おやすみラッピー (錫箱)
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第一話:異邦1097年のクロックワーク

ボクがいた。名前はラップランド

 

 

 第一話/異邦1097年のクロックワーク

 

 普段ボクを側に置きたがらないドクターから急に呼び出しを食らうなんて、よっぽどろくでもないことの先触れに違いない。この身に巡る血が静かに尖っていくのを感じる。

 蝋の滴るような夏の、蒸し暑い日のことだった。

 少し遅いランチのトレイに最後までへばりついていたベーコン(ゴムの下敷きだったかもしれない。ある一定の精神状況下において、両者にはたいした差異がない)を噛みながら、ボクは食堂に隣接している売店で三文芝居的な林檎を一つ買った。店員はこちらの姿を見るやレジ奥に引っ込んでしまったから、代金とポケットに入っていた磁石をカウンターに置いて、それで買ったことにした。

 

 ロドス──偉大な体躯を以て荒地を征する方舟(アーク)──その体内に網目のように張り巡らされた血管たる通路を歩きながら食べる三文芝居的な林檎の味は、さほど三流役者というわけでもなかった。世に満ち満ちたフィクションの中にあって、この、皮を歯で断ち切る音と感触、そして果汁の刺激だけが現在のボクの持つリアルであり、あとのものは大抵芝居か、記号か、あとは死んでいるものたちだった。そしてこの林檎の「芯」を定義してしまえば、いずれこのリアルも思い出になって死んでいくのだろう。ボクの知ったことではない。

 生命に繋がっている行為以外に、もはや信ずるに値するものはない。最近、そんなところまでボクは歩いてきていた。だから──この腰に提がった二振りの剣がボクの存在する理由だとするならば──刀身にはいつも新しいリアルが必要だ。遠回りしたくせ、結局陳腐なヴィランだね。

 

「さてと」

 

 一人ごち、しばらく歩くうちに見えてきたエレベーターのドア。ロドスの構造を縦に貫いている、幾つかあるエレベーターのうちの一つで、これは直接「艦橋」……この船の制御中枢など、重要な機能が集中しているセクション……に上がるものだ。ボクの目的地もその「艦橋」にある。

 表示板を見ると、どうやらリフトは制御中枢のあるフロアから下降を始めているようだ。間の悪いことだね。

 ボクは「上昇」のボタンを押して後ろに退がり、ドアとは反対側の壁に寄りかかった。ドアを開いて降りてきた者が何者でも、この間合いなら即座に対処できるだけの余裕があるだろう。

 着く。開く。

 エレベーターの中から出て来たのは……足と、うずたかく積み上げられた本の山と、それを持つ腕だった。

 

「ひょわわ……とと、おち、ない。ふー」

 

 可愛らしい、小鳥のさえずりのような声がその腕と足と、ついでに本の山の持ち主らしい。なにせ象牙の塔が高くって顔が見えないものだから、時折二十度ほどにまで傾く塔の傾斜と相まって、背の低い少女とおぼしきその姿は非常に滑稽だった。

 ふと思い立ち、ボクはその本の山に両手を伸ばして、ズレて崩れそうな部分を真っ直ぐに整えてあげた。

 その時山の陰から覗いた、小鳥のような少女の表情と言ったら! 

 

「失敬……」

「ぴょっ!!?」

 

 頓狂を通り越して、何か一種機械の警告音のような小さい叫び声を上げたハミングバードは、白髪に茶色のメッシュが入った三つ編みと、スカートの裾を翻して即座に走り出した。走って、走って、走って……

 通路の角を曲がってボクの視界から消える頃には、もはや彼女の挙動はボクから逃げるためにあるというより、両腕いっぱいに抱えた本の斜塔の崩壊を抑えんとする心根によって走らされているかのように見えた。それがまた可笑しくって、ボクは閉まりかけているエレベーターのドアを腕で止めながら一人忍び笑いを漏らした。

 

 ──ドアのすぐそばにビニルの小袋のようなものが落ちている。

 ボクはそれを素早く──実に素早く拾い、エレベーターの中に身を滑り込ませた。目的の階を示すパネルをタッチし、揺るぎ始めた足元を感じながら壁に寄りかかる。

 

 ヒトがモノに走らされる──それも、知識の地層たる書物によって走らされる。無限の可能性を秘めた生命の霊長が、極地をも征した無敵の肉体が、オノレから染み出た分泌物の凝りに走らされて……

 

「アハハアハ。ルームランナー」

 

「ラップランド」の乾いた笑い声がマシンの中に木霊した。

 それでボクはキゲンヨシに水を差されたような気分になって、ふと手に持ったままだった、さっきの小さなビニル袋のことを思い出した。

 手のひらに収まるほどのその包装には、数枚のチョコレート・クッキー、ピンク色と赤色のキャンディが二つずつ、そして白い紙が一枚入っているようだった。

 胸のうちを一陣の細い寒風が吹き抜けるのを感じながら、ボクは袋をひっくり返してみる。紙の裏側には丸っこい文字でこう書いてあった。

 

【To Ifrit from Dr.&Snowsant】

 

 エレベーターはボクの意識をたぶらかしつつ、ヒトが向かうべきでない方向へと向かっていた。

 すなわち上へ、上へ、上へ。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 ほら、あれがドクターだ。この舟の主の一人であり、世界が患う病(鉱石病)への救済。でもその姿はまるで、かつてあった戦争の、痩せ細った影のようだね。

 壁の一面を席巻するほど大きい窓を有するにも関わらず、薄暮のように弱い光源しか感じられない「ドクターの執務室」には、暗さからくる閉塞感に倍する圧迫が満ちていた。

 

「それでドクター……ボクを呼んだのはまさか、そちらにおわす、我らが敬愛せしケルシー医師『様』に小言を賜るためなのかい?」

 

 ボクは、この執務室の最奥のデスクに陣取っている「ドクター」のシルエットではなく、その脇に立っている、異形の魂を備えた女を見据えた。まるで熱を感じない眼光の反射がボクを迎え撃つ。

 

「ラップランド、結論を急ぐな。お前の素行と健康状態に対しては、以後も医療部及び人事部の適切な対処とカウンセリングが行われることだろう。私の直接関わるところではない。既に判っているはずだと思ったが。よもや、先ほどニ、三挙げた『挨拶』が小言だと思ったのか? 私の……指導はこんなものではないぞ」

 

 これだ。これだからこの女は。ボクはあからさまに肩を竦めて見せながら内心で唾を吐く。トゲ、理論、追撃、牽制。一つ口答えして遊ぼうとすれば全てセットで返ってくる。この美と暴力性の両立をバラと呼ぶのなら、今頃あの調香師(パフューマー)の花園はコキュートスにも等しい悪意の輪だろう。

 

「何か言いたげだな」

「別段主張はありませんよ、ケルシー医師。さあ、ご用件を伺いましょう」

 

 ボクは腰を折り、腕を差上げて非常に紳士的なムーヴを行った。床が見える。あの怪物女の「腕」でこのタイルに頭を打ち付けられたら、ラップランドの内側がボクにも見えるかな? 

 

《休暇だよ、ラップランド》

 

 顔を覆うフードとフェイスガードに阻まれた「ドクター」のその声は、男とも女とも、若者とも老人ともつかない奇妙な反響をボクの耳に届かせた。

 ボクは紳士的な構えを解いて、ゆっくりと髪を掻き上げた後、腰にある剣の柄に肘から先を載せた。

 

「今なんて言ったのかな? ドクター。聞き違いでなければ──」

《休暇だ。君に短期間の休暇を与え、その間ロドスから一時離れてもらう》

「……そう聞こえたね」

 

 

 なんてことだ。

「現在この舟がどこへ向かっているか知っているか? ラップランド」

 ケルシー医師の氷の涯のような声が問いを投げて寄越した。ボクは痒くもない耳をかっぽじって視線を天井に向け、それから窓の外を見た。苛烈な陽光の下に、クリーム色の荒地が延々と広がっていた。空は白く、かげろうは地平にあまねく立ち昇る。

 

「さあね。でも、このとてつもない枯渇から察するに、アナタの故郷か何か──」

「観光都市・シエスタだ」

 

 にべもなくケルシー医師は言ってのけた。

 

「はン、寝惚けた名前に相応の異名が付いた街で」

 

 シエスタという名前には覚えが……あるにはあった。確か「ビーチ」だったかな? 降り注ぐ白日(サンシャイン)と押し寄せるさざなみ、陽気な音楽。さぞ寒々しいことだろう。ボクはそっと身震いをした。

 

「で、そのシエスタに何の御用なのかな、ドクター?」

《言っただろう。休暇だよ。若い子たちの気晴らしに行くのさ。ミュージックフェスにバーベキュー、昼はビーチで夜はプール。最高だろ》

 

 ボクは三秒ほどかけてまばたきをし、その倍の秒数息を吸い、同じだけ吐いた。

 

「この船はいつからヒッピーのキャンピングトレーラーになったんだっけ? あのクソ騒がしいノーテンキ(能天使)がロドスと長期契約を結んだ時から? それとも甲板によく座ってる麗しのセイレーンがあの村から帰って来てからかな?」

《そうかもな。だがたまにはそういう……ハイ・タイムズも必要だと思うんだ》

「たまには、ね。そう思うんだったらボクの病室とアイツのパーティー会場を一キロメートルは離しておいてくれるかな。ボクが『たまには』の例外に週四回悩まされないようにね」

《ケルシー先生》

 

 ミス・ケルシーがボクに同情らしい目を向けたように見えたことは過去に一度だってなかったような気もする。そして今これからも絶えるだろう。

 

「400メートルならばすぐにでも手を打とう」

 

 果たしてラテラーノの神は我が安眠を祝福したものかな。

 で、だ。

 

「さて、生活環境と……健全な精神活動のための改善が期待されたところで訊きたいんだけれど、ボクをそのシエスタとやらに引っ張って行くつもりなのかい」

《いいや?》

 

 ドクターは当然のように首を横に一度振った。

 

《君のような存在はあらゆる意味であの街には不釣り合いだ。君の『休暇』には、もっと相応しい場所がある。そうだろう》

「そうでもないさ。ヒップホップにラップ、ダンスミュージック。ボクも大好きだよ。♪ 『Hey,You.This song is POP』♪ ──これは違ったかな」

《ラップランド》

「……嘘ではないんだけどな」

 

 執務室の隅のダストシュートまで歩いていって、ボクは上着のポケットの中にあったものを捨てた。つい先ほどリンゴの芯と定義された残骸は、金属製のダクトを湿った衝撃音とともに転げ落ちていき、ボクの過去ですらなくなった。

 ボクはケルシー医師とドクターに背を向けたまま両の手を広げた。

 

「さあ、キミ曰くの『殺し屋ラップランド』だ。そのボクに何をさせたい? 休暇……いつも通り病室でクロスワードとジェンガでもやってればいいのかな? そうでなければさっさと命令してよ。ボクがゴミ箱に独り言投げてる間にさ」

 

 残念ながらボクの問いに対して背後から聞こえてきた声は、ケルシー医師のものだった。ドクター、そういうところだよ。肝心な場面でしょっちゅう「…………」だもんね、キミは。

 

「お前に与えられたのは間違いなく休暇であり、任務ではない。期間は一週間、場所は……シエスタにほど近い集落だ。だった、と言うべきかな。現在住民は存在しない。数年前に移住したようだ」

 

 ボクは挙げていた手を下ろした。

 

「アレは思ったより悪くない味だった」

「シエスタへの中継地点であり、小規模とはいえ工業を生業とする者たちの住居群でもあったこの廃棄集落には、旅客用の施設もいくつか存在する。ロドスとの契約下にあるトランスポーターが十八日前に現地を訪れた際の報告によれば、各種インフラはすぐにでも復旧可能なようだ」

「…………」

「シエスタへの旅程は以前から計画されていたが──我々はこの機に調査隊を組織・派遣し、廃棄集落に存在する工業施設の視察と、物資サルベージを行うことにした。ラップランド、お前にはこの調査隊に加わってもらいたい」

 

「へぇ、それが休暇かい」

 ボクは「休暇」の部分をことさらに強く発音し、ゴミ箱に背を向けて二人の医師へと向き直った。

 

「物資サルベージ? ゴミ拾いのお供がどうしてバカンスになるのか、納得のいくように説明してほしいな」

《いいだろう》

 今度こそドクターが喋りだした。

《先にケルシー先生が言った通り、この廃棄集落は既に無人であり、危険──感染生物や武装団体の活動、天災の予報といったことだけどね──も報告されていない。ラップランド、君は確かに調査隊の護衛という立場にはなるが、「万が一」に備えての派遣だ。常時戦闘態勢を取る必要はない。シエスタに行くオペレーターたちと完全に同じ扱いだ》

「……まるでシエスタで何か起こるのがわかってるみたいだね」

 

 ドクターは椅子の背に深くもたれ、腕を頭の後ろで組んだ。ケルシー医師が咎めるような目で見ているのもお構い無しだ。

 

《リスクの話をしてるんだ。どこの世界に「100%の安全」がある?》

 

 少なくとも、今までのボクの仕事相手は安全な世界にいるさ。

 

「ラップランド、お前にはこの調査隊入りを拒否する権利がある。が、拒んだ場合は当然ロドス艦内に留まってもらうし、特別手当の龍門幣もない。お前自身が言った通り、個室でクロスワードとジェンガをしてもらうことになるが」

「もしくは首輪とリードつきでシエスタの砂浜をお散歩かな? ボクはそれでも一向に構わないけどね、ケルシー先生。普段アナタたち医療部の皆様が『危険物』に強いている扱いと対して変わらな──」

 

 ボクはそこで口をつぐんだ。十数メートル向こうに立つケルシー医師の体から、何か金属質の……モノが軋むような音が聞こえたからだ。

 ケルシー医師の体内に影のように潜む「あれ」の長大さと素早さ、鋭さ、狂暴さをすべて知り尽くしているわけではない。以前に一度、あれを目の当たりにした時は……

 よく覚えていない。数ヶ月前、とある殲滅作戦のブリーフィングの時だったか。今みたいに口を滑らせた結果、あれが「出現」した。その時ボクと彼女の距離は数十センチかそこらのはずだったが、気がつくとボクは十メートル飛び退いていたらしい。

 言い方を変えよう、その瞬間、ボクはケルシー医師を中心とする半径十メートルの円内に身を置くことを無意識に回避したんだ。

 つまり、それくらいの脅威だ。刀を抜いたって生き残れる保障はないし……金を貰ったってもう一度見せられたくはないくらいには、見るに堪えない代物だしね。胃液モノだ。

 

 で、今の音には聞き覚えがあった。だからボクは賢いラッピー(PAPPY)のように押し黙って、小さくお辞儀したのさ。

 幸い、今回はドクターが彼女を制してくれた。

 

《二人ともよしてくれ。休暇前に始末書沙汰は御免だ》

 

 今度は音もなく、ケルシー医師は「矛」を納めたようだった。あの年増、意外と激しやすいところもあるのか? いつも表面上は鉄の棺のようで、ボク以外の者に直接的な害意を示した場面をついぞ見たことがないけれど。希少な機会を誘発できたのだとしたら、日々磨いてきたボクのこの、ユーモアのセンスもなかなか捨てたものじゃないかもしれないよ。ラップランド。

 

《ともかく、シエスタ行きが嫌なら──嫌だろうね──君の休暇の行き先は自室か、この素敵な町のコテージだ。さあ、どうするかな? ラップランド》

 

 キミは卑怯だよ、ドクター。それでこそボクの×。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 明朝一一○○にブリーフィング。でもってそれが終わり次第出立だそうだ。まったく、なんと慌ただしい追放だろう! おそらくあと二十四時間未満で、ボクは望みもしないバカンスに追い込まれようとしている。休暇! 

 ワインもダメ、ミルフィーユもダメ、残された選択肢はサンシャイン・ビーチ・シティ、もしくはゴーストタウンのコテージだ。作戦行動中、何度か「ドクターの指揮によって上空から投下された遮蔽物で侵攻ルートを塞がれた敵機動部隊の連中」を見かけたことがあるけど、不憫さにおいては今のボクとさして変わらないのではないかな? 回れ右、袋小路、ルート変更。全部彼の手のひらの上だ。

 

「大丈夫、ボクはキミが思ってるよりずっとしぶといさ。ドクター……」

 

 ボクはロドスの最下層へと墜ちてゆく鉄の箱の中で呟いた。

 長い長い下降を終えたエレベーターのドアが開くと、まずまばゆい照明に照らされた真っ白なサイエンス・フィクション的通路が目に飛び込んでくる。続いて、上層部に比べて設定温度が数度は低い空調の風がボクの肌をよそよそしく撫でる。

 ここは……そうだね、ロドスの「病院船」としての役割を最も色濃く表すセクションだ。ロドスはまず第一に製薬会社であり、次に鉱石病を源とする紛争に介入し鎮圧するための武装組織であり、最後に哀れな鉱石病患者のための憩いの家であるという。

 ボクがロドスを最初に訪れた時、まず案内──というよりは連行──されたのも、この階層だった。船内にいくつかある病棟の中でも、ここは特に重篤な患者が取り扱われる場所であるらしい。

 

 さて、あの子のVIPルームはどこだったかな? 

 人の気配どころか、生物の歴史さえも感ぜられない無機の廊下をあてもなくぶらぶらと歩く。しかし、ほどなくして、その「部屋」が近いことを報せる兆しは訪れた。

 皮膚が疼く。冷たい空調にさらされたボクの肌を、あるはずのない「火」が焼いている。

 何度か曲がり角を通過するたびに、火のイメージは強くなっていった。歩ごとにますます燃え盛るような火。見えず、揺らめかず、何物をも焼かない。ただそこに佇むように在り、ろうそくの芯を燃やしている。

 恐らく戦場で研ぎ澄まされた感覚でなくとも、この通路に充満する火……いや、もうすぐ近く! あのドアだ……あの白い扉から漏れている、見えず触れ得ざる火だ! この火を感じとることは、そう難しくないはずだ。テラの遺伝子が、ボクらに火への恐れを教えてくれている限りは。

 

「Here's Lappy!」

 

 口の中で小さく呟き、恐らく厳重にロックされているであろうドアの前に立つ。

 側にマイク付きのインターホンがあるね。幸か不幸かモニターもカメラも付いていないけど。

 ボクは唇を舐め、そのボタンを押した。

 十二秒数えたと思う。

 

「誰だ」

 

 スピーカー越しに聴こえたその声。たとえ一音節だけ切り取ったとしても、声の主が心の底からこちらを拒絶していることだけは感じられるだろう。

 彼女は「火」そのものだ。精神はともかく、肉体を火に愛される者など存在しない。だから彼女は存在そのものが他者への拒絶に近いんだ。

 

「…………」

 

 ボクは黙っていた。

 数秒の沈黙を経て、まだ幼さの残る少女の声がもう一度。

 

「医療部のヤツじゃ……ないな。ドクターや『センセー』でもない。オマエの影は知らない形してる。誰だ? 答えないと、上の連中にツーホーするぞ」

 

 ……この未熟さに、ここまで強大な力が宿るのか……

 ボクはひそかに歯噛みし、同時に沸く心を抑え、嘆息に似た息を漏らした。物理・アーツ共に並大抵の力では揺らがせることすらできないであろう強固な扉越しに、他者を威圧する──しかも、こちらからは彼女の姿が見えないのに、向こうはボクの影を見ている! 

 火だ。本物の火だ。

 当然のように、ボクは敬意を払うことにした。まずは壁の向こうに恭しく一礼。

 

「これは失礼。ボクの名前は」

 

 なんだっけ? 

 ああ、そうそう。

 

「ラップランド。今日は君にお届け物があって来たんだ」

 

 数秒おいて、困惑したような声がスピーカーを震わせた。

 

「ラップ─何だって? いや、今思い出すからちょっと待ってろよ。えーと……クソ、わかんねぇ。何か用か?」

「用件はさっき言ったよ、ハハ」

 

 笑みが漏れてしまった。

 

「あ? あー。そっか。なんか言ってたな。届け(もん)だっけ」

「そうだよ。ここを開けてほしいな」

 

 それから十秒間もの間、扉の向こうの少女は低い唸り声を上げ続けていた。敵対的なものではなく、単純にボクという来訪者を迎え入れていいものか考えているだけのようだ。

 そうしてようやく返ってきた意味のある音声は、どこか悔しそうだった。

「んー、あー。ダメだ。この部屋に入っていいのはオレサマと、医療部の当番のヤツとサイレンスとドクターと、あと……えーっと」

「ケルシー医師、かい?」

「あ、それだ。よくわかるな。でも、オマエは入れてやれない。悪いけど」

「じゃあ、手だけ出してよ。渡してあげるから」

 

 またも唸り声。

 

「わかった。でもこっちに手を突っ込むなよ。ケイホー鳴っちまうかも」

「まさか」

 

 十数秒ほどして、プシューと空気の抜けるSF的効果音と共に扉は十センチ開いた。隙間からぶっきらぼうに突き出された腕は少し灼けた色をしていたが、その健やかな肌の与える印象とは裏腹に、どこか樹脂のように不透明な無機物を思わせた。

 そして何より、そこかしこの皮膚を破って飛び出した、黒い鉱石の錐形が……大地の×が……

 

「おい、さっさと渡せ。つか、何なんだよモノはさ」

「おっと、ごめんね」

 

 ボクは上着のポケットから例の小袋を取り出して、それを×に溢れた手のひらに乗せてあげた。パッと手が部屋の中へ引っ込む。ボクはわざと部屋の中が見えない位置に立っていた。向こうからもボクの顔は見えないはずだ。

 

「なんだこれ? 食い物……だよな」

「きっとね。そびえるほどの本を抱えたリーベリの少女が落としていったのさ」

「は? あー。もしかしたらあいつかもな。最近サイレンスからよく話は聞いてる。でも、名前覚えてねーや」

「みんなの名前、覚えたい?」

「べつに。忘れたくないだけだ」

「…………」

「言っとくけど、毒とか食えねーもん入っててもわかるんだからな。こないだドクターがおいてったキカイで見ればすぐだ」

「×」

「え? なんつった?」

「何でもないよ。話せて楽しかった。じゃあね」

「え、あー。じゃな」

 

 ボクは早足でその場をあとにした。

 結局、彼女もボクのようではないんだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 自室に帰ってみると何もない。朝起きたからにはベッドがあり、昨日とある本を読んだからにはそれがテーブルの上に伏せてあってしかるべきなのに、部屋からはそういった事柄が消え失せていた。

 

「ケルシー先生にも困ったものです」

 

 数時間前まで自室だった空き部屋の中央に立つボクの背後から静かな声がした。振り向いてみると、桃色の毛並みをしたコータスの若い男が戸口に立ってボクを見つめていた。

 

「キミは?」

「医療部の者です。ラップランドさんですね?」

「たぶんね」

 

 自室がこんな有り様じゃ、何もかも「たぶん」だよ。

 

「四十五分前、ケルシー先生から、あなたの居室をこのA一◯九号室からD一◯一号室に変更する旨が我々に伝達されました」

「ふうん。仕事が速いね」

「お荷物が少なかったものですから。十五分前には全ての行程が終了しました。新しい部屋──D一◯一号室の間取りは、この部屋と概ね同一です。家具や書籍の再配置も、この部屋を参考にした上で完了しています」

「違いとしては……ヒップホップとアップルパイ、バーベキューは無し?」

「そういうことになりますね」

「案内してくれるかな」

「そう仰せつかっていますので。こちらへ」

 

 ボクたちは通路を行き、階段を三つ降り、角を一つ曲がった。

 指し示されたドアを開けてみると、ボクの部屋を真似て作られた、しかし歴史のない部屋が出迎えてくれた。なんと気味の悪いことだろう。テーブルの上に伏せられた本の、その開かれたページまで昨夜のままだった。

 

「我々としても、部屋の主に断りもなく、その所有物を運び出すことは不本意でしたが」

 

 コータスの青年が、別段申し訳なさそうでもなしに淡々と語るのを聞き流しながら、ボクはシーツの真新しくなったベッドに寝そべってみる。

 

「なにぶんケルシー先生の下命でしたので。ご勘弁ください」

「気にしてないよー。あー……一件。検査キットはどこだい」

「簡易のものがシャワールームの扉の横に。検体の提出はこれまで通り、明朝6時から8時までにお願いします。他に何か?」

「ん。もういいよ。じゃね」

 

 誰の匂いもしないシーツに顔を埋めて、ボクはドアの閉まる音と、それから彼の足音が遠ざかるのを待った。

 もう近くには誰もいないらしい。寝返りをうち、天井を仰ぐ。布と衣の擦れる音がおさまった後、部屋には通風孔の唸る音と、ボクの耳鳴りの他に音がなくなった。

 耳鳴りの奥に潜り込み、じっと感覚を研ぎ澄ませると、いくつもの小さな声が身を寄せ合って記憶の中にひしめいているようだ。新しい声ほど近く、古い声ほど高く、遠く。

 

 ウツツが思いのままにならないというなら、ボクにとってこの声の他に音など必要ない。これから眠りにつくならば、なおさらだ。今日は闘いもないのに話し、聞きすぎた。

 今日のうちに取り扱われたそれら数多くの言葉にも、地下牢にいた少女のたった一言を除けば、有意義なものは存在しない。

 ボクは彼女の言葉を何度も口の中で繰り返し、記憶のざわめきへと入念に埋め込んだ。

 他にすることもないから今日はもう寝よう。

 おやすみ、ラップランド。

 

 

 



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第二話:サ・イ・ア・ク

 

 あくる朝七時、ボクは目を覚ましてすぐにシャワーを浴び、服を着替えてロドス号の上部甲板へと向かった。所用? 特にない。久しぶりにぐっすり眠れた夜の終わりには、こんな風に気晴らす歩みで朝の気分をあつらえるのも悪くはないよ。

 既に陽の射す甲板には、幾つかの人影が散見された。薄手のトレーニングウェアを着て走っている影が四つ。連れ立って歩いているペアの影が三組。ボクはわざと目立つように甲板の中央を歩き、船首へと向かった。

 甲板を行く人々は皆、ボクが視線を向けると目をあからさまに逸らすか、ただ真っ直ぐに前を見つめて歩き、もしくは走り去っていった。どこかずっと背後で聴こえるオハヨウの交換。ナカヨシの形はそれぞれでも、ここにいるヒトたちはみんな、例外なくボクを、ラップランドを強く意識している。

 背後にある親愛、ボクが求めてやまないものだ。そして眼前の冷たい隔離もまた。

 

 船尾へ向かって一生懸命走るキミ、確かに今ロドスは荒野の上だけど、前に進んでる船の上でそんなことして楽しいかい? 

 はん、またルームランナーだ! ボクは昨日エレベーターの前で出会ったリーベリの少女を思い出して笑った。

 …………微かに朝霧が出てきた。ロドスの乾荒野行も終わりに近いのか? 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 ボクはロドスの船首にたどり着き、その最果てたる舳先を目の当たりにした。

 女が座っていた。チタンの輝きを思わせる、長い長い頭髪を空になびかせて。

 厳めしい黒装束と、日に映える白い肌。おとぎの奇談からそのまま転がり出てきたかのようなその姿を見て、ボクはまず冷めた刀身を思い、次に異国の悲しい歌を想起し、最後にまたこの甲板と朝霧に立ち返った。

 

「おはよう」

 

 幻聴かと思いきや、そうではないらしい。ボクに背を向けたまま、彼女は確かにそう言った。

 

「いい朝だね」

 

 とボクは粟立つ首筋の肌をそっと手で撫でながら応えた。

 

「そこから……何か見えるかい?」

 

 彼女はゆっくりと首を縦に振った。

 

「近いわ」

「そう……この荒廃も、終わりに近いということかな」

「いいえ、始まるのよ」

「楽しみだね」

「ええ」

 

 彼女は立ち上がり、まとわりつく霧を払うかのように、その見事な銀髪を微風に流した。右手には長大な剣が収まっている鞘を握り、左手には赤いシャチを象った浮き輪を握りしめて。

 

「それで、あなた誰?」

 

 

 第二話/サ・イ・ア・ク

 

 

 朝食前に血液を身体から吸い出して、医療部のポストに投函しなきゃいけないボクの気持ちがわかるかい? どうかな? 

 もし血抜きを嗜む種類のヒト科であっても、それが三日おきだったり、時期によっては毎日だったりすれば辟易してくることだろうね。とにかく、ラップランドの名前をラベルに冠し、ラップランドの血を詰めたアンプルが巨大な機械の中に呑まれていくのを見るのはいい気分ではない。返してちょうだいよボクの×の源。

 毎朝そんな気分でいる。散歩したってこれがあるんじゃ台無しだけど、たとえ塗り潰されたとしても気晴らしは気晴らしだ。無駄だとは思わない。およそ世の中は意味の形象でできている。付属する価値の話はまた別の、とても複雑な問題だ。

 

 若干のめまいを覚えながら大食堂に入ってみるとどこか空気が浮わついていて、騒がしくはないが妙にかしましい。流れてくる声を拾い聞く限り、どのテーブルもシエスタのビーチやミュージック・フェスの話題で持ちきりのようだ。馬鹿デカいスピーカーを持ち込んでおきながら、周囲に慮った微妙な音量でスリーコード・パンクを流している輩もいる。ボクはその小心なロック精神を笑いたかったが、何か喉のあたりがむなしくなってやめた。

 彼ら彼女らの活動圏内の合間に点在する席を見繕いつつ歩く。一番近かった壁際の席には、恐らくロドスで最も自由な存在の一つであろう男がファッション雑誌を片手に食後のひとときを楽しんでいる様子が見えなかった(見えた)

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 ぞくっとするようなソーダ水の残り香を口の中で転がしながら、ボクは栄光の宇宙船ロドス号の中層部、そのど真ん中に通った通路を歩いていた。朝食の感想は特にない。潤った口の冷たさと、数百グラム重くなった身体が全てだ。

 このエリアには製造関連の機能が集中しており、通路の両側に交互に見えるドアには「○○製造施設、関係者以外立入厳禁」だの、「ラボ・○○ 御用の方は人事部を通してから」だのと書かれたプレートが打ち付けてある。みんな部屋にこもって何を作っているんだろう? きっと食品からトイレットペーパー、金属製品、暴力機械、病原菌まで取り揃えているよ。あと忘れちゃいけないのがクスリ。そういえばここ製薬会社だったね。ボクは自分の腰に下がった二刀を見下ろしてアハハアハ。

 さて、いい加減目的地の話をしなければならない。

 昨日言い渡された「廃村行き」──そのためのブリーフィングが、この通路の並びにあるはずの一室で行われる。そこへボクは足を運ばされているわけだけれど、行けども行けども正解の部屋を示すプレートは見えなかった。

 部屋の位置くらいその辺のスタッフでも捕まえて尋ねてから来るべきだった、と若干後悔しはじめた頃になってようやく、そのドアはボクの目の前を通過した。

 

【ラボ・ルトラ】

【責任者:Mayer】

【注意:入室の際には必ず衣服の埃を落とし、本書下部の静電気除去シートに数秒間触れた後戸口を跨ぐこと】

【猛獺注意】

【危険物を取り扱っています】

【自律モジュールTHERMAL-EXは本研究所の管轄下にあります。勝手に餌を与えないで下さい。彼に関するご意見や苦情等はネットワークのメッセージボックスへ、ハッシュタグ『#何なのこのロボ』と共にご送付下さい】

【連絡:本日午後より一週間程度出張のため不在】

 

 金属製のプレートの下にはこのような調子で無数のメモ書きや付箋が貼り付けてある。ボクはポケットからハンケチを取り出してコートのあちこちを払い、ぐにゃっとした感触のゴムシートに触れ、二礼四拍一礼の後に【自動──でもここを手で押さなきゃ開かないよ。変だよね】と書かれた大きなボタンを押した。レトロフューチャーそのものといった音色の電子音が数度、ドアはボクを迎え入れる。

 

 目の前に広がった光景を、最初「部屋」だとは認識できなかった。

 おそらく幅十メートル、奥行き二十メートル、高さ四メートルほどの空間。いや、空間という言葉の形はこの場所に似つかわしくない。空も間もほとんどなく、床にも壁にもテーブルにも所狭しと科学の産物が敷き詰められているんだ。

 曖昧な物言いだ。具体的に、実際に見えたものを挙げていこう。何も映さない分厚く大きいモニター、解体しかけたまま床に放置されている源石動力装置らしいもの、絶えず微動する遠心分離機らしい機械、テーブルの上いっぱいに並べられたビーカーとシリンダー、湯気のようなものを発しつつ躍動する謎のアームと筒、それらから距離を置いた壁際に並ぶ巨大なコンピュータが三機、部屋の片隅に山と積まれたジャンクパーツたち、壁の一ヶ所から滝のように流れ落ちるケーブルの束……

 

 そして、部屋の最奥のデスクに──椅子ではなくデスクに──腰掛けたヒト影。女。片手にマグカップ、もう片手に携帯型情報端末。人相は……見えた、肩あたりまである銀髪に同色の眼、血色は良いようだが目の下にうっすらと隈らしきものが窺える。黒い厚手のインナーと紺のタイトスカートの上に鮮やかなオレンジ色のコートを引っかけていて、裾から髪と同色の尻尾がやや板めいた印象でぶら下がっている。身長は160cm少々。

 こちらに気づいて挙げた手は右手だが、おそらく本人は左メインの両利き。身体の重心はやや右前寄り。明らかに研究職だが動作はそれなりに機敏で、胸周り以外に余計な肉は見受けられない。作戦行動オペレーターとしての訓練経験はありそう、ってとこかな。

 

「や。こんにちは。ようこそ私の部屋へ! (ブリッジ)から話は聞いてるよ。ガード・オペレーターのラップランドだね? 私はライン生命所属のラボ=ルトラ室長、コードネームはメイヤーだよ。よろしくねん」

 

 テーブルや機器の合間を縫ってこちらに接近しながら行われた『メイヤー』の自己紹介からは、朗々とした活劇の台詞を早回しにして聴いているような印象を受けた。メイヤー……確か数ヶ月ほど前にちらっと名前は聞いた。技術部傘下でどうこう、はた迷惑な新入りがどうこう、って感じの伝聞。

 ボクは目の前についと差し出された黒手袋の手のひらを握り、布を伝わってきた生のあたたかさに少しぞっとした。

 

「よろしく。調査隊というのは──」

「あ、私が隊長。技術部門からは私ともう一人。あとは医療部から一人、現地で合流するロドスのトランスポーターが一人。用心棒の君もあわせて頭数は五人だね。コーヒー飲む?」

 

 情報についての感想を述べる前にボクの鼻先へ薄手の金属で出来たマグカップが突き出された。

 

「うん? 頂こうかな。しかし、物資サルベージ、だったかな。そんな人数で事足りるのかい? キミの言う医療部の人員が、あの盾持ちなら話は別だけど」

 

 メイヤーは部屋の奥へ歩いていき、デスクのサイドテーブルの上にあるコーヒーメーカーにカップをセットしてスイッチを入れた。

 

「あー……ウチの本社の元警備主任ね。確かにあの人なら一人で仮設住宅やら大型源石エンジンの一つくらい持ち上げて運んでくれそうだけど。残念ながらシエスタ組らしいよ。医療部から誰が来るのか、当ててみる?」

 

 サルゴン南部産の安物によく似た香り。ドクターの執務室でよく嗅ぐ高級品のものよりも好ましい。

 

「そのオイシャサンの参加はいいニュース寄り? 悪いニュース寄り?」

「ノーコメント」

「…………ワルファリン女史?」

 

 メイヤーが口を開いて答える前に、どこかからカチャカチャガタガタと金属の擦れ合うような騒音がした。見回すと、部屋に入ったときにも見た隅のジャンクパーツの山が小刻みに揺れ動いている。彼女はそれを見て即座に「しまった」という顔をした。

 

「うわ、そこ(・ ・)からか! モノどかさなきゃ──ミーボ十八号、起きて『リフト』んとこ片付けて!」

 

 少々慌てながらも愉快そうな声色でメイヤーは叫んだ。すると、ビーカーやシリンダーの置いてあった机の下から中型犬くらいの大きさの四足歩行する物体が飛び出してきて、ジャンクパーツの山をかき分け始めた。

 最初何かの駄獣かと思われたその物体は、よく見ると四肢も胴体も全て樹脂や金属によって構成された、いわゆるロボットであることがわかった。差し渡し数メートルもあるガラクタの山を素早く、しかし意外な器用さをもって丁寧に崩していく様はある種の感嘆をボクにもたらした。こんなに細かい動きができる自律マシンはなかなかお目にかかれるものではない。単なるロボットアームならともかく、四肢を有する獣を模した類いのものならなおさらだ。

 

「どう? 面白いでしょ」

 自らもジャンクの山に歩みよりながらメイヤーが嬉しそうに言った。

 

「さっき君は『人手は足りるのか』って訊いたけど、うちのラボにはこの『ミーボ』がたっくさんいるからね」

「なるほど?」

「まだ詰めるところいっぱいあるし、全部が全部音声認識で動いてくれるわけでも、完全に自律してるわけでもないんだけどね。とりあえずこの十八号と、そっちの子はわりと好き放題動けるよ」

 

 メイヤーが後ろ指に指す方向を振り返ってみると、コーヒーメーカーを乗せたサイドテーブルがデスクのそばを離れ、歩いてこちらに近づいてきていた。どうも、こいつもテーブルではなく「ミーボ」らしい。

 目の前で停止したミーボの背からありがたくマグカップを頂戴する。コーヒーメーカーと壁のどこかを繋いでいるらしい長いケーブルを引きずって歩くメカの背中をしばらく見送った後、ボクはメイヤーとミーボが張りついているガラクタの山の方に向き直った。

 

「お、これあの時のエステル材サンプルだ。五階から回してもらったやつ。こんなところに……まだなんかに使えるかな? お、こっちは──」

 

 さほど声を低めるでもなく独りごちながらガラクタを一つ一つ取り上げて眺めているメイヤーは、あまり片付けの役には立っていないようだった。そんな主を尻目に、ミーボは積まれているものほとんど全てを無感動に選別してゆく。

 掌の中のコーヒーはわずかに酸味が強く感じられた。

 さっきからなんだろうね、このむず痒さは。

 

「三号機の外殻の耐久テスト、Cパーツをこれと入れ換えてもう一回やってみる……? 、いやでもフィールドワーク近いしぶっつけ本番で何かあったら……あ! ミーボ、もういいよ!」

 

 メイヤーは使役獣を退かせ、床の一角を拳で数度叩きながら声を張り上げた。

 

「マーゼーラーン! ごめん今開けるからー!」

「─────!」

 

 くぐもった声が床下のどこかから叫びに応えた。

 

「これをどかしたら動くかな? それ!」

 

 メイヤーが床から壊れた電子調理器具らしい機械を持ち上げて脇に置いた瞬間、その部分の床が勢いよく跳ね上がって彼女の顎あたりに直撃し、金だらいを思いきり叩いたような音がラボに響き渡った。

 

「あだー!!」

 

 顎を手で押さえながらひっくり返った技術屋の身体の向こうに、床下に閉じ込められていたらしいヒトの頭が飛び出てきた。「マゼラン」? これは聞き覚えのない名前だ。

「マゼラン」……もとい、艶やかなブラウンに白いメッシュの入った頭髪、金色の大きな眼を持つ若い女の生首(ボクのいる場所からは本当に首から上しか見えない)はゆっくりとあたりを見回した。

 

「うわー、ちょっと見ないうちにまた散らかってるねここ。メイヤーちゃ──あーっ!! メイヤーちゃんが死んでる!! どうして……!!」

 

 どうしたもこうしたもあるかね。

 相変わらず首だけ床から突き出ているマゼランの視線とボクのそれが交差する。

 

「わっ、下手人だ!」

「は?」

 

 数瞬の沈黙の後にメイヤーが跳ねるように起き上がって叫ぶ。

 

「って死んでないし! うあー痛……口切っちゃったかな……」

「あ、起きた。大丈夫? 応急キットならこのコートの内ポケットにあるよ」

「……いいよ口荒れ軟膏くらいどっかにあるし。それよりなんでここから出てきたのさ」

 

 マゼランは床に空いた穴から這い上がり、その全身をあらわにした。首から下は茶色いダボっとしたコートの前面を白い装甲板のような素材で覆った、なんとも珍妙な装備に覆われており、足元まで体型がはっきりしない。身の丈はメイヤーとそう変わらないが──

 一歩前に踏み出し、コートの裾を払う動作。不思議な重心の取り方をしている。足に目をやると、なんとスケート靴のようなものを履いていた。

 研究職の連中はみんなこうなのかな? 少なくとも白衣連にはこの手合いはいなかったけれど。

 

「いや、このリフト作ったのメイヤーちゃんじゃん。『我らが友情の直通回路!』とか言って、私がロドスと仮契約した時点でここに穴開けて、私の居室の換気ダクトと繋げてさ。誰にも許可取らずにこんな工事しちゃうのはさすがって感じだけど、まあ使わないのももったいないかなって。途中で人事部さんたちが会議やってる部屋の上をリフトが通過したときはどうなるかと思ったよ」

「乗り心地は?」

「最高」

「でしょ?」

「もう二度と使わないよ」

「イェイ」

 

 二人は揃ってこちらを向き、これも完全に揃ったタイミングでVサインを作った手をボクに向けた。ボクは衝動的にマグカップの中身をまるごと床にぶちまけて、スラップスティックな笑いを提供してやりたくなった。我慢。

 マゼランのコートのストラップにずんぐりむっくりな鳥を象ったフィギュアがぶら下がって揺れている。くそ、逃げてきた先にはまた忌々しいペンギンだ。決して悪くはない。

 決してね。








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第三話:コールド・キュリオシティ

「失礼する。ここか? 陽の当たらん場所で夏の休暇を過ごそうという好き者の集まりは。妾も加えてもら──おい、ラップランドよ。なんだその顔は」

「おっと。敬意の現れですよ、先生。それよりラップランドというのは?」

「ちょうど今のお主のような、他人を舐め腐ったような顔をして二刀を携えたまま艦内をうろついている曲者のことをそう呼ぶのだろうよ。わかったら舌をしまえ舌を」

 

 

 第三話:コールド・キュリオシティ

 

 

 

 ビーカーでコーヒーを飲む人類を見たことがあるかい? 

 ボクの目の前にいるのは、つまりそういう連中だ。良いも悪いもないけれど。

 憤慨していても仕方ないし先を急ごう。

 結局ビーカーから液体を飲んでいるのは、長い白髪とそれよりもなお白く透き通る肌、紅い宝石のような瞳色が特徴の──

 

「ふぅ。なかなか──珍しい豆を使っていると見たが、かつてサルゴンを訪れた折に賞味したものと少々似通っている。違うか? これでも妾はそれなりに味蕾と嗅覚細胞の働きに自信があるのだが」

 

 そう、医療部のろくでなしを束ねるお局様、大抵の戦闘オペレーターにも敬愛されているワルファリン医師だ。なんだって悪い予感とか、(冗談めかしたはずの)最悪を予想する言葉には確固たる影が付きまとうんだろう。ボクはこれから始まる愉快なバカンスの行く手にブリザードの気配すら察知した。

 だってワルファリン医師だろう? 

 

 一方でメイヤーは心底楽しそうにこの吸血性怪異生物と会話していた。

 

「あ、これはね、確かにサルゴン原産のものを使ってはいるんだけど。食品開発部から試供されたインスタント顆粒のサンプルに私が調整を加えたアプデ品なんだ。廉価な化学調味料をいくつかちょーっとだけ足して、いわゆる雑味を抑えつつも重量あたりの材料費自体はオリジナルより浮いてるっていうイイモンなの」

「メイヤーちゃん、それを元の食品開発部に持っていってプレゼンして、向こうの主任にだいぶキレられてたよねー」

 

 部屋の隅にある例のジャンクパーツ山の前で屈み込んでいるマゼランが茶々を入れた。だー! と小さく叫ぶメイヤー。

 

「そーなんだよね。中枢の管理オペレーターにはすっごく好評だったんだけど、結局量産ラインには載せてもらえなくってさ」

「……まぁ彼奴の心持も分からんではないがな。既存のものより安価ならば、これを戦時糧食のオプションに加えても良いくらいには出来た味なだけに、惜しいものだ。妾、これまあまあ好きぞ」

「ドクターに口利きしてもらえないかなあ。ちょっと飲んでもらってから」

「アレは駄目だ。高級品ばかりサーブされて、それを唯一の美味だと勘違いしておる」

「資本家~」

 

 我らがドクターに関する自由な言論を聞き流しつつ、ボクはその場を離れてマゼランの元へ向かった。ミーティングとやらがいつ始まるのか、はたまたこのグダっとした空間が既にミーティングを指しているのかは分からないが、ともかく時間潰しの他にやることもない。

 

「失礼……何をしてるのかな?」

「あ、下手人さん」

「ラップ・ザ・リッパーと呼んでくれ。メイヤー博士はボクが始末した……それで?」

「あわわ、紋切り……ふふ、これね、空撮ドローン」

 

 しゃがんでガラクタを物色しているマゼランの肩越しに、回転翼のような板が数枚付いた、長さ二十センチほどの銀色の円筒機械が床に転がっているのが見えた。

 

「今回、工業でご飯食べてた村に行くわけでしょ? 屋内の、しかも入り組んでたりヒトの通行を想定してない空間を調査する必要がありそうだし──構造物の経年劣化も考えるとよけいにね──一番ちっちゃいのを持ってきたんだけど、消耗しやすいパーツを予備としてこの……よいっ、しょ! カワウソの巣から持っていきたくって」

「一応念のために訊いておくよ。ミーボは飛べないんだね?」

「あの性能のまま飛んだら大抵のロボ屋さんは破産だよ。あー、ちょっと待ってね? メイヤー?」

 

「なにー?」と間延びした声が、ボクの思っていたより少し遠くから聴こえてきた。振り返ってみると、メイヤーは何やら小振りなホワイトボードのようなものを部屋の一番向こう側から引っ張ってきて、ワルファリンの座っている椅子の方へ向かっている最中だった。

 

「ここにあった合成樹脂の薄いやつ二ロールと、この……何だろ、使ってなさそうな基盤一個持ってっていい? あとミーボって飛ぶ?」

「んー? 四隅のコンデンサの製造番号は?」

「えとね、全部DU3424-A」

「りょ。持ってっちゃっていいよ。飛ぶミーボは今構想中」

「ほい、ありがとね」

 

 マゼランは樹脂製の板切れを一枚コートのポケットに押し込み、黒い布状の物質がぐるぐる巻きにされた円筒を幾つか持って立ち上がった。肩を若干竦めつつこちらにウインクして小声で曰く、

 

「まあ、ああいう子なの。頭の中にジャンクの山からきっちりした工具箱、電子計算機まで何でも詰まってるんだから、研究所だってこうなっても仕方ないよね」

 

 ボクは雑然としたガラクタの山を見、部屋の向こうのコンピュータを見、大きな机に整然と並ぶ、明らかに実用を為していないであろうガジェットの数々を見た。その合間を縫って、精巧そのものといった出来映えの四足歩行機械が闊歩している。

 およそ世の中に天才と呼ぶべきヒト型は数多くいるが、このラボの主はその中でも「キ」の才に分類すべき天賦の持ち主らしい。

 

「キミと彼女の関係は?」

「アポなしでここに入ってトイレとか借りられるくらい。あ、言い忘れてたけどあたし、極地の環境調査やっててね、探索用のツールもだいたいメイヤーちゃんとの共同開発なんだ。まああたしはフィールドワークのデータ投げるのが主な役割で、実際に図面引いたり機械組むのはあの子の方が圧倒的に速いんだけど」

 

 キョクチ? 

 ああ、極地か。惑星の最果て、北の極冠に人類未踏の地があるという。あの場所に何が存在しているのかボクは知らないし、大方の人々も気に留めていないだろう。

 このマゼランという少女は、氷河を引き割くクレバスの下から何を引っ張り出そうとしているのだろうか。のほほんとした態度とは裏腹に、「極地の環境調査」と口にした彼女の目には火が宿っていた。このロドスにはありふれた類いの火だ。

 白い氷を剥いで地の底を見るなんて。ボクなどはきっと、谷底を覗いただけで氷像のように動けなくなるよ……アハ……

 

「うーい、お二人さんミーティング始めるよー」

 

 メイヤーの声がした。この世で最も恐ろしいもの全てを幻像の谷底に想い描きながら、ボクはふらふらとその方角に歩き出す。

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 落書きまみれのホワイトボードに大きな紙が一枚マグネットで留めてある。大して興味もないので突っ込んで分析してみる気も薄いが、今回ボクがブチ込まれるリゾート(ジェイルハウス)の略図だ。

 

「えっとね、今回の目的地の、この村……というか工場跡地とその周辺集落なんだけど」

 

 ボードの前の椅子に座るマゼランが指し棒をくるくる回しながら口を開いた。隊長はメイヤーのはずだが、先ほど彼女は略図を開いて一瞥するなり「まかせた!」とマゼランに投げてしまったのだ。

 

「現在ロドス本船が航行している地点からはおおよそ西に二百キロちょい、山岳の麓に位置する集落だよ。標高は百メートルくらい、気温は今の時期だと日中二十五~二十七度くらいで推移するみたい。あ、夜はそれなりに冷えそうだから防寒具は忘れずにね」

「大丈夫。我がラボ謹製のウインドブレーカーとブランケットはもう下に降ろしてあるよん」

 

 メイヤーが得意気に胸を張った。

 

「さっすが。──で、気候なんだけど、わりと近くにあるシエスタの湖から流れ込んでくる湿気が山で絞られるから、麓にあるこの一帯は年中降雨量が多いみたいなの。朝夕には霧にも注意だね。ということで雨具も申請済みでーす」

 

 三杯目のコーヒーを干したワルファリン医師がちょっと指を挙げてみせる。

 

「──事前にお主から送られた情報から、この気候と環境で起こりうる疾病に対応する医薬品の一揃えも準備しておいた。まぁ、作戦行動時にも携行されるBキットと大した違いはないがな。湿地帯用の抗菌周りと、いくつか栄養剤が加わったくらいだ」

「わあ、ありがとうございます。あ、食事についても夏っぽいモノを中心にかなり豪華な糧食をたっぷりドクターに頼んでおいたから、期待しといてね。次に──」

 

 ボクは欠伸を噛み殺し、手元のマグカップの底を見つめた。

 

「──トランスポーターの計測では、近辺に生体に対して危険性の高い源石環境を示唆する数値は検出されず──」

 

 シエスタの浜辺とこの場、いったいどちらがマシなのだろうかという自問の答えは既に出ていたが、それにしたって技術屋の口から出てくる言葉たちはさほど面白いものではなかった。意味がわからないとか、学術的な興味をそそられないという訳ではなく、ただ、このボクをさほど必要としていそうもないコミュニケーションの場を耐えるのに忍耐が要るという事実に気づきつつあるだけで。

 

「──画質超悪いけど、ここの隅に写ってるこれ、この宿泊施設が使えるみたい。といっても物資の分布具合によっては──」

 

 ふと、あの忌々しくも愛さずにはいられない物流会社の連中のことが頭をよぎった。やはり、ボクたちは退屈な言葉の中に身を置くべきではないとの想いを強くする。

 

「──ので、申し訳ないんだけど私たちが調査・回収活動をやってる間ラップランドさんにはこれを着けてもらって」

 

 不意にラップランドの名を含む声がしたのでゆっくりと視線をマグカップから上げてみる。目の前にメイヤーの手に乗った小型のヘッドセットが突きつけられていた。

 手に取って照明にかざしてみる。イヤーモニターとクリップのついたマイク。通常の作戦行動で戦闘オペレーターに配布されるモノとさして違いは見受けられなかったが、わずかに重かった。

 

「──普段、こういうのは着けないんだけどねぇ」

 

 言うだけ言ってみる。実際にボクは戦闘中、基本的は誰からの指示も受け付けない。「この規範を守らなかった場合、君は『処分』される」とドクターに提示された最低限の条項を遵守すれば、あとはボクの自由だ。作戦目標の他にはそのルール(憲法)が唯一行動を規定する首輪なわけで。

 だが今回は少々事情が異なるのは明白だった。メイヤーは首を振る。

 

「うん、ドクターからも君の流儀については聞かされてるんだけどね……今回派遣される人員には、君の他に戦闘に向いた人員もいなければ、PRTSや通信を中継するための要員もいないんだ。だから護衛係の君にはこれを着けてもらう他ないの。ごめんね──詳しい説明、聞いてくれる?」

 

 ボクは微笑み頷いてみせたが、内心で天を仰いでいた。このカチャカチャしたヘッドセットが嫌なわけではないよ。いや、装着したいわけでもないけど。

 この「休暇」──もとい任務を承けてしまったことをボクは後悔していた。なんということだろう、この仕事は「護衛」だった! その意味を解っていやしなかったんだ。言葉の表層だけでは大して印象に残らなかったが、今はっきりと認識した。

 

「これは特別製でね、私たち全員が装着する測定器から送られるバイタルサインをキャッチできるの。誰かのバイタルに何らかの異常が見られたら、警告音とアナウンスが鳴るっていう仕組みね。もちろん普通のトランシーバーとしての機能もあるよ」

「ふうん。もしキミたちが危機に瀕したとして、その結果声も出せない状況に陥っても、ボクの耳には助けを求める叫び声が届くってわけかい」

「言い方言い方。ま、でもそういうことだね。いくら安全な場所って言われてても、この辺のリスク管理はしっかりしとかないといつか痛い目見るんだから」

 

 この発言に対してマゼランが「自爆機能ってメイヤーちゃん的にはリスクマネジメントなの?」と口を挟んだ結果、ワルファリン医師が軽くコーヒーに噎せるのを横目に見ながらボクは手の中でヘッドセットを何回かひっくり返してみた。

 

 これが今回背負わされる「責任」というわけだ。そう、この任務は「攻撃」ではない。「防衛のための攻撃」ですらない。純然たる護衛なんだ。

 ドクターめ、何食わぬ口振りをしてこのボクに首輪とリード、そして飼い主まで付けて番犬にしやがった。口が緩み、歪む。この落とし前はどうつけてくれようかな。

 あの男とも女とも知れない影法師の皮を一枚剥いだところにある、生ッ白い柔らかな肌を想像してみる。いずれここにどんな絵を描くか想像してみるだけでも、今回の休暇の間の暇潰しにはなるだろうか。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 リケイのニンゲン──と呼ぶにはやや特異な連中ばかりだが──が揃ったこのブリーフィングは、人数が少ないこともあり淀みなく進んでいた。ボクがわざわざ訊いてみなくても最低限知りたい情報はポンポンと出てきたし、ワルファリン医師が打った二、三の質問もメイヤーかマゼランのどちらかが響くように回答する。欠伸が出るほどに退屈だった。

 

 事はミーティングが始まってから二十五分後、そろそろ議題も出尽くして浮わついたムードが漂っている時分に起こった。

 

「──パターンCの時はまあ、ほっぽいて逃げるだけだね。簡単簡単。どうせ回収が難しいモノは無理して私たちが持って帰る必要もないわけだし、あくまで先遣隊として……あれ? ゴメン、ちょっと外すね。呼び出しが……うわ、ドクターからじゃん」

 

 メイヤーの上着のポケットあたりから間の抜けた着信メロディーが流れ出る。彼女はそこから携帯端末を取り出し、部屋の隅の方まで歩いていった。

 

「ハーイ、ドクター。ラボ・ルトラに何かご用? ──いや、まだラボだけど。何、携行品の余裕? そりゃ休暇も兼ねてるしたっぷり……『じゃあ大丈夫』って……えー!?」

 

 頓狂な声を上げるメイヤー。どこかボクの背後の方でワルファリン医師のため息が聞こえた。

 

「あやつ、また急な思いつきで何かしでかしたな? まったく……」

 

 作戦行動の話だけに絞っても、我らがドクターの思いつきにも等しいひらめきの数々は数多の命を救ってきたし、同時に同じくらいの数の小さな混乱や危機を生んできた。結果として彼の指揮の下、ロドスは興隆の一途を辿っているわけではあるが、急な方針転換に付き合わされる下の連中としてはなかなかたまったものではないのだろうね。

 

 通話を終えたメイヤーが後頭部を掻きながら戻ってきて言った。

 

「もう一人増えるよ」

 

 ……なるほど、たまったものではないね。

 








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第四話:車輪の上、偽造の下






「メイヤーちゃん、追加人員って?」

「んー、まだ予備役扱いの戦闘オペレーターなんだけど『様々な観点からロドス職員としての経験を積みたい』っていうことみたい。あ、女の子だよ。えーっと……年頃は……これ見た感じ、ラップランドと同じ、くらいの……?」

「へぇ? そうするとまだ子供じゃないかい?」

「……こやつの(とし)なら訊かぬほうがよいぞ。他者に流させた血の量に比すれば若年に過ぎるが、見た目ほどにはうら若くもない」

「アハ、その問題についてはお互いに苦労しますね。先生?」

 

 

 第四話:車輪の上、偽造の下

 

 

 ボク以外、つまり学者連中はまだ色々と準備があるというので、ミーティングを畳んで慌ただしく動き回り始めた彼女らを放置し、ラボをあとにした。

 またエレベーターに乗って下層へと降りていく。「また」だ。このつまらない冷感の箱が、天井以外すべてガラス張りになっていたらどんなに楽しいことだろうか、とはよく考える。少なくとも望まない方法で運ばれていくような不快感は軽減されるだろうし、ちょっと下を見れば気を紛らわすことだってできる。夜空を見るな

 微かな揺れと失調する均衡感に耐えるとようやく扉が開く。そこはロドス下層のとあるセクション、たとえば装甲車とかジープなんかの素敵な乗り物が保管されている大きな車庫のような場所だ。むきだしのコンクリート床と鉄骨の柱。

 整然と並んでいる車両の類は用途別に迷彩色で塗られているものの、近づいてみれば車種がてんでバラバラ、雑多な寄せ集めであることが容易に判るだろう。この組織が軍拡を図るようになってからはまだ日が浅い、その証拠だ。

 

 やや騒がしい一角へ足を向ける。砂色のジープとトラックが数台まとめて並んでいるそこには果たして数人の人員がいて、貨物用エレベーターから次々と物品を運び出しては荷台へと積み込みくくりつけていた。

 ボクは歩み寄りながら手を広げ、声を上げる。

 

「やあ、やあやあ。ご苦労様、もしくはお疲れ様。メイヤー技師のキャラバンはこれかい? ビーチパラソルは積んだ? スイカのゴムボールは? レモネードは? イカした夏には大抵人工血液のパックも必要なんだけれど、少数派に対しての配慮はしてある? ん?」

 

 二つの沈黙があった。一つは作業をしていた彼ら彼女らがこちらに降り向くまでの数秒間という短い沈黙で、もう一つはその後に続く完全な無視に起因するものだった。

 手を降ろし、なんとはなしに大股で刀の柄をカチャつかせながら車両の一つに近づいてみる。こちらに背を向けて荷台の下のタイヤをいじくり回している中年がらみの作業服の脇に立ち、車体にもたれ掛かりながらぼやいてみせた。

 

「時々そこに積まれてるようなパラボラ・アンテナが羨ましくなるよ。彼女の聞き上手なことと言ったらどうだろう? 手続きさえ踏めば、少なくとも確実にボクの言葉すらも聞いてくれるはずだよ。死の如く押し黙ったままね」

「…………」

「で、こっちは独り言なんだけど──さっきドクターから聞いたんだ。素敵な仲間が一人ほど増えるってね。下で待たせてあるって話だったっけなぁ。もしその──ヒトのことをすこーしでも教えてくれるならボクの興味はそっちに移るだろうし、ここを立ち去りたくもなるんだろうけどなぁ」

 

 一瞬の沈黙の後、彼は低い声で「ジャッキの側から脚を退けてください」とだけ言い、手に持っていたスパナで右斜め後方を指した。

 立ち位置を十数センチ横にスライドしつつスパナの指す先を見ると、数十メートル先、エレベーターの扉(当然ボクの利用したものとは別だ)の前に立つ二人の人影が見えた。一人は白衣を着た医療部のニンゲン、もう一人は──黒っぽい服の女、ウルサス人か? 

 

「ありがとう。よい休暇を」

 

 手を振って車両の側を離れる。

 エレベーターの前で会話しているらしい二人に近づくにつれ、その容貌がはっきりしてきた。白衣の方は年配のリーベリ人女性で、医療部の──心療とやらをやっている部署にいたはずだ。ロドスに滞在するようになってから何度か顔を合わせたことがある。最後に会った時は確か心理テストの席上で、複雑な形をしたシミがプリントされている紙を見せられ「これは何に見えるか?」と訊いてきたんだったかな。

 何と答えたのかって? それは──ほら、彼女がボクに気づいた途端露骨に嫌な顔をして会話を切り上げ、そそくさとエレベーターの中に消えたことからも明らかだろう。

 

 かくして扉の前には、黒っぽい服を着たウルサス人の女が一人残された。ボクはエレベーターの去った天井の方を見上げながら彼女に近づいた。

 

「彼女……名前はなんだったかな。まあいいや。あの顔を見ていると、何故だか投影法の心理テストによく使われる黒いシミを思い出すよ。キミは──」

 

 そこで初めてボクは彼女を観察してみる。まだ年若いようだ。ガッコウに通っていてもおかしくはないくらい……髪は濃いグレー、瞳は暗いワインレッド。肌には血の気……というより生気が薄く、こちらを不思議そうに見上げる目元には薄く隈が浮かんでいた。体つきこそ豊かだったが、裾や襟から覗く手首や首筋などは青白く華奢で、とても健康とは言い難い、虚弱と衰退の印象を受ける。

 

「──キミはあの顔を見て何を思い起こす?」

 

 ボクは自分の首筋を撫でていた。そうしていないと、不審げにこちらを窺っている少女の首へ手を伸ばして、その脈に触れたいという衝動が膨らみ続けるような気がしていた。

 

「……あなたは?」

 

 ぴしゃっと首筋を叩いて。

 

「ああ、ごめんね。ボクはラップランド。向こうに見えるキャラバンの御守りを仰せつかってね。出立までやることもないから退屈してたんだ──さて、キミは?」

「……コードネームはアブサント。あの、直前に無理を言ってごめんなさい。ここに来てからはまだ日が浅くって──迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、よろしく」

 

 そう言って軽く会釈する少女──アブサントに、ボクは精一杯の自制心でもって微笑みかけた。

 水が呑みたい。

 

「……いや、いや、お互い様さ。ドクターや他の医者たちはよく、ラップランドは剣を振る以外に能のない患者だと言う。けれどそう思われたって仕方ないくらいには、ボクの経験も足りていないんだからね。たとえば、スポーツとか音楽とか、料理についての経験は特に」

「そう、なの?」

「だから気負う必要はないよ。ボクは長年に渡り様々な分野において欠落していて、キミはまだ……ああ、そういえば」

 

 彼女の容姿、というか年齢と今回のロドスを取り巻く状況にはやや齟齬がある。そう、ドクターが言っていたじゃないか。次のシエスタ行きは「若者たちのための息抜きだ」って。

 

「キミくらいの年の子だったら、浜辺のバカンスもそう悪いものじゃないと思うんだけど──シエスタ行きは嫌なのかい?」

「ううん、別に」

 

 アブサントと名乗る少女は即座に否定してみせる。眉間に寄った僅かな皺、一瞬硬直した背筋、呼吸の深さ。

 ボクはそういうの(防衛反応)も好きだよ。

 

「さっきも言ったけど、私はオペレーター活動をするようになってからまだ日が浅い。休暇なんていらない、早く色んな仕事を覚えたい、ってドクターに言ったら、この調査隊を紹介してくれたの」

「立派な心がけだね」

 

 ボクは本心から言った。彼女の腰や肩掛けのベルトから分厚く丈夫そうなポーチが提っており、腰のホルスターにはよく手入れされていることが一目で判る回転弾倉式の銃──を模したアーツ出力ユニットが刺さっている。

 ウルサス人。学生くずれ。この向上心。そして静かでひた向きな性根の窺える口調。たおやかというよりは弱々しい、しかし徐々に盛り返しつつある途上のような生気。

 ああ、そう、なるほど。ずいぶん掴めてきたかもしれない。

 立派な心がけだね。

 

「……ともかく、歓迎するよ。といってもボクには何の権限もないから、隊長や学者連にも紹介しなきゃいけないんだろうね──おや? 噂をすれば、というやつか」

 

 その時ひときわ大きな金属音がして、ボクたちはその発生源に振り返らざるを得なくなった。ジープの車列にほど近い壁のケージがガラガラと開き、中からかなり多数のコンテナと、防水シートに包まれた何らかの機材を積んだ台車が進み出てきた。どうも金属音は貨物用リフトが到着した際のものだったらしい。

 数台の台車の後かひょこっと出てくる二つの影。メイヤーとマゼランだ。

 

「上面のタグに車両番号が振ってあるから、対応する車両へ積み込みの方お願いします! みんな、よろしくー!」

 

 メイヤーのよく通る声に従い、車列の周囲にいた作業着たちがのろのろと積み込み作業にかかる。背を丸めたミーボが次々とコンテナに収まり、衣類やテントとおぼしい長包みが無造作に荷台へ投げ込まれ、マゼランのドローンが誤作動を起こして天井まで飛び立ち、混乱の最中に作業着の一人が収容待ちのミーボにつまづいてスッ転び、作業は実に順調な進行を見せていた。

 

「……あれ、手伝いに行った方がいいんじゃ」

「どうかな。キミはあそこの──角刈りのペッローがどうやってあんな速さで荷台へ荷物を結わえ付けているか解る?」

「ん……? ごめんなさい。そもそも見えない」

「あれはウルサス最西部の川で漁をしている銛師が好んで使う結びなんだ。彼がそこ出身かどうかは微妙なとこだけど。習得するにも少し時間がかかると思うし、他の連中が固定作業を彼に一任しているところを見ると、今さら一人二人増えたところで邪魔になるだけなんだろう」

「そ、そう」

「他の流れを見ても、ノウハウのないボクたちが加わって加速するかどうかはかなり怪しいね。すげ替えるとすれば指示を出しているあのメイヤーくらいかな」

 

 メイヤーは頭の回転が速く、実に合理的で分かりやすい指示を出す能力を持っている。人柄も明るく嫌味がない。

 が、なんだろうね。それでも開発部のスタッフの間で、彼女の評判がよろしくないという話は本当なんだろうと作業着たちの動きを見て思ったよ。

 アブサントはしばらく黙って積み込み作業を見守っていたが、やがてぽつりと言った。

 

「人の上に立つのって大変なんだね」

「単純に能力が高い、高すぎるというのも苦労するといういい実例だろう。こういう時、もう一枚上に立つべきはもっとこう、嫌に人の気持ちをコントロールするのが上手い輩とか、恐怖政治を敷けるような──」

 

 ちょうどその時車両群にほど近いエレベーターの扉が開き、真っ白な長髪をたなびかせた黒いコートの女が入場してきた。お待ちかねのワルファリン医師だ。

 医師は手を叩きながら作業場に接近し、

 

「おいお主ら、何をちんたらやっておるか。あと二十分もすれば妾たちは発たねばならんのだぞ。ぱっぱと動かんか! ……さもなくば楽しいシエスタ休暇前にお主らの血液を徴収することになるぞ。許容量いっぱいまでな」

 

 見る間にも作業の速度が向上した。荷物は丁寧に素早く積み込まれ、固定され、各車両の点検が行われ、ミーボは全て箱に収まり、マゼランのドローンは降下した。

 

「──ご立派なヒトでないとね。じゃあ、行こうか。見学くらいなら許されるだろう」

 

 ボクはまごついているアブサントを尻目に歩き出した。数歩遅れてついてくる足音が聞こえる。都合のいいことに、彼女は赤の他人と並んで歩こうという積極的な交流姿勢を持つ気はないらしい。

 運が良ければ、彼女のことを紐解く機会も訪れるだろう。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 五台の車両に必要な物資が積載され、いよいよ出発という段になった。

 アブサントをメイヤーたちに引き合わせると、マゼランもメイヤーも嫌な顔一つせず彼女を歓迎した。マゼランなどは握手した手をぶんぶん振ってアブサントを大いに困惑させたほどだ。なんでも、休暇を蹴ってまで未知の事柄に挑戦し、新たな技術をも身に付けたいという姿勢を評価したらしい。

 

「今どきこんな立派な子なかなかいないよ? あたし、たまにロドスが預かってる子供たちのところへ地理とか数学教えに行くけど、だーれも工学の特に面倒な部分とか、測量には興味ないみたいなんだよね……お医者さんとか戦闘オペレーターもそれはそれで立派だと思うけど、あたしの見てるような極地の夢を少しは理解してもらいたいーっていうのは傲慢かなぁ」

「……今の私に出来ることは少ないかもしれない。進む方向だってまだ定かじゃないから……でも、だからこそ技能は増やしておきたくって」

「うんうん、感心感心。向こうについたら、探索のたの字からしっかり教えてあげるからね!」

 

 どうやらボクは彼女の面倒を見ずに済むようだ。それでいて探索中、調査隊の「安全」はボクの手中にあるというのだから、見方を変えればこの旅も中々悪くはないのかもしれない。

 なおも弾んでいるマゼランとアブサントの会話を後ろに聞きつつ、車列の先頭に位置するジープの運転席を覗き込む。メイヤーは先程からそこで何やら書き物をしていて、鉛筆の走る音が車内にぎっしりと籠っていた。

 

「隊長どの?」

「うわ! ……あーびっくりした。なぁに?」

 

 ちょっと顔を近づけすぎただろうか。ボクは助手席の半ばから身体を引いて車外に出た。

 

「失敬失敬。いやね、クルマは五台もあるけれど、一体誰が運転するんだい? まさかあの娘にもハンドルを握らせるつもり?」

「あぁ、いやいやそんなことないってば。後ろ四台はオートパイロットだよ。このジープだけ私が運転するの」

 

 チラッと後続に停まっている四台を見てみる。ジープがもう一台、コンテナを背負ったトラックが二台、最後にホロつきのトラックが一台。

 

「じゃ、ボクは一番後ろの荷台を借りようかな」

ガード(護衛)的に背後への備えね。んー、ありがたいけどオススメはできないかな。荷台だと十分に身体を固定できるものがないから、荒地を走ってる間あちこちに身体をぶつけることになるよ? それか、ミイラみたいなぐるぐる巻。運転席にしなよ。視界ならミラーとモニターがついてるし、なによりふかふかのシートとベルトつき」

 

 なに構うものか、とせせら笑いかけてやめておく。メイヤーの提案の方が合理的だし、理屈を抜きにしても今のボクはさほど自分を罰したい気分でもない。立場上は、荷台の隅で振動に打ちのめされながら犬ッころのように丸まっているのがお似合いなんだろうがね。ボクたちの昔を思い出すよ。

 

「では遠慮なく──何かまだ、ボクに手伝えることはないかい」

「んー、大丈夫。君は万が一の切り札であって、作業員じゃないからね。あ、そうだ。暇だったらカーステレオとかナビのモニター使いなよ。出発してもしばらくはロドスの艦内放送くらい拾えるし、現地ではシエスタの放送も視聴できると思う」

「検討しよう」

 

 ジープから離れて車列の最後尾へ向かう。途中、四台目にあるトラックの陰から出てきたワルファリン医師と鉢合わせした。

 

「……何か?」

「いや」

 

 老獪なブラッドルードは実にわざとらしくボクから目を反らし、片手でコンテナの扉をロックした。

 

「お主の健康状態には留意するようケルシーから釘を刺されている。あまり妾の手数を増やすような真似はしてくれるなよ──事実、積んだ医薬品の三分の一がお主のためのものだ」

「それなりに長いこと──貴方ほどではないでしょうがね──健康に関する仕事に携わってきましたが、断頭台の比喩がいつ訪れるかなんて予測できたこともありません。アハ、確約はしかねますよ」

「ふん。その口が叩けるなら簡単にくたばりはしないだろうが……此度はそうでないとしても、いずれロドス・アイランドの存在はお主の死になりうるかもしれんぞ」

「そう、『ボクの日』はまだ先です。その日はきっと満月の頃合いで、紙タバコの火も失せるほどの雨が明け方の路地裏に降っているでしょうから」

 

 ボクはポケットから例のヘッドセットを取り出し、イヤーモニターを耳朶に挟み込んだ。この話はそろそろおしまいにした方がお互いのためだ。

 

「先生に従いましょう。タブレットに溢れんばかりの錠剤を飲んで、健康的な生活を」

「つまらん奴だ。……夜更かしもほどほどにしろよ」

「お互いにね」

 

 するとこの医師は踵を鳴らしながら「阿呆! 妾の夜行性は種族上の特性であって不摂生ではないわ!」と、先ほどまでの加減をかなぐり捨てて年端も行かない娘御のようにむくれ始めたので、ボクはカラカラわざとらしく笑いつつも、さっさと退散することにした。中型とみえるトラックの運転席へ登り、ドアを閉めてしまえば誰の声も聴こえない。

 

 車内は薄暗く、シートやドアの内側に使われている合成樹脂に特有の、胸の悪くなるような重たいニオイが微かに漂っていた。それよりも──誰かここで数日内にフライドポテトを食べたね? 興味が湧かないだけで忌避すべきニオイではないが、これを麗し日々の友とすることを是とする世界ならば今頃焼肉の香りを封じ込めた香水が大流行していることだろう。

 ああ、吐いたため息さえいずれはその臭気の一部だ。ボクは数十秒車内を見回し、ようやく発見したエンジンスイッチ(この手のクルマには乗らないものでね)を捻った。空調が目当てだったが、それ以外にも成果はあった。カーステレオのスピーカーから音声が流れ出したのだ。

 

【……へ、第二格納庫から制御中枢へ、こちら『回収隊』のMayer。要件は送付したコードの通りです。そちらの準備が整い次第、ハッチの開放をお願いします。オーバー】

【こちら制御中枢臨時預かり中のクロージャだよん。了解Mayer。本船は既に減速段階に入っており、320秒後には停船シークエンスが完了します。ハッチ開放とタラップ展開にはもうちょい掛かりそうだから、気長に待っといてね。オーバー】

【こちらMayer。ありがと。シエスタ土産よろしくね!】

 

 どうやら勝手に近辺の無線通信を受信しているらしい。しかし、あと五分か! ボクは半ば投げ遣りな心持ちで適当にダイヤルを回し、その時々で流れ出る言葉の数を受け止めてみた。

 

【──三十一分、四十秒をお知らせします】

【『きょーのゲストは~ハイ! 戦場カメラマンとして有名な『シーン』さんです! お越しいただいてありがとう! シーンさん、カシャのラジオルームへようこそ!』「よ──ーろ──ーし──……】

【──ンジフロア清掃、完了しました。もうフケても大丈夫っすか。ラジオ始まっちゃうんで】

【お土産何がいい? 食べも──】

【さあ頑張るぞクリちゃん! 内側からワサワサとハガネガニのピーちゃんも来る! しかし先頭は──】

【もしもしメランサ隊長ですか? こちらメイリィです。こないだケーちゃんに噛みちぎられちゃったやつの代わりに教官から新しいイヤホンもらったので、試しに連絡してみました! 今日のおやつはチョコビスケットです。メランサちゃんは何食べるの? どうぞ】

 

 ……ポケットにはメモリーカードが一枚入っている。ボクの大事な音ばかりが詰め込まれたフェイバリットだ。ステレオの端に見える挿入口にこれを入れるべきだろうか? 

 シートに深く身体を預け、ポケットから取り出したそれをフロントガラスの光にかざして見つめる。この耳障りな電波たちを潔く受けとることが、果たして代わり映えのしない脳内の哲学に何か変化を与えてくれるだろうか? 

 無線の呼び出し音が鳴った。光っているパネルスイッチを靴先で押す。

 

【メイヤーだよ。そろそろっぽいからベルト締めて準備しといて】

「了解リーダー。他のイカれたメンバーは?」

【マゼランなら私の隣(助手席)で寝てるよ。いや寝ちゃいないけど。アブサントとワルファリン先生は後部座席】

「そう。他に用は?」

【あー。純粋に興味から来る質問なんだけどいいかな」

「どうぞ」

【君、私物全然持ち込んでなかったみたいだけどいいの?】

「いいんだよ」

 

 昨日転入した新しい居室と、そこへいくらか運び込まれた私物を思い描こうとする試みは、途上で稚気によるささやかな抵抗に遭いストップした。他者の手によって再現(軽蔑)されたあの部屋とガジェットたちを、ボクは自分の帰る場所だとは思えなくなっていた。それに、

 

「このハサミの二刃さえあれば、ラップランドはいつでもハッピーなのさ」

 

 メイヤーがどんな反応を示したかは覚えていない。ボクは無線のスイッチを切って座席を更に奥へと倒し、ほとんど身を横たえた。メイヤーと、ついでにワルファリン医師との会話を思い出してシートベルトを締める。もし事故ったら──ボクの墓碑には「シートベルトとエアバッグに命を救われたループス、拾った命を決闘で無駄遣いした挙げ句犬死にしここに眠る」という一文が刻まれるだろう。

 もはや噛み殺す気すら起こらない欠伸がまろび出る。ひとりでに発進準備をスタートした車のエンジンが足元で振動するのを感じながら、ボクは目を閉じた。

 

 おやすみ、ラップランド。次に目を覚ますときはもっとスリリングな展開になっているといいね。

 

 

 









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第五話:来る・得る・思惟

おや、■へ入っちゃいけないったら。




「──他に、後ろのアレについて訊いておきたいことはないか? 妾の知る限りすべてを答えよう」

「……えっと、ロドスに来る前はそもそもあの人って何者だったの? 出自、というか」

「本人の宣うようにシラクーザの出なのはまず間違いないだろうが……あの地に奴の痕跡は存在しない。シラクーザが秘匿している領域について探れるだけの力を、未だロドスが持っておらんということでもあるのだが」

「……」

「いいか、これだけは気をつけておけよ。奴が我々の前で見せる振る舞いは全て仮面の上の出来事だと思え。奴の機嫌が良かろうと悪かろうと、それは世を忍ぶための面の皮でしかないのだ。疑うことも、信じることもならん。全て流動する虚飾だ」

「えー、それってあの子はすっごいシャイってこと?」

「マゼラン話聞いてた?」

「……いや、解釈はそれでも構わん。そう思っておいた方が奴を変に刺激せずに済むからな。まったく、人選ミスも甚だしいところだ」

 

 

 第五話:来る・得る・思惟

 

 

(夢の中でボクは白亜のビーチに立っている。これが夢なのは百も承知だ。なぜならボクはもう、夢と記憶の中でしか失敗をしないから。

 手には透明な浮き袋が一つある。曇り空の下にうごめく■は黒々として、とてもそこから生命の母が生まれたなどとは信じがたい、恐怖に満ちた潮を静かに湛えていた。

 長い長い時間、ボクは貝殻か、硝子瓶か、もしくは古びたブイのようなものを探して砂浜を歩いている。ここに来たのは失敗だった。

 

(浮き袋を持って波打ち際に行こう。今なら誰も見てやしないさ)

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

【シエスタの皆さん、こんばんは。時刻はたったいま十八時を回りました。さあ、フェスティバルの開催まであとわずかとなった今宵の──といってもまだまだ明るいようですがね──今宵のシエスタ・インフォ・ステーションは、放送時間を普段より三十分延長してお届けいたします。MCはわたくしD・J・シューテッド、ゲストはお馴染み────】

 

「……フェル先生」

 ボクは呟いて目を開いた。運転席の灰色の天井。車輪や燃焼機関の駆動する音と振動。空調のせいか、口の中が渇ききっている。

 夢の内容はぼんやりとながらも覚えていた。白い海辺、初めて見た景色だった。額の汗に手のひらをあてがい、口の端に伝う涎の跡を舐めながら考えてみる。シエスタのビーチに穴を掘って星の反対側に突き抜けたら、果たしてあの浜にたどり着くのだろうか。

 ……トラックは黒ずんだ荒野の中を進んでいるらしかった。ハンドルの向こうのメーターが示す速度は時速五十四キロ。

 外に薄く立ち込めているのは靄か? といってもさほどフロントガラスの視界は悪いというわけではなく、十数メートル先にはコンテナを積載して走っているトラックの背が見えているし、やや傾いた暮れの日差しに照らされて……背の低い灌木の群生や、風食と虫食いに晒された枯木、地衣類に覆われた岩場などを含む景色が左右を通りすぎていくのも見える。

 

【──まずは設営がほとんど終了しました第三ステージ『White Tiger』の様子をお伝えします。全ステージの中で最もビーチに近いこの半野外ステージは──】

 

 ふと気づいた……しかし、なぜステレオのスイッチが入っている? 確かにオフにしてから眠りについたはずだ。ボクはステレオ兼通信装置のコントロールパネルを指で叩いてDJを黙らせ(殺し)、ユーザ・インターフェースのホーム画面を呼び出した。

 自動操縦設定、ロドス管轄のナビゲーションシステム、AV機器設定などに通じるバナーの並んだ画面の上部を、その文字列は横切っていた。

 

【一件の不在着信があります:send from……LANDROVER-B-1 17分前】

 

 どうもこのおかげで機器の電源が入ったらしい。それにしても入電の後スリーブせずにラジオを垂れ流しにするとはなかなかお節介な奴だ。

 この識別番号は恐らくメイヤー達が乗っている先頭車両のものだろう……と、何の気なしにスクロール部分をタップすると即座にコール音が鳴り出した。待て。待てといったら。近頃の通信機器はみんなこうなのか? ボクは指で髪を漉き、口の端を拭って唾液を呑み込んだ。通信での会話というものはどうにも好きになれない。言葉の力を試すべき対象である水面が目の前にないというのに、どうやって自分の顔を見ればいいというんだい。

 余儀なく通信は開かれた。メイヤーのものらしい、機器を通して若干変質した声が「SOUND ONLY」の画面とともに現れる。

 

【はいはい、メイヤーだよ】

「……ああ、何か用だったかな」

【ううん、予定より早かったけどもうすぐ着くって言おうと思っただけ。もしかして寝てた?】

「人事部に出した履歴書にね、今までボクの寝込みを襲ったヒトの数を書いて渡せばよかったかもしれない。今になって後悔してるよ」

 

 半瞬だけ空白があった。

 

【あはは、君寝ててもすっごい切れそうだもんね。いや責めるつもりはないの。ごめんね。むしろゆっくりしてくれててよかった】

「ウカツもいいところ。そっちに何か変わったことは?」

【快調すぎてちょっと拍子抜けするくらいだよ。もっと悪路を予想してたんだけど。そういえばここってシエスタへの移動ルートとしてはわりと確立されてる主要道なんだよね。舗装こそされてないにしても、起伏もなくって路面状況もいい感じ。マゼラン寝ちゃったよ。そろそろ運転交代したいのに……まあいっか。もうすぐだし】

「他の面子は?」

先生(ブラッドさん)はなんかの治験レポート書いてる。アブサントは……ねー、アブサント?】

 

 スピーカーの向こうから小さくくぐもった声で「寝ておるぞ」と聴こえた。

 

「調査隊半壊だね」

【この大地にあるまじき平和っぷりだよ。じゃ、またね。着いたら色々手伝ってもらうかもしれないけどよろしくー】

 

 ほとんど口の中で「アイコピーリーダー」と呟いてボクは画面の通話終了キーを押した。一つ深い息をつき、サイドガラスから外を見やる。乳白色の夕暮れが野を木々を、黒い土を包み込んでいる様子が背後へとスクロールしていく。

 さて、どうしてボクはこんなところに来てしまったんだろうね。昨日から今までに起きた出来事の一つ一つを追っていけばここにたどり着くのは確かだ。それでも、論理的な正しさに導かれてあちこち連れ回されるのは愉快じゃない。夢路の隘路はあんなにも曲がりくねって魅力的だというのに、なぜ現実(ベルトコンベアー)には「始まり」と「終わり」しかないんだろう。

 こんな時にこそ欠伸をしてみたかったが、上手くいかなかった。膝を抱えてフロントガラスを睨め上げる。四台向こうの車両の中で、あの少女たちはどんな貌をして眠っているのだろうか。彼女らの首筋や顎のラインを思い浮かべながら自分の膝の皿をなぞっていると、身体の中に光っている源石がいっそう冷えてゆくようで少し面白い。

 ボクは空調のスイッチに手を伸ばした。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 道が緩やかな傾斜を帯びて弧を描き始めた。どうやら車列は小高い丘陵を渦巻くような軌道で登っているらしい。サイドガラスを通して丘の頂上の方角を望むと、黒っぽい灰のような質感の斜面が五、六十メートルほど続いている中にポツン、ポツンと、送電塔とおぼしい鉄のタワーが薄霧を貫いて立っていた。導線の続く先、斜面の上には四角い建造物らしきものもおぼろげに見える。

 ぞっとしないね、と呟いてみる。いかにも何かが起こりそうで、それでいて大したことは何もない、ただそこにある霧の予感だ。

 

 ボクは助手席を見た。いつそこに放り出したのか覚えていない二刀がシートの上にあった。ひっ掴んで腰のベルトに差し、運転席のドアを開けて外へ。

 何も投身してみようというわけじゃない。即座に運転席の天井の縁を掴んで身を持ち上げ、懸垂の要領で飛び上がっては車体の上に着地した。吹き付ける強い風が額の髪を掻き上げる。

 ギャグ漫画ならここでトンネルか看板が車体の上を掠めて、ボンネットにへばりついていた主人公は助かり悪役(ラップランド)の首がチョン切れてアクションシーンが終わるんだろうな、と思いながらボクはしばらく片膝を立てて天蓋の上に座っていた。左手の眼下には荒涼とした黒い荒れ地がどこまでも続き、右手の頭上には険しい斜面がそびえている。

 

「シエスタはどっちかな」

 天蓋を蹴って跳び立つ。久々に宙を舞った身体はボクの想像より少し重たかった。車内もロドスもエコノミー症候群の温床だ。飼い慣らされる前に血流を着地。大きな衝撃。跳躍。

 再び宙へ。黒い地と灰色の空が二度転回し、二刀の鍔が擦れてけたたましい音を立て着地。瞬間、血が身体の末端を縛りつけているかのように重たく感じられる。しかしエンジンが掛かるまで十七歩もあれば十分だ。

 ボクは山の斜面を跳びつ駆け登りつして上がっていった。時に手指で岩や立ち枯れた木の枝を掴んで身体を引き上げ、速度を維持する。普段ならこんな品のない走り方などしないけれど、悪役のループスとしてはどうしてもね。いつか赤ずきん(PRJEKT RED)ちゃんと追いかけっこをするときには役立つかもしれないから。

 坂も残りわずかだ。頂上に金網フェンスで囲まれた建物が見える。周囲の送電塔と導線はどうやらこの建物を起点に配置されているらしい。であれば、

 

【WARNING:高圧電流注意! 関係者以外立ち入り禁止! フェンスにも野生動物対策のため電流を流しています:WARNING】

 

 そんな看板がフェンスに結わえ付けられているのは当然だ。ここは変電所か発電所か、ともかくこの、あと数メートルに迫った、駆け登ると気持ちの良さそうなフェンスやその向こうに張り巡らされている鉄線に触れるのは得策ではなさそうな──ボクはスライディングの要領で急停止する。

 

 ところどころ錆びたフェンス。夏の夕暮れの生ぬるい風に揺られて警告看板が金属音を立てる。霧にじっとりと濡れたボクの肌……

 

「やれやれ、シエスタの反対側にはふさわしい場所みたいだ」

 

 肩をすくめてフェンス沿いに歩く。しばらく行くとこの施設の敷地内に入るための片開きのドアがあったが、(かんぬき)に三十センチほどのエステル製の紐が結わえられていて、その先にはやはりエステルの袋がぶら下がっている。つまみ上げて開封してみると、中から防水シートに包まれたカードと数枚の図面のようなものが出てきた。

 

【■■■■■■(トランスポーター登録番号C191184)よりこの発電施設を利用する方への連絡事項。1097年五月■日時点でこの発電所は稼働しておらず、従って村落のほとんどの施設は通電していないことを確認しています。村落の施設を利用する場合、■種以上の電気技師免許をお持ちの方は同封のマニュアルに従って発電機の再起動を──】

 

 カードにはそんなことが書いてあった。ボクは図面を折り畳んでポケットに仕舞い、ドアとフェンスを見上げた。ドアにはやはりご丁寧に【WARNING:高圧電流注意! 関係者以外立ち入り禁止! フェンスにも野生動物対策のため電流を流しています:WARNING】という例の看板が掲げられている。閂をちょっとつつくと、電流の衝撃の代わりに赤黒く汚らしい錆が指先に残った。

 

 ボクは腰の刀を抜いた。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

(CALL)

(CALL)

(CALL)

「──ボクだよ」

【あ、出た。ちょっとー、君どこにいるのさ? 着いたのになかなか出てこないと思ったらもぬけの殻なんだもん。まさかシエスタが魅力的に思えてきちゃった?】

「違うよ。アハハ」

【メイヤー調査隊の護衛担当オペレーターの名前は?】

ボク(ラップランド)だよ」

【はい、ラップランド隊員! 今どこにいるのか報告して!】

「そうだね……キミたちは今町の南側かな? 霧中の視界は厳しいけれど、ボクのいる場所からは車列のフォグランプらしいものが見える」

 

 浅い角度で霧を、薄暮を裂き、空へ伸びている光線の源をボクは見つめた。

 ここがどこかって? 例のフェンスに囲われた敷地の端に建っているコンクリート小屋の屋根の上だ。登ってみてわかったんだけれど、鉄塔なんかを除けばこの地点が村落で一番高い場所に位置しているようだ。

 

「どうやらここは発電所らしい。キミたちから見て右手の崖の上だ」

 

 眼下に広がっているのはのっぺりと平たい山の中腹にくりぬかれた窪地のような地形だ。大雑把な円形をしている外周の270°ほどはちょっとした崖で囲われていて、唯一麓に向かう南方は比較的緩い坂になっている。車載ライトの位置から察するに、メイヤーたちがいるのは南の坂、つまり窪地の入り口にあたる場所のようだ。ボクが立っているのは窪地の東の縁だね。

 

【今、車載の暗視モニターで探してる──あ、これかな? ちょっと手振ってみて……そうそう、それ足ね。うん。でも位置は分かった】

「何か役に立てることがあるかな? 簡潔に頼むよ……霧のせいで眺めはイマイチだし、それにコートが汚れていて不快なんだ。さっさと降りたい」

 ほとんど本心だ。

【あ、じゃあね、そこから工場みたいなものが見えたりする? 大きな道路とか鉄塔でもいいんだけど、とにかくランドマークの類い】

 

 誂え向きのものがある。窪地の中央に敷設された工場の灰色の屋根と、そこから突き出す三本の煙突のような構造物だ。工場自体の敷地は百メートル四方ほどの中規模なものだが、俯瞰してみると村落全体がこの工場を中心に造られていることが判る。工場の敷地の四方から伸びている四本の道路が主要道であり、その沿道に家々が建ち並ぶ……

 

「お目当ての建物ならここから見えるよ。工場だろう? キミたちの位置から真っ直ぐ五、六百メートルも北上すれば着くと思う。霧に隠れて一部は見えないけれど、道は工場から四方に真っ直ぐ延びているから、通りに出さえすれば迷うことはないはずだ」

【あー、了解。視界悪すぎてここからだとよくわかんないんだよね──マゼラン、左折して通り沿いに行けばいいみたい──】

「……ボクからの報告に興味あるかい?」

【え? ああうん、どうしたの?】

「発電機のマニュアルらしい紙片を回収したよ。ここの管理者じゃなく、ここを訪れたトランスポーターの置き書き。ちょっと読んでみたけどね、ボクでも動かせないことはなさそうだ」

 

 ポケットから、顔も知らないトランスポーターの某が遺していった紙束を取り出して広げる。稼働までの手順が箇条書きにされている上、手書きの絵まで添えてあるなかなかの力作だ。

 

【トランスポーター? IDとかわかる?】

「C191184」

【ほいほい。ちょっと待っててね】

「今から発電機を起こしてみる」

【……もう無駄だと思いつつも訊くんだけど。君、そっち方面の資格は?】

「ロドス艦内B級通行証、ラテラーノ公用語二級、菓子作り検定──」

【えーっと、電気技術者云々とか、第二種以上の源石機械取扱とかは?】

「二番目は免許証を持ってるよ。たしか」

 

 ボクはコートの前を開いて内ポケットをひっくり返した。レム・ビリトンで流通している硬貨が数枚、湿気た紙煙草の数本、U字型磁石などに混じって五、六枚のカードが出てくる。

 その中の一枚には確かに源石機械取扱免許と書いてあったが、有効期限は元の持ち主の名前や、カードそのものにへばり付いている赤茶けたシミの出所と同じくらい昔の日付だった。

 

「ああ、期限切れてる。まあいいさ、やってみるよ。(トランスポーター)の親切に報いるためにも」

【え?】

 

 メイヤーが通信機の向こうでまごついている間にレシーバーのスイッチをオフにしてやる。構わない、この施設にメイヤーかマゼランが来るのを待つよりは合理的で、ついでにヤケクソじみていていい選択だと自分でも思う。

 小屋の屋根から飛び降りる。すぐ目の前で錆の浮いた鉄の扉がボクを誘って佇立していた。錠前はとうの昔に朽ち……いや待て、これは誰かに工具で捻切られた後腐食したのかな? ……ともかく誰の侵入も阻もうとはしていない。

 ほら、物知らずの医者(Dr)が町を叩き起こしに行くよ。

 

 







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第六話:リブート



「良いも悪いも」とこぼしながらボクは懐中時計のゼンマイを巻いている。いつものことながら、大それたことをやってのけるだけの時間は残っていない。


 ドアを開けると、いかにも古く、カビの舞うような湿っぽい空気が内側から吹き出してきて鼻を衝く。ボクは数回目をしばたいてやり過ごした。

 さて、この小屋の中はほとんど真っ暗闇だ。デクみたいに戸口に突っ立って目をパチパチさせていたのはこの暗さに目を慣らすためでもあったんだけど、いかんせん扉の外だって霧のせいで暗いものだから埒は明かない。すぐそばの壁に電灯のスイッチらしいものは並んでいるが……切り替えても当然何も起こらない。

 

「在りし日の灯火は絶え、肋屋の梁にも雪の積もりつ……」

 

 不運にもポケットやポーチの中に灯りになるようなものは入っていなかった。こんな時にうってつけの方法をお見せしよう。デンチも寿命(アーツ)も使わないで済むよ。

 ボクは腰のモノを二つとも抜いた。なんだって今日はこんなにも本来の用途から外れた使い方が続くんだろうか。苛ついた気分のツケを求めようにも、この廃れた村落じゃ元は取れそうもない。

 左手に構えた刀の鎬に右手の刀の刃を当てがって、一気に擦り上げるように右手を薙ぎ払う。瞬間的に削られた鎬からは、(残念ながら以前この手を試した時よりずいぶんシケた)火花が散り、瞬く間ほどの閃きで室内を照らした──

 

 一回目。大まかに室内の構造が把握できた。床はせいぜい一辺七メートルほどの正方形、天井は三メートル上。剥き出しのコンクリートで形成された壁が分厚いのか、小屋の外観よりは少々小さく見える。ボクの立っている場所から右に三歩の地点に大きな箱のようなものが数個立ち並んでいたが、あれはなんだ? 

 二回目。箱は金属製のロッカーのような形状だ。表面は若干錆が浮いている他に特筆すべき点が──あった。どの箱の上部にも樹脂製のパネルがついていて、

 三回目。パネルにはスイッチやランプが突き出しているのが見える。この施設の装いを考えるに、お目当ての配電盤の類いに違いない。

 四回目……をかち合わせる前に、若干慣れてきた目とここまで焚いたフラッシュを合わせて、配電盤を弄れるだけの情報は十分得られたということにしておいた。コートのベルトに刀を納めて暗闇に目を凝らす。視野に現れた微かな輪郭を確かめて、一歩踏み出す。

 

 コツン……

 湿った音が耳に届いた。ハァ、床が(水たまりになっていないにしても)シケている。

 コツ……

 それに、入り口に立ったときには気づかなかったがやや息苦しいか? 長い間締め切っていた建屋の空気は淀む。致命的なまでに「薄くなる」ことも──ボクはサビの浮いた(酸化した)扉を思い出して、己のウカツさを少しだけ呪った。

 

 欠伸が一つまろびでた。ハハ、ラップランドは呑気なヤツだねえ。しかしこの調子ならちょっと気だるさを感じるくらいで済むだろう。

 コツン……

 三歩目。わずかに光る輪郭に手を伸ばすと、果たしてなめらかな感触に指が届いた。そのまま横に腕を動かすと、指がいくつかの突起の上を掠めていくのを感じる。

 ポケットから例のエステル袋を取り出して開け、中の紙片を確認する。暗闇の中に白く浮かび上がるマニュアルを見る限り、

 

「メイン・グリッド。このボックスの横にあるレバーを手前に引いて」

 

 棒状のものがが手に触れた。錆のざらついた感触に顔をしかめながら力を込める。耳障りな音を立ててレバーが倒れる。一瞬の後、どこからともなく建屋の空気を底から震わせるような唸りが……街の臓腑の鼓動が……低く、微かに聞こえ始めた。同時にボックスの左上のランプが汚れた赤い光をボクの目に投げかけた。

 

「機動音を確認、ランプ点灯を確認、配電盤の上列にある五つのスイッチをすべてオンに……」

 

 スイッチを一つ一つ押し込む。一、二、三、四、五。伴って、スイッチの上部に緑色のランプが点灯した。ボクを包む駆動音がよりいっそう大きくなる。

 

「続いて下列のスイッチをすべて……」

 

 上のスイッチは金属製だったがこちらは樹脂らしい。軽いパチパチという感触を楽しみながら押していく。一、二、三、四、五……六。

 

 …………六…………? 

 空気を伝う微かな振動がはっきりとした動揺に変わった。にわかに高くブゥゥン……という音がそれに続き、先ほど押したスイッチの下に並んでいたらしいランプがすべて点灯した。若干辺りが明るくなり、今や明瞭に浮かび上がる配電盤のディテールを眺めながらボクは今自分のしでかした仕事を訝っていた。

 

「メイングリッドへの送電を行うためにはスイッチを五つ押し、そしてその下に並んでいるもう一列のスイッチを入れる。間違っちゃいない」

 

 キカイを使うのは正直専門外なんだよね。仕事柄どうしてもバラす方法しか思い付かないもので……しかし、スイッチが二列に並んでいて、手順からしてもこの二列は上下で対応しているとおぼしいのにも関わらず、下段のスイッチの方が一つ多いのはどういうことだ? 何か引っかかる。

 顔を近づけて下段のスイッチをよく見ると、それぞれの上にラベルが貼ってある。黄ばんだ薄い樹脂の上に掠れたインクの手書きで、

 

【Central】

【North】

【East】

【West】

【South】

【Underground】

 

 と書いてあった。

 はて。こんな阿呆な表示があるものかね。表現せんとするところは大方わかるけれど、いったいこのスイッチは東西南北中央地下の「何」なんだい? 

 発電機械の駆動音は部屋を満たして低調に続いている。ボクの意図はともかく、この仕組み自体はうまくいっているようだ。しかし気に入らない。この一等アヤしい「Underground」のスイッチでもオフにしてみるかな? 

 

 スイッチに伸びかけた指先を制するように、不意に頭上から眩しい光の明滅が降ってきた。電灯だ。あーあ、いよいようまくいっている。まばたきを数回挟むと、黒の濃淡のみで表されていた部屋の様子が一気に明らかになる。何のことはない、くすんだ灰色の床壁に錆びかけたロッカーのような箱に納められた機械と計器の群。天井の四隅にはくまなくムシの手掛けた巣がレースのような糸細工を張っている。床はといえば、こちらはこちらで脚のやたら多い長ムシが光に悶えるような格好でのたうちながら機械の陰へと逃れていくのが見えたりする。

 ああ、シエスタ万歳。ラジカセ担いでビッグアリーナへ繰り出そう。

 手元の紙片に目をやる。残る記述の内容は発電機に不備が生じたときなど、予備電源への切り替え方やメンテナンスの方法についてのものらしい。まあ、何か間違っていれば丘の下で待っている本職に任せておけばいいさ。

 開けっ放しの扉から忍び込む霧の気配ににやつきながら、ボクの足はこの陰気な建屋の外へと向かっていた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

(CALL)

(CALL)

(CALL)

(CALL)

(CALL)

(CALL)

 

 ボクは気が長い方じゃない。これまでの人生をすべて待つことに捧げているから、些事に関して使える忍耐力のストックを持ち合わせていないんだろうね。

 

(CALL)

(CALL)

【はい、こちら……ええと『回収隊』一号車、アブサント】

 

『食糧品店のカウンターに立つ、たった今彼女にとって初めての来客を迎えた日雇いの女学生』そのものといった香りを漂わせる、冷えたトリニクみたいにこわばった声がイヤーモニターからやってきた。

 ボクの舌の上に心地よい痛痒の幻覚が乗る。

 

「──ラップランド。アブサント、調子はどう? 寒くはない?」

【寒──? いや、全然……あの、今誰もこのジープにいなくって。工場前に着いたから、三人とも外に出てるの】

「わかるよ、わかる。焦らなくてもいいから、隊長さんを呼んできてくれる? こっちの用は済んだんでね」

 

 待ってて、という言葉を最後にレシーバーの向こうから彼女の去る気配が感じられた。

 今しがた後にした建物の屋根をよじ登り、崖の下の霧海に見え隠れする町を改めて見下ろす。さて、我らがキャラバンの放つハイビームは……あった。アブサントの言った通り、窪地の中央近くまで進出しているようだ。

 

(待ってて)(あの、今誰もこのジープにいなくって)

 

 ああ、あの静かな、しかし何かに駆り立てられるような憔悴を含んだ声色は実に好ましい。かわいらしいとか麗しいとかではもちろんなくって、例えるならなんだろう? 遠くの空中にピンと張り詰めた綱を渡っている寂しい軽業師や、かつて誰かに愛でられた窓辺のドライフラワーを思い浮かべてしばらく悦に入った後、ボクは「野暮だな」と口に出して言ってみる。その瞬間レシーバーが耳障りな音を立て、通話口への来訪者を告げた。

 

【ハーイ、ラップラ──なんか言った?】

「うん? 何にも」

 

 存外早いご登場だ。そういえば今朝ラボで初めて会ったときだって、彼女は普通の人間の行動を一・五倍速で早回ししたような機敏さ・勤勉さを見せていたっけ。小動物の心臓の鼓動はボクたちのそれよりもずっと速いが、果たして。

 

「発電機は動いたよ。そっちに何か変化はあるかい」

【あ、やっぱりやっちゃった? まあいいけど。おかげで工場前の歩道んとこにちっちゃい……えーっと、電気の中継施設って言えばいいのかな。とにかくさっきそこにあったメーターを見たら電気来てたから、今はマゼランがこの地区に通電させようとして頑張ってるところ。ありがとね】

「どうも。合流するよ」

 

 適当に通信を切り上げる。やはり口振りからしてメイヤーはボクの持つキカイやデンキの知識を一切信用していなかったようだ。確かにソッチの学はあまりないけど、ラップランドはやろうと思えば10m先からだって君の持ってるようなドローンたちをバラバラにできるかもしれないよ。

 菓子作り検定合格者。バラバラにしたミーボやなにやらをもう一度組み立てて、メイヤーから工学のお墨付きをもらうお話を想像してみる。どう考えてもボクの仕事ではないような気がして、飽きっぽいボクはそれ以上イメージをこねくり回さずに屋根を蹴って霧の中に身を投げた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 崖を降りるとしばらくは黒ずんだ湿原が続くが、数十秒も駆けるうちに低い木柵が行く手を阻んでいるのに行き当たる。歩を緩めて近寄ってみると、柵の向こうには明らかに湿原のそれとは異なる質の黒土が続いていた。地衣類や雑草にまみれ、風雨に崩れなだらかになりつつある土の起伏がかつての農耕を語っている。

 数年前までヒトが住んでいたって言ってたっけ。しかしこの、柵の向こうに見渡す限り続く荒れた農地は、ヒトが持つ力と知恵の涙ぐましい痕跡からは相当離れた位置にあるように思えた。こうも霧が深いと思念が錆びるのも早いんだろうか。

 身を翻し、再び地面を強く蹴る。柵沿いに町の影へ、更なる文明の脱け殻に向かって走り出す。

 途中で駄獣が一頭、柵の向こうで黄色っぽい骨だけになって休んでいるのを見かけた。

 

 

 ◆◇◆◇◆

 

 唐突に霧の中へ(カラ)の街灯の立ち並ぶ石畳が現れ、土くれと石との境界線を跳び越えるとついにヒトの町が始まった。最初は三十メートルほどの間隔を置いて佇立していたデクノボウたちの間隔が、最初の家屋が見える頃には二十メートルほどに狭まり、フィラメントの透けて見える頭を垂れて延々と列を成している。

 ほどなく、およそくすんだレンガか味気ないモルタルの二択で造られた箱型のオウチが道の両側に並び始めた。街灯、街灯、箱、箱、その合間の路地、行き当たりは霧の中。画一化された町並みに時折混じる、小洒落た個性を主張するような建物(芝生の庭に二階建て、テラスと煙突つき、とか)に限って窓が破れていたり、手入れする者のいない植え込みがみっともなく往来に垂れ下がっていたりしていて滑稽だった。それらを横目に見つつ走りながらボクはふと、ひょっとするとこの町の住人は全員退屈で死んじゃったか、出て行くかしたのかもしれないと思った。

 気づけば髪や上着がすっかり濡れそぼっている。やれ、まったく。大通りはどこだろうね。こうもきっちり造られた町だと方角をトチることはないけれど……霧だ。それにこの家々家。はて、町に入ってからいくつ角を過ぎたかな? 似たような景色ばかりで数えていても仕方がな──

 

「ああ」

 

 左右に連なっていた家屋の群れが不意に消え、乳白色の海に放り出される。駆け足を止め、歩を緩め、両腕を広げてボクは辺りをぐるりと睥睨した。

 キの触れた浮浪人をイメージしながらフラフラの弧を描いて歩く。

 

 ヌルい霧の海へ徐々に浮かび上がっていく輪郭は、さっきまで走ってきた道に倍する幅を持つ大通り……両側に立ち並ぶ商店やアパート、民家の壁がずうっと霧の向こうに消えていって……軒先に吊り下げられた質屋、青果屋、肉屋、時計屋などの看板は無風にピクリとも動かず……街路樹は骨ばった枝に葉を付けず……

 もはや往来としての機能を為さない幽霊街道(ゴースト・ブゥルバード)に街灯だけが道の両端に等間隔で並び、立ち尽くしていた。

 見渡す限りの町の脱け殻に包み込まれていることを意識すると、ボクの身体を悪寒にも似た汚ならしい歓喜のようなものが通り抜けた。この広ぉい通りにズラと並んでいる建物の、どのドアや窓を蹴破っても叱られない。水道が生きてるなら、どこかのシンクの排水口に栓をして、家中が水浸しになるまで蛇口を開けっ放しにして眺めていてもいい。お気に入りの歌を口ずさみながら、あらゆる家具に自分のマークをつけて回っても、誰かが見ているわけじゃない。

 そういうのは最後に誰かに見つけてもらうから楽しいんだよ。ボツだ。

 

 その辺の霧を全部吸い込んでしまうくらいの勢いで息を吸って、それから吸った息の半分くらいを使って笑い声を出してみる。ア・ハハ・ハハ。なるようになるだろう。

 だいたいそんな「発散」の真似事は必要ないんだ。ボクは常に漏洩している。

 残りの息をふっと吐いて走り出す。大通りを北へ辿れば彼女らがボクを見つけてくれるだろう。

 

 

 







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第七話:せっせい






 

「メイヤーさん」

「うん? どしたの?」

「ヒューズボックスなんですけど。これだけ合いませんでした」

「ホントに? うーん、もう一つソケットの径落とせば行けるかな。いいよ、マゼランが持ってきてたパーツから適当に見繕ってやっとくから、アブサントはマゼランと先生(ワルファリンさん)と一緒にホテルにチェックインでもしといて。文字通り遠慮無しにね」

「待ちますから、これだけでも最後までやってしまいます」

「そう? じゃあ……」

「あ、ひとつ質問があるんですけど」

「ヒューズソケット150ボ……なぁに?」

「こういうの、全部壊れることってあるんですか? ほとんど交換しちゃったけど……」

「おバカさんが無茶やればね。落雷って感じじゃなさそうだし。テスターテスター……あった。わざとかどうかはわかんないけど、相当な電流流さないと一気に全部は飛ばないよ」

「はあ」

「うーん、工場の調査は明日になりそうだけど、楽しみになってきた! なんか訳アリっぽいんだよね」

「あれを見ただけで分かるんですか?」

「ふふ、勘。あとねー、霧。ちょっとワクワクしない?」

「…………」

「しないかー。あっ、彼女……来たかな? ──はいこれ最後のヒューズね」

 

 

 ─────────────────

第七話/せっせい

 

 

 

 心象の内側はいつでもボクの願った通りの霧中迷走だけれど、現実ではそうもいかない。町の南北を貫くこの大通りのど真ん中をただ走るだけで、目的地の工場がその偉容……と表現するには少々慎ましいスケールのシルエットを霧の中に浮かび上がらせた。道の行く手に工場を囲んでいるとおぼしい高さ三メートルほどの塀が立ちはだかっていて、鋼鉄製のゲートが──通りを来た者を工場の敷地へと迎え入れるような格好で──口を半分ほど開いていた。ほら、あの、地面に敷かれたレールの上をスライドするタイプの金柵。

 その門の横にトラックが三台並べて停車してあった。そのうちホロつきの一台(ああ、なんと健気な我が愛車じゃないかね、あれは)を背にして立っている人影がこちらにひらひらと手を振っている。近づくと、白濁した大気の中にあってもオレンジ色の上着が鮮やかだった。

 

「遅参遅参。悪いね。道草が青々としすぎてて」

 

 苦笑が二割ほどブレンドされた隊長(メイヤー)どのの笑顔。ラボで相伴にあずかったマグカップの中身が思い出される。

 

「いいのいいの、お疲れ様。でも、今度走行中のトラックから降車する時はちゃんとドア閉めてね。あと、資格のない人は家電製品の裏蓋を勝手に開けちゃダメ」

「帰ったらウチの冷蔵庫修理してくれるかい? ニクが凍らなくてね……」

「当ラボの有償パンフレットをご購入していただければ、他のどのお店よりもリーズナブルな料金プランをご用意しまーす……はい、状況説明していい?」

 

 パン、とメイヤーが手を打ち合わせたのでボクはちょっとにやつきながら一礼した。

 

「えーっと、現在時刻は十八時二十五分。予定より若干早く着いたね。日没までにはまだ三十分以上あるとは思うけど……」

 

 メイヤーは渋面を作った顔の横で手をもにゃもにゃ動かした。それが霧の不快さ、不便さを現すジェスチャーであることに気づくまでは数瞬を要してしまったが。

 

「余裕ってわけじゃなさそうだね」

「うん。君のおかげで今日やんないといけなかった工程──電力復旧ね──の一部が省けたけど、暗くなる前に片付けようと思うとちょっと忙しいかな。今、この区画に電気遠そうと頑張ってるとこなんだ。アブサントが」

 

 ボクはちょっと背伸びをしてトラックの向こう側に声を掛けてみた。

「器用だねぇ」

 返答の前に、今まで息を潜めていた「向こう側」から何かの工具を石畳の上に取り落とす音と靴の擦れる音が聞こえてきた。

 

「作業は言われた通りやってるだけで……正直、この機械がどうなってるかとかはよく分からないんだけど」

「ロドスの教練でも、まだ戦闘用アーツ出力ユニットのメンテナンスくらいしか教わってないんだって」

 

 メイヤーはトラックの荷台に上半身を突っ込みながら、防水ケースとおぼしい樹脂の箱に入っている何かをまさぐっていた。

 

「……今日のこの子たちの寝床はここかなぁ。──アブサント、どう?」

「ん、終わったと思います」

「じゃ、ラップランドをホテルまでつれてってあげてよ。後の諸々はこっちでやっとくから。街灯とか点くの楽しみにしといてね」

 

 鼻歌でジングルベル、ジングルベルとやってみるとなるほどメイヤーの視線がじっとりと冷たい。

 

「アハ、そういう日だってあるよね」

今日(真夏)じゃないことだけは確実かな。はいアブサント、このケーキ屋さんをここから引き離してちょうだいな──あ、ラップランド隊員は例のマニュアル持ってる? 発電所に置いてあったー、って言ってたやつ。一応手順として問題ないかどうかチェックするから」

 

 ボクがポッケをまさぐっている間に車体の陰から姿を見せたウルサスの少女の手には、ダボついた灰色の軍手が嵌められ、首には薄汚れたタオルが巻いてあった。こちらを遠慮がちに窺う血の気の薄い顔には汚れひとつないのを見てちょっと安心する。なんとなく、この子にオイルや煤の黒ずんだ汚れは似合わない気がする。野暮で。

 

「はい──こっち。といってもすぐ近くだけど」

 

 アブサントは上衣やストッキングをパタパタと手で払いながら、交差点を西へ歩きだした。ボクがやってきた方向から見ると左へ伸びる大通り、工場の敷地を囲む塀を右手に見ながら歩く形になる。ボクはメイヤーにクシャクシャの紙片を渡し、アブサントの後を追った。

 

「この町は好きになれそう?」

 

 水面へ適当な投石。鈍色の後頭部と丸っこい耳が一メートル先で微かに揺れている。ボクとさほど背は変わらないが──あの実に幸薄そうな肉付きの印象がもたらす先入観がそうさせるのか、彼女はかなり小柄に見えた。

 

「まだ何とも言えない。でも、ブリーフィングの時に想像してた感じよりもずっと霧が濃くて驚いたかも」

「ここが湿気てるおかげでシエスタはカラッと晴れるんだから、皆には感謝してもらわなきゃね」

「…………」

「特にジャージを着たサンクタなんかには。まったく、こっちは肺いっぱいの霧で溺れそうだというのに……で、陸地はどこ?」

「? ……ああ、もうすぐそこ。ほら、あそこにジープが停まってる」

 

 確かに道の反対側にジープが──半分歩道に乗り上げるようにして──停まっている。その陰からゆらりと人影が姿を現した。細ッこくて白っぽい幽鬼じみて、まさにこの不快な霧の中がお似合いのアレはワルファリン医師だろう。アブサントが小走りに駆け寄った。

 

「お疲れ様です」

「うむ、今しがた厨の水質調査が終わったところだ。飲用に十二分耐えるだろう。循環システムも問題なく働いている……地下水を汲んで使っているようでな。この町に上水道があったとしてもおそらく止まっておろうが、この建屋は水が使えるぞ」

 

 タイミングを見計らわず、ポケットに手を突っ込んでデタラメな口笛を吹きながら二人の側に歩いていく。すると首をもたげてこっちを見る先生の顔。通りすがりの酔漢がもたらした吐瀉物が靴に引っ掛かってもなかなかこんな顔はしないだろうけれど、そんなにボクのことが×? 

 

「電気も来てないのによく水が汲めましたね? 釣瓶に手押しポンプですか? ハハ──」

「……裏庭にある予備電源の発電機だ。単独ではそれこそ、この宿一軒分の水ライフラインを賄う程度がやっとだろうとマゼランが言うておったが。肝心な折に手元から消えるハサミなどよりは役に立つだろうな」

「お望み通りの高所作業(馬鹿)を終えて戻ってきたところでしてね。それより──」

 

 ボクは目の前に建つ四角い建造物を見上げた。赤煉瓦造り、四階建て、こちらから見える窓の数は各階六つずつ。前面がガラス張りのエントランスの上に灯らざるネオン管で綴られたタイトルは、

 

【Hotel Cigar-Kiss】

 

「──立ち話もなんですし、チェックインを済ませてしまわないとね。こんなに湿気た場所にいたら腐ってしまいそうだ」

 

 ハハと刻んだ笑い声はいつもに増して乾いて聞こえた。ラップランドに関して言えば、湿気で腐るよりも、むしろこのように干からびる心配を先にした方がいいのかもしれない。身体の中の水よりイシの方が多くなってしまったら大変だ。

 

「好きにしろ。妾はこのジープに用があって付き合えん。メイヤーはまだか?」

 

 この問いには医師の後ろの方でまごついていたアブサントが答えた。

 

「もうすぐこの区画の電力復旧が終わって、合流されるはずです。『あと一押しだから先に行って』と仰ってましたので」

「左様か。正直、荷解きや明日の準備なぞ()く終わらせて食事にしたいところだ。ケルシーのやつばらめが急かしたお陰で妾は昼を食べ損ねておるぞ」

 

 ブラッドルードの食事風景に対しイササカの興味もないというヒトが、果たしてこの大地に幾人存在しているだろうか。経験上、血液は戯れて摂取するものであって決して普段の飲用には向かない。ブラッドルードが迷信深い人々の間の怪奇譚に語られる通りの存在なら──女史の食生活が心配だ。

 エゴイズムに満ちたこだわりを一つ。誰であろうと関係なく、ボクの目の前で食事をするなら良い物を摂ってほしい。ロドスの怪しげな技術で作られた人工血液なんかを飲んでいたらどうしよう? 

 

「さて、どうするかな」

 

 吸血生物がジープの後部座席に乗り込んでドアを閉めたのを見計らって呟いてみる。この手のアピールに反応してくれるヒトなぞ(ロドスに限らず)とうにボクの周囲には存在しないが、今回は違う。どうやら少しは休暇の楽しみになりそうだ。

 

「……あ、どうする? 中、入ってみる?」

「他にないしね」

 

 ホテルのガラス製ドアはチョっと見慣れない形状のものだと思ったら、これは回転ドアだね。子供が喜びそうなやつ。そういえばむかーし、こういうドアでヘマやらかしたヒトがいたっけなぁ。かつてシラクーザのモールで夜勤をしていた時の話だ。だから今でもボクはこの類いのドアがあまり好きではない。

 仕切りの中に入ってドアを軽く押す。滑車の中の愛玩用オリジムシ(そんなモノがいるのかって? キミもロドスを訪ねてみるといい)の心持ちで歩き、ぐるりと一回転してまたドアの外に出てくるとアブサントの怪訝そうな顔が待っていた。

 

「失敬失敬、ちょっとボーッとしてたらどこから出ればいいのか分からなくなってね」

「はぁ……」

 

 さてさて、もう一回。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 エントランスホールには既に灯りが入っていた。といっても、低い天井に吊り下がっているちゃちな平たいシャンデリア型の照明のうちいくつかはバチッ、バチと瞬いて今にも光を絶やしそうだったし、さらに多くの数の照明はそもそも黙りこくっていた。

 

「ちょっと暗いかな……」

 

 傍らに立つアブサントが腰のホルスターから懐中電灯を抜いて、照明の届かないホールの細部を照らしていった。建物の外観から察してはいたがさほど広くはない。入り口から見て右に受付らしいブース、左手には小さな円形のテーブルが七、八置かれたカフェテリアらしい空間。正面にエレベーターのドア。その横に階段口。下りの階段もある。

 細かい調度品や室内の若干荒れた様子──カフェテリアの一角に乱雑に積み上げられた椅子や埃っぽい絨毯とか、立ち枯れた観葉植物の鉢とかね──についてじっくり見るのは後にするとして、これらの要素がおおよそ二十メートル四方(奥行きはもう少し浅い気がする)の空間に収まっているようだ。

 総じてホールは往時に誇っていたであろう体裁をほとんど保っているように思えた。照明を換えて隅から隅までハタキやホウキを入れ、白シャツに黒いベストのスタッフたちがくるくる回転しているさまを思い浮かべるだけで完璧だ。逆に言うなら、それらが欠けているだけでこの場所の虚しさや悲しさは「廃墟」と呼ぶに相応しいステージにまで上がっていた。

 

「趣深い場所だね」

 

 これは九割本気で言ったけど、アブサントからは数拍ほど置いて「そうかも」と気のない返答があるだけ。横目で窺うと、彼女は入館前と比べて数段冷めた表情であたりを睥睨していた。

 

「マゼランさんを探さないと」

 

 それってあの極地リーベリの名前だっけ? とわざとらしく訊き返そうとしたちょうどその時、正面の階段口からパタパタと軽い足音が聞こえてきた。下りの階段から姿を現したのはいかにもマゼランその人の円筒形的フォルムだ。口を滑らせなくてよかった。

 

「おー。二人ともお疲れさま」

 

 この「おー」が実に極地リーベリ(ペンギン)なんだよね。

 ボクが薄めの笑みを噛み殺している間に、マゼランはホテルのライフラインを正常化した旨を伝えてくれた。

 

「まあメイヤーちゃんの作業がもうすぐ終わりそうだし、電気については折を見てそっちに切り替えていいかなとは思ってる。どのみち、裏のちっちゃい源石発電機じゃ客室の空調とか家電までは賄えないっぽいね。一階と地下階の厨房が精一杯」

 

 背後の屋外から微かにジープのドアの開閉音がした。

 

「本当に非常電源なんですね」とアブサント。

「そういうこと。あ、お水使うときは気を付けてね。一応どの部屋でも蛇口捻れば出るようにはなってるけど、最初は錆や水垢が出てくるから」

「浄水器は通しているが、シエスタの活火山の影響か若干硫黄が強い。そのまま口に入れん方が賢明かもしれんな」

 

 唐突と言えば唐突に会話に加わった声に、先ほどの気配に全く気づいていなかったらしいリーベリとウルサスの少女二人が同時に肩を跳ね上げて驚きを示したので、ボクはいよいよ笑みを噛んで噛んで噛み倒した。ゆっくりと振り返ると、ワルファリン女史が入口前の絨毯の上にしゃがみ込んで、指先についた埃を眺めるような仕草をしている。小姑かな。

 

「計器は源石汚染の兆候を示さなかったとはいえ、差し置いても不衛生だな。客室はまともだとよいが。特に妾の部屋は──」

 

 その時、半端に薄暗かった室内に鮮やかなオレンジ色の光が射し込み、女史の残した語尾はちょっとした悲鳴に変わった。何かと思ったら、通りの街灯が点いたんだね。ボク自身の網膜にも光斑がちらついている。

 ややあって舌打ちの音が響き、ワルファリン女史はこめかみを指で抑えながら立ち上がった。奇談に語られるブラッドルードのように肌から煙でも上げてくれれば面白かったけれど、その表情には不快さ以上のものは浮かんでいない。

 

「……裏手を所望する。これ(街灯)が見えんようにな」

「そうしたら窓が南向きになっちゃうけど」

 

 マゼランの言葉に女史は「……食事にするぞ」とだけ返してボクたちの側を通り抜け、地下へと続く階段を降りていった。

 

「シエスタ行きを蹴るわけだねぇ」

 

 そう言ってみると、マゼランは微妙な顔をしてボクを見た。

 

「んー、もちろん個人差はあると思うけど、別にブラッドルードは強い光が弱点ってわけじゃないよ。せいぜい日焼けしやすいー、とか眩しいのが苦手ー、とかその程度に留まるんだってさ」

「なんだ面白くないなぁ」

「私に言わせれば、君も先生と同じくらい顔色よくないよ。ちゃんと食べてる?」

 

 脳で文字に起こすと嫌みッたらしいセリフだったが、表情や口調からはこのリーベリが善意にまみれた舌で話していることは容易にわかる。ボクは抜かれた毒気が鼻あたりから中空に漏れ出してゆくのを見送りながら笑った。

 

「むしろ食べすぎるとこうなるのさ。摂生摂生──さて、ボクたちも降りようよ。オナカ空いてきちゃった。アハ……」

 

 

 








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第八話:ループス・ルーピング・オポジション







 

 

 

 

 アハハ。フフ。

 

 ドクター。

 ドクター。

 

 キミ、今少しだけ、エスカレーターから降りるタイミングを躊躇したでしょ。遅すぎたらクツ挟まれやしないか、早すぎたら跳び降りたような格好になって、みっともなく見えたりしないかって、少しだけ考えたよね。

 それから……そう、回転ドア。

 くるくる回るあれを通り抜けるキミの姿を想像して、ちょっと可笑しくなったんだ。あれもタイミングが大事だよね。

 むかし、ある夜更けに、ショッピングモールの守衛()断って、エントランスホールに続く回転ドアでグルグル遊ばせてもらったんだ。最初は自分がつまらない万華鏡にでもなったみたいで、とっても面白かったんだけど。

 ずっとずっとシリンダーの中をグルグルグルグル回っていたら、遠心力で分離してしまったんだよ。分離してしまったら最後──わかると思うんだけど──どっちがどっちだかわからなくなってしまうよね。それで、ドアの中から出ようにも出られない。もう必死になってグルグルグルグルグルグルグルグル回って、

 

ついにねぇ。

 

なっちゃったんだぁ。アハハハハハ。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 地下厨房というのは天井の高い灰色タイル張りの部屋で、ステンレス製らしい調理台が二列、部屋の端から端まで並列しているありきたりな内装だった。天井から釣り下がるラックに引っ掛けられた鍋や匙や杓子やらが、やたらギラギラした白色の蛍光灯に照らされて鈍い輝きを放っている。

 入り口近くの段ボール箱に顔を突っ込んでいるワルファリン女史の側を通り抜け、調理台の周囲を歩いて回ってみる。ここはエントランス程には汚れていない、というより清潔にさえ思えた。調理台は鏡のよう……とまでいかなくとも顔がはっきり映り込むぐらいに磨きあげられたままだったし、床にも目立った汚れはない。階段とこの部屋を隔てる両開きの扉は、エントランスの回転ドアに比べるとずいぶん勤勉に働いていたようだった。

 その扉がぱかんと開いて、大きなボール箱を抱えたアブサントとマゼランが入ってきた。手近な調理台へ乗せられていく箱の中身を覗いてみると、半透明な樹脂製の袋や大振りのブリキ缶がぎっしり詰まっていた。

 

「なに食べる? 食品開発やってる部屋に譲ってもらったトライアル品から食堂でお馴染みのメニューまで、だいたい何でもあるみたいだよ」

 

 そう言いながら黄色いラベルの缶詰を二つほど手に取っている。側まで寄ってきたワルファリン女史がそれを見るなり引き攣り気味の渋面を作って「屋外で開けろ」と釘を刺した。

 

「少し前に、あー……『それ』を休憩室で開けたうちの阿呆がスプリンクラーを誤作動させて始末書沙汰になった覚えがあるのだが──」

「そっか、ちょっと癖強いよね。大丈夫、そこの換気ダクトの下で開けるよ」

 

 などと恐ろしいことを言いながらペンギン副隊長どののコートのポケットから缶切りが登場したところで扉が再度開き、メイヤーが勢いよく入室してきた。

 

「みんなお疲れー! あ、マゼランそれ明日のお昼にしようね」

 

 早足でボクたちの間に割り込んだ彼女の手によって缶はつつがなく箱に帰った。特に残念がるでもなく「じゃ、このライ麦パンでサンドイッチにして持ってこうかな?」とまた箱を漁り始めたマゼランを横目で見ながら、どうやらメイヤーはボクに向き直ったようだ。

 

「言い忘れてたけど、君の持ってきたメモに書いてあったトランスポーターIDと、ロドスがちょっと前にここへ派遣したトランスポーターのIDが一致したよ。メモの内容自体を読み返してもみたけど……まあつまり、信用できる内容ではあったね」

「ヒトを信じることにかけては一流でね」

「うーん、私もロドスに『石橋を叩いて割ったオペレーターがいました』って報告せずに済んだから感謝しなきゃなぁ──アブサントもご苦労さま。慣れないことさせちゃってごめんね」

「あ、いいえ。私から言い出したことですし」

 

 居心地悪そうにしているアブサントの手にはヒヨコ豆の缶が握られている。──しかし、ご苦労さま、ね。なんだか随分とボクには縁遠い言葉のように思える。口にしたことがあったかすら怪しいのはどういう訳なのかな。

 考えるまでもない、「おはよう」と「おやすみ」で十分だからだろう。

 ボクは仕事道具を調理台の側面に預けて自らも台の上に腰掛け、いつの間にか手に持っていた炭酸水のボトルを開封した。目の覚めるような音と共に食事が始まる。

 

 ◆◇◆◇◆

 

 畜獣肉、食塩、砂糖、加工澱粉、亜硝酸ナトリウム。

 脂肪のまだらに浮き上がった、缶入りの柔らかな肉塊を匙でつつきながら、この畜獣って何なんだろうね、と二メートル向かいでエネルギーバーを頬袋に貯めているメイヤーに訊いてみると、何を言ってるんだこいつはって感じの顔をされた。

 

「畜獣は畜獣でしょ。ロドスでは飼ってないけど」

「角のある四つ足の?」

「……それ、加熱剤ついてたと思うんだけど使った?」

 

 缶を裏から見ると、底面に半透明の小袋が貼り付いていた。

 

「んーまあ、あっためなくても大丈夫なはずだけど。再加熱してないベーコンとかソーセージって君は結構平気で食べられる感じ?」

 

 いくつか、というより無数に思うところはあったが言葉にはしなかった。「ァハハ」と笑ってみせたような気もする。昔の肉のことも含めてよく覚えていないというのが実情かな。角があって四つ足でェーァハハハハ。古生物が大陸を徘徊しているよ。

 

「食べてるうちにこの街の天気を思い出すような食感だね。ぬるくて、靴底か歯の裏にまとわりつくような。明日はまっとうなコンディションだと助かるな」

「ね。あぁ、マゼランの予報って精度かなり高いんだよ。気象観測ドローンの出来がいいから。マゼラーン、ラジオゾンデくんもう飛ばした?」

 

 メイヤーの声に応じて振り向いたマゼランの手元から「プシュッ」という音がして室内に緊張が走ったが、正体がジンジャーエールの樹脂ボトルの開封音であることが判明すると解けた。

 

「充電できてないからまだだよ。寝る前に残量見て飛ばすかどうか判断しようかなって」

「えーっチャージ忘れてたの?」

「それはそうなんだけど、使えそうな車載電源はいま全部ミーボが食ってるじゃん。何にしてもマゼラン・ウェザーリポートは明日のお昼くらいからね」

 

 メイヤーは肩をすくめた。

 

「──だって。大荒れにだけはならないことを祈るしかないね。たぶん屋内で完結する仕事だとは思うけど」

 

 と言っても屋内で済むのはボク以外の話だろう。おそらく明日からは哀れなループスが一匹、廃工場の屋根の上で存在しない標的を待つ姿が……それすら誰にも観察されないわけだ。小屋も飼い主も食べ物もないのに、果たして犬は犬足りえるのだろうかね。

 つくづく、今回の任務はボクを貶めている。形ばかりの警護なんて、それこそ形ばかりの行動隊か予備隊にでもやらせればいいんだ。今のところ身体のパーツの合計数くらいしかラップランドに勝っているところがない部隊でも、もう少し場数を踏めばマシになるだろう。

 

 そもそもこれは体のいい厄介払いであって任務ではないということから目を背けつつ、「目の数」の優位性について思考が流れていく途中で、ボクは忘れかけていた事柄に行き当たって口を開いた。

 

「そういえば、現地で合流するトランスポーターの話。あったよね」

 

「そういえばねー」と気のないメイヤーの返事。何? ボクの方から行かないとダメなのかな? はしゃいでいると思わせるのはそれなりに得意だが、今はそういう気分じゃない。

 

「いやなに、仕事は楽に越したことはないよね。そのヒトが腕利きならボクの目も少しは休まるんだから。何か知ってるかい?」

「んー、知らないコードネームだったよ。私がロドスじゃ新参寄りってのもあるかもしれないけど」

「プロファイルある?」

「あるよー」

 

 メイヤーはポケットからロドスのロゴが背面に入った小さなタブレットを取り出してパタパタ操作したかと思うと、ものの八秒でこちらに手渡してきた。

 

「はい。でも基本情報ページしか貰ってないよ」

「どうも」

「また女の人みたいだね。まーこんなにチャーミングなコばっかりのチームに今更男子放り込んでもその子がかわいそうか。あはは」

 

 カラカラと笑うメイヤーの音声をバックにして、ボクの目の前に或る女の肖像が映し出された。

 そいつは世の中のことなんかだいたい冷笑できるんだ、と言わんばかりのカッコウをした目と鼻と口元を白い卵型の輪郭で囲って、最後にジュベナイルな感性が描く夜明け前みたいな色をした長髪で飾り立てたツラのサンクタだった。光輪は黒ずんで──それで、ねぇ、そのキャプリニーの出来損ないみたいなツノは、あ、あ、アハハハ。一体何をしでかしたら生えてくるんだい。

 教えてくれないかな。ダメだろうな。

 

 コードネームの欄に踊るm─o─s─t─i─m─aの文字を確認したボクの口内では、今まで食べていた缶詰の肉がじゅるじゅるぶちぶちと腐敗を始めていた。さてはかの表面に蠕く黄白色の粒状感は蛆。

 

「知ってる人?」

「いいや、まったく」

 

 ダメだ、いよいよ降りたくなってきたよ。

 発作的な動きの演技でもってコートの内ポケットへ手を突っ込む。外ポケットに入っているモノたちと違って、ここに入っているものはそこそこ不変だ。冷たい円盤の感触を数秒間得て、今度はそっとポケットから手を抜く。

 

「どしたの? 忘れ物?」

「肋間神経痛」

「あー、あるよね」

「無いのにね」

「異常がないのに痛むの何なんだろうね……」

 

 少なくとも、このメイヤーという女が場にいる限りはボクの言葉が投げっぱなしのまま消えていくことはない。同じくらい口がよく回って、しかも忍耐強いリーベリの女もいる。からかう分には申し分ない口うるささを持つ妖怪もどき(ブラッドルードを本気で怒らせたら何が起こるのかについては、墓碑銘に載らない情報なので警戒する必要はある)もいるし、麗しのウルサスガール、頑張り屋さんだって今もこっちを窺っている。

 それなのに──青い髪のサンクタ、しかもペンギン急便の女だなんて! 

 

 よく知ってるとも。いいや、何も知らないね。ともかく今重要なのは彼女が何者なのかではない。

 想像してみてほしい。背の高い、青い髪に碧い目のサンクタだ。白シャツにモッズコートみたいなのがよく似合う。口元にはいつも薄ら笑いが浮かんでいて、頭上の光輪はたぶん五年はお掃除していないヨゴれっぷり。おまけにゴツゴツした角がこめかみにとぐろを巻いている。

 こんなヤツが面白い台詞を一つでも吐けると思うかい? 無理、無理、無理、無理に決まってるね。もう一度かのご尊顔を拝ませていただく。こんなツラに生まれついたら、きっとボクなら鏡を見るたびに吐き気を催してしまうだろう。水面を覗くたびに。水仙を。水洗を。おえ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おや、紙クズみたいに白い顔だね。目鼻のかたちに墨が走っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胃の上部あたりからとてつもなく熱いかたまりがボクを遡上して、ついには勢いよく口から飛び出して白い水面にまろび出た。この世で五番目くらいに下品な音と一緒に。

 さざ波のごとく何度か寄せては返した熱狂的嘔吐感が過ぎ去ったのを確認し、黄ばんだ陶器の冷たい椅子から顔を上げる。ラップランド、これは口から出るものを受け止めるために作られた製品じゃないよ。

 はて、ここはどこだろう。少なくとも厨房ではないのは確かだね。タイル。カーテン。洗面台。鏡。ハンガーラック。そして便座。三✕四✕二・五メートルの立方体の中にボクはいて、基調は白く照明は黄色い。

 要は何の変哲もないユニットバスだ。強いて言うなら各所に水垢の跡が目立つくらいで、廃ホテルのわりには取り立てて荒廃した様子もない。シャワーカーテンをめくって中を覗いてみる。

 

【寝る前に(これ)を呑むのだぞ】

 

 ワルファリン女史がそう言った。空っぽの浴槽の底を席巻する赤黒い汚れをしばし眺めているうちに、ボクは自分がそろそろ溺れるべきであることを思い出す。シャワーヘッドを掴んでノブを捻ると、これまた赤黒い水が浴槽の底めがけて噴き出した。三十秒もしないうちに水の色は水の色に戻り、ボクは自分がそもそも服を着ていないことに気づく。

 

【メイヤーちゃん、ラジオゾンデくん飛ばさないって選択肢ある?】

【んー、ない寄りのある】

【じゃあ二十分でいいから二号車の車載電源貸してよ。ここの電源、規格は合ってるけど給湯器と一緒に動かしたらたぶん落ちる。お風呂入れないよー】

 

「それを飛ばすところ、見せてくれない?」腿の内側で濡れて黒く光るイシをなぞりながらボクがそう訊くと、背後の洗面台の鏡からメイヤーの声で【明日は八時半に厨房で集合ね】と応えた。

 降り注ぐ水の一筋一筋を素肌に知覚し、谷という谷に指を滑り込ませていく。ロドスに就いてから毎日繰り返してきた所作で髪を梳き、溝や窪みを浚う。今のところこれ、これがボクの新しい人生の象徴だ。昨日までと全く同じ。なぞる度にもっとすり減って心地良いものになる。鼻の孔から水を流し込んでも、ヒトはそう簡単には溺れられない。気絶していれば話は別かもしれないけどね。ちょっと失礼。

 

【咳き込む音】

 

「うるさいな」

 洗面台の前に立つと、鏡の向こう側に無敵の女が佇んでいるのが見える。身体中に貼り付いた濡髪から肌の色まで白から黒へのグラデーションだ。

 

「けど、そんなに悪い一日じゃなかっただろう?」

 

 ソイツが咳の余韻に息も絶え絶えといった様子で呟くと、バスルームのそこら中から、あらゆる登場人物の声で

 

【おやすみ!!】

【おやすみ!!】

【おやすみ!!】

 

 その辺に放ってあった一振り(片割れ)を取り上げて、そっと鏡に突き立てる。微かに不快な金属の擦過音と共に、女の顔の鼻柱に細やかなヒビが入った。

 

 

 










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