて。」

花を供えた後、冷たい小雨が降る中、オフサイドは墓碑の前に腰掛けた。

「あなたには、私の決意は気づかれているかしら。」

そっと墓碑に手を触れた。

「でも、許してくれるかな。私、もう疲れたの。」

 

オフサイドは少し俯きながら、亡き同胞に話しかけるように語り出した。

 

4年半前、〈死神〉の魔の手にかかって以後、死に物狂いで生きてきた。

復帰する度、〈死神〉に何度も再発された。

終わりなき苦痛に心身を蝕まれた。

闘病だけでなく、幾多の病症仲間達との永別を経験した。

チーム仲間のシグナルとの永別も。

そして、かけがえのないあなたとの永別も。

 

何度絶望しただろう。

何度還ろうかと思っただろう。

それでも、必死に心を繋ぎ続けた。

時には、繋ぎ止められながら。

 

心を繋ぎ続けられた、私の心にあったもの。

それは、

〈死神〉に追い詰められる病症仲間達に、未来を見せてあげたかった。

『フォアマン』の後輩達に、『不屈』を教えてあげたかった。

私を支えてくれた周囲への恩返しがしたかった。

そして、サクラローレルとあなたに誓った『必ず栄光を手にする』約束を果たしたかった。

 

だけど。

今、自分にあるのは虚しさと、やり場のない思い。

全身を覆う重い疲労。

そして、帰還への嘱望。

 

「生きる目的、なくなっちゃったの。」

 

決死の覚悟で臨んだ天皇賞・秋。

最後まで走りきり、そして栄光を手にして、悲願を叶えた。

なのに、心の底から喜べる状況じゃなくなかった。

 

スズカが助かって、ようやく心から喜べる時がきたと思った。

だけどそれは、間違っていた。

 

「誰も、私の走りを見てくれなかった。スズカとは程遠い凡庸なタイムだから優勝は無価値だと酷評されたわ。スズカの怪我のおかげで勝てたともね。そして優勝後の言動を責められた。物凄く責められ続けたわ。“非情で自己中なウマ娘”ってね。」

 

今はもう慣れたし、心も落ち着いてるからある程度大丈夫だけど、最初は本当に苦しかったわ。

どこに行っても罵声浴びせられ、投書が殺到した。

同胞から冷ややかな視線を浴びることもあった。

何より、チームが滅茶滅茶にされたことが苦しかったわ。

 

私は、どうすれば良かったのだろう。

ダンツシアトル先輩のように、スズカを慮る言動をすれば良かったのかな。

でも、それは出来なかった。

シグナルライトの悲劇に関わり、その最期を目の当たりにしたウマ娘として、私はあのような言動をするしかなかった。

まさか、全く理解されないとは思わなかったけど。

 

でも、一番虚しく苦しかったのは、言動を責められたことじゃない。

絶望したのは、誰も私の走りを見てくれなかったこと。

 

「私の走りと栄光は、スズカの悲劇と凡庸な優勝タイムによって覆い尽くされたわ。」

あのレース、というか故障するまでのスズカの走りを見た誰もが、“故障しなければスズカが圧勝していたレースと断定・評論した。

その結果、あの天皇賞・秋は『オフサイドトラップが優勝した天皇賞・秋』じゃなくて『サイレンススズカが故障した天皇賞・秋』になった。

 

だから、今後何十年経とうと、私の走りが顧みられ称賛されることはないだろう。

仮に顧みられたとしても、タイムの点で“スズカが無事ならば”という観点からは逃れられない。

絶対に、永遠に。

 

次はないと命懸けで走ったレースが、このような結果になった。

4年半〈死神〉と闘い続けた末にようやく掴んだ栄光が、閉ざされた。

「その事実がようやく分かった時、私は生きる気力がなくなっちゃったの。疲れた。本当に疲れた。そして…私は変えてしまった。…もう、還る以外に選択肢はないわ。」

 

一つだけ良かったことがある。

それは、自分が有馬記念に出走出来ることだ。

幸い、こんな私にも死に場所が用意されていた。

「もし償えるのなら、戻せるのなら…最後にそこに懸けたい。それが果たせられれば、もうそれでいい。」

後はもう、自分を終わらせる。

自分の脚の限界は分かってるから、それを超えればいいだけ。

 

「レースで還る時に見える景色って、どんなものだろうね。」

多分、そんな辛い景色ではないと思う。

悲しむ人も少ないだろうし。

「ある意味幸せかもね。誰にも悲しまれずに還れるって。」

 

そこまで言うと、オフサイドは黙った。

しばしの間、小雨の降る音だけが聞こえていた。

 

「ごめんね、ブライアン。」

しばらく黙っていたオフサイドは、ゆっくりと立ち上がった。

「あなたの夢、叶えられなかった。」

 

「もう一度、有馬記念の前に来るわ。そこで、最期のお別れをしよう。」

多分、私はあなたと同じ世界には還れない。

運命って残酷だね。

こんなことになるなら、スズカの脚じゃなくて私の脚を砕いて欲しかった…

 

 

オフサイドは、ブライアンの墓碑から去っていった。

 

 

 

*****

 

オフサイドトラップさん。

私はあなたに何度も救われました。

今度は、私があなたを救う番です。

 

必ず帰りますから、どうか待ってて下さい。

 

*****

 



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〈死神〉に散ったウマ娘達(1)

 

オフサイドがメジロ家の別荘に戻ったのは、陽がすっかり暮れた頃だった。

 

別荘に戻った彼女を待っていた者がいた。

フジヤマケンザンだった。

 

「先輩。早かったですね。」

昨日別れる時に後日ここに来ると聞いていたけど、すぐ翌日に来るとは思わなかった。

「マックイーン先輩から、色々聞いてな。」

取り敢えず中に入ろうと、ケンザンは促した。

 

「スズカに会いにいったそうだな。」

オフサイドが寝起きしている部屋に戻ると、ケンザンは座りながら尋ねた。

「どんな話をしたんだ?」

「スズカには会ってません。」

オフサイドも向かいあって座り答えた。

「会ってない?」

「体調を崩してしまいましてね。ルソーと会っただけでした。」

「そうか。」

また吐いたのかなとケンザンは推測し胸が痛くなった。

 

「スズカに会って、どんな話をするつもりだったんだ?」

卒業したとはいえ先輩であるケンザンは、オフサイドに対して遠慮なく尋ねた。

オフサイドは小考した後、答えた。

「限界を知ることの大切さを、教えてあげようと思ってました。」

「それだけか。」

「あとは、トウカイテイオー先輩やローレルの事を伝えようかと思ってました。」

「テイオーとローレルのことを?」

「二人とも、大怪我から奇跡の復活を果たした偉大なウマ娘です。恐らく今のスズカが最も目指している存在でしょう。その二人を間近で見てきた私は、その復活までの軌跡をこの眼で見てきましたから、それがどのようなものだったか伝えたかったんです。」

 

「お前だって、奇跡の復活を果たしたウマ娘だろ。」

「私をテイオー先輩やローレルと比べるのは、二人に失礼です。」

ケンザンの言葉に、オフサイドは唇元に微かに笑みを浮かべて首を振った。

テイオーもローレルも、奇跡の復活を果たしたレースはその名に相応しい最強の走りだった。

それに引き換え私は…

「1分59秒3の天皇賞覇者。奇跡の名に値しません。」

 

「そんなこと、オグリキャップ先輩が聞いたら怒るぞ。」

8年前、凡庸な優勝タイムながら『奇跡のラストラン』と大称賛されたオグリキャップの有馬記念のを持ち出すと、オフサイドはまた首を振った。

「オグリ先輩は違います。私と違って先輩はそれまで幾つも栄光をものにして、しかも決して休むことなく、ファンの為に走り続けたのですから。その数々の偉業と生き様を顧れば、ラストの有馬記念の優勝タイムなんて関係ありません。私は競走生活の大半が闘病で、ファンの為に走れたことなんて一度もありませんでしたから。」

 

バカ…

自虐というか、何もかも諦めきったような後輩の言葉を聞いて、ケンザンは胸が痛んだ。

お前は何度も〈死神〉に襲われながらも生還した、唯一のウマ娘だろうが。

ケンザンの眼は、ここ数年僅かな者しか見ていないであろう、分厚い包帯が巻かれているオフサイドの右脚に向けられた。

 

彼女以外、皆〈死神〉に走りを奪われた。

幸いケンザンは〈死神〉に罹らなかったが、チームの後輩がその魔の手にかかり無念にもターフを奪われていく様を何人も見てきた。

フジキセキ・マイシンザン・そしてナリタブライアン。

唯一人オフサイドだけは、走りを取り返した。

 

 

「今朝、マックイーンさんからすぐに来て欲しいと連絡が来た。」

ケンザンは、口調を重く改めて、オフサイドに言った。

「聞いた話では、お前…不穏な決意をしてるそうだが…本当なのか?」

 

ケンザンの詰問に、オフサイドはすぐには答えなかった。

生徒会長、話しちゃったのか。

「まさか、そんな訳はありません。」

 

「ブライアンとローレルに誓って、そうでないと答えられるか?」

首を振った後輩に、ケンザンは無情に詰問を重ねた。

「…。」

それは無理です…

「どうなんだ?」

詰問を重ねたケンザンに対し、オフサイドは追い込まれたように黙った。

 

本当だったのか。

黙ったオフサイドを見て、ケンザンは深く嘆息した。

まさか、そんな決意をしていたとは。

 

でもその決意は、考えてみれば無理もないとも、思った。

 

 

何故なら、オフサイドは余りにも背負い過ぎた。

〈死神〉にレースも走りも奪われ、絶望と苦痛の中で還っていく同胞達の無念を。

 

あの天皇賞・秋。

サイレンススズカが、幾千万の人々の無限に明るい夢と希望を叶える為に走っていたとすれば、オフサイドは〈死神〉に散った幾千万の同胞の無念と未来を背負って走った。

 

背負う、という言葉だけなら簡単だけど、彼女の背負い方は尋常じゃなかった。

現役時代先輩として彼女のその闘病の様をずっと見守ってきたが、〈死神〉に勝つ為ならあれほど背負わなければいけないのかと、ケンザンですら思わず吐きそうになるくらいに、彼女は背負っていた。

 

全て背負って、決死の覚悟で走った結末があれだ。

それはもう全てに絶望してもおかしくないだろう。

 

ケンザンの脳裏に、富士山麓の自宅で何度も嘔吐し苦悩していた彼女の姿が蘇った。

 

「許してください、先輩。」

黙っていたオフサイドが、目線を下に向けたまま言った。

「敗北者の私の、最後の望みなんです。」

 



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〈死神〉に散ったウマ娘達(2)

 

その後時間は経ち。夜になった頃。

マックイーンが、別荘に訪れた。

 

来訪後すぐ、彼女は別荘の一室で、ケンザンと会った。

今朝、オフサイドからの手紙を読んだマックイーンは、緊急事態だと判断してすぐにケンザンに連絡してここに来てもらい、オフサイドの真意を確かめるよう頼んでいた。

 

「オフサイドトラップは、還る決意を固めています。」

「本当だったのですか。」

ケンザンの報告に、マックイーンは絶句した。

オフサイドの心境状態を常に憂いていたマックイーンでも、まさかそこまで追い詰められているとは思わなかった。

「有馬記念に出走すると聞いた時は、天皇賞・秋で受けた汚名と屈辱を晴らす為だと思ってましたが、オフサイドにはもうその気力はなかったようですね…。」

長年、オフサイドのチーム先輩として学園生活を共にしてきたケンザンは、重たい口調だった。

「彼女の決意を変えることは」

「不可能でしょう。」

ケンザンは即答した。

「決して〈死神〉に屈しなかったオフサイドが、この決意をしたんです。覆せるとは考えられません。」

そんな…

現役時代、『精神力のウマ娘』と評され、引退まで『フォアマン』リーダーを務めていたケンザンとは思えない諦めたような言葉に、マックイーンは深刻な表情で口元に手を当てた。

 

「でも、こうなることは充分考えられた筈です。」

ケンザンは、怒りよりも無念さの方が強い表情でマックイーンを見つつ、口を開いた。

「ウマ娘の生き甲斐である、“レースの勝利と栄光”、それが完全に否定されたんです。ましてや、オフサイドにとってあのレースは、〈死神〉との長年の激闘を経てようやく辿り着いた、恐らく競走生活最後になるであろう大舞台。彼女は文字通り、全てを懸けて挑んだのですよ。それなのに周囲は…スズカの悲劇は悲しんで然るべきですが、勝者への配慮が余りにもなさ過ぎました。称賛するどころか、仮想タイムを持ち出して勝利の栄光を否定するって…これは果たしてウマ娘に関わる者達のする所業ですか?スズカを惜しむ気持ちは分かりますが、あの天皇賞・秋に限っては、スズカは完全な敗者で、しかも他走者の妨害までしてしまってるのです。そこから全く目を逸らして、勝者を貶してスズカを称賛するなんて、どれだけ愚かなのですか?」

言ってる途中から、ケンザンの口調はかなり荒くなっていた。

 

「…。」

ケンザンの言葉に対し、マックイーンは黙って首を垂れ、その言葉を受け入れていた。

マックイーンもケンザンと全く同じ考えなのだが、今の彼女はまるで罪人のように、ケンザンの言葉を受けていた。

 

ケンザンは、溜まっていた思いを爆発させるように、更に続けた。

「インタビュー問題だってそうです。なんで彼女の言動の意味をろくに考えもせずにあんなに責めたんですか?2年前の日経賞でシグナルライトが散った時、勝者のルソーは盟友の悲劇に悲しみながらも必死に笑顔になってました。観客の人達も彼女の心境とその意味を理解して、シグナルの悲劇を悼みながらもルソーを称賛してたのに。…今回の天皇賞でオフサイドが笑顔になれなかった場合、最も苦しみを背負うのは誰になるのか。それすらも考えられないとは一体どういうことなんですか?」

 

「反論の余地もありません。全てあなたの言う通りですわ。」

じっとケンザンの言葉を受けていたマックイーンは、僅かに唇を噛み締めながら頷いた。

「このような事態になってしまった責任は、我々にもあります。」

 

 

ここ十年、ウマ娘の人気は非常な増加傾向にあった。

理由として、オグリキャップ・トウカイテイオー・ナリタブライアン・マヤノトップガン・そしてサイレンススズカらといった人気実力共に抜群のスターウマ娘の出現。

メジロマックイーン・ヤマニンゼファー・ビワハヤヒデ・サクラローレルといった冷徹な最強ウマ娘の存在。

メジロパーマー・ダイタクヘリオス・ライスシャワー・ノースフライト・サクラバクシンオーといった個性的な強さを誇るウマ娘の奮戦。

その他ナイスネイチャ・ツインターボなどといった実績は劣るが時にはスター以上の輝きを見せる脇役達などの活躍。

彼女達のようなウマ娘による絢爛豪華なターフの闘いが、観るものを次々と強く惹きつけていたからだ。

 

また、ウイニングライブの進化により、ウマ娘とファンの距離も縮まってきており、レース以外でのウマ娘の人気も非常に高くなっていた影響も大きかった。

 

それらにより、ウマ娘界は空前の隆盛を迎えていた。

 

 

だがその一方で、懸念があった。

人気が高まるにつれウマ娘の世界の明るいところばかりが知られ、残酷な部分が忘れられていくことだった。

 

ウマ娘の世界は、決して綺麗で楽しいことばかりじゃない。

目を背けたくなるようなことだって多々ある。

しかもそれは、突然起きることだってあるということを。

 

「ターフの闘いを観る為に必要な“覚悟”が、ウマ娘界の隆盛と共に希薄になっていました。」

マックイーンは重たい口調で言った。

覚悟とは、レースの最中の不幸・或いは望まない結果になったとしてもそれを受け入れる心構えのこと。

ウマ娘のターフの闘いは、ゲームやアニメの世界のようにやり直しがきいたり都合良く主人公補正があるわけではない。

レースでは誰にでも不幸が起きうる、厳しく非情な面もある世界なのだ。

 

かつてウマ娘の人気がさほど高くなかった時代は、ファンの多くがそれを分かっていた。

だが、今は。

 

 

「人気が高くなったことは非常に喜ばしい、感謝すべきことですわ。ですが…あまりにも明るい世界ばかりをクローズアップし過ぎました。その結果、ファンだけでなくウマ娘界に深く携わる者達まで、覚悟が希薄になってしまいました。」

それが、今回の天皇賞・秋で一気に露呈した。

 

「どんなに後悔しても、もう遅いです。」

マックイーンの言葉に対し、ケンザンは額に指を当て眼を瞑って呟いた。

「現実を直視せずに残酷なことから目を逸らした結果、勝者を蔑ろにするという一番やってはいけないことを、この世界はやってしまった。その報いは、オフサイドトラップ一人の帰還で終わらない。」

「…。」

「サイレンススズカも、還ることになるでしょう。」

 

かつてオフサイド・スズカのチーム先輩であったケンザンの表情は真っ暗だった。

 



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〈死神〉に散ったウマ娘達(3)

 

ケンザンとの話の後、マックイーンは別部屋で一旦一人になった。

 

『もう手遅れです』

ソファに座って紅茶を喫しているマックイーンの表情は、深刻そのものだった。

今の彼女にはソファの柔らかさも香り高い紅茶の味も感じない。

脳裏に、ケンザンから言われた言葉が鈍く響き続けているだけだ。

 

オフサイドがそこまで追い詰められているなんて思ってなかった。

いや、普通のウマ娘ならその心配はした。

オフサイドだから、その可能性はないと思ってた。

 

クラスニー…

マックイーンの視界に、銀髪のウマ娘の姿が映った。

クラスニー、私、何をやっていたのでしょうね。

オフサイドが還ってしまっては、自分がたてた計画はなんの意味もない。

…。

深い嘆息をしながら、マックイーンは懐から、今朝オフサイドから渡された手紙を取り出した。

 

『〈死神〉との闘いに終止符を打つ為です』

『私は栄光も未来も称賛もいりません』

『盟友が待つ場所へいくだけです』

『どうか私に、死に場所を下さい』

 

手紙に書かれた言葉に、オフサイドの絶望の大きさがうかがえた。

絶望し過ぎ、とは思えなかった。

そんなことを思っていいのは、絶望を知らない者達に対してだけ。

オフサイドは、絶望の世界を生き抜いてきたウマ娘だ。

帰還に繋がる絶望を何度も乗り越えたウマ娘だ。

そんな彼女が、ここまで絶望した。

 

 

コンコン。

「失礼します。」

部屋の扉をノックする音がして、使用人が入ってきた。

オフサイドの世話を頼んだ使用人だ。

「なんの御用ですか?」

「オフサイドトラップ様から、マックイーンお嬢様とお話ししたいとの要望がありました。」

オフサイドの方から?

「どうぞ、通してください。」

自分の方から行くつもりだったマックイーンは、暗い表情のまま了承した。

 

 

5分後。

オフサイドが鞄を持ってマックイーンのいる部屋にきた。

「オフサイドトラップ。」

「…。」

オフサイドは無言で一礼すると、マックイーンの向かいのソファに座った。

 

「フジヤマケンザンから、話を聞きましたわ。」

マックイーンは、あまり力のない翠眼でオフサイドを見つめた。

「あなたがそこまで追い詰められていたとは、想像してませんでした。」

「生徒会長が罪を感じる必要はありません。」

いつもの冷徹な雰囲気がないマックイーンをいたわるように、オフサイドは言った。

「むしろ、こんな私の為にずっと手を尽くして下さったことに、感謝しています。」

 

“こんな私”…

「こんななんて言わないで下さい。あなたはこのトレセン学園の生徒で、誇り高き天皇賞ウマ娘ですわ。」

「誇り高くなんてありません。あの天皇賞のどこに誇り高い要素があるんですか…」

オフサイドの口元に、自らを冷笑するような笑みがもれた。

「このメジロマックイーンにとっては、あなたはそれに充分値するウマ娘ですわ。」

「“サイレンススズカの故障の恩恵を受けた1分59秒3の天皇賞ウマ娘”、なのにですか?」

「タイムなどではなく、あなたはサイレンススズカ故障後のレースを、いや、『第118回天皇賞』を守った。その点のことですわ。」

 

「守れてません。」

マックイーンの言葉を聞き、オフサイドは口元の笑みを消した。

「守れていたのなら、誰もあそこまで悲しまなかった筈です。」

言いながら、彼女の手が小刻みに慄えだした。

「私はもうターフで走れる時間が殆ど残っていない、6年生の引退目前ウマ娘。あの天皇賞は自らの最後のレースとして全てを懸けて走ったのに、ターフに輝きを刻むことすら出来なかった。私はその程度のウマ娘です。」

 

「それが、あなたの還る理由ですか。」

膝元に爪をたてたオフサイドに、マックイーンは努めて冷静な口調でそう尋ねた。

「…。」

オフサイドは俯き、すぐには返答せずに少し間をおいてから答えた。

「理由は多すぎて、全ては言えません。まとめていうとしたら、私は〈死神〉との闘いに疲れました。」

〈死神〉…

〈クッケン炎〉のことだとはすぐに分かった。

あなたは〈死神〉に勝ったのでは、と言いたかったが、それは出来なかった。

 

「どうしても、還るのですか?」

「はい。病症仲間達に希望や未来を示すことも出来ませんでしたから、還るよりありません。」

「ルソーやステイゴールドや他の『フォアマン』仲間達、その他あなたと親しい者達のことは、考えないのですか?」

「もう考えられません。」

そう即答したオフサイドの姿からは、マックイーンもかつて感じたことがないくらいの絶望感が漂っていた。

 

これが、生き甲斐を否定されたウマ娘の末路…

同胞に対する悲しみがマックイーンの胸を浸した。

 

「生徒会長。」

黙ったマックイーンに、オフサイドはつと鞄から一冊のノートを取り出し、マックイーンに差し出した。

「これを、受け取っていただけますか。」

「これは?」

「〈死神〉と闘った同胞達の記録です。」

 

記録…

マックイーンをそれを受け取ると、ぱらっとページを捲った。

…!

内容を一目見た瞬間、マックイーンは即座にノートを閉じた。

 

「これは…」

「どうか、生徒会長であるあなたには知って頂きたいのです。」

一瞬だけだが、その内容をみて戦慄したマックイーンに、オフサイドは懇願するように言った。

 

「〈死神〉に罹った同胞達の、未来の為に。」

 



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〈死神〉に散ったウマ娘達(4)

 

マックイーンにノートを手渡した後、オフサイドは部屋を出ていった。

 

再び一人になったマックイーンは、渡されたノートを手にじっとソファに座っていた。

渡された時は気づかなかったが、表紙には小さな文字で以下の題名が書かれていた。

 

〈4年前の7月以降、帰還した病症仲間の名前、帰還時の学年と月日、闘病月数・最期の言葉の記録〉

 

深呼吸して心を落ち着かせながら、マックイーンはノートのページを捲った。

 

 

ページを捲ると、その一人一人の記録が、生前の写真と共に記されていた。

 

 

 

*****

 

 

 

アツタイコウ 5年生 7月12日帰還 26ヵ月

『私は〈死神〉に負けた』

 

 

スターエッジ 5年生 7月25日帰還 22ヵ月

『私、何人目の〈死神〉敗北者なのかな』

 

 

デンコウスピアー 3年生 7月31日帰還 15ヵ月

『まだ走りたかった。もう一回でいいからターフに立ちたかった』

 

 

ミナトオウ 7年生 8月13日帰還 40ヵ月

『やり切ったと後悔したくないです』

 

 

カレンタイシ 5年生 8月27日帰還 20ヵ月

『先生、こんな私の為にありがとうございました』

 

 

シャドーマッハ 2年生 9月6日帰還 13ヵ月

『還ったら、思いっきり走れるかな』

 

 

アオノモミジ 4年生 10月10日帰還 18ヵ月

『還りたくない』

 

 

コウキョウガク 4年生 10月26日帰還 19ヵ月

『いつか、笑顔溢れる日を思い出したかった』

 

 

オーロナイト 4年生 11月20日帰還 21ヵ月

『痛いな、ずっと痛かった』

 

 

ファストレディ 6年生 11月25日帰還 33ヶ月

『ターフは遠かったです。ずっと遠かった』

 

 

サンレンセイ 3年生 12月3日帰還 20ヵ月

『なんで走ることすら許されないのさ』

 

 

エイコーマーチ 5年生 12月14日帰還 17ヵ月

『こんな所で命を終えるなんて想像しなかった』

 

 

サイレントアロー 5年生 12月25日帰還 21ヵ月

『最期を迎える時に、生きてることへの感謝を感じるんですね』

 

 

エリモコトブキ 5年生 12月31日帰還 27ヵ月

『どんなに願っても届かないことは分かってましたが、再びターフに立てる日を夢見てました』

 

 

 

 

キクノコトノハ 5年生 1月15日帰還 18ヵ月

『みんなを悲しませたくなかった。ごめんなさい。』

 

 

ルーシーパレード 4年生 1月30日帰還 20ヵ月

『私はいらないウマ娘だったのかな?違うよね?違うって言って』

 

 

マヤノサークル 4年生 2月7日帰還 13ヵ月

『運命って残酷ですね』

 

 

トマ 6年生 2月14日帰還 29ヵ月

『〈死神〉には永遠に勝てないのか』

 

 

ユーフォリアロード 6年生 2月28日帰還 24ヵ月

『楽しいことは一回もなかった』

 

 

ムネモシュネー 5年生 3月13日帰還 15ヵ月

『今逝くから待ってて』

 

 

テールライト 4年生 3月18日帰還 13ヵ月

『苦痛は、最期まで終わらないのか』

 

 

シバノテイオー 5年生 4月5日帰還 26ヵ月

『奇跡は起こらなかったのね』

 

 

ヒガナノヒバナ 4年生 4月30日帰還 20ヶ月

『悔しい。脚が強ければ』

 

 

ホウヨウダイヤ 4年生 5月23日帰還 14ヵ月

『もっと走りたかった』

 

 

ラインスカーレット 7年生 6月1日 36ヵ月

『報われなかったことを受け入れるしかないですね』

 

 

レオリターン 4年生 6月15日帰還 17ヵ月

『残酷だけど仕方ないのかな』

 

 

ロングファント 3年生 6月29日帰還 17ヶ月

『夢に挑戦したかった。挑戦することすら叶わなかった』

 

 

バロンリリー 5年生 7月9日帰還 23ヵ月

『神様なんていないわ。絶対に。いるとしたら〈死神〉だけだわ。』

 

 

シャナレッドアイ 4年生 7月28日帰還 19ヵ月

『次生まれる時は丈夫な脚に』

 

 

ミースト 3年生 7月31日帰還 15ヵ月

『還りたくないよ』

 

 

ライトカラーズ 6年生 8月18日帰還 38ヵ月

『私なら出来る。〈死神〉に勝ってみせ。そう信じて今日まで闘病してきました』

 

 

フィーリア 5年生 8月30日帰還 22ヵ月

『ターフは遠かったな。果てしなく遠かった』

 

 

フォアガール 5年生 9月19日帰還 19ヵ月

『やっぱり受け入れきれないよ』

 

 

ボルトフォード 4年生 10月15日帰還 13ヵ月

『走れるって幸せだったんだね。なんでもっと早く気付かなかったのかな』

 

 

ミナミノレインボー 4年生 11月4日帰還 21ヵ月

『このターフから一番遠い場所にも、いつか虹がかかる日を』

 

 

コスミフライト 4年生 11月16日帰還 20ヵ月

『私のこと忘れないで。お願いです』

 

 

コウソクメモリー 4年生 12月25日帰還 21ヵ月

『命ってあっという間なんだね』

 

 

オールブラック 4年生 12月25日帰還 21ヵ月

『さよなら、メリークリスマス』

 

 

 

 

ロングメンタル 5年生 1月5日帰還 14ヵ月

『泣かないわ。私は心が大きいから』

 

 

トゥナイト 5年生 1月28日帰還 22ヵ月

『さよなら。これが最期です』

 

 

スカイシンジレア 4年生 2月14日帰還 14ヵ月

『グレイスには諦めるなと伝えて』

 

 

フィマンロード 6年生 2月25日帰還 29ヵ月

『長い間ありがとうございました』

 

 

イズノホマレ 4年生 3月21日帰還 17ヵ月

『ふるさとには伝えないでください』

 

 

ケーアイフレンド 5年生 4月1日帰還 26ヵ月

『最期まで脚が痛いの』

 

 

ウォルターシチー 4年生 4月11日帰還 20ヵ月

『一回でいいから勝ちたかった』

 

 

キティハート 4年生 5月3日帰還 13ヵ月

『嫌だよっ』

 

 

ブラッドアロー 6年生 5月14日帰還 17ヵ月

『頑張ってきたのに、報われると信じてたのに』

 

 

コスモハルカ 4年生 5月24日帰還 15ヵ月

『お母さんごめんね。私、弱いウマ娘だった』

 

 

バラ 5年生 6月15日帰還 21ヵ月

『幸せを届けるウマ娘になりたかった』

 

 

サクラリンリン 4年生 6月25日帰還 14ヵ月

『先生。私、先に逝きますね』

 

 

トウカイメア 5年生 7月3日帰還 20ヵ月

『もう二度と私はターフに立つことが出来ないのですね』

 

 

ゴールドパスポート 4年生 7月19日帰還 17ヵ月

『ターフに戻る約束、守れなかったな』

 

 

ブラッドルージュ 5年生 7月20日帰還 26ヵ月

『先生は、先生だけは幸せになって』

 

 

スバルソング 4年生 8月9日帰還 14ヵ月

『〈死神〉が憎いよ』

 

 

シンボリスキー 6年生 8月16日帰還 33ヶ月

『骨は空に散らしてください。空に〈死神〉はいないから』

 

 

ジュピタ 7年生 9月2日帰還 29ヵ月

『もう少しだったのに。次はなかったのか』

 

 

ロザリング 5年生 9月22日帰還 19ヵ月

『私のことを忘れないでください』

 

 

ミカンセイ 3年生 10月1日帰還 17ヵ月

『さびしいな。こんなさびしい最期、知らなかった』

 

 

エイティーシックス 5年生 10月27日帰還

『どうあっても〈死神〉に勝てない運命は動かせないのですね』

 

 

グリーンディーヴァ 4年生 11月13日帰還 24ヵ月

『敗北者は消えるしかない。それって本当に正しいことなの?』

 

 

ファインマジック 4年生 11月28日帰還 15ヵ月

『なんで届かなかったのかな』

 

 

ミラクルコリドー 3年生 12月10日帰還 15ヵ月

『〈死神〉に敗れたウマ娘は私が最後だったらいいな』

 

 

メジログレイス 2年生 12月26日帰還 13ヵ月

『ごめんなさい、レアさん』

 

 

アルプスプリンセス 5年生 12月30日帰還 28ヵ月

『悲しい。信じたものが全て歪んでみえるの』

 

 

 

 

ナギサトウシオ 4年生 1月8日帰還 13ヵ月

『願いは叶わなかったわ』

 

 

ドリームキングス 4年生 1月18日帰還 15ヵ月

『夢なんて信じない』

 

 

トリプルプレー 6年生 2月3日帰還 25ヵ月

『神様は〈死神〉の味方だったのかな』

 

 

ビゼンキャロル 4年生 2月25日帰還 13ヵ月

『還りたくないって叫びたいの』

 

 

ホクシュプリンス 3年生 3月21日帰還 15ヵ月

『やっと解放されるのか。悔しいな』

 

 

ミホテンゲンオー 4年生 3月29日帰還 13ヵ月

『自分もやっぱり還る運命なんですね』

 

 

ナイスポスト 5年生 4月15日帰還 20ヵ月

『入学した日を思い出します。あの時は夢で一杯だった。まさかこんな最期を迎えるなんて』

 

 

ビッグストーリー 6年生 4月25日 31ヵ月

『私の物語はここで終わり。ラストは〈死神〉に敗れたウマ娘。アハハ、なんの感動もないですね』

 

 

キタキテキ 4年生 5月29日帰還 24ヵ月

『私は還る為に生まれたの?』

 

 

ソラニヒカル 3年生 6月17日帰還 16ヵ月

『還りたくない』

 

 

ハッピーハープ 7年生 6月19日帰還 39ヵ月

『いつの日かもう一度あの場所へ、私を待つあのターフへ、その思いだけで今日まで生きてきました』

 

 

キクノセンリツ 5年生 6月29日帰還 21ヵ月

『還りたくないっ』

 

 

タイキファッション 4年生 7月8日帰還 14ヵ月

『誰でもいいから〈死神〉に勝って』

 

 

シングフォスマイル 5年生 7月16日帰還 23ヵ月

『駄目だ、最期は笑顔になれない』

 

 

ロイヤルビーム 5年生 7月31日帰還 14ヵ月

『仕方ないですね。走りたくてももう脚が動かないのだから』

 

 

エクスプレスランド 6年生 8月4日帰還 36ヵ月

『スピアー、フライト。私頑張ったよね?』

 

 

トロストキング 4年生 8月7日帰還 21ヵ月

『もう、疲れました』

 

 

プリズムワールド 6年生 8月30日帰還 30ヵ月

『絶対に勝ちたかった。悔しい』

 

 

セントジョバンニ 4年生 9月13日帰還 16ヵ月

『〈死神〉って、なんで何もかも奪うの?』

 

 

キヨクアオイカゼ 3年生 9月22日帰還 16ヵ月

『私の負けです』

 

 

ザトゥモロー 4年生 10月17日帰還 13ヵ月

『もう私に、明日は来ないのですね』

 

 

サンサンキャリー 4年生 10月25日帰還 17ヵ月

『いつか、走れないウマ娘も幸せになれる日が来ればいいな』

 

 

プリティモンド 5年生 11月15日帰還 23ヵ月

『私の病室仲間、これで全滅ですね』

 

 

ニイカップスター 4年生 12月19日帰還 21ヵ月

『〈死神〉よりも、それに勝てなかった私が一番憎いわ』

 

 

ネクストタイムズ 4年生 12月27日帰還 13ヵ月

『やだ、やだよ。やっぱり還りたくない。みんなと別れたくない』

 

 

テルべナール 4年生 12月30日帰還 13ヵ月

『向こうで、先に還った仲間達と走れたらいいな』

 

 

 

 

コスモケイジュ 5年生 1月14日帰還 19ヵ月

『みんな、ごめん』

 

 

ロックスペシャル 4年生 1月25日帰還 18ヵ月

『儚い、でも楽しい夢だった。だから泣きません』

 

 

セカンドスピリッツ 5年生 2月9日帰還 26ヵ月

『次に生まれた時は、〈死神〉がいない世界に』

 

 

イキテイコウヨ 5年生 2月14日帰還 25ヵ月

『もう一度、あのターフに立ちたかった』

 

 

ムーンラブガール 4年生 2月28日帰還 13ヵ月

『還りたくない』

 

 

イブキアース 5年生 3月13日帰還 27ヵ月

『頑丈な同胞が羨ましい、本当に』

 

 

ライフスパート 5年生 3月30日帰還 20ヵ月

『この暗い地下室が、私の死に場所なんですね』

 

 

グッナイトストーン 4年生 4月16日帰還 20ヵ月

『次に目覚めた時は、幸せになれるといいな』

 

 

メイセイリンネ 4年生 4月25日帰還 13ヵ月

『もう一回走りたい。走りたかった』

 

 

クレナイキキョウ 3年生 5月7日帰還 16ヵ月

『勝てなくてもいいから、もう一度ターフに立ちたかった』

 

 

オームセラミック 4年生 5月25日帰還 13ヵ月

『最期に泣いてしまったことは皆に内緒にして下さい』

 

 

サランウォーズ 5年生 6月4日帰還 32ヵ月

『生きる為には勝つしかない。でもその闘いの場にさえ立てず終わるのって、こんなに辛いんですね』

 

 

ネロパトラッシュ 3年生 6月15日帰還 19ヵ月

『還ることよりも、走れなかったことが辛いです』

 

 

コスモパヒューム 4年生 6月29日帰還 21ヵ月

『痛い。最期まで痛かった』

 

ブライトソード 5年生 7月14日帰還 25ヵ月

『先生、約束守れずごめんなさい』

 

 

ミラクルソフィア 6年生 7月30日帰還 31ヵ月

『分かってました。私もいずれこうなることは』

 

 

ユズキ 3年生 8月16日帰還 15ヵ月

『ターフを思いっきり走れる、それだけちょっと羨ましいかな』

 

 

ホットプログラム 4年生 8月27日帰還 13ヵ月

『苦痛の声も祈りの声も届かない、それって仕方ないことなの?』

 

 

マヤノポラリス 5年生 9月15日帰還 22ヵ月

『〈死神〉に敗れた私達に用意された優しさ、それがこの最期の場なんですね』

 

 

ナリタノート 5年生 9月23日帰還 25ヵ月

『〈死神〉には勝てない。永遠に』

 

 

ブルーサリオス 4年生 11月13日帰還 13ヵ月

『もう生きる気力は無くなりました』

 

 

キラキラプレミア 3年生 11月26日 13ヵ月

『私達は敗北者。消えても誰も悲しまない。だって誰も知らないのだから』

 

 

キクノコンタクト 4年生 12月5日帰還 20ヵ月

『バカですね。こんなに絶望するのならもっと早く還れば良かった』

 

 

エルフェンリート 2年生 12月21日帰還 15ヵ月

『一回でもいいからターフに立ちたかったです』

 

 

*****

 



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〈死神〉に散ったウマ娘達(5)

 

「…。」

ノートを読み終えたマックイーンは、静かにそれを閉じると卓の上に置いた。

 

恐ろしい内容ですね、これは…

胸元から込み上げる吐き気を堪えながら、マックイーンは額にかいた汗をハンカチで拭った。

華やかなレースの裏側にある、レースから最も遠い世界。

そこで散っていく同胞達が数多くいることは、マックイーンも知っていた。

だが、その散り際がどのようなものかは想像しなかった。

いや、無意識にあまり想像しないようにしてた。

 

厳密に言えば、このノートに記されている帰還者達は、皆敗北者だ。

レースに生きるウマ娘にとっては、単に走る能力だけでなく、身体の丈夫さだって実力のうちだと理解している。

〈死神〉に散ったウマ娘達は、皆その部分が欠けていた。

非情に言ってしまえば、弱い者は生き残れない世界である以上、還るのはやむを得ないことなのだ。

 

でも、そこまで割り切れる程、ウマ娘は強くない。

ましてや、レースで闘った末の敗北なら帰還だってある程度受け入れられるが、そのレースの舞台にすら立てずに帰還していく同胞達には到底無理だろう。

ノートに記されていた帰還者達の、レースに立てずにこの世を去ることへの無念が綴られた言葉を思い、マックイーンは眼を瞑った。

 

私だって、こうなる可能性があった。

マックイーンの現役生活に終止符をうったのは、〈死神〉と並んで不治の病と恐れられる〈ケイジンタイ炎〉。

マックイーンが生き残れたのは、その病を発症する前にターフで実績をあげれていたからだ。

もしその前に発症していたら、私もこのノートに記されている一人だったかもしれない。

 

 

「…。」

感傷的になりそうな自分に気づき、マックイーンは首を振って眼を開いた。

改めてノートを手に取り、オフサイドトラップのことを思った。

 

現状、オフサイドの帰還の決意は揺るぎそうにない。

ケンザンの言葉だけでなく、直にオフサイドと接したマックイーンも、それを痛切に感じた。

もし、オフサイドが死に場所と定めている有馬記念への出走を自分が止めようものなら、彼女は即座に帰還に踏み切るだろう。

それぐらいに切迫つまったものを感じた。

 

一体どうすれば…

マックイーンは唇を噛んだ。

もし、オフサイドがそのような決意をしてると公にすれば、一時的には止められるかもしれないが、結局彼女は追い詰められて同じようなことになるだろう。

公にしては絶対に駄目だ。

 

だが、タイムリミットはあと4日。

どれだけの手が打てるだろう。

私はもうどうなっても良い、オフサイドだけは救わないと。

 

なんとか彼女を絶望から救い出せる者はいないのか…

自分では無理だ。

彼女と親しいウマ娘達なら動かせるか。

だが、彼女が慕う先輩のフジヤマケンザンはもう殆ど諦めていた。

あとは、学園を去った元トレーナーか、ステイゴールドかホッカイルソーか…果てはまた、サイレンススズカか…

 

駄目だ…

マックイーンは頭を抱えた。

彼女達ですら到底、オフサイドの心を動かせるとは思えなかった。

もしオフサイドが救いを求めているのなら動かせるだろうが、オフサイドは全く救いを求めていない。

帰還の決意を明かしたのが自分(とケンザン)だけであることからしても明らかだ。

 

多分、オフサイドは極力周囲に影響を与えずに、帰還しようとしてるのだろう。

だから、その場を有馬記念に定めた。自発的な帰還ではなく、レース中の故障による帰還という形にする為に。

無論、他の出走者の妨害にならないように故障するつもりだろう。

そのようになったとしても、誰一人としてオフサイドが自ら故障したとは思わない。

ルソーもゴールドもスズカも…

 

いや、気づくかもしれませんわ。

マックイーンは首を振った。

例え気づかなくても、オフサイドが追い詰められていたことを知っている者達は、悲しみを爆発させるだろう。

その結果、どのようなことが起きるかは大体想像出来た。

間違いなく、事の全てを知ったスズカは絶望するだろう。

そして、ルソーをはじめとした〈死神〉と闘う病症仲間達が一層追い詰められることも明白だ。

最悪、帰還者の続出だってありうる。

 

そうなってしまっては、もう取り返しがつかない。

 

 

「…。」

マックイーンは、再びノートを開いた。

何故オフサイドトラップは、これを私に見せたのか。

その意味は、微かだが分かる。

〈死神〉に散った者達の声を届けることで、彼女達への救いを求める為。

そして、

「ウマ娘を代表する立場でありながら、〈死神〉と闘う者達をずっと見ようとしなかったこの私…いや、歴代の偉大ウマ娘への、ささやかな憎しみの表れですわね…。」

 

それは受け入れますわ。

私少なくとも私は、その責めを負うべき存在です。

責任は取りますわ。

 

とにかく、やれるだけのことはやらねば。

自身も心が折れかけていることを感じ、マックイーンは必死にそれを奮いたたせた。

 

このトレセン学園生徒会長メジロマックイーンに最も重要なのは、最後まで責任を負えるかということですわ…

 

万策尽き果てた時は、自らの帰還をもってオフサイドの決意を覆すことも、覚悟せねば。

ノートを握るマックイーンの手に、冷たい力が入った。

 

 



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生存者(1)

 

*****

 

 

場は変わり、療養施設。

 

夕食の時間を終え、落ち着いた夜の時間を迎えた施設に、二人の来訪者があった。

三永美久とライスシャワーだった。

 

昨日、体調を崩していたライスだが、今はそれも大分治ったのか、普段の穏やかな優しい表情を見せていた。

だが、僅かではあるが、左脚を庇って歩いているように見えた。

また、瞳にも僅かに蒼芒が帯びていた。

 

 

施設内に入ると、美久とライスは一旦別れた。

美久は食堂へ。

ライスの方は、椎菜の医務室へと向かった。

 

 

医務室の前に着くと、ライスは扉をノックした。

コンコン。

「?どうぞ。」

「失礼します。」

 

「ライスシャワー!」

入室してきたライスを見て、机で事務をしていた椎菜は驚きの声をあげた。

「お久しぶりです、渡辺椎菜先生。」

驚いた椎菜に対し、ライスは静かに、どこか重たい口調の挨拶と共に頭を下げた。

「久しぶりね。二年ぶりくらいかしら?」

椎菜は驚きながらも、向かいの椅子に座るよう促した。

「そうですね。ご無沙汰してました。」

ライスは促された通り、向かいの椅子にゆっくり腰掛けた。

 

 

ライスは、3年半前の宝塚記念で現役生活を断たれる重傷を負った後、1年以上この施設で療養生活を送っていた。

その間、椎菜とも顔見知りになっていた。

 

ただ、二人が親しい仲にあるという訳ではない。

むしろ、椎菜は医師でありながら、ライスに対してあまり良い感情を持ってなかった。

 

理由は、ライスが大怪我を負った宝塚記念を制した、ダンツシアトルが関係していた。

 

ライスの回想で触れたように、シアトルはかつて〈クッケン炎(死神)〉を発症し長期の闘病生活を送ったウマ娘で、それを乗り越えた後に宝塚記念を制覇した。

〈死神〉を克服してG1を制した非常に希少なウマ娘であり、〈死神〉専門医師の椎菜にとっては悲願の生還者だった。

 

だが、前述のライスの大怪我もあり、シアトルの不屈の軌跡が語られ大きく称賛されることは殆どなかった。

いや、彼女の宝塚記念での勝ち方が強いレースぶりかつレコードだった点、また4年生とまだそこまで衰える年齢でなかった点から、今後シアトルが活躍することは間違いないので、わざわざライスの悲劇のレースで称賛する必要もないと思われたのだ。

 

しかし、シアトルは宝塚記念後に再び〈死神〉の魔の手にかかった。

その後の懸命の闘病も及ばず、シアトルは遂に再びターフに戻ることなく引退せざるを得なかった。

宝塚記念を制したので引退後の未来も拓けていたものの、シアトルにとってどこか寂しさとやりきれなさが残る引退だった。

 

それは椎菜も同じだった。

彼女の闘病を間近で見、その治療に全力を尽くした人間として、シアトルが称賛される姿を見たかった。

その無念の思いが、自然と大怪我を負ったライスに対する微妙な感情になった。

 

また、ライスの故障ばかりクローズアップする世間・報道にも、やりきれない感情を抱いた。

なんで誰も、シアトルのことを触れないの?

やりきれなさが募る内、その反動からライスに対する感情はかなり暗くなってしまった。

 

ライスも、それを分かっていた。

いや椎菜に限らず、他の〈クッケン炎〉患者のウマ娘達は同じような感情を自分に抱いてるだろうとも思っている。

当然だわ。

私は自分の怪我ばかりにとらわれて、シアトルさん達のことを全く考えなかったのだから。

 

 

「あなたがここに来た理由は、大体推測がつくわ。」

椎菜は、蒼芒が滲み出ているライスの眼を見て言った。

「サイレンススズカに、会いに来たのね?」

「ええ。でもその前に、椎菜先生にお伺いしたいことがありまして。」

「あら、何かしら?」

「ダンツシアトルさんのことです。シアトルさんは現在、どうされているのかを教えて頂きたいのです。」

胸中に痛みを感じながら、ライスは尋ねた。

 

「シアトルね…」

椎菜は机の引き出しから、〈クッケン炎〉で引退しその後余生を送っているウマ娘達の資料が保存されているファイルを取り出した。

「ダンツシアトルは、現在は九州にいるわ。」

「九州ですか?」

「引退後、余生の探し道にかなりに苦労したみたいでね。なんとかそっちの方で彼女を迎え入れてくれたウマ娘関係者がいたようで、そこで静かな余生を過ごしてるみたいだわ。」

 

そうですか…

ライスはほっとしたような、罪悪感に包まれたようななんとも言えない表情をした。

椎菜の言葉の内に、あの宝塚記念でのライスの怪我の影響を示唆するものがあったから。

「シアトルさんは、私のことを恨んでいるでしょうね…」

彼女の最高のレースを壊してしまったのだから…

 

「シアトルはあなたのことは恨んでないわ。あなたを恨んでいるとしたら、この私だけよ。」

椎菜は、あまり感情のない声で言った。

「あの子は、私にとって…いや、〈死神〉の治療に長年尽力してきた者達にとって、初めてといっていい生還者だったからね。サクラチヨノオーもアイネスフウジンもナリタタイシンも、その他無数のウマ娘達も〈死神〉に敗れゆく中で、遂に現れた悲願の生還者だった。…それなのに、ね。」

「…。」

椎菜の視線から、ライスは眼を逸らして俯いた。

「まあでも、あなたをそこまで恨む気にもなれないけどね。一番責めたいのは、シアトルをほぼ無視した同じ人間連中よ。彼等がどれだけ反省も成長していないか、今回の天皇賞・秋のことでよく分かったわ。…サイレンススズカもそう。」

 

サイレンススズカ…

その名前を聞き、ライスは再び椎菜を見た。

「先生は、スズカのことを恨んでいるのですか?」

 

「恨んではいないわ。ただあなたに対してと同じく、どうしても複雑な感情があることは否定出来ない。」

椎菜は、心の奥を吐露する様に答えた。

 

「あの秋天後の一連の事…勿論、それはスズカの責任じゃないけどね。周囲の者達の影響が大きいだろうけど…ただ彼女もあまりに無自覚過ぎるから。」

椎菜の口調に、あまり見せなかった感情が湧きだした。

「一連の騒動に関しての情報がシャットアウトされてるのはスズカの状態を考えてもやむを得ないことだと思うけど、自身の怪我のせいで他走者達にどれだけの影響を与えてしまったのかという思考が彼女に全くないことには愕然としてるわ。レースに挑むにおいて最後まで無事に走りきることの重要さをちゃんと学んでなかったのかな。だとしたら勿論、一番悪いのはそれを教えてこなかった者達だけどね。」

言い終えると、椎菜はやりきれない思いがこもった溜息を吐いた。

 

「それをスズカに教える為に、私はここに来ました。」

感情を露わに喋った椎菜に、ライスは静かに、覚悟を込めた口調で言った。

両眼の蒼芒が、更に光って見えた。

 

 

その時。

コンコン。再び医務室の扉をノックする音がした。

「どうぞ。」

「失礼します。」

その声を聞いた時、ライスの肌がぞくっと震えた。

 

「やはりここにいましたか、ライス。」

入室するなり、ライスを見て無機質な口調でそう言ったのは、制服姿のミホノブルボンだった。

 



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生存者(2)

 

「ブルボンさん。」

ライスは椅子から立ち上がり、入室したブルボンと向かいあった。

やはり、あなたもここに来ましたか。

 

ブルボン特有の感情ない両眼を、ライスは蒼眼で見返した。

双方の視線が交錯して、室内に一気に張り詰めた空気が流れた。

 

「どうしたの?」

親友であるはずの二人の緊迫した様子を見て、椎菜は怪訝そうに尋ねた。

「いえ。」

ブルボンはチラッと椎菜を見、気にしないで下さいと目線を送った。

それから再びライスを見て、言った。

「少し、お話を宜しいでしょうか。」

…。

ライスは少し迷ったが、黙って頷いた。

 

 

ブルボンとライスは椎菜の病室を出て、施設の外に出た。

 

冬の夜空の寒風が吹く中、二人は遊歩道のベンチに並んで座った。

「マックイーンさんから、何の要件ですか?」

座るなり、ライスはすぐに尋ねた。

ブルボンはマックイーンの意志伝達役&ライスの見張り役で、本人の意志で行動してないことは分かっている。

ライスの問いに、ブルボンは相変わらず全く感情を見せない表情で答えた。

「状況が急変したとのことです。」

 

「状況が急変?」

「詳しくは、こちらをご覧下さいとのことです。」

ブルボンはスマホを取り出し、先程マックイーンから届いたメールを見せた。

「…?」

ライスはスマホを受け取り、それを読んだ。

 

メールの内容は、オフサイドが有馬記念を最後に帰還の決意を固めていことが分かったという内容だった。

 

オフサイドトラップが帰還する?

ライスも、それは予想してなかった。

一体どういうこと?

「これを読みましたら、連絡を下さいとのことです。」

「はい。」

ブルボンの言葉に、ライスは深刻な表情で頷いた。

 

ライスは、そのスマホでマックイーンに電話をかけた。

 

「もしもし、マックイーンさんですか。」

『ライス。メールは読みましたか?』

「はい。あの、あれは本当なんですか?オフサイドさんが…」

『本当です。本人の口から直に聞きました。』

マックイーンの口調には、いつもの冷徹さがなかった。

 

マックイーンはライスに詳細を伝えた。

現在オフサイドはメジロ家の別荘におり、そこで彼女から前述の決意を聞いたこと。

その決意は同じく別荘にいる彼女の先輩のケンザンですら諦めるくらいの固いものであること、を伝えた。

『状況は、最悪に近づきつつあります。彼女の悲壮な決意をなんとか翻意させたいと模索してますが…非常に厳しいです。』

 

「…。」

マックイーンの話を聞き、ライスは唇を噛んだ。

最悪の結末がどのようなものか、彼女にも想像出来た。

黙っているライスに、マックイーンは続けて言った。

『あなたにお願いがあります。どうか、サイレンススズカに騒動のことを伝えるのは、待って頂けませんか。』

 

“待って”?

これまでのマックイーンの要求は“伝えないで”だったが、そこが変わっていることに気づいた。

「伝えるな、ではないのですか?」

『…はい。オフサイドトラップがこのような決意を固めてしまった以上、もう隠し通すのは無意味ですわ。ですが、今すぐにそれを彼女に伝えるのは、やめて頂きたいのです。』

「どうしてですか。事態が急迫した以上、一刻も早くスズカに現状を知ってもらうべきだと思いますが。」

 

ライスの疑問に、マックイーンは答えた。

『それはその通りですわ。ですが、今いきなり全てをスズカに伝えた場合、彼女が受けるショックの大きさは計り知れません。一気に最悪の状態になることも考えられますわ。医師や『スピカ』トレーナーとも相談し、慎重に慎重を重ねて伝えなければなりません…』

 

「分かりました。」

マックイーンの言葉に、ライスは従うことにした。

「私は療養施設にいます。伝える時が来ましたら、連絡を下さい。」

恐らく明日明後日になるだろうと予測しながら、ライスはマックイーンにそう伝え、電話を切った。

 

 

マックイーンとの電話を終えると、ライスはスマホをブルボンに返した。

 

「ブルボンさん、大変なことになってしまいましたね。」

闇夜の中、ライスは蒼瞳が光る表情で唇を噛みながらぽつりと呟いた。

全く予想外の事態になってしまった。

もし、オフサイドが本当に帰還してしまったら、それはスズカにも間違いなく連鎖する。

自らの怪我が原因で先輩が帰還したと知ったら、彼女も絶対に後を追うだろう。

遂に、事態は来るところまできてしまったのか…

 

このままではどうなってしまうのか。

多分、オフサイド・スズカの二人の帰還で、ようやく世の中は犯した罪に気づくだろう。

だが、1億の人間がどんなに後悔しようと、罪を詫びようと、オフサイドもスズカも帰ってこない。

永遠の後悔と罪悪感を背負うことになってしまうだろう。

 

でも、或いはそれが勝者の栄光を理不尽に貶めたこの世界への、相応な罰なのかもしれない。

 

「…。」

自身の心が絶望に染まりそうになってると感じたライスは、それを振り払うように首を二、三度振った。

そして、ずっと黙っているブルボンを見、心を奮いたたせるように言った。

「絶対に救わねばなりませんね。オフサイドトラップもサイレンススズカも。『祝福』の名に誓って…」

 

すると。

「救えますか?」

 

ライスの言葉を聞き、ずっと黙っていたブルボンが視線を向けずに、無機質な口調で言った。

「少しでも永く生きることを優先しないあなたに、同胞を救うことが出来るのですか?」

 

「え?」

「…。」

思いがけない言葉に、ライスが思わず声を洩らすと、ブルボンは無言でライスに視線を向けた。

普段は無感情なブルボンの瞳に、言い知れない悲しみの色が湧き上がっていた。

 

 

 

*****

 

 

メジロ家の別荘。

 

ライスとの電話を終えたマックイーンは、先日まで極秘にライスの身体の容態のことを調べさせていた使用人の報告を思い出していた。

 

〈ライスシャワーの左脚はもう限界が近く、彼女の余命はもってあと一ヵ月程だということです〉

 

ライス…

精神的にかなり疲れた様子のマックイーンは、ソファーに倒れ込むように座りつつ、無二の親友である彼女の姿を思い浮かべた。

 

サイレンススズカに事を伝えることは約束するわ。

だから、あなたはもうこれ以上無理しないで下さい。

 



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生存者(3)

*****

 

「何故、そんなことを言うのですか?」

 

闇夜の中、療養施設の遊歩道のベンチ。

ライスは、感情が湧き出しているブルボンの両眼を見据えた。

 

「あなたの行動は間違っていると思うからです。」

普段感情を全く表さないブルボンの瞳は、親友のライスを睨みつけるように見据え返していた。

「本当に、オフサイドトラップもサイレンススズカも救いたいのならば、まずあなたが生きることに徹するべきだと、そう思います。」

 

「生きることに徹する、ですか。」

ブルボンの言葉に、ライスはほんの少し微笑した。

どうやらブルボンさんも、マックイーンさんから私の脚の状態を知ったようね。

「そう仰いますが、もう私の脚は限界が近いことは決まってます。どんなに生きる道を模索しても、私の命はあと一ヵ月程でしょう。」

ライスは、達観したような口調で言った。

「だから、私は余命を一日でも延ばすことではなく、限られた命を活かす道を選んでいるんです。お分かりいただけますか、ブルボンさん。」

 

「分かりません。」

ブルボンは首を振った。

どこか、泣きそうな表情に見えた。

「私のトレーナーも、ライスと同じことを言ってました。でも私は、トレーナーにはもっと自分の命を大切にして欲しかったですから。」

 

 

ミホノブルボン。

彼女は現役時代、“精密機械”と仇名される程の緻密かつスピードに長けた逃げ戦法を武器に、朝日杯・皐月賞・日本ダービーを制したスターウマ娘。

そんな彼女を育てあげたのは、一人のベテラントレーナーだった。

ブルボンとトレーナーの関係は、他の追随を許さない程の厳しさと親密さがあった。

 

だが、トレーナーはブルボンの現役中に病歿した。

 

ブルボンが菊花賞でライスに敗れ、その後相次ぐ怪我で長期療養している頃、トレーナーも末期の不治の病にかかっていた。

彼はそれを隠して、ブルボンの復活の為に尽力していたが、菊花賞から一年経った頃、この世を去った。

 

トレーナーの死後間もなく、ブルボンも引退を決断した。

ブルボンには、そういった過去があった。

 

 

「私は、トレーナーに生きることを諦めて欲しくなかったのです。トレーナーは“ブルボンを復活させることが俺の最後の務め”と言ってましたが、私は悲しかった。トレーナーが生きてさえいれば、それだけで良かったんです。でも、トレーナーは最後まで私の為に命を削って、この世を去りました。最期の時、“俺が死んでも泣くなよ、諦めるなよ”と言葉を遺されて。…泣かない約束は守れましたが、ターフに戻ることは出来ませんでした。トレーナーの死で、心が折れてしまったんです。」

 

「ライ。今あなたがオフサイド・スズカの為にどれだけ尽力しようと、そのことであなた命が削られているのであれば、あなたの帰還後に、二人はその事実を背負えるでしょうか?」

「…。」

「二人…スズカはまだ分かりませんが、オフサイドに生きていて欲しいのならば、自らが生きる姿を見せることが、余命を削ることよりも大切なことではないのですか?」

 

「そうですね、」

ライスは一呼吸おいてから、答えた。

「余命が限られていても、少しでも永く生きることを優先するべき…それはその通りです。私も、何事もなければそうしていました。でも、このようなことが起きた現状、そうする訳にはいかないのです。この、同胞達の危機的状況の中では、この私にしか出来ないことがある。これは、命をかけてもやらねばならないこと。それを遂行するのが、あの宝塚記念後に生きることを許されたこのライスシャワーの使命であり義務なんです。」

 

ライスは、淡々と続けた。

「また、私が還った後にオフサイドやスズカがどうなってしまうか。…それは確かに不安です。でも、私が既に余命僅かだったことを知れば、二人が責任を負うようなことはないでしょう。むしろ、この私の最期の祈りを受け入れてくれると信じています。」

言い終えると、ライスはまた少し微笑をみせた。

 

 

「駄目です!」

ライスの返答と微笑に対し、ブルボンは首を強く振り、彼女らしくなく語気を荒げた。

「余命僅かと諦めているのならば、あなたはこの件に関わるべきではありません!」

「ブルボンさん。」

「ライス、あなたは間違っています。生きることを諦めたウマ娘の言葉になど、なんの説得力もありません。悲しみを振り撒くだけです。だからあなたは何もせず、永く生きる為に尽力して下さい。お願いですから!」

 

 

ブルボンの言葉と、その怒りと悲しみが入り混じった両眼を見て、ライスは胸が詰まった。

ブルボンさんは…私が還ってしまうという現実を受け入れられないんだ…

 

しばらくの間、重たい沈黙が二人の間に流れた。

 

 

やがて、

「ごめんなさい。」

ライスが、沈黙を破った。

「ブルボンさんの言葉には従えません。」

 

ライスの瞳は、泣きそうになってるブルボンの瞳に注がれていた。

「私は、どうなろうとも使命を遂行しないといけません。例え、マックイーンさんやあなたとの友情に亀裂が入ろうとも、です。」

「友情に亀裂が入る覚悟は私にもあります!私はただ、あなたがそのような状態で何が出来るのかと…」

 

「ミホノブルボン!」

なおも反論しようとするブルボンに対し、ライスは意を決したように大きな声を出して立ち上がり、黒髪を寒風に靡かせつつ蒼く光る両眼でブルボンを見下ろした。

 

「これ以上、私を止めようとしても無駄です!3年半前のあの宝塚記念で脚が砕けて以降、私は苦痛と罪悪感の中で必死に生きている理由を探してました!今、その理由がようやく見つかったんです。私と同じような怪我を負い、私よりも悪い状況下に置かれてしまったサイレンススズカを救う為に、私は生きてきたのだと!」

 

「ライス…」

「ブルボンさん。もうこれ以上私の状態を心配するのはやめて下さい。」

まだ何か言おうとする親友の言葉をライスは遮った。

「私に残された時間はもう僅かです。間もなく、このライスシャワーと永遠の別れの時が訪れる。どうかそれを受け入れて下さい。だから、これ以上私を苦しめないで。」

 

「…。」

ライスの血を吐くような言葉と眼光を受け、ブルボンはがっくりと項垂れた。

 

また、重たい沈黙が流れた。

聴こえるのは、闇夜を吹きつける冷たい寒風の音だけだった。

 

「先に戻ります。」

重く冷たい沈黙の中、ライスは最後にそうぽつりと言うと、項垂れたままの親友をおいて施設へ戻っていった。

 

 

駄目です…

ライスが去った後も、ブルボンは一人暗闇の中ベンチに座っていた。

私は受け入れられません。

ライスシャワー…あなたがもうすぐ還ってしまうなんて…

普段、感情を決して表に表さないブルボンは、眼に涙を浮かべて唇を震わせていた。

 

 

施設に戻ったライスは、食堂で待たしてした美久のもとへ向かった。

 

「ライス、どうしたの?」

食堂に来たライスを見るなり、美久は心配そうに声をかけた。

表情がなんか落ち込んでたし、心なしか左脚を引き摺っているようにも見えたから。

「大丈夫よ、宿泊部屋にいきましょう。」

 

ライスは努めて笑顔で答えると、美久と共に来訪者用の宿泊部屋へ移動していった。

 

 

 

*****

 

 

 

場は再び、メジロ家の別荘。

 

別荘の一室で、メジロ家の使用人を伴いながら、ケンザンは誰かに電話をかけていた。

 

『プルルル・プルルル…おかけになった電話は、現在…』

く…。

何度かけても繋がらない電話に、ケンザンは唇を噛んだ。

直接行くしかないな。

そう呟くと、ケンザンはすぐさまコートを羽織り、外出の支度をした。

「お出かけですか?」

「ええ、今晩はもう戻りません。」

 

外出の支度をととのえ別荘を出たケンザンは、使用人にこう告げた。

「マックイーンさんに、私は『フォアマン』のトレーナーに会いにいったとお伝え下さい。」

 

 

 

そのマックイーンは、別荘の自室でこちらも電話をかけていた。

 

マックイーンが電話をかけていた相手はパーマーだった。

彼女に、昨晩に話した計画は白紙にし、そして明日に緊急生徒会会議を行うことを伝えた。

 

『何があったの?』

「全ては会議でお話ししますわ。」

戸惑いと疑問だらけのパーマーを手短に説得し、マックイーンは電話を切った。

 

その後、少し間を置いてから、マックイーンはまた電話をかけた。

相手は、『スピカ』のトレーナーだった。

 

「もしもし、沖埜トレーナーですか?…はい、お久しぶりですわ。体調は…それは良かったですわ。…明日早朝、生徒会室へ来てください…宜しくお願いします…では…」

 

『スピカ』トレーナーとの電話を終えると、マックイーンはまたぐったりと椅子にもたれた。

 

止むを得ないことですわ…

もたれながら、マックイーンは机の引き出しから幾つかの報道紙の記録を取り出し、厳しい表情でそれを見た。

その報道紙には先の天皇賞・秋に関する記事が書かれており、その中にはサイレンススズカの所属するチーム『スピカ』のトレーナーのコメントが大きく書かれていた。

 

〈「優勝タイムを見ても、スズカが怪我しなければ圧勝していたことは明白」〉

〈「スズカがあんなタイムにバテるわけがない。やっぱり千切ってた」〉

〈「無事なら、10バ身以上の差で大レコード勝ちだった」〉

 

重いですわ、でもこれは仕方ないことなのです…

責任は負って頂かねば。

厳しい表情のまま、マックイーンは唇を噛み締めた。

 



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生存者(4)

 

トレセン学園所属・チーム『スピカ』トレーナー・沖埜 豊。

 

まだ30代に到達していない彼は、或いはスターウマ娘以上の人気と知名度をもっているといっていい、トレセン学園を代表する名トレーナー。

 

沖埜が新人トレーナーとして『スピカ』チームをつくったのは10年以上前、まだ10代の時だった。

新人当時から彼は、稀代の天才トレーナーとして学園内外から注目を集めていた。

 

そして彼は見事にその期待に応え…いや、期待以上の成績を上げだした。

1年目から重賞ウマ娘を輩出させ、更には新人トレーナーの最多勝利記録を更新。

2年目にはクラシックを制したウマ娘を輩出、10代にしてG1ウマ娘を誕生させると言う離れ業をやってのけた。

その後も次々とG1ウマ娘を輩出し、沖埜は瞬く間に超一流トレーナーの仲間入りを果たした。

 

彼の天才的かつ冷静緻密な指導や戦略、ウマ娘達の長所を見抜く慧眼はトレーナー史上でも類がなく、その端正な容貌や魅力的な人柄も相まって、彼は一トレーナーの枠を超えた注目と人気を集め始めた。

 

当時ウマ娘界はオグリキャップを中心とした超スターウマ娘達によるブームが巻き起こっており、沖埜は彼女らと並んでそのブームの中心といえる程の存在となった。

その後、引退間近のオグリが『スピカ』に加入し、ラストランの有馬記念で奇跡の優勝を遂げると、沖埜の人気は頂点に達し、ウマ娘界の枠を超えて国民的スターと言える存在までになった。

 

沖埜はその後も、チームから次々とG1ウマ娘やスターウマ娘、また重賞活躍ウマ娘を誕生させ、期待に違わぬ結果を残し続けた。

まだ30歳手前でありながら既に歴代トレーナーの歴代記録の多くを更新し、いずれウマ娘史上最高のトレーナーとして伝説になることは間違いなかった。

 

もはや国民的スターであり、同僚のトレーナーからは先輩後輩関係なく一目置かれる存在で、ウマ娘達からも多大な尊敬を集めている存在。

それが『スピカ』トレーナー、沖埜豊だった。

 

 

今、生徒会長であるマックイーンも、現役時代は『スピカ』に所属し彼のもとで競走生活を送った。

メジロ家悲願の『天皇賞三代制覇』を成し遂げ、現役最強王者としてターフに君臨し続けられたのは沖埜の指導のおかげだと、マックイーンは今も彼に対して感謝と尊敬の念を抱き続けている。

また、彼がまだ若いながら人間としても非常に優れていて、ウマ娘に対する愛情も人一倍強いトレーナーであることも、共に生きてきて分かっていた。

長年の実績や知名度も加え、沖埜トレーナーは現ウマ娘界の象徴的存在であるといっても過言ではないと、マックイーンは思っていた。

 

 

 

そんな、彼程の人間が。

 

〈「スズカがあんなタイムにバテる訳がない。やっぱり千切ってた」〉

マックイーンは報道紙に記された彼の発言を見て、唇を噛み締め続けた。

 

何故、何故こんな発言をしてしまったのですか?

マックイーンは信じたくなかったが、これは事実だった。

実際、天皇賞・秋後のインタビューで彼がこの発言をしたのを、マックイーンは見聞きしていた。

 

確かに、沖埜はあまりにも天才トレーナーだった故、チームに加入するメンバーが非常に優れた素質のウマ娘が多いので、ウマ娘を見る眼がシビアであったり、弱いウマ娘をやや下に見てしまいがちな傾向はあったが、それでもこんな発言をするような人物ではなかった。

 

ウマ娘界に携わる人間の中では実績も人気も別格で、国民的スターでもあるあなたが、ただでさえ不穏な結末を迎えてしまったあの天皇賞・秋の後にこのような内容の発言をしたらどれだけの影響を及ぼすのか、それくらい分かっていた筈なのに。

 

それだけ、あなたにとってサイレンススズカは、特別な存在だったのでしょうか。

 

間違いなくそうだろうと、マックイーンは報道紙を引き出しにしまいながら溜息を吐いた。

沖埜トレーナーがサイレンススズカに対してどれだけの夢と希望を乗せていたか…それは当然マックイーンだって知っている。

 

 

 

ですが、やはりこの発言は口にしてはいけなかった。

 

全出走ウマ娘が何事もなく無事に走り終えたレースでの発言なら、敗者の弁なのである程度流せる発言だが、あのレースでは異常事態が起きてしまったのだから。

ジンクエイトの日経新春杯・メジロデュレンの有馬記念・ダンツシアトルの宝塚記念と同じく、勝者の栄光が翳されかねない事態とレース展開。

そこに、この発言は完全な追い討ちをかけてしまった。

 

 

『 オフサイドにとってあの天皇賞は、長年の闘病を経てようやく辿り着いた、競走生活最後になるであろう大舞台…彼女は文字通り、全てを懸けて挑んだ。それなのに、ウマ娘の生き甲斐である、“ターフの勝利と栄光”を、完全に否定されたんです』

『スズカの悲劇は悲しんで然るべきですが、勝者への配慮が余りにもなさ過ぎです』

『仮想タイムを持ち出して勝者の栄光を否定するって、これは果たしてウマ娘に関わる者達のする所業ですか?』

『あの天皇賞・秋に限っては、スズカは完全な敗者で、しかも他走者の妨害までしてしまってるのに、そこからも全く目を逸らして…どれだけ愚かなのですか?』

 

オフサイドトラップを長年支えてきたフジヤマケンザンの、怒りとやるせなさが爆発したような言葉の数々が、マックイーンの耳に蘇った。

 

そして、

『もう何も考えられません。疲れました』

オフサイドの絶望した表情も、脳裏に蘇った。

 

オフサイドの言葉を聞き、既に以前から分かっていたことだがマックイーンは確信していた。

彼女が絶望してしまった一番の要因は、『笑いが止まらない』発言によるバッシングではなく、勝利の栄光が否定されたことが要因だと。

 

 

やはり、責任は重いですね…

 

ケンザン、オフサイド、そして自らの恩師でもある沖埜の姿を思いつつ、マックイーンの胸中は様々な葛藤に張り裂けそうだった。

 



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堕天使(1)

 

*****

 

 

夜遅く、療養施設。

 

もうこんな時間か…

特別病室で一人読書をしていたスズカは、就寝時間が近づいたのを確認すると本を閉じた。

 

今日は疲れたな。

ベッドに横になると、スズカは初めてのリハビリを行った身体の、疲労が残る箇所に手を当てた。

2ヶ月近く寝たきりだったから、軽めとはいえリハビリは思ったより大変だった。

ここ最近はずっと順調に快復してこれてたけど、今日は壁にぶつかったな…

昼間も感じたことを、再び思った。

 

とはいえ、復活への道のりは平坦じゃないことは分かっていたので、この程度は予測していた。

むしろ、疲れたもののショックとかはなかったから、安心もあった。

 

 

だけど、身体の疲労とは別に、スズカには気がかりなことが二つあった。

 

一つは、今日会える筈だったオフサイドトラップのこと。

ずっと待ち望んでいた慕う先輩と会えなかったのは残念だけど、有馬記念が終わったら会えるだろうから、そのこと自体はそこまで気にしていない。

ただ、彼女が体調を崩した、ということが気がかりだった。

もしかして、無理して会いに来てくれたのかな…

有馬記念に差し障りがなければ良いけどと願いつつ、スズカは彼女の体調が快復するよう祈った。

 

そして、もう一つ気がかりなのは、スペシャルウィークのこと。

いつも明るい天使のようなスペが、何故だか午後から表情が冴えず、元気もあまりなくなっていた。

気になって何度か尋ねたが、スペは気にしないで下さいとぎこちない笑顔で答えるだけだった。

そのまま今日は最後まで、スペはらしくない暗い表情のままだった。

夕食の量もいつもは5人分なのに4人分くらいだったし、ニンジンも10本くらいしか食べてなかった。

いつもは就寝直前までいてくれるのに、この日は一時間くらい前に自室へ戻ってしまった。

 

どうしたんだろう…

彼女の暗い様子が、スズカはかなり気になっていた。

レースで負けた悔しさで泣き顔になるスペなら何度も見てきたけど、明らかに暗い表情というのは殆ど見たことがなかった。

その理由も思い当たらない。

 

ただ一つ考えられるとすれば…

オフサイド先輩が会えなくなったという報告を私にした後から、スペさんは元気がなくなった気がする。

ということは、スペさんも、オフサイド先輩と私が会えなかったことが残念だったのかな。

スズカはそうかもしれないと思った。

スペさんに対してオフサイド先輩のことを語ったことはあまりないけど、私が先輩を尊敬していることは知ってたのかもしれない。

もしかして先輩が会いに来てくれた(会えなかったとはいえ)のは、スペさんが希望してくれたからなのかな?

だとしたら凄く嬉しいし、落ち込んで欲しくない。

スペさんには、ずっと笑顔でいて欲しいから。

 

親友以上に愛しているスペの心情を想いながら、スズカは毛布を被った。

 

 

 

*****

 

 

就寝時刻を過ぎた頃。

 

「…はあ。」

〈クッケン炎〉患者病棟の、ルソーの病室。

 

なかなか寝ることが出来ないルソーは、溜息を吐いた。

心がどうにも落ち着かないし、そのせいで〈死神〉を患っている脚も痛みが走る。

1階にある自販機で飲み物でも買ってこよう。

ルソーはベッドから下り、松葉杖をつきながら重い足取りで病室を出た。

 

まいったな。

既に消灯し、非常用蛍光灯だけが灯る暗い廊下を歩きながら、ルソーは険しい表情で何度か頭をコツコツ突いていた。

彼女を悩ませていたのは、オフサイドトラップへの不安だ。

 

『あとは、頼んだわ』

昼間、施設に訪れた先輩が別れ際に放った言葉と、そのどこか達観したような表情がずっと頭に残り続けている。

先輩のことだから大丈夫だと思うが、まさか…

ずっとその不安が、胸に残り続けている。

 

だが、今ルソーを最も苦しめているのはオフサイドへの不安ではなく、スペへの怒りだ。

 

昼間、スズカと会おうとした先輩をスペが阻止したと聞いた。

先輩は大分表現を抑えていたが、多分かなりきつい言葉と態度を浴びせたのだろうと、会いに行く前と後の先輩の状態の違いからそう推測している。

 

あの小娘…

直前までかなり気に入っていた後輩の姿と笑顔が、今は気に入ってしまった自分に怒りが湧く程、許し難い存在になっていた。

休めば少し落ち着くと思ったが、新たにオフサイドへの不安まで沸いた分、スペへの怒りがより大きくなってしまった。

 

落ち着いて…

ともすればそれを行動に移しかねない自分を、ルソーはなんとか制御していた。

ただでさえ先日、報道への怒りを爆発させ暴走しかけた自分だ。

もう、あんなことはしてはいけないんだ。

あの時、暴走した自分を必死に抑えた椎菜と後輩達のショックを受けた表情が、胸の痛みと共に蘇った。

 

抑えなきゃ、耐えなきゃ。

胸中を渦巻く苦悩の中、ルソーはポケットからシグナルライトの写真を取り出し、亡き彼女の笑顔を見つめた。

シグナル、助けて…

同胞への不安と怒りに苦しみながら、ルソーは自販機の側まで来た。

 

と、

「あ。」

ルソーは、ハッと足を止めた。

暗かったので側に来るまで気づかなかったが、自販機の傍には一人、ウマ娘が座り込みながら飲み物を飲んでいたからだ。

 

しかもそれは、寝巻き姿のスペだった。

 

 

 

「やあ。」

…っ?

暗闇の中から震える口調で声をかけられ、スペはちょっと驚いたように立ち上がり、声のした方を見た。

「あ、ルソー先輩でしたか。」

お化けかと思いました。

暗闇から現れたルソーの姿を見て、スペはほっとしたように息を吐き、努めて明るい声で声をかけ返した。

 

ところが。

「…。」

ルソーはコツコツと松葉杖をつきながら足早くスペの目の前まで近づくと、腕を伸ばしてスペの寝巻きの襟首をぐいっと掴んだ。

「⁉︎」

「スペ…」

驚愕したスペを、ルソーはそのまま持ち上げるような勢いと力で、廊下の壁に押し付けた。

 

 

*****

 

…?

眠りについていた特別病室のスズカは、不意に胸騒ぎを感じて目を覚ました。

 

何、この胸騒ぎは…

スズカは胸に手を当て、不安な表情を浮かべた。

スペさん?

胸騒ぎの中、何故か、今日ずっと表情が暗かったスペの姿が脳裏に蘇った。

 

 

*****

 

「ル、ルソー先輩?」

「スペシャルウィーク、覚悟はいい?」

 

自販機の灯りと非常用蛍光灯だけが灯る暗い廊下。

松葉杖をついたルソーは、壁際に押し付けられ怯えた様子のスペの襟首を震える腕で握り締めながら、我を失ったような蒼白な表情になっていた。

 

彼女の掌にあったシグナルの写真が、床にはらりと落ちた。

 



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堕天使(2)

 

「あなた、一体何をしたの?」

ルソーは腕の力を緩めず、スペに詰問した。

「離して…下さい…」

襟首を強く掴まれたスペは苦しそうにもがき、両手でなんとかルソーの腕を襟首から引き剥がした。

 

「ゲホッ…ゴホッ…。ルソー先輩、突然どうしたんですか?」

咳込みながら訳わからないという表情で尋ね返したスペの前に立ちはだかったまま、ルソーは詰問を続けた。

「今日の昼間、オフサイド先輩に何をしたのか、尋ねているの…」

 

「オフサイド先輩とのこと…」

ああ、そういえばルソー先輩も、オフサイド先輩と同じ『フォアマン』の仲間でしたね。

合点がいったスペは息を整えながら、怯えていた眼をキッと強く見開き、ルソーを見返した。

「私はオフサイド先輩に対して、先の天皇賞・秋での言動について色々質問しました。」

「質問…具体的にどんなことを?」

「何故、スズカさんの怪我を喜んだのかを、尋ねました。」

 

やっぱりそうだったのか。

「喜んだ、ねえ。」

今度こそ手が出そうだったが、ルソーは深呼吸してそれを耐えた。

「それだけ?多分質問だけじゃなくて、先輩を責めたんでしょ?」

「はい、」

ルソーの殺気を肌に感じながらも恐怖を押し殺し、スペも強気の口調で答えた。

「あのような内容のレースで勝って嬉しいのか、良心の呵責はないのか、ウマ娘の使命を忘れてしまったのか詰問しました。」

 

「“あのような内容”?」

ルソーは松葉杖を足元にガンッと突き立てた。

「それ、どういう意味よ。」

「スズカさんが怪我した結果勝てた内容のレースなのに、という意味です。」

 

「あんた、それ言ったの?」

「ええ。」

愕然としたルソーに、スペは当然でしょうというように答えた。

「あの天皇賞・秋は、スタートから内容も展開も、スズカさんが圧倒してたレースです。怪我がなければ1分57秒代かそれ以下のゴールは確実だったでしょう。オフサイド先輩の優勝タイムは1分59秒3です。怪我さえなければスズカさんが圧勝していたことは間違いないのは明らかです。」

 

「何。つまりあんたは、オフサイド先輩の勝利を否定してるの?」

ルソーが唇を震わせながら尋ねると、スペは淡々と答えた。

「それは否定してません。結果的にとはいえ、オフサイド先輩があのレースを制したことは事実ですから。私が問い質したのは、何故レース内容やスズカさんの状態を全く慮ることない、謙虚さのない言動をして、ファンの人達の心を傷つけるような言動をしたのかです。かつては同じ『フォアマン』のチーム仲間だったのに…ご自身も故障を何度も経験して、その辛さを知ってる筈なのに。」

 

「ハハ、アハハハ…」

唐突に、ルソーは笑い出した。

「何がおかしいんですか。」

「いや、まあね。笑うしかないよ。人間だけならともかく、同胞でもこんな思考するウマ娘がいたなんてさ。」

「どういう意味ですか?」

「まあ当然か。絶望を知らないウマ娘達と、絶望の世界で生き続けているウマ娘の違いだから。あんたと同じ考えの同胞もきっと多いんだろうね。」

「絶望の世界?」

スペは、意味が分からないという表情をした。

「これは言葉で分かることじゃないから。」

 

笑っていたルソーはふーっと大きく深呼吸し、改めてスペを見据えた。

「あんたはオフサイド先輩のことを全く理解してないようだけど、先輩の方は、あんたのことを“生まれながらに命の重みが分かっているウマ娘”と言って、決して責めようとはしなかったわ。」

「え?」

「私も先輩にあんたを責めないよう命令された。でも、もう無理。例え悪気が全くなくても、私はあんたを許せない。」

そう言うと、ルソーは拳を握りしめた。

 

「私を逆に責める気ですか。」

怒りを露わにしたルソーを、スペは全く怯まない視線で睨み返した。

「どんなにことをしても結構ですが、そんなことでオフサイド先輩が酷い言動をしたことは消えません。」

「黙れ!全てが分かったようにオフサイド先輩を語るな!」

ルソーは声を荒げてスペの胸ぐらを掴み上げ、思わず拳を振り上げた。

 

 

「やめなさい!」

 

振り上げられたその拳を、背後から現れた何者かがギリギリで掴み止めた。

「誰よ⁉︎」

ルソーは怒声を上げて振り返った。

寸前で彼女を止めたのは、物音を聴いて駆けつけた椎菜だった。

 

 

「何があったの?ルソー。」

椎菜は、ルソーとスペを交互に見ながら、驚きと心配を込めた表情で尋ねた。

「…。」

椎菜の姿を前に、怒りを爆発させかけていたルソーは、大きく息を吐きながら、振り上げていた拳を下ろした。

だが質問には答えず、椎菜の腕を振り払うと、スペを再び見た。

「スペシャルウイーク。私はあんたを許さないわ。絶対に。」

最後にそう言うと、ルソーは松葉杖を突きながら荒い足取りでその場を去っていった。

 

 

「一体何があったの?」

ルソーが去った後、椎菜は床に腰をついているスペに尋ねた。

「はい。」

スペは胸元を握りしめて呼吸を整え、それから正直に答えた。

「今日の昼間、オフサイド先輩と会った際のことを、ルソー先輩にお話しました。」

 

「オフサイドトラップと会った?」

それが初耳の椎菜は驚いた。

昼間、スズカと会う予定だった彼女が急な体調不良を理由にそれを止めたということはスズカ担当医からの報告で聞いていたが、スペと会ったということは全く聞いていなかった。

「どこで会ったの?」

「屋上です。スズカさんに会いに来た先輩を私が呼び止めました。どうしても尋ねたいことがあったからです。」

 

 

その後スペは、先程ルソーに答えた内容同じことを、椎菜に全て伝えた。

 

 

「成る程ね。」

全てを聞き終えた椎菜は、表情は努めて変えなかったが、壁にもたれて大きな溜息を吐いた。

オフサイドが体調を崩したのはそういう訳か…

それは、ルソーも激昂するわね。

一足遅ければ、スペの命の危険もあったかもしれないわ。

先日の暴走しかけたルソーの姿を思い出し、汗を拭った。

 

「あ。」

つと、スペが何かに気づいたように声を上げ、足元に落ちていた何かを拾い上げた。

「これは、誰かの落とし物でしょうか?」

見知らぬウマ娘が満面の笑顔で写っている写真を見て、スペは呟いた。

「あら、それはルソーのものだわ。」

写っているウマ娘が誰だか知っている椎菜は、それを受け取った。

 

「…あなたは、これが誰だか知ってる?」

何を思ったのか、椎菜はその写真を再度スペに見せながら尋ねた。

「…いえ、知りません。」

…だよね。

「この子はね、ルソーの同期で『フォアマン』のチーム仲間だった、シグナルライトという子なの。」

「シグナルライト先輩ですか。笑顔が素敵な先輩ですね。」

彼女のことを全く知らないのか、スペはその名前を聞いても特に反応を見せなかった。

「あなた、シグナルライトのことは知らないの?」

「え、知りませんが?」

 

そうか…

椎菜は再び溜息を吐いた。

まあ、知らないウマ娘も多いだろうね。

シグナルライトは目立った実績のあるウマ娘じゃなかったし、何よりあの日経賞については、レース動画の配信も停止され、語ることが暗黙に禁じられている現状だし。

 

「あの、もしかしてその先輩が、今回のことに何か関係があるんでしょうか?」

椎菜の様子を見たスペは、鋭く尋ねてきた。

「私からは何も言えない。」

椎菜はそう言うと、写真をポケットにしまった。

 

そしてスペに対し、怒りよりも哀しさを込めた口調で言った。

「スペシャルウィーク。あなたはオフサイドトラップもサイレンススズカも、致命的に不幸にしてしまったかもしれないわ。」

 

暗い廊下で、その声は重く響いた。

 



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堕天使(3)

 

致命的に不幸にした?

椎菜の思いがけない言葉が、スペシャルの胸を氷のように冷たく侵食した。

 

「それは、どういう意味なんですか?」

スペは少し慄えながら、それでも口調は強気に問い返した。

…。

椎菜はその表情を見て、少し考えてから、言った。

「知りたいのなら、教えてあげるわ。」

そう言うと、暗い廊下を歩き出した。

「はい。」

スペは小さく頷き、彼女の後を追った。

 

 

椎菜はスペを連れて、自分の医務室に戻った。

 

「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったわね。」

室内の椅子に向かいあって座ると、椎菜は気づいたように言った。

スペとは何度も療養施設で会って会話も交わしている位の顔馴染みだが、自分が何の専門医かは教えてなかった。

「私は渡辺椎菜。〈クッケン炎〉専門医師として、十年以上前からここに勤めているの。」

 

「〈クッケン炎〉ですか。」

スペはちょっと驚いた。

彼女も、その病は知っている。

ウマ娘にとってかなり怖い、治るのが困難な脚の病気だと。

「だから、ホッカイルソーとは長年の付き合いでね、彼女のことをよく知ってるわ。」

「ルソー先輩も、〈クッケン炎〉を患っているんですか?」

「そうよ。あの子はもう3年近く闘病生活を続けているの。」

「え、そんなに長くですか。」

「ターフに一度も戻れないままね。」

 

「そんなに…大変なんですか。」

スペは思わず口元に手を当てた。

クッケン炎の病名は知っていたが、それを患っているウマ娘と会ったことは殆どなかった。

その病の恐ろしさは、スペが学園に入学して以後にマヤノトップガンやサニーブライアンといったG1覇者の先輩がそれに罹って引退に追い込まれているので、なんとなくだが感じてはいたが。

「本当に怖い病気なんですね、〈クッケン炎〉は。」

 

「“怖い”、ね。」

椎菜はスペが呟いたその台詞に、思わず苦笑いした。

「どうしたんですか。」

その苦笑に違和感を覚えたスペが尋ねると、椎菜は苦笑いしている口元に指を当てながら、言った。

「あなたが思う“怖い”は、“この病に罹ったら引退に追いこまれる”、だからでしょう?」

「はい。」

何も間違ったことは言ってないと思い、スペは素直に頷いた。

「あなたはダービーウマ娘だからね。そう思うのは無理ないわ。でもね、」

椎菜は笑みを消し、スぺの眼を見て、無感情な口調で言った。

「引退出来るのは、あなたみたいにターフで大きな実績を挙げたウマ娘だけ。そうでないウマ娘にとって、この〈クッケン炎〉は、〈死神〉も同じよ。」

「〈死神〉?」

「ええ、〈死神〉。それも、本当の意味でのね。」

 

「それは、罹ったが最後“帰還”に追いこまれるという意味、じゃないですよね?」

「その通り、帰還に追いこまれるのよ。」

信じられないというスペに対し、椎菜は冷然と答えた。

「それも、夢も希望も消え精魂尽き果てた末の、絶望しかない帰還だわ。」

 

「嘘ですよね。」

そんなこと、想像したこともないスペは耳を塞ぎながら首を振った。

「嘘じゃないわ。事実を言えば、ほんの2日前に、あなたと同期で〈クッケン炎〉〈死神〉に罹っていたウマ娘が帰還したわ。」

「私と同期の子が?」

「エルフェンリートという、1年以上闘病を続けてきた子でね。一度もターフに立てずに、〈死神〉に屈したわ。最期に、ターフへの想いの言葉を遺して、泣きながら帰還していった。」

 

「嘘ですっ!」

スペは、思わず叫んだ。

私と同期の、まだ2年生の仲間が一度もターフに立てないまま、絶望の果てに帰還した…?

「そんな悲しいこと、ある訳ありません!」

「残酷だけど、本当のことなの。」

「なんですか…椎菜先生、まるでその現場にいたような口ぶりですね。」

嘘だと願うスペはそう言って椎菜をキッと睨んだ。

だが、その視線と言葉に椎菜は即答した。

「現場にいたどころか、そのリートに帰還の処置を執行したのはこの私よ。」

「え?」

「リートだけじゃないわ。ここに勤めて以降、〈死神〉に未来を奪われたウマ娘達を、私はこの手で百人以上帰還させたわ。」

 

 

「そんな…」

普段、笑顔が絶えない明るい天使のようなスペは、想像しなかった残酷な世界の一端を耳にして、完全に青ざめていた。

「まだ信じられない?」

「…。」

スペが無言で頷くと、椎菜はまた少し思考した後、意を決したように立ち上がった。

「ついて来な。現実を見せてあげるから。」

「…。」

スペは、少しふらつきながら立ち上がった。

 

 

医務室を出た椎菜がスペを連れて行った先は、施設の奥にある地下通路の方だった。

 

なんですか、ここは…

施設内の他の通路と違う、不気味な程の静けさに覆われたその通路を、スペは何故だか込み上げてくる悪寒を押し殺しながら、椎菜の後ろに続いて歩いた。

 

やがて、その通路の奥にある、部屋の扉の前に着いた。

椎菜は持ってきた鍵で扉を開けて先に室内に入り、電気を点けた。

「入りな。」

 

「…?」

やや震える足で室内に入ったスペは、怪訝な表情を浮かべた。

室内の中心にベッドが一つあるだけの、殺風景な部屋。

医務室でも病室でも治療室でもないような部屋だ。

「ここは、何の部屋ですか?」

スペの問いかけに、椎菜は無感情な口調で答えた。

「ここは、病に未来を奪われたウマ娘の帰還室よ。」

 

「え…。」

スペは凍りつき、それからハッと部屋の中心にあるベッドに眼を向けた。

まさか、あそこで…

 

そう察した時。

“還りたくない”

スペの頭の中で叫び声が聞こえた。

 

“痛い、最期まで痛いの”

“嫌だ、還りたくない”

“誰でもいいから〈死神〉に勝って”

“先生、ごめんなさい”

“〈死神〉が憎いよ”

“一度でいいから、ターフに立ちたかった”

 

「あっ…あっ…ああ…」

スペは頭を抱え、眼を見開いて呻き声をあげた。

「スペ?」

椎菜が声をかけるよりより先に、スペは床に崩れ落ちた。

 

ほんとだった…

薄れゆく意識の中で無数に交錯する最期の叫びの数々に、スペはその事実を悟った。

 

こんな残酷な世界が、あったんだ…

 



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堕天使(4)

 

う…

眼を開けると、電灯の薄暗い灯りが眼に入った。

 

ここは…

「眼は覚めた?」

椎菜の声が聞こえ、スペは身を起こした。

いつのまにかスペは、椎菜の医務室のベッドに寝かされていた。

 

「あの、私は…」

「帰還室で倒れたのよ。」

現状を把握出来ていないスペに、椎菜は淹れたての温かいお茶を差し出した。

「身体に異常はなかったわ、どうやらかなりのショックを受けたようね。」

 

「そうだったんですか…」

頭痛が残っているのを感じながら、スペはお茶を受けとった。

手も若干、震えが残っていた。

その様子を見て、椎菜は聞いた。

「本当だと、分かったようね。」

 

「…はい。」

スペは暗い表情で、重たく頷いた。

「声が、聞こえました。」

「声?」

「還っていったみんなの、悲しみに満ちた叫び声が…」

言いながら、また全身に震えが走った。

 

「そう。」

スペの感受性の強さに、椎菜は少し驚いた。

そういえば彼女は、生まれた時から命の重さを感じて生きてきたウマ娘だったわね…。

椎菜も少し表情を俯かせ、お茶を飲んだ。

 

 

十分程経った頃。

「大丈夫?少しは落ち着いた。」

椎菜は改めて、スペに問いかけた。

「はい。」

まだ頭痛があったが、スペはベッド上で身を起こした姿勢で頷いた。

じゃあと、椎菜は続きを教えようと傍らの椅子に腰掛けた。

普通ならスペの身を慮って彼女を部屋に帰すのだが、今回は内容が内容だけにそうしなかった。

 

「さっきも言ったけど、あの地下にある部屋が、主に〈クッケン炎〉で未来を奪われたウマ娘達が還っていく場所よ。ここ4、5年だけで、100人以上の子があの部屋で還っていったわ。入ったら最後、二度と生きて出ることの出来ない最期の部屋。生きてあの部屋を出られたウマ娘は、多分あなたが二人目よ。」

 

「…。」

重い内容にスペはぞっとして、思わずシーツを握りしめてた。

…二人目?

椎菜の胸に言葉が引っかかった。

「もう一人は、誰なんでしょうか?」

「オフサイドトラップよ。」

「え?」

「最も、彼女が帰還に追い詰められた訳じゃないけどね。オフサイドは、何十回となくあの部屋で、〈死神〉に敗れて還っていく同胞達の最期を看取ってたの。自身、〈死神〉に蝕まれた身体で。」

 

「オフサイド先輩も、〈クッケン炎〉に罹っていたんですか?」

「え、それも知らなかったの?」

「度重なる大きな故障を乗り越えたということは知っていましたが、その症状までは知りませんでした。」

「あ、そう。」

天皇賞・秋関係のTV報道でも、彼女がクッケン炎を患っていたことは殆ど伝えられてなかったわね。

まあ長年の付き合いかチーム仲間でもない限り、病状までは知らなくても不思議じゃないか。

 

「そうよ、オフサイドトラップの故障は〈クッケン炎〉だわ。それも、1年や2年の闘病じゃない。ざっと4年半以上にわたる闘病よ。」

「…4年、半…?…」

「今のあなたの学年である2年生の夏に患って以降ずっとよ。4年半のうち、約3年の歳月をこの療養施設で過ごしたわ。」

 

「それってつまり、一度の発症じゃなかったということですか?」

「その通り。〈クッケン炎〉が〈死神〉と呼ばれる所以は不治かつ再発症する病であること。オフサイドもその例外じゃなかったわ。例外どころか、彼女は3度の〈死神〉発症、計4度の長期療養を余儀なくされたわ。」

「4度…」

「2年生の7月〜12月・3年生の2月〜12月・4年生の1月〜11月・5年生の5月〜6年生(今年)の3月。その間、他の闘病仲間は300人以上が引退し、うち100人余りがあの部屋で還っていった。」

 

「ターフに戻れた方は、どの位いるんですか?」

「勿論、一時的に治ってターフに復帰出来る子は多くいたわ。サクラチヨノオー、メジロライアン、ナリタタイシンとかね。でもそのうちの殆どが再発症、或いは成績不振に陥って、結局ターフを去らざるを得なかった。〈死神〉に罹った後にターフで実績を挙げることが出来たウマ娘は、私が勤めてからの十数年間で、5人もいないわ。そのうちの一人が、オフサイドトラップだったの。」

 

「…。」

椎菜の言葉の途中から、スペは頭に手を当てながら、ふらふらとベッドを下りた。

「どうしたの?」

「すみません。まだ理解が追いつかなくて…。今晩はもう休んでいいですか。」

そう言ったスペの表情は、普段の明るさが全くなく、悪夢でも見ているように蒼白だった。

 

「分かったわ。」

彼女の状態を慮り、椎菜は頷いた。「続きはまた明朝話してあげるから。」

「はい…。」

「一人で戻れる?」

「大丈夫です。お話、ありがとうございました…。」

 

スペは頭を下げると、おぼつかない足取りで医務室を出ていった。

 

 

 

スペが出ていった後、椎菜はしばしの間一人でお茶を飲んでいた。

お茶を飲み切った後、彼女も医務室を出た。

 

彼女が向かった先は、ルソーの病室だった。

 

病室に着くと、もう深夜だったが、ルソーは起きていた。

窓の側で椅子に座って、じっと真っ暗な外を眺めていた。

「椎菜先生。」

「落とし物よ。」

椎菜は先程拾ったシグナルの写真をルソーに差し出した。

「あ…」

…落としちゃいけないものを落としてた。

ルソーは暗い表情で溜息を吐きながらそれを受け取り、胸にしまった。

 

写真を渡した後、椎菜は立ったままルソーに言った。

「スペシャルウィークに、オフサイドトラップのことを少し教えたわ。」

「え?」

ルソーは表情を険しくさせた。

「先輩の、何をですか?」

「彼女が〈クッケン炎〉を患ったウマであること。そして〈クッケン炎〉がどんな病気であるかということと、その病に脚を奪われ走れなくなった同胞がどれだけ帰還していったのか、その場に連れて行って教えたわ。」

「その場?」

「帰還室。」

 

帰還室…

ルソーは思わず震えた。

出来れば想像もしたくないその部屋には、彼女も立ち入ったことはない。

「本当に連れていったのですか?」

「うん。彼女、同胞が数多く還っていった事実を信じようとしなかったから。」

「随分、恐ろしいことをしましたね。スペは大丈夫でしたか?」

「倒れたわ。」

「倒れた?」

「一時的にだけどね。相当なショックを受けたみたいだわ。還っていった仲間達の声が聞こえたって言ってた。」

「じゃあ、彼女も分かったんですね。絶望の世界の存在を。」

「うん。」

 

そうか…あの純真無垢で愚かなウマ娘も、知ったのか。

「スペ、苦しんでいたでしょうね。」

「真っ青になってたわ。仕方ないわね、レースの明るい世界しか知らなかったのだから。」

 

「同情の余地はありません。スペは苦しんで然るべきです。」

ルソーは冷たい口調で言った。

オフサイド先輩が彼女の言動でどれだけ心に傷を負ったか、それに比べれば大したことはない。

「許す気もありません。例え同胞であろうと、先輩を苦しめた者は…。」

 

「あなたが、それ程の重い感情を同胞に抱くとはね。」

ルソーの言葉を聞き、椎菜はやや嘆じるように言った。

 

…。

言葉が胸に突き刺さったように感じ、ルソーは眼を瞑った。

「絶対間違っていることですよね、同胞にこんな感情を抱くなんて。シグナルが今の私を見たら、どれだけ嘆くでしょうね。」

小声でそう言うと、ルソーは両膝を椅子の上に組み、顔を埋めた。

 

シグナルライト…

その名を聞き、

「ルソー。」

椎菜はつとルソーの側に寄った。

「なんですか?」

「あなたに、お願いがあるの。…2年前の日経賞の出来事を、スペに教えてあげて欲しい。」

「え…」

「これは、あなたにしか出来ないことなの。」

 

重い口調で、椎菜は頼んだ。

 



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堕天使(5)(過去話)

 

*****

 

 

2年前の3月16日(土)、中山競バ場。

 

この日開催されたレースは全て終わり、静かになった場内の観客席に、二人のウマ娘が並んで座っていた。

共に3年生で、チーム『フォアマン』所属のホッカイルソーとシグナルライトだった。

 

「いよいよ、明日だね。」

「そうですね。」

曇り空の下、ルソーとシグナルは、高揚感が滲み出る口調で会話していた。

二人は明日開催される『日経賞(G2・2500m。天皇賞・春トライアルレース)』に出走する。

古バ戦線に参戦して以降、一番の大きなレースを迎えようとしていた。

「二人で1着・2着を取って、天皇賞・春に必ず出ような。」

「ええ!必ず天皇賞・春への切符を手にして、ブライアン先輩やローレル先輩と共に淀の舞台で闘いましょう!」

 

「しかし、ここまで来たんだね。」

両先輩の名を聞き、ルソーはつと曇り空を見上げた。

「ここまでとは?」

「チームの復活だよ。去年の今頃は本当に大変だったよね。『フォアマン』は終わりなのかとすら思った位だったし。」

「そうですね。」

シグナルも、感慨深そうに頷いた。

「ほんと苦しかったですね、昨年は。」

涙もろい彼女の眼はすぐに潤み出した。

 

 

昨年、『フォアマン』は不幸な出来事が相次いだ。

まず2月にオフサイドトラップが〈クッケン炎〉再発症で離脱。

3月末にはサクラローレルが危うく再起不能となりかけた重傷を負い離脱。

4月にはナリタブライアンが股関節の故障で離脱。

更にはフジキセキが重度の〈クッケン炎〉発症で引退に追い込まれた。

他の先輩もそれぞれ故障で離脱し、無事だったメンバーはルソーとシグナルの他にはチームリーダーのフジヤマケンザンだけという状況に陥ったのだ。

 

あの苦しい時期と比べれば、今のチーム状況は本当に良くなった。

昨秋復帰したブライアンは、しばらくは苦しいレースが続いていたけど、先週の阪神大賞典でマヤノトップガンとのウマ娘史上に残る死闘を制し復活勝利を挙げた。

翌日にはローレルが1年2ヵ月ぶりのレースである中山記念で圧巻の復活勝利を挙げた。

二人ともその勝利によって、天皇賞・春への出走を決めている。

 

オフサイドは依然として療養生活を続けているが、チーム仲間のレースがある日は応援に来てくれたり、ルソーら後輩の面倒を見てくれたりなどしてチームを支えている。

 

そしてリーダーのケンザンは、昨年末に出走した海外の大レースで悲願の優勝を果たし、日本のウマ娘史に新たなページを刻んだ。

彼女は7年生となる今年も現役続行しており、リーダーとしてチームを支えている。

他に昨年入った新メンバー2人も、それぞれ初勝利を挙げていた。

 

 

「『フォアマン』は復活したね。あとは、私達が結果を出さないとね。」

ルソーは自虐も込めた微笑と口調で呟いた。

「ですね。」

目元を拭い、シグナルはコクリと頷いた。

二人はデビュー以降、故障なくクラシック戦線から古バ戦線にかけてずっとレースに出走し続けチームを盛り上げてきたが、戦績は二人仲良く8連敗中、共に1年余り勝ち星から見放されている。

とはいえ惨敗ばかりでなく、シグナルは重賞で3着以内の成績を4回挙げているし、ルソーは三冠レースも含めて全て4着以内の好成績だ。

共にあと一歩の成績が続いていただけで、久々の勝利も近いと手応えを感じている。

そのレースが明日の日経賞だと、お互い思っていた。

共に長距離が得意な点、今度のレースは自信を持って臨む構えだ。

 

「天気予報によると、明日は朝からかなり雨が降るみたいなので、どうやらレースはかなりの重バ場になるようです。」

「だね。だとすると人気のカネツクロス先輩も中々思い通りにはレース運び出来なさそうだろうね。」

「だとするとチャンスですね!特に重バ場が得意な私にとっては!」

「はは、重バ場なら私も得意だよ。…それよりアンタは、菊花賞の時みたいに緊張し過ぎてイレ込まないないようにね。」

「むー!ルソーさんこそ、直線の末脚がすぐに止まらないように気をつけて下さい!」

 

膨れて言い返した後、シグナルはちょっと微笑した。

「どうしたの?」

「いえ、ルソーさんとレースで闘うのは、明日の日経賞で4度目だなーって思い出して。」

「ああ、そういえばそうね。」

昨年のダービー・セントライト記念・菊花賞に次いで4度目だ。

「過去3戦は、私の1勝2敗ですね。」

「その勝敗は、お互いレースには勝ってないから意味なくない?」

「確かにそうですね。」

そう頷きつつも、シグナルは微笑したままルソーを見た。

「でも、勝敗は別にして、私はルソーさんとレースを走るのがいつも楽しみです。」

「楽しみ?どうして?」

「だって、いつも競い合っている仲間と一緒に走れるって楽しいじゃありませんか。特にルソーさんは、私にとって憧れの同期ですから。」

 

「私があなたの憧れ?」

ルソーは吹き出した。

「あのねえ、どうせ同期に憧れるならトップガンとかジェニュインとか、大きな実績を挙げたウマ娘にしなよ。私みたいな善戦止まりじゃなくてさ。」

「そんなことないです!」

シグナルは首を振った。

「ルソーさんは、トップガンさんやジェニュインさんにも劣らない強さを持った同期の星です!G1制覇も必ず果たせるウマ娘だと、私は信じてます!」

 

「ありがと。」

ルソーはちょっと照れくさそうに頭を掻いた。

「ま、褒めてくれるのは嬉しいけどさ、あなたも自信持ちなよ。長距離での素質は同期の中でもかなり優れているんだからさ。」

「大丈夫です。私はいつでも自信に溢れていますから!明日の日経賞は、必ず勝ってみせます!」

「おーおー、私も負けないよ。」

自信たっぷりのシグナルに、ルソーも負けずに言い返した。

「日経賞を制して、天皇賞・春では昨年のクラシックの惜敗の雪辱を果たしてやるんだから。」

「それは私も同じです。今度のレースは、私が大きく羽ばたく為のものだと信じてますから!」

「いや、それでも勝つのは私だね。」

「私です!勝利の青信号を必ず灯します!」

「あんたいつもそう言って、イレこみ過ぎてレース運びに失敗してるくせに。」

「なんですかルソーさんこそ、直線では“5mの末脚”と言われる位すぐバテるくせにー!」

 

言い合った後、

「アハハハ。」

二人は顔を見合わせて笑った。

 

「シグナル、」

つと、ルソーはシグナルの手を握り、ターフを眺めながら言った。

「明日のレース、頑張ろうね。」

「はい!」

シグナルもターフの方に眼をやり、ルソーの手を握り返した。

「明日のレース、最高の走りをしましょう!勝っても負けても、笑顔で終えましょう!」

 

そう言ったシグナルは、とびきり明るい笑顔を見せていた。

 

 

 

*****

 

 

 

再び、現在の療養施設。

 

「…話せません。」

椎菜の頼みに対し、ルソーは膝を組んだまま断った。

「オフサイド先輩にも話すよう頼まれましたが、今の私には、まだあの出来事を話すことは出来ません。」

「ルソー。」

 

「やめて下さい!思い出すだけで胸が張り裂けそうなんです!」

何か言おうとした椎菜に対し、ルソーは両耳を塞ぎ叫んだ。

「私はまだ、あの日経賞を乗り越えきれていないんです。記憶が蘇るだけで、思わず還りたくなってしまう位に…。」

 

膝を抱えたルソーの腕は震えていた。

 



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堕天使(6)

 

「分かったわ。」

 

頼みを断固として拒否したルソーに対し、椎菜はそれ以上は強いて頼まなかった。

「お休み、ルソー。」

最後にそう言うと、椎菜は病室を出ていった。

 

 

椎菜は医務室に戻った。

 

深刻な事態になったわね…

室内の椅子に座ると、椎菜は額に手を当てながら天井を仰いだ。

まさかスペが、スズカと会おうとしたオフサイドを阻止していたとは…。

絶望の世界を知らない彼女からすれば、オフサイドは許せない言動をしたウマ娘だったのだろうが、それにしても深刻な影響を及ぼす行動をしてしまった。

 

深刻な事態…

つと椎菜は、ポケットからスマホを取り出した。

スペにもルソーにも伝えていないが、実は二人と廊下で会う前に、彼女はマックイーンから重大な連絡を受けていた。

 

そう、『オフサイドトラップが有馬記念で帰還する決意を固めている』という内容の。

 

到底すぐには信じられる内容ではなかったが、オフサイド自身がそれを認めたということも知るにつれ、それは事実だと受け入れるしかなかった。

 

オフサイド、今日突然ここに会いに来たのは、私達に最後の挨拶をする為だったの?

昼間、この医務室であった時の彼女を思い出した。

 

 

今すぐはこのことはルソーには伝えられないわね…

椎菜は唇を噛み締めた。

今ルソーに伝えたら、彼女の心が本当に危なくなる。

一歩間違えれば今度こそスペに危害を加えかねない。

オフサイドの決意は、スペと会う以前から固まっていたらしいということはマックイーンから聞いて確認していたが、現状ではそれを信じられるとも思えない。

だが、もう有馬記念までは日にちがない。

明日にでも彼女にそれを伝えなければ。

 

「…。」

椎菜は思考を止め、室内のベッドに横になった。

「オフサイドトラップ…」

あなた、本当に還る気なの?ここまで、ここまで頑張ってきたのに…

〈死神〉に真っ向から立ち向かって、血みどろの死闘を何度も繰り返して、遂に〈死神〉に勝ったというのに…

 

自然と、涙が込み上げてきた。

 

 

 

一方その頃。

 

「…う…ん…」

スペはベッドで、苦悶の表情で横になっていた。

何度も寝ようとしたが、とても寝付ける状態じゃなかった。

 

『何百人も〈死神〉に未来を奪われ、絶望の中で還っていったわ。生き残れたのはほんの僅か。その僅かの一人が、オフサイドトラップだった』

椎菜から教えられた戦慄の事実と、帰還室で聴こえた同胞の最期の声が、スペの脳裏でずっと響き続けていた。

 

お母さん…

苦悶の中、スペは虚空を見つめ、亡き母の面影に語りかけた。

私、大変な過ちをおかしてしまったのかな…

 

 

 

*****

 

 

 

時刻はやや遡り、トレセン学園の学園寮。

 

4日後に迫った有馬記念へ向け調整に一段と熱が入っているステイゴールドは、この日も夜遅くまで学園でトレーニングを行い、夜遅くに帰寮していた。

 

帰寮したゴールドに、幾つか郵便物が届いていると管理人から連絡があった。

寮部屋に戻ってそれを確かめると、それは全てオフサイドからのものだった。

 

先輩から?

郵便物を開けて見ると、何冊かのノートと、手紙の入った二通の封筒が入っていた。

なんだろ?一通の封筒を開け、手紙読んでみた。

 

『ゴールドへ

このノートは、私の競走生活の記録を記したものです。有馬記念が終わるまであなたに預かってて欲しいのです。お手数かけますが、宜しくお願いします。』

 

は、はあ…

手紙を読み、ゴールドは一人頷いた。

ただ預かるだけだから面倒なことでもない。

ゴールドはノートを、部屋にある机の引き出しにしまった。

 

それから、もう一通の封筒を手に取った。

封を切ろうとした時、

「?」

ゴールドは手を止めた。

封筒の表面に、こう記してあったから。

 

『この手紙は、有馬記念が終わった後に読んで下さい。』

 

有馬記念が終わった後に?

だったら手紙の必要なくないかな?

有馬記念終わったら普通に会えるんだろうし。

少々謎に思ったが、ゴールドはそれに従って封は切らず、ノートと同じく引き出しにしまった。

 

ま、良かったな。

手紙をしまった後、ゴールドは制服姿のままベッドにごろっと横になって思った。

オフサイド先輩が調整の為に姿を隠してから一週間以上経った。

有馬記念に集中する為彼女の現状に関しては全く詮索せずにいたが、先輩は大丈夫だろうかという不安はどうしてもあった。

でも、手紙を見たことで少し安心した。

先輩は元気そうだ。

調整も上手くいってるのだろう。

 

「楽しみです、先輩。」

ゴールドは窓の外を見、どこかで調整しているであろうオフサイドのことを思った。

今度の有馬記念、お互い必ず結果を残しましょう。

 

あの天皇賞・秋の悪夢を払拭する為に、『フォアマン』復活の為に、そしてお互いの未来の為に。

 

 

12月23日。有馬記念まで、あと4日。

 



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『第5章・上』
恩師と真女王(1)


 

*****

 

12月24日、早朝。

 

 

まだ夜が明ける前に、マックイーンはメジロ家の別荘を出て、学園へと向かった。

 

約一時間後。

学園に到着したマックイーンは、まだ誰も来ていない生徒会室に入った。

 

室内にある来訪者応対用の席に座ると、マックイーンはスマホを取り出し、誰かに通知を送った。

『私は生徒会室にいます。他の役員はいませんので、いつでもお越し下さい』

 

通知を送ってから十分程経った頃。

ガチャ。

生徒会室の扉を開ける音と共に、一人の人間が来訪した。

「お久しぶりです。トレーナー。」

「久しぶりだな、マックイーン。」

 

来訪者は、『スピカ』トレーナー・沖埜豊。

 

 

「体調の方は如何ですか?」

沖埜を席に促し、淹れたてのコーヒーを差し出すと、マックイーンは尋ねた。

「もう大丈夫だ。」

沖埜はコーヒーを飲みながら、爽やかな笑顔で答えた。

「トレーナー業の方も問題なく出来てる。お前にも随分と心配をかけたな。」

 

天皇賞・秋でスズカが大怪我を負った後、沖埜はそのショックからか体調を著しく崩し、スズカが一命を取り留めた後は一時期安静の為にトレーナー業を休んでいた。

スズカが快復するにつれ沖埜も体調を戻し、今は無事にトレーナー業に復帰している。

今の彼の様子を見ても、もう心配はなさそうだった。

「良かったです。」

かつての恩師の元気な姿に、マックイーンもほっとしたように微笑した。

 

微笑したものの、それは一瞬のことで、マックイーンはすぐに真剣な表情に戻った。

「用件について、お話しします。」

「ああ。」

沖埜は頷き、コーヒーのカップをテーブルに置いた。

 

マックイーンは、彼女特有の冷徹な翠眼で、沖埜を見つめて言った。

「実は今、学園上層部では、あなたが本学園トレーナーとして不適切な言動をおかした点について、処分をとるか検討しています。」

「不適切な言動?」

唐突な内容に、沖埜は怪訝な表情を浮かべた。

「先の天皇賞・秋のレース後に、勝者のオフサイドトラップを貶めかねない発言をしたことですわ。」

「ああ…」

思い当たったのか、沖埜は少し表情を翳らせながら頷いた。

 

マックイーンは鞄から、持参してきた天皇賞・秋のレース後の沖埜の発言を記した報道紙をいくつか取り出し、テーブルの上に出した。

 

〈「優勝タイムを見ても、スズカが怪我しなければ圧勝していたことは明白」〉

〈「スズカがあんなタイムにバテるわけがない。やっぱり千切ってた」〉

〈「無事なら、10バ身以上の差で大レコード勝ちだった」〉

 

「あなたの発言としてこのような内容の報道がなされていたことは周知ですね?」

「周知している。…だが、」

「勿論、これがあなたの発言の全てではないことは調べてありますわ。」

何か言いかけた沖埜に、マックイーンは分かっていますと頷いた。

マックイーンは事前に、沖埜の発言の全てを記録した資料を手に入れていた。

 

「全部はこちらですね。」

マックイーンはそれを記した資料を取り出し、それを読み上げた。

「『スズカが競走中止した事実は受け入れなければいけない。無事ならばオフサイドトラップのタイムを遥かに上回ってゴールしていたとは思うが、それはタラレバでしかない。トレーナーとして、(スズカが)このようなことになってしまった責任は重く受け止めるべきだし、大記録を期待してたファンにも申し訳なく思う。今はスズカの無事を祈るだけ。』。以上で間違いないでしょうか?」

 

「多分、そんな感じだったと思う。」

沖埜は額に手を当て、なんとか思い出そうとしていた。

「はっきりとは覚えていないのですか?」

「正直、何を言ったのかすらよく覚えていないんだ。すまない。」

沖埜は額から手を離し、小さく謝した。

 

そうでしょうね…

マックイーンは内心で、沖埜の心境を思い遣った。

あの天皇賞・秋の直後、スズカの大怪我に対する沖埜のショックの受けようは尋常じゃなかった。

彼と親しいトレーナーによると、スズカの容態が危険な頃は自殺しかねない位の精神状態だったというし、スズカが一命を取り留めた後も珍しく酒に溺れたりして結果体調を崩すなど、従来の彼とは思えない混乱した行動をしていた。

そんな、意識も朦朧とした状態で飛び出したのがあの一連の発言なのだろうと、マックイーンは同情的に思った。

 

だが、

「あなたらしくない、不適切な発言でしたわ。」

マックイーンは同情を口調に表さず、厳しい口調で言った。

この発言が、切り取られた形とはいえ全国に報道され、世論を扇動することになってしまい、あの天皇賞・秋後の騒動の一因となった。

無論、全文を読めば沖埜がオフサイドの勝利を否定した訳では決してないのだが、彼の影響力を考えればこうなることは当然想像出来た筈だ。

例え、スズカの怪我で憔悴していた点を考慮しても、だ。

「…。」

沖埜は口元に両掌を結び、黙ったままマックイーンを見つめていた。

端正な容貌に、僅かに苦悩の色が見えた。

 

「無論、あの騒動の大きな責任があなたにあるなどとは言ってません。」

黙っている彼に、マックイーンは淡々と言った。

騒動があれだけ膨大なものとなった理由は、オフサイドのレース後の言動に世論が激昂したのが大きな理由であり、沖埜はオフサイドのことを何も批判していないので、そこまでの責任はない。

だが、沖埜の発言がオフサイドを攻撃する連中の後押しになったのは確かだった。

なので少なくとも、沖埜が公に出てあの発言を撤回すれば、オフサイドへの攻撃は減っていた筈だ。

だが、彼はそれをしなかった。

 

しなかった理由は、色々あるだろうと推察します。

私が7年前の天皇賞・秋で降着処分になった時も大変でしたし。

 

沖埜の心中を慮りつつも、マックイーンは続けた。

「あの一連の騒動で、『フォアマン』の岡田トレーナーが学園を去り、オフサイドトラップは心身共に追い詰められ、チームは崩壊状態となった。無論、一番悪いのは今なおオフサイドトラップを理不尽に責める報道と世論ですわ。でもその連中達を咎めるより前に、内部で誤ちをおかした者達の責任を問わねばなりません。」

 

マックイーンは翠眼を光らせ、冷徹な口調で恩師にそう告げた。

 



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恩師と真女王(2)

 

「…。」

 

マックイーンの言葉に対し、沖埜は口元の手を結んだまま、何も言わなかった。

マックイーンも一旦言葉を止め、コーヒーを淹れたカップを手にとった。

 

沖埜トレーナー…

コーヒーを飲みながら、マックイーンは沖埜のやや窶れの色が残っている表情を見た。

体調は戻ったものの、まだあの天皇賞・秋のショックは心に深く刻まれたままのように映った。

 

沖埜とスズカの関係がどれだけ深いものだったか顧みれば、それは当然かもしれない。

マックイーン本人を始め、幾多のスターウマ娘をターフに輝かせてきた沖埜にとっても、スズカは特別な存在だったのだから。

 

 

サイレンススズカが、沖埜が率いる『スピカ』メンバーの一員になったのは今年始め。

昨秋までは、スズカは『フォアマン』に在籍し、離脱後の数ヶ月は幾つかのチームを渡り歩いていた。

当時はそれほど注目される実績を挙げてなかったスズカだが、彼女のデビュー当時からその走りと素質に注目していた沖埜は、彼女のチーム加入を強く望んでいた。

スズカも自らが目指す理想の走りを肯定する沖埜に信頼を寄せ、チームに入った。

 

以後、沖埜の指導のもとで、スズカの能力は一気に開花した。

技術や戦略関係なく、ただ思いっきり気持ちよく走るだけで、出走したレースを先頭で駆け抜け続けた。

また、かつて垣間見せていた精神的な弱さも克服し、ウマ娘でも傑出した落ち着きと優雅さを備えるようになった。

特にその点においては、沖埜の存在によるものが大きかった。

 

スズカは能力を見出してくれた沖埜に感謝し、彼の夢の為にも走り続けた

一方の沖埜も、想像以上の内容で連戦連勝していくスズカの能力に驚いた。

そして、彼女に対し、究極ともいえるウマ娘の姿を夢見た。

 

そう、『逃げて差すことが出来るウマ娘』。

 

スタートから先頭でレースを進め、最後は後続を引き離してゴールを駆け抜ける。

まるで夢物語のような、現実にはありえない理想的なこと。

だが沖埜は、スズカならばそれが出来るのではと、その稀に見る能力と素質を前に強く感じた。

 

そしてそれは、5月末に出走した金鯱賞で確信に近づいていく。

2000mのレースを前半58秒で逃げ、後半も1分を切るレース運びで、G1覇者を含めた後続に11バ身差という大差をつける圧勝劇。

その類い稀な美しい走りとスピード、そして強さに、ファンだけでなく沖埜自身も驚いた。

 

その翌月に出走した宝塚記念では、G1ということもあったかやや慎重なレース運びとなった。

それでも最初から最後まで危なげなく先頭を守りきり、G1制覇を果たした。

それまでのレースと違い後続との着差が殆どなかったが、G1であり距離が2200mだったことや少々苦手な右回りのコースであったことも考えれば、充分なレース内容だったと沖埜は思った。

 

そして、あの毎日王冠。

エルコンドルパサー・グラスワンダーといった無敗の新世代最強ウマ娘を相手に見せつけた、圧巻のレース運び。

1000mを57秒台のハイペースで逃げ、3、4コーナーで少しペースを抑えるという落ち着きをみせたあと、最後の3ハロンを35秒1という出走メンバー中最速のタイムで駆け抜けた。

それはまさに「逃げて差す」走りだった。

沖埜がスズカに抱いた夢は、このレースで確信に変わった。

 

 

だが。

マックイーンはコーヒーを飲みつつ、当時のことを思い出した。

あの毎日王冠の後、誰も気づかない中で、何かが少しずつおかしくなっていった気がした。

 

毎日王冠の完勝後、サイレンススズカの人気は頂点に達した。

夢の走りを体現出来るウマ娘、どんな戦略も小細工も一切通用しない圧巻の走りをする彼女には、もう日本で敵はいないと評された。

また、彼女のトレーナーが人気実績共に随一の沖埜であることも、スズカ人気と熱狂に拍車をかけた。

 

そして、間近に迫った天皇賞・秋。

権威ある大レースであるにも関わらず、このレースで勝敗を考える者は殆どいなかった。

勝者はサイレンススズカで決まり。

あとはどれくらいの差で勝つか、どれ程のレコードタイムを叩き出すのかに焦点が集まっていた。

レース前のスズカの調子と状態の良さは毎日王冠の時以上だった点、誰もがとてつもない彼女の走りを見れると信じた。

 

それは、沖埜も同じだった。

トレーナーとして彼女の指導を続ける中、「逃げて差す」ウマ娘の完成を目指した。

スズカ自身、その究極の走りを目指し、一層トレーニングに励んだ。

天皇賞・秋のレースで、毎日王冠以上の最高の走りを見せる為に。

そんな彼女を見守る中で、沖埜も天皇賞・秋の勝敗については考えなくなった。

毎日王冠の時のように意識すべき強敵がいるわけでもないし、そもそもスズカの走りの内容からして相手や勝負の駆け引きとかを考える必要はあまりないと思った。

 

だから沖埜は、レースを観るであろうファン達に、こう力強い宣言をした。

『今度の天皇賞・秋で、スズカはハイペース・オーバーペースで飛ばし、今までにないパフォーマンスをお見せします』と。

ハイペースといってもスズカにとってはそれがマイペースだと評されていた点、沖埜の宣言によって、天皇賞・秋への夢は更に高まっていった。

 

とはいえ、沖埜トレーナーがレース前にこんな宣言をしたことは珍しかった。

スターウマ娘を何人も輩出している点、彼も勝負に関しては人一倍(ていうかトレーナー随一)こだわっていたし、レース前にこのようなことを言う(マックイーンの天春前に“天まで駆けます”と言ったことはあったが)ことも殆どなかった。

それだけ、彼にとってサイレンススズカは、強さも魅力も特別なウマ娘だったのだ。

 

沖埜も、その他ウマ娘関係者も、報道も、ファンも、あの天皇賞・秋はスズカの勝利は確定、あとはそれがどれだけの内容かということしか考えなくなっていた。

 

そしてサイレンススズカは、ファンの為に、仲間の為に、沖埜の為に、そして自分の為に、最高に気持ち良い美しい走りで、最後まで先頭で駆け抜ける。

それだけを考えていた。

 

そのような状況の中で、あの天皇賞・秋のレースを迎えたのだ。

 

 

スズカ陣営がしてた言動は何も悪いことじゃない。

勝敗があまり注目されない大レースはこれまでにも何度もあった。

マックイーン自身も、それを何度か経験した(ダイユウサクに負けたりしたが)。

 

だが、G1レースという大舞台で、ここまで極端に勝敗が注目されていないレースはなかっただろう。

マックイーンもスズカの勝利は間違いないと予想していたが、彼女に対する周囲の熱狂ぶりに、一抹の不安を覚えた。

勝負の世界に於いて度を超えた熱狂は何かを狂わせる…そんな予感がしたのだ。

とはいえ、そんなことを口に出来る雰囲気ではなかった。

そんな雰囲気になっていることも、更におかしいと感じた。

 

結果、その予感は、スズカの怪我〜天皇賞・秋後の騒動という、最悪な形で的中してしまった。

 

 

 

「沖埜トレーナー、」

マックイーンはカップを置き、沖埜に話しかけた。

「あなたがどれだけサイレンススズカを愛し、彼女に大きな夢を抱いていたことは私にも分かります。ですがあのレースでは、サイレンススズカは負けたんです。それに、競走中止した時の状況からして、『ニホンピロスタディの悲劇』の再来になってもおかしくなかったですわ。」

 

『ニホンピロスタディの悲劇』とは、2年前のスプリンターズステークスで起きた出来事のこと。

出走メンバー中最低人気で出走したスタディは、スタート後は先頭勢につけてレースを進めた。

だが最終コーナーを迎えた際、突然故障を発生して競走中止した。

その際、スタディのすぐ後ろにいた2番人気のビコーペガサスが彼女の故障の煽りを受けて進路を失い、唯一人致命的な不利を受けてしまった。

結果、ペガサスは全く勝負をかけることが出来ず惨敗した。

その為、競走中止したスタディは故障者とはいえあまり同情されず、ターフから運び出される際には一部のファンからはバッシングに近い声すら受けた。

だが、スタディの怪我は想像以上に重傷で、懸命の治療も実らず、彼女は帰還に追い込まれてしまった。

故障を責められながら帰還してしまうという、勝負の世界とはいえ胸が痛む最期だった。

 

その悲劇ほどではないが、今度の天皇賞・秋も、スズカの故障によって進路の不利を受けたウマ娘が2人(2番人気メジロブライトと8番人気サイレントハンター)いた。

二人とも結果は5着と4着と上位入線だった点、その不利がなければ勝利の可能性もあった。

スズカがスタディと違ってなんの非難も受けていないのは、スズカが一番人気だったことと、悲劇の衝撃とそれを悲しむ人の規模が違ったからだ。

 

「勿論、レースには運要素も大きいです。緊急時の対応力も実力ですから、ブライトもハンターも結果を受け入れてますわ。」

「二人には済まないと思っている。」

沖埜は重たい口調で呟いた。

「スズカの故障によってその二人に不利を受けさせてしまったことは事実だ。それは本当に申し訳なく思う。」

 

「それを聞いて、少し安心しましたわ。」

マックイーンは少しほっとした。

流石に沖埜トレーナーは、そのことを分かっていたのか。

 

でも…

「そのことは大した大事にはなりませんでしたが、問題はオフサイドトラップです。」

マックイーンは、再び冷徹な口調で言った。

「今、彼女の命は、断崖絶壁の瀬戸際まで来ているのです。」

 

「何だって?」

想像だにしてなかった言葉を聞き、沖埜は思わず顔を上げた。

「どういうことだ?」

「あの秋天後、理多くの不尽な仕打ちを受けたオフサイドトラップは、夢も希望も生きる意味も失い、今度の有馬記念を死場所として帰還の決意をしたんです。」

 

「まさか、嘘だろ?」

「事実ですわ。言動へのバッシングだけなら、彼女も耐えられたかもしれません。彼女が絶望したのは、勝者の誇りまでも理不尽に奪われたからです。あの天皇賞・秋で、サイレンススズカだけしか見てなかった者達に。」

 

表情を変えた沖埜にマックイーンは淡々と言うと、再びカップを手に取った。

 



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恩師と真女王(3)

 

「オフサイドトラップ…」

端正な表情をやや青ざめさせて、沖埜はぽつりとその名を呟いた。

何故?

動揺した彼は、彼女の心中が理解出来なかった。

 

 

あの天皇賞・秋後、勝者のオフサイドトラップの言動が報道や世論から厳しい非難の的にされていたことは、沖埜も勿論知っていた。

 

非難の的となったオフサイドの“笑いが止まらない”発言に対しては、スズカのトレーナーである沖埜自身は、特に何とも思ってなかった。

勝者が喜びを表現するのは至極当然であり、特にオフサイドトラップは長年の故障に苦しみながら(オフサイドがクッケン炎を患っていたことは勿論周知していた)遂に掴んだ栄光である点、スズカの悲劇が起きたとはいえ歓喜するのは無理もないと受けいれていた。

 

ただ、喜びの表現の仕方が少々誤解を招くのではという懸念はあった。

まさかあそこまで大規模な非難を受けるとは、沖埜も思ってなかったが。

 

あの騒動の最中、沖埜は無言を貫いた。

理由としては、第一に彼がスズカの故障のショックに苦しんでいたからでもあるが、そもそも自分が出る幕ではないと思ったから。

騒動の原因となったのはオフサイドの言動であり、彼女がその言動をとったことにはちゃんと理由があるのだから、それを彼女が説明すれば良いだけだと思った。

侮辱された(とされた)スズカのトレーナーとして、あの発言は全然問題ないと発信しようか考えないでもなかったが、それはしなかった。

 

言動についての責任は本人が負うもの、それがG1覇者の責任でもあると思ったから。

 

オフサイドトラップはG1を制したウマ娘になり、このトレセン学園の顔の一人となった。

それは同時に、彼女の一挙手一頭足に対して世間の注目度も大きくなることを意味する。

常に厳しい視線に晒されるだろうし、時には理不尽なバッシングも受けるだろう。

これはオフサイド自身が乗り越えるものだというのが、沖埜の考えだった。

 

 

立場の違いはあるが、沖埜自身もG1ウマ娘を擁するトレーナーになってからはそうだった。

 

彼は天才トレーナーとして決して称賛や栄光だけを手にし続けたわけじゃなく、経歴を重ねる中で理不尽かつ心ない声も随分浴びた。

才能豊かなウマ娘ばかりチームに加入させているから実績あげて当然だとか、強いウマ娘を独占して汚いとか、そのようなことをずっと言われた。

またチームの不調時には、一時的な天才だったとかいい気味だとか、才能あるウマ娘を潰したとかいう声も浴びた。

特に、7年前の天皇賞・秋でのマックイーン斜行降着事件の時は、同僚のトレーナー仲間からも非難を受けた(これは仕方がないことだが)し、世間からもかなり厳しい声に晒された。

沖埜はまだ二十代の若者。

厳しい非難に晒された時はその苦しさからトレーナーを辞めようかと思ったことも何度かあったし、時には耐えきれず一人嘆いたこともあった。

でも、これは超一流の宿命だと、必死に耐えて乗り越え続けた。

 

今回のオフサイドトラップの件も、沖埜は自分自身が受けたバッシングと同じ類いだとみていた。

これはG1覇者の宿命であり、本人(陣営も含めて)が乗り越えなければならないこと。

 

沖埜は、自チームから輩出したG1ウマ娘達にもそう指導していた。

特に、今目の前にいるマックイーンに対してはそうだ。

あの斜行降着事件後、その影響でチームもマックイーンもしばらく不調に陥った。

だが沖埜は必死に耐えて、マックイーン達を励まし続けた。

マックイーンも周囲からの厳しい声を宿命と受け入れ、それを乗り越えて復活した。

 

だから、オフサイドトラップの心が折れてしまったということが、沖埜には不可解だった。

 

「あの天皇賞・秋の勝者は間違いなくオフサイドトラップだ。世論や報道がどんなに理不尽なことを言おうと、それは紛れもない事実だ。なのに、何故そこまで絶望する?」

沖埜は愕然とした表情で、首を傾げた。

 

 

トレーナー…

現役時代、彼と深い関係にあったマックイーンには、沖埜の疑問が分かっていた。

勝ち方に文句をつけられるのも、勝者の宿命だと彼は思っているのだ。

彼が輩出したG1覇者ウマ娘の中には、その勝ち方に文句をつけられた者は少なからずいた。

マックイーンだって大舞台で勝ちまくったにも関わらず、『名勝負なき王者』『勝てるレースでしか走らない』『相手が弱いから』とか文句つけられた。

サイレンススズカも、連勝中に幾つかのレースで内容に懐疑的な見方をされたりすることもあった。

 

だから、今度のオフサイドトラップが『低レベルな天皇賞覇者』とか『スズカの故障の恩恵の勝者』などと言われているのも、勝者の宿命だと思っているのだろう。

そういった理不尽な声に対しては、次のレースの内容で答えればいい。

沖埜はマックイーン達にはそう指導していた。

それがG1覇者の姿勢だと、彼は信じているに違いなかった。

 

だが、マックイーンはそれを否定するように言った。

「私やスズカが勝ち方に文句をつけられても大して気にしなかったのは、強さを証明出来る次のレースがあったからですわ。ですが長年故障に苦しみ、年齢も6年生と高齢のオフサイドトラップには、もう次がないんです。彼女はあのレースで、全ての力を捧げきってしまったのですわ。」

 

それに今回の場合は、文句の規模が従来のそれと違い過ぎる。

「沖埜トレーナー、本来ならあなたの発言は、特に問題はありませんでした。」

敗者側が悔しさのあまりタラレバを言うことは今回の沖埜に限らず前例も結構あったし、それを聞く側もそこまで大々的に受け取らなかった。

ただそれは、何のアクシデントもなくレースが終わってた場合だ。

 

「今回に限っては、あなたの発言は状況的にオフサイドトラップにとって負の面に大きく作用しました。」

本来なら、丈夫でいることも実力のうちである点、故障によりレースで完走すら出来なかったウマ娘側は勝負を語る資格など無いに等しい。

だが今回は、それまで故障とは全く無縁で、強さも人気も圧倒的だったウマ娘がそうなったことにより、その観念が大きく揺らいだ。

そこに拍車をかける一因となったのが、沖埜の発言(本人にその意志は全くなかったとはいえ)だった。

 

「…。」

マックイーンの言葉に、沖埜は再び黙った。

重たい空気が、また室内に立ち込めた。

 

数分程経った頃。

「オフサイドトラップは、今どこにいる?」

沖埜は意を決したように席から立ち上がり、マックイーンに尋ねた。

「彼女と会いたいのですか。」

「ああ。直接会って、彼女に謝罪する。」

沖埜は冷静な表情と口調で、答えた。

 

聡明ですね…

「分かりました。」

マックイーンは頷き、彼女の居場所を教えた。

 

それを聞いた沖埜は、すぐに生徒会室を出ていった。

 



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終焉序曲(1)

 

*****

 

 

その頃。

場は変わり、療養施設。

 

特別病室では、起床したばかりのスズカが、担当医師から朝の診察を受けていた。

 

「珍しいわね。スペが来てないなんて。」

診察をしながら、医師はスペの姿がないことに意外な表情をしていた。

「そうですね。」

スズカも、首を傾げつつ頷いた。

いつもはスズカが起きる大分前から病室に来てるのに、この日はまだ姿を見せていない。

昨日元気がなかったから、もしかして体調を崩したのかな。

昨晩遅く、妙な胸騒ぎを覚えて目を覚ましたことも思い出し、スズカは心配に思った。

 

診察が終わった頃。

「おはようございます。」

いつもよりかなり遅く、スペが病室にきた。

良かった。

彼女の声が聞こえると、スズカはほっとした。

 

だが、

「おはようございます、スズカさん。」

「…おはよう、スペさん。」

現れたスペの姿を見て、スズカは驚いた。

挨拶の口調こそ元気だったが、表情は殆ど寝てなかったのかと思うくらいに疲労の色が表れていたから。

 

「大丈夫ですか?」

「え、何がですか?」

「スペさん、かなり顔色悪いですよ。」

「あ…」

バレちゃいましたかーと、スペは恥ずかしそうに笑った。

その笑みも、いつもの明るい笑顔ではなく、翳のあるものだった。

「実は夕べ、うまく寝付くことが出来なかったんです。顔色が悪いのはそのせいです。」

 

「そうですか…。」

スズカは、それだけじゃないだろうと思った。

ただの寝不足だけでなく、体調もあまり良くなさそうにみえた。

昨日からそうだったけど、今朝はもっとひどくなってるわ。

「スペ、無理は駄目よ。」

スズカの診察を終えたばかりでまだ部屋にいた医師が、スペの額や脈にふれつつ注意するように言った。

「かなり体調悪そうだわ。今日はスズカの看護はやめて、体調が良くなるまで宿泊室で休んだ方がいいわ。」

「え、でも」

「あなたまで倒れたら本末転倒だわ。看護をする立場なら、自分の健康もちゃんとしないと。」

そう言い残すと、医師は出ていった。

 

「スペさん、今日は休みましょう。」

医師がいなくなった後、スズカはベッドの傍らに座ったスペを見た。

「私のことは心配しなくて大丈夫です。リハビリも頑張りますから。」

「でも、スズカさん」

「スペさん、」

まだ何か反論しようとしたスペの額に、スズカはめっと軽く指先を当てた。

「無理をしてはいけません。体調管理もウマ娘の大切な義務です。今日はゆっくり休んで。」

これは先輩の指示ですと、それっぽい微笑も含めて言った。

「…分かりました。」

スペは、申し訳なさそうに頷いた。

何も謝ることないですよと、スズカはその頭を撫で撫でした。

 

それにしても、スペさん元気ないな。

これまで何度か体調を崩すことはあったけど、こんなに顔色悪いのは見たことない。

昨日からずっとそうだし、やっぱりなにかあったのかな。

 

やはり気になり、スズカは尋ねてみた。

「スペさん、昨日なにかありましたか?」

「えっ?」

「昨日の午後あたりから急に元気がなくなっているので、何かあったのかなと。」

 

「い、いえ。何もないです。」

スペは首を振ったが、明らかに動揺していた。

…嘘はつけませんね、スペさんは。

スズカは思わず微笑し、言った。

「もしかしてスペさんは、昨日オフサイド先輩と私が会えなかったことを気にしているのでは?」

 

「えっ…」

スペは一瞬凍りついた。

…?

スズカはその反応を意外に思ったが、優しい口調で続けた。

「気にすることはありません。私も先輩とはすごく会いたかったですけど、今はそこまで残念でもありません。」

有馬記念が終わったら一緒に会いに来てくれると、ゴールドも言ってましたから。

「何もスペさんのせいで会えなくなったわけではないのですから、スペさんが落ち込む必要はないのですよ。」

 

「…。」

スズカの言葉に、スペは表情を隠すように俯いたまま何も言わなかった。

「大丈夫ですか?」

その反応に、流石に不安に思ったスズカが声をかけると、スペはゆっくりと顔を上げ、口を開いた。

「あの…スズカさんは…オフサイド先輩のことをどう思っているんですか?」

 

「オフサイド先輩のことですか?」

唐突な質問にスズカは内心驚いたが、すぐに笑顔で答えた。

「オフサイドトラップ先輩のことは、学園の先輩として、すごく尊敬してます。」

「尊敬…『フォアマン』に所属していた頃からですか?」

「ええ。当時から、今でもずっと。」

「尊敬してるのは、単に先輩だからですか?」

「まさか。」

スズカは首を振った。

『フォアマン』と特に縁がなかったスペさんは、オフサイド先輩のことをあまり知らないのかな?

「同胞の未来の為に闘い続けた方だから、です。」

 

「ウマ娘の未来の為に…」

「はい。」

呟いたスペに、スズカは笑顔で頷いた。

「スペさん、もしかしてオフサイド先輩のことが、気になるのですか?」

「え…」

「なら、先輩の競走生活を調べてみると良いですよ。凄い先輩だと分かりますから。」

「はい。」

スペは俯くように頷いた。

 

そして、少しの沈黙後、スペは思わず尋ねてしまった。

「でも、先の天皇賞・秋で、オフサイド先輩がスズカさんの怪我のおかげで勝てたと喜んでいたら、どう思いますか?」

「…はい?」

思わぬ質問に、スズカは一瞬呆気に取られた。

私の怪我を先輩が喜んだ?

「それは、どういう意味ですか?」

 

スペはしまったと思ったが、もう手遅れだった。

やむを得ず、内心の動揺を隠しながら続けた。

「例えばの話です。もし、先輩が内心でそのようなことを思っていたとしたら」

「例えにしても、それはオフサイド先輩に対する著しい侮辱です。」

みなまで言わせず、スズカは珍しく不快な表情を浮かべてピシャリと言った。

「そんなことを先輩が思う可能性は、先輩が歩んできた軌跡を振り返れば100%あり得ません。」

 

「そう、ですよね。ごめんなさい。」

出会って以来、スズカから険しい視線を初めて受け、スペは縮こまって謝った。

スズカも険しい視線を向けてしまったことを謝り、それから不審そうに尋ねた。

「でも、なぜそのような質問を?」

「いえ、特に意味はありません。」

スペは誤魔化しつつ立ち上がったが、スズカはその袖を掴んで食いついてきた。

「もしかして、天皇賞のレース後に何かあったんですか?」

 

その時。

「スズカ、朝食よ。」

病室の扉が急に開き、担当医師が食事を用意して現れた。

 

「あ、はい。」

スペの袖を掴んでいたスズカは、慌てて手を離した。

「スズカさん、失礼します。」

離されたスペは、明らかに動揺した様子のままスズカに頭を下げた。

「ええ。」

不審感は残ったままだが、スペの体調も考慮して、スズカはそれ以上は尋ねなかった。

「お大事にされて下さい、スペさん。」

「はい、スズカさん。」

互いにぎこちない笑顔で言葉を交わした後、スペは病室を出ていった。

 

 

「スズカ、さっきのスペの話は気にしないでね。」

スペがいなくなった後、この日は彼女に代わって朝食を食べるスズカのフォローをしながら、医師が口を開いた。

「話、聞いてたんですか?」

スズカが箸を止めると、医師はうんと頷き、説明する様に続けた。

「スペが話していたオフサイドトラップの思う云々は、ごく一部の心ない連中がしてた中傷の類だから。」

「中傷の類?」

「いるでしょ?なんでもかんでも他人の粗探しをするような連中。その連中が、オフサイドトラップの栄光にも文句つけたくて、ネットの掲示板とかで荒れてたみたい。それをスペは見ちゃって、ついあんな質問したただけみたいだわ。」

「なるほど、そうですか。」

医師の見解を聞き、スズカはこくりと頷くと、再び箸を進めた。

 

スズカが納得したような表情を浮かべたのを見て、医師は内心胸を撫で下ろしていた。

 

 

食事が終わると、医師は出ていった。

スズカはリハビリまでまだ時間があるので、ベッドに横になった。

 

何かおかしいわ…

ベッドに臥せつつ窓の外を眺めているスズカの胸の奥は、不穏にざわめき始めていた。

 

スペさんは、ネットの掲示板なんてみたりしないわ…

 







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終焉序曲(2)

 

*****

 

一方、施設の外の遊歩道。

この日は雲に覆われた寒気の強い空の下、ベンチに一人座っているルソーの姿があった。

 

凍えるような寒さなのに、ルソーは患者服のままジャケットも羽織らず、松葉杖を傍らに置いて黙念と座っていた。

昨晩、スペに対して怒りを爆発させた彼女だが、一晩経った今はその時の激しい感情は跡形もない様子だった。

だが、曇り空を見上げているその表情は、全てを諦めたような色に満ちていた。

 

オフサイド先輩、やはりあなたは、帰還の決意をしていたんですね…

 

 

先程、起床して間もない時、ルソーは椎菜に呼ばれた。

昨晩の話の続きかと思っていたが、彼女の口から聞いたのはオフサイドトラップの決意のことだった。

 

 

予感はしてました…

昨日ルソーは、別れ際にオフサイドが見せた、全てを達観したような姿を目の当たりした。

その時から、薄々だがその可能性を感じていた。

だから、椎菜からそのことを聞いてもそこまで衝撃は受けなかった。

衝撃は受けなかったが、心は奈落の底に落とされた。

 

〈死神〉に屈しなかったオフサイド先輩が、帰還の決意をした。

その決意がどれだけ重く固いことは、長年彼女と闘病生活を共にしてきたルソーには、骨身に沁みる位よく分かっていた。

 

脚の〈死神〉に勝ったオフサイド先輩も、この世界の不条理という〈死神〉には勝てなかったか。

ルソーは絶望に満ちた溜息を吐いた。

 

 

「ホッカイルソーさん。」

彼女を呼ぶ声が聞こえ、ルソーは虚ろな視線でその方を見た。

ルソーに声をかけたのは、黒いコートを纏って遊歩道を歩いていたライスだった。

 

「ライス先輩、療養施設にいらしてたんですか。」

「うん。」

ベンチに座ったままこちらを見たルソーの側に、ライスは歩み寄った。

「久しぶりね、去年の年末以来かしら。」

「そうですね。今年はずっとここにいるんで、それ以来ですね。ライス先輩は脚の検査でこちらに?」

「ううん、他の用事でね。」

 

言葉を交わしながら、ライスはルソーの絶望色に染まった表情を見た。

「大丈夫?顔色すごく悪いわ。」

「気になさらないでください。」

ルソーは何もさとられない為にそう答えたが、ライスにはその理由が分かっていた。

ホッカイルソーは、オフサイドトラップと同じチーム仲間にして、〈クッケン炎〉の病症仲間。

ということは…

「あなたも、オフサイドさんの決意を知ったのね。」

 

「え、“も”ということは、ライス先輩も知っていたのですか?」

ルソーは少し驚いた。

「うん。オフサイドさんは、私には色々と打ち明けてくれたから。」

答えながら、ライスはルソーの隣に座った。

 

 

「最悪な事態になってしまいましたね。」

ライスが隣に座ると、ルソーは足元に視線を向けてぽつりと言った。

「オフサイド先輩の決意は、絶対に揺るがないでしょう。長年〈死神〉の魔の手と闘いながらも決して絶望の言葉を口にしなかった先輩が、それを口にしたんですから。」

「諦めては駄目。」

ライスは自分が着ていたジャケットを、ルソーの肩にそっとにかけた。

「可能性は限りなく低くても、希望を必死に探せば、まだオフサイドさんを救う術はあるかもしれないわ。」

 

「ハハ、ライス先輩がそれを言いますか。」

突然、ルソーは語気を変え、生気がない瞳でライスを見つめた。

「〈死神〉から復活したシアトル先輩の栄光を、あなたは闇に葬って、闘病仲間達に打撃を与えたというのに。」

 

ライスは全身にぞっと慄えを覚え、俯いた。

同胞からあの宝塚記念を直接咎められたのは初めてだった。

 

「確かに、あの重い罪をおかした私には、あなた達に何かを言う資格などないわ。でも…」

「分かっているのなら、黙っていて下さい。」

先輩かつ慕っているライスを、ルソーは乱暴な口調で制した。

 

ライスを制した後、ルソーは深い溜息と共に、重々しく口を開いた。

「はっきり言って、私はもうこの世界というのが…ウマ娘界も人間界も、全てが嫌になってきました。」

「ルソーさん。」

「消えたいな。オフサイド先輩も私も…〈死神〉と闘う仲間達も皆一緒に、存在ごと消えてしまいたい。出来れば〈死神〉も一緒にね。それで、不幸のないウマ娘の世界が実現出来るのな一番良いかも。」

アハハと、ルソーは力なく笑った。

 

「消えたいなんて、そんな悲しいことは言っては…」

「黙ってといったでしょう!あなたは闘病仲間に絶望を与えた一人なんですよ!」

今度は突然叫び、ルソーは髪を掻きむしった。

「あなたは、絶え間なく続く苦痛の中で少しずつ追い詰められていく同胞の姿を見たことがありますか?帰還を決意し、最期の別れの際に精一杯笑顔を魅せる同胞を見たことがありますか?散り際、無念の言葉を残して還っていく姿を見たことがありますか?そして、ウマ娘界の華やかなところだけアピールし続けて、この絶望の現場に全く触れなかった同胞や人間達に、どれだけの無念と失望を抱いてきたかお分かりですか?」

 

「…。」

ライスは、罪人のように項垂れてルソーの言葉を聞いていた。

ルソーは平静さを失った様子で、更に続けた。

 

「ウマ娘界の綺麗な部分だけしか見ない人間達…時には苦しい部分にも触れたりするが、すぐに忘れるか、或いは見なかったことにしてそれを覆い隠す。苦しい部分に長く触れるのはスターウマ娘がそうなった時だけ。…今回のスズカとか、ライス先輩の時みたいにね。実に都合の良くて、成長のない連中だわ。」

「でももっと許せないのは、それを長年よしとしてきた同胞達だわ。ウマ娘の明るい華やかなことばかりアピールしてきて、暗い部分はなるべく隠そうとした。“弱く華のないウマ娘に存在価値はない”とでも言わんばかりにね。それはその通りだわ。勝てないウマ娘は生き続けることはできないということは、受け入れてる。でも、そう言ってる連中達は、その同胞が還っていくその刹那を一人でも目の当たりにしたことがあるのかと思ったら、誰も見たことない。それでよくもウマ娘の使命とか存在価値どうこうとか語れるわ。」

 

捲し立てるように言った後、ルソーは大きく吐息をつき、それから傍らのライスに眼を向けた。

「まあ…ライス先輩が悪い訳ではありませんけどね…。ライス先輩はヒーローですし、G1を3度も制したスターウマ娘で、人気ももの凄かったですから。たった一度の過ちなんて、大したことないですね。私達みたいに何の役にも立ってない無価値なウマ娘達などと比べれば、この世界への貢献度が桁違いですし。」

「無価値だなんて…」

「無価値ですよ。だってそうでしょう?ウマ娘は走る姿で人々を魅せることが使命。でも〈死神〉に罹ったら二度と理想の走りは出来ない。なのに無様に生きることに執着して、美しく散ることも出来ない者の集まりなんですから。」

「ルソーさん、その言い方はさすがに…」

「理想が叶わなくなった時点で、全て諦めて引退するか帰還するか、すぐに選択するべきなのかもしれないですね。私も。」

 

「まさかあなたも、引退するつもりなの?」

ライスの尋ねに、ルソーは首を傾げながら答えた。

「どうしましょう、引退よりは帰還するべきかもしれないですね。」

「なんですって?」

「私には、同胞達の為に何も出来なかった罪がありますから。とはいえ、オフサイド先輩に続いて私まで還ったら、ただでさえ絶望的な雰囲気に満ちている病症仲間達にとどめを刺しかねないので、それが恐ろしいです。もっとも、これ以上仲間に報われない現実を見せつけ続けるよりは、それも良いかもしれないですね。アハハハ…」

ルソーは笑いだした。

 

「…。」

壊れたように笑いだしたルソーの姿を、ライスは傍らでじっと見つめていた。

彼女に対して、憐憫とか哀れむような感情はなかった。

あの天皇賞・秋以降、ルソーは人知れずずっと苦しい立場に置かされて、それでも闘い続けてきたのだから。

 

やがて、ルソーは笑いを止めた。

錯乱の笑顔が消えると、彼女の瞳は曇り空に向けられていた。

「なんで、なんでこんなことになっちゃったんでしょうね。」

「…。」

「分からない。もう私には、この世界の意味が分からなくなりました。」

嘆くように呟くと、ルソーは両手に顔を埋めた。

 

「…。」

震え出したルソーの姿を、ライスはただじっと見つめていた。

 



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終焉序曲(3)

 

それから少し経った頃。

 

「ライス、ホッカイルソー。」

二人のいるベンチの側に来た人物がいた。

昨日、ライスと共に施設に訪れた三永美久だった。

 

「どうしたの、二人とも。」

温かい飲み物を手に現れた美久は、二人のただならない様子を見て心配そうに尋ねた。

「ちょっと、大切な話をしてたの。」

「そう。」

ライスの返答を聞いた後、美久はルソーの方を見た。

「久しぶりね、ルソー。」

「お久しぶりです、美久さん。」

ルソーは顔を上げ、やや赤くなった瞳を美久に向けた。

 

「あなた、顔色がかなり悪いわ。体調悪いの?」

ルソーの表情を見て、美久は心配そうに尋ねた。

「大したことはありません。」

ルソーは目を伏せながら答えると、ジャケットをライスに返し、松葉杖をついて立ち上がった。

「そろそろ脚の治療の時間なので、失礼します。」

 

「そう、頑張ってね。」

暗い表情のルソーに、ライスは左眼を優しく光らせて微笑みかけた。

その微笑をちらと見、ルソーはすぐに目を逸らすと、背を向けて言った。

 

「ライス先輩…何度も暴言を吐いてしまい、申し訳ありませんでした。」

最後に小声で謝ると、ルソーはベンチを去っていった。

 

「なんの話をしていたの?」

ルソーが去った後、美久はライスの傍らに座り、飲み物を渡しながら尋ねた。

「別に。」

ライスは飲み物を一口飲んだ。

ホットコーヒーの苦い味がした。

 

コーヒーを飲みながら、ライスはつと美久を見た。

「ねえ、サンキュー、」

「え?」

あ…

怪訝な表情をした美久に、ライスは視線を逸らして咳払いすると、何事もなかったように改めて美久を見た。

「ねえ美久。あなたは、ルソーさんが制した2年前の日経賞の時、現場にいた?」

 

「ああ、うん。」

学園専属カメラマンの美久は、ちょっと戸惑いながら頷いた。

「あの時、彼女は笑顔は見せていたかしら?」

「必死に笑顔になってたわ。」

美久は、その時の記憶を思い返しながら答えた。

「今回の天皇賞・秋のオフサイドさんと同じくらいに?」

「比べるものじゃないけど、同じかそれ以上に必死に見えたわ。」

「その写真は撮った?」

「撮ってない。」

美久は、悲しげに表情を歪ませて首を振った。

「とてもじゃないけど撮れなかったわ。ライスだって現場にはいなくとも知ってるでしょ?あのレースで何があったか、レース後に何があったか。」

 

「…。」

ライスは眼を瞑って無言で頷くと、ホットコーヒーをこくりと飲んだ。

その日経賞で起きたことを彼女も脳裏に思い返しながら、胸中で吐息をつきつつ思った。

 

天皇賞・秋後の騒動に、ルソーさんはものすごく傷ついたんだろうね…

もしかすると、オフサイドさん以上に。

 

 

 

一方。

施設内に戻ったルソーは、治療室で椎菜から脚の治療を受けていた。

 

…ハア…ハア…

患部にレーザーを当てる治療を受けているルソーは、かなり苦痛の表情を浮かべていた。

ここ数日の出来事のせいか、患部の状態は悪くなっていた。

いつもは治療中携えているシグナルの写真も、手元になかった。

 

数十分後。

治療が終わると、ルソーは椎菜に尋ねた。

「今朝は、スペシャルウィークと会いましたか?」

 

ルソーの質問に、椎菜は無表情で首を振った。

「いや、会ってないわ。来るのを待ってたけど。」

「逃げたのですか?」

「それは…ないと思う。」

不穏な気配を見せたルソーに対し、椎菜は落ち着いてと宥めた。

「昨晩、オフサイドのことを聞いた時かなりショック受けてたから、もしかすると体調崩したのかもしれないわ。」

 

「…。」

ルソーは少し考えた後、ぽつりと言った。

「昨晩、先生に頼まれたシグナルのことですが、…後でスペに話すことに決めました。」

 

「え。」

驚いた椎菜に、ルソーはさびしい微笑をみせた。

たとえ私が消えても、シグナルのことだけは、未来に忘れないで欲しいから。

 

 

 

*****

 

 

 

その頃、メジロ家の別荘。

 

この日もオフサイドは、朝早くから別荘の外にあるメジロ家専用の競走場で、黙々と有馬記念への調整を行なっていた。

昨日来たケンザンの姿が今朝から見当たらなかったが、オフサイドは気にせず調整に集中していた。

 

「オフサイドトラップ様。」

しばらくトレーニングを行なった後、ドリンクを飲みながら小休憩をしていたオフサイドのもとに、メジロ家の使用人が来た。

「なんでしょうか?」

「ただ今、オフサイド様とお会いしたいという方が別荘に来られました。」

椎菜先生か、学園生徒会の方かな。

「どなたでしょうか?」

「トレセン学園所属、チーム『スピカ』トレーナーの沖埜豊様です。」

 

え…

全く想像してなかった人物の名を聞き、オフサイドの手からドリンクの容器が落ちた。

〈「優勝タイムを見ても、スズカが怪我しなければ圧勝していたことは明白」〉

〈「スズカがあんなタイムにバテるわけがない。やっぱり千切ってた」〉

 

悪寒が全身に走った。

 



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終焉序曲(4)

 

オフサイドは、使用人と共に別荘に戻った。

別荘内の来客用の一室に案内されると、そこに沖埜が、ソファに座って待っていた。

 

「沖埜豊トレーナー…」

「オフサイドトラップ。」

入室し、自らの姿を見て茫然としているオフサイドに、沖埜は椅子から立ち上がって挨拶した。

 

沖埜とオフサイドは、学園やレース場で何度か会っており、初対面ではない。

ただ、一対一で対面するのは初めてだった。

 

「何の御用でしょうか。」

使用人が退がった後、オフサイドは沖埜の向かいのソファに座り、湧き上がる慄えを懸命に抑えながら尋ねた。

沖埜は答える前に、オフサイドのその様子に気づいた。

「慄えて、いるのか?」

「…いえ。」

「私が恐ろしいのか?」

…。

沖埜の言葉に、オフサイドは表情を伏せ、無言で小さく頷いた。

「私の、天皇賞・秋後の、メディアへの発言のせいか?」

 

「早く、御用を仰って下さい。」

オフサイドは、込み上げる慄えを歯の奥で噛み殺して催促した。

 

「…。」

オフサイドの尋常じゃない様子を見て、沖埜も少し表情を伏せた。

「用件は、その発言のについての謝罪だ。」

「え。」

 

「オフサイドトラップ、今更かもしれないが、」

沖埜は深々と頭を下げると、一言一言、絞り出すように言った。

「私の軽率な発言が、君の名誉を著しく損なわせ、君の心を深く傷つけてしまったことを、深くお詫びする。本当に、申し訳なかった。」

 

 

…。

オフサイドの身体から慄えが消えた。

蒼白だった表情は、茫然としたものに変わった。

そのまま、数十秒が経過した。

 

「お顔を上げて下さい。」

オフサイドは茫然とした表情を消し、努めて冷静な表情で促した。

「御用は、それだけですか?」

顔を上げた沖埜に、オフサイドは尋ねた。

「ああ、それだけだ。」

沖埜は静かに頷いた。

 

また少し、沈黙が流れた。

 

その沈黙を破り、オフサイドが口を開いた。

「何故、今になって謝罪にこられたのですか?」

「君が、私の発言のせいで深く傷ついたことに、ずっと気づかなかったからだ。…本当に済まない。」

 

なるほど…

その返答に、オフサイドは内心ですぐに察した。

マックイーンさんが、沖埜トレーナーと会ったのね。

そうでなければ、自分が身を隠しているこの場に彼が来る筈がない。

 

推察すると、再び尋ねた。

「マックイーンさんから、何を聞きましたか。」

「聞いた。私の発言が原因で、君が心身共にどれだけ追い詰められてしまったかを。」

包み隠さず、沖埜は明かした。

 

「それで、私のもとへ謝罪に来たということですか。」

「その通りだ。」

「あなたの為にですか?それとも、私の為にですか?」

オフサイドは、珍しく冷徹な口調で尋ねた。

「どちらでもない。私は軽率な発言をしたことを詫びる責任があったから、ここに来た。」

沖埜は、端正な表情を全く変えずに答えた。

 

「…。」

沖埜の返答を受け、オフサイドは用意されたお茶を一口飲んだ後、改めて口を開いた。

「あなた程のトレーナーが、何故あのような発言をされたのですか。」

オフサイドの質問に、沖埜もお茶を一口飲んから、悔いを込めた口調で返答した。

「現実を受け入れきれなかった。サイレンススズカが故障してしまったという現実を。」

 

「“レースに絶対はない”・“レースは怖い”。古来からウマ娘界にある、強い戒めの言葉。それを忘れてしまったということですか。」

オフサイドの言葉に、沖埜は眼を瞑って小さく首を振った。

「忘れてはいない。ただ、スズカだけはその言葉と無縁だと思っていた。」

スズカは、故障とは全く無縁の身体だった。

スズカ自身、あの天皇賞・秋まで身体の苦痛を感じたことがなかった位だ。

 

「スズカは、ウマ娘の理想を体現出来る稀有のウマ娘。私はそう信じていた。過信と言われるかもしれないが、遂に巡り逢えた最高の、本当に最高のウマ娘だと私は信じたんだ。」

沖埜は唇を噛み締めた。

端正な表情が、さすがに暗くなっていた。

 

沖埜の表情を見、オフサイドも彼の心の痛みを感じた。

だが表情には表さず、言葉を続けた。

「沖埜トレーナーは、チームのメンバーがレースで大怪我を負った経験は、今回のスズカが初めてでしたか?」

「ああ。」

「では、今後はもう同じ過ちを繰り返さないようにして下さい。“レースに絶対はない”。ウマ娘は、人間が思うほど強い生き物ではありません。それをどうか忘れないで。あなたはウマ娘界の未来を背負う存在なのですから。」

そう言うと、オフサイドは話は終わりですと言うようにソファからゆっくりと立ち上がった。

 

「オフサイド。」

部屋を去ろうとしたオフサイドの背に、沖埜はソファに座ったまま、意を決したように声をかけた。

「君は、本当に有馬記念で還るつもりなのか?」

 

「…。」

足を止めたオフサイドに、沖埜は更に言った。

「言えた立場ではないかもしれないが、ウマ娘を愛する人間の一人として、そんなことはして欲しくない。君には生きていて欲しいんだ。」

 

オフサイドが〈死神〉との闘病を乗り越えて栄光を手にしたウマ娘であることは、沖埜も知っていたし、それがどれだけ大変なことだということも分かっている。

かつて彼も、育てたスターウマ娘が何人も〈死神〉に罹り、レースを奪われ引退に追い込まれた経験があったから。

 

「生きていて欲しい、ですか。」

オフサイドは口元に微笑を浮かべて、沖埜を振り向いた。

「沖埜トレーナー。あなたにとって、生き甲斐と言えるものはなんですか?」

「生き甲斐?」

「エアグルーヴ・サイレンススズカ・スペシャルウィーク。その他あなたが尽力して育て上げた多くのウマ娘達。その存在が、あなたの生き甲斐なのではないでしょうか?」

 

「…。」

無言で頷いた沖埜に、オフサイドは寂しい微笑を浮かべたまま、言った。

「私にとって、あなたのサイレンススズカが、あの天皇賞・秋でした。」

 

しんと、冷たく重い空気が、室内を満たした。

 

「沖埜トレーナー、」

オフサイドは再び背を向け、扉に手をかけると、最後に言った。

「僭越ですが、私から一つお願い事をして宜しいでしょうか?」

「なんだ?」

「私を守る為に学園を去らざるを得なかった『フォアマン』の岡田トレーナーを、学園に復帰させてあげて下さい。同じ人間であるあなたなら、出来る筈ですから。」

 

そう言い残すと、オフサイドは部屋を出ていった。

 

部屋を出る間際、彼女の右脚に巻かれた分厚い包帯が、沖埜の眼に痛々しく映った。

 



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終焉序曲(5)

 

*****

 

場は変わり、トレセン学園。

 

学園の生徒会室には、療養施設にいるミホノブルボン以外の、生徒会役員全員(会長メジロマックイーン・副会長ダイイチルビー・役員メジロパーマー・ダイタクヘリオス・ヤマニンゼファー・ビワハヤヒデ・マヤノトップガン)が集まり、緊急会議を開いていた。

 

緊急会議として全役員達を招集したマックイーンは、まず彼女達にオフサイドの現状を話した。

現在彼女の身柄はメジロ家の別荘で保護していること。彼女が今度の有馬記念で帰還する決意を固めていることを明かした。

 

「帰還の決意…」

役員全員、特にルビーとヘリオスが、愕然とした表情を見せた。

「それ、本当なの?」

「本当ですわ。オフサイド本人の口からそれを聞きましたから。」

「止めないと駄目ですよ!」

「勿論、止めるよう説得にあたりましたが、彼女は完全にその決意を固めていました。現状、彼女を翻意させることは何人でも不可能でしょう。」

 

「どうするつもりなんですか?」

比較的冷静な様子のゼファーが、尋ねた。

「オフサイドの有馬記念出走を阻止して、帰還を止めるつもりですか。」

「一つの策として、それは考えていますわ。」

精神不安定だとドクターストップをかけて、出走を無理やり阻止することは可能だ。

普通に考えれば、帰還目的でレース出走する者などあってはならないので、それが一番取るべき方策だと言えた。

だがその手段をとった場合、オフサイドは即座に帰還する可能性が濃厚だとマックイーンは感じていた。

もし徹底的にやるなら、彼女を帰還出来ないよう軟禁状態での監視下に置くくらいにするしかないが、それも終わりが見えないので無意味だ。

「出走阻止で、オフサイドが翻意するとは思えません。その策は最善ではないとみています。」

 

「だとしても、オフサイドがそのような状態なら、レースの無事を考えても出走は止めるべきだわ。」

ゼファーは、淡々と言葉を続けた。

「それで彼女が帰還に踏み切る可能性が高くなったとしても、私達が優先するべきは無事にレースが行われることよ。帰還の決意に関しては、彼女自身の心の問題だわ。生徒会が手を下すところじゃない。」

「その通りですわ、ゼファー。」

マックイーンは頷き、ですがと続けた。

「オフサイドがこのような状態になってしまった原因は、先の天皇賞・秋の騒動ですわ。その際、彼女を守ることを最優先しきれなかった我々生徒会が、今回そのような方針をとって良いのでしょうか。」

 

「では、会長はどうされる方針なのですか?」

ゼファーの言葉に、マックイーンは全メンバーの顔を見渡しながら答えた。

「オフサイドの有馬記念出走は止めません。少なくともそれで、彼女の命には3日の猶予がありますわ。その間、我々が彼女の為に出来なかったことを遂行するつもりです。そう、先の天皇賞・秋の騒動のことです。今だに尾を引いているあの問題を終わらせようと考えていますわ。」

「それはつまり…」

「ええ、以前に我々が挙げた四つの対処の件(29話参照)、あれを全て断行します。」

マックイーンの両眼が冷徹な翠色に光った。

 

「やるのね?」

ルビーとパーマーが、思わず息を呑んだ。

「ええ。学園内の人間、或いは同胞達にも処分を断行せねばならないかもしれませんが、それは覚悟の上ですわ。」

「それが、オフサイドの帰還を止める手段になるの?」

「分かりません。ですが生徒会に出来ることはそれ位しかありませんわ。それをしなかったから、オフサイドはこれほどまでに追い詰められた。…これは、今までオフサイドのような立場に立たされた生徒を守ろうとしなかった我々の贖罪でもあります。」

ヘリオスの質問に対し、マックイーンは険しい表情で唇を噛みつつ答えた。

 

 

過去、これまでの生徒会は、誹謗中傷を受けたウマ娘達を守る為に積極的に動いたことはあまりなかった。

『犯罪皇帝』と中傷されたクライムカイザー。

夢を壊したウマ娘と非難されたライスシャワー。

三冠妨害した駄ウマ娘と中傷されたキョウエイボーガン。

そういった誹謗中傷されたウマ娘達に対し、生徒会は『誹謗中傷に対する答えはレースで出すべき』という方針で本人とチームの責任とし、具体的に大きく動くことはなかった。

従来生徒会は、実績&精神力共に優れたスターウマ娘の集まりで、厳しい声や立場に慣れている者が殆どだった。

その為、弱者の立場がやや理解出来ない欠点があった。

特に、ボーガンのようなウマ娘にたいしては、惨敗したのだから責められても仕方がないという考えを持っていた。

無論、誹謗中傷を肯定した訳ではないのだが、人間との軋轢を極力避ける方針をとったので、然るべき対処を怠った。

その為、大きな禍根を残してしまった。

 

 

「悲劇が起きたレースの勝者に対するケアも怠ってきたわね。」

パーマーがぽつりと言った。

「そうですわね。」

ジンクエイト(テンポイントの悲劇)。

メジロデュレン(サクラスターオーの悲劇)。

ダンツシアトル(ライスシャワーの悲劇)。

そして今ここにいる生徒会の二人、ダイイチルビー(ケイエスミラクルの悲劇)、メジロパーマー(サンエイサンキューの悲劇)。

悲劇にあった本人は勿論、そのレースの勝者の精神的ショックも大きい。

その証拠に、その後レースで勝ち星を挙げたのはエイトとパーマー(1勝)のみで、他は遂に勝てずターフを去った。

その事実も、生徒会は自己責任としてきた。

 

 

「怠ってしまった代償が、遂に今回大きな騒動となって現れました。ひとえ我が生徒会、特に生徒会長である私の責任は大きいです。今後のウマ娘界の未来に為にも、断行せねばなりません。」

 

「オフサイドトラップは、どうするの?」

「手は打っています。現状、彼女を翻意させられる可能性がある同胞が一人いますから、何とか有馬記念までに会わせられるよう尽力します。それから、ビワ。」

マックイーンは、ずっと黙っていたビワハヤヒデに眼を向けた。

「あなたはこの後オフサイドのいる別荘に行き、彼女の保護をお願いします。」

 

「分かりました。」

ビワは、無表情で承諾した。

マックイーンがオフサイド帰還の決意を話した時、表情にこそ決して表さなかったが、一番ショックを受けていたのは彼女だった。

何故なら彼女はナリタブライアンの姉だから。

 

 

「本当にやるのですか?」

少し間を置いて、メンバー中最年少のトップガンが緊張した面持ちで口を開いた。

「多分、引退したOB達…特に生徒会の元重鎮からは、諫められる可能性が高いと思うけど、それにはどう対応するんですか?」

学園を去ったスターウマ娘、ハイセイコー・グリーングラス・アンバーシャダイ・キョウエイプロミス・ミスターシービー・シンボリルドルフ・ミホシンザン・ニッポーテイオー・タマモクロス・オグリキャップ・トウカイテイオー達。

かつてウマ娘界の代表的存在であった彼女達は、今も健在だ。

彼女達は、ウマ娘と人間の間に亀裂が走る可能性がある今回の断行を支持するか不明だ。

それを危惧した質問に、マックイーンは即座に答えた。

「大丈夫ですわ。諸先輩方には現トレセン学園生徒会長の指示として、学園側の態度をとるか、そうでなければ静観を決めるよう要求しますから。逆らえば誰であろうと、例えハイセイコー先輩であろうとオグリキャップ先輩であろうとトウカイテイオーであろうと、みな敵とみなします。」

「は、はあ。」

マックイーンの冷徹な言葉に、トップガンは思わず震えた。

 

「覚悟は出来てる?」

副会長のルビーが、静かに尋ねた。

「断行する相手の中には、レースを主催・協賛しているスポンサーの方々の仲間も含まれているのよ。結果がどうであれ、学園の運営に大きな影響が出ることは避けられないわ。それに理事長はともかく、理事会との軋轢も深刻になるわ。」

「ウマ娘界の未来の為ですわ、ルビー。」

マックイーンは、翠眼を光らせた。

「今後、ウマ娘と人間が共存していく為には、時にこういった試練を乗り越えなければいけないですわ。私達はただ走るだけの生き物ではなく、尊厳ある存在だということを改めて示さなければなりません。一人でも多くの同胞達が、幸せな生涯を送れる為にも。」

 

つと、マックイーンは天井を仰いだ。

昨晩、オフサイドに渡されたノートの内容が、胸の奥に蘇ったから。

 



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終焉序曲(6)

 

*****

 

昼過ぎ。

療養施設では、この日のリハビリを終えたスズカが、病室で身体を休めていた。

 

ちょっと疲れたな…

ベッド上でスズカは、水を飲みながら疲れた身体をゆらゆら動かしていた。

リハビリの内容は昨日と同じだった。

昨日も疲れたが、今日の方が疲れた感じがする。

入院生活で体力が落ちたせいだろうが、今日はスペさんがいなかったからでもあるだろうなと、スズカは思った。

 

それにしても。

スズカは水を飲み終えると、ベッドに横になった。

今朝のスペと担当医師とのやり取りのことが、彼女の頭の奥にずっと引っかかり続けていた。

 

天皇賞・秋を制したオフサイド先輩に、何かあったのだろうか。

医師の先生はネットの掲示板での中傷程度と言ってたが、そんなのを全く見ないスペさんがそれを知っていた。

ということは、ネット掲示板程度の中傷じゃないということでは?…

 

そもそも、何を中傷されたのだろう。

スズカは首を傾げた。

確かスペさんは…オフサイド先輩が私の怪我のことを云々(思い出すのも不快なので略した)とか言ってた。

推察するに、オフサイド先輩が優勝して喜んだことに難癖でもつけた人達でもいたのかな。

 

そんな中傷が起きることなんて全く考えてなかったスズカは、ちょっと表情が翳った。

起きるのかな、そういう中傷って。

もし自分が怪我したせいでそんなことが起きてたとしたら、凄く申し訳ない。

今度会ったら、オフサイド先輩に謝らなきゃ。

考えただけで、スズカは胸が痛んだ。

 

同時に、左脚にも痛みが走った。

痛、心が落ち込むと、怪我にも響くんだ…

スズカは分厚い包帯に巻かれた左脚をさすりながら思った。

 

 

 

一方。

来訪者専用の宿泊部屋の一室では、この日は朝から体調不良で休んでいるスペが、ベッドに腰掛け昼食を摂っていた。

 

…。

スペは黙々と、ニンジンを食べていた。

体調を崩しているものの、食欲はやはりあるらしい。

でも表情はかなり暗く、ニンジンを咀嚼する口の動きにも元気がなかった。

 

コンコン。

食事中、部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ。」

「入るわね。」

「!」

入室してきた者を見て、スペはドキッと震えた。

来室者はルソーだった。

 

「あら、食事中だったかしら?」

松葉杖をつきながら入室したルソーは、特に感情のない口調で声をかけた。

「い、いえ。」

スペは食べかけのニンジンを慌てて口の中に押し込んで飲み込むと、改めてルソーを見た。

「何の御用でしょうか、ルソー先輩。」

「別に、昨晩の続きであんたを責めに来たんじゃないわ。」

許した訳じゃないけどね、と言いながら、ルソーはスペの側に歩み寄った。

「隣、座っていい?」

「どうぞ。」

ルソーは、ベッド上のスペの隣によいしょと腰掛けた。

 

「どう、体調は?」

「あまり元気がないです。」

いつもなら頭上でピンと張っているスペの両耳は、ペタンと萎れていた。

「昨晩あの後、椎菜先生から色々聞いたらしいじゃない。その影響かしら?」

「…。」

スペは答えず、ただ俯いた。

表情に罪悪感が滲み出ていた。

 

その様子を見ても、ルソーは可哀想とは思わなかった。

無知だったことを差し引いても、これは彼女の浅慮かつ軽薄な言動が招いた自業自得だ。

罵詈雑言を浴びたオフサイド先輩の辛さに比べれば大したことはないだろう。

「今朝は、椎菜先生と会った?」

「いえ。体調が悪くて、今朝は会えませんでした。少し落ち着いたら、お話の続きを聞きにお伺いしようと思ってます。」

「オフサイド先輩のことを?」

「はい。先輩は、本当はどんなウマ娘なのか、私はその真実を知らないといけませんから。」

 

そ、てっきりもう耳を塞ぐのかと思ってたけど、流石はダービーウマ娘ね。

ルソーはふっとそう思った。

もっとも感心した訳じゃない。

何故それを先にしなかったのさ。

スズカへの想いが強すぎたから、判断を誤ってしまったのか。

 

まあ、なんでもいいや。

ルソーは首を軽く振り、それから改めてスペを見た。

「私がここに来たのは、あなたに伝えたいことがあったから。」

伝えたいこと…

「オフサイド先輩のことですか?」

 

「…。」

ルソーは答える代わり、懐から一枚の写真を取り出した。

 

「あなた、私の隣に写っているこのウマ娘は知ってる?」

「あ…はい。」

差し出された写真を受けてそれを見ると、スペはすぐに答えた。

「シグナルライトさんですか?」

「あら、知ってたの?」

「いえ、昨晩、廊下に落ちてたこの写真を拾った時、椎菜先生からお名前をお聞きしたので…。」

「あなたが拾ってくれたの?」

「ええ。」

「そう、ありがと。」

 

軽く礼を言った後、

「でも、シグナルがどんなウマ娘かは聞いてないでしょ?」

「はい。」

頷いたスペに、ルソーは言った。

「シグナルライトはね、私の同期でかつて『フォアマン』のメンバーだった仲間よ。」

「そうなんですか。」

「そして、今回の天皇賞・秋の出来事に大きく関係のあるウマ娘だわ。」

 

「え?」

ルソーのチーム仲間だということは予想していたのか反応は薄かったが、その後の内容に対しては即座に反応した。

「シグナルライト先輩が、天皇賞・秋に大きく関わっている?」

「具体的には、オフサイド先輩の言動にだけどね。」

 

「どういうことですか?」

さっぱり分からないスペは、写真を持ったまま食い入るように尋ねてきた。

 

「答える前に、」

ルソーはスペに尋ね返した。

「あなたは、オフサイド先輩の天皇賞・秋後の言動を心ないものだと責めたらしいわね?」

「はい。」

そのことは、昨晩ルソーと衝突した時にも言った。

「あの後、…椎菜先生からオフサイド先輩のことを色々と聞いて…先輩への認識は大分変わったとは思うけど、それでも言動についての疑問は残ってるんじゃない?」

 

「はい。」

スペは正直に頷き、ぽつりぽつりと続けて言った。

「もしオフサイド先輩が…椎菜先生が仰ってたように長年命がけの日々を送ってきて、命の重さを深く知っているウマ娘ならば、何故あんな発言や言動をしたのか、尚更理解が出来ません。〈クッケン炎〉から復活した喜びの表現だとしても、或いは闘病を共にされてきた仲間を励ます表現だとしても、あの言動にはそういった思いが感じられないんです。何か、どうしても別の思惑が感じられるんです。」

 

スペの言葉を聞き、ルソーはふっと息を吐いた。

「“別の思惑”、ね。その通りだわ。」

「え?」

スペは驚いたようにルソーを見た。

「あなたの感覚は正しいわ。オフサイド先輩のあの言動は、闘病仲間を意識して出たものじゃないの。と言っても、スズカの怪我を笑ったわけでもない。意識にあったのは、彼女のことだわ。」

ルソーは、写真のシグナルを指した。

 

「何故、シグナル先輩のことを?お二人に、どういう関係があるんですか。」

スペの質問に、ルソーは虚空に視線を向けながら答えた。

「シグナルライトはね、もうこの世にいないの。」

 

「え?」

「彼女は2年前、レース中に大怪我を負い、帰還したの。その一部始終を、チーム仲間だったオフサイド先輩は目の当たりにしてた。その忘れ難い記憶が、スズカの悲劇が起きたあの天皇賞・秋後の言動に繋がったの。」

「…。」

スペは愕然とした表情で、言葉を失っていた。

 

その様子を横目で見つつ、ルソーは言葉を続けた。

「あなたが知らないのも無理はないわ。何故ならシグナルの悲劇が起きたレースは、記録が残っているだけで映像は公に残されておらず、メディアも決して触れない出来事だから。その理由は、あまりにも悲惨な故障だった上、ウマ娘界を揺るがしかねない内容でもあったから。」

 

「一体、何があったんですか?」

愕然とした表情のまま、スペは食い込んできた。

その表情を見返し、ルソーは冷徹な口調で言葉を返した。

「知ると後悔するかもしれないよ。今からでも耳を塞いでも遅くないわ。」

 

「後悔しても構いません。真実が知れるのなら。」

スペは慄えながらも、はっきりと答えた。

 

「そう。」

スペの覚悟を感じたルソーは頷きながら、懐からスマホを取り出した。

「さっきも言ったように、レースの映像は公には残されていないわ。でも、レースの記録は残るから全て消えた訳じゃない。そのレースの勝者の手元にだけは、勝者の証として映像は残されているの。最も、公にしないという条件つきだけどね。」

 

「勝者の手元。」

言いながらスマホを開いたルソーを見て、スペはそれが誰だかすぐに分かった。

「まさか、ルソー先輩が?」

「そ。そのレースの勝者は、シグナルライトと同じ『フォアマン』チーム仲間のこの私、ホッカイルソーだったの。」

 

「付け加えれば、」

愕然としているスペを見つつ、ルソーはふっと、なんとも言えない微笑を浮かべて続けた。

「私とシグナルの仲は、あなたとスズカの仲と同じものだったわ。」

 

ルソーの手元のスマホの画面に、2年前の日経賞の映像がアップされた。

 



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青信号の悲劇(1・過去話)

*****

 

 

2年前の3月17日、中山競バ場。

 

この日のメインレースは、天皇賞・春のトライアルレース「日経賞(G2・2500m・11人出走)」。

このレースには、『フォアマン』メンバーのホッカイルソー・シグナルライトが出走する。

 

この日は、朝から強い雨が降っていて、バ場は不良状態だった。

 

「予報通りのバ場状態になったわね。」

「そうですね。」

日経賞出走一時間ほど前。

ルソーとシグナルは、控え室で待機しながらレースへの準備を整えていた。

日経賞の直前人気はルソーが3番人気、シグナルが5番人気。

二人とも重バ場を得意としているので、かなり有力視されている。

とはいえ、1番人気のカネツクロス(重賞2勝含む3連勝中)も重バ場が得意だから、二人だけに有利というわけでもない。

 

「トレーナーさんからは、展開はスローペースになるだろうが、それでもいつも通り私は中段、ルソーさんは後方待機でと、指示されましたね。」

ルソーもシグナルも、共に差し脚が持ち味。

焦って掛からないようにと注意されている。

「まあ2500mのレースだから、少し掛かってもすぐに落ち着けば大丈夫だよ。」

「そうですね、落ち着くことが大切ですね。」

「あんたは特にね。よく入れこみ過ぎてスタートで失敗して焦ること多いから。」

「もー、ルソーさんたら。」

かかり癖のあるシグナルにルソーがそう言うと、シグナルはプクっと膨れた。

 

やがて、シグナルが先に準備を終えた。

「ではルソーさん、お先に。」

「あら、もう行くの?まだ入場まで大分時間あるけど。」

「はい。地下通路で待機して、そこで緊張を解します。」

「そう。じゃ、またレースでね。」

ルソーは、シグナルに拳を突き出した。

「はい、健闘をお祈りします!」

ルソーの拳に、シグナルは笑顔でちょこんと拳を突き返した。

「お互い最高のレースをして、ブライアン先輩・ローレル先輩・トップガンさんが待つ天皇賞・春への青信号を灯しましょう!」

 

 

 

 

場は変わり、競バ場のウマ娘専用の観戦場。

ゴール正面あたりに位置するその場所には、日経賞に出走するウマ娘達の関係者が多く集まり、出走の時を待っていた。

その中には、先日天皇賞・春のトライアルレースを制したナリタブライアン・サクラローレル、その他病気療養中のオフサイドトラップ、リーダーのフジヤマケンザンや昨春加入した新メンバーの二人(ロイヤルタッチ・フサイチコンコルド)、そして岡田トレーナーも含めた、『フォアマン』チームメンバー全員の姿もあった。

 

「トレーナー、二人の状態はどうでした?」

「ああ、二人ともかなり良い。」

「シグナルは入れ込んでませんでしたか?」

「ちょっと入れ込んでたが、それでも大分落ち着いてる。」

「そうですか、大分あの子も成長してきましたね。」

「もう重賞レースを何度も経験してるからな。余裕も少し出てきたのだろう。」

「ルソーはどうでした?」

「いつも通りマイペースだが、かなり自信があるように見えたな。恐らく、出走者の中で一番良いんじゃないか。」

「そうですか。かなり期待出来そうですね二人とも。」

「ああ。」

トレーナーとケンザンは、そんな会話を交わしていた。

 

その二人の傍らでは、オフサイドとタッチ、コンコルドの三人が、レース発走の時をじっと待っていた。

そして更にその傍らでは、ブライアンとローレルが、こちらはかなりピリピリした雰囲気でレース発走を待っていた。

 

先週、ブライアンは阪神大賞典でマヤノトップガンとの歴史的な激闘を制して1年振りの勝利を挙げ、来たる天皇賞・春で現役最強ウマ娘としての完全復活を期していた。

一方のローレルも昨春の大怪我を乗り越え、先週の中山記念で1年1ヶ月ぶりのターフを踏み、故障明けにも関わらず前年の皐月賞ウマ娘ジェニュイン以下の猛者達を直線であっさり交わして完勝するという衝撃的な復活勝利を挙げた。

彼女もまた、天皇賞・春で悲願の覇権奪回を期していた。

まだ天皇賞・春までは一月以上あるのだが、二人とも既に闘志で滾っていた。

この日の日経賞の観戦も、二人にとっては仲間の応援ではなく、天皇賞・春で闘うであろう相手を見に来たと言って良かった。

 

 

 

やがて、日経賞の出走者入場の時間となった。

1番人気のカネツクロス、過去に天皇賞・秋とJCで3着の実績がある4番人気ロイスアンドロイス、重賞含め4連勝中の2番人気ベストタイアップ、6番人気だが昨年の同レース覇者インターライナー、その他テンジンショウグンなど出走者達が続々とターフに入場してくる。

そして、ルソーとシグナルも入場してきた。

 

「ルソー先輩!」

ターフに入場したルソーは、観衆席から応援の声を聞いた。

見ると、後輩のタッチとコンコルドが、自分に大きな声援を送っていた。

「ルソー先輩、頑張って下さいね!」

「おう、頑張るよ!」

後輩の声援に笑顔で応えていると、

「ルソー、落ち着いていけよ。」

「しっかりねー!」

傍らのトレーナー、オフサイド・ケンザンの仲間達も声援を送ってきた。

「はい!頑張ります!」

それらの声援に応えながら、ルソーはちらっとブライアン・ローレルの方を見た。

二人とも無言の笑顔で、ルソーを見ていた。

…怖。

ルソーは眼を逸らした。

二人が天皇賞・春に向けて尋常じゃない闘志に燃えていることは分かっている。

私だって負けないわ!

昨年のクラシックは全て惜敗に終わった悔しさを晴らす為にも、必ずここで勝って天皇賞・春への切符を掴んでやるんだから!

ルソーはスタート地点に向かい駆け出した。

 

ルソーが駆けていった後、シグナルがチーム仲間の前に来た。

「頑張って来ますね!」

観衆に仲間達の姿を見つけると、シグナルは笑顔で明るく手を振った。

「あれ、珍しいわね。」

仲間達はちょっと驚いた。

これまでシグナルはレース前にかなり緊張することが多く、あまり笑顔は見せなかったから。

どうやら懸念である緊張からの入れこみはなさそうだ。

「良い調子だな。」

「はい!絶好調です!」

トレーナーの言葉にシグナルは元気よく頷き、彼女特有の無邪気な笑顔で仲間達を見回した。

「良いレースをして、必ず勝利の青信号を灯してきます!」

明るい口調でそう言うと、スタート地点に向かい駆け出した。

「元気なヤツだな。」

「そうですね。」

ピリピリした雰囲気だったブライアンとローレルも、シグナルの明るさに当てられたのか、やや頬が緩んでいた。

 

 

その後、出走メンバーは全員スタート地点に集まり、発走の時を待っていた。

 

なんとか、二人とも好結果で終わって欲しいな。

ゲート前で待機しているルソー・シグナルの様子をターフビジョンで観ながら、オフサイドは強く願っていた。

昨年、相次ぐメンバーの離脱でチーム全体が苦しかった時期、まだ2年生のこの二人が必死に奮闘してチームを支えてくれた。

今、オフサイド自身こそ依然療養生活を余儀なくされたままだが、ブライアンとローレルはターフに戻って、それぞれ復活勝利を挙げた。

ケンザンは勿論、タッチとコンコルドも頑張っている。

あとは、この二人だ。

共に一年余り勝利から遠ざかっているが、勝利の日が近いのは最近のレースの内容からしても間違いない。

勿論二人とも勝つことは出来ないが、どうか最高の結果を。

オフサイドはつと、眼を瞑って祈った。

 

「どうした?」

オフサイドの様子を見て、ケンザンが声をかけてきた。

「ルソーとシグナルの二人が良い結果を出せるよう、祈ってました。」

「そうか。」

ポンと、ケンザンはオフサイドの肩に手を当てた。

「私も同じ思いだ。あの二人にも、そろそろ勝利の女神に微笑んで貰いたい。」

ルソー・シグナルと共にチームを支えたケンザンも、願うようにターフビジョンを観ていた。

 

「そうだな。」

二人の会話を聞いたのか、トレーナーも側に来た。

「その為にもまず、二人が無事にレースを走り終えられることを祈ろう。」

「そうですね。」

トレーナーの言葉を聞き、オフサイドは微笑しながら頷いた。何事もなく、レースが終わるように…

 

 

やがて、ファンファーレが鳴った。

 



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青信号の悲劇(2・過去話)

 

ファンファーレが鳴ると、出走者達はゲートの前に集まり、一人ずつゲート内に入っていった。

カネツもルソーもロイスもタイアップも、ややゲート入りに難があるシグナルも、スムーズにゲート内に入っていった。

 

11人全員無事にゲートに入り、発走の準備は整った。

『第44回日経賞、スタートです!』

場内実況の声と共に、スタートが切られた。

 

ポーンと好スタートをきったのはカネツとシグナルで、それぞれスタート直後から1、2番手につけた。

タイアップとロイスは中段、ルソーは後方につけた。

 

 

「お、シグナル良いスタートを切ったな。」

『フォアマン』の応援席。

双眼鏡でスタートを観ていたトレーナーは、よしと頷いた。

シグナルはよくスタートで失敗し、焦ってかかる癖があったのだが、今回は好スタートをきれた。

そのまま落ち着いて、好位置につけてレースを運べよー。

一方のルソーは…彼女もしっかり後方待機で進めている。

二人ともいい感じだ。

「出だしは上々ですね。」

ケンザンとオフサイドも、良い手応えを感じていた。

 

 

そのまま、レースは3コーナーから4コーナーを周り、1周めの直線に入ってきた。

先頭はカネツ、2番手にシグナルとテンジン、タイアップとロイスが中段で、ルソーはやや後方といった展開。

 

「シグナル先輩ー!ルソー先輩ー!頑張れー!」

コンコルドとタッチが、直線に入ってきた先輩達に元気よくエールを送った。

「シグナル、ルソー、いい感じだぞー!」

「落ち着いていけよー!」

トレーナーやケンザン、オフサイドも声援を送った。

ブライアンとローレルは黙っていたが、無言の声援を送っていた。

 

他に、

「タイアップ先輩ー!」

「カネツ、折り合いつけていけよー!」

他チームによるメンバーへの声援も賑やかに聞こえた。

「頑張れー!」

「いけー!」

数万の観客も、一周目を迎えた出走者達に大きな声援を送り出していた。

 

 

場内が盛り上がってきた、その時。

 

 

 

ボキッ

 

 

出走者の駆ける音と声援が沸き起こる中で突然、乾いた鈍い音が大きく響き渡った。

 

その音は、数万の観衆の耳に、声援を送るウマ娘達の耳に、『フォアマン』のメンバー全員の耳にもはっきりと聞こえた。

そして、ターフを走っている出走者の耳にも。

 

その音は、場内にいる人間・ウマ娘の殆どが、初めて耳にする音だった。

だがそれが、このターフの世界で最も聞きたくない音だということは、誰もが無意識に分かっていた。

 

一瞬、場内が静まりかえった。

 

そして次の瞬間、

「あっ…あああっ!」

断末魔に似た悲痛な絶叫が、ターフから場内に響きわたった。

 

 

 

誰⁉︎

 

後方待機のまま直線に入ったルソーも、その乾いた鈍い音をはっきりと聞いた。

初めて耳にした、ウマ娘にとって最悪を予感させるその音に、戦慄が走った。

次の瞬間、前方から聞こえた絶叫と、突然脚を止めたウマ娘の姿が、眼の前に飛び込んできた。

 

シグナル⁉︎

 

愕然とした。

眼を疑った。

だが、苦痛にもがきながら競走を中止したそのウマ娘は、紛れもなくシグナルライトだった。

そして、明らかに重度の骨折をした彼女の左脚が、視界にはっきりと飛び込んだ。

 

そんな、嘘でしょ⁉︎

信じ難い悲痛な思いの中、ルソーは競走中止したシグナルのすぐ傍を、他の出走者達と共に眼を瞑って駆け抜けた。

これはレースだ、ウマ娘のレースだ。

止まりたくても、止まるわけにはいかなかった。

「…痛いっ…ううっ…あああっ…」

駆け抜ける刹那、苦痛にもがくシグナルの叫びが、ルソーの耳にはっきりと響き渡った。

 

 

『レースは一周目のホームストレッチであります。先頭はカネツクロスで4バ身程のリード。2番手にテンジンショウグンとシグナルライト…おっとシグナルライト…シグナルライトどうした⁉︎シグナルライト故障発生です!シグナルライト故障!ああこれはっ…これは…シグナルライト競走中止です!』

 



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青信号の悲劇(3・過去話)

 

シグナルライトが故障発生で競走中止し場内が騒然とする中、レースは淡々と続いた。

 

ルソーだけでなく他の出走者達も、シグナルの故障にショックを受けていた。

だが、レースを走っている現状、彼女のことに気を奪われる訳にはいかなかった。

今は、レースに集中しなければ…

 

それはルソーも同じだった。

私はウマ娘だ、レースを走っているウマ娘だ。

シグナルの怪我、叫び、それらを頭から振り払って、必死にレースに集中した。

 

 

レース展開は直線から2コーナーへ、そして向正面に入った。

先頭は依然として1番人気のカネツ。

不良バ場ということもあり、スローペースでレースを引っ張っていた。

その後ろにライナー以下有力勢が続き、ルソーは依然中段から後方待機でレースを進めていた。

 

3コーナーから4コーナーにかかると、2番手のテンジンやライナーらはスパートをかけ出し、先頭のカネツに迫った。

タイアップやロイスもそれに続いて動き出した。

 

まだだ。

動き出した前方勢の様子を見ながら、ルソーはまだスパートをしなかった。

ルソーはキレのある末脚が武器だが、そんなに長くは使えない。

今ここでスパートをかけたら最後までもたない。

勝負をかけるのは直線に入ってからだ。

スローペースなので後続勢には不利な展開だが、勝つ為はそれにかけるしかない。

大丈夫、私のパワーならこのバ場状態も有利につけられる。

そう信じ、ルソーは3コーナーから4コーナーを回った。

 

レースは、中山の直線310mに入った。

先頭はカネツ、2バ身程のリードを保ったまま逃げ切りに入った。

その後方、早めにスパートをかけたライナーは力尽きたが、タイアップ、ロイス、テンジンらは、直線に入ると一気にカネツをとらえようと、スパートをかけて迫った。

しかしカネツは失速せず、粘りに粘った。

重賞連勝中の勢いと実力、重バ場もさほど苦としない彼女は、後続勢とのリードを保ったまま200mを切った。

 

その後、テンジンもロイスも外から懸命に追ったが、カネツの影には届かなかった。

内から差し切りを図ったタイアップも、バ場状態のせいか末脚を発揮しきれず、並ぶまでには到らない。

カネツもバ場の状態にやや苦労しながら、それでも脚色を鈍らせず、先頭をキープしたまま遂に残り100mとなった。

やはりカネツの逃げ切り勝ちか。

場内の多くがそれを確信しかけた。

 

だが、残り100mを切った時、泥を弾き飛ばしながら不良バ場をものともしない末脚を弾ませて、バ群を割るように突っ込んできたウマ娘がいた。

ルソーだった。

 

 

よしっ!

直線に入ると、ルソーはすうっと息を吸い、先頭を駆けるカネツの姿を視界に見据えた。

彼女までの距離は約6バ身、行ける!

あのフジキセキを差しかけた末脚の恐ろしさを見せてやる!

ルソーは溜めていた脚を一気に炸裂させた。

 

溜めていた末脚を繰り出すと、ルソーは前にいた数人を一気に置き去りにした。

続いて、カネツを捉えきれずにいたテンジンもロイスもタイアップも、キレ味抜群の末脚で、100m手前で全員ぶち抜いた。

残るはあと1人、カネツだけだ。

 

届け、止まるな!

2番手に躍り出ると、ルソーは胸のうちで自らの脚を懸命に鼓舞した。

1年以上、全て惜敗に終わってきたレースの悔しさを爆発させて、彼女は一気にカネツを捉えにかかった。

2バ身、1バ身、半バ身。

残り50mで、ルソーはカネツを捉えた。

いつも寸前で止まっていた末脚が、今回は遂に止まらなかった。

やった!

カネツから半バ身前に出た時、ルソーは会心の叫びをあげた。

そのまま、ルソーはゴールに飛び込んだ。

 

『レースは残り200m!先頭はカネツクロス!タイアップは苦しい!テンジンもロイスも伸びない!カネツ逃げ切り濃厚!おっと、ホッカイルソー来た!ルソーが来た!4番手3番手2番手一気に上がって来た!凄い末脚でカネツに迫る!カネツ危ない!ルソー捉えた!これがフジキセキを本気にさせた末脚だ!ルソー交わした!ルソーが差した!ホッカイルソー、半バ身リードでゴールイン!ホッカイルソー見事、1年2カ月ぶりの勝利を重賞初制覇で飾りました!』

 

 

「やったー!」

場内に歓声が沸き起こる中、ルソーは泥がついた身を弾ませ、歓喜のガッツポーズを挙げた。

勝った!

ようやく勝てた!それも重賞初制覇だ!

トップガンやジェニュインに水を空けられてたけど、これで少し背が見えてきた。

フジキセキ、私勝ったよ!

昨春、無念の〈クッケン炎〉発症でターフを去らざるを得なかったチーム仲間の姿も、胸をよぎった。

 

「おめでとう、ホッカイルソー。」

歓喜を挙げているルソーに、2着に終わったカネツが大息を吐きながら声をかけてきた。

「逃げ切れると思ったんだけどなー。流石の末脚の切れ味だったよ、参った。」

「ありがとうございます、カネツ先輩。」

先輩に讃えられ、ルソーは嬉しいそうに頭を下げた。

「おめでとうルソー!」

「凄い末脚だったよ!」

4着のタイアップや3着のテンジンらも側に駆け寄ってきて、ルソーを祝福した。

「みんな、ありがとう。」

闘った相手達に祝福され、ルソーは嬉しそうに笑った。

 

 

 

その時。

 

『お知らせします』

歓声が続く場内に、低い音声のアナウンスが流れ出した。

 

あ…

その音声聞き、カネツもタイアップもテンジンも、他のレースを終えた出走者達も、一気に表情が硬くなった。

ルソーの鮮やかな勝利に沸いていた場内も、ざわざわとしたどよめきに変わった。

そして、勝利に歓喜していたルソーの表情が、一気に青ざめた。

 

雰囲気が一変した場内に、アナウンスが続いて流れた。

『本競走に出走した、6枠6番シグナルライトは、一周目の直線において、他の出走者に関係なく左脚に故障発生し、競走を中止しました』

 

 

「シグナルは…何処?」

先程までの歓喜の色が失せ、表情が蒼白になったルソーは、視線をターフの周囲に右往左往させ、シグナルの姿を探した。

だが、シグナルの姿は何処にもなかった。

この日経賞で一緒にスタートを切った彼女の姿は、ターフの上から消えていた。

 

「シグナル、シグナル、…何処?」

覚束ない足取りで、ルソーはターフをふらふらと歩き出した。

シグナルが故障した時、一瞬見えた彼女の無残な左脚が、脳裏をよぎった。

 



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青信号の悲劇(4・過去話)

 

時刻は数分遡り、シグナルが故障発生した時のこと。

 

異様な音と共にシグナルが故障した瞬間を、『フォアマン』のメンバーはいち早く目撃していた。

 

「シグナル⁉︎」

誰より先に、岡田トレーナーが叫んだ。

「え、シグナル先輩⁉︎」

タッチやコンコルドは悲鳴をあげた。

「まさか!」

「嘘だろ…」」

ブライアンとローレルも、愕然と声を洩らした。

 

シグナル!

オフサイドもシグナルの故障にすぐ気づいていた。

絶叫を上げて競走を中止した彼女の元に、すぐさま駆け出そうとした。

「待て!」

それをケンザンが間一髪で止めた。

「何故止めるんですか!」

「まだ出走者が目の前のコースを通り過ぎていない。今ターフに飛び込んだら危険な妨害になる!」

「でもシグナルが!」

「駄目だ!あと数秒待て!」

ケンザン自身、駆け出そうとする自らを抑えるように叫んだ。

 

数秒待つと、出走者達は全員通り過ぎた。

すぐに、オフサイドを含めた『フォアマン』全員がターフに飛び出し、シグナルの元へ駆け出した。

 

「あ…あっ…あ…」

競走中止したシグナルは、激痛のあまり半ば意識を失った状態で、片足でターフ上をふらついていた。

左脚の膝あたりから重度の骨折をしたのか、そこから下部分が直視出来ない程の無残な状態で、骨折箇所からは鮮血も滴っていた。

その姿は観衆達にもはっきり見え、どよめきと悲鳴の波が巻き起こっていた。

 

「シグナル!」

一番先に彼女の元に駆けつけたのはブライアンとローレルだった。

二人はすぐさまシグナルを抱き抱え、ターフの上に寝かせようとした。

「…ああっ…痛…うっ…あああっ!」

シグナルは激痛のあまり暴れ、中々寝かせられなかった。

「うわっ!」

「痛!」

弾みで跳ねた泥や血、そして脚が二人に当たった。

「危ない、下がって!」

後から駆けつけたケンザンが二人を退がらせ、背後からシグナルを抱きとめた。

「…あっ…うう…ぐ…ああっ!…」

「シグナル!大丈夫だっ!」

ケンザンは怪我部分が悪化しない様に、暴れる彼女を必死に抑えながら、なんとかターフ上に寝かせた。

 

ほぼ同時に、救護班(人間&ウマ娘)が岡田トレーナーと共に現場に駆けつけた。

救護班はシグナルに鎮静剤を打ち、すぐに担架の用意をした。

「シグナルライトを担架に乗せるわ!いち早くここから移動させないと!」

 

「すぐに移動させる⁉︎」

救護班の指示に対してオフサイドが怒鳴り返した。

どう見ても瀕死の重傷なのに、すぐに移動なんてさせられるか。

「すぐに動かすなんてどうかしてるわ!慎重にしないと!ていうか救急車は⁉︎」

「救急車を用意する余裕はない!早くしないとレースの集団が来る!」

反発するオフサイドに救護班は言い返した。

レースの集団…

その言葉を聞き、オフサイドは現場を確認した。

「嘘でしょ…」

思わず震え上がった。

故障の現場は、ゴールの200m手前あたりだった。

「レースを止めないんですか⁉︎」

タッチとコンコルドが叫んだ。

「止める訳にはいかないんだ!」

「でも、今無理矢理移動させようとしたら、シグナル先輩の怪我が悪化しちゃいます!」

「喋っている暇はないわ!言う通りにしなさい!」

ウマ娘の救護員が怒鳴った。

救護員の表情も蒼白だった。

 

「みんな、シグナルを担架に移動させてくれ。」

岡田が決断したように命令し、自らもシグナルの身を担架に乗せようと抱え上げた。

「…はいっ。」

皆、悲痛な表情で返事をした。

 

鎮静剤を打たれたものの、シグナルの苦悶はまだおさまっておらず依然暴れていた。

皆、泥だらけになりながら必死に協力して、シグナルの身を担架に移動させた。

その際シグナルの脚が岡田とオフサイドとブライアンに当たり、幾つか傷を負わせた。

なんとか担架に乗せると、救護班は彼女の身をベルトで固定した。

痛ましすぎる怪我の状態を観衆の眼から隠す為、ケンザンは上着を脱いでシグナルの脚に被せた。

 

「岡田トレーナー!」

生徒会役員として会場に来ていたメジロマックイーンが現場に駆けつけた

緊急事態に、彼女の表情も青ざめていた。

「皆さんはすぐに医務室へ向かわれて下さい!ホッカイルソーには私が伝えますわ!」

「済まない。」

岡田は沈痛な表情で頷いた。

 

その後、シグナルの身を乗せた担架は救護班&『フォアマン』メンバーの手によって、コースから外へ搬送されていった。

ターフから搬送されるシグナルと、その一部始終を観ていた観衆からは、悲鳴とどよめきが起き続けていた。

 

レース集団が来たのは、シグナルの身が移動された直後だった。

 

 

 

*****

 

 

「ホッカイルソー!」

場内にシグナルライトの故障を伝えるアナウンスが流れた後、ターフで茫然と彼女の姿を探していたルソーは、自分の元に駆け寄ってくるマックイーンの姿に気づいた。

 

「マックイーン先輩…シグナルは、何処ですか?」

「シグナルライトは、場内の医務室に搬送されました。」

「医務室、ですか。」

「すぐに向かわれて下さい。優勝インタビューやその他のことは生徒会がこちらが対処しますわ。」

「はい。」

ルソーはすぐさま駆け出した。

 

 

コースから地下通路を駆け抜け、ルソーはやがて医務室の前に着いた。

 

みんな…

医務室の扉の前には、泥に塗れた『フォアマン』のメンバー全員が、真っ暗な雰囲気で待機していた。

昨春にローレルが大怪我した時よりも、空気が重かった。

 

「ルソー。」

彼女が来たのを見ると、岡田が声をかけた。

「お疲れ様。レースの結果はどうだった?」

「…勝ちました。」

「そうか、おめでとう。」

「レース結果なんてどうでも良いです!それよりシグナルは…」

「今、室内で診断中だ。中には入れない。」

「怪我の程度は…どうなんですか?」

「今は、ただ結果を待とう。」

岡田は、唇を噛んでそう答えた。

彼の顔にはシグナルを搬送する際に負った傷があり、血がうっすらと流れていた。

 

「ひくっ、うっ、シグナル先輩!」

床に座っているタッチとコンコルドが、ケンザンにしがみついて泣き声をあげていた。

二人を抱き寄せているケンザンも、表情が蒼白に硬っていた。

「神様、どうかシグナルを…」

「シグナル…助かって…」

少し離れた場所に座っているオフサイドとローレルは、必死に祈るように口元に手を結んでいた。

その傍ら、唯一人立っているブライアンは、壁にもたれながら腕を組んで瞑目していた。

いつもは威風堂々としている彼女も、口元が微かに震えていた。

三人の制服には、泥だけでなく血も多く付着していた。

 

 

そして、10分程経った頃。

 

医務室の扉が開き、シグナルの容態を診ていた医師が出てきた。

「先生、シグナルは…」

「皆さん、室内に入って下さい。」

答える前に、医師はそう促した。

医師の表情も沈痛な色が滲み出ていた。

 

『フォアマン』全員は医務室に入った。

シグナルがいるであろうベッドにはカーテンがかかっており、姿は見えなかった。

「シグナル!」

「だめだ!」

思わず彼女の元に駆けていこうとしたルソーをケンザンとブライアンが押し留めた。

 

『フォアマン』全員が入室すると、医師は岡田に、シグナルの診断結果を告げた。

「診断の結果、シグナルライトの故障は『左中足骨開放骨折』と判明しました。」

 

「では…」

「予後不良です。治療も不可能、快復の見込みもありません。彼女を苦しみから一刻でも早く解放させる為にも、安楽帰還(安楽死))の決断を薦めます。」

 



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青信号の悲劇(5・過去話)

 

『安楽帰還』。

その言葉に、室内はこれ以上ないくらい重たい空気に満たされた。

 

「そんな…」

ケンザンとブライアンに抱き止められているルソーは、全身が冷たくなるような悪寒を感じた。

…シグナルが帰還する?

…シグナルと永遠に別れるの?

「嫌だ、やめて!」

ルソーは叫ぶと、ケンザンとブライアンの腕を振り払い、シグナルのいるベッドに駆け出した。

 

「ルソー!」

岡田や医師の制止も無視して、ルソーはベッドを覆っているカーテンを開いた。

 

そこにはシグナルが、意識のない状態で横たわっていた。

応急手当てをされた左脚、その無残な開放骨折の箇所と包帯を紅く染めた鮮血の痕が、ルソーの眼に飛び込んだ。

シグナル…

ルソーの眼から涙が溢れた。

…絶対還らせないわ!

ぐったりしているシグナルの身体を、ルソーはベッド上から抱き上げた。

「何をするんだルソー!」

「来ないで下さい!」

シグナルを抱き抱えたまま、室内の角隅に逃げるように移動してルソーは叫んだ。

帰還させるか、帰還させてたまるか…

 

苦悶の表情のまま意識を失っているシグナルの顔を、ルソーは胸に強く抱きしめた。

「ルソー!一体何を!」

「あっち行け!シグナルに触らないで!」

駆け寄ろうとした岡田やケンザンを、ルソーは泣きながら睨みつけた。

「シグナルを安楽帰還になんてさせますか!絶対にさせるもんですか!」

ルソーの服が、シグナルの怪我部分から溢れる血で紅く濡れた。

「諦めなければ、まだ快復できる手立てはある筈だわ!ライスシャワー先輩だって助かったじゃないですか!ならシグナルだって…」

「ライスシャワーとは怪我の酷さが違うんだ。」

医師が沈痛な表情で説明した。

「ライスには数十分の一の可能性がある手術があったが、シグナルのこの怪我にはそれすらないんだ。重さが違い過ぎる。」

「だとしても諦める理由になりますか!万が一にも可能性を探せば…きっとある筈だわ!」

「ない。例えあったとしても、それはシグナルにとって地獄のような苦痛の日々を余儀なくされるだけだ。こればかりは諦めるしかないんだ。」

岡田もそう諭したが、それでもルソーは首を振った。

「嫌だ!絶対に帰還なんてさせないわ!絶対に、絶対に…」

 

「…ルソー、お前の気持ちは…よく分かる。」

泣き叫んで抗い続けるルソーを見て、ケンザンが必死に涙を堪えながら側に寄ってきて、震える声で言った。

「…私だって、もしテイオーが同じことになってたら、お前と同じ行動をとったかもしれない。でも…受け入れるしかないんだ…。」

「ケンザン先輩…シグナルを見捨てるんですか?」

ルソーの表情は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「昨年、先輩方が相次ぐ故障で離脱して、更にはフジキセキまで故障で引退して、チーム全体が非常に苦しい時期を迎えた時、必死にチームを鼓舞していたのは誰ですか…メンバーの相次ぐ故障に厳しい非難を受けたトレーナーを、故障に苦しむ先輩達を、明るく励まし続けたのは誰ですか…シグナルじゃないんですか?そんな彼女を、チームを誰よりも大切にしていたシグナルを…見捨てるんですか…。」

 

「…私達も、叶うならシグナルを帰還させたくないわ…」

ローレルも傍らに歩み寄り、同じように涙を堪えながらルソーに言った。

「でもね、このような快復不能の大怪我を負ってしまったら、安楽帰還の選択を受け入れるしかないのよ。テンポイント先輩や、私の一族のスターオー姉様のような悲しい悲劇をもう起こさない為にも…。」

 

テンポイント・サクラスターオー。

かつてターフに輝いたこの両スターウマ娘は、それぞれレースで予後不良と診断される大怪我を負った。

しかし、助命を願ったファン・チームの要望により安楽帰還の処置を行わなず、無理に近い手術を行った。

結果は報われず、テンポイントは蹄葉炎発症で1か月半後に帰還、スターオーは脚の限界で更に重度の骨折を発症し5ヶ月後に帰還。

共に最期まで苦しんだ末の帰還であり、社会的にも大きな衝撃を与えた出来事だった。

 

二人の悲劇が起きた時代からは、医学もかなり進歩した。

ライスやスズカのように奇跡的に助かるケースも出た(二人とも完全に治った訳ではない)。

だが今回のシグナルの怪我は、前述の二人以上といえる程の致命的な重傷だった。

なのでもう、安楽帰還の選択以外なかった。

 

「今、安楽帰還の選択をしなかったら、シグナルはもっと苦しみながら帰還することになるの。それは同時に、教訓を遺して下さったテンポイント先輩やスターオー先輩対しても申し訳ないことになるわ…それでもいいの?」

「でも…嫌です…永別れたくない!」

「ルソー…受け入れなさい。…私だって辛い。トレーナーだってケンザン先輩だって…みんな辛い…でも、受け入れなければならないの…。」

 

ケンザンとローレルの愉しに、ルソーはがっくりと項垂れた。

「…シグナルは、もう絶対に…助からないんですか…。」

「うん…。」

「なら、私もシグナルと一緒に帰還させて下さい!」

ルソーは絶望に満ちた口調で懇願した。

「ルソー…」

「私には、シグナルがいない世界なんて考えられません…。私にとってシグナルは…シグナルは…」

それ以上は、こみ上げる嗚咽で言葉にならなかった。

 

「もうやめろ。」

黙念と場を見守っていたブライアンが、ルソーの傍らに来た。

「これ以上シグナルを救おうと時間を延ばしても、それは却ってシグナルの苦しみになるだけだ。今お前が言った“一緒に帰還する”という言葉も、ただシグナルを悲しませるだけだ。」

「ブライアン先輩…。」

「今、私達がシグナルの為に出来ることは、一刻も早く…安らかに帰還させてあげること…それだけなんだ。」

最後は言葉を震わせながら、ブライアンはシグナルを抱きしめているルソーの指を一つ一つ解いた。

彼女の腕からシグナルを離させると、表情を俯かせてシグナルのぐったりした身体を抱き上げ、ベッド上に戻した。

 

 

 

「では、岡田トレーナー。」

シグナルの身が元のようにベッドに戻されたのを確認すると、医師は一枚の書類を岡田に差し出した。

シグナルの安楽帰還を執行する為の必要書類だ。

「手続きをお願いします。」

「…。」

岡田は黙って書類を受け取ると、必要事項を記入した。

 

〈〇〇年3月17日。第44回日経賞のレース中に故障発生し予後不良と診断された「シグナルライト」走者に対し、当人の所属するチーム『フォアマン』の責任者(トレーナー)である「岡田正貴」は、『安楽帰還』の処置の執行を医師側に要請し、医師側もそれに合意したことを、ここに証明する。〉

 

「シグナルライト…」

必要事項を全て記入すると、岡田は印鑑を取り出した。

「…済まない。」

印鑑を持つ手を震わせ、血が滲む位唇を噛み締めながら、岡田は印を押した。

 



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青信号の悲劇(6・過去話)

 

「岡田トレーナー以外は、外へ。」

岡田から書類を受け取ると、医師は室内にいるメンバー達に退出を促した。

 

「うっ、うっ…シグナル先輩!」

「…行くぞ。」

大泣きしているタッチとコンコルドを伴って、ブライアンが退室した。

続いてローレルも。

二人とも目元を抑えていた。

 

「ルソー、出よう。」

ケンザンは、床に座り込んだまま嗚咽を洩らしているルソーの元に歩み寄り、彼女の腕をとって起こした。

「…。」

そのまま、彼女を抱き支えて退室しようとしたが、ルソーは動かなかった。

彼女の視線は、依然ベッド上のシグナルの注がれていた。

 

「トレーナー、」

ルソーは涙を拭いながら、岡田に言った。

「私も、シグナルの安楽帰還の執行に立ち会わせて下さい。」

「…何?」

「私、それを見届けなければならないと思うんです。」

 

「バカなことを言うな!」

ケンザンが、ルソーの腕を引いて声を上げた。

「これは、私達が見てはならないものなんだ!見たら最後、一生重い傷として残るものなんだ!」

「残ったって構いません。シグナルが帰還する以上の傷なんてありませんから。むしろ、傷として刻みつけさせて下さい。シグナルのことを永遠に忘れない為にも…」

 

「トレーナー、先生。ルソーの願いを聞き入れてあげて下さい。」

ルソーの言葉を聞き、ずっと沈黙していたオフサイドが、ルソーの側に歩み寄りながら懇願した。

「オフサイド。」

反論しようとした岡田と医師を、オフサイドは心底から願うような強い視線で見据えた。

「私にはルソーの思いがよく分かります。帰還する同胞の記憶を刻みつけたいという思いが。」

オフサイドの頬にも、涙がつたっていた。

 

「…駄目だ。見せる訳にはいかない。」

オフサイドの懸命な願いに対し、岡田は断固と首を振った。

「ケンザン、二人を連れて出ていってくれ。」

「トレーナー…」

「従え。これは命令だ。」

岡田は冷徹な口調で命じると、それ以上は何も言わなかった。

「…はい。」

オフサイドは従うしかなかった。

「…シグナル、シグナル…」

泣きじゃくるルソーをケンザンと共に抱き支えながら、オフサイドは医務室を出ていった。

 

 

 

ウマ娘のメンバーがいなくなると、医師は他の助手達と共に、安楽帰還の処置の準備に取りかかった。

 

「では、執行します。」

ベッド上のシグナルの身を固定させた後、医師は注射を用意し、岡田に問いかけた。

「はい。」

岡田は、険しい表情で頷いた。

 

医師はシグナルの腕に注射を当てた。

それを打つ瞬間を、岡田は眼を見開いて見届けた。

 

「終わりました。あと10分程で、シグナルライトは帰還します。」

処置が終わると、医師はベルトを外し、岡田に告げた。

「ありがとうございました。」

岡田は静かに頭を下げた。

 

 

 

そして、5分程経った時だった。

 

意識を失っていたシグナルの身体が、僅かに動いた。

「!」

「…トレ…ナー…」

シグナルの瞳が、薄らと開いた。

「シグナル!」

岡田は思わず声を上げた。

 

 

「!」

岡田の声が聞こえたのか、室外に待機していたメンバー全員が再び入室してきた。

「シグナル⁉︎」

誰よりも先に、ルソーが枕元に駆け込んだ。

「…ルソー…さん…」

「シグ…ナル…」

微かに意識が戻った彼女を見て、ルソーの眼から涙が溢れた。

もう、安楽帰還の処置をした後だということは分かっていた。

 

意識を戻したシグナルは、自分の身体の状態と集まった仲間達の様子を見て、全てを悟っていた。

「…私…還るん…ですね…」

 

「済まない、シグナルライト。」

岡田は、床に膝をついて謝った。

両手は膝元を、破りそうなくらいの力で握り締めていた。

「私のせいだ。私のせいで、こんなことになってしまった。…本当に済まない。」

シグナルの故障は決して彼のせいで起きたわけではないのだが、岡田は謝罪せずにはいられなかった。

「…謝らないで…下さい…謝るのは…私の…方です…」

シグナルは殆ど動かせなくなった身体を懸命に動かし、岡田の方を向いた。

「…ずっと私の…未来のために…身を削って…指導して下さったのに…こんな結末に…なってしまって…」

 

「シグナル、ごめん!」

ルソーは涙を溢れさせながら、シグナルの頭を抱きしめた。

「私、あなたの怪我に気づきながら、何も出来なかった。レースを続けることしか出来なかった。あなたを助けられなかった…」

「…いいんです…ルソーさん…それが正しいんです…」

シグナルはルソーの耳元で、声を振り絞った。

「…レースの結果は…どうだったんですか?…」

「…勝ったよ。」

「…ああ…良かったです…」

シグナルの頬に、僅かに微笑が浮かんだ。

「良くないよ。私、あなたと一緒に喜びを分かち合いたかったのに…」

ルソーはシグナルから顔を離し、涙を拭った。

 

「…でも…笑って下さい…」

悲しみの涙に溢れているルソーの表情を見上げ、シグナルは祈るように言った。

「…ルソーさんは勝ったんです…喜びの笑顔を…見せて下さい…」

「シグナル…」

「…最期の…お願いです…あなたの笑顔…見せて…」

最期の力を振り絞って伸ばされたシグナルの腕が、ルソーの頬に当てられた。

 

「……」

シグナルの最期の願いを叶えようと、ルソーは懸命に表情を動かした。

 

だが。

「ごめん、笑顔になれない…」

ルソーは表情に手を当てて嗚咽し、床に崩れ落ちた。

「こんなになってしまったあなたを前に、笑顔になんてなれないっ…」

 

「…う…」

崩れ落ちたルソーを見て、シグナルの眼から涙が滲んだ。

涙を浮かべたまま、彼女の眼はゆっくりとルソーからその傍らの岡田、そしてベッドを囲んでいる仲間達を見回した。

「…ごめん…なさい…」

悲しみに満ちている仲間達の姿に、シグナルは泣きながら、消えかけるように叫んだ。

「…みんなの笑顔…私が奪っちゃったんだねっ…」

 

その言葉を最後に、シグナルは力尽きたように眼を閉じた。

 

「…シグナル⁉︎…」

ルソーが身体を揺すって叫んだが、もうシグナルは反応しなかった。

彼女の閉じられた眼からは、溢れた涙が筋となって頬を伝い落ち、シーツを濡らしていた。

 

 

16時40分。

トレセン学園3年生・チーム『フォアマン』所属のシグナルライトは、その生涯を閉じた。

 



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青信号の悲劇(7)

*****

 

 

 

再び、現在。

療養施設のスペの宿泊室。

 

「私はシグナルに、さよならすら言えなかった。最期の願いも叶えられなかった。そしてシグナルは、悲しみと罪悪感に満ちたまま帰還したの。その最期を、オフサイド先輩は目の当たりにしていた。」

2年半前の出来事を述べた後、ルソーは言葉を続けつつ、スマホを懐にしまった。

「…。」

衝撃的な故障の映像と最期の内容に、傍らのスペは病人のように蒼白になっていた。

 

「これで分かったかしら。オフサイド先輩が天皇賞・秋のレース後に、笑顔を絶やさなかった理由が。」

「…スズカさんを、シグナル先輩と同じ思いにさせない為だったんですか…」

 

 

「シンプルに言えば、スズカの為だね。」

スペの言葉に、ルソーはふっと息を吐いた。

「スズカの悲劇を全く予期せずただオロオロするばかりだった人間と違って、先輩はスズカの為に、あのレース勝者としてどうするべきか、混乱しながらも言動に移した。それだけだわ。」

 

「混乱ですか?」

その台詞に、スペは反応した。

「うん。オフサイド先輩も混乱してたわ。あの天皇賞・秋は、ただでさえ先輩にとって重大なレースだったのに、更にスズカの悲劇まで背負うことになったんだから。その混乱が、あの『笑いが止まらない』発言になったであろうことは間違いないわ。」

言いながら、ルソーの表情が曇った。

 

「ルソー先輩も、あの言葉には違和感を感じていたんですか。」

「世間やあなたみたいに悪意として受け取ってはいないけどね。余り使われない喜びの表現の仕方に、先輩の動揺は感じてとれたよ。」

ルソーは口調にやや感情を込めた。

まあとはいえ、どう喜んでも滅多撃ちにされてただろうけどね。

あの時のオフサイド先輩の心情を理解する者も推して知ろうとする者も、殆どいなかったんだから。

 

思いつつ、ルソーは感情を込めた口調のまま続けた。

「先輩の心情を推し量らった上で、あの表現を批判するならまだ分かるわ。でも、あんたも含め殆どの人間が、何にも考えずに一方的な視点でそれを糾弾した。挙句の果てには勝者の尊厳すら踏みにじって、先輩の栄光の日曜日を沈黙の日曜日にした。それを知ったスズカがどう思うか、それも考えずにね。」

最後らへんの口調は、引き攣っていた。

 

「…。」

スペの表情は、蒼白から真っ暗になっていた。

それを横目で見ながら、ルソーは立ち上がった。

「伝えたいことは以上だわ。…」

絶望に叩き落とされたようなスペの様子を見ても、ルソーの心は特に動かなかった。

無知だったとはいえ、オフサイド先輩の存在抹消を是とした報いだ、同情の余地はない。

最も、同胞への無慈悲な私のこの思いも、自らに報いとなって返るだろうけどね…

 

と、

「…謝らなきゃ。」

ポツポツと、スペが声を洩らし出した。

「…?」

「私、オフサイド先輩に謝罪します。先輩は今何処に…」

 

「どういうこと?」

狼狽し始めたスペに、ルソーは冷ややかな視線で見下ろした。

「何、スズカのことが心配になったから、慌ててオフサイド先輩に謝るつもり?」

「違います!私、先輩に酷いこと言ってしまったから、それを謝罪に…」

スペは、偽りのない口調で言った。

 

「余計なことしなくて良いから。」

ルソーは冷たい口調で言い返した。

これ以上、オフサイド先輩を苦しめさせてたまるか。

「第一、あなたは昨晩“オフサイド先輩の酷い言動は消えない”とか吐き捨てたよね?それを忘れたの?」

「申し訳ありません。私が間違ってました。」

スペは床に膝をつき、声を振り絞って頭を下げた。

 

見苦しい…

それを見て、ルソーは更に冷ややかな視線になった。

彼女を無視して、部屋を出ようと足を踏み出した。

 

だが、ルソーは足を踏み出しかけた足を止めた。

『スズカとスペを、助けてあげて』

オフサイドの言葉が、脳裏に蘇ったから。

分かりましたよ、先輩…

ルソーは、胸のうちで呟いた。

 

「スペ、」

ルソーは振り返ると、膝をついたスペの側に屈み込み、その耳元に言った。

「謝罪よりも、あなたがすべきことがあるわ。」

「…何ですか?」

涙を浮かべているスペに、ルソーは淡々と言った。

「スズカに、天皇賞・秋後のことを全て話すの。」

 

「え…」

「オフサイド先輩の勝利が無価値と貶められたこと。勝利を喜んだことでいわれなき誹謗中傷を受けたこと。そして、自分自身もそれに加担してしまったことを、正直に伝えるのよ。」

 



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青信号の悲劇(8)

 

絶句したスペに、ルソーは続けた。

 

「みんな、ずっと隠し通してきたけど、スズカが天皇賞・秋後の騒動を知るのは時間の問題だわ。他人の口から真実を伝えられるよりは、あなたから伝えられた方が、せめてもの救いになるんじゃないかしら。」

 

「…分かりました。」

しばしの沈黙後、スペは蒼白な表情で頷いた。

「それでスズカさんの心が守られる可能性が見出せるなら、どんなに責められても構いません。」

私はそれだけのことをしたのだから。

スペ自体は悪意に冒されただけの被害者といえなくもなかったが、彼女は責任を重く受け止めていた。

 

だが。

 

「もしかして、スズカを守れると思ってるの?」

スペの覚悟した表情を見て、ルソーは冷たく言い放った。

「言っとくけど、真実を知ったスズカは、間違いなく自ら帰還を選ぶわ。」

「え…」

思わず面を上げたスペに、ルソーは言葉を続けた。

「だって、自らの怪我が原因で、オフサイド先輩が誹謗中傷を受けた末に帰還してしまったことを知るのだから。それで生きていられると思う?」

 

「オフサイド先輩が…帰還?」

その言葉に、スペは愕然とした。

あ、そっか…この小娘は何も知らないんだ。

ルソーは溜息を吐き、それから言った。

「そうよ。スズカを盲愛する連中から理不尽な誹謗中傷を受け続けた先輩は、全てに絶望して今度の有馬記念を最後に帰還する決意を固めたの。…嘘だと思うなら椎菜先生やマックイーン生徒会長に聞いてみな。彼女達は先輩からその決意を示されたのだから。」

 

「そんな…どうして。」

「“どうして”?何言ってるのかしら。」

その呟きに、ルソーは眉を寄せた。

「スズカを愛したあなた達が望んだ未来じゃない。スズカの為スズカの為と宣って、オフサイド先輩の存在を抹消しようとしたんだから。その結果だわ。」

 

「私は、オフサイド先輩の存在を抹消しようとなど…」

「勝利を貶したでしょう?同じことだわ。」

何か言おうとしたスペの口を塞ぐように、ルソーは冷然と言い放った。

「ウマ娘にとって、勝利を貶されたり否定されたり、あるいは無視されることがどれだけ残酷で苦しいことか、分かっているでしょう。あなたがもし、あのダービーの勝利を棚ぼたとか無価値と言われたとして、考えてみればいいわ。」

 

そんな…

スペは、愕然とした表情で黙った。

オフサイド先輩、そんな…。

先輩に取り返しのつかないことをしてしまった悔恨の色が、愕然とした表情のうちに滲み出していた。

 

スズカの身の為に、オフサイド先輩の心配をしてるのかしら。

スペの悔恨する様子をそのように受け取ったルソーは、淡々と冷たく言葉を続けた。

「もう手遅れだわ。『明るく華やかなウマ娘界の為』、『夢を与える美しさとスピードの正義』、『誰もが望んだ未来の実現』。そんな神様みたいな言葉を撒き散らしながら、この世界はオフサイド先輩が消えることを由としたんだから。」

 

そう、華やかさや美しさや魅力的なスピードとは無縁で、走れる時間も残り僅かな先輩は、この世界では用無しと言わんばかりにね。

エルコンドルパサーやエアグルーヴ、或いはメジロブライトみたいに、美しくて強くてスピードもある夢溢れたスターウマ娘が勝者だったら、絶対に消されなかっただろうな。

先輩は、スズカが走ったレースの勝者には相応しくない凡ウマ娘と見なされたから、天皇賞の盾を剥ぎ取られたも同然にされたんだ。

 

先輩の脚にどれだけの同胞の願い・思いが込められていたかということも、装着したシャドーロールに亡き3冠ウマ娘との誓いが刻まれているとも、何も知られずに…

 

「そうよ、先輩は名誉も尊厳も何もかも蔑ろにされ、消されたんだわ。」

思ううち、ルソーの胸底から黒い思いが喉元に突き上げてきて、口から言葉となって吐き出された。

 

「いいわ。先輩が消える代わり、残ったものも全部この世界にくれてやるわよ。この最果ての場所で散った幾千の同胞の無念の魂も、今後新たに墓標となるであろう同胞の苦悩も、未来を失った同胞の届かない祈りも嘆きも、全部まとめてくれてやるわ!あなた達が最も愛するサイレンススズカの絶望付きでね!ついでに〈死神〉も供につけて差し上げるわ!全部背負って這いずり回って、私達の屍を足場にして、この世界が宣う夢とか笑顔とやらで、みんな救ってみせればいいんだわ!」

 

溜まっていたものを吐き出すように言うと、ルソーは大きく息を吐きながら、ガクッと膝をついた。

 

痛…

〈死神〉に冒されている脚の患部が痛んだ。

 

 



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青信号の悲劇(9)

 

「何事ですか。」

ルソーの声が外に聞こえたのか、何者かが扉を開け、室内を覗き込んできた。

 

…ミホノブルボン先輩?

大息を吐いているルソーも打ちひしがれているスペも、その姿に驚いた。

現れたのは、昨晩からここに訪れているブルボンだった。

 

「ホッカイルソー、スペシャルウィーク。何をされてるんですか。」

二人の様子を見てただごとで無いと思ったのか、制服姿のブルボンは室内に入ってきた。

「別に、大したことでもありません。」

ルソーは額の汗を拭った。

「それより、何故ブルボン先輩が療養施設にいるんですか?」

「所用です。」

「何の所用ですか?」

「お答えは致しません。」

 

ブルボンは詳しくは答えなかったが、ルソーは考えながら薄々察した。

所用か、そういえばライス先輩もここに来てたな。

多分オフサイド先輩の件で、生徒会が動いてるのかしら。

 

あー、そうかそうか。

ルソーは合点がいったように一人頷いた。

オフサイド先輩の決意を知った〈死神〉闘病仲間の私達が暴走しないように、見張りを強化したのか。

スズカを守る為に。

ルソーは、口元にふっと笑みを浮かべた。

 

「スペ、」

ルソーは、松葉杖をついて立ち上がると、うずくまっているスペを見下ろしながら言った。

「さっき私が言ったこと、するかしないかはあなたの自由だわ。立場を考えて、どうするか決めな。この世界で、サイレンススズカを最も愛している者の立場としてね。」

 

「…?」

その言葉を傍らで聞き、ブルボンは表情を動かした。

「今の話は、どういう意味ですか。」

「スペに聞いて下さい。」

ブルボンの質問をいなすと、ルソーは彼女を押しのけるように室内を出ていった。

 

 

心身共に、極めて不安定ですね…

部屋を出ていくルソーの、その乱れた表情や足取りから、ブルボンは彼女の状態を眼でそう分析した。

これは、生徒会長か椎菜医師に報告すべきでしょうか…

 

そう考えつつ、ブルボンは床にうずくまったままのスペの元に歩み寄り、ハンカチを差し出した。

「大丈夫ですか。」

「…。」

「ホッカイルソーと、何の話を?」

「…。」

ブルボンの質問に、スペは膝を抱えてうずくまったまま何も答えなかった。

 

 

 

 

スペの部屋を出たルソーは、痛む脚をやや引きずりながら自分の病室への道を歩いていた。

 

スペシャルウィーク…

サイレンススズカが救かる為には、私達全てを消して騒動を隠蔽するか、あるいはこの世界を書き換える位のことでもしない限り不可能だわ。

過ちを受け止めて、その結末を見届けるしかないの。

それが、あなたに出来る最大の贖罪だわ。

 

スズカだって、真実を知らされ絶望を突きつけられる相手があなたなら、少しは救われた思いで帰還出来るんじゃないかしら?

「アハ、アハハ…」

ルソーはつと脚を止めて、歪んだ微笑を浮かべた。

 

「アハハハ、ハハ…う、うう、う…」

歪な微笑は、やがて泣き顔に変わった。

 

馬鹿だよ、本当に馬鹿だよ。

スズカも、スペも。

二人とも純粋で曇りない、最高のウマ娘だったのに、なんでこんなことになっちゃったのさ。

 

誰もが、スズカの故障を真摯に受け止めていれば、

あの天皇賞・秋は彼女の為だけのレースだという観念を消していれば、

レースの尊厳を守ってくれてれば、こんなことにならなかったのに。

悲劇が起きた時はいつだって、人間は悲しむだけで、犠牲になるのは我々ウマ娘ばかりだ。

 

ルソーは溢れる涙を抑えながら嘆いた。

 

 

脚を引きずりながら病室に戻ると、ルソーは涙を拭いながら、窓の外の暗い空を見上げた。

 

スペ、今夜まで待ってあげるわ。

もしあなたがスズカに何も伝えないのなら、それでいい。

そうなったら私が即座に、遮る者全てを押し退けて、あなたの代わりにスズカに全てを伝えてあげるわ。

 

或いはせめての慈悲で、スズカを絶望させない為に何も伝えず、その場で即座に彼女を帰還させてもいい。

その時は勿論、私も折り重なって一緒に還るから…

 

心身ともに憔悴した表情のルソーは、松葉杖を強く握った。

もしかして、それがサイレンススズカにとって一番の救いなのかもしれないな。

彼女に、この世界の理不尽な地獄を見せた末に帰還させる位なら、いっそ…

 

涙に濡れた瞳が、紅く光った。

 

 

「…。」

松葉杖を握りながら、ルソーは懐からシグナルの写真を取り出した。

生前の笑顔溢れた彼女の姿を見た。

 

シグナル、どうやら私も、みんなの笑顔を奪っちゃうみたいだわ。

口元で呟きながら、ルソーはその写真を小刻みに破り始めた。

 

バイバイ。

破った写真の破片を、ルソーは窓の外に散らした。

向こうの世界でも、再会出来そうにないね。

「さよなら、シグナルライト…」

 

写真の破片は、寒風に煽られ曇り空に舞っていき、消えていった。

 



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『万物の霊長』と『走る為の種族』(1)

 

*****

 

その頃。

 

「なあ、」

「なんですか。」

「お前、最近やけに表情が冴えてないな。どうしたんだ?」

「別にいつも通りですけど。」

 

昼過ぎのトレセン学園。

競走場では、目前に迫った有馬記念へ向けて調整に励む出走ウマ娘達の姿と、彼女達を取材をしている各マスコミの報道陣達の姿があった。

その報道陣の中に、日刊ウマ娘新聞記者の某女性記者の姿もあった。

 

 

現在、ウマ娘達は昼休みで競走場にはいない。

報道陣の記者達も同じく昼休憩をとったり、或いは記事を用意するなどして時間を潰していた。

 

女性記者も、記者仲間達と競走場の片隅で時間を過ごしていた。

 

有馬記念を前に記者達が特に取材してるのは、勿論優勝候補の出走者達だ。

ターフに咲く変幻の逃げ花セイウンスカイ。

有終の美を飾るべく女帝エアグルーヴ。

名族の名誉を背にメジロブライト。

怪物の名にかけてグラスワンダー。

その他にもキングヘイローやステイゴールドなど、有力な出走者に対して、記者陣は熱視線を向けている。

勿論、女性記者もその一人だ。

だが彼女には、今ここにいない出走者の一人が気になっていた。

 

 

「オフサイドトラップは、今どこにいるんでしょうね。」

取材ノートを見ながら、女性記者はぽつりと呟いた。

 

「オフサイドトラップ?さあな。」

呟きを聞いた記者仲間が答えた。

「少し前に、富士山近くに住んでるチーム先輩のもとで調整してるって目撃情報が流れてたけど、調べてみたら既に先輩ごと姿を消していたからな。どうやら、学園が極秘に保護してるって噂だ。」

「学園が保護ということは、恐らくメジロマックイーンが保護してるってことですかね。」

「そういうことだろ。メジロ家が保護となれば、オレ達報道も手は出しにくい。とはいえ、何故マックイーンや学園がオフサイドをそこまで保護するのか、その理由は分からんがな。」

「あんな問題発言&言動をしたウマ娘を庇うとは、学園側も少々おかしい。」

「一応、天皇賞ウマ娘だからな。そのタイトルの重さを考えて、仕方なく保護してるんじゃないか?」

 

「どうも、学園上層部のウマ娘達は、我々の常識とかけ離れた行動をとってる感がある。」

記者の一人が、残念そうに溜息を吐いた。

「ネットじゃ、オフサイドの出走とそれへの学園の対応を見て『G1ウマ娘の体面を気にする学園は組織として腐ってる』とか『ウマ娘のレースは、観ている者達によって支えられていることを、学園は忘れたのか』といった声も大きいのにな。」

「仕方ないさ。マックイーンにしてもその他の生徒会の面々にしても、ただ勝てば・強ければいいという現役時代を送ってきた者達が多い。オグリやテイオー、或いは今度のスズカみたいに、『ファンの為・夢を叶える為』という意識を第一に走った者じゃないから、そういう大切なことが中々分かんないのだろう。」

記者達は、不満と失望を込めた口調でそう次々と言葉を発した。

「そうですか。」

まだ20代半ばと記者陣の中では一番若手の女性記者は、先輩記者達の言葉にただ頷くしか出来なかった。

 

女性記者の反応を見て、先輩記者が尋ねた。

「なんだお前、オフサイドのことが気になるのか?」

「ええ。」

「ハハ。もしや君は、彼女の有馬記念出走を断固として阻止するつもりなのか。」

先輩記者はそう言って苦笑した。

「有馬記念出走者発表の日、オフサイドの出走に対してマックイーンに最も激しく抗議してたもんな。」

「そこまで激しくもなかったと思いますが。」

「いやいや、傍らで見てて感心したよ。オフサイドの言動に対する、我々やファンの怒りと抗議を代弁してくれてたし。」

 

「別に、褒められることでもありません。」

女性記者はぶっきらぼうに言うと、つとその場を離れた。

 

 

そのまま、女性記者は競走場を出て、学園の門前の近くにあるベンチまで移動した。

人気の殆どないその場所でベンチに座ると、今日の取材内容の確認作業を行った。

 

オフサイドトラップ…

作業をしながら、女性記者は今現在姿を消している天皇賞ウマ娘のことを考えていた。

かつて過激な程に取材攻勢をした彼女に対し、女性記者はもう一度取材をしたいと考えていた。

といって、また責める目的や謝罪目的要求の取材をするつもりではなかった。

 

あの天皇賞・秋。

レース後におけるオフサイドの言動は、明らかにスズカを愚弄したものだと、女性記者は受け取っていた。

だが先日、ライスへの取材で彼女の口から出た天皇賞・秋後の騒動に対する見解を聞いて以降、その受け取りが正しかったのか、疑問が湧いたのだ。

 

“レースにおける故障は、本来責められるべきこと”

“悲劇が起きたレースで、最もケアするべきは、レースの勝者”

ライスは、このようなことを言ってた。

 

ライスへの取材後、女性記者はオフサイドの過去を今一度調べた。

すると、過去にオフサイドのチーム仲間がレースの事故で帰還していたことが分かった。

もしかして、その過去が今回の言動と関係あるのではないか。

そう推察した女性記者は、もう一度オフサイドにその真意を問い質したいと望んだのだ。

 

とはいえ、現在オフサイドの行方は依然として不明だから取材は出来ない。

マックイーンの意向でメジロ家が保護していることは間違いないだろうが、どこにいるまでかは分からない。

メジロの本家か、あるいは分家か、それとも幾つかある別荘にいるのか。

 

そこまでは知ることが出来ないんだよね…

女性記者は溜息を吐きながら、作業を止めた。

つとスマホを開いて、何気なくネットニュースを閲覧した。

 

…ん?

トップニュースを見て、女性記者は眉をしかめた。

 

『トレセン学園に不法侵入し器物を破損させた容疑で、数十人を逮捕』

『トレセン学園、特定の生徒がネット上で悪質な誹謗中傷をされ被害を受けたと警察に届出。本日中にも大規模な摘発が行われる見通し』

「なんですって?」

思わず、驚きの呟きが洩れた。

 

「…おい。」

ネットニュースを見て驚いている彼女に、声がかけられた。

見ると、学園へ取材に訪れた記者陣達全員が、門前に集まっていた。

「あれ、皆さんもう取材は終わりですか?」

女性記者の言葉に、記者仲間は首を振りながら答えた。

「違う。学園側から、退去するよう要求されたんだ。」

「退去の要求?」

「即刻、報道陣は全員、学園の敷地から退去するようにってな。…突然過ぎて訳分からん。」

記者陣達は一様に動揺と不満を表していた。

一体何が?

今しがた見たネットニュースと併せて、女性記者も動揺した。

 

すると。

記者陣達のいる門前に、一台の車両が到着し、中から数人のスーツ姿の人間出て来た。

 

数人の人間は、記者陣達の側に近寄ると尋ねた。

「日刊ウマ娘新聞記者の〇〇氏はいますか?」

「はい、私ですけど…」

女性記者が手を挙げると、数人の人間は彼女を取り囲むように近寄ってきた。

「なんですか?」

怪訝な表情をした女性記者に、一人の人間が懐から手帳を取り出しながら言った。

「警察です。署までご同行願えますか。」

「えっ?」

「特定のトレセン学園生徒が悪質に中傷された件での事情聴取です。」

愕然とした女性記者に、警察は無表情で告げた。

 

 

 

 

さあ、総精算の始まりですわ…

騒然としている学園門前の様子を、マックイーンは生徒会室から冷徹な視線で見下ろしていた。

 

「遂に始まったのね。」

マックイーンの傍らでは、ルビーがネットニュースを見ながら震えるように呟いていた。

「まるで電光石火ね。もう摘発やら逮捕やらが執行されているわ。SNS上も騒然としてる。」

「当然ですわ。いつでも即座に手を下せる用意は、とっくに出来ていたのですから。過ちを忘れていた者達が愚かなだけですわ。」

「学園と関わりの深い報道陣にまで躊躇なく手を下すとは、流石は厳冬秋霜な真女王ね。」

「ええ。親しい人間であろうと、恩義があった人間であろうと、今回は容赦しません。いや、容赦してはなりませんわ。」

 

そう、この件に関しては、過ちをおかした者全て、後悔させることも贖罪を考えることも、決して許してはなりません。

「徹底的にやらねば、絶望に追い詰めれた末に帰還を決意するに到ったオフサイドトラップに対して、同胞の代表として顔向けが出来ませんわ。」

マックイーンの瞳は、かつてないくらい冷徹な色に光っていた。

 

「生徒会長。」

部屋の扉が開き、トップガンが入ってきた。

「どうしましたか?」

「今、理事長が学園に来られました。生徒会長と話がしたいそうです。」

 

理事長、来ましたか。

「分かりましたわ。こちらにお通し下さい。」

マックイーンは芦毛の美髪を靡かせながら、冷徹な微笑と共に指示した。

 



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『万物の霊長』と『走る為の種族』(2)

 

十分後。

マックイーンと理事長(本名大平赳夫)は、他に誰もいない生徒会室のソファ席で、向かいあって座っていた。

 

 

「遂に、やったのか。」

「ええ、やりましたわ。」

開口一番、言った大平理事長に、マックイーンは冷徹な表情を動かさずに答えた。

「遅かれ早かれ、執行すべきことでしたから。」

「有馬記念後にやると思っていたが、それどころではなくなったということか。」

「その通りですわ。」

 

朝の生徒会の後に、マックイーンは理事長に電話でオフサイドの決意のことを伝えていた。

その際に例の件を断行することも報告し、あとはここで話しましょうと約束していた。

 

「しかし、まさかオフサイドトラップが、そこまでの決意をするに至っていたとは思わなかったな。」

大平は落ち着いた表情ながら意外の念を込めた口調で言った。

彼はオフサイドトラップのことは詳しく知らないが、度重なる重い故障を乗り越えたウマ娘であること程度は知っていた。

「誰もが驚きましたわ。彼女ほどの不屈のウマ娘の心が折れるなんて。彼女が受けた傷の深さが想像以上だった事実を、胸にナイフが突き刺さるように伝えられました。」

マックイーンは答えつつ、少し表情を暗くした。

「彼女の悲壮な決意を翻意させる為に、今回のことを断行しました。正直、遅過ぎたことは否めませんが。」

 

「そうか。」

大平は頷きながら、卓上に用意されたコーヒーを飲んだ。

数日前にマックイーンと会談した際、彼は今回の騒動は人間側に非があるとの認識を示していた。

なので今回のマックイーンの断行についても、時期に驚きこそしたが反対の意志はなかった。

 

「3日後に迫った有馬記念はどうする気だ?」

「予定通り開催の方針でいきますわ。今回の執行に関して主催者や協賛者の方々から苦情が来ることは確実ですが、ここまで間近に迫った有馬記念を中止にすることは不可能です。」

「出走者達には、何か伝達したのか?」

「それぞれの所属チームトレーナーに、今度のレース開催に支障はないとの伝達は送りました。ステイゴールドには、私が直々に伝えますわ。他に全生徒達にも、今回の件に対しては、決して動揺せずに普段通り過ごすよう通達をする予定です。」

「全生徒にもか?」

「はい。学園始まって以来のことですから、我々ウマ娘が人間と相対するような事柄を起こすのは。」

 

“人間と相対する事柄”…

マックイーンの言葉に、大平は眼光を鋭く光らせながら、質問を続けた。

「学園を去った各大物ウマ娘達から、何か連絡は来たか?」

「いえ、まだ何も来てませんわ。もっとも来たとしても、学園側の支持をしなければ私達は一切聞く耳は持たない所存です。」

「ほお…。」

マックイーンの冷徹な言葉に、大平は眼光を光らせたまま微笑した。

「例え、ミスターシービーやシンボリルドルフが諌めに来たとしてもか?」

「はい。我々の意向を支持しなければ、諸先輩との敵対も止むを得ないと覚悟しています。」

 

敵対、か。

口元で呟いた後、大平はソファにゆったりともたれて、更に質問した。

「一番の懸念であろう、君の一族からは何か来たか?」

 

「フッ…」

その質問に、マックイーンの表情がふっと緩んだ。

「今のメジロ家の代表はこのマックイーンですわ。おばあ様や、上の一族の者達がどんな異議を唱えようと、代表である私の意志に従って頂きますわ。」

「強気だな。だが大丈夫か?」

「心配ご無用ですわ。アルダン姉様やライアンは分かりませんが、デュレン姉様やパーマーに関しては少なくとも味方ですから。ブライトもドーベルも、自ら私に歯向かう愚は起こさないでしょう。」

マックイーンの翠眼がやや険しくなった。

 

「とにかく、我が一族のこともご心配いりませんわ。」

マックイーンは険しくなった眼光を元に戻し、大平に続けて言った。

「生徒会も、今回の断行に対して異議を唱える者はありませんでした。恐らく皆、今回の騒動の件でウマ娘界の現状にそれぞれ危機感を抱いたからでしょう。」

 

「分かった。」

マックイーンの言葉に、大平は理解したと頷いた。

「理事長である私も、今回は君達の断行を支持しよう。理事達への説得は私に任せ給え。有馬記念開催に関しても、極力影響が出ないよう尽力する。」

「恐れいります。」

理事長の言葉に対し、マックイーンは深々と礼をした。

 

 

「メジロマックイーン。改めて聞くが、覚悟は出来てるな?」

頭を下げたマックイーンを見つつ、大平は落ち着きながらも不意に凄みのある口調で問いかけた。

「君が下した断行は、君達ウマ娘界の生活基盤を保護し支えている人間達に向けられたものだ。それがどのような反動をもたらすか、考えているな?」

 

「勿論ですわ。」

マックイーンは面を挙げ、翠眼を大平へ真っ直ぐ向けた。

「走ることしか出来ない種族である我々ウマ娘に、ターフや学園を与え、生き残る未来への道筋を築いてくれたのは、私達より優れた種族であるあなた方人間達です。そのことは決して忘れていませんわ。そして今回の断行が、その恩ある人間に歯向かうような行為であり、その結果我々の生活基盤がなくなってもおかしくない可能性があることも、承知していますわ。そう、このトレセン学園の同胞約六千人の未来が一気に厳しくなってしまう可能性を。」

言いながら、マックイーンの額に汗が滲んでいた。

 

「その恐るべき可能性があることを分かっているのなら、何故今回の断行に踏み切った?」

マックイーンが尊敬する数少ない人間である大平は、マックイーン以上の冷徹な眼光を見せて、更に質した。

「走るだけの種族が、その存在を保護させてもらっている万物の霊長に相対する。それをするだけの理由は、確かにあるのだろうな?」

 

「勿論ですわ。」

マックイーンも、一層冷徹に光らせた眼光で射返した。

「まず何より、帰還決意まで追い詰められた同胞を救う為です。このまま何もせずオフサイドの帰還を黙って見届けるくらいなら、人間と闘って彼女の尊厳を少しでも取り返そうと決めたんです。」

 

「それに、今回のオフサイドトラップの件だけが断行の理由ではありません。」

マックイーンは、淡々と続けた。

「過去から積み重なった出来事の数々…それも大きな理由の一つです。」

 

ハマノパレード先輩の悲劇。

ハードバージ先輩&カネミノブ先輩の末路

クライムカイザー先輩への中傷。

サンエイサンキューの悲劇。

キョウエイボーガンへの中傷。

そして、今回のオフサイドトラップへの中傷。

また、私の愛した同胞プレクラスニーの悲劇も…

また一瞬クラスニーの面影が瞼に浮かび、マックイーンは眼を瞑った。

 

眼を瞑ったまま、マックイーンは言葉を続けた。

「これらの悲劇だけでなく、その他人知れず散っていった同胞達の数々が積み重なった末の結果ですわ。そう、ずっと昔からあった、ウマ娘界と人間の共存における根本的な課題。その解決をしなければならないと決断したのですわ。」

 

「“根本的な課題”…」

はっきりと言葉にして言い給えと、大平は催促した。

マックイーンは一度深呼吸し、それから静かに眼を見開いて、言った。

 

「あなた方人間にとって、私達ウマ娘達は、『娯楽や経済の為の種族』なのか、それとも『生命の尊厳がある種族』なのか、明確にさせて頂きたいのですわ。」

 



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『万物の霊長』と『走る為の種族』(3)

『経済種族』か『尊厳ある種族』か、どちらなのかか…

 

マックイーンの言葉に、大平はコーヒーを一口飲みながらそう呟き、それから尋ねた。

「なぜ、その答えを求めることが必要だと思う?」

「同胞達に、存在する為の理由をはっきりと示す為ですわ。…私のような恵まれた同胞だけでなく、未来への切符を掴む為にターフ内外で必死に闘い続けている同胞達に。」

 

マックイーンは、カップにコーヒーを新しく淹れ、それを一口飲んでから再び口を開いた。

「理事長も当然ご存知でしょう。このトレセン学園で競走生活を送ったウマ娘達のうち、学園を去った後の余生が保障される者はほんの一握りで、多くは非常に厳しい状況に置かれているということを。」

「…。」

知ってると、理事長は無言で頷いた。

 

ウマ娘の卒業後の余生は、現役時代のターフでの実績で大きく左右される。

G1制覇などといった大きな実績を挙げたウマ娘はその後の余生もほぼ自動的に約束されるが、それは無論ほんの僅かだ。

重賞を制覇したウマ娘でも、余生が約束されるとは限らない。

OP勝ち止まりとなるとかなり厳しい。

「そのOPまで辿り着けるウマ娘ですら、六千人の生徒のうちの半分にも到底満たない。残りの半分は…。」

「ええ、表向きでは卒業し、地方のウマ娘関係の地で余生を送る、ということになっていますわ。表向きは、ですが。」

 

確かに、中央のトレセンから地方のトレセンに移籍したり、僅かにあるウマ娘専用の職業につける者もいる。

だがそれもほんの僅かで実際は、優れた家柄・名門出身でない限り、殆どの卒業者(退学者)は消息不明になっている。

つまり、大半は卒業後間もなく人知れず帰還している可能性が濃厚だった。

 

「ウマ娘は走ることを使命とし、走る世界に生涯を捧げることを定められた種族。その世界で結果を残せず、そして未来に必要ないとみなされた同胞は、帰還を選択せねばならない。これが今のウマ娘界の現状ですわ。」

マックイーンの口調は重かった。

 

「その現状を、変えたいと思っているのか?」

「…。」

大平の問いに、マックイーンは重たく首を垂れて、答えた。

「変えて欲しいのは当然ですし、同胞達全てが幸せな生涯を全うして欲しいのも勿論ですわ。ですが、現状は人間の保護下で存在している種族である以上、それはまだ理想でしかありません。少なくとも、我々ウマ娘の力だけでこの世界に存在出来る様にならない限りは、その実現は難しいですわ。」

 

「では、何を望むんだ?」

再度の問いに、マックイーンは顔を上げ、人間の大平を翠眼で見据えて答えた。

「その理想の実現に近づく為にも、我々の世界を観る人間の皆様には、ウマ娘界で起こっている現実から目を逸らさないことを望みますわ。そう、単に輝かしいものばかりものを見るだけでなく、この世界の負の側面を。」

 

 

トレセン学園を去る生徒の数は毎年約千人。

そのうち、実績なく家柄や出身も冴えない多くの生徒が、卒業後間もなく帰還している。

マックイーン自身、9年前に自身が入学した時の同期は千人余りいた。

しかし自分が卒業する頃には、そのうち半分以上が既に学園を去り、その多くが消息不明となってた。

その中にはクラスで親友だった者も含まれていた。

 

卒業から5年経った現在となっては、同期でまだ健在なのは3割にも満たないだろうと思う。

その他7割のうち、病気や怪我で早世した者もいるだろうが、大半は卒業後に消息不明となった可能性が濃厚だった。

 

社会的事情などから余生を送ることを許されず、消息不明(帰還)を余儀なくされる幾多の同胞。

それに対し、人間は『可哀想だが仕方がない・やむを得ない』という言葉を発する程度で、そこまで深刻には受け取っていないのが現状だった。

同情的な言葉や態度は示すが、帰還に対しては仕方ないという姿勢をずっととっていた。

実際、ターフを去ったウマ娘達が人間と自然に共生するのは難しい社会である点、無実績のウマ娘が帰還しなければならないのはその通りかもしれない。

それはマックイーンだって分かっているし、大半のウマ娘もそれは理解しているだろう。

 

だけど、消息不明となっていく者と同じ種族の一人として、本当にそれで良いとは思えなかった。

走ることを使命としその為に生まれた種族であるからか、レースで実績を残せなかった同胞達は、表明上その運命を受け入れているかも知れない。

 

だが、本当に受け入れてるのだろうか。

そして何より、人間側がウマ娘に対してどのくらい生命の重さを感じているのか、かなり疑問に思っていた。

 

 

「何故か、卒業後に消息不明となっていく同胞達のことについて触れるのは、人間界・ウマ娘界双方で長年タブーとされてきました。その理由は、ウマ娘の生命の尊厳を守る為なのか、それともその厳しい現実から目を逸らす為なのか。私には、現実から逃げているように思えてなりませんでしたわ。」

言いながら、マックイーンの翠眼はかなり険しくなっていた。

 

「厳しいことを言うな。」

マックイーンの険しい視線を受けつつ、大平はソファにもたれながら腕を組んだ。

「それは学園外部の人間にだけでなく、関わりの深いウマ娘のトレーナー達に対しても同じことを感じるのか?」

 

「そうですわね、トレーナーの方々も多種多様ですから。」

マックイーンはふっと溜息を吐いた。

「私の恩師である沖埜トレーナーや『フォアマン』の岡田トレーナーといった超一流の方々は、ウマ娘の厳しい現実にも真剣に向き合ってくれてると思いますわ。他のトレーナーも多くはそうでしょう。最も、人生がウマ娘と近過ぎる分、現実からを逸らしてしまってる感もありますが。」

 

「つまり、君が人間に対して願うのは、曖昧な言葉で誤魔化さず、ウマ娘の未来とちゃんと向き合って欲しいと言うことだな?」

マックイーンの一連の言葉に、大平は両膝の上に手を組みながら穏やかな口調で言った。

「ええ。」

マックイーンは即座に頷いた。

「そこを曖昧にしてきた結果が今回の天皇賞・秋の騒動の一因にもなったのですから。オフサイドトラップにとって、あのレースは未来へ生き残る為の最後の闘いだった。」

だが、それを理解している者は殆どいなかった。

理解していれば、オフサイドの勝利を貶すことなどしなかったに決まってる。

 

「厳しい現実から目を逸らしては、本当の幸せには届きませんわ。…同胞達にもその影響からか、レースへの姿勢にやや異変を感じるようになりました。このままでは、ウマ娘界の危機です。」

 

最後の台詞は心から憂う口調だった。

 



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『万物の霊長』と『走る為の種族』(4)

 

「ウマ娘界の危機、か。」

 

マックイーンの重い言葉を大平は口元で反芻し、それから尋ねた。

「さっき君は、『ウマ娘は“経済種族”か“尊厳ある種族”か、人間に問いたい』と言ったな。ウマ娘である君自身は、どちらだと思ってるんだ?」

 

「『経済種族』でしょう。」

マックイーンは、やや眼を伏せて答えた。

「私やその他ごく一部の『走る為の種族』に相応しい実績や能力を挙げられた同胞は尊厳を認められますが、そうでない同胞は、遠慮ない言い方をすれば、人間との共生に不要な者達ということで、悲しい現実に追い込まれているのですから。それに実績を挙げられた仲間達も、もし未来に輝かしい同胞を残すことが出来なければ、勝ち取った尊厳も揺るがされますわ。私達ウマ娘が『人間の為に走ることを使命とされ存在する娯楽経済種族』とされているのは、言い苦しいですが事実でしょう。」

芦毛色の美髪が、僅かに不穏に靡いた。

 

「その通りだな。」

マックイーンの言葉に、大平は静かに頷いた。

「我々人間がそれを聞いたら、大声でそんなこと思ってないと否定するだろうが、現実に起きていることをみれば全くその通りだ。否定出来る余地などない。」

大平は穏やかな口調で淡々と言った。

人間が愛しているウマ娘は、大きな実績を挙げて使命を全う出来たウマ娘が多い。

或いは今年惜しまれながら急逝したツインターボのように、実績はさほどでもないが強烈な個性をもって大きな人気を集めたウマ娘など。

だがその他、使命を全う出来ずいなくなっていく多くのウマ娘達の姿からは、人間は意識を逸らしている。

『人間はウマ娘を娯楽経済種族とみなしている』…その言葉の何が否定出来るのだろう。

 

 

「でも、私達のように中央トレセンに生きるウマ娘は、まだそれでも尊厳を守られている立場ですわ。」

再び言葉を発したマックイーンの口元が、やや引き攣って見えた。

「地方のトレセンに生きる同胞は、時にもっと冷酷な『経済種族』扱いを受けることもあるのですから。ナカズ学園事件のように。」

 

ナカズ学園事件…

それを聞き、ずっと穏やかだった大平も思わず表情をしかめた。

その事件はウマ娘界史上最も暗い事件の一つといっていい事件だったから。

 

それはかつて地方にあったトレセン学園『ナカズ学園』で起きた事件。

長年に亘る業績悪化により存続が厳しくなり、学園経営者である行政の方針で突然閉園に追い込まれたその学園は、在籍する100人余りのウマ娘のうちおよそ3分の2が、閉園後まもなく強制的に帰還を決定つけられた。

別の地方学園への転園が困難とみなされたという理由はあるにせよ、あまりに暴挙でかつ杜撰な決断だった。

所属するウマ娘はそれを受け入れるよりなかったが、その悲惨な一部始終は極秘で記録されてマスコミに流され、社会的事件になった。

 

 

「あの事件の後、地方のウマ娘を取り巻く環境の厳しさも公に認識され、それなりに向き合ってもらえるようになったな。」

「ええ、流された内容があまりにも悲惨過ぎましたから。」

マックイーンは唇を噛み締めた。

マスコミに流された記録の内容には、学園でかなり活躍していた同胞が帰還執行された際の記録と遺体の写真なども含まれていた。

マックイーン自身もその内容を見た。

遺体の表情からは、どうしようもない無念と悲しさが滲んでいた。

地方のウマ娘でかつ使命を果たせなかったからやむを得ないのかと思いながらも、同じ種族の者が大勢悲惨な最期を遂げた現実には、怒りと悲しみの感情が湧き上がった。

 

「だが、あれほどの事件が起きたものの、君の言う根本的な問題については、人間達はあまり向きあおうとしなかったな。」

大平は、苦い表情でコーヒーを飲んだ。

ナカズ学園事件は、学園を経営していた人間達の閉園執行時の暴挙かつ杜撰なやり方が大きな問題だった為に起きた事件ということになった。

それは事実なのだが、何故多数のウマ娘達は帰還せねばならなかったのか、その点に関しては事件とは別問題のように、あまり踏み込まれはしなかった。

「あれほどの事件が起きながら、それでも帰還していく同胞達に触れることへのタブーはそのままでしたわ。」

 

「言い方は悪いが、地方の学園だったからな。」

大平は深い溜息を吐いた。

地方のトレセンは、業績悪化により閉園となる学園も多い。

最近では、『タカザキ学園』や『キミデラ学園』といった地方学園が閉園になった。

そして所属する生徒の多くが、ナカス学園事件のような悲惨さはないものの、遅かれ早かれ消息不明に追い込まれている。

地方トレセン学園に所属するウマ娘は、オグリキャップなどの稀有な例を除き、中央トレセンのウマ娘と比べ知名度もレベルもかなり低いので、走る使命を果たせてない者が殆どなのだ。

その為、学園自体も設備やレースの内容も中央トレセンとは程遠く、苦しい環境にあった。

閉園に追い込まれた学園の生徒が別学園に転園するのも、多くの地方学園が経営難に苦しんでいる以上、かなり難しいことだった。

それらは、ウマ娘界に深く関わっている人間なら誰もが知っている現実だった。

 

「もしあれが中央トレセンで起きた出来事なら、もっと大事件になってただろう。とはいえ、あんな事件は起きるわけないし、起こすわけもないが。」

 

「起きましたわ。25年前に。」

大平の言葉に、マックイーンはポツリと呟き返した。

 

ああ。

大平も、すぐにそれを思い出した。

「ハマノパレードの事件か。」

 



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『万物の霊長』と『走る為の種族』(5)

 

ハマノパレード事件。

 

ハマノパレードとは、過去にいたウマ娘の名前。

彼女は、25年前に開催された宝塚記念を制したG1ウマ娘の一人。

 

だがその後に出走した高松宮杯で、レース中に重度の故障をしてしまう悲劇に見舞われた。

快復不能の重傷で、無念にも予後不良と診断された。

 

ところが予後不良と診断されながら、その後パレードに対して安楽帰還の処置はされなかった。

 

当時、まだ安楽帰還の技術が発達してなかったからなのか、或いは安楽帰還自体に対する世の反発があったのが理由なのか、それも安楽帰還にかかる費用が懸念されたのか、詳しい理由は未だに不明だ。

 

だがその為、パレードは怪我への処置も特にされないまま数日間苦痛に苦しんだ末に、帰還してしまった。

 

その帰還の理由も、苦痛から来るショックのせいか、或いはそれによる自殺か、それとも彼女を苦しみから解放させる為に誰かが手を下したのか、その真相も今だに不明だ。

 

ただ、パレードの故障〜帰還までの苦痛に満ちた記録は残されており、それが世に発表されると社会全体に大きな衝撃を与えた。

G1制覇した強豪ウマ娘に悲惨な最期をさせたとして、中央トレセンには非難が殺到した。

また彼女に限らず、それまでにも故障で予後不良となりながら安楽帰還の処置をされなかったウマ娘達が多数いたことも判明した。

彼女達を苦痛から解放させるより安楽帰還による費用と手間の削減を優先したのかと、更にトレセンは糾弾された。

ウマ娘側からも、予後不良となった同胞には必ず安楽帰還を行うことを定めるよう要求が出された。

一時はトレセンの存続すら問われる程の騒動になった。

 

その後、責任者の処罰などを経て、予後不良の故障をしたウマ娘に対する処置が見直された。

そして、予後不良となったウマ娘に対しては安楽帰還の処置をすることは義務と明確に定められた。

安楽帰還は絶対に必要だということが世にも認知され、それに対する反発もなくなった。

安楽帰還の技術の大切さも改めて認識されるようになった。

 

それ以後、予後不良の苦痛に苦しみながら帰還していくウマ娘はいなくなった。

 

 

「安楽帰還の大切さが大きく認識されたきっかけだったとはいえ、ハマノパレードの悲劇は人間側の立場として本当に胸が痛むし、申し訳ないと思う。」

「それに、表に出された悲劇の内容はそれだけですが、内実は更にありましたわ。」

大平も当時まだ生まれていないマックイーンも、沈痛な表情でその悲劇のことを思った。

 

苦痛による帰還だけでなく、パレードはその遺体も行方不明になってた。

いや彼女に限らず、当時怪我や成績不振により帰還していた同胞の遺体の多くが行方不明になっていた。

皆尊厳をもって埋葬されたのか、果たして不明だった。

パレードの悲劇の後は、そのことも内々で見直され、帰還後のウマ娘は生前に本人の希望がない限り、尊厳をもって埋葬されるようになった。

ハマノパレードの悲劇は、ウマ娘達の尊厳が見直されるきっかけにもなっていた。

 

 

とはいえ。

「故障による帰還はどうしようもないですが、そうでない者も多く帰還に追い込まれているということは、この悲劇が起きた当時から認識されていた筈ですわ。でも、そこが議論にはならなかった。」

それはやはり、人間が長年その点に触れることを意図的に避けてきた証拠ではないかと、マックイーンは推測していた。

「否定は出来ないな。」

当時はまだウマ娘界にそこまで関わりなかったので詳細は知らないが、大平はそう頷いた。

 

 

「もしかすると、オフサイドトラップがあのような決意をした理由は、ハマノパレード先輩のことが意識にあったからかもしれませんわ。」

決意の理由を明確に表していないオフサイドのことを思い、マックイーンはそう呟いた。

「なに?」

「彼女が背負っているものは、〈クッケン炎〉によってターフ奪われた同胞の無念と、それにより帰還に追い込まれた同胞の魂ですわ。殆どの人間が見ようとしないその悲痛な現実を、彼女は自らが帰還することで強引に見せつけようとしてるのかもしれません。」

「なんて事を…」

大平は腕を組んだ。

「そのような願望で身を犠牲にしても、我々人間が振り向くとは限らないのに。」

 

その言葉を聞き、マックイーンは大平を見据えた。

「振り向くか振り向かないは、オフサイドはもう考えていないでしょう。彼女にとっては、帰還することが残された最後の手段となってしまっているのですから。パレード先輩の悲劇などを鑑みて、人間は帰還しなければ、死ななければ大切なことが分からない種族だと思われているのではないでしょうか?」

 

…。

翠眼を冷たく光らせて言ったマックイーンの冷徹な言葉に、大平は何も答えず黙ってコーヒーを飲んだ。

マックイーンもカップに指を傾け、しばしの間沈黙が流れた。

 

 



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『万物の霊長』と『走る為の種族』(6)

 

沈黙から数分後。

マックイーンは、再び口を開いた。

 

「今、我々は先の騒動に対する処置を敢行中の為すぐには出来ませんが、近日中に私はウマ娘代表として今回の処置の理由について公に説明し、そして人間にとってのウマ娘の存在意義を明確にして頂くよう要求する所存ですわ。」

 

「恐らく、明確な返答は出ない可能性が高い思うが。」

「出なくとも徹底的に要求しますわ。決して届かなかった同胞の声を人間達に刻みつける為でもありますから。」

 

“決して届かなかった。

その台詞に、大平は反応した。

「君自身も、その声をもっているのか?」

「私はもっていません。ですが、その声を集めた者にそれを託されましたわ。」

それが誰だかお分かりですねと、マックイーンは大平を見た。

「オフサイドトラップか。」

大平の言葉に、マックイーンは無言で頷きながら、オフサイドから託されたノートを懐から取り出した。

 

「走れなくなったことで帰還に追い込まれた同胞の声がここにありますわ。出来ることなら、同胞の尊厳を守る為にもこれは公にしたくはありませんが、人間がどうしてもこの問題を避けるのであれば、それをせざるを得ないかもしれませんわ。」

内容は見せず、ノートを手に持ってマックイーンは言った。

 

「避けてはいるかもしれんが、帰還していく彼女達のことを考えていないわけではないと思う。」

「考えてはいるかもしれませんが、結局は“止むを得ない”という結論に終止しているのでしょう。思考だけでは限界がありますわ。苦しくとも心を抉られようとも、より現実に近付いてその問題を直視しなければ、未来ある結論には辿りつきません。」

そこまで言うと、マックイーンはノートをしまった。

 

 

大平はコーヒーを全て飲みきり、そして再び質問した。

「存在意義を問いかけて、どのような答えを望む?」

「明確な返答で有れば、どちらでも受け入れる所存ですわ。勿論、すぐには返答が来ないであろうことも承知していますわ。ですが、たとえ時間がかかったとしても、ウマ娘界に関わる幾千の人間・ウマ娘を愛する幾千万の人間達に、どうかその答えを出して頂きたい。その一心ですわ。」

 

マックイーンの言葉を脳裏で反芻するように、大平は眼を瞑った。

一呼吸をおいて眼を開くと、尋ねた。

「それでも、我々がその要求を無視するか、有耶無耶な返答しかしなかった場合はどうする気だ?」

「その時は、私も最終手段に出る所存ですわ。」

一瞬、マックイーンの翠眼が恐ろしく冷たく光った。

 

「最終手段?それは、どういうものだ?」

不穏なその台詞に、大平は眉を顰めた。

「ご想像にお任せしますわ。これは理事長にも明かせません。明かさなければならない状況になるまで、このメジロマックイーンの胸だけにしまっておきますわ。」

マックイーンは冷たい口調で断った。

 

またしばしの間、沈黙が流れた。

 

 

「最後に聞きたい。」

沈黙を破り、大平は努めて冷静な口調で、マックイーンに尋ねた。

「君達ウマ娘は、我々人間に対して、憎しみは抱いているのか。」

 

「憎しみは、もしかするとあるかもしれませんわ。」

マックイーンは、冷徹な表情にやや悲しさを滲ませて答えた。

「でも、たとえあったとしても、ウマ娘はその憎しみを人間に対してぶつけることは決してないですわ。自らの胸に抑え込んで、そのまま最後まで表に現さないでしょう。」

 

ウマ娘は、人間と共に生きている種族。

そのことは、人知れず散っていく同胞達の魂にも刻まれているのだから。

「今回の断行も、人間が憎くてやったのではありません。」

 

暗い現実から目を背けているとはいえ、人間がウマ娘達の繁栄や幸福を願っていることも事実だと分かっている。

そう、分かっている。

 

「この中央トレセン学園が現在の隆盛を迎えられたのは、単に同胞の華やかさだけでなく、あなた方人間がこの世界の輝かしい点を大きく上手にアピールすることで人々の興味を寄せ付け、競バ場に足を運ぶように努力して下さったおかげですわ。また、そのことで同胞達も、レースにおいてかつてなかった程の大きな声援を浴びるという喜びを与えて頂きましたから。」

レースに生きるウマ娘にとって、それがどれだけ嬉しく有難いことか、マックイーンには良く分かっていた。

 

だが…

「それでも、やはり現実を見なければ…見て頂かねばならないのです。」

悲しみを閉ざし続ける喜びは、いつか永遠の悲しみに変わってしまうのだから。

 

マックイーンは、一瞬目元を伏せ、続けた。

「幸せな未来の為には、共存していく未来の為には、相対する事も必要になりますわ。今回がそれです。例え双方が重い傷を負うことになろうとも、やらねばなりませんわ。」

 

「そうか。」

返答を聞き、大平は静かに頷くと立ち上がった。

会談は終わりと感じ、マックイーンも立ち上がった。

 

「理事長。ご心労をおかけしますが、どうぞ宜しくお願いしますわ。」

「構わない。むしろ心労をかけさせて詫びるべきは我々の方だ。」

頭を下げたマックイーンに、大平は言った。

「乗り越えよう。未来の為に。」

「はい。」

マックイーンは頭を上げ、ゆっくりと頷いた。

 

 

 

その時。

ドンドンッ バンッ ドンドンッ

突然、生徒会室の扉を乱暴に叩く音がした。

 

…?

マックイーンも大平も、怪訝な表情で扉の方を見た。

「どなたですか?」

 

「失礼します!」

マックイーンが声をかけると同時に扉がバンと乱暴に開き、一人の生徒が室内に入ってきた。

 

 

「生徒会長、一体何が起きているのですか!」

蒼白な表情で大息を吐きながら入室したステイゴールドは、同室していた大平には目もくれず、マックイーンを血走る瞳で見据えて叫んだ。

 

 

時刻は、14時を過ぎていた。

 



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同胞亀裂(1)

 

*****

 

 

場は変わり、再び療養施設。

 

施設で療養生活を送っているウマ娘達の間では、学園が天皇賞・秋の騒動に対しての法的措置を断行したニュースで話題になっていた。

 

 

病人専用病棟の〈クッケン炎〉患者のが集まった一室でも、騒動のことでもちきりになっていた。

 

「やったのね、遂に。」

「本来なら人間さんと相対するなんて絶対嫌だけど、今回のことだけは賛同するわ。オフサイド先輩の受けた仕打ちはあんまり過ぎたもの。」

クッケン炎患者ウマ娘達は、生徒会の断行に賛同していた。

「オフサイド先輩も、この断行に関わっているのかな?」

「それはないでしょ。先輩は有馬記念一点に集中してるだろうし。」

「そうだよね、今度の有馬記念、先輩にとって最後のレースになるかもしれないからね。」

「周囲の状況が酷いままだけど、無事に走り終えて欲しいな。」

 

病症仲間達は、オフサイドのことを憂いていた。

 

「昨日、オフサイド先輩がここに来たけどさ、どうして来たんだろうね。」

「さあ、椎菜先生に脚の状態を診てもらいに来たんじゃないかしら。」

「それだけなら良いけど…」

「何、なんか気になってるの?」

 

気になって尋ねられると、一人が少し不安げな口調で答えた。

「いや、先輩は元気そうだったしただの気のせいだと思うんだけど、ちょっとだけ雰囲気を感じたの。」

「雰囲気?」

「3日前、私達の前で最期に歌ったエルフェンリートと同じ雰囲気を。気のせいだよね?」

 

「やめようよ。」

その言葉を聞いて、一人が頭を抑えた。

リートの最期の歌声の記憶と、もう彼女がこの世にいないという虚無感が甦り、その場にいる者達の〈死神〉に侵された患部に響いた。

「何事も起きないわ。例え勝てなくても、オフサイド先輩は必ず無事に走り切ってくれるわ。」

「〈死神〉に打ち克った先輩だよ、絶対大丈夫だわ。」

 

リートの帰還の悲しみは、病症仲間達に深く刻まれていた。

その影響から、彼女達のオフサイドに対する予感も、かなり鋭敏になっていた。

 

 

 

一方。

 

「遂に生徒会、動いたのね。」

「まさか本当にやるとは。」

怪我人専用病棟の一室でも、怪我患者のウマ娘達が集まってその話題をしていた。

 

「さっき流れた報道だと、学園が法的措置に踏み切ったのは、あの騒動でオフサイド先輩や『フォアマン』チームに器物的被害や精神的中傷を与えた連中だけじゃなく、過激な取材行為をした報道関係者も含まれているみたいだわ。」

「一部の愚かな人間だけに限らず、学園と縁の深い報道関係にまで手を下すとは、生徒会は本気ね。」

「これほどはっきりと人間達に強硬な措置をとったのは初めてじゃない?大丈夫かな。」

「生徒会を信じるしかないよ。実際、オフサイド先輩の名誉の貶され方と中傷は度を越えていたんだから、法的措置も無理ないわ。」

 

「でもさ、同胞の間でもオフサイド先輩の天皇賞・秋後の言動に反感を抱いて、先輩を責めるのに加担した者もいるかもって噂じゃん。ということはもしかして、生徒会は同胞にも処罰を下す可能性もあるってことだよね?」

「それはそうだろうね。残念だけど、未熟ゆえ愚かな行為をしてしまう同胞も一定数いることは確かなんだから。レースの尊厳がいまいち分かってないとかね。」

かつてライスシャワー先輩がミホノブルボン先輩の3冠を阻んだ時、悲鳴や溜息ばかりあげてた同胞もいたんだし。

「それに、故障から復活して勝利するということがどれだけ大変なことか、理解出来ない同胞も多いだろうし。まあでも、これは故障した身にならなければ分からないことなのかな。」

 

怪我と病の違いはあるが、ここにいるウマ娘達は同じく故障と闘う身として、オフサイドの天皇賞・秋制覇がどれだけ大変なことか、そしてその後の言動も責められる謂れはないということは分かっていた。

 

「有馬記念、どうなるかな?無事に開催されるだろうか。」

「開催はされるでしょ。もう3日後まで迫ったんだから。無事に開催されるかは分からないけどね。オフサイド先輩も出走するんだし…」

「オフサイド先輩か、大丈夫かな?こんな無事に出走出来るのかな。」

「オフサイド先輩なら、昨日ここに来てたわ。顔色も良かったし、ホッカイルソーや〈クッケン炎〉患者の仲間達と談笑してたわ。精神的にはもう立ち直れたみたいだから、大丈夫でしょう。それで生徒会も処置に踏み切ったんだろうしさ。」

心配そうに言った一人に、他の一人はそう答えた。

 

 

「寧ろ、私達が心配するべきは…」

また、一人が憂げな口調で呟くと、別のもう一人も頷きながら続けた。

「うん、サイレンススズカだよね。」

 

ここ(療養施設)にいる患者ウマ娘達は皆、スズカが天皇賞・秋の騒動について不認識だと知っていた。

大怪我の身に精神的な負担がかかると更に悪化する。

その理由でスズカには騒動が隠されていたことも分かっていた。

 

いずれ騒動のことは知るだろうけど、それはサイレンススズカの容態が完全に不安がなくなった時だと思っていたが。

 

「急速な快復力でリハビリできるまでにはなったけど、まだ騒動のことを知って心が保てるかは、どうだろう。」

「大丈夫とは言い切れないよね。また容態が悪くなる可能性が高いわ。」

「それで済めば良いけど、もっと悪いことも起きる可能性が。」

 

「やめようよ!」

一人が、思わず声を上げた。

「スズカ先輩は大丈夫、そう信じようよ。生徒会長だって、それを分かって処置を断行したんだろうから。」

 

重い怪我の患者ウマ娘達にとって、瀕死の重傷から奇跡の復活を目指して奮闘しているスズカは、心の大きな支えになっていた。

もしまたスズカが、今回の件で再び容態が悪くなったりしないか、彼女達は気がかりだった。

 

「数日前の有馬記念出走者発表以降、ここに報道規制が敷かれている状況からして、生徒会がスズカ先輩と報道を合わせないようにしているのは明らかだけど、その理由は騒動を知られない為じゃなかったのかな。」

「生徒会はもうスズカに騒動のことを伝えるつもりなんじゃない。何故か、ミホノブルボン先輩やライスシャワー先輩もここに来てたし。」

「そういえば、昨晩からいたね。」

ということは、もう近いうちに伝えることは間違いなさそうだね。

場の雰囲気が、重たくなった。

 

「スズカ先輩が好き過ぎたあまり、勝者のオフサイド先輩のことを考えなかった人間さんがバカなんだよ…」

不安からか、一人が泣き出した。

「スズカ先輩、こんな騒動が起こっているなんて夢にも思ってない筈だよ。どれだけショックを受けるか…」

 

「大丈夫だよ。」

傍らの仲間が、泣き震える肩を抱き寄せながら言った。

「スズカには心強い仲間がいるから。」

『スピカ』の仲間がいる。

あの沖埜トレーナーがいる。

そして何より…

「一番の心の支えであるスペシャルウィークが、すぐ側にいるじゃない。スペだったら、必ずスズカを守ってくれる筈だわ。」

 

スズカとスペが、チーム仲間の枠を超えて親友以上の仲にあることは、皆知っていた。

「あの天使のような明るさと優しさに溢れた、愛情深い彼女が側にいれば、スズカはきっと大丈夫。」

 

 

 

そのスペシャルウィークは、施設の宿泊室で、ネットニュースを見ていた。

 

マックイーン生徒会長、とうとう行動をされましたか…

ニュースに流れているその報道を見て、スペはぽつりと呟いた。

昨日までの自分なら、この措置に疑問を感じていたかもしれない。

でも、真実を多く知った今は、疑問は特にない。

 

といって、賛同とか良かったとかそういう思いもない。

私も、同じ罪をおかしたのだから。

一方的な視点と感情で、オフサイド先輩を傷つけたのだから…

 

コンコン。

 

部屋の扉をノックする音がした。

「どうぞ。」

「失礼します。」

力ない声で返事すると、扉が開いて一人のウマ娘が入ってきた。

 

ライスシャワーだった。

 



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同胞亀裂(2)

 

「ライスシャワー先輩。」

 

ここにいらしてたんですかと、彼女の姿を見たスペは少し驚いた。

「うん。」

ライスは頷きながら、スペの側に歩み寄った。

「昨晩から、ブルボンさんや、サン…美久と一緒にここに来てたの。」

「怪我、されたんですか?」

「いやそうじゃないわ。別の用事でね。お隣良いかしら?」

「どうぞ。」

 

スペの腰掛けているベッドの傍らに、ライスは腰掛けた。

「今日は体調が優れずに休んでいると聞いたけど、具合はどう?」

「ちょっと良くないですね。でも、心配される程ではありません。」

淡々と答えたスペに、ライスも淡々と尋ねた。

「ホッカイルソーさんと、会ったのでしょう。」

 

「え?」

ビクッと反応したスペに、ライスは安心させるよう微笑を浮かべながら続けた。

「ブルボンさんから聞いたわ。あなたとルソーさんが、ここで何かいざこざがあったみたいだと。」

 

先程、ルソーとの話の後に訪れたブルボンに、スペは何があったかは一切話さなかった。

ブルボンも深くは聞き込もうとしなかったのだが、

「そのことをブルボンさんが私に伝えて、“自分はコミュニケーションが苦手だから宜しくお願いします”と、頼まれたの。」

「そうですか。」

 

納得したように頷いた後、スペは目線を足元に落としながら言った。

「でも、ルソーさんとは特に何もありませんでした。」

勿論、それをライスが信じる筈もない。

「隠さなくてもいいわ。私も今朝、ルソーさんと会ったから。」

「え…。」

「心身共にかなり苦しんでいた様子のルソーさんとね。そんな彼女とあなたが、ここでいざこざがあった。…確信してるけど、サイレンススズカさん・オフサイドトラップさん絡み、かしら。」

 

「どうして、お分かりに?」

やや表情を引き攣らせたスペに、ライスは穏やかな表情のまま、つと周りを見渡した。

「それをここで話していいのかしら?それとも別の場所にする?」

「じゃあ、外で。」

室内には自らが醸した重い空気が立ち込めているのを察し、スペは立ち上がった。

 

 

スペとライスは、共にコートを羽織って施設の外に出、遊歩道にあるベンチの一つに腰掛けた。

朝、ルソーとライスが話した所とは別の場所だった。

空模様は、冬の冷たい雨が降りそうな曇り空だった。

 

「まず、私がここに来た理由を話すわね。」

ベンチに座ると、ライスは言った。

「私が来たのは、スズカさんに天皇賞・秋後に起きたことを伝える為なの。」

「えっ…」

ドキッと反応したスペに、ライスは言った。

「これは、私にしか出来ないことだからね。」

 

 

硬直した様子のスペの傍らで、ライスは淡々と穏やかに説明した。

「私とスズカさんは似てるわ。お互い、ウマ娘として人気絶頂の中で走ったレースで瀕死の重傷を負った。死の淵から奇跡的に生還した。その一方で、故障したレースでの勝者の栄光を閉ざしてしまった。しかも、そのことに気づいていないということまで一緒。」

 

「私の故障した宝塚記念で勝ったダンツシアトルさんは、喜びを殆ど表さずにいたから、理不尽な目には合わなかったけどね。でも…レース人気も私より上で、タイムもレコードと文句のつけようがなかったのに。」

私が余りにも無残なかたちで故障したせいで、その印象が彼女の栄光の記憶と歓喜を奪ってしまった。

 

「でも、私はそれに気づかなかった。教えてくれる人もいなかった。そのことに気づいたのは1年以上経って怪我が治った後だった。もうシアトルさんは学園から去っていたわ。」

 

「本当に辛かったわ。今でもだけどね。同胞の栄光を閉ざしてしまった申し訳なさで、苦しみ続けているの。この苦しみを理解してくれる人も、殆どいなかったことも辛かった。唯一理解してくれていたのは、マックイーンさんだけだった。」

 

「マックイーン会長が、ですか?」

尋ねたスペに、ライスはうんと頷いた。

「マックイーンさん自身が、それを表したことはなかったけどね。でも、理解してくれてたことは間違いないわ。何故ならマックイーンさんは、レースで怪我した私を処罰しようとしたんだから。」

「処罰ですか?」

スペは驚いた。

ライスは右眼あたりの黒髪をさらっと払った。

「私がシアトルさんの栄光を閉ざした事実に苦しむことを見越して、その罪悪感を少しでも和らげる為に私に処罰を与えようとしたの。凄いこと考える同胞だわ、マックイーンさんは。」

残念ながら(当然ではあるが)レースでの故障者、しかも瀕死の重傷を負った者を処罰するなんてありえないとそれは却下された。

結局、ライスの苦悩を知る者も、マックイーンの真意も理解する者もなかった。

 

スーッと一つ大きく深呼吸をした後、ライスは続けた。

「今回のスズカさんは、私と同じだわ。人気絶頂の自らがあれほどの怪我をしたことで、どれだけの影響をレースに与えてしまったか、気づいてない。」

更に周囲の状況は、ライスの時より遥かに悪い。

 

今、生徒会が処置を断行したことで、スズカが騒動の全てを知るのは時間の問題になった。

「騒動を知ったら間違いなく、スズカさんは私以上の罪悪感を背負うことになるわ。全てに絶望してしまうとも限らない。」

寧ろ、その可能性が高い。

「彼女がそうならない為に、私がここに来たの。彼女と同じ苦しみを味わい、その苦しみを理解できる者は、この世界で私しかいないから。」

それが自分の最期の使命だという言葉は、胸にしまった。

 

「勿論、私だけじゃスズカさんを支えるのは難しいわ。同じ経験しただけで、私とスズカさんにはそれ以外の接点は特にない。最も身近な存在は、人間では沖埜トレーナー、同胞ではあなた。」

言いながら、ライスはスペを向いた。

「スズカさんを誰よりも愛しているあなたなら、どんな絶望に襲われようと、必ず守ってくれると信じ…」

 

 

そこまで言って、ライスはハッとして言葉を止めた。

傍らでやや俯き気味に座っているスペの眼から、涙がポロポロ溢れ出していたから。

 

「どうしたの?」

スペの異変に、やや背の低いライスは覗き込むようにしながら、声をかけた。

「ごめんなさい、ライスさん。」

ライスの問いかけに、スペは口元を抑えながら、小さな声で答えた。

「私は、取り返しのつかない過ちをしてしまったんです。」

「え?」

 

スペは涙を拭わず、膝下にそれを滴らせながら、ぽつりぽつりと言った。

「先程、ルソー先輩と私があった件は…ルソー先輩が、何も分からずに最低な行動をした私を…咎めにきたんです。」

「最低な行動?」

「私、昨日ここに訪れたオフサイド先輩を責めてしまったんです。“何故スズカさんが怪我したのに喜んだのか”、…“あんなレース内容で勝って嬉しいのか”、“同じウマ娘として良心の呵責はないのか”って。」

 

 

「……。」

しゃくりあげながら言ったスペの言葉を聞いた途端、全てが崩れ落ちていくような喪失感がライスを襲った。

 



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同胞亀裂(3)

 

その後スペは泣きながら、ライスに昨日から今朝に到るまでのことを話した。

 

つい最近になって、自分は天皇賞・秋後の騒動を知ったこと。

一方的な内容を鵜呑みしてしまったこと。

昨日、スズカに会いに来たオフサイドを阻止し、屋上で彼女を問い詰めたこと。

オフサイドはスズカと会わずに施設を後にしたこと。

その後、夜にルソーと会い、彼女と衝突したこと。

椎菜から。オフサイドがどんな世界で生きてきたか教えられたこと。

今朝、ルソーから過去に起きた悲劇(シグナルライト)のことを教えられ、オフサイドの言動の真実を突きつけられたこと。

更に、オフサイドが全てに絶望して帰還の決意を固めていることを知らされたことまでを、話した。

 

 

「私は、オフサイド先輩の心を完全に傷つけてしまいました。決して癒えない、重たい傷を負わせました。オフサイド先輩が帰還の決意をしたのは私のせいです。私は何の罪もないオフサイド先輩を、そしてスズカさんも、絶望の底に落としてしまう致命的なことをしてしまったんです。」

取り返しのつかない自責の涙を溢して、スペは吐露した。

 

 

「そんなことが…」

スペの吐露に、ライスは絶句した。

まさかスペとオフサイド・ルソーの間でこんなことが起きていたとは、想像だにしてなかった。

多分マックイーンも、このことは知らないだろう。

騒動を知ったスズカを第一に守る存在であるべきスペが、オフサイドへの攻撃をしてしまっていた。

事態を乗り越える未来への道筋が、一気に崩壊して見えた。

 

絶句しているライスの傍ら、スペは呟き続けた。

「本当に愚かですね…私は。」

スズカさんばかりしか見なかったせいで、視点が極端になった。

事に対しての冷静な思考を失った。

「お母さん、どれだけ嘆いているかな…」

スペは涙を拭って、一面の曇り空を仰いだ。

 

スペさん…

彼女の嘆きと後悔を前に、ライスは喪失感に襲われながらも胸が痛んだ。

スペシャルウィーク、優しさと明るさに溢れた天使のようなウマ娘。

多分、誰かに対して怒りの感情や責めの感情など、一度も抱いたことがなかった筈。

 

今回のオフサイドに対しての行動が、スペにとって生涯初めての他人を責めた行為だったろう。

彼女のウマ娘性からして、その行動だけでも相当な苦痛だった筈。

それがよりによって、最悪中の最悪といっていい行動だったなんて。

 

純真無垢な彼女までが、思考を侵されたのか。

スズカを最も愛してた者ゆえに、冷静な思考を失ったのか…

 

『オフサイドトラップ、スズカの怪我を嘲笑う』

『スズカ悲劇の恩恵の天皇賞覇者』

あんな報道のせいで、彼女程のウマ娘が…

初めてライスの胸に、あの騒動に対する怒りが湧いた。

 

だが、それはすぐに胸の奥に抑え込んだ。

これは誰も悪くない。

今のウマ娘界の現状からして、起きるべくして起きたことだ。

やるべきことは、いかにしてこの現実を乗り越えるかだ。

 

 

「スペさん、落ち着いて。」

ライスは、泣き続けるスペの手を握った。

「オフサイドさんが帰還の決意をしたのは、あなたのせいじゃない。」

彼女が、マックイーンに自らの決意を明かした手紙を送ったのは昨日の朝、スペと会う前だ。

ここに来た時は、もうオフサイドはその決意を固めていた。

「だから、あなたが追い詰めた訳じゃないの。それは分かって。」

 

ライスの言葉に、スペは静かに首を振った。

「でも、オフサイド先輩が帰還してしまったら、もう同じことです。同胞から理不尽な責めを受けたことで、先輩の絶望はより深くなった筈ですから。」

「…。」

ライスは黙った。

オフサイドの決意を翻意させるのに、スペの行動が致命的な負になってしまったのは、間違いない事実だった。

 

「ライス先輩。」

黙ったライスに、スペが言葉をかけた。

「ライス先輩は、スズカさんに騒動の全てをお伝えに来たんですね。」

「うん。」

「それは、私にさせて頂けますか。」

 

「えっ…」

「さっき、ルソー先輩から言われたんです。スズカさんに起きた騒動の全てと、そして自分もオフサイド先輩を責めたことを正直に明かすように”と。」

 

「ルソーさんが、そう言ったの?」

「それが、私がスズカさんに出来る最大限のことだと、先輩は言ってました。私は、その言葉通りにするつもりです。例えスズカさんに…」

 

「それは駄目!」

思わず、ライスは大声を出した。

ただでさえ、騒動を知るだけでもスズカが受けるであろうショックは計り知れないのに、それに加えてスペがやってしまった行動まで知ったらもう絶望的だ。

それだけは、許してはいけないと思った。

 

もうここは、同胞を守る為だ。

「スペさん、あなたは何もしないで。」

ライスは、全身の気力がなくなったように泣いているスペの身体を抱きしめた。

 

「あなたの過ちは、隠すから。」

 



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同胞亀裂(4)

 

*****

 

施設の、ルソーの病室。

 

開け放たれた窓の側の椅子に座っている患者衣姿のルソーは、憔悴し切った表情で、外の風景を眺めていた。

 

あと9時間少々か…

14時を回った時計の針を見て、ルソーは呟いた。

今日終わるまでの時間、それまでにスペはスズカに全て打ち明けられるかしら。

もう、時間は残されてないよ。

灰色の曇り空の下、寒風に舞い落ちていく枯葉が見えた。

 

先程、ルソーも学園が天皇賞・秋後の騒動に対する処置を断行した報道を見た。

遅すぎたな、という思いしか湧かなかった。

 

多分、オフサイド先輩の帰還の決意を知って、それで決断を下したのだろう。

ここまでになってから行動をとるなんて、生徒会はよっぽどオフサイド先輩に対する見方が甘かったのね。

と言って、自身もオフサイドの帰還は予想していなかったので、生徒会をそこまで責める気にもなれなかった。

 

というより、責めたってなんの意味もない。

絶望の未来が確定したんだから。

オフサイド先輩も、そしてサイレンススズカも。

 

 

サイレンススズカ…

 

あれは、昨年の夏だったかな。

室内に入ってくる寒風に吹かれながら、ルソーはふと追憶するように眼を瞑った。

まだ『フォアマン』のチーム仲間だったスズカが、〈死神〉療養中のオフサイド先輩と私の見舞いに来てくれたことがあった。

その時、外を散歩しながら、会話を交わしたっけ…

 

 

 

昨年の夏の出来事…。

それは、スズカのチーム加入直後から長期の療養生活を送っていた為、チーム仲間としてあまり彼女と接することがなかったルソーにとって、スズカとの数少ない記憶の一つ。

 

 

 

*****

 

 

 

「オフサイド先輩、ルソー先輩。お二人には、大きな夢ってあるんですか?」

 

日差しの強い中、施設の外の芝生の上を並んで歩きながら、当時2年生のスズカは、二人のチーム先輩に尋ねていた。

 

「大きな夢?ただの夢じゃなくて、大きな夢?」

「はい。お二人は、〈クッケン炎〉という恐ろしい病気に罹っているのに、少しもたじろかず、強く希望を求める姿を見せている。ということは、恐ろしい病にすら負けない、大きな夢があるんじゃないかと思ったんです。」

 

「大きな、夢か。」

ルソーが、先に答えた。

「私にはそういうのはないかな。あるとしたら、どうしても復活して、勝利を届けてあげたい大切なウマ娘がいるから懸命に頑張っている、かな。」

「大切なウマ娘?」

「そう、勝利と一緒に最高の笑顔をどうしても届けたい、見せたいウマ娘がね。」

ルソーの視線は、夏の青空の彼方を見つめていた。

 

ルソーに続いて、オフサイドも答えた。

「私も同じかな。ブライアン・ローレルとの約束を果たすことを希望に、ターフへの夢を繋いでいるの。」

「ブライアン先輩、ローレル先輩との約束ですか。」

「うん。そしてもう一つ挙げるとすれば、ちょっと恥ずかしいけど、故障に苦しむ全ての人に希望を与えたいという夢があるんだ。」

恥ずかしいと言いながら、オフサイドは自信に満ちた表情だった。

 

 

「全ての人に、ですか?」

尋ね返したスズカに、オフサイドはうんと頷きながら続けた。

「そ、同胞だけじゃなくて、人間の皆さんにもね。人間界にも、〈死神〉と同じような不治の病に苦しんでいる人々が沢山いるわ。私が〈死神〉に決して屈せずに何度も何度も闘ってこれたのは、私が〈死神〉に打ち克つことで、不治の病に希望を奪われた全ての同胞・人間の皆に大きな希望を灯してあげたいという、夢を抱いていたからなの。」

 

「随分大きな夢ですね、先輩。」

「ルソー、いつも言ってるでしょ。夢と希望は自由だって。自由で、果てしなく大きいんだわ。どんな不治の病にもおかされない、無限なものなのよ。」

感心したような苦笑を浮かべたルソーに、オフサイドは手をかざしながら陽射しを仰いで言った。

 

「うふっ。」

不意に、スズカが微笑った。

「どうしたの、スズカ。」

尋ねた二人に、スズカは髪に触れながら答えた。

「いや、オフサイド先輩の夢、私と似てるなーと思ったんです。」

「あら、そうなの?」

「はい。実は私の夢は、みんなが幸せになれるような、夢を与える走りをすることなんです。」

 

「幸せになれる走り?」

「はい。ウマ娘の究極の走りって、それじゃないかなと思ってるんです。勝敗だけじゃなくて、全ての人々を魅了して、幸せな気持ちで一杯になれるような姿をターフでみせることだと。私は、そんなウマ娘になりたいと夢見てるんです。」

そう言うと、スズカは少し恥ずかしかったのか、芝生の上で左にクルクルと回り始めた。

 

「はー…」

「おかしいですか?」

回りながら聞き返すと、二人とも首を振った。

「いや、全然おかしくないよ。」

「凄く素敵な夢じゃない。」

 

「あなたには確かに、その夢を実現出来る能力があるわ。」

クルクル回っているスズカに、オフサイドは言った。

そう、天賦のスピード。

ウマ娘が何よりも憧れ魅了されるそれを、スズカは持っている。

「その能力で、人々に幸せと夢を与える。それはとても素晴らしいことだわ。それを夢見るあなたも、素晴らしいウマ娘よ。」

「そんな、照れます。」

スズカのクルクルが早くなった。

 

「アハハ、その夢を叶えたいなら、もうゲートをくぐったりしないようにね。」

「ルソー先輩!」

揶揄うように言ったルソーの言葉に、スズカはクルクルを急止して赤くなった。

「冗談よ。でももうあんなことはしないようにね。今だから笑い話だけど、下手したら大怪我するところだったんだから。」

「気をつけます。」

「まあ、あれで全く怪我しないんだからあんたの身体の柔軟さも凄いよね。その夢の実現、決して不可能じゃないと思うわ。」

シュンとしたスズカの頭をよしよししながら、ルソーは言った。

 

「まだまだ、遥か遠い夢だということは分かっています。」

よしよしされながら、スズカは答えた。

まず強く、勝たなければならない世界。

スズカは決して傑出した成績は挙げられておらず、内容も波が激しい。

ゲートくぐりの件みたいに、精神的な弱さもある。

夢の前に、沢山の課題・壁が立ちはだかっている。

「でも、必ず叶えられると信じています。…だから先輩も、頑張って必ず夢を叶えてください!」

 

「うん。」

「叶えるわ、必ず。」

後輩に力強く言われ、オフサイドもルソーも頷いた。

 

頷いた後、オフサイドはスズカに軽く手を出しながら言った。

「いつかターフであなたと、お互い夢をのせたレースが出来る時が来ればいいね。」

「はい!来ると信じています。私も先輩も同じ大きな夢をのせて、ターフを駆ける日が来ることを!」

スズカは笑顔で頷き、オフサイドと手をポンと合わせあった。

 

 

 

*****

 

 

 

…ふっ…うっ…

 

記憶を思い返しながら、ルソーは嗚咽を必死に堪えていた。

だがその両眼からは、止めようのない大粒の涙が溢れ出し、覆った手のひらから滴となって床にこぼれ落ちていた。

 

 

 

 

どれくらい経ったろう。

 

病室の扉をノックする音を聞き、ルソーは我に返った。

 

涙を拭い、衣についた涙痕を吹きとり、それから努めて平静な声で返事した。

「…どなたですか?」

 

「失礼します、ホッカイルソー。」

 

入室してきたのは、ブルボンとライスだった。

ライスは、杖をついていた。

 



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『第5章・下』
オフサイドトラップ回想録(2)


連載再開します

今話は回想録で、次話より本篇再開です


 

(87話の回想録(1)より続く)

 

 

私の懸命の説得で、サクラローレルは諦めることを踏みとどまった。

そして僅かな可能性に懸け、両脚の手術を受けた

 

手術の結果、奇跡が起きてくれた。

両方の折れた脚が、繋がった。

帰還もやむを得ない程の重傷だったが、ターフに復帰出来る可能性も出てきたのだ。

 

勿論すぐにじゃない。

復帰は早くても1年以上後だと宣告された。

でも、ローレルはそれを受け入れた。

奇跡が起きたことで、消えかけていたターフへの想いが再び灯っていた。

 

 

そして手術後間もなく、ローレルも療養施設で生活を始めた。

私やマイシンザン先輩と違い彼女は怪我だったが、チームは一緒なので同室での療養生活となった。

 

競走生活は繋がったものの、ローレルの気力はまだしばらく落ち込んでいた。

当然だ、何度も故障を乗り越えいよいよ花開くという所まで来ての大怪我だったのだから。

ブライアンと天皇賞春で闘うという大きな夢も消えた。

この大きな挫折から立ち直るのは、容易いことではない。

 

私は、ローレルを励ましながら、自分も〈死神〉との闘病を続けた。

毎日毎日、焼けるような痛みとの闘い。

闘病中、同じ闘病仲間達が、一人また一人と〈死神〉に心折られ、いなくなっていく。

絶望が蠢く中、私はその絶望と闘い続けた。

 

〈死神〉に再度蝕まれ、一度心が折れかけた私だけど、今は絶望と闘うだけの理由があった。

…ローレルの為だ。

ローレルの絶望は、私より大きい。

まだ自由に動ける私と違い、ローレルは脚を動かすことすらままならない生活を送っていた。

それが、どれだけ辛く苦しいことか…

その姿を見る度に、私は涙が出そうだった。

 

でも、涙は胸内に留めた。

泣く代わり、私は同胞として親友としてチーム仲間として、ローレルを何が何でも支えてやりたかった。

今の私に出来るのは、自分の心が折れない姿をローレルに見せることだけ。

だから必死に、絶望と苦痛に抗い続けた。

治療の痛苦にのたうち回って、悲鳴をあげて、もう嫌だと泣き叫んで…それでも屈するものかと闘い続けた。

 

 

 

そして、一月近くが経った、3月の終わり頃。

全く予想しなかった、新たな悲報が飛び込んできた。

 

チームの後輩のフジキセキが、〈死神〉の魔の手にかかった。

 

昨年の朝日杯を制して1年生王者となり、弥生賞ではチーム仲間のホッカイルソー以下相手に快勝して4戦4勝とし、クラシック最有力候補だったキセ。

そんな彼女が、まさかの〈クッケン炎〉を発症した。

しかも重度のもので、復帰には一年以上要するとのことだった。

 

キセは、トレーナーらと熟慮を重ねた末、引退という苦渋の決断を下した。

彼女は非常に成績優秀で血筋も良く、引退後の仕事や進路も拓けていた。

キセはその仕事に尽くす為、引退を決断したのだ。

 

とはいえ、3冠の可能性も高いとされていた中でターフを去ることは、やはり相当に無念だった。

実際、キセが引退を表明した時、彼女は悔しさからか涙を流していた。

ルソーも泣いていたし、シグナルライトに至っては号泣していた。

トレーナーやチーム先輩の私達も非常に無念の思いだった。

同時に、〈死神〉の恐ろしさも一層感じ、絶対に折れるものかと心に誓い直した。

負けるものか、絶対に負けるものかと…

 

 

 

だが、キセ引退のショックから日も経たない4月始め、またしても悲報が舞い込んだ。

天皇賞・春を目前にしたナリタブライアンが、股関節に故障を発生させてしまったのだ。

結果、天皇賞・春への出走は断念せざるを得なかった。

また、その故障もかなり重いものであり、ブライアンも療養施設で生活を送ることになった。

 

ブライアンは非常に落ち込んでいた。

史上最強のウマ娘への道を駆け上がっていたブライアンにとって、この故障は大きな挫折だった。

いや、挫折だけならまだ良い。

故障が股関節だったことが、ブライアンにとって重大だった。

ブライアン独特の、重心をぐんと低くしてスパートする走法が、この故障によって出来なくなってしまう可能性が高かった。

自分の走りが失われる、そのことへの危機感がブライアンを苦悩させていた。

 

共に療養生活を送るように以後、私達同期のチーム仲間三人は、お互い支え合いながら療養生活を送った。

史上最強の称号を手に入れる寸前で挫折したブライアン。

幾多の苦難を乗り越え華開く寸前で地獄に叩き落とされたローレル。

〈死神〉から復活したのに再び〈死神〉の魔の手にかかった私。

一人だけだったら、多分絶望に呑まれていただろう。

共に苦しみを分かち合える仲間がいた。

そのことで、私達は心折れずにいられた。

 

勿論、私三人だけじゃない。

〈死神〉と闘病を続けるマイシン先輩の存在も大きかった。

マイシン先輩は私達後輩の前では、決して気弱な所は見せなかった。

それだけでも私達は元気つけられた。

チームの岡田トレーナーも、何度も施設に足を運んで私達の見舞いに来てくれた。

相次ぐチーム所属メンバーの故障で、トレーナーは世間の厳しい声に晒されていた。

でもトレーナーも、苦しい素振りは全くみせなかった。

他のチーム仲間達も、チームの苦境の中で奮闘してくれた。

フジヤマケンザン先輩は、後輩の私達が故障で離脱する中もリーダーとしてレースで奮闘を続け、チームの支柱的存在として頑張ってくれていた。

セキテイリュウオー先輩も、後輩のチーム仲間達の面倒をよく見てくれた。

後輩のルソーやシグナルも、クラシック戦線で闘いながら、見舞いによく来てくれた。

特にシグナルはいつも明るい笑顔を振りまいて、私達の心を癒してくれた。

仲間達に支えられながら、私達は療養生活を続けた。

 

 

 

そうした中。

6月に開催された宝塚記念で、〈死神〉との闘病を乗り越えターフに復帰したダンツシアトル先輩が奇跡の復活優勝を果たした。

〈死神〉闘病仲間達はその快挙に沸き、勇気づけられた。

勿論私もその一人だ。

シアトル先輩とは、1度目の療養生活の時に闘病を共にしており周知の仲だった。

シアトル先輩は外国の偉大な三冠ウマ娘の血筋を引く身でありながら、相次ぐ故障に苦しみターフにも中々立てなかったが、必死に闘病し遂に〈死神〉を破って栄光を手にした。

信じられないことを成し遂げた先輩の勇姿に思わず涙が溢れた。

 

でもその後残念なことに、シアトル先輩は再び〈死神〉の手に罹った。

先輩は決して口にしなかったが、宝塚記念を制したのに称賛の声が少なかったショックがあったのだと思う。

あのレースでは、道中でライスシャワー先輩が重傷を負って倒れた。

その影響で、シアトル先輩のことはあまり省みられなかった。

仕方ないことなのかもしれないとはいえ、やはりそれはショックだったのだろう。

結局、シアトル先輩は間もなく引退した。

また、同レースで久々に復帰したナリタタイシン先輩も〈死神〉を再発症し、シアトル先輩と共に引退した。

時期を同じくして、昨秋の天皇賞ウマ娘のネーハイシーザー先輩や、宝塚記念で3着だった同期のエアダブリンも重賞3勝を挙げたスターマンも、次々と〈死神〉の魔の手に罹った。

まるで、灯された希望の光を全て覆い消すように、〈死神〉の嵐が吹き荒れた。

 

吹き荒れる〈死神〉の猛威に、闘病仲間達は再び暗い雰囲気の中に落とされた。

一時希望の光が灯されかけた分、未来への絶望も大きかった。

重症者の引退、帰還も相次いだ。

 

でも、私は決して諦めなかった。

栄光が翳されたとはいえ、シアトル先輩の走りはレコードタイムであることが示すように、文句のつけようのない勝者に相応しい走りだった。

あの走りは、確かに〈死神〉を打ち破っていた。

〈死神〉は決して乗り越えられない悪夢ではない。

それをシアトル先輩は証明したのだから。

 

そしてもう一人、私以上に打倒〈死神〉を掲げ、奮闘していた先輩がいたから。

シアトル先輩と同期のマイシン先輩だ。

 

マイシン先輩の同期のスターウマ娘は、シアトル先輩も含めほぼ全員が〈死神〉の魔の手によってターフを奪われていた。

先輩は自身が〈死神〉を打倒することで、同期の無念を全て晴らすと決意し、鬼気迫る雰囲気で闘病を行った。

そんな先輩の姿を目の当たりに、私も絶対に諦めるものかと誓った。

〈死神〉がどんなに絶望を振りまこうが、ウマ娘の夢と希望は絶対なのだと、心を奮い立たせて。

 

 

 

そして季節は流れ、夏から秋に変わった。

 

8月が終わる頃、マイシン先輩の病状が良くなり、学園への復帰が決まった。

マイシン先輩は天皇賞・秋に目標を定め、すぐに復帰戦に挑もうとしていた。

先輩は天皇賞・秋を絶対に獲る気でいた。

一方で、股関節の怪我による療養生活を送っていたブライアンも、天皇賞・秋を復帰戦と定め、間もなく療養生活を終えようと考えていた。

だが、マイシン先輩と違いブライアンは少々無理をしているのではと感じた。

まだ故障が完全に癒えた訳でもなかったから。

トレーナーも難色を示していたが、ブライアンは断固としてその意思を変えなかった。

結局、天皇賞・秋の一月ほど前に、ブライアンは私やローレルより一足先に療養生活を終え、学園に戻った。

 

その後、マイシン先輩が復帰戦の重賞レースでレコード勝利し見事な復活をみせたのと対照的に、ブライアンの調子は一向に上がっていないようだった。

彼女が危惧していたように、股関節の怪我でこれまでの走法フォームが失われていた。

正直、天皇賞・秋での復活は無理だと思われた。

それでも、ブライアンは出走の意志を変えなかった。

三冠ウマ娘の誇りにかけて、これ以上休むことは許されないと思ったのだろうか。

 

 

そして迎えた、第112回天皇賞・秋。

正直、思い出したくない悪夢ばかりだった。

 

レース前日に、マイシン先輩が〈死神〉再発症し、何もかも奪われた。

そして天皇賞・秋のレースでは、ブライアンは直線全く伸びず、12着と惨敗した。

私もローレルもレースをTVで観ていたが、ブライアンが馬群に沈んでいく様を、ただ唇を噛み締めて見つめるしかなかった。

 

その後、〈死神〉を再発症したマイシン先輩は引退した。

ブライアンは、天皇賞・秋に次いでJCにも出走したが、6着と再び惨敗した。

秋になっても、『フォアマン』に暖かい風は吹かなかった。

 

 

一方、〈死神〉との闘病を続けていた私も、年内の復帰を目指していた。

大分治ってきたとはいえ、〈死神〉に侵されている右脚の状態はまだ芳しくなかった。

でもこれ以上休み続けてはいられないという危機感があった。

マイシン先輩の悲劇と引退、復帰するも試練続きのブライアン、

そして、厳しい逆風に晒され続けている『フォアマン』。

苦しんでいる仲間達の為に、なるべく早く復帰したかった。

 

 

そして11月末、私は学園に戻った。

1度目の復帰の時と違い、脚の状態はそこまで良くなかった。

痛みは依然残っていたし、患部のケアにもかなり労力を使った。

でも、あとは耐えてなんとかするしかないと思った。

ウマ娘として最も成長出来るであろう期間を、私は〈死神〉に殆ど奪われた。

これ以上、奪われてたまるかと思った。

 

そして12月、私は10ヶ月ぶりとなる復帰戦に挑んだ。

結果は3着。

まずまずの出来といえた。

 

だけどレース後に、脚の異変を感じた。

それも、〈死神〉に侵されている右脚だけじゃなく、無事である筈の左脚にも。

 

検査の結果、右脚の異変は〈死神〉再発の恐れが出た為によるもの、そして左脚の異変は〈死神〉に侵されている右脚を庇う生活を長くしていた為に起きた脚部不安併発だった。

右脚だけでなく、左脚にまで故障が発生してしまった。

現状のままこれ以上レースに出るのは危険だと、ドクターストップがかかった。

結局、復帰から一月も経たずに、私は3度目の療養生活を余儀なくされることになった。

 

すごいショックだった。

いよいよ、自分にも終わりの時が迫ってきたのかなと感じた。

 

…それでも、心は決して折れなかった。

だって、私以上に苦悩と闘っている仲間がいたから。

走りを失いながらも必死に頂を目指すブライアン、再起不能寸前から這い上がろうとするローレル。

必死にもがきながら闘い続ける盟友の姿を前に、心が折れる訳にはいかなかった。

閉ざされかかる未来への扉に身体を挟み込み、痛苦に歯を食いしばって、私は3度目の療養生活に入った。

 

 

 

そして、私が3度目の療養生活に入った直後。

ずっと逆風続きだった『フォアマン』に、朗報が入った。

 

リーダーのケンザン先輩が、昨年に続いて出走した海外の大レースで、日本代表のウマ娘として30数年ぶり優勝という快挙を達成した。

日本チーム所属としては史上初という快挙であり、日本ウマ娘の歴史に新たなページを刻んだ。

 

私は、ケンザン先輩が盟友のトウカイテイオー先輩と『海外の大レースで優勝する』という誓いを交わしていたことを知っていた。

これまでにも2度、海外大レースに挑んでいたが惨敗し、その挑戦を冷笑する声も多かった。

でもケンザン先輩は諦めなかった。

そして、引退しても不思議でない6年生にして遂にその夢を叶えた。

それも、チームが本当に苦しい状況の中で。

リーダーの歴史的快挙に、チームは久々に歓喜に沸いた。

 

 

 

その後、年末の有馬記念(ブライアン4着)を最後に、この1年は終わった。

昨年までとはまるで違う、私にとっても『フォアマン』全体にとっても苦しい苦しい1年だった。

それでも、最後の最後で未来への希望が幾つか見えた。

夢を叶えたケンザン先輩は、来年も現役続行を表明した。

故障や調整難もあり今年は殆どレースに出れなかったリュウオー先輩は、来春で引退すると表明した。

 

後輩では、ルソーとシグナルはクラシック戦線で活躍を続けたものの、栄冠は掴めずに終わった。

それでも、苦しい時期に明るくチームを牽引した二人は、来年へ向かってかなり気合が入っていた。

新メンバーのフサイチコンコルドとロイヤルタッチは、コンコルドは体質もありデビューは持ち越しになったがタッチの方は1年生重賞で勝つなど来年への大きな期待を抱かせた。

 

 

そして、同期の2人。

故障に苦しんだブライアンは、復帰後3戦していずれも勝てなかった。

だが最後の有馬記念は4着だったとはいえ、以前の手ごたえが戻ってきた感覚があったようだった。

ケンザン先輩の快挙も心に大きな刺激を与えたのだろう。

ブライアンは来年の王座奪還へ向け、再び闘志を滾らせ始めていた。

 

依然、重度の骨折による療養中のローレルは、来春には復帰すると目標を掲げていた。

当初はしばらく動くことすらままならない生活を送っていたが、今は歩行にも支障をきたさない程に脚の状態は快復していた。

ローレルは今年叶わなかった春の盾への夢を、必ず叶えると心に決めていた。

 

 

そして私は。

二人と違い、目標も何も定められなかった。

故障に蝕まれた両脚を前に、いつ復帰出来るのかも見通しが立ってなかった。

 

それでも心折れずに、夢と希望を失わずに生きていこうと誓った。

 

〈続く〉

 



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同胞亀裂(5)





(143話より続く)

 

ライス先輩にブルボン先輩…

 

訪れた二人の姿に、ルソーは不穏な気配を感じた。

「なんの用ですか?」

「少し、お話しを宜しいでしょうか?」

「…。」

誰とも話したくなかったが、ブルボンの有無を言わさない威圧感を感じ、ルソーは黙って二人を招き入れた。

 

「あれライス先輩、脚の状態が悪いんですか?」

杖をついてる姿に気づき、ルソーは声をかけた。

「冬の寒気が、少し堪えまして。」

ライスは特に表情も変えず、短く答えただけだった。

 

「光栄ですね。」

室内の椅子に向かいあって座ると、ルソーは訪れた二人を見ながら苦笑した。

「何がですか?」

「お二人のような偉大な先輩が、私のような者を訪ねてきたことです。」

ブルボンもライスも、G1を3度制した実績とそれ以上の人気を手にしたスターウマ娘。

重賞1勝止まりの自分とは比べるべくもないお二方ですよ。

「なんか、言いようのない緊張感というか、劣等感を感じますね。ハハ…。」

 

朝と違う…

力ない表情で苦笑しているルソーを見て、ライスはそれに気づいた。

遊歩道のベンチで錯乱した言動を見せた時より、更に悪い。

なんだか、2週間前に『祝福』で会ったオフサイドの窶れた姿と重なって見えた。

もしかして、ルソーさんも…

 

「ご用件は、なんでしょうか。」

黙っている二人に、苦笑をやめたルソーの方から尋ねた。

 

「スペシャルウィークのことです。」

ライスではなくブルボンが、無感情な口調で答えた。

「スぺのこと?」

「先程、あなたと彼女が会った件についてです。」

スペとの件…

「スペから聞いたのですか。」

「私が聞きました。」

ライスが答えた。

 

ははあ…ブルボン先輩の口から、私とスペの間になんかあったと知ったのか。

察しつつ、ルソーは尋ねた。

「それで、何の用ですか?」

「スペシャルウィークのおかした過ちを、許して頂きたいのです。」

ブルボンが、無表情で言った。

 

「スペから頼まれたのですか?」

「いえ、これは私からの頼みです。」

低い声で尋ねたルソーに、ライスが努めて冷静な口調で答えた。

「何故、そんなことを?」

「あなたが、スペさんに要求したことを知ったからです。」

 

要求したこと…あの小娘、全部喋ったのか。

ルソーは黒髪に触れながら苦笑を浮かべた。

「天皇賞・秋後の騒動と自分のおかした過ちを全てスズカに打ち明けるようにと、私がスペに要求したことですね。」

「はい。」

「要するに、スペの過ちだけはスズカに知られてはならないと判断して、私のもとに来たということですか。」

「仰る通りです。」

ライスは素直に頷き、少し俯いた。

 

少し、沈黙が流れた。

 

やがて、再びルソーが尋ねた。

「スペ自身は、どうするつもりだったんですか?」

「スペさんは、自分のしたことを深く悔い、あなたの言われた通りにするつもりでした。」

はー…

ルソーは呆れたように背もたれし、腕を組んだ

「本人がそう思っているのなら、そうさせてあげれば良いじゃないですか。」

「それがスズカさんにとってどれだけ危険なことか、あなたもお分かりでしょう。」

平然と言ったルソーを、ライスは蒼く光る眼で少し睨んだ。

「分かってますよ。」

ルソーはライスの視線にも動じず、言い返した。

「でも、これはスペの自業自得です。世間の愚かな風潮に毒された故とはいえ、彼女はオフサイド先輩を理不尽に傷つけた。この事実は、動かしようがありません。その報いは受けるべきでしょう。」

「スペさんはそうかもしれません。ですが、その報いがスズカさんにまで及ぶのは避けるべきです。」

 

「避けようがないですよ。」

ライスの言葉に、ルソーは冷笑した。

スズカと最も近い同胞で、最も愛するウマ娘がやってしまったのだから…

「だからせめて、彼女の口からそれを伝えた方が良いのでは。」

「スズカさんの身のことは、考えないのですか?」

ライスが尋ねると、ルソーはふっと息を洩らした。

「身も何も、もう結末は決まっているじゃないですか。オフサイド先輩が帰還を決意した以上、スズカも帰還は避けられないって。」

 

「…。」

ルソーの言葉に、ライスの蒼い眼が険しく光った。

ブルボンは無表情のままだったが、無言の威圧感が一層増して感じた。

 

二人の様子を見て、ルソーは口元をやや歪ませつつ尋ねた。

「お二人は、スズカを守る為に療養施設に来たんですよね?」

「?どういう意味ですか?」

「オフサイド先輩の帰還の決意を知った私達が、スズカに何かしない為に見張りに来たのかと尋ねているんです。」

「バカなことを。」

そんな訳ないでしょうと、ライスは表情を顰めた。

蒼眼に不快感が滲んでいた。

 

「信用出来ませんね。」

ルソーは歪んだ口元のまま溜息をついた。

「じゃあ例えば、さっきの話の続きで、もし私が強引にスズカに全てを伝えようとしたらどうしますか?」

「…?」

「絶対に阻止しようとしますよね?」

「当然です。」

ブルボンが、全く表情を変えずに即答した。

それを見て、ルソーはまた歪んだ微笑を浮かべた。

「何がおかしいのですか。」

「いえ、随分と迅速で強気な態度で、オフサイド先輩の危機の時とは全く違う対応だなと思ったんですよ。スターウマ娘の仲間意識ってのは大したものですね。」

皮肉と侮蔑と怒りを込めた冷笑で、ルソーはブルボンを見返した。

 

ルソーの冷笑に対し、ブルボンは僅かに表情を変えたが、それでも無感情な口調で反論した。

「我々生徒会は、オフサイドトラップの件でも、真摯に対応してきました。」

 

「真摯?どこがですか?」

ブルボンの言葉に、ルソーは冷笑を消して声を荒げた。

「あの天皇賞・秋後の騒動で、学園はオフサイド先輩を表立って擁護しようとしなかったじゃないですか!大規模な人間達の理不尽な中傷や攻撃に全て後手後手で対応して、その結果岡田トレーナーは学園を去りオフサイド先輩は心を失い、『フォアマン』は分解した。ステイゴールドやその他のチーム仲間達もどれだけ傷ついたか。それでよく真摯などと…」

 

「やめて、ホッカイルソー。」

ブルボンに対して声を荒げたルソーを、ライスがぞっとするような静かな声で制した。

髪に隠れている右眼からも蒼い光芒が洩れていた。

…。

寒気を感じ、ルソーは言葉を止めた。

 

大人しくなったルソーに、ライスは蒼芒を洩らしつつ静かに言った。

「あなたの言う通りだわ。学園側はマックイーンさん達生徒会も含めて、騒動への対応がまずかったことは否めない。世間との衝突を避けんが為、騒動の矢面に立ってオフサイドさん達を守ろうとしなかったのは事実です。」

学園内でウマ娘の生徒会と人間の理事会が対立していたことは伏せ、ライスは淡々と続けた。

「でも、今回の騒動がここまで悲惨な事態になってしまった元凶は、このライスシャワーにあります。」

…。

ブルボンもルソーも、ライスの思わず見つめた。

 

椅子に腰掛けているライスは、蒼芒が零れる両眼を真っ直ぐルソーに向けて言葉を続けた。

「ルソーさん。朝、あなたに責められた通りです。私は、あの宝塚記念で残ってしまった負の事実を、そのままにしてしまった。」

レース中の悲劇によって覆い隠された栄光。

幸いに生き残れた以上、その覆われた栄光を表に出す義務があったのに、それをしなかった。

それをしていれば、今回のような騒動は起きなかった。

「私とスズカさんとでは少し立場は違います。それでも、レースの大切や栄光の重さ、そして勝敗の尊厳というものを私が発信していれば、ここまで悲惨な事態には決してならなかった。責任はこの私にあります。」

そこまで言うと、ライスは両眼を閉じた。

 

 

「ライス先輩を責めたってしょうがないです。」

ライスの言葉の後、ルソーは力が抜けたように溜息を吐いた。

本当は、生徒会や学園を責めたってなんの意味もないことも分かっている。

今更そんなことしてもどうしようもない位、現実は切迫してるのだ。

オフサイド先輩は帰還を決意し、スズカの絶望へのカウントダウンも始まった。

この現実を前にして他への責任追及など、ただの現実逃避でしかない。

そう、現実逃避でしかないのだが…

 

「すみません、お引き取り頂けますか。」

ルソーは額に手を当てて俯きながら、二人に言った。

「今の私、かなり壊れています。感情が爆発しそうで、まともな話が出来そうにありません。」

 

心が疲弊しきったような口調だった。

 



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同胞亀裂(6)

 

10分後。

 

ルソーの病室を出たライスとブルボンは、誰もいない食堂の一席に移動し、向かいあわせに座っていた。

 

「事態は深刻ですね。」

無表情のブルボンを前に、ライスは頭に手を当てて嘆いていた。

スペの過ちを許して貰う為にルソーに会いにいったのだが、ルソーの絶望ぶりがあまりにもひどく、それどころではなくなってしまった。

「オフサイドさんが帰還したら、彼女も帰還しかねないですね。」

「…。」

ライスの重たい一言に、ブルボンは無表情でこくりと頷いた。

「これ、マックイーンさんに伝えますか?」

「いえ、渡辺椎菜医師に伝えた方がいいでしょう。」

「そうですね。」

ブルボンの返答に、ライス呟きつつ頷き返した。

現状、ルソーを支えられるのは椎菜以外はいないだろうから。

ただその椎菜自身も、オフサイドの決意を知ってかなり動揺してるはずだ。

 

オフサイドトラップの帰還決意でここまで事態が深刻になるとは…

思わず嘆息が出そうになり、ライスは胸を抑えた。

 

胸を抑えつつ、ライスは話題を変え、現状についてブルボンに尋ねた。

「今、オフサイドさんはどうされてるのですか?」

「はい、」

ライスの質問にブルボンはスマホを取り出し、届いている生徒会の連絡事項を見つつ答えた。

「先日以降、生徒会長の指示によりメジロ家の別荘で保護されているようです。今はビワハヤヒデが彼女のもとにいます。」

「彼女を翻意させる為の手は?」

「尽くしています。今朝早くには沖埜トレーナーが謝罪に向かわれたようです。あと、岡田トレーナーにもオフサイドの決意を知って貰うよう使いを派遣したようです。そして、海外療養中のサクラローレルにも急報を伝えたとの報告が。」

「ローレルさんに?」

「ええ。まだ移動も困難な状態らしいですが、なんとか彼女をオフサイドに会わせられるよう、会長が手を尽くしているようです。」

 

「そうですか。」

ブルボンの返答を聞き、ライスは静かに頷いた。

岡田トレーナーにサクラローレル…確かに、手は尽くされているようですね。

オフサイドの決意を翻意させられるとしたら、その二人が最有力だと自身も思っていた。

 

とはいえ、その二人だけではかなり厳しいだろう。

まだ、重要な者が数人必要だ。

ライスの脳裏には、その数人がすぐ浮かんだ。

フジヤマケンザン・渡辺椎菜、そして…

「サイレンススズカ…」

「はい?」

「オフサイドさんを救う為に最も重要な存在は、サイレンススズカさんですね。」

ライスは、静かに蒼眼を煌めかせた。

 

 

ライスは、ただ単にスズカに真実を伝える為にここに来たのではなかった。

現実に起きたことをスズカに受け入れさせた後、彼女の手によってオフサイドを世間の理不尽なバッシングから救ってもらうというのが、ライスの描く道筋だった。

今回の騒動は、世間のスズカに対する盲愛から生み出された点が大きい。

ならば、そのスズカが一言オフサイドを擁護するだけでも、一気に風向きが変わると見ていた。

 

問題は、スズカが起きてしまった現実に耐えられるかということ。

誰もが懸念しているように、スズカがそれを知ったら多大なショックを受ける危険性が高い。

ましてや現在、オフサイドの帰還決意やスペの過ちまで加わっている。

この全く想像すらしていなかった現実をスズカが受け止められるか。

 

はっきり言って、ルソーが言った“スズカも帰還”の可能性の方が遥かに高かった。

 

でも、もう時間がない。

有馬記念まではあと3日。

このままではオフサイドだけでなくスズカも絶望的だ。

いや彼女達だけじゃない。

ルソーも、他の〈死神〉闘病者達も、スペやゴールド、更にはマックイーンだって、自らを断罪しかねない…

 

 

ライスは、再びブルボンを見た。

「マックイーンさんは、いつスズカさんに全てを打ち明ける予定なんでしょうか?」

「今夜か、遅くても明朝にと言うことです。」

「明朝?ちょっと悠長では?」

「伝える場では、あなただけでなく会長自身や沖埜トレーナーも同席のもとでとの意向のようです。また、サイレンススズカの容態も懸念しなければならないのでと。」

 

答えながら、ブルボンは僅かに顔を顰めた。

“オフサイド先輩の危機の時とは全く違う対応だなと思ったんですよ”

ルソーに言われた言葉が胸をよぎったから。

 

ライスはその表情の一瞬の変化に気づいたが、その素振りは見せずに言葉を続けた。

「スペさんが、ルソーさんの要求通りの行動をしないようせねばいけませんね。」

現状、スペの過ちだけは隠さねばいけない。

いずれ明らかになるだろうが、それはスズカの身に危険がなくなってからでなくては。

「後で、スペさんにそれを伝えましょう。ルソーさんのことも、椎菜先生にお話しして。」

「そうですね。」

無表情に戻ったブルボンは頷くと、スマホをしまった。

 

 

スマホをしまった後。

少しの沈黙を置いた後、ブルボンはライスを見た。

「あなたは、この後どうされるつもりですか?」

「またスペさんに会いに行きます。その後、椎菜先生とも…」

 

「もうやめて下さい。」

返答を突然遮って、ブルボンは感情を込めた低い声を出した。

「…。」

初めて聞いた親友の口調に、ライスも思わず黙った。

 

…。

ブルボンの視線は、ライスの左脚とその脇に置かれている杖に注がれていた。

これまで彼女が使用してなかったそれが示すように、もうライスの脚が限界に近いことは明らかだった。

一足行動するだけで、彼女の残り少ない命は削られていると、ブルボンには分かっていた。

 

「もう、私は耐えられません。これ以上、あなたが自らの命を無視した行動をするのならば、私はあなたを力ずくで押さえつけてでも止めます。」

感情を極力抑えた低い口調で言ったブルボンの両眼は、紅く光っていた。

 

「…。」

ライスも、眼を蒼く光らせてブルボンの見返した。

「押さえつけてでも、ですか。」

「はい。これは、私の心を守る為でもあります。」

ブルボンさんの心…

無二の親友のその言葉は、ライスの胸に刺さった。

 

しばしの間、二人の視線が無言で交錯した。

 

 

すると。

「ブルボンさん、ライス。」

二人のいる席に、一人の人間が来た。

カメラを腕に提げた美久だった。

 

「どうしたの、二人とも表情が暗いわ。」

美久は二人の様子を見て、心配そうに声をかけた。

…。

二人は無言で、視線を逸らした。

「…どうしたの?」

「気にしないで。それより、あなたの方がなにか暗いわ。」

重ねて尋ねた美久にごまかしつつ、ライスが尋ね返した。

 

すると。

「…。」

何故か、美久はやや俯いて傍らの席に腰掛けた。

「ブルボンさんも、私が暗そうに見える?」

「そうですね。普段と比べかなり悪く見えます。」

「そっか…」

美久はカメラをテーブルの上に置き、大きく溜息を吐きながら両臂をついた。

どうやら二人に言われるまでもなく、彼女自身がそれを自覚していたようだった。

「実は、今朝からずっと辛いの。」

 

「体調悪いの?」

美久の重たい呟きを聞き、ライスは心配そうに彼女の肩に手を当てた。

「体調は悪くない。ただ、何故かずっと胸が苦しいの。」

「胸が苦しい?」

「今回の事…いや、ウマ娘と人間が相対するような事態になってしまったことがショックで。」

 

…。

美久の言葉に、ライスとブルボンは思わず視線を合わせ、すぐに伏せた。

美久は二人の素振りに気づかず、胸に手を当てながら呟き続けた。

「なんで、こんなに胸が苦しいんだろう?胸が痛むことなんてなかったのに。」

 

「美久。」

ライスは、そっと美久の手を握った。

手を握られると、美久はライスを見つめた。

「ねえライス、なんでこんなに悲しいのかな?」

彼女の眼からは、涙がポロポロと溢れだしていた。

「辛いの…人間とウマ娘が相対するなんて…もう私、幸せな写真は撮れないのかな…」

 

「落ち着いて、美久。」

ライスは、泣き出した美久を抱きしめ、そして力強い口調で言った。

「大丈夫だから。人間とウマ娘の未来は、決して悪いものにならないから。」

 

サンエイサンキュー…

あなたが守ろうとした人間とウマ娘の未来、絶対に繋いでみせるから。

美久を強く抱き締めながら、ライスは胸のうちでそう言った。

 

自身、左脚に限界を近づかせる痛みを感じながら。

 

 

 

*****

 

 

 

その頃。

療養施設の最上階の、特別病室。

 

一人病室にいるスズカは、憂げな表情で窓の外を眺めていた。

 

今日は、リハビリはなかった。

連日リハビリを行っていたとはいえ、そんなに身体に負担があったわけではないが、何故か中止になった。

 

何かあったのね。

何も伝えられていないが、スズカは施設内の雰囲気が妙に張り詰めていることを、敏感に感じていた。

 

一体何が起きているのか、全く想像は出来なかった。

でも、何か莫大で不穏なものが身に迫ってきている。

なぜかそんな予感がしていた。

 

世間と隔絶されている自分。

一向に語られない天皇賞・秋のこと。

何故か会いに来てくれないオフサイドトラップ。

そして、昨日から言動に不審なものが増えたスペシャルウィーク。

それらが、全て繋がっているとしたら。

 

痛い…

心境の不安が、左脚の怪我部分に響いた。

怖いな…。

不安に高鳴る胸を感じながら、包帯に覆われた左脚をさすった。

 

スペさん、ゴールド、トレーナー、…オフサイドトラップ先輩。

病室にたった一人のスズカは、親しい者達の姿を思い浮かべて、胸の不安を打ち消そうとしていた。

 

 

時刻は16時前、外は既に夕闇に覆われようとしていた。

 



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同胞亀裂(7)

 

*****

 

 

場所は変わり、メジロ家の別荘。

 

オフサイドトラップは、この日も別荘裏にある運動場で、淡々と調整を行っていた。

その様子を、生徒会から派遣されたビワハヤヒデは、他のメジロ家使用人と共に運転場の片隅で見守っていた。

 

 

陽が暮れる頃に、オフサイドは調整を終え、別荘に戻った。

ビワも使用人達と共に別荘に戻った。

 

 

オフサイドが調整後のケアをしている間、ビワは他の一室でニュースを観ていた。

 

ニュースの多くは、トレセン学園が下した断行のことだった。

オフサイドトラップの言動を糾弾してきた報道や世間は、学園の断行をこぞって非難していた。

 

ただ、何故だかどの報道も、以前のオフサイド糾弾の時と比べ、どこか歯切れが悪かった。

学園への非難より、学園の断行に対する衝撃の方が大きかったのだろうか。

既に夕方までに、学園&オフサイドへの被害を与えたとしてかなりの者が法的措置にされている。

報道関係者にすらその中に含まれていた。

前々から準備していたからとはいえその勢いの凄まじさに圧されたのか。

或いは、報道にされなかったが、先日ライスシャワーが受けた取材の影響があったのだろうか。

 

 

そんなことを考えていると。

「失礼します。」

ケアを終えたオフサイドが、ビワの部屋に来た。

制服姿で、右脚にはいつものように分厚い包帯が巻き直されていた。

「脚の具合はどうだ?」

「いつも通りです。」

ビワの問いに返答しながら、オフサイドは彼女の前に座った。

 

ビワは、妹のナリタブライアンを通じてこれまでにもオフサイドと何度か会っており、生徒会の中では彼女と最も顔見知りだった。

 

マックイーンの指示でビワがこの別荘に到着したのは午前中。

だが、ここに来た理由や生徒会の断行については、まだオフサイドに話していない。

オフサイドは朝から調整の方に集中しきっており、それをすぐ伝えられる雰囲気でもなかったから。

 

 

「何故、ビワ先輩がこちらに来られたのですか?」

向かいあって座ると、オフサイドは尋ねた。

「学園の今回の断行と、あなたの保護を兼ねてここに来た。」

「学園の断行?」

オフサイドは怪訝な表情を浮かべた。

彼女は報道を全く見てないので、それが起きたことすらまだ知らなかった。

 

ビワもそれは予測していた。

「これだ。」

ビワはスマホを取り出し、ニュースをオフサイドに見せた。

『天皇賞・秋後、所属する某生徒および某チームが多大な中傷被害を受けたとして、トレセン学園が法的措置を断行』

…。

その内容を見て、オフサイドの表情が僅かに蒼くなった。

 

「大丈夫だ。」

ビワは、彼女の不安をすぐに察して言った。

「ここにあなたがいることは極秘にされてる。万が一嗅ぎつけられたとしても、報道関係はメジロの敷居に一切踏み込ませないとマックイーン会長からの伝達だ。」

「有馬記念の方は…」

「それも大丈夫だ。有馬記念は予定通り行われる。」

 

「そうですか。」

その返答に、オフサイドの表情がほっとしたように緩んだ。

それ以上は何も尋ねず、彼女はスマホをビワに返した。

「何か、他に気になることはないのか?」

「ありません。」

オフサイドは首を振った。

「有馬記念さえ出れれば、それだけで良いですから。」

僅かに、口元に微笑が浮かんでみえた。

儚さを感じる澄んだ微笑だった。

 

 

「オフサイド、」

スマホをしまった後、ビワは眼鏡の奥の瞳を光らせ、重い口調で尋ねた。

「あなたは、本当に有馬記念で還るつもりなのか?」

「…。」

もう何度も同じ質問を受けたオフサイドは、ただ微笑をもって返した。

 

微笑でその意志を示したオフサイドに、ビワは少考後、重い口調で言った。

「今からでも遅くない。9月27日のことを世間に話せ。」

 

「…!」

ビワのその言葉に、オフサイドの表情から微笑が消えた。

明らかに動揺した様子が見てとれた。

「それは、絶対に出来ません。」

俯きがちに、小刻みに震えた口調でオフサイドは答えた。

「何故だ?そうすれば、世間があなたを見る眼は一変する筈だ。」

「だとしても、駄目です。」

 

二人がこの話をしたのはこれが初めてではなかった

天皇賞・秋後の騒動が始まった頃、ビワはオフサイドと会い、彼女を擁護する為にその日にあった出来事を話そうと相談していた。

だが、オフサイドはそれを断固拒否し、ビワにも絶対に話さないよう約束させていた。

ビワには、その理由が理解出来なかった。

「今一度尋ねる。何故あなたは、頑なにあの時の事を話そうとしないんだ?」

今また、表情を硬らせて拒否するオフサイドに、ビワは整然とした口調で尋ねた。

 

 

9月27日。

それは、ウマ娘界全体が大きな悲しみに暮れる出来事が起きた日。

ビワはオフサイドと共にその出来事の現場にいた。

そしてその出来事の時に、オフサイドに何があったのかも知っていた。

ビワだけでなく、マックイーンや『フォアマン』の面々も、そのことは気づいている。

ただその一部始終について全て知っているのは、ビワだけだった。

マックイーンがビワをオフサイドの元に派遣したのは、その出来事の全てを知って彼女なら、オフサイドの決意を翻意させられる望みがあると考えてのことで、ビワもそれを周知していた。

 

 

「あの時の事を話せば、あなたがどれだけの想いと決心であの天皇賞・秋を走ったか、世間だって理解出来る筈だ。あの勝利を貶める声もなくなる。」

 

ビワの言葉に、オフサイドは俯いたまま、消え入りそうな小声で答えた。

「そんな、卑怯なことは断じて出来ません。」

 

「卑怯だと?」

眉を顰めたビワに、オフサイドは続けて言った。

「帰還した偉大な同胞を盾に自らの名誉を回復させようなど、卑怯以外の何者でもありません。」

「あなたは、妹の想いを身に纏って走った。それだけを話せばいいんだ。」

「それは即ち、彼女の名誉も貶めることになります。史上最高のウマ娘の、最期の想いを抱いて出走したのに、私にはあの程度の走りしか出来なかったのですから。」

 

あの程度…

眉を顰めたまま、ビワは息を吐いた。

「あの程度とか言うな。〈死神〉を3度も患った上、年齢も6年生ということを顧みれば、相当な高レベルだった筈だ。」

第一、6年生の天皇賞覇者は、50年以上の天皇賞の歴史の中でもオフサイドが初めてではないか。

「身体も年齢も、レース内容の言い訳にはなりません。現実として、私は勝者と認められる走りでは全くなかった。第118回天皇賞・秋において望まれた勝者の内容とはかけ離れていた。それが全てです。」

「卑下し過ぎだ。」

「卑下ではありません。第一私は、悲劇が起きたレースの勝者の責任も果たせてませんから。」

「何?悲劇のレースの勝者の責任だと?」

「レースの内容で、悲劇の印象を少しでも減らすことです。ダイイチルビー先輩もダンツシアトル先輩も、メジロデュレン先輩もメジロパーマー先輩もマイシンザン先輩も、そしてホッカイルソーも、それを果たしてきました。私にはそれが全く出来なかった。」

「…。」

ビワは額に指を当てながら、苦悩する様に首を振った。

悲劇のレース勝者の責任など、聞いたことも想像したこともない。

 

「あなたはそう言うが、妹があのレースを見ていたならば、あなたの走りを称賛してるに違いないと思う。」

「…!」

その言葉を聞き、オフサイドの肩がビクッと震えた。

その反応を見て、ビワ更に続けた。

「幾千万の人間がなんと言おうとも、妹は絶対に君のことを」

 

「もうやめて下さい!」

ビワの言葉を遮り、オフサイドは耐え切れなくなったように立ち上がって叫んだ。

「これ以上ブライアンの名は出さないで下さい!もう彼女は、この世にいないんです!」

 

「オフサイド…」

「失礼しますっ。」

オフサイドはビワに頭を下げると、そのまま踵を返して逃げるように部屋を出ていった。

 

 

オフサイドが去った後、ビワはしばし茫然としていたが、やがて深い吐息をし眼鏡を外した。

 

理想的な走りが出来なかった自己を責め過ぎだ。

ハンカチでレンズを磨きながら、ビワは思った。

年齢は限界寸前の6年生。

身体は〈死神〉を3度患い満身創痍。

更に本番ではレース自体を壊しかねない悲劇まで発生。

この条件下で理想的な走りなど出来る筈がないのだ。

そんなこと、オフサイドだって分かっていただろう。

だから、優勝後はあんなに喜びを表したんじゃないのか。

内容はどうであれ、彼女にとって天皇賞の盾は全てを失ってでも手に入れたかった栄光なのだから。

 

やはり、あの9月27日のことを世に発信するべきだ。

ビワは眼鏡をかけ直した。

どのみち、このままではオフサイドの帰還決意は動かしようがない。

ならば、例え彼女がどんなに拒否しようともそれをした方が可能性が生まれる。

無論、発信した瞬間オフサイドが即座に帰還に踏み切る危険も高い。

先程の拒絶した態度を見てそう感じた。

会長とも相談して慎重にやらねば。

 

つと、ビワは胸を押さえた。

脳裏に、亡き妹の姿が浮かんだから。

ブライアン、妹のあなたが愛した同胞の命は、姉の私がなんとしても守るから。

 

 

 

一方、ビワの部屋を飛び出したオフサイドは、そのまま別荘の外に出ていた。

 

はあ…はあ…

競走場まで行くと、そこで脚を止め、悲嘆混じりの息を吐きながら夜闇に染まった空を見上げていた。

 

あの天皇賞・秋で、私の走りは、誰の心も動かせなかった。

 

栄光は、その走りの内容で一層燦然と輝く。

『フォアマン』の仲間達は皆そうだった。

トウカイテイオー先輩もウイニングチケット先輩も、ナリタブライアンもサクラローレルも、後輩のフサイチコンコルドも、そしてサイレンススズカも、観ている人々全ての心を動かす走りで栄光を手にした。

だから、その栄光はずっと燦然と輝き続けている。

 

でも、私は動かせなかった。

それも、絶対に動かなければならないレースだったのに。

 

動かせた自信は、あったんだけどな。

オフサイドは、運動場の芝生の上に腰を下ろした。

 

天皇賞・秋への切符を掴んだ時、このレースにバ生全て捧げると決意した。

右脚の不安に耳を貸すのはもうやめた。

壊れる危険性よりも勝てる可能性に懸け、死に物狂いで調整に励んだ。

そして、最高の走りが出来る状態にもっていけた。

最初で最後の、自分にとって最高の走りが出来る状態だった。

 

そして迎えた本番。

幾度も脚が悲鳴をあげた中、全ての力を出し切って、最後まで走り切った。

生涯でも最高の走りが出来たと、自分でもそう思えた。

 

そう思えたのに、観ていた人々の心には、全然届いてなかった。

 

 

「ブライアン…」

抱えた膝に顔を埋めて、オフサイドは呟いた。

「会いたい、あなたに会いたいよ…」

寂しい、冷たい…

永遠に会えないことは分かってる…会う資格がないことも分かってる。

それでも、それでも…

 

顔を埋めているオフサイドの両眼からは、涙は出なかった。

 

 

 

そして、少し時間が経った頃。

別荘の門前から、一台の車両が到着した音が聴こえた。

 

ちらっと眼を向けたもののオフサイドは気にせず、そのまま膝を抱えていた。

 

すると直後、こちらに駆け寄ってくる足音が聴こえた。

 

…?

オフサイドは、そちらに視線を向けた。

そして、駆け寄ってくる者の姿を見た。

 

…何故、あなたがここに?

夜闇の中、その姿を見たオフサイドの表情に、なんとも言えない微笑が洩れた。

 

 

時刻は、18時になろうとしていた。

 



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同胞亀裂(8)

 

*****

 

 

一方その頃、トレセン学園。

生徒会のメンバー達は、夜になっても、例の断行によって起きた事への対応に苦闘していた。

 

 

学園の一室では、副会長のダイイチルビーと役員のダイタクヘリオスの二人が、報道やスポンサー等の電話対応にあたっていた。

断行した昼以降、二人は休む暇なく延々と続く電話対応に追われおり、流石に疲労の色は隠せなかった。

 

「ルビー、ちょっと休まない?」

何十回目の電話対応を終えた後、ヘリオスはふーと大息を吐きながら、傍らのルビーを見た。

「そうね。」

ルビーも、頬に美しく光る汗を拭って頷いた。

 

受話器を開けっ放しにして、二人は休憩した。

 

「想像してたけど、やっぱり大変ね。」

缶ジュースを飲みながら、ヘリオスは溜息を吐いた。

「そうね。まるで嵐ですもの。」

ルビーもカップに淹れた紅茶を喫しつつ頷いた。

断行して以降、学園の電話という電話は抗議や苦情やらでずっと鳴りっぱなしだ。

中傷紛いのものも多いので、自分達と別に対応にあたっている職員達には関係者以外からのそれは無視するよう指示している。

「天皇賞・秋後の騒動の時も、有馬記念出走者発表の時も大変だったけど、今回はレベルが違うね。」

ヘリオスは窓の外に眼を向けた。

夜闇の中見える学園の門前には、かなりの人数の報道陣が騒がしく群れていた。

「それは、ウマ娘が人間に相対したのだから、規模も雰囲気も違うのは当然よ。」

 

「でも、まだ先の騒動よりは良いと思うわ。」

ルビーは続けた。

「どうして?」

「今回は、私達が毅然とした態度を取れているからよ。天皇賞・秋後の騒動では、私達生徒会は人間との衝突や軋轢を恐れ過ぎて、何も出来なかったから。」

「そうだね。」

ヘリオスは同感と頷いた。

最も、今回の件をきっかけに起きうるリスクの大きさは先の騒動の比じゃないけどとと思いつつ、ジュースをこくりと飲んだ。

 

「私達が大変なのは構わない。でも、」

ルビーはカップを机の上に置き、眼を瞑って言った。

「オフサイドトラップの、有馬記念のレース中に故障し帰還する”という行為だけは、なんとしても阻止しないといけないわ。彼女がどんな思いであれ、レース中の悲劇は、永遠の悲しみしか残さないのだから。」

 

「…。」

ヘリオスは、瞑目しているルビーの手元を見た。

両膝の上に組まれた手は、僅かに震えていた。

 

それを見て、ヘリオスはしばし黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。

 

「ケイエスミラクル。」

 

「…。」

ぽつりと呟いたヘリオスの言葉に、ルビーはピクっと反応し、眼を開いた。

眼を開いたルビーを見つめ、ヘリオスは続けた。

「ずっと前から気づいてたけど、まだルビーの心には、ミラクルの姿が残っているんだね?」

 

ヘリオスの言葉に、ルビーはまた眼を閉じて一口紅茶を喫し、それから再びヘリオスを見た。

「7年ぶりね。あなたの口からケイエスミラクルの名前が出たのは。」

「ルビーこそ。たった今、その名を口にしたのが7年ぶりだよ。」

ヘリオスもルビーも、寂しい微笑を浮かべていた。

 

 

 

ダイイチルビー・ダイタクヘリオス。

二人とも現役時代は共に短距離戦線で活躍し、幾つもの栄光を手にしたスターウマ娘。

そして同期であり、何度も大舞台で闘った好敵手。

そんな二人には、決して忘れられない一つ年下の同胞がいた。

名は、ケイエスミラクル。

 

7年前、2年生の春にデビューした彼女は、類い稀なスピードを武器に短距離レースで快勝を連発、未来の短距離界を担う逸材と注目された。

その年の秋には古バ混合の重賞レースに参戦すると、ルビー、ヘリオスら短距離の先輩猛者達を相手にレコードタイムで勝利した。

その時点で8戦5勝、うち3勝がレコードタイム。

まさに彗星の如く現れた新スターウマ娘だった。

 

「どこか、サイレンススズカに似てたわね。」

「うん。」

ルビーの呟きに、ヘリオスはこくりと頷いた。

ミラクルはデビュー前、病と脚の怪我で2度命の危機に晒されたことがあった。

2度とも“奇跡”が起きてその危機を乗り越え、デビューを果たすという心揺るがす経歴をもっていた。

 

彗星の如く出現したミラクルを、当時短距離王者だったルビーもそれに肉薄していたヘリオスも好敵手と迎え入れた。

その後行われたマイルCSではヘリオスが優勝、ルビーが2着でミラクルは3着だった。

今後の短距離界の覇権はこの3人によって争われるだろうと、周囲の多くは予想した。

 

そして、迎えた年末のスプリンターズS。

ヘリオスは別レースの為出走しなかったが、ルビーとミラクルは勿論出走した。

ミラクルが1番人気でルビーが僅差の2番人気。

以下の人気は離れており、この二人の一騎討ちと見られていた。

 

レーススタート後、ハイペースの展開の中で、ミラクルもルビーも好位置につけてレースを進めた。

そして残り300mを切ると、ミラクルは一気にスパートをかけ先頭に迫った。

彼女の後ろにつけていたルビーも同時にスパートをかけ、ミラクルに迫った。

 

ところが。

誰もが両雄の一騎討ちになると思った次の瞬間、先頭に躍り出かけたミラクルが突如急激に失速した。

次と他バに抜き去られた後、彼女はよろめきながら残り150mで競争中止した。

故障発生だった。

 

その後、搬送されたミラクルに下された診断は、無情にも『左第一趾骨粉砕骨折・予後不良』。

 

ケイエスミラクル。

彗星の如く現れた奇跡のウマ娘は、あまりにも速く儚い形で、この世を去った。

 

 

 

「本当に、スズカと似てたわ。」

ルビーは眼を瞑りながら、当時のことを思い出していた。

天皇賞・秋のスズカと同じように、故障寸前までミラクルは後ろからみても抜群な手応えで走っていた。

なのに、まさかの突然の悲劇だった。

 

ミラクル故障後、レースはルビーが優勝した。

ルビーはその後の優勝インタビューもウイニングライブも全てやり通し、ミラクル悲劇の悲しみに暮れるファン達に笑顔を振り撒いてそれを癒した。

しかし、彼女の心は誰よりも悲しみに暮れていた。

そんなルビーの心中を誰よりも理解していたのが、他ならないヘリオスだった。

 

 

「ミラクルの悲劇の後、ルビーは走りを失った。それはつまり、そういうことよね?」

「…。」

ヘリオスの言葉に、ルビーは眼を瞑ったまま答えなかった。

でも、無言のうちにそれを認めていた。

「あたしはそれに気づいてたから、なんとかルビーを支えて、走りを取り戻して貰いたいと頑張ったんだけどね。マイラーズC・安田記念で一緒に走って…でも、ダメだったなー。あたしじゃ、ミラクルの代わりになれなかった。」

言いながら、ヘリオスは悔しそうな微笑を浮かべると天井を仰いだ。

 

「ヘリオス、」

その言葉を聞き、ルビーは静かに眼を開けた。

そして、嘆じるように天井を仰いでるヘリオスに、眼を伏せながら言った。

「私、気づいてたわ。」

「え?」

「ミラクルの悲劇の前から、あなたの私への想いには気づいてたの。あなたに大きな夢を阻まれた高松宮杯の時から、ずっと。」

 

「そっか…」

ルビーの言葉に、ヘリオスは、照れくさそうな微笑に変わった。

「そう…だったんだ。」

ぽつりぽつり呟きながら、頬の紅さを隠すようにジュースを飲んだ。

「ごめんなさい。あなたの想いに応えられなくて…。」

「いいの。叶わない想いだろうなってことは、あたしだって分かってたから。」

小声で謝ったルビーに手を振りながら、ヘリオスは答えた。

「それに、ミラクルの帰還で、その想いは永遠に封印するって決めたから。」

「ヘリオス…」

 

「出来れば、ルビーに強さを取り戻して欲しかったけどね。“華麗なる女王”と、ターフでもう一度闘いたかった。」

「…。」

ルビーは俯いた。

前述のヘリオスの言葉のように、ミラクルの悲劇のショックからかルビーはそれ以降惨敗を繰り返し、間もなく引退した。

「でも仕方ないよ。ルビーの悲しみがどれだけ深いか、分かってたし。」

あのレース、故障の苦痛にもがくミラクルのすぐ傍らを、ルビーは傍目も振らずに駆け抜けていた。

あの時の彼女の心境は、想像するだけでも辛い。

 

「あなたは、」

ルビーは、俯いたまま尋ねた。

「あなたは、ミラクルの帰還を前にどう思ったの?」

「勿論、凄く悲しかったよ。今でもその悲しみは残ってる。」

ヘリオスは眼を半分瞑って答えた。

「ミラクルは、私にとって二つの意味でライバルだったからね。彼女には絶対に負けたくなかった。私がマイルCSで優勝出来たのは、ある意味彼女のおかげよ。その後も、ミラクルとはライバル関係を続けられると思ってた。その矢先の悲劇だった。」

答えながら、ヘリオスは指先を目元に持っていった。

 

「…。」

少し間を置いた後、ルビーは再び尋ねた。

「さっき、私への想いは永遠に封印すると言ってたわね。…どうしてそう決めたの?」

その尋ねに、ヘリオスは即答した。

「あのレースでの、ミラクル故障後の、ルビーの凄まじい走りを見たから。」

 

「え?」

「本当凄かった。ミラクルの故障を目の当たりにして、どれだけショックだったか量り知れないのに、ルビーは容赦なく末脚を繰り出し、ぶっちぎって走り切った。…私自身ショックの中で、その末脚の凄さに震えたよ。」

未だにその印象が残っているのか、ヘリオスは数度首を振った。

「余程、あのレースに懸ける思いが強かったんだろうね。いや、ミラクルに絶対に負けるものかという、女王の覚悟と言うべきかな。あの走りを見て、私は負けたと思ったよ。」

「負けた?」

「ルビーにあそこまで本気の走りをさせたミラクルにね。」

それも、目の前で悲劇が起きても揺るがない程の。

「私では、あそこまでルビーを本気にさせられない。そう思った時、ああミラクルには負けたなって思ったの。」

 

「負けだなんて。」

ルビーは小さく首を傾げた。それを言ったら、ヘリオスのマイルCSも凄まじかったじゃない。

スタートから先行し、私にもミラクルにも全く影を踏ませない内容で優勝したんだから。

「それだけじゃないの。もう一つ理由があるの。」

ルビーが考えていることを察しつつ、ヘリオスは静かに言った。

「ルビーのあの凄まじい走りには、ある想いが感じられたから。」

 

「…。」

ルビーは、今までと違う眼光でヘリオスを見た。

その宝石のような美しい眼を見つめ返して、ヘリオスは続けた。

「ミラクルを守る、という悲壮な想いが。」

 

 

 

 

レースに出るウマ娘には、勝敗と同じ位大切とされていることがある。

 

それは、最後まで走り切ること。

その理由は、走りきれなかったことでレースの印象を変えてしまってはならないから。

特に、故障発生での競走中止は、レースに大きな翳を落としてしまう故、最も避けるよう言われてきた。

 

だが、ミラクルはそれを起こしてしまった。

それも1番人気を背負ったG1レースで。

絶好調の走りの中で、最大の悲劇となる故障を。

 

「ミラクルの故障を見た時、ルビーはすぐに分かったんじゃない?」

ミラクルが予後不良の故障だと。

そして、

「このレースが、“悲劇のレース”になってしまったことを。」

「…。」

ヘリオスの言葉に、ルビーは何も答えず、再び眼を瞑った。

 

ヘリオスは淡々と続けた。

「それは同時に、ミラクルが重い罪悪感を背負うことを意味していた。」

自らのせいで、レースを悲劇にしてしまったという罪悪感だ。

「ルビーは、瞬時にそこまで悟ったんだよね。そして、レースの悲劇の印象を消さねばと決意した。その決意が、あの末脚になった。」

 

悲劇の印象を変えるのは、レースの内容しかない。

勿論、悲劇を消し去るのは不可能だけど。

「それでも、少しでもその印象を消そうと、あなたは走った。愛したミラクルの為に、絶対にと思ってね。」

そして、ルビーは優勝した。

他バが止まって見えた程の電光の末脚で、2番手に4バ身差をつける圧勝。

更には同距離の日本レコードタイムを出すという、圧巻の内容だった。

 

悲劇の色はレースに濃く残ったが、一方で勝者の栄光も、讃えられるべき強烈な印象・内容として残された。

「そのことは、ミラクルにとっては確かな救いになったね。最も辛い、勝者の栄光が貶される事態にはならなかったのだから。」

 

「…。」

ルビーは瞑目したまま、ずっと黙っていた。

「ルビーの走りは、ミラクルを守ったよ。それに気づいた時、私も悟ったんだ。やっぱり、ルビーとミラクルの間に、私が入る隙はなかったなって。だから、ルビーへの想いは、永遠に封印することにしたの。」

最後は少し感情を込めて、ヘリオスは言葉を終えた。

 

 

「そうだったのね。」

ルビーは、呟きながら静かに眼を開けた。

そして僅かに微笑を湛えて、ヘリオスを見た。

「流石はダイタクヘリオスね…全て、あなたの言った通りだわ。」

「そっか。」

ヘリオスは、少し俯いた。

「ありがとう。」

俯いた彼女に、ルビーは言葉を続けた。

「私の胸中をここまで理解してくれたのは、多分あなただけだわ。」

「…。」

ヘリオスは俯いたまま、ほんの少し微笑した。

 

その微笑を見て、

「ありがとう、ヘリオス。」

ルビーは、つと椅子をヘリオスに寄せた。

「何度も言わなくていいよ。」

「ううん。これは、私を助けてくれたことへの感謝よ。」

「え?」

ヘリオスは顔を上げた。

ルビーは、その眼を見つめ返した。

「さっき言ったように、あなたの想いには気づいた。だから、ミラクルの帰還で悲しみのどん底にいた私を、レースで共に走ることで支えようとしてくれたことにも気づいてたの。」

 

「アハハ、そうなんだ。」

でも駄目だったよねと、ヘリオスは残念そうに笑った。

「ルビーは復活出来なかった。やっぱり、私はミラクルの代わりにはなれな…」

「そんなことないわ!」

ルビーは、思わずヘリオスの手を握った。

「あなたが支えてくれたから、私は悲しみを乗り越えることが出来た。ターフを去ることになっても、第二のバ生を歩み出すことが出来た。それは、苦悩・悲しみを共に分かち合えるあなたがいたからだわ。絶望の闇の中にいた私にとって、あなたは闇を消してくれた“太陽”だった。」

 

「そっか、良かった。」

手を握られちょっと驚いていたヘリオスは、ルビーの言葉に目元を拭いながらニコっと明るく笑った。

「私の願いは、愛した同胞の確かな力になることが出来てたんだね。」

「うん。」

ルビーも頷きながら、涙を拭った。

 

 

少し経った後。

 

お互い椅子に座り直した後、ヘリオスがぽつりと言った。

「今回の天皇賞・秋でのオフサイドトラップの言動も、ルビーと同じだよね?」

「そうね。」

過去の経験から、二人ともそれは分かっていた。

「オフサイドは、スズカの為にあのような言動をしたんだわ。」

でも、全部裏目になってしまった。

「それにスズカだけじゃなく、もう一つ彼女には喜ばないといけない理由があったと思うよ。」

「そうね。」

二人の脳裏に、一人の同胞の姿が浮かんだ。

ナリタブライアン…

 

「これは私の勘だけど、オフサイドはブライアンのこと…親友以上に想ってたんだろうね…。」

「勘どころか、あの二人は、親友以上の仲で間違いないわ。」

「え?」

「あの9月27日、ブライアンの最期を看取った者の中には、オフサイドもいたのだから。」

「そうだったんだ。」

ヘリオスは、それは知らなかった。

「じゃ、あのレースでオフサイドが着けていたシャドーロールは…」

「…。」

ルビーは、無言で頷いた。

 

…そっか。

ヘリオスは、表情をしかめながら指を噛んだ。

「オフサイドがここまで絶望した理由には、ブライアンの帰還も深く関係してるんだね。」

「むしろ、一番深いかもしれないわ。」

ルビーは、残りの紅茶を飲んだ。

可哀想なオフサイドトラップ。

同じような経験をしたルビーには、彼女の悲しみが良く分かった。

それでも、私にはヘリオスがいたから、その悲しみを乗り越えられた。

でもオフサイドには、ヘリオスのような存在がいない。

私より遥かに辛い立場なのに、心を支えてくれる同胞がいない。

チーム仲間のステイゴールド、ホッカイルソー、或いはフジヤマケンザン…

「…。」

ルビーは口元で吐息した。

確かに彼女達はオフサイドの理解者だが、彼女を絶望から救い出せる程の存在かは難しい気がした。

 

「そういえばさ、」

ルビーが思考していると、ヘリオスがふと気付いたように指から口を離した。

「朝の会議の時、マックイーンが“オフサイドを翻意させられる可能性がある同胞が一人いる”って言ってたけど、あれってサクラローレルのことだよね?」

「ええ、間違いないでしょう。」

ヘリオスの言葉に、ルビーは頷いた。

「まだ海外にいるローレルを、なんとしても有馬記念までに帰国させてオフサイドと会わせようと、会長は画策している筈です。」

「でもローレルは、まだ長距離の移動が出来る程回復してないんだよね?」

ブライアンの帰還時や、天皇賞・秋後の騒動時にも帰国出来なかったのだから。

「恐らくそうだろうけど、オフサイドの現状を知ったら、ローレルは帰還覚悟で帰国に踏み切ると思うわ。」

 

「…。」

そうだね、とヘリオスは唇を軽く噛んだ。

オフサイドトラップとサクラローレルの絆の深さは、一蓮托生と言えるくらいだから…

それに、もしかするとローレルも…

 

ヘリオスは、その推察は胸のうちに留めた。

 

 

「業務、再開しようか。」

ジュースの残りを全て飲むとふーっと大きく息を吐き、ヘリオスはルビーに言った。

ルビーは、無言で頷いた。

 



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『万物の霊長』の苦悩(1)

 

*****

 

場は変わり、学園の別室。

 

その一室では、生徒会役員のメジロパーマー・ヤマニンゼファー・マヤノトップガンの三人が、先の騒動における調査の作業を行っていた。

 

「パーマー先輩。」

つと、淡々と作業を行っていたゼファーが手を止め、傍らで作業中のパーマーに声をかけた。

「ん、どうしたのゼファー?」

「気になっていたんですが、先輩かなり顔色悪いですよ。」

「え、そう?」

パーマーが意外そうに反応すると、

「私にもそう見えます。」

同じことを思っていたらしいトップガンも、傍らから心配そうに声をかけた。

「パーマー先輩、もしかして体調が芳しくないのでは?」

 

「いやあ、」

後輩からの指摘を受け、パーマーは頬や額に手を当てたりしながら答えた。

「別に、どこも悪くないと思うけど。」

「そうですか?」

「アハハ、ちょっと疲れでも出たのかな?」

気にしている後輩達に、パーマーは安心させるように笑顔で冗談めかしく言った。

「私、あまり長時間の仕事が得意じゃないからね。」

「現役時代、“無尽蔵のスタミナ”と評されてましたが。」

「痛いこと言わないでよゼファー。ターフではそうだったけど、机仕事は苦手なの。淀みなく長時間こなせるあなた達に頭が上がらないよ。」

苦笑しながら、パーマーは作業を再開した。

 

 

顔色が悪い、か。

そうだろうね。

作業をこなしながら、パーマーは胸中で呟いた。

後輩に言われる間でもなく、パーマーはそれを自覚していた。

理由は体調ではなく、マックイーンへの心配からだ。

 

大丈夫なの、マックイーン。

パーマーの心中は、マックイーンへの不安で満ちていた。

先日極秘に打ち明けられた計画(反故になったが)といい今回といい、それを断行したマックイーンの状態は心身共にかなり追い詰められていると、同じメジロの家族であるパーマーは感じ取っていた。

 

今回の断行については、諸々の状況を考えてパーマーも支持した。

マックイーンの覚悟だって尊重するし、生徒会役員としてメジロ家令嬢として彼女の支えになる決心もしている。

でも、不安だった。

断行を決断したマックイーンの背景には、不慮の最期を遂げたプレクラスニーの面影があることに気づいていたから。

 

マックイーン、私はあなたに犠牲になって欲しくない。

どうか、正気までは失わないで。

 

胸中で必死に祈りながら、パーマーは作業を続けていた。

 

 

 

*****

 

 

 

その頃。

そのマックイーンの姿は学園ではなく、メジロ家の車中にあった。

 

「…はい、先程学園を出ましたわ。これより屋敷に向かいます。…ええ、他の役員達にも伝えてありますわ。…特に何もありませんでした。…報道への対応…まだ伏せていますわ。…詳細は後ほど直接お伝えしますわ。…では。」

車中でメジロ屋敷に電話をしていたマックイーンはそれを終えると、静かに深呼吸した。

 

マックイーンの制服はやや乱れていた。

学園を後にする際、学園前に集結していた報道陣の中を抜けてきたからだ。

もみくちゃにされんばかりの質問攻めを受けたが、全て無返答でその攻勢を凌いだ。

言うべき事は全て後日にすると決めてたから。

 

マックイーンの予想通り、今回学園側が(マックイーンが)下した断行には世間全体が騒然としていた。

報道紙もTVもネット上もその話題で沸きかえっていた。

内容の多くは断行への非難色が多かった。

だが、報道紙の歯切れがどこか悪かった。

先日にライスが受けた取材が効いた影響かとマックイーンは考えていた。

他の媒体も、まだそこまで学園への非難は強くない。

衝撃の方が大きいからだろう。

 

まあ、今日のところは完全に法的に触れた者達への断行が大部分でしたから。

マックイーンは、胸中でそう推察した。

問題は、オフサイドの名誉を貶めたと判断した者達への断行に踏み切った時ですわ。

その中には、多くの学園関係者が含まれているのですから。

人間だけでなく同胞も、そして私の恩師も。

 

つと、マックイーンは再びスマホを取り出し、使用人の一人に電話を繋げた。

「もしもし私です。沖埜トレーナーは今どちらに?…そちらにいるのですか。フジヤマケンザンも一緒…分かりました。…今は良いです、またこちらから連絡します。何かあったら報告を、では。」

 

電話を切ると、マックイーンは眼を瞑った。

やはり、沖埜トレーナーはそちらに行かれましたか。

車に揺られながら、マックイーンはそう胸中で呟いた。

 

 

 

*****

 

 

 

同時刻ごろ。

『スピカ』トレーナー沖埜豊の姿は、学園からかなり離れた町にある、某病院の待合席にあった。

 

 

夜になり暗くなった病院の待合室には沖埜以外の姿はなく、しんとしていた。

 

「沖埜トレーナー。」

黙念と座っている彼の元に、暗い廊下から現れた何者かが、足音を鳴らしながら近寄ってきた。

「今、検査が終わりました。お伺いしましたらトレーナーもあなたと会っても良いというとの返事でしたので、ご案内します。」

「ありがとう。」

声をかけた者…ウマ娘のフジヤマケンザンの促しに、沖埜は頷くと立ち上がった。

 

 

院内の暗い廊下を、ケンザンは沖埜と共に歩き、やがてある病室の前に立ち止まった。

「こちらになります。私はこのまま席を外しますので、後はお二人でどうぞ。」

「分かった。ありがとう。」

「では。」

沖埜が礼を言うと、ケンザンは足早に待合室の方へ戻っていった。

 

 

ケンザンが去った後。

「失礼します。」

沖埜は一度ノックをしてから、病室に足を踏み入れた。

 

病室には、一人の患者がいた。

 

「久しぶりだな、沖埜。」

 

その患者は、ベッド上に半身横になりながら沖埜を迎え入れた。

「お久しぶりです、岡田さん。」

沖埜はその側に歩み寄り、深々と頭を下げた。

 

患者の名前は岡田正貴(おかだまさたか)

40代後半の彼は、トレセン学園『フォアマン』チームの元トレーナーで、沖埜にとっては大先輩に当たる人物だった。

 



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『万物の霊長」の苦悩(2)

 

*****

 

時刻は数時間前に遡る。

 

メジロ家別荘でオフサイドと会った後、沖埜は岡田と会うことを決め、彼の自宅へ向かっていた。

 

岡田の自宅に着いたのは午後。

だが、岡田は外出中なのか在宅していなかった。

沖埜は彼の帰りを待つことにした。

 

待っている間、学園の法的措置断行のニュースも知った。

自分にも処分が下されるだろうと思いつつ、沖埜は岡田の帰りを待った。

 

しかし、しばらく経っても岡田は帰って来なかった。

何度か電話をかけてみたが、それも繋がらなかった。

郵便受けを見てみると、かなり郵便物が溜まっているのが分かった。

 

沖埜は違和感を覚え、岡田と親しいトレーナー仲間に連絡をとり、彼の現状について尋ねた。

すると、岡田は現在体調を崩して某病院に入院していることを知った。

沖埜はその病院を聞くと、すぐにそこへ向かった。

 

 

そして、夕方頃にその病院に着いた時、沖埜は偶然一人のウマ娘と鉢合わせした。

『フォアマン』元リーダーのフジヤマケンザンと。

 

「沖埜豊トレーナー。」

病院の入り口前で、沖埜の姿を見たケンザンは驚きの表情を浮かべていた。

沖埜も少々驚きながら、彼女がここにいる理由が岡田の看護をしているからと推察し、言った。

「私は岡田さんに会いに来た。会うことは出来るか?」

「トレーナーは今検査中です。今すぐ面会はできません。」

「今すぐでなくても構わない。」

「分かりました。」

 

ケンザンは、沖埜に対して言いたいことが沢山あったが、それは胸の内に留めた。

「待合室の方でお待ち下さい。面会可能になりましたら私が案内します。」

「ありがとう。」

沖埜も彼女の心中を察しつつ、静かに頷いた。

 

その後、更に数時間待った今、沖埜はようやく岡田と面会した。

 

 

***

 

 

「入院されていたとは存じませんでした。」

 

ベッドの傍らにある椅子に腰掛け、沖埜は言った。

「今月上旬に身体の具合が悪くなってな。大したことはないと思ってたが、検査受けたらかなりの病気で、即入院さ。今はもう落ち着いてるがね。」

「無事で何よりです。」

「ハハ、まだ死ぬ年齢じゃないからな。」

岡田はそう言うと笑った。

病気の為か、その表情は以前と比べ大分老けて見えた。

 

 

岡田正貴。

彼は30年近く前に、トレセン学園の一トレーナーとしてデビューした。

しばらくは鳴かず飛ばずだったが、地道に実績を挙げていき、16年前にチーム『フォアマン』を結成。

すると翌年にメンバーのキョウエイプロミスとリードホーユーがそれぞれG1を制し、一流トレーナーの仲間入りを果たした。

その後もミホシンザンやオサイチジョージなどのG1ウマ娘、更にはトウカイテイオーやナリタブライアンなどといったスターウマ娘を輩出し、学園でも屈指の実績を挙げるトレーナーとして名を馳せた。

 

沖埜と岡田は年齢差もありそこまで親しい仲ではなかったが、互いにトレーナーとしての手腕は認めあっている関係だった。

 

 

「フジヤマケンザンがいましたが、彼女はずっと岡田さんの看護を?」

「いや、ケンザンは昨晩からここに来た。病気で入院していることは彼女に伝えていたのでね。私が入院中と知ってるのは彼女とメジロマックイーン、その他ごく僅かの友人だけだ。」

 

マックイーン。

その名を聞き、沖埜はすぐに察した。

「ということは、もう…」

「ああ、聞いたよ。ケンザンからも、午前中に訪れたメジロ家の使いの者からもな。」

オフサイドトラップの決意を、と岡田は頷き、夜になった窓の外に顔を向けた。

「謝罪しなければいけません。」

沖埜は椅子に座ったまま、再び深々と頭を下げた。

 

 

先の、天皇賞・秋後の騒動。

優勝後の言動で最も世間から糾弾を受けたのはオフサイドトラップだったが、彼女のトレーナーである岡田も相当な糾弾を受けていた。

理由は、優勝トレーナーとしてのインタビューだった。

 

以下、その内容。

 

〜オフサイドトラップの優勝について

『とてつもない、大変なことを成し遂げたと思う。私は何もしていない。彼女がここまで折れずに頑張った結果。おめでとうと、そしてありがとうと伝えたい。』

〜レース内容について

『スタートが良く、本人の想定通りにレースを進めていたと思う。サイレンススズカの故障にも動じず上手く捌いて内に入ってくれた。直線は本当に長かったと思うが、良く粘りきった。』

〜サイレンススズカの故障について

『気の毒とは思うが、これも勝負。レースの世界では起きうること。』

〜スズカが故障しなくてもオフサイドは勝てたと思うか?

『無事でいることも戦力のうち。最後まで走らなければレースにならない。』

 

以上の受け答えが、オフサイドと同じくスズカの故障に対するいたわりが全くないとして、岡田は大きな非難を浴びた。

 

 

超一流と言っていい実績をあげているものの、岡田は沖埜のように国民的な人気はなく、業界でも毀誉褒貶のあるトレーナーだった。

前述のように、彼のチーム『フォアマン』は何人ものG1・スターウマ娘を輩出する一方、所属するメンバーの多くが故障に苦しんでいた実態があった為だ。

メンバー達に過酷なレースローテーションを組ませているという指摘もあり、自己の功績の為にメンバー達を酷使しているという非難も多かった。

特に2年前、某メンバーのローテーションを巡った問題には世間・業界からも多くの非難が上がり、それ以降岡田の名声は下がった。

そういった経歴もあった故、スズカの故障に対する岡田のコメントはオフサイドに劣らない程の非難の的となった。

スズカがかつて『フォアマン』に所属していたが離脱したという前歴からして、岡田もスズカの怪我をいい気味と思ったのではという中傷すらあった

 

もっとも、岡田の元で競走生活を送った『フォアマン』メンバーの中で彼に対してそのような印象も抱いてるウマ娘は一人もいない。

彼の同僚である超一流トレーナーの仲間達も同じだ。

そして勿論、沖埜も。

 

だが、凄まじい非難の嵐の中、岡田はトレーナーを退職した。

それは学園から要求されたのではなく、本人の意思だった。

ここまで逆風に晒された以上、自分が責任を取らない限り事は収束しないと判断したから。

学園上層部(特にマックイーン)からは強く慰留されたが、それは変えなかった。

『フォアマン』のメンバーについては、生徒会や同僚に交渉し新たな受け入れチーム先を用意して貰った。

また生徒会長のマックイーンには、オフサイドトラップに一切処分を科さないようにという頼みもし、岡田は学園を去った。

 

以後彼の消息は、僅かに連絡をとってる者以外知るものはなかった。

 

 

退職後間もなく、岡田は心労からか病を患い、入院生活を送っていた。

命に別状がある程のものではなかったが、岡田はケンザンやマックイーンらにそれを伏せるよう頼んだ。

『フォアマン』のメンバーに(特にオフサイドに)心配をかけさせたくなかったから。

 

入院中も、岡田は『フォアマン』メンバーの現状を把握する為、前述の学園関係者と連絡を取りあっていた。

特に気にしていたのは、自身の退職後も他のチームに属せず、『フォアマン』の旗を掲げているオフサイドとステイゴールドのこと。

二人が学園生活で不自由がないよう、マックイーンに再三頼んでいた。

なんとか騒動沈静化後は、オフサイドに対する攻撃もなくなった現状報告も受けており、安心していた。

 

 

だけど。

 

「昨晩遅くに駆けつけたケンザンから全てを聞いて、正直言葉が出なかったよ。」

岡田は、窓の外に目を向けたまま言った。

「あいつの絶望は、人間の私が想像した以上に大きく、消しようのないものだったのかと。」

 

「どうか、オフサイドトラップの決意を、翻意させてください。」

彼女を絶望させた一因である自分がそれを言える立場ではないことを自覚しながら、沖埜は言った。

「岡田さんでしたら、彼女の行動を止められる筈です。」

「それは、そのつもりだ。」

岡田は腕を組みながら即答した。

沖埜に頼まれるまでもなく、彼はオフサイドの元トレーナーとしてそれを果たさなければならなかった。

 

だが…

「正直、この私でも、オフサイドの決意を変えるのは厳しいな。」

岡田は、淡々と言った。

「何故ですか?」

「オフサイドが生きる意味を失っているからだ。あいつにとって、あの天皇賞・秋の結末は、それだけ重大なものだった。人間である我々が感じるより遥かにな。」

 

岡田がそう言った時。

「失礼します。」

病室の扉をノックする音と共に、一人の人間が入室してきた。

午前中からここに来ていたメジロ家の(マックイーンの)使用人だった。

「岡田様、ただいま病院からも外出許可が出ました。既に車も用意してありますので、ご用意をお願い致します。」

入室した使用人は、岡田にそう告げた。

「分かった。」

岡田はその報告を聞くと、すぐにベッドから起き上がり、着替え始めた。

 

オフサイドに会いにいくのか。

沖埜はすぐに分かった。

 

「沖埜、お前も一緒に来い。」

身支度を整えながら、岡田は言った。

「お互いウマ娘の未来の為に人生を捧げる者同士、久々に話をしよう。」

「はい。」

沖埜は、素直に従うように頷いた。

 

 

 

*****

 

 

 

「今、岡田トレーナーは病院を出た…了解ですわ。沖埜トレーナーも一緒ですね?…フジヤマケンザンも?いえ…彼女でしたら大丈夫ですので構いませんわ。…ええ、沖埜トレーナーは途中で…はい、そうお伝えください。…では。」

 

メジロ家の屋敷。

帰宅したマックイーンは自室で、岡田の元に派遣した使用人と連絡をとっていた。

それを終えると、今度はオフサイドを保護しているメジロ家別荘に連絡をとった。

 

「オフサイドの動向は…特に変わり無しですか…。ビワハヤヒデと話を?分かりました。後でビワに伺います。それと、夕方頃にそちらに向かった彼女は、オフサイドに会いましたか?…会って、既に別荘を後にし、帰路についた…了解ですわ。…ええ、岡田トレーナーが向かっていることは、オフサイドに伝えてください。…では。」

 

諸方への連絡と確認を終えると、マックイーンはすぐに部屋を出た。

 

マックイーンが他の生徒会役員達より一足先に帰宅した理由は、今回の断行についてメジロ一族に釈明する為だ。

既に一族の主な者は、このメジロ本家に集まっていた。

その集まっている場へ、これから彼女は行こうとしていた。

 

廊下を歩いていると、窓から外の光景が見えた。

学園と同じく、このメジロ家の門前に多くの報道陣が集まっている。

騒々しいですわね。

マックイーンは冷ややかな視線でそれを眺めた。

 

と、窓枠に門前の光景でなく、亡き盟友の銀髪姿が映った。

 

…。

マックイーンは足を止めた。

一度胸に手を当てて、再び窓枠を見ると、その姿は映ってなかった。

ふーっと大きく深呼吸すると、マックイーンは再び歩き出した。

 

クラスニー…もうあなたのような悲劇は、絶対に起こさないから。

 

時刻は、20時を回っていた。

 

*****

 



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『万物の霊長』の苦悩(3)

 

*****

 

岡田と沖埜はメジロ家の車に乗せられ、病院を後にした。

彼と共に病院にいたケンザンも一緒だった。

 

車中、共に後部座席に座った沖埜は岡田に、午前中にオフサイドと会い、彼女に謝罪した一連のことを話した。

岡田はただ黙って聞き、その後はしばらく何も言わなかった。

 

 

やがて、岡田は口を開いた。

「沖埜、」

「はい。」

「お前はトレーナーとして、どんな理想をもってこのウマ娘界を生きている?」

 

「トレーナーとしての理想ですか。」

予想だになかった唐突な岡田の質問に、沖埜は少し考えてから答えた。

「デビューしてからずっと同じく、『記録にも記憶にも残るウマ娘を輩出する』という理想をもって生きています。」

 

「そうだろうな。」

沖埜の返答に、岡田は頷いた。

「その理想は、何度も叶えてきたな。」

「いえ、そんなには。」

沖埜は小声で首を振った。

謙遜したものの、沖埜はトレーナーとしてデビューしてから今日に到るまでの十数年のうちに、スーパークリーク・イナリワン・オグリキャップ・メジロマックイーンなど、その理想に値するウマ娘を何人も輩出した。

彼女らの生まれ持った優れた素質も勿論あるが、その才能を開花させる沖埜の手腕は天才と呼ぶに相応しかった。

 

それだけじゃない。

「お前は、“ウマ娘”に対する愛情が本当に深いからな。」

岡田は、その点を何よりも評価するように呟いた。

「…。」

沖埜は何も答えなかった。

 

岡田の言う通り、沖埜はトレーナーという立場に関係なく、ウマ娘という種族を愛していた。

彼は幼少期からウマ娘に魅了され、この世界に入った。

トレーナーとしてレースや強弱においてはややシビアな視点(138話参照)をするが、ターフ外ではどんなウマ娘に対しても分け隔てなく接しており、自チーム以外のウマ娘の為に動くことも多々あった。

その為、沖埜は自チーム『スピカ』のウマ娘だけでなく、トレセン学園の全ウマ娘から慕われている存在だった。

 

それに引き換え…

「『壊し屋トレーナー・非情トレーナー・老害トレーナー』などと言われ、ウマ娘達からも一部白い眼で見られている私とはまるで正反対だな。」

岡田は自虐するように呟いた。

「そんなことはありません。」

沖埜は首を振ってそれを否定した。

 

前述のように、岡田は数多のスターウマ娘を輩出したトレーナーでありながら、そのチームの内実に対して批判の声が多く、沖埜のような名声は得てなかった。

だが、沖埜は同じ超一流トレーナーとして、岡田のトレーナーとして在り方に理解を示し、かつ敬意を表していた。

確かに岡田には、所属するメンバーを多々故障に苦しませている点はあった。

だがその多くは、元来脚部不安を抱えていた者が殆ど。

そしてその故障に苦しむメンバーのうちで、無実績のまま学園を去った者はほぼ居ない。

どんな弱点を抱えるウマ娘でも、ターフに確かな実績は残させていた。

そこが、沖埜が敬意を表する点だった。

 

 

ウマ娘は、実績を挙げなければ生き残れない。

その厳しい現実を、岡田は誰よりも理解していた。

 

彼がトレーナーとしてウマ娘界に足を踏み入れたのは約30年前。

その後、数多の実績を旗頭にチーム『フォアマン』を発足させるまでの十数年間、彼はチームも持たないヒラの一トレーナーとして、この業界で生きてきた。

デビュー当時から天才と謳われ1年も経たずにチーム『スピカ』を発足させた沖埜とは対照的だった。

 

ヒラの時代、岡田は*総合チーム*の一トレーナーとして、血統・素質・将来性共に乏しいウマ娘達と数多く接してきた。

デビューからしばらくの間、自分が指導にあたったウマ娘達は、その殆どが無実績のまま学園を去った。

1勝も挙げられなかった者も、故障などの影響で思うように走れなかった者も数多くいた。

無実績かつ血統も乏しいウマ娘の行く末は何か、岡田も当然分かっていた。

 

どんな無名のウマ娘でも、その走る姿は本当に幸せそうで、美しかった。

岡田はそれが好きだった。

沖埜と同じように彼もまた、ウマ娘に魅了されてトレーナーになった人間だった。

 

でもどんなに美しかろうと、ウマ娘は強くなければ、勝てなければ生き残れない。

無名のウマ娘は、レースを去った後は消息記録が途絶える。

華やかさの裏にあるその厳しい現実に、彼は向き合わなければならなかった。

 

彼女達が生き残る為には、その笑顔を好きになってはいけない。

トレーナーとして歳月を重ねていく中、岡田はそう戒めるようになっていった。

 

岡田が無名のトレーナーから少しずつ名前を上げていったのは、トレーナーになってから10年を過ぎた頃からだった。

依然、総合チームの一トレーナーだった彼は、指導にあたった者の中からOPウマ娘を輩出するなど、徐々に実績を挙げていた。

当時の彼の指導はかなり厳しく、無理に近いくらいのトレーニングをウマ娘達にさせていた。

OPに勝ち進むウマ娘も輩出する一方、ハードなトレーニングによって故障するウマ娘も多く出していて、それが原因でターフを去る者もいた。

そのことについてトレーナー仲間から批判を受けることもあったが、岡田は構わず厳しい指導を続けた。

…自分がどんなこと言われようが、ウマ娘はレースで勝たなければ生き残れない。

ましてや、指導するのは半ば将来の希望がないとされたウマ娘達なのだから。

 

その後、岡田は重賞ウマ娘なども誕生させると、総合チームを離脱。

定員などの条件を満たし、遂にチーム『フォアマン』を結成した。

 

 

「あの当時、私には理想とかなかったな。自分に未来を託してくれたウマ娘達をなんとか勝たせてあげて、未来を掴みとって欲しいという思いだけだった。」

岡田は回顧するように語った。

「…。」

岡田と全く異なる経歴を送ってきた沖埜は、ただ黙って聞いていた。

勝てなければ生き残れないというウマ娘界の厳しさは、彼も当然分かっていた。

「では、理想を持ち始めたのは、いつ頃からですか?」

 

沖埜の質問に、岡田は答えた。

「理想というものを抱くようになったのは、メンバーが走った2つのレースからだ。」

「2つのレース?」

「『フォアマン』発足2年目の秋に行われた、JCと有馬記念のことさ。」

 

「ああ…」

沖埜は、その片方のレースは知っていた。

 




*総合チーム*

チーム選考から落ちたウマ娘が所属することになる学園管轄チーム。チームを持たない無名トレーナー達が管理する。設備待遇実力とも、個人チームと比べて低い。


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『万物の霊長』の苦悩(4)

 

『フォアマン』発足2年目、それは遡ること15年前の秋のこと。

 

この年は、ミスターシービーが19年ぶり史上3人目となるクラシック3冠制覇を達成し、ウマ娘界は湧きかえっていた。

そして世間の注目は、この秋に開催される国際レース・第3回JCで、海外の強豪ウマ娘を相手にシービーが念願の日本ウマ娘初優勝を果たせるかという点に集まっていた。

 

だが、シービーは3冠制覇の快挙による疲労もあり、JCの不出走を表明した。

このことは世間を大きく落胆させた。

更には参戦した海外ウマ娘陣営からも、「何故日本最強ウマ娘が出ないのだ」という不満も起きた。

 

そうした不満轟々の海外勢の前に、

「日本最強ウマ娘はこの私だ。私があなた方を相手する。」

と宣言したウマ娘がいた。

チーム『フォアマン』所属のキョウエイプロミスだった。

 

確かにプロミスは、直前に行われた天皇賞・秋で優勝(『フォアマン』メンバー初のG1制覇)したG1ウマ娘であり、その実績を提げてJCで出走を表明していた。

だが彼女は5年生と高齢な上、天皇賞・秋以外の実績も乏しかった。

出走する日本ウマ娘の中でもそこまで期待されていない存在だったので、彼女の言葉は冷笑の的となった。

 

 

「だが、プロミスは燃えていたよ。あいつは、海外勢に日本の同胞が負け続けたことが余程悔しかったんだろうな。」

岡田は当時を思い出して言った。

 

JCは第1回、2回と海外勢が優勝した。

日本勢は3着にすら入れず、辛くも掲示板内に入るのがやっとという有り様だった。

“日本勢は今後ずっとJCで勝てないのではないか”と悲観的な噂すらされていた。

 

プロミスは、前述のように天皇賞・秋で優勝したものの、その激走や高齢による疲労、蓄積された脚部不安もあり万全ではなかった。

それでも、このJCは優勝する決意で挑んだ。

 

そして、開催された第3回JC。

日本バ悲願の優勝を望まれる中、ハギノカムイオーやアンバーシャダイら日本代表バは必死に奮戦し、レースを引っ張った。

しかし直線に入ると徐々に失速し、海外勢に先頭勢を明け渡した。

今年も駄目か…

場内が溜息に包み込まれそうになった時、ただ一人海外勢にくらいついたウマ娘がいた。

キョウエイプロミスだった。

 

残り200mで、キョウエイプロミスは海外勢のスタネーラとバ体を併せながら一気に先頭勢に躍り出た。

沈みかけていた場内も、プロミスの激走に一気に湧き上がった。

TVの実況席では解説者が我を忘れて彼女の名前を連呼する程だった。

そのまま、プロミスとスタネーラは競り合いながらゴール目指して激走した。

そして、スタネーラが僅かに抜け出したところがゴールだった。

頭差でスタネーラが優勝、プロミスは2着だった。

 

優勝に手が届かなかったが、誰もがプロミスの奮戦を称えた。

他の日本バは惨敗した一方、彼女はあと僅かで優勝に手が届くところまで来ていたのだから。

またその激走は、日本勢に優勝は不可能と思われたJCの未来に、確かな光を差し込ませた。

 

だが。

レース終了後、プロミスはターフで動けなくなっていた。

レース中、彼女は脚に怪我を負っていたのだ。

そのまま、彼女は救急車で搬送された。

診断の結果、彼女の怪我は右前脚靭帯不全断裂の重傷で、競走能力喪失だった。

このJCが、プロミスにとって最後のレースとなった。

 

 

「あのレースは、私も覚えています。」

当時はまだ子供だった沖埜は、神妙な口調で言った。

彼女が競走バ生全てを捧げて走った姿は観ていた者達を感動させ、今なお語り継がれる伝説となった。

沖埜もその一人だった。

 

「私も、あのレースを境にウマ娘を見る目が変わったよ。彼女達は、我々人間が考えているより、もっと誇り高い種族だったとな。」

岡田も呟いた。

レース後、プロミスは競走能力喪失よりも、優勝出来なかったことを悔やんでいた。

2着での称賛は、彼女にとっては嬉しくなかった。

全てを失う覚悟で激走したのに優勝出来なかったことが、あまりにも無念だった。

「でも、私は充分だと言った。彼女の激走は、私に新たな何かを気づかせてくれたから。」

 

 

そして、キョウエイプロミスの激走から一ヶ月後の、有馬記念。

優勝したのは、プロミスと同じく『フォアマン』所属の2年生、リードホーユーだった。

 

「私に確固たる理想を決定的に持たせたのは、ホーユーのレースだった。」

これはお前も知らないよなと、岡田は沖埜を見た。

沖埜は頷き、何があったのかと目で尋ね返した。

「プロミスが激走したJCの後、彼女が称賛される一方で、世間から白い眼で見られているウマ娘達がいたんだ。」

「え?」

「ミスターシービーと、その同期達さ。」

当時のことは知らない沖埜に、岡田は話した。

 

日本ウマ娘の誇りをかけて激走したプロミスと対照的に、疲労で出走を回避した3冠ウマ娘ミスターシービーへの評価は下がった。

JC以前は、誰もを惹きつける華やかな走りで3冠を制し人気も絶頂だったシービー。

しかしJCを回避したことで、3冠ウマ娘としての自覚を問われた。

彼女と対照的に脚部不安がありながら激走したプロミスが現れたことで、その声は更に大きくなった。

そうした中で迎えた有馬記念。

シービーにとっては名誉挽回の機会となるレースであったが、彼女はやはり疲労と脚部不安を理由に出走回避をした。

このことで、シービーへの批判は強くなった。

プロミスと比べてひ弱なウマ娘という声や、シービー世代(2年生)はひ弱なウマ娘ばかりだという声も多く上がった。

 

「そういった声に対し、誰よりも悔しさを燃やして、絶対に世代の強さを証明すると決意したのがリードホーユーだったのさ。」

 

リードホーユー。

彼女は優れたスピードの持ち主ながら、レース前の入れ込み癖やコーナーでの斜行癖などで安定した成績を残せず、怪我もあり春のクラシックは棒に振った。

秋に復帰後は菊花賞トライアルレースでシービーより先着の2着など結果残したが、本番の菊花賞ではシービーの大地弾む3冠制覇を前に4着に敗れた。

しかし目立った実績はないものの、そのスピード能力の高さは注目されており、シービー世代の有望株の一人だった。

 

有馬記念、彼女はシービーを始め有力ウマ娘が数人回避したこともあり、重賞すら未勝利ながら3番人気だった。

結果は、先行策から4コーナーで先頭に立つと、アンバーシャダイら強豪の先輩ウマ娘達に影も踏ませずそのまま押し切り、前述のように優勝した。

だが彼女も、その激走により古傷が悪化。

その後遂に復帰は出来ず、有馬記念が最後のレースとなった。

 

「ホーユーは栄光と引き換えに、ターフを去ることになった。だが彼女は全く後悔してなかった。」

ひ弱な世代と貶され、そのひ弱な世代の象徴にされかけていたミスターシービー。

彼女に対する冷ややかな論調を、ホーユーはあの有馬記念で全て打ち消した。

“有馬記念を制したこの私を、ミスターシービーは一蹴したんだ”と。

彼女にとって、同期の誇り、とりわけ史上3人目の3冠ウマ娘の誇りだけは、脚を失っても守りたかったのだろう。

 

 

「キョウエイプロミスとリードホーユー。この二人の走りを見たことで、私は理想を抱くようになった。それまでは、ただ勝たせるだけにこだわっていたのがな。」

「どういう理想ですか?」

「『同胞の為に走れるウマ娘を輩出する』という理想だ。」

 



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『万物の霊長』の苦悩(5)

 

「“同胞の為に走れるウマ娘”、ですか。」

 

何故そのような理想を、と沖埜が聞くと、岡田はゆっくりと答えた。

「ウマ娘達の未来の為だ。彼女達が一人でも多く、幸せな余生を全う出来る為に。」

 

栄光を手に出来るウマ娘はほんの僅か。

そうでないウマ娘達は、余程血統か素質が優れていない限り余生を送れるのは厳しい。

長年、血統も素質も凡庸なウマ娘達と数多く接してきた岡田には、その現状を間近で見てきた。

彼にとって、その時代はかなり重い記憶として焼き付いていた。

 

綺麗事だけでは済ませられない厳しい世界だということは、過酷な指導方針をとってきた彼もよく分かっていた。

だが、無名のまま去っていくウマ娘達の姿を目の当たりに、彼は何も感じずにはいられなかった。

実績も素質も血統もないウマ娘達をどうすれば救えるか。

岡田にとって、それは『フォアマン』発足後も抱いてた苦悩。

それに一つの答えを出したのが、前述のプロミスとホーユーが見せた『同胞の誇りの為の走り』だった。

 

「勝つことは勿論最優先事項だ。だが、なんの為に勝ちを目指すのか、或いは何の為に走るのか。その背景次第で、彼女達の姿はレースでより輝き、我々人間の記憶にも焼き付くと思ったんだ。」

「*それは、“何かを背負って走る”ということですか。」

「そうだな。言い換えれば、“誇りを背に”かな。」

 

人間が惹きつけられるのは強さ、美しさ、そして誇り。

岡田は、誇りをウマ娘達に持たせようとした。

これは強さや美しさと違い、どんな弱いウマ娘でも抱くことが出来るから。

「私が前述の理想を抱いたのは、その誇りをもって貰う為だ。」

岡田は淡々と言った。

『フォアマン』のチーム信条である『不屈・体現・勝利』もそれを念頭にしたものだった。

 

「究極の理想は、全てのウマ娘が、単に美しい・強いというものだけじゃなく、誇り高いものを持つようになることだった。…そうすれば、例え実績では無名で終わろうとも、レースを去った後に余生を迎えられる可能性が少しでも高くなると思ったから。」

 

「…。」

岡田の一連の言葉を聞き、沖埜は眼を瞑ってそれを斟酌した。

言われてみれば、『フォアマン』が輩出した強豪ウマ娘達は、その背景を感じる者が多かった。

キョウエイプロミス・リードホーユー以降でも、

三冠ウマ娘の血の背負い、怪我の恐怖と闘いながら限界まで走って盾を手にしたミホシンザン。

史上最弱と酷評された世代を背負って、先輩猛者達と死闘を繰り広げたオサイチジョージ。

栄光と挫折を繰り返しながら、永遠の奇跡の記憶を刻んだトウカイテイオー。

ライバルとの死闘を制し、地元の悲願を叶えたウイニングチケット。

圧倒的な走りで3冠を制覇し、故障後もあくなき挑戦を続けたナリタブライアン。

競走能力喪失寸前の重傷から復活し、大輪の華を咲かせたサクラローレル。

他にも、

重度の骨折を負った脚にボルトを埋めて走り続けたヤマニングローバル。

6年生にして覚醒し、海外大レースを制して新たな歴史を刻んだフジヤマケンザン。

通算5戦ながら、ウマ娘界の常識を塗り替えたフサイチコンコルド。

など、それぞれが実績以上に強い印象を残すウマ娘達ばかりだった。

そして、彼女達には確かに、岡田のいう『同胞の為に走る』という背景と人々を惹きつける『誇り』があった。

 

「最も、私はトレーナーとして失敗が多過ぎたがな。」

岡田が、自虐気味に言った。

失敗とは、メンバー達を故障で苦しめてしまったこと。

「それは、やむを得ない一面もあるのでは。岡田さんは、元々脚部不安のあるウマ娘をチームに加入させていたのですから。」

沖埜はそう指摘した。

ミホシンザン・トウカイテイオー・サクラローレルなどがそうだ。

「だとしても、もう少しメンバーの身体を労わるべきだったとは思うさ。私は理想を求め過ぎた。特にナリタブライアン、シグナルライトにはな。」

未だに責念にかられているように、岡田は唇を噛んだ。

 

「岡田さんの思いは、確かに『フォアマン』メンバーに届いていたと思います。」

唇を噛んだ岡田に、沖埜は淡々と言った。

前述のように、『フォアマン』メンバーは誰もが強烈な印象をターフに残した。

ヤマニングローバルの怪我やシグナルライトの悲劇、ナリタブライアンのローテ問題などはあったが、それでも実績は確かに残したのだ。

それも故障しがちなウマ娘も含めて。

それがどれだけ大変なことか、同じトレーナーである沖埜にはよく分かっていた。

 

 

「沖埜、」

つと、岡田の口調が変わった。

「大きな理想を掲げ、メンバーのウマ娘達に不屈であれと厳しく指導し続けた私だが、たった一人だけ、私の方から諦めるよう諭したウマ娘がいたんだよ。」

 

その言葉に、車内の空気が一気に張り詰めた。

淡々と車を運転しているメジロの使用人も、助手席で黙念と座っているフジヤマケンザンも、ぞくっと肌が反応した。

 

…。

岡田が言うウマ娘が誰なのか、沖埜もすぐに分かった。

少し間を置いた後、彼は重い口調で言った。

「オフサイドトラップですか。」

 

「オフサイドトラップ。彼女だけは、私の理解を超えたウマ娘だった。」

岡田は、静かに言った。

 

そう言っただけで、それきり彼女の話はそれ以上しなかった。

 



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『万物の霊長』の苦悩(6)

 

しばしの間、車内には重い沈黙が流れた。

 

「沖埜、」

沈黙を破ったのは、岡田の言葉だった。

「さっきお前は、トレーナーの理想として『記憶にも記録にも残るウマ娘を輩出する』と答えたな。」

「はい。」

「その答えの背景にあるものはなんだ?」

 

「私なりに出した、ウマ娘達の未来の為の答えです。」

質問に対し、沖埜は両腕を膝元に組みながら、真摯な口調で答えた。

 

 

デビューから天才トレーナーの名をほしいままにウマ娘界を生きてきた沖埜は、岡田のように無名の下積み時代を送ったことは殆どなかった。

だが、ウマ娘との向き合い方については、岡田に劣らない位苦悩していた。

 

沖埜も当然知っていた。

ターフを去ったウマ娘達の多くは、ウマ娘界の未来に必要とされずにこの世を去っていくことを。

加えて、ウマ娘が輝けるのはこのレースの世界だけであり、それもほんの数年だけだということも。

そして寿命も、老いがないとはいえ人間の倍以上短い。

 

そんな過酷な世界で生きるウマ娘達に、自分は何をしてやれるのだろう。

十代で『スピカ』チームを結成して以後、沖埜はずっと考え続けてきた。

出来ることなら、全てのウマ娘が幸せな余生を送れる環境になって、レースの世界では美しく楽しく走って欲しい。

でも、そんなことは不可能だった。

どうあっても、このレースの世界は勝者と敗者が生まれる。

そして、未来を掴む者とそうでない者に分かれる。

その運命は変えられなかった。

ましてや昨今、ウマ娘の能力に対する視線は一層シビアになり、血統による格差も大きくなっていた。

 

そうした現実を生きる中で沖埜が出した結論は、せめて自分に未来を託したウマ娘だけでも幸せにするというものだった。

栄光を掴むだけでなく、その走りも人々の記憶に深く残し、決して忘れられないウマ娘を輩出しようと。

 

その想いから、オグリキャップ・メジロマックイーンといった超スターウマ娘が輩出された。

更にはベガ・マーベラスサンデー・エアグルーヴなどといったG1ウマ娘を輩出し、そして、サイレンススズカ・スペシャルウィークと繋がった。

 

 

「今の私が、ウマ娘界の未来の為に出来ることはそれだけでした。それだけを求めて、トレーナーとして生きて来ました。」

沖埜の求めた理想は、結果となって現れていた。

彼が輩出したスターウマ娘達の活躍によって(沖埜の知名度もあるが)、ウマ娘界はこれまでにない隆盛を迎えていた。

それは、一人でも多くのウマ娘達が幸せになれる可能性が拡がったことも意味していた。

実際、血統や実績に関係なく、ファンの厚意によって余生を送れるウマ娘がでるようにもなっていた。

 

 

「お前の想いは、ウマ娘達の未来を確かに少しずつ明るくした。そのことは紛れもない事実だ。このウマ娘界に生きる人間として、それは本当に素晴らしいことだと思う。」

岡田は心底から讃えるように言った後、つと口調を厳しして続けた。

「今回の天皇賞・秋で、お前はトレーナーとして大切なことを疎かにしてしまったな。」

 

岡田の言葉に、沖埜は無言で俯いた。

疎かにしてしまった大切なこと。

それは、“レースに絶対はない”というもの。

それは、トレーナーとして、最も戒めなければいけない言葉でもあった。

だがあの天皇賞・秋。

前述(146話参照)のように、沖埜はサイレンススズカに万が一が起きること可能性すら考えていなかった。

 

或いは、例え可能性を考えていたとしてもあの悲劇は起きていたかもしれない。

しかし、悲劇への対応は違っていただろう。

少なくとも、彼ほど聡明な人間があの状況で『悲劇がなければ〜』などといった浅慮な言葉を吐いてしまうほど動揺はしなかった筈だ。

「仰る通りです。返す言葉もありません。」

俯いたまま、沖埜は謝罪した。

「疎かにした上、私はオフサイドトラップの栄光を貶してしまった。詫びるしかありません。」

 

 

お前の気持ちは分かるがな。

謝罪した沖埜を横目で見つつ、岡田は思った。

 

サイレンススズカ。

かつては自らが指導にあたっていたこの稀代の潜在能力を備えたウマ娘には、岡田も惚れこんでいた。

自身の元での開花は叶わなかったが、沖埜の指導で彼女の能力が覚醒した時は正直嬉しかった。

またスズカが、沖埜にとって究極のウマ娘であるということも分かっていた。

類い稀なスピードと美しさ、それを一層際立たせるせるウマ娘性。

沖埜ならずとも全トレーナーに(というより全ての者に)とっても、究極のウマ娘であったろう。

そして沖埜が抱く理想である、記録にも記憶にも永遠に残り得るであろうウマ娘でもあったから。

 

 

「オフサイドのことは謝らなくていい。」

岡田は改めて口を開くとそう言った。

沖埜の言葉も一因ではあったが、今回の騒動はレースに対する価値観が現場と世間で乖離していたことによって起きたものと岡田は見ていた。

膨大な世間の声が暴走し、このような現状となってしまったと。

だから沖埜のにはトレーナーとしての過ちこそ指摘したが、その後の言動について(騒動時に沖埜が沈黙を貫いた理由(147話参照)も、岡田は理解していた)は、責める気はなかった。

それに、先程病院で言ったように、オフサイドの絶望は騒動よりも別の所にあると思っていたから。

 

「オフサイドに対しては私が対応にあたる。だから沖埜、お前は、今度の事態で危機に直面するであろうウマ娘を助けるんだ。」

…。

そのウマ娘が誰か、当然沖埜も分かっていた。

「はい。」

沖埜は、静かに頷いた。

 

 

 

やがて車は、学園近くにさしかかった道路で停車した。

そこにはもう一台、メジロ家の車が待機していた。

目的地の違う沖埜はそちらの車両に移動し、岡田らと別れた。

 

 

 

岡田と別れた沖埜は、別のメジロ家の車によって、自宅へ送迎されていた。

 

車中で使用人から、マックイーンの言伝を受けた。

『明朝、サイレンススズカに天皇賞・秋後の一連の騒動から現在に至るまでのことを伝えます。つきましては沖埜トレーナーにも同席をお願いします』

 

遂にか。

沖埜は端正な容貌を、微かに苦悶するように歪ませた。

騒動を知った…いや、その騒動によってオフサイドトラップが貶され、絶望したことを知ったスズカがどうなってしまうか、最悪がゆうに想定出来た。

騒動の一因になった自分が、鎮静にあたっていれば。

今更だが心底から悔やんだ。

自身がスズカの悲劇に打ちひしがれていたとはいえ、騒動がオフサイドに及ぼす影響を軽微と見てしまった(147話参照)ことも、大きな過ちだった。

 

自身が罰を受けるのは当然だ。

だが、その累がスズカに及ぶことだけは、最悪が想定出来る以上避けたかった。

 

どうすればいい。

端正な無表情のうちで沖埜は苦悩し続けたが、対応は見つからなかった。

 

 

 

一方。岡田を乗せた車は、そのままオフサイドのいる別荘へと向かっていた。

沖埜が座っていた後部座席には、助手席から移動したケンザンが座っていた。

 

「ケンザン、」

沖埜と別れた後、岡田は車中ずっと沈黙していたケンザンに声をかけた。

「お前、よく我慢したな。」

「…。」

労るような岡田の言葉に対し、ケンザンは無言のままだった。

 

車中ずっと沈黙していたが、実はケンザンは沖埜を責めるのを堪えていた。

彼女は岡田と違い、オフサイドを追い詰めた最大要因は沖埜の言動だと思っていた。

ウマ娘界の象徴的な人間である彼が、ショックに打ちひしがれていたとはいえ何故勝者を貶す言動をしたのか。

昨夜マックイーンにした以上に、沖埜の胸ぐらを掴んででも詰問したかった。

 

「私が沖埜トレーナーを責めたとしても、何の意味もありません。」

ケンザンは、車中で初めて口を開いた。

ここで彼を詰問してたとしても事態は何ら好転しない。

今大切なことは、絶望したオフサイドの決意を翻意させることと、真実を知ることになるスズカを支えること。

沖埜を責めるのはその後でも良い。

二人が救われる未来になるかは別としてだが。

ケンザンの表情は険しく、両膝に置く手は膝頭を強く掴んでいた。

 

「沖埜を悪く思うな。」

ケンザンの様子を見て、岡田はその心情を慮りつつも言った。

「スズカの悲劇で、沖埜は本当に苦しんだんだ。そして今でも苦しんでる。それにさっきの話も聞いただろう。沖埜は、ウマ娘界の未来の為にずっとこの世界の現実と向き合ってきたんだ。」

この世界の現実…

「分かっています。」

ケンザンは重たく頷いた。

彼女が沖埜を責めなかったのは、それを分かっていたからでもあった。

ケンザン自身、多くの同胞と同じように沖埜をずっと慕っていた。

彼がウマ娘に対して愛情深い人間だということも分かっていたし、岡田と同じくウマ娘界の未来を背負ってトレーナーをしていることも薄々感じていた。

あの天皇賞・秋後の言動が出るまで、ケンザンにとって沖埜はウマ娘界で最も尊敬できる人間の一人だった。

 

「でも、沖埜トレーナーの言葉のせいで、オフサイドがどれだけ傷ついたのかと思うと、余りも可哀想で。」

 

岡田やマックイーンは今回の騒動大きな要因は決して沖埜の責任ではないとの考えだったし、オフサイドも沖埜の言動で絶望に追い込まれた訳ではない。

それでもケンザンは、沖埜を責めずとも許せなかった。

ケンザンはオフサイドの先輩として、その競走バ生をスタートから長年見てきた。

彼女どれだけの苦しみを乗り越えて栄光を掴んだか…その栄光を、たった一言で貶された。

「私には、やはり…。」

許せません。

ケンザンは唇を噛みつつ呟いた。

 

…。

ケンザンの呟きを聞き、岡田は胸中で溜息を吐きながら、車窓の外に眼を向けた。

『フォアマン』

トレーナーとして、ケンザン・オフサイドの競走バ生と共に生きてきた岡田。

沖埜を許せないケンザンの心中も、よく理解出来た。

俺は人間、彼女達はウマ娘。

病身に少し苦しさを感じた岡田は、懐から薬を取り出し、水とともにそれを飲んだ。

一呼吸しつつ、脳裏には過去にあるウマ娘から言われた言葉が蘇っていた。

 

“レースに生きるウマ娘にしか分からない、命をかけても守るべきものがあるんです”

 

車窓から外を眺める岡田の眼に、メジロ家の別荘に近い山道が見えていた。

時計を見ると、時刻は21時を回っていた、

 

*****

 



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迫来時刻(1)

 

*****

 

激動だったこの日の生徒会の業務を終えたメジロパーマーが、メジロ家の屋敷に帰宅したのは21時半頃だった。

 

帰宅後、自室に戻ったパーマーは、ふーと疲労した吐息を吐きながら、制服姿のまま倒れるようにベッド上に横になった。

大変だったな。

パーマー達が執り行った業務は先の騒動(天皇賞・秋後から、一時収まるまでの2週間)における調査のまとめで、詳しくには騒動にかかわった者、或いは責任を問われる者達を人間・ウマ娘問わずまとめ上げていた。

既に今日だけで、学園に(オフサイドと『フォアマン』に)被害を与えた人間達への法的措置を断行し世間を騒然させてるが、明日以降は更に騒然としそうだと、パーマーは想定した。

 

しばらくベッドに横になってたパーマーだが、やがて起き上がると部屋を出た。

向かった先は、マックイーンの部屋だった。

 

だが、マックイーンの部屋に着いたものの、彼女の姿はなかった。

使用人に聞くと、マックイーンは現在メジロ家の者達と今回の断行について会合中だということだった。

パーマーはマックイーンの部屋で待つことにした。

 

難航してるだろうな。

室内で待っている間、パーマーは会合中のマックイーンを思った。

メジロ家は人間界でも大きな影響力がある一族だ。

だから上層部の者達は、今回マックイーンが下した断行を、人間とウマ娘の間に深い軋轢を生んだものとみなしている可能性が高い。

大丈夫だろうか。

パーマーは憂いた。

 

待機してからしばらく経った頃。

「お疲れ様ですわ。」

マックイーンが部屋に戻ってきた。

 

「お疲れ、マックイーン。」

二人は、室内にある卓に向かいあって座った。

「会合、どうだった?」用意されたお茶を飲みながら、パーマーは気になってたことを尋ねた。

「非難轟々でしたわ。今からでもやめるべきという声や、もしメジロ家が責任を追及されたどうするとか、或いは私をメジロから追放するなどという物騒な声もありましたわ。」

「えー。」

パーマーは思わず眉を潜めたが、マックイーンは平然としていた。

そういえば、オフサイドの決意を知るまでマックイーンが極秘に建てていた計画は、自らが犠牲になることも覚悟していたっけ…

マックイーンの様子を見ながら、パーマーはそれを思い出した。

 

「マックイーン、大丈夫?」

パーマーはカップを卓に置き、眉を潜めたまま尋ねた。

「何がですか?」

「あなたの心身の状態のことよ。」

平然とした表情のマックイーンにそう指摘し、パーマーは更に思いきって言葉を続けた。

「あなたの行動の背景に、プレクラスニーの影がずっとついているように見えるの…。」

 

「お気になさらずに。」

パーマーの指摘に、マックイーンは表情を変えずに答えた。

「今回の断行は、クラスニーを意識してのものではありません。あくまで、トレセン学園生徒会長としての責任を果たす為です。」

絶対嘘だ…

パーマーはそう思った。

一昨日別荘で話した時、クラスニーのことを明らかに意識してたじゃん。

 

「私のことは心配なさらないで下さい。」

自身の返答を疑っているパーマーに、マックイーンは静かに告げた。

「今は生徒会役員として、今回の件に集中して欲しいですわ。ウマ娘界の未来の為にも重要な分岐点なのです。」

「…分かってるよ。」

パーマーは苦い表情で頷き、続けた。

「でもさ、本当に無理はしないで。間違っても、前にたてた計画みたいに、自らが犠牲になることを考え…」

 

「パーマー。」

パーマーの言葉を、マックイーンは冷徹な声で止めた。

眼も冷徹な翠色になって、彼女を見据えていた。

これ以上は何も言うなという威圧感があった。

 

…。

パーマーは唇元で溜息を吐き、数度首を振ると席を立ち上がった。

「お休み、マックイーン。」

「お休みなさい、パーマー。」

挨拶を交わし、パーマーは部屋を出ていった。

 

 

マックイーンと別れたパーマーは、その後シャワーを浴び部屋着に着替え、自室に戻った。

 

怖いな。

自室の椅子に座って茶を飲んでいるパーマーの表情はかなり憂いげだった。

今回の断行の行く末の不安と同じかそれ以上に、マックイーンの状態が不安だった。

間違いなくマックイーンは、今回の件には一命を賭してあたっている。

クラスニーの悲劇で消えようのない深い傷を負った彼女の心は、自らの無事など露ほどにも考えてないだろう。

私は嫌だ…。

一昨日の別荘の夜も今日の学園での業務中もずっとあったマックイーンへの不安が、パーマーの心中で更に大きくなっていた。

もう、マックイーンが危険な状態になるのは見たくない。

 

 

実はかつて、マックイーンは命の危機に直面したことがあった。

6年前。

当時現役でターフの王者として君臨していたマックイーンは、トウカイテイオーとの〈世紀の対決〉と謳われた天皇賞・春でも圧勝し、全盛期を迎えようとしていた。

だが、必勝を期した宝塚記念に向けてのトレーニング中、彼女は左脚を故障した。

それも『種子骨骨折』という、予後不良になりかねない重傷だった。

 

あの時は大変だった。

今でも思い返すだけで、パーマーの身体に冷たい汗が流れるくらいだ。

幸い、予後不良にはならず競走能力喪失にもならなかった程度と判明した(それでも復帰に一年近くかかる重傷だったが)。

でも無事が判明するまでは、マックイーンは帰還してしまうのかと絶望するくらい、本当に怖かった。

 

 

あんな思いは二度としたくない。

当時を思い出し、身体に冷たい汗を感じつつパーマーは思った。

パーマーにとって、マックイーンは同い年(ライアンも)の家族。

ずっと成績が冴えなかった自分と違い、早くからライアンと共にメジロの名誉を背負って闘い、大レースを幾度も制してターフに君臨した“真女王”。

同じメジロながら憧れであり、超えるべき大きな壁だったのだから。

引退し、共に生徒会の一員になってからもそれは変わらない。

常に威風堂々、時に和気藹々となることもあるが、全ウマ娘の代表というに相応しい威厳と包容力がマックイーンにはあった。

他の生徒会役員もそう思っているだろうが、パーマーは特にそうだった。

ずっと変わらない憧れと畏敬の念、そしてメジロの家族としての愛情を、マックイーンに感じていた。

 

ただ、パーマーはマックイーンの、責任を背負い過ぎるウマ娘性にも気づいていた。

現役時代は王者として君臨する一方で強すぎてつまらないという声を受け、それでも勝たなければいけないという責任を負って、常にレースを走っていた。

彼女を最も苦しめているクラスニーの悲劇だって、あれは全責任がマックイーンにある訳じゃなく、ウマ娘界と人間界全体の責任なのに。

今回の天皇賞・秋の件だってそう。

オフサイドが世間の糾弾を受けている時に強い対応をしなかったのは、それまで同様の例が起きた際の、生徒会の従来の対応(153話参照)を遵守したからで、これもマックイーンだけの責任じゃない。

なのに、マックイーンは世間側からもオフサイド側からも責められる立場に置かれている。

それが生徒会長という責任なのだとマックイーンは言ってたが。

 

背負い過ぎだよ。

パーマーは溜息を吐いた。

今回の断行、前述のようにマックイーンは自らの破滅も覚悟でやっているだろう。

パーマーも断行には賛同したし、他の生徒会仲間も皆そうだったが、マックイーンが破滅してもいいからという考えで賛同したわけじゃない。

「それは、マックイーンにも分かって欲しいな。」

一人きりの部屋で、パーマーはそう呟いた。

 

 

一方。マックイーン。

 

パーマーが部屋を去った後、マックイーンは休む間なく、この日学園にいた生徒会のメンバーに連絡をとっていた。

まずは無事に帰れたことを確認し、それからこの日それぞれが行った業務の結果を確認した。

 

生徒会メンバーとの連絡を終えると、マックイーンは受けた報告をまとめた。

断行後、第一の懸念だった学園への過激な行動をとった者に関しては、前もって警備が強化されていたこともあり今日は一人もいなかった。

ただ抗議の電話は相当数殺到し、学園職員や生徒会が対応に追われたとのことだった。

主な苦情に関しては全て記録で残したという報告もあった。

そして、先の騒動に関わったとされる者達の調査については、まだ全てが調査してし終わっていないという報告だった。

 

順調というべきですか。

報告をまとめたマックイーンは、ひとまずそう思った。

こんな辛い業務をここまでやってくれてる生徒会の仲間達に感謝した。

朝の会議で、今後の予定や方針は極秘に彼女達に伝えている。

それを変更する必要は、今日の報告を見るになさそうだ。

 

生徒会からの報告を一段落させると、マックイーンは続いて療養施設にいるブルボンに連絡をとった。

何か異変はないか確認したが、特に何もないという答えだった。

マックイーンは、明朝に自身と沖埜がそちらに向かうことを改めて伝えた。

 

そして最後に、オフサイドのいる別荘にいるビワに連絡をとった。

既に、別荘には岡田とケンザンが到着し、オフサイドと会ったということだった。

ただ今晩は何もしない予定なのか、岡田はオフサイドと特に話さなかったらしい。

また、岡田と会ったものの、オフサイドの状態は変わらず非常に落ち着いているとのことだった。

他に、別荘近辺に報道関係は全く来なかったので、オフサイドの居場所は依然隠せているとの報告があった。

 

それら各所との連絡を終えると、マックイーンは一息ついた。

 

岡田トレーナーは、オフサイドトラップと特に話さなかった、ですか。

一息つきながら、マックイーンはその報告について推察していた。

移動した疲れもおありでしょう。

病身なのに別荘へ向かってくれた岡田に、マックイーンは感謝と罪悪感があった。

オフサイドへ岡田がどのような行動を取ろうとも、マックイーンは一切口を挟まないつもりだった。

彼女のことを理解している人間は彼以上にいないのだから。

岡田がどこまで、オフサイドの傷を癒せるか。

 

マックイーンはそれを願いつつ、もう一人オフサイドの決意を翻意させるのに不可欠なウマ娘…サクラローレルのことを思った。

現在、サクラ家とも交渉しながら、依然怪我の為海外療養中の彼女を緊急帰国させる手筈を準備している。

彼女の容態も長距離の移動に耐えられる程回復してるか微妙だということだが、なんとしても帰国させて、オフサイドと会わせなければいけなかった。

詳細は不明だが、ローレルも帰国の決意を固めているらしい。

当然ですわね。マックイーンは思った。

オフサイドとローレルは、何よりも深い絆で結ばれているのですから。

 

最も、今のオフサイドがローレルと会うことを望んでいるかは、恐らく否だった。

その為、これはオフサイドにも極秘に進めていた。

なんとか間に合って。

マックイーンは心底から願った。

 

 

少し経った後、マックイーンは再びスマホを取り出し、電話をかけた。

かけ先は沖埜だった。

「もしもし、マックイーンです。…ええ。言伝通り、明朝向かいます。車も用意しますので、ご一緒に。お話はまた車中で…はい、私は大丈夫です。沖埜トレーナーこそ、…また何かありましたらご連絡します。」

 

いよいよですわね。

沖埜との短い電話を終えた後、マックイーンの翠眼は険しく光っていた。

遂に明日、サイレンススズカに事の全てを伝える。

果たして、スズカが耐えられるだろうか。

正直、今回の断行において最大の山場と思えた。

彼女が耐えられれば、僅かだが未来に光明が指す。

しかし耐えられなかったら…

 

マックイーンは一度眼を瞑り、静かに深呼吸しながら再び眼を開いた。

耐えられなくとも、私達が支えていくしかない。

 

「支えなければ。」

生徒会長なだけでなく、『スピカ』メンバーとしてスズカの先輩にあたるマックイーンは、誓うように呟いた。

 

 

 

*****

 

 

 

あと一時間、か。

 

療養施設。

自室で、23時を指した時計を見ながら、ルソーは呟いた。

 



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迫来時刻(2)

 

*****

 

 

時刻はやや遡り、19時過ぎの療養施設。

施設は夕食の時間になっていた。

 

 

最上階の特別病室にいるスズカも、夕食を食べていた。

 

喉を通らないな。

一人黙々と夕食を食べているスズカの表情は冴えていなかった。

スペのように大食いではないが、スズカも食事はしっかり食べられるウマ娘だ。

でも、この日は朝からあまり食べていなかった。

胸騒ぎがずっとあるせいだった。

 

結局、半分くらい残してスズカは箸を置いた。

「すみません。」

食事のトレイを下げにきた担当医師に、スズカは謝った。

気にしないでと、医師はトレイを下げた。

スズカが元気ないことには医師も気づいていた。

 

「スズカ、伝えることがあるわ。」

トレイを下げた後、再び病室に戻ってきた医師はスズカに言った。

「なんでしょうか?」

「明朝、沖埜トレーナーとメジロマックイーン生徒会長が、あなたに会いに来るわ。」

 

トレーナーと生徒会長が一緒に?

スズカは清廉な表情は、不安に曇った。

「何の御用件でですか?」

「それは、会ってから話すということだったわ。」

予め用件の内容を伝えられている医師は曖昧に濁したが、スズカは更に尋ねた。

「生徒会長も来るということは、非常に大切な用件なんですね?」

「うん、そうだろうね。」

スズカの眼は誤魔化せないと思った医師は、濁しつつも正直に頷いた。

「そういうことだから、宜しくね。」

「はい。」

医師の言葉に、スズカは胸騒ぎを一層大きくさせながら頷き返した。

 

胸騒ぎの正体が分かるのか。

医師が去った後、スズカは一人ベッドに横になりながら、不安に翳る表情を虚空に向けていた。

一体、何を知らされるのだろう。

多分、天皇賞・秋に関することではないかな。

だとすると、少なくとも良い知らせではないことは確かだった。

 

怖い…

得体のしれない大きな不安が目前に迫ってきていることに、スズカは震えた。

怖気つくな、私はグランプリウマ娘だぞ。

彼女らしくない自答で、不安に揺らぐ心を保たせようともした。

しかし、どうしても徐々に胸騒ぎは抑えられなかった。

いつものようにスペさんが側にいれば、こんな不安なんてすぐにおさまるのに。

今はスズカ一人。

しかもそのスペが、高鳴る胸騒ぎの一因になっていた。

 

「すみません。」

胸騒ぎが苦しくなり、スズカは医師を呼び出した。

「何か、心を落ち着かせる薬でもありませんか?」

「薬?どうして?」

「明朝の件の為にも、今晩は早く寝ようと思ったんですが、…胸騒ぎがひどくて、とても寝付けそうにないんです。」

 

「分かったわ。」

スズカの頼みを受け、医師は錠剤を幾つか用意すると、病室に来てスズカに渡した。

「それを飲めばゆっくり眠れるわ。身体に何の負担もない薬だから安心して。」

「ありがとうございます。」

スズカは渡された錠剤を一つ口に含み、水と一緒に飲み込んだ。

薬は苦手だったが、この際仕方なかった。

 

数分すると胸騒ぎが少し落ち着いて、同時にほど強い眠気も出てきた。

よく効く薬だなと思いつつ、スズカは傍らで自分の様子を見ていた医師を向いた。

「ありがとうございます。少し落ち着きました。」

「そ、良かった。」

スズカの身体をそっと寝かせながら、医師は安心したように微笑した。

「夜中また胸苦しくなったら、残った薬を飲みな。傍らに置いとくから。」

「大丈夫なんですか?」

「数時間置きなら全く問題ないわ。ただ出来れば一錠ずつね。」

残り数錠だから全部一度に服用しても大丈夫だけど、薬が効き過ぎて朝起きれなくなっても困るからと医師は説明しながら、スズカにシーツを被せた。

「はい。お休みなさい。」

 

やがて、スズカは静かに寝息を立て始めた。

スズカが眠ったのを確認すると、医師はほっと息を吐きながら、病室を出ていった。

 

医務室に戻ると、医師は施設内にいる生徒会役員のブルボンと連絡をとった。

 

 

 

「…はい、分かりました。報告ありがとうございます…。」

施設の外来者宿泊部屋の一室で、ブルボンはスズカ担当医師からの連絡を受けていた。

「何のご連絡でしたか?」

ブルボンが電話を終えると、室内のベッドに横になっているライスが尋ねた。

 

ブルボンはスマホをしまい、表情を変えずに答えた。

「明朝、生徒会長・沖埜トレーナーが重要用件の為来訪する旨を、サイレンススズカに伝えたということです。…あと、」

僅かに、ブルボンの表情が変わった。

「スズカの状態に、かなり変化が起きているとの報告もありました。」

 

「変化…」

眉を潜めたライスに、ブルボンは医師の報告で、彼女が周囲の異変を察知し出しており、その影響からかなり不安になっているようだということを説明した。

 

「既に、スズカは念の為薬を服用し就寝についたということです。」

「そうですか。」

ライスはベッド上で、指先を噛んだ。

スペさんの異変やその他諸々のことも含めて、スズカさんは勘付き始めましたか。

それ自体は構わないのだが、それに対する彼女の心境反応は、やはり先行きの深刻さを感じさせるものだった。

「マックイーンさんには伝えますか?」

「ええ、伝えます。」

ブルボンは頷いた。

最も、このことはマックイーンも推測していたであろう筈なので、緊急的な内容でもないとブルボンもライスも思っていた。

 

寧ろ…

「スペさんの件は、どうしますか?」

「その件につきましては、生徒会長には報告せず、私達の方で善処しましょう。」

ブルボンは無表情に戻った。

スペのおかした言動を今マックイーンに伝えるのは尚早、周知している者が限られているので、出来ることなら内内で解決させたいと、ブルボンもライスも考えは一致していた。

 

だが、それもかなり厳しいことだった。

解決の為の最善策とすれば、いち早くスペをオフサイドの元に行かせ、言動を謝罪させることだろう。

昼過ぎにスペと再度会った際、二人はそのことを提案した。

彼女がそれに従えば、すぐに手筈を取るつもりだった。

 

だが、スペはそれを拒否した。

理由は、ルソーにそれを止められたことと、彼女に謝罪よりもスズカに全てを打ち明けることを要求されていたから。

罪悪感で一杯のスペは、ルソーの言葉を無視することは出来なかった。

それだけじゃなく、スペは拒否の理由としてこうとも言った。

『下心のある謝罪など出来ません』と。

 

「スペさんの言葉、重いですね。」

ライスは、若干蒼芒が洩れている眼元に指先を当てた。

100%オフサイドが許してくれるあろうことを予測しての謝罪になっていることをスペは言ったのだ。

本当に謝罪するならば、少なくともルソーが言ったように自らの言動をスズカに打ち明け、その報いを受けてからでなければいけない。

そうでなければ心の底からの謝罪にならないと、スペは純真に思っていた。

だけど、いくら純真でもそれは絶対にさせてはいけない。

それをしたら、スズカが受けるショックの大きさは桁違いになるから。

といって、スペが謝罪を拒否した理由には反論出来なかった。

 

現状は、スペの行動を抑止させるしかなかった。

二人が静止しているものの、スペはルソーに要求されたように、すぐにでもスズカに言動を打ち明ける意思を固めていた。

それに対し二人は、それを行うのは明朝にスズカがマックイーン達に事を知らされた後にするよう頼んだ。

一応、スペはそれを受け入れてくれていた。

 

「スペシャルウィークのケアも考えないといけません。」

ブルボンは腕を組んだ。マックイーンに伝えるのは彼女の負担等も考えてやめているが、沖埜トレーナーには伝えるべきか。

「スペさんには耐えて頂くしかありません。」

ライスは、マックイーンのような冷徹な口調で静かに言った。

少なくとも、有馬記念が終わりオフサイドが無事であるまでは、スペにはそれを隠すべきだ。

例えどんなに苦痛でもそれは自身の過ちの報いと受け入れてもらう。

「今は、それが最善策と思います。」

「…。」

ライスの言葉に、ブルボンは無言で頷いた。

 

少し沈黙が流れた後、再びライスが口を開いた。

「ホッカイルソーさんのことは、どうしましょう?」

「ホッカイルソーに対しては、我々は触れない方が良いです。」

ブルボンは無表情を顰めて答えた。

昼間、彼女から様々な受けた言葉が、かなりブルボンの胸に突き刺さっていた。

「彼女の状態は、渡辺椎菜医師に任せましょう。」

「そうですね。」

ライスも同意した。

ルソーの心身の状態がかなり深刻だということは既に椎菜に伝えていた。

恐らく既に何らかの対処はしているだろう。

 

話しがある程度まとまると、ブルボンは立ち上がった。

「どちらへ?」

「スペシャルウィークの様子を見てきます。あと、渡辺医師とも少し話をしてきます。」

「マックイーンさんへの報告は?」

「それは後ほどまとめてします。」

 

返答した後、

「ライスは、部屋で安静に休んでて下さい。」

ブルボンは命じるような口調と共に、強い視線でライスを見た。

「はい。」

ライスは蒼芒を閉じ、ベッド上に横になったまま素直に頷いた。

 



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迫来時刻(3)

 

*****

 

その頃。

スペシャルウィークは、宿泊している自室にいた。

 

私服姿のスペは、精神的に疲れたー表情で、一人室内の椅子に座っていた。

体調こそ朝より幾分良くなっていたが、それでも彼女の心は快復してなかった。

 

苦しいな。

オフサイドトラップへの罪悪感、ホッカイルソーへの罪悪感、そしてサイレンススズカへの不安。

胸中に渦巻くそれらと、スペは闘い続けていた。

 

コンコン。

部屋の扉をノックする音がした。

「どうぞ。」

「失礼します。」

入ってきたのはブルボンだった。

 

「体調はいかがですか。」

入室したブルボンはまずそれを質問した。

「大分良くなりました。夕食もちゃんと食べたので。」

「ははあ。」

本当に快復したのかと、空になってる一人前の弁当箱を見つけてブルボンは内心首を傾げた。

 

「例のことで、あなたにお話があって来ました。」

ブルボンは立ったまま、スペに言った。

 

まず、明朝にマックイーン達がここに訪れ、スズカに天皇賞・秋後の一連について話すことを伝え、それから続けた。

「先程も話したように、あなたがオフサイドトラップにとった言動については、我々(ブルボン・ライス)が云と判断するまで極秘にお願いします。」

「先輩が判断するまで極秘…」

スズカさんが事を知ることになってもですかと聞くと、ブルボンはええと頷いた。

「予測される状況は非常に厳しいです。更なる状況悪化を避ける為にも、ご了承をお願いします。」

「…。」

蒼白な表情で胸に手を当てて黙ったスペに、ブルボンは無感情な口調で続けた。

「辛いことは察しますが、これはあなたがおかした言動への贖罪だと思って耐えて下さい。サイレンススズカが無事である為にも。」

 

…。

その最後の台詞に、スペは反応した。

「スズカさんは、」

泣きそうな眼で、彼女は尋ねた。

「スズカさんは、大丈夫なんですか?」

 

ブルボンは、すぐには返答しなかった。

先程受けた、スズカの身には既に精神的動揺が出始めているとの報告を思い出したから。

「大丈夫です。」

ブルボンは冷静に答えた。

「彼女の身に、特に変わりはありません。問題は彼女が事を知って以降です。その時はスペシャルウィーク、」

つと、ブルボンは碧い眼を光らせてスペを見つめた。

「スズカが絶望に蝕まれない為にも、あなたの存在が不可欠になります。罪悪感に苦しむあなたの辛さも分かりますが、どうかそれを押し殺して、未来のために耐えて下さい。」

「はい。」

スペは、重たく頷いた。

 

頷いた後、スペはもう一つ尋ねた。

「オフサイドトラップ先輩は、今は…」

 

「オフサイドトラップに関しては、私にも分かりません。」

みなまで聞かず、ブルボンは答えた。

実際、ブルボンが任されているのはこの療養施設でのスズカ(とライス)への対応なので、オフサイドの情報はメジロ家の別荘で保護している程度しか知り得ていない。

オフサイドの決意が全く揺らいでないという現状は受けているが、それを言う必要もないと判断した。

 

「あなたは今は、自らの心身の快復に努めて下さい。では。」

ブルボンは最後にそう告げると、部屋を出ていった。

 

 

耐えて下さい、ですか。

ブルボンがいなくなった後、スペは椅子で膝を抱えながら、その言葉を反芻した。

自己としては、ルソーに要求されたことを遂行しなければという思いは変わらない。

だけど、ここで周囲を無視してそれをすることは出来なかった。

そもそも自らの過ちが自己の勝手な判断から出た言動である点、従うしかなかった。

 

オフサイド先輩…。

スペは、自分が深く傷つけてしまった彼女のことを思った。

悲壮な決意を固めてしまった先輩。

あの天皇賞・秋でスズカさんの為に必死に笑顔を振り撒いたのに、誰からも理解されずに責められ名誉を貶された先輩。

更には、スズカさんを最も愛している私から、理不尽な罵倒まで受けてしまった。

なのに。

“オフサイド先輩は、あなたのことを“生まれながらに命の重みが分かっているウマ娘”と言って、決して責めようとしなかった”

昨晩、ルソーと衝突した際に聞いた言葉が、スペの胸に刺さるように蘇った。

 

無知による愚行をおかした自分と違い、オフサイド先輩は私のことを、この世に生を受けた時から消えない私の悲しみを理解していた。

彼女はそれだけ同胞の命と向き合い続けたバ生を送ってきたんだと、椎菜やルソーから彼女の過去を聞いた今は、スペにも理解できた。

オフサイド先輩、本当にごめんなさい。

謝罪出来ない、いや今は謝罪する資格もないと自覚しながら、スペは胸中で謝罪し続けた。

 

「会いたいよ、スズカさん。」

オフサイドへの謝罪をしつつ、スペの胸中には愛するウマ娘の姿が浮かんだ。

スズカさん…多分色々と感じ始めているだろうな。

今日はずっと病室にいたとはいえ、施設内の雰囲気の変化…学園が下した断行に騒然としている雰囲気には気づいているだろうな。

怪我病棟の同胞達が、スズカの身を深く憂いていることも耳にした。

大丈夫だろうか。

今自分は、会うことは出来ない状況になった。

でも、ほんの少しでもいいから会いたい。

明朝、スズカさんは残酷な真実を知ることになる。

その前に、出来れば一目だけでもいいから。

 

自分が耐える為にもと、スペは切望していた。

 

 

 

一方、スペの部屋を出たブルボンは、そのまま椎菜の医務室へと向かった。

 

だが、医務室に椎菜はいなかった。

ルソーの所にいるのかと思ったが、受付で椎菜は外に出ていることを聞き、ブルボンはコートを羽織ると外へ出た。

 

夜の闇に覆われた外は肌に刺さるような寒風が吹いていた。

夜空は雲に覆われており、時折寒風に混じって雪が舞っていた。

ブルボンは寒さを大して気にせず、遊歩道を歩きながら椎菜の姿を探した。

 

椎菜は、遊歩道のベンチにいた。

白衣姿のまま、缶コーヒーを飲んでいた。

「渡辺椎菜医師。」

ブルボンは近くに寄ると声をかけた。椎菜はちらっと彼女の姿を見ると、無言でベンチの隣を空けた。

ブルボンは一礼して、椎菜の隣に腰掛けた。

 

「ホッカイルソーの様子は、どうでしたか。」

ブルボンは、寒風吹き荒ぶ高原を眺めながら尋ねた。

「深刻。」

椎菜も缶コーヒーを片手に夜空を見上げながら、ぽつりと言葉少なく答えた。

 

午後、食堂でライスと相談した後、ブルボンは椎菜と会ってルソーとの一部始終を話し、彼女の状態が極めて良くないことを伝えた。

それを受け、椎菜はすぐにルソーの元に行き、状態を確かめていた。

 

「ルソーは、ずっと辛い立場に置かされて来たから。もう耐えきれなくなったかもしれない。」

椎菜は、彼女自身も疲れきった表情で続けた。

二年半以上、〈死神〉との闘病を続けているルソー。

それだけでも大変なのに、彼女の心の支えであったオフサイドがあのような事になり、所属していた『フォアマン』も分解した。

慕う先輩やチームが受けたそれらの事態に対して、病身の為殆ど何も出来なかった自らの虚しさも相当なものだったろう。

それに追い打ちをかけるスペシャルウィークの言動と、オフサイドの絶望。

折れかけながらも支えていた彼女の心は、もう…

 

病室でルソーと会った際、彼女は殆ど何も話さなかった。

椎菜がかけた様々な言葉にもただ虚ろに頷くだけだった。

その後、医務の合間を縫いながら椎菜は何度も見舞いしたが、ルソーの虚ろな様子は変わってなかった。

全てに絶望してしまったような、そんな状態だった。

 

「今は、私でも手の打ちようがないわ。」

椎菜は二、三度首を振り、表情を歪めた。

今はただ、彼女の心に懸けるしかない。

「彼女の心に、シグナルライトの面影がまだ残っていれば。」

「シグナルライト。」

椎菜の言葉に、反応するようにブルボンも呟いた。

 

また寒風が吹いた。

枯草や枯葉と共に千切れた写真の破片が、寒風に煽られ足元を舞っていったことに、二人は気付く由もなかった。

 

「そういえば、ホッカイルソーもサイレンススズカと一時期チーム仲間でしたね。」

ブルボンが、ぽつりと言った。

「うん。ルソーはずっと療養生活を送っているから、そこまで多く接したことはないけどね。」

ただ、と椎菜は続けた。

「あの天皇賞・秋後、スズカが大怪我から生還を果たした時に、誰よりも一番喜んでいたのはルソーだったわ。」

「そうですか。」

確かにそうかもしれないと、ブルボンは思った。

シグナルライトの悲劇はブルボンも知っていたし、それによって負ったルソーの心の傷の大きさも想像出来た。

椎菜の言う通り、スズカの生還を誰よりも喜んだというのは本当かもしれない。

「だけどね。」

椎菜は、辛そうに溜息を吐いた。

“スズカの快復した姿を見て、素直に良かったと思えなくなってたんです”

十日程前、ルソーが口にした言葉が脳裏に蘇った。

 

「ホッカイルソーも、多くの辛い経験してきたんですね。」

「うん。」

オフサイドのようにその最期まで看取ることはなかったが、ルソーも二年半の闘病生活で数多の同胞との永別を経験した。

彼女と同室の仲間が次々と帰還してしまったこともあった。

「それでもずっと心が折れなかったのは、彼女の精神力もそうだけど、周囲の支えもあったからね。」

椎菜やオフサイドトラップは勿論、他の病症仲間、チーム仲間、そして…多分彼女の心に在る、シグナルライト。

今その殆どが失われかけているから、ルソーは追い詰められている。

 

「どうか、ホッカイルソーをお願いします。」

ブルボンは、心底から願うように言った。

「今、彼女を支えられる方は渡辺医師しかいません。」

 

「…。」

ブルボンの言葉に、椎菜は少し沈黙した後、疲労した表情にふっと微笑を浮かべた。

「どうかな。私もかなり心がきているからね。」

オフサイドへのバッシングそして決意、絶望が立ち込みはじめた〈死神〉闘病者達、ルソーの絶望…。

「ちょっと苦しいな。私にも支えが欲しいよ。」

彼女らしくない、弱気な言葉が出た。

 

椎菜の言葉を聞き、ブルボンも黙った。

しばし考え込むように両眼を瞑った後、意を決したように深呼吸し、静かに言った。

「実は、私もそしてマックイーン生徒会長も、深い悲しみと苦しみの中にいます。」

 

「え?」

「しかし、同胞達の危機を乗り越える為に、今はそれを堪えて行動しています。渡辺医師やホッカイルソーの苦境もよく分かります。ですがどうか、耐えて頂きたい。ウマ娘界の未来の為に。」

 

ブルボンもマックイーンも悲嘆に苦しんでる?

マックイーンはなんとなく察せられることがあるが、ブルボンまで?

 

椎菜は気になったが、ブルボンの無表情のうちに言い難い切羽詰まった覚悟を感じ、それは出来なかった。

 



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迫来時刻(4)

 

*****

 

一方。

ブルボンがスペ達の元へ向かった後、ライスは一人になった宿泊部屋のベッド上で横になったまま、手帳に書き物をしていた。

 

コンコン。

扉をノックする音がした。

「どうぞ。」

ライスは書き物をしていた手を止め、手帳を片付けながら答えた。

「入るわね。」

入室してきたのは三永美久だった。

 

「ライス、具合はどう?」

入室した美久は、ベッドの側に寄ってきた。

「少し良くないけど、問題はないわ。」

ライスが答えると、美久はそう、と微笑した。

「コーヒー淹れるわね。」

「ありがとう。」

 

ライスは、一昨日の体調不良がぶり返した為、午後からずっと休んでいた。

というのは表向きで、実際は彼女の脚の状態を憂慮したブルボンの命令の為だった。

ライスの脚部状態を知らない美久は、それを知る由もなかった。

 

「ブルボンさんは今どこに?」

淹れたコーヒーを一緒に飲みながら、美久が尋ねた。

「ブルボンさんは、所用に出ているわ。」

 

所用ねえ…

美久はその返答に少し考える仕草を見せた後、再び尋ねた。

「大丈夫なの?スズカに真実を伝える為の準備は。」

「え。」

ライスは、ビクッと反応して美久を見た。

美久はその眼を見返し、静かに言った。

「もう私も分かっているよ。あなたがここに来た目的を。」

 

一昨日、報道からの取材を受けた後のライスと会いに行った美久は、体調不良になっていた彼女から療養施設に連れていって欲しいとの頼みを受けた。

その理由は、スズカと会う為だということのみ聞いただけで、その詳細に関しては美久は知らなかった。

その後体調がある程度快復したライスと共に、昨晩ここに来た。

当初は、同じ大怪我を負った者として、スズカの見舞いに行くだけかと思っていた。

だけど、ライスのどこか悲壮な覚悟を決めたような様子をずっと見ているうちに、その程度ではないということが分かった。

そして昨晩ここに来た後、後を追うように来たブルボンの姿を見てそれは確信に変わった。

最も、水面下で起きている事態にはまだ気づいてなかったが。

 

そして今日、学園の断行のニュースを知り、美久はライスがここに来た理由が分かった。

スズカに一連の騒動を伝える為だと。

 

「一昨日、ブルボンさんと自宅で会っていたのも、そのことについての相談だったのね。多分マックイーン生徒会長とも話はついていたのでしょ?」

それにしては随分ギスギスしていた気もするけどと思い出しつつ、美久は言った。

 

「そうよ。」

内実は大分違ってたのだが、ライスは頷いた。

「私がここに来たのは、スズカに真実を伝える為だわ。」

 

その後、ライスは美久に、(当初その予定ではなかったものの)明朝にマックイーンや沖埜がここにきて、スズカに真実を伝えるということを話した。

 

「そう。」

それを聞いた美久は、ライスがここに来た理由、というか役目をすぐに察した。

「スズカと同じ立場になったことのあるあなたが、彼女を支える為に不可欠だということね。」

「その通りよ。」

ライスは、少し表情が暗くなっていた。

 

「別に、暗くならなくていいよ。」

ライスの表情を見て、美久はちょっと動揺した。

「ライスやブルボンさんが目的を私に隠していた理由は分かるから。私、立場的に部外者だし、無関係だし。」

『学園専属カメラマン』という立場の美久は、そう言った。

 

違うんだよ…

ライスは心中で呟いた。

本当の理由は、まだ言えない。

 

「美久、」

ライスは暗い表情を打ち消し、美久を見つめた。

「このことは、誰にも」

「言ってないよ。私の胸にしまってる。」

言われるより先に、美久は答えた。

この件がどれだけ重要なのかは、当然分かっていた。

「私には祈ることしか出来ないけど、どうかスズカの心を守ってあげて。」

「うん。」

 

 

その後、二人ともしばし無言で、コーヒーを飲んでいた。

 

美久…

親友である彼女の心境を、ライスは察していた。

美久は言い知れない不安をひしひしと感じているのだろうと。

昼間過ぎに食堂で、学園の断行のニュースを知った彼女は、自分でも分からないうちに泣いていたのだから。

何故泣きだしてしまったのか、彼女以上に彼女のことを知るライスには分かっていた。

 

「ブルボンさんも、かなり悲壮な様子だったね。」

つと、美久が呟いた。

昨晩から共にこの療養施設にいるブルボンは、普段の精密機械のような静けさはなく、かなり切迫詰まった様子を見せていた。

生徒会役員の職にある彼女は現在の状況でかなり重要な責務を負っているのかなと、美久は推察していた。

「スズカさんに真実を伝えるのは、それだけ重大なことだから。」

「分かるよ、それは。」

正直、スズカが真実を知った後のことをかなり憂いている美久は、重たく頷きながらコーヒーを飲んだ。

 

でもね、ブルボンさんが悲壮な様子なのは、スズカに関することだけじゃないんだ。

ライスはカップを手に抱えながら、胸の中で言った。

今、彼女がらしくなく積極的に行動してるのは、私の代わりとしてなの。

これ以上、私に脚を使わせない為に。

 

ライスは、自らの脚の状態については、美久にまだ打ち明けていなかった。

だから美久も、ライスの脚の状態のことについては知っていなかった。

 

帰還というものは辛いな。

間近に迫ったそれに対する覚悟はもう出来てしまっているものの、ライスは心底から重たい溜息を吐いた。

いくら自らがそれを受け入れることが出来たとしても、帰還によって起きる周囲の悲しみは、絶対に防げないのだから。

 

「どうしたの?」

ライスの溜息を見て、美久が心配そうに声をかけた。

「ううん、なんでもないよ。ちょっと、オフサイドトラップさんの事を考えていただけ。」

ライスは軽く首を振りつつ答えた。

「オフサイドのことを?」

「…。」

美久が尋ね返したが、ライスは無言で頷いただけでそれには答えなかったので、美久は首を傾げていた。

 

オフサイドの決意については、生徒会&オフサイドと特に近い関係者を除いて殆ど知られていなかった。

なので、美久もそれを知らなかった。

 

美久がオフサイドのそれを知る必要はない。

でも、私の脚のことは、もうその未来が遠くないのだから、知らせねばならないわ。

無二の親友の横顔を見つつ、ライスは胸の痛みと共にそう思った。

 

 

 

 

場は変わり、ホッカイルソーの病室。

 

あと3時間少々か…

21時をさそうとしている時計の針を見ながら、ベッド上に横たわっているルソーは思った。

未だ周囲になんの動きもなさそうな所をみると、まだスペはスズカに全てを話していないようね。

 

残念だけど、今日逃したら次はないよ、永遠に。

輝きを失ったルソーの両眼は、真っ暗な虚空に向けられていた。

どうやら、スズカに真実を伝えるのは、この私しかいないようね。

 

全てを知ったスズカがどれほど絶望するか、マックイーンもライスもその他諸々の関係者も皆分かっているだろう。

だから誰もが彼女に全てを伝えることを躊躇った。

それはスズカの身の為でもありまた、事実上スズカに“致命的な絶望を告げた者”になりたくなかったからだ。

その重い責任に耐えられる者はいないだろうから…

 

私だったら耐えられる。

ルソーは腕を虚空に伸ばした。

何故なら、私にはもう何もないから。

もう、心が折れた。

心の支えだったオフサイド先輩が帰還決意をした以上、もう〈死神〉に抗う気力もこの世界に対する希望も失くなった。

 

リート、ごめん。

3日前に帰還した同胞の姿が、ルソーの瞼に浮かんだ。

あなたが還った夜、私は“必ず〈死神〉に打ち克ってターフに戻る”と誓ったけど、それは果たせそうにないわ。

 

そして、シグナルライト。

最愛の亡き同胞の姿も、瞼に浮かんだ。

私も近いうち、この世界を去ると思うわ。

でも、私はあなたがいる世界にはいけそうにない。

だけど、どうかオフサイド先輩とサイレンススズカを宜しくね。

「あなたの笑顔で、二人の傷を癒してあげて。」

 

真っ暗な病室にたった一人、ぽつりと呟いたルソーの心は、もう壊れかけていた。

 

 

 

そして、時刻は23時を過ぎた。

 



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粉々(1)

 

*****

 

23時過ぎ。

 

療養施設はとうに消灯時間を過ぎ、就寝の静けさに満ちていた。

だが、施設内の幾つかの部屋にはまだ灯りがあった。

 

ライスは、ブルボンの宿泊室にいた。

昨晩は別部屋で美久と泊まっていたが、この日は諸事情の為にブルボンの部屋で寝ることにしていた。

 

就寝前、ライスはベッド上で左脚の古傷のケアをしていた。

普段は靴下で隠れて見えないが、露になった脚部の古傷部分はかなり変色しており、限界が近いことを現していた。

ライスの強靭な精神力で耐えてはいるが、既に四六時中かなりの痛みを感じる程になっていた。

だけど、ライスは少しも感情を顔に出さず、黙々とケアを続けていた。

 

「…。」

ケアしながら、ライスは明日が自分の生涯に於いても重要な日となることを予感していた。

3年半前の宝塚記念で、私はこの左脚が砕け予後不良になりかけた。

奇跡的に死の淵から生還し、今日まで私が生きてきた理由は、恐らくこれから起きる事の為。

そう、サイレンススズカを守る為。

だから、どうかもう少しだけ頑張って。

ライスは、苦痛の続く左脚にそっと手を触れ、祈るように念じた。

 

 

「…。」

黙々と左脚をケアしているライスの傍ら、ブルボンは隣のベッド上で、背を向け膝を抱えて座っていた。

ライスの左脚の状態を、彼女は決して見ないようにしていた。

 

やがて、ライスはケアを終えた。

「寝ましょう、ブルボンさん。」

「ええ。」

ブルボンは頷くと、背を向けたまま部屋の明かりを消した。

 

消灯し、シーツを被ったものの、ブルボンは中々寝付けなかった。

明日のことへの不安ではなく、隣にいる無二の親友の状態に対する感情のせいだった。

ともすれば唇から洩れそうな嘆きを、必死に堪えていた。

「…。」

ライスも、ブルボンの寝付けない様子に気づいていた。

その理由が自分のせいだということも、薄々分かっていた。

かける言葉も見つからず、ライスはただベッドの中でうずくまっていた。

 

 

 

一方、別室でこの日は一人で寝ることになった美久も、悶々とベッドの中で寝付けないでいた。

 

「…。」

彼女は起き上がり、窓を開けて外の空気を入れ込んだ。

凍えるような澄み切った空気が室内に吹き入って来て、美久はぶるっと身を震わせた。

どうしてだろう…

窓を閉めると、美久は胸に手を当てながらベッド上に座った。

なんでこんなに、悲しいのかな。

昼間、学園の断行のニュースを知った時から胸中に燻り続ける悲しみ…いや、魂の奥底から響くような悲しみに、美久は戸惑い続けていた。

 

 

 

そして、別室のスペも、未だベッドにも横にならず膝を抱えて床に座っていた。

 

スズカさん、スズカさん…

スペは最も愛する同胞への不安で一杯になっていた。

明朝、スズカ一連の騒動を伝えられる。

そしたら、スズは間違いなくショックで絶望してしまうことは明白だ。

“真実を知ったスズカは間違いなく帰還を選ぶわ”

ルソーから言われた言葉が、スペの脳裏に深く響き続けていた。

 

一目会いたい、スズカさんの姿を見たい。

不安の中、スペは何度も思っていたことを再び思い返した。

このままじゃ、私、不安で壊れてしまう。

それは愚かな行動をした自らへの罰なのかもしれないけど、まだ壊れちゃいけないんだ。

スズカさんが無事になるまでは…

 

不意にスペは、よろよろと立ち上がった。

部屋のドアに手をかけると、寝巻き姿のまま音も立てずに室外へ出ていった。

 

そのまま、スペは僅かな灯りだけが灯る、誰もいない暗い廊下をよろよろと歩き、やがてエレベーターの前に来た。

エレベーターに乗り込むと、最上階へのボタンを押した。

 

最上階に着くと、スペはエレベーターを降りた。

 

…?

最上階の非常灯だけが灯る暗い廊下を前にして、スペはハッと我に返った。

スズカへの心配から、無意識のうちに彼女はここまで来ていたのだ。

私、何をしてるんだろう…

スペは壁にもたれ、額に手を当てつつ首を振った。

 

 

と、

「誰かしら?」

エレベーターの音に気づいたのか、特別病室の方からスズカの担当医師が出て来た。

 

スペの姿を見ると、医師は怪訝な表情で側に来た。

「スペシャルウィーク。こんな時間にどうしたの?」

「…。」

医師の尋ねに、スペはしばし額に手を当てたまま何も答えなかったが、やがて答えた。

「スズカさんの状態が心配でとても寝れなくて、つい来てしまいました。」

「そう。」

その心情を察した医師は、納得したように優しく答えた。

「スズカは今晩は早めに就寝についたわ。今は穏やかに寝てる。」

 

「そうですか。」

スペは少しほっとした表情を浮かべ、そして続けた。

「一目、スズカさんと会うことは出来ませんか?」

「え?」

「寝顔だけでも良いので、一目見たいんです。スズカさんを…」

 

「分かったわ。」

スペの懇願に、医師は少し考えてから頷いた。

 

 

医師は、スペをスズカの病室に連れていった。

 

病室のベッドで、スズカは静かな寝息をたてて寝ていた。

スズカさん…

スペは、思わず涙を込み上げながらそっと枕元に近寄り、その寝顔を覗き込んだ。

暗闇なのではっきりとは見えないが、清廉な寝顔のうちに心なしかどこか不安の色が滲み出ているように映った。

 

思わず抱きしめそうになるのを、スペは堪えた。

必ず守ります、どうかご無事で。

胸中で心底から問いかけると、そっと枕元を離れた。

 

病室を出る前に、スペは目元を拭いつつ今一度スズカの寝姿を振り返っていた。

 

 

「ありがとうございました。」

病室を出たスペは、外で待っていた医師に礼を言った。

「どう?少し安心した?」

「はい。」

スペが頷くと、医師は続けて言った。

「ちょっと、話がしたいんだけど、いいかな?」

「え、はい。」

スペはちょっとドキッとしたが、この医師は自分がオフサイドにした言動を知らない(知っているのは椎菜・ルソー・ブルボン・ライスのみ)ことを思い出し、すぐに頷いた。

 

 

医師とスペは、スズカの病室のすぐ外にある医務室に入った。

 

室内に入ると、医師は確認するようにスペに尋ねた。

「体調は、どう?」

「大分良くなりました。」

「ふーん。」

朝方より顔色が悪そうなスペの返答に医師は渋面を浮かべたが、それ以上は踏み込まずに、言葉を続けた。

「明日のことは、もうあなたも知ってるわね?」

「はい。」

スペが頷くと、医師は続けた。

「あなたも予感してることだと思うけど、経過次第ではスズカが相当なショックを受ける可能性は高い。私達医師も可能な限りの対処を尽くすけど、予断は出来ないと思うわ。」

分かっていますと、スペは無言で答えた。

医師はその肩に手を当てて、小声ながらも語気を強めて言った。

「もし、スズカのショックが深刻だった時は、あなたの存在が非常に重要になるわ。どうか無二の同胞として、スズカを守る為に力をかして欲しい。」

 

「はい。」

自らも、スズカを絶望させる一要因をつくってしまったスペは、その感情を隠して重たく頷いた。

「スズカさんは、例え私がどうなろうと、必ず守ります。」

 

 

スペが答えた時だった。

『チリン』

外の廊下の奥から、エレベーターの止まる音が聴こえた。

 

「…?」

医師もスペも、顔を見合わせた。

「誰だろう?」

医師は、それを確かめる為医務室を出ていった。

 

医師が出ていった後、スペも後を追って出ようとした。

 

すると、

「…スペさん?」

病室の方から声が聴こえた。

ハッとスペは脚を止め、踵を返して病室に入った。

 

病室に入ると、今しがた眼を覚ました様子のスズカが、ベッド上に身を起こしていた。

「…スズカさん。」

「スペさん。」

二人の眼が合った。

 

スペとスズカの眼が合うのと、ほぼ同時だった。

「待ちなさい!」

「…。」

室外から医師の大きな声と、こちらに近づいてくる駆け足の音が聴こえた。

「…?」

スペが振り返った時、扉が開いて何者かが入ってきた。

 

 

 

その数分前。

 

椎菜は、夜遅くになっても医務室で一人業務をしていた。

ルソーへの深刻な不安、オフサイドの決意に対する動揺、〈死神〉闘病者達の現況、更には明日に起きることなどが彼女の心境を圧迫しており、とても寝れる状態ではなかった。

それを紛わす為にずっと業務をしていた。

 

0時近くになった時計の針を見て、椎菜は一旦業務の手を止めた。

飲んでいた缶コーヒーも空になっていたので、新しいのを買う為医務室を出た。

 

廊下にある自販機で缶コーヒーを買うと、椎菜はその場で蓋を空けて一口飲んだ。

「はあ。」

思わず、溜息が洩れた。

 

自販機の前で悶々としていると。

コツ、コツ…

廊下の向こうの、エレベーターがある方向から足音が聴こえた。

誰だろう。

特に気にもならなかったが、椎菜は受付の方へ向かった。

 

エレベーター前の廊下の角を曲がると、丁度足音の主がエレベーターに乗り込んでいくのが見えた。

 

…え?

一瞬だけだったが、暗闇の中でその主がエレベーターに乗り込む姿をはっきりと見た椎菜は、思わず身体が硬直した。

 

椎菜はエレベーターの前に駆け寄った。

だが既にエレベーターの扉は閉じられ、階を移動していた。

「なんで?」

そのエレベーターが最上階で止まったのを見て、椎菜の表情は更に硬った。

何故?どうして彼女が?

「一体、何を?」

 

驚きと戸惑いの中、椎菜の身体には無意識に慄えが走っていた。

 



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粉々(2)

*****

 

数分前。

施設内の、食堂。

 

僅かな灯りのみ灯るしんとした堂内の一席に、たった一人寂然と腰掛けているウマ娘がいた。

松葉杖を抱えたルソーだった。

 

彼女は一時間程前に病室からここに移動していた。

これからするであろう行動の為に。

 

そろそろか。

腕時計の針が0時に近づいているのを見て、ルソーは椅子からゆっくりと身を起こした。

どうやら終わりかな。

灯りを失った心のうちで呟きながら、ルソーは松葉杖をついてコツコツと歩き出した。

 

会ってもなければ分からないけど、多分スペは何も行動してないだろうな。

暗い廊下を歩きながら、ルソーは虚ろに考えていた。

いいよスペ、それでいい。

昨晩から昼間にかけて、ずっとルソーの胸にあったスペへの怒りは殆ど失せていた。

彼女を許したからではない。

もうどうでもよくなってしまったから。

 

この世界を生きている時間も、もう残り僅かか。

暗闇の中、ルソーはぽつりと唇元で呟いた。

この後、スズカに真実を打ち明けた後に、ルソーは帰還する決意を固めていた。

その場でスズカと共に逝くかそれとも後日一人で逝くかは決めていなかったが、どちらにせよ、オフサイドの決意&その他諸々で心が折れかけ壊れかけた彼女は、未来への希望を失っていた。

 

でも最後に“絶望の宣告者”の役は引き受ける。

絶望に消えるなら、より多くのそれを背負った方がいいから。

それが、同胞の未来の為に私が出来る最後のことだと、ルソーは心に決めていた。

自分の心が完全に折れて壊れ、同胞や人間達への憎しみに染まってしまう前に、と。

 

オフサイド先輩…

つと、ルソーは立ち止まり、心の内で敬愛する同胞に問いかけた。

スズカとスペを守れという先輩との約束は、果たせそうにありません。

でもスペのおかした言動は、私の命と共に永遠に消します。

どうか、それで許して下さい。

ルソーの頬に、ふっと澄みきった微笑が浮かんだ。

彼女は、再びゆっくりと暗い廊下を歩き出した。

 

 

そしてやがて、ルソーはエレベーターのある受付前に到着した。

 

 

すると。

 

「…え。」

エレベーターの前に、人がいるのに気づいた。

 

椎菜先生?

 

 

 

「椎菜先生。」

エレベーターの前で佇んでいた椎菜は、暗い廊下から現れたルソーに声をかけられ、ビクッと振り向いた。

「どうしたんですか、こんな所で…」

「ルソー。あなたこそどうしたの、こんな時間に。」

ルソーの姿に驚いた椎菜は尋ね返した。

「なんでもありません。」

ルソーは悟られないよう平静な口調で返答した。

と、エレベーターの電光点滅が最上階にあることに気づいた。

誰か、スズカの元に行ったのかしら。

「スペが、上に行ったんですか?」

 

「違うわ。あれは…」

ぽつぽつと茫然とした返答しつつ、椎菜は首を振った。

…?

ルソーは眉を潜めた。

椎菜の表情も、心なしかかなり慄えて青ざめて見えたから。

 

 

 

『ピリリリ…ピリリリ…』

 

宿泊室の、一室。

ベッド内で寝れずにいたブルボンの枕元にあるスマホが、突然鳴った。

…?

ブルボンもその隣のライスも、怪訝な表情で起き上がった。

「もしもし、ブルボンですが。」

『特別病室です!緊急事態が起きました!』

 

スズカの担当医師の切迫した声が、ブルボンそしてライスの耳に飛び込んだ。

 

 

 

*****

 

 

 

寒風と小雪が吹く中、制服にフードコートを羽織った彼女は療養施設に着いた。

 

施設の警備員は、彼女の姿を見て驚いた。

「こんな夜遅くに来るなんて、一体どうしたんだ?」

…生徒会の指示で急遽派遣されたんです。

「こんな夜遅くにか?」

…以前もあったことです。この事態の中ですから…

彼女は低い口調で答えた。

「そうか。」

現在の学園を取り巻く状況を考えれば不思議でないかと思ったのか、警備員は彼女を施設内に入れた。

 

人気のない真っ暗な施設内に入ると、彼女はコート姿のままコツコツと歩き、エレベーターの前に行くとそれに乗り込んだ。

乗り込む一瞬、廊下の角から現れた椎菜が自分の姿を見た気もするが、彼女は全く気に留めず、最上階へのボタンを押した。

 

 

最上階に着くと、彼女はスズカのいる特別病室へと歩き出した。

「誰?」

特別病室から、スズカの担当医師が出てきた。

…。

彼女は足を止めた。

 

医師は彼女の姿を見ると、つかつかと側に来た。

「…なんで、あなたがここに?」

彼女が誰だか分かると、医師も驚きの表情を浮かべた。

 

…スズカは、起きていますか?

彼女は、表情を見せないようにやや俯かせながら尋ねた。

「寝てるわ。スズカに何の用?」

…。

彼女はそれに答えず、医師の傍らを通り過ぎようとした。

 

「待って。」

不穏な雰囲気を感じた医師は、彼女の腕を捕らえた。

「何しに来たの?それに答えて。」

…スズカに会いに来ました。

「それだけ?それだけの為にわざわざこんな夜遅くに来たの?」

医師は更に質問した。

…。

医師の質問に、彼女は答えなかった。

 

…っ。

「!」

彼女は突然、医師の腕を乱暴に振り払うと、病室へ向かって駆け出した。

「あっ、待ちなさい!」

医師の制止を無視し、彼女は特別病室に駆け込んだ。

 

病室に駆け込むと、彼女はその場にいたスペと鉢合わせした。

…!

「え?」

眼を合わせ、彼女もスペも息を呑んだ。

 

だが次の瞬間、彼女は無言でスペの腕をぐいっと掴んだ。

「あっ!」

不意をつかれたスペは抵抗する間もなく、彼女の腕によって病室の外へ弾き出された。

 

「痛っ!え、なんで?」

「待ちなさい!」

弾き出され床に腰をつきながら声を上げたスペと、腕をさすりながら後を追ってきた医師が来るより早く、彼女は病室の扉をバタンと閉め、内から鍵をかけた。

 

ハア…ハア…

チェーンロックまですると、彼女は病室内の壁にもたれて大きく息を吐いた。

「…?」

突然の騒然とした事態に、目が覚めたばかりのスズカはベッド上で茫然としていた。

いや、愕然としていた。

今スズカの眼の前に突如現れた、コートを羽織ったままの同胞が、あまりにも意外な者だったから。

「何故、あなたがここに?」

先程まで彼女の姿を見た者達と同じ呟きが、スズカの唇から洩れた。

 

 

 

「一体誰が来たんですか?」

下階のエレベーター前。

表情が青ざめている椎菜に、ルソーは再度尋ねた。

その時、不意に大きな駆け足の音が廊下の向こうから聞こえた。

…?

見ると、駆け足の主はブルボンだった。

 

駆け寄ってきたブルボンは、二人には目もくれず、すぐにエレベーターのーボタンを押した。

「くっ…」

だが、最上階にそれがあるのを見ると表情をしかめ、階段の方へ駆け出した。

「どうしたの⁉︎」

「緊急事態です。」

ブルボンは蒼白な表情で手短に答え、一気に階段を駆け上がっていった。

 

「…?…?」

事態を把握出来ずルソーも椎菜も茫然としていると、今度は廊下の向こうからライスが杖をつきながら現れた。

彼女の表情も蒼白だった。

「ルソーさん、渡辺先生。」

ライスは二人の姿に驚いたが、すぐに言った。

「スズカさんの病室へ行きます。想定外の事態が起きました。」

 

「想定外?」

「やっぱり…」

ルソーは一層眉を潜めていたが、椎菜は口元に手を当てつつ、先程一瞬見えた者の姿を思い返した。

彼女、まさか…

 

 

 

「スズカ…」

自らの姿を見て愕然としているスズカを見て、彼女…黒いコートを纏った姿のステイゴールドは、額の冷たい汗を拭って、スズカを見つめ返した。

 

「…ごめんね。」

 

唇を震わせてそう言ったゴールドの表情は、かつて見たことないほど蒼白だった。

 



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粉々(3)

 

*****

 

 

今日。

ステイゴールドはこの日も学園の競走場で、3日後に迫った有馬記念への調整を入念に行っていた。

 

昼過ぎ、競走場の片隅でトレーニングの休憩をしていた時のこと。

ゴールドは、調整の取材に来ていた報道陣達の様子が妙に騒ついていることに気づいた。

眺めると、学園関係者と何やら口論している。

なんだろ?

少し気になったが、反感を抱いてる報道連中のことはほぼ無視していたので、そこまで気にならなかった。

 

その後、報道陣の姿が競走場からいなくなった。

なんか取材違反でもしたのかな。

そう考えたゴールドは、内心清々とした。

これで一層調整に集中出来るなと思いつつ、ゴールドは休めていた腰を上げた。

 

 

ところが、調整再開してしばらく経った頃。

 

「ゴールド先輩!」

共に競走場で調整していた後輩のウマ娘が数人、只事でない様子で駆け寄ってきた。

「どうしたの?」

「ニュース、見ましたか?」

「ニュース?」

スマホを手に動揺と驚きの様子を見せている後輩に、ゴールドは怪訝な表情を浮かべた。

何があったんだろ。

ゴールドもポケットからスマホを取り出し、ニュースを見た。

 

そして、学園の断行を報道するニュースの文字を見、

「え…」

愕然とした、声にならない呟きが洩れた。

 

どういうこと…?

ニュースの内容と学園の断行が、明確にオフサイドトラップ(『フォアマン』)に関することだと分かった。

なんで?私、何も聞かされてないよ。

こんな大変なことを起こすならば、最大の関係者の一人である自分にも事前に相談されてる筈だ。

一体何が?

状況が全く分からず、ゴールドはスマホを握ったまま、茫然とした表情で天を仰いだ。

彼女の脳裏にすぐ浮かんだのは、オフサイドの姿だった。

肌が粟立つような悪寒と共に、ゴールドはスマホをしまうと校舎へ駆け出した。

 

 

ゴールドが向かった先は、生徒会室だった。

 

バンッ ドンドンッ。

「どなたですか?」

生徒会室の扉を乱暴にノックすると、室内からマックイーンの返答が聞こえた。

「失礼します!」

ゴールドは扉を乱暴に開け、室内に飛び込んだ。

 

室内には生徒会長のマックイーンの他に、学園理事長の大平の姿もあった。

だがゴールドはマックイーンだけを見ていた。

「生徒会長、一体何が起きているのですか!」

蒼白な表情と血走る瞳で、ゴールドは叫んだ。

 

「マックイーン、失礼する。」

室内に突入してきたゴールドを見、大平はマックイーンにそう断ると、淡々とした様子で部屋を後にしていった。

「はい。ではまた。」

マックイーンも表情を全く変えず、彼を見送った。

…。

自分の傍らを通り過ぎて部屋を出ていった大平に、ゴールドは一瞬気になるような視線を見せたが、すぐにマックイーンに向き直った。

「ニュースを見ました。何故、私達に事前相談も何もなくこんなことを断行したのですか!」

 

「事前相談も何もなかったことは、申し訳ありませんわ。」

マックイーンは立ったまま、冷静な表情とともにゴールドを見つめ返しながら答えた。

「ただ、状況的に事前相談をする猶予もありませんでした。」

「状況的に?」

 

表情を歪めたゴールドに、マックイーンは懐から一通の手紙を取り出し、それを差し出した。

「これは?」

「昨日、オフサイドトラップから私に宛てられた手紙ですわ。」

「先輩の手紙…」

ゴールドは、息を呑んでそれを受け取り、手紙を読んだ。

 

「これは…。」

それを読み終わった時、手紙を握るゴールドは驚愕と動揺のあまり腕から全身にかけて震えていた。

 

「なんで?オフサイド先輩?何故?どうして?…」

言葉にならない悲嘆が彼女の口から次々と洩れた。

「何故こんなことに⁉︎オフサイド先輩は今どこにいるんですか⁉︎」

悲嘆を洩らした後、ゴールドは血相を変えてマックイーンに詰問した。

 

詰問されたマックイーンは、現在オフサイドの身柄がメジロ家の別荘に保護されていることを明かした。

それを聞いたゴールドは即座に要求した。

「今すぐ私と会わさせて下さい!」

 

「分かりましたわ。」

マックイーンはすぐに了承した。

「車両を手配します。一度寮に戻って下さい。そちらに車を手配します。」

もう間もなく学園の周囲は騒然とするだろう。

ここでゴールドをメジロ家の車両に乗せるのは得策ではないとマックイーンは判断した。

「分かりました。」

ゴールドは手紙を返し、まだ血走っている瞳でマックイーンを見据えながら頷いた。

 

生徒会室を出たゴールドは、制服姿に戻ると学園をすぐに後にした。

報道陣の連中には遭遇しなかった。

 

 

数十分後、ゴールドは寮に着いた。

寮の前には既にマックイーンが手配したメジロ家の車両が待機していた。

すぐにゴールドはそれに乗ろうとしたが、ふとあることを思い出し、一旦寮の自室に戻った。

 

自室に戻ったゴールドは、机の引き出しを開けた。

中には、昨日届いたオフサイドからの郵便物が入っていた。

ゴールドはそれを全て取り出し、懐にしまうとすぐに部屋を出た。

 

ゴールドはメジロ家の車両に乗り込んだ。

運転手はメジロ家の使用人で、既にマックイーンから彼女をオフサイドの元へ送迎するよう命を受けており、すぐに車を発進させた。

 

車が発進した直後、ゴールドは運転手に幾つかオフサイドに関する質問をしたが、運転手は役目から全ての質問に言葉を濁し明確な答えは言わなかった。

ゴールドは内心苛立ったがそれは仕方ないかと受け入れ、後部座席に座り直した。

そして、自室から持ってきた郵便物を取り出した。

 

昨日オフサイドからの郵便物は、数冊のノートと二通の手紙の封筒。

うち手紙の片方だけは読んだが、他の物には手をつけてなかった。

ノートに関してはオフサイドの競走生活の記録だと記されていたが、もう一つの手紙は…。

ゴールドはそれを手に取った。

 

『有馬記念が終わった後に読んで下さい』

 

封筒の表面に書かれているそれを見、ゴールドは蒼白な表情を歪ませた。

昨晩見た時も謎だったが、今は謎どころじゃない…。

ゴールドは震える指先でその封筒を開け、中身の手紙を取り出した。

不安に高鳴る鼓動を歯食いしばって抑えつつ、ゴールドはそれを読み始めた。

 

 

 

それから数時間後の、18時前。

ゴールドを乗せた車両は、オフサイドのいるメジロ家別荘に着いた。

 



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粉々(4)

夜の闇に覆われた中、メジロ家の別荘の前に到着したゴールドは車両を降りた。

 

…?

使用人に案内され別荘に入ろうとした時、別荘に隣接している競走場に人影が動いたのが見えた。

あれは!

一瞬だけだったが、ゴールドはそれが誰だかすぐに分かり、その人影の方へ走っていった。

 

「オフサイド先輩!」

ゴールドは、競走場の片隅で膝を抱えている人影のもとに駆け寄ると、その名を呼んだ。

「…。」

呼びかけられ、ゴールドの姿に気づいたオフサイドは、なんとも言えない微笑と共に彼女を見返しつつ、ゆっくりと立ち上がった。

 

 

『フォアマン』の二人は、約10日ぶりに再会した。

 

 

オフサイド先輩…

夜闇の中、オフサイドの姿を見つめたゴールドは胸が詰まった。

最後に会った時と比べて、顔色も状態も良くなっていた。

でも、全てを諦めたような、達観したような微笑が、彼女の頬に浮かんでいたから。

 

「どうして、あなたがここに?」

しばし無言で見つめあった後、オフサイドが口を開いた。

「私のことには構わず、有馬記念への調整に集中するよう伝えた筈だけど。」

「何言ってるんですか。」

淡々と言ったオフサイドに対し、ゴールドは表情を顰めて言い返した。

「先輩が隠していた決意を知って、黙っていられる訳がありますか!」

 

「生徒会長が伝えたのね。」

ゴールドの返答を聞き、オフサイドはすぐにそう察すると、やや表情を歪ませて深く吐息した。

「有馬記念前に、あなたに知られたくなかったのに。」

 

「私の方から生徒会長に伺いました。」

ゴールドは、昼過ぎに学園断行のニュースを突然知ったこと、どういうことなのかマックイーンに詰問するとオフサイドの手紙を見せられその決意を伝えられたこと、そしてここに来たまでの経緯を話した。

 

「何故、こんな決意をしたんですか?」

「…。」

ゴールドは悲痛な口調でオフサイドに尋ねたが、オフサイドは無言で答えなかった。

 

やっぱり…

尋ねたものの、あの天皇賞・秋後に先輩の栄光を貶めまくった連中共のせいだと、ゴールドは既に察していた。

あの理不尽なバッシングのせいで…

胸奥に閉じ込めていた怒りと悔しさが一気にこみあげ、ゴールドは歯軋りした。

 

と、その怒りに震えた表情を見て、オフサイドは閉ざしていた口をゆっくりと開けた。

「自分に絶望したの。」

「…え?」

「絶望したのよ。あの天皇賞・秋で、あの程度の走りしか出来なかった自分に。」

オフサイドの表情は、達観した微笑を湛えたままだった。

 

「何言ってるんですか?そんな訳ないじゃないですか!」

耳にした言葉が信じられず、ゴールドは必死な声を出した。

あの理不尽なバッシングを受けて以降、精神的にボロボロにされたオフサイドは自己否定の言葉ばかり繰り返すようになっていたが、今回のそれは今までと違っていた。

完全に絶望してしまっている、そう感じた。

「嘘だと言って下さい!先輩が絶望したのは、あの理不尽なバッシングの嵐と栄光を貶めた連中のせいです!そうに決まってます!」

 

ゴールドの必死な言葉に、オフサイドはつと俯きつつ、答えた。

「バッシングは苦しかったわ。受けた仕打ちもね。でも、それは間違いじゃないのよ。」

「は?」

「現実を見れば分かるでしょう。私には責められるだけの理由があることしか出来なかったと。」

 

「バカなこと言わないで下さい!」

オフサイドの返答に、思わずゴールドは身を震わせて怒声を上げた。

 

あの天皇賞・秋。

ゴールドはオフサイドの走りを最も間近で目の当たりにした。

スズカの故障にも全く動揺を見せずにコースをとり、直線で先頭に立ってからは最後まで走りきった姿を。

必死に追い縋った自分を振り切ったあの凄まじい粘りを。

その姿は、同じく自分の猛追を凌ぎきった天皇賞・春のメジロブライト、宝塚記念のサイレンススズカと同じG1勝者の走りそのものだった。

「責められて当然?そんな訳ないじゃないですか!責められて当然なのは、先輩の栄光を貶めバッシングした連中達の方です!あんな理不尽なバッシングに先輩は…」

 

「ゴールド、」

怒りを込めて叫ぶゴールドの言葉を制し、オフサイドは俯いたまま言った。

「私も、私を責める人達に非があると思いたかったわ。でもね、自分に嘘はつけないの。」

 

「自分に嘘?どういう意味ですか…?」

ゴールドが再び眉を顰めると、オフサイドは小さく頷いて続けた。

「うん。だって、私自身が一番よく分かったんだから。私は、第118回天皇賞ウマ娘の名誉に値する走りが出来なかった現実に。」

 

「何故、そんなことを思ったんですか。」

ゴールドは荒い息を洩らす唇を噛んだ。

「酷評されたタイムのせいですか?なら…」

「タイムだけじゃないわ。誰の印象にも残らない、称賛もされない走りをしてしまったことよ。」

オフサイドの頬の微笑が、やや引き攣った。

 

「先輩の走りが称賛されないのは、誰もまだそれを顧みてないからです。」

ゴールドは、胸中の苦しさを耐えるように言った。

「あの天皇賞・秋は、スズカの怪我のショックとその印象が強く残り過ぎて…」

「それはなんの言い訳にもならないわ。もしそうなら、“スズカが無事だったら”と振り返られることもなかったのだから。」

オフサイドは、僅かに語気を強めた。

「現実として、私の走りは結果的な勝者というもの以外は何も残せなかった。それは紛れもない現実なの。」

「違います!」

ゴールドも語気を強め、思わずオフサイドの胸元を両手で掴みあげた。

「先輩の走りは、確かに栄光に相応しいものでした!…悲願の栄光を手にする寸前で先輩に負けたこの私が言うのですから間違いありません!先輩はバッシングに害されてそう思ってしまってるだけです!」

 

「…。」

涙まじりに声を上げたゴールドを見、オフサイドはまた少し吐息をすると、胸元を掴みあげている彼女の腕を解いた。

「ゴールド、」

震える彼女の肩にそっと手を当て、オフサイドは言った。

「あなたは、私がこれまでなんの為に生きてきたか、そしてどんな想いで天皇賞・秋を走ったか、分かるでしょう。」

「っ…」

ピクッと、ゴールドは反応した。

「私は、〈死神〉、絶望と闘う同胞達に少しでも明るい未来を見せる為、生きてきた。そしてようやく手にしたあの天皇賞・秋の舞台で、それを示そうと命を懸けた。それともう一つ…もう一つの想いも一緒にね。」

オフサイドは感情を静かに吐露するように、言葉を絞り出した

「だけど、私はあの天皇賞・秋で、その未来を見せることが果たして出来たのかな?心の底からそう言える、そんな走りが出来たのかな?みんなが認める天皇賞ウマ娘の走りが出来たのかな?」

「出来たと私は…」

「じゃあなんで、皆悲しんでいるの?悲しみに閉ざされたまま、あのレースを見ることが出来ないでいるの?…真の栄光なら悲劇に覆われる筈はないのに。この現実は、どう説明すればいいのかしら。」

 

「…。」

言葉を重ねたオフサイドに、ゴールドは蒼い表情で返答に詰まった。

それを見、オフサイドはゆっくりと言った。

「誰にも顧みられない、悲しみに覆い隠された栄光。私はその程度の走りしか出来なかった。それが現実なのよ。そして、永遠なの。」

“永遠”。

最後の台詞は重い、本当に重い口調だった。

 

「でも、帰還なんてしないでください!」

反論が見つからなくなり、ゴールドは無我夢中でオフサイドの腕を掴んで叫んだ。

「まだ、有馬記念があります!私…優勝しますから!優勝して、先輩の名誉を取り戻して、チームも立て直しますから!その為に、私ずっと頑張ってきました!だから、帰還だけは…」

 

「ごめん、ゴールド。」

オフサイドは、ゴールドの掴んだ手を再びそっと解いた。

「私、生きる気力がもうなくなったの。」

「え…。」

「この先の未来に、何の夢も希望もないの。もう脚も残っていないわ。あの天皇賞・秋で、全て使い切った。その結果がああだった以上、もう私には帰還しか残されてないの。」

「そんなこと言わないで下さい!先輩はどんな絶望にも屈しなかった、強いウマ娘なんですから!」

「ゴールド。私は、栄光を掴んだ走りが顧みられない現実を前に生きていける程、強いウマ娘じゃないんだ。辛く悲しくて、不甲斐なくて悔しくて惨めで、そして、申し訳なくて。」

“申し訳なくて”。

その最後の台詞にも、言いようのない重さがあった。

それはゴールドの胸にもずしりと響いた。

 

「オフサイド先輩、」

ゴールドは、オフサイドの静かな瞳を見つめて、最後の気力を絞って尋ねた。

「先輩は、〈死神〉に勝ったではありませんか?その誇りは、ないのですか?」

 

ゴールドのその尋ねに、オフサイドはフーッと大きく深呼吸し、つと眼を逸らして夜空を仰いだ。

「ゴールド、違うわ。」

仰いだまま、オフサイドは声を震わせながら言った。

 

「私は、〈死神〉に負けたのよ。」

 

その台詞に、ゴールドは奈落の底に落ちるような喪失感を全身に感じた。

「…っ」

ゴールドは声にならない嘆きと共に、踵を返すと目元を抑えて駆け出した。

それきりオフサイドのことは振り返らなかった。

 

 

「車を出して下さい!」

送迎されたメジロ家車両の元に駆け戻ると、ゴールドは目元を抑えたままそこに待機していた使用人に叫んだ。

 



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粉々(5)

 

ゴールドはメジロ家別荘を後にした。

 

オフサイド先輩…

車中、ゴールドの胸中はこれ以上ないくらいの悲しさに襲われていた。

“私は〈死神〉に負けたの”

そんな言葉、先輩の口から絶対に聞きたくなかった。

 

ゴールドにとって、オフサイドは心の支えであり、『フォアマン』そのものだった。

実績や実力だけなら、ゴールドは或いはオフサイドを上回っているかもしれないが、そんなのは関係なしに同じウマ娘としてかけがえのない存在だった。

 

トレセン学園に入学し『フォアマン』のメンバーとなった2年前の春以降、ゴールドはオフサイドの生き様を間近でずっと見てきた。

苦しい苦しい〈死神〉との闘病生活、それを乗り越えてターフに戻ってきた姿を。

痛み止めを打ちながらレースに臨み、しかし連戦惜敗が続いて苦悩に襲われている姿を。

3度目の〈死神〉発症に心折れかけながら、現役続行を決断した姿を。

相次ぐ苦境と闘いながらもそれに抗い続け、遂には3度目の〈死神〉を乗り越えて奇跡的にターフに帰ってきた姿を。

 

その後、

痛み止めを捨ててターフに臨むことを決心し、苦痛の中でレースを闘いながらそれでも連敗が続き項垂れる姿を。

盟友の急病に多大なショックを受け、決死の覚悟でレースを走って、遂に悲願の復活勝利を挙げた姿を。

盟友の為に再び勝利を手にし、天皇賞・秋への切符を掴んだ姿を。

 

そしてあの9月27日以降、シャドーロールを纏いながら鬼気迫る様子で天皇賞・秋への調整を行っていた姿を。

 

その全てを、ゴールドは目の当たりにしてきた。

 

 

オフサイド先輩は、決して絶望に屈することはなかった。

どんな強靭なウマ娘でも2度目には屈する〈死神〉を3度乗り越えた。

ウマ娘として最も重要な歳月を〈死神〉に奪われた現実にも心折れなかった。

6年生という年齢も3年半13連敗という成績も、先輩の夢への希望を失わせることはなかった。

 

そしてあの天皇賞・秋。

相手にあのサイレンススズカがいても、彼女の闘志が揺らぐことはなかった。

 

そう、スズカが相手でも。

ゴールドは、天皇賞・秋目前に、オフサイドと交わしたある会話を思い出した。

“神がかり的な内容で連戦連勝を続けるサイレンススズカを相手に、恐れはないのですか?”という質問をしたら、オフサイド先輩はこう答えた。

“恐れはないわ。私は、今のスズカよりも恐ろしい同胞を相手にしたことがあるのだから”と。

 

そんな、どんな危険にもどんな強敵にもたじろかなかった先輩が、心を折られた。

 

 

「…。」

ゴールドは項垂れたまま、懐から手紙を取り出した。

オフサイドと会う前に読んだそれを、もう一度読み返した。

 

 

『ステイゴールドへ

 

あなたがこの手紙を読んだ時、私はこの世にいないと思います。

 

私の帰還によって、あなたは誰かを責めてしまうかもしれません。

でも、誰も責めないで下さい。決して、決して誰も責めないで下さい。

私が還る理由は、私の中の理由です。

 

帰還後のことで、あなたにお願いがあります。

サイレンススズカを守ってあげて下さい。

私が還ったことを知れば、スズカは非常に苦しんでしまうと思います。でも、私が還る理由は彼女にはないことをこの手紙で証明し、彼女の心を守ってあげて下さい。

私では、彼女は守れませんでした。でも、スズカにとってかけがえのない存在であるあなたなら、守れると思います。

 

どうか皆で力を合わせて、スズカを守ってあげて下さい。  オフサイドトラップ』

 

…。

ゴールドは手紙を握りしめ、それに額を埋めた。

 

 

“私が還る理由は、私の中の理由です”。

その理由の全ては、先程オフサイドから聞いた。

未来への希望が消えたから。

脚を使いきったから。

称賛なき栄光に耐えられなかった。

そして、〈死神〉に負けたから。

その悲痛な思いは、ゴールドは理解したくなくても理解せざるを得なかった。

 

あの天皇賞・秋は、先輩にとってそれだけ重いレースだった。

栄光とはほぼ無縁の6年生という高齢の身で、〈死神〉に蝕まれボロボロになった脚を抱え、しかも史上最強レベルの相手が出走。

その状況で先輩はレースに挑んだ。

それも勝利を目指すという、無謀で途方もない決意を抱いて。

 

…勝利どころじゃない、レース中に先輩の脚が壊れる危険性の方が遥かに高かった。

ゴールドも、チームの仲間達もそう危惧していた。

実際、先輩とトレーナーの間では出走や狙う着順について何度も激論になっていた。

トレーナーの反対すら押し切って、先輩は勝利を目指したんだ。

 

“必ず生きて、天皇賞の盾を獲って、此処に帰ってきます”

天皇賞・秋の出走前、控室でトレーナーにそう言い残したオフサイドの言葉が脳裏に蘇った。

 

それなのに、それなのにそれなのにそれなのにそれなのにそれなのに。

 

なんで、なんでよ…

ゴールドは髪を掻きむしって声を上げ、頭を抱えて苦悶した。

そこまでの決意と覚悟の抱いて掴み取った盾と栄光が、無価値の骸にされ、先輩はそれに縛り付けられた。

先輩の希望も気力も脚も奪って、消えない虚しさだけを残して。

こんな酷い結末、ないよ。

 

先輩が一体何をしたのさ。

1分59秒3のタイムがそんなに悪いの?

スズカの故障に動じなかったのがそんなに悪いの?

印象に残らない走りをしたのがそんなに悪いの?

悲願の栄光を喜ぶことがそんなに悪いの?

称賛されることを願ったことがそんなに悪いの?

誰もが望むことを出来なかったことが、そんなに悪いの?

 

〈無価値の天皇賞覇者〉・〈悲劇の恩恵の勝者〉…

「う、うう…。」

オフサイドに浴びせられた忌まわしき表現の数々が脳裏に浮かび、ゴールドはうめき声を上げた。

 

その時、心の中で堰き止めていた思いが、音を立てて崩れた。

 

 

 

 

やがて、ゴールドを乗せた車は、学園寮の近くまで来た。

 

「すみません。ここで降ろして下さい」

学園寮の最寄りにある駅前を通りかかった時、ゴールドは運転手にそう言った。

「学園寮まで送迎するよう言われてますが。」

「大丈夫です。ここから歩いて帰れますので。」

「分かりました。」

運転手は、車を止めた。

 

ゴールドは駅前で車を降りた。

車両が去っていくのを見送ると、コートを纏ってふらふらと駅の方へ歩き出した。

 

 

なんで、こんなことになっちゃったんだろう。

駅に入り、ふらふらとホームへの階段を上りながら、ゴールドは虚ろな胸中で思った。

私、ずっと頑張ってきたのに。

 

天皇賞・秋後、バッシングに晒されたオフサイド先輩もチームも必死に守ってきた。

トレーナーが学園を去りチームが分解しても、心は折れずに希望を持ち続けた。

ボロボロになったオフサイド先輩を支え、チームを去った仲間達ともコンタクトを取り続けた。

必ずチームを復活させたかった。

チームの皆で栄光を目指した…あの苦しくても必死に闘い、走り、仲間達で切磋琢磨をした時間と場を取り戻したかった。

『不屈・体現・勝利』の誇りを再び掲げたかった。

絶対に復活出来ると信じた。

オフサイド先輩も、トレーナーも、チーム仲間達もみんな『フォアマン』の名の元に集う日が帰ってくると信じた。

『フォアマン』が消える日は自分が消える日…それだけの決意すら胸に抱いた。

その為に、ずっと頑張ってきたのに…

 

今度の有馬記念が、チーム復活の為の最重要レースだと思った。

絶対に優勝すると胸に誓った。

たった一人の寂しさにも耐えて、必死に調整し続けてきた。

優勝すれば、オフサイド先輩の笑顔も取り戻せるって、それを何よりも願った。

 

それなのに、もうなんの意味もなくなっちゃった。

 

 

ゴールドは、電車に乗り込んだ。

 

電車に揺られながら、ゴールドはコートのフードを被って、希望失った瞳で車窓の外の風景を眺めていた。

頑張ってきたのに、ずっと頑張ってきたのに。

もう何もかも終わりだ、終わったんだ。

 

 

つと、ゴールドは懐から、くしゃくしゃになった手紙を再び取り出し、その一部分に眼を通した。

 

“サイレンススズカを守ってあげて下さい…彼女の心を守ってあげて下さい”

“私では彼女は守れませんでした。あなたなら、守れると思います”

 

オフサイド先輩は、スズカを守りたかったんだな。

この手紙を読んだ今、ゴールドは天皇賞・秋後のオフサイドの言動の真実がなんとなく分かり出した。

あの時、必死に喜ぶ姿を見せようとしてたのは、自身の栄光や仲間達への感謝や闘病仲間へのメッセージのみならず、スズカのことも考えていたんだろう。

心優しく繊細なスズカが、笑顔なき勝者を見て傷つかないように。

 

あの時は、スズカの命も凄く危険な状態だったから、誰もその真意は理解出来なかったけど。

でもオフサイド先輩は、インタビュー・表彰式の後に、控室に戻るとすぐにスズカのことを案じてた。

ウイニングライブの中止もすぐ受け入れてたし、祝勝会などもスズカの容態が落ち着くまでは自粛すると即決した。

スズカの悲劇に対する配慮はちゃんと行ってた。

 

その配慮は顧みられず、全部無駄にされた。

そしてオフサイド先輩の心も滅茶苦茶にされ、帰還決意に至った。

それはつまり、大きな反動がスズカに返ってくることを意味していた。

 

スズカを守って欲しいのなら、オフサイド先輩に生きて欲しかった。

そんな思いがゴールドの胸を一瞬よぎったが、それは押し消した。

先輩はスズカを必死に守ろうとしたのに、それを全てぶち壊したのはスズカへの盲愛で浅慮な行動した連中達と、先輩の言動やターフの厳しさを理解しながら先輩が責められることを許した連中達じゃないか。

 

「もういいよ。もう何もかも、どうでもいい…」

ゴールドは、ぽつりと呟いた。

 

…先輩、ごめんなさい。スズカを守るよう託されましたが、私にはもう無理です。

例えスズカを守れたとしても、オフサイド先輩を守れなかった事実に、私は耐えることは出来ません。

 

 

それに、オフサイド先輩の帰還を前に、私はスズカを守れないと思います。

だって私は、あの天皇賞・秋以降、ずっと心の何処かで…

 

ゴールドの眼から涙が溢れ、一筋になって頬を伝った。

サイレンススズカを、責めていたから。

 

 

電車の車窓から、療養施設のある高原が夜闇の中で微かに見え始めた。

 



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粉々(6)

 

電車は、高原の駅に着いた。

 

既に夜遅く辺り一面暗闇に満ちた中、電車を降り駅を出たゴールドは、寒風と小雪の舞う夜道を療養施設へ向かって歩き出した。

 

 

サイレンススズカ。

 

幼い頃から、かけがえのない友達だった。

いつも一緒に遊んで、駆け回って、笑いあった。

トレセン学園に入学して、共に『フォアマン』のメンバーになって以降も、切磋琢磨し合いながら親友関係を続けた。

デビューは自分の方が早かったけど、実績面ではあっという間に先を越された。

スズカがチームを離れると知った時は悲しかったし大喧嘩したけど、お互いの思いを理解しあって仲直りした後は、チームは違えどより親友としての絆は深くなった。

 

今年に入ってから、破竹の快進撃を続けるスズカに対し、私も負けじと奮戦した。

そして初めて対戦した宝塚記念では、2人で1、2着をもぎ取った。

勝てなかったのは悔しかったけど、大レースで共に闘える日が来るなんて夢みたいだったしそれが何より嬉しかった。

ウイニングライブも楽しかった。

そして、次に闘う舞台では絶対に負けないからって思った。

 

そしてその後、私が京都大賞典で惨敗した一方でスズカは毎日王冠を圧巻の内容で勝利した。

最強の後輩2人に影も踏ませなかったあの走り、本当に凄かったよ。

正直、完全に私とはレベルが違う段階に行ったなと思った。

でも、追いつけばいいとも思った。

本番の天皇賞・秋、私は絶対にスズカに勝つんだという強い思いで調整した。

 

天皇賞・秋の結果がどうであれ、私とスズカの友情の絆にはなんの影響もないと思ってたよ。

例えどちらかがぶっちぎりに負けても、或いはギリギリの勝負になったとしても、その他どんな結末になろうとその心配はしてなかった。

むしろもっと深い絆になるって思ってたんだ。

 

でも、まさかあんなことが起きるなんて予想してなかった。

スズカは故障し、私も負けた。

今思えば、あのレースであんなことが起きることを予想していたのは、勝者となったオフサイド先輩だけだったかもしれない。

 

レース後、スズカは一週間近く生死の境を彷徨った。

その間、私もスズカが還ってしまう危機にずっと怯えていたわ。

どうか助かって生き還ってと、四六時中慄えながらずっと祈ってた。

そして、あなたが生還したと伝えられた時は、泣いて喜んだよ。

本当に、本当に良かったって。

 

振り返れば、私とスズカが偽りない無二の親友だったのは、その時までだったのかな…

 

スズカが生還すると同時に始まった、天皇賞・秋の回顧。

理不尽な中傷とバッシングの嵐の中、それに晒されるチームと先輩をなんとか守ろうとしていた私は、スズカの快復の為にも尽力しようとした。

 

今振り返れば、そんなことするべきではなかったのかもしれない…

 

何故なら、もうその時から、私の心の奥底には苦しい感情があったから。

でも私は、絶望のどん底にいるスズカに何もしない選択なんて出来なかった。

親友だから、無二の親友だから。

奥底にあった感情を封じ込めて、スズカの快復の為に力を尽くした。

 

そして、スズカの心は少しずつ快復していった。

その一方で『フォアマン』は分解し、オフサイド先輩はボロボロになっていた。

 

あの頃が最後の機会だったな。

例え快復直後でリスクが大きくても、スズカに天皇賞・秋後のことを話すべきだった。

でも…怖かった。

だってそれを知ったら、スズカがまた絶望してしまう可能性が高かったから。

スズカ生還後から心が快復するまでの間は本当に辛かった、地獄だった。

もうあんなスズカは見たくないという恐怖が、騒動を話すことを躊躇わせた。

 

すぐに騒動を打ち明ける選択の代わり、私は有馬記念に望みを懸けた。

有馬記念で優勝して、チームも誇りも取り戻す。

そうすれば、オフサイド先輩の失われた心も取り戻せると信じたから。

先輩が心を取り戻してから、スズカに騒動のことを打ち明けた方が、スズカが受けるショックも少ないと思ったから。

そして、自分の心の奥底に蠢く感情も消せると思ったから。

 

私も、先輩よりスズカを優先してた。

いや、自分の心を優先してたんだ。

先輩の心がどれだけ壊れかけていたか、それを一番間近にいる同胞なのに気づけなかった。

 

その結果が…

“私は〈死神〉に負けたの”

 

 

「うっ…」

口元を抑えて嗚咽したゴールドの視界に、療養施設の建物が見えた。

 

「ふ…」

ゴールドはつと、寒風吹き荒ぶ路上で足を止めた。

「ふ、うう…はあ…はあ…」

涙を振り払い、胸を抑えながら、悲しみに満ちた想いを溢すような吐息をした。

 

そしてコートを靡かせ、施設へ向かって駆け出した。

 

 

 

それから数分後。

 

ゴールドの姿は、スズカの病室にあった。

 

 

 

*****

 

 

 

「“ごめんね”?」

 

真夜中に突然訪れたゴールドの姿とその第一声を聞き、ベッド上のスズカはどういう意味なのと聞き返した。

「…。」

ゴールドはそれには答えず、荒い呼吸を繰り返しながら扉の方に目を向けていた。

その外からは、医師やスペの声や足音、ドアノブを鳴らす音が聞こえた。

「一体どうしたの?」

突然のゴールドの出現にばかり気を取られていたスズカだが、乱暴な方法で二人きりの空間にした彼女の行動にも気付き、背筋にぞっと悪寒が走った。

「ねえ、どうしたの?答えてよゴールド!」

不安に高鳴る口調で、スズカは再び声を上げた。

 

「…スズカ、」

ゴールドは視線をスズカに戻すと、コートを羽織ったまま扉の側の壁にもたれた。

そしてスズカの不安な瞳を見つめ返しながら、蒼白な表情に悲嘆した微笑を浮かべつつ、ぞっとする程静かな口調で言った。

 

 

「もう限界なの。みんな…みんな一緒に壊れよう。」

 

 

「え…?」

「全て話すわ。スズカが知らない、天皇賞・秋後に起きた事全てを。」

 

私とスズカは、親友だから。

心の底からの、無二の親友だから。

 

 

 

“天皇賞・秋後のこと?”

“そうよ。あんたがこの療養施設で外界と遮断されてた間に起きたこと”

「まずいわ!」

閉ざされた扉の向こうから聞こえた室内の会話に、医師は青ざめるとすぐに携帯を取り出し、下にいるブルボンに緊急連絡をとった。

「特別病室です!緊急事態が起きました!」

 

「…。」

緊急連絡をとる医師の傍ら。

同じく室内の会話を耳にしたスペは、真っ青な表情で床にへたり込んでいた。

 



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粉々(7)

 

「ずっと不思議に思ってなかった?」

 

二人きりの病室。

ゴールドは扉を背に、呼吸は荒いまま淡々とした口調で、ベッド上で茫然としているスズカに語りかけた。

「何故、あの天皇賞・秋のことについて誰も話さないのか、何故入ってくる情報が限られているのか、そして何より…何故オフサイド先輩が一度も見舞いに来ないのかを。」

 

「…うん。」

ゴールドの言葉に、スズカは悪い予感に身を震わせつつこくりと頷いた。

彼女自身、ここ数日はそのことがかなり気になり出していた。

「でも、多くは理由を教えて貰わなかったけど、私なりにそれは考えたわ。」

天皇賞・秋の話題をしないのは、私に怪我のショックを思い出させない為。

情報遮断はリハビリに集中させる為。そしてオフサイド先輩が来なかった理由は…

「あなたが言ってたわね。天皇賞・秋後のメディア対応等で忙しかったのと、有馬記念に集中する為というのが理由だと。」

今はそれがかなり疑わしいことを思いつつ、答えた。

 

「そうね。それらも理由の一つであることは間違いなかったわ。」

ゴールドの口元に、歪んだ苦笑を浮かんだ。

「でも本当は違う。本当の理由は、あなたにとって最悪なことが起きていたことを隠す為だったの。」

まるで吐き捨てるように、ゴールドは言った。

「最悪な…こと?」

思いもしなかった不吉な言葉に、スズカの背筋がぞっとした。

 

「そうね…まず一つ言えば、」

ゴールドはスズカの青ざめた表情を見返しながら、淡々と続けた。

「以前私がここに来た時、散歩中にスペが“『フォアマン』が解散する”とかいう話をしたのを覚えてる?」

「あ、うん。」

すぐにそれを思い出し、スズカは頷いた。

「でも確かあれは、スペの勘違いだってゴールドは一笑して否定してたけど…」

 

そう記憶をしていることをスズカが言うと、

「アハハ。」

ゴールドは、一瞬歪んだ笑い声をあげ、それから乾いた声で続けた。

「あれ、実は本当なの。」

「えっ?」

「スペの言った通りなのよ。『フォアマン』は今、分解状態なんだ。」

 

「なんで?」

「世間からもの凄いバッシングを受けたの。天皇賞・秋を制したオフサイド先輩と、そして岡田トレーナーがね。それで、バラバラになっちゃったの。」

 

スズカは絶句した。

分解状態?バッシング?オフサイド先輩と岡田トレーナーが?

突然過ぎて混乱しているのか、言葉の意味が全く理解出来ていないようだった。

 

「訳分からないよね?詳しく教えてあげるよ。あんたがターフに倒れた後に起こっていたことを。」

ゴールドは荒い呼吸を繰り返す胸を抑えつつそう言うと、無情に言葉を続けた。

「あの天皇賞・秋はね、あんたが4コーナ手前で故障し競走中止した瞬間から、レースどころじゃなくなっちゃったの。だって、あのレースを観ていた殆ど全ての者達が、あんたの走りだけに注目してたのだから。」

 

「え…」

「勿論、ターフ上のレースは続いたよ。」

絶句したままのスズカに、ゴールドは淡々とその時の状況を思い出しつつ続けた。

「あんたは極力レースの妨げにならず競走中止したし、後続の出走者も皆衝突を回避出来たから。…そしてその結果、オフサイド先輩が先頭でゴールを駆け抜けた。」

 

「でも、殆どの人間がその直線の攻防やゴールの瞬間ではなく、4コーナーで倒れているあなたの姿に眼も意識も奪われていた。ゴール前の攻防やレース結果への歓声なんてほぼ皆無だったわ。場内はただ、あんたの故障に対する悲痛な叫びとざわめきと嘆きに満たされてた。だから、勝者のオフサイド先輩への歓声も殆どなかった。…そんな状況だったから、表彰式まではなんとか行われたけどウイニングライブは当然中止。その表彰式も歓喜とは程遠い雰囲気だった。結局、最後の最後まで悲痛な雰囲気で第118回天皇賞・秋は幕を閉じたわ。」

『沈黙の日曜日』と称されるまでにね、とゴールドは唇を噛んだ。

 

「…。」

そのような状況になってることなど想像していなかったスズカは、大きなショックを受けたように蒼白になった。

だがゴールドは言葉を止めず、更に続けた。

「まあ、正直状況的にそれは止むを得ない事態だと受け入れられるけどね。だってあんたの命が危険な状態だったんだから。だから、あんたの容態がどうなるかはっきりするまでは、あの天皇賞・秋は振り返られないとその現状を受け入れてたわ。オフサイド先輩もトレーナーも私も、『フォアマン』の皆もね。」

 

「そして数日経って、あんたの容態は命の危機を脱した。復帰の可能性も示唆されて、世間は安堵に包まれたよ。それからようやく、あの天皇賞・秋の回顧が始まったんだ。」

そこまで言った時、ゴールドは急に言葉を止め右手の拳を握りしめた。

くっ…

何か耐えるように身を震わせながらその拳を口元にもっていき、震える歯で噛み締めた。

 

…殺気に近い感情がその様子から感じられ、スズカの身体は更に寒気が走った。

「回顧の内容、教えて。」

自身も寒気と悪い予感に身を震わせつつも、ースズカは小声で催促した。

と、ゴールドは首を振って叫んだ。

「回顧じゃないんだよ!ただの…ただの虐めだ。」

 

「え…?」

「…っ」

思わずスズカが声をあげると、ゴールドは懐からずっと身に持っていた天皇賞・秋回顧の記事の切り抜きを全て取り出しベッド上に放った。

「見れば分かるよ…。」

 

「…。」

感情を抑制しきれないゴールドの言葉に、スズカは震えを堪えながらそれを拾うと、内容に目を通した。

 

〈スズカは故障しなければ10バ身以上の差で勝っていたとの分析〉

〈完走してればレコード勝ちは確実だったスズカ〉

〈優勝タイムは平凡。故障がなければスズカが間違いなく勝っていたとトレーナーの分析〉

〈スズカの故障により、天皇賞はG2レベルのレースへ〉

〈スズカ故障後、天皇賞の残骸レースの勝者はオフサイドトラップ〉

〈結果的な勝者はオフサイドトラップだが、この天皇賞には価値がない〉

 

なにこれ…。

スズカは驚きを通りこして、愕然とした。

 

「びっくりでしょ?」

愕然と記事に眼を通しているスズカに、ゴールドは歪んだ表情で言った。

「まさかこんな感想しか出てこないなんて夢にも思わなかったわ。勝者の走りをろくに振り返らず、タイムだけで栄光に値しないとこき下ろされた。挙げ句の果てにはあんたがいなくなったレースに無価値の烙印まで。先輩も私も皆愕然としたわ。しかもそれだけじゃなかったし。」

 

「“それだけじゃなかった”…?」

その言葉に、蒼白だったスズカの表情が更に蒼白になった。

記事を握っている彼女の手が、小刻みに震えはじめていた。

 

…。

スズカの震えを見て、ゴールドは一瞬眼を瞑った。

これ以上話したら、スズカは…

だが、その胸中の恐怖と裏腹に、ゴールドはすぐに眼を開けるとスマホを取り出し、ある画面を用意するとそれをスズカに見せつけた。

「こんなことまで起きてたのよ。」

そこには、オフサイドトラップを〈非情で自己中なウマ娘〉と糾弾する文面の数々があった。

 

「…?…???…」

言葉すら出てこない程愕然としたのか、スズカはそれを見ながらただ首を傾げるだけだった。

「さっぱり分からないよね…詳しく話すよ。」

ゴールドはスマホをしまい、再び壁にもたれた。

正気を失いかけているように、その表情は一層蒼白になっていた。

 

「さっきも言ったように、あのレース後は表彰式までちゃんと行われたわ。それに先立って、勝利者であるオフサイド先輩へのインタビューも行われたの。場内があんたの故障で沈痛な雰囲気に覆われた中でね。」

あの時、自分はターフ上でその一部始終を見聞きしていた状況を思い返しながら、ゴールドは話した。

「そんな雰囲気の中で、オフサイド先輩は喜びを包み隠さず表していた。栄光を掴んだ歓喜、夢が叶った達成感、その全てをね。そして“笑いが止まらない”という発言もした。」

一瞬、ゴールドの肌がぞっと粟立った。

あの発言が流れた時の、場内に起きた異様などよめきは、未だに肌が覚えていた。

「勿論、なんの問題もない発言だったよ。先輩がレースで笑えたことなんて殆どなかったんだし、それも勝者の喜びの表現の一つだと、私達は受け取った。でも、周囲はそうじゃなかった。」

 

そこまで言った時、ゴールドの蒼白な表情が、これまでスズカが感じたことない程危険な雰囲気を滲み出させていた。

「待って、ゴールド。」

これ以上ないくらい悪い予感と聞きたくない恐怖心が胸に湧き上がり、思わずスズカは声を出した。

だがそれを無視し、ゴールドは無情に言葉を突き刺した。

「周囲、いや、あのレースを観ていたほぼ全ての連中は、先輩があんたの身に起きた悲劇を嘲笑し、そのお陰で勝てたと表現したように受け取ったの。」

 

…。

…。

…。

 

「そんなわけっ…」

「そんな訳ないと思うでしょ?でも実際そう受け取られたの。」

一瞬の間を置いた後、耳を疑ったように声を出したスズカに、ゴールドは吐き捨てるように続けた。

「その結果、オフサイド先輩は世間からもの凄いバッシングを受けたわ。報道から苛烈な取材攻撃を受け、人間達にはウマ娘にあるまじき者と罵倒され、唾を吐きかけられた。勿論先輩だけでなくチームにも攻撃がきたわ。特にトレーナーにね。部室すらその被害を受けたよ。」

「……」

「理不尽な嵐に晒された『フォアマン』は、活動なんて出来なくなった。結果、責任とってトレーナーは学園を去り、他の後輩仲間達はみんな他チームに移籍せざるを得なかった。事実上『フォアマン』は分解したのよ。そうした状況になってようやく、騒動の嵐は収まった。丁度JCが行われた後で、あんたの精神状態が快復傾向になってきた頃ぐらいにね。」

 

話の途中からスズカは慄えだし、眼を閉じ頭を抑えて耳を塞いでいたが、ゴールドはそれでも聞こえるように大きな声で一気に伝えた。

 



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粉々(8)

 

「…。」

 

耳を塞いでいるスズカは、もう全身の慄えが止まらなくなっていた。

そんなことが、そんなことが起きてたの…?

信じられない事実を次々と告げられ、彼女の心は蝕まれていくのを感じた。

 

でも、まだ恐ろしい事実が残っていた。

 

身体が慄える中、スズカはそれを予感していた。

「それじゃ、オフサイド先輩はまさか…」

慄える眼で、出来ればそうであって欲しくないと願ったスズカの質問に、ゴールドも慄えだしながら答えた。

「そうよ、オフサイド先輩は…」

 

「やめなさい!」

ゴールドが言葉を続けようとした時、室外から医師の大きな声が聞こえた。

見ると、鍵が外されかかっているのか、扉が少しずつ開き出していた。

「ステイゴールド!それ以上は何も伝えてはいけません!」

同胞の声なども幾つか聞こえた。

ブルボン先輩やライス先輩も来てたのか…

ゴールドは溜息をつくと扉の前に立ち、扉の開放を阻止するように身体を預けた。

 

そして再びスズカを向くと、声を震わせながら叫んだ。

「〈無価値の天皇賞覇者〉の烙印を押された上、膨大で理不尽なバッシングを受けたオフサイド先輩は、絶望に叩き落とされたわ。心が壊れたの。全てに絶望して、それで…それで…今度の有馬記念で帰還する決意をしてしまったのよ!」

 

「…。」

耳を抑えていたスズカの腕が、折れた枝のようにバタッと膝元に落ちた。

全てが崩れる音が聞こえ、目の前が真っ暗になった気がした。

 

 

「ステイゴールド!」

「スズカ。あんたなら、そこまで絶望したオフサイド先輩の心の悲痛さが分かるわよね?」

扉をこじ開けようとするブルボンの叫びを無視し、ゴールドはただ茫然と眼を見開いているだけの状態になったスズカに、嵐の中にいるような激しさで言葉を続けた。

「先輩は夢も希望も、不屈すらも失ったんだわ。理不尽なバッシングだけなら耐えられたかもしれない。でも、誰も先輩の走りを顧みようとしなかった。走りすら顧みられずに、栄光に値しない・無価値の烙印をおされた。そのことに絶望してしまったのよ。その果てに先輩は、天皇賞の栄光に相応しくない走りをしたことが悪いと、自らを責めてしまった。それが帰還の決意だわ!」

 

「ゴールド!やめろ!」

堰が切れたようにゴールドが言葉を吐き出す中、室外からも大声と共に扉を開ける力が一気に強まり、ゴールドの踏ん張る脚が押され始めた。

押されながらゴールドは、なおも言葉を続けた。

「私が、帰還なんてしないでと泣いて懇願した時、先輩はなんて答えたと思う?“もう私に脚は残ってない”って言った後、こう続けたのよ!“私は〈死神〉に負けた”って!」

 

ゴールドのその叫びは、茫然と眼を見開いているスズカの耳にも、室外から必死に扉を開こうとしているブルボンや医師、駆けつけたライス・椎菜・ルソー、へたり込んだままのスペの耳にもはっきりと聞こえた。

一瞬、その空間の時間が止まった気がした。

 

 

「そ…んな…」

止まった空間の中で、スズカは絶望的な呟きとともに、ぐったりとベッドの背に倒れるようにもたれかかった。

告げられるショックな出来事の連続に、彼女は眼は見開いたまま、殆ど意識を失いかけていた。

 

…はあ…はあ…

荒い呼吸で髪と汗を散らして言葉を続けていたゴールドも、半分気を失いかけていた。

だがゴールドは気力を絞って、意識を保とうと首を振りながら、なおも言葉を続けた。

「私…先輩がそこまで追い詰められていたなんて、気づかなかった。一番間近にいた仲間なのに…馬鹿だよね…最低だよね。…何やってたんだろ、私…。」

額の汗を拭いつつ言ったゴールドの口調が、急に穏やかになっていた。

 

 

…?

室外から蒼白な表情で現場を見守っていたルソーとライスは、その口調の変化に、背筋にぞっと冷たい悪寒を感じた。

「ゴールド?」

「ゴールドさん⁉︎」

懸命に扉を開こうとしているブルボンや医師をかき分けて前に出ると、二人は思わず呼びかけた。

だがゴールドは、二人の呼びかけになんの反応も見せなかった。

扉越しに聞こえる彼女の荒い呼吸が、異常な速さで落ち着いてきてるのが分かった。

 

「でも、私は守りたかったんだ。オフサイド先輩も、そしてスズカも。」

先程までとはまるで違う、異常なほどの穏やかな口調で、ゴールドはぐったりしているスズカを見つめた。

「これ以上誰も傷つかない結末を模索して、その道筋を見つけて、ずっと頑張ってたつもりだった。…でも、全部無意味になっちゃったよ。考えてみれば当然だよね。誰も傷つけたくないという私の思いの、その本心は、そうすることで自分が傷つかないようにする為だったから…。」

言いながら、ゴールドは自分の胸元を爪立てる程に掴み締めた。

 

「…。」

ぐったりとしたまま、スズカは何も答えなかった。

だがまだ意識が残っているのか、その言葉に微かに眼が反応して見えた。

その微かな視線を見つめ返して、ゴールドは言った。

「こんな現状になった以上、私には責任があると思うの。…誰よりも、誰よりも深く傷つかなければならない責任が。」

そう言った後、ゴールドは胸元から手を離すと、眼を瞑って深く深呼吸した。

 

 

「いけない!」

ゴールドのその言葉と雰囲気に、室外にいた者達はこれ以上ない程の悪い予感がした。

ブルボンと医師は再び扉を開こうと力を込めた。

しかし、ゴールドに塞がれた扉は開かなかった。

「ゴールド、お前まさか…」

「いけないわゴールドさん!」

ライスとルソーも叫んだ。

「…。」

椎菜は、へたり込んだまま動けないスペの傍らに付き添いながら、ただ唇を噛み締めていた。

 

 

ふ…

深呼吸した後、ゴールドはゆっくりと眼を開けると、開けかかる扉を背で阻止しつつ、ベッド上のスズカを見つめた。

両眼から涙が溢れ、頬を筋状に伝って光っていた。

涙を拭わず、ゴールドは唇を震わせて、静かな声で言った。

 

 

「サイレンススズカ。なんであなたは、あのレースで故障なんてしたの?」

 

 

その言葉は、これ以上ない程の衝撃と重さでスズカに突き刺さり、胸を抉って貫通した。

外で聞いていたライス、ルソー、ブルボン、医師、椎菜の胸にも深く突き刺さった。

そしてゴールド自身の胸にも、重く深く突き刺さった。

また、空間と時間が止まった感覚がした。

 

「…」

貫通した衝撃に、スズカは何も言葉を発せず、見開いた眼はただ茫然とゴールドを見つめ返していた。

ゴホッ…はあ…

ゴールドは血を吐くような咳をして、ふらつながらなおも言葉を続けた。

「あなたが故障なんてしなければ、絶対にこんなことにはならなかったのに。誰も悲しんだり、傷つくことはなかったのに。」

「…。」

冷たい汗が一筋、スズカの蒼白に染まった頬に伝った。

 

「そして、オフサイド先輩が理不尽に責められることもなかった。無価値な走りと烙印されることもなかった。絶望することだって、帰還決意に追い込まれることなんてなかった!」

ゴールドの静かな口調はやがて激しくなり、彼女が心の奥底に抑えていた感情、深い深い悲しみが、堰を切って爆発した。

「ステイゴールド!もうやめて!」

扉の向こうからライスが悲痛な声で叫んだが、ゴールドの耳にはもう入らなかった。

 

「スズカが悪いんだから!」

最後の力を振り絞って扉を止めながら、ゴールドは涙を溢れさせて全ての悲しみを吐き出すように叫んだ。

「ねえ、返してよ!オフサイド先輩の栄光を!心を、脚を、返して!スズカは“夢を与えるウマ娘”なんでしょ?なのに、なんで先輩を不幸にしたの?ねえ、なんであの天皇賞を壊してしまったのよっ…」

 

 

私の故障が、天皇賞・秋を滅茶苦茶にした…

私の悲劇が、みんなをこれ以上ないくらい悲しませた…そして、天皇賞・秋の栄光を貶めさせた…

私が、オフサイド先輩の全てを奪った…

死神…

 

閉ざされかかる意識の中、様々な言葉と記憶が、スズカの脳内を蹂躙するように駆け巡った。

「あ…あ…!…」

頭を抑えて絶望的な叫び声を発すると同時に、スズカの見開いていた眼が閉じた。

身体がぐらりと傾き、スズカは清廉な顔を蒼白に苦悶させてベッド上に崩れ落ち、意識を失った。

 

 

「…。」

ベッド上で意識を失ったスズカがうつ伏せに倒れたのを目の当たりに、ゴールドは涙を溢したまま、全身の力が抜け落ちていくのを感じた。

終わった…。

同時に勢いよく扉が開かれ、弾みで彼女の身体は数歩のめると、涙を散らしながら音をたてて床に倒れた。

 

 

「スズカ!」

「ゴールド!」

扉をこじ開けると、医師とブルボン達は室内に駆け込んだ。

 

「スズカ!」

医師はすぐに意識を失っているスズカの元へいき、その容態を確かめながら、施設内にいる医師達に来るよう緊急連絡をとった。

 

ブルボンは、床に倒れているゴールドの側に飛び込んだ。

「ステイゴールド!」

「駄目ですブルボンさん!」

ゴールドを押さえつけようとしたブルボンを、ライスが止めた。

ライスは、力尽きたようにうつぶせに倒れているゴールドの、絶え絶えの呼吸をしている唇元と汗に濡れている額に手を当てた。

「熱を出しています。そして心にも、相当なショックを受けています。」

ライスの蒼い瞳が、悲嘆に震えていた。

「…。」

ブルボンも、唇を噛み締めて沈痛な表情になった。

 

「…ゴールド。」

ブルボンとライスの間を割って、ルソーがゴールドの側に来た。

「馬鹿野郎、何故お前が…」

ぐったりしている仲間の身体を膝の上に抱き上げると、その涙に濡れた表情を見つめながら、声を震わせて俯いた。

 

「…んね…スズ…カ…」

ルソーの膝上で仰向けにされたゴールドは、まだ僅かに開いている眼で虚空を見つながら、涙を頬に伝わせてうわ言のように言葉を洩らしていた。

「…ごめん…ね…スズカ…ごめんね…」

数言呟いた後、ゴールドも力尽き、ぐったりと意識を失った。

意識を失った後も、彼女の閉ざされた瞼からは涙が溢れていた。

 

 

一方、スペも半ば意識を失った足取りで、椎菜に支えられながらスズカの枕元に歩み寄った。

スズカ…さん…

スズカの、その蒼白に染まった意識のない表情を見て、スペは再び床に崩れ落ちた。

その後、医師が次々と現場に駆けつける中、スペは床にへたり込んだまま茫然と状況を見ているしか出来なかった。

 

 

12月24日。有馬記念まで、あと3日。

 



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『第6章・上』
オフサイドトラップ回想録(3)







 

〈144話の回想録(2)より続く〉

 

 

年が明け、私は4年生になった。

依然として〈死神〉に侵された右脚部、更に不安併発した左脚部の状態は芳しくなく、療養施設での生活が続いていた。

 

出口の見えない辛い日々を送っていたものの、心の状態は保っていた。

辛いことだけでなく、嬉しいこともあったから。

2月、共に療養生活を送っていたサクラローレルが、遂に脚が完治し療養生活を終え学園に戻った。

一時は帰還寸前だった大怪我から再び這い上がって復帰に辿り着いた盟友に、私は心底から嬉しく思った。

また、故障による影響で昨秋は苦しんでいたナリタブライアンが、かつての走りを取り戻してきたという話も入ってきた。

他のメンバーも皆調子はかなり良く、昨年苦しんだ『フォアマン』は復活に向けて加速していた。

 

そして迎えた、3月9日。

ブライアンは1年ぶりの復活勝利を目指して、阪神大賞典に挑んだ。

待ち受けていたのは後輩の3年生ウマ娘マヤノトップガン。

昨年の菊花賞を制し、更に有馬ではブライアン以下を破って優勝、年度代表ウマ娘に輝いた現在最強のウマ娘だった。

遠地の為私は現地応援には行けず、施設の自室のTVで、その対決を見守った。

ここでトップガンに勝てば、ブライアンの復活は本物だろう。

でももし負けたら、有馬に続いて同じ相手に苦杯を舐めたら、もうブライアンの復活は厳しいかもしれない。

願いと恐怖が入り混じる中、私はTV越しにブライアンの勝利を必死に祈った。

 

レースは、壮絶な死闘になった。

超満員の観衆が見守る中、残り600mから始まったブライアンとトップガンによる2人のマッチレース。

直線を向いた後、共にバ体を併せたまま一歩も譲らない叩きあいになった時は、私も無我夢中に叫んでブライアンを応援した。

そして結果、ブライアンがハナ差でトップガンを振り切ってゴールした時、私は歓喜のあまり号泣した。

昨年の故障後にブライアンがどれだけ苦しんできたか、私は誰よりもそれを分かっていたから。

良かった!本当に良かったよブライアン!

久々の勝利の歓声を受けるブライアンの姿に、私は涙が止まらなかった。

 

 

そして、阪神大賞典の翌日。

ブライアン復活の感激が残る中、私は中山競バ場へと向かった。

この日、ローレルの復帰レースである中山記念が開催され、その応援をする為だ。

 

この中山記念、ローレルは故障明けもあり9番人気と、共に出走するチーム仲間のセキテイリュウオー先輩やフジヤマケンザン先輩と比べてもかなり人気は低かった。

私も、この復帰レースは勝ち負けより無事に完走してくれればいいと思ってた。

 

だけどレース前、私は控え室でローレルと時間を過ごしながら、その考えが甘かったことに気づいた。

表情には表さなかったけど、ローレルは今まで見たことがないくらい闘志が滾っていたから。

1年1ヶ月ぶりのレースであること、また昨日のブライアンの復活も彼女の心を刺激したのに間違いないが、それ以上に彼女の心を燃やしているものを感じた。

 

そして迎えた中山記念のレース。

目のあたりにしたそのレース内容に私は慄えた。

混戦状態のまま最後の直線に入った時、1番人気の皐月賞ウマ娘ジェニュインがバ群の内側から先頭に抜け出して、完全に彼女の勝ちパターンに入っていた。

だけど後方にいたローレルが、大外に持ち出すと残り200mから一気に加速し、先行勢もろともジェニュインをあっさり差し切って勝ってしまった。

それは、故障明けのウマ娘の走りなどでなく、完全に王者の走りだった。

 

レース後、強い内容で復活勝利を挙げたにも関わらず、ローレルは淡々としていた。

どうして?

昨日と同じく盟友の復活に喜びながらも、私はローレルの姿を不思議に思っていた。

 

その夜の祝勝会の後。

私はホテルの屋上で、復活を果たした盟友二人と話をした。

 

 

*****

 

(情景描写)

 

遠くに見える中山競バ場を眺めながら、オフサイドとローレルは柵の前に立っていた。

 

「ローレル、復活勝利おめでとう。」

「ありがとうございます。リュウオー先輩の引退レースに華を飾れて良かったです。」

「あら、意識してたの?」

「ええ。先輩には2年生時にかなりお世話になりましたから。最後一緒に走れて嬉しかったです。」

「嬉しかった、ねえ。」

松葉杖をついたオフサイドは、言葉と裏腹にあまり喜びを表していないローレルに首を傾げた。

「それにしては、随分と淡々としてるように見えるけど。」

 

「それは、この中山記念が私の目標ではありませんから。」

ローレルは、名族令嬢らしい気品のある微笑をみせた。

「あくまでも目標は、ブライアンさんとトップガンさんが待つ天皇賞・春を制することです。この中山記念は、その前哨戦に過ぎませんから。」

 

「凄い自信だな。」

ローレルの言葉の後、後ろから声がした。

現れたのはブライアンだった。

昨日阪神での激闘を制した彼女はこの日関東に戻りローレルのレースを観に来ていた。

 

「敵はトップガンだけだと思ってたが、もう一人化け物がいたようだな。」

ブライアンの覇王のような眼光がローレルに注がれていた。

ローレルは全く動じず、その眼光を温厚な眼光で見つめ返した。

「私だけではありませんよ。仲間のホッカイルソーやシグナルライトも、天皇賞・春では強敵になること間違いないでしょう。」

「そうだな。でもお前とトップガンは別格だ。いや、お前の方が怖いかもな。」

「私は、ブライアンさんのような震撼的豪脚もなければトップガンさんのように変幻自在な技術もないのにですか。」

「隠すな。今日のレース観た限りお前の末脚もパワーも相当だろ。トレーナーですら驚いてた位だ。いや、レースの強さ云々だけじゃない。」

ブライアンの視線が、ローレルの脚元に移った。

「絶望の底から這い上がってきたお前の精神力の強さが、1番怖い。」

 

「精神力…」

ブライアンの言葉に、ローレルはちょっと恥ずかしそうな笑顔を見せた。

「それを言いましたらブライアンさんこそ、故障だけでなく自らの走りを失いながらも復活してきた強靭な精神力のウマ娘ではありませんか。」

「お前は味わった絶望のレベルが違うだろ。…走るどころか、帰還寸前まで追い詰められたお前に比べれば。」

 

「ふふ。」

ブライアンの言葉に、ローレルは微笑を湛えたまま言った。

「もしや、私に気遅れしてるのですか?」

 

「まさか。レースで負ける気は全くない。」

ブライアンはハハッと豪気に笑い、再びローレルを見つめた。

「春の盾は私が獲る。真の復活を遂げた傍らで、お前には大レースでの敗北という挫折を味わって貰うさ、サクラローレル。」

「流石ですね。私も同じ思いです。」

ローレルも温厚に微笑しながら、眼光に闘志を宿らせた。

「これからは私の時代です。今度の天皇賞・春では、過去の最強ウマ娘であるナリタブライアンさんに引導をお渡ししましょう。」

 

同期のチーム仲間でかつ盟友でもある二人は、一ヵ月後に迫る大舞台で互いを倒すべく、早くも闘志に滾り出していた。

 

 

*****

 

二人の会話を、私はただ黙って見ているしか出来なかった。

年度代表ウマ娘を下し最強への復活を誓うブライアン、皐月賞ウマ娘を一蹴し王座奪還を決意するローレル。

この二人に比べて私は。

脚を引きずり松葉杖をついた自らの姿を省みて、ただ俯くしか出来なかった。

 

 

この屋上での会話後、ブライアンとローレルは口をきかなくなった。

無論仲違いではなく、互いの天皇賞・春への闘志の表れだった。

二人の闘志がチーム内にも浸透し、『フォアマン』は緊張感に包まれ始めた。

 

 

 

そして4月21日、京都競バ場。

いつにない緊張感の中で、天皇賞・春の当日を迎えた。

 

1番人気ブライアン、2番人気トップガン、この二人から離れた3番人気にローレル、4番人気にホッカイルソーと、『フォアマン』メンバーが上位人気にひしめいた。

ブライアンもローレルもルソーも、そして見守る『フォアマン』仲間達も、尋常じゃない闘志で溢れていた。

単に個の栄光・名誉だけでなく、チームの完全復活と悲劇の払拭もかかっていたから。

1か月前の阪神大賞典・中山記念の翌週、ルソーが制した日経賞で、チーム仲間のシグナルライトがレース中に悪夢の故障に遭い、この世を去った。

その悲しみも、チーム内に深く残されていた。

シグナルの為にも、『フォアマン』は絶対に負ける訳にはいかなかった。

私も怪我の身体をおして京都競バ場に赴き、トレーナー・チーム仲間と共に盟友達が闘う春天を見守った。

 

 

迎えた、天皇賞・春のスタート。

前の二人が大逃げを打つ展開の中、ややかかり気味のトップガンをマークする形でブライアン、その後ろにローレル、更に後ろでルソーという展開でレースは進んだ。

 

そのままレースは淡々と進み、やがて残り800mを過ぎた頃、トップガンが先頭へ進出を始めた。

彼女をマークしていたブライアンもそれに続くように進出を始めた。

後方のローレルとルソーも、残り600mを切る頃に進出を開始した。

 

そして第4コーナーを過ぎて直線を迎えた時、ブライアンとトップガンは阪神大賞典と同じようにバ体を併せたままスパートをかけ、一気に先頭に躍り出た。

 

熱狂と大歓声の中、ブライアンは外からトップガンをかわしにかかり、トップガンも必死に差し返して抵抗した。

だがかかり気味だった分、トップガンが先に力尽きた。

残り200mを迎えた時、ブライアンは単独先頭に躍り出た。

遂に3冠ウマ娘の完全復活か。

地響きする程の大観衆の歓声が場内を覆った。

 

でも、それもほんの一瞬だった。

ブライアンに続いてトップガンを交わした後続のウマ娘が、瞬く間に彼女との距離を詰めてきたから。

それはローレルだった。

更に後方から猛追してきたルソーも、内から一気にブライアンに迫っていた。

残り100m『フォアマン』3人が先頭勢になった。

 

だけど、ローレル一人だけ脚色が違った。

ブライアン復活を望む観衆からは悲鳴も聞こえる中、ローレルはブライアンにバ体を併せることも並ぶこともなく、無情に差し切った。

 

結果、ローレルが2バ身半差で優勝し、満開の桜を咲かせた。

更に2着にブライアン、3着に1バ身半差でルソーが入り、『フォアマン』が上位を独占した。

 

 

本当に優勝した…

大歓声の中、私は目の前の光景が信じられなかった。

相次ぐ故障、更には重度の骨折で一時は全てを諦めきっていたあのローレルが、遂に頂点に立った…

無意識のうちに、私は涙を流していた。

 

 

レース後、私達『フォアマン』メンバーはチーム控え室で、闘い終えた三人を出迎えた。

優勝したローレルは、泣きながら出迎えた私の姿を見て、真っ先に駆け寄ってきた。

 

 

*****

 

(情景描写)

 

「オフサイドさん!」

駆け寄ってきたローレルは、オフサイドに思いっきり抱きついた。

「私、やりました!遂に頂点に立てました!」

「おめでとう、ローレル。」

松葉杖を手離し、オフサイドはローレルを抱きしめ返した。

「オフサイドさんのおかげです。一年前、重い怪我を負ってもう走ることを諦めていた私をオフサイドさんが懸命に引き留めてくれなかったら、こんな日は絶対に来なかった。」

「何言ってるのよ。諦めなかったのはあなた自身の心の強さだわ。本当に凄いウマ娘よ、あなたは。」

 

「参った。」

抱きあって喜ぶ二人のもとに、敗れたブライアンが歩み寄った。

「今日は私の完敗だ。おめでとうローレル。」

「ブライアンさん。」

ローレルはオフサイドに抱きついたままブライアンを見た。

復活優勝はならなかったものの、ブライアンの表情は清々しかった。

「よくあの大怪我を乗り越えて頂点に立ったな。私も故障を乗り越えた自負があったが、お前には及ばなかった。」

ふーっと虚空を見ながら息を吐き、そして続けた。

「でも、まだ白旗はあげないさ。今度は私が挑む番だ。もう一度頂点を手にして見せる。」

「はい。」

ブライアンの言葉に、ローレルは力強く頷いた。

「また、この大舞台で闘いましょう。」

 

その後、『フォアマン』は祝勝会を開いた。

昨年の相次いだ苦境、またシグナルの悲劇を乗り越えた末の王座奪還に、皆の表情は一様に明るかった。

 

 

*****

 

 

天皇賞・春後も、私は相変わらずの療養生活を余儀なくされた。

でも、以前より希望は大きくなっていた。

帰還寸前の重傷から奇跡としか言いようのない復活を遂げて栄光を手にしたローレル。

走りを失いながら復活寸前まで立ち直ったブライアン。

苦境の中で奮闘を続ける二人の姿を見て、私も心が奮い立たない訳がなかった。

レースから最も遠い場所で〈死神〉との闘いを繰り広げながら私の意識に強く存在したのはこの盟友の姿と、誓った約束。

『大レースの舞台で一緒に闘おう』

その約束を果たす為にも、私は絶対に諦める訳にはいかなかった。

諦めなければ、それは叶うと信じた。

だって、私より大きな絶望にあったローレルが、復活して頂点を掴み取ったのだから…

 

 

諦めないのは、二人との約束の為だけじゃない。

春天からしばらく経った後、後輩のルソーが〈死神〉に罹った。

日経賞で親友以上の仲にあったシグナルを喪い、深い傷心状態にありながら彼女は春天で3着に奮戦した。

夏以降に向けて更なる活躍が期待されたが、悪夢の故障に遭ってしまった。

悲嘆に暮れる後輩を支える為にも、私は闘う姿を見せなければならなかった。

闘う姿、生きる姿を。

 

 

私やルソーが闘病を続ける中、チーム内でも動きがあった。

リーダーのケンザン先輩は6月に金鯱賞を制し史上最年長タイの重賞制覇という新たな記録を打ち立て、その後の宝塚記念を最後に引退することを表明した。

後輩では、2年生のフサイチコンコルドがデビュー3戦目でダービーに挑戦し、強豪の同期を差し切って優勝するという歴史的偉業をやってのけた。

コンコルドと同じ2年生のロイヤルタッチも、皐月賞・ダービーと上位に食い込む活躍を見せた。

また新たなチーム仲間として、1年生のサイレンススズカとステイゴールドが加入した。

 

そして、同期の二人。

春天を制したローレルは、脚の状態への配慮から秋まで休養することになった。

一方のブライアンは次戦に宝塚記念を予定していたが、トレーナーと相談の末にスプリントG1の高松宮記念に挑んだ。

このローテには誰もが驚愕し、世間でも賛否両論が巻き起こった。

私も驚いたが、ブライアンやトレーナーには確たる目的や考えがあったので反対はしなかった。

結果、流石のブライアンでも短距離のスペシャリストには叶わず4着に敗れた。

それでも目的への手応えはあったようで、ブライアンは予定通り次戦の宝塚記念へ目標を定めた。

 

 

ところが…

宝塚記念直前、信じられない悲報が舞い込んだ。

 

『ナリタブライアン〈クッケン炎〉発症』

 

 

〈続く〉




次話投稿は7月20日の予定です


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夢・景色(サイレンススズカ回想話)

*****

 

幼い頃から、走ることが大好きだった。

 

走って走って、変わりゆく風の香りと景色を観るのが楽しみだった。

夢は、誰よりも速く駆け抜けるウマ娘になること。

そして私だけの香りと景色を、レースで見つけることだった。

 

夢のトレセン学園の門をくぐった私は、親友のステイゴールドと共に、チーム『フォアマン』に入った。

憧れの3冠ウマ娘のナリタブライアン先輩、春の盾を獲ったサクラローレル先輩、海外のレースを制したフジヤマケンザン先輩がいるチームに。

どんな日々が送れるのか、すごくワクワクした。

 

デビュー戦は、2年生になってからと決まった。

それまでの間、私はチーム仲間とのトレーニングに没頭した。

トレーニングが辛いと思うことは全くなかった。

憧れの先輩達とそれを共に出来ることが幸せだったし、日々が経つにつれて自分がどんどん成長していくことにも気づいてたから。

偉大な先輩の何人かは私がデビューする前に引退してしまったけど、少しの時間でも共に出来たことは幸せだった。

 

デビュー目前になると、私はトレーニングに一層精力をあげた。

勝ちたいという思いより、最高に気持ちいい走りをしたいという思いが強かった。

その結果、トレーニングでは好時計をどんどん出すことが出来てきて、デビュー戦に向けて大きな手応えを感じた。

 

そして迎えたデビュー戦。

私はスタートから気持ちよく先頭に立つと、そのまま気分良くターフを駆け抜け、後続に大きな差をつけて1着でゴールした。

勝った嬉しさよりも、先頭で駆け抜けたその気持ち良さが凄く感動的だった。

これが、私の目指す走りだ。

感動に浸りながら、私はそう思った

 

でもその後、私は壁にぶつかった。

デビュー戦の勝利で、私は周囲から大きな注目を集めることになってしまったからだ。

日々のトレーニングでも、私を観察する人がどんどん多くなった。

これまでなかった緊張というものも感じるようになっていた。

期待に応えて勝たないと…

そんな重圧が自分の中で募っていき、走ることがだんだん楽しいだけじゃなくなっていった。

 

迎えた2戦目は、皐月賞トライアルの弥生賞だった。

同期の強豪が集まる重賞レース、そしてファンの注目も桁違いに大きくなった舞台で、私はデビュー戦と違い身体が震える程の緊張に襲われた。

そしてスタート直前、私は緊張に耐えきれず、思わずゲートを潜り抜けてしまった。

不様な失態をおかした私は、その後仕切り直しとなったスタートでも失敗し大きく出遅れ、殆ど力を出せないまま8着と惨敗した。

皐月賞への夢は潰え、私は初めての敗北という苦い味を噛み締めた。

 

その後、弥生賞で浮き彫りになった精神的弱さも克服する為、トレーニングには一層熱が入った。

そして、目標をダービーに切り替えて挑んだレースでまた気持ちいい走りが出来て勝利、次戦も同期の有望株達を相手に苦しみながらも勝ち、ダービーへの切符を獲った。

 

だけどダービーを前にして、作戦という難関が待っていた。

私はダービーでも、いつものようにスタートから気持ちよく走って先頭でレースを進めるつもりでいた。

だけど、トレーナーは同じ意見じゃなかった。

何故なら皐月賞を制したサニーブライアンが、このダービーを逃げでいくことを宣言してたから。

サニーは絶対に退かない。

もし私が逃げに出たらお互い譲らない展開になって共倒れになる可能性が高かった。

何度も相談を重ねた末、先頭はサニーに譲って2番手以下に我慢してレースを進めようという作戦になった。

 

そしてダービー本番。

宣言通りサニーは逃げに出て、私は2、3番手でレースを進めた。

いつもと違い神経の使うレース展開の中、私はなんとか我慢しながら走った。

でも、うまくいかなかった。

チグハグした感覚の中で、私はレース終盤までにかなり労力を使ってしまっていた。

結果、直線に入るとどんどん失速して9着に惨敗。

勝ったのは、宣言通り逃げに出てそのまま最後まで逃げ切ったサニーだった。

 

こんな筈じゃない…

ダービー後から、私は自分の走りについて悩み始めていた。

気持ちよく走ることが楽しみでレースに出ていたのに、いつのまにか勝つことにこだわった走りになりつつあることに気づいたから。

 

ダービー後、私は走る意味についてチーム仲間と深く相談することが多くなっていった。

勝利にこだわることで走る楽しみが薄れていくことに危機感を覚えていたから。

いや、本当のことを言えば、自分とチームの相性が合わないのではと感じ始めていた。

 

『フォアマン』のチーム信条は“不屈”“体現”、そして“勝利”。

この高尚な信条が、私には合わない気がしたのだ。

 

勝つことにこだわってない訳じゃない。

むしろ人一倍負けず嫌いだという自負もあった。

でも、勝つことより、自分が走りたいように走ることの方が大切だと思った。

それに、そうじゃなきゃ勝てないとも感じていた。

 

そうした迷いがある状態で中で迎えた、秋緒戦の神戸新聞杯。

1番人気に推された私は、スタートからいい走りで先頭に立つと、そのまま余裕をもって後続を離しレースを進めて最終直線を迎えた。

勝利を確信し、このままゴールまで気持ちよく突っ走しろうと思った。

だけどその時、突っ走るだけでなく抑えて勝つことを覚えるよう指導されたことも思い出し、躊躇いが生じた。

その瞬間、私は重大な隙を生んでしまい失速。

後方からきたマチカネフクキタルにゴール前で差され2着に敗れた。

 

このレース後、私は大きな決断をした。

それは、チームを離脱すること。

 

岡田正貴トレーナーのことは尊敬していた。

チームの仲間も先輩達も大好きだった。

チーム信条にも強く惹かれていたし、受けた指導も本当にレベルの高い恵まれたものだった。

だけど、自分が求めるものとそれは異なっていた。

そう悟ったから。

 

私の意志を、トレーナーは受け入れてくれた。

正直、反対や叱責を受けると覚悟していたけど、トレーナーは私の意志を尊重してくれた。

チーム仲間も受け入れてくれた。

ただゴールドからは猛反対を受け、大喧嘩の末あわや絶交しかけた。

最終的にはチームの先輩方の仲介もあり、ゴールドも私の決断を受け入れてくれた。

 

 

2年生の10月、私は『フォアマン』を去った。

 

 

『フォアマン』離脱後、私はいくつかのチームを仮加入しながら渡り歩いた。

でも、自分の理想を求められるチームは中々見つけられなかった。

また、その最中にも天皇賞・秋やマイルCSといった大レースに挑んだけど、精神的な未熟さもあって自分の走りは出来ず惨敗を繰り返した。

 

新たな居場所を見つけられないまま、年末を迎えた頃。

私をチームに誘ってくれたトレーナーがいた。

『スピカ』の沖埜豊トレーナーだった。

 

沖埜トレーナーの誘いを受け、私は『スピカ』に加入した。

そして加入後緒戦となった、香港での重賞レース。

初の海外遠征、かつ格上の相手ばかりで緊張していた私は、沖埜トレーナーから勝敗に拘らず思いっきり走るよう指示を受けた。

その言葉で緊張が解れた私は、スタートから先頭に立って、何も考えず思いっきり走った。

結果はゴール前で後続に捕まり5着に負けたけど、トレーナーさんからは良い内容だったと褒められた。

私も内容に手応えを感じてたから嬉しかった。

見失いかけてたものを、再び見つけられた気がした。

 

 

年が明けて3年生。

新年の緒戦はOP戦だった。

圧倒的な人気を受けた私は、トレーナーさんの指示通り思いっきり走って圧勝した。

続くレースは、重賞の中山記念。

強豪の先輩達が集う重賞レースで、私は初めて1番人気に推された。

少し苦手な右回りのレースだったからか、ちょっとギクシャクしたレース運びになってしまったものの、私はなんとか逃げ切って重賞初勝利を挙げた。

課題も見つかったレースだったけど、重賞勝利はやはり嬉しかった。

トレーナーさんも、チーム仲間のエアグルーヴ先輩やスペシャルウィークさんも祝福してくれた。

皆の期待にもっと応えられるよう頑張らなければと思った。

 

 

重賞を制した私の次のレースは、再び重賞の小倉大賞典。

得意の左回りだったこのレースで、私はまた圧倒的な1番人気を背負った。

結果は、初めてレコードタイムを出して勝つことができた。

内容も、前半はハイペースで後半もバテることなく良タイムでまとめられて、それで全く苦しさを感じないレースだった。

このレースで、私はまた新たな手応えを掴んだ。

ただ最初から気持ちよく全力で走るだけでなく、途中で落ち着くことが出来る手応えを。

 

 

そして、その手応えを掴んだまま迎えた金鯱賞。

相手は昨年敗れた相手である菊花賞ウマ娘フクキタルや重賞連勝中のミッドナイトベット、他にも重賞ウマ娘や安定感のある強豪が揃っていて、私は1番人気だったけど前2戦ほどの支持は受けなかった。

その中で、私はこれまでにない最高の走りをすることが出来た。

前半1000mを58秒1、後半1000mを59秒7でまとめ、後続に10バ身以上の差をつけてのレコード勝ち。

ハイペースでとばしながら途中で一旦ペースを落ち着かせ、後半再び加速するというレース運びをすることが出来た。

前走と同じく、最初から最後まで全く苦しくない最高に気持ち良い走りだった。

ゴール前では、観衆の皆さんから大きな暖かい拍手が送られた。

トレーナーさんもチーム仲間の皆さんも絶賛してくれる中、私はこれが自分が求めていた走りだと確信した。

ただの速いスピードだけでない、自在性も身につけた苦のない走り。

 

 

金鯱賞のあと、私は大レースの宝塚記念に挑んだ。

これまでの3度の大舞台ではいずれも自分の走りが分からないまま惨敗してたけど、今回はいけるという自信があった。

2200mというこれまでより長い距離と、やや苦手な右回り。

そしてメジロブライトやシルクジャスティス・メジロドーベルといった同期のG1ウマ娘、チーム仲間で昨年の年度代表ウマ娘エアグルーヴ先輩、春天で2着の盟友ステイゴールドといった最強レベルの猛者が相手にいた。

でも、私には緊張も臆しもなかった。

ファンの皆さんがG1で無実績の私を1番人気に後押ししてくれたし、トレーナーさんも絶対の自信をもって送り出してくれたから。

 

そして、私は勝った。

スタートから先頭にたつと、いつものように気持ちよく大逃げ。

苦手な右回りだったから途中から少し慎重になった分後続にかなり迫られたけど先頭は譲らず、最後は猛追するゴールド以下を4分の3バ身差で振り切りゴールした。

遂にG1ウマ娘になった!

夢が叶ったことに、私は歓喜した。

 

宝塚記念を制した後、私は更なる飛躍を求めた。

それは海外挑戦という夢。

その為には、更なる実績と内容を積み上げる必要がある。

私は、次の目標を天皇賞・秋に絞った。

 

 

そしてその天皇賞・秋への前哨戦である毎日王冠。

そこには、最強の後輩が待ち受けていた。

共に海外出身の2年生で無敗のG1ウマ娘、エルコンドルパサーとグラスワンダーだった。

二人とも規定の為天皇賞・秋に出れない状況にあり、私と闘う為に毎日王冠への参戦を決めた。

“稀代のスピード覇者vs最強の怪物”。

レース前から、そんな声と期待が多く聞かれた。

 

でも私は、最強の相手を特に意識してはいなかった。

はっきり言えば、その必要が感じられなかったから。

相手の出方なんて考えたらダービーの二の舞だ。

敵は己自身だけ。

如何にして万全の状態でレースに挑んで、最高のパフォーマンスを見せられるか。

そのことだけを考え、集中していた。

 

そして迎えた毎日王冠本番。

前哨戦と思えない超満員の大観衆の前で、私は無心で気持ちよく走った。

スタートから後続との差があまり離れてないことも全く気にせず、途中でペースを落ち着かせたタイミングでグラスが一気に並びかけてきたことにも動じず、直線で猛然とエルが追い縋ってくる姿に振り返りもせず、最初から最後まで先頭で走りきった。

勝った嬉しさより、最高のパフォーマンスが出来たことが嬉しかった。

そして、大観衆の歓声やチーム仲間達の祝福を受けて思った。

もっと更に高いパフォーマンスを見せたいと。

 

 

毎日王冠後、天皇賞・秋への調整も順調に進められた。

以前より間隔が詰まったローテも、疲労がなかったので全く気にならなかった。

むしろ絶好調を継続出来て良かったとすら思った。

そんな私に、ファンの皆さんや仲間達は更なるパフォーマンスを期待してくれた。

私も絶対にその期待に応えようと思った。

私が目指す、誰よりも速く気持ちよく駆け抜けるウマ娘。

それはきっと、観ている人達が幸せになれるものだと信じたから。

 

 

1年ぶりとなる天皇賞・秋を迎えた当日。

体調は毎日王冠の時以上に良かった。

これまで以上の最高のパフォーマンスが見せられるという手応えもあった。

相手に宝塚と同じくブライトやジャスティス、ゴールドという同期の強敵がいることも、同じハイペース逃げウマ娘のサイレントハンターがいることも、尊敬するオフサイドトラップ先輩が参戦したことも、全く気にならない程私は集中していた。

 

 

そしてレース直前。

本バ場に入場した際に観えた光景は、1年前とはまるで違う景色だった。

 

1年前にまだ2年生の身でこの天皇賞・秋に挑んだ私に注がれていた大観衆の視線と声援は、どこまで出来るのかという期待と、どんな走りをするのかという好奇のものが殆どだった。

そして私も、初めての格上の先輩達と闘う大舞台に緊張しきっていた。

入場からゲートに入るまで何をしていたのかを私は全く覚えていない。

そしてレースも、緊張の中で頭真っ白になって、暴走気味な走りをしてしまった。

 

でも、あれから1年経った今日は違った。

場内の景色もはっきりと見える。

注がれる大観衆の視線と声援が、見果てぬ夢を私に期待してくれているのも感じる。

そして何より私自身が、何の緊張もなく清々しいくらいに落ち着いていることを深く感じていた。

 

昨年は緊張のあまりただ無我夢中で駆けていったゲートまでの道のりを、私は大観衆の前の内ラチに沿ってゆっくり歩を進めた。

 

最高の走りをお見せします…

胸中で、私は観ている人々全てに誓った。

私だけが見せられる、最高の理想といえる景色を体現することを。

その景色が、ここにいる大観衆、そしてこのレースを観ている幾千万の人々の夢を叶える景色にもなるのだから。

 

誓った後、私は静かに、ゲートへ向かってゆっくりと駆け出した。

駆け出すと同時に、場内から湧き起こった大歓声が私の身を優しく覆い包んでくれた。

 

 

 

最高の走りを、全ての願いが叶う夢のような時間を、私は手に入れられた筈だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

フランス。

 

年末の冬風が吹き荒れる中、松葉杖をついて屋敷の庭に立っていたサクラローレルは、栃栗毛の美髪を靡かせながら大空を仰ぎ、遙か遠くの祖国の方角を見つめていた。

 

 

『今、あなたがどれだけ無念な思いでいるか、そしてどれだけ絶望しているか、想像するだけでも胸を引き裂かれそうです。

でも、どうか立ち直って欲しい。

あなたの不屈の競走生活は、数多の人々と同胞に大きな力を与えました。

何よりこの私が、生きる希望とレースへの夢を、あなたから貰いました。

 

私は待っています、あなたが帰ってくる日を。     

 

愛する親友サクラローレルへ   オフサイドトラップ』

 

 

「待っていて下さい、必ず帰りますから。」

ローレルは、昨年に届いた愛する同胞からの手紙を胸に抱き締めて、祖国の空へ向かって誓うように呟いた。

オフサイドトラップ、あなたを救う為に必ず…

 




しばらくの間、毎日23時に投稿続ける予定です。


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朝陽(1)

 

*****

 

12月25日。

まだ夜明け前の療養施設に、一台のメジロ家の車両が到着した。

 

車内から降りたのは、マックイーンと沖埜だった。

「…。」

「…。」

二人とも、非常に切迫した様子で、施設へと入っていった。

 

 

数時間前の未明ごろ。

メジロ家の屋敷で就寝していたマックイーンは、療養施設から急報を受けた。

その内容は、〈夜中に突然施設に来訪したステイゴールドが、周囲の制止を無視してサイレンススズカに真実を全て伝え、それによりスズカはショックで倒れた〉という重大なものだった。

 

マックイーンはそれを沖埜にもすぐに伝え、緊急事態として即座に療養施設へ向かう決断をし、沖埜も共に向かうと同意した。

その後二人は合流し、メジロ家の車によって施設へと急行していた。

 

施設に向かう車中、マックイーンは施設と何度も連絡を取って現状を確認した。

意識を失ったスズカの容態は、身体的な影響は出ておらず生命の危険は現状ないが、脳や心に著しいショックを受けたことは間違いなく、懸命な治療が続いているものの意識が回復する見通しは立っていないということだった。

また、スズカに全てを暴露した後に倒れたゴールドに関しても報告が来た。

彼女が倒れた理由は疲労と高熱によるものだということだが、スズカに全てを暴露したことによる心理的負担も影響してるとのことで、彼女も未だ意識不明(生命に別状はない)ということだった。

 

「予断を許さない状況のようです。」

報告を聞いた後、マックイーンは同じ後部座席の隣に座っている沖埜に伝えた。

緊急事態に蒼白な表情になっている中で、彼女の両眼は冷徹な翠眼のままだった。

「そうか。」

沖埜も努めて無表情で頷いた。

端正な容貌の中で光る彼の眼も、静かながら険しい光を帯びていた。

 

 

そして夜明け前、二人は療養施設に着いた。

 

 

マックイーンと沖埜はすぐに最上階のスズカの病室に駆けつけた。

だが、未だ緊急治療中の為、病室内には立ち入れなかった。

治療にあたる医師達の緊迫した言動や様子などから、状況の深刻さがはっきりと伺えた。

「…。」

マックイーンも沖埜も、今はただスズカの無事を祈るしか出来なかった。

 

騒然とする特別病室の外の廊下では、事が起きた際現場にいたウマ娘の面々…ルソーを除くブルボン・ライス・スペの三人が、廊下にあるベンチに打ちひしがれた様子で座っていた。

ブルボンとライスはまだ気丈さを保っているようだが、スペは天使の明るさの面影が全くない虚な表情で表情で俯いていた。

 

「スペ。」

「トレーナーさん…」

沖埜に声をかけられると、スペは顔を重たく上げた。

いつもなら元気な笑顔で応えるのだが、この時は虚ろな表情のままぼんやりと沖埜を見上げるだけだった。

「部屋で休んだ方がいい。」

彼女も深刻な衝撃を受けていると感じ、沖埜はそう指示した。

「スズカさんは…」

「私が看る。」

「…はい。」

沖埜に指示され、スペはよろよろと立ち上がった。

 

念のため沖埜はスペに付き添い、二人は最上階を後にした。

 

 

沖埜とスペが去った後、マックイーンはブルボンに尋ねた。

「ステイゴールドは、今どこにいますか?」

「ステイゴールドは、下の別室に運ばれました。ホッカイルソーが看護しています。」

「そうですか。」

呟きつつ、ブルボンの傍らに座ると、マックイーン再び言った。

「改めて、昨晩のステイゴールドの行動の一部始終をお話し頂けますか。」

 

「はい。」

マックイーンに促され、ブルボンは説明した。

夜中に突然来訪したゴールドが、医師やブルボン達の制止を振り切って特別病室に立て籠り、スズカと二人きりになった状況で天皇賞・秋後の全てのことを打ち明けた一部始終を。

 

 

「ありがとうございました。」

全てを聞き終えたマックイーンは、両の翠眼を瞑って深呼吸し、ゆっくりと立ち上がった。

そのまま無言で最上階を去っていった。

 

「…。」

二人の傍らでずっと沈黙していたライスは、去ってゆくマックイーンの表情をチラと見て、何か言葉をかけようとした。

だが何も言わずに、ただその背を見送った。

 

 

マックイーンは、一人で施設の外に出た。

 

また、予期せぬ事態になりましたか…

薄らと夜明けを迎えようとしている大空を仰ぎながら、白い上着を羽織ったマックイーンは白い息を吐いた。

スズカに真実を伝えることは決まっていたのだけど、それは慎重に慎重を期して行うつもりだった。

それが…

これ以上ない位、深刻な形で伝わってしまった。

 

まさかゴールドがこのような行動をとるなど、全く予期してなかった。

前日に学園の断行を知った彼女と会い、その場でオフサイドトラップの決意のことを知らせた。

その時の彼女はかなりショックを受けていたし、その後オフサイドと会ったことでそれは増幅するであろうことは予想出来ていた。

それへの対応の為に、マックイーンはゴールドに現状と対応を伝える手紙を改めて用意し寮に送っていたが、それを読まれる前に行動を起こされてしまった。

 

先程ブルボンから、その時のゴールドの行動や状況を全てを聞きましたが…

マックイーンは、また眼を瞑って深呼吸した。

 

『スズカが怪我しなければ、誰も傷つきも悲しみもしなかった』

『先輩の脚を返してよ!』

スズカに真実を全て伝えた後に言い放ったというゴールドの言葉が、マックイーンの胸にも深く突き刺さっていた。

その言葉の残酷さだけじゃなく、そこまで追い詰められたゴールドの心中も痛いほど感じたから。

それに、ゴールドは意識を失う間際にこう呟いていたとも聞いた。

『…スズカ…ごめんね…』

 

「…。」

眼を瞑ったままのマックイーンの脳裏に呼び戻されたのは、今年一月の、プレクラスニーの最期の時。

あの時、脚に致命的な怪我を負ったクラスニーの身体を抱きしめながら泣き叫んだ私に、クラスニーが最期に発した言葉も“ごめんね”だった…

 

重い。

薄らと眼を開け、朝陽の色が拡がり始めた高原の彼方を眺めつつ、マックイーンは呟いた。

ゴールドの言葉もクラスニーの言葉も、その心底から出たものはなんて重いんだろう…

 

逃げたい。

生徒会長の座もメジロ家代表の座も過去の栄光も全て捨てていいから、この悲嘆に溢れた現実から逃げ出したい。

そんな思いが、マックイーンの胸をふとよぎった。

正直、帰還後にゆくであろう世界の方が余程幸せだとすら思えた。

 

こんなに美しいのに。

朝陽が高原一帯を橙色に照らし出した光景を眺め、マックイーンは美しい芦毛の髪を寒風に靡かせた。

この世界は、こんなに綺麗なのに。

 

カシャッ。

マックイーンの後ろから、カメラのシャッター音が聞こえた。

振り返ると、先日からライスと共に療養施設にいるという三永美久が、カメラを手に立っていた。

 

「三永美久。」

「おはようございます、メジロマックイーン生徒会長。」

挨拶しながら、美久はマックイーンに歩み寄り、その傍らに立った。

 

「綺麗ですね。」

朝陽が昇る光景を何度もカメラに収めた後、美久は呟いた。

「そうですわね。」

マックイーンも光景に眼を向けたまま、静かに答えた。

 

その後、二人は特に言葉も交わさず、ただ高原の光景を静かに眺めていた。

 

 

*****

 

「…そう、来てくれるのね。…ありがとう。…うん、ちょっと私ではもう厳しくて…彼女達もかなり追い詰められてるから…。気にしないで。あなたが来てくれるだけで、少なくとも私の力にはなるから…。じゃ、宜しく…。」

 

朝陽が昇った頃。

医務室にて、椎菜は電話でかつての知り合いらしき者と連絡をとっていた。

それを終えると、彼女は医務室を出て、ルソーの病室へと向かっていった。

 

ルソーの病室に入ると、ベッドの枕元の椅子で松葉杖を抱えて座っているルソーの姿があった。

そしてそのベッド上に、意識を失っているゴールドが寝かされていた。

 

「どう?」

「まだ、目を覚ましそうにありません。」

椎菜の問いかけに、ルソーは小声で答えた。

ゴールドをずっと看護し続けているルソーだが、彼女も昨晩の事を心身共にかなり疲弊して見えた。

「あなたも、少し休んだら?」

「大丈夫です。さっき椅子に座ったまま一時間程睡眠しましたから。」

ルソーは気丈を装った。

どんなに心身がショックと疲弊に覆われてようとも、今彼女はゴールドの身を置いて休むことなど出来なかった。

 

 

コンコン。

不意に扉をノックする音がした。

「失礼しますわ。」

入って来たのはマックイーンだった。

「…。」

椎菜もルソーも、彼女の姿を見て一瞬表情を硬らせた。

 

マックイーンはそれに気づいたものの反応はせず、ベッド上のゴールドに視線をやった。

まだ意識がない彼女を確認すると、椎菜を向いた。

「私は学園に戻りますわ。何かありましたら、ブルボンに伝えて下さい。」

「分かったわ。」

「では。」

 

「…待って下さい。」

病室を出ようとしたマックイーンを、ルソーが呼び止めた。

「ゴールドに処分を下すつもりですか?」

…。

マックイーンは少し間を置いた後、冷徹な表情で振り返った。

「現在生徒会は、ステイゴールドの行動を咎められる状況にありませんわ。今はただ、彼女が負った傷のケアをすることを考えます。」

そう告げると、マックイーンは病室を出ていった。

 

マックイーンが出ていった後、椎菜はルソーの傍らにきた。

「少し寝なさい。明らかに疲弊しているわ。」

「…大丈夫」

「これは医師としての命令よ。」

拒もうとしたルソーに、厳しい口調と表情で椎菜は言った。

「まだ医務が始まるまで時間があるから、それまでは私がゴールドを看てる。その間だけでも休みなさい。」

 

「…はい。」

ルソーは暗い声で従うと、室内にある別のベッドに横になった。

やがて、静かに寝息をたて始めた。

 

ルソーが眠った後、椎菜はゴールドの枕元に黙念と座り続けていた。

時折、重い吐息をつきながら。

 



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朝陽(2)

 

*****

 

場は変わり、メジロ家の別荘。

 

この日も朝陽が昇る前から、オフサイドトラップは外の競走場で有馬記念に向けた調整を行っていた。

 

「…。」

淡々と調整に励むその姿を、競走場の片隅で杖をつきながらじっと見守るように観察している一人の人間がいた。

昨晩に入院先の病院からこのメジロ家の別荘へ身柄を移した、元『フォアマン』トレーナーの岡田正貴だった。

 

「岡田トレーナー。」

オフサイドの姿にじっと視線を注ぎ続けている岡田の元に、同じく先日からメジロ家に居たケンザンが来た。

彼女は外出支度を整えた姿だった。

「行って来ます。オフサイドのことを、宜しくお願いします。」

「ああ。」

ケンザンの手短かな挨拶と言葉に、岡田は背を向けたまま頷いた。

ケンザンは踵を返し、待機しているメジロ家の車両に乗り込むと、別荘を去っていった。

 

ケンザンが去った後も、岡田はオフサイドの調整をずっと見守っていた。

何の言葉もかけず、ただ無言でじっと。

オフサイドも岡田を気にする素振りは全く見せず、黙々と調整を続けていた。

 

 

岡田とオフサイドがまだ顔を合わせていないわけではない。

既に昨晩、岡田はケンザンと共にこの別荘に来訪し、オフサイドと会っていた。

 

 

****

 

 

昨晩のこと。

 

「久しぶりだな、オフサイドトラップ。」

「岡田トレーナー。」

メジロ家別荘に駆けつけたかつての恩師の姿を見た時、流石のオフサイドも驚きを隠せないでいた。

 

だがそれもほんの僅かの間だけで、すぐに冷静になったオフサイドは岡田に尋ねた。

「『スピカ』の沖埜トレーナーと、お会いになったんですか?」

「ああ。」

「…そうですか。」

自分が願ったことを、沖埜トレーナーはすぐに行動に移してくれたんですねと、オフサイドは安心した微笑を浮かべた。

最も、岡田がここに来た理由はそれとは別だと分かっていたが。

 

「この後まだ調整があるので、失礼します。」

会話もそこそこに、オフサイドはそう断ると、恩師と別れ部屋の方へ戻っていった。

岡田も強いてオフサイドと折衝をしようとはしなかった。

 

昨晩の二人の接触は、それだけで終わっていた。

 

 

****

 

それから一夜明けた今朝。

オフサイドと岡田はまだ挨拶すらしていなかった。

黙々と調整に励むオフサイドを岡田はただ見守る、それだけだった。

 

だが、オフサイドの心中はともかく、岡田の心中は昨晩にあった時と比べて色々と動いていた。

何故なら、まだ夜が明ける前に、療養施設で起きた事の急報がマックイーンから彼に届いたから。

 

岡田(とケンザン)はその急報を受けたものの、オフサイドにはまだそれは伝えられていなかった。

彼女に伝えるか否かは、マックイーンの意向で岡田に任されていたから。

 

 

やがて、オフサイドは早朝の調整を終えた。

 

汗を拭いながら、彼女は岡田の元に来た。

「岡田トレーナー、おはようございます。」

「おはよう、オフサイド。」

初めてこの日の挨拶を交わしながら、二人は競走場を出た。

 

別荘の部屋に戻ると、オフサイドはいつものように脚部のケアを始めた。

まず不安のある左脚、そして長年〈死神〉との闘いを続けている右脚を。

 

「…。」

淡々とケアを行っているその様子を、岡田は競走場の時と同じように傍らで黙って見守っていた。

それでも、包帯が外されたオフサイドの右脚の患部の状態を見た時は、流石に顔がこわばった。

ここ数年、彼女のその箇所を生で見た者はごく僅かしかいない。

その状態がもう限界であることは、一目で分かる程だった。

 

だけど、岡田は何も言わなかった。

オフサイドも岡田の視線を気にすることなく、黙々と脚部のケアを続けた。

 

やがて、オフサイドはケアを終えた。

それを見計らい、岡田は口を開いた。

「さっき、マックイーンから緊急連絡があった。」

「…?」

「スズカが、天皇賞・秋後にお前の身に起きたことを知ったらしい。伝えたのはゴールドだということだ。」

 

オフサイドの表情が、僅かに動いた。

「それで、どうなりました?」

「スズカはショックで倒れた。現在懸命に手当てを行っているが厳しい状態らしい。…ゴールドの方も別室で手当てを受けているようだ。」

「ゴールドも?」

「あいつは高熱を出してたらしい。スズカに全てを伝えた後に倒れたということだ。容態に別状はない。」

「そう…ですか。」

オフサイドの瞳は翳っていた。

 

だが、オフサイドはそれ以上何も尋ねなかった。

岡田も、それ以上は何も伝えなかった。

沈黙が、室内に流れた。

 

やがて、岡田は部屋を出ていった。

 

 

やはりな。

別荘内の自分の為に用意された部屋に戻ると、岡田は険しい表情を浮かべながら、こちらも患っている病気の対応薬を飲んだ。

 

前述のように、岡田が急報を受けたのは明け方前。

その後彼はケンザンと相談し、彼女のみを療養施設に急行させた。

岡田が残ったのは、今自分は絶対にオフサイドの元を離れてはいけないと判断したのと、施設の出来事を彼女に伝える為だ。

 

とはいえ、現在の彼女に急報を伝えたところでどんな反応するかは、大体想定がついていた。

そしてその想定通り、オフサイドは事に対して特に気にする素振りを見せなかった。

彼女の心中は、二日後に迫った有馬記念とそのレースで帰還する一点だけに集中しきっている。

自らの命を終する決意を固めきっている以上、他人への感情など殆ど消えているようだった。

 

だけど。

 

「それでいいのか、オフサイド。」

水と一緒に薬を飲み込みながら、岡田は呟いた。

お前の目指した蹄跡は、そんな結末を望んでいたのか?

必ず栄光を手にするという大きな夢を立てて〈死神〉と真っ向から何度も闘い、闇夜の中でもがき続けた末、遂に完全に閉ざされていた筈の重い扉をこじ開けた。

それは、お前の大きな誇りだったんじゃないのか?

俺の反対すら押し切って、あの天皇賞・秋を生きて、勝って、帰ってきたウマ娘じゃないか。

 

オフサイドのターフでの生き様を、岡田はこの世界の誰よりも見てきた人間。

だから、彼女が帰還決意にまで追い詰められた理由も、誰よりも深く分かっていた。

自分が生きてきた世界と現実の乖離。

ウマ娘としての自らの能力の限界。

そして何より、ナリタブライアン。

 

そして、単にそれらの絶望によって帰還決意に追い込まれたというのではなく、オフサイドはそこに自らの使命を見出してしまったであろうということを。

 

 

 

一方。

 

「バカ。」

岡田が出ていった後、一人になった別荘の自部屋で、オフサイドは脚を休ませながら悲しげに呟いた。

 

ゴールド、スズカ、なんであなた達まで。

消えるのは私一人だけでいい。

なのに、何故。

昨夕、自分の決意を泣いて翻そうとしたゴールドの行動が思い出された。

 

私は、全ての絶望を自分に向けることが出来たから、誰も責めずに終わることができるのに。

なのに…。

 

脳裏に、チーム仲間として過ごしたゴールドとスズカの明るい美しい姿と記憶が思い起こされた。

あなた達にまで、この絶望の領域に巻き込まれて欲しくなかった。

 

オフサイドは溜息を吐いた。

感情も何もない、空虚な溜息だった。

 

メジロ家の別荘に、昇った朝陽の陽光が射し込み始めていた。

 

 

*****

 

 

場は変わり、療養施設の最上階。

 

「あ。」

廊下のベンチにずっと黙念と座っていたライスは、後ろの窓から射しこむ朝の陽光に気づき、杖をついて立ち上がると、外の光景に眼を向けた。

「…。」

ライスの傍らにいたブルボンも、つられるように立ち上がり、同じように外へ眼を向けた。

 

寒さに覆われていた高原一面を、朝陽の光が暖かく照らし出していた。

思わず吐息が出そうな程の美しい朝の景色が、一面に広がっていた。

 

「美しいわ、空。」

「…。」

何か、溢れそうなものを堪えたライスの呟きに、ブルボンは眼を瞑って頷いた。

 

 

この日、やや荒れていた昨日と変わり、朝から澄み渡った快晴が冬の大空一面に広がっていた。

 



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破片(1)

 

*****

 

時間は経ち、8時前。

療養施設にいる療養ウマ娘達は次々と起床し、大半が食堂で朝食をとっていた。

 

 

食堂の片隅では、怪我療養ウマ娘の面々が集まって朝食をとっていた。

 

皆、顔色が冴えない。

理由は、昨晩遅くに施設内で不穏なことが起きたのを誰もが知っいてたから。

 

「何があったんだろうね。」

「さあ…」

不穏なことといっても、彼女達は物音でしかそれを把握してなかったので詳細までは知らない。

だが、

「ライス先輩とブルボン先輩の大きな声や駆け足が聴こえたわ。」

「“特別病室”、“緊急事態”そんな台詞だったね。絶対、良くないことだよね。」

スズカの身に何かが起こったということだけは、誰もが薄々察知していた。

 

「おはよう。」

暗い顔を並べている彼女達に、数人のウマ娘が声をかけた。

〈クッケン炎〉療養ウマ娘達だった。

彼女達も、かなり表情が暗かった。

「元気ないね、大丈夫?」

「あんた達の方こそ、顔色良くないよ。」

「…。」

〈クッケン炎〉のウマ娘達は、何も答えずに去っていった。

 

〈クッケン炎〉ウマ娘達が去った後、怪我ウマ娘達は顔を見合わせた。

「〈クッケン炎〉の同胞も、大分きているみたいだね。」

「そりゃそうでしょ。今回の断行でオフサイドトラップ先輩がどうなるか気が気じゃないだろうし、それに…」

彼女達のリーダー的存在であるホッカイルソーが、昨日から様子がおかしかった。

「スズカに関係あるかは分からないけど、あっちの方も事態が動いてるようね。」

「こっち程じゃないけどね。」

 

「比べるものじゃないわ。」

1番年長格のウマ娘が重い口調で言った。

「状況は異なるとはいえ、同じウマ娘の危機であることは間違いないわ。みんな無事を祈ってるだろうけど、もしもの覚悟はしておこう。」

 

 

重い雰囲気の療養ウマ娘達。

そんな彼女達から少し離れた場所で、一人黙々と朝食をとってる人間がいた。

三永美久だった。

 

敏感ね、皆。

朝食を食べている美久は、周囲の療養ウマ娘達の何かを察している雰囲気を感じそう思った。

 

昨晩未明に特別病室で起きたことを、美久は既に周知していた。

 

真夜中、胸騒ぎがおさまらず就寝出来なかった彼女は、ライスのいる部屋にいった。

だが部屋にはライスもブルボンもいなかった。

美久はすぐに特別病室に行ったと察知し、そこに向かった。

そしてあの現場に着き、既に終わった後だったが、それを目の当たりにした。

何が起きたかについては、ライスから全て聞いた。

 

「ん…」

美久は食事の手を止め、やや顔を歪めながら胸に手を当てた。

昨日から起きた謎の胸中の悲しみは、昨晩の件以降更に大きくなっていた。

なんなんだろ、これ。

まるで身の底から湧き上がるような、深い深い悲しみ…。

私、もうウマ娘の幸せな姿を見れないのかな。

そんな不安すら感じる程の、重い悲しみだった。

 

 

重い胸中を抱えながら食事を終えると、美久はカメラを持って施設の外に出た。

 

 

施設の外は、やや荒れていた昨日とはうって変わり、澄み切った冬晴れの空が高原上空一面に広がっていた。

だけど、いつもなら心の中も浄化されそうな程の良い天気なのに、どこか言いしれない寂しさも感じた。

“綺麗ですね”

早朝時、マックイーンと交わした言葉と彼女の悲しげな表情が思い起こされた。

「…。」

美久はカメラを構え、大空と高原の風景を何枚か撮った。

ウマ娘にとって最も夢から遠い地であるこの場所は、あまりにも美しすぎるな。

撮影を重ねながら、そんな思いが美久の胸中をよぎっていた。

 

 

「美久。」

一人写真撮影をしながら歩いていると、後ろから呼ぶ声が聞こえた。

振り返ると、紺の上着を羽織ったライスシャワーが、杖をつきながら歩み寄ってくるのが見えた。

「ライス。」

「写真、撮ってたの?」

「うん。」

傍らに来たライスの言葉に頷きながら、美久はシャッターを切り続けた。

 

やがてカメラを下ろすと、美久はライスに尋ねた。

「スズカの容態は、どう?」

「まだ目覚めないわ。今も手当てが続いてる。」

「そう。ステイゴールドは?」

「彼女もまだ意識を失ってる。椎菜先生やルソーさんが看護しているわ。」

「ルソーは大丈夫なの?」

「そこまでは分からない。」

ライスは右眼にかかった前髪を指先で触れた。

彼女の表情にも、かなりの憔悴が見てとれた。

 

「…。」

美久は無言でそっと、ライスの肩に手を当てた。

ライスの心境の動揺の大きさも分かっていたから。

 

「ライス。あなたは、この状況でどうするつもりなの?」

「私は、」

肩を抱き寄せながらの美久の尋ねに、ライスは少し考えた後答えた。

「ここに留まるわ。まだ私の役目が消えた訳じゃない。」

むしろ、状況が急変したことで更に役目は重くなったと、ライスは感じていた。

「私は、沖埜トレーナーやスペさんと共にスズカを守るわ。それが…私の使命なのだから。」

憔悴した表情の中でも、瞳だけは蒼く光っていた。

 

「…でも、」

つと、ライスは肩を抱いてる美久の手のひらに触れつつ、彼女の眼を見つめた。

「その前に、私はあなたに伝えなきゃいけないことがあるの。」

 

「…?」

その言葉と、ライスの蒼い瞳が悲しげな色に染まっているのを見、美久は不安な表情をした。

「なに、伝えなきゃいけないことって?」

「座ろう。」

聞き返した美久にライスはそう促すと、杖を置いてゆっくり芝生の上に腰を下ろした。

…。

美久も不安な表情のまま、傍らに腰を下ろした。

二人の周囲には誰もいなかった。

 

「実はね…私、あなたに隠していたことがあるの。」

一面、冬の朝の澄み切った空気に満ちた中、膝を組んだライスは高原の風景に目をやりながら口を開いた。

「隠してたこと?」

「うん。といっても、これを知っているのはほんの僅かな者だけなんだけどね。」

ライスはちょっと微笑した。

朝陽に照らされたその微笑は儚げに映っていた。

 

「実は私、もうあと少ししか生きられないの。」

 

「…え?…ごめん、もう一回言ってくれる?」

美久は聞き間違いだと思い、戸惑いながら聞き返した。

ライスは一度深呼吸し、朝陽を見上げたまま再び言った。

「私、もう余命僅かなの。」

 

「…なんで?」

「3年のあの宝塚記念で大怪我した脚が、もう限界みたいなんだ。」

愕然とした美久に、ライスは左脚をさすりながら続けた。

「最近痛みが酷くなっててね。身体にもかなり影響が出始めたんだ。それで先日、脚の状態をお医者さんに診てもらったの。そしたら、もうあと一月余りで脚は限界だと告げられたわ。治療の術もないって。」

「そんな…嘘でしょ?」

「嘘じゃないのよ。マックイーンさんやブルボンさんも既に知ってるわ。」

とても信じられない様子の美久に、ライスは努めて冷静な口調で伝えた。

「新しい年を迎えられるかも微妙だと思う。多分ここが、私の最後の場所になると思うわ。」

 

「嫌…嫌だよそんなの!…嘘よ!」

美久はカメラを落とし、声を震わせて泣き出した。

 

 

人間の美久とウマ娘のライスが出会ったのは、ライスがまだ現役だった時代。

美久は当時からトレセン学園専属カメラマンで、彼女と接する機会が多かった。

その後ライスが怪我で引退し、長い療養生活を終え喫茶店『祝福』の経営を始めた頃から、二人の付き合いは深くなった。

以来、深い親友としてその関係はずっと続いていた。

 

 

「ごめんなさい、美久。」

泣き出した美久を見て、ライスは流石に少し声が暗くなった。

マックイーンさんもブルボンさんもそうだった。

幾ら自分がその事実を受け入れることが出来てても、周囲の悲しみだけは防げない。

 

本当に、帰還というものは辛いな…

胸に悲しみと痛みを感じながら、ライスは泣いている美久の肩を抱き寄せた。

 

何も言わず、ただ抱き寄せていた。

 



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破片(2)

 

*****

 

場は変わり、トレセン学園の生徒会室。

緊迫した雰囲気の室内には、ミホノブルボンとビワハヤヒデを除く生徒会役員全員が集まっていた。

 

集まった役員達に、生徒会長のメジロマックイーンは昨晩に起きた出来事とその後の経過を説明した。

事前に事が起きたことについては伝えており、その詳細を改めてここで皆に伝えたのだった。

「サイレンススズカの容態は予断を許さないとの状況です。現状、このことは公には明かさない方針ですので、各々ご了承下さい」

 

「…。」

生徒会長の説明を聞き終えると、室内にいる生徒会の面々は深い嘆息を吐いた。

特に副会長のダイイチルビーが、かなり沈痛な表情になっていた。

「遂に、一番恐れていたことが起きてしまったのね。」

「恐れていたというより、想定外の事態だね。」

メジロパーマーが、指の関節を噛みながら言った。

「まさかステイゴールドが、こんなことを起こすなんて…誰も想定出来ないよ。」

この世界で最もスズカと親しい同胞が、理不尽かつ自爆的な行動をするなんてさ…

 

「起きてしまった事態は仕方ありません。」

パーマーの傍らのダイタクヘリオスが、場の空気を変えようと整然とした口調で言った。

「私達生徒会がすべきことは、現状を踏まえて適切な行動をすることです。」

「その通りですわ。」

生徒会モードのヘリオスの言葉に、マックイーンは頷きながら冷徹な口調で言った。

「皆、今それぞれがあたっている業務をこれまで通り続けて下さい。百も承知でしょうが、我々が今あたっている事は同胞の未来の為に非常に重大なことです。色々動揺はあると思いますが、どうか宜しくお願いしますわ。」

「…はい。」

マックイーンの言葉に、メンバー中最年少の役員であるマヤノトップガンが、表情を緊張で引き攣らせながらも努めて元気な声で頷いた。

 

「一つ、質問いいですか?」

比較的落ち着いた様子のヤマニンゼファーが、マックイーンに尋ねた。

「オフサイドトラップは、この事を知っているでしょうか?」

「オフサイド本人には直接伝えていませんが、現在彼女と共にいる岡田正貴トレーナーには伝えましたわ。彼女に伝えるかは彼の判断に任せました。今朝のビワからの報告によると、どうやら岡田トレーナーはオフサイドトラップにそれを伝えたようです。」

「それで、何か反応は?」

「特になかったようですわ。」

マックイーンは冷徹な瞳をやや険しくした。

「オフサイドトラップは、もう有馬記念で散る以外に何も考えていない状態ですわ。」

「…。」

マックイーンの表情を見た生徒会メンバーは状況の深刻さを感じ、一様に同じように表情を険しくした。

 

 

その後、マックイーンは役員達にそれぞれ今後の指示を出し、緊急会合は終わった。

役員達はそれぞれ業務を行っている部署に戻っていき、マックイーンは一人生徒会室に残って、業務を行っていた。

 

「生徒会長。」

一人で業務を始めてしばらく経った頃、パーマーがまとめた書類を手に生徒会室に現れた。

「なんでしょうか、パーマー。」

「調査していたものの一つが纏まりましたので、こちらに。」

会長席に歩み寄ると、パーマーは座っているマックイーンにそれを差し出した。

マックイーンは黙って受け取ると、それを見た。

「天皇賞・秋後に過ちをおかした、同胞のまとめですね。」

「ええ。数が少ない分、早く調べ終わりました。」

「ご苦労でしたわ。」

マックイーンは労うと、その書類をしまった。

 

「…。」

書類を渡したパーマーだったが、その後室内を去らず、無言で会長席の前に立ち尽くしていた。

「まだ何か用件が?」

怪訝に思ったマックイーンが尋ねると、

「あのさ、マックイーン。」

生徒会の口調から普段の口調に変えて、パーマーはマックイーンを見据えた。

「どうしましたか?」

「あなた、少し休むべきだと思うわ。」

 

「何を言うのですか。」

パーマーの言葉に、マックイーンは険しく眼を光らせた。

パーマーはその眼光にもたじろかず、無言で見返した。

「この状況下で、私が休むなど許される訳がないですわ。」

「今のあなたが、この状況下でまともな行動が出来ると思ってるの?」

努めて静かな口調で、パーマーは言い返した。

 

「どういう意味ですか?」

「言葉通りの意味よ。私だけじゃなく、生徒会の皆がそう思ってる筈だわ。」

威圧感すら眼光に表したマックイーンに、パーマーも気圧されまいと言葉を続けた。

「鏡を見てみなよ。今のあなたはまるで悪夢に取り憑かれたような顔色してるわ。」

 

「…。」

マックイーンは、僅かに唇を噛みながら頬に手を当てた。

「精神的にも肉体的にも相当疲れてるでしょ…そんな状態じゃ、いつ倒れてもおかしくないわ。」

「ご心配なさらず」

「もう誤魔化さないで。」

いつものはぐらかしの返答を、パーマーは遮った。

「生徒会長であるあなたがこれ以上無理する愚をとるなら、私達生徒会役員は今後あなたの方針には従わないわ。」

 

「なんですって…」

「自らの状態を把握しながらそれを蔑ろにする生徒会長の方針なんて誰が従える?」

思わず立ち上がったマックイーンを、パーマーは同じくらい冷徹な瞳で見返した。

「別に、今起きてる事はあなたが絶対に必要なわけじゃないのだし。むしろ、こんな状態で行動されたら事態を悪化させる可能性の方が高いわ。」

 

いつにないパーマーの厳しい言葉に、マックイーンは冷徹な表情を俯かせた。

彼女から視線を逸らさず、パーマーは言葉を続けた。

「マックイーン、今日は屋敷に帰って休みな。事がここまで二転三転してる現状、一度落ち着く時間があなたには必要だわ。」

 

「分かりましたわ。」

マックイーンは、令嬢らしくなく唇を噛みながら顔を上げた。

「あなたの言う通りにしますわ。」

そう言うと机上にある電話をとり、副会長のルビーを呼んだ。

 

数分後、ルビーが生徒会室に来ると、マックイーンは心身の疲労が著しい為彼屋敷に戻る旨を彼女に伝えた。

「現場で闘うあなた方役員を差し置いて会長である私が休むなど責任放棄も甚だしいと思いますが、お許し下さい。」

「いいのよ、マックイーン。」

詫びた生徒会長に、副会長は労わるように答えた。

「あなたの状態は私達もずっと気がかりだったから。今日はゆっくり休んで。」

「ありがとうですわ。」

マックイーンは謝すと、懐から書類を取り出し、ルビーに渡した。

「今後の計画がこちらにまとめてあります。後で役員の皆にも見せて下さい。」

「分かったわ。」

ルビーは頷きながらそれを受け取った。

 

マックイーンは鞄を持ちコートを羽織った。

「では、何かありましたらすぐに連絡ください。」

そう告げると、マックイーンは生徒会室を出ていった。

 

 

マックイーンが去った後、ルビーは書類を手に持ったまま、室内に残っていたパーマーを見た。

「あなたが、マックイーンに休むよう言ったのかしら?」

「うん。」

パーマーは頷きながら、腰掛けていた椅子から立ち上がった。

「どう見ても疲労が著しかったからね。生徒会仲間としても家族としても、限界を越えた無理はさせられなかった。」

「正しい判断だわ。」

ルビーは礼をいうように言った。

「今日だけになるとは思うけど、それでもマックイーンには休む時間が必要なのは間違いなかったわ。このままじゃ彼女も壊れる可能性が高いのは明白だった。」

 

「まだ、危険だけどね。」

マックイーンが(生徒会が)下した今回の断行は、はっきり言って生涯を賭してかからねばならない程に大きなものだ。

ルビーにもパーマーにも、他の生徒会仲間もその覚悟はある。

だけどマックイーンの覚悟は、生涯どころじゃない。

名誉も血も勲しも全て失う覚悟だ。

だから、自らの心身がボロボロになっても顧みようとしなかった。

 

「今回の事の結末に、未来はあるのかな。」

パーマーは憂げに呟いた。

断行だけじゃなく、オフサイドやスズカの件だってある。

これら全てが混ざり合い暗く渦巻く現状を、果たして打開出来るのだろうか。

「闘うしかないわ。」

ルビーは書類に目を向けながら答えるように言った。

「闘って、闘って、新しい未来を掴み取るしかないのよ。」

言いながら、ルビーの視線は書類に記されているマックイーンの指示の一部分に注がれていた。

『明日、今回の断行&今後のウマ娘と人間の共存について会見を予定』

 

 

一方。

生徒会室を出たマックイーンは、メジロの車両を呼んだ後すぐには学園を去らず、裏庭の奥にある敷地へと向かっていた。

 

敷地内にある石碑の前に立つと、マックイーンはそれに刻まれているウマ娘達の名前をじっと見つめた。

 

マティリアル・グロリークロス・ワンダーパヒューム・シグナルライト・ニホンピロスタディ…

レースに散った同胞達の名前を見つめながら、マックイーンはオフサイドから渡されたノートを取り出し、胸に抱くと石碑の前に跪き、瞑目した。

 

「私は、絶対に逃げませんわ。」

絶対に、絶対に…

真冬の蒼天の下、芦毛の美髪を靡かせて誓ったマックイーンの言葉が、切なげな寒風の音と共に響いていた。

 



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破片(3)

*****

 

再び、療養施設。

 

早朝にメジロ家の別荘を出たフジヤマケンザンが、療養施設に到着したのは10時過ぎだった。

 

施設に着いたケンザンは、まず椎菜に会いに行こうとしたが、彼女は現在医務にあたっていた為会えなかった。

なので先に、ゴールドいるルソーの病室へと向かった。

 

ルソーの病室に入ると、ゴールドもルソーもそれぞれベッドの上にいた。

ゴールドはまだ意識がない状態だったが、ルソーの方は起きていた。

「ケンザン先輩。」

「久しぶりだな、ルソー。」

自分の姿を見て驚いた様子のルソーに、ケンザンは軽く手を挙げて応えた。

 

「どうだ、体調は?」

ルソーのいるベッドの傍らに腰掛けると、ケンザンは尋ねた。

「ちょっと苦しいです…」

かつてのチームリーダーの質問に、ルソーは正直に答えた。

「そうか。今は身体を休めてろ。ゴールドの看護は私がするから。」

「はい…ありがとうございます。」

ルソーは礼を言うとベッドに横になり、やがて寝息を立て始めた。

 

きついだろう…

眠ったルソーの表情を見ながら、ケンザンは悲しげに眉を顰めた。

彼女と会うのは一年以上ぶりだったが、それでも大分窶れているのが分かった。

〈死神〉との闘病を二年以上も続けている点、ルソーは精神的にもかなり強靭なウマ娘だ。

その彼女がここまで窶れているとは、今回の事に彼女がどれだけのショックを与えているか証明していた。

ケンザンは無言で、ルソーの寝顔をそっと撫でた。

 

やがてケンザンはルソーの側を離れ、ゴールドのベッドの側へ行った。

「…ぅ……ぅ…」

未だ意識のない状態のゴールドは、時折苦悶の声を漏らしていた。

表情も普段の健康で快活な彼女とは程遠い、蒼白で苦しげなものだった。

当然だろうな。

ケンザンはハンカチを取り出し、彼女の表情に滲む汗を拭き取った。

ケンザンとゴールド(&スズカも)は、ゴールドがチーム加入した数ヶ月後にケンザンが引退したので短い期間のチーム仲間だったが、それでもゴールドの性格については、ケンザンは充分に把握していた。

純粋な性格で負けず嫌い。

そして親友思いで、チームに対する愛情が人一倍強い。

純粋な性格ゆえトラブルを起こすことは何度かあったが、仲間を傷つけることは絶対にしないウマ娘だった。

そんな彼女が、無二の親友であるスズカを理不尽に責めた。

 

そう、理不尽に。

ハンカチをしまい、ケンザンは重い吐息をした。

それも、理不尽だと分かった上で。

 

 

ガラッ。

不意に病室の扉が開いた。

入ってきたのは椎菜だった。

 

「フジヤマケンザン。」

病室にいたケンザンの姿を見て、椎菜も驚いた。

「お久しぶりです、渡辺先生。」

ケンザンは立ち上がり、椎菜に一礼した。

 

ケンザンは現役中は故障とはほぼ無縁だったのでこの療養施設で生活したことは殆どなかったが、オフサイドら後輩の見舞いで何度か訪れた際に椎菜に会っており、以来面識を持っていた。

 

「今来たの?」

「はい、つい先程。」

「一人?」

「ええ。」

「そう…」

椎菜はケンザンの側に歩み寄り、椅子に並んで腰掛けた。

 

椎菜の目元にはかなり疲労の色が濃かった。

昨晩から一睡もしてないのだなとケンザンは察した。

「申し訳ありません。」

つと、ケンザンは頭を下げた。

「なんで謝るの?」

「私は、『フォアマン』の元メンバーかつリーダーです。」

『フォアマン』元メンバー…ルソー・ゴールド・スズカ・そしてオフサイドの先輩だった身。

かつての仲間達によって起きた事とその周囲に与えてしまっている影響に対し、彼女は少なからず心痛していた。

「そんなの、気にしなくていいよ。」

椎菜は悲しそうに言った。

「今回の事は、ほぼ我々人間のせいで起きたのだから。あの純粋なゴールドをここまで追い詰めた程にね。」

「…。」

その言葉に、ケンザンは口元を静かに結んだ。

 

「ゴールドが起こした行動については、あなたも知っているわね?」

現状のことはケンザンは全て周知していると思いつつ、椎菜は尋ねた。

「はい、報告を頂いたので知ってます。」

ケンザンはゴールドの表情に視線を下ろしながら頷いた。

「じゃ、あなたなら、ゴールドの行動の目的とかも大体察してるのかしら?」

「ええ…」

現場にはいなかったが、その時の状況を聞いただけで、ケンザンはゴールドの心中はおよそ推察出来ていた。

「全てを暴露して、自分もスズカも何もかも破壊させる為だと。」

 

「そうだろうね。」

椎菜は同意する様に、小さく頷いた。

『…みんな壊れよう…』

全てを伝える前にゴールドが言ったという台詞が脳裏に浮かんだ。

 

最も、あの時のゴールドの様子からして、あれは深く考えて起こした行動ではないのは明白。

長い間心の底に蓄積されてたものが爆発して起きた、突発的なものだろうと推察していた。

だが突発的なものだとしても、その影響は甚大だった。

スズカは大きなショックを受けただけでなく、ゴールドのぶつけられた言葉が心身に刻みこまれた。

『スズカが怪我しなければ誰も悲しまなかった、不幸にならなかった』

『オフサイド先輩の心を返して!』

無二の親友からあの理不尽で残酷な言葉をぶつけられたスズカが、果たして立ち直れるだろうか。

しかもまだ、現実に起きた全貌も知っていないのに。

 

恐らく…

「真実を知ったスズカは壊れる、そして多分、オフサイドと同じように帰還に踏み切ろうとするでしょう。そしてゴールドは、スズカを壊した罪を誰よりも背負う。ゴールドだけじゃない。ウマ娘達も人間達も皆、この悲劇を背負うことになる。それがゴールドの目的でしょう。」

ケンザンはポツポツと言った。

「この世界の者全員に永遠に消えない十字架を背負わせる為に、絶望の中で行動を起こした。」

 

「可哀想に。」

ケンザンはぐったりしているゴールドの頬をそっと撫でた。

秋天の騒動以降、オフサイド&スズカの為に誰よりも粉骨砕身していたのはゴールドだったし、二人の未来の幸せを誰よりも願っていたのもゴールドだった。

その分、誰よりも悲壮な覚悟を背負ってたのか。

 

ゴールドのおかした行動は、許されない行動だったかもしれない。

でも、一体誰が彼女を責められるだろう。

ケンザンはそう思った。

 

 



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破片(4)

 

少し経つとケンザンはゴールドから手を離し、椎菜に尋ねた。

「スズカの状態は、どうですか?」

 

「スズカは、まだ意識不明だわ。身体に異変は起きてないけど、受けたショックが大き過ぎる。医師達がつきっきりで手当てしてるけど、再び意識が戻るのはいつになるかその目処も立ってないわ。」

意識を失う間際のスズカの叫びと、失った後の苦悶の表情を思い返して、椎菜は暗い声で答えた。

 

スズカ…

椎菜の言葉を聞き、ケンザンは眼を瞑ってスズカの姿を思い浮かべた。

ゴールドと同じくスズカとチーム仲間だったのはほんの短い期間で、その後スズカがチーム離脱をしたこともあり彼女とはここ数年会っていない。

それでもやはり彼女に対しては、他の同胞と比べて仲間意識の思いは強かった。

究極の美しい走りを求め、皆に幸せを与えることを夢見た同胞が、こんなことになってしまうなんて。

ケンザンの胸中には悲しい痛みが走っていた。

 

眼を瞑っているケンザンに、今度は椎菜が尋ねた。

「オフサイドトラップは、どうしてる?」

「…。」

ここしばらくオフサイドと生活を共にしていたケンザンは、少し間を置いてから答えた。

「黙々と有馬記念に向けての調整を行ってます。もうオフサイドは、有馬記念で散ること以外に何も考えていません。」

 

…。

椎菜は二三度首を振り、更に尋ねた。

「あなたでも、翻意はさせられなかったの?」

「私では駄目でした。オフサイドと違い、私はあまりにも幸せ過ぎる競走生活を送りました。絶望と無縁だった同胞の言葉では、今のオフサイドの決意はとても動かせません。」

故障とは無縁でかつ夢も叶え、愛する同胞の幸福も見届けることが出来たケンザンはそう答え、そして続けた。

「今のオフサイドの決意を変えられるのは、岡田トレーナーとサクラローレル、後はあなたぐらいしか見当たりません。」

「私が?」

「あなたは絶望と闘うオフサイドと共にその現場で生きてきた人間ですから。」

 

「私は、見てきただけよ。」

ケンザンの言葉に、椎菜はまた首を振りながら答えた。

「第一、私は医務以外でウマ娘を救う資格なんてないわ。走りを失い未来を失ってしまった何百人ものウマ娘を、ただ帰還させることしか出来なかったこの私にはね。」

自分が還したウマ娘達の最期を幾つも脳裏に蘇らせながら、椎菜は唇を噛み締めた。

「オフサイドが絶望したのは、この世界の理不尽な部分を一身に受けてしまったから。私は、その理不尽の最先端の存在でもあるのよ。本当は還りたくないウマ娘達の心を知りながら、私は帰還させる手を止めようとしなかったんだから。」

 

「…。」

椎菜の言葉を聞き、ケンザンは一瞬吐き気が込み上げ、口元に手を当てた。

 

だがやがて、ケンザンは口元から手を離すと、椎菜をやや強い視線で見つめて言った。

「ではあなたは、このままオフサイドが絶望の果てに帰還していくのを見ているだけのつもりですか?」

 

「そんなこと言わないで!」

椎菜は思わず大きな声を出し、泣きそうな眼でケンザンを睨んだ。

「なら、あなたはどうなの?オフサイドと同じ仲間で長い間密接な関係にあったのに、オフサイドの絶望を変えられないと言ってたけど?」

 

「私は、私にしか出来ないことをします。」

椎菜の指摘に、ケンザンは淡々と答えた。

「直接変えることは出来なくても、周囲の状況は動かせます。例えほんの僅かだろうと、その可能性を拡げる為に私は動きます。」

「そう。じゃあ例えば、どんなことをしようとしてるの?」

「彼女に不屈を刻み込ませた同胞や、〈死神〉との闘いを教えた同胞の協力をあおぎます。」

ケンザンは即答した。

 

不屈を刻み込ませたウマ娘、〈死神〉との闘いを教えたウマ娘…

「なるほどね…。」

椎菜は、それが誰だかうっすらと分かった。

ケンザンは膝下に手を組み、言葉を続けた。

「現状、彼女達の力でもオフサイドの決意を変えられるかは厳しいと思いますが、それでも僅かだがオフサイドの心は動かせると、そう信じています。」

 

現状は全てが最悪に近い状況だということは、ケンザンにも分かっていた。

でも、動くしかない。

オフサイドの為に、スズカの為に、ゴールドやルソーの為に、そしてウマ娘の未来の為には、終焉の時が来るまでは例え駄目でももがいて足掻くしかないんだ。

 

「先程、先生は“理不尽の最先端にいた自分はウマ娘を救う資格などない”と仰いましたね?」

「うん。」

「でも、ウマ娘を見る人間達の心を変えられることは、先生ならば出来うると思います。」

「人間達の心を変えられる?」

「ええ。だからどうか、心を保って下さい。」

 

ケンザンは多くは語らずにそう言うと、椎菜の疲労した瞳を見つめながら手を握った。

「ウマ娘と人間の、未来の為に。」

「…。」

椎菜は、何も答えられず、ただケンザンの眼を見つめ返していた。

 

 

その後、椎菜は医務の為病室を去っていった。

ケンザンは一人病室に残って、ルソーとゴールドの看護を続けていた。

 



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蘇生(1)

 

*****

 

場は変わり、施設内のスペシャルウィークの宿泊室。

 

スペはベッドの上で一人ぽつんと座っていた。

 

スズカさん…

ベッド上のスペは、普段の彼女の面影のない、魂が抜けたような虚ろな表情だった。

彼女も昨日から一睡もしていなかった。

身体を休められる訳がない。

昨晩の出来事は、彼女にも甚大なショックを与えていたから。

 

特別病室での、ゴールドの凄まじい言葉の数々と、それをまともに受けて倒れたスズカ。

起きた事があまりにも衝撃過ぎて、まだ現実と受け入れきれてなかった。

でも、現実なんだ。

悪夢の中を彷徨っているような感覚の中、スペはそれを自覚せざるを得なかった。

ゴールドさんの暴露で真実を知ったスズカさんは、とてもない大きなショックを受けた。

あの時、何度も悲痛な叫び声を挙げていたスズカを思い出し、スペは苦しみのあまり胸を掴み締めた。

 

そして、スズカさんは倒れた。

ルソー先輩が言った通り、これ以上ないくらいの絶望と共に。

「…う…う…」

意識を失ったスズカの生気が喪われた表情を思い返し、眼から涙が溢れた。

 

私、どうすればいいのだろう。

涙を拭いながら、スペは虚ろな表情のうちで苦悩していた。

スズカが意識を取り戻せるか。

今はそれが一番の懸念だが、意識を取り戻した後の事も更に懸念せざるを得なかった。

間違いなく、スズカは全て真実を知ろうとする。

そしてゴールドが言ったことがその通りだったとわかるだろう。

 

そしてこのまま、オフサイドが帰還するようなことになれば。

『スズカは生きてはいないわ』

「嫌だ…嫌です…」

ルソーの冷酷な言葉が蘇り、スペは頭を抑えた。

 

それに、何より苦しいことがあった。

自分も、浅慮な行動でオフサイド先輩を苦しめた一人なんだ…

その事実が、スペを最も苦しめていた。

この事実を胸に隠したまま、平然とスズカを救う為に動くことなど出来るだろうか。

といってこれを打ち明けたら、スズカが更に絶望することも明らかだった。

どうすればいいの…

今はただスズカの無事を祈りながら、スペは一人苦悩し続けていた。

 

 

そうした中、時刻が正午を迎えた頃。

 

コンコン。

扉をノックする音が聞こえた。

「…どうぞ。」

「スペシャルウィーク。」

入ってきたのは、特別病室で待機していたブルボンだった。

 

「ブルボン先輩。何かあったんですか?」

訪れたブルボンの、無表情のうちに緊迫した雰囲気を感じ、スペは慄えながら聞き返した。

ブルボンは無表情のまま、ゆっくりと無感情な口調で言った。

 

 

「サイレンススズカが、意識を戻しました。」

 

 

「えっ!」

スペは跳ね上がるようにベッドから身を起こすと、それ以上は何も聞かずに目にも止まらない速さでブルボンの傍らを駆け抜け、病室を飛び出していった。

 

スペはそのまま、廊下にいる療養ウマ娘達の間を駆け抜け、エレベーターを使わずに階段を一気に駆け上がって最上階へと走った。

 

…はあ…はあ…

最上階に辿り着くと、スペは胸を押さえながら特別病室へと急いだ。

特別病室の前は、医師達で騒然としていた。

スペはその中をかき分けながら、病室内へと入った。

 

室内には、医師の他に沖埜の姿もあった。

「…。」

スペは沖埜の傍らに行き、動悸を抑えながらベッドに眼を向けた。

 

 

そこには意識を取り戻したスズカが、半分身を起こした状態でベッド上に座っていた。

 

 

意識を戻したスズカの表情は、普段の彼女と変わらない表情に見えた。

ただ、清廉な表情がかなり白く見えた。

 

「大丈夫か、スズカ。」

沖埜がスズカの側に近寄り、努めて冷静な口調で声をかけた。

「…はい。」

スズカは小声で答えた。

いつもなら微笑をもって返答するのだが、この時はぎこちなく頬を動かしただけだった。

「お水、頂けますか。」

医師にそう頼むと、スズカは差し出されたコップの水を飲んだ。

 

ふー…

喉を潤して一度深呼吸した後、つとスズカの眼は、沖埜の傍らにいるスペの方に向けられた。

二人の視線が合った。

「…!」

スズカの表情は何も動かなかったが、スペは一瞬動揺し、顔を僅かに俯かせた。

 

「…。」

スペの様子を見たスズカは、何も言わずそっと視線を逸らし、それから周囲の医師達に言った。

「しばらく、沖埜トレーナーと二人きりして頂けますか。」

 

 

 

***

 

 

「サイレンススズカが意識を戻しましたか。」

メジロ家の屋敷。

学園から戻ったばかりのマックイーンは、療養施設からその急報を受けていた。

「今は…沖埜トレーナーと二人きり…了解しましたわ。…今は何の指令もありません。しばらく経過を見守っていてください。連絡は随時宜しくお願いしますわ…」

 

意識を戻しましたか。

指示を終えたマックイーンは、胸の動悸を抑えながらソファーにもたれた。

ほっとする余裕はなかった。

これから起きうるであろうことへの懸念が、遥かに大きかったから。

 



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蘇生(2)

 

*****

 

再び、特別病室。

スズカの要望を受け、病室内は彼女と沖埜の二人きりになっていた。

 

「…沖埜トレーナー、」

ベッド上、スズカは身を起こした姿勢で、静かに口を開いた。

「昨晩、ゴールドから、天皇賞・秋後に起きていたことを教えてもらいました。」

「…。」

ベッドの傍ら、沖埜は黙念と膝上に手を組んで聞いていた。

「私が故障した後、観衆の皆さんは私のことに気を取られてレースを殆ど見てなかったこと。勝者への祝福の歓声も皆無だったこと。ウイニングライブも中止だったこと。」

「…。」

「そして、勝者のオフサイドトラップ先輩が殆ど讃えられなかったこと。私の故障があったから優勝出来た、価値の低い天皇賞ウマ娘だと貶されたこと。更に優勝後の言動で世間から誤解を受け、厳しい糾弾を受けて、その末に『フォアマン』は分解状態になってしまったこと。」

言いながら、スズカの声は震え出していた。

 

震える声で、スズカは更に続けた。

「〈無価値の天皇賞覇者〉と言われ、あらぬ糾弾を受けたオフサイドトラップ先輩は絶望に落とされて、心が壊れてしまって、…有馬記念で帰還する決意をしてしまったことを…。」

スズカはそこまで言うと、耐えきれないように口元を抑えた。

沖埜は、ただ黙っていた。

 

やがて、スズカは口元から手を離した。

「これらの、ゴールドが言ってたことは、本当なんでしょうか?」

言いながら、スズカは静かに沖埜へ視線を向けた。

「ああ。」

沖埜は、静かに頷いた。

 

「…。」

沖埜の頷きを見て、スズカは目元に指を当てて大きく嘆息した。

「スマホ、使わせて頂けますか。」

「…。」

沖埜は、黙って懐からそれを取り出し、スズカに手渡した。

 

 

「…。」

沖埜から渡されたスマホで、スズカは天皇賞・秋のことを黙念と調べ始めた。

調べた結果、出て来た内容は、いずれもゴールドから伝えられた通りのものだった。

『残骸の天皇賞』

『スズカ故障がなければオフサイドの優勝はない』

『4コーナー後は価値のない天皇賞』

『オフサイドの言動に非難殺到』

『天皇賞ウマ娘としての資質を疑う言動』

『非情で自己中なウマ娘』

…。

羅列されてるその内容に、スズカは何度も眼を伏せた。

身体もまた、少しずつ震えだしていた。

 

そして、ある内容を眼にした時、スズカの身体は震えが止まり硬直した。

『沖埜トレーナーのコメント「故障がなければスズカが千切っていた。あんな優勝タイムにバテる訳がない」』

 

…。

スズカはしばらくその内容に眼をやっていたが、やがて画面を閉じると、沖埜にスマホを返した。

 

 

沖埜にスマホを返した後、スズカは小さくか細い声で口を開いた。

「今朝、マックイーン会長と沖埜トレーナーが、重要な用件で私に会いに来ると聞いていました。重要な用件とは、このことだったんですね。」

「…。」

沖埜は無言で頷いた。

「こんなことが、起きていたなんて。」

スズカは深く息を吐いた。

彼女の白い表情が、更に白くなって見えた。

 

「少し、外に出たいです。」

スズカは、冬晴れの風景が広がる窓の外へ眼をやった。

 

 

 

約十分後。

スズカは車椅子に乗せられて、施設の外へ散歩に出た。

数名の医師の他に、沖埜とスペも一緒だった。

 

澄み切った冬空の下、スズカはスペに車椅子を押されながら、遊歩道や芝生の道を散歩した。

散歩中、スズカは一言も言葉を発さず、ただ冬空の風景に視線をやっていた。

「…。」

その表情こそ普段の清廉さが残されていたものの、眼の光は明らかに翳っているように見えた。

「…。」

彼女の車椅子を押してるスペも、その傍らにいる沖埜も、ずっと無言だった。

言いようのない緊迫感が、スズカ達の周囲に立ち込めていた。

 

「…。」

スズカ達のその様子を、外に出ていた療養中のウマ娘達が不安に満ちた視線を並べて、遠巻きに眺めていた。

昨晩から感じていた悪い予感が現実になっていたことを、彼女達も悟っていた。

 

療養ウマ娘達の群れの中には、杖をついたライスの姿も混じっていた。

他のウマ娘達が心配でいっぱいの視線でスズカを見つめる中、ライスの眼光だけは揺るぎない決意の色が蒼芒となって滲み出していた。

 

 

1時間ほどすると、スズカ達は散歩を終えて施設内に戻っていった。

 

 

再び沖埜と2人きりの病室に戻ったスズカは、少し身体を休めた後、意を決したように沖埜に言った。

「マックイーン生徒会長と、連絡を取らして頂けますか。」

 

 

*****

 

 

「サイレンススズカが、私に話があると?分かりましたわ。」

メジロ家の屋敷。療養施設からその連絡を受けたマックイーンは、すぐにそれを承諾した。

何を問い質されるかはすぐに察していた。

「どうぞ繋げてください。」

室内のソファにゆったりと腰掛けて、マックイーンは促した。

 

 

*****

 

 

「マックイーン会長。」

療養施設の病室内。

沖埜が退出し一人きりになった病室で、スズカはマックイーンと連絡を繋げると、努めて冷静な口調で切り出した。

「秋天後に起きたことについて、全て教えて頂けますか。」

 

『はい。』

スズカの要求に対し、マックイーンは了承すると、淡々とそれを伝え始めた。

内容は、昨晩にゴールドがぶちまけたものとほぼ同じだった。

秋天後におけるオフサイドの言動問題から彼女と『フォアマン』への糾弾の嵐、岡田トレーナー退職と事実上の『フォアマン』解散、オフサイドが心身深く傷を負ったこと、そして彼女の有馬記念出走を巡って再び糾弾の熱が再燃したこと…までを話した。

 

「…。」

そこまでは、スズカはゴールドや先程調べた過去の報道などで既に周知していた。

スズカにとって重大なのは、オフサイドのこと…いや、それより先に確かめたいことがあった。

 

身体の震えと動悸を抑えながら、スズカは尋ねた。

「沖埜トレーナーの、レース後にしたとされるあの発言は、本当なのでしょうか?」

 



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蘇生(3)

 

*****

 

スズカがマックイーンと連絡をとっている頃。

特別病室の外の廊下では、病室を退出した沖埜がベンチで待機していた。

 

感情を殆ど表に現さない彼は、今も普段通りの端正で穏やかな表情で椅子に座っていた。

「…。」

いつもと変わらない表情の中で、彼は天皇賞・秋のことを脳裏に思い返していた。

決して思い返したくない、その日の記憶を。

 

 

 

あの11月1日、沖埜は万全の自信と大きな夢をもって、スズカを天皇賞・秋の舞台に送り出した。

毎日王冠での史上に残る快勝から約3週間、スズカのレースへの調整はその時以上に仕上がっていた。

当日の調子も絶好調で、毎日王冠以上のレースが出来るという手応えを、スズカも沖埜も強く感じていた。

 

レース前、沖埜がスズカに与えたアドバイスはただ一つ。

“マイペースで気持ちよく走ってこい”

それだけだった。

正直、沖埜はこのレースでスズカが勝つことは彼女の状態や他の出走者のレベルを考えてももう確実だと見ていた。

気になるのはその内容。

果たしてどれだけの美しい走りとタイムが残せるか、それだけに注目していた。

 

そしてレースが始まり、抜群のスタートを切ったスズカがマイペースの走りで後続をどんどん引き離していく姿を見て、沖埜はとてつもないレースになることを確信した。

全く焦りも淀みもない、自然体でとてつもないマイペース。

1000mを57秒前半という途轍もない速さで駆け抜けても、スズカのペースと自然体に揺らぎは全くなかった。

…凄い。

自身の想定すら超えて、ウマ娘の理想を体現していくスズカに、沖埜ですら思わず感嘆を覚えた程だった。

 

だけど、大欅を超えた3コーナー。

マイペースで走り続けていたスズカの姿が突然不自然な動きをしたその瞬間を、沖埜は誰よりも速く気づいていた。

その瞬間、沖埜の大きな夢と高揚していた心は、現実の奈落の底に突き落とされた。

 

 

スズカ故障後、沖埜はスペと共にすぐの彼女の元に駆け寄った。

その後、瀕死の重傷で意識を失ったスズカを救急車に乗せて以降、彼の記憶はショックの為殆ど失われている。

その後に続く記憶は、スズカが一命を取り留めた数日後にまで経過していた。

 

スズカが救かり最悪の事態は免れたものの、沖埜はかつてない程打ちのめされていた。

それはスズカの走りが失われたかもしれないという無念だけでなく、トレーナーとして彼女の限界を見誤っていたという自責も大きかった。

スズカに対して故障のリスクを考えることを怠っていた…

その結果が、彼女の脚を壊した。

ウマ娘の身を第一に考えるべき立場であるにもにも関わらず…

 

かつて沖埜は9年前、シャダイカグラというG1ウマ娘を輩出した。

そのウマ娘の引退レースで、沖埜は直前に彼女の脚の状態が悪いことに気付いたが、出走を止める方針はとらず、勝敗は考えずに無事に完走するだけでいいという指示をして彼女をレースに送り出した。

だが彼女はG1ウマ娘の誇りからか勝敗を意識してしまい、脚に無理をさせて走ってしまった。

結果、彼女は完走したものの惨敗。

それもレース中に靭帯断裂の重傷を負って、最下位の20着という結果だった。

幸い予後不良にはならなかったが、一歩間違えれば最悪の事態になっていた。

 

そのことを深く後悔した沖埜は、以後はウマ娘の無事を第一に考えてレースに送り出すよう自らを戒めた。

 

その戒めはずっと守り続け、決して危機感を怠ることなく、チームのメンバーをレースに送り出し続けてきた。

だが今回、それを…

 

深い自責にかられた沖埜は、従来の彼からは信じられないくらい行動が乱れた。

酒に溺れ泥酔したり、学園を何度も欠勤した。

その状態を心配した学園関係者達が彼の行動の監視にあたる程だった。

実際、沖埜はトレーナーを辞めて学園を去ろうかと考える程にまで追い詰められていた。

 

自責の念に憔悴しながらも、彼はスペを初めとした『スピカ』チームのウマ娘、またトレーナー仲間達の支えを受けて少しずつ回復していった。

そして天皇賞・秋から一月経った頃には、普段の状態にまで戻ることが出来ていた。

 

 

しかしまだ、沖埜の心の奥にある傷は消えていなかった。

 

自分が、スズカの脚を壊した。

故障する可能性を見抜けなかった。

その深い自責だけは、消そうとしても消せなかった。

 

はっきり言って、スズカの故障を予期出来た者など殆どいない。

故障とは全く無縁で、それまでのレースやトレーニングにですら微塵にもその前兆がなかった彼女が、絶好調の状態で挑んだ大レースで突然脚が砕けるなど、誰が予想できるだろうか。

いつもなら故障したウマ娘の陣営に向けられる非難の声すらないのは、その表れでもあった。

 

だがそのことを踏まえても、沖埜の自責は消えなかった。

 

それに、その自責だけじゃない。

今後スズカに、どのような未来の道を示していけばいいのだろうか。

そのことも沖埜を苦悶させていた。

瀕死の重傷から奇跡の復活を目指すスズカ。

その大きな目標の後押しをしてやるべきなのか、それとも…

 

 

今はそれどころじゃない…

自責と苦悩を脳裏に渦巻かせていた沖埜は、つと眼を瞑った。

今、天皇賞・秋後の騒動を知ったスズカの心の状態は、かなり深刻だと彼は直感していた。

繊細なスズカのことだ、絶望して最悪の選択をしかねない。

どんなことになろうとも、それだけは阻止しなければ。

 

自分も、その一因…

沖埜は小さく唇を噛んだ。

意識朦朧とした状態だったとはいえ、あのレース後に吐いてしまった言葉は決して消せない。

若いとはいえ、ウマ娘界の顔といっていい存在である沖埜は、自分の発言の影響力を自覚していた。

 

自分は罰を受けても構わない。

だがスズカ、お前にまで累が及ぶのだけは避けなければ。

 

両手を口元に結びながら、沖埜は深く息を吐いた。

 

 

*****

 

 

『沖埜トレーナーの発言は、あれは報道の切り取りですわ。』

 

特別病室内。

スズカから受けた質問に対し、マックイーンは冷静に答えた。

『確かに、報道で載せられた内容の言葉はありました。しかしインタビューの全文を確認すれば、沖埜トレーナーの発言には大きな問題がないことが確認出来ましたわ。世論に誤解を与えてしまった咎は多少あるかもしれませんが、彼がオフサイドトラップの勝利を貶す意図で発言した可能性は決してないと断言できます。』

 

「そう、ですか…」

マックイーンの返答を受けたスズカは、彼女らしくない、疑念に満ちた呟きを洩らした。

 

今、スズカは誰一人として信じられる状態じゃない…

マックイーンはそう悟った。

彼女への心痛と自身の罪悪感を感じながら、マックイーンは続けた。

「お話は以上ですか?」

 

「…。」

少しの沈黙をおいた後、スズカは言った。

「オフサイドトラップ先輩と、連絡取れますか?」

 

 

 

*****

 

 

場は変わり、メジロ家の別荘。

午後になってからも、オフサイドは競走場で黙々と調整を続けていた。

そして競走場の隅では、朝と同じように岡田が彼女の調整をずっと見守っていた。

 

 

15時を過ぎた頃。

「岡田トレーナー。」

岡田のもとに、先日から別荘に派遣されている生徒会役員のビワハヤヒデが駆け寄ってきた。

 

「何か用か?」

「実は…」

岡田のもとに来たビワの手には、通話中のスマホが握られていた。

彼女はそのまま岡田に、ある用件を伝えた。

「そうか、分かった。」

それを聞いた岡田は、その用件が来るのを予測していたように頷くと、オフサイドのもとへと向かった。

 

「オフサイド。」

「…はい?」

集中してランニングを行っていたオフサイドは、不意に声をかけられて怪訝な表情を浮かべた。

「どうしたんですか、岡田トレーナー。」

「療養施設から連絡が入った。スズカが意識を取り戻したらしい。スズカは…お前と話がしたいそうだ。」

岡田はオフサイドの光のない眼を見つめ、努めて平然とした口調で告げた。

 

「…。」

オフサイドは特に反応も見せず、少考した後に乾いた声で答えた。

「お断り下さい。」

 

返答するなり、オフサイドはすぐに岡田に背を向け、ランニングを再開した。

 



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来訪者(1)

 

*****

 

場は変わり、療養施設のライスの宿泊室。

 

「失礼します。」

室内で一人書き物をしていたライスのもとに、ブルボンが訪れた。

 

「ブルボンさん。」

彼女の姿を見ると、ライスは書き物をしまった。

何を書いてるのだろう。

昨晩からそれをしていることにブルボンは少し気になったがそれは置き、ベッド上の彼女の傍らに腰掛けた。

「現状報告に来ました。」

 

ブルボンは、現在のスズカの状況をライスに伝えた。

「今、サイレンススズカは、オフサイドトラップと連絡を取れるよう要望しており、現在オフサイドと共にいる岡田トレーナーやビワハヤヒデらを通じて交渉中です。」

「オフサイドさんと?」

「ええ、スズカがそれを第一に強く希望しましたので。ただオフサイド側がそれにどう応えているかは、どうやら今のところ手応えはないようです。」

「そう、ですか。」

先日、会わずに終わったものの、オフサイドがスズカに会う目的で施設に訪れていたことは二人とも知っていた。

その点から、オフサイドがスズカとの接触を望んでいたことは間違いない。

ただ現在はどうなっているかは…

望んでない可能性が高いように思えた。

 

「マックイーンさんから、何か連絡はありましたか?」

「何もありません。昨晩以降は何の指示も出てない現状です。勿論次の方策は既に考えていると思いますが…」

…?

言いながら、ブルボンの表情が僅かに翳ったのを、ライスは見逃さなかった。

「マックイーンさんに何か?」

「ルビー副会長から連絡があったのですが、今日会長は役員仲間の説得により自宅で静養されているそうです。」

 

ブルボンは、マックイーンも心身の疲労が著しいことをライスに話した。

「例の断行とスズカ・オフサイドの件でかなりきているようです。」

「…。」

マックイーンの無二の親友であるライスは、彼女の状態を思い、一瞬胸が痛くなった。

でも、これはマックイーンさんが選んだ道だと、同情心は押し殺した。

 

 

「少し、外に出ませんか。」

現状のことを聞き終えるとライスは杖を手に取り、促しながらベッドから立ち上がった。

「…。」

ブルボンはライスの脚元に眼を向けたが、無言で立ち上がった。

 

 

二人は施設の外に出た。

 

西陽に照らされる高原の芝生の道を、杖をついた冬服姿のライスと制服姿のブルボンは肩を寄せて歩き、やがて芝生に腰掛けた。

 

「綺麗ですね。」

やや橙色に染まった雲ひとつない寒空と山々の光景を眺め、ライスは呟いた。

かつて自分もここで長く生活していた。

ターフから1番遠いこの場所は、それにしてはあまりにも綺麗過ぎる地だと、当時から思っていた。

 

澄んだ瞳で光景を眺めている親友と対照的に、ブルボンの瞳はやや暗く俯いていた。

ブルボンはその翳った視線を膝元に向けて、ぽつりと尋ねた。

「脚の状態は、如何ですか。」

 

「…。」

ブルボンの問いかけに、ライスは左脚のそっと手を当てた。

強靭な精神力で抑えているが、古傷の痛みは既に限界を思わせる程の苦痛を四六時中伴っていた。

「もって、今年ですね。」

「…。」

ライスの返答に、ブルボンの肩がビクッと震えた。

嘆きを堪える為に、彼女は眼を瞑って空を仰いだ。

 

ブルボンと同じく夕空に視線を向けたまま、ライスは続けて言った。

「美久にも、私の余命が僅かなことは伝えました。」

「美久に?」

「もう、彼女にも知らせなければならないことでしたから。」

ライスの口調は、感情のない淡々としたものだった。

 

「ライスは、還ることが怖くないのですか?」

悟り切ったようなライスの姿に、ブルボンは組んだ膝に顔を埋め、嘆きを堪えながら尋ねた。

「還ること。ですか。」

ライスは眼を瞑った。

寒風が吹きつけ、彼女の黒髪が儚く靡いた。

「怖くないといえば、嘘になります。」

風に煽られた身体を竦ませ、眼を瞑ったまま淡々と答えた。

「還るということはつまり、この世界と永別すること。人間の皆さんとも、同胞とも、そしてブルボンさんやマックイーンさんとも、永遠にお別れすることですから。でも、」

ライスは眼を開き、僅かに蒼芒を滲ませた。

「今はその恐怖心よりも、使命を全うしようという決意の方が強いです。だから、そこまで怖くはありません。」

 

ライスの言葉を聞き、ブルボンはふっと吐息した。

「トレーナーと同じですね。」

「え?」

「私の、亡きトレーナーと同じだと思ったんです。」

ブルボンは顔を上げて目元を拭い、空を仰いだ。

 

「トレーナーも、末期の病にかかって死を宣告されました。でもあの人は、死への恐れをトレーナーの職務を全うすることで封じこめていました。そう、私を復活させることに命を燃やして。」

雲ひとつない青空を仰いでいるブルボンの瞳に、亡きトレーナーの面影が映った。

「私は、トレーナーには一日でも長く生きていて欲しかったんですが…。例え復活出来なくても、あの人と一緒にいられるだけで私は幸せだった。」

「ブルボンさん。」

「でも考えて見れば、もし私がトレーナーの立場だったら、恐らく同じ事をしたでしょう。」

 

深く回想する様に言った後、ブルボンは一度大きく深呼吸し、それから意を決したような視線でライスを見つめた。

「ライス、あなたに一日でも長く生きて欲しいという私の思いは変わりません。ですが、あなたの行動を制止させることは、私はもうやめます。」

 

「…。」

ライスはブルボンを見つめた。

その蒼芒をブルボンは見つめ返して続けた。

「今後は、あなたが全うしようとしている使命を支え、それが叶うよう尽力することにします。あなたの、命を削っていくその行動を、私はもう止めることはしません。昨晩のあの出来事の現場を見て、私も決心しました。」

 

「ブルボンさん…」

「ただ一つ、約束して下さい。」

ブルボンは、唇を震わせて必死に感情を抑えた。

「もし使命を全う出来たならば、その後の残された最期までの時間を、この私と一緒に過ごしてくれますか?別れの時まで、ずっと…」

 

「はい。」

身を裂くようなブルボンの言葉に、ライスは静かに頷いた。

「必ず…」

そう言うと、ライスはブルボンに手を伸ばした。

 

だが、途中でそれを止め、ライスは手を戻すと、再び高原の光景へ蒼芒を向けた。

ブルボンもフッと息を吐き、涙を拭うと同じ方向へ視線を向けていた。

 

 

 

 

…ミホノブルボン先輩に、ライスシャワー先輩?

 

夕陽が照らす中、療養施設へと向かう高原の道を、一人のウマ娘が歩いていた。

そのウマ娘は、施設から離れた場所の芝生上に並んで座っているブルボンとライスの姿に気づき、遠目で二人の様子をしばらく眺めていた。

特に、黒髪を靡かせているライスの姿を。

 

やがて、そのウマ娘は視線を逸らし、施設への道を再び歩き始めた。

 



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来訪者(2)

 

夕暮れに差し掛かる頃、そのウマ娘は療養施設に着いた。

 

3年ぶりだな…

施設に入った彼女は、施設内の空気をすーっと大きく吸いこみ深呼吸した。

この療養施設特有のひんやりとした空気も懐かしい。

自分も長いこと、ここで生活したな。

当時の療養仲間との思い出や、故障との闘いの日々が脳裏に蘇った。

 

施設内を歩いていくうち、彼女は多くの療養ウマ娘達とすれ違った。

そのうちの何人かは、彼女の姿を見て驚きの表情を浮かべていた。

特に、クッケン炎療養ウマ娘達が。

もっとも、彼女と顔見知りの者は誰もいなかった為、声をかける者はいなかった。

 

療養ウマ娘以外にも、彼女は人間の医師達ともすれ違った。

「おや。」

「お久しぶりです。」

療養ウマ娘と違い、医師の中には彼女と顔見知りの者もおり、何人かは彼女と挨拶をかわした。

医師達も、来訪した彼女を見て驚いた様子だった。

 

 

やがて、彼女は施設の医務室の一つ…渡辺椎菜の医務室の前に着いた。

コンコン。

「どうぞ。」

ノックをすると、椎菜の返事が聞こえた。

 

「失礼します。」

扉を開けると、椎菜は彼女が来るのを待っていたように椅子に座っていた。

入室した彼女を見るなり、椎菜は疲労の色が滲む表情にほっと笑みを浮かべた。

「久しぶりね、ダンツシアトル。」

「お久しぶりです。椎菜先生。」

帽子をとり、ダンツシアトルは笑顔で挨拶を返した。

 

 

ダンツシアトル。

数年前に引退した元トレセン学園生徒の彼女は、現役中に骨折やクッケン炎を患い、長くここで療養生活を送っていたウマ娘。

その相次ぐ重度の故障を乗り越えてG1を制覇したウマ娘であり、この療養施設では伝説的な存在だった。

椎菜が今朝連絡をとり、来て欲しいと頼んでいた相手はシアトルだった。

 

 

「まさかこんなに早く来てくれるとはね。遠かったでしょ?」

「ええまあ。」

九州に生活しているシアトルは、差し出されたコーヒーを受け取りながら頷いた。

「でも、他ならない椎菜先生の頼みでしたし、一刻も早く来た方がいいと思いましてね。」

「そう。」

シアトルも連絡が来ることを前々から察知していたのかなと、返答を聞いた椎菜は思った。

「でも、本当に良く来てくれたわ。」

自分もコーヒーを飲みつつ、ぽつりと言った。

「もうあなたは、私達や学園の事と関わることはないと思ってたから。」

「…。」

シアトルは何も言わず、コーヒーを無言で飲んだ。

 

 

前述のように、シアトルは故障を乗り越えてG1を制したウマ娘。

特に、不治の病と恐れられるクッケン炎を乗り越えての栄光はウマ娘史上初めてといえる快挙でもあった。

だがその栄光や不屈の足跡は、表では語られることも讃えられることも殆どない。

シアトルが制したG1は3年前の宝塚記念。

レース中に、当時人気絶頂だったスターウマ娘のライスシャワーが悲劇の故障に見舞われたレースであり、その悲劇の印象があまりにも大きかったから。

 

だが、幾多の艱難辛苦を乗り越えた末に手にした栄光が閉ざされた現実は、シアトルの胸中にも深い影を落とした。

それは、引退後彼女が一切学園に関わらず、地方へ去ったことからも明らかだった。

 

 

「学園に関わりたくないと思った訳ではありません。」

シアトルはコーヒーを置き、手元に視線を落とした。

「ただ、現実を受け入れる為の時間と、自分が得たものの答えを探す時間が欲しかっただけです。それを見つけない限りは何も出来ませんでしたから。」

「…。」

シアトルの言葉の一つ一つに、言いようのない重さがあった。

椎菜はそう感じ、それ以上は何も言わなかった。

 

 

少し経った後、椎菜は尋ねた。

「この間の天皇賞・秋の後に起きた事、そして今度の有馬記念を前にして起きている色々な事については、あなたも知ってるわね?」

「ええ。オフサイドトラップに対しての、理不尽な風当たりのことですね。」

「うん。そのことが、クッケン炎の療養ウマ娘達にもかなり悪影響となって出ていてね。」

 

椎菜は、〈クッケン炎〉療養ウマ娘達の状況を詳しく説明した。

ただ、有馬記念におけるオフサイドの決意のことや、昨晩に起きた出来事については話さなかった。

 

「全体的にかなり苦しい状況だわ。リーダー的存在だった子も状態が悪くなって、支えがなくなっているの。」

「なるほど。」

椎菜の説明を聞いたシアトルは納得したように頷いた。

「あなたなら、ただいてくれるだけでも療養ウマ娘達にとって大きな支えになるわ。私にとっても。だから、どうか助けて欲しい。」

切に願うように言うと、椎菜は手を伸ばした。

「分かりました。微力ですが、先生や療養している同胞達の力になれるのなら。」

シアトルは快活な表情で力強く答えると、椎菜の手を強く握り返した。

 

 

「ただ、一つ聞きたいことが。」

手を離した後、シアトルは椎菜に尋ねた。

「ここに来る途中、ライスシャワー先輩の姿を見ました。ライス先輩もここに来ているのですか?」

「あー、うん。彼女は別件でここに来ているの。」

「別件?」

「サイレンススズカ。」

「…。」

椎菜の短い返答に、シアトルはすぐその内容を察し、それ以上は尋ねなかった。

 

しばしの沈黙が流れた後、椎菜は言った。

「もし良かったらでいいから、ライスとも会ってあげて欲しいわ。」

「ライス先輩とですか。」

「うん。彼女も、あの宝塚の悪夢にまだ呪縛されたままだから。」

「悪夢?」

「そう、悪夢。」

先日、ライスと会った際に彼女が見せた悔恨の姿が、脳裏に蘇った。

 

それに…

「隠してたけど、彼女の脚の状態はかなり悪そうだったわ。もしかすると、もう永くないかもしれない。」

「…え。」

「だとしたら、ライスが還る前に、彼女をあの宝塚の呪縛から解き放ってあげて。あなたの為にも。」

現在起きているオフサイドとスズカの件も脳裏に、椎菜は願った。

 

「…。」

椎菜の言葉に対し、シアトルは何も答えず、黙ってコーヒーを飲んだ。

 



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責任(1)

 

*****

 

同じ頃。

施設内の、ルソーの病室。

 

う…

微かに開いた視界に映ったのは、白い天井だった。

ズキズキと頭痛も感じる。

…ここは…

次第にはっきりしてきた意識の中、ベッド上に寝かされていたステイゴールドは視線を動かした。

 

「目を覚ましたか。」

聞き覚えのある声が聞こえた。

ベッドの傍らを見ると、かつてのチームリーダーの姿が視界に映った。

「…ケンザン…先輩…」

「無理をするな。」

身を起こしかけたゴールドをケンザンは押し留めた。

まだゴールドの眼はうつろで、顔色もかなり悪かった。

 

「お茶、飲むか?」

「…はい。」

ケンザンは温かいお茶を用意すると、ゴールドの身をそっと起こしながらそれを与えた。

「…ありがとうございます。」

ケンザンの腕に支えられつつ、ゴールドはそれを飲んだ。

冷えた心身に温かさが拡がり、意識もようやくはっきりしてきた。

 

「お久しぶりですね、ケンザン先輩。」

茶碗を抱えながら、ゴールドはケンザンを改めて見た。

「多分1年以上ぶりですね。」

「ああ。久しぶりだな、ゴールド。」

ゴールドよりかなり歳上のケンザンは、病身の妹を労わるような優しさでゴールドを抱き支えていた。

ケンザン先輩がここにいるということは…

尋ねるまでもなく、ゴールドはその理由が分かった。

昨晩、この私が犯した言動を知ったのか。

 

閉ざされていた昨晩の記憶が、ゴールドの脳裏に少しずつ蘇った。

自分が無二の親友にぶちまけた真実と暴言の数々、そして、倒れた親友の姿…。

 

「スズカは…」

いつもの彼女とは思えない、小刻みに震えた口調でゴールドは尋ねた。

「スズカは、どうなりましたか。」

「スズカも、意識を取り戻した。」

抱き支えたまま、ケンザンは答えた。

彼女もその情報は既に耳に入れていた。

「沖埜トレーナーや医師の先生達が看護にあたっている。今のところ落ち着いているようだ。」

 

言葉こそ安心させるようなものだったが、口調はどこか重かった。

“今のところ”。

ゴールドにも、その重さが伝わった。

 

「もう、終わりなんですよね。」

カタカタと、両掌に抱えた茶碗が音をたてだした。

オフサイド先輩も、そしてスズカも。

「私が、終わらせてしまった。」

ポタポタと、ゴールドの眼から涙が溢れた。

 

「お前は悪くない。」

溢れた涙を指先でそっと払い、ケンザンはゴールドを抱きしめた。

「お前は悪くないんだ。お前は…」

 

罪悪感と絶望に泣き出した後輩を、ケンザンただ抱きしめ続けた。

 

 

 

*****

 

 

 

一方。スペの宿泊室。

 

スペは一人夕陽が照らす窓際の椅子に座って、暗い眼で俯いていた。

 

スズカの意識が蘇ったものの、彼女の心は依然として大きな暗闇に覆われていた。

真実を知ったスズカが、尋常じゃないショックを受けていたことに気づいていたから。

 

寒い。

肌寒さを感じ、スペは上着を羽織った。

冬晴れの今日も、夕暮れにさしかかると寒さが肌に沁みた。

 

コンコン。

扉をノックする音が聞こえた。

「…どうぞ。」

「スペ、失礼する。」

入って来たのは沖埜だった。

 

「トレーナーさん。スズカさんは?」

その質問に、沖埜はスペの傍らの椅子に座ってから答えた。

「スズカは今、容態の検査を受けてる。しばらくかかるようだ。」

「容態が悪化したんですか?」

「そういうわけじゃない。確認の為の検査だ。」

否定したものの、沖埜の表情は険しかった。

やっぱり、スズカさんの状態は深刻なんだな…

暗い胸のうちで、スペはそう確信せざるを得なかった。

 

「一緒にいる時の、スズカさんの様子は、如何でしたか?」

「私のスマホを使って、天皇賞・秋後に起きたことを調べていた。」

「天皇賞・秋後の…では。」

「ああ。ステイゴールドが打ち明けたことが全て真実だったことを確認した。スズカは、表面上は一切動揺は見せなかった。」

心に受けた傷は推して知るべきだがと、沖埜は続けた。

「その後、マックイーンと連絡をとった。どのような内容を話していたかは分からない。ただ、スズカはオフサイドトラップと連絡をとろうとしているようだ。」

 

「オフサイド先輩とですか?」

ビクッと、スペの身体は思わず震えた。

 

「…?」

その大きな反応に沖埜は違和感を覚えたが、頷きながら続けた。

「だけど、オフサイドとは連絡が取れなかったらしい。」

「取れなかった…それは、オフサイド先輩が断ったということですか。」

「ああ。」

沖埜は、昨日に会ったオフサイドの、悲壮な決心を固めた姿と言動を思い出した。

彼女はもう、有馬で散ること以外は何も考えていない。

スズカのことは全て自分達に託して、もう意識の中には無くなっているのだと推察した。

「それでも、スズカはオフサイドとどうしても連絡を取りたいようだ。生徒会や岡田トレーナーを通じてなんとかそれが叶うよう交渉中だ。オフサイドに直接会いに向かう事も視野に入れている。」

「オフサイド先輩の決意を止める為にですか。」

「…。」

沖埜は無言で頷いた。

 

…。

沖埜の言葉を聞き、スペは胸に手を当てて思考した。

スズカさんにとって、オフサイド先輩は非常に尊敬する先輩だった。

その先輩が帰還の決意を固めているのを知ったら、必死になって止めるに決まっている。

まして、決意の理由があの天皇賞・秋にあるのだから。

 

スズカさんなら、オフサイド先輩の決意を翻意させられるかもしれない。

いや、スズカさんしかいないだろう。

 

だけど。

スペの表情が罪悪感で歪んだ。

今、スズカさんとオフサイド先輩の間には大きな溝がある。

他ならない、この私がつくってしまった溝だ。

痛みを伴った罪悪感が、手を当てている胸の中も浸した。

この溝を埋めない限りは、意思疎通が叶うことは難しい。

私の愚かな言動が、オフサイド先輩を深く傷つけたことは間違いないのだから。

 

でも、どうすればいいのだろう…

スペの心は恐怖心でいっぱいになっていた。

もし自分の過ちをスズカさんに打ち明けたら、昨晩以上のショックを与えてしまうかもしれない…

昨晩、倒れた際のスズカの姿がスペの脳裏に強く残っており、ルソーからの指示を受けて決めていた決意に揺らぎが生じていた。

 

 

「どうした?」

苦しげなスペの様子を見て、沖埜が怪訝そうに声をかけた。

なんでもありません、とスペは顔を上げて答えようとした。

だけどその寸前でその言葉を呑み込み、上げかけた顔を再び伏せた。

 

…。

彼女の様子を見て、沖埜は更に強い違和感を覚えた。

スズカへの不安だけじゃない何かが、スペの胸中にある。

純真無垢な彼女を苦しめている何かが。

 

沖埜はそう確信し、意を決して尋ねた。

「スペ。お前何か、隠し事してないか?」

 

「…。」

沖埜の言葉に、スペはドキッと顔を上げた。

冷や汗が彼女の可憐な頬を伝って、身体が小刻みに震えだしていた。

「おい、大丈夫か?」

予想外の反応に沖埜は驚き、スペの肩に手を当てた。

 

スペの震えはしばらく止まらなかったが、やがておさまった。

 

「トレーナーさん。」

頬を伝う冷たい汗を拭いながら、スペは観念した表情で沖埜を見つめた。

「私、伝えなければいけないことがあります。」

 

スペの言葉と同時に、異様な緊迫感が室内を満たした。

 



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責任(2)

 

「伝えなければいけないこと?」

 

スペの言葉に、沖埜は怪訝な表情を浮かべて、彼女の肩から手を離した。

「はい。」

スペは震えを懸命に押し殺し、姿勢を彼に向けて向き直ると眼を瞑って大きく深呼吸した。

胸の動悸を堪えて、唇を震わせながら口を開いた。

「実は、私は大変な過ちを犯してしまいました。」

 

「…。」

スペの言葉に、沖埜の端正な表情が一瞬歪んだ。

だが彼はそれをすぐに消し、ふーっと深呼吸しながら表情を戻すと、ゆっくり椅子にもたれかかった。

「話してくれ。」

 

「はい…」

沖埜に促され、スペはそれをぽつぽつと話し始めた。

一昨日、オフサイドがスズカに会うためここに訪れたこと。

だがオフサイドがスズカと会う前に、自分が彼女を呼び止め、屋上に連れ出したことを。

 

「私にはどうしても、オフサイド先輩に対して理解出来ないことがありました。そのことについて尋ねる為、屋上に来てもらいました。」

「…。」

沖埜は表情を努めて動かさずに聞いていた。

「それで、オフサイドに何を言った?」

「何故、秋天のレース後に、故障したスズカさんに対してなんの配慮もない言動をしたのかと…」

震える口調で言いながら、スペは自然と下を向いた。

 

「…それで?」

沖埜は端正な表情を崩さず、続きを促した。

 

「…。」

しかし、沖埜に促されたスペは、俯いたまま口を閉ざしていた。

沖埜は何もせず、続きの言葉を待った。

 

やがて、スペはぽつりと再び口を開いた。

「すみません…嘘です。」

「…嘘?」

「私は尋ねたのではなく、先輩を責めたんです。何故スズカさんの怪我を『笑いが止まらない』喜んだのか、あんなレースの内容で嬉しいのか、良心の呵責はないのかと責めて、…スズカさんへの謝罪を要求しました。」

 

「…。」

その内容を聞いた沖埜は、表情は崩さなかったものの、指を軽く噛んだ。

「…それで、オフサイドは何と答えた。」

「何も答えませんでした。…けど、先輩はスズカさんと会うのをやめにして、施設を後にしました。その後は分かりません…」

そこまで言ったスペの眼からは、自責の涙が溢れ出していた。

 

少しの間、沈黙が流れた。

やがて、沖埜が静かに尋ねた。

「このことは、他に知ってる者はいるのか?」

「ライス先輩、ブルボン先輩、ホッカイルソー先輩、渡辺椎菜先生が知っています。スズカさんは知りません。」

 

「…。」

沖埜は、再び眼を瞑って沈黙した。

スペは涙を拭いながら、言葉を続けた。

「私、本当に愚かなことをして、オフサイド先輩を傷つけてしまいました。先輩の言動の意味を深く考えずに、一方的に責めてしまったんです。先輩方に諭されてから、その愚かさに気付きました。」

 

深く悔やんでいる様子を見て、沖埜はまた尋ねた。

「ライスに諭されたのか?」

「いえ、ルソー先輩と椎菜先生にです…」

スペは、ルソーと椎菜からオフサイドの言動の意味やその経歴を教えられたことを話した。

「…それで、自分が酷いことをしたと分かりませした。私のせいで、オフサイド先輩は…」

「お前も、オフサイドのことを知ってるのか?」

「はい、先輩の決意のことは…」

 

「…スペ。」

つと、沖埜は大きく息を吐きながら立ち上がり、スペの側に歩み寄った。

端正な容貌に眼が険しく光っていた。

厳しい叱責を覚悟し、スペは思わず眼を瞑って身体を硬らせた。

 

だが、沖埜はスペの前にしゃがみ込むと、彼女の俯いた泣き顔を見つめながら、そっと包み込むようにその頭に手を当てた。

「トレーナーさん…」

「お前、苦しかっただろ。スズカを誰よりも愛する同胞として、色々と…」

そう言った沖埜の口調と眼差しは、心の底からスペの心情を思いやるものだった。

 

「トレーナーさん…」

思いがけない抱擁に初めは驚いていたが、やがて胸から熱いものが込み上げ、スペは沖埜の胸に顔を埋めると小娘のように泣き出した。

「私、私は…どうすればいいのでしょうか?」

「何も考えるな。」

沖埜は、それ以上は何も言わず、ただ嗚咽するスペの背中を優しく撫で続けた。

 

 

 

その後。

スペとの話を終えて部屋を出た沖埜の姿は、施設の外にあった。

 

陽が暮れ、星が瞬き始めた夕闇空の下、コートを羽織った沖埜は、人前では見せない険しい表情で遊歩道を歩いていた。

今朝、スペに会った時から、沖埜は彼女に違和感を感じていた。

スズカの事のショックだけではない、何かの闇に蝕まれているような姿に見えていたから。

そして今、その違和感の正体が分かった。

 

まさか、スペがそんな行動をおかしていたとはな…

全く想像してなかった事実に、沖埜は愕然としていた。

沖埜でなくとも想像出来る訳がない。

スペは他人を責めることが出来るようなウマ娘じゃない。

優しさと明るさの結晶のような性格で、誰に対しても思いやりといたわりを抱ける優しさを備えているウマ娘。

そんな彼女が、あろうことか同胞に対して理不尽な糾弾をするなんて、想像出来る訳がなかった。

 

だが、衝撃を受けつつも、沖埜にはその理由が微かに分かっていた。

サイレンススズカだ。

スズカに関わることだったから、スペほどのウマ娘が盲目的になってしまったのか。

 

スズカ・スペとスペが親友以上の関係にあることは、二人のトレーナーである沖埜も知っていた。

スペのスズカへの愛情の深さゆえに、オフサイドの言動を知った時、彼女の心を悪い方に揺らがせてしまったんだ。

 

私の責任だ。

遊歩道を歩きながら、沖埜は唇を噛んだ。

済まない…オフサイド、スペ。

 



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責任(3)

 

「沖埜トレーナー。」

 

唇を噛み締めながら歩いていると、つと沖埜を呼ぶ声が聞こえた。

声の先を見ると、遊歩道の先にブルボンとライスの姿があった。

 

丁度いいタイミングだ…

二人に会おうと考えていた沖埜は、彼女らの姿を見てそう思い、自ら歩み寄って声をかけた。

「ブルボン、ライス。ちょっと話いいか?」

「話…スズカさんのことですか?」

「スペのことだ。」

「…。」

沖埜の言葉に、ブルボンとライスははっとした表情を浮かべ、すぐにその内容を察した。

 

三人は、近くにあった遊歩道のベンチに座った。

座るなり、沖埜は話を切り出した。

「もう確認するまでもないと思うが、話の内容は分かるな?」

「ええ、スペさんとオフサイドさんの件ですね。」

「ああ。」

沖埜は頷いた。

 

「ついさっき、スペからそのことを伝えられたんだ。まさかこんなことをスペがおかしていたなんて、正直夢にも思わなかった。」

言いながら、ショックの色を表すように嘆息した。

「スペさんを咎めたんですか?」

「まさか。スペは悪くない。悪いのはこの私だ。」

「…。」

ブルボンもライスも思わず息を呑む程、沖埜の言葉はずしりと重たかった。

 

「既にスペシャルウィークから聞いてることかもしれませんが、」

ブルボンが口を開いた。

「彼女は、自らが行った行動をサイレンススズカに伝えることを覚悟しています。」

「…。」

沖埜はやはりか、と頷いた。

スペからそれを聞いた訳ではないが、彼女の胸中にその葛藤があることは感じ取っていた。

「現在、私達の意向でそれはしないように要求しています。ですが、もし沖埜トレーナーがそれが最善であると考えるのであれば、私達は決して止めません。この事については生徒会の意向は入ってませんので。」

 

「現状、最善策は分からない。」

ブルボンの言葉に、沖埜はぽつりと返した。

もしここでスズカのそのことを伝えたら、スズカの心身の状態は更に悪化する可能性が高い。

だがスズカがこれを知らないままでも、いずれ大きな悪影響が出ることは間違いなかった。

もはやどちらも茨の道であることは確定していた。

 

それに…

「スズカに伝える前に、オフサイドに謝罪しなければならないだろう。」

沖埜はそれを最優先するべきだと考えていた。

 

だが、現状それをするのも困難な状況だ。

昨日直に会った時にはっきり感じたのは、オフサイドがもう帰還しか考えていないこと。

だからスズカとの連絡も拒否しているのだと見ていた。

有馬記念は二日後、もう時間は残されていない。

自分がまた直接オフサイドに会って謝罪する以外手段はなさそうだと沖埜は考えていた。

 

「ホッカイルソーさんとは、会われましたか?」

苦慮している沖埜に、ライスがつと提案するように言った。

「彼女は、あの日ここでオフサイドさんと会ってます。その時にスペさんとのことをオフサイドさん自身から聞いて知ってたようですし、彼女の手を借りればオフサイドさんとの連絡を取れるかもしれません。」

 

「それは…」

ライスの言葉を聞くと、ブルボンが反対するように無表情をしかめた。

一昨日の出来事以降、ルソーはスペとかなり険悪な関係になっている。

そんな中で沖埜とルソーが会うのは双方に新たな火種を生む可能性が高いと、ブルボンは思っていた。

「ホッカイルソーには関わらないべきだと思います。」

 

「ブルボンさん、それは違います。」

ブルボンの言葉に、ライスは反論した。

「ルソーさんは昨晩あの現場にいました。あの時の一部始終を見た以上、スペさんへの感情は消えてる筈です。」

事が終わった後、これ以上ない位胸を痛めた様子でゴールドを抱きしめていたルソーの姿が思い起こされた。

「それに、同じウマ娘です。心の底ではみんなが救われることを願ってるに決まってます。」

そこまで言うと、ライスは再び沖埜を向いた。

 

「分かった、ありがとう。」

沖埜は礼を言うと、心を決めたようにベンチから立ち上がった。

 

そして、彼は今気づいたように、ライスが携帯している杖と彼女の左脚に眼を向けた。

もしや…

 

「ライス…」

「はい?」

「…いや、何でもない。」

沖埜は何か言いかけたがやめ、二人と別れベンチを去っていった。

 

 

「大丈夫でしょうか。」

沖埜が去った後、ブルボンとライスもベンチから立ち上がった。

「大丈夫です。」

気がかりな様子のブルボンに、ライスは寒風に揺れる右前髪に触れながら言った。

「今は、ルソーさん達を信じましょう。この苦境を乗り越える為には、彼女達の力も不可欠ですから。」

 

 

 

施設内に戻った沖埜は、そのまま病気専門病棟に行き、ルソーの病室に着いた。

 

コンコン。

「どうぞ。」

ノックすると、室内から返答が聞こえた。

…?

返答が、ルソーの声ではない事に気づいた。

昨日、岡田が入院していた病院で聞いた声だ。

彼女も来てたのか。

 

思いつつ、沖埜は扉を開いた。

「失礼する。」

 

室内には、それぞれのベッド上にルソーとゴールド、そしてケンザンの姿があった。

 



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責任(4)

 

「沖埜トレーナー。」

 

室内の『フォアマン』3人は、突然の『スピカ』トレーナーの来訪に驚いた。

特にゴールドが大きく反応し、そしてすぐに視線を伏せた。

 

「なんのご用でしょうか。」

ケンザンが、ゴールドを護るように身を寄せながら尋ねた。

昨晩のゴールドの行為を咎めに来たと思ったのか。

彼女達の反応を見た沖埜はそう察し、すぐに答えた。

「君達『フォアマン』に、謝罪に来た。」

 

「謝罪?」

「そうだ。あまりにも遅くなってしまったが。」

沖埜は、驚いている『フォアマン』の面々を見渡した後、立ったまま頭を下げた。

「天皇賞・秋後における私の不適切な言動、そして、私のチーム『スピカ』に所属するスペシャルウィークがおかした軽率な言動を、心から謝罪する。本当に、申し訳ない。」

 

「…。」

「…?…?」

ルソーは沖埜の謝罪する姿を黙念と見つめていたが、ケンザンとゴールドは謝罪の後半部分の意味が分からずやや戸惑いの色を見せていた。

 

だが、

「やめてください!」

頭下げた姿勢を動かさない沖埜を見て、ケンザンが急に耐えきれないような声を出しすと、彼の側に寄って顔を上げて下さいと促した。

「…。」

「場を変えましょう!」

顔を上げた沖埜に早口でそう言うと、ケンザンは彼の腕を引いてやや強引に室外に連れ出した。

 

…。

室内に残された二人のうち、ゴールドは戸惑いの色を見せたままだったが、全てを理解しているルソーは悲しげな表情で一人頷いていた。

 

 

 

沖埜を連れて病室を出たケンザンが向かったのは、自分の宿泊室だった。

 

「…はあ…はあ…」

普段冷静沈着な彼女らしくない乱れた呼吸を吐きながら、ケンザンは部屋の前に着いた。

「どうぞ、入って下さい。」

「失礼する。」

 

室内に入ると、沖埜とケンザンは向かいあって椅子に座った。

「…。」

自分とさほど変わらない大柄な彼女の眼に涙が滲んでいるのに沖埜は気づいたが、何も言わなかった。

 

ケンザンと沖埜は、前述のように前日に岡田の入院先の病院で会った。

病院を出た後も、移動の車内でしばらく場を共にした。

二人は殆ど会話を交わさなかったが、ケンザンは沖埜に対してかなり重い感情を抱えていた。

沖埜も彼女の感情を敏感に感じとっていた。

だから今、彼女に責められることを覚悟していた。

 

だが。

「頭なんて下げないでください…」

沖埜と向かいあって座ったケンザンは、目元を拭って胸が痛むような視線を向けていた。

「あなた程の人間が、容易く謝罪などしてはいけません。」

声もやや震えていた。

「浅慮な言動をした私が謝罪するのは当然だ。それに、君も私に怒りを抱いてただろう?」

「それはそうですが、…でもやはり辛いです。あなた程の人間が頭を下げる姿を見るなんて。」

そう言ったケンザンの眼には、複雑な感情が入り混じって見えた。

 

「…。」

沖埜は少し間をおいて、ケンザンが落ち着くのを待った後、尋ねた。

「何故、私をここに?」

「先程の、スペシャルウィークの言動についてのことです。私は知らないので、そのことを話して頂きたくて。」

「その為にここへ?」

「あそこにはゴールドがいましたから。」

「…そうか。」

聡明な沖埜はすぐに納得した。

まだゴールドに昨晩のショックが深く残っていることと、スペの言動について知らないだろうことはお互い感じとっていた。

 

「分かった、話そう。」

沖埜は、先日のスペの言動についてケンザンに詳しく伝えた。

オフサイドとの屋上での事、そしてルソー・椎菜とのことを。

 

 

「…スペシャルウィークがそんなことを?」

詳細を聞き終えたケンザンは、怒りよりも愕然としていた。

「本当に?何かの間違いでは?」

「スペ自身からそれを言ったんだ。」

沖埜は眼を伏せた。

 

「そんなバカな…。」

ケンザンは椅子にガタッともたれ、頭を抱えた。

オフサイドが受けた仕打ちもそうだが、スペがそれをしたという衝撃の方が大きかった。

あのスペが…。

ケンザンも、スペが単に強いだけでなく、純真無垢で優しく明るい天使を体現したようなウマ娘であることは知っていた。

強く優しい、ウマ娘の一つの理想のような存在…そう言っていい彼女が、そんな愚かな言動を…。

 

愕然としているケンザンに対し、沖埜は表情を変えず言った。

「私のせいだ。トレーナーとしての義務を怠った為に、スペは過ちをおかしてしまった。」

 

「義務を怠った?」

思わぬ言葉に、ケンザンは眉を顰めた。

「この世界の尊厳と残酷さをスペに刻み込ませなかった。」

沖埜は淡々と答えた。

 

「何故怠ったんですか。」

「出来なかった。生まれた時から命の重さを背負って、幾度も死の現実と直面してきたスペに、この世界の残酷さまで教えたくなかったんだ。」

…。

ケンザンは頭を抱えたまま大きく吐息した。

沖埜の言葉の意味は、彼女も分かっていた。

 

生後間もなく母と死別し、更には不慮の火災事故で身近な者を多く亡くしたスペ。

常人なら耐えられない悲しい経歴を持ちながら、彼女は常に明るい笑顔を振り撒き続けてきた。

そのことがウマ娘としての彼女の大きな魅力かつ人気にもなっていた。

 

だが、彼女と最も身近な人間である沖埜には、彼女の心の奥底に潜む寂しさと危うさに気づいていた。

 

「危うさ?」

「ああ。その危うさについてははっきりと言えないが…とにかくそれが、私のスペへの指導を甘くさせた。」

沖埜の言葉に、ケンザンは小考して、言った。

「その報いが、今回のスペの言動になって現れたということですか。」

「その通りだ。だから、悪いのはこの私だ。」

 

「驚きました。」

ケンザンは大きく息を吐き、冷たい口調で言った。

「あなた程の方が、トレーナーとしての基本的なことを疎かにしてしまうなんて。」

「返す言葉もない。私は謝罪するしかない。」

 

「でも、このことに関してはあなたは責められません。」

ケンザンは冷たい口調のままそう言った。

スペにそれを教えなかった沖埜の葛藤は、朧げだが理解出来たから。

…それに。

「スペの言動の最大の理由は、あなたの指導不足ではなく、世の中の偏った感情に彼女が囚われてしまったせいですから。」

 

「最も、その偏った感情の原因に関しては別ですが。」

最後の台詞の後、ケンザンの表情が急に酷薄になった。

沖埜はすぐにそれが何を指してるか分かった。

「私の天皇賞・秋後の発言か。」

「ええ。」

ケンザンが頷くと同時に、室内は刺すような険しい空気に変わった。

 

やや重い沈黙が流れた後、ケンザンはその空気を消すようにふっと息を吐き、そして言った。

「でも、それも忘れます。」

「…え?」

「この状況で誰かを責めるなど愚の骨頂です。事態を悪化させるだけです。もうゴールドの二の舞は起こしてはいけません。」

無二の親友を理不尽に責めてしまったゴールドと、沖埜を深く尊敬していながら彼に怒りを抱いてしまっている自分をケンザンは重ね合わせた。

 

それに。

「自チームのウマ娘が悲劇に見舞われた時の人間の苦しみは、我々の想像以上だということを、幾度か目の当たりにしてきましたから。」

言いながら、ケンザンは視線を伏せた。

シグナルライトの時の岡田トレーナーがそうだった…

 

「とにかく、」

視線を伏せたケンザンに対し、沖埜は元の話題に戻すように淡々とした口調で言った。

「私はオフサイドに謝罪しなければならない。こんなことを頼める立場ではないが、かつての仲間である君の力を貸して欲しい。」

当初はルソーに頼むつもりだったが、ケンザンの方が可能性が望めると沖埜は思い、彼女に頭を下げ頼んだ。

 

「それは、私には出来ません。」

沖埜の願いを、ケンザンは視線を伏せたまま断り、そして続けた。

「私ではなく、岡田トレーナーに頼んで下さい。今オフサイドを動かせる人間は彼しかいませんから。」

 

 

*****

 

 

一方。ゴールドも、スぺがオフサイドにおかした言動をルソーから聞いていた。

 

「あのバカ…」

スペの言動を知り、ケンザンと同じようにゴールドも愕然としていた。

騒動についてほぼ全く認識してなかった筈なのに。

こないだ私と会った後、調べてしまったのか。

でもまさか、オフサイド先輩を責めるなんて…

 

愕然としつつも、ゴールドはスペに対して怒りは湧かなかった。

世の中の空気に毒されたせいだろうし、それに、私と違って全てを壊す為におかした言動じゃないのだから。

 

「スペを責めないで下さい。」

ベッド上で横になったまま、ゴールドはルソーに言った。

「オフサイド先輩もスペを責めてない筈です。帰還決意に関して、スペは無関係でしょうから。」

 

本当のところは分からない。

でも、もういいじゃない。

「スペももう壊れてしまってますから。いや、私が壊しましたから。」

 

 

…馬鹿。

生気の失せた後輩の姿に、ルソーは面を伏せて唇を噛み締めた。

お前が壊れる必要はなかったのに。

壊れるのは、もともと壊れた者だけで良かったのに。

 

 

 

*****

 

 

特別病室では、検査を終えたスズカが一人になった室内のベッド上で佇んでいた。

 

う…

スズカは、脚に痛みを感じだしていた。

怪我の状態が悪くなった訳じゃない。

心の動揺が脚にも影響しているせいだった。

脚の痛みより、胸中の苦痛の方が遥かに大きかった。

 

私、何をしてたんだろう。

何で気づかなかったんだろう。

自分の故障が、あの天皇賞・秋に甚大な影響を及ぼしていたことに。

 



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責任(5・サイレンススズカ回想話)

 

*****

(サイレンススズカ回想)

 

11月1日、第118回天皇賞・秋。

これまでにない大きな期待と夢を背に、私は1枠1番のゲートに入った。

 

スタートが切られると、私は自分でも驚くほどの好スタートが切れた。

そのままいつものように加速し、先頭に立った。

同じ逃げウマ娘のサイレントハンターが競り合ってくるかと思って少し慎重な加速になったけど、彼女は2番手に控えたのでその懸念はないと見た私は、すぐにまた加速した。

 

気持ち良い走りだ。

自分が最高の状態にあることを、加速しながら先頭の景色を駆けていく中で私ははっきりと感じた。

この調子なら、もっと速く気持ち良く走れる!

私はどんどん加速した。

後続勢の気配も感じなくなるほど、風を切って走った。

 

加速しながら、私は最高に気持ち良かった。

今までのどのレースよりも、幸せな気分で走ってた。

私を後押ししてくれる場内の歓声も、走りに力を与えてくれた。

これなら、かつてない最高の夢と走りを見せることが出来るわ!

私は確信した。

 

1000mを過ぎた時、そのタイムが57秒前半だと言うことも分かった。

相当なハイペースなのに、全然苦しくなかった。

このままずっと、永遠に気持ち良く走ることが出来そうだ。

そんな感覚すら覚えた。

 

そして、大欅を過ぎて3コーナーに差し掛かった時。

これまでのレースでは、いつもこのあたりでペースを少し落ち着かせていた。

このレースも、そのようにいこうと考えていた。

だけどその必要はないと思える程、私の走りの状態が良かった。

このままのスピードでゴールまで走り切れる。

そうとすら感じた。

 

 

その時だった。

 

 

一瞬、左脚の感覚が消えた。

同時に、私の身体は大きく揺らいだ。

続いて襲ってきた、かつて経験したことのない程の激痛。

フォームが崩れ、スピードがどんどん落ちていった。

 

これは…

耐えがたい激痛と朦朧としていく意識の中、私はそれを悟った。

故障したのか…

 

 

その後は、もう朧げにしか覚えていない。

微かに残っている記憶は、意識を失い視界が真っ暗になった私の傍らを駆け抜けていく後続勢の影と脚音。

そして全身が動かなくなって、倒れた時に感じた芝生の冷たさ。

悲鳴とどよめき。

そして駆け寄ってくる脚音と、チーム仲間の声。

 

 

 

その後、目が覚めたのは天皇賞・秋から1週間余り経った頃。

療養施設の特別病室ベッド上だった。

 

包帯が巻かれ厳重に固定された左脚の状態を見て、私は自分がどうなったか悟った。

私の走りが失われた…

目の前が真っ暗になり、何もかも終わってしまった気がした。

 

助かっただけでも奇跡なのは分かっていた。

でも、私が生きる意味として積み上げてきたウマ娘の走りが全て失われてしまったことは、あまりにも悲しかった。

夢を見せる走りも、最高に気持ち良かったあの先頭の景色も、もう2度と手にすることは出来ない。

もう私に、ウマ娘としての価値なんてない…

悲しみと絶望に打ちひしがれた私は、来る日も来る日も一人暗い病室で嘆き続けた。

 

 

そんな、絶望と嘆きの日々を送る私を必死に支えてくれた同胞がいた。

一人は幼い頃からの無二の親友であるステイゴールド。

そしてもう一人は、チーム仲間のスペシャルウィークさんだった。

 

スペさんは、私の一つ後輩。

デビュー当時から世代トップの逸材として注目されていた。

そんなスペさんは、私の事を『スピカ』加入前から注目してくれていて、チームに加入した時は凄く喜んでくれた。

 

その後、チーム仲間になってから私とスペさんの仲はすぐに親密になった。

スペさんは過去に悲しいことを経験していたけど、それを感じさせない位に明るく優しいウマ娘だった。

私の走りが覚醒出来たのは、彼女の存在も大きかった。

私が良い走りをして勝つ度に、スペさんは自分のことのように喜んでくれた。

それが私も嬉しかった。

また寮生活では共に一人部屋だったので相部屋にしてもらい、それ以降はプライベートでも共にする時間が増えた。

 

そんな日々を送るにつれて、スペさんの存在は私の中どんどん大きくなっていった。

スペさんは性格だけでなく、実力も凄かった。

皐月賞こそ惜敗したけど、ダービーでの圧巻の勝ちっぷりは私も思わず驚愕した程の強さだった。

スペさんといつかレースで闘いたい…そうした思いも日増しに強くなっていった。

 

いつしか、私にとってスペさんは、この世界で最も大切なウマ娘になっていった。

そう、親友以上の感情を持つウマ娘に。

 

 

そして、大怪我を負ってしばらく経った頃。

私は沖埜トレーナーから、私が故障した時に真っ先に駆けつけたのがスペさんだと言うことを伝えられた。

その後、搬送されてから容態が命の危機を脱するまで、ずっと私の側にいて励まし祈り続けてきたことも伝えられ、私の命を助けてくれたのはスペさんだと伝えられた。

 

それを知った時、私はスペさんへの感謝と愛情で涙が溢れた。

ずっと私の側にいてくれたんだ…

そのことが、絶望に満ちていた心を癒やしてくれた。

そして、同時に強い気持ちも芽生えた。

私はまだ終わってない。

もう一度、レースへの復帰を目指そうと。

 

私は、新たな夢を追い求めることにした。

私にはまだ見せられる景色があると信じて。

ホウヨウボーイ先輩、タニノチカラ先輩、スズパレード先輩、トウカイテイオー先輩、サクラローレル先輩。

過去に同じ重度の故障を乗り越えて栄光を手にした先輩達の生き様を学んだ末、私はその夢を見つけた。

 

この故障を乗り越えて復活することで、皆に新たな夢や幸せを与えるウマ娘になるという夢だった。

 

その夢を叶えることは容易いことではない、非常に困難で大変な道のりだということは分かっていた。

でも私はそこにウマ娘としての存在意義を見出した。

 

私は、復活に向けて歩み始めた。

 

スペさんも、チーム仲間やゴールドも、医師の先生達も、新たな夢を目指す目指す私を後押ししてくれた。

そのおかげで、私は心身共に急速に快復していくことが出来ていた。

奇跡の復活も叶うかもしれない。

そんな希望が、日に日に大きくなっていった。

 

 

でも、私は重大なことを忘れていた。

あの天皇賞・秋が、まだ終わっていなかったことを。

 

 

 

 

*****

(現在)

 

 

場は変わり、メジロ家の別荘。

 

時刻が夕暮れを迎えても、オフサイドは競走場で黙々とトレーニングを行っていた。

そして朝と同じように、競走場の隅で岡田がその様子をずっと見守っていた。

 

ピリリリリ。

岡田の携帯が鳴った。

電話をかけてきた相手は沖埜だった。

 

岡田は競走場を出て、電話に出た。

「どうした、沖埜。」

『お話したいことがあります。』

沖埜の口調はトレーナーの立場としての厳しいものだった。

 

 

*****

 

 

十数分後。

 

「…はい、では。」

療養施設。

スペの宿泊室で岡田に電話をかけていた沖埜は、電話を終えると一度間を置き、それから室内のベッド上のスペを見た。

「行くか、スペ。」

 

「…はい、行きます。」

沖埜の促しに、スペは震えを懸命に堪えながら立ち上がった。

 

 

時刻は17時になろうとしていた。

 



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夕闇(1)

 

*****

 

 

陽は暮れ、夜の明かりが灯り出した療養施設。

美久の姿は、食堂の一席にあった。

 

「…。」

カメラを胸に提げて座っている美久は、暗い表情でコーヒーを飲んでいた。

 

先程ライスから告げられた、彼女の余命がもう僅かだという事実。

その悲しみに打ちひしがれていた。

普段は明るいカメラマンである美久だが、今はとてもその表情になれる余裕がなかった。

 

「大丈夫ですか?」

いつもと違う美久の様子に心配した療養ウマ娘が何人か声をかけたが、美久はただ首を振るだけで何も答えなかった。

美久の反応に、敏感な療養ウマ娘達はスズカの事と絡めて考え、一層不安を募らせていた。

 

 

そんな、暗い雰囲気が立ち込めている食堂に、一人のウマ娘が入ってきた。

 

随分と暗い雰囲気だな…

食堂内の雰囲気に、今しがた入って来た黒髪ショートヘアのウマ娘…シアトルは顔を顰めた。

〈クッケン炎〉患者だけだと思ってたけど、怪我患者も大分様子が変じゃないか。

 

「やあ、こんばんは。」

シアトルは、食堂の一部の席に固まっている怪我療養ウマ娘達に声をかけた。

「?こんばんは…。」

声をかけられたウマ娘達は、シアトルの姿を見て怪訝な表情を浮かべた。

どうやら誰だか分からないらしい。

まあそうだろうね。

無理もないと納得しつつ、シアトルは自己紹介した。

「私、かつてここで療養生活してたダンツシアトルっていうの。」

 

「ダンツシアトル…えっ!」

名を聞いてもすぐには分からなかったようだが、それが分かると皆一様に驚きの表情を見せた。

「ダンツシアトル先輩、ですか?」

「そうよ。3年前の宝塚記念を制したG1ウマ娘、ダンツシアトル。」

シアトルは、誇らしげに黒髪を払った。

「本当に?」

「ダンツシアトル先輩⁉︎」

周囲にいた療養ウマ娘達も、驚きながらシアトルを見ていた。

 

 

…ダンツシアトル?

暗く閉じこもっていた美久も、その名前を聞いて顔を上げた。

最後に見た時よりだいぶ大人になっていたが、その黒髪のウマ娘は間違いなくダンツシアトルだった。

どうして彼女がここに?

美久も驚きを隠せなかった。

 

 

前述のように、シアトルはかつて重度の骨折と〈クッケン炎〉を乗り越えてG1制覇を果たしたウマ娘。

かつて彼女と療養を共にしたウマ娘は現在ほぼ残ってないが、彼女の不屈の経歴は今なお療養ウマ娘達の間で語り継がれていた。

その伝説的なウマ娘が突然この療養施設に現れたのだから、皆が驚くのも無理はなかった。

 

 

「あれ、美久さんじゃないですか。」

療養ウマ娘達と会話を繰り広げていたシアトルは美久の姿に気づき、彼女の側に来た。

「お久しぶりです。」

「久しぶり、シアトル。」

「宝塚以来ですね。お元気でしたか?」

「うん、まあ…。」

美久は戸惑いながら挨拶を返した。

随分暗いな…

美久の表情にシアトルは気になったが、深く詮索しようとはしなかった。

「シアトル、どうしてあなたがここに?」

「椎菜先生から来ないかと誘われましてね。私も3年以上ご無沙汰してましたら、久々に挨拶に行こうかと思って。」

「はあ…」

恐らくそういう理由ではないなと美久は察した。

 

それにしても…

「あなた、随分と性格変わったわね。」

「あら、そうですか?」

「現役時代のあなたは、もっとシーンとしてた記憶があるけど。」

「アハハ、そうですね。」

シアトルは笑った。

「現役時代は随分と不器用でしたからね。年季重ねていくうちに大人になったというべきでしょうか。」

 

「そう…」

美久の脳裏に蘇っていたのは、3年前の宝塚記念の記憶。

ライスの悲劇によってどよめきと悲嘆で満たされた場内の中、全く笑顔を浮かべずに表彰式に臨んでいたシアトルの姿だった。

 

「じゃ、またね。」

何を思ったのか、美久は軽く会釈するとシアトルと別れ、食堂を出ていった。

 

 

「…?」

足早に去っていった美久の姿にシアトルは妙な表情を浮かべていたが、やがて表情を戻すと周囲にいる療養ウマ娘達に尋ねた。

「あのさ、ホッカイルソーさんの病室がどこか知って子はいるかな?」

「あ、はい。」

場にいた〈クッケン炎〉患者のウマ娘が手を挙げた。

「彼女と会いたいんだけど、場所教えてくれる?」

「私、案内します。」

「そ、ありがと。」

そのウマ娘に案内され、シアトルは食堂を出ていった。

 

「君、何年生?」

廊下を歩きながら、シアトルは案内してくれるウマ娘に話しかけた。

「2年生です。」

「へー、ここで療養生活始めてどのくらい?」

「半年ほど経ちました。」

「半年か。」

シアトルは、松葉杖をついているウマ娘の脚の患部と、療養生活に疲弊してきているその表情を見た。

「友達はいる?」

「友達…」

ウマ娘はつと脚を止め、そして再び歩き出しながら答えた。

「…同い年の友達がいましたが、…先日還ってしまいました。」

 

「そう。」

シアトルは小さく溜息を吐いたが特に動揺は見せず、言葉を続けた。

「じゃ、また友達を見つけるんだよ。」

「え?」

「支え合える仲間を見つけるんだ。まだ諦めていないでしょ?」

「…はい。」

「この〈死神〉に打ち克つ為には、一人じゃ無理だ。必死に支えあって、幾多の瀬戸際を共に乗り越えられる…そんな仲間を見つけることが重要だ。そうすれば、復帰への可能性は拡がる。自分が折れさえしなければね。」

かつて〈死神〉から生還したシアトルは、〈死神〉と闘い続けている後輩の背を優しく撫でつつ言った。

 

やがて、シアトルはルソーの病室の前に着いた。

「ここです。」

「ありがと。」

 

後輩が去ってから、シアトルは扉をノックした。

コンコン。

「…どうぞ。」

「失礼するわ。」

室内の返答を受けて、シアトルは扉を開いた。

 

室内には、二つあるそれぞれのベッド上にウマ娘が横になっていた。

「…?」

入室したシアトルを見て、片方の後輩と思えるウマ娘は誰だか分からないのか、怪訝な表情を浮かべていた。

最もシアトルはそのウマ娘の容姿と活躍は知っていたので、彼女がステイゴールドだとすぐに分かった。

ということは。

もう片方のベッドにいるウマ娘に、シアトルは声をかけた。

「君が、ホッカイルソーか。」

「ええ…あなたはもしかして、ダンツシアトル先輩ですか?」

ルソーは頷きながら、驚いた表情でシアトルを見ていた。

 

 

シアトルとルソーは過去に面識はない。

レースで闘ったことはなく、療養生活もルソーが〈死神〉に罹る前にシアトルは引退したからだ。

ただ、ルソーは3年前の宝塚記念を見ており、またかつて闘病を共にしたオフサイドから彼女のことを聞いていたので、ある程度シアトルについては知っていた。

 

 

「どうして、こちらに?」

面識はないが〈死神〉から生還した先駆者としてシアトルを知っているルソーは、突然現れた彼女に驚きを隠せずに尋ねた。

ハハ、皆同じこと聞くねえ…

シアトルは苦笑した。

「椎菜先生から、君達のことを聞いてね。」

「え?」

 

「はっきり言おう。」

シアトルは、表情に力強い笑顔を見せて言った。

「〈死神〉と闘う仲間達を、助けにきた。」

 



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夕闇(2)

*****

 

一方。

 

ライスの宿泊室には、ライスの他にケンザンの姿があった。

ブルボンは現在、特別病室の方へ行っていた。

 

ライスとケンザンは、かつて現役時代に何度かG1で闘ったが、それ以外は特に縁はなく親しい仲ではない。

ケンザンが今ライスと共にいるのは、例のスズカ&スペの件で相談しているからだ。

 

ライスは、ケンザンに現状のことを伝えていた。

 

「今、沖埜トレーナーとスペシャルウィークが、オフサイドとの事をスズカに打ち明けに?」

「はい。お二人がそうすると決断しました。」

「ということは、岡田トレーナーは沖埜トレーナーらのオフサイドへの謝罪を断ったのか。」

「詳細は分かりませんが、どうやらそのようです。」

 

先程、スペの件で岡田に電話をした沖埜は、オフサイドに改めて謝罪したいという旨を彼に伝えた。

それに対し岡田は、謝罪は受け入れたものの、オフサイドへのそれは今は控えるよう要求していた。

沖埜はそれに従い、オフサイドへの直接の謝罪は断念した。

 

その後、沖埜はスペと相談した末、スズカに先日の件を打ち明けることを決め、現在二人で特別病室に向かっていた。

もう今頃は、それを打ち明けているだろうとライスは推測していた。

 

「大丈夫なのか。」

現状を聞き、ケンザンはかなり険しい表情で腕を組んだ。

「今は、沖埜トレーナーの判断を信じるよりありません。」

ライスも、両眼が険しい蒼芒を帯びていた。

この件に関してはスズカに話すべきでないと思っていたライスだが、スズカの直の関係者である沖埜の判断に異は唱えられなかった。

「間違いなく、スズカの心身の状態は更に悪化するぞ。」

「それは沖埜トレーナーも覚悟しているでしょう。そのリスクを考えても尚、この決断をとられた。是か非か問うのはやめましょう。相当な葛藤はあったでしょうし、何しろ時間がないのですから。」

「そうだな。」

 

一つ間をおいた後、ライスはケンザンに尋ねた。

「ケンザンさんは、今後どうするつもりですか?」

「私は、有馬記念までこの療養施設に残ってルソーやゴールドの看護を続けるつもりだ。特にゴールドのな。」

現状1番深い傷を負っている後輩を思い遣りつつケンザンは答え、更に続けた。

「オフサイドの方は、今は岡田トレーナーに任せることにしてる。あと、かつてのチーム仲間にも呼びかけて、何とかオフサイドの決意を翻意させられるよう協力を頼んだ。」

「かつての仲間…」

「オフサイドと特に関わりがあった仲間をな。」

「…。」

具体的な名は聞かなかったが、椎菜と同じくライスもそれが誰だか大体想像はついた。

「とはいえ、事の好転が相当困難だということは認識してる。正直、藁にも縋るような思いだ。」

ケンザンの表情は険しいままだった。

 

「感謝します。」

憂いが拭えないケンザンに、ライスはそう言った。

「何?」

「この状況下で手を尽くして下さっていることに、感謝します。」

 

「感謝の必要はない。」

ケンザンは憂げな表情を変えずに返答し、そして尋ね返した。

「ライスは、今後どうするつもりだ?」

 

「私はスズカを守る為に動きます。彼女の立場や心境を理解できるウマ娘はこの私以外いませんから。」

「そうか。」

ライスの返答に、ケンザンはその意味をすぐに理解した。

3年前の宝塚記念では、ケンザンも出走しており、あの悲劇の現場にいた。

「この後、機会を見計らってスズカに会いにいきます。」

「スズカを頼んだ。」

「はい。」

ケンザンの祈るような言葉に、ライスは蒼芒をゆらめかせて頷いた。

 

 

そこまで話し合った時。

コンコン。

扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ。」

「…ライス。」

入ってきたのは美久だった。

 

「…どうしたの?」

ライスは美久の姿を見て悲しげな表情を一瞬浮かべたが、美久の表情がただならない様子なのを感じると直ぐにそれを消して尋ねた。

「思いがけないウマ娘が来てるわ。」

「?…誰?」

「ダンツシアトルよ。」

 

「えっ…」

想像だにしてなかった名にライスは驚き、明らかに動揺した様子で聞き返した。

「ダンツシアトルさんが?…本当に?」

「うん。椎菜医師に頼まれて、来たみたいだわ。」

 

「…。」

ライスの表情は蒼くなり、冷たい汗が頬を伝っていた。

左脚の痛みが更に激しくなった気がした。

 

 

*****

 

 

一方。

 

ルソーの病室へ行ったシアトルは、彼女と挨拶を交わした程度で長居はせず、病室を後にした。

 

そのまま、すっかり暗くなった外へと出た。

 

…寒いな。

療養時代もそうだったが、冬の療養施設の高原は寒さが肌身に沁みるなと、シアトルは遊歩道を歩きつつ思った。

やがて遊歩道の途中にあるベンチに着くとそこに座り、自販機で買った缶コーヒーを飲んでホッと一息吐いた。

 

懐かしいな。

療養時代、このベンチで病症仲間達とよく相談事をした。

最も、当時の仲間の多くは〈死神〉に敗れて引退か退学、帰還した者が多い。

生き残った者の方が少なかった。

 

ナリタタイシン、ネーハイシーザー、マイシンザン…元気かな、皆。

かつての病症仲間の面影が脳裏に蘇り、闘病時代の記憶が思い起こされた。

あの頃も〈死神〉の猛威が吹き荒れていて、私達は折れかかる心を支えあいながら闘い続けてたな。

本当に命懸けの日々だった。

 

でも、今〈死神〉と闘っている後輩達は、当時の私達以上の苦境にあるな。

シアトルはコーヒーを飲みながら思った。

〈死神〉がもたらす絶望だけでなく、その〈死神〉に勝った者があんな目にあったんだからと、あの天皇賞・秋後の騒動を思い返しつつ。

私もそうだった。

かつて当事者としてオフサイドと同じような立場になり、その辛さを身をもって知っている彼女は溜息を吐いた。

いや、状況は自分の時より深刻だなと思い直した。

私は、勝者の尊厳までは侵食されなかったから。

 

それに。

シアトルは飲み切った缶コーヒーを捨てると、腕を組んだ。

どうも、病症仲間達に蔓延している絶望には、思った以上に深刻な背景がある気がする。

特に、ホッカイルソーと椎菜に。

オフサイドトラップ関連だろうなと、シアトルは薄々察知していた。

 

怖いけど、内情を知らないとな。

シアトルは背伸びしながら立ち上がった。

だって私は…

「仲間達を助けに来たんだから。」

 

 

そう呟いた時。

突然、大きな物音が、真上の方から聞こえた。

 

「…?」

シアトルは眉を潜めて、その方向を見上げた。

音がしたのは、前にある施設のかなり上…屋上か、或いは最上階の特別病室のあたりからだった。

特別病室は確か、サイレンススズカがいる病室じゃん…

 

 

しばらく不安げに見上げていたシアトルだが、もう不審な物音はしなかったので、ベンチをたつと遊歩道を歩き、施設内へ戻っていった。

 

 

*****

 

 

再び、ライスの宿泊室。

 

美久からシアトルが来訪していることを聞いたライスは、動揺を隠せない表情でベッドに座り込んでいた。

美久もケンザンも彼女に話しかけられない状況で、室内には重い空気が立ち込めていた。

 

そうした中。

『ピリリリリ』

ライスの携帯の音が鳴った。

相手は特別病室前で待機中のブルボンからだった。

 

「どうしましたか?」

『今すぐ特別病室に来て下さい。事態が動きそうです。』

 

「…分かりました。」

ライスは了承し、携帯を切るとすぐに杖を手に立ち上がった。

「どうしたの?」

「特別病室に行くの。何かあったようだわ。」

「えっ…」

「私も行く。」

ライスの言葉を聞き、ケンザンもすぐに立ち上がった。

 

 

三人は部屋を出て、急いで最上階へ通じるエレベーター前と向かった。

 

 

と、そのエレベーター前の廊下で。

「あ…」

「…!」

今しがた外から戻ってきたシアトルと、ライスは鉢合わせした。

 

 

「ダンツシアトルさん…」

「ライスシャワー先輩。」

 

お互い眼があった瞬間、双方の脳裏にはあの宝塚の記憶の断片が蘇った。

 

 

 

『ライスシャワー故障発生!ライスシャワー無残!何という悪夢!』

『勝ったのはダンツシアトルだが…第3コーナーの下りで大アクシデント…』

『私…とても喜べません…』

『まさか、最後のレースになるなんて…』

 

 

 

「…。」

ライスは眼を瞑って首を振り、脳裏の記憶を打ち消した。

「…失礼します。」

眼を合わせずにそうシアトルに言うと、傍らを通り抜けてエレベーターへと乗り込んだ。

「…。」

「…また。」

美久とケンザンもシアトルを気にしつつ、ライスに続いてエレベーターに乗り込んだ。

 

 

…。

エレベーターが閉まりそれが最上階と向かっていくのを、シアトルはしばらく立ち竦んだまま見つめていた。

「…ふう。」

やがて虚空を仰ぎながら大きく深呼吸すると、廊下を再び歩き去っていった。

 



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夕闇(3)

 

一方。

最上階に着いたライス達は、すぐさま特別病室へと向かった。

 

特別病室の前には、待機していたブルボンと、スペの姿があった。

 

「…。」

スペの姿を見て、ライスは思わず息を呑んだ。

明るい天使のようなウマ娘であった筈のスペは、ブルボンに支えられて立ってこそいるが、まるで折れかけの枝のような姿になっていたから。

何か声をかけようとしたが、今はとても声をかけられる雰囲気ではなかった。

 

「ブルボンさん。」

スペから目を逸らし、ライスはブルボンを向いた。

「スズカさんに何があったのですか?」

「かなり心身を取り乱した状態になりました。沖埜トレーナーや医師の先生方が対応しています。ライスも行って下さい。」

「はい。」

ブルボンの言葉に頷くと、ライスは杖を置いて特別病室へと入っていった。

 

 

特別病室内には数人の医師がベッドの周囲にひしめいていた。

そこから少し離れた室内の隅の方で、沖埜が状況をじっと見守るように座っていた。

 

そしてベッド上のスズカは、医師達の対応や質問にも一切答えずに、ぐったりとうなだれた状態で座っていた。

心が奈落の底に落ちたのかと思う程表情が白くなっていて、頬には冷たい汗が流れた痕があった。

 

「…。」

ショックを隠しながら、ライスは沖埜の傍らへ行った。

そのまま、呼吸を懸命に整えながら、医師達とスズカの様子を見守った。

「…。」

沖埜は傍らに来たライスをちらと見たが何も言わず、端正な無表情のまま無言でスズカの様子を見守り続けていた。

 

 

 

一方、室外に残ったケンザンと美久。

 

ケンザンは室内の様子をしばらく気にしていたが、やがて憔悴しているスペの方へ眼が移った。

「大丈夫か、スペシャルウィーク。」

「…はい。」

ケンザンの問いかけにスペはなんとか答えたが、その声も消えそうな灯火のようにか細かった。

「宿泊室に戻った方がいい。」

「いえ…私は…」

「無理するな。」

私が付き添うから戻ろう、とケンザンは腕を差し伸べた。

 

「スペシャルウィーク、私が沖埜トレーナーに話しておきますので、どうぞ部屋へ戻られて下さい。」

二人のやり取りを見て、ブルボンも同意する様に言った。

「…はい。」

スペは小声で頷くと、ブルボンの傍を離れてよろよろしながら廊下を歩き始めた。

ケンザンはすぐにスペに付き添うように傍らに立ち、二人は最上階を出ていった。

 

 

「…あなたは…フジヤマケンザン先輩…ですか?」

エレベーターを降りてる最中、スペは今ようやく気づいたようにケンザンを見上げた。

「ああ、私はフジヤマケンザンだ。」

「先輩は…確か『フォアマン』の」

「関係ない。」

何か言いかけたスペを、ケンザンは眼で制した。

「同じウマ娘だろうが。」

 

 

やがて、エレベーターは下の階に着いた。

 

エレベーターを降りた後、スペはケンザンに支えられながら宿泊室への廊下を歩いた。

その、普段とは全く違う彼女の姿を、何人もの療養ウマ娘達は目の当たりにし、衝撃を受けていた。

一体何があったのか…

皆、悪い予感しかしなかった。

 

 

宿泊室に着くと、ケンザンはスペをベッドに休ませ、彼女の為にお茶を用意した。

「飲みな。少しだが身体が温まると思う。」

「…。」

スペは頭を下げると、茶を淹れた碗を受け取り、一口喫した。

茶の温かさが喉の奥から身体全体に広がった。

「…う…うっ…」

同時に、スペの眼から堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。

 

「…うっ…うっ…スズカさん……ごめんなさい…うっ…」

「…。」

ケンザンは号泣するスペの傍らに座り、着ていた上着をそっと彼女の肩に被せた。

もう何が起きたのか、大体想像がついていた。

 

可哀想に…

7世代下の後輩のウマ娘の、取り返しのつかないような悲嘆を前に胸が痛んだ。

こんなにいい奴が、なんでこんなことに…

 

立場的には、スペに対して別の感情があってもおかしくなかった。

だがケンザンは今、ただ黙ってスペの傍らに寄り添ってあげる以外考えられなかった。

 

 

 

一方その頃、ルソーの病室。

 

…スペ。

自販機で飲み物を買いに行って今しがた戻ってきたルソーは椅子に座りながら溜息を吐いた。

戻る途中、ケンザンに支えられていたスペの憔悴した姿を見たからだ。

スズカと何かあったなと、ルソーは確信していた。

考えられるとすればただ一つ。

私の指示を実行に移したのか…

 

私のせいだ。

ルソーの心中は、後悔の念で一杯になっていった。

 

私がスペを責めずに赦してあげて、善後策を考えてあげれば…

天使のウマ娘の憔悴した姿が脳裏に強く残り、口元を抑えた。

私だって凄く苦しい立場にあるけど、だからといってあやまちをおかしたスペを必要以上に責めて過酷な要求を突きつけたのは本当に愚かだった。

同胞の未来を考えたら、するべき行為ではなかった。

 

今更後悔しても遅い。

でも、後悔せずにはいられなかった。

 

スズカ…

ルソーの胸中には、かつてのチーム後輩である神速のウマ娘の姿も映し出された。

彼女は今、尊敬していたオフサイドとはあまりにも深い溝を負わされ、無二の親友のゴールドとは絶望的な亀裂が生じ、そして親友以上のスペとも今…

 

「…うっ…」

悲惨過ぎると、抑えた唇元から思わず嘆きが洩れた。

脚も走りも夢も失った上に、大切な存在まで彼女は失っているじゃないか。

このまま、絶望の果てに帰還に追い込まれたとしたら…

 

再び、ルソーの胸中の後悔は強くなった。

彼女はベッドに横になり、シーツを頭まで被った。

 

私が、スズカのことを思い遣っていれば、こんなことにはならなかった。

自分自身、あの天皇賞・秋以後今日まで非常な苦境と絶望に陥っている。

でも、病症仲間達を支えるという思い忘れなかった。

それなら、スズカのことだってもっと思いやれた筈だ。

 

スズカが一命を取り留めた時は、心の底から嬉しかったのに…

ルソーの嘆きと後悔は、止まることがなかった。

 

 

 

ルソー先輩…

彼女の嘆く様子を、傍らのベッドにいるゴールドは気づいていた。

だが今は何も尋ねる気力もなく、ただ黙っていた。

こっから、終焉に向かっていくのか…

オフサイド先輩も、スズカも、そして皆も…

「ごめんね…」

どさっと倒れ込むようにベッド上に横になったゴールドの唇からも、嘆きが洩れていた。

 

 

 

 

再び最上階。

 

「サンエ…三永美久、」

特別病室の前で待機を続けているブルボンは、同じく傍らで待機している美久につと声をかけた。

「なんでしょうか。」

「あなたはもう、この施設から去った方がいいかもしれません。」

「え?」

「もうここでは、幸せな写真は取れないでしょうから。」

美久の首にさがっているカメラを見つつ、無感情な口調でブルボンはそう言った。

 



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夕闇(4)

 

*****

 

数十分前、特別病室。

 

病室のベッド上で横になっていたスズカは、表情こそ普段の清廉なものを保っていた。

だが胸中は、真っ暗な罪悪感と絶望に覆われていた。

 

私のせいで、天皇賞・秋が…オフサイド先輩が…

 

 

オフサイド先輩と話がしたい。

私の故障が先輩の栄光を閉ざしてしまったことを謝って、どうか帰還を思い留まるように話さないと。

 

だけどオフサイド先輩は、私の要望を断り続けてる。

私、先輩に恨まれたのかな。

悲しみが、胸を浸しはじめていた。

 

恨まれて当然か。

溢れそうな悲しみを抑え、スズカは思った。

だって私は、自分の故障がレースにどれだけの影響与えたのか全く自覚してなかったのだから。

 

天皇賞・秋の真実をずっと隠され続けていたことについて、周囲を責める思いは全くなかった。

ゴールドから言われたように、自分が傷つかない為に隠してたと受け入れてたし、第一その可能性を全く考えてなかった自分が責める資格などない。

 

でも、まだ可能性はある筈。

スズカは、一昨日オフサイドが療養施設に来訪し、自分と会う予定だったことを思い返した。

オフサイドが体調不良になった為会えず終いだったけど、彼女がスズカと会う意志だったことは間違いない。

会う意志があったということなら、まだ、会える望みは残っている筈。

胸中が罪悪感と悲しみに覆われた中、スズカはその一点に希望を保っていた。

 

 

スズカが必死に思考を巡らせている中。

 

「失礼します。」

病室に誰かが訪れた。

スペと沖埜だった。

 

「…?」

現れた二人を見て。スズカの肌に寒気が走った。

二人とも、雰囲気が異様に張り詰めていることが一目で分かったから。

「トレーナーさん?」

「済まない、私達だけにしてくれるか。」

室内にいた医師に退出してもらった後、沖埜はスペと共にベッドの傍らに座った。

 

「…あの、」

精一杯平静を装いながら、スズカは尋ねた。

「何のお話でしょうか。」

「一昨日のことを、話にきた。」

一昨日…オフサイド先輩が施設に来た日だ。

「オフサイド先輩のことですか?」

「そうだ。」

敏感に察した様子のスズカに、沖埜は言葉を続けた。

「実はその日、誰も知らなかったことなのだが、ここに来たオフサイドと、スペの間で、ある事が起きてた。」

 

「…え…?」

想像だにしなかった言葉を受け、スズカの全身を更なる寒気が襲った。

「スペさん、オフサイド先輩と何かあったんですか?」

聞き間違いだと思い、スズカは聞き返した。

スペさんもその日オフサイド先輩と会い、先輩から私と会えなくなったという伝言を受けたことは聞いていたけど…

 

「…はい。」

スペは、スズカを直視することが出来ず、視線を下に向け俯いた姿勢で小声で答えた。

「私は…本当は…」

言いながら、身体が震え出していた。

「…。」

スズカの顔色が、昨晩の時より悪くなってみえた。

 

そういえば…

ふと、スズカは今更気づいたように思い出した。

スペさんの様子がおかしくなっていたのは、オフサイド先輩が来ないということを私に伝えた後からだった…

これ以上ない位悪い予感が、寒気と共にスズカの全身を駆け巡った。

 

スペは膝元に視線を落としたまま、ポツポツと話し出した。

「一昨日…スズカさんに会いに来たオフサイド先輩と私は会い、話したいことがありますと屋上に来てもらいました。」

「…話とは?」

「天皇賞・秋後の、先輩の言動についてです。」

「…っ」

スズカの表情が白くなった。

 

「…言動って、まさか…」

「私が話したかったのは、オフサイド先輩のレース後の言動についてです。…二人きりの屋上で、私は先輩のその言動を咎めました…。」

 

 

スペは震えながらも言葉を絞り出し、先程沖埜に話した内容と同じことをスズカに話しだした。

スズカの故障に対する配慮がないと責め、更には内容も追及しウマ娘としての良心を詰問したこと、スズカへの謝罪を要求したことを、全てスズカに話した。

 

「…私の理不尽な責めを受けて、オフサイド先輩は非常に苦しそうな様子になり、スズカさんと会うのをやめて、施設を後にしました…。」

全てを話し終えた後も、スペは視線を上げられなかった。

 

 

「…嘘ですよね?」

聞き終えたスズカは、昨晩ゴールドに責められた時と同じかそれ以上に蒼ざめていた。

「そんな…スペさんがそんなことする訳がないわ…」

他人を責めることなど出来ないスペさんが、悪意に染まるなどあり得ないスペさんが…そんな愚かな行為をしてしまう筈がない…

「…お願い!お願いです!嘘だと…嘘だと言って下さい!」

スズカは無我夢中でスペの袖を握り締め、心の底から必死に懇願した。

 

だがスペは、スズカに袖を掴まれたまま、僅かに顔を上げてスズカの眼を見つめると、小声で無情に返答した。

「…本当です。…本当なんです。ごめんなさい…。」

 

…嘘…じゃないの…?

スペの腕からスズカの腕が力無く落ちた。

もはや白くなった表情で、愕然とベッドの背にもたれかかった。

…何故?…なんで?…

スズカは頭を抱えると、言葉にならない声を洩らし続けた。

 

そして、しばらく苦悶し続けた後。

 

「スペさん…出てって…。」

頭を抱えたまま、スズカはぽつりぽつりと言葉を絞り出した。

「スペさん…出ていって下さい…」

氷のような口調だった。

 

「スズカさん…」

スペは顔を上げ、何か言おうとした。

だが、スズカはそれを遮るように続けた。

「お願い…出てって。」

「…スズカさん…」

「聞こえないんですか!」

スズカは大声を出した。

スペに対して初めてぶつけた、嫌悪感が滲んだ声だった。

 

「今すぐ、今すぐ出ていって下さい!」

大声で叫ぶと、スズカは堪えきれないように壁を掌で叩いた。

乾いた大きな音が室内外へ大きく響いた。

 

 

「…。」

スペはよろめきながら、ベッドの傍らから立ち上がった。

冷たい涙が頬を伝っていた。

「…ごめんなさい!」

掠れた声で謝罪し、スペは口元を抑えるながら室外へ駆け去っていった。

去り際、彼女の眼から零れた涙が儚く宙に散っていった。

 

 

 

 

 

そして現在。

 

特別病室内は、医師達からの手当てを終えたスズカ、ずっと無言で一部始終を共にしていた沖埜、先程入室してきたライスの三人になっていた。

 

「…トレーナーさん。」

スズカは、精魂が抜けたような声で、ぽつりぽつりと呟いた、

「…なんで、こんなことになってしまったんですか…。」

 

スズカの眼には、涙も失われていた。

 

 

時刻は、18時になろうとしていた。

 



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夕闇(5)

 

*****

 

18時過ぎ。

夜になり、療養施設のある高原は満天の星空の下、澄み切った寒風が吹きつけていた。

 

食堂では、多くの療養ウマ娘達が夕食を食べに集まっていた。

 

食事している彼女達の雰囲気は不安と緊迫が入り混じっていた。

理由は、先程に特別病室から聴こえた不穏な物音と、その後特別病室から戻ってきたスペの絶望感に満ちた姿を目の当たりしていたから。

 

「スペシャルウィークに、一体何があったんだろうね。」

「さあ。」

緊迫した様子で、療養ウマ娘達は食事しながらそのことを話し合っていた。

「考えられるとすれば、スズカの身に何かが起きたんじゃないかな。」

「それは分かってるよ。それ以外考えられないし。問題は、あそこまで真っ暗になってた理由だよ。相当、悪いことが起きたんだ。」

「怪我の状態が急変したのか、或いは、秋天後の騒動のことを知ってしまったのか…」

「多分後者だね。さっき沖埜トレーナー達と外へ散歩に出ていた姿を見たけど、その時から様子がおかしかったし。」

異様に張り詰めていたスズカの姿が思い起こされた。

 

「知っちゃったのか…」

「仕方ないよ。もう時間の問題だったんだから。」

「誰が知らせたんだろう?」

「さあ…。沖埜トレーナーか、生徒会のブルボン先輩か、或いは他の誰かじゃない?」

「伝える側も大変だっただろうな。絶対にスズカにとって悪い知らせなんだから。」

「秋天後のことを知ったスズカがショックを受けたことは間違いないわ。相当に取り乱したであろうことも想像に難くない。その姿を見てスペもショックを受け、ああなったんだろう。」

「だろうね。」

あの天使のように明るいウマ娘が…

療養ウマ娘達は無念の表情になった。

「一体どうなっちゃうんだろう。」

「祈るしかないよ。スズカもスペも、皆無事に乗り越えられるように。」

 

「もう、駄目じゃないかな。」

一人の療養ウマ娘が、ぽつりと呟いた。

「嘆きの声ばかりが聞こえるようになって…それが集まって、『大償聲(おおつぐないのこえ)』になろうとしてる。」

「“大償聲”?なにそれ?」

「古くから伝承されてる、大きな悲劇を意味する言葉だよ。怒り、悲嘆、絶望などの負の感情が膨大な声となって集まって、それがやがて爆発した時に『大償聲』という巨大な悲劇となって、この世界に永遠に消えない傷を刻みつけるんだって。」

 

「縁起でもないこと言わないの。」

不吉な言葉に、仲間のウマ娘は嫌な表情を浮かべた。

「絶望の声は、希望の声で消していくんだよ。そうやって私達はここまで生きてきたじゃない。」

「そうだね、ごめん。」

「いいよ別に…」

 

療養ウマ娘達は希望の声を並べようとしていたが、その胸中に押し寄せる不安だけはごまかしようがなかった。

 

 

 

 

一方、スペの宿泊室。

 

スペは未だ放心状態でベッドに座ったまま、ケンザンの介抱を受けていた。

ケンザンはスペの介抱をしながらも言葉は殆ど発さず、重い沈黙が室内に立ち込めていた。

 

コンコン。

扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ。」

「失礼するわ。」

入ってきたのは、松葉杖をついたルソーだった。

「どうした?」

「ちょっと、スペと二人きりにさせて頂きますか?」

 

…。

ルソーの言葉を聞いたスペはちょっと反応したが、何も言わずに黙っていた。

「分かった。」

ケンザンは空気を察し、立ち上がった。

「私はゴールドの側に戻ってる。」

そう言うと、ケンザンは部屋を出ていった。

 

二人きりになると、ルソーはスペの傍らに座った。

「…。」

スペは小さくルソーに頭を下げただけで、お茶の入った腕を抱えたまま俯いていた。

ルソーもすぐには何も言わず、しばらく無言だった。

 

やがて、ルソーは重たい口調で尋ねた。

「スズカに、オフサイド先輩とのことを話したの?」

「…はい。」

スペは頷いた。

彼女の両の目元は紅く腫れていた。

 

「スペ、ごめん。」

ルソーは、同じように俯いたまま言った。

「私のせいで、あなたにもスズカにも絶望を与えてしまった…」

「…何を言ってるんですか。悪いのは、愚かな言動をした私です。」

「オフサイド先輩はもう許してたわ。なのに私が、理不尽にそれを責めてしまったのだから。」

 

「でも、ルソー先輩は何も悪くありません。元凶はこの私…」

「過ちは誰にでもあるわ。それを正して許すことが私のすべきことだった。私はあなたのあの行動に至った苦しみも分かっていたのだから。」

スペの言葉に首を振って、ルソーは顔を歪めた。

「なのに私が選んだのは、あなた達も絶望の底へ引き込むことだった。」

 

 

「私は闇に囚われてしまった。オフサイド先輩からスズカもあなたも救けるよう願われた真意を分かってなかった。」

「…オフサイド先輩が、私やスズカさんを?」

「うん。」

先輩はこの未来を恐れてたんだと、今のルソーには分かっていた。

だけど私のしたことは、それと正反対のことだった。

 

「…。」

ルソーの悔恨の言葉に対し、スペは何も言えなかった。

 

「スペ。私はもうどんな裁きを受けても構わない。でも、もうこれ以上同胞が絶望に落ちることは止めなきゃいけない。絶望は待ってても終わらないから。だから、」

ルソーは、スペを見つめた。

「私は、あなたを守るわ。」

 

「え…」

「あなたが絶望の底に落ちるのを食い止めるわ。私に出来ることはそれしかない。」

「何故ですか。先輩は、私のことを恨んでもおかしくない立場なのに。」

「関係ないわ。同じウマ娘だもの。栄光に輝くウマ娘だろうが〈死神〉に取り憑かれたウマ娘だろうが、深い溝が生じたウマ娘同士だろうが、関係ない…」

それを忘れてしまったから、私は…

『みんなの笑顔、私が奪っちゃったんだね』

愛した同胞の最期の叫びと表情が脳裏に蘇り、ルソーはうっと口元を抑えた。

 

「ありがとうございます。でも…」

スペの頬に、ぞっとする程寂しい微笑が浮かんだ。

「私に救われる資格はありません。私はそれだけのことをしてしまったのですから。」

 

「してない!」

ルソーは思わず、虚無の底に落ちかけている同胞を抱きしめた。

「たとえ私が消えたとしても、あなたを救うから。」

 

 

 

*****

 

 

『サイレンススズカは不安定な状態が続いています。医師や沖埜トレーナーが看護にあたっていますが、非常に厳しい現状です。』

 

メジロ家の屋敷。

夕暮れから夜になった空の下、庭に出ていたマックイーンは、ブルボンから送られてきた通知を見、深く息を吐きながら空を見上げた。

やはり、事態は徐々に深刻化してきましたか。

予測のついてたこととはいえ、重い溜息が出た。

サイレンススズカに事の解決への協力を求めることは無理そうですわね…

 

 

しばし夜空を見上げていたマックイーンは、再びスマホに眼を戻した。

スズカの状況を記した通知の最後に、ブルボン個人の通知が記されていた。

 

『私は今後、ライスシャワーの行動を制止することはしない決断をしました。勝手な行動をお許しください。』

 

「了承しましたわ。」

通知を閉じて、マックイーンは呟いた。

恐らくブルボンは、差し迫ったライスとの永別の時まで片時も離れず、彼女のその行動…いや、最期の使命を全う出来るよう見守り続ける決意だろう。

 

あなたならライスの余命を優先すると思ってましたが…

 

だが、マックイーンはブルボンの決断を尊重することにした。

ライスに対する思いと繋がりが最も深い同胞は、自分よりもブルボンの方だということは分かっていたから。

だからその決断は、私よりも重い。

 

ブルボン、あなたに託しますわ。

ライスの最期の祈り、スズカを救うという使命を、どうか果たせてあげてください。

 

マックイーンは込み上げる震えと嘆きを抑えて、再び夜空を仰いだ。

 

 

 

*****

 

 

『私は、全てのウマ娘を幸せにする為に、この世界に入りました』

 

メジロ家の別荘。

夜空の下、岡田は競走場でオフサイドの練習を見守りながら、かつての沖埜の言葉と、彼とスズカの姿を脳裏に浮かべつつ、胸中で思った。

 

…沖埜、お前は、スズカを救うことだけを考えろ。

スズカを救える人間は、スズカの一番の理解者でかつ彼女の生きがいを切り拓いたお前しかいないのだから。

 

 

 

 

*****

 

 

場は戻り、療養施設のシアトルの宿泊室。

 

エレベーター前でライスと鉢合わせした後、自身の宿泊室に戻っていたシアトルは、夕食を食べた後一息つきながら、先程邂逅したライスの姿を思い浮かべていた。

 

 

自分を見た時に翳った眼光、俯いた表情、そして杖をついた脚と…

『もうライスは永くないかもしれないわ…彼女を宝塚の呪縛から解き放って欲しい』

椎菜の言葉が思い起こされた。

 

「永くない…か。」

シアトルは、悲しそうに呟いた。

ライス先輩といえども、あの大怪我だけはどうしても乗り越えられなかったか…

 

でも…

「還られる前に、一緒に乗り越えましょう。」

今度は、決意を込めた口調で呟いた。

「あの宝塚の悲劇を。」

 

シアトルは窓の外の夜空へ視線を向けながら、ゆっくりと立ち上がった。

 



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懸ける(1)

 

一方その頃。

特別病室前でブルボンと共に待機していた美久も、自身の宿泊室に戻っていた。

 

『あなたは去った方がいい…もうここでは幸せな写真は撮れないから』

部屋で一人佇んでいる美久の脳裏には、ブルボンから言われた言葉が渦巻いていた。

その言葉の意味は、今後起こりうるであろう事の展開と結末を暗示しているように思えた。

 

言う通りにした方がいいかしら。

重いものばかりが募っていく胸中で、美久は思った。

スズカやオフサイドの件だけでももうかなり身に堪えていたのに。

『私、もう永くないわ』

ライスから受けた衝撃の告白がよぎり、重い鈍痛となって胸に響いた。

こんな、悲しことばかりになってしまった場所に、私の居場所はもうないかもしれない。

ウマ娘の幸せな姿を残すことを天職としている美久は溜息を吐いた。

 

 

コンコン。

部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「…どうぞ。」

「失礼します。」

 

「…!」

来室者を見て美久は驚いた。

「ダンツシアトル。何の用?」

「三永美久さん。あなたにお願いがあって来ました。」

 

美久の前に立ったシアトルの口調は、先程とは違い何かの決意を帯びた緊張感を伴っていた。

 

 

 

 

一方、特別病室前。

沖埜と共に特別病室にいたライスが部屋を後にしたのは、入室してから40分程経った頃だった。

 

「ライス。」

「…。」

病室を出てきた彼女に、ずっと室外で待機していたブルボンは声をかけたが、ライスは何も答えず、そのままブルボンの傍らを通り過ぎた。

「部屋に戻られるのですか。」

「はい、一旦戻ります。」

ライスは言葉少なに答えた。

様子からして、彼女はスズカに対し何の行動も起こしていないようだった。

今は沖埜トレーナーに任せたということですか。

ブルボンはそう推察し、最上階を去っていくライスの姿を見送った。

 

 

ライスがいなくなってから数分後。

白衣姿の椎菜が最上階に現れた。

 

「どう、様子は。」

「状況の変化は特にないようです。」

側に来た椎菜の問いかけにブルボンは答えた。

現在病室内にいるのはスズカと沖埜の二人きりで、先程出てきたライスも何も言わなかったからどんな状況なのかは外部からではよく分からない。

「待機している医師の先生方にも動きはないので、現状サイレンススズカは危険な状態には至ってないかと。」

「そう。」

もう限界寸前だろうということは、椎菜もブルボンも分かっていた。

「スペシャルウィークは?」

「下に戻ったきりです。彼女がどうなっているかは分かりません。」

 

「…。」

椎菜は傍らのベンチに腰掛けた。

スズカとスペの間で何かが起きたらしいという報告は他の医師から受けていた。

恐れていた事態はここまで来たかと、椎菜も胸中も切迫していた。

「スペの側には誰かいる?」

「フジヤマケンザン先輩が付き添っていると思います。」

「ケンザンが?」

「スペシャルウィークと一緒に下に降りて行きましたので、多分そうだと思います。」

「…そう。」

立場的には色々と複雑だろうにと、椎菜はケンザンを思い遣った。

後輩が殆ど救いを受けられなかったのにね…。

『ほんの僅かでも救いの可能性を広げる為に』

病室でのケンザンの言葉が思い起こされた。

 

「ライスはどうしたの?」

少し経った後、椎菜は尋ねた。

「ライスは先程、一旦下に戻るとここを後にしました。」

「彼女の脚の状態はどうだった?」

 

「…え?」

不意をつかれたように、ブルボンは思わず眼を見張って椎菜を見た。

椎菜は表情を変えず、ふっと息を吐いた。

「私だって医師だから気づいてるわ。ライスの脚は、もう限界寸前でしょう。」

 

「今そのことは、一切触れないで下さい。」

ブルボンは珍しく睨むような視線を向けた。

「ライスの脚については絶対に口外しないようお願いします。」

「分かってるわ。」

椎菜はニコリともせずに頷いた。

「ただ、私もライスに対し行動を起こさせて貰ったわ。」

「…?」

怪訝な表情をしたブルボンに、椎菜は続けた。

「ダンツシアトルをここに呼んだわ。」

 

「…何ですって。」

ブルボンの無表情が、険しく動いた。

「もう来てるわ。さっき私と挨拶もした。もしかするとライスとももう顔を合わせたかもしれない。」

「何故、シアトルを?」

ライスの様子が少し変わってたのはそれが理由かと察しつつ、ブルボンはやや口調を険しくして詰問した。

「目的は一つじゃないわ。私の為、ここで生活してる療養ウマ娘の為。そして、ライスの為。」

椎菜はブルボンの厳しい視線を見返した。

「彼女がこの世を去ってしまうかもしれないその前に、あの宝塚の呪縛から解き放つ為に。」

 

 

 

 

遡ること数分前。

特別病室を後にしたライスは、杖をつきながら施設内の宿泊室へと戻っていった。

 

だが。

「あ。」

宿泊室の手前で、ライスは足を止めた。

部屋の扉の前で二人の人物…美久とシアトルが、彼女を待つように立っていたから。

 

 

「…。」

「…。」

先程エレベーター前で鉢合わせした時と同じく、ライスとシアトルの間に重い沈黙が流れた。

言いようのない感情と時間を揺らめかせながら。

 

 

「お久しぶりです、ライスシャワー先輩。」

重い沈黙を破ったのはシアトルの方だった。

「…お久しぶり、ダンツシアトルさん。」

左脚に激痛を感じつつ、ライスは杖で身体をなんとか支えながら挨拶を返した。

「今日、こちらに来たのかしら?」

「ええ、椎菜先生から頼みを受けましてね。私もそろそろ療養施設に顔出ししてもいいかなと思って、それで来ました。」

「そうですか…お元気そうで良かったです。」

 

「…。」

ライスの言葉にシアトルはなんとも言えない微笑を浮かべ、そして続けた。

「少し、お話でもしませんか?」

「話?」

「3年前の宝塚記念のことをです。」

 

シアトルの言葉と同時に、場の空気が更に張り詰めたものに変貌した。

 

「はい。」

息が詰まりそうな空気の中、ライスは静かに頷いた。

眼光から漏れ出た蒼芒が、やや怯えて見えた。

「では、外で。」

「はい。」

「美久さんもご一緒下さい。」

「うん。」

 

シアトルは廊下を歩き出した。

ライスは杖をついた身体を美久に支えられてつつ、その後ろに続いた。

 

 

 

*****

 

『ダンツシアトルが、椎菜医師の頼みでライスと会う為に療養施設に来ました。どうやら既に再会したようです。』

メジロ家の屋敷。

庭に出て夜景を眺めていたマックイーンは、ブルボンからその報告を受けると静かに眼を瞑った。

 

「感謝します。椎菜医師、ダンツシアトル。」

ライスの為に動いてくれたことを。

自分と違い、ライスにはまだ救いの道が残されていたのだから。

 



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懸ける(2・ダンツシアトル回想話)

*****

療養施設。

 

シアトル・ライス・美久の三人は上着を羽織って、施設の外に出た。

 

夜になった外は満天の星空だった。

冬の高原なので当然かなり寒かったが、この日は寒風は少ないのでそこまで肌寒くはなかった。

 

三人は夕方頃ライスとブルボンが会話していたあたりの芝生の場所まで行き、そこに腰を下ろした。

 

「綺麗な夜空ですね。」

膝を組んだシアトルは夜空を見上げ、うっとりとした口調で言った。

「現役時代の療養生活中もそうでしたが、ここから眺められる夜空の光景には本当に心を癒されましたね。」

「そうですね。」

ライスも同じように見上げた。

自身も療養時代、何度もこの夜空を眺めていた。

 

 

しばしの間夜空を仰いでいたシアトルだが、やがて視線を下ろすと、ライスの方を見ずにゆっくりと再び口を開いた。

「ライス先輩とお話するのは、今日が初めてですね。」

「ええ。」

ライスもシアトルを見ずに頷いた。

 

年齢はライスがシアトルの一歳上。

チームも違いトレーニング仲間でもなく、闘ったレースも一戦だけなので、二人の接点は殆どない。

あるのは、一時期この施設で同時期に療養生活を送っていたことと、唯一闘ったあの宝塚記念だけだ。

 

「でも、この3年半、私の胸中からシアトルさんの姿が消えたことはありませんでした。」

ライスは重く言葉を絞り出した。

3年半の思いが詰まっているように聞こえた。

 

「私もです。」

ライスの言葉の重みを感じつつ、シアトルも顔を膝に埋めながら言葉を返した。

「あの宝塚記念以降、ライス先輩の姿がずっと残り続けてましたから。様々な感情を渦巻かせながら。」

「…。」

快活だったシアトルの口調が重く変わり、ライスは胸が締め付けられた。

 

「…宝塚記念、」

ライスは、胸中に痛みを伴わせながら言葉を絞り出した。

「宜しければ、あの宝塚記念の後から今日に至るまでのシアトルさんの出来事を、教えて頂けますか。」

 

「…。」

シアトルは、つとライスを見た。

「何故、そんなことを知りたいのですか?」

「知らなければいけないからです。私の故障が、あなたに何を背負わせてしまったかを。」

腕を左脚に当てつつ、ライスは蒼芒も口調もやや震えていた。

 

シアトルはライスの揺れる蒼芒をじっと見つめた。

『ライスを、宝塚の呪縛から解き放って欲しい』

脳裏に、椎菜の言葉が再び蘇った。

やはり、本当だったんだな。

 

「分かりました。」

シアトルはふっと息を吐き、ライスから眼を逸らした。

「お話します。あの宝塚記念、そして宝塚記念後、更に引退後から今日に至るまで、ライス先輩の故障が私にどれだけの影響を及ぼしたのかを。」

シアトルの言葉に、積年の重みがのしかかっていた。

 

「はい。」

ライスはぎゅっと自らの身体を守るように抱きしめた。

 

 

 

*****

 

(ダンツシアトル回想)

 

3年半前、宝塚記念。

 

デビューから約3年、私は遂に掴んだ夢舞台に立っていた。

レースには、幾多のG1覇者や歴戦の重賞覇者など今までとはまるで違う強豪達が揃っていた。

その中で、私は2番人気に推された。

前レースでようやく初重賞制覇したばかりなのにと驚いたけど、大きな期待を受けたことはやはり嬉しかった。

いや、まずこの舞台に立てたことが何より嬉しかった。

骨折、不治の病、幾多の仲間との別れ、その苦しい悲しい歳月を乗り越えて掴んだ大舞台だったから。

憧れだった同胞達と同じ舞台で闘えることにも高揚した。

同期のタイシンやネーハイ、サクラチトセオー先輩、そしあのライス先輩。

同じ舞台にいることが夢みたいだった。

 

それらの嬉しさとは別に、このレースで勝たなければならないという思いも強かった。

幾度の故障に苦しんだ脚はいつ限界が来てもおかしくない。

今、幸い脚部は安定しており、レースでも最大限の力が発揮できている。

こんなチャンスは2度とない。

だから、勝たねば。

私は心にそう強く誓っていた。

栄光の為に、仲間の為に、生き残る為に。

 

 

そして、夢舞台のレースは始まった。

 

スピードが出ると見られていたバ場状態の中、予想通りレースはスタートから比較的速いペースで進んだ。

無難なスタートを切った私は、先頭勢でレースを進めていた。

いける!

レース序盤から、私はかなり良い手応えを感じていた。

そして速いペースのまま3コーナを迎え、私は内内からスパートをかけ始めた。

 

その時、大観衆からもの凄いどよめきと悲鳴のようなものが聞こえた。

後方で何か起きたのかな?

私は一瞬気になったが、レース展開に特に動きはなかったので、大したことはないと判断しレースに集中した。

 

 

そのまま4コーナーから直線に入ると、私はラストスパートをかけた。

内内から前にいた走者を交わし、残り200m前で先頭に立った。

最後はタイキブリザードやエアダブリンが猛追してきたがそれを必死に凌ぎ、私は先頭でゴールを駆け抜けた。

 

やった!

ゴール後、私は嬉しさのあまり思わず叫んだ。

遂に夢のG1を制した。

しかもタイムはレコードだった。

長年の苦境を乗り越えて、大きな栄光を掴んだことに歓喜した。

 

 

だけど。

 

…?

しばらく歓喜の中に浸っていた私は、場内の雰囲気がおかしいことに気づいた。

何故だか、ずっとざわざわしてる。

騒然としている雰囲気で、歓声もあまり聞こえない。

それに何より大観衆の殆どが、勝者である私を見ていない。

誰もが、別の方向へ視線を奪われていた。

 

なんだろう…

私も同じ方向、3コーナーの方を向いた。

 

そして、全身が戦慄した。

あのライスシャワー先輩が、無残な故障を負って倒れている姿が眼に入ったから。

同時に、レースの途中で聞こえたあのどよめきはライス先輩に故障が起きた時のものだとも分かった。

 

その後、何人もの救護班や同胞達が瀕死状態のライス先輩の元へ駆けつけ、懸命の応急処置にあたっていた。

救急車もすぐに駆けつけ、ライス先輩は搬送されていった。

 

その間、場内はずっと騒然としていた。

ライス先輩の故障は生命が危険な程の重傷だと誰もが感じとっていた。

人気実力共にウマ娘界随一の先輩の身に起きた悲劇に、観衆からは泣き声や悲嘆も多く聞こえた。

G1レースとは思えない、異様な空気になっていた。

 

そうした状況下で、私は混乱し始めていた。

G1を制した歓喜の一方で、憧れでもあったライス先輩の身に起きた悲劇への悲しみも胸中を浸し出していたから。

夢を叶えた、栄光を掴んだ。

凄く嬉しい、嬉しいはずなのに、喜びきれない。

勝者への祝福がない場内の雰囲気も、混乱に拍車をかけた。

喜べる状況じゃない、笑顔になってはいけない…

私の心から、勝利の歓喜が消えていった。

 

その後、迎えたレース後の表彰式。

ライス先輩の悲劇のショックに覆われた雰囲気の中、私は笑顔がないまま表彰台に立った。

そして、優勝インタビューで今の胸中を尋ねられた時、私はこう答えてしまった。

「…ライス先輩の故障がショックで、とても喜べないです…」

 

私にとって夢を叶えられた筈の宝塚記念は、喜びも笑顔も閉ざした状態で終わった。

 



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懸ける(3・ダンツシアトル回想話)

 

(ダンツシアトル回想)

 

宝塚記念後。

 

ウマ娘界のニュースは、私の優勝ではなくライスシャワー先輩の故障一色に染まった。

ライス先輩の故障はやはり重く予後不良もやむを得ない程のもので、僅かな可能性に懸けて懸命の治療が行われていた。

 

一方の私は、宝塚記念優勝に関するニュースは少々報道されたが、あまり大きく称えられることはなかった。

大スターであるライス先輩とほぼ無名だった私との知名度の差もあったろう。

私の優勝をニュースするということは同時にライス先輩の故障をニュースすることでもあったからだし、またその影響でレースシーンも振り返り難い為だった。

もうあの宝塚記念は、ウマ娘の歴史上で最も振り返りたくないレースの一つになるだろうことは明らかだった。

 

そして学園内でもやはり、ライス先輩の身を案じる声が大きく、私への祝福の声は少なかった。

正確には祝福し難かったのだろう。

レースを闘うウマ娘らしく勝負的に見れば、例えライス先輩が故障しなくても私の優勝は動かなかっただろうという見方が多かったと思う。

先頭勢にいた私と違いライス先輩はかなり後方でレースを進めていた為、故障時に他の出走者がその影響を受けた点はほぼなかった。

また私の優勝タイムがレコードだった点、中距離ではやや実績が乏しいライス先輩は、例え無事だったとしても勝てた可能性は低いという見方も多くあるようだった。

それにそもそも、無事であることも実力の一つである点、私の優勝に疑問符がつけられる点は一切なかった。

 

でも、それら全てを分かっていても、周囲はやはり私の栄光に対してぎこちなくならざるを得なかった。

それだけ、ライス先輩の故障は同胞達にも多大なショックを与えていた。

それに何より、私自身がそれをあまり求められなかった。

宝塚記念の表彰式で『とても喜べない』と発言した以上、この状況は受け入れざるを得なかった。

 

 

そして数週間経ち、懸命の治療が報われライス先輩は奇跡的に生命が助かり、世間は安堵し喜んだ。

勿論私もその一人だった。

宝塚記念のことを祝福されなかったのは心残りだったけど、また次の大舞台で栄光を掴めばいい。

そうすれば今度こそ祝福を受けられるだろうと、なんとか心を入れ替えようとしてた。

 

だけど。

 

宝塚記念から一月程の経った頃、私は古傷を抱えていた脚に違和感を覚えた。

そして検査を受けた結果、悪い予感は的中した。

かつて患った〈クッケン炎〉、通称〈死神〉の再発症だった。

遂に掴んだ栄光から飛躍を遂げることなく、私は再びレースから離脱し療養せざるを得なかった。

 

そして、その療養生活は一月も経たずに終わった。

治ったわけじゃない。

私は復帰を諦めて引退を選んだから。

 

 

 

 

*****

(現在)

 

 

「レースへの想いが、失われてしまったんです。」

 

療養施設の高原。

ライスの傍らで膝を組んでいるシアトルは、夜景を見ながら淡々と回想した。

 

「あの宝塚記念…いや、その数ヶ月前の春、〈死神〉との闘いを乗り越えて1年以上ぶりにレースの舞台に戻ってきた私は、これが栄光を掴む最後の機会だと覚悟してました。一日一日〈死神〉再発症の恐怖と闘い、限界ギリギリまでパフォーマンスを上げられるようトレーニングを必死に行い、レースに挑む準備をしてました。」

そして復帰初戦の条件戦を12番人気で勝ち、続くOP戦は他走者の落バによる致命的煽りを受けながら3着に食い込み、次戦のOP戦では完勝し初のOP勝利。

更に次の京阪杯ではG1覇者や重賞覇者が何人もいる中で1番人気に推され、そしてその期待に応え優勝。

初重賞制覇を果たすと同時に、初のG1レースである宝塚記念への切符を掴みとった。

この間、僅か50日間の出来事だった。

「脚の不安は当然ありましたし、ハードなローテの疲労もありましたが、夢を叶える為そして生き残る為には耐え抜いて闘うしかなかった。正直、脚が壊れて還っても構わないくらいの覚悟がありました。」

 

そして、遂に立つことが出来たその夢舞台で、悲願の栄光を掴んだ。

 

だけど…

「そこまでの覚悟の果てに私が得たかったものは…これだったのかな。宝塚記念後、私はそんな思いに苦悩しました。」

歓喜なき栄光、祝福なき勝利、顧みられない走り。

宝塚記念後、その異様な状況がシアトルを苦しめていた。

仕方のない、やむを得ないことだと受け入れたつもりでも、やはり複雑な心境だけはごまかせなかった。

 

そして、なんとか次の大舞台に向けて心を切り替えようとしていた矢先に起きた〈死神〉再発症。

以前までだったら、再び復活することへの意欲があったと思う。

だけど、あの祝福なき栄光を経験してしまった現状により、夢への憧れやレースへの渇望というのが失われてしまっていた。

その結果、シアトルは引退した。

心が折れた以上、〈死神〉に抗うのはもう不可能だったから。

 

 

「虚しかったですね、学園を去る時は。」

シアトルは、一切包み隠さず当時の心境を口にした。

「悲願の栄光を手にしたのに…ボロボロになった脚を鞭打って闘い勝利したのに、誰からも素直に祝われなかった。やりきれなくて、もう二度とレースのことは考えたくないとすら思いました。」

「…。」

ライスは、眼を瞑って心を押し殺しながら、シアトルの言葉をじっと黙って聞いていた。

 

「それでも、私は引退後に一縷の夢を持ってました。私は血統に無敗の3冠の血を引き、また宝塚記念をレコードで制した実績とスピードを持ったウマ娘。次世代を担うウマ娘達を輩出できる立場にあると自負してましたから。ウマ娘は引退後も重要。ライス先輩もそれはよくお分かりですよね。」

「…ええ。」

ライスは小さく頷いた。

宝塚記念前に既にG1を3度制していたライスが引退しなかったのは、引退後の重要さを分かっていたからでもあった。

 

「最も、私のその考えは甘かったですね。」

シアトルは自虐的に微笑した。

「私は、知名度や印象というのを過小して考えてました。オサイチジョージ先輩やプレクラスニー先輩の前例等をちゃんと勉強するべきでしたね。」

 

 

引退後、シアトルはG1覇者でありながら、次世代のウマ娘を輩出する仕事をあまり与えられなかった。

理由は、当時に重要視されてた血統の背景などの理由もあったが、一番の理由はシアトルの世間における知名度の低さと印象の薄さだった。

彼女の名を聞いてもG1覇者だと分かる者は少ない程、彼女の存在は知られていなかった。

宝塚以外の実績が乏しかった点も影響したにしろ、それにしても知られてなさ過ぎた。

 

そして何より…

「私が制したG1レースが何か分かると、誰もが複雑な表情を浮かべるんですよ。時には『あの悲劇のレースか』とはっきり言う人達もいましてね…それが本当に辛かった。」

微笑を保ちつつも、シアトルの表情は引き攣っていた。

「…。」

ライスは、何も言うことが出来ず、ただ黙っているしかなかった。

 

少し間を置いた後、シアトルはゆっくり続けた。

「私には、引退後の夢を叶えられる場所も満足になかった。そう痛感しました。おまけに、どこにいっても私の印象は『悲劇のレースの勝者』…正直、絶望しましたね。もうこの世界に私の居場所なんてないとすら思った程に。実際、もう還ってしまおうかと、何度か崖の淵に立ったこともありました。」

…。

ライスは思わず顔を伏せた。

さすがにシアトルの表情を直視することは出来なかった。

 

「でも、全てを捨てて帰還する選択は一歩手前で思い留まり続けました。」

ライスの様子を横目で見た後、シアトルはその時の心中を思い返しつつ続けた。

 

「私はまだこの世界でやることがある、出来ることがある。そう望みを繋いできましたから。生きていれば、生きてさえいれば、いつかそれが見つけられると。〈死神〉との闘病中もそうでした。先の見えない絶望の中で、僅かな希望を集めてそれを繋ぎながら必死に生きてきましたから。」

「…。」

 

「そして、しばらく経った頃、九州の地で私を必要としてくれる人達がおり、そこで次世代輩出の仕事を頂きました。その後、北の大地や関東の地にも一時期いましたが、今は九州に定住して仕事を続けています。正直、理想的な次世代の輩出は厳しい現状ですが、それでも少しでもウマ娘界の未来に役立てればと思って、生き続けています。」

 

シアトルはそこまで話しきると、大きく息を吐いて夜空を仰いだ。

 



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懸ける(4)

 

しばらくの間、沈黙が流れた。

聞こえるのは時折靡く寒風の音だけで、シアトルもライスも美久もずっと黙っていた。

 

やがて、

「遅くなってしまいましたが、」

ライスは蒼白な表情で俯いたまま、絶え入りそうな声で口を開いた。

「ダンツシアトルさん。私の故障が、あなたの栄光を閉ざしてしまったことを…本当に…ごめんなさい。」

 

「ライス先輩が謝る必要はないですよ。」

言葉にならない謝罪を受けたシアトルは、ライスの方を見ずに首を振った。

「勿論、心のどこかで、『ライス先輩の故障がなければ』という思いがあったことは事実です。でも先輩を責めたくなる程にはなりませんでした。だってあれはどうしようもないこと。ウマ娘のレース中の故障は誰にでも起きうる。絶対はない世界なのですから。」

「だとしましても、私は…」

 

「むしろ詫びるべきは私の方です。」

つと、ライスの言葉を遮るように、シアトルは口調を変えて言った。

「もっと早く、先輩を苦しみから解放させてあげたかったのに、ここまで時間がかかってしまったんですから。」

 

「え?」

「私が生きてた理由の一つがそれですから。何故なら、ライス先輩もあの宝塚記念を背負って苦しんでいることは間違いないと感じてましたから。かつて、祝福なき栄光に幾度も苦しんだ過去を持つ先輩なら。」

 

「私の苦しみ…」

「ただ、先輩を苦しみから解放させる為には、まず覇者である私がそれから解放されなければならないと思ってました。だから、私はずっと探し続けていました。」

「探し続けていた?」

「私が現役時代、あの宝塚記念に至るまでに得たものをです。」

 

シアトルは再び夜空に眼を向けた。

先程やや険しくなっていた口調が、穏やかなものに戻っていた。

 

 

安住の地を見つけて以後、月日が経つにつれ、シアトルは自分が現役中に得たものは何だったのか考えるようになっていた。

一時期はもう当時のことなど二度と思い出したくないという程記憶を閉ざしていたが、新たな生活をスタートしたことでそれを見つめなおさなければと思うようになっていた。

特に、競争生活の集大成となったあの宝塚記念で得たものを。

悲劇に塗りつぶされた忌まわしいレースだと諦めていたけど、本当にそうなのか。

レースで走りきること、そして勝つことの尊厳は失われてたのか。

 

「そして、私はあの宝塚記念で残した自分の走りの記録を見返す決心をしたんです。一時はもう二度と見たくないと思っていたレースの内容を…宝塚記念から2年程経った頃でした。」

 

 

当初は見返すことなどとても出来なかった。

途中で何度も記録のテープを止めた。

ライスが故障した瞬間のどよめき、レース後の異様な状況、周囲の微妙な視線。

それらの辛過ぎる記憶を思い出して、頭痛に襲われたり吐き気を催すことも多々あった。

それでも、何百回と挑んでいくうち、遂に自分の走りを全て見返すことが出来るようになった。

 

「その時、私はようやく分かったんです。私が得たものはこれだったんだと。」

 

全てを見返すことが出来た、宝塚記念での自分の走った姿。

それはまさに最高のものだった。

自分の持っている全てを出し切っていた。

スタートからの位置取り、淀みないペース、3コーナーから直線向いてからのスパート、そして最内から先頭に立ってそのまま他を捩じ伏せてゴールした自らの姿を見て、忘れかけていたレース時の記憶も思い出した。

このレースに全てをかけて挑んだ自分、その全てを捧げてかけたラストスパートを。

 

「あのレースで私は、持っている力の全てを出し切った走りが出来ていました。レースでそれが出来ることは非常に難しい。一度も出来ないウマ娘だって多い。でも私は出来ていた。〈死神〉に冒されて二度と本気で走ることが出来ない脚だった筈なのに、それを許されていた。」

脳裏でレースを思い返しながら、シアトルは感慨深そうに言った。

表情も、快活で満ち足りた微笑に変わっていた。

「全てを出し切り、最高の走りが出来た。ウマ娘としてそれは何よりも嬉しいことです。それに加えて、私は勝つことも出来た。これが幸せなことでなくてなんでしょうか。」

 

「…。」

「勿論、勝者として祝福や称賛を受けたかった思いや、あのレースでの私の走りをもっと多くの人々に見てもらいたかったという思いは残っています。」

無言で聞き続けているライスの傍らでシアトルは正直に吐露し、ですがと続けた。

「私があの宝塚記念で得たもの…ウマ娘として最高の走りと結果を得ることが出来たのは間違いありません。これは絶対に侵されることも失うこともない素晴らしいものです。ウマ娘ダンツシアトルが得た最高の誇りであり名誉です。それだけで、私は充分満ち足りました。」

 

「シアトルさん…」

「それに、私が今生活と仕事の場を与えられたことも、あの宝塚記念で得られた大きなものの一つでしょう。表には出ずとも、私の勝利を見てくれていた人達がいた、覚えてくれた人達がいたから、私は引退後の場を与えられた。それだけでも、本当に良かったと思えます。」

 

そこまで話し終えると、シアトルは夜空の星々を仰ぎながら深く深呼吸し、耳元の黒髪に触れながらにっこりとライスを見つめた。

 

「もう今では、私はあの宝塚記念を複雑な記憶として残してはいません。私がウマ娘として最高のものを得ることが出来た夢舞台だったと、胸を張って言えることが出来ます。そう、私は誇り高き第36回宝塚記念の覇者・ダンツシアトルだと。」

嘘偽りの全くない、言葉通り誇りと幸福感に満ちた口調で、シアトルは言った。

 

 

「…。」

シアトルの満ち足りた表情を、ライスはしばし茫然と見つめていた。

 

だがやがて、

「う…うっ…」

ライスの眼から、涙がポロポロと溢れ出した。

許してくれた…乗り越えてくれた…

止めようとしても、溢れ出した思いは到底抑えきれなかった。

「…ありがとう…シアトルさん…」

3年半、心の奥底で背負い続けていたものが、左脚の痛みと共に浄化されていく感覚がした。

 

「ライス先輩…」

シアトルも声を詰まらせると、笑顔のままライスの肩をぎゅっと抱き寄せた。

「お互い、長かったですね。でも、良かったです。」

また、巡り会うことが出来たから…

「…はい…本当に…本当に…」

涙を溢れさせたまま、ライスもシアトルの肩を抱き返した。

 

 

ライス…シアトルさん…

傍らで二人の様子を見守っていた美久も、目元が潤み始めていた。

口元を抑えながら、美久はカメラを取り出し、二人の姿にレンズの照準を合わせた。

今なら、ウマ娘の幸せな姿を撮ることが出来る…。

 

冬の夜空の下、シャッターの音が静かに響いた。

 



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『第6章・下』
トレーナー(1)


 

*****

 

その頃。

メジロ家の別荘では、オフサイドが自室で岡田と共に夕食をとっていた。

 

朝からオフサイドと岡田はほぼずっと行動を共にしていたが、会話をかわしたのは朝と午後の数回だけ。

オフサイドは相変わらずトレーニングに集中し続け、岡田はただそれを見守っているだけだった。

 

 

だが、夕食後。

 

「オフサイド、」

岡田は、再びトレーニングを再開しようとしていたオフサイドに、意を決したように声をかけた。

「なんでしょうか。」

「話がある。トレーニングはせずに、後で私のいる別室に来い。」

「それは、命令ですか。」

「命令だ。」

岡田は、今までにない厳しい視線で告げた。

「分かりました。」

オフサイドは特に表情を動かさず、恩師の指示に頷いた。

 

 

数分後。

岡田とオフサイドが、別荘内の一室で二人きりになった。

 

「改めて言うことでもないが、確認の為に聞いておこう。」

向かい合わせに座りあうと、岡田はすぐに口を開いた。

「先日私はマックイーンから、お前が今度の有馬記念で重大な行動をおかす決意を固めているということを聞いた。それは、本当で間違いないのか?」

「ケンザン先輩やゴールドにも、自分の決意は話しました。」

窶れた表情に不気味なほどの冷静さを保たせて、オフサイドは淡々と答えた。

 

そうか、と岡田も表情を変えずに頷いた。

「そこまでに至ってしまったお前の絶望の大きさは、私も分かってるつもりだ。あの天皇賞・秋にお前がどれほどの想いをもって挑んだか、人間では私が一番知ってるからな。」

 

「…。」

岡田の言葉を受け、オフサイドの頬に複雑な微笑が浮かんだ。

「あれほどの想いをかけて挑んだレースがあんな内容になってしまって…トレーナーには申し訳なく思ってます。」

「やめろ。」

岡田はその言葉を遮るように睨んだ。

「お前はそう言うが、私の思いはの天皇賞・秋後のインタビューの通りだ。恥ずべき内容などとは露ほどにも思ってない。」

 

「…。」

岡田のその言葉にオフサイドはやや眼を伏せた。

もう称える声すら、彼女の胸には響いていないようだった。

岡田もそれは分かっていた。

「私がどう言っても、お前があのレースで求めてたものを得られずに全てを失ったと感じてしまっている以上、もうその決意を変える気はないようだな。」

 

「お許しください。」

オフサイドは俯いて、感情のない声で返した。

岡田の言葉通り、もう彼女の決意は揺るがなかった。

 

「とはいえ、」

オフサイドの詫びる姿を見て、岡田は一呼吸おいた後、再び言った。

「お前がその決意をした理由は、マックイーン達に伝えたようにただ絶望しただけではないのだろう?」

 

「…。」

ピクっと、オフサイドの俯いた肩が反応した。

その反応を見つつ、岡田は続けた。

「絶望だけじゃない。間違いなくブライアンのこともあるだろう。そして何より、お前は帰還することに使命を見つけてしまった。それが理由じゃないのか。」

人間の岡田の言葉が、ウマ娘のオフサイドの肺腑に突き刺さった。

 

重い沈黙が流れた。

オフサイドは俯いたまま微動だにせず、岡田もただ黙念と彼女の姿を見つめているだけだった。

 

「岡田トレーナー、」

やがて沈黙を破ったのは、オフサイドの方だった。

「私の考えていることは、全て見通しているということですか…。」

「当然だ。私は、お前の生き様を誰よりも見てきた人間なのだから。」

「では、」

オフサイドは顔を上げ、虚ろな微笑と共に岡田を見つめた。

「私の使命の遂行を、後押しして下さるのでしょうか。」

 

「馬鹿なことを言うな。私を誰だと思っている。ウマ娘の未来の為に人生を捧げると決めた人間だぞ。」

岡田は即座に否定し、厳しい口調で言った。

「そんな私が、お前のその絶望から導き出された使命を肯定するわけがないだろう。」

「では、私は使命も果たさずただ空虚な絶望の中で朽ち果てるしかないと言うのですか。」

「違う。私は、お前には本当の使命を見つけて欲しいだけだ。」

「本当の使命?」

なんですかそれは、とオフサイドが尋ねると、岡田は答えた。

「生きていれば、いずれ分かる。」

 

「…。」

岡田の返答を聞き、オフサイドはふっとまた窶れた微笑を浮かべた。

「そうかもしれないですね。でも、私はその先の使命など求めません。私が成すべき使命は、ここまで辿り着いたものしか出来ない使命ですから。」

言いながら、オフサイドはゆっくりと右脚を庇いながら立ち上がった。

 

そして、岡田を見下ろしながら、大きく深呼吸して眼を瞑った。

その瞬間、オフサイドの雰囲気が一変した。

同時に、彼女の周囲に恐ろしい幻影が拡がった。

 

「お前…」

それが視えた岡田は、思わず身体を戦慄させた。

 

数秒後、オフサイドはゆっくりと眼を開いた。

同時に雰囲気も元に戻り、幻影も消えた。

 

「分かりましたか?」

冷たい汗を滲ませた岡田を見下ろしつつ、オフサイドは淡々と言った。

「私はここまで来てしまったんです。最果ての世界…そう、〈死神〉の領域に。」

彼女の頬に、冷たい微笑が浮かんで見えた。

 

「私は、私にしか出来ない使命を遂行します。ウマ娘の未来の為に。」

絶望の果てで達観したような口調で言うと、オフサイドはそれ以上は何も言わず、岡田に一礼し部屋を出ていった。

 

 

オフサイドが去った後、しばし黙念としていた岡田だが、やがて携帯を取り出し電話をかけた。

かけ先は療養施設にいる沖埜だった。

「もしもし沖埜か。…ああ、今はやはり会うのは無理だ。…来るのはやめろ。…オフサイドはこちらでなんとか対応する。まだ時間はある…。…今は、スズカの方が懸念が大きい…そうか、分かってたか。…じゃ。」

 

 

オフサイド…

沖埜への電話を終えた後、岡田は椅子に座ったまま眼を瞑りつつ重い溜息を吐いた。

オフサイドが背負ってしまった者達と、オフサイドの心を破壊したものの正体…

先程、それを見せつけられた

以前から薄々感じてはいたことだが、それが明確に分かるとやはり衝撃は大きかった。

 

だが。

衝撃を受けつつも、岡田は胸の内で思った。

オフサイド、帰還は絶対に駄目なことだ。

〈死神〉を受け入れてはいけないんだ。

例えその先に、お前の言うウマ娘の未来の為の使命があったとしてもだ。

 

俺だけじゃない。

ゴールドもルソーもケンザンも、沖埜もスズカもマックイーンも、そして他のウマ娘達も、皆お前の帰還など望んでいない。

お前を理不尽に責めた人間連中ですらそうだろう。

何より、お前と全てを共にしたあの二人の同胞が、そんなことは絶対に許さないに決まってる。

 

それに、もしお前が使命遂行し帰還したら、それはお前一人で済まないことだって分かってるだろ。

お前と同じ夢を抱いていた同胞達がどうなるか。

 

苦悩に満ちた思いが、岡田の胸中と脳裏を渦巻き続けていた。

 

 

それから数十分後。

岡田の携帯が鳴った。

 

相手は沖埜だった。

 

「もしもし、沖埜か。」

『岡田さん。私は、一つの決断をしました。』

 



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トレーナー(2)

 

*****

 

 

数十分前、療養施設。

 

特別病室の外で岡田からかかってきた電話の対応をしていた沖埜は、電話を終えると病室内に戻ってきた。

 

ベッド上で蒼白な表情のままずっとうずくまっているスズカの傍らに行き、沖埜は口を開いた。

「スズカ。話がある。」

 

「話…」

スズカは、顔を上げて沖埜を見た。

見るからに心身が憔悴した表情で。

「今は、誰とも話したくありません。」

小声で拒否すると、再びうずくまった。

 

 

夕方にスペからオフサイドとのことを打ち明けられて以降、スズカの精神状態は更に悪化していた。

スペから告げられた真実に対するショックは、昨晩のゴールドから告げられた事よりも大きかったように映る程だった。

スペを病室から追い出して以降、スズカは誰とも一切口をきこうとせず、ベッド上で沈黙を続けていた。

そんな彼女を、沖埜は普段と変わらず冷静な様子でずっと見守っていた。

だが勿論、彼女の心身の苦しみは彼も同じくらい感じていた。

 

「スズカ、」

話を拒否されたが、沖埜はベッドの傍らの椅子に座り、うずくまっているスズカに静かに言った。

「メジロ家の別荘にいるオフサイドトラップと連絡がとれるよう色々手を尽くしたが、今はどうしても不可能のようだ。」

「…。」

スズカは何も答えなかったが、気力が更に落ちたように見えた。

 

「お前、自分を責めているんだな?」

何も答えないスズカに、沖埜はそう尋ねた。

「…。」

「お前が責任を感じることは何もない。今回のことで最も責任を負うべきはこの私だ。」

「…。」

沖埜の言葉に対し、スズカはシーツを被り横になって背を向けた。

何も聞きたくないという意思表示だった。

 

だが沖埜はそれを分かりながらも、背を向けた彼女に言葉を続けた。

「スペのことだってそうだ。あいつがオフサイドに対してあのような行動をおかしてしまったのは、この私の言動が原因となっている。あの天皇賞・秋後に、私が残してしまった浅慮な言葉のな。」

 

その言葉にスズカは反応し、背を向けたまま小声で返した。

「トレーナーさんの言動は、報道の切り取りだと聞きました。」

「切り取りであろうと、私が影響を考えずに発言をしてしまったことは事実だ。その結果、大衆を扇動させオフサイドトラップをここまで追い込ませる現状になった。この責任は重い。」

「どうされるおつもりなんですか。」

普段の口調の裏に何かの決意を感じ、スズカが尋ね返した。

それに対し、沖埜は淡々と答えた。

「私はその責任を受け入れる。トレセンを離れる覚悟をしている。」

 

「えっ。」

その言葉に、スズカはビクッと息を呑んだ。

「何を仰るんですか。」

「一人のウマ娘のかけがえのない名誉を貶めたんだ。この世界で生きてる以上、そのくらいの報いは受けて当然だ。」

沖埜は、感情を押し殺した口調で言った。

「だが、お前達までその責任が及ぶことはあってはならないんだ。私と違い、お前もスペも悲劇の被害者だ。責任をとるのは私だけでいい。」

 

「駄目です。」

スズカは起き上がった。

「トレーナーさんがトレセンを去るなんて…トレーナーさんはウマ娘の未来の為に不可欠な方です。そのようなことは絶対にしては」

「私のトレーナーとしての実績など免罪符になどならない。それに、重要な人間であればこそ、必ず責任を取らなければ駄目だろう。有耶無耶にしてはいけないんだ。この世界の未来に禍根を残さない為にもな。」

首を振ったスズカに対し、沖埜は諭すように言った。

かつての教え子マックイーンが、かつての師である自分に処分を検討していることを思い浮かべつつ。

「例え私が去ることになっても、お前やスペが責任を感じることはない。罪悪感を背負う必要はない。お前達はウマ娘だ。今回の事態の発端は、私達人間から始まったことなのだから。」

 

「…。」

頑なに決意を変えない沖埜に、スズカの表情が悲しげに歪んだ。

彼女は再びシーツを被り、沖埜に背を向けた。

「すみません、一人にさせて下さい…」

 

「分かった。」

沖埜は立ち上がった。

「スズカ。お前にもスペにも、まだ未来は残されている。だから、決して不必要に自分を責めるな。」

そう言い残すと、沖埜は特別病室を出ていった。

 

 

病室を出た沖埜は、室外で待機していたブルボンと会った。

 

「少し下に行ってくる。また戻るからそれまでスズカを頼む。」

「かしこまりました。」

ブルボンに頼んだ後、沖埜は最上階を後にした。

 

 

エレベーターで下に降りた沖埜は、スペの宿泊室に向かった。

スペの部屋に入ると、ベッド上に座っているスペとそれに寄り添っているルソーがいた。

 

「ルソー。」

君がスペの側にいてくれたのかと尋ねると、ルソーは無言で頷いた。

「そうか、ありがとう。」

オフサイドの件でスペと険悪になっていた筈の彼女の、今の心境を薄ら察しつつ沖埜は礼を言った。

「もう少しの時間、スペと一緒にいてくれるか。」

「構いません。」

沖埜の頼みをルソーは了承した。

 

「…。」

二人が会話している間、スペは沖埜の姿を見ることが出来ずずっと俯いたままだった。

沖埜もそれに気づいていたが、今は何も声をかけなかった。

 

 

沖埜はスペの部屋を出た。

そしてそのまま、コートを羽織って施設の外へ出た。

 

遊歩道の途中にあるベンチにまで着くと、沖埜はスマホを取り出し、岡田に電話をかけた。

沖埜と岡田は、夕方に沖埜がスペの件で岡田と連絡をとって以降、何度も連絡を取り合っていた。

 

『もしもし、沖埜か?』

「岡田さん。私は、一つの決断をしました。」

 

『決断、それはなんだ?』

「事の責任をとり、トレセンを去ります。」

沖埜は、端正な表情も整然とした口調も変えずに言った。

 



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トレーナー(3)

 

『…何だって?』

 

怪訝な反応をした岡田に、沖埜は淡々と続けた。

「今の私が事態打開の為に出来る最大限のことはそれしかありません。大衆がオフサイドトラップに抱いてしまった誤解を解く為にも。」

 

沖埜は、ただ責任をとってトレーナーを辞めるつもりではなかった。

辞める前に、天皇賞・秋後に自らがおかした浅慮な言動の非を公に謝罪し、オフサイドの名誉を回復させるのが目的だった。

 

現状どう考えても、オフサイドが救われない限りスズカも救われることはない。

だが、今自らが直接オフサイドに対して行動を起こすのは出来ない現状だ。

ならば打つ手は、公に対して行動を起こし、それによってオフサイドに影響を与える以外にないと考えていた。

 

「オフサイドトラップの決意のことは隠します。私が公で彼女に謝罪しその責任をとることで、世間の彼女に対する視線は必ず変わる筈です。そうなれば、オフサイドの決意にも何かしらの影響を与えることは間違いありません。だから、私はそれをしなければなりません。」

『お前がウマ娘界を去ってもか?』

「オフサイドの決意は帰還です。私も同等の覚悟をもってあたらねば、決意を揺るがすことは不可能ですから。」

 

『もし、オフサイドの決意を変えられたとして、その後はどうなる?』

岡田の口調は険しかった。

『お前を失った『スピカ』のウマ娘達は?』

「彼女達のことは手を尽くしてその後の居場所を見つけます。メンバーは皆私でなくともレースを生きていける素質をもってますから。」

『スズカやスペは?二人とも、事において消えようのない罪悪感を背負ってしまってる。いくらお前が一人で責任を負おうとしても、二人のそれは消せないだろ。』

「そこは、」

一番の懸念である点を衝かれ沖埜は一瞬声に詰まったが、すぐに続けた。

「二人に対しては、決して罪悪感などを背負わないよう私が諭します。その為には、岡田さんや『フォアマン』のウマ娘達にも力を貸して頂きたいと願ってます。」

『フォアマン』の協力?』

「私がそれを頼む資格はないと思いますが、どうか二人の為に、どうか宜しくお願いします。」

 

『要するに、天皇賞・秋後の事全ての責任は沖埜一人で背負うということだな。』

「はい。私はそれだけのことをしましたから。」

沖埜の口調は、ずっと普段のままだった。

 

 

*****

 

 

「お前の思いはよく分かった。」

 

メジロ家別荘の一室。

沖埜の決意を聞いた岡田は静かな口調に戻した。

沖埜の普段と変わらない態度の中に、重大な覚悟を決めたことも分かった。

そして言葉の裏に隠れた彼の葛藤や計算にも、薄々勘付いた。

 

だが岡田はそこは言及することなく、冷徹な口調で言葉を返した。

「はっきり言うが、お前が今言った行動をとった結果、目論み通り大衆のオフサイドを見る目が一変したとしても、オフサイドの決意は絶対に揺るがないぞ。」

『どういうことですか。』

「オフサイドの決意は、もう違う次元に踏み込んでしまったということだ。大切な同胞であるケンザンの言葉もゴールドの言葉も、そして私の言葉ですら届かないところにな。お前が全てを捨てる覚悟で彼女の為に行動しようとしても、決して届かん。」

先程見せつけられたその領域を思い出しつつ言った。

 

『それでも、行動しないよりは可能性があります。』

「それはその通りだ。だがな沖埜、」

岡田の口調が、トレーナーの先輩としての厳しさを帯びた。

「お前のとろうとしている行動は最善ではない。間違っている。」

 

『…。』

岡田の口調と言葉に沖埜は黙った。

岡田は厳しい口調で続けた。

「第一、お前は事の全てを一身に背負って解決させると言ってるが、これは絶望の底に落ちたオフサイドと同じじゃないか。お前まで彼女と同じ道を辿る気か。」

『私には、その責任が』

「愚かな責任の取り方だ。」

沖埜の言葉より早く岡田は断言した。

 

『…。』

冷徹な断言に沖埜は再び沈黙し、岡田は更に言った。

「沖埜、私は昨日から『スズカを救うことだけ考えろ』とお前に伝えてきた。それは、暗にオフサイドのことは考えるなという意味だ。」

『スズカを救うには、オフサイドトラップが救われない限り不可能です。』

「その考えが、間違っている。」

『…え?』

 

「はっきり言う。今のお前がオフサイドの為に行動を起こすのは無理だ。お前は先の先まで考え過ぎている。残酷なことをしようとしてる自覚があるだろ?」

岡田は沖埜の肺腑をつくように冷酷に言った。

「今のお前が出来ることは、お前の仲間達…サイレンススズカを救うことだけだ。」

「…。」

「オフサイドへの謝罪だけは受け入れてやる。公に謝罪するのも構わない。ただそれ以上は余計なことはするな。これはオフサイドを守る人間としての要求だ。お前がどうなろうと構わんが、これ以上彼女を追い込むような真似は断じて許さん。」

 

「…。」

「最後にもう一度言う。お前はスズカを救うことだけを考えろ。彼女を救い守れる人間はお前だけなんだ。思い出せ。お前がこの世界に入ったその理由を。」

最後は諭すような口調で告げると、岡田は電話を切った。

 

 

*****

 

 

電話を切られた沖埜は、端正な表情のうちに僅かに険しさを滲ませてベンチ前に立ち尽くしていた。

「くそっ…」

思わず、歯軋りした。

岡田トレーナー、あなたには、私の思惑は全部見抜かれてましたか。

 

しばらく険しい表情で立ち尽くしていたが、やがて落ち着きを取り戻すと、脳裏に岡田の最後の言葉がよぎった。

『スズカを救い守れる人間はお前だけだ』

『思い出せ、お前がこの世界に入った理由を』

 

この世界に入った理由を、ですか…

岡田の言葉を口元でぽつぽつ反芻すると、沖埜はコートを翻して遊歩道を戻っていった。

闇夜の中、彼の秀麗な瞳が異様な光を帯び出していた。

 

 

*****

 

 

一方、沖埜と電話を終えた岡田は、別荘の外に出た。

 

外の競走場では、オフサイドが闇夜の中でトレーニングを行っていた。

彼女の窶れた表情のうちに、眼光が異様な程落ち着いた光を帯びていた。

そして時折彼女の姿から、先程の恐るべき領域の影が醸し出されていた。

 

そんなオフサイドの様子を、岡田は競走場の入り口でじっと見守っていた。

 

 

予想より遥かに厳しいな…病気の薬を飲み下しながら、岡田は唇を噛んだ。

有馬で帰還するという彼女の決意の固さはもう尋常な対応では変えられそうにない。

何せ、彼女の絶望があまりにも巨大かつ重過ぎる。

「“〈死神〉の領域”か…」

見せつけられたその領域が、ずっと岡田の脳裏に焼き付いていた。

 

〈クッケン炎〉に散った幾千のウマ娘達。

理不尽に砕かれた栄光と失われた誇り、それによる虚。

限界を迎えた脚と希望なき未来。

帰還に使命を見出した程の絶望。

そして何より大きいであろう、愛する同胞との永別。

 

それら全てが心身を蝕んだ果てに、その領域に入ってしまったのか。

いや、〈死神〉に領域を侵され、奪われてしまったのか。

 

幾度も巨大な絶望を乗り越えたオフサイドの心をも破壊した絶望。

一体どうすれば、これらを全て消し去って、〈死神〉からオフサイドを奪還できるだろうか。

しかも、残された時間はもう僅かだというのに。

 

「…くそ。」

岡田は思わず呻き声をもらした。

ナリタブライアン、お前が生きていれば…

オフサイドの心の最大の支えであったウマ娘の面影が、脳裏に悲しみを伴って浮かんだ。

 

でもまだ、もう一人いる。

サクラローレル、お前に託すしかない。

お前が戻ってくるまでに、総力をもってオフサイドの絶望を崩していくから。

だからどうか。

「無事に帰って来てくれ…」

夜空を仰ぎ、岡田は心底から願った。

 

 

 

*****

 

 

 

私、なんて愚かだったんだろう。

なんで気づかなかったんだろう。

オフサイド先輩が私に会いに来なかった理由をどうして深く考えなかったんだろう。

何故周囲の言葉を鵜呑みにしてしまったんだろう。

何故、何故あの天皇賞・秋のことを顧みようとしなかったんだろう。

 

何もかも私が壊してたんだ。

オフサイド先輩の心も、スペさんの心もゴールドの心も、その他の同胞達の心も、沖埜トレーナーの心も、人間達の心も。

私のせいで、皆傷つき、壊れ、悪意と悲しみに満たされた。

 

こんな、こんなことになるのだったら。

私なんて、走らなければ良かった。

夢なんて追わなければ良かった。

 

助からなければ良かった。

あのまま、帰還してしまえば良かった。

 

帰還すれば…良かった…

 



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深刻(1)

 

*****

 

21時頃。

療養施設は就寝時間が近づき、殆どの療養ウマ娘達はそれぞれの病室に戻っていた。

 

医師の椎菜もこの日の医務を終え、医務室でコーヒーを飲んで一息ついていた。

昨晩の出来事以降、彼女の心身の疲労は、これまで幾多の辛い経験と直面してきた彼女といえども隠せない程に重く溜まっていた。

それでも椎菜は懸命に意識を保たせて、この日の医務は全て無事にやり遂げていた。

 

「失礼します。」

彼女のもとに、来室者が現れた。

シアトルだった。

 

「ライス先輩と会って来ました。」

来室したシアトルは椎菜の向かいの椅子に座ると、差し出されたコーヒーの杯を受け取りながら言った。

「会って、どんな話をしたの?」

「全て話しました。あの宝塚のことから今に至るまでの、私の全てを。もうこれで、宝塚の悲劇の呪縛は消えたと思います。」

「ライスも、あなたも?」

「ええ。長かったですが、どうやらようやく終わることが出来たようです。」

シアトルは暖かい吐息をし、コーヒーを飲んだ。

背負っていたものから解放されたような幸福感がその表情に表れていた。

 

「そう、ありがとう。」

切迫した状況がずっと続きかなり疲弊していた椎菜の表情にも、ほっと微笑が浮かんだ。

彼女もまた、あの宝塚を巡る葛藤から解放された気がしたから。

 

 

「ただ、」

シアトルはフッと息を吹き、幸せな表情を打ち消した。

「その話を全て終えた後に、ライス先輩から、今起きている事態について教えて頂きました。」

 

「…。」

椎菜の表情からも微笑が消えた。

「じゃ、あなたも現状を周知したのね。」

「ええ。オフサイドトラップの有馬記念における決意、昨晩サイレンススズカに起きた出来事、スペシャルウィークとホッカイルソーのことなど全てを。」

コーヒー杯を置いて答えたシアトルの表情は、陽気なものからかなりの緊張感を帯びたものに変わっていた。

 

「ではあなたは、今後どうするつもりなの?」

椎菜の問いに、シアトルは答えた。

「全てを知りましたが、事の圏外にいた私には出来ることも限られてます。だから私は、ここに来た目的を果たすことに集中します。」

〈クッケン炎〉と闘う仲間達を助ける。

その言葉をシアトルは再度口にし、そして付け加えた。

「オフサイドトラップにも、救いの手を差し伸べたい。」

 

「オフサイドと会って、決意を翻意させる気?」

「出来ればそうしたい。でも私とオフサイドは直接の接点が薄い。また天皇賞・秋後の彼女のことも私は殆ど知らないので、私だけの力で翻意させるのは難しいと思います。」

ですので、とシアトルは続けた。

「〈死神〉から生還し栄光を掴みしかし悲劇によりそれを閉ざされてしまった、その共通の同胞として、彼女の為に可能な限り出来ることをします。状況は異なれどその絶望を乗り越えたこの私にしか出来ないこともある筈ですから。」

 

「…頼んだわ。」

コーヒーカップを置き、椎菜はシアトルの手を握った。

「今、あなたのようなウマ娘の存在は事を状況を変える為に本当に重要だわ。力を貸してくれてありがとう。」

「当然です。」

シアトルはその手を力強く握り返し、引き締まった笑顔で返した。

「私は仲間を助けに来たんですから。」

 

 

 

*****

 

 

一方。

シアトルとの話を終えたライスは、美久と共に自らの宿泊室に戻っていた。

 

杖を置いて椅子に腰掛けしばらく一息ついていたライスは、やがて携帯を取り出し、特別病室前にいるブルボンと連絡をとった。

「…もしもし。今、スズカさんの状態は…一人…病室にいるのもブルボンさんのみですか。沖埜トレーナーは…そうですか。…スペさんと一緒にいるのは…分かりました。」

 

電話を終えると、ライスはしばし考えこんでいたが、やがて杖を手に立ち上がった。

「どこに行くの?」

「ルソーさんの病室。」

「そう。」

美久もカメラを手に立ち上がった。

今の美久の表情には、先程までの悲しみに満ちた影はなくなっていた。

 

 

部屋を出た後、美久はライスにはついていかず自分の宿泊室へ戻っていき、ライスは一人でルソーの病室へ向かった。

 

病室前に着くと、ライスは扉をノックした。

コンコン。

「どうぞ。」

返答の声はゴールドだった。

「失礼します。」

ライスが中に入ると、ベッド前の椅子に一人座っているゴールドの姿があった。

 

「起きてたのね、ゴールドさん。」

ゴールドに用があったのか、ライスは話しかけながら彼女の側に歩み寄った。

「ライス先輩。」

ライスの姿を見たゴールドは視線を伏せた。

昨晩のあの時は二人共現場にいたが、会話も目を合わせることもなかったので、実質会うのは2週間ぶりだった。

「身体の具合は大丈夫?」

「もう熱は治りました。身体だけは丈夫なんで。」

 

体調こそ戻ったものの、心に負ったものの大きさを表すようにゴールドの表情は暗かった。

かわいそうに…

昨晩のゴールドの言動を現場で見たライスには、彼女のその心の傷の大きさがよく分かっていた。

“全部奪われて消されちゃった…ひどすぎるよ”

2週間前に『祝福』で最後に会った際、自分の眼の前で泣き崩れた彼女の姿が脳裏に蘇った。

 

「辛かったでしょう、ずっと。」

ライスは、ゴールドの心の傷をいたわるように言った。

「私なんて、どうでもいいです。」

ゴールドは俯いたまま首を振った。

「一番辛いのはオフサイド先輩とスズカです。私の苦しみは自業自得。仲間の為に何も出来ず、無二の親友を理不尽に責める選択をしたのだから。」

 

「自分を責めなくていいわ。」

真っ暗な表情のゴールドに対し、ライスは優しい微笑を返した。

「あなたがオフサイドさんもスズカさんも救おうと頑張ってたことは知ってる。そんなあなたを誰が責める?」

「仲間の為に頑張ったその果てがあの行動です。最悪でしょう。」

「まだ決まった訳じゃないわ。」

ライスは微笑したまま、ゴールドの眼を蒼く光る眼で見つめた。

「あなたのあの行動で状況大きく動いたのは事実。でも悪いことばかりじゃない。」

もう曖昧な活路が閉ざされたことで、皆それぞれ覚悟を決めたのだし。

「まだ時間は残されているわ。あなたの苦しみを永遠になど絶対にさせない。同胞の未来の為に、このライスが救いの道を必ず切り拓くわ。だから信じて。」

 

そう言うと、ライスは蒼芒を光らせたままゴールドをそっと包み込むように抱き締めた。

 



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深刻(2)

 

*****

 

場は変わり、スペの宿泊室。

室内にはスペとルソーの二人がいた。

沖埜やケンザンの姿はなかった。

 

夕方以降から変わらず、スペはずっとベッド上で膝を抱えてうずくまっていた。

ルソーが持ってきた夕食にも箸をつけなかった。

食欲旺盛な彼女でも今はとても食べられる状態ではなかった。

そんな彼女を、ルソーは傍らでずっと見守っていた。

話しかけることも殆どなく、ただ見守っているだけだった。

 

 

21時を過ぎた頃。

「スペ、少しでも夕食は食べたらどうだ。」

置かれたままのニンジン弁当を見て、ルソーはそう促した。

「今はとても食べられません。ルソー先輩どうぞ。」

「私はさっき食べてきた。少しでも食べないと身体が弱るぞ。」

「…大丈夫です。」

スペは蒼白になっている顔を縦に振らなかった。

「…。」

ルソーもそれ以上は強く促せず、再び黙った。

スペの今の心情は、スズカやオフサイドを絶望に落としたという自責を抱えている現状、食事することすら憚っているのだろう。

今後の展開も解決策も良化するものが全く見当たらない以上、その心情を動かすことは到底難しかった。

 

 

「…もし、」

またしばらく経った頃、ずっと黙っていたスペが、ポツリと口を開いた。

「もしこのまま、オフサイド先輩が有馬記念で帰還してしまって、その反動でスズカさんも帰還を選ぶというようなことがあれば、…もしそんな未来になってしまったら、」

「スペ…」

そんなこと考えてはダメと言おうとしたルソーだが、その前にスペは続けた。

「…その時は…私もスズカさんと一緒に…」

 

それ以上の言葉は言わなかったが、暗にその意味はルソーにも伝わった。

 

「…何を言ってるの。」

眼を見開いたルソーに、スペはまたぞっとするほど寂しい眼を見せた。

「私にはその責任があります。いや、それに関係なく、私はスズカさんのいないこの世界を生きていけそうにありません。」

「スペ。」

「スズカさんのいないこの世界で生きていくくらいなら…私も…」

 

「駄目、そんなことは」

「ルソー先輩も、オフサイド先輩の決意を知って、同じことを考えていたのでは?」

反対の言葉を言いかけたルソーに、スペは刺すような言葉を続けた。

「オフサイド先輩が帰還してしまった時、先輩はこの世界を生きていけますか?」

 

「…っ。」

自分の絶望を見透かしたようなスペに対し、ルソーは言葉が詰まった。

駄目だと言わなければ…

だけど言葉にならない、いや出来ない。

 

「…。」

何も言い返すことが出来ず、ルソーは背を向けた。

スペもそれ以上は何も言わず、ただ俯いていた。

 

真っ暗な重い雰囲気が室内に充満した。

 

 

そんなことしてはいけない…

スペに言えなかった言葉が、ルソーの胸中で渦巻いていた。

どんなに絶望しても、帰還を選ぶことは。

その先の言葉が見つからなかった。

 

どうして駄目だったんだっけ?…

見つからない言葉と記憶の中、ルソーは苦悩し続けていた。

 

 

 

*****

 

 

施設の食堂には、沖埜とケンザンの姿があった。

就寝時間が迫ったこともあり、食堂にこの二人以外の姿はなかった。

 

先にここにいたのはケンザンで、沖埜は後からここに来た。といっても二人は会釈を交わした程度で会話もせず、それぞれ別の席に座っていた。

 

どうしたのだろう…

スマホで何か作業していたケンザンは何度かチラチラと気になるように、離れた場所で一人コーヒーを飲んでいる沖埜の姿に視線を向けていた。

夕方に会った時と比べて、彼の雰囲気が険しくなっているのが明らかだったから。

スズカにスペの行動を話した影響からだと推測はついていたが、それにしてもかなり険しい。

状況が状況だけにそれは当然なのかもしれないが、普段の冷静な彼とはまるで違う。

まるで何か重大な決意を固めたような姿に映った。

 

似てるな…

ケンザンの記憶に蘇ったのは、2年半前の日経賞後の『フォアマン』のこと。

シグナルライトの突然の悲劇と帰還に、チームは一時崩壊しそうな程のダメージを負った。

自分もブライアンもローレルもオフサイドもルソーもタッチもコンコルドもそして岡田も、悲しみのどん底に突き落とされた。

特にルソーと、岡田トレーナーの状態が大変だった。

蘇った当時の記憶に、ケンザンは思わず目頭に指を当てて眼を瞑った。

 

あれを乗り越えたのは、全員で必死に支えあったから。

一月後の天皇賞・春まで、本当に折れそうな心を皆で支えあった結果、凌ぎきれた。

 

今、沖埜率いる『スピカ』も同じ状況だなと、ケンザンは思った。

これ以上ない程順風満帆に見えた中で起きたスズカの悲劇、それによって引き起こされた悪い連鎖にスペが巻き込まれた。

その現状に、沖埜もどれほどのショックと自責を背負っているかは想像がついた。

もしかすると、あの時の岡田と同じような覚悟をしてしまっているのかもしれないな。

 

…。

ケンザンは首を振り、それ以上沖埜らの事に思考が傾くことを自制した。

今は自らの『フォアマン』の方が重大だった。

オフサイドだけでなく、心身衰弱状態のルソーとゴールドもいる。

今は自分達の現状を乗り越えることが重要だ。

そうしなければ、『スピカ』だって救われないのだから。

 

無論最重要なのは、オフサイドの決意を翻意させることだが。

 

岡田トレーナー、ルソーとゴールドは私が守ります。

なのでどうか、オフサイドをお願いします。

脳裏で、ケンザンは恩師に祈った。

病気で入院中だった彼を起こさせてオフサイドと会わせたのは、彼がこの状況下でオフサイドの心を動かせる数少ない人間に違いなかったからだ。

 

果たして、岡田がどれだけオフサイドの決意を崩せるか。

非常に困難なことは分かっている。

それでも、あのサクラローレルが帰ってくるまでに、崩せるだけ崩しておかねば。

 

 

 

ケンザンが思考に耽っている一方、沖埜は一人淡々とコーヒーを飲んでいた。

端正な容貌から、異様な程の険しい雰囲気を滲ませて。

 

『スズカを救うことだけ考えろ。彼女を救える人間はお前だけだ』

岡田から言われた言葉が、沖埜の脳裏に強く響き続けていた。

 

…トレーナーでは救えないということ…か。

トレセン学園『スピカ』トレーナー・沖埜豊では…

 

 

 

*****

 

 

 

「どうしても、どうしてもオフサイド先輩と連絡を取ることは出来ないのですか。」

 

特別病室。

スズカは室内にいるブルボンに何度も尋ねていた。

「交渉はしていますが、今すぐは厳しいと…」

「憎まれたんですか。…私、憎まれた。…オフサイド先輩に憎まれたんだ。」

「そんなことはないと」

「やはり…もう駄目なんですね。私のせいで…何もかも…何もかも壊れた。」

 

同じ質問と答えばかりを聞いたり、うわ言のような言葉をもらすなど、スズカの様子は錯乱していた。

 

「何故、こんなことになってしまったのかな…夢を叶えたかったのに…最高の走りをしたかったのに…私が残したものは…」

「…サイレンススズカ?」

「ごめんなさい、オフサイド先輩。ごめんなさい、スペさん…ごめんなさい、沖埜トレーナー。…ゴールド…皆…私のせいで…本当にごめんなさい…」

 

いけない…

明らかに悪化してきているスズカの状態を見、ブルボンは彼女の見張りを担当医師に任せて室外に出た。

そしてすぐに沖埜に連絡した。

 

『サイレンススズカの状態が深刻です。すぐに来てください』

 



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深刻(3)

 

数分後、ブルボンの連絡を受けた沖埜は特別病室に駆けつけた。

室内には他に、スズカの状態の報告を受けた医師達も集まっていた。

 

「何もしないで下さい…」

スズカを安静にさせようとする医師達に対し、ベッド上のスズカはそれを拒否していた。

清廉な彼女とは思えない、嫌悪感を滲ませた素振りで。

「私のことはほうっておいて下さい…一人にさせて下さい…」

「だが…」

「お願いです!…はあ…はあ……出ていって下さい!…もう…やめて!」

彼女の呼吸は乱れ、声も掠れていた。

心の状態が急激に悪化しているのが明らかだった。

 

「スズカと二人きりにさせて下さい。」

絶望に蝕まれているスズカの状態を見て、沖埜は医師やブルボンにそう要求した。

医師達も、今のスズカは沖埜に任せた方がいいと判断し、その要求を受け入れた。

 

間もなく、特別病室はスズカと沖埜の二人きりになった。

 

「トレーナーさん…一人にさせて下さい…」

二人きりになったが、スズカは沖埜に対しても病室を出ていくよう哀願していた。

「今は誰とも会いたくありません…お願いです。」

「…。」

ベッドの傍らの椅子に座った沖埜は、無言で首を振った。

彼の雰囲気が先程と違っていることはスズカも薄ら気づいていたが、それを気に出来る余裕はなかった。

「すみません、今はトレーナーさんの姿も見たくないんです。」

 

「…。」

何度も要求したが、沖埜は無視するように動かなかった。

やがてスズカも諦めたように要求をやめ、室内に沈黙が流れた。

 

 

「…トレーナーさん。私は、一体何の為に走ってきたのでしょうか…。」

沈黙が続いた後、スズカはベッド上から窓の外へ眼を向けて、途切れ途切れに言葉を洩らしはじめた。

「私は、自分にとって最高の走りを目指しました。最高に気持ちのいい、美しい走りを…。私だけが見れる先頭の景色を観たいと、その夢を抱いてレースを走りました。」

「…。」

沖埜は沈黙したまま、眼を瞑って聞いていた。

「何度も上手くいかなくて、辛いことも何度もあって…それでもでも私は遂にその走りを見つけられた。そしてその走りが、観てくれる人達に大きな喜びと夢を与えられることを知って、私は嬉しかった。この走りを極められれば、私は皆さんにかつてない程の大きな夢と喜びを与えられると信じて…それを目指しました。」

 

「…そう信じてたのに…。」

振り向いたスズカの眼には、何の希望もなかった。

「…私が皆に与えたのは…私の夢の結末は…こんなことだったんですか?」」

 

「…。」

沖埜は眼を開いた。

しかし彼は何も言葉を発さず、ただじっとスズカを見つめているだけだった。

 

「なんで…」

スズカは涙も出ない目元に指を当てた。

「なんで皆、故障がなければ私が勝ってたとか…思ってしまったのですか?…あの天皇賞・秋は完全に私の負けです。原因がどうとか関係ありません…。道中で故障して、私は競走中止した…それが厳然たる現実であり結果です。…皆、そう受け止めてくれてると思ってました…。」

「…。」

「それなのに…本当は、誰も勝者のオフサイド先輩をちゃんと称えず、本来は私が勝っていたレースだったと先輩の栄光を貶めた…。私…そんなこと全然望んでなかったのに…なんでそんなことをしてしまったの…?」

 

言いながら、スズカは苦しみに満ちた表情で頭を抱えた。

「…なんで?…私…最後まで走りきることも出来なかったのに…完走すら出来ていないウマ娘を勝者扱いするなんて…私は、…私はそんな惨めなウマ娘に見えましたか?そんな空虚な称賛に喜ぶと思いましたか?」

“惨め”という台詞に、重い感情がこもっていた。

 

「…私はこんなものを受ける為に走ってきたんじゃない。敗北は…敗北として受け入れて欲しかった…勝敗の尊厳まで変えることなんて望んでないのに…」

小倉大賞典、金鯱賞、宝塚記念、毎日王冠…過去のレースで私が残してきた誇りや走りが消えるわけじゃないのに。

なんで…なんでこんなことになっちゃったの。

 

 

でも、分かってる。

皆がそんな過ちをおかしてしまった理由も、あの天皇賞・秋が閉ざされてしまった理由も、過ちが連鎖してしまった理由も、全て…

『…あなたが故障しなければ誰も悲しむことはなかった…誰も傷付かなかった…』

 

「…一番悪いのは、この私ですね…」

ゴールドの重い重い言葉を脳裏に蘇らせつつ、スズカは絶望的な口調で呟いた。

「ゴールドの言う通りです…。私のこの故障が、皆に悲しみと過ちを与えてしまいました。故障さえしなければ、絶対にこんなことにはならなかった…。」

 

「…。」

沖埜はなおも黙っていた。

スズカは包帯が巻かれた左脚に手を当て、更に呟き続けた。

「私の故障が、オフサイド先輩を絶望に追い込んだ…。純真無垢なスペさんに過ちをおかさせた…。トレーナーさんにも深い深い悲しみと後悔を与えて…ゴールドまで傷つけて……みんな私のせいで…」

最後は耐えきれなくなったように声が震えていた。

そのまま、スズカはシーツにを掴んで顔を伏せた。

 

 

「…スズカ、」

顔を伏せたスズカを見て、ずっと沈黙していた沖埜が口を開き、そして静かに言った。

「…お前、帰還しようと考えているのか?」」

 



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深刻(4)

 

「…。」

沖埜の言葉に、スズカは特に大きな反応も見せず、ゆっくりと伏せた顔を上げた。

そのまま沖埜の方は見ずに、再び窓の外へ眼をやった。

 

「私は、事態がこの状況に至るまで、何も出来ませんでした。私の故障がレースにどれほどの影響を与えてしまったか気づきすらせず。あの天皇賞・秋がまだ終わってなかったことに気づいていれば、ここまで状況が悪くなることはなかった筈…それが一番罪深いです。」

「それはお前の責任ではない。トレーナーである私の責任だ。それに、お前に対して一切の情報を閉ざしていたからでもあるだろ。」

「情報を閉ざされていたのは、故障のショックで私の心が壊れかけていて、危険だと判断されたからでしょう。私の心が強ければ、天皇賞・秋後の事態についてはとうに伝えられておかしくなかった。」

「スズカ、だがそれは」

 

「…もう私の心配なんてしないでください!」

不意にスズカは大きな声を出し、悲しみを湛えた眼で沖埜を見据えた。

「私なんかじゃなく、オフサイド先輩を救うことを考えて下さい!何故…何故みんな、こうなってしまった元凶である私の方ばかり気にかけて、犠牲者であるオフサイド先輩を第一に考えないんですか?…一番救われなければならないのは先輩なのに!」

 

「オフサイドに対しては、私も手を尽くしてる。」

スズカの言葉に、沖埜は動揺の色を全く見せずに淡々と答えた。

「天皇賞・秋後の私の言動、スペの行動については彼女に深く謝罪した。さっきも言ったが、不当に貶められた彼女の名誉を回復させる為には覚悟をもって方策を練って、出来るだけのことはしてる。」

「…でも、オフサイド先輩の決意は全く揺らいでないんですよね?」

スズカはまた絶望的な声を出した。

「揺らいでるなら、連絡をとりたいという私の要望を断る筈がありませんから…」

「その通りだ。後は、彼女の仲間である『フォアマン』の者達に託すしかない。」

岡田からそう言われたことを脳裏に。沖埜は言った。

「現状、私がオフサイドの為にまだやらなければならないことはある。だが私は『スピカ』トレーナーだ。お前やスペを第一に考えて行動する。」

愛情を込めた口調ではなく、重い感情がこもった口調だった。

 

「…。」

沖埜の言葉を聞いたスズカは、悲しみに満ちた微笑を浮かべた。

「…さっき、トレーナーさんは私に帰還する気かと尋ねましたね。」

「…ああ。」

「…もし、オフサイド先輩が有馬記念で帰還してしまったら、…私も帰還します。先輩…いや、同胞をそこまで絶望に追い詰める原因の罪を背負った以上、この世界を生きていられる訳などありません…。」

 

「それは駄目だ。」

スズカの言葉を聞き、沖埜は端正な表情を僅かに険しくさせた。

「お前が帰還してしまうなど、絶対にあってはならない。」

「…でしたら、どうかオフサイド先輩を救って下さい。」

スズカは爪を立ててシーツを握りしめた。

「先輩は…先輩だけはどうか救ってあげて下さい…先輩さえ救われれば…私は…私はもう…」

また、スズカの様子が取り乱れ出した。

 

沖埜は、スズカの様子をじっと見つめていた。

彼女の苦しみと、その苦しみの中に生じた悲壮な思いを見透かすような眼とともに。

 

やがてスズカの様子が落ち着いた時、沖埜は再び口を開き、冷徹な声で言った。

「どんなことがあっても、お前は生きろ。」

 

「…え?」

初めて聞いた沖埜の口調とその言葉に、スズカは思わず眼を見開いた。

沖埜はその眼を見つめ返して続けた。

「絶対に帰還などするな。例えオフサイドが帰還したとしても、お前は生きるんだ。」

 

「…何を仰るんですか。」

スズカは愕然とした表情を浮かべた。

「オフサイド先輩が帰還してしまったら、私は生きていける訳など…」

「それでもだ。」

「…同胞を絶望の最果てに追い込み、勝敗の尊厳も乱した上この世界に悲しみと傷を振り撒いた罪を背負って、私にこの世界を生きていけと?」

「どんな状況であれ、帰還の選択は絶対の間違いだ。それをお前がするというのならば、私はそれを必ず止める。」

耳を疑うような表情のスズカに、沖埜は冷徹な口調のままそう言い切った。

 

数十秒、沈黙が流れた。

その間、スズカの見開いた眼の視線と沖埜の端正な眼の視線は交錯したまま動かなかった。

 

「…。」

やがて、スズカは視線を逸らした。

愕然と絶望が混じった表情のまま、彼女はシーツを被って横になり、沖埜に背を向けた。

 

「…スズカ、もう一度言う。」

その背に、沖埜は元の淡々とした口調に戻して、先程と同じことを言った。

「現在、状況はあまりにも残酷だ。だが、どんなに苦しくても、このまま絶望の底に落ちてはいけない。全部背負って這いずり回ることになろうとも、生きなければならないんだ。」

「…。」

スズカは、何も答えなかった。

 

再び、室内は静寂で満たされた。

 

 

そして、しばらく経った頃。

横になっていたスズカが身を起こし、俯きながら言った。

 

「スペさんを呼んで頂けますか…。」

 

 

 

*****

 

 

「スズカさんが、私に来て欲しいと…」

 

数分後の、スペの宿泊室。

特別病室からその連絡を受けたスペは、不安に満ちた表情で震えていた。

 

だがやがて、覚悟を決めたように大きく深呼吸し震えを消した。

「…分かりました。今すぐ向かいます。」

 

…。

連絡を終え、特別病室に向かう用意を始めたスペを見て、彼女の傍にずっと寄り添っていたルソーは不安と祈りの混じった表情になっていた。

間違いなく、スズカとスペの間で非常に重要なことが起きると予感したから。

 

「…スペ、」

用意を終え部屋を出ようとしたスペの傍に、ルソーはつと歩み寄った。

「どうか…諦めないで。」

手を振って、心底から祈るように言葉を絞り出した。

「…。」

絶望で窶れた表情の中、スペは無言で感情のない微笑を見せた。

 

 

 

宿泊室を出たスペは、暗い廊下を移動し、やがてエレベーター前についた。

エレベーターに乗り込むと、深呼吸を何度もして身体の慄えを押し殺し、必死に心身を保った。

 

やがてエレベーターは最上階に着いた。

エレベーターをおりて廊下を歩き、特別病室の前に着いた。

そこで待機中のブルボンに一礼し、スペは病室内に入った。

 

 

 

室内には、ベッド上で横になっているスズカとその傍らの椅子に黙念と座る沖埜の姿があった。

入室した瞬間、異常に重い空気がすぐに分かった。

 

「スペさん…」

ベッドから身を起こし、スズカはスペを見つめた。

夕方と比べ更に顔色が悪くなっていることがすぐに分かった。

「…私に、何の御用でしょうか。」

スペはスズカを直視出来ず、俯いたまま尋ねた。

「外の空気を吸いたいんです。一緒に来て頂けますか?」

 

「外へ…?今からですか?」

「はい。スペさんと二人きりで。」

スズカの眼は、スペをずっと見つめていた。

 

 

時刻は、22時半になろうとしていた。

 



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聖夜(1)

 

*****

 

22時半。

療養施設は消灯時間を過ぎ、夜の静寂に満たされていた。

 

最も、消灯時間を過ぎたからといって皆が寝静まったわけではない。

就寝に入っても中々寝付けない療養ウマ娘も数多く

この日、施設ではスズカ・スペの異変、シアトルの来訪など色々なことがあった。

施設内で進行している見えない現状に憂いを抱く者も多く、静寂の中で重い雰囲気が流れていた。

 

 

そうした中、非常灯のみが灯る誰もいない暗い食堂に現れたウマ娘がいた。

ブルボンだった。

 

ブルボンは自販機で買った飲み物を手に、食堂内の一席に腰掛けた。

それを一口飲むと、栗毛の美髪に触れながらふうっと深呼吸をした。

昨晩からブルボンはほぼ休む事なくスズカの状態の見張りを行い続けている。

彼女の美しい無表情にも、疲労の色が見て取れた。

 

現在、スズカはスペと共に二人きりで外へ散歩に出ている。

沖埜も医師も、そしてブルボンも付き添いにはいっていない。

スズカがそう要求したからだ。

本来ならそれでも付き添うべきなのだろうが、今はスズカの心を刺激しない方がいいと判断しそれは自重した。

もしスズカの身に何かあったらすぐに連絡するようスペに伝えていた。

 

大丈夫でしょうか…

髪の毛に触れながら、ブルボンは憂げに息を吐いた。

スズカとスペ、あの二人は親友以上の仲。

しかしオフサイドの件で二人の間に大きな亀裂が入ったことは当然ブルボンも分かっている。

そのことについて話す為に、二人きりで外に出たであろうことは想像に難くなかった。

 

果たしてどうなるか…

二人の状況が今後に大きな影響を及ばすことは分かっているが、現状暗い未来しか想像出来なかった。

一度入った亀裂が元通りに治るのは難しい。

ましてや、スズカは勿論スペも甚大なダメージを負ってしまった程に深い亀裂だ。

何故、こんなことになってしまったのだろう…

ふと、溜息が洩れかけた。

 

 

「ブルボンさん。」

不意に、憂げに座っている彼女を呼ぶ声がした。

見ると、杖をついたライスが食堂に入ってくるのが見えた。

 

「ライス。」

ブルボンは彼女の姿を見て思わず眼を見張った。

暗いのではっきりとは見えないが、それでも夕方頃に会った時と比べて明らかに顔色と雰囲気が澄んでいたから。

 

「もしかしたらいるかなと思って来ました。当たってましたね。」

ライスはそう言って微笑しながら、ブルボンの傍らの席に腰掛けた。

ライスも、スズカとスペが外に出ていることはブルボンから報告を受けて知っていた。

 

「ライス、脚の状態は大丈夫なんですか?」

「大丈夫です。」

答えたライスの表情には、苦痛を堪えている色も全く見えなかった。

寧ろ、それが消えてしまったような清々しい表情に見えた。

そういえば。

つと、夕方に椎菜から聞いたことをブルボンは思い出した。

「ダンツシアトルと、会ったのですか?」

 

「はい。」

不安げに尋ねたブルボンに対して、ライスは微笑を湛えたまま頷いた。

「彼女と、あの宝塚記念のことを?」

「ええ、あの事を中心にお話ししました。」

 

「シアトルは何を話したんですか?」

「全部お話しして下さりました。レース後のこと、引退後のこと、現在のことをそして、」

ライスは、僅かに蒼芒の洩れた目元に指を当てた。

「あの宝塚記念のことを、許してくれました。」

「え。では…」

「はい。呪縛から、解放させてもらいました。」

 

その後、ライスはシアトルとのことの内容をブルボンに全て話した。

 

「そうでしたか。」

話してる途中からまた泣き出していたライスにハンカチを渡しながら、ブルボンの無表情にも僅かに微笑が浮かんでいた。

ようやく、ライスは解放されたのか…

ライスがあの宝塚の呪縛にどれだけ苦しんでいたか、彼女と最も近い同胞であるブルボンは誰よりも知っていた。

感謝します、ダンツシアトル、椎菜医師…

 

「スズカさんを救う為にも、大きな力を貰いました。」

ライスは涙を拭って、澄んだ表情に張り詰めたものを漲らせた。

「この状況下でも、私は最後の使命を全う出来る…そう信じられる程のものを。

「…ええ。」

ライスの使命遂行を見守ると決めているブルボンは、微笑したまま頷いた。

「必ず出来ます、ライスなら。」

 

「生徒会長にも、このことはお伝えしましたか?」

「…うん。マックイーンさんにはさっき伝えたよ…」

呪縛から解放されたからか、ライスの口調が一瞬生徒時代のものになった。

あっと、ライスは恥ずかしそうに赤くなった。

ブルボンはクスッと無表情を綻ばせた。

「大人になりましたが、ライスの子供っぽさもまだ健在ですね。」

「やめてよブルボンさん。」

「赤くなるとますます小さくなるのも変わってないですね。」

「うう…」

暗い食堂の中で、二人はまるで生徒時代のような和やかな雰囲気で接していた。

 

 

しばらくそうした雰囲気が続いた中、ブルボンの携帯が鳴り、受付から連絡が来た。

『スペとスズカが施設内に戻りました。』

 

…。

その連絡に、明るい雰囲気だったブルボンの表情は現実に戻されたように無表情になった。

 

了承と返答したものの、ブルボンはすぐには席を立たずにしばし思考していた。

「特別病室に戻らないのですか?」

「いえ…」

口調を戻したライスの尋ねにもブルボンは言葉を濁していたが、やがて意を決したように携帯を取って医師達に連絡した。

「…ブルボンです。スペとスズカが施設に戻ったようです。…はい、私は、もう少し後に戻ります。ですので…ええ、沖埜トレーナが特別病室にいるので…宜しくお願いします。」

 

連絡を終えると、ブルボンは立ち上がった。

「ライス、外でもう少しお話ししませんか。」

「戻らなくてもいいのですか?」

「後で戻ります。それまでもう少し、あなたとお話ししたい。」

もうこんな時間はないかもしれませんし、それに…

「この状況を乗り越える為に、私はあなたから力を頂きたいから。」

コートを羽織ると、ブルボンはライスに手を差し伸べた。

 

「はい。」

ブルボンの言葉に、ライスも微笑しつつ右眼を蒼く光らせて、彼女の手を握り立ち上がった。

 

 

 

*****

 

 

同じ頃。

 

場は変わり、メジロ家の屋敷。

マックイーンは、自室のソファで紅茶を喫しながら身体を休めていた。

 

ライス…

マックイーンの表情は、ここ最近閉ざされていた名族令嬢らしい穏やかなものになっていた。

ようやく、あなたは解放されましたか。

 

先程、マックイーンは電話でライスからシアトルとの事を伝え聞いた。

ブルボンと同じくライスの無二の親友である彼女も、ライスが宝塚の呪縛から解き放たれたことに心の底から安堵していた。

ライスに残された時間はもう僅か。

その耐えがたい悲しみの中で、一つの確かな救いが叶った。

 

最大の呪縛から解き放たれた今、ライスには最期の時まで安らかな時間を過ごして欲しいと、マックイーンは思った。

でも、もうそれは不可能だ。

ライスは最後の使命を果たす為に生き切ろうとするだろう。

ライスを止めるべく派遣したブルボンも、彼女の覚悟を受け入れた。

 

私も。

マックイーンはゆっくり立ち上がり、窓を開けて夜空を仰いだ。

あなたの覚悟を受け入れますわ。

そして、事に救いの未来をもたらすことが出来たら…

 

「ブルボンと共に、あなたと最期までの時間を、一緒に過ごしましょう。」

 



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聖夜(2)

 

*****

 

時間は少し遡り、再び療養施設。

 

スズカに呼ばれたスペが宿泊室を出ていった後、同室していたルソーも部屋を出て自分の病室に戻った。

 

その後しばらく病室でゴールド・ケンザンと共にいたが、やがてルソーは松葉杖を再び病室を出た。

向かった先はシアトルの宿泊室だった。

 

 

シアトルの宿泊室に着くと、ルソーは扉をノックした。

コンコン。

「どうぞ。」

「失礼します。」

「おや、ホッカイルソー。」

起きていたシアトルは、来室した彼女の姿を見て気さくに手を挙げた。

「何か私に用かい?」

「いえ、少しシアトル先輩とお話したくて。」

「そうか、まあ座りなよ。」

シアトルはルソーを椅子に促し、茶の用意を始めた。

 

二人は室内の椅子に向かいあって座った。

先程ルソーの病室で初対面し挨拶を交わしたものの特に会話はしてなかったので、話すのは実質これが初めてだった。

 

「お茶、美味しいです。」

「アハハ、苦いって顔に出てるよ。」

「苦いの好きなので。」

「あらそうなの。変わってるね。」

後輩らしくかしこまっているルソーに対し、シアトルは会った時と同じく快活だった。

「先輩、随分と明るいのですね。イメージと違ってました。」

「あら、暗いイメージだったの?」

「あの宝塚記念でしか、先輩の姿を観てなかったので。」

「あー。」

なる程ねとシアトルは頷いた。

さっきも同じようなこと言われたな。

「まあ、大人になったのさ。あの宝塚を乗り越えてね。」

「…乗り越えた。」

「うん。」

「…。」

明るく頷いたシアトルを見て、苦しみのどん底にいるルソーは眩しそうに俯いた。

 

「ルソーは、随分苦しんでるみたいだね。」

俯いたルソーに、シアトルは口調を変えていたわるように言った。

「…。」

シアトルの言葉に、ルソーは顔を上げた。

 

「君のこと、私はある程度調べたよ。椎菜先生からも君の状態を色々聞いた。また、今起きてるオフサイドの件のことも既に知ったよ。」

「そうなんですか。」

「仲間を助けに来たんだ。それぐらい動いて当たり前よ。」

答えた後、シアトルは持っていた茶碗を置き、改めてルソーを見つめた。

「ただそれにしても、君の経歴には驚いたよ。いや、驚いたというより戦慄したかな。〈死神〉との闘いだけじゃなく、レースで背負ってしまったものまで含めて、あまりにも過酷だとね。」

「…。」

日経賞のことを指してると、ルソーにはすぐに分かった。

 

「よくここまで頑張って耐え抜いて来たね。」

「…今は、もう折れかかってますが。」

「関係ない。ここまでだけでも充分敬意に値するよ。第一、今の状況では折れない方がおかしいさ。私だって同じ状況ならとうに折れてる。希望も支えも失ってるんだから。」

「…。」

ルソーは再び無言で俯いた。

 

「今は、私があなたの支えになるよ。」

〈クッケン炎〉療養ウマ娘のリーダー的存在である彼女の肩に、シアトルは優しく手を当てた。

「あなたが再び希望を見つける時までは、私を支えにして。苦境で一番大切なのは支え合いだから。」

「支え合い…」

「うん。私達の世代もそうだった。吹き荒れる〈死神〉の猛威を前に、全員で折れそうな心を支え合って必死に闘った。…最終的には全滅したけど、何度か〈死神〉にも敗北を与えてやったわ。」

当時を思い出したのか、シアトルの口調が熱くなった。

「あなた達を〈死神〉の餌食にさせたくない。〈死神〉と闘い続けた同胞として心底からの願いだわ。」

 

「ありがとうございます。」

ルソーは、俯いたまま答えた。

その瞳には、まだ何の希望も映っていないようだった。

 

 

*****

 

 

一方。

ルソーの病室にはケンザンとゴールド、そして椎菜の姿があった。

 

椎菜はケンザンに、現在のスズカとスペのことを伝えていた。

「スズカとスペは今、二人きりで外に?」

「ええ。スズカがそうしてくれと頼んでね。」

「やはり、例の件のことで話を…」

「それは分からない。午後と同じく外の空気を吸いたいだけかもしれないわ。今のスズカにとってはあの病室にいることさえも苦痛なのかもしれない。」

「沖埜トレーナは?」

「彼はついていってないわ。特別病室に留まって、二人が戻るのを待ってる。」

「沖埜トレーナに関しては、何かありましたか?」

「先程までスズカと二人きりで何か話していたらしいわ。内容は分からないけど。」

 

「分かりました。報告ありがとうございます。」

現状を聞き終えたケンザンはそれ以上は特に尋ねず、椎菜に礼を言った。

『スピカ』の状態は気になるが、集中すべきは『フォアマン』だ。

そう心に警鐘していたから。

 

「オフサイドの方はどうなってる?」

現状を伝え終えた椎菜が、今度は尋ねた。

「今の所、岡田トレーナからは何の報告もありません。生徒会からも何もきてないので、現状は何も動いてないのかと。」

「そう…。」

椎菜は深く吐息した。

やはりオフサイドの決意は到底揺るぎようのないものになってるのか…

 

「サクラローレルは、どうなってる?」

憂い深くなりながらも、椎菜はオフサイドの決意を翻意させられうるウマ娘について尋ねた。

「そこも分かりません。マックイーンさんが手を尽くしてサクラ家と交渉しているようですが、まだ報告は何も。…ですが、」

そう答えた後、ケンザンは続けた。

「ローレルは必ず帰ってきます。…必ず。彼女がオフサイドと会う時まで、我々は手を尽くさなければいけません。そうしなければ、オフサイドが救われる可能性すらないでしょう。」

「可能性すらない、か。」

「ええ。」

かつてオフサイドの闘病をずっと見てきた者と、チームの先輩としてオフサイドの競走生活を長年見守ってきた者は、僅かでも可能性を見出すそうと話し合っていた。

 

 

二人が話してる一方、ゴールドは窓際のベッドに腰掛けて、外の光景に眼を向けていた。

昨晩の行動後に倒れ半日余り意識を失っていた彼女だが、目覚めた後体調はどんどん回復し、既に普段と変わらない状態になっていた。

もっとも、心の状態はどん底のままだったが。

 

スズカ、もうあなたも、オフサイド先輩と同じ決意をしてしまったんだろうね。

私も、この世界から罰を受けた後にいくから…

「ごめんね、スズカ…。」

夜景を虚な眼で眺めながら、声にならない声が洩れた。

 

つと、ゴールドは立ち上がった。

「どこに行く?」

病室を出ようとしたゴールドをケンザンが呼び止めた。

「ちょっと、食堂へお茶飲みに行ってきます。」

「では、私も一緒に行く。」

「一人で大丈夫です。」

「駄目だ。」

今のお前は一人に出来ないと、ケンザンは厳しい眼でゴールドを見下ろした。

 

丁度その時、コンコンと扉をノックする音がした。

「?どうぞ。」

「失礼します。」

訪れたのはカメラを提げた美久だった。

 

「あら、ライスはいないのかしら?」

「ライス先輩は先程出ていかれました。」

「そう…どこに行ったのかな。食堂かな?」

美久のその言葉に、ゴールドが反応した。

「食堂に行くなら、私も一緒についてっていいですか?」

言いながら、これで構わないですねとケンザンを見上げた。

「…ああ。」

ケンザンは頷いた。

 

その後、ゴールドは美久と共に部屋を出ていった。

 

 

ゴールド…

彼女が出ていった後、ケンザンは深い息を吐きながら椅子に座り直した。

『ごめんね…スズカ…』

先程の彼女の呟きは、ケンザンの耳に聴こえて残っていた。

 

ゴールド、お前は私が守る。

ケンザンは、胸のうちで呟いた。

 

 

 

*****

 

 

時間は遡り、22時半過ぎの特別病室。

 

「分かりました。」

二人きりで外に出たいというスズカの要求に、スペは顔を上げて頷いた。

「トレーナさん、宜しいでしょうか。」

「…ああ。」

沖埜はスズカの表情をじっと見つめていたが、やがて頷いた。

 

 

その後、ブルボンや医師達の了承を得て、スズカとスペは病室を出た。

そのまま下に行き、二人は施設の外に出た。

 

 

外は非常に寒かったが、寒風は殆ど吹いてなかった。

「どこに、行きますか?」

スズカを乗せた車椅子を押しながら、茶色のコートにグレーのマフラー姿のスペは尋ねた。

「芝生道を進みましょう。」

車椅子上、緑のコートに紅いマフラー姿のスズカは答えた。

「…はい。」

スペは頷き、芝生道へ向けてゆっくり車椅子を押し出した。

 

夜空は冬の澄みきった星空が満天に広がっていて、蒼月が煌々と光っていた。

 



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聖夜(3)

 

「綺麗ですね、夜空。」

 

施設外の高原の芝生道。

車椅子上のスズカは満天の星空を仰ぎながらふと呟いた。

「そうですね…。」

車椅子を押していた手を止め、スペも夜空を見上げた。

療養施設に来るようになって以降、何度もここから観える夜空を見てきたが、今晩は特に美しい澄みきった光景が広がっていた。

 

「そういえば、今日はクリスマスでしたね。」

「クリスマス…」

そういえばそうだったと、今更のように気づいた。

「聖夜だから、これだけ綺麗な夜空なのかもしれないですね。私達へのささやかなプレゼントでしょうか。」

そう言ったスズカの口調は普段の清廉なものだった。

 

「昨年はどんなクリスマスでしたっけ?」

「えーと…」

尋ねられ、スペは思い出そうと頭に手を当てた。

「確か、『スピカ』に加入したばかりのスズカさんの歓迎会も兼ねて、皆で楽しく過ごした記憶があります。」

「あ、そうでしたね。」

スペの返答に、スズカは思い出しように言った。

「トレーナさんのご自宅で皆でクリスマス会をしましたね。マーベラス先輩やエアグ先輩達も一緒に。楽しかったですね。」

「はい。」

「確か、スペさんが一人でケーキを全部食べかけてたから皆で慌てて止めた覚えがあります。」

「あは、そうでしたか。」

「あの時に私は、スペさんが凄く食欲旺盛な方だと知りましたから。」

「流石に、ケーキ独り占めは止められますよね。」

「ウマ娘はスイーツ好きが多いですから。私もそうですし。」

 

過去の思い出を他愛なく話しているものの、二人の表情には笑顔はなく、雰囲気に明るさは全くなかった。

「あんな楽しい時間が、私達にもあったんですね。」

夜空の遥か彼方に灯る星を見つめ、スズカはぽつりと言った。

「…。」

スペは何も答えず、無言で再び車椅子を押し始めた。

 

 

やがて芝生道を抜けて、二人は遊歩道に入った。

「少し、ここで一息ませんか。」

遊歩道の自販機のあるベンチ前を通りかかった時、スズカはスペに言った。

「…はい。」

スペは従うように頷き、車椅子を止めた。

 

「温かい飲み物を買って頂けますか。」

自販機を見て、スズカはスペに頼んだ。

「分かりました。」

スペは自販機で温かいお茶を買うと、スズカにそれを渡した。

「ありがとうございます。」

スズカをそれを受け取ると、飲むのではなく暖を取るように両手に抱えた。

「夜景は綺麗ですが、流石にちょっと寒いですね。スペさんは飲み物いらないのですか?」

「私はそこまで寒くないので。…スズカさん、マフラーがずれてますよ。」

答えながら、スペはスズカの首元に手を当てて、マフラーを着け直した。

「ありがとうございます。」

スズカは礼を言いながら、ほんの少し微笑した。

スペもほんの少し微笑を返し、車椅子の傍らのベンチに腰掛けた。

 

 

しばしの間、二人の間に沈黙が流れた。

 

ここで、大切な話をするのかな…

一面に広がる夜の高原の光景を前に、ベンチに座ったスペはスズカが言葉を発するのを待っていた。

一方のスズカは、両手に飲み物を抱えたまま、しばらくじっと眼を瞑っていた。

 

やがて、

「…スペさん、」

スズカはやがて眼を開き、夜景に眼を向けつつ静かに口を開いた。

「何故スペさんは、オフサイド先輩を責めたのですか?」

 

「…。」

スペは思わず、膝頭に爪を立てた。

覚悟していたが重い問いかけを受けて、心が大きく動揺した。

 

「…夕方、お伝えした通りです。」

なんとか平静を保ち、蒼白な表情で声を震わせながらスペは答えた。

「あの天皇賞・秋後のオフサイド先輩の言動を、完全に誤解してしまった為です。未熟な私には、先輩の心中や勝者の尊厳というのをまるで分かっていませんでした。先輩の言動を歪んだ眼で見た結果、私は愚かな行為をしてしまったんです。」

 

スズカは、スペを見ずに、乾いた口調で続けた。

「深く後悔しているんですか?」

「…はい。」

スズカの問いかけに、スペは涙声で頷いた。

「私の行動でどれだけ先輩が傷ついたか。…本当に申し訳なくて、もう詫びようもありません。悲壮な決意をされてしまったのも、私のせいです。」

 

「スペさんのせいではありません。」

スペの涙混じりの懺悔に、スズカは首を振った。

「スペさんはまだ何も知らなかったから、歪んでしまった風潮に流されてしまっただけです。」

「そんなこと、なんの言い訳にも」

「それに、オフサイド先輩が抱いてしまった決意には、スペさんの行動は関係ないと思います。」

スズカはスペの言葉を無視するように続けた。

「有馬記念に出走すると決めた時点で、もうその決意をされてたのでしょう。ゴールドも言ってました。オフサイド先輩が夢も希望も不屈すらも失った理由は、誰も先輩の走りを顧みようとせずに、栄光に値しない・無価値の烙印をおされたからだと。そのことに絶望し、その果てに、栄光に相応しくない走りをした自らが悪いと責めてしまって、帰還の決意をしてしまったのだと。」

昨晩ゴールドに突き刺せられた言葉を、スズカは唇を震わせながら口にした。

 

「だから、スペさんと先輩の決意は関係ない筈です。それに恐らく、先輩もスペさんのことを責めてなどいないでしょう。」

寧ろその逆でしょうと思いつつ、スズカは言った。

 

 

「でも、私がオフサイド先輩を傷つけたことだけは間違いありません。」

スズカの言葉を聞いた後も、スペはぽつぽつと続けた。

「それに、オフサイド先輩とスズカさんが会える大切な機会を、自分は消してしまいました。」

その事実だけは間違いないと、スペは心底から自責する様に言った。

「…。」

その言葉に対しては、スズカは何も言えず黙った。

 

 

だが、

「辛かったですよね、スペさん。」

やがて再び口を開くと、スズカは唇を噛み締めながら涙を拭っているスペを見つめた。

「…?」

「本当に苦しかったでしょう…他人を責めてしまう行動は。」

 

オフサイドと会ったであろう時から、スペの表情から笑顔が消えていたことをスズカは気づいていた。

純真無垢で天使のような明るさと笑顔をもつスペがそうなった…それは、彼女自身にもその行動による反動に苦しんでいたことを間違いなく表していた。

 

「私の苦しみなんて自業自得です。寧ろ足りない位…」

 

「それ以上自分を責めないで。」

再び、スズカはスペの言葉を遮ったい。

「スペさんは悪くないから、この私の罪に侵された犠牲者だから。」

スズカが深い吐息と共に言うと同時に、冷たい寒風が吹いた。

 



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聖夜(4)

 

「…何を言うんですか。」

「ごめん、スペさん。私の罪が、あなたの心に消えようのない傷を負わしてしまった。」

スズカは俯き、言葉を絞り出した。

「純真無垢な、一切の穢れがなかったあなたの心が、私のせいで。」

それが何よりの苦痛であることを示すように、血を吐くような口調だった。

 

「スズカさん…」

「スペさんだけじゃないわ。トレーナさんも、ゴールドも、大切な同胞達も人間の皆さん達もみんな傷ついて…そしてオフサイド先輩は、私の罪の全てを背負ってしまった。」

「…スズカさんっ。」

嘆き続けるスズカの身体を、スペは思わず抱きしめた。

 

「スペさん、もう私は、夢を与えるウマ娘じゃありません。私は、悲しみと歪みを与えてしまったウマ娘になってしまった。」

スペの胸に抱き寄せられたまま、スズカは嘆き続けた。

「…。」

スペはただ、スズカを抱き締め続けた。涙を溢れさせて。

 

 

「スズカさん、」

少し経った後、スペは腕を離し、目元を拭ってスズカを見据えた。

「もし、オフサイド先輩が帰還されてしまったら…もしかしてスズカさんも…。」

「…。」

その問いかけに、スズカは何も答えず俯いたままだったが、スペは見開いた眼で見つめ続けた。

「もしそうだとしたら、私も一緒にいきます。」

 

「えっ…」

「スズカさんのいない世界で、一人残された苦痛の中で生きていくくらいなら、私もスズカさんと一緒に還ります。その方がいい。」

「スペさん、一体何を…」

「もう私も…この世界の夢を失ってしまったんです。」

拭っても拭ってもなお、スペの眼から涙が溢れ続けていた。

 

 

先日、ルソーと衝突した後に椎菜に連れていかれた、この療養施設の地下室。

そこで聴こえた、帰還していった無数の同胞達の声が、スペの胸に深く刻み込まれていた。

想像だにしていなかったこの世界のあまりにも残酷な一面に、スペの心は計り知れない程のショックを受けていた。

華やかな栄光の影で、多くの同胞が人知れず散っていった…

その現実を知った今、オフサイドのこととは別に、彼女は絶望に襲われていた。

これを背負って、私は生きていかねばいけないの…?

 

『この最果ての地で散った同胞の魂も、今後新たに墓標となるであろう同胞の苦悩も、未来を失った同胞の届かない祈りも嘆きも、全部まとめてくれてやる!』

『全部背負って這いずり回って、私達の屍を足場にして、この世界が宣う夢とか笑顔とやらで、みんな救ってみせればいい!』

先日ルソーからぶつけられた凄まじい言葉も、脳裏に強く焼き付いていた。

出来るわけがない、背負える訳がない。

私は、母と姉の帰還だけでも潰されそうだったのに。

 

彼女が抱いていたレースへの夢さえ、今は恐ろしいものに変貌していた。

結果がそのまま、この世界の未来を手に入れられるか否に繋がると知った、ウマ娘のレースの世界。

残した実績だけでなくその血筋だけで既に未来を保障されているような存在のスペは、走る意義が分からなくなっていた。

これ以上私が栄光を求めて何になる?

強さを求めて何になる?

最高の走りを求め勝利を手にする、それが夢でいいの?

 

「もう、私は何がなんだか分からなくなりました。華やかなで幸せだと思っていたこの世界の裏で、こんなに悲しく、過酷な現実があったなんて。」

頭を抱え、スペは天使の面影がない苦悩に溢れた声を出した。

「…。」

「今、この私に残された確かな夢はスズカさんだけなんです。スズカさんまでがいなくなってしまったら、もう私に残されたものは悲しみと苦痛だけ。その中で一人孤独に生きていく位なら、私は最期まで…スズカさんと一緒に…一緒にいたい。」

 

「スペさん…」

スズカの唇から、愕然とした呟きが洩れた。

スペの悲しみは、スズカの胸にも浸して行くように伝わっていた。

ここまで悲しみに満ちたスペの姿は見たことがなかったし、同時に、彼女が生まれて以降背負ってきたものの重さを身体の芯に響く程はっきりと感じた。

 

だが、スズカはスペの言葉に頷けるわけがなかった。

 

 

「…施設に戻りましょう。」

スズカはスペから眼を逸らし、飲み物を抱えながら表情を隠して促した。

「…。」

スペは溢れる涙を抑えながらゆっくりとベンチを立ち上がり、スズカを乗せた車椅子を押して、無言で遊歩道を戻り出した。

 

 

 

そのまま、二人は一言も話さず、施設内に戻った。

 

そして、エレベーターに乗り込んだ時。

「…待って。」

最上階へのボタンを押そうとしたスペの手を、スズカは止めた。

「…屋上にいきたいです。もう少し、二人きりでお話ししたい。」

「…分かりました。」

スペは小声と共に頷き、屋上へのボタンを押した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

20年前の、3月。

 

「お姉さん、元気出して。」

某ウマ娘専用病院の一室に、一人の少年が見舞いに訪れていた。

 

少年は、その病室で入院しているウマ娘の手をずっと握りしめていた。

「…あり…がとう…」

ベッド上で左脚を吊るされている栗毛のウマ娘は、痩せ細った腕で少年の小さな手を握り返した。

「…いつも…お見舞い来てくれて…嬉しい…」

力のない微かな声ながらも、彼女は表情に微笑を見せた。

前髪の流星がそれと重なり、少年の眼には悲しく美しく映った。

 

「お姉さん、きっと治るよね?…また、カッコいい走りをレースで見せてくれるよね?」

手を繋ぎ合いながら、少年は瞼に涙を一杯に溜めてウマ娘に言った。

「…うん…必ず……治って…また…走るから…待ってて…」

彼女は手を伸ばし、少年の涙を拭った。

「うん。待ってるよ、ずっと…」

少年はしゃくりあげながら頷いた。

「…坊や…」

「…ん?」

ウマ娘は美しい微笑を湛えたまま、少年の頬に手を優しく添えて言った。

「…あなたと…出会えて……良かった…」

 

 

数日後。

 

「お姉さん…」

病室内が悲嘆と慟哭に溢れる中、少年は父と共にベッドの側に歩み寄り、事切れたウマ娘の姿を見つめた。

痩せ細った身体の中、その最期の表情には微笑と流星が残されていた。

「やだよ…お姉さん…お姉さんっ…」

少年の秀麗な眼から涙がポロポロと溢れた。

「なんで…うっ…お姉さんっ…うっ…うう…なんで…なんでっ…」

少年は冷たくなったウマ娘の身体に縋りつき、声を上げて泣き続けた。

 

 

 

*****

 

 

俺が、この世界に入ったのは…

 

特別病室。

誰もいない暗い室内で一人黙念と椅子に座っている沖埜は、幼少期の記憶を思い出しつつ、自らの心に問いかけていた。

俺がこの世界に入った理由、その理由は…

 

心に問いかけつつ、沖埜の視線は開け放たれた窓の外に広がる夜天の一等星に向けられていた。

 

 

時刻は、23時をとうに過ぎていた。

 



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聖夜(5)

 

*****

 

「サイレンススズカとスペシャルウィークは屋上へ?」

 

23時半頃。

ライスと共に施設の外に出ていたブルボンは、ベンチで医師からその連絡を受けていた。

「誰と…まだ二人でですか、了承です。」

連絡を聞き終え、ブルボンは携帯をしまった。

 

「何かあったんですか。」

傍らに座っているライスが尋ねた。

「いえ、施設内に戻ったスズカとスペは特別病室に戻らず、そのまま屋上にいったという連絡がありまして。」

答えながら、ブルボンはつと上を見上げた。

二人が今腰掛けている後方の施設建物の一番上がその屋上だったから。

 

「二人、どんな話をしてるのでしょうね。」

ライスも同じく屋上を見上げて呟いた。

「恐らくオフサイドトラップの件でしょう。」

ブルボンは当然のようにそう推測した。

だが今は、それ以上は考えようとはしなかった。

 

「そういえば、ここの屋上から観える景色はすごく綺麗でしたね。」

ふと、ライスが思い出したように言った。

「ええ。」

二人とも、ここで療養生活を送った時代に、何度も屋上に上がってその景色を眺めたことがあった。

そこから観える一面の景色は、一目だけでも心を癒してくれる程の美しさだった。

今夜の景色も素晴らしいだろうなと、一面の澄んだ星空と蒼い月をライスは見上げた。

あの二人の心の傷を、少しでも癒やしてくれれば。

見上げながら、ライスは胸中で夜空に祈った。

 

「ライスは変わりませんね。」

その様子を見て、ブルボンはふっと微笑した。

「星空に祈ることが多いのは、現役時代からそうですね。」

「祝福の名前をもらってますから。幼い時から、夜空に願いごとをすることが多かったの。」

ライスの口調は、生徒時代のものになっていた。

「不思議ですね、祝福の名前にはあまり夜のイメージがないのに。」

「それは、私の性格なのかな。イメージ的にも、夜っぽいものが強いみたいですし。」

「確かにそうですね。」

天皇賞・春を制した際の記念ポスターにおけるライスの姿も夜のイメージだったし、それに…

「5年前、マックイーン会長と天皇賞・春で闘う前、夜も調整で励んでいた鬼気迫る姿が、夜景と重なって強烈に印象に残ってますから。」

「ああ、懐かしいですね。」

確か山奥で調整に没頭していて、途中から訪れたブルボンさんがずっと見守っていてくれたな。

もう、あの天皇賞・春から5年以上経つのか。

 

 

「ブルボンさんと闘った記憶も、もう6年以上前になるのですね。」

当時を思い出すように、ライスは眼を瞑った。

「そうですね。」

ブルボンも同じく眼を瞑って回想した。

スプリングS・皐月賞・ダービー・京都新聞杯・そして菊花賞における、二人の思い出を。

 

「皐月賞までは、私はブルボンさんに全く敵わなかったね。」

「ええ。私も当時は、あなたのことは特に気にしてませんでした。」

気にするようになったのは、自分に4バ身離されながらも2着に粘りきったあのダービーから。

「あの後、私もトレーナもあなたが3冠に向けて最強の敵になることを察知しました。」

スピード面ではブルボンは他の追従を許さないが、スタミナ面ではライスの方が優っていた。

スタミナ不足を克服する為、ブルボンは必死にトレーニングにトレーニングを重ねた。

一方のライスも、ブルボンに勝つための戦略を立てて、それを遂行出来るよう、こちらも鬼気迫る調整を行った。

「前哨戦の京都新聞杯は危なげなく勝てましたが、すぐ後ろにライスが迫っていたから少しも安心は出来なかったです。」

「えへへ。私も、あの着差なら菊本番でブルボンさんに勝てると自信が湧いたよ。」

ライスの眼に、微笑と共に蒼芒が洩れた。

 

そして最後の対決となった菊花賞。

ブルボンは三冠を目前にした京都の直線半ばで、遂にライスに差し切られた。

「私の完敗でした。ハナを奪ったキョウエイボーガンに気を取られて、一瞬自分の走りを見失ってしまった。最後まで自分のレースを走りきったあなたに勝てなかったのは至極当然の結果でした。」

「うん。私も完勝だと思った。」

ブルボンの言葉に、ライスは微妙を湛えたまま頷いた。

「でも、マチカネタンホイザさんの猛追を差し返して2着を死守したブルボンさんの粘りにはびっくりしたよ。あんなことはとても私には出来ないと、改めてブルボンさんの凄さを思い知った。」

「2冠ウマ娘の意地です。それに、どこかで分かっていたのかもしれないですね。これが自分の最後のレースになるかもしれないと。」

ブルボンは、そっと脚に手を当てた。

 

「でも、もう一度、あなたと闘いたかったですね。」

脚に手を当てたまま、ブルボンは僅かに未練を滲ませるように言った。

「うん。ライスも、もう一回ブルボンさんと走りたかった…。」

 

ライスも同じように呟き、それからつと無邪気な笑顔を見せた。

「でも、再戦しても多分ライスが勝ってたと思うな。」

「あら、大した自信ですね。」

「ライスは、標的と定めた相手には絶対に負けないから。」

「ふふ、確かにそうですね。でも、」

ブルボンの頬にも不敵な微笑が浮かんだ。

「私も、限界を打ち破り続けてきたウマ娘です。だから“ライスにマークされたら勝てない”という限界も打ち破って見せる自信はあります。」

「うふふ、ブルボンさんも負けず嫌いですね。」

「当然です。私は無類の負けず嫌いと自負してますから。」

 

 

同期の2人は、お互い笑顔で見つめあっていた。

 

 

だが、やがて。

「そろそろ、戻りましょう。」

ブルボンは表情を無に戻し、ふっと息を吐いて立ち上がった。

 

「はい。」

ライスも口調を戻し、ゆっくりと立ち上がった。

 

二人でこんな楽しい時間を過ごしたのは何年ぶりだったろう。

もっと話していたかった、この楽しい時間がずっと続いて欲しかった…

二人とも同じことを思った。

 

けど。

「続きは、使命が終わった後に。」

「ええ。」

ライスの言葉にブルボンは頷いた。

「その時が訪れるよう、力を尽くしましょう。」

「はい。生ききってみせましょう。」

ライスも、まだ微笑が残った蒼芒を揺らめかせて頷いた。

 

 

 

その時。

 

カッ。

二人の近くで、不意に何か鈍い物音が聞こえた。

 

「…?」

二人は怪訝な表情を浮かべ、辺りを見回した。

「…何の音でしょうか?」

「何か落ちたような音に聞こえましたが…あ、」

ライスのついている杖に、転がってきた何かが当たった。

 

…これは?

ライスが拾い上げると、それは蓋の空いた飲み物の容器だった。

「何でしょう?」

「…。」

「まだ中身が入ってますね。」

「一体誰の…」

 

しばし怪訝な表情でそれを見つめていた二人の視線は、やがて施設の屋上へと向けられていた。

 

 

 

******

 

 

「…ん?」

 

同じ頃、ルソーの病室。

室内にいたケンザンと椎菜も、外の物音に気づいていた。

 

「…何の音かしら。」

「なんかの容器が落ちたような音に聞こえましたが…」

大した物音でもなかったが、二人とも妙に胸騒ぎがした。

 

「…。」

椎菜は席を立ち、病室の外に出た。

「外に行くんですか?」

「ちょっと気になってね。確かライスとブルボンが外にいるらしいことは聞いたけど…。」

ついてきたケンザンにそう答えながら、椎菜は暗い廊下を歩き出した。

 

 

そして、階段の前にさしかかった時。

「え?」

「なに?」

暗闇の中、二人は不意にただならない気配が迫って来るのを感じ、ハッと立ち止まった。

 

 

次の瞬間。

突然、大きな物音が施設内に響き渡った。

 

それとほぼ同時に、眼を疑うような光景が、二人の目の前に映った。

 



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大償(1)

 

*****

 

数十分前。

施設に戻ったスズカとスペは、そのまま屋上へと向かった。

 

屋上に着くと、スペは持参していた携帯で医師達に現況を伝えた。

「…はい、特別病室ではなく屋上にいます。スズカさんと一緒です。ええ、まだしばらく二人きりで…はい、宜しくお願いします。」

連絡を終えると携帯をしまい、車椅子のスズカを見た。

「誰か見張りに来ますか?」

「いえ、二人きりでいいと許可を頂きました。」

「そう。」

スズカは少し不安げな様子だった。

「鍵、かけて頂けますか。」

「鍵を?」

「誰か来るとも限りませんから。そちらの方が安心してお話し出来ます。」

「分かりました。」

スペはカチャと屋上の扉の鍵をかけ、それから車椅子を押して屋上内にあるベンチへ向かった。

 

 

屋上から一眺する景色は、冬の夜空の美しさを全て散りばめたような絶景だった。

澄み渡った空気もあって神秘的にすら感じた。芝生道から眺めたものとは格段に違う景色だった。

 

「綺麗ですね…」

スペはベンチに腰掛けず、緩く吹き始めた寒風に髪を靡かせながら夜景に見とれていた。

「本当ですね…」

スズカも栗毛の美髪に触れながら、その夜景を眺めていた。

療養生活を始めてから毎日のように病室の窓から夜景を眺めていたけど、今日の夜空は一番の美しさに思えた。

 

こんなに綺麗なのに。

この世界は、こんなに美しいのに。

言葉にならない思いが、スズカの胸を浸した。

「…。」

湧き上がるものを堪え、彼女は両手に抱えていた飲み物の蓋を開けた。

 

「どうぞ飲んでください。」

涙が溢れそうな眼で夜景を眺めていたスペに、スズカは飲み物を差し出した。

「寒いでしょう。少し暖をとって下さい。」

「はい。」

上着を羽織ってるのでそこまで寒くもなかったが、断らない方がいいと思ったスペはそれを受け取り、数口飲んだ。

「ありがとうございました。」

「…。」

スペがお礼を言いながら飲み物を返すと、スズカはそれを再び両手に抱えた。

 

 

「スペさん。」

夜景に視線を向け、スズカはぽつりと尋ねた。

「私と初めて会った時のこと、覚えていますか?」

 

「勿論です。」

スペはすぐに頷いた。

「昨年の、マイルCSの後でしたね。」

 

 

 

*****

 

 

昨年の11月下旬、トレセン学園の放課後。

 

はあ…

当時2年生のサイレンススズカは、浮かない表情で夕陽が射す競走場の周りをグルグル歩いていた。

 

現在、彼女はどのチームにも所属していないフリーの状態。

2か月程前にチーム『フォアマン』を離脱して以後、幾つかのチームを渡り歩いたものの、未だ自分に適ったチームを見つけられないことに彼女は悩んでいた。

その影響で、レースでも思うように結果を出せていない。

先日出走したマイルCSも、全く折り合えず暴走し大敗してしまった。

もうすぐで3年生になるのに、このままでは自分の夢を叶えられないまま終わってしまうかもという焦燥感も大きくなっていた。

どうすればいいんだろう。

良い方策も見つけられず、スズカはただグルグル悩んでいた。

 

そうしていると。

「こんにちは!」

突然、スズカの側に来て明るく声をかけてきた生徒がいた。

 

…?

スズカは怪訝そうに、その後輩と思しきを見た。

「あなた、誰?」

「はい!1年生のスペシャルウィークと言います!」

後輩ウマ娘は、無邪気な明るい笑顔でスズカにそう挨拶した。

 

「先輩は、サイレンススズカ先輩ですよね?」

「そうだけど、何か用?」

自分を見てやたら眼を輝かせている後輩に、スズカは戸惑った。

「私、先輩とお会いしたかったんです!」

「私と?」

「はい!先日の天皇賞・秋での先輩の走りを見て、凄く惹きつけられたんです!」

「ああ、そう。」

スズカは合点がいったように頷いた。

確かにあの天皇賞・秋での私の大逃げは、結構話題になったな。

 

「それはありがと。でもね、あんな走りは真似しちゃダメだよ。」

「?どうしてですか?」

「結果を残せないからね。勝てなきゃただの暴走なんだから。」

相次ぐ惨敗にやや自信を失っているスズカは、自虐気味に言った。

 

「そんなことはありません!」

スズカの言葉に、スペはぶんぶん首を振った。

「先輩の走りが結果を残せないなんて、そんなわけありません!だって、先輩の走りは凄く綺麗でかっこよくて、美しかったですから!」

 

「…あはは。」

無邪気な表情で熱く言葉を続けたスペに、スズカは自然と笑みが溢れた。

笑顔を浮かべたスズカを、スペは眩しそうに見つめて、そしてぎゅっと手を握った。

「いつか、あの走りでゴールを先頭で駆け抜けて下さい!応援してます!」

 

「うん、ありがとう。」

力強く握られ言われ、スズカは戸惑いながらも笑顔で言葉を返した。

「では、失礼します!」

最後に元気よく頭を下げると、スペはスズカのもとを去っていった。

 

 

スペシャルウィークさん、か。

夕陽に照らされながら元気に駆け去っていく後輩の後ろ姿を眺めているスズカの頬には、最近あまりなかった自然な笑顔が残っていた。

熱く握られた手にも、彼女の温もりが残っていた。

 

 

 

*****

 

 

「あれから間もなくでしたね、『スピカ』に入ってスペさんと再会したのは。」

 

療養施設の屋上。

スズカは万感の思いが籠った口調で当時を思い返していた。

「まさかスズカさんとチーム仲間になれるなんて、夢みたいで驚きました。」

「私もです。でも、正直嬉しかったです。スペさんとの出会いは凄く印象的で、良い記憶でしたから。」

 

 

『スピカ』加入後、スズカは沖埜の指導のもと才能を開花させていく中、スペとの仲も徐々に親密になっていった。

世代でも特に優秀な生徒でありながら、どんな時でも常に明るく笑顔の絶えないスペ。

今まで会ったことのないタイプの同胞であったが、彼女のそのウマ娘性はやや不安定だったスズカのメンタル面にも大きな変化を与えていった。

 

「スペさんは、私に心だけでなく、夢も与えてくれました。」

スズカの声が一瞬詰まり、僅かに震えた。

「夢…」

「“スペさんの為に勝ちたい”という夢です。」

 

「同じです。」

スズカの言葉に、スペも答えた。

「私も、“スズカさんのように強く美しい走りが出来るウマ娘になりたい”という目標だけでなく、“スズカさんの笑顔を見る為に勝ちたい”という夢を持ちました。」

 



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大償(2)

 

今年に入ってから、共に快進撃を続けていたスズカとスペ。

 

快進撃の理由としては、沖埜の指導の影響が勿論大きかったが、二人がチーム仲間となって以後切磋琢磨をし合いながら、お互いを深く想い合うようになった点も大きかった。

 

「スペさんは、いつから私のことを特別に感じるようになったのですか。」

「多分、昨年の天皇賞・秋からだと思います。あのレースでのスズカさんの走る姿を初めて観て、今までない衝撃を受けました。その後、初めてお会いして、チーム仲間になって、時間を一緒にすることが増えていくうちに、それがどんどん大きくなりました。」

スペは包み隠さず、努めて自然な口調で答えた。

 

「私も、スペさんと初めて会ったあの時から、スペさんに対して特別な感じを抱きました。」

スズカは深く回想するような口調だった。

「間違いなく、運命だったのでしょうね。」

「…運命。」

 

「それに、私がレースで勝った時、スペさんは毎回私以上に喜んでくれましたね。」

またほんの少し、スズカの頬に微笑が浮かんだ。

「私はそれが一番嬉しかった。一人のウマ娘としては、無邪気に明るく祝福してくれるスペさんを見たいという思いで、レースを走っていました。」

「レース後、いつも幸せそうな表情で帰ってくるスズカさんの姿が大好きでしたから。」

スペの表情がちょっと紅くなった。

スズカがレースで勝って戻る度、スペは抱きついて祝福していた。

時には感激のあまり泣きつくこともあった。

「毎度、想像を超えて強さで勝つスズカさんの姿を見る度に、私もスズカさんみたいになりたいって強く思いました。それが、あのダービーに繋がりましたから。」

 

「あれは、本当に凄かったですね。」

スズカはダービーにおけるスペの走りを思い出した。

残り200mから同期のライバルを全員ぶち抜いて、衝撃の5バ身差の優勝。

あの凄まじい勝ち方には、観ていたスズカも思わず身体が震えた程だった。

それに…

「スペさんは自分の優勝より、トレーナーさんの悲願を叶えたことを喜んでましたね。あの姿も印象的でした。」

「ダービー制覇はトレーナーさんの大きな夢でしたから。その夢を叶えられたことが凄く嬉しかったです。」

「私も、惨敗したダービーの記憶を幸せなものに変えて下さって、本当に嬉しかった。」

スズカの頬には微笑が残っていた。

 

「そして、そんな日々を送っていくうちに、スペさんにはもう一つの特別な思いも芽生えました。…あなたとレースで闘いたいという思いが。」

「はい。」

スズカの言葉に、スペは前髪に手を触れ、夜空を仰いだ。

「そのことをお話しましたね、天皇賞・秋の前に。」

 

 

 

*****

 

 

天皇賞・秋の前日、東京府中競バ場。

夜、この日の開催レースが全て終わり誰もいなくなった場内の観衆席に、制服姿のスズカとスペが並んで座っていた。

 

「いよいよ明日ですね。」

「ええ。」

夜景を前に二人が話している内容は、勿論明日の天皇賞・秋のことだった。

 

「スズカさん、最高に状態が良さそうですね!」

「体調もメンタルも今までの中で一番の状態だと思います。」

スズカは自分の身体を見つめているスペの問いかけに清廉な笑顔で返した。

実際、心身の状態は生涯最高といっていいぐらい充実していた。

「レース本番でも、今までにない走りを皆さんにお見せ出来そうです。」

「わー!楽しみです!」

珍しく自信に溢れた言葉を口にしたスズカに、スペはぱあっと満面の笑顔になった。

「では、レコードタイムも更新出来るかもしれないですね!」

「自信はあります。」

明日は恐らくバ場状態も良、枠番も1枠1番と好条件が揃っている。

十分レコードタイムを出せると思えた。

「とはいえ、タイムを気にし過ぎてはいい走りは出来ないですから、自分の力を120%出すことに集中します。」

 

スズカはそう言ったものの、スペは期待で一杯の表情だった。

「どれぐらいのタイムを出すのか楽しみです!10バ身くらいの差をつけて1分57秒台のスーパーレコードでしょうか?それとも…」

「スペさんたら…」

スズカはおかしそうに笑った。

毎日王冠の時はすごく心配そうだったのに、今は一抹の不安もなさそうだ。

まあ、私も一抹の不安もないけどね。

最高の走りが出来れば負ける可能性は絶対にないと、スズカは確信していた。

 

「天皇賞・秋の後は、JCに出走するんですよね?」

明日への期待に眼を輝かせたまま、スペはふと尋ねた。

「ええ、来年の海外遠征の前に、なるべく国内の大レースは出走する予定なので。」

「では、私もJCに必ず出ます!」

もともとその予定だったスペは、更に眼を輝かせて言った。

「今月末、ここで遂にスズカさんと闘えるんですね!すっごく楽しみです!」

一月後に行われる大レースに向け、スペの胸は早くも躍っていた。

「気が早いですよ。私にはまず明日の天皇賞・秋がありますし、スペさんも来週に菊花賞があります。まず目の前のレースを終えてから、次のレースを意識しましょう。」

「…はい。」

先輩っぽく指摘されたスペはちょっと前髪を掻いた。

 

「うふふ。」

スズカはその様子を見て微笑みながら、つと競バ場に眼を向けた。

「でも、実は私も凄く楽しみです。スペさんと闘えることが。」

あのダービーやその他のレースでも何度も見せた、電光石火ともいうべきスペの豪脚。

あの持ち主と闘える時が迫っていることに、少なからず高揚感があった。

「とはいえ勿論、相手がスペさんであろうと、先頭の景色は最後まで譲らない自信はありますよ。」

 

「わー、凄い自信ですね!でも、私も負けません!」スズカの言葉に対し、スペの明るい天使の表情がレースで闘うウマ娘のものに変わった。

「例え相手がスズカさんであろうと、私は負ける気はしません。最高の走りをするスズカさんを最高の末脚で差しきって魅せます!」

「あら、大した自信ですね。」

「当然です、私はダービーウマ娘ですから!」

「私もグランプリウマ娘ですよ。」

言いながら二人の視線はぶつかり合い、火花が散って見えた。

 

でもそれもほんの数秒だった。

「…うふふ。」

「…あはは。」

思わず笑い合いながら、二人は笑顔に戻った。

 

「本当に楽しみですね。」

再び競バ場の方に視線をやりながら、スズカはつとスペの手を握った。

「はい!」

スペもその手を握り返しながら、つと身をスズカににじり寄せ、幸せそうに眼を瞑った。

「…大好きです、スズカさん。」

「…。」

スズカは夜空に微笑を向けたまま、眼を瞑っているスペの前髪を優しく撫でた。

 

 

*****

 

 

「その願いは、叶いませんでしたね。夢とともに全部消えてしまった、何もかも。」

夜空に瞬く遥かな星々を見つめて、スズカは喪失感が滲んだ口調で呟いた。

「…。」

スペは何も答えられず、ただ目元を抑えるしか出来なかった。

 

しばしの間、屋上は静寂に包まれた。

 

 

 

 

やがて、スズカは夜景に眼を向けたまま、再び口を開いた。

 

「さっき、スペさんは私に、もしオフサイド先輩が帰還されたらどうする気なのか尋ねましたね。」

「はい。」

目元を拭ってこくりと頷いたスペに、スズカは言葉を続けた。

「私は、もうそのことは考えていません。」

「…。」

「そんな、絶望の未来を考えて待つだけより、私が今するべき行動をとる方が重要ですから。」

スズカの口調は、普段の清廉な淀みないものだった。

 

「はい。」

スズカの言葉に、スペはふーと息を吐くと、嘆きをこらえて頷いた。

「私も、こんな私でも、少しでもお力になります。オフサイド先輩を、スズカさんを救う為になら…。」

 

 

スペのその言葉に、スズカは悲しげな微笑を見せ、小さく吐息した。

「私のことは、もう考えないで下さい。」

 

「…え?」

「考えるべきは、救うべきは、オフサイド先輩です。そのことだけを考えて下さい。」

「…。」

スズカの言葉はずしりと重く、スペは返す言葉に詰まった。

 

更に、スズカは続けた。

「でも、どれだけ皆で力を合わせて手を尽くそうと、オフサイド先輩の絶望の未来は到底変わらないでしょう。ですから、その未来が世界を覆う前に、私は、オフサイド先輩の決意を身をもって翻意させなければなりません。」

 

…身をもって?

「…どういう意味ですか?」

スズカの言葉に、スペは不吉な感覚を覚え、震える口調で尋ねた。

だがスズカは横顔を見せるだけで何も答えなかった。

その横顔が、異常な程清廉になっていること気付き、更に寒気が走った。

スズカさん…まさか…

 

 

何か言葉を出そうとした、その時。

 

「え?…あれ…?…」

突然、スペはめまいのようなものを覚えた。

…何、これ…

気のせいかと思ったが、それは急激に強くなった。

 

「…う…う?…」

突然の身体の異変に、スペは声を洩らしながら崩れるように身体をベンチにもたれさせて、何度も顔を振った。

だがそれは全くおさまらなかった。

めまいじゃない…

スペを襲ったのは、強烈な眠気だった。

「…なんですか、これ…」

身体の自由が効かなくなる程の眠気に、スペは青ざめた。

 

「どうしましたか。」

「…すみません、ちょっと急にめまいと眠気が…」

スズカの問いかけに、スペは早口で答えた。

平静を装う余裕はなかった。

とにかく医師の先生を呼ばないと。

ベンチにもたれながら、スペはなんとか意識を奮い立たせてスマホを取り出した

 

 

ところが。

「…。」

傍らのスズカが無言で、連絡をとろうとしたスペの手を制止させるように、さっと抑え込んだ。

 

「…え?何を…」

「…。」

驚いたスペの眼に映ったのは、全てを悟り切ったようなスズカの眼だった。

 

 

「ごめんなさい、スペさん。」

スズカのもう片方の腕には、先程スペに与えた飲み物と、昨晩担当医師から受け取った薬の錠剤が握られていた。

 

 

 

*****

 

「っ…」

 

施設の食堂。

美久と共にお茶を飲んでいたゴールドは、突然ビクッと身体を震えさせた。

 

「どうしたの?」

「…いえ。」

美久の問いかけに、茶碗を両掌に抱えたままゴールドはなんでもありませんと首を振った。

だが彼女の掌は震えたまま、カタカタと音を鳴らしていた。

「どこかおかしいの?」

「…。」

ゴールドは茶碗を置き、震えた両手で頭を抱えた。

「何か、凄く嫌な予感がしたんです…」

答えている彼女の声音も震え出していた。

 



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大償(3)

 

「…スズカさん…それ、まさか…」

 

「大丈夫です。身体に害は全くありません。」

愕然としているスペの手からスマホを取り、空になった錠剤を捨てて、スズカは一切の感情を見せず静かに言った。

「…なんで?何故…?」

「ごめんなさい。でも、こうするよりありませんでした。」

「“こうするより”…?ということは…」

「全て、私の計画通りです。」

二人きりになったのも、この屋上に来たのも、そしてスペに薬を飲ませたことも、自分のすべきことを遂行する為の計画だった。

「現状を変える為には、これしか方法がなかったんです。」

 

「…まさか…嘘ですよね…」

飲まされた薬の効力により、スペの身体は自由が効かなくなり、ぐったりと地面に膝をついた。

それでも必死に意識を起こして、スペは車椅子上のスズカを見つめた。

スズカが何を考えてこんなことをしたのか、もう察知していた。

「…まさか…先程の“身をもって”という言葉の意味は…」

「…。」

スズカは無言で、車椅子を動かしてスペから少し離れると、柵のない屋上を見回した。

 

「…だめです!…」

声をあげる力もなくなりながら、スペはなんとか身体を動かしスズカの側に這い寄って、車椅子を掴んで身を起こした。

「…だめ…いけません!……やめて…スズカさん…」

ぼやけていく意識の中、スペは瞳を必死に見開いて叫んだ。

「これしかないのです。」

愛する同胞の決死の引き止めに、スズカの口調も震え出していた。

「こうでもしない限り、オフサイド先輩の決意は変えられません。」

「何故…どうして…」

「私の責任です。…気づくのが遅すぎました、…何もかも。」

 

そう、遅かった。

天皇賞・秋後のことも、オフサイド先輩のことも、スペさんのこともゴールドのことも、懸念を覚えるのが遅すぎた。

もっと早く気づいていれば、違う未来があったかもしれないのに…

「全ての元凶であるこの私に残された道は、もう帰還以外ありません…」

スズカは全てを諦めきった口調だった。

 

「…スペさん、お願いがあります。」

スズカは車椅子上の身体を前に倒し、スペの指先を握った。

「どうかオフサイド先輩に、決意を変えるよう願って下さい。」

「…え…」

「どうか…このサイレンススズカの最期の願いだと…伝えて下さい。そうすれば、オフサイド先輩の決意を変えられるかもしれませんから。」

 

「…スズカさん…まさかその為に…」

意識を失いかけながらその言葉を聞いたスペは、スズカがこの行動に踏み切った理由はそれだと分かった。

「…。」

スズカは無言だったが、彼女の瞳がその答えを示していた。

 

「…嫌…嫌です……帰還しないで…」

スペは握られた指先を懸命に掴んだ。

「…スズカさんが帰還しなければならない理由なんてどこにもありません…スズカは何も悪いことなどしてない…悲劇の被害者なのに…」

「ごめん、スペさん…」

スズカも強く指先を掴み返した。

「私はもう、この世界を生きていける気力もないんです。待ち受ける未来があまりにも怖くて、恐ろしくて…」

自分が悲しみを与えてしまった世界を、自分のせいで追い詰められた同胞が帰還する現実を、これ以上見届ける勇気はなかった。

 

「…でしたら…私も一緒に…スズカさんと一緒に…」

スペは絶望的な声を出した。

「…最期まで…どうか…スズカさんと…」

「…スペさん。」

スズカは指先を離した。

「スペさんは、生きて。」

 

「…嫌です!…私には、スズカさんがいない世界なんて生きていけません!」

離されたスペの指は、スズカの袖を離すまいと掴んだ。

「…さっきも言いました!夢を失ったこの世界で一人苦痛の中生きていくくらいなら、私はスズカさんと…一緒に還ると!…」

 

「これは私の最期の願いです!」

スズカはスペの指先を、力を振り絞って引き離し、泣きじゃくるスペの顔を抱き締めた。

「スペさんが生きることが、私の最後の夢なんです!栄光よりも走ることよりも大きかった夢が、スペさんだった。」

「…スズカさん…」

「…だからどうか、どうかスペさんだけは、生きて下さい…」

「…ス…ズカ…」

「…愛しています。さよなら、スペシャルウィークさん…」

 

「…っ。」

閉ざされかかった意識の中、スズカのその言葉を聞いたスペは、最後の力を振り絞って車椅子の傍らに置かれた飲み物の容器を掴んだ。

「…あ。」

スズカが止める間もなく、スペはそれを放り投げた。

飲み物の容器は柵のない屋上の外へ飛ばされ、乾いた音を立てて下に落ちていった。

 

「…。」

落ちていったそれの方向をスズカは見ていたが、すぐにスペの方へ向き直った。

スズカの身体を強く掴んだまま、スペは意識を失っていた。

 

 

「…。」

スズカはスペの指先を身体からゆっくりと離した。

握った彼女の手の温もりを感じた時、胸の奥底から嘆きが込み上げた。

それを堪えて、スズカはスペのぐったりした身体をそっと地面に寝かせ、眼に残る涙痕を拭き取って羽織っていた上着をそっと被せた。

最後にスペの顔を目に焼き付けるように見つめた後、大きく深呼吸し、柵のない屋上の向こう側へ車椅子を動かし出した。

 

 

屋上の一番外側、柵なき場所に着くと、スズカはゆっくりと車椅子から立ち上がった。

 

綺麗だわ、本当に。

眼下に広がる高原の光景を、スズカは悲しみと絶望で澄み切った瞳で眺めた。

世界はこんなに美しいのに…

 

「これが、私の運命だったんだ…」

一面の星空を仰ぎつつ、全てを達観したような呟きが唇から洩れた。

 



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大償(4)

 

ずっと、夢を描いて生きてきた。

 

私にしか出来ない、私だけが見せられる最高の走りを追い求めてきた。

 

何度も挫折し、壁にぶつかった。

目指すものが見えなくなった時もあった。

仲間達と別れ、孤独に苦しんだ時もあった。

 

その苦しい時間を乗り越えて、私はかけがえのない時間を手に入れられた。

私の走りを夢だといってくれた人と出会えた。

私の走りを美しいといってくれた同胞と出会えた。

 

幸せなことが幾つも重なって、私は夢だった走りを見つけられた。

その夢が、多くのみんなに笑顔を与えることが出来た。

そのみんなの笑顔が、私にまた夢と力を与えてくれた。

そして、私の走りと夢は大きくなっていって、より多くの笑顔と夢をみんなに与えることが出来た。

 

本当に幸せだった。

かけがえのない、夢のような時間を、私は手に入れられた筈だった。

 

手に入れられた筈、だったのに…

 

 

沖埜トレーナー。

あなたに巡り会わなければ、私は私の走りを見つけること決して出来ませんでした。

私の走りを素晴らしいと評価して『スピカ』に迎え入れて下さった時、私は心から嬉しかった。

沖埜トレーナーのその期待になんとしても応えたいと、必死にトレーニングに励みました。

そしてレースに挑むにおいて、勝ち負けを考えずに走りたいように走っていいという言葉を頂きました。

あの言葉が、私に再びレースの楽しさを思い出させてくれました。

 

そして、私が走りたいように走って勝っていく中で、沖埜トレーナーは更に上のレベルを見つけて下さった。

『逃げて差す』。

私も思い描けなかった、夢の走りを。

沖埜トレーナーは、それを私に教えてくれました。

 

そして、その走りをレースで体現出来た時、私はこれ以上ない位感動しました。

ウマ娘として、最高の走りを手に入れられたのだと。

 

 

もっと、トレーナーと共に夢を追いたかった。

私が体現しうる最高の走りを、トレーナーと極めたかった。

私の走りを見て喜んでくれる沖埜トレーナーの姿をもっと見たかった。

 

 

 

スペシャルウィークさん。

あなたと出会えてことが、私にとって何よりも素晴らしいことでした。

 

あなたと共に過ごせた時間は、全てが幸せな時間でした。

どんな時でも、あなたは私の側で笑顔を見せてくれた。

あなたが笑うだけで、私は生きる力をもらった。

励ましてくれるだけで、走る力をもらった。

喜んでくれるだけで、夢を目指す力をもらった。

この世界で見つけられた最高でかけがえのない夢が、あなただった…

 

 

 

「スペさん…」

屋上の淵に立ったスズカは、冷たい風が吹かれつつ後ろを振り返り、愛していた同胞の姿を見つめた。

「…もっと、あなたと幸せな時間を過ごしたかった…ただ一緒にいられるだけでも幸せだった…」

抑えていた涙が溢れ、スズカの頬を伝った。

 

「さよなら、スペさん…」

涙を払い、スズカは顔を逸らすと、左脚を引きずって一歩進んだ。

眼下に帰還への景色を見下ろし、スズカは静かに眼を瞑った。

 

みんな、ごめんなさい。

人間の皆さん。同胞のみんな。

『フォアマン』の皆。

『スピカ』の仲間達。

ゴールド。

沖埜トレーナー。

スペシャルウィークさん。

オフサイドトラップ先輩。

 

私が、全ての責任を背負いますから…どうか、心を取り戻して下さい。

それが私の、この世界への最後の願いです…

 

 

スズカは最後にそう願うと、眼を瞑ったまま脚を踏み出した。

 

 

次の瞬間、壊れた大きな物音が、施設に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…。」

脚を踏み出しかけたスズカは寸前で止まり、壊れた物音が聞こえた背後を振り返った。

 

閉ざしていた扉が壊され、屋上に駆け入ってきた人影が、彼女の瞳に映った。

 

 

沖埜だった。

 

 



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大償(5)

 

*****

 

ほんの僅か前。

 

 

…ん?

特別病室に一人待機していた沖埜も、ブルボンやケンザン達が耳にした妙な物音を聞いていた。

 

何かが落ちたような音…

大した異変を感じるものでもなかったが、沖埜は悪い予感がした。

物が落とされたのは屋上からか?

彼はスマホを取り出し、屋上にいるスペに連絡をとろうとした。

だが、スペのスマホからの応答は何もなかった。

 

これは…

異変を察知し、沖埜はすぐさま特別病室を飛び出した。

 

階段を駆け上がって屋上の扉に前に辿り着いたが、鍵がかかっていた為開けられなかった。

まずい!

大変な事態が起こっていることを沖埜はすぐに悟った。

何度も扉のノブを強引に動かして開けようとしたが、扉は固く開かなかった。

 

「くっそ!」

医師を呼んで開けさせる猶予もなかった。

沖埜は渾身の力を込めて、扉を蹴り上げるように体当たりした。

扉は大きな音をたてて壊れた。

 

「…。」

扉を蹴り壊した脚に激痛が走ったがそれを全く気にせず、沖埜は屋上に入るとその周囲を見回した。

そして、ベンチ前に倒れているスペと、今まさに屋上から身を投げようとしているスズカが視界に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

「スズカ…」

「トレーナーさん…。」

強い寒風が吹き付ける中、二人の視線は交錯した。

 

「お前、やはりその決意だったのか。」

「…。」

愕然と眼を見開いた沖埜に大し、スズカは何も答えず、静かに視線を逸らした。

「…私は言った筈だ。“生きろ”と。」

「…。」

「こっちを見ろスズカ!今すぐそこから引き返すんだ!」

言いながら、沖埜はスズカの元へ駆け出した。

 

「お許し下さい。」

沖埜が駆け出すより早く、スズカはそう言葉を絞り出すと、沖埜に背を向け、眼下の闇に身体を向けた。

「待てスズカ!」

「私はもう、こうするよりないんです。」

 

 

 

さよなら…

沖埜が駆けつけるより一瞬早く、スズカは屋上から身を投げた。

蒼月が照らす中、スズカの身体が宙を舞った。

 

 

 

 

だが、

「スズカ!」

駆け寄った沖埜が宙に身を乗り出し、落ちていこうとしたスズカの腕を寸前で掴み止めた。

 

 

 

「離して下さい。」

帰還寸前で捉えられたスズカは、身体を宙に揺らめかせながら、自分の腕を掴んだ沖埜を見上げ、嘆きの声を上げた。

「お願いです…もう私は、こうするよりないんです…」

 

「誰が…離すか…」

自らも落ちそうな姿勢で身を乗り出しながら、沖埜はスズカの腕を歯を食いしばって掴みつつ声を返した。

「お前だけは…絶対に帰還させないと…私は誓ったんだ…」

沖埜の表情は、普段の彼とは全く違う決死の形相になっていた。

「いけません!このままではトレーナーさんも巻き添えになってします!手を離して…」

「…構うものか…一緒に落ちたのなら、私がお前の下になって…お前の身を守るだけだ…」

スズカは必死に何度も促したが、沖埜はスズカの腕を決して離そうとしなかった。

 

 

「なんで助けようとするの⁉︎」

身の危険を省みずに自分を助けようとする沖埜に、スズカは胸が裂けるような声で叫んだ。

「もう私には生きる希望がないのに!この世界に決して消えない絶望と悲しみを与えてしまった…その罪にすら気づかなかった私など…生きていける訳なんてないのに!…なのに…どうして助けようとするんですかっ‼︎」

 

「お前に生きてて欲しいからに決まってるだろうがっ!サイレンススズカ!」

スズカの叫びに対し、沖埜も叫び返した。

普段冷静沈着な彼とは全く違う、心底の想いを吐き出すような口調だった。

 



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大償(6)

 

「沖埜トレーナー…」

今まで見たことない沖埜の姿を、スズカは茫然と見上げた。

 

「還るなスズカ!」

沖埜は落ちかかる身体を必死に支えながら、それでもスズカの腕は頑として離さなかった。

「お前の悲しみと絶望の大きさは分かってる!全て背負って帰還しようという決意の重さも分かってる!だけど俺はお前に生きてて欲しいんだ!」

 

「でももう、どうしようもないんです…。」

スズカの眼から涙が溢れ、宙を散った。

「せめて…オフサイド先輩を救う為にはこうするしか…」

 

「オフサイドトラップは関係ない!お前はサイレンススズカだ!」

必死に腕を外そうとするスズカに対し、沖埜は必死にそれを阻止しつつ叫び続けた。

「お前の罪も絶望も俺が一緒に背負う!この世界がお前に矛先を向けるのなら俺が守ってやる!絶対に、絶対に守る!だから生きろ!頼む、生きてくれスズカ!」

沖埜の秀麗な瞳から涙が溢れ、スズカの頬に落ちた。

 

「…トレーナー。」

初めて、沖埜の涙を見た。

頬に感じたその涙の熱さと感触に、スズカの抵抗していた力が弱まった。

 

 

「…く。」

スズカの身体を引き上げようとする沖埜の身体が、ずるっと前にずり落ちた。

扉を壊した際に激痛が走った片脚の踏ん張りが効かなくなっていた。

落ちかけた寸前で、沖埜はなんとか片腕と片足で耐えた。

だがこのままでは…

絶体絶命の中、沖埜は歯を食いしばりながら、それでもスズカの腕は決して離さなかった。

 

 

すると不意に後ろから、沖埜の身体を掴み、彼を支えようとした者がいた。

「…スズカさん…トレーナーさん…」

意識を失っていた筈のスペだった。

 

物音の連続で目覚めたのか、スペはまだ自由が効かない身体を懸命に動かし這い寄ってきて、出せる力全てを振り絞って落ちかける沖埜の身体を支えようとした。

「…スズカさん…生きて!…」

スペも身を乗り出し、宙に揺れるスズカを見つめ叫んだ。

沖埜トレーナー…スペさん…

命懸けで自分を救おうとする二人の姿を、スズカはただ見上げるしか出来なかった。

 

だが。

「…くそ。」

「…もう…」

共に不自由になっている二人の力では、もうスズカを支えきれなくなってきていた。

 

…このままでは、トレーナーもスペさんも…

限界を悟ったスズカは、眼を見開いて二人を見上げて叫んだ。

「離して下さい!このままではトレーナーさんもスペさんも!」

「…離すか…」

それでもなお、沖埜はスズカの腕を決して離さなかった。

 

だが次の瞬間、踏ん張りの効かなくなった彼の身体が、闇の空間に大きく傾いた。

…く…

沖埜は最期を覚悟した。

 

 

その時。

黒い突風を巻き起こして、一人のウマ娘が屋上に現れた

 

「サイレンススズカ!」

屋上に現れたウマ娘は黒い疾風と共に三人のもとに殺到し、身を乗り出してスズカの腕を掴んだ。

「サイレンススズカ!還っては駄目!」

両眼から蒼芒を靡かせて叫んだそのウマ娘は、ライスだった。

 

 

「…ライス先輩…」

ライスにも腕を掴まれたスズカは、彼女の蒼芒を見上げると同時に、遂行の失敗を悟った。

 

次の瞬間、宙に浮いていたスズカの身体は、沖埜、スペ、ライスの腕によって、屋上に引き上げられた。

 

 

「スズカ!」

「スズカさん!」

救い上げたスズカを、沖埜とスペは泣きながら抱きしめた。

「トレーナーさん…スペさん…」

スズカはただ、茫然と抱きしめられるしかなかった。

「サイレンススズカ…」

三人のすぐ後ろで、ライスも目元を拭い、大息を吐く胸を抑えて夜空を見上げていた。

 

 

その後、屋上にはブルボン、ケンザンと椎菜、多くの医師達、美久とゴールド、ルソーとシアトル等、物音を聞いて駆けつけた関係者達が次々と現れた。

関係者達が現れるなかでも、沖埜とスペはスズカを抱きしめて涙を流し続けていた。

 

 

やがて、スズカは再び車椅子に乗せられ、茫然自失状態のまま医師達に付き添われて屋上を去っていった。

彼女と共に沖埜も、扉を壊した際に負傷した脚を引きずりながら、医師の手を借りて屋上を出ていった。

薬を飲まされたスペは、その場で医師の検査を受けたが状態に別状はなく、彼女も医師に付き添われて屋上を出ていった。

 

スズカの帰還は、阻止された。

 



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大償(7)

 

屋上を後にしたスズカは、そのまま特別病室のベッド上に戻された。

 

沖埜やスペはそれぞれ身体の治療の為特別病室には戻らなかった。

スズカの状態を医師達が検査した後、担当医師が彼女の見張りにあたった。

 

 

「先生…」

ベッド上に半身起こした姿勢で横になっていたスズカは、茫然自失状態のまま、担当医師に尋ねた。

「スペさんの状態は、大丈夫なのでしょうか…。」

「スペは別室で寝かされているみたいだわ。状態には特に異常もなかったから安心して。」

「沖埜トレーナーの状態は…。」

「沖埜トレーナーは、脚の手当てを受けてるわ。」

担当医師は僅かに顔を顰めた。

固い扉を強引に壊した代償で、沖埜の脚が砕けた可能性が高いと報告を受けていた。

「かなりの重傷みたいだけど、命に別状はないから安心して。彼は人間だから。」

 

「…。」

スズカは一度シーツに顔を伏せ、それから窓の外に眼をやった。

彼女の表情は、まだ茫然自失のままに映った。

医師は何も声をかけず、ただ彼女の様子をじっと注意深く見守り続けていた。

 

 

帰還、出来なかった。

スズカの眼は、夜空に煌めく蒼月へ向けられていた。

覚悟も決まっていた。

こうするしかないと、絶望は避けられないと決まっていたのに。

もう私は生きていけるわけなどないと、分かっていたのに…

 

『お前に生きて欲しいんだ!』

『生きてくれ!』

全身の力が抜け落ちたような状態の中、沖埜の叫びと彼が溢した涙の感触が、スズカの中で響き続けていた。

 

 

 

しばらく経った後。

松葉杖の音と共に、沖埜が特別病室に現れた。

 

彼の右脚にはスズカの左脚と同じように包帯が巻かれていた。

「…。」

スズカは思わず眼を逸らした。

 

沖埜は、担当医師と数言会話を交わした後、彼女と代わる形でベッドの傍らの椅子に腰掛けた。

病室内は再び、スズカと沖埜の二人きりになった。

 

 

「…どうして、助けたんですか。」

手元に視線を落としつつ、スズカは力が尽きたような口調で沖埜に尋ねた。

「言ったろ、お前に生きてて欲しいからだと。」

沖埜の紅くなった秀麗な瞳は、スズカを真っ直ぐ見つめていた。

「もしかしたら、トレーナーさんも死んでたかもしれないんですよ。」

「自分の命を懸けても、私はお前を助けたかった。それだけだ。」

「こんな、私の為に?」

 

「こんななんて言うな。」

沖埜は脚を引きずってスズカに身を寄せ、彼女の身体を胸にそっと抱き締めた。

「お前は私の大切な、かけがえのないウマ娘だ、サイレンススズカ。」

 

沖埜の胸は暖かかった。

久しく感じていなかった無償の愛情とぬくもりがそこにあった。

「…う…うっ…うっ…」

沖埜の胸に顔を埋めたまま、スズカは泣き出した。

拭っても拭っても、涙が止まらなかった。

 

 

 

しばらく経った後、沖埜はゆっくりとスズカを身体から離し、担当医師を呼んでスズカを車椅子に乗せた。

「どこに行くんですか?」

スズカの尋ねに、沖埜は答えた。

「俺たちを助けてくれたライスシャワーのもとに行く。」

 

ライス先輩…

スズカの脳裏に、自分の腕を掴み止めたライスの腕の感触と、蒼芒を撒き散らした彼女の眼光が蘇った。

「…はい。」

スズカは、眼を瞑って頷いた。

 

 

沖埜とスズカは、医師に付き添われて特別病室を出た。

 

 

エレベーターに乗り、途中の階で降り、暗い廊下を進んでいる途中、

「ちょっといいか。」

沖埜が脚を止めて医師を遠ざけ、廊下にあるベンチに腰掛けるとスズカに言った。

「先に、話すことがある。」

「なんでしょうか。」

「ライスの…ことだ。」

 

…?

沖埜の口調が僅かに震えていることに、スズカは気づいた。

「…ライス先輩が、どうしたんですか?」

「先程、椎菜医師から伝えられたのだが…ライスは、ライスシャワーはな…。」

 

言葉を絞り出す沖埜の声が、暗い廊下に静かに聞こえていた。

 



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祝福の最期(1)

 

*****

 

沖埜達がスズカを救出し、それぞれ医師らに付き添われて屋上を去った直後。

屋上に残ったのはライス、ブルボン、椎菜、美久、ケンザン、シアトル、ルソー、ゴールドの八人だった。

 

「スズカ…」

壊れた扉の傍らで、ゴールドは蒼白な表情で座りこんでいた。

食堂で感じた悪い予感の後、大きな物音を聞いた彼女は、美久と共に屋上に駆けつけた。

着いた時には既に危機は去った後だったが、無二の親友が自ら命を絶とうとしていた現実を目の当たりに、覚悟していたとはいえ全身の力が抜け落ちる程の衝撃を受けていた。

スズカが屋上を去る際も、彼女と視線を合わすことが出来なかった。

 

「…ゴールド、大丈夫?」

ルソーが、松葉杖をつきながら彼女の側に来て声をかけた。

ゴールドと同じように彼女も、物音を聞いてシアトルと共にこの現場に駆けつけていた。

「ルソー先輩こそ、顔色最悪ですよ…」

「…。」

ルソーは顔に手を当てた。

頭痛と動悸が激しかった。

彼女も意識を保っているのがやっとの状態に見えた。

 

「二人とも、病室に戻ろう。」

ショック状態の後輩二人の様子を見て、ケンザンが側に来た。

「私も一緒に出るわ。」

「ルソー、しっかり。」

ケンザンに続き、シアトルと椎菜も側に来た。

三人は放心状態のルソーとゴールドの身体を支え上げた。

「…はい。」

先輩達の腕を借りて、二人はよろよろと立ち上がった。

 

五人は、屋上を出ていった。

 

 

屋上を出たケンザン達五人は、そのままルソーの病室に戻った。

 

「じゃ、あとは宜しくね。」

ショックが著しいゴールドとルソーを室内のベッドに寝かせると、椎菜はケンザンに言った。

「椎菜先生は?」

「医務室に一旦戻るわ。…多分、用意しなきゃいけないから。」

「用意…」

椎菜のその返答にケンザンは思わず顔が歪み、声が震えた。

「では、もしかして…」

「うん…」

それ以上は言わないでと、椎菜は口元に指を当てた。

 

「…。」

ケンザンは俯き気味に頷き、別のことを尋ねた。

「さっきの一連の物音は施設内の療養ウマ娘達にもかなり聞こえてたと思いますが、そこは大丈夫ですか。」

「今の所は大丈夫みたい。不安になって起きたウマ娘達も結構いたみたいだけど、施設内の人間達に大丈夫だと伝えさせて部屋に戻させたから。」

勿論事の詳細は一切話してないけどねと付け加えた。

 

「じゃ、私は医務室に戻るね。」

「はい。…あの…」

「なに?」

「終わったら、私に連絡をお願いします。」

「了解。」

ケンザンの言葉に頷きながら、椎菜は病室を出ていった。

 

 

「私も、部屋に戻ります。」

椎菜に続いて、ルソーの傍らにいたシアトルも立ち上がった。

「シアトル。屋上には戻らないの?」

「終わったら、行きます。」

ずっと快活だったシアトルの表情が、暗くこそなっていないが硬っていた。

「今は、一人になりたいです。」

そう言うと、シアトルは病室を出ていった。

 

「…。」

椎菜とシアトルが出ていった後、ケンザンは後輩二人のベッドの間にある椅子に腰掛けた。

やはり、そうだったのか…

虚空を見上げた彼女の表情は、言いようのない沈痛の色が表れていた。

 

 

 

 

 

一方。

屋上に残ったブルボン、美久、ライスの三人。

 

「…。」

ぎりぎりの所で現場に駆けつけてスズカを救出したその以降、ライスは屋上にずっと腰をついたままだった。

身体を動かすこともなく、彼女の澄んだ蒼眼は夜空の蒼月へと向けられていた。

 

「…。」

そんなライスの姿を、その背後でブルボンと美久は無言で見守っていた。

言いようのない緊迫感が、屋上に立ち込めていた。

 

ライス…あなた、まさか…

ライスのすぐ側で彼女の様子を見つめているブルボンの表情が、普段の無表情とは全く違う蒼白なものになっていた。

 

 

 

*****

 

 

時刻は少し前、ブルボンとライスが遊歩道で落下物を拾った時。

落下物が屋上から落ちた物だと察したライスとブルボンは、怪訝な表情で顔を見合わせた。

 

「うっかり落としてしまったんでしょうか?」

「…違うと思います。」

ライスは首を振った。

「何か、危機を示すものに感じます。」

「危機?」

ブルボンの言葉にライスは答えず、屋上を見上げた。

まさか、サイレンススズカは…

 

『何度か、崖の淵に立ったことがありました』

不意に夕方聞いたシアトルの言葉が思い起こされ、身体に戦慄が走った。

同時に、今屋上で起きようとしていることを瞬時に察知した。

 

「いけない!」

ライスの手から杖が離れ、地面に落ちた。

「ライス?」

「まずいわ!」

ライスは叫ぶと同時に眼から蒼芒を散らし、黒い風を巻き起こして施設へ向かい駆け出した。

 

「ライス、何を⁉︎」

駆け出したライスを見てブルボンも愕然と叫び、すぐに彼女の後を追って駆け出した。

 

 

施設内に駆け戻ると、同時に上階から大きな物音が聞こえた。

「!?」

「…。」

動揺したブルボンは一瞬脚を止めかけたが、ライスは全く止まることなく、廊下を曲がると屋上への階段を眼にも止まらない疾さで駆け上がっていった。

脚を止めかけたブルボンもすぐに我に帰り、すぐにその後を追おうとした。

 

「ブルボン!」

階段を駆け上がろうとしたブルボンを、廊下の向こうから現れたケンザンと椎菜が呼び止めた。

「一体、何が?」

「屋上にいるスズカとスペに何かが起こったようです。」

「今、駆け上がっていったの、…ライスシャワーだよね?」

「…急ぎましょう!」

二人の茫然とした問いかけに答えず、ブルボンは階段を駆け上がっていった。

 

 

 

そして、ブルボンが屋上にたどり着いたのは、ライスが沖埜らと共にスズカを救出した直後だった。

 

 

 

*****

 

 

「ライス…」

座り込んだまま無言で夜空を仰ぎ続けているライスの傍らにブルボンは歩み寄り、震えながら膝をついた。

「あなた、…あなたは…」

言葉にならない声が、ブルボンの唇から洩れた。

 

 

「…ブルボンさん、」

夜空の蒼月に視線を向けたまま、ライスは蒼眼を微笑させて、静かに口を開いた。

「ライスの使命、終わったみたい…。」

 

 

そう、使命は終わった…

ライスの瞳は、蒼月の朧な光を見つめ続けつつ、自分の行動を想い返した。

 

あの時、サイレンススズカの危機を直感した時、私はもう走り出していた。

考えるより前に脚が動いていた。

左脚も、地面を蹴っていた。

痛みも何も感じる余裕がなかった。

ただ無我夢中で、風を切り裂いて走った。

屋上にたどり着き、落ちかかっていたサイレンススズカの腕を握り締め、全身に力を込めて彼女を救い上げた時も、ただ無我夢中だった。

 

スズカを救い上げて、沖埜とスペが彼女を抱きしめている姿を目の当たりにした時、私は安堵すると同時に、自分の左脚の状態に気がついた。

もう、感覚もなくなっていた…

 

 

「最後の力、振り絞ってくれたのね…」

想い返した後、ライスは感覚のなくなった左脚を労うように優しく撫でた。

 

ケホッ…

彼女の口元から、紅い血が一筋流れていた。

 



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祝福の最期(2)

 

*****

 

「ライス!」

 

最期を悟ったライスの言葉を聞き、美久が側に駆け寄って彼女の腕を掴んだ。

「今すぐ治療を受けよう!まだ間に合う筈だわ!まだ、まだ諦めちゃ駄目!」

「…ううん、もういい…」

「何言ってんの!?まだあなたは生きれる筈だわ!お願いだから!」

 

「美久、」

口元の血を拭いつつ、泣いて懇願する親友の腕をライスはそっと止めた。

「もう…私も限界なの。どうか、この顔が苦痛で歪む前に、笑顔で逝かせて…」

「ライス…。」

ライスの腕を掴んだまま、美久は泣き崩れた。

 

 

「…。」

ライスの言葉を聞き、ブルボンは意を決したように、眼を瞑って震えを堪えながら携帯を取り出した。

「…もしもし、椎菜医師ですか。あの……あ、もう準備を…では、こちらで…」

連絡を終えると、携帯を持ったままブルボンはライスを見た。

「椎菜医師がもう準備をされていたとのことで…間もなくこちらに来られます。」

 

「ありがとう、ブルボンさん…。」

ブルボンの言葉に、ライスは静かに微笑んだ。

 

その、夜空と同じような澄み切った笑顔を見て、ブルボンの心の壁が崩れた。

「…。」

ブルボンはがっくりと膝をつき、両手で顔を覆った。

涙を必死に堪え、身体を震わせて。

 

 

 

*****

 

 

『ピリリリリ…』

 

…?

メジロ家の屋敷。

就寝していたマックイーンは、枕元のスマホの通知音で目が覚めた。

 

通知はブルボンからだった。

何かしら、こんな夜遅くにくるということは…

ベッドから身を起こし、緊張に身体を硬らせながら、通知の内容を読んだ。

 

『ライスの脚が限界を迎えました』

 

「え…?」

マックイーンの手からスマホが落ちた。

 

通知を見て一瞬凍りついたマックイーンはすぐにスマホを拾い上げ、ブルボンに電話をかけた。

 

『…もしもし』

「ブルボン。今の通知は…間違いですよね?」

『本当…です』

ブルボンの声は震えていた。

悲嘆を堪えているその口調が、事実を示していた。

 

「何で…一体何が?」

涙声になったマックイーンは尋ねた。

まだ限界までは一週間はあった筈…こんな突然終わりがくることなどありえない。

『ライスは…サイレンススズカを救けたんです。』

「スズカを救けた…?」

『はい…帰還しようとしたスズカを…』

 

ブルボンは、先程起きた事の一連を全て話した。

 

『スズカの危機を直感したライスは現場へ急行し、そして間一髪のところでスズカを救いました。その限界を越えた行動によって、ライスの脚は…』

ブルボンの言葉が涙で詰まり聞こえなくなった。

「…今、ライスは…?」

『椎菜医師から、最後の検査を受けています。このまま屋上で…安楽帰還の執行を受けるかと…』

 

「…っ」

マックイーンは寝巻き姿のまま部屋を飛び出した。

無我夢中で屋敷の廊下を駆けて、屋敷の外へと飛び出した。

 

転がり出るように表に出ると、外は煌々とした蒼月と一面の星空が広がっていた。

ライス…

屋敷の庭に茫然と立って夜空を見上げ、マックイーンの唇から言葉にならない声が洩れ出した。

「ライス…ライスシャワーっ…」

声を洩らしながら、マックイーンの膝が地面に崩れ落ちた。

同時に彼女の翠眼から、涙が滝のように溢れ出した。

 

 

*****

 

 

『ライス…ライスっ…』

 

電話の向こうから聞こえてくるマックイーンの嘆きを、ブルボンは屋上の入り口前で、湧き上がる嘆きを堪えながら聞いていた。

「…うっ…うっ…ライス…」

ブルボンの傍らには美久が、こちらも顔を覆った両手から涙を零し、肩を震わせて床に崩れ落ちていた。

ライス…

ブルボンは屋上の内に眼を向け、椎菜ら医師の検査を受けているライスの姿を見つめた。

もう安楽帰還の執行をされるのだろうか…

それを阻止しようと動きかねない自分の心を、歯を食い縛って懸命に制止させつつ、ブルボンは座り込んだ。

 

 

 

「粉砕骨折と開放脱臼の再発…」

屋上内。

ブルボンと美久を退がらせてライスの検査を行っていた椎菜は、その検査結果をライスに伝えた。

「もう、快復の可能性はありません。」

 

「…。」

沈痛な面持ちで伝えた椎菜に対し、ライスは静かに頷くと、夜空に視線をやった。

「では、処置をお願いします。」

「ここで?」

「ええ、ここで…」

蒼月を仰ぐライスの表情は、澄んだ微笑が浮かんだままだった。

 

「分かったわ…」

椎菜は持ってきた鞄から用具を取り出し、その準備を始めた。

ライスは少しも表情を動かさず、その準備が終わるのを待っていた。

 

 

やがて、その準備が完了した

美久は用意した注射を片手に、ライスに向き直った。

「心の準備は…大丈夫?」

「はい。もう3年半前から、覚悟は出来ていました。」

ライスは、微塵にも恐れのない表情と口調で、静かに頷いた。

 

「では…」

椎菜は、ライスの細い腕を手に取り、袖を捲った。

そして露わになった上腕部に、注射器の針を当てた。

 

「…。」

だが針を当てたまま、椎菜はそれを射つことが出来なかった。

彼女の注射器を持つ手は、小刻みに震えていた。

 

「椎菜先生?」

「ごめん、少し時間を頂戴…。」

椎菜は耐えきれないように声を洩らすと、ライスの腕を離した。

これまで何百回と安楽帰還の処置を淡々と執行してきた彼女でも、今回ばかりはそれは出来なかった。

 

「…はい、待ちます。」

ライスは微笑を絶やさずに了承し、再び視線を夜空へ向けた。

「ごめん…」

椎菜は両膝を抱えて顔を埋め、溢れそうな悲嘆を必死に堪え、心を落ち着かせようとした。

 

 

 

そして、数分後、

 

「…。」

椎菜は顔を上げて一度夜空を仰ぎ、大きく息を吐くと、決心を固めたようにライスに向き直った。

「待たせたわ。では…」

「…はい。」

ライスは自ら袖を捲り、腕を差し出した。

 

椎菜はその腕を手に取り、注射器の針を当てた。

もう腕は震えてなかった。

 

 

そして、躊躇わずにそれを射った。

 

 

強く冷たい寒風が、大きな風音とともに屋上に吹きつけた。

 



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祝福の最期(3)

 

「終わりました…」

 

処置を終えると、椎菜はライスの腕を離して注射器をしまい、立ち上がった。

「あと20分程で、あなたは帰還します。…さようなら、ライスシャワー…」

「はい。ありがとうございました、渡辺椎菜先生。」

「…っ」

椎菜はもうライスの微笑を直視出来ず、踵を返すと口元を抑え、屋上の入り口付近へ駆け去っていった。

 

 

こちらに駆けてきた椎菜の姿を見て、屋上の入り口で待機していたブルボンと美久は、ライスに処置が執行されたことを悟った。

「…ライス!」

美久は涙を散らして、ブルボンは涙を懸命に堪えて、ライスの元へと駆けていった。

 

ライスは先程までと全く変わらない様子で、両手を後ろについて腰掛けたまま、夜空を見上げていた。

 

「ライス…」

美久は涙でぐしゃぐしゃになった顔をライスの胸に埋め、嗚咽した。

「…いやだ、別れたくない…私、受け入れられない…」

「美久。」

嘆きに暮れる親友の背を、ライスは何度も優しく撫でた。

「今日までありがとう。あなたと過ごせた時間、本当に楽しかったわ。これからもウマ娘の幸せな姿を、沢山残してね…」

「駄目だわ…私、もう誰の幸せな姿も撮ることなんて出来ない…」

「出来るよ。」

ライスは美久の頬の涙をそっと拭って微笑んだ。

「あなたは誰よりも、ウマ娘の幸せを願っていたのだから…」

「…え?」

「だから…忘れないで…この世界の幸せを…」

そう言うと、ライスは美久の顔を再び胸に抱き寄せた。

 

 

「ライス、」

傍らで膝をつき顔を伏せていたブルボンが、スマホを差し出した。

「マックイーン会長と電話が繋がっています。最期に…」

「…ありがとう…」

ライスはスマホを受け取った。

 

「…マックイーンさん…」

『ライス…本当に……お別れなんですか…』

電話の向こうから、嗚咽を堪えるマックイーンの声が聞こえた。

「うん…でも、最後に使命は果たせたよ。スズカを守れた…」

『でも…あなたが還ってしまったら…犠牲になってしまったら…だめです…』

 

「マックイーンさん…違うよ…」

言葉が徐々に途切れ途切れになりながらも、ライスは満ち足りた微笑を湛えていた。

「…ライスは犠牲になったんじゃない…生き切ったんだよ。残り少ない命の炎を…燃やし切ることが出来たの…この世界の…ウマ娘の幸せの為に…」

『…ライス……』

「ライスは…生きてて良かった…だから泣かないで…マックイーンさん…」

 

ライスはもうスマホを持てなくなり、ブルボンに身体を預けた。

ブルボンは歯を食いしばってライスの身体を胸に抱き支え、彼女の代わりにスマホを持った。

 

「…マックイーンさん…夜空…見える…?」

『…はい…観えます…』

「綺麗だね…今まで観たことないくらい…綺麗な星空…」

ライスの眼はまだ蒼芒を残したまま、夜空の星々を見つめていた。

「…ねえ…見えるかな?あの…祝福の方角に光る星。…あれが、ライスの星…祝福の星だよ…」

ライスは残された力を振り絞って、夜空に光る星の一つを指差した。

「…。」

美久もブルボンも、電話の向こうのマックイーンも、その星を見つめた。

「…ライスは…ずっと見守っているから…みんなが幸せになるように…」

 

 

ライスの指差した腕は、やがて力なく膝元に落ちた。

 

 

「…嬉しい…な…」

意識が薄れてきたライスは、もう身体も動かせなくなって、ぐったりとブルボンの膝の上で抱き支えられていた。

それでもまだ、眼の色は美しい光を保っていた。

「…嬉しい…とは…?」

声を詰まらせながら問いかけたブルボンに、ライスは微笑をみせて答えた。

「…だって…最後の夢も叶ったから…ブルボンさんと…マックイーンさんと…お別れの時に一緒にいたい…って…夢が…」

 

『……そう…ですね…』

涙を堪えて、マックイーンが夜空を仰ぎながら言った。

「…今、私達は一緒ですね…一緒に…同じ星空を観ていますわ…』

「…うん…凄く…幸せ…だね…」

ライスは微笑を再び夜空へと向けた。

「…ええ…」

ブルボンも溢れそうなのを抑え、ライスの身体を抱き支えながら、一緒に夜空を仰いだ。

 

…。

その様子を見ていた美久は、涙を溢れさせながらカメラを手に取った。

レンズの先に、ライスとブルボンそしてマックイーンの姿が映った。

 

 

「…ブルボンさん…」

閉じかかる瞳で星空を見つめつつ、ライスは言った。

「私の鞄には…それぞれの同胞宛てに…書いた手紙がしまってあります…どうか皆さんに…お渡しして下さい…」

「…はい…必ず…」

 

ブルボンに最後の頼みをした後、ライスは閉じかかった両眼を見開いて、最期の微笑をみせた。

「…ブルボン…さん…マックイーン…さん…サンエ……美久……今まで…本当にありがとう…ライス…幸せだった…楽しい…満ち足りた…この世界での…生涯だった…」

 

トレセン学園入学の日…

新バ戦初勝利の瞬間やブルボンとの初対決…

ブルボンの背中を追い続け、遂に大願成就した菊花賞…

マックイーンを越える為言語に絶する調整に励み、そして死闘の末マックイーンを下した天皇賞・春…

その後スランプや故障に苦しんだ日々を越え、ターフに戻った日…

ブルボンとマックイーンの誇りを背に、最後の栄光を手にした天皇賞・春…

引退後、『祝福』でマックイーン・ブルボン・美久を始め多くの同胞や人間達と穏やかで楽しい時間を過ごした日々…

その一つ一つの記憶が、走馬灯となって瞳の奥に流れた。

「…さよなら…みんな…」

 

 

「…ライスシャワー!」

ブルボンの眼から、堪えていた涙が溢れた。

「…私は…私はっ…あなたのことを…」

 

「…分かってるよ…」

嗚咽しながら叫んだブルボンの表情を見上げ、ライスはにっこりと微笑み、身体を抱き支えている彼女の腕にそっと手を重ねた。

「…ライスもそうだったから…ずっと…ずっと…永遠に…………」

 

 

全ての想いを凝縮させた声で呟いたのを最期に、ライスは静かに眼を閉じた。

 

 

「…ライス?」

「……」

「ライス…ライス……」

「………」

ブルボンの問いかけに、ライスはもう答えなかった。

最期まで残された彼女の美しい微笑が、星明かりに美しく灯されていた。

 

 

「…ライス……」

膝上で冷たくなっていくライスの身体をブルボンは抱きしめ、顔を伏せた。

溢れ出た涙の雫が、滝の様にライスの身体に溢れ落ちていった。

 

 

「…。」

屋上の入り口に退がって状況を見守っていた椎菜が、再び彼女達の側にきた。

「…。」

椎菜は無言でブルボンの腕を解き、ライスの身体をそっと屋上に寝かせた。

脈拍、心音、呼吸…それらの停止を全て確認し終えると、手帳を取り出した。

〈〇〇年12月25日深夜、粉砕骨折・開放脱臼を再発したウマ娘ライスシャワーは、本人の同意のもと安楽帰還の処置を執行。同深夜、帰還…〉

 

そう記し終えると、椎菜は震える唇に手を当てて、指の関節を歯で噛みしめた。

「…う…う……」

ブルボンと美久が悲涙に暮れる傍ら、悲嘆を堪える椎菜の眼からも涙が溢れ出していた。

 

 

 

 

ライスシャワー…

電話の向こうからライスの声が聞こえなくなった時、マックイーンもそれを悟った。

 

全身の力が抜け、彼女は涙を滴らせたまま庭の地面にがっくりと膝をついた。

「……。」

地面の芝生を握りしめてマックイーンしばらく耐えていたが、やがてそれは決壊した。

「うわあ…わああっ……」

祝福の方角を仰ぎ、マックイーンは声を上げて号泣した。

「…ライスッ…わあああっ……ライスシャワーッ……」

その名を呼びながら泣き続けた。

 

彼女の様子に気づいたパーマーや使用人達が駆けつけても、マックイーンは泣き叫び続けた。

 

 

 

 

 

 

「…つい先程、ライスシャワーは…帰還した。」

療養施設の暗い廊下で、沖埜はその事実を、スズカに伝えた。

 

 

12月25日。有馬記念まで、あと2日。

 



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『第7章・上』
オフサイドトラップ回想録(4)


 

4年生の6月。

 

ナリタブライアンは〈死神〉こと『クッケン炎』を発症し、療養施設での生活を始めた。

病室は昨年の故障の時と同じく私と一緒だった。

 

療養生活を始めたものの、ブライアンは目に見えて消沈していた。

走りを失いかけた故障からようやく復活しつつある中で〈死神〉に侵食された彼女の無念はどれほどのものか、想像するだけでも私は胸が潰れそうだった。

 

それだけでなく、今後の去就についてもブライアンは苦悩していた。

彼女は既にウマ娘史に残る偉大な足跡をレースに残したウマ娘。

その立場にありながら、これ以上現役に固執していいのか。

三冠ウマ娘の名誉を下げてしまうようなことにならないか。

ブライアンの懊悩は、日増しに濃くなっていった。

 

そんなブライアンに対し、私はただ一緒に闘病に励むことしか出来なかった。

他の闘病仲間に対しては諦めないよう鼓舞しているけど、ブライアンに対してはそれは簡単に出来なかった。

ブライアンはもう引退後に道も拓けているし、それに何よりレースの覇者としての責任も背負っている。

レースで無実績の私には、覇者の苦悩など心底から分かる訳がない。

だから、ただ闘病に励む姿を彼女に見せることしか出来なかった。

ブライアンの去就の相談相手は、岡田トレーナーや覇者の仲間入りをしたサクラローレルに任せた。

正直、もどかしかった。

苦悩が深くなっていくブライアンの姿を見て、私は自分の無力さを恨んだ。

 

そうした日々を送っていくうち、私はブライアンの心が固まりつつあることに気づいた。

それは、内心で私が望んでいないものだということを薄々感じた。

でも、私は何も言わなかった。

いずれ、ブライアンは私にもそれを打ち明ける。

その時にどう答えるか、それだけを考えていた。

 

 

そして、ブライアンが療養生活を始めて一月程経った日の夜、彼女は私にその決断を打ち明けた。

『引退』の決断を。

 

私はそれを受け入れた。

そこに至るまでのブライアンの心中の葛藤や苦しみを考えれば、その決断にあれこれ言うことなど出来なかった。

私に出来たのは、ただブライアンを労わることだけだった。

でも、やっぱり涙だけは堪えられなかった。

私にとって最大の憧れで夢のような存在だった彼女がこんな形でレースを去ることになるなんて…思ってもなかったから。

 

 

ブライアン引退後、私は後輩のホッカイルソーと共に脚の治療を続けた。

かけがえのない盟友の引退は悲しかったけど、それで心が折れることはなかった。

寧ろ、絶対に〈死神〉に打ち克ってやる…いや、これ以上ない敗北を与えてやると復讐を誓った。

 

私が〈死神〉との闘いを始めて既に2年、その間百人以上の同胞が〈死神〉に脚を奪われ絶望に叩き落とされた。

その中には偉大な先輩も数多くいた。

そして遂には、私にとって最も大切な同胞までもが〈死神〉の餌食にされた。

 

もう、これ以上我慢出来る訳がなかった。

絶対に〈死神〉を許すものかと心に固く誓い、私は復活へ向かっての闘いを続けた。

不屈を貫き復活することが〈死神〉への最大の復讐だと信じて。

 

 

そして月日は流れ、11月。

私はおよそ1年近く脚に纏わりついた〈死神〉を撃退し、レースに帰ってきた。

 

3度目のカムバックは学園4年目の年末を迎えていた。

ウマ娘にとって最も大切とされる歳月をほぼ全て〈死神〉との闘いに費やし、もはや老兵と見られておかしくない年齢でのカムバック。

もう私のことなど忘れていたという人が多かっただろう。

だけど、私は諦めなどしなかった。

諦めなかったから、このターフに帰ってきたんだ。

それに私は一人じゃない。

チーム仲間、トレーナー、そして私に不屈を見せつけた盟友サクラローレルが側にいてくれた。

引退したブライアンも、私の復活を信じてくれた。

かけがえのない同胞の支えで、私は恐らく最後になるだろうレースへの闘いに入った。

 

 

復帰第一戦はOP戦4着、続くレースもOP戦で2着。

勝ちはつかなかったけど走れる手応えははっきりと感じた。

今度〈死神〉が再発症したらそれが私の最期…その恐怖の中で復帰2戦を危なげなく走れた。

大丈夫だ、走れる。

そう心を奮い立たせた。

 

この年はこの2戦で終えた。

来年は5年生、恐らく栄光を掴めるラストチャンスの年齢だろう。

絶対にそれを手にすると私は信じて、4年目を終えた。

 

私が復帰した一方で、サクラローレルは秋天こそ悔しい敗北を喫したが有馬記念では見事な走りで完勝し、年度代表ウマ娘の称号を手にした。

私以上の絶望の淵から生還し頂点に君臨する盟友の姿には私はこれ以上ない程に勇気つけられた。

 

他のチーム仲間は、フジヤマケンザン先輩は夏に引退し、後輩のフサイチコンコルドも菊花賞の後に引退した。ホッカイルソーは〈クッケン炎〉の闘病を続けていた。ロイヤルタッチはタイトルにこそ恵まれなったけどG1で好走を続けた。ステイゴールドは残念ながら2戦2敗。サイレンススズカは来年デビューとなった。

チームの柱だった仲間が次々と学園を去ったものの、『フォアマン』は依然存在感を見せつけていた。

 

 

 

 

明けて、5年目。

私は1月から始動した。

 

緒戦は2年ぶりの重賞レース(アメリカJC杯)に出て、結果は4着だった。

やや長い距離だったが好走出来たことでまた手応えを掴んだ。

 

更に2月にも再び重賞レース(東京新聞杯)に出走、初めて重賞で3着に入った。

成績も内容も明らかに良くなってきていた。

やれる!私はまだやれるんだ!

次々に手応えを感じる中で私はそう思った。

 

 

だけど、その後のある日のトレーニング中、私は脚に痛みを覚えた。

それは〈死神〉再発症ではなかったが、長年それに蝕まれていた脚が徐々に限界に近づいてきていることの前兆だった。

時間はもうあまり残ってないんだな…

そう感じた。

 

周囲が心配する中、私は痛み止めを飲んで次のレースに挑んだ。

 

3月の重賞(中山記念)。

私は勝てる自信を持って出走した。

だけど結果は2着。

着順は上がったけど、勝利を目指した私にとっては嬉しくなかった。

勝たなければ復活とは言えないし、栄光への扉も開かれないのだから。

 

しかし翌月の重賞(ダービー卿チャレンジ)もまた2着。

脚の痛みが段々強くなる中で、必死に走ったのに勝てなかった。

 

更に翌月、私は勝ち星を手にする為に挑んだOP戦で1番人気に推されながら3着敗退。

この敗戦は堪えた。

上がっていった筈の成績や手応えがピタリと止まり、逆に下がっていく。

この現実程苦しいものはなかった。

 

周囲には、復帰後の私の成績を善戦、奮戦していると称賛する者も多くいた。

確かに私のこれまでや脚の状態を考えれば、それを受ける類の成績かもしれない。

でも私が求めていたのはそれじゃない。あくまでも勝利、そして栄光だ。

それ以外はいらない。

そこまでいかなければ〈死神〉への復讐にならないし、愛するブライアンの無念を晴らしたことにならないのだから。

 

 

でも、成績の下降が私の心を蝕み始めたと同時に、憎い〈死神〉が再び顔を出し始めていた。

脚の痛みが徐々にその色彩を帯びていく。

ふざけるな、負けるか…

強くなっていく絶望に抗って、私は痛み止めを口に飲み込み、5月末の重賞(エプソムC)に挑んだ。

勝ちさえすれば、脚の痛みも絶望も消える筈だ!

 

しかし待ち受けていた結果は、復帰後初の掲示板外(6着)という惨敗だった。

 

無残な結果に打ちひしがれる中、私は脚の痛みがそれになったことに気づいた。

終わったか…

もう、笑うしかなかった。

 

 

5年生の5月末、私は3度目の〈クッケン炎〉を発症した。

 

〈続く〉

 



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悲嘆(1)

 

*****

 

腕時計を見ると、既に12月26日になっていた。

 

療養施設の屋上。

帰還したライスシャワーを前に涙に暮れていたミホノブルボンは、やがて涙を拭って立ち上がった。

「ライスを移動させましょう…」

 

「そうね…」

ブルボンの言葉に、傍らの渡辺椎菜も涙を振り払い頷いた。

「ライスの遺体を施設の一室に運ぼう。医師達を呼ばないと。」

「その必要はありません。ライスは私が運びます。」

答えながら、ブルボンはライスの遺体を両腕に抱え上げた。

「分かった。じゃ、ついてきて。」

「はい。」

椎菜は先導するように歩き出し、ブルボンはライスの遺体を抱きしめるように両腕に抱えて、彼女の後に続いた。

 

二人は移動を始めたものの、一緒に屋上にいた三永美久はまだ座り込んだままだった。

「三永美久、来ないのですか?」

「…私は…後で行きます…」

茫然と夜空を仰いでいる美久の眼からは、まだ涙が溢れ続けていた。

 

 

ブルボンはライスの遺体を抱えて、椎菜と共に屋上を出た。

冷たくなったライスの体温を両腕に流れる自分の血が感じ、全身を巡っていくように浸透した。

もう永遠に開かないライスの両眼、その亡骸に遺されている最期の微笑も瞳に映り、懸命に抑えている彼女の感情を何度も揺るがした。

 

 

やがて、二人は施設の奥にある一室に着いた。

室内の中心にあるベッドの上に、ブルボンはライスの遺体をそっと寝かせた。

 

その後、ブルボンは一旦室内から出て行き、椎菜は施設にいる関係者達にライスの帰還を伝えていた。

 

 

*****

 

「はい、分かりました。これから向かいます。」

ホッカイルソーの病室で、フジヤマケンザンは椎菜からその連絡を受けていた。

 

既にその事実を覚悟していたケンザンは努めて感情を現すこともなく連絡を受け終えると、室内にいるルソーとステイゴールドを向いた。

「二人とも、行くよ。」

「…どこにですか?」

突然の指示に、まだ屋上での出来事に放心状態だった二人は怪訝そうに聞き返した。

「ライスシャワーのところだ。」

「ライス先輩の?どうしてですか?」

「…行く途中で説明する。」

二人ともその事実を想像すらしてないことを思いつつ、ケンザンは答えた。

 

*****

 

「…はい、私は後ほど行きます。…今は、一人にさせて下さい。」

くっ…

ダンツシアトルの宿泊室

椎菜からライスシャワー帰還の連絡を受けた後、シアトルは崩れ落ちるようにベッドに腰をついた。

 

彼女の頬には涙が伝っていた。

同胞との永別を経験するのは初めてではなかった。

むしろ彼女はかなり多くのそれを経験していた。

それでも、今回のライスの帰還は、今までにないほど胸に堪えていた。

 

ライス先輩…

シアトルは、ベッド上に突っ伏した。

彼女が掴んでいるシーツには涙痕が幾つもあった。

私は、先輩のことをずっと尊敬してました。

もっと早く、先輩と再会したかった。

もっと早く、先輩を苦しみから解放させてあげたかった…

 

シアトルはベッドから起き上がり、窓際に立った。

一面の夜空を仰いでいる彼女の頬から、涙が床に溢れ落ちていた。

 

 

*****

 

 

関係者達に連絡を終えると、椎菜は先に来ていた他の医師と共に、ライスを安置したベッドの傍らで関係者達が来るのを待っていた。

涙も悲嘆もおさまっていなかったが、今はそれを胸の奥に押し留めていた。

 

やがて、室外から駆け足の音が近づいてきた。

「ライス先輩!」

扉を開けて蒼白な表情で室内に駆け込んできたのはゴールドだった。

 

「嘘、嘘よ…」

ベッド上に安置されたライスの遺体を見て、ゴールドは全身の力が抜けたように膝が崩れた。

「先輩!ライス先輩!…」

膝をついたまま、彼女はフラフラとベッドの傍に近寄った。

「…ねえ先輩、起きてよ…いつものようにコーヒーを淹れて…私を明るく励ましてよ…ねえ、ライス先輩!…」

うわ言のように問いかけたが、ライスの閉じた両眼は何の反応も示さなかった。

その穏やかな亡骸をはっきりと確認した途端、ゴールドはそれが事実であることを悟った。

「…ライス先輩っ…う…うっ…ライスシャワー先輩…うわあああ……」

ゴールドはシーツを掴み、声を上げて泣き出した。

 

ゴールドの後を追って、ケンザンとルソーも部屋に現れた。

「…ライス先輩。」

ルソーも、信じられないといった表情で松葉杖をつきながら、覚束ない足取りでベッドに歩み寄った。

ゴールドが号泣している傍らでライスの亡骸を見つめ、彼女も両眼から涙を溢れさせた。

「…。」

ケンザンは部屋の扉の前で、腕を組んだまま嘆きを堪えるように無言俯いていた。

 

 

そしてその後、沖埜豊と共に車椅子のサイレンススズカも現れた。

 

「ライスシャワー先輩…」

室内に入ったスズカは車椅子を自分で動かし、ゴールドとルソーがいる反対側のベッド脇に来た。

「そんな…」

震える手を動かして、帰還をしようとした自分を阻止したライスの手のひらに触れた。

ライスの手は、永別を示すように冷たくなっていた。

それを感じると同時に、スズカの茫然としていた表情が歪み、涙が滝のように溢れ出した。

「…うっ…うっ…」

スズカはライスの手のひらを両手に包み、前屈みになって額に押し当て、声を抑えて泣き続けた。

 

「…。」

沖埜は、ケンザンと同じく扉の傍らで項垂れながら、唇を噛み締めて眼を瞑っていた。

ライスに対する感謝と自責の念を胸中に渦巻かせて。

 



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悲嘆(2)

 

*****

 

時刻は流れ、夜明け前のメジロ家の屋敷。

 

門前で待機していたメジロ家の車両に、制服姿のメジロマックイーンが乗り込もうとしていた。

 

「マックイーン。」

車に乗った彼女に、見送りに出ていたメジロパーマーがドアの側に来て声をかけた。

「気をつけてね。何かあったらすぐに連絡して。」

「…はい。」

マックイーンは力のない小声で答えた。

普段の冷徹な威厳が今の彼女には全くなく、雨にうたれた草花のように打ちひしがれてみえた。

目元には泣き腫れた痕が残っていた。

「どうか無事で。」

パーマーも顔を顰めながら、祈るようにいうとドアを閉めた。

 

そのままマックイーンを乗せた車が走り去っていくのを見送ると、パーマーは屋敷に戻り、登校の準備を始めた。

 

 

朝陽が見え始めた頃、パーマーも屋敷を出た。

 

学園に向かう車中、パーマーはマックイーンを乗せた車の運転手に通知を送った。

『マックイーンに何かあったらすぐに連絡下さい』

通知を送り終えると、パーマーは座席にもたれかかって眼を瞑った。

自然と込み上げた涙を抑える為に。

 

ライスシャワー…

パーマーもまた、深夜にマックイーンからライスの訃報を知らされていた。

 

既にライスの脚の限界を知っていたマックイーンやブルボンと違い、パーマーはライスの状態について何も知らなかった。

心の準備も何も出来てない中での突然過ぎる悲報に、ただ茫然とするしかなかった。

まさか、こんなに早く逝ってしまうなんて…

車窓から登りかけている朝陽を眩しそうに見つめているパーマーの眼に涙が光っていた。

 

現役時代のライスとパーマーは、ブルボンやマックイーンのようにお互いを意識するほどの関係でこそなかったものの、4度レースで対決した。

その4戦は全てG1であり、ライスと最も多く大舞台で闘ったG1ウマ娘はパーマーだった(対戦成績はパーマーの3勝ライスの1勝)。

彼女とのレースの思い出は色々あるが、やはり印象的なのは5年前の天皇賞・春、現役最強王者マックイーンを倒す為お互い限界にまで仕上げで挑んだレースだった。

3人で後続を引き離して最後の直線に入り、一線に並びかけた時の震えるような感覚は今でも覚えている。

そして、自分もマックイーンも無情に千切り捨てたライスの漆黒の末脚も。

 

さよなら、ライスシャワー…

朝陽を見つめつつ当時の記憶を思い返しながら、パーマーは胸のうちで言った。

悲報を受けたにも関わらず、パーマーは今無情にも学園へと向かっている。

何故ならば、ライスの遺体と対面するのは目の前で起きている事が終わった後にしようと決めたから。

 

今、自分達にはウマ娘の未来がかかった事案が目の前に待ち構えている。

同胞の帰還を悼める余裕はない。

マックイーンだって、療養施設へ向かった目的はライスの遺体と対面する為じゃないのだから。

 

ライス…

パーマーは涙を拭うと一つ息を吐き、改めて朝陽を見つめた。

現状起きている事がどうなるか、まだ明るい見通しは立ってない。

もしかすると残酷な未来が待ち受けているかもしれない。

でも。

「たとえどんな未来になろうと、あなたの無二の親友の心は…マックイーンの心だけは、家族であるこのパーマーが絶対に守るから。」

悲しい朝の光を見つめて、パーマーは呟いた。

 

 

 

*****

 

 

再び、療養施設。

夜明けの空に朝陽の光が広がっていく中、施設の屋上に一人は膝を組んで座りながらその光景を眺めている美久の姿があった。

ライスが帰還した後、彼女はずっとこの場に留まり続けていた。

 

「三永美久。」

屋上に、ブルボンが入ってきた。

「まだ、こちらにおられたのですか?」

「…。」

涙痕が光る表情を高原に向けたまま、美久は何も答えなかった。

ブルボンは彼女の側に歩み寄り、持ってきた一通の封筒を差し出した。

「受け取って下さい。ライスが、あなたに書き遺した手紙です。」

「…。」

美久は再び涙を滲ませて、それを受け取り、胸に抱き締めてうずくまった。

 

「…ライスの遺体は、今どこに?」

うずくまったまま、美久は尋ねた。

「施設内の一室に安置されています。」

「みんな、ライスの帰還を知ったの?」

「ええ。沖埜トレーナーもサイレンススズカもステイゴールドもホッカイルソー達も、ライスの遺体と対面しました。スペシャルウィークもつい先程…。」

「ダンツシアトルは?」

「ダンツシアトルは、まだ部屋の方で一人になりたいと。」

「そう。施設の療養ウマ娘達は?」

「今のところ、療養ウマ娘達にはライスの帰還を伏せる方針です。」

 

「…オフサイドには、」

美久は、更に尋ねた。

「オフサイドトラップには、ライスの帰還を伝えたの?」

「岡田トレーナーに伝えました。ライスがオフサイドに書き遺した手紙も、彼女の元へ送りました。」

「…オフサイドの決意は、動くと思う?」

 

「…。」

その問いかけにブルボンは答えず、上着を脱ぐとうずくまったままの美久の肩にそれを被せた。

「…今は真冬です。身体をご自愛ください。」

「…ブルボンこそ、」

美久は被せられた上着に触れながら、言葉を返した。

「今は、心が凍えないように…自分をいたわって。」

「…はい。」

ブルボンは無表情で答えると、踵を返し屋上を去っていった。

去り際、ブルボンの瞳から涙の滴が幾つか舞い散り、結晶となって消えていった。

 



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悲嘆(3)

 

*****

 

夜が明けた頃、メジロ家の別荘。

オフサイドトラップは、この日も明け方前から競走場に出て、調整に励んでいた。

 

有馬記念を翌日に控えたオフサイドの状態は、入念に調整を行い続けたことによりほぼ仕上がっていた。

最もそれは身体の状態ではなく、心境面の状態。

今ジャージを羽織って黙々と調整を行っている彼女の雰囲気からは、数日前まであった悲壮感は消えて、彼女の吐く白い息よりも凍てついたものが滲み出していた。

そして、競走場のコースを駆ける彼女の両脚からは、〈死神〉の影が濃くちらつき始めていた。

 

 

「おはよう、オフサイド。」

競走場にコートを羽織った岡田正貴が現れ、調整を行っているオフサイドの側にきた。

「おはようございます、トレーナー。」

オフサイドは岡田の顔も見ずに挨拶を返した。

彼女の氷のように凍てついた雰囲気を、岡田もはっきりと感じた。

 

「深夜、療養施設から急報が届いた。」

少し経った後、岡田はストレッチを行っているオフサイドに口を開いた。

「…。」

オフサイドはなんの反応もせず、淡々と身体のストレッチを行い続けた。

その冷たい無表情に、岡田は淡々と続けた。

「今日未明、ライスシャワーが帰還したという報せだった。」

 

「…。」

それを聞いて、さすがにオフサイドの動きは止まった。

だが表情は変えることなく、彼女は岡田を見ずに尋ねた。

「何があったんですか?」

「昨晩遅く、スズカが自ら帰還を図った。それをライスが阻止した際、脚の故障が再発したらしい。快復の術はなく、安楽帰還の執行がなされたそうだ。」

悼む色を表情に滲ませて、岡田は話した。

 

「そうですか。」

聞き終えたオフサイドは、岡田と違い全く表情を変えず、そう答えただけで再び身体を動かし始めた。

 

「…“そうですか”?」

親交もあった偉大な同胞が帰還したというのにあまりにも無感情なオフサイドの態度に、岡田は顔を顰めた。

「お前、ライスが帰還したというのに、その言葉しか出ないのか?」

やや茫然とした岡田の言葉に、オフサイドは表情を全く変えずに答えた。

「ライス先輩が余命幾ばくもないことは分かってましたから。」

 

「何だって…?」

「失礼します。」

オフサイドはそれ以上は何も言わず、岡田に一礼するとコースの方へ駆け去っていった。

去り際、オフサイドの醸し出す冷え切った空気が、岡田の肌に針が刺さるように感じた。

 

 

…ライス先輩、逝かれましたか。

黙々とコースをランニングしながら、オフサイドは無表情のうちで思った。

ライスから直に聞いてはいなかったが、彼女の脚がもう限界が近いであろうということは、最近何度か会った際にオフサイドはもう気づいていた。

でも、最期にスズカを守ってくれたんですね…

胸中でオフサイドは感謝し、そしてライスの姿を脳裏に思い浮かべながら呟いた。

「…私も〈死神〉との決着をつけたら、すぐにそちらにいきます。」

…みんなを連れて。

それきり、ライスの面影はオフサイドの脳裏から消えた。

 

 

淡々とランニングを行うオフサイドの姿を、岡田は競走場の隅で腕を組んで見守っていた。

昨晩よりはっきりしてきたな…

オフサイドの醸し出す冷たい雰囲気の中に、〈死神〉の領域が明らかに濃く溢れ出していた。

それと共に、彼女が背負った…いや、彼女の中で変貌してしまった想いと聲の数々も、見えない形となって溢れかけていた。

その全てが、岡田にははっきりと視えた。

 

本当に消えてしまったのか。

ライスの帰還に対するオフサイドの冷淡な態度を目の当たりした今、岡田はそう痛切に思わざるを得なかった。

シグナルライトが散った時、絶望のあまり後を追おうとしたルソーを決死の叫びで止めたお前の心までも…

 

「〈死神〉め…」

岡田は呟きを洩らし、唇を噛んだ。

オフサイドを見つめる彼の眼の色は、トレーナーとして教え子を見守る色だけでなく、敵意を含んだ色に変わっていた。

 

 

 

*****

 

 

 

同じ頃。

マックイーンは療養施設に到着した。

 

施設の入り口には、彼女が来るのを待っていたブルボンがいた。

「おはようございます、生徒会長。」

「ブルボン…皆の様子はどう?」

「皆、ライスの帰還に大きなショックを受けています。」

「そう…」

「ただ、ライスが残した遺書はもう皆読んだようで、…彼女の帰還はもう時間の問題であったということは知ったようです。」

「そうですか。では、サイレンススズカやスペシャルウィークも、ライスの帰還が自己のせいだと自責してはいないのですわね。」

「ええ、おそらくは。ただ前述のように、ショックは大きく受けています。」

 

「…。」

マックイーンもショックが色濃く残る表情で一つ息を吐き、更に尋ねた。

「沖埜トレーナーの容態は?」

「沖埜トレーナーは、現在脚の治療を受けています。どうやらかなりの重傷のようです。」

「…。」

恩師の容態を聞き、マックイーンの表情が更に翳った。

 

その後、マックイーンは施設内に入った。

彼女が向かった先はライスの遺体が安置された部屋ではなく、椎菜の医務室だった。

 

 

医務室で、マックイーンは椎菜と会った。

ライスの安楽帰還の執行をした椎菜の表情は、今までにないくらい憔悴していた。

 

「…礼を言います」

憔悴しきっている彼女に、マックイーンは淡々と感謝の言葉を述べた。

「…何の礼?」

「ライスを苦しまずに帰還させて下さったことですわ。」

「ああそう。別に礼を言われるような行為じゃないけどね。」

椎菜は吐き捨てるように言い、自らの腕を見つめた。

「これで、二百何十人目かな。私のこの腕が帰還させたウマ娘の数は。」

まるで血塗られたそれを見るような口調だった。

 

マックイーンはその様子を黙って見ていたが、やがて口を開いた。

「先日の私の要求、受けて下さりますか?」

 

「…。」

マックイーンの言葉に、椎菜は乱れた髪に手を当ててしばし考えた後、意を決したように言った。

「受けるわ。」

「…受けて頂けますか。」

「うん、私も表に出る。これ以上は黙っていられない。ウマ娘の未来の為に、闘うことにした。」

「ありがとうございます。」

マックイーンは再び礼を言った。

 

 

椎菜との話を終えたマックイーンは、医務室を出ると再びブルボンと会い、施設の外に出た。

 

「ブルボン、」

遊歩道を歩きながら、マックイーンはブルボンに尋ねた。

「ライスの最期は、苦しそうでしたか?」

「いえ、ライスは最期まで微笑ってました。」

「誰も恨んでなかったですか?」

「はい。感謝の言葉と未来への祈りだけを遺して、還っていきました。」

 

「感謝、ですか。」

マックイーンは足を止め、悲しみが溢れそうな瞳を朝空に向けた。

「ブルボンは、大丈夫ですか?心が、悲しみに凍てついていませんか?」

「大丈夫です。私は、大丈夫です。」

ブルボンは瞳を伏せ、胸に手を当てた。

最後にライスと交わした温もりが、掌に残っていた。

「ライスとの、約束は、果たせましたから。」

 

「そうですか…」

マックイーンは嘆きを堪える為に眼を瞑って大きく深呼吸し、そして改めて瞳を開きブルボンを見つめた。

「私は修羅の場に戻ります。あなたはここで、同胞達を守って下さい。」

 

「生徒会長…」

ブルボンは、マックイーンの瞳を見て胸が詰まった。

盟友の帰還の悲しみにくれていた彼女の瞳は、今までにない程の冷徹な色が灯りだしていたから。

 

 

 

その後、マックイーンは施設を後にした。

 

『ピリリリリ…』

施設を去った後、車で移動していたマックイーンのスマホの通知音が鳴った。

一瞬昨晩のことが胸をよぎったが、マックイーンは冷静にスマホを取り出し通知を見た。

通知は岡田からで、オフサイドの状態に関することが記されていた。

「…。」

マックイーンはその内容に全て眼を通すと、通知を閉じた。

 

冷徹な表情のまま、マックイーンは生徒会副会長のルビーに電話をかけた。

「…もしもし、ルビーですか?…今から通知を送りますので、それを今朝の生徒会の会合で皆に見せて下さい。ビワとブルボンには私から別に伝えますわ、…私はこれから理事長の所へ向かいます…では。」

電話を終えた後も、マックイーンの表情は美し過ぎる程冷徹だった。

 

 

 

*****

 

 

 

「ライスシャワー…」

施設の屋上。

ブルボンの上着を羽織って座り込んだまま茫然と朝陽を眺めていた美久は、胸にライスの手紙を握り締め、頬に残った涙痕を拭いつつ、呟きながら立ち上がった。

「私、思い出しちゃったよ。何もかも…」

消えていたあなたとの思い出も。

ある筈なかったターフでの記憶も。

最期の記憶も。

そして、本当の名前も…

 

遥かな朝陽よりも遠く、永遠に届かない所へ行ってしまった親友の面影を瞳の奥に、美久は大空へ腕を伸ばした。

 



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悲嘆(4)

 

*****

 

 

場は変わり、朝のトレセン学園。

 

生徒会室には、副会長のダイイチルビー、役員のメジロパーマー・ダイタクヘリオス・ヤマニンゼファー、マヤノトップガンの5人が集まっていた。

 

全員既にライスシャワー帰還のことを伝えられており、表情は皆沈痛だった。

だがその事に関しては、ライスの帰還はすぐには公表しないという施設&マックイーンからの伝達を確認しただけで、それ以上はこの場では触れられなかった。

また、マックイーンから送られた通知も皆に伝えられた。

 

 

それらが終わった後。

「今日午後、今回の断行に関して記者会見を行います。」

ルビーが、重々しく口を開いた。

「その前に、私達がせねばならないことが幾つかあります。そのことは既にお分かりですね?」

「ええ。」

ゼファーが書類を手に頷いた。

「天皇賞・秋後に不適切な言動を犯したトレセン関係者に対する処分ですね。」

「その通りです。」

「既にその面々は調べ終えおり、今日学園に来るよう通達をしています。集まり次第執行で宜しいでしょうか?」

「勿論です。マックイーン会長からもそう指示が出ています。」

「かしこまりました。」

ゼファーは特有の透き通る声で答えた。

 

「重要報告があります。」

続いてヘリオスが、生徒会モードの口調で口を開いた。

「今回の断行を受け、報道や学園の理事関係者が、影響力の強い同胞達と接触を計っているようです。」

「元生徒会とですか。」

「確認した所、既に接触を受けた同胞は、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ニッポーテイオーなどの偉大な諸先輩方、それとハギノ家とも接触してるとの報告も入りました。」

「…っ。」

やはりですかと、ルビーの表情が険しくなった。

「それで、諸先輩の動きは?」

「今回の断行に関して介入する動きは、今現在ありません。」

 

「了承ですわ。」

ルビーは険しい表情で唇を動かし、ヘリオスを座らせた。

我々の断行から逃れる為に、人間達が学園OB達を動かそうとする。

これは当然想定内なので、既に手は打ってある。

先日マックイーンが言ったように、諸先輩方には諸事情を伝え、今回の断行に関しては学園側を支持するよう要求していた。

勿論、今回の事はウマ娘界の未来を左右しかねない程のものだから、

諸先輩方がそれに従うともかぎらないが。

「例え偉大な諸先輩方から意見があろうとも、我々は決してそれに惑わされてはなりません。」

思いつつ、ルビーは先日のマックイーンと同じ言葉を口にし、更に続けた。

「もし諸先輩方が介入した場合は、私と生徒会長が対処にあたります。最悪、敵対することも覚悟せねばなりません。そのことは皆、心に命じておいて下さい。」

 

 

その後、ヘリオス、ゼファー、トップガンの3人は生徒会室を出て行き、ルビーとパーマーは室内に残った。

 

「いよいよ、闘いの始まりだね。」

「ええ。」

ルビーとパーマーは、窓から校門の方を眺めつつ言葉を交わしていた。

校門前にはこの日も報道陣が数多くひしめいていた。

その中を通り抜け、学園に入ってくる者の姿もあった。

処分の為に呼び出された学園関係者達だ。

 

「学園関係者、それに同胞にも処分を下すことになるなんてね。」

パーマーは唇を噛んだ。

生徒会に入って数年経つが、まさかこんな状況に直面するなど夢にも思わなかった。

「辛い役目を全うするのが生徒会の務めです。」

ルビーの宝石のような瞳は、険しく光っていた。

「あなたの家族が、それを一番分かっているでしょう。」

マックイーンね…

パーマーは窓枠に掌を当てた。

マックイーンは療養施設で椎菜との用件を終えた後すぐに施設を立ち、現在は理事長の大平と会って午後に予定している記者会見の段取り等を相談している。

 

だが…

「私、凄く心配だわ。マックイーンの心が。」

窓に手を当てたまま、パーマーは眼を瞑った。

ライスシャワーの帰還に、マックイーンがどれだけショックを受けているか…

もう既にボロボロに近い精神状態なのに。

 

「生徒会長の心配はやめましょう。」

パーマーの不安を理解しつつも、ルビーは令嬢らしい整然とした厳しい口調で言った。

「恐らく会長は、ライスの帰還に対する悲しみよりも、自身の義務を果たそうとする思いの方が強い筈ですから。」

副会長として長い間マックイーンと行動を共にしてきたルビーは信じるように言った。

「私も、今は嘆きを抑えます。ライスの帰還を悲しみで終わらせはしません。」

言いつつ、ルビーの瞳には涙が込み上げていた。

「うん。それは分かってる。」

パーマーはその瞳を見て、重く頷いた。

今は闘いだ。

この闘いを乗り越えない限り、マックイーンの心だって救われないんだからと、自らの心に言い聞かせた。

 

 

 

一方、生徒会室を出たヘリオス・ゼファー・トップガンの三人。

 

「大分ショックを受けているようですね、トップガン。」

廊下を並んで歩きながら、ゼファーは傍らの後輩役員の様子を見、つと足を止めて口を開いた。

ショックとは勿論、ライスの帰還のこと。

「…はい。」

トップガンは、眼を一杯に見開いて小声で頷いた。

「私にとってライス先輩は、入学当時から大きな憧れの存在でしたから。」

対戦こそなかったが、小柄な身体ながら長距離戦線で栄光を幾つも手にしたウマ娘という共通点があった。

「まさか、こんな突然逝ってしまうなんて。もっとライス先輩とお会いしたかったです。」

「私も茫然としてます。」

いたわるようにトップガンの肩に触れつつ、ゼファーも嘆じた。

ゼファーは自身が制した5年前の天皇賞・秋でライスと対戦した。

その時ライスはスランプに苦しんでた時期だったが、それでも必死に走る姿には胸を打たれた。

主戦距離が違う為対戦はその一度だけだったが、栄光の記憶と共に今でも強く印象に残っている。

引退後ライスとは特に親しいこともなかったが、彼女がレースに残した蹄跡とそのウマ娘性には、後輩とはいえ畏敬の念を抱いていた。

「ライスは今後のウマ娘界の為に本当に必要な存在だったのに、余りにも大きな喪失です。神様は時に残酷なことをする…」

ゼファーは嘆きを隠すように顔を振りながら、目元に指を触れた。

 

「嘆いてばかりもいられません。」

後輩二人の様子を後ろで見ていたヘリオスが、気を覚まさすように張り詰めた口調で言った。

「ライスの帰還がショックなのは当然です。私だって、大声で泣きたいくらい悲しい。でも、今は悲しむ時間じゃない。」

彼女の瞳には悲しみの色彩はなかった。

「これから闘いが始まります。勝利なき闘いが。…そしてその闘いの先に、本当の闘いが待っている。それが終わるまで、悲しみは心の中に封印しなさい。」

普段陽気快活なヘリオスとは思えない厳しい言葉を突きつけると、彼女は二人の前に出て先に歩き去っていった。

 

「ヘリオス先輩…」

生徒会モードの時でも見たことないヘリオスの言動に、トップガンは驚いていた。

「先輩らしいですね。」

ゼファーの方は、ヘリオスの背中を見送りながら口元に薄い微笑を浮かべていた。

ヘリオス先輩は普段バカみたいな言動も多いし現役中もバカ呼ばわりされてたけど、実はかなり冷徹な一面もあるウマ娘なんですよね…

 

「トップガン、覚悟は出来てますか?」

微笑を打ち消し、ゼファーは再びトップガンを向いた。

「覚悟とは?」

「相対する人間と同胞、その双方の傷口に塩を塗る覚悟です。」

「当然です。」

ゼファーの問いかけに、トップガンは全くの迷いなく静かに頷いた。

「私も生徒会の一人です。ウマ娘界の未来の為なら、心を鬼にします。」

「流石です。」

栄光の実績では自らを上回る後輩ウマ娘の返答に、ゼファーはにっこり頷くと、廊下を再び歩き出した。

 

 

 

*****

 

 

場は変わり、トレセン学園理事長大平赳夫の自宅の一室。

 

施設を後にしたマックイーンはここに向かい、大平と会っていた。

 

「ライスシャワーが帰還…」

マックイーンからその事実と詳細をを伝え聞いた大平は、流石に驚きを隠せなかった。

「はい…。」

マックイーンは淹れられた茶に手をつけず、表情を伏せたまま頷いた。

「世間に公表はしないのか?」

「今の所その方針でいますわ。最も、報道関係には知られている可能性もなくはないですが。」

報道規制を敷いていたので施設に報道関係者は一切近づけていないが、昨晩の出来事は屋外でもあった為、詳細は知られずとも騒ぎがあったことは認知されたかもしれない。

「とはいえ、それを報道されましたらこちらも公表するしかありませんが。世間の愚かな声がどれだけスズカを追い詰めていたかという事実を添えましてね。」

芦毛の美髪がやや乱れているマックイーンの声は無感情だった。

 

「もしかして、君の本心は公表したいのか?」

「当たり前ですわ。」

マックイーンの冷徹な翠眼が酷薄に光った。

「全て公表して、報道も世間も責めたててやりたいですわ。」

世間、報道達が愚かな行動をしなければこんなことにならなかった、そのせいでライスシャワーは…

それを喉元まで言いかけたマックイーンは寸前で喉奥に押し戻した。

それは絶対に言ってはいけない。

ライスが悲しむだけだ。

 

「とにかく、今はライスの帰還に心を奪われる時間はありません。」

マックイーンは茶を一口飲んで、心を落ち着かせてから言った。

「現状、療養施設の方は依然として厳しい状況ですわ。ライスが関係者達に遺書を残していたので、なんとか歯止めがかかってはいますが、今後再びスズカやゴールドらが行動を起こしてしまうとも限りません。」

「対応策は?」

「幸いというべきか、現在施設にはフジヤマケンザンやダンツシアトルといった心強い同胞がいます。彼女らと連携して状況の保持にあたるよう、ブルボンに指示しておきましたわ。」

「そうか。」

大平は、少しも安堵の表情は浮かべずに頷いた。

「ミホノブルボンの状態は、大丈夫なのか?」

「そこは、もう彼女を信じるしかありませんわ。」

今朝施設で会ったブルボンの姿を思い出しつつ、マックイーンは答えた。

 

少し間を置いた後、大平は再び尋ねた。

「今日の記者会見は、予定通りやるのか?」

「勿論です。もう猶予はありません。ここで我々の態度をはっきり示さなければ、もう次はありません。」

「例のウマ娘の存在意義や尊厳についても言及するのか。」

「当然ですわ。」

マックイーンは即答した。

「それが今回の断行の大きな理由なのですから。それに、」

マックイーンの眼が、一層冷徹な光を帯びた。

「それをしない限り、我々が真に闘う相手には何も響かないでしょう。」

 

「真に闘う相手…」

大平も茶を一口飲み、それから言った。

「それは、オフサイドトラップのことか?」

 

「正確には、オフサイドトラップと〈死神〉ですわ。」

 

マックイーンがそう答えた後、彼女のスマホの通知音が鳴った。

何かしら…

マックイーンはスマホを取り出し、通知に眼を通した。

「…。」

通知の内容を見た彼女の表情が僅かに変化した。

 

「どうした?」

「少し、また事態が動きました。」

スマホをしまいながら、彼女は窶れた口調で答えた。

 

 

 

その後、マックイーンは大平宅を後にした。

 

 

大平宅を出た後、学園へ向かう車中で、マックイーンはメジロ家の別荘にいる岡田と連絡をとった。

これまで彼とはビワを通じて連絡をとってたが、昨晩夕以降は直接連絡をとっていた。

 

「もしもし、岡田トレーナーですか。…オフサイドトラップの状況は…変わりないですか。…午後に別荘を経つと?レースの現地に移動…そうですか。岡田トレーナーも同行…分かりました。…ええ、朝送られた通知は、生徒会仲間に全て伝えました。…お察し致します…え、施設の方に元メンバーを派遣…ありがとうございます…。」

 

 

岡田との電話を終えると、マックイーンは車窓から青空に視線を向けた。

 

ライス…

マックイーンの見開いた冷徹な瞳からは冷たい涙を伝っていた。

なんでこんな形で、逝ってしまったの?

安らかに最期を迎えて欲しかったのに…

 

ライス自身は、その最期に悔いを残さず帰還した。

だが悲しみに打ちひしがれるマックイーンは、それを受け入れきれなかった。

 

もういい。

あなたが事の犠牲になってしまった以上、私はこの断行において置いて一切容赦しません。

我が生徒会も同じ思いでしょう。

永遠の楔をうちこんで、無情の雨を降らせてやりますわ。

 

マックイーンは涙も拭わずに唇を噛み締めた。

 

 

そしてもう一人、マックイーンはメジロ家の別荘にいる同胞に思いを馳せた。

 

オフサイドトラップ…いや、彼女に巣喰った〈死神〉め。

まさかここまで同胞達に絶望を撒き散らすとは、恐れ入りましたわ。

その報いとして、このマックイーンが、必ずあなたをこの世界から消し去ってやりますわ。

 

プレクラスニーに続いて、ライスシャワーまで喪ってしまったマックイーンの心はもう凍てついていた。

盟友の幻影も瞳に映る中、その冷徹な翠眼からは嵐の前の黒雲のような雰囲気が溢れだしていた。

 

 

12月26日。

この日も、前日と同じく美しく晴れやかな冬空が一面に広がっていた。



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パンドラの箱(1)

 

*****

 

時刻は経ち、10時過ぎのトレセン学園。

 

「経過報告です。」

学園関係者の処分にあたっていたヘリオス・ゼファー・トップガンの三人は、生徒会室でマックイーンにその経過を伝えていた。

 

「先程、秋天後の騒動に関係したとされる学園の生徒&トレーナー関係者を集め、全員に活動停止と謹慎を言い渡しました。後日改めて各々に事情聴取を行い、最終的な処分を決める予定です。」

「何か混乱はありましたか?」

「人間のトレーナー達は覚悟はあったのか比較的冷静に受け入れていましたが、生徒のウマ娘達がかなり大変でした。まさか処分を受けるなど思っていなかったようで、阿鼻叫喚という程ではないですがショックでパニック状態になった者が多かったです。最終的にはなんとか落ち着きましたが。」

「それは大変でしたわね。退学処分にはしないということは伝えておきましたか?」

「はい。ただ長期の休学或いはレース出走停止処分の可能性は示唆しておきました。」

「報道にはどう説明を?」

「関係者への謹慎処分のことだけは伝えました。詳細についてはまだ決まってないので伏せています。」

「分かりました、ご苦労でしたわ。」

聞き終えたマックイーンは三人を労い、退がらせた。

 

 

「疲れたね。」

「ええ。」

生徒室を出た三人は、それぞれ表情に疲労を滲ませていた。

同胞達に処分を下すということはやはり精神的にもかなりの大仕事だった。

しかも処分の対象となったウマ娘は、多くがまだ1年生の者だった。

過ちを犯したとはいえ、まだ入学間もない幼さの残る同胞。

そんな彼女達に処分を下すというのは、やはり心中で辛さを感じたようだ。

「まだ精神的にもかなり未熟な子が多かった。それが今回の過ちの原因だったようですね。」

 

「でも容赦は出来ません。」

ゼファーが汗を拭いながら息を吐いた。

今回の同胞への処分は前述のようにやや重い処分になる見通しだ。

「深く反省して、二度と同じ過ちを繰り返さないことです。私達も今後、後輩の同胞達にレースの尊厳を教えていかねばなりません。」

「そうですね。」

ヘリオスが深く頷いた。

「もう、こんなことは2度と起きないように。」

疲労の色こそあったが、三人とも毅然とした態度は全く崩れていなかった。

 

 

「あら。」

廊下を移動中、三人はパーマーと会った。

 

「三人とも、生徒会長への報告が終わった所かしら?」

「うん。そっちは?」

「こっちは外部への対応に追われてるわ。そのことで生徒会長に報告があって今いくとこ。」

そう言うと、パーマーは生徒会室の方へ駆けていった。

 

パーマー…

駆け去っていったパーマーの後ろ姿を、ヘリオスはしばしの間見送っていた。

「どうしたんですか?」

「いやさ、彼女も顔色かなり悪いなと思ってね。」

パーマーとは同期の親友でもあるヘリオスは心配そうな表情だった。

「それは仕方ないでしょう。パーマー先輩は生徒会の一員である他に、生徒会長の家族でもありますから。私達とは別の心労があるのは立場上やむを得ません。」

「そうだよね。」

「それに、パーマー先輩と生徒会長は我々生徒会とは別に動いてる可能性もありますし。」

 

「別、ねえ。」

ゼファーとトップガンの言葉にヘリオスは爪を噛んだ。

彼女もその点は薄々気づいている。

「まあ、なんてったってメジロ家の代表ですから。その立場上秘密裏の行動があるのは当然です。」

「うん。それは分かってる。」

ヘリオスは唇から指を離して頷き、生徒会モードに口調を変えた。

「私が気にしてるのはそこではありません。果たしてパーマーが、マックイーンの歯止め役になれるかを懸念しています。」

 

「生徒会長の歯止め役?」

ゼファートップガンも怪訝な表情を浮かべたが、ヘリオスはそれ以上何も言わずにさっさと歩き出した。

 

私には分かる…

マックイーンとも同期であるヘリオスは、マックイーンの心の奥底にある闇の存在に気づいていた。

今回のライスシャワーの帰還で、その闇が溢れ出そうな段階まで来ていることも。

それを止められるのは、恐らく彼女の家族であるパーマーしかいない。

しかし、もし止められなかったら。

 

その時は、生徒会の責任としてマックイーンと相対せねばならないね。

ヘリオスは胸に手を当てて思った。

 

 

 

一方。

パーマーは生徒会室に着き、マックイーンと会っていた。

 

「先程、元学園生徒の先輩ウマ娘の方から、今回の件に関して連絡がありました。」

「どのような内容でしたか?」

「今回の件をかなり憂慮されているようで、生徒会長と直に会って話がしたいと言う内容でした。」

「なんと返事を?」

「生徒会長にお伝えすると返事しました。」

「断らなかったのですか?」

「ちょっと、無下に断るのはあまりにも偉大な先輩でして。」

パーマーは、そのウマ娘の名を口にした。

 

なるほど…

その名を聞いたマックイーンは納得した。

確かに無下に断れる相手ではない。

「分かりました。ご要望を受けるとお返事お願いします。」

 

 

その件の話が終わった後、マックイーンは続けて尋ねた。

「ルビーはどうしています?」

「副会長は、現在ハギノ家から連絡を受けてその対応をしています。」

「ハギノ家というと、ハギノトップレディ先輩からですか。」

「ええ。でも大丈夫です。副会長は絶対に意志を翻したりしませんから。」

表情を一瞬顰めたマックイーンにパーマーは言った。

 

「了承ですわ。」

頷きながら、マックイーンは深く息を吐いた。

どうやら、我々の断行を阻止する為に、人間達はかつての偉大な同胞達を動かそうとしてるようですわね。

まあ想定内ですが。

 

無駄な抵抗を…

唇元で呟きながら、マックイーンは懐から書類を取り出した。

 

「これは?」

「記者会見で話す内容ですわ。皆に渡しておいて下さい。」

怪訝な表情を浮かべたパーマーに書類を手渡しながらマックイーンは淡々と答えた。

 

「…え?」

書類に眼を通したパーマーは思わず声を洩らした。

「え、これを会見で?」

「はい。」

表情が蒼白になったパーマーと対照的に、マックイーンは全く表情を変えなかった。

 

「…これは、ダメだよ!」

パーマーは書類を突き返した。

「内容が過激過ぎる。明らかに一線超えてるわ!」

 

「パーマー、ウマ娘の未来の為ですわ。」

パーマーの見開いた瞳をマックイーンは全く揺るがない翠眼で見返した。

「不幸な末路を余儀なくされる同胞を救う為にも、レースの尊厳を守る為にも、そしてウマ娘と人間の共生の為にも、これを人間達に突きつけなければなりません。」

「絶対に反対だわ。」

マックイーンの威圧感に動ぜず、パーマーは首を振った。

「どんな理由があろうと、これは絶対に表に出してはいけない内容よ。巨大な禍根しか残さない…まさにパンドラの箱同然のものだわ。」

 

「そう、まさにパンドラの箱ですわ。しかし、今はそれを開かなければなりません。」

言いながら、マックイーンは懐から今度は一冊のノートを取り出し、パーマーに手渡した。

「これは?」

「我々が眼を背けていた、最果ての世界の事柄ですわ。」

 

「なにこれ…」

数ページそれをめくったパーマーは、その内容の凄まじさにすぐノートを閉じた。

「これ、まさか…」

「オフサイドトラップから託されたものですわ。彼女は、最果ての現場にいてその記録を残していました。」

マックイーンは椅子にもたれた。

「彼女がこれを我々に託した理由は、この現実を変えて欲しいが為。私は、それを果たす決意をしたんですわ。」

「それが、この書類の内容だと?」

「はい。」

 

「だとしても、私は反対だわ。」

パーマーはノートを返し、断固と首を振った。

「最果ての現状を発信するのなら他に手段がある筈。でもこの内容は行き過ぎてる。はっきり言えば、現実も未来も全てを破壊する目的の内容にしか思えない。」

 

「全てを破壊…そうかもしれませんわね。」

マックイーンは頬に薄い微笑が浮かべた。

「でも、こうしなければ、未来は変わりはしないでしょう。今まで、どれだけの十字架が我々の歴史に刻まれてきたか顧みれば。」

ハマノパレード、ハードバージ、カネミノブ、ヒカリデユール、オサイチジョージ…

彼女達のようにレースに君臨していたウマ娘だけじゃなく、幾万ものウマ娘が、最果ての世界に消えていった。

その重い歴史を、同胞達はずっと背負い続けてきた。

 

「私も、これまでの生徒会も、そしてあなたも。これ以上私達が負ってきた苦しみを、次世代の同胞達にまで背負わせたくない。例え『大償聲』を招く危険性があろうとも、私は遂行します。」

言い切ると、マックイーンの冷徹な視線はパーマーを貫くように見据えた。

「マックイーン…」

溢れ出したマックイーンの威圧感、いや『真女王』の領域に、パーマーは身体を震えさせつつも、姿勢を崩さず懸命に対峙したていた。

 

 

 

*****

 

 

 

その頃。

 

報道陣などで騒然としている校門前を通り抜け、一人の学園関係者が学園内に入ってきていた。

学園関係者ではあるが特に重要な職務にあるものでもないので、その人間は報道陣から殆ど気にかけなかった。

 

その学園関係者…三永美久は、そのまま校内に入った。

 

そして廊下で、業務で移動中のヘリオスと鉢合わせした。

 

「あれ、美久カメラマンじゃん。どうしたの?」

ヘリオスは彼女の姿を見て首を傾げた。

「療養施設にいるって聞いてたけど、戻ってきたの?」

「ええ。生徒会長に用があって来ました。」

「生徒会長は今会える余裕はないと思うけどどういう用事?ライスシャワーのこと?」

「サンエイサンキューに関する用件です。」

 

「…!」

ヘリオスの腕にあった書類がバサッと床に落ちた。

「ど、どういうこと?」

それにも気づかず、ヘリオスは驚愕のあまり眼を見開きながら口を愕然と動かした。

 

やっぱりか…

明らかに動揺したヘリオスの様子に、美久は小さく吐息した。

 



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パンドラの箱(2)

 

*****

 

場は変わり、理事長の大平宅。

 

宅内の一室には、大平を含むトレセン学園の理事達が集まっていた。

彼らはマックイーンら生徒会の断行への対応について話し合う為集まっていた。

 

「今回の事に対して我々は生徒会の意向を尊重し、我々の干渉は控えたいと思います。」

理事長である大平は、集まった理事達にそう要求した。

 

「いいのですかそれで。」

理事長の言葉に、理事達は次々反発の色を見せた。

「生徒会の行動は明らかに世間の反発を招いています。今後の学園の運営に大きな影響を与えることは間違いありません。」

「彼女達は事態の大きさを分かっていない。このままではウマ娘と人間の間に大きな軋轢が生じる可能性が大だ。」

「オフサイドトラップの件で、学園の運営と将来を中心として考えてきた我々の意向を生徒会は真っ向から否定した。固定観念に囚われて大局を見失っているのは明白です。」

「放っておくと事態は更に悪化して、全てが手遅れになるのでは。まだ間に合ううちに止めるべきだと。」

 

「各々の意見はよく分かります。」

理事達の反発の声に、大平は頷きながら返答した。

大平自身運営に携わる人間として、彼らの言い分は理解していた。

「もし生徒会が一時的な感情に暴走しての断行だったならば私も阻止に動きました。だが今回の断行はそんな浅慮な軽挙妄動ではありません。ウマ娘の華やかな表舞台の裏で、積もり積もっていた負の側面が遂に爆発したものだと思います。」

「負の側面とは、彼女達が言う『レースの尊厳』ですか?」

「正しくは『ウマ娘の尊厳』です。彼女達はこの世界での種族としての尊厳を我々人間に問いかけてきたのです。」

大平は、断行前にあったマックイーンとの話の内容を話した。

「人間にとってウマ娘とはなにか、それを明確にするよう、現生徒会は求める覚悟なのです。」

「何故そんなことを…」

「それは決まっています。この世界で必要とされずに消えてゆくウマ娘達の為です。彼女は同胞達を救う為にこの行動に出たのです。」

 

「愚かなことをするものですね。」

理事の何人かが険しい表情を浮かべた。

「ウマ娘が尊厳などを主張する権利などありません。彼女達は、自分らが人間の保護によってこの世界に存在出来ていることを分かっていないのでしょうか。」

「歴史を顧みれば、人間が保護しなければウマ娘はこの地上から絶滅する危機に瀕していたことは明白だ。それすら忘れたのか。」

「私達人間は、限られた中でもウマ娘達の未来の為に多くの苦労をしてきました。それに対してウマ娘達は人間の未来の為に動いたことはあるのでしょうか。」

 

「それらは当然認識しているでしょう。認識している上で彼女達は行動を起こしのです。」

大平は冷静な表情で声を上げた理事達を見回し、整然とした口調で続けた。

「彼女らのこの行動により、学園の運営に大きな支障が出ることは必至です。最悪学園の閉鎖の可能性すらあるかもしれません。我々外部からの関係者にも大きな影響を及ぼすでしょう。それでも私は、ここは事態を見守りたいと考えています。」

 

「理事長、それは余りにも無責任では?」

「運営に携わる人間としての自覚を問われます。」

理事達は非難の声を上げたが、大はなおも続けた。

「無論、事態が悪化した際は責任を取ります。ですがそれでも私は、ウマ娘の断行を支持すると決めました。今はウマ娘と人間が共存していく未来への大きな岐路であり、利害は二の次だと考えたからです。」

 

そう言うと、大平はつと書類を取り出し、理事達全員に配った。

「これは?」

「私なりに調べた生徒会が事を起こした最大の理由です。」

書類の内容は、学園を去った後消息不明となった歴代の生徒の数と内容が記録されていた。

 

「これには、諸君が知っているであろう有名なウマ娘の名も含まれている筈です。」

「…。」

表情を硬らせた理事達に、大平は言葉を続けた。

「それとここには記されていませんが、不遇な扱いを受けて不幸な最期を遂げたウマ娘も多くいました。中央だけでなく地方含めた全体でみれば、ここ10年でもその数は優に1000を超えてるでしょう。」

 

「このことは我々も知っています。ですが、」

理事の一人が書類を見ながら口を開いた。

「確かに業界の暗部ではあり表には出せない事実ではありましたが、この数は年々減ってきている筈です。我一人でも多くのウマ娘が不幸にならないよう我々も手を尽くしてきました。ウマ娘だってそれを…」

「分かってるいるでしょう、当然。」

理事の言葉を大平は遮り、続けた。

「それでも、現実として長年の間幾多のウマ娘が不幸な末路を強いられてきました。未来を手に入れられる実績を挙げた筈の者も含めて。そのことが業界内で隠匿され続けてきたことに、限界が来たのでしょう。それらに未来を与える為、生徒会は断行したんです。」

 

「理解が出来ません。」

理事は納得出来ないようだった。

「もしそうだとしても、やり方は他にあった。今回の生徒会のやり方は余りにも突然で横暴じみてます。意識して人間を敵に回したといっても過言ではない程…」

 

「安易な発言は控えてください。」

大平はその理事を静かに睨んだ。

「トレセン学園が発足しウマ娘のレースの歴史が始まって以後、ウマ娘も人間もお互い多くの艱難辛苦を乗り越えてきました。だが決定的に違うものがあります。それは犠牲になった者の数です。そのことに対してのウマ娘の苦悩は我々人間の比ではありません。彼女達の誰もがその負の側面を背負って生きてきた。レースで数多の栄光を手にしたウマ娘も含めて。」

 

「…。」

「多少横暴かもしれませんが、彼女達の苦悩を受け止めることが我々人間の責務だと思います。無意識のうちにウマ娘を人間より下の種族に見るようなことはしてはなりません。…理事の諸君にもそれぞれ立場や意見はあると思いますが、ここは事態を見守るよう重ねてお願いします。」

冷静な口調に有無を言わせない凄味を含めて、大平は理事達にそう要求した。

 

 

その後。

 

遂にここまで来たか…

理事達との会合が終わった後、大平は一人になった部屋で煙草を吸っていた。

 

現状、マックイーンらが下した断行の影響は、既に各所で大きく出始めていた。

人間に当てはめればプロスポーツ選手が主催者やファンを敵に回すような行動をとったのだから当然といえば当然だ。

極力深刻な対立にならないよう各所に手はうっているが、学園にとって厳しい状況になるのは避けられない見通しだ。

 

天皇賞・秋後の騒動がここまで大きな事態に繋がるとはな…

煙草を吸うパイプを手に、大平は窓の外を見た。

業界の負の側面が重なり続けた結果とはいえ、発端の原因となったものがオフサイドトラップという一人のウマ娘の言動からだということに、大平は思うものがあった。

“地獄からの生還者”

大平はオフサイドに対し、そんなイメージを抱いていた。

オフサイドトラップは、絶対に逃げられない筈だった不幸と運命を乗り越えた生還者。

人知れず消えゆく未来しかなかった筈の者が表の世界の頂点に立ったのだから、この事態が起きることも必然だったかもしれないな…

大平は思った。

 

もっとも、大平が生徒会の断行を支持した理由は天皇賞・秋後の騒動が理由ではない。

彼はウマ娘の現総責任者であるマックイーンの決意を見て支持を決めた。

 

マックイーン、後始末の方は私がやる。

だからお前はウマ娘の代表として、自分の信じた行動をとりきれ。

学園の理事として長年彼女と接してその姿を見守ってきた大平は胸中でそう問いかけた。

 

 

 

*****

 

 

 

一方、再び学園。

 

生徒会室で対峙していたマックイーンとパーマーの元に、美久を連れたヘリオスが蒼い表情で現れた。

 

「三永美久…」」

「おはようございます、メジロマックイーン先輩。」

来訪した自分を見たマックイーンに、美久は恭しく頭を下げた。

 

「え…?」

美久の挨拶を聞いて、傍らのパーマーも驚きの表情に変わり、思わずヘリオスの方に目を向けた。

「…。」

ヘリオスは蒼い表情のまま、無言でパーマーに部屋を出ようと促した。

…うん。

パーマーは動揺しながら頷き、ヘリオスと共に生徒会室を出ていった。

 

 

「どうぞお座り下さい。」

二人きりになった後、マックイーンは出ていった二人と違い冷静な様子で、美久を室内のソファに促し自分も真向かいに座った。

「本当だったのですわね、あなたが記憶を取り戻したというのは。」

先程、大平宅でマックイーンが受けた通知は、美久が過去重要な記憶を戻したという内容だった。

なのでこのことは既に周知してた。

 

「他にこのことを伝えたのは、私に通知を送ったブルボンだけですか?」

「…はい。」

美久は頷き、そして尋ね返した。

「…私の正体を知ってる者は、どのくらいいたのですか?」

「私を含めた現生徒会のメンバー、大平理事長などの重要な人間達、そして亡きライスシャワー。その他数名位ですわ。」

深刻なショックが濃く残る表情、その泣き腫れた両眼を見つめて、マックイーンは静かに答えた。

 



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パンドラの箱(3)

 

*****

 

「パーマー、大丈夫?」

「心配しないで。」

 

生徒会室を後にしたパーマーとヘリオス。

ヘリオスの問いかけにパーマーは首を振ったが、その表情はかなり蒼白だった。

少し落ち着かせる時間が必要だと判断したヘリオスは、他の生徒会メンバーに連絡をいれた後、学園内の一室に連れていった。

 

「これ飲みなよ。」

一室の席にパーマーを座らせると、ヘリオスは彼女の為に温かい紅茶を淹れた。

「ありがと。」

パーマーはそれを数口飲んだ。

それで少し落ち着いたのか、表情がやや和らいだ。

その様子を見て少し安心したヘリオスは彼女の傍らに座り、両腕を胸に組んだ。

 

「驚いたね。」

「そうだね。まさか三永美久が、記憶を取り戻すなんて。」

 

 

三永美久。

彼女はこの世界で唯一の、元ウマ娘の人間。

パーマーとヘリオスの二人は、美久がかつてウマ娘だった時代に、レースで対戦していた。

 

「もう、6年も前になるんだね。」

「うん。私にとって最高の栄光で、かつウマ娘史上最悪の悲劇の日から。」

「私にとっても、悲しいラストランだったよ。」

二人は膝を並べて、その当時のことを思い返した。

 

 

 

6年前の有馬記念。

それは、ヘリオスにとっては引退レースであり、パーマーが低評価を覆して渾身の逃げ切りで優勝したレース。

現在でも史上に残る大逃亡劇と語り継がれているレースだが、その一方で、レース中に一人のウマ娘が悲劇に見舞われていた。

そのウマ娘の名は、サンエイサンキュー。

 

彼女の身に起きた悲劇は、それまで幾多あった悲劇のそれとは背景が異なっていた。

 

 

サンエイサンキュー、当時2年生。

彼女はミホノブルボン・ライスシャワーらと同期のティアラウマ娘。

1年生時から頭角を現し、重賞で複数回の優勝やオークス2着などG1級でも好走するなどかなり優秀な生徒だった。

 

だがレースで好成績を残す一方で、彼女には多くの災難が降りかかっていた。

 

サンキューはデビュー以来、殆ど休養を挟むことなくレースに出続けていた。

普通ならオークス後の夏場に休養をあてられる筈なのにそれもなく、サンキューはレースに出させられた。

また秋のクラシックの前哨戦も、普通ならば1戦で済むところを2戦出させられていた。

 

この異常ともいえるローテーションは、全て彼女のトレーナーの方針によるものだった。

 

サンキューのトレーナーにとって、彼女は初めての優秀なウマ娘であった。

それで私欲に囚われたのか、トレーナーとしての実績をあげる為に彼女を酷使していたのだった。

 

周囲から見れば明らかに異常であり、当時からそのトレーナーに対する疑問の視線は強かった。

またウマ娘の間では、サンキューにトレーナーを変えた方がいいと進言する者もいる程だった。

 

だがサンキューは、トレーナーの指示によるその異常なローテーションに文句一つ言わず従い続けた。

幸か不幸か、彼女は非常に従順かつ心優しいウマ娘だった。

夏場のレースも秋のクラシック前の2戦も懸命にレースを走り、そして好結果を残した。

サンキューには、酷使されてるという思いはなかった。

むしろ、トレーナーに大きな期待をかけられていると思っており、それに応える為に彼女は懸命に走り続けていたのだった。

 

しかし、秋のティアラクラシック最終戦のエリザベス女王杯の目前に、彼女にショックを与える事件が起きた。

 

これまでに挙げた実績からクラシック本番でも本命に挙げられるほどのサンキューだったが、酷使ともいえるローテーションからか、脚にかなり疲労が溜まっていた。

その為調整も中々うまくいかず、本番へ不安が大きな状況になっていた。

そうした中のある日、調整後に報道からの取材を受けた彼女は、脚や調整の不安から、本番に向けてあまり自信のない受け答えをした。

 

それはほんの『状態が良くない』程度の内容だった。

だが、その受け答えが某報道紙に『サンエイサンキュー、本番はやる気なし?』などと歪められた内容で載せられてしまった。

 

誤解を招かれる表現に、サンキューはその報道紙へ抗議した。

ところがその行動が今度は『サンキュー謝罪』などとまた事実と違う内容で載せられた。

流石のサンキューも不快に思い、以後その報道紙への取材を拒否することになった。

この騒動はその報道紙社内でも内紛を起こし、社会でも大きく取り上げられる事件となった。

 

だが本番レース前にそんな騒動に巻き込まれたサンキューの心身の不調は大きく、結果クラシック本番でも5着と不本意な結果に終わった。

 

このレース後、サンキューは脚部の不安や心身の疲労から、休養に入ろうと思っていた。

状態を知っているトレーナーなら当然それを認めてくれるとサンキューは思っていた。

 

しかしなんとトレーナーはそれを許さず、サンキューの意志も無視して、年末の有馬記念への出走を強引に決めつけてしまったのだった。

 

その決断を受けたサンキューは深く傷心した。

サンキューは、トレーナーは心の底では自分のことを思ってくれていると信じていた。

だが現実は、トレーナーはあくまでもサンキューを自らの実績を挙げる為の駒としか見ていなかったのだ。

 

傷心状態のまま、サンキューは有馬記念に出た。

そして最後の直線で、既にボロボロになっていた脚は限界を超えた。

 

 

 

「レース後、大変だったね。」

「うん。」

席に並んで座ったまま、ヘリオスとパーマーは当時を重たい気持ちで回想し続けていた。

有馬記念の開催自体はウイニングライブまで無事に終わった。

サンキューの故障以外にも色々と大波乱だった為、彼女の悲劇がレースに深刻な影を落とす状況ではなかったから。

 

だがレースの全てが終わった後、サンキューの故障が予後不良の重傷だということが判明した。

その悲報を受けた彼女の同期の親友達が怒りと悲しみのあまり、トレーナーや報道社に押しかける事態まで起きた。

 

「ティアラ仲間のニシノフラワーとかアドラーブルとかエルカーサリバーとか、恐ろしい程激昂してたね。」

「ライスやブルボンもそうだったわ。皆口々に叫んでた。“サンキューは殺されたも同然だ”って。」

「そうだったね。なんでこんなことになったのかって、生徒会にも押しかけて責任を追及してきたね。」

公にはなってないが、サンキューの悲劇の直後の学園内はかつてない程の険悪な空気が渦巻いていた。

“人間はウマ娘を道具だと思っているのか”

そんな疑問が全体に立ち込めだしていて、人間達と対決姿勢になりかけてた。

その後、トレーナーの解雇・報道社の謝罪などで事態の収拾は図られたものの、ウマ娘側の無念は容易に収まらなかった。

 

 

全てを収めたのは、犠牲となったサンエイサンキューの言葉だった。

彼女は悲しみに暮れる同胞達に、決して誰も恨まないでと願いを遺していたのだ。

 

「サンキューは、人間を恨んでなかった。ウマ娘と人間が共生していくことを最期まで願っていた。その想いが、最期の決断にもなった。」

 

公では、サンエイサンキューは安楽帰還したことになっている。

だが実際は違い、彼女は生き残っていた。

人間になる手術を受けて。

 

脚の怪我により予後不良となったウマ娘には、生き残れる最後の手段として人間になれる手術を受ける選択肢があった。

しかし記憶消去など含め厳しい拒否反応の条件があることもあり、それを選んだウマ娘はほぼ皆無だった。

だがサンキューはそれを選んだ。

何故なら…

 

「ウマ娘と人間の軋轢を食い止める為には、自分は帰還してはいけないと思ったから、だったね。」

「うん。サンキューはウマ娘と人間の未来のために、その選択を選んだ。生きてさえいれば、同胞の憎しみを食い止められるとね。」

 

結果、サンキューは人間になる手術を受け、ウマ娘界から存在を消した。

その隠された真実は、ウマ娘界の中枢の者のみが知る秘密だった。

 

 

人間になったサンエイサンキューは、新たに三永美久という人間として生きていくことになった。

ウマ娘時代の記憶が消去された彼女に対しては裏で学園が保護にあたり、やがて彼女を専属カメラマンとして学園に迎えいれた。

そのまま数年経ち、今日に至っていた。

 

 

「まさか、今になって記憶を取り戻すとはね。」

「全く予想してなかったね。」

ヘリオスとパーマーは深く嘆息した。

本来なら永遠に開くはずのない彼女の記憶の扉をこじ開けさせたのは、当時を思わせる険悪な空気が現実に充満しているからか。

それとも彼女とウマ娘時代から親友だったライスシャワーの帰還によるものか。

 

理由はどうでもいい、問題は今後だ。

「サンキュー、どう動くだろうね?」

「さあ…」

かつて人間によって絶望に追い込まれ、それでもなお人間を恨まずに祈りを遺した彼女が、今起きているこの現状を見てどう思っているのか、正直不安しかなかった。

 

 

 

*****

 

 

一方、生徒会室の、美久とマックイーン。

 

「今後、どうされるおつもりですか?」

記憶を取り戻した美久に、マックイーンは尋ねた。

「生徒会長のご希望は?」

「ありませんわ。あなたは特別です。」

マックイーンの瞳には冷徹な色が灯ったままだった。

「あなたが正体を公にして行動しようとも、我々はそれを止める権利はありません。あなたは元ウマ娘のサンエイサンキューとはいえ、今は人間の三永美久なのですから。」

 

「…。」

美久は、すぐには何も答えずしばし俯いていた。

 

そうしているうち、彼女の視線は机上に置かれている書類に向けられた。

「…これは?」

「後程予定している記者会見で我々が表明する内容ですわ。」

書類を手にとりその内容を見ている美久に、マックイーンは答えた。

「そうですか…」

パーマーと違い、美久はその内容を見ても特に表情を変えなかった。

 

「…恐ろしい内容ですね。」

やがて読み終えた美久は書類を置き、大きく息を吐いた。

「ウマ娘と人間の共生社会を根本から揺るがしかねない、そんな内容ですね。」

「反対されますか?」

「いえ。」

美久は首を振った。

「これは生徒会で決められることでしょうし、部外者の私が口を挟む権利はありません。それに、かつて犠牲になったウマ娘の一人として、反対でもありませんから。」

 

そう答えた後、美久はマックイーンを改めて見た。

「ただ一つ、メジロマックイーン先輩…いや、生徒会長にお願いがあります。」

「なんでしょうか?」

「サンエイサンキューとして、オフサイドトラップと会わせてください。」

 

「了解しましたわ。」

マックイーンはすぐにその要求を受け入れた。

「メジロ家の車を手配しますからそれでオフサイドのもとへ向かって下さい。ただ学園前では人目につきますので、別の場所で待機させときます。」

「ありがとうございます。」

礼を言い、美久は立ち上がった。

 

 

「三永…いや、サンエイサンキュー。」

生徒会室を去ろうとした美久に、マックイーンは最後に問いかけた。

「あなたは今、人間を恨んでいますか?」

 

「恨んでいません。」

マックイーンの問いかけに、美久ことサンエイサンキューは涙痕の残る目元を拭いながら静かに首を振った。

「私は信じています。人間とウマ娘が幸せを分かちあって共生出来る未来を。マックイーン先輩もそうでしょう?その未来の為に厳しい断行を下し、人間達と闘おうとされているのでは?」

「…。」

サンキューの言葉に、マックイーンは何も答えなかった。

 

サンキューはマックイーンに背を向け、最後に言った。

「闘いましょう。人間と、そして同胞と。閉ざされた未来への扉を開け放つ為に。」

 



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パンドラの箱(4)

 

美久が生徒会室を去った後、マックイーンはスマホを取り出し、パーマーに生徒会室に来るよう連絡した。

 

 

ヘリオスと共に別室にいたパーマーは、連絡を受けるとすぐに立ち上がった。

「生徒会室行くの?」

「うん。もうサンキューは去ったみたい。」

答えながら、パーマーは呼び出されたその理由を既に察していた。

サンキューが来訪した為に中断したが、例の記者会見の内容についてだろう。

 

「絶対、止めないといけないわ。」

「え?何を?」

「…。」

呟きを聞いて怪訝な顔を浮かべた盟友を見ず、パーマーは生徒会室へ向かった。

 

 

数分後、パーマーは生徒会室に再び現れた。

 

「中断してしまいましたが、」

マックイーンは、パーマーに先程の書類を再び差し出した。

「こちらを生徒会仲間達に渡して下さい。」

「分かったわ。」

パーマーは先程と違い、差し出されたそれをすんなりと受け取った。

「会見は16時からの予定ね。それまでに1度皆でここに集まるよね?」

「ええ、1時間前に一度召集します。その時、会見のことや今後について今一度確認作業を行いますわ。」

「了解。」

 

パーマーは頷きながら書類を懐にしまうと、つと尋ねた。

「さっき、サン…三永美久とはどんな話をしたの?」

「特に深刻な内容は話してませんわ。彼女は別次元の立ち位置ですから。ただ、サンエイサンキューはその書類の内容を否定しませんでしたわ。」

「え…これを見せたの?」

「…。」

 

パーマーは思わずマックイーンを睨みつけた。

マックイーンは何も言わずに目を逸らした。

「また後ほど会いましょう、パーマー。」

「ええ、マックイーン。」

パーマーは踵を返し、生徒会室を出ていった。

 

 

 

生徒会室を後にしたパーマーは、先程の一室でヘリオスと再会した。

そして彼女に、マックイーンから渡された書類を見せた。

 

「この内容は…」

生徒会モードのヘリオスの表情が、普段見せない翳りのあるものになっていた。

書類の内容を見るその眼も険しく光っていた。

 

 

『会見の内容は以下』

(1)今回の断行の理由について

(2)ウマ娘のレースの重要さについての説明

(3)オフサイドトラップの言動についての潔白の証明

(4)ウマ娘に対する理不尽な非難や中傷に対しての今後の対応姿勢

(5)どのような交渉を受けようとも断行は辞めないことの表明

 

ここまでは以前に生徒会でもマックイーンが話していたので予想していた。

だが問題はこの後だ。

 

(6)引退後、消息不明となった元生徒達の公表

(7)故障などで競走能力を失った生徒達の末路を公表

(8)学園を去るウマ娘達への救済措置の要求

 

このあたりでかなり深刻な内容になってるが、なおも続く。

 

(9)現実的にウマ娘が人間の経済種族として扱われていることの公表

(10)経済種族とする為に人間がウマ娘を洗脳教育してきたことの公表

(11)過去のウマ娘達の犠牲を人間が隠匿してきたことの公表

(12)ウマ娘が経済種族でない未来の為に、人間との新たな共生社会を作ることの要求

 

 

「これはまずい。いくらなんでも許容の範囲を超えてる。」

ヘリオスの声は険しさと戦慄が混ざっていた。

ウマ娘と人間の禁忌にまで触れるのはまずいよ。

ましてや、殆どのウマ娘も人間も知らないこの事実をいきなり公にするなんて。

 

 

ウマ娘と人間の歴史…

そう、生徒会のメンバーなどかつて学園の中枢を担ってきたウマ娘達や、ずっと昔からあるウマ娘の名家のみが、ウマ娘と人間の関係の秘密を知っていた。

現在のウマ娘は人間によって進化させられた『競走能力に長けた種族』だということを。

 

 

そこに至るまでは、人間とウマ娘が歩んできた長年に渡る歴史があった。

 

 

かつて遠い昔、ウマ娘という種族は滅びの危機に直面していた。

生態系の変化や文明の栄枯盛衰によってこの地球では無数の種族が誕生しては滅んできたが、ウマ娘もそのうちの一つになろうとしていた。

だが滅びる寸前のウマ娘達に、救いの手を差し伸べたのが人間だった。

 

人間は絶滅寸前のウマ娘を保護し、その種族の血を繋がせるように尽力した。

それにより、ウマ娘は滅びる寸前で持ち堪えた。

 

そのまましばらく、ウマ娘は人間に保護される年月が続いた。

ウマ娘は人間と非常に似ている生物であるものの、肉体的内面の構造や精神的構造は大きく異なる種族。

故に、人間とのトラブルも非常に多かった。

被害を受けるのは身体的強さで劣る人間の方が多かった。

それでも長年の保護によって、ウマ娘は少しずつ文明に順応し始め、やがて人間との共生をある程度可能にするまでになった。

 

 

「私達ウマ娘は、人間には返しても返しきれない恩がある。」

「うん。本来ならとっくにこの地球の歴史から消滅していた。それを救ってくれたのが人間だということは、永遠に忘れてはいけないことだわ。」

 

 

しかし、人間の無償の保護にも限界があった。

文明に徐々に順応し始めたウマ娘に対し、人間は自立を求め始めた。

そしてウマ娘の特徴である脚力に目をつけ、ウマ娘のレースを開催し経済面での自立をさせようとした。

 

しかし当時はまだ知能が低く意思疎通すら満足に出来ない状況下、それは困難なことだった。

何度も何度も試行錯誤したが上手くいかず、やがて経済面やその他の事情でウマ娘の保護は限界を迎えようとした。

 

その現状を打開する為に人間がとった最後の手段が、種族の中で優秀な者のみを保護し、明確に『走るために種族』として創りあげられることだった。

 

その結果、優秀なウマ娘は人間達によって調教・教育され、長い年月をかけてようやく人間とほぼ同等の知能と精神を備えるようになった。

そしてまた再び長い年月を経て、優秀なウマ娘の数が多くなった頃、ウマ娘によるレースが開催されるようになった。

現在から百年以上前のことだった。

 

その後、ウマ娘のレースは徐々に人間の注目を集め、トレセン学園の誕生などを経て、やがて巨大な人気を誇る異種族スポーツとなった。

 

 

「レースの成功によってウマ娘はある程度経済的に自立出来るようになった。また知能指数も高くなって、人間との共生が普通にこなせる者も多くなった。これだけ見れば、実に素晴らしい歴史だよ。」

ヘリオスはポツポツと言った。

高い実績を収めたウマ娘は社会的な知名度と共に大きな名誉も得るようになった。

それは人間の尽力がなければ決してあり得なかったことだし、人間がウマ娘に施した手段が間違ってなかったことの証明でもあった。

 

 

しかしウマ娘が社会的に大きな存在になるにつれ、負の部分も大きな問題として残っていた。

その一つが、これまでに何度も触れられてきた優れていないウマ娘達の問題。

 

その始まりは、優秀なウマ娘を保護した一方でそうでないウマ娘達への保護がなかった事から始まったし、そしてそれは現在でも続いている。

 

問題の根本にあるのは、未だウマ娘がレース以外の人間社会で共存出来ない点だった。

レースを引退した者など多くのウマ娘達が人間と同じ仕事に就いて共生を試みたが、超少数を除いて殆どが肉体、精神的な限界で失敗した。

これは種族的な限界なのでどうしようもないと言えるが、優秀でないウマ娘は経済的支援がないという状況下、非常に厳しい現実に直面していた。

それでもキョウエイボーガンのようにファンの尽力で保護されるウマ娘も僅かにいるが、そうでない者は帰還を余儀なくされることが殆どだった。

 

「ウマ娘は精神的に不安定になるとかなり危険なものになってしまう。社会を守る為にもそうせざるを得ない、とされてきた。」

「人間中心の社会を守る為にね。」

ヘリオスとパーマーの表情は曇っていた。

お互いレースを引退して5年以上経つが、現役時代の同期のその多くがもうこの世にいないであろうことを知っていた。

生死の問題である点、これは本来ならば社会的な大問題になってもおかしくない。

しかしそうならないのは、ウマ娘が帰還を受け入れているからだった。

 

正確には、優秀でないウマ娘は帰還もやむを得ないという教育を受けてきたから。

 

 

「『血統や走る能力に優れず実績のないウマ娘は存在価値がない』、そう心の奥底から意識するよう教育されてきたね。」

「うん、そうだった。」

パーマーもヘリオスも、過去の記憶を振り返っていた。

だから、デビュー時は殆ど期待されず血統も冴えなかった二人は必死にレースを闘ってきた。

栄光の為だけでなく、生き残る為に。

ヘリオスは過酷なローテを乗り越えて、パーマーは一時障害レースまで走った末に、栄光と未来を掴みとった。

 

「人間がウマ娘にそう教育した理由はなんとなく分かるよ。ウマ娘のレース自体が命懸けな面も大きい点、命に対する執着を持たせたくなかったのだろうし、それにレース発足当時はそれだけ必死だったんでしょ。ウマ娘という種族を未来に繋げる為に。」

「でも問題は、その点が教育が変わらなかったことだね。」

 

ウマ娘のレースが成功し規模が大きくなるにつれて、種族の保護はかなり安泰になった。

ただ規模が大きくなったことで、数や質の問題が出てきた。

 

「巨大スポーツとなった以上、レベルやレース数なども重視せざるを得なくなった。そしてその為に、ウマ娘を多く誕生させるようになった。」

ウマ娘の数はどんどん増えていった。

それと共にレベルもどんどん上がった。

しかしレベルが低いウマ娘も当然多くなった。

そのウマ娘達をどうするかという問題にあたった時、人間が選んだのはその教育の継承だった。

 

「初期からウマ娘がその教育を受け入れて、帰還に対する抵抗も見せなかったらしいからね。」

「ウマ娘は命に対する執着のない高潔な種族。そう思われたかもしれないわ。」

 

以後、その教育はずっと変わることなく今日まで継承されている。

 

そしてこの間、ウマ娘達もその教育に対し反発はせず、必要とされなくなったウマ娘が帰還に抵抗をみせることもなかった。

表面上は、だが。

 



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パンドラの箱(5)

 

「ヘリオスはさ、帰還に対してどう思ってる?」

パーマーが、つとヘリオスに尋ねた。

 

「うーん、どうだろうね。」

ヘリオスは椅子の上で膝を抱えた。

「私としては、自分が帰還することは少しも怖くないよ。あれだけ幸せな現役生活を送れたし、帰還したって皆私のことを忘れることはないと思うし。」

「同じだね。私もそうだよ。」

ヘリオスの言葉に、パーマーも頷いた。

「もう年齢的に生涯の折り返し地点にきたけど、もういつ帰還しても悔いはないわ。私はそれだけのものをこの世界に残せたし、幸せな記憶も数多く貰ったから。親友や相棒にも恵まれたし。」

「アハハ。」

 

「ふふ、でも、」

ヘリオスの笑いにパーマーも笑い返し、すぐにその笑みを消して続けた。

「それはあくまで、レースで実績を残せたからね。もし無実績のまま帰還を余儀なくされていたら、それを受け入れられたかどうか。」

「受け入れはするでしょ。」

ヘリオスはパーマーを見た。

パーマーはヘリオスを見ずに言葉を続けた。

「受け入れはしても、自分の心の底はごまかせないだろうけどね。」

 

「心の底…」

「帰還したくないって本心だよ。」

パーマーははっきりと言った。

胸中に重い痛みが走った。

先程マックイーンから見せられた、帰還した無名の同胞達の言葉の数々を思い返したから。

レースの栄光から程遠い場所では、帰還への恐怖と悲しみで満ち満ちていた…

 

 

「帰還すべきという教育が、ウマ娘という能力絶対種族の宿命からやむを得ないと受け入れているから、同胞達は本心を表さず一切の抵抗もしなかったんだろう。ただもしこれが、人間の方針によって植え付けられたものだと知ったらどうなるだろうか。」

「人間を恨むかもしれないね。例え人間によって救われた種族だったことを分かっていても。」

「私達生徒会にも矛先は向けられるだろうね。」

このことを周知していながら何の手も打たずに同胞の帰還を傍観してきたのだから、ひょっとすると人間に対するよりも大きな感情を抱くかもしれない。

それは当然受け入れなければならないけど。

 

どちらにせよ、ウマ娘と人間の共生社会に甚大な影響を与えることは間違いない。

「ただでさえ現状が不穏なのに、更にこれを公にするのはまずい。収拾がつかない事態になるだけだわ。」

いずれ明らかにしなければならないものではある。

しかし今やるのは得策でないと、ヘリオスは書類を返しながら言った。

 

「私もそう思うわ。まだこの内容を公にしてはいけないわ。」

書類を受け取りながらパーマーは頷いた。

第一、人間もウマ娘も同胞の帰還を見て見ぬふりをしてきたわけではなかった。

むしろ無実績のウマ娘でも生き残れる社会を実現させる為に裏で尽力してきた。

地方トレセンとの連携、レース路線の拡大、ウマ娘の安住の地の開拓、クラファンの創設、等。

それらにより少しずつではあるが、無実績でも帰還せずに済むウマ娘は年々増えていた。

遅々であるが確実にウマ娘の未来は拓けてきてはいるのだ。

マックイーンだってそれは分かっている筈なのに…

 

「でも、マックイーンが私達とはまるで違う感覚なんだろうね。」

ヘリオスがぽつりと呟いた。

「マックイーンはこの世界の負の部分を間近で見てきた。時にはその当事者にもなってたから。」

「…。」

パーマーは膝を抱えた。

ヘリオスもパーマーも決して平穏な経歴ではなかったが、マックイーンのそれは桁違いだということは感じていた。

プレクラスニー、ライスシャワーなど、マックイーンと深く関わったウマ娘達の悲劇を知っているから。

 

特にプレクラスニーの存在が、マックイーンを変えたのだろう。

二人とも、プレクラスニーの最期の瞬間とその時のマックイーンの姿を見ていた。

自らの過ちで絶望に叩き落としウマ生を狂わせ更にG1覇者でありながら存在価値がないと決めつけられた上安隠の時すら得られず不慮の事故で帰還した同胞の最期に対し、マックイーンがどれだけ大きな十字架を背負ってしまったか想像を絶する。

 

「徐々に世界が良くなっていたとしても、その間に消えていく同胞の列は長く続いてしまう。それを断ち切る為にマックイーンはこの内容を決断したんだろう。その思いは本当によく分かるわ。」

ヘリオスは痛切な口調で言い、それでも口元を引き締めた。

「だとしてもこれは阻止しよう。マックイーンは間違っている。心情は理解出来るけど、誤った行動はさせては駄目だ。ましてや彼女は生徒会長なのだから。」

 

そうはっきり言うと、ヘリオスはパーマーを見た。

「役員仲間達と連絡をとって、迅速に対策を立てよう。」

「うん。」

相棒の同意を得たパーマーは頷くと、すぐにスマホを取り出し、役員達に通知を送った。

 

 

その後、教室を出たヘリオスと一パーマーは一旦別れた。

 

 

ヘリオスと別れた後、パーマーは廊下で、同じメジロ家の某ウマ娘と連絡をとっていた。

「もしもし、…ええ、どうかお願いです。マックイーンはもう限界です。…今、彼女が提案した内容の通知を送りますので、返事を待ってます。」

連絡をとった後、パーマーは書類の内容を連絡先の主に通知にして送った。

 

その後、連絡先から電話がかかった。

「…ご覧になりましたか?はい、勿論反対です。ただ私だけでは厳しいので…生徒会は関係ないです。どうかマックイーンを助けて欲しい、その一心です。…ああ、宜しいですか、ありがとうございます。」

 

連絡を終えると、パーマーはスマホをポケットにしまい、ふうと一息吐いた。

…私も相当悪どいウマ娘だな。

胸中、かなり残酷なことをしようとしてる自覚があった。

 

でもいい、些細な感情で手段を選んでいる状況じゃない。

私が今やるべきことは、マックイーンの暴走を止めること。

その為ならば誰だろうと、例え家族を傷つけることになろうとも、手段を尽くさねば。

「ふっ…」

口元に手をあて咳払いしたパーマーの蒼い瞳が、一瞬不気味な程冷酷に光った。

 

 

 

 

一方、生徒会室。

 

「…もしもし、椎菜医師ですか?先程送った記者会見の内容の書類は…もう読まれましたか。ご承知頂けましたか?…はい、同意ありがとうございます。施設の方…そうですわね、記者会見後療養ウマ娘達が行動を起こしかねない…そこは総力を持って対応を願います。…ええ、沖埜トレーナー、スペシャルウィーク、ダンツシアトル、フジヤマケンザン、ホッカイルソーらと共に。あとヤマニングローバル、マイシンザンもそちらに…ええ、岡田トレーナーが派遣して下さるそうです。では…また学園で。」

 

療養施設に電話をかけていたマックイーンはそれを終えると、会長席から立ち上がった。

 

サンエイサンキューも渡辺椎菜医師も反対しませんでしたわね。

冷徹な翠眼を光らせて窓の外を見ながら、マックイーンはそこに安堵していた。

やはりこの世界の最果てを見てきた者は、同じ感覚のようですわね。

「ここで踏み出さなければ、決して未来は得られないでしょう。」

窓の外に眼をやりながらマックイーンは呟いた。

 

ピリリリリ。

スマホが鳴った。

見ると、通知が2件来ていた。

一つはこの後会う予定の某先輩ウマ娘から。

 

もう一つは…

その通知相手を見た時、マックイーンの翠眼が僅かに揺らいだ。

 

パーマー、あなたの差し金ですか…

一瞬、スマホを握るマックイーンの手に険しい筋が浮かび上がった。

 

 

時刻は12時近くになろうとしていた。

 



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パンドラの箱(6)

 

*****

 

 

場は変わり、療養施設。

 

マックイーンとの電話を終えた椎菜は、学園に向かう支度をしていた。

この日の医務は後輩の医師達に任せることにしていた。

 

支度を終えた椎菜は医師仲間達に挨拶した後、沖埜と会った。

「留守中の間、施設を宜しくお願いします。」

療養ウマ娘の精神状態が非常な危機の寸前にある現在、沖埜の存在は非常に重要だった。

「ええ、こちらは私達がなんとか支えます。渡辺先生もお気をつけて。」

「はい、では。」

沖埜の言葉に椎菜は頷き、施設を後にした。

 

施設の外にはメジロ家の車両が待っていた。

椎菜はそれに乗り込み、学園へと向かった。

 

 

遂にこの時が来たか…

学園へ向かう道中、椎菜は車窓から遠ざかっていく高原の景色を眺めていた。

まだ30歳過ぎの彼女だが、ウマ娘専門医師としての経歴は既に10年余りの歳月を重ねていた。

そしてその歳月の全てが、ウマ娘の命と濃く関わりあっていた。

 

 

椎菜はウマ娘と関わりの深い家庭に生まれた。

その為幼少期からウマ娘を取り巻く問題のことを多く知っていた。

自然と、その問題を解決しウマ娘達を幸せにしたいという夢を抱くようになった。

そして志したのがウマ娘専門医師だった。

 

しかし、ウマ娘専門医師となった椎菜が直面したのは、どうしようもない現実の連続だった。

特に〈クッケン炎〉という死神のような故障の恐ろしさは彼女の想像を超えていた。

その病に冒されたウマ娘達が絶望のどん底に突き落とされ、次々と心折れ全てを諦めていく。

その現実に椎菜は戦慄し、そしてそんなウマ娘を救い出す為に〈クッケン炎〉の治療に尽力すると決めた。

 

それ以後は、心折れそうな事の連続だった。

どのような治療を施そうとも〈クッケン炎=死神〉という不治の病の牙城は固かった。

椎菜が日々眼にしたのは、治療の痛苦に悲鳴をあげるウマ娘達、治療に疲弊し衰弱していくウマ娘、そして心折れゆくウマ娘達。

治療を乗り越えたウマ娘は数十分の一にも満たなかった。

そしてその数十分のですら、満足に走れずレースを去る者と〈死神〉再発で再び戻ってくる者が多かった。

 

〈死神〉を乗り越えてレースで輝いた者はどれくらいいただろう。

椎菜はふと指折り数えた。

メジロライアン、カリブソング、ダンツシアトル、そして今回のオフサイドトラップ…

そのぐらいしかいなかった。

 

それでも、例えレースで輝けなくても、復帰出来なくても、引退後の余生を無事送れたのなら幸せだ。

しかし、それに恵まれたウマ娘も果たしてどれくらいいただろう。

椎菜の脳裏に浮かんだウマ娘は数少なかった。

浮かぶのは、追い詰められて帰還を選択するウマ娘の姿と、その執行をする自分の姿ばかりだ。

 

帰還執行の場に初めて立ち会ったのは、医師になって数ヶ月程経った頃。

先輩医師が執行するのを傍らで補佐した。

淡々と無感情で執行する先輩医師と、悲しみを押し殺してそれを受けるウマ娘。

そして、事切れて冷たくなったウマ娘の遺体。

この世界の負の部分を初めて目の当たりにしたその時の衝撃は永遠に消えないくらい脳裏に焼き付けられた。

椎菜はショックのあまり医師を辞めることも一時は考えた。

でもウマ娘を幸せにするという夢を思い出し、この現実と闘わなければと自分を奮い立たせた。

 

 

それから十数年。

前述のように、その夢は過酷な現実の前に泡沫の夢のまま。

椎菜が救えたウマ娘より、彼女の手によって帰還させたウマ娘の数の方が遥かに多かった。

帰還執行を行える医師は椎菜以外にもいるが、彼女は自ら希望してそれを数多く執行してきた。

それは彼女のウマ娘に対する懺悔であり、救えなかったウマ娘のことを絶対に忘れない為でもあった。

 

200人以上か…

椎菜は自分の手によって帰還したウマ娘の数を数えていた。

その一人一人の記憶が椎菜の脳裏に焼き付いてる。

殆どが〈クッケン炎〉などの不治の病に冒されたウマ娘だった。

病室仲間で支えあいながら闘病していた3人組。

親友以上の仲にあった先輩後輩。

闘病を共にしたチーム仲間。

〈死神〉と恐れられる病に対し、気丈に抗っていた彼女達が徐々に心折れ、あの地下室での終焉を受け入れていく様は忘れようたって忘れることなど出来ない。

 

「…。」

椎菜は持参していた鞄から一冊のノートを取り出した。

そのノートには、自身が帰還執行に初めて立ち会った時以後に最期を迎えたウマ娘達の記録が記されていた。

オフサイドトラップと同じく椎菜もそれを書き残していたのだ。

 

ノートを捲りながら、椎菜はそこに記された何人かのウマ娘の最期を思い返した。

あるウマ娘は最期まで無言のまま帰還した。

あるウマ娘は親友への謝罪を口にしながら逝った。

あるウマ娘は執行を受けてから還りたくないと泣きながら力尽きた。

 

そしてまた、あるウマ娘は最期の最期で自分の胸を掴んで問いかけてきた。

『私はいらないウマ娘だったの⁉︎』と。

…いらないウマ娘なんて一人もいない。

問いかけたウマ娘に椎菜はそう返したかった。

でも答えられなかった。

無言で、その眼を見つめ返すことしか出来なかった。

そのウマ娘は、自分の胸ぐらを掴んだまま生を終えた。

終えた直後、自分の胸を離れた彼女の腕が落ちた鈍い音は未だ耳に残っていた。

 

椎菜はノートを閉じ鞄にしまうと、目元に指を当て眼を瞑った。

ウマ娘達の悲しみの声とそれを目の当たりにしてきた自分の思いはこれまでずっと封印してきた。

でも、今となっては出さなければいけない。

ウマ娘達が負の部分を公にする決意を固めた。

ならばその負の中心にいる自分も表に出なければならなかった。

 

無論、自分とウマ娘は立場が違う。

恐らく表に出たことで、自分は人間・ウマ娘双方から責めを受けることになるだろう。

構うものか。

自分の手でウマ娘を救うことが出来なかった自分は責められて当然だ。

それでも、自分にしか届けられない声は届けなければ。

 

椎菜は再び鞄を取り、中から一枚の書類を出した。

それは今朝マックイーンから渡された、記者会見の内容が記された書類。

内容の凄まじさには流石に驚いたが、椎菜は反対しなかった。

 

…ライスシャワー、これでいいんだよね?

書類を見ながら、椎菜の脳裏に昨晩旅立った祝福のウマ娘の姿が浮かんだ。

誰よりもウマ娘の幸福を願い、人間との共生を夢見ていたウマ娘。

絶望的な現状に何度も直面しながら最期まで逃げなかったウマ娘。

彼女は命尽きるまで闘い続けた。

闘うことの意味をライスは証明した。

だから、私も闘う。

閉ざされた世界の扉をこじ開ける為に。

 

そしてその結果、叶うならば、今誰よりも救われて欲しいウマ娘・オフサイドトラップに、自分の思いが届いて欲しい…

 

車窓から外の風景を眺めながら、椎菜はそう祈っていた。

 

 



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歴史の証人者達(1)

 

*****

 

 

場は、再びトレセン学園。

 

学園の一室に、マックイーン以外の学園にいる生徒会役員5人全員が集まっていた。

集まった理由は前述のマックイーンが決めた会見の内容についてのもの。

急を要する件であるので業務は一旦他の学園関係者に任せ、彼女達は集まっていた。

 

集合すると、パーマーとヘリオスは例の書類をルビー・ゼファー・トップガンの三人に見せた。

 

「これは驚きましたね。」

「マックイーン会長…ここまでしますか。」

「…。」

書類を見せられた三人は、後半部分の内容にいずれも驚きの表情を見せていた。

「この書類はブルボン・ビワにも見せたのですか?」

「うん、二人にも通知で送ったわ。」

ルビーの問いかけにパーマーは答えた後、三人に尋ねた。

「この内容をこのまま会見で行っていいのか、皆の賛否を聞かせて欲しい。」

「パーマー先輩とヘリオス先輩はどっちなの?」

「二人とも否です。公していい内容ではないと判断しました。」

ゼファーの問いに生徒会モードのヘリオスは即座に答えた。

 

「私も、これはまずいと思います。」

一番先に、内容を見て動揺している様子のトップガンが答えた。

「私達のような立場の者は認識している事柄とはいえ、世間ではこれを知る者はごく僅かです。その中でいきなりこれを突きつけるのは劇薬です。決して得策とは思えません。」

「私もトップガンと同じです。」

トップガンに続いて、ゼファーも同意した。

「(1)〜(5)はともかく、(6)〜の後半以降は内容の過激さもそうですが、この内容自体が今回の事とずれています。あくまで我々の断行は先の天皇賞・秋に関する事案であり、ウマ娘の尊厳や余生の保障に関しては別の事だと思うからです。やるならばまず今回の件が終わった後にやるべきでしょう。正直、やや私情が加入している感が拭えません。」

ゼファーらしい淡々とした意見と共に反対した。

 

「ゼファーもトップガンも反対ですね。副会長はどう思いますか?」

二人の意見を聞いた後、ヘリオスは黙ったままずっと書類を見続けているルビーに尋ねた。

「…私は、」

ルビーは書類を置き、宝石のように美しい眼をヘリオスに向けて冷静な口調で答えた。

「(9)以降については判断難しいですが、(1)〜(8)までの内容については賛成です。」

 

「…!」

「…。」

他の三人はやや意外な様子でルビーを見た一方、ヘリオスはやっぱりかという表情でやや瞳を伏せた。

 

様々な反応を見せた役員仲間を見渡しながら、ルビーはその理由を説明した。

「ゼファーは関係ないと指摘されてましたが、私から見れば今回の事と充分関連する内容だと思います。天皇賞・秋においてのオフサイドトラップの走りや言動、その根幹にあるのがこのウマ娘界の負の部分だと思っているからです。今回の件が終わった後にやるべき内容とも考えられはしますが、現状世間の耳目がウマ娘界に多くの注目を集めている点、今行うのがこの問題を解決する為にも効果的だと思います。」

 

「いや、それはおかしいです、副会長。」

自身の意見を否定されたゼファーが反論した。

「効果的といってもそれはただ衝撃が大きいだけです。こういった重大な事柄に対しては慎重に順序を踏んで解決への方策を練っていくべきです。いきなり衝撃を与えるのは混乱を招く可能性が大で、ただの気分や勢いに左右される結末になりかねません。それでは何の解決にもならないでしょう。」

 

「私達のように平穏な余生の中にいるウマ娘にとっては、確かにそう思うのが自然でしょうね。」

眼を蒼く光らせたゼファーの反論に対し、ルビーは淡々と返した。

「ですが、この内容はそのような私達の為ではなく、今生死の狭間で闘い続けているウマ娘の為のものです。はっきり言えば、この事柄の公表が1日遅れるだけで一人のウマ娘の余生が失われると考えていいでしょう。」

ルビーはそう言うと役員達を見回し、更に続けた。

「この事柄はこれまで公表出来る機会がなかった。また公表しようとしても阻止されるか、或いは世間に黙殺されてきた。しかし今は、先も言った通り世間の注目が我々に集まっている。この機会を逃してはいけないでしょう。なので私は、生徒会長の決断を支持します。」

 

賛意を表明したルビーの言葉に、反対の役員達は沈黙した。

だが、

「それでも、私は反対です。」

ゼファーが、彼女にしては珍しくやや熱くなった様子で口を開いた。

「この事柄の公表が遅れたらその分同胞達の命が失われていく。それが現実だとしても、未来への最善策の為ならば止むを得ないと思います。」

「ゼファー先輩…」

口調に反して冷徹なゼファーの言葉に、傍らのトップガンが愕然とした。

 

ゼファーは生徒会仲間達を見渡しながら、更に言葉を続けた。

「同胞の不幸の責任を前にしながら、それに動じず最善の道程を辿るのが、この生徒会の責務であると思います。現に、少しずつではありますが長年の成果を経てウマ娘の余生の問題は解決への道を辿ってきています。問題が解決する未来もそう遠くない筈です。にも関わらずこのような劇薬を公に投じるのはいたずらに世間・人間側の反発や同胞の混乱を招き、これまで積み重ねてきた道程が水の泡になりかねません。その危険性についてはどう考えられているでしょうか?」

 

「勿論、危険性は承知しています。」

ゼファーの言葉にルビーは頷いた。

「ただでさえ重大な事柄であるのに、世間の目が我々に厳しい現状での公表。一歩間違えればより多くの同胞を受ける筈ない不幸に落としてしまう可能性すらあるのですから。」

「ならば、やめるべきでしょう。天皇賞・秋の事柄でもウマ娘界の正念場といえる内容なのにこの事柄まで加えたら、我々とはいえ持ち堪えられません。…ウマ娘生を懸けて事態にあたる覚悟は当然ありますが、納得出来ない闘いまでは出来ません!」

ゼファーは叫ぶように言った。

普段飄々としている彼女の表情に汗が滲み出ていた。

 

「…。」

ルビーは黙った。

ゼファーも汗を拭い、同じく沈黙した。

他の役員達も黙りこくり、室内には沈黙が流れた。

 

 

重い沈黙の中、不意にパーマーのスマホから通知音が鳴った。

見てみると、療養施設にいるブルボンからの通知だった。

「…。」

その内容を見たパーマーはやや驚きの表情を浮かべた。

 

「どうしたの?」

「…。」

ヘリオスの問いかけに答える代わり、パーマーは皆に言った。

「今、ブルボンからこの件に関しての返答が来たわ。ブルボンは(1)〜(8)までに賛成で、それ以降は中立だって。」

 

「ブルボンが?」

室内の全員が意外な表情を浮かべた。

マックイーンの補佐と言っていい立場であるブルボンとはいえ、まさかこのことに大方賛成するとは誰も思わなかったらしい。

少なくとも中立だと思っていたが。

「理由に関しても送られてきてるわ。」

パーマーは通知の内容を皆に伝えた。

 

『賛成の理由は、療養施設のウマ娘達の絶望が危険領域に入っているからです。もしこのままオフサイドトラップが帰還してしまった場合、療養ウマ娘達の絶望は爆発するでしょう。その後にこの事柄を公にしても阻止には間に合わないと思います。先に公表することが、危険であるとはいえ療養ウマ娘達の絶望の歯止めになるかも知れません。そしてオフサイドトラップの決意にも影響を与えると思います。終わってからの尽力より、終わる前から尽力すべきと判断しました。』

 

「…。」

伝え終わると、パーマーは小さく吐息した。

「療養施設、相当切迫しているようですね。」

トップガンも吐息しながら言った。

オフサイド、スズカ、そしてライスの件の影響をもろに受けている現場の深刻さはおよそ想像がついた。

沖埜トレーナーに加えてブルボン、更にはダンツシアトル、フジヤマケンザン、そして派遣されたらしい元『ファアマン』メンバーらによってなんとか支えているらしいが、持ち堪えられるかはかなり困難に思えた。

「ここは、耐え切れるよう祈るしかないです。」

ヘリオスがぽつりと口を開いた。

 

「しかし、ブルボンとルビーが賛成ですか。生徒会も意見が割れたようですね。」

少々想定外の事態になったとヘリオスは思った。

ルビーの賛成はある程度予想してたけど、まさかブルボンまでとは。

これでは会見の前に生徒会の分裂という最悪の事態になってしまう。

でも、マックイーンもルビーもブルボンも意見は曲げないだろうな。

「ビワからは返答はあった?」

「ビワからも今来たわ。彼女は中立だって。」

「そう…」

数字では反対多数とはいえ、美久や椎菜の賛意も受けてるマックイーンの決定を翻せる程ではないな。

かといってここで議論を続けても平行線だ。

もう時間もあまりないがどうしよう…

 

 

「時間もないけど、一旦解散しよう。」

ヘリオスが苦悩していると、傍らのパーマーが口を開いた。

「また後で集まって、そこで再度諸君の意見を聞く。それまでに各々考えを固めといて欲しい。」

 



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歴史の証人者達(2)

 

パーマーの言葉で、場は一旦解散となった。

 

ルビーは部屋を出て行き、ヘリオスも後を追うように出ていった。

他の三人は室内に残った。

 

 

部屋を出ていったルビーは、そのまま校舎も出て、学園の裏庭の奥へと向かっていた。

彼女の後を追ったヘリオスも同じ方向へ向かった。

 

 

やがて二人は、裏庭の奥にある敷地、かつてレースで散っていったウマ娘の名が刻まれている石碑の前に着いた。

 

ヘリオスは石碑の前に立つルビーから少し後方で立ち止まり、彼女の様子を見守った。

石碑を見つめるルビーの指が当てられているのは、ケイエスミラクルの名前が刻まれた箇所だったから。

 

「ルビー…いや、副会長。」

立ち止まったまま、ヘリオスは彼女の背に声をかけた。

いつもの想いが籠った口調ではなく、生徒会モードの乾いた口調で。

「何故、生徒会長の案に賛成したのか、その真意を教えて頂けますか。」

前述のようにヘリオスはルビーの賛成を予想していが、それをそのまま肯定する気は全くなく、彼女の賛意を変える為に改めて尋ねた。

 

「真意…そうですね、」

ルビーは背を向けたまま、指でミラクルの字をなぞりながら、宝石を散りばめたような美しい声で答えた。

「長年ウマ娘界を彩った名族の末裔として、旧時代を精算し未来への希望を繋ぐ義務を果たそうと思っている、が真意でしょうか。」

 

「なるほど。」

一面の冬の青空の下、寒風で口元に靡いた横髪を払いながらヘリオスは言った。

「先程、ハギノ家の方とお話しされていたようですが、その際に改めて覚悟を決めたようですね。」

「仰る通りです。」

 

先程、ルビーは事の関係者が接触を図ったというハギノ家に連絡をとり、事態について話し合っていた。

ハギノ家はルビーの実家で、通称『華麗なる一族』と呼ばれるウマ娘の名族。

そこにはルビーの生みの母である元スターウマ娘のハギノトップレディもいた。

 

「お話ししたお相手はトップレディお母様でした。一族を無視は出来ませんが、私は生徒会副会長の職にある以上学園を第一に考えなければなりません。その決意を改めてお母様に伝えました。」

「それで、ハギノトップレディ先輩はどうお答えに?」

「『ルビーが信じた心に沿ってやりなさい。それが我が“華麗なる一族“の、誇りであり使命です。』と、言葉を頂きました。」

 

「一族の誇り…」

「ええ。…最後の誇りですわ。」

感慨が詰まった口調で言いながら、ルビーは石碑から指を離し、澄み渡った冬空を仰いだ。

 

かつてウマ娘界屈指の名族として名を轟かせた『華麗なる一族』であるものの、近年は急激な時代の変化を受け大きく衰退しており、もうその歴史的使命を終える日が間近に迫っていることが明らかだった。

 

「もし今回の件で人間側に妥協すればまだ繋がりうるかもしれませんが、そんな醜態は晒したくありません。散る時は儚くも美しく。それでこそ我が一族ですわ。」

ルビーは冬空を仰いだまま、ふっと白く吐息した。

 

「もしかすると、生徒会長も同じことを考えているのかもしれませんわ。メジロの歴史の終焉が近いということを。」

ルビーは、マックイーンの心境を思い遣るように言った。

数十年に渡ってウマ娘界のレースを彩ってきたメジロ家も、時代の変化により徐々にその歴史の終焉が近づいている現実があった。

「だから、旧時代の責任として負の歴史に終止符を打とうとしているのだと思います。この点は、私とマックイーンが共通する思いでしょう。」

 

「…。」

ヘリオスはルビーから眼を逸らした。

私だって同じだわ。

吹きつける寒風に靡く髪に触れながら胸の内で言った。

メジロ家や華麗なる一族程ではないが、ヘリオスのダイタク家もウマ娘界ではそれなりの名族だ。

しかしやはり時代の変化により、彼女の一族も未来への存続はかなり厳しくなってきていた。

 

だが、ヘリオスは一族の誇りなどはあまり考えていない。

散り際の美しさも考えていない。

終わる時は静かに終わるだけ、それまでは自分のウマ娘としての義務を淡々と果たすだけだと考えていた。

 

でも、この点を議論しても意味がない…

 

ヘリオスはふっと息を吐くと、再びルビーを見つめた。

「あなたの考えはよく分かったわ、ルビー。でも、どうしても分からないことがある。」

「なんですか。」

「あなたがあの内容の(9)〜(12)にも反対しなかったことです。ウマ娘と人間の種族間にあるパンドラの箱をこじ開けることに、むしろ暗黙に賛成した。その理由は何?」

 

 

「…。」

ヘリオスの尋ねに、ルビーはゆっくりと視線を下すと眼を瞑った。瞑ったまま静かに口を開いた。

「まさか、その理由をあなたは分かっていないのですか。」

「え…」

「ウマ娘にも、人間と同じように愛し合える権利が欲しいからですわ。ダイタクヘリオス。」

 

ルビーの閉じていた眼が開かれた。

ティアラウマ娘の彼女の瞳は、ヘリオスの瞳と心を貫くように見つめていた。

 

 

 

 

一方、学園内の一室に残ったパーマーとゼファーとトップガン。

三人は室内で話し合いを続けていた。

 

「ゼファーは(6)以降の項目には断として反対なのね?」

「ええ、さっきも言ったように内容が過激な上本題とずれていますから。学園側の方針が乱れるようなことがあってはなりません。」

ゼファーは考えを断固として変えない姿勢を示していた。

「私も(1)〜(5)までで充分だと思います。というよりそれだけでも非常に大変ですし、それ以上は内容以前に作業的に難しいと思います。」

トップガンも先程と同じく同意した。

「今すぐにでも生徒会長とかけあって、この案を撤回させるべきだと思います。」

 

「すぐに撤回させるのは厳しいわ。」

二人の対応にパーマーは書類を握りながら答えた。

マックイーンだけでなくルビーやブルボンが賛成しているのだ。

その二人もまた、賛意を容易に変えそうにない。

「だから今は、(6)以降に代わる案を練るべきと思う。」

 

「代案ですか。」

「うん。生徒会長達も納得しそうな内容のね。その作業はしといた方がいい。ゼファー、トップガン、出来るかしら?」

「お任せ下さい。」

生徒会の中でも堅実な実務能力に長けた二人はすぐに頷いた。

「パーマー先輩はどうされるのですか?」

「私はこのことを生徒会長に伝えてくるわ。そして撤回するようかけあって来る。」

「大丈夫ですか?」

「手は打ってある。やれるだけのことはやってみるわ。」

 

 

そう答えた時、パーマーのスマホに通知が来た。

内容は、来訪者が間もなく学園に到着するという連絡だった。

 

「随分早いですね…。」

パーマーも、ゼファーもトップガンもやや表情が緊張していた。

先程パーマーがマックイーンに伝えたように、ある偉大な先輩ウマ娘が事態についてマックイーンと話し合う為に訪れることは、生徒会全員知っていた。

「私が迎えに出てくるわ。ゼファーとトップガンは作業に取り掛かって下さい。」

そう頼むと、パーマーは部屋を出ていった。

 

 

パーマーはそのまま、学園の裏口の校舎玄関前に向かった。

 

裏口の入り口付近には相変わらず報道関係者が多くひしめいていたがそこまでは行かず、パーマーは校舎玄関前で来訪者を待つ為待機した。

 

 

やがて、一台の車両が学園裏口から入ってきた。

あれは…

眼をこらすと、それはメジロ家の車両だった。

偶然被ったわね。

ちょっと困ったなとパーマーは思った。

 

入ってきたメジロ家の車両が学園の校舎玄関前に停まると、車内からパーマーより数歳上に見える雰囲気の暗いウマ娘が降りてきた。

 

「お久しぶりです。」

パーマーはそのウマ娘の前に来ると頭を下げて挨拶した。

「久しぶりね、パーマー。」

「まさか来てくれるなんて思いませんでした。感謝します。」

「マックイーンとはもう連絡はついてるわ。あなたも来るの?」

「私は別に重要な役目があるので後ほど。」

「そう。」

 

数言挨拶を交わした後、来訪したウマ娘は校舎内に入って行き、パーマーは玄関前に残った。

 

本当に来てくれるとは…

玄関前に待機しながら、パーマーは先程訪れたウマ娘のことを思った。

彼女もメジロ家の一人で、一族の歴史にとっても大きな足跡を残したウマ娘だ。

だが、彼女の現役生活やその引退後は、残した足跡と比して決して恵まれたものではなかった。

その影響で、現在彼女は隠遁に近い生活を送っていた。

 

もう表に出る気などは全くないのではと憂慮してたけど…

胸の内で、パーマーは彼女に謝していた。

 

 

そして、メジロのウマ娘が訪れた数分後。

 

再び一台の高級車両が、学園裏口から入ってきた。

偉大な来訪者だな…

パーマーは瞬時に分かり、思わず背筋に力が入った。

 

車両が玄関前に到着すると、一人のウマ娘が使用人と共に降りてきた。

足腰が衰えているのか車椅子に乗っており、かなりの高齢と思われるウマ娘。

だが彼女の容貌は遥か昔の現役時代と変わらない美しさだった。

むしろ年季を伴った為か、現役時代よりも一層研がれたような美しさを帯びてみえた。

 

「お迎えしておりました。」

神々しいばかりの美しさにあてられ、パーマーは思わず深々と挨拶した。

「…。」

そのウマ娘はにっこりと無言の微笑で返した。

その微笑も、現役時代と変わらない魅力を帯びていた。

やっぱり途轍もない方だ…

初めて彼女と会ったパーマーは、まるでスターウマ娘を初めて目の当たりした幼女のような動悸を覚えた。

 

その後、パーマーは使用人と共に、訪れた先輩ウマ娘を学園内の一室に案内した。

室内に案内後、パーマーは現在マックイーンは別の来客の対応中だということを先輩ウマ娘に伝えた。

 

「急遽の用事が入った影響でお待たせさせることになって申し訳ありません。」

「構いません。こちらの方こそ突然の来訪ですから。」

先輩ウマ娘は笑顔で答えた。

美声も現役時代と変わってなかった。

 

「あなたはメジロパーマーですね?」

一室で待機している間、ふと先輩ウマ娘は緊張している様子のパーマーに声をかけた。

「は、はい。」

「やはりそうでしたか。覚えてますよ、6年前の宝塚記念と有馬記念における、あなたの見事な逃げ切り勝ちを。」

「え、観ていて下さったんですか。」

「それは勿論ですよ。後輩ウマ娘達の活躍する姿を見るのが私の楽しみですから。」

そう答えると、先輩ウマ娘は再び笑った。

 

気さくに話しかけられたことで、パーマーの緊張も大分解れてきた。

「…あの、」

緊張が解けたパーマーは、思い切って口を開いた。

「我々生徒会は、シンボリルドルフ先輩かニッポーテイオー先輩などから話を受けると予測していたのです。ですがまさか、先輩が直々に訪れるとは思いもしませんでした。」

 

パーマーの言葉に対し、先輩ウマ娘は頷きながらゆっくり答えた。

「今回の事態については、ルドルフやニッポーら他の元生徒達とも内々に相談していました。全員の考えもまとまったのでそれを現生徒会に伝えると決め、その役目を私がさせてもらうことにしたのです。」

「先輩が自ら希望を?」

「ええ。その役目は私が適任だと思ったので。かつてウマ娘と人間の大きな転換期を直に経験した身ですから。」

 

そう言うと、先輩ウマ娘は視線を虚空に向けた。

遥か昔の現役時代の記憶を思い返すように。

 



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歴史の証人者達(3)

 

*****

 

一方。

先に校舎に入ったメジロのウマ娘は、一人マックイーンの待つ生徒会室へと向かった。

 

生徒会室の前に着くと、軽く扉をノックした。

コンコン。

「どうぞ。」

「…。」

マックイーンの返事が聞こえると、彼女は無言で扉を開けて室内に入った。

 

マックイーンは、生徒会長席の前に立って彼女を待っていた。

「お久しぶりですわ、デュレン姉様。」

「5年ぶりかしら、マックイーン。」

恭しく頭を下げたマックイーンに対し、メジロデュレンは暗い瞳をじっと妹に注いでいた。

 

 

メジロデュレン。

彼女はマックイーンの姉であり、現役時代には大レースの菊花賞と有馬記念を制した大きな実績を持つウマ娘。

メジロ家にとってはクラシック&グランプリを初めて制したウマ娘でもあった。

 

しかしその栄光は、実績程大きく讃えられなかった。

何故なら、そのいずれのレースでも悲劇が起きていたから。

 

デュレンが制した菊花賞。

彼女は前評価は高くなかったものの、レース本番では1番人気のラグビーボールやダービーウマ娘のダイナガリバーなど同期の強豪を激戦の末僅差で下して優勝した。

内容も見事で、全く疑問を挟む余地のない見事な優勝だった。

しかしレース中、彼女とは全く関係のないところである悲劇が起きていた。

 

レース中盤に、4番人気で出走したサニーライトが他走者と接触し故障、競走を中止するアクシデントがあった。

その故障は想像以上に重く、サニーは不幸にも予後不良となった。

それだけでなく、サニーの故障の原因となった接触は他走者のラフプレーだったのではという声も上がり、それぞれのチームが衝突する騒動にまで発展した。

その騒動はレースそのものに深い影を落とし、デュレンの制した菊花賞はやがて〈サニーライト事件の菊花賞〉と称されるようにまでなってしまった。

 

 

更に、その翌年のこと。

菊花賞制覇後、故障もあり不振が続いていたデュレンは、年末の有馬記念に出走した。

そして、10番人気という低評価を覆し優勝を果たした。

低人気だったとはいえ、ゴール手前で前を走る走者をごぼう抜きにしての勝利はこれまた見事なものだった。

 

しかしこの有馬記念もまた、ウマ娘史上最大の悲劇の一つとして語られるサクラスターオーの故障・競走中止というアクシデントがレース中に起きていた。

彼女の壮絶な悲劇を前にして、デュレンの栄光は再び閉ざされざるを得なかった

 

その後、デュレンは勝つことが出来ないまま引退した。

最後のレースとなった有馬記念では絶好の手応えでスパートをかけた瞬間に他走者の妨害を受けての敗戦と、最後までデュレンにはアクシデントがつきまとった。

 

引退後もデュレンは不遇だった。

次世代のウマ娘を輩出する仕事もうまくいかず早々と辞めさせられた。

2度G1を優勝した名誉も評価されないまま、やがてメジロとしての名誉はマックイーン、ライアン・パーマーらに全て塗り替えられ、やがてデュレン彼女の栄光は時代の彼方に忘れ去られた。

 

失意の中、デュレンは早期にメジロの本家を去り、隠遁同然の生活を送っていた。

 

 

デュレンとマックイーンは前述のように姉妹。

だがマックイーンの幼少期こそそれなりに親しい関係にあったが、マックイーンがトレセンに入学しレースで活躍を始めて以降は疎遠になり、デュレンがメジロ本家を去って以後は姉妹であるにも関わらずほぼ音信不通となっていた。

今回会ったのが、およそ5年ぶりだった。

 

 

マックイーンとデュレンは、室内のソファに真向かいに座った。

「姉様がここに来たのは、パーマーの差金でしょうか。」

「そうよ。」

差し出されたコーヒーを受け取りながらデュレンは答えた。

「パーマーは以前から、あなたのことを色々と私に伝えて来たからね。」

デュレンはメジロ家で親しい者も少ないが、唯一似た境遇を持つパーマーのみとはそれなりに連絡を取り合っていた。

「私はもう学園やメジロ家には関わりたくないと思ってたけどね。あまりにもパーマーが望むものだから、あなたに会いに来たってわけよ。」

 

「望む…私の行動を制止させるようパーマーが望んだのですか。」

「アハハ、彼女はそんな望み方しないわ。」

デュレンは頬を僅かに綻ばせた。

「あの子は、姉として妹を助けて欲しいって望んだのよ。」

「助ける…フフ、パーマーらしいですわね。」

「私がメジロの一員として家族の為に動くと思ったのかなあ、あの子は。」

デュレンは邪っ気の全くないパーマーの姿を思い浮かべた。

「私が今更そんな愛情を持ってるわけないのにね。妹であるあなたにすら愛情なんて湧かないのに。むしろどちらかといえば逆かもしれないのに。パーマーも安易に考えたわね。」

 

「…。」

マックイーンは眼を逸らし、コーヒーを飲んだ。

「デュレン姉様、その推測はパーマーを舐め過ぎですわ。」

「え?」

「パーマーも生徒会の一員ですわ。彼女はむしろ私より非情な面があります。」

 

「どうして?」

表情をやや顰めたデュレンに対し、マックイーンは明瞭には答えず淡々と尋ねた。

「多分、デュレン姉様は私が人間側に突きつける要求の内容もパーマーから伝えられているのでしょう?」

「ええ、見させられたわ。あなたも随分なことやると思ったよ。興味ないけど。」

「では、私が姉様も意識してこの要求を突きつけたということも言われたのでは?」

「流石に鋭いね、その通りよ。最もあなたの断行の理由はプレクラスニーが大半だろうけど。」

「…。」

その名を出され、マックイーンは再び黙った。

 

「でもねマックイーン、」

黙った妹に、姉は淡々と続けた。

「あなたは私のことも不憫に思ってこの行動を起こしているのかもしれないけど、私にとっては余計なことかな。さっきも言ったけど、私はもうウマ娘界もその未来もどうだっていい。あとは帰還するその日まで大人しく生き切りたい。それが最大の願いだから。」

 

そう言うと、デュレンは立ち上がった。

「もうお帰りですか。」

まだ会ってから10分も経ってない。

「私はそれを伝える為にあなたに会いに来ただけだから。」

 

デュレンはコートを羽織ると、マックイーンを改めて見つめた。

「じゃあねマックイーン。ウマ娘界の未来の為にやりたいことをやりなさい。もう2度と会うことないと思うわ。さよなら。」

そう最後に言うと、デュレンはマックイーンに背を向けた。

 

 

「…デュレン姉様。」

去りかけた姉に、妹は語りかけた。

「11年前の有馬記念で、レースを守ったデュレン姉様のあの激走を、私は決して忘れはしませんわ。」

「…。」

デュレンは何も答えず、生徒会室を出ていった。

 

本当に残酷ね、パーマーは。

去っていった姉の姿を見送った後、マックイーンは唇を噛んだ。

噛み締めながら、その残酷な家族に連絡をとった。

「パーマーですか?…ええ、こちらの要件は終わりました。客人を生徒会室にご案内下さい。」

 

 

***

 

 

場は変わり、パーマーと客人の先輩ウマ娘が待機している学園の一室。

 

パーマーからの連絡を受けたパーマーは、すぐに先輩ウマ娘と共に部屋を出て生徒会室へと向かった。

先輩ウマ娘はかなりの高齢なのでかなりゆっくりの移動となったが。

 

やがて生徒会室に着くと、パーマーは先輩ウマ娘を室内に案内し自分は場を引き払った。

 

 

そしてすぐにスマホを取り出し、デュレンに連絡をとった。

 

『今、デュレンさんはどちらにいますか?」

『屋上にいるわ』

すぐに返信がきた。

 

ごめん、デュレンさん。

他者からは想像も出来ない冷酷な心を胸中に渦巻かせて、パーマーはその痛みを感じながら屋上への階段を駆け上がっていった。

 

 

 

***

 

 

 

一方、生徒会室で客人の先輩ウマ娘を迎えいれたマックイーンは、すぐに彼女をソファに案内し、向かいあって座った。

 

「お会いできて光栄です、メジロマックイーン生徒会長。」

「何を仰るのですか。」

先輩ウマ娘の言葉に、マックイーンは冷徹な翠眼を珍しくやや緊張させて言葉を返した。

「私こそ、あなたのような伝説のウマ娘とお会い出来たことが光栄ですわ。ハイセイコー先輩。」

 

マックイーンの言葉に、ハイセイコーは無言で微笑した。

時代を魅了したその鹿毛の姿は、長い歳月を経た今もなお美しく映えていた。

 



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歴史の証人者達(4)

 

ハイセイコー。

彼女は20年以上前に現役生活を送ったウマ娘。

そして、ウマ娘の歴史において燦然と輝く大巨星の一人。

 

ハイセイコーは中央トレセン学園ではなく、地方のトレセン学園でデビューした。

デビュー後は無敗のまま圧倒的な強さで連戦連勝を重ね、やがてその強さは中央トレセン学園の耳にも入り、2年生の初春に彼女は中央トレセンへと移籍した。

クラシック前のウマ娘が地方から中央に移ることは珍しく、この移籍は『地方の稀代の怪物がエリート集団の中央に参戦』と大々的に報道された。

そういったことから世間一般からも大きく注目されるようになり、ハイセイコーは一躍時のウマ娘となった。

 

クラシックが近づくとその注目度と人気は更に大きくなり、ハイセイコーの中央デビュー戦となった弥生賞では当時としては異例の12万人を超える大観衆が詰めかけた。

その桁違いの注目の中、ハイセイコーは噂に違わぬ強さで勝利を収めた。

これにより彼女は一層の注目と人気を集めることになり、やがてそれは『ハイセイコーブーム』と呼ばれる程の社会現象にまで発展していった。

 

 

「あなた程のウマ娘から伝説と讃えられるとは嬉しいです。」

「伝説としか讃えようがありませんわ。強さだけでなく、あなたの走りは観る者全ての心を掴んだのですから。それ程の領域に到達出来たのはあなたとオグリキャップ先輩だけですわ。それに加え、あなたは時代までをも背負って走った。伝説でなくてなんでしょう。」

謙遜する大巨星に、真女王は賛辞を続けた。

 

ハイセイコーの中央通算成績は16戦7勝。

制した大レースは皐月賞と宝塚記念の二冠のみに終わった。

実績だけで見れば歴史上そこまで傑出したものでもなく、後に彼女以来のウマ娘ブームを巻き起こしたオグリキャップや最強王者として長年君臨したマックイーンと比べると明らかに劣る。

それでもハイセイコーが比類ない伝説と讃えられるのは、マックイーンの言ったように、彼女の走る姿、闘う姿が全ての人々の心を掴んだから。

 

怪物に違わぬ強さで中央入り後も連勝を重ね、皐月賞も制したハイセイコーは『三冠確定』『史上最強のウマ娘』と呼ばれる程の大きな評価と熱狂的な人気が集まった。

ダービー前哨戦のNHK杯ではかなり苦しい展開から驚異的な粘り勝ちをするとその熱狂ぶりは頂点に達し、ダービー本番では史上最高の支持率を受ける程にまでなっていた。

 

だが、そのダービーでハイセイコーは遂に敗れた。

それも、勝ったタケホープから大きく引き離されての3着敗戦。

その敗北は世間に大きな衝撃を与えた。

 

更に、ダービーでの初敗北後、ハイセイコーはそれまでの無敗ぶりが嘘のように負けが続いた。

怪物伝説は急激に冷め、彼女の人気は一気に陰っていくかと思われた。

 

だが現実は、むしろ負け出して以後、彼女の人気は更に高くなっていった。

 

 

「普通に考えればあり得ませんわ。ブームとは熱しやすく冷めやすいもの。しかしあなたは真逆でした。」

 

 

初敗北以後、何度も期待を裏切り負けを繰り返したハイセイコー。

彼女の強さへの評価は『史上最強』から『周囲が創り上げた偶像』と呼ばれるまでに堕ちた。

当然、ブームも終焉しておかしくない筈だった。

 

しかしその後、熱狂的なブームから覚めたファン達が見たのは、堕ちた偶像ハイセイコーではなく、過去の栄光を捨てて必死にレースを闘い続けるハイセイコーの姿だった。

その彼女の姿は、熱狂的なブームの頃とは違う新たな夢を人々の心に湧き上がらせた。

 

そしていつしか、ハイセイコーは『史上最強のウマ娘』から『史上最高のアイドルウマ娘』へと変わっていった。

かつては彼女の活躍を陰で快く思ってなかった者達ですら、徐々にその闘う姿に惹かれ、彼女に声援を送るようになっていた。

 

 

その後、ハイセイコーはタケホープやタニノチカラなどの宿敵達と幾度も激闘を繰り広げ、やがて静かに引退していった。

社会現象とも言えるハイセイコーの人気は引退まで続いた。

その社会現象は彼女に留まらず、ウマ娘界の社会的向上や大衆的人気向上にも大きな影響を与え、ハイセイコー以前・以後と分けられる程の歴史の大きな転換期となった。

その功績が讃えられ、彼女は殿堂ウマ娘にも選出された。

 

 

当時から25年あまり経った今もなお、彼女の活躍と功績は大きな伝説として語り継がれている。

 

 

「私の功績ではないのですよ。私を見捨てなかったファンの皆様の功績です。」

称賛を続けるマックイーンに、ハイセイコーは穏やかな微笑と共に答えた。

 

当時のハイセイコー自身にとって、あの熱狂的な人気や評価は全て重荷だった。

自分の能力が誇張されて世に発信された結果つくられてしまった人気だと、ブーム当初から感じていた。

だけどその期待を裏切るわけにもいかず、必死にレースを走り、勝利し、期待に応え続けた。

 

だけど熱狂が頂点に達したダービーで遂に敗北した時、ハイセイコーは全てが終わってしまったと思った。

全ての人々の夢も希望も壊してしまったのだと。

 

「ですが、ファンの皆様は私を見捨てませんでした。もう一度、夢を見せてくれると信じてくれました。」

 

ハイセイコーは、その期待に応えようと必死に走った。

走って走って、走り続けた。

当時の主な大レースは彼女にとって不適正の長距離が多かった。

更に長距離得意の強力なライバルがいたこと、重なった疲労も相まって、結果は中々出せなかった。

それでも、ハイセイコーは全てのレースで全力で走り続けた。

それが、自分を見捨てずにいてくれた人々への最大限の感謝の証だったから。

 

「私はただひたすら感謝の為に走り続けただけです。最後の最後まで。」

「でもそれが、ウマ娘と人間の新たな歴史の扉を開きましたわ。」

 

前述のように、ハイセイコーの人気によって起きた社会現象は、ウマ娘と人間の距離を大きく近づけた。

単にレースと勝敗だけが重視されたレースに華やかさも取り入れられ、勝負服やウイニングライブなどが誕生するきっかけとなった。

またハイセイコーブームによって他のウマ娘やレースにも自然と注目が集まるようになり、全体の人気も大きく上がった。

そして有志のファン達がウマ娘達の余生を援助するという事例も多くなり、引退後のウマ娘達にも大きな影響を与えた。

その全てはハイセイコーの人気がきっかけとなってもたらされたものであり、まさに歴史の大きな転換期だった。

 

「あなたの功績はウマ娘史上最も大きく、最も重要なものの一つと言っても過言ではありませんわ。」

マックイーンは心の底から敬意を表する口調で言った。

前述のようにレースでの実績ならばマックイーンの方が上だ。

しかし絶対にマックイーンが超えられないものをハイセイコーは持っていた。

神に選ばれ、そして神の期待に応えた。

それがハイセイコーというウマ娘なのだと、マックイーンは思っていた。

 

 

 

…だけど。

ふっと、マックイーンは言葉を止め、眼を伏せた。

私は今、その偉大な功績を全て水泡にさせてしまうかもしれない行動をしようとしてる…

そのことが胸をよぎり、眼を伏せたマックイーンの唇から小さく吐息が漏れた。

 

その吐息を見て、ハイセイコーも空気を察した。

 

「要件に入りましょうか、マックイーン生徒会長。」

「ええ。」

ハイセイコーの促しに、マックイーンも面を上げて頷いた。

 

 

 

「まず、あの天皇賞・秋後のあなた方のご苦労に対し労いを申し上げます。」

車椅子にゆったりと腰掛けたまま、ハイセイコーは心からの思いを込めて言った。

ハイセイコーはとうに表舞台から去った身であるものの、ウマ娘界の動向は高齢になった現在もなお外部から見守り続けていた。

なので今回の騒動についても常に動向を注視していた。

「一時は収まったかと思いましたが、そんな安易に終結する問題ではなかったのですね。」

「ええ、今回の騒動はウマ娘界の負の部分を根こそぎ呼び覚ましましたから。」

「よく分かります。」

ハイセイコーはしみじみと頷いた。

 

「とはいえ、まさか生徒会がここまでの断行を執行するとは想定以上でした。」

断行直前、ハイセイコーら主な元生徒達は学園からその内容とそれに対して静観を要求する通知を受けていた。

内容が内容である為そのまま従うことはせず、主な元生徒達はそれぞれ連絡を取り合い、学園の要求に対する今後の対応について相談を重ねていた。

 

「グリーングラス、アンバーシャダイ、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ニッポーテイオー、オグリキャップなど。彼女達と話し合った末、全員の意見はまとまりました。」

「…どのようにまとまりましたか?」

流石のマックイーンも、冷徹な表情をやや硬らせて次の言葉を待った。

 

ハイセイコーは、マックイーンを見つめ静かに言った。

「我々元生徒は、今回の断行においては学園側を支持します。」

 

「ありがとうございます。」

微かに安堵の息を洩らしながら、マックイーンは表情を変えず、静かに頭を下げた。

 

「ただ、」

頭を下げたマックイーンに、ハイセイコーは言葉を続けた。

「もし今度の断行により学園が危機的状況に陥った際は、この私もなんらかの責任をとるという条件付きでまとまりました。」

「…。」

マックイーンは顔を上げた。

ハイセイコーの表情は、澄み切った微笑の中に霜のような厳しさを滲ませていた。

 

「どうやら、先輩方の間でも意見は割れたようですわね。」

「その通りです。行き過ぎた行為だとして止めるべきだという意見もありました。」

敏感に察したマックイーンに、ハイセイコーは眼を瞑りながら答えた。

老体にやや疲労を感じているような口調に聞こえた。

「ですが、最終的には前述のようにまとまりました。なので、我々の介入の方は心配せずに行動下さい。」

自身が責任を取る理由は明かさず、ハイセイコーはそう言った。

 

 

車椅子上でゆったりと眼を瞑ったままの伝説ウマ娘と、その前のソファで両膝に手を組んで黙念と座っている現生徒会長。

二人の間にやや重い沈黙が流れた。

 

 

「ハイセイコー先輩、」

やがてマックイーンは沈黙を破り、例の書類をハイセイコーに差し出した。

「この後会見で我々が行う内容です。何かご意見あれば頂けますか。」

 

「…?」

ハイセイコーは眼を開けて書類を受け取り、それを読んだ。

「…」

読んでいる彼女の表情がやや揺らいで見えた。

 

だがハイセイコーは何も言わずに最後まで読み切ると、書類を返した。

 

「メジロマックイーン、」

書類を返した後、ハイセイコーは冷徹な表情のままのマックイーンを、祖母のような温和な瞳で見つめて言った。

「あなたは現生徒会長として、自分の信じたことを貫き通しなさい。激流のような時代の転換期には、それが何より重要ですから。」

 

 

「…。」

ハイセイコーの言葉に、マックイーンは噛み締めるように数秒眼を瞑った後、尋ねた。

「25年前のあの事件の時、先輩方もそうだったのですか。」

 

「25年前…」

マックイーンの言葉に、ハイセイコーは一瞬眼を光らせた。

「あの事件とは、ハマノパレード先輩の悲劇のことですか?」

「ええ、あの出来事は、現在の騒動とどこか状況が似てると思いまして…」

 

「…。」

ハイセイコーはすぐには答えず、目を瞑って当時のことを思い出した。

前述(138話参照)したハマノパレード事件は、世間が彼女のブームで熱狂していた時期と同時期に起きていた。

あの、ウマ娘界を大きく揺るがした歴史的大事件…

 

「…確かに似てますね。」

眼を瞑って回想しながら、ハイセイコーは静かに口を開いた。

状況や内容は異なるが、空前のウマ娘人気の中で起きた事件という点では、25年前と今回は確かに共通していた。

 

「あの事件の時は、スピードシンボリ生徒会長、タケシバオー副会長、ヒカルタカイ先輩やトウメイ先輩などが生徒会の時代でした。事件自体は噂のようなものから始まりましたが、学園側はこれをかつてない大きな問題として捉えました。そしてメイヂヒカリ先輩、ハクチカラ先輩、コダマ先輩、シンザン先輩など偉大な元生徒達の支持も受け、事態の徹底究明を断行しました。…かつてないブームと人気で世間の耳目がウマ娘界に注目されている真っ只中で、最大の負の問題の一つを公然にした、まさに恐ろしい覚悟を伴った決断でした。」

言いながら一瞬、ハイセイコーの身体が慄えた。

 

「でも、当時の生徒会の決断は正しかったです。もしウマ娘人気に配慮して断行を躊躇してたら、何も解決しないままより多くの悲劇が続いていましたから。」

 

「…そう、ですか。」

「最も、当然すんなりと解決した訳ではありません。一時はウマ娘界も崩壊寸前までいきました。」

今や当時を知る数少ないウマ娘であるハイセイコーは、慄えを堪えるように両膝上で手と手を強く結んでいた。

 

ハマノパレードの事件を公にしたことにより、安楽帰還問題、過去の帰還ウマ娘問題、更にはレース問題などまで次々と噴出し、ウマ娘界はそのあり方を強く問われる事態になった。

絶頂だったウマ娘の人気も大きく揺らぎ、学園の存続すら危惧された。

 

「それら全てを乗り越えた末、一つの大きな解決に繋げることは出来ました。でも一歩間違えればどうなっていたか…それを思うだけでも肌が粟立ちます。」

 

ハイセイコーは手元に視線を落とし、それから再びマックイーンを見た。

「今回あなた方が行う断行は25年前以上に重大なものでしょう。危険性も無論桁違い。それでもそれを行う確かな理由と信念が学園側、つまりあなた方にはあると感じました。なので、私はあなた方を支持します。もし結果が凶となってしまった場合は、先程言ったようにこの私も責任をとる覚悟です。」

ウマ娘界の大巨星かつ最古参である者としての責任をと、ハイセイコーは暗に言った。

「…。」

自らの覚悟を現した伝説の先輩に、マックイーンは何も言葉を返せなかった。

 

 

「お話は以上です。」

無言のマックイーンにハイセイコーはそう言うと、張り詰めていた表情をふっと崩した。

「マックイーン、祈っています。あなた方がこの闘いを乗り越えて、ウマ娘界の新たな未来への扉を開くことを。」

 

遥か歳下の後輩を労わるような優しい微笑を見せながらそう言うと、車椅子に乗ったハイセイコーは生徒会室を去っていった。

 



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歴史の証人者達(5)

 

*****

 

一方その頃、学園の屋上。

学園の競走場が一望出来る柵の前に、デュレンとパーマーが並んで立っていた。

 

デュレンは柵に手をかけながら、パーマーに先程マックイーンと会った時の内容を伝えていた。

 

「言いたいことは全部言ってきたよ。私なんか意識しなくていいこともね。これであなたの望みは果たせたかしら?」

「…。」

素っ気ないデュレンの言葉に、パーマーは柵にもたれた姿勢で視線を合わさず答えなかった。

「望み通りじゃなかったようね。でももう諦めて。」

デュレンは慰めるようにパーマーの肩に手を置いた。

「こんな切迫詰まった状況下で、私に出来ることなんて何もないことは明白だったんだからさ。ましてや、マックイーンの決意を変えることなんて。」

 

「それは、本心ですか。」

パーマーは柵から背を離して、デュレンを見つめた。

「本心って…事実を述べただけよ。」

デュレンはパーマーの肩から手を離し、冬空に視線をやった。

「身近な存在のあなたですら厳しいのに、姉妹とはいえ長年疎遠の関係にある私が変えられる訳ないじゃない。ましてや私はもう表舞台から去ったウマ娘なのに。」

 

「そう分かっているのなら、何故マックイーンに会いに来たんですか?」

パーマーの視線が、かなりきつい色に光っていた。

「…呼んだのはあなたでしょ。あなたがあまりに望むから、仕方なく来ただけよ。」

「そうは思えませんね。本当はデュレンさんもマックイーンの暴走を止めたくてここに来たのでしょう?マックイーンとのやりとりからして、そう思えますが。」

「私はただマックイーンを突き放しただけだけど。」

「それはデュレンさんの葛藤もあるからでしょう。」

「葛藤?」

「名誉も勲しも全て塗り替えた妹に対する劣等感というべきでしょうか。」

 

「やめて。」

デュレンはパーマーを睨んだが、パーマーはその肺腑を抉るように言葉を続けた。

「お気持ちは分かります。私も同じような経験しましたから。でも言わせて頂ければ、この状況でそんな感情ほど無意味で下らないものはありません。」

 

「パーマー!私が…」

「あなたはマックイーンの姉です。」

思わず声を上げたデュレンを、パーマーはかつて見せたことない冷徹な表情で見据えた。

「あなたが今後どのような余生を送ろうが勝手です。ですが今は、メジロ家の一員として、マックイーンの姉として、その義務を果たして貰います。」

 

「…無理だわ。」

デュレンは苦悶する様に頭を抱えた。

「私はあなたと違い、レースでメジロに本当の歓喜と栄光をもたらすことが出来なかった。次世代の輩出も碌に出来なかった。あげく名誉も勲しも全てマックイーンに奪われた。…虚しさと悔しさばかりが募って、世を捨てたも同然の歪んだウマ娘だわ。そんな私に、何が出来るというの。」

デュレンの脳裏に、マックイーンと再会した時のことがよぎった。

彼女と会った時、本当はかけたい言葉が沢山あった。

でもそれも出来ず、もう自分のことは忘れろってことだけ言って、別れるしかなかった。

 

「それは、デュレンさんが見つけることです。」

苦悶する家族に、パーマーは冷然と言い放った。

「私達家族でも踏み込めない、血を分け合った姉妹にしかない絆がある筈です。そこに、マックイーンを救う術を探して下さい。」

「パーマー…」

「私からはこれ以上なんのアドバイスも出来ません。どうかマックイーンの為に、ウマ娘生を懸ける覚悟でお願いします。」

最後に頭を下げてそう言うと、パーマーはデュレンの元を離れていった。

 

 

パーマーが屋上から出ると、丁度マックイーンからハイセイコーとの話合いが終わったとの連絡があった。

そのまま、彼女はハイセイコーを迎えに生徒会室へと向かった。

 

生徒会室でハイセイコーを迎えると、ハイセイコーはすぐに帰路にはつこうとせず、屋上に行きたいと要望した。

まだデュレンがいると思ったが構わないと判断し、パーマーはハイセイコーを屋上に案内した。

 

屋上に着くと、パーマーはハイセイコーのことは付き添っていた使用人に任せて、自分は屋上外で待機した。

 

 

待機している間、パーマーの脳中は現状への解決策に苦慮していた。

 

まさかマックイーンの案に、ルビーとブルボンが賛同するとは…

生徒会の半分が賛同した以上、それを止めるのは難しいだろうな。

もはや断行は止められないだろうということは覚悟せざるを得なかった。

でも、断行したらマックイーンは、確実に自らも破滅へと向かうことになってしまうだろう。

メジロの家族として、それは絶対に阻まなければならない。

だから私は、デュレンさんを引きずり出した。

 

前述のように以前からパーマーはデュレンにマックイーンのことを伝え続け、彼女の協力を得ようとしていた。

既に隠遁生活を送っている彼女はもう表に出る気は全くないことを見越しながら、それでも引きずり出そうとした。

まだデュレンの心には妹を想う気持ちが残っていると信じたから。

そして、表に引きずり出して、半ば強引にマックイーンと会わせた。

会わせさえすれば何かは起きる、何かが変わる。

この際手段は構っていられなかった。

 

恐らくマックイーンと会ったデュレンの本心は、驚きと悲しみ、そして自己嫌悪に満たされているのだろう。

でも彼女の心中を労わる余裕なんてない。

だから、パーマーはデュレンに冷酷な言葉をぶつけた。

『メジロの一員として、マックイーンの姉妹として、その義務を果たせてもらう』と。

 

自分がひどいことをしている自覚はある。

陽気快活な姉貴分と自分を慕っている後輩達がこの私の行動を知ったら幻滅するだろう。

でも、こうするしかないんだ。

罪悪感と自己嫌悪が込み上げる胸中を、パーマーは唇を噛んで押し殺した。

マックイーンを救う為ならなんだってやってやる。

亡きライスシャワーにもそう誓ったんだ。

 

パーマーの脳裏は、今後起こりうるであろう状況の予測と、それに伴うマックイーンへの危機への対応で渦巻いていた。

 

 

 

 

場は変わり、学園の裏庭。

 

「そろそろ、もう一度集まりましょうか。」

石碑の前でヘリオスと会話していたルビーは腕時計を見て言った。

「…。」

ヘリオスは彼女らしくないやや俯いた表情で、無言で頷いた。

「行きましょう、ヘリオス。」

ルビーは美しい声と共に、腕をヘリオスに差し出した。

だがヘリオスをその腕を握り返さず、ルビーから眼を逸らして言った。

「私はもう少しここにいるわ。招集がかかったらいく。」

「そう。」

ヘリオスのヘリオスを聞くとルビーはやや切ない表情になり、腕を戻すと一人静かに石碑の前を去り、校舎へと戻っていった。

 

「…ケイエスミラクル、」

一人残ったヘリオスは、冷たい風に横髪を靡かせながら、彼女らしくない悲しい眼で石碑に刻まれている亡きライバルの名を見つめた。

「私、どうすればいいのかな?」

 

“ウマ娘にも、人間と同じように愛し合える権利を”。

ルビーの言った言葉が、ヘリオスの胸に強烈に突き刺さっていた。

 

 

ウマ娘には『授け種』のウマ娘と『産み種』(ティアラ)のウマ娘という、人間でいえば性別といえる区別がある。

だが、人間と違いウマ娘に結婚はない。

授け種のウマ娘と産み種のティアラウマ娘同士が愛しあっていたとしても、例え引退後であっても結婚は出来ない現実があった。

 

何故なら、ウマ娘は引退後も次世代のウマ娘を輩出する役目がある為、個々の愛情は不要とされてきたからだ。

 

次世代のウマ娘の輩出。

それは露骨にいえば、自らの能力を継いだ子孫をつくること。

特に優秀な成績を残したウマ娘や或いはその血を受け継いだウマ娘には、より多くの次世代を残すことが使命とされていた。

授け種ウマ娘は多いものは相当な数の子孫を授け、また産み種ティアラウマ娘はそれぞれ別の授け種ウマ娘の子を数多く産むこともあった。

人間ならば絶対にあり得ないことだが、優れた競走能力を未来に繋げていくことが大きな使命であるウマ娘には、そのような現実が行われていた。

 

このことに関しては、ウマ娘達も血統や能力の重要性をよく分かっているので受け入れていた。

 

しかし一方で、愛し合う者同士が結ばれない現実も、ウマ娘達を苦悩させていた。

現に、この生徒会にもその苦悩を抱く者がいた。

 

お互いその想いをずっと秘めていたものの、ダイイチルビーもダイタクヘリオスもお互いに特別な感情を抱いていた。

その想いを表さなかった理由は前述のケイエスミラクルの悲劇の影響が大きいからであるが、例え表したとしても結婚は無論、二人によって次世代のウマ娘を輩出することも無理な為であった。

ルビーもヘリオスもレースにおいては共に歴史に残る程の実績を挙げたウマ娘だが、致命的に差のある点が一つあった。

それは血統。

ルビーは『華麗なる一族』の一人として複数の傑出した血を継いだウマ娘であるのに対し、ヘリオスはそれほど優れた血統をもつウマ娘ではなかった。

その血統の格差により、二人から次世代のウマ娘が誕生することは許されなかった。

より優秀なウマ娘を残していく為にはそれも当然のことであると、ルビーもヘリオスも受け入れざるを得なかった。

 

 

もしミラクルが生きてたとしても、ルビーと結ばれる未来はなかっただろうな…

亡きライバルの名に指をあてながら、ヘリオスは思った。

ミラクルもまた、そこまで血統が優れたウマ娘ではなかったから。

ウマ娘が結ばれない現実。

愛よりも能力が重要な現実。

命の問題ではないものの、これもまたウマ娘界における問題の一つだった。

 

ルビーは、このことをずっと考えていたんだね…

マックイーンの案に賛意を表明した彼女の姿を、ヘリオスは思った。

私はこのことについてはもう諦めていたけど、ルビーはまだ諦めていなかったんだ…

先程、自分を見つめてそう言ったルビーの眼差しが、ヘリオスの胸に痛みを感じさせた。

暗にルビーは、ヘリオスへの愛を示していたのが分かったから。

決して結ばれることが許されない運命を変えたいという切実な想いも、彼女の眼差しからは感じとれた。

 

「ダイイチルビー…」

ヘリオスは苦しそうに胸の辺りを掴み締めた。

ヘリオス自身だって、ルビーのことをこの世界の誰よりも愛していた。

前述のようにミラクルの悲劇以後その想いは封印してきたけど、ルビーへの愛が消えることは全くなかった。

『華麗なる一族』の令嬢として生きる彼女を、最愛のウマ娘を亡くした悲しみに暮れる彼女を、トレセン学園生徒会副会長という重圧と闘う彼女を、ヘリオスはずっと支えてきた。

成就しない愛だと分かっていても、愛するウマ娘が幸せになる為ならばと尽力してきた。

そのウマ娘が、自分の愛を受け入れてくれた。

そしてその愛が成就する為に、大きな決断と行動を起こそうとしてくれている。

 

でも。

「間違っているよ、ルビー。」

ヘリオスは胸に手を当てたまま、苦しそうに呟いた。

ルビーの想いは、胸が張り裂けそうな程分かっている。

だけどこんなやり方では駄目なんだ。

自分達の愛を成就させる為にウマ娘界を大きく混乱させてしまうような行動をすることは許されない。

私達生徒会がするべきことは、ウマ娘界がより良い未来を迎える為に、例えゆっくりでも着実に確かに課題を解決していくことだ。

私達の愛は報われなくとも、未来の同胞達のそれが報われるようになる為に…

 

「うっ…」

思わずヘリオスの胸に悲しい想いが込み上げてきた。

彼女はしゃがみこんで口元を抑えた。

 

苦悶しながら、ヘリオスは自身の胸の内でとなえた。

自分が為すべきことは、感情に左右されず、生徒会役員としての義務を尽くすこと。

今後想定される展開においても、必ずそれを遂行するんだと。

 

やがてヘリオスは立ち上がり、目元を拭いながら冬空を仰いで大きく深呼吸すると、石碑のライバルの名を見つめた。

「ミラクル。私、ルビーを傷つけてしまうかもしれない。…許して。」

意を決したようにそう言うと、ヘリオスは石碑の前を去り、校舎へと戻っていった。

 

 

 

 

それから少し時間は経った後、ハイセイコーとデュレンは学園を後にした。

 

二人を見送った後、パーマーは生徒会メンバー達に、再び一室に集まるよう連絡した。

 



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歴史の証人者達(6)

*****

 

会見数時間前。

マックイーン以外の生徒会メンバーは、再び一室に集まった。

学園にいないビワとブルボンもリモートで会議に参加していた。

 

全員が集合すると、まずパーマーが口を開いた。

「マックイーンの出した案について再度賛否を取ります。ウマ娘界の今後を大きく左右する事案であるので、それぞれ理由付きで賛否を表明して下さい。」

先程集合した時と違い、パーマーの雰囲気は氷山のように険しくなっていた。

いや彼女だけでなく、他のメンバーも皆雰囲気が段違いに張り詰めていた。

まさにウマ娘界が大きな岐路に立たされているという空気が室内に充満していた。

 

「まず、私から表明します。」

最年少のトップガンが一番先に手を挙げた。

「先程も述べた通り、生徒会長の案には反対です。考えてみましたがやはりあの案は、特に後半部分は危険性が高いです。それにゼファー先輩も述べていましたが、今は天皇賞・秋の件の解決に尽力すべきであり、他の事案を絡めることはいたずらに事態の混乱を招くだけだと思います。」

 

「トップガンと同意見です。」

トップガンが意思表明を終えると、すぐにぜファーが手を挙げた。

「現在の最優先事項は天皇賞・秋の件です。この件だけでもまだ先行きが決して明確でない難題です。元々生徒会もこの件だけを中心に対策を練ってきました。それなのに突然他の難題まで組み入れることは無理があります。副会長やブルボンはその正当性を述べていましたが、いずれもそれらは希望的観測だけで現実的リスクを顧みない思考だと思います。どうしてもやるべきだと思うならばそれは天皇賞・秋の件が解決してからであり、それが解決しないうちは他の事案は一切組み込むべきではないと思います。」

ゼファーは断定するように言った。

 

「副会長、あなたの意見は?」

ゼファーの意見を聞いた後、パーマーはルビーを見た。

「…。」

ルビーは眼を伏せて、先に他の役員達へ答えを促した。

 

『私は賛成です。』

リモートで参加しているブルボンが、いつもの無感情な声で言った。

『理由は先程と変わりません。療養施設のウマ娘の切迫です。相次ぐ凶事の連続で彼女達の心はもう折れかかっています。今、我々が大きな決断をして動き出さねば、彼女達の絶望を止めることは出来ないと判断しました。』

ブルボンは自らの意志が変わらないことを明確に示した。

 

意見が割れ、室内の雰囲気は更に重くなった。

 

「私は反対です。」

重い空気の中、パーマーが口を開いた。

「案に出されていた(6)〜(12)の件は、もっと入念に準備して出さねばならない重要な案件です。まだ我々の間でも議論すらされてなかった件を生徒会長の独断だけで出すのは危険極まりません。ゼファーも言ってたように今は秋天の件の解決に尽力すべきです。もしこの案を通してしまった場合は、天皇賞・秋の件も収束に向かうのは不可能だと断じられます。」

 

「悠長ですわ。」

パーマーの言葉の後、ルビーがゆっくりと口を開いた。

普段の宝石を散りばめたような声色の中に言いようのない低さを混じらせて。

 

「どういう意味ですか?」

「言葉通りの意味です。」

聞き咎めたパーマーに言葉を返し、そして続けた。

「確かに天皇賞・秋の件の解決が最優先事項なのはその通りです。しかし、生徒会長が示された案にあった件も、ウマ娘界にとって最重要と言える大きな難題です。この難題が公に出来なかった理由は、ウマ娘界の隆盛以後我々が現状を変えようという行動をせず、その機会を悉く逸してきたからです。ハマノパレード先輩の事件、サンエイサンキューの事件…そういった有事の際にこの件を公にし、ウマ娘界の最重要課題の解決を大きく進めるべきだったのに、それをしなかった。ひとえにリスクを恐れ、現状に甘んじようとした。その結果、多くの同胞が苦しみの果てに追い込まれました。」

言いながら、ルビーは美しい眼を針のように光らせて室内全員を見渡した。

「ですが今、我々は天皇賞・秋の件で、リスクを恐れずウマ娘界の尊厳を示そうという行動しています。この機を逸してはなりません。ウマ娘界の最重要課題であるこの件も公にし、解決に向けての大きな前進を踏み出すべきだと思います。」

 

「副会長、」

ルビーが言葉を終えた後、先程も彼女と激論していたゼファーが再び尋ねた。

「何度も言いますが、それはリスクの大きさが天皇賞・秋の件の比ではありません。副会長自身も先程、より多くの同胞を不幸にしかねない危険性があると言ってました。危険性を知りながらなおも行動する。それは生徒会としてあまりにも無責任ではないでしょうか。」

「この件は当初からパンドラの箱同然ですわ。いつだろうとその危険性は変わりません。」

ゼファーに対し、ルビーは先程と違い厳しい口調で反論した。

「実際、今この件を公にしたらその反動は大きいでしょう。不幸な目に遭うウマ娘が出るのも確実です。でもそれは受け入れなければなりません。」

「その口調ですと、自らにその不幸がふりかかるよう望んでいるようですね。」

ゼファーは冷ややかな表情を見せた。

「その覚悟と決意は尊重します。ですが受け入れられません。どうやら生徒会長と同じく副会長も私情が混入しているように思います。」

 

「ゼファー、」

「私情の混入ほど、大事の際に不要かつ有害なものはありません。」

眼を見開いたルビーに、ゼファーは引かずに視線をぶつけた。

「何度も言いますが、どうしてもこの件を公にするならば天皇賞・秋の件の解決後です。例え解決後でも、世間の耳目はまだしばらくウマ娘界の行動に注視するでしょう。なのにここまで性急に動こうとする意味が分かりません。」

 

『急ぐ必要はあります。』

リモートで会話を聞いていたブルボンが口を開いた。

『先程も言いましたが、療養ウマ娘達とオフサイドトラップの為です。天皇賞・秋の件の解決だけでは彼女達の絶望は止められません。ウマ娘界の尊厳の奥底まで衝いた内容でなければ、この絶望の流れを止められない。何より、オフサイドトラップに巣食う〈死神〉と闘うことは不可能でしょう。』

 

“オフサイドトラップに巣食う〈死神〉”

その言葉にまた、室内の空気が張り詰めた。

 

『そうですね。』

もう一人、メジロ家別荘からリモートで参加しているビワが口を開いた。

『今朝のオフサイドの状態ですが、もう〈死神〉の様相が露わになっていると岡田トレーナーから報告がありました。私自身、彼女の姿を見てそれを強く感じました。このままでは惨劇を避けられそうにありません。彼女の心を取り戻す為には、天皇賞・秋の件だけでは難しい。案に出されたような件でなければ厳しいでしょう。』

中立を表明していたビワは、暗に賛意を表明した。

「…。」

ビワの言葉に、ゼファーは黙った。

オフサイドがそのような状態になってしまったのは騒動中の生徒会の対応が遠因でもある以上、強い言葉での反論は難しかった。

 

 

その時。

 

「随分な話をされてますわね。」

部屋の扉が開き、マックイーンが室内に現れた。

「!」

「…」

場にいる全員が、それぞれの思いがこもった視線で彼女を見つめた。

 

「どうやら、生徒会内も意見が割れたようですわね。」

話し合いを聞いていたらしいマックイーンは、入室すると空いている一席に腰を下ろした。

「でもほぼ半々ですか。でしたら、この私の案を優先して頂くことになりますわ。」

 

「…生徒会長、」

トップガンが、幼さが残る眼を光らせてマックイーンを見据えた。

「何故このような案を直前になって出したんですか?」

「有無を言わせる時間など与えずに案を通そうというのは、政治の手法の一つですわ。」

「慎重に吟味しなければならない内容なのに、急過ぎるとは思わなかったのですか?」

「吟味?私はこの件に関してはずっと以前から考えを練っていましたわ。」

マックイーンは冷徹な微笑でトップガンを見返した。

 

「ずっと以前から?」

「ええ、ウマ娘界最大のタブーであり難題ですから、生徒会員である以上、その解決策を考えるのは当然ですわ。もっとも、この件をこのタイミングで公にすることになるとは思っていませんでしたが。」

 

「我々の反対を受けることは」

「それも想定済みでしたわ。」

ゼファーが言うより早くマックイーンは答えた。

「でも、何も全員の賛成が必要なわけではありません。半分入ればいい。それだけの賛同がいることはもう予測ついてました。」

現にそうなりましたねと、マックイーンはまた微笑した。

思わずゼファーは背筋がぞっとした。

 

「流石は生徒会長ですね。」

畏怖の念を感じてゼファーも微笑を返し、そしてそれをすぐに消して、再び強い口調で尋ねた。

「この案を出した真意はなんでしょうか?」

 

「同胞の未来の為ですわ。」

マックイーンは即答した。

「この世界で輝くことなく消えていく運命にある同胞達を救う為、私はこれを公にしようと決めました。勿論、オフサイドトラップのことも含めてです。」

「我々の相談も得ずにですか。」

「時間もありませんでしたから。」

 

そこまで答えると、マックイーンは再び全員を見渡した。

「事実、もう時間がありませんわ。賛否もまとまったようなので、案の整理、会見の進行や役割について相談をしましょう。」

 

 

「生徒会長。」

強引に話を進めようとしたマックイーンに、ずっと黙っていたヘリオスが口を開いた。

「なんですかヘリオス。」

「この案については、どうしても私は賛成することが出来ません。」

 

「ヘリオス、」

最後になって反対姿勢を示したヘリオスに、マックイーンはある予感を感じながら、言葉を返した。

「あなたはそう言いますが、この案を通すことは確定しましたわ。」

「ええ。それは分かっています。しかし賛成出来ない以上、私は生徒会役員としての義務を果たせそうにない。…よって、」

言いながら、ヘリオスは腕につけている生徒会の腕章を外し、机の上に置いた。

 

「私ダイタクヘリオスは、ただ今をもちまして、生徒会役員の職を辞します。」

 

「ヘリオス。」

「…。」

眼を見開いて自分を見上げたルビーを、ヘリオスは決して見ようとはしなかった。

 

 

時刻は、会見の時間まであと2時間を切っていた。

 



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『第7章・中』
〈死神〉のウマ娘(1)


*****

 

場は変わり、午後のメジロ家の別荘。

オフサイドトラップは、明日有馬記念が開催される現地への出発準備を行っていた。

 

オフサイドの右脚には、いつものように包帯が巻かれていた。

日に日にその包帯の厚さはましており、状態の深刻さを窺わせた。

これまでは比較的平然と患部のケアを続けていたオフサイドも、時折その痛苦に顔を顰めていた。

 

 

「失礼する。」

準備を行っている最中、ビワハヤヒデが部屋に訪れた。

「オフサイド、もう現地に向かうのか?」

「はい。夜までには中山の方に着いておきたいので。レース前日の予定もありませんし。」

オフサイドは準備の手を止めることなく答えた。

いつものG1レースなら前日に出走者達の会見などがあるのだが、今回は昨今の状況の影響でそれは行われないことになっていた。

 

「何か私に御用でしょうか?」

あらかた準備を終えると、オフサイドはビワに尋ねた。

「実は、君と会いたいという人がいるんだ。どうする?」

「…。」

オフサイドはやや顔を顰めた。

もう誰にも会いたくないというのに、という感情がその表情に浮かんでいた。

「どなたが私に会いたいと?」

「三永美久氏だ。現在こちらに向かっているらしい。」

 

「美久さんが?」

学園関係者とはすぐに予測していたが、まさか彼女とは思わなかったオフサイドはやや意外な表情をした。

学園専属カメラマンの立場である美久さんが一体何故?

それなりに親しい関係だったとはいえ、秘密である筈の自分の居場所にまで来る程の重要人物ではない筈だ。

「生徒会長の差し金ですか?」

「いや違う。三永氏自身が希望したらしい。」

 

「ははあ…」

なんとなく、オフサイドはその理由が掴めてきた。

恐らく、昨晩帰還されたライス先輩から、私のことを聞いたんだな。

そして多分、私の意志を変える為に接触を図ろうとしてるのだろう。

 

そう考えたオフサイドは、ビワに言った。

「お断り下さい。」

「え?」

「もう、私は誰とも会いたくありませんから。」

言いながらオフサイドは眼を瞑り、一度深呼吸して眼を見開くと、ビワを見据えた。

 

…!

ビワは一瞬息を呑んだ。

オフサイドのその眼光は、ビワ程のウマ娘ですら思わず肌が粟立つ位、冷たい色を帯びていたから。

 

「何故会いたくないんだ?」

彼女の眼光に警戒心を強めつつ、ビワは聞き返した。

「会っても無意味だからです。」

オフサイドの口調は血の底まで沈みそうな重さを帯びていた。

「はっきり言います。私はもう意志は絶対に変えません。変えてはならないんです。」

 

「オフサイド…」

「ビワ先輩、」

なおも何か言おうとしたビワに対し、オフサイドの眼が更に冷たさを帯びた。

「これ以上、私を止めようとしないで下さい。これ以上干渉するようでしたら、もう私も、私を制御出来なくなりますから。」

言葉の最中から、オフサイドの全身からどす黒い呪詛のような雰囲気が、ふつふつと溢れ出していた。

 

「…っ」

異様な雰囲気を醸し出したオフサイドにビワは危険を感じ、咄嗟に後ろに退がった。

「…オフサイド。何をするつもりだ。」

警戒心を最大限に高め、ビワはオフサイドの眼光を睨み返した。

双方の視線が交錯し、室内の空気は一変した。

 

数十秒後。

「フッ…」

オフサイドは口元に歪んだ笑みを浮かべ、ビワから眼を逸らした。

同時に、身体から溢れ出かけていた異様な雰囲気も消えた。

 

「流石はビワハヤヒデ先輩ですね。」

歪んだ笑みは一瞬で消え、オフサイドは穏やかな表情に戻っていた。

「〈死神〉相手に対峙するとは、流石は一時代を築いた偉大な同胞です。先輩が私の監視役に選ばれたのも合点がいきました。」

「…。」

ビワは警戒心を解かずにオフサイドを見据えたまま、無言で汗を拭った。

オフサイドは頬に軽く笑みを湛え、言葉を続けた。

「いいでしょう。美久さんと会います。最も、その時何が起こるかは私も責任持てませんが。」

 

「…分かった。」

オフサイドの言葉にビワは頷くと、視線を外してすぐに部屋を出ていった。

 

 

「はあっ…はあ…」

オフサイドの部屋を出たビワは、別荘の一室に移動すると、息を乱しながら腰を下した。

まずいな…

まだ動悸している胸に手を当てながら、彼女はその危機をはっきりと感じていた。

オフサイドに巣喰った〈死神〉が、明らかに膨張している…

 

それは今になってから気づいたことではない。

数日前からオフサイドの動向を見守っていたビワは、彼女の状態が刻々と変わっていくことに気づいていた。

変わっていくというよりは、侵食されているというべきか。

オフサイドの脚だけでなく、心を蝕んだ〈死神〉が、彼女を絶望の深淵へと誘うように蝕んでいくことに。

 

絶望の深淵。

オフサイドがそれに堕ちきったら一体何が起きるのか、それは明確には分からない。

ただ尋常でない、かつてない程の規模を伴った絶望が爆発するのでは…そんな予感がしていた。

 

「岡田トレーナーもそう言ってましたね…」

ビワは息を整えながら呟いた。

 

彼女は今朝に岡田と会って、オフサイドの現状について話し合いをしていた。

オフサイドの状態の異変に関しては、ずっと彼女の様子を見守っていった岡田も気づいていた。

そしてそれに対する危機感も口にしていた。

『大償聲が起きる可能性がある』と。

 

「大償聲…」

ビワは眼鏡を外し、目元に指を当てて眼を瞑った。

その言葉の意味は、ビワも知っていた。

全ての者に消えようのない傷を与える、膨大な絶望の爆発。

…それ程の絶望が、オフサイドの中に蠢いているというのか。

 

正直、その可能性は否定出来なかった、

何しろオフサイドは、あの〈クッケン炎〉と闘い続けたウマ娘。

その病の恐ろしさは、かつて自分もそれによって競走生命を断たれた過去を持つビワは身を持って知っていた。

あの、文字通り〈死神〉と恐れられる病と、オフサイドはどれだけ壮絶な闘いを繰り返してきたか。

彼女と直接接点のなかったビワは詳しくは知らないが、妹のナリタブライアンからオフサイドの闘病生活の一端について耳にしていた。

“オフサイドは、〈死神〉によって散った同胞達の魂を全て背負って闘い続けている”と。

 

闘い続けた果て、オフサイドは〈死神〉に打ち克って、栄光を掴みとった。

だが、全く予想だにしない方向から新たな〈死神〉が彼女に襲いかかった。

その結果が、彼女を絶望に叩き落としただけでなく、最悪の絶望まで生み出してしまったのか…

 

…本当は、天皇賞・秋の前に、既にオフサイドの心は壊れかかっていたのに。

ビワは眼鏡をかけ直した。

 

オフサイドが〈死神〉と闘い続けられた理由は、栄光の為だけじゃない。

同胞の無念を晴らす為だけでもない。

そのいずれよりも大きなある想いが、オフサイドの心を支え続けていた。

そのことだけは、ビワはこの世界で最もよく知っていた。

 

今、夢も支えも失い蝕まれたオフサイドの心がどうなっているのか、それはとても分からなかった。

ビワだけでなく、ステイゴールドも、ホッカイルソーも、彼女と長年身近にあった者達ですら分からないだろう。

彼女の心を理解し、かつそれを動かせるであろう同胞は、もうこの世界には一人しか残っていなかった。

「サクラローレル…」

 

その名を呟きつつ、ビワはスマホを取り出した。

現在ローレルの動向については、マックイーンではなく彼女が対応をしていた。

まだ誰にも伝えていないが、先程ローレルから通知が届いていた。

『現在、帰国の途にいます』と。

 

ローレル、どうか無事で…

ビワは祈るようにその通知を見つめた。

大怪我を負った脚の状態が未だ芳しくない中で、ローレルは帰国に踏み切った。

帰国にはかなりの危険が伴うことは明白だ。

だけど信じて祈るしかない。

現状、誰もがオフサイドの為にやれるだけの力を尽くしているけど、彼女の心に直接触れられる同胞はもう彼女しかいないのだから。

 

しかし…

ビワはスマホを握ったまま、深く憂いるように息を吐いた。

ローレルでも、オフサイドの絶望の根本を、天皇賞・秋前に負ったその悲しみを癒せるのは厳しいかもしれない…

 

 

『ピー・ピー』

不意に、ビワの掌でスマホの通知音が鳴った。

確認すると、まもなく三永美久が別荘に到着するという連絡が届いていた。

今、美久をオフサイドに会わせても大丈夫だろうか…

大きな不安を渦巻かせながら、ビワは彼女を迎えに別荘の外へと出た。

 

 

やがて、美久が別荘に到着した。

 

「ビワハヤヒデ、久しぶりね。」

「そうですね、三永美久。」

生徒会役員なのでビワも美久の正体を知っており、彼女が記憶を取り戻したという報告も受けていた。

「オフサイドトラップは今どちらに?」

「別荘の一室にいます。」

受け答えしながら、二人は別荘内に入った。

 

ビワは美久をすぐにはオフサイドの元へ案内せず、自室に連れていき、そこでオフサイドの現状を説明した。

 

「オフサイドの状態がかなり危ういと?」

「ええ、彼女の奥底にある絶望が溢れかかっています。」

ビワは深刻な表情で美久に説明していた。

「これ以上、彼女を刺激するようなことをしたら、その絶望が一気に溢れ出すかもしれません。そしたらもう、取り返しのつかない事態が巻き起こる可能性が高いです。」

 

「取り返しのつかない事態…」

大償聲のような事態かしら…

昨晩療養施設で、それが起きかかった現場にいた美久はぞっと身体が震えた。

「もう起きた場合、その事態の規模はどのくらいのものなの?」

「はっきり言って予測不能です。オフサイドを誰よりも知る岡田トレーナー曰く、“彼女は幾千万のウマ娘の無念の魂を背負ってしまっている”そうですから。それが絶望に変貌して溢れ出したとすれば、この世界に与える影響は到底計り知れません。」

 

 

「…。」

一連の話を聞き、美久は苦悶の表情を浮かべた。

そんな決壊寸前のオフサイドの心を、今の自分が動かせるのか?

恐怖と無力感が、彼女の心を浸そうとしていた。

 

だが美久は、心のそれを打ち消そうと首を数度振った。

私だって、理不尽な仕打ちの連続により絶望のどん底のどん底にまで落とされたウマ娘だった…

失われていた、サンエイサンキューとして生きていた当時の記憶を脳裏に思い起こした。

 

…あの時、私は確かにウマ娘の趨勢を決めてしまえる立場にいた。

もし私が、憎しみと悲しみに捉われたまま最期を迎えていたら、ウマ娘と人間の間には深い深い亀裂が生じていた。

でも私は、絶望と悲しみのどん底にいながら、帰還を目前にしながら、憎しみと絶望を抑えこんで人間とウマ娘の未来の為に祈りを残した。

起きたかもしれない『大償聲』を阻止した。

 

私は…

美久の脳裏に、ライスが最期に自分に伝えた言葉が蘇った。

“あなたは誰よりも、ウマ娘の幸せを願っていた”

美久は眼を瞑ってぎゅっと胸に手を当て、震えを抑え込んだ。

 

 

やがて眼を開くと、美久はビワに言った。

「私は大丈夫です。オフサイドトラップと会わせて下さい。」

「…分かりました。」

三永美久ではなく、かつてのサンエイサンキューとして覚悟を決めたと感じ、ウマ娘としては後輩であるビワはそれを受け入れるように頷いた。

 

 

ビワと美久は、オフサイドのいる部屋へと向かった。

 

ところが。

「あれ?」

室内に、オフサイドの姿はなかった。

彼女の姿だけでなく、荷物も消えていた。

 

異変に思ったビワはすぐに別荘の使用人に連絡を取った。

「オフサイドトラップが部屋にいないのですが、何処にいるか分かりますか?」

ビワが尋ねると、使用人は答えた。

『オフサイドトラップ様は、つい先程、急遽別荘を発たれました。』

 



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〈死神〉のウマ娘(2・オフサイドトラップ回想話)

*****

 

一方その頃。

 

別荘を発った一台のメジロ家の車両が、傾き始めた陽が照らす道路を走っていた。

その車両には、オフサイドの姿があった。

彼女はメジロ家の使用人以外には誰にも知らせず別荘を発っていた。

 

 

限界が近いのか…

車両の座席に座りながら、オフサイドは胸と脚に手を当てて、自らの状態を思った。

さっきのビワとのやり取りの最中でも、心があわや堪えきれない状態になっていた。

 

もう私は、誰とも会わない方がいい。

ビワと会った後にそう思ったオフサイドは、美久と会う約束を反故にし、急遽別荘を発った。

岡田にも伝えずに発った。

躊躇したら最後、抑えている〈死神〉が溢れ出そうだったから。

 

 

ふー…

オフサイドは一度大きく深呼吸をすると、抑えていた箇所から手を離し、ゆったりともたれて眼を瞑った。

彼女の心身を完全に蝕んだ〈死神〉の苦痛と絶望は、もはや自我を失いそうな程凶悪なものに変貌していた。

脚に巣食った『クッケン炎』の〈死神〉もそうだが、あの天皇賞・秋の後、心に巣食った『負』の〈死神〉が、あまりにも強大だった。

 

全て、この私の責任であり、そして受けるべき報いだ…

心の苦痛を堪えながら、オフサイドは懺悔の思いに満ちていた。

私と共に闘ってくれた幾千万の同胞の魂を、私は〈死神〉に変えてしまったのだから。

 

ごめん、みんな…

オフサイドの脳裏に、これまでの闘いの日々の記憶が思い起こされていた。

 

 

 

***

(オフサイドトラップ回想)

 

 

3年生の春。

2度目のクッケン炎に冒された私は、夢も何もかも諦めた。

だけどその諦めは、私に続いて故障に見舞われた盟友のサクラローレル・ナリタブライアンを前に打ち消され、無謀で途方もない闘いに挑む決心へと変わった。

 

〈死神〉と恐れられるクッケン炎。

生還率は数%しかないこの病を相手にどう闘えばいいのか。

抗いようのない絶望感が漂う中、私は必死に模索した。

そして導き出した答えが、“〈死神〉と闘う同胞の想いを全て背負う”だった。

 

2年生時に〈死神〉に罹って以降、私は闘病を共にしてきた同胞達が何人も〈死神〉に敗れていく様を見届けてきた。

中には、無実績ゆえに帰還せざるを得ない者もいた。

療養中に親しくなった同胞も、何人も帰還した。

怪我に敗れた者、病に敗れた者、まるで枝から落ちる枯れ葉のように、儚く散っていく。

希望も願いも祈りも叫びも、〈死神〉の前では虚しく響いて消えていくだけだった。

 

私は、帰還した同胞のことはあまり考えないようにした。

はっきり言って、考えることが怖かった。

どれだけ必死に闘病したとしてもいずれ自分もそうなってしまうのではという、諦めと絶望が怖かったから。

 

だけど、それじゃ駄目だと思った。

〈死神〉に罹ったが最後、絶望と窮地の果ての帰還という可能性からは絶対に逃げられないのだから。

どうせ逃げられないのならば、いっそその絶望の現実と真っ向から向き合ってやろうと、私は決心した。

そう、あの終焉の地下室との現実とも。

 

当然、私の考えは周囲から反対された。

チームの岡田トレーナーからも、リーダーのケンザン先輩からも、〈死神〉の闘病を共にしていたマイシンザン先輩からも強く反対された。

絶望の現実とまともに向き合うのは心が折れる危険性が大でとても耐えられない、絶対にやめるべきだと、私は周囲から諭された。

 

でも、私の決心は動かなかった。

このまま何もしなければ、いずれは絶望が待ち受けているのが分かっているんだ。

ただ遅いか早いかの違いでしかない。

それなら、例え危険だろうと無謀だろうとあがけるだけあがいてやるんだと。

それで心が折れたら、私はその程度のウマ娘だったということだけなのだから。

 

それに、私には心が折れない自信があった。

だって、私は一人じゃなかったから。

私のすぐ側に、私以上の絶望と闘うローレルとブライアンがいた。

このかけがえのない二人が、私の決心を受け入れてくれた。

そのことが、何よりも大きな心の支えになった。

 

 

決心を固めた後。

私は、重度の〈死神〉と闘う同胞と接する機会を増やした。

病症の重い同胞は、多くが心を徐々に折られて〈死神〉に敗れていく。

私は、その心が折れないように彼女達を支え励ました。

再び〈死神〉の魔の手に罹ったとはいえ、私は一度は復活した身だ。

諦めないこと・希望を持つことの大切さを説いて、闘病する自らの姿を見せて、病症仲間達の心を支えようと頑張った。

 

でも、どんなに希望を説いても、どんなに闘病を共にして支えようとも、現実は果てしない絶望が待ち受けていた。

脚も未来も希望も、その全てを〈死神〉は容赦なくウマ娘から奪い去っていく。

私が必死に支えようとした同胞も、力及ばず次々と絶望に飲み込まれ、諦めていった。

そしてその中には、あの地下室を余儀なくされる者も多かった。

 

私は、帰還していく同胞達のその最期を、あの地下室で看取り続けた。

看取らねばならなかった。

〈死神〉に敗れた同胞の無念を背負う為に、〈死神〉に打ち克つ為に。

 

悲嘆の中で帰還していく同胞達を看取ることは、本当に苦しく悲しかった。

同胞の最期の言葉や姿が脳裏に爛れるように焼き付き、心が何度も折れかけた。

無意識に自分が地下室に行きかけることもあった。

 

それでも、私は絶対に逃げなかった。

〈死神〉に散った全て同胞の魂を背負わない限り〈死神〉を破ることは出来ないと、心を決死に奮い立たせた。

 

 

 

…それから数年。

ローレルの復活やブライアンの引退など時と共に周囲が変わっていく中、私は〈死神〉相手に闘いを続けていた。

ブライアンの競走生命をも奪った〈死神〉への思いが復讐心にまで膨れあがる中、3度目の復帰を果たした私は復讐を果たそうと必死にレースを走り続けた。

だけど栄光を掴めぬまま、5年生の5月末、私は3度目の〈死神〉を発症した。

それは事実上、私の完全敗北を意味していた。

 

 

 

***

 

…私は、完全に心が折れかけていた。

メジロ家の車両。

眼を瞑りながら過去を回想していたオフサイドは、口元で呟いた。

 

…3度目の発症が明らかになった時、私自身、はっきりとそう感じた。

それまでの発症時は悔しさや悲しさが込み上げていたがこの時はそれすらなく、ただ乾いた笑顔しか浮かべられなかった。

昨年末から今にかけて、栄光への最後の機会だと覚悟して挑んだ半年8戦の闘いでは、復活の勝利すら挙げることも出来なかった。

悔しさも通り越した、乾いた空虚な感情しか出なかった。

 

3度目の〈死神〉発症を受け、私は内心で引退を決意した。

既に5年生という高齢、乏しい実績、何より3度目となる〈死神〉を発症した脚の限界などを顧みれば、引退の選択はやむを得ない状況だった。

 

チームの岡田正貴トレーナーも、私の意志が引退に固まっていることを察していた。

トレーナーは引退後の私が無事に余生を送れるよう、出来る限りの尽力を四方八方にしていた。

私が血統的には少々良い点もあったからか、余生を得られる可能性は充分高いらしかった。

 

だけど、私はそんな岡田トレーナーに感謝しつつも、余生を送ろうという思いはなかった。

私の心にあったのは、打倒〈死神〉を誓った同胞達への贖罪意識。

必ず復活してくれると信じた同胞達の願いは到底叶えられなかった。

生きながら得るに相応しい実績も評価も挙げられてない。

凡庸な実績と血統のアドバンテージだけで残りの余生を得ることなど、出来るわけがなかった。

 

 

私が引退を考えているということは、療養施設の方にも伝わっていた。

闘病を共にした仲間達は、それを受け入れてくれてるようだった。

皆、〈死神〉に敗れた私を、ここまでよく頑張ってくれたと称えてくれた。

恐らく復帰中に挙げたささやかな実績によって、自分が余生を送れる可能性が高いと思っていたのだろう。

それだけでも勇気つけられたと闘病仲間達は感謝しているようだった。

ただ、闘病中のチーム仲間ホッカイルソーと医師の渡辺椎菜先生は、私が余生を選択しないかもしれないという不安を抱いているらしかった。

私は二人に申し訳ないと思いつつも、闘病仲間達の未来を託すしかなかった。

 

闘病仲間だけでなく、チーム仲間達も私の決意を薄々と感じとっていた。

後輩達は悲しみながらもそれを受け入れようとしているようだった。

サイレンススズカやステイゴールドも。

後輩達は皆優秀なウマ娘で、彼女達の未来の為にもこれ以上私ごときがチームの脚を引っ張るわけにはいかないという思いも心のどこかにあった。

だが彼女達にも、自分のが余生を送る気などないことまでは悟られる訳にはいかなかった。

 

 

私の引退はほぼ決定しつつあった。

だけどその私の決意を、断として阻もうとする同胞がいた。

 

サクラローレルとナリタブライアン。

同期のチーム仲間であり、かけがえのない無二の盟友であるこの二人が、私の決意の前に立ちはだかった。



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〈死神〉のウマ娘(3・過去話)

*****

 

前年、重度の故障から奇跡の復活を遂げ、G1戦線で大車輪の活躍をし、年度代表ウマ娘に輝いたサクラローレル。

彼女はこの年も春天で連覇こそならなかったが第一人者に相応しい走りを見せ、秋には悲願の凱旋門賞挑戦を敢行することを決めていた。

そんな偉大な盟友が、私の引退の決意に対して、断として首を縦に振らなかった。

 

そしてある日、私はローレルと二人きりで、引退のことについて話し合った。

場所は確か、学園の屋上だった。

 

 

***

 

 

それは前年6月上旬、雨の日。

梅雨の雨が降りしきる中、学園の屋上に、制服姿のオフサイドトラップとサクラローレルの姿があった。

 

「私は、あなたの引退を絶対に受け入れません。」

屋上の柵の前で、ローレルはその意志を強さを瞳にも光らせて、オフサイドを見つめていた。

 

「どうして?」

意志の強さを見せるローレルに対し、松葉杖をついているオフサイドの態度は冷淡だった。

かつて彼女が闘病中に見せていた不屈の闘志は、引退を決意した今はもう消え去っているようだった。

「もう私は全てが限界になっているのが明らかだわ。これ以上闘うのはもう無理なのよ。」

 

3度目のクッケン炎の〈死神〉に罹った彼女の右脚には、包帯が痛々しく巻かれていた。

何も知らない者が一目見ても相当状態が悪いと分かりそうな包帯の厚さだった。

「ここまで抗ってきたけど、ダンツシアトル先輩のようにはなれなかったわ。私の力では〈死神〉に勝てなかった。」

淡々と言う口調も、全てを諦めたような虚ろなものだった。

 

オフサイドのこの姿を見た周囲の誰もが、もう彼女の復活を無理だと感じ、彼女の引退を受け入れていた。

〈死神〉に敗れたとはいえ、オフサイドは最後まで闘い果てて燃え尽きたのだと。

 

だが。

「そんなことはありません。まだあなたには、〈死神〉を相手に闘い勝てる力が残っている筈です。」

ローレルは、オフサイドが燃え尽きて敗れたと認めていなかった。

 

「何故、そう言えるのかしら?」

断として認めない盟友に、オフサイドは呆れたような笑みを浮かべた。

「3度目の発症よ。2度目までならマイシンザン先輩のような復活は出来たかもしれないけど、状況がまるで違うわ。」

かつて2度の〈死神〉発症を乗り越えて重賞をレコード優勝したチームの先輩と比べつつ、オフサイドは言った。

「まして、私はもう5年生。重賞すら未勝利のまま、最後の勝ち星からも2年以上遠かってるウマ娘だわ。年齢も伸び代ももう限界なのは明らかなのに、これ以上栄光を目指せるわけがないじゃない。」

 

「それは、オフサイドさんがそう思い込んでしまっているだけです。」

「思い込み?どこが思い込みなの?見てよ、この私の姿を。」

オフサイドは松葉杖をついてローレルに向き直った。

痛々しい右脚、それを支える左脚にも故障の痕があった。

栗毛の髪も、両耳も尻尾も、心が折れたのを示すように虚しく垂れて靡いていた。

その身体から発せられている雰囲気は、枯れ枝のような寂寥感に満ちていた。

 

「こんな私が、これ以上栄光を目指して闘えると思っているの?本気で思っているとしたら、あなたは相当愚かよ。」

無二の盟友に対し、オフサイドは冷笑するように言葉をぶつけた。

 

嘲笑するような言葉を浴びせられたものの、ローレルは表情一つ変えず、言葉を返した。

「愚かなのは、限界と決めつけたあなたの方です。オフサイドトラップ。」

 

 

「何それ。」

ローレルの言葉に、オフサイドはショックを受けたように硬直し、やがて身体を震わせてローレルを睨みつけた。

「限界を受け入れた、それのどこが愚かだっていうのよ?」

「闘いきってもいないのにですか?」

「“闘いきってない”!?」

オフサイドは大きな声をあげた。

 

ローレルの言葉に対し、感情を露わにしたオフサイドは彼女に詰め寄った。

「もう一回言ってみなよローレル。この私が何をしきっていないって?」

顔を突き合わせる程に近づけて詰問したオフサイドに、ローレルは全く引かず、言葉を返した。

「ええ、何度でも言います。あなたは闘い切っていないと。」

 

「ふざけないでよ!」

オフサイドは思わず、ローレルの胸ぐらを両手で掴んだ。

「私が闘いきってないだって?私が昨年末の復帰以来、脚の状態に対して、そしてレースに対して、どれだけ必死に闘ってきたか、あなただって分かっている筈よ!」

感情が爆発したように、オフサイドは自分の全てを知っているであろう盟友に叫んだ。

 

「分かってます!」

ローレルも語気を強めると、オフサイドの眼を貫きそうな眼光で見つめ返した。

 

雨が降りしきる中、雨粒に身をうたれながら二人の盟友は対峙した。

 

「私は、あなたの闘う姿を誰よりもずっと側で見てきました。」

オフサイドに胸ぐらを掴まれたまま、ローレルは熱と険しさの混じった口調でオフサイドに言った。

「昨年末、2度目の〈死神〉を乗り越えて学園に帰ってきたあなたは、以前の復帰の時とはまるで違っていました。およそ2年間、殆ど走ることが出来なかったウマ娘とは思えない程の、激烈な闘争心を漲らせていました。」

言いながらそれを思い出したのか、ローレルの身体が一瞬震えた。

 

レースを見据えたトレーニングの時も、同じ部屋で生活する寮での日常も、オフサイドはずっと殺気立っていた。

G1を幾つも制しレースの頂点に立ったローレルですら、迂闊に言葉すらかけられない程の雰囲気だった。

文字通り、背水に立たされたウマ娘という雰囲気だった。

 

「また、あなたの脚の状態も、私の想像を超えていました。」

ローレルの視線は、分厚い包帯が巻かれたオフサイドの右脚に向けられた。

オフサイドは人前ではおろか、チーム仲間の前でも全くと言っていいほど右脚の素の状態を見せない。

だがローレルは、普段の生活において、何度かオフサイドの右脚の状態を目の当たりにしていた。

その状態は、ローレルですら、直視出来るようなものでなかった

 

「何故、何故こんな脚の状態で、レースを走れる?闘争心を保っていられる?苦痛に顔を歪ませない?そんな疑問が次々と湧いてくる程の、脚の状態でした。」

ローレルは寒気を堪えるように口元に手を当て、言葉を続けた。

「その脚部とあなたの姿を見て、私はあなたの背負っているものが分かったんです。〈死神〉に冒された絶望の世界を生き、幾十人もの同胞の最期を見届けたあなたの決意、『〈死神〉への復讐』という決意と誓いを。」

 

「そうね、復讐心だったわ。」

ローレルの言葉に、オフサイドは彼女の胸ぐらを掴んだ腕の力を緩めず、雨に濡れた頬を引き攣らせた。

「〈死神〉は何もかも奪っていったわ。同胞の脚も、夢も、希望も、願いも、叫びも、そして命も、何もかも。果てには、ブライアンの夢と脚まで奪った。」

それが何よりも耐え難いことなのか、オフサイドの唇が震えた。

 

「許せるわけがなかった、絶対に。」

この復讐を果たす為には、復活して栄光を手にする以外になかった。

復讐心を胸に闘病を続け、遂には〈死神〉を撃退して、レースの世界に戻ってきた。

「〈死神〉を乗り越えたとはいえ、もうキャリア的にも脚の状態的にも闘える機会は殆ど残されていなかったわ。だから無我夢中で、必死になって走った。」

 

「ええ。」

誰よりもそれがよく分かっているローレルは頷いた。

復帰後のレースを重ねるにつれ、オフサイドは勝ち星こそ挙げられないが内容も結果もどんどん上向いていき、過去の自身の最高成績を更新していった。

これが、2度もあの『クッケン炎』を患い、3度の療養生活を余儀なくされた5年生なのかと、驚嘆するしかないくらいに。

 

「ですが、成績をあげていく一方で、あなたの脚の状態は次第に危機を迎えようとしていたことに、私は気づいていました。」

言いながら、ローレルは唇を噛んだ。

 

復帰後、1ヶ月に1戦という、故障明けではかなりハードなペースでレースを闘ってきたオフサイドの脚は、5戦目を迎える頃にその反動が露わになりはじめていた。

元来『クッケン炎』という〈死神〉は、何度癒えてもやがては再発症する可能性が高いことで恐れられる不治の病。

既に2度冒されただけでなく、左脚にすらその不安を抱えているオフサイドにその兆候が出るのは残酷だが当然のことだった。

 

「就寝中、あなたが脚の苦痛にうなされる姿を傍らで何度も見ました。右脚のケア中、徐々に大きくなっていく不安と絶望感に抗うように歯を食いしばる姿も…。」

雨に打たれながら、ローレルは眼を瞑った。

涙だか雨筋だか、彼女の頬を伝っていた。

 

「そして、徐々に脚の状態が苦しくなっていくにつれて、あなたのレースの成績も上昇が止まってしまった。」

あと一歩届かない成績が相次ぎ、そのことによる不安と焦りが脚の状態を更に悪化させた。

苦痛を耐える為に痛み止めまで使用してレースを走ったにも関わらず、勝利の女神はオフサイドに一向に微笑まなかった。

 

そして、先日のエプソムC。

復帰後初の着外という惨敗という結果と、3度目の〈死神〉発症というあまりにも無情な現実が、オフサイドを待ち受けていた。

 

 

「ほんと惨敗よね。見るも無残な惨敗だわ。」

オフサイドが、彼女の代わりに言うように口を開いた

「私が求めたのはG1レース制覇という栄光だったのに、私はその舞台に立つことすら出来なかったんだから。」

G2以下の重賞で2、3着が精一杯、OP戦すら勝てなかった。

 

「同じ重度の故障に苦しんだあなたとは、天地ほどに差がついてしまったね。」

オフサイドはローレルの胸ぐらを掴む腕の力を緩め、脱力したように言った。

今まで言わずにいた思いが、胸の奥から破れるように溢れ出した。

「デビュー前、ダービー直前、天皇賞・春直前と相次ぐ故障に見舞われながら、あなたはそれら全てを乗り越えて栄光を手にし、年度代表ウマ娘の栄誉を勝ち取った。あなたと比較してこの私は…」

勝ち星に見放されたまま、重賞すら未勝利に終わった。

そのあまりにも大きな差に、オフサイドの口元から笑みが洩れた。

 

「でもこれは、闘いきった末の結果だから、受け入れるしかないわ。」

オフサイドは諦めの笑みを湛えながら、ぽつりぽつりと言葉を続けた。

「本当に、やれるだけのことはやった。耐えられるだけの苦痛に耐えた。レースにも絶対に諦めない心で挑み続けられた。無残な、何も残せない結果に終わったけど、それでも最後の最後まで夢を追い続けてレースに挑めた。苦しかったけど、届かなかったけど、やりきったと思うわ。」

自らの心を納得させるように言う彼女の頬には、涙のかけらが雨筋に混ざっていた。

 

「まだです。」

オフサイドの達観したような言葉を聞き、ローレルは眼を開いた。

紅く光る瞳でオフサイドを見据え、再び言った。

「あなたはまだ終わっていません。闘い切ってすらいません。」

 



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〈死神〉のウマ娘(4・過去話)

 

「まだ言うの?」

オフサイドは憐れむような眼で、ローレルの瞳を見つめ返した。

「じゃあ聞くわ。私が闘い切ってないと言える、その根拠は一体何なの?」

 

「決まっています。」

オフサイドの問いかけに、ローレルは即座に答えた。

「あなたが稀有な、特別な素質を持ったウマ娘だからです。」

「稀有な素質?」

「ええ、史上でも類のない、強靭な『不屈』の素質です。」

 

「…何それ。」

ローレルの返答に、オフサイドは呆れたように吐息を洩らした。

もっと論理的な返答が来るかと思ったら、ただの感覚じゃないか。

 

「『不屈』、ねえ。そういうのはね、偉大な実績を残したウマ娘だけが語られる資格があるのよ。」

オフサイドは濡れた前髪に触れながら言った。

「タニノチカラ先輩やホウヨウボーイ先輩のように、再起不能の故障から栄光を手にした同胞ならその言葉に相応しいわ。勿論あなたや、ダンツシアトル先輩もね。でも私は全然違うわ。」

相次ぐ故障で栄光はおろか、その舞台にすら届いていない。

どこに不屈の要素があるのだろう。

 

「それはその通りです。あなたはまだ栄光に向かう途中なのですから。」

「はあ?」

「でも、あなたは間違いなくその栄光に辿り着ける素質があります。〈死神〉も、年齢も、連敗も、常識ならとうに限界であるはずのそれらを全て乗り越えて。」

呆れているオフサイドに対し、ローレルは心の底からそう信じているように言った。

 

「もういいよ。」

オフサイドはローレルから眼を背けた。

「どうやら、あなたはただ私に引退して欲しくないから、無理やり理由を探して引き留めようとしているようね。」

 

「…。」

吐き捨てるように言ったオフサイドの言葉に、ローレルの表情が引き攣った。

その表情を見、オフサイドは言葉を続けた。

「あなたの気持ちはよく分かる。私を復活させたいという思いも、本当のことを言えば嬉しいわ。でも、もう現実は厳しいの。そんな感覚的な言葉では到底変えられない程にね。」

 

 

「感覚的…」

ローレルは雨空を仰ぎ、一度深呼吸した。

それから、今までと違う異様に重い口調で言った。

「帰還寸前の重傷を乗り越えて年度代表馬ウマ娘の座を手にした、このサクラローレルの感覚だとしてもですか?」

 

「…。」

初めて聞いたローレルの異様に重い口調と醸し出された威圧感に、オフサイドは肌に粟立ちを感じて沈黙した。

 

沈黙した彼女に、ローレルは重い口調のまま、言葉を続けた。

「勿論、あなたとは故障の類が違いますがね。あなたはクッケン炎、私は骨折。でもどちらも未来が絶望に染まる程のものです。その絶望を私は乗り越えた。誰もが99.9%諦めた重傷から復活して、レースの頂点に立った。…そんな私の感覚は、あてにならないでしょうか?」

 

「フッ…。」

ローレルの言葉に、沈黙していたオフサイドはふっと微笑した。

「初めてね。あなたがそこまで自分の軌跡に胸を張るなんて。」

「誇りをもっていますから。」

 

「誇り、か。」

オフサイドは眩しそうに栃栗毛の美髪の盟友を見つめた。

確かにローレルの不屈の軌跡は、先にオフサイドが口にしたようにウマ娘史上でも屈指のものだった。

 

2年前の春、両前脚の骨折という重傷を負った時は、誰もがローレルはここまでだと諦めた。

ローレル自身ももう諦めかけていた。

命すら危険な状態で、そのまま帰還してもおかしくなかった。

でもローレルは死の淵の寸前で踏み止まり故障と闘うことを決意した。

その結果、長い長い故障との闘いを乗り越えてレースに帰ってきた。

それだけでもとてつもないことなのに、ローレルはそこから頂点にまで立った。

まさに奇跡と不屈を体現したウマ娘だった。

それほどの彼女が感じた感覚は、確かに相当な重みがあることは間違いなかった。

 

だけど。

「あなたも今言ったけど、私のあなたとでは故障そのものもその他の状況もまるで違うのよ。」

年度代表ウマ娘の威厳を前に、オフサイドは気圧されながらも冷然と言い放った。

「あなたの故障時は3年生の春。長期の療養を余儀なくされたとはいえ、まだ年齢的にはチャンスが多く残されていたわ。また、過去に重度の骨折を乗り越えた先輩方の前例という心の支えもあった。そして何より、あなたは故障前にはあのブライアンに迫る一番手と目される程の強さと結果を挙げていた。故障から復活出来たならば、と思った者も周囲に多い筈よ。…そんなあなたと比べて、この私はどう?衰えが現れる5年生という年齢、3度目の〈死神〉を患ったウマ娘が復活した前例などないという事実、未だ重賞未勝利な上2年以上勝てていない実績…」

 

言いながら、心が苦しくなってきたオフサイドは、面に手を当てて言った。

「私とあなたは、もう故障の時点で大きな差がついてしまっているの。2年前の時とは、もう同じじゃないのよ。」

 

「ええ、確かに私とあなたとでは違うと、私自身も思っています。」

苦悶を堪えているオフサイドに対し、ローレルの方は表情を変えていなかった。

「だって、『不屈』の素質では、この私などあなたの足元にも及ばないのですから。」

「え?」

「全然及ばないんです。前例のあることを心の支えに療養していた私と、既に前例のない状況の中で暗闇の中をもがきながら闘病を続けているあなたとでは。」

 

「それは本心なの?」

「本心です!」

ローレルは大きな声を出した。

威厳に溢れていた表情が、いつのまにか羨望と悔しさが入り混じったものに変わって、雨に濡れながらオフサイドを見据えていた。

 

「私は今、『不屈のウマ娘』『奇跡のウマ娘』と称賛されています。でも、私は心のうちではそうだと思っていません。『不屈』に関しては…オフサイドトラップ、あなたという途轍もない存在を間近で見てきましたから。」

言葉を絞り出すローレルの唇が、震えながら噛み締められていた。

「療養生活を共にしている時も、復帰後の生活を共にしている時も、私はあなたの姿を見ることでそれを強烈に思い知らされました。私の不屈は、この…このウマ娘には到底及ばないのかと。」

「…。」

自分のことを“このウマ娘”と呼んだローレルの異様な感情のこもり方に、オフサイドは思わず息を呑んだ。

 

「一時的な絶望なら私の方が大きかった。でも長期間の絶望感という点では、あなたが直面したもののそれは膨大かつ強烈過ぎる。そしてそれに対して心折れずに真っ向から抗うあなたは一体何者なのか、とても理解が出来なかった。」

ローレルの口調に、冷静さが失われていた。

「…。」

「そして、時が経つにつれ、ようやく分かったんです。あなたは、ウマ娘の最大の敵である〈死神〉をも乗り越えうることを宿命つけられた『不屈』のウマ娘なのだと。」

 

「…。」

「…そんなあなたが!」

ローレルは悔しさを剥き出しにした表情で、先程とは逆にオフサイドの胸を両手で掴んで叫ぶように言った。

「〈死神〉への敗北を認めたですって?私は絶対に信じませんし、それを受け入れる気も全くありません!年齢?限界?実績?そんな些細な理由があなたの心を折らせる筈がないわ!あなたは…オフサイドトラップは、このサクラローレルが認めた…認めざるを得なかった、最強の不屈のウマ娘なのだから!」

 

「ローレル…」

「よく聞くといいわ、オフサイドトラップの心に巣食った〈死神〉!」

ローレルはオフサイドの胸を強く掴み締めたまま、それへ向けて叫んだ。

「オフサイドの心を絶望で覆ったつもりだったかもしれないけど、残念ながら彼女にはこのサクラローレルがいるわ!私がいる限り、オフサイドの心は絶対に折れない、不屈の炎は永遠に消えない!そして〈死神〉、お前はオフサイドの不屈に敗れる日を待つしかないのだわ!分かったら、オフサイドトラップの心から出ていけ!」

 

「…。」

「…ハア…ハア…」

雨が降りしきる中、ローレルは叫びきるとオフサイドの胸から手を離し、力を使い果たしたように両膝を足下についた。

オフサイドは茫然と立ち竦んだまま、ローレルの姿を見下ろすしかなかった。

 

 

 

***

 

 

それから数日後。

オフサイドはローレルと同じく引退に反対している盟友、ナリタブライアンと会った。

場所は、学園の競走場の片隅だった。

 



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〈死神〉のウマ娘(5・過去話)

*****

 

「この間、進退についてローレルと話したらしいな。」

夜の学園。

競走場の片隅の芝生に手をついて腰掛けているナリタブライアンは、穏やかな表情で夏の夜空を仰ぎながら、すぐ傍らにいるオフサイドに話しかけた。

 

「うん。二人きりで、屋上でね。」

オフサイドの方は両膝を抱えるように腰掛け、こちらも先日のローレルと会った時と違い比較的冷静な表情で目線を地面に向けていた。

「私としてはローレルを説得するもりだったんだけど、想像以上に猛反対受けちゃって上手くいかなかったわ。」

「ローレルの奴、今まで見せたことないぐらいの必死さで反対しただろ。」

「よく分かったね。」

その時のローレルの行動を思い返し、オフサイドは吐息した。

「その位私だって分かるさ。お前に対する思いの強さは、あいつは私と同等かそれ以上なのだから。」

ブライアンは夜空を仰ぎながら、深い吐息をするように言った。

 

「ローレルに胸ぐらを掴まれたのは初めてだったよ。」

自分も彼女の胸ぐらを掴んだことは初めてだったと思いつつ、オフサイドは胸のあたりをさすった。

それだけにあの時のローレルの叫びは、心の芯にまで刻みつけられる程強烈なものだった。

「普段は名族令嬢らしい高貴さと堂々さでいるローレルが、あんなことするなんて思わなかったわ。」

 

「それだけ、ローレルにとってお前は特別な存在だってことだろ、オフサイド。」

その時の情景を想像しながら、ブライアンはオフサイドを見た。

「ローレルが大きな試練に直面する度、誰よりもあいつの傍で支えてきた同胞はお前だからな。」

「アハハ、私はそこまでローレルに大したことしてないけど。私はね…」

困ったようにオフサイドは笑ったが、やがて虚しさを感じたような表情になって俯いた。

 

「…2年前、ローレルが再起不能とされた重傷を負った時にお前の支えがなければ、あいつは絶対に復活することはなかったさ。」

俯いているオフサイドを見ながら、ブライアンは続けた。

「多分、ローレルがお前の引退を止めようとした時の様子は、2年前にお前がローレルの諦めを阻止しようとした時と同じだったんだろうな。」

 

「…。」

オフサイドは黙った。

胸中で、2年前のその時を思い出した。

あの時はただ必死なだけだった。

ローレルは自分にとって、もう一つの生命のような存在。

彼女が栄光に輝く瞬間を見届けるまでは生きていたいと思える程の特別な盟友だった。

そのローレルが絶望のどん底に突き落とされ、心が折れるどころか捥がれかかっていた。

その捥がれかかった彼女の心を、自分は無我夢中で叫びながら食い止めて、寸前のところで繋ぎ合わせた。

生きることを諦めていた自分の心も翻して、無謀で途方もない復活への道のりを彼女と共に歩む決意をして。

 

「ローレルが復活を果たしてレースの頂点に立てたその根源には、あの時のお前の姿があったことは間違いないだろ。」

「ブライアン、あなただってそうよ。」

オフサイドはふと懐かしそうに言葉を返した。

ローレルの重傷と時を同じくして、ブライアンも最強の走りを失ってしまう故障を負った。

その巨大な挫折に屈せず、ブライアンは不屈の炎を滾らせて再び最強を取り戻そうと奮闘した。

その姿がローレルの大きな力になったことは間違いないと、オフサイドは言った。

 

「私こそ、お前達二人の不屈の姿に触発されたんだけどな。」

ブライアンは呟くように答えた後、言葉を続けた。

「だけど、やっぱりお前はローレルにとって唯一無二の存在であることは間違いないさ。…私にとっても。」

「…。」

オフサイドはブライアンを見た。

かつて史上最強のウマ娘と称された盟友の眼は、オフサイドの眼を真っ直ぐ見つめていた。

 

 

「あなたが私の引退に反対する理由は何?」

オフサイドは眼を逸らし、再び地べたに眼をやりながら尋ねた。

「ローレルと同じく、私がまだ〈死神〉と闘いきってないと思ってるのかしら。」

 

「ああ、全く同じだよ。」

ブライアンは即答した。

「そして、内心に秘めている思いも一緒だろうな。」

「内心の思い?」

何それ、とオフサイドが聞くと、ブライアンは夜空を見上げて、はっきりとした口調で言った。

「お前に生きてて欲しいという思いに決まっているじゃないか。」

 

「…気づいてたの?」

「逆になんで分からないと思った?」

驚いたオフサイドに、ブライアンは彼女の方を見ずに言葉を返した。

「私達はかけがえのない絆で結ばれた三人だろ。そういう決心をしていることぐらい、すぐに分かる。」

 

「ローレルは気づいているような素振りは…」

茫然と呟きながら、オフサイドはすぐに先日のローレルの様子を思い出し、彼女がそれに気づいていたことを察した。

…そっか、あれだけ必死に私を翻意させようとしてたのは、そうだったからなのか。

 

「お前らしくないな、察しも鈍くなるとは。」

茫然としているオフサイドの表情を見、ブライアンは大きく溜息を吐いた。

 

 

「そうだったのね。でもね、ブライアン、」

しばし茫然としていたものの、オフサイドはやがて表情を自然に戻した。

そして先程までとは違う、淡々と無機物な口調で言った。

「この覚悟は、〈死神〉との闘いを決断した時から決めていたことなの。栄光か帰還か、私にはその二択しかないとね。そして…私は敗れた。当初の決意を翻す気はないわ。それが私の、〈死神〉に散っていった同胞の無念を背負って闘った身としての、責任だから。」

オフサイドは、もうその運命を受け入れていた。

 

「責任、か。」

オフサイドの言葉に、ブライアンは呟きながら膝を抱えた。

普通ならそんな責任感じる必要など全くないし、どんな形であれ生きる道があるのならそれを選ぶのが当然だ。

他のウマ娘なら100人中100人がそうするだろう。

だけどオフサイドは違った。

背負う必要ない責任と贖罪を背負って、帰還を選択するというあり得ない考えでいる。

 

オフサイドは生き残ることだけが目的ではなく、〈死神〉を下した上でレースの栄光を手にし〈死神〉と闘う同胞の無念を晴らすという途方もないものを目的として闘い続けてきた。

それ以下の結果は彼女にとって全て敗北であり、余生を得るに値しないものだった。

 

「…。」

ブライアンは、オフサイドの闘いの日々を思い返した。

自身も故障中に療養施設で彼女とともに療養生活を送っていたが、その闘病の様は壮絶だった。

クッケン炎という〈死神〉の痛苦と絶望が同胞達から夢も希望も奪っていく中、オフサイドもその痛苦と絶望にのたうちまわりながら、屈するどころかその絶望の最深部にまで踏み込んで闘病していた。

 

時には同胞と衝突することもあった。

療養仲間に心を折られそうになったことさえあった。

 

それでもオフサイドは屈しなかった。

〈死神〉に敗れ帰還していく同胞達の最期を看取り、絶望に落とされかかる同胞達を懸命に支え、真っ黒な暗闇の世界で光を探してもがき続けていた。

 

そんな、常軌を逸した闘病を続けていた彼女が、常人とはまるで違う価値観を抱いてしまったことは無理なかった。

 

 

「残された者達はどうなるんだ?」

ブライアンは膝を抱えたまま、ぽつりと尋ねた。

「お前の生き様を心の支えにしていた同胞達は多い筈だ。その者達がお前の帰還を知ったらどれだけショックを受けるか、それは考えているのか?」

 

「それは…申し訳ないと思う。」

オフサイドの表情に、痛みの色が滲んだ。

「でも許して欲しい。私はこんな結果で生きることなんて望んでなかったから。〈死神〉に勝ってないのに生を得るなんて、散っていった同胞達に顔向けが出来ない。」

看取ってきた同胞達の最期の姿が、彼女の脳裏に浮かんだ。

 

「なら、まだ闘えよ。」

ブライアンは膝の間に顔を埋めて言った。

「こんなところで諦めるな。もう一度、地獄のどん底から這い上がってみせろ。」

 

「もう限界なのよ、心も身体も。」

オフサイドは首を振って答えた。

「ローレルにも言ったけど、完全に心が折れたの。彼女の涙の叫びですら心を変えられない程にね。あなたの言葉も、もう私の心に届かなくなってしまったの。」

 

 

「そうか…」

はっきりと言い切ったオフサイドの言葉にブライアンは嘆息し、膝から顔を上げてオフサイドを見た。

「なら、私もお前と一緒に連れていってくれないか。」

 

「え?」

「お前の心が折れてしまったのならば、私も…」

ブライアンの表情には悟ったような決意の色が表れていた。

 

「何言ってるの?」

オフサイドの表情が蒼ざめた。

「何であなたがそんなことを…」

「理由はあるんだよ。」

動揺しているオフサイドに、ブライアンは淡々と言い返した。

「私は、誰よりも大切な同胞と闘病を共にすることを選ばなかったんだから。絶望と闘うお前のすぐ側にいることすらしなかったんだから。」

 

「ブライアン…」

「ずっと後悔してたんだよ。」

ブライアンはオフサイドから眼を逸らし、夜空を仰いだ。

「何故私は、お前と共に〈死神〉と闘うことを選ばなかったのだろうと。三冠ウマ娘の名誉を守る為という理由で引退を選んでしまったのかと。本当は、ずっとお前の側にいたかった。〈死神〉相手に例えボロボロになろうともお前と共に闘いたかった。なのに私は…」

「ブライアン、それは違うよ。あなたの決断は間違ってないわ。私だって、あなたの引退は受け入れ…」

「嘘つくな!」

ブライアンはオフサイドを睨んだ。

その眼には涙が浮かんでいた。

 

ブライアンはオフサイドから眼を逸らし、涙を拭って膝を抱えた。

「お前は、本当は私に引退して欲しくなかったんだ。〈死神〉相手に一緒に闘って欲しかったんだ。そうでなければ、私がお前に引退を打ち明けた時、あんなに悲しまなかった筈だ。私はあの時、気づくべきだった。お前が〈死神〉に勝つ為には、私という存在が必要だったことに。」

「…。」

「引退してしまった今、私とお前の距離は…果てしなく遠くなってしまった。…そして、お前の心は絶望に覆われてしまった。」

膝を抱えてブライアンは嘆いた。

彼女の深い嘆きを、オフサイドは傍らで見つめるしかなかった。

 

 

「…我儘かもしれない。」

静寂が流れた後、再び口を開いたのはブライアンだった。

「〈死神〉相手にあっさり敗北を認めた私が、こんなことを言う資格なんてないかもしれない。だけどそれを分かっていても、私はお前に伝えたい。…まだ闘うことを諦めて欲しくない、生き残って欲しいと…」

ブライアンは顔を上げ、再びオフサイドを見つめた。

「お前は私にとって、夢を託した盟友で、そして…この世界で誰よりも大切な同胞だから。」

 

「…ブライアン。」

「これからは、ずっとお前の側にいるから。お前と一緒に、〈死神〉が撒き散らす絶望と闘ってやる。いや、闘わせて欲しい。私に絶望をぶつけたって構わない。全部受け止めて、お前の心を覆うとする絶望から守ってやる。…だから、もう一度立ち上がってくれ、オフサイドトラップ。」

 

ブライアンの手は、オフサイドの手を強く熱く握り締めていた。

 



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〈死神〉のウマ娘(6・オフサイドトラップ回想話)

 

*****

 

(オフサイドトラップ回想)

 

ローレル・ブライアンと会った後、私は今後の決断について苦悩に陥った。

もう引退=帰還の決意は固まっていた筈だったのに、盟友二人によってそれが動かされてしまった。

 

“不屈において、私はあなたに全く及ばない”

“お前には私が必要だと知るべきだった”

無二の盟友が見せた涙と叫びが、私の心に焼きついてしまった。

 

苦悩している間、私の脳裏には様々な記憶が流れ続けた。

療養施設の地下室で、絶望の嘆きと共に帰還していく同胞の手を握りながら看取っていった記憶。

帰還した同胞の遺体を前に、〈死神〉を倒すことを誓った記憶。

治療の痛苦に何度も帰還したくなりながらそれを耐えた記憶。

 

散っていった同胞の無念を晴らす為、絶望と闘い続ける同胞に未来を見せる為、私は〈死神〉と闘い続けた。

 

だが力尽きて脚はもう動かなくなり、冷たい絶望の地に這いつくばるしかなくなった。

温情でとどめを刺されないくらいなら、この絶望に朽ちてやろうと覚悟した。

もう誰の声も届かなくなって、私はこのまま消えていく筈だった。

 

だけど、ローレルとブライアンの叫びだけは違った。

絶望の闇を貫いて、私の心に届いてしまった。

 

もう私には〈死神〉に抗う力は残っていなかった、その筈だった。

残っていなかった筈なのに、消えかけていた心の炎が再び点灯した。

点灯させたのは二人の叫びだった。

微かな灯でも、それは消えようのない灯だった。

 

これが私の宿命か…

心に灯されてしまった灯火に、私は観念した。

〈死神〉という途轍もない大敵に無謀な闘いを挑んだ時点で、潔く敗北を認めるなどということはもう許されないのかと。

 

 

そして数日後、私はある決意を胸に、二人と再び会った。

 

 

*****

 

 

「…もう一度、闘うことにした。」

 

誰もいない夜の学園の競走場で、オフサイドはその決断をブライアンとローレルに打ち明けた。

「もう諦めきっていたけど、あなた達に心の火を灯されてしまった。だからもう一度、〈死神〉に抗うと決めたわ。」

オフサイドは胸のあたりをさすりながら言った。

 

「良かった、本当に良かったです。」

オフサイドの決意を聞き、ローレルが涙ぐみながら微笑った。

「やはりあなたは不屈のウマ娘。これで諦める筈ないと信じてました。」

「じゃあ何で泣いてるんだお前は。」

「ほっとしただけです。ブライアンさんだって涙ぐんでるじゃないですか。」

「もらい泣きだ。」

 

ブライアンは苦笑しながら目元を拭うと、オフサイドへ腕を差し出した。

「ありがとう、オフサイド。」

「“ありがとう”?」

「私は、もう駄目かと諦めかけてた。でも、お前はまた闘うことを決心してくれた。それへの感謝だ。」

「感謝って、別にそんな」

「感謝だよ。私にとってお前は、唯一無二のかけがえのない存在なのだから。」

 

「唯一無二…私もそうだよ。」

オフサイドも腕を差し出し、ブライアンの腕を握った。

 

やがて腕を離すと、オフサイドは二人を見つめ直した。

「正直、もう無謀以上の闘いだと思う。治ることは無論、例えレースに復帰したとしても今まで以上に絶望と隣合わせになると思う。最悪、レース中に脚が限界を超えて予後不良になる可能性も充分ある得るわ。その覚悟は、私の退路に立ち塞がったあなた達にも出来てるかしら?」

 

「当然です。」

「勿論だ。」

オフサイドの言葉に、二人は静かに頷いた。

頂点を極めたウマ娘に相応しい、覚悟の表情を湛えて。

「結末がどうなろうと、私はお前の闘う姿からは絶対に眼は逸らさない。もしその瞬間が来たとしても、最期までお前の手を握って、散り際を見届けてる。」

「私もです。あなたが還ってしまう時は、その最期まであなたの姿をこの瞳に焼き付けて、永遠に忘れませんから。」

 

「ありがとう。」

二人の言葉に、オフサイドの頬に微かに笑みが浮かんだ。

「なら、私も誓うわ。〈死神〉に、必ず勝って見せるって。最高の栄光を、必ず手にするって。…あなた達から貰った心の炎は、絶対に消さないから。」

 

心が折れかけているからか、言葉も途切れ途切れだった。

それでも、オフサイドはその誓いの言葉を二人に伝えた。

 

 

***

 

私は、最後の闘いを決意した。

それまでと全く違う、心が折れかかった状態での闘いの決意だった。

盟友二人の存在と言葉だけを支えに、私は闘いに踏み切った。

 

トレーナーにも、私は秘めていた決意を明かし、現役続行の許しを請うた。

トレーナーはショックを受けながらもそれを認めてくれた。

 

 

5年目の6月初頭、私は4度目の療養生活に入った。

 

 

 

 

*****

 

 

そして、現在。

 

ブライアン、ローレル…

メジロ家の車中。

窶れた表情のオフサイドはかつての日々を思い返しながら、かけがえのない同胞二人の姿を思い浮かべていた。

 

ごめん、私はもう、あなた達が夢を託したウマ娘じゃなくなってしまったわ…

 

涙も出ない目元に手をやりながら、オフサイドはローレルの姿を思い浮かべた。

ローレル、どうかお願いだから、私に会いに来ないで。

私のこんな姿を見てしまったら、恐らくあなたまで、〈死神〉に侵食されてしまうから。

あなたにだけは生き残って欲しい、だからどうか。

 

身体の奥底からふつふつと溢れ出しかけている〈死神〉の影を感じつつ、オフサイドは心底から願った。

 

 

 

*****

 

 

同時刻頃。

一機の個人専用飛行機が、日本へと向かっていた。

 

「お嬢様、大丈夫ですか?」

「…はあ…大丈夫です…はあ…」

機内には、多くの人間に看護されているサクラローレルの姿があった。

 

「あと…どれくらいで日本に着きますか?」

「まだ数時間かかります。」

「そうですか…遠いですわね…」

 

オフサイドトラップ…待ってて下さい…

未だ治ってない脚の激痛と移動による不安と動悸に気を失いかけながら、ローレルは無二の盟友の姿を脳裏に浮かべ、必死に意識を保っていた。

必ず私が、あなたを〈死神〉から救い出しますから…

 

絶え絶えに呼吸するローレルの胸、そこに当てられている掌の中には、白いシャドーロールが握られていた。

 

 

 

*****

 

 

少し前、メジロ家の別荘。

 

「オフサイドは中山へ発ったと?」

使用人からその報告を聞いたビワハヤヒデは、しまったと唇を噛んだ。

彼女がこんな行動をしてまで三永美久と会うのを避けたということは、やはりもう限界が近いということか。

「オフサイドの後を追いましょう。」

同じく報告を聞いていた美久が、すぐにビワに言った。

「私は彼女に会わねばなりません。会って、絶望が決壊する歯止めにならなければ。」

「分かりました。」

ビワはすぐに了承した。

「使用人の方に車の用意をお願いしますので、あなたは先に向かって下さい。」

「ビワは?」

「私は後ほど岡田トレーナーと共に向かいます。では。」

一刻の猶予もないように早口で対応すると、ビワは芦毛を靡かせて場を去っていった。

 

午後、事態は刻一刻と差し迫っていった。

 



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嵐の中(1)

 

*****

 

 

オフサイドがメジロ家別荘を発ったのと同じ頃、療養施設。

 

施設の一室に、二人のトレセン学園元生徒のウマ娘がいた。

かつて『フォアマン』のチームメンバーで、今日ここに派遣されてきたヤマニングローバルとマイシンザンだった。

 

 

グローバルとマイシンは、療養施設内の現状について相談をしていた。

二人とも既に、先日から現在に至るまでの出来事は全てケンザンなどから聞いて知っていた。

ゴールドの暴露、スズカの帰還未遂、ライスの帰還も。

 

二人とも、かなり険しい雰囲気で相談をしていた。

「想像以上に深刻な状況ですね。」

「ええ。」

「スズカやスペ達よりもむしろ、何も知らない療養ウマ娘達の方が危なそうですね。」

一連の出来事に直接関わっていた同胞達はまだ知っているから耐えることが出来てるけど、関わってないウマ娘達はまだ耐性が殆ど出来ていない。

ある程度の悪い予感は感じているのは明らかだが、その想像以上のことだと知るとどうなるか。

この施設内のことだけでなく、まもなくある生徒会の重大会見まであるのに…

 

「療養施設のウマ娘を一堂に集めて、起きた出来事を伝えるしかないかな。」

額に手を当てながら、グローバルが提案した。

「怪我ウマ娘、病気ウマ娘双方ともですか。」

「うん。沖埜トレーナーや、ダンツシアトル・ミホノブルボンの協力も仰ごう。それしかないと思う。」

 

二人が相談を続けていると、

「失礼します。」

同じチーム仲間だったケンザンが部屋に入ってきた。

 

「ケンザン。関係者達の様子はどう?」

「スズカは沖埜トレーナーや医師達と、スペとゴールドはルソーと同室にいます。危険性はなさそうですが、まだ彼女達は誰も動ける状態にありません。」

先輩二人の質問に答えながら、ケンザンは傍らの席に座った。

「ブルボンは?」

「ブルボンは別室で待機しています。生徒会の方の用事は終わったようで、いつでも動ける用意は出来てると。」

「ダンツシアトルは、快復した?」

「彼女はまだ部屋に篭りっぱなしです。直に会ってはいませんが、どうやら動けそうにありません。」

 

「まずいですね。この状況下、シアトルの協力が不可欠なのに。」

ケンザンの報告を聞き、マイシンは顔を顰めた。

そして、すぐに決心したように彼女は立ち上がった。

「私。シアトルに会いにいってきます。先輩方は、今後の事の用意をお願いします。」

そう断ると、マイシンは部屋を出ていった。

 

 

「大変ね、ケンザン。」

二人になると、グローバルはケンザンにお茶を用意した。

「…ちょっと、私もきついです。」

ケンザンはお茶を受け取り一口飲むと、彼女らしくない大きな溜息を吐いた。

「一昨日の夜中から事態があまりにも動きすぎて…。ライスが帰還してしまったこともまだ受け入れきれなくて、混乱しています。」

「しかも、ここだけが主戦場じゃないとはね。」

「学園の状態も気になりますし、何よりオフサイドがどうなっているか…」

 

それが一番心配であるケンザンは頭を抱えかけたが、それを寸前でやめて顔をあげた。

「でも私は、ここだけでも何とか守れるよう尽力します。まだ力尽きてはいません。」

 

「そう、流石ね。」

長年『フォアマン』のリーダーを務め“精神力のウマ娘”と呼ばれていた後輩に、グローバルは力強い視線を送り、そして唇を引き締めると立ち上がった。

「沖埜トレーナーと会ってくるわ。」

「分かりました。私は医師の先生方に話し、療養ウマ娘達を集める準備をします。」

「了解。」

グローバルは部屋を出ていった。

 

 

ふう…

部屋で一人になったケンザンは、お茶を飲み干すとすぐには行動せず、少し身体を休めるように椅子にもたれた。

まだ気丈に振る舞える力は残っているが、もう心身とも疲弊し切っていた。

昨晩からの一連の出来事は、それだけ衝撃が大きかった。

 

スズカが帰還を図り、寸前でそれは阻止されたが、その代償としてライスが帰還した。

ライスの帰還はもう時間の問題だったことは分かっていたが、本当に帰還してしまったことへの喪失感は膨大だった。

彼女の遺体を目の当たりにした時は意識を失いかけた程だった。

 

今、出来事の関係者達はそれぞれの部屋で待機している。

ただグローバルに伝えたように、動けそうな者は殆どいない。

脚の治療が終わった沖埜トレーナーは動くことは出来るかもしれないが、ウマ娘達は厳しい。

スズカは絶対に動かすことは出来ないし、ゴールドやスペも然り。

ルソーは動けるかもしれないけどさすがに無理はさせられない。

今は、元生徒である自分達が頑張るよりなかった。

 

だが関係者達より、今差し迫っての問題は、療養ウマ娘達の方だった。

言いしれない絶望感が、彼女達の間に立ち込めているのが明らかだったから。

 

…『大償聲』だけは回避させなければ。

昨晩あわや起きかけたそれを呟きながら、ケンザンは眼を瞑って拳を握った。

力を貸して、トウカイテイオー…

ここには派遣されなかった盟友の姿を脳裏に、ケンザンは沈みかける心を必死に保たせていた。

 

 

***

 

 

一方。沖埜に会いに行ったグローバル。

沖埜は特別病室でスズカといたが、グローバルが尋ねてくると病室の外の廊下に出て彼女に対応した。

二人は、グローバルの現役時代に縁があり、以来顔馴染みだった。

 

昨晩の出来事で脚を負傷した沖埜は松葉杖をついていた。

かなり重そうな怪我に見えたが沖埜の表情からそれは窺えなかった。

この状況下において暗い表情はしないという自制心かとグローバルは察し、脚のことには触れなかった。

 

グローバルは、現状のことを療養ウマ娘に伝えようという考えを沖埜に打ち明けた。

「学園の重大会見の時刻も迫っています。こちらでの出来事と関連した内容である可能性は高い。状況が掴めず混乱した中で彼女達がそれをまともに迎えることは危険です。」

 

「分かった。」

沖埜はグローバルの意見を了承した。

「ただ、スズカは彼女達の前に出せる状態じゃない。そこは許してくれるか?」

「それは受け入れます。」

『フォアマン』のメンバーも同様の状態であることを思いつつグローバルは了承した。

「伝えることは我々ウマ娘で執り行います。沖埜トレーナーはスズカと一緒にいて、彼女を護って下さい。」

「分かった。私だけでも何か出来ることがあれば何でも頼んでくれ。」

「ええ、その時は宜しくお願いします。」

 

沖埜の了承を得ると、グローバルは彼と別れた。

 

 

本当に深刻ね…

沖埜と会った後、グローバルは施設内を移動しながら、現状のことを思った。

『フォアマン』メンバーとは言え、部外者であった彼女が岡田の頼みでマイシンと共にここに派遣されたのは今朝。

オフサイドの件でいざという時の協力を岡田から以前より頼まれていたが、それではなくこの療養施設への派遣になった。

 

グローバルもマイシンも重度の故障から復活を果たした経歴をもつウマ娘であり、故障に苦しむウマ娘達からは大きな尊敬を集めていた。

深刻な状況にある彼女達の支えになる為、二人は派遣されたのだ。

 

完全に想定外の急遽派遣であったが、これまで幾多の厳しい経験をしてきた二人は現場の状況に対応しようとしている。

しかし想定以上に、事態が深刻だった。

 

…とにかく、一連の出来事を療養ウマ娘達に伝えることが最優先の重要事項だ。

残り少ない時間のうちにその計画をまとめておかねばならないが、無事に終わる可能性は皆無に思えた。

 

だがどうなろうと、総力をもってあたるしかない。

苦境を実感しながらも、三冠ウマ娘の血を滾らせて、グローバルは心を奮い立たせた。

 

 

やがてグローバルは、怪我専用病棟に着いた。

今一度、療養ウマ娘達の状態を確認する為だ。

 

「やあ。」

「ヤマニングローバル先輩!」

彼女の姿を見た怪我療養ウマ娘達は、口々に驚きの声をあげた。

前述のようにグローバルは重度の骨折から復活したもつウマ娘で、怪我に苦しむウマ娘達には現在でも大きな羨望と尊敬を集めていた。

 

「グローバル先輩、どうしてここに?」

「療養施設の状況がかなり深刻だと言うことを聞いてね。ここに派遣されたの。」

「ではもしかして、…ここ数日施設内で起きている異常なことについて、もう知ってるんですか?」

「…。」

グローバルはそれには何も答えなかった。

 

「…先輩。」

何も答えないグローバルに、療養ウマ娘は眼を見開いた。

その瞳に不安と絶望の色が濃く滲んでいるのが、グローバルの眼にもはっきりと視えた。

 

 

***

 

 

一方。

シアトルの部屋へと向かったマイシンは、部屋で彼女と会っていた。

二人は同期で、現役時代の〈クッケン炎〉発症中は共に療養生活を送っていた。

引退後は会うことは殆どなくなったが時々連絡は取り合っており、それなりに親しい仲にあった。

 

 

「シアトル…」

「…。」

シアトルの部屋。

マイシンはベッドに腰掛けてうずくまっているシアトルの背を叩くように声をかけていたが、シアトルは膝に顔を埋めたまま何も答えなかった。

彼女の眼は泣き腫れていた。

その姿は、ライスの帰還に対するショックを如実に表していた。

 

マイシンも、そのショックと悲しみの深さは分かっていた。

シアトルとライスの間にあった因縁は当然知ってるし、二人のみが分かち合えた苦悩や愛憎というものを深く理解していた。

今のシアトルは計り知れない程の喪失感に覆われているだろうと感じ、マイシンも胸が痛んだ。

 

 

だけど。

「しっかりしな!今は悲しみを堪えて!」

マイシンは悲しみに暮れているシアトルの肩を揺すり、大きな声で言った。

「ブルボン先輩も、ケンザン先輩も、ライス先輩の帰還の悲しみを堪えてこの状況下で闘っているわ!あんたは療養仲間達を救けに来たんでしょう?だったら、その責務を全うしなさいよ!」

 

「…分かってるよ。」

マイシンの強い言葉に、シアトルは顔を埋めたまま答えた。

「だけど、心がそれを許さないの。奮い立たせようとしても、どうしても心が…」

折れてしまっているのか、答える口調も弱々しかった。

 

「弱音を吐くな!あんたはまたあの宝塚での後悔を繰り返す気なの!?」

沈み切ってるシアトルに、マイシンは怒鳴った。

「あんた、あの宝塚で勝者の義務を全う出来なかったことをずっと悔やんでいたのでしょう?そのことでライス先輩を苦しめてしまったと!だったら、今あんたがすべきことだって明白じゃない!心が折れてようがいなかろうが関係ない!」

「…マイシン!あなたは私の気持ちは…」

「今は理解する余裕なんてないわ。この状況を乗り越える為には、あんたの力がどうしても不可欠なのだから!」

 

シアトルに反論すらさせずにマイシンは言い切ると、彼女から手を離した。

「そろそろ時間だから行くわ。どうか力を貸して欲しい。〈死神〉に敗れなかったあんたなら、同胞を絶望から護ることが出来る筈だから。」

項垂れたままのシアトルにそう言うと、マイシンは部屋を出ていった。

 

 

…頼むわ、シアトル。

シアトルと別れた後、マイシンは施設内を移動しながら彼女のことを思った。

前述のようにマイシンとシアトルは同期で療養生活を共にした仲だが、それ以外にも多くの共通点があった。

3冠ウマ娘の血を継承している点。

引退に追い込まれたものの〈死神〉を乗り越えて復活の勝利を挙げている点。

そして、節目の勝利を飾ったレースで悲劇が起きている点も(マイシンが優勝したNHK杯で同期のグロリークロスが故障し予後不良で帰還)。

だから、シアトルの心中の悲しみは他人よりも深く察していた。

 

でも、それを斟酌している余裕はない。

今や療養仲間達にかつてない程の膨大な絶望が襲いかかろうとしているのだ。

 

療養仲間達を護る為には、総力を結集するしかない。

そしてその最大の力になりうるのは、自分でもグローバルでもなく、その他この場にいる錚々たる人間やウマ娘でもなく、シアトルしかいないとマイシンは思っていた。

重度の怪我も病も経験しながらそれを乗り越えて栄光を掴み、その後の現実の残酷さにも屈せずに生き続けているシアトル。

彼女ならば、絶望を払拭する力がある筈だと。

…あんたは、生き残ったウマ娘なんだから。

 

 

 

***

 

 

 

一方、施設内の食堂。

 

昼食の時間はとうに過ぎているものの、そこには多くの療養ウマ娘達が集まっていた。

その一部に、怪我療養ウマ娘達が集まっていた。

しかしその誰もが、表情が暗かった。

 

「昨晩の騒ぎ、なんだったんだろうね。」

「さあ…。でも一昨日に続いて、だよね。」

「悪いことであったことは間違いないね。多分スズカ絡みだろう。」

「スズカか…ということは、例の天皇賞・秋後の騒動を知ったんだろうね。それで、錯乱でもしたのかな。」

「錯乱で済んだかな。もしかすると、今日まだ誰もスズカの姿を見てないということは…自ら帰還したかもしれないよ。」

「…縁起でもないことを」

「その可能性あるよ。スズカはまだ精神的に成熟してない。心に弱点があることは知ってるでしょ?もしあの天皇賞・秋のことに責任を感じてしまったら」

「やめようよ!」

不吉なやり取りに、それを聞いていたウマ娘がテーブルを叩いて叫んだ。

「そんな恐ろしいこと、口に出さないで!ただでさえ最近、施設内の雰囲気が暗いのに、これ以上暗くなるこというのはやめて!心が…折れちゃうから…」

 

 

怪我療養ウマ娘達から少し離れた別の一席には、病気療養ウマ娘達が集まっていた。

 

「ルソー先輩、今朝から姿見えないね。」

「昨晩の騒ぎに関わってたのかしら。…せめて先輩だけでも無事ならいいけど。」

「ここ数日、ルソー先輩はかなり追い詰められてる様子だったね。オフサイド先輩のことやリートのことで、かなり心身にきてるんじゃないかな。」

「まさか、闘病を諦めてしまったりしないよね?」

「その心配は…」

そのウマ娘は否定しかけたが、それを止めて沈黙した。

正直、もうその可能性は否定出来なかった。

故障に長年苦しんでいるウマ娘は突然心が折れることも多い。

ルソーだってそれは例外でないのだから。

「…耐えよう。」

一人のウマ娘が言った。

「どんな事態が起こっていようと、私達は心を保つしかない。そうでなければ絶望の餌食になるだけだわ。今は一人一人、耐えることに全力を尽くそう」

 

 

 

一方。

施設の外の遊歩道では、数人の高学年の療養ウマ娘達が、散歩しながら昨晩のことを話ししていた。

 

「スズカに何かことがあったことは間違いないね。壊れた物音とか沖埜トレーナーの声とか聞こえたし。」

「帰還まではしてないだろうけど、状態が悪化していることは想定出来る。」

「折角ここまで快復したのに…天皇賞・秋後の愚かな風潮のせいでこんなことになるなんて…酷い。」

「スズカだけじゃない。スペにも何かあったみたいだし、ルソーも相当ダメージがきている。昨日からここにいるゴールドも憔悴してるし、あんなに元気だったダンツシアトル先輩に至っては姿すら見えないわ。もう何がなんだか…」

 

「姿が見えないと言えば、」

一人が足を止め、かなりの憂いが見える表情で言った。

「ライスシャワー先輩の姿が、今朝から見えないね。」

 

「ライス先輩…そうだね、全然見当たらないね。」

「先輩と一緒に来ていた筈の美久さんも急に施設を去っていたし。」

「まさかね…。」

杖をついて行動していたライスの姿が頭によぎり、彼女達の脳裏に最悪な予感が浮かんだ。

「いや、そうかもしれないね。ライス先輩の脚、明らかに悪そうだったから。」

 

「…。」

一人のウマ娘が、嘆きの溜息と共にしゃがみ込んだ。

「なんなのよこれ。かつてないぐらい、絶望の嵐がこの療養施設に吹き荒れているわ。私達、一体どうなってしまうのよ…」

 

「…。」

しゃがみ込んだ仲間を見下ろしているウマ娘も不安に覆われた表情で、つとスマホを取り出した。

ニュースを見ると、今学園が執行している天皇賞・秋後の件に加え、一つの重大事が報道されていた。

 

『夕方に学園生徒会が会見予定』

 

「どうなるんだろうね、本当に。」

ニュースを見ながらそのウマ娘は呟いた。

かつてない絶望の嵐が、療養施設だけじゃなく、ウマ娘界全体に吹き荒れているように思えた。

「この嵐を乗り越えられるだろうか…」

 

つと、そのウマ娘は上空を仰いだ。

絶望が吹き荒れているのに、空だけは澄み切った冬晴れが果てしなく広がっていた。

 



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嵐の中(2)

 

***

 

一方、再びシアトルの部屋。

 

「…。」

マイシンが去った後、シアトルはまだベッド上にうずくまっていた。

 

「ライス先輩…」

シアトルは膝を抱えながら声を洩らした。

「なんで、こんなに早く逝ってしまったんですか…」

彼女の唇から洩れるのは悲嘆の声だった。

 

 

昨晩の屋上での出来事の際、シアトルはそれが終わってから現場に到着した。

周囲が騒然としている中で、ただ一人屋上に座り込んで夜空を仰いでいるライスの姿を目の当たりにした時、シアトルは彼女の脚が限界を超えたことを悟った。

 

その後、シアトルは同じくライスの帰還を悟っていたケンザンらと屋上を後にした。

ライスの最期を見届ける勇気はなかったから。

 

そして一人自室で待機する中、ライスの帰還を伝られた。

 

 

こんなに悲しいなんて…

胸中から込み上げ続ける悲嘆に、シアトルは口元を抑えた。

同胞との永別は数多く経験していたし、もうその悲しみにも耐性が出来ていた筈だった。

だけどライスとの永別は、これまでのそれと全く違っていた。

まるで、自身の命の半分を失ったような感覚に襲われていた。

 

それは、あの宝塚記念の悲劇を背負ってきた自分とライスだけが共有していた苦悩があったからだろう。

 

ライスの余命は少ないことは既に周知していたけど、まさかようやくの再会が叶った直後に逝ってしまうとは全く想像してなかった。

その分衝撃が大きかったし、喪失感も大きかった。

 

 

…でも、このままじゃ駄目だ。

悲嘆に暮れながらも、シアトルは必死に心を奮い立たせようとしていた。

私は、苦しい状況に置かれている同胞達を救ける為にここに来たんだ。

その私が、ここで潰える訳にはいかないんだ。

 

『あんたはまたあの宝塚での後悔を繰り返す気なの!?』

マイシンからぶつけられた言葉も、脳裏によぎった。

もう、同じ後悔を繰り返す訳にはいかない…

シアトルはよろよろと身体を動かし、ベッドから起き上がった。

 

 

起き上がったシアトルは、ふと気づいたように、ベッドの枕元に手を伸ばした。

そこには、一通の未読の手紙が置いてあった。

ライスが帰還した後にブルボンから手渡された、自分宛てのライスからの手紙だった。

 

「…。」

崩れかけている心を奮い立たせて、シアトルは手紙を読んだ。

 

 

『ダンツシアトルさんへ

あなたがこの手紙を読む時、おそらく私はこの世にいないと思います。

ライスシャワーの遺言だと思って読んで下さい。

 

私が帰還したことに対し、あなたは深い悲しみに陥っているでしょう。

 

でもその悲しみを堪え、かつてない危機を迎えているウマ娘界の未来の為に力を尽くして下さい。

 

絶望の嵐に晒されようとしている療養ウマ娘達を護って下さい。

幾多の絶望を乗り越え、世の理不尽にも屈せず今日まで生きているあなたは、療養ウマ娘達にとって最大の守護者であることは間違いありません。

 

もし、あなたまでもが絶望に心折れそうになったら、このライスシャワーを思い出して下さい。

決して救われる筈のなかったこのライスシャワーが、あなたに救われたという事実を、心に思い出して下さい。

 

私は、あなたと再び出会えて良かった。

本当に、本当に良かった。

あの宝塚記念の後に生き残れたことに、初めて感謝出来ました。

 

またいつか、向こうの世界で再会しましょう。

私は笑顔で、あなたを待っています。     ライスシャワー』

 

 

「…。」

手紙を読み終えたシアトルは、服装を制服に着替えた。

 

「闘わなきゃ…最後まで…」

制服の胸ポケットにライスの手紙をしまうと、シアトルは重い身体を引き摺るように部屋を出ていった。

 

 

 

***

 

 

 

一方、その頃。

施設外の遊歩道を松葉杖をついて歩いている療養ウマ娘がいた。

ルソーだった。

 

ライスの帰還に大きなショックを受けていたルソーは、病室でゴールドらと共にケンザンに看護されていたが、少し立ち直ったのか或いは心を落ち着かせる為か、表へ散歩に出ていた。

足取りも重く顔色も蒼白だったが。

 

 

やがてルソーは遊歩道傍にあるベンチに着き、それに腰掛けた。

そして、病室から持ってきた手紙…ライスが彼女宛てに書き遺していた手紙を広げた。

 

「…。」

既に病室で一度それを読んでいたものの、ルソーはベンチで再び読み始めた。

 

 

『ホッカイルソーさんへ

天皇賞・秋の後から始まった一連の出来事において、最も辛い状態に置かれているウマ娘は、恐らくあなたでしょう。

これまで幾度となく接した中で、あなたのその苦悩の大きさが窺えました。

 

私は、あなたをその苦境から救い出せる術はもっていませんでした。

いや、私だけでなく、他の誰であろうとあなたを苦しみから解放させることは不可能でしょう。

それだけ、あなたの背負う苦しみは巨大だと感じました。

 

あなたを救えるのは、もうあなた自身しかいないと思います。

 

思い出して欲しいことがあります。

それは2年前の日経賞、シグナルライトの悲劇が起きたレースです。

 

あの時、彼女のあまりにも悲惨な悲劇を目の当たりにした人々は誰もが大きな衝撃を受け、心に深い傷を負いかけていました。

でもあなたは、ウマ娘としてレースを走りきり、そしてレースの勝者としての義務を果たしきりました。

その結果、あのレースが悲劇一色に覆われるのを阻止した。

そして、人々の心に深い傷が負われるのを防ぎました。

 

シグナルライトの悲劇の後、あなたと『フォアマン』のメンバーの間で何があったか、私には全く想像が出来ません。

ただ一つ明らかなことは、あの時あなたはシグナルライトの悲劇に最も悲しんだウマ娘であったことと、その状況でありながら悲劇の余波を食い止めたことです。

 

あの状況下で勝者の義務を果たすことは、並大抵のウマ娘では不可能です。

少なくとも私には出来ないし、考えられない。

しかしあなたはそれをやり遂げた。

 

まだ、あなたの中では、あの悲劇がまだ終わってないでしょう。

それでも、私はあの時のあなたの行動を心から称えたいし、感謝したい。

 

悲惨過ぎる悲劇ゆえにレース映像も封印され、結果のみが残されたあの日経賞で、誰よりも深い悲しみに陥りながら人々を絶望から守る為に必死に行動したあなたは、間違いなくウマ娘の誇りでした。

 

私は信じています。あなたの力を。         ライスシャワー』

 

 

「…ライス先輩。」

ルソーは再読した手紙を胸に押し当てて、雲一つない青空を仰いだ。

青空の彼方に、亡きライスの姿を思い浮かべて。

 

ケンザンやシアトルと違い、ルソーはライスの脚の状態を知らなかった。

悪そうだとは気づいていたが、まさかそこまで深刻だとは気づいてなかった。

だからライスの帰還を聞いた時は耳を疑ったし、彼女の遺体を目の当たりにしてもまだ信じられず、茫然自失としていた。

 

時間が経つにつれ、ライスがこの世を去ったことを少しずつ認識し始めたが、それと共に膨大な悲しみと後悔が胸を浸し始めた。

 

同じ長距離ウマ娘として、ルソーはライスにずっと憧れていた。

学園では接することはなかったが療養施設では療養生活が一時期重なっていたこともあって何度か接していた。

接する中で彼女への憧れも尊敬も大きくなっていった。

ライスもルソーには一目置いており、自身が療養生活を終え喫茶店を開いて以降は頻繁にコーヒー豆を送ってくれるなど、それなりに親しい関係を築いていた。

 

だけど、まさかこんな別れ方になるなんて…

ルソーは目頭を抑えた。

 

秋天の騒動以降、オフサイドのことやスペのことなどで心が荒んでいき、そしてその荒みをライスに何度もぶつけてしまった自身の愚かな言動を、ルソーは悔恨の念と共に顧みた。

ライス先輩自身も苦しんでいたのに…

自分から心ない言葉をぶつけられて打ちひしがれたライスの姿が思い起こされ、ルソーは息が苦しくなった。

 

 

でも…

ルソーは目元を拭った。

今は罪悪感に浸る時じゃない。

自分のおかした過ちの報いは受けなければならないが、その前に私にしか出来ない義務を果たさなければ。

 

ルソーは松葉杖を手に立ち上がった。

 

「…ライス先輩、」

青空の彼方に向け、ルソーは震える声で誓うように呟いた。

「私、最後まで闘いますから…」

 

 

 

その後、ルソーは施設内の自分の病室に戻った。

 

室内にはスペとゴールドと、その二人に寄り添っているケンザンがいた。

「ケンザン先輩、」

戻ってきたルソーは、立ったままケンザンに言った。

「私、これからグローバル先輩達の所に行き、先輩方と今後の対応にあたります。二人を宜しくお願いします。」

 

「そう、分かったわ。」

ケンザンはやや心配そうな表情を浮かべたが、ルソーの憔悴した表情に確かな覚悟の色が滲んでいるのを見るとそれを打ち消した。

「行ってきなさい、ルソー。」

「はい。」

ルソーは痛む脚に力を込めて頷くと、病室を出ていった。

 

 

グローバルのいる部屋に着くと、グローバルとマイシンの他に、ブルボンとシアトルの姿もあった。

「ルソー、来たの?」

「ええ、私はもう大丈夫です。」

ライスの手紙をしまってある胸元に手を当てながらルソーは答えた。

 

「…よし。」

後輩の姿を見、マイシンは唇を引き締めて言った。

「じゃあ、今後の方針について相談を始めよう。」

「はい。」

 

 

 

十数分後。

5人は話し合いを終えた。

 

「では、療養ウマ娘達に集まるよう指示を出します。」

話し合いが終わると、ブルボンが立ち上がった。

「うん、大広間にね、宜しく。」

グローバルが答えながら、シアトルとルソーを見た。

「二人とも、頼んだよ。」

「ええ、」

「覚悟は出来ています。」

 

二人は答えると、ブルボンに続いて部屋を出ていった。

 

 

 

*****

 

 

 

「そうか、そちらは動き始めたか。…ああ、こちらの方も対処にあたっている。…ゴールドの状態は…そうか、明日の有馬はギリギリまで決断を待つと伝えてくれ。…あと、オフサイドの帰還決意のことは、まだ療養ウマ娘達には伏せるように。…まだ全貌が掴みきれない。それがはっきりしたら、こちらからまた連絡する。…じゃ。」

 

療養施設から場所は変わり、メジロ家の別荘。

岡田は療養施設のケンザンに連絡をとっていた。

 

それを終えると、彼はすぐに別荘の外に出た。

 

外ではメジロ家の車両とビワが待機していた。

「待たせたな、行こう。」

「ええ、行きましょう。」

二人は車両に乗り込むと、別荘を出発した。

向かう先は勿論、オフサイドが向かった中山だった。

 

 

「療養施設の方、動き始めたようですね。」

車中、ビワは眼鏡を磨きながら岡田に話しかけた。

「生徒会の方も会見の時が迫ってますし、いよいよ事態は正念場を迎えますね。」

「正念場…そうだな。」

正念場というにはあまりも状況は苦しいがと思いつつ、岡田は頷いた。

「今はただ、現場で闘う彼女達を信じるしかない。」

 

「信じる…」

ビワは磨いた眼鏡をかけ直した。

「信じるというのは、彼女達が事態の悪化を止めてくれるとですか?」

「違うな。」

鞄から薬を取り出した岡田は、それを服用しながら答えた。

「苦しい現場で、自らがすべきことをやり遂げてくれるとだ。その結末に対しては、ただ祈るだけだ。」

岡田の表情に、僅かに苦悶の色が滲んだ。

 

「現場にいない立場というのは苦しいですね。」

岡田の表情を見、ビワも小さく息を吐いた。

療養施設、学園の生徒会。

今最も切迫詰まった状況にある現場に自分はいない。

そのことに、ビワは心中苦しさを覚えていた。

特に、役員の立場にありながら学園の生徒会にいないことが。

 

ビワの言葉と表情に、岡田は彼女の心中を察した。

何も聞いていないが、生徒会内で何かあったらしいということは薄々感じていた。

 

だけどそれは言及せず、岡田は薬をしまうと前を向いて言った。

「私達は、私達の現場で義務を果たしきらなければ。」

「ええ。」

自分達の現場の相手は最も難敵であることを思いつつ、ビワは岡田の言葉に頷いた。

 

 

「岡田トレーナー、」

しばらく経った後、ビワはつと今までの会話時以上に真剣な口調で、岡田に言った。

「前々から考えていたことなのですが、一つ提案したいことがあるんです。」

「何だ?」

「オフサイドトラップとナリタブライアンの関係と、…あの9月27日の事を公表しようと思うんです。」

 

「なんだって?」

ビワの提案を聞いた岡田は顔を歪め、反対するように腕を組んだ。

 

「私自身、悩みました。」

反対の姿勢を示した岡田に対し、ビワは真剣かつ深刻な口調で続けた。

「でも、これを公表すれば世間のオフサイドへの理不尽な風当たり、そして学園に向けられている不信感も変わる筈です。そうすれば、オフサイド自身の決意にも変化が…」

 

「ビワ、」

彼女の言葉を遮り、岡田は腕を組んだまま、視線を車窓の外に目を向けつつ言った。

「ブライアンのことだけならば、彼女と姉妹である君が何を公表しようと干渉しない。だけどオフサイドが関わる事は、やめて欲しい。」

「しかし…」

「あの9月27日、私はその現場にいなかったが、オフサイドに何が起きていたかは想像がつく。そして、ブライアンがオフサイドに何を託したのかもな。」

反論の余地すら与えないように岡田は言った。

 

「…。」

岡田の言葉に、ビワは眼を伏せた。

まだあの日を乗り越えきれてない彼女の目元には涙が滲んでいた。

 

それに気付きつつも、岡田は厳しい口調で続けた。

「その時に起きた事は、絶対に公にしないでくれ。オフサイドトラップとナリタブライアン…この二人だけの、絶対に侵されてはならない世界だから。」

 

 

12月26日、時刻はまもなく夕方を迎えようとしていた。

 




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〈死神〉と墓標(過去録・1)

*****

 

 

オフサイドを乗せたメジロ家の車中。

 

車中、脚の痛みを感じつつ過去の回想をしていたオフサイドは、心身の疲労からか、いつしか眠りについていた。

眠っている最中にも、彼女の脳裏を蠢くのは、過去の記憶だった。

 

 

 

*****

 

 

 

1年前の、7月末。

 

4度目の療養を始めて2ヶ月近く経ったオフサイドは、この日の治療を終え、食堂で一息ついていた。

 

 

「お疲れ様、オフサイド。」

コーヒーを飲んでいるオフサイドに、声をかけてきた療養仲間がいた。

「あ、お疲れロイヤル。」

声をかけたのはオフサイドと同期の5年生、芦毛ウマ娘のロイヤルビームだった。

 

「あなたも今治療終わった所?」

「うん。ちょっと長引いてね。」

立ったまま、ロイヤルは脚をさすりながら答えた。

「痛みが結構残っててね。かなり状態が良くないみたい。」

「そう…大変だったわね。」

オフサイドはロイヤルの脚と表情を交互に見つめた。

「どうしたの?」

「いや、別に。」

質問をかわすと、オフサイドはコーヒーを飲み切って食堂を出ていった。

 

 

オフサイドが出ていった後、ロイヤルはジュースを用意すると、食堂の一席に座ってそれを飲みながら一息ついていた。

「イタタタ…」

一息している最中も、彼女の頬は脚の苦痛で度々歪んでいた。

 

 

「大丈夫?」

痛みに苦しむロイヤルに、後ろから声をかけてきた療養ウマ娘がいた。

 

「…エクス先輩。」

「かなり苦しそうね。鎮痛剤は飲んでるの?」

「いえ、もう飲みたくないんで飲んでません。すみません心配かけさせてしまって。」

「いいのよ。」

声をかけた先輩ウマ娘、6年生の鹿毛ウマ娘のエクスプレスランドは笑顔で答え、労わるようにロイヤルの頭を撫でた。

 

 

「エクス先輩、ロイヤル先輩、お久しぶりです。」

二人のもとに、今しがた食堂に現れたウマ娘が歩み寄ってきた。

 

「あら。」

「どうしてあなたが?」

荷物を手に現れた後輩ウマ娘を見て、二人は怪訝な表情を浮かべた。

「今日から、また療養生活なんですよ。」

「え?」

「…また発症してしまったんです。」

4年生の栗毛ウマ娘のトロストキングは、先輩二人よりも疲れ切った表情で薄く笑った。

 

 

その後、食堂にいた三人は、それぞれの病室に戻っていた。

 

 

 

病室に戻ったロイヤルは、ベッドに横になっていた。

 

ロイヤルの病室には他にベッドが3つあるが、使用しているのはロイヤルだけ。

といっても最初から彼女一人だったのではなく、元々はロイヤル含めて4人で生活していた。

しかし生活していた仲間達は皆、帰還或いは引退し、現在はロイヤル一人になっていた。

 

…もう、限界かな。

脚の痛みに顔を顰めながら、ロイヤルの眼は灰色の天井を見つめていた。

 

 

 

エクスの病室には、彼女の他に数人の病室仲間がいた。

 

仲間達と言葉を交わしながら、エクスはベッドに腰を下ろした。

〈死神〉に冒された脚にはそこまで痛みはない。

むしろ何故か清々しいぐらいの感覚を覚えるほどだ。

そしてエクスの心境も、不思議な程清々しかった。

 

その清々しさを感じながら、エクスはつと眼を瞑った

…スピアー、フライト…

眼を瞑った彼女の瞼の裏には。かつての盟友の姿が浮かんでいた。

 

「エクス先輩。」

「ん?」

眼を開けると、後輩の仲間が松葉杖を手にエクスの前に立っていた。

「リハビリに付き合って貰ってもいいですか?」

「ああ、いいよ。」

エクスは気さくな笑顔で答えて立ち上がると、仲間と病室を出ていった。

 

 

 

トロストが戻った病室にも、後輩の療養ウマ娘がいた。

 

「トロスト先輩、また発症してしまったんですか。」

「まあね、また来ちゃったよ。」

後輩の問いかけに笑いながら答えつつ、トロストは荷物を下ろすと、自らも床に腰を下ろした。

「3ヶ月も持たなかったよ。まあ笑ってちょうだい。」

「笑うなんて…」

「あはは、冗談よ。」

トロストは薄笑いを浮かべながら手を振った。

「ま、そんなに長くいないから安心して。」

 

「え?」

「…。」

不安な反応をした後輩を見ず、トロストはベッドにごろっと横になった。

 

 

***

 

 

一方、先に食堂を出ていたオフサイドは、その足で椎菜の医務室へと向かい、彼女と会って話をしていた。

 

「ロイヤルの病状について聞きたい?」

「ええ、彼女の様子がかなり苦しそうだったので。」

「そう…流石に鋭いね。」

オフサイドの質問に、椎菜は資料を取り出してオフサイドに見せた。

「ロイヤルビームの脚の状態はかなり悪化しているわ。それだけでなく、彼女のメンタルが相当追い詰められてる。今、一番危険な状態だわ。」

 

「…。」

オフサイドは無言でロイヤルの資料に目を通し、それを返してから口を開いた。

「他に、状態が厳しい者はいますか?」

「他は…そうね。」

椎菜は資料をしまうと、険しい表情で腕を組んだ。

「病状はそこまででもないけど、エクスプレスランドかな。」

「エクス先輩が?」

「数ヶ月前からだけど、もう復帰を諦めて引退を決意してるみたいだわ。最近は心の整理をつける為に日々を送っている感がある。」

 

「…。」

「あと、」

眉を潜めたオフサイドに、椎菜は続けた。

「トロストキングが3度目の発症して、今日からまた療養生活を始めるわ。」

それを伝えた椎菜の表情はかなり曇っていた。

「かなり悪いんですか?」

「脚の状態はそこまで重度じゃない。だけど、さっき会ったトロストの様子は、かなり深刻だったわ。メンタル的にはロイヤルやエクスよりも危険かもしれない。」

 

「…。」

療養仲間達の厳しい状況を聞き、オフサイドは大きく息を吐いた。

彼女自身、心が疲労しているのか、あまり表情は良くなかった。

 



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〈死神〉と墓標(過去録・2)

*****

 

 

それから数日後のこと。

 

「オフサイド。」

オフサイドの病室に、松葉杖姿のロイヤルが尋ねてきた。

「ちょっと話いいかな?」

「うん。」

重要な要件であることを察しつつ、オフサイドは頷いた。

 

 

ロイヤルとオフサイドは施設の外に出て、人気のない場所に移動した。

 

「話というのは?」

快晴の元、芝生の地面に並んで腰掛けると、オフサイドは尋ねた。

「うん、」

ロイヤルは一度深呼吸すると、虚空を仰ぎながら、努めて感情を抑えた口調で言った。

 

「私の闘いは、このへんで終わりにしようと思うんだ。」

 

「どうして?」

オフサイドは表情を変えず、普段と同じ口調で尋ねた。

「もう心がもちそうにないの。走れないことが辛過ぎて。」

ロイヤルは、包帯が厚く巻かれた自らの両脚を暗い目で見下ろしながら答えた。

 

 

ロイヤルビーム。

彼女は総合チーム所属のウマ娘。

素質や能力は極めて凡庸なウマ娘だが身体の頑丈さには恵まれており、1年生の夏にデビューしてからは毎月のようにレースに出走し、通算出走数は40戦を超えていた。

成績こそ冴えずレースの格は条件戦止まりだったものの、根っから走ることが大好きなウマ娘であるロイヤルにとっては、楽しく充実した日々が続いていた。

 

だが4年生の春。それまで一度も故障のなかった彼女を悪夢が襲った。

両脚の〈クッケン炎〉発症だった。

 

 

「私は能力も成績も凡庸で、栄光とは全く無縁のウマ娘だったのかもしれない。それでも頑丈さにだけは恵まれて、レースを沢山走ることが出来た。それは本当に楽しくて、例え引退後の未来がなくても幸せな生涯を送れるなと思えてたんだ。…でも、まさかこんなことになるなんてね。」

嘆きを押し殺すように言いながら、ロイヤルは両脚をさすった。

彼女の両脚に取り憑いた〈死神〉は重度のもので、ロイヤルはそれまで想像だにしなかった苦境の日々を送ることになった。

脚の苦痛、それに伴う心の虚無。

それはレースを走ることが生きがいだった彼女を一気に絶望へと蝕んだ。

 

それでも、同期のオフサイドや療養仲間達の励ましを支えとして、彼女は再びレースを走ることを希望に必死に闘病生活を続けてきた。

だが。

 

「脚の状態は一向に良くならない。走りたくても走れない。当たり前だったレースの舞台は遥か夢の彼方になってしまった。…1年以上耐えてきたけど、流石に限界がきたわ。今までありがとう、オフサイドトラップ。」

ロイヤルは、脚を何度もさすりながら言った。

 

「…。」

オフサイドは、ロイヤルのその決断が示すものをすぐに理解していた。

ロイヤルの成績も能力も血統も、このウマ娘の世界の未来の為には到底必要とされないレベル。

ということは、彼女を待ち受ける未来は帰還だということを。

 

 

「まだ、諦めて欲しくないわ。」

決意を表明したロイヤルに対し、オフサイドは首を振った。

「あなたの辛さはよく分かる。限界と感じてしまうのも無理ないわ。私だって何度もそうだったから。」

淡々と柔く噛み締める口調で、オフサイドは語り出した。

 

「そうなの?」

「そうだよ。私はそこまで強いウマ娘じゃないし、諦めることばかり考えていたこともあったわ。でもその心を抑えたのは、レースへの憧れと、その舞台への復帰を果たした時の経験だった。」

 

「復帰果たした時の経験?」

「うん。絶望の歳月を乗り越えて、再びレースの舞台に立った時の感覚。あれは本当に夢のようだったわ。どんな勝利でも味わえない、夢のような感激に満ち溢れていた。あの感覚が、私の心を支えているわ。苦しい歳月も何もかも払拭してくれる、あのターフの踏み心地がね…」

オフサイドはその感覚を思い出すように、微笑しながら言った。

 

「だから私は、闘病仲間達には一度でいいからあの感覚を味わって欲しいと思ってる。一度だけでもその感覚を経験すれば、かけがえのない心の支えになるから。絶対に消えない、心の記憶と支えにね。」

言いながらオフサイドは、ロイヤルの手を両掌で包んだ。

「あなたの絶望の大きさも分かる。でもその絶望を乗り越えた先には、その絶望よりも大きな歓喜が待っていることも忘れてはいけないわ。諦めさえしなければ、その日は必ず来る。だから、まだ限界を受け入れないで欲しい。」

 

「オフサイド…。」

オフサイドの一連の言葉に、ロイヤルは心を動かされたように沈黙した。

 

 

やがて、ロイヤルは無言のままオフサイドの手を解くと無言のまま立ち上がり、松葉杖をつきながらその場を去っていった。

 

一人残されたオフサイドも、胸に手を当てて溜息を吐きながら立ち上がった。

「届かなかった、かな…」

胸中に無力感を漂わせつつ、オフサイドは施設内に戻っていった。

 

 

 

ロイヤルは施設には戻らず、別の芝生道の方へ向かっていた。

 

「…。」

一面に広がる芝生の中に腰を下ろすと、彼女はスマホを取り出した。

そして、保存されている自分の過去のレースの動画を見ていた。

 

『ロイヤルビームきた!ロイヤルビーム内をすくう!ロイヤルビーム先頭に変わった!ロイヤルビーム先頭でゴールイン!デビュー7戦目、遂に初勝利です!』

『ロイヤルビーム粘る!ロイヤル逃げ切りか!後続が来るが粘る粘るロイヤル!逃げ切った!ロイヤルビーム逃げ切り!半年ぶり2勝目!』

『ロイヤルビーム外から迫る!ロイヤルビーム先頭か!激しい争いだ!並んだままゴールイン!僅かに外ロイヤルか!』

 

自分が勝ったレースだけでなく、負けても健闘したレースや惨敗したけど全力で走りきったレース、その映像をロイヤルは見返していた。

その一つ一つの全てが、楽しく幸せでかけがえのない記憶だった。

 

またこの喜びを味わえる日なんて…本当に来るの?

先程のオフサイドの言葉と、痛みを伴い続ける両脚の患部を感じながら、ロイヤルは呟いた。

「来ないよ、永遠に…」

 

スマホをしまうと、ロイヤルは空を仰いだ。

空一面、夏晴れの青が広がっていた。

 



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〈死神〉と墓標(過去録・3)

*****

 

 

そして、翌日の朝。

オフサイドは椎菜の医務室で、ロイヤルが引退を決めたことを告げられた。

 

「昨晩、彼女がその決断を下したわ。もう手続きも全部終わった。ロイヤルビームは今日限りで競走生活を引退し、学園を退学した。」

「要するに、帰還を決断したんですね。」

「うん。もうその手続きも終えてる。今夜、執行するわ。」

「…。」

もう覆すことは出来ない事実を告げられ、オフサイドは腕を組んで表情を伏せた。

 

「彼女のことも看取るの?」

「はい。」

オフサイドは顔を伏せたまま頷いた。

「じゃ、夜にここで待ってて。」

「…。」

淡々と無感情に話す椎菜を無視するように、オフサイドは腕を解くと部屋を出ていった。

 

 

医務室を出たオフサイドが向かった先は、ロイヤルの病室だった。

 

ロイヤルの病室に着くと、既に室内は整理されて殺風景になっており、ベッド上に黙念と座っているロイヤルがいるだけだった。

 

「ロイヤル。」

「あ…オフサイド。」

「決断、してしまったのね。」

オフサイドの声は乾いていた。

 

「うん、ごめんね。」

悲しげに見下ろすオフサイドに対し、ロイヤルは眼を伏せて、謝るように言った。

「私はやっぱり、これ以上の絶望と闘うことは出来ない。これ以上蝕まれたら、まだ僅かに残っている大切なレースの思い出すら侵食されて消えそうだから。せめて、まだ楽しい記憶が残っているうちに、この世界を去ると決めたの。」

 

「もう、その意志は絶対に動かないの?」

「うん、絶対に。これが最善の選択だと確信したから。」

「最善?」

「最善よ。私はあなたのように最強の選択は出来ないから。」

「…。」

ロイヤルの言葉が、オフサイドの心を鈍く刺した。

 

ロイヤルは顔を上げ、やや俯いているオフサイドを見た。

「ちょっとだけ、あなたが羨ましいな。」

「え。」

「あなたには心の支えがあるから。引退したブライアンや、ローレル、『フォアマン』チーム仲間といった心強い存在がね。総合チームの私には、心の底から共に闘ってくれる仲間はいなかったから。」

「…。」

「いたとしても、この運命は変わらなかったかもしれない。それでも、そういう存在を身近に感じてみたかった。選ばれた者たちだけが味わえる仲間意識というものを経験してみたかったな。」

 

「…。」

オフサイドは無言でロイヤルの側に歩み寄り、その傍らに腰掛けた。

 

もう彼女を救うことは出来ない現実を悟りながら、ゆっくりと口を開いた。

「長い間頑張ったね、ロイヤル。」

努めて優しい口調と共に、同期のウマ娘に微笑みかけた。

「今日まで生きてきた中で、心に残っている思い出はある?」

 

「思い出…そうね、やっぱり初勝利を挙げたレースかな。」

オフサイドの問いかけに、ロイヤルも微笑しながら、ゆっくりと噛み締めるように答えた。

「それまでは走ることだけでも楽しかったけど、勝つことでそれが更に楽しくなるということを知って、ますますレースが好きになった。」

「あら、勝負師に目覚めたの?」

「うん。ただ全力で走るだけじゃなくて、作戦を立てる楽しさも覚えた。作戦失敗して大敗したこともあったし、作戦が完璧にハマったのに負けたこともあったけど、それでも楽しかった。レースに真剣に挑んで、全力で走って、本当に楽しかったな。」

 

「羨ましいな。」

感慨深そうなロイヤルに、ぽつりとオフサイドは呟いた。

「羨ましい?」

「だって、私はそこまでレースを楽しんで走れたことないから。必死に走って勝つことに、全力を尽くしてきたから。」

 

オフサイドの言葉に、ロイヤルはクスッと笑った。

「それは、あなたの生まれながらの宿命だからでしょ?」

「宿命?」

「優秀な血統と能力を携えた、栄光と未来の為に闘うウマ娘としてのね。私みたいに、生まれた時から栄光と未来とは無縁を運命つけられたウマ娘とは違うよ。」

「…。」

ロイヤルのその言葉は、再び痛みを伴ってオフサイドの胸に刺さった。

 

「気にしないで。」

またちょっと俯いたオフサイドの肩を、ロイヤルはポンと叩いた。

「別に嫉妬じゃないよ。未来がないウマ娘を宿命つけられた分、私はレースをただ楽しむことに徹しられたからさ。未来がないのは最初から受け入れてたし。悔しいのは、走りきれないまま最期を迎えてしまったことだけどね。でも、楽しい思い出は残せた。それだけでも良い生涯だったかな。」

 

「…ロイヤル、」

オフサイドは思わず、ロイヤルの腕を握りしめた。

「私、あなたのこと絶対に忘れないわ。」

 

「ありがとう、オフサイド。」

ロイヤルも、その腕を握り返した。

「療養生活の間、私を励まし支えてくれたのは嬉しかったわ。あなたのおかげで、ここでの生活も決して絶望だけじゃなかった。あなたはこの絶望を乗り越えて、夢を必ず叶えてね。」

「うん。」

オフサイドはロイヤルの腕に額を当てて、誓うように頷いた。

 

 

 

 

そして時間は経ち、夜遅く。

ロイヤルは患者服から制服に着替え、施設の地下室へと向かった。

 

 

地下室に着くと、椎菜と数人の助手医師が待機していた。

 

「意外と明るい部屋なんですね。」

中央にあるベッドに腰掛けると、ロイヤルは室内を見渡した。

「てっきり豆電球だけかと思ってました。」

「そんなに暗くちゃ何も出来ないわよ。」

椎菜は彼女に飲み物を差し出したが、ロイヤルはそれを断った。

 

腰掛けて心を落ち着かせつつ、ロイヤルはふと尋ねた。

「私の前は、誰でしたっけ?」

「2週間前のシングフォスマイルよ。」

「ああ、シングフォか。」

確か彼女も私と同期で、同じ総合チームの凡庸なウマ娘だったわね…

「シングフォの最期は、どんなでした?」

「…。」

椎菜は答えられないというように無言で首を振った。

ロイヤルはそうですかと軽く頷いた。

ま、向こうで彼女から聞けばいいか…

 

 

やがて。

「…先生、」

一度大きく深呼吸すると、ロイヤルはベッドに横になった。

「心の準備が出来ました。宜しくお願いします。」

 

「分かったわ。」

ロイヤルの促しを受けると、椎菜はいつものように淡々とした手つきで、ベッド上の彼女の身体をベルトで固定にかかった。

 

ロイヤルの身体を固定すると、椎菜は注射器を取り出した。

「いいかしら?」

「ええ、どうぞ。」

ロイヤルは天井に視線を向けたまま、淡々と答えた。

 

「…。」

椎菜はロイヤルの二の腕に注射針を当て、それをうった。

 

 

十数分後。

「…椎菜先生、」

意識の薄れてきたロイヤルは、傍らで寄り添っている椎菜に、最期の力を振り絞って話しかけた。

「…先生は、…ウマ娘のレースを見ていますか?」

「うん、見てるよ。」

「先生の眼には、…レースを走るウマ娘は…どのように映りますか?」

 

「…。」

椎菜は少し考えた後、答えた。

「背負うものを背負って走っているように見えるわ。楽しんで走っているウマ娘も、必死に走ってるウマ娘も、誰もが皆ね。」

 

「…そうですね…私も、…背負っていたかも…しれません…」

ロイヤルは閉じかかる瞳を精一杯見開いた。

「……未来がない…それを宿命づけられたウマ娘として、…少しでも幸せな姿を……皆に見せたかったから…」

「ロイヤル…」

「…でも悔しいな……最後の最後で……絶望に…負けちゃった…」

 

「…。」

椎菜は、事切れかかるロイヤルの手をそっと握った。

ロイヤルは残された微かな力で、椎菜の手を握り返した。

「…もう一度……あの……レースの舞台に…立ちたかった……ターフの感触…味わいたかった……」

まだ僅かに開いている彼女の瞳には涙が滲んでいた。

 

「…でも…仕方ないかな……走りたくても……もう……脚が…脚が動かなかった……から……」

その言葉を最期に、ロイヤルの瞳は閉じた。

 

数分後、ロイヤルの身体はぐったりと力尽き、その生涯を終えた。

 

 

 

ロイヤルの帰還を確認すると、椎菜は手帳に記録を記した。

〈〇〇年7月31日23時20分。第〇〇期入学生・ロイヤルビーム(9歳・5年生)、クッケン炎による未来不良の為、帰還の処置。〉

 

 

 

「…オフサイド。」

記録を記し終わると、椎菜は室内の隅でずっと座っていた医師…医師の姿をしてその一部始終を見守っていたオフサイドを向いた。

 

「…。」

オフサイドはマスクを取り、無言でベッドの側に歩み寄ると、ロイヤルの遺体を見下ろした。

輝きの灯っていた瞳。

言葉を発していた口元。

血の温もりがあった肌。

その全てが失われて、二度と動かない骸になった同胞の姿。

 

「ロイヤルビーム、」

真っ白に冷たくなった亡骸を見つめ、温もりが消えた遺体の胸にそっと手を触れると、オフサイドは無表情で静かに言った。

「絶対に、あなたのことは忘れないから。」

 

 

 

その後。

オフサイドは地下室から病室に戻った。

 

病室に戻ると、同室で療養しているチーム仲間のホッカイルソーが起きて待っていた。

 

「お疲れ様です。」

「…。」

オフサイドは何も答えず、窓の側の椅子に腰掛けると、ルソーが用意していたお茶を一口飲んだ。

 

凍えそうな心に僅かに暖かみが広がると、オフサイドは口を開いた。

「ルソー、」

「はい。」

「時々、栄光を目指す自分達が罪深く感じることってある?」

「え?…私はそんなことは思ったことありませんが。」

「そっか。」

「先輩はそう感じることが?」

 

「ううん。」

ルソーの言葉に、オフサイドは首を振った。

「ただ、絶対に逃げてはいけないんだなと思うことはあるわ。いや、逃げられないのかもしれないけど。」

 

〈死神〉に深く蝕まれている脚と心。

その中で微かに灯り続けている闘争心の炎を感じつつ、オフサイドは呟いた。

 



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〈死神〉と墓標(過去録・4)

*****

 

ロイヤルビームが帰還した数日後のこと。

彼女の帰還の悲しみが濃く残る中、療養仲間達の間に衝撃が走る出来事が起きた。

 

 

その知らせを聞いたオフサイドですら、すぐには信じられなかった。

「何かの間違いじゃないんですか?」

「…いや、本当よ。」

医務室で、椎菜はその事実をオフサイドに告げていた。

「エクスプレスランドが、引退と帰還を決断した。」

 

「エクス先輩、引退だけではなかったんですか?」

「どうやら彼女、余生の引き取り先がなかったみたいなの。私も驚いたけどね。」

彼女自身それが信じられないのか、険しい表情で頭を抱えていた。

「…。」

オフサイドは医務室を飛び出し、エクスの病室へと向かった。

 

 

エクスの病室に着くと、エクスは後輩の病室仲間が見守る中、身の回りの整理を行っていた。

 

「エクス先輩。」

「オフサイド、やっぱり来たのね。」

現れたオフサイドを見て、エクスは静かに笑った。

「どうして、先輩が?」

オフサイドは茫然と立ち竦んで、エクスを見つめていた。

 

 

エクスプレスランド。

彼女はオフサイドの一つ先輩のウマ娘で、療養仲間の中では傑出した実績を持つウマ娘だった。

 

エクスは優れた素質と能力の持ち主で、入学時からそれなりの注目を集めていた。

選抜レースを経て優秀なチームに加入し、デビューを迎えると好成績を連発。

重賞でも好走しクラシックの有力候補にも挙げられた。

 

だが春のクラシック前に〈クッケン炎〉を発症、栄光への挑戦は叶わなかった。

 

それでも半年程の療養生活を経て症状が治まるとレースに復帰。

脚元の不安を抱えながらも奮闘し、重賞の常連になった。

 

しかし4年生になった直後、再度の〈クッケン炎〉を発症。

今度は重度のものであり、以後はレースに復帰することないまま、2年以上に渡り療養生活を続けていた。

 

通算では15戦ほどしか走ってないが実績はオフサイドと遜色ないものを残しており、療養ウマ娘の間では多くの羨望と尊敬を集めている存在だった。

オフサイドもその一人であり、チーム仲間以外では頻繁に接する相手でもあった。

 

 

そんなウマ娘であるエクスプレスランドが、引退を決断した。

それだけならともかく、帰還を選んだ。

これは椎菜もオフサイドも全く想定してなかった。

 

 

「どうして、帰還の選択を?」

「理由は一つしかないでしょ。私には余生を送れる場所がなかった。それだけだわ。」

「先輩程の実績を残したウマ娘が余生を送れないなんて、何かの間違いでは?」

「間違いじゃないわ。トレーナーも手を尽くしてくれたけど、その場所は見つからなかったみたい。ほんの短い期間だけならともかく、残りの余生全てを支えてくれる場所はね。」

 

「バカな…」

「そんな…」

オフサイドも、既にそれを知らされていたらしい周りの後輩ウマ娘達も茫然としていた。

 

「仕方ないわ。」

周囲の仲間達と対照的に、当事者のエクスは非常に冷静な様子だった。

「ある程度覚悟はしてた。私には血統の他に気性難という欠点もあった。それを補う程の実績は挙げれてなかったから。」

 

エクスの血統はそこまで凡庸ではないものの、ウマ娘の未来には特に必要とされない程度のものだった。

また彼女は、人間が苦手という弱点を抱えており、それが余生を送る上で大きな障害となっていた。

彼女が生き残る為には大きな実績を残して、他のウマ娘よりも平穏で自由な余生の環境を手に入れるしかなかった。

しかし彼女が残した実績は、全体的に見ればかなり優秀なものではあったが、その余生を手に入れられる程のものではなかった。

 

「まあ、私はそんなにショックは受けてないよ。」

エクスは整理する手を止めて、周囲の同胞達に笑みを見せた。

「私はそこまで余生に執着はなかったからさ。さっきも言ったように覚悟も出来てたし。第一、どんな生き物でもいつか必ずこの世界を去る運命なんだから。私は、その時を今に選んだだけよ。」

 

「…。」

エクスはそう言ったものの、オフサイドら周囲のウマ娘達は到底納得が出来ないのか、悲しさと無念に満ちた表情を並べていた。

 

 

 

その後、整理を終えたエクスは、オフサイドと病室を出て屋上に移動した。

 

二人は屋上に並んで立った。

「長い間世話になったわね、オフサイド。」

高原の景色を眺めながら、エクスはオフサイドに礼を言った。

「…。」

オフサイドはエクスの決断がまだ信じられないのか、何も答えなかった。

「病室の後輩達を宜しくね。皆忍耐強い子だけど、今回のことでショック与えちゃったから、しばらく面倒見て欲しいの。」

「…。」

 

「どうしたの?」

ずっと黙っているオフサイドを、エクスはちらと見た。

「エクス先輩。」

オフサイドはエクスを暗い表情で見上げた。

「余生の場所がなかったというのは本当なんですか?」

 

「?本当よ。」

エクスは平然と答えたが、オフサイドは言葉を続けた。

「とても信じられません。私以上の実績を残した先輩に、その場所が与えられないなんて。」

「あらあら。私とあなたとでは違うでしょ。私は血統ではあなたに劣るし、気性難も抱えている。それに実績だって、あなたの方が上よ。」

「私は先輩より数多く走れただけです。」

「それも含めて実績よ。全てを総合した結果、私には余生の場所がなかった。あなたとは違うのよ。」

数ヶ月前、撤回したとはいえ、引退しても余生の場所が用意されてたオフサイドと自分を比べるようにエクスは言った。

 

「…。」

オフサイドはつと俯いたが、すぐに顔を上げた。

「でも、何故今になってこの決断を?先輩の脚の状態は、復帰を断念する程深刻なものではなかった筈では。」

「脚はね。心と身体がもう限界なの。」

エクスは少しの悔しさもない、達観したような表情だった。

 

「もう少し頑張れば、復帰だけなら叶うかもしれない。でも、レースで結果を残せる自信はもうないの。かつての走りを体現できる自信がない。〈死神〉に奪われた歳月は余りにも長かったから。」

高原に視線を向けて、エクスは淡々と言った。

彼女は前述のように2年以上の療養生活を送っており、年齢は6年生の高齢になっていた。

「当然、結果が出なくてもレースを走りたいという思いはあるけどね。だけど私は…療養仲間にとって羨望を集めた実績と走りを残したウマ娘として、無様なレースを残すことは許されないと思った。だから、復帰は諦めたの。」

 

「どれぐらい前からですか?」

「1年ぐらい前からかな。復帰よりも〈死神〉と闘う同胞達を支えながら引退までの日々を送ることに決めたの。トレーナーにもその意志は伝えてて、私の余生が送れる場所を探してもらってたわ。」

 

「その場所が、見つからなかったんですね…。」

オフサイドは落胆した表情で溜息を吐いた。

 

「悲しむことはないってば。言ったでしょ?私はその覚悟は出来てたし。むしろ見つかれば幸運だと思ってた位だから。」

慰めるように、エクスはオフサイドの肩を優しく叩いた。

 

 

「…。」

エクスの一連の言葉を聞き、オフサイドは深く考え込んだ表情で、高原の景色に眼をやっていた。

 

「どうしたの?」

「もしかして先輩は、」

エクスの尋ねに、オフサイドは景色に目をやったまま意を決したように口を開いた。

「エクス先輩は、還ることが目的で、療養生活を送っていたのですか?」

「え?」

「先に帰還した、スピアー先輩とフライト先輩の後を追う為に。」

 

「…。」

オフサイドの指摘に、初めてエクスの顔色が変わった。

重い沈黙が二人の間に流れた。

 

やがて。

「流石はオフサイドトラップね。恐ろしい洞察力だわ。」

やや青ざめた表情に、ふっと微笑を浮かべて、エクスは口を開いた。

「最も、最初からそうじゃなかったけどね。私だって、二人の無念を晴らす為に、〈死神〉との闘いを続けてたから。」

そういうと、エクスは空を仰いだ。

込み上げたものを堪えるように。

 

 

オフサイドに同期のチーム仲間が二人いるように、エクスにも同期のチーム仲間が二人いた。

その仲間の名はデンコウスピアーとコスミフライト。

いずれもエクスと同じく優れた素質を持つウマ娘で、チーム仲間として競い合った親友だった。

 

しかし二人とも、既にこの世にいない。

スピアーは3年生の7月に、フライトは4年生の11月に帰還した。

帰還理由は二人とも〈クッケン炎〉による未来不良だった。

 

 

「あなたとブライアンとローレルみたいに、私達三人も栄光の舞台で闘うことを誓いあっていた仲だったわ。でも、次々と〈死神〉の餌食になってしまった。私は一度〈死神〉を克服出来たけど、スピアーとフライトは遂に〈死神〉に勝てないまま、絶望に追い詰められて帰還してしまったわ…。」

亡き仲間との記憶を思い返しながら、エクスは先程までと違い影のある口調で言葉を続けた。

「二人の分も胸に、私はなんとしても〈死神〉に勝ちたかった。ずっとその思いだけで闘い続けてた。でも、私の脚に巣喰った〈死神〉はそれを許さなかった。」

 

「心が折れたのはいつ頃ですか。」

「さっきも言ったように1年ぐらい前かな。5年生での復帰が絶望的になって、それで心が折れた。自分は栄光の舞台には上がれない運命だったんだなって。」

「…。」

「その後はさっきも行ったように、療養仲間達を支えながら、引退後の余生を模索した。それも叶わなかったけど。…でも、もういいかなって思ったの。」

 

「“いいかな”?」

「ここまで頑張ったから、スピアーもフライトも受け入れてくれるかなって思ってね。」

エクスの頬にまた、達観したような微笑が浮かんでいた。

 

「本当に、もういいんですか?」

「オフサイド、あなたと私は違うのよ。」

実績も能力も自らとさほど変わらない後輩に、エクスは静かに言った。

「あなたの仲間は生きてる。でも私の仲間は、もうこの世界にいないのだから。」

 

 

その言葉を残すと、エクスはその場を去り、屋上を出ていった。

 

「…。」

一人残されたオフサイドは松葉杖で身体を支えながら、空の彼方へ沈みゆく夕陽を暗い表情で眺めていた。

 



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〈死神〉と墓標(過去録・5)

*****

 

 

そして、その日の夜。

 

エクスは療養仲間達と別れの挨拶を終えると、施設の地下室へと向かった。

 

 

「椎菜先生、長い間お世話になりました。」

地下室のベッドに腰掛け、差し出されたお茶を受け取りながら、エクスは椎菜に礼を言った。

「私の方こそ…。」

エクスよりもむしろ、椎菜の表情の方が暗かった。

彼女といえど、エクスが帰還しなければいけない事実を受け入れきれていないようだった。

 

お茶を飲みながら、エクスは過去を回想した。

「療養生活は合計で3年余りでしたね。まさか学園生活より療養生活の方が長くなるなんて思いませんでした。」

「ここまでよく頑張ってくれたわ。あなたに支えられた療養仲間も多かった。私からも礼を言うわ。」

「復活を叶えた同胞は現れませんでしたがね。それもちょっと悔しいな。」

エクスは表情を一瞬顰めたが、すぐにそれをうち消した。

「復活の夢は、オフサイドやルソーに託します。彼女達なら、〈死神〉を乗り越える姿を見せられるかもしれませんから。」

 

「あなたにも復活して欲しかったわ。」

「心が折れてしまいましたからね。スピアーかフライトが生きていれば…いや、それは言ってはいけないですね。彼女達も、ギリギリの所まで〈死神〉と闘っていましたから。」

空になったお茶腕を返すと、エクスはふっと微笑した。

「向こうで再会出来たら、二人と一緒に走りたいな。苦痛も絶望もない、走る喜びに溢れた世界で。」

 

「…本当に長い間、よく一人で頑張ったわ。」

椎菜は目元に指を当てた。

溢れそうな感情を堪えているように見えた。

 

 

椎菜の様子を見つつ、エクスは一度大きく背伸びすると、彼女に向き直って言った。

「では、宜しくお願いします。」

 

「うん。」

エクスの促しに、椎菜はその用意を始めた。

他の医師と共に慣れた手付きでエクスの身体をベッド上に固定し、いつものように手袋をはめると注射器を用意した。

 

「…いい?エクス。」

「ええ、どうぞ。」

エクスはその注射器を見ても少しも表情を動かさず、再度促した。

「じゃ…。」

椎菜はエクスの二の腕に注射針を当てると、躊躇せずにそれをうった。

 

 

ふう…

注射をうたれたことを確認すると、エクスは大きく深呼吸して灰色の天井を仰いだ。

 

それからふと、室内の片隅でずっと動かずに状況を見守っている医師がいることに気づいた。

 

…いや、医師じゃない?

医師の姿はしているがその眼光がその醸し出す雰囲気に、エクスは心あたりがあった。

「もしかして、オフサイドトラップ?」

 

「…。」

声をかけられ、医師姿のオフサイドはマスクを外すと、ベッドの側に歩み寄った。

 

「…あなただったのね。」

この地下室で帰還していくウマ娘達を看取っている同胞がいるという噂はエクスも聞いていたが、それが本当だったことに驚いた。

「でも、考えてみればあなたしかいないか。こんなことが出来るウマ娘は。」

凄い同胞だと、エクスの表情に畏敬の微笑が洩れた。

 

「エクス先輩、長い間ありがとうございました。」

歩み寄ったオフサイドは、深々とエクスに頭を下げた。

彼女の表情はかなり硬っていた。

 

「礼を言うのは私の方よ。あなたの闘う姿を見てたから、私もここまで闘うことが出来た。」

固定ベルトを外されたエクスは、硬っているオフサイドの頬に優しく触れながら微笑し、先輩としての最後の言葉を送った。

「あなたも闘いきってね。私とは違う…途轍もない闘いの道程だろうけど…辿り着けるところまで闘い続けなさい。」

「はい。」

「…苦しみを溜め込んでは駄目よ。…苦しくなかったら…必ず仲間を頼りなさい。…あなたの身近には…頼もしい仲間が…沢山いるのだから…」

「はい。」

オフサイドは顔を上げ、徐々に力が失われていくエクスの腕を握り締めた。

 

「…良い生涯、だったかな…」

オフサイドに言葉を送ったエクスは虚空を見つめた。

見開いた瞳に涙が浮かんでいた。

「スピアー…フライト…私、闘いきったよね?……頑張ったよね?……誰も…恨まなかったよ……」

 

途切れ途切れに言葉を呟いた後、エクスは瞳を閉じた。

「…。」

オフサイドはぎゅっと強くエクスの腕を握りしめた。

 

「…さよ…なら……」

眼を閉じたまま、エクスは微かに唇を動かした。

 

それが最期の言葉だった。

オフサイドの両掌に包まれた彼女の腕は、ゆっくりと冷たくなっていった。

 

 

 

〈〇〇年8月4日23時36分 第〇〇期入学生・エクスプレスランド(10歳・6年生)、〈クッケン炎〉による未来不良の為、帰還の処置〉

 

 

 

椎菜が手帳に記録を記してる一方、オフサイドはエクスの遺体の傍らで、冷たくなった彼女の腕を握り続けていた。

 

「オフサイド。」

椎菜はオフサイドの側に寄り、肩に手を当てた。

「そろそろ、エクスの遺体を移動させるわ。あなたは…」

 

 

「…どういうことなんですか?」

椎菜の言葉を遮るように、オフサイドが急に口を開いた。

「…?」

普段の彼女とは違う、険しさと感情がこもった口調に、椎菜の肌が一瞬戦慄した。

 

白布がかけられたエクスの遺体を見つめながら、オフサイドは唇を震わせて、言葉を絞り出した。

「なんで先輩のようなウマ娘が、こんな最期を迎えなければならないんですか?」

「…オフサイド。」

「先輩の挙げた実績は私と遜色なかったのに、確かな輝きをレースで残したのに…足りないんですか?」

「…。」

「おかしい。おかしいです、こんなことは。」

オフサイドの眼が、不気味な紅さを帯び出していた。

 

「…オフサイド、部屋を出な。」

オフサイドの不穏な様子に、椎菜は彼女の肩から手を離すと、地下室から出るよう促した。

 

「椎菜先生!どうして!」

「部屋を出なさい。命令よ。」

「椎菜先生…」

「今すぐ地下室を出なさい。逆らうことは許さないわ。」

オフサイドの言葉を無視し、椎菜は全く無感情な眼と口調で命じた。

 

「…人間…」

冷徹な椎菜の態度に、紅い瞳を光らせたオフサイドの口元から、異様な重みを伴った低い声が洩れた。

 

…!

オフサイドの異様な雰囲気を感じ、椎菜はすぐさま彼女の元から離れると、注射器を握った。

 

「…オフサイドトラップ、今すぐにここを出なさい。これが最後の宣告よ。」

麻酔用だけでなく帰還執行用の注射器を手に握って椎菜はオフサイドを見据え、再度命令した。

「これ以上逆らうならば、私はあなたを危険なウマ娘として対処するわ。」

 

「…。」

オフサイドは紅い瞳を揺らめかせて椎菜を睨みつけたが、椎菜は全く同じなかった。

 

数十秒、緊迫した時間が流れた。

 

やがて。

「…失礼しました。」

紅い瞳を閉じて普段の眼色に戻ったオフサイドは、蒼い表情で椎菜に一礼すると、血が滲む程に唇を噛み締めて、乱れた足取りで地下室を出ていった。

 

 

 

 

数分後。

 

「ただいま。」

「…オフサイド先輩?」

病室のベッドで寝ずにオフサイドが戻ってくるのを待っていたルソーは、戻ってきた彼女の様子が荒れているのに驚いた。

 

「どうしたんですか?」

「ほっといて!」

オフサイドは部屋の隅に松葉杖を乱暴に放るとベッドに倒れこみ、ルソーに背を向けて毛布を被った。

 

先輩…

いつにないオフサイドの荒れ様に、ルソーは心配そうにその背をしばらく見つめていた。

 

やがてルソーは、暖かいコーヒーを用意すると、ベッドで横になったままのオフサイドに差し出した。

 

「これ、どうぞ。」

「…。」

オフサイドは背を向けたまま無視した。

ルソーはそれを彼女の枕元に置くと、自分もコーヒーを用意した。

 

用意したコーヒーを一口飲むと、ルソーはゆっくりと口を開いた。

「ショックですよね。私もです。まさかエクス先輩までが、絶望に敗れてしまったなんて。それも余生の場すら与えられなかったとは。正直信じられないです。」

ルソーは、オフサイドの荒れた胸中を察していた。

彼女自身も、内心では同じだったから。

 

「この世界は厳しいですね。私達にとって、生きる為に闘っている同胞達にとって、あまりにも厳しい。」

「…。」

「でも、闘うしかない。闘わなければ、未来は切り拓かれない。そして、私達の声も届かないのですから。」

 

「ルソー、」

背を向けたまま、オフサイドが小声で言った。

「あなたは、引退した方がいいかもしれないわ。」

 

「は?」

唐突なオフサイドの言葉に、ルソーは呆気に取られた。

「どういう意味ですか?」

「あなた程の実績を収めたウマ娘なら、余生の場所は必ずあるだろうから。〈死神〉と闘い過ぎた末に敗れてしまったら、ウマ娘としての価値が下がってしまう可能性があるわ。そうなると、あるはずの余生の場所が失われてないかもしれない。」

オフサイドの口調は乱れ、澱みかかっていた。

 

…大分参ってるようですね。

オフサイドの言葉と口調に、そう感じたルソーはオフサイドの側に歩み寄ると、コーヒーの杯を抱えながら枕元の椅子に腰掛けた。

「余生を送ることが目的ならば、私はとっくに引退してますよ。」

ルソーがレースで挙げた実績はエクスやオフサイドと比べてもかなり高く、長期療養中のウマ娘の中では随一といえる程のもので、例え今引退しても余生が安泰であることは明白だった。

 

「だけど私の目標はそれではありません。あくまでも目指すはレースの栄光です。それがこのホッカイルソーの宿命ですから。オフサイド先輩と同じくね。」

 

「…。」

「それだけではありません。療養仲間に希望ある未来を見せる為にも。何より、亡きシグナルライトに笑顔を届ける為にも。」

ルソーは胸にある盟友の写真に手を触れ、言葉を続けた。

「その為に、私は闘い続けます。例え余生が失われることになろうとも構いません。〈死神〉の魔の手、この世界の過酷さ、その中をもがいてあがいて、闘い続けます。」

 

「ルソーは強いね…」

背を向けたまま、オフサイドは呟いた。

エクスの帰還はルソーにとっても大きなショックの筈なのに、それでも毅然とした姿勢を変えないのだから。

 

「別に、私は強くはありません。」

ルソーは横になっているオフサイドの背に手を触れた。

帰還していく同胞達を看取ってまで〈死神〉と対峙しようとする先輩程には…

 

だがそれは口にせず、ルソーは静かに力強く言った。

「闘いましょう。どれほどの絶望が私達を覆ってこようとも、希望の光を掲げ続けて。」

「…。」

オフサイドは何も答えなかった。

 

ルソーもそれ以上は何も言わず、やがてコーヒーを飲み切ると部屋の電気を消し、自分のベッドに横になった。

「おやすみなさい先輩。また明日。」

 

「…おやすみ、ルソー。」

唇に滲んだ血を指先で拭いつつ、毛布を被ったオフサイドは眼を瞑り、やがて眠った。

 



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〈死神〉と墓標(過去録・6)

******

 

 

『先頭は〇〇!追うのは〇〇と〇〇と〇〇!更に後続も押し寄せた!ゴール前は一人除いて混戦だ!〇〇僅かに先頭でゴール!その直後4、5人が入線!激戦になりましたが勝ったのは〇〇です!いいレースでした!…おっと、大きく遅れていた最後尾、トロストキングが今ようやく入線です!』

 

「…希望なんて、なかった…」

真っ暗な病室内。

ベッドの中で自らのレース映像を振り返っていたそのウマ娘の眼には、一点の輝きも残っていなかった。

 

 

*****

 

 

エクスプレスランドの帰還から数日経った。

 

相次ぐ療養ウマ娘の帰還に、療養施設の空気は非常に重苦しいものになっていた。

特に療養ウマ娘を支える存在でもあったエクスの帰還の影響は大きく、療養ウマ娘達の動揺は目に見えて明らかだった。

彼女達の精神的支柱であるオフサイドとルソーもその影響を受けており、誰もが心身共に厳しい状況に直面していた。

 

 

 

その日。

施設の外では、朝から雨が降りしきっていた。

灰色の空に覆われた外の景色は、ただでさえ暗くなっていた療養ウマ娘の心を更に重たくしていた。

 

「…。」

その雨空を、オフサイドは施設の外にある遊歩道のベンチから見上げていた。

彼女の瞳には憔悴の色が滲み出していた。

 

オフサイドが4度目の療養生活を始めてから1ヶ月半以上経った。

ローレルとブライアンの支えを受けて決意した、最後の闘い。

脚の状態は悪く、復帰の目処は全くたっていない。

長年にわたる闘病の疲労も身体に感じてきてるし、その分絶望も大きくなっている。

更には慕っていた先輩のエクスまでが帰還した影響か、心の折れ具合を深く感じるようになった。

 

「…。」

オフサイドは胸に手を当てた。

闘病生活を始めたものの、その当初から折れかかっていた心はまだ快復していなかった。

今の彼女を支えているのは、ローレルとブライアンが灯した心の炎だけ。

自らの闘争心が蘇ってない分、現状に蠢いている絶望に対抗する気力が弱々しかった。

 

それでもオフサイドは、以前までと同じように療養仲間達を支え、帰還していく同胞を看取る行動を続けている。

心が折れかかった状態でも、身体と頭は動かし続けていた。

それは、〈死神〉という絶望と真っ向から闘い続けようというオフサイドの闘争心が消えきってないことの証明でもあった。

 

 

「オフサイド先輩。」

雨の中、松葉杖をつきながら傘をさして遊歩道を歩いてくるウマ娘がいた。

ルソーだった。

 

「やはりこちらにいましたか。」

「ルソー。治療は終わったの?」

「ええ、滞りなく。」

受け答えをしながら、ルソーはオフサイドの傍らに座った。

 

自販機で買った飲み物を口にしながら、ルソーは尋ね返した。

「先輩の方こそ、具合はどうですか?」

「脚は可も不可もない状態だけど。」

「脚ではなく、心の方です。」

ルソーは庇から雨空を見上げた。

夏だというのに、妙に冷たさを感じる雨だった。

 

「心…」

頬杖をつきながら、オフサイドも雨空を見上げた。

「かなり苦しい。」

チーム仲間であるルソーに、オフサイドは正直に答えた。

「エクス先輩の帰還は堪えたわ。その前のロイヤルも、更にその前のシングフォ(7月14日帰還)も。帰還していった同胞達の無念が、心に一気にのしかかってきたわ。」

 

「…。」

帰還していく同胞を看取ったことなど当然ないルソーは、その重圧を想像しただけで表情を顰め、そして言った。

「もう、同胞の最期を看取るのはやめた方がいいのでは?」

 

これまでで何十人、4度目の療養生活から数えても既に5人以上、オフサイドは同胞の帰還を看取っている。

「今の先輩の状態で、あまり精神的にきついことを執り続けるのは、正直危険だと思います。」

後輩としてチーム仲間として、むしろ願うようにルソーは言った。

 

だが、

「やめないわ。」

雨空を見上げたまま、オフサイドは即答した。

「これは、私が〈死神〉に勝つ為には、絶対にしなければいけないことだから。」

 

「ですが…」

「心配はいらない。心の状態が苦しいのは事実だけど、折れきってしまうことはないから。」

ルソーの反論を封じるようにオフサイドは言葉を返した。

 

「“折れきってしまうことはない”?」

「私の心には、決して消えない火が灯り続けているから。」

ブライアンとローレルに灯されてしまった炎がねと、オフサイドは胸をギュッと掴んだ。

「これがある限り、私は絶望には屈しない。栄光への希望も未来への希望も抱き続けられる。〈死神〉と闘い続けることだって。だから、大丈夫。」

 

ブライアン先輩とローレル先輩…

オフサイドの返答を聞き、ルソーは唇に指を当てた。

直接聞いてはいないが、オフサイドが引退せずに闘病生活を選んだ背景にその二人の存在があることは当然気づいていた。

その二人の支えは、確かに〈死神〉に対抗しうるであろう強力なものであるということも。

 

「ならば、もう心配はしません。」

ルソーはほっと息を吐いて頷き、そして続けた。

「苦しい状況ですが、乗り切りましょう。希望を信じて。」

 

「そうね。」

胸を掴んだまま、オフサイドも頷き返した。

「諦めなければ、希望を持ち続けてさえいれば、絶望に屈することはない。生きていこう。」

 

合言葉のように力強く言うと、オフサイドは立ち上がった。

「病室に戻りますか。」

「いや、雨の中を少し散歩する。」

「そうですか。今日の雨は冷たいですから、身体を冷やさないように。」

「うん。」

オフサイドはルソーと別れ、遊歩道を歩き出した。

 

 

 

変ね…

松葉杖をついて遊歩道から芝生道を歩きながら、オフサイドは傘に落ちる雨粒の音に首を傾げた。

ルソーの言うように、降りしきる雨は妙に冷たさを感じるものだった。

心身の状態が苦しいからそう感じるのかもしれないが、それにしても冷たさが肌に響いた。

 

 

すると。

「…?」

オフサイドはつと脚止めた。

雨が降りしきる中、傘もささずに芝生の中で佇んでいるウマ娘の姿を見つけたから。

 

「どうしたの?」

「…あ。」

オフサイドが歩み寄って声をかけると、そのウマ娘は雨筋が伝う表情でオフサイドを振り向いた。

「こんなに濡れてしまって…身体が冷えてはよくないわ。」

オフサイドは傘を彼女の頭上にかざした。

 

「…ほっといて下さい。」

そのウマ娘はすぐにオフサイドから表情を逸らすと、低い声を出して答えた。

オフサイドの胸にも響くような冷たさを伴って。

 

「トロスト…?」

オフサイドは思わずぞっとした。

雨に濡れた彼女の表情には、一寸の希望もないことに気づいたから。

 

 

雨に濡れていた療養ウマ娘の名はトロストキング。

数年前から〈クッケン炎〉発症と復帰を繰り返しているウマ娘。

先日3度目の発症をし、1週間程前から療養生活を始めていた。

 

そのことはオフサイドも周知しており、そして椎菜から彼女のメンタルの状態がかなり危険だということも聞いていた。

ただロイヤルやエクスの事が相次いで起きていた為、彼女へのケアはまだ特に行っていなかった。

とはいえ、オフサイドはトロストのことはあまり心配していなかった。

椎菜が彼女の病状はそこまで悪くないと言ってたからでもあるが、それよりも、トロストはオフサイドのことを深く慕うウマ娘であり、〈死神〉を倒すという熱意が強いウマ娘でもあったから。

 

 

 

トロストキング。

彼女は優秀なウマ娘ではない。

先に帰還したエクスよりは無論、同じ総合チームに所属していたロイヤルよりも遥かに、実績は劣っていた。

4年前に入学した彼女は、血統も能力も全く冴えず、おまけに脚にもメンタル面にも不安を抱えているという、典型的な落ちこぼれのウマ娘だった。

 

1年生の秋にレースデビューしたものの、人気も評価も当然のように最下位で、そして結果も惨敗。

二桁着順なのに善戦と褒められる始末だった。

だが2戦目の新バ戦でトロストは低評価を覆して勝利を収め、にわかに注目を集めた。

 

しかしその後のトロストは、勝つどころか一桁着順が精一杯で、最下位も含めた惨敗を繰り返した。

彼女の新バ戦の勝利はフロックと断定されて注目も一気に褪せていき、トロストの評価は元の落ちこぼれに戻った。

 

トロストはその低評価を再び覆すことも出来ないまま、2年生の春に元々不安を抱えていた脚部に〈クッケン炎〉を発症。

同期のホッカイルソーなどがクラシックで華々しく活躍してる頃、無念の療養生活に入った。

 

 

トロストのような状況のウマ娘ならば、そこで諦めてもおかしくない。

実際彼女も当初は諦めかけていた。

しかし彼女に救いの腕を差し伸べたのが、当時から〈死神〉と闘っていたオフサイドだった。

 

オフサイドに励まされ、トロストも闘病を始めた。

諦めなければ、絶対に報われる時が来ると信じて。

そして3年生の初頭、トロストは〈死神〉を乗り越えて復帰した。

 

 

だが、その後しばらくレースを走ったものの好成績は挙げられず、トロストは2度目の〈クッケン炎〉を発症した。

本来なら、ここでトロストは終わりの筈だった。

しかし彼女は諦めなかった。

不屈も希望も捨てなかった。

 

そして1年に渡る闘病生活を乗り越えて4年生の春、トロストは再びレースに復帰した。

驚異的としか言いようのない復帰劇だった。

 

 

だがやはり、その後数戦を走ったものの結果は報われず、トロストは3度目の〈クッケン炎〉発症した。

 

 

そして今、彼女が3度目の療養生活を始めてから、一週間の時が経とうとしていた。

 

 

 

今、雨に濡れて佇んでいるトロストの姿は、全ての精魂を使い果たしたように映った。

直視することすら躊躇う程の、希望も何も感じない虚な表情。

オフサイドも彼女にかける言葉が見つからなかった。

 

だが、雨に濡れ続ける彼女の姿を見て、再び傘をかざしながらオフサイドは口を開いた。

「雨に濡れるのは良くないわ。施設に戻りなさい。」

「構いません。放っておいて下さい。」

「駄目。例えあなたが良くても、あなたのこの様子を視る者達の心象にとっては良くないわ。」

 

「視る者の心象、ですか。」

ふっと、トロストの口元に歪んだ笑みが浮かんだ。

「別にいいじゃないですか。私のこんな姿を見たことで誰か絶望する訳でもないですし。」

「屁理屈は言わないの。とにかく濡れるは身体に良くないから、せめて傘は」

 

 

「ほっといてと言ったでしょう!」

突然、トロストは大声で叫ぶと、オフサイドの差し出した傘を払い退けた。

衝撃で傘はオフサイドの腕から離れ、雨に濡れた芝生の上に転がった。

 

「…?」

「もうやめて下さい!」

腕を抑えて茫然としているオフサイドに、トロストは雨でびしょ濡れになった表情を向けて叫んだ。

「これ以上、私を先輩の絶望に誘うのはやめて下さい!」

抑えきれない嘆きと嫌悪感が含まれた口調だった。

 

私という絶望…

「…どういう意味?」

傘を拾わず、オフサイドも雨に濡れながら、努めて冷静な視線をトロストに向けた。

「言葉通りの意味です。」

オフサイドに向けられたトロストの視線は、完全な敵意の色を帯びていた。

「もう私は、長い悪夢から覚めたんです…」

 

「悪夢…」

「ええ。あなたという存在の悪夢から。」

 

降りしきる雨よりも冷たい言葉が、オフサイドに浴びせられた。

 



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〈死神〉と墓標(過去録・7)

 

「…2年前の春でしたね、先輩と初めて会ったのは。」

 

雨の中、対峙するように向かい合ったトロストとオフサイド。

頬を伝う雨筋を指で払いながら、トロストは言葉を出した。

「惨敗が続いた上〈死神〉にまで罹って、全てに絶望しかけていた私に先輩は声をかけてくれた。…覚えていますか?」

 

「覚えてるわ。」

雨にうたれたまま、オフサイドは即答した。

「あなたの病室でね。確かあの日も小雨が降ってたわ。」

 

「そうです。あの時、私は自らの状態を包み隠さず先輩に話した。」

ただ1度フロックで勝てただけで、なんの能力もないウマ娘であることを自覚してること、その絶望が大きくて闘病する気力がない、どうすればいいのか…

「それに対する先輩の答えは…」

 

 

 

*****

 

 

2年前、療養生活を始めて間もないトロストとオフサイドの会話。

 

「目標や夢を抱くことが大切?」

「そう。成し遂げたい目標、叶えたい夢。それを持てば、絶望と闘うことができるわ。」

 

「どうしてですか。」

「夢や目標は希望になる。そして希望は生きていく力になる。この〈死神〉にも抗いうる力にね。私もそれを抱くことで、闘病を続けているから。」

「はー…じゃあ、先輩の抱く夢や目標って、どんなものですか?」

 

トロストの問いに、オフサイドは笑顔で即答した。

「それは勿論、レースの頂点に立つこと。」

「えっ?」

「それ以外ないわ。私はその夢をもって、〈死神〉と闘い続けてる。」

 

「頂点…」

トロストは驚きながら、更に尋ねた。

「それは、本気で叶えられると信じてるんですか?」

「うん、叶えられると信じてる。」

 

「はー…」

自信込めた口調で答えたオフサイドを、トロストは羨望するような眼で見上げた。

「私は、そんな大きな目標は抱けないです。」

「大小は関係ないわ。大切なのは生きていく力になれるような目標を持つことだから。」

 

「…はい。」

オフサイドの言葉に、トロストはしばし考え込んでいたが、やがて意を決したように言った。

「じゃあ私も、目標を見つけます。そして、頑張って〈死神〉と闘います!」

 

 

 

*****

 

 

現在。

 

「私が抱いた目標は“もう一度勝つこと”でした。初勝利の時のようなフロックではなく、誰にも文句を言わせない完璧な勝利を手にする。それが、私の生きる力になれる目標でした。」

トロストは自らの手を握り締め、それを見つめながら言った。

「そして、先輩や仲間達に支えられながら、半年以上の闘病を経て、私はレースに復帰することが出来た。目標を必ず叶えるという強い心が、私をそこまで導いてくれました。そう、そこまで…」

 

「…。」

トロストの口調の力の込め方に、オフサイドは僅かに表情を動かしたが、何も言わなかった。

 

「…でも、」

トラストは視線を、雨に濡れた足下に向けた。

「私を待ち受けいたのは、自分というウマ娘の現実でした…」

 

 

 

復帰を果たしたものの、トロストは前述のように未だフロックとされた1勝のみの上、他のレースは殆ど良い所がなかったウマ娘。

いち早く結果を残さなければならない立場にあった。

厳しい立場を自覚しながら、トロストは夢を持って復帰レースに挑んだ。

“今度こそ本当の勝利を手にする”と、胸に強い意志を抱いて。

 

しかし結果は、二桁着順の惨敗。

故障明けのレースとはいえ、全力で挑んだにも関わらずこの成績だった。

 

その後、トロストは間隔を空けずに次々とレースに挑んだ。

本来なら故障明けである点ローテは慎重になるべきであったが、トロストの置かれた状況がそれを許さなかった。

せめて好成績でも出さない限りそれは変わらない。

いち早く結果を出す為に、トロストはレースを走り続けた。

しかし、着順は上がっても勝ち星には程遠い成績と内容が続いた。

 

そして、間隔を詰めて挑み続けたレースの代償はやがて脚に現れ始めた。

それとともに、成績は更に悪化していった。

それでも、苦痛に歯を食いしばってトロストは走り続けた。

目標を叶える為に、生きる為に。

 

しかし、彼女を待ち受けていたのは非情な現実だった。

復帰から5ヶ月後、トロストは再び〈死神〉を発症した。

 

 

 

「あの時、私は諦めるべきだった。いや本当は、私はもう諦めていました。」

雨の中、トロストは眼を伏せた。

復帰後、僅か4ヶ月程の間で10戦近く走った。

脚の苦痛が激しくなる中、死に物狂いで走り続けた。

なのに、全く報われなかった。

「レースに復帰したのに、なんの喜びもなかった。自分の置かれた現実…その残酷さを思い知らされただけ。もう疲れきって、再度の〈死神〉発症後、私は帰還を決意していました。」

 

「でも、それを止められてしまった。…またしても、オフサイド先輩に。」

 

「…。」

雨筋を拭いもせず、オフサイドは眼を伏せた後輩を見つめ続けていた。

 

 

 

***

 

 

1年前。

2度目の療養生活に入ったばかりのトロストと、オフサイドの会話。

 

「全然駄目でした。8戦して入着が1回だけ。期待に応えられずすみません。」

「謝ることなんてないわ。あなたは全力で走り続けたのだから。」

「でも、なんの結果も残せずに終わりました。もう、これが限界かなと思っています。」

 

トロストの言葉は、暗に諦めの意志を示していた。

それを察したオフサイドは、言葉を返した。

「まだ、あなたはやれるわ。」

 

「…はい?」

「あなたが掲げた目標の“もう一度勝つ”という目標は叶えられると、私は思ってる。」

 

「…そう言える根拠は何ですか?」

トロストが呆れたように尋ねると、オフサイドは答えた。

「絶対に不可能だと思った夢を叶えた同胞を、間近で見てきたから。」

 

「…サクラローレル先輩のことですか?」

「うん。彼女が味わった絶望と現実は想像を絶する程のものだった。でもそれを乗り越えて、ローレルは頂点を掴んだのだから。」

 

「…ローレル先輩の場合は幸運もあったじゃないですか。」

折れた骨が奇跡的に繋がるという幸運がと、トロストが指摘すると、オフサイドは首を振った。

「その幸運をもたらしたのは、ローレルの不屈だわ。絶望のどん底に落ちても彼女は諦めなかった。その不屈の心が奇跡を起こしたんだわ。」

 

だからと、オフサイドはトロストの頭に優しく手を置いた。

「諦めさえしなければ、夢は叶うと私は信じてる。そう信じて、私も闘い続けてるわ。あなたも、諦めさえしなければ夢は必ず叶うわ。」

 

「…でも私は、故障だけじゃなくレースの内容も散々なんですよ。」

「能力も成績も落ちこぼれだったウマ娘が突如覚醒することは珍しいことじゃないわ。タマモクロス先輩みたいにね。あなたにもその可能性がある。」

「その可能性は千に一ぐらいのものですよ。私は到底…」

 

「何も、実績を残すだけがウマ娘の生きる道ではないわ。」

暗い様子のままのトロストに、オフサイドはつと話題を変えた。

「走る姿、闘う姿を見せるのもウマ娘の生きる道の一つ。結果関係なく、その姿が見る人々達の心に響くものだわ。その結果、幸せを手に入れたウマ娘だって数多い。キョウエイボーガン先輩のようにね。」

 

あの有名な菊花賞で、大惨敗したとはいえ全てを出し切ったボーガンの姿が、一人のファンの心を動かし、余生をもたらしたことをオフサイドは話した。

「だから、まだ諦めてはいけないわ。どんなに少なくとも、見てくれてる人・応援してくれる人は必ずいるから。」

 

「見てくれてる人…ですか。」

…本当にいるのかな。

オフサイドの言葉に心を動かされながらも、トロストはまだ暗い表情だった。

 

すると、

「少なくとも、ここに一人いるわ。」

オフサイドはふっと笑った。

 

「え?」

「私はあなたのレースを全部見てたわ。」

驚くトロストに、オフサイドは笑顔のまま頷いた。

「…本当ですか。」

「本当よ。あなたの全力でレースに挑む姿を見ることで、〈死神〉と闘う気力を貰ってたの。」

 

「…先輩。」

笑顔で打ち明けたオフサイドを見て、トロストは思わず胸が込み上げ、両手で顔を覆った。

 

 

 

***

 

 

「あの時のオフサイド先輩の言葉、本当に嬉しかったです。」

再び、現在。

トロストの表情には一片の笑みもなかった。

 

雨脚が強くなってきた中、トロストは濡れた髪をかきあげた。

「でも私は、あの時気づくべきでした。先輩の言葉は、深い絶望への誘いだったことに。」

 

「…。」

オフサイドは雨に濡れたまま、依然として微動だにせずトロストを見据え続けていた。

松葉杖に支えられている彼女の姿が、一瞬死神のように映った。

 

「先輩の言葉に絆され、私は諦めていたのに闘病を決意してしまった。現実ではもう詰み切っていたのに、無謀な活路を探して。そして、私はそれを見つけてしまいました。…最悪の絶望が待ち受けているとも知らずに。」

 



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〈死神〉と墓標(過去録・8)

 

2度目の闘病生活を始めたトロスト。

脚に巣食った〈死神〉の状態は1度目より重く、復帰出来るかも不明であり、例え復帰出来るとしてもかなりの期間がかかることは明白だった。

そして復帰出来たとしても、もう彼女に出れるレースがあるかどうかも不透明だった。

 

しかし、その過酷な立場に置かれながらも、トロストは心折れず闘病を続けた。

オフサイドから言われた希望・夢・不屈の言葉を信じて。

 

 

そして約1年後の4月、トロストは再び〈死神〉を撃退し、レース復帰を果たした。

 

復帰を果たしたものの、トロストは主な実績が1勝のみで他は皆無に等しい4年生。

そんな落ちこぼれの中堅生徒の立場である彼女には、出れるレースの舞台すらもう限られていた。

 

それはトロストも覚悟していた。

そして、状況的に追い込まれていた彼女が見出した活路は…

 

 

「…障害戦。もうそこしか、私の活路は残っていませんでした。」

 

 

障害競走。

飛越能力が卓越したウマ娘が主戦とする路線である一方、平地のレースで結果を残せなかったウマ娘達がラストチャンスとして挑戦する最果ての舞台でもあるレース。

トロストはそこに、自らの最後の活路を見出した。

脚部の故障に苦しんでいる彼女にとってはどう考えても危険な挑戦だったが、もうそこ以外に活路はなかった。

 

 

そして、彼女は脚部に爆弾を抱えた状態にも関わらず障害試験をクリアし、障害レースの舞台に立った。

 

迎えた障害初戦。

障害戦は一度も勝利を挙げたことがないウマ娘も多い中、フロック扱いされてるとはいえ1勝を挙げているトロストは初めて上位人気に推された。

 

そしてそのレースで、トロストは全ての障害を無事に飛越、勝てなかったものの上位に入った。

初勝利以来の好走であり、観客からも拍手が送られた。

久々に感じたレースでの喜び。

無謀な挑戦の中に、僅かに光明が見えた気がした。

 

 

でもそれは、泡沫の光明だった。

無謀な挑戦の反動は、すぐに彼女に跳ね返ってきた。

過酷な障害レースを走ったことにより、トロストの脚は早くも悲鳴を上げようとしていた。

 

それに耐え、数週間後に挑んだ障害第2戦。

再び上位人気に推されたトロストは、今度こそ勝利を挙げようと痛む脚に鞭打って出走した。

 

しかし彼女を待ち受けていたのは、レース中に障害の飛越に失敗して転倒、競走中止という結果だった。

やはり彼女の脚は、障害戦に耐えられるものではなかった。

 

 

 

「それでも、私は諦めませんでした。諦めなければいつか報われると信じて、私の走る姿を見てくれてる人がいると信じて。」

 

 

脚の苦痛に耐えながら、トロストは障害戦を走り続けた。

2戦目以降、飛越失敗はせず全てのレースを完走した。

しかし完走は出来ても、内容はどんどん悪くなっていった。

障害初戦以降は平地の時と同じく入着することすら出来なくなり、人気も徐々に下がっていった。

 

障害戦でも連敗が続くにつれ、トロストの心は遂に折れはじめた。

現実の過酷さと自分の限界。

そして、初戦こそ感じた観客の拍手も聞こえなくなっていった。

 

 

「私の夢は叶わない。走る姿も人々の心に届かない。僅かな喜びすら覆い消す膨大な絶望…。私はようやく悟り始めたんですよ。私が夢を追った果てに待ち受けているのは、絶対の絶望だということに…」

「…。」

「それでも私は、…私は信じたかった。オフサイド先輩の言葉を。最後の最後の、本当に最後の望みを抱いて、私は最後の障害戦に挑みました。」

 

 

 

***

 

 

7月末。

トロストは6戦目となる障害レースに挑んだ。

惨敗の連続の影響か、彼女の人気は最下位に落ち込んでいた。

 

でももう、そんなものはどうでも良かった。

彼女はこのレースをラストランにすることを決めていたから。

 

〈死神〉に何度も蝕まれた脚は、障害戦を何度も走ったことで更にボロボロになっていた。

もうこれ以上走るのは不可能だということは明らかだった。

 

でも、走れなくなる前に最後に確かめたいことがある。

その為に、トロストはこのレースに挑んでいた。

 

 

そして、発走したレース。

 

トロストはスタート直後からしんがりになった。

もう彼女にはスピードも残っておらず、ついていくだけでも精一杯だった。

その後、待ち受ける障害の数々。

それを越えていくごとに彼女と先団の差は開いていき、やがて彼女はひとりぼっちになった。

 

それでも、トロストは走り続けた。

一足進む度、脚には痛みが走った。

その痛みが〈死神〉のものになっていたことも分かった。

障害を飛越する度、何度もよろめいた。

地面につきかける膝を寸前で堪えながら、走り続けた。

苦痛と疲労で、彼女の意識は朦朧としていた。

 

でも、彼女は止まらなかった。

最後の最後に確かめたいもの、その景色を見るために。

 

 

そして、トロストはゴールに辿り着いた。

最後のレースを終えた時、トロストは自分が確かめたかった、自分の辿り着いた景色を、遂に目の当たりにした。

 

トロストが見たのは、自分の完走を見届けることなく場内を去っていく観客達の姿だった。

 

彼女の完走を見届けていた僅かな観客達も、その視線は憐憫と失笑に満ちていた。

「やっぱり全然駄目じゃないか」

「完走さえすればいいと思ってるんだろ」

「レースに出ない方が良かったんじゃない」

そんな声が観客達から聞こえた。

着順を確認すると、勝者から遅れること30秒以上遅れての最下位入線だった。

 

立ち竦んでいるトロストの元に、コースの整備をする係員が声をかけてきた。

「もうレースはとっくに終わってるから早く引き上げて」

 

 

これが、私の夢が辿り着いた現実か…

笑う気力すら、もう残っていなかった。

トロストは走りきった脚を引きずって、コースを後にした。

 

 

その後、脚に〈クッケン炎〉が再々発症していたことが判明し、1週間程前から3度目の療養生活を始め、今に至っていた。

 

 

 

***

 

 

「私の闘いは、終わりました。」

トロストはその憔悴しきった瞳でオフサイドを見つめながら、ぽつりぽつりと唇を動かした。

「希望・夢・不屈。それを信じて闘い続けて、そして得たものは、果てしなく続く絶望の景色だけでした。」

 

「…。」

オフサイドは沈黙したまま、 トロストを見つめ返していた。

 

「…先輩も、本当は分かっていたんでしょうね。私が夢を叶えることなど到底出来ないことを。」

何の感情もないオフサイドの視線を見返し、トロストは吐き捨てるように言った。

「分かってたのに、私を絶望の世界に引き留め続けた。…それは全部、先輩自身の為だったんですね。」

 

「…違うわ。」

オフサイドは初めて言葉を発し、首を横に振った。

「私は、あなたなら夢を叶えられると信じてたわ。あなたは…」

 

「…もういいんです!夢とか、信じるとか…そんな空虚な妄想はもう沢山です!」

オフサイドの返答を トロストは叫んで遮った。

「…現実として、もう私は絶望の最果てまでいきました。それが全てで…私というウマ娘を待っていた未来だったんです。」

 

「…。」

「もっと早く諦めれば良かった、夢・希望…そんな言葉を信じるべきではなかった。そうすれば、ここまで辛い記憶を残さずに、最悪の景色を目の当たりにせずに終われたのに…。オフサイド先輩は、私にとって、…〈死神〉だったと気づくべきでした。」

 

冷たい雨が全身を濡らしていく中、トロストの吐き出した言葉の一つ一つが、オフサイドの心に針のように刺さっていった。

 

 

雨音だけが聞こえる静寂が流れた後。

「今日でお別れです…」

トロストは雨に濡れた前髪に触れながら、オフサイドから眼を逸らし、眼を伏せながら言葉を絞り出した。

「長い間…ありがとうございました…」

 

唇を震わせて言葉を絞り出した後、トロストは眼を伏せたまま、雨の中をよろよろと精魂尽き果てた足取りでオフサイドの前を去っていった。

 

 

トロストが去った後、オフサイドは雨の中で抜殻のように立ち尽くしていた。

その表情には何の感情も表れていなかったが、身体はともすれば崩れ落ちそうに見えるほど生気が失せて見えた。

 

だがやがて、オフサイドは傘を拾うと、施設への道を重い足取りで戻りはじめた。

 

 

施設に戻る途中。

「…先輩。」

どこからともなく、ルソーがオフサイドの前に現れた。

 

「これ、どうぞ。」

全身が雨で濡れているオフサイドに、ルソーはハンカチを差し出した。

「いい。」

オフサイドは乾いた声で断った。

ルソーは溜息をつきながらハンカチをしまうと、オフサイドの隣に立って歩きはじめた。

 

「大丈夫ですか。」

歩きながら、ルソーはオフサイドに尋ねた。

彼女はオフサイドとトロストの一部始終を見ていた。

 

「…。」

オフサイドは何も答えなかった。

雨に濡れている前髪の下、彼女の瞳は雨空より曇って見えた。

 

 

 

*****

 

 

そして、この日の夜遅く。

トロストの姿は、施設の地下室にあった。

 



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〈死神〉と墓標(過去録・9)

 

地下室。

 

薄暗い灯りの下、制服姿のトロストはベッドの上で、膝を組んでうずくまるように座っていた。

その傍らに、椎菜が寄り添うように座っていた。

 

先のロイヤルやエクスの時と違い、室内は悲壮な空気に満ちていた。

 

 

…トロスト。

ずっとうずくまったままの彼女の姿に、椎菜の胸も詰まる思いがした。

トロストの経歴の悲惨さは椎菜も知っていた。

正直、今回の3度目の発症をした時点でトロストの未来はもう厳しいと覚悟していたが、時間に耐えればまた希望を見出してくれるのでは淡い期待をした。

しかし トロストは療養生活から10日も経たずに帰還の決断を下した。

もう彼女には、闘う気力は残っていなかった。

 

あれだけ必死に闘い続けたのに、何の喜びも得られないままこの末路を迎えてしまうなんて…

現実の残酷さを、椎菜も思い知っていた。

 

「…椎菜先生、」

地下室に到着してから1時間近く経った頃。

トロストは両膝に埋めていた顔を上げた。

「…待たせました。帰還させて下さい。」

 

「…。」

椎菜は頷くと、トロストの傍らから立ち上がった。

「ベッドに横になって。」

「はい…」

横になったトロストの身体を、椎菜は淡々とベルトで固定した。

トロストの表情は見れなかった。

 

やがて固定し終えると、椎菜は注射器を用意した。

 

「…トロスト。」

「早くして下さい…」

トロストは椎菜から眼を逸らしながら、強い口調で促した。

身体が小刻みに震えていた。

 

椎菜は心を落ち着かせる為に一度目を瞑って深呼吸すると、震えるトロストの腕をとり、注射針を当てるとそれをうった。

 

「…あ…」

うたれたのが分かった瞬間、トロストの震えは静止した。

同時に、彼女の眼から涙が溢れ出した。

 

 

「トロスト…」

「やっと、終わるんですね…」

固定ベルトを外されると、トロストは仰向けのまま、頬を伝う涙を拭った。

「苦しみしかない世界から、ようやく解放されるんですね…良かった…」

「…。」

椎菜は無言で、トロストの涙痕をハンカチで拭った。

 

「辛かった…ずっと苦しかった。希望も、夢も…。何もかもが苦しかった…。もう…疲れきった…」

最期を迎えようとしている彼女の口から出てくるのは、帰還への感謝だった。

「…ゆっくり休んでね。」

胸中の痛みを堪えて、椎菜は語りかけた。

「向こうの世界でも、もう走らなくていいから。」

「はい…」

トロストは頷き返した。

「ゆっくり休みます…悲しみが癒えるまで…絶望が消えるまで…」

 

「椎菜先生…お願いがあります…」

最期の時が間近に迫り、トロストは今際の頼みを口にした。

「オフサイド先輩に…伝えて下さい。…向こうで再会した時…私が走る喜びを思い出せたら…その時は…一緒に走ろうって…」

「…うん。」

椎菜は事切れかかるウマ娘の掌を包んで、頷いた。

 

 

それから数分後、トロストはその生涯を閉じた。

 

 

〈〇〇年8月7日23時57分 第〇〇期入学生・トロストキング(7歳・4年生)、クッケン炎による未来不良の為、帰還の処置〉

 

 

トロストの遺体の側で記録を記し終えると、椎菜は室内の片隅で一部始終を見守っていた医師姿のオフサイドを向いた。

 

「…。」

トロストの帰還後も、オフサイドは全く動かずに立ち尽くしていた。

彼女が醸し出す雰囲気は、先日のエクスの帰還の時とも違う、深く重苦しいものになっていた。

「そろそろトロストの遺体を移動させるけど、いいの?」

「…。」

椎菜の言葉に、オフサイドは重い足取りで歩み寄った。

 

しばしの間立ち尽くしていたが、やがてトロストの顔に被せられていた白布を手に取り、その最期の亡骸を見つめた。

“夢の果てにあったのは絶対の絶望だった”

“私にとってオフサイド先輩は〈死神〉だった”

生前、帰還を決意した彼女から刻みつけられた言葉の数々が胸中に響いた。

「…。」

オフサイドはトロストの亡骸に白布をかけ直すと、無言のまま地下室を後にした。

 

 

 

 

病室に戻ると、これまでと同じようにルソーが起きて待っていた。

 

「…これ、どうぞ。」

戻ってきたオフサイドに、ルソーは先日と同じくように用意していたお茶を差し出した。

「ありがと。」

オフサイドはそれを受け取ると、窓際にある椅子に座ってそれを飲んだ。

外を見るとまだ雨が降り続いていた。

 

「3人か…」

「はい?」

「ここ一週間程の間で心折れた同胞の数よ。」

オフサイドは湯呑みを抱えて、ぽつりと呟いた。

 

「…そうですね。」

ルソーも湯呑みを手に、オフサイドの傍らに座ると頷いた。

その3人とも、それぞれ違う形で帰還に追い込まれた。

1人は走れない苦しみに耐えられなかった末に。

1人は報われない現実を受け入れた末に。

そして1人は、万策尽き果てた末に。

 

「…先輩の心は大丈夫ですか?」

これまでにも何度も繰り返していた質問を、ルソーは口にした。

「随分心配そうな口調ね。」

「当然です。今回ばかりは、流石に心配ですから。労わる言葉も見つからない位…」

ルソーは深く憂うように言った。

 

夕方ルソーは、トロストとオフサイドのやり取りを見ていた。

あの時、トロストがオフサイドにぶつけた言葉の数々は、側で聞いてたルソーの心にも突き刺さる程に重かった。

自分達のようにスポットライトが当たる舞台で走ってきたウマ娘と、トロストのようにスポットライトと全く無縁の場所で走っていたウマ娘。

その苦しみの差というものを、これ以上ないくらい突きつけられた気がした。

自分だけでも心に深い衝撃を受けたのに、まともにそれを食らった先輩は…

ルソーが憂うのも当然だった。

 

 

だが。

「心配はいらないわ。」

オフサイドの表情は、淡々としていた。

「確かに一時的なショックは受けたけど、今はもう何とも思ってないから。」

「え…」

「あるのは、〈死神〉にまた同胞が一人奪われたという事実だけだから。」

 

「…本当ですか?」

オフサイドの言葉に、ルソーは思わず眉を顰めた。

「あれだけの言葉を浴びせられたのに何とも思っていないのですか?」

 

「初めてじゃないから。」

「は?」

「これまでにも、トロストのような境遇の療養仲間達には言われてきたの。“先輩みたいに優秀なウマ娘には、私達のような落ちこぼれウマ娘の苦しみが分からない”って。」

 

「そうなんですか?」

「そうだよ。それに、口には発さずとも私達に対してその思いを抱えている同胞が多いことも分かってる。」

「…。」

「だから今回のことも、特に苦しくもないわ。」

驚きの表情を浮かべている後輩に、オフサイドはお茶を飲みながら淡々と話した。

 

 

「それに、トロストが言ってたことは当たってるし。」

「…は?」

「私が自分自身の為に療養仲間を支えているのも、そして私が〈死神〉なのも、間違ってないんだから。」

 

「…何を言ってるんですか?」

「〈死神〉に勝つ為には、自分が〈死神〉にならなければいけない時もある。同胞の最期を見届けていく中で、私はそう悟ったから。」

愕然としているルソーと対照的に、オフサイドの淡々とした口調は変わってなかった。

 

「出来ることならば全員〈死神〉を乗り越えてレースを取り返して欲しい。でもそれは現実的にはほぼ不可能。〈死神〉に心折られない同胞はほんの僅かしかいないし、その僅かな同胞ですら最後は〈死神〉に覆い潰されてしまうのが殆ど…それが現実。その現実の果てを、私は地下室でずっと見てきた。そして私自身、何度も〈死神〉に消されかけてきた。今もね。」

「…。」

「トロストの言った通り、友情、夢・希望・信じる…そんな言葉だけでは〈死神〉に抗うなんて不可能だわ。私だって、ブライアンやローレルとの絆だけじゃ〈死神〉と闘えてない。今闘えているのは、友情と希望の支えの他に、私自身が〈死神〉になってるから。」

 

「〈死神〉…」

「最も、〈死神〉といっても、私はクッケン炎みたいに何もかも奪う〈死神〉じゃないけどね。」

表情が硬っているルソーに、オフサイドふっと微笑を洩らし、お茶を一口飲んだ。

「私は、犠牲になっていく同胞の魂を背負って、それを自分の力にしようとしてるだけ。絶望、悲嘆、悔恨…散りゆく同胞の無念を、〈死神〉への復讐心・闘争心の炎へと変えてる…そういう〈死神〉。」

 

 

「…恐ろしい方ですね。」

表情も変えないで話すオフサイドに、ルソーは溜息を吐いた。

こんなことを話す先輩の姿は見たことがなく、内心では畏怖と恐怖を覚えていた。

 

恐怖を感じつつも、ルソーは心の内から感情が沸々と湧き上がり、ポツリと重い口調で尋ねた。

「では、このホッカイルソーも、先輩にとっては〈死神〉を乗り越える為の足場なのですか?」

 

「あなたが〈死神〉に敗れたら、そうなるかもしれないわね。」

オフサイドは、自身を見据えた後輩を冷然と見返した。

「でもあなたは〈死神〉に敗れたりはしないでしょ。私よりも復活への執着心が強いだろうから。」

 

「…。」

黙ったルソーに、オフサイドは言葉を続けた。

「それに、私は仲間達には足場になどなって欲しくない。矛盾してるけど、出来ることなら全員で〈死神〉を乗り越えたい。それが叶うなら、ね。」

「…。」

「でも叶わない…叶わないのよ。今のままでは絶対に。」

そう言った時、初めてオフサイドの表情が歪んで見えた。

 

「その未来が実現する為には一人でも多く〈死神〉を乗り越えて、表舞台で輝くしかない。そうしなければ何も変えられない。声も届かない。…だから私は、〈死神〉になった。…私は、〈死神〉になれるウマ娘だったから。」

歪んだ表情で話すうち、オフサイドの身体が小刻みに揺れ始めた。

 

「…先輩。」

ルソーはオフサイドの側に近寄り、その震える肩をそっと抱き寄せた。

 

「…でも…重いんだよ。本当に重い。ロイヤルもエクス先輩もトロストも、…これまでに散っていた同胞達も皆、その魂が重過ぎる。」

ルソーに肩を抱かれたまま、オフサイドはうずくまるように膝を抱えた。

「何十、何百…何千…何万…。私の心の中、魂の中で訴えてくる…。悲しいって、悔しいって、無念を晴らしてって…ずっと訴えてくる…。重い…本当に」

 

「先輩、しっかりして下さい!」

急変したオフサイドの様子に危機を感じ、ルソーは抱いてた肩を強く揺すった。

 

「…大丈夫よ。」

うずくまったまま、オフサイドは冷たい汗が滲んだ表情で、ルソーを見上げた。

「どんなに苦しくても、どんなに重くても、私は〈死神〉に散った同胞達に誓ったから。…“必ず、あなた達の魂を夢の舞台に連れていく”って…。」

 

「夢の舞台?」

「大レース…レースの最高峰の舞台のことよ。」

ルソーの質問に、オフサイドは答えた。

「最高のウマ娘達が集い闘う夢の舞台。散っていった同胞達が夢見続けていた最高の舞台。そこに必ず連れていって、彼女達の魂を昇華させると…私は誓ったから。」

 

「昇華…」

「この誓いは絶対に果たすわ。〈死神〉と闘い続ける同胞の為にも、敗れ散った同胞の為にも。」

うずくまった姿勢を解いて、オフサイドは汗を拭うと再び窓の外を見た。

「…同胞の無念・絶望…その墓標も何もかもを背負って、奈落の底を這いずり回って、…例え同胞の屍を足場にしようとも、〈死神〉に魂奪われようとも…絶対に。」

 

 

そう言うと、つとオフサイドはスマホを取り出した。

そして、幾つかのウマ娘のレース映像を見た。

 

〈先頭は〇〇でゴールイン!ロイヤルビームは脚に異変か惨敗!〉

〈優勝は〇〇!エクスプレスランドは惜しくも重賞初制覇ならず!〉

〈勝ったのは〇〇で障害戦初勝利!…今30秒以上遅れてトロストキングが入線〉

 

「…。」

帰還していった同胞達のレース映像を見終えるとオフサイドはスマホをしまい、ふーと大きく息を吐いて雨降る夜闇を見上げた。

 

…絶対に、この無念は晴らすから…

あなた達の魂を昇華させるから…

 

 

 

 

***

 

 

…ん。

オフサイドは目を覚ました。

彼女を乗せた車は、いつのまにか中山の地に入っていた。

 

車窓から外を眺めると、西に傾いていく夕陽の下に、中山の競バ場が微かに観えた。

 




(ロイヤルビーム 43戦3勝 主な勝ちレース 条件戦)
(エクスプレスランド 14戦5勝 主な勝ちレース OP戦)
(トロストキング 24戦1勝 主な勝ちレース 新バ戦)


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『第7章・下』
修羅(1)


*****

 

夕方前、トレセン学園。

緊迫感に包まれた中、渡辺椎菜が学園に訪れた。

 

「よく来て下さいましたわ。」

来訪した椎菜を、メジロマックイーンは生徒会室で迎え入れた。

間近に迫った会見では生徒会と共に椎菜も出席することにしており、その事については道中で綿密に連絡を取りあっていた。

「この度の断行についてはあなたの協力が不可欠でした。我々の決断を理解して頂き、ウマ娘の代表として感謝します。」

 

「私があなた方の決断を尊重するのは当然です。」

マックイーンが差し伸べた手を、椎菜は強く握り返した。

「もうこれ以上、歴史の停滞に耐えることが出来ませんでしたから。私達人間の罪も、あなた方ウマ娘の罪も、裁かれる時が来るべきです。」

「フッ…」

椎菜の言葉と、その荒野の果てのような雰囲気を感じ、マックイーンは口元に影の深い笑みを浮かべた。

 

 

その後、椎菜とマックイーンら生徒会役員は、会見に向けての最後の打ち合わせを始めた。

 

ただ、この場にいた生徒会役員は4人しかいなかった。

前々より別の場所に派遣されていたミホノブルボンとビワハヤヒデの他に、2人の役員が欠けていた。

椎菜はそのことに気づいていたが、言及はしなかった。

 

やがて打ち合わせが終わると、マックイーンは生徒会室を出ていった。

 

 

…。

マックイーンが出ていった後、椎菜は残った生徒会役員の様子を見渡した。

誰もが、肌に刺さる位の緊張感を醸し出していた。

ウマ娘の歴史が始まって以来の非常事態、その中心に置かれた者としての責任と重圧をまともに受けているように見えた。

 

「初めましてだね、ヤマニンゼファー。」

椎菜は、特に表情が蒼白な生徒会役員に目を向け、声をかけた。

「初めまして、渡辺椎菜医師。」

声をかけられたヤマニンゼファーは、軽い会釈で返した。

「大分顔色良くないわね。そんな状態で動ける?」

「ご心配はいりません。緊張してるだけで、本番はしっかり動けますから。」

生徒会の意地か、ゼファーは蒼白な表情ながらも毅然とした態度を保っていた。

 

「強いですね、ゼファー先輩。」

ゼファーの隣に座っているマヤノトップガンが口を開いた。

彼女の方は、表情はそこまででもないが緊張はかなりしている様子だった。

「私が先輩の立場だったらこの場から身を退いてるのに、その責任感は流石です。」

「あなたは私と同じ立場の筈だけど。」

「私は先輩程、意志が固いウマ娘ではありませんから。状況によって変わることはさほど難しくないです。あれ程強固に自分の意志を表しておきながら、生徒会の役目を果たそうとするとは…」

 

「それ以上は言わないで、トップガン。」

ゼファーはトップガンを睨み、両手を握り締めながら絞るように声を出した。

「本当は、私だって身を退くことを考えていたのだから。」

 

「ゼファー、」

メジロパーマーが、心から労わるような視線をゼファーに送っていた。

「あなたが現場に留まってくれるだけでも大きな力になってるよ。本当によくやってくれてる。」

「…ヘリオス先輩とルビー副会長がいなくなった以上、私までこの現場を去る訳にはいきませんから。」

ゼファーは視線を上げずに答えた。

 

…やっぱりか

彼女らの会話を聞いて、椎菜は生徒会で内紛があったことを察した。

いくら結束の固い生徒会といえども、これほどの大事を前にしては、そればかりは避けられなかったか。

 

「ご心配なさらず。」

椎菜が察したことを感じとり、パーマーが彼女に言った。

「ダイイチルビーとダイタクヘリオスは、別の場所に派遣されただけですから。」

「別の場所へ派遣?」

「ええ。」

椎菜は怪訝に思ったが、パーマーはその詳細は言わずに言葉を続けた。

「内紛が起きたのは事実ですが、生徒会は誰一人として、ウマ娘の未来を左右するこの闘いから逃げ出してはいません。」

「そう…あなた達、本当に闘えるのかしら?」

椎菜は、腕を組みながら再度尋ねた。

 

「闘えます。」

椎菜の問いかけに、ゼファーが汗を拭いながらはっきりとした声で答えた。

「側から見れば私などは信用出来ないかもしれないでしょう。ですが、私はどんな状況でも最善を求め続けるウマ娘。だから現場から身を退くことなど出来ません。この闘いを歯止めなく悪い方向に向かわせない為にも。」

言いながら、ゼファーは会見の内容が記された書類を手に取った。

「やれるだけの事はやります。強硬姿勢の生徒会長から出せるだけの譲歩も引き出しましたから。」

 

先程、生徒会内の打ち合わせの前に、パーマーがゼファーとトップガンに頼んだ会見内容の代案の作成。

短時間ではあったが二人はそれを作成し、打ち合わせでマックイーンに見せていた。

内容の大筋は変わらないものであったが、幾つかの内容は表現などが抑えられるなど最大限の配慮がなされているものであり、マックイーンはそれを受け入れた。

会見内容でマックイーンと対立していたゼファーも、その譲歩を引き出したことで、それ以上の反対の態度を示すのは止めることにした。

 

「今後も、私は出来うる限りの自分の役目を務めます。その意志だけは絶対に折れません。だから、大丈夫です。」

ゼファーはそこまで言い切ると、ふっと息を吐いて心を落ち着かせるように眼を閉じた。

椎菜もパーマーもトップガンも沈黙し、室内は再び重い静寂に満たされた。

 

 

「…。」

静寂の中、椎菜はスマホを取り出し、現在の世論の状況を見た。

ネットニュースやSNSは、トレセン学園が下した断行や間もなく行う会見について溢れかえっていた。

その内容は、相変わらず学園の行動に否定的なものが多かった。

 

秋天とその騒動から大分時間が経ったものの、依然としてオフサイドトラップへの非難の声は根強く、彼女を庇い断行を下した学園への非難は更に強かった。

 

『ファンの声を無視』『人間への叛逆』『夢を与えるという意識の欠落』

などと言った言葉を並ベ、レースの開催中止や学園の解散を求める勢力すらあった。

 

「…。」

一通り見終えると、椎菜はスマホを閉じた。

華やかな部分にしか意識を向けてこなかった人間達が何を見苦しいことをと、同じ人間ながら思った。

心のどこかでずっとウマ娘を下の種族に見てた傲慢さが透けて見える気がした。

ウマ娘達が背負う苦悩と末路に、人間は同情しか示さなかった。

苦悩を理解しようとせず救いの手を差し伸べなかった。

その溜まりに溜まった負の蓄積が、今度の秋天における騒動によって爆発したというのに。

 

…私達は、その報いを受けなければならない。

椎菜は、何百人ものウマ娘の帰還を執行した自らの腕を見つめた。

 

 

しかし…

椎菜は、再び生徒会の面々を見回した。

彼女達にとっての正念場は、この人間との対決ではないのだ…

 

彼女達にとって真の正念場は、帰還を決断したオフサイドに巣食った膨大な〈死神〉との対峙なのだいうことを、椎菜は薄々感じていた。

『…ウマ娘達にとって最悪の〈死神〉、それがオフサイドの中に存在してしまっている…』

マックイーンから、現在のオフサイドの状態をそのように伝え聞いていたから。

 

“最悪の〈死神〉”…

椎菜は、その存在を知っていた。

なぜなら彼女自身、幾多のウマ娘の帰還を見届ける中でその存在に気づいていたから。

そう、ウマ娘達が最も忌むべきものである、負の心に満たされた〈死神〉に。

そして、それをオフサイドが背負ってしまったことも。

 

彼女の中で蓄積された膨大な負の〈死神〉が爆発したらどうなるか。

それは椎菜にも予測出来ない。

『大償聲』という言葉で表される程の、途轍もない惨劇をもたらすものであるということ位しか分からない。

 

…。

椎菜は目元に手を当てた。

昨晩、それに近い事が療養施設で起きかけた。

それは寸前で阻止されたが、オフサイドのそれは阻止出来る類のものに思えなかった。

少なくとも、自分達人間ではどうしようもないものに思えた。

 

それを止められるのはオフサイド自身か、彼女と同じウマ娘達だけ。

なんという苦境だろうかと、椎菜は彼女達に対して憐憫と罪悪感を心の底から感じた。

 

私に出来ることは…

罪悪感に浸されゆく中、椎菜は唇を結んだ。

私に出来ることは、彼女達の未来の為に闘うこと、盾となってウマ娘達を守ること。

それが、一人でも多くのウマ娘を救う為に人生を捧げてきたこの私の使命だと、椎菜は自分に言い聞かせた。

 

 

「そろそろ時間ね。会見の場に移動しよう。」

やがてパーマーが、一座を見渡しながら立ち上がった。

「マックイーンは?」

「生徒会長は会場で合流すると連絡が来ています。」

「…そう。」

椎菜達もゆっくりと立ち上がった。

 

 

***

 

 

…いよいよですわね。

 

学園の廊下。

窓の外の夕暮れを、マックイーンは一人見つめていた。

 

ウマ娘の未来の為に、閉ざされてきたパンドラの箱を開ける時が遂にきた。

負の歴史に終止符をうつ為の闘いが始まる。

 

「プレクラスニー、いきますわ。」

亡き盟友の幻影に語りかけ、マックイーンは会見の場へと向かっていった。



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修羅(2)

*****

 

場は変わり、療養施設。

 

療養施設の大広間には、怪我・病気療養ウマ娘達のほぼ全員が集まっていた。

彼女達を集めたのは、ミホノブルボン・ダンツシアトル・ホッカイルソーらだった。

 

 

「皆さんも知っていることだと思いますが、間もなく生徒会が会見を行います。」

集まった療養ウマ娘達を前に、ブルボンが話し始めた。

「前もって伝えておきますが、会見の内容は非常に重大なものになる予定です。今後のウマ娘界の未来を揺るがす内容といっても過言ではありません。」

 

「…。」

ブルボンの言葉に、療養ウマ娘達は騒めいた。

騒めく彼女達に、ブルボンは続けた。

「特に、あなた方療養ウマ娘達に対して、学園が抱えていた深刻な事実が明らかにされる予定です。」

 

 

「どういうことですか?」

ブルボンの言葉に、療養ウマ娘達は更に騒めき、質問を始めた。

「その内容は、今ここで伝えることは出来ないんですか?」

「全ては生徒会の会見で明らかになりますので、ここでは控えます。」

「ほんの少しでも…」

「事前に詳細をお伝えすることは出来ません。」

彼女達の質問に対し、ブルボンは明確に答えようとはしなかった。

 

「そんな…。」

ブルボンの対応に、騒めいていた療養ウマ娘達の雰囲気が、段々と不穏なものになっていった。

「そんなに不安を煽って、一体何がしたいんですか?」

「なんか、私達の要望が蔑ろにされてる感があります。」

「はっきり言って、生徒会は秘密主義過ぎです。」

療養ウマ娘達は生徒会役員であるブルボンに対して、不信感を込めた視線と言葉を次々と浴びせた。

 

 

「いや、会見云々もそうですが、ここ最近この療養施設で立て続けに起きている不穏な出来事についても、我々に教えくれますか?」

別の質問が、ブルボンに飛んできた。

「…。」

ブルボンの微動だにしなかった表情が、その質問で僅かに動いた。

 

その変化を見逃さず、療養ウマ娘達は更に質問を続けた。

「間違いなく、今回の生徒会の会見と関連がありますよね?恐らく天皇賞・秋の騒動関係で、サイレンススズカに何かあったんでしょう?少なくともそのことに関しては、私達にも伝えて欲しいです。」

「あと、出来ればオフサイドトラップ先輩のことに関しても教えて欲しい。」

「他にも、最近様子がおかしいスペシャルウイークのこととか、今朝から全く姿の見えないライスシャワー先輩についても知りたいです。」

 

「…答えられ、ますよね?」

次々と質問する療養ウマ娘達は。徐々に不穏な雰囲に満ちはじめていた。

まるで真っ黒な塊のようになっていくように思えた。

 

 

「サイレンススズカは、昨晩容態が悪化しました。」

変わりゆく雰囲気に動じず、ブルボンは努めて自然な口調で、一つの質問に答えた。

 

「えっ…」

息を呑んだ療養ウマ娘達に、ですがとブルボンは続けた。

「現状、容態は一旦落ち着きました。依然予断を許さない状況ですが、危機は脱した模様です。」

「…一体何があったんですか?」

「その詳細については、こちらからは教えられません。」

「なんでですか?それぐらいならば…」

「…。」

ブルボンは無言で首を振って、その要求を断った。

 

 

「お願いです!どうかスズカ先輩のことだけは教えて下さい!」

スズカを慕っている怪我療養ウマ娘達が色めき立った。

「ここ連日、スズカ先輩の病室から異様な物音と不穏な騒ぎが聞こえました。怪我以外に悪いことがあったに違いないです!」

「幾らなんでも隠し過ぎです。ここで生活している私達の身にもなって下さい!」

 

 

「…やめなよ。ワガママだし見苦しいよ。」

色めきたっている怪我療養ウマ娘達に対し、冷や水を浴びせるように言葉をかけたのは、病気療養ウマ娘達だった。

「…なんで?」

怪我療養ウマ娘達は、視線を病気療養ウマ娘達に向けた。

 

「だって、今のブルボン先輩の答えからして、少なくともスズカは今の所は大丈夫そうだって分かるじゃん。」

病気療養ウマ娘達は、乾いた口調で怪我療養ウマ娘達に言葉を続けた。

「彼女のことは、沖埜トレーナーや生徒会やライスシャワー先輩達がつきっきりで看護してるだろうし、あんた達が心配する程のことでもないよ。」

「サイレンススズカのことはウマ娘界の総力を挙げて守ろうとしてるんだからさ。」

その言葉は、宥めるというにはかなり歪んだものが混じって聞こえた。

 

「…なんか言いたげね、病気療養ウマ娘達。」

怪我ウマ娘達は、病気療養ウマ娘達に不信感を抱いたような口調で言い返した。

「随分と含んだような言い方するじゃない。言いたいことあるならはっきり言いなよ。」

 

「別に。穿った見方される程の意味は込められてないよ。サイレンススズカが無事であって欲しいという思いは私達だって同じだからさ、怪我療養ウマ娘達。」

病気療養ウマ娘達は、動じずに言い返した。

「だって、オフサイドトラップ先輩と違って学園総力を挙げて保護されてるんだもん。無事であってくれないとおかしいし、こちらとしてもやりきれないよ。」

「…はあ?」

「なにか反論でも?」

不穏な言葉の応酬と同時に、怪我・病気療養ウマ娘達双方の群れから険悪な雰囲気が溢れ出していた。

 

 

「…っ」

今までにない不穏な空気を感じ、ブルボンはハッと息を呑んだ。

「やめなさい。」

間髪入れず、ブルボンの傍らにいたシアトルが、落ち着いた口調で口を開いた。

「病気療養ウマ娘も怪我療養ウマ娘も落ち着きなさい。ウマ娘同士で歪みあってはならないわ。」

 

「…。」

重度の怪我と病気の経験者であるシアトルの指示に、双方のウマ娘達とも黙ったが、険悪な雰囲気は収まらなかった。

 

緊迫感の中、シアトルは療養ウマ娘達に言葉を続けた。

「ここで起きた一連の出来事の詳細については。生徒会の会見が終わったら皆に伝える予定だわ。あなた達の不安はよく分かるけど、今は心を保つことに各々集中して欲しい。」

 

「“心を保つ”?」

シアトルの言葉に、療養ウマ娘達は険悪な空気を彼女に向けた。

「その言葉から察するに、会見だけでなくこの療養施設で起きている事も相当深刻なようですね?」

「ええ、その通りです。」

包み隠さず、シアトルは頷いた。

 

 

「…参ったね。」

シアトルの返答を聞き、療養ウマ娘の何人かが諦めかけたような笑みを浮かべた。

「ただでさえ折れそうな心を必死に保ってたのに、次々と容赦ない現実が心を折りにくるなんてさ。…終わりかもね、何もかも。」

 

敵意に満ちた険悪な雰囲気、露わになり始めた同胞同士の亀裂、絶望に染まった諦念。

それらのものが、療養ウマ娘達の間に溢れ始めていた。

 

 

…遂に始まったのか。

変貌してゆく療養ウマ娘達の様子を前に、ブルボンもシアトルもルソーもそれをはっきりと感じた。

 

「『大償聲』…か。」

松葉杖をついたルソーは、療養ウマ娘達の姿から目を逸らさそうとはしなかったが、杖を握る手を震わせながらぽつりと呟いた。

 

 

***

 

 

「始まったね。」

「ええ…」

大広間から少し離れた療養施設内のルソーの病室には、ヤマニングローバル・マイシンザン・フジヤマケンザン・ステイゴールドの四人がいた。

 

大広間にいる療養ウマ娘達の雰囲気が変わりゆくのを、四人とも肌で敏感に感じとっていた。

「これが、心の〈死神〉というものか。恐ろしいね。」

「なんだか、私達の心と魂までも侵食されていくような…そんな悪寒がします。」

グローバルとマイシンは胸元に手を当てた。

彼女達ほどのウマ娘でも、雰囲気の変貌に恐れを感じていた。

 

「果てしない絶望と悲嘆、それに抗う唯一の方法は、“守る”という強固な意志と決意を貫くことです。」

彼女らの後輩であるケンザンは、慄えを抑えて気丈に言った。

「サイレンススズカを最期まで守ったライスシャワーのように、自己犠牲すら厭わない程の決意を。」

 

 

「ライス先輩…」

先輩達の傍ら、ベッド上にいるゴールドも慄えを堪えながら、昨晩散った偉大な先輩を思った。

私は…

ゴールドは掌を結んで俯いた。

ライスと違い、自分のその意志は粉々に壊れた。

心境面も、今は抜け殻のように虚な状態になっている。

 

だけど、闘う場所がなくなったわけではないんだ。

だからもう一度、心に灯火を…

 

折れかかった心の中、ゴールドは懸命に祈った。

 

 

 

「そろそろ、会見の時間だね。」

陽が暮れる頃、室内のテレビの電源が入れられた。

 

 



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修羅(3)

*****

 

再び、トレセン学園。

 

学園の一室に設けられた会見場には、多くの報道陣が集まっていた。

現在の状況が状況だけに、会見場は険しい空気に満ちていた。

 

そして日が暮れた頃、マックイーンら生徒会と椎菜が会見場場に到着した。

彼女らが現れると、場内の雰囲気は更に緊迫感が増した。

 

「お待たせしました、これより、今回のトレセン学園の断行についての会見を始めます。」

緊迫感が立ち込める中、マックイーンの挨拶のもと、会見が始まった。

 

 

「まず、トレセン学園が今回下した断行について、その理由を簡潔に述べさせて頂きます。」

挨拶後、マックイーンが淡々と切り出した。

「皆様もご周知のことと思われますが、先月開催された第118回天皇賞・秋の優勝者であるオフサイドトラップが、レース後の言動などについて多くの誹謗中傷を受けました。また、彼女の名誉を著しく傷つける発信も数多くありました。学園はこれを看過できない案件と踏まえ、熟議を尽くした末に今回の断行に至った次第です。」

 

「生徒会長、」

マックイーンの切り出しに対し、すぐに報道陣の一人が声をあげた。

「天皇賞・秋後の騒動については、一部の過激なファンにより学園も被害を受けたことは把握しています。その件に関して法的処置を執ったことについては至極当然だと思います。ですが、その他の処置については疑問視する声が多く聞かれます。そのことについてはどう考えていますか?」

 

「その他の処置…」

報道陣の声に対し、マックイーンは予め想定していたように問いかけを返した。

「処置に対する疑問というのは、オフサイドトラップに対する誹謗中傷に対する処置も含まれていますか?」

「いえ、それを含めた処置をとる前に、まず学園側がするべきことがあるのではないかという声です。」

「するべきこととは?」

「事の発端であるオフサイドトラップの、秋天後の言動についての処置です。」

 

「オフサイドトラップの言動については、学園は問題ないとの結論を下しています。」

マックイーンに代わり、パーマーが返答した。

「その件に関して、学園と世間でかなり認識のズレがあるように思います。」

パーマーに対して、更に他の報道記者が声をあげた。

「ファンや識者の多くは、オフサイドの言動が非常に軽率であったという認識が強いことは学園も周知でしょう?そのことについては…」

 

「学園側の認識は、その認識こそが軽率であったという見方で一致してます。」

反論した報道陣に対し、パーマーはその言葉の終わりを待たずに断とした口調で言い放った。

「オフサイドの言動については、学園は何度も厳密に調査しましたが、全くもって問題はありませんでした。」

「あの“笑いが止まらない”発言もですか?」

「レースの勝者がその喜びを表現しただけです。何の問題が?」

「喜びの表現というには余りにもぞんざいです。スズカの故障を喜んだと見られても仕方ないでしょう。」

 

「…この点に関しては、前々から全く平行線のままです。これ以上議論しても意味がありません。」

パーマーと記者のやりとりを見て、今度はトップガンが口を開いた。

「この点も含めてですが、今回の騒動を受けた学園側として感じたことは、ウマ娘と人間とでのレースに対する意識の乖離がかなりあったということです。」

 

「ウマ娘と人間の意識の乖離?」

「ええ、華やかな娯楽としてレースを観る人間と、未来を懸けてレースに挑むウマ娘との差です。」

トップガンの不穏な言葉に、会見場の空気が更に緊迫した。

 

「今回の騒動の原因の一つは、人間の中でサイレンススズカが神格化され過ぎていたことです。」

生徒会の中でも明るい性格であるトップガンだが、この時は硬い表情で淡々と言葉を続けた。

「人気が高いこと自体は全く問題ありませんし、評価が幾ら高くてもそれは構いません。ただ、そのことで他のウマ娘、ましてやレースの勝者が蔑ろにされることがあってはならないのです。なのに、今回はそれが起きてしまった。これはあってはならないことです。」

 

「サイレンススズカが最後まで走った上で、それでオフサイドトラップが勝ってたならば、そんなことは起きなかったですよ。」

トップガンの言葉に対して、報道陣が反論した。

「あのレース結果はアクシデントありきのものだったのは明白です。それらを考慮しないばかりか、故障したスズカへの配慮すらせずに軽率な表現で喜びを表したのだから反発があるのは当然でしょう。」

「つまり、勝利を喜ぶに値するような内容ではなかったということですか?」

「そこまでは言いません。ただ、オフサイドが内容や状況に配慮する言動をしていたら、彼女への評価も違っていたでしょう。彼女の未熟さが、レースへの低評価に繋がったことは違いないです。」

 

「…配慮しないことが配慮だった、という考えはないのですね。」

頑なに追及する記者達の態度に、トップガンの傍らのゼファーが、溜息を吐くように言った。

「はい?」

「いえ、なんでもありません。トップガンの言う通り、もう議論の余地もないですね。というよりそもそも議論する場でもないですが…どうぞ、生徒会長。」

ゼファーは報道陣達をあしらうとマックイーンの方を向き、何かを促すように目配せした。

 

「ええ。」

マックイーンは頷くと報道陣達に向き直り、彼等とその背景にいるファン達に対して、裁断を下すような冷徹な口調で言った。

「この断行については、ファン・識者の方々から多くの意見を頂いていますが、学園はこの断行を撤回する意志はないことを、ここにはっきりと明確にします。」

 

「…。」

断固な意志を明確にした生徒会に対し、報道陣は気圧されたように騒めいた。

 



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修羅(4)

 

「あの、」

気圧され気味の報道陣の中から、新たな質問が飛んできた。

「オフサイドトラップ自身は、自らの言動をどう顧みているんですか?」

 

「…オフサイドトラップ自身は、ですか。」

マックイーンの冷徹な表情が、微かに動いた。

 

その変化に付け入るように、記者の質問が続いた。

「生徒会側がずっと彼女の代弁をするような対応をしていますけど、当事者がどう思っているかがやはり重要だと思います。」

 

「…。」

マックイーンの冷徹な雰囲気が、刺々しい刺すような雰囲気に変わっていった。

秋天後の騒動を受けて憔悴していったオフサイドの姿が、彼女の脳裏に蘇っていた。

 

「…生徒会長、落ち着いて。」

マックイーンの傍らのパーマーは、彼女の心情を素早く察知し、小声で抑えるに声をかけると、彼女に代わって返答した。

「オフサイドトラップは、自身の言動については未だ一切語っていません。」

 

「つまり、本人は良くない言動だったと暗に認めているんですね?」

代わって返答したパーマーに対しても、すぐに言葉が飛んできた。

「…どうしてそういう意見になるんですか?」

「自らの言動に自信があるならばその理由を明らかに出来る筈ですから。それが出来ないということは、つまりそういうことだと受け取られても仕方ないと思いますけど。」

「…。」

記者の指摘の数々に、パーマーもマックイーンと同じく心の動揺を感じ、返答を止めた。

 

「オフサイド本人が黙っているのには、理由を明らかにするには今が適切な時期ではないと判断したからでしょう。」

心を落ち着かせつつ、再びマックイーンが答えた。

「適切な時期でない?」

「世論の風潮が一方的過ぎて、現時点ではその理由がとても理解されないからということです。」

「本人が生徒会にそう伝えたのですか?」

「伝え聞いてはいませんが、そうではないかと推測しています。それに生徒会としては、前述のように言動を無問題としたので、理由を強制する必要性もありません。」

「ですが、世論は…」

 

「その点に関してはもう議論の意味がありません。」

マックイーンはこれ以上この質問には答えないと、言葉で示した。

 

 

「断行を含め、今回の学園側の対応は非常に残念です。」

マックイーンの対応を見て、報道陣から新たな言葉が聞こえた。

「今回の件を受けて、ファン達から大きな反発を招くのは必死だと思います。また学園の関係各所にも大きな影響を与え、今後のレースの開催などが危ぶまれる事態になることも予想されます。それでも宜しいのでしょうか?」

 

「ウマ娘と人間が共生していく未来の為ならば、それもやむを得ません。」

マックイーンは、ぽつりと返答した。

その口調には、それまでと違う重みと翳りがあった。

 

「…。」

「…?」

マックイーンの言葉を聞き、生徒会の面々は表情が硬くなり、報道陣達は異変を感じた。

会見場の空気が、俄かに変わっていった。

 

 

「今まで公にはされてませんでしたが、今回の騒動は別の場所にも波及していましたわ。」

マックイーンは、芦毛の美髪を微かに揺らめかせ、翳りある口調で言葉を続けた。

「別の場所とは?」

「オフサイドトラップが長年生活を送ってきたウマ娘療養施設です。あなた方人間から彼女が受けた仕打ちの影響と、我々生徒会が彼女を守りきれなかった影響を、その地で故障と闘うウマ娘達は多大に受けていました。」

 

 

 

*****

 

 

 

同時刻、療養施設。

施設内が暗い雰囲気に覆われている中、療養ウマ娘達はTV中継或いはネット中継で学園の会見を観ていた。

 

「…やっとか。」

病気療養ウマ娘の集まった部屋。

会見の様子を観て、療養ウマ娘達がぽつりと言葉を漏らした。

「やっと、ここの声が公に伝わるんだね。」

「今回の騒動で、私達が受けた悲しみと苦悩が明らかになってくれるのか。」

「…失ったものの数もね。」

「遅過ぎたけどね。」

療養ウマ娘達は、少しの感慨もない様子だった。

 

「多分、私達が1番知りたくない真実も明かされるだろうな。心、耐えられるかな。」

「分かんないよ、もう。」

療養ウマ娘の一人が胸に掌を当て、一人は頭を抱えた。

「私達、絶望だけじゃなく憎しみまで滲み出してるんだもん。それも同胞への、理不尽なものまで。…苦しい、耐えられそうにない。」

病気療養ウマ娘達の苦悩は、濃く深くなっていた。

 

 

 

一方、怪我療養ウマ娘達。

 

「人間はさあ、いつまで愚かなのよ。」

彼女達は、病気療養ウマ娘達と比べて暗さは深刻ではなかったが、会見の様子やSNSの反応を見て、不穏で険悪な雰囲気は更に増していた。

「いつまでウマ娘に自分達の要求を押し付けるつもりなのさ。これ全部、スズカにはね返ってくるって分かんないのかな?」

「分かってないから、こんな騒動が起きたんだよ。」

「オフサイドトラップを慕っていたウマ娘の悲しみとかにも、気が回らないんだろうな。」

「回る訳ないよ。だってこの世界に、弱くて脆いウマ娘は不必要とされているんだから。」

療養ウマ娘は包帯の巻かれた脚に視線を落とした。

「不必要…そんなこと決めつけられていい同胞なんて一人もいないのに。だから私達は、闘い続けてるのに…。」

 

 

 

そして、特別病室。

サイレンススズカと沖埜も、生徒会の会見の中継を観ていた。

 

共に会見を見守る中で、沖埜はスズカの状態を心配し何度か声をかけた。

その度、スズカは大丈夫ですと首を振っていた。

一昨晩に初めて明かされた天皇賞・秋後の騒動・昨晩の自らの帰還未遂・ライスシャワーの帰還と立て続けに起きた事の影響はスズカの心身を深く蝕み疲弊させている筈だが、彼女はそれを耐えて生徒会の会見を見守っていた。

この騒動の原因である張本人としての責任と、今後の自らの為すべきことを見つける為に。

 

 

 

*****

 

 

 

再び、学園。

 

「ウマ娘療養施設医師の渡辺椎菜です。」

マックイーンの言葉の後、彼女の傍らでずっと沈黙していた椎菜が口を開いた。

 

この場で唯一、ウマ娘側の席にいた人間が遂に動き出したことに、場内はまたこれまでと違う緊張感が流れだした。



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修羅(5)

 

「ただ今マックイーン生徒会長が言われましたように、今回の騒動は療養施設で生活しているウマ娘達にも大きな影響を与えています。そのことについて、この場で公にお伝えします。」

緊迫感が立ち込める中、椎菜はゆっくりと話し始めた。

 

「どういうことですか?」

別方向からの話に、報道陣は戸惑いの色を見せ始めた。

現在療養施設には報道規制が敷かれてるので、最近の施設での出来事は外部に一切知らされていない。

とはいえそれ以前の療養施設で報道が注目してたのはスズカのことだけなので、療養ウマ娘達の変化などに気が回る筈もなかったが。

どちらにしろ、報道陣にとっては予想してない方向からの話題だった。

 

「今回のオフサイドトラップに対する心ない世間の風潮が、療養ウマ娘達を精神的に追い詰めているんです。」

戸惑いを見せる報道陣に構わず、椎菜は淡々と言葉を続けた。

ともすれば爆発しそうな感情を堪えて。

 

 

その後、椎菜は療養ウマ娘達のことについて簡潔に説明した。

オフサイドが療養ウマ娘達から深く慕われていたこと、秋天後の彼女への誹謗中傷などが療養ウマ娘達も深く傷つけていたことを。

 

「サイレンススズカの走りだけに夢と希望を描いていた人間達には想像すらしてなかったでしょうが、オフサイドトラップの走りに夢・希望を託していたウマ娘も沢山いたんです。秋天後の騒動は、そんな彼女達の夢も希望も全て壊してしまいました。」

椎菜は、最後まで淡々と話した。

 

 

「オフサイドの言動で深く傷ついたファンも多いですけど。」

療養ウマ娘達の現状を話した椎菜に対し、戸惑っていた報道陣からすぐに声が上がった。

「何をどう傷ついたんですか?」

その声に対し、椎菜も即座に言い返した。

「“笑いが止まらない”発言のことですか?それは何の問題もない発言を屈折した受け取り方をしただけ狂信的なファンの自業自得じゃないですか。」

 

「“狂信的”?それはファンに対して無礼では?」

「現実から目を背けて幻想に浸り続けて勝者を蔑ろにするような人間達を狂信的なファンと言わずして何ですか?」

気色ばんだ報道陣に対し、椎菜は全く退かずに、更に言葉を続けた。

 

「言葉が過ぎてるよ、渡辺医師…」

「そんな狂信的な連中を膨張・増長させ、ウマ娘のレース、栄誉ある天皇賞の尊厳すら破壊するまでに至らせた原因は、あなた方のような偏向に満ちた報道陣や識者じゃないのですか?」

「なっ…」

「尊厳を破壊したことにすら気づかず、過ちも頑なに認めず、狂信的なファンの暴走を許すとは、それでもウマ娘界に携わる人間としての自覚はあるんですか?恥を知らないんですか?今すぐにでもウマ娘界から去って、2度とこの世界に関わるなと言いたい位です。」

 

反論の暇すら与えず、椎菜は全く容赦ない勢いで言葉を突き刺しまくった。

彼女の中で堪えてたものが、少しずつ壊れ始めていた。

 

 

「…。」

椎菜の言葉の迫力と、そこに込められた感情の重さに、報道陣は沈黙した。

「…。」

傍らで聞いていた生徒会の面々、ゼファーもトップガンもパーマーも、これまでとは全く違う椎菜の言動に驚いてる様子だった。

ただ一人マックイーンだけ、表情も動かさずゆったりと座って瞑目しながら、彼女の言葉に耳を傾けていた。

 

 

「偉そうなことを言うものですね。」

沈黙していた報道陣が、やがてまたぽつぽつと反撃し始めた。

「ウマ娘療養施設の責任者は、学園側についたということで宜しいですね?」

「医師とあろうものが随分と過激な考えをしているんだな、スズカの身が心配だ。」

「今の渡辺医師の発言に対し、SNSではファン達の反発が拡がっています。」

「どんな考えがあろうとも、先程の一連の言葉は失言の類いと思いますが。」

報道陣達は、椎菜に対して不信感を露わにした。

 

「あなた方がした軽薄で残酷な行為に比べれば何でもありません。」

報道陣達の反撃に対し、椎菜は全くたじろかなかった。

ただ彼女の中で、心の堤防が崩壊しかけていた。

 

心が爆発しそうなのを感じ、椎菜は一度深呼吸してから、再び言葉を続けた。

「…もういいです。騒動を受けて苦しんだ療養施設のウマ娘達がどれほどの状態になっているか…ここまで表現を抑えてきましたが、どうやらあなた方や狂信的な人間達の想像力は絶望的な程に乏しいようなので、はっきりと明らかにします。」

 

「…なんだって?」

反発心を強めていた報道陣達は、なんだか寒気が走ったような表情をした。

「…。」

一方の生徒会は、トップガンは悲しげな瞳で虚空を見つめ、ゼファーは溜息を吐きながら片肘を突き、パーマーは俯き気味のまま唇を結び、マックイーンは瞑目したまま少しも表情を変えなかった。

 

 

椎菜は周囲を見渡しながら、言った。

「天皇賞・秋の騒動後、複数の療養ウマ娘が精神的苦痛により帰還しました。」

 



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修羅(6)

 

「…帰還?」

「ええ。未来に絶望しただけでなく、希望だった存在まで蔑ろにされた果て、心が折れて帰還を選択した療養ウマ娘が何人もいました。」

心が崩れ、血が冷たくなっていくような感覚を覚えながら、椎菜は言った。

 

「ちょっと、渡辺椎菜医師…」

椎菜の話の内容と言葉の表現に、報道陣達はこれまでと違う動揺を見せだした。

話の内容がメディアで流していい範囲を逸脱してきているからだ。

「生徒会長、これ以上この話を続けてもいいんですか?」

自制させるよう、報道陣達はマックイーンに促した。

 

「渡辺椎菜医師、続きをどうぞ。」

報道陣の注意を無視し、マックイーンは瞑目したまま椎菜に続きを促した。

 

マックイーンの促しを受け、椎菜は更に言葉を繰り出した。

「現在も同様の危機にある療養ウマ娘は多数います。これまでは我々施設内部で対応にあたっていましたが、もうこれ以上は支えきれそうにありません。」

なので私はこの場に来たのだと、椎菜は周囲を見渡した。

「理不尽にオフサイドを誹謗中傷したことへの対応は学園が既に執行していますが、騒動の影響で苦境に陥っている療養ウマ娘達を守る者としてはそれでは納得がいきません。…狂信的な人間側だけでなく、対応がここまで遅れた学園側にも、その責任を果たして頂きます。」

 

「…!」

椎菜のその言葉に、マックイーン以外の生徒会役員達は緊張感が走った視線を彼女に向けた。

 

生徒会の視線を全く意に介さず、椎菜は更に言葉を続けた。

「それだけではありません。長年の間、学園上層部に有象無象扱いされてきたウマ娘達への贖罪も、果たして頂きます。…メジロマックイーン生徒会長。」

 

そこまで言い切ると、椎菜は言葉を止め、傍らで瞑目したままのマックイーンに視線を向けた。

鬼気迫ったものが彼女の瞳に宿り、マックイーンを刺すように見つめていた。

 

 

 

***

 

 

 

「…椎菜先生。」

「これは、まさか…」

療養施設。

中継を観ていた療養ウマ娘達は、これまで見たことない程に豹変した椎菜の様子に驚愕していた。

 

療養ウマ娘達は、椎菜は生徒会と組んでオフサイドを擁護する為に会見に出席したのだと思っていた。

それは当たっていたが、更に学園までもを糾弾するとは誰も予測してなかった。

 

「今回の会見、どうやら本当に覚悟が必要な内容になりそうね…」

「…うん。」

先程、大広間でシアトル達が話したことが一層真実身を帯びてきたことに、療養ウマ娘達は更に緊張した。

「嫌だ、怖い…。」

「しっかりしな。」

既に絶望に覆われかけてる後輩ウマ娘を、先輩ウマ娘達が支えるように抱きしめていた。

療養ウマ娘の誰もが、恐ろしい予感に身体を震えさせていた。

 

「…それにしても、」

中継を観ている一人が、椎菜の姿を見て愕然と声を漏らした。

「先生がこんな感情を露わにしてるの初めて見たわ。」

「いや、椎菜先生ならこれほどの感情をもっててもおかしくないよ、だって先生はさ、」

驚愕しつつ、療養ウマ娘達はその理由が分かっていた。

「私達の同胞を、何百人もその手で帰還させてきたんだから。」

 

療養ウマ娘達は、この最果ての地で椎菜が執り行ってきたことを誰もが知っていた。

だけど、彼女のことを恨んでいる者はいない。

むしろ、彼女がそれを執り行うことで背負ってきたものに対する憐憫と同情を感じていた。

 

しかし。

「そう、帰還させたんだよ、椎菜先生は。」

「長年の間、絶望の底に落ちた同胞達を、ただひたすらね…」

療養施設内を覆う冷たく不穏な空気は、療養ウマ娘達の心を徐々に変貌させていた。

 

 

 

***

 

 

 

再び学園。

 

「…何をする気ですか、渡辺医師。」

椎菜の不穏な雰囲気を感じて、危険を察知したパーマーが、マックイーンを庇うように身を乗り出した。

「構いませんわ。」

瞑目していたマックイーンは少しも動じていない様子でパーマーを退がらせ、そしてようやく瞳を開いた。

 

瞳を開くと、マックイーンは椎菜ではなく報道陣達へ視線を向けて、ゆっくりと口を開いた。

「ただ今渡辺椎菜医師の言葉にありました通り、秋天後の騒動は療養施設に深刻な影響を与えています。学園としましては、このような事態を招いてしまったことへの責任をとらねばなりません。」

「…。」

会見の内容が本題とずれてきているが、椎菜と生徒会が醸し出した異様な雰囲気と張り詰めた空気に、報道陣達は口を挟めなかった。

 

 

そして、マックイーンは自然な口調で宣言した。

「その責任をとる為にまず、学園がこれまで表に出さなかったウマ娘界の負の部分、『故障などで競走能力を失った生徒達の末路』について、この場で公表いたします。」

 

 

***

 

 

「言いました、か。」

「…ええ。」

 

学園から遠く離れた、ハイセイコーの屋敷。

屋敷の一室には、ハイセイコーとメジロデュレンが中継を見守っていた。

 

マックイーンが負の部分の公表を宣言すると、秘書に付き添われている車椅子上のハイセイコーはふっと微笑した。

ゆったりとした微笑だったが、その眼の奥には張り詰めた覚悟の色が滲んでいた。

一方のデュレンは、憂いの色を表情に表して、画面のマックイーンの様子を見つめていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

「うっ…⁉︎」

 

オフサイドトラップを乗せて中山に向かうメジロ家の車両。

車内で黙々と座っていたオフサイドは、突然全身に悪寒を感じ、うめき声をあげて口を抑えた。

 

「どうされましたか?」

彼女の異変に運転手は車を止め、オフサイドに声をかけた。

 

「い、いえ…ご心配はいりません。」

オフサイドは口元に手を抑えたまま首を振ると、何を思ったのか急に車のドアを開けた。

 

「降りられるのですか?まだ中山ではありませんが。」

「はい、ここまでで大丈夫です。ありがとうございました。」

驚く運転手に対して努めて平然とした口調で答えながら、オフサイドは車を降りた。

 

「お待ちくださいオフサイド様。」

運転手も慌てて車を降り、去っていこうとしたオフサイドを止めた。

「何かご様子がおかしいです、本当に大丈夫でしょうか?」

「心配いりません、お気になさらないで下さい。」

「しかし…」

 

「…お引き取り下さい。今すぐに。」

心配する運転手に対し、オフサイドは低い声で命じるように言った。

ぞっと、運転手が寒気が走るほどの冷たい眼光と共に。

 

「は、はい。」

運転手は恐れを感じたようにオフサイドの言葉に従い、車に戻るとその場から去っていった。

 

 

はあ…はあ…

メジロ家の車両が去った後、オフサイドはしばらくその場で佇んだまま、苦悶の表情で胸を抑えていた。

椎菜先生まで、か…

 

 

「私も…もうここまでか…」

オフサイドは苦悶の声を漏らしながら、中山に向かう道をよろよろと歩き始めた。

 



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修羅(7)

***

 

再びトレセン学園。

宣言後、マックイーンは冷徹な口調に変え、ゆっくりと話し始めた。

 

「故障などの理由でレースを引退し学園を去ることを余儀なくウマ娘達、その数はこの中央トレセン学園だけでも年間で相当な数に達します。その中で、私や生徒会の面々のようにレースで大きな実績を残したウマ娘は、引退後の余生も保証されています。…しかし、レースで実績を挙げられなかったウマ娘達の余生については、保証されていないのが現実です。」

 

冷徹な口調に容赦ない威厳を漂わせ、マックイーンは更なる内容に踏み込んできた。

「保証されてないウマ娘達は、いずれは路頭に迷うような末路が待ち受けています。周知の通り、ウマ娘は人間社会に適合・順応していくのが難しく、生き残っていく為には人間の協力と保護が不可欠な種族だからです。なので路頭に迷うウマ娘は、事実上余生が絶たれたも同然です。そうなると、ウマ娘達は人間社会を乱す危険な存在となりかねない。なのでその前に、手を打たねばならない現実がありました。」

 

 

「その現実というのが、先程言った“帰還処置”。」

傍らの椎菜が、乾ききった声でその言葉を再び口にした。

「ええ、その通りです。」

マックイーンは軽く頷き返して、表情を変えずに言った。

「何も知らない一般の人間の方々にとっては衝撃かも知れませんが、それが現実です。」

 

 

「…生徒会長、渡辺医師。これは公共に発していい内容ではありません。」

完全に一線を越え始めた内容に、報道陣達が騒然とし始めた。

 

「ただ、このような処置が行われてきた理由には、ウマ娘と人間の歴史背景というのもありました。」

マックイーンは騒然とする報道陣に構うことなく、更に踏み込んだ内容に突入しようとした。

 

「マックイーン生徒会長!内容が過激な上に完全に本題と逸れています!」

「会見の中止を求めます!これ以上中継は出来なくなります!」

無視するマックイーンに対し、報道陣達から怒号が飛んだ。

 

 

「どうぞ、ご勝手に中継を止めても構いません。この会見の模様は学園のネット媒体からも全国中継させていますから。」

報道陣に対して言葉を返したのはゼファーだった。

「それに、生徒会長の話の内容が本題と逸脱してる訳ではありませんので。」

「どこがですか?秋天に関する件と引退後のウマ娘の余生の件とどこに共通点が…」

「オフサイドトラップは、余生なき末路を迎える筈だったウマ娘の一人なのですから。」

ゼファーはマックイーンと違い蒼白な表情であったが、マックイーン以上に冷淡な態度で報道陣達に対応していた。

 

「…そう、その末路の目前からの生還者なんです。オフサイド先輩…オフサイドトラップは。」

ゼファーに続いて、トップガンも緊張した面持ちながら口を開いた。

「その生還者が、今回の事態の中心である以上、この内容が無関係とは言えないのです。なにせ、生還者を侮辱し誹謗中傷までしてしまったのですから。」

 

「話を続けます。宜しいですね?」

ゼファーとトップガンの言葉の後、マックイーンは冷徹な表情に微笑を浮かべて、報道陣を見渡した。

絶対に逃られませんよという凄味が、その微笑に滲み出ていた。

「…。」

本気になった真女王と生徒会を前に、報道陣は反論が封じ込められたように沈黙した。

 

 

その後、マックイーンはウマ娘と人間の歴史(224話参照)の内容を話した。

華やかなレースの歴史の影で幾多のウマ娘達が消えていかざるを得なかったという内容も公表した。

しかし、ウマ娘が帰還を受け入れられるように人間から教育されてきたことに関しては、触れなかった。

 

「私達ウマ娘は、現在も人間の保護下でなければこの世界に存在できない種族であることは自覚しています。しかし、実績ある同胞や選ばれた同胞達のみが生き残れる歴史にはもう終止符をうち、新たなウマ娘と人間の共生社会を模索していかねばならないと思います。」

マックイーンは、最後まで冷徹な口調を崩さずに話しきった。

 

 

「…マックイーン生徒会長、」

話し終えたマックイーンに、沈黙を余儀なくされていた報道陣が質問した。

「話が本題と脱線し過ぎた上に内容もあまりに過激だったので我々も混乱してますが、幾つか尋ねたいことがあります。」

「なんでしょうか?」

「具体的に、どのようなことを今後望むのですか?」

 

「そうですわね…」

答えつつ、マックイーンは傍らの生徒会員に視線を向けた。

トップガンとパーマーは務めて自然な表情を保ったまま報道陣の方を向いていたが、ゼファーだけはマックイーンに対してやや険しい視線を向けていた。

マックイーンは彼女の視線に対して軽く頷き返し、そして返答を続けた。

「共生社会に関しては、まだ具体的な青写真は描けていません。ただ、過去の総精算はしなければならないと思います。」

 

「というのは?」

「あなた方人間が、我々ウマ娘を娯楽・経済種族として扱うようになっていたことの反省。…そして、我々ウマ娘界の中心である者達が、…同胞達の犠牲を…長年許してきたことの反省です。」

その返答をした時、マックイーンの冷徹な表情が初めて苦しげに歪んだ。

 

 

「ふっ…ふふっ、あはは…」

肌が粟立つような笑い声が聞こえた。

笑い声の主は、マックイーンの傍らの椎菜だった。

殺気を通り越して、冷め切ったような笑顔が、彼女の頬に浮かんでいた。

その笑い声に、場内は空白のような沈黙が流れた。

 

 

「…。」

マックイーンを除く生徒会の面々は、尋常でない椎菜の様子を前に非常に緊迫した表情を並べていた。

彼女達は、椎菜がこの会見に出席することに内心で恐れを抱いていた。

ウマ娘界の負の側面を一身に背負い続けてきた人間である彼女は、今回の騒動以前から人間だけでなくウマ娘の上層部に対しても大きな不信感を抱いていたであろうことは容易に推察出来たからだ。

この会見に出席したのも、マックイーンの頼みより椎菜自身の意思が大きい筈。

だから彼女は学園の側ではなく、療養ウマ娘の側の者なのだと、警戒感を抱いていた。

 

…。

ゼファーは、普段は穏やかな瞳を険しく光らせて、椎菜とマックイーンを交互に見ていた。

先程、マックイーンが言った『ウマ娘の中心者が同胞の犠牲を長年許してきた』という言葉。

あそこには、マックイーンの意思では、『経済種族とする為に人間がウマ娘を洗脳教育してきたこと』『過去のウマ娘達の犠牲を人間が隠匿してきたこと』などの項目も入る予定だった。

 

しかし、会見前の打ち合わせ(椎菜来訪前の)で、ゼファーはその部分だけは撤回させた。

マックイーンが提示した会見内容の大筋に最も反対していたゼファーだが、マックイーンの態度に全て撤回させるのが不可能であると判断し、パーマーやトップガンと相談して譲歩を引き出すことに方針を変え、代案を出した。

 

その結果、マックイーンは代案を受け入れて、前述の2つの項目は撤回した。

勿論、その代わりにこれ以上ゼファー達が反対姿勢はとらないという条件つきもあったが。

しかしこれでなんとかウマ娘と人間の対立が最悪レベルまで深刻化することは避けられたと、ゼファーは見ていた。

 

しかし…

“ウマ娘の中心者が同胞の犠牲を長年許してきた“…

こんな直接的な言葉を使うとは、ゼファーは(多分パーマーもトップガンも)予測出来なかった。

それは事実ではあるとはいえ、そのことを認めたら療養ウマ娘達にどんな影響を及ぼすか…

ゼファーは危惧した。

 

いや、その前に…

ゼファーは冷たい笑顔の椎菜を再び見た。

彼女の方が、危険かもしれない…

 

 

「…ふふ、ふー…」

やがて、椎菜は笑顔を止め、冷めきった表情でマックイーンを再び見つめた。

「マックイーン生徒会長、学園上層部が長年に亘る非を認めたことに、まず感謝致します。このことで、療養ウマ娘達や余生が不透明なウマ娘達が少しでも救われる未来が拓けゆくことを望みます。」

 

そう言った後、椎菜は再び報道陣に姿勢を向けた。

「ウマ娘の世界の最果て…療養施設で生きてきた人間として、伝えたいことがあります。」

「…。」

報道陣は、椎菜にカメラを向けた。

 

 

その時。

傍らのマックイーンの膝元にあるスマホに、無音で着信が届いていた。

椎菜に注目が集まっていたので誰も気づかなかったが、マックイーンは一瞬だけ視線を落としてその着信内容を読み取ると、視線を向けないまま手元を素早く動かし返信した。

『了解です 処置お願いします』

 

返信を終えると、マックイーンは何事もなかったように座り直した。

彼女のその動作には、誰一人気づかなかった。

 



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修羅(8)

 

「ウマ娘専門医師の肩書きの通り、私は療養施設で故障に苦しむウマ娘達の治療に長年尽くしてきました。」

 

椎菜は、先程までの殺気が失せ、冷静な様子で語り始めた。

 

「表には殆ど取り上げられることのない、走ることが出来なくなった故障ウマ娘達の苦しみ。それは我々人間から見ても辛くなる位、非常に悲しく重たいものです。多大な実績を挙げたウマ娘とて、その苦しみは例外ではありません。トウカイテイオーも、ナリタブライアンも、そして今のサイレンススズカもそうでした。」

 

「…しかし、彼女達にはまだ救いの道がある。なぜならレースを失っても生きる道があり、残された未来があるから。本当に悲惨なのは、未来を許されない故障ウマ娘達です。」

冷静ながらも、椎菜の言葉の一つ一つには痛切な感情が込められていた。

 

「…皆さんに尋ねます。ウマ娘の表の世界しか、レースの舞台しか知らない人間達にとって、ウマ娘のイメージはどんなものですか?」

 

「美しい走りと夢のようなスピードを携えた身体で、時には熱い名勝負を演じ、時には胸躍る圧倒的な強さを見せ、時には泥に塗れながら不屈の根性でゴールを目指し、時には冷徹な程の完璧な勝ち方をレースで見せるなど、夢・希望・笑顔に満ちた最高の娯楽を魅せてくれる優れたスポーツ種族でしょうか?それはその通りです。…だけど、それはほんの一部です。」

 

「実績の残せない、凡庸な能力しかないウマ娘は、表舞台で輝くことは難しい。人間達が望むものを魅せ与え続けるのは難しい。そしていずれ、厳しい現実に直面してしまう。」

 

「それでも、まだ走れることが出来るのならば、そこに夢がある。希望がある。生き甲斐が、そして笑顔もある。…だけど、走れなくなった、走りを奪われた凡庸なウマ娘達はそれすらない。それすら…」

 

そこまで言った後、椎菜は一瞬黙った。

噛み締めた唇から血の味がした。

 

唇元の血を拭って、椎菜は再び言葉を絞り出した。

「彼女達は、故障で追い詰められたウマ娘達は、夢も希望も笑顔も、そんなものは全て奪われます。そしてあとは、自らが不必要とされる現実の世界に直面して…自らが生まれた意味を問いかけながら、帰還を受け入れて人知れずこの世を去っていく未来が待っているだけです。」

 

「そんな、過酷な運命を背負わされたウマ娘達は、暗い絶望の世界で、僅かにある心の灯を集めあって、必死に希望を探して…だけど希望なんて見つかるものじゃない。この世界から見捨てられ、力尽き心折れた仲間達の屍が積み重なっていくのを見届けて、いずれ自らも屍の山の一部になる。…それが今の彼女達の現実です。」

 

「どうか、彼女達に救いの手を差し伸べて欲しい。このウマ娘界の負の側面から眼を逸らさないで欲しい。表舞台しか見ない人間達の曰う夢・希望・笑顔なんて、絶望の世界で抗うウマ娘達には届く訳などない。届くのは、苦しみをともにしようとする者の心しかない。」

 

「競走能力が乏しくても、その血が未来に必要な存在でなくても、保護する我々人間にメリットも見返りもなくても、この世に生を受けたことを後悔するような…そんなウマ娘はもう一人として出したくない。…それが、これまでそのようなウマ娘達を…何百人と帰還執行し…彼女達の屍の山を積み上げてきたこの渡辺椎菜の、心の底からの願いです!」

 

 

「…以上です。」

最後は血を吐くように話しきると、椎菜は席を立ち、会見場を去っていった。

 

 

 

「…。」

「…。」

椎菜が去った後、会見場は重い重い沈黙が流れた。

報道陣も生徒会も、何の言葉を出せなかった。

 

 

「今、渡辺医師は仰いませんでしたが、」

重い沈黙を破ったのは、マックイーンの静かな声だった。

「彼女は、俗に不治の病とされる〈クッケン炎〉の専門医師をしています。そしてオフサイドトラップは、その〈クッケン炎〉を長年患っていたウマ娘で、療養ウマ娘達の中心的存在でもありました。…あとは、ご想像にお任せします。」

 

そう言った後、マックイーンは冷静沈着な表情で報道陣達を見渡した。

「改めてお伝えします。今回、秋天の騒動等を受けて我々が下した断行は、決して撤回せずに最後まで敢行します。そして、ウマ娘のこの世界での存在意義の再考と今後の人間との共生社会の再模索、引退後のウマ娘達の余生問題などの解決を、今後執り行っていく方針です。」

 

 

その言葉を最後に、マックイーンは会見の終わりを告げた。

 

 

 

***

 

 

 

「…はは、あはは…」

会見が終わり、しばらく流れていた沈黙を破って、療養ウマ娘が笑い出した。

「やっぱり、見捨てられていたんだ…私達は。」

 

療養施設を、冷たく凍えた空気が覆い始めていた。

 



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修羅(9)

***

 

会見が終わった後、生徒会ウマ娘達は殺到してきた報道陣達の取材攻勢をかわし、生徒会室に戻った。

 

 

「お疲れ様でしたわ。」

生徒会室に戻ると、生徒会長のマックイーンは役員達を労った。

「…お疲れ様でした。」

疲労の色が全くないマックイーンと異なり、他の三人はかなり疲弊して見えた。

特にゼファーにその色が濃かった。

 

「ご協力ありがとうございました、ゼファー。」

会見前にその内容でゼファーと対立していたマックイーンは、感謝するように彼女を見た。

「礼には及びません。私は生徒会役員として義務と本分を果たそうとしただけですから。それに…」

「大変なのはこれから、だからね。」

パーマーが、ゼファーの肩に手を当てながら言った。

「なんたって人間達に歯向かったのだから。運営に支障が出ることは間違いない。レースの施行もこれまで通りにはいかない可能性が高いし、ファンとの対立も深刻化するよ。」

 

「厳しいことばかりではないと思います。」

生徒会役員の中で最も年少のトップガンが、気勢を保った口調で首を振った。

「今回の我々の会見と覚悟を見て、偏っていた考えを変える人間の皆さんもきっといる筈です。長年の負の遺産は膨大ですが、今は動き出せたことの意味の大きさを考えるべきです。勿論、今回のことで何かしらの犠牲が出る事は覚悟せねばなりませんが。」

「…そうだね。」

ゼファーは、トップガンの言葉に頷いた。

「理事長や渡辺医師を始め、ウマ娘の味方をしてる人間だっている。悲観し過ぎてはいけないわね。」

 

 

少し時間が経つと、生徒会は今後の行動について話し合った。

その結果、パーマー・ゼファー・トップガンらは学園に残って外部との対応にあたることになり、マックイーンはこれから中山に向かうことになった。

その方針が決まると、すぐにマックイーンは中山に向かう為生徒会室を後にした。

 

 

学園に残ることになった役員三人は、今回の会見受けての外部の反応を確認した。

 

「会見の内容に対する一般の反応は、内容が内容だけに非常に混乱した反応のようです。」

ネットでそれを調べているトップガンが緊張した面持ちで言った。

「会見内容の真偽を疑う声も多いですし、非難の矛先を逸らさせる為の学園のでっちあげだと言う声もあります。少なくとも、学園の発表をすぐに信じた一般ファンは殆どいないようで、疑問の声が遥かに多いです。」

「やっぱりか。」

それは予想出来てたことなので、パーマーもゼファーも大して驚かなかった。

 

「一般はともかく、レースの協賛者やスポンサー関係者の方は大変みたいだわ。今回の会見に対してかなり反発が強いみたい。理事長をはじめ人間の学園運営関係者が四方八方で手を尽くして対応にあたると約束してるけど、厳しい状況は避けられないわ。」

パーマーが険しい口調でそれを言うと、ゼファーが反応した。

「その件については、人間だけじゃなくて学園の元生徒達も対応に当たってくれるようです。」

「元生徒?」

「アンバーシャダイ先輩やミスターシービー先輩など、外部との関係も深い偉大な先輩方達です。各々、対応に奔走して下さるとのことでした。」

 

「そうですか…。」

ゼファーからの情報に、パーマーは複雑な表情をした。

学園の偉大な元生徒達が、今回の学園の断行に対して難色を示していたことは知っている。

それでも学園の為に動いてくれることに、感謝と責念を感じた。

 

「…。」

複雑な思いを胸に、つとパーマーは思い出したようにスマホを取り出し、あるウマ娘に通知を送った。

『デュレン様へ報告です。マックイーンは中山に向かいました。 パーマー』

 

 

「そういえば、渡辺医師はどうしたのかしら?」

ふと、ゼファーが今更思い出したように言った。

「そういえば、そうですね。」

トップガンも思い出したように呟いた。

会見終了前に会見場を後にした椎菜とは、その後誰も会っていなかった。

 

「渡辺医師なら、もう療養施設への帰路についたと思うわ。」

パーマーは作業の手を止めずにぶっきらぼうに答えた。

「…。」

ゼファーもトップガンも思うことがあるのか、それ以上椎菜のことに関しては言及しなかった。

 

椎菜は今回の会見で、生徒会と同じく人間達に対し重大な行動をした。

しかしそれは学園側としてではなく、療養ウマ娘側としての行動だった。

椎菜はむしろ、一般の人間達より学園上層部に対して敵意を抱いてた。

だから彼女の行動は、パーマーら生徒会にも突き刺さっていた。

というより、彼女の行動から療養ウマ娘達の受けている苦しみを痛切に感じた。

 

「…私達は、私達の責務を果たそう。」

パーマーが、重い口調で呟いた。

療養ウマ娘達の行く末は、椎菜や施設にいるブルボンらの同胞達に任せているのだから。

 

 

 

一方。

中山に向かう為生徒会室を後にしたマックイーンは、すぐには学園の外には行かず、学園内の一室へと向かっていた。

 

「…。」

一室に着き扉を開けると、マックイーンはその室内の様子を見てやや眉をひそめつつも、微かに微笑を浮かべた。

 

そこには、メジロ家の使用人と思われる人間がいて、その片方の手には注射器が握られていた。

そして使用人の足元には、意識を失って倒れている椎菜の姿があった。

 

「処置、ご苦労ですわ。」

室内に入ったマックイーンは使用人を労うと、倒れている椎菜に視線を落とした。

椎菜の手元には鞄が落ちていて、中身の物が見えた。

…私の想像通りだったようですわね。

鞄の中身をチラと見下ろし、マックイーンは胸中で溜息を吐いた。

 

「渡辺椎菜医師、これもウマ娘の未来の為の闘いですわ。」

鞄から眼を逸らし、マックイーンは意識を失っている椎菜を見下ろしたまま、無感情な声で語りかけた。

「重要な役割を果たして下さりありがとうございました。心から礼を言いますわ。」

 

 

その後、マックイーンはメジロ使用人に幾つか指示を出し、室内を出ると今度こそ学園の外へと向かった。

 

学園の外では、メジロ家の車両が待機していた。

外は既に闇に覆われていて、寒い風が吹き荒れていた。

晴れていた筈の空は、いつの間にか雲に覆われていた。

 

「…。」

つと、マックイーンは二つの方角の空を見上げた。

一つは療養施設の方角、もう一つは中山の方角。

 

…どちらからも感じますね、途轍もなく膨大な〈死神〉を。

マックイーンは視線を下ろし、車両に乗り込んだ。

 



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修羅(10)

 

*****

 

 

場は変わり、療養施設。

 

会見の中継が終わった後、施設内の病室の一室に、ミホノブルボン・ダンツシアトル・ホッカイルソー・ヤマニングローバル・マイシンザン・フジヤマケンザン・ステイゴールドらが集まっていた。

 

「…大変な会見でしたね。」

「そうだね…。」

皆、会見の一部始終にかなりの衝撃を受けている様子だった。

内容についてはブルボンから前もってある程度知らされていたが、それでも想像以上の内容だった。

 

「一層厳しい状況になりますね、これは。」

シアトルが深刻な表情で腕を組んだ。

会見の内容で彼女達が危惧したのは、人間との対立事項ではなく、学園の上層部が弱い立場にあるウマ娘達を長年蔑ろにしてきたことを認めた事項だ。

認めると同時に今後この問題を解決することを約束したが、今の療養ウマ娘達にとっては、今後の拓けるかもしれない未来への嘱望よりもこれまで犠牲になった者達への想いの方が遥かに強い。

 

「オフサイドトラップの件も相まって、療養ウマ娘達…特に〈クッケン炎〉療養ウマ娘達に蔓延する負や絶望が爆発するかもしれないわ。」

グローバルも厳しい表情で腕を組んでいた。

 

「私達生徒会に対してその思いをぶつけることならば構いません。」

ブルボンはいつもの無表情だった。

「…そんなこと出来るウマ娘ならいいけどね。まだ気力がある証拠だし。問題は無気力になってしまうこと、つまり心が保てない絶望の底に落ちることだよ。」

マイシンは焦りの面持ちで爪を噛んでいた。

その空気は会見以前から施設内に蔓延していたが、会見後の今はその空気が一層強くなっているように感じた。

 

「渡辺先生とは連絡とれましたか?」

「…いえ、」

気になった様子でルソーがブルボンに尋ねると、ブルボンは首を捻って答えた。

「会見後、渡辺医師は私や他の医師も含めて誰とも連絡をとっていないようです。生徒会もどうやら知らないようで、彼女の動向は現在把握出来ません。」

 

「今は、渡辺医師はここに戻させない方がいいです。」

二人の会話を聞き、ケンザンが言った。

療養ウマ娘達から最も信頼の篤い医師とはいえ、椎菜はウマ娘の帰還執行を長年行ってきた人間だ。

普段ならともかく、この状況下だと療養ウマによって危険に晒される可能性もあるからだ。

「今は、私達とここにいる人間達とで手を合わせて対応する以外にないです。」

「そうだね。」

重い空気が漂う中、一同は同意した。

 

 

 

その時。

「先輩方!大変です!」

切迫詰まった声と共に、数名の療養ウマ娘が室内に駆け込んできた。

 

「どうしたの?」

「大変なんです!」

駆け込んできた療養ウマ娘達は、泣きそうな声で叫んだ。

「数名の療養仲間達が、“もう何もかもに絶望した”って、自ら帰還を図りました!」

 

「なんだって⁉︎」

聞くや否や、ルソーとシアトルがすぐに立ち上がった。

「待ちな!私達が行く!…案内して。」

二人を止めて、グローバルとマイシンが立ち上がり、療養ウマ娘らと共にすぐさま現場に向かっていった。

 

 

『ピリリリ、ピリリリ…』

グローバルらが出ていくと同時に、ブルボンのスマホが鳴った。

見ると、施設内にいる医師達からの着信だった。

「どうしましたか?…なんですって…それは…はい、分かりました。…いえ、それはいけません。…とにかく、直ちに現場に向かいます。」

医師からの急報を受けながら、ブルボンは無表情を険しくさせて立ち上がった。

 

「どうしたんですか?」

「錯乱状態に陥った療養ウマ娘達が現れた模様で、人間の医師達の元に押しかけているとのことです。」

「っ!…」

その場にいた全員が息を呑んだ。

 

「私は現場に行かねばなりません。フジヤマケンザン先輩、ご同行願えますか。」

「…分かったわ。」

ケンザンは蒼白になりながら了承し、ブルボンと共にすぐに現場へと向かっていった。

 

 

「…遂にか、遂に起きたのか。」

次々に発生する異常事態に、シアトルは頭を抱えた。

「これが絶望の爆発…ですか。」

「その通りだよ。」

ベッド上にいるゴールドの茫然とした声に、ルソーは松葉杖をついて立ち上がりつつ頷いた。

心の〈死神〉の襲来…いや、『大償聲』の始まりだな…

急変していく施設内の雰囲気に、全身に寒気を覚えながらルソーは思った。

 

「…ここからは闘いだ。膨大な絶望の嵐と、私達の心とね。」

張り詰めた口調で言いながら、ルソーは上着を取り出してシアトルを向いた。

「先輩、我々も動きましょう。」

「うん…そうだね。」

頭から手を離し、シアトルも脚を踏ん張って立ち上がった。

 

「私も行きます!」

動き出そうとした両先輩を見て、ゴールドもベッドから降りた。

 

「駄目。あんたはまだ動いてはならないわ。」

切迫詰まったように動き出したゴールドを、ルソーは止めた。

「…何故ですか?」

「あんたが闘う場所はここじゃないからよ。」

「え?でも…」

 

反論しようとしたゴールドを、ルソーは厳しく見据えて言った。

「あんたの闘う場所は明日の中山、相手はオフサイドトラップ先輩だから。」

「…っ!」

ルソーの言葉に、ゴールドは震撼したように硬直した。

 

硬直したゴールドに、ルソーは言葉を続けた。

「オフサイド先輩と対峙する為には、ここであんたを失う訳にはいかない。だから今は、自分の身を大切にしなさい。」

言いながら、ルソーは羽織ろうとした上着をゴールドに投げ渡した。

「心身が危なくなったら、特別病室の沖埜トレーナーの元に逃げな。今の彼なら必ずあなたも守ってくれる。」

 

「…ルソー先輩。」

「じゃ。」

泣きそうな後輩に背を向け、ルソーはシアトルと共に病室を出ていった。

 

 

 

病室を出たシアトルとルソーは、途中で一旦別々に分かれた。

 

 

ルソーがまず向かった先は、スペシャルウィークの宿泊室だった。

 

「スペ、いるかしら?」

「ルソー先輩…一体何が起きているのですか?」

宿泊室に着くと、制服姿のスぺは蒼白な表情で室内に座り込んでいた。

彼女もまた、施設内の急変に気づいていた。

 

「今すぐここを出て、仲間達のいる特別病室に行きなさい。」

スペの側に行き彼女の身体を支え起こしながら、ルソーは指示した。

「特別病室へ、ですか?」

「今のあんたがここで一人でいるのは危ないわ。心が絶望に食われてしまう。」

「絶望…」

「早く!しっかりしろダービーウマ娘!」

震えているスペを肩で支え、ルソーは彼女を室内から連れ出した。

 

 

 

一方のシアトルは、大広間へと向かっていた。

 

向かう最中、彼女は病室にいる療養ウマ娘達の様子を幾つも確認した。

誰もが、生徒会の会見内容にショックを受けていた。

病気療養ウマ娘にその傾向が著しいようだたが、怪我療養ウマ娘達も相当に心が追い詰められており、施設内は一気に絶望の空気一色に覆われそうな状態となっていた。

 

「〈死神〉め…」

シアトル自身、身体の内部から侵食していくような絶望を感じ、心が折れそうになりながら必死に意識を保った。

負けるか…私は、仲間達を救う為にここに来たんだから!…

ライスシャワーの面影を脳裏に、シアトルは胸の内で何度もそう叫んだ。

 

 

 

*****

 

 

 

「療養ウマ娘達が…そうですか。」

 

中山に向かう道中のマックイーンは、車中でブルボンからその急報を受けていた。

 

「対処については…ケンザンらと協力して当たっている…分かりました。…渡辺椎菜医師ですか?彼女は私が身柄を保護しています。…ええその通りです、彼女を失う訳にはいきませんから。…では、どうかご無事で。」

 

「お嬢様、行き先を変更しますか?」

ブルボンとの通話後、運転手がマックイーンに尋ねてきた。

「いえ、このまま中山に向かって下さい。」

マックイーンは首を振り、車窓から療養施設の方角を静かな眼で見つめていた。

 

 

時刻は、18時を過ぎていた。

 



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心襲(1)

***

 

シアトルとルソーは再び合流した後、施設の大広間へ向かった。

 

大広間には、十数名の療養ウマ娘達が待機していた。

彼女達はそれぞれ療養ウマ娘の中にあるグループのリーダー的存在にあたる者達で、現状確認の為に集められていた。

 

「非常に危険な状態です。」

療養ウマ娘のリーダー達は、各々の療養仲間達の現状を伝えた。

「数名の仲間達がショックで倒れました。つい先日仲間が帰還した者達で、今回の生徒会の発表で完全に心がやられています。」

「うちは一人が帰還を図って脚を折ろうとしました。なんとか阻止して、今は残った仲間達で看護してます。」

「…1、2年生の〈クッケン炎〉患者が集団で帰還を図ろうと相談までしてます。“要らないウマ娘が消えても誰も悲しまない”と自暴自棄になってて…」

「人間と学園上層部への不信感が爆発して錯乱状態になった者が多数出ました。駆けつけた医師の処置で今は落ち着かせていますが、その状態が続けば危険回避の為の処置執行の可能性が高いです。」

伝えられる現況は凶報ばかりで、それを報告する歴年の療養ウマ娘達もかなり心身が侵されているようだった。

 

 

「分かりました。取り敢えず、今はなるべく療養仲間達で集まって行動するようにしてね。少数での行動は厳禁だよ。」

報告を聞いて、シアトルがそれを指示した。

「医師側にかけあって、それぞれの病室に医師を派遣させてもらうよう要請するわ。」

シアトルに続いて、ルソーも提案するように言った。

 

「医師の派遣…それは大丈夫ですか?」

ルソーの案に療養ウマ娘達は危惧した。

現在、多くの療養ウマ娘達が人間への不信感を募らせる程に心がやられている状態だ。

その状況では、例え医師でも危険に晒されるかもしれなかった。

 

「そこは、もう祈るしかないわ。」

ルソーは眼を険しく光らせた。

現に今、それが別の場所で起きしまっていて、その動揺は施設内に広がっている。

「もし人間に対してそういう状態になったウマ娘がいたら、あなた達は全力で人間を守って。例え、そのウマ娘が帰還執行処置をされることになろうとも。」

「えっ…」

「ウマ娘の歴史に人間への危害というものだけは残してはならないわ。そんなことが起きたら、私達は永遠に苦しみ続けることになる。これは、ウマ娘の未来の為よ。」

そう言ったルソーの口調は鬼気迫っていた。

 

「苦しんでる療養ウマ娘達の行動を抑える為に、何かメッセージを送ることは出来ませんか?」

切迫した空気の中、リーダーの一人が二人が提案した。

「また皆を一堂に集めて、この苦境に耐えうる言葉をかけるとか…」

 

「それは私達も考えています。」

その案に頷きつつも、二人は首を振った。

「だけど今の状況では、この絶望の嵐の中では、言葉なんてまだ到底無力だわ。」

「そんな…」

「今はただ、この嵐に耐え抗うことしか出来ない。」

ルソーは無念そうに言葉を吐いた。

屋内だというのに、周囲には冷たい風が吹き荒れていた。

 

 

その後、療養ウマ娘のリーダー達は仲間達のもとに戻っていった。

 

 

シアトルとルソーも大広間から移動し、状況確認の為に施設内の巡回を始めた。

 

「シアトル先輩、」

廊下を歩きながら、ルソーは話しかけた。

「この絶望に抗えるだけの力がある言葉…先輩は持っていますか?」

「持ってないよ。」

シアトルは悔しそうに答えた。

「今回の絶望は巨大過ぎる。これまでここで散っていった同胞達の数まで積み重なっている。言葉だけでどうこうなる類のものじゃないさ。あなただって、かなりきているでしょう?」

 

「…。」

ルソーは胸に手を当てた。

一瞬でも気落ちしたらそのまま絶望の餌食になりそうなぐらい、彼女も心を保っているのがやっとだった。

「私も、数多くの見捨てられた同胞との永別がありましたから。」

 

永別…

ルソーの重い言葉に、シアトルは脚を止めて虚空を見上げた。

今回の生徒会の会見を受け、この二人も心に大きな揺れを感じていた。

「今更過ちを認められようと、未来への道筋が拓けようと、犠牲になった同胞はもう戻らない。失われた命は蘇らない。それが現実だよ。」

「…。」

二人の周囲に、心の〈死神〉が纏わりはじめていた。

 

「だけど、」

シアトルはその纏わりを振り払うように言った。

「かといって絶望に屈しはしないよ。ただ耐えて、耐えて、最後の最後まで希望を信じ続ける。それがこのウマ娘ダンツシアトルの、生きたてきた道だから。」

 

 

 

その時。

廊下の奥から、大きな物音が聞こえた。

 

「…!」

二人とも、悪い予感に表情が青ざめた。

ルソーはすぐに松葉杖を鳴らして駆け出し、シアトルも続いた。

 

 

物音がしたと思われる場所の病室にたどり着くと、果たしてそこには数名の療養ウマ娘が倒れていた。

 

「あんた達!」

「ルソー先輩…」

倒れていたのは〈クッケン炎〉療養ウマ娘だった。

全員の脚が折れたように腫れ上がっていて、鮮血すら滴っていた。

「…馬鹿なことを!」

彼女達が何をしたのか、すぐに分かった。

 

二人は医師に緊急連絡し、それからすぐに彼女達の手当てに当たった。

「…必要ありません。」

重傷を負っている療養ウマ娘は意識朦朧のまま、手当てを拒否した。

「もう希望なんてないから、このまま帰還させて下さい。」

「うるさいっ!」

ルソーは着ていた上着で彼女の止血をしながら怒鳴った。

全員、命の危険な程の怪我だということは明白だった。

 

「誰がこんなことしていいって教えた⁉︎私は最後まで諦めるなと教えた筈よ!」

「…私達は…必要価値のないウマ娘です。希望なんてありません。」

「そんなわけないわ!」

血が付いた腕でルソーは彼女の抵抗を抑え、療養ウマ娘を膝の上に抱き支えた。

「諦めなければ、必ず希望はある。生きてさえいればいずれ必ずその価値を証明出来る!」

 

ルソーの言葉に、療養ウマ娘は閉じかかった瞳を薄く笑わせた。

「生きる権利のない…私達なのに?」

「なっ…」

「私達は、生きる権利がない。先輩達のような…能力がないから…」

「違う、それは間違ってる!」

「そう…違う。私達は、先輩とは違うんです…」

「…っ」

「…だから、もういい…」

その言葉を最後に、療養ウマ娘はがくりと瞳を閉じた。

 

「帰還してしまったの?」

「いえ、苦痛で意識を失っただけです。ただ、怪我は予後不良級の重傷かと…」

ルソーは意識を失った彼女の容態を調べながら、悲痛な声でシアトルの問いかけに答えた。

「そちらの二人は…どうですか?」

「こっちも同じ…みたい」」

駆けつけた当初から意識を失っていた療養ウマ娘達の手当てをしていたシアトルは、震えながら頷いた。

彼女の掌にも、紅い鮮血が付着していた。

 

 

やがて医師が到着し、重傷を負った療養ウマ娘達は搬送されていった。

後から騒ぎに気づいて現場に来た療養ウマ娘達も多数おり、その全員が血の気を失う程のショックを受けていた。

 

「仲間達の元に戻りなさい。」

療養ウマ娘達に、二人は改めてそう指示した。

「今、重傷を負った療養ウマ娘達は、心が折れかけた状態で周囲に仲間も少なかったから、〈死神〉の魔の手にかかったんだ。他の場所でも同じ事が起きてるようだ。だから今は集団でいるように。」

 

 

療養ウマ娘達を戻らせると、二人は再び暗い廊下を歩き始めた。

身体のあちこちに手当ての際についた血の痕が残っていて、足取りもかなり重くなっていた。

 

歩くうち、二人は施設の出入り口の付近に来た。

施設の現状を受けて外出禁止令が出されている為、出入り口の扉は固く閉ざされいた。

外はと見ると、既に真っ暗な闇に覆われていた。

 

「また、夜が来ましたか。」

ルソーが脚を止め、出入り口から見える夜空に眼をやった。

「…そうだね。」

「今夜は、果たして乗り越えられるか…」

 

「…。」

シアトルは何も答えず、廊下を歩いていった。

ルソーもすぐに視線を戻し、シアトルの後を追っていった。

 



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心襲(2)

 

***

 

一方。

施設内の医師棟と療養ウマ娘棟を繋ぐ通路の間には、ブルボンとケンザンの二人がいた。

 

「…ブルボン、大丈夫?」

「ご心配なく。」

二人とも、かなり疲弊した様子で通路の壁にもたれて立っていた。

身体の幾つかの箇所には傷の痕が見えた。

 

先程、錯乱状態のウマ娘達が人間医師達の元へ向かっているという急報を受けた二人は、すぐにこの場に駆けつけた。

押しかけた療養ウマ娘達は多数おり、その全員がかつていた仲間を喪っていた者だった。

今回の会見を受けて、抱えていた悲しみと人間への不信感が爆発したような状態で、人間へ危害を与えかねない危険すらあった。

二人だけでなく駆けつけた他の療養ウマ娘達とで彼女達の阻止にあたり、二人を含めて何人もが傷を負う小競り合いの末、なんとか全員を鎮静させ、病室に引き上げさせた後だった。

 

 

「…昔を思い出します。」

頬に付いた傷を手当てしながら、ブルボンが呟いた。

「昔?ああ…」

あれか…。

ブルボンの呟きを聞き、ケンザンはそれが何かすぐに分かった。

サンエイサンキューの事件…一人のティアラウマ娘に身に起きた悲劇と、人間とウマ娘の間に亀裂が走った事件のことか…

 

「あの事件の時、あなたは最も激昂してた一人だったわね。責任追及の為に仲間達と生徒会に乗り込もうしてたぐらいだし。」

「…。」

ブルボンの無表情が、傷のせいもあり悲しげに映った。

前述のようにサンエイサンキューの悲劇の際は、ブルボン、ライス含めサンキューの同期のウマ娘達が報道や学園へ強い不信感抱き、人間との亀裂が完全に起きる寸前までいった。

 

「…今回の件を受けて人間への不信感を募らせた同胞達の思い、私にはよく分かります。」

当時を思い返しながら、ブルボンはぽつりと呟いた。

「もしかして、本当は止めたくなかった?」

その横顔を見ながら、ケンザンは尋ねた。

「いえ。」

目元を拭い、ブルボンは即座に首を振った。

「心が絶望に侵された末にこのような事をしてしまう者は、絶対に止めなければならないです。あの時の私もそうでした。先輩方に止められましたが、あの時の私は冷静さを完全に失っていましたから。」

「…。」

ケンザンは無言で、労るようにブルボンの肩に手を当てた。

 

 

「しかし、深刻な事態になりましたね。」

やがてブルボンは一つ息を吐き、表情を無に戻した。

「今ここで起きたこと…錯乱して人間に危害を加える可能性のあるウマ娘達が現れたことは看過出来ない事柄です。」

事を起こした療養ウマ娘達は、先日錯乱しかけたルソーのように注射で鎮静された末、病室に戻された。

彼女達へのこの後の対処は、重大なものになる可能性もあった。

 

「どうするつもり?」

「医師達にかけあってきて、彼女達への帰還執行処置だけは絶対にしないよう要求します。それが今、療養ウマ娘を守るという方針を決めた生徒会一員である私のすべき事です。」

「…交渉に行くのね。」

「はい。」

そう言うと、ブルボンはケンザンを置いて医師棟の方へ駆けていった。

 

 

 

***

 

 

 

一方その頃。

グローバルとマイシンは、自ら帰還を図った療養ウマ娘達の手当てが行われている応急室にいた。

 

 

「…非常に深刻なことになっている。」

二人は療養ウマ娘達の手当てを行う医師達から、彼女達の容態を告げられていた。

「予後不良級の重傷を負ったウマ娘が数名。その他大小の怪我を負った者も十名余り。」

しかも、ここに運ばれてないが同様の容態になった者達もいるとの情報が幾つも入っていた。

「医師達が総出で治療と対応にあたっているが、これ以上は手が回らなくなる。そうならないように、そちらでもどうか対応を頼む。」

 

「了解しました。」

切迫した空気の中、医師の説明を受けたグローバルとマイシンは気丈に頷いた。

 

説明を受けた後、二人が応急室を出ると、手当てを受けている療養ウマ娘の仲間達が廊下にひしめいていた。

二人は医師から伝えられた内容をそのまま彼女らに伝え、病室に戻るよう指示した。

療養ウマ娘達は悲しみと動揺に泣きながら、よろめくように病室に戻っていった。

 

 

ここまでとは…。

療養ウマ娘達が去った後、残ったグローバルとマイシンは廊下の床に座り込んでいた。

共に桁違いの経験と精神力の持ち主であるウマ娘だが、顔色に疲労が滲み出ていた。

 

「自ら帰還を図る同胞がこんなに現れるなんて…想像以上だわ。」

「これが、心の〈死神〉の恐ろしさですよ。」

グローバルは虚空を見つめ、マイシンは俯きながら唇を噛んだ。

「心の弱まった者に一気に襲いかかって、容赦なく希望を消し去って絶望のどん底に叩き落す。そうやって幾千万もの同胞を葬ってきたんですから。」

「あなたも、同じような経験をしたわね。」

「ええ…でも私は、ただではやられませんでしたがね。脚の〈死神〉にはやられましたが、心の死神には屈しませんでした。ただ、その時の私と今の療養ウマ娘ではなく全然違います。最も苦しい時期に、最大規模での襲来ですから。」

寒風が吹きつける中、マイシンは虚空を睨んだ。

 

 

二人が言葉を交わしていると、廊下の向こうから不穏な駆け足の音が聞こえてきた。

見ると、医師達が何人かの療養ウマ娘を担架で搬送してくるのが見えた。

またか…

二人は冷たい汗を感じながら立ち上がった。

 

「また、帰還を図った者が現れたのですか?」

「違う。」

応急室の前で二人が尋ねると、医師は首を振った。

「ショックの影響で心不全になったと思われる療養ウマ娘達だ。」

「え…」

二人が愕然とする間もなく、医師達は療養ウマ娘を乗せた担架を応急室に運び込んでいった。

 

「…。」

直後、搬送された療養ウマ娘の仲間達が、廊下の向こうからよろよろと現れた。

 

「あなた達…」

二人は彼女達の元に駆け寄った。

「グローバル先輩、マイシン先輩。仲間が、仲間が…」

誰もが茫然自失とした様子で、うわ言のように声を漏らしていた。

 

「しっかりしなさい。」

今にも折れそうな療養ウマ達を、二人は抱き寄せた。

彼女達の身体は凍えきっているように感じた。

 

「…こうなるのも、仕方ないんですよね。」

抱き寄せられた療養ウマ娘達が、身体を震わせながら言葉を絞り出した。

「私達がいくら絶望しようが、帰還しようが、この世界はそれで構わないんですよね?」

 

「…。」

「だって私達は、要らないウマ娘だから、…失敗作だから、生きてる価値のないウマ娘だから!」

「…。」

「…こんな思いするぐらいだったら、生まれてこなければ良かった…」

 

「…戻ろう、病室に。」

グローバルとマイシンは、泣きじゃくる療養ウマ娘達を抱き支えながら、暗い廊下を歩いていった。

 

 

 

***

 

 

 

施設内に猛威を振るい始めた、心の〈死神〉。

魂の内部から侵していくようなその絶望感を、一人ルソーの病室に残されたゴールドもはっきりと感じていた。

 

…これが絶望か、これが〈死神〉の恐ろしさか…

ベッド上に座り込みながら、ゴールドはシーツを掴んで震えを堪えていた。

その震えは、今魂を浸そうとしているそれに対するものではなかった。

 

「オフサイド先輩…あなたに巣食った〈死神〉は、この〈死神〉よりも巨大だというのですか?」

ゴールドの胸中に浮かんでいたのは、誰よりも深く慕っている先輩ウマ娘の姿だった。

 



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心襲(3)

***

 

これが、心の〈死神〉ですか…

 

療養施設内の中階あたりの階段、

薄暗いその場所に膝を抱えて震えながらうずくまっているウマ娘がいた。

制服姿のスペシャルウィークだった。

 

先程、ルソーに宿泊室から出され特別病室に向かうよう指示された彼女は、その指示にはすぐに従わず、施設内の状況を見回っていた。

 

 

見回る中で、スペは施設内で起きて始めた事態を幾つも目の当たりにした。

 

悲しみと絶望の底に沈んだ同胞。

帰還を図って重傷を負い搬送されていく同胞。

人間への不信感を暴走させかけた同胞。

これまで彼女が生きてきた世界では全く無縁の出来事の数々が、次々と起きていた。

 

状況に耐えきれず、スペはこの階段に逃げ込んだ。

 

 

施設全体に立ち込めた凍えるような寒気と、魂を浸していくような絶望感。

スペもそれをはっきり感じていた。

それだけではない。

その絶望の声までもが、彼女の心には聴こえていた。

 

“…悲しい…”

“…辛い…”

“…さよなら…”

“…もういい…”

“…助けて…”

“還りたくない…”

あの地下室で聴こえた声と同じものが、膨大な量になってスペの心と脳裏に響き続けていた。

 

…くうっ…

思わず倒れてしまいそうになるのを、スペは必死に耐えていた。

倒れたら、自分も絶望にやられる。

オフサイドの事、スズカの事、そして昨晩のライスの事。

幾度も重なったその過ちと出来事の数々はスペの心を蝕んでいた。

 

「…闇に覆われて堪るものですか。」

スペは歯を食いしばって、震える脚に力を込め、手摺りに掴まって立ち上がった。

もう、2度と同じ過ちは繰り返さないと誓ったのですから…

 

「…心の〈死神〉さん、」

立ち上がったスペは、胸に手を当てて、心を浸していく絶望を感じながら虚空を見上げて言った。

「…私は今、生まれてから3度目の敵意を抱きました」

明るい天使と噂されていた彼女の瞳に、異様な光が帯び始めていた。

 

「1度目はオフサイド先輩、2度目は私自身、そして3度目は…あなた。」

 

 

 

***

 

 

 

施設最上階の特別病室には、ベッド上のサイレンススズカと、ベッドの傍らに腰掛けている松葉杖姿の沖埜トレーナーの姿があった。

二人とも、会見が終わった直後から施設内で発生した緊急事態に気付いていた。

 

「療養仲間達の慟哭が聞こえますね…」

「…そうだな。」

療養ウマ娘達がかつてない苦境に陥っていることも、二人は分かっていた。

 

「…何か、私に出来ることはないのでしょうか?」

階下から感じる絶望の空気を肌に感じながら、スズカは言った。

 

「今のお前は、自分の快復だけに努めろ。」

スズカの言葉に、沖埜は強い口調で返した。

昨晩自ら帰還を図り、更にライスシャワーの帰還に直面した彼女の心身は、まだとても快復していないに決まっていた。

「療養ウマ娘達は、今は守れるべき者達が守ってくれてる筈だ。だから今はお前は、ただ快復だけに努めろ。」

 

 

「この状況で、何もせずに私だけ快復するなど、とても不可能に思えます。」

沖埜の指示に、スズカは反論した。

 

「今の私は心を保っているのがやっとの状態です。このままではまた、絶望に覆われて心が折れてしまう可能性があるとも限りません。…いえ、恐らくそうなります。」

「…。」

「何もせずに絶望に浸されるのを待つくらいならば、私はこの絶望と闘います。」

 

「スズカ。」

「沖埜トレーナー。」

自らを見つめた沖埜を、スズカは強い視線で見返した。

「私の命は、トレーナーと、スペさんと、そしてライスシャワー先輩によって護られました。この護られた命を、私はライス先輩のように、仲間達を護る為に活かしたい。その為なら、どんな絶望相手にも立ち向かいます。」

 

「…。」

スズカの強い視線と言葉に対し、沖埜は眼を背けると、無言のまま立ち上がって特別病室を出て行った。

 

 

 

…分かっている。

特別病室の外の廊下に出た沖埜は、壁にもたれて眼を瞑った。

現在、この療養施設を覆う心の〈死神〉と闘わなければ、スズカもその餌食になってしまうであろうこと、それに抗う為には行動を起こすしかないこと。

そして、療養ウマ娘達を守る責任が自分達にはあることも。

 

しかし…

沖埜は苦悩するように額に手を当てた。

行動を起こすことでスズカの身に悪いことが起きるのではという予感が、沖埜の胸中にあった。

つい昨晩、あのような行動をとったのだから。

その不安が、彼の決断を躊躇わせていた。

 

 

「…。」

つと沖埜は眼を開き、スマホを取り出して電話をかけた。

かけ先の相手は岡田だった。

 

『もしもし…沖埜か?』

「岡田トレーナー…」

沖埜は、微かに震える口調だった。

 

 

***

 

 

「…沖埜。」

まだ中山に向かう車中だった岡田は、沖埜の口調で彼の心境を大方察した。

「ケンザンから連絡は受けてる。生徒会の会見を受けて療養ウマ娘達の心が危機に陥ったとな。サイレンススズカも、その影響を受けてるだろう。」

 

『…。』

「ここまでの事になるとは私も想定外だった。ルソーやゴールドは無論、派遣したケンザンもグローバルもマイシンも心配だ。…お前と同じ位な。」

岡田は沖埜が電話をかけてきた意図を察し、彼の方から言葉を続けた。

「だがな、俺は彼女達を信じてる。この苦境で絶望に屈せず、自らがすべきことを遂行してくれるとな。」

『…。』

「お前はどうだ?現場にいるトレーナーとして、人間として、どうすべきだと思ってる?』

 

 

***

 

 

「…はい。」

沖埜は、ふっと決心がついたように息を吐いた。

「分かってます、岡田トレーナー。」

『なら、それを遂行しろ。』

 

「はい。…では岡田トレーナー、」

岡田の言葉を受け、沖埜の口調が事務的なものに変わった。

「『スピカ』トレーナーとして、『フォアマン』トレーナーのあなたにお願いがあります。」

 

 

それから数分後、沖埜は岡田との電話を終えた。

 

 

「トレーナーさん。」

岡田との電話を終えた直後、廊下の向こうから声がした。

そこには、今しがたこの最上階までの階段を昇ってきたスペの姿があった。

 

「スペ。」

「私も闘います。ここの…苦しんでる療養ウマ娘のみんなを、守る為に。」

表情は蒼白で身体も震えていたが、スペの瞳は異様な光を放っていた。

 

 

 

***

 

 

 

それから約10分後。

 

コンコン。

ゴールド一人になっているルソーの病室の扉をノックする者がいた。

 

「…誰ですか?」

「…失礼する。」

「え、沖埜トレーナー?」

入室してきた相手を見て、ゴールドは驚いた。

 

「ステイゴールド、頼みがある。」

驚く彼女の元に歩み寄ると、沖埜は頭を下げて言った。

「我々に協力して欲しい。療養ウマ娘達の為に。」

 



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心襲(4)

 

***

 

しばらく経った頃。

 

療養施設の各所で対応にあたっていたケンザン・ルソー達ら六人は、ブルボンを覗く全員が一旦病室に戻り、現状の確認をした。

 

療養ウマ娘達が単独行動はさせずに集団でいるよう指示し、有事の際の為にそれぞれに医師を派遣したこと、医師棟に押しかけたウマ娘達はなんとか撤退させ、ブルボンが事後交渉にあたっていること、帰還未遂をしたウマ娘の数とその容態具合などを、それぞれ報告した。

 

「想定以上だね。」

現状確認をした六人は、揃って深刻な表情を並べていた。

会見を受けて療養ウマ娘達が危機に陥ることは想定していたが、ここまで一気に崩壊しかけるとは思ってなかった。

 

「誰もが未体験のことだったんだ。反省は後からでいい、今はこの絶望とどう相対するかだ。」

グローバルが皆の気を覚ますように言った。

「感じたところ、ダメージが著しいのは病気療養ウマ娘達だ。その中でも、特に〈クッケン炎〉の患者達が特に危ない。最優先で守るべきは彼女達だ。」

帰還未遂を図ったウマ娘達も、その殆どが〈クッケン炎〉患者だった。

 

「彼女達の保護は我々があたります。」

ルソー・シアトル・マイシンが手を挙げた。

「グローバル先輩とケンザン先輩は怪我ウマ娘達をお願いします。」

「うん、分かった。」

 

 

分担を決めると、ルソーら三人は病気療養ウマ娘達の元へ向かって行った。

 

 

「まずいですね。」

残ったグローバルとケンザンは、病室で相談を続けていた。

「現状からして、我々だけではこの苦境を乗り切きるのが難しいと思います。」

「…うん。」

ケンザンの言葉に、グローバルはそれを認めるように頷いた。

療養ウマ娘達からの信望が篤いということでこの場に派遣されグローバル(とマイシン)だが、彼女らの力だけでは防ぎきれない程の絶望の巨大さだった。

 

「応援のウマ娘の派遣を要請しては。」

「それは考えてる。さっきブルボンや岡田トレーナーとも電話でその相談をした。」

ケンザンの案にグローバルは頷きつつ、だけどと言葉を続けた。

「ただ、派遣できるウマ娘がまだ見つからないみたいだ。」

「そうなんですか?」

「仕方ないわ。この、心の〈死神〉と闘えるのは、『絶望を知り、絶望に抗う力を持ち、絶望を乗り越えたウマ娘』。そんなウマ娘は、そうそういるもんじゃない。それにいたとしても、この場に来てくれるかどうか。…自らも〈死神〉に食われる危険性があるこの場に。」

「…。」

グローバルの言葉に、ケンザンは息を吐いて俯いた。

 

「トウカイテイオー…」

俯いたまま、ケンザンはぽつりと言った。

「彼女なら、この絶望の嵐を止められるかもしれない…」

 

「ケンザンらしくないわ。」

その呟きを聞き、グローバルが厳しい口調で言った。

「テイオーのことは諦めなさい。あなたがそれを願っても、彼女はここには来ないのだから。」

「…はい。」

ケンザンは俯いたまま頷いた。

冷たい風が彼女の肌にもはっきりと感じられた。

 

「いずれ救いの手はくるわ。その時まで、私達で支えるしかない。」

震えそうな脚に力を込めて、グローバルは立ち上がった。

「例え全滅しても、〈死神〉に抗い続けるのよ。」

悲壮な呟きが、彼女の唇から漏れた。

 

 

その時、グローバルのスマホの着信が鳴った。

「…?」

着信相手を見たグローバルは驚いた。

「誰からですか?」

「…沖埜トレーナーから。」

 

驚きつつ、グローバルは彼から送られてきたメッセージを読んだ。

「どのような内容ですか?」

「…ケンザン、あなたに話があると、沖埜トレーナーからの連絡だわ。」

 

 

 

***

 

 

 

一方、病気療養ウマ娘達の元に向かった三人。

 

「…ちょっとごめん。」

現場に向かう途中、シアトルがつと脚を止めた。

「どうしたの?」

「行きたい場所があるの。二人は先に向かってて。私も後から行くから。」

そう言うと、シアトルは別の方向に駆け去ったいった。

 

「…。」

マイシンはしばらくその後ろ姿を見送っていたが、やがて背を向けて、ルソーと共に廊下を歩き出した。

 

「シアトル先輩、大丈夫でしょうか。」

歩きながら、ルソーがぽつりと呟いた。

「心配なの?」

「この状況でも気丈さを保っているようですが、かなり無理してるように思うんです。」

ルソーは憂いげに言った。

「本当は、ライスシャワー先輩の帰還のショックで、心は相当苦しい状態なのではないかと…」

 

「それは、その通りだろうね。」

私もそう感じているよと、マイシンは頷いた。

「だけどね、シアトルは療養ウマ娘達を救うという意志をもってここに来たんだ。ライスシャワー先輩の状態だって、以前から多分知らされていた筈。それでもこの場で闘うと決意したんだ。だから、心配するようなことはしたくない。」

 

「いいのですか、それで。」

マイシンの言葉に、ルソーは眉を顰めた。

「シアトル先輩のショックは、私達の想像を遥かに超えていると、そう感じ…」

 

「分かってるわよ。」

ルソーの言葉を、マイシンは遮った。

「分かってて、私は彼女を引きずり出したんだ。」

「え?」

「ライス先輩の帰還で悲嘆に暮れてた彼女に、“また同じことを繰り返す気か”って無慈悲な叱責を浴びせてね。彼女の悲しみの言葉も全部無視して、私は使命を遂行するよう厳命したわ。」

 

「マイシン先輩…」

「どんなに悲しくても、ここで退いたら、あいつはまた悔いを残すことになる。私はもう、あいつに後悔なんてして欲しくないんだ。そのことでどれだけ苦しんだか、知ってるから。」

マイシンの眼は泣きそうになってた。

 

「軽率な指摘をしてすみません。」

ルソーは、悔やむように謝罪した。

「いい。あいつの様子を見れば心配するのは当然だし。だけど、忘れてはならないわ。」

マイシンは目元を払って、言った。

「ダンツシアトルは、〈死神〉を乗り越えただけでなく、レースの頂点である宝塚記念を制したウマ娘だということをね。」

「…。」

「彼女は、私達とは一つ違う次元に到達したウマ娘なんだ。…だから信じて、あいつの力を。」

 

 

 

一方。

シアトルが向かった先は、施設の奥の、ライスシャワーの遺体が安置されてる部屋だった。

 



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心襲(5)

 

「…ライス先輩。」

 

シアトルは、ベッド上に安置されているライスシャワーの遺体の側に歩み寄った。

ライス帰還後、シアトルはまだ彼女の遺体と対面してなかった。

 

…綺麗だな。

ライスの亡骸を見つめて、シアトルは胸が詰まった。

同胞の遺体は何度も見たことあるが、こんなに満ち足りた表情をしている亡骸を見たのは初めてだった。

 

「生き切ったんですね、先輩は。」

ライスはスズカを守ることを使命とし、それを最期まで遂行して逝った。

だから亡骸には一点の苦悩も残ってないのだと、シアトルは思った。

 

 

「でも、私は先輩のようにはなれない。」

シアトルは、ベッドの傍らに跪いて項垂れた。

先輩みたいに、最後まで使命を遂行する意志を保てそうにない。

どんな困難にも恐怖にもたじろかない勇気なんてもってない。

 

「…怖いんです。先輩。」

長い間の苦しみを乗り越えて手にした幸せが、また失われてしまうのではないかと…

「私は、幸せのまま生を終えたい。もう、絶望の手にかかるのは嫌なんです。」

 

さっき、絶望の魔の手にかかった仲間達と遭遇した。

彼女達の無残な姿を見た時、シアトルは思わず逃げたしたくなった。

「私はもう昔のダンツシアトルじゃない。穏やかな余生という安らぎを得てしまったダンツシアトルなんです。…だから、絶望と闘える気力なんてないと分かってた…。」

 

「…そんな私が、療養ウマ娘達を救けたいと決心したのは、あなたがいたからです、ライス先輩。」

跪いたまま、シアトルはぽつりぽつりと言葉を漏らし始めた。

「あなたが余命僅かなのに、スズカを始めとする苦境のウマ娘達を救ける為に命を燃やしてると知って、だから私もそれを決心したんです。…あなたと手を取りあって、みんなを守ろうって。

 

「なのに…」

シアトルの眼から涙が溢れて、膝元にこぼれ落ちた。

「なのに、先に使命を果たして逝ってしまうなんて…そんなのないですよ!また私を、ひとりぼっちにするなんて…」

彼女の口から漏れる言葉と声が、段々激しくなっていった。

 

「…私、言いましたよね?引退後は心が虚しくなって、もうウマ娘界と関わりたくなくなったって。つまり私は同胞を、この世界を憎みかけてた。絶望の…心〈死神〉を撒き散らすウマ娘になりかけていた。それでも、そうならずにいられたのは、あなたが生きてたから…それも言いましたよね?なのに、なんで?…」

 

シアトルはベッド上のライスを見上げ、シーツを掴んで叫んだ。

「答えてよライスシャワー先輩!私、あなたを助けたじゃない!あなたが背負ってた過去を、苦しみを、全て解放してあげたじゃない!…なのにどうして、今最大の敵と対峙している私と一緒に闘ってくれないの?一人満ち足りたように帰還してしまって…また私を苦しめる気なの?ひとりぼっちにしても構わないというの?ふざけないでよ!」

 

心の堰が切れたように、シアトルは泣きながら叫び続けた。

「私…やっぱり先輩を恨んでた!あの宝塚を受け入れきれてなかった!こんなことになるのなら、先輩を苦しみから解放させるべきじゃなかった!」

 

はあっ…はあっ……

思いを全て吐き出した後、シアトルは床に突っ伏して泣き続けた。

薄暗い部屋、ライスの穢れのない遺体と、その側で泣き崩れるシアトルの嗚咽だけが室内に響いていた。

 

 

「…。」

やがてシアトルは、涙を拭いながらよろよろと立ち上がると、泣き腫れた眼で再びライスの亡骸を見つめた。

「ライス先輩…」

見つめながら、シアトルは胸から彼女が自分に書き遺していた手紙を取り出した。

 

「これ、読みました。ハハ…驚きましたよ。」

シアトルは、涙痕の残る頬に薄笑いを浮かべた。

「自分がどれだけ満ち足りた最期か記して、遺された私には大変な苦しみが待ち受けていることを予測しながら、まるで指図するような内容…呆れて声も出ません。」

薄笑いを浮かべたまま、シアトルは侮蔑するように言葉を続けた。

「本当に酷い先輩ですよ、ライスシャワー先輩は。身勝手で、図々しくて、…そして残酷で。」

 

「でも、でも…」

シアトルの表情から薄笑いは消え、侮蔑の声色も消えた。

手紙を握り締めたまま、彼女は眼を見開いてライスの亡骸を見つめた。

「私、ライス先輩の最期の願いは、必ず叶えますから。こんな私でも…こんな酷いウマ娘で、無力なウマ娘でも、絶対逃げたりはしませんから。」

 

絞り出すように言うと、手紙を胸の奥にしまった。

「だから…どうか笑顔で、私を見守っていて下さい。」

 

最後は心の底から祈るように、シアトルを目元を拭いながらライスの遺体に背を向け、部屋を出ていった。

 



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心襲(6)

 

***

 

一方。

 

施設の最上階の、階段前。

屋上からの冷たい風が吹き下りるその場所に、沖埜とケンザンがいた。

 

 

「ゴールドの力を貸して欲しいと?」

彼から話があると呼び出されたケンザンは、その内容を聞いて眉を顰めた。

「ああ。」

沖埜は冷静な表情だった。

「療養ウマ娘達を守る為に、我々も動くことにした。その為には、彼女の力が必要なんだ。」

「…ゴールドはなんと?」

「彼女は引き受けてくれた。」

 

 

先程、ルソーの病室にいるゴールドに会いにいった沖埜は、彼女にその内容と協力を頼み、了承の返事を得ていた。

 

 

「岡田トレーナーの許可は?そして今、ゴールドはどこに?」

「岡田トレーナーからは既に許可は貰ってある。ゴールドは別の一室に控えている。」

「…。」

沖埜の返答を受け、ケンザンは不安に満ちた眼で沖埜を睨んだ。

 

「一昨晩、ゴールドがスズカに何をしたか、分かっていますか?」

「…君の立場でそれを言えるのか?」

睨んだケンザンに対し、沖埜は瞳を逸らさずに言葉を返した。

 

「…っ」

沖埜の酷薄な言葉に、ケンザンは息を呑んだ。

その表情を見つめたまま、沖埜は続けた。

「ステイゴールドは、スズカを追い詰めて壊しかけた。だから今度は、スズカを守らねばならないだろう。」

 

「…正気ですか?」

「これはステイゴールドの為でもあるんだ。」

普段の彼とは違う、冷酷さも混じった口調で沖埜は言った。

「我々がいくらゴールドの行動を咎めなくても、彼女自身は決して自分のおかした行動を許しはしないだろう。その罪悪感を少しでも減らす為にも、協力を頼んだ。恐らく彼女もそれを分かってて受け入れた。」

 

「無茶だ…。」

ケンザンは髪を掻きむしり、彼女には珍しい悲観的な表情を露わにした。

「ゴールドはまだ何も快復してないんですよ。一昨晩のことだけじゃない、昨晩のこともゴールドを苦しめている筈です。そんな状態で、この状況下で行動をさせるなんて…。」

「それはスズカも同じだ。だけど彼女は、この状況を打破する為に動き出そうとしてる。」

 

「…スズカとゴールドは違います!」

沖埜の言葉に、ケンザンは声を荒げた。

「今スズカには、貴方やスペシャルウィークという、護ってくれる存在が間近にいますから!でも今のゴールドには…そんな存在はいないんですよ!岡田トレーナーも、オフサイドもいない。私達では、彼女の支えにはなりきれて…」

 

 

「ケンザン先輩。」

ケンザンの言葉を遮る声と共に、廊下の向こうから現れたのはゴールドだった。

 

 

「ゴールド!」

彼女の姿を見、ケンザンは沖埜の傍らを駆け抜けて彼女の側にきた。

「無理はするな!お前の心はまだ快復してない筈だ。なのに無理して行動したら、今度こそ心がやられてしまうぞ!」

 

「…私も、闘いたいんです。」

ゴールドは、止めようとするケンザンに、やや震えながらも言葉を返した。

「傷ついた心身を抱えながら、それでもこの、心の〈死神〉が吹き荒れる中で抗い続けている仲間達がいるんです。この場にいる以上、私だけ何もしないなど出来ません。」

 

「お前にそれが出来るのか?」

ケンザンは容赦ない口調で愛する後輩に詰問した。

「お前つい先日、何もかも壊そうとした行動をとったんだぞ。無二の親友を理不尽に責めて、帰還寸前にまで追い詰めたウマ娘なんだぞ。それを忘れたのか?」

 

「…忘れてる訳がありません。」

ゴールドは俯きながらも、はっきりとした声で答えた。

「それでも、私は動きます。…大丈夫です、もう2度と、あんなことはしないですから。」

 

「そう言い切れる根拠はなんだ?」

「ライスシャワー先輩が守ってくれたから。スズカの命も、私の心も。」

 

「…。」

ゴールドの言葉に、ケンザンは声が詰まった。

ゴールドは更に続けた。

「それに、私はここで闘わなければ、本当の闘いの場所にすらいけそうにないんです。」

 

「ゴールド、お前…」

彼女の言葉が指すものを、ケンザンは瞬時に察した。

「…はい、」

ゴールドは頷きながら、さすがに口調を震えさせて言った。

「明日の有馬記念…オフサイドトラップ先輩と闘う場所に。」

 

「…。」

ゴールドの言葉を聞き、ケンザンは唇を噛んだ。

しかし、決意の動かないゴールドの眼の光を見て、やがて観念したように息を吐いた。

 

「…沖埜トレーナー、」

ケンザンはゴールドから視線を逸らし、沖埜に向き直った。

「ゴールドを、宜しくお願いします。もし、何かあったら…」

 

最優先でゴールドを守って…

そこまで言いかけて、ケンザンは黙った。

黙ったまま、沖埜から視線を逸らすと、最上階を去っていった。

 

 

「では、行くか。」

「…はい。」

ケンザンが去った後、沖埜はゴールドを連れて、スズカのいる特別病室へと向かった。

 

「…。」

特別病室の扉の前まで来ると、ゴールドは脚を止めた。

彼女の身体は小刻みに震えていた。

沖埜は何も言わず、ただじっとゴールドの様子を見守っていた。

 

しばらく扉の前で呼吸を乱して立ち止まっていたゴールドは、やがて決心したように扉を開いた。

 

「…ステイゴールド。」

「…サイレンススズカ。」

特別病室に入った瞬間、ゴールドとベッド上のスズカは視線を合わせた。

 

 

 

***

 

 

 

その頃。

 

ブルボンは、施設の階段を昇りながら電話で現状報告をしていた。

 

「…はい、人間に対して危険な行動を取りかけたウマ娘達は鎮静させました。予断許さない状況は続いていますが、今の所対処はとっています。」

「危険な行動を取りかけたウマ娘の今後の処置については、交渉の末に保留に漕ぎ着けました。…ええ、帰還執行処置は避けられました。しかし、もう次はない可能性が高いです。その時は、…はい、分かりました。ご心配はいりません。その覚悟は私も出来てます。…では。」

 

電話を終えたブルボンは、そのまま階段を昇っていき、やがて屋上に着いた。

 

 

壊れた扉を乗り越えて屋上に出ると、一面の夜空が広がっていた。

しかし星一つない真っ黒な雲に覆われていて、冷たい風が嵐のように吹き荒れていた。

あれは…

その寒風吹きつける屋上内に、一人立ち尽くして夜空を仰いでいるウマ娘を、ブルボンは見つけた。

 

「スペシャルウィーク。」

「…ブルボン先輩。」

ブルボンが歩み寄り声をかけると、スペはチラと彼女を見ただけで、じっと夜空に眼を向けていた。

 

寒風の中、制服姿のスペは上着も羽織ってなかった。

ブルボンが着ていたコートを脱いで肩にかけようとしたが、スペは大丈夫ですと断った。

 

「ここで何を?」

コートを羽織り直しながら、ブルボンは傍らに立って尋ねた。

「…昨晩のことを、思い出してました。」

スペは悲しみが残る表情で答えた。

 

「自らを責めていますか?」

「…。」

スペの表情が苦しげに歪んだが、しかしそれは一瞬で消えた。

「責められるべきだとは思っています。…でも、今その思いは封印することにしました。」

 

「何故ですか?」

「守りたい仲間がいるからです。」

「仲間…それは、サイレンススズカですか?」

「違います。」

ブルボンの問いに、スペは首を振った。

「スズカさんだけでなく、療養ウマ娘のみんなを守りたいのです。」

そう答えたスペの表情には、悲しみの色だけでなく強固な意志の色が滲んでいた。

 

「スズカしか意識のなかったあなたが、何故そのような心境に?」

ブルボンが辛辣な言葉を突きつけると、スペはブルボンの方を向いて答えた。

「負けたくないからです。絶望に、〈死神〉に。…“生まれながらに命の重みが分かっているウマ娘”として。」

 

絶望の嵐を感じているのか、スペ身体は微かに震えていた。

しかしその瞳には、絶望の嵐を灼き尽くしそうな異様な光が滾っていた。

 



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心襲(7)

 

*****

 

…う…

 

眼を開けると、白い天井が目に映った。

ここは…

ゆっくりと身を起こすと、綺麗で整然とした室内の光景が視界に入った。

 

「お目覚めになられましたか。」

声と共に、一人の使用人姿の人間が側に来た。

「あ…。」

それでようやく、椎菜は自分がベッドに寝かされていることが分かった。

 

「ここはどこですか?

「メジロ家の屋敷の一つです。マックイーンお嬢様の指示で、渡辺椎菜様の身をこちらで保護しております。」

「ああ…」

言葉を交わしながら、椎菜は少しずつ状況を理解してきた。

 

「あなたは、あの時の…」

「はい。」

その問いかけに答えつつ、使用人は頭を下げた。

「もしかしてこの状況は、マックイーンの…」

「はい。全てマックイーンお嬢様の指示です。」

 

「…。」

頭を下げたままの使用人から眼を逸らし、ベッド上の椎菜は溜息を吐いた。

 

 

 

***

 

 

 

時刻は遡り、会見が終わった直後のこと。

 

「渡辺様。」

生徒会のメンバーより一足先に会見場を後にした椎菜の前に、一人の使用人姿の人間が現れた。

 

「…誰?私に何の用ですか。」

「私はメジロ家の者です。」

使用人は自己紹介をし、用件を言った。

「マックイーンお嬢様から、あなたに学園の別室で待機して頂くようとの言伝を受けています。」

「待機…。」

会見での事についての話でもあるのかと椎菜は思った。

「案内します、こちらへ。」

「…。」

椎菜は無言で、歩き出した使用人の後に続いていった。

 

 

やがて、学園の一室に着いた。

「どうぞ。」

使用人に促され、椎菜は室内に入った。

 

すると、次の瞬間。

「…えっ?」

椎菜は首筋に違和感を覚え、はっと飛び退いた。

だが、もう遅かった。

振り返った時、使用人の手に握られている注射器が、椎菜の眼にはっきりと見えた。

 

「な、…何を?」

「失礼いたします、渡辺様。」

首筋への違和感後、急激に意識が薄れて床に膝をついて椎菜を、使用人は両腕で抱き支えた。

「これは、マックイーンお嬢様の指示です。」

「…マックイーン…の…指示?」

「あなたがこの後何をするか、お嬢様は察知しておられましたから。」

使用人の視線は、椎菜が持っていた鞄に向けられていた。

 

「…真女王…」

愕然と呟きながら、椎菜はぐったりと意識を失った。

 

 

その後、現場に来たマックイーンの指示により、椎菜はこのメジロ屋敷に運ばれていた。

 

 

 

***

 

 

 

「手荒な行為を改めて謝罪します。」

注射で椎菜の意識を失わせ、彼女をここまで運んだ使用人は改めて謝罪した。

 

「しかし、渡辺様がこのような物をもってた以上、手段は選べませんでした。」

言いながら、使用人は懐から一本の注射器を取り出した。

それは椎菜が鞄の持参していた注射器で、帰還執行用の物だった。

「…。」

それを見せられ、椎菜は俯いた。

 

「あなたは、ただの使用人ではありませんね。もしや医師?」

俯いたまま、椎菜は尋ねた。

「ええ、私はメジロ家の使用人兼医師です。」

注射器を置いて、使用人は茶を用意し始めた。

「現在は激務にあたられてるマックイーンお嬢様・パーマーお嬢様の専属を務めています。」

「この私の一瞬の隙をついて意識を奪うとは、凄い手際ですね。」

「長年の経験がありますので。」

 

「…。」

椎菜は使用人から差し出されたお茶を受け取り、一口飲んだ。

茶の高貴な香りと味が、疲弊した身体全体に苦々しくも温かく染み渡っていく気がした。

 

「お嬢様が事前に察知されて良かったです。」

茶を喫している椎菜に、使用人はどこかほっとしたような口調で言った。

「医師である者が、自らの身を害することなどあってはならないことでしたから。」

 

「…そこまで、マックイーンは見抜いてましたか。」

「ええ。」

コップを抱えたまま声を漏らした椎菜に、使用人は頷いた。

「…やはり恐ろしいウマ娘ですね、マックイーンは…。」

マックイーンの冷徹な無表情を思い出し、椎菜は寒気が走った。

 

少しの沈黙後、使用人が再び口を開いた。

「マックイーンお嬢様から、あなたに言伝があります。」

「…また罠を?」

「いえ、今度は本当の言伝です。」

使用人は、一通の書き置きを椎菜に差し出した。

 

椎菜はそれを受け取り、暗い目で読んだ。

『会見にご協力頂きありがとうございました。あなたが行おうとしたことは秘密にします。今は、心が快復するまで身体を休めてて下さい。マックイーン』

 

椎菜が手紙を読み終えたのを確認すると、使用人は言った。

「お嬢様との連絡については私を仲介にお願いします。また許可があるまで、渡辺様の身はこちらで保護するようにとの指示を受けてます。」

「外部との連絡はしてもいいのですか?」

自分のスマホは所持したままなのを確認して尋ねると、使用人は答えた。

「お嬢様は構わないとのことです。ただ、渡辺様が外部と連絡をとる意志と言葉をもっているのならばということでしたが。」

 

「…。」

椎菜は、また俯いた。

疲れ果てた表情が、室内の蛍光灯にくっきりと照らされた。

 

 

 

***

 

 

 

「渡辺医師が目を覚まされましたか。」

 

依然、中山に向かう車中にあるマックイーンは、使用人からその連絡を受けた。

「ええ、先の指示通りでお願いします。彼女の看護を何卒お願い致します。…ええ、その際は、彼女自身から私の方に直々に連絡をお願いします。それまでは絶対に自由にさせないように。…では。」

 

「…。」

使用人との連絡を終えると、マックイーンはスマホをしまって、冷徹な表情を変えずに一つ吐息した。

 

椎菜が会見後に自らの命を絶つかもしれないという予感がしたのは、彼女が学園に来た際の挨拶を聞いた時。

その時はまだ予感でしかなかったが、会見時における彼女の言動を目の当たりにそれは確信に変わった。

更に、念の為に椎菜の持参物を調べさせていた使用人から帰還用の医療器が見つかったと聞いて、マックイーンは即時の処置を決断した。

 

気づいて良かったですわ…

マックイーンはまずそれにほっとしていた。

もし気づかなければ、間違いなく椎菜は命を絶つ行動をしていた。

そこまでに至っていた彼女の心身とその目的も察することは出来るが、絶対にそんなことをさせる訳にはいかなかった。

 

しかし…

マックイーンは芦毛の美髪に指を触れつつ、小さく息を吐いた。

彼女の脳裏に浮かんでいたのは、会見中に殺気だっていた椎菜の、その身から感じられた幾百のウマ娘の魂。

それも清らかなものでなく、悲嘆と絶望に満ちた魂達。

 

…あれが、歴史の罪がもたらした果てか…

マックイーンの視線は、再び車窓から療養施設の方向の真っ黒な夜空に向けられていた。

 



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心襲(8)

 

*****

 

 

再び、療養施設の屋上。

 

先程までと変わらず屋上にいたスペのもとに、沖埜が現れた。

 

 

「ずっとここにいたのか。」

「はい。」

寒風が吹きつける中、二人は屋上に並んで腰掛け、星一つない夜空に眼をやりながら会話を交わしていた。

「先程まで、ブルボン先輩と話をしていました。」

「どんな話を?」

「トレーナーさんに伝えたことと同じものを、ブルボン先輩に伝えました。」

「…そうか。」

 

先程、最上階に昇ってきたスペが沖埜に言った言葉に対し、彼はまだ何も答えてなかった。

スペも沖埜の答えを待たず、そのまま特別病室にも寄らずにこの屋上に来ていた。

 

…。

沖埜はスペの表情を横目で見た。

彼女の顔色はかなり悪く、身体も震えを堪えているのが明らかだった。

ただ瞳だけ、先程と変わらず異様に強い光を放っていた。

 

「お前も、この〈死神〉と闘う気なのか。」

顔を向けず、沖埜は尋ねた。

「ええ。療養ウマ娘達を守りたい、その為に。」

震えを堪えているせいか声も小さかったが、スペははっきりとその言葉を口にした。

 

「守り“たい”、か。」

沖埜はその言葉を反芻した。

「義務感とか責任感とか、そういうものに突き動かされた訳ではないんだな?」

「はい。これは、このスペシャルウィークの意志です。」

 

「相手がどういうものか、分かってるか。」

スペの明確な意志を見せつけられながらも、沖埜は首を縦に振らなかった。

「これまでお前が直面してきた相手とは全く違うぞ。レースの相手でもない、競い合うチームの仲間達でもない。これまでお前が知りもしなかった全く無縁の世界…その膨大な負の塊が相手だ。」

「…。」

「絶望の底に落ちていく者に手を差し伸べるんじゃない、絶望に落ちようとする者の前に立ちはだかることになるんだ。もし救えなければ、自らも落ちる危険性が大。その覚悟はあるのか?」

 

「…ありません。」

スペは静かに首を振った。

「トレーナーさんが仰ったように、私はこの負の世界とは無縁のウマ娘でした。…いや、負の世界から守られていた。そんなウマ娘が、2、3日この世界の片隅に脚を踏み入れただけで、それほどの覚悟なんて抱けるわけがありません。」

 

包み隠さず、スペは吐露した。

「覚悟どころか、スズカさん、トレーナーさん達と一緒にこの世界から逃げ出したいという思いの方が本心かも知れません。」

「…。」

沖埜は何か言いかけたが、黙ってスペの続きの言葉を待った。

 

「でも、その心より、“みんなを守りたい”という思いの方が強いんです。」

スペは、白い手を胸に当てた。

「どうしてでしょうね?…身体の奥底に刻み込まれてしまったのでしょうか、『命の大切さ』というものを。」

言いながら、彼女の表情が僅かに翳った。

「…スペ。」

彼女が何を思い起こしているか、沖埜にも分かった。

 

「覚悟はない、経験もない。ましてや私は、愚かな行為すら重ねました。…それでも、私は闘いたいんです。守りたいんです。…例え、自らの行為を棚に上げるとしても、絶望の底に落ちようとも、…〈死神〉になろうとも。」

 

最後の言葉を口にした時、スペの眼光が強くなった

天使の優しさではない、ダービーウマ娘の闘志でもない。

彼女の心の奥底に閉ざされていた何かが蠢き出したような、そんな色彩を帯びていた。

 

 

「勝算はあるのか?」

スペの眼光に気付きつつ、沖埜は質問した。

「勝算はありません。あったらおかしいです。」

「まあそうだな。」

苦笑を含んだスペの返答に、沖埜は当然だなと言った。

「この世界を何も知らない。覚悟もない。闘う理由は“みんなを守りたい”というだけの単純な子供のようなもの。…実際まだ子供だけどな。」

「…ひどいこと言いますね。」

状況にそぐわない、揶揄うような沖埜の言葉に、スペも少し膨れた。

 

「だが、分かった。」

沖埜は、決断したようにスペの眼を見つめて言った。

「お前も、この〈死神〉と闘うがいい。トレーナーの私が認める。」

 

「トレーナーさん。」

「勝算はなくとも、その自信はあるのだろう?」

沖埜は松葉杖をついて立ち上がると、スペを見下ろして言った。

「私も、その自信を信じる。お前は、ターフの最強の座の一角を担うダービーウマ娘で、そして“命の重みが分かるウマ娘”であるスペシャルウィークだからな。」

「はい。」

スペは、掌にぎゅっと力を込めて頷いた。

 

「ただ一つ、これだけは命令だ。」

沖埜は最後に、異様な光を帯びているスペの瞳を、厳しい視線で見つめて言った。

「〈死神〉には、絶対になるな。」

 

それを言い残し、沖埜は屋上を去っていった。

 

 

 

***

 

 

 

療養ウマ娘達の病棟。

 

会見直後から相次いだ療養ウマ娘達の事の数々は、ルソーらの対処によって一旦落ち着いていた。

しかし療養ウマ娘達の間に立ち込める絶望感は、静けさの中で依然じわじわと拡がっていた。

 

 

その状況の元、各々集まっている療養ウマ娘達に夕食を配っている施設の食堂係員達の姿があった。

 

 

「…いりません。」

夕食を配られたものの、療養ウマ娘達はとても食欲などない様子でそれに手をつけようとはしなかった。

「…そう。」

配った食堂係員達も、現在起きている状況の事は把握しており、無理強いは出来なかった。

 

ただ、

「今回の夕食は特別だから、良かったら食べなさい。」

「特別?」

それを聞いて療養ウマ娘達は夕食を改めてみたが、怪訝そうに首を捻った。

「別にいつもある献立と大して変わらないものばかりだけど。…やたらニンジンが多い気がしますが。」

「そのニンジンが特別なの。」

彼女達の声を聞き、係員達は教えた。

「それ、全部スペシャルウィークからの差し入れなの。」

 

「スペからの?」

「彼女、どういう訳か大量のニンジンを施設に持ってきてたみたいでね。“美味しいから療養ウマ娘の皆に食べて欲しいです”って頼まれたの。」

「はー…別に何の変哲もないニンジンに見えるけど。」

療養ウマ娘達は暗い表情を浮かべていたが、やがて一人が箸をとって、それを口に入れた。

「…味も全く普通だね。」

 

「何それ。」

他の療養ウマ娘達も、それを食べ始めた。

「うん、…普通だ。」

「美味しいけど普通の美味しさだ。」

同じような感想を漏らし、すぐに箸を置いた。

「ま、良かったら食べてね。」

係員は強く薦めはせず、次の場所に向かっていった。

 

 

係員がいなくなった後、療養ウマ娘達はそのまま夕食を放置していた。

 

だが、やがて一人が再び箸をとった。

「食べるの?」

「…全然食欲ないけどね。」

けどと、その療養ウマ娘はニンジンを箸に挟んで言った。

「これ食べ残したら、スペシャルウィークが悲しむかもと思ってね。私達はもう…だけど、あの天使のように明るいウマ娘の笑顔だけは、これ以上曇らせたくないから。」

言いながら、それを口に入れた。

 

「…。」

「…そうだね。」

他の療養ウマ娘達も、箸とってそれを食べ始めた。

 

「おかしなもんだね…。」

食べながら、一人が呟いた。

「何もかも絶望的になってるのに、こんな日常的なことをしてるなんて。」

「…まだ生きてるからね。」

別の一人が呟くように答えた。

「最も、これが最後の晩餐になるかもしれないけど。」

「…それでも良いじゃない。ダービーウマ娘からのそれと思えば。」

暗い呟きに、また一人が食べながら微かに微笑した。

 

 

 

ブルボンや『フォアマン』の面々達も、それぞれの場所で夕食を配られていた。

 

「スペからの差し入れなんですか?」

「ええ。」

〈クッケン炎〉療養ウマ娘達といたルソーらは、現場に来ていたブルボンからそれを聞いた。

「先程、スペシャルウィークから頼まれて、彼女の宿泊室にあったニンジンを調理して療養ウマ娘達に配っています。」

「どれぐらいの量があったんですか?」

「約千本です。」

「…千本?」

「ダンボールが沢山ありまして、運ぶのが少々大変でした。」

「なんでそんなに?」

 

「…。」

シアトルとマイシンは怪訝な表情を浮かべていたが、ルソーとブルボンは、ニンジンの量はともかくそれがどういうものかは知っていた。

スペが、スズカの快復の為に用意していたものだと。

 

でもスペは、それを全て療養ウマ娘達に与えた。

それが何を意味するかは、二人とも察していた。

 

 

時刻は、21時を過ぎていた。

 




しばらく投稿期間空きます。

長期休載が相次ぐ中でも本作を読み続けて下さる読者の皆様ありがとうございます。


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