Ankou°˖◝(⁰▿⁰)◜˖ 異世界をゆく (かまぼ子ロク助)
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第1話 アネサの迷宮

 アンコウは、いまアネサ()()の中にいた。

 魔獣狩(まじゅうが)りをするためだ。迷宮に潜って、今日で二日目、今回は5日間の予定で迷宮に入っている。

 

 同行するメンバーは、アンコウを含めて5人。これまでにも何度か一緒に迷宮に潜ったことのある顔見知りではあるが、友人ではない。あくまで狩りをするため、稼ぐための関係と割り切っている者ばかりである。

 

 現在地は地下迷宮の第三層、比較的ゆっくりとした降下スピードだ。

 アンコウたちの目的は、あくまで低階層で魔獣狩りを行い、魔石を手に入れ、金に換えること。むやみに深く潜るつもりはない。

 

 しかし浅い層といえども迷宮の中、魔素の漂う魔獣のすみかである。危険であることに変わりはない。

 

「アンコウ、ここまでは順調だな」

 

 このパーティーのリーダーであるダッジがアンコウに声をかけてきた。ダッジは見た目は30代前半、筋肉の鎧をまとったようなガッチリした体格の男である。

 

 二日目の狩りを終えて、アンコウたちは魔獣よけの魔具を置き、休憩をしていた。

 

「ああ、結構なことだ」

「おまえは、いいのか?」

 ダッジが岩場のほうをアゴで示しながら、アンコウに聞いた。

 

 メンバーの一人に獣人の女戦士がいる。この女戦士はダッジの奴隷だった。

 

 この獣人の女戦士以外のパーティーメンバーは全員男であり、岩場の向こうで代わる代わる獣人の女戦士を抱いていた。これは奴隷の所有者であるダッジが許可したことであり、初めからそういった目的もあって連れてきていた。

 

「ああ、おれはいい」

「相変わらずだな」

「そういうあんただって、抱かないだろ?あんたの奴隷なのにさ」

 アンコウがそう言うと、ダッジは声を出さずに笑っていた。

 

「これもおれのやり方だ。気に入らないか」

「いや。人は人、自分は自分。単に趣味の違いだ」

 

 アンコウは奴隷の獣人の女戦士に多少の同情はしていたが、ダッジや女戦士を抱いているパーティーメンバーの他の二人の男を非難するつもりはない。

 これはこの世界の道徳に反する行為には当たらず、ごく当たり前にあることだからだ。

 

 アンコウもこの世界に落ちてきて、もう5年目、自分の感覚も元の世界にいた頃の道徳観念とはあきらかに違うものになってしまっていた。

 

 アンコウはこの5日間の迷宮での魔獣狩りが終われば、まちがいなくアネサの町にある娼館に行くだろう。しかし迷宮の中でダッジが連れてきた奴隷を抱こうとは思わない。

 

 単に自分がこの状況で、そんな仲間にはなりたくないと思う趣味の問題なのだ。

 正直、迷宮の中に響く彼らの嬌声は気持ちのよいものではなかった。そんなことをする気にならない、それだけの話だった。

 

「確か、お前も元奴隷だったな」

「ああ。胸くそ悪いことにな。だけど、それとあんたが連れてきた奴隷を抱かないのとは関係ないぞ。おれはここで一稼ぎして、町の娼館に行くそれだけのことだ」

「聖人君子ってわけじゃないんだな」

 ダッジが下卑た笑いを浮かべながら言った。

 

「聖人君子だぁ、この腐れた世の中のどこにそんなもんがいるんだよ。おれは見たことないぜ」

「くっ、くっ。まったくだな」

 

 アンコウは元いた世界が美しく、すばらしい世界だと、そこにいたときには思ったこともなかったが、今いるこの世界とくらべれば、千倍マシな世界だったと今では思っている。

 

 そして今では自分もこの世界になじんで、以前よりも腐った人間になったと自覚している。そうならなければ、生きてこれなかった。

 この腐った世界で、清らかすぎる人間は食いものにされ、絶望のうちに死ぬしかない。

 

 この世界ではアンコウが元いた世界より人の命が軽い。人権など守ろうとする社会ではない。

 少なくとも、アンコウが知っている人権というレベルの感覚は、この世界に者にとっては夢物語でしかない。

 

 アンコウはこの世界に来て、一番初めに会った人間の手によって、奴隷として売られた。

 

 この世界の言葉は、アンコウが元いた世界で使っていた言葉と同じものだった。言葉が通じたために、アンコウはこの世界で初めて出会った者たちに、(わら)にもすがる思いで自分が置かれている状況を話したのだ。それが甘かった。

 

 今のアンコウには、そのときの自分の甘さがよくわかっているが、その当時のアンコウに今と同じだけの警戒心をもてというのは無理な話だった。

 

 その連中はあきらかに風体のよくない者たちだった。アンコウの話を聞いて、所々意味不明なことを言っているが、頼る者のいない無宿者と認識されたのだ。

 そして、アンコウは奴隷商人に売られた。

 

 アンコウを売ったその連中は、奴隷商人にアンコウのことを借金のカタに身を売った頭の弱い男だと説明していた。それから一年ほど、アンコウは奴隷としてこの世界で過ごすことになる。

 

「ダッジ、明日からはどうするつもりだ?」

「どうもこうもない。魔獣どもを狩れるだけ狩る。で、金に換える。それ以外になにがある、アンコウよ?」

「なんもないな。俺もこんな陰気くさいところにきてるのは金のため以外あり得ない。だからって、無茶をする気はないんだ。命あっての物だねだからな」

 

 今日の狩りが順調にいき調子に乗ったのか、いま女奴隷とお楽しみ中のウォンとツルの二人が、予定より深い階層まで潜ろうとさっき主張していたのをアンコウも聞いていた。

 

「心配すんな。そんなもんは却下だ。弱いヤツらほど、バカなことを言い出すもんだ。予定より深く潜るんだったら、それこそウォンとツルの二人を、もうちっとマシなヤツらと変える必要があるからな」

 

「そうか。それを聞いて安心したよ」

 

 アンコウはダッジとは友達ではないし、その人間性もかなり冷酷な部分があると思っていた。しかし魔獣狩りという現在のアンコウの仕事を行う上では、比較的信用できる男だと思っている。

 

 アンコウはパーティーを組んで魔獣狩りをするとき、自らがパーティーリーダーとなるつもりはなかった。リーダーをしなければならないなら、稼ぎが悪くなってもソロで仕事をすることを選んできた。

 

 しかし、効率よく、より安全に魔獣狩りで稼ごうと思えば、やはりパーティーを組んだ方が良いのは間違いない。

 そうなれば、アンコウにとって重要な事は、誰がリーダーをしているパーティーに入るかということになる。

 

 魔素の漂う迷宮に入り、魔獣狩りをする人間は、そもそも一般人よりも強靱な肉体をもつ者でしかできないことだ。

 一般の人間は、魔素の漂う空間で通常の活動を行うことができない。魔素を体に取り込めば、即、呼吸器系に異常をきたすからだ。

 

 アンコウをはじめ、魔獣狩りを生業(なりわい)としている者は皆、魔素に対する耐性を持っている。そして身体能力も一般人と比べれば、格段に高い。

 

 そして、そういった特別な能力を持つ者たちが、魔石を利用して製造された武器や防具の装備をつけて、魔獣狩りを行っているのであり、決して誰もが出来るという仕事ではなかった。

 

 そういう力をもつ者のほとんどが先天的に持って生まれてきているのだが、わずかながら後天的にそういった力に目覚める者もいる。

 アンコウが魔素に抗する能力に目覚めたのは、この世界に落ちてきて1年が過ぎた頃。それから、アンコウは魔獣狩りを仕事とする冒険者となったので、その歴は約3年になる。

 

 アンコウはこの3年間でいろんなリーダーの下でパーティーを組んでやってきたが、無能な人間がパーティーリーダーをしていたがために、死ぬような目にあったことが何度もあった。

 

 その点ダッジは、人間的に下劣な面を持ってはいたが、冒険者としての能力やパーティーリーダーとしての統率力や判断力などは、アンコウがこれまでパーティーを組んできた冒険者の中では優秀な男であった。

 

「あいつらも、事がすんだみたいだな」

 ダッジが、男二人と女一人の声が聞こえていた岩場のほうを見ながら言った。

 

「じゃあ、交代で寝るとするか。……アンコウ……チッ、もう寝ていやがる」

 

 

 

 

 迷宮での魔獣狩り、3日目。

 アンコウたちは今日も順調に狩りを進めていた。今回の魔獣狩りはかなり調子がよく、魔獣を倒して手に入れた魔石の数も着実に増えている。

 

「今回はいい稼ぎになりそうだな」

 アンコウが横を歩いているダッジに話しかけた。

「ああ。このまま最後まで続いてくれればいいんだがな」

 

 迷宮は一寸先は闇である、そのことを長年魔獣狩りを行っているダッジはよくわかっている。

 アンコウも生きて魔獣狩りを行う冒険者を続けていこうと思えば、迷宮においては、どれだけ慎重に行動しても、慎重すぎるなんてことはないと考えていた。

 

 冒険者歴3年のアンコウは、元々生活のために始めた魔獣狩りであり、多少経験を積み、戦闘能力が上がったとはいえ、今でも冒険者としての名声を求める志向はまったくない。アンコウが迷宮に入るのは、はじめから今も金のためだ。

 

 アンコウは金には極めて強く執着してはいたが、それでも命を引き替えに得る富などないことはよくよく肝に銘じていた。

 

 しかし、アンコウとダッジの前を歩く二人はそうでもないようだ。

 

「なぁ、ダッジ。とっとと下の階層に行こうぜ。昨日からずっと第3階層じゃねぇか」

「ウォンのいうとおりだ。さっきの降下道でしたにおりときゃよかったんだ。この階層の敵じゃ物足りねぇよ」

 

「ああ?ツル、ウォン。テメェら、誰に指図してんだ」

 ダッジが迫力のあるかなり柄の悪い口調で言った。

 

 ダッジは二人の似たような文句をここまでかなり聞き流してきた。

 

 ウォンとツルはアンコウよりまだ若い。しかし、アンコウとほぼ同じぐらいの冒険者としての経験はあるのだが、アンコウから見てもこの二人の考えは甘く、冒険者としての力量もアンコウよりも下だ。

 

 アンコウのなかでも、この二人に対する不快度は増してきていた。ダッジが我慢していたのでアンコウも黙っていたのだが、ダッジが怒りを表に出したことでアンコウもそれに続く。

 

「お前ら二人でおりろ。今回の狩りの初めからの決め事だったはずだ。今日も明日も第3階層で狩りをする。最終日は地上に戻るための行程だってな。第4階層には行かないんだよ。行くんなら、お前らだけで行け。グチグチさっきから、耳障りなんだよ」

 

「なんだと、アンコウ!フザけんなよ!」

「テメェ、やんのか!」

 

 ダッジにはさすがに歯向かえなかった二人だが、アンコウにはその分をぶつけるように言い返してきた。

 

(こいつら、ほんとに頭が悪い。今の空気をまったく読めてない)

 アンコウの横でダッジが、怒りで顔をゆでだこのように真っ赤にしている。

 

「お前らなぁ、パーティーの決め事を守らないってことは、リーダーのダッジに逆らうってことなんだよ。わかってんのか?お前らがさっきから愚痴ってたのは、ダッジにけんか売ってんのと変わらないんだぜ?」

 

 アンコウの言葉を聞いて、ウォンとツルはようやくダッジの顔が激しい怒りに染まっていることに気づいたようだ。

 

「な、なに言ってんだ!俺たちはただ、パ、パーティーのことを思って言ったんだ!」

「そ、そうだぜ!ダッジにけんかなんて売るわけねぇ!」

 

ドォガァッ!

 ダッジが無言でウォンの横っ腹を蹴り飛ばした。

 

 ウォンはごつごつとした土の地面に倒れ、蹴られた脇腹を押さえながら、激しく足をばたつかせていた。声も出ないほど、相当に痛いようだ。

 アンコウはなんの感傷もなく、もだえ苦しんでいるウォンを見ていた。

 

 この世界の地下迷宮は、どれ程下の階層にいっても同程度の明るさがある。この迷宮に整備された通路はなく、広大な何層もの洞窟で形成されている。

 

 アンコウたちがいる空間を囲む四方の土石全体がうっすらと光りを放っており、それが冒険者たちが地下迷宮で魔獣狩りをするにあたって、照明具がいらない程度の明かりになっていた。

 

 そして土石が光っているため、地面に顔をつけるような体勢で地面に転がっているウォンの顔が地面から発せられている光りに照らし出されて、よりはっきりとその苦悶の表情をアンコウたちは見ることができた。

 

「ハハハハハッ!」

 そのウォンの表情を見たアンコウは一転おかしそうに笑いはじめた。

 

 さきほどの偉そうな態度と今の無様なさまのギャップが単純におもしろくなったのだ。

 アンコウの笑い声が響くなか、ダッジは自分の奴隷である獣人の女戦士に命令をした。

 

「ホルガ、ツルも同じように蹴り飛ばしておけ」

「はい。ご主人様」

「お、おい。や、やめろよ、ホルガ。お、おれとお前の仲じゃないか。へへへっ、なぁ、グガッ!」

 ホルガは一瞬でツルの近くまで踏み込み、ウォンと同じようにツルの体を蹴り飛ばした。

 

「ううぐぅ………」

 ツルが腹を抱えて地面を転がっている。

 ツルの口と鼻と目からは止めどなく、液体が汚く流れ出ていた。

 

「ハハハッ!おい!ツル!俺とお前の仲ってなんだよ!なぁ、ホルガ!お前とツルの仲って何なんだ?ハハハッ!」

 アンコウは今度は苦しみもだえるツルの姿を見て笑っていた。

 

 昨日好き勝手に抱いていた奴隷の女に蹴られ地面を這いつくばる男。それはアンコウにとって滑稽きわまりない姿だった。

 アンコウが笑っている横では、ダッジは相変わらず不機嫌そうな顔で地面に倒れている二人を見ていた。その顔つきから察するにまだまだ殴り足らないといったところだろうか。

 

 実際、ウォンやツル程度の者が迷宮の外でダッジに今回のようなふざけた言動を続けていたら、ダッジは2,3日は足腰が立たなくなるほどに痛めつけているだろう。

 

 しかしここは魔素漂う、魔獣ひしめく迷宮の中。ウォンやツルも、無事に狩りを終え地上に戻るための大事な戦力だ。

 ここで戦闘に支障をきたすような怪我を負わせるわけにはいかない。

 

「チッ!いつまで寝てやがる!二人ともとっとと起きろ!テメェらが前を行くんだよ!」

 

 怒鳴られたウォンとツルの二人が緩慢な動きで立ち上がろうとしている。

 

「チンタラしてんじゃねぇ!ホルガ!二人まとめてもっぺん蹴り倒せ!」

「ヒッ!待ってくれ!」

「も、もう立った!」

「じゃあ、とっとと歩け!」

 

 ウォンとツルに軽い制裁を加えたあと、パーティーは再び迷宮での魔獣狩りに戻っていった。

 

 不安の種を事前につぶし、緊張感を保ったまま、この後も順調に魔獣を倒し、魔石を手に入れていった。

 愚かな増長さえしなければ、このあたりの階層なら、ウォンとツルの二人も十分に戦力になる迷宮冒険者なのだ。

 

 この二人は確かにこの五人の中では弱い、アンコウよりも弱い。

 しかし、ウォンとツルも魔素の漂う迷宮で冒険者をしている時点で、一般人のレベルをはるかに超える強さは持っている。

 

 それゆえ、地上の町に戻れば、迷宮に入っている冒険者というだけで、まわりからは一目置かれるし、多少の無理も通せてしまう。

 それに魔石や魔獣の素材は常に需要があり高く売れる。常に命の危険は伴うが、一般人よりも多くの収入を得ることが出来る。

 

 つまり、腕力と金があるのだから、どうしてもウォンとツルのように傲慢で身勝手な人間になりやすくなってしまう。それでなくともアンコウの言葉を借りれば、この世界は道徳観念が低く、暴力が幅をきかせている世界なのだから。

 

 

 アンコウたちは次なる獲物を求めて、今はかなり広い洞窟通路を歩いていた。

 しばらく、その広い空間の中を歩いていたとき、アンコウの視界に淡く光る岩壁が目に入った。

 この洞窟の四方全ての面が、かすかな光りを放っているのだが、アンコウが気になった壁の光りは周囲とは少し違う光の波長であるとアンコウは感じた。

 

「なぁ、ダッジ。あれなんだと思う」

「ん?どうした?何かあるのか?」

 ダッジは(いか)つい顔をアンコウのほうにむけて、アンコウが指さす岩壁を見た。

 

「………わからんな。何か違うのか、アンコウ」

「ああ、あの部分だけ壁の光り方が違う気がする。そのことに何か意味があるのかはわからないが、違うのは間違いない」

 

 ダッジはこれまでにも何度もアンコウとパーティーを組んで迷宮にもぐっている。アンコウのこの手の感覚が優れているということは、ダッジもよくわかっていた。

 

「ホルガ!ちょっとそこの壁を見てくれ」

 

 獣人であるホルガも、人間と比べれば、この手の感覚は優れている。少し前を歩いていたボルガが、ダッジの命令を受けて、アンコウの近くにやってきた。

 

 ボルガはアンコウよりも、アンコウが指摘した岩壁のほうに近づいていき、そのあたりをじっと見ていた。

 

「……そうですね。壁の中に何かあるようです。」

 ボルガがダッジにむかって言った。

「魔石か?」

「はい。その可能性が高いと思います」

 

 魔石は魔獣の体内から採取することができる。魔素の漂う空間でのみ存在し、活動することができる魔獣。

 長く生きれば生きるほど、力のある者であればあるほど、その体内にある魔石は強力なものになるといわれている。

 

 しかし魔石ができるのは魔獣の体内だけではなく、魔素の存在する地、それ自体に発生し成長することも知られている。

 アンコウが指摘した周りとは違う光りを発する壁、そのなかに魔石がある可能性をホルガは言った。

 

「へーっ!地産の魔石か!ほんとかよ!?」

 アンコウは思わず、喜色を浮かべて大きな声で言った。

 

 地産の魔石は滅多に見つからない。

 それに地産の魔石は人に発見されるまで長い時間を経ているものが多く、また、魔獣の体内で成長するものとは魔力の質が違うものも多くあり、強力で珍しい魔石であることが多い。

 

「なぁホルガ、何かの鉱石か宝石じゃないのか?俺が今まで同じように光り方のおかしい壁や岩なんかを見つけたときは、大抵ちっと珍しい鉱石か宝石だったりしたんだけどな」

「これは鉱石や宝石の類ではないと思います。感覚的に感じるものなので、言葉でちゃんと説明はできないんですが」

 少し興奮気味のアンコウと違いホルガは冷静に淡々と答えた。

 

 ホルガは奴隷の獣人の女戦士、どれほど価値のある魔石が見つかろうとも、たとえそれが自分が見つけたものであっても、何も自分のものになりはしない。

 すべてはご主人様であるダッジと他の冒険者メンバーたちのものになる。

 

 ホルガは身長が180センチぐらいで、獣人の女性としてはごく一般的な高さであったが、アンコウと比べると10センチ以上も高かった。肩幅も人間の男性と変わらないぐらいあり、かなりガッチリしている。

 

 しかし女性らしくないかと言えば、そんなことはない。ちゃんと出るところは出ているし、引っ込んでいるところは引っ込んでいる。

 なにより顔つきが、ホルガは女性らしい顔立ちをしていた。

 

 獣人と一口に言っても、その姿形は様々であった。人間よりもはるかに多様性に富んでいる。

 

 ホルガには獣耳やシッポはないが、手と足が人間と比べると大きく、手足には鋭く出し入れできる爪がついていた。

 ホルガの毛色は白だ。女性にしては太く白い眉毛、頭から背中一面につながって、白い毛が生えている。頭と首のあたりはかなり密度も濃く剛毛、背中の毛は頭部に比べるとかなり細い。

 アンコウはホルガのことをなかなかの美人だと思っていた。

 

 しかし、アンコウは何度かダッジの奴隷であるホルガともパーティーを組んでいたがホルガが声を出して笑っているところをほとんど見たことがない。ホルガの目はいつも暗く沈んでいる。

 

 アンコウは、彼女の扱われ方を考えれば、それは当然の結果で、明るく笑えと言うほうが無理だと思っていた。

 

 しかし、アンコウのなかのホルガに対する同情心は、平常時にはほとんど消えてしまっている。この世界では奴隷は当たり前の存在、いちいち気にしていたらきりがない。

 それに、アンコウもいずれは自分が奴隷を所有するということも考えていた。自分が生きのびるために。自分がよりよい暮らしをするために。

 

 この世界の奴隷制に関してはアンコウはすでに受け入れていた。そして、自分自身はもう二度と奴隷には身を落とさないと固く誓ってもいた。

 

 

「どうだ。何か出てきたか?ホルガ」

 ダッジがホルガに聞いた。

 

 ホルガは腰に差していた短剣でアンコウが指さしていた壁を掘っている。

 ホルガの短剣は先は尖っておらず、丸みを帯びており、かなり厚みがある。しかし、それなりに魔力を帯びているようなので、魔獣との戦闘でも十分使える武器でもあるのだろう。

 

 ダッジはホルガに、それなりの武器も防具も与えていた。実際にホルガは、いざ戦いとなれば、下手な冒険者よりもずっと計算できる戦闘要員でもある。

 

ザクッ、ザッ、ザッ、ザクッ、ザッ、

 

「………ご主人様。これを見て下さい」

 

 ホルガが壁を掘る手をとめて、少し場所をあける。そこをダッジがのぞき込んだ。

 アンコウと、いつのまにか近くまできていたウォンとツルの二人も、同じようにのぞき込む。

 

「「うおおぉぉーーっ!」!」

 

 全員が、ほぼ同時に大きい声をあげた。



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第2話 赤眼狼

 アンコウの視線の先には半分ほどが土の中から出ている魔石があった。

 まず大きい。全てが土の中から出てきているわけではなかったが、それでもその大きさのほどは推測できた。

 アンコウがこれまでに手にした魔石の中でも最も大きいものだろう。

 

「でかいな!それになんだこの色は、今までにこんな色の魔石は見たことないぞ!」

 アンコウが興奮気味に叫んだ。

 

 アンコウの後ろからのぞき込んでいるウォンとツルも口々に同様の声をあげている。そして、一番前でその魔石の確認をしていたダッジがアンコウに声をかけた。

 

「アンコウ、ちょっとこれを触ってみろ」

 

 ダッジにそう言われたアンコウは、ダッジの横にしゃがみ込んでそっとその魔石に触れてみた。

 

「うおっ!なんだ、すげぇぞ!」

 その魔石からは、アンコウがこれまでに手にしたどの魔石よりも強い魔力を感じた。

「ダッジ、これって一級品か?大きさも魔力もおれが今まで見てきた魔石の中じゃ、一番だ。それにこんなきれいな色の魔石は見たことがない」

 

「一級品とまではいかねぇな。だけどここらで出てくる魔獣をいくら倒しても出てくるようなシロモンじゃないのは間違いねぇけどな」

 

 アンコウの顔には、抑えきれない喜色が浮かんでいた。

 この魔石を地上に持ち帰ったら、いくらになるんだろうかと、ここまでに獲得した魔石とは比べものにならないぐらいの金額で売れるのではないかと想像した。

 

 その金に対する期待のこもった欲望をあらわにしているのはウォンとツルも同じだ。

 

「お、おい、ダッジ。その魔石はどれぐらいになるんだ?」

「ああ、そんな強い魔石をおれは見たことがないよ。一級クラスの冒険者が手にするような魔石じゃないのか」

 

 ウォンとツルが興奮した様子でダッジに話しかけたときだった。

 

――うああぁぁーーー――

 

 いまアンコウたちがいるのは迷宮の中のかなり広い開けた空間。そのかなり離れたところから男の叫び声が洞窟内を反響して聞こえてきた。

 まだかなり距離はあるが男の声がした方向には、ほとんど障害物がないため、男の姿を視界にとらえることができた。

 

 その男は、アンコウたちがいるこの空間道につながる別の通路から飛び出してきたようだ。

 アンコウたちが警戒してそちらを見ていると、男が飛び出してきたと思われる通路から、一匹の魔獣が姿を現した。

 

「チッ、ホルガ!急いで魔石を掘り出せ!」

 ダッジが強い口調でホルガに命じた。

 ホルガはうなずくと再び魔石を掘り出し始める。

 

「ホルガ!多少傷がついてもかまわないから、急げ!」

「はい。ご主人様」

 

 ダッジはいやな予感がしていた。

 叫び声をあげながら飛び出してきた男の後ろから続いて飛び出してきた魔獣は、遠目からでもその種類の識別ができた。赤い毛並みに赤い眼を持つ赤眼狼(レッドアイウルフ)だろう。

 

 狼といってもアンコウが元いた世界の虎ほどの大きさがある獰猛(どうもう)な魔獣だ。

 しかし、魔素の漂う迷宮での魔獣狩りを生業(なりわい)とする冒険者なら、よほどの初心者でないかぎり、赤眼狼(レッドアイウルフ)相手なら一対一で勝利を収めることができる。

 

 それぐらいの強さがないと魔素のただよう魔獣の住処に人間が足を踏み入れるなど自殺行為に等しい。

 しかし、あの男は情けないほどの悲鳴をあげて、ただ逃げている。

 

 ダッジには、そのおかしさがはっきりとわかっていた。ダッジの横ではアンコウも同じように厳しい目つきで男と魔獣のいるほうを見ている。

 ダッジとアンコウは、心持ち男と魔獣がいる方向に移動して、事の推移をうかがおうとした。

 

 しかし、迷宮で魔獣が出るのは当たり前、冒険者が迷宮で果てるのも当たり前のこと。

 まだかなり距離が離れているため、ウォンとツルの二人は男と魔獣にたいする警戒心はかなり希薄だった。

 赤眼狼(レッドアイウルフ)一匹ぐらいどうにでもできると考えていたし、見ず知らずの冒険者一人が魔獣に食われようとどうでもいいことなのだから。

 

 ダッジとアンコウが離れたため、ウォンとツルは、よりホルガが魔石を掘っている場所に近づいて、物欲しそうな顔でそれをのぞき込んでいる。

 

 

――助けてくれえぇぇーー!――

 

「チッ、やっぱりこっちに来るか」

 

 叫ぶ男がアンコウたちを見つけて、こちらのほうに走る方向を変えた。それを見たダッジが腹立たしそうにつぶやいた。

 

「なぁ、ダッジ。あの野郎は何で逃げてるんだ?………やばいんじゃないのか」

「………ああ、嫌な感じだ。ここにソロで来るようなやつなら、赤眼狼(レッドアイウルフ)からあんな無様に逃げねぇだろうからな」

 

 よく見れば、男も赤眼狼(レッドアイウルフ)も体のあちらこちらから血が出ているようだ。ここに来るまでに戦闘があったらしい。

 

 そうこうしているうちに、赤眼狼(レッドアイウルフ)が男に追いつく。しかし、レッドアイウルフが男に飛びかかる前に男はふり返り、赤眼狼(レッドアイウルフ)に剣を振るった。

 

 その剣は魔獣にとどいた。しかし、致命傷にはならず、赤眼狼(レッドアイウルフ)は苦痛の咆哮をあげ、再び男に襲いかかる。冒険者の男も退くことなく戦った。

 戦いはあきらかに冒険者の男が優勢であった。

 

 男は初心者ではなく、特別弱くもないことがその動きからもわかる。それを見て、アンコウとダッジの警戒心がいっそう高まっていく。

 

「おい、ダッジ。あの野郎、別に弱くなんかないぞ」

「ああ、面倒なことになるかもな」

 

 アンコウとダッジは、男と魔獣からは目を離さず、再びホルガたちがいるところにむかって、後退をしはじめた。

 

 弱くもない冒険者が一匹の赤眼狼(レッドアイウルフ)から必死で逃げている。今のところアンコウたちの目に見えている事象はそれだけだが、あきらかにおかしい。

 たった一匹の赤眼狼(レッドアイウルフ)から、あの冒険者が逃げる理由がわからない。

 

 アンコウとダッジが、これには何か別の理由があると推測するのは当然のこと。

 二人が推測する別の理由、それは思いつくかぎり、ロクでもないものばかりだった。

 

「おい!ホルガ、まだ終わらないのか!」

「はい、もう少し待って下さい」

「急げ!」

 

 魔石が埋まっている壁土がかなり堅いらしく、ホルガは魔石を掘り出すのに苦労していた。

 

「ダッジ、あんまり急がせると魔石に傷がいくぜ。価値が下がっちまうよ」

「ああ、まったくだ。ホルガ、急いでも傷はつけるなよ」

 

 ウォンとツルは魔石のことしか目に入っておらず、リーダーであるダッジの意図に反するような指示をホルガに出していた。

 しかし、ウォンとツルの二人はそんなことにも気づいていない。ただただ今までに見たことがないような価値があるであろう魔石の心配をしていた。

 

「余計なことを言ってんじゃねぇ!お前らぶっ殺されたいのか!」

 

 ダッジの二人への怒声が響きわたった。単に怒っていると言うよりも、それは殺気まじりの咆哮に近い。

 

 ウォンとツルの二人は一瞬で縮みあがる。ダッジの心境としては二人の口が開かなくなるまで、殴りつけてやりたいぐらいの思いだった。

 

(ほんとに頭が悪い。ここの連中はそれでなくとも自分勝手な奴が多い。バカの自己中はほんとに始末が悪い)

 アンコウは蔑むような目でウォンとツルを見て、心の中で嘆いた。

 

 この世界はアンコウが元いた世界に比べれば、個人の能力に依拠する、より動物的な弱肉強食の色が強い社会だ。家門血統という価値とともに、より純粋に個人の持つ戦闘能力という強さが人の価値を決めていく。

 

 平和で人権が確立された法治国家からやってきたアンコウにとって、この世界は強い者が道徳も法も関係なく、好き放題できる世界に見えていた。

 

「ホルガ!バカの言うことは気にするな!傷がついてもかまわねぇから急げ!」

 

「な、なぁ、ダッジ。あれ、赤眼狼(レッドアイウルフ)だろ?あんなもん一匹にそんなに慌てなくてもさぁ」

 

 ウォンが少し怯えながらも納得できないというように言った。これにはさすがにアンコウもあきれた。

 

「おい、ウォン。お前いい加減にしろ。状況がわからないんだったらせめて黙っていろ」

 

 ダッジではなく、アンコウに言われて、ウォンは怒りの色を露わにアンコウのほうをにらみつけて何か言おうとする。

 しかし、ウォンは言葉を発することをしなかった。自分を見るアンコウの目にも殺気がこもっていたからだ。

「ううっ、」

 

 アンコウも二人に対するいらつきが完全に怒りに変わっていた。ダッジも同様に、殺気のこもった目でウォンたちを見ている。

 わずかな間のあと、ダッジが凍るような冷たい口調で言った。

 

「黙ってろ」

「わ、わかった」

 ウォンは顔色を変えて、ダッジから目をそらし口ごもった。ツルの反応もウォンと同様のものだった。

 

 ダッジは目に怒りの色をたたえながら、視線を再び、まだ距離が離れている場所で戦っている冒険者と魔獣のほうに移す。

 

 しかし、ウォンとツルは反省したわけでも、ダッジとアンコウが何を警戒しているのか理解したわけでもなかった。

 ウォンとツルは黙ったままだったが、アンコウのほうを何ともイヤな目でにらむように見てきた。

 

(チッ、うっとおしいな。くそったれどもが。小学生のガキでもできる状況判断が何でできないんだ)

 アンコウは心の中で毒づく。

 

 アンコウの殺気のこもった目に一時はひるみ、ダッジにはおとなしく従ったものの、ウォンとツルの二人はアンコウのことをどこか自分たちより下に見ているきらいがあった。

 

 アンコウは、ダッジがいることだし、無駄な仲間内の(いさか)いを避けるためにも、これまでウォンとツル相手に自分との上下関係をはっきりと思い知らせるような行動はとってこなかった。

 

(この手のバカは本当に痛い目を見ないとわからないんだよな。めんどくせぇ。まぁ、無駄に強いバカよりはマシか)

 

 アンコウがこれまでに迷宮や魔素の漂う地で死にそうになったとき、かなりの確率で仲間のなかに自分よりかなり戦闘力の高いバカがいた。

 そのバカが自分勝手に暴走して周りを巻き込んだあげく、パーティー全体を死の淵に引き込むということが何度かあった。

 

 そういう奴に比べれば、このウォンとツル程度の冒険者なら、まともな判断力のある者がリーダーをしていれば、きっちり抑えてくれるので、仕事自体に重大な支障が出ることにはほとんどならない。

 

 それゆえアンコウは、ウォンとツルが不愉快な行動をとっても、心の中で彼らに毒づきはしても、これまでは放置してきた。

 

(仕方がないな。バカに我慢するのも仕事のうちだ)

 

 アンコウはここでもパーティー内で(いさか)いを起こす愚は避けるつもりだ。バカの仲間入りをする気はなし、そんな余裕はないだろうとの判断もあった。

 おそらく目の前で行われている戦闘に関係して、何かより大きい問題が起きるだろうとアンコウとダッジは思っていた。

 

 そして、いやな予感ほどよく当たる。

 

 

――アオォォーンッ………――

 

 冒険者の男と赤眼狼(レッドアイウルフ)との戦いは冒険者の男の勝利に終わったようだ。

 

 魔獣は地面に倒れ伏して動かなくなった。しかし冒険者の男は倒した赤眼狼(レッドアイウルフ)から魔石を取り出そうともせず、再びアンコウたちのほうに向かって走り出した。

 

 そして、男が再び走り出してすぐに、先程その冒険者の男と倒された赤眼狼(レッドアイウルフ)が飛び出してきた横道から、もう一頭、別の赤眼狼(レッドアイウルフ)が飛び出してきたのだ。

 

 新たに現れた赤眼狼(レッドアイウルフ)は、躊躇(ちゅうちょ)することなく逃げる冒険者の男の後ろを追って走り出す。

 そしてさらに、もう一頭の赤眼狼(レッドアイウルフ)が、同じ横道から飛び出してきた。

 

「おい!ダッジ!」

 それを見たアンコウはあせった口調でダッジに呼びかけた。

 

 アンコウの中で高まる警戒心が、次の行動に移る必要性を感じとった。ダッジはその呼びかけにすぐには答えず、厳しい表情で前方で起きていることを見つめてる。

 

 赤眼狼(レッドアイウルフ)二頭だけなら、アンコウ一人で斬り伏せることもできる。

 しかしアンコウが案じていたとおり、二頭だけでは済まなかった。

 逃げる冒険者の後を追う赤眼狼(レッドアイウルフ)の数は増え続たのだ。

 

 次々と横道から奴らが現れ、短い時間の間に、すでにその数は十頭を超えていた。

 そしてさらに増え続ける。それを見ていたアンコウの顔色が劇的に変わった。

 

「ダ、ダッジー!やばいぞ!これは『()き』だ!あのクソヤロー、『()き』を連れてきやがった!」

 

 赤眼狼(レッドアイウルフ)は単独で行動することが多く、複数で遭遇することがあったとしても、通常は数頭ほどである。

 

 しかし迷宮では、ごく稀にかなり数の魔獣が群れをなし冒険者を襲うことがある。

 魔獣の種類も一種類のこともあれば、複数種が入り混じることもあり、この現象を冒険者たちは単に『()き』と総称していた。

 これがどういう理由で起きるのか、詳しくはわかっていない。

 

「うるせぇ!見りゃあわかる!ホルガ!」

 ダッジはアンコウに怒鳴るように言い返し、ホルガの名を叫んだ。

 

「は、はい。もう少しです!」

 ホルガは埋まっている魔石の根本に短剣を突き入れ、かなり強引に魔石を引き抜こうとしていた。

「ぐくっ。も、もう少し、」

 

 ウォンとツルもどんどん数を増していくレッドアイウルフを見て、さすがに狼狽(うろた)え、顔に恐怖の表情を浮かべはじめている。

 

 しかし、冒険者の男を追って、こちらに走ってくるレッドアイウルフをチラチラと見ながらも、大物であろう魔石への執着は強く、その場を離れることはなく、ホルガにもっと急ぐように怒鳴りつけていた。

 

「ホ、ホルガ!急げ!」

「何やってんだ!とっとと掘り出せよ!」

 

 仲間を見捨てて、敵前逃亡すれば、狩りの分け前はもらえない。冒険者なら誰もが心得ている決まりであった。

 この場から今逃げ出せば、この魔石の分け前は貰えないかもしれない。ウォンとツルの頭には間違いなくそういう思いがあった。

 

 しかし、アンコウは違った。レッドアイウルフの湧きだと認識し、その数がまだ増え続けるとわかった時点で、アンコウはきびすを返し、レッドアイウルフから逃げるため、一人走り出していた。

 

「くっそう、なんだってんだよっ!」

 

 アンコウは、走りながらチラリと後ろを振りむく。また数が増えていた。おそらくまだまだ増えるだろうとアンコウは考える。

 4、5匹なら、アンコウ一人でも相手にする自信があった。しかしこの数相手では無理だ。5人がかりで戦っても危ない。

 

 いや、まだ数が増え続けていることを考えれば、最終的にレッドアイウルフが何十頭になるか知れない。間違いなく自分たちは食われることになるだろうと、アンコウは思った。

 

 命に勝る富などない、命あっての物種なのだ。

 アンコウはあの魔石と自分の命を天秤にかける気はなかった。だから躊躇(ちゅうちょ)なく、はじめから一人で全力で逃げだした。

 

 そして、全力で走るアンコウの横をアンコウより速い速度で走り、追い抜かしていった男がいた。

 

 それは、さっきまでアンコウの隣にいたパーティーリーダーのダッジだった。



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第3話 逃げるが勝ち

 アンコウとダッジはスピードを落とすことなく走り続けている。

 

「お、おい!ダッジ!なんでお前が逃げてんだ!」

「あ?この状況で逃げねぇやつは、ただのバカだろうが!」

 

 アンコウの問いに対するダッジの答えは明快だった。

 アンコウもダッジのその意見には同意なのだが、自分のことは棚に上げて、どうしても、お前はリーダーだろうがという気持ちが湧いてくる。

 

 だが確かに、この状況になっても、いい金になるだろう珍しい魔石の前にへばりついているウォンとツルの二人はバカだとアンコウは思っていた。冒険者とは、常に瞬時の判断が生死を分ける仕事だ。

 

「あの魔石はどうする!」

「ああ!?ホルガが持ってくるだろ!」

 

 ホルガはダッジの奴隷だ。ダッジが逃げようが逃げまいが、ホルガが持っているものは全てダッジが所有しているのと同義だ。冷徹ではあるが、ダッジの判断は正しい。

 

 自分の命をなにより優先し、貴重な魔石もあきらめない。最悪、ホルガが魔獣に殺され、魔石も手に入らなかったとしても、自分が逃げるための時間稼ぎにはなるだろう。

 

 それでも、自分も魔獣たちに追いつかれ食い殺されてしまったとしても、それは迷宮にもぐる冒険者としての寿命というものだ。

 ダッジもアンコウもその覚悟はあって迷宮で魔獣狩りをおこなっている。その覚悟のうえで、生き延びるためにはどんなことでもしてのける覚悟もしている。

 

 

「ま、まてよ!待ってくれ!」

「ダッジ!逃げるのか!お、おれたちも!」

 

 ダッジとアンコウがすでに逃げ出していることに気づいたウォンとツルの二人は慌てて自分たちも逃げはじめた。

 

 リーダーであるダッジが逃げているのだから、罰則対象になる敵前逃亡にはならないし、ダッジとアンコウがいなければ、自分たちが生き延びる可能性がなくなることはさすがに二人にもわかっていた。

 

 声をあげて逃げはじめたウォンとツルの二人をアンコウが走りながらチラリと見たとき、アンコウの目にはウォンとツルの背後に2つの景色が見えた。

 

 まず、ウォンとツルのすぐ後ろにいたホルガが、壁に埋まっていた魔石を力ずくで引き抜いたのが見えた。

 そしてその後方では、レッドアイウルフから逃げていた冒険者の男が、ついに数頭のレッドアイウルフに追いつかれそうになっていた。

 

 それでも男は止まることなく走り続けようとしていたのだが、後ろから一頭のレッドアイウルフに飛びかかられて、地面に押し倒された。

 この冒険者の男も、4,5頭のレッドアイウルフなら、一人で相手をすることができる力量は持っている戦士だと先程の剣さばきを見たアンコウは思っている。

 

 しかし、押し倒された冒険者はすでに手負い、地面に倒れた冒険者の男に次々とレッドアイウルフが飛びかかっていった。

 

(あれはもうダメだ。あの状態になったらどうにもできない……)

「くそっ!あんなもん連れてきやがって、もうちょっと粘りやがれ!」

 アンコウは走りながら吐き捨てるように言った。

 

 アンコウはあの冒険者を助けに行く気はハナからない。あの冒険者がどうなろうがどうでもいいこと。

 

 それどころか、あの冒険者が連れてきた「湧き」のせいで、今は自分の命も危険にさらされている。アンコウは冒険者の男に対して強い怒りすら感じていたわけで、同情心など毛ほども湧かない。

 

 せめて自分が逃げ切るために少しでも粘ってほしかったのだが、それももう期待できそうもない。

 

 先頭を走っているダッジが、今いる広い空間から横道に入る洞窟通路に入っていく。ダッジの足はアンコウより速いようだ。しかしアンコウも、全力でダッジの背中に食らいついていく。

 

 今の状況を考えれば、5人全員が逃げ切れるとは、アンコウは思えなかった。

 つまり後ろにいる者から、先程の冒険者の男のようにレッドアイウルフの湧きに飲まれていくだろう。

 

 そして、その隙に逃げるしかない。遅れたヤツは時間稼ぎのための撒き餌になるのだ。

 

「ダッジ!待てー!」

「うるせぇ!走れ!」

 叫ぶアンコウ。怒鳴るダッジ。

 

 その二人の後ろを走っているウォンとツルも何か叫んでいるようだったが、アンコウたちはまったく反応せず、ただ前だけを見て走る。

 

 そして、今アンコウが走っているところは、さっきいた空間よりもかなり狭くなってきていた。

 今はどれくらいの数になっているかはわからないが、迫り来るレッドアイウルフに追いつかれたとしても、この通路の広さでは何十頭に一斉に襲われることはないだろう。

 

 ただアンコウが気になっていたのは、この通路に入ってから、そこそこ走ったにもかかわらず、まだ一度も横道がなかったことだ。

 つまり、かなり長い一本道がここまで続いている。レッドアイウルフを振り切って逃げるためには、これ以上、一本道を走り続けるのは危険だった。

 

 

「なっ!」

 アンコウは突然驚きの声をあげた。

 

 ダッジに何とか引き離されることなく、その背中を視界に入れながら食らいついて走っていたのだが、そのアンコウの視界のすぐ横に別の人物の影が突然入ってきた。

 気配もほとんどなく、突然現れたのは獣人の女戦士ホルガ。

 

「なっ、いつのまに。おい!ホルガ!俺の前を行くつもりか!」

 

 アンコウの呼びかけにホルガは答えない。ホルガの主人はダッジであり、ホルガが奴隷であるといっても、主人以外の者の命令に従わなければならない義務はない。

 

 スピードを落とすことなく走り続けようとするホルガに、アンコウはさらにスピードを上げて食らいついていたが、スピードを持続させることは不可能だった。

「くそっ!」

 

 獣人であるホルガは、アンコウより身体機能が高い。単純に走ることだけをいえば、ホルガはアンコウの先を走っているダッジよりも早い。

 今は何とか並走しているが、置いて行かれるのは時間の問題だ。

 

 アンコウはあせった。パーティーメンバーは5人しかいない。一人に抜かれるだけで、魔獣どもに食い殺される確率は高くなる。

 しかもホルガの手には大きいサツマイモほどの大きさがあるキレイな色の魔石が握られていた。

 

 アンコウは、このままホルガに先をゆくダッジと合流されてしまうのはまずいと思った。

 

 アンコウは、ダッジのことを人間的にはさほど信用していない。あくまで金を稼ぐためだけの一時的な仲間だ。それ以上でも、それ以下でもない関係。

 

 この状況でダッジの元に魔石を持ったホルガが戻れば、そのうしろを行くアンコウを含めた残りの3人は、ダッジにとっては時間稼ぎのために、レッドアイウルフのエサになることが最も有効な利用法となるだろう。

 

 アンコウは、自分ならそう考えると思った。もし、なりふりかまわずダッジが自分が生き残り、金を得ることを優先すれば、意識的に自分たちを犠牲にするような行動をとりかねない。

 

「な、なにをするんですか!」

 それまで、アンコウの問いかけを無視していたホルガが突然声をあげた。

 

 アンコウは、ホルガがそのまま自分を追い抜かしていこうとしたときに、ホルガが手に持って走っていた例の魔石を器用にかすめ取っていた。

 

「へへ、重いだろ?これはおれが預かっておく。見つけた人間の責任だ」

 

 ホルガはあきらかに戸惑っていた。奴隷である自分の立場としては、自分の主人であるダッジに魔石をとどけなければならない。

 しかしアンコウはパーティーメンバーであるし、最初に見つけたのは確かにアンコウだったので、どうしたらいいのか判断できなかった。

 

 この状況でアンコウと魔石の奪い合いをすれば、たとえ取り返せたとしても、迫りくる魔獣に群れに魔石もろとも飲まれてしまうだろう。

 

「あっ!アンコウさん、」

 わずかな時間であったが、ホルガが躊躇(ちゅうちょ)している隙にアンコウは魔石を腰の袋に入れてしまった。

 

 そしてアンコウはにっこりと笑って、ホルガの顔を見た。

「まかせろ。これで安心だ」

 アンコウが、あからさまな作り笑顔のままで言った。

 

 そのアンコウの笑顔を見て、ホルガはわずかに眉をしかめた。

 そして少し間を置いたあと、ホルガは奴隷である自分には勝手な判断はできないと考えたのだろう。視線を前方に戻して、ダッジのいるところまで一気に走るため速度を上げた。

 アンコウは、そのホルガの走るスピードにはついていけなかった。

 

 アンコウとしてはこの魔石を持つことで、この場における自分の価値を少しでも高めることができた。

 もしダッジがアンコウたちを犠牲にしてでも自分が生き残る手段に出たときに、少しでもアンコウがその対象から逃れる可能性を高めるためにしたことだ。

 

 しかし現実に命の危機が迫れば、ダッジは魔石も仲間の命も犠牲にすることを躊躇(ためら)わないだろうことはアンコウもわかっている。

 だからアンコウは、ダッジたちにこれ以上引き離されないように必死で走り続けた。

 

 

「ギャアァァァーー!」

 

 アンコウの背後から、突如響きわたる悲鳴。

 

「うわああぁぁー!ダッジぃぃー!アンコウぉぉー!ツ、ツルがぁぁー!」

 

 アンコウはうしろを振かえった。

 先程の冒険者の男と同様に、今度はツルがレッドアイウルフに襲われていた。ツルに覆いかぶさったレッドアイウルフが山のように積み重なっている。

 アンコウはその様子を見て、より強い恐怖にかられつつも、ニヤリと笑った。

 

 障害物のない直線路であったため、ツルが襲われている場所を視認することはできたが、アンコウが走っている場所からは、まだかなり離れている。

 アンコウが必死で逃げているうちに、ツルやウォンをかなり引き離していたようだ。

 

 そしてレッドアイウルフたちはツルというエサの奪い合いをはじめており、ウォンを追いかけるものの姿さえなく、ツルが襲われている場所で全頭がとどまり、まるで通路の壁のような状態になっていた。

 ツルはアンコウたちが逃げる時間を稼ぐための見事な撒き餌となっていた。

 

(ナイスだ。ツル)

 アンコウは心の中で、ツルに賞賛の声を送る。もちろんツルはそんなことを望んではいないだろうが。

 しかし、この後逃げ切ることができなければ、アンコウもツルと同じ運命をたどることになる。

 

「おいっ!アンコウっ!ツルがあっっ!」

 ウォンが再び、アンコウにむかって叫んだ。

 

「うるせぇ!逃げるんだよっ!」

 アンコウは叫び返して、前を見た。

 

 アンコウはわかっていた。ウォンもツルの心配なんてしてはいない。もう、誰もツルを助けることなどできない。ウォンは自分を助けてほしかったのだ。

 

 ツルが捕まって、今一番うしろを走っているのはウォンであり、次に犠牲になるのは自分だと当然わかっていた。だから前を走る者たちにむかって、叫び声をあげた。

 しかしアンコウもダッジも、(きびす)を返して助けに行くなど、そんな無謀なことは決してしない。それぞれがまず自分が助かることだけを考えていた。

 

 アンコウの前方を走っていたダッジとホルガの姿がアンコウの視界から消えた。消えたといっても魔法を使ったわけでも落とし穴に落ちたわけでもない。

 ずっと真っ直ぐな道が続いていた通路にようやく横道が現れた。

 ダッジたちはためらいなくその横道を曲がり、アンコウの視界から消えた。

 

 アンコウも必死で後を追う。意地でもこんなところで魔獣どものエサになるわけにはいかなかった。

 アンコウは特別高尚な人生の目的を持っているわけではなかったが、そんなものはなくても生きる理由には事欠かない。

 

 4年前、生まれ育った世界で普通に生きていたのに、自分の意思とは関係なく突然この世界にやってきたアンコウ。元いた世界の自分の国の方が、この世界よりはるかにすばらしいところであったと今は思っている。

 

 しかし、帰る方法はない。元の世界への帰還に関してはアンコウはほとんどあきらめていた。少なくとも、それを目的として自分の生活の中心にはしていない。

 

 それでもこの世界に居続けなければならないことに対する憤りは常にあり、アンコウはこの世界でも元いた世界のようにはいかなくとも、少しでも豊かな生活、アンコウにとっての普通の生活を送ることを強く望んでいた。

 

 魔獣狩りをおこなう冒険者などをやっている時点で、普通とはいえないのかも知れないが、これはアンコウがこの世界で生きていくために負わざるを得ないリスクだと受け入れている。

 

 力なき者は虐げられるという事実が、アンコウがいた元の世界より、この世界のほうが顕著だ。

 アンコウは生きていくため、強さと豊かさを手に入れるため、必要なリスクは受け入れたが、死を受け入れたわけではない。

 

 アンコウは恐怖に飲まれそうになりながらも必死で走った。

 

 アンコウはダッジたちが曲がった横道を同じく曲がる。その横道に入ると再びダッジたちの背中が目に入り、アンコウはホッとした。

 その横道は今走ってきた道よりもさらに狭くなっており、いくつか別の洞窟通路につながっているのが、アンコウがいる場所からも確認することができた。

 

 しかし、アンコウよりも先を走っているダッジたちはいくつかの他の道につながる通路をスルーして真っ直ぐに走り続けていた。

 アンコウの視線の先にはダッジとホルガの背中が見え、さらにアンコウが走っているこの通路の先には上の層へとあがる上り道が見えていた。

 

 間違いなくダッジたちは、その昇層道を行くつもりなのだろう。

 

 

「ヒギィヤァァーッ!た、助けてくれええぇぇー!」

 

 ついにウォンがレッドアイウルフの群れにつかまったようだ。

 

 アンコウがうしろを見ると、ウォンは剣を闇雲に振りまわしながら、まだ立ってはいるものの、そのまわりにはレッドアイウルフたちがウォンを取り囲むようにどんどん増えていっている。

 

「あいつもアウトだ。くそっ!」

 

 

「ギィヤアァァーーー!―――――――――

 

 さほどの時間もかからず響きわたるウォンの悲鳴。

 

 次は自分の番だとアンコウは恐怖した。アンコウはウォンとの距離をかなり引き離していたため、まだ少しではあるが時間がある。

 アンコウは走った。逃げのびるために、アンコウは走った。

 前を行くダッジたちは、すでに上の層へと続く昇層道を全力で走りながら登りはじめてた。

 

「ぐううぉぉー!こんなところで死んでたまるかよ!俺の最後はあったかい布団の中で老衰って決まってんだよぉぉぉー!」

 

 アンコウが昇層道の手前まできたとき、アンコウのうしろに十頭ほどのレッドアイウルフが迫っていた。

 この十頭のうしろに続くレッドアイウルフの群れはまだかなり離れており、この手前の十頭ほどは哀れなウォンを無視して、アンコウを追ってきた一団のようだ。

 

「くそがあぁぁっ!」



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第4話 火の精霊封石弾の使い方

「くそがあぁ!」

 

 アンコウは足を止め、振り向きざまに精霊封石弾の栓を抜き、迫りくるレッドアイウルフにむかって投げつけた。

 

 アンコウに迫ってきていた十頭ほどのレッドアイウルフは、我先にとアンコウ目指して走ってきており、お互いがかなり団子状態に固まった状態で走ってきていた。

 この状況は、アンコウにしてみれば、一撃を加える上では好都合だ。

 

 精霊封石弾は高価であり、アンコウクラスの資金力しか持たない冒険者では、そうそう多用できる武器ではない。

 しかし、それ相応のお宝が期待できるとき、あるいは生きるか死ぬかの状況で使うためにアンコウは精霊封石弾を常備しており、使うことにためらいはない。

 

 アンコウが今投げつけた精霊封石弾は、火の精霊力を封じたもの。アンコウが投げた精霊封石弾が、迫りくるレッドアイウルフの群れの真ん中に落ちて見えなくなる。

 

ドォグァアン!!

 爆発。レッドアイウルフの群れのなかから、火柱が上がる。

 

 それは4級クラスの威力を持つ火の精霊封石弾。アンコウが買うことができるのは、最低級の5級か4級クラスの精霊封石弾までである。

 

 今の一撃で息の根を止めることができたのは、おそらく1,2頭だろう。しかし密集して走っていたために、まったく影響を受けなかったものはいないはずだ。

 

 死にはしなくとも、爆発により傷を負ったもの、あるいは吹き飛ばされたり、周囲のものを巻き込んで転倒するなど、アンコウに(せま)ってきていたレッドアイウルフたちは、今の一撃で完全な混乱状態になっていた。

 

「よし。上出来だっ」

 アンコウは走りながらつぶやいた。

 

 精霊封石弾の一撃が狙いどうりの効果をあげたのを確認し、チラチラとうしろを振りむきながら走り続ける。

 爆発によって舞い上がる粉塵のなかから2頭のレッドアイウルフが飛び出してきた。この2頭は、これまでと変わらない速度でアンコウを追ってくる。

 

 アンコウはすでに2階層へと続く昇層道を登りはじめていたが、2頭のレッドアイウルフが近くまで迫ってきた時点で、足に急ブレーキをかけて振り向いた。

 そして、反転して坂を駆け下りながら、勢いを殺さず1頭目のレッドアイウルフを斬り裂いた。

 

ザシュッッ!!

 

 アンコウに迫っていたレッドアイウルフは、2頭とも先程のアンコウの精霊封石弾の攻撃により、傷を負っていた。

 アンコウは走って逃げながらも、そのことを確認し、そのダメージは決して浅いものではなく、この2頭が相手なら、さほど時間をかけることなく倒すことができると判断していた。

 

 実際に振り向きざまに斬りつけられた1頭は、死んではいないものの地面に倒れ込み、起きあがろうとしても起きあがることができず、すでに戦闘能力は削がれている。

 

 アンコウの動きは止まることなく、素早くもう一頭のレッドアイウルフにむかって踏み込んでいく。

 

「おおぉぉおおー!」

 アンコウは恐怖を振り払うように気合い声を発する。

 

 飛びかかってくる魔獣に対し、怯むことなくさらに踏み込み、ふりあげた剣をふり落とす。

 アンコウは魔獣の肉を切り裂く確かな手応えと、左腕の上腕にとどいた魔獣の前爪の攻撃の衝撃を感じた。

 

 レッドアイウルフの爪は、アンコウが身につけている鎧で保護されていない左上腕部へあたった。

 しかし、その上腕部も戦闘用の強化防護服で守られており、レッドアイウルフに爪はアンコウの皮膚を切り裂くことなく、骨を折るほどの打撃を加えることもかなわない。

 

「グガアァウッ!」

 

 レッドアイウルフはアンコウにむかって、威嚇するように吠えたものの、今うけたアンコウの一撃のダメージのせいで、連続して攻撃を仕掛けることができない。

 

 アンコウはその隙を見逃すことなく、さらにとどめを刺すべく剣による攻撃を続けた。

 そして、アンコウが三撃目の攻撃を加えたあと、レッドアイウルフはピクリとも動かなくなった。

 

 アンコウはレッドアイウルフの返り血を顔に浴び、戦闘の興奮のためか、白い歯を見せて顔に壮絶な笑みを浮かべていた。

 アンコウは少し肩で息をしてはいたが、体力的にはまだ問題なく、そのまま昇層道のうえを見つめ、再び走り出す。

 

「うおおーーっ!ダッジぃぃー!」

 

 この昇層道はうえに行けば行くほど狭くなっており、さきが薄暗くなっているため、はっきりとは見えなかったが、まだダッジたちの影が昇層道のうえのほうに見えていた。

 

( くそー、ダッジの野郎。俺を犬ころどもの生け贄なんかにしやがったらゆるさねぇぞ)

 

 アンコウはあせる気持ちにとらわれながら、必死で坂を駆け上がる。

 アンコウの背後からは、再びレッドアイウルフたちの吠える声が、少しずつ大きくなってきていた。

 

 アンコウは一瞬うしろをふり返る。

 いま近づいてきているのは、先程、火の精霊封石弾で吹き飛ばした十頭あまりのレッドアイウルフの生き残りだと思われるが、間違いなくこれの背後には、まだ数十頭にのぼるかもしれない「湧き」の中核集団がいる。

 

 アンコウは、もはや間近に迫りくる魔獣たちと斬り合う時間の余裕はないだろうと判断した。

「くうぅっ!」

 

 昇層道を登り切ったところに、ダッジとホルガが立っている姿がアンコウの視界に入った。アンコウがそこにたどり着くまでにはまだ少し距離がある。

 アンコウは、こちらを見て立っているダッジの手の中に、精霊封石弾が握られていることに気づく。

 

 アンコウは、ダッジを(にら)みつけるように見た。

 

 アンコウはおそらく今ダッジが右手に握っている精霊封石弾は、先程アンコウが使ったものと同じく、火の精霊を封じたものであろうと考えていた。

 それも先程アンコウが使用したものよりも、間違いなく強力な爆発力を有するものだ。

 

 ダッジの目的は、この昇層道を通路ごと崩すこと、あるいは爆発によってそれに近い状態にすることだろうとアンコウは確信している。

 

 仮に完全に通路をふさぐことができない結果を考えれば、少しでも早く精霊封石弾による爆破を実行し、逃げる時間を少しでも多く確保することが、より生き残る可能性を高めることに間違いなくつながる。

 

 ダッジとしては、たとえアンコウもろとも爆破しても、それで生き延びることができたとしたら問題はないはずだ。しかし、ダッジはまだ精霊封石弾を投げずに昇層道のうえで立っている。

 

 アンコウは徐々に狭くなっていく道を全力で駆けあがる。そしていつのまにか、アンコウの手にも、アンコウが所持する最後のひとつの火の精霊封石弾が握られていた。

 

 もし今、ダッジが精霊封石弾を使用したら、アンコウの腰の袋に入れられている高価であろう魔石も岩石の下敷きになるという事実とともに、アンコウは岩石に押しつぶされる前に、お前に向かってこの精霊封石弾を投げ返すという脅しを眼光鋭く無言のうちにかけていた。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

「とっとと走ってきやがれ!アンコウ!」

 

 わずかな間があいたのち、ダッジが大声で叫んだ。

 

 その言葉を聞いて、アンコウはわずかな安堵を覚えた。ダッジの真の心の内はわからないが、ダッジがアンコウもろとも通路をふさぐという判断を選択肢からとりあえずは外したと理解した。

 

「わかった!いま行くっ!」

 

 アンコウはいまでも全力で走り続けており、これ以上、走るスピードをあげることはできなかったが、声だけはできるだけ元気に大きく返事をかえした。

 

 そしてアンコウが昇層道を登り切る直前まで来ると、ダッジは下に向かって、栓を抜いた精霊封石弾を勢いよく投げた。

 ダッジは精霊封石弾を投げると同時に、昇層道から離れるために走り出す。

 

 アンコウはようやく第2階層に入ったものの、休む間もなくダッジの後ろを追って、そのまま走り続けた。

 

ドォグアアァァンッ!!

 

 アンコウの背後から凄まじい爆音が響き、爆発によって発生した土煙が、爆風とともにアンコウたちを飲み込んでいく。

 そんな中でもアンコウたちは、止まることなく走り続ける。しばらくすると土煙はなくなったが、アンコウたちは警戒心を緩めることなく走っていた。

 

「アンコウ!きたぞ!」

 

 ダッジの声を聞いてアンコウはうしろを見た。1,2,3頭のレッドアイウルフが土煙から抜け出し、アンコウたちの近くまで迫ってきていた。

 

 アンコウはその時点で、この3頭からは逃げ切ることはできないと思ったが、すぐには止まらずに、うしろを気にしつつも走り続けた。

 戦闘に入る前に確認しなければならないことがあったからだ。

 

 アンコウはレッドアイウルフと一定の距離を何とか保ちつつ、しばし走り続けた。

 アンコウたちはレッドアイウルフの「湧き」に遭遇してから、ここに至るまで相当の距離を走り続けている。

 しかし未だその体力は尽きてはいない。もちろんまったく疲れていないなどということはなかったが、まだまだ走り続ける体力は残っている。

 

 アンコウにダッジ、それに獣人のホルガも冒険者として、そこそこに実力を持っている。その3人でさえ、第3階層という低階層でも魔獣の「湧き」に遭遇すれば、命からがら逃げるしかない。

 

 一級といわれる冒険者たちなら別だが、それ以外の者たちにとっては魔獣と呼ばれる存在に数でおされれば逃げるしかないというのが、冒険者家業の厳しい現実であった。

 

 アンコウは生き残るために走る。

 アンコウはうしろを見ると、遠目にも、もうほとんど土煙は見えなくなっていた。そして、アンコウの近くを走っている3頭のレッドアイウルフ以外の魔獣の姿は見えない。

 

 アンコウはこれ以上は追ってくるレッドアイウルフの数は増えないと判断した。

 ダッジが使用した精霊封石弾の威力とあの通路の広さからして、あの昇層道は崩れ落ちた岩石で埋まり、遮断されている可能性が高い。

 

 その確認をするため、アンコウはたった3頭のレッドアイウルフからも全力で逃げていたのだ。

 第3階層で湧き出していたであろう数十頭のレッドアイウルフたちは、ここには来ないと見極めたアンコウは走る足を止めた。

 

「オラアアー!クソ犬どもっ!」

 

 そしてアンコウは一気に攻勢に転じた。自分からレッドアイウルフに全力で斬りかかる。

 

 3頭を相手にしても優勢に戦いを進める実力をアンコウは持っていたが、さすがに3頭相手に一瞬で片をつけるほどの力はない。

 しかしアンコウもそこは冷静だ。伊達に3年間も魔獣狩りで食ってきたわけではない。相手の攻撃をかわし、全体を見て牽制しながら、攻撃を加えていく。

 

「らぁぁああーっ!」

ザシュッッ!!

 アンコウの剣が、一頭のレッドアイウルフの頭をたたき割った。

「まず一匹いぃっ」

 

 アンコウは再び自分たちが走ってきた道を確認する。やはり自分たちを追ってくる他の魔獣の姿はない。

 アンコウは残り2頭になったレッドアイウルフを見ながら、何とも言えない笑みを浮かべた。

 

「さんざん走らせてくれたな、クソ犬。ツルとウォンだけで満足してればいいものの。お前らは俺に狩られる側なんだよっ!」

 

「「ウウゥゥーッッ!」!」

 

 レッドアイウルフは姿形は狼のようだが、アンコウの元いた世界の虎ほどの大きさがある。

 そのレッドアイウルフが、うなり声をあげてはいるものの、自分たちを笑いながらにらみつけているアンコウに怯えを見せはじめていた。

 狩る側と狩られる側の形勢が逆転したことに気づいたのだろう。

 

ザクゥッ!

「グギャンッ!」

 

 さらに一頭が斬り伏せられた。しかし斬り伏せたのはアンコウではなく、いつのまにか近づいてきていたホルガであった。

 

「おい!ホルガ!来るんならもっと早く来いよ!なに最後の一撃だけ入れにきてんだ!」

「ご主人様の命です」

 

 チラリと目を向ければ、ダッジはゆっくりと歩きながらこちらに近づいてきていた。

 

(ちっ、なに大物ぶってんだ。あの山賊づらは)

 アンコウは(いら)ついたが、声に出して悪態をつくことはしなかった。

 

 ダッジも一級クラスの冒険者ではなかったが、少なくともいまのアンコウよりも強く、このパーティーのリーダーでもある。

 アンコウは自分のなかの不機嫌さをぶつけるように、最後の一頭になったレッドアイウルフに斬りかかった。

 

「死ねえぇっ!」

 

 アンコウは十分な手応えのある斬撃を相手の攻撃はかわしながら叩き込んだ。そして危なげなく最後の一頭も始末した。

 

 

「ふうーっ、やれやれだ」

 

 アンコウは大きく息を吐き出すと、まわりに魔獣の気配がないのを確認してから、大きな岩に腰掛けた。

 岩に腰かけたアンコウの視線の先にダッジとホルガの二人が立っている。

 

「ホルガ。そいつらから魔石を取り出しておけ」

「はい。ご主人様」

 

 ダッジはホルガの指示を出すと、アンコウのほうに近づいてきた。近づきながらダッジはアンコウに話しかける。

 

「2人やられたな」

「そうだな、だけど3人生き延びた」

「ああ、しかも自分が生き残っている」

「ダッジ、あんたは4人死んでも生き残っていただろ?」

「さぁ、どうだかな。俺もお前も生き残っている。それで何か問題があるのか?アンコウよ?」

「なんもねぇな。クッ、クッ、」

 アンコウは低く笑いながら答えた。

 

 低く笑いつづけているアンコウに、ダッジは左の手のひらを上向きに差し出してきた。そして、右手にはまだ剣を抜き身で持っている。

 アンコウはまだ低く笑いながら、ダッジの目を見た。

 

「クッ、クッ。何だよ?」

「魔石を出せ、アンコウ」

「俺が持ってちゃ、まずいのか?」

「まずい、まずくないの問題じゃねぇだろ。お宝の管理はリーダーの管轄だ。走りすぎて、頭がボケちまったのか?」

 

 ダッジも顔に笑みを浮かべながら話していた。

 しかしアンコウもダッジも、互いを見る目は、まったく笑っていなかった。

 



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第5話 嫌いな世界

「おい、アンコウ。何のつもりだ?」

「おい、おい。おっかねぇな、ダッジ。別に何でもないぜ。同じパーティーメンバーだろう?おれが持っていても問題ないだろうが」

「ああ?話すり替えてんじゃねぇ。パーティーの決め事を守れっていってんだよ。誰が持つかはパーティーリーダーのおれが決めることだ」

 

ダッジの顔からだんだん笑みが消えていく。

アンコウは相変わらず、笑みを浮かべて、とぼけた表情でダッジを見ていた。

 

「ご主人様、魔石の回収終わりました」

 魔石の回収を手早く終えたホルガが、ダッジのうしろまできていた。手には魔石の回収時に使った短剣をまだ持っている。

「そうか」

 ダッジはアンコウを鋭い目で見たままで、ホルガに答えた。

 

「………ホルガ」

「はい」

 

 ダッジが何やらアゴで合図をすると、ホルガはダッジの横まで進み出てきて、アンコウをじっと見つめた。少しずつ雰囲気が剣呑(けんのん)なものになっていく。

 

 アンコウは本気でこの魔石を独り占めしようとは考えていない。当然だ。この二人を敵に回してアンコウが迷宮の外に出られるわけがない。

 

 逆にダッジがアンコウを殺してお宝を独り占めしようと思ったら容易にできるだろう。

 アンコウはダッジがそこまで悪辣なまねをする冒険者ではないと判断して、ダッジのパーティーにも参加していたのだが、ここまでの流れ上、必要以上の不安に襲われていた。

 

 しかしアンコウもこうして二人からプレッシャーをかけられれば、この場の決定権は完全にむこうが握っており、自分の圧倒的不利な立場をより強く認めざるをえない。

 

(……ったく。ウォンとツルがいなくなって、おれはダッジにまったく逆らえない状況になったって事か。クソいまいましい)

 アンコウは心の中で毒づきながらも、顔には一層の笑みを浮かべた。

 

「ハハハッ!なんだよ二人とも!そんなおっかない顔をするなよ!せっかく生き残った仲間なんだからさぁー」

 

 アンコウはそう言いながら、腰の袋から例の魔石を取り出し、立ち上がってダッジたちにゆっくりと近づいていく。

 アンコウが近づいていくと、ホルガがアンコウとダッジの間に立ちふさがるように出てきた。

 

「何だよ、ホルガ。なんもしないよ。しかし奴隷の鏡だね、お前は。ご主人様のいうことに忠実で、ご主人様の身を案じて壁になるか」

「奴隷とはそういうものでしょう」

 ホルガが無表情のまま、アンコウに言った。

 

「……しかしだ。それは同じパーティーの仲間にやることじゃないよなぁ、ホルガ?」

 それまでわざとらしい笑みを浮かべていたアンコウの顔が、一転厳しいものに変わる。

「ホルガ!お前は、おれを敵扱いする気なのか!」

 

 アンコウは語気も厳しく突然怒鳴るように言った。ホルガもいきなり怒鳴り声をあげたアンコウを鋭い目つきでにらむ。

 

 アンコウは別に本気で怒っていたわけではない。これもダッジの出方をうかがうための芝居だ。

 するとダッジはホルガの肩を掴み、ホルガをうしろに退かせた。そしてダッジ自身が、アンコウの前に出てくる。

 

「いい加減にしろよ、アンコウ。そこまで疑い深いとさすがに気分が悪い。何だったら、ご期待に応えてやろうか。あぁ?」

 

 ダッジがドスのきいた声で脅すように言う。アンコウは自分をにらむように見るダッジから目をそらすことなく、しばらく黙っていた。

 

 

「ハハハハッ!」

 アンコウが張り詰めた空気をほぐすように、今度はまた笑い声を上げた。

 

「そんな真剣になるなよ、ダッジ。おれが疑い深くなってるって気づいてんじゃねぇか。だったら何とかしてくれよ。パーティーリーダーなんだろ?」

 アンコウは意識的に、軽く明るい調子で言った。

 

「チッ………俺たちは生きて迷宮を出る。そして、その魔石を売っぱらって、俺とお前で分ける。しかしだ。その魔石は、このパーティーのリーダーである俺が預かる。

 それがお互いに生きて戻って、金を手に入れる第一歩だ。この場での問題はそれだけだ」

 

 ダッジは先程とは違い、面倒くさそうではあったが、普通の声色で言った。

 アンコウはダッジがしゃべっている間も探るような目でダッジを見つめていた。そしてアンコウは、大げさに目を見開らいて言う。

 

「おおー!さすがはダッジだ。ありがたい言葉だ。出来たリーダーで助かるぜ。信頼してるぜっ」

 

「やめろ。白々しい野郎だ。それにまだ迷宮の中だ。気ぃ抜いてると殺られるぞ」

 

 アンコウは言質を取ってから、手に持っている大きい魔石をダッジに差し出した。

 言葉だけの口約束などは、破る人間はたやすく破るものなのだが、それでも面倒であっても言質を取っておくことは必要な作業だと、アンコウは思っている。

 

「ありがたい忠告だ。外に出るまでしっかり働くから、よろしく頼むよ。リーダー」

「チッ、面倒くせぇ野郎だ」

 

 ダッジは、アンコウの手から魔石をつかむと振り返り、すぐに歩き出した。

 

「ああ、ホルガ」

 アンコウはダッジに続いて歩き出そうとしていたホルガを呼び止めた。

「なんですか?」

 ホルガは相変わらずの無表情だが、先程のこともあり、アンコウを見る目はいつもより少しきつい。

 

「ホルガ。さっきは怒鳴って悪かったな。ちょっと気が立っていて、お前に当たっちまった。お前はよく働いてると思うよ。一緒にいるおれらもほんとに助かってる。

 いや、お世辞じゃなくてさ。おれも奴隷を買うなら、ホルガみたいなヤツがいいな」

 

 アンコウは本当にお世辞で言ったわけではなかったが、これは今後のことを考えて、ホルガにも悪感情をもたれないほうがいいと思い、素早くフォローを入れておいたことに違いはなかった。

 

 効果があるかどうかはわからなかったが、悪くなることはないだろうと、とりあえず言ってみたのだ。

 

「………いえ、気にしていませんから」

 

 ホルガは相変わらずの無表情のままで言うと、そのままダッジの後ろをついて歩いていった。

 

(ふむ。ちょっとは効果があったみたいだな)

 アンコウは、無表情ながらホルガの自分を見る目が少しやわらかくなったのを見逃さなかった。

 

 奴隷の行動はその主の命令で決まるので、ホルガにどう思われても実際には大きな問題ではないのだが、人の感情の動きを見抜くという力は、この世界を生き抜くうえでは非常に重要なものだ。

 

 アンコウはこの世界に来るまでは、規則や秩序がしっかりしている社会ほど、人に気をつかい、空気を読む必要があるのだと思っていた。

 しかし、それは間違いであったと今では思っている。

 

 規則がなく、秩序が乱れているからこそ、他者の顔色をうかがう力が必要になるのだ。うっかり他者を怒らせることが即、死につながることもあるのだから。

 

「おい、アンコウ!お前はそこに残るのか!」

「冗談じゃねぇよ!」

「休憩するにも、ここはまずい!移動するぞ!」

「待ってくれ!」

 

 アンコウは、ダッジたちのうしろについて再び歩き出した。

 

 

 

 アンコウたちはダッジの判断で予定を繰り上げて、迷宮から出ることにした。

 さすがにその日のうちに出ることはできなかったが、予定よりも一日早く迷宮の外に無事に出ることができた。

 

 魔獣の「湧き」などは滅多に起きることではないし、第2階層からなら、この3人がいれば、十分に戦うことができた。

 アンコウたちが迷宮の外に出た時、すでに太陽は落ち、月と星明りの時間になっていた。

 

「この時間じゃあ、魔石の換金は無理だ。とりあえず宿屋に行って、換金は明日だな」

 ダッジが言う。

 

 アンコウとしては、とっとと換金と金の分配を済まして解散したかったのだが、ダッジの言うとおり夜になっていては仕方がなかった。

「ああ、わかった」

 

 アンコウたち3人はそろってアネサの町に入る門にむかって歩いていく。

 アンコウたちがさっきまで潜っていたアネサの迷宮はアネサの町を出たすぐ近くにある。正確に言うとアネサの町はこの迷宮があったからこそ、できた町だ。

 

 魔素の迷宮には魔獣が住み、魔獣を倒せば魔石が手に入り、この魔石の用途は多様で、この世界では絶対必要なものになっている。

 しかし、誰もが迷宮に入ることができるわけではない。妖精種ならば誰もが魔素に対して耐性を持っているが、人間族や獣人族はそうではない。

 

 人間族や獣人族は、魔素にからだが侵されることなく魔獣を倒す力を備えた者は、全体のうちの一部の者に限られる。アンコウもダッジもホルガも言うなれば選ばれし者といえる。

 

 先天的にその素質を備えている者、後天的にその能力に目覚める者の差はあるが、そういった力のある者のうち、魔素の迷宮や魔素の漂う地に入り、魔獣狩りを生業(なりわい)とする者のことをこの世界では一般に冒険者と呼ぶ。

 

 魔獣を狩り、自分の力で魔石を手にすることができるということは、他の力なき者よりはるかに栄達を手にすることができる可能性が高い。

 しかし、ウォンやツルのように魔獣の牙の前に倒れる者も多く、ホルガのように奴隷とされる者も少なからずいる。

 

 力なき者は強き者に食われ、弱き者を喰らった者はさらに強き者に食われる。アンコウが元いた世界のように弱者を救う社会的なセーフティネットなど存在しない。

 

 

 アンコウたちは町の門をくぐり町のなかに入っていく。

 そしてアンコウたちは、門の比較的近くにある迷宮に潜る冒険者たちがよく使う宿屋のひとつに入っていった。

 

「ダッジさんお帰りなさい。ご無事でなによりです」

「ああ」

 

 どうやら、迷宮に潜る前にダッジはこの宿を使っていたようだ。魔石を売って稼いでいる冒険者は、一般的にいって普通より金を持っている者が多い。

 意外にも冒険者を目あてにしている宿屋は、比較的大きくキレイなところが多い。

 この受付の従業員の言葉遣いも、じつに丁寧である。

 

 しかし同時に、この受付の男性の体つきは筋肉質で、隠しきれない威圧感もあった。多数の冒険者が出入りする以上、暴力沙汰も多く、それに対応できる人間を雇っているのだろう。

 

 それでも冒険者たちが宿屋に歓迎されているのは、揉め事も多いが、明日死ぬかもしれないという思いを強く持っている冒険者は、あの世に金は持っていけないということで、多くの金を落としてくれる上客だからである。

 

「また二人部屋でよろしいですか?」

「いや、三人泊まれる部屋でたのむ。明日には二人部屋に変えてもらうかもしれねぇけどな」

「かしこまりました」

 

 

 アンコウたちは3人同じ部屋に入った。ベッドは3つ用意されていたが、アンコウの気が休まることはない。

 アンコウがいつも使っている宿屋はもっと安い宿屋であり、特別理由がないかぎり、一人で泊まっていた。

 

(仕方がないけど、気が休まらないな。せっかく迷宮から出てきたのに)

「くそっ」

 アンコウは、小さな声でつぶやいた。

 

「おい、アンコウ。不機嫌になるなとはいわねぇが、お互い様なんだぜ」

 

 アンコウはダッジにそう言われて、とってつけたような笑顔をダッジにむけてみた。

 

「………やめろ。それは本気で腹が立つ」

「何だ。注文の多いリーダーだな。おれみたいな下っ端は大変だ」

 アンコウは大げさに肩をすくめる。

「テメェは本当にいい度胸だ。誰をからかってるのかわかってるんだろうな?」

 

 ダッジが少し本気で剣呑な雰囲気を見せてきたので、アンコウはおとなしく頭をさげておいた。

 

(まったく、冗談も通じない。まぁ、今晩だけの我慢だ)

 

 そんなにいやならば別の部屋を取ればいいのだが、魔石の換金が済んでいない以上、そうもいかない。

 魔獣狩りをパーティーを組んでおこなって、手に入れた魔石を持った者が、そのまま持ち逃げするなんて話はザラにあることだ。

 

 アンコウは、すでに迷宮から出てきている今の時点で、ダッジがそんなまねをする可能性はとても低いと思っている。

 しかし、信頼関係のある固定パーティーならいざ知らず、いっぱしのフリーの冒険者としてむやみに相手を信用する姿勢を見せるなど、甘いマネはできない。

 そんなことをすれば、かえって自分のことを軽く見られてしまう可能性すらある。

 

 とりあえずアンコウたちは荷物を置いて食事に行くことにした。

 

「アンコウ、ホルガ行くぞ」

「ダッジのおごりか?」

「なにぃ」

「今回は金になりそうなお宝があったんだ。メシぐらい奢れよ」

「チッ」

 

 どうやらメシは奢って貰えそうだと、アンコウはダッジについていった。

 

 ダッジにメシを奢るように催促はしたが、実はアンコウはそこそこ金は持っている。

 前の世界からの習慣みたいなものなのか、冒険者になってそれなり金を稼げるようになると、他の冒険者たちと違いアンコウは意識的に稼いだ金を貯めていた。

 

 明日死ぬかもしれない冒険者としてはかなり珍しいことなのだが、アンコウはどうしても無駄に金を使う気がしなかった。

 そもそもアンコウは死ぬ気がないし、金を稼ぐために冒険者としてリスクを負うことは仕方がないとしても、それ以外の時は、できるだけ穏やかに豊かに生きたいと思っている。

 

 それゆえ必要な出費も多い冒険者家業ではあったが、アンコウは、3年ほどの経歴を持つアンコウクラスの冒険者としては、かなり金をためこんでいた。

 

 そして今度の狩りの稼ぎで、アンコウは欲しいと思っていた とある物を買うことができるだろうと考えていた。

 

 

 

 

「わははははっ!」

 

 ざわつく宿の食堂。冒険者を上客としているこの宿の夜の食堂は、食事をするところというよりも居酒屋という感じだ。

 ダッジはかなり速いペースで酒を飲んでおり、すでにかなり酔いが回っているようだ。

 

(はぁーっ、これはまだ当分部屋に戻れそうもないな………)

 

 アンコウとしては、食事を済ませたらとっとと部屋に戻って眠りたかったのだが、ダッジは他の多くの冒険者と同様かなり酒量が多い。

 アンコウも酒は飲める口だったのだが、かなり水で薄めた酒を何かを食べている合間にちびりちびりと飲んでいる。

 

 アンコウは量を飲むときは一人で部屋で飲むか、よほど気心の知れた人と一緒でなければ、怖くて人前で酔っぱらうことは控えていた。

 アンコウは特に人に対して用心深い。過去に奴隷にされた経験などから、この世界の人間に対する警戒心が強くなってしまっている。

 

 逆にアンコウは、よくこんなところで酔っぱらうことができるものだとダッジやこの食堂で派手に酔っぱらっている者たちに対して感心すらしてしまう。

 平和な異世界からきたアンコウには、まだそういう図太さは身についていない。

 

「へへへ。よう、ダッジ。ご機嫌だな」

「ダッジ、稼ぎのほうはいいのか?」

「また今度、誘ってくれよ」

 

 ダッジは、この街を拠点にしている冒険者たちにそこそこ顔が広い。まわりにいる酔っぱらい達が、入れ替わり立ち代り、ダッジに声をかけてくる。

 

 なかにはかなり風体のよろしくない者もまじっており、ダッジに一声かけて、ホルガの体を触っていくような者もいたが、ダッジもホルガも特別それをとがめることもなく、いつものことのように振舞っている。

 

「………なぁ、ホルガ。金でも取ってやったらどうなんだ」

 

 アンコウはダッジやホルガが何もいわない以上、直接自分が間に入って、やめさせるつもりはまったくない。

 

 迷宮の中では、ホルガはその戦闘能力ゆえに常にダッジの壁になり、ウォンやツルには性の対象としてその体さえも好きにされていた。

 そのことを思えば、いま酔っぱらった冒険者に胸や太ももを触られるぐらいは軽いものなのかもしれない。

 

 しかしアンコウにしてみれば、生きるか死ぬかの迷宮の中ならいざ知らず、宿屋の食堂でメシを食べながら見たい光景ではなかった。なぜなら自分が奴隷だったときに、味わった苦痛を思い出すからだ。

 

「いえ」

 ホルガはアンコウにそう一言だけ答えた。

 

 ホルガは表情を変えることもなく、お茶のようなものを飲んでいる。おそらく酒を飲むことはダッジが許していないのだろう。

 

「はははっ!アンコウ!お前も触ってもいいんだぞ!ホルガは触られるのが好きなんだ!それともお前は男のほうが好きなのか?」

 

(完全に酔っぱらってやがるな。この山賊づらは)

 

 ダッジに下衆いところがあるのはいつものことであり、どちらかというとただ明るくなるだけの酒であって酒癖が悪いというわけではないのだが、アンコウは出来れば今すぐにこの場から立ち去りたいと強く思っていた。

 

「言ったろう、ダッジ。おれは分け前をもらったら、その金を持って娼館に行くんだよ」

「ワッハッハッ!そうだったな!お前は獣人女は専門外だったな!」

 

(誰がいつそんなこと言ったよ、この山賊づら!)

 

 アンコウは自分の矛盾に気づいている。アンコウは娼館を日常的に使っている。人間の女も獣人の女も買ったことがある。

 娼館で働いている女は、なかには金のために働く自由民の女もいるが、その多くは奴隷であった。

 

 自分は娼館で女を買うくせにホルガを触ろうとしないことに何の意味があるのだろうか、迷宮の中でホルガを抱く者、酒の場でホルガの体を触る者、それを嫌悪する資格が自分にはないだろうと思っている。

 しかし、どうしても嫌だったのだ。理屈で感情は抑えられない。

 

( くそっ!もう嫌だ。こんな世界は!)

 

 そしてアンコウは、自分の中にある矛盾も、この世界のせいにする。

 

 アンコウにとって、元の世界とこの世界を比べれば、確かにこの世界の方がひどい世界ではある。しかし、自分にとって都合の悪いことの全てが、この世界のせいなどということはあり得ない。

 

 アンコウも本当はわかっているのに、この世界のせいにするしか気持ちのもっていきようがなかった。

 

 そして、アンコウはまた少しこの世界がきらいになっていく。

 



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第6話 辻斬り貴族

「わっはっはっは!どうしたアンコウ!お前も飲め!ウォンとツルの弔い酒だ!」

「おれはこれぐらいが適量なんだよ」

(何が弔い酒だよ。これっぽっちも気にしてやがらないくせに。まぁ、それはおれも人のこと言えないけどな)

 

「あっはっはっはー!」

 

(それにしてもダッジのやつ、相当テンション高いな。くそっ、これは長引くな)

 

 ダッジはそれから空が白むまで飲み続け、アンコウはやむなくそれにつき合った。

 

 

 

 

 「ふわーっ、眠い」

 

 次の日の早朝から、アンコウたちはガンツ商店にいた。店が開く少し前には店に着いており、アンコウたちがこの日一番目の客だ。

 この店はダッジが魔石を換金するときにいつも使っている店であり、なかなかの大店(おおだな)だ。

 

 アンコウはまだ眠く、時折あくびもしていたが、内心は緊張というか少し興奮していた。

 実はアンコウたちは店に入ると、ダッジがすぐに顔見知りの店の番頭(ばんとう)格の従業員にまわりにわからないように魔石の入った袋を見せた。するとアンコウたちは、いつも換金する場所とは違う個室のような場所に案内されることになった。

 

 アンコウも何度かはこの店を利用したことがあったのだが、その部屋に案内されたことはない。

 しかし、その部屋が高額物品の持ち込みがされたときに使われる場所だということは知っていた。

 

 案内された部屋ではテーブルの席にダッジが座り、アンコウとホルガはそのうしろに椅子を置いて座った。これから始まる売買交渉は、パーティーリーダーであったダッジに一任している。

 

 

「ダッジさん、お待たせいたしました」

「いや、開店早々だったからな。問題ない」

 

 入ってきたのはアンコウたちをこの部屋まで案内してきた番頭(ばんとう)格の男だ。

 商人らしく物腰は低いが、顔つきは厳つく、だるまのようなガッシリとした短躯(たんく)の男。この男は妖精種のドワーフである。名前はロビ。

 

「では、拝見いたしましょう」

 

 ダッジは袋の中身をテーブルの上に全て出し、腕を組んでロビを見ていた。

 ロビは他の魔石には目もくれず、ひときわ大きい魔石を手に取った。そして、それを時間をかけて鑑定する。

 

 妙な緊張感が漂う中、アンコウも一言も発せず、魔石を鑑定するロビを見つめていた。

 

 そして手に持った魔石を再びテーブルに置いたロビがおもむろにダッジを見て、買い取り金額を口にした。

「なっ……!」

 

 それまでポーカーフェイスを保っていたアンコウだったが、その金額を聞いて思わず声を漏らしてしまう。

 その金額は、アンコウがこの1年間で稼いだ金額の3倍を大きく超える額だった。

 

 アンコウは半開きになった口で、うしろからダッジの横顔をうかがう。ダッジは口角をつり上げて笑っているように見えた。

 しかし、その顔に驚愕というほどの驚きの色はない。

 

(………ダッジ、わかっていたのか)

 しかもダッジは、さらに買い取り金額をつり上げようと交渉を始めた。

 

 

「ダッジさん、無茶を言わないで下さい。私どもと長いおつきあいのダッジさんです。私も妥当な金額を提示したんですよ」

 

 しかしダッジは退かない。手慣れた調子で交渉を進め、はじめにロビが提示した価格よりもさらにいくらか買い取り金額を上積みさせてしまった。

 

 結局その金額は、アンコウのこの一年間の稼ぎの4倍近くに達する額になった。

 

 

 

 

「うわっはっはっはっはー!」

 部屋に響くダッジの笑い声。

 

 交渉が終わり、ロビが部屋からいなくなった代わりに、目の前のテーブルのうえには、金貨銀貨の大金が積まれている。

 

 テーブルに積まれている金のなかには、今回アンコウたちが魔獣を狩って手に入れた魔石を売った分も含まれていたが、その金貨銀貨のほとんどがあの大きい魔石1つと交換されたものだ。

 

「ダッジ、あんたわかってたのか?」

 アンコウがまだ少し惚けたようにテーブルのうえに置かれている金を見ながら言った。

「ん?まぁ、お前が思っていたよりは、俺は高い金額を考えていたんだろうがな。これは予想外だ」

 

 さっきまでいたロビが言うには、あの魔石にはアンコウたちが単に表面を触れて感じることができた魔力だけでなく、魔石のなかに表面を触っただけではわからない魔力を秘めている種類のものらしい。

 

 ドワーフであるロビは、アンコウではわからなかった その秘めたる魔力も探り当てることができる能力を持っている。

 そして、そのことはダッジにもわかっていたようだ。

 

「経験ってやつだ。ロビがやったような魔力探知は俺にもできねぇがな。あの魔石の大きさや色を見れば、そういう可能性はあるだろうと思っていた。まぁ、それにしてもの収穫だったがな。くっ、くっ」

 

「あの魔石は一級品だったってことか」

 

「いや、一級品だったら、少なくともこの2倍はいくだろうぜ。一級品を常に狙っているトップクラスの冒険者たちだって、一級品の魔石なんかは年に数えるほどしか手に入れることができないらしいからな」

 

 それを聞いて、アンコウは目をむく。一級品の魔石などアンコウには縁のないもので、それに関する知識はほとんど持ってなかった。

 それゆえに、少なくともこれの2倍は超えるという一級品の魔石を年に何個かは手に入れる冒険者がいるという事実に逆に驚いた。

 

 それならば、今アンコウたちが売ったぐらいの魔石ならもっとザラに手にしているかもしれない。

 アンコウは彼らが相手にしているだろう魔獣たちとは決して戦いたいとは思わないが、彼らが手にしているだろう金貨銀貨の額には素直にうらやましいと思ってしまった。

 

「そのうらやましい連中はどんだけ欲深で命知らずなんだ?そんだけ稼いだらとっとと引退すりゃあいいのにな」

 

「なかにはそういうおもしろ味のないやつもいるだろうがな。それだけ力を持っているヤツらはそう簡単に戦うことから身を退くことなんかできねぇさ。まわりがそう簡単には許さねぇだろうし、だいたい冒険者なんてやってる人間が自分の欲望に底をつくれるとは思えねぇ。

 アンコウ、お前だったらそれだけの力を持っていたとして、そこそこの金を稼いだだけで田舎に引っ込むなんてマネができるか?俺はできねぇな。金だけじゃねぇ、それだけの力があったら権力を望むことだってできるだろう」

 

 アンコウは何も答えなかった。今なら田舎に引っ込むと言うことができる。

 しかし実際にそんな力を手にしたとき、自分がどう変わるかは確かにわからないと思ったからだ。アンコウは質問には答えずに質問で返した。

 

「何だ、ダッジ。あんたは権力がほしいのか?」

「ああ、ほしいな」

 ダッジはためらうことなく軽い口調で答えた。

 

 アンコウはダッジが冒険者になる前は、とある地方貴族に使える騎士であったことを思い出した。

 ダッジの家は代々その地方貴族に仕える騎士の家柄であったらしく、ダッジが正式な騎士となってまだ間もないころに地方貴族同士の領土争いに敗れ、ダッジが仕えた貴族の家は滅び、ダッジは冒険者の道に入ったと聞いていた。

 

 ダッジはその頃の話をほとんどしないので、アンコウもそれ以上の具体的なことは何も知らない。

 それにそのようなことはこの世界では今もよくあることで、別に珍しいことでもない。

 

(あんな山賊づらの騎士がいるかよ)

 というのがアンコウの率直な感想であり、ダッジのことは、今はどうみても骨の髄から冒険者になっているとしか、アンコウの目には映らない。

 

「ダッジ、どんな種類の権力だ?まさか、まだ騎士に未練でもあるのか?」

 

 アンコウはそんな深くは考えず、軽く笑いながらで聞いた。

 しかし、その質問を受けてダッジがアンコウに返した視線は、思いのほか鋭く厳しいものであった。そしてダッジは何も答えは返さない。

 

 アンコウは顔から笑みを消して、ダッジから目をそらした。

(ヤバッ、地雷だったかもな)

 

 誰にでも触れられたくない過去や、表面的にはわからない思いというものがある。

 アンコウはダッジのその厳しい視線から、自分の失敗を察し、自分の脳内で今の質問はなかったことにした。

 

 

 アンコウたちは無駄話はそこまでにして、テーブルに積まれた金貨銀貨の分配をおこなう。お宝の分配に関しては事前に決めていたのでいまさら揉めることはない。

 

 まず10のうち2は奴隷を連れてきていたということもあり、このパーティーリーダーであるダッジに。あとの8を全員で公平に分割する。

 

 この中には奴隷であるホルガは当然含まれず、ウォンとツルは死んだため、アンコウは今回の稼ぎの40%を自分の分け前として手に入れた。

 これはアンコウがこれまでに一度の魔物狩りで手にした最高金額だった。ここ最近の稼ぎの約1年半分にもなる金額を手に入れた。

 

 そして、アンコウたちは金の分配が終わるとすぐにガンツ商店を出た。

 

 

「じゃあな、ダッジ。またいつでも声をかけてくれよ。おかげで今回はよだれもんだったぜ」

「今回のことはもう忘れろ。迷宮で死にたくなかったらな。これは拾った金だ」

「へぇ、言うねぇ。さすが頼りになるリーダーだ」

「うるせぇよ。とにかくまた声をかけるぜ」

「ああ、いつでも、お気軽にな」

 

 アンコウとダッジは最後に軽口をたたき合った。

 

「ホルガもまたな」

「はい、アンコウさん」

 

 

 そして、アンコウはダッジたちと別れて、ひとり歩く。

 アンコウは、明け方近くまで宿の食堂(酒場)にいたにもかかわらず、まだ朝飯を食べていない。それなりに腹が減ってきていた。

 

 しかし、今アンコウが向かっている先はメシ屋ではないし、分け前が手に入ったら行くと言っていた、いかがわしくも魅力的な極彩色(ごくさいしょく)の街でもない。

 

 こんな大金を持って平気で街をうろつくほどアンコウは剛胆でも愚かでも、ましてや大金持ちでもない。

今アンコウが向かっているのはカラワイギルドの会館であった。カラワイギルドは、アネサの町でもいちにを争う大きさの商人組合である。

 アンコウは稼いだ金のほとんどをこのギルドに預けてた。

 

 

 

 

 アンコウはいつもどおりカラワイギルドに金を預けると、ギルド会館の外に出た。

 

 アンコウが自分にとって豊かで平穏な生活を送るために必要な ある物を買うための金は、今回の稼ぎでもう十分に貯まった。

 しかし取り立てて急ぐようなものでもなかったので、アンコウは一日二日ゆっくりと休んでから、それを見に行こうと思っていた。

 

 アンコウはカラワイギルド会館の正面階段を下りて、再びふり返って会館を見る。

 

「……しっかし、何回見ても豪華な建物だ。人が預けた金を何に使ってやがるんだろうな」

 

 金は金のあるところに集まる。決して貧乏人が空を見上げてみても金は降ってきたりはしない。

 しかし金持ちが見上げる空からは金が降ってくる。それはアンコウが元いた世界と変わらない世界の真理だ。

 

 アンコウはとりあえず今日の宿をとるために、よく使う宿屋の1つの場所を頭に思い浮かべて歩き出した。

 

 しばらくしてから、アンコウは襷掛(たすきが)けに体に巻き付けていた背嚢(はいのう)を歩きながら外した。

 背嚢(はいのう)といってもそれは実に薄っぺらく、見た目には布を襷掛(たすきが)けに体に巻き付けているといった方が適切かもしれない。

 

「………雨だな」

 アンコウはチラリと空を見上げながらつぶやく。

 

 アンコウが手に持ち替えた布風の背嚢(はいのう)には、アンコウが元いた世界の大きいジッパーのようなものがついていた。アンコウは、その大きいジッパーを上から下に動かし背嚢(はいのう)を開けた。

 

 開いたジッパーの中には何も見えない。ただ真っ黒である。

 

 そもそもこの背嚢(はいのう)にはまったく厚みがなく、中に何かモノが入っているようには見えなかったのだが、アンコウはおもむろにその中に手をいれた。

 薄っぺらい背嚢(はいのう)にアンコウの手がヒジぐらいまで入る。それでもこの背嚢(はいのう)にふくらみは生じず、薄っぺらいままだ。

 

 この世界の者ならば、アンコウのその背嚢(はいのう)が魔具の1つであることは誰でもわかるだろう。アンコウの持つこの魔具である背嚢(はいのう)には、およそ100㎏ほどの物品を収納することができる。

 

 背嚢(はいのう)の中に手を突っ込んだアンコウの頭の中に、次々と背嚢(はいのう)の中に入っているもののイメージが浮かんでは消えていく。

 そして、その中から必要なものを手に掴むと背嚢(はいのう)の中から取り出した。

 

 アンコウが取り出したものはフード付きのコートのようなもので、この世界のかっぱ。

 アンコウは再び背嚢(はいのう)をたすき掛けに背負い、取り出したかっぱを羽織(はお)ると裏通りの方に歩いていった。

 

 

 

 

「若様、あの男はいかがでしょうか?」

「あのようなみすぼらしい貧弱な者を切っても面白くもない。もっとこの剣にふさわしい者を斬らねば」

 

 アネサの町の裏通り、貧民街といわれる場所の中でも人通りの少ないとある廃屋の中で、外の道をうかがいながら頭からすっぽりと隠れるマントを着込んだ3人の男たちが話をしていた。

 

 若様と呼ばれた二十歳ほどの男は、この町に住むとある貴族の子息であり、腰に差している剣を見れば、一目でなかなか羽振りがよい貴族の家であることがわかるほど豪奢な装飾がなされている魔剣を所持していた。

 

 それは鞘の装飾だけでなく、実際の剣身そのものも、アンコウクラスの冒険者が所持できる魔剣とは、ものがまったく違う一品で質の高い魔石をふんだんに使って造られたものであった。

 

 この貴族のお坊ちゃんが今しようとしていることは、辻斬(つじぎ)り。自慢の魔剣の切れ味を実際に人を斬って試そうとしていた。

 いや、このお坊ちゃんはもうすでに3度ばかり、この剣の切れ味を辻斬りで試している。剣の切れ味を試すためだけに、この貧民街で罪なき力なき者を5人斬っていた。

 

 この貴族の坊ちゃんはこの貧民窟の住民の命になんの重みも尊さも感じていないのだろう。森で狐を狩る程度の感覚で人を斬っている。

 いや、人を斬ることに快感を覚えてしまった者にとっては、何よりも楽しい遊びなのかもしれない。

 

 その3人が潜む建物にむかって、アンコウが歩いてくる。遠くから歩いてくるアンコウの姿が、貴族の坊ちゃんの目に入った。

 

「あの男。うむ、あの男がよい。あやつを斬る!」

 

 坊ちゃんの視線の先を追って、お供の者と思われる二人の男もアンコウのほうを見た。

 

「若様。あの男はコートの下に剣を差しているように思います」

「うむ。これまでは丸腰の町民だったからな。次は多少抵抗する者でなければ、面白うない」

「しかしあの風体、冒険者である可能性もあるのでは?」

「それがどうした!このようなところを歩いている冒険者の一人や二人、この魔法剣の敵ではなかろう!」

 

 坊ちゃんと話をしていた年嵩(としかさ)の方のお供の男は、内心苦々しく思うところはあったが、その感情を顔に出すことはなく、

「はい」と うなずいていた。

 

 この年嵩(としかさ)男も、もう一人の若い方の男も、この貴族の家に護衛役として高い金で雇われた力のある人間族であり、かつては自身も冒険者として生きてきた経験もある。

 

 面倒な遊びだとは思っていたが、確かに3人であたれば、たとえあのコートの男が冒険者であったとしても後れをとることはないだろうと判断した。

 

 そしてこの貴族のお坊ちゃんも、生来の選ばれし力を持っている人間であった。

 この魔素に抗う力を持つ者は ある程度遺伝することが知られており、親が力を持つ者であれば子もその力をもって生まれてくる可能性が高くなる。

 

 当然貴族の家は抗魔の力を持つ者との結婚を望み、自然、代を重ねるごとに貴族の家は一般庶民の家よりも力を持つ者が生まれてくる可能性が高くなっていく。

 

 つまり単に血脈による身分制度というだけでなく、実際に統計的に見ると、その社会的身分の差が個人の持つ生物としての力の差となっている現実があり、結果、この世界の身分の違いによる差別というものはかなり強烈で絶対的なものになってしまっている。

 

 

 アンコウが男たちが潜む建物の前の道にさしかかると、3人の男たちは奇襲を仕掛けるわけでもなく、まわりを気にする風でもなく現れ、アンコウの前に立ちふさがった。

 

 アンコウは一級ではないとはいえ、冒険者である自分が町中でこの手の賊に襲われるとは考えていなかった。

 しかし、自分の前に立ちふさがった男たちを見て、男たちの目的が何であるかはすぐに察することはできた。

 

(………こいつらの装備……物盗りではないな)

「………道をあけてくれ。何だったら通行料を払ってもいい」

 

 この連中との厄介事はできれば避けたほうがいいと思ったアンコウは、多少の金銭ですむのならと下手に出たのだが、男たちはアンコウの問いには答えずに、すらりと剣を抜いた。

 

「待て!その剣といい、それだけの装備。あんたら貴族だろう?おれはあんたたちと敵対する気はない。人違いじゃないのか!」

 

 アンコウは一番年若く、金のかかった装備をしている男にむかって話しかけた。アンコウにも一目でわかる、この男が貴族だということは。

 そして人違いではなく、この連中が辻斬りをしている悪趣味な御貴族様であることも察しがついていた。

 

( くそっ!やっかいな!)

 

 辻斬りのうわさが流れていたのだ。

 しかし、アンコウが聞いたうわさでは被害にあっていたのはいずれも貧民街に住む力なき庶民であったため、自分が標的にされるとは思っていなかった。

 

 アンコウは口では「人違いでは」なんていうことを言ってはいたが、連中が話し合う意思がないと察した時点で、意識はすでに戦闘モードに入っている。

 戦わずには逃げられそうもないと、冒険者として瞬時の判断を下していた。

 

「ワッハッハ、人違いではない。貴様にようがあ」

「!若様、逃げて下さい!」

 

 何やら話しはじめた貴族の辻斬り坊ちゃんの言葉は、護衛の男の叫び声ですぐに中断された。

 辻斬り貴族が話しはじめた瞬間、アンコウは精霊封石弾の栓を抜き投げつけていた。もちろん狙ったのは、真ん中の貴族風の若い男。

 

 アンコウのこの攻撃は貴族のお坊ちゃんはもちろん、護衛の二人もまったく予想をしていなかった。

 こちらが攻撃を仕掛ける前に、ここが貧民窟の裏通りとはいえ、町中でいきなり精霊封石弾を使ってくるとは。

 

 3人の辻斬りの男たちは、完全に不意を突かれた。

 

 アンコウは、まともにこの3人を相手に戦って勝てる可能性は低いのではないかと、彼らの装備を見て判断していた。

 男たちが剣を抜き、アンコウがそれを見て彼らに話しかけていたときから、気づかれぬように精霊封石弾を使う準備をしていた。

 

 坊ちゃんをかばい、年若い方の護衛の男が素早く坊ちゃんの盾になるように一歩前に出る。

 そして、その護衛の若い男は、すでにこちらにむかって投げられている精霊封石弾を剣の腹ではじき返そうと剣を振った。しかし、わずかに間に合わない。

 

ドォガァーンッ!

 火の精霊封石弾が爆ぜた。

 

 若い護衛の男はほぼ直撃、吹っ飛んだ。そしてもう一人の護衛とお坊ちゃんも爆発に巻き込まれていた。

 

 アンコウは精霊封石弾を投げつけると同時に全力後退をしていたが、精霊封石弾の栓を抜いたあとも投げるまで少しの時間手に持っていたこと、標的との距離が短かったこともあり、アンコウ自身も爆発の影響を受けて足が地を浮き地面に転がった。

 

 しかしアンコウは、特にケガなどはしておらず、同じく爆発で地面に転がっている敵3人を見て、してやったりと興奮する。予想以上の打撃を3人組に与えたと思った。

 

 そしてアンコウは後顧(こうこ)(うれ)いを断つために、ここでこの3人を屠ることを瞬時に判断した。

 貴族に危害を加えたならば、当然、後の報復が心配されるからだ。

 しかし、この時アンコウは敵の状態判断を誤っていた。

 

 お坊ちゃんは体の左側に爆発によるダメージを強く受けていおり、情けなく悲鳴をあげていた。しかし、護衛の一人が盾となってくれたおかげで、意識はしっかりしているようだ。

 

 おそらくこれまでおもしろ半分で人を傷つけることはあっても、自分が苦痛を伴うような打撃を負ったことがなかったのだろう。

 実際のダメージよりもお坊ちゃんは、情けない醜態をさらしていた。

 それゆえにアンコウは、このお坊ちゃんが受けたダメージを過大に判断してしまった。

 

 そして、もう一人の年かさの護衛の男は、爆風をうけ、少し離れたところに転がっている。意識はあるようだが、しきりに頭を振っている。

 爆発によるダメージはさして大きくないようだが、吹き飛ばされた影響で脳震とうでも起こしているようだ。

 

 この状態を見て、アンコウは3人ともここで討ち取れると判断してしまった。

 素早く起きあがったアンコウは剣を抜き、まず悲鳴をあげている辻斬り貴族にむかって突進していった。

 

「おおぉぉぉーっ!」

 お坊ちゃんに接近したアンコウは、そのままの勢いで剣を振りおろした。

ギャアンッ!

「なあっ!」

 

 予想外。アンコウの剣はお坊ちゃんにとどくことなく、お坊ちゃんの魔剣で完全に受け止められてしまった。

 

「こ、この下郎がぁーっ!」

お坊ちゃんは、そのままアンコウの剣を押し戻すと同時に立ち上がる。

「ヌオオッ!」

 

 アンコウが考えていたよりもお坊ちゃんが受けたダメージは少なく、また、それ以上に驚きだったのは、アンコウが考えていたよりもこのお坊ちゃんが強い力を持つ者であったということだ。

 

(この剣の圧力っ!こいつ地力が強いっ!)

 この貴族のお坊ちゃんはアンコウが考えていたより、強い力をその身に宿す者だったのである。

 

ガァンッ!ゴォンッ!ギャンッ!

 アンコウの繰り出す剣戟を、お坊ちゃんは力任せながら受け続けてみせた。

( クソッ!まずい!)

 

 天賦の身体能力だけなら、この辻斬り貴族の方が自分より上かもしれないとアンコウは感じた。

 それでも、この男の想像以上の力に一瞬驚かされはしたものの、技能と経験という点ではアンコウよりも大きく劣り、普通に戦えば十分に勝てる相手だ。

 しかし、アンコウの顔には強い焦りの色が浮んでいる。

 

( くそっ、時間がかかる!)

 

 そう、負ける相手ではないものの、速攻で倒せそうはない。逆に、ある程度の手傷を負わされるかもしれないと考えなければならない相手だった。

 

 時間がかかれば、もう一人の護衛の男が間違いなく復活参戦してくるだろう。

 護衛の男がこの貴族の坊ちゃんと同等か、あるいはそれ以上の力を持つ者であったならば、おそらくアンコウは負ける。

 

 アンコウの初めの奇襲の一撃で、3人にあれだけのダメージを与えることができたのは、彼らの油断であり、アンコウにとっては非常に幸運なことだった。

 奇襲の一撃を加えた時点で、アンコウは(きびす)を返して逃げるべきだったのだ。

 

 そう思い至ったアンコウは、辻斬り貴族の力まかせの剣を受け止めると、それ以上の力で力まかせに押し返した。

 

 うしろによろめき、後退するお坊ちゃん。アンコウはその隙を逃すことなく、

ドォガァッ! と、バカ貴族の腹に思いっきりケリを入れる。

ぐげえぇぇっ と、カエルが潰されたような声を出しながら、お坊ちゃんは地面を転がった。

 

 それとほぼ同時に、アンコウは転がるバカに背を向けて一気に走り出す。

 

 アンコウは遅まきながら、逃げるという判断をした。しかし、

 

「ぐがあぁっ!」

ズザザアアァァー

 アンコウは少し走ったところで声をあげながら地面に転がる。

 

 右足のふくらはぎに強い痛みが走る。

 アンコウの足に、吹き矢によるものと思われる太い針のようなものがつき刺さっていた。続いて、

 

「ぐがぁぁっ!」

 アンコウの左腕、防具に守られていない部分に同じく針がつき刺さった。

 

 それが地面に倒れていた年かさの護衛の男の攻撃であることをアンコウは視認していた。

 アンコウはまだ地面に倒れたままで、自分にむかって飛び道具による攻撃を仕掛けてきた男に対して、腰に差していた小クナイを2つ連続して投げつけた。

 

 男は飛んできた一つ目の小クナイを手に持っていた太い筒で何とかはじき防いだのだが、

 

「ギヤァァーッ!」

 2つ目の小クナイを防ぐことができず、男の目に小クナイが突き刺ささる。

 

 アンコウはこの男の怪我の程度を正確にはわからなかったが、目に小クナイが刺さったこともあり、これ以上攻撃を仕掛けてくることはできないだろうと判断した。

 

 また、腹を蹴られて地面に転がった辻斬り坊ちゃんのほうも、逃げるアンコウを追いかけてくる気配はまるでない。

 

 その様子から自分の傷を治すための回復剤でも取り出そうとしているようで、自分から仕掛けた戦闘の最中にもかかわらず、すでにアンコウのことは意識の外になり、自分の怪我のことで頭がいっぱいになっているようだ。

 

 辻斬り貴族のお坊ちゃんのそのふざけた姿を見ながらアンコウは、

(何でこんなやつのせいで、俺がこんな目にっ!) と、憤激(ふんげき)しながらも、体に刺さっている2本の太針をすばやく引き抜いた。

 

 そして、その痛みをこらえつつ立ち上がり、背後を気にしながら、この場から逃げるために再び走り出した。



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第7話 宿屋トグラス

「ハァハァハァ、痛っ!クソッ!」

 

 辻斬りの3人組から逃げて、アンコウは人気のない細い路地で座り込んでいる。

 アンコウは吹き矢で刺された痛みに毒づきながら、亜空間収納の背嚢に手を突っ込んでいた。

 

「まずいな。あの野郎、辻斬りのくせに毒針なんて使いやがって何考えてやがるんだ。クソッ!」

 

 アンコウに刺さった太針には毒が塗ってあった。

 体がだるく全身に毒が回っていく嫌な感覚がアンコウを襲っている。針が刺さった場所がすでにかなり熱を持っていた。

 

 アンコウは背嚢(はいのう)の中から回復剤であるポーションをとりだした。ポーションには専用の毒消し剤には劣るものの、ある程度の毒消し作用もある。

 

 すでにある程度全身に毒が回っていると判断したアンコウは、とり出したポーションを半分ほど飲み、残りの半分を針の刺さった箇所に布を当て、その布に染み込ませた。

 

「………へへっ、大金が入ったと思ったらこのざまだ。なんだってんだよ。クソ貴族がっ」

 

 刀の試し切りにされようとして腹が立たないわけがない。アンコウは傷の痛みよりも怒りで心が激しく乱れていた。

 

 しかし、受けた傷は太いとはいえ針が刺さった二カ所だけ。アンコウはこれまでの経験からポーションさえあれば毒は消せるので、襲撃者から逃げおおせた以上、問題はないと思っていた。

 

 だが、大金を得た対価なのであろうかアンコウの不運は続いた。アンコウの体に毒が巡る感覚が、ポーションを使用してしばらく待ってもまったくなくならなかったのだ。

 

「な、なんで……!」

 

 ポーションでまったく解毒できていないことに気づいたアンコウは、あせって再び背嚢の中に手を突っ込んだ。

 そして、回復系よりも高価な専用の毒消し剤をつかみ、取りだした。

 

(き、効いてくれよ)

 アンコウはそう祈りながら、今度は毒消しの液剤全てを一気に飲み干す。

 

 そして薬が効果を表すのを待ち、アンコウはしばしの間、その薄汚れた路地にじっと座っていた。アンコウの耳にどこからともなく、ネコの鳴く声が聞こえてきた。

 

…………アンコウの心が、徐々に恐怖に侵されていく。

 

「く、薬が効いてないっ」

 

 いや、まったく効いていないわけではなかった。しかし解毒するほどの効果は表れておらず、毒の進行を遅くした程度。

 このままでは、アンコウの体はじきに完全に毒に侵されてしまうだろう。

 

「……だ、だれか」

 アンコウは徐々に膨らんでくる不安と恐怖から、人影を探すようにまわりを見わたした。

 

 空を覆う雲のせいもあって、昼間だというのにアンコウが座り込んでいる路地は薄暗く、ポツリポツリと雨も降り続いている。

 

 アンコウは不安をぐっと抑えて立ち上がる。

 このあたりは治安の悪い貧民街、善人よりも悪人が多い地区であることをアンコウは思い出した。

 

「くそっ。この程度でビビッてんじゃねぇ。自分の身は自分で守る、だろうがっ!」

 

 アンコウは自分自身に言い聞かせるように言葉を発し、鋭い目つきで誰もいない路地を再び見渡した。

 

 アンコウは毒が確実に自分の体を侵しつつあることを認識する。

 アンコウが持っていた毒消し剤で解毒できなかったことを考えると、アンコウの体に入り込んだ毒物はかなり強力なものか、あるいは珍しい種類の毒物が使われていたのだろう。

 

(ここで倒れるのはまずいっ!)

 

 この場所で意識を失えば、毒の強弱にかかわらず、アンコウは死ぬだろう。

 今は人影はないが、もしアンコウが倒れ身動きができなくなったなら、間違いなくどこからともなく人が現れて、アンコウの身ぐるみをはぐ。

 

 そして場合によれば、親切にも毒に苦しむアンコウの息の根を止めて、苦痛からアンコウを解放してくれることだろう。ここはそういう場所だ。

 

 アンコウは、どれだけこの世界を嫌おうとも死ぬ気はない。毒の回りが早くなるかもしれないが、アンコウは覚悟を決めて走り出した。

 当初から目的地としていた宿屋へ。あそこまで行けば、少なくとも襲撃者の危険からは逃れられると考えた。

 

 目指す宿屋の名前は 「トグラス」。

 

 アンコウが冒険者になるため、初めてこの町にきたときに、最初に泊まった宿屋だ。

 酒とバクチ好きの亭主はともかく、実質、宿を切り盛りしている女将(おかみ)はとても親切で明るい人だ。町の生活の右も左もわからないアンコウに、親切に常識的な知識を教えてくれた人でもあった。

 

 もちろん宿賃はしっかり払ったうえでの客に対する対応であったのだが、アンコウが回復剤の効かない病気にかかったときや、ひどい怪我をして回復剤を使ってもしばらくの安静が必要になったときなどは、この女将が看病してくれたこともあった。

 

 それゆえ、アンコウは場所的に少し便の悪いところにある この宿屋を定期的に利用し、時には少し多めに宿賃を払うなどしていた。

 もちろん、単純に感謝の気持ちからなどではなく、何かあったときはよろしく頼むという計算があってのことである。

 そのことは商売である宿屋のほうでも、当然理解していただろう。

 

 

「ぐぅ、右足の感覚がなくなってきた」

 

 薄汚く陰鬱(いんうつ)な雰囲気の町並みの中を走り抜けながら、アンコウの息が次第にあがっていく。

 

「ハァハァハァ、も、もう少し」

 

 徐々に道が広くなるにつれ、ぽつぽつと人の姿も見えるようになっていた。しかし、いずれもこの貧民窟の住人。

 

 アンコウを見る目つきに、あきらかに怪我をしているアンコウを心配する様子はまったくなく、まるで目の前で獲物が死に絶えることを待つハイエナのような目で、走りすぎるアンコウを見ていた。

 

 アンコウは片足を引きずり、左手をダラリとさげながらも、ようやく裏通りを抜け出した。

 アンコウは裏通りを抜けても走ることをやめず、宿屋トグラスにむかって走り続ける。

 

 そしてようやく走るアンコウの視界に、トグラスの看板が目に入ってきた。

 

 

「ハァハァハァ!、も、もうすぐだ」

 

 アンコウはそのままの勢いで、宿屋の中に駆け込んだ。

 

ドタンッ!

「ぐぅっ、」

 

 アンコウは店のカウンターに勢いよく両手をついて、十分に力が入りずらくなっている体を支えるようにカウンターに体をあずけながら、なんとか立っていた。

 

 

「な、何!?……アンコウさん!?どうしたの!」

 

 店の奥からこの宿の女将、テレサがあらわれた。

 

 テレサの年はアンコウよりも10近く上で、もう30は過ぎているはずだ。

 テレサは人間族で中肉中背の体躯、色白できれいな顔つきをしていたが、あまり出来のよくない亭主に長年積み重ねてきた日々の仕事の疲れがあるのだろう。童顔ではあるが、その顔には年相応のシワも浮かんでいた。

 

 しかしテレサは、女性らしい色気もある美しいといえる女性で、性格的にも明るく親切であったため、なかなか客うけもよく、アンコウのように常連となっている者もそこそこいる。

 

「ハァハァハァ、……ど、どうも」

「アンコウさん!怪我してるの?」

 

ドサッ!

 アンコウは、金の入った袋をカウンターの上にいきなり出した。

 

「部屋を頼む。宿賃だ。とりあえずテレサさんに預けとくよ」

「わ、わかったわ。それより大丈夫なんですか?」

「あ、ああ。大丈夫だ。この金の中から毒消し剤を買ってきてくれないか?上質のやつを、普通のじゃダメだ」

「ど、毒………」

 

 毒と聞いてテレサの顔色が変わる。

 しかし、長年この町で宿屋の女将をやってきたテレサだ。必要以上に狼狽(うろた)えることなく、アンコウが差し出した袋の中身を確認する。

 その袋の中には銅貨、銀貨だけでなく金貨も多数入っていた。

 

「わ、わかったわ。これはとりあえず預かっておきます。毒消しもすぐに買いに行かせるから」

「た、助かるよ。女将さん」

 

 アンコウは部屋の鍵を受けとると、重い体を引きずるようにして、2階へつづく階段をのぼっていく。

 

「手を貸しますよ」

 

 思うように体を動かせなくなっているアンコウに肩を貸して、テレサも階段をのぼっていく。

 

「テレサさんはやっぱり力持ちだな」

「アンコウさん」

 テレサが少し非難するような目でアンコウを見た。

 

 からかったのではなく、これまでの付き合いの中で、アンコウはテレサが普通よりもかなり腕力が強いということを とある出来事をきっかけに知っていた。

 

 テレサの口から直接効いたわけでなく、生まれつきか後天的なものかはわからないが、テレサには魔素に抗する力があり、常人より強い身体能力を持つ人間だろうとアンコウは思っている。

 

 しかし、テレサ自身は冒険者であったことはなく、今もそれをほのめかされることすら嫌がっている風であった。

 

「……ごめん、助かるよ」

「バカなことを言ってないで。行きますよ」

 

 アンコウはそのままテレサの肩を借りながら部屋に入り、ベッドに倒れ込んだ。

 そしてテレサはアンコウの装備を解いて、そのままベッドに寝かすと、すぐに部屋を出て行った。

 

 アンコウはベッドに横たわると、すぐに意識が朦朧(もうろう)としてきた。

 

(………ギリギリだったな)

 毒針が刺さった場所だけでなく、すでに全身が熱をもってきている。

「ハァハァ、くそ。あいつら剣の試し斬りだけじゃなくて、毒まで試してやがったのか」

 

 おそらくアンコウに刺さった針に塗られていた毒は、このあたりではほとんど知られていなタイプの毒だろう。

 アンコウが持っていた毒消し剤ではほとんど解毒効果が得られなかったが、毒の回りを遅延させる効果はあったらしい。

 

 より上質の毒消し剤ならば、もう少し効果があるかもしれないとアンコウは考えて、テレサにより上質の毒消し剤を買ってきてくれるように頼んだ。

 

 

「ハァハァハァハァハァハァ、

 息荒く、アンコウがベッドの上で苦しんでいるだけの時間がしばらく過ぎる。

 そんな中、部屋の扉がノックされた。

 

コンッ、コンッ

「アンコウさん、入りますよ」

 

 アンコウをベッドに寝かせた後、すぐにまた部屋を出て行ったテレサの声が聞こえた。テレサは一声かけて、すぐに部屋の中に入ってきた。

 

「アンコウさん、毒消し剤を買ってきましたよ。言われたとおり、上質のものです」

「………ハァハァ……ありがとう」

 

 アンコウは重い体を起こして、テレサが持ってきてくれた毒消し薬をゆっくりと飲み干した。そして、アンコウは再びベッドに横たわる。

 

「………テレサさん、ありがとう」

 アンコウはテレサのほうに顔をむけて、あらためて礼を言った。

 

「いえ。薬が効くといいですね。またのぞきに来ますから、何かあったら遠慮なく言って下さい。ここにもう一本置いていきますから」

 

 テレサは同じ毒消しをもう一本買ってきてくれていたようだ。

 その毒消し剤をベッドの横のテーブルのうえに置き、テレサは心配そうにしながらも、部屋を出て行った。

 

(やっぱりいい人だな、あの人は。ありがたいよ)

 

 しかし、いい人が幸せになれるとは限らない。

 飲んだくれの博打打ちの亭主とテレサが結婚したのはテレサが15の時で、今14になる一人娘がいる。

 娘は12の時に、同じくこのアネサの町で商いを営んでいる商家に奉公に出されていた。

 

 これぐらいの宿屋を営んでいる家の一人娘ならば、もう少し親の庇護下で教育を受けさせるなり、この宿を手伝わせて婿をとるなりするのが普通だ。

 

 しかし、この宿屋の売り上げのかなりの部分をこの宿屋の名目上の主であるテレサの亭主が使い込んでいるという状態の中、テレサは娘がこの家に居続けることを良しとしなかった。

 

 娘の将来のことを思えば、早い段階で信頼できる人物に託し娘に自立する力をつけさせるほうが良いと考えた。

 そして信頼できる知り合いの紹介で、テレサは、娘が12歳になってすぐ、それなりの大店(おおだな)の商家に奉公に出した。

 

 テレサは亭主が心を入れ替えて、真面目に働いてくれるなどということはすでに諦めていた。

 その人生の憂いがテレサの顔に出ており、表面上は明るさを失っていないものの、彼女の心の影になっていることは、アンコウにもわかっていた。

 

 

「ぐうぅぅぅぅ………」

 

 アンコウは目をつむり、毒による苦しさに耐え続けていた。そのうちに、

 

(…………よかった。少し効いてるみたいだ)

 アンコウは、自分の体の中を巡る毒が少しづつではあるが、薄らいできているのを感じはじめていた。

(……だけど、即効性はないみたいだな……)

 

 アンコウの体の熱はまだ高いままであったが、それは毒を消すための体の自然な反応でもあるので、毒消しが効いてきているのならば、あとは時間の問題だとアンコウはひと安心できた。

 

 アンコウは、あとはゆっくり休むのみだ と、意識的にゆっくり大きく呼吸をしながら、そのまま眠りについた。

 

 

 アンコウが毒に侵されながら見た夢は、やはり悪夢。この世界にきてすぐに奴隷にされていたときの夢を見た。

 アンコウはこの世界に来たとき、魔素に抗する力を持たない無力な人間族であった。

 

 そしてアンコウは騙され、売り飛ばされて、とある農村で農奴となった。

 それまで、豊かで平和な世界で生きていたアンコウにとって、その農村での経験は地獄としかいいようがないものだった。

 

 まず、自分は労働力という名の動くモノであり、毎日毎日、朝も昼も夜もなく農場主の都合で働かされた。

 絶えることのない暴力、アンコウを働かすために、あるいは単なる遊びで、また同じ奴隷の者たちからも激しい暴力をうけた。それは、正気を失うほどの暴力だった。

 

 しかし、アンコウが農奴になって一年ほど経ったときに事件が起こった。

 農場主が村に来た商人に収穫物を売り、アンコウを含めた複数の農奴が、その売れた農作物を町まで運ぶため商人の荷車を押して町まで行くことになった。

 この商人は町の大きな商会の番頭格の人間であったらしい。

 

 そして、その町まで行く道程で、アンコウたちは賊に襲われたのだ。

 アンコウと同じ農奴はもちろん、商人の護衛を務めていた武装した者たちも次々と殺されていった。

 

 その死の恐怖と血溜まりの中で、アンコウは力に目覚めた。今のアンコウが持つ魔素に抗する力を突然に得たのだ。

 

 アンコウは生き延びるため、殺された者が持っていた剣をとり、ただひたすらに賊を斬り続けた。そのアンコウの奮戦に残っていた商人の護衛たちも勢いを得て、賊は一人残らず斬り殺された。

 

 アンコウはこの時の働きにより、奴隷の身分から解放されることとなる。

 

 そしてアンコウは、この商会からの護衛武者として雇うという誘いを断り、魔素の漂う迷宮がある そこから一番近い町、アネサを目指すことになった。

 

 気が狂わんばかりの暴力を一年に及びうけ続けたアンコウは、自由を、自分の意思で生きる環境を渇望(かつぼう)した。

 自由の羽を得られるのなら死んでもかまわないと本気で思っていた。

 

 

 アンコウは今、夢の中で再び奴隷となり、当時の苦しみを再体験していた。アンコウにとって、これ以上ない悪夢である。

 

そして悪夢にうなされつつもアンコウは、ふと人の気配を感じて目を覚ました。

 



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第8話 女将 テレサ

(………冷たい?)

アンコウが目を覚ますと、部屋の中はもう暗くなっていた。

(……夜か)

いつのまにか日が暮れていたようだ。そしてアンコウの額には、誰かの手がおかれていた。

(…ヒンヤリして気持ちいいな)

アンコウはその手の主を確認しようとする。

 

 しかし、まわりが暗く、明かりも部屋の入り口付近にランタンが置かれているだけのようで、起きたばかりで闇に目が慣れていないアンコウには、目で額に手をおく者の顔を確認することが出来なかった。

 

「まだ、すごく熱いわ」

 テレサの声。

 

「テレサさん?」

「あっ、ごめんなさい。起こしましたか?」

「いや、こっちの方こそ申し訳ない。迷惑をかけるね」

「気にしないでいいわ。宿の仕事も一段落したから」

「もう、夜みたいだな」

「ええ、それより熱がかなりあるみたい。大丈夫なんですか?毒が……」

 

 闇に目が慣れてきて、アンコウの目に心配そうな顔でアンコウを見ているテレサがぼんやりとであるが見えていた。

 

「毒はもう大丈夫」

「でもすごい熱。来たときよりあがってるわ」

 

 テレサは毒に侵された人間をこれまでに何度も見たことがあったが、大抵の場合、毒消し剤を飲めば、しばらくすると毒は消え、元気になっていた。

 

「たぶん、このあたりじゃあ珍しい毒だったんだと思う。だけど買ってきてもらった毒消しは効いてるよ。完全に解毒するには時間がかかるみたいだけどね。それまでの間、熱が出るのは仕方がない」

 

 実際にアンコウの熱はあがっているものの、上質の毒消しを飲むまでに感じていた毒が体を浸食していくような感覚や毒による苦しみはかなり軽減されている。

 ただ、高い熱が出ているというだけであった。

 

「このまま一晩寝れば大丈夫だと思う」

「そう。だったらいいんだけど………」

 

 テレサにはとても大丈夫そうには見えなかったが、それ以上、毒のことは聞かなかった。

 

「お水、飲みますか?」

 

 アンコウが頷くと、テレサは ちょっと待ってくださいね と、水をとりに部屋の外に出て行った。

 

 テレサがランタンを持って出ていったため、部屋の中はより一層闇が濃くなった。

 それでも部屋に差し込む月明かりが強い夜だったので、部屋全体が暗闇になることはない。

 アンコウはベットに横たわりながら、天井を見つめる。

 

(………何だってんだ)

 

 アンコウが冒険者となって最高の稼ぎを手にした日だった。最高に気分がよかった。

 金は力だ。欲しいものがあれもこれも買える。今日は宿を押さえたら、この町で最高級の娼館にも行くつもりだった。

 

(…何だってんだよ)

 

 アンコウが大金を手にしてわずか数時間後、死に至りかねない毒がアンコウの体を侵していた。

 天井を見つめるアンコウの目がうっすらと潤んでくる。毒のせいではない。熱のせいでもない。

 

(たった一日も浮かれさせてくれないのか。ふざけやがって。生きてりゃいいってもんじゃねぇだろうがっ)

 

 虚空を見つめアンコウは声には出さず怒る。怒りで心が乱れると熱があがり、消えかけている毒が勢いを取り戻してくるような気がした。

 アンコウは意識的に目を閉じ、平静を取り戻すために大きく深呼吸をくり返す。

 

 アンコウは、つまらなくて何の刺激もなく、毎日同じことをくり返して、同じ愚痴を言っていた腹立たしいほど平穏無事であった あの世界での日常に本気で帰りたいと思っていた。

 こちらの世界の日常は、いささかアンコウには荷が重い。

 

 アンコウがこの世界に突然やってきて、すでに4年以上が過ぎている。

 ずいぶんこの世界の価値観にアンコウも染まった。染まらなければ、今頃アンコウは生きてはいないだろう。

 運良く生きていたとしても、正気を保ってはいなかっただろう。

 

 いや、この世界の非情な日常に染まったからこそか、アンコウはより強く元の世界に帰りたいと願う。

 その願いが叶わないならば、ここで適当にのんきに暮らしていけるだけの力をくれよ と、アンコウは誰に言うわけでもなく思った。

 

 ただ、アンコウは元の世界にいた時、平穏無事ではあるが刺激の少ない生活を送っていた時にも、

「生きてればいいってもんじゃない」 と、よく独り言をいっていたことはまったく忘れてしまっていたが。

 

「あーーーーーーっ」

 

 闇にむかって、アンコウは意味なく声を発する。アンコウは、本当は熱に浮かされているのかもしれない。

 

 

ガチャ!

「アンコウさん?どうかしたんですか?何か声がしてましたけど」

 

 アンコウは開いた扉のほうを見て、にこりと笑う。

「………何でもないよ。何でもね」

 

 テレサは少し(いぶか)しげな表情をしたが、毒か熱のせいだろうと押してきた小ぶりのカートを押しながら、アンコウの枕元まで来た。

 それを見てアンコウは、ゆっくりと体を起こす。

 

「アンコウさん大丈夫?」

「ああ」

 

 アンコウは、テレサが差し出した水が入ってたコップを受けとり、一気に飲み干した。

 そして空になったコップを差し出し、テレサが水をつぎ足すとあおるようにまた飲み干し、そしてまた空のコップを差し出すということを何度かくり返した。

 

 テレサが持ってきた水差しに入っていた水がほとんどなくなるまでアンコウは水を飲み続けた。

 

「………相当のどが渇いていたみたいだな。水を一口飲むまで気づかなかったよ」

 

 テレサはアンコウのほうに手を伸ばし、アンコウの背中を触った。

 

「アンコウさん、汗でびっしょりよ。これじゃのども渇くはずよ。毒か熱のせいで少し感覚がおかしくなってるのかもしれませんね」

「ああ」

 

 水を飲み終えたアンコウは、また寝るためにベッドに横になろうとする。

 

「アンコウさん、ちょっと待って。しんどいだろうけど、服を着替えたほうがいいわ」

「………そうだな」

 

 アンコウはかなり体はだるかったが、素直にテレサの言うことに従った。

 アンコウは亜空間収納の背嚢(はいのう)に手を突っ込み、着替えを取り出して、手早く着替えはじめる。

 

 上半身裸になると、テレサがサッと持ってきたタオルでアンコウの体を拭く。そしてアンコウはのろのろと新しい服を着た。

 

「テレサさん、ありがとう」

「いえ、下も着替えてたほうがいいですよ」

「ああ、そうだね」

 

 アンコウは上半身を起こしたまま、下半身は布団で隠してズボンとパンツも素早く着替えた。

 

 テレサはアンコウが着替えている間、まったく照れるふうでもなくベッドの横に置いたイスに座ったままでいた。そしてテレサは、ベッドのうえに脱ぎ捨てられたアンコウの服と下着を持ってきたカゴの中に入れた。

 

「これは洗っておきますから、また汗をかいたら着替えて下さいね」

「ありがとう」

 

 着替えを終えるとアンコウは再び横になり、布団をかぶって、目を(つむ)る。するとすぐに、テレサの手でアンコウの額に濡れた布が乗せられ、アンコウはまた目を開けた。

 ベッドの横には、テレサがまだ座っている。

 

「テレサさん。もういいよ」

「気にせず、寝て下さい。まだ熱が高いんだから」

「明日も朝が早いんだろ?俺はもう朝まで寝るだけだから」

「私は大丈夫ですよ」

「………いや、そうやって横に座っていられると、かえって落ち着かない」

「気にしないで、寝て下さい」

 

 テレサはアンコウの看病をするつもりのようで、アンコウがなんと言っても出て行く気配がない。

 

「いくら常連でもサービスしすぎ何じゃないか?」

 アンコウが少し面倒くさそうに言う。

 

 以前に病気や怪我で世話をしてもらったときも、ここまで親身にはしてもらっていなかったし、正直してもらいたいとも思っていなかった。

 

「仕事は関係ないですよ。アンコウさんは命の恩人だからね」

 

(…………あのことか)

「…命の恩人て、大げさ過ぎるだろ」

 怪訝そうな目で自分を見てくるアンコウに、テレサは笑顔で返した。

「うだうだ言ってないで早く寝る。病人なんだから」

 

………アンコウはあきらめたようにテレサから視線を外し、再び目を閉じた。

 

 一年ほど前、テレサが暴漢に襲われそうになっていたのをアンコウは確かに助けたことがある。

 人気のない夜の町、商売の関係の会合の帰り、テレサはこの宿の近くで3人組の屈強そうなならず者に襲われて、路地裏に引き込まれそうになっていた。

 

 それをこのとき、たまたまトグラスに泊まっていたアンコウが宿に帰る途中で出くわしたのだ。

 アンコウも襲われているのがテレサだと気づくと、さすがにこれから帰ろうとしている宿の女将が襲われているのを見て見ぬふりをすることも出来ず、正直面倒くさいと思いながら止めに入った。

 

 予想外だったのは、その中の一人に抗魔の力を持つ冒険者崩れが一人いたことだった。多少剣の心得もあったようで、アンコウは何カ所か浅い刀傷をうけてしまった。

 それでもアンコウが一対一で負けるような相手ではなかったのだが、少し時間がかかり、そのほかの二人にまですぐには手が回らなかった。

 

 しかし、あとの二人はというと、アンコウが冒険者崩れの男を斬り殺したころには気を失って地面を転がっていた。テレサがやったのだ。

 

 テレサに剣術や武術の心得があったわけではない。アンコウが相手にした冒険者崩れの男とは違い、この二人の男はただのチンピラだったとはいえ、テレサは大の男二人を相手に力まかせにたたきのめしていた。

 

 アンコウはあり得ない方向に腕が曲がっている男の一人を見て、テレサは自分が倒した冒険者崩れを相手にしても勝てるんじゃないかとさえ思った。

 自分が半殺しにした男が転がっている横で、テレサは泣きながらアンコウに礼を言っていたのだが、アンコウとしては何とも言えない微妙な気持ちになってしまっただけの出来事だった。

 

 それにもかかわらずテレサは、この時のことを相当に恩義に感じているようだ。

 

(そんな恩義に感じてもらうことじゃないんだけどな)

 アンコウは本気でそう思っていたのだが、今はまだ熱で体がしんどく、これ以上テレサにどうこう言うことがわずらわしかった。

(……寝よう。しかしこの女は、いろいろ損をするタイプかもな………)

 

 力なき善意の者は、悪意ある他者に食いものにされることが往々にしてある。

 テレサはアンコウの金を目当てにしているわけではない、アンコウに惚れているわけでもない、以前助けてもらったことを恩義と感じ、善意の心でやっている。

 

 アンコウは思う。そういう人間だから、あの酒飲みで博打打ちの男と長年夫婦なんてやってられるのかもなと、損な生き方だと。

 そんなことを考えているうちに、アンコウはいつのまにか眠ってしまっていた。

 

 

 結局テレサは朝までアンコウの部屋にいたようだ。

 次の日にはアンコウの熱もかなりさがっていたが、アンコウは用心して一日部屋を出ることなく、食事もベッドの中ですませ、ほぼ丸一日ベッドで寝て過ごした。

 

 2日目の夜は、テレサも付きっきりでアンコウの看病をするということはなかった。

 しかし夜中に何度か部屋をのぞいて、アンコウの様子を確認していたことにアンコウも気づいていた。

 

 心配してくれるのはありがたいのだが、アンコウとしては部屋をのぞかれるたびに意識が覚醒してしまうため、

(………やめてくれよ) というのが本音だった。

 

 そして、毒をうけて寝込んでから3日目の朝、アンコウは少し日が高く昇ってから、ベッドを出て身支度を調えていた。

 

「よし、毒は完全に抜けてる。熱もない」

 アンコウは窓から差し込む太陽の光をあびながら、大きく伸びをする。

「ウーーンッ。よしっ!」

 

 アンコウとしては、魔獣狩りで手に入れた大金をカラワイギルドに預けたところからやり直そうという気持ちだった。

 

 あの辻斬り貴族どもをわざわざ探して、報復しようというつもりもない。

 むろん目の前にあいつらが半死にでいたら、十分にいたぶってからブチ殺してやるぐらいには頭にきていたのだが、なにぶん相手が悪い。

 

 まず間違いなくあいつらはアンコウより身分が高い家門の者だ。それに単純に戦闘能力という点でも、それなりにあいつらは強いと判断せざるをえない。

 個別に襲えば負ける気はしなかったが、手間も時間もかかるだろうし、倒したとしても後腐れなくすむとは思えない。残念ながら報復するにはリスクが高すぎる。

 

 アンコウは、クソ辻斬り貴族のことをなるべく意識の端に追いやって、今日こそはよい一日をと、気持ちを新たにして部屋を出た。

 

 アンコウが使っていた部屋は宿屋の2階。アンコウが下に降りようと階段のところまで来ると、下から男の声で怒声が聞こえてきた。

 

(また、客同士でけんかでもしてやがるのか。朝からよくやるな)

 

 アンコウが階段の半ばまで降りてくると、怒鳴り声をあげている男の姿が見えてくる。客ではない。(わめ)いているのはこの宿の主、テレサの亭主である男だ。

 

「このやろう!亭主の言うことが聞けねぇのか!」

「やめて!このお金はお客さんの預かりものだって言ってるでしょう!」

 

 亭主は怒鳴りながら、テレサを引っ張り、時折テレサの体を拳で殴りつけている。

 

(チッ、朝から目ざわりだ。客の前で何してんだっ)

 

 宿の一階には客が食事をするスペースが設けられていて、男が二人座っていたが、この男たちもわずらわしそうに言い争う二人を見ている。

 

 アンコウもテレサに親身に看病してもらったにもかかわらず、この夫婦げんかに口を出すつもりはなかった。

 

 テレサの旦那がろくでなしだと言うことは、アンコウも以前からよく知っていたことだ。酒浸りでバクチ好きのろくでなし男は、女房をぶん殴りもするだろうなと、アンコウは無感情に思っただけだ。

 

 それにテレサの亭主は普通の人間族の男だ。この男がテレサを殴ろうが蹴ろうがテレサにはたいして効かないだろ、とアンコウは思う。

 そんなことよりも朝飯だ。

 

 アンコウはここで朝飯を食べてから出て行くつもりだったのだが、せっかく今日こそはよい一日にしようと決意を新たにしていたのに、この目ざわり耳障りな雰囲気の中で朝飯なんか食ってられないなと階段をおりながら考えていた。

 

「このやろう!ここは俺の店だ!ここにある金は全部俺のもんなんだよ!」

「ち、ちがっ!だからこのお金はっ!」

 

 亭主が耳障りな大声を出し続けている中、アンコウは階段の一番下までおりてきた。

 どうでもいい夫婦げんかに関わる気はなかったのだが、テレサが旦那からかばうようにして持っている袋がアンコウの目に入った。

(……あぁ?)

 

 それはアンコウも見覚えのある袋だった。そしてアンコウは進む足の向きを変えた。

 

バシッ!

 テレサは頬を亭主にひっぱたかれた。

「いい加減にしろ!このアマ!とっととよこせ!」

 

 アンコウは揉めている二人のすぐそばまできて、足を止める。

 

「よう、(あるじ)。久しぶりだな。俺のことを憶えてるかい?」

 

「チッ、知らないね!関係のない人は引っ込んでおいてくれ!」

 亭主はろくにアンコウのほうを見もせずに怒鳴るように言った。

 

(だめだな、こいつは。昔はもうちょっとマシだったんだけどな)

 

 この亭主はテレサよりも10歳年上、アンコウよりも20ほど年が上になる。

 もう何年もまともに働かず、アンコウがこの宿を使い始めた3年前には、すでにテレサがこの宿を切り盛りしており、アンコウがこの亭主と話をしたことは数えるほどしかない。

 

 酒とバクチにのめり込むという典型的なろくでなし生活のせいだろう、この亭主は実年齢よりもかなり老けて見える。

 昔はなかなかの美男子で、テレサと結婚をした当時はこのあたりでは美男美女のお似合い夫婦と言われたこともあったのだが、今は見る影もない。

 

「テレサさん。その財布おれのだよなぁ?」

 

 テレサは無言でアンコウのほうを見て、うなずいた。

 

「よう、主。俺の財布になんかようかよ?」

 アンコウはドスのきいた声で、亭主をにらみつけながら言った。

 

 アンコウがあからさまな怒気を亭主にぶつけると、それまで強気一辺倒だった亭主の態度は、一転して怯えた様子に変わっていく。

 

「え、えーと……あ、あんた、確か、」

「アンコウだよ。顔も名前も忘れたみたいだな。まぁ、別に憶えてもらいたくもないけどな」

「あ、あぁ、冒険者の、」

「で、何で俺の財布がお前のもんなんだよ」

 アンコウは亭主をにらむ目に、より一層の怒気を込める。

 

「ヒッ、違う!あんたの財布だなんて知らなかったんだ!」

 

 亭主は叫ぶように言うとアンコウから目をそらし、テレサの肩をつかんだ。

 

「こ、この女が悪いんだ!おい!テレサ!お前はなんで言わないんだ!お、お前のせいで!」

「私は何度も言ったわ!これはお客さんの預かりものだって!」

 

「あー、確かに言ってたな」

 

 アンコウは亭主をにらむのをやめて、面倒くさそうに言った。

 亭主は口ごもり、怯えたような態度をとりながらもテレサをにらんでいた。

 

( くっだらないな)

 アンコウは心の中で吐き捨てた。

 

「で、この財布はおれのもんで文句はないんだよな」

 アンコウが亭主にむかって言うと、

「は、はい。もちろんです」

 

 アンコウは大きく息を吐き出してから、テレサから自分の財布を受けとった。

 こんなくだらないことにこれ以上つき合いたくもなかったアンコウは、すぐにこの場から離れようとしたのだが、うしろからテレサに呼び止められた。

 

「アンコウさん、待って下さい」

 テレサはそういうと、今度は亭主の少しうしろに立っている男のほうを見た。

 

「さっきの金貨を返して下さい!それは、このお客さんのお金なのよ!」

 

 どうやらアンコウが来る前に、すでにアンコウの財布からお金が抜き取られていたようだ。アンコウも、テレサが話しかけている男の存在には気づいていた。

 

 男は冒険者ではないようだったが、風体のあまりよろしくない人間だ。

 その男はテレサの亭主のすぐうしろで、夫婦のやりとりには口をはさむことはなく、にやけた顔をして見ていた。

 

 アンコウはおそらく金貸しか博打打ち、どちらにしてもテレサの亭主のろくでなしの関係者だろうと思った。

 ろくでなしの後ろにいるろくでなしなどと関わり合いになるつもりは毛頭ないアンコウだったが、そうもいかなくなりそうだ。

 

「女将さん、言いがかりはやめて下さいよ。この金貨はあんたの亭主から受けとったんだ。そちらの兄さんのことなんざ、おれは知らねぇよ」

「なにを!その金貨は、この人がアンコウさんの財布から盗った金貨ですよ!あなたもみてたじゃないですか!」

「うるせぇ!誰の財布か何てことは関係ねぇんだよ!おれは貸した金を返してもらっただけだ!誰に文句を言われる筋合いはねぇ!」

 

 男はドスのきいた声でテレサを怒鳴りつけた。あきらかにその筋の人間だ。

 テレサもつい口ごもってしまうが、自分が何とかしなければという責任感があるのだろう。男から目をそらすことはなく、対峙し続けていた。

 

(あぁ……やっぱり金貸しか……)

 

 おもむろにアンコウは、一歩二歩と金貸しの男のほうに近づきはじめる。

 それに気づいた男は、にやけた顔をアンコウのほうにむけて、親指で器用に金貨を宙にはじいて見せた。

 

「兄さん。聞いてたろ。この金はここの亭主から受けとった。おれとあんたは関係がねぇ。文句があるならこの宿の人間に言いな」

 そう言うと男は、もう一度金貨を親指ではじいた。

ピキイィィン

 

………しかし、そのはじいた金貨は男の手の中に戻っては来なかった。

 

「ゲホゥッ!」

 男は突然うめき声をあげて、床に倒れ込んだ。

 

 アンコウが一気に男との距離を詰めて、男の腹を拳でえぐるように殴りつけたのだ。

 さらにアンコウは、床に倒れ込んで悶絶している男の肩を蹴り上げた。

 

 床にうつむきなって唸っていた男が、アンコウに蹴られた勢いで、今度はあお向けにひっくり返える。

 そして、アンコウは男の胸を躊躇(ためら)うことなく踏みつけた。

 

 アンコウはわずかな時間で流れるようにこれだけの動作をしてのけた。そして、アンコウは男を見下ろし、にらみつけながら言う。

 

「誰にむかってふざけた屁理屈(へりくつ)こねてやがるんだ、この野郎。神様がお前に渡したとしてもな、あの金は俺の金なんだよっ」

 

 アンコウは、男を踏みつける足にさらに力を入れる。

「グフーッ!」

 男の肺から空気が漏れる。とても苦しそうだ。

 

 男の手に戻らなかった金貨が、コロコロと床を転がり、テレサの近くで止まる。それをテレサは手を伸ばして拾おうとした。

 

「触るな!」

 

 アンコウの声にテレサはビクッとして、伸ばしかけた手を引っ込めてアンコウのほうを見た。

 少しきついアンコウの言い様だったが、テレサのほうを見るアンコウの顔には笑みが浮かんでおり、テレサはホッとした。

 

「テレサさんが拾う必要はないよ」

 そう言うと、アンコウは再び足の下の男に目をやる。

 

「いいか?お前に1つ、おれのルールを教えてやる。おれの金貨を1枚盗んだやつは死刑だ。おれの銀貨を1枚盗んだやつも死刑だ。おれの銅貨を1枚盗んだやつも死刑だ。

 あの金貨はおれの金だ。で、お前はどう思うよ?あの金貨は誰の金だ?お前のか、それともおれのものか?」

 

 男は何かを言おうとするが、アンコウに胸を強くふまれて声にならない。

 男は声に出す代わりに、あんたのだという意味を込めて、アンコウのほうを指さした。

 

パシッ

 アンコウは自分を指さす男の手を軽く払いのけた。

バッシィッ!

 次にアンコウは男の顔をかなり強くひっぱたいた。

 

「人を指さしてんじゃねぇよ!無礼だろうが!」

 

 強烈なビンタを食らった男は、アンコウの足の下で、声を出せずにもがいていた。

 なかなかにひどいやり口である。

 アンコウは痛みにもがく男を見おろしながら、男とは関係のないことを考えていた。それは元いた世界でのことだ。

 

 アンコウはある中小企業で営業の仕事をしていた。客からのクレーム処理も、当時のアンコウの仕事のひとつ。

(あれは胃にきたよなぁ)と。

 

 仕事でのことだ。こちらに落ち度があるのなら土下座だってしてもいいとアンコウは思っていた。実際、頭はさげるためにあるものだと仕事中は割り切っていた。

 でも、どうしようもなく理不尽としか言いようのないクレームもあった。

 

 説明しようが謝ろうが文句を言い続ける。しかもそういう人間にかぎって異常にしつこい。半年以上も文句を言うためだけに電話をしてきたやつもいた。

 

 精神がおかしくなっても不思議じゃなかったとアンコウは思う。しかもそういう輩は、常に一定の割合で湧いて出てきていなくなることはない。

 

 あいつらをこんなふうに踏んづけて、ひっぱたいてやったら気持ちいいだろうなぁなどと、アンコウは考えていた。

 

(いや、あのクソみたいな連中にこそ、この世界がふさわしいだろ。何でおれがここにいるんだよ)

 

 アンコウは元の世界に帰りたい。できるものなら、あのくそ連中どもとトレードがいいなぁなどと、人を踏みつけながら妄想していた。

 

 そんなとりとめもないことを考えているうちに、いつの間にか足に力が入りすぎたらしく、踏みつけている男が白目をむいていた。

 

「っとお、」

 アンコウは慌てて男から足を離した。

「ゲホッ!ゲホッ!ゲホッ!」

 咳き込み、えづき続ける男に、アンコウはもう一度問いかけた。

「おい。あの金貨は誰の金だ?」

 

 ようやく咳とえづきが止まった男は涙を流し、よだれを垂れながらアンコウを見上げる。

「あ、あんたの金です」

「じゃあ、取ってこい」

 

 アンコウに言われて、男は床を這うようにして金貨が落ちているところまでいった。そして拾い上げた金貨を持って、恐怖に顔をゆがめながらアンコウの前まで戻ってきた。

 男は震える手でアンコウに金貨を渡す。

 

「いいか。次はないぞ」

「は、はい」

 

 アンコウは受けとった金貨を袋に戻した。

 借金取りの男は、アンコウに金貨を渡すとすぐにアンコウから離れた。男はこの宿の亭主とテレサのほうをわずかな時間見た。

 それは怒りに歪んだ目だった。その男の目に気づいて怯える亭主。

 

 男がアンコウから受けた暴力、アンコウに報復できるだけの力を持たない男、男はその怒りを自分より弱い者にむける。

 アンコウも辻斬り貴族から受けた暴力に対する怒りをこの男にぶつけたのかもしれない。

 

 そして男は苦痛に顔を歪めながらも、そのまま宿から出て行った。

 

「ア、アンコウさん、ありがとうございました!」

 テレサがアンコウに近づき、礼を言う。

「気にしなくていいよ」

 

 そしてアンコウはテレサに、宿泊費だと言って看病の礼の意味も込めてかなり多めの金を握らせた。

 

「それよりも朝飯をもらえるかな」

「は、はい!すぐに用意します!」

 

 アンコウは空いたテーブルのほうに歩いていく。

 その場に一人取り残されたこの宿の主は、それ以上の言葉はなく、ただ、その場に立ち尽くしていた。

 

 

 

 

「よう!アンコウ、久しぶりだな。金は取り戻せたみたいだな」

 

 食事を取るためのスペース、そこに座っていた男の一人が、やってきたアンコウにワハハと笑いながら声をかけてきた。

 

「なかなか面白い見世物だったぜ」

「ん?おー、カリムか?」

「まぁ、座れよアンコウ」

 

 カリムも魔獣狩りを生業とする冒険者の一人、アンコウとは顔なじみだった。昨日はこのトグラスに泊まっていたらしい。

 アンコウはカリムが座るテーブルで朝食をとることになった。

 

 カリムは体調を崩してしばらく迷宮に潜っていなかったらしく、手持ちがいささか危ういとのことで、アンコウは一緒に迷宮に潜らないかと誘われた。

 

 アンコウは今のところ金は十分にあり、少し予定していたこともあったのだが、特別急ぎの用事というわけでもなかったため、今後の付き合いも考えてカリムとパーティーを組んで迷宮に潜ることに応じた。

 

 カリムが言うには、アンコウを入れてメンバーは3人、狩りの期間は3日間、少人数の短期間の狩りだ。

 当座の資金を得るためのものであり、潜っても2階層までしか行かないと聞き、アンコウは了承した。

 

 アンコウはこの日の予定を早くもあらためて、明日から行く仕事の準備に大方の時間を使った。

 しかし夜だけは予定どおり娼館にいき、次の日は娼館から直接迷宮に出勤したのだった。

 

 このカリムたちとの魔獣狩りは特別問題なく無事成功し、アンコウたちは予定どおり3日で地上に戻ってくることができた。

 

 しかし、この町でトラブルや暴力沙汰もなく、アンコウの予定どおりの良い一日を過ごすことはなかなか難しいようだ。

 



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第9話 お金は大事

 アンコウがカリムたちとの迷宮での魔獣狩りを無事終えて、地上に戻ってきた翌々日、アンコウはある店を訪れた。

 この店はラチアーノという商人の店で、アネサの町で工務店と不動産屋をあわせたような仕事をしている。

 

 そして、このラチアーノ商会の従業員のトルクという男の案内で、アンコウはアネサの町でも比較的治安がよいと言われているヘルン地区に来ていた。

 

「アンコウさん、どうですか、この物件は?アンコウさんがおっしゃっていた条件を全てクリアしていますよ。まだ未完成の部屋もありましたが、それも含めて、あと1ヶ月ほどで全ての工事が終わる予定です」

 

 トルクは年の頃30ほどで、見るからに商人らしい雰囲気をまとっている男だった。

 商人としてはまだ若いほうなのだろうが、なかなかのやり手らしく、信頼することができる人物だとアンコウは見た。

 

 アンコウは今、トルクの案内で家を見に来ており、アンコウはずいぶん前から自分が住むための一軒家を買うために、お金を貯めていた。

 アンコウにとっては、自分が求める普通の生活を手に入れるための絶対必要なアイテムが「家」を持つことだった。

 

 アンコウぐらいの年齢の冒険者で、自分が生活をするためだけの一軒家を求める者はかなり珍しい。宿屋暮らしが当たり前、旅暮らしが当たり前、今日の命が明日あると思うなの冒険者稼業である。

 

 アンコウは人より金を稼ぐためには、自分には魔獣を狩る冒険者をする以外にないと思っている。そのリスクは受け入れたし、最悪、魔獣との戦いの果てに死ぬ覚悟もできている。

 

 しかし、冒険者を名乗る者にありがちな、生活そのものを刹那(せつな)的で快楽主義的なものにすることはアンコウの望むところではなかった。

 

 そういった生き方を否定しているのではない。アンコウも刹那的な快楽を欲することもある。

 ただ、常に命の危険をともなう戦いの時間とその反動から生じる欲望のおもむくままに快楽に沈殿するような時間だけの生活は、アンコウのなじめるものではなかっただけだ。

 

 そういう意味では、趣味の違いと言えるのかもしれない。

 魔素の漂う地下迷宮や(あやか)しの森に踏み込む冒険者稼業、いつ死んでもおかしくないからこそ、アンコウはアンコウにとっての普通の時間が欲しかった。

 

 豊かで平和な世界からやってきたアンコウは、不完全で仮初めのものであっても、それを感じさせてくれるものを欲しいと思った。

 

 この世界が、アンコウの思う豊かさや平和に染まることはあり得ないとアンコウもわかっている。

 アンコウがこの世界の中で小さな小さな自分の世界をつくり、それに浸る時間を持つための1つの方法として考えたことが、自分の家を持つということだった。

 

 

「今ご覧いただきましたように、2階建ての新築の庭付き一軒家。我がラチアーノが抱える一流の職人たちが手がけた自信作でございます。

 この広さ、この間取りの物件で、アンコウさんが提示されたご予算で手に入るものと致しましては、このアネサでは最高クラスの物件であると自負しておりますよ」

 

「ああ」

 アンコウは、トルクのほうは見ずに相づちを打つ。

 

 アンコウは家を購入するにあたって、これまでに何度が自分の望む条件と予算をトルクに提示して相談をしていた。

 

「このあたりはご存じのとおり比較的治安もよく、まわりに住んでいる人たちはそれなりの職に就いているか、それなりの財産をお持ちの人が多うございますが、アンコウさんのご希望どおり、貴族の方々はほとんどこのあたりには住んでおりません。

 日々の暮らしに必要な物を売っている店舗も通り1つ向こうに並んでおります。また、湯屋も湯冷めせずに帰ってこられる距離にございますよ」

 

 ラチアーノが扱う物件は貴族が買い求めるようなものではなく、そういう意味では一流とは言えなかった。しかし一般人が求める物件としてはかなり値の張るものも多く扱っている。

 

 また、アンコウのような冒険者が個人の生活用の家をラチアーノで買い求めることはかなり珍しい。

 だから、初めにアンコウがラチアーノの店を訪れたとき、その応対をしたトルクは、アンコウは本気で家を買うつもりはなく、冷やかしか何か別の目的があるのではないかと思った。

 

 そしてトルクは、アンコウと何度か話し合いを重ねて、今日実際にこの物件を見に来た。

 しかし今ここに至っても、さすがに顔に出すようなことはしないが、トルクにはアンコウの本気を疑う気持ちが残っていた。

 

「さすがラチアーノだな。きちんとした仕事だ。あんたらみたいな商人ばっかりなら、世の中もうちょっと平和になるんだけどな」

 

 アンコウの言うとおり、この世界では、アンコウから見れば詐欺や犯罪に当たるような行為がごく当たり前の商行為になっていることが多々あり、それが日常的に人々の(いさか)いの元となっていることがよくある。

 

「そうですね。商人同士の取引ではやむを得ないとは思うのですが、一般のお客様に対して目にあまる駆け引きを仕掛けることはどうかと私も思っております。我がラチアーノは商会全体の方針として、お客様に損を強いるような商売は決していたしませんよ」

 

 トルクも商人、損得を無視して客の利益を優先することはないとアンコウもわかっていたが、アンコウが納得できる物件を提示したうえでのトルクのこの虚実入り混じった言い様をアンコウは好ましく感じていた。

 

「支払いはカラワイギルドに預けている金から支払うよ。ラチアーノもあそこに口座はあるんだろ」

 

 アンコウはまだ何も家具が置かれていない部屋を見渡しながら、軽い口調で言った。

 

「えっ!?」

 アンコウの突然の購入宣言にトルクは虚を突かれたようだ。

 

「………トルク、何をいまさら驚いてるんだ?俺も冷やかしでこんなところまでこないよ」

「あっと、申し訳ありません。私としたことが」

 

 軽く頭をさげるトルクを横目で見て、アンコウは口元に笑みを浮かべる。

 年若い冒険者であるアンコウ、その先入観が抜けていなかったトルクとしては、アンコウのあまりに軽い購入宣言に、つい驚きの声をあげてしまった。

 

「言っとくけど、俺なりにちゃんと考えたうえで決めたんだからな。頭が悪いわけでも考えなしなわけでもないんだぜ」

 アンコウは、少しからかうような調子で言う。

 

「も、もちろんです!そんなことは思ってないですよ!」

「ハハハッ、冗談だよ」

 

 アンコウが今日は1日ヒマなので、前金の支払いは今日中に済ませたいと言うと、トルクはアンコウをこの家に待たせて慌てて力車を呼びに行った。

 

(現金なものだな)

 アンコウとトルクはラチアーノ商会から、そこそこの距離を歩いてここまでやってきた。

 方向は違うが、ここからカラワイギルドの会館までの距離も同じぐらいのものだろう。

(金の力は偉大だね)

 

 アンコウは別に気を悪くしたわけではない。

 電車もバスもないここでの常識では、多少時間がかかるとはいえ徒歩で移動する範疇(はんちゅう)の距離だったし、トルクの対応もごく当たり前のものだと思っている。

 

 ただアンコウは、力車に乗せてもらえるんだったら、ここに来るときにもうちょっと買う気満々だぜというアピールでもしておけばよかったかもなと思っただけだ。

 

 

 しばらくするとトルクが2人乗りの力車を連れて戻ってきた。力車を引っ張っているのは筋骨隆々とした獣人の男で、アンコウから見ればかなりの大男だった。

 アンコウが元の世界の観光地で人力車に乗ったときも車を引いていた車夫はかなりたくましい筋肉をしていたが、今アンコウの前にいる獣人はその比ではない。

 

「さぁ、どうぞ、アンコウさん。乗って下さい」

「ああ、悪いな」

 

 アンコウとトルクは並んで力車に座り、力車は獣人の車夫に引かれてカラワイギルドに向かって動き出す。

 

「アンコウさん、家の家具や調度品はどうするおつもりですか?」

「なんだい?一式サービスしてくれるのか?」

「い、いや、それはちょっと」

 アンコウの冗談にトルクが苦笑いを浮かべる。

 

「買うよ」

 アンコウはトルクの苦笑いを見ながら言った。

 

 アンコウはこの町にやって来てから、これまでずっと宿屋暮らしだ。当然家具など持っていないし、生活用品も必要最小限のものしか所持していない。

 

「まぁ、高価な物を買う気はないけどな。新築の家にぼろい家具を並べる気はないな」

「………ご結婚なされるのではないんですよね?」

「しないよ。する気もない」

 

 トルクは不思議に思う。アンコウが買い求めたのはそれなりの財産を持つ一般人家族向けの物件だ。

 抗魔の力を持ち、冒険者として生きる者を一般人というには少しばかり無理がある。

 

 トルクは、冒険者相手にパーティーの根拠地として使用するに足る家建物を販売する契約は何度かしたことがあるし、数こそ少ないが家族が住むためにといって、このような物件を買っていった冒険者もいた。

 

 しかしアンコウぐらいの若い冒険者が、家族もなく結婚するつもりもないのに、自分が住むためにこんな家が必要だという理由が今ひとつよくわからなかった。

 正直に言ってトルクは、アンコウが何か別の理由があって、この家を買おうとしているのかもしれないと、いまだに考えている。

 

 しかし、トルクは商人。不思議に思っていても客の個人的な事情にこれ以上口をはさむことはしない………まぁ、ただの考えすぎなのだが。

 

「よろしかったら、家具や調度品の類も取り扱っておりますが」

「………品質と価格は大丈夫なのか?」

 

「はい、それはもうご安心していただいて結構です。私どもも長くこの町でこの商売をしていますから、よい品を仕入れるためのいろいろなつながりを築いておりますし、値のほうも上から下まで取りそろえておりますから」

 

「そうか、じゃあ一度見せてもらおうか。家を買えば必要になるものが他にもいろいろあるからな。その分の金も別に考えてある」

 

「はい、ありがとうございます。今いろいろと仰いましたが、家具や調度品の他にも何かご入り用のものでもあるんでしょうか?先程も申しましたが、私どもの商会は諸方と取引をしておりますので、お役に立てるかもしれませんが」

 

 トルクはここぞとばかりにセールストークを展開する。そのための二人乗りの力車であったかとアンコウは気づく。

 それでもアンコウは別段気分を害することはない。必要ならば、アンコウのほうも利用させてもらうだけのことだ。

 

「………そうだな。あと考えているのは奴隷だな」

「ふうむ、奴隷ですか。さすがにうちでは奴隷は扱っておりませんが、あの家を買い、家具・調度品一式を買い揃えて、そのうえ奴隷もとなりますと相当な出費になりますね」

 

「ああ、そうだな。正直ギリギリだろうな。だけど、奴隷は後でもかまわないんだ。とりあえず家とそこでちゃんと生活できるだけのものをそろえたい」

 

「わかりました。それでは家を引き渡すときに、家具・調度品も含めて御納得いただけるものをお渡しできるようにいたします」

 

 アンコウとトルクはカラワイギルドに着くまで、これからの段取りについて話をしていた。

 そして、カラワイギルドの会館で家の購入費の前金を払い込み、残りはひと月後の引き渡しの後で支払うことになった。

 

 

「アンコウさん、本当にお送りしなくていいんですか?」

「ああ、こんな真っ昼間に宿に帰ってもすることがないからな。ブラブラしていくよ」

「それでは、すぐにでも家具と調度品のリストを用意しておきますので、今度見本品を置いている倉庫のほうにもご案内します」

「ああ、近いうちに、またお邪魔するよ」

 

 

 

 

 アンコウはカラワイギルドの会館でトルクと別れ、ぶらぶらと,ギルドの近くにある食事処に入った。

 注文し、食事を始めるアンコウ。

 

 アンコウは食事をしていると、自分のほうを(うかが)う視線に気づいた。

 

(チッ、メシがまずくなる)

 

 アンコウのほうを探るように見ている男は、アンコウからは離れた席に座っており、こちらを(うかが)う気配というのも普通ならなかなか気づかれないであろう巧みさで、堂に入ったものだった。

 

 アンコウは、時おりウエイトレスの女に話しかけるなどしながら、通常よりもかなり長い時間、店の中にとどまっていた。

 しかし、

(先に出て行く気配はないか。………店に入る前からつけられていたのかもな)

 

 アンコウも人に恨まれる憶えがないわけではないが、その男の顔はアンコウの記憶にはない。しかし、この男がアンコウに害をなす者ならば、それ相応の対応をするしかないとアンコウは腹を決めた。

 

 そして、アンコウはそのまま支払いを済ませ、ウエイトレスの女に軽口を言いながら自然な感じで店を出た。

 

 店を出たあと、アンコウはどこに行くというわけもなく歩きつづけた。

 歩きはじめて1時間近くも経ったころだろうか、ずっとアンコウの後ろをつけていた男の姿がふいに見えなくなった。

 

(………いなくなったのか)

 

 念のため、アンコウはしばらくそのまま歩いていたが、やはり尾行者の気配はなくなっていた。

 

「ふうーっ、無駄に疲れたな。何が目的だったんだか」

 

 夜まで町をうろつくつもりだったアンコウだが、少々気疲れしてしまったようだ。

 アンコウはとりあえず今日の宿を押さえてから、夜の予定はそれから決めることにした。

 

 アンコウが今いる場所は、トグラスの宿屋に近い場所であったので、アンコウはそのままトグラスに向かって歩き出した。

 

 

 

 

「なんだこれ。どうしたんだ?」

 

 アンコウはトグラスの宿屋の前に立ち尽くしている。

 宿の中に入る出入り口は板で塞がれ、立ち入り禁止の札が掛けられていた。外から中を窺うと人の気配はなく、ガランとしていた。

 

 4日前の朝、アンコウは間違いなくこの宿を出て、迷宮に出勤していたのに。

 

「……何があった。たった4日前だぞ」

 

 どうみても、店は完全に閉鎖されている。アンコウは頭をかきながら、どうしたものかと考える。

 宿屋は他にもあるし、アンコウが懇意にしている宿屋もここだけというわけでもない。

 

 しかし、つい数日前に毒にうなされている時、女将のテレサには世話になったばかり。

 

(………さすがにちょっと気になるな。知ったところで、多分どうにもできないんだろうけど)

「フゥーッ、」 

 アンコウはため息をつきながら、ここから見えている果物屋に向かって歩き出した。

 

 ここの果物屋の奥さんはトグラスの女将テレサと仲がよく、アンコウもトグラスに泊まっているときに、時折この店で果物を買い求めることがあった。

 アンコウがその店の前まで行くと、顔見知りの奥さんがちょうど店番をしていた。

 

「こんにちは」

 

 アンコウが声をかけると、店番の奥さんは手を止めて顔をあげる。

 そして目の前にいるのがアンコウだと気づくと、奥さんは悲しそうに眉をしかめた。

 

「トグラス、休日ってわけじゃなさそうだな」

 

「アンコウさん………ひどいもんだったよ。2日前さ、・・・・・・・・・・・・・・

 

 

~~ 2日前 ~~

 

「オラ!オラ!邪魔だ!どけ!」

「やめて下さい!まだお客さんがいるんですよ!やめて!」

 

 いかつい男の集団が、次々とトグラスから手当たり次第に物を運び出していく。

 トグラスの女将のテレサは、男たちにむかってやめるように叫び声をあげるが聞き入れられることはない。

 

 テレサ自身も腕をつかまれ、身動きができなくされている。

 いや、テレサの腕をつかんでいるのは普通の人間族の男。テレサが力まかせに動こうとすればできたのかもしれないが、テレサの心は普通の女で戦士ではない。

 この状況に、腕力で抗うような蛮勇は持ち合わせていない。

 

「うるせぇぞ!おとなしくしてろ!」

バシッ!

「キヤァッッ!」

バタンッ!

 テレサは自分の腕を押さえていた男に顔をたたかれて、カウンターに体をぶつけて床に倒れ込んだ。

 

「おいっ!とっとと運び出すんだ!何も残すな!」

 

 テレサをひっぱたいた男は、この間アンコウが殴り飛ばした金貸しの手先の男。

 店から次々と運び出されていく荷物。金に換えれるものは全て持ち出すのが、この手の金貸しのやり口だ。

 

「ううっ…………」

 テレサも床にうずくまったまま動かない。

 

 もう彼女には、どうしようもない。誰も助ける者はおらず、トグラスに泊まっていた宿泊客たちも、ほとんどがすでに出て行ってしまった。

 

 この場に居合わせた客の中には腕に自信がある冒険者もいたが、彼らも突然押し入ってきた連中に一言二言文句を言うことはしても、彼らを追い出そうとはしなかった。彼らを無法者と呼べない理由があったからだ。

 

 なぜなら、店の出入り口にこの店の主でテレサの夫である男が、上半身を縄でグルグル巻きにされて座らされていおり、縄で拘束された宿の主の横には、この町の騎士団の御用聞きを勤める男が全体ににらみをきかせるように立っていた。

 

 騎士団の御用聞きをつとめる者には、評判のよい者も悪い者もいたが、この男はかなりたちが悪いと噂されている男だ。

 それでもこの男がこの場にいる以上、誰もが騎士団という存在を背後に意識せざるをえなくなる。

 

 簡単に言うと、この宿の主は、犯罪者としてすでに騎士団に逮捕されているという形になっていた。

 罪状は借りた金を返さないという契約違反と、おそらくそれに関係するいくつかの違法行為もあげられているはずで、かなり悪質な契約違反者ということにでもされているのだろう。

 

 実際にテレサの亭主は方方(ほうぼう)から金を借りていたし、それを返していなかったのだから、金貸し連中とこの騎士団の御用聞きの男が手を握っていれば、この亭主を正式に犯罪者として逮捕することは容易にできる。

 

 この状況で彼らに刃向かえば、問答無用で犯罪者に味方する者になってしまう。むろん金貸しの取り立てに、騎士団が直接関与してるなどということはありえない。

 

 これは金貸し連中がよく使う手で、騎士団の御威光を利用しているのだ。

 それがわかっていても、権力のお墨付きというのは決して無視できるものではない。

 

 一端(いっぱし)の冒険者ならば、この町の騎士団の御用聞き程度に無条件で膝を屈するようなことしないだろうが、それ相応の理由か見返りでもない限り、善意だけでこの宿を救おうとも思わないだろう。

 

 騎士団には貴族や抗魔の力をもつ者も多く所属している。可能性は少ないとはいえ、最悪、騎士団が出張ってくることを考えれば、直接攻撃されるか明らかな侮辱行為でもされない限り、多少不愉快でも立ち去るのみだ。

 

 テレサを張り倒した男が、今度は乱暴にテレサをひき起こす。

「おい!起きろ!いつまでもこんなところで寝てるんじゃねぇ!」

 

 テレサは、反抗する気力も尽きかけていた。こうなってしまった時点で、泣こうが叫ぼうがどうしようもない。

 

「へへへっ」

 

 男はテレサを宿の出入り口から少し離れたところまで引っ張っていく。

 そして、テレサを引っ張っていた男の手が、テレサの胸をつかんできた。

 

「なっ、やめてください!」

「へへっ、結構いい体してるじゃねぇか」

 

 体をこわばらせたテレサは、虚ろになりつつあった意識を取り戻し、足を止めた。

 男は逃げようとするテレサの後ろから羽交い締めにするようにして、テレサの両胸をわしづかみにする。

 

 テレサの大きい胸が、力まかせの圧力を加えられて、形を崩されているのが服のうえからでもわかる。男はさらに、テレサの胸を掴む手を欲望のままに動かそうとした。

 

「やめてっ!」

ドンッ!

「ぐわっ!」

ドスンッ!

 

テレサは体をよじって、男の手をふりほどき、男を突き飛ばした。

テレサに突き飛ばされた男は、勢いよく壁にぶつかった。

 

「ぐううっ、……こ、このアマぁ、」

 

 ガハハハと、この様子を少し離れたところから見ていた騎士団の御用聞きの男が笑う。

 その笑い声が、男の怒りをさらに高めたのか、男はテレサに掴みかかる。テレサはその男の手を払いのけ、これ以上男の好きにはさせなかった。

 

 なんとか男はテレサの両肩を掴み、テレサがその腕を押さえた状態で動きが止まる。まるで子供の相撲のようだが、男の目は血走り、テレサの目は必死だ。

 

 お互いが掴み合う形になれば、普通の人間族の男相手に、テレサがそうそう簡単に力負けすることはない。

 しかし、テレサをにらむ男の顔に、いやらしい笑みが浮かび、口を開く。

 

「なぁ女将。あんた娘がいたよなぁ、確かニーシェルって言ったよなぁ」

「なっ!あの子は関係ないでしょう!」

 

 大切な一人娘の名を出され、テレサは激しく動揺した。

 

「関係ないわけがないだろ?あの犯罪者の娘だ」

「あの子はもう2年も前に人様のお店に奉公に出しています!あの子の身柄は正式にあちらの預かりになっています!」

「ああ、知ってるよ。大店(おおだな)の力のある店だ。だけどやりようがないわけじゃないんだぜ。大きい店ほど風聞には気をつけるもんだしなぁ」

 男の顔がより一層いやらしく歪む。

 

「確かまだ14だったか?美人だよなぁ、あの娘。おれはよ、ほんとはあれぐらい若いほうが好みなんだよ。それを30過ぎたテメェで我慢してやるって言ってんだよっ!」

 

 そう言って、男はテレサを近くのテーブルに押しつけた。テレサは男に首の後ろを押さえられて、上半身をテーブルから動けないようにされてしまった。

 

 この国の常識からしても、この連中が親の借金を理由にすでに親元を離れて大店の商家で奉公するテレサの娘にまで毒牙をのばすというのは、さすがに難しいものがある。

 

 テレサが娘を12で奉公に出した理由の1つに、このようなもしもの事態を考えたということもあるのだ。

 しかしこのように脅されると絶対に大丈夫とは言い難いのも現実だ。ここには弱者を守る法も、正義の組織も存在しないのだから。

 

「うううっ」

「そうだよ。そうやっておとなしくしてればいいんだよ。手間取らせやがって」

 男がテレサの耳元に顔を近づけて言った。

 

 そして男はテレサの髪をつかんで、顔だけを前に向けさせる。テレサの視線の先に、縄でグルグル巻きにされた夫の姿があった。

 テレサを押さえつけている男が、にやけた顔で言葉を続ける。

 

「見ろ。お前の亭主はおとなしいもんだぜ。お前を助けよう何て気はこれっぽっちもないみたいだなぁ」

 

 テレサの亭主は、ただうなだれていた。テレサもずいぶん前から、この夫には何も期待をしなくなっていた。

 しかし、今の状況はあまりに情けない。テレサの頬に、ひとすじの涙がつたう。

 

 テレサが抵抗しなくなったことを確認すると、男はテレサの上半身をテーブルに押さえつけたままで、テレサのスカートを尻のうえまで捲りあげた。

 下着はつけているものの、テレサの形のいい大きい臀部が男の目の前に露わになる。

 

 さすがにテレサはとっさに体を起こそうとするが、男はまたテレサの首を押さえつけて、

「娘に代わりをしてもらうか?」 

と、ささやく。

「へへへっ」

 

 そして男はテレサの尻を触り、揉み、ときに太ももに手を這わせた。

 男のテレサの尻を触る手が下着の中にまで伸び、テレサの首を押さえていたもう片方の手はいつのまにかテレサの胸に伸びていた。

 

「いやあぁぁぁーー・・・・・・

 

 テレサの亭主は動かない。テレサのほうを見ようともしない。おそらく自分の妻を他の男のいいようにされることに屈辱すら感じていないのだろう。

 亭主にとって、テレサは、とっくの昔に女としてはどうでもいい存在になっていた。

 

 テレサが男に体をいいように触られている間にも、次々と店の物が男たちによって運び出されていく。

 

 テレサが何をされようと興味なく淡々と自分の仕事をこなしていく者、下卑た笑みを浮かべながらうらやましそうにテレサたちを見る者、彼らにとってこれも日常の風景。

 

 しかしそんな中で、突如一本のナイフが男にむかって投げ放たれた。

 

シャッ!!

ザスッ!!

「へっ!?」

 男が間抜けた声を出す。男が自分の頬を触った手には、べっとりと血がついていた。

「ヒイイィッ!血、血だあっ!」

 

 飛んできたナイフは男の頬を切り裂いて、後ろの壁に突き刺ささっている。

 

 ナイフが飛んできた先には一人の冒険者。

 獣人の女戦士が宿の出入り口近くに立っていた。この獣人の女戦士は、まだ残っていたトグラスの客で、ちょうどいま宿を出ようとしていたところだった。

 

 獣人の女戦士は、すでに視線をテレサたちから外し、出入り口の近くに立っている騎士団の御用聞きをしている男を鋭く冷たい目で見ていた。

 出口のほうに向かっていた歩みの方向を少し変えて、その御用聞きの男のほうへと、一歩二歩と足を進めて、また止まる。

 

「おい、お前。あまり調子に乗るな。騎士団と諍いを起こすつもりはないが、お前らの好き勝手につき合う義理もないんだ。

 いいか、お前は騎士団の人間じゃない、お前は騎士団の犬だ。そこを勘違いするなよ。犬コロ一匹始末したところで、必ず騎士団が動くなんてことはないんだぞ」

 

 獣人の女戦士は声を荒げるわけでなく、淡々とした口調で言った。しかし、その目つきは鋭く、猛獣の凄味が宿る。

 

 騎士団の御用聞きの男は、腹は少し出ているものの筋骨たくましく、腕っぷしと押し出しの強さで世を渡ってきた人間であるにもかかわらず、獣人の女戦士の視線をうけているうちに額から流れ落ちる汗が止まらなくなっていた。

 

「………わかってる。おれたちもあんたらに迷惑をかけるつもりはない」

「荷物まとめて、宿を変える羽目になってるんだ。それは迷惑じゃないのか?」

 

 獣人の女戦士は御用聞きの男から目を離さない。男のほうはついに視線を下に落とす。

 

「………すまないと思うが、これは(おおやけ)の仕事だ」

 

「へぇ、公の仕事ねー?まぁ、私も人の仕事に口をはさむ気はないよ。ただ、お前らが何の関係もないこの私に迷惑をかけてるって自覚は持て。私もイラついてるんだ。これ以上は我慢しないぞ」

 

「わ、わかった」

 

 女戦士は言いたいことを言って一応納得したようだったが、そのまま外に出て行くことはせず、今度はクルリと向きを変えて、テレサたちがいる奥のほうに向かって歩き出した。

 

 女戦士がテレサたちのすぐ近くまでやってくる。すでに借金取り男の手はテレサの体から離れていたが、テレサはまだ呆けたように、テーブルに上半身を預けていた。

 

 女戦士はテレサの横を通り過ぎざま、捲りあげられていたテレサのスカートを軽く手で払うようにして元に戻した。

 

「あっ、」

 テレサはそうされてようやく気づいたかのように、テーブルから身を起こして、乱れた服を整えはじめる。

 

 女戦士はそのまま足を止めず、自分が投げたナイフの突き刺さった壁の前まで来ると、無言でナイフを壁から引き抜いた。そして振り返り、また歩き出す。

 

 ごく自然な動作であるが、まわりは一種の緊張感に包まれながら、この獣人の女戦士を目で追っていた。

 

 間違いなく獣人の女戦士を無駄にイラつかせた大きい原因の1つである テレサの尻を撫で回していた男は、流れ落ちる血が止まらない頬を両手で押さえて、小刻みに震えながら立っていた。

 

 女戦士は男の横まで歩いてくると足を止めた。

 

「おい、お前は騎士団とは何の関係もない人間だな。何をしてる?」

 

「は、はい!こ、この宿の者に大金を貸しております!それをこの連中は借りた金を不法にも返さねぇもんですから、騎士団の御裁可を頂いて、御用聞き殿の見届けのうえで差し押さえをしています!ちゃんと執行許可も出てるんだ!」

 

「ああ、それなら騎士団に認められた町の秩序を守るための合法行為ってことだ」

「あ、ああ!ちゃんと執行許可状も持っている!」

 

 男は慌てて、持っていた騎士団からの執行許可状を取り出して、女戦士の目の前で開いて見せた。

 少し無言の間があく。男の両手は血だらけ、頬からの出血も止まっていないが、必死で許可状を突き出す。

 

 女戦士の口調は自然で、声からは怒気は感じられない。しかし目が怖い。冷たい野獣の目。男は怒らせてはいけない相手を怒らせたかもしれないと恐怖していた。

 

 しかし女戦士は、ただ立っているだけで、何も動きを見せない。その獣人の女戦士の様子を見て、男は騎士団からの正式な許可状が効果をみせたのだろうと少し安心した。

 しかし、男の考えは甘かった。

 

「…ヴヴゥゥゥゥーッ、」

 女戦士ののどの奥から、唸るような声が漏れはじめる。

 

「ゥゥーッ、でえぇぇ?それは何の許可状だ?人前で嫌がる女の尻をまさぐって、お前のイカ臭いニオイをまき散らす許可状か?………ブチ殺すぞ、イカヤロウ」

 

 獣人の女戦士が男を見る目の温度が、また一段下がる。そして、その視線に晒される男の手の震えが一段と増した。

 広げて突き出した許可状の文字も、その震えのせいでもう読むことができない。

 

「ああー、読めないねぇ」

ドガッ!

「がっ!」

ドサッ!

 

 女戦士はごく自然な動作で、手に持っていたナイフの柄で、男のこめかみあたりを強く打ち据えた。

 男はわずかに声をあげて床に倒れた。

 目は白目、舌を出して動かない。女戦士は変わらない冷たい目で床に倒れた男を見ていた。

 

………そしてまた、歩き出す。

 

「あっ、マニさん。助けてくれてありがとう」

 テレサが立ち去ろうとするマニに声をかけた。そのテレサの声は少し震えていた。

 

「……助けたわけじゃないから礼はいらない。実際、助かっていないだろう。私がこいつらに少しムカついただけだ」

 

 そう、テレサが置かれている状況は何も変わっていない。テレサの今後は、白目を剥いて床に倒れている男とその仲間たちに握られてしまっている。

 

 テレサの亭主は店の名義でも高利貸しから多額の借金をしていた。テレサは正式な妻であり、この宿の女将。逃げ道はない。

 

 人柄がどれほどよく、真面目に生きていたとしても、それだけで幸せはやってこないし、維持することもできない。

 隣に(くず)がいれば人生は暗転する。この弱肉強食の世界なら、なおさらだろう。

 

「………それでも、ありがとう」

 テレサはつらそうな顔で言った。

 

 そんなテレサをマニは感情のない表情で見つめる。

 マニも、この宿屋を長く使っている常連の一人で、テレサの人柄に居心地の良さを感じて、たびたびトグラスを利用していた。

 

「………女将、いままで世話になった」

 

 獣人の女戦士は一言だけ礼を言うと、テレサから視線を外し、そのまま出口に向かって歩いていった。

 

 

~ ~ ~

 

 

「そのあと、テレサさんも亭主もどっかに連れていかれちまったよ。ひどいもんだ。これっぽっちの情けもありゃしない。

 そりゃ、テレサさんの亭主は酒浸りのバクチ狂いだったけどさ。あの金貸しの連中は、とんでもない利子をつけてやがるんだよ。はじめっからこれが狙いさっ。

 騎士団もあんな悪徳金貸しとつるんでいるような男を御用聞きなんかにしやがって、ロクでもないって点じゃ一緒だよっ」

 

 果物屋の奥さんは、実に悔しそうに吐き捨てた。

 アンコウもよく聞く話ではあるが、そこに出てくるのが世話になった知り合いだったために、それなりに胃が重くなる話だった。

 

 アンコウは話を聞くうちに心にのしかかってきた嫌な重みを振り払うかのように、空を見上げ大きく息を吐いた。

 

「ふうーっ。嫌な話だ………でも、どうしようもないな」

「ええ、どうしようもないよ……」

 

 アンコウはテレサに世話になったことはあるが、テレサは人さらいにあったわけではない。アコギとはいえ、借りた金を返さなかったがための結果だ。

 アンコウにも連れていかれたテレサを捜して、助けなければならないほどの恩義はない。

 

 そして果物屋の奥さんは、アンコウに話して少しは気が晴れたのか、首を振りながらそのまま店の奥に戻って行った。

 

 

(あぁ、嫌な話だったな。とっとと忘れよう)

 

 アンコウは果物屋から離れ、道の向こう側にある宿屋トグラスだった場所のほうをもう一度見た。

 すると宿屋の前に、先程アンコウと同じように、一人の女が立っているのが見えた。

 

(ん?)

 少し気になったアンコウが、そちらに近づいていく。

 

(あれ?あの娘………)

 

 トグラスの前に立っている娘は、まだ顔に幼さも残っていたが、金色の髪に白い肌、とても整った顔立ちをしている美しい人間族の娘だった。

 

(………驚いたな。めちゃくちゃキレイになってる)

 

そしてその娘は、アンコウが見知っている娘であった。



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第10話 辻斬り狩りの依頼

「よう、ニーシェル。久しぶりだな」

 

 アンコウが宿屋トグラスの前に立つ娘に話しかけると、娘は驚き、警戒するように身を引いて、アンコウのほうを見た。

 

「……あっ…アンコウさん?」

「ああ、久しぶり」

 

 アンコウとニーシェルは面識がある。

 ニーシェルは、実家である宿屋のトグラスを子供の時分から手伝っており、アンコウがトグラスを利用するようになって、ニーシェルが奉公に出るまでの1年ほどの間に、何度も話をする機会があった。

 

 アンコウがニーシェルを最後に見てから、2年以上が過ぎていた。その頃のニーシェルは、まだ背も低く、あきらかに子供だった。

 

(……2年で、ここまで成長するのかぁ)

 

 ニーシェルの年は、まだ14。しかし、アンコウの目に映るニーシェルは女になっていた。それも相当な美人だ。

 

(この年頃の子は怖いねぇ。自分がオッサンになった気分になるな)

 

 しかし、その美しい娘の目が赤く充血している。美しい娘の顔が悲しみに染まっていた。

 それを見てアンコウは、若いキレイな娘が悲しむ表情っていうのは男を妙な気分にさせる力があるな と不埒なことを考えてしまう。

 

「トグラスのことは、ついさっきおれも聞いた。だけどニーシェルは、ここで何をしてるんだ」

「私は昨日知りました。奉公先の店の人から聞かされて、……昨日は我慢しました。だけど、だけど、私………」

 ニーシェルの目に涙が浮かんでくる。

 アンコウは、この様子では奉公先に許可をとってきているわけではないだろうと思った。

 

「ニーシェル。仕事さぼったな?」 アンコウが軽い口調で聞く。

 

 ニーシェルは下をむいて、無言でうなずいた。

 

「店の人には、ここには行くなって言われたんじゃないか?」

 

 ニーシェルがまたうなずく。

 

「ニーシェル、見ず知らずの男たちにおもちゃにされて、売り飛ばされる覚悟はできてるか?」

 アンコウが、これまでと変わらない口調で言う。

 

 ニーシェルは驚いて顔をあげて、顔を左右に振る。その仕草はまだ子供っぽいものだった。

 アンコウはその様子に苦笑する。

 

「たく、ニーシェル。店の人がここに行くなって言ったのも、そういう心配をしてたからじゃないのか?」

「……はい。似たようなことを言われました」

「あり得ない話じゃないってことはわかってるんだろ?」

「はい、だけど、だけど、お母さんがっ!」

 

 ニーシェルの目から、ついに涙がこぼれ落ちる。

 美人の憂いは様になる。アンコウはそんなニーシェルの姿を見て、

(胸も大きくなってるし、この子は相当高く売れるな)と、ろくでもないことを考えた。

 

「まぁ、気持ちはわかるよ。………そりゃあな」

 アンコウはニーシェルから目をそらし、出入り口に板が打ちつけられたトグラスのほうを見ながら言った。

「ニーシェル、これを最後にしろよ。しばらくここには近づくな。いや、ここの近くに来なくても一人で出歩くのは当分よせ」

 

「……はい……」

 

 ニーシェルも、本当はよくわかっている。

 ニーシェルの奉公先は、母親のテレサが探してきた従業員を大切にするしっかりした店だ。そして、ニーシェルの奉公先での評判はすこぶるいい。

 

 ニーシェルの実家の不幸を聞いて、その災厄がニーシェルにまで及ばないようにちゃんと考えてくれていた。それがわかっていても、ニーシェルは乱れる気持ちを抑えられなかった。

 

 念のためアンコウは周囲を見渡す。

(………ここを見張っている人間はいないみたいだな。まぁ、そこまで執拗にする意味はないか)

 

 

 アンコウはニーシェルを奉公先の店まで送っていくことにした。

 さすがに、このあと万が一、ニーシェルの身に何かあったら、後味が悪すぎると思ったからだ。

 

 ニーシェルも、ここまで来て自分の目でトグラスの現状を見て、少しは冷静になれたのであろう。アンコウが店に戻るよう話をすると、おとなしく実家であったトグラスの店に背を向けた。

 

 

 

 

 アンコウはニーシェルと二人歩いた。むろん明るい雰囲気にはなり得なかったが、ぽつりぽつりと言葉は交わした。

 そして太陽が傾き、時刻が夕方にさしかかるころ、ようやくニーシェルの奉公先の店が見えてきた。

 

「ニーシェル、いいか。もうトグラスには行くなよ」

「はい。あそこにはもう私が帰る場所はないって納得できましたから」

 

 ニーシェルの表情は決して納得できたというものではない。

 しかし、実際に自分で行動することで、自分にはどうすることもできないのだと、ニーシェル自身も少し自分の気持ちを抑えることができたのだろう。

 

「そっか」

「……はい。アンコウさんわざわざ送っていただいてありがとうございました」

「いや、」

 アンコウが会話を切り上げようとした時、アンコウたちの後ろから声がした。

 

「ニーシェル!あなたどこに行ってたの!」

 どうやらニーシェルと同じ店で働く、ご同輩らしかった。

 

 店のほうからではなく、後ろから現れたのはニーシェルを探していたからだろう。

 その表情には安堵と怒りの色が浮かんでおり、アンコウのほうをチラチラと(いぶか)しげな目で見てきた。

 

 アンコウも、とっさに声をかけてきた娘のほうを振り返っていたのだが、今、アンコウの視線は、その娘のほうにむけられていない。

 振り返ったアンコウの視界に、一人の男の姿が映ったからだ。

 

 ニーシェルに声をかけてきた娘の、さらにむこう側にある細い路地の近くに、その男は立っていた。それは、

(チッ………さっきのストーカーか)

 

 その男は間違いなく昼間アンコウをつけ回していた男。

(あれはニーシェルじゃなくて俺のほうの客だな……)

 その男は隠れることなく、アンコウのほうをじっと見ている。

(あのやろお……)

 

 ニーシェルのそばまで駆け寄ってきた娘が、アンコウに警戒のまなざしを送る。

「ニーシェル、この人は?」

 ニーシェルにも、その知り合いの娘のアンコウに対する警戒心がありありと伝わる。

「大丈夫よ。家の知り合いの人なの」

 

 アンコウは、二人の会話に加わろうとはしなかった。

 そしてアンコウは無言のまま、二人に背を向けて歩き出だそうとした。

 

「あっ。アンコウさん、待って」

 

「……ニーシェル、その娘に俺の身元の説明は店に戻ってからやってくれ。その娘の様子じゃ他にも心配をしている人がいてそうだしな。俺はもう行くよ」

 アンコウは足を止めることなく、首だけ少しニーシェルのほうにむけて言った。

 

「は、はい!アンコウさん!ありがとうございました!」

 

 ニーシェルは歩いていくアンコウの背に御礼の言葉をかけて深く頭を下げると、同輩の娘と二人、店にむかって駆けていった。

 

 アンコウはもうそれ以上、走り去る二人の姿を追うことはせず、まっすぐに路地の角に立つ男にむかって歩きはじめた。

 

 

 人に後をつけられるということは不愉快であるし、状況によっては想像以上に恐怖や怒りもともなう。

 先程とは違い、男はあきらかにアンコウと接触を図ろうとしているようだ。アンコウは強く警戒しながらも、無視してやり過ごすことは不可能だろうと判断した。

 

 アンコウは男のかなり近くまで歩いていき、足を止める。

 男は、まったく隠れるそぶりも逃げるそぶりも見せずにアンコウを見ていた。男の顔にわずかに笑みが浮かぶ。

 

 アンコウは男を観察する。

 30になるかならないか、アンコウよりはうえのようだが、まだ若い男だ。腰に剣は差していない。男から感じる気配からも、この男は抗魔の力は持っていないとアンコウは判断した。

 ならば、この男に単独でアンコウを殺す力はない。

 

 しかし男の態度には、明らかに余裕があるようにみえる。腕力がないにもかかわらず余裕がある、

(………どこかの組織の人間かもしれない)

 アンコウは警戒しつつも、その男に声をかけた。

 

「何のようだ」

 アンコウの男を見る目は鋭い。男はそのアンコウの目に怯む様子もなく、口を開く。

 

「アンコウさんですね。少しお話がありまして。よろしいですかね?」

「いいわけないだろ。なんだ、お前は」

 

 男は怯まない。顔に笑みを浮かべたまま話を続ける。

「ご存じかとは思いますが、最近、近くの裏通りで死神のまねごとをする身なりのよい方がいるようでしてね」

 

「知らねぇよ」

 

 アンコウは剣の柄に手を掛けて、さらに男に近づく。男は顔に笑みを浮かべたまま、少しづつ後ろにさがっていく。

 

「へへへっ。おっかないですねぇ、アンコウさん」

「ふんっ、俺はいたって温厚な人間だよ。無駄に人に噛みつくのは大概テメェみたいな人間だろうが」

「誤解ですよ。おれはアンコウさんに話があるだけなんですよ。何、ちょっとした仕事の依頼ですよ」

「あ?頭湧いてんのか。お前みたいな見ず知らずの胡散臭いだけのやつから、仕事なんか受けるわけないだろ」

 

 非常識きわまりない話だ。この男が見た目どおりの裏の稼業の人間だったとしたら、なおさらこんな仕事の依頼の仕方はあり得ない。

 

 裏の仕事はいろんな方面で危険をともなうことが当然に多い。後々のことを考えれば、ある意味、表の仕事以上に仕事を依頼してきた人間への信頼が必要となる。

 アンコウは、この男はだめだと思った。

 

(……もうちょっと、玄人(くろうと)かと思ったんだけどな)

 アンコウの目から感情が消えていく。

 アンコウと男は、少しずつ路地の奥へと移動していく。

 アンコウは考える。この男の仕事を受ける理由も、ここでこの男を殺すほどの理由もない。これ以上は無駄だと。

 

 そのまま ある程度路地に入った時点で、アンコウは男との距離を一気に詰めて腰の剣を男にむかって抜き放った。そのアンコウの剣が男の顔の横でピタリと止まる。

 

「………み、見事な腕前で」

 

 男は何とか浮かべた笑みを保っていたが、剣を突きつけられれば、さすがに顔は引きつり、余裕は一気になくなっていく。

 アンコウは男にむかって殺気を放ちながら、いったん止めた剣をゆっくりと男の顔にむかって動かした。

 

 アンコウの剣刃が男の顔に触ると男の頬から、スゥーッと、血が流れ落ちてきた。

「ぐっ……!」

 男の顔から笑みが消え、全身が小刻みに震えだす。

 

 アンコウは本気で殺すつもりはなかったが、別にこの男が死んでも構わなかった。

 そのアンコウにとってのこの男の命の軽さが、アンコウの振るった剣から男にも伝わったのだろう。男の全身から汗が噴き出してくる。

 

「お前、名前は?」

「……ロ、ロイスっていいまさぁ、以後御見知り、ヒッ!」

 アンコウの剣がさらに男の頬に食い込んだ。しかし、この男もなかなかいい度胸をしている。

「以後なんかあるわけないだろ。いいか、今日は殺さない。だけど、次は殺す。二度とおれの後ろを歩くな」

 

 ロイスの唾を飲む音が聞こえてきそうなほど、ロイスの喉仏が動いた。

 ロイスの目に、アンコウのうしろに見える表通りに、人が行きかっているよう様子がこの路地からも見える。

 

 しかし、わずかに道をそれただけのこの路地にはまったく人の姿はない。ただ、剣を突きつけられたロイスと凄むアンコウがいるだけだった。

 

その時、

「ウワァッ!!」

 突然アンコウの耳に響く大きい声。

と同時に、アンコウの目の前にロイスではない人の顔が現れた。

「なっ!」

 

 驚いたアンコウは、とっさにうしろに飛びさがる。

 その際、ロイスの顔に当てていた剣が、さらに深くロイスの顔を傷つけてしまった。

「あぁーっ!」

 ロイスは頬を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。

 

 

「ハハハッ!どうだ!驚いただろう?アンコウ。」

 

 突然目の前に現れた男が、笑いながらアンコウに声をかけてきた。男は、ロイスのうしろのさらに細い路地に隠れていたようだ。

 そしてそれはアンコウが見知っている男の顔。

 

「なっ、……なにやってんだ!カリム!」

 

 アンコウは驚きと怒りをない混ぜにしたような顔で、その男の名前を口にした。その男はつい2日前までアンコウが一緒に迷宮に潜っていた男、カリムだった。

 実に、子供っぽいいたずら好きのこの男がやりそうなことではあったが、それ以前になぜカリムがここにいるのかがアンコウにはわからない。

 

「アンコウ、驚いただろう?」

「何でカリムがここにいるんだ!?」

「驚かそうと思ってな!」

「カリムさん!何してるんですか!もっと早く、ふ、普通に出てきてくださいよ!」

 ロイスが頬から血を流しながら、カリムに言った。

 

「……カリム、どういうことだ。お前このストーカーと知り合いなのか?」

 

 カリムは、まだ20代後半の若さであったが、すでに10年以上冒険者として稼ぎ、生き延びている男だ。

 

 カリムの背は高く、アンコウが真っ直ぐに見れば、その目線はカリムの厚い胸板あたりにくる。

 この立派な体格を持つ男は、生まれつき抗魔の力を持っていたが、その力は子供の頃はさほど強いものではなく、思春期を迎えた頃から抗魔の力が急速に強くなり、それと同時にカリムは冒険者の道に入ったらしい。

 

「ああ、古なじみだ。こいつらがアンコウにも話があるらしい。おれはその付き添いだ」

「ふーん。カリムも一枚かんでるのか?」

「関わってはいるがな。立場はお前と一緒だ。仕事を持ちかけられた。まぁ、おれの場合、知り合いでもあるからな。話だけでも聞いてやってくれ」

 

 カリムは明るく、豪快な男だった。アンコウとカリムが話している間にロイスは立ち上がっており、カリムのことを恨めしそうな目で見続けている。

 

「あんた、ロイスって言ったな。何やってんだ、死にたいのか?人の後をこれ見よがしにつけ回して、挙げく斬られて、血ぃ流して。カリムを連れてくる意味がないだろう?」

「そういう条件だったんですよ。カリムさんについてきてもらうための」

 

 どうやらロイスはカリムの遊びにつき合わされたようだ。

 

「でもカリムさん!予定とちがう!もっと早くに出てきてくれないと!」

 カリムのほうに顔をむけたロイスが、強い口調でカリムを非難する。

 

「ん?何だよ、ロイス。おもしろかったんだからそれでいいんだよ」

 カリムの言葉に少し凄味がこもる。ロイスを見る目もギョロリと大きくなった。

 

 カリムは明るくて豪快であると同時に、手が出るのが早く沸点が低い男だ。そのことをよく知っているロイスは、カリムから視線を外し口ごもった。

 

(古なじみでも、友達同士ってわけじゃなさそうだな)

 アンコウは二人の様子を見てそう思った。

 

「ワッハッハッハ!ロイス、この程度のことでへそを曲げるな!ほらよ!」

 

 カリムはロイスにむかって、ヒールポーションを一瓶投げ渡した。

 

 

 

 

 アンコウは窓から外に目をむける。向かいの建物との距離は短く、住民たちが建物と建物の間にいくつもの綱を張り、そこに洗濯物を干していた。

 

(もうそろそろ取りこまれる時間だな)

 

 アンコウはロイスたちの案内で、裏通りを入っていったところにある石造りの建物の中の一室にいた。

 

 昔この町に駐屯していた兵士たちによって防塞を兼ねた兵舎として造られた建物で、今はあまり豊かではない人々が自分たちの住居として利用している。

 相当古い建物ではあるが、いまだしっかりと建っている。

 

「で、どうですかね。アンコウさん」

 ロイスがアンコウに聞く。

 

 アンコウ、ロイス、カリムの三人がひとつのテーブルの椅子に座っている。アンコウが、わずかな時間だけ窓の外に向けていた視線をロイスのほうに戻す。

 

「さっきも言ったが、条件は4つ。まず、金だ。十分な報酬。次に、カリムがこの仕事を受けているということ。ロイス、お前やお前の組織のことはおれは知らないからな。ろくに知らないヤツらとこんな仕事はできない」

 

「何だ、アンコウ。おれに甘えてんのか?気持ちわりぃな!」

「気持ち悪いのはお前だ、カリム」

 

 眉をしかめるアンコウを見て、カリムが、ワハハ と豪快に笑う。

 そんなカリムをそれ以上は相手にせず、アンコウは話を続ける。

 

「次に戦力だ。あの辻斬り貴族どもを間違いなく殺れるだけの戦力をそろえること。おれは戦いを楽しむ趣味はないからな。最後に貴族を殺して本当に大丈夫なのかと言うことだ。

 戦力をそろえてちゃんと準備をすれば、そりゃあ、あんな馬鹿ボンの一人ぐらい殺せるだろうが、後々(あとあと)ご一門の貴族どもに報復されるってんだったら、こんな話には絶対に乗れない」

 

「おれは受けたぜ、アンコウ。だからここにいる」

 カリムが大きな目を見開いて言う。

「金も、まぁ、相応の額は出る」

 

「アンコウさん、人数は相手の倍の冒険者を用意するつもりです。アンコウさんにその一人になってもらいたい。あいつらと一度やり合ったことのあるアンコウさんなら打ってつけってもんです。

 それにあとの心配はまったくいりませんよ。この仕事の大本の依頼主は、あの辻斬り貴族の御身内ですからね」

 ロイスは、カリムから貰ったヒールポーションをひたした布を頬に当てながら話している。

 

 ロイスの話によると、あの辻斬りのお坊ちゃんはこの近辺でもかなり有力な貴族の一門に属する者らしいのだが、いまでは自分の親族からも相当に疎まれているとのこと。

 アンコウはそれを聞いて、あれだけ好き勝手やっていればそれも当然のことか、一族あげてくそったれ揃いなんてこともないだろうからなと思った。

 

「まぁ、貧民街とはいえ、あんだけ堂々と人斬りやってたらな。そうなるのも当然か」

 アンコウは思ったことを口にする。

 しかし、アンコウはまだこの世界の貴族に対する評価が高かったようだ。

 

「いえ、辻斬りのほうはともかく、あの男は他にもいろいろ問題を起こしてるようでしてね。何でもしばらく前に、この町の太守様のご息女に仕えているメイドを手籠めにしたらしいんですよ。

 本人はそうとは知らず、襲ったらしいんですがね。まぁ、連中にしたらいつもやっているお遊びだったんでしょうし。

 それでも、ご息女付きのメイドといっても、お姫様が顔も知らないような者もたくさんいてるんですがね。連中にとって運がなかったのは、その襲った女が太守のご息女が大切にしているメイドだったらしく、これがけっこうな問題になったらしいんですよ。

 ヤツの父親や親族のお偉いさんが、あっちこっちに働きかけて何とか表沙汰にはならないようにしているようですが、かなり尾を引いているようでしてねぇ」

 

 辻斬り坊ちゃんは貴族の父親が家で働いていたメイドに手をつけて生まれた子供で、実子として認められてはいるが、家の家督とはまったく関係のない立場にあった。

 しかし、母親のほうがなかなか裕福な商家の娘だったらしく、そちらのほうの支援を受けて、家を継ぐ責任もないことから、同じような立場にある者よりも、かえって自由かつ贅沢三昧に生きてきたらしい。

 

 金のある商家が行儀見習いの名目で貴族の屋敷に娘を出すというのはよくある話で、ようは権力との接点を持ちたいという打算がそこにはある。

 その働きに出した娘が、その貴族の子を身籠もるというのはその商家にとって、決して不幸なだけの話ではない。

 

「まぁ、ちょっと甘やかされすぎたんでしょうね」

 

 今、あのお坊ちゃんは家長である父親から謹慎を言い渡されている最中なのだが、その謹慎先の屋敷は母方の実家である商家所有のものだった。

 謹慎といっても座敷牢に閉じ込められているわけではなく、面倒を見ているのはお坊ちゃんに大甘の母方の実家の商家なのだ。自然、謹慎など名ばかりのものになる。

 

 それどころか、その謹慎中の暇つぶしにやらかしたのが一連の貧民街での辻斬りだった。

 

 アンコウは、ロイスの話を聞いているうちに湧きあがってくる吐き気をともなう不快感を抑えることが出来なかった。

 

 アンコウはいつのまにか視線をロイスの顔より少しうえに向け、腕を組み、天井をじっと見つめていた。

 

(……辻斬りが暇つぶしか、おれの命は暇つぶしか……)

 アンコウのなかの不快感が怒りに変わり、アンコウの頭の中をグルグル回る。

 

 わかってはいた。貴族たちにとって、貴種の血脈、王家や王家の直臣から認められた冠位を持たない者の命など羽毛のごとく軽いものなのだとアンコウもとっくに知ってはいた。

 

 しかしそれでも、現実に自分の命が虫けらのごとき扱いをされたのだと、他人の言葉からあらためて気づかされると、抑えていた感情も噴き出すというものだ。

 

 いつのまにかアンコウの体から殺気があふれ出す。

 アンコウは腕を組み、天井を見つめ、動かない。ずっと話しつづけていたロイスも、ようやくアンコウの様子の変化に気づいて口を閉じる。

 そして、ロイスの顔におびえの色が浮かんできた。

 

 一方カリムは、そんなアンコウの様子をおもしろそうに見つめている。

 

「おい、アンコウ。そんなに腹が立つんだったら、ぶった斬ってやればスッとするだろうが」

 カリムが笑みを浮かべながら言った。

 するとアンコウも、カリムのほうに視線を移して口元に笑みを浮かべる。

 

「ふざけんなよ、カリム。そんな気分の問題で、いちいち貴族をぶった斬ってたらキリがないだろうが」

 

「ガハハ、違いねぇ!命も力も時間も、あれもこれも足りねぇなぁ」

 

 アンコウは自分のなかにある怒りをぐっと抑えて、大きく一度息を吐き出す。

「ふうぅーーっ」

 

 そしてまた、窓の外で大きく風にたなびく洗濯物の波に目を移した。

 

―――― そしてアンコウは、ロイスの依頼を引き受けた。

 

 

 ロイスが所属している組織は、アネサの貧民街を拠点としている。

 ロイス曰く、住民互助組織(?)の1つだそうだ。しかし、アンコウの元の世界の言葉で言うと、ギャング、マフィア、任侠集団、そういった類のものだ。

 

 アンコウの元いた世界との違いは、そういった存在が法によって禁じられてはいない。必要悪、あって当たり前の存在なのだ。

 そういう意味ではアンコウの元の世界での表社会・裏社会の感覚とはあきらかに違う。

 

 この世界でも表に堂々とは出てこないものではあるが、生涯堅気(しょうがいかたぎ)の者であっても、その存在を完全に忌避(きひ)して彼らと関わらずに生きていくことはできない。

 アンコウのような冒険者稼業を生業(なりわい)としているものならばなおさらだ。

 

 冒険者として長く生きていくことを考えれば、ロイスが属している類の組織との関係は多少の損得勘定は無視してでもきちんと築いておいたほうがいい。

 彼らのような存在は、味方にすれば間違いなく冒険者としてこの世界を生き抜くための力になる。

 

 それにロイスに言わせれば、アンコウやカリムのような冒険者のほうが、自分たちよりもよほど血なまぐさく危険な存在ということになる。

 

「遅くても、半月以内にはあいつらはまた動くと思います。もう次の辻斬りの相談をはじめているらしいですから」

 

(………連中の内部情報は筒抜けか。あいつらもう詰んでるな)

 

 そして辻斬り貴族たちが再び動き出したのは、アンコウがロイスの依頼を受けてから10日目のことだった。

 

 

 

 

 全ての準備と標的の監視は、ロイスたちの組織が受け持っていた。

 ロイスたちの組織に所属する者たちは、そのほとんどが抗魔の力は持たない貧民層出身の一般人で構成されている。

 情報収集や交渉事はお手の物だが、抗魔の力をもつ者相手の戦闘となれば当然分が悪い。

 

 それでも数の力を頼めば、ロイスたちだけで連中の首をあげることもできなくはないだろう。

 しかしそんなことをすれば、必ず多くの犠牲者が出ることになるし、たとえ貧民街であっても、町中(まちなか)でそれをやることは組織にとって自殺行為になる。

 

 それゆえに、ロイスたちが舞台を整え、アンコウたち実戦部隊が獲物を狩りとる役割分担が必要になるのだ。

 

 アンコウたちは事前連絡を受けて、すでに辻斬り貴族どもがやってくるだろうと推測される地区に入っていた。

 そのアンコウたちが待機する建物の中に、組織の連絡員が一人、入ってきた。

 

「カリムさん。連中が動き出したようです。屋敷を出て、事前情報どおりこの地区にむかっているようです」

 

 アンコウたち実戦部隊のリーダーには、カリムが指名されている。連絡員の男はカリムに話しかけたが、その声は部屋にいる者すべての耳に聞こえていた。

 

「連中の数は三人。標的の貴族と護衛が二人」

「その護衛の二人も事前情報どおりの二人でいいのか」

「はい」

 

 護衛の内の一人は、先日アンコウに毒針を突き刺してくれた男だったが、もう一人はアンコウも知らない男だった。

 

「このあいだも言ったが、おれを襲ったときにもいた男は間違いなく抗魔の力を持っているし、それなりに実戦経験もあるだろうから油断はできない。あのお坊ちゃんの力押しも馬鹿にはするなよ」

 

「アンコウは心配性だ。それでも二人とも一対一でやれば、お前が充分に殺やれると感じたんだろう」

「馬鹿ボンは問題ない。護衛のほうはどうかな。敵わないって感じはしなかったが、まともに斬り合う前におれは逃げたからな」

「それでもこっちは6人だ。6対3で問題あるか?」

 

 当然ながら冒険者の中でもピンキリはある。集められた冒険者については、アンコウが自分と比べてみて、こいつなら余裕で勝てると断言できるような者は一人もいなかった。

 よくこの短期間で、それなりの力を持った冒険者を6人も集めたものだとアンコウは素直に感心していた。

 

「ないな」

 アンコウとカリムはみんなに聞かせるように話をした。

 カリムが、連絡員の男のほうを見る。

「もう一人の護衛の男っていうのも問題ないんだな」

 

「はい。その男も元冒険者で、雇われて馬鹿ボンの父親の屋敷の警護をしていたらしいんですが、馬鹿ボンの要請があって、つい最近そちらに回されたようです。

 新しい護衛が必要になったのは、アンコウさんの辻斬りに失敗したことが元の原因みたいですよ。アンコウさんを襲ったときにかなりひどい怪我を負った男はクビになったみたいでして。まぁ、怪我よりも真っ先に戦闘不能になったことが馬鹿ボンの不興を買ったみたいなんですがね」

 

「クビになったのか?」

 アンコウがつい聞き返す。

「ええ」

 

(……あいつ、雇い主の馬鹿ボンを体を張って守ったんだけどな。報われないな。まぁ、クビになってなかったら今日が命日になる。あいつにとって、ある意味神仏のご加護か)

 

「しかし、アンコウにやられた奴をクビにして、お家に替わりを要求したらすぐにそいつが来たわけだ。やっぱり父親はその馬鹿の味方か?」

 

「いえ、カリムさん。そうでもないですよ。代わりにきた男は確かに元冒険者ですが、そんなに強くはないみたいです。

 その貴族の家で雇っている護衛の中にはかなりの手練(てだ)れもいるみたいなんですがね。まわりの評判じゃ、代わりにきたヤツはクビになった男よりも弱いらしいですよ」

 

「そうか。まっ、殺し合いする相手が弱いってんならありがたい話だ!」

 

 父親が愚かな息子を改心させようとしているなら、息子の要求を全部はねつけるというのはありだ。

 しかし息子の護衛に、あえて弱い者を選んで当たり障りなく送りつけるというのは、父親の息子に対する冷たさをより強く感じさせる。

 

 依頼主が親族だとはいえ、馬鹿ボンを討ち取ったあとで、いきさつを知らない貴族の身内からの報復があるのではという心配も、父親がこれならまず大丈夫だろうとアンコウはあらためて安心できた。

 

「では皆さん、そろそろ出張る準備をお願いしますよ」

 

 連絡員の男の言葉に、部屋にいる6人全員が同意の意を示した。



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第11話 違和感の正体

「くそっ!家の者たちはどいつもこいつも、おれをなんだと思っているのだ!父上もだ!母の実家から今までにどれだけの財物の支援を受けた?それだけのものが入ってきたのはおれがいたからであろう!

 それをいつまでたっても謹慎の沙汰を解かぬばかりか、こちらのわずかばかりの要求もまともに聞き入れようとはしない!」

 

 貧民街の一角にある1軒の空き家の中で、辻斬り坊ちゃんが怒りの言葉を吐いている。

 常識ある者が聞けば、愚か者の愚痴としか言えないようなものだ。それでもお坊ちゃんの側に仕えている中年の護衛は、神妙に相づちを打っていた。

 

 この護衛の男は先日アンコウに片目を小クナイで刺された男。アンコウに毒矢を刺した男だ。

 男の目には眼帯が巻かれていたが、痛みがあるような様子はすでにない。

 

 この男が、お坊ちゃんに相づちを打つ姿は実に様になっていた。

 アンコウを襲ったときにいたもう一方の護衛に男はクビになり、この男が変わらず、このお坊ちゃんに仕えているのは、単に実力が認められているだけでなく、太鼓持ちの才覚にも恵まれているのかもしれない。

 

 このお坊ちゃんは、自分が不祥事を起こし、父親から謹慎を受けたことにまったく納得しておらず、当初から処分に対する不平不満が強かった。

 それに加えて、アンコウへの辻斬りを失敗してからは、さらにその度合いが強くなり、ところ構わず怒りをぶちまけるようになっている。

 

 しかし、このお坊ちゃんは自分のそういった行いや考え方が、今日(こんにち)の自分の危うい状況を生んだということにはまったく気づいてはいない。いや、自分が危うい状況にあるということさえ、自覚していないのであろう。

 

 そしてアンコウが実力はあると断じた護衛の中年の男は、その若い貴族に諫言(かんげん)するそぶりもなく、ただただ相づちを打っていた。

 

「父上は、いや、あれは父上のまわりにいる者たちの差し金に違いない。家宰どもをはじめ、あの家の者どもはおれをいつも見下しておる!今に見ておれよ!」

 

 お坊ちゃんは、自分の吐き出す怒りの言葉にあおられて、どんどん興奮していった。

 社会的、物質的に恵まれた環境で育ち、普通よりは才能に恵まれた人間。それが過剰な自己愛を生み、謙虚さを養ってこなかった若者の典型のような男だ。

 

「おれはより強い護衛をつけるように言ったのだ。それをおれが名をあげた者は寄越さずに、あのような中途半端な者を寄越しおって!あれならばケリーの方がマシであったわ!家人風情が、主家の男子をなんだと思っておるのだ!」

 

 今この空き家の中には、お坊ちゃんと中年の護衛の男の二人しかいない。もう一人の護衛の男は、お坊ちゃんの指示で外に出ていた。

 

 しかしこれだけ大きな声を出していれば、お坊ちゃんの声は家の外まで聞こえているに違いない。実際に、この建物の外に立っていたもう一人の護衛の男の耳に、お坊ちゃんが自分のことを悪し様にいう声は聞こえていた。

 

 しかし、この新しい護衛の男はそんなことはまったく気にする風ではなく、お坊ちゃんに指示されたことに従い、この家の周囲の見張りと、今日の獲物となるべき対象を探し、キョロキョロと眼を動かしていた。

 

 

 アンコウたちは、辻斬り貴族たちが潜んでいる建物を少し離れた場所から眺めている。

 アンコウたち実行部隊6人以外にも、ロイスやロイスの組織の人間たちが、この周囲にすでに何人も展開していた。

 

(よし、大丈夫そうだな)

 

 事前の情報収集から、ここまでの手配、ロイスたちはなかなかしっかりした仕事をしており、アンコウはこれまでロイスの組織と関係を持ったことはなかったが、アンコウの中で彼らに対する評価はかなり高いものになっていた。

 

(こいつらとはこれからも懇意にしていたほうがいいかもしれない)

 

 

「カリムさん、これからの行動はあなた方の指揮におまかせしますよ」

 今もアンコウたちの近くに控えているロイスが、カリムに言った。

「ああ、まかせておけ。あっちゅう間にケリをつけてやる」

 

 カリムの表情にも余裕の色が見える。逆に実行部隊ではないロイスのほうが、強ばった顔つきをしており、あきらかにここにきて緊張の度合いを高めていた。

 カリムとロイスは同じ人間種人間族。しかしこれからおこなわれるのは抗魔の力を持った者同士の戦闘だ。

 

 どちらにも一級と呼ばれるような実力をもつ戦士はいなかったが、それでも通常の人間種であるロイスが割っては入れるようなレベルの戦いでない。

 ロイスの緊張はごく自然で人間的なものであろう。

 

 カリムの視線の先には、お坊ちゃんが潜む建物と、その建物の外でウロウロしながらまわりを見渡している一人の男の姿が映っていた。

 

「よし!おれたちはあの建物の裏側に回る。アンコウ、こっちの三人はお前がまとめろ」

「わかった」

 

 カリムは、ロイスからいろいろな情報を聞き出しながら、他の5人の冒険者に指示を出していく。

 アンコウもカリムの指示を聞きながら、用心深く標的である貴族がいる建物と、その建物の近くに立っている護衛の姿を建物の影からのぞき見た。

 

 アンコウたちは、万が一にも彼らに見つからないために、まだかなり距離をあけて隠れていたのだが、アンコウの目にも、小さいながらはっきりとその護衛の姿を確認することができた。

 

(……ん?何だ?いま一瞬……)

 

 アンコウは一瞬、覗き見ている護衛の姿から何かおかしなものを感じた。

 

「おい!アンコウ、見つかるなよ!」

「ん?ああ。わかってるよ」

 

「カリムさん、大丈夫ですよ。あそこからは、この場所は死角になっていますから」

 ロイスはこの辺りの建物や道にかなり精通しているようだ。

 

「そんなことはわかってる。おれもここの生まれだぞ」

「ええ、それこそ、よくわかってますよ。カリムさん」

 ロイスは少し苦笑いを浮かべていた。

 

 二人は同じく、このアネサの町、この辺りの地区で育ったらしく、その関係での古なじみだった。年はロイスのほうが少しうえなのだが、ずっとカリムに対して敬語を使っている。

 詳しい事を聞いてはいないが、子供時代少年時代にいろいろあったんだろうなと、アンコウは思っている。

 

 アンコウはカリムの現在の生き方、普段の言動や性格からも、カリムがまともな子供時代を送っていたとは思っていない。

 

 この辺りの不良少年どもの犯罪者とほぼ同義のタチの悪さは、この町のものなら誰もがよく知っていたし、実際にカリムはこの地区でそういった不良少年と呼ばれる少年時代を送り、成長してきた男であった。

 

 アンコウはカリムたちから視線を移して、もう一度チラリとあちら側を見る。

 

 護衛の男はアンコウたちがいる方向とは逆の方向に体をむけていた。アンコウは先程、護衛の男から感じたわずかな違和感を今度は感じなかった。

 

(………気のせい、だったかな)

 

 アンコウのそんな様子を見逃さず、カリムが口を開く。

 

「ハッハッ、アンコウは少し用心深すぎるんだ!まぁ、いつものことだがな。お膳立ては万端だ。後はおれたちは逃げ場のない獲物を狩るだけだ」

 

 アンコウはカリムの言葉を聞いて、口元に笑みを浮かべた。

 カリムはアンコウを用心深すぎるというが、そのカリムも大雑把なようで、実にまわりをよく見ている。

 

 いや、カリムだけではない。自他共に認める用心深いアンコウだが、そうは見えなくてもカリムのように長年冒険者として生き延びてきた者たち、特にパーティーリーダーを務めてきたような者たちは、総じて戦地にあっては用心深さを身につけている者が多い。

 

 カリムや先に迷宮で魔獣狩りを共にしたダッジもそうだが、種族や性格などは関係なく、彼らのようにパーティーリーダーとなる者が冒険者としての用心深さを持っているということは非常に重要だ。

 

 そうでない者の指揮命令下に入ることはできるだけ避けなければならないとアンコウは思っている。でなければ、生き残れないのが冒険者稼業だ。

 

「ああ、そうだな。あとは殺るだけか」

 

 

 アンコウたちはカリムの指示に従って、二手に分かれて動き出した。

 アンコウが率いる3人は正面から、パーティーリーダーでもあるカリム率いる3人は裏口から、一気に標的のクビを狙う作戦だ。

 

 また、それぞれに連絡要員として、二人の組織のメンバーがつけられていた。

 ロイスはアンコウたちから離れ、この一帯に配置されている構成員全体の指揮を執る仕事に戻って行った。

 

 アンコウたちは、一時的に連中が潜む建物がある通りから外れて、1つ向こうの路地から近づいていく。

 そして、アンコウたち正面班は、その路地を進み、辻斬り貴族が潜む建物のすぐ近くまで移動してきた。

 

 アンコウたちは身を潜めて、さらに接近を図る。昼間だというのに人気(ひとけ)がなく、薄暗い細い細い路地だ。

 アンコウたちはその細い路地から、さらに廃墟といえるような建物の中に、窓であったのであろう壁の穴から侵入した。

 

 アンコウたちは、その建物の中をさらに移動して、目的の建物のほぼ正面に位置する窓の近くまでやって来た。

 アンコウらしく、ここまでの距離に対して、かなりの時間をかけて慎重に進んできた。おそらく、カリムたち裏口班はもうすでに待機位置まで到着しているはずだ。

 

 アンコウたちは、カリムらのほうの連絡員が次の作戦開始の連絡を持ってくるまで、打ち合わせどおりにこの場所で待機する。

 

 アンコウは窓のところで身をかがめ、ゆっくりと外をうかがっている。

 窓から見える向かいの道に見張りの男の姿が見えた。少し大きい声を出せば、確実にとどくであろう距離にその男はいた。

 

 目的の建物からは少し離れたところをウロウロと歩いており、おそらくお坊ちゃんの指示に従って、辻斬りの獲物となる者でも探しているのだろう。

 

 アンコウが見ていると、その男が振り返り、仲間のいる建物のほうに戻ってくる。そしてまた、その建物の前を通り過ぎていく。

 見張りの男は、そうやって、この建物の前の道をずっと行ったり来たりしていた。

 

 正面を向いて、こちらに近づいてくる男の顔が、アンコウたちにも見えた。まだ若い人間族の男、アンコウとさほど歳は変わらないのではないだろうか。

 アンコウがこのあいだ襲われたときの護衛の男たちは、二人ともかなりいい装備をしていたが、それに比べるとこの男の装備は少し見劣りがする。

 

(この男の装備をととのえる余裕がなかったのか……いや、世話になってるっていう商家には金があるだろうし、単にあの馬鹿ボンの気分の問題かもな)

 

 どちらにせよアンコウたちにとって、これから戦う相手の装備が少しでも劣るものであったほうがありがたい。

 

 アンコウたちが潜んでいる建物と辻斬り貴族が隠れている建物のちょうど間を、偵察をする護衛の若い男が普通の足取りで歩きながら通り過ぎていく。

 偵察の男は、アンコウたちがいる建物のほうもチラリとは見たが、アンコウたちの気配に気づいた様子はまったくなかった。

 

 自分たちのほうが襲われると、本気で考えてでもいないかぎり、巧みに潜むアンコウたちを見つけることは困難だろう。

 しかしなぜか、その男を見つめるアンコウの表情がいつのまにか厳しいものに変わっていた。

 

(……なんだ今のは……)

 

 アンコウの眉間にシワが寄る。少しずつ遠ざかる男を見る目が、先程までとは比べものにならないぐらいに鋭い。

 

(……なんだあいつ。やっぱり何かおかしい)

 

 アンコウが、先程カリムたちと一緒にいたときに、遠目に見たあの男に一瞬感じた感覚的な違和感。今アンコウは、その感覚をよりはっきりと感じた。

 この違和感がなんなのか、良いものなのか悪いものなのかも、アンコウにはわからない。しかしアンコウは、この手の感覚がかなり鋭い。

 

(あいつは何かおかしい)

 アンコウは具体的に何かはわからないが、そのことだけは確信を持った。

 

「サルグラ。あいつ、なんかおかしくないか?」

 

 サルグラはここにいるアンコウ以外の冒険者の一人、獣人族の男である。

 サルグラもアンコウが外をうかがっている窓から、アンコウと同じように、その護衛の男を見ていた。

 

「……そうだな。確かに少し違和感を感じるときがあるが、気にするほどのことじゃないと思ったんだが」

 サルグラは、そう言ってアンコウの顔を見る。

 

 サルグラも少しは違和感を感じていたらしいが、アンコウが感じているほどのものではないようだ。獣人族は総じて人間族よりも、アンコウが感じているこの種の感覚が鋭いことが知られている。

 

 しかし、これはあくまでカンのようなものであって、常に働く能力と言えるものではないし、正確さに関しても絶対視できるものではない。

 

「………そうか」

 

 アンコウは、いまも目の前の道を歩く男に、良し悪しではなく、違和感を感じ続けている。

 アンコウは眉をしかめ、首をかしげながらも、それ以上、疑問不安を口にする事はやめた。

 

 ふいに、アンコウと獣人戦士のサルグラがほぼ同時に後ろをふり返る。自分たちがこの部屋に入ってきた出入り口のほうに、そろって目を向けていた。

 

「誰か来たのか?」

「ああ、みたいだな。」

 

 アンコウとサルグラは一瞬目を合わせ、アンコウはサルグラに無言で出入り口のほうを指し示した。

 サルグラも無言で頷き、連絡員の男を1人連れて、そちらのほうに素早く移動していく。

 

 移動を終えたサルグラは、出入り口のすぐ横に張り付いて様子をうかがう。

 しばらくすると、サルグラは何やら口を動かし、小声で話をしはじめたようだ。すると、出入り口の向こう側から一人の男が姿を現した。

 その男は、カリムたちのほうについて行っていた組織の連絡員の男の一人だった。

 

 顔をのぞかせた男とアンコウの目が合う。その連絡員の男が、アンコウにむかって軽く会釈するのを見て、アンコウも頷き返す。

 アンコウは首と目をせわしなく動かし、窓の外の様子とサルグラたちの様子を交互に確認していた。

 

 そしてサルグラと連絡員の男はしばし言葉を交わしていたが、話に一区切りつくと、サルグラは再びアンコウのところへと移動してきた。

 

「アンコウ。カリムのほうは準備が整ったそうだ」

「わかった」

 アンコウとサルグラは真剣な顔で言葉を交わす。

 

 もう1人の冒険者も、2人の会話を聞いており、3人のボルテージが一挙に高まる。

 

 アンコウは、今も違和感を感じ続けている見張りの男に、若干の不安を覚えるものの、ここへきて湧いてきた根拠のない不安など、攻撃を中止する理由にはならないと覚悟を決めた。

 

「それと、カリムからの伝言だ。『ど派手にぶちかませ。それが合図だ。』だと」

 

 アンコウは、それを聞いてニヤリと笑みを浮かべた。まずアンコウたちが外の見張りに攻撃を仕掛ける、それは事前の作戦どおりだ。

 

(ここまでは順調に進んでる。ためらうほどの理由はない)

 アンコウは大きく一度深呼吸をすると、2人の仲間に声をかけ、ゆっくりと動き出した。

 

 アンコウたちは扉のないこの建物の玄関口まで移動した。

 そしてそこで、外に飛び出すタイミングを見計らう。3人とも、もう口を開くことなく、ここまでくれば、すでに心身ともに戦闘モードに入っていた。

 

 外の道を行ったり来たり移動している男が、再びアンコウたちの前方を通過し、アンコウたちに背中をむけて歩き出す形になった瞬間、アンコウは軽く手を挙げて、うしろの二人を前に誘いざなうように振り下ろす。

 と、同時にアンコウは、音もなくその男にむかって走り出した。

 

 アンコウは、まだ剣の柄に手をかけていない。その代わりに左右の手に一本ずつ使い慣れた小クナイを握る。

 アンコウは、ついさっきまでは小細工は一切せず、剣を持って一気に見張りの男を斬り倒すつもりでいた。

 

 剣の代わりに小クナイを持ったのは、今もあの男から感じているよくわからない違和感がどうしても気にかかったため、念を入れて接近し斬りかかる前に、少しでも早く男にダメージを与えておくことにしたからだ。

 

 アンコウたちは初動から全速力で走る。道を歩く護衛の男がアンコウたちの気配に気づき、振り返る。

(もう遅いっ!)

 

 男がふり返ろうとしていたときには、アンコウはすでに1本目の小クナイを投げうっていた。

 

 さらに走りながら、もう一本もわずかな時間差で投げる。

 1本目は顔面、2本目は防具に隙があった腹部目がけてかなりの速度で飛んで行く。2本目を投げた瞬間にアンコウは確信する。

(よし当たる!)

 完全に相手の隙をついた投擲(とうてき)だ。

 

 仮に相手の剣技が高く、1本目を剣で弾かれたとしても、アンコウは2本目が防がれるイメージはまったく湧かない。

 いや、アンコウは1本目も、あの男は防ぐことができないだろうと思っていた。

 

 さらに、アンコウが小クナイを投げうっているわずかな間に、後ろを走っていた仲間の2人がそれぞれ剣を手に持ち、アンコウを追い抜かし、男にむかって走っていく。

 

 アンコウの目には、すでに血を流し倒れ伏す護衛の男の姿が見えるようだった。

 しかし次の瞬間、アンコウの予想は裏切られる。

 

「なにっ!!」

 アンコウは走りながら驚きで目をむいた。

 

 少なくとも1本は必ず当たると確信していた小クナイが、2本とも標的を捉えることなく、虚しく空中を飛び去っていったのだ。

 

 しかも剣技で小クナイを弾いて防がれたわけではない。護衛の男は、ただ自分にむかって飛んでくる小クナイを避けた。

 

(あいつ!なんてスピードだ!)

 

 アンコウにとってまったくの予想外。

 完全に相手の隙をついた強襲だった。小クナイの飛び行くスピード、相手との距離や状況を考えても、単純な体さばきだけで避けられるとは思ってもみなかった。

 

「気をつけろ!」

 アンコウが前を行く二人に警告を発したときには、サルグラがすでに男に斬りかかっていた。

 猛スピードで突進していったサルグラの勢いを殺さないままの一刀。

 

 しかしその剣も空を切り、サルグラの剣は地面をたたいていた。男はそれも避けてみせた。そして、

ギィャアン! もう一人のアンコウたちの仲間の冒険者の剣を、抜きはなった自分の剣で受け止めていた。

 

「気をつけろ!そいつは強い!」

 

 アンコウは瞬時に当初の想定を切り換える。この護衛の男は事前の情報よりも間違いなく強い。

 

(ロイスの野郎!情報の詰めが甘すぎるだろうがっ!)

 アンコウは心のなかで、この男はたいしたことがないという情報をもたらしたロイスたちに毒づいた。

 

 しかし、初撃を当てることはできなかったが、アンコウたちが圧倒的に優勢な状況であることに変わりはない。

 アンコウは未だこの男の実力のほどを計りかねてはいたが、

(実力を出させる前に殺やればいい)と考えた。

 

 敵戦士は、アンコウの仲間の冒険者と剣をあわせ、力比べを演じている。

 先程見せた尋常でないスピードと違い、意外にも男はアンコウの仲間の剣圧に押されていた。

 

(むっ、力はないのか) ならば、やはり一気にケリをつけるのが正解だとばかりに、アンコウも剣を抜き、男に斬りかかる。

 

「でやあっ!」

 アンコウは剣の押し合いを続ける最中、自由に動くことができない男の側面から斬りかかった。

「チィッ!」

 男の口から苦痛の響きを帯びた舌打ちが出る。

 

 しかし、男はとっさに身を引いており、その場を逃れ、わずかにアンコウの剣先が男の上腕にとどいたのみだった。

 

「くそっ!これも避けるのか!」

 

 アンコウは攻撃の手を止めることなく、再び男との距離を詰めるため、足を前へ前へと踏み出した。

 しかし、アンコウは足を砂に取られて滑らせてしまう。

「チイッ!」

その隙に男は、アンコウたちから距離をとった。

 

 それにしてもこの男の動きは速い。それを見て、アンコウはいったん足を止めざるを得なかった。わずかながら戦場の時間が止まる。

 

(こいつのこの動きと速さ………おかしい)

 

 違和感に次ぐ違和感、アンコウここへきて戸惑いを隠せなかった。しかし、わずかながら男に手傷を与えた今、感じる違和感の検証などしている暇はない。

 

「おおーっ!」

 気合い一声。殺気を込めた鋭い眼光。アンコウは再び剣を持ち直した。

 

 しかしアンコウが再攻撃を仕掛けるよりも早く、初太刀を避けられていたサルグラが、体勢を立て直し、男にむかって再び走りだしていた。

 

「この!ちょこまか動いてんじゃねぇ!」

 サルグラが怒声を発する。

 

 アンコウも負けじと剣を片手に走り出す。アンコウから見えるサルグラの様子には、今度は一切の油断がない。

 

 サルグラは獣人の冒険者、彼もスピードには自信があり、力ならば間違いなくあの男の上をいく。そのサルグラが男の間近まで迫る。

 今度は男に逃げる気配はなかった。剣を持ってはいるものの両手を下にダラリとさげて、何やらブツブツとつぶやきながらサルグラを見据えていた。

 

(……?)

 あまりに無防備な姿。アンコウもサルグラも意味がわからなかった。

 

「てめえっ!なめてんのか!」

 サルグラが男に向かって、大上段から剣を振りおろした。

 

 (あた)り一面に噴水のように血しぶきが舞った。

 敵戦士とサルグラがいるところまで走り寄る途中であったアンコウの頭上にも、まさに血の雨のように赤い液体が降り注ぐ。

 

 そのアンコウの目に映る光景

 

―――――サルグラの首がない。地面にゴロリと落ちるサルグラの首。

 

 いまだ倒れず、おのれの両足で立つサルグラの首なしの体。趣味の悪い手品のように、首がなくなった場所から勢いよく血が噴き出していた。

 アンコウの目に、一瞬の時間で映しだされた光景だ。

 

 そのアンコウの視界の端をキラキラと光る精霊の証に覆われた風刃が飛び去っていった。

 

(風の精霊法術!!!)

 

 驚愕。走るアンコウの心身が一瞬でその感情に染まった。さらに降り注ぐ血の雨の中、いつのまにか敵戦士の顔がそれまでとまったく違うものになっていた。

 

「なっ!ダークエルフ!」

 

 長い黒髪の長髪は変わらない。しかし、褐色の肌、先の尖った細く長い耳。

 一見してわかる、男はダークエルフになっていた。

 

 いや、男はもとより人間族ではなく、妖精種であり、この世界の最上位種属とされているエルフの劣等忌み子ダークエルフだったのだ。

 近親種であるがゆえに、一般のエルフたちにより、その明らかな能力的劣等性を忌み嫌われ、彼らの蔑視迫害の対象とされている一族、ダークエルフ。

 

 しかし、アンコウクラスの冒険者にとって、精霊法術を使い得るその力は脅威以外の何ものでもない。

 

( くっ、幻視だったのか!)

 

 アンコウが男を見る度に感じていたよくわからない違和感の正体、ダークエルフが法術を用いておこなっていた幻視。

 アンコウも話には聞いていたが、実際に見たのはこれが初めてで、その違和感の正体まで見抜くには経験が不足していた。

 

 アンコウは、目の前にいるダークエルフに驚きと恐怖を感じながらも何とか足を止めることなく、剣を握る手に力を込めて突撃を続けた。

 

 精霊法術を使う相手だ。時間を与えるほうが今は不利になるとアンコウは考え、止まりそうになる足を何とか前に出し続ける。

 死の恐怖と対峙しながら剣を振り続けた3年間の冒険者生活の賜物(たまもの)か、何とか止まらず走り続けることができた。

 

 しかし、ダークエルフは倒れ落ちたサルグラの体の近くから風のような速さで飛びさがり、アンコウに距離を詰めさせなかった。

 後ろにさがりながらも、ダークエルフは再び何かをつぶやきはじめ、それに合わせるようにうっすらと小さな光りの粒が弾けはじめる。

 

「させるかよっ!」

ドガァッ!

 

 法術が発動する前に、ダークエルフ目がけて何か大きいかたまりがもの凄い速さで飛んできた。

 法術を使うために精神を傾けていたこともあって、さすがのダークエルフも躱しきることができなかった。

 

ガゴォンッ!

「ぐわっ!」

 避けきれなかったそのかたまりが、ダークエルフの肩口に当たり、ダークエルフは踏鞴(たたら)を踏んだ後で片膝をついた。

 

 その様子からもアンコウは、このダークエルフは単純な体力はさほど強くはないと確信を持つ。

 

 そのダークエルフは自分の体に当たった物体を目にして、少し眉をしかめる。それは、先程自分が風の精霊法術で斬り落としたサルグラの首。

 アンコウは全力で突進するスピードを利用して、走る道筋に転がっていたサルグラの首をためらうことなく全力でダークエルフにむかって蹴り飛ばしていた。

 

 アンコウは、自分のその行為に何ら抵抗も罪悪感も憶えない。死んだ仲間の弔いをするにしても、自分がここを生きのびることができてこその話なのだから。

 

 ダークエルフの男が視線をあげると、すぐ側までアンコウが迫っていた。

 

「死ねえっ!」

 アンコウが立ち上がろうとしていたダークエルフの男に剣をふり落とす。

 男は中途半端な姿勢ながら何とか後ろに飛びさがったが、

「ギャアッ!」

 

 アンコウの剣が、飛びさがるダークエルフの顔面をとらえた。浅手ながら、男の顔の右半分、額、目、頬の辺りを斬り裂いた。

 

 顔に傷を負った男は飛びさがった場所でよろめきながらも、何とかアンコウとの距離をあけようとする。

 しかし、ここで逃がすようなことはアンコウが許さない。いったん距離をとられて精霊法術を発動されれば、一挙に形勢逆転される可能性もある。

 

 再び距離を詰めたアンコウは、今度はこれでケリをつけるといわんばかりに剣先をダークエルフの喉もと目がけて突き出した。

 

「くらえっ!」

 

 しかしアンコウの剣はとどくことなく、気がつけばアンコウのほうが、その場から吹き飛ばされていた。

「ぐわあぁっ!」

 ダークエルフは中途半端な術の発動ながら、アンコウにむかって風の精霊法術による局所的な風圧を放ってみせた。

 

 アンコウは後方に吹き飛ばされ、地面に落ちる。

 しかし、法術としては未完成であったため、アンコウの体が斬り裂かれるということはなく、アンコウは何とか体勢を維持して、吹き飛ばされた先で両手両足を地面につけて踏みとどまった。

 

「ぐううっ、」

 アンコウはすぐさま動き出そうとするが、受けた風圧の衝撃によって息が詰まり、すぐに動き出すことができない。

 

 アンコウは、吹き飛ばされて四つん這いになっている場所、そのあたり一面の地面が真っ赤に染まっていることに気づく。

 アンコウのすぐ横にはサルグラの首なし死体が転がっており、サルグラから流れ出た大量の血が地面を真っ赤に染めていた。

 

「!なっ」

 

 アンコウが両手をついているところにも、真っ赤な血溜まりができており、その血はまだ温かく生々しいぬめりを帯びていた。

 

 地面に四つん這いになっているアンコウの顔に血溜(ちだ)まりから漂ってくる血の湯気ゆげがかかり、濃厚な死の香りを運んでくきた。

 その血煙(ちけむり)に飲み込まれるように、アンコウはそれまでの戦闘の興奮が引いていくのを感じた。

 

「あっ、あっ、あ………」

 アンコウの全身に悪寒が走り、心が不安感に(おお)われそうになる。

 

ギャンッ!

 一瞬我を忘れそうになったアンコウの耳に激しい金属音が鳴り響いた。

 

 顔をあげたアンコウの視線の先には、ダークエルフに斬りかかるもう1人の仲間の冒険者の姿。

 

 アンコウの意識が戦闘に引き戻される。不安と恐怖を押さえ込み、逆に濃厚な血の香りで野生の闘争心を沸騰させる。いまはまだ逃げるときではない。

 ましてや戦場で不安や恐怖で縮こまる者には死神しかやってこない。仲間の血溜まりの中、両手両足を真っ赤に染めたアンコウは再び立ち上がった。

 

「おおおぉぉーっ!」



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第12話 さらば 坊ちゃん

 アンコウは血まみれの手に剣を持ち、再びダークエルフに迫る。

 ダークエルフは、アンコウの仲間の冒険者相手に剣戟を繰り広げていた。顔と腕に傷を負っているダークエルフは、思うように剣を操れていないようだ。

 

 アンコウの仲間の剣圧に押されたダークエルフは体勢を崩す。

 その隙をついてアンコウは踏み込み、剣を振るおうと迫る。

 

「くそどもがッ!」

 

 アンコウの姿を視界に入れながら、ダークエルフは怒りと焦りの籠もった言葉を吐き捨てた。

 

 そしてダークエルフは、剣を振りあげるアンコウの横をかいくぐるように身をひるがえした。これまでの動きとはちがう、あきらかにそこには逃亡の意思が見てとれた。

 

 ダークエルフはアンコウの剣がとどかない距離をあけて走り抜けていく。そのうしろをアンコウたちは逃がすものかと追いかける。

 

「いまさら逃がすかよ!お前はここで死んでいけ!」

 

 アンコウは全力で走るが、やはり足はダークエルフのほうが速い。

( くそっ!)

 

 そのダークエルフを追いかけるアンコウの耳に、突然、悲鳴のような叫び声が響いた。

 

「く、来るなあぁぁ!どこだ、マルス!助けろぉぉおお!」

 

 ダークエルフやそれを追うアンコウたちが走っていく方向に、体のあちこちから血を流している貴族のお坊ちゃんが例の建物から飛び出してきた。

 それに続いて、カリムではない2人のアンコウの仲間が剣を持って飛び出してくる。

 

 お坊ちゃんが口にしたマルスというのは、偽名であろうが外にいたもう1人の護衛の男の名前。

 しかし、飛び出してきたお坊ちゃんが走ってくるダークエルフを見て顔に浮かべたものは、さきほどのアンコウたちと同じく驚愕の表情。

 

 お坊ちゃんも自分の新しい護衛がダークエルフであることは知らなかった。それはお坊ちゃんが知る護衛のマルスという男の姿ではない。

 驚愕の表情を浮かべながら、ダークエルフの進行方向上で貴族のお坊ちゃんは足をもつれさせて道に転がった。

 

「ヒイィッ!」

 

 お坊ちゃんは自分に斬りかかってくる襲撃者の剣刃と、自分にむかって走ってくるダークエルフの姿に恐怖し、なすすべなく尻を地面につけたまま逃げようとするが、思うように体が動かない。

 

 そして追いついたアンコウの仲間の冒険者の剣が容赦なくお坊ちゃんにふり落とされた。

「死ねえっ!」

「ヒイイィィ、」

 しかし、いまにもお坊ちゃんを斬ろうとしていた男は、突然、熱風を伴う爆発音と共に吹き飛んだ。

ドォンッ!

「ぐがあぁーっ!」

 

 アンコウたちから逃げていたダークエルフが、走りながら火の精霊法術を発動させ、その火球が、お坊ちゃんを斬ろうとしていた冒険者の男の顔面を直撃していた。

 

 吹き飛ばされた冒険者はダークエルフがかなり近い距離に迫っていたにもかかわらず、お坊ちゃんを仕留めることに気をとられて、ダークエルフの攻撃にまったく反応できていなかった。

 その冒険者の男の顔面は真っ黒に焼け焦げ、吹き飛ばされた先でピクリとも動かなくなっている。

 

 ダークエルフは、お坊ちゃんを守ったわけではない。ただ自分が逃げる進行方向上にいた男たちが邪魔だったにすぎない。

 ダークエルフは、そのまま走るスピードを落とすことなく、尻もちをついたままのお坊ちゃんの横を走り抜けていく。

 しかし、その直後、

ガツゥン!

「ぐわあぁぁっ!」

 突然あがるダークエルフの叫び声。

 

 アンコウは、前を走るダークエルフの頭に拳大の大きい石がぶつかるのを見た。

 脳震とうでも起こしたのだろうか、両膝の力が抜けたようにダークエルフは崩れ落ち、走ってきた勢いのまま地面を滑る。

 

ズザザアアァァーッ!

 

 石が飛んできた方向にある建物の出入り口近くに、何かを投擲したのであろう姿勢のままのカリムの姿があった。

 

 カリムたち裏口班は、腕が立つであろうと思われていた中年の護衛の男をカリムが1人で相手をし、その隙に他の2人の冒険者が標的であるお坊ちゃん貴族の首を獲るという作戦を実行していた。

 つまり、カリムが外に出てきているいうことは、もう1人の護衛の男はすでにこの世にいないということだ。

 

 カリムが投げつけた大きな石を頭に受けたダークエルフは、何とか立ち上がろうと必死にもがいていた。

 しかし、すぐには体が思うように動かないようで、地面に両手両膝をついたまま、起きあがることができずにいる。

 

 その様子を見たアンコウは好機とばかりに、血走った目のまま口元には笑みを浮かべて、ダークエルフとの距離を一気に縮めた。

 

「死ねえぇっ!」

 

 アンコウはいまだ立ち上がることができていないダークエルフの背中に、思いっきり剣を突き立てる。

 

ザグウゥゥッ

「ギャアァァーーッ!」

 響く絶叫。

 

 アンコウのもつ剣の先がダークエルフの背中から胸元に突き出ている。アンコウはさらに剣を握る手に力を込めて、剣を押し込んだ。

 

「あがっ!がっ、がっ、ががあぁぁぁ………」

 ダークエルフの口から漏れる言葉にはなっていない声。

 

 ダークエルフの体から力が抜けていくのが、ダークエルフの体に剣を突き刺しているアンコウにも伝わってきた。

 

 

 

 

「おい、なんでお前みたいな馬鹿ボンに、ダークエルフの護衛がついてるんだ?」

 アンコウが聞く。

 

 アンコウたちが事前に聞いていた話では、この男にダークエルフの護衛がつけられているという情報はなかったし、逆に近しい者たちから疎んじられ、親族から殺害を依頼されての仕事だったはずだ。

 

「し、知らないっ。おれは何も知らないっ」

 

 すでに戦闘は終わり、お坊ちゃんはアンコウたちに地面に引き倒されたまま、周りを囲まれている。

 アンコウたちの後ろには、戦闘が終わって、いつのまにか集まってきていたロイスとその仲間たちもいた。

 

 お坊ちゃんの顔には、これまでの強気や傲慢さは消え、ひどく怯えるのみである。

 そこにアンコウたちの仲間の冒険者の1人が、ダークエルフの死体を引きずって、お坊ちゃんの前まで持ってきた。

 

 アンコウが足で、その死体をあお向けにひっくり返す。

「ヒィィッ!」

「こいつの装備をよく見てみろ。見覚えがあるだろう。こいつがお前の護衛の男だ。マルスとか言ったか」

「し、知らないと言っておるだろう!」

 

 強い口調で大声を出しても、腰が抜けているようなざまでは何ら凄味が出るはずがない。アンコウたちをただイラつかせただけだ。

 

「おい。ロイス」

 それまで口をはさまずにアンコウたちのお坊ちゃんへの即席の尋問を見ていたカリムだったが、突然ロイスに目をむけた。その目つきは鋭い。

「ロイスよ。この馬鹿が知らなかったとしても、お前が知らなかった言い訳にはならねぇぞ。2人死んだ。ヘタすりゃあ、おれが死んでいたかもしれない」

 

 カリムはロイスに近づきながら話しつづけ、ロイスの顔にむかってゆっくりと剣を突き出した。

 

「も、申し訳ない。まさか、あの護衛がダークエルフだったなんて………」

「今回だけだ。いいか、今度こんなヘタ打ちやがったら、ぶっ殺すぞ!」

 

 突然のビリビリとしびれるようなカリムの怒声にロイスの顔はまっ青だ。ロイスは息荒く呼吸をしながら、何度もうなずいている。

 カリムの剣先はまだロイスの鼻先に突きつけられたまま動かない。

 

「も、もう一度、そのダークエルフのことから、い、依頼主たちのことも洗い直します。そ、それまで、その男はこちらで預かります」

 

「あぁ!?」

 

 カリムはそのままロイスに剣を突きつけて睨みつけていたが、しばらくすると突きつけていた剣を下におろした。

 ロイスは安心したように大きく息を吐き出す。

 

 しかし、ロイスに突きつけていた剣をおろしたカリムは、そのまま貴族のお坊ちゃんに近づいていくと、無言のまま、お坊ちゃんのノドを大きく切り裂いた。

 

ブシユユュュューーッ

「しいいぃーっ!!」

ドサンッ!

 

 お坊ちゃんは、空気が抜けるような声と血しぶきを周囲にまき散らしながら、後ろに倒れていった。

 

「……ロイスよ、これでおれたちの仕事は終わりだ。後はお前の仕事だ。いいか、これ以上ヘタ打ちやがったら、必ずお前を殺すからな」

 

「あっ、あっ、」

 ロイスの顔色は青を通り越して、色が消えたような表情になりながら、カリムにむかって必死にうなずいていた。

 

 一方アンコウは、顔にかかってしまった馬鹿ボンの血をゴシゴシと拭きながら、

 

(………チッ、カリムの野郎。バカの血が無駄にかかっちまったじゃねぇか。殺すにしてももうちょっと考えてやりやがれ)

 と、心の中で毒づいていた。

 

 

 

 

 数日後、アンコウたちは貧民街にあるロイスたちの組織の拠点の1つにいた。

 

 この間の仕事の報酬はすでに、組織のリーダー格の男から謝罪の言葉とともに受けとっていたのだが、ロイスからその後の調べについて話があると言うことで、アンコウたち4人が集められていた。

 

「間違いないんだろうな。あの馬鹿ボンの身内の貴族どもからの報復がないっていうのが、あの仕事を受けた絶対条件だったんだからな」

 アンコウがロイスに念押しをする。

 

「はい。確認しました」

「直接ウラを取ったってことでいいのか」

「……ウラを取るといいますか、依頼主も、あの馬鹿ボン貴族の父親も、誰もあのダークエルフの護衛のことを本当に知らなかったようなんですよ」

 

 ロイスの説明によると、依頼主とその周辺の者たちは、一族の立場を守るために単純にあの馬鹿ボンが邪魔になったのであり、それに何ら疑うべき事は出てこなかったとのこと。

 

 あの護衛をつけたのは馬鹿ボンの父親とその家宰の裁量によるものだったが、馬鹿ボンの始末をつけるという一族としての判断に何ら裏はなく、彼らの家で雇っている護衛の者たちの中で、あまり強くなく人間族だと思っていたあの男を意識的に選抜したのであって、決してあの馬鹿ボンを守ろうとしていたわけではないらしい。

 

「じゃあ、ロイス。その話が間違いないとしてだな。あのダークエルフは何なんだ?」

 アンコウはロイスの話を聞いて、首をひねりながら聞く。

 

「ご存じのとおり、あのダークエルフは元々あの貴族の家で警護の仕事をしていたんです。雇われる際に言っていた経歴は全くのでっち上げでして、まぁ、種族からして偽っていたんですから、本当のことなんて何一つ言っていなかったんですがね。

 おそらくあの貴族のお坊ちゃんにではなく、実家である貴族の家そのものに入り込んでいた密偵じゃあないかって線が有力ですね」

 

「そいつが、たまたまあのお坊ちゃんの護衛にまわされたと。それで、どこの誰が何の目的で送り込んでいたのかはわかっているのか」

 

「いえ、それはわかってません。ただ、貴族の家に密偵が送り込まれること自体は珍しいことじゃないですよ。ごく当たり前にあるっていってもいい。でも、今回はその送り込まれた密偵がダークエルフだったっていうのがですね………」

 

 この世界に住む種族の中で、ダークエルフの数はアンコウたち人間種と比べるとかなり少なく、そういう意味でも目立つ存在だ。

 

「ここ最近なんですが、妙なダークエルフがいるって情報があちこちからあがってきてましてね。いや、そいつらが何か問題を起こしたってわけじゃないんですがね………」

 

 ロイスも、それ以上はよくわからないといった様子で眉をしかめていた。ロイスが少し考えこみ、言葉が止まってしまうとその隙を縫うようにカリムが言葉をはさむ。

 

「なぁ、ロイス。お貴族様の事情なんかどうでもいいんだよ。ろくでもないことを考えて裏でシコシコやってるヤツなんざぁ、いつでもどこにでもいるだろうが。大事なのは、それがおれに何か関係があるのかってことだ。

 とりあえず、お貴族様ご一門の報復はないってことでいいんだな、ロイスよ」

 

 ロイスは、そのカリムの言葉を聞いてうなずく。

 

「で、もうひとつは裏でシコシコやってる謎の御一門のほうだがよ。あのダークエルフを殺したのは、確かにおれたちだ。だけどそれを理由に、そのどこの誰ともわからないシコ族どもが、おれたちに報復をしにくるのか?」

 カリムは少し面倒くさそうに続けて問うた。

 

「いや、それはないでしょう。あのダークエルフを送り込んでいたのが何者であっても、密偵が1人殺されたぐらいで、自分たちの正体がばれるリスクを犯して、いちいち報復をしにくるなんて考えられませんよ」

 

「そうだろうが。だったら、その話はもういい。必要なんだったら、そっちで勝手にやってくれ。アンコウも気にしすぎだぜ。話が長くなっちまうよ」

 

 カリムがアンコウとロイスが話しているのを黙って聞いていたのは、ただ興味がなかっただけだったらしい。

 ロイスはカリムのその様子を見て、ひざ上においていた袋から何やらテーブルのうえに取り出してきた。

 

「今度のことでは、こちらの不手際で皆さんにご迷惑をかけてしまいました。あちらのほうから、少しばかり追加料金を頂きましたので、これは皆さんの取り分です」

 

 それを見て、面倒くさそうにしていたカリムの顔に、一転して喜色が浮かぶ。

 

「わっはっはっ!何だ、ロイス!そんないいもんがあるんだったら、どうでもいい長話をする前に出せよ!」

 

 カリムがロイスの背中を笑いながら、バンッとたたいた。

 ロイスはその背中をたたかれた結構な勢いに、前につんのめりながらも苦笑いを浮かべていた。

 

 そして、カリムとロイスがじゃれ合っている間に、アンコウは素早くその金の入った小袋を1つ掴み取った。

 

「おい!アンコウ!こういうのはリーダーが先に取るもんだろうが!」

「知るか。貰えるもんはとっとと貰うんだよ」

「何を!その袋が一番重いってんじゃないだろうな!」

「カリムさん。大丈夫ですよ。どれも同じ額です」

「なにぃ?ロイス!何でパーティーリーダーのおれの取り分を多くしとかないんだ!」

「カリム、くだらないこと言ってないでとっとと貰っとけよ」

 

 アンコウは追加の報酬が入ると聞いて、急にテンションが上がりだしたカリムに少し呆れたように言った。

 

「わっはっはっー!」

 

 

 

 

 アンコウ、カリム以外の2人の冒険者は、追加の報酬を受けとるとさっさと帰ってしまった。カリム以上に貴族やダークエルフの話には興味がなかったようだ。

 

 ワハハ、とカリムの笑い声がまだ聞こえている。カリムは感情の起伏が激しい男だ。

 貰った追加報酬が入った袋をお手玉のようにもてあそびながら、アンコウたちと話を続けていた。

 

「こんな金はパーッと使っちまうに限る。アンコウもくるか?」

 

「いや、今日は宿に戻るわ。いま泊まってる宿の主の知り合いの冒険者が、黄金(こがね)角大猪の肉を持ち込んだらしくてな。おれらにも振る舞ってくれるらしいんだ」

 

「へぇ!それはまた珍しいですね、アンコウさん。あれの肉は絶品ですが、この辺りではほとんどとれなくなってますからねぇ」

 

「そうか。じゃあ、仕方がないな。アンコウ、おれはしばらくはあの四つ角の宿屋にいるから、迷宮に潜るんだったら一声かけてくれ。都合が合ったら、おれも行くからよ」

 

「ああ、わかった。それはこっちも助かる。メンバー探しは手間だからな」

 

 アンコウとカリムの話も一段落しそうになったときに、ロイスがふいに思い出したのか、また2人にむかって話し始めた。

 

「ああ、そういえばアンコウさんはトグラスの宿屋の娘と知り合いでしたね。親しいんですか?」

 

 突然トグラスの娘の話が出てきて、アンコウは少し首をかしげる。

 

「何だ、突然だな。特別親しいってほどのもんじゃない。昔この町に出てきたばかりの頃に、あの宿の親子には多少世話になったがな。ただの知り合いの範疇(はんちゅう)だ。なんだ、あの娘になんかあったのか?」

 

 アンコウは、半月ほど前にトグラスの宿屋の娘ニーシェルを勤め先の商家まで送りとどけたときのことを思い出していた。

 アンコウたちの後ろをつけていたロイスも当然そのことを知っている。

 アンコウはあの美しく育っていた娘の身に、実家の借金関係で何か起こったのかと思った。

 

「言っとくが、あの娘のために動かなきゃいけないほどの恩義はないからな」

 

 アンコウはあの一家のトラブルに首を突っ込むつもりはない。そのことをはじめに言っておく。

 

「いえ、あの娘は変わらずあの商家で働いているみたいですよ。娘のほうではなくて、トグラスの女将のことなんですがね」

 

「ん?女将?テレサさんなら借金のカタに連れてかれたんだろう?」

 

「ええ、そうなんですよ。で、そのトグラスの女将がうちの縄張りにある奴隷商店に売り飛ばされていたみたいでしてね。トグラスの宿屋はうちの縄張りからも近かったですから、女将の顔を見知っている者も多くいましてね。

 うちの若いのがその店に決まりのあがりを頂戴しに行ったときにたまたま見かけたみたいでして」

 

 カリムはたいして興味はなさそうだったが、ロイスの話に少し口をはさんできた。

 

「あの女将はもう30は過ぎていただろうが、そこそこキレイだったよな。普通に働いてたから、病気持ちってわけでもないだろう。なぁ、アンコウ?」

 

「ん?ああ、病気だって話は聞いたことがないな」

 

「ロイス、お前んところの縄張りだったら、間違いなく裏通りの奴隷屋だろう」

 

「ええ。奴隷商のテッグカンのところですよ。カリムさんも知ってるでしょう」

 

「あいつのところか。典型的な場末のカビ臭い奴隷屋だな。なんでそんなとこに売り飛ばされたんだ。あの女将ならもうちっとマシなとこに売り飛ばせただろうが」

 

 要するにテレサは、かなり安物売りの奴隷屋に売り飛ばされたらしい。

 

「いや、あがりの徴収に行った若いもんが言うにはですね。トグラスの女将の顔や体にかなり殴られた跡があったみたいなんですよ」

 

「殴られたあと?場末のカビ臭い奴隷屋っていうのは、わざわざ自分とこの売りもんに傷をつけて並べるのか?」

 アンコウが、ごく単純な疑問を口にする。

 

「ハハッ、まさかアンコウさん。まぁ、ああいう店には嗜虐(しぎゃく)趣味の客が使い捨ての奴隷を買いにくるっていうことはありますがね。そういう客だって買っていくときにはできるだけ新品を選んでいくもんですよ」

 

「そうだろうな。じゃあ、何でだ?逃げだそうとでもしたのか?」

 

「いえ、その奴隷屋に売られてくる前に殴られた跡らしいです。バカなことをするもんですよ。殴られた跡がある状態で売れば高くなんて売れるわけがないですからね。

 そもそも売値はどうでもいいとでも思っていたのかもしれません。殴った後でテッグカンの店に売るぐらいですから。借金のカタにあの女将を取ったにしては、お粗末な話ですがね」

 

 アンコウはロイスの話を聞いて、トグラスで見たあのショボイ借金取りの手先の男のことを思い出した。

(やることなすこと全部ショボイな。あの金貸し一味は)

 

「まっ、金貸しとしても二流、三流だったんだろうな。しぼれるもんは全部しぼり取るのが、いい金貸しなんだろう。あいつらは失格だな」

 

 アンコウは、トグラスの向かいの果物屋の奥さんから聞いた 借金取りたちがトグラスに押しかけたときの話も思い出していた。

 

(たしかあの借金取りの男、宿泊客の獣人の女戦士に殴られて、気ぃ失ってたって言ってたよな)

 その腹いせにテレサに暴力を振るって、裏通りの奴隷屋に売り飛ばしたのかとアンコウは思った。

(………だとしたら、どうしようもない話だな。くだらなさすぎる)

 

 アンコウは、それ以上、言葉を続けることなく、目の前に置かれている残り少なくなったお茶をゆっくり飲み干した。

 

 いまアンコウたちがいるところは、ロイスたちの組織が拠点にしている場所の1つだったが、その建物自体はこの貧民街のどこにでもあるような古い建物で、アンコウたちがいる部屋の内装も粗末で、はっきり言えば全体的にボロい。

 

 しかしアンコウに出されたお茶は決して安物の茶葉の味ではなく、香り高くスッキリした味わいだった。

 アンコウはこのお茶を飲みながら、コイツらけっこう儲けていやがるなと関係のないことも考えながら、頭の中で情報の整理をしていく。

 

 ロイスはそんなアンコウを見て、トグラスのことにはたいして興味がなかったのかとも思いつつ、話を続けた。

 

「いや、このあいだアンコウさんがあのトグラスの娘と一緒にいるところを見て、何か強い関わりでもあるのかと思って話したんですが、そういうわけでもなかったみたいですね」

 

「………んー、そうだな。多少同情はするがな。あの家族の幸不幸は、おれには関係がない話だ」

 

 アンコウはそう言って、再び顔をロイスのほうにむけて質問をした。

 

「で、あの女将はいくらで売られてるんだ」

「えっ?いや、具体的な値は知りませんが、あの奴隷屋でそういった状態ですから、相当安いんじゃないですかね。消耗品扱いかもしれませんね」

「そっか。ロイス、知ってる店なんだったら、ちょっと紹介してくれないか」

「えっ?買うんですか?」

「ああ、条件次第だけどな」

 

 ロイスは、アンコウは一体どういうつもりなんだろうとちょっと戸惑う。

 言ってることが矛盾しているように思ったからだ。

 

「……助けるんですか?」

 

「あぁ?ロイス、人の話を聞いてたのか。そんな義理はない。ちょうど奴隷を探してたんだよ。ほんとはもうちょっと若いのをって考えてたんだけどな。安く買えるんだったら、あの女将なら買いかなと思ったんだ」

 

 アンコウとロイスは話を続けていたが、カリムは2人の話にもう興味を失っているようだ。

 アンコウが奴隷を買おうが買うまいが、それもカリムにはどうでもいい話、カリムはぼちぼち部屋を出て行こうかという動きをしながらアンコウに聞いてきた。

 

「アンコウ、あの女将は迷宮に入れないだろうが。いくら安いからってそんなもん買ってどうすんだ?」

「別に仕事の戦力が欲しくって、奴隷を買うわけじゃない」

 

 アンコウはあの女将が強くはないだろうが、抗魔の力を持っているだろうことを知っている。鍛えれば、迷宮探索の戦力になるかもしれない。

 しかし、アンコウが魔獣狩りの戦力が欲しくて奴隷を求めているわけではないというのは事実であった。

 

「ふーん、そうかよ。まぁ、あんまり無駄遣いはするなよ。金なんて、あっちゅう間になくなるからな!ワハハッ!」

 

「………カリム、お前には言われたくないよ」

「ワハハッ!死んだら金は使えねぇからな!」

 

 カリムはそう言うと、もうここには用はないとばかりに席を立ち、じゃあなと一言ひとこと言い残して部屋を出て行った。おそらく酒場にでも向かうのだろう。

 

 

 カリムが出て行って、ガランとした広い部屋にアンコウとロイスの2人だけになった。

 

「で、どうなんだ?」

「もちろん構いませんよ。ただあっしもこの後にちょっと用事がありましてね。お供することはできないんですが、他の者に紹介状を持たせて同行させますので」

「十分だ。ただ条件や女将の状態しだいでは買わないこともあるけど大丈夫か」

「ええ、テッグカンっていうのはそんなたいした男じゃありませんので、余計な気遣いはいりませんよ」

 

 そしてアンコウとロイスも、話が一段落すると席を立った。



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第13話 奴隷を買うということ

 テッグカンの奴隷屋は、アンコウたちが集まっていた建物から、歩いて15分ほどで行けるかなり近い場所にあったのだが、アンコウはロイスに頼んで力車を呼んでもらい、一度カラワイギルドに行って、預けている金を引き出してくることにした。

 

 結果として奴隷を買うか買わないかは別にして、モノを買う側で商談をするならば、現金を持っているほうが絶対に有利に商談を進めることができる。

 

 そしてアンコウはギルドの口座から金を引き出してから、再びこの貧民街に戻ってきた。

 

 夕方までにはまだ少し時間がある 晴れの日の午後。アンコウはロイスがつけてくれたお供の男とともに、テッグカンの奴隷屋にむかう。

 その店はロイスが言っていたとおり、貧民街の中にあるかなりいかがわしい雰囲気の漂う通りにあった。

 

「場末のカビ臭い奴隷屋か、カリムの言っていたそのまんまの店だな」

 アンコウはテッグカンの奴隷屋の前で店の外観を眺めながら言った。

 

「アンコウさん、なかも見た目どおりの店ですよ。ここは」

 アンコウに同行してくれている男が言う。

 

「そうか。じゃあ、とっとと入って用事を済ませるとするか」

 

 アンコウも、今日は夜までには、宿屋に戻らなければならない。なぜならアンコウは、いま泊まっている宿屋で、今日の夕食に出される黄金(こがね)角大猪のステーキとシチューを実はかなり楽しみにしているからだ。

 

 アンコウは同行している男の先導で店に入っていった。

 男は店に入ると、アンコウを1人で待たせて店の奥に姿を消し、しばらくすると、この家の主人と思われる男を連れて戻ってきた。

 

 その男は、なかなか質がよいと思われる服を着てはいたが、かなり年季が入っており、全体的にあまりパッとしない見た目50がらみの男だ。

 その男はやはりこの店の主人のテッグカンで、アンコウは同行してきた男の仲介で、テッグカンと挨拶を兼ねて言葉を交わす。

 

 同行してきた男はすでにロイスから預かってきた紹介状をテッグカンに渡しており、大まかな用件の説明もしてくれていた。

 そしてアンコウに同行してきた男は、アンコウとテッグカンが挨拶を済ませたことを見届けると、アンコウに一言二言(ひとことふたこと)言葉をかけて、先に帰って行った。

 

 

「ではアンコウさん、どうぞこちらへ」

 

 テッグカンはアンコウよりも大分と背が低くく、風采のあがらない小男だ。そして、その声は低くかすれている。

 このカビ臭い建物にはよく似合ってるかもなと、アンコウは思った。

 

 テッグカンに案内された部屋は、調度品がほとんどない実に殺風景な広い部屋。

 この部屋は、客が奴隷の品定めをするために使われている部屋の1つで、これでも、この店では上客や常連の客を通す部屋として使っている部屋であった。

 

 アンコウは客としては上客でも常連の客でもない。上客どころか傷物の奴隷をできる限り安く買いたたいてやろうとアンコウは考えていたのだが、そこはロイスが持たせてくれた紹介状の力だ。

 ロイスの組織がこの辺りの土地に持っている影響力はどうやら本物らしい。

 

(………金に権力。それに腕力か。どんな生き方をしていようが、この世を生きるには力がいるよな)

 

 アンコウはこの場末の奴隷屋で、あらためてこの世の真理を実感する。奴隷などというのは、力なき弱者の象徴みたいなものである。

 

 そこに身を落とした者の惨めさは、アンコウは身に染みて知っている。

 たとえ抗魔の力をもつ者であっても、奴隷となってしまえば、力のあるただの道具になってしまい、それは生きるとは言えないだろうとアンコウは思う。

 

(自由だ。力があっても自由じゃなければ意味がない)

 

 そして、他者からその自由を奪うということは、奪った者に一種の快感を与える。

 テッグカンの奴隷屋は、貧民街にある場末のカビ臭い店だ。しかしそんなショボイ店であっても、アンコウは自分が奴隷を買うという上の立場にあるということに、何とも言えない小物の優越感を感じていた。

 

 アンコウ自身も、その愚かさを自覚してはいたが、こうしてここにいると、どうしようもなく快感にも似た興奮を感じてしまうのだった。

 

「なぁ、店主。おれは今まで知らなかったが、人を買うっていうのは気持ちいいもんなのか」

 

「クックッ。そうですね。客によっては奴隷を買うという行為自体が目的という方もおりますね。しかし、そのような買い方ができるのは一握りの選ばれた者の道楽と言えるでしょう。

 クックッ、アンコウさんは奴隷を買うのは初めてのようですから、ご助言いたしますが。奴隷を買うときはその者がご自分の目的に役に立つかどうか、値が高いか安いかだけで判断されたほうがよろしいかと思います。また不要になったものは早々に処分するほうがよろしいかと。

 奴隷は所詮は生きる道具。しかし奴隷には感情があり、心がある。これは奴隷主にとっては危険を孕むものでもあるのです。奴隷という道具は有用ですが、同時に危険。それをお忘れになった方は時に命を縮めることにもなります。クックッ、ご注意を」

 

 このテッグカンという男はかなり無駄口の多い男らしい。

 アンコウとさっき挨拶を交わしたときも、アンコウがなにげに話を止めるまで、かなり長く関係のないおしゃべりを続けていた。

 

「ああ、よくわかってるよ。おれも首輪をしていたときは、おれの首輪につながっているロープを持っている野郎を毎日殺してやりたいと思っていたからな」

 

「ほう、首輪を、」

 テッグカンはアンコウの言葉を聞いて、少し目を大きくして驚いてみせた。

 

「それは余計な忠告をしてしまいました。クックッ」

(あるじ)。もう、無駄話はいい。とっととあんたの本業をしてくれ。テレサはまだここにいるんだろ?」

 

「ええ。もちろんですよ。あれが売れるのはもうしばらく先かと思っていたのですが。まぁ、こちらとしてはありがたい話です。クックッ」

 

「まだ、買うなんて言ってないぞ。かなりひどい状態になってるっていうのは聞いてるんだ。その度合いによってはこのまま帰るからな」

 

「それは私も迷惑しているんです。あの連中はお得意様ではあるんですが、如何せん乱暴すぎる。まぁ、うちに人を売ってくる連中なんてものはみんな大なり小なり極道者ですが、あの女を売ってきた連中は極道者としても半端者です。

 商売物をあんなふうに扱うとは、まったく理解に苦しみますな。だいたい私が若い頃に比べて、近頃の金貸しにしても人買いにしても、」

 

「主!とりあえず連れてきてくれ。見ないことには話にならない」

「おっと、そうですな。クックッ」

 

 アンコウは軽くため息をつきながら、この店の主を見ていた。

(面倒くさい男だ)といったところだろうか。

 

 テッグカンは手元の呼び鈴を鳴らし、部屋に入ってきた従業員に何やら指示を出していた。

 しばらくすると、アンコウたちが入ってきた扉とは別の扉がノックされた。

 

コン、コン

「ご主人様。指名された者を連れてまいりました」

「よし、入ってよいぞ」

 

 アンコウとテッグカンは、ノックされた扉とは離れたところにある椅子に座っていた。

 テッグカンは扉の外にいる者になかに入るように言うと、手に短めの鞭のようなものを持ち、自らもおもむろに立ち上がる。

 

「アンコウさんはそのままでお待ちを」

 

 そして、その扉のほうに歩きだした。

 ノックされたドアが開かれ、従業員の男が入ってくる。その男にうながされて、続いてテレサも室内に入ってきた。

 

 テレサの首には魔具の1つである奴隷の首輪がしっかりとはめられている。

 そして、部屋に入ってきたテレサは、頭からかぶるタイプの一枚のボロ袋のような服を着ていた。

 

 そのボロ服の袖は肩まで、丈は膝ぐらいまでで、この店の一般的な売り物の奴隷が着させられているものである。また、足元は素足に木製のサンダルのようなものを履いていた。

 

(なるほど、ひどいな)

 アンコウのいる場所からも、テレサの顔の暴力の跡を確認することができた。

 

 アンコウは先程テッグカンから、テレサがこの店に売られてきてから一週間ほどになると聞いていた。来たばかりの頃はまともに歩けなかったということだったから、これでもマシになったのだろう。

 

(しかし、ほんとに大丈夫なのかな)

 

 アンコウはテレサを買うにしても、後遺症のようなものが残っていないかちゃんと確認する必要があるなと、あらためて思う。

 

 テッグカンは扉の近くまで歩いていき、案内役の従業員をさがらせて、テレサを伴って部屋の中ほどまで歩いてきた。

 

「クックッ、さぁ、アンコウさん。どうぞご確認ください」

 

 そのテッグカンの言葉で、初めてテレサはアンコウのほうを見た。それまで下をむき、何ら感情が見えなかったテレサの顔が驚きの表情に変わる。

 アンコウはそんなテレサの顔を見ていたが、アンコウは顔に感情を浮かべることなくテレサを観察していた。

 

 アンコウはおもむろに立ち上がり、テッグカンとテレサがいるところに近づいていく。

 

 アンコウがテレサの近くまでくるとテレサの目に驚きと何かを期待するかのような喜びの色がわずかに浮かぶ。

 アンコウは、そのテレサのわずかな感情の変化にも目ざとく気づいていたが、それにはまったく反応を示すことなく、テッグカンにむかって話しかけた。

 

「かなりひどいな」

 

 テレサの顔はまだかなり腫れていて、アンコウの知っているテレサの顔とはかなり違うものになっていた。

 それに近づいてみてわかったのだが、肌が見えている手足の部分にもかなりのアザがあり、血は止まっているようだが、何か鋭利なもので切られたような傷跡も残っている。

 

「ええ、ですから私としてもこの女が売り物になるのはもう少し時間がかかると思っていたんですよ」

「さっきも言ったが、買うと決めているわけじゃないんだぞ。これ大丈夫なのか」

「手足の骨は折れていません。こうして歩いていますし指もちゃんと動いています」

 

 テッグカンはそう言って、テレサに体をうごかすように命令する。テレサはテッグカンの指示に従って、しばらくの間アンコウの前で体を動かして見せた。

 

(なるほどな。確かに手足は大丈夫みたいだけど)

 

 テレサは体を動かす度に、痛そうな表情を浮かべていた。

 そして、一通りテッグカンの指示どおり体を動かし終えたテレサの表情からは、先程一瞬だけ見せたアンコウに対する期待のようなものは完全に消え去っていた。

 

 テレサがアンコウを見たときに、一瞬アンコウが自分を助けに来てくれたのかと淡い望みを抱いてしまったことは、このような状況にあれば致し方ないことだ。

 

 しかし、テレサはこの世の中のことを何も知らないお嬢様ではない。

 この世界の宿屋の女将として生きてきて、子供も1人育てあげている大人の女。そしていまは奴隷。十分過ぎるほど、この世界の厳しい現実を知っている。

 

 テレサは、アンコウがなぜここにいるのだろうという疑問は持っていたが、アンコウが自分を助けに来てくれたわけではないということはすでに理解していた。

 

「あるじ、手足は大丈夫みたいだが、肋骨あたりは何本か折れてるんじゃないのか」

「さぁ、それはどうでしょうか。折れていたとしても、これだけ動ければ時間薬で問題ないかと思いますよ」

 

 ちゃんとした診察も治療もされていないんだなと、アンコウは理解する。

(まぁ、この店は奴隷に余計な経費をかける余裕はなさそうだしな)

 

「クックッ、では次は服のしたも確認されますか?」

「ああ、頼む」

 

 テッグカンはテレサに着ている服を脱ぐように命令する。命令をされたテレサは少し服を脱ぐことをためらうような様子をみせた。

 すると、テッグカンはテレサの足元の床を手に持った鞭で叩いた。

 

バチッ! 小気味よい鞭音が部屋に響く。

 テレサは一度 ビクッ と、体を縮込ませた後で、慌てて服を脱ぎはじめた。

 

 アンコウが元いた世界の祖国の民族より、アンコウがこの世界で見る人間族の女は平均的にいって背が高く、豊満なプロポーションをもつ者が多い。テレサもそうだ。

 ここに来る前のテレサは、アンコウの目にも肉感的な魅力のある女性に映っており、太っているわけではないが少しふっくらとした印象のある女だった。

 

 しかし、テレサは自由を奪われて、わずか半月あまりの間に、かなり体の肉が落ちていた。心身の疲労も当然あるだろうし、この様子ではまともに食事をとることもできていないのだろうと、アンコウは思った。

 

 それでも服で隠されていた場所の肌は白く、胸は大きく、腰回りも女性らしいグラマラスなスタイルであることに変わりなかった。

 しかしそんなテレサの裸を見てもアンコウはまったく劣情は憶えない。

 

(………やっぱり、全身にアザや傷があるな。相当ひどく殴られたみたいだ。そういう趣味のヤツでもいたのかもな)

 そう、見えていた顔や手足と同様に、テレサの体は文字どおり、全身傷だらけだった。

 

バシッ!

 テッグカンが再び床を鞭で打つ。

「何をしている!早くそれも脱がないか!」

 

 テレサが着ていたものは2枚。いま脱いだボロ袋のような服と、その下に下着が一枚。

 いまテレサの大きな胸は何にも隠されることなく、アンコウやテッグカンの前に(さら)されていた。

 

 テッグカンは手に持つ鞭の先で、テレサの下半身を隠す布を指し示していた。テレサは少したじろぎ、アンコウのほうを見た。

 しかしアンコウは何も言わず、テレサの体を無感情な目で何かを調べるように見ているだけ。

 

バシッ!

「は、はい」

 テレサは最後の一枚の布も脱ぎ、床に置く。テレサの目は床を見て、顔をあげようとはしなくなった。

 

「よし。もう少し足を広げるんだ」

「は、はい」

「ちがう!もっとだ!」

 

 テッグカンは無造作にテレサの体に手を伸ばし、テレサの足を広げさせた。

 テッグカンはその後もアンコウに話しかけながら、テレサの胸や尻を触り、また姿勢を変えさせながら、テレサの状態の説明やどうでもいい話を長々と続けていた。

 

(完全にモノ扱いだな)

 

 アンコウはテッグカンの話は途中から聞き流していたが、テッグカンのテレサに対する扱いを見て、妙に納得というか感心していた。

 いまのテレサの所有者は、この奴隷屋の主人であるテッグカンなのだ。一応この国にも最低限の奴隷の生命や権利を守るための法はある。

 しかし、現実には奴隷の命をその奴隷の所有者が遊び半分で奪ったところで、それに対して罰が与えられるような事態にはまずならない。

 

 テレサという奴隷の所有者であるテッグカンが、テレサに何をしようとも、それが奴隷商としての行為である限り、ただの客であるアンコウはそれに文句を言うつもりはない。

 

 テッグカンがテレサを触る手にいやらしさはまったくなく、完全に商品を扱う手であり、その商品を客であるアンコウに説明するためのものだ。

 そういう意味では延々と続きそうなテッグカンの話も含めて、なかなか丁寧な接客をする店だとも言える。

 

(……ただ、やっぱり無駄話が多いな、このオヤジは。まぁ、だからこの程度の店の主なんだろうな)

「おい、説明はもういい。それでいくらなんだ」

 

 まだまだ続きそうなテッグカンの話をさえぎって、アンコウは少しうんざりとした感じで言った。

 

「ククッ、失礼しました。うーむ、そうですな………」

 

 テッグカンは両手を組んで、少しわざとらしく悩んで見せた。アンコウは長々と説明を聞いた後の、このテッグカンの様子にはさすがに少しイラッとしたようだ。

 

「おい、あるじ。俺はこの後の予定があるんだ。くだらない小芝居をするんだったら、俺は帰るぞ。別に今ここで、どうしても奴隷を買わないといけないわけじゃねぇんだ」

「おっと、これは失礼を。」

 

「わびはいい。それにできれば、値段交渉もしたくはない。なんかもう面倒になってきた。もしかして、それがあんたの狙いか。だけどボッタくるようだったら、ソッコーで帰るぞ」

 

「いやいや、ロイスさんのところの紹介状をお持ちの方にボッタくるようなマネはいたしませんよ。ご心配なく。

 うーむ、では新しい首輪代も込みで、このぐらいで如何でしょうか」

 

 そのテッグカンがアンコウに提示した額は、相場よりもかなり安いものだった。

 

「……いいのか」

「ええ。この女は人間族の普通人。歳も34ですか、若くはない。年増ですな。むろん処女でもない。それに今の状態がこれです。相場より値を下げる理由はあっても、あげる理由なんかはありませんよ。

 さらにロイスさんのところからのお客さんですからね。なに、それでもうちは損はしませんよ。さすがにそれ以上は値切れませんがね。クックッ」

 

「いいだろう。買った」

 

 アンコウは気負うことなく、あっさりとそう言うと、この部屋の中に1つだけあるテーブルのほうに歩いていった。

 

 そして、そのテーブルのところまでくると、たすき掛けにかけている亜空間収納の魔具である背嚢(はいのう)を、背中から体の正面のほうにまわし、その背嚢の中に手を突っ込んで金貨を鷲づかみに取り出しはじめた。

 アンコウがジャラジャラと、テーブルのうえに金貨を積んでいく。

 

 その様子を少し離れたところから、テッグカンとテレサが虚を突かれたような顔で見ていた。

 

「おい、主。なにやってんだ。金を確認してくれ」

「は、はい!これは、これは、」

 

 テッグカンは急いでテーブルのところまで行き、金の勘定をはじめた。

 

 アンコウはテレサの購入代金をきっちりテッグカンに渡し、テッグカンがそれを確認し終わると、次に必要な書類上の手続きをした。

 テッグカンは一時テレサを部屋の外に出して、店の従業員に新しい奴隷の首輪を持ってこさせた。

 

 アンコウは所有者識別のため、その首輪に自分の血を垂らし、次にその首輪に刻み込むべき、所有者死後の奴隷の処遇などの事項をテッグカンに伝えていく。

 奴隷に知られて困るような事柄は首輪の内側な刻み込まれ、それ以外の必須事項などは首輪の表側に刻み込まれるのが普通だ。

 

 この魔具の効力の1つとして、首輪が奴隷にはめられると首輪と皮膚が一体化するため、首輪の内側に刻み込まれた情報は首輪を外さない限り、他の者が見ることはできない。

 

 それらの手続きと必要な話が終わると、テッグカンは再びテレサを部屋の中に呼び入れた。

 アンコウたちが座るテーブルの近くまで、テレサはやって来た。すでに服は着ているものの、その表情はどこか不安げである。

 テッグカンが立ち上がり、テレサの横に立つ。

 

「クックッ、よいか。この方がお前を買われた。料金もいただき、手続きも無事に済んだ。これよりこのアンコウさんがお前の主となる。さぁ、ご挨拶をするんだ」

「は、はい」

 

 テレサがまだイスに座っているアンコウの前で両膝をつき、頭をさげる。

 

「わたくしのようなものをお買いいただき、ありがとうございます。今後はご主人様の忠実なる下僕として全身全霊でお勤め申しあげます。なんなりとお申しつけくださいませ、ご主人様」

 

 テレサが事前に教えられていたのであろう売買成立時の決まり文句を口にした。

 

「ん?アンコウさん、どうかなされましたか?」

 テレサの挨拶を受けたアンコウの顔が少し曇っている。

「………いや、人からこんなふうに、ご主人様なんて言われたのは初めてなんだけどな。なんていうかあんまりよくないな。言われる分には大丈夫だと思ってたんだが、ちっと嫌なことを思い出した」

 

 アンコウも昔、自分の所有者であった男に今のテレサ以上に無様な姿でひざまずき、

「ご主人様、お許しください」 と、泣きわめいたことも、一度や二度でなくあったのだ。

 アンコウが首をかしげながら、ひざまずいているテレサを見ている。そんなアンコウの様子を見て、テッグカンは少し不安そうな顔をしていた。

 

「いや、奴隷は買っていくさ。必要だからな。単に言葉の響きの問題だ。すぐに慣れるだろう」

「クックッ、そういうことでしたら、別の呼び方をさせればよろしいでしょう。少しはマシになるのでは?」

「そうだな。ご主人様以外だな」

「他の一般的な言い方となれば、たとえば、旦那様とかお殿様であるとか」

「うーん、俺は貴族じゃないし、普通の家の用事をしてもらうつもりだからな……テレサ、とりあえず旦那様で頼むよ」

 

 アンコウはテレサのほうを見て言った。テレサも顔をあげて、久しぶりにアンコウのほうを見た。

 

「は、はい。よろしくお願いします。旦那様」

 

 アンコウのほうを見るテレサの顔の腫れや傷は実に痛々しい。

 

「ああ、よろしく。わかってるとは思うが一応言っておく。俺はお前を自由にするためにここへ来たわけじゃない。ここを出てお前を待ってるのは、俺の奴隷としての生活だ」

「はい。わかっています」

 

 テレサの顔に落胆の色は浮かばない。何ら感情を見せることなく答えた。

 

「……そうか」

 

 テレサにとって今の状況は、つい半月前までは自由民として、トグラスの女将をしていたことを思えば間違いなく地獄だ。

 しかし、そのトグラスでの生活とて決して楽なものではなかった。日々、厳しく仕事に追われ、資金繰りに汲々とし、ろくでなしの夫はまるで貧乏神のようだった。

 そしてその貧乏神のせいで、テレサはトグラスを失い、奴隷の身に落ちた。

 

 しかしテレサは、ここが地獄の底ではないことも知っている。

 奴隷となった者には、その売られた先によっては、これ以上の地獄があるということをこの世界で生きてきたテレサはよく知っていた。

 

 生きるか死ぬか、あるいは死んだ方がマシと思うほどのひどい境遇に身を落とすかもしれないと、テレサは怯えていた。

 

 それを思えば、アンコウに奴隷として買われるということは、決して幸せだと思えることではなかったが、ある意味希望をつなげることでもあった。

 むろん拭えぬ不安はある。しかし、テレサはアンコウのことを知っている。長年、宿屋の女将として働いてきたテレサは、多少人を見る目に自信をもっていた。

 

 冒険者といわれる人種のなかには、少なからず悪人そのものというべき者たちもいる。テレサから見たアンコウも冒険者らしい冷酷さを持っていたし、何やらテレサには理解出来ないものを心に持っている男でもあった。

 

 しかし同時に、アンコウは弱さとやさしさも感じさせる男で、テレサには決して悪い人間には見えていなかった。

 

 テレサはアンコウに対して悪い感情は持っておらず、どちらかといえば好感を持っていたし、奴隷となった自分に対しても、アンコウがそれほどひどくむごい扱いをするとは思えなかった。テレサはそういう意味で、希望を持てると感じていた。

 

「クックッ、ではアンコウさん。新しい首輪の処理が終わりますのに2日ほどはいただきたいのですが、それまでテレサはどうされますか?」

 

 アンコウはそのテッグカンの質問にはすぐに答えず、突然テーブルのうえに銀貨を何枚か置き始めた。

 

「アンコウさんそれは?」

「そうだな。2日じゃなくて、もう半月ほど預かってて欲しいんだ。今連れて帰ってもしてもらう仕事がないからな」

 

 アンコウはそう言いながらも、パチリパチリと銀貨を置き続けていた。

 

「アンコウさん、お預かりするのは構いませんが、それは少しばかり半月の預かり賃としては(おお)うございますよ」

「その分待遇をよくしてやってくれ。これだけありゃそれなりの宿屋のスイートにもひと月は泊まれるだろ………それと他の男に触らせるなよ」

 

 アンコウがニヤリと笑いながら、テッグカンに言った。さらにパチリパチリと銀貨を置く。

 

「クックッ、承りました」

 

 アンコウは銀貨を置き終えると、テレサのほうに向き直った。

 

「テレサ、立って」

「は、はい」

 

 体のどこかが痛んだのだろうか。テレサは少し顔をしかめながら立ち上がった。そのテレサに、アンコウは薄いピンク色の液体が入った瓶を差し出した。

 

「ほら、とりあえずこれを全部飲んで」

「あ、あの、これは」

「ヒールポーションだ。わかってるだろうけど、今のテレサはボロ雑巾みたいだぞ」

 

 アンコウのような冒険者には必須のものであるが、ヒールポーションというものも決して安いものではない。

 テレサは手を伸ばすことを少しためらい、チラリとテッグカンのほうを見た。

 

「テレサ、お前の主人はすでにアンコウさんなのだ。奴隷は主人の命令を聞くものだ。クックッ」

「は、はい」

 

 テレサはアンコウの手からポーション瓶を受けとって、一瓶丸々飲み干した。

 飲み終えるとすぐにテレサの体に赤みがさし、体に力が湧いてくるのをテレサは感じていた。

 

「まぁ、ごく普通のヒールポーションだからな。その体中の傷が一気に消えるってわけにはいかないだろうな」

「いえ!ありがとうございます!アンコウさ、あっ、旦那様、」

 

 テレサの顔にここにきてから初めて笑顔が浮かんだ。それを見てアンコウも、口元を少しほころばせる。

 アンコウはさらに亜空間背嚢に手を突っ込んで、もう2本同じような液体の入った瓶を取り出して、それをテレサに手渡した。

 

「あ、あの、これは」

 テレサは戸惑いながらそれを受けとった。

「今のと同じやつだ。半月ほどしたら迎えにくるから、それまでゆっくりここで傷を治しててくれ。まぁ、居心地はあまりよくないかもしれないがな」

 

 アンコウは少し浮かべた笑みをすぐに引っ込めて、無表情のまま言った。そのアンコウの言葉に返事を返すのは、テッグカン。

 

「アンコウさん、ご心配なく。いただいた金子の分は、きっちりご面倒を見させてもらいますよ。クックッ」

 

 アンコウはそう言ったテッグカンを見て、内心では どうだかなと思う。

 

「ああ、信頼してるぜ。テッグカン」

 

「クックッ、おまかせください。私はこう見えても商売上の信義というものを重んじてましてな。それはそれは、私の師匠というべき人に若い頃に徹底的に叩き込まれております。なんとすれば、私は今時の若い商人どもとは違い……………

 

 

 

 

「 チッ、ほんとに無駄話の多いオヤジだ」

 

 アンコウはテッグカンの奴隷屋の前で1人毒づく。まだまだしゃべり続けそうなテッグカンを無視して、アンコウは店を出てきた。

 いつのまにか外は、もう薄暗くなっていた。

 

 アンコウは薄汚れた感じのこのいかがわしい貧民街の通りを急いで歩いていく。

 早く宿屋に帰らなければ、せっかくの黄金(こがね)角大猪の肉を使った料理を食べ損ねてしまう。アンコウはとても楽しみにしていた。

 宿の主からも、帰りが遅くなれば肉が残っている保証はないと言われていた。

 

 それでもアンコウは力車を呼ばなかった。どうしても少し歩きたい気分だった。

 アンコウは初めて奴隷を買った。人をモノとして金で買った。あれほど奴隷にされたことを恨み呪っている人間が、買う側にまわった。

 

 それでもアンコウは後悔はしていない。この世界で奴隷の存在は当たり前、ただそれを受け入れただけ。アンコウは、自分は理想主義者でも革命家でもないと知っている。

 

 ただこの世界で生きのびる。そして、少しでも自分の思うがままに生きたいと願う。それは当たり前のことだとアンコウは思う。

 あの奴隷を買うことが自分にとって有益であると判断して買った。ただそれだけのこと。

 

 しかし、アンコウの元の世界で培った価値観が、アンコウのなかから完全に消えてなくなってしまったわけではない。

 奴隷の存在は許されざる社会の罪、金で人を売買することなど道徳的に決して許されないという価値観も、完全には消え去ることなく、未だアンコウという人間のなかに存在していた。

 

 ただ、この世界での4年間の経験が、それを押し込めてしまうだけの重みとして、アンコウの心のなかに乗っかっている。そしてアンコウはいまもこの世界にいる。

 

それが今のアンコウ。

 

 しかし今、その押し込められているはずの元の世界で培われた良心が、少しだけチクチクと痛んでいた。

 初めて奴隷を買った。人の自由を奪い、人をモノとして扱うことは快感をともなうのだと初めて実感した。しかし、その興奮も今はアンコウの中からきれいになくなっている。

 何かよくわからない焦燥感にも似た(うず)きが、アンコウの心を乱している。

 

 ひょっとしたら、これは良心の疼きなどではなく、アンコウの心の底に残っていた大事なものが、またひとつ消えようとしているのかもしれない。

 

 アンコウは、ただこの世界で生きていくだけで、少しずつ元の世界から離れ、こちらの世界に染まっていく。

 それがアンコウにとって、幸せなことなのか不幸なことなのかアンコウにもわからない。ただ、無意識の焦燥感がアンコウの心を乱し続けていた。

 

 アンコウは貧民街の裏通りを早足で歩き続ける。

 アンコウの目に映る景色は薄汚れた陰鬱な街並み、さらにアンコウの鼻につくのは何とも言えないすえた不快なニオイ。

 

「チッ、嫌なところだ。全部燃えちまえばいいんだ、こんなところはっ!」

 

 アンコウは早足で歩きながら、少し大きな声で吐き捨てた。



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第14話 将棋を指しながらダッジと話す

 アネサは、ウィンド王国にある中規模クラスの都市である。ウィンド王国はエルフの一族が支配する国。当然、この国における最上位種族はエルフだ。

 この世界において、エルフという種が持つ個の戦闘能力は、他の種族を圧倒していると言ってよい。

 

 しかし、このエルフという種は人間や獣人と比べると生殖能力に劣り、個体数はかなり少ない。ウィンド王国内には、エルフの人口より、はるかに多い他種族が居住している。

 

 しかしエルフは、この多種多様な種族が住む国の支配者であるにもかかわらず、その種族的特徴として、非常に保守的で他の種族に対して閉鎖的でありつづけている。

 

 そのようなエルフという種が、何故多くの他種族が住む広大な版図を持つ国の支配種族となり得てるかといえば、やはりその戦闘能力の高さゆえに、長い戦いの歴史を経たうえでの必然の結果であるというほかはない。

 

 そのエルフ王族の支配するウィンドという国は、エルフたちの他種族を支配し、統治するという意識の希薄さゆえに、アンコウが元いた世界の王国と呼ばれるものと比べるとまったくちがう統治体制が敷かれていた。

 

 

「はっ!エルフどもに国を統治する能力なんぞねぇ」

 

 ダッジがアンコウと指している将棋の盤を見ながら、吐き捨てた。

 

「そうは言ってもなぁ、ダッジ。刃向かって勝てる相手じゃないだろう」

パチッ

 アンコウが将棋の駒を指しながら言う。

 

 この将棋は、アンコウがダッジに教えたアンコウの元いた世界のものだ。

 駒に書かれている文字は変えてあるが、ルール自体はアンコウの元いた世界の将棋とまったく同じ。

 

 こちらの世界にも、似たような盤上遊戯はあったのだが、とても稚拙な子供用のもので、大人がするようなものではなかった。

 

 アンコウが暇つぶしにと、他の冒険者や知り合いに教えたりしているうちに、この3年で、いつの間にやら愛好者の輪が広がってきていた。ダッジもその1人。

 

 アンコウはダッジのパーティーで迷宮に潜り、昨日の夜、地上に戻ってきた。

 そして、今朝早く魔石の換金を済ませて、そのまま3ヶ月前に購入したばかりのまだ新築と言える家に帰ろうとしたのだが、ダッジに一指しつき合えと誘われて、ダッジが今泊まっている宿屋にきていた。

 

 今、アンコウたちがいるのはその宿屋の食堂スペース。食事時とは違いテーブルについている人はまばらにしかいない。

 

「エルフの連中は金ピカの豪邸でふんぞり返っているだけだ。欲深くて怠け者、耳の長いただの白豚だ!」

バチッ!

「っと。……そうきたか」

 

 アンコウは盤上を眺めながら、首をひねる。

 どういう話の流れなのか、ダッジはさっきから人目も(はばか)ることなく、この国の支配者層種族であるエルフの悪口を大声で言っている。それをアンコウも別にとがめようとしない。

 

 大丈夫なのだろうか。力によって他を支配する国の権力者の悪口を言うなどすれば、死刑あるいは投獄などされるのではないかと思ってしまうのだが、少なくともこのアネサの町では滅多なことでそこまで深刻な事態にはならない。

 

 まず、アネサの町でエルフを見かけることなどほとんどない。

 それにアネサの町の太守は人間族、さらに、その太守を任命したこのアネサの町を含む一帯の領主も人間族だ。

 

 その領主は、ウィンドの王であるエルフに忠誠を誓い、毎年定められた税を納めている。

 忠誠と税、その2つさえきっちり守っていれば、領主が王からその領地のことに関して口をはさまれることはほとんどない。

 

 エルフたちの支配や統治に関する感覚は人間とはあきらかに違っている。

 その最たるものが、エルフたちはこのウィンド全体の統治者であるにもかかわらず、国内でエルフ種以外の者たちが領地や富などをめぐって武力による争いを起こしても、その者たちが王家に忠誠を誓い税を納めていれば、まったく関知しない。

 ただ勝ったほうが王家に納める税の額が増やされるだけだ。

 

「あいつらは、自分たちのことしか興味がねぇ。場合によっちゃあ、自分の国の人間や獣人に殺し合いをさせて楽しんでいやがる。あいつらに王などと名乗る資格はない」

「……ああ、そうだな」

 

 アンコウはこの手の話に興味があまりない。適当に相づちを打って、次の一手を考えている。

(……ちくしょう。どこにいっても飛車が取られる……)

 

「おい、アンコウ。お前聞いてるのか」

「聞いてるよ。聞いてるけど、将棋打ってんだ。そっちが先だ」

 アンコウは盤上から目を離すことなく言った。

 

「チッ!」 ダッジの派手な舌打ちが響く。

 

 ダッジは今の姿からは想像できないが、元このウィンド王国で領地を持っていた人間族の貴族に仕える騎士だったらしい。

 しかし、ダッジの家が代々仕えていた貴族は、ダッジがまだ20歳(はたち)になる前に、隣の領地の貴族に攻撃をうけて滅ぼされていた。

 

 ダッジが仕えていた主君は首を取られ、ダッジの親族もほとんどがその戦いの過程で命を落としてしまった。

 そして、そのダッジの主君や親族を殺した貴族も、ウィンド王に忠誠を誓っていた同じウィンドの貴族だった。

 

 ダッジが言うには、ダッジが仕えていた貴族を滅ぼした連中はウィンドの王家の身内ともいうべきエルフの有力貴族と繋がりがあったらしく、この国のエルフどもが遊びで同じ国に属する他種族の貴族を煽り、自分たちを攻めさせて滅ぼしたのだと、ダッジは今も強く恨みに思っている。

 

 アンコウは、ダッジからその詳しい話を今回の魔獣狩りの合間に迷宮の中で初めて聞いた。アンコウはその話の真偽のほどは知らない、ただこの国ではよくある話だと思うだけである。

 

「まぁ、ここはそういう国だろ」

 将棋に集中していたがために、アンコウはうかつな一言を言った。

「ああ!?」

 

 ダッジの殺気がこもった声を聞いて、アンコウは盤から目をあげて、ダッジを見る。ダッジは強い怒りのこもった目でアンコウを見ていた。

( くっ、面倒くせぇ!)

 アンコウもそのダッジの怒りの目を見て、知ったことかよと怒りが湧いたが、それを顔には出さず、グッとこらえた。

 

「……悪い。軽はずみなことを言った。……その話はもうやめないか。勝負に集中できないからよ」

「……いまさら集中してどうする。お前はもう負けてるだろうが」

「何っ!?」

 

 盤を見れば、アンコウがどこに打とうが、後数手で詰まれる。下手の横好き、アンコウはあまり将棋が強くなかった。

 

 

 

 

「フゥーッ」

 

 盤上から目を離し、今度はアンコウが少し不機嫌になっていた。

 

「おまたせしました」

 いつのまに注文したのか、宿の従業員が木製のジョッキに入ったエールを持ってきた。

 ダッジが泊まっている宿は、アンコウが普段使う宿よりもランクが高く、そこで出される酒も上質のものだ。

 

「そうカリカリするな、アンコウ。まぁ、飲めよ」

 それはお前だろと、アンコウは思うが口にはしない。

「いや、おれは酒はいい」

 ダッジはアンコウの分も注文していたようだ。

「そう言うな。おごりだ。一杯ぐらいつき合え」

 

 冒険者の酒に、朝も昼も夜もない。アンコウは仕方なく、エールを口に運ぶ。アンコウが酒を口にするのを見て、ダッジは話を続けた。

 

「アンコウ、このショーギってゲームは、どこで憶えたんだ」

「ん?前にも言ったろ。おれが生まれ育った土地の遊びだよ」

 アンコウはエールの入った容器を見ながら答えた。ダッジはさらに聞いてくる。

「それで、お前の生まれ故郷っていうのはどこだ?」

 

 再びエールを飲もうとしていたアンコウの手が止まり、エールの入った容器をゆっくりとテーブルのうえに降ろす。

 

「さぁな。憶えてねぇよ」

 アンコウはダッジのほうは見ずに、顔には笑顔を浮かべながら言った。

 

「おれにだって、ガキの頃はあったんだ。お前にもあるだろうが」

 ダッジが重ねて聞いてきた。そして、アンコウの顔から笑みが消える。

 

「なんだよ、ダッジ。迷宮でお前が昔話をしたから、次はおれの番だってか?」

 

 アンコウはこの世界に突然やって来て、一番はじめに出会った者たちに、自分は異世界から来たらしいという話をした。そしてアンコウは、その連中に売り飛ばされて奴隷になった。

 それ以来アンコウは、自分のこの世界に来るまでの過去、アンコウの元いた世界の話を誰にもしていない。

 

「憶えてねぇってことは、話たくねぇってことだろう。おれたちみたいな冒険者の過去をしつこく聞くなんてことは、非常識なんじゃねぇか、ダッジ」

 

 そう、アンコウに関わらず、冒険者などをやっている者は過去に人に話せないことのひとつやふたつある者も多い。

 それゆえお互いの過去を深く詮索するようなことをしないということは暗黙のルールでもあった。

 

「アンコウ、カリカリするなって言ってるだろう。無理に話せなんて言ってねぇ」

 

 アンコウが(いぶか)しげな顔でダッジを見る。

(……ダッジの野郎……なんかおかしいな)

 

 そもそも迷宮で、突然自分の身の上話をはじめたことがおかしかった。ダッジも、そのあたりの詳しい話を積極的に他人にすることはこれまでなかった。

 そして今は、アンコウの過去を知りたがっているように感じられた。

 

「チッ、うっとうしいな。そんな目で見るな、アンコウよ。この話は終わりだ」

 

 そのダッジのセリフを聞いて、さすがにアンコウも不機嫌さを隠しきれず、顔に出てしまった。

 しかし、ダッジはそんなアンコウの気分の変化を意に介することはしない。

 

「アンコウ、この町の貴族どものことをどう思う」

 ダッジは突然、話を変えてきた。

「……別に」

 

 アンコウは素早く顔から不機嫌さを消し去っていたが、ダッジに対して少し警戒しながら話を続ける。

 

「この町の太守も領主も、エルフどもにべったりだ」

「…………」

 

 アンコウは何も答えず、エールの入った容器を口に運ぶ。しかし容器に口をつけているだけで、実際に中身を飲んでいない。

 

 ダッジは見た目、これ以上ないぐらいヤサぐれた冒険者らしい風貌をしていたが、元騎士という過去のせいか、かなり政治的な関心が強いところがあると、アンコウは最近になって気づいてきていた。

 

「………アンコウ。この町が襲われたら、太守や領主のためにお前は戦うか」

 

 アンコウがこのアネサの町で生活をするようになってから、この町が他国、他領主に攻められたことはない。

 

 しかし、この周辺が平和だということではなく、このアネサの町を領有している貴族も同じウィンド王国内で他の領主の土地を攻めたり、逆に攻められたりを繰り返しており、このアネサもいつ戦乱に巻き込まれたとしてもおかしくはない。

 

「おれが殺し合いをするのはいつも自分のためだ。それはどんな戦いであっても変わらない」

「それは、お前の得になるんだったら、この町を襲う側につくこともあるってことか」

 

 ダッジはいつもと変わらぬ口調で話しているが、その目は真剣だ。それを見て、アンコウの目つきも鋭くなってくる。

 

「………ダッジ。あんたさっきからなんの話をしてる。おれはこっちから政治がらみの権力争いに関わるつもりはない。ここにはいないエルフの悪口を聞くより、よっぽどきな臭いぜ」

 

 アンコウの言葉に少し凄味がこもるが、そんなアンコウを見てもダッジの様子は変わらない。ダッジとアンコウは、お互いの目を見合ったまま、少しの間があく。

 

「…………何でもねぇよ、気にするな。この話も終わりだ」

 

 そして、ダッジはそう言うと、手に持っていたエールを一気に飲みほした。

 

「カァーーッ!うめえぇっ」

 

 

 

 

 宿を出たアンコウは、家に向かって歩いていた。宿の外は、午前中の暖かな陽ざしが心地よい素晴らしく晴れた日。

 アンコウはその陽ざしの下、今回の魔獣狩りの稼ぎの入った袋を手で弄もてあそびびながら歩いている。

 

 アンコウは歩きながら全身で心地よい風を感じていたのだが、さきほどのダッジとの会話のせいで、ザラついたアンコウの感情はまだおさまっていない。

 

(……おれの素性、……この町を襲う……なにか関係があるのか……)

 

 

 

 一方、アンコウが去った後も、ダッジはひとり、目の前のさっきまでアンコウと指していた将棋の盤を見つめながら動かずに座っていた。

 

 アンコウは、最後はいつもどおり、また頼むと次の魔獣狩りのことを口にして去っていった。しかし、アンコウに相当警戒されたであろうことはダッジもよくわかっている。

 

 アンコウはこれまで自分の生まれ育ちに関して、ダッジに話したことはなかった。

 アンコウが、そのことについて聞かれても、そう簡単には話さないだろうと、そこそこ付き合いの長いダッジはよくわかっていた。

 

 そもそもダッジ自身は、アンコウの生い立ちなどに別段関心はない。だから、これまで問い詰めるような聞き方はしたことがなかった。

 そう、ダッジ自身は、今でもアンコウの過去なぞに興味はないのだ。

 

 ひとりテーブルに座るダッジの元に、近づいてくる者たちがいた。

 顔をあげたダッジの目に映ったのは、ダッジの奴隷である獣人の女戦士ホルガ。そしてもう1人、

 

「おい、ダッジ」

 

 声をかけてきた男は人間族の男で、年の頃はダッジよりも少しうえ、40は越えているだろうか。

 その男のいでたちは、アンコウやダッジと同じ冒険者風の装備なのだが、スラリとした体型に金髪で整った顔立ちをしており、パッと見た感じには冒険者というには少し品の良さげな印象を受ける。

 

 しかし、相対してみれば、すぐにその印象は変わる。目が違うのだ。

 この男の目には、よどみと嫌らしさがある。その男が、先程までアンコウが座っていたイスに腰をおろした。

 

 

 

 

「ダッジ!貴様なにを考えている。余計なことをしゃべりすぎだぞ!」

 

「言っただろうが、あいつは疑り深い。あいつは自分の素性を隠している。それを聞き出そうと思えば、もっとこっちの事情を話さないとだめだ」

 

「ふざけるな!大事の前にあのような胡散臭い冒険者などに我らのことを知られるわけにはいかん!」

 

 ダッジは語気を荒げる男を少し面倒くさそうに見る。

 

「だったらその大事が終わった後にすればいいだろう」

「それでは遅いというのがわからんのか!」

「だったらお前1人でやれ」

「くっ、貴様誰にむかって口をきいている!」

 

「……お前だよ。いい加減にしろよ、デンガルさんよ。あんたはもうおれの上官じゃねぇ。今のおれには主もいない。

 いいか、おれとあんたは対等なんだよ。あんたは、おれの協力が必要なんだろうが。だったら、あんたが口の利き方に気をつけな」

 

「ぐぐっ。き、貴様………」



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第15話 新築一軒家にて

 テレサは今、アンコウの奴隷として住んでいる家の中にいた。この家でリビングダイニングとして使っている部屋に、テレサは1人座っていた。

 

 この家のどの部屋にいてもまだ新築特有の良いにおいが漂っており、いろんなものが綺麗だ。

 掃除を終えて、ひと休みしているテレサも、掃除のしがいがあるわとひとりごちた。

 

「ふうーっ」

 テレサはハーブ茶を一口飲み、息をつく。

 

 テレサの目の前にある長いテーブルも、いま座っているイスもまだ新しい。高価なものではないが、新しいというだけで気分が良いものだ。

 

 テレサは手に持っているハーブ茶が入っているカップを見た。このカップも新品で極々普通の品。

 ただ、テーブルやイスと違うのは、このカップを選び、買ってきたのがテレサ自身だということだ。

 

 むろん奴隷となったテレサにそんなことに使えるお金はなく、支払いに使ったお金はアンコウのものだ。

 

 テレサはテーブルのうえにカップを置き、次にテーブルの向こう側にある棚の上に置かれた花瓶に目をやる。

 

(………ずいぶん私が買ってきたものが増えた)

 

 テレサがこの家で生活をするようになって、3ヶ月になる。

 テレサがこの家に来た日までアンコウもここには住んでおらず、家具など最低限必要なものは、ほぼ業者まかせで買い揃えていたようだが、ここで2人の人間が生活していくためには、日用品などを中心にまだまだ足りていない状態だった。

 

 アンコウはテレサの仕事のひとつとして、この家の家事全般をするように命じており、そのために必要な品々と、テレサ自身が使う生活用品をテレサの判断で買いそろえるように言われていた。

 

 むろんお金はアンコウが管理しているのだから不要な買い物はできない。その都度チェックはされるのだが、ここに住み始めたかなり早い段階で細々としたものは全部事後報告という形になっていた。

 

 いまテレサが飲んでいるハーブティーも、手に持っているティーカップも、棚のうえに置かれている花瓶も、すべてテレサの趣味で選んだものだ。

 

 そのほかもテレサの私物だけでなく、この家にある日用品のかなりの部分がテレサが選んだものになっていた。買い物自体もお金だけをアンコウから預かって1人で行くことが多い。

 たまにアンコウ用に買ってきた食器の絵柄などがアンコウの趣味ではなく、文句を言われたときなどは、じゃあ一緒に来てくださいと、思わず言ってしまったこともあった。

 

 テレサはトグラスの女将であったときと同じように、時には冗談も言ったりしながら、アンコウと話をすることができていた。

 元々アンコウは宿の客であったので、テレサはアンコウには敬語丁寧語主体で話していたのだが、それでもここに来た当初は口の利き方ひとつにしてもどうすればよいのかずいぶん迷っていた。

 

 初めにアンコウからは、命令には必ず従ってもらうということをかなりきつく言われたが、細かな立ち居振る舞いや話し方などに関しては、ほとんど何も言われなかった。

 テレサは様子をうかがいながら、アンコウと日々の会話を重ねていくうちに、自然と奴隷になる以前の宿屋の女将と客であった頃とさほど変わらない話し方、接し方になってしまっていた。

 

(……あの人が前とほとんど変わらないから)

 

 テレサが変えなかったというよりも、アンコウが以前どおりの態度だったのだ。

 アンコウとしては、テレサを奴隷屋から引き取ったときにこちらの望む要求を命令としてテレサに伝えており、それをテレサが守っている以上無駄に威圧的になる意味がなかっただけのこと。

 

 テレサはテッグカンの奴隷屋に売られてきたときには、奴隷の身となってしまった以上、今後買われた先によっては人としても扱われず、最悪、歪んだ趣味や目的のため、殺された方がましと思えるほどの責め苦を与えられるかもしれないと一時は真剣に覚悟していた。

 

 実際にテレサは借金取りたちの手によって、奴隷屋に売り飛ばされる前にかなりの暴力を受けていたのだから、その不安は深刻なものだった。

 

 その不安感は、トグラスの顔見知りで好感を持っていたアンコウに買われることが決まった後も完全には消えず、テレサがすぐに絶対の安心を持つことなどできるはずがなかった。

 

(………主な仕事は、この家の家事全般。……トグラスの仕事よりずっと楽だわ)

 

 しかし、テレサのその不安はいい方向に外れた。

 この家でアンコウから課せられた仕事は、実質的にひとつの宿屋を切り盛りしていたテレサにとって、ずいぶんと楽なものだったし、この3ヶ月の間にアンコウからひどい暴力を受けるようなことは1度もなかった。

 

 しかもアンコウは、月の半分近くはこの家に戻ってこない。

 アンコウが留守の間も事前の許可なり事後報告なりをちゃんとすれば、テレサはかなり自由に行動することが許されていたし、もう二度と会うことが出来ないと思っていた娘のニーシェルにも、このあいだ会うことができた。

 

 ニーシェルは、テレサの首にはめられた奴隷の首輪を見て初めは泣いていたが、この場所で今のテレサがしているのと同じように2人座ってお茶を飲みながら、テレサがなだめるように話をしていくうちに、複雑そうではあったが少しは安心できたみたいだった。

 

「ふふっ、あの子も驚いてたわね。奴隷の勤め先としてはここはずいぶん好待遇だわ」

 

 でも、一人きりの部屋でそうつぶやくテレサの顔はやはりどこかさびしく不安げなもの。

 

 どのような良いと思える扱いを受けていようが奴隷であることは変わりなく、テレサは自分が奴隷であることに納得し、あるいは諦め、奴隷であることに染まり切るには、まだ少し時間が足りていない。

 

 体がまだトグラスで朝から夜遅くまで働き続ける感覚を覚えている。

 それは決して楽しい生活ではなかったが、いまにして思えばトグラスの女将として、やりがいというものも感じていたのだとテレサは思う。

 

 それに、しょせん奴隷はモノ。アンコウが誰かに自分というモノを売れば、この生活はその瞬間で終わってしまう。テレサの今とこれからの生活はそういうものなのだ。

 ここに来る前ほどではないにせよ、漠とした不安がテレサから完全に消えることはない。

 

「ふうーっ、いいかげん早く慣れないとだめね」

 

 テレサはカップに残ったハーブ茶を飲みほした。

 

 奴隷となってしまったものが、その所有者である者の意思に反して奴隷自身の力でその境遇から抜け出し、新たな人生を切り開くなどということは、少なくともテレサのような女にできるような荒事ではない。

 

 テレサは座っていたイスから立ち上がり、空いたカップを洗い場に持っていく。テレサは水を張った桶の中にカップを沈める。

 テレサが移動してきた場所は炊事場として使われている部屋で、開け放たれている大きめの引き戸のとびらは、直接庭につながっている。

 

 開け放たれているとびらの近くには一本の木剣が立て掛けられている。テレサは何の気なしに、今朝も庭で振っていた木剣をつかんだ。

 そう、この木剣はアンコウのものではなく、テレサがアンコウから練習用にと貰ったものだった。

 

「ふうーっ、嫌だな。実際に戦うようなことにならなければいいのだけど」

 

 アンコウに初めて剣を渡されて、これから剣を稽古するようにと言われたときは、テレサは恐怖でそれをすぐに受けとることができなかった。

 アンコウはテレサに抗魔の力が多少なりともあることを知っていた。テレサは、アンコウが自分を鍛えて、魔獣狩りに使うつもりなのかと思ったのだ。

 

 テレサの持つ抗魔の力はかなり限定的で中途半端なもの。しかも、テレサがその力に目覚めたのは子供を産んだ後のことであり、剣を振るって魔獣と戦ったことなど、これまでに1度もない。

 

 覚悟のない者が中途半端な抗魔の力を持つことは、必ずしも喜ばしいことであるとは言えず、逆に不幸や面倒ごとの種になりかねない。

 魔獣と戦うことなどは望まないテレサは、これまで自分からそのことを人に話すことをしなかったし、アンコウに知られたのは偶然によるものだった。

 

 テレサは迷宮などに連れていかれたら、最も弱い魔獣のエサとなる自信がある。

 しかし、ためらうテレサにアンコウは、命令だと言ってテレサに有無を言わせず剣を持たせた。いずれ迷宮に連れていくこともあるかもしれないとも言われた。

 

 まっ青になり体を震わすテレサに、アンコウは心配はいらないと言った。

 基本的には魔獣狩りに連れていく気はないのだと、それはテレサに与える仕事には入っていないと言った。

 

 ただし、自分の奴隷になった以上迷宮に入らなければならなくなる可能性はある。力が多少でもあるのなら、自分の身は自分で守れと言われた。

 また冒険者などをやっていれば、いつどこで斬り合い殺し合いに巻き込まれるかしれたものではなく、お前も他人事でないとテレサは言われた。

 

 戦うことはテレサの仕事ではないが、この家の留守を守るのとテレサ自身の身を守るのは仕事のひとつであり、この家もテレサも自分の所有物なのだと、それを守れと、そのために剣の基礎を教えると、アンコウに言われた。

 

 

 テレサは手に持った剣を構えて、1度だけ振り下ろす。

ビュンッ!

 剣が空を切る音が3ヶ月前に比べるとずいぶん鋭くなった。テレサは眉をしかめながら、木剣をじっと見つめる。

 

「ふうーっ、」

(………嫌だな。やっぱり迷宮に連れていかれたりするのかしら。それは仕事じゃないって言っていたけど)

 

 テレサは軽く自分の顔をたたき、気分を変える。

 

 そしてテレサは木剣を元の場所に戻すと、炊事場に戻り、鍋のふたを開けてスープの出来を確認した。

 

 アンコウからテレサが聞いていた予定では、今回の魔獣狩りで迷宮に潜っているのは昨日までだったはずだ。

 予定が変わることはこれまでにも何度もあったが、昨日の夜に地上に戻ってきているなら、お昼頃にはここに戻ってくる可能性が高い。

 

 テレサは今ある料理と食材を確認して、アンコウがいま帰ってきても簡単な食事をすぐ出せることを確認した。

 

「とりあえず大丈夫そうね」

 

 午前中の仕事をほぼ終えて、手持ちぶさたになったテレサは2階に上がっていく。

 買い物に行く用事もあったのだが、アンコウがいつ戻るかわからないため、いま外に出て行くことは(はばか)られた。

 

(待つのも仕事のうちね)

 

 トン、トン、トンと調子よく階段をのぼり、テレサは2階の寝室に入った。

 

 この家は2階建てで、それぞれの階にいくつかの部屋はあったが、テレサ専用の個室というものは与えられていない。

 しかし2階にあるアンコウが書斎にしている小さい部屋を除いて、テレサは自由に出入りしてもよいと言われており、特にアンコウがいないときなどは、どの部屋も気兼ねなく自由に使っていた。

 

 テレサは寝室に入って、中に置かれている鏡台の前に座り化粧を直す。

 この鏡台とその横に置かれているタンス、それに窓の近くに置かれているベットは、テレサがテッグカンの奴隷屋からこの家にやって来たときには、テレサ用の家具としてすでにこの部屋に置かれていた。

 

 この寝室はリビングを除いて、この家で一番広い部屋であり、テレサのベッドのすぐ横にはアンコウのベットも置かれていて、この部屋は2人で使う寝室になっている。

 

「………目尻と口元のしわがまた薄くなってる。肌に張りも出てきてるし。話には聞いてたけど、すごいわね」

 テレサが鏡に映った自分の顔を見ながらつぶやく。

 

 ある程度以上の抗魔の力を持つ者は、多少の個人差はあるものの、その者が属する種族の一般的な寿命よりずっと長く生き、またその伸びた寿命の割合以上に長期間若々しい肉体を保つということは、この世界の者ならば誰もが知っている。

 

 しかし、これまでテレサには保若(ほじゃく)という効果はその体に現れておらず、それはテレサの持つ抗魔の力が保若の効果を現すにはいくらか不足していたためであった。

 

 また、抗魔の力を持つ者の血や体液にはその力が強く宿っていることも広く知られている。

 この抗魔の力を持つ者の血や体液を継続的に用いることで、抗魔の力を持たない者でも、老人が若者になるということはさすがにあり得ないが、老化を食い止め、寿命を延ばすという効果を期待することができた。

 

 そのため抗魔の力を持つ者の血や体液そのものが売買の対象にさえなっており、中途半端な力しか持たない者が、それを狙った者たちによって狩りの標的にされるという現実もある。

 

 これを証明するひとつの証左として、抗魔の力を持つ者と一定期間定期的に性的な交わりをもち続けている者には、全てにではないが、その者が抗魔の力を持たない者であっても、保若長寿(ほじゃくちょうじゅ)の効果が現れる場合があるという事実があった。

 

 ただ、それにしても今のテレサのように3ヶ月ほどで、その効果が目に見えて現れてくるというのはいささか早い。

 

 そのことをテレサがアンコウに問うと、アンコウは単にアンコウが持つ抗魔の力の影響だけじゃなくて、テレサ自身が持っている抗魔の力の影響と、アンコウとテレサの相性なども相乗的に働いているんだろうと言っていた。

 

(そうね。最近自分の中に感じる力自体が、少しずつだけど増している気がするし………)

 

 テレサは出産を期に、自分の中に、ある種の力を感じるようになっていたのだが、ここに来るまではそれが増減しているような感覚をおぼえたことは1度もなかった。

 しかしテレサは最近、稽古で木剣を振っているときなどに、体から湧きあがってくるその力が、これまでよりも(わず)かずつではあるが、増してきているのを感じていた。

 

 テレサは鏡に映る少しシワが消えてきた自分の顔を見て、ふいにこの変化をもたらしたであろうアンコウとの行為を思い出して、年甲斐もなく顔を赤らめた。

 

「ふうーっ………」

 

 テレサは少し意外だった。いや、奴隷となった女が男に買われていった以上、その購入に特別な理由や用途がない限り、女として体を求められるであろうことは当たり前のことであり覚悟はしていた。

 

 アンコウ本人からも、テレサはこの家に来る際にはっきりとその役割についても求められていたのだが、テレサにはどうにもピンとこないものがあった。

 

 というのも、テレサはトグラスの女将をしていたときは、冒険者たちをはじめ、多くの宿泊客たちから口説かれるということがよくあった。

 男たちの、多くは遊びで時には真剣に、トグラスのような宿屋の女将をしていれば、それはごく日常的な出来事だ。

 

 しかし、アンコウは違った。テレサとしては、アンコウは多くの宿泊客の中でもかなり親身に接していた客であったし、暴漢に襲われそうになったところを助けてもらったこともあった。

 そんなこともあって、アンコウには商売を抜きにした顔を見せることもあったのだが、アンコウに口説かれたことはもちろん、自分の体をいやらしく見られていると感じたこともなかった。

 

 アンコウとしては、女が欲しくなったら魔獣狩りで儲けた金を持って娼館に行くだけであり、多少親しくしているからといって、自分が泊まっている宿の人妻子持ちの女将をわざわざ口説くなどという発想自体がなかっただけだ。

 だからといって、別にテレサに対して女としての魅力を感じていなかったわけではない。

 

 しかしテレサは、アンコウにとって自分はそういう対象ではないのだと受け止めていた。だからテレサは意外であった。

 

 今そこにあるベッドで、アンコウが自分にむけた男の目。アンコウに服を脱がされ、テレサも何も(まと)わぬアンコウの体のすべてを見た。

 

 アンコウは服を着ていると、冒険者としては細身に見える。しかし、裸になったアンコウは、魔獣たちを斬り伏せて生きのびてきた無駄のない筋肉を全身に張りつけた戦士の体をしていた。

 

 そのアンコウの激しい息づかいに荒々しい手つき、すべて女としてのテレサにむけられたものであった。

 アンコウが自分に激しく欲情していたことは、今ではテレサ自身の体がよく知っている。

 

 この3ヶ月の間にテレサはアンコウに何度も抱かれた。それだけが原因でないにせよ、アンコウの持つ抗魔の力が自分の体に変化をもたらすほどに、その力を身に受けていた。

 

 むろんテレサは男を知らないわけではない。しかしテレサの夫であった男は、テレサと結婚した当初から酒とバクチにはまっており、テレサに対する関心は低かった。

 それでもテレサは二十歳の時に一子をもうけたが、さらにそれ以降、夫がテレサを女として求めることは少なくなっていった。

 

 そして夫との仲に決定的な亀裂が生じた頃、テレサは精神的にも非常に不安定になり、ある一時期にテレサは数人の夫以外の男に抱かれたこともある。

 

 しかし、いずれも一時(いっとき)だけの関係で、テレサが夫との関係に見切りをつけ、再び仕事と子育てに注力するようになってからは、そのような火遊びをすることもなくなっていた。

 

 テレサにしてみれば、男は知っていても自分をこれだけ激しく女として求めてくる男と生活をともにするということは、この3ヶ月が初めてだった。

 

 テレサはアンコウが迷宮にいく前日、このベットでアンコウに抱かれたときのことを思い出す。

「んんっ………」

 この3ヶ月でテレサの体はアンコウの体をおぼえはじめていた。

 

 アンコウの体を見て、熱くなる自分のからだ。アンコウの手の動きに答えるように声が漏れ、その声がどのようなものであったか、どれぐらいの大きさであったのか、自分では思い出せない。

 

 ただ、アンコウの動きに合わせるように、身をよじり、手も足も全身を激しく動かし、テレサは嬌声をあげていた。

 

(………はずかしい)

 

 テレサは全てをおぼえているわけではないが、思い出そうとすると顔が赤くなる。

 自分は男を知らない10代の乙女ではない。恋に身を焦がす若い娘でもない。男を知り、結婚もし、子も生み育てた30半ばの女。アンコウは、自分より10歳近く年下の20代半ばの男。

 

 その男にベッドのうえで組み敷かれ、演技ではなく完全に主導権を奪われ、乱れている自分に信じられない思いがした。

 テレサはいま自分の頭の中に浮かんだ情景を振り払うかのように頭を振った。

 

 そしてアンコウの別の顔を思い浮かべる。

 

「でも、あの人は………やっぱりよくわからない」

 

 テレサにとってアンコウは、元々よくわからない部分のある男だったが、その思いはこの3ヶ月でより強くなっていた。

 

 一緒に暮らしてみれば、アンコウは奴隷である自分に対してもこれまでとほとんど態度が変わることなく、思っていた以上に優しくて配慮のある男だったのだが、アンコウには常に見えない冷たい壁があるようで、テレサは本当のところアンコウが何を考えているのかよくわからなかった。

 

 

・・・・ゴォーン・・・・ゴォーン・・・・

 正午を知らせる町の鐘が鳴る。

 

「あっ、もうお昼。もう帰ってくるかもしれないわね」

 

 テレサは鏡台の前のイスから立ち上がって、また考える。

 予定どおりに狩りを終えていれば、アンコウは間違いなく今日中に帰ってくる。ちょうどお昼時で、簡単な食事ならすぐに用意できる準備もほぼ終わっていた。

 

「ごはん食べるかしら。それに……」

(どうしようかしら、服、着替えておいたほうがいいかしら)

 

 テレサはアンコウが帰ってきた後のことを考えて、反射的に服を着替えておこうかと考えたことに、また少し顔を赤らめた。

 別にテレサはこの3ヶ月で恋する乙女に戻ったわけではない。現実はちゃんと見ている。

 

 アンコウはテレサに対してやさしさを見せ、それなりの配慮もしてくれているが、それはテレサに懸想(けそう)しているからではない。テレサを自分の奴隷とした後も、以前と接し方が変わらなかっただけのことだ。

 

 しかし、テレサは長い間忘れていた自分が女だということを、この3ヶ月の生活でどうしようなく思い出させられてもいた。

 

 アンコウは普段、夜の寝室以外でテレサを求めることはほとんどない。

 しかし、仕事である魔獣狩りから戻ってきた日だけは違った。男の(さが)であろうが、より強く荒々しく女を求めるようになっている。

 

 テレサは狩りから戻ってきたアンコウを家に迎入れると、そのまま抱きすくめられて体を求められたことがこれまでに何度かあった。

 初めて昼間、寝室ではない明るい場所で裸に剥かれたときは、さすがに恥ずかしかった。

 普段よりも荒っぽく、テレサに対する配慮も少ない。着ていた服が破れてしまったこともある。あれがアンコウとの最初でなくてよかったとテレサは思う。

 

 湯屋には昨日も行っているが、今日もテレサは朝には稽古のため木剣を振り、家の掃除をし、料理のため火も使った。着ているものに、汗もニオイも付いてるだろう。 

 今から湯屋に行くわけにはいかないが、テレサはとりあえず体をふき、着ているものを着替えておくことにした。

 

 

 

 

 そしてアンコウが帰ってきたのは、それから1時間ほどしてからだった。

 テレサが1階の部屋で座っていると玄関の呼び鈴が鳴った。のぞき窓から見てみると、この家の主人であるアンコウが立っていた。

 テレサは急いで玄関の扉を開けた。

 

「おかえりなさい」

 

 テレサはアンコウを迎入(むかいい)れる。アンコウが着ているものは、迷宮から直接帰ってきたときとは違い、綺麗でこざっぱりしたものだった。

 やはり、昨日はどこかで泊まってきたのだろうとテレサは思った。

 

「ああ、ただいま」

 

 アンコウはテレサのほうをチラリと見て、そのまま家の中に入ってきた。

 アンコウの表情はどこか硬く、テレサは狩りがうまくいかなかったのだろうかと思った。

 

 トグラスの女将をしていたときも、魔獣狩りがうまくいかずに帰ってきた泊まり客は、人によっては相当荒れる者もいた。

 そのあたりの冒険者の機微を知るテレサは、アンコウに狩りの成否をたずねることはしなかった。

 

「旦那様、お昼にしますか?すぐに用意できますよ」

 テレサはアンコウの体のホコリを払いながらたずねる。

「いや、昼は食べてきたからいらない」

 

 アンコウはそう言うと階段に向かって歩き出した。テレサは階段のしたまでアンコウについていく。

 アンコウは階段に足をかけた時点で、テレサのほうを振り向いた。

 

「テレサは昼まだなのか?」

「はい。朝は食べましたよ」

 

 テレサは冗談ぽく務めて明るい感じでそう答えた。しかし、それは反射的なもので心がこもった笑みとは言えない。

 これも宿屋で、不機嫌そうな冒険者の客の対応をしていたときのクセだ。そういう者が目の前にいれば、何も考えなくともそういう対応が普通にできる。

 

「そうか。じゃあ、テレサは昼ご飯を食べて。食べ終わったら、お茶を持ってきてくれるかい」

「あ、はい」

「ああ、急ぐ必要はないから。ごはんはゆっくり食べてくれていい」

 

 アンコウはそう言うと、1人2階に上がっていった。そしてテレサはアンコウが2階に上がるのを確認すると、1人炊事場のほうに歩いていく。

 

 

 アンコウは服を着替えた後、1人書斎に入っていった。

 アンコウはダッジと別れたあと、少し遠回りをして歩き、途中で簡単に昼をすませてから家に戻った。

 

 アンコウは書斎のイスに座り、何をするわけでなく机に向かっていた。どうにもダッジが将棋を指しながら言っていたことが気になっていた。

 

 アンコウはダッジにもっと突っ込んで聞いてもよかったのだが、何やら面倒なことに巻き込まれそうな予感がして、あえて関わり合いにならないほうがいいとあの場では判断した。しかし、

 

(あの表情。ダッジのやつが何の理由もなしにあんなことを言うとは思えない。何かの情報でも持っているのか………)

 

 ダッジの話の中には、アンコウの個人的なこともそうだが、かなりきな臭い内容も含まれていた。しかし具体的な話があったわけではなく、何かが起こると決まったものではない。

 ただそれでも用心深いアンコウは、心配を払拭することができず、余計なトラブルは勘弁して欲しいと考えをグルグルと巡らせていた。

 

 せっかく家を買って、わずかながらも落ち着いた時間をようやく持てるようになってきたのだ。

 冒険者稼業なぞをやっている以上、いつまでもここに住んでいられるとはアンコウも思っていないが、こと戦争なんてことになれば、最悪、町を捨てることも考えなくてはいけない。

 家を買って3ヶ月では短すぎるだろうと、アンコウは思う。

 

「まぁ、さすがにそれはないか。油断はだめだが、考えすぎはおれの悪いクセだな」

 

 アンコウがこの町に着てから3年、町自体が巻き込まれるような戦争は1度も起きていない。

 このアネサを治める領主と、この領主と互する力を持つ他の貴族が治める地との境界線はこのアネサからはいくぶん離れているため、他領の貴族が武力を持って、このアネサを攻めようと思えば、いくつかの町や砦を突破してくる必要がある。

 

 

「ふーっ。まぁ、貴族同士の戦争なんて、どっちにしても俺にはどうにもできない。やばくなったら逃げるしかないか」

 

 アンコウは、自分の命とこの家を天秤にかけるつもりは毛頭ない。アンコウは壁を見ながら、そうつぶやいた。

 そしておもむろに今回の魔獣狩りで使った剣を取りよせて、アンコウは剣の手入れをする準備を始めた。

 

 

 

 

 剣の手入れが終わろうとしていたとき、アンコウがいる書斎のとびらがノックされた。食事を終えたテレサが、アンコウに言われた通り、お茶を持ってきた。

 

 アンコウは手入れを終えた剣を仕まい、テレサに中に入るように言う。

 テレサは書斎の中に入ってきて、机の上に持ってきたお茶をおいた。

 

 アンコウは集中して剣の手入れをしたのが気分転換になったのか、帰ってきた時のような硬さは、その表情から消えていた。テレサは、それを見て少し安心する。

 これだったら少し話をして大丈夫かしら、とテレサは思った。

 

「……あの、旦那様。留守にされていたときのご報告を今しても大丈夫ですか?」

 

 アンコウは、持ってきてもらったお茶を一口飲んで、また机の上に戻す。

 

「ああ、大丈夫だ」

 アンコウはテレサに自分が留守の時は、かなり自由に行動することを認めていたが、必ず事後報告をするように命じていた。

「はい、それでは、」

 

 アンコウは、この数日にあったことを話すテレサの言葉をほとんど口をはさむことなく聞いている。

 アンコウはテレサを奴隷として買ったことは正解だったと思っている。一言(ひとこと)で言えば役に立つと言うことだ。

 

 この家を買うと決めたときから、金の都合次第で、奴隷を買うことは決めていた。奴隷を買ったときに感じた心の乱れは、いまではまったくなくなっている。

 元の世界ですり込まれていた倫理観が全く消え去ってしまったのか、再び心の奥底に押し込められてしまったのか、あれ以来感じることがないのだからアンコウにもわからない。

 

 しかし、今では全くの不要物だと思っている元いた世界の道徳や倫理観が、アンコウの中からなかなか抹消することが出来ずにいるのは、アンコウが今でも元の世界に戻りたいという気持ちを持っているからだろう。

 

 アンコウは元の世界に戻る方法を積極的に探してはいない。そんな方法はないか、あっても見つけられないだろうと思っているからだ。

 そういう意味では諦めているのだが、もし今、元の世界に戻れるがこちらの世界には二度と戻れないドアが目の前にあれば、ためらいなくそのドアをくぐる。アンコウの諦めはそういう種類のものだった。

 

 アンコウは理不尽にもこの世界で死ぬことになるのなら、元の世界の道徳や倫理などゴミのごとく捨て去り、この世界で少しでも自分の思いのままに生きたいと思う。

 しかし、アンコウの描く思いのままというものは、この世界に生きる冒険者の普通の感覚とは明らかにずれている。

 

 この家の有様(ありよう)が、アンコウの元いた世界への郷愁から発せられたものと、今のアンコウの生き方とが歪いびつに混じり合って形づくられたものであることはあきらかであるのに、アンコウがその歪さに気づかぬのは哀れでもあった。

 

 アンコウは自分が買った家で、自分が買った奴隷の女を見つめている。途中からテレサが話していることは、アンコウの耳に入らなくなっていた。

 

・・・・・・・・・・・

 

「旦那様?報告は以上なんですが?」

「ん?あっ、そうか。わかった。」

 

 アンコウは少し慌てて返事をする。そして机の上に置かれているお茶に再び手を伸ばし、口に運ぶ。飲んだお茶はいつのまにかすっかり冷たくなっていた。

 

 テレサはアンコウがその冷たいお茶を飲んで少し顔をしかめた様子が妙におかしくて、思わず笑いそうになってしまう。

 でも、テレサは笑ってはダメだと目を逸らして、何とか笑いをかみ殺した。

 

「………あの、それでこの後なんですが。私は少し買い物をしてきたいと思うんですが?」

 テレサはアンコウが途中から上の空だったなとは気づきつつも、それは指摘せず話を続けた。

「ん?ああ、そうか。買い物か」

 

 アンコウは手に持つ空になったカップを机に置いて、再びテレサのほうを見た。

 

「………ああ、それでそんなお洒落(しゃれ)をしているのか?それこのあいだ買った服だろう」

 

 テレサがいま着ている服は、先日アンコウに買ってもらった新しい服だった。普段着ではなく外出用にと買ってもらったものだ。

 

 アンコウの何の気のないそのセリフは、テレサにとって思わぬ不意打ちになった。

 テレサの白い肌に急速に赤みがさしてくる。テレサはもう忘れていたのだが、この新品の服を着たのは買い物に行くためではなく、アンコウが帰ってくることを考えて着替えたのだということを思い出していた。

 

「えっ……いや、これは、」

「でも、そんなめかし込んでどこに行くんだ?」

 

 アンコウは別にとがめるとかではなく、ただ普通に聞いた。しかし、それがさらにテレサを追い込む。

 

「!い、いえ、肉屋さんと八百屋さんにっ……夕食の食材を買いに……」

 

 アンコウは顔を赤くして慌てているテレサを見て、少し首をかしげる。そして、何かを悟ったのか、アンコウは口元にいやらしく笑みを浮かべてテレサのほうを見た。

 アンコウは何も言わずに立ち上がり、テレサのすぐ近くまで歩み寄っていく。

 

「だ、旦那様?」

 

 テレサは自分の目の前まで来たアンコウを見る。

 そのアンコウの目には、欲望の熱が浮かんでいた。それを見た瞬間、テレサの心拍数も上がりだす。

 そしてアンコウは、いきなりテレサを抱き寄せ唇を重ねた。

 

「あっ、んんっ!」

 

 しかし、乱暴なことはせず、すぐに唇を離す。でも、テレサを見るアンコウの目には、よりいっそうある種の欲望が燃えていた。

 唇は離したが、アンコウはテレサの腰にまわした手を自分のほうに引き寄せたまま力を抜こうとはしない。

 

「テレサ、その買い物は、いま行かないとダメなのか?」

 アンコウはテレサの服の前ボタンを外しながら聞く。

 

「は、はい、夕食のおかずが減ってしまいます」

「………減っても構わないよ。外食にしてもいい」

 

 アンコウの手が、すでにテレサの服の中に入ってきている。

 

「ああっ、は、はいっ、………んんっ、」

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

 アンコウは自身も気づかぬうちに、いろんなものをこの世界に落としながら生き抜いてきたのかもしれない。

 

 しかしアンコウは、自分のなかの何かを押し殺してまでして手に入れた このわずかな仮初めの安穏な時間を過ごすことも、残念ながら長くは許されなかった。

 神仏というものがいるのならば、この世界に落ちてきて以来、アンコウは未だ安穏な時間のサイクルに入ることを見えざる力によって許されていないのかもしれない。

 

 アネサの町が侵攻してきた他領主の軍団に囲まれたのは、この日からわずかひと月後のことだった。



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第16話 侵攻グローソン軍

 アネサの町が、グローソン軍3千に包囲されてから、4日目の朝が明けた。

 それは間一髪であった。たまたま任務を終えて他所から帰還途中の騎士団の小隊が、アネサを目指すグローソン軍の先行騎馬隊を見つけていなければ、今頃完全にグローソン軍の奇襲攻撃は成功していただろう。

 

 猛烈な勢いで馬を駆り、わずかに早くアネサに戻った騎士団の小隊がグローソン軍来たるの一報を太守に伝え、町を取り囲む防壁の全ての門は閉じられた。

 先行していた騎馬隊の数は数百人規模で、奇襲が失敗すれば、その数では籠城の態勢をとったアネサを攻撃することはできなかった。

 

 逆にアネサの軍兵からの攻撃を恐れて、彼らは一時は退いていったのだが、後方で奇襲軍の本隊と合流した後、再びこのアネサに現れて町の防壁の外に陣をかまえた。

 

 アネサ側では、この戦いのために騎士団をはじめとするアネサの将兵だけでなく、たまたまこの時にアネサの町で活動していた冒険者たちも半強制的に傭兵として雇われ、町の防衛に駆り出されていた。

 

 そして、アネサの防門が閉じられて今日で4日目の朝。現在もお互いに双方の出方を探りあい、にらみ合いのような状態が続いている。

 

 

 まだ夜が明けて間もない早朝ながら、アネサの兵士の姿がない防壁上の片隅に、傭兵として雇われたのであろう冒険者と思われる一団がいた。彼らは防壁の外の陣にこもるグローソン軍を眺めていた。

 

「チッ、ヘタ打ちやがったな。もう4日目だぜ」

「ダッジ、このまま太守が守りきるってこともあるんじゃないのか」

 

 その中には、ダッジの姿があった。ダッジは防壁の外側にいるグローソンの陣を睨むように見つづけている。

 

「いや、このままってわけにはいかないだろうな。王国は何もしないだろうしな」

 

 ダッジはグローソンの陣を眺めつつ、いま一緒にいる者たちに聞こえるように、これまでに集まった情報と自身の状況判断を述べる。

 

 アネサを含めるこの一帯は、ロンド家の領地である。

 ロンド公はウィンド王国北西部あたる地域に自家の領地を持っているのだが、最近になってロンド公の領地の北東部で領境を接するようになったのが、グローソン公であった。

 

 グローソン公の本拠地は、ロンドの領地よりさらに北東、ウィンド王国の最北部にある。グローソンは、この10年ほどの間に急速に自領を広げてきた勢力だ。

 

 このグローソンの当主も、ロンド公と同じくウィンド王家に忠誠を誓っている貴族なのだが、ウィンド王家の性質上、ロンド側が一方的にグローソンによる侵攻をうけているとはいえ、王家からの援軍が来る可能性も仲裁が行われる可能性も低い。

 

「けっ、あの耳長の白豚どもは、どっちが滅びようがどうでもいいんだろうからなっ」

 

 周辺の他領主たちの中にも、援軍を期待できるようなものはいない。

 そもそもロンド公も御多分に漏れず、ウィンド王国の多くの貴族と同様、領地拡大のために他の貴族と攻めて攻められての関係を長年続けており、味方よりも敵が多いという現実がある。

 

「ロンド公はアネサを守ろうと思ったら、自分の手持ちの兵を()くしかねぇ。しかしそれもだ、グローソンは攻撃一辺倒の猪武者かと思っていたがなかなか食えねぇ。ロンド領の東部地域で反乱を起こしているロンド公直臣の貴族たちがいる」

 

 しかし地理的にいえば、アネサは他領との境からはいささか離れており、本来ならば真っ先に敵の攻撃にさらされる町ではない。

 まさに奇襲、グローソン軍は本来侵攻軍が通るとは考えられない魔素の漂う森と接している森林地帯を電光石火のスピードで突破してきた。

 

 今このアネサを囲んでいる3千のグローソン軍は奇襲作戦のため本隊から切り離された別働隊であり、グローソンとの領境を守るロンド側の最重要要塞であるネルカ城は、いま万を超えるグローソン軍本隊の攻撃をうけている。

 

 グローソンの侵攻の主戦場は今、ネルカ城の攻防にある。しかしロンド軍の主戦力は、この時点でいまだネルカ城にもたどり着けずにいた。

 東部領土で反乱を起こしている貴族どもに阻まれて、思うように進軍できていないのだ。

 

 また東部ほどではないものの、アネサの周辺にもロンド公への反旗を翻した貴族たちがおり、それらの反乱貴族には確実にグローソンの調略の手が入っていた。

 ロンド軍の援軍が、ネルカ城にもたどり着けていない現状ではアネサへの援軍はまったく期待薄だ。

 

「詰んでるんじゃねぇのか。アネサはよ」

 

 ダッジは防壁の外にいるグローソンの陣から視線をはずし、後ろをふり返る。ダッジは周りにいる一人の男の顔を見た。

 

「なぁ、マイキー。お前達みたいなヤツらが、どれくらいこの町にいるんだ」

「……余計なことは聞かない約束だ」

「そんな約束はした憶えはねぇぜ」

 

 マイキーと呼ばれた男が鋭い目つきでダッジを見る。

 

「デンガル殿から聞いたはずだが」

「ああ、デンガル、デンガルね。そういえば言っていたな。思い出した」

「……そうか。それはなによりだ。ダッジ、約束は守れ。守れば、こちらも約束は守る。守らぬなら、わかっているな」

 

 ダッジとマイキーがにらみ合うように目を合わせ、わずかに時間が止まる。

 

「そう凄むな。おれらは仲間だ。だろう?」

 

 ダッジが一転笑みを見せながらそう言うと、マイキーは少し眉をしかめながら頷いた。

 

「ダッジ、いつまでここにいるつもりだ。もういいだろう」

「ああ、そうだな。朝の散歩は終わりだ」

 

 ダッジがそう答えると同時に、マイキーは(きびす)を返して、ダッジに背を向ける。その背中にむかって、ダッジは再び話しかける。

 

「ああ、そういえば、マイキーよ。おれとその約束をしたはずのデンガル殿はどこにいるんだ?最近見ないんだがな」

 ダッジが変わらぬ口調で、ついでのように聞いた。

「知らん。デンガル殿とは別行動だ」

 

 マイキーはダッジのほうに少しだけ頭を動かして、歩きながら言った。そして、そのまま止まることなく、階段のある方へ歩いていく。

 

「チッ」

 ダッジが小さく舌打ちを打つ。

(まったく感じの悪い野郎だ。黒の耳長め)

 ダッジは階段を下りていくマイキーの後ろ姿を見ながら、心の中で毒づいた。

 

 そう、今のマイキーは冒険者風の装備を身につけた人間種の男、に見える。

 しかし、ダッジは一度だけマイキーの真の姿を確認していた。マイキーが、ダッジのいう黒の耳長だということを。

 

 マイキーの姿が消えると、ダッジも階段に向かって歩き出す。そして、そのダッジの後を残りの男たちが付き従うようにしてついていった。

 

 

 

 

 ぽたりぽたりとアンコウの足元の血溜まりに新しい血が落ちる。

 

(痛い、痛い、痛い………)

 

 アンコウの体が強い痛みを感じ続けている。アンコウは何も身にまとわず、裸の状態。体中に血がついており、体のどこが怪我をしているのか判別できない状態だ。

「ググウゥゥー」

 アンコウは何とか手足を動かすものの、自分の血でできたのであろう血溜まりから抜け出すことはできない。

 

 アンコウの両手両足には鉄枷(てつかせ)がはめられており、その枷につながれている鎖をたどった先は、アンコウがいる部屋の壁に強く打ち込まれていた。

 

「痛てぇ……くそぉぉぉ、」

 

 アンコウが連中に(さら)われてきたのは、グローソン軍の侵攻がある前日であった。ゆえにアンコウは、アネサが敵軍に囲まれていることを未だ知らない。

 

 その日、まだ外が薄暗い早朝、魔獣狩りに行くために家から迷宮に向かう途中だった。

 アンコウにもまちがいなく油断があった。こんなところで襲われることはまったく考えていなかった。

 

 はじめに暗闇から投げつけられたナイフ、おそらくそれに痺れ薬の類が塗られていた。そのはじめのナイフを避けきれなかった時点で、逃げ切れる可能性は極めて低くなってしまった。

 襲ってきたのは5人、それでもその戦闘の中で、アンコウは2人は殺した手応えがあった。

 

 アンコウは粘った。アンコウが襲われた場所は比較的治安のよい住宅地域から抜け出しておらず、そこはアンコウは自身が望んで選んだ貴族が少ない地区だ。

 この時はそれが悪い方に働いた。

 

 貴族がいないということは、このあたりには屋敷を護衛するような者もいないということ。外で人が争う物音を聞いても、それを確認しに来る者はいなかった。

 逆に小金持ちの一般の市民の居住地域だ。気づいた者がいても、戸締まりを固くして家に籠もってしまったのだろう。

 

 また、ここが以前までアンコウがよく利用していたような宿屋の近くなら、ケンカ好きの冒険者や荒くれ者どもが、とっくの昔に飛び出してきていただろう。

 しかし、アンコウの体が痺れて頭部に強烈な打撃をうけるまで、アンコウと襲撃者以外の者がその場に姿を現すことはなかった。

 

 アンコウが次に目を覚ましたとき、アンコウの体は完全に拘束されていた。

 アンコウは尋問され、拷問された。アンコウに尋問し拷問をくわえた男たちの中に、アンコウが知っている顔はなかった。

 

 

「クソオオゥ、あいつらぁぁ、クソオゥゥゥ」

 

 男たちが聞いてきたことは、アンコウにとっては、実にどうでもいいくだらない問い。しかしその質問に、アンコウは連中が納得してくれるような答えを返すことが出来なかった。

 

「ぐ、ぐぐぅぅ、助けてくれえぇぇ」

 

 アンコウは血にまみれ、目から鼻から口から液体を垂らして身悶え続ける。

 

ガチャリ

 アンコウが閉じ込められている部屋の鉄格子の扉が開く。

 アンコウの視界に鉄格子をくぐってくる2人の足が見えた。アンコウが視線をうえに向ければ、体格のよい獣人の男が2人、先程までアンコウに拷問をくわえていた男たちが戻ってきた。

 

 アンコウの顔に怯えが走り、自然と体が後ずさりする。しかし、当然逃げることなどできない。

 ただ、アンコウの手足につけられた鎖がこすれ合う音が聞こえただけだった。

 

「おい、話す気になったか」

 

 小山のような筋肉を持った獣人の男が、アンコウを見下ろしながら言う。

 そして、手に持っていた布袋の中身をアンコウの前にぶちまける。ジャラジャラと音を立てながら、布袋の中に入っていた木片が石床のうえに落ちてきた。

 

 アンコウの前に散らばる同じような形に形成された木片には、何やら絵や文字が書かれている。アンコウも持っている将棋の駒だ。

 しかし、これはこちらの世界で誰かが作ったショーギの駒だった。

 

 このゲームをどこでおぼえたのか、アンコウはここに連れてこられてから、ずっとそれだけを聞かれている。

 アンコウは初めは答えなかった。すると、この連中から暴力をうけた。

 仕方なくアンコウは適当な作り話をしてこの連中に話した。

 

 しかし、連中の質問に答えているうちに、ウソだと見抜かれた。そして、アンコウにくわえられる暴力がより激しくなった。

 やむをえずアンコウは本当のことを話した。自分はこの世界ではない異世界から来た人間で、このゲームはその世界の遊びだと。

 

 連中は問答無用で怒った。アンコウはひどくひどく殴られた。本当のことを話せと。

 

 この数日間にうけた暴力による痛みと恐怖で、今のアンコウの精神状態はとっくの昔にまともではない。

 本当のことを言ったところで通じない。もう、うまい作り話も思いつく余裕もない。

 

 アンコウのなかに、連中に対する怒りや憎しみが湧きあがる。

 しかしそれ以上に、死にたくない、痛いのは嫌だという怯えのほうがはるかに強くアンコウを支配する。アンコウはただ怯え、耐えるしかなかった。

 

 連中のアンコウに対する暴力はまだ続く。石造りの部屋に耳障りなアンコウの悲鳴が響き続けた。

 

 

 

 

「わっはっはっはっ、」

 

 ある居酒屋の一角で、ダッジたちが酒を酌み交わしている。町の周りをグローソン軍に囲まれている状況だが、店には多くの冒険者風の男たちがいた。

 

 籠城が始まってから4日間、まともな戦闘というものはなく、半ば無理やりアネサの防衛要員に組み入れられた冒険者たちは暇をもてあましていた。

 籠城している現状では、食糧の確保は極めて重要な問題なのだが、冒険者たちの離反を恐れたアネサの為政者たちは冒険者たちの酒食に制限を加えなかった。

 

「無駄なことだ。裏切るやつは裏切るんだよ。なぁ?」

 ダッジがともに飲んでいる者たちに、わざとらしく少し小声で言う。

 

 すると、アハハと野太い声で皆が笑い出す。ダッジを含め、今ここにいる者たちは今朝(けさ)城壁のうえにいた者たちだ。

 そして、この笑いの中にいる全員がグローソン側に通じている者たちでもあった。

 

「なぁ、ダッジよ。しかし、このまま戦闘になったらどうするんだ?このままロンド側で戦うのか?」

 髪にもヒゲにも白髪が混じっている初老の戦士というような風貌の男がたずねた。

 

「そうはならないだろう。少なくともこのアネサに関しては、グローソン側が圧倒的に有利だ。必ずどっかで、黒の耳長どもが動く。おれたちはそれに呼応する。

 ここの太守は自分たちが置かれた状況をいまいち把握できていないみたいだな。長生きできないんじゃねぇか」

 

「グローソン側には旧主の縁の者もいると聞いたが、それはどうするんだ」

 

「どうもしねぇ。というか、あれはダメだ。初めはなんか大物ぶっていたけどな。あいつは明らかにマイキーたちよりも、実際のグローソンでの立場は低い。もう少し早く気づくべきだったぜ。

 それにどうも勝手に何かやってるフシがある。関わらないほうが得策だ。おれには旧主家に対する忠誠心なんかはとっくにない。エルフどもにやられたことは忘れてねぇけどな。

 まぁ、おれよりもあんたはあの家に使えていた期間が長かったからな。おれとは気持ちの持ちようも違うんだろうが、それでもこの(いくさ)が終わるまではマイキーの指示に従うことだ」

 

「ああ、わかっている。旧主家ゆかりの人がどんな人かはおれも知らないが、確かにデンガルのような男を使っている時点で底が知れるというものだ」

 

「そういうことだ。(いくさ)は勝つか負けるかだけだ。絶対に勝ち馬に乗らないとだめだ。おれたちはよく知っているはずだ。

 それに同じ勝ち馬に乗るにしても、乗り方っていうのも大事だ。馬が強くても、鞍がボロで落馬するってこともあるだろうからな」

 

 ダッジと同じテーブルに座っている男たちが、一斉にうなずく。

 ダッジはそのまわりの者たちを見渡してから、エールの入った容器を芝居じみた動作で高く掲げた。

 

「それと、生きている間は楽しむことだ!」

 

 ダッジが雰囲気を変えて、そう大きな声で言うと、まわりの者たちもそれに合わせて一斉にエールが入った容器を手に持ち、その手を上に突き出した。

 

「「「オオーーッ!」」」

 

ガハハと笑いながら、ダッジたちは酒盛りを続けた。

 

 しばらく飲んでいると、それまで機嫌良く酒を飲んでいたダッジの手が突然止まり、顔から表情が消えた。

 

「どうした。ダッジ」

 

 まわりの者たちも(いぶか)しみ、ダッジが見ている視線の先に目をやる。すると、ダッジ以外の男たちからも笑みが消え、手に持っていたエールを下に置いた。

 

「よう、マイキー。お前いつからそこにいた?」

 

 ダッジの視線の先に、マイキーが立っていた。

 

「朝以来だな、マイキー。そういえばお前と酒を飲んだことがなかったな。遠慮せずに座れよ。そんなとこに突っ立ってられちゃあ、酒が飲めねぇ」

 再び顔に笑みを浮かべて、ダッジは言った。

「………酒を飲みに来たわけではない。ダッジ、貴様に少し話がある」

 マイキーは無表情のまま、そう言い返す。

「なんだ、不機嫌そうだな。それともほんとの顔のほうは笑ってんのか?」

 

 まわりの男たちが、クックックと笑いをかみ殺した。

 

カツッ!

 マイキーが、かかとで床を踏みならした。ダッジを見る目つきが鋭くなっている。

 

「壁に耳ありだ。余計なことを言うな、ダッジ」

 マイキーを見るダッジの目も鋭くなる。

 

「………冗談だよ、マイキー。で、なんの話だ」

「2人で話がしたい」

「いいだろう」

 

 ダッジはまるで待っていたかのように即答した。

 ダッジは、しばらくお前らだけで楽しく飲んでいてくれと、テーブルについている者たちに言うと、席を立ち、店のカウンターの中にいる店主の方へ歩いていった。

 

 ダッジはカウンターの中の店主と言葉を交わし、彼の手に何かを握らせる。店主は笑みを浮かべ、ダッジに対して軽くうなずく。

 ダッジはマイキーのほうを振り返り、ついてこいと奥の階段のほうをアゴでしゃくった。

 

 ダッジはそのまま、階段のほうに歩きだし、マイキーもそれについていく。そして2人は階段を上りきり、その先にある小部屋の中に入っていった。

 

 本当に小さな部屋にテーブルがひとつ、椅子も置かれていない。ダッジはいつのまに手にしていたのか、そのテーブルに、エールの入った容器を2つ置いた。

 

「やれよ」

 ダッジはマイキーにむかって言う。

「ここには酒を飲みに来たわけではない、言ったはずだ」

「付き合い悪ぃな。じゃあ、両方おれが飲もう」

 

 ダッジは一口エールを飲み、またマイキーを見る。

 

「で、なんの話なんだ」

「デンガル殿は見つかったのか?」

「ん?それは今朝、おれがあんたに聞いたことだろうが」

「1日あれば、見つかることもあるだろう」

「………そりゃそうだ。探していればだけどな」

 

 マイキーが訝しげな顔で、ダッジを見る。

 

「そんなに力を入れて、探しているわけじゃない。知り合いに、見かけたら教えるようにぐらいは、頼んでいるけどな」

「………そうか」

「聞きたいことはそれだけか?面倒くせぇから話せることは小出しにしないで話してくれ。あんたらが話せねぇ話を無理に聞くつもりはない。だが、時間の無駄をする気もないんでな。

 まどろっこしい話し方を続けるんなら、これで2人の秘密の時間は終わりだ」

 

 マイキーは少し考えてから口を開く。

 

「ダッジ、お前はグローソン側についた。それは変わらないな」

「いまさらだな。おれは元々ロンド側の人間じゃないし、アネサの町を誰が治めようと関係のない冒険者だ。支配者が誰でも迷宮は変わらないだろう。それにだ。今の情勢であんたらを袖にする理由は何もない」

 

「………いいだろう。デンガル殿のことは、いまさらお前に隠すような話でもないからな。ただ、無理にひろめる必要もないことは覚えておいてくれ」

 マイキーは淡々と言った。

「わかっている。ここだけの話にする」

 

 ダッジがマイキーに同意すると、マイキーがもう一歩ダッジに近づいてきた。

 

「アンコウという男を知っているな」

「ああ」

「数日前から所在がわからなくなっていると聞いた」

「ああ、いまさらだな。言っとくが、おれらはそれに関係していない。そっちも別に探していないがな。それでもアンコウがいなくなったことは、グローソン軍がきた次の日には知っていたぜ」

 

「アンコウという男の情報を集めていたのは事実だ。お前達と近しい関係にあることも知っている。だが別に、そのアンコウという男を見張っていたわけではないのだ。

 おれが、アンコウという男の行く方がわからなくなったということを知ったのは今日、たまたまのことだ。デンガル殿が、その者のことを探っていたようだな」

「ああ、その言い方じゃあ、やっぱりあんたらも無関係なのか」

 

 ダッジはテーブルのうえにショーギの駒をいくつか置いてみせた。それを見たマイキーの眉間にシワが寄る。

 

「デンガル殿が何か話したのか」

「それは言うなと言われている。しかしだ。おれはあの人がグローソンの命で動いてると思って指示に従っていた。だが、どうもそうではないらしいな。おれはグローソン側についた。マイキー、あんたとデンガル、どちらの指示に従うのが正解だ?」

 

「アネサの工作において、殿より命を受けたのは我らの部隊だ。あやつらの勝手は許されていない」

「そうか、ならおれたちは今後、事が終わるまでは完全にあんたに従う。デンガルたちが何をしようと一切関係はない」

 

 マイキーはダッジの真意をうかがうようにダッジの目を見た。

 ダッジはこの戦の勝ち馬に乗ることを第一に考えている。仮にグローソン軍が勝ったとしても、何やら勝手な動きをしているテンガルの仲間と見なされては、まずいことになりかねないと判断した。

 

「いいだろう。お前達にはこれまでのようなあいまいな形ではなく、今後完全におれの指揮下に入ってもらう」

 

「ああ、よろしく頼むよマイキー殿()。デンガルが知りたがっていたのは、アンコウがこのゲームをどこでおぼえたのかっていうことだけだ。それ以上は何も話さなかった」

 

 そう言うとダッジは指でショーギの駒を弾き、軽くエールの入った容器を掲げるようにしてから、口に流し込んだ。

 

「デンガルの(あるじ)は、グローソンでは役立たずだ。ああ、お前の昔の主筋でもあるのだったな。」

「気にするな。どうでもいい話だ」

 

「そうか。なにやら血統だけは良いらしく、そこそこの肩書きだけは与えらていて、我らではそうそう無碍にも出来ん。

 しかし、グローソンの勢力が大きくなりつつある今、その血統にも意味がなくなってきている。あせって、くだらない小さな功を得ようとしたのだろう」

 

「どういうことだ」

「この町を攻めるにあたって、我が殿より、アンコウという男を拘束するよう命があった」

「ほう、あの野郎そんな大層なもんなのか」

 

「そうでもない。なによりも優先されるのはこのアネサの町を落とすことだ。この町を落としたとき、その男がまだ生きていて、逃げずにこの町に残っていれば拘束し尋問にかける。その程度の優先順位だ。

 だから、特に見張っていたわけでもない。余計なマネをして、大事の前に万が一にも我らのことを知られるようなことがあってはならないからな。あのアンコウという男は以前、我らの仲間を1人殺しているということもあるし、無駄に近づく気はなかった。

 くだらないことだが、どこかでこの話を聞きつけたデンガルの(あるじ)が自分たちでも何とかできると思ったのだろう。お前達のような昔の知り合いも、ここにはいたようだからな。戦場で功を立てる武勇もない男の考えそうなことではあるが、実行したのなら量り知れん愚物だ」

 

「で、やっぱりアンコウは、デンガルたちに捕まっているのか」

「おそらくそうだろう。あの者たちも数日前から連絡がない」

「その内容の命令なら、アネサが落ちるまでアンコウのことは放って置くのか?」

 

「アンコウという男が、我らと関係のない者に攫われているのなら、そうするがな。デンガルたちが絡んでいるのなら、そうはいかない。

 彼らが今の状況でこの町でやったことは我らの責任も追及される。能力はないくせに、自己顕示欲だけは強い貴族というのは始末が悪い。自分たちが為していることが、最悪の場合どういう結果を招くのか、まったく考えずに行動する」

 

「くっくっ、大変だなぁ、マイキー殿も。アンコウのやつも災難なことだ」

 

 ダッジはそう言いながら、2杯目のエールを飲み始めた。



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第17話 檻の中のアンコウ

 グローソン軍がアネサの町の外に陣をかまえてから、1週間が過ぎた。

 大規模な戦闘はいまだ起きていないものの、アネサへの援軍が現れる気配はなく、不自由な生活を強いられている市民の間には、ロンドの領主やアネサの太守に対する不満の声がどこからともなく広まりつつある。

 

 またそれとは別に、グローソン軍は攻め落とした土地で略奪などは働かない、規律の厳しい軍隊だという何ら根拠もない噂も広まりつつあり、現状の市井(しせい)全体の動向を把握できる者がいれば、明らかに故意の情報操作がおこなわれていると疑うべき事象が起こっていた。

 

「マイキー。いつまでここにいるつもりだ。とっとと乗り込めばいいだろう」

 ダッジが少しイラつきをみせながら言う。

 

 ダッジたちがここにきて、早1時間以上が過ぎている。ダッジは待つのに飽きてきていた。

 人影の少ない寂れた雰囲気の場所、ある閉鎖された工房のような建物がダッジたちの目の前にある。この建物の地下に、アンコウが閉じ込められているらしい。

 

「いいから待て、ダッジ」

 

 マイキーはアンコウが捕まっているこの場所を見つけたものの、アネサそのものに対するグローソン側の攻略が大詰めをむかえている現状では、このことに割く人手を最小限度に抑えていたため、デンガルの行方はまだ掴めていなかった。

 

 アンコウがここに連れてこられた初日にはデンガルもここにいて、アンコウに直接尋問もしたらしいのだが、マイキーたちがここを見つけたときには、すでにその姿はなかった。

 

 デンガルは、(かんば)しい情報を引き出せないと判断すると、すぐにアンコウに拷問をくわえるように指示を出し、それ以後は人にまかせてここには現れていないようだ。

 

 しばらくすると、アンコウが捕らえられている建物のほうから、偵察に行っていた男がマイキーの元に戻ってきた。

 

「どうだ」

「はい。今、一階に4人が集まっています。地下に残っているのはおそらく1人だけ」

「それでやはり、デンガルはいないのだな」

「はい、おりません。ここにいる連中は、なにがしかの情報を得られるまでは、こちらからつなぎをつけないよう言われているようです」

「そうか」

 

 その会話を聞いたダッジが口をはさむ。

 

「もういいだろうが。デンガルのことはなかの連中に聞けばいい」

 

 長年冒険者をしているダッジからすれば、権力の犬であるマイキーたちのすることはいささか慎重すぎる。

 ここまでくれば、剣をひっさげて突撃すればいいとダッジは思っていた。

 

 今のアネサの状況で、グローソンの草であるマイキーたちの正体がばれることは、絶対に許されないというのも当然だ。それはダッジにも理解できる。

 だが、ばれるわけがないだろうと、ダッジは自分たちのすぐ後ろに立っている男を見て思う。

 

 ダッジの視線の先にいる男は、このアネサの騎士団の鎧を身にまとっていた。騎士団の鎧を身にまとっているのはこの男1人ではない。

 ここにはマイキーとそれに従うダッジたち冒険者のほかに、数人のアネサ騎士団員もいたのだ。

 

 どうやら、グローソンの裏切りの誘い手は、このアネサの防衛力の中心である騎士団内部にまで伸びているらしい。

 

 マイキーは、ここでこれから起こるであろう斬り合いが騒動になることを恐れて、事前に騎士団を通して、犯罪組織の捕縛という(おおやけ)の紙切れを得たうえに、こちらの味方につけている数名の騎士団員をこの場に同行させていた。

 むろん、このあとの処理も、こちらの都合のよいように処理できるように手を打っている。

 

(……騎士団員までもか。思っていた以上に腐っていたな、この町は)

 ダッジは、あらためてグローソン側について正解だったと思う。

 

「マイキー」

 ダッジがマイキーに突入指示をうながすように呼びかける

 

「……ああ、これ以上待っても、デンガルは姿を見せないだろう……いくぞ。全員殺してもかまわない」

 マイキーは、ようやく断を下したようだ。

 

「よし、デンガルのことはいいんだな」

 

「これが終われば、すぐに出てくるだろう。あんな愚か者たちでもこちら側の人間だ。信じられない浅知恵だが、我らに敵対するつもりでやっているわけではなかろう。ここをつぶされたら、さすがに自分たちのやったことの危うさに気づくはずだ。

 この大事なときにまったく無駄な仕事だが、放っておくのも示しがつかない。この戦時下でとは思ったが、ここまでくればデンガルを確保して自主的にやめさせるよりも、みせしめに痛い目を見せておいたほうがいいだろう。

 今後同じようなことを繰り返されたらたまらんからな。警告がわりだ」

 

 そして、マイキーたちは騎士団の団員は全て外に残し、それ以外の者を率いて建物内への突入を開始した。

 

 

 

 

 アンコウは、変わらず地下の牢屋に、血まみれでつながれていた。

 

 この一週間ほどの間に、充分死んでもおかしくないほどの暴力を受けていたが、連中も手慣れた作業のようで、時折(ときおり)アンコウにポーションを使い、アンコウが苦痛を感じながら拷問をうけ続けなければならない状態を保たせていた。

 

「うううぅぅぅぅ………」

 

 アンコウに意識はある。だが、まともな思考ができているのか、自分でもわからくなっている。

 この種の一方的な恐怖と屈辱をともなう暴力を受けるのは、抗魔の力がない農奴として生きていたとき以来だった。

 

 アンコウの目は、この後も続くであろう暴力に対する恐怖で染まっている。

 しかし、目に浮かぶ怯えの色とは違い、アンコウの心には怒りと憎悪も渦巻いており、それがアンコウの正気をかろうじて支えていた。

 

 (痛い、痛い、嫌だ、怖い、死にたくない………)

(くそが、あの野郎、ぶっ殺してやる、殺す、殺す………)

 (痛い、痛い、嫌だ、怖い、死にたくない………)

「あ、ああぁぁ~~、……痛いぃぃ、」

 

 アンコウは今1人で鉄格子の中、自分の血溜まりの中に座っている。

 鉄格子の向こう側には、見張りの男がひとり、椅子の座っているが、アンコウのほうはまったく見ようともしない。

 

 アンコウに直接拷問を続けていた者たちは、しばらく前にこの地下を出て行って、まだ戻ってきていない。

 アンコウは時折、これ以上これが続くのなら死んだ方がましだと考えるが、いまだ生きたいと思う気持ちのほうが強い。

 だからといって、ここから自力で逃げる方法などまったく思いつかなかった。

 

 

 アンコウが恐怖と不安と絶望感じながら、薄暗い地下で目を虚ろにしていると、突然、上の階から大きな音と振動が、アンコウがいる地下の空間に断続的に響きはじめた。

 

 ついさっきまでの静寂の空間から一転、天井が抜け落ちるのではないかと思うほどの激しい音と震動がアンコウを襲う。

 ひとり地下に見張りに残っていた男も、身構え、睨むように天井を見つめている。

 

 それは、明らかに複数の者たちがはげしく争っているとわかる物音であり、アンコウは自分が閉じ込められているこの場所がどこにあるかは知らなかったが、何者かによって、この場所が襲撃を受けたのだろうということが容易に想像できた。

 

 しかし、アンコウは単純に助けが来たとは思えなかった。逆に、この襲撃者によって、自分が殺される可能性も否定できない。

 アンコウはこの突然の事態に、かなり鈍くなってきていた頭が刺激され、少し覚醒しはじめた。

 

 しかし、多少思考が明瞭になってきても、牢屋に鎖でつながれているアンコウにできる事は何もなく、いたずらに緊張感だけが高まっていく。

 アンコウは祈るような気持ちで、上の階から聞こえてくる激しい物音に耳を澄ませていた。

 

 アンコウの頭のうえで突如響きはじめたその争う物音は、非常に激しいものであったが、それほど長くは続かなかった。

 その激しさが収まったとき、何者かが行った奇襲に近い攻撃が、すでに何らかの結果に至ったのだとアンコウは悟る。

 

 それはこの地下に1人残っていた見張りの男も同じように感じたようで、顔面は蒼白になり、激しく動揺しているようであった。

 アンコウも拷問に怯えていたときとは違う緊張感に包まれて、血の味が混じった唾を飲み込んだ。

 

 そして見張りの男は腰の剣を抜き、ゆっくりとうえにのぼる階段のほうへ近づいていく。

 自由に動くことができないアンコウは、どうしようもないとわかってはいても手足を動かし、ガチャガチャとつながれた鎖が大きな音をあげる。

 

「うるさいぞ。静かにしろ」

 

 階段をのぼろうとしていた見張りの男が、アンコウのほうを振り返り、抑えた声に怒気をまじえて言った。

 

「お、おい!これを外してくれ!これを外してくれたら、一緒に戦ってやる!」

 アンコウが鎖を指し示しながら言う。

 

「で、でかい声を出すなっ。静かにしていろっ」

 

 男はアンコウの大きな声にあせり、眉間にしわを寄せてアンコウをにらみつける。

 しかし、その顔には隠しきれない不安の色がありありと出ていた。

 

 アンコウには上の階で何が起こっているのかはわからなかったが、ここへ来てからうけた暴力のひどさを思えば、次にあの扉を開けて入ってくる者が鬼や悪魔であっても、自分が置かれた状況のひどさは今と変わらないと思う。

 

 そういえば、あの獣人の2人ほどではないとはいえ、この野郎もさんざん人をいたぶってくれたと、アンコウは思い出した。

 

 その男の顔と声に明らかに現れている不安と恐怖の様が、妙にアンコウに嗜虐心(しぎゃくしん)を刺激した。

 アンコウの口元がニヤァと笑う。そして、

 

「わっはっはっはっ!でかい声がなんだって!良く聞こえないなー!もっぺん大きい声で言ってくれよー!アッハッハッハーー!」

 

 アンコウの突然のバカでかい声が、地下室中に響きわたった。アンコウの口から血の唾が飛ぶ。アンコウのこの行動はまともとは言えない。

 

 地下に響いたアンコウの声は、ただ単に自分をいたぶってくれた見張りの男が狼狽(うろた)える顔をもっと見たいという衝動的な思いを実行してしまったものにほかならず、10日近くに及んでうけた暴力のせいで、正気と狂気の合間を揺れ動いているアンコウの精神状態ゆえの行動だ。

 

「このっ!静かにしやがれっ!」

 抑えきれない怒声を発した見張りの男が、アンコウにむかってナイフを投げつける。

ガキンッ!

 しかし男が投げたナイフは、アンコウの手首にはめられた金属の枷で、あっさりと弾かれてしまった。

 

 そしてアンコウは、不安や恐怖、怒りなどの混じった何とも言えない表情を見せる男を見て、ニヤリと狂気じみた笑みを浮かべた。

 

バダンッ!!

 その時、乱暴に蹴り飛ばされたような勢いで、階段の上にある木製のとびらが開け放たれた。

 

 そして、そのとびらが開いたと同時に、階段の上から勢いよく人が降ってきた。

 その降ってきた人が、すでに数段階段をのぼりはじめていた見張りの男にぶち当たり、その勢いのまま、2人はアンコウが閉じ込められている牢屋の前まで転がってきた。

 

 見張りの男の体に覆い被さるように、降ってきた男が乗っかっている。

 下をむいているため、アンコウには階段の上から落ちてきた男の顔こそ見えていなかったが、その毛並みや着ている服や体型から、落ちてきた男が自分に激しい暴力を加え続けていた獣人の男の1人だということがすぐにわかった。

 

 アンコウは怯えたように体を縮こませ、壁のほうにずり下がる。

 

「ヒ、ヒイィーッ!」

 アンコウではない。情けない声をあげたのはアンコウではなく、獣人の男の下敷きになっている見張りの男。

 

 見張りの男が自分のうえの乗っかっている獣人を押しのけた。押しのけられてあお向けに転がった獣人の男のノドは、大きく切り裂かれていた。

「ヒイイィィィ、」

 

 見張りの男の顔から胸あたりが、その獣人の血で真っ赤に染まっている。

 死体となった獣人の男の切り裂かれたノドからは、まだ新鮮な血が流れ出ており、それを見たアンコウの口元に、にっこりと笑みが浮かんだ。

 

 その笑うアンコウの目はとても暗く陰惨なもので、もし今のアンコウの顔を見ている者がいれば、間違いなくその者を不快にさせるだろう。

 

 アンコウと見張りの男が、目の前に転がる獣人の無惨な死体をながめているわずかな時間に、いつのまにかこの地下室に入ってきていた者たちがいた。

 一番初めに入ってきた者が、階段の半ばほどから階下にむかって飛び降りてくる。

 

ダンッ! と、階段を力強く蹴り、飛び出す音。

 

 アンコウたちは、その時点でようやく目を上にむけた。

 

 飛び降りてきた者は、その落下する勢いを利用して、そのまま見張りの男の胸に剣を突き刺した。

 

「ギイャアアー!」

 その剣は見張りの男の体を完全に貫いている。

 

 男の体を貫く剣を手に持つ者はアンコウの見知った顔の女。さらに、その女に向かって階段のうえから声をかける見覚えのある山賊のような風貌の男がいた。

 

「ホルガ、カタはついたか!?」

「はい、ご主人様」

 

 突然に一変した地下の状況、アンコウはじっとその2人を見ている。

 アンコウの顔には、さっきまで浮かべていた気味の悪い笑みはすでになく、にらみつけるような目で警戒心を露わに2人を見ている。

 

「よう、アンコウ助けに来たぞ」

 ダッジが、じつに平坦な口調でそう言った。

 

 ダッジが抜き身の剣を手に持ったまま、ゆっくりと階段をおりてくる。

 下までおりてきたダッジに、ホルガはすでに事切れている見張りの男から抜き取った牢屋の鍵を渡す。

 ダッジはそのまま牢を開け、アンコウの前までやって来た。

 

「……よう、アンコウ助けに来たぞ」

 

 抜き身の剣を手に持ったまま、ダッジはアンコウを見下ろして、先ほどと同じセリフをごく普通の口調で言った。

 アンコウの不安と警戒心がこもった鋭い目が、ダッジにむけられる。

 

「……こいつらはお前の知り合いなんじゃないのか!?」

 

 アンコウは目つきこそ鋭いが、発する声に強さはない。

 ここで拷問をうけながら、聞かれ続けたこと、

「ショーギというゲームをどこで覚えたのか」 それと全く同じことをひと月ほど前に、アンコウはダッジからも聞かれている。

 

 その時のダッジの妙な様子をアンコウはよく憶えており、自分を拷問した連中とダッジは関係があるのではないかと、ここにいる間、ずっと考えていた。

 

 ダッジは、顔に浴びた返り血を拭きながら答える。

「知り合いの知り合いだ。直接この連中のことは知らない。まぁ、大きくみたら仲間じゃないともいえないがな。だが、少なくともお前のそのざまには、おれは関係していない」

 

 アンコウが怒りのこもった目でダッジを見た。ダッジが、まだ血のついている剣をアンコウの鼻先に突き出した。

 

「この血はうえにいたヤツらの血だ。それにお前も見てただろう。あの野郎を殺したのはホルガだ。おれたちはお前をそんなざまにしたヤツらを斬り殺して、お前を助けに来たんだぜ。感謝されこそすれ、そんな目で見られるおぼえはねぇ」

 ダッジの声に凄味が籠もる。

「てめぇがそんな目でおれを見ているうちは、鎖を外すわけにはいかねえんだぞ、アンコウよ」

 

 アンコウを見下ろすダッジの目も鋭いものになる。

 アンコウはダッジの言うことをすぐに信じたわけではなかったが、現状アンコウは見張りの者がいなくなったところで一人でここから出ていける状態ですらない。

 

 ダッジを見上げるアンコウの目から、みるみる力がなくなっていき、アンコウはうなだれて動かなくなった。

 

 ダッジたちを完全に信用したわけではなかったのだが、自分を拷問していた連中が殺され、自分の知った者たちが目の前にいることでアンコウは少し気が抜けてしまったようだ。

 アンコウは血溜まりの中うずくまり、動かなく、いや動けなくなっていった。

 

 ダッジはそんなアンコウに近づき、手早くアンコウの手足にはめられていた枷を外した。手足が自由になっても、アンコウはうずくまったままだ。

 

 アンコウが転がるこの地下に、ダッジとホルガの他にも次々と人がおりてくる。

 

「ダッジ、終わったか?」

「ああ、問題なしだ」

 

 牢屋の外に、いつのまにかマイキーが立っていた。

 

「マイキー、この後はどうするんだ」

「とりあえず、死体を全部この牢屋の中に放り込んでおく。デンガルたちが見たら、これをやったのが俺たちだとわかる(しるし)を残してな。サルにもわかる伝言がわりだ」

 無表情のまま、淡々と言うマイキー。

 

「それは親切なこった。で、こいつはどうする?」

 ダッジがアンコウのほうをアゴでしゃくりながら聞く。

 

「仕方がない。このまま身柄を確保する」

「なぁ、こいつを捕まえるのも一応命令なんだろう。手伝った俺たちも手柄になるのか」

 

「報酬という意味では期待できんな。元々このアネサを落した後、この男が生きてまだこの町にいたら捕らえろというのが命令なのだ。

 逆にいえば、この町を落とす過程でこの男が死んだとしても別にかまわないという程度の命令だ。今回のことは、所詮身内のバカの尻ぬぐいに過ぎない」

 

「おれの元主家のお貴族さまは、その程度の功を欲しがるほど欲深なのかい」

 ダッジが、ここにはいない元主筋の貴族を少しからかうような口調で言った。

 

「わかっているだろう。その程度の功を得る力しか残っていないということだ。この(いくさ)の最中に、戦場で働く武勇のない者など、今のグローソンではいずれにせよ先はない」

 

「じゃあ、これはただ働きってことか」

 ダッジは血のついた剣をチラチラと振ってみせた。

 

「こちらでそれなりの評価はする。なによりお前達の意思の確認ができた。本当の働きどころはこれからだ。与えられた役目によって、掴める戦功は大きく変わる。お前たちの力には期待できそうだ。上にもそう報告しておく」

 

 それを聞いて、ダッジは不敵な笑みを浮かべた。

 

「ひと使いが荒そうだな。まぁ、存分に使ってくれ。当然それ相応の報償は期待していいんだろうな」

「グローソン公は厳しい御方だが、それなりの働きをした者には充分に報いられるお方だ」

 

 ダッジはマイキーを見て声なく笑う。いま言ったことを忘れるなよ、といったところだろうか。

 ダッジはマイキーとの会話をやめ、ホルガのほうを見た。

 

「ホルガ。アンコウを上まで運んでくれ。それと哀れなアンコウに愛の手をだ。こいつを飲ませておけ」

 ダッジは牢屋を出て、取り出したヒールポーションをひと瓶、ホルガに渡して階段にむかって歩き出す。

「ああ、ホルガ。無理やりにでも飲まして、とっとと連れてくればいいからな」

 ダッジはいったん止まって、そう言い足した。

 ホルガはダッジにむかってうなずき、牢屋の中に入っていった。

 

 ホルガが牢の中に入ると、アンコウは体を丸めて床に横になっていた。ホルガの目に映るアンコウは、全身血だらけ傷だらけで疲労困憊している。

 うす目は開いていたが何かを見ているようではなく、意識があるのかないのか混濁しているのかさえよくわからない状態にホルガには見えた。

 

「アンコウさん、これを飲んでください」

 ホルガがアンコウの体を軽く揺すりながら言う。

「う、う、う、ううぅぅ」

 しかしアンコウは、ホルガの呼びかけにも、あまり反応を示さない。

 

 おそらく拷問の際に何らかの薬物も使われていたはずで、激しい暴力とあやしげな薬物、体の限界が来る前にポーションを用いて回復させる。

 十日近くもこれを繰り返され、普通の人間ならとっくに死んでいるような拷問をうけたアンコウの心身は、間違いなく限界にきていた。

 

 アンコウに起きる気配がないことを確認すると、ホルガはアンコウの体を抱え、ゆっくりとアンコウの上半身を起きあがらせた。

 

バシイィッ!

 起きあがらせたアンコウの顔を、突然ホルガは平手で打ち抜いた。

 もちろん手加減はしているのだろうが、獣人の女戦士の平手打ちはかなり強烈な音を響かせた。

 

 アンコウはその衝撃で、一瞬大きく目を見開く。しかしやはり目の焦点は合っていない。

 でも、ホルガにはそれで十分であった。無理やりにでも飲ませればいいというのがホルガの主人であるダッジの命令だ。

 

 ホルガはアンコウの口にかなり強引にポーション瓶を押し込んだ。アンコウの体に抵抗する力は残っていない。

 そのまま瓶が空になるまで、アンコウは口の中に液体を流し込まれた。

 

「ううぅぅーっ、」

 

 ポーションを飲ませ終え、ホルガがアンコウの体から手を離すと、

ドサッ と、アンコウは再び床に倒れ伏した。

 そしてホルガはそのアンコウを背中に担ぎ上げて、ダッジの指示どおり、この薄暗くカビ臭い血のニオイの漂う地下の牢屋から運び出していった。

 

 

 アンコウがホルガに背負われて、何日かぶりに太陽の下に出たときには、アンコウの意識は完全になくなっていた。



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第18話 エクセレントスタイル

「旦那様、もう少し食べないと体力が戻らないですよ」

「体はもう大丈夫だ」

 

 体は大丈夫だと言ったアンコウは、もう昼を過ぎているというのにベッドに横になって天井を見つめている。アンコウは用意された今日の昼食を半分以上残していた。

 テレサは、その食べ残しの多い食器を見て、心配そうにアンコウを見ていた。

 

「もうさげてもらっていいよ」

「でも旦那様、」

「1人にしてくれ」

 アンコウは心配するテレサのほうを見ることもなく、まったくとりつくシマもない。

「………はい、わかりました」

 

 テレサはまだ何か言いたそうだったが、それ以上何も言わず、食器をカートのうえに移していった。

(……でも話してくれるだけでもましになったわ。体のほうも傷はもう大丈夫みたいだし)

 

 テレサは、アンコウがこの屋敷に運び込まれる少し前にこの屋敷にきた。そして、アンコウが運び込まれてから5日間、つきっきりでアンコウの世話をしている。

 

 テレサは近所の人から、あの日アンコウが魔獣狩りに出かけた朝に、アンコウらしき人物が何者かと町中で戦っていたようだと聞かされた。

 しかし、それが本当にアンコウなのかどうか、仮にアンコウだったとして、その後どうなったのかはまったくわからなかった。

 

 心配なままに時間は過ぎていったが、結局、予定していた魔獣狩りの期間を過ぎてもアンコウは戻ってこなかった。

 

 アンコウの迷宮からの帰宅予定日を数日過ぎたある日、アンコウの仲間の冒険者だと名乗る男がやってきた。その男は以前、テレサが女将をしていたトグラスで何度か見かけたことのある顔なじみの男だった。

 その男から、アンコウが怪我をしたから一緒に来てほしいと言われ、テレサは疑うことなく男が用意した馬車に乗り、この屋敷まで連れてこられた。

 

 しかし、テレサがこの屋敷に来たときには、まだアンコウはここにはいなかった。

 テレサは(だま)されたのかと思ったが、テレサがこの屋敷に来て半日もしないうちに、アンコウが運び込まれてきた。

 

 運び込まれてきたときのアンコウは、全身血まみれで目はまったく焦点があっておらず、起きているのか寝ているのかもよくわからない状態だった。

 

(あの時の状態を思ったら、たった5日でよくここまで回復したわ)

 

 現在、アンコウもテレサも、この屋敷に軟禁された状態になっている。

 だが、全身に怪我をして運ばれてきたアンコウに施された治療は、じつにしっかりしたもので、テレサが手にしたこともないような高価な治療回復剤をこの屋敷の者は惜しげもなくアンコウに使っていた。

 

 実は、この屋敷はグローソンの密偵たちがアネサで活動の拠点にしている最も重要な場所のひとつで、彼らには優先順位こそ低かったが、主命としてアンコウを確保する命令が下されていた。

 予定していたより早くなってしまったものの、こうしてアンコウの身柄を確保した以上、死なせるわけにはいかなかったのだ。

 

 テレサにも、この屋敷の者たちがアンコウの仲間などではないということはすでにわかっている。

 しかしアンコウは大けがを負っており、そのアンコウの治療をこの屋敷の者たちがしてくれる以上、この屋敷の者たちの狙いが何かはわからなくても、テレサはここに留まり、アンコウの世話をするだけであった。

 

「旦那様、何かあったらすぐに呼んでくださいね」

 

 アンコウはテレサの問いに答えず、天井をじっと見ている。

 アンコウは体の傷が癒えても、時折奇声を発したり、物を壁に投げつけたりしており、まだ精神的にかなり不安定だ。しかし、アンコウ自身もそれを自覚できており、決して狂ってしまったわけではない。

 

 テレサは天井を見つめて動かないアンコウを見て、軽くため息をつきながら部屋を出て行く。

 

 軟禁状態といっても、アンコウやテレサに対する監視や拘束はかなり緩い。

 アンコウが軟禁されているこの屋敷に常駐している人の数もかなり少ないようで、彼らもアンコウの監視などに人員を割く余裕はあまりないようだ。

 

 部屋のとびらの外には、常に見張りが1人立ってはいたが、アンコウが望めば、屋敷の庭を散策するぐらいのことは簡単に認めてもらえるだろう。しかしアンコウは、自らの意思でこの部屋の中に閉じこもり続けている。

 

 また外では、グローソン軍がアネサを囲んですでに2週間近く経っており、大規模な戦闘にこそ至っていないものの、水面下で行われている工作や周辺地域での両軍の動きは佳境に入ってきていた。

 

 

 アンコウは、この日も夕方近くになっても一度も部屋を出ることなく、またテレサが昼食をさげにきて以降、誰も部屋に入ってくる者もいない。

 

「があぁぁぁーっ!」

 そして、アンコウは部屋の中で時折奇声をあげている。

 

 それはまるで、アンコウの胸の中に溜まり続けているドロッとした感情を吐き出しているかのようだった。

 

「くそおっっ!」

 

 外にいる者たちも、すでに慣れてしまっているようで、部屋の中からアンコウの奇声や罵声が聞こえても、いちいち部屋を覗くようなこともしない。

 

( ぐうぅぅぅぅ、……だめだ。どうしても気持ちがおさまらない。腹が立っているのか、怯えているのか、自分でもよくわからない……)

 

 今アンコウは、部屋の中でひとり、まだどこか焦点が合っていないような目をキョロキョロさせながら、イライラした様子で、グルグルと部屋の中を歩いていた。

 

「 くそっ!こんなところにいてられるか」

 

 どういう感情の動きによるものなのか、それまで一歩もこの部屋から出ようとしなかったアンコウが、突然部屋の隅にテーブルを移動させ、さらにそのうえにイスを置いて、そのうえにのぼりだした。

 

 そして、アンコウは手を伸ばせば届く位置にまでせまった天井に、なんの躊躇もなく(こぶし)を突きあげた。

ゴンッ、という音とともに天井の隅のひと枠が簡単に外れる。

 

 アンコウが天井を殴ったときに出た音も、それまでのアンコウの奇声やモノを投げつける音に比べれば小さいもので、外に立っている見張りもまったく気にしていない。

 アンコウはぽっかりと穴の開いた天井に手をかけて、勢いよく体を持ち上げた。そして、アンコウは天井裏にあがると、梁をつたってゆっくりと移動をはじめた。

 

 

 天井裏にはそこそこの空間があり、かなり暗かったが、あちらこちらから明かりも漏れ入ってきていて、問題なく動くことができた。

 アンコウのこの行動に特別目的があるわけではなく、かなり衝動的に外に出ようと思い立っただけの行動である。

 

 アンコウは、まだ安定しきっていない自分の感情をうまく制御できていない。

 自分がいま軟禁中であるという状況やテレサのことなどもほとんど考慮にいれず、意味なく起伏を繰り返す自分の感情にその行動を支配されているようだった。

 

 壁のない天井裏をアンコウは闇雲に進む。時折光が射し込んでいる隙間から下の部屋をのぞき込むが、すぐに顔をあげてまた移動をはじめる。

 

(あっちから風が吹き込んでいる)

 

 アンコウは少し強めに風が吹いてきている方向に向かって移動する。その途中、また下から光が射し込んでいる隙間をアンコウはのぞき込んだ。

 するとアンコウはこれまでと違い、すぐに顔をあげることなく天井板に手を伸ばし、器用にナイフを使って、それをずらして顔をさらに近づけた。

 

 アンコウがのぞき込んでいる部屋は、物置がわりに使われている大きめの部屋。

 そこには、日用雑貨や衣服などが乱雑に詰め込まれるようにおかれていた。そしてアンコウが見つめる一角には、武器防具の類も置かれていた。

 

 アンコウはさらに天井板を大きくずらして、天井裏からその倉庫のような部屋に飛び降りる。

ドンッ! と、アンコウが飛び降りると、アンコウの周囲に床に溜まっていたホコリが一斉に舞い上がった。

 

 しかし、アンコウはほとんど表情を変えることなく、お目当てのモノの前まで、まっすぐに歩いていく。アンコウが歩いて行った先には、所々塗りがはがれている赤い鞘に入った一本の剣があった。

 この部屋に置かれている物品のうち、武器防具の(たぐい)は多くはなく、どれもホコリをかぶり、なかには明らかに使い物にならないだろうと思われるものも乱雑に置かれていた。

 

 アンコウがじっと見つめる赤い鞘の剣も、とてもではないが大切に保管されているようには見えない。しかし、アンコウは天井裏からこの部屋をのぞき見て、その剣が視界に入ったときから目を離せなくなっていた。

 

 アンコウは、その剣に妙な力というか、蠱惑的(こわくてき)な魅力のようなものを感じていた。

 しかしそれは、いま現在のアンコウの不安定な精神状態からくる錯覚なのかもしれない。

 

 ただ気になることに、そのアンコウが見つめる剣には、この剣が呪物であることを示す一枚の御札が貼られていた。

 

「この剣は………」

 アンコウはそこに立ったまま、しばらく剣を見つめている。

 

 この世界で、その製造過程において魔石を用いてつくられる魔武具の中には、稀に製作者の意志によらず、魔武具の呪いと呼ばれる力を宿す物がある。

 この場合の呪いというのは、何かの意志がそこに介在しているわけではなく、たまたま造られた魔武具に宿った特性の1つに過ぎない。

 

 それがなぜ呪いといわれるのかというと、本来魔武具の類は、それそのものが持っている武具としての優劣はあっても、それを使う者が有する力そのものに影響を与えることはないのだが、稀に使用者の力そのものに影響を及ぼすような魔武具が出てくる。

 そして、そのような力を持つ魔武具のうち使用者にマイナスの影響をもたらす魔武具を一般的に呪いの魔武具と呼んでいる。

 

 その呪いの魔武具を使えば、強い抗魔の力を持つ戦士であっても、その力が減少し、思うように戦えなくなったり、精神に錯乱をきたしたりすることもある。

 

 また同じ呪いの魔武具を手にとっても、人によって出現する作用は異なり、それは魔武具と使用者の相性によるものだといわれている。しかし生じる影響が異なっても、呪いは呪いであり、通常、使用者に悪い影響しかもたらさない。

 

 そしてアンコウは、さらに一歩その剣に近づき、その剣を取らんと手を伸ばした。

 そして、その剣をしっかりと両手でつかみ取ったアンコウは、何かに魅入られるかのようにその赤鞘の剣をじっと見つめる。

 

 ドクン、ドクン、とアンコウの鼓動が大きく、早くなる。アンコウの中にある何かが、この剣に強く反応しているのを感じた。

 

 拷問をうけて以来、どうにも自分で操縦がきかなくなっていた感情が高揚し、何ともいえず心地がよくなる感覚をアンコウは覚えた。アンコウは柄に手をかけ、一気に剣を引き抜いた。

 両刃の長剣を右手に持ち、アンコウはその剣をかかげる。

 

「お…おお……うくぅぅーっ!」

 

 アンコウの体が小刻みに揺れはじめる。アンコウの口元には何ともいえない笑みが浮かび、顔に一気に赤みがさす。それが何ともいえず気味が悪い。

 

 アンコウが発した声はかなり大きかったが、幸いこの周囲に人はいない。

 アンコウの反応は、普通呪いの魔剣を手にした者が示す反応とは明らかに異なっていた。何やら一種の快感を覚えているようでもある。

 

「…はあぁぁー、何だこれぇぇ。気分が…すごくよくなってきたあぁぁ、アハァ」

 

 アンコウはしばらくの間、剣をかかげてその場を動かず、小刻みに震えつづけていた。

 そしてアンコウは、しばしその快感に浸ったあと、剣を握ったまま部屋の中を漁りはじめ、あれやこれやと見繕(みつくろ)い、この部屋にあった品々で身支度を整えていった。

 

「何だ、ここは。まるで宝の山じゃないのか」

 

 アンコウは、やはりこの屋敷を1人で抜け出すつもりのようで、その意志は変わっていないようだ。

 アンコウはここにくるまで寝間着と変わらぬ格好をしていたが、この物置部屋にあったもので着替えをすませ、その出来上がった自分の姿を部屋にあった大きな姿見に映して、1人恍惚と悦に入っていた。

 

「………エックセレンットッ」

 アンコウは鏡に映る自分の姿を見て、恍惚とつぶやく。

 

 アンコウは寝間着を脱ぎ捨て、ここにあった使用人用の給仕服を着ている。

 この部屋の片隅に今アンコウが着ているものと同じデザインの給仕服が、男性用も女性用も山積みに放置されている。

 

 デザイン自体はこの国で一昔ほど前に流行(はや)ったもので、流行(りゅうこう)はずれではあるものの、なかなか洗練されたデザインで、アンコウの元いた世界のホテルのベルボーイが着ていそうな制服であった。

 また、その生地の素材もなかなかよいものが使われているようで、アンコウは着心地良さげに自分が着ている服を触っている。

 

 しかし、この山積みになっている給仕服は、ホコリまみれになってはいるものの、どれもほとんど使い込まれたような形跡はなく、どうやらさほど使用されることなく、この物置の肥やしとなってしまったようだ。

 

 その理由はおそらく、この給仕服の色だろう。デザインも生地の質も悪くはないが、この給仕服は男物も女物もすべてショッキング-ピンク一色に統一されてた。

 それは目が痛くなるほどのドピンクだ。

 この給仕服を作らせた人物は、かなりエキセントリックな趣味の持ち主だったのかもしれない。

 

 趣味は個人の自由であり、身内のみの場でこれを着用させる分には問題ないだろうが、来客を迎える際に家にいる使用人がこれを着て客の応対するのは、この世界の常識でもいささか問題であるといわざるを得ない。

 

 作ってみて初めて気づいたのか、わかっていても作りたいという衝動が勝ったのかは、今ではもう誰にもわからない。

 とにかくアンコウは、そのショッキング-ピンクの給仕服に身を包んでいた。

 

「素晴らしい色合いだ………エックセレンットッ」

 アンコウはその服を着た自分の姿を見て本気で言っている。

 

 そしてアンコウは、そのショッキング-ピンクの給仕服のうえに、足元まで届きそうなほど長い、マントらしきものを羽織っている。しかし正確に言えば、アンコウが首に巻いているその布はマントではない。

 

 それは、アンコウの後ろにある大きい木箱の中に入っていたもので、大きくて薄手の真っ白なレース編みの布だった。

 それは、アンコウにはマントに見えたのかもしれないが、普通の人が見れば、薄手のレースのカーテンにしか見えない………。

 

 そしてアンコウは、そのレースのカーテン仕様のマントを首の前で上手に結んでいるのだが、その結び目にはライオンの精緻な彫り物がほどこされた年代物の大きなブローチをつけていた。

 アンコウはそのレースカーテンマントを、手でヒラヒラと遊ばせている。

 

 そして、それら以上に目立っているのは、アンコウが頭にかぶっている(かぶと)だ。アンコウはこの兜をかぶる際に、中に布を詰め込んで、しっかり頭にフィットするように工夫していた。

 

 アンコウが頭にしている兜は金属製で、長年ここに放置されていたとは思えない銀色の光沢を保持している。

 その兜の形は少し変わっていて、上に行くほど少し細くなっているようだが、先は尖ってはおらず、平らな面になっている。そして、かぶっている状態の兜の下の方には、デザインとして巧みに凹凸がつけられており、それが光りをキラキラと美しく反射させていた。

 

 さらに、その兜の左右には取っ手がついており、アンコウはどこからか金糸の織り込まれた綺麗な組紐をもってきて、その左右の取っ手にきつく結び、さらにその両方の組紐を自分のアゴの下でしっかりと結んで、その銀色の()がずり落ちてこないように固定していた。

 

………そう、()である。

 アンコウが頭にかぶっているのは、正確に言えば兜ではなく、銀色の特徴的な形をした金属製の鍋だ。

 

 アンコウは自分で服をコーディネートして、ここまで気持ちが高ぶったのは初めてだ。

 

 アンコウはショッキング-ピンク一色の洒落たデザインのベルボーイのような給仕服に身を包み、背中には首から足元まで届きそうな白いレースのカーテン仕様のマントを纏い、頭にはしっかりとフィットするように工夫された銀色に光り輝く鍋をかぶり、腰には塗装のはがれかけた例の赤い鞘の剣をさしている。

 

 それに、もうひとつ。アンコウは鍋兜(なべかぶと)の上に一本の魔ロウソクを立てていた。

 この魔ロウソクもこの物置にしまわれていたものだ。魔ロウソクにつけられた火は、専用の火消し鋏を用いるか、完全に水につけてしまうかしないと、なかなか消えないことで知られている魔具の1つ。

 

 その魔ロウソクに火が灯され、アンコウの頭のうえでユラユラと小さな火が動いていた。

 

「………エックセレンットッ。力がみなぎるようだ」

 

 今のアンコウは本気で言っている。鏡に映る自分の姿に、何ら違和感を感じていない。

 アンコウの顔は熱っぽく赤く上気していた。アンコウはあの剣を抜いてからかなり精神的にハイになり、美的感覚などにいささかの変調をきたしてはいたが正気はちゃんと保っている。

 

 より可憐であると感じた女物の給仕服は着ずに、ちゃんと男物の給仕服を選んで着たのだから………。

 

 アンコウは、鏡の前からレースのカーテンマントを翻して動き出すと、飛びおりてきた天井裏に再び這いあがっていった。

 

 

 

 

 アンコウが軟禁先の屋敷で、天井を見つめながら不安定に揺れ動く自分の精神と戦っている間に、このアネサの町が置かれている状況が大きく変化していた。

 

 ロンドとグローソンの領境付近にあるロンド側の最重要要塞であり、今回の(いくさ)の主戦場になっていたネルカ城が、ロンドの援軍が充分に到着する前にグローソン軍の攻勢の前に早々(はやばや)と陥落したのだ。

 

 ネルカ城陥落の一報がこのアネサにも届き、太守をはじめとする為政者たちの間に大きな動揺が走った。

 一方、アネサの防壁の外に陣をかまえるグローソン軍にもこの情報は届いているのだろうが、彼らはいまだ大きく動き出すことなく、アネサ側から見れば気味の悪い沈黙を保っていた。

 

 そんな中、昨日新たに届いた2つの情報があり、ひとつはこのアネサにむかって、何とか反乱貴族を抑えたロンドの援軍の一部が進んできているという情報。

 もうひとつはネルカ城を落としたグローソン軍の一部がこのアネサを目指して進んできているという良悪相反(りょうあくあいはん)する2つの情報であった。

 

 そして、アンコウが天井を這い回っていたこの日、アネサの太守は動揺する人心を抑え、兵士の士気を鼓舞すべしという臣下の進言をうけ、防壁西門付近に兵民を集めて演説を行うことになっていた。

 

 しかし、このアネサの太守が演説を行うことになったのは、このアネサの町で暗躍しているグローソンの草であるダークエルフたちが仕組んだ計略の一端であり、太守たちはその事実に気づいていなかった。

 

 

「ダッジ、準備は整っているか」

「ああ、おれの仲間たちは、あんたらの仲間たちと一緒に一足先に北門のほうに行ったぜ」

 

 マイキーとダッジは、もうすぐ太守の演説が行われる予定になっている西門の広場を見渡せる場所にいた。広場にはすでに多くの兵士と市民の姿が見える。

 

「あと1時間もしたらあの防壁のうえで太守の演説が始まる。明日の朝日が昇る頃、あの壁の上にひるがえっているのはどこの旗だろうな」

 

 マイキーが獲物を前にした魔獣のように白い歯をみせて、広場に集まる人たちの姿を眺めていた。

 

「ダッジ、ここは騎士団の連中にまかせる。おれたちも北門に移動する」

「……もし騎士団の連中が裏切ったらどうする気だ」

 

「完璧な策など有りはしない。しかし打てる手はすべて打ち、すべてこちらの都合のよいように事が進んでくれた。仮に騎士団の連中がアネサの太守から離反することなく、ロンドの援軍が来たとしても、結局この町はグローソンの手に落ちることになる。落ちるまでの時間がわずかに延びるだけだ。

 騎士団の連中も腐っても軍事の玄人だ。今の状況を見れば、それぐらいのことはわかっているはずだ。欲の深さゆえに騎士団の連中はおれたちとの約束を違えはしないだろう」

 

 ダッジはそのマイキーの意見にうなずいた。そこまでこの連中が手を打っているのなら、あとは手柄目あてに自分たちの仕事をするだけだとダッジは思った。

 

 そしてマイキーは、広場に背を向けて移動をはじめる。

 その歩き去っていくマイキーの後ろに、あちらこちらから人が集まってきて、彼の後ろに付き従い、ともにこの西門広場から消えていった。

 

 

 

 

 事件は太守が西門の防壁のうえに立ち、広場に集まった多くの兵士や民衆にむかって演説を初めてすぐに起きた。グローソン側が周到に用意した計略が実行に移されたのだ。

 

 多くの兵士や民衆を前に演説をはじめた太守にむかって、その太守の警護をしていた騎士団の一団が突如襲いかかった。

 そして、自分を警護する兵士に裏切られた太守にはその襲撃を防ぐすべはなく、一瞬のうちに命を刈り取られてしまった。

 

 むろんすべての兵士や太守の家臣が裏切りを働いたわけではない。太守が謀叛の剣に倒れたその瞬間から、この西門広場の付近は大パニックに陥った。

 裏切り者たちと太守派の者たちが剣を抜き、あるいは精霊封石弾を用い、あるいは精霊法術を用い、激しい戦闘が開始された。

 

 そして、ここにいたのは兵士だけではない。

 多くの民衆や冒険者の一部も太守の演説を聴くため、あるいは警備のためにここに集まっていた。何らの武装もしていない民衆も戦闘に巻き込まれて、次々に血を噴き出しながら倒れていく。

 

 そして、それを見ていた他の市民たちが我先に逃げだそうと動きだし、この一帯は収拾がつかない阿鼻叫喚の場と化した。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「始まったようだな」

 

 西門で起こった戦闘とそれに伴う混乱の余波は、響く爆音や轟く叫声となって北門付近に潜んでいたマイキーたちの一団にも伝わってきた。

 マイキーはすでに幻視の術を解き、マイキーの姿は誰の目にも耳が長く褐色の肌を持つダークエルフの容姿として見えている。

 

 マイキーたちの周辺に、事態が動き出したことを察知した諜報隠密部隊の仲間やアネサの町に一般人として紛れ込んでいたグローソン兵たちが集まってくる。

 この作戦における彼らの役割は、寝返った騎士団員たちが太守の首をとり西門付近に混乱状態をつくり出すのを好機として、その隙に手薄となったこの北門を襲って門を開くことだ。

 

「よし、みなの者、いくぞ!」

 

 この集団の中には、ダッジやこのアネサの町を拠点に活動していた多くの冒険者たちの姿もある。今まさに、アネサは内側から崩壊しようとしていた。

 

 

 

 

 装備をととのえ、再び天井裏を移動していたアンコウは、ついに出口を見つけ、軟禁されていた建物の外に出た。

 外といっても今アンコウが歩いている場所は、まだこの屋敷の敷地内であり、今アンコウは門の外に出るべく移動を続けていた。

 

 アンコウは天井裏を移動してきたために、せっかく綺麗に整えた服や装備のあちこちにすでに汚れや蜘蛛の巣のようなものがついてしまっている。

 しかしアンコウは、あれだけ吟味して選んだ服や装備であるにも関わらず、そういったことにはまったく頓着していないようで、何やら鼻歌混じりで、機嫌良さげに歩いていた。

 

 そのアンコウの耳に、

ドオォーンッ ドオォーンッ ドオォーンッ と、連続して響く爆音のような音が遠くから聞こえてきた。

 

 その音を聞いたアンコウは立ち止まり、音が聞こえてきたと思われる方向に意識を集中する。その爆発音は途切れることなく、まだ続いている。

 さらにアンコウのもとには、数百、数千の人々の叫び声が重なった地響きのような空気の振動も伝わってきていた。

 

 アンコウはそれを聞いて、この町のどこかで大きな戦闘が起こっていることを知る。

 アンコウは例の剣を抜いてから継続して妙な興奮状態にあったのだが、戦闘のにおいを嗅ぎつけると、さらに心沸き立つような興奮が湧きあがり、自分の心が愉楽に包まれていくのを感じていた。

 

 アンコウはまるで大きいお祭りに参加しにいくような気分になっていく。そしてアンコウはスキップ混じりに移動を再開した。

 

 アンコウは自分が軟禁されているということはわかっている。今も記憶が飛んでしまっているわけではなく、ちゃんと状況の認識はできている。

 にもかかわらずアンコウは、裏口に回るでもなく、壁を越えようと試みるでもなく、堂々と屋敷の正面門から外に出ようとしていた。

 

 アンコウにとって幸いなことに、この屋敷のおもだった者のほとんどが、今まさにこのアネサで行われている戦闘に参加しており、今正門前にいるのは見るからに年寄りの見張りが1人立っているだけであった。

 だが、門に近づくアンコウに最初に気づいたのはその門番ではなかった。

 

「おい、貴様なにをしている!」

 

 アンコウはうしろから鋭く声をかけられた。

 アンコウを呼び止めたのは、この屋敷に留守居役(るすいやく)を命じられている男で、門番の年寄りなどとは違い戦闘要員としても充分な実力を持っている。

 

 アンコウはその声のほうを振り返る。アンコウの目に映った男はダークエルフの男。すでに戦闘に備えた装備も身につけていた。

 ダークエルフの男も、アンコウの顔を見た。

 

「なっ!お前は!」

 その留守居役の男はアンコウの顔を見知っていた。

 

 この屋敷の警護とともに、アンコウをこの屋敷で保護することも上から命じられているのだから当然だ。しかし男には、そのアンコウがなぜこんなところにいるのかわからない。

 おまけに自分のほうを振り返ったアンコウのいでたちを見て、留守居役の男は固まった。

 

 アンコウのいでたち。ショッキング-ピンクの給仕服を着て、レースのカーテン仕様のマントを纏い、頭に銀色の鍋をかぶり、その鍋の上には一本の魔ロウソクが火の灯った状態で立っている………誰が見ても普通ではない。

 

 この留守居役の男はアンコウの怪我や精神状態について報告を受けていたため、一瞬、ついにこの男、気が狂ったのかと思った。しかし次の瞬間、留守居役の男の目にアンコウの腰にある剣鞘が目に入った。

 そしてアンコウの手には抜き身の長剣。男はその剣にも見覚えがあった。

 

(あれは、東館の屋内倉庫においてあった呪いの魔剣か)

 男はもう一度アンコウの腰の剣鞘を見て確認する。

「くっ、この馬鹿が。どうやって入ったのかは知らないが、あんなゴミ屑みたいな剣を。呪いの魔武具を示す札が貼ってあっただろうがッ」

 

 アンコウはまったく表情を変えることなく、男の言葉を聞いていた。

 留守居役の男は、アンコウの精神状態はまだ万全とはいえないが、かなり改善してきていると報告を受けていた。ならば、今のアンコウのざまは、あの呪いの魔剣のせいで、何らかの精神的影響を受けている可能性が高いと考えた。

 

「おい、貴様。その剣をこちらに渡せ。その剣はお前のものではないだろう」

 男はアンコウの剣を指さして、言った。

 

「それは無理だ。剣がないと戦えない。音が聞こえるだろ?これからおれも戦いに行くんだ。剣がないと戦えない。誰も使っていなかったんだからこいつも使って欲しいんだよ。だからこれは借りていく。ちゃんと後で返す。

 ああ、剣だけじゃなくていろいろ借りていく。服にマントに(かぶと)にぃ、」

「いいからその剣を寄越せ!」

 ダークエルフの男は厳しい口調でそう言うと、アンコウに近づいていく。

 

「……ケチケチするなよううぅぅぅーー!」

 

 それまで穏やかに話していたアンコウが、目を見開いて突然絶叫した。

 

「なあっ!」

 

 そして次の瞬間、アンコウは身を(ひるがえ)して、白いレースのカーテンマントをなびかせながら門の外にむかって全力で走り出した。

 

「くっ!お、おい、待てっ!」

 

 アンコウはかなりのスピードで門を駆け抜けた。門番の年寄りが気づいたときには、アンコウはすでに門の向こう側を走っていた。

 ダークエルフの留守居役の男は慌ててアンコウの後を追う。

 

 この屋敷があるあたりは人気の少ない地区であり、またアネサの町ではすでに大規模な戦闘がはじまっているということもあり、ダークエルフの男は周囲を気にすることなく、全力でアンコウを追いかけた。

 

 ダークエルフはエルフ族の忌み子、白いエルフよりも黒いエルフは持って生まれた力が大きく劣る。エルフの支配するこの国で、その近親ゆえにエルフから最も蔑まれている一族でもある。

 

 しかし、人間や獣人から見れば精霊法術を扱うその能力は恐るべきもの。普通の人間ならば、ダークエルフに抗すべくもない。

 

 身体能力においても、ダークエルフは抗魔の力を持つ獣人と比べれば、一般的には腕力・体力で多少劣る場合が多いかもしれないが、決して弱いわけではない。またダークエルフはスピードだけに関していえば、種全体の特徴として、抗魔の力を持つ人間や獣人と比べても、間違いなくそのうえをいく。

 

「待て!手間を取らせるな!」

 ダークエルフがアンコウとの距離を一気に縮めていくが、屋敷の門からはどんどんと離れていく。

「くそっ、面倒なっ」

 

 ダークエルフは早くアンコウを捕まえようと、さらにスピードをあげた。しかし、・・・・・

・・・・

「………?」

 おかしい。はじめは距離を縮めたものの、ダークエルフの男はなかなかアンコウに追いつくことができない。

(なぜだ、どういうことだ)

 

 男は拠点のひとつであるあの屋敷の留守居役を命じられるほどの実力者。同じダークエルフの仲間内でも優れたスピードを持つことでも知られていた。

 なのに、冒険者であるとはいえ人間族のアンコウに追いつけない。男の顔に焦りの色が浮かぶ。

 

 いま、アネサの町全体が混乱に陥ろうとしているが、それでも、できればあまり人の目に触れることなくアンコウを捕まえたいと男は思っていた。

 それにアンコウを()()することも自分の仕事であり、捕まえるためとはいえ、アンコウに攻撃をすることも|できれば避けたいと考えていた。

 

 常識的に考えれば、簡単に捕まえられるはずなのだ。

 このダークエルフがこれまでに得ている情報の限りでは、アンコウという人間族の冒険者が自分より優れた身体能力を持っているとは思っていなかった。スピードという点ではなおさらだ。

 

 それに普通、呪いの魔武具を身につけた者はどのような形であれ、その身体能力が落ちることがあっても向上することはない。

 呪いの魔武具とは反対に使用者の力そのものを向上させる力を持つ魔武具として、神与の魔武具と呼ばれるものはあるが、アンコウの持つあの赤鞘の剣が呪いの魔武具であるということは、あの屋敷の留守居役である男自身がずいぶんと前に自分の目で確認済である。

 

 あの剣を持たせた者たちは、1人残らずその戦闘能力が減退した。なかには精神的錯乱を起こした者もいた。

 それになによりアンコウのあのざま、あの剣が神与の魔剣であるはずがない。

 

「くっ、なぜだ!」

 にもかかわらず、アンコウの走る速度はいつもよりも段違いに速い。

 

 ダークエルフには見えていなかったが、アンコウは満面の笑みを浮かべながら走っていた。追いかけられながら走っていると、どんどんどんどん気持ちが高ぶっていったのだ。

 

「イイィィィー、カァァァアアアアーー!!」

 

 アンコウはついに奇声を発しながら走り出した。遠くから聞こえてくる激しい戦闘の響きにむかって走る。さらにアンコウの走るスピードが上がる。

 

 上下ショッキング-ピンク一色の給仕服が周囲の風景から鮮やかに浮き上がり、白いレースのカーテンマントをなびかせて走る。傾きつつある太陽の光が銀色の鍋兜(なべかぶと)に反射してキラキラと光っている。このスピードで走っても、頭のうえに灯る魔ロウソクの火は消えない。

 

 ダークエルフはどんどんアンコウとの距離を離されていった。

 

 アンコウは腰にさしている例の赤鞘の長剣を手に走り続ける。そして剣先を前方にかかげ、いま走っている少し広めの通りから、細く狭い路地へと走る方向を転換した。

 

「アアアァァァアアーー!」

 

 細い道に入ってもアンコウの走る速度はさらに増している。

 ダークエルフの男がアンコウが曲がっていった路地の入り口まできたときには、すでに真っ直ぐに伸びるその路地の先にアンコウの姿を見ることはできなかった。

 

 ただ、どこからかアンコウが発しているだろう奇声だけが、かすかにその路地にもこだましていた。



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第19話 初めて見るエルフ

 アンコウが軟禁されていた屋敷を飛び出してきたとき、その姿を屋敷の外から見ていた者たちがいた。

 

「ゼルセ様、いま屋敷から飛び出してきたあの者が、おそらくグローソン公が捕らえるよういっていた例の男です」

「ふむ、おもしろい」

 

 ゼルセと呼ばれた男。

流れるような金色の髪。

透き通るような白い肌。

そしてその秀麗な顔の左右についている耳は、細長く先が尖っており、その先のほうが少し垂れ下がっていた。

 

 この男は間違いなく、この国の支配者種族であるエルフだ。このアネサで純粋なエルフを見るということは極めて珍しい。

 アンコウはこの町に来て3年、一度も純粋なエルフをこの町で見たことがなかった。いや、アンコウはこの世界に来てから、一度も純粋なエルフを見たことがない。

 

 アンコウが走り去っていく方向を見つめるこの主従のような2人からは、何ともいえない近寄りがたい雰囲気が漂っている。そして、この2人が身につけている鎧には、グローソンの紋章が刻み込まれていた。

 

 グローソン公自身はエルフではない。人間族の男である。この国において、純粋なエルフがエルフ以外の種族に仕えるというのは極めて珍しい。

 ただしそれは、仕えているエルフにウィンドというこの国の意志が関わっていない場合は、であるが。

 

「ガルシア、追うぞ」

「ゼルセ様、捕らえるのでしたら私が行ってまいります。ゼルセ様はどうぞお先に屋敷のほうへ」

「いや、お主1人では少し苦労するだろう」

「ゼルセ様、私があの者に後れをとると?」

 ガルシアは、己がかしずく相手であろうゼルセに対して不満の意を示す。

 

 ガルシアは非常に優れた体躯を持つ獣人の男であり、一見して並々ならぬ技量を持つ戦士であることがうかがえる風格を身にまとっている。

 

「そうは言っていない。が、あの男、魔武具に酔っているように見えた」

 ガルシアがそのゼルセの言葉に驚き、わずかに目を見開いた。

「魔武具に酔う……それではあの男が、共鳴を起こしているということになりますが、」

 

 ゼルセは、ガルシアのほうは見ずに小さくなっていくアンコウの姿を目で追っている。

 

「確信は持てないがな。おれにはそう見えたよ。そうであるなら、おれが行ったほうがいいだろう」

「はっ、承知しました」

「ふふっ、では急ごうか。あの男を追っていったダークエルフでは捕まえることはできないだろうからな」

 

 

 

 

 屋敷を飛び出し、追ってきたダークエルフもまいたアンコウは、戦闘の響きが聞こえてくる方向に向かって、細く薄汚れた道をひとり全力で走っていた。

 

「アアァァァーー!」

 

 遠くから聞こえる戦いの遠音とアンコウ自身の奇声だけが周囲に響いている。そんな中、重々しい心臓をつかみ取るような獣の咆哮がアンコウの頭の上から響いた。

 

「グガァアッ!!」

 

 全力で疾走していたアンコウが、足元に土煙をあげながら急停止する。

ズザアアァァァーーッ

 その停止したアンコウの前方に、上方から巨躯の獣人が落ちてきた。

ダンッッ!!

 ガルシアだ。

 

 ガルシアは空から落ちてきた低い姿勢のまま、アンコウを鋭い獣の眼光で射貫く。

 一方アンコウは、先程までの狂乱したかのような姿とは一変し、全くの無表情で突然現れた獣人をじっと見つめている。

 

「おい、貴様の足はどうなっている。人間の出せる速さではないだろう」

 ガルシアは、猛獣がいまにも獲物に飛びかかろうとするような姿勢のまま聞いた。

 

 顔には出していないが、ガルシアは内心、アンコウがここまで走ってきたスピードに極めて驚いていた。

 アンコウに追いつくまでに、自分が思っていたよりも、ずっと長い時間がかかった。しかしそのガルシアも、たいして息を切らすことなく、アンコウにこうして追いついている。

 

「……なるほど共鳴か。呪いの魔剣と共鳴を起こしたばかりの者など初めて見るが、その様子では物狂(ものぐる)いと変わらんようだな。どのような力を得ても人の言葉もわからぬようなら意味はない」

 

 ガルシアはそう言うと、いっそう闘気をむき出しにしてアンコウに向かって吠えた。

 

「グガアアァァーーッッ!!」

 

 その咆哮(ほうこう)は、アンコウの戦意を奪い取ろうとするような強烈な威圧を孕んだものだった。

 しかしそのガルシアの咆哮を真正面からぶつけられたアンコウは、何ら臆することなく狂ったような高笑いを返す。

 

「ハハハハハハーーー!!」

 そして一転、アンコウの顔から表情が消えた。

「大丈夫。何のことかよくわからないが、人の言葉はわかっているさ。俺はこれから戦いに行くんだ」

 

 ガルシアはそのままの姿勢のままで少し目を見開いた。アンコウの様相の変転があまりに早い。

 

「……貴様、戦いが好きなのか」

「いや、戦うのはあまり好きじゃないな。……ただ最近いろいろあってね。何も考えず、剣を振りまわしたい気分なんだっ!」

 

 アンコウはそう言うと、手に持っていた剣をかざして一気にガルシアにむかって突っ込んでいった。

 あっという間に距離を詰め、ガルシアに剣をふり落とすアンコウ。それに対してガルシアも一歩も動くことなく腰の剣を抜き放ち、迫りくるアンコウの剣にぶつけた。

 

ギャンッ!!

 双方の剣がぶつかり、次の瞬間驚くほどの火花が散る。

 そしてアンコウは、その場から大きく弾き飛ばされた。

「ぐああぁっ!」

 しかし転倒することはなく、剣をガルシアにむけたまま踏みとどまる。

 

「くふううぅぅ、」

 

 アンコウと違いガルシアはその場から全く動いていない。

 ガルシアはアンコウを見据えたまま、ゆっくりとした動作で体を動かし、弾き飛ばされたアンコウのほうに向き直った。

 

「速さには驚かされたが、腕力はさほどではないな。物狂いになってもその程度か、人間」

 

 ガルシアの言葉はアンコウを蔑むようなものであったが、ガルシアの表情はじつに楽しそうであった。そして弾き飛ばされたアンコウ、常のアンコウならば戦いを楽しむような趣味はない。しかし、

 

「アハハハハハーーッ!!」

 アンコウの狂ったような高笑いが周囲に響く。

 

 そしてアンコウはまた、ためらう素振りもなくガルシアにむかって突っ込んでいく。剣を突き出しガルシアに迫る。

 しかし、今度は初めから、ガルシアも迎え撃つ体勢ができあがっている。アンコウの剣がとどく前に、アンコウに向かって、長大な剣の一振りを落とす。

 

 しかし今度はアンコウが剣を合わせることもなく、そのガルシアの剣を体さばきだけでかわしてみせた。

 

「なにいっ!」

 驚くガルシア。

 

 その後も次々とガルシアがくり出す剣を、アンコウは右に左に前に後ろにとかわしていく。

 

 しかし、かわすことができても、アンコウのほうが攻撃を仕掛ける隙は、さすがにガルシアも見せない。下手に剣を出したところで、ガルシアに剣ごとはじき飛ばされることは目に見えていた。

 

「クククッ、アハハハーッ!」

 アンコウの笑い声ではない。ガルシアだ。楽しくて楽しくて仕方がないといった笑い方だ。

「いいな。いいな、貴様。いくぞ!」

 

 ガルシアのこれまで以上に鋭い一刀がアンコウの胴に迫る。

 立て続けの連続攻撃から間をおかずに繰り出されたこの一刀は、さすがにアンコウも体さばきだけでは避けられなかった。

 

 アンコウは迫りくるガルシアの剣に対して、全力で剣を打ち下ろした。

ギイャンッッ!!

 ガルシアの重い剣をアンコウは受け止めた。

 しかし、ガルシアの剣を止めることができたのは、ほんの一瞬。

 

「ぐぐ、ぐわあぁぁっ!」

 アンコウは再び吹き飛ばされた。

 

 しかし、また転倒はせず、何とか踏みとどまる。そして、間髪入れずスピードを生かして再び距離をとった。

 これだけの打ち合いをしても、双方ともにさほど息は乱れていない。

 

 アンコウのいまの表情には何ら感情は浮かんでいない。このまま戦いを続けるつもりなのか逃げるつもりなのかも全く読めない。

 次に動いたのはガルシアだ。アンコウに勝るとも劣らない速さの踏み込みで、アンコウの身体目がけて剣を振る。

 しかし、今度もアンコウは巧みにガルシアとの距離を保ちながら、ガルシアの剣を次々に避けてみせた。

 

 そして徐々にではあるが、ガルシアの剣を避けるアンコウの動きが小さくなってきているようだった。アンコウがガルシアの攻撃のわずかな間隙を突き、剣を振るう。

 

「チイィッ!」

 ガルシアの絶えることなくくり出される剣戟のわずかな隙をついたアンコウの攻撃が、ついにガルシアの顔をかすめた。

 ガルシアはいったん剣を引き、大きく後ろに飛びさがった。

 

「クククッ、やるなぁ、貴様。しかしだ。いまのが私の全力だと思ってはいないだろうな?」

 

 ガルシアはそう言うと、大きく息を吸い込んだ。

 ただの空気を吸い込んだはずなのに、元々大きいガルシアの身体が、さらにもう一回り大きくなったような錯覚をアンコウは覚えた。

 

 ガルシアは、アンコウから見れば長大すぎる剣を右手に持ち、素振りでもするかのように上から下にその大剣を振り下ろした。

 

ブゥォオンッ!! その風切り音が普通ではない。

 

 剣を振りおろした時に生じる風、まるで竜巻でも起こせるかのような気配すら感じさせる。

 ここまでどれだけ一方的に攻められても、狂ったように笑っているか無表情かのいずれかであったアンコウの顔に、ガルシアに対する警戒の色が浮かんだ。

 

 ガルシアは剣を真横にさげて制止。アンコウをにらみつけた。これまで以上の覇気が、ガルシアの身体から立ちのぼってくる。

 

「ガオオォォッ!!」

 ガルシアが吼えると同時に、これまで以上のスピードでアンコウの懐に飛び込んできた。

「くそうぅっ!」

 アンコウは、その攻撃を体さばきで避けることはできないと瞬時に悟る。

 

 アンコウは下から掬い上げるように、ガルシアの打ち込みに剣を合わそうと試みる。アンコウはその際、一連の動作の中で、地面の土を一緒にガルシアの顔めがけて掬い上げた。

 

 双方の剣がぶつかり合う前にガルシアの顔に土がかかり、ガルシアは目を細め顔をしかめる。

「むうぅっ!」そして、互いの剣が強烈な音を立てて衝突した。

 

ガァギャアアアンッ!!!

 

 ガルシアの顔にかけた土に、ガルシアの剣勢を弱める幾ばくかの効果があったのかどうか。

 アンコウは何とかガルシアの剣刃は防いだが、そのまま体勢を大きく崩され、土煙をあげながら地面を転がっていく。

 

ドザアアァァァーー

 「ぐがああーっ!」

 

 そして、その隙を見逃すことなく、ガルシアが地面に転がるアンコウに剣を突き立てようと走り出そうとした。その時、

 

「やめろ、ガルシア。そこまでだ」

 

 ガルシアのすぐ近くで声がした。

 ガルシアが声がしたほうを振り向くと、いままでどこにいたのだろうか、金色の美しい髪をなびかせたゼルセが、ガルシアのほうを見て立っていた。

 

「ガルシア、ずいぶんと熱くなっているな」

 ゼルセはその美しい顔に軽やかな笑みを浮かべながら言った。

 

「こ、これはゼルセ様。私としたことが申し訳ございません!」

 大きく目を見開き、何かを思い出したような表情をしたガルシアは、素早く片膝を突き、ゼルセに対して(こうべ)を垂れた。

 

「かまわない。別に責めているわけじゃないんだ。でもやるもんだな。まだまだ本気ではないとはいえ、ガルシアをそこまで熱くさせるとはな」

 

「ははっ。予想以上、でございました」

 

 ガルシアは片膝はついたまま、顔だけをあげる。

「ゼルセ様、やはりこの者はあの魔剣の共鳴者なのでしょうか?」

「みたいだな。まだ融合とはほど遠いみたいだけどね。ハハハッ、しかし見てみろよ。あの格好、魔武具に酔うとはよく言ったもんだ。ハハハハ、」

 

「ワハハハハハーーー!!」

 ゼルセの笑い声に合わせるように、ゼルセの声よりもはるかに大きい笑い声が響いた。アンコウの声だ。

 

 ガルシアに吹き飛ばされたアンコウだったが、ゼルセの笑い声に合わせるかのように飛び起きて、今も大声で笑っている。

 

「ん?」

 そして、笑い声を止めたアンコウがゼルセのほうを見て小首をかしげた。

「あれ?白い。エルフか?」

 

 そうとぼけたような調子で真面目に言うアンコウに、ゼルセは小首を傾け返しながら言った。

 

「そうだ。エルフだな」

 

 アンコウは一歩二歩と、ゼルセに向かって歩き出した。

 

「へぇ、初めてみた。……白いエルフ、あんた強いんだろ?」

 アンコウはニヤニヤと笑い、ゼルセも何か面白そうに笑みを浮かべている。

 

「ふむ、試してみればいいだろう」

 ゼルセがそう言った瞬間、アンコウは剣を振りかざしながらゼルセにむかって走り出し、一気に襲いかかる。

 

ガキイイィィンッ!! 響く金属音。

「……ああ、あんたもいたな」

 

 アンコウがゼルセに振りおろした剣は、ガルシアの剣によって受け止められた。

 ガルシアは先程までと違い、アンコウに反撃の剣戟をくり出すことも押し返すこともせず、しっかりとアンコウの剣を受け止めている。

 

「……ガルシア、しばらくそのままで」

 ガルシアの後ろから、ゼルセがささやくようにつぶやいた。

 

 アンコウが何やら不穏な空気を感じて、ガルシアの後ろにいるゼルセのほうを見ると、ゼルセの右手に淡い光りを放つ光球が乗っていた。

 

「!くっ光球、精霊法術っ」

 アンコウはとっさに剣を引き、大きく後ろに飛びさがった。

 

 さがるアンコウを、ガルシアは追ってくる気配はない。それを見たアンコウは、なおも距離をとろうと後ろに飛びさがる。

 ガルシアから十分な距離をあけた地点で、アンコウは停止した。

 

「あれ?」

 そして、アンコウは気づく。ガルシアの後ろにいたはずのゼルセがいなくなっていた。

 

「逃げればいいのに、戦いは好きじゃないんだろう?」

 

 突然声がアンコウのすぐ後ろから聞こえた。

 優しげな透きとおるような声。なのに、呪いの魔剣を手にしてから初めてアンコウは背筋が震えるような恐怖を感じた。

 

 アンコウがふり向いた瞬間、ゼルセの手にあった光球がアンコウの胸のあたりに押しつけられる。

 すると、アンコウの体はまったく動かなくなった。そして、胸に押しつけられた光球が、ゆっくりとアンコウの体の中に吸い込まれるように入ってきた。

 

「!!あ、あっ、ああっ」

 

 その瞬間、アンコウの意識は飛んだ。

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

「!」

 アンコウが意識を取り戻したとき、太陽の傾きは気を失う前とほとんど変わっておらず、アンコウが意識を失っていたのはほんの短い時間だったようだ。

 アンコウの体にも、特別怪我も異変も見あたらない。ただ、さっきまでここにいたエルフと獣人の姿はなくなっていた。

 

 アンコウはそのまましばらくの間その場を動こうとせず、エルフと獣人の2人を待った。

 しかし、しばらく待っても誰も出てこないことを確認すると、アンコウは再び遠くから聞こえる戦闘の響きに吸い寄せられるように走り出した。

 

「イイイィィィイイイーー!!」

 

 そのアンコウの姿を、完璧に気配を消して建物のうえから見つめるエルフと獣人。

 

「ゼルセ様。あの男、何も変わっていないようでしたが」

「そこまでの即効性はないよ。精霊たちにも仕事をする時間をあげないとな。共鳴すべき、力と力の調律をする時間をな。だけど、そんなに時間もかからないはずだ」

「はっ、しかしこのまま行かせてもよろしかったのですか?あの男は拘束しろとの命が下っていたはずですが」

 

「ふふふっ、大丈夫さ。アネサがグローソンの手に落ちたとき、あの男が生きてまだこの町にいれば拘束しろっていう命令だったはずだ。アネサはまだ落ちていない。

 それにあの男は、自力で拘束されていた屋敷から逃げ出したみたいだしな。俺たちは今この町に到着したばかり、知らぬ存ぜぬでとおるさ。あの酔っぱらいの調律をしたのは、ただの通りすがりの気まぐれさ」

 

 ゼルセの理屈はかなり勝手な理屈のようにも聞こえたが、じつに堂々と言い切っていた。

 

「……しかし、」

「なに、ガルシア。まだ何かあるのかい」

「い、いえ。ただ、あの男が戦闘に参加したとして、いったいどちらの側につくのかと。それにあの戦いぶりでは、たとえ力があっても命を落とすということもあるのではないかと」

 

 ゼルセはそのガルシアの言を聞いて、やれやれと言わんばかりに息を吐き出した。

 

「まったく、変わらないなぁガルシアは。そんなことは、それこそおれたちが気にする事じゃない。あの男がどちらの側につこうが、誰を殺そうがあの男の自由だ。それに戦場に赴いたものが死ぬのは戦士の運命なんだろう、ガルシア」

「は、はい」

「そう、自由だ。戦おうが戦うまいが、生きようが死のうがな。しかし、グローソン公といい異世界人ていうのは魔武具と共鳴しやすいたちなのか。あの物狂いっぷりもちょっと似ていたしな。

 まぁ、あの男は酔っ払っていたからな。普段はまたちがうのだろう」

 

 生きてまた会うことがあるのかどうか、ゼルセはアンコウが走り去っていった方向を見て目を細めていた。



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第20話 アネサ陥落

「くそっ!なんでこんなことに!」

 

 西門広場の南の端、マニは血まみれの姿で戦っていた。特に左肩から腹にかけての傷と右太ももの傷が深い。

 この混乱が起きて早々に、マニはこの深手を負ってしまったのだが、この傷を負いながらも襲いかかってくる多くの騎士や兵たちを退け続けている。

 

 その中には、マニと同様、抗魔の力を持つ戦士も混ざっていたが、それらの者も1人残らず斬り伏せていた。マニはかなりの抗魔の力に恵まれた冒険者のようだ。

 しかし、すでに限界は近い。この怪我では、マニは本来の力を出すことなど到底できはしないのだから。

 

 マニは、綺麗な若草色の毛並みを持つ若い獣人の女冒険者だ。

 グローソンの侵攻があり、アネサの町にいた冒険者たちは半強制的に傭兵として動員された。マニはその冒険者のひとり。

 そして今日、行政府の命令により、太守の演説が行われるこの西門広場での警備の任にマニはついていた。

 

 多くの冒険者が実質強制的に傭兵として動員され、対グローソンの戦闘員として駆り出されたことに大いに不満を感じ、またそれを隠そうともしていなかった冒険者たちの中で、マニは比較的積極的にアネサ防衛のための仕事に汗を流していた。

 

 マニはこの町で生まれ育ち、幼少時には家族にも恵まれた。今はもう、その家族も死んでしまっていたが、マニは知り合いも多くいるこのアネサが好きだった。

 だから、このアネサを守るために剣をとること自体には躊躇(ためら)いがなかった。

 

 しかし、たとえアネサを故郷とする者であっても、マニほど積極的に太守たちに協力しようと思う冒険者は少なかった。

 それはこれまで市民たちに対して、善政を敷いていたとはとてもではないが言い難い(いいがたい)このアネサの太守や為政者たちの人望のなさの表れであり、マニ自身もアネサの太守らにはあまり良い感情を持っていない。

 

 それでもアネサのために剣をとろうと思ったのは、生来のさっぱりとしたあまり物事にこだわらない性格も影響していたのかもしれない。

 しかしそんなマニに、このひどい手傷を負わせたのは太守の首を斬り落とした反逆者たちではなく、太守側の騎士や兵たちだった。

 

「~~ちくしょうっ!!」

 

 このアネサの西門を中心として、まさに戦場の地獄絵図がこの短い時間で描き出されていた。

 火の精霊封石弾が弾ける轟音(ごうおん)、今も響きつづける人々の泣き(わめ)く叫び声、戦闘に(きょう)じる修羅(しゅら)どもの咆哮(ほうこう)が響きつづける。

 

 地面のあちらこちらが血の色に染まり、人の肉片が飛び交い、あまたのすでに動くことのなくなった人々の体が周囲一帯に転がっている。

 

 そしてその死体の多くが、太守の演説を聴くためにこの広場に集められた一般市民のものであった。力無き者が真っ先に血の海に沈むことになるのは戦場の(ことわり)

 戦う力をもつ者の目は濁り、血走り、人が生来持つ狂気の色をあらわにする。それが戦場。

 

 追い詰められたマニは、ついに広場の片隅で足を止め、崩れるように片膝をつく。

 

「……何でだっ!」

 

 太守が裏切った騎士団員に襲われた直後、広場のほうにいた騎士団員や冒険者の一部の連中も剣を抜き、周囲にいる他の騎士や兵士に襲いかかった。

 マニの近くにいたアネサの将兵も、反乱者どもに襲われており、マニはそれを助けようと彼らに駆けよった。

 

 そして、マニは斬られた。

 ただ、マニを斬ったのは、マニが助けようとした顔見知りのアネサの士官であった。

 

 助けようとした顔見知りの者に、いきなり真正面からの袈裟斬りを食らった。それはマニほどの冒険者でなければ、真っぷたつになっていたであろう一刀だった。

 

 戦闘がはじまった直後から、太守派の将兵たちはすべての騎士団員と冒険者を反逆者とみなした。

 この戦闘がはじまった経緯から彼らの判断もやむをえない部分もある。残念ながら、マニの胸の深手はマニの甘さの結果とも言える。

 

 マニほどの力を持つ冒険者であっても、戦場では少しの油断が命取りになることに変わりはない。マニは力はあっても、まだ若かったのだ。

 

 それからマニは、後退しながらも斬り合いを続けた。もはやアネサのことなど関係ない。自分が生きのびるためだけの殺し合いになっていた。

 しかしこの混乱の中、満足に動くことのできないマニは、体中にうけた傷の数を増やしながら、いまだ広場から出ることができずにいた。

 

 もう少しで広場の終わりというところまできて、マニは敵となった太守側の将兵たちにまわりをとり囲まれ、斬られた右太ももの痛みで膝を地面につき、絶体絶命の状況になりつつあった。

 それでもマニは、膝をつきながらも剣を前方に突き出し、敵を牽制しつつ、じりじりと後ろに後退を続ける。

 

 そしてまわりを囲む者どもが、ついにマニに斬りかかろうとしたその時、なぜか敵将兵たちの動きがピタリと止まった。

―――――

 

「ウゲッ、」アンコウは先程から定期的にえずいていた。

(…気持ちが悪い)あの場所で目が覚めてからずっとだ。

(あの光りの球が原因だろうな)

 

 初めてみた白いエルフ。あのエルフがアンコウの体の中に入れた光の精霊法術によりつくられた光球。

 この気持ちの悪さの原因はあれだろうとアンコウは思っていた。

 

 アンコウにはあれが何かはわからない。あのエルフともう1人いた獣人、あの2人が誰なのかも知らない。

 だけど今は、そんなことにこだわる気分にはならなかった。

 

(どうでもいい)アンコウが手に持つ赤鞘の剣を引き抜いてから底なしに湧き出る高揚感は、今でもアンコウの精神を満たしている。

 多少の肉体的な吐き気などなんてことはない。そして心が戦うことを欲している。

 

(この世界であんな良い気分で戦ったのは初めてだったなぁ)

 アンコウは先ほど剣をまじえた獣人のことを思い出す。

(強かったなぁ、あれ全力じゃなかっただろうし。本気出されたら、おれ、首飛んでたかもなぁ)

 アンコウはニヤニヤと笑いながら思いを巡らしている。

 

 

「き、貴様なんだ!」

 剣や槍を手にした太守側の兵たちが、アンコウにむかって誰何(すいか)した。

 

 そしてマニは、自分の横に立つ 突然うしろの路地から飛び出してきた男を見上げていた。

 

「……な、なんだお前」

 

 今のアンコウの奇天烈(きてれつ)な格好は彼らの目を引く。

 敵か味方かではない。彼らにはアンコウが狂人にしか見えなかった。

 そしてアンコウは抜き身の剣をひっさげて、にやにや笑いながら、そこにただ立っていた。

 

 太守側であっても、反乱軍側であっても、この殺し合いの最中、突如現れた今のアンコウを味方ととらえる者はいないだろう。

 マニもそうだ。突然現れたアンコウを自分の味方だとは思わなかった。

 しかし今、たまたまこの周囲にいる武装した者の多くは、マニに襲いかかる太守側の将兵たちだ。

 

 アンコウは思う存分剣を振るうことができる戦いを欲してここまで走ってきた。しかし誰が自分の敵なのかは決めていない。

 手に持つ呪いの魔剣と共鳴を起こした影響は、間違いなくアンコウの人格の変化を引き起こしている。

 しかし、アンコウは無差別に人を斬り殺すような殺人狂になったわけではない。

 

 突然現れたアンコウの存在に一瞬周囲の戦場の動きが止まったが、それをアンコウの大きな声の笑い声が再び動かした。

 

「あははははははは、ウゲッ、あははははははは、ウゲッ、」

 

「くっ、この物狂いがッ!」

 マニを取り囲んでいた長槍を持った1人の兵士が、アンコウにむかって、その槍を突き出した。

 

 完全にアンコウの胸部を狙ってのひと突きだ。

 アンコウは鎧はつけていない。ピンクの男物の給仕服を着ているだけ。槍がそのまま突き刺されば、間違いなくアンコウは死ぬ。

 

 この長槍の兵士は一般兵だ。むろん兵士としての訓練は積んでいるのだろうが、抗魔の力を持たぬ者の槍速は決して常人の域を出ることはない。

 槍をくり出した兵士の視界からアンコウが消えた。

 次の瞬間、兵士の首が大きく裂け、そこから真っ赤な血が噴き出し、兵士は前のめりに倒れた。

 

ドサンッ

 この瞬間、太守側の将兵がアンコウの敵になった。

 

「き、気をつけろ!このおかしなヤツも冒険者だ!一般兵は1人で飛び込むな!取り囲むんだ!」

 

 抗魔の力の保持者に、そうでない者が1対1で勝てるわけがないことは、この世界の者なら誰もがわきまえている。

 アンコウの奇天烈な姿に、アンコウをただの狂人であると判断した者が今1人、死んだ。

 

 一方マニはアンコウをただの狂人だとは思っていなかった。抗魔の力の保持者であることは間違いないということだけでなく、マニはアンコウから放たれる妙な力も感じていた。

 

(……こいつ敵ではない…のか?)

 

 アンコウはマニを取り囲んでいた兵士をまた斬った。それを見て、マニは意を決する。

 

「おいっ!あんた!赤備えの鎧の連中に気をつけろ!ここにいるやつで抗魔の力を持っているのは連中だけ、他は全員一般兵だ!」

 マニはアンコウにむかって叫んだ。

 

 アンコウは聞こえているのかいないのか、マニのほうを見ることはしない。そして次の瞬間、アンコウは大きく動き出す。

 

「早いッ!」

 アンコウを見ていたマニが思わず叫ぶ。

 不意を突かれた赤備えの兵士が1人、アンコウの剣に首を切り裂かれていた。

 

「く、くそおぉぉ!」

 

 残りの赤備えの兵士たちが、一斉にアンコウに斬りかかる。それを見たマニは痛みを堪えて立ち上がり、乱戦へと突入した。

 

「オオォォォーッ!!」

 

・・・・・・・・・・・・

 

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、」

 

 マニは出血し過ぎている。剣を杖がわりに何とか立ってはいるが、怪我の具合を考えれば、立っていられるほうが不思議だ。

 

 マニの周囲には、動かぬ赤備えの兵士たちが何人も転がっている。

 マニはヒールポーションを取り出し、一気に飲み干す。もう一本取り出し、傷口にかける。そう簡単に回復する怪我ではないが、ましにはなる。

 

 太守側と反乱軍の全体の戦闘はますます激しさを増しているが、ポーションを飲んでいるあいだにマニに斬りかかってくる者は誰もいなかった。

しかし、

 ビチャ! ビチャ! ビチャッ!

 マニの足元近くにまで、遠くから血しぶきが飛んできている。

 マニのまわりでは、今も次々と血しぶきをあげながら太守側の一般兵たちが倒されていた

 

「はははははははーっ!」

「ギィヤァー!」

「グワァーッ!」

 アンコウの楽しげな笑い声と、兵士たちの絶叫がずっとマニの耳に聞こえていた。

 

 マニは、太守側の将兵たちと戦い続けているアンコウを何とも言えない目で見ている。アンコウがいなかったら自分は死んでいたかもしれない。

 しかし、あれが本当に味方かどうかは今もって疑わしい。もしあの男がいま自分に剣をむけてきたら、この体では間違いなく殺されるとマニは思った。

 

「死ねえぇ!裏切り者!」

 

 その時1人の兵士が、手負いのマニを組し易い(くみしやすい)と見たのか、アンコウを避けてマニに走りより、斬りかかってきた。手負いといえども1人で斬りかかってくる一般兵相手に後れをとるマニではない。

 

 疲労と怪我のせいで本来得意とする自在の足さばきで動き回ることはできないが、ほとんど移動することなく、マニは敵の攻撃を避け、そして敵を斬り伏せた。

 マニのまわりに転がる死体もずいぶんと増えている。

 

「……まずいな。目がかすんできた」

 

 マニは襲いかかってきた兵を斬り倒した後、また剣を杖がわりに立ち尽くす。

 今度は、そのかすむマニの視界の先に、マニに向かって真っ直ぐに走ってくる5人ほどの兵士の影が見えた。

 

「クソッ、」

 目がかすんではっきりと確認することはできないが、冒険者の装備ではなく、アネサの守備隊の簡易な装備を身につけた兵士のようだ。

 

「あれも敵か。くっ!キリがない!」

 

 マニは野獣のように歯をむき出しに、剣を構えなおす。しかし、悲鳴をあげるマニの体はわずかに揺れつづけていた。

 

「マニ!お前マニか!」

 近づいてくる兵の1人が、マニにむかって呼びかけてきた。

 

 驚いたマニは目を細めて、その男を凝視する。

「あっ、トマスのおっちゃんか!」

 

 走り寄ってきた兵士の中に、マニの知り合いの男がいた。

 トマスはこのアネサの町で家族とともに肉屋を営んでいる庶民であり、宮仕えをしているわけでも冒険者でもないのだが、若い頃の一時期、傭兵を生業(なりわい)としていた経歴を持つ男だった。

 

 アネサの為政者たちは、そうした戦う能力のある一部の庶民も今回の防衛戦のために狩り出していた。

 

「ハハッ、おっちゃん生きてたか、」

 マニは走ってくるトマスを見てかすかに顔に笑みを浮かべる。

 

 マニは両親が生きていた小さな頃から、トマスのことを知っている。トマスも赤ん坊の頃から親に抱きかかえられて自分の店に買い物に来ていたマニとは、いまでも非常に親しくしている。

 マニは、こういう人たちのために今回は剣をとったつもりだった。

 

 トマスの後ろについて走ってきている4人の兵たちもトマスの知り合いのようで、トマスと同じくこのアネサで生活をする一市民であり、否応なく戦いに動員された者たちだ。

 トマスはさらにスピードをあげて、真っ直ぐにマニにむかって走ってきた。

 

「アハハハハハッ!」

 その時、マニの耳に少し聞き慣れてきた甲高く奇妙な笑い声が聞こえた。

 

 マニはハッとして、トマスを見ていた視線を笑い声が聞こえたほうに移す。

 視線を動かしたマニの視界の中に、トマスたちに向かってもの凄い速さで近づいていく、()()服を着、()()マントをまとい、()()鍋兜(なべかぶと)をかぶった男の姿が映った。

 

「ち、ちがう、やめろぉぉーっ!」

 

 マニの右太ももや体中の傷から流れる血は、ポーションを飲んでもかけても、まだすべてが止まってはいない。

 体中に痛みや疲労を感じながらも、そんなことにはお構いなしに、マニは自分の血をまき散らしながら走り出した。

 

 

「マ、マニ!どうした!?」

 そのマニの行動を見て、トマスは走る足を緩める。トマスの後ろを走る最後尾の男が声をあげた。

「トマス気をつけろっ!右だ!あぶないっ!」

 

 トマスがそれを聞いて右側を向いたとき、そこには人の形をした真っ赤な(かたまり)がいた。

 その真っ赤な塊が、今まさにトマスに向かって剣をふり落とそうとしていた。

 

「あ……」

 トマスは何もできない。

 全身に返り血を浴び真っ赤な(かたまり)になったアンコウが、ためらいなく剣を振りおろす。

 しかし、その剣はトマスにあたらなかった。

ギャンッ!!

 激しい金属音が響いた。マニが何とか間に走り込み、アンコウの剣を受け止めていた。

 

「ぐわあぁぁぁっ!」

 

 アンコウの剣を受けた衝撃で、マニの体中のあちこちの傷口から血が噴き出している。

 

 しかし、マニは全身に力を込めることをやめない。この状態で全力をふるったところで、万全時の半分ほども力は出ていないだろう。

 それでもマニは、トマスに向かって振りおろされたアンコウの剣を止まるため耐え続けた。

 

 マニは、トマスもトマスの妻もトマスの子供たちのことも知っている。まるで家族のような付き合いを続けてきた人たちだ。

 決してその家族の大黒柱であるトマスを自分の目の前で死なせるわけにはいかなかった。

 アンコウの剣を受け止めたマニの片膝が崩れ落ちる。

 

「ぐ、ぐううぅぅっ!」

 

「マ、マニっ。い、いま助けるぞ!」

 トマスは自分を守ろうとしたせいで、危機に陥っているマニを助けるために、アンコウに剣をむけようとした。

 

「やめろ!おっちゃん!剣を引けっ!!」

 マニの必死の叫びが響く。その声のあまりの気迫に、トマスは剣を止めて後ずさりした。

 

「お、おい!あんた!その人たちは敵じゃない!兵士でもないんだ!普通の、がっ…、こ、この町の人たちなんだっ!」

 

 マニは痛みをこらえながら、アンコウにむかって大声で叫んだ。しかし、アンコウは剣を押す力を緩めない。

 

「…どこがだ」

 アンコウはマニにむかって剣を押し込む力を強めながらも、マニの後ろにいる男たちを見て言った。

 

「みんなっ!剣をおろせ!この男に剣をむけるな!」

 

 恐怖にかられて、アンコウにむかって剣を構えていたトマスたち5人は、マニの言葉を聞き、お互いに顔を見合わせながら剣をさげた。

 

「ゴフッ、」

 マニは口から血を吐いた。アンコウは全身を震わせながら耐えているマニを見おろす。

 

「……お前は?」

「…命を助けられて、剣をむけるような真似はしないよ」

 マニは片膝をつき、下からアンコウを鋭い目で見上げながら言った。

 

 アンコウは少し首をかしげながら剣を押す手の力を抜いた。その瞬間、マニは地面にへたり込み、

ゴホッ ゴホォッ と、激しく咳をしはじめた。

 

 剣を引くとアンコウは、咳き込むマニのそばに立ち、またえずきはじめる。

「ウゲッ、…気持ちわりぃ、ウゲッ、」

 

 

「マ、マニ、大丈夫か!」

 トマスは止める仲間を振り切って、マニの近くに駆け寄ってきた。

 

「あ、ああ。大丈夫だよ、おっちゃん。ちょっとヘタ打ったけどね」

 

 トマスはマニの両肩を抱え、心配そうな顔を向けた。

「マニ、この人は………」

 トマスはアンコウのほうを見て聞いた。

「大丈夫、敵じゃない。だから剣をむけちゃ絶対にだめだっ」

 マニは鋭い目でトマスを見ながら言った。

 

 本当はマニも、アンコウが敵ではないという確証は持っていなかったが、この状況でアンコウをこちらから敵に回すようなことは絶対にしてはいけないことだけはわかっていた。

 

「わ、わかった」

 トマスは後ろにいる仲間にも、わかったなと目をむける。後ろの者たちは黙ってうなずいた。

 

 マニは獣人の女らしく、ずいぶんと背が高かったが、それに見劣りしないぐらい肉屋のトマスも立派な体躯をした人間の男だ。マニはトマスに肩を借りて、ゆっくりと立ち上がる。

 マニはゆっくりと立ち上がりながらも、アンコウのほうをじっと見ていた。アンコウは剣を引いてから、何やらずっとウゲウゲとえずいている。

 

「んっ?…あんた、」

 

 マニは間近でアンコウの顔を見て、どこかで見たことのある顔であることに初めて気づいた。

 

 アンコウは、マニたちにアンコウと戦う意志がないことを確認すると、すでに彼女らに興味をなくし、えずきながらも周囲をキョロキョロと見渡していた。

 アンコウのまわりに、自分からアンコウに向かってくる兵士はいなくなっていた。

 

「なぁ、あんた。どこかで会ったことがあるか?」

 マニが問う。

「……ああ、あるな」

 アンコウはマニのほうは見ずに、まわりをキョロキョロと見ながら簡単に答えた。

 

 アンコウはテレサが女将をしていたトグラスで、同じ宿泊客として泊まっていたマニを何度か見かけたことがあったし、迷宮に潜る冒険者たちがよく使う他の店や施設などでも何度かマニを見かけたことがあった。

 

 マニは、アンコウより迷宮のずっと深い層を中心に活動している実力派若手冒険者で、アネサで活動している冒険者の間でマニの名と顔はそれなりに知られていた。

 

「どこでだ?」

「…別に」

 

 そう、顔を知っているからといって話をしたこともなく、別に2人は知り合いではない。ましてや今のアンコウに、戦う気もない手負いのマニに興味などなかった。

 そうしているうちに、アンコウは太守側の者と思われるなかなか強そうな戦士の姿を遠くに見つけた。

 

(………あいつがいいな)

 

「あっ!あんた、確かトグラスで、あっ、おいっ!」

 

 アンコウは、もうマニの言葉を聞いていない。見つけた標的にむかって素早く身をひるがえした。

 アンコウが体を回した遠心力で、アンコウのマントがバサリと半円を描くように動き、そのマントからマニたちに向かって血が飛び散る。

 

 アンコウのマントは薄手の白いレースのカーテンマント。

 しかし、そのマントに白いレースのカーテンが風に舞うような軽やかさはまったく残っていない。返り血に濡れたマントは、ひとかたまりとなって垂れ下がり、赤いものが滴り落ちる重そうな布と化していた。

 

 マニと5人の男たちの顔や体に、アンコウのマントから飛んできたたくさんの血が着いた。しかし、誰もたいして変わりはしない。元々マニも、5人の男たちも、すでに血まみれだったのだから。

 

 戦いがはじまってそれなりの時間が過ぎ、死んだ者も生きている者も血に染まっていない者はここにはいない。

 

 新たな標的にむかって走り出したアンコウの足元の地面も一面血の色に染まっていた。これも当たり前の戦場の風景。この中に入れば、アンコウの全身ピンクの服など迷彩服のようなもの。

 

 ああ、アンコウの服も、もうピンクではなく、赤い服になっていたのだった。

 

 

 

 

 戦いがはじまってかなりの時間が過ぎても、西門付近での戦いは一進一退の拮抗した状態が続いていた。しかし、その勝敗の天秤は一気に片方に傾きはじめる。

 

 北の方向に真っ黒な色の狼煙の煙が上がり、戦場の轟音(ごうおん)に包まれた西門広場で戦う者たちの耳にまで、北の方角から響いてくる兵たちの雄叫びが聞こえた。

 

 アネサの防壁、北の門が破られて、グローソン軍が雪崩を打って攻め入ってきたのだ。

 

 北門はグローソン軍の直接攻撃をうけて破られたわけではない。アネサの町の中に入り込んでいたグローソンの隠密諜報部隊や兵士たち、それにグローソン側に味方した冒険者たちの手によって北門は開け放たれた。

 

 それによって、アネサの防壁の外に陣取っていたグローソンの軍兵たちは、ほぼ無傷のまま、アネサに突入してきた。

 北門付近にいたアネサの将兵たちはあっという間にグローソン軍に飲み込まれ、為すすべもなく打ち倒されていった。

 

 さらにグローソン軍は北門を開放した者たちに先導され、アネサの主力部隊がいる西門にむかって押し寄せてきた。

 すでに反乱軍との戦いで、大きく傷ついていた西門付近にいるアネサの将兵たちは逃げ出すことも叶わず、多くの者が剣を捨てて投降し、それでも抵抗の意志を示す者は次々と斬り捨てられていった。

 

 抵抗するアネサの将兵の中には、かなりの抗魔の力を有するような者もまだ含まれていたようだが、あまりにも軍勢同士の勢いが違う。その最後の抵抗も長くは続かなかった。

 

ウオオオオォォォォーー!!!

 

 アネサの街中に、グローソン軍のさらなる勝ち鬨の声が響き渡る。

 アネサの町中の人間が、アネサが敵の手に落ちたことを知った瞬間だった。

 

・・・・・・・・・・・

 

「ウゲッ」

(気持ちわりぃ)

 戦いが終わってもアンコウはまだえづいていた。

 

 アンコウは西門広場の中心部を少し離れた防壁の近く、自分が斬り殺した多くの兵の死体がまわりを取り囲む中心で空を仰いで倒れていた。

 まだ戦闘が続く中、アンコウの身体は突然ぜんまいのネジが切れたように動けなくなった。

 

 アンコウの体が突然動かなくなったことに、あのエルフに体の中に入れられた精霊の光球は関係ない。

 アンコウは右手に今も握り続けている赤鞘の剣と共鳴を起こして、全力で力を使い続けてきた。圧倒的に力の差がある一般兵1人に対しても敵を真っ二つにする勢いで剣を振るっていたのだ。それを何人も何人も延々と続けていた。

 

 共鳴を起こし、抗魔の力が強化されたことでアンコウの肉体も大幅に強化されてはいたが、それにも当然限界はある。

 アンコウの興奮しきった脳みそは、その肉体の限界が近いことをアンコウに知らせてはくれなかった。

 

 全体の戦闘はまだ終結していないものの、アンコウの周囲で剣を振るい戦闘を行っている者の姿はすでにない。

 アンコウの体のネジが切れる直前に、西門広場の一角にグローソン兵が剣を片手に突入してきており、アンコウの近くに残っていた太守側の兵たちは一斉に逃げ出していた。

 

 アンコウが倒れたとき、1人でもアンコウを殺そうとする者が残っていたならば、アンコウはもうすでに死んでいただろう。

 

「体、動かないなぁ…ククッ、」

 

 未だアンコウの自由に動くのは口だけ、それでもアンコウはまだ上機嫌に笑みを浮かべている。しかし、空を見て地面に転がっているうちにアンコウの意識も少しずつボンヤリとしてきていた。

 

ジャリ、ジャリ、

 

 足音。そんなアンコウの耳に、自分に近づいてくる足音が聞こえた。そして体が動かず、否応なく空を見上げるアンコウの顔をその足音の主がのぞき込んだ。

 

「……アンコウさん?」

 

 のぞき込んできた顔の主とアンコウは目が合った。アンコウの目に映ったのは獣人の女戦士。マニではないが、よく見知った顔であった。

 

「……よう、ホルガ」

 

 ホルガも体中のあちこちに血が着いているようだったが、自分の血ではないようで、ここに来るまでにかなりの戦闘を経てきたことがうかがえる。

 そのホルガが実に(いぶか)しげな顔で上からアンコウを見ていた。

 

 ホルガは知っていた。アンコウはあの屋敷で軟禁されているはずだ。心身の状態もまだ元には戻っていなかったはずなのだ。

 それにもかかわらず、今アンコウは血まみれで、奇妙な姿をして戦場に倒れている。

 

 アンコウの周りに、あまた転がる死体はアンコウの仕業なのだろうとホルガは思う。

 アンコウは倒れて動けないようではあるが、ホルガがこうして見ている分には、アンコウの体に大きな外傷があるようには見えない。

 

「おい、アンコウ。お前こんなところで何していやがる」

 続いてホルガの後ろから野太い男の声がした。ダッジの声だ。

 

 ホルガに続いて、ダッジがアンコウの顔をのぞき込んできた。

 アンコウがかすかに眉間にしわを寄せる。また一段と目がかすんできたようだ。しかし、アンコウの口元には笑みが浮かんだままだ。

 

「おう、ダッジ。前々から思っていたが、まったく見事な山賊づらだな。お前はそのまま血まみれのほうがいいんじゃないのか?ははははっ!ウゲッ、

 まぁ、ちょうどよかったよ。お前らおれを起こしてくれ。まだ戦い足りないんだ。ククッ、こんな楽しい斬り合いは初めてだ。まだ足りねぇ」

 

 ダッジはそんな様子のアンコウを見て、あからさまに顔をしかめ、盛大に舌打ちをした。

 

「チイッ!この野郎は本当に面倒くせぇ」

 

 ダッジはホルガのほうを見て、何やら指図をする。

 

「腹でいい」

「はい」

 

「ああ、ホルガが起こしてくれ。血まみれの汚ぇ山賊づらに抱きかかえられても、ちっとも嬉しくないからな」

 

 アンコウは両手をホルガのほうに差し出そうとするが、両手の指一本、ピクリとも動かなかった。

 ホルガはそんなアンコウの期待に答えるようなことはしない。奴隷のホルガは、主人であるダッジの命令を聞くだけだ。

 

 そしてホルガは少し体を前かがみにして、握った右の拳を大きく後ろに振りかぶり、そのまま勢いよくアンコウの無防備なみぞおち辺りに拳を叩き込んだ。

ドガッッ

「ゲブウッッ!」

 その瞬間、少しずつかすんできていたアンコウの視界が、一気に暗転した。

 ダッジは口も動かなくなったアンコウを真剣な目でしばらく見つめていた。

 

「……ホルガ、そのアンコウの剣に長くは触るな。とりあえず鞘に納めてから、アンコウにくくりつけておけ」

「はい。わかりました」



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第21話 ガルシア再び

 アネサの統治者が、ロンド公からグローソン公へと移って3日目の朝。

 朝靄(あさもや)が消えたばかりの早い時間。アンコウはあの屋敷の敷地内のある中庭のひとつで、庭に転がっていた棒きれを剣に見立てて、自分の体の状態を確かめるように素振りを繰り返していた。

 

「ハッ! フッ! ハッ!」

 

 棒きれをリズムよく振りおろす度にアンコウの身体から汗が飛び散る。アンコウが素振りを始めてから小一時間ほどが過ぎていた。

 

 アンコウは庭に一人きりというわけではない。庭の端に剣を腰にさした屈強そうな男が、アンコウのほうを静かに見つめている。彼はアンコウがこの屋敷で軟禁されて以来、ずっとアンコウの見張りをしている男だ。

 一度アンコウが屋敷を抜け出して、またこの屋敷に連れ戻されて後も彼の任は解かれなかったようである。

 

 そしてもう1人、少し前からアンコウのいる中庭に面した屋敷の廊下の窓から剣を振るアンコウの姿をのぞいている者がいた。アンコウの奴隷であるテレサだ。

 テレサはいつもどおり起きて、アンコウの様子を見に行く途中で庭で素振りをするアンコウの姿を見つけた。

 

(……よかったわ。体のほうももう大丈夫みたいね)

 

 グローソン軍がアネサの町を占領したあの日、この屋敷に軟禁され、部屋で寝ていたはずのアンコウの姿が突然消えた。

 あの時点でアンコウは拷問を受けた体の傷は治っていたものの、精神状態はまだかなり不安定なままだった。そして、テレサたちが気づいたときには、アンコウはすでに屋敷を抜け出した後だった。

 

 当然、自身も軟禁されている状態のテレサには、アンコウを追いかけることも探しに行くことも許されはしない。ただ、アンコウがいなくなっても、テレサは心配はしても、まわりの者たちに特別うろたえる姿を見せることはなかった。

 

 冒険者などをしている者たちは皆、少なからず身勝手で、常に生と死の境界線を行き来している人種だということをテレサはよくわかっている。

 朝、元気良く行ってくるよと出かけて、2度と帰ってこなかった者たちを、テレサはトグラスの宿屋で見つづけてきた。

 

 テレサは迷うこともなく、この屋敷でアンコウが戻ってくるのを待つ覚悟を決めた。

 それにアネサの町中で戦闘がおこなわれているならば、下手に外に出て行くのは愚か者のすることだという分別をテレサは持っていた。

 

 そしてアンコウは、この屋敷を抜け出したその日の夜には帰ってきた。しかし、それはそれはひどい姿だった。

 血まみれで、まったく意識のない状態で運び込まれてきたアンコウを見たとき、テレサはそれは死体だと思った。

 

 呼吸をし、胸が上下しているのを確認したときも、このままアンコウは死ぬのだろうと思ってしまった。

 アンコウを運び込んできた人たちに、大した外傷はないと言われても信じることができず、アンコウの着替えをするために服を脱がして、自分の目でアンコウの体中の傷の具合を確認したとき、初めてテレサはほっとすることができた。

 

 でもアンコウの体が大丈夫だとわかると、次にテレサはアンコウの精神状態がどうなっているのかと絶望的な不安を抱いた。アンコウはこの屋敷を抜け出す前、精神的にかなり不安定な状態にあった。

 

 運び込まれたときのアンコウの姿とまわりの人たちが口にしていたアンコウの戦場での話を聞くと、アンコウが目を覚ましたとき、とてもではないがまともな精神状態ではないだろうとテレサは思った。

 そしてそれは、テレサだけではなく、その場にいたすべての人たちが感じていた。

 

 しかし、アンコウが再び血まみれでこの屋敷に運び込まれた次の日の朝、目が覚めたアンコウの様子はテレサたちが思っていたものとはかなり違うものだった。

 

 

「フゥーッ!」

 アンコウは大きく息を吐き出し、棒きれを振る手を一時止めて、じっと手に持つ棒きれを見る。

 

 アンコウの体の痛みは、この2日間安静にしていただけでほぼ消え、アンコウが剣に見立てて木の棒を振るパワーやスピードは、怪我をする前とまったく変わらないものになっている。

 

 しかし、あの日獣人の戦士ガルシア相手に対等に斬り合いを演じ、戦場となった広場で数えきれないほどの兵士たちを(ほふ)ったときの力は、いま棒きれを振るアンコウには宿っていない。

 

「……呪いの魔剣との共鳴……とか言ってたな。やっぱりあの剣を持ってないと今までどおりなのか……」

 

 アンコウは戦場で倒れ、そのままこの屋敷に運び込まれて、意識が戻ったのは次の日の朝。そして、その時にはすでにアンコウの手元にあの赤鞘の魔剣はなかった。

 この屋敷の者がどこかに持っていったらしい。

 

 アンコウとしても元々あの剣はこの屋敷にあったもので借り物のつもりであったから、それに対して何ら不満はない。

 それに今のアンコウはすこぶる気分が良かった。アンコウがいま感じている気分の良さは、あの剣を持って戦いの中で感じていたイカレた気持ちの良さとはまったく違うものだ。

 

 この屋敷のベッドで目が覚めたとき、例えて言うならば、アンコウは全身余すところなく強度の筋肉痛にでもなったような状態で、少しでも体を動かせば全身に痛みが走り、まともに動くことさえできなかった。

 しかし、体中が痛んでいたが、心は違ったのだ。

 

 アンコウの心は久しぶりに平らかで、かなりの痛みに耐えながらも自分らしさを保ったまま精神をコントロールすることができていた。

 赤鞘の魔剣を振るっていたときの興奮はもちろん、あの地下の牢屋で拷問をうけた後に感じ続けていた強度の不安感や精神の不安定な感覚がまったくなくなっていた。

 

(あの魔剣との共鳴が、俺の精神に影響を与えたせいなのか………) 

 と、アンコウは感じていた。

 

 棒きれを振る手を一時的に止めたアンコウが、チラリと屋敷の窓のほうを見たときに、じっとアンコウの様子を覗っていたテレサと目が合った。

 アンコウと目と目が合ったことに気づいたテレサは、アンコウにむかって軽く頭をさげる。アンコウもテレサに気づいて、笑みを浮かべて軽く手を挙げた。

 そして、アンコウはまたすぐに棒きれを振りはじめる。

 

(……よかった)

 そんなアンコウの姿を見てテレサは素直にそう思う。

 

 テレサはアンコウ同様、この屋敷で現在進行形で軟禁されている身の上だ。当然テレサはいまの現状に、強い不安を抱いている。

(この先どうなるんだろう)という思いは、今も重く心にのしかかっている。

 

 しかし、奴隷の身となったテレサには、たとえ軟禁の身を解かれ、1人この屋敷の外に出られたとしてもそこには自由はない。

 テレサの今の人生は、その奴隷という社会的身分によって、否応なくアンコウと共にある。アンコウの不幸不遇が自分のそれに直結する可能性が極めて高い。

 

 だからテレサが今、アンコウの元気そうな姿を見て喜びを感じている心情には、単純にアンコウの回復を喜んでいるだけでなく、当然、打算保身の勘定も含まれている。それもまた、テレサのごく自然で当然な感情なのだ。

 

 テレサは自由の身と奴隷の身どちらがよいと単純に聞かれたら、むろん自由の身と答えるだろう。しかし、一度奴隷の身に落ちた者が再び自由を得る困難さは、この世界で生まれ育ち、生き抜いてきたテレサはよく知っている。

 

 そのうえで、テレサは自分の人生を生きるということを決して諦めてはいなかった。

 自由の身であっても苦痛と絶望に染まる人生もあれば、逆に奴隷の身であっても、幸せと希望とともにある人生もある。そのことも、テレサは自分の人生の経験として知っていた。

 

 この先の人生を奴隷の身で生きなければならないのなら、テレサは自分の所有者として、アンコウは()()()の部類であると、アンコウの奴隷となったこの4ヶ月ほどで見極めていた。そのアンコウに、あんな形で壊れられては困るのだ。

 

 いまの状況でアンコウに狂人などになられたら、その時点で、今テレサの手の中にある幸福や希望のほとんどが崩壊してしまう。

 奴隷の身では、それらが修復不可能なまでに壊れてしまっても、自分の意志だけで逃げ出すことも新たな一歩を踏み出すことも許されない。その事実をテレサは客観的にきちんと認識できていた。

 

 

「ハァーッ、これぐらいにしておくか」

 アンコウはそう言うと歩き出し、手に持っていた木の棒きれを中庭の隅ほうに立て掛けた。

 

 武器を持つことは許されず、いつまでここにいることになるのかわからない以上、またこの棒切れを使うこともあるかもなとアンコウは思い、それについた汚れをきれいに払って、なるべく雨がかかりそうにない場所を木の棒きれの置き場所に選んだ。

 

「ふふふ、朝から殊勝(しゅしょう)なことだ。戦士たる者、日々の研鑽(けんさん)は欠かしてはならぬものだ」

 突然アンコウの頭の上から、低く重々しい男の声が聞こえた。

 

 それは、アンコウがつい最近聞いた憶えのある声。その声の主の正体に思い当たった瞬間、アンコウの背中から汗が噴き出してくる。

 と同時に、アンコウはその声のほうを見ることなく、屋敷の中に入るべく走り出した。しかし、

 

ザアンッ!!

 アンコウの目の前に上から何かが落ちてきた。

「くっ!!」

 アンコウは今度は走る足に急ブレーキをかける。

ズザザザザアァァァァー

 何とかアンコウは土や砂を飛ばしながらも停止した。

 

 止まったアンコウの目の前には、上から落ちてきた巨躯(きょく)の獣人の男が巨大な壁のごとく立ちはだかっていた。

 

「どうした、今日はえらく遅いな?準備運動が足りてないのではないのか?」

 獣人の男が、からかうような口調でアンコウを見下ろして言う。

「!!~~!!」

 

 そう、アンコウの目の前に立ちはだかる声の主は、先日のグローソン軍侵攻の日、あのエルフと共にアンコウの前に現れ、アンコウと激しい剣戟をまじえたいた獣人の戦士ガルシアだ。

 

 アンコウはガルシアをにらみつけるが声は出ない。アンコウは一気に口の中が乾いていくのを感じていた。一方ガルシアは悠然とアンコウを見据えている。

 アンコウは、いまにも震えだそうとする体を必死で抑えていた。

 

「このあいだの戦いはずいぶんと楽しかった。貴様も楽しんでいただろう」

 ガルシアがアンコウにむかって言った。

 

 確かにあの日、アンコウはこの獣人の戦士との戦いを楽しんでいた。今現在のアンコウも、あの日のガルシアとの戦いを楽しんでいた自分の姿、感情をはっきりと記憶している。

 しかし、あの時感じていた快感にも似た興奮を今のアンコウは毛ほども感じることはない。

 

(や、やばい、やばい、)

 今のアンコウがガルシアを見て感じるのは、ただ恐怖のみ。ただ危険信号のみが、アンコウの体の中を駆け巡っている。

 

「ふむ、この私とあれほどの戦いを演じた男が、そのような顔でただ逃げるのか」

 そう言ってガルシアはわずかに眉をしかめた。

「ふむ。予想はしていたことではあるが、思っていた以上に不愉快だな」

 

 ガルシアは先日アンコウと斬り合ったときとまったく同じ装備を身につけていた。

 そして、ガルシアは腰の大剣の柄に手をやり、アンコウにむかって足を踏み出すと同時に剣を引き抜いた。

 

ゴオオォォッ!

 うなりをあげながら一閃されたガルシアの剣が、アンコウの顔の真横で止まる。

 アンコウはまったく反応することができず、その場からピクリとも動けなくなった。しかし、

 

「ほう、」

 今もそらすことなくアンコウの目を見すえているガルシアが、少し興味深そうに声をあげた。

 

 寸止めされたガルシアの剣圧を顔の真横で感じたはずのアンコウの目から、先ほどまで浮かんでいた恐怖の色が消えていたのだ。

 

 アンコウはガルシアにまったく敵わないとわかってはいたが、先日斬り合ったときのガルシアの剣には今の一刀とは比べものにならないぐらいの殺気が込められていた。

 今のガルシアの一刀が、本気でアンコウを斬るつもりがないことは明らかであった。それに、

 

(……いい加減にしてくれ)

 このところアンコウの身に続く血なまぐさいトラブル、いまアンコウは冷静に腹の底から(いか)ってもいた。

 

「……ふむ」

 

 ガルシアはゆっくりと剣を下におろす。

 

「……なるほど。共鳴を起こすような者がただの臆病者であるはずがないか。くっくっ、面白い。貴様にはもう少しつき合ってもらうぞ」

 ガルシアは目を大きく見開いて、断定的に言い切った。

 

 そのガルシアの言いように、アンコウの否やが聞き入れられる余地はありそうもない。そのガルシアの目を見て、アンコウの目の力が弱くなっていく。

 

「はあぁぁ、」

 アンコウはガルシアから目を逸らし、下を向いて小さくため息をつく。

(……勘弁してくれよ)

 

 自分に拒否権のないことを悟っているアンコウは、心の中でただ嘆くしかない。

 

 

「おい、お前。ビジットを呼んできてくれ」

 

 ガルシアは、中庭の端で呆然と立ち尽くしているアンコウにくっついてきていた見張りの男に言った。

 

「は、はいっ!わかりました!」

 男はそう言うと、もの凄い速さで屋敷の中に消えていく。

 

 アンコウは頭上からガルシアの声が聞こえたときは、心臓が口から飛び出すかと思うぐらい驚いたが、今は本人も驚くほど落ち着きを取り戻していた。

 

 いろいろあって俺もマゾに目覚めたか、ビジットって誰だよ、などとアンコウは心の中で突っ込んでいたが、口にはしない。

 しかし、この状況でそんなことが頭によぎる程度には、アンコウにはなぜか余裕ができていた。

 

 アンコウはガルシアの鎧の胸の紋章をあらためてみる。先日の邂逅(かいこう)の時にも確認していたが、ガルシアの鎧にはグローソンの紋章が刻まれている。

 

(……やはりグローソンの武人か)

 先ほどの見張りの反応も、ひどく驚いてはいたが、あの男もガルシアのことを見知っているようであった。

(しかし、そうなるとあのエルフもなのか……)

 

 この世界の政治権力のことにはあまり関心がなく、そういった関係の知識も豊富とは言いがたいアンコウだ。

 だがしかし、この世界で得た常識的な感覚として、やはりこのウィンド王国の支配者種族であり、あの自由傲慢とも言うべき種族的特徴を持つエルフが、ウィンド王国内にある人間族の一地方領主に過ぎないグローソン公に(こうべ)を垂れ、仕えているということにはいささか違和感がある。

 

 その時、アンコウの耳に「だ、旦那様、」と自分を呼ぶテレサの声が聞こえた。

 

 

 テレサが廊下の窓からアンコウを見ていると、屋根の上から突然巨躯の獣人の男が現れ、アンコウにむかっていきなり剣を引き抜いたのを見て、テレサはただ驚き混乱した。

 どうしてよいかわからず混乱しているうちに、ガルシアが剣をさげ、何やらアンコウと話をしはじめたのを見て、テレサは思わず自分も中庭に飛び出していた。

 

 しかし、勢いよく飛び出したのは良いものの、より近くで大剣を抜き身で手にしている巨躯の獣人戦士ガルシアを目にしたとき、テレサは自分の体が震え続けていることに気がついた。

 

 アンコウは自分に声をかけてきたテレサを見て、驚き顔をしかめた。

「テレサ、何をやってるんだ!?」

 

 テレサはいつのまにか、さっきまでアンコウが素振りに使っていた木の棒きれを手に握っていた。

 テレサは別にそれでガルシアと戦うつもりだったわけではない。アンコウに声をかけられるまでは、本人も自分が木の棒を手にしていることを意識すらしていなかったぐらいだ。

 

 外に野犬がいるかもしれない、泥棒がいるかもしれないと思ったときには、人は無意識に身近にあるものを身を守るための武器代わりとして手にとるだろう。

 しかも今は、かもしれないではなく、犬や泥棒よりもはるかに恐ろしげなものが間違いなくテレサの目の前にいる。

 

 テレサは弱者ゆえの無意識の反応で、小刻みに震える手に棒きれを握ぎり、その棒きれの先をガルシアにむけてしまっていた。

 

 そのテレサの様子を見てアンコウは、先日の西門広場での戦闘を思い出した。

 赤鞘の魔剣を握るアンコウは自分に敵意をむける者をためらいなく斬り殺した。アンコウが斬り殺したのは、敵の兵士だけではなかった。

 

 あの広場には多くの一般の市民も集まっていたが、その中には倒れた兵士から手に入れたものであったのか、アンコウに剣をむける一般市民と思われる者たちもいた。

 彼らにしてみれば、アンコウの常軌を逸した戦いぶりを見て、ただ恐怖し剣を手に持っただけの者も少なからずいただろう。

 

 しかし、アンコウはそのようなことは一切考慮せず、自分に剣をむける者は容赦なく斬り倒した。

 

 ガルシアの視線はすでに自分に木の棒きれを向けるテレサのほうにむけられている。

「……ふむ」

 そしてガルシアは視線だけでなく、体全体の向きを変え、テレサを正面に見据えた。

 

「テレサ!それを捨てろ!」

 アンコウはテレサに鋭く命じた。

 

 アンコウはテレサに命じながら、素早くテレサとガルシアの間に移動した。

ドサッ、とアンコウのうしろで何かが地面に落ちた音がした。テレサが持っていた木の棒をあわてて手放したのだろう。

 

 アンコウがあらためてガルシアのほうを(うかが)うと、ガルシアは険しい表情でアンコウの顔を見ていた。

 

「………貴様、何のつもりだ。わずかに目に殺気が浮かんでいるぞ」

「……いや、別に…」

「気に入らんな」

「べつに殺気なんかは、」

「殺気が問題なのではない。戦士が敵に殺気を放つのは当たり前のことだ」

 

「…………」

 アンコウは口を開かず、どういう事だとガルシアのほうをうかがう。

 

「貴様、私がその女に何かするとでも思ったのだろう」

 

 ガルシアはそう言うと鋭い目つきでアンコウをにらんだ。先ほどの寸止めの一刀よりも、殺気のこもった圧がすごい。

 

「うっ……」

 アンコウは、思わず半歩片足をうしろにさげた。

 

「このガルシアはゼルセ様の忠実な従僕にして、一個の戦士であることを何よりの誇りとする者。ただの木ぎれを持った怯えた女に誇り高き我が剣をむけるような真似はせぬわっ!

 貴様は仮にもこの私と命を賭け、魂の剣を交えた男であろう。戦士として剣をまじえた男から、力なき女に剣をむけるような卑劣漢扱いをうけるのは侮辱以外の何ものでもない!」

 

 ガルシアはそう怒声を発すると、下にさげていた剣をアンコウにむかってゆっくりとあげてきた。

 アンコウはガルシアを怒らせたのが、テレサではなく自分の行動だったことに気づき、余計なことをしてしまったとあわてて取り繕おうとする。

 

「ご、誤解だ!あんたを侮辱するつもりなんかは毛頭ない。あんたは強く、気高い本当の戦士だ!そ、それはこのあいだ剣を交えてみてよくわかった。あんたが繰り出してきた剣戟のすべてに、間違いなく真の戦士の魂がこもっていたよ!」

 

 それを聞いて、ガルシアの顔に満足そうな色が浮かんできた。

 実際にはアンコウはガルシアと戦っていたときに、そんなことはまったく感じていなかったが、このガルシアという男が喜びそうな言葉を選んで、とっさに口から出た言葉だ。

 

 しかし思いのほかガルシアの表情が変化したのを見て、アンコウはさらにガルシアが喜びそうなセリフを考え、言葉にする。

 

「それにあんたの主人のゼルセ様だったか、おれなんかが今までに見たことがない素晴らしい気品のあふれる方だった。あんたの剣はあの人を守るのにふさわしいものだ!」

「おお、そうか!貴様にはそれがわかるか!…うむ、共鳴者であることはダテではないようだな。戦士の剣にはそれにふさわしい働きの場が必要なのだ」

 

 ガルシアはアンコウにむけていた剣をさげ、1人納得したようにうなずいている。それを見て、アンコウは大きく息を吐いた。

 

(こいつ、結構単純だな)

 アンコウには戦士たる者うんぬんなどと言う理屈はわからない。

 アンコウの剣は今を生き抜くためだけのもの。ガルシアのような戦う美学などアンコウは持ち合わせていなかったし、必要ともしていなかった。

 ただ、生き抜くためなら口八丁手八丁も剣と変わらぬ武器であるとアンコウは考えている。

 

「その女は貴様の奴隷か?」

 そう聞いてきたガルシアの声にはまったく怒気は含まれていなかった。アンコウはとりあえず、ひと安心して答えた。

「……ああ、そうだ」

「うむ」

 

 ガルシアはテレサに向かって歩き出し、アンコウの横をすり抜けていく。アンコウは今度はそれを邪魔するようなことはしない。

 テレサは息を飲んでガルシアが自分に近づいてくるのを見ていた。テレサはその場から一歩も動かない。いや、緊張で体が動かなかった。

 

 テレサの間近まできて、ようやくガルシアは足を止めた。テレサは自分の目の前に、突然大きい壁ができたような威圧感を感じていた。

 

 じつはガルシアのこの行動に、特別な意味は何もない。

 ガルシアとしては、先ほどまでここにいた見張りの男が、ビジットという男を連れてくるまでの単なる時間つぶしでしているだけのこと。

 

 その時間つぶしのために、アンコウや特にテレサはひどい精神的重圧をうける羽目になっていた。

 

「女、お(ぬし)名前は?」

「……は、はい…」

 

 テレサは顔を上げることができない。何とか返事はしたが、それ以上言葉が出てこない。

 先ほどガルシアがアンコウにみせた怒気が、今もテレサの目に焼き付いていた。アンコウでさえたじろぐほどものに、テレサが恐怖しないわけがない。

 

 その時テレサの視界に、自分に近づいてくるアンコウの姿が見えた。

(あっ、旦那様)

 アンコウはそのまま自然な歩く速度でテレサたちのところまで近づいてきた。

 

「その女の名前はテレサだ」

 アンコウはテレサのほうもガルシアのほうも見ずに、ごく自然な口調でテレサの少し横に転がっていた例の棒きれを拾いながら答えた。

 

「ほう、テレサか。なかなかよい名だな」

 テレサの頭の上のほうから、ガルシアの声がした。

 

 そしてアンコウは、その木の棒を持って、そのままテレサの斜め後ろに歩き去っていく。

(えっ!?ちょ、ちょっと、)

 テレサは何もしてくれず、遠ざかって行くアンコウを目で追った。

 

 アンコウとしては先ほどのガルシアの言葉と態度で、共感はしないが戦士の誇りとやらが大事なガルシアは、テレサを傷つけるようなことはしないだろうと確信が持てていた。

 ならば自分が下手にあいだに入ると、さっきのように何が地雷かよくわからないガルシアに余計な刺激を与えかねないので、ガルシアの話し相手はしばらくテレサに任しておくことにした。

 

(まぁ、どのみちこのまま部屋に戻れはしないだろうからな)

 アンコウは先ほどガルシアが自分に言った もう少しつき合ってもらうという言葉を思い出していた。

 

 あれは別に話し相手になってもらうなどというかわいらしいものではない。

 先ほどは寸止めの一刀のみで、ガルシアは剣を引いた。その続きをつき合えとガルシアは言ったのだと、アンコウにはよくわかっていた。

 

(つき合いたくないが、逃がしてはもらえないだろうな)

はあぁぁっ と、 アンコウはため息をつきながら、木の棒を元の場所に立て掛けた。

 

 

「テレサ、というのか」

「は、はい」

「奴隷とはいえ、女の身で主人の危機に飛び出してくるとは見上げたものだ。私も我が主に絶対の忠節を誓う身として思うところがあった。誉めてやろう」

 

 テレサとしては絶対の忠節などという大仰(おおぎょう)なものはなく、気がつけばアンコウの元へと体が動いていただけのこと。

 

「そ、そんな、私などとあなた様とでは比べものになりません。恐れ多い、」

「はっはっは、謙遜しなくていい。力や身分の問題ではなく、心意気の問題なのだ」

 

 ガルシアは笑いを納めると再びテレサのことをながめていた。

 

「なかなかよい奴隷を持っているな。アンコウ!この者は戦闘にも使えるのか!」

 

 ガルシアは少し大きな声で、少し離れたところにいるアンコウに聞いた。

 

「いや、その女は家事雑役が専門ですよ。戦いには使わない」

 

 アンコウは少し離れたところから動かずに答える。それを聞いてガルシアは再び視線をテレサのほうに戻した。

 

「ふむ、戦う素質はあるようにも見えるのだがな」

「い、いえ、戦うのは無理です!」

 テレサは少しあせって答えた。

 

「ふむ、そうか。しかし、先ほどの心構えがあるのなら、充分に主に仕えることができるだろう。戦うことだけがお主らのようなものの仕事ではないからな。

 うむ。アンコウよりはいくらか年上のようだが、なかなか美しくもあるし、年嵩(としかさ)の女でないとできない心遣いというものもあるからな」

 

 そう言うとガルシアはテレサの体に手を伸ばし、テレサの胸と腰回りを触りはじめた。

 

「なっ、…ちょっ、や、やめてください!」

 突然のガルシアの行動にテレサは身をよじり、逃げようとする。

「動くな。触りにくいだろう」

「なっ!」

 テレサはそれまでずっと下を向いていたのだが、思わず顔をあげたテレサはガルシアと目が合ってしまった。

「ひっ、」

 間近でガルシアの眼光に射貫かれたテレサは、また体が硬直してしまったようだ。

 

「うむ、それでいい」

 

 少し離れているといっても、アンコウはガルシアやテレサの表情の細かな変化までも、その目で確かめることができている。

(な、なんだあいつ、) アンコウはガルシアが突然テレサの体を触りだしたのには驚いたが、そのガルシアの様子を見て首をかしげた。

 

 アンコウにはガルシアが欲情して、テレサを触りだしたようには見えていない。

 

(………ああ、あれに似ているな)

 アンコウはテッグカンの奴隷屋で見た、あの店の(あるじ)がテレサを触りながらアンコウに売り文句を言っていたときの女の触り方に、今のガルシアの感じがなんとなく似ていると思った。

 アンコウは冷静にただ見ている、動こうとはしない。

 

「……しかし、こんな朝っぱらからお天道様の下で見たいもんではないな……」

 アンコウはちょっとの間の2人の攻防?を見て、小さな声でつぶやいた。

 

 ガルシアから男の下心は感じられないとはいえ、嫌がる女の胸や尻を無表情で触る巨躯の獣人という目の前の絵面(えづら)自体は、なかなかのものだ。

(……まったく、なにが戦士の誇りだよ)

 

 

「ああっ、…いやっ、」

「うむ、胸もなかなか大きく、よい腰回りをしている。女としてもなかなかよい奴隷のようだ。少しとうは立っているようだが、主人に尽くせよ」

 

 ガルシアは、いたって普通にそう言って、ようやくテレサを離した。

 しかし、アンコウもガルシアのこの一連の行動言動に、さすがに引いていた。

 

 この世界では奴隷は文字どおり、持ち主の所有物。ある意味モノ扱いして当たり前であるのだが、何をするにしても、それが許される時と場所というものがある。

 今のガルシアの行動は、この世界の感覚でも明らかにズレている。しかも、ガルシアにはまったく自覚がなさそうだ。

 

 アンコウは剣を抜き合うのとはまた別の意味で、ガルシアとはあまり関わり合いになりたくないなと思った。

 

「アンコウよ!この奴隷の女もなかなかよいものであるようだ、貴様はよい目を持っておる!先ほどの我が主と私への評価といい、貴様は物事の本質を見極め、価値を知る智の素養があるようだな」

 ガルシアはアンコウのほうを見て、まったく悪気なく強い口調で言った。

 

 他人の女の胸と尻を触った挙げ句に何を言ってんだ、これっぽっちも真実味がねぇ、とアンコウは思う。今アンコウがその目で見たものと、ガルシアが吐いたセリフとの落差がありすぎた。

 ガルシアとしては、単に先ほどアンコウに主人と自分のことをよく言ってもらった返礼のつもりででもあったのだろうか、実に堂々とした態度を保っていた。

 

「……そいつは、どうも…… 」

 

 アンコウはそんなガルシアを見て、体から力が抜けていくのを感じた。

(……このオッサン、絶対変わりもんだ)

 アンコウのガルシアに対する評価が少し変わった。



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第22話 仕合いが死合いに

 突然アンコウたちがいる中庭に、1人の男が屋敷の中から息を切らしながら飛び出してきた。

 

「ハァ、ハァ、ガ、ガルシア様、お久しぶりにございます」

 

 そして、その男はガルシアに深々と頭をさげている。アンコウはその男の顔に見覚えがあった。

 アンコウが例の魔剣と共鳴を起こし、魔剣酔いといわれる状態となってしまい、自分の中から湧きあがる興奮に飲まれるままに軟禁されていたこの屋敷を抜け出そうとした時、アンコウを追いかけてきたダークエルフの男だった。

 

「あのダークエルフ、あの時の……」

 

 そして、その男のうしろには、先程までこの中庭にいたアンコウの見張り役の男がついてきていた。

 ガルシアに頭をさげているダークエルフの男は、数日前のアネサ攻防戦が行われている時、この屋敷の留守居役を命じられていたことからも、この屋敷での地位は高いはずだ。

 

「おお、ビジット!来たか!」

 

(……あいつがビジットなのか)

 アンコウは少し真剣な目つきになり、ガルシアたちのほうを見ている。

 

 ビジットは、そのままガルシアに対して挨拶を続けている。

 ビジットの声はガルシアほど大きくなく、アンコウにはその内容まではわからなかったが、ビジットがガルシアにかなり気を使っている様子なのは見てとれた。

 

(ガルシアは、あのエルフの従僕だって自分で言っていたからな。グローソンでの地位もそれなりにあるのかもな)

 

 エルフはこのウィンド王国の支配種族。ガルシアの主であるゼルセはそのエルフであり、ゼルセのグローソンでの立場がどのようなものであれ、軽く扱われているはずがない。

 ガルシアは、そのゼルセと共に行動しているような従僕だ。ビジットあたりでは、従僕のガルシア相手にも頭が上がらないのだろう。

 

(まぁ、あのエルフの従僕じゃなくても、ガルシアのやつはとんでもなく強いからな)

 

 この世界では、アンコウが元いた世界よりも純粋に個の強さというものが尊ばれ、実際にこの世界で個が持ち得る戦闘能力の高さというものは驚くべきものがある。

 

 アンコウはその場から動かずに、2人の様子をうかがっている。そして、そのアンコウのすぐ後ろには、テレサが控えていた。

 

 アンコウが、じっとガルシアとビジットの2人を見ているのに対して、テレサはチラチラとアンコウのほうに恨めしそうな目をむけてきていた。

 さっきテレサがガルシアにからまれていた(?)時に、アンコウが何もしてくれなかったことに不満を感じているらしい。

 

 アンコウはその視線に気づいてはいるが、ただ、(……鬱陶しいな)くらいに思っていた。

 アンコウは、これからここで起こるだろう事をなんとなく予想ができていた。それを思えば、ちょっと体を触られた程度のテレサの不満につき合っている余裕はない。

 

 テレサを無視して、アンコウがじっと見つめる視線の先で、

 

「し、しかし、あれは!」

「いいから持ってこい。これ以上同じことを言わせるな」

 

 ガルシアににらまれて、ビジットは口をつぐんだ。アンコウは黙って、その成り行きを見守っている。

 

「ビジットよ。私がいるのだぞ。何の問題がある」

「は、はい、」

 ビジットの顔にはまだ逡巡がある。

「それにこれはゼルセ様の命をうけてのことだ」

「ゼルセ様の……わかりました」

 

 ビジットはようやく何事かガルシアに同意すると、ガルシアに頭をさげて、再び急ぎ足で屋敷の中に入っていった。

 ガルシアはビジットがいなくなっても、もうアンコウたちに話しかけてはこなかった。アンコウの心の中で少しずつ緊張感が高まっていき、心臓の鼓動が大きくなっていく。

 

(あいつは……取りに行ったんだろうな)

 

 アンコウは急いで屋敷の中に戻っていったビジットのことを思う。

 ビジットが屋敷に消えてしばらくの時間が過ぎても、アンコウの視線の先に一人いるガルシアは、ごく自然な態度を崩すことなくただそこに立っていた。アンコウは、これから自分があの男に要求されるであろう事の察しはついている。

 

(拒否しても無駄だろうな、あのエルフの命とか言ってたし、)

 ハアァァー、とアンコウは腹の底から大きなため息をついた。

 

「あ、あの旦那様、どうかしましたか?」

 

 さすがにテレサもアンコウの様子がおかしいことに気づき、少し心配そうに尋ねてきた。アンコウは声をかけてきたテレサのほうを見る。

 テレサはアンコウのすぐ後ろに立っている。アンコウが見つめるテレサの目からは、先ほどまでの恨めしげな色は消えていた。

 

(テレサを一晩すきにしてもいいって言ってもだめだろうな。あのオッサン、そういうところは堅物そうだ)

 

 テレサの顔を見て、よからぬ事を考えたアンコウの視線に何か嫌なものでも感じたのか、テレサは怪訝(けげん)そうな顔をして少しアンコウから身を引いた。

 

「……はあぁぁーっ、」

ピシャッ!

 アンコウはもう一度ため息をついてから、自分に気合いを入れるように軽く頬を両手でたたいた。

 そしてアンコウは、そのまま目をつぶったまま動かない。

 

(仕方がないな。何たって虜囚の身の上だ。ハナから選択肢なんかないんだ)

 アンコウは意を決したように顔をあげ、空を仰いだ。

(……ああ、そうか。今のおれは自由じゃないんだな)

 

 そう、自由のない者に選択肢など存在しない。アンコウは見上げる空の雲が、やけに遠くに感じた。

 

「旦那様?」

 

 アンコウは、再び呼びかけてきたテレサの顔を再びジッと見る。そしてアンコウは、その視線をテレサの体のほうに移す。

(ああ。そういえば、最近女を抱いてなかったな)

 アンコウは久しぶりに女の体に惹かれる感情をおぼえていた。

 

 テレサはそのアンコウの目の色の変化の意味をすぐに察知して、少し身を縮こませる。アンコウはテレサの体から目を離して、今度はテレサと目を合わせつつ、やわらかな笑みを浮かべた。

 

 (はた)から見れば、特別いやらしさを感じるような笑みではなかったが、テレサはアンコウのその目に浮かぶ熱の意味をきちんと理解していた。

 理解したうえで、テレサはアンコウに優しく微笑み返した。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

「ガルシア様、お持ちしました」

 再び屋敷の中から現れたビジットが、ガルシアの前に立つ。

「うむ」

 ガルシアは太く毛深い手を伸ばし、ビジットが差し出した物をつかみ取る。

 

 それは塗りが少し剥がれかけた赤鞘の剣。アンコウもガルシアが手にしたその剣をじっと見つめている。

 

(……やっぱりな) 

 アンコウ予想どおりの展開だが、どうしようもなく気が重くなるのは止めることができない。

 

「……ガルシア様」

 ビジットは、先日アンコウがこの剣を手にしていた時のことをその目で見ているし、その後の戦場での事も、すべて報告を受けて承知していた。

 ビジットは、なぜガルシアがアンコウとこの魔剣のことを知り得たのかはわからなかったが、この方たちならどこからでも情報は入ってくるのだろうと思っていた。

 

「なぜかはわかりませんが、あやつはこの剣を持つと力が増し、狂うかもしれません」

「心配するな。どのようになろうが私が抑える。それにこのあいだのような狂い方は恐らくしないだろう」

「…はっ、」

 やはり知っているようだとビジットは思う。

 

「それに正確には狂うのではなく、あれでも共鳴なのだがな」

 ガルシアはビジットの前から離れ、アンコウのほうに足を踏み出しながら言った。

「なっ!共鳴!」

 ビジットは共鳴であるとは思っていなかったのか、ひどく驚いていた。

 

 あの赤鞘の魔剣は呪いの魔剣。以前試しにその剣を抜いた者たちの変化と比べても、アンコウだけが特異な影響を受けていた。

 そもそも本来呪いの魔武具の影響を受けて、その使用者の力が増すことなどない。使用者の能力に負の影響を与えるからこその『呪い』なのだから。

 

 ビジットもおかしな事であるとは思っていた。

 しかし、それでもすぐにアンコウの戦闘能力が増した理由が呪いの魔剣との共鳴の結果だとは思わなかったのは、それだけ呪いの魔剣との共鳴を起こす者が珍しいからだろう。

 

 アンコウは呪いの魔剣と共鳴を起こし、抗魔の力が増したことで戦闘能力が大きく向上したが、同時に人格を含めたアンコウの精神に大きな変容をもたらした。

 

(呪い憑きの魔剣であることに違いはない)

 ガルシアが知っている他の魔武具との共鳴者が、このあいだのアンコウのような物狂いのようなザマになったということをガルシアは見たことも聞いたこともなかった。

 

 まれに現れる共鳴者のなかで、さらに一部の者に起きるという魔武具に酔うという初期症状を考慮に入れても、このあいだのアンコウの様子はやはり異様だった。

 アンコウの場合、誰が見ても、酔うというよりも明らかに狂うというほうに近かった。

 

(ゼルセ様は、魔剣に宿る呪いといわれている力の影響だろうと(おっしゃ)っていた。力は増すが人格に変質を伴うか。

 魔剣酔いによる一時的なものでないのなら魔剣酔いがおさまったとしても、その影響が完全になくなりはしないだろう……さて、それがどの程度のものなのか)

 

 ガルシアは赤鞘の魔剣を持って、アンコウの前まで歩いてきた。

 

「貴様も共鳴を起こした魔剣が呪い憑きとはな。因果なものだ」

 

 アンコウはガルシアが手にして持ってきた赤鞘の魔剣を見る。

 呪い憑きで、つくられた時から一度も決まった持ち主がいないボロい魔武具。仮に呪い憑きでなかったとしても、そこまで優れた魔剣というわけでもない。

 

 誰に惜しまれることもなく、しかし、たまたま処分されることもなく、倉庫に眠っていた剣。

 

 アンコウは、初めてあの物置部屋でこの魔剣を見たときほどではないが、今もこの魔剣を目にしていると、なぜか妙に惹きつけられる力を感じてしまう。

 しかし今のアンコウは、この魔剣との共鳴が自分にどんな変化をもたらしたのか、完全に記憶している。

 

「因果だろうが何だろうが、その剣を抜かなきゃ問題ないだろう」

 

 そう言ったアンコウに、ガルシアは手に持った剣をさしだしてきた。アンコウは、あからさまに眉をしかめてみせる。

 

「少々つき合ってもらおうか。貴様にはこれを持って、私と手合わせをしてもらう」

「……一応聞くけど、おれに拒否権はあるのか?」

「ゼルセ様の命をうけてきたが、先日のことを思い出せば楽しみでもあるな」

 

(……この野郎。おれの意見は全然聞く気がないな)

 はあぁ、アンコウはため息をつきながら頭をかく。

「おれに戦いを楽しむ趣味はないんだ。いくら強くなっても、頭がおかしくなるのはごめんだ」

 

 アンコウが命を賭けて剣を抜くのは金のため生活のためだ。しかし、あの剣を抜いて戦っていた時のアンコウは違う。

 命を賭けて戦うこと、人を斬ることにひどく興奮し、ある種の快感すら覚えていた。

(あれはおれだが、おれではない)アンコウはそう思っている。

 

「吐き気はおさまっているか?」

 

 ガルシアはアンコウに、突然そう言ってきた。アンコウは何のことかと怪訝(けげん)そうに首をかしげる。

 

「貴様、ゼルセ様から光の精霊球をその体の中に入れられた後、妙な吐き気が続いていたはずだが」

「……ああ、あれのことか」

 

 アンコウはすっかり忘れていたが、確かにあのエルフから精霊法術をうけて気を失い、目が覚めた後、広場で剣を振るっている間中、胸に何とも言えない違和感を感じ続けていて、アンコウはずっと嘔吐(えず)いていた。

 

(ここで目が覚めた時にはなくなっていたから、すっかり忘れてたな)

「あれならとっくにおさまってるよ。そう言えば、あの光の球は何だったんだ?」

 

「魔剣酔いの症状は共鳴を起こした者すべてに出るわけではないし、出ても初めのうちだけだ。

 遅かれ早かれいずれおさまるのだが、ゼルセ様が貴様にしたことは、いうなれば不協和音を発している貴様と魔剣との共鳴をより早く正常なものにするための手助けをされたのだ。

 あの吐き気はその副作用のようなものだ。それがなくなっているのなら魔剣酔いもおさまっているはずだ。貴様がこの剣を抜いても、このあいだほどまでのひどいザマにはなるまい」

 

 アンコウはそう言われても、ガルシアが差し出す剣をすぐに取ろうとはしない。

 

「今、あんたが言ったことで2つ聞きたいことがある」

「ふむ。それに答えればこの剣を取るか?」

 

 アンコウはガルシアの顔を見て、口元に皮肉な笑みを浮かべる。

 

「その剣はどっちにしても取らないといけないんだろう?」

「………ふむ。いいだろう、もう少しおしゃべりにつき合ってやろう」

 

 ガルシアはアンコウに差し出していた赤鞘の魔剣をまた下にさげた。ガルシアは、アンコウに話すように目で促す。

 それに応じて、アンコウは話し出した。

 

「あれほどまでのひどいザマにはならないって言ったよな、それじゃあ、ある程度まではなるということなのか?」

 

「それはわからん。あの時の貴様の物狂いぶりは、単に共鳴による魔剣酔いによってのみ引き起こされてたものではない。恐らく、呪いの魔剣の呪力作用が貴様に与えた影響がまずあって、それに共鳴を起こしたことによる魔剣酔いがさらに影響を与えたのだとみている」

 

「………魔剣酔いはおさまっても、呪いの影響はどの程度かは残るということか?」

「そういうことだ。それがどのようなものかを確認したいということもある」

「なぜだ、何でそんなことの確認がしたいんだ」

「知らぬ。知らんがゼルセ様の命だ。興味があるらしい」

「……興味ね、…まさか単なる暇つぶし何じゃないだろうな」

 

 ガルシアは何も答えない。

 

「……まぁ、いいよ。一応あれは助けてもらったうちに入るんだろうからな」

 アンコウは光の球が入っていった胸をさすりながら言った。

 

「じゃあ、もうひとつだ。今も言ったが、なぜ俺を助けるようなことをしたんだ?」

「なに、通りすがりの気まぐれだ」

 

 アンコウはそれを聞いて、勢いよくボリボリと頭を掻いた。

「はぁ、暇つぶしに気まぐれか……」

 なるほど噂に聞く通りのエルフだと、アンコウはため息をつくしかなかった。

 

「アンコウよ、おしゃべりはそろそろ終わりとしよう」

 

 ガルシアは赤鞘の魔剣をアンコウの目の前に突き出した。

 アンコウは再びその魔剣を見つめる。アンコウは仕方がない、と覚悟を決めたようだった。

 

「知らねぇぞ。あんたが責任とれよ」

「余計な心配はいらんぞ。貴様は全力でやればいい」

「……おれは殺し合いをする気はないんだからな」

「私も貴様を殺しにここに来たわけではない。が、それも貴様次第ではあるがな」

 ガルシアは、ニヤリと笑いながら言った。

 アンコウは嫌そうに眉をしかめて、「チッ」と大きな舌打ちを鳴らした。

 

 そしてついにアンコウは、ゆっくりとその魔剣に手を伸ばして受けとった。

 例の魔剣を手に取ると、ドクン、ドクンとアンコウの心臓の音が高鳴るが、アンコウはこのあいだと違い、その胸の高鳴りを理性でグッと抑える。

 

 そして、いきなり剣を抜くようなことはせず、剣を左手に持ち替えて、赤鞘に入ったままの状態で下にさげ、フウーッ、と大きく息を吐いた。

 

「テレサ、屋敷の中に入っていろ」

 アンコウは正面を向いたまま言った。

 テレサはアンコウの少し斜め後ろに立っていた。アンコウとガルシアのやり取りは、すべて聞こえていた。

 

「で、でも、旦那様、」

 テレサの目はアンコウの左手に握られた魔剣にそそがれている。

「いま呪いの魔剣だって………それに、戦うんですか?」

 テレサの声色に心配と怯えの響きが混じる。

 

 テレサはアンコウの奴隷となって、この4ヶ月半、何度もアンコウが魔獣たちの住処である迷宮へと赴くのをあの家から送り出してきたが、実際に剣を振るい戦っている姿を見ていたわけではない。

 

 正直に言えば、戦いの素人であるテレサにも、アンコウがいま目の前にいる巨躯の獣人ガルシアよりも強いとはとても思えなかった。

 

「……テレサ」

 アンコウが体をよじり、顔だけをテレサのほうに向けた。

(あっ、)テレサは目を少し見開く。

 

 振り向いたアンコウの目は、先ほど同様に熱を帯びていた。しかし、それはさっきのものとは違う。

 先ほどのアンコウの目にこもっていた熱は、真っ直ぐにテレサに対してむけられており、それはテレサがこれまでに何度もベットの中で見たことがある同じ種類の熱。

 

 しかし、今のアンコウの目の奥に揺らいでる炎がどういう意味を持つものなのか、すぐにはテレサはわからなかった。

 アンコウはテレサから目を逸らさない。テレサも目を逸らすことなく、アンコウを見つめている。

 

「あっ、」 何に気づいたのだろう。突然テレサは少し怯んだ様子をみせ、アンコウから目を逸らした。

 

 アンコウは熱を帯びた目でテレサのほうを見ているが、その熱は決してテレサの心に延焼し、テレサの心を熱く燃やす(たぐい)のものではない。

(嫌だ、怖い、) 

 テレサは、アンコウが自分を見ているようで見ていないような、何とも言えない不安感を覚えた。

 

「テレサ、危ないから屋敷の中に」

 アンコウはもう一度言った。

「は、はい!」

 

 

 アンコウは少しうしろにさがり、ガルシアとの距離をあける。ガルシアは今いる場所から動こうとはせず、じっとアンコウを見ている。

 ガルシアの横に立っていたビジットが後ずさりをするようにガルシアの側から離れていく。

 

 ガルシアの全身からすでに覇気という名の圧が溢れ出しているようだった。

 そして、ここにいる誰よりもアンコウがその覇気を強く感じており、逃げ出したいという衝動に襲われる。

 

 しかし、同時にアンコウは赤鞘の魔剣を持つ左手から、少しずつ全身に熱がまわってきているような感覚も覚えていた。

 そしてアンコウはガルシアと適度な距離をとると、その場にしっかりと立ち、真っ正面からガルシアを見据えた。

 

 アンコウは自分の中にあるためらいを振り切るように、一気に剣を引き抜く。

 ドクッ、ドクッ、ドクッ、戦う覚悟を決め、剣を引き抜いたアンコウと赤鞘の魔剣の共鳴がなされるのに時間はかからなかった。

 

 アンコウが抜き放った剣先をガルシアにむけた時には、アンコウは白い歯を見せ、ニヤァと笑っていた。

 アンコウは、さらに大声をあげて笑いたい衝動にかられるが、それでは狂人だと、グッと理性で抑える。

 

 しかし、戦うと決めた以上、アンコウは剣をふるうことに何のためらいも感じない。アンコウは抜き放った魔剣を手に一気に走り出す。

 それを迎え撃つガルシアも、楽しそうに野獣の笑みを浮かべていた。

 

「は、早い!」

 走り出したアンコウを見て、ビジットが思わず声をあげる。

 

ギャンッ!

 凄まじい速さでガルシアとの距離をつめたアンコウは、その勢いのままガルシアを斬りつけた。しかしガルシアは余裕をもって腰の大剣を抜き合わせて、アンコウの剣を受け止める。

 

「酔いが覚めてもスピードは変わらぬようだな、アンコウよ。ふふっ、バカ笑いはしないのか?」

「ぬかせ」

 アンコウは再びニヤリと歯をみせる。

(……やばいなぁ、やっぱりどうしようもなく楽しい)

 

 このあいだのような心のシンまで汚染するような高揚感はないが、赤鞘の魔剣を引き抜き、共鳴を起こしたことが、間違いなくアンコウの精神に影響を及ぼしていた。

 

「クッ、クッ」

 アンコウが小さく笑う。

 

「ふん!」

 ガルシアは力を込めて合わせた剣を押し返した。

 アンコウはその力に逆らうことなく、大きくうしろに飛びさがる。

 

ズザザアァッ!

 

「さぁ、どんどん来い!酔いが覚めた貴様の力を見てやろう!」

「クッ、クッ、クッ、ああ」

 

 そのガルシアの言を聞いて、再びアンコウは全力で走り出す。そしてアンコウは、ニタリとした笑みを顔に張りつけたまま、全力で戦いはじめた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 火花飛び散る激しい剣戟(けんげき)

 攻守が瞬く間に入れ替わるようなアンコウとガルシアの打ち合いが続き、一時的に双方の動きが止まる。

 

「ハァ、ハァ、ハァ、」

 アンコウは激しく肩で息をしている。

 一方ガルシアも、アンコウほどではないが、大きく空気を吸い込んでいた。

 

「くっ、」 

 アンコウの体のあちこちから、血がにじみ出ている。

 

 ガルシアの剣をもし一度でもまともに受けていたならば、アンコウは真っ二つにされていただろう。それほどガルシアの剣は重かった。

 

「ハァハァ、殺す気はなかったんじゃないのか」

「フーッ、貴様次第だと言ったろう。貴様は手加減抜きで剣をふるっておいて、自分の命の保証はしてもらえるとでも思っているのか?」

 

 そう言うガルシアの顔に笑みが浮かぶ。ガルシアには、まだ余裕がある。

 

「チッ!」

 しかし、舌打ちをするも、アンコウの顔も楽しそうだ。

「それに貴様の首が飛んでいくくらいの力は出したが、それが全力というわけではないのだぞ」

 ガルシアの顔から笑みが消え、アンコウを射貫く目にさらに力がこもった。

 

 それを受けたアンコウの顔からも笑みが消える。アンコウは前回と違い、戦う興奮と快感に完全に飲まれているわけではない。

 

 ガルシアの剣をうけて楽しいと感じる一方、恐ろしさも感じつづけていた。

 アンコウの背中を大量の汗がつたっている。それは、たんに体を動かしたことによる発汗だけではない。

 

 そのにらみ合う2人を、ビジットは中庭の隅から見つめていた。

(あの男、ガルシア様とあそこまでやり合うのか)

 

 ビジットは直接、先日のアンコウの広場での戦いを目にしていたわけではない。

 ビジットが、アンコウがここに軟禁される前に聞いていたアンコウに関する情報と、いま目の前で行われているアンコウの戦いぶりには、明らかにレベルが違うほどの齟齬(そご)がある。

 

(……なるほど、共鳴か)

 ビジットは厳しい目つきで、にらむように2人の戦いを見続ける。

 

 テレサは声もなく、建物の中からアンコウたちを見ていた。今のアンコウはテレサが知っているどのアンコウとも違った。

 たんに戦う男の顔をしているというだけではなく、テレサの目にも今のアンコウが普通ではないことがわかる。

 

(……あの人、笑ってた。あんなに血まみれになってるのに………)

 

 2人が戦う中庭を窺うのは、この2人だけではない。騒ぎを聞きつけたのだろう。いつのまにか屋敷にいた者たちが、あちらこちらから2人の戦いを見守っていた。

 

 

「ハッハッハーッ!ゆくぞ!アンコウ!」

 

 ガルシアは両手を大きく広げて、大声を発した。アンコウの目に、ガルシアの巨躯がさらに大きく膨らんだように見えた。

 

 しかし、動き出したのは、ガルシアよりもアンコウのほうが速い。アンコウの表情から笑みは消えている。

 恐ろしいと思う感情はあっても戦う衝動のほうがやはり強く、一切怯む様子を見せず突進する。

 

 そんなアンコウを、ガルシアは口が裂けるかと思うぐらい口角をあげ、歯をむき出しにした笑みで待ち受ける。

 

「よいなあ!アンコウ!!」

 

 アンコウはガラ空きになっているガルシアの胸部を目がけて、全力で剣を突き入れた。

 

「死ねーっ!」

グギャンッ!!

 大きい金属音が響く。

 

 ガルシアはアンコウを迎え撃ち、まるで円を描くように大剣を動かし、真下から真上にすくい上げるように凄まじい勢いで剣を操った。

 その剣が、アンコウが突き出してきた剣を捉え、凄まじい火花と共にアンコウごとはじき返した。

 

「グアァーッ!」

 アンコウは、弾かれた剣を持つ右手がもがれるかというほどの衝撃を感じたが、それでも剣を離すことなく、剣と共に宙を舞う。

 

ドンッ!ズザアァーッ!!

 アンコウは地面にたたきつけられ、滑るように、もの凄い勢いで地面を転がった。  

 アンコウはどうすることもできず無様に転がった。

 

「く、くそおぉぉ」

 地面に転がるアンコウは、全くの隙だらけ。

 アンコウはあせる。今、あのガルシアの大剣を食らえば、アンコウは逃げることはできない。しかし、転がる体を、そう簡単に立て直すこともできない。

 

 アンコウは地面を転がる体が止まっると同時に、フラつきながらも必死の思いで立ち上がった。

 しかし、何とかガルシアの次の攻撃を防がなければと立ちあがったアンコウの周りには、何者の気配もなかった。

 

「…………?」

 アンコウがまわりを見わたすと、アンコウの視界の遠くにガルシアは立っていた。

 

 ガルシアは、アンコウを吹き飛ばした場所から全く動いていなかった。そしてアンコウの目に、ガルシアが手に持つ大剣を鞘にしまうのが見えた。

 

「アンコウよ!ここまでだ!確かめるべき事は確かめた!」

 ガルシアがアンコウにむかって大声で言った。

 

 

 アンコウは声で答えることなく、そのまま抜き身の魔剣を手に持ってガルシアのほうに歩いていく。

 これが本来のアンコウなら、嬉々として剣をおさめただろう。これが、この間の魔剣に酔っていたときのアンコウなら、ガルシアの言葉など聞き流し、そのまま戦闘をつづけていただろう。

 

 そして今のアンコウは、少なくとも喜んではいない。眉をしかめたまま、早足でガルシアに近づいていく。

 そしてガルシアの前まで歩いてくると、アンコウは足を止めて、口を開いた。

 

「………おい、犬。何のつもりだ」

 

 そのアンコウの言葉を聞いたこの中庭の周りに集まっていた者たちの表情が一気に強ばる。アンコウの口から出た言葉は、獣人であるガルシアに対する侮辱以外の何ものでもなかった。

 

「………………」

 ガルシアは眼光鋭く、無言のまま恐ろしい闘気を吹き出しながらアンコウを睨みつけた。

 しかし、今アンコウの中ではガルシアに対する苛立ちと不満が渦巻いている。アンコウは動じることなく、言葉を続けた。

 

「てめぇ、中途半端に勝ち逃げかよ」

「………ふむ、なるほどな………ゼルセ様の命により、貴様の今の状態を確かめにきたのだ。もう十分だ。ここで貴様と、これ以上仕合う必要はない」

 

 そう言ったガルシアに、アンコウは小バカにしたような表情をむけた。

 そして、先ほどのガルシアを侮辱する言葉に続いて、アンコウが口にした言葉は、ガルシアが決して許さないであろうさらなる侮辱と挑発の言葉だった。

 

「………ゼルセ様ねぇ。あれだろ?エルフ様っていっても、あいつは都落ちでもして人間のグローソン公に仕えている程度のヤツなんだろう?そんな負け組エルフの命令がなんだっていうんだ」

 

そして、

ボゴォオオッ!!

 アンコウが、それを言い終わった瞬間、アンコウは先ほど以上の勢いで吹っ飛んでいた。

「うごおおぉっ」

 

 剣ではない。ガルシアの太い足がアンコウの体を正面から蹴り飛ばしたのだ。

 さらにガルシアは一度鞘におさめた大剣を引き抜き、吹き飛んでいくアンコウに無言のまま迫った。

 

 先ほど以上の勢いで蹴り飛ばされたアンコウであったが、今度は地面を転がることなく堪えてみせた。

 

ズザアァーッ!!

 

 アンコウは口から汚物をまき散らしながらも、目一杯の力を込めて両足で地面を踏みしめ、剣を強く握りしめ、自分に迫ってくるガルシアを視界におさめる。

 汚いアンコウの口周りに、笑みが浮かんでいる。

 

「アッハッハーー!!」

 (せき)を切ったようなアンコウの笑い声が響いた時には、すでにガルシアの剣がアンコウの頭のうえに向かってふりおろされていた。

 

ブウオォォンンッ

 

 普段のアンコウなら決してしないであろう見え透いた無謀な挑発に、ガルシアは躊躇(ちゅうちょ)なく反応した。

 ガルシアは、ゼルセに絶対の忠誠を誓う者。

 ガルシアがグローソンの紋章を刻む鎧を身につけているのは、ゼルセの命に従っているだけである。

 

 此度(こたび)ガルシアは、そのゼルセより、おそらくすでに魔剣酔いから覚めているであろうアンコウという共鳴者の状態を確認せよとの命令を受け、この屋敷にやってきた。

 しかし、その命令は特別深い意味があるものではなく、ゼルセの個人的な興味によるところが大きいとガルシアは理解していた。

 

 ゼルセはガルシアにこの命令をしたときに、殺さないようにしろ、あまり熱くなりすぎるなよと笑いながら言っていた。

 

 

 今、ガルシアは殺気を込めて、アンコウに斬りかかっている。ゼルセは()()に殺すなとは言わなかった。

 

 ガルシアは自分への侮辱は受け流しても、戦士の剣と魂を捧げたゼルセを侮辱する者を許す気はない。たとえそれがアンコウの意識的なあからさまな挑発だとわかっていても、一瞬でガルシアの沸点を超えた。

 

「ぐがああぁっっ!」

 ガルシアの野獣の咆哮が響く。ガルシアの殺気のこもった大剣が、これまで以上のスピードでアンコウの頭を襲う。

 

ドガアアァッ!!

「何いぃっ!」

 ガルシアがふり落とした剣が、地面をたたいた。

 

 地面が割れ、えぐれた土が周囲に飛散する。しかし、その中にアンコウの血は一滴たりとも含まれていない。

 アンコウの無駄のないこれまで以上の素早い動き、アンコウはガルシアの強烈な斬撃を完全に避けてみせた。

 

「アッハハーーッ!」

 

 アンコウは笑いながら、素早く飛びさがった場所から一転、ガルシアにむかって剣を突き出した。今度は逆にガルシアが飛びさがる。

 しかし、ガルシアの体勢は先ほどの空振りで崩れており、それほど素早く動けていない。

 

「グウゥーッ!」

 ガルシアは、痛みに眉をしかめる。

 

 アンコウの剣先が、ガルシアの右胸上部をとらえていた。アンコウはそのまま足を踏み込み、さらに深く突きさそうとしたが、

「くっ!」

(硬い!)

 アンコウは、まるで岩にでも剣を突き立てているような感覚を手に感じていた。

 

 そしてアンコウは、その場で足を止められてしまった。

 一方ガルシアは、アンコウの剣を右胸に突きたてられてしまったが、傷は深くなく、その痛みで返って冷静さを取り戻すことができた。

 

「……見事だ!」

 

 そう言うと、ガルシアはアンコウの剣を右胸に食い込ませたまま、それを全く障害とせず、再び振りあげた剣をアンコウの頭部目がけて打ち下ろした。

 

ドガッンッッ!!

「はがあぁっ!」

ドンンッ!!

 

 アンコウはその攻撃をまったく避けることができず、地面にめり込むのではないかというような勢いで、ほぼ真下にたたきつけられた。

 そしてガルシアは、地面に倒れ伏して動かなくなったアンコウを剣を構えたまま見下ろしている。

 

 周囲に、静寂が広がっていく。

 

 地面にたたきつけられたアンコウ。実際に地面が少し窪んでしまっている。

 しかし、強烈な一撃を食らったアンコウではあったが、その頭は斬り割られてはおらず、砕けてもいなかった。

 

 ガルシアは剣の腹の部分でアンコウの頭を殴りつけていた。それに強烈ではあったが、手加減無用というわけでもなかったようだ。

 

 地面に倒れ、動かなくなっているアンコウを前に、

(ふぅむ。あれをよけられたか。やはり予想以上ではあったな)

 と、ガルシアは先ほどアンコウによけられた一撃を思い返していた。

 

 ガルシアは、すでに冷静さを取り戻しており、自分からこれ以上アンコウを攻撃する気はない。

 しかし、ガルシアが、もはや意識は失っているだろうと思っていたアンコウの体がゆっくりと動き出す。

 

「……むっ、」

 

 そのアンコウの動きは非常に鈍く、全身が小刻みに震え続けており、すでにガルシアに抗するだけの力は残っていないように見える。

 

(……このザマになってもまだ戦うことを選ぶのか。面白くはあるが、やはり呪いが精神に及ぼしている影響がかなり大きいということか)

 

 それでもアンコウは、ゆっくりと上半身だけではあるが何とか体を起こしてみせた。

 先ほどの攻撃で、ガルシアはアンコウを斬ることはしなかったが、普通の者なら死んでいてもおかしくないぐらいの威力を込めた一撃ではあった。

 

「ハハハッ!アンコウ、愉快だな!まだ戦うことを望むか!」

 

 しかし次のアンコウの行動は実に意外なものであった。

 アンコウは何やら自分と葛藤しているような(さま)をしばらくみせたかと思うと、アンコウは抜き身のまま決して手離すことなく握りしめていた魔剣をじっと見つめた。

 

 そして、何を思ったのか魔剣を持った右手を大きく後方に振りかぶり、前方に思いっきりブン投げた。

 

ビユウゥゥンッ!

 

 魔剣は鋭い風切り音をあげながら飛んでいき、屋敷の壁の上のほうに、

ザグゥンッ! と、突き刺さった。

 ガルシアは、唖然とした表情でアンコウの行動を見ている。

 

「ぐううぅぅぅ、……フ、フザけんな。なにが愉快だ、この野郎」

 

 アンコウの声には全く力がこもっていない。息も絶え絶えと言った感じだ。

 次にアンコウは、まだ腰にあった赤い鞘を抜き取り、それを屋根のうえ目がけて放り投げた。

 

ブンッ! カラカラカランッ

 

「くそったれ、ふざけやがって。……痛てぇ、ふざけやがって………痛てええぇぇ、」

 

 アンコウは再び体を横倒しにして、地面に転がった。

 

「ほう、自分の意志であの剣を手放すことができるのか」

 

 ガルシアは少し驚いた顔のままでアンコウを見ている。アンコウは地面に寝っ転がりながらもガルシアを見た。

 

「……おれの意志はあのクソ剣を握らないことだよ、この野郎。…はじめから、そう言っただろうが。人をクソみたいなことにつき合わせたあげく、殺そうとしやがって、殺し合いをする気はないって、お前言ってたよなあぁぁっ」

 

「貴様次第だと言ったはずだ。止めようとしたのに続けて仕掛けてきたのは貴様だ」

 

「フザけんなよ。呪いの剣だぞ、この野郎!あれはおれだけど、おれじゃねぇんだよっ!!ぐがっ!」

 大声を出したはずみで、アンコウの全身に強い痛みが走った。

「ヒッ、い、痛てえぇぇ……くくっ」

 

 ガルシアは思う。アンコウの言っていることは間違ってはいないだろう。確かにあれは、アンコウであってアンコウでない者。

 

 しかしガルシアは、あの魔剣はアンコウを単に狂わせているのではなく、アンコウの中に間違いなく存在している意識を引き出しているに過ぎないと見た。

 あの壁に突き刺さっている魔剣との共鳴が、アンコウの中に眠っている秘めた力を引き出しているに過ぎないように。

 

 ガルシアはゆっくりと大剣を鞘におさめた。アンコウは、自分の体を自分の両腕で抱えて地面に転がり、うめき続けている。相当痛いのだろう。

 

「ワッハッハッハッハッハーー!!」

 

 そのすぐ横でガルシアが、愉快でたまらないとでも言うように大声で笑いはじめた。中庭をこえて、ガルシアの笑い声が響く。

 

(………こ、この犬野郎がっ、)

 アンコウは涙目になって、痛みに耐えながら、笑うガルシアを見上げていた。

 

 

「旦那様あっ」

 ガルシアが剣をおさめ、何やら機嫌良さげに笑い出したのを見て、テレサが建物の中から飛び出してきた。

 

 そんなアンコウに駆け寄るテレサを見て、ビジットたち、この屋敷の者たちも動き出す。

 

 そしてガルシアはひとしきり笑うと、倒れ呻くアンコウに背中をむけて、ひとり中庭から姿を消していった。



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第23話 マニの決意とアンコウの処遇

 アンコウがガルシアとの仕合いに付き合わされてから、すでに10日が過ぎていた。

 アンコウの体の傷はすっかり癒え、精神面でも全く問題のない状態で落ち着いていたが、相変わらず、あの御屋敷に軟禁されている状態であることに変わりはない。

 

 しかし、それまでもこの屋敷での待遇は悪いものではなかったのだが、あのガルシアとの仕合い以降、さらにまわりがアンコウに気を使ってくれるようになっていた。

 

上げ膳据え膳(あげぜんすえぜん)、身の回りのことは何でもしてくれるし、何より働く必要がない……)

「ハハッ、変に監視が緩い分、悪くないって思ってしまうな」

 

 アンコウは自嘲気味につぶやく。そして、アンコウは目をつむり、首を振りながら自分に言い聞かせる。

 

「だめだ。わかっているだろう。自由のない心地よさなんて、次の瞬間には他人の気分しだいで地獄に変わるもんだ…………」

 

 アンコウは再び目を開けて顔をあげる。顔をあげたアンコウの目の前には大きな姿見の鏡。アンコウは鏡に映る自分の姿を見た。

 鏡に映る自分の姿、上下ショッキングピンクの給仕服、白いレースのカーテンマント、銀色の鍋兜、魔ローソクは立ててあるが火はついていない。

 

 これは、この屋敷のシャレのわかる者がアンコウがいない間に部屋のベッドのうえにそっと置いていってくれたものだ。アンコウはそれを笑わず怒らず、普通に頂戴した。

 

コン、コン、

 アンコウがいる部屋の扉がノックされた。

 

「テレサです。食事をお持ちしました」

 

 昼食なのだが、いつもの昼の時間よりはまだかなり早い。実はアンコウには、この後、監視人付きながら外出する許可が下りていた。

 

 アネサ陥落後、さらなるグローソン軍の増援部隊がすでにアネサに到着しており、今やアネサは完全にグローソン軍に掌握されている。

 

 そういう状況になったことが、アンコウに外出許可が下りたことの大きな理由ではあるのだが、アンコウは軟禁されているにもかかわらず外出許可が出る自分の待遇について、やはり緩いと表現するほうが適切だと思っている。

 もし自分がグローソンにとって、重要な人物かあるいは危険な存在であるのなら、この緩さはあり得ない。

 

 アンコウは、いまだになぜ自分がグローソンに拘束されているのか知らされていない。アンコウがまわりの者たちにそのことを聞いても、誰もがじきにわかると言うだけ。

 

 ただ、ダッジに聞かれたこと、ひどい拷問をうけて聞かれたこと、ショーギが何か関係しているのだろうことだけはわかっていた。

 ショーギを問題視しているのならば、それは以前から将棋を知っている者がいるという、あり得ない可能性のひとつがアンコウの頭には浮かんでいる。

 

 アンコウの心に、今後の不確定さが少しずつ重みを増してのしかかり、その分だけ日々不安も増していく。

 

コン、コン、

 またノックの音が聞こえる。

「あの、」

「どうぞ、入っていいよ」

 

ガチャッ

 テレサが扉を開けて中に入ってきた。部屋の中に入ってきたテレサの目にアンコウの姿が映る。

 

(あっ、またあの格好をしているわ)

 

 テレサは無言のまま、2人分の昼食を乗せたカートをテーブルまで押して行く。

 テレサがテーブルに食事を並べているあいだに、アンコウはベッドのうえに鍋兜とカーテンマントを置き、そして食事の席に着いた。

 

 テーブルにはアンコウとテレサの2人分の食事が並べられており、2人はそのままいつものように食事をはじめる。

 

 ガチャガチャと食事をする音が聞こえはじめ、2人は時おり会話を交わしている。

 

「あの、食べ終えたらすぐに出るんですか?」

「ああ、そのつもりでビジットにも話をしてる。むこうの同行人も2人だそうだ。まぁ、気分転換にブラつくぐらいだけど。夕食は早めに外で食べてくる許可はもらったよ」

「本当ですか?それは楽しみですね」

「ああ」

 

 アンコウは、どこそこの店で何を食べるつもりだというようなことを話している。それを聞きながら、テレサは少し言いづらそうに口をはさんだ。

 

「……あの、今日はその格好で出かけるんですか?」

 

 アンコウは、上下ピンク色の給仕服を着て食事をしている。ベッドのうえには鍋兜と白いレースのカーテンマント。

 

 テレサも、この屋敷で軟禁生活をはじめて半月が過ぎ、屋敷の外に出ることができるというのは正直にうれしいと感じている。しかし当然ながら、アンコウの奴隷であるテレサはどこに行くにしてもアンコウと一緒ということになる。

 

 テレサはアンコウが着ている服とベッドのうえに置かれているものをチラチラと見ている。

 

「イヤかい?この服とあれをつけてる男と外を歩いて、どっかの店で食事をするのは?」

「いやっ、そういうわけじゃ、……ないんですけど、」

 

 テレサの目はアンコウのほうを見ていない。アンコウは口にモノを運びながら、そんなテレサを見ている。

 

 アンコウが元いた世界でなら、探すところを探せば、ピンク一色・鍋兜とは違っても、おかしな格好をした(やから)は山ほど見つけることもできるだろう。

 

 しかし、この国、このアネサの町にさっきのアンコウのような奇抜すぎるファッションを許容する文化はない。テレサにしても、このファッションをアンコウ以外の男がしていたらまず近づかない。

 

「そうなのか。テレサは嫌じゃないんだ。おれだったら嫌だけどな」

「えっ?」

「おれはピンクの服を着て、カーテン体にまいて、鍋かぶっているヤツと外は歩きたくないな」

「……えっと、」

「心配しなくてもこの格好で外に行ったりはしないよ。そこまで突き抜けた趣味じゃない。まぁ、インドア専門のコスプレみたいなもんだ」

「は、はい……?」

 

 そう言われてもテレサには何のことだがよくわからないが、とりあえずアンコウがこの格好で外には行かないということはわかったので、ホッとした。

 

(こいつ、今あからさまにホッとしたな)

 アンコウは見てないようで、ちゃんと相手の顔色の変化は見ている。

 

 この世界に来て以来、この世界で生き抜くために人の感情や考えを読んで立ち回るということを心がけてきたアンコウにとって、悪目立ちをするなどというとは、これまでずっと避けてきた行為だ。

 

 だからこそなのだろう。このあいだの一件で、こういう格好をすることが妙に楽しく、ストレスの発散になるということをアンコウは知ってしまった。

 緩いとはいっても、軟禁されてストレスが溜まらない者などいやしない。

 

「なぁ、テレサ。このピンクの給仕服、女物もあるんだけど、お揃いってどう思う?」

「えっ、……いや、あの、私はもう30も越えてますし、あの、」

 

 テレサの態度に、一気に落ち着きがなくなる。

 ピンクが好きな女性はたくさんいるだろうが、いや、テレサもピンクが嫌いではないのだが、このアンコウが着ている給仕服の女物を着るということは、全くテレサの趣味ではない。

 

 しかも、白いレースのカーテンマントに魔ロウソク付きの銀の鍋兜もある。

 正直いえば、もし14になる娘がそれを着ていたら、ひっぱたいてやめさせなければならないレベルの服の趣味だと思っていた。

 

「命令。」

 とアンコウの一言。

 と、言われれば、テレサに拒否権はない。テレサは何とも言えない表情で固まった。

 

「……くっくっ、ははっ!冗談だ、くっくっ、嫌がる人に無理やり着せて楽しむ趣味はないよ」

 そう言ってアンコウはまた、ハハハッと笑い続けている。

 

 アンコウにからかわれたテレサは、さすがに不機嫌そうな顔をして、にらむようにアンコウを見ていた。

 

 

 

 

 アンコウとテレサは今、軟禁されていた屋敷から比較的近くにある商店などが多くあって、人通りも多い地区を散策していた。

 

(こうして歩いているだけでもずいぶん違う。やっぱりずっと屋敷の中っていうのは精神衛生上よくないな)

 横を歩いているテレサの表情も、ずいぶんと明るくみえる。

(やっぱり、いつまでもカゴの中の鳥っていうのはお断りだ)

 

 アンコウが、こうして町中を一見自由に歩いていても、入っているカゴが大きくなったに過ぎない。それはアンコウたちの後ろを見れば明らかだ。

 アンコウとテレサ、そして2人のすぐうしろには、剣を腰にさげた2人の見張り役の戦士が歩いている。

 

 アンコウは、チラリとうしろをふり返った。

(こいつら、2人ともかなり使うな)

 アンコウは2人の雰囲気と身のこなしから、両人ともに、かなり剣を使える戦士だと踏んでいた。

(逃げる気なんかないんだけどな)

 

 アンコウが逃げたいと思っていないわけではない。逃げることはできないと判断しているだけだ。

 アンコウは同行している戦士たちと戦っても勝てない。

 相手が武装していて、アンコウは丸腰であるということもあるのだが、たとえアンコウが剣を手にしていても、この2人を相手に1人で勝つのは難しいと感じていた。

 

 あの赤鞘の呪いの魔剣と共鳴すれば勝てるだろうが、あの剣はビジットたちの手によって、おそらくまたあの屋敷のどこかに保管されてしまっている。

 

 それに、この2人と戦うことはせず、ただ走り逃げたとしても、逃げ切ることは叶わないだろう。

 いまアネサの町は、占領統治を円滑に行うためにグローソンの兵士たちが町中にあふれ、彼らが厳しい警備を敷いているうえに、民間人にまぎれているグローソンの草たちも相当数いる。

 

(逃げ切れるわけがない)

 アンコウは軟禁され、今日はじめて街に出たにも関わらず、そのことをよく理解していた。

(それに、俺たちの見張り役はこの2人だけじゃないだろうな)

 

 アンコウはこの2人の戦士以外にも、見えないところで自分たちを見張っている者がいる可能性を考えていた。

 アンコウたちへの拘束が緩いといっても最低限度の用心はする連中だと、アンコウはこれまでの彼らに対する観察を通して評価していた。

 

(………まっ、せっかくの外出だ。余計なことを考えるのはやめよう)

 

 気分を入れ替えようとアンコウは、何となしにまわりをぐるりと見わたした。すると、アンコウたちがいる通りの離れたところにいた1人の女と目が合った。

 

「ん?あれ……」

 

「ああっ!!」

 目が合った女が、離れた場所から大きな声をあげた。

 

「ん?あいつは確か」

 

 アンコウと目が合った女は獣人の女戦士。その獣人の女戦士が、突然アンコウにむかって、かなりの速さで走りだした。

 風になびく獣人の女の若草色の髪が、アンコウの目にとてもキレイに映った。

 

(しかし、速いな)「……って、おい!」

 

 女は、かなりあったアンコウとの距離を、ものすごい速さで一気につめてきた。

 そして、女は近づいてきてもまったくスピードを落とさず、いきなり足元に砂ぼこりを巻きあげながら急停止した。

 

ズザザザアァーッ!

「なああっ!」

 アンコウたちの顔や体に巻きあげられた砂粒が勢いよく飛んできた。

 

「ペッ!ペッペッ、くそっ!」

 アンコウは口の中に入ってきた砂を唾と一緒に吐き出し、目をこすっている。

 

「お、お前!何してんだ!」

「す、すまん。大丈夫か?」

 

 その時、アンコウたちのすぐ後ろに立っている2人の見張りの戦士達が、剣の柄に手をかけるのが、涙に滲むアンコウの目に映った。

 

「やめろ!」

 アンコウが2人を制止する。

 そして、2人の戦士の動きに気づいた獣人の女戦士も、自らの剣に手をかけた。

「お前もやめろ!面倒くせぇな!」

 

 3人とも剣の柄に手をかけた状態で止まっている。一方アンコウはまだ目をこすり、唾を吐いていた。

 

「ぺっ、くそっ……あんた、確かマニ、だよな」

 

 そう、その獣人の女戦士は、先の西門広場での戦いの時にアンコウが出会っていた冒険者のマニだった。

 マニは剣の柄に手をかけたまま、目だけアンコウのほうを見てうなずく。アンコウは、2人の見張りの戦士ほうを見て言った。

 

「心配はいらない。知り合いだ。このあいだの戦いの時はグローソンに味方して、アネサの太守の兵たち相手に一緒に戦っていた冒険者のマニだ」

 

 それを聞いてマニは一瞬複雑そうな顔をする。マニとしては、アネサの守備兵と戦ったのは自分の意思ではなく、剣をむけられてやむを得なくであった。

 

 しかし、現状すでにアネサは完全にグローソンの手に落ちており、アネサの町が比較的平静を保っている以上、一冒険者でしかないマニは進んでグローソンと敵対する意思はなく、アンコウの言葉に何も反論はしなかった。

 

 そしてマニは、自分から先に剣の柄から手を離した。

 見張りの2人の戦士はアンコウの言葉を聞き、マニが自分から剣の柄から手を離したのを見て、ウソではないと判断したのか、互いに顔を見合わして、ゆっくりと剣から手を離す。

 

 フウゥーと、それを見たアンコウは安堵の息を吐く。

 

 アンコウとマニは、連れだって道の(はし)に移動して、互いの顔を見合っている。

 マニの体は両腕を除いて服で隠れているが、それでも先ほどの走りからしても、大きい怪我はすでに癒えているようだ。

 そのマニは、アンコウの顔を見て、内心首をかしげていた。

 

(……間違いなく、このあいだの男だ。だけど……)

 

 西門広場でマニが見たアンコウは、呪いの魔剣の影響と魔剣酔いの影響で、ずっとトリップしていたような状態だった。当然ながら、今のアンコウとは雰囲気が全く違う。

 アンコウもマニのその疑問にすぐ気づいて、自分から話しはじめた。

 

「言っとくが全くの同一人物だし、こっちが普通の状態だ」

「そ、そうなのか、そうか」

 

 事情はわからないが、自分のことも知っていたし、間違いなく同じ人物らしいとマニは納得した。するとマニは真剣な顔でアンコウを見ると深々と頭をさげた。

 

「この間は、あんたがいなかったら私は死んでいた。心から感謝するよ」

 

 頭をさげるマニをアンコウは珍しそうな顔で見ている。この町、この世界では、この間のようなことがあったからといって、いちいち頭をさげる冒険者などは少ない。

 

「……そんな礼はいらない。実際あの時のおれは、逆にあんたを斬っていてもおかしくない状態だったんだ。助けた憶えはないし、あんただってわかっているだろう」

「いや、あんたの事情は知らないが、あんたのおかげで死なずに済んだっていう結果は変わらない。ちゃんと礼はさせてくれ」

「……じゃ、まぁいいけどさ。頭あげてくれ、礼は受けとった。これで終わりだ」

 

 アンコウにそう言われて、マニはさげていた頭をあげる。

 アンコウとしては、この間のような戦いは決して本意ではなく、できれば二度としたくないと思っている。だから、このように人から礼など言われると、あまりよいとは言えない気持ちになってしまう。

 

「いや、これだけじゃ、」

「もういいよ。これ以上はこっちが気持ち悪い」

「なっ、人の誠意を気持ち悪いって何だ!」

 

 マニが何かゴチャゴチャ言いはじめる。

 マニはアンコウの耳にも聞こえている実力派の若手冒険者であるはずなのだが、誠意の押し売りをするようなマニの態度を見て、アンコウはこいつは面倒くさいヤツなのかもしれないと思いはじめた。

 

「あの、マニさん」

 アンコウが、さすがにそろそろマニとの話しを切り上げようとしていたとき、アンコウの横にいたテレサがマニに話しかけた。

 

「ん?」

 マニがテレサのほうを見た。

「あっ!あんた、トグラスの女将じゃないのか!?」

 

 それまでマニはアンコウのほうに気を取られて、テレサの存在に注意していなかった。

 

 マニはこの町の生まれ育ちではあったが、冒険者となったときに、それまで住んでいた家は処分して、以来特定のねぐらは持たずに生活をしている。

 しかし、時にはあちらこちらを冒険者として旅することもあるが、今でも冒険者としての主な活動はこのアネサの迷宮を中心に行っていた。

 

 テレサが女将をしていたトグラスの宿屋がつぶれるまで、マニはそのトグラスをこのアネサでの常宿の1つにしており、2人は互いに顔見知りだった。

 マニはテレサがあのトグラスの女将であったテレサだということに気づくとわずかに顔を曇らせた。

 

「……女将」

 

 マニはテレサの首につけられた奴隷の証を見て、さらに沈痛な表情になる。

 

「マニさん、テレサでお願いしますね。もう女将ではないですから」

 テレサはマニのほうを見て笑顔で言った。

 

 マニは、トグラスの最後の営業日の最後の客の1人だった。借金取りたちの手に落ちるトグラスを後にしたときの苦々しさは今も憶えている。

 どうしようもなかったとは思っているが、マニはテレサに好感を持っていただけに、こうしてテレサを目の前にすると少し心が痛んだ。

 

「……テレサ、奴隷になったのか」

「ええ、なかなかいい勤め先ですよ。だからマニさんもそんな顔はしないでね」

 テレサは笑顔を崩すことなく言った。

 マニはアンコウとテレサを交互に見て、テレサのほうで目を止める。

「はい、その人に買われたんですよ。マニさんも知り合いみたいですね」

「あ、ああ。この間の戦いのとき命を助けられた」

 

 マニはアンコウのほうに目を移す。

 

「もう知っているみたいだけど、私の名前はマニ。よかったら、あんたの名前を教えてもらえないか?」

「おれはアンコウ。おれも冒険者だ」

 

 先ほどまでとは違いマニが何か言いづらそうに、またアンコウとテレサを見ている。かなり面倒くさくなってきていたアンコウは、もういいだろうと思った。

 

「……じゃ、おれたちはもう行くから」

 アンコウはそう言って(きびす)を返そうとする。

「あ、ちょっと待ってくれ!どうだろう、せめてメシだけでもご馳走させてもらえないか!このあたりは詳しいんだ。うまいメシとうまい酒を出すところを知ってるんだ」

 

 アンコウは動き出そうとした足を止めた。なかなか魅力的なマニの申し出であった。

 アンコウは後ろの二人組のほうを見る。見張りの2人の戦士のうち、年かさの方の男がアンコウにむかって首を横に振った。

 それを見たアンコウは、少し残念そうな顔をしてマニのほうに顔をむけた。

 

「悪いが無理みたいだ。なにせ今は軟禁中の散歩のお時間なんでね。メシを食う相手は選べないらしい」

「どういう意味だ?」

 マニは(いぶか)しげに首をかしげる。

「ははっ、そのまんまの意味だよ。軟禁中の男とその奴隷。そして見張りの男が約2名ってとこだな」

 

「おい、あまり余計なことを言うんじゃない」

 見張りの1人がアンコウに注意する。

 アンコウはわかっていると、その男に笑いながら手を振ってみせた。

 

「とにかく、その命を助けたどうこうっていうのはもういいから。忘れてくれ」

「あっ、おい!」

 

 アンコウたちは、そのままマニをその場に残して立ち去っていった。マニは遠ざかっていくアンコウたちを、しばらくの間その場から動かずに見送っていた。

 

 

「なんか、がさつなうえに頭が固いって感じのヤツだったな」

「ふふっ。それに美人で強いんですよ、マニさんは」

「強いのは知ってる。だけどあれ、美人なのか?」

「ええ、それはもう。特に獣人の男の人たちにはファンの方がいっぱいいましたから」

「……そうなのか、まぁそういうのは人それぞれだからな」

 

 

 

 

「フウーッ、食べたなー」

 

 アンコウは店を出たところで声に出して言った。一応夕食であったのだが、外は夕方、まだ明るい。

 

「さぁ、そろそろかえるぞ」

 見張りの男がアンコウに言う。

 

(……時間が経てば経つほど、思ってた以上に鬱陶(うっとう)しいな。見張り付きのお出かけっていうのは)

 アンコウは返事もせずに歩き出す。

(夕方になって少し寒くなってきたか、夜には少し雨でも降るかもな)

 

 アンコウはまわりの景色を見ながらゆっくりと歩く。

 もうずいぶんと見慣れたこの町によくある風景。まだ明るいということもあって、道の両脇に並ぶ商店のほとんどが開いている。

 

(ここはなかなか活気のある通りだな)

 

 つい先日、町の統治者が変わる戦いがあったとは思えない活気のある日常の風景が広がっている。

 

 町の一部地域ではかなり激しい戦闘がおこなわれたのだが、戦闘が町全体に広がらなかったことと、グローソン軍が虐殺や略奪等の行為をほとんど行わず、占領後も町の秩序維持に効果的な施策を打っていたため、町全体に混乱が広がることがなかった。

 

(グローソン軍は相当統制がとれているし、かなり事前に占領計画なんかも準備していた感じだな。あっちこっちを攻めてここまで拡大してきたみたいだから、手慣れてるのかもな)

 

 権力者同士の戦争など、一般市民にとってはどっちが勝とうが凶事以外の何ものでもないのだが、侵攻してきた軍隊が暴虐であったならば、多くの民の命が無残に消え、町全体が壊滅させられることもある。

 

 この町に住む者たちも、そのことはよくわかっていて、駐留しているグローソンの指導者たちが非常に穏健な施策を行っていることで、ホッとしているという雰囲気が町全体に漂っていた。

 

 アンコウたちは商店が軒を並べる通りを抜けて進んでいく。

 アンコウの目にチラホラと物乞いらしき人々が目に入ってくるようになった。戦争があったからというわけではない。

 これも、いつもどこにでもあるアネサの町の風景のひとつ。

 

 アンコウはボロを身にまとい、ひどく汚れた姿で座り込んでいる男を見る。年もまだ老人というにはかなり時間があるように見える男だ。

(こんなざまになって生きるぐらいなら、軟禁されている方がマシかもな)

 とアンコウは思う。

(だけど、早く自由になりたい)

 こんなざまになることなく自由に生きることをアンコウは望んでいる。

 

 アンコウは特別野心的な生き方などしていない。権力志向はないし、金は手に入るならいくらでも欲しいと思うが、平穏無事に生きられるなら、それを犠牲にしてまで手に入れようとは思っていない。

 それなのに今はこのざまだ、とアンコウは思う。

 

 人には持っている力の大小があり、そのときどきの運の良し悪しもある。

 だが、何かを追い求めることもなく、どうにもならないことを足掻くこともせず受け入れていく者は、落ちていくしかないんだろうとアンコウは思っている。

 

 何も求めずに食って寝るだけでは、人は奪われ、失い、落ちていくだけなのだとしたら、じゃあ今の自分は何を求めて何ができるのかと、屋敷に着くまでの間、アンコウは考えつづけていた。

 

 

 アンコウたち4人は屋敷の門をくぐり、屋敷の中へと消えていく。

 

 そのアンコウたちの姿を少し離れたところから(うかが)い見る人影がひとつ。

 その影は門番に気づかれないように、さらに屋敷のほうに近づいてくる。その人影は獣人の女のもの。

 

 もうすぐ地平線に沈もうとしている夕暮れの中、そこに立っていたのは先ほどアンコウたちが町中で出会った獣人の冒険者マニであった。

 

 マニはしばらくの間、アンコウたちが軟禁されている屋敷の様子をさぐるように徘徊した後、いつのまにか姿を消した。

 

 

 

 

 マニは酒場の片隅で1人酒を傾けていた。酔うほどは飲んでいない。マニは、ある計画を実行するために陽が沈むのを待っていた。

 

 マニはアンコウたちと出会った日から迷宮に潜ることもせずに、ある計画を立てて動いていた。いや、計画というほどのものでもない。マニは頭で考えるより、まず行動するタイプだ。

 ただそれでも、アンコウが言っていた軟禁されているという事実の確認と必要な情報を集めるのに、少し時間がかかってしまった。

 

 マニは誰に頼まれたわけでもないのに、アンコウとテレサをあの屋敷から助けだそうと考えていた。

 

(あのアンコウという男には命を助けられた。それにまさか、あのトグラスの女将を奴隷にしているなんてな)

 

 アンコウには別に助けるつもりではなかったと言われたが、マニはそれでよしとはしなかった。

 

(うけた恩は返すのが筋ってものだ。ましてや命の恩だ)

 それはマニが死んだ父親に、小さい頃からさんざん言われてきたことだ。

(しかし、あれはどういうことなんだろうな。戦場では頭のおかしい男だと思ったんだけど)

 

 物狂いだと思っていた戦場で出会ったアンコウという男は、偶然町中(まちなか)で再会した時には、いたってまともでちゃんとした受け答えをしていた。

 そしてそのアンコウに、命を助けたつもりはないしもう忘れてくれと言われたことが、よりこの恩は返さなければならないという思いをマニに強く抱かせてしまっていた。

 

(命の恩に、それにテレサまでいるんだ)

 

 あの時、トグラスが借金取りたちに押さえられてしまった時、マニは仕方がなかったとはいえ、親しくしていたテレサを助けなかったことに申し訳なさのようなものを感じていた。

 この間、思いがけずテレサと再会したことで、マニはあの時の苦い感情も思い出してしまっていた。

 

 マニは、アンコウとテレサの2人に、あのような形で再会したことに、運命のようなものすら感じてしまっている。

 

(理由は知らないが、あの屋敷にあの2人がグローソンの連中に閉じ込められていることは間違いないんだ。アンコウはグローソンに味方して戦っていたのに!あの2人は私が助ける!)

 

 マニはジョッキに残っていた酒を一気にあおる。

 マニは生まれながらにして強い抗魔の力を持っている。庶民とはいえ、比較的恵まれた環境に育ち、幼い頃から剣を学ぶ機会も得ていた。

 

 冒険者となり、このアネサの迷宮に潜るようになってからも、アンコウなどとは違い、より深い階層にアタックするなどを繰り返して、実力を示すことで自然と名を広めてきた冒険者なのだ。

 

 しかし、いかんせんマニはまだ若く、力に恵まれた分だけ恐れを知らず、自信過剰であった。マニは今回の計画を実行するに当たって、最低限度の情報だけを集めて、自分1人だけでアンコウたちを助け出そうとしている。

 

 確かにマニは強い。しかし、迷宮に1人で潜り魔獣と戦うことと、あの屋敷に1人で忍び込みアンコウたちを助け出すということを、まるで同列に考えていた。

 

 

 

 

 その日、アンコウが軟禁されている屋敷はバタバタと皆が忙しそうに働いていた。このアネサの町に、グローソンからさらに新たな兵団が増派されてくるらしい。

 そのため、この屋敷も宿舎として、新たにやってくる将兵の一部を受け入れることになり、その準備に追われていた。

 

 また増派されてくる軍は、グローソン本領からの諸々の命令を伝える役目も帯びており、その中には今後のアンコウの処遇に関するものも含まれているはすだと、アンコウはビジットから伝えられていた。

 

(ようやく動き出すのか)

 アンコウは不安ではあったが、状況がようやく動き出すと言うことに関しては歓迎している。

(この状態では、待つことしかできなかった。まわりが動き出せば逃げることも含めて、可能性と選択肢は増えるはずだ)

 

 屋敷の者たちが忙しそうにしていても、軟禁されているアンコウがやることは何も変わらない。

 しかし、ある意味屋敷の者たちよりも、アンコウは緊張して新たにこの屋敷にやってくる者たちを待ち構えていた。

 

 この屋敷を宿舎として割り振られたグローソン軍の将兵の一部が、この日の昼過ぎには到着し、夜までには一通りの荷ほどきも済んだようだ。

 

 結局この日アンコウはほとんど外に出ることなく、じっと自分の部屋に引きこもっていた。ただ寝る前に、明日の朝、身なりを整え待機しておくようにとのビジットからの伝言がアンコウの元に届けられていた。

 

・・・・・・・・・・・・

 

 翌朝、

 

「準備はできているか」

「ああ」

 

 いつもの見張りの男が案内してくれるらしい。身なりを整えろと言われても、着るものはいつもどおりの服しかない。

 アンコウは男の案内で屋敷の中を移動していく。明らかに、いつもよりも兵士と思われる者たちの姿が多かった。

 

(こいつらも新しくやってきた兵士か)

 

 これまで以上に、アネサにいるグローソンの軍隊が強化されたのなら、ロンド公がアネサを取り戻すことは相当厳しいだろうなと、アンコウは思う。

 

 アンコウは彼らの様子を(うかが)いながら、歩いていく。あらためて歩いて見ると、この屋敷はかなり広い。そしてアンコウは、屋敷の本館のほうまで連れてこられた。

 

 本館の中に入り、何人もの警護の兵士たちが並んでいる廊下を進んだ先で、アンコウを案内する男の足が止まった。

 

(物々しいな。おれの部屋の前に立っているのは、いつもこいつだけなのにな)

 

 アンコウは自分の前にいる男の背中を見て思った。

 

「ここで待て」

 

 案内してきた男は、突き当りにある部屋の扉まで歩いていき、その扉をノックして(うかがい)いを立てる。

 中から入るようにと、指示があったようだ。

 

「よし、この部屋に入れ」

 

 アンコウは男にうながされて、部屋の中へと1人で入っていく。

 部屋の中では、複数の者たちがテーブルを囲んで座っていた。その中には、ビジットやアンコウも見知った者もいたが、中心に座っている男は初めてみる顔だった。

 

 その着ている服装から察するに軍人ではなく、いわゆる文官といわれる者であろうと思われた。

 アンコウはその文官たちが座るテーブルの前に立つように指示された。彼らはじっとアンコウを見据え、口を開かない。

 

 彼らの代わりに言葉を発したのはビジットだった。むろんアンコウに発言の機会など与えられない。

 

「アンコウ、貴様にはこの町を立ち、ネルカ城に行ってもらう」

「……ネルカ城」

 

 ネルカはこの間のグローソンとロンドの(いくさ)の主戦場となったところだ。ネルカもアネサ同様、今はグローソンの手に落ち、その統治下に入っている。

 

「一応聞きますけど、おれに拒否権はありますか」

 

 テーブルに座っている者たちのアンコウを見る目が厳しくなる。

 

「あるわけがないだろう。貴様は虜囚の身なんだぞ」

 ビジットが鋭い目つきでアンコウを見て言った。

 

 アンコウもそんなことはわかっている。一応、聞いてみただけなのだが、ビジットの言い草を聞くと少しムカつくものがあったようだ。

 

「……それはわかってますよ。でもな、おれはグローソンに敵対したことはないんだよ。一応この前の(いくさ)の時はグローソン側について戦ったんだぜ」

 

 この間の戦いでアンコウが、グローソン側についたのはたまたまであり、そもそも屋敷を勝手に逃げ出しての参戦であって、それを主張しても通らないのはわかっていた。

 しかし、何か言い返さなければ気が収まらなかった。

 

 それに自分をとらえて拷問をした連中もグローソンの者だということはアンコウも知っていたし、そもそも自分が軟禁されている理由を、今だはっきりと知らされていない。

 

 中央に座っていた文官らしき男が、はじめて口を開いた。

 

「グローソン公、直々の命だ。貴様には口を開くことすら許しておらん」

 

 尊大な態度、というわけでもない。ごく自然に、ごく当たり前のことを言っているという感じだった。

 アンコウもこれ以上、ここで彼らに刃向かうほど愚かではなく、その後はじっと黙って立っていた。

 

 

 

 

「はぁーっ、」

 自分の部屋に戻ったアンコウはベッドのうえに体を投げ出していた。自分が思っていた以上に緊張していたらしい。

「……ネルカ城ねぇ」

 

 アンコウはネルカにはこれまで行ったことがない。いったい何の用で、そこまで行かなければならないのか、わからないのが不安であった。

 

 この屋敷での扱いは悪くはないし、はっきり言って虜囚の身というには緩い。アンコウにひどい拷問を加えた者たちも、グローソンの関係者ではあっても、ここにいる者たちとは別口だ。

 

 アンコウの現時点での判断では、ネルカへ行っても、少なくとも命を取られたり、ひどい暴力をうけることはないのではないかと考えていた。

 もし殺される可能性が高いと感じていたなら、成功の可能性は低いとはわかっていても、この屋敷にいるうちに本格的に逃亡を考えていただろう。

 

「しかし、どうなるんだろうな」

 

 そうは言っても不安が尽きることはない。アンコウは夕方まで一人、答えの出ることのない疑問にとらわれて、部屋を出ることなく考えこんでいた。

 

 

コンッ、コンッ、

 

「ん?」

「ビジットだ。入るぞ」

 

 ビジットが、アンコウの返事を待つことなく中に入ってきた。そのままビジットは、ベッドに腰掛けていたアンコウに近づいてくる。

 

「なんだ、昼寝でもしてたのか?」

「チッ、なんのようだよ。朝会ったばっかりなのに、もうおれの顔が恋しくなったのか?」

 

 アンコウとビジットは、いわば虜囚と看守の立場ではあったが、この程度の軽口をきくぐらいには親しくなっていた。

 ビジットはそれ以上無駄口をきくことなく、伝えるべき事を話しはじめる。

 

「明後日に、この町を立ってネルカにむかうことが決まった者たちがいる。お前もその者たちと同行してもらうことになった」

「明後日……えらく急だな」

「ここにいてもどうせ寝ているだけだけだろう」

「おい、人を閉じ込めているヤツの言うセリフじゃないだろう。自由にしてくれたら今からでも稼ぎに行くんだよ。そしたらネルカには行かないけどな」

 アンコウが皮肉を込めて言う。

 

「それはおれ言われてもどうしようもないことだ。ネルカに行って、むこうで言ってくれ」

 

 そう言って口を閉じたビジットに、アンコウは乾いた笑みを浮かべながら、わかったからもう行けと言わんばかりに手を振ってみせた。

 

「ああ、それとお前と一緒に行くのは、皆グローソンの前線部隊の兵士たちだ。お前を牢に入れたり、手枷足枷をすることはないが、逃げ出せば容赦なく斬られるからな」

 

 ビジットは部屋の扉のほうに向かいつつそう言った。別にビジットは脅しているのではなく、本当のことを言っているだけだというのはアンコウにも分かった。

 

「なぁ、ビジット。おれの待遇はいいのか悪いのかどっちなんだ?囚人なのか?それとも客なのか?」

 アンコウは部屋を出て行こうとしているビジットに尋ねた。

 

「………お前が感じているそのままのことだろう。良くも悪くもない、それだけだ。それにおれは、お前をこうして捕らえている理由を本当に知らない。別に知りたいとも思わない」

 ビジットは、ドアノブに手をかけたまま立ち止まっている。

「だが、上からお前を囚人として扱えと言われたことは一度もないし、あのガルシア様のお前への態度も囚人に対する者とは全く違ったからな。今は客に近い虜囚、というところか」

 

「……なぁ、あのガルシアっていうのは何なんだ。あいつらに聞いたらおれが捕まっている理由がわかるのか?」

 

「アンコウ。お前とガルシア様たちとのことは知らないが、あの方々の名を気安く呼び捨てになどするな。おれはこの間のお前とガルシア様のやり取りを見ているからいいものの、時と場合によっては命を縮めることになるぞ」

 

 ビジットの目は真剣そのものだ。アンコウにもそのビジットの真剣さが伝わってきた。

 

「あの……方々は、グローソンの家臣じゃないのか」

「ゼルセ様もガルシア様も、グローソンの家臣団の中に名は連ねておられる。しかし、その立場は特別なものだ。お二人ともウィンド王国から派遣されている客将なのだ」

 

 ビジットの説明によると、王家に忠誠を誓い、定められた税を納めている限り、国内の地方貴族の動向にほとんど口を挟むことはしないウィンド王家であったが、まったく関心を持っていないというわけではないらしい。

 

 情報の収集を主な目的として、国内の有力貴族のもとに、王国として忠実なる地方貴族のために支援指導を行うという名目で、客将として王国から人物を送り込んでいるとのことだ。

 

 一般的に、この王国派遣の客将の評判はすこぶる悪く、彼らの多くが王国の権威をカサに着て己が好き勝手に振舞い、客将となった地方領主のもとで散々財物を蓄えたあげく、なんら支援指導を行うことなく帰っていくという。

 

 それでも王国から派遣されてきた客将を、たとえ悪辣(あくらつ)な者たちであっても、邪険に扱うことはできないという現状がある。

 

 しかし、そういった者たちがあたり前である中で、ゼルセたちの在り様は珍しいものらしい。まず、このウィンド王国はエルフ族が支配種族であるのだが、王国から客将として派遣されてくる者のほとんどがエルフではなく、王国の息のかかった人間か獣人だ。

 

 金銀財宝が大好きな者が多いエルフ族であり、他者(ひと)が持ってくるものはすべて貰いうけるというのがエルフ族なのだが、わざわざ自らが王国派遣の客将などをしてまで財産を築こうとはしないのもまた、エルフ族であった。

 

 そういった中で、王国派遣の客将をしているエルフであるゼルセの存在は目立ち、しかもゼルセはグローソンで財物を蓄えるようなまねもしていない、かなり稀有(けう)な存在らしかった。

 そのビジットの話を聞いて、アンコウは首をかしげる。

 

「じゃあ あの連中は、何でその王国派遣の客将なんかやってるんだ?」

 アンコウは単純に疑問に思ったらしい。

「あの方々だ、アンコウ」

「っと、あの方々様はグローソンで何をしてるんだ?」

 

「知らん。そんなことに興味はないし、それを調べることは俺の仕事でもない。しかし、横暴な方ではないといってもゼルセ様は王国派遣の客将で、しかもエルフだ。

 決して怒らせてはならない方だ。たとえゼルセ様たちが怒らなくても、彼らに無礼を働けば、彼らの怒りを恐れるグローソンの者がお前を殺すということも考えられる」

 ビジットは、アンコウを脅すように凄みのある声で言う。

 

「……なぁ、このあいだのガルシア様に対する俺の態度ってまずかったのか」

 

「ガルシア様はお前に好意的だったからな。結果的には、この屋敷の者たちのお前を見る目も少しいいほうに変わった。

 それでも一歩間違えば、逆にお前の首が飛んでいてもおかしくなかったということは覚えておけ」

 

 思わずアンコウの額から冷や汗が噴き出してくる。そんなアンコウを見て、ビジットは口元に笑いを浮かべる。

 

「まぁ、ネルカに入ったらせいぜい気をつけることだ。ここと同様、命の心配はしなくていい。

 しかしネルカにはグローソン公も、じき入られるらしいからな。ここよりは礼儀作法に気を使えよ。さもなくば、落とさなくていい命を落とす羽目になるぞ」

 

 そういい残して、ビジットは部屋を出て行く。

 

バタンッ、

 

「…………」

( くそっ、これ以上のトラブルはごめんだぞ。こんな世界の権力者なんかに関ったって、ろくなことがあるわけがないんだ)

 

ボスンッ!

 アンコウは、力一杯壁に向かってクッションを投げつけた。

 

「………死んでたまるかよ」

 

 アンコウには、ネルカに何が待ち受けているのかは今はまだわからない。しかし事態がようやく動き出したことにかわりはなく、アンコウは不安と怒りを感じながらも、その意識はすでにネルカにむかっていた。

 

 しかし残念ながら、アンコウの身にふりかかるトラブルは、ネルカにではなく、まだこのアネサに残っていたのだ。



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第24話 望まぬ救出者

「くそっ、何でこんなに人が多いんだよ」

 

 マニは愚痴をこぼしながら、廊下の柱の陰に隠れて人が通り過ぎるのをうかがっている。

 マニは日が暮れると同時に、アンコウが軟禁されている屋敷に入り込んだ。そして日が沈んでから、もうすでにかなりの時間が経過している。

 

 今この屋敷には、かなりの人数のグローソンの関係者たちが滞在していた。マニの冒険者としての実力は、若いとはいえ本物であったが、このような隠密行動の経験はほとんどない。

 

 それでも、自分一人でアンコウやテレサたちを助け出すことができると考えたのは、才能ある若者であるがゆえの愚かさであった。

 

「くッ、危ない、」

 

 マニは少し進んでは隠れ、少し進んでは隠れを繰り返しながら、何とか庭を抜けて建物の中に入り込んだ。ここに来るまでに、何度となく屋敷の者に見つかりそうになっていた。

 

 そもそもこっそりと忍び込んで人を連れ出そうと考えている者が、迷宮に潜る時よりは軽装とはいえ、長剣を持ち、身体中に防具をつけている時点でどうかしている。

 それでもマニは天性の勘と身体能力の高さで、ここまで入り込むことができた。

 少なくとも本人は、ここまで誰にも見つかっていないと思っている。

 

(さっきよりも、またうろついているやつらが多くなってきた。何でこんなにいるんだ?)

 

 マニは、自分が考えていたよりも、ずっと状況は困難だということを認めざるをえなかった。

 それでもアンコウたちを助けることをあきらめようという気持ちにならないことは、マニの意志の強さではあったが、この状況で撤退するという判断ができないようでは、その意志の強さが悪い方向に働いていると言うほかない。

 

「くっ、私は絶対にあきらめないぞっ」 

 

 

 

 

 テレサはしばらく前に夕食を終えたあと、すぐに自分に与えられた小部屋に戻ることはせず、日々の雑用に時間を使っていた。

 テレサは、アンコウの世話以外にも、空いている時間にこの屋敷の雑事の手伝いもしており、アンコウ以上にこの屋敷の内ならば、自由に移動することが許されていた。

 

 アンコウも、テレサがこの屋敷の者たちと親しくなることは悪いことではなく、情報収集という点でもメリットがあると考えている。

 

「よう、テレサ。大変そうだな」

「ええ、なんだか急に人が増えちゃって、雑用係の手がまだ足りてないみたいね」

 

 今、この屋敷の中にはグローソンから来た者以外にも、グローソン側についた旧アネサ側の関係者や冒険者たちもいて、テレサと比較的気安く話をする者たちが少なからずいる。

 

 テレサは手押しカートのうえにシーツのようなものを山積みにして、どこかへ運ぶ途中らしい。

 

「じゃあ、私はまだ仕事の途中だから」

 

 テレサに話しかけてきた若い男は、まだテレサと話をしたそうな様子であった。

 兵士や冒険者などといった男たちは、女に対して無作法な者が多い。今の若い男なども、テレサと言葉を交わしながらも、テレサの胸の辺りをあからさまに見ていた。

 

 テレサの胸は、服のうえからでもその大きさがはっきりわかるほど大きい。テレサは30半ばになろうかという女とはいえ、男たちを惹きつける魅力は十分にもっている。

(ふふっ。いやぁねぇ、あんなにおっぱいばっかり見て)

 テレサは長年このアネサの町で、女将としてひとつに宿屋の切り盛りをしていた女だ。あの手の男の視線には慣れている。

 

 むろん慣れているといってもしつこく体を触ってくるような(やから)には閉口することもある。

 しかしそれも、アンコウとガルシアの仕合いがあって以降は、アンコウに対する屋敷の者たちの戦士としての評価が上がったようで、そのアンコウの奴隷であるテレサに度の過ぎたちょっかいをかけてくる者はいなくなっていた。

 

 しかし、新しくやってきたグローソンの兵士たちには、まだそのようなことを知らない者が多いだろうから気をつけろと、テレサはアンコウから注意されてもいた。

 

(ふふっ、さっさと用事を済ませて、部屋に戻らないと)

 

 テレサはこの仕事を済ませたあとも、自分に与えられている部屋でゆっくり休むことはできず、身支度を整えてアンコウの部屋に行かなければならない。

 アンコウから今日もアンコウの部屋で休むようにと言われていたからだ。

 テレサにも小部屋があてがわれてはいるものの、アンコウとテレサが同じ部屋で寝ることは禁じられていない。

 

「ふふっ、」

 こんなに連日同衾するのなら、もう同じ部屋にしてもらったらいいのにと、テレサは思っていた。

 

 そして、カートを押すテレサがこの後のことをいろいろ考えながら廊下の角を曲がった時、

「キャッ!ウグッ!?」

 突然横の扉が開いたかと思うと、テレサは口を押さえられて、その部屋の中に引きずり込まれた。

 

 テレサは強い力でがっちりと抑えられて、身動きができない。

 その手の主は、すばやくもう一方の手で、テレサが押してきたカートも部屋の中に引っ張り込んで、音もなく扉を閉めてしまった。

 

「!フグッ、ググッ、ンッ」

 

 テレサはあせる。

 何とか逃げ出そうともがくのだが、一本の腕の力だけで完全に動きを封じられていた。抗魔の力に目覚めつつあるテレサは普通の人間種の男よりも力がある。それなのに今テレサは完全に力負けしていた。

 テレサは相当強い力を持っている男に襲われているのだと思い恐怖した。

 

「!んんっっ!」

 

 恐怖に駆られたテレサは、それまで以上の力を振しぼり、暴れはじめる。

 さすがに片手では押さえきれなくなったのか、もう一方の手がテレサの胴体に巻きつき、がっちりと抱きかかえられてしまった。

 

 テレサはまったく身動きがとれなくなり、相手の顔も確認できない。手で口を完全に押さえられ、もうひとつの腕がテレサの大きな胸を強く押さえつけていた。

 

「ンン!ンンンッー!」

 

「あ、暴れないで、テレサ。私だよ、マニだ」

(えっ?)

 テレサの耳元で聞こえてきたのは間違いなく女の声。

 そう言われて意識を変えてみると、確かに自分の鼻に香ってくる匂いも女のもののようだ。

 

「落ち着いて、何にもしないから」

 

 テレサはその言葉を聞いて、抵抗するのをやめ、口をふさがれたままでうなずいて見せた。そして、マニがまた言葉を続ける。

 

「テレサ、あんたを傷つける気はないんだ。抵抗しない、大きな声を出さないって約束してくれたら手を離すよ」

 

 テレサがまたうなずく。

 

「……よし、約束だ」

 

 マニはゆっくりと手を離し、テレサの拘束を解いた。

 テレサは体を自由に動かせるようになっても、急に逃げ出すようなことはせず、一歩距離をあけてからゆっくりと振りむいた。

 振りむいたテレサの視界の中に、見覚えのある顔貌(がんぼう)をした一人の獣人の女が立っていた。

 

「マ、マニさん!」

「しっ!テレサ、声が大きい」

「ど、どうして、マニさんが……あっ、この屋敷で何か冒険者の仕事が入ったとか、」

 

 テレサはそうは言ってみたものの、この状況とマニの様子からそんな穏便なものではないかもしれないと感じていた。

 

「ちがう。テレサとアンコウを助けにきたんだ」

「えっ!」

「あー、でもよかったよ。ここでテレサが見つかるなんて。2人の居場所が見つからなくて弱ってたんだ。妙に人が多いしさ。それでアンコウはどこにいるんだ」

「えっ、えっ?」

 

 テレサにはマニの事情はよくわからなかったが、とにかく自分とアンコウを助けるために、マニがこの屋敷に忍び込んだことはわかった。

 

「えっと、ほかの人は?」

「いや、私一人で来たんだ」

「へっ……手引きしてくれる人とか、外で待ってる人とか、」

「そんなのはいない。さぁ、行こう。アンコウが捕まっているところに案内してくれ」

 マニがテレサの手を引いて、部屋を出て行こうとする。

 

「あっ、待って、待ってください!」

「ん?どうした?」

「無理ですよ!」

 

 今この屋敷はグローソン側の兵士や冒険者、その他の関係者で溢れている。

 マニが本当にたった一人で乗り込んできたのなら、とてもじゃないがアンコウと自分を誰にも見つかることなく外に連れ出すことなんてできないと、テレサは思った。

 

 テレサはマニがここまで無事にこれたのなら、何とかこのまま見つからないうちに帰ってほしいと話をしたのだが、マニはまったく納得してくれない。

 

 マニはこのアネサで名の知れた若手冒険者であり、テレサはそのマニが自分とアンコウを助けるために危険を冒してここまで来てくれたのだと知ると、納得してくれないマニに対して、あまり強く言うことができなくなった。

 

 それに、心配するテレサに自信満々に話をしてくるマニの姿を見ていると、この人なら何とかできるんじゃないかとも少し思えてきてしまった。

 

 

「何とか人に見つからず、そのアンコウのいる部屋まで行くことができないかな」

 そう言って、マニがテレサの顔を見てくる。

 

「……やっぱり無理だと思いますよ。旦那様の部屋を常時見張っている人は一人しかいませんけど、そこに行くまでには絶対誰かに会います。もしかしたら逆に堂々と行ったら、旦那様の部屋までとがめられずに行けるかもしれませんけど。

 仮にそこまで行けたとしても、さすがに堂々と屋敷の外に抜け出せるわけがないですから。それに今この屋敷にはアネサの冒険者の人たちもいるんですよ。マニさんの顔を知っている人もいるんじゃないですか?」

 

「……そ、そうなのか」

「マニさんは有名ですからね」

 

 マニは口ごもって考え込んでしまった。

 テレサには、どうやらロクな計画も立てずにここまで来たらしいマニが、今さら何か妙案を思いつくようには思えない。

 ついさっきまで自信満々だったのに、急に悩み始めたマニを見て、テレサはかわいそうに思ったのか、マニと一緒になって何やら頭をひねって考えはじめた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「……あっ、」

 テレサが、なにやら思い出したように顔をあげた。

 

「んっ、どうした?テレサ?」

 

 マニが何か期待を込めたような目でテレサを見る。

 テレサは思い出したことをマニに言って良いのか悪いのか、少しためらっていたのだが、マニの明らかに期待をしてるよという顔を見て、つい話をつづけてしまった。

 

「……えっと、このあいだの戦さのときに、旦那様は屋敷をひとりで抜け出したんですよ」

「どうやって!?」

 マニがテレサの両肩を勢いよくつかんできた。マニの顔がテレサの顔のすぐ目の前にある。

「ち、ちょっ!え、えっと……、」

 

 テレサはマニの勢いに怯みながらも、視線を上に向けて天井を指差した。

 

 

 

 

 夜もだいぶと更けてきた中、アンコウは一人部屋でこれからのことを考えていた。

(まぁ、明後日にはここともおさらばだからな)

アンコウはとりあえず、状況が動き出すこと自体は前向きに捉えようとしていた。

 

「……しかし、テレサは今日は遅いな」

 

 いつもならとっくに戻ってきているであろう時間が過ぎても、テレサはやってこない。

(まぁ、屋敷の滞在している人数が増えたからな。雑用も増えるか)

 無駄にお人好しのところがあるテレサのことだから、いいように使われているんだろうとアンコウは思った。その時、

 

(んっ?……なんだ……)

 

 椅子にだらけた雰囲気で座っていたアンコウの表情が、突然真剣なものに変わり、何かを探るようにじっと固まって動かなくなってしまった。

 

 しばらく動くことなく椅子に座っていたアンコウは、おもむろに立ち上がり、部屋の壁際まで歩いていくと、壁にピタリと耳を当てた。

 アンコウの耳に、壁を伝って何かの音が聞こえてきた。

 

(………天井か)

 

 アンコウは天井をにらみつけるように見ると、壁から耳を離し、ベッドの横まで急いで移動する。

 

 アンコウはベッドの下に手を突っ込むと、少し長めの木の棒切れを取り出した。

 軟禁中のアンコウは、当然武器の携帯を認められていないのだが、屋敷の者たちの点検は甘く、アンコウはこうして武器になりそうなものを隠し持っていた。

 

 アンコウは右手に木の棒を持って、天井を見上げながら、部屋の中をうろうろと警戒しつつ歩き出した。

 

・・・・・・・・・・・暫しの時が経過する。

 

「……何なんだ、いったい」

 アンコウは未だ手に木の棒を持って、天井をながめている。

 

 しかし、初めのころとはその様子はかなり変わっていた。警戒心を完全に解いたわけではなかったが、今はアンコウの頭の上に?マークが浮かんでいるといった感じなっている。

 

 天井の上の気配は今でもしている。一時は壁に耳をつけるまでもなく、天井で何かが動いている音が聞こえていたほどだ。

 ただ、その気配が遠くなったり、近くなったりを繰り返している。

 

(……まちがいなく人なんだけどな。それでなきゃ、人ぐらい大きいネズミかゴキブリがいる……何やってんだ、こんな時間に)

 

 はじめはグローソンに敵対する勢力の侵入者か何かかと怪しんだアンコウだったが、その可能性はアンコウの中でほぼ消去されている。

 一応、静かに動こうとはしているようではあったが、あまりにバレバレで、少なくとも一人は完全に素人だなとアンコウは思った。アンコウの中で、こんなお粗末な侵入者は考えられなかった。

 

 だとすれば、この屋敷の関係者が掃除でもしているのか探し物でもしているのか、そんなとこだろうと判断して、アンコウは一応棒切れは持ったまま、再び椅子に座ってしまった。

 

 しばらく座っていると、また天井のかなり近い場所から何かが動く気配を感じる。そしてまたそれが遠ざかる。それがまた延々とくり返された。

 

「!~~~っ!!」

 

 アンコウは、この手の気配を察知する能力がかなり鋭い。

 一度気になってしまったら、どうしても無視することができなかった。アンコウのイライラが限界に近づいていく。

(ふざけやがって。こんな時間にいつまでも何やってんだっ)

 

 アンコウは、感情的には怒鳴り声をあげて、天井にイスでも放り投げてやりたい心境だった。しかし、いまさら余計な揉め事を起こすほどバカではないと、グッとこらえて木の棒をベッドの下に戻し、そのまま扉にむかって歩き出した。

 廊下に突っ立っている見張りの男に一言文句を言ってやることにしたのだ。

 

 アンコウは眉間にしわを寄せながら、いつもよりも乱暴に扉を開ける。しかし、扉を開けて横を見れば、そこに立っているはずの夜の見張り担当の男、レクサの姿はない。

 

「チッ、あの野郎、さっきまでいたくせに、テレサが来ないとサボるのか」

 

 アンコウは思わず悪態をつく。

 夜の見張りを担当しているレクサは、アンコウとテレサが夜中にあられもない声をあげているときも、ここに立ち続けているぐらい仕事熱心な男なのに。

 昨日の夜もテレサとの事が終わり、アンコウが用を足しに部屋を出たとき、アンコウを見てニヤついていたレクサの顔をアンコウは忘れていない。

 

 見張りなどいないにこしたことはないが、珍しく用事がある時にいないなんてどういうことだとアンコウは(いきどお)った。

 

(しかし、見張りがいないなんて初めてじゃないか)

 

 アンコウは悪態をついたものの、彼らがトイレや食事をどうしているのかは知らないが、これまでは常に誰かがこの部屋の外に立っていた。

 アンコウは少し首をかしげながら、部屋の中には戻らずに廊下を歩き出した。

 

(チッ、このまま部屋に戻っても天井が気になって落ち着けそうもない)

 そしてアンコウが部屋の前の長い廊下を歩いて、曲がり角の近くまで来たとき、先にその角を曲がって、二人の男の姿が現れた。

 

「おい、アンコウ。どこに行くんだ」

 

 男の一人は、レクサだった。そのレクサがアンコウに話しかけてきたのだが、幾分いつもよりも語気が強く、目つきにも鋭いものをアンコウは感じた。

 

「あ?お前をさがしてたんだよ、レクサ。いつも無駄に俺の近くに突っ立ってんのがお前らの仕事だろうが」

 自然、アンコウの言葉も強くなる。レクサたちは、何かさぐるような目でアンコウを見ている。

「……それで、何か用なのか、アンコウ」

 

 アンコウは、レクサたちの態度になんともいえないムカつきを感じて、あからさまに「チッ、」と、大きな舌打ちを打った。

 

「何か用かじゃねぇ気になるんだよ。天井がうるさいんだよ。こんな時間に何やってんだか知らないがな。明日にさせろよ」

 

「………………」

 レクサたちは無言のまま、さっきまでとはまた違う(いぶか)しげな目でアンコウを見ている。

 

「……何だよ」

 アンコウは、にらむようにレクサたちを見返した。

 レクサともう一人の男は、なにやら互いに目を合わせている。そして、レクサが再びアンコウに目を移す。

 

「わかった。そのことは調べてみるから、あんたは部屋に戻っていてくれ」

「チッ!」

 

 アンコウはまた派手な舌打ちをすると、くるりと自分の部屋の方向にきびすを返した。部屋まで戻ってきたアンコウは、怒りをぶつけるように強く扉を閉めた。

 

バタンッ!!

「くそっ!」

 

 アンコウは腹立ちを抑えるように、口を一文字に結んで、

ドスンッ、と椅子に腰をおろした。

 アンコウは無駄に不愉快になった感情を静めるべく、椅子に座ったまま目を閉じて、しばらくそのまま動こうとしなかった。

 

 しばらく続く静寂(せいじゃく)の時。

 

ガタ! ガタッ!

「!!」

 

 すると、今度は明らかに部屋の真上で音がした。

「チイッ!」

 ようやく少し落ち着きだしていたアンコウの気持ちに、瞬間イラつきが戻る。

 アンコウは椅子に座ったまま、音がしたほうの天井をにらみつけるように見た。すると、

 

「!あん?」

 アンコウがにらみつけた天井の一角の板がずれていた。

 さらにその板が、まだ少しづつ動いていた。

「な、何だ、」

 

 そして、半分ほども開いた天井板の間から、逆さまになった人の頭が一瞬出てきた。

「あっ!?」

 後頭部しか見えなかったが不審者以外の何者でもない。

 

 アンコウはとっさにベッドのほうへと駆け出し、ベッドの下からさっき隠した木の棒を再び引っ張り出した。

 アンコウが木の棒を手に再び開いた天井を見上げると、さっきあった頭は見えないが、天井板はいまだ開いたまま。アンコウは木の棒を構えて、開いた天井をにらみつける。

 

 すると、そこからまたひょっこりと、さっきとは違う髪色の頭が突き出てきた。今度の頭は正面を向いており、その顔の細かな表情まではっきりと確認ができた。

 

「なっ!テレサ!」

「は、はい。テレサです………」

 

 二人目の天井から現れた逆さ顔の(ぬし)は、テレサだった。なんともいえない微妙な空気が二人の間を漂う。

 

 アンコウとしては頭の中が、???マークだらけになっていた。テレサのほうもなんともいえない顔つきで、言葉がないといった様子。

 アンコウとテレサが上と下で、二人でお見合いをしていると、テレサの横にもうひとつ顔が突き出てきた。

 

「お前は……」

 

 テレサの横に出てきた顔は獣人の若い女の顔。逆さまになってはいたが、アンコウが見覚えのある顔だ。

 

「……マニ、」

「やっと見つけた。助けに来たぞ、アンコウ!」

 

 マニはそう言うと、実に軽い身のこなしで天井から下に飛び降りてきた。

 ごく一瞬の動きではあったが、若草色の毛をなびかせる一匹の野生の獣のような、しなやかさと強靭さをアンコウに感じさせた。

 

「さぁ、テレサもおりてきて」

 

 マニは天井にむかって大きく両手を伸ばしながら言う。マニの身長はアンコウよりずいぶん高い。そのマニが長い手を伸ばしたら、ずいぶん天井も低く見える。

 

「は、はい」

 

 マニのように手際よくというわけにはいかなかったが、テレサも多少もたつきながらもマニに受け止められて部屋の中におりてきた。

 

 天井裏を長い時間移動していたために、二人はかなりホコリまみれになっている。

 降りてきた二人はそのホコリを手で払っているのだが、マニの顔はにこやかで、テレサはホコリを払いながらアンコウの顔を申し訳なさげにうかがっていた。

 

「……お前らずいぶん長いこと天井裏を散歩していたみたいだな?」

「ん?ああ、テレサに案内してもらったんだけど、なかなかこの部屋が見つからなくて、まいったよ。まぁ、テレサだって、天井裏なんて歩いたことないだろうからな。仕方ないさ、ハハッ」

「……………」

 アンコウの顔に表情はない。

 

 しかしアンコウは今の状況を何となく理解し始めていた。天井をうろついていたのは、掃除か探し物をしているこの屋敷のバカたれではなく、すでに可能性から消去していた外部からの侵入者で、その目的が自分を助け出すこと。

 そして、すでに自分の奴隷であるテレサは確保済みといったところか。

 

 アンコウは状況を把握するにつれ、胃を素手で雑巾しぼりでもされているかのような嫌な感覚に襲われていた。

 

「……テレサが案内してきたっていうのは、どういうことだ?」

 アンコウがテレサのほうを見て聞く。

「あ、あの、」

 

 アンコウが普通の調子で話していても、さすがにテレサはアンコウが怒っているということに気づいていた。その怒りの理由に思い当たるところも大いにあった。

 

 テレサは一時、自分たちを助けに来たというマニに期待をしたのだが、天井をうろつき迷っているうちにかえって冷静になり、自分がしていることの重大性に気がついた。

 しかし気づいた時には今さら引き返すこともできず、そのままアンコウの部屋を探すしかなかった。

 

 アンコウの問いかけにテレサがなにやら言いよどんでいるのを見て、マニが会話に入ってくる。

 

「ああ、お前たちを助けに来たんだけど、お前たちの居場所がわからなくて困ってたんだ。その時にたまたまテレサを先に見つけてな。誰にも見つからずにここに来る方法を教えてもらったんだよ」

 

「い、いや、違うんです。教えたっていうか、」

「マニ、お前、屋敷の見取り図もなしにここまで来たのか?それはすごいな」

 

 アンコウは、テレサにはかまわずにマニに話しかける。マニは、アンコウの嫌味が含まれたその問いかけに気づかない。

 

「いや、テレサがいなかったら、ここまでたどり着けなかったさ。思っていた以上に屋敷は広いし、人は多かったしな」

 

 アンコウは能面のような顔つきをしたままだ。しかし実際には、今にも怒りで頭が爆発しそうになっていた。

 

 アンコウは、迷宮の中で中途半端に力のある自信過剰のバカのせいで死にかけたことを思い出していた。迷宮に潜る冒険者としては、マニはアンコウよりもはるかに強い抗魔の力を持つ強者(つわもの)だ。

 

 しかし、ここは迷宮ではない。この屋敷は今、実質的にグローソン軍の駐屯所にも等しい状況になっている。

 マニほどの抗魔の力を持つ者でも、一人で一軍を相手に戦うなど無謀以外の何ものでもない。

 

 アンコウにしてみれば、この状況ではマニも、まわりを死に追い込む自信過剰のバカということになるのかもしれない。

 

「マニ、すごいな。お前は一人で俺とテレサをこの屋敷から連れ出してくれるのか?」

「なに、私とアンコウがいれば、テレサ一人ぐらい連れ出せるだろう」

「……言っとくが、俺にあの戦場でお前が見たような力はないぞ。あれは俺の力じゃなくて、一時だけの、まぁ、たちの悪い魔法みたいなもんだからな」

「魔法?」

「とにかく、お前が思っているような力はないってことだ」

「そ、そうなのか」

 

 アンコウは表情こそ変わらないが、冷たい目でじっとマニのことを見ている。

 マニは、アンコウが自分をあまり歓迎している風ではないことにようやく気づきはじめた。

 

「で、でも、いつまでもここにいるわけにはいかないだろう。殺されるかもしれない。力がないって言っても、お前も冒険者なんだろう。

 このあいだは無様のところを見せたが、私は剣の腕にはそこそこ自信があるんだ。死ぬ気でやれば、絶対逃げ出せる」

 

「俺は死ぬ気はないんだよ。確かにこのまま殺されるのはごめんだけど、自殺する気もないんだ。マニが俺よりずっと強いのは知ってる。だけど本気でお前一人の強さで、おれたちを連れて、ここから逃げることができると思っているのか?」

 

 それに屋敷を抜け出せば終わりというわけじゃない。町も抜け出さなければならないし、グローソンの支配地域からも抜け出さなければならない。

 アンコウは、マニに問いただし続けた。屋敷を抜け出した後のことも、ちゃんと考えているのかと。

 

「い、いや、しかし、ここにいて殺されたらどうしようもないだろう!」

「マニ、お前は俺たちがこのままここで死刑にでもされるっていう情報でも得たのか?」

「い、いや、」

 

「………このあいだ、外で会ったよな。ただ一時逃げ出すだけなら、テレサと二人あのときでもできたんだよ。だけど町の外に逃げ出すことはできなかっただろう。

 しかも今はグローソンの兵隊や冒険者たちが山ほどいる屋敷の中なんだぞ。たとえお前が生きて出ることができても、俺とテレサは死ぬね」

 

「やる前からなに弱気なことを言ってるんだ!ここまで誰にも見つからずにこれたんだ。また天井をつたっていけば、大丈夫だ!絶対外に出られる!」

 

(…重症だな)

 あれで本当気づかれていないんだったら、この屋敷の責任者はさらし首もんだとアンコウは思う。

(ああ、そういえば、さっきのレクサたちの様子はおかしかったっけ)

 

 大体つい今言った 超幸運にも屋敷を抜け出せたとして、その後どうするんだというアンコウの疑問には何も答えず、この獣人女は華麗にスルーしている。

(人の話を聞いていなかったのか、この野郎)と、アンコウは思う。

 アンコウは、この獣人女を天井から降ってきた疫病神に認定した。

 

「あ、あの、すみませんでした。旦那様がこのあいだの戦さの時に、天井をつたって屋敷を抜け出したことを私が教えてしまったから。初めにもっと強く言って、マニさんに帰ってもらうべきでした」

 

 テレサがアンコウとマニの話に入ってきて、アンコウに頭をさげた。そのテレサの姿を見て、マニはあせってテレサに話しかける。

 

「なにを言っているんだ、テレサ!テレサがいたからここまで来られたんじゃないか」

「ええ、私がいたからここまできてしまったんです。私が余計なことを言わなかったら、マニさんはもう帰っていたかもしれない」

「何を!アンコウは命の恩人だし、テレサの事だって、今度は必ず助けてあげるよ!絶対だ!」

 

(……あぁ、もうダメだ。最悪だ、こいつ。もう面倒くせぇ)

 

 恐ろしく辟易(へきえき)した気分になったアンコウは、手に持っていた木の棒をベッドのうえに放り投げて、部屋の扉にむかって歩き出した。

 



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第25話 あきらめの悪い救出者

「おい!アンコウ!どこに行くんだ」

 

 アンコウは、そのまま扉の前まで歩いていって足を止めた。

 

「便所だよ。マニ、あんたは俺がこの部屋に戻ってくる前に消えてくれ。死ぬ気で天井を走れば逃げれるんだろ?ただし、あんた一人でだ」

「な、なにを言って、」

「……旦那様」

「ああ、テレサ。帰りの道案内はいらないぞ。まぁ、どうしてもついて行きたいんだったら、好きにすりぁいいけどな。もう面倒くせぇし」

 

 アンコウはそう言いながら扉を開けて部屋を出て行った。

バタンッ!

 

(はぁ、何なんだよ、もうっ)

 アンコウは閉めた扉の前に立ったまま、グシャグシャと自分の髪をかきむしった。

「フウーッ、」

 アンコウは大きくため息をついた後、ぐるりと周りを見渡した。

(……見張りはまだいないままか……)

 

 

 

 

 アンコウが部屋を出て行った後、マニはひどく(いきどお)っていた。

 

「なんだ、あいつは!逃げる勇気もないのか!」

 

 マニはひとしきり憤りを言葉にしてぶちまけた後、テレサに、2人だけでもとりあえず逃げようと提案してきた。しかし、テレサは首を縦には振らない。

 

「どうして?アンコウのことも見捨てるつもりはないんだよ。テレサだけでも先に逃げていたほうが、後でアンコウを助けるのも楽になると思うんだ」

 

 テレサはどう言ったものかと頭を悩ませている。ここまでのマニを見て、テレサもマニと一緒に逃げても自分は逃げ切ることはできないだろうと判断していた。

 マニは当初テレサが思っていた以上に無計画に過ぎた。

 

 アンコウは心の中でマニを疫病神(やくびょうがみ)に指定したが、テレサもマニのことを心の中ではドロ舟だと思うようになっていた。

 マニと2人で逃げるなどということは、一奴隷女に過ぎないテレサにとって危険すぎる賭けだった。

 

「……いえ、マニさんが知らないのは無理ないですが、今この屋敷はグローソンの兵隊でいっぱいなんです。ついこのあいだ新しく来た軍人さんたちの駐屯場所になったの。ここまで見つからずに来れたのが奇跡みたいなもの。旦那様が怒るのも当たり前だわ。

 私はわかっていたのに、ついマニさんの好意に甘えてしまって、マニさんをこんな危険なところまで連れてきてしまった。あなた一人なら、間違いなく無事にこの屋敷を抜け出せることができるわ。

 私なら大丈夫だから、ほら、さっきみたいに自由に屋敷の中を移動できるぐらいには信用されてるのよ。そんなひどいこともされてないから、すぐ殺されるなんて事はないと思うの。だからマニさん、今はあなた一人で逃げてください」

 

 テレサはその内心とは違い、ごく自然に実に申し訳なさそうな体で言った。しかし、そんな遠まわしな拒絶の意思は、マニには通じない。

 

「大丈夫!私は自分の意思でここに来たんだ。テレサとアンコウを助けることは、私が自分のためにもしなくちゃいけないことなんだ。だからテレサが、そんな謝らなくてもいいんだ。アンコウだって後で必ず助けるよ。

 いくら奴隷だっていってもテレサの命はテレサのものなんだから、先に逃げよう。アンコウだって好きにしろって言ってたじゃないか」

 

 マニはやさしい目でテレサを見つめながら言った。

 

「い、いやそういうことじゃなくてですね……」

 

 マニはまぎれもなく善意で言っている。本気でテレサを助けようとして行動している。テレサもそのことはよくわかっている。

 テレサも多少打算を働かせることもあるが、根本的に人がいい女で、善意むき出しのマニにどう言ったらよいものかわからなくなっていた。

 

 テレサにしてみれば、マニは100%の善意でドロ舟に乗るようにすすめてきている。これはかなりタチが悪い。

 テレサは、何とかマニ一人で帰ってもらおうと必死に言葉を続けた。

 

 

 

 

 アンコウは部屋を出て周りに人がいないことを確認すると、廊下を一人歩き出した。別に本当に便所に行くことにしたわけではない。

 

「……さてどうするか、」

 アンコウは自分以外にも、マニたちが天井を移動していたことに気づいた者たちが間違いなくいるだろうと思っている。

(……あれじゃあな、俺より鈍いやつだって気づく)

 

 第一レクサたちには、アンコウ自身が天井にいる連中をどうにかしろと苦情を伝えていた。

 

(レクサたちのあの態度といい、おれが言う前にとっくに気づいてたんじゃないのか……騒ぐほどのことじゃないってことか、いや、それは考えずらいな……)

「……くそっ、ほんとバカで力のあるやつは始末が悪い」

 

 助けてくれるということ自体はありがたい話だが、ロクな計画も立てずに命を賭けるマニの神経がアンコウにはわからない。

 

 

 そして長い廊下の端まで歩き、アンコウが右に曲がろうと方向転換したところで、アンコウはピタリと足を止めた。

 アンコウが曲がった先に、何人もの武装した者たちがいたのだ。その中にはレクサたち見張りの男らの顔もあり、さらに彼らを統括する立場にあるビジットもいた。

 

「……………」

 足を止めたアンコウは、無言のまま彼らを見すえている。

 

 ビジットがアンコウの近くまで歩いてきて、じっとアンコウの顔を見る。

 

「何だよ、男に見つめられても気持ち悪いだけなんだけどな」

「……アンコウどうかしたのか?」

 

 ビジットの目に、いつもとは違う非常に鋭いものがある。そのビジットのうしろからも武装した男たちの視線が、アンコウを捕らえていた。

 

「いや……ちょうどよかった。あんたたちを探していたんだ」

「…ほう、どうかしたのか?」

「ああ、部屋に強盗が入ってきてな。逃げてきたんだ」

 

 アンコウは至って普通の態度、口調で言った。

 

「なに?」

「だから、強盗だ。テレサが人質になっている。だから人を呼びに来たんだよ。いやぁ、こんな集団で武装した人たちがいてくれて助かったよ」

 

「…ふん、強盗に襲われて、テレサを人質にされたにしては冷静だな」

「こういうときはパニックになるのが一番ダメなんだよ」

「わざわざこんな屋敷の奥まで、しかも金なんか一銭も持っていない男の部屋に強盗か?どんな間抜けだそれは」

「とんでもねぇ間抜けだ。それは間違いないんじゃないのか。まぁ、ここは俺の家じゃないからな、どうなってもかまわないが、お前らはそういうわけにはいかないだろう?」

 

「……テレサは、お前の奴隷だろう」

「奴隷が主人を助けるために強盗の犠牲になるんだったら、奴隷冥利(どれいみょうり)に尽きるってもんだろ」

 

 ビジットは依然冷たく何かをさぐるような目でアンコウを見ている。

 

「その強盗はどんなやつだった?」

「獣人の女だ。間抜けかもしれないが、そこそこ強そうだったから気をつけるんだな」

 

「……お前の知り合いじゃないのか、アンコウ」

「さぁな。びっくりして飛び出してきたんでな、顔までは覚えてないな」

「ずいぶんと都合のいい目だな。じゃあ、強盗なら斬り殺してもいいんだな」

「それ、俺の許可がいるのかよ?いらないだろうが。間抜けな強盗の末路なんか俺が知るかよ」

 

 アンコウは面倒くさそうにそう言うと、なにやら殺気立った目をした獣人の若い男が一歩アンコウに近づいてきた。

 

 その男は、見た目だけで言えば、まだ二十歳にもとどいていないような少年の面影さえ残っている容貌をしていた。その装備から察するに、グローソンの正規の兵隊ではないだろう。

 

 アンコウは、その若い獣人の男と相対する。

(アネサの冒険者か、たぶんそっちのほうだな)

 

「ふざけるな!マニさんが強盗なんかするわけないだろうが!それにあんたの女奴隷を人質にしているだなんて、嘘も大概にしろよ!」

「何だお前。何でお前がそんなことを知っている?あいつの仲間か?」

 

「マニさんはな、すげぇ冒険者なんだよ!あんただって、この町で冒険者をしてたんだったら、マニさんのことは聞いたことぐらいあるだろう!

 俺はな、迷宮で仲間にも見捨てられて、魔獣に食われそうになったとき、あの人に助けられたことがあるんだよ。マニさんが強盗なんてするわけねぇ!」

 

「……そんなことは聞いてない。お前は何で俺の部屋に押し入ってきたやつが、そのマニだって知ってるんだって聞いてるんだよ」

 

 アンコウに冷静に重ねて問われて、その獣人の若い男の勢いが弱まる。

 

「……見たんだよ。マニさんがこの屋敷の中にいるのを」

 

 マニはテレサと共に天井に登る前に、すでにこの屋敷の者の目に触れていたらしい。

 

(あいつ、天井裏の大ネズミになる前から見つかってるじゃねぇか)

 アンコウはほとんど表情を崩すことはなかったが、心の中では派手なため息をついていた。

 

「じゃあ、何でお前は声をかけなかったんだ?お前はそのマニさんと知り合いなんだろう」

「そ、それは……」

 

 その若い獣人の男が言いよどむと、ビジットが代わりに話し出した。

 

「一時的にだか、町の治安を保つためにグローソンはこいつらのような冒険者たちも多数雇っている。しかし、そのマニという冒険者は雇っていない。その部外者の冒険者が、何か隠れるようにして屋敷の中を移動していたらしい」

 

「そうか、」

 アンコウは再び若い獣人の男を見た。

 

「ここにいるはずがないマニが、コソコソこの屋敷の中をうろういてたから、お前は声をかけられなかったってわけだ。何だ、お前も怪しいヤツと思ったんだろ?」

「ち、ちがう!マニさんは何かそうしなきゃならない理由があったんだ!」

 

「…あっそう、どっちにしろ俺には関係ないことだ。とっとと捕まえに行けよ、ビジット。とりあえず怪しいヤツってことでいいだろうが」

 

 ビジットが答える前に、今度はまた別の獣人の男がアンコウに近づき、話しかけてくる。

 

「本当に関係ないのか?マニはこのあいだの(いくさ)で、お前に命を助けられたと人づてに聞いた。マニはお前を助けに来たんじゃないのか?」

 

「何だ、お前は。そんなこと俺が知るかよ。大体俺は何でかしらないが、グローソンにとっ捕まって軟禁中なんだ。俺を助けに来たんだとしてもこの屋敷の連中からしたら強盗みたいなもんだろ。捕まえるか斬り捨てるかすることに変わりはないだろうが、もう早く行けよ」

 

「な、何だと!お前はわかってるんじゃないのか!マニはお前を助けに来たんだろう!この人でなしがっ!」

 

 男が怒鳴ると、この獣人の男のまわりに集まってきていた他の獣人たちも口々にアンコウをなじりはじめた。

 マニはアンコウが思っていた以上にこの町の冒険者たち、特に多くの獣人たちから慕われているようだ。

 

 マニは冒険者として強い力を持ち、冒険者らしくなく他者に優しい、それに彼らから見れば若く美しい獣人の女だ。今回のような考えなしの無鉄砲さも普段は愛される理由のひとつなのかもしれない。

 

 マニは、本当に自分が必要だと思った最低限度の情報収集しかしていなかったようで、直接的、間接的を含めて自分のことを知っている者がこんなにもたくさんこの屋敷にいることを全く把握していなかった。

 

 この者たちと手を組んでアンコウ救出作戦でも作っていれば、アンコウもそれに賭けてみようという気持ちになっていたかもしれない。

 しかし今のアンコウの気持ちは、ただまわりのマニマニアたちからなじられて、忍耐できる怒りの限度が超えただけである。

 

「うるせぇっ!何が人でなしだこの野郎!クソ寝ぼけたこと言ってんじゃねぇ!こんなバレバレの間抜けな侵入者に命預けろっていうのか!俺はお前らと違ってあのバカに何の思い入れもないんだよ!

 お前らは俺に地獄行きのチケットを持ってきたヤツに感謝しろとでも言うのか!」

 

 それまであまり感情を見せずに話していたアンコウが、突然怒りをあらわに怒鳴りつけた。アンコウのまわりにいる武装した男たちが押し黙る。

 

 アネサの者であろう獣人たちの多くは、その顔に怒りの色を浮かべてはいるが、彼らも冒険者であれ傭兵であれ、戦いの前線で生きてきた者たちだ。

 きれい事を吐いているだけでは、決して生き残ることなどできないという厳然(げんぜん)たる事実を実体験として知っている。

 どれだけマニに好意を持っていようが、アンコウの言うことを一方的に否定することはできなかった。

 

 そして静かになった彼らの中で次に口を開いたのは、やはりビジットだった。

 ビジットは今のアンコウの様子を見て、ここに来るまでは可能性の一つとして考えていた、アンコウ自身が脱出計画をたくらんでいるかもしれないという考えをほぼ消去して話しはじめる。

 

「お前の言うとおりだアンコウ。とりあえず怪しいヤツを捕まえに行くことにする。強盗であれ何であれ、グローソンに敵対する者なら抵抗すれば斬る」

 

 ビジットの言葉を聞いて、まわりにいる一部の者たちがざわざわと騒ぎ出した。

 

「ビ、ビジット殿、俺たちにマニは、」

「お前たちはグローソンに雇われているんだ。お前たちもその道のプロだろう。まさか雇い主であるグローソンに敵対する者を斬れないなどと言わないだろうな?」

「そ、それは……」

 

 (はた)から見れば冒険者や傭兵などといった輩は、みな勝手気ままに生きているように見える。いや、実際にそうなのだが、そんな彼らであるからこそ、これだけは絶対に守らなければならない仁義というものがある。

 

 この状況で彼らがマニを斬ることを拒否するということは、間違いなくその仁義に反することになる。

 ビジットは彼の指揮下にある武装兵たちを厳しい目つきで見渡した。

 ビジットは一時(いっとき)無言の間をあけた後で、また口を開く。

 

「……しかし、それはそのマニという者がグローソンに敵対する者であった場合のことだ。聞くところによれば、そのマニという冒険者は、このあいだの攻略戦のおり非道なロンドの太守どもに剣を向け、我らと共に戦ったと聞いている。何か事情があるのかもしれない」

 

「そ、そうです!ビジット殿!マニは全身傷だらけになるまで太守の兵たちと戦ったんだ!」

 

 まわりから次々とマニを擁護する声があがる。この場には、マニに好意を持つ者たちがたくさん集まってきているようだ。

 ビジットはおそらくこのような者たちが、この屋敷の中にほかにもいるだろうし、この町全体で見れば、もっと多くいるだろうと感じていた。

 

 もしそのマニという者を捕縛するか、まして斬り殺すなどすれば、相当反発する者が出るのではないかと危惧した。

 

 一般の民衆が何百人と牙を剥いたところで、武力で押し潰してしまえばいいだけの話だったが、このアネサの町にいる多くの獣人冒険者たちの離反を招くことは、今の時点では非常にまずいとビジットたちは考えていた。

 

(もし今、獣人の冒険者たちが騒ぎ始めたら、間違いなくグローソンに敵意を持つものたちがそれに乗じて行動をはじめるだろう)

 

 そうなれば、せっかくここまでうまくいっているアネサの占領統治が、ふりだしに戻りかねない。

 

 

(なんだこの茶番……しかしマニのやつ、すごい人気だな。何のカリスマなんだあいつは。ビジットの奴は穏便に済ませたいみたいだけど、あのイノシシみたいな考えなしの女がおとなしく従うのかねぇ)

 

 アンコウは本当にマニがどうなろうとどうでもいいと思っていたが、この屋敷の連中が困るのはちょっといい気味だと思った。

 アンコウはビジットのほうを見て、少しからかうように言う。

 

「よう、ビジット。あの天井から降ってきた女はどう考えても不法侵入者だろ?あいつがこの屋敷に敵対する者じゃなかったらいったい何なんだ?」

 

 ビジットはアンコウが少し面白がっていることに敏感に気づき、にらむようにアンコウを見た。

 ビジットはアンコウに近づいてきて、

「迷子でも何でもいいんだよ、この野郎」と、アンコウにだけ聞こえるような声で言った。

 

(……とにかく騒ぎをこれ以上大きくしたくないわけだ)

 だったらとっとと終わらせて、早く俺をベッドで眠らせてくれとアンコウは思う。

 いい加減こんな何の得にもならない騒ぎにはうんざりしているアンコウだ。

 

ビジットは、次はみんなにも聞こえるような声で、アンコウに話しかけてきた。

 

「じゃあ、アンコウ。一緒に来てもらおうか」

「何?何でだよ」

 

「当たり前だろう。その獣人の女がいるのはお前の部屋だ。お前はその女は強盗で自分の奴隷を人質にしていると言った。それならばお前自身の問題でもある。

 しかしそれは、ここにいる皆が言うように、お前の勘違いかもしれない。勘違いは誰にでもあることだ……それに他の可能性もある。アンコウ、実はお前自身が悪だくみをしてウソをついているのかもしれない」

 

「……ああ?いい加減にしろよ。俺はどうでもいいって言ってんだ。お前らの勝手に好きなように始末をつければいいだろう」

 

 ビジットはアンコウの主張は無視して、言葉を続ける。

 

「アンコウ、自分の無実は自分で証明しろ。なに、そのマニとかいう獣人の女がグローソンにとって無害な者とわかれば、つまりお前の潔白も証明されるだろう」

「!~ビジット!お前はっ!」

 

 この野郎、俺をまだ面倒ごとに巻き込む気だと、アンコウは気色(きしょく)ばんだが、まわりの武装した兵たちもビジットの言葉に合わせるように、いっせいにアンコウににじり寄ってきた。

 

「くっ、」

「なに心配するなアンコウ。俺達も一緒に行ってやる。むずかしい仕事ではないさ」

 ビジットの顔に薄っすらとアンコウをからかうような笑みが浮かんでいた。

 

(こ、この野郎っ)

 

 

 

 

 アンコウはビジットたちに囲まれて、再び自分の部屋まで戻って行くことになった。そのころアンコウの部屋では、まだマニとテレサの押し問答が続いていた。

 

「どうしてわかってくれないんだ。私はテレサたちを助けに来たんだよ!」

 

 マニがどう言っても、テレサはついて行こうとはしない。テレサがどう言っても、マニはわかってくれなかった。

 業を煮やしたマニは、強引にテレサの手をつかみ連れて行こうとする。

 

「いいかげんにして」

 テレサは自分の手をつかむマニの手を、もう一方の手でつかみ返し、今までにない厳しい声を発した。

「……本当ならこんなことは言いたくないんだけど。マニさん、成り行きとはいえあなたをここまで案内してきた私が浅はかだったわ。

 あなたと一緒に行っても私は逃げられない。まず捕まるわ。最悪殺されるかもしれない。私は自分のために行かないと言ってるの」

 

 テレサがマニを見る目も、きついものに変わっている。

 

「な、なにをアンコウと同じようなことを、私が絶対逃がして見せるよ!」

 

「もう少し冷静に状況を見なさい。逃げられるとしてもそれは強い力を持つあなただから。ただし、そのあなたでもほかの者をかばう余裕なんてないわ。この屋敷の現状を考えれば、それぐらい戦いの素人の私だってわかる。

 あなたが善意でしていること、本気で私を助けたいと思ってくれていることもわかってる。だけどそれならなおさら今は、あなた一人でここから立ち去りなさい」

 

「どうして!きっとうまくやってみせる!私を信じて!」

 

「いいかげんにしなさいっ!迷宮でたいした知恵のない魔獣の群れを相手にしているのとは違うのよ!ここにいるのは、軍人に冒険者に傭兵、いくら剣に自信があっても、勢いと勇気だけでどうにかできるわけないのよ。

 マニさん、あなたは強いわ。だけど誰にでも勝てるわけじゃない。戦いになれば弱い者から死ぬ。あなたより先に私が死ぬし、旦那様が死ぬわ。あなたが私をかばってくれたとしても、あなたが死ねば私も死ぬの。

 それにここは迷宮じゃないわ。ここから外に出たら、それで終われるわけじゃないのよ。だから、今はあなた一人で帰りなさい!」

 

「!!……」

 

 テレサは結局、アンコウがマニに言ったのと同じようなことを、より強い口調ではっきりと言うことになってしまった。

 

 マニはテレサから手を離し、唇をかむ。マニだって、今の状況の厳しさがわかっていないわけではない。

 これまでマニは魔獣相手に窮地に立たされることがあっても、退くことなく、逃げることもなく、立ちむかい戦うことで道を切り開いてきた冒険者なのだ。

 

 だから今回も同じように考えていた。それをテレサから真っ向から否定されてしまった。

 

ガチャ、

 そのとき部屋の扉が開き、アンコウが戻ってきた。

 

「あっ、旦那様」

「アンコウ」

 

 しかしアンコウは無言で扉のところに背をもたれたまま、それ以上(なか)に入ってこようとはしない。

 

「むっ、誰か来る」

 この時になってようやくマニは、この部屋にむかって複数の足音が近づいてきていることに気づいた。

 

 そして、次にその扉から姿を現したのはビジットだった。

 

 マニはそのビジットの姿を見ても逃げ出そうとはしなかった。それどころか腰にかけている剣の柄に手を伸ばした。

 ビジットは表情を変えることなく、剣に手を伸ばしたマニをじっと見つめている。

 

 まだ扉のところに背もたれて立っているアンコウは、そんなマニの行動を見て眉をしかめている。

 

「マニさん!手を離して!」

 

 テレサが厳しい声でマニをいさめる。マニはためらいながらも、まだ剣の柄から手を離さない。

 そのマニを見て、ビジットもゆっくりと手を剣に伸ばしていく。両者のあいだの緊張が増し、一触即発の雰囲気が漂いはじめた。

 

 テレサもそれを感じ取っていたが、もはや自分の言葉ではマニを抑えることはできないほどの覇気がマニから発しはじめていた。

 

(ど、どうしよう、どうしたら)

 

 テレサはマニの提案は拒否したが、マニが助けてくれようとしたことには感謝していた。

 奴隷に落ちた自分のことを忘れず、気にかけていてくれてこんなところまで来てくれたマニには無事に帰って欲しかった。

 

「マ、マニさ」

「ハアックショイッ!!」

 突然大きなくしゃみが部屋に響いた。

 

「だ、旦那様…?」

 

「あー、」

 アンコウが鼻をつまんでグニグニと動かしている。

 

 部屋の中にいる3人全員が、一斉にアンコウのほうを見た。

 その面倒くさげな雰囲気満載のアンコウの姿が、つい今しがたまでの緊迫した雰囲気をかなり軽減していた。

 

「あー、風邪引きそうだぜ。俺はもう寝る時間なんだ。マニ、お前はもう帰れよ」

 

「な、なにを」

 マニが(いぶか)しげな目でアンコウを見る。

 

「お前が何でここにいるのか俺は知らないが、お前が道に迷っただけなら無事に帰らせてもらえるそうだ。よかったな、マニ」

「な、なにをバカなことを」

 

 さすがにマニも自分がしていることは命がけのことだということはわかっているし、その覚悟もある。

 アンコウはそんなマニのほうを見て、にっこりと笑った。

(バカはお前だ。毛深い女は趣味じゃねぇんだよ、とっとと帰れ)

 アンコウは笑みを浮かべながら、心の中で悪態をつく。

 

「マニ、駄々をこねるなよ、子供じゃあるまいし。お前のお友達が心配して、みんなして迎えに来てくれてるんだぜ」

「なに?」

 

 部屋の外で、中で交わされている会話を耳をそばだてて聞いていた者たちが、アンコウに手招きをされて、次々と部屋のなかに入ってきた。

 

 

「あ、あんたたち何をやってるんだ!?」

 

 部屋のなかに入ってきた者たちを見て、思わずマニが声をあげる。

 

「マニ、」

「あんた、レッグか」

「俺たちはみんな今ここで働いてるんだよ。いつもどおり依頼を受けてのただの仕事だ。いい給金が出る。アネサの支配者がグローソンになっても俺たちの仕事に変わりはないからな」

「そ、そうか」

 

「マニ、お前はここで何をやってるんだ?俺たちは正式に契約を交わした仕事だ。グローソンに敵対する者は捕まえるか、斬り捨てるかしないといけない。たとえお前でもだ。

 まぁ、俺一人ではお前に敵うわけがないが、この屋敷にはいっぱいいるぞ。グローソンの強者たちがな。それに俺たちみたいにお前のことを知っている者もまだいる」

 

「そ、そうか……」

 

 しばらくマニと男たちは何やら話をしていたが、ふいにマニと武装したマニマニアらしき男たちとのあいだの会話が止まる。

 男たちはじっとマニの顔を見ている。

 マニからは、まったく予想していなかった展開に戸惑いを隠せない様子がありありと見て取れた。

 

 その様子を黙ってみていたビジットが、再びマニと男たちの前に出てきた。ビジットはすでに剣の柄から手を離している。

 

「俺はビジットだ。この連中を統率しているこの場での責任者だ。まず聞こう。マニ、お前はグローソンに敵対する者なのか?

 いいか、いずれにしてもお前から詳しく事情を聞く必要があるが、お前がグローソンの敵対者か否かでは、その扱いがまったく違うものになると思えよ」

 

 ダークエルフであるビジットはまわりにいる獣人の男たちに比べれば、その体の線は細い。

 しかし、その眼光の鋭さは幾多の戦いを経験してきたであろう戦士のもので、冒険者としての実力は本物であるマニを前にしても怯むことはなく、今の抑えた口調のセリフにもなかなかの凄みがあった。

 

 しかしマニは、ビジットの問いに明確な答えを返さない。

 そのときアンコウが片手を大きく振りながら、扉のほうから歩いてきた。

 

「ダメだ!ダメだ!そんな言い方じゃこの女はわからねぇよ」

 

 アンコウは武装兵たちのあいだを抜けて、マニの近くまで行くと、小さな子供に言い諭すかのような口調で話しはじめた。

 

「いいかマニ、(いち)()かだ。どっちかを選べよ。

(いち)、お前は泥棒。()、お前は迷子。簡単だろ?

(いち)なら、お前はこの御友人(ごゆうじん)たちに捕まって死刑にされる。

()なら、お前はこの御友人たちに見送られてお家に帰る。さぁどっちだ」

 

「くっ!アンコウ!お前何を言ってるんだ!私はお前とテレサを」

(いち)()かだ!」

 アンコウはマニの言葉をさえぎって鋭く言い放った。

「いい加減にしろよ!お前一人で帰るんだ!」

 

 アンコウは、さっきテレサがマニを叱るように大きな声を出していたのを廊下で聞いていた。そのテレサのセリフをそのままマネをして言った。

 

「う、うぅぅ……」

 マニは考え込むように口ごもる。

 マニが顔をあげて、まわりを見ると、見覚えのあるイカツイ男たちが心配そうにマニのほうを見ていた。

「……う、うう……私は、アンコウとテレサを助けに……」

 それでもマニはまだ言っている。

 

( くっ、この女しつけぇ)

 

 アンコウは額中に青筋が浮かんできそうな気持ちになっていた。



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第26話 望まぬ同行者

「いい加減にしろ!俺は寝る時間だって言ってるんだよ!」

 

 アンコウは、もう完全に表向きの建前も投げ捨ててしまった。アンコウはマニに詰め寄り、マニの胸ぐらをつかみあげる。

 

「この状況でどうやってどこに逃げるんだよ!お前が死刑になろうが、どうなろうが知ったことじゃないけどな、人を巻き込むなって言ってるんだ!何回言えばわかるんだ、このバカが!

 確かに俺はグローソンに捕まえられていて自由はないがな、とりあえず今のところ命の保障はされてんだよ!明後日にはネルカ城に出発予定だからな、とりあえず明後日までは生きているだろう。

 だけど、今お前に付き合って逃げ出したら、明日のお日様を拝む前に地獄行きだ!俺を助けたいんだったら、()だって言えっ!」

 

「!!………」

 

 マニがアンコウから目線を外す。マニの体から力が抜けていくのが、マニの胸ぐらをつかんでいるアンコウの手に伝わってきた。

 

「……わ、わかった。に、()だ……」

 

 マニの返事を聞き、アンコウはマニの胸ぐらから手を離した。

 そしてアンコウは自分のベッドまで歩いていき、頭をかき、大きくため息をつきながらそのままベッドの端に腰を下ろす。

 

 マニはその場でうなだれたまま、床を見つめている。テレサはそんなマニを見ていると、心がチクチクと痛んだ。

 テレサはマニのすぐ横まで近づくと、小さな声で礼を言った。

 

「こんなところまで来てくれてありがとう。ついて行けなかったけど、マニさんが来てくれてうれしかったのは本当ですから」

 

「……………」

 

 テレサに話しかけられてもマニは反応せず、無言で床をじっと見つめている。

 動かなくなったマニに、ビジットが近づいて来て話しかけた。

 

「そうか、道に迷ったんなら仕方がないな。向こうで少し詳しい事情を聞かせてもらおうか。一応剣は預からせてもらうぞ」

 

 ビジットがまわりの男たちに合図をすると、数人の男たちがマニに近づいていく。

 

「マニさん、すみませんが武器は預からせてもらいます」

 

 男たちは、マニから剣やナイフなど身につけている武器を次々と取り上げていく。そのあいだもマニは抵抗する様子はなく、おとなしく従っていた。

 ビジットは、マニがおとなしく武装解除に応じている様子を見て、顔にこそ出していないが心からホッとしていた。

 

 ビジットはグローソンの尖兵として、かなり以前からこのアネサの町に入り込み諜報工作活動に従事していた。

 

 今日まで、このマニという冒険者と面識はなかったが、アネサの有力な冒険者の一人として以前から多少マニの情報を得ていたし、この騒動が始まった短い時間の中で屋敷にいるマニを知る者たちから、より詳しい情報も得ていた。

 

 現在のこの屋敷の戦力をもってすれば、いくら強い力を持つ冒険者とはいえ、マニを倒すことは可能だろう。しかし、マニが本気で戦うことを選択すれば、自分たちにもそれなりの被害が出ることも間違いない。

 

 それにビジットは、先ほどマニと互いに剣の柄を握り、にらみ合った時に、一対一でマニと戦えば自分に到底勝ち目はないということも悟っていた。

 

 それでも必要ならば命を失うことがわかっていても戦わなければならないことが自分の仕事でもある。

 ビジットは自分が死んでも、それでマニを抑えることができるならば、ためらいなく行動することが出来るグローソンの戦士だ。

 しかし、

 

「マニ、大丈夫だ。心配は要らないぞ。少し話しを聞かれるだけだ。終わればすぐに帰れるからな」

「そうですよ。マニさん」

 グローソンが雇っている獣人の冒険者たちが次々にマニに声をかけている。

 

 ビジットたちはマニ一人の力以上に、マニを慕う者たちの力を恐れた。

 

 マニがこの屋敷で暴れたとき、いま自分の目の前にいるこの者たちは、果たして本当にマニに剣を向けるだろうか?その剣先を自分たちグローソンの側に向けるのではないか?

 そして、仮にマニの命を奪う結果になったとき、それに怒り、グローソンに剣を向ける強者たちがこの町のあちこちから出るのではないかと恐れたのだ。

 

(マニのお目当てだったアンコウは、どうせ明後日にはこの町を出て行くんだ。こんなことはうやむやにやり過ごせるならそれにこしたことはない)

 

 この程度の騒ぎで済めば、自分の裁量で問題なく穏便に処理できると、ビジットは胸をなでおろしていた。

 

「よし、では行くぞ」

 

 ビジットは部屋にいる者たちにそう号令をかけて、扉のほうへと体の向きを変えた。

 

 

「よし!私も行くぞ!」

 

 みなが一斉に声の主のほうを見る。ビジットの次に突然大きな声を出したのはマニだった。マニはうつむいていた顔をあげて、決然と前を見ている。

 

「「「マ、マニ?」さん?」?」

 

 突然元気よく叫んだマニに、部屋にいる他の者たちは皆、頭が?マークである。

 そのマニが自分の首をグイッと動かして、ベッドの腰かけているアンコウを見た。

 

「私もネルカに行くぞ!アンコウ!」

 

 マニから突然ご同行宣言をされたアンコウは、視線をマニに固定したまま、軽く固まってしまった。

 アンコウは、すぐにはマニが言った言葉の意味を理解することができない。アンコウが想定出来うる発想の大きく斜めうえに逸れたマニの宣言であった。

 

「……!なっ、」

(怖っ、何だこいつ、怖っ)

 

 アンコウにとってはありえないマニの発想だった。

 この状況でよくそんなことをバカでかい声で言えるものだと、アンコウは元からマニにはあきれていたが、ちょっとばかし怖くなってきた。

 

「い、いけるわけないだろう!俺は観光に行くんじゃないんだぞ!連れて行かれるんだよっ!それ以前にお前自分の立場がわかってるのか!」

 

「ああ、私は迷子で、家に帰らしてもらえるんだろう?出直してくるよ」

 

(怖っ、こいつ怖っ、)

 

 マニは状況がわかっているのかわかっていないのか、どちらにしても、ものすごく自由?な発想の持ち主だった。

 

 少なくともこれから実質的に捕縛連行されていく者の言うセリフではない。その自由勝手な発言のせいで、無罪放免されるものが覆るとかもしれなという可能性を考えないのかとアンコウは思う。

 

「アンコウは命の恩人だし、テレサのこともほっとけない。それに2人のためだけじゃないんだ。このアネサも大きく変わる。私もまた少し町を離れてみたくなった」

 

「そ、そんなこと俺が知るかっ!この状況でなに言ってんだ!」

 

 アンコウは本気で面倒くさいうえに気持ち悪くなってきた。こんなやつとはできる限り係わり合いにならないほうが人生平穏だと確信を持つ。

 

「ビジット!こいつをとっとと連れて行けよ!」

「あ、ああ」

 

 さすがのビジットも若干引き気味である。しかし、さすがにマニマニアの獣人の武装兵たちは違う。

 

 はじめはアンコウたちと同様、頭に?マークの顔をしていたのだが、マニの意図がわかると今は温かい目でマニを見ていた。ということは、マニという女は普段からこういう感じだということなのだろう。

 

(こいつらこの女の性格をわかってて、こんなに肩入れしていやがるのかよ)

 

 アンコウはマニを温かく見守る兵士たちを見て、元の世界に山ほどいたアンコウには何がいいのかさっぱりわからない10代のアイドル女に群がるいい年をした大人の男どものことを思い出していた。

 マニの行動はアイドルとは程遠いが、マニはアンコウのようなタイプの男にはわからない人を惹きつける天然物の魅力を有しているようだ。

 

「おい!ビジット!この女はすぐに帰すんじゃないぞ!少なくとも、俺がこの町を立つまでは牢屋にでも放り込んでおいてくれ」

 

 ビジットはアンコウの叫びに返事を返すことはなく、マニについて来るように促した。

 マニもアンコウに言い返すことはしなかった。ただテレサのほうを見てニコリと笑って見せてから、ビジットの後について歩き出した。

 

 ビジットとマニが部屋から出て行くと、その後について、部屋の中にいた兵たちも姿を消していく。そして、部屋の中にはアンコウとテレサの2人だけになった。

 

 

 まわりが静かになると、アンコウはベッドの端に腰をおろしたまま、疲れたようにうつむき、目を閉じていた。

 テレサは自分はどうしたものかとそのまま立ち尽くしている。

 

「はぁーっ、ほんとに無駄に疲れた」

 アンコウは大きく息を吐き出し、座ったまま後ろ向きにベッドに倒れこんだ。

 

「あ、あの旦那様。本当にすみませんでした!」

 テレサがアンコウにむかって大きく頭をさげた。

 

「……もういいよ。これ以上テレサが謝る必要はない。それよりテレサ、お茶でも持ってきてくれないか。のどが渇いた」

 

「は、はい」

 

 テレサはそのまま急ぎ足で部屋を出て行った。

 

 そしてアンコウは部屋に一人、ベッドに寝っ転がって天井を眺めている。アンコウはなんともはや、言葉もないという感じであった。

 

(……疲れたよ)

 

 

 

 

 ほんの少し前までの騒ぎとは打って変わって、周囲には夜の静けさが広がっていた。

 部屋の扉を開ければ、暗く長い廊下に一定間隔で壁にかけられたランプの火が灯っている。そしてアンコウの部屋の前には、いつもどおり夜の見張りのレクサが立っていた。

 

 そして部屋の中、アンコウとテレサが向かい合ってイスに座り、テレサが入れてくれたお茶を飲んでいる。

 

「旦那様、本当に明後日ネルカに出発するんですか?」

「ああ、らしいな。俺も今日聞いたばかりだ。不安か?」

「ええ、少し」

「まぁ、拒否権はないけど半分は客扱いみたいだからな。そんなに心配をする必要はないよ」

 

 アンコウはテレサにそうは言ったものの、内心最悪の場合も考えていた。自分の財産も自由も命も他人に握られている。その事実をアンコウは軽く見てはいない。

 

「今のままで良いわけがないからな。状況が動くこと自体は悪いことじゃないと思っている。だけど、軽率なまねだけは絶対にダメだ。さっきのマニみたいな行動は論外だ。慎重に計算高く動く。命を守るため、自由になるためだ」

 

「はい」

 

 アンコウは一応注意はしたが、テレサがマニのようなまねをするとは思っていない。テレサは、十分な慎重さと計算高さを備えている女だった。

 

「まっ、テレサがマニのまねをしようとしたってできる訳がないけどな。あいつほどの抗魔の力はないし、あいつほどバカはそうはいない。もしまたどこかであいつを見かけることがあったら塩でもかけてやれ」

 

「旦那様、それはいくらなんでも。マニさんだって私たちを助けようとしてくれたんだから」

「ん?テレサだって、結構な迫力で怒鳴りつけてたじゃないか」

 

 アンコウはからかうような口調で言った。

 

「き、聞いてたんですか?あ、あれは仕方がなくて、」

 

「怒鳴りつけて正解だ。それでも、あのバカはわかってなかったじゃないか。ああいうヤツには気をつけろよ。テレサもたいがい人がいいからな。身の安全に関るようなときは余計な感情を入れるなよ」

 

 テレサも、アンコウが言っていることはよくわかっている。

 

「……ええ、ほんとにそうですね」

 テレサも、今回のことは自分のところで止めることができた騒ぎだったと真剣に反省していた。

 

「とにかく明後日にはここを立つことになるから、テレサも準備しておいてくれ」

「はい、」

 

 テレサはお茶をひとくち口に含んで、

「はぁーっ」 と、ゆっくりと息を吐き出した。

 

「テレサ、不安になりすぎても仕方ないぞ。あんまり考えすぎるなよ」

 

「いえ、私はこの町の近くの村の生まれで、15で結婚してからずっとこの町で暮らしてきましたから、ほかの土地のことをほとんど知らないんです。

 トグラスの女将をしていた時にお客さんたちのいろんな話を聞いて、いつか私もいろんな場所に旅行にでも行きたいなぁなんて思っていたものですから、初めてアネサを離れるのがこんなことになるなんて、ほんと人生ってわからないですね」

 

 テレサは、最後は無理に笑顔を浮かべて言った。

 

「……いいんじゃないか。用心さえ忘れなかったら、旅行気分でいても。どっちにしろおれたちに選択権はない。人任せ、成り行き任せなんだ。自由に動くことはできないけど、景色を楽しむぐらいのことをしてちょうどいいかもな」

 

 アンコウの言葉に少し気持ちがほぐれたのか、テレサの顔が緩む。

 

「ふふふっ、そうですね」

「…ああ」

 

 

 

 

 アンコウたちがネルカにむかってアネサの町を発ってから、今日で3日目になる。

 昼間の陽が高い時間ではあったが、さほど気温も高くなく、陽の下を移動するにも心地よい天気だ。

 

 そのネルカへと続く、田舎道ではあるが比較的整備された街道を少し外れたところに、馬と馬車に乗ったグローソン兵の一団があり、一時休息をとっている。

 

 そのグローソンの兵団と共に移動しているアンコウたちも、馬車に乗せられての移動だったが、ここまでの移動速度は比較的ゆっくりとしたもので、予定ではネルカに着くのに後2日はかかるとのことだった。

 

「もうっ!ちょっとだめですよ。次やったら隊長さんに言いますからねっ」

「悪い悪い。ちょっと手がすべっただけなんだ。へへっ」

 

 テレサが小川で洗い物をしていると、近づいてきたグローソンの兵隊がするりとテレサの尻をなでた。

 兵隊たちにとっては日常の挨拶のようなもので、この3日間、同じようなことをしてくる者は後を絶たなかった。

 

 さほど急いではいない旅程であったが、途中どこかの町に立ち寄ることはせず、むさくるしい男ばかりで野営を重ねての移動であり、テレサたちのような女の存在はアリに蜜のようなものであり、多少のことは仕方がないとテレサは上手にあしらっていた。

 

 テレサの主人であるアンコウの扱いは悪くはなく、このネルカへの移動にあたっては豪奢とはいえないが、それなりの馬車を一台用意されており、護送される囚人ではなく、おかしなまねさえしなければ客人として遇される約束がされていた。

 

 そのことは兵士たちも承知しており、テレサは多少尻やら乳やらを触られることがあっても、アンコウの奴隷であるテレサに度の過ぎた無体をはたらく者はこれまでのところはいなかった。

 

「テレサ、これ持って行ってやるよ」

 今テレサの尻をなでた男が、洗い終わった食器類の入った籠の一つを持ち上げながら言った。

「あら、ありがとう」

 テレサは男に礼を言いながら、笑って会釈をする。

 

 そしてその男も、気分良さ気に重い籠を持って立ち去っていった。

 

(ふふっ、まっ、等価交換といったところかしら)

 

 

 籠を持って行ってくれた男の姿が見えなくなると、入れ替わるように別の男がテレサのそばまで近づいてきた。

 

「へへっ、お、俺も手伝ってやるよ」

「!え?ああ、ありがと」

 テレサが振りむいたすぐ近くに、ひげ面の男が立っていた。

「へへへっ、」

 

 すると、その少しむさくるしいひげ面の男はわざとらしく足をもつれさせ、テレサに抱きついてきた。

 

「おおっと!危ない!」

「キャッ!な、なにをっ」

 男はテレサに抱きついた拍子にテレサの大きな胸を鷲づかみにした。

「へへっ、」

「や、やめなさい!」

 

 テレサが自分に抱きつく男を突き飛ばそうとしたその瞬間、

 

ドガァッ!

「ぐがあぁっ!」

 

 男は何者かに頭を殴り飛ばされ、派手に地面を転がった。その男を殴り飛ばしたのは、テレサと同じような服を着ている獣人の女。

 

「おまえ、この真っ昼間からいい根性だな」

 

「マニさん!」

 テレサが自分を助けてくれた女を見て名を呼ぶ。

 

 今のマニは、剣も防具も武具の類は一切つけていない。どこにでもある労働者階級の小奇麗で、動きやすそうな婦人服を着ている。

 

 しかし、獣人女のマニの背は高く、その怪力にふさわしくないすばらしいスタイルをしており、どのような服装をしていても、一見するだけで華麗とも言える美しさがあった。

 

 しかし、マニのその冒険者らしい鋭い目とマニらしい行動は、見た目の華麗さを吹き飛ばすに十分過ぎるものであった。

 

ドガッ! ボグウゥッ!

「ゲフッ!や、やめて、グガッ!」

 マニは地面に倒れた男に近づき、さらに足で踏み潰すかのように蹴りつけはじめた。

「まったく、男ってヤツは」

ドガッ!

「ギャッ!」

 

 マニの突然の派手な登場に一瞬呆気にとられていたテレサであったが、マニが男を蹴りまわしているのを見て我を取り戻す。

 

「マ、マニさん、やめて!何をしてるの!」

「ん?なにって、罰だよ。当然だろ」

「やりすぎです!何やってるんですか!」

 

 マニは眉間にしわを寄せて、首を振る。

 

「ダメ、ダメ、テレサ。これぐらいやらないと、男は懲りないんだよ?」

「ギィィー、た、助けて」

 マニが男の顔を踏みつけている。

「だ、だから、やりすぎ、」

 

 

「おい!マニ!お前なにやってんだ!」

「あっ、旦那様っ」

 

 アンコウは少し離れたところに止めてある馬車の中からこの一部始終を見ており、いま地面に這いつくばっている男が気配を消してテレサに近づいていくのに気づいて、実に面倒くさいながらも一応馬車を降りてきていた。

 

 しかし、アンコウが歩いて近づいて行くあいだにマニがさきに現れ、そしてこのざまである。

 

 アンコウは、顔にも声にも苛立ちをにじませながら、テレサとマニの近くに立っていた。

 

(この暴力女はほんとにっ)

「マニ、俺はこのあいだも言ったよな。一緒に来るんだったら、ちょっと男に体を触られたぐらいで人を半殺しにするなって」

 

「い、いや、触られていたのはテレサだし、私は助けようと、」

「そのテレサ本人がやり過ぎだって言ってるだろう、何だその足は」

 

 マニの足の下では踏みつけられている男の顔が、圧迫されてひしゃげていた。それに、頭からもかなり派手に血が出ている。

 

「マニさん、もういいから」

「あ、ああ」

 マニは、ようやく男の顔から足をのけた。

 

「おい、マニ。このあと誰が謝りに行かないといけないかわかってるよな、2度目だもんな」

 マニはアンコウにそう言われて、ようやく2日前のことを思い出した。

「ううっ…、そ、それは」

 

 アンコウは自分が望んだわけではないが、表向きはグローソンの招待客として、ネルカに行くことになった。

 どうせ行かなければならないのなら、護送車に乗せられるよりは客人用の馬車に乗るほうがいいに決まっており、アンコウもそれ自体には文句はなかった。

 

 ただ腹立たしいことに、客人用の馬車だけでなく、ビジットにマニという余計な同行者も押し付けられてしまったのだ。

 

 マニはビジットたちに連れて行かれた後も自分の立場もわきまえず相当ごねたらしい。

 ビジットはとにかく余計なトラブルを起こさせないために、客としてネルカに行くことになったアンコウの世話をするメイドとしてマニをつけることにした。

 

 しかもビジットは、アンコウにネルカに行くにあたって必要な書類だと言って、何枚もの書類にアンコウにサインをさせたのだが、その中のひとつにアンコウ自身がマニをメイドとして雇うという内容の契約書を混ぎれこませていた。

 

 アンコウとしては軟禁中の自分を、さらにこんな三流詐欺師のような手段でだますやつがいるとはまったく考えていなかった。それゆえに、ロクに目を通さず、その書類すべてにサインをしてしまった。

 人間はどれだけ用心していても、だまされる時はあっさりだまされる。

 

(……ビジットの野郎、厄介ごとの種を体よく俺に押し付けて、アネサの外に放り出しやがった)

 

 しかも、その契約書には雇用主の意向だけではなく、雇用された側の同意がなければ、1ヶ月は契約を解除できないとの旨がご丁寧に付け加えられていた。

 

 アンコウは自分が自由の身であったならば、こんな何でもありで力さえあればどんな無法も横暴もまかり通る世界での契約書など、半笑いで反故にしてやるところだ。

 しかし、悲しいかな力の世界であるがゆえに、今のアンコウの立場では頭からこれを無視することもできない。

 

 おまけにアンコウがそのことを初めて知ったのは、アネサを出発する日の朝に皆が集められた広場だった。

 アンコウがビジットからそのことを聞かされたときには、マニも旅行準備を万端に整えて広場に来ており、アンコウの激烈な抗議もむなしく、どうすることもできなかった。

 

 さらにマニは、アネサの町を出る前に早速やらかした。

 マニは道中武装することを禁じる約束をさせられており、はじめから移動に適した婦人用の服を着ていた。

 

 マニは一般的な基準でいうと、背は高いもののスタイルはよく、獣風味若干強めではあるが美しい顔をした獣人の女である。

 それにテレサよりもずっと若く、集まった広場にいたグローソンの兵士たちの注目を集めていた。

 

 当初マニがこのアネサで有名な若手冒険者だということは周知されておらず、マニにスケベ心を刺激されたグローソンの兵が、集合場所の広場で実に軽いノリでぺろりとマニの尻を撫でた。

 

 これがテレサだったなら、軽く笑って流して見せただろうが、マニの尻を触った兵隊はその場で高速回転して地面にたたきつけられた。

 まわりにいた者もよくわからないほどのスピードで、ぶん殴られたのだ。

 

 そして、アンコウはその後が大変だった。

 そのときはビジットもまだ近くにいたにもかかわらず、マニはアンコウの正式な契約を交わした使用人であり、マニがしたことの責任はすべて雇い主であるアンコウにあるとビジットはアンコウに宣言したのだ。

 

 当然アンコウは怒り抗議したが、まったく受け入れられなかった。

 しかも、この後この兵士たちを旅をするのはアンコウであり、このまま放って置くのはよろしくないぞ意味はわかるなと、ビジットはアンコウに脅しめいた忠告までしてきた。

 

 そして、しぶしぶアンコウは、マニを従えて、この隊の責任者のもとに行き、頭をさげ許しを乞うた。

 

( くっ、いま思い出しても腹が立つ。それなのに、またやりやがった)

 

「し、仕方がなかったんだ。アンコウはいいのか、テレサがこんな男たちに触られても」

「いいんだよ、この程度は。いいかマニ。お前が余計なことをしなくても、テレサはどうとでもできたんだ」

 

 もし、この男がテレサを本気で押し倒そうとしても、この男一人の力ではかなわなかったはずだ。

 アンコウが止めに入ったとしても、こんな血まみれになるほど殴ったりはしないだろう。

 

「マニ、今のお前は冒険者じゃないんだ。何でもかんでも腕力でものをいわせようとするんじゃない。何でこの男はこんなに頭から血を流してるんだ?どうみても過剰防衛だろうがっ。マニ、お前がやったことの責任は俺にくるんだぞっ!」

 

「うっ……すまない」

 ようやくマニは頭をさげた。

 

「わ、私も一緒に謝りに行くよ」

「それはいい。お前は余計な事をするな。わびは俺一人でいれにいく」

 

 アンコウが男の状態を見ると、出血のわりには頭の傷も深くなく、この程度なら簡易の治療で十分だと判断できた。

(まぁ、この男にも非があることは間違いないからな。そのあたりを大げさに言っておくか)

 

「…いや、やっぱりそうはいかない!これは私がしたことなんだから、私がちゃんと説明して、頭をさげる必要がある!」

 

 マニはアンコウが余計なことはするなと指示したにもかかわらず、また自分の意見を声高に主張し始めた。これもマニは、何も悪気なくやっている。

 

(この女はっ……!)

「おい、マニ。お前、説明って言葉の意味がわかってんのか?自分の言いたいことを言うことを説明するとは言わないんだよ。このあいだも、お前の言うその説明のせいで、相手を無駄に怒らせたのをもう忘れたのか。

 お前のせいで許してもらうのに、確実に3倍は時間がかかって、確実に3倍は頭をさげることになったんだ。………お前、ちょっとは懲りろよ」

 

 アンコウの目に本気の怒りが渦巻いている。アンコウは自分よりも強い相手にはめったなことで、本気で殴りかかろうとは思わないのだが、マニはすでにその対象外となっている。

 あとほんの少しのきっかけさえあれば、アンコウは返り討ち覚悟でマニに殴りかかる自信があった。

 

「でも!それは、」

「マニさん!もうやめなさい!事情はどうあれ、あなたがどう思っていても、あなたはいま旦那様に雇われているんですよ!冒険者も時には依頼を受けての仕事もするでしょう?その時もそんなふうに依頼主の意向を無視して仕事をするんですか?」

 

「い、いや、そんなことはしない」

 

 マニの扱いに関しては、アンコウよりも幾分テレサのほうが上手くなってきているようだ。

 テレサもずいぶんマニには遠慮がなくなってきたようで、アンコウはこの際、自分に押し付けられてしまったマニをテレサに押し付けようと考えた。

 

「マニ、ここからネルカに着くまではテレサの指示に従え。テレサがしゃべるなと言えばしゃべるな。動くなといえば動くな。お前個人の判断は全部却下だ」

「なんだよ、それは!」

「何だ、新入りが先輩の指導を受けるのは当たり前だろう。それとも奴隷のテレサに指図されるのは気に入らないのか?」

 

 アンコウがわざとらしくそう言うと、マニは慌ててテレサのほうを見た。

 

「なっ!そんなことはない!奴隷だろうがなんだろうが関係ない。テレサはいい人だ!テレサの言うことならなんでも聞くさ!」

 

 

 アンコウは地面に倒れていた男を背中に抱えあげながら、はぁーっ、と大きく息を吐いた。

 

「じゃあ、テレサ。後は頼むよ。いろいろ大変だろうけどな」

「は、はい。旦那様のほうこそ一人で大丈夫ですか?」

「ああ、この男もたいした怪我ではないみたいだし、客人から囚人に降格ってなことにはならないだろうさ。しかし、これ以上無駄なストレスはためたくないからな」

 

 アンコウはマニのほうを向き直り、まったく懲りてないだろう女の顔を見た。

 

「おい、マニ。テレサに胸と尻を触られたときに笑顔でかわす対処法でも教わっておけ」

「な、何だよそれは」

「何でもいい。尻を触られても、胸を揉まれても、とりあえず笑っとけばいいんだよっ」

 

 アンコウはそう言うと体の向きを変えて、遠巻きにこちらのほうを見ているグローソンの兵隊たちのほうに歩いていった。



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第27話 ネルカでも軟禁

 アンコウたちがアネサの町を立って、今日が5日目。

 

(この辺りもひどいな)

 

 アンコウの視界に入っている村は遠目から見ても、多くの家々が火で焼かれたのであろう傷跡がはっきりと見てとれた。先ごろおこなわれたグローソンとロンドの(いくさ)に巻き込まれたのだ。

 

 アンコウたちは、もうあと数時間もすれば視界にネルカ城が見えてくるところまで到達している。そしてネルカに近づくにつれて激しい戦いの跡も見えるようになっていた。

 

(アネサとは段チだな。相当激しい戦いだったみたいだ)

 

「……旦那様、ひどいですね」

「ああ、」

「ネルカは大丈夫でしょうか?」

「ああ、(いくさ)はもう終わってるんだ。城や町がどれだけ痛んでいても俺たちには関係ないからな」

「……(いくさ)は嫌ですね。何でこんなことをするんだろう」

 

「決まってる。得をする奴がいるからだ。俺だって、でっかい城の安全な場所でふんぞり返っているだけで領地や財産が増えるんだったらどんどん(いくさ)をやらせるさ。だから世界が滅びるまで(いくさ)はなくならない」

 

 アンコウは、この世界で冒険者になってから、ほぼベタ付きでアネサの迷宮で活動してきた。目的は金を稼ぐため、ほかの理由は何もない。

 より稼げるのなら、地上での魔獣狩りやほかの迷宮に行くこともやぶさかではなかったし、あまり割りはよくないが依頼を受けての仕事をこなしたことも少ないながらある。

 

 しかし、傭兵稼業だけは真っ平御免(まっぴらごめん)であった。少なくとも、いくら金を積まれても自分から戦場へ行くつもりはない。

 

(危険すぎる。怖い。趣味じゃない)

 戦場の景色は、ずいぶん戦うことに慣れたアンコウでも、しらふでは恐ろしい。

 

 (いくさ)は、迷宮での狩りとはまったく違う殺し合いだ。誰かの命令で殺し合いをはじめ、誰かの命令があるまで止められない。

(王様にでもならないとやってられない)と、アンコウなどは思う。

 

 しかし、アンコウとは違って進んで(いくさ)に赴く者たちはいる。それも少なくない数がいる。

 とくに抗魔の力を持ち、通常より優れた戦闘力を持つ一部の者たちにとっては、戦場(いくさば)は迷宮などでは決して手に入れることができないお宝が手に入る夢の舞台でもある。

 

 戦場で手に入るもの、それは権力(けんりょく)

 

 冒険者のような抗魔の力を持つ者の戦闘能力は、どの国の権力者からも歓迎され求められている。(いくさ)で勝つにはとにかく力が必要であり、そこにきれいごとは通用しない。

 どんなに貧しく、身分の低い生まれであろうとも、力があり(いくさ)で功をあげたならば、必ずその身分は仕える主によって引きあげられる。

 

 この世界では強い抗魔の力に恵まれ、強い戦闘能力を身につけた者には、たとえどれほど卑しい身分の家に生まれ、クズのような性根の者であっても、貴族となりうる栄達の道を開くことができる。

 

 社会的身分と名声を伴う権力を手に入れれば、金、人、物、は後からついてくる。

 自らを忠義という美名のもと、他人の道具とし、自由を犠牲にし、生命を他人の欲望を満たすために危険にさらし続けることになっても、それを求め願う者は常にいる。

 

 アンコウも、人として、男として、そういった欲望のあり方はわかる。しかし理解はするが、アンコウ自身にそういったものを求める野心は皆無だ。

 

 だが、アンコウも多少なりとも抗魔の力を持っているうえに、最近共鳴というパワーアップ手段を手に入れた。

 アンコウ自身は、その共鳴の力はただ難儀なだけで役に立たないと思っているのだが、周りがどう見るかはわからない。

 

 アンコウは未だネルカへ行って何をするのか、具体的なことはまったく知らされていない。

 それに関しては、隠しているというよりも、いま一緒に行動しているグローソン兵団の隊長も、アンコウにネルカに行くように言ったビジットたちも、本当に知らされていなかったようだ。

 

(来ればわかるってことだな。嫌になるぐらい上から人を見ていやがる)

 

 当たり前だが、アンコウは死刑になるのも拷問されるのも真っ平御免(まっぴらごめん)だ。

 しかし、これまでの状況から推察するに、いきなり問答無用で命を奪われたりする心配はないだろうとアンコウは思っていたし、少なくとも何らかの選択肢は用意されるのではないかと考えていた。

 

 しかし、アンコウはたとえ身の安全を完全に保障してもらえたとしても、その代わりにこのような惨状を生む戦場に立つことを要求されでもしたら同じことだと恐れてもいた。

 アンコウは、いわゆる権力者に仕えて手に入れることができる社会的身分や名声などという種類の権力にはまったく興味がない。

 

(できるなら、今すぐにでもこの世界からはおさらばしたい)

 という、むろん生きたままで元の世界に帰るというのが、今でもアンコウの本当の望み。

 

 そのアンコウにとって、この世界での政治的権力や社会的身分を手に入れるために、自分の意志や自由を犠牲にし、他者の駒となって戦場に立つなど、まったく割りのあわない行為だ。

 

(絶世の美女の王女様の婿にっていうのなら考えてみてもいいけどな)

 

 アンコウは馬車の外のなんともいえない景色を眺めながら、あれやこれやと(らち)もないことも含めて、これからの自分の運命に思いをめぐらしていた。

 

 

「旦那様、城が見えてきましたよ」

「……ああ、そうだな」

 

 

 

 

 ネルカの城の規模はなかなか大きく、領地境を守るための要塞の役目も果たしてきた城だ。

 長年ロンド公が支配してきた城だったが、此度(こたび)グローソン公の手に落ちたことで、ウィンド王国内でのグローソン公とロンド公の力関係も、大きくグローソン公側に傾くことになるだろう。

 

 アンコウたちの一団は、ネルカの城下町を囲む城壁の外側で待機していた。

 隊の代表者たちが今ネルカへの入場のための手続きをしており、アンコウたちはそれが終わるまで待っている。

 戦後処理もまだ終わっていないのだろう。グローソン側の警戒は、未だかなり厳しい態勢が敷かれていた。

 

(だけど、これだけの警戒態勢を敷けるということは、ネルカは完全にグローソンの手に落ちているということだ)

 

 アンコウは特にやることもなく、城壁の門の向こう側にわずかに見えるネルカの街並みをじっと見つめていた。

 

「ん?…なんだ、」

 

 その街の中から城壁の外の向かって、一列に並んだ男たちが歩いてきていた。

 しばらくして、先頭の男がアンコウの近くを通り過ぎても、まだ列の最後尾は見えず街の中へと続いている。

 

 アンコウの目が、その男たちの列に釘付けになる。ただの男たちの一列行進ではない。

 男たちの両手には手枷がはめられ、前後の男同士が縄でつながれていた。それが延々と連なっている。

 

「……これは」

「戦争奴隷さ」

 アンコウの横にいつの間にかマニが立っていた。

 

 マニもアンコウ同様真剣な目つきで、男たちの行進を見つめている。

 歩いている男たちは成人の男ばかりだ。若い者でも10代の半ばほどにはなっていて、子供の姿は一人もなかった。

 

「女子供がいない分だけましか」

「この男たちは、たぶんグローソンと戦った兵隊やこの街でそれなりの地位にあった家門の者たちだ」

 

 アンコウはマニにそう言われて、あらためて男たちの列を見てみれば、確かに薄汚れてはいるものの なかなか質の良さげな服を着ているものが少なからずいた。

 

「それに、この男連中は労働奴隷として離れた土地に連れて行かれるんだ。反乱の芽を摘むため、見せしめのため、相当過酷な労働を強いられることになる。戦さに勝った側からしてみたら、こいつらは死んでもぜんぜんかまわないと思っているだろうからな。

 それに女子供だって奴隷にされているさ。女子供であろうともグローソンに弓を引いた者や、この目の前にいる男たちの家族も大勢奴隷にされているだろう。力の弱い女子供なら土地から引き離す必要はないからな。近場で売られているだけの話さ」

 

「ずいぶん詳しいな、マニ。負け戦さに首を突っ込んだ経験でもあるのか?」

 

 アンコウは幾分軽い調子でマニに聞いた。このまま続けるには話が重過ぎると感じたのだ。

 しかし、マニは真剣な表情のまま、じっと目の前を行進していく男たちの列を見ていた。

 

「参加した全部の(いくさ)で勝ったわけじゃない」

 

 マニが真剣な顔のまま答える。

 マニはアンコウと違い、これまでにいくつもの戦場(いくさば)に立った経験があった。自らの意思で、時には人に乞われて、戦争の経験も積んでいた。

 

「一緒に戦った仲間が同じように奴隷にされて、それを見送ったこともあったよ」

 

 アンコウは、この考えなしのイノシシ女が、奴隷にされた仲間を黙って見送らざるをえないときの気持ちは相当なものだっただろうなと他人事ながら思った。

 

「……そうか」

「助けられなかった」

「当たり前だ。自分が奴隷にならずにすんだ幸運を喜ぶべきだ」

「仲間を助けるために、あとをつけて忍び込んだんだけど、見つかってしまってな」

「な、なに?」

「私も仲間たちも必死に戦ったんだけど、ダメだった。結局生き残ったのは私だけだったよ」

 

 マニが遠い目をして話していた。その口調も表情も辛そうではあったが、決して罪悪感にさいなまれているというものではない。

 マニは単純に悔しいと思っているのだ。

 

「……おい、マニ。お前、何人でその奴隷にされた仲間のところに忍び込んだんだ」

「ん?私一人だけだよ」

 

 マニの口調は、それがどうかしたかという感じだ。

 マニは大切だと自分は思っていた仲間を助けるため、たった一人で、奴隷にされた者たちがいずこかへ送られている途中の集団の中に忍び込んだというのだ。

 まちがいなく、そこには多くの武装兵の監視がついていただろう。

 

 これだけ聞けば英雄譚(えいゆうたん)だ。しかし仲間は助けられずに死んだ。

 アンコウには、マニが自分の気持ちだけでロクに計画も立てず、ロクな準備もせず行動したに違いない事が容易に想像できた。

 

 本当にその仲間はマニが助けに来てくれることを望んだのだろうか。

 マニのとった行動のせいで、マニの仲間だけでなく、その場にいた他の奴隷にされてしまった多くの者たちまでが巻き込まれて、命を落とすはめになったのではと、アンコウは思った。

 

「もう少しだったんだ。もう少し私が強ければ……」

 

 そういう問題じゃねぇ!、アンコウは心の中で叫けぶ。

 この女は後悔と反省のしどころがずれている。自分の浅慮(せんりょ)と行動のせいで仲間たちが死んだという自覚が感じられない。

 

 人の命が軽いこの世界では、他人の命の価値など綿毛の重さほどにしか感じていない者はそこらじゅうにいるし、今ではアンコウも人のことは言えない。

 しかし、マニのは違う。この女は比喩ではなく、本当に100%の善意で人を地獄に連れて行く。これは逆に厄介だ。

 

 アンコウは、これ以上ないぐらい眉をひそめて、マニを見ていた。

 

(……考え無しなんてレベルの問題じゃないな。筋金入りだ。疫病神(やくびょうがみ)より死神(しにがみ)に近いんじゃないのか。何で生きてるんだ、こいつは。普通自分も死ぬだろ)

 

 アンコウは、やはり一刻も早くマニとの付き合いは断った方がいいとあらためて思った。

 

 

ピュィィィィーーッ!

 アンコウの耳に指笛(ゆびぶえ)の甲高い音が響く。

 

「合図だ!みんな街の中に入るぞ!用意をしろ!」

 

 それぞれに時間をつぶしていた兵士たちが、いっせいに動き出す。アンコウも遅れることなく動き出し、再び自分の馬車のほうへと歩いていった。

 

(あんな奴隷の行列を見るとさすがに少し不安になるな)

 

 アンコウが馬車に乗り込もうと馬車の扉に手をかけると、アネサからここまでともにやってきたグローソンの兵隊の一人がアンコウに声をかけてきた。

 

「おい、アンコウ。あんたはちょっと待て」

「ん?なんだ?」

「あんたらはここから別行動だ。その馬車は使わずにそのまま門をくぐってくれ」

 

 アンコウにそう言った兵隊の男の後ろに、白髪と顔にシワの目立つ整った服を着た一人の人間族の男が立っており、アンコウのほうを見るときれいな姿勢で頭をさげてきた。

 

 アンコウも、いぶかしく思いながらも反射的に頭をさげた。頭をさげられたら、相手を確認する前に頭をさげてしまうのは、抜けないアンコウの癖のひとつだ。

 

 アンコウたちはその身なりの整った年配の男の先導で、4人の騎兵に囲まれながら外壁の門をくぐり、町の中へ入っていく。

 その門をくぐったすぐ近くに一台の馬車が止まっていた。それはここまでアンコウが乗ってきた馬車よりもずいぶん大きく、装飾も派手に施されたものであった。

 

「さぁ、どうぞ乗ってください」

「いや、いいのか。こんな豪華な馬車、今まで乗ったことがない」

 

 白髪の男が丁寧に馬車の扉を開け乗車を促してくれたのだが、少し気後れしたアンコウは一番に乗り込むことをためらっていた。

 

「どうぞお気になさらず。元々この馬車はこの町にいたロンドの貴族の所有物なのです。べつに乗り捨ててしまっても誰からも咎められることのないものですから遠慮は無用です」

「……あっ、そう(収奪品かよっ)」

 

 アンコウは先ほど見た奴隷の列を思い出し、この馬車の元の所有者は今どうなっているのだろうとふと考えた。

 

「何だ、アンコウ。乗らないのなら、私が先に乗るぞ」

 

 マニがそう言いながら、アンコウと馬車のあいだに割って入ってこようとする。そのマニの肩をアンコウはつかみ再び引き戻す。

 

「なに言ってんだ。ずうずうしい。大体こうして無事にネルカに着いたんだ。マニ、お前はもうどっかに行けよ」

「何を言ってるんだ、アンコウ。お前たちはまだ自由になってないじゃないか、最後までちゃんと付き合うさ」

「いらん!」

「ハハッ、大丈夫。遠慮はしなくていい。私が好きでしていることだから」

 

 マニがさわやかな笑顔を見せながら言った。それを見てアンコウは、頭がくらくらしてくる思いがした。

 

「それにビジットだったか、あいつから1カ月分の給金も貰っているしな」

「くっ、(ビジットめっ、くそ忌々しいっ)」

 

 アンコウは契約上マニの同意がない限り、1ヵ月間はマニとの雇用契約を解除できないことになっている。アンコウが何と言ったところでマニはついてくるだろう。

 強引に置き去りにしても、このあいだみたいに一人でアンコウが連れて行かれる場所に乗り込まれでもしたら厄介この上ないとアンコウは思う。

 

 アンコウは憤然としながら、馬車に乗り込んだ。

 そしてアンコウに引き続き、マニが馬車に乗り込んでこようとしたが、アンコウはささやかな抵抗とばかり、乗り込んでくるマニを馬車の外に手荒く押し戻し、うしろにいたテレサの手を取り馬車の中に引き入れた。

 

 アンコウとテレサが先に馬車に乗り込み並んで座席に座る。

 そのあとにアンコウに押し退けられたマニが、フフフッと笑いながら乗り込んでくる。

 そしてマニは、アンコウの正面に座る。マニはまだ、フフフッと笑っている。

 

「……なんだよ?」

 アンコウはわけがわからないうえに、うっとおしいと思いながらマニに聞く。

「いや、アンコウとテレサは仲がいいな。はたで見ているこっちが恥ずかしくなるじゃないか、フフフッ」

 

(この女はっ……!)

 

 アンコウの子供っぽい嫌がらせではあったが、意思表示の行為としてはかなりわかりやすいものだったのにもかかわらず、マニにはそのアンコウの意図がまったく伝わっていなかった。

 アンコウは思わず絶句。顔中に青筋が浮きあがる思いがした。

 

 アンコウの横に座っているテレサにも、アンコウの怒りが伝わってくる。テレサはアンコウの横でおもわずうつむいてしまう。

 

「何だテレサ、そんなに恥ずかしがらなくていいだろう。10代の乙女みたいだな、フフフッ」

「な、何を言ってるの、」

 

 テレサの頭に、マニはわざとやっているんだろうかという思いが一瞬よぎる。しかしマニの表情には何らふくむものは見えなかった。

 

 テレサがトグラスの宿屋の女将をしていた時に、マニに対して抱いていた印象が、この短い期間で大きく変わってしまった。

 こんな人だったのかと。その変化は印象が悪くなったというよりも、変になったというしかないものだった。

 

「このバカ女!やっぱりお前はここでおりろ!」

 テレサの横でアンコウが堪らず怒鳴った。

「だ、旦那様、」

 

 アンコウはここまでいろいろ我慢してきたことに加えて、マニが連発した無邪気でトンチンカンな発言のせいで、その苛立ちが我慢の限界を超えたようだ。

 そしてアンコウは怒声をあげながらマニにつかみかかった。

 

「な、何だ!どうしたアンコウ!そんなに照れなくてもいいじゃないか!」

「うるせぇ!お前はそのへんの井戸にでも飛び込んで、二度と地上に出てくるな!」

「旦那様、止めてください!危ないですから、こんなせまいところで暴れないで!」

 

 

 

 

 アンコウたちを乗せた馬車が、ネルカの町の大通りを城に向かって走っている。

 テレサとモスカルが怒るアンコウをとりなし、今はアンコウも不機嫌面ながらおとなしく馬車に揺られている。

 モスカルというのはアンコウたちの案内をしてくれている白髪の男の名前だ。

 

 アンコウがチラリとそのモスカルのほうを見る。

 モスカルはアンコウに挨拶をした時に、丁寧な口調でご案内とお世話をさせていただくと(のたま)わってはいたが、(てい)のいい見張りだとアンコウは思っていた。

 

 実際アンコウの目には、モスカルはただの執事役の男には見えなかった。

(細身だが鍛えられた体をしている。武人ではないとしても素人ではないな)

 

 モスカルは帯剣こそしていないが、先ほどマニにつかみかかろうとしたアンコウを抑えたときの素早さといい、腕力の強さといい、若いころに武術の鍛錬をしていたに違いないと、アンコウに思わせるものをもっていた。

 

 今この馬車に乗っているのは、アンコウ、テレサ、マニ、モスカル、以上の四人。

 会話はない。モスカルは目を閉じてじっとしている。テレサとマニはさっきからずっと馬車の外を見ていた。

 

「ひどいな」

 マニが外の景色を見ながら誰に言うわけでもなくつぶやく。

 

 マニのつぶやきに、アンコウも再び馬車の外に目をやる。この街は、ネルカの城のもとに広がる城下町だ。

 

 アネサも決して小さな町ではなかったが、ネルカはそのアネサよりもずいぶん人口も多く、規模の大きい町である。3、4階建ての背の高い建物も、ちらちらと見うけられ、本来ならずいぶん華やかな町並みであっただろう。

 

「モスカル」

 アンコウが外の景色を見たままで、モスカルの名を呼んだ。

「なんでしょう」

「相当大規模な市街戦になったのか」

「そのようですな。私も城が落ちた後にここに着いたので戦闘には参加していませんが、ロンド兵の抵抗もかなりのものがあったようです」

「そうか、ネルカはかなり早く落ちたと聞いていたからな。ここに来るまでは正直ここまで被害が大きいとは思ってなかったよ」

「さようですか」

 モスカルはわずかに目を開けていたが、表情は変えることなく答えていた。

 

(ロンドの抵抗が少なかったわけじゃなかったんだな。グローソンが自軍の被害が大きくなることを覚悟で、速攻で力攻めに攻め落としたってところか)

 

 あちこちの建物が崩れ落ち、焼け焦げている建物も少なくなかった。

 

「この通りは城へと真っすぐにつづく大通りですから、とくに戦闘が激しかったようです。確かに比較的町の広範囲が戦場になったのですが、この大通り一帯が一番ひどいのですよ」

 モスカルがとくに感情を込めることもなく、アンコウたちに説明をした。

 

「……そうか」

 

 アンコウは外の景色を見るのを止め、馬車内に目を戻す。

 町の被害は大きいようだが、あちこちで町の再建もすでにはじまっている様で、大工仕事に汗を流す多くの者たちの姿もアンコウは確認していた。

 

 アンコウとしてはまだ完全に戦いが終結していないという状況にネルカがあることが恐ろしかったのだが、すでに復興作業がはじまっている町の様子を見て、再び戦いが起きる心配はなさそうだと判断した。

 

「まっ、どっちにしろ終わった戦さだ。巻き込まれる心配がないならそれでいい。それよりもそろそろ教えてくれよ。俺は何でグローソンに捕まえられてるんだ?そしてこれからどうなる?」

 

 アンコウが最も気になっていることをモスカルに聞いた。

 

「知りません」

 モスカルもこれまでのグローソンの者たちと同様その答えは変わらない。

 

「いい加減にしろよ、何も知らないやつが俺をどこに案内するんだ?」

「ネルカの城です」

「そんなことは知ってる」

 

 このわずかな会話で、アンコウとモスカルのあいだに少しぴりぴりした空気が流れはじめる。

 それに気づいたマニもテレサも、視線を馬車の中に戻していたが、ふたりの話に口を挟もうとはしない。

 

「いいか、モスカル。俺を客扱いしてくれるんだったら、せめておれが自分の命の心配をしなくてよくなる程度の情報はよこしてくれよ」

 

 アンコウがじっとモスカルの顔を見る。モスカルの顔に特別な感情は何も浮かんでこない。

 

「私があなたのことで知らされていることはごく限られています。アンコウ殿は聞いておられますかな、10日以内に殿様がネルカ城に入られることになっています」

「なに?殿様って、グローソン公か?」

 

「はい。すでに正式に通達がなされておりますので、ここにいるグローソンの者たちの多くがすでに知っていることなのですが、あなたはそれにあわせて呼び寄せられたのです」

 

「それはつまり……グローソン公が俺に用があるってことでいいんだな」

「はい。むろんあなたは一介の冒険者にすぎませんから公式なものにはなるはずもないですが、何らかの形で公爵様にお目通りすることになると思います」

 

 淡々と離すモスカルに対し、アンコウの視線の鋭さが増してくる。

 

「……で、そのアンタんとこの殿様が、この一介の冒険者の俺に何のようなんだ」

「私は存じ上げておりません」

 

 本当に知らないのか、知っているのに言う気がないのか、モスカルはそれ以上は話を続けようとはせず、また目を閉じてしまった。

 

「チッ!」

ダンッ!

 アンコウは、馬車の扉を手で思いっきり叩いた。

 

 

 

 

「……チッ、どこかに似ていると思ったら、アネサで軟禁されていたあの部屋に似ているんだ」

 アンコウは案内されてきた部屋をぐるりと見渡してつぶやいた。

 

「何が公爵様の客だよ。前となんも扱いは変わってないじゃないか」

 アンコウはベッドのうえにわずかばかりの荷物を放り投げ、イスに座り、足を投げ出して毒づく。

 

 アンコウには一人部屋が、テレサとマニの2人はアンコウの部屋の近くにある同じ部屋に案内されていた。やはり見張りの兵はつけられていたが、ここでもアネサの屋敷同様、屋敷内ならかなり自由に動くことが許された。

 

 しかしアンコウがいるこの屋敷は、いわゆる城の本館からはまだかなり離れている。

 

 城が離れたところに見えるこの屋敷の前にアンコウたちを乗せた馬車が止まったので、そのことをアンコウがモスカルに問いただすと、この屋敷のある場所も一応城の区域内にあるということだった。

 

 このそこそこ大きな敷地を持つ屋敷の外観は、かなり古びていたが此度(こたび)の戦火に巻き込まれることなく、問題なく使用できる状態を保っていた。

 それにアンコウたちだけでなく、その他にも多くのグローソンの関係者たちが、この屋敷に滞在しているようだ。

 

(ほんとにアネサを立つ直前のあの屋敷に雰囲気までそっくりだ)

 

 この扱い、客でも囚人でもなく、俺はほんとに何なんだとアンコウは思う。

 ここにきてもさして変わらない自分への扱いを思えば、自分がたいした重要人物でないことは決定的だとアンコウは思っていた。こんなどうでもいいような扱いなら、もう放っといてくれよとアンコウは心から思う。

 

(……10日以内にグローソン公がここの城に入るって言ってたよな)

 もちろんアンコウはグローソン公が来るのを指折り数えて待つという気分にはならない。しかし、

「くそっ!来るんならとっとと来いよっ」

 

 アンコウ自身はまったくグローソン公と会いたいとは思わないが、どうせ会わないといけないなら早くすませてほしいと思う。

 しかしこの扱いではグローソンの殿様がこの城に来たとしても、すぐに会ってもらえるかどうかは怪しいものだとアンコウは感じた。

 

 アンコウは、さっきこの屋敷の庭で曲芸の稽古をする芸人一座の者たちを見た。グローソンの戦勝祝いの宴などで、その技を披露するため雇われたのだそうだ。

 

「俺は何の芸を殿様に見せればいいんだ?まさか本当に殿様の暇つぶしに呼ばれたんじゃないだろうな」

 

 アンコウの愚痴は止まらない。だが、アンコウの愚痴は不安の裏返しでもある。

 実際のところ、ここにきてアンコウは不安で不安でたまらなくもなってきていた。

 

 何でグローソンの殿様と会わなければならないのかがわからない。あのショーギが原因か、ただ会えばそれで終わりなのか、自分はこの世界での元の生活に戻れるのだろうかと。

 

 グローソン公ほどの権力者ならば、アンコウの命など大げさでなく虫を踏み潰すぐらいの感覚で奪うことが許される。むろんそのことはアンコウ自身もよくわかっている。

 

「くそぉ、こんな世界の権力者なんかと関ってもロクなことがあるわけないんだ。わかってるのによぉ、」

 

 アンコウは体力的にはかなり疲れていたのだが、それとは逆に神経はかなり高ぶった状態が続いている。

 

 そのためアンコウは体を投げ出すようにイスに座っているにもかかわらず、その口だけが動きつづけ、とめどなく心に湧いてくる不安を吐き出すように、アンコウは一人グチりつづけるのだった。



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第28話 異世界人 グローソン公爵 ハウル・ミーハシ

 グローソン公ハウルがネルカ城に入って、すでに1ヵ月が過ぎようとしていた。

 

 グローソンのネルカ城をはじめとする新たに広げた地での戦後処理は極めて順調におこなわれている。ネルカ城下でも、あちらこちらで戦火に焼かれた町を復旧するための槌音が響いており、町に活気が戻ってきていた。

 

 町にこれだけの被害を出したグローソンの侵攻であったにもかかわらず、住民からグローソンに対する大きな怨嗟(えんさ)の声は聞こえてこない。

 

 グローソンが住民に対して行っている復旧支援が効いたのか、ロンド公に徳がなかったのか、あるいは戦乱が当たり前のこの世界では、支配者が変わったからといって、いちいち憎悪で心を染めていられないのかもしれない。

 

 グローソン公が入城してからも、かなりバタバタとしていたネルカ城内であったが、最も忙しかったころに比べると幾分落ち着いてきたようである。

 

 今、グローソン公爵は城内に設けた自分の執務室におり、何をするでもなく椅子に座っていた。グローソン公と小姓が1人、部屋にいるのはその2人だけ。

 少し前まではグローソン公の机を囲むように多くの家臣たちがいたのだが、仕事をひと段落させて一休みしているようだ。

 

コンッコンッ

 執務室の扉を叩く音がする。

 

 小姓(こしょう)のまだ年若い男が扉のほうへ近づいていき、扉の向こう側にいる者と何やら言葉を交わす。

 

「お殿様。モスカル殿が参られたようです」

「そうか。入るように言え」

「はい」

 

 小姓がグローソン公に頭をさげ、扉を開いた。

 執務室に入ってきたモスカルは、目線を下げたまま速やかにグローソン公の前まで進み、深々と頭を垂れて定型の挨拶を述べた。

 

「うむ。顔をあげろ、モスカル」

 

 モスカルは、ハウルに恭敬の意を示しながら頭を上げる。

 

「モスカル。アネサから連れてきた男の世話をお前がしているそうだな」

「はい」

「名前はなんと言ったか」

「アンコウにございます」

「ああ、そうだったな。で、どのような男だ」

 

 モスカルはこの1ヵ月間、自分が見てきたアンコウという男の印象を極めて端的に述べる。

 

「ごく平凡な男かと」

「……冒険者であるのだろう」

「魔剣との共鳴者であるとは聞いておりますが、戦う姿を見たことはありませんので戦士としての評価はいたしかねます。しかし、人としての資質はごく平凡な男という評価が妥当かと」

 

 実際、モスカルの目にアンコウという男はそう映っていた。

 モスカルは、アンコウはアネサで軟禁され、実質強制的にこのネルカにつれてこられた冒険者だと聞かされていた。しかも、魔剣との共鳴者だとも聞かされていたので、多少の騒動は起こるだろうと覚悟していたのだ。

 

 しかし、ネルカにやって来たアンコウという男は、多少言葉遣いが乱暴な時がある程度で、全体的には実におとなしくこの1ヵ月間用意された屋敷で過ごしていた。

 

「アンコウは、ただの冒険者として、アネサでの元の生活に戻ることを望んでおります」

 

 それを聞いたグローソン公の顔が面白くなさそうなものに変わる。

 

「ふん。役に立たんか」

「さぁ、それはなんとも。少なくとも冒険者として生きていくだけの抗魔の力は持っているのでしょうし、平凡であるということはまともな頭の働きは持っているということですので」

「何か力を隠し持っているという可能性はないのか」

 

「断言はできませんが、そのようなそぶりは感じられませんでした。それに先ほども言いましたが、私はアンコウが実際に戦っている姿を見たことはありませんので。

 ただ、あの者から公爵様が求めておられるほどの大きな力や飛び抜けた威圧感を感じたことは一度もございません」

 

「ふぅむ。共鳴抜きでは、やはりあまり期待できないということだな…まぁ、しかたなかろう」

「公爵様。いかがなされますか」

「うむ、そうだな……」

 

 グローソン公は、より興味が失せたような表情を浮かべていた。

 

 

 

 

………「ああん!」

 

 

 今朝、アンコウの元にモスカルが訪ねてきた。

 この屋敷にアンコウが来てから約ひと月。モスカルは、3日に1度はアンコウの様子を見に来ていたのだが、この日アンコウは、これまで何度もモスカルに求めていたことが、ようやく実現されることになったという話を聞かされた。

 

 グローソン公ハウルが、明日アンコウを城に連れてくるように言ったことを、モスカルはアンコウに伝えに来たのだ。

 

 かなり急な話であったが、それはアンコウ自身が望んでいたことでもあり、また、たとえ望んでいなかったとしても今のアンコウには拒否権などはなく、モスカルがアンコウに伝えたことは、アンコウの意思とは関係のない決定事項である。

 

 

 

………「あんっ!」

 

 

 モスカルはグローソン公からの呼び出しがあったということと、明日の段取りを手短に説明すると、すぐに帰っていった。

 

 アンコウはどうせグローソン公に会わなければ、この軟禁もどきの状況から脱することができないのなら、できるだけ早くグローソン公に会いたいと思い、何度もモスカルにまだかまだかと催促をしていた。

 

 しかし、今朝モスカルから実際にグローソン公と会うことが決まったと伝えられると、アンコウは特別喜ぶこともなく、モスカルが帰ってからはほとんど口をきかなくなってしまった。

 

 モスカルが帰った後、アンコウは何か考え込んでいる様子で午前の時間を過ごし、昼食を食べ終えると、昼間から酒を口にした。酔うほどには飲まなかったが、アンコウが昼間から酒を口にすることはとても珍しい。

 

 そしてアンコウは酒を飲むことをやめると、今度は木剣を手に取り、庭に出て素振りをはじめたのである。

 

 

………「ああっ!」

 夜の静けさの中、灯明の光が広がる部屋で、アンコウは女の声を耳にしていた。

「ああっ、あっ、あんっ、」

 

 

 この日の昼間、1人庭で木剣を振るアンコウの姿をテレサは見ていた。

 アンコウはこの屋敷に来てからも日常的に素振りをしたり、体を鍛えることをつづけていたのだが、この日のアンコウの様子は明らかにいつもとは違っていた。

 

 テレサもアンコウに付き合って一緒に素振りをすることがあったのだが、この日はアンコウから何も言われなかったし、自分から参加しようとも思わなかった。

 テレサが声をかけることさえ躊躇(ためら)われるような雰囲気をアンコウは身にまとっていた。

 

 体がなまらない程度に、ほどほどの鍛錬をするといったいつもの雰囲気ではなく、木剣を振りおろすアンコウからは張り詰めた緊張感が漂っている。

 アンコウは、まるで戦場に立つ者が持つ殺気のようなものを周囲に放っていた。

 

 しかし、テレサがアンコウの真剣そのものの表情から感じとったものは、勇ましさではなく、ある種の怯えのようなもの。

 無論、テレサは、そのようなことを自分の主であるアンコウにわざわざ言いはしない。

 

 しかし、そのテレサの感覚は正しものであった。アンコウは自分の中にある不安を抑えるべく、酒を飲み、木剣を振り続けていたのである。

 

 モスカルはこのひと月ほどの観察で、きちんとアンコウという男の性質を把握していたと言える。モスカルがグローソン公に申したとおり、アンコウの心はごく平凡な男のそれであった。

 

 多少の力を手に入れ、多少の戦闘の経験を積んでも、凡人に生まれついた者がそうそう簡単に英雄や勇者になれるわけではない。

 アンコウの心の強さは、まだ凡人のそれに留まっている。

 

 アンコウは、モスカルに早くグローソン公に会わせろと何度も言った。

 テレサにもグローソン公に会わないことには何も進まないと、とっととしやがれと、しょっちゅう愚痴っていた。

 

 アンコウは別に強がって、そのようなことを言っていたわけではない。客観的に状況を見たうえでの分析と、そのときの自分の気持ちを正直に口にしていただけだ。

 しかし、いざモスカルから明日グローソン公に会えと言われたとき、アンコウの心に最も強く生じたのは喜びや安堵ではなく、不安という感情であった。

 

 アンコウとグローソン公の身分・立場の違いは、決定的なものだ。子供が遊びでアリを押しつぶすような感覚で、グローソン公はアンコウを殺すことが許される。

 

 グローソン公が、どんなにむごたらしくアンコウを殺したとしても、それを(とが)める者など誰もいないだろう。

 法にも社会道徳にも触れはしない。それほどグローソン公の前ではアンコウの命は軽い。

 

 逆にアンコウがグローソンが支配するこのネルカ城で、グローソン公に毛筋ほどの傷でもつけようものなら、その結果は考えるだに恐ろしいものになるはずだ。

 

 この世界でのアンコウとグローソン公ハウルとの身分・立場の違いというのは、それほど強烈なものだ。そして、アンコウもそのことをよくわかっている。

 

 いつグローソン公と会えるかわからないときならば、その事実をたいして意識せずに言いたいことを言えても、明日そのグローソン公と会わなければならないと知ったうえで、なお平然と構えていられるような強心臓をアンコウは持っていなかった。

 

 

………「んんっ!あっ、あっ、アアン!」

アンコウの顔から流れ落ちる汗がぽたぽたと女の体に落ち続けている。

「フッ、フッ、フッ、」

「あっ、あっ、アアンンッ、」

「テ、テレサっ」

 

 

 アンコウは途中からは上半身の服を脱ぎ捨て、全身から汗を噴き出しながら、狂ったように木剣を振りつづける。

 しかし、振っても振ってもアンコウの心から不安が消えることなく、振れば振るほど、さらに強い焦燥感にも似た思いに囚われていくようであった。

 

 テレサは、その無駄な贅肉のない鋼のような筋肉が、全力で剣を振りつづけることでさらにあらわとなり、全身を真っ赤にしながらも木剣を振りつづけているアンコウの姿をじっと見つめていた。

 

 結局アンコウはこの日、陽が傾くまで木剣を振りつづけた。

 ようやく木剣を手放し、全身汗まみれになって地面にしゃがみこむアンコウに、テレサはタオルを差し出し声をかけた。

 

 テレサから何かあったのかとアンコウに問うと、アンコウは明日グローソン公に会うことになったと笑みを浮かべながら答える。

 

 アンコウは、1ヵ月も待たせやがって何様のつもりなんだかと、うそぶいて見せた。

 

 しかし、いつもの文句を言うときのアンコウと違い、いくら隠そうとしても、その顔から強張(こわば)りは消えていなかった。

 そんなアンコウにテレサは、ただそうなんですかと笑みを浮かべながら返した。

 

 今の状況が不安であることはテレサも変わらない。しかも、自分の主であるアンコウのこの不安げな様子を感じ取ってしまえばなおさらである。

 奴隷にとって、自分の主人の命運がすなわち自分の命運に直結するのだから。

 

 しかし、もって生まれた性格によるものか、これまでの経験によって培われたものなのか、あるいは女の持つ強さというものなのか、この状況になって、アンコウよりもテレサのほうが腹が据わっているように見えた。

 

 テレサは、今はアンコウに言葉で何を言ったところで無駄だろうと、逆に下手なことを言えば、アンコウの男のプライドなるものを逆なでするかもしれないと思い、地面にしゃがみこむアンコウのそばから離れて1人屋敷の中に戻った。

 

 そしてアンコウは、この後夕食の時間になっても姿を現さなかった。

 

 

………「ああんっ!あっ、あっ、あんっ!んんっ!」

「ハッ、ハッ、ハッ、くうっ、」

「ああん!旦那様ぁんっ!」

 

 

 この日テレサは、アンコウのいない夕食を済ませた後、アンコウとは別の自分たちにあてがわれた部屋に戻っていた。

 そして夜の闇が濃くなる前に、アンコウからいつもの連絡があった。

 

 その連絡が来たのを見て、マニがニヤニヤ顔でテレサに一言声をかけた。

 そして、しばらくしてからテレサは、アンコウの部屋に向うため部屋を出る。マニはニヤニヤ顔のまま、いつものようにテレサを送り出した。

 

 

………「ううっ!」

 動きを止めたアンコウは、テレサにおおいかぶさるように体の力を抜いた。

 

 テレサは自分の顔の横で、激しく息をするアンコウの呼吸音を聞いている。

 すでに果ててしまったアンコウとは違い、テレサは自分の内側から発せられる未だ激しく肉体を焦がす欲望の炎の熱につつまれて息を荒げている。

 

 テレサは何も考えず、しばらくの間、ただその快感をともなう欲望の炎の余韻に身をゆだねていた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁん………」

 

 アンコウは体の力を抜いて、テレサにおおいかぶさったままだったが、いつのまにか激しく呼吸していた息づかいも落ち着き、その口から何ら音が発せられなくなっていた。

 

 そしてしばらくすると、テレサの体の上でじっと動かなくなっていたアンコウの体が、小さく震えはじめた。

 ごく小さい震えではあったが、未だ体が密着している状態のテレサには、そのアンコウの震えがはっきりとわかる。

 

「…んっ?…はぁ…はぁ…?」

 テレサは少し呼吸を落ち着けてから、アンコウのほうに顔を向けた。

 

「ん、旦那さまぁ?」

 

 テレサはまだ完全には息が整っていない状態ながらアンコウに話しかける。

 しかしテレサに話しかけられても、アンコウはすぐには答えず、アンコウの体は小さく震えつづけていた。

 

 そしてしばらくその状態が続いた後、アンコウはテレサにおおいかぶさり、ベッドに自分の顔を押し付けたまま、小さな声でささやくようにテレサに訴えた。

 

「……テレサ、」

「……はい……」

「……俺は……少し、怖いんだ……少しだけ…怖い」

「あっ、……旦那様」

 

 アンコウはそれ以上は何も言わず、そのままテレサの体を強く抱きしめてきた。

「あっ」

 そしてテレサもアンコウに答えるように、アンコウの背中に両手を回して、その手に強く力をこめる。

「んっ、旦那様」

 

 テレサの体の中を暴れる龍のごとく巡っていた欲望の炎、テレサの体はいまだ熱い、しかしその熱の質が急速に大きく変わっていく。

 テレサはアンコウの背中にまわした手で、アンコウをやさしく撫でさすりはじめた。

 

「大丈夫。大丈夫よ、旦那様」

 

 テレサの手が優しくアンコウの背中を撫でつづける。

 そのまましばらくの間、テレサがアンコウに声をかけながら、アンコウの背中を撫でつづけていると、アンコウの体の震えが徐々におさまってきた。

 

 そしてアンコウの体の小さな震えが完全におさまると、アンコウの体は再び、テレサの体の上で大きく動きはじめた。

 そのアンコウの動きは、手も足も口も腰も、さきほどよりもさらに強く激しいものになっていた………

 

「テレサぁ」

「ああんんっ」

 

 この日、いつもより激しく大きいテレサの声が夜遅くまで部屋中に響いていた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 アンコウとテレサがいる部屋の外、そのアンコウの部屋の扉にぴったりと耳をつけている者がいた。

 

 つい先ほどまで扉に耳をつけるまでもなく、部屋の外の廊下にまでテレサとアンコウの声が聞こえていたのだが、ふたりの声が聞こえなくなると、その者はアンコウの部屋の扉にくっつけていた耳をゆっくりと離し、大きく息を吐き出した。

 

「フウゥーッ、」

 薄暗い廊下に立つその者の影は獣人の女のもの。

「2人とも今日はなんか様子がおかしかったんだけどな。大丈夫そうで安心したよ」

 

 誰に言うわけでもなくつぶやいたその獣人の女は、自分の部屋に戻るべく体の向きを変える。

 そして、歩き出しながら扉の近くに立っている見張りの男に声をかけた。

 

「ほんとアンコウとテレサは仲がいいよな。そう思わないか?」

「え?あ、ああ」

「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せって言うだろ?アンコウとテレサはあれだな」

「い、いや、あの女は奴隷だろう?」

 

 獣人の女は男の質問には答えない。獣人の女は自分から話しを振っておきながら、すでに男の言葉を聞いていなかった。

 もうすでに見張りの男の前を通り過ぎてしまっている。

 

「しかし、余計な心配して損したな。無駄な時間だったよ」

 そう歩きながらつぶやくその獣人の女はマニだった。

 

 ついこのあいだアンコウとのメイド契約が切れたにもかかわらず、マニはごく当たり前のようにこの屋敷にとどまっていた。

 マニはそのまま振り返ることなく自分の部屋の方向に歩きつづけ、真っ暗な廊下の先に消えていく。

 

 見張りの男は何とも言えない表情でマニが消えていった廊下の先を見つめていた。

 

「……何だったんだ……」

 

 いつのまにかここに現れたマニは、ほとんど部屋の扉の前から動くことなく、2時間近くもこの部屋の扉に耳をつけていた。

 

 マニの態度はごく自然で、実に堂々としたものだったが、見張りの男にしてみれば、マニはただの盗み聞きの出歯亀(でばがめ)に見えなくもなかった。いや、途中からはそれ以外の何者にも見えなくなっていた。

 

 見張りの男は無論マニのことも知っていた。職務上、男は何度かマニに話しかけようとしたのだが、そのたびにギラリと眼光鋭くマニに(にら)みつけられた。

 

 見張りの男は何とも言えない思いを抱きつつも、マニの姿が完全に消えた後、無理やり気持ちを持ち直そうとするかのように何度も大きく首を振った。

 そして意識的に前を向き、しっかりと背筋を伸ばして胸を張る。

 

 見張りの男は、薄暗い真夜中の廊下で、その姿勢のまま、ひとり立ちつづける。彼は再び自分の仕事へと戻ったのだ。

 

 

 

 

「アンコウ殿はしばらくここでお待ちを」

「ああ」

 

 アンコウの視線の先に、グローソン公の執務室の大きな扉が見えている。

 ネルカ城の本館は先の戦闘でもほとんど無傷であったようで、アンコウはここにくるまでに、その規模と装飾の華麗さに圧倒されていた。

 

(ネルカの城の館は、そんなに大きいほうではなかったはずだよなぁ)

 

 アンコウは廊下に立って周りを見渡している。

 ネルカの城は国境の実戦備えの砦の役割も兼ねており、城壁や堀などはかなり重厚に造りこまれていたが、儀礼式典等で重視される本館建築物の大きさや華麗さは、その分抑えられていた。

 

 それでもアンコウにしてみたら、自分が歩いてきたふかふかの絨毯や廊下の壁や柱の美しい装飾、今いる場所の天井の高さまで、ただ廊下を歩いてきただけで別世界を見ているようだった。

 

(おい、おい。また異世界トリップかよ。まぁ、実際のトリップはただグニャグニャして気持ちが悪いだけだったけどな)

 

 アンコウは完全に場違いなところに来てしまったと、あらためて感じていた。

 アンコウは朝一番に迎えに来たモスカルに連れられて、このネルカ城本館の重要区域まで入ってきていた。

 

(そういえば、モスカルのヤツここまで顔パスだったよな。何だ、あいつ結構お偉いさんだったりして)

 

 そのモスカルはアンコウを1人残し、大きな扉の前まで歩いていった。

 そしてモスカルは扉の前まで来ると立ち止まり、しばらく直立して静止している最中だ。

 

(ああ、本物のお偉いさんなら、あんな直立不動にはならないか)

 

 大きな扉がわずかに開いたのが、アンコウの目にも見えた。

 アンコウが立っている場所からは、その部屋の中の様子を窺い見ることはできなかったが、モスカルは部屋の中の誰かと何やら話をしていた。

 

 

 モスカルは部屋の中にいる誰かと少し言葉を交わした後、再び扉を背に振り返り、早足でアンコウのいるところまで戻ってきた。

 

「さぁ、アンコウ殿。お行きなされ」

「あ、ああ」

 

 アンコウは一度大きく息を吸い込んで、わずかに開いている正面の大きな扉を見据える。

 

 モスカルはアンコウを平凡な男だとグローソン公に言ったが、どちらかと言えばアンコウには好感を持っていた。

 

 モスカルから見て、アンコウのような者は、この国でさらなる覇を唱えようとしているグローソン公の求める人材ではないと言わざるをえない。

 しかしアンコウは欲少なく、無駄に人を傷つけるようなことは避けており、抗魔の力を持つ人間としては珍しい男だと、モスカルはアンコウのことを評価していた。

 

「よいですか、アンコウ殿。私はご一緒いたしませんが、決してグローソン公を怒らせるようなことをしてはいけません。命を長らえること、それ以外は望まぬことです」

 

 モスカルは、グローソン公の苛烈な気性をよく知っている。

 グローソン公は、何やらアンコウに興味を持っているようではあったが、いざとなればアンコウの命を奪うことに、何らためらいはしないだろうことをよくわかっていた。

 

「あ、ああ、わかった」

 

 そう言って、アンコウは1人ゆっくりと扉向かって歩き出す。

 そしてアンコウは、扉の前まで歩いてくると足を止める。心臓の鼓動は速くなり、足はわずかに震えている。

 

 アンコウは大きく息を吸い込んで、心の中で『落ち着け、覚悟を決めろ』と自分に言い聞かせる。

 すると、目の前にあるわずかに開いていた扉が大きく開きだした。

 

 そして開いた扉の先には、ゆったりとした法術師風の服を着た中年の容貌のダークエルフの男がひとり立っていた。

 

「さぁ、入れ」

「あ、ああ」

 

 アンコウは促されるままに部屋の中へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 グローソン公は奥にある大きな執務机の前に豪奢なイスを置き、そこに座っている。グローソン公は、何ら感情が読み取れないような目でアンコウを見ていた。

 

 じつは、このときにはすでに、あちこちから上がってきていた情報により、グローソン公のなかでアンコウに対する評価はほぼ固まっていた。

 

グローソン公爵 ハウル・ミーハシ。

 貴族・豪族の生まれではなく、その出自は定かではない。

 ある地方豪族の娘と結婚し、ウィンド王国の一地域に、はじめてその名があがったのは、今から30年近く前のことであった。

 その後30年の彼の歴史はまさに戦いの歴史であり、戦い続けることで、領地を広げ、名を広め、今ではウィンド王家から正式に王国公爵の地位を認められている男でもある。

 

 今、アンコウの目の前に座っているグローソン公のこの程度の略歴は、この国の者であれば誰もが知っている。

 

(た、確か、年齢(とし)はもう50を越えてるって話だったよな)

 

 アンコウの目の前に座っている男は、アンコウの目には二十歳(はたち)そこそこの若者に見える。アンコウの目にグローソン公は、自分より年若にすら見える。

 

 抗魔の力による保若(ほじゃく)の効果であることはまちがいないのだろうが、人間族でこれほどの保若効果を持つ者にお目にかかるのはそうそうあることではない。

 

 

「貴様、何をしておる。グローソン公の御前だぞ。ご挨拶をせぬか」

 アンコウのうしろから、白髪混じりのダークエルフの男が声をかけてきた。

 

「あっ、は、はい」

 

 ぼおっとして、突っ立っていたアンコウは慌てて膝をつき、(こうべ)を垂れた。

 

「ア、アンコウと申します。御命を受け参上いたしました」

 

「うむ。よく来た、アンコウ」

 

 そう一言だけ言うと、グローソン公は次にアンコウにではく、白髪混じりのダークエルフの男にむかって話しかけた。

 

「バルモア、後ろの椅子を持ってきてくれ。アンコウの分とお前の分もだ。この者とは堅苦しい話をする気はない」

「はい。承知いたしました」

 

 バルモアと呼ばれたダークエルフの男がアンコウの後ろに椅子を置く。バルモアはもうひとつの椅子をグローソン公の側に置き、そのままその椅子に自分が座った。

 

 グローソン公はアンコウの後ろにあるイスを指差し、アンコウに座れとその指をクイクイッと上下させた。

 

「は、はい。ありがとうございます」

 

 アンコウは急いで立ち上がり、その椅子に腰掛ける。

 

「うむ。では話をはじめるか。まどろっこしい話は抜きだ。これでも私は忙しいのでな」

「は、はい」

 

 アンコウが返事をするのとほぼ同時に、グローソン公は親指をはじき、アンコウのほうに何かを飛ばしてきた。

 

「えっ」

 アンコウはとっさに手を差し出し、自分のほうに飛んできた物体を掴み取った。そしてアンコウは、その飛んできた物を握った手を開き見る。

 

「あっ」

 アンコウの手の中にあったのは王将と書かれたショーギの駒であった。そしてその駒は、アンコウがアネサで作ったアンコウ手作りのもの。

 

 アンコウが視線を駒から前に戻すと、グローソン公が立ち上がり、アンコウのほうにむかって歩いてきている姿が目に映った。

 

 グローソン公の背はアンコウよりはかなり高いが、細身である。モデルのような体型の優男(やさおとこ)がアンコウに近づいてくる。

 しかし、グローソン公を見つめるアンコウの背中は、すでに汗でぐっしょり濡れていた。優男グローソン公の身にまとっている威圧感は、アンコウがこれまで感じたことがないようなものだった。

 

( くそっ、何にもしていない相手にビビってんじゃねぇ)

 

 アンコウは何とかポーカーフェイスを保ち、近づいてくるグローソン公を見つめる。

 そしてグローソン公は、アンコウの目の前まで来るとアンコウを見下ろしながら再び口を開いた。

 

『よう、アンコウ。お前この世界の人間じゃねぇだろ?同郷か?いつこっちに来たんだ?将棋なんてオッサン臭い趣味だな』

 グローソン公の口調が、権力者のそれから突然くだけたものに変わる。

 

「………え?」

 

 自分と同じ異世界人がいる。アンコウはまったく予測していなかったわけではない。

 可能性は非常に低いと思いながらも、ここに至るまでの経過の中にあった将棋という唯一の重要キーワードを考えれば、わずかながらその可能性も頭の中では考えてはいた。

 ゆえにまったくの想定外の外と言うわけではない。

 

 しかし、今のグローソン公の問いかけを聞いたアンコウの頭の中は、すでにパニックをおこしていた。

 

『二、ニホンゴ!ナ、ナンデ……アレ?ナンデダ?オレガシャベッテルノ、ニホンゴ……ア???』

 

 アンコウの耳に聞こえたグローソン公が話していた言葉は、日本語だった。そして、思わずアンコウの口から出てきた言葉も日本語だった。

 

 アンコウは一瞬でわけがわからなくなる。

 グローソン公が日本語で話しかけてきた。そして反射的に自分の口から出てきたのも、久しぶりにしゃべった日本語であった。

 

 そう、それは久しぶりに聞き、口にした故郷の言葉だっだ。

 

 つまりアンコウは、この世界に来てからいったい何語をしゃべっていたのだろうか。アンコウは、なぜか故郷と同じ言葉が使われている異世界だと、この世界のことを今の今まで認識していた。

 アンコウはこれまで自分がまったく想定していなかった事実に気がついた。

 

『オ、オレ ハ イママデ ナニゴヲ シャベッテタンダ?ナンデ シャベレタンダ?ド、ドウイウコト ナンダ?』

 

『……おい、そんなことはどうでもいいんだよ。どっちの言葉でもいいから俺の質問に答えろ。お前が日本人なのはわかった。それでいつ来たんだ?』

 

『ア、アレ、……オレハ ナンデ?……ナニガ ドウナッテル?……』

 

 アンコウの頭の中は完全にグチャグチャになっていた。とてもじゃないが、グローソン公の質問にまともに答えられる状態ではなくなっていた。

 そんなアンコウを見て、グローソン公は苛立ちをあらわにする。この男の気性は間違いなく荒い。

 

「チッ、面倒なヤツだ」

 

 グローソン公はそういい捨てると、同時に右手を大きく振りおろす。

ドガッ!

 グローソン公の右こぶしがアンコウの顔を打ち抜いた。

「ふぐぅっ!?」

 

 アンコウは座っていた椅子から吹き飛び、床に叩きつけられた。

 

『……ぐっ、な、何を』

 

『何をじゃねぇ!自分がどこの言葉を使ってたのかもわかってなかったのか!このバカが!異世界で自分の世界の言葉が通じるわけがないだろう!

 それに、学んだことのない異世界の言葉がしゃべれるのだって十分不思議なんだ!考えても無駄なことで、いちいちパニクるな!神の恵みとでも思っておけ!今さらにもほどがあるぜ!』

 

「ううっ、」

 

『チッ、言葉なんざぁ、わかればどこの何語だってどうでもいいんだよ!面倒だ。こっちの言葉に戻すぞ。気ぃ使って、故郷の言葉を使って損したぜ。とっとと座れアンコウ!』

 

『あ、ああ、すまない』

 

 アンコウは慌てて立ち上がり、椅子をおこしてあらためて座りなおした。

 



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第29話 グローソン公爵の望み

 グローソン公ハウルは顔に苛立ちを浮かべたまま、自らも元の位置に戻り、椅子に座った。

 グローソン公ハウルは足を組み、先ほどまでの感情が読み取れない目とは違い、明らかに冷たくなった目でアンコウを見ていた。

 

(なるほど、やはりこの程度の男か)

 

 アンコウは失敗したと思いつつも必死で自分の心を落ち着けようとしていた。

 

「………平凡か」

 ハウルがぼそりとつぶやく。

 

「えっ?」

 ハウルのつぶやきを耳にして、アンコウがうつむいていた顔をあげる。

 

 ハウルは顔をあげたアンコウを、そのままじっと見つめている。アンコウも何とか怯む心を抑えつけ、逸らすことなくグローソン公の目を見ていた。

 

―――――――

 

「……うむ。少しは落ち着いたようだな、アンコウ」

「は、はい」

 

「はじめに言っておくが、私が貴様をここに呼んだのは、貴様が同郷の者である可能性が高いと判断したからだ。

 しかし、だからと言ってそのことで貴様を特別扱いするつもりは毛頭ない。仮に貴様を敵だと判断すれば、そのときは貴様を殺すことに何らためらいはない。つまらぬ勘違いはするなよ」

 

 ハウルの目は本気だった。アンコウもそのハウルの言葉が、冗談でも脅しでもないことを瞬時に感じ取った。アンコウは自然と唾をゴクリと飲み込む。

 

「……は、はい」

 

 ハウルは十代でこの世界に落ちてきて、現在に至るまで30年以上戦い続け、力で今の地位を勝ち取った男だ。

 その若々しい容貌とはまったくそぐわない威圧感をハウルは放っていた。

 

(グゥ、ビビるなって言うほうが、無理だ……)

 

 心も体も萎縮してしまったアンコウに、ハウルが問いかける。

 

「アンコウ、精霊法術は使えるのか?」

「えっ?使えませんが、」

「なぜだ?」

「えっ?なぜって、」

 

 アンコウとしては、なぜって何が?という心境だ。

 一般的に精霊法術を使うものといえば、妖精種である場合がほとんどだ。いわゆる妖精種と呼ばれている族人であれば、基本的に精霊法力を用いる能力が、生まれながらにその身に備わっているのが普通だ。

 

 また、同じ妖精種であっても、例えばエルフ族とドワーフ族とを比較すれば、生まれ持ってくる法力の大小やその法力の持つ特徴に明らかな違いがある。

 

 しかし人間族においては、法力の大小や特徴以前に、彼ら妖精種が使うような精霊法力を使用できる人間の存在自体が少ない。

 

 この精霊法力は抗魔の力とまったく別のものというわけではなく、抗魔の力をもって、この世界に偏在する精霊の力を借り受ける、あるいは融合することによって術者の制御下におく力だと認識されている。

 

 人間族や獣人族は、この抗魔の力を精霊法力に変換する能力に劣り、また法力に変換できるものの中でも、法術として具現化できるものがまた少ないと言われている。

 

 しかし、今ハウルは、アンコウが精霊法術を使える者がほとんどいない人間族であるにもかかわらず、まるでアンコウが精霊法術を使えないことが、おかしいことであるかのような聞きようをした。

 

(あっ、そういえば、グローソン公はかなりの精霊法術の使い手だって話だったな)

 

「本当に使えないのか?」

 

 アンコウが精霊法術を使えないということはちゃんと情報としてハウルには届いていたが、ハウルは重ねて聞いた。

 

「…はい、まったく」

「……そうか」

 

 ハウルはわかっていたことの確認をしただけなのだろうが、それでも軽くため息をついたのは、失望の表れなのだろう。

 

「俺は使えるぞ」

「……はい」

「俺と一緒にここに落ちてきたやつも使えた」

「えっ……!!」

 

 ハウルはアンコウが聞き流せない一言を言った。しかし、ハウルは何でもないことのようにごく自然な口調であり、アンコウが驚いているあいだに話を続ける。

 

「異世界からの落人(おちうど)は人間でも精霊法術が使える者が多いらしいのだがな」

 ハウルはそう言うと、座っている椅子に大きく息を吐きながらもたれ掛かった。

 

「そ、そんな話聞いたことがない!」

 アンコウはいまだ驚きつつも、ようやく声をあげた。

 

「……使えないものは仕方がないか」

 

 ハウルはアンコウのほうは見ずに、アンコウの声に答えたわけでもなく、つぶやくように言った。

 

「さて、今後のお前の処遇のことだが、」

 ハウルはさらりと話を変えようとする。

「ちょ、ちょっと待てよ!まだほかにも異世界から来た人間がいるのかっ!」

 

 ハウルが自分と同じ異世界から落ちてきた者だということの詳しい話も聞く前に、他にもまだいるのだという話がハウルの口から出たのだ。

 アンコウの心は、そのことを無視して聞き流すことなどできはしない。

 

「そ、そもそもあんたが俺と同郷っていうのも本当なのかよっ!」

 

 気がつけば、アンコウは椅子から立ち上がり、唾を飛ばしながらハウルに問いただしていた。

 

「……アンコウ。貴様誰に向かって口を聞いているのだ……?」

 

 ハウルは足を組んで椅子に座り、肘掛にひじをおき、自分のこぶしのうえに軽く顎を乗せて頭を(かし)げていた。

 そして、ハウルがアンコウを見る目は冷たく鋭い。発せられた言葉は、抑揚のないものだったが、凍りつくような迫力があった。

 

「……アンコウ、つい今言ったはずだ。同郷であろうが、貴様を特別扱いするつもりはまったくないと。貴様誰に向かって口を聞いているのだ?」

 

「あ、い、いや……」

 

 アンコウはハウルに威圧され、一瞬でその目は泳ぎ、勢いがなくなった。

 アンコウのその様子を見て、今度は顔には出さなかったが、ハウルはアンコウへの期待値をさらにさげる。

 

「アンコウ、座れ」

 

「…………」

 アンコウは無言のまま、再び椅子に腰をおろした。

 

「……いいだろう。少しだけ時間を割いてやる。しかし、余計な口は挟むなよ」

 アンコウがおとなしく座ると、ハウルは面倒くさそうにそう言った。

 

 ハウルとしても、アンコウにまったくその関係の話をせずに済むとは思っていなかったのだが、ハウルにとっては、元いた世界のことなど、遠い昔の()()()の話になってひさしい。

 

 しかし、そんなハウルとて郷愁というものが完全になくなったわけではない。だからこそハウルは、こうしてアンコウと会っている。

 

 アンコウはハウルを見て、緊張解けぬ面持(おもも)ちで、無言で(うなず)く。

 ハウルは変わらず面倒くさげではあったが、少し遠い目をして話し出した。

 

「俺は30年以上も昔、この世界に落ちてきた。あまりに唐突に、そして理不尽に。だが、そのころの思いはもう忘れた。

 アンコウお前は一人でやってきたようだが俺は違った。俺は、俺ともう一人、当時の俺よりも20も年上の男と一緒に、この世界に落ちてきた。

 その男は元の世界からこの世界に落ちてきたとき、たまたま俺の横を歩いていた男だ。その男は向こうの世界で、普通の社会人だったと言っていたな。

 ただ、当時まだ二十歳(はたち)にもなっていなかった俺にとってはものすごく頼りになる存在だった。一時はこの世界の親父だと思っていたこともあったよ。

 その男がこの世界で得た力は身体能力に関しては俺よりも落ちるものだったが、精霊法術に関しては当時の俺と互するかそれ以上のものがあった。あのオヤジは強かった」

 

 ハウルが少し懐かしげに語る。しかしアンコウはハウルのその態度にわずかに引っかかるものを感じた。

 

「強かった?……その人は今どこに?」

「……ああ、アイツは死んだよ。俺の敵にまわったから殺した。……あっさり殺しすぎたと、今でも後悔しておる」

 

 ハウルの表情、口調、雰囲気が一変する。ハウルの体から目に見えるのではと思うほどの生々しい憎悪が噴き出した。

 それを間近で感じたアンコウは、恐怖を覚えずにはおれなかった。

 

「そ、そうですか……」

 

 地雷だった!余計な質問だった! とアンコウは口ごもる。

 幸い次の瞬間にはハウルから発せられた禍々しい感情は退き、ハウルは話をつづけた。

 

「さっきは異世界からの落人(おちうど)は人間でも精霊法術が使える者が多いらしいと言ったがな、俺も実際に自分と同じ異世界の人間を見るのは、その男以来、貴様が2人目なのだ、アンコウ。

 ただ、この世界の歴史は古い。一般の者が目にすることはまずないが、いくつかの国や地域の歴史書や伝承に、異世界からの落人(おちうど)異界渡(いかいわた)りの者の記述や語りが残っている」

 

「そんな話ははじめて聞きます……」

 

 アンコウはずっと元の世界に帰りたいと思い続けていた。

 正直、現実的ではないとあきらめてはいたのだが、それなりに情報を求めることはしてきた。しかし、そんな話はまったく聞いたことがなかった。

 

「当たり前だ。アンコウ、貴様はただの一介の冒険者なのだ。貴様の目に国の歴史書などが触れることはないだろう。それを研究している者の話を耳にすることなどなかろう。

 ひとつの町のひとつの迷宮に引きこもり、小銭稼ぎをしている狭き冒険者が、古き森の民や山の民の伝承の歌を聞くことなどはない。

 何百年かあるいはそれ以上昔に現れた異世界の人間のささやかな物語など、この世で日々の生活に追われる大衆が知るわけがない。何の腹の足しにもならないからな」

 

「…………………」

 

 ハウルは別にアンコウを責めているわけではない。しかし、アンコウはそれに関して、何も言い返すことも聞き返すことができなかった。

 それでもアンコウにはどうしても聞いておかねばならないことがあった。アンコウは意を決して顔をあげた。

 

「あの、グローソン公、」

「貴様、」

 話しだそうとしたアンコウを、グローソン公がさえぎる。

 

「くだらない目だ。俺にとっては、生まれ育った世界など、とっくの昔にそちらが異世界になっておるわ」

「ぐっ、」

 アンコウの思いを、完全にハウルは見抜いていた。

 

「今から言うことでこの話は終わりだ。これ以上は質問も一切認めない」

 

 ハウルの冷たく鋭い目がアンコウを射抜く。ハウルはそのまま話しを続ける。

 

「俺は元の世界に帰る方法は知らない。さがしてもいない。異世界から来たといわれている者たちの伝承の中に、彼らが元の世界に戻ったとされるものもない。貴様がそれを求めるのなら、自力でやることだ」

 

 ハウルは平坦な口調で一気に言った。言い終わった後のハウルがアンコウを見る目は、アンコウに一切の質問を許さぬという厳しいものがあった。

 

「うくっ………」

 アンコウは一瞬声を詰まらせたあと、天を仰ぎ、大きく息を吐き出した。

「………フゥーッ」

 

 ハウルの言葉はアンコウにとって厳しく、冷たいものであったが、アンコウは少なくともハウルがウソを言っているようには思えなかった。

 

 ハウルは異世界人であって、かつアンコウよりもはるかに多くの情報源を持つ権力者である。そのハウルであっても、元の世界に帰る方法となるとアンコウ同様何もわかってはいない。

 

 それがわからないのなら、国家機密の歴史書も古の伝承なるものも、アンコウにとって何の意味も持たないのものだ。

 それでも自分と同じ異世界からのトリップ者の存在とそれに関する話は、アンコウの望郷の念をいたく刺激した。

 

「さぁ、この話は終わりだ。では、今後の貴様の処遇のことだが」

「ちょっ、待って、」

 

 しかし、ハウルはどうでもいい話はここまでだと言わんばかりに、アンコウが最も関心が強い元の世界に関する話を早々に切り上げて、話を進めようとする。

 そこにアンコウの意思を汲み取ろうとするそぶりはまったくなかった。

 

 そしてグローソン公が続けた言葉は、アンコウのそんな望郷の念を一瞬で霧散させるものであった。

 

「ではアンコウ、貴様は今後俺の臣下として働くにあたって、何か望むことはあるか」

「ん?……えっ、……臣下……?」

 

 アンコウは予想していなかったハウルの言葉に一瞬戸惑う。そして、理解する。

 

「なっ!ちょっ、ちょっと待ってくれ!臣下って、何だ…いや、何ですか!俺はそんなことは望まない!し、臣下って何なんです!?俺は言われたとおりにこんなところまで来たんだ、もういいでしょう!」

 

 ハウルの話の内容も話の進め方も、じつに自己中心的でこの世界の権力者らしいものだ。

 

 そもそもアンコウがここに来た理由は、何の用かは知らないがグローソン公に会って、とっとと自由にしてもらおうということだけだった。

 誰かの家来になるなど論外の外であり、アンコウは突然何かとんでもない話になっていることに焦り、激しく戸惑う。

 

「だめだ。言ったであろう、俺が知る同郷の者はお前が二人目、一人目はすでに死んでいるのだ。俺はこの先もこの世界で生き、この世界で死ぬだろう。もはや望郷の念などない。

 しかし、俺も一人の人間だ。世界の違いなどとは関係なく、自分の遠き日々の思い出を懐かしく思うこともある。

 アンコウ、貴様が俺の過去の思い出の中にいるわけではないが、あの世界を知るものとして、貴様の存在そのものに俺にとって幾ばくかの価値がある」

 

 ハウルは堂々と、自分の意思が通ることが当然のことのように言い切った。

 ハウルのその言を聞いたアンコウの胃が一気に重くなる。

 

(こ、この野郎、今なんて言いやがった?)

 

 ハウルは、はじめからアンコウの意思などまったく無視している。しかもこの言い様だ。しかし、アンコウはそんなハウルに怯え、ここまで縮こまっていた。

 仕方がないことだとは思っているが、それでもアンコウは良くも悪くも内心自分に惨めさを感じるぐらいの意地は持っていた。

 

 そして、そのあげくに上から目線のこの命令である。

 

 アンコウは思う。この世界の権力者の家来になるなど、こいつの奴隷になるのと変わりはしないと。

 アンコウは慎重で勘が鋭く、どちらかといえば平穏無事を好むタイプだ。しかし、呪いの魔剣との共鳴がないときでも、ごく稀にキレる。

 

 アンコウはあの日の朝、アネサの迷宮へ魔獣狩りに行く途中に攫われて自由を奪われた。それ以降今日までに積もりに積もったドロドロのマグマのような感情を、心の内側に溜めに溜めていた。

 

 それはいつ決壊してもおかしくない状態でアンコウはここにやって来た。人間キレる時は、時も場所も相手も関係がないものだ。

 

「楽に生活ができるだけの金と屋敷は用意する。それに適当な肩書きはくれてやろう。そうだな、なにがよいか、」

 

(ふ、ふざけるな、ふざけるな、……)

 それではここまでの軟禁生活と実質変わりはしない。アンコウの心の声が、のど元まであがってくる。

 

「……ふ、ふ、ふ、」

「ん?どうした、アンコウ」

 

「……ふ、ふざけんなぁ!頭湧いてんのか、おまえぇ!黙って聞いていれば、好き勝手言いやがって!俺がここまでどれだけ我慢して、どんな目にあわされたと思ってんだ!自由になれると思っていたからここまで来たんだっ」

 

 アンコウは怒鳴り声をあげると同時に立ち上がっていた。

 

「何で俺が、お前の下につかなきゃいけない?お前がどんな生き方しようが勝手だけどな。俺はお前みたいな生き方は趣味じゃねぇんだよっ!あげくに何言いやがった?

 俺があの世界を知っているから、俺の存在に幾ばくかの価値があるだと?んなこと俺の知ったことかっ!

 俺はお前の思い出オナペットじぁねぇぞ!お前が今までこの世界で、何を見て何を喰って生きてきたのかは知らねぇけどな、くそ気持ち悪ぃんだよ!テメェ脳みそにウジでも湧いてんのクカッ!ガガグガアアアーッ!」

 

 突然アンコウの怒声が、悲鳴に変わる。

 

 いつのまにかアンコウの後ろにまわっていたバルモアがアンコウの肩をつかんでいる。バルモアは(いかづち)の精霊法術を発動していた。

 アンコウの体を激しい痺れと燃えるような痛みが支配する。

 

「グ、グギイィーッ!」

 

「貴様、口の聞き方には気をつけろと命じられたであろう。貴様の無礼、我が殿が許されても、このバルモアが許さん。貴様のような下賎の者が我が殿に悪態をつくなど決して許されぬことだとその身をもって知れ」

 

 バルモアはきわめて無表情に淡々とした口調で言った。

 まるで死刑執行人のようにアンコウの後ろに立ち、しっかりとアンコウの肩を握っている。

 アンコウは悲鳴をあげつづける。何とかしようにも全身が激しく痺れ、まともに体を動かすことすらできなかい。

 

 しかし、アンコウはすぐには折れず、その目にさらに激しい怒りの色を浮かべた。

 そして、その目がアンコウの正面に座るグローソン公の目をとらえる。

 

(ほう……)

 

「……ふん、この程度の力しか持たぬものが、公爵様に歯向うなど、この愚か」

「ぐがあぁーっ!」

「なっ、」

バギィイッ!!

「ナグァッ!」

 

 アンコウは、雷の精霊法術をくらいながらも突然動いた。

 近くにあった自分が座っていた椅子を(つか)み、振り向きざまバルモアを思いっきりぶん殴った。

 バルモアはとっさに腕で椅子を防ぎ、頭を直撃されるのはまぬがれたものの、勢いよく吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。

 

(ほう……動くか)

 

 バルモアはグローソン公に仕える精霊法術の使い手の中でもトップクラスの実力者だ。

 無論、先ほどのバルモアの様子からわかるように、全力でアンコウに(いかづち)の精霊法術を使ったわけではなかったが、ハウルもバルモアもアンコウがあの状態から動けるとは思っていなかった。

 

 おそらくグローソンに軟禁される前、もっと正確に言えば、あの赤鞘の魔剣との共鳴をおこす前のアンコウなら、先ほどのバルモアの精霊法術から自力で抜け出すことはできなかっただろう。

 

 アンコウは魔剣との共鳴なしでは大幅に抗魔の力を増強できるわけではない。

 しかし、共鳴を起こしたことをきっかけに、通常時でも使える抗魔の力の底が、以前より間違いなく深くなりつつあった。

 この変化については、アンコウ自身もいまだ完全には把握できていない。

 

 バルモアを強打した椅子はバラバラに壊れてしまった。アンコウはその椅子の残骸を握ったまま、ヒザから崩れ落ちる。

 

「ぐうぅっ、」

 アンコウは無理やり動いたものの、全身の痺れは未だとれておらず、一気に体から力が抜けた。

 

「お、…おのれぇ、図に乗りおって!」

 

 地面にたたきつけられたバルモアが動き出す。

 アンコウに椅子で殴られた衝撃はかなりのものだったが、バルモアもこの程度でやられる男ではない。

 

 それどころか明らかに下に見ていた男から受けたこの一撃は、バルモアにとって屈辱以外の何ものでもなく、先ほどまでとは違い全身に怒りという闘気をまとっていた。

 

バチ、バチ、バチッ!

 

 小さく電気がはじける音をたてながら、アンコウより先にバルモアが立ち上がる。 

 アンコウは未だ床に片ひざをついたままだ。

 

 しかし、アンコウはバルモアの目には見えないように、自分の体で隠しながら壊れた椅子の残骸をきつく右手に握りしめていた。

 バルモアが先に仕かけるか、アンコウがバルモアに飛びかかるか、無言のかけ引きがわずかな時間におこなわれた。

 

 そのとき、アンコウは自分たちがいる空間の気温が一気に下がったかのような寒気に襲われた。

 

――――――(なんだ!?)

 

 アンコウは一瞬身体が固まり、わずかに状況確認が遅れた。

 そしてアンコウがバルモアのほうに目を戻すと、バルモアはすでに精霊法術の発動を完全に解いており、片膝をつき、アンコウとは違う方向に(こうべ)を垂れていた。

 

 アンコウはバルモアが頭をさげてる方向を急いで見た。見るまでもなく、その方向にいるものが誰かはアンコウにもわかっている。

 アンコウが目を向けた先にはグローソン公ハウルが口角をあげ、少し楽しそうな笑みを浮かべてアンコウを見ていた。

 

 ハウルは先ほどまで座っていた椅子からは立ち上がっており、その右手に鞘から抜き放った剣をしっかりと握っていた。

 

「ああっ、なんだこれ……」

 アンコウは激しい悪寒に襲われる。

 

 アンコウは初めからハウルからただならぬ威圧感を感じていたが、その白刃を抜き身で持つハウルから感じる覇気はまったく質の違うものに変わっていた。

 

 しかしアンコウは、このハウルの覇気の変化の仕方そのものには覚えがあった。自分自身の経験としてダブる感覚がある。

 アンコウは固まりそうになる体をなんとか動かし、ゆっくりと立ち上がりながら、後ずさりするように後退していく。

 

「……き、共鳴なのか」

 

 ハウルは狼狽するアンコウを見すえながら。もう片方の口角も上げた。

 

「生意気な男だ。貴様ごときが、この私に歯向かうとは愚かなことよ。ただ、少し面白い」

 

(間違いない、共鳴だ)

 

 アンコウはグローソン公がだらりと下げた右手に持つ魔剣を見る。

 それはすばらしい剣だった。いま打ちあがったばかりのような輝きを放つ銀色の刀身。

 アンコウはまるで陽炎(ようえん)が揺らめくように、力がその剣から発せられているごとく感じていた。

 

 ハウルが持つ魔剣は、魔剣そのものが意思を持っているかのような存在感がある。

 アンコウはゴクリと唾を飲む。しかし、アンコウの目は未だきつくハウルをにらむように見ていた。

 

「くっ、くっ、アンコウよ。その棒切れで俺とやりあうつもりか?」

 

 ハウルが持つ魔剣は呪いの武具ではない。ごく普通の、いや、呪いの付加など一切ない一級品の魔剣であった。

 アンコウのようにその精神に影響を受けるということはまったくない。それにハウルはその魔剣との共鳴の力を完全にコントロールしているようにアンコウには見えた。

 

(絶対にこの程度ではない) とアンコウは見抜く。

 

 まともにやり合って、自分に勝ち目などないとアンコウは知っている。絶対に殺されると思う。

 しかし、ひざを折ってこの男に許しを乞うて、それが受け入れられたとしても、下手をすれば死ぬまでこの男の御家来様でいつづけねばならず、しかも、そのお役目がこの男の思い出オナペットだ。

 

 くだらなすぎる。人生、命があってナンボ。だが、生きていれば良いという訳でも決してない。そこにアンコウの求める自由はない。

 

 このときのアンコウは、ハウルの力に(おのの)きつつ、未だ爆発させた感情がなかなか制御し切れていない状態にあった。

 それはここに至るまでに、いろんなことを我慢しすぎたせいだったのかもしれない。

 

 まず自分の命の安全を確保してから次を考えるというアンコウらしい発想が、未だ激しく揺れる感情の波に飲まれ、アンコウの頭に浮かんでこなかった。

 

(いやだ!いやだ!) アンコウの頭には、まだ血がのぼっている。しかし、ハウルが恐ろしくもある。

 

 ハウルはアンコウが死んだところで別にかまいはしないが、少なくともここにアンコウを呼んだのは殺すためではなかった。

 アンコウがおとなしく自分の命令を受け入れていればそれでおしまい、それだけのつもりだったのだが、ハウルは少し面白くなってきていた。

 

 少し退屈しのぎができるかもしれないと、それでこの男が死んでも、それはそれで面白いだろうと思った。

 ハウルにとってアンコウは何が何でも手に入れたいと思う男ではない。手に入るならとっておくかという程度の存在だ。

 

「アンコウよ。お前にチャンスをやろう。自由になるチャンスだ」

 

 アンコウを見て、グローソン公は少し楽しげに言った。アンコウはそのグローソン公の様子を見て、さらに警戒心をあげる。

 

( ク、クソの()みだ。)

 

 それは人を人と思っていない者が浮かべる表情。

 アンコウは奴隷であったとき、何度も、何人もから、そのクソの笑みをむけられ、(なぶ)られ、いたぶられた経験を決して忘れてはいない。

 

 アンコウは必死で逃げる方策を考え、わずかな時間で頭をめぐらせる。しかし、当然ながらアンコウには自力でこの状況を打開する妙案は何も浮かんでこない。

 

 アンコウの腹の底からこみ上げてくる怒りと、今すぐにひざを屈して許しを乞いたいという矛盾した紛うことなき本心が、アンコウの心の天秤にかけられて、右左(みぎひだり)と高速で動いていた。

 

「クックッ、アンコウ。ついて来い」

 

 ハウルはそう言うと剣を腰の鞘におさめて、アンコウの横を歩いて、すり抜けていった。

 

「えっ、えっ?」

 

 ハウルは、そのまま執務室の扉にむかって歩いていく。

 アンコウがどうしたものかとその背中をだまって見ていると、アンコウの横につけたバルモアがアンコウのほうは見ずに話しかけてきた。

 

「何をしている。悩むことなど不要だろう。貴様は殿の命に歯向かってなお、貴様の望みを得ることができるチャンスをいただいたのだ。その機会をも足蹴(あしげ)にするということは、貴様のゆく先はあの世しかなくなるということだ」

 

 バルモアの口調に先ほどまでの怒りはまったくなくなっている。意識的にであろうが、ただ淡々と言った。

 

「くっ、チャンスだと?グローソン公は本当にオレを自由にする気があるって言うのか?それを信じろって?」

 

 あの手の権力者の言うことは信頼できないとアンコウは思っていた。

 この圧倒的に有利な状況で、グローソン公が自分の意思を一歩でも譲ることをするとは、アンコウには到底思えなかった。

 

「アンコウといったな。どれほどゼロに近くとも可能性がほんのわずかでもあるならば、それはチャンスだろう。それがたとえ1%にも満たないものであっても。それを手にするかどうかは貴様の実力しだいだ」

 

「ふざけるな。ボケがっ」

「なにっ、」

 

 アンコウのバルモアに対する先ほど受けたビリビリの怒りはまだおさまっていない。やたらとバルモアの言うことはアンコウの(しゃく)に触った。

 それに、こいつらは俺を自由にするつもりなどない、これはお貴族様のお遊びだと、アンコウは確信を持っていた。

 

 バルモアが実に不愉快そうにアンコウをにらみつけた。

 

「ではそのままそこに立っていろ。殿の命令が有り次第、私がここで貴様を殺してやろう。先ほどのような幸運が2度も続くと思うなよ」

 

 バルモアはアンコウから視線をはずし、グローソン公の後を追って歩いていった。

 

 バルモアが体勢を立て直し、アンコウへの油断もなくなってしまった以上、アンコウはバルモア一人に勝てる自信もまったくない。

 力のある者が正義なのか、力なきことが罪なのか。

 どちらにせよアンコウが生きることを望むならば、グローソン公ハウルの遊びに付き合う以外の選択肢などなかった。

 

「くっ、くそっ!」

 

 

 そしてアンコウは、前を行く2人の後を追って走り出した。



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第30話 望まぬ救出者 Part 2

 城の本館中階にある屋外広場にアンコウは立っていた。

 そこには、建物の中途にあるとは思えない広さの空間が広がっていた。アンコウの立っている場所は、広場の端まではまだかなり離れており、直接下の地面を見ることはできない。

 

 しかしまっすぐ水平に目をやれば、その目に映る景色はネルカの町を越え、遠くの山まではっきりと見えている。それはこの屋外広場が、地上からかなり高い位置にあることを示していた。

 

(逃げても、飛び降りられる高さじゃないだろうな)

 アンコウは未だ何とか逃げ出す可能性を探っていた。

 

 アンコウから少し離れた場所に騎士らしい出で立ちをした戦士が一人立っている。

 その男はまだかなり若いようではあったが、実にたくましい体躯をしており、アンコウを前にして戦意に満ちているようだった。

 

 アンコウは眉をひそめ、じつに嫌そうにチラチラとその男を見ていた。

 

「おい、アンコウ。無手で戦う気か」

 

 そんなアンコウに、少し離れたところで簡易ではあるが手の込んだ装飾のなされた椅子に座っているハウルが声をかけてきた。

 

 薄笑いを浮かべているハウルのななめ後ろにはバルモアが立ち、ハウルたちの少し前には小姓(こしょう)のいでたちをした者が、両手で剣を持ってアンコウのほうに差し出していた。

 アンコウは不機嫌そうな顔のまま、ハウルたちがいる方向へ歩いていく。

 

 特別速度をあげることもなく、アンコウは剣を差し出す小姓の前まで歩いてくると足を止めた。

 アンコウは嫌々ながらもグローソン公に話しかける。

 

「グローソン公。あの男を倒せば、自由ということでいいんですか」

「ああ、そうだ」

 グローソン公はアンコウの顔を見る。

 

「くっ、くっ、そんな顔をするな。そんなムチャな相手は選んでねぇよ。バルモア相手じゃ面白くないだろう?貴様でも十分に戦える相手であるぞ」

 

 だから十分に楽しませろとでも言っているかのようなグローソン公の態度だった。

 アンコウはどう言い返したものかと、わずかに逡巡(しゅんじゅん)したあと、自分の本音の感情を覆い隠すように実にあいまいな笑みを浮かべた。

 

 そしてその笑みを浮かべたままアンコウは、小姓の手から剣を受け取る。

 

「……くっくっくっ、」

 そんなアンコウを見ながら、ハウルが小さく笑い続けていた。

(アンコウよ、こっちの世界にはそんなわけのわからない笑みを浮かべるヤツはいねぇぞ。くだらないが、なつかしい)

 

(何が面白いんだ、こいつ。気持ち悪ぃな)

 アンコウはあいまいな笑みを浮かべたまま、心の中で悪態をつく。

 そして、アンコウは手に取った剣を見て、首をかしげた。

「これって……」

 

 それは赤い鞘に入った長剣だった。例のアンコウが共鳴を起こした赤鞘の呪いの魔剣だ。どうやらアネサからここまで運ばせていたらしい。

 

 アンコウには、それがあの魔剣であることは遠めで見たときからわかっていた。

 いや、感じていたといったほうが正解か。ただ、久しぶりに間近で見るこの剣の様子が、いささか違っていた。

 

「アンコウ、それはお前にくれてやろう。お前以外の者が持っていても何の役にも立たん代物だからな、礼はいらんぞ」

 

 グローソン公にそう言われても、アンコウは首をかしげたままだ。

(……随分とキレイになってる)

 ところどころ塗装が剥げ落ち、かなり古ぼけた感じになっていた鞘が、きれいに塗装されなおされていた。

 

「それは、サービスだ。我が足下に加わる記念だとでも思っておけ」

 

「…………」

 アンコウは何も答えない。

 

 顔にこそ出さなくなっていたが、アンコウはこの男に仕える気などはない。

 しかし、ついさっき感情的にキレたのは、やはりまずかったと思うほどには冷静さを取り戻していた。

 

(あんなキレ方をしなければ、こんな状況にはならなかったかもな)

 そうは思うものの、アンコウはさほど後悔はしていなかった。

(やるしかない。まず、ここを生きて切り抜ける。後のことはそれからだ)

 アンコウの目に鋭いものが宿る。

 

「アンコウ。鞘だけではないぞ。中の剣そのものにも、魔工匠どもにコーティングをさせておいた。耐久性、切れ味ともに増しているだろう」

 

「……そうですか。ありがとうございます」

 アンコウは一段大きい笑みを浮かべて答えた。

「……ふん、少々くどいな」

 

 ハウルにそういわれても、アンコウは言葉を返すことはなく、ただ笑みを浮かべていた。

 

「まぁ、よかろう。アンコウ、その剣を抜く前に先ほどの問いに答えてゆけ」

「えっ……問い?」

 アンコウは何か聞かれたかと考える。

 

「そうだ。一番初めに聞いたであろう。貴様はここにいつ来たのかと」

 

 ああ、そういえばそんなことを聞かれていたなとアンコウは思い出す。

 

「今が5年目、です」

「ふむ、そうか。特別意味がある質問ではないのだがな。貴様がこの後の戦いで死ねば、答えを聞けなくなる。ゆえに一応聞いておいた」

「…………」

「アンコウ、あの男を殺してもかまわない」

 

 ハウルは少し離れたところに立っている騎士風の男のほうを顎でしゃくり示しながら言う。

 

「その代わり貴様が殺されても文句は言うな」

「死んで文句が言えるほど器用じゃありませんよ」

 

 アンコウのその言いようとここまでの態度に腹が立ったのか、ハウルの後ろに控えていたバルボアが前に出てこようとする。

 それをハウルは軽く手を振りながら制止し、口元に笑みを浮かべる。

 

「アンコウよ。あの者に貴様が勝てば自由。負ければ、貴様は俺のもの。死ねば城外に捨てる」

 ハウルは何でもないことのように、淡々と言った。

「…………」

 

 ハウルはアンコウの強さを予想し、アンコウがあっさり負けることなく、しかし勝つことはかなり難しいだろうと思われる手持ちの駒を用意していた。

 それはまさにアンコウの言うところの、お貴族様の遊び。

 

 アンコウは赤鞘の魔剣を腰にさげ、名も知らない騎士がいるところへと移動をはじめる。アンコウはなかなか戦いに精神を集中することができなかった。

 アンコウは歩きながら頭をフル回転させ考えてる。

 

 グローソン公自身をはじめ、ここには自分より強い者が大勢いる。

 あのグローソン公が本当に自分に勝ち目がある実力の者を選ぶだろうか、仮に自分が勝てたとして、グローソン公は本当に自分を自由にしてくれるのだろうか、と。

 

「……あやしいもんだ」

 

 しかし、それでもここを生きて切り抜けるには、とりあえずはこいつに勝たなければならないと、アンコウは視線の先にいる戦士を見て思う。

 

(……だめだな、集中できない)

 緊張による不安や雑念は強くなる一方で、アンコウの心の乱れが落ち着く気配はない。

しかし、

「……まぁ、いいか」

(こいつを抜けば、いやでも頭の中が戦うこと一色になるさ)

 

 アンコウはチラリと腰の剣に目をやって、足を止めた。

 

 そして、少し離れたところから「はじめろ」という、バルモアの声が聞こえた。

 

 騎士が剣を抜き放って走り迫ってくる。その姿を見てアンコウは、ゆっくりと剣を引き抜いた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「カァーーッ!」

ギィンッ!

「おおう!」

ガンッ!

 キイィィン!

 戦いがはじまってしばらくの時間が過ぎても、互いの剣が激しくぶつかる音が広場に響いていた。

 

「ふぅむ。思ったよりやるな」

 アンコウと騎士が戦う姿を見て、ハウルはつぶやいた。

 

「バルモアよ。どう見る」

「はっ、意外ですが、ロムが少し押されているように見えますな」

 

 ロムはまだかなり年若い騎士であったが、生まれついたときより優れた抗魔の力に恵まれていた人間族の男であり、まだ子供と言ってよい年齢のころからグローソン公のもとで仕えている

 

「シィーーッ!」

ガァンッ!

 ギンッ!

キイィィン!

「 くくっ、」

 

「ふぅむ。アンコウの共鳴による力の上昇幅は予想より高いかも知れんな。バルモアよ、アンコウは冒険者としてはそれほどの実力者ではなかったのであろう」

 

「はい。しかし、あの男が共鳴を起こしたのはつい最近で、われらが拘束下に入ってからだと聞いております。あの力を持って冒険者として活動していたことはないはずです。しかし、足らぬ力なりに冒険者として戦いは経験してきたのではないかと」

 

「……経験、それに技術の差か」

「はい。ロムはまだ若こうございます。それに致し方ございませんが、その天与の才ゆえに、持って生まれた力に頼りすぎた戦いをしてしまっているのではないかと」

 

 アンコウがアネサの迷宮で、金を稼ぐため、生き残るためにごく当たり前に磨きつづけてきた剣の技が生きていた。

 アンコウは共鳴を起こしてもなお、その身に宿る抗魔の力の強弱だけで言えば、現段階で自分より強いの力を持つと思われる若い戦士と五分以上に戦っていた。

 

 そしてその傾向は剣を交える時間が長くなるにつれ、徐々に顕著なものになっていく。

 

(これはほんとに勝てるんじゃないか!?)

 アンコウ自身も己の優勢を悟る。

 

 それにアンコウはガルシアと仕合ったときよりも、共鳴による力の変化そのものが自分の身に馴染んできていることをはっきりと感じてもいた。

 

「…………へへっ、」

(なんだ、なんだ、楽しくなってきたぞぉー)

 

 アンコウの呪いの魔剣との共鳴は、アンコウの精神、性格に影響をもたらす。

 アンコウは剣を引き抜いてから、理性の部分で意識的にその影響を最小限度に止めようと集中し続けていたのだが、自分の優勢を悟ると少しそれに緩みが生じた。

 

「くっくっ、どうした、どうした!?どうしたよぉーっ!」

ギンッ!

 キイィィン!

「くっ、くそっ!」

ガンッ!

 ギィンッ!

 

 

「……チッ」

 ハウルはまずいなと思う。

「あぁ、読み違えたな。アンコウめ、意外と強いじゃないか」

 ハウルの態度はまるで競馬で馬券をはずしたような態度だった。

 

「殿、このままでは。ロムはこの段階で死なせるにはいささか惜しいかと」

「そうだな。……だが、もうしばらく様子を見よう。さすがにそんなにすぐに殺られることはないだろう」

「はい」

 

 ハウルはアンコウから目を離さずに見つめている。

(共鳴を起こせば、ロムよりも強いか。しかし、明らかに呪いが精神に影響を及ぼしている。戦いの手駒としては計算しづらい)

 

 ハウルは一軍の将としての手腕もなかなかのもの。楽しみつつも、冷静にアンコウの力も計っていた。

 

 

「よぉーっしいぃぃー!!」

 

 アンコウは一気に攻めきろうと攻撃をつづけていた。その攻撃は間違いなく相手の急所をためらいなく狙っていた。戦闘の流れはアンコウにある。

 しかし、しばらくすると、そのアンコウの顔が歪みはじめた。

 

「…………クッ、」

 アンコウの手が突然止まり、アンコウは大きく後ろに飛び下がった。

「ぐぐっ!」

 

 アンコウの目玉がすばやく左右に動いている。足が前に出ようと動こうとすると、すぐにまた引っ込める。

 じつに奇妙な動きをアンコウは見せていた。

 

 アンコウの頭がおかしくなったわけではない。アンコウは魔剣の影響に精神が飲み込まれていくのを自らの意志で必死で立て直していた。

 

(だめだ、だめだ。落ち着け、飲まれるなっ!)

 

 

「うん?どうした?ロムが何かしたのか」

「いえ、特に何もしていないかと……」

 ハウルとバルモアも少しいぶかしそうに、そのアンコウの行動を見ていた。

 

 アンコウの目の前で、ロムがところどころ血を流しながら、肩で息をしていた。

 アンコウは思う。どうやら勝てる目はあるようだが、できるならこの男を殺すのは得策ではないと。

 

 アンコウはグローソン公爵ハウルという権力者を信用してはいない。この戦いに勝利しても、本当に自由にしてもらえるかどうかは怪しいものだと思っている。

 

 アンコウはこの騎士の命を奪ったとしても、そのことでグローソン公が本気で怒るとは思わなかったが、今のいろんなことが不確かな段階でグローソン公の手の者の命を奪うことは避けたほうが賢明であると理性的な部分では判断していた。

 

「うおぉーっ!」

 

 ロムが気合声とともにアンコウに斬りかかってくる。アンコウはそれを己の剣で受け止める。

ギィンッ!

「くっ!」

 

 優勢に戦いを進めているとはいえ、アンコウにも決して余裕があるわけではない。

 いろいろ損得を考えていても、自分が死ぬぐらいなら大怪我をするぐらいなら、この騎士を殺すことにアンコウに躊躇(ためら)いはない。

 

 アンコウとロムは互いの剣をあわせ、全力で押し合う。

 

「クッ、…お前名前は?」

 アンコウが剣の押し合いを続ける中で、目の前にいる男に聞いた。

「な、なに?」

 ロムは手の力を緩めることなく、アンコウをにらみつけている。

 

「お前は…俺の名を知っているんだろう?不公平ってもんだ」

「…ロムだ」

「クッ、と、年は?」

「…16」

 

「……そうかよっと!」

 アンコウは体をねじる様にいなし、ロムの腹の辺りを器用に蹴り飛ばした。

ドガッ!

「ぐわっ!」

 

 アンコウはそのままロムに攻めかかるのではなく、再びすばやく移動し、ロムと距離をあけた。

 

「 くくっ、ハァ、ハァ、」

 アンコウはこのまま何も考えずに剣を振るい、あいつらを斬り倒したいという衝動をグッと抑える。

( くそっ、面倒くさい剣だ)

 

 アンコウはチラリと自分の手に持つ剣を見てから、ロムのほうを見る。ロムも自分と同じく、その場にとどまり荒く息をしていた。

 

 今の問いで、ロムは見た目どおりの年齢。ロムから感じる抗魔の力の強さに反して、ときおりロムの使う剣戦に見える稚拙さも、若さと経験不足によるものだとアンコウは確認した。

 

 アンコウは戦いの持っていきようによっては相手の命を奪うことなく、勝利することも可能だろうと頭の中で戦術と展開を組み立てる。

 

「まぁ、多少は痛い目を見てもらうぜ。若造」

 アンコウは小さくつぶやき、剣を握りなおした。

「とりあえず、あいつを倒せば命は守れる」

 

 自由になれるかどうかは交渉しだい、約束をたがえられるようなことがあっても、もう感情的にはならないとアンコウは割り切った。

 

(冷静に、冷静に。まずはいい形であいつに勝つことだ)

 

 アンコウはじりじりとロムとの距離をつめはじめた。

 

 

 グローソン公ハウルは二人の戦いを見ながら考える。アンコウは呪いの魔剣との共鳴の影響をそれなりに制御しているように、ハウルには見えた。

 

 それに、思っていたよりもアンコウの共鳴による力の上昇率は高く、今が限界にも見えなかった。それに剣を扱う技術も高い。

 そして、それ以上にハウルが注目しているのは、目立ちはしないがアンコウの戦い方そのものだった。

 

(……あの男、かなり頭が切れる。それに勘がいい)

 

 アンコウの冒険者としての戦い方は、生き残るため、少しでも自分に有利に戦いを進めるために、常に状況を的確に判断し、頭をフルに回転させて戦うというアネサの迷宮で心身に同化するまでに染みついた戦い方だ。

 

 それはたとえ共鳴により、力の上昇という変化があっても、アンコウが呪いの精神への影響を何とか抑えている限り、そう簡単に変わりはしない。

 ハウルは、今のロムでは力不足だったかと感情をまじえることなく判断した。

 

(ふぅむ。力の加減をさせる必要はあるが、バルモアと戦わせてもそれなりに面白かったかもしれん)

 

 アンコウのいやな予想どおり、ハウルは今の段階でアンコウを自由にするつもりなどない。この状況下にあれば、アンコウを拘束する理由など何とでもつけようがある。

 

「殿、いかがしましょか」

 ハウルの背後から、突然バルモアが小声で話しかけていた。

 

 長年グローソン公に仕えてきたバルモアである。主君であるハウルの考えは、バルモアはよくわかっていた。

 しかし今、バルモアが「いかがしましょうか」とハウルに問うたのは、戦っているアンコウたちのことではない。

 

 アンコウとロムが戦っている場所は、時間がたつにつれて、ハウルが座っているところから離れていった。アンコウたちが今いる場所は、建物の影がかかっていない日の当たる場所。

 

 ハウルの目に再び剣戟を交えはじめた二人の姿が映ってる。そこにはアンコウのペースに飲まれ、徐々に冷静さと体力を削がれていっているロムの姿があった。

 

 ハウルは、ロムが宿す抗魔の力は、現時点ではアンコウが共鳴を起こしたとしても、わずかながらアンコウを上回っているはずだと判断して、ロムを指名した。

 その抗魔力量に関するハウルの判断は間違っていなかったのだが、実際の戦闘に関しては、戦いが進むにつれて、ロムの劣勢が明らかになっていく。

 

「マリーシア(狡賢い)、と言うんだったか。あの戦い方は今のロムではできぬだろうな」

 

 実際、戦っているアンコウは、ロムとの抗魔の力の差をすでに問題視してはいなかった。

 

「殿っ」

 バルモアが先ほどよりも強い口調で呼びかけてきた。

 ハウルに声をかけているバルモアの意識は、さきほどからンコウたちの戦いに向いていない。

 

「……わかっている。バルモア、無駄にあせる必要などない。こんなバレバレの接近、力量が知れるというものよ。他の者共も今しばらく動かすな」

 

 ハウルとバルモアがいる場所は、アンコウたちが戦っている場所とは違って、建物の影がかかっていた。

 そしてその建物の影は、ハウルたちがいる場所とアンコウたちがいる場所のちょうど中間ぐらいの地点で切れている。影というのは太陽の移動にともなって、徐々に移動していくものだ。

 

 しかし、先ほどからその建物の影の先でチラチラと動き続けている建物のものとは違うもうひとつの影があった。

 

 その影は少しづつハウルたちがいる方向に近づいて来ている。

 それにその影を確認するまでもなく、少し前からこの建物の中階の屋根から、何者かがこちらに近づいてくる気配にハウルは気がついていた。

 

(……さて、素人鼠(しろうとねずみ)は一匹だけのようだな)

 ハウルは、まだ一度も背後の屋根の上には目を向けていない。

 

 

バシュッ!

「つぅっ!」

 ロムの腕から鮮血が舞う。しかし傷自体はそんなに深いものではない。

 

(よしっ!いける、いけそうだ)

 

 今アンコウはロムとの戦いも自身の精神状態も実にうまくコントロールできていた。

 アンコウとしては、このままロムの体力を削り取り続け、最終的に殺すことなく戦闘不能状態に持っていく算段がつきつつある。

 

 ロムを無力化し勝利した後は、約束どおり自由にしてもらえれば最高だが、たとえそうはならなくても命の安全を確保した後、ハウルとちゃんとした交渉をおこなうことをアンコウは考えていた。

 

 ロムを殺すことなくこの戦いに勝つということは、この先グローソン公が自らの力を背景にどういう展開に持ち込んできても、その事実がアンコウにとって有利に働く材料となることは間違いない。

 

 結果的にアンコウはこの見世物のような戦いをすることになったのは良かったのかもしれないと、早くも考えはじめていた。

 

「よしっ、よしっ、」

 

 

 

「殿、これ以上は」

「……そうだな、動くまで待ってみてもよいのだが」

 

 ハウルとバルモアが背後に迫るものを警戒し、そう言葉を交わしているとき、突然背後の屋根の上から大きな声が発せられた。

 

『アンコウ!!助けに来たぞー!!!』

 

 見事なまでの大音声(だいおんじょう)。その声はこの広場全体に大きく響きわたった。

 

「なにっ!?」

 

 忍び寄る者がいることに気づいていたハウルとバルモアも、屋根の上から突然響いた大声に驚き、ここまで気づいていないふりをしていたのも忘れ、その声のした方向を見た。

 

 ハウルとバルモアが見上げる視線の先、屋根の上に隠れるそぶりなどなく、堂々と立っている者がいた。

 

 その者の背後から射す太陽の光に、その者の若草色の美しい毛が産毛までも反射し、まばゆいばかりにきらめいていた。

 そして首のうしろで束ねた髪の毛が、少し強めに吹いている風に乗り、まるで生きているかのようにたなびいている。

 

 その者の体型のフォルムは女。大柄なのは獣人ゆえだろう。広場全体を見渡すその目は自信と喜びに満ちている。

 迷いのまったくない真っ直ぐな目をした獣人の女戦士であった。

 

 

「殿、あの者がおそらく、アネサのマニかと」

「ほう、あれがそうか。確か、アネサの攻略戦のおり、最も警戒していた太守側の戦士の一人、コローツォを討ち取りし冒険者であったか」

 

 アネサの町に攻め込んだグローソン軍は、太守側の敵将コローツォを倒すためにわざわざ特別に強い力を持つ戦士の準備すらしていた。

 しかし、グローソン軍がアネサの町になだれ込んだときには、すでにコローツォは息をしない肉塊となっていた。

 

 アネサからの情報によると一対一の激しい戦いの末にコローツォを倒した冒険者の名がマニであった。

 

 それは、アンコウとマニがあの戦場で出会う少し前の出来事。

 そのマニが何ゆえかアンコウの従者となってこのネルカに来ていることは、ハウルたちにも知らされていた。

 

「アネサの一部冒険者たちのあいだで太陽の戦姫と呼ばれている新進気鋭の冒険者、とのことです」

「クックッ。アンコウめ、思いの外いろいろと楽しませてくれるではないか」

 

 屋根の上に立つマニに、臆する様子などまったくない。それはまるで正義のヒーローが現れたような立ち姿。

 それは正義のヒーローが何たるかを知る異世界人ハウルも感じた印象だった。

 

 しかし、同じ異世界人であるアンコウの様子はまるで違う。

 アンコウは口を半開きにし、何が起こっているのかわからないていで、まるで石化したように固まった表情で、少し離れたところから屋根の上のマニを見ていた。

 

「アンコウ!!約束どおり、助けに来たぞ!!」

 

 マニが再び高らかに叫んだ。そしてマニは、叫ぶと同時に屋根の上から飛び降りる。

 地面に足が着くと同時にマニは腰の剣を抜き放ち、その剣先をハウルたちがいる方向にむけた。

 

「お前がグローソン公か!アンコウは返してもらうぞ!」

 

 どうやらマニはグローソン公と戦う心積もりらしい。

 その行動に現在の状況をこれ以上確認しようという発想はなく、アンコウとともに逃げるという選択肢もなく、もはや敵と見定めた者たちの大将であるグローソン公と戦うと決めている者の行動だ。

 

 躊躇(ためら)いも迷いも一切見せず、マニは剣を手にグローソン公に向かって走り出した。

 そのマニとグローソン公のあいだに、護衛の者と思われる武装兵が一人、割って入った。

 

「賊め!身の程を知れ!」

 

 その武装兵が、マニにむかって怒声を放つ。両手で剣を持ち、マニを迎え撃つ体勢をとった。

 

「どけっ!お前じゃない!」

 走るマニの速度が、さらに増す。

「なっ!」

 その武装兵は、明らかにマニの動きについていけていない。

 

バシュューッ!

 マニの前に立ちはだかった兵士の喉元から鮮血が飛び散る。

 

 たった一刀。走りよるままに踏み込み、流れるようにマニは剣を振るった。

 グローソン公ハウルの直接警護をしているような兵士が弱いわけがない。マニが強いのだ。

 

 今ここにハウルの警護についている者は少ない。マニが一人斬り倒しただけで、マニとハウルのあいだには誰もいなくなった。

 

 しかし、ハウルの表情にあせりの色はまったく浮かばない。ハウルはマニを見てニヤリと笑みを浮かべていた。

 

「…ほう、おもしろい」

 

 

 あっけにとられていたアンコウの目に、マニに斬られたグローソンの兵士が派手に血を撒き散らしながら倒れゆく姿が映った。

 マニの登場からここまで、ごく短い時間の出来事だ。アンコウにそれを止めるすべなどまったくなかった。

 

「こ、公爵様!」

 アンコウと戦っていたロムが、主であるグローソン公のほうを見て声をあげた。

 

 そしてロムは主君に仇なす者を討ち果さんとアンコウの前からきびすを返し、走り出した。

 それを見て、アンコウの精神的石化も解ける。

 

 しかし、アンコウはすぐには次の行動に移れなかった。溢れ出すアンコウの怒りと苛立ちは、声にもならないものがあった。

 

「…あが……(し、信じられねぇ、信じられねぇ、全部、全部パァだっ!)」

 

 アンコウの共鳴による好戦性が、殺意を帯びたものに変質しそうになる。

 その殺意の対象はグローソン公たちではない。アンコウの怒りを激しく刺激したのは、間違いなくマニだ。

 

 アンコウにとって、何とか都合よく動きそうになってきていた状況を、マニは一瞬で壊した。

 

(何であの女がここにいるっ)

 

 マニはアンコウを助けに来たのだ。

 

 

「グローソン公!もう逃げられないぞっ!」

 

 少し離れたところで、マニがグローソン公に血に濡れた剣をむけて叫んでいるのが、アンコウの耳にも聞こえた。

 

(バカがっ、逃げられないのはこっちなんだよっ)

 

 アンコウは目がくらむような怒りと殺意との共鳴に飲まれるのを避けるため、手に持つ呪いの魔剣を急いで赤い鞘にしまった。

 

「ぐうぅっ・・・クウッ、」

チンッ、

「ふはぁっ、ハァ、ハァ、……く、くそっ!」

 

 そして剣を鞘にしまい、顔をあげたアンコウの目に、マニがグローソン公に斬りかかっている姿が見えた。

 

 アンコウにはマニのその行動がまったく信じられなかった。その行動の先に何があるというのか。

 奇跡が起こりマニがグローソン公を倒したとする。しかしそれでも、この状況下ではアンコウは自分も殺される結末しか想像できなかった。

 

 しかし、アンコウはもうどうにもできないとも思った。不法侵入者であろうマニはもはやグローソン兵を斬り殺し、グローソン公自身にも刃を向けている。

 どんな言い逃れが通じるというのか、この短い時間で状況は確定的、決定的に変わった。できることがあるとすれば、祈ることぐらいだとすらアンコウは思う。

 

 それでも何とかアンコウは次の行動を起こす。

 アンコウはマニやグローソン公がいる方向とは逆、この中階の屋外広場の端に向かって全力で走り出した。

 

(どうする?どうする?)

「くそーっ!」



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第31話 不撓不屈の戦士~良い悪いは別のはなし

 うしろを一度も振り返ることなく、アンコウは屋外広場の端まで走ってきた。

 

「信じられねぇマニのやつ!本物の死神もどきじゃねぇかよっ」

 

 そこまで来て、ようやく振り返ったアンコウの目にマニとハウルが激しく斬り合っている姿が見えた。両人ともにアンコウよりはるかに強い。

 それはかなり離れているところから二人の剣戟を見ているアンコウにも、はっきりわかる。

 

(……クッ、だめだ)

 しかし、ハウルの動きには余裕があるようにアンコウには見えた。

 

 顔の表情までは見えなかったが、あのハウルのことだ、あの嫌味な笑みを浮かべて、戦っているのかもしれないとアンコウは思った。

 

(それに……精霊法術を使った気配はない)

 

 ハウルは己は精霊法術が使えると自信満々に語っていたのをアンコウはよく覚えている。それにハウルは今、誰の手助けもなくマニと一対一で斬り合っていた。

 ここはグローソン公ハウルが支配するネルカの城。グローソン公の手下が山のようにいるはずだ。

 

「あの若作り、遊んでいやがるんだ」

 

 あちらの状況を確認すると、アンコウは再び体の向きを変えて、屋外広場の端にある手すりから身を乗り出して、下を覗き込んだ。

 

「クソッ、やっぱり高い」

 

 地面はアンコウの視線のはるか下にある。やはり飛び降りて無事でいられる高さではない。

 

 それでもアンコウは必死で探す。どこか飛び移れる場所はないか、足場になる場所はないか、共鳴を起こして上昇しているこの身体能力を使えば、何とか逃げることができるのではないかと。

 

ドオォンッ!

 突然の轟音と衝撃とともに、身を乗り出して下を見ていたアンコウのすぐ横の壁が吹き飛んだ。

 

「くぅぅーっ!」

 危うく下に落ちそうになったアンコウは、何とか体を引き戻して広場側に勢い良く転がった。

 

「ぐうぅっ、」

 急いで上半身を起こすアンコウ。

 

 そのアンコウの視線の先にアンコウを見つめる一人のダークエルフの男、バルモアが立っていた。

 

「下におりたいのなら私が手を貸してやろう、アンコウ」

 

 そう言うとバルモアがアンコウにむけて手のひらをかざしてきた。そのバルモアのかざした手の先にじりじりと炎の塊が形成されていく。

 バルモアは先ほど壁を吹き飛ばした精霊法術を今度はアンコウにぶつけるつもりだ。

 

(ああ、だめだ)

 

 この状況、アンコウにじっくり考えている時間などない。殺し合いが始まれば、一寸先に死がある。アンコウはあきらめた。

 

「もう、どうにもこうにもだな……あぁー、謝ったら許してくれねぇかな」

 

 アンコウは()()()()()をあきらめた。アンコウは余計なことは考えず、ただあがくことにした。

 そしてアンコウは、目の前にいるバルモアにもムカついていたことを思い出す。

 

 アンコウは立ち上がると同時に、腰に戻していた呪いの魔剣を赤い鞘から引き抜く。

 

「……お前もっ、あの雌犬と若作りのキモメンの次にムカつくんだよっ!」

 

 叫ぶアンコウにむかって、バルモアの手掌の先から火球が離れ、一直線に飛んでいく。

 

ドドンッッ!!

 

「なにっ!」

 バルモアが驚きの声をあげる。

 

 先ほどまでアンコウがいた背後の柵壁が、すぐ横の崩れた壁と同じように破壊されたが、そこにいたはずのアンコウの姿がない。

 

「カァーッ!」

「なっ!」

ギンッ!

 火球をよけ、一気に距離をつめたアンコウがためらいなく剣を振るう。それをバルモアが手に持った金属性の杖で受け止めた。

 

「キイィーッ!」

ギンッ!

 ゴォンッ!

ギヤァンッ!

 

 アンコウがたてつづけに振り落ろす剣を驚くべきことにバルモアはすべて受け続けていた。しかし、さほど余裕があるわけではない。

 わずかながら皮膚を斬られ、血が舞っている。

 

「げ、下衆がっ!調子に乗るなっ!」

 

 バルモアは仕込み杖であった金属杖から、白刃を抜き放ち、アンコウに叩きつけた。そのバルモアの戦い方はまるで魔法戦士のようだ。

 

ギヤァンッッ!!

 今度はアンコウがバルモアの剣を受け止めた。しかし力負けして、勢いよく吹き飛ばされてしまう。

 

「ぐぅっ!」

(こいつぅ、法術師のくせにパワーもあるっ、面倒なっ)

 

 アンコウを突き放したバルモアは、素早くさらにアンコウとの距離を開けた。

 そのバルモアの掌中から、再び火球が発生する。アンコウが動き出すよりも、その火球の膨張が早かった。

 火球は先ほどバルモアが放った2発の火球よりも、明らかに大きくなっていく。

 

 それを見てもアンコウは憶することはない。その火の膨張と(ほのお)が、逆にアンコウの興奮を高めていく。

 

「イヒヒッ」

 高まりゆく戦闘の興奮の中にも、アンコウは理性を手放すことなく、動き出す。

ザッ、ザザザッ!

 

 アンコウは早くもなく、遅くもなく、離れ過ぎず、近づき過ぎず、移動する。

 そのアンコウにむかって、バルモアはチャンスと見たのか、完成させた火球をためらいなく撃ち放った。

 

 アンコウは飛んでくる火球にむかって、逃げることなく、わずかにかわすように自らの体をさばきながら、火球にむかって全力で魔剣を振りおろした。

 

「おおーっ!」

 

 火球の端を斬ったかのように見えたアンコウの剣。火球は消滅もせず、勢いを失うこともなく、ただわずかに方向を変え、アンコウに当たることなく、飛びすぎていく。

 

「なにぃっ!」

 バルモアが驚きの声をあげる。

 火球が飛んでいく方向にはハウルとマニの姿があった。

 

「はははっ!」

 アンコウが驚くバルモアを見て笑っている。

「殿ッ!」

 

 ハウルは突然自分に向かって飛んできた火球に、バルモアの声を聞くまでもなく気づいていた。

(バルモアめ、くだらないミスを)

 

 ハウルはマニの剣をさばき、自らも剣を繰り出しながら笑っているようだった。

 

 そして、飛んでくる火球のほうは見ることなく、いつのまに作り出したのか、小ぶりの火球を飛んでくる大きな火球にむかって撃ち放った。

 

ドゥオォーンッ!

 

 バルモアが放った大きな火球の中に、ハウルが放った小ぶりの火球が吸い込まれたように見えた瞬間、飛空していた火の玉は、爆音と爆風とともに飛び散った。

 

 その爆風は、アンコウにもとどく。アンコウは両手を顔の前でクロスさせ、足を踏ん張り耐える。

「ぐうぅぅっ!」

 

 爆風が通り過ぎたあとアンコウが顔をあげると、ハウルは何事もなかったかのようにマニと斬り合いをつづけていた。

 

「クッ、ぜんぜんダメだな」

 

 アンコウはそう吐き捨てると、そのままその場にだらりと立ち、バルモアのほうに目を向ける。バルモアも、アンコウを睨みつけるようにすでに構えていた。

 

 バルモアはアンコウの動きに警戒しつつ、ゆっくりと場所を移動し始めた。

 

「……くそっ」

 アンコウは考える。

 このままで戦い続けても、バルモアに勝てる気はしない。

 

 ならば、赤鞘の魔剣と徹底的に共鳴にして、戦闘能力を限界まで引き上げる選択をするか。しかし、アンコウ自身もそれでどこまで強くなれるのかはわからないし、間違いなく享楽的戦闘狂者になる。

 

 また仮に、それでバルモアを倒せたとする。しかし、バルモアを倒したところでここから逃げられやしないとアンコウは思う。

「くそっ……」

 

 そしてアンコウは鋭く、殺気のこもった目でバルモアをにらみつけた。

 どうせ戦うほかないのなら、呪いの共鳴にのまれ、戦闘狂になったほうが迷い(わずら)うこともなく楽だろうと、ついに決意した。

 

「あーあ。趣味じゃないんだけどな、……とことん戦うか、あぁ、死にたくねぇ」

 

 そう言いながら、アンコウの口角は徐々に上がっていき、口元になんともいえない笑みが浮かんでくる。

「 あ、あははっ、」

 

 アンコウは少しどうでもよくなってきていたのかもしれない。死にたくはないのだ。決して死にたくはない。

 

 だが、この世界で寿命尽きるまで生きて、それがなんになるのか、常日頃、元の世界に戻りたいと思う心とともにアンコウの心の片隅にあったそんな思い。

 それがこの瞬間、少し強くなっていた。

 

 アンコウは元の世界に戻ることをほぼあきらめてはいたのだが、ハウルの話を聞いて、より現実的にこの世界の永住者になる人生を想起させられてしまった。

 そして、今の自分が置かれたまったく望まぬこの状況。剣戟と法術の飛びかう殺し合いの戦いだ。

 

「アハハッ、くだらない。あー、腹が立つ」

(……それでも、死にたくはないなぁ)

 

 移動することを止めたバルモアの手から、バチバチと電気の火花が発しはじめた。

 

「ああ、この、……うっとおしいんだよ。バルモアっ!!」

 

 アンコウは魔剣を天に掲げ、バルモアにむかって走り出した。それは、真っ向からの捨て身の攻撃に近かった。アンコウは奇声を発しながら走る。

 

「キイィイエェェーー!」

その時、

―――ドドォォォンンッ―――

 

 強烈な爆発音が響いた。しかしその爆発音は近くから聞こえたものではない。

 

「何だ!?」

 

 アンコウは反射的に足を止めた。爆発音はアンコウたちの眼下に広がるネルカの町のほうから聞こえてきた。

 アンコウの目に街の一角から火の手があがり、煙が立ち昇っているのが見えた。

 

 その光景を目にしたアンコウの頭に急速に理性が戻ってくる。

 アンコウと対峙していたバルモアもまた、アンコウに対する攻撃の手を止め、にらむように町の方角を見ていた。

 

――ドォォンッ――ドォォンッ――

 

 町のほうからさらに爆発音が続き、多くの火と煙が立ち昇ってくる。

 

「殿ッ!」

 バルモアは慌てて体の向きを変え、グローソン公ハウルのほうに走り出した。

 アンコウの周りから攻撃をしかけようとする者がいなくなる。

 

 アンコウはそのまま煙立ち昇る町のほうをじっと見ていた。

 

「戦火か……まだ終わってなかったみたいだな」

 

 事故ではない。間違いなく人の手による何らかの攻撃だとアンコウは感じた。アンコウは状況を見極めようと、町の様子を伺い続ける。

 

――「待てっ!」―「グローソン公!」―

 

 少し離れたところから、たて続けにマニが叫ぶ声がアンコウの背後から聞こえた。

と同時に、アンコウは背後から近づいてくる者の気配に気づき、急いで振り返る。

 

「なっ!!」

 近づいてきていたのはハウルだった。

 

 ハウルと戦っていたマニは、バルモアにハウルを追うことを封じられている。その隙に、ハウルが恐ろしい早さでアンコウに迫ってきていた。

 

「やばいっ」

 

 ハウルが開放したむき出しの覇気を感じ、アンコウが気づいたときには、すでにハウルはアンコウを直接攻撃できる射程圏内に入ってしまっていた。

 アンコウは急いで剣を構え、迎撃体勢をとったが、

 

ギイィィンッ!

 アンコウが両手で持っていた魔剣が宙を舞う。

 

 油断。戦場においては致命的な油断だった。

 アンコウとハウルほどの実力差があれば、隙を突かれれば、アンコウではまともに戦うことすらできない。

 

「く、くそーっ!」

 

 アンコウはハウルの剣を受けた衝撃に堪え切れず、尻もちをついた。アンコウは一瞬でどうしようもない敗北と死を覚悟した。

 

 ……しかし、グローソン公ハウルはそれ以上アンコウに攻撃をしてくることはなく、中階屋外広場の端に立ち、ネルカの町のほうを感情なく眺めていた。

 

「……ふむ。ネズミがまだずいぶん残っていたようだな」

 

 ハウルはそうつぶやくと、尻もちをついたままのアンコウに剣を突きつけた。

 妖しげな魔力を纏う剣先を眼前にし、アンコウは全身から冷や汗が噴き出してくる。

 

「アンコウ、遊びは終わりだ。賭けはお前の負けだ。まぁ、あの獣人の女が入ってきた時点で、お前の反則負けなんだがな。少し面白かったぞ」

「……か、賭け?まだ続いていたのか」

「いたのですか、だ、アンコウ。主君に対する口の聞き方がなってないな」

 

「ぐぐっ、」

 アンコウの顔に隠すことなく悔しげな表情があらわれる。

 

「命が助かって幸運だとは思わないのか?」

「えっ?」

 アンコウの顔が驚きの表情に変わった。

 間違いなく殺されると、覚悟を決めたところにハウルの意外な言葉。

 

「……命、助けてもらえるんですか?」

「なんだ、殺してほしいのかアンコウ」

 ハウルは感情なく、淡々と言った。

 

「い、いや!殺してほしくはない!……だけど、そっちには死人も出ているのに」

 

「それはたまたまだ。どっちの誰が死のうがかまわない。だが、負けたほうの命をもらうという賭けではなかったはずだ。はじめからそういう遊びだ」

 

「……そ、そうですか。……じゃ、じゃあ遊びが終わったら、家に帰していただけたらありがたいんですが」

 

 アンコウは無駄だとは思いながらも、ずうずうしく自分の気持ちを口にした。ハウルは何を思ったのかアンコウを見て、ニヤリと笑って見せた。

 

「……そうだな。いいだろう」

 ハウルはアンコウの目を見てそう言った。

 

「えっ、自由にしてもらえるんですか!?」

 

「いや、貴様は賭けに負けて俺のものになった。ただ、少し遊び足りない気がしてな、もう一度だけ自由になるチャンスを貴様にやろうと思ってな」

 

 アンコウが本気で死を覚悟したのにもかかわらず、グローソン公はさっきから何度も遊びだと言っている。

 アンコウは実にいやな笑みを浮かべているグローソン公を、憎らしげに疑念を持った目で見上げていた。

 

「どうする、アンコウ。いやならばこのまま私に仕えよ。生活には不自由しない。そういう自由もある」

 

 アンコウは考える。よくわからないが、とりあえずこの場での命の保証は得たらしい。

 しかし、もう一度チャンスといっても、より難易度は高くなるんじゃないのかとアンコウは思ったが、それでも、それが本当にチャンスなら断る理由はない。

 

 アンコウはゆっくりと立ち上がり、グローソン公はアンコウに突きつけていた剣をさげた。

 アンコウは弾き飛ばされた剣をとりにいき、剣をすばやく赤い鞘におさめ、グローソン公の前に戻ってくる。

 

 グローソン公から新たに提案される賭けというのは、決して自分に有利な話ではないだろう。しかし、いま町で起こっている騒ぎが何であれ、グローソン公のこの提案を聞くほかないと、アンコウは判断した。

 

 一度は捨て身になったアンコウだが、断じて死にたいわけではないし、この公爵様の家来になりたいわけでもない。

 

「わ、わかりました。で、そのチャンスって言うのは」

 アンコウが戦う姿勢を放棄し、グローソン公に話しかけたとき、

―「殿っ!」―

今度はバルモアの叫び声が聞こえた。

 

「グローソン公!!逃げるなっ!」

 

 マニがバルモアたちの制止をかわし、剣を引っさげ、飛ぶような勢いで、グローソン公とアンコウがいるところに迫ってきていた。

 ハウルは悠然と構えていたが、今度はアンコウが一歩前に出て声を張り上げた。

 

「マニ!やめろっ!もういいん」

「ヤアァァーーッ!」

 

 マニはアンコウの声を聞いていない。マニの意識は完全に戦闘に入り込んでいた。マニは、ただハウルのほうを見て突っ込んできた。

 

ギヤァンッ!!

 

 突っ込んで来た勢いのまま繰り出してきたマニの剣を、ハウルは逃げることなく余裕を持って撥ね退け、2人はそのまま併走して走り出した。

 

 そしてアンコウはというと、マニに突き飛ばされるような形で、一人地面を転がっていた。地面にこすれたアンコウの顔中に、砂がめり込んでいる。

 

「ふ、ふ、ふざけやがってぇ、あ、あの野郎」

 

 アンコウの言うあの野郎が誰なのかは、言うまでもがなだ。砂を払うことなく立ち上がったアンコウは、マニとハウルが走り去った後を追って走り出した。

 

 ギィンッ、ガァンッ、と2人が剣をあわせる音が響いている。

 

 アンコウが2人に近づいていくと、そのあいだにバルモアが立ちふさがった。

 しかし、アンコウは走ることは止めたものの、二人に向かって歩き続け、バルモアにどんどん近づていく。

 

「グローソン公とは話がついてる。もうこれ以上戦う気はない」

 

 アンコウは剣を抜くことなくそう言った。バルモアはどうしたものかと思案している様子だ。

 

「もうおれの方はいいだろう!とっととあのバカ女を止めにいけよ!町で何が起こってるのかは知らないが、あっちは遊びですまないんじゃないのかっ」

 

バチッ!

 バルモアの手から電気の火花が散る。

 

「お前に指図されることでない。殿がその気になれば、あの者の命を奪うことなど造作もないことだ」

「……チッ」

 

 だったら今すぐそうしろよ、とアンコウは思う。マニが暴れ続けて、アンコウにプラスになることなど何もない。

 アンコウはそれ以上言い返すことはせずに、バルモアをにらめつけながらも歩き続けた。

 

 マニがこのまま暴れ続けたせいでグローソン公の気持ちが変わったとしたら、グローソン公にやっぱりお前らは死刑だなどと言われでもしたら、たまったものではないとアンコウは考えていた。

 

 そしてアンコウがそのまま剣を抜くことなく、バルモアの横を通り過ぎようとしたとき、前方で派手な爆発音が響いた。

 

ドゥオンッ!

「ぐわあぁーっ!」

 

 大きな爆発音とともにマニがアンコウの前方で吹き飛ばされていた。

 ハウルが少々本気を出したらしい。

 地面をこするように転がっていった先で、マニは地面に倒れて動かなくなってしまった。そのマニの体からは黒い煙が上がっていた。

 

(火の精霊法術か。とっととやれよ、出し惜しみしやがって)

 アンコウはこれで終わりかと足を止めた。

 

ドオォォーンッ!!

「何っ!?」

 また大きな爆発音が響き、アンコウたちの足元がグラグラ揺れる。

 

 しかし今度はハウルの法術ではない。町で起きていた爆発と同じ種類のものだろう。しかも今度の爆発は離れた街中のものではなく、この城のどこかで起きていた。

 

「公爵様ァ!」

 

 城の建物のほうから一人の男が飛び出してきた。その飛び出してきた白髪混じりの年嵩の男は、アンコウをグローソン公のところまで案内してきたモスカルだった。

 グローソン公がモスカルのほうを見る。

 

「公爵様!城下ならびにこの城内においても、爆発とともに火の手が上がっております!また、町のほうでは多数の武装したものが我がほうの兵や建物を襲っているもようです!」

 

「……そうか」

 

 しかし、グローソン公はあわてるそぶりはなく、実に落ち着いていた。そして、さらに近づいてきたモスカルに、何やら話しかけていた。

 

「はい!では、そのように伝えてまいります」

 

 モスカルはグローソン公の指示を受けると、急いでまた建物の中に入っていった。

 

 アンコウは何が起こっているかはわからないが、この騒動は自分にとって決して悪いものではないと感じていた。

 

(あの公爵は落ち着いたそぶりだが、そこまで余裕があるわけじゃないはずだ)

 

 アンコウは簡単でないことはよくわかっていたが、この状況を利用して、少しでも自分に有利な条件を引き出すことはできないかと考える。

 とりあえずアンコウはグローソン公と話をつけなければと、また歩き出そうとしたとき、

 

「ウオオオーッ!」

 

 突然ほえるような声が広場に響いた。

 雄叫びをあげながらマニが立ち上がっていた。アンコウを崖っぷちまで追い込んだ張本人が、いまだ動いていた。

 

「あ、あいつ!」

(し、信じられねぇ。あいつまだやる気かよっ、)

「くそっ!何度も何度もっ」

 

 アンコウはグローソン公のほうでなく、マニのほうにむかって走り出した。

 

「おいっ!マニ!もういい!もういいからやめろーっ!」

 

 立ち上がって、ひと吼えし終わったマニの耳に今度はアンコウの声がとどいた。

「……あれは、アンコウかっ」

 

 マニの目には、未だ闘志の炎が燃えさかっていた。

 マニの視界に自分のほうに走ってくるアンコウと、その少し後ろにいるバルモアの姿が映った。

 

「アンコウ!」

 

(よしっ、聞こえたかっ、)

 

「マニっ!もうやめるんだ!剣をひけっ!話はつい」

「よしっ!アンコウいくぞ!」

「た…?」

 

 マニの耳にアンコウの声はとどいていたが、マニはアンコウの話はまったく聞いていなかった。マニのマインドは、まだ完全に戦闘モードに入った状態のままだ。

 

「アンコウはうしろの精霊法術師を抑えておいてくれ!そのあいだに私が大将首をとる!」

 

「…あぁ?」

 

 マニは全身にダメージを負いながらも、未だ戦意は衰えることを知らず、まるで不屈の勇者のようにセリフを吐いた。

 しかしアンコウは、速度を落とすことなくマニのほうにむかって走りつづけ、無言のまま腰にある赤鞘の魔剣を引き抜いた。

 

シャッ!

 そして剣を引き抜くと同時に、アンコウは魔剣との共鳴を一気に高めていく。

 

「いくぞ!グローソン公!」

 

 マニは一声叫び、グローソン公に剣先をむけ、再び走り出した。マニはすでにアンコウのほうは見ていない。

 

 一方アンコウは、さらに走るスピードを上げ、無言のままマニとの距離をつめていく。

「………………」

 アンコウは剣を左手に持ち替え、足を止めることなく、地面に転がっていた子どもの頭ほどもある瓦礫の石を器用につかみあげた。

 

 アンコウは理性の制御を保ちながら呪いの魔剣との共鳴をさらにあげていく。

 石を握るアンコウの右腕の血管が浮き上がり、石の周りがボロボロと崩れ落ちていく。

 

 そしてアンコウは奇声を発しながら、全力で大きな石くれを投擲した。

 

「ケエェェーッ!」

ブゥンッ!

 

 アンコウが投げた石は唸るような音を発しながら、標的にむかって一直線に進んでいく。標的はアンコウのほうにはまったくの無警戒、完全に隙だらけだった。

 

グガァンッ!

「ぐがっ!!」

 標的に命中。アンコウが投げた石は見事マニの頭に命中した。

 

 石は粉々に砕け、マニのものであろう血も砕けた石とともに飛び散っていた。マニ自身もアンコウが投げた石が当たった衝撃で体が宙に浮き、吹き飛ばされる。

 しかしその直後、今度はアンコウがまったく予期していなかったことが起こった。マニが吹き飛ばされる直前に走っていた場所で大きな爆発が起きたのだ。

 

ドゴオォーンッ!

 

 それはマニがアンコウの投げた石くれを頭にうけて体を飛ばされるのと、時間にしてまさに紙一重の差。

 そして爆発が起きたその場所からは、強い炎が立ちのぼっている。

 

「ぐぅ、な、何っ!」

 アンコウは全身に飛び散る瓦礫と爆風を受けながらも足に急ブレーキをかけた。

ズザザザザァーッ!

 

 アンコウの周囲にも激しい砂ぼこりが舞いあがる。

「な、何なんだ!」

 

 そして動きを止めたアンコウは、ある気配に気づく。

 アンコウが停止した その場から見上げた視線の先、中階広場にかかる屋根の上に、何人もの黒づくめの装束に身をつつんだ者たちの姿があった。

 

「なっ!」

 いまアンコウの目の前で起こった爆発は、その中の数人がマニにむかって同時に繰り出した火の精霊法術による攻撃。

 

 さらに黒装束の者たちがアンコウのほうに手をかざし、いまにも法術による攻撃をおこなおうとしていた。

 

「あ、ああっ…くそっ!」

 アンコウはうえを見上げたまま一瞬硬直。

 

 しかしアンコウは、理性を保ちつつ、魔剣との共鳴をさらに高め、何とか体を動かそうと試みる。

 その時、グローソン公ハウルが屋根の上にいる黒づくめの男たちに命じた。

 

「やめよ!」

 

 グローソン公ハウルの声には人に命令することに慣れた権力者特有の重みがある。

 ハウルが発した一言で、屋根の上の者たちからアンコウにむけていた法術の気配が消える。

 

 アンコウはその様子を息を飲むようにじっと見つめていた。

 すると屋根の上の黒装束たちは、次々と下に飛び降りてきて、グローソン公ハウルのもとにひざまづき、なにやら話をしはじめた。

 

(………た、助かった、のか)

 その話はごく短い時間で終わり、ハウルが全員にむかって指示を出す。

 

「ここは構わぬ。いますぐ城内に不審な所がないか、くまなく調べ上げよ。それが終われば、城下での情報収集にあたれ。あやしきものは如何なる者でも斬り捨てて構わぬ!ゆけっ!」

 

 グローソン公の命令をうけた黒装束たちは、すばやくその身を消していった。

 

 アンコウはグローソン公と黒装束たちを気にしつつも、彼らが話をしているあいだに、倒れているマニのすぐ横まで移動してきていた。

 マニは脳震とうでも起こしているような状態だったが、意識をなくしているわけではないようだ。

 

「……ア、アンコウ」

 

 アンコウはそんな状態のマニを見下ろしていた。

 

(……こ、こいつのせいでっ、何がどれだけややこしくなったのかもわからないっ)

 

 アンコウはまだ抜き身の例の魔剣を手にしている。怒りなどで感情が高ぶれば、それだけ魔剣の呪いの影響をうけ易くなる。

 

「ぐっ、……フゥーーッ、」

 アンコウは大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせようとする。

 

 戦闘が終わったのならば、魔剣を鞘にしまえばいいのだが、アンコウとしてはこの度の過ぎたトラブルメーカーがまた暴走するのではないかと恐れていた。

 アンコウは、一瞬今なら斬り殺せるかもと思いはしたが、さすがにグローソン公たちとの戦闘が終わり、マニが倒れているこの状態ではそれを実行する気にはなれなかった。

 

 その代わりにアンコウは、そのまま身をかがめて、マニの剣を取り上げようとした。

 

「ぐっ、おい、マニ!」

 しかし、マニは剣を持つ手を離そうとはしない。

「ぐぐぅ、」

 離さないどころか、マニはその剣を支えにして、自力で上半身を起こしてきた。

(こいつ!)

 

「お、おいっ!マニいいか、戦闘は終わったんだ。俺たちの負けだ。だけど殺されはしない!おれはこれから話し合いをする。だからお前も剣をおさめろ。いいか、殺されはしないんだ。おい!わかってるのか!」

 

 上半身を起こして、あたりを見渡したマニの顔は血まみれである。頭部からの出血がかなりある。しかしアンコウはそんなマニの姿を見ても何ら罪悪感は感じない。

 マニはより意識をはっきりさせようとするかのように、ゆっくりと首を振りだした。

 

「く、くそう。また助けられなかった。もう少し、もう少しだったのに」

 

 マニはそう言って本気で悔しがっていた。

 どうやらマニの闘争心の暴走は止まっているようだったが、アンコウにはマニが言うところの、もう少しで助けられたと言うのが、何がどうもう少しだったと思えるのかまったく理解できなかった。

 

「……………」

「アンコウ、すまない。もう少し私が強かったら、お前を助けることができたのに。私がもっともっと強かったら、お前がそんなにボロボロになることはなかったのに、クソッ!」

「……………!!」

 

 アンコウは無言のまま天を仰いだ。アンコウの体がプルプルと震えている。アンコウは必死で感情を抑えていたのだ。

 

(だ、誰のせいで、ボ、ボロボロに、)

 

「それなのに最後はまたアンコウに助けられた。石をぶつけてくれたのはお前だろう?アンコウが石をぶつけてくれなかったら、私は今頃、法術で蜂の巣にされていたかもしれない」

 

「……あ」

 

 アンコウはマニにそう言われて、初めてその事実に気がついた。このマニという女は恐ろしく運が強いのかもしれない。

 アンコウは自分がした行為がどういう結果をもたらしたかにようやく気づくと、アンコウの体の震えはさらに大きくなっていった。

 

 アンコウが自分の感情の制御をするのも忘れそうになっていると、

ポンッとアンコウの肩を強く叩く者がいた。

 アンコウが顔をうしろにむけると、そこにはあのバルモアが立っていた。

 

 バルモアはアンコウを見ながら、うなずくように何度も頭を上下に振り、その目にはアンコウに対する同情の色が見てとれた。

 どうやら、このグローソン公の参謀は、この状況とアンコウの心情を正確に把握できたらしい。

 

「剣をおさめろ、アンコウ。アネサの冒険者マニ、お前もだ」

 

 二人はそれぞれ全く違う思いを抱きながら、バルモアのその言に従うことを選択し、おとなしく剣を鞘におさめた。



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第32話 薔薇の思い出

 はじめのころほど大きくはないが、散発的に町のほうから爆発音が響いていた。これがグローソンに反発する者たちが仕掛けた一斉攻撃であろう事はほぼ間違いない。

 

 このネルカ城本館にいる者たちもすでにあわただしく動き始めている。

 しかし、この城の現在の主であるグローソン公ハウルは、いまだ現在起こっている騒動とは関係のないアンコウたちの相手をしていた。

 

「殿、これは尋常ならざる事態かと」

「ああ、そうだな。だが、いつものことでもある。そうであろう、バルモアよ」

「…ははっ」

 

 バルモアは、軽くグローソン公に頭をさげた。

 バルモアはハウルの古参の家臣。グローソン公のゆく所に戦いあり、その修羅の道を骨身に染みて知っている男でもあった。

 

「ふふふっ、だが、確かに遊んでいる場合ではないな」

 

 アンコウとマニもバルモアにうながされて、グローソン公の近くまで来ていた。

 

「アンコウ、先ほども言った。賭けは貴様の負けだ。よいな」

 ハウルはアンコウのほうに目を向けて、問いかける。

「……はい」

「マニよ。貴様もこれ以上、手間をとらせるようだったら、まずこのアンコウの首が飛ぶことになるぞ」

 

 ハウルは凄むわけでなく、淡々とした口調で言った。

 それがかえって、脅しではなくハウルが本気であることをマニにも感じさせた。マニは反抗することなく、無言でうなずいた。

 それを見てハウルは、再びアンコウに視線を移す。

 

「もはや時間もない。手短に言うぞ。よいかアンコウ、これは話し合いなどではない。決定事項だ」

「あ、し、しかし、」

「今一度チャンスをやると言った。口をはさむな、アンコウ」

「は、はい」

 

 ここまで力及ばぬまでも粘ってきたアンコウだったが、もはやグローソン公が言う決定事項というものを受け入れるほかなしと口をつぐんだ。

 マニも抵抗するそぶりなく、おとなしくアンコウのうしろに控えている。

 

(仕方がない。本当に祈るだけになったな)

 

 グローソン公がアンコウに今一度やると言うチャンスというものが、単にグローソン公が楽しむためだけの遊びではなく、本当に自由をえる可能性があるチャンスであって欲しいとアンコウは願った。

 

「何、簡単な話だ。見てのとおり仕事が入ってな。私はこれから少し忙しくなる。アンコウ、貴様はそのあいだにどこへなりと逃げよ」

「はっ?」

 

 どういうことだと、理解しかねているアンコウを見て、ハウルは薄笑いを浮かべた。

 

「鬼ごっこみたいなものだ。子どもでもわかるだろう。しかし、私も忙しいからな。鬼はバルモアにしてもらうとするか。そうだな……1ヵ月、逃げ切れたら貴様の勝ちだ。

 バルモア以外の配下の者たちを使って、直接お前を捕まえさせることはさせぬし、他の者には賭けの具体的な内容は伏せておく。ただし情報収集はさせるし、そのための手配もかける。

 それでもお前が逃げ切ることができれば、自由になることを認めよう」

 

「……1ヵ月」

 

 アンコウは、その条件ならば逃げ切れる可能性があるのではないかと思った。

 それでもアンコウは自分が勝ったとして、この男が本当に負けを認めるのかどうか、正直信用はできなかったのだが、一時的にでも逃がしてもらえるのなら、本当にそのまま逃げてしまえるのではないかとも考えた。

(悪くない話だ)

 

「それで公爵様、その鬼はいつから追いかけてくるんですか」

「そうだな。今、この町にあがっている火をすべて消し終えたら、とでもするか」

 

 アンコウは聞きながら考える。町にあがっている火がすぐに消されてしまったとしたら、町を出る前に捕まってしまうんじゃないかと、それに、

 

「情報収集要員のほうがずっとつけて来るとか?」

「……ふぅむ……」

 

 ハウルが少し考え込んでいるのを見て、アンコウは(こいつ誰かに後をつけさせる気だったな)と思った。

 

「ふむ。では情報集めを始めるのは今日の陽が落ちてからとするか」

「いや!それは早すぎます!」

 アンコウは思い切って口をはさむ。

「貴様、決定事項だと言っただろう」

 

 グローソン公はギラリとアンコウをにらむが、

 (いま考えたくせにっ)と、ここはアンコウも後には引かなかった。

 

「……よかろう、ならば明日の日の出(ひので)だ。それまでは貴様に関する情報を集めることはしない。それに明日の日の出(ひので)前に、このネルカにあがっている火をすべて消し終えたとしても、バルモアは待機させておく。

 どのような形であれ、お前を追い始めるのは明日の日の出(ひので)以降ということだ」

 

 ハウルが少し譲歩した。アンコウは、これ以上抵抗するのは危険だと思い、グローソン公にむかってうなずいてみせた。

 逃げ切れる可能性はあるとアンコウは表情を変えることなく心の中で思う。

 それに、だったらこんな町、1ヵ月でも1年でも灰になるまで燃え続ければいいとアンコウは思った。

 

「よし、バルモアあれを」

「はい」

 

(……うん?)

 グローソン公に声をかけられたバルモアが、突然アンコウに近づいて来た。そしてバルモアは、そのままアンコウの右手をとった。

 

「ちょっ!何をしてるんだっ」

「これを貴様の腕にはめる」

 

 バルモアはアンコウの右手をつかんでいる手と逆の手につかんでいるものをアンコウに見せた。

 

「なっ、その腕輪、魔具かっ!」

「そうだ、アンコウ。お前はそれをはめるのだ」

 

 グローソン公が、バルモアの持つ腕輪をあごで示しながら言った。魔具の腕輪、その道具としての原理は、奴隷たちがしている首輪とまったく同じものだ。

 

「ふ、ふざけるな!」

 

「心配するな。その腕輪に刻まれている印章と文字を見よ。それはこのグローソン公ハウルの配下であることを示すものだ。お前にはそれをつけて逃げてもらう。

 アンコウ、それは誰にでもつけることを許しているものではないのだぞ。私が認めたわずかな者たちにだけ、つけることを許している。光栄に思えよ」

 

「何が光栄だ!」

 

「アンコウ、お前は賭けに負け、私の配下となった。そのうえでもう一度チャンスをやろうというのだ。そして、お前はそれを受け入れた。ここに至って条件が気に入らないからおりると言うのなら、お前は腕輪ではなく、首輪をはめることになる。奴隷の首輪だ」

 

「ふ、ふざけるなって言っているだろう!」

「ほう、まだそのような口を利くか。ならばこのまま奴隷になるか?お前も一度奴隷になれば、今の自分でも十分自由であったと知ることができるぞ」

「必要ねぇ!奴隷は経験済みなんだよっ!」

 

 ハウルは何かを思い出したように少し目を見開く。

 

「……ああ、確かそのようなことも聞いていたな。ならば、よほど待遇の良い奴隷であったか、それともお前の記憶力に問題があり、その辛さを忘れてしまったかいずれかであろうな。

 よいかアンコウ、奴隷はただのモノだ。その命も尊厳を守る自由すらない。それに比べて我が配下になるということは自由をなくすということではない。それどころか、世間的には出世以外何ものでもない。

 にもかかわらず、お前がこの状況でいつまでも自由、自由と叫ぶのはまるで別の世界の話を聞いているようだ」

 

「勝手なことを言うな!」

 

 おそらく、ここでこの腕輪をアンコウがはめるというならば、所有者の血を使うのではなく、精霊法力を注入する方法で腕輪をはめることになるだろう。

 そして、それを為すのは、バルモアかハウル自身になるはずだ。

 

 魔具というもの自体が、魔石を加工・利用して特殊な力を付加されて作りあげられた道具であり、それを作ることができるのは、それに適した精霊法力を有し、魔工の術を行使することができる魔工匠といわれる者たちだ。

 

 バルモアが手にしている魔具の腕輪は、素人のアンコウが見ても相当に優れた者の手によるものだとわかる。テレサが首にしている首輪などとは段違いの品だ。

 

 この腕輪にハウルかバルモアクラスの法力をこめてアンコウの腕にはめられたとしたら、その法力の強さと質ゆへに、法力をこめた本人以外には相当優れた力を持つ魔工匠でないと腕輪を外すことができなくなる。

 

 しかも、この腕輪にはこの腕輪をしている者がグローソン公の家臣であることが印されている。

 

 この手の道具はたとえ奴隷でなくとも、普通、主の許可なしに外すことは許されないとされているものだ。勝手に外せば、腕輪をしていた者もそれに手を貸した者も罪に問われることになる。

 

 一度この腕輪をはめられてしまったら、これをはずすためには、この腕輪をはめるための法力をこめた本人に頼み込んで取ってもらうか、腕輪に印された主君であるハウルに許可状をもらって、それだけの腕を持つ魔工匠のところにいくしかない。

 

 そんなことはできるわけがないし、アンコウには、それでもこれを秘密裏にはずしてくれるような優れた魔工匠の知り合いなどいない。

 

 仮に約束の期限を逃げ切れたとしても、腕輪を取るためにはハウルの元に一度は戻ってくる必要があり、その時にハウルが本当にアンコウを自由にしてくれる保証など、どこにもないのだ。

 

 無論、逃げて腕輪をしたまま一生を過ごすという選択肢もあるだろうが、それでは一生指名手配の逃亡犯のようなものである。

 

「口をはさむなといっても聞かず、条件を受け入れもせずに自由、自由。あげくに勝手なことを言うなだと?馬鹿が。

 いいから、早くその腕輪をはめて逃げろ。そして俺を楽しませろ。そうすれば、捕まっても俺の配下になるだけだ。拒否すれば、この場で奴隷にしてやる」

 

 グローソン公はわずらわしそうに言った。アンコウは口をつぐみ考えている。

 

「ぐぐっ」

 

 

――ドォォーン――

 

 城下町のほうでは、いまだ爆発音が響きつづけていた。

 やはり気にはなっているのだろう、ハウルはわずかな時間、町の方向に目をむけた。

 

 しかし、再びアンコウのほうを見たその目には、やはりあせりの色などはなく、アンコウに交渉の余地などはありそうもなかった。

 

「………アンコウよ。これ以上は時間の無駄だ。お前にこれから奴隷には自由がないという意味を思い出させてやる。そうすればどのような条件でも受け入れる気にもなるだろうて」

 

 ハウルは妙な笑みを浮かべながらそう言うと、いきなりアンコウの肩にある浅い傷口の辺りを強く手でつかんできた。

 

「つぅ、何をっ!」

「フフッ、はじめから、おとなしく条件を飲んでいればよいものを」

 

 そして、アンコウに触れたハウルのその手から、突然何かが体の中に流れ込んでくる感覚をアンコウは感じた。

 それは以前アンコウが、名義上このグローソンに属しているエルフのゼルセから、精霊法術による光の玉を体の中に入れられた時の感覚に似ていた。

 

「何をしているんだ!」

 アンコウの後ろで、その様子を見ていたマニが声をあげた。

 

 しかし、マニの手がアンコウにもグローソン公にもとどくことはなく、マニはさらに後ろから誰かに引っ張られ、逆にアンコウたちから引き離されてしまった。

 

「だ、だれだ!離せッ!」

 マニが自分を引っ張る手を振りほどき、怒声をあげる。

 

 そしてマニが振り向くと、そこにはいつのまにかマニの後ろにまわっていたバルモアがいた。

 

「これ以上、余計なことをするなと言われただろう?マニ。心配するな、殿はアンコウを傷つけるようなことはなされない。逆に貴様が手を出せば、アンコウの首が飛ぶぞ。殿が先ほど言われたことは、ただの脅しではない」

 

 バルモアだけではなかった。いつのまにかマニたちのうしろには、アンコウと戦っていたロムや似たような格好をした武装兵たちが控えていた。

 その武装兵たちが、バルモアの合図で一斉に剣を鞘から抜いた。

 

「マニよ、おとなしく見ていろ」

「む、むうっ、」

 

 マニは歯を噛みしめながらも剣の柄から手を離し、視線だけをアンコウたちのほうに戻した。

 

 

「な、何…だ…」

 アンコウは自分の体が、まったくというわけではないが、思うように動かせなくなっていた。

「ングッ!!」

 次にアンコウは、突然口が利けなくなった。

 

 口がきけなくなったのは、ハウルが流し込んできた何らかの力の影響ではない。アンコウの目の前には、綺麗な造作をしたハウルの顔があった。

 アンコウの口は、その近づいてきたハウルの唇で塞がれたのだ。

 

「ふぐぐっ、や、やめっ、な、何をして、ググッ」

 

 アンコウは思うように体が動かせない、流し込まれた力の影響だけではなく、アンコウをつかむハウルの手と腕が巧みにアンコウの動きを封じていた。

 しばらくして、ハウルがアンコウから唇を離す。

 

「ブハッ!ぐっ、ペぺッ!…お、お前、何を!」

 

 ハウルの唇は離れたものの、アンコウはハウルの手から逃げることはできなかった。そして、あらためて間近でハウルの目を見たアンコウは背筋に悪寒が走る。

 

(こいつの目っ、)

 ハウルの目には色情の色が浮かんでいた。

 

「フフフ、お前は剣の腕も顔も中の中と言ったところか。あまり好みの顔ではないのだがな。アンコウよ、奴隷はモノだ。思い出したか?何をされても文句も言えない。そうなりたいのか?

……まぁ、それはそれとして、たまには抱かれる側になるのも悪くはないぞ、アンコウ。おぼえて帰るか?」

 

「ざ、ざけるな…に、二度とごめんだっ・・・」

「…ほう、こちらの経験もあるのか」

「あぐっ、…し、知るかよ」

「おとなしく腕輪をして帰れ、アンコウ。貴様に選択肢などない。くくっ、それともこのまま奴隷になるか?」

「何を、ン!?」

 

 再びアンコウの口がハウルの唇で塞がれた。

 アンコウは身をよじるが、ハウルに抱きしめられて、まったく逃げ出すことができない。

 

「んんんっ!!、ンーッ!」

 

 アンコウの口の中にヌルリとハウルの舌が差し込まれてきた。

 アンコウはどうすることもできず、そのままハウルの好きなようにされるほかなかった。

 

 男色の嗜好を持つ者は、戦場に身を置く者の中には身分の上下を問わず少なからずいた。ハウルも常日頃から、女だけではなく、そういった目的を含めた寵童を身辺に置いている男だ。

 

 先ほどアンコウと戦っていたロムも、騎士としてだけでなく、そういう意味でもハウルにかわいがられている者の一人であった。

 それはこの世界のこの時代においては、別段珍しいことでもない。

 

 しかし、アンコウにはそういった衆道(しゅどう)の気はまったくない。ただただ気持ちが悪いだけである。

 それはアンコウがこの世界に来て、男を知ってしまった後でもまったく変わることがなかった。

 

 いや、まったく望まぬことを無理やり知らされたがゆえに、それはアンコウの心のトラウマになっていた。

 アンコウは、他人に自分が過去、奴隷であった時期があるという話はしても、そのことは誰にも話したことがない。

 

 そして、ハウルの手がアンコウの体を這うように動く。

 ハウルの手指が、アンコウの臀部の溝にまで到達し、さらにその奥にまで力が加えられた。アンコウはその刺激に体を大きくそらす。

 

「うぐぐっ!!」

(やめろーっ!)

 口は相変わらず塞がれている。大きく体をそっても、ハウルは離れない。

「ウウゥーッ!」

 

 ついにアンコウの体がプルプルと震えだした。それでもなお、ハウルは舌と指でアンコウを刺激し続ける。

 そして、しばらくするとアンコウの体から力が抜けていった。

 

「うぐぅーー」

 

 ハウルはそれを確認すると、ようやくゆっくりとアンコウから唇を離した。

 

「……アンコウよ。条件を飲み、腕輪をはめるか?私はお前を配下にしても、まず体は求めぬ。私にとっては貴様の存在自体に価値がある。

 お前が我が手中にある、ただそれだけで良いのだ。しかし奴隷となった場合、他の者がお前に何をするかは私は知らぬぞ」

 

 アンコウは少し頬を赤く染めながら、声は出さず、力無くうなずいた。

 そしてそれを確認すると、ハウルはアンコウから手を放した。ハウルの体が離れると、アンコウはその場に崩れ落ちるようにひざをついた。

 

「オェーッ!ペッペッ!グェーッ」

 

 アンコウは両手を地面につくと同時に、えづき始める。

 

 ハウルの体から(にお)っていたローズの香りが、まだアンコウの鼻にまとわりついている。

 アンコウの口の中にも同じようなローズ系の香りが、ハウルがアンコウの口の中に残したものからほのかに香っていた。

 それが嫌なニオイではなく、かぐわしい香りであることがさらにアンコウを気持ち悪くさせていた。

 

 ハウルは、自分が入る風呂の湯にはいつも色鮮やかなバラの花を浮かべ、自分が飲む水の水差しにはいつも清純なバラの花びらを散らし、そして戦場でも芳しきバラの香水を身心にふるうことを忘れない、そんな一面のある男だった。

 

 それにハウルに強く押され、刺激されたアンコウの尻には、いまだ圧迫され続けているような感覚が残っており、それがアンコウのいやな記憶とともに激しい嘔吐を呼び起こしていた。

 

「オグエェーッ!」

 

 ハウルはそんなアンコウを横目で見ながら、バルモアに何やら声をかけ、多くのとりまきを従えて、その場から消えていった。

 

 

 

 

「ハァハァハァ!どけーっ!」

 

 アンコウは全力で城の中を走り続けていた。

 城の中も一連の爆発騒ぎのせいでかなりあわただしい雰囲気になっており、普段なら目立つであろう全力で城の中を走り抜けるアンコウの姿も、それほど違和感をまわりに与えなかった。

 

 走るアンコウの右手首には、金色に輝きを放ち、細やかな装飾がなされた腕輪がはめられていた。

 それはテレサらの奴隷がしている首輪と同様に、その接触面は完全にアンコウの皮膚と一体化していた。

 

「グーッ!カァーッ!」

 アンコウは走りながら、時おり大声をあげていた。

 

 アンコウは、グローソン公から渡された例の赤鞘の呪いの魔剣をそのまま所持していた。しかし、その呪いの魔剣はアンコウの腰の赤い鞘に、そのままおさまっている。

 

 アンコウは奇声のような大声を発しているが、呪いの影響を受けているわけではない。怒りイラ立ちの感情が溢れ出している。

 走り続けたアンコウは城の本館一階、すでに建物の外に出ていた。

 

「アンコウ、待てよ!ちょっと落ち着け!」

 

 アンコウのうしろをピタリとついて走っていたマニにアンコウはとめられた。アンコウはここまで、とにかく城の外を目指して闇雲に走ってきた。

 そのことはうしろを走っていたマニにもわかっていたので、建物の外に出た時点でアンコウを呼び止めた。

 

 足を止めたアンコウは、ゼェゼェと激しく肩で息をしている。それに比べてマニはさほど息を乱していない。

 元々の体力差に加えて、アンコウの精神状態が大きく影響していたのは間違いない。

 

 しばらくするとアンコウの息も少しずつ落ち着いてきた。その横でマニが心配そうにアンコウを見ている。

 マニも全身にかなり傷を負っているようだが、痛そうなそぶりはまったく見せていない。

 

 一部始終を見ていたマニには、アンコウがここまで取り乱している理由がよくわかっている。マニはアンコウの息が整ってきたのを見て、アンコウに声をかけた。

 マニがアンコウの肩に手を置く。

 

「アンコウそんなに気にするなよ。キスをされて、ちょっと尻を触られただけだろ?ほら、お前私に言ってたじゃないか、胸や尻を触られてもとりあえず笑っとけってさ」

 

ボガァッ!

「痛ったあッ!」

 

 アンコウは拳骨(げんこつ)で思いっきり、マニの頭を殴った。マニは痛そうに両手で頭をおさえている。

 

「マニ!2度と俺の前でその話をするな!」

 

 アンコウはマニのほうをジロリと見てから、まわりを見渡す。アンコウは少し落ち着いてきた頭で、これからどうしたものかと考えはじめていた。

 

 

「アンコウ殿!待ってください!どこに行かれるんです!」

 

 建物を出てすぐの場所に立っていたアンコウに、声をかけてくる者がいた。

 

「……あ?」

 その声のした方向にいたのはモスカルであった。モスカルがアンコウのほうにむかって走ってきていた。

(そういえば、途中で見かけたな)

 

 アンコウは、ここまで走ってくる途中のどこかの廊下でモスカルらしい人物とすれ違っていたのを思い出した。

 そういえば、何か大声で叫んでいたようだったが、ここまでついてきたのかとアンコウは思った。

 

 モスカルは先ほどの屋外広場で一時顔を見せたが、ハウルと少し話しをしてすぐにその場を離れていた。ゆえにモスカルは、まだあの屋外広場での顛末(てんまつ)は知らないはずである。

 

「はぁはぁはぁ、ア、アンコウ殿いかがしたのです?」

 

 アンコウのすぐ近くまで走ってきたモスカルが、息を切らしながらアンコウに話しかける。モスカルは話しかけながらも、うしろをチラチラと見ていた。

 アンコウはモスカルに答える前に、まずマニのほうをチラリと見た。これは余計なことを言うなよと、アンコウはマニに目で合図した。

 

 マニに通じるかどうか不安だったが、マニは小さくうなずいていた。

 アンコウは、本当にわかってんのかと少し怪しげな思いでマニを見ていたが、すぐに視線をモスカルに戻す。

 

「誰も追ってこないぞ、モスカル。俺は逃げているわけじゃない。心配するな」

「し、しかし、ではなぜ?殿様とのお話は?」

 

 モスカルはアンコウの言ったことをまったく信用していないようだった。

 それは当然で、モスカルはつい先ほどまでアンコウたちが自分の主君であるグローソン公ハウルと斬り合いをしていたのを見ていたのだから。

 

「その殿様から、用事を仰せつかってな。喜びのあまり、おもわず城中を走ってしまったんだよ。驚かせたかい?もう落ち着いたよ」

 

 無論、アンコウのそんな言葉をモスカルが信じるわけはない。

 アンコウの言いようも実に適当なものだった。そして、さらに疑わしそうな目でアンコウを見るようになったモスカルに、アンコウは黙って右手を差し出してみせた。

 

「なっ!そ、それは、アンコウ殿!」

 

 アンコウの右腕につけられている金色に輝く腕輪、それが何を意味する腕輪なのか、モスカルにもひと目でわかったようだ。

 

 この臣下の腕輪は、アンコウがひどくえづいている間にバルモアが手早くつけた。

 アンコウにとっては不本意極まりないクソ腕輪であったが、こうしてつけられてしまった以上、利用できるものは何でも利用するというのがアンコウのポリシーだ。

 

「そういうことだ。早速、公爵様から仕事をいただいた。急ぐんでな、城の馬を借りていくぞ」

 

 アンコウは少し離れたところに見えている、(うまや)を見ながら言った。

 

「し、しかし」

「ウソだと思うんなら、殿様に聞いてきたらいい。おれたちは急ぐんだ」

 

 アンコウは、今のモスカルは自分がしているこの腕輪の真の意味を知らないとわかって話をしている。

 そして、今はモスカルは何も知らないかもしれないが、遅かれ早かれ、いずれグローソン公との賭けの存在を知るのも間違いない。

 

 アンコウを直接捕まえることができる鬼はバルモアだけだが、ほかのものにも情報収集はさせるとグローソン公ハウルは言っていたし、それに情報収集などと言っても、実際は何をしてくるかはわかったものじゃないと、アンコウは思っていた。

 

 ならば、アンコウとしてはグローソンに属する者たちは全員敵だと思っておくべきだし、モスカルも当然その中に含まれる。

 少なくともモスカルのような人間にいつまでも付きまとわれていれば、このまま逃げ切ることなどできるわけがない。

 

 それにアンコウは、まだ自分の感情もこれからの方針も整理しきれていなかった。

(もう少し、落ち着いて考えをまとめたい)

「マニ、行くぞ」

 

 アンコウがマニに声をかけて、(うまや)のほうにむかって歩き出した。マニはアンコウの横に並ぶと、そのままついて歩いていく。

 

「……マニ、いまは余計なことは誰にも話すなよ。モスカルにも、たとえグローソンと関係ない者にもだ。今は何の計算もなしに、わざわざ情報を広めるようなことはしないに越したことはないだろう」

 アンコウは小さな声で、横を歩くマニに言った。

 

「ああ、わかっている」

「あいつらにどれほどの諜報探索能力があるかはわからないが、とにかく逃げ切ればいいんだ」

 

 アンコウが今いる場所からは、うえの屋外広場にいたときのように町全体の様子を確認することはできなかったが、遠くからあがっている煙は今も視認することができた。

 それに、おそらくそう遠くないであろう場所から怒号混じりの大勢の人の声の波が、アンコウの耳にもとどいていた。

 

 アンコウは、自分が逃げるうえではこの騒動は実に好都合であり、いまがチャンスであるととらえた。

 

「待ってください!アンコウ殿!」

 (うまや)へむかうアンコウたちの後ろを、モスカルは追ってきた。

「…チッ、」

(面倒だな、ついてくるなよ)

 

 アンコウは足を止めて、追ってきたモスカルのほうを振り返る

 

「何だよ、あんたもグローソン公から何か命じられてたんじゃないのか?」

 

「先ほど殿様から命じられたことは、すでに済ませています。緊急配備の手配をとるよう皆に伝えただけですから。私本来の今現在の任務は、あなたの世話をすることなのです」

 そう言ったモスカルに、アンコウはあからさまに不愉快そうな顔をむけた。

 

「俺はもうあんたに監視される立場じゃない。公爵のところへ行って、事情を聞いて来いよ」

 

 アンコウは再び、臣下の腕輪をはめている右腕をモスカルにむかって突き出した。

 

「いえ、私ごときの身分では、お声がかりも無いのに自分の都合で殿様に会いに行くなどできません。まして今は、戦時体制が敷かれてしまっています。

 それぞれが自身の判断でその責を果たさねば、叱責の対象とされてしまいます。それにアンコウ殿、私はあなたの監視役ではございません。世話役なのです」

 

 アンコウはモスカルに賭けの内容を話そうかと思ったが、今の段階で無駄に知る者を増やすのも考えものだと、言葉をのんだ。

 今はここでモスカルとこんな言い合いを続けるよりは、急いでこの場を離れるべきだと思った。

 

(ここで無駄に時間をつぶす必要はない。こいつの始末は後ですればいい)

 

 おそらくモスカルは武術の心得はあるとアンコウは思っていたが、モスカルが抗魔の力を持っていないことはすでに確認済みである。

 多少武の心得があろうとも、抗魔の力がない者ではさすがにアンコウと勝負にはならない。モスカルに関しては、いざとなれば力でどうとでもできるとアンコウは判断した。

 

「チッ、急ぐぞ、マニ」

「ああ」



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第33話 ネルカ騒乱

ズシャッ!

「アンコウここは任せろ!お前は屋敷の中に!」

 

 マニが血刀を振るいながら叫んだ。

 

「わかった」

( くそっ、仕方がないな)

 

 アンコウたちは城を出て、ネルカに来てから滞在していた屋敷にまで戻ってきていた。

 実はアンコウは、この屋敷には戻らず、そのままネルカを離れることも真剣に検討していた。

 

 普通に考えて、ネルカを脱するまでに要する時間は、なるだけ少ないほうがよいと思っていたし、それに冷たいようだが、アンコウにはテレサが足でまといになるかもしれないという計算もあった。

 

 しかし、アンコウが断を下す前にマニが馬を走らせていた。テレサを迎えに行くと言いながら。

 

 アンコウとしても、テレサには冷徹になりきれない情をすでにもっており、心の中でマニに文句を言いながらも口には出さず、結局アンコウもこの屋敷に向かって馬を走らせた。

 

 グローソンに対する抵抗者たちの攻撃はひとつのまとまりではなく、同時多発的にあちこちで起こっていた。

 それはアンコウたちが滞在していたネルカ城の外輪区域にまで及んでおり、しかも、アンコウたちが滞在していた屋敷も襲われていたのだ。

 

 アンコウたちが滞在していた屋敷には、アンコウたちの他にも外部から来た者たちが多く滞在していたのだが、そのなかに反グローソンの組織につながる者たちが多数入り込んでいたようだ。

 

 その者たちが、ネルカの各所で起こっている戦闘に呼応し、この屋敷で戦闘を始め、さらに多くの自分たちの仲間をこの屋敷に引き込んだらしい。

 

 アンコウたちが屋敷の前についたときには、すでに激しい戦闘がおこなわれており、アンコウはここでもマニに引きづられるように戦闘に巻き込まれていった。

 結局アンコウたちについてきていたモスカルも、味方の戦士たちをまとめ、なかなか見事に戦っていた。

 

 特に屋敷の正門付近での戦闘が激しかったようだが、アンコウとマニが参加してからは、逃げ出す反グローソンの者たちが続出した。

 ここにはそれほどの抗魔の力を持つ者はいないようで、マニとアンコウに対抗できる敵はいなかった。

 

「アンコウ!テレサを頼む!」

「……チッ、わかったよ」

 アンコウはマニの言葉を背中で聞きながら、屋敷の中に飛び込んだ。

 

 アンコウは城の本館を出てからここまで、どうもマニに主導権を取られているようで少し気分が悪かった。それでも、アンコウにもテレサを心配する気持ちはあり、ここまで来た以上はと、急いで屋敷の中を走っていった。

 

 正門付近と比べると中は随分人が少ないようで、時おり見かける敵と思われるものたちをアンコウはすれ違いざまに呪いの魔剣で次々に斬り伏せていく。

 屋敷の中に入り、何人目かの敵を斬り倒したとき、アンコウは不意に足を止めた。

 

「……………」

アンコウは何ともいえない興奮を覚えていた。

 

 これまで魔剣との共鳴を起こしても、正気を保っていたときはいつも自分より強い相手が目の前にいて、共鳴により増した強さを実感することがなかった。

 

 だが、この屋敷では違う。ほとんどが赤鞘の魔剣との共鳴なくとも、一対一ならばアンコウが余裕で倒せるような相手ばかり。

 アンコウは新たに得た力を使って、そのような者たちの命を苦も無く刈り取っていく。

 

「んだよ……俺、強くなってるじゃん」

 

 アンコウはこれまでとは違う一種の陶酔感のような感情の動きで、呪いの力に飲まれそうになる自分を感じた。

 

「っとぉ、だめだ、だめだ」

 アンコウは頭を振り、自分の心に冷静さを取り戻させる。

 

「……急ごう」

 

 アンコウは再び走り始めた。

 今度は手向かいしてこない者や他の誰かと斬り合いをしているような者は、無視をして通り過ぎていく。

 

(考えてみりゃあ、どっちもどうでもいい奴らだからな。共倒れでもすりゃあいいんだ)

 

 アンコウはだいぶ冷静に状況を見られるようになっていた。

 

 

「いやぁーッ!やめてーッ!」

 

 アンコウが走っている前方に見える部屋から、女の悲鳴が聞こえてきた。

 アンコウはその女の悲鳴の質から、女の身に何が起こっているのかを容易に想像することができた。だが、

(テレサの声ではないな)

 アンコウは足を止めることなく、その部屋の扉の前も走り抜けていく。

 

 その際についアンコウはチラリとその部屋の中を横目で見た。

 アンコウの目に、3人の男が1人の女の周りに群がっているのが見えた。

(やっぱりテレサじゃない)

 

「いやぁーっ!」

 女の悲鳴が、部屋を通り過ぎたアンコウの背中のほうから聞こえた。

 その時、アンコウの鼻腔にありもしないバラの香りが薫った。

 

ザッ!ザザァーッ!

 アンコウは急停止して、過ぎた廊下を振りかえる。

「…………」

 

 アンコウにとって、その女はどうなろうとどうでもいい女だった。

 それこそ生きようが死のうが、口のまわりをヨダレまみれにした男どもに襲われようがだ。ただ、アンコウはまた嫌なことを思い出してしまった。

 

 こんな光景はこれまでにも何度も見てきたはずなのに。見て見ぬふりをしてきたはずなのに。

 

 長いあいだ記憶の底に押し込めていた記憶が、また生々しくアンコウの心によみがえる。あのバラ()のせいで、アンコウの心はかなり敏感になってしまっているようだ。

 

「チイィッ!」

 

 そしてアンコウは、もと来た方向に廊下を走り出す。

 

 その逆走をはじめたアンコウの顔は、先ほどの冷静さを取り戻した顔ではなく、激しい嫌悪と怒りの色で染まっていた。

 アンコウは有りもしない纏わりつくバラの香りの中にいた。

 

 

「やめてぇー!」

バシィッ!

 頬をはたかれた女の顔が激しく揺れる。

 

「うるせいぞ!暴れるんじゃねぇよ!」

「えへへへっ」

「ぐふふっ」

 

 アンコウはその部屋の入りざま、床に唾をはき捨てた。

(キモチワリィ)

 3人の男たちは、凄まじいスピードで部屋に入ってきたアンコウにまだ気づいていない。次の瞬間、

 

「くそがあぁーーッ!」

 

 アンコウが叫び声が部屋に響くと同時に、その女に覆いかぶさっていた男の首がなくなり、女は全身に血しぶきを浴びていた。

ブシューッ!

 何が起こったのかわからず、呆然とする女。残りの2人の男も直ぐには反応ができていない。

 

 気がつけば、アンコウがベッドのうえに仁王のごとく立っていた。アンコウの尻がうずいている。

 

「ぐぐぅ、くそどもがぁ、」

 

「な、何だお前!」

「は、はわ、ジャ、ジャック!」

 この2人の男たちも、すでに下はパンツまでズリさげていた。

 

「目障りなもんおっ立ててんじゃねぇよ!」

 

 一閃、二閃、アンコウは手に持つ赤鞘の魔剣の輝きを増した刀身を音もなく振るった。

 おそらくこの半裸の破廉恥漢(はれんちかん)たちにはアンコウの振るう剣が見えていなかったはずだ。

 

「ア…ガッ…ガ…」

 2人とも喉を切り裂かれて悲鳴をあげることもできない。

ドッ!ドンッ!

 アンコウは2人の血がかかる事を嫌い、喉を切り裂くと同時に2人を蹴り飛ばした。

 

 アンコウがこの部屋に飛び込んできてごく短い時間で、3人のもの言わぬ死体ができあがった。

 アンコウは剣についた血をふるい落とすため、剣を上から下に空を裂く。

 

 ピシュッ!

 その刀身から飛んだ血が、乱れた衣服のまま呆然とベッドのうえにへたり込んでいた女の顔に勢いよくかかった。

 ビチャッ!ビチャッ、ビチャッ!

 

 そして、我に帰った女の口から、再び大きな悲鳴があがった。

 

「…あ……キ、キイャアァーッ!」

 

 しかし、アンコウは先ほどとは違い今度は女の悲鳴に反応を示さなかった。

 三バカを斬り倒した時点でアンコウの鼻に纏わりついていた幻のバラの香りは消え去っていた。

 

 アンコウは立っていたベッドの上から飛び降り、一度もうしろを振り返ることなく、血溜りのできている床の上を歩いて部屋を出ていった。

 

 そしてまた、アンコウは廊下を走り出す。

 アンコウは少しあせりはじめていた。テレサも同じような目にあっているのではないかと。

 アンコウは、ここにきてようやくテレサのことを本気で心配する気持ちが湧いてきていた。

 

 当初はテレサをこの屋敷に置き去りにして逃げることも考えていたのだから随分な変化である。じつに勝手な話だと言うこともできよう。

 

 無論、アンコウはこの屋敷に戻ってくるまで、ここがこのような状況になっているとは考えていなかったのだが、戦争に巻き込まれれば、先ほどの女のような目にあう可能性は、どんな女にでも常にある。

 

 それは当然テレサも例外ではない。テレサの容貌は元々美しいと言える部類に入る。

 30半ば近くの年齢にはなっていたが、ここ最近の自身の保若(ほじゃく)の力の上昇と、相性がよいと思われる自分よりも強い抗魔の力を持つアンコウとの情交を重ねてきた影響で、その肌は明らかに()(つや)が増し、生活ジワは消え薄れていた。

 

 さすがに時間を逆行して若返りはしないが、今のテレサは20代といっても十分に通じるほど若く、そして綺麗だ。

 

 それに女の艶魅(えんみ)をいうならば、テレサの肉体は、形の好い大きい胸に、形の好い大きい臀部、腰回りはほど好く締まっている、じつに女性らしい魅力的な体つきをしていた。

 

 それらはいずれも生死の境で戦い、血を求める男たちの獣心を実に効果的に刺激するエサとなるものだ。

 アンコウの脳裏には、テレサが戦場の獣性に駆られた男どもに蹂躙されている姿が、現実味を帯びて浮かんできていた。

 

「チッ、」

 アンコウの眉間にしわがよる。今度は幻のバラの香りを嗅いだわけではない。

 さすがにアンコウも、テレサが他の男どもに力ずくで組み敷かれ蹂躙されることをよしとは思わないようだ。

「……あの女は俺のものだ」

 

 アンコウは二度と奴隷にはなりたくないと思っている。グローソン公という同郷の権力者に仕えることにすら、激しい拒否反応を示している。

 しかし、アンコウはテレサを奴隷として買って以来、一度もテレサを奴隷の身分から解放してやろうと考えたことはなかった。

 

「テレサはおれの……」

 

 アンコウは走りながら、ふと思った。テレサは本当は俺のことをどう思っているのだろうかと。

 

 

 

 

「おい!てめぇら、距離を開けて全体を囲むんだ!逃げ場をなくせ!」

「へい!」

「おおよ!」

 

 アンコウの懸念は杞憂ではなかった。テレサは今、屋敷内にある中庭のひとつで、武装した男たちに囲まれてる。

 ただ、テレサの左右にはこの屋敷にいたグローソン側の警備兵とおぼしき者たちもおり、まだテレサを守ろうとする者も残っている。

 

 しかし、テレサの手にも真新しい血がついた剣が握られており、テレサは息荒く呼吸をしていた。

「ハァ、ハァ、ハァ、」と、テレサも共に戦っていたのだ。

 

 奴隷になって以来、アンコウに教えられてきた剣術が役に立っていた。自分の身は自分で守れと言っていたアンコウの言葉をテレサは何度も思い出していた。

 

「おい!お前ら余計な抵抗はやめな!命を無駄にするこたぁないだろう?」

 テレサたちを囲んでいる男たちの一人が話しかけてきた。

 

 アンコウたちが屋敷の正門付近で戦っていた者たちの中には、このネルカの旧支配者であるロンドの貴族やそれに属する戦士と思われるもの達が多くいて、彼らが戦いの中心をなしていた。

 

 しかし、建物の中に残っている連中は、アンコウが斬り捨てた破廉恥漢3人組もそうだがあまりたちがよくないと思われる者どもが多い。略奪目的で邸内にいたことは明らかだ。

 

 この決起を先導したロンドの者たちは、より大きな騒動を起こすため、その兵となるものの質は問わず数を集めることを優先したようだ。

 

「おい、てめぇら、その女をこっちによこせ。そうすれば命だけは見逃してやる」

 

 テレサたちの状況は多勢に無勢だ。このまま戦って、テレサたちに勝ち目があるとはとても思えない。テレサとともにいる2人の警護兵も、無残に死ぬことは明らかだった。

 

 しかし、この残った2人の警護兵たちはなかなか見上げたもので、この多勢の敵を相手にしても、最後まで戦うつもりのようであった。

 

「……ありがとう」

 

 自身も体のあちらこちらから血を流しているテレサが、小さな声で左右の2人に礼を言った。2人の口元にわずかに笑みが浮かぶ。

 

「私どもはモスカル殿より、あなた方の警護を承っています。マニ殿に逃げられたあげく、あなたの身に何かあれば言い訳のしようがありませんから。

 まぁ、抗魔の力もなく、おそらくあなたより弱い私どもでは頼りなく思われるかもしれませんが」

 

「そんなことはないわ。あなたたちがいなかったら、私はここまで逃げられなかっただろうし、私は抗魔の力があっても戦いはただの素人以下よ。この力があっても、あなたたちにもあの連中にも私は勝てない」

 

「……なるほど。ならば我らは抗魔の力はなくとも、戦いの玄人であるところをお見せしなければなりませんな」

 

 そう言うと2人はまわりを囲む者たちに剣を突き出した。テレサもそれにならい剣を構える。3人とも戦うつもりだ。

 

「おい、テレサ!いい加減にしないか!そんな物騒なものは早く捨てて、こっちに来るんだ!」

 

 テレサたちを囲む男たちの中から、戦士には見えない男が前に出てきた。

 

 テレサは自分の名を呼び、声をかけてきた男のほうをあらためて見る。

 その男は他の者とは違い剣は持っていない。いや、武装することを許されていないのだ。

 その男の首にはテレサと同じく奴隷の首輪がはめられており、何やら多くの荷物を持たされている。その男は敵方の荷物持ちの奴隷であった。

 

 そしてテレサはその荷物持ちの奴隷の男の顔を知っていた。その男の顔を見るテレサの顔がひどく歪む。

 

「……あなた、」

 

 テレサたちを取り囲む男たちの中から、なぜかどこか得意げに声を張って出て来たのは、元アネサのトグラスの宿屋の主人であり、テレサの夫であった男。

 テレサとこの男の婚姻関係は、テレサたちが奴隷の身分に落ちた時に慣例的に解消されてはいるが、それと本人たちの意識とはまた別の問題である。

 

 テレサの元夫も今は奴隷。この屋敷に押し入ってきた暴徒の中に、テレサの元夫の奴隷主となった者がいた。この元夫も自分の主に従って、荷物を抱えながらテレサたちをさっきから追ってきていた。

 そしてこの元夫は、テレサにおとなしく言う事を聞くようにと繰り返し命じてきていた。

 

 テレサにとっては、信じられない まったくひどい偶然であった。

 このテレサの元夫も、若いころは町でなかなかの美男子としてうわさされたこともあったのだが、今はまったく見る影も無い。

 

 酒と博打に長年おぼれ、家族を巻き込んで奴隷の苦界へと沈んでいった男だ。

 年はテレサより10歳ほど上の40代半ばのはずだったが、背だけは高いが、その容貌はすでに老人に見えるほど老け込んでいた。

 

「あの女がお前の女房だとはなぁ」

 テレサの元夫になかなかよい装備をした男が話しかける。

 

 テレサたちを取り囲む者たちの中に2人抗魔の力の保持者と思われるものが含まれていたが、この男はそのうちの一人。

 

「は、はい。ご主人様!」

「おい、お前はおれの奴隷だ。ならそのお前の女房はおれのもんになるんじゃないのか?」

「は、はい!そのとおりです!」

 

 この2人の無駄に大きな声の会話に、まわりの他の男たちがざわつき始める。

 

「おい、おい、そりゃねーよ、マルキーニョスさんよ。この女、独り占めにする気かよ!」

 

 まわりの者が口々に抗議するが、別に本気で怒っているわけではなく、みな口元には卑猥な笑みを浮かべていた。

 

「わかっている。おれに一番乗りの権利があるってことだ。後は好きにしたらいい」

「「えへへへ、」」 「「ぐふふふ、」」

 

 テレサはその会話する男たちの光景を見て、心臓が止まりそうになるほどの悪寒を感じた。

 

「おい、お前の女房はなかなか俺好みの体つきをしているじゃねぇか。どうなんだ?」

「はい、ご主人様。それはもう間違いございません!テレサは胸も尻も大きくご主人様のお好みにぴったりかと。それに胸は大きいうえになかなか感度もよく、好い声をあげますぞ!」

「おほーっ!そりゃあ楽しみだ」

 

 テレサの元夫は、まるでテレサが自分のもので、それをこの男に差し出す自分の手柄であるかのように話していた。

 テレサはそんな元夫の姿を見て、心の底から情けなく、恥ずかしく、腹が立った。

 この人はどこまで落ちていけば気が済むんだろうと、テレサは思った。

 

「なにを、勝手なことを言わないで!」

 

 テレサは思わず叫んでいたが、テレサの言葉に反応を示したものは誰もいない。

 

「しかし、お前の女房が抗魔だとはな。何人かあの女にも斬られた」

「は、はい。どういうことなのか私にも…も、申し訳ありません」

「いやぁ、いろいろ使い道が増えるってもんだ」

 

 マルキーニョスはそう言うと全員に向かって叫んだ。

 

「おい、お前ら!その女はおれが抑えるから援護しろ!それと男どものほうはこれ以上息をさせる必要はないからな!いけっ!」

 

「「オオッ!」」

 

 剣を持った男たちが、次々にテレサたちを目掛けて迫り来る。この連中に捕まったら自分がどういう目にあわされるか、当然テレサにもよくわかっている。

 テレサが奴隷になると決まったときに考えた最悪のケースのひとつが現実になる。

 

 テレサは目の前に迫り来る下衆のかたまりのような男たちを見て覚悟を決めた。

 戦って死ぬ。生きてこの連中に捕まるのだけは絶対に嫌だと。テレサはきつく歯を噛みしめ、剣を構えた。その時、

 

ドオォンッ!

 

 テレサたちに向かって押し寄せる男たちの背後で突然大きな爆発が起きた。数人の男たちがその爆発に巻き込まれて吹き飛ばされる。

 

「な、なんだ!」

「おい、どうした!何事だ!」

 男たちは一斉に立ち止まり、振り返って土煙のあがる方向を見た。

「せ、精霊法術か!」

「誰かいるのか!」

 

 しかし、男たちの視界に映るところには、誰の姿も見えず、ただ土煙があがっている。男たちの怒号と悲鳴が響き続ける。

 

ピンッ!

 ヒュンッ!ヒュンッ!

 

「あっ、」

 

 今度はテレサがいる斜め後ろの方角から、何かの物体が二つ飛んでいくのがはっきりと分かった。

 その物体は宙を弧を描くように飛んでいき、テレサたちを襲う連中の中に消えていった。

 

「うあぁーっ!せ、精霊封石弾だ!に、にげ」

ドォンッ!ドオォンッ!

「ギィヤァーッ!」

 

 男たちの悲鳴がいっせいにあがり、右往左往して逃げ惑う。

 逃げられる者はまだいい。今の爆発で、彼らの中には動かなくなってしまった者や手足が欠けてしまった者もいた。

 

 テレサが、その精霊封石弾が飛んできたほうを見ると、その方向の建物の影から姿を現した者がいた。

 そこにはテレサにとって思いがけない、それでいてずっと心のどこかで助けに来てくれるのを待っていた男の姿があった。

 

「……あっ!旦那様ぁ!」

 

 テレサの目にアンコウの姿が映る。アンコウはテレサのほうをじっと見ていた。アンコウは無言のままテレサのほうに歩み寄ってくる。

 

 突然現れたアンコウの姿に、テレサは抑えきれない喜びと安堵の思いを覚える。

 テレサは正直言ってアンコウがここに来てくれる可能性は低いと思っていた。だからこそ、自分で何とかしなければと思っていたし、死ぬ覚悟もした。

 

 気がつけばテレサは、こちらに歩いてくるアンコウに向かって自分から走り出し、アンコウの前まで来ると言葉なく立ち尽くした。

 安堵の思いと、未だ解けることなくつづく戦場の緊張感、相反する二つの感情がテレサの口から言葉を奪っていた。ただテレサは目の前にいるアンコウを潤む目でじっと見ている。

 

(……動けるようだな。そこまでひどい傷はないみたいだ)

 アンコウは無言のままテレサを見て、状態を確認する。

 

 遠目からでもテレサが全身に傷を負っていることがアンコウにもわかった。

アンコウはその傷の具合を心配していたのだが、走りよってきたテレサを間近で見て、どの傷も浅く、大丈夫なようだと安心していた。

 

 アンコウはごく短い時間だったが、物陰からこの中庭にいる者たちの様子を観察していた。

 テレサがいるのは当然わかっていたのだが、それでもすぐに助けに入ることをしなかった。

 

 アンコウはここに自分より強い者がいる事態を恐れた。

 しばしの観察の末、テレサたちを囲む者たちの数は多いものの抗魔の力を保持している可能性があるものは2、3人とアンコウは見た。

 

 しかもその者たちから圧倒的な覇気を感じることはなく、特別に剣技を修めているような動きでもなかった。

 それを確認してアンコウは、ひそんでいる物陰で、ひとりニタリと笑みを浮かべていた。

 

 もし仮に、この連中の中にアンコウより強い者がいたならば、その時アンコウがどうしたかはわかりきっている。

 

 アンコウが投げつけた精霊封石弾、それはここに来るまでの途中の廊下に落ちていたもの。

 その精霊封石弾を落とした獣人の男は、アンコウに首と右腕を斬り飛ばされた状態で、この屋敷の片隅で眠っている。

 

 アンコウはテレサを囲んでいる連中が動き出したのを見て、一つ目の精霊封石弾の栓を抜き、連中の後方を狙って投げつけた。

 そして、それと同時に連中を殺すため動きはじめたのだ。

 

 

「大丈夫か?間に合ったみたいだな」

 アンコウはテレサの目を見つめ、テレサの頬に手をあてながら言った。

「は、はい……」

「助けに来たぞ、テレサ」

「だ、旦那様…」

 

 テレサは自分の頬をさわるアンコウの手のほうに顔を傾け、その剣を持つ手からはいつのまにか力が抜けてしまっていた。

 

「て、てめぇ!これはお前の仕業かぁーっ!」

 

 ようやく状況を把握したテレサを襲っていた者たちがアンコウに敵意を向けてきた。

 そしてアンコウは、今の一連の爆発で少し距離は開いたようだが、自分たちの周りを囲むように展開している男たちをゆっくりと見渡した。

 

 アンコウが投げた3発の精霊封石弾によって倒れた者、大きなダメージを負った者が少なからずいることを確認する。

 

「うるせぇな。でかい声を出してんじゃねぇよ。人に戦争を仕掛けておいて、女の尻なんか追ってるからそんなザマになるんだ。心配するな、これからゆっくり残ったお前らの相手もしてやるよ」

 アンコウは彼らを前に余裕を持った態度で言い返す。

 

 そのアンコウの余裕の態度が彼らに警戒心を抱かせ、一斉に攻撃することを躊躇(ちゅうちょ)させた。

 物陰に隠れながら、この連中の力の程を事前に見極めていたからこそ生まれたアンコウの余裕である。

 

 敵の中に自分より強い者がいれば迷うことなく逃げ、敵の中に自分より強い者がいなければ一切の手加減なく踏みにじる。アンコウが戦場で生き残るためのポリシーだ。

 それは相手が魔獣であろうと人間であろうと変わりはしない。

 

 だが、逃げられないほど強い敵が現れたときはどうなるのだろうか?――そのときは死ぬ、あるいは自由を奪われる、あるいはカマを掘られる。

 

(どうしようもないよなぁ)

 アンコウはこれまでに自分の前に敵として現れた強者たちを思い出す。

 

 強者から逃げ切ることはきわめて難しい。そのことはアンコウの右腕に黄金色に光る腕輪が証明している。

 そしてアンコウは今、この目の前にいる連中から逃げ出す必要性はまったく感じていなかった。

 

「く、くそぉ!てめぇぶっ殺してやる!」

 

 男がアンコウに言い放つ。

 それでもアンコウの態度は変わらない。こいつらはおれを殺すことはできなし、カマを掘ることもできない。アンコウは余裕の表情で首を傾げてみせた。

 

 そしてアンコウは敵方にいる一人の男に目を向けた。

 

(……まったく、ろくでもない奇跡の再会だな)

 

 テレサと彼らのやり取りも少し見ていたアンコウは、テレサの亭主がここにいることも知っている。それにアンコウ自身も彼の顔を覚えていた。

 アンコウはある意味、あの男の扱いに一番困っていた。

 

(相変わらずのクサレっぷりだな、あの親父は。…いや、前以上にひどくなってるか……それでもな……)

 

 アンコウの感想もテレサと同じようなものだったが、女ではなく、結婚の経験も無いアンコウにはテレサの本当のところの思いまで推測することができなかった。

 

 アンコウの目にあの男がどれほどどうしようもない男に見えても、テレサとあの男は長年夫婦として時を過ごし、子も為した仲なのだ。

 アンコウは答えを求めてテレサの顔を見た。

 

「なぁ、テレサ。あいつはお前の……」

 

 そのテレサはアンコウに元夫の存在をそれとなく問われ、それまでアンコウの顔を見ていた視線を下に落とした。

 

 そしてテレサはスッと顔をあげると、向こう側にいる亭主のほうを見た。

 その元夫を見るテレサの目からは何ともいえない怒りと軽蔑、憎悪と哀れみの感情が噴き出していた。

 

(こ、怖ぇな、なんて目で見てるんだよ)

 

 テレサ自身も気づいていないのかも知れないが、なつかしき亭主を見るテレサの目は、もしアンコウがあの亭主なら、全力で逃げ出したくなるほどの冷たさを放っていた。

 そこにはアンコウがこれまでに一度も見たことがないテレサの厳しい表情があった。

 

「あんな人は知りません。昔どこかですれ違ったことがあったとしても、今の私には何の関係もありません。……あんな人!生きようが死のうが、どうなっても私には関係ない!」

 

 テレサが周囲に響く甲高い声で言い放った。それは離れたところで右往左往していた元夫の耳にもはっきり聞こえた。

 

「な、何だとテレサ!そ、それが亭主にいう言葉か!お、お前はさっきから、お前はおれの言うことを聞いていればいいんだ!」

 

 アンコウの精霊封石弾による攻撃をうけて、情けなくただウロつくことしかできないこの男も声だけは大きい。

 

 アンコウもその元夫の実に身勝手な叫びを聞いて、あきれてしまった。

 自分の勝手で家族まで巻き込んで奴隷に落ちた奴が、いつまで一家の大黒柱を気取ってるんだと。この男は愚かに過ぎ、哀れに過ぎる。

 

「旦那様、あんな男は知りません」

 テレサはアンコウにだけ聞こえるような声でもう一度言った。そのテレサの目も声も実に冷たい。

「……そ、そうか」

 アンコウには、ただテレサに同意することしかできやしない。

 

 

「お、お前たち!敵は一人増えただけだ!うろたえるな!まずあの男をぶち殺すんだ!」

 

 マルキーニョスではない。アンコウが抗魔の力の保持者と見ているもう一人の男が、仲間たちの後方から声を張り上げた。

 その声にマルキーニョスたち前衛の男たちが答える。

 

「お、おおう!そうだ!てめぇらいくぞ!あのふざけた野郎をまず血祭りにするんだ!」

 

 その掛け声を合図に、幾人かの男たちが再びアンコウたちのほうにむかって剣を手に走りはじめた。

 

「アンコウ殿、援護します!」

 テレサを守っていた男たちがアンコウに声を掛けてきた。

 

「俺は大丈夫だ。テレサを頼むよ」

 

 アンコウはそう言って自らも動き出した。



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第34話 暴力夫の末路

(バカだよなぁ、こいつら)

 

 アンコウは白刃をきらめかせて、迫りくる男たちを見て思った。

 この連中もおそらく精霊封石弾の1つや2つは用意しているだろう。しかし、アンコウのように使うことをしない。

 テレサという女を手に入れ、思うように(なぶ)るという欲望から開放されていないからだ。

 

 精封弾を使えば、テレサも巻き込んで、壊してしまうかもしれない。テレサの体の刀傷がいずれも浅いものであったのも、同じ理由だろうとアンコウは思っている。

 

 もしアンコウがマルキーニョスの立場にいれば、ありったけの精封弾を使い、テレサもろともアンコウを吹き飛ばそうとするだろう。

 

(敵がバカな分には大歓迎だ)

 

 アンコウは後ろに回した手から何かを取り出し、再び前面の敵目掛けて何やら物体を投げつけた。

 

「うわぁ!ま、まだ持っていやがった!」

「精封弾だっ!」

「ハハッ!誰が打ち止めだって言ったよ!」

 

 アンコウに迫ってきていた男たちは一斉に足を止め、アンコウが投げつけたものから逃げようとする。

 

パリンッ!

 アンコウが投げつけたものは地面に接すると同時に、先ほどのように爆発するのではなく、ただ砕けた。

 

「「あ!?」」

 アンコウが投げつけたものは精霊封石弾ではなく、アンコウが飲み干したポーションの空き瓶だった。

 

「資源の有効利用さ」

 

 アンコウは連中が怯んだ隙に一気に距離をつめていた。そして手に握られた剣はすでに、標的めがけて振り下ろされ始めていた

 

「ギャーッ!」

「グワァーッ!」

 

 アンコウの剣をうけて、一番先頭を走っていた2人の男が血飛沫をあげながら崩れ落ちる。

 そのままアンコウは足を止めることなく、真っすぐにマルキーニョスに迫る。

 

「つ、つまらねぇマネを!なめるなよっ!」

 

(全員引っかかってるじゃねえかよ)

 

ギャンッ!

 アンコウがジャブを打つように繰り出した剣戟を、マルキーニョスは全力で何とか受け止めた。

 

「み、見たかっ!」

「ああ、目は見えているんでね」

 

 そして、アンコウは無言のまま、いつのまにか口に含ませていた鉄粒を勢いよくマルキーニョスの目玉を目がけて噴き出した。

 

プッ!!

「ギャアーッ!」

 

 互いの剣と剣とを押し合う近距離である、アンコウが狙いを外すことはなかった。

 目玉に鉄粒をめり込ませたマルキーニョスは、剣を闇雲に振り回しながらフラつくように後退していく。

 しかしアンコウは、弱った敵を逃しはしない。

 

 アンコウは間髪あけずにマルキーニョスに斬りかかり、その両腕を斬り落とした。

 

「ギィヤアァーッ!!」

 

 その突然出現した凄惨な光景に、まわりにいる反グローソンの敵どもだけでなく、テレサたちも言葉を失う。

 マルキーニョスに、もはや戦意はない。

 

「ひひぃっ、あがあぁー、」と言葉にならない呻き声をあげながら、フラフラと今にも崩れ落ちそうになっていた。

 

 しかし、アンコウのマルキーニョス一人に対する攻撃はまだ終わっていなかった。

 アンコウは両腕がなくなったマルキーニョスの装備の中に、残りひとつとなっていた精霊封石弾をねじ込んだ。

 腕がなく、もはや半死半生となっているマルキーニョスは、その精封弾を取り除くこともできない。マルキーニョスは人間爆弾となった。

 

 そのマルキーニョスをアンコウは、さらに敵の男たちがいる方向へおもいっきり蹴り飛ばしたのだ。

ドォガッ!!

 「「う、うわぁーっ!」」

 

 剣を持った男たちが、蹴り飛ばされてきたマルキーニョスから蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。アンコウが持っていた精封弾は3つとも爆発系の火の精霊封石弾。

 

ドオォンッ!と爆ぜた。

 

 肉が焼け焦げるいやな匂いが周囲を漂う。誰も動く者がいない。

 敵も味方もマルキーニョスだった肉塊を見て言葉を失っていた。

 

 残酷な光景であったし、最後の精霊封石弾を無駄に使ったようにも思える。しかし、それはアンコウの計算どおりの光景でもあった。

 

 連中がアンコウを見る目に明らかに強い恐怖の色が混じるようになっていたからだ。

 アンコウは攻め寄せる足が完全に止まってしまった敵の男たちをぐるりと見渡している。

 

 マルキーニョスよりも強いかもしれない者は、アンコウの見るところ一番後方に控えている獣人の戦士だけだ。

 しかしその獣人の戦士とて、アンコウはマルキーニョスとドングリの背比べであろうと見ていた。

 

 その男を含めて、ここにいる全員がアンコウに恐れをなしていた。

 

「ハハッ、こりゃあ気持ちがいいな」

 アンコウ初めての体験である。

 

 アンコウは片手で剣を構え、もう片方の手にはマルキーニョスを蹴り飛ばす時に彼から引っぺがした亜空間収納の背嚢(はいのう)をしっかりと持っていた。

 

 マルキーニョスの野郎は威張っていた。きっと大事なものは、あの信用ならない奴隷の荷物持ちに預けることなく、自分で持っているに違いないと、殺したついでに奪い取った。

 アンコウの戦利品であり、お楽しみ袋みたいなものだ。

 

 後方にいる獣人の戦士も、近くにいる者も、誰も動こうとしない。

 それを見てアンコウは、片手で構えていた剣をゆっくりとおろし、離れたところにいる獣人の戦士を見つめ、おどけるように首を傾げながら虫を追い払うように剣を振ってみせた。

 

 それは、とっとと消えろというアンコウの意思表示だった。アンコウはこの獣人の戦士はマルキーニョスと違い、頭を使い、損得を考えて行動するタイプだとみていた。

 

 この男はずっと後方で全体を見渡しながら、アンコウが現れるまではどこか面倒くさげに指示だけを出していた。

 おそらくこの男は周りにあわせていただけで、明らかに自分より強いと思われる相手を敵に回してまで、女を欲しがってはいないだろうと。

 

 そして今も逃げ出さずに踏みとどまっているのは、背中を見せたとたんにアンコウに攻撃されることを恐れているからだとアンコウにはわかっており、それゆえアンコウは態度で消えろと示して見せたのだ。

 

 獣人の戦士は、アンコウのその意思を正確に読み取ったようだ。

 獣人の戦士は相当警戒をしているようであったが、このままここにいても殺されるだけだと覚悟を決めたのか、アンコウに背中を見せると脱兎(だっと)のごとく走り出した。

 

 獣人の戦士の姿はすぐに建物の中に消え、アンコウの視界からいなくなった。

 アンコウはその場から動くことなく、ただそれを見ていた。

 

 そして、この中庭にいた他の者たちも、次々にその獣人の戦士のあとに続き、アンコウの前から消えていく。

 

 

「ふうーっ、」

 アンコウはその光景を見て、大きく息を吐き出した。

(よし。これ以上、余計な斬り合いをせずに済みそうだな)

 

 アンコウにはこの連中が戦闘を放棄してくれるならば、それを追いかけてまで戦い続けなければならない理由はない。

 アンコウが余計なリスクと無駄な体力の消耗を避けるために、わざと自分の力をみせつけるようにマルキーニョスを惨たらしく殺してみせた効果は上々であった。

 

 アンコウは手に持つ剣を鞘におさめ、空いた手を奪った魔具鞄の中に突っ込んだ。

(オオッ、結構いいもんが入ってるな)

 

 アンコウは魔具鞄の中を確認しながら、どこを見るわけでもなく、大きく声だけを発した。

 

「さてと……おい!残っている奴らは俺とやるつもりなのか?」

 

 ほとんどの者が去った後も、この場にわずかながら残っている者たちがまだいた。

 アンコウは煩わしそうに眉間にしわを寄せながら、周囲を確認する。

 

「ん?」

 その残っている者の中にはテレサの亭主の姿もあった。

 

 アンコウが奇妙に思って残っている者たちを確認すると、そこに残っている全員が首に輪っかをはめていた。奴隷だ。

 

 彼らは自分の所有者である主をアンコウに殺された者たち。彼らはいずれもすでに武器を放棄しており、アンコウと戦う気もまったくない。

 アンコウは彼らにむかって、大きく手を払うように振った。

 

「おい、お前らも()る気がないなら、さっさと消えろ。それともご主人様の仇討ちでもするつもりなら相手になるぜ」

 

 アンコウにそう凄まれて、彼らは首を振ったり、手を振ったりして、そんなつもりはないことをアピールしていた。

 しかし、それでも彼らはこの場から去ることを躊躇(ちゅうちょ)していた。

 

「んだよ、こいつら」

 

 アンコウが煩わしさを隠すこともなく(あら)わにしていると、テレサの横についていた屋敷の警護兵の男たちがアンコウに近づいてきた。

 

「アンコウ殿、彼らは主をなくした奴隷のようです」

「ああ、みたいだな」

 

「ご存知かとは思いますが、奴隷は、たとえその主が死んでも奴隷であるという身分は変わりません。戦いで主が敗死した場合、たとえその主が奴隷の死後処分に関して何か言い残していたとしても、その戦いの場で捕らえられた奴隷に関しては、勝利者にその所有の優先権があるとされています」

 

「……ああ、そうだったなぁ」

 

 アンコウは知識として知ってはいたが、アンコウに彼らを自分の奴隷にする意思などなく、そのことは言われるまでまったく頭に浮かんでいなかった。

 

「なあ、あんたなら、あいつらいるかい?」

「えっ?いえ、私は、」

 警護兵の男は首を横に振る。そして男は言葉を続ける。

「アンコウ殿、売れば多少の金にはなるかと思いますが」

 

 アンコウにそうすることを進めているというのではなく、よくある事実として一応言っておいたという感じだった。アンコウはその進言にただ苦笑いで答えた。

 

 アンコウが彼らを相手にすることなく、その場から動き出そうとしたとき、アンコウの一番近くにいた奴隷の男が近づいてきた。

 

「あ、あの!」

 

 その男はテレサの亭主とは違って、戦闘中は剣を手に持って戦っていた奴隷だった。だからといって、それはテレサの亭主より扱いが良いと言うわけではない。

 たいした力もないのに戦場で剣を持たされる奴隷など、盾代わりの使い捨てに過ぎない。ある意味、荷物持ちのテレサの亭主より過酷な扱いだ。

 

「なんだよ」

「あ、あの、わしらはこれからどうしたら、」

 主がいなくなった奴隷の行く末など、ろくなものではない。

「知らねぇよ。さっきの連中のところに行けばいいだろ」

 

 アンコウの言うとおり、アンコウに彼らを所有する優先権はあるが、別に彼らの所有者になったわけではない。

 アンコウにしてみれば、逃げた先で勝手に奴隷をやっていろと言うところだ。

 

「い、いや……あいつらのところは嫌なんだ……」

 

 よほど待遇に不満があったのだろう。この男たちはさっきの連中のところに戻っても何も変わらないと考え、この場に残っていた。

 アンコウはその男の言動を見て、つまりこの奴隷の男は、アンコウのところでもっと待遇のいい奴隷にしてくれと言っていると判断した。

 

「……うっとおしいな」

「えっ」

 

 アンコウはこの奴隷の連中にかける情けなどこれっぽっちも持ってはいない。

 大体ついさっきまで自分を殺そうとしていた奴らだ。図々しいにもほどがあるとアンコウは腹が立った。

 

 アンコウはついさっき鞘におさめたばかりの剣を引き抜き、自分にふざけたことを言っている男に剣先を突きつけた。

 

「ヒィッ!」

 

「消えろ。お前らを俺の奴隷にして何の得があるんだよ。売り飛ばすのも面倒だ。会ったばかりの人間にすがってんじゃねぇよ、気持ち悪りぃ。こっから先は自分の力であがきやがれっ!」

ドスッ!

 アンコウは男の腹のあたりを押すように蹴った。

 

「ヒィッ!」

 男は蹴られた勢いで、地面に倒れたが、別にダメージを負うような蹴り方をされたわけではない。

 

「消えろ!殺すぞ!」

「ヒイィィッ!」

 

 アンコウに怒鳴られて、奴隷の男はあわてて立ち上がり走り去っていく。その様子を見ていたほかの奴隷たちも恐れをなしたように逃げていった。

 

 

「さてと、」

(まぁ、思ってたよりも余計な戦いをせずに済んだな)

 アンコウは少し安心したように一度大きく深呼吸をした。

「フゥーッ、……んっ?」

 

 

「いい加減にして!あなたが私たちに何をしたのかわかってるの!」

 

 アンコウが、ほっと一息ついていると、少し離れたところにいるテレサの大きな声が聞こえてきた。

 アンコウがテレサのいるところに目をやると、テレサが自分の前に(ひざまず)いている元亭主に向かって、怒りの声をあげているところだった。

 

「……はぁー。テレサがこっちに来ないと思ったら、あっちもか」

 

 テレサの元亭主は、まだ逃げずにこの場にとどまっていた。

 この男がここに留まっている理由・目的は、逃げていった他の奴隷たちと同じであったが、この男はアンコウに直接すがるのではなく、元自分の女房であるテレサにすがりついていた。

 

「……もう、勝手にしてくれ」

 

 ほとほと面倒になってきたアンコウは、すぐにテレサのところに行こうとせず、脱力して、その場に立っていた。

 それでも周りが静かになったこともあり、テレサたちの会話がアンコウの耳にもとどく。

 

「頼む、テレサ。お前からお前の主人に頼んでくれ。もうあいつらのところには戻りたくないんだ」

 

 テレサのこの男に対する怒りは限界を超えていた。

 テレサは、この男の好き勝手に人生の半分以上耐えてきた。その挙句この男の借金が原因で店は奪われ、奴隷の身に落ちた。

 

 そして何の因果か久しぶりに会ったと思ったら、自分と同じく奴隷となったこの男は、自分の主たちの玩具として元女房であるテレサを喜々として差し出そうと、ついさっきまでしていた。

 

 それをよくも何もなかったかのように、恥ずかしげもなく自分に頼み事などできるものだと、テレサは本気でこんな男は知らないとあきれ果てていた。

 

 テレサの忍耐が限界を超えていることを知ってか知らずか、この男はさらにテレサの心を刺激する言葉を吐いた。

 

「なぁテレサ、2人で何とか元の生活に戻ろう。俺たち2人がそろっていたほうが、ニーシェルも喜ぶってもんだ」

 

「なっ!」

 

バシィッ!

 亭主が横っ面を強烈にテレサにひっぱたかれて吹き飛んだ。

 大切な娘であるニーシェルの名前を出されてテレサの怒りが沸点を超えたのだ。

 

「ふざけないで!あの子には、もう父親はいない!たとえいたとしてもそれはあなたみたいなクズじゃないわ!あんたみたいなクズ、誰の親にもなれやしない!」

 

 この男が再びニーシェルの前に現れるようなことがあったら、あの子は必ず不幸になるとテレサは思った。テレサは母親として、それだけは絶対に許せなかった。

 

「あなたはあの子に何をしたの!あなたはあの子の不幸の原因でしかないわ!2度とその口であの子の名前を呼ばないで!……そうよ、あなたなんか死ねばいい。そうすれば、あなたはもうあの子に何もできなくなる、あんたみたいなクズは死ねばいい!、~~

 

 それから続いたテレサの元亭主を罵倒する言葉も、相当強烈なものだった。

 少ししたら間に入ろうかと思っていたアンコウも、そのテレサのあまりの剣幕に近づくことをためらったぐらいだ。

 

 それは、これまでに溜めに溜めたテレサのこの元亭主に対する負の感情が一気に噴き出している感じだった。

 

「なんかスゲェな。どこの昼ドラだよ」

 

 しかし客観的に今の状況をみれば、テレサの吐く言葉は確かに強烈ではあるが、テレサが一方的に元亭主を口で攻め立てているだけであり、アンコウはいくら怒り狂っているとはいえ、あのテレサがそれ以上の暴力行為に走るとは思わない。

 

 逆にアンコウはテレサのあまりの剣幕を見て、この機会に少しテレサの心の中に溜まっているものを吐き出させたほうがいいと思った。

 

 実際テレサもどれだけ腹が立っていても、これ以上の暴力的な行為を元亭主に対しておこなうつもりはなかった。

 

 しかし、そこにアンコウの油断があり、想定外の事態を招くことになってしまった。アンコウはテレサではなく、テレサの元亭主の愚かさをまだ低く見ていたのだ。

 そのためにアンコウは、筋金入りの愚か者の極みというものを見ることになってしまう。

 

「だ、黙れーッ!!」

 

 テレサの元亭主は、テレサに殴られ、さらに自分に対する悪口雑言を受けてキレたのだ。

 

 テレサはトグラスで女将をしていたころ、一時期夫婦喧嘩をよくした時期はあったが、ここまで無情な口撃をこの男に加えたことはなかった。

 テレサは常に最後まで我慢していた。しかし今のテレサにとって、この目の前にいる男はただの厄介な他人にしか見えていない。

 

 それがこの元亭主にはまったく理解できていなかった。

 自分の所有物ぐらいに思っていた妻という名の女に強烈に自分を否定され、攻め立てられて、周りの状況も何も関係なく、ただ怒りだけで反応した。

 

 本当にどうしようもない男だった。

 確かにテレサの強烈な言葉の羅列ではあったが、元女房のテレサの怒りを買った原因はすべて自分自身にあるにもかかわらず、この男はキレた。

 しかも、信じられないことにこの男は地面に転がっていた刃物を手に取ったのである。

 

「バカがっ!」

 それに気づいたアンコウは慌てて走り出すが、距離的に間に合わない。

 

「な、何を」

「ち、ちくしょーッ!」

「や、やめてーっ!」

 

 亭主がテレサに向かって、刃物を手にしたまま突っ込んでいく。

 

「おい!やめろーっ!」

 

「ギャアァァー!」

 

 絶叫が響き渡る。

 目の前でその瞬間を見たアンコウは、思わず走る足を止めた。

 

「ちぃ、クソッ!」

 

 刃の先が背中から突き出していた。突き刺した剣が完全に体を貫いている。

 

「あ…あ…あぁっ…」

 テレサが小さな声を漏らしながら、体を(おこり)のように震わしていた。

 

 テレサの震える両手は、しっかりと元亭主の体を貫いている剣の柄を握っていた。

 

そう、亭主の手に持つ刃はテレサにとどくことはなく、その前にとっさに引き抜いたテレサの剣が亭主の体を刺し貫いていた。

 

 刺したテレサも、刺された亭主もその状態のまま、体を震わせ固まっている。

 そんな二人の間近にまでアンコウは近づいていき、状況を見極めようとする。

 

(……これは…だめだな)

 アンコウはポーション瓶を取り出そうと、先ほど奪った亜空間背嚢の中に手を突っ込んでいたのだが、そのまま何も掴むことなく手を取り出した。

(……どうしようもない)

 

 テレサが元亭主を刺した傷は、明らかに致命傷だった。

 アンコウの持つ背嚢の中に入っているポーションでは救うことはできないと、アンコウは判断した。そのアンコウの判断は正しい。

 

 あまりに刺し貫かれた場所が悪すぎた。すでにこの亭主にこの世で残された時間は極わずかしかないだろう。

 

「アガ、アガガ、ガ、」

 元亭主の口から漏れる声は、すでに言葉にもなっていない。

 

(本当に、このバカは、)

 アンコウは激しく顔を歪ませながら、もはや死相の浮かんでいる男の顔を見ている。

 

「ガハッ!」

 元亭主が口から血を吐き、それがテレサにもかかる。

 亭主の吐いた血が顔にかかったことで、我を取り戻したテレサが叫び声をあげようとした。

「キ、キャアァ」

ドンッ!

 ドサンッ

 しかし、テレサは叫び声をあげる前に誰かに突き飛ばされて、地面に尻もちをついてしまった。

 

「……な、なにを、え?だ、旦那様?」

 

 尻もちをつきながら、顔をあげたテレサの視線の先に、自分がさっきまで握っていた亭主の体を貫いている剣の柄を握るアンコウの姿があった。

 強引にテレサの場所を奪ったアンコウは、ためらいなく無言でテレサの亭主に突き刺さっている剣をさらに深く突き入れた。

 

「フガボォ、」

 亭主の口からさらに血が溢れ出てきたが、もうこの男の意識はほとんどない。

 

 もはやこの男の体には力が入っておらず、崩れ落ちるだけとなっている。

 それをアンコウが男に刺さった剣を持つことで、男が倒れるのを支えているような状態だった。

 

 そしてアンコウは男の呼吸が途絶えたのを確認してから、剣を持つ手の力を抜いた。

 テレサの元亭主であった男は、ゆっくりと地面に倒れ伏した。男にはもう息はなく、心臓はその鼓動を止めていた。

 

「テレサ」

 

 アンコウはテレサの名を呼び、テレサの顔を見る。

 目を見開き、口を半開きにし、呆気にとられていたテレサがアンコウの呼びかけに反応した。

 

「は、はいっ」

「テレサ、この男は俺たちを殺そうとした敵の仲間だ。俺が逃げる機会を与えたのに、それを無視して剣を取った。だから俺が殺した。自業自得だ」

「…あっ、」

 

 そしてアンコウは、手に持っていたテレサの亭主に刺さっていた剣を力いっぱい遠くに投げ捨てた。

 次いでアンコウは、周りをぐるりと見渡して、この場での面倒くさそうなことが完全に終了したことを確認した。

 

 そして、それ以上テレサに話しかけることなく、実は先ほどから目をつけていたもう一つのものに向かって歩き出した。

 アンコウの視線の先には、アンコウが肩にかけているものと同じような亜空間収納の背嚢らしきものを背負った戦士の死体が1つ転がっていた。

 

(んー、あれには何が入ってるかな。戦闘終わりのお楽しみ袋の追加だな)

 

 

「あ……旦那様」

 

 テレサはまだ地面にへたり込んだまま、どこかへと歩いていくアンコウの背中を見つめていた。

 

「テレサさん、大丈夫ですか?」

 そこに先ほどまでテレサを守ってくれていたこの屋敷の警護兵たちがテレサに声をかけてきてくれた。

 

「申し訳ない。あなたのそばに1人は残っておくべきだった」

「い、いえ、ありがとうごさいました」

 

 その2人の警護兵も歩いているアンコウの背中を見ていた。

 

「テレサさん。アンコウ殿はあなたのために……」

「……はい、わかっています……」

 

 テレサも2人の警護兵も、テレサの元亭主は、テレサに突き刺された剣によって致命傷をうけていたことを理解していた。

 テレサはこの戦いで初めて人を剣で斬った。

 しかも、その中に元夫である男までいれば、そのショックはきわめて大きくなることは想像に難くない。

 

 だからアンコウは、わざわざもう助からないその男をテレサの前で自分の手で命を奪って見せた。

 テレサと警護の男たちは、アンコウのその行為はテレサの心の負担を軽くするためにしたことだとわかっていた………と、この3人は思っている。

 

 この警護の男たちも戦場に身を置くようになってから古い。戦場の経験が人の精神を深く傷つけることをよく知っている。

 

「テレサさん、大丈夫。今のあなたの主はあの人だ」

「……はい」

 

 警護の男たちと言葉を交わすテレサの声は、かすかに震えてはいたが比較的しっかりとしていた。そしてテレサのその目も正気は保っている。

 2人の警護の男たちはそれを見て、お互いに顔を合わせてうなずいた。

 

 短い間の付き合いしかなかったが、2人はテレサは強い女だと思っている。

 それに奴隷であるテレサのために、文字通り血をかぶってテレサの心の負担を軽くしようとしたアンコウがいれば、この女は大丈夫だろうとうなずいたのだ。

 

 3人の視線の先で、そのアンコウは独り立ち尽くしている。

 

「チッ、ロクなもんが入ってなかったな。大体この魔具鞄ほぼ壊れてるじゃないか。こんなもん戦場にまで持ち歩くなよっ。わざわざ取りに来て損したぜっ」

 

 アンコウは本当に数えるほどしか入っていない鞄の収納物を一応とり出して、その背嚢を放り投げた。まるでどこかの引ったくり犯のような振る舞いである。

 アンコウは2つほどのポーション瓶と小銭入れと思われる袋だけを自分の背嚢の中に入れた。

 

 そして残っていたボロギレのような毛布を1枚手に持つと、再びテレサたちのいるところへ向かって、アンコウは歩き出した。

 

 

 そのままアンコウは、息絶え血まみれで地面に倒れているテレサの元亭主の死体のある辺りまで戻ってくると、手に持っている毛布をバサリと広げて、この男の全身が隠れるようにフワリとその毛布を掛けてやった。

 

(死人に口なし…あー、これはちょっと違うな。どんな愚か者も、死ねば皆仏の身…だったかな)

 

 そしてアンコウは、テレサの横に立っている二人の男の向かって声をかけた。

 

「いろいろありがとう。助かったよ」

「いえ、これがわれらの仕事ですから」

「ああ、そうだ。モスカルも戻ってきてるぜ。さっきまでは正門の外のあたりで戦っていた」

「おお!そうですか。ならば俺たちは行かなければ」

 

 そう言うと2人の男たちは速やかにその場から去っていった。

 

「テレサ、おれたちも行こう」

「は、はい」

 

 

 

 

 アンコウは屋敷の中の一室にテレサと入り、テレサの傷の手当てをしていた。

 幸いテレサに大して深い傷はなく、これからこの町から脱出するにあたって、テレサを連れて行くことができるなとアンコウは判断した。

 

 アンコウとしてはここまで来てテレサをここに放置していくのはさすがに心苦しいと思っていたが、そうせざるを得ないと判断すれば、アンコウは自分の利益のためにテレサを切り捨てることも、今も選択肢に入れている。

 

 体の傷だけではなく、心の傷もそうだ。人によっては戦場で深く精神に傷を負い、まともな行動が取れなくなってしまう者も少なからずいることをアンコウも知っている。

 

 アンコウは、テレサは精神的には自分より強いのではないかとさえ思っていたが、それでも初めて人をその手で斬るという経験の衝撃は、人によってはかなり大きいものになる。

 

 ましてや、ロクでなしとはいえ元亭主を自分の手で殺したというのテレサの精神的ダメージは、テレサの人の良さゆえに間違いなく大きいだろうと、アンコウは思っていた。

 

 アンコウとしては、あんな男を殺したぐらいでテレサに壊れられては非常に困るのだ。

 だからあえてテレサの目の前で、アンコウ自らの手であの男の息の根を止めた。

 

 確かにそれをすることで、逆にテレサの精神にさらに大きいダメージを与えてしまう危険性もあるとは思っていたが、そうなったときこそ、テレサを放棄すればいいとアンコウは思っていた。

 そして結果的に、テレサの心はアンコウの望む良い方向に反応したようだ。

 

(少し心配だったけど、大丈夫そうだな)

 

 アンコウはテレサの服を脱がし、彼女の体の傷にポーションをひたした布を当て、傷によっては包帯を巻きつけるなどしていた。

 

「テレサ、痛くはないか?」

「……はい、大丈夫」

 

 テレサ自身もアンコウから渡されたポーションを一瓶飲み干しており、あまり高級といえるものではなかったが、ちゃんと効果は出ている。

 

「あの、旦那様、」

「ん?何だ?」

「助けに来てくれてありがとう」

「……当たり前だろう。お前を守るのも俺の役目だ」

 

 アンコウはかなり格好の良いように言った。しかしそのアンコウの言葉は、心にも無いことを言ったとも言える。

 ただ自分とテレサの関係を考えれば、真実はどうあれ、そう言ったほうがいいとアンコウは思った。

 

 テレサも心の中では、アンコウが完全に本心で言ったセリフだとは思っていない。

 ただテレサは、死んでしまったあの男よりも、この男のほうが何十倍もマシだと思っている。たとえ自分が奴隷の身でもだ。

 

 ウソかも知れないと思っていても信じているほうがいいこともある、ということをテレサは知っている。

 テレサは異世界人のアンコウよりも、この世界を生きる心の耐性を持っている大人の女。

 

 アンコウは傷の手当てを終えたテレサの肌を見ていた。白く柔らかい女の肌だ。

(……きれいだな)

 テレサの肌は本当にきれいだった。アンコウはこの女の肌の美しさに自分が関っていることを知っている。

 

 こうして間近でテレサの体を見れば、一時は本気でこの女を見捨てることを考えたことが信じられなくなってくる。

 

 しかし、そう思えてくるのは、多少安全な場所を確保したことによって湧いて出てきた男の色欲の力の影響にすぎない。そして、その欲の影響が、少しアンコウの行動にも現れた。

 

「ああっ。だ、旦那様、そ、そこは怪我はしていません」

「……ああ、そうだな」

 

 さすがにアンコウは今の状況で、あの連中のように劣情に完全に行動をゆだねるようなまねはしない。アンコウはテレサのそこから手を離す。

 その代わりに、後ろからやさしくテレサを抱きしめた。

 

「あぁ、旦那様」

「それからテレサ。俺があの男を殺したことは、ニーシェルには言うなよ」

「えっ、」

 

 この先またテレサが娘のニーシェルに会うことがあったら、間違いなくテレサは苦しむことになる。ニーシェルの父親が死んだこと。そして父親がどのようにして死んだかを話すこと。

 

 アンコウはそんなことはわざわざ話す必要はないし、悩んだりするだけ無駄だと思っている。しかし、このままでは必ずテレサは迷い、悩むことになるだろう。

 

「いいか、これは命令だ。ニーシェルにとっては、あの男は今もどこかで生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。それでいい。お前の主として命令する」

「は、はい……旦那様」

 

 アンコウのその気持ちは、ちゃんとテレサに伝わっているようだ。そしてアンコウは、テレサを抱きしめる手にグイと少し力を籠める。

 

「テレサ」

「は、はい」

「お前は俺のものだ。勝手に他の男に抱かれるな。勝手に壊れることも、死ぬことも許さない」

「……はい」

 

 アンコウは、この先テレサがその手で自分の亭主だった男を刺したことを忘れることはないだろうと思っている。

 それをテレサが自分の中でどう処理するかは本人次第だが、アンコウはテレサがこうしてそばにいる限りは、その痛みを可能な限り引き受けてもいいと思っていた。

 

 なぜならアンコウとしては、あの男が死んだことでうける心の傷など何一つないのだから。あの男をどんな殺し方をしたとしても、何ら心に痛みを感じることはない。

 

(ウソでも俺が殺したと思っていればいいのさ)

 

 テレサはアンコウの腕に抱かれたままで、アンコウのほうに顔をむけ、アンコウの顔を見上げた。

 

「……旦那様」

「テレサ」

 

「……んんっ」



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第35話 攫い攫われ ローアグリフォン

 ネルカ城下にある人気(ひとけ)のないとある建物の中。

 

「フフッ、楽しみだなぁ。来るだろうか、こいつの仲間は」

 

 ある男がある物を見て楽しげにつぶやく。

 男の目の前には一匹の魔獣の姿があり、その魔獣は何やら液体のようなものに包み込まれている。

 液体が入っている容器があるわけではなく、おそらく水がかかわる精霊法術でも使っているのだろう。しかし、それはめったに目にすることのない珍しい術だった。

 

 そのニコニコと笑っている男の後ろで、困ったものだと言うような表情で立っている一人の獣人の男がいる。

 

「ゼルセ様は、ロンド公の味方をされるのですか?」

「何を言っている、ガルシア。俺は一応グローソンの客将だぞ。ロンドに肩入れする義理も無い」

「しかし、それでは……」

 

 この2人の男、ひとりは白いエルフのゼルセ、もうひとりはその従者である獣人のガルシアだ。

 

 ガルシアは首をかしげながら、ゼルセが捕獲してきた魔獣を見つめる。

 当然ながら、人の住む町であるこのネルカは魔素が漂う地ではない。魔素がなければ、魔獣は生き続けることはできない。

 

 しかし、この液体に包まれている魔獣は明らかに生きているし、衰弱もしていない。

 魔獣を拘束し、しかも魔素のない地でもその生命力を維持させる。それこそが、ゼルセが使ったこの法術の効果であった。

 

 そして、その液体の中に拘束されている魔獣の名は、ローアグリフォン。その幼獣だ。

 ローアグリフォンも他の魔獣たちと同様、魔素の漂う地に限定して生息しているのだが、ローアグリフォンは人間や獣人など非魔素地域に住む者たちから特に警戒されている。

 

 なぜなら、このローアグリフォンは魔素のない地での耐性がかなり高いことで知られる魔獣であり、成体のローアグリフォンなら、その気になれば半日ほどは魔素のない地域でも活動をすることが可能だからだ。

 

 しかし魔獣の本能として、ローアグリフォンも魔素のない地には極力出てくることはない。しかし、まれに比較的魔素の漂う地の近くに住む者たちが、魔素の地より出てきたローアグリフォンに襲われたということが起こる。

 それゆえにローアグリフォンは、人間や獣人たちから他の魔獣以上に警戒されている。

 

 しかし、このネルカはもっとも近い魔素の森でも、馬を飛ばして半日はかかる距離が離れており、この町にこのローアグリフォンが現れたことなどとは聞いたことがなかった。

 

「ゼルセ様。その法術を解けば、ここには魔素はないゆえ、いかにグリフォンでも幼獣ではそんなにもたないのでは?」

「大丈夫だ。完全に解きはしない。ただこのローアグリフォンの子どもの呼び声が通るようにするだけだ」

「……そのようなことが」

「ああ、できる。風の精霊たちが、()()()()()()運んでくれるよ。ふふふ」

 

 ローアグリフォンは非常に子煩悩であることでも知られており、危機に陥ったローアグリフォンの幼獣は仲間を呼び寄せるため警戒が必要だとされている魔獣でもあった。

 ゼルセはこのローアグリフォンの幼獣を使って、この町にローアグリフォンの成獣を呼び寄せるつもりのようだ。

 

「ガルシア」

「はい」

「俺は別にロンドの味方をするわけじゃない。しかし、アネサもこの町も(いくさ)が終わるのが早すぎる。俺はまだまだ楽しめていないぞ」

 

 ガルシアは別に止める気はないようだが、仕方がないお人だというように首を振っていた。

 

「フフッ、ガルシアよ。ロンドの残党どもが悪あがきをするのは明日だったな」

「はい」

「あやつらだけではグローソン公も退屈するだろう。せっかくまた(いくさ)を始めてくれるというんだ。主を楽しませるのも客のたしなみと言うものだ。そう思わないか?ガルシア」

 

 ガルシアにとってはいつものことでもあるのだろう。ガルシアは自分の胸に手をあて、ゼルセにゆっくり頭をさげた。

 

「……どうぞ、ゼルセ様の思うがままに」

「ふふふっ」

 

 グローソン公ハウルもそうであったが、この世界の力ある者たちの楽しみというのは、ロクでもないものが多い。

 

 

 

 

 アンコウとテレサは手早く出立の荷物をまとめ、行動を始めた。アンコウは、ごく簡単に、今すぐにこの町を離れることになった経緯もテレサに話した。

 アンコウとテレサは、とりあえずこの屋敷の厩舎(きゅうしゃ)のほうに向かって走っている。走りながらテレサがアンコウにたずねた。

 

「旦那様、マニさんはいいんですか?」

「………」

 アンコウがじつに嫌そうな顔をして、斜め後ろを走るテレサを見た。

 

「テレサは一緒に行きたいのか?」

「えっ、私………」

 テレサは無言のまま、視線を下に向けた。

「……だったら聞くなよ」

 

 マニは間違いなく戦力にはなるが、マニ自身がその戦力を必要とする事態を引き起こすリスクのほうが大きいとアンコウは思っている。

 これから1ヶ月、ただ逃げなければいけないアンコウにとって、マニも一緒に行くなどという選択肢はない。

(絶対嫌だ)ということだ。

 

 アンコウたちは屋敷の廊下を走り抜け、厩舎(きゅうしゃ)のある屋敷西側の敷地に飛び出した。アンコウは馬が残っていてくれよと願いながら、すでに視界に入っている厩舎めがけて走る。

 

 そしてアンコウが厩舎(きゅうしゃ)の間近まで迫ったとき、厩舎の中から出てくる人の姿があった。その者もアンコウの存在に気づいたようだ。

 

「ああ!アンコウか!ちょうど良かった。私もさっき来たばかりだ」

「なっ!おまっ、」

 

 アンコウは声をかけてきた人物の前で足を止めた。その人物がアンコウの後ろをついてきていたテレサを見つける。

 

「テレサ!」

「マ、マニさん……」

「良かった!無事だったんだな!」

「え、ええ。ありがとう」

 

 そう、厩舎の中から出て来たのはマニだった。マニは両手に手綱を持ち2頭の馬を引きながら現れた。

 

「マニ!何でお前がここにいるんだ!」

「正門の連中はあらかた片付けたよ。後はモスカルたちだけで十分だ」

「だからって何でここにいるんだ!」

「ん?逃げるには馬があったほうがいいだろ?」

「正門のところにも乗ってきた馬がいただろう!」

 

「ははっ、さすがにあの騒ぎの中、馬を引いて屋敷の中を移動なんてしてられないさ。だからここで調達するしかないだろ」

「違う!俺たちが正門のほうに戻るかもしれないだろうが!」

「アンコウは戻ってこないだろう?それぐらい言われなくってもわかるさ。だから何も言わず行ったんだろ?とにかくテレサが無事でよかったよ」

 

( くっ、こいつ、何でわかる?何当たり前のことみたいに言ってんだ。エスパーかよっ)

 

 アンコウが腕をプルプルと震わしていると、テレサがマニに話しかけた。

 

「あの、マニさん。馬は2頭だけ?」

「ああ、こいつらが最後みたいだ」

「何!」

 

 アンコウはマニの横をすり抜け、厩舎(きゅうしゃ)の中を覗き込む。マニの言うとおり、中にはもう一頭の馬も残っていなかった。

 

「…………」

 アンコウは無言のまま、顔を後ろに戻し、マニが持っている馬の手綱をこれまた無言のまま奪い取った。

 

「どうしたアンコウ」

 

 アンコウはマニの問いかけには答えず、そのまま一頭の馬の背に飛び乗った。

 そのアンコウの行動はそれほど荒っぽいものではなかったが、マニの意見を聞くようなそぶりは一切ない。

 

「お、おい、アンコウ?」

 

 アンコウはマニの呼びかけはまったく無視して、馬の背の上からテレサに話しかける。

 

「テレサ、馬乗れたよな?」

「は、はい。一応」

「じゃあ、こっちに乗って」

 アンコウはもう一頭の馬の手綱をテレサに渡す。

「は、はい」

 

「おい、アンコウ!私はどうするんだ?」

 完全に無視されていたマニが大きい声でアンコウに聞いてきた。

 

「……マニ、お前とはここでお別れだ。お前には散々迷惑を掛けられたが、多少世話になった気もしないでもない。一応感謝しておく。だが、ここからは俺たちだけで行く。

 お前はソロの冒険者だろう。マニ、お前はお前の居場所に帰れ。

 今この町ではグローソンとロンドの残党との戦いがまた始まっている。お前は傭兵稼業もこなす冒険者みたいだから、このままこの町の戦いに首をつっこむのもいいだろうし、気が乗らないのならアネサに帰るのもいいんじゃないのか、マニ…………

 なぁ、マニ、お前ひとの話を聞けよ……」

 

 マニは、アンコウがマニに向かってしゃべっている途中から動き出し、手際良くもう一頭の馬にテレサを前に乗せて、その後ろに自分が飛び乗っていた。

 

「アンコウ!テレサのことは任せろ!」

 

 故意であるかないかの差はあるが、人の話をスルーする能力も、やはりアンコウよりマニのほうが高いようだ。

 

「……………」

 アンコウは無言のまま冷たい目でマニを見ている。

 

「あ、あの旦那様」

 テレサは心配そうな顔で、アンコウを見たり、後ろのマニを見たりしている。

 

 しかしアンコウは、マニに向かって声を荒げることも、これ以上マニに行動を別にすることを主張することもしなかった。

 アンコウは、これ以上いろんなものをここで無駄にすることを避けた。

 

「…………さぁ、行くか。とにかく町の外に出るんだ」

 アンコウは能面のような顔をしてそう言った。

 

 もはやアンコウはマニの顔もテレサの顔も見ていない。アンコウは馬の手綱を引き、屋敷の外に向かって馬首を返した。

 そんなアンコウにマニたちも続く。

 

「よしっ、行くぞ。アンコウ!テレサ!」

「……………」

「……………」

 

 アンコウは黙って馬を歩かせながら、心の中では、

(うがあぁぁーーっ!このヤロォーーッ!)と、絶叫していた。

 

 テレサは時おりアンコウの顔色を窺いながら、アンコウは怒っているんだろうなと思いながらも、黙ってマニと一緒に馬の背に座っていた。

 

 そして、馬に乗った3人は共にこの屋敷をあとにした。

 

 

 

 

 町のあちこちから火や煙があがり、多くの人々が逃げまどっていた。アンコウはそれを避けながら馬を走らせる。

 しかし、町全体が混乱しているために、馬を走らせる速度を上げることはできなかった。

 

「アンコウ!こっちの道が空いているぞ!」

「だめだ!ここからは見えないが、初めに集中的に爆発が起きていたのは町の東のほうだった。今頃どうなっているかわかったものじゃない」

 

 アンコウは一時馬を止めて、あらためてここまでに見た爆発や煙があがっていた方角を思い出す。確実はないが、最善を選択しなければならない。

 

「とりあえず、南門を目指すぞ!」

「わかった」

 

 アンコウたちが、馬首を南門へとつづく道へ向け、再び走り出そうとしたときだった。

 

――「キャアァァー!たすけてぇーっ!」――

 

 子どもの悲鳴が聞こえた。そしてその悲鳴が急速に近づいてくる。アンコウはその違和感に、思わず走りだそうとしていた馬を止めた。

 

「何だ!?」

 

 その子どもの悲鳴が接近してくる速度もおかしいが、その声が空から聞こえてきていた。アンコウは警戒しつつ、視線を上に向けた。

 

「キャアァァーッ!」

ゴワアッッ!!

「何ぃぃ!」

 

 大きな影がアンコウたちの頭上をかなりの速さで飛び去っていく。

 巨大な鳥動物のような生き物が空を飛んでいた。アンコウはかつてこのようなものを見たことがなかったが、それが動物ではなく魔獣であることは瞬時に判別できた。

 

「なんで魔獣がこんなところに!」

 

 アンコウはまれに魔素のないところにも魔獣が出没することは知っていたが、こんな町の真ん中で魔獣を見るなんてことは初めてだった。

 

「ローアグリフォン!」

 そして、アンコウの横にいるマニがそれを見て叫んだ。

 

(ローアグリフォンだと!?)

 

 その魔獣の形体は、アンコウが元の世界で聞いていたグリフォンとはいささか違うようだが、とにかく体も羽も大きくて、鳥と獣が入り混じったような魔獣であることは間違いなかった。

 

「あれが…(怖っかねぇ!)」

 

「いやだあぁぁーーっ!」

 子どもの泣き叫ぶ声がアンコウたちの真上で響く。

 

 飛び去ったかと思ったローアグリフォンは、アンコウたちの頭上の空を大きく旋回していた。

 そして、そのローアグリフォンとともに、小さな子供の姿も見えていた。

 

 ローアグリフォンは体つきは動物のようであったが、その足には4本ともに鳥のようで大きなカギヅメがついていた。

 

 空を飛ぶ子どもが生きているのは、その子どもがローアグリフォンの巨大なカギヅメに掴まれているのではなく、何があったのかはわからないが、祭りで使うような派手な色彩の縄がローアグリフォンの後ろ足に巻きついており、その縄のもう一方が、その子どもにからみ付いていたからだ。

 

 そのために、その子は空を飛ぶローアグリフォンの後ろ足から、縄につながれて宙吊り状態になっている。

 

(かわいそうだがどうにもできないな)

 

 この状態を見てアンコウは、いっそ高いところから落ちて、苦しむことなく死んだほうがあの子のためだとさえ思った。

 

「チッ、」

(ますますやばくなりそうだ、急ごう)

 

 アンコウはローアグリフォンの登場にさらに危機感を募らせ、あらためて、少しでも早くこの町を出なければと思った。

 そして、アンコウが再び飛び去って行くローアグリフォンから視線をはずし、馬の手綱を引こうとしたとき、

 

「待てぇーっ!!」

「ちょっ!マニさん!?」

 マニが飛び去っていくローアグリフォンの後を追って、突然全力で馬を走らせ始めた。

 

 マニたちは土煙をあげながら馬を走らせ、その場にとどまるアンコウから急速に離れていく。

 

「待てぇーー!」・・・・・………

 

 おそらくマニと同じ馬に乗るテレサも何か言っているのだろうが、もうすでにアンコウの耳にテレサの声は聞こえていない。

 

 アンコウは口を半開きにし、瞬きもせず、どんどん小さくなっていくマニたちが乗る馬を見ていた。アンコウは、何度マニの猪暴走をみせられても慣れない。

 

 しかし、あきれにあきれたマニの行動にアンコウが呆然としたのは実際には極短い時間だった。

 わずかな時間で我を取り戻し、自分が乗る馬のほうに目をやったアンコウは、すでに意を決していた。口は一文字に硬く閉じ、目つきは鋭く前を見る。

 そして、アンコウも馬を走らせ始めた。

 

 テレサやマニに背を向け、町の南門を目指して。

 

 アンコウがゆく道の先にマニたちの姿はない。アンコウは可能な限り、走る馬の速度を上げていく。

 

(仕方がない。マニの馬鹿にはこれ以上付き合っていられないし、これも運命だ。こっから先はテレサの運次第だ。俺と一緒に来たら必ず生き残れるってわけでもないからな)

 

 そう、マニはともかく、アンコウはわざわざ迎えにいったテレサのこともあっさりと切った。

 あれだけかっこいい台詞をテレサにむかって言っていたのに。ほんの少し前、やさしくテレサを抱きしめていたのに。

 

 アンコウは、できればもうグローソン公には会いたくないと思っているが、腕輪のこともある。

 グローソン公との賭けの勝ち負けに関係なく、成り行き次第で、またグローソン公たちに会う必要が出てくるだろうと思っていた。

 

 その過程で、ここでテレサと別れても、生きていればまた会うことになるかもしれない。だからテレサを見捨てたわけではないと、アンコウは都合の良いように自分の中で理由付けた。

 

 それに、たとえこれでテレサと2度と会うことがなくなったとしても、自分と一緒に行くのもマニと一緒に行くのも、テレサの今後の人生の可能性に大きな差はないだろうと、お互いの人生の行く道がここで分かれただけだと、アンコウは割り切ったのだ。

 

 多少アンコウを擁護するなら、アンコウは自分の死後、あるいは行方不明時のテレサの処遇については、テレサの奴隷の首輪にきちんと(しる)してある。

 

 テレサにつけられている首輪はアンコウの腕輪と違い、非常にチープな代物だ。所有者であるアンコウ以外でも、よほどひどい奴隷商会でもない限り簡単に取り外すことができる。

 この騒乱が静まった後で、どこかの奴隷商会にでも行けば、その内容は明らかになるだろう。

 

 むろん、そう上手く事が運ぶためには、テレサが適切な時と適切な人物に恵まれる必要はあるが。それを含めてテレサの運次第である。

 これが、このときのアンコウが選んだアンコウにとっての最善の選択だった。

 

「行こう」

 

 アンコウはひとりつぶやき、逃げまどう人たちを避け、テレサたちとは違う方向に遠ざかり、小さくなっていった。

 

 

 

 

「ちょっ、ちょっとマニさん!どうするつもりなの!」

 

 テレサは振り落とされないように、もの凄い速さで走っている馬のたてがみを必死で掴んでいた。

 

「決まってる!あの子を助けるんだ!」

 マニはそう言うとさらに走る馬の速度を上げた。

 

 普通の女なら、とっくの昔に振り落とされているだろう激しい馬の走りであったが、テレサは両足でしっかり馬の胴を挟み、両手でしっかりと馬のたてがみを握っており、一度も落ちそうはなっていない。

 テレサの筋力があればこそなせることだ。

 

 マニの手綱さばきも見事なもので、先ほどまではアンコウにあわせて、馬を走らせていたようだ。

 マニたちが追っているローアグリフォンも本気の速度は出しておらず、マニたちは離されることなく、ローアグリフォンについて走ることができていた。

 

ドオォンッ!

「フギャーッ!」

 突然の爆発音とローアグリフォンの悲鳴。

 

 地上から飛んできた火球がローアグリフォンを捉えた。

 

 しかし、たいしたダメージもローアグリフォンに与えていない。

 マニたちの視線の先に、今の攻撃を行ったと思われるダークエルフの男と、長槍を手に持った数人の戦士が道の真ん中に立っている。

 

 どうもこのグローソン軍には、比較的多くのダークエルフが属しているようだ。

 そのダークエルフが、続けて2発目の精霊法術による攻撃を行おうとしていた。

 

「グゥギャアァァーッ!!!」

 

 自分を攻撃してきた地上にいる者たちに頭を向けたローアグリフォンは、大きく口を開き、彼らに向かって凄まじい咆哮(ほうこう)をあげた。

 これは、ただの咆哮(ほうこう)ではない。破壊的な音波振動を伴うローアグリフォンの持つ攻撃手段の一つだ。

 

「ギャーッ!」「わぁーっ!」「キャーッ!」

バリンッ!バリンッ!

 ガシャガチャンッ!

 

 周囲にいる人たちが次々に倒れ、ガラス製と思われる窓や通りのショーケースも次々に割れていく。

 

 マニとテレサも、怯え暴れた馬の背から振り落とされていた。

 

「くそっ。テレサ、大丈夫!?」

「え、ええ。驚いたけど、問題ないわ」

 マニもテレサも怪我はしていないようだ。

 

 ローアグリフォンの破音咆哮によって、2発目の精霊法術による攻撃は阻止された。

 そして、テレサたちの前方で、その攻撃を阻止されたダークエルフが、急降下してきたローアグリフォンによって襲われていた。

 

 先ほどの精霊法術の攻撃力から推測するに、このダークエルフの戦闘能力はそれほど高くはない。無残にローアグリフォンの鋭い爪によって地面に押さえつけられ、鋭い(くちばし)と牙による攻撃をうけていた。

 

「こ、この化け物めーっ、ギャアーッ!」

 

 悲鳴をあげ、動かなくなるダークエルフ。

 一緒にいた戦士たちが長槍を繰り出すが、まともにあたっていない。

 

「は、離れろーっ!」

 

 彼らはローアグリフォンに対する恐怖によって、完全に腰が引けていた。

 そしてローアグリフォンの足元には、おそらくまだ10歳にもならないだろう女の子がいた。

 

 女の子は幸いにも衝撃少なく地面に着いたようだが、ローアグリフォンの動きにあわせて人形のように地面を引きづられている。

 意識はあるようだが、自分の思うようにはまったく動けていない。

 

「ガグゥアッ!」

 

 ローアグリフォンは、前足の下で動かなくなったダークエルフから離れ、咆哮をあげながら次の標的である長槍の戦士たちに向かって鉤爪(かぎづめ)を繰り出した。

 

「うわぁっ!」

「ヒ、ヒィッ!」

 次々と舞う血しぶき、彼らでは魔獣ローアグリフォンを倒せそうもない。

 

「あっ!」

 その様子をどうすることもできず、ただ見ていたテレサの口から、小さく驚きの声があがる。

 思うままに暴れ続けるローアグリフォンの背後にもの凄いスピードで迫る人影が見えた。

「マニさん!」

 

 ついさっきまでテレサの隣にいたマニが、いつのまにかローアグリフォンに接近していた。ローアグリフォンも、未だマニの接近に気づいていない。

 

「ああっ!た、助けてくれえっ!」

 

 マニの接近に気づいた長槍の戦士の一人が、思わず叫ぶ。

が、それによってローアグリフォンにもマニの接近を気づかれてしまった。

 ローアグリフォンが接近するマニを見た。

 

「チッ!」

 それでもマニは走る速度を落とさない。そのまま、ローアグリフォンに肉薄する。      

 眼前に迫ったマニに向かって、ローアグリフォンは容赦のない前爪による攻撃を仕かけた。

 

「グガアッ!!」

 

 しかし、上から下に叩き潰そうとでもするように、マニを襲ってきた鋭く大きい鉤爪(かぎづめ)をマニは難なくかわした。

 

「マニさん!」

 その様子を少し離れたところから見ていたテレサが思わず声をあげる。

 

 ローアグリフォンの初撃をかわしたマニは、地面を力強く蹴り、大きく跳びあがった。そして、ローアグリフォンのさらに頭上を舞うように飛んだ。

 マニは、そのままローアグリフォンの頭を跳び越え、再び地面に着地。

 

ズザアッ!

 

 マニは周りで血を流しながら倒れている者たちを一顧だにすることなく、地面についた瞬間、気合一声、

「オオッ!」 ローアグリフォンに斬りかかった。

 

 それに気づいたローアグリフォンは後方に飛びさがるが、完全にかわすことはできず、女の子が引っかかっていない方の後ろ足を、マニの剣によって斬り裂かれた。

 

ザシイャッ!

「グギャアァ!!」

 

 マニの戦闘に関する能力は高い。このチャンスを見逃すわけもなく、さらなる攻撃を加えようと動き出そうとしたとき、少し離れたところにいるテレサの声が聞こえた。

 

「マニさんっ!上よっ!」

 

 そこには、別の方向から、いつのまにか近づいてきていたローアグリフォンがもう一頭、上空から猛烈な勢いでマニにむかって襲いかかろうとしていた。

 テレサの声に反応したマニは瞬時に体をひねり、そのままの勢いで宙を斬り裂く。

 

ザシイャッ!

「グギャーッ!」

 

 飛び散る青い鮮血。

 その青い血とともに、新たに現れたローアグリフォンの前足が一本、マニの足元に転がった。

 

 しかし、その足を一本斬り落とされたローアグリフォンは、地面を転がることなく片足で踏みとどまり、強烈な怒りの形相でマニをにらみつけていた。

 

「グゥギャアァーッ!」

 そのローアグリフォンによるマニを狙った破音咆哮が響く。

 

「ぐうぅぅーっ、ガアアァーーッ!」

 しかし、マニはその近距離からの破音咆哮にも耐えてみせた。

 

 マニは再び剣を構えて、前足を一本斬り落としたローアグリフォンに向かって攻撃をはじめた。

 

 少し離れたところで、さっきまで、そのマニの戦いを見ていたテレサが、剣の柄に手を伸ばし身構えている。

「ああっ」(どうしよう!)

 

 マニが後から現れた一頭に気をとられている隙に、はじめの一頭がその場から飛び離れた。

 そして、次に着地した場所の近くに、テレサはいた。

 

 マニは新たに現れた もう一頭の相手をしており、マニの助けは期待できない。

 急速にテレサにむかって近づいてくるローアグリフォン。

 

「大きい、来ないで、」(怖いっ)

 恐怖で体が硬直するテレサ。

 しかし、そのテレサの意識が劇的に変化する。

「あっ」

 近づいてくるローアグリフォンの足には、まだあの女の子が引っかかっていた。

 

 テレサの目が、その女の子の姿をはっきりと捉えてしまった。

 生きているだけでも奇跡と言えるその女の子の顔は、ただ恐怖に固まり泣いていた。

 

 剣を構え、戦闘態勢をとったテレサだったが、そのローアグリフォンはテレサを攻撃することなく再び飛び上がり、テレサの頭のすぐ上を通り過ぎ、上昇していく。

 

「キヤアッ!」

 

 このローアグリフォンの後ろ足にはマニに斬りつけられた傷があり、その傷から止まらない血が、地面へと流れ落ち続けていた。

 

 テレサは、自分の頭上はるか上空に飛んでいったローアグリフォンを見つめている。いや、テレサが見ているのは、そのローアグリフォンにぶら下がっている女の子だ。

 

 テレサの顔についさっきまでの恐怖の色はなく、変わりにその表情に(あらわ)になっているのは怒りだ。

 

 テレサは見てしまった。自分の頭のすぐ上をその女の子か飛び去っていくとき、恐怖に固まり、涙に濡れた女の子の目がテレサの顔を見たことを。

 そして、声は聞こえなかったが、その女の子の口がテレサを見ながら『お母さん』と動いたことを。

 

 テレサはその瞬間、自分の体の中を血とともに巡っていた魔獣ローアグリフォンへの恐怖が、血が沸騰するような怒りに変換されていくのを感じた。

 テレサは、その女の子に数年前の幼い頃の我が娘の姿を重ねた。テレサは口を真一文字に固く結ぶ。

 

(あの子にも母親がいる。きっとこの町のどこかで生きて、あの子を探している)

 

 魔獣に対する恐怖で、目に溜まりつつあった涙は消え、テレサの目にも怒りが宿る。

 

 そしてテレサは近くにあった武器屋めがけて走り出した。通りに面して立っているその店は、どこにでもあるごく普通の外観をした武器屋。

 ただこの戦闘のせいで、ショーウィンドウのガラスが一部壊れ、全面にヒビが入ってしまっている。

 

 そしてその展示用の武器の中に、客寄せ用、あるいは一種の飾り品と思われる大きな強弓(ごうきゅう)が置かれていた。

 テレサはその店の前まで走ってくるとためらいなく、ヒビの入ったガラスを素手で強く叩く。

 するとショーウィンドウのガラスは上から下に、砂城が崩れるように砕けていった。

 

 そしてテレサは、展示されていたその大きな強弓(ごうきゅう)と一本だけ共に置かれていた矢を手に取った。

 その弓にも矢にも派手な装飾が為され、派手な飾り紐までついている大きな弓と矢であった。

 

「お、おい!ちょっとあんた!」

 

 するとその店の中からテレサに声を掛けてくる者がいた。どうやら隠れていたこの店の主らしい。

 

「あんた、それをどうする気だ?」

「ごめんなさい、ご主人。ちょっとお借りするわ。子どもを助けないといけないの」

 

 店の主も今の外の状況はわかっている。テレサがあの弓で、あの空飛ぶ化け物を射るつもりだということも理解した。

 

「無茶だ!その弓は一流の武器職人に作らせたものだが、大の男でも一人で引けるもんじゃない。あくまで飾り用の品だよっ」

 

 テレサはそう言う店主に向かって、微笑を浮かべる。そしてテレサは矢はつがえずに、おもむろに大弓の弦を引いてみせた。

 

「なあっ!」

 驚きに目を剥く店主。

 テレサは苦もなくその大きな強弓の弦を引いた。このところのテレサの筋力の増強には目を見張るものがある。

「……あんた、抗魔の力の保持者か。しかし、その細腕で」

 

 店主が驚く顔を見て、テレサはアンコウが自分の二の腕を触りながら、何でこんなに細くて柔らかいのにそんなに力が出るんだと、首を傾げていたのを思い出した。

 

「お借りしますね。矢は返せないかもしれませんが」

 

 テレサはそう言って空に浮かぶローアグリフォンをにらみつけた。

(矢はひとつしかない。一発勝負ね)

 

「あんた!ちょっとまってくれ!」

 

 今度は店の主はテレサのほうに走り寄ってきた。テレサは少ししつこいと思いながら、近づいてきた店主のほうを見た。

 

「これを使ってくれ」

 

 店主は手に壷のようなものを抱えており、それをテレサにむかって差し出した。壷の中には何か液体のようなものが入っている。

 

「これは?」

「毒だ」

「毒!」

 

「そうだ。その弓を使ってまともに当てたとしても、あのデカブツにどこまで通用するかはわからん。しかも矢は一本しかない。この毒は強い神経錯乱系の毒だが、うちにある致死系の毒より魔獣相手にはおそらく効果があるはずだ」

 

「でも、あの子どもに当たったら」

 

「同じことだろう。このままじゃあの子どもは絶対に助からん。今生きているほうが不思議だ。助けたいのなら、強烈な一撃をあの化け物に入れるしかないんじゃないか?私だってあの子どもを助けてやりたいと思ってるんだ」

 

「…………」

 テレサは無言のまま、店主にむかってうなづいてみせた。

 そして、手に持つ矢の矢じりを店主が持つ壷の中に突っ込んだ。

 

「頼んだよ、姉さん。あんたとあの子どもに大精霊様のご加護がありますように」

「……はい」

 

 毒壷から矢を取り出したテレサは、再び道の真ん中まで走り出た。

 哀れな女の子をぶら下げたローアグリフォンは、宙に浮かび、ほぼ静止している。

 

 地上では仲間であるもう一頭のローアグリフォンがマニと激しく戦っており、明らかにその戦況はマニが有利な状況にある。

 しかし、宙に浮くローアグリフォンの意識は、マニたちのほうには向けられていない。

 

 このローアグリフォンは魔獣である自分たちにしか聞けない声を聞いていた。

 ローアグリフォンは無魔素状態における耐性が強い魔獣であるとはいえ、本来ならば魔素の地域からこんなに離れた人の町までやって来るなどということはしない。

 

 彼らがこの町にやって来た理由はたった1つ、助けを求める彼らの子どもの声を聞いたからだ。

 彼らの子どもが、この町にある屋敷にいわば誘拐監禁されている。今も自由を奪われ拘束されているローアグリフォンの幼獣は、ひとり助けが来るのを待っている。

 

 そしてその幼獣を攫ってきた犯人は、もはや幼獣が監禁されている屋敷にもいない。

 

 誘拐犯の白いトンガリ耳は、自分にとって必要なすべての処置をなし、ローアグリフォンの幼獣を放置した。

 そして今頃この町のどこかで、この状況を楽しんでいるのだろう。

 

 低空で宙に浮かぶローアグリフォンは、声の発信源を探すように遠くをじっと見ていた。

 そしてその状態は、ローアグリフォンにぶら下がっている子どもを助けようとするテレサにとって、まぎれも無いチャンス。

 

 そのローアグリフォンを見上げるテレサの脳裏にチラリとアンコウの顔がよぎる。

 さっきまで一緒にいたアンコウは、ここにはいない。マニと違いテレサは、アンコウがすでに独り去って行ったことをわかっていた。

 

 驚きはない。テレサはアンコウがそういう男だと知っているから。

 でも、(ひどい人)とは思う。同じ日に自分を絶望的な状況から救ってくれたかと思えば、あっさりと捨てる。

 自分は奴隷で、アンコウはその奴隷の主だから、テレサはアンコウのことを裏切り者だとは思わない。ただ(ひどい男だ)とテレサは思う。

 

「……私がやるしかない」

 

 あの子を助ける。私を見て、涙を流しながら『お母さん』と言ったあの子を助ける。――テレサはそのことに自分の精神を集中させていった。

 

(だめ。私にあの細い縄だけを射抜く技術はない。この矢をあの大きな魔獣の体に当てる!)

 

 テレサは意を決して、弓と矢を持つ手に力をこめた。

 

「時間はないわ」

 

 テレサは大きく息を吸い、太い毒矢を大きな弓につがえ、その強弓(ごうきゅう)を引きながら矢先を空に向け静止する。

 それは、大弓とテレサの体から、ギシギシと音が聞こえてきそうな光景であった

 

 店の中から外を窺い見ている武器屋の店主は、空に向け強弓(ごうきゅう)を引き絞るテレサを見て、抗魔とはいえ、あの細い腕の女の身で、よくもああも軽がるとあの弓を扱えるものだと感心していた。

 

 しかし、空に浮かぶ魔獣に狙いを定め、強弓(ごうきゅう)を引いたまま静止しているテレサ自身に、それほどの余裕があるわけではない。

 ただあの女の子を助けたいとの思いで必死になっていた。

 

 テレサの額から幾すじもの汗が伝いはじめる。テレサは狙いを定め、ジッと待つ。

 弓を引くテレサの姿勢は美しい。

 

 テレサに弓の使い方を教えてくれたのもアンコウだった。

 

『的を見ろ。頭を動かすな。胸を張れ。腕を下げるな。体に型を覚えさせるんだ』

 

 テレサはいつものように、後ろからアンコウの声が聞こえてきた気がした。

 

「 くたばれ、このクソ鳥犬」

 

 テレサはアンコウの口調をまねて、小さな声で悪態をついた。

 風に揺れていた弓についている飾り紐が不意に動きを止めた。そしてテレサは無言のまま矢を持つ手を離した。

 

ヒイィュューーウンッ!

 

 風切り音を後ろに残し、飾り紐をたなびかせながら、太い矢がローアグリフォンにむかって一直線に進む。

 

「グガッ!」

 宙に浮いているローアグリフォンが、近づく矢に気づく。

 

(お願いっ!当たって!)

 

 テレサは矢を放った体勢のまま微動だにしていない。ただ心の中で祈っていた。

 ローアグリフォンが矢を避けるためにわずかに動いた時点で、テレサが放った矢は到達した。

 

「ガガアァウゥーッ!!」

 

 ローアグリフォンが衝撃に悲鳴をあげる。

 

 テレサはローアグリフォンの体の真ん中を狙って矢を放った。

 実際には、その矢はローアグリフォンの後ろ足、女の子が引っかかっているほうの足に突き刺さっていた。

 

 ローアグリフォンの足に矢が突き刺さったのを見て、テレサは息を飲む。まだテレサの目的は達していない。

 

「グガガァーッ!」

 

 矢が足に刺さった衝撃と痛みで、宙に浮いているローアグリフォンは悲鳴をあげつづけ、矢が刺さった足を振り回すように大きく動かしていた。

 そして、その足の動きに連動して、その足に引っかかっている女の子も大きく揺れる。その女の子の様は、地上からはまるで乱暴に扱われる人形のように見えた。

 

「ああっ!危ない!」

 

 テレサは思わず大声で叫ぶ。

 そして次の瞬間、振り回されていた女の子がひとり大きく宙を舞う。ローアグリフォンと繋がっていた縄が切れたのだ。

 

「ああっ!」

 

 宙に放り出された女の子の体が重力に引き寄せられ、加速しながら地面にむかって落ちてくる。

 

 テレサは手に持っていた大弓を放り出し、女の子が落ちてくる場所にむかって必死で走り出した。テレサの目は落ちてくる女の子だけを映していた。

 

「間に合ってぇーっ!」

 

ズザザザザァァー!

ドサンッ!!

 

 テレサは女の子が地面にたたきつけられる前に、しっかりと自分の胸と両腕の中に抱きしめた。

 

「ぐはっ!」

 地面と女の子とのあいだにサンドウィッチになる形で、テレサは地面にたたきつけられた。

「ぐうっ、」

 

 それでも女の子は、テレサの胸の中でしっかりと抱きかかえられていた。

 

 

 テレサのすぐ目の前に女の子の顔がある。とても軽い。まだ10歳にもなっていないだろう女の子。

 

「………ねぇ、大丈夫!?」

 テレサはまだ体に痛みを感じつつも、女の子に言葉をかけた。

 

 女の子の目がテレサの顔を見た。顔中が涙と鼻水とヨダレで汚れているが、そこには何一つ不潔さはない。

 女の子を見るテレサの顔に、子どもを安心させるための(いつく)しみの笑みが浮かぶ。

 

「もう大丈夫よ」

 

 そうテレサに声をかけられた女の子の顔がぐしゃりと歪む。

 

「う、うわあぁーん!あー!」

 

 そして女の子はテレサの腕の中で大きな声で泣き出した。泣き続ける女の子の頭をテレサは優しくなで、つつみこむ様に泣きじゃくる女の子を抱きしめた。

 

————————

 

「グガァーッ!」

 

 マニの剣をうけたローアグリフォンの片翼が青い鮮血とともにドサリと地面に落ちる。

 一対一で戦闘をつづけていたマニとローアグリフォンの戦いも終わりが近い。

 

 マニの体にも傷はついているがいずれも浅い。

 マニが戦っているローアグリフォンは、テレサに矢を射られた個体よりも一回りほど小さいようだが、それでもローアグリフォン相手に一人で戦い、終始優勢を保っているマニの実力は相当なものがある。

 

 マニは深手を負わしたローアグリフォンに最後の足掻きをする隙を与えない。

 マニは魔獣が一瞬姿を見失うほどの速さで動き、大きく飛び上がる。

 片翼に前片足をなくしているローアグリフォンは、すでにマニのその動きに対応することができない。

 

「だあぁーーっ!」

「!!ゲフンッ、」

 ドズウゥンッ!!

 

 マニの剣がローアグリフォンに深く突き刺さった。しかし、ローアグリフォンは最後の咆哮をまともにあげることもできなかった。

 マニの剣はローアグリフォンの頭の天頂から顎下に突き抜け、最後はローアグリフォンの頭を地面に縫いつけてしまっていた。

 そのローアグリフォンは頭部の周りに血溜りをつくり、そのまま息絶えた。

 

「があぁぁーっ!」

 

 最後に響いたのはマニの勝利の雄叫びだった。

 

 

 マニの戦闘における勝利を嗅ぎ取る嗅覚は確かなものだ。しかし、そのマニの欠点はおのれの戦闘に没頭するあまり、周りの状況判断をしなくなることだ。

 

 マニは目の前のローアグリフォンを倒すまで、もう一頭のローアグリフォンとテレサのことを完全に忘れ去っていた。

 

「あっ、テレサ!テレサはっ!」

 

 意識さえすれば、当然マニのいる場所からもテレサの姿が目に入る。テレサは地面に座り込んでいた。

 そして、その腕の中に小さな子供を抱えているのが、マニの目に映った。

 

「テレサッ!大丈夫!?」

 

 マニは大きな声をあげて、テレサの安否を確かめようといるほうへ向かって走り出した。

 

 そのときマニの頭の上から、大きな破音咆哮が響いた。テレサに弓で射られたもう一頭のローアグリフォンだ。

 

「グギイィヤアァァーーッ!」

 

 それに続いて、

バリンッ!バギィッ!

 バリビシィィッ!

 いろいろなものが壊れていく音が響く。

 

「ぐうぅぅっ!」

 

 マニも思わず頭を押さえながら、空を見上げる。

 空の上にいるもう一頭のローアグリフォンは、やはりマニが今倒した個体よりも一回り体が大きい。

 

 しかし、その様子が明らかにおかしい。宙に浮きながらもがき、相手もなく暴れていた。

 

「何だ?」

 

 マニはそのローアグリフォンの様子に驚きながらも再び走り出し、テレサの元まで駆けよっていく。

 

「マニさん!」

 テレサが駆けつけてくれたマニの名を呼ぶ。

 

 テレサの腕の中ではまだ女の子が泣いていた。女の子は体中あちこちを怪我しているようだったが、命にかかわるようなものはないようで、テレサはひと安心していた。

 

「テレサ!大丈夫かい?」

「ええ。マニさんも」

「……その子はあのローアグリフォンに引っかかっていた」

「ええ、この子も大丈夫みたい」

 

「グギイィヤアァァーーッ!」

 

 また上空でローアグリフォンが叫んでいる。今度の破音咆哮はテレサたちがいる方向への影響は少なかった。

 

「くっ、あいつは一体どうしたんだ?」

「あのローアグリフォンに毒矢を射たの。精神錯乱系の毒だって言っていたからその影響かも」

 

 空の上にいるローアグリフォンは確かに錯乱しているようだ。

 

「でも、あの破音咆哮、力を増していないか?」

 

 正確に言えば、力を増しているというより力の制御が利かなくなっているという感じだ。

 

「……ええ。暴走しているのかしら」

 

 テレサは錯乱するローアグリフォンのほうを窺いながら、不安そうに言った。

 マニが空で狂乱している魔獣をにらめつけながら、剣を構えなおす。

 

「テレサ、その子を連れて隠れてて」

 マニのその言葉にテレサがうなずいたとき、

「あっ!」

 と、空を見上げるマニが声を発した。

 

 そのマニの声に驚いたテレサが空を見ると、ローアグリフォンが足に刺さった矢についている飾り紐をたなびかせながら、どこかにもの凄いスピードで飛び去っていく姿が見えた。

 

「チッ!逃げたか!」

「……大丈夫かしら。あの魔獣、また町のどこかで暴れるんじゃ……」

 

 マニが言うようにあのローアグリフォンが逃げたとはテレサは思わない。ただ錯乱しているだけ。

 あのローアグリフォンが錯乱しているのはテレサが射た毒矢が原因。

 そのために錯乱し、さらに暴れだしたあのローアグリフォンが、またどこかで誰かを襲わないかと、テレサは心配になった。

 

 マニは構えた剣を下ろし、テレサのほうを振り返る。

 

「でも、テレサ。よくやったな」

「えっ?」

「テレサがその子を助けたんだろ」

 

 マニは、テレサが抱きかかえている女の子を見て言った。テレサが自分の腕の中にいる女の子を見る。

 

「……ありがと」

 女の子はまだ目にいっぱい涙を溜めながらも小さな声で、テレサにお礼を言った。

 

 それを聞いたテレサの顔に、心から染み出たような慈愛のこもった笑みが浮かぶ。

 確かに錯乱したローアグリフォンのことは心配だが、この子が助かってよかったと、テレサは自分がしたことを誇らしく思えた。

 

・・・・・・・・・・・「グギアァァーーッ!」

 

 遠くのほうから聞こえるローアグリフォンの叫び声がさらに遠ざかっていく………。

 

 

 

 

 逃げ惑う人を避け、迂回し続けたせいで、思った以上に時間がかかってしまったが、アンコウはようやく南門近くの広場まで到着していた。

 そしてアンコウはすでに視界に入っている門にむかって、休むことなく馬を進めて行く。

 

 そこにアンコウの名を呼ぶ声が響いた。

 

「アンコウ殿―っ!」

 

 アンコウはその声に聞き覚えがあった。

 どうしたものかと一瞬考えたが、このまま無視して町を出ることはできそうもなく、アンコウは仕方なく馬を止めて、声が聞こえたほうを振り返った。

 

 振り返ったアンコウの視線の先には、馬を走らせ近づいてくるモスカルの姿があった。しかもアンコウにとってまずいことに、モスカルは20人は越えているであろう手勢を背後に付き従えていた。

 

「チッ、もう少しなのに」

 

 馬を走らせて、モスカルがアンコウの目の前まで来る。

 

「おお!アンコウ殿!」

「どうしたんだ、モスカル?」

「どうしたとはこれまた。先ほども言いました。私はアンコウ殿のお世話をするのが、私に命ぜられている役目だと」

 

 アンコウはこのモスカルと言う男はじつに面倒だと思っている。このモスカルの言葉はそのまま受け取ることはできない。

 そもそもこの男は世話係という名の監視員だ。

 それをこの期に及んで実に誠実面をしてもっともらしく言葉を吐く。間違いなく頭が良いだけに面倒だ。

 

 アンコウは顔には内心の感情の動き、思索の動きを一切みせることなく、この男を追い払うべく口を開いた。

 

「いい加減にしろ!モスカル!」

 

 アンコウは突然モスカルを一喝し、グローソン公ハウルによってはめられた金色の臣下の腕輪が輝く右手を、モスカルにむかって突き出した。

 

「俺はグローソン公より、直接この腕輪を賜った。いわば、今ではグローソン公の直臣ともいえる立場にある男だ。お前が俺の監視を命じられたときとは違うんだ!」

 

「お言葉ですが、アンコウ殿。私はお世話役であり、あなたの監視など」

 

「黙れモスカル!そんな敵を欺くような詭弁はいらない!それともお前はこの腕輪をする俺をいまだに敵か部外者扱いする気か!主君グローソン公ハウルより、直接この腕輪を賜ったこの俺を!」

 アンコウはこれ見よがしに右手の腕輪を見せつける。

 

「い、いえ。決してそのようなことは」

 

 モスカルは言葉に詰まる。モスカルは確かにアンコウを監視する役目を与えられていたが、アンコウ自身に別段悪意を持っているわけではない。

 そういう意味ではモスカルは自分に与えられた仕事をこなしているだけだ。

 

 それにこの時点では、モスカルにアンコウとグローソン公がした賭けについては知らされていなかったのだから、アンコウから何やら不審なものを感じとり、屋敷でアンコウを見失った後も引き続き捜索していたモスカルは、グローソンの家臣としてはとても優秀だ。

 

「モスカル!グローソン公の直臣としてお前に問う!」

 

 アンコウはいつの間にやら自分を大嫌いなグローソン公の直臣にしてしまっていた。アンコウとしては、少しでも早く、より良い形でこの町から脱出できればそれでいい。

 

「この町の状況を見ろ!方々から火の手があがり、あちこちで殺し合いが起こっている。俺はさっき、魔獣が空を飛んでいくのを見たぞ!この町は今戦場になっている。そんな時にお前は何をしている。

 馬に乗り剣をさげ、十二分に戦う力があるにもかかわらず、俺のお世話を致しますだと?恥を知れ、モスカル!

 お前に付き従っているその武装した戦士たちは何だ!そいつらも俺のお世話係なのか!」

 

 アンコウはモスカルだけでなく、その後ろにいる騎馬の戦士たちをぐるりと眺め見る。その中にはテレサを助けてくれた屋敷で警護兵をしていた2人の男の姿もあった。

 アンコウは次にその者たちにむかって話し出した。

 

「今お前たちが剣をささげ忠義を誓った主のためになすべきことは何か!今この町にはグローソンに仇なす敵兵があちらこちらに湧いている。

 そいつらを叩き潰す者は誰なのか!戦士たちよ!主君に忠義を捧げしその剣は何を為すためのものなのか!戦士たちよ!お前たちのこの目の前の光景を刮目(かつもく)して見よっ!

 今まさに、この町の多くの無辜(むこ)の民たちが、凶悪な敵どもに蹂躙(じゅうりん)されているのだ!

 その罪なき、力なき者たちを無道な暴力から守るのは誰なのか!お前たちの腰の剣は何のためのものか!なぜいまだその腰の剣は鞘の中に納まっているのだ!主君のため、罪なき民のため、その剣を抜き放てっ!!」

 

 アンコウはそこそこ口がうまい。心にも無いことを次から次へ言葉にして叫けぶ。

 そして最後には、まわりにいる関係ない者たちも足を止めるほどの大声で絶叫するとともに、金色の腕輪が輝く右腕を、天に向かって突き上げた。

 

 すると、20騎を数える騎馬の戦士たちが、アンコウの絶叫にあわせていっせいに腰の剣を抜き放ち、声をあげた。

 

「「「オオーーッ!!」」」

 

 モスカルはひとり剣を抜くことなく、その光景を横目で見つつ、何とも言えない顔でアンコウを見ていた。

 

 そしてアンコウは上げた右手をゆっくりとおろし、モスカルのほうを見る。

 モスカルは困ったことをする人だとでもいうように、少しあきれたような顔でアンコウを見ていたが、特に怒っているふうではなかった。

 

「モスカル、少しきついことを言った。謝罪する」

 

 次に突然謝罪をしてきたアンコウにモスカルは怪訝そうな顔になる。

 

「モスカル、お前は知恵に優れ、多くの部下に慕われ、主君への忠義疑いなき優れた男だ。それに先ほどはともに剣を持って、許されざる敵どもを相手に戦い、その武勇優れたところも見せてもらった」

 

 モスカルの顔が少し歪んでくる。アンコウのこのモスカルへのほめ方は、いわゆるほめ殺しに通じるものがある。

 

「モスカル!このお前の後ろに並ぶお前を慕ってついてきた戦士たちを率いるのはお前しかいない!お前はこの勇敢な戦士たちを率い、我らが主君に弓を引き、民を苦しめる悪逆非道な者どもを討ち取ってくれ!頼んだぞ!」

 

 アンコウはそう言うとさっさと馬首を返し、門へ向かって走り出そうとする。

 

「なっ!アンコウ殿!お待ちを!」

 

 今にも馬で走り出そうとしたアンコウをモスカルは呼び止めた。そしてアンコウは、なぜか悲しそうな微笑を浮かべながら、モスカルたちのほうを振り返った。

 

「人にはそれぞれの戦場がある。今のこの状況でネルカをあとにするのは俺も辛い。だが、それが主君のため、グローソンのためになるのなら、俺は主命に従い行かなければならないのだよ。

 モスカル!戦士たちよ!この町のことは任せたぞ!」

 

 アンコウはじつに曖昧に、それらしいことを、それらしい(てい)で言った。

 こんな言われ方をすれば、モスカルたちも言葉が続かない。アンコウは再び南門のほうを向き、馬を走らせはじめた。

 

(よしっ!成功だ!このまま町を出るぞ!)

 

 アンコウとモスカルたちの距離がどんどん開いていく。

 モスカルはこれはもう仕方がないと、仲間たちのほうを向き、新たな指示を出そうとしたとき、自分たちの頭の上を大きな影が通過していった。

 

「なっ!あれは!」

 モスカルはその影が行く方向を目で追う。

「まずいっ!」

 

 

「よし!門番もいない。このまま出られそうだ!」

 アンコウが走る馬の足をさらに速めようとしたとき、背後からまたモスカルたちの声が馬蹄の音とともに聞こえてきた。

 

「アンコウ殿ぉー!」

 

(あいつまだ追いかけてきていやがる。しつけぇっ)

 

 モスカルが再び追ってきていることに気づいたアンコウだが、もう後ろを振り向かなかった。

 ある程度の距離はあけた、門もすぐ目の前にある、このまま門を走り抜け、彼らから逃げることを選択した。それでも追いついてくる者がいたら、町の外で斬ればいいとアンコウは考えた。

 

 しかし、その時、

ブワアッ!!

 アンコウの背後から凄まじい突風が吹いた。

 しかもただの風ではない。アンコウは風が吹き抜けるとともに強烈な悪寒を背中に感じた。

 

「なんだっ!?」

 アンコウは後ろを振り返ろうとするができなかった。

(えっ?)

 気づけば、アンコウは馬にも乗っていない。

 

 なぜかアンコウは馬で走るよりも速いスピードで宙に浮きあがる。それと同時に、アンコウの右肩に強烈な痛みが襲った。

 

「ぎいぃやあぁーっ!」

 

 宙に浮いたアンコウが、突然襲ってきた強烈な痛みに耐えかねて、耳を(つんざく)くような悲鳴をあげた。

 

 悲鳴をあげるアンコウの目に、間近で見る大きな魔獣ローアグリフォンの姿が映っていた。そして激痛が走るアンコウの右肩にはそのローアグリフォンの後ろ足の鉤爪が突き刺さっている。

 

 アンコウの顔に血がかかる。自分の血ではない。このローアグリフォンの血だ。

 このローアグリフォンは後ろの両足を怪我しているようだ。そこまで深い傷ではないようだが、一方の足には矢が突き刺さっていた。

 

 それにどうも様子がおかしい。このローアグリフォンは町の中心部の方角から物凄いスピードで飛んできたと思ったら、アンコウを捕まえるとまた町の内側にむかって飛びはじめた。

 しかも無駄に上下左右に蛇行していて、そのたびにアンコウの体に激痛が走る。

 

「ウガァーッ!痛てぇーッ!」

 

 このローアグリフォンは狂っていた。

 アンコウを捕まえたものの特にそれ以上何をするでもなく、捕まえたことを忘れたかのようにただ猛烈なスピードで街中を飛んでいた。

 当然ながら、とっくの昔にモスカルたちの姿は見えなくなっている。

 

「こ、このっ!ヒィてぇー!」

 

 アンコウは右肩を掴まれているせいで、自由に右手を使うことができない。

 それでも何とか左手を使い、痛みにわめき散らしながらも、腰に差している赤鞘の魔剣を引き抜いた。

 痛みはおさまらないが、引き抜いた魔剣との共鳴によりアンコウの体の力が増していく。

 

「ヒグッ!こ、このクソ鳥犬ぐぁーッ!」

 

 おそらく冷静に対処していたら、ちゃんと共鳴を制御したアンコウなら、十分にこのローアグリフォン相手にも勝つことができただろう。

 ましてや相手は手負いである。しかし、アンコウはこれ以上ないぐらい冷静さを欠いていた。

 

 初めて戦う種類の魔獣、しかもいきなり空中を物凄い速さで飛んでいる、それにアンコウはとんでもない激痛を感じ続けていた。

 これはさすがにアンコウに冷静になれと言うほうが無理かもしれない。しかし、それでも、この世界の不条理をはねのけて生き残るためには、アンコウは冷静でなければならなかった。

 

 アンコウの気配の変化に本能的に気づいたローアグリフォンは、空を飛びながらも体を折り曲げるようにして、鋭い鉤爪のついた両前足と大きな牙のついた口を近づけてきた。

 

 冷静さを欠いたアンコウは痛みと怒りと恐怖のままに、きちんと狙いを定めることなく、何らタイミングも計らず、手に持つ呪いの魔剣をローアグリフォンの体めがけて、ただ力任せに突き上げてしまった。

 

「うらぁーっ!」

「ギィガァーッ!」

 ローアグリフォンの悲鳴が響く。アンコウの剣はローアグリフォンに刺さった。

 

 だがそれは、闇雲に突き出した剣が大きな標的にとりあえず刺さったというような一撃。ローアグリフォンが体をひねると同時に、アンコウの肩にもまた激痛が走る。

 その瞬間、アンコウは剣を持つ手を離してしまった。

 

「ああっ!ああ、痛いぃーッ!ああ、剣ぐぁあー!」

 

 共鳴が消えたアンコウの体から再び力が抜ける。アンコウの赤鞘の剣は、ローアグリフォンの前足付け根に突き刺さっていた。

 しかしそれでも、この魔獣が空を飛ぶスピードは落ちなかった。

 

 アンコウは何とか再度攻撃を仕掛けようと思うが、魔獣の前足に刺さった剣には手がとどかない。

 予備の武器や精霊封石弾が入った魔具背嚢は、ローアグリフォンに掴まれる際に襷紐(たすきひも)が切られたらしくなくなっていた。長旅に備えてもう1つ体に巻いていたボロい魔具鞄の中には攻撃に使えるような物は何も入っていない。

 

「ああ、クソッ!」

そして、

「グギイィヤアァァーーッ!」

 響くローアグリフォンの破音の咆哮。

 

「ぐわあぁ!み、耳がぁーっ!痛てぇーッ!」

 

 

 

 

 テレサとマニは、とりあえず武器屋の中で簡単に自分たちに治療を施したあと、再び様子を見に外に出てきていた。

 ローアグリフォンから取り戻した女の子も奇跡的に命に別状はない様で、気の良さそうな武器屋の店主に戦いが落ち着くまで預かってもらうことにした。

 

 今テレサはひとり武器屋の前の道に立っている。マニは少し前に近くまで偵察に行ってくると姿を消した。

(ほんとに偵察だけで帰ってくるのかしら)

 とテレサは少し心配している。

 

 先ほどまでとは違いこの辺りに魔獣の気配はもうない。しかし、町中の至る所から響いてくる戦さ声は間違いなく大きくなっていた。

 戦闘が拡大していることは、その気配からテレサにも察することができた。

 

「テレサっ」

「あっ、マニさん!」

 

 しばらくすると、マニが近くの路地から現れた。マニはそのままテレサに走りよってくる。

 マニが抜き身のまま持っている剣には真新しい血がついていた。やはり偵察だけではすまなかったようだ。

 

「……でもよかった。戻ってきてくれて」

「ん?ああ、あっちこっちで戦いが本格化している。でも反グローソンの勢いが拡大しているんじゃなくて、グローソン側の反撃が本格化している感じだ。この戦さ、意外と早くケリがつくかもしれないな」

 

「そうですか。(いくさ)なんて、早く終わってくれればいいんだけど」

「テレサ、私はグローソン側につくよ。反グローソンの連中はロンドの者というより、ゴロツキが多いみたいなんだ。町中で悪さをしている」

 

「……そう、じゃあ私は自分の身は自分で守らなくちゃね」

「テレサはどうする。一緒に来るかい?」

「いえ、私も戦闘が終わるまで、このお店に居させてもらおうと思う」

「そうか。うん、それがいいな。アンコウも私たちがこっちの方角にきたのはわかってるはずだから、もうすぐ来るかもしれない」

 

 マニはそう言ったが、テレサはアンコウが来ないだろうことを知っている。

 テレサはアンコウと別れたとき、マニが走らせる馬のたてがみを掴みながらも、アンコウが自分たちと違う方向、南門の方向に馬を走らせて行くのを自分の目で見ていたから。

 

「……そうね。どうかな」

「大丈夫だよ。どこかで戦いに巻き込まれているだけさ。アンコウは強いし、しぶといからな。終わったらすぐにテレサのところに来るよ」

「……そうね」

 

 マニにそう言われても、テレサはアンコウは来ないだろうと思っている。自由になるためにひとりで逃げたんだと。

 テレサはアンコウを責めるつもりはない。だけど、少し悲しく、寂しく、とても不安だった。戦闘がこのまま終わっても自分はどうなるのかしらと。

 

「バカ」

 テレサは頭に浮かんだアンコウの顔にむかって言った。

「えっ?…バカってそんな」

「あっ、違うわよ!マニさんに言ったんじゃないわ!」

 テレサがあわてて、マニに手を振りながら否定していた時、

 

グギヤァァーッ!

 ギャイィーンッ!

   ガガァーーッ!!

 

 立て続けに魔獣の声が突然響いた。

 

「なんだっ!」

「ええっ!」

 

 テレサやマニ、そのほか周りにいる人々が空を見上げる。

 

「「「なっ!」」」

 

 見上げる空の上を先ほど飛び去っていった手負いのローアグリフォンとは違う複数のローアグリフォンたちが飛び過ぎていった。

 そのローアグリフォンの群れの中の一頭が、子どもと思われる小さな幼獣を足で大事そうに掴んでいた。

 

 彼らは目的を果たしたのだ。

 そして彼らの姿は、あっという間に見えなくなってしまった。彼らが飛び去って言った方角を見てマニがつぶやく。

 

「帰っていったみたいだな」

「えっ?どこに?」

「うん?家じゃないの」

「マニさん、そんなことがわかるの?」

「何となくだよ。そうじゃないかもしれない」

「……そう」

「じゃ行くよ。魔獣がいなくなっても戦さが終わったわけじゃないからね。すんだらここに戻ってくるから」

「ええ、待ってい」

ギャガガアァー!!

 テレサたちの耳に再び魔獣の咆哮(ほうこう)が聞こえた。

 

「えっ!また!?」

 

―――――

 

 空中で、痛みに悶えながらもアンコウはあがき続けていた。

 アンコウは痛みで頭の中がいっぱいになっていても、さすがに現在の自分が置かれている状況はもう理解できていた。

 

 それはもう最悪である。多くのことを耐え忍び、多くを捨てて、ようやくこのネルカを脱出する直前まで行っていたのに、アンコウはローアグリフォンという魔獣に捕まり、空を飛び、激痛に悶えていた。

 

「ふざけんじゃねぇぞーっ!このクソ鳥犬があぁっ!」

 

 アンコウが共鳴をおこす為の赤鞘の剣は、この気違いローアグリフォンに突き刺さったままだ。手を伸ばしてもアンコウの手はとどかない。

 

「痛てえぇっ!」

 

 肩にこの化け物の鉤爪がめり込んでいる状態で、空を猛スピードで飛んでいるのだ。血も痛みも止まるわけがない。

 それでもアンコウは何とかこの鉤爪を外させようと足掻いた。地面に落ちれば何とかなると思い。喚きながら、アンコウは暴れつづけた。

 

 しかし共鳴をおこしていないアンコウの力では、狂気の力を発揮しているローアグリフォンの鉤爪を外すことはできない。

 

「グケエェェーーッ!」

 ローアグリフォンが思い出したように破音咆哮を発する。

「ぎゃあーっ!み、耳がぁー!」

 

 空の上のアンコウは、何と忙しいことか。

 そのときアンコウの視界の中に、派手な色をした紐のようなものがたなびいているのに気がついた。

「あ?」

 アンコウがそれを見ると、その派手な紐は、ローアグリフォンの足に突き刺さっている矢につながっていた。

 

 アンコウは痛みをこらえつつ、その紐に手を伸ばす。風向きが味方してくれたこともあって、アンコウの手はその紐を掴むことができた。

 何か考えがあったわけではない。藁をもつかむ思いで、アンコウはその紐をつかんだ。そしてアンコウは思いっきりその紐を引っ張った。すると、

 

「グギイイヤアァァーッ!」

 再び響くローアグリフォンの破音咆哮。

「ぎゃあーっ!み、耳がぁー!」

 さらに、アンコウを掴むローアグリフォンの鉤爪に力が入る。

「ぎゃあーっ!痛てえぇーっ!」

 

 その紐を引っ張ったことでアンコウはただ無駄に痛い目をみた。アンコウは掴んでいた派手な紐を投げ捨てるように手放した。

 

「ハガッ、ハガッ、ハガッ、こ、このクソ鳥犬があぁぁ、ふがっ!?」

 

 今度はローアグリフォンは、何の意味もなく急激に高度を下げ、さらに飛ぶ速度をあげながら方向転換をした。

 それによってアンコウに強烈なGがかかる。アンコウはもう声も出ない。

 

「!!~~~~!!」

 

 さらに、いかれたローアグリフォンは方向を転換した後も速度を落とすことなく、地上からかなり低い高さを飛び続けた。

 

―――――

 

「テレサ!気をつけて!こっちにむかって飛んでくる!」

 

 マニの言葉を聞くまでもなく、テレサは緊張で身を硬くしながら身構えた。

 マニが家に帰ったと言ったローアグリフォンが、一頭だけ物凄い速度で自分たちのいる方向にむかって飛んできていた。その速さを考えれば、自分たちが逃げる時間はない。

 

「あっ!」

 テレサは飛んでくるローアグリフォンを見て2つの事に気がついた。

 

 ひとつはそのローアグリフォンの足には派手な飾り紐がくっついた矢が刺さっていること。

 この時点でこのローアグリフォンは、少し前にテレサが毒矢を射て、女の子を助けたあの個体にまちがいない。

 

 そしてもうひとつは、このローアグリフォンはまた人間をその足にぶら下げていること。

 しかも今度は縄が巻きついているわけではない。鋭く大きな鉤爪でしっかりとその人間を掴んでいる。

 

「…あ、あ、あれは」

 

 しかもテレサはその捕まっている人間の顔に覚えがあった。

 テレサの横にいるマニが叫んだ。

 

「ああっ!!アンコウだ!!」

 

 テレサはその光景を見て、目は見開き、全身が硬直した。

 テレサはあの錯乱してどこかへ飛んでいってしまったローアグリフォンが、また町のどこかで暴れるのではないかと恐れた。その心配はテレサが予想だにしていなかった形で現実となっていた。

 

 アンコウを捕まえたままそのローアグリフォンは、低空を維持しながらも地上に降りる気配はなく、猛スピードのままテレサたちの頭上を通過していく。

 アンコウの声は聞こえなかったが、アンコウが暴れている姿はテレサたちの目ではっきりと確認することができた。

 

 マニは剣を突き上げるが、剣がとどく高さではない。弓を用意する時間もなかった。

 

「アンコウを返せーっ!」

 

 地上の道にはローアグリフォンが飛んでいったあとに、あの固体のものであろう青い血が転々と落ちていた。

 いつのまにかテレサの頬にも空から落ちてきた血がついていた。テレサがその頬を自分の手でぬぐう。

「赤い」

 テレサの手に着いた血は赤かった。これはローアグリフォンのものではない。アンコウの血だ。

 

 アンコウを捕まえていたローアグリフォンは、さっき子供を抱えて通り過ぎて行った群れとはまったく違う方向に飛び去っていく。

 そして、そのローアグリフォンの影はすでに彼方となっていた。

 

 テレサは体を震わせながら、無言でその影を見つめていた。そしてそのわずかな影すら見えなくなってしまったとき、テレサは膝から地面に崩れ落ちた。

 

「………ああぁ」

 

 

―――――

 

「ぐわあぁーっ!痛てぇーっ!」

 

 アンコウにはテレサもマニの姿も確認できなかった。そんな余裕はなかった。

 このローアグリフォンは今は町の城壁を越えて、さらに飛びつづけていた。

 マニがいう家に向かって飛んでいるわけではないだろう。この魔獣は未だ錯乱し続けているだけなのだから。

 

「グギアァァーーッ!」

「ぐわぁっ!み、耳がぁーっ!痛てぇっ!離せぇーっ!」

 

 そしてあっという間にアンコウたちの姿は、町の城壁の上からも見なくなってしまった。



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第36話 目が覚めると サミワの砦

 朝日が昇る。この世界は緑多く、空気は澄み、雄大な自然をそなえている。

 大自然は時に、そこに住む者にとって無情の牙をむくこともあるが、多くの恵みを与えてくれる神にも等しい存在である。そのことは世界が違っても変わりはしない。

 

 輝かしい朝の光に照らされながら、アンコウは疲労困憊、半死半生の(てい)で、何とか息をしているような状態だった。

 アンコウはいまだローアグリフォンとともに空を飛んでいる。

 

 今のアンコウは、何とか意識は保っているが体の感覚は麻痺しており、痛みもほとんど感じていない。

 

 このまま意識をなくせば、アンコウは死んでしまう可能性が極めて高い。アンコウは、ほとんど感覚がなくなりつつある体を何とか動かし、魔具鞄の中から回復用のポーション瓶を取り出した。

 

「グウギャアァーッ!」

 

 この雄大な景色とは調和しないローアグリフォンの無駄に大きいだけの叫び声が響く。

 

 しかし、五感のすべての感覚が鈍った今のアンコウには、ローアグリフォンの破音咆哮も効きはしない。

 

 朝日が大地を照らし、アンコウの眼下に広がる神々しいばかりの景色の中を猛スピードで飛びながら、アンコウはこの空の旅をはじめてから何本目かの回復用ポーションを一気に飲み干す。

 しばらくすると、アンコウの疲労困憊、半死半生の体に力が戻ってくる。

 

「があぁーっ!痛てぇーっ!」

 

 そして、当然ながら感覚のよみがえった体は痛みも通常どおりに感じてしまう。アンコウはポーションを飲む度にこれと同じことを繰り返していた。

 

 ローアグリフォンが無魔素地域で通常どおり活動できる時間は、半日ほどだと言われている。このイカレたローアグリフォンが魔素地帯を出てから、とっくに半日以上が過ぎているだろう。

 少し前から、空を飛ぶ速度が落ちてきていた。

 

 アンコウは痛みに耐えながら、こうなったらこのイカレ鳥犬と自分のどちらの命が先に尽きるかの本当の命がけの我慢比べだと思っていた。

 ローアグリフォンの飛ぶ速度が落ちてきたことはアンコウにとって喜ばしいことであり、

(とっとと落ちろ、クソ鳥犬)とアンコウは思っていた。

 

 しかしこの後も、このローアグリフォンは徐々に弱っていきながらも相当に粘り、目的地もなく飛び続けた。

 普通半日しか無魔素地帯ではまともに活動できないとされているローアグリフォンが、アンコウを捕まえてから、丸一日近く、それ以前の時間を考えると丸一日以上も活動を続けた。

 

 アンコウにとっては不幸にも、このローアグリフォンは、種としてかなり優れた個体であったようだ。

 

 しかし、この日の夕方、日も落ちかけた時刻に、とうとうこの魔獣にも限界が来た。この驚異的な耐久力を見せた魔獣も限界を超え、明らかに体から力が抜けていく。

 

 そして、鮮やか過ぎるほどに赤い夕日が地平線のかなたに沈むのに合せるように、ローアグリフォンの翼は羽ばたきを止め、力を失ったその体が地上にむかって一直線に落ちはじめた。

 

「キュアァァーーンーー!」

 

 これまでとは違う太陽が沈みゆく地平線のかなたにまで、真直ぐに響いていくような澄んだローアグリフォンの鳴声がこだました。

 

バキッバギッ!ボギッ!

 バサッバサッ!ドサドサンッ!

 

ドザァアンッ!!

 

 ローアグリフォンが落ちていったのは美しい緑生い茂る森の中。木々の枝をへし折りながら、ローアグリフォンの大きな体は地面にたたきつけられた。

 

 アンコウは地面にたたきつけられて動かなくなったローアグリフォンの体の上に乗っかっている。最後にほんの少しだけツキが残っていたようだ。

 

 アンコウの目はかすむ。今にも意識が飛びそうになる中、最後の一本になったポーション瓶を震える手で取り出す。

 

 アンコウにローアグリフォンとの命がけの我慢比べに勝った喜びを感じる余裕はない。

 ポーション瓶を何とか口元まで持ってきたアンコウは、液体の半分近くは飲み損ねて口の外にこぼしながらも、何とかひと瓶を空にした。

 

 しかしアンコウはあまりにも体力を奪われ、血を失いすぎていた。

 アンコウの思考は安全なところに移動しなくてはと思っていたが、金縛りにあった時のようにアンコウの体は動かず、アンコウの意識はそのまま深い闇の中に落ちていった。

 

 

————————

 

 

「お、おい、どうなっている?」

「ま、間違いない。あれはローアグリフォンだ。それもかなり大きいな」

 

 ローアグリフォンとアンコウが落ちた場所から少し離れたところで、2人の武装した男が空から落ちてきたものの様子を伺っていた。

 

「し、死んでいるんだろうな?」

「たぶんな。この森には魔素はないからな。しかし一緒に空から落ちてきたあの人間はいったい……」

「どうする?近づいて確認するか?」

「いや、とりあえず隊長に報告しよう」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 ローアグリフォンの死骸とその上に乗っかって気を失っているアンコウのまわりを武装した多数の男たちが取り囲んでいる。

 男たちが身に着けている鎧にはグローソンの紋章が刻み込まれていた。それに男たちの中には手傷を負っている者の姿もあり、何らかの戦闘を経て、ここに来たようだ。

 

「……こんなところにローアグリフォンとは。いったい何が起こっているんだ。これも敵の策謀の1つなのか」

「た、隊長!この男、息があるようです!」

「本当か!」

「それに、この男の腕輪を見てください!グローソンの紋章!公爵様の名が刻まれてます!」

「何っ!?」

 

 

 

 

サミワの砦。

 砦の規模としては中規模のものであろうか、ネルカ城よりもさらに東北、グローソン公領内に位置する砦である。

 この砦は領境に直接接しているわけではなく、主に食料や武器などの貯蔵用の兵站拠点の砦のひとつとして、ここ最近は使われている砦だ。

 

 しかし、この砦が建設された昔は敵兵を防ぐための実用軍事施設として建てられたものであり、高さはそれほどないが、急な斜面が多く、木々が生い茂る山の上に立てられていて、その防壁もしっかりとしている。

 

 そしてアンコウは今、この防壁の内側、砦の中にいた。アンコウを見つけたグローソン兵の一団の手によって、2日前に運び込まれたのだ。

 アンコウはこの砦に運び込まれて2日間、一度も目をあけることなく眠り続けていた。

 

 そのアンコウの目がパチリと開く。

 

 寝たままの姿勢でアンコウはまわりを確認する。

 

(……知らない天井だ)

 

 アンコウは知らない部屋のベッドで寝かされていた。

 そしてアンコウが寝ているベッドの横の椅子には、使用人服を着た知らない女が座っている。少し離れたところにあるこの部屋の扉の横には腰に剣を差した男が立っていた。

 

 アンコウは急いで再びを目をつむり寝たふりをする。

(……どこだ、ここは)

 アンコウにここがどこかはわかるわけがないが、アンコウはできる限り今の状況を頭の中で確認していく。

 

 アンコウはローアグリフォンとともに地上に落ち、何とかポーションを口にしたところまでは覚えていた。

 そして今、自分は生きている。

 体も動く、大きく怪我をしていたはずの右肩もわずかに痛む程度になっていた。見張りらしき男はいるが、牢屋に放り込まれているわけではなく、寝ているベッドの質は良い。

 

 アンコウは自分のここでの待遇は悪いものではないと判断できた。

 それでも十分に警戒はすべきであると、薄目を開けて周囲に武器になるものはないかと探りを入れる。

 しかし当然ながら、看病をされている怪我人のまわりに武器になるものなど置かれていない。アンコウはさらにしばらく寝たふりをしながら、どうするか考えつつ、気づかれぬよう慎重に周囲をうかがっていた。

 

 そしてアンコウは、少し離れた扉の横の立っている兵士と思われる男の甲冑にグローソンの紋章が刻まれているのを見た。

 

(まだ、グローソンの手の中か)

 それと気づきアンコウは寝たふりをしながら落胆した。

 

 あれからどれぐらいの時間が過ぎているのか、アンコウは正確にはわかっていないが、アンコウの体内感覚として、少なくとも丸1日以上は経過していると感じていた。

 

 アンコウはローアグリフォンとともに空を飛んでいる時に、グローソン公ハウルがアンコウの捜索を始めるのを待つと言っていた朝日が昇るのを確認していた。

 その朝日が昇った日の陽が沈む時刻まで、アンコウはローアグリフォンと共に空を飛びつづけ、そして地面に落下したのだ。

 

 それからさらに少なくとも1日以上意識をなくしていたのだとすると、アンコウは逃走に使うべき時間を相当ロスしているはずだ。

 

(まずいな。もしかしたら最悪俺はもう捕まったのかもしれない)

 

 ハウルはバルモア以外の者が直接捕まえることはしないと言っていた。

 バルモアがここにいるかどうかはわからない。バルモアはいないとしても、もしかしたらアンコウを見つけたらすぐに公爵にまで知らせるようにという通達ぐらいは届いているかもしれない。

 

 アンコウは再び固く目を閉じた。

(……考えるだけ無駄か。どちらにしろここがグローソンの支配地域なら命の心配は要らないだろうし、実際待遇は悪くない……)

 アンコウは意を決すると勢いよく目を開いた。

 そしてベッドの横に座っている女に声をかけた。

 

「おはよう。今何時かな?」

 

 

 

 

 アンコウの体の傷は普通に動かす分にはまったく問題のない程度に回復していた。

 各種薬剤ポーションを使った治療から、精霊法術を用いた治癒術まで、かなりこの砦の者達が手厚くアンコウを治療してくれたらしい。

 

 無論この砦にアンコウの知り合いは一人もいない。すべてはグローソン公爵によってつけられたアンコウの右腕で金色に輝く臣下の腕輪のおかげであった。

 

 グローソン公ハウルは、ウィンド王国内に存する一領主なのだが、この世界、この国の有様(ありよう)として、公領というのはその領内においては一独立国にも等しい存在であり、グローソン公ハウルは専制君主に等しい権力を握る存在だ。

 

 その公爵自身の意思でしか与えられることのない臣下の腕輪をしている人物を、グローソン領内にあるこのサミワの砦の者が無碍に扱うことはありえない。

 たとえ仮に、その者に何らかの疑念を感じさせるものがあったとしても、それが明らかになるまでは丁重に扱わざるを得ない。

 

 しかも、この砦の者はアンコウに対して何ら疑念を抱いていないようであった。

 アンコウは今、目を覚ました寝室とは違う部屋に通されていた。

 アンコウの目の前には焼きたてのナンに、野菜に肉も入ったスープが置かれ、おいしそうなニオイとともに湯気を立てている。

 

「このようなもので申し訳ございません。怪我が癒えて間もない空腹の状態では、あまり重いものはお体に触るだろうと思いまして、デザートの果実は別に用意してございますので」

 

「い、いえ、とんでもないです。助けていただいたうえに怪我まで治していただき、本当にありがとうございます。そのうえ食事までご用意いただいて、そ、そんな頭を上げてください」

 

 アンコウは珍しく、上っ面ではなくて本当に恐縮していた。

 その言葉遣いは、このあいだネルカの城で何やかんやとやり合ったハウル公爵に遣っていたものよりも遥かに丁寧だ。

 

 今、アンコウの前にいる男の名は、ヒルサギ。今、このサミワの砦の留守居役を勤めるこの砦の最高責任者であった。

 

 しかし、ヒルサギの話によると通常ならば彼の地位はそこまで高いものではないらしい。

 正式な最高責任者である砦守将は、何でも自分たちの主君であるグローソン公がいるネルカ城が襲われたとの報を受けるとともに、援軍の緊急出動要請を受けて、3日前にこの砦を主だった将兵とともに出立した。

 その際に砦守将は、自分に代わるこの砦の留守居役としてヒルサギを指名したとのこと。

 

 

 アンコウはそこまで話を聞いた時点で頭を傾げた。

 

「ヒルサギ殿、俺はそのネルカから来ました。俺がこの城に運ばれたのが2日前なら、そのネルカの城で大掛かりな反乱が起こったのも3日前になる。

 その日のうち、いや、朝のうちに来たのなら、ネルカではまだ戦闘など起きていなかった。それなのに、そんな使者が来るのはおかしいと思うのですが」

 

「おお、そうですか。アンコウ殿はやはりネルカから……」

 ヒルサギの表情がひどく曇る。

 

 ちなみにアンコウは自分から名を名乗ったわけではない。今のところ、この砦にアンコウに関する情報が届いているような気配はなかった。

 

 アンコウとしてはグローソン公との賭けのことがあり、自由を得るための逃走中の身である以上、自らの情報はできるだけ秘匿したいところだったのだが、アンコウの名前は右腕の腕輪に誰もが見える形できっちりと彫られていたため、隠しようがない。

 

 アンコウという名前を知られたリスクは小さくはないが、命が助かったことを思えば致し方がないとあきらめもついた。

 

 それに公爵の直臣であることの影響力は大きく、職務に関わる事情があり自分の存在は、ネルカや砦の外に知らせないでほしいというと、詳しい説明を求められることもなく受け入れられた。

 

「実は、どうやらこの砦に来たネルカ城よりの使者というのは偽者で敵の謀略であったのです」

 

 ヒルサギが苦渋に満ちた表情でアンコウに話し始めた。

 その話の深刻さゆえに、自分には関係のない話だとアンコウは思いつつも、おいしく頂いている途中だった食事の手を止めざるを得なかった。

 (チッ) アンコウは心の中で舌打ちをする。恐縮していても腹は減る。

 

 ヒルサギの話によると、偽者のネルカ城からの使者が持参した命令書は、今見ても偽物と判ずることが困難なほど、その体裁は整えられているものであったらしい。

 

 さらにこの近隣に領地を持つグローソンの家臣に仕える者が、その偽使者と共にネルカから同行してきており、その者にいたっては、このサミワの砦守将をはじめとして実際に面識があり、よく知っている人物であった。

 

「つまり、その者の主人は、主君であるグローソン公を裏切ったのです」

 

 しかもグローソン公を裏切った家臣は、その家臣の他にも複数人いるようで、ロンド公と通じ、その動きに呼応して兵を挙げたらしい。

 

 アンコウは神妙な顔をして、ヒルサギの話に相槌を打っていたが、内心 (よくある話だな) と思っていた。

 実際アネサ側にはグローソンの調略により裏切ったものが多数いたので、お互い様の話だ。

 

 この世界も、このウィンド王国も、弱肉強食、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代だ。裏切りも下剋上(げこくじょう)も犬のクソのごとく道を歩けば転がっている話。

 

 そして、その偽使者の書状を信じ、砦守将はこの砦の主たる戦力を率い、主君の窮地を救わんと、その日の内に砦を立った。

 その決断と行動の速さは賞賛されるべきものであったが、この時は出兵したこと自体が誤りだった。

 

 彼らが砦を出てわずか半日後、日が落ちても行軍を続けたこの砦守将率いる一軍は、待ち構えていた裏切り者どもの夜襲をうけ壊滅した。

 その襲撃で砦守将をはじめ、従軍した主だった将兵たちの大部分が討ち死にしたとのことだった。

 

 空から落ちてきたアンコウを見つけ、この砦まで運んでくれた者たちはその生き残りで、サミワの砦に命からがら逃げかえる途中であったらしい。

 

 ヒルサギはその討ち死にした砦守将によって取り立てられた農民出身の叩き上げの軍人であり、その能力を認められて、この緊急時に一時的にこの砦の指揮を任せられただけであって、本来の地位は未だそこまで高いものではないとのことだ。

 

 アンコウがこのヒルサギの話を聞きながら理解したことは、ロンドのグローソンに対する反撃は、どうやら自分が思っていたよりも広範囲に渡って複雑な形で進行しているようであるということ。

 そして、その動きに巻き込まれたこのサミワの砦も、間違いなく混乱した状態にあるということだった。

 

(この混乱に乗ずれば、案外楽にこの砦から逃げ出せるかもしれない)

 アンコウは空腹を満たしたら、早速この砦から去る算段をしなければと考えていた。

 

 しかしアンコウは、少なくとも今現在はこのサミワの砦の指揮官であるヒルサギが、こうしてこと細かく自分に状況説明している理由をまだ理解していなかった。

 そしてヒルサギはさらに話を続ける。

 

「アンコウ殿、今この砦は裏切り者どもに囲まれております」

「えっ?」

 

 兵站(へいたん)の面での重要な役割を果たしているこのサミワの砦に食糧や武器が多く備蓄されていることは、ごく一般的に知られている。

 裏切り者どもは、この砦の主要将兵を罠に嵌めて排除したあと、ふた手に分かれて、一方はグローソン公ハウルの首をとるべくネルカ城にむかい、もう一方はサミワの砦まで引き返し、そのまま砦を包囲した。

 

 裏切り者どもがこの砦を狙う大きな目的は2つある。ひとつはこの砦にある潤沢な物資を確保して、自分たちの軍需物資として活用すること。

 もうひとつはグローソン公ハウルを裏切った者はまだほかにもおり、彼らがネルカ城まで兵を送ろうとすれば、どうしてもこのサミワの砦がある付近を通る必要があり、存在自体が邪魔になるこの砦を無力化しておく必要があった。

 

 物資を確保し、安全な道を確保する。そのために彼らはわざわざ軍勢を分けてまで、このサミワの砦を落とそうとしていた。

 

「か、囲まれてるって。で、でも少人数なら砦を出ることも可能でしょう?」

 

「この砦から山を下り、人が移動できる道は限られています。敵もついこの間までは味方であった者たちです。この砦とその周辺部の地理に明るい者が間違いなくいるでしょう。

 不可能とは言いませんが、隠密としての専門の訓練を受けている者でも命がけになると思います」

 

「…………」

 簡単にこの砦を逃げ出せるかもというアンコウの楽観的な期待はあっさりと消え去ってしまった。アンコウは急に呼吸をする空気が重くなったように感じた。

 

(何だそれ!?逃げられないどころか、かなりやばいんじゃないのか!?)

 

「アンコウ殿」

「へっ?ああ、何ですか?」

 

 少し自分の内心の声に気をとられていたアンコウにヒルサギが話しかける。

 

「アンコウ殿にお聞きしたいことが、よろしいでしょうか?」

「え、ええ。何ですか」

「なぜローアグリフォンとともにあのような場所に落ちてきたのか。その事情をよろしければお聞かせいただきたいのです」

 

 ヒルサギは真剣な目つきでアンコウを見つめている。よろしければと言いはしたが、その目つきからは何が何でも話して頂きたいという意思が見えた。

 

 アンコウはその強い目に少し気圧されながらも、

「構いませんよ」

と答えた。

 そしてアンコウは少し脚色しながら、グローソン公の直臣?としての自分の立場が悪くならないように、ローアグリフォンとの戦いの物語を話した。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「おおー、やはりアンコウ殿があのローアグリフォンを」

 

「いや、まことに失態でした。それまでの敵兵との戦いで手傷を負っていたとはいえ、魔獣ごときにさらわれてしまうとはお恥ずかしい限りです」

 

「何を言われるのです。公爵様のため、ネルカの市民のための獅子奮迅のお働き、お見事にございます。この砦の兵の間でも、アンコウ殿のことは噂になっておりますぞ。おいっ、あれを」

 

 ヒルサギが後ろに控えていた従者に声をかけた。従者は布を被せて横に置いていた物を取りあげ、ヒルサギのところまで持ってくる。

 ヒルサギはその被せてある布をはずし、慎重にそれをアンコウに差し出してきた。それはアンコウの赤鞘の剣であった。

 

「この剣は例のローアグリフォンに突き刺さっておりました。この困難な時に、グローソン公爵様の臣下の腕輪をも持つアンコウ殿がおられるだけで、兵の士気もあがるのです」

 

「……そ、そうですか」

 

「しかし、呪いの魔剣を使われるとは、いや、失礼。調べたわけではないのですが、はじめは抜き身で魔獣の体に刺さっていましたので、それをはじめに抜いた兵が少々剣の呪いに当てられてしまったようでして」

 

「ああ、この剣は俺専用でして」

「おお、呪いの魔剣が専用とは。さすがはお殿様より臣下の腕輪を賜るほどのお方だ。何か特別な力をお持ちなのでしょう」

 

 アンコウは妙に自分が期待されていることに気づき、内心複雑な思いにとらわれながらも、差し出された赤鞘の剣をうけとった。

 

 

 

 

 アンコウはひとりこのサミワの砦の防壁の上を歩いていた。

 現在は兵站備蓄用の砦として使われているが、元は実践防御を目的としてつくられただけあって、このサミワの砦はかなり堅牢な砦であるとアンコウは見た。

 

 一方には切り立った崖があり、一方には木々が生い茂る急峻な山道があり、見渡す砦の四方全てに、かなり厳しい地形が広がっていた。

 どこが通れてどこが通れないのか、上から見る分にはまったくわかりはしない。

 この堅牢さは、この砦からの逃走を考えているアンコウにとっても不都合なことだ。そして砦が立っている山の下には、敵軍の陣が築かれているのが見えた。

 

 アンコウは出来るならば黙って一人でこの砦を抜け出したいと思っているが、眼下に陣を敷く敵に捕まれば、間違いなく拷問され、相当な確率で殺される。それを考えると、実行に移すには相当な勇気がいる。

 

「くそっ!どうしたらいい?」

 

 この砦ではアンコウはこうして自由に行動できている。

 それも当然でグローソンにおける地位でいえば、今現在のこの砦の現場の最高責任者であるヒルサギよりも、公爵直与の臣下の腕輪をしているアンコウのほうが立場は上になる。

 

 昨日はヒルサギに請われ、アンコウはこのサミワの砦の作戦会議なるものにも出席した。

 しかも、その作戦会議の場にいた者の中に、ヒルサギに代えてアンコウに指揮官に就いてもらおうと言い出した者がいた。当然ながら、その者は別に本当にアンコウの力を評価して言ったわけではない。

 

 ヒルサギが死んだ砦守将の命により、この砦の留守居役を任されたのはほんの数日前であり、その作戦会議の場にいた者たちが皆、ヒルサギの指揮下にあることに納得していたわけではない。

 

 実にくだらない嫉妬混じりのちっぽけな権力争いであったが、アンコウはたとえ形のうえだけでもそんなのものにされたらたまったものではないと、全力で辞退した。 

 その際にアンコウは、指揮官としてヒルサギ以上に適任な者はいないと、良く知りもしないヒルサギの人柄や手腕を褒めちぎった。

 

 アンコウの強い辞退の意志と、むろんヒルサギに味方する者もおり、結局、指揮官はヒルサギのままということになった。

 そして、そのことについてアンコウは2人だけの時にヒルサギから礼を言われた。

 

「アンコウ殿。ありがとうございました」

「いや、別にそんな礼を言われるようなことでは……」

 

 アンコウとしては本当にヒルサギに肩入れをする気持ちなどまったくなく、自分の都合上そのような発言をしただけであり、正直言って自分が何を言ったのか細かいことは覚えていないぐらいだ。

 

「アンコウ殿の目には私は地位に執着する卑しい男のように映っているかもしれませんが、私は別にこの砦の指揮官という地位に執着しているわけではないのです。

 ただ亡くなった砦守将様は、私にこの砦の留守の守りを任せるといわれ、私は必ず守りぬくと約束したのです」

 

 死んだ砦守将の話をするヒルサギの目は充血し、肩が細かく震えていた。ヒルサギは自分に目をかけて、信頼してくれた砦守将にかなり強い恩義を感じているようだ。

 

「このような緊急時でもあのような馬鹿げた(いさか)いの火種は消えはしません。しかしアンコウ殿がいてくださったおかげで無事におさめる事ができました」

 

 ヒルサギは自分の指揮下に入ることを快く思わない者がいるだろうことはよくわかっていた。

 それがたまたまとはいえ、アンコウの言動によってごく小さい段階でおさめる事ができたことに本当に感謝していた。

 

「これで戦いに集中することができます。アンコウ殿!」

「は、はい」

「私は命に代えてもこの砦を守り抜いて見せます!」

「は、はい」

 アンコウはヒルサギの気迫に圧されて、ただ頷く。

 

「われわれは砦守将様をはじめ、大切な仲間をすでに多く失ってしまいましたが、今ここにアンコウ殿がいることをすべての精霊に心から感謝いたします!」

 ヒルサギは両手でアンコウの手を握り、力強くそう言った。

 

「が、頑張りましょう……」

 

 アンコウとしては、この砦のために何をするつもりもなかったが、あまりのヒルサギの迫力に、とりあえずそう言うほかなかった。

 

 

 そして今、

 アンコウの眼下に広がる鬱蒼(うっそう)とした森。その先にある敵の陣地。ここは完全に戦場であり、いつ殺し合いが始まってもおかしくはない。

 アンコウとしては自分が無事に生き延びることができれば、どちらが勝とうがどうでもいい話なのに、そこから安全に離脱するよい算段はまったく浮かばなかった。

 

「くそっ!本当にどうしたらいいんだ?」

 

 アンコウは次の行動に移れないまま、また日が暮れていく。



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第37話 砦を守る策

「ぎゃあーっ!」

「行けーっ!矢を放てーっ!石を落とせーっ!」

ドォゴンッ!

 グゥガァンッ!

「ヒッイッ!う、腕がー!」

 

 俺の腕が足がと響く悲鳴。さらに悲鳴のひとつもあげることなく、血しぶきを撒き散らしながら砦の壁から地面に落ちていく者。

 悲鳴、怒号、悲鳴、怒号が続く、人が殺し殺され殺し合う戦場。アンコウもその戦場の前線に立っていた。

 

「くたばれっ!」

 

 アンコウの手に持つ剣も顔も体もすでに敵の返り血で血まみれだ。それでも砦の防壁に取りつき、よじ登ってくる者は絶えない。

 

「アンコウ様っ、替えの湯の準備ができました」

 

 湯といっても風呂の湯を沸かしていたわけではない。大釜で沸かされた火傷するだけではすまない熱さの熱湯だ。

 

「チッ、いちいち確認を取るな!用意ができたらすぐに奴らに浴びせろっ!」

「は、はいっ!」

 

 アンコウに報告に来ていた男は簡単な防具はつけていたが、この砦の兵士ではない。実はこの砦が敵軍に囲まれる前に近隣の一般住民がかなりの数逃げ込んでいた。

 

 湯を沸かし、壁をよじ登ってくる敵兵目がけてその熱湯をぶちまける。あるいは大石を投げ落とす。それは戦う技術も経験も無い農民市民であってもできる作業だ。

 砦の将兵だけでなく、そういった民草も共に命がけの防戦を繰り広げていた。

 しかしそれでも、その防御のわずかな隙を突いて防壁の上までたどり着く者もいる。

 

「死ねえーっ!」

 壁をよじ登ってきた敵の兵士が、熱湯を自分たちにむけて降り浴びせている者を見つけて斬りかかる。

「ヒ、ヒィッ!」

 

 熱湯をぶちまけている男は、木製の大きな柄杓のような物を持っているだけで剣は短刀を腰に差しているだけだ。

 

「ぎゃあーっ!」

 

 頭と胴がほとんど斬り離されるほどに首を斬られ、男は倒れていく。

 しかし斬られ地面に倒れた男は、熱湯をかけていた男ではなく、剣を手に斬りかかってきた敵兵の男のほうだ。

 倒れた男の後ろに、剣から血を滴らせたアンコウが立っていた。

 

「ア、アンコウ様」

「手を休めるな!次が来るぞ!死にたくなかったら、ゴキブリどもに湯をかけつづけろっ!」

「は、はいっ!」

 

 アンコウ自身もこの戦場において、共鳴の力を発動し続けて、八面六臂(はちめんろっぴ)の働きをみせている。

 アンコウにとって、こんな戦争に参加しなければならない理由などないのだが、今この時この場に居合わせた以上、もはや戦うしか選択肢はなかった。

 

 そして、戦争とはどれほど大きいものであっても所詮はただの殺し合いであり、殺し合いである以上、生き残るためにはどんな手を使ってでも戦って勝つしかない。

 

「クヒヒッ」

 アンコウが自嘲気味に小さく妙な笑い声を出す。

(アンコウ()か。ちょっとの間に出世したねぇ、俺も)

 

 全身に返り血を浴びたアンコウは、赤鞘の魔剣を抜き身のまま持ち続けながら何とか正気も保ち続けていた。

 このサミワの砦を囲む敵軍の攻撃は、すでに1週間連続でつづいていた。

 

 砦への攻撃が始まった当初は、正規兵たちだけで砦の防御にあたっていた。しかし、グローソン公を裏切った者どもがさらにこの地に集まり、砦を囲む敵軍の兵数がどんどん増えていった。

 

 そして、いくら堅牢な砦に籠もっているといえども、正規兵だけでは手が足らなくなってしまった。

 

 その数の不利を少しでも縮めようと、サミワの砦の守護部隊の幹部クラスの一部の者が、この砦に逃げ込んできた民衆を駆り出し、戦闘に参加させることを主張した。

 しかし、この砦の指揮官であるヒルサギはその案を採用しなかった。

 民草は守るべき者であり、戦うのは自分たち剣を持つ者の務めであると。

 

 アンコウの見るところヒルサギという男は、出自は低くとも確かに優れた統率力があり、人格的にも問題がない人物であったが、いささかまじめに過ぎ、はっきり言えば堅物で融通が利かないところがあった。

 

 農民出身であることが、武人とは為政者とはかくあるべきであるという像を、逆にヒルサギに強く持たせているのかもしれない。

 

 敵が兵数の多さを生かした一斉攻撃を多用するようになり、それを何とか凌いだ日。

 その日の戦闘が終わると同時に、この砦内にいる民衆を戦闘に動員するように、強力に主張したのは、ほかでもないアンコウだった。

 

 アンコウは、自分がグローソン公によって無理やりつけられた臣下の腕輪をしていることによって生じたこの砦内における自分に対する期待度の大きさと、自分の持つ発言力の大きさを理解していた。

 

 自分がヒルサギの意見に反することを主張して、余計な波風が立つかもしれないとは思ったが、それ以上にアンコウにとって重要だったのは自分自身が生きのびること。

 戦さにおいて、ある一定程度以上の数の差は、それ自体が致命的な敗北原因になるとアンコウは思っている。

 

 これはアンコウが元の世界で得ていた ごく一般的な戦争に関する知識と、実際にこちらの世界で経験し見聞してきたものから得た戦いというものに関する価値観のひとつだ。

 

 この砦には、食料、武器、その他諸々の物資がまだ豊富にある。それを使えば、戦闘を知らない者でも十分に戦力になるとアンコウも思った。

 ヒルサギはアンコウに対して実に丁寧な態度で接し続けてくれていたが、アンコウのこの意見に関しては容易に受け入れようとはしなかった。

 

 それでも、このままの兵数差で戦っていたら、いずれ砦は落ち、自分は殺されるかもしれないと思っているアンコウは自分の主張に味方してくれるよく知らない砦の幹部連中を味方につけて、ヒルサギに迫った。

 

「砦が落ちれば、下手をすれば皆殺しだぞ。兵士だろうが、無力な民草だろうが関係ない。女子どもも情け容赦なく殺される。あんた責任がとれるのか。

 自分たちの命がかかってるんだ。兵も民も女も子供も関係あるか、一人残らず戦わせろ。

 あんたのそれは武人の誇りか騎士道精神か、その類のものだろうがな。

 そんなものは生き死にがかかった状況ではクソの役にも立たないから、この(いくさ)が終わるまで物置小屋に鍵でもかけてしまっておいてくれ」

 

 アンコウの言葉を聞いて、苦渋の表情を浮かべる者も少なからずいたが、最終的には幹部連中の過半が賛成にまわり、ヒルサギも受け入れざるをえなくなった。

 

 そして、アンコウたち砦の者たちは兵も民も関係なく戦い、この7日目の敵の攻撃も何とか退けることができた。

 

 敵兵が退いてから約半刻、アンコウはまだ休憩することなく、諸所を歩いて見てまわっていた。

 こちらの死人怪我人の数も少なくはない。無論、砦を落とそうと力押しを続けている敵側の損害のほうが遥かに大きいのだが、アンコウは歩いてまわる先で、自軍の怪我人とその怪我人の手当てに追われる人たちの姿を見ていた。

 

(やっぱり一般民の損害も少なくないな)

 

 砦の防御に駆り出された一般民は、後方支援だけでなく、先ほどの熱湯を浴びせかけていた者たちや大石を落としていたものなど、戦闘の最前線に送られた者も多く、負傷者はもちろん死者も少なくない数が出ていた。

 

 しかしそのことに関して、彼らを戦わせるように主張したアンコウは、まったく後悔するところはなく、自分の身を自分で守るのは当たり前、戦さで人死(ひとじ)にが出るのは当たり前と割り切っていた。

 しかし、そのことをアンコウのようには、なかなか割り切れない者もいた。

 

「おお、アンコウ殿。こんなところにおられましたか。捜していたのですよ」

 

 砦内を歩くアンコウの背後から声をかけてきたのはヒルサギ。ヒルサギはこの砦の留守居役で、今この砦の守備軍を率いる実質的な総大将だ。

 ヒルサギは人間族の男で、髪は短く刈り込み、がっしりとした鍛えられた体躯を持つ、武人風のまだ若いといえる年齢の男だ。

 そのヒルサギがアンコウの横まで走りよって来た。

 

 アンコウとヒルサギが立っている場所からは、怪我を負って治療を受けている一般民の一団を見ることができた。アンコウの横に立つヒルサギが彼らを見る表情には、実に複雑なものが浮かんでいた。

 

「……ヒルサギ殿。やっぱり納得できませんか?」

「いえ、アンコウ殿、」

 ヒルサギは首を横に振りながら答える。

 

「正直、ひとりの武人として、守るべき彼らが戦い傷を負っている姿を見ることは辛いものがあります。しかし、今日の戦いもそうでしたが、敵を追い払うのに為した彼ら民草の貢献は非常に大きい。

 その事実は否定しようがありません。この先もそうです。もし彼らの力がなければ、今の戦況を維持することはできなくなるでしょう」

 

 ヒルサギは自分が反対した策であっても、その結果を公平に認め受け入れることができる男だった。

 それどころか、そもそも避難民を戦闘に参加させることが決まってからは、ヒルサギは当初反対していたにもかかわらず、より有用に一般民を戦闘に投入するため、自らの思いは抑えて指揮官として文句のない采配をおこなって見せた。

 

(良くも悪くも、この男は真面目だよ。ある意味珍しい)

 

 それでもヒルサギは、指揮官として一般民を戦闘に有効に活用し、その効果も挙げてみせたのとは別に、やはりひとりの武人として、一般民を戦闘の前線に駆り出す事を恥だと考えているようだった。

 

 しかし、それを口にして言えば、アンコウたち、この策を提案支持した人たちをも非難することになると、ヒルサギが言葉を慎重に選んでいるということがアンコウにはよくわかっていた。

 

「ヒルサギ殿は優しいな。立派だと思いますよ」

「……アンコウ殿…ありがとう」

 

 そう言って、一度口を真一文字に結んで目を下に落としたヒルサギだったが、再び顔をあげると、少し無理に明るい声を出して、また話し始めた。

 

「しかし、アンコウ殿!私はひとつ考えを改めたことがあります」

「へぇ、何ですか」

「この民草たちのことです。彼らは私たちが守るべき存在だという考えに変わりはありませんが。…見てください彼らを」

 

 アンコウはヒルサギに促され、怪我をして休んでいる者、その怪我人の世話をする者、夕食の支度に追われている者、その周りで遊ぶ子供たち、この砦に籠もる一般民の姿を見た。

 しかし、それはいずれもこの砦の一般民がいる場所ではどこでも見られる風景。

 

 アンコウが何と言ったものか考えながら彼らの姿を見ていると、その風景の中から、7,8歳ぐらいの女の子がヒルサギとアンコウのほうにむかって駆け寄って来た。

 

 女の子はヒルサギの前で足を止めると、ニカッと笑い、ヒルサギにむかって手に持っていた綺麗な黄色い花を一輪、差し出してきた。

 

「ほう、私にくれるのか?」

「うん!大将様にあげる!」

「ふふっ、ありがとう」

 ヒルサギは女の子から花を受け取り、女の子の頭を撫でた。

 

 ヒルサギに頭を撫でられた女の子は愛くるしい子猫のように人懐っこい笑顔になった。女の子は次に、アンコウの顔を見て、もう一輪手に持っていた花を差し出してきた。

 

「アンコウ様、あげる!」

「へぇ、俺にもくれるのか」

 女の子から花を受け取ったアンコウは、何となく女の子の鼻をつまんだ。

「ふがっ、何するのアンコウ様!」

 

 その女の子のかわいらしい反応を見て、アハハと大きな声で笑うアンコウ。

 女の子は、アンコウ様は嫌いと言って、ヒルサギの足にくっついた。それを見てヒルサギも笑っている。

 

「……娘。家族はみな無事でいるか?」

 ヒルサギが自分の足にひっついている女の子に少し真剣な顔をして聞いた。

「うん!みんな元気!」

「……そうか、それはよかった」

 ヒルサギがまた女の子の頭を撫でる。

 

「こら、ミウ!何をしているの!」

 女の子の母親らしき若い女が、女の子の名を呼びながら飛んできた。

 

 若い女は、その女の子を叱り付け、アンコウとヒルサギにむかって何度も頭をさげながら、女の子を連れてその場を去っていった。

 

 ミウと呼ばれた女の子は、母親に腕を引かれてその場から遠ざかりながらも、アンコウとヒルサギにむかって愛らしく手を振っていた。

 アンコウがそれを見ながら声は出さずに笑っていると、ヒルサギがうなずきながら語りはじめた。

 

「このような戦場にありながら彼らの表情は明るい。無論、無理をして、なのかも知れません。

 だが、ここには彼らが無理をしてでも明るく振舞おうとできる何かがあるのです。私はそれは彼らが、彼ら自身が戦っているからだと思います。このような過酷な環境にありながら、自分たちができることがある、自分たちの力で戦っているということが何よりの希望になっているんじゃないでしょうか。

 私は自分自身農村の生まれでありながら、彼らの力や誇りというものを理解できていなかった」

 ヒルサギは目を細めて彼らを見ながら言った。

 

(なるほどねぇ、まっ、そう言われればそうかもな)

 

 一方アンコウにしてみれば、たまたま結果的に今はそういう状況になっているだけであって、明日には変わるかもしれないし、それがどうしたの?という感想しかない。

 

 アンコウはヒルサギのような男は嫌いでないが、根本的な価値観の置き所は違うなと感じていた。

 ヒルサギはアンコウのほうに体を向けて、さらに熱っぽく語る。

 

「ありがとうございます、アンコウ殿!私はアンコウ殿に教えられました!さすがはあの公爵様より臣下の腕輪を賜るほどのお方です。亡くなられた砦守将様のお導きかもしれません。私はあなたと共に戦場に立てることを誇りに思います!」

 

 ヒルサギは両手でがっちりとアンコウの手を掴み、アンコウの目を力強く見つめる。

 

「い、いや、別に礼なんかいりませんよ……」

 

 ヒルサギはアンコウが思っていた以上に熱い男だった。アンコウはそんなヒルサギに、俺こいつちょっと苦手かもしれないと初めて思った。

 

「ヒルサギ殿は、わざわざそれを伝えに俺を捜していたんですか?」

 

 ヒルサギは、このサミワの砦の指揮官である。今は暇な時間などないはずだ。

 

「おおっ、それだけではありません。忘れるところでした。少々熱くなってしまったようです」

 

 ヒルサギはアンコウから手を離して、興奮を押さえるように深呼吸をする。そして気持ちの切り替えができたのか、再びアンコウのほうを見た。

 

「昨日、アンコウ殿が要求された件でお話が。まったくこちらの気がまわらぬことで申し訳ありませんでした」

 

 ヒルサギが一転神妙な顔になって、アンコウに謝罪してきた。突然ヒルサギに頭をさげられて、アンコウは?マークであった。

 アンコウはヒルサギに何かを要求した覚えはないし、ましてや謝られる覚えなどない。

 

 アンコウが何のことだと首をかしげていると、ヒルサギはそのまま話をつづけた。

 

「アンコウ殿にお付けした世話係の者から、連絡が来ました」

 

 ヒルサギのその言葉で、アンコウはヒルサギが何のことを言っているのかがわかった。

(あのジジイ、ヒルサギに話したのか!?)

 

 アンコウは眉をひそめながら、自分の世話係につけられた年配の男の顔を思い出していた。

 馬鹿ジジイが、あんなことを砦の総司令官に話してどうすんだ、とアンコウは心の中で毒づく。

 

 アンコウは昨日その世話係の男にある頼みごとをしていた。簡単にいうと、女を用意しろということだ。

 無論、アンコウはそんな個人的な、しかも下の世話がらみの頼み事をヒルサギに伝えるようになど言うわけがない。

 

 それに実は、アンコウにつけられた世話係には、頼み事をしたジジイだけでなく、アンコウがそういう意味で手をつけても構いませんよと、それとなく言われている若い女もいた。

 

 しかし、そのお手つき自由と言われた女は、女というより娘というべき年齢の者で、アンコウの目にその娘は、育ちの良いお嬢様で、まず間違いなく男を知らないと思われる生娘に見えた。

 

 むろんその娘本人も、そのような役割も知ったうえでアンコウの世話役を受けている。しかしアンコウには、ただの気晴らし、一時(いっとき)の欲望の解消のために抱くには、いささかその娘は荷が重かった。

 

 アンコウとしてはこれだけ一般民が逃げ込んでいるのなら、間違いなく売春業で小銭稼ぎをしている者もいるだろうと思っていた。

 だからアンコウは、その世話係のジジイに直接女を用意しろと言ったのではなく、その関係の商売をしている人間に当たりをつけておいてくれと言ったのだ。

 

 それをよりにもよって、その世話係のジジイはこの砦の最高責任者であるヒルサギにその話を持っていったらしい。

 そのジジイは何かあれば、すべてを報告するように言われていたのかもしれないが、アンコウとしてはそれぐらいの配慮はしやがれというところだ。

 

(無駄に年を食いやがって、あのジジイめ。使えねぇ)

 

 ヒルサギがこの砦を守るため、昼夜の別なく働いていることはアンコウもよくわかっている。

 そのヒルサギの口から、自分が女を用意しろ的なことを言った話を持ち出されるのは、さすがにアンコウも恥ずかしく、後ろめたいものがあった。

 

「アンコウ殿。側にお付けした娘はお気に召しませんでしたか」

「あ、ああ、いや、」

 

 アンコウとしては、その女が『娘』であったことが問題で、世慣れた娼婦のような女でよかったのだが、ヒルサギたちの感覚はいささか違うようだ。

 

「アンコウ殿はどのような娘を御所望なのです?」

 

 ヒルサギはためらうことなく、はっきりと聞いてくる。仮にもヒルサギはこの砦の現在の最高責任者なのだ。

 逆にアンコウはそのストレートな質問にあせってしまった。

 

「あーっと、なんだろ?いや娘じゃなくてですね、もうちょっと男をわかっているというか。あー、と、とにかくあの娘は若すぎますし、男も知らないでしょう」

 

 アンコウとしては気軽にあと腐れなく抱ける女であれば誰でもよかった。

 

「……なるほど。では女の顔かたちなどは?」

「あー、ま、まぁ何でも、」

「何でもよろしいので?」

「あ、ああ、いや、そりゃあ綺麗なほうがいいですし、胸も大きいほうが、あとちょっと奥ゆかしい感じがある大人の女で………ああっ!もういいですよ!」

 

 アンコウはヒルサギにむかって大きく手を振って、もう止めてくれということをアピールした。

 アンコウはいまさら女の話をすること自体に照れなどはないが、さすがにこれは気まずいものがあった。

 

「し、しかしアンコウ殿、それでは!確かにここではアンコウ殿がお気に召すような女子(おなご)はご用意できぬかもしれませんが、できる限りご希望にそうな女子をご用意いたしますので!」

 

 そう言ったヒルサギの声は大きかった。

 

「こ、声が大きい!もういいですから!そ、それよりも(いくさ)です!戦いに勝つほうが大切でしょう!」

「は、はぁ……」

 

 どうもこの夜伽(よとぎ)の女のことに関しても、アンコウとヒルサギの感覚は噛み合わないようだ。

アンコウはヒルサギから視線を逸らし、その場から逃げるように再び早足で歩き始めた。

 

「お、お待ちを!アンコウ殿!」

 

 アンコウは先ほど、ヒルサギと話をしていた場所が見えなくなるぐらいのところまで早足で歩き、ようやく歩く速度を落としていく。

 

「で、ヒルサギ殿。そちらのほうの戦いはどうだったのですか?」

 

 アンコウは完全に歩みを止めることはなく、話題を変えて、ヒルサギに話しかけた。

 

 今日、アンコウとヒルサギは別々の場所で攻め寄せる敵と戦っていた。より敵が重きを置いて攻めていた場所には、ヒルサギが率いる砦の守備部隊が中心になって防御にあたっていた。

 話題が女の話から戦さの話に変わり、ヒルサギの表情も、再び一軍の司令官のものに変わる。

 

「ええ。今回の攻撃も敵の主力はこちらのほうだったようですが、やはりあの銀髪の獣人が率いる部隊が問題ですね」

 

 アンコウはヒルサギのその言葉に、声は出さずにうなずく。

 アンコウも何度かヒルサギが言ったその銀髪の獣人の戦士を目にしていた。その銀髪の獣人の戦士は、常に前線に攻め寄せる兵士の先頭に立ち、敵側の最前線の中で、中心的な役割を果たしている戦士であった。

 

 アンコウは客観的に見て、その銀髪の戦士と一対一で戦ったとして、魔剣との共鳴を起こしていても自分が勝てるのは10の内、3か良くても4。

 今のアンコウの実力では7割方は負けると踏んでいた。

 

 共鳴を起こしたアンコウは相対的に言ってかなり強い。しかし、アンコウよりも強い戦闘力を持つ者も一軍という規模になれば、かなりの確率でいるだろう。

 

 ただアンコウは、この戦場で未だその銀髪の獣人の戦士以上の力を持つ敵戦士を確認していない。相手軍の数からいえば、もっと強者が存在してもおかしくないのに。

 

 それに関して、おそらく裏切り者たちの勢力内にいる 最も優れた戦力は、ここサミワの砦ではなく、グローソン公ハウルがネルカ城のほうに向かったのだろうというのが、アンコウ、ヒルサギの共通認識であった。

 

 獣人といえば、もしアンコウが、あのマニと1対1で戦ったとしたら、アンコウは10の内、1も勝てる可能性があるとは思えない。

 

 厄介には違いないが、この敵軍相手なら、アンコウもヒルサギも、今の自分たちの戦力で、撃破することはできないまでも、援軍が来るまで、あるいは敵の兵糧が尽きるまで、この砦を死守することは可能だと考えていた。

 

「ヒルサギ殿。敵は兵の数は多いし、確かにあの銀髪の獣人は厄介ですが、連中の戦士の層はそんなに厚くないと思うんですよ」

 

 アンコウの言に、今度はヒルサギが無言のままうなずく。

 どれほどの戦闘能力を持っていても、一個人が一国の軍隊を撃破することは不可能に近い所業であるが、この世界ではアンコウが元いた世界より、戦士一人が持つ戦闘能力が、軍対軍の戦いの勝敗に与える影響が大きいことも、紛れもない事実だ。

 

 敵兵の質はそこまで良くはない。それが一般民の寄せ集めの部隊でも敵を撃退できている理由の一つだと、ヒルサギはみていた。

 

「アンコウ殿。私はあの銀髪の獣人の戦士を排除したいと思っています。あの者ひとりを討って、この戦さに勝てるわけではないですが、それができれば敵に与える精神的ダメージはかなり大きいのではないかと思っています」

 

「……勝算はあるんですか」

 アンコウの問いにヒルサギは、黙ってうなずいて見せた。

 

 そしてまた話し出す。ヒルサギが言うには、彼らの攻撃は激しくはあるが実に単調なものであり、かなりそのパターンが読めてきたとのこと。

 確かにそれはアンコウも感じていたことでもあり、アンコウはヒルサギの見立てに素直に頷くことができた。

 

 ヒルサギは敵軍の問題は戦力の質の低さだけでなく、おそらくあまりよい参謀が存在していないのだろうと断じた。

 ヒルサギは彼らの攻撃パターンとルートを読み、それに連中の動きが実際にはまれば、こちらから待ち構え、攻撃を仕掛けるつもりだと言った。

 

「確かに、そこまで情報分析ができているんでしたら、試してみる価値はあると思いますが……」

 

 アンコウはそこまで言って、また口ごもる。

 敵に高い戦闘能力を持つものは少ないといったが、実は敵軍同様に砦の守備側にもそこまで高い能力を持つ戦士は見当たらなかった。

 

(策どおりに敵の隙をつくことができても、短い時間であの銀髪の獣人の戦士を討てるかどうか……)

 アンコウは考える。

 

「大丈夫です。アンコウ殿、やると決めたからには、」

 ヒルサギがこの作戦を実行するに当たっての自分の決意を言い切る前に、アンコウが口をはさんだ。

「俺も参加してもいいですか?」

 

「えっ!?」

 驚くヒルサギ。

 

「俺もその襲撃部隊に参加したいのですが」

 アンコウはもう一度同じことをヒルサギにむかって言った。

 

 戦さは殺し合い、勝たなければ殺される。ならば勝てるチャンスは見逃してはいけない。

 砦のためでも誰のためでもなく、それはアンコウが自分自身が生き残るための判断だ。しかしヒルサギはそうは受け取らない。

 

「……ア、アンコウ殿」

 

 ヒルサギも自身が立てたこの策の弱点をよくわかっている。

 確かにそこにアンコウが入ってくれたら、あの銀髪の戦士を討ち取れる可能性は一挙にあがる。

 

 しかし、ヒルサギはそれを自分からアンコウに頼むつもりはなかった。己が建てた危険を伴う策なればこそ、ヒルサギは自分自身がその部隊を率いるつもりだった。

 

「い、いえ。アンコウ殿、これは私自身が加わろうと、」

「それは愚策でしょう。総大将が奇襲襲撃部隊を率いるなんて。あなたが死ねば、砦は大混乱だ。わかっているでしょう」

「で、ですから、そのときの対応をアンコウ殿に、」

「お断りですよ、そんなのは」

 

 総大将が撃ち取られるような大混乱に乗じて敵に攻められれば、アンコウは自分ひとりが逃げおおせる自信すらまったくない。

 ましてや、誰が砦の砦守将の代理の代理なんかするもんか、なのである。

 

 たとえアンコウがどのような選択を取ったとしても、多少他人より力があったところで、防壁が破られ、あれだけの軍勢の数の暴力の前にさらされるような状況になれば、為す術など一瞬でなくなる。

 

 それにそんな状況になれば、この右腕の黄金の腕輪をしているアンコウは、剣を持ち、手柄乞食のように目を血走らせた連中に真っ先に狙われることは目に見えていた。

 

「情の問題じゃない。客観的に生き残れる可能性の問題だ。目的はあの銀髪の獣人の戦士を討ち取ること。

 はっきり言いますよ。個人の戦闘能力で言えば、あなたより俺のほうが上だ。

 そしてあなたはこの砦の総指揮官で、俺はこの派手な腕輪をはめているだけの好き勝手に動いている人間。である以上、その作戦の攻撃部隊に入るのは、俺のほうが適任だってことは誰にだってわかる」

 

「ア、アンコウ殿っ!くくっ」

 

 ヒルサギは目を閉じて、顔を真っ赤に染め、歯を食いしばり、両手を硬く握り締め、体を震わしていた。

 

 ヒルサギは全身で、アンコウ殿、この砦のためにっ!とでも言っているようであり、誰がどう見てもヒルサギは何やら感動しているようだった。

 

「アーっと………」

 こいつまた何か勘違いしているなと、アンコウは内心少し引きながら、そのヒルサギの様子を見ていた。

 

 

 そして少し面倒くさくなったアンコウは、それ以上は何も言わず、ヒルサギの体の震えがおさまる前に、その場を一人立ち去ったのであった。

 



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第38話 狙うは ラースカンの首

 2日後、ヒルサギの作戦は皆にも受け入れられて、その翌日アンコウたち奇襲襲撃部隊はまだ外は暗く夜といえる時間のうちにサミワの砦を出た。

 アンコウは砦を出る際にも、よろしくお願いしますと、ヒルサギにがっしりと手を握られて、少々その暑苦しさに閉口しながら、砦を出たのだった。

 

 砦を出たアンコウたちは事前の予定通り、木々が鬱蒼(うっそう)と生い茂る森の中に移動して、これからの作戦にしたがって隊を分けた。

 そしてさらに、それぞれの部隊ごとに森を移動して、予定の場所で待機する。アンコウは、その内の一隊に身を置いている。

 

 そのまま獣の気配しかしない森の中で潜んでいるうちに、いつのまにか日が昇り、アンコウたちがいる道なき森の中にまで、明かりが差し込んできた。

 

「ブルッ、ブルッフッ、」

 

 アンコウは馬の(くつわ)を持ち、馬の首の辺りを撫でている。

 馬はアンコウに撫でられて、気持ち良さげにしているが、一方、馬を撫でているアンコウの顔には強い緊張の色が浮かんでいた。

 

 アンコウは表面的には何でもないように見せようと努めていたが、内心は砦を出たときから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

 

 しかし、逃げ道などはない。今アンコウたちがいる場所のまわりに敵の姿はない。だが、この森を抜け山を下れば、敵の陣地がある。

 何とかその陣の近くをうまく避ける道を見つけたとしても、各所には間違いなく斥候の目が光っているはずだ。

 

 アンコウはひとり逃げるのではなく、砦を囲む敵と戦い砦を守り抜くほうが、自分も生き残れる可能性が高いと判断した。

 ゆえにアンコウは、この砦防衛戦を勝つための方策として、自らこの作戦に参加することを志願した。

 

 しかし、自ら志願したことはいえ、実際にこうして作戦が動き出すと、アンコウは心の中から湧き出してくる恐怖と不安を止めることはできなかった。

 

 ただアンコウの感情に関係なく、この状況はもうすぐ動き出す。それまで、アンコウはじっと自分の心と戦い耐えるほかない。

 

 

「アンコウ殿」

 

 馬の背を撫でるアンコウに、アンコウが率いる部隊の副官クラスの戦士が声をかけてきた。

 

「ヘミトか。どうした」

「はっ、たった今来た伝令の者によりますと、動き出した敵軍は、いつものルートを移動し、砦に向かっているようです」

「そうか。銀髪の獣人の部隊の動きは?」

「はっ、これもいつものごとく、先陣を切り、他の部隊を置き去りにする速さで、砦に向かっているとのことです」

「……そうか、いつもどおりだな」

 

 いつもどおりだということは、ヒルサギの立てた作戦を実行する前提どおりに、事が動いているということであった。

 

「よし。みんなに出立の用意をさせろ。あの銀髪の部隊は、動き出すと早いぞ。これより次の予定の場所に移動し、奴らを待ち伏せる」

 

「はいっ」

 

 ヘミトは勢いよくアンコウに頭をさげ、皆に伝達するよう、さらに下の者に指示を出した。

 間近に迫った戦闘の興奮が、アンコウの怯えと不安を少しずつ飲み込んでいく。

 

(……勝つ。殺す。それがここを生き残るための道だ)

 

 アンコウはできることなら、こんな何の思い入れもない土地で(いくさ)などしたくはない。しかし、平和に自由に生きるためは、血を流し、他者の命を奪わなければならないという矛盾した現実がある。

 

 アンコウは冒険者である。アンコウがこの世界で望む平穏無事な生活というものの中にも、生きるために、多少の贅沢をするために、魔獣狩りをして金を稼ぐということが当たり前に組み込まれている。

 魔獣狩りも、間違いなく魔獣との食うか食われるかの命を懸けた戦いなのだ。

 

 (いくさ)の手柄や立身出世など望んでいないアンコウではあるが、この世界で生きていく以上、それとは違ういずれの人生の選択肢の中にも、剣を抜き、生きるために命を懸けて戦うということは必ず入ってくる。

 

 元の世界では、平和で戦争など知らぬ生き方をしていたアンコウだったが、ここでは生きるために血を流し、殺し殺されすることは当たり前、アンコウの心から戦い殺すということ自体を忌避する感覚がなくなってすでに久しい。

 

「さぁ、行くぞ!」

 

 アンコウは馬に(またが)り、先頭に立って移動を始めた。

 

 

 

 

 サミワの砦を囲む反乱軍は、ついこのあいだまでグローソン公に忠誠を誓っていた大小の貴族豪族の混成軍である。

 

 サミワの砦に攻撃を仕掛ける際、常に先陣を切り、前線で剣を振るっている銀髪の獣人の戦士が率いる部隊がある。その銀髪の獣人の戦士の名は、ラースカンという。

 この銀髪の獣人率いる部隊は、サミワ砦を囲む反乱軍の中核をなす貴族に属している部隊だ。

 

 この砦を包囲する反乱軍は、数こそサミワ砦の守備隊と比べれば圧倒しているが、指揮系統はバラバラで、効率的な攻砦戦ができているとはいえない。

 そのことは、サミワの砦の総司令官であるヒルサギもよくわかっており、そこにこの戦いの勝機を求めようとしていた。

 

 銀髪の獣人の戦士ラースカンは、砦へと続く険しい山道をものともせず、美しい栗毛の巨躯の馬をいつものように走らせている。

 

「者ども急げ!今日こそはあの砦に籠もる臆病者どもを叩きのめしてくれるわっ!」

 

 ラースカンはさらに馬の腹をけり、駆け上がる速度をあげる。

 このラースカンの少し後ろに上官に遅れまいと、ラースカンの部下であろう騎馬の兵たちが必死で馬を走らせていた。

 

 しかし、この険しい山の上につくられた砦を落とすための戦いである。当然ながら騎馬の兵の数はそんなに多くはない。

 そして、彼ら騎兵に遅れて、ラースカンの部隊の歩兵の一団が必死で走っていた。

 

 さらに、このラースカンの率いる部隊に続く反乱軍の部隊にいたっては、その姿はいまだ見えないほど離れており、彼らの部隊が突出して先行していることがわかる。

 

 昨日も一昨日も、この攻砦戦が始まって以来彼らは、この形で砦に向かって攻め上り続けており、反乱軍が数の力にまかせて攻めるだけで、統一された意思による行動ができていないことは明らかだった。

 

 この統一された行動が取れていないことが、結果的にラースカンのような優れた力を持つ戦士の反乱軍における影響力をさらに高めていた。

 反乱軍側の戦いは、司令部の意思命令によって動くのではなく、ラースカンのような実力のある前線指揮官の命令を頼りに、場当たり的におこなわれていたからだ。

 

 ヒルサギやアンコウは反乱軍のそういった状態をこの数日の戦いを経て見抜いていた。

 そして、この最前線で連日指揮を取り、猛烈な働きを見せているラースカンを討ち取ることができたら敵軍の士気を大いに弱めることができると考えたのだ。

 

 砦側のそのような思惑はつゆ知らず、ラースカンは自分と後ろにいる隊の歩兵たちとの距離の差が、さらに開いていくことを気にもとめず、砦めがけて馬を走らせ続けていた。

 

 そして、ラースカンたち騎馬隊と後ろの歩兵との距離が相当にひらいた時、

 

「「うわあぁぁぁーっ!」」

 

 調子よく馬を走らせ続けていたラースカンの後方から、兵士たちの悲鳴が聞こえてきた。

 

ヒュンッ!ヒュンッ!

ヒュンッ!―――――――――!―――――――――!

 

 ラースカンが馬を走らせつつも後ろを振り返ると、歩兵たちが上ってくる山道横の森の中から、おびただしい数の矢が飛んできていた。

 

「ぎゃあーっ!」「うわぁーっ!」「ぐがっ!」

 

 飛んできた矢が次々と歩兵たちにあたり、彼らがバタバタと地面に倒れ伏していくのが、ラースカンの目に入る。

 

小癪(こしゃく)な!待ち伏せか!」

 ラースカンは走る馬の手綱を引き、馬を急停止させる。

「ヒヒンッ!」

 

「迎撃体勢をとれ!長盾隊を森に向かって展開させろ!」

 ラースカンは怒気を(あらわ)に、銀色の毛を逆立てながら部隊に向かって指示を出す。

 

 しかし、如何(いかん)せん襲われている後続の歩兵部隊との距離が開きすぎているうえに、降りそそぐ矢のせいで混乱している彼ら自身の悲鳴や怒号に邪魔されて、ラースカンの指令は思うように伝わらない。

 

「むむうぅ、おのれぇ!」

 

 さらに怒りを増したラースカンは、手に持つ長身の魔剣を高く掲げ、馬の腹を蹴り、来た道を勢いよく駆け下りはじめ、その後ろに部下の騎兵たちも続く。

 

「うおぉぉーっ!このグローソンの下衆どもがぁっ!」

 

 しかし、ラースカンはそのまま後方で襲われている歩兵たちのところまで、すんなり合流することはできなかった。

 下り道で走らせる馬の速度が増したとき、馬が駆け下りる道に複数の剛綱(ごうこう)が張られたのだ。

 

「うおおっ!?」

「ヒヒィーンッ!」

ドザッ!ズザァァァーー!

「ぐううっ!」「くそぉ!」

 

 ラースカンを先頭に仲間を助けようと山道を猛スピードで下っていった騎兵たちが、突然道に張られた剛綱(ごうこう)に引っかかり、次々と落馬していく。

 

 落馬した者の中には、一緒に転倒した馬の下敷きになる者や、勢いが強いまま地面に叩きつけられて首がおかしな方向に曲がってしまった者もいた。

 そんな中でもラースカンはたいした怪我もなく、いち早く立ち上がった。

 

 しかし、それを待っていたかのように森に潜んでいた者たちがさらなる攻撃を仕掛ける。

 

「な、何っ!」

ヒュンッ!ヒュンッ!

 ヒュンッ!―――――――――!―――――――――!

 歩兵たち同様、ラースカンたち騎兵にむかっても、森の中から大量の弓矢が射放たれたのだ。

 

「なめるなっ!」

 

 しかしラースカンは、突風に乗る大雨の如く自分にむかって飛んでくる矢に怯むことなく、すべてを吹き飛ばす竜巻のごとくに長剣を振り回し、飛んでくる矢を次々とはじき飛ばしていった。

 

 

 一方森の中では、アンコウが自軍の兵たちに命令を出しながら、外の様子を伺っていた。そしてアンコウは、ラースカンたちが落馬したのを確認して、自分も再び馬に乗り動き出した。

 

 ここまではアンコウの予定通りに事は動いていたが、この作戦は時間との戦いでもあった。

 アンコウたちが率い砦の外に打って出てきた手勢だけでは、とてもではないがサミワの砦にむかってきている敵軍全体を相手にすることはできない。

 

 今アンコウが直接戦っているラースカンの部隊のさらに後ろには、それよりも遥かに多い兵数を擁する敵軍がつづいている。

 アンコウたちが率いている手勢の数と敵兵の全体の数とでは、小手先の策ではどうにもできない差がある。

 

 だからこそアンコウたちは、この攻撃の目的を敵を撃破することではなく、あの銀髪の戦士を討つことに限定していたのだ。

 

 ラースカンの部隊の後から来る後続の敵軍に対しては、アンコウたちと途中で別れた別の味方の部隊が足止めに向かってはいるのだが、そんなに長い時間は彼らを足止めすることはできないことはわかりきっていた。

 

 さらに先ほどアンコウの元に、味方の別動部隊とその敵の後続部隊とが接触し、すでに戦闘が始まってしまっているとの報告が来ていた。

(予定よりもかなり早い)

 アンコウは顔には出ないように気をつけていたが、内心かなり焦っていた。

 

 この作戦はあの銀髪の指揮官の首を獲って、直ちに砦に引き返すというヒットアンドアウェーの作戦だ。敵の後方部隊に追いつかれる前に奇襲を成功させる必要がある。

 

 それにアンコウにしてみれば、あのラースカンの首を獲れたとしても、自分が殺されてしまえば何の意味も無くなってしまう。

 

 

 

 

「グワッ!」

 それまで自分に飛んでくる矢をすべて弾き躱していたラースカンの口から、苦痛の声が漏れた。

 ラースカンの左足太ももに一本の矢がつき刺さった。

 

 しかし、ラースカンに刺さった矢はその一本だけだ。アンコウたちはラースカン一人を標的にし、作戦を立て、兵を配置し、ラースカンは見事にそのアンコウたちの術中にはまった。

 そしてラースカンは集中的に狙われて、矢の雨を浴びせかけられたのにもかかわらずだ。

 

「ガアァァーッ!」

 

 ラースカンは大声で吼え、足に刺さった矢を引き抜く。

 不意を突かれ負傷してしまったラースカンの顔は、憤怒の獣のような形相になっていた。

 

 この状況でよくぞ矢を一本、足に受けただけでここまでしのぎ切れるものだとアンコウは敵ながら感心していた。自分が同じことができるかと問われれば、正直アンコウには自信がない。

 しかし戦況全体としてはアンコウたちの作戦どおりに動いており、その流れのままに少しずつ戦況が動いていく。

 

「このぉぉー」

「うわぁぁっ」

 しばらくすると、矢の雨を切り抜けた歩兵たちが徐々に森の中に突入し、アンコウの部隊の兵たちに反撃を仕掛けはじめた。

 

 アンコウはそんな刻々と移りゆく戦況を捉えながらも、自身はラースカンの様子に注視していた。

 

「……まだ足に矢が一本だけか。やはりこれだけでは死んでくれねぇか」

 

 ラースカンに降りそそぐ矢の数は、随分と少なくなってきていた。

 自分の動きを封じていた降りそそぐ矢の数が減ったことを確認したラースカンは、より多くの味方がいる下方へ行くために再び体の向きを変える。

 

「おのれっ!くだらぬ策をろうしおって!」

 

 ラースカンは足の負傷など意に介することなく、山道を駆け下りようとした。それを防ごうと、森の中から数人の兵士が飛び出してきて、ラースカンに斬りかかる。

 それを迎え撃ったラースカンはわずかに足を引きずるようにしながらも、まったく怯むことなく、その複数の敵兵相手に剣を振るう。

 

「ウギヤァー!」

「ぐわっ!」

「ギアッ!」

 ラースカンは足の傷など問題ではないとばかりに、短い時間で斬りかかってきた敵兵すべてを返り討ちにしてしまった。

 

 そしてまたラースカンは、山道下方で戦っている者たちのほうを見て、走りはじめようとする。

 しかし、今度はそのラースカンの背中にむかって、山道の上方から彼の名を呼ぶ声がした。

 

「ラースカン!どこへ行く気だ!」

 

 ラースカンは怒りの形相のままに、山道の上方の声がした方を見た。

 山道のうえに目を向けたラースカンの視界に、立派な栗毛の馬に乗った一人の人間種の男が映る。

 そしてラースカンはその男の腕に朝の太陽の光に反射してキラキラと輝く、金色の腕輪がつけられていることに気づいた。

 

「むっ!あれは臣下の腕輪か……」

 

 目つきが鋭くなったラースカンは、わずかに足を引きずるようにしながら、山道の上方に姿を現したアンコウにむかって再び体の向きを変えた。

 ラースカンもこの数日の戦いの中で、敵の砦の守備軍の中にグローソン公爵の臣下の腕輪をした者がいるという情報は得ていた。

 

「貴様がこの部隊の指揮官かっ!このグローソンの豚がっ!」

 ラースカンがアンコウにむかって吼える。

 

 グローソン公ハウルの領土拡張の手法は、武力による力押しが中心だ。当然多くの血が流れ、多くの恨みを買っている。

 グローソンの軍門に降った者の中にも、このラースカンのようにグローソン公に対して遺恨を持つ者も少なくない。

 

 アンコウとしては、あのグローソン公のために戦っているような形になってしまっているのはまったく本意ではなく、ラースカンの言葉に思わず顔を歪めていた。

 しかしアンコウは、すぐにその感情を自分の心の中に押し殺してラースカンに話しかけた。

 

「お見事です。ラースカン殿」

 アンコウは先ほどとはその口調も変えて、落ち着いた様子でラースカンに語りかける。

「さすがはその武勇を持って数多(あまた)の戦場を戦い抜き、武名を(とどろ)かしてこられた戦士ラースカン。噂に違わぬ、いや、噂以上の武勇。このアンコウ感服いたしました」

 

 実際にはアンコウは、これまでラースカンの噂など聞いたこともなかった。

 アンコウが知っているのは、この戦場で自主的に集めたラースカンという敵戦士に関する客観的分析に基づく情報だけである。

 

 しかし、先ほどは憤怒の表情でアンコウを豚呼ばわりしたラースカンであったが、そのアンコウの上っ面の言葉に戦士としての自尊心がくすぐられたようで、先ほどよりも少し表情が緩んでいた。

 

「ほう、それなりに武人の礼はわきまえているか」

「ラースカン殿のような本物の武人とこうして戦場であいまみえることができたのは、私も武人の端くれとして、何よりも誉れに思います」

 

 アンコウはそういうと、馬の(あぶみ)にかけた足を離し、地面に降り立った。

 そしてアンコウは腰にかけた呪いの赤鞘の魔剣を引き抜く。その瞬間アンコウは剣との共鳴を起こし、その気配が一変する。

 そのアンコウの変化を見てラースカンは目を見張った。

 

「ふむ。臣下の腕輪をしている男が共鳴を起こしているようだというのは本当だったか。なるほど腐ってもあのグローソン公に認められた戦士ということか」

 

 そのラースカンの言葉態度には、戦場にて強敵に出会えた喜びのようなものが感じられた。

(……喜ぶか、やっぱりこいつも戦闘狂の類だな)

 

 実際どのような肩書きを持つ者であっても、戦闘を飯の種にしているような奴らにはこの類の反応を示す者が少なくないと、アンコウは思っている。

 アンコウ自身はそのような感性は持ち合わせていないのだが、ここではラースカンの好みに合わせた。

 

「ラースカン殿!一武人として、尋常なる勝負を所望する!」

 

 そしてアンコウは、山道の上方からラースカンにむかって剣の先を突きつけ、大声を発した。

 

「ワハハハッ!おもしろい!グローソンの臣下の腕輪の戦士よ。アンコウといったか、貴様をここで討ち果し、一挙に山上の砦を落としてくれるわっ!」

 

 ラースカンは歓喜をにじませながら叫び、剣を手に持ち、アンコウに向かって山道を駆け上り始めた。

 

 しかしその駆け上るスピードは足の怪我のせいもあり、ラースカンの最速というものではない。それでもラースカンの顔には戦士の歓喜とも言うべき喜びの色を浮かべて走っている。

 その姿を見て、アンコウは表情を変えることなく、心の中で思う。

 

(バカが、ヒールポーションぐらい飲んで始めればいいものを。情報どおりの戦闘キチだ)

 

 アンコウはラースカンに強者として認められたようだ。

 ラースカンはこれから始まるグローソン公の臣下の腕輪を持つ共鳴の戦士との戦いに喜びすら滲ませながら、矢を引き抜いた傷口から血が吹き出るのも気にせず、アンコウに走り迫る。

 

 一方アンコウは、表面的には悠然とラースカンを迎え撃つ姿勢を見せ、内心ラースカンの戦闘好きぶりを馬鹿にする様な心情を持ちながらも、自分より強いと認識している戦士が剣を手に迫りくることに、恐怖を覚えずにはいられなかった。

 

 ラースカンはあっという間にアンコウとの距離を縮めてくる。

( くっ、まだか、まだか、まだか、)

 アンコウの胸の内で高まる恐怖が溢れ出てくる。

 

 アンコウは、その湧きあがってきた恐怖を打ち消そうとでもするように、気がつくと迫り来るラースカンにむかって剣先を突き出したまま大声で叫んでいた。

 

「うおおーっ!」

 アンコウが大声で叫んだその瞬間、

 

ビュンッ!ビュンッ!ビュンッ!

 ビュンッ!――――――――!

 

 再び森の中から、ラースカン目がけて矢が飛び出してきた。しかも今度は先ほどのやや山なりになって飛んできていた矢の軌道とは違う。

 この矢を放った者たちは、森と山道の境ギリギリにまで移動して、ラースカン目がけて矢を放ったのだ。

 

 ラースカンはアンコウに気を取られるあまり、その森の中の動きに気づくことができなかった。

 矢は、ほぼ水平真直ぐに勢いが落ちることなく、ラースカン目がけて飛んでいく。

 

ズサッ!グサッ!ザグッ!

 そして矢が、次々とラースカンに突き刺さった。

「ぐがおぉぉーっ!!!」

 

 ラースカンは思わず地面に転がるように倒れた。しかし、地面に転がったラースカンは何とかひざ立ちに体勢を立て直し、まだ自分にむかって飛んできていた矢を薙ぎ払ってみせた。

 

 しかし、そんなラースカンにむかって飛んでくる矢はまだ止まらない。

 懸命に剣を振るうラースカンであったが、これだけ手傷を負ってしまえば、すべてを防ぐことなど叶いはしない。

 

ビュンッ!ビュンッ!ビュンッ!

 ビュンッ!――――――――!

ズサッ!グサッ!ザグッ!

 

「ぐ、ぐひょおーっ!!ふぃきょうなみゃねをーーっ!!!」

 

 ラースカンは怒りの炎で魂を燃やすような激しい怒声をあげた。

 

 しかしその怒声は実に不明瞭なものになっていた。ラースカンをハリネズミにするが如く、ラースカンの体に突き刺さった矢の一本が、彼の頬の右から左に貫通し、突き刺さっていた。

 

(どこの酋長だよ)

 アンコウはラースカンのそのざまを見て、恐怖が和らいでいく。

 ラースカンが再度の矢の雨に晒されているうちに、アンコウは再び馬上の人となっていた。

 

 水平に飛んで来る矢の雨が止まるころには、ラースカンは体に何本もの矢を受け、足元はフラフラになっていた。

 それでもラースカンの闘気は尽きていない、強烈な怒りが、ラースカンを突き動かしていた。

 

「きょの!ぐりょーそんのブタぎゃあぁー!!」

 

 猛烈な怒声を発しながら、ラースカンは道の上方にいる臣下の腕輪をした人間を見る。

 しかし、ラースカンが再び山道の上方に目をやった瞬間、彼の視界に入ってきたのは、自分の目の前に迫った精霊封石弾であった。

 

 無論、それを投げたのは、すでに道の上で馬上の人となっているアンコウだ。

 ハリネズミのようになったラースカンの姿を見て、アンコウは馬上でニヤリと笑っていた。

 

「にゃにっ!」

 ドオォグァーンッ!!

 

 大きく爆ぜる2級クラスの火の精霊封石弾。

 ラースカンは爆発前にわずかに移動できたようだが、間違いなくその爆発によって、さらなるダメージを受けていた。

 

「グガッ、ガ、ガ、ガッ、ひゅ、ひゅるさん…ちちのきゃたきをグローソン…」

 

 これでも四肢が飛び散らぬラースカンの頑強さは驚くべきものであった。しかし、ここまで弱った者をアンコウが見逃すわけがない。

 

 ふらふらと立つラースカンにむかってアンコウは、全力で馬を走らせていた。

 そしてアンコウはそのまま馬速を落とすことなく、騎乗したままラースカンに突っ込んだ。

 

ドオォガッ!!

 ラースカンはもはや声も無く、はじき飛ばされる。

「!!!!」

 

 大きくはじき飛ばされたラースカンは、その勢いのままに木に叩きつけられた。

「ぐはああっ!!」

 木に激突したラースカンの姿は、まるでボロ雑巾のように傷だらけになっていた。

 

「………はが、あが、が、グゾッ、ひぎょう…な、」

 

 さらに激突した木に力なく倒れ掛かっているラースカンにむかって、森の中から現れた何本もの長槍の先がスルスルと近づいていき、次々にラースカンの体を突き刺していった。

 

ブスッ ズブリ ザグゥウ ヌチョリ ズブブスグザッ

「フゴッ!!ゴフッ!!ぐぐぐぐっっっ………」

 

 そしてついに銀髪の獣人の戦士ラースカンは、口からも大量の血を吐き出して力尽き、しゃべらぬ肉塊と化した。

 

 そのラースカンの死を見とどけても、アンコウの心に喜びは湧いてこない。

 それはアンコウが戦士ラースカンの死を悼んでいるわけではなく、アンコウの意識がすでに次の段階に移っていたからだ。

 

 アンコウの視界の中には、すでにラースカンの死体は映っておらず、アンコウは山道下方でおこなわれているラースカンが率いてきた歩兵を中心とした部隊と奇襲をかけた味方の部隊との戦闘を注視していた。

 

 すでに下方で襲撃をかけた味方の部隊の弓矢は尽きたようで、敵味方入り混じった激しい白兵戦が展開されていた。

 アンコウたちは目的のラースカンの首は獲った。あとは砦に引き返すだけ。

 

(しかし、急がないと)

 

 砦に攻め寄せてくる敵軍はこのラースカンの部隊だけではない。

 すぐ近くまで敵の後続部隊は来ているはずであり、その大群と接触する前に引き揚げなければと、アンコウは焦っていた。

 

(この乱戦じゃあ撤退は打てない。目の前の連中に一撃を加えて、後が来る前に即逃げるしか……)



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第39話 異世界の勇者アンコウ

「行くぞっ!」

 

 アンコウは赤鞘の魔剣を鞘にしまうことはなく、そのまま山道を馬を駆り、下っていく。

 

 そしてアンコウの指揮下で、銀髪の獣人の戦士ラースカンを討ち取るために戦っていた兵士たちもアンコウに続いて走り出した。

 

 アンコウと共に走る兵士たちは、ラースカンを討ち取ったことでその士気はきわめて高い。剣を高々と掲げ、敵将ラースカンを討ち取ったりと、口々に叫びながら走っていた。

 アンコウもまた、敵兵の動揺を誘うため、馬上でラースカンは死んだと大声で叫んでいる。

 

 アンコウの視線の先では、敵味方が入り混じって白兵戦を展開していた。

 今のところ彼らは五分の戦いを繰り広げており、どちらが優勢劣勢といえる戦況ではない。

 

 しかし敵の指揮官であるラースカンがすでに死んだことを目下の敵全体に知らしめ、アンコウたちがその乱戦に新たに参入すれば、こちら側に優勢な戦況が生まれるだろうことは明らかだ。

 

 アンコウはこの有利な状況を生かし、早くこの戦場を離脱しなければと焦ってもいた。どうやら敵の後続部隊の動きが早いらしいという情報を考慮すれば、自分たちに有利な時はそう長くはないだろうとも、アンコウは考えていた。

 

(目前の敵に手早く一撃を加え、即退くしかない!)

 

 そしてアンコウたちはこの機を逃すまいと、山道を駆け下りてきた勢いのままに次々とその乱戦の中に突っ込んでいった。

 

「「オオォォォォーーッ!!」」

 

 

 

 

 太陽もずいぶんと高くなってきた。砦の上に立っているとなんとも心地の良い風が吹いている。

 ヒルサギは全身に太陽の光をうけ、心和(こころなご)ますような風をうけながら、サミワの砦の防壁の上に立っていた。

 

 そのヒルサギの表情には笑みなく、緩みなく、厳しい顔で防壁の外に広がる森林を見下ろしていた。

 

 夜明け前に砦を出立したアンコウたち奇襲襲撃部隊は、この森林地帯のどこかですでに戦闘を行っているかもしれない。ヒルサギはそれを思うと自然と奥歯をきつく噛みしめ、ギシギシと周りにも聞こえるような歯が軋む音を立てていた。

 

「ヒルサギ様」

「どうした?」

「偵察部隊の者が一人戻ってきました」

 防壁の上に立つヒルサギにむかって部下の者が報告する。

「そうか、ここに連れてきてくれ」

「はっ!」

 

――――――――

 草者からの報告を聞くうちに、それでなくとも厳しかったヒルサギの表情がさらに険しくなっていった。

 

「ご苦労だった。引き続き頼む」

「はっ」

 

 草者は下がり、そのヒルサギの表情から、あまりよい報告ではなかったのだろうと心配しつつも、ヒルサギの部下の者が問うた。

 

「ヒルサギ様何か?」

 ヒルサギに問うた部下の表情も硬い。

 

「……どうやら敵の部隊編成に変更があったらしい。先陣はいつもどおりラースカンが率いているようだが、その後続の部隊がこの砦に進軍するスピードがいつもより速いようだ」

「それではアンコウ様たちの部隊は」

「ああ、アンコウ殿らに与えられた時間はおそらく予想よりもかなり短い……」

 

 ヒルサギは、アンコウたちが敵の先陣をきる指揮官ラースカンを討ち取ってくれると信じている。アンコウに賭けたと言ってもいい。

 

 しかしそれは事前に罠をはり待ち受け、奇襲攻撃が成功した結果、ラースカンを討ち取ることが可能であるというところまであり、敵との数の差を考えれば、ラースカンを討ち取ることに成功しても、その後はアンコウたちは一目散にこの砦まで逃げるほかない。

 

(後続の兵に追いつかれれば、アンコウ殿たちに勝ち目はない………)

 

 しばしのあいだ黙考していたヒルサギは、何やら意を決したように顔をあげると、防壁の階段を駆け下りていった。

 

 

「ヒルサギ殿お待ちなされっ!」

 

 ヒルサギは出撃の準備を手早く整え、馬に乗り、手勢と共に砦の門前にいた。

 今にも出撃しようとしているヒルサギに、他の砦の将官があわてて駆けつけ、ヒルサギを引き止めている。

 

「何を考えているんだ、ヒルサギ殿!仮にもあなたは今、この砦の総大将なのだぞ!そのあなたが手勢を率いて砦を出るだなんてとんでもない愚行だ!あなたがこの砦内に留まり指揮を取ることは、事前の会議でも了承しておったろう!」

 

 ヒルサギは自分に詰め寄る将官たちをじっと見つめる。彼らが言う事は間違いなく正論だ。

 

「状況が変わり申した。このままでは、たとえあのラースカンを討ち取ることに成功したとしても、アンコウ殿たちの襲撃部隊が全滅しかねない」

 

 敵軍の後続部隊の動きが昨日までと違い、かなり早いようだという情報は他の将官にも伝えられていた。

 

「そ、それは、朝出撃した者たちは皆、それ相応の覚悟はして出たはずだ!会議のおり、アンコウ殿も総大将が奇襲部隊に参加するなど愚行だと言っておられたし、それに彼らが全滅するなどと決まったわけではない!ここは計画どおり、あなたはこの砦の守護に専念すべきだっ!」

 

 しかし、味方の将官の強く引き止める言葉を受けても、ヒルサギは引くことはなかった。

 

「状況が変わったと言った!無謀な戦いを仕掛けるつもりはない。私はアンコウ殿が、私が立てた策を成功させていると信じる!しかし、それはラースカンを討ち取るまでだ。もし後続の敵軍に飲まれたら、どうしようもなくなるだろう。

 今ならまだ間に合うはずだ!彼らに合流し、即この砦に引き返してくる。確かに彼らは命をかける覚悟をして出撃しただろう。私は武人として、その彼らの覚悟を侮るつもりは毛頭ない!

 しかし!助けられる仲間の命を見捨てることこそ、この砦を預かる者として私はできない!」

 

 ヒルサギは最後は顔を真っ赤にして叫んでいた。その言葉は彼を止めた将官だけに向けられたものではなく、この場にいる皆に向かって叫んでいるようだった。

 

「門を開けいっ!」

 

 ヒルサギが叫ぶ。もはや誰もヒルサギを止められなかった。

 そして門が開いた瞬間、ヒルサギは先頭を切って、砦の外に飛び出していった。

 

 

 

 

ザシャッ!

「ギャーッ!」

 アンコウの馬上からの一刀をうけ、敵兵がまたひとり血飛沫をあげ地面に倒れる。

 

 しかし、剣刃をきらめかせ、アンコウに殺気を放ちながら迫る敵兵の数は、減るどころか増える一方だ。

 

「く、くそっ!まずいぞ!」

 アンコウの顔には焦りの色が濃く浮かんでいる。

 

 アンコウたちが事前に立てていた作戦はここにいたって完全に狂ってしまっていた。

 そう、アンコウたちが恐れていたとおり、ラースカンが率いていた部隊を完全に敗走させる前に後続の敵部隊が到着し、この戦闘に参加してきたのだ。

 

 それによって戦況は一変した。ラースカンを失い、アンコウらの猛攻をうけて、崩壊寸前であった敵兵は見る間に勢いを取り戻した。

 

 アンコウが警戒していた以上に敵後続軍の到着は早かった。

 それにアンコウはこういった大規模な戦場経験が乏しく、これほど急速に優勢であった自軍が崩れていく事態に指揮官として対応しきれていなかった。

 

「くそっ!怯むなっ!進めぇーッ!」

 

 アンコウは大声を張りあげるが、すでにこの戦場の優劣は固まりつつあった。アンコウが何人斬り倒そうとも、あまりに敵味方の兵数の差が大きい。

 

 それに、まわりにむかって進めと叫んでいるアンコウ自身がすでに完全に逃げ腰になっていた。

 それでもアンコウが剣を振るって戦っているのは、まわりを多くの敵兵に囲まれ、逃げるに逃げられなくなっていただけだ。

 

 それはアンコウだけでなく、部隊全体にいえること。

 彼らは大きく周囲を敵兵に取り囲まれつつあり、このままでは全滅もありうる事態になりかねないほど劣勢に立たされつつあった。

 

 アンコウは焦る。アンコウはこの戦いに負けることを恐れているわけではない。

 次々に味方の兵の命が狩り獲られていることに(いか)っているわけではない。

 

(やばい!このままじゃ()られる!)

 アンコウは、ただただ自分の命が奪われてしまうことを恐れていた。

 

 アンコウは自分が生き残るために、この奇襲作戦に参加した。サミワの砦を守るためが一番の目的では決してない。

 アンコウにしてみれば、皆の前で口に出して言うとはできないが、サミワの砦を死守したところで自分が死んでしまえば、その勝利にクソほどの意味も無いのだ。

 

 無論、戦場はそれ自体が死を生み出す場所である。殺すか殺されるか、自分のうえに死神が微笑むこともあることはアンコウもよくわかっている。

 しかし、よくわかっているからといって、アンコウは自分の身に迫る死の臭いに恐怖しないなどということはできなかった。

 

 アンコウの内面は、決してヒルサギのような武人ではない。

 

「ハァハァハァ、」

 アンコウの呼吸の荒さが増していく。

 激しい戦闘で疲労したというだけではない。アンコウは徐々に精神を恐怖に塗りつぶされはじめていた。

 

 

「あの男だ!あの金色の腕輪をした男を討ち取れーっ!」

 アンコウのほうを剣で指し示し、敵兵が叫ぶ。

 

「ふぐっ、」

 アンコウの臣下の腕輪は戦場でも目立つ。

 そしてそれは、戦場においては敵を自分に引き寄せるアンコウにとって死の腕輪と化していた。

 

 アンコウはいまさらながら腕輪に布切れをぐるぐると巻きつけ隠そうとするが、まったくの無駄である。

 

「ち、ちくしょう」

 

―――――――――

 

ウオォォォーー!

 

―――――――――

 

 どんどんと敵軍の勢いは増していく。わずかな時間で戦況の優劣は完全に逆転し、ついにアンコウたちの部隊の統制が崩壊し始めた。

 

「に、逃げるなーっ!戦えっ!こ、こいつらを押しのけるんだーっ!」

 

 もはやアンコウの命令が味方の兵たちにとどくような状況でもなくなってきていた。それにアンコウとしても、すでにこの戦況を挽回できるとは思っていない。

 アンコウは、自分が逃げるための道を開くため、味方にむかって叫んでいるに過ぎなかった。

 

 そのアンコウの命令に反応する者はいない。それぞれが自分の命惜しさに、てんでばらばらに逃げはじめていた。

 アンコウは所詮、味方の兵たちにとっても、ついこのあいだ突然空から振ってきた上官だ。自分の命を捨てても、アンコウを守ろうなどという義理や忠義をもっている者はいない。

 

 たとえそれがグローソン公の臣下の腕輪をしているアンコウであっても、いざとなれば自分の命のほうが惜しいということなのだろう。

 

 それにこの作戦の標的としていた敵将ラースカンはすでに討ち取っている。このまま戦線を離脱し、砦に逃げ帰ったとしても、彼らが罰っせられる可能性は低い。

 そのことは一兵卒でもわかっていた。

 

 また、組織内の上下関係は明確にあっても、アンコウの命令を聞かずに逃げ出す兵士たちのことを、一方的にけしからん奴らだと批判することもできない。

 なぜなら、彼らもアンコウも同じく自分の命を最優先に行動しているだけの似た者同士なのだから。

 

「ふざけんなよ!お前らーっ!」

 アンコウが思わず叫んだ罵声は、敵味方関係なく、周囲の者すべてにむけたものだった。

 

 すべてのことが今、アンコウにとってまずい方向に動き出していた。

 アンコウは徐々に味方から孤立しつつあった。まわりを敵兵に囲まれたアンコウは強引に馬を走らせ、この危地を脱しようとした。

 

「どけーっ!」

 

 アンコウが剣を振るうたびに血飛沫があがる。

 アンコウはまわりを敵に囲まれてはいたが、共鳴を起こしたアンコウの剣を受け止めることができるほどの戦士はいないようだ。

 

(いま逃げるしかない)

 時間が経てば経つほどアンコウにとって不利な状況になることはわかりきっている。

 

 作戦がここまで狂ってしまった以上、アンコウも、もはや味方の部隊全体のことなど考慮しなくなっていた。

 

 アンコウは他の連中がどうなろうと自分は絶対に死んでたまるかと強く思い、さらに馬の速度を上げるべく、馬の腹を強く蹴った。

その瞬間、

 

「ヒヒィィィーン!」

 馬は反り返るかと思うほど、前足を大きく宙に浮かし、アンコウは馬の背の上で大きく体勢を崩す。

「なあっ!?」

 

 アンコウが騎乗していた馬の首に矢が刺さっていた。

 アンコウが馬を走らせ、わずかに敵の包囲網を脱した瞬間、いずこからか矢が射かけられたのだ。

 

ヒュン、ヒュンッ!

 次々とアンコウ目掛け、飛空してくる矢。

「ちぃっ!」

 アンコウはとっさに馬から飛び降り、馬の体を盾代わりにした。

 

ザクッ!ドスッ!ザクッ!

「ヒヒィィィーン!!」

 

 大きく嘶いた馬が、ドサンッと大きな地響きを立てながら地に倒れた。

 そしてアンコウにむかって、アンコウの首を獲らんと功名乞食(こうみょうこじき)と化した敵の歩兵たちが再び迫ってくる。

 

「くっ!」

 それを見たアンコウは、敵がいない方向へ急いで走り出す。

 

ヒュン、ヒュンッ!

 すると、再びアンコウにむかって矢が射かけられる。

 

「くそぉっ!」

 アンコウは飛んでくる矢を次々と剣で叩き落す。

 

 しかしアンコウの目には、少し離れたところから、次の矢を放たんと弓に矢をつがえる者たちの姿が見えていた。

 

「くそぉっ!卑怯だぞっ!」

 

 アンコウは弓を持つ者たちにむかって、先ほど銀髪の誰かが言っていたのと同じような罵声を浴びせかけた。

 そしてそのアンコウの罵声の返礼に返ってくるのは、アンコウを狙う次の矢であった。

 

 アンコウは次々と襲い来る矢を叩き落とすことに囚われて、その場に足止めされてしまう。

 

「ひぃっ、キリがないっ!」

 アンコウの脳裏にハリネズミのようになって死んでいったラースカンの姿がよぎる。

「く、くそおっ!ダメだぁ!」

 

 このままでは自分もハリネズミになると思ったアンコウは、苦肉の策として、それまでとは方向を変えて走り出し、敵歩兵の集団の中に自ら突っ込んでいった。

 敵の集団の中に突っ込んでいくと、飛んでくる矢は止んだ。しかし、その代わりにアンコウの体目がけて、無数の白刃が襲いかかって来た。

 

「イ、イイィィィーッ!!」

 

―――――――

 

 アンコウは死んでなるものかと必死で剣を振り回し続ける。

 アンコウは思わず脱糞(だっぷん)しそうになるほどの恐怖を感じながら、次々と敵兵を斬り殺していく。

 

 しかし切れ間なく押し寄せる敵兵たちは、目の前で仲間が次々とアンコウに斬り殺されていく様を見ていながらも退くことはしなかった。

 

 彼らは数の力を背に、自分たちの勝利を確信していた。

 そして、金色の臣下の腕輪をした男を討ち取るという功名乞食と化した彼らは、戦場の狂気に酔い、アンコウという獲物を狩る興奮が死の恐怖を凌駕していた。

 

 一方アンコウの心は、どんどんと迫り来る絶望的な死の恐怖に飲み込まれていく。

 アンコウは叫びながら剣を振るい続け、大人の意地で何とか脱糞(だっぷん)しないようにするのが精一杯だった。

 

「イギィィィーッ!!」

 

 次々と押し寄せる敵兵を斬り倒すことに必死になっているアンコウを尻目に、アンコウの部隊の者たちの中には戦線を離脱することに成功する者もいた。

 

 アンコウの近くにいた者たちの中にも、アンコウが敵兵を引きつけている隙に戦線から離れていく者がおり、そういった者たちの姿が剣を振り回すアンコウの視界にも入った。

 

「お前らぁー!俺を置いていくなぁ!卑怯者がぁー!砦に帰ったらブチ殺してやるぞーっ!」

 

 アンコウはいつのまにか半泣きになりながら、味方を大声で罵り、敵を竜巻のごとく斬り殺している。

 

 この状況が続く中、アンコウもいつまでも無傷のままというわけにはいかない。

 アンコウはいつのまにか体中に大小の刀傷を負っており、アンコウが剣をふるたびに敵の血だけでなく、自分の血も舞う状態になってしまっていた。

 

 そんな状態でもアンコウは、共鳴する魔剣の呪いに飲み込まれずに何とかギリギリ理性を保っていた。

 この共鳴とその影響に関することで、アンコウは自分自身の変化として、ここに至るまでに気づいていたことがあった。

 

 それは、現時点での呪いの魔剣との共鳴レベルなら、アンコウは共鳴に伴う呪いの影響を制御することができるようになっていること。

 また、呪いの影響を制御できている状態では、それまで呪いの影響のひとつとして、共鳴中はほとんど感じなくなっていた恐怖や畏れ、あるいはやさしさという感情が、さほど消えることなくアンコウの心に残り続けているということだ。

 

 その変化は先ほどからアンコウが赤鞘の魔剣を振り回し、敵を屠りながらも、抑えきれない恐怖を感じていたことからも明らかだった。

 

「ヒギイィィーッ!!」

 

 それがために今のアンコウは、共鳴を起こしている状態にありながら、次々とアンコウの命を狩ろうと襲いかかってくる狂気じみた敵兵の殺気の前に、死の恐怖に心を侵食され、恥も外聞もなく剣を振り回しながら喚きつづけるはめになっている。

 

 ただそれでいて、今は恐怖が勝っていても、呪いの魔剣との共鳴によってもたらされる戦いを求める衝動と血を喜ぶ快感が、アンコウの心の中から完全に消えているわけでもない。

 

 アンコウの心は、恐怖と悦楽の入り混じった 何とも言えない不安定な気持ちの悪い状態だった。

 

 アンコウはこの世界で生きていく以上、いまさら戦いを忌避するような考えは持ち合わせていないし、生きるためなら自らの意思でこの戦いに参加したように、進んで剣をとる覚悟はできている。

 

 しかしアンコウは、グローソン公ハウルのように元の世界を異世界と呼び、心の芯の部分まで変質させるほど、この世界に染まることがまだできていない。

 

 あるいは、ヒルサギのように貧しい農村から身を起こし、武人戦士にあこがれ、自らの苦労と努力で形づくってきた武人としての誇りや固き信念、そういったものもアンコウは持っていなかった。

 

 アンコウの心の根っこの部分は未だ元の世界でつくられたものでできているのかもしれない。

 

 アンコウが生まれ育った世界は平和で豊かな世界。

 良い悪いは知らないが、平和を守りたければ武力を持つな使うな他者を信じて話し合えという謎教育(なぞきょういく)を受け、この世界に来るまでは漫然とそれを受け入れていたアンコウである。

 

 戦う覚悟はできても、この世界で生きるためには、まだ大事な何かが足りていないのかもしれない。グローソン公ハウルの狂気。ヒルサギの武人の信念。今のアンコウは…………

 

「ぐがあぁぁーっ!誰が助けに来てくれーっ!」

 

 アンコウの絶叫が響く。しかし、いつのまにかそのアンコウの声が届く範囲に生きている味方の姿はなくなっていた。

 

 

 

 

「全軍停止ぃ-っ!」

 

 ヒルサギが右手を上げて、大きな声で命じる。

 

「皆の者停止せよ!」

「止まれっ!止まれっ!」

 

 ヒルサギの停止命令を部下の者たちが次々に全体へと伝えていく。

 ヒルサギたちはサミワの砦が建てられている山の山腹、眼下に急な斜面が広がる小さな丘の上に集結していた。

 

「「おおおー、」」

 

 自分たちの眼下の急斜面の先に広がる光景を見て、ヒルサギたちはさまざまな思いを乗せて、唸るような声をあげた。

 ヒルサギたちの目は、激しい戦闘を繰り広げている敵味方両軍の姿をとらえていた。

 

「くっ、間に合わなかった」

 ヒルサギの横に立つ年若い戦士が、思わずつぶやいた。

 

 彼の目に映る戦場は、明らかに敵の兵数が多く、敵の後続部隊がすでに戦闘に参加していることは明らかだった。

 

 しかも彼の目には味方の兵士たちが潰走を始めている姿が映っていた。

 

「ヒルサギ様!いかがしますか!」

 若き戦士がヒルサギに尋ねる。

 

 しかし、ヒルサギは答えを返さない。ヒルサギの視線は斜面の下で繰り広げられているある一点に集中されていた。

 

「ヒルサギ様?」

「……カジュール、あれを見よ」

 ヒルサギは、眼下に広がる戦場の一点を指し示しながら言った。

 

 ヒルサギが指差す戦場はまだかなり離れている。

 ヒルサギも抗魔の力を持つ戦士だ。抗魔の力を持つ者は、持たぬ者よりもはるかに身体能力は強化され、体力面だけでなく、五感、第六感に至るまで強化される。

 

 そのヒルサギの視力をもってしても、ヒルサギが指差す地点で繰り広げられている戦闘はまだ豆粒ぐらいの大きさでしか見えていない。だがヒルサギの意識はその地点での戦いに集中されていた。

 

「………ヒルサギ様、あれは………」

「間違いない。あれはアンコウ殿だ」

「おおっ……」

 若き戦士カジュールもそれに気づき、思わず声を漏らす。

 

 そう、ヒルサギが指さす先、豆粒ぐらいの大きさで見えているのはアンコウであった。

 

 その豆粒アンコウは、まわりを囲まれて逃げるに逃げられず、半泣きになりながら自分を置いて逃げる味方を大声で罵り、恐怖でうんこを漏らしそうになるのを我慢しながら襲いかかってくる敵を狂ったように斬り倒し、全身血まみれになって大声で助けを求めているアンコウであった。

 

 しかし、遠目から見るヒルサギの目には、そうは映らない。

 ヒルサギは鼻の奥からじわりと広がるある感覚を覚えていた。その感覚はヒルサギの涙腺を刺激し、薄っすらとヒルサギの目に涙が滲む。

 

「……見よ、カジュール!アンコウ殿を!」

「はっ!」

 

 ヒルサギの目に映るアンコウ―――――

 

 アンコウの力を持ってしても決して敵わぬであろう敵の大群。それに一人敢然と立ち向かい、一歩も退かず、敵の死体の山を一人で築きあげていくアンコウ。

 そして敵は、明らかに相手の指揮官であるアンコウを集中的に狙っていた。

 アンコウは逆にそれを利用し、もはや勝ち目の見出せなくなった戦場において、一人でも多くの仲間を逃すべく、多くの敵をひとりで引きつけ剣を振るう。

 アンコウが体と命を張ってつくり出したその隙に、まわりの味方の兵たちは次々に戦線を離脱していく。

 

 無論、これだけの数の敵兵全てをアンコウひとりで引きつけておくことなどできない。進むことも退くこともかなわず、敵の剣刃によって斬り倒されていく多くの味方の兵たちもいた。

 

 ヒルサギの眼下に広がる戦況は極めて悪い。

 

 絶望ですべてをあきらめてしまってもおかしくはないその状況の中であっても、アンコウの諦めるそぶりすら感じさせない猛烈かつ献身的な戦いぶりは、まるでヒルサギが幼少のころ、あちこちから隙間風が入ってくる貧しい農村の家で、寝物語に母親が読んでくれた物語に出てくる勇者のようであった。

 

 ヒルサギの思い込みがつくりあげた武人アンコウの姿は、ヒルサギの武人の魂を激しく刺激し、ヒルサギは一種の感動すら覚えていた

 

………事実はどうあれ、ヒルサギの目と心にはそう映っていた。

 

「ア、アンコウ殿」

 手綱を持つヒルサギの手が激しく震える。

 

 豆粒アンコウの戦いを体を震わせながら見ていたヒルサギに、1人の兵士が駆け寄り、片ひざをついて頭をさげた。

 

「ヒルサギ様っ、」

 その兵士はヒルサギに命じられ、周囲の偵察にあたっていた者であった。

 ヒルサギは視線を前方の戦線から外し、その兵士のほうを見た。

 

「どうした?」

「はっ!逃げてきた味方の兵士を数名確保いたしました!」

「そうか、何かわかったことがあれば申せ」

「はい!彼らが申しますには、アンコウ様率いる奇襲襲撃部隊の攻撃により、すでに敵の先陣を指揮していた敵将ラースカンは討ち果たしているとの事です!」

 

 ヒルサギの前に片ひざをついている兵士は、周囲に響くような大きな声で言った。

「「おおーっ」」と、敵将ラースカンがすでに討ち取られているとの報告を聞き、周囲の者たちは驚きと感嘆の声をあげる。

 

 ヒルサギは他の者とは違い、声をあげることはしなかったが、目を一瞬大きく見開き、口を真一文字に結び、さきほどより激しく体を震わせていた。

 そしてヒルサギは、もう一度豆粒アンコウのほうに目をやる。

 

「見よ、カジュール。アンコウ殿は私が立てた策に従い、すでにこの攻撃の目的であった敵将ラースカンを討ち取り、その責を果たしているのだ。にもかかわらず、この戦いの最前線にいまだ踏みとどまり、命を惜しまず戦っている。

 見よ、多くの味方の兵士たちが逃げていく!それはこの状況にあっては仕方がないことだ。彼らも敵将ラースカンを討ち取ったことで、すでにその役目を全うしている。多勢に無勢、ここは逃げるが最善の策だろう………ぐぐっ、」

 

 顔を真っ赤に染めながら話すヒルサギの言葉に、さらに力が籠もる。

 

「しかしアンコウ殿は!この劣勢の中にあっても、己のなすべきことを知り、そのためには己の命などまったく顧みず剣を振るっているのだ!

 アンコウ殿は!己の命と引き換えに1人でも多くの兵士を生きて砦に戻そうとしている!多くの兵を率いる戦場の指揮官として、戦士の矜持(きょうじ)を重んじる一人の武人として見事であるというほかなし!」

 

 ヒルサギは最後は唾を飛ばしながら大声で吼えるように言った。

 その気迫に若き戦士カジュールは思わず馬から飛び降りて、膝をおり、ヒルサギに頭をさげる。

 

「ははぁーっ!!」

 

 アンコウがこのやり取りを見ていたら何と言っただろうか。

 何の時代劇だと、どこのどなた様の話だと。まちがいなくヒルサギに、

『いい加減にしろ!うだうだくっちゃべってないで、とっとと助けに来い!』と、怒声を発していたに違いない。

 

 アンコウはこの時もまだ、まわりを敵に囲まれて逃げるに逃げられず、半泣きになりながら自分を置いて逃げる味方を大声で罵り、恐怖でうんこを漏らしそうになるのを我慢しながら、襲いかかってくる敵を狂ったように斬り倒し、全身血まみれになって大声で助けを求めている最中であったのだから。

 

 ヒルサギはおもむろに剣を抜き、うしろに従う戦士たちのほうを振り返る。

 

「皆の者!アンコウ殿を死なせてはならない!ここでアンコウ殿を死なせては、サミワの砦守備隊末代までの恥である!ゆくぞ!これは我らの戦いだ!」

 

 ヒルサギはそう叫ぶと、馬首を返し、馬を走らせ、急な斜面を一気に駆け下り始めた。

 

「「おおーーっ!」」

 

 そして、そのヒルサギの背中を追うように、闘志あらわに多くの兵たちも走り出した。

 



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第40話 ボロボロの帰還

 味方の死体を文字どおり踏み越えてアンコウに殺到する功名乞食(こうみょうこじき)と化した兵隊たち。

 

 アンコウの周囲に常に敵の兵隊がいるために、精霊法術や飛び道具での攻撃がないのは救いだが、アンコウの体には次々と剣刃による傷が刻み込まれていた。

 アンコウの体から流れ出る血の量が増していく。

 

(……だめだ。もう限界だ……)

 そして、ついに諦めざるをえない心境に至ったアンコウの顔に、より強い狂気に満ちた笑いが広がっていく。

「…イヒヒヒヒ」

 

 諦めたといっても、アンコウが次に取る行動は、戦うことをやめ、おとなしく敵に斬られることではない。アンコウはそんな敵にやさしい選択はとらない男だ。

 

 アンコウは、より深く強く呪いの魔剣との共鳴に身をゆだねていく。

 するとアンコウの心に湧く戦いの興奮が増していき、血が流れ出る傷の痛みがやわらいでいく。いや、痛みがやわらぐのではなく、痛みを快楽として認識していく感覚にそれは近い。

 

 呪いの魔剣の影響を抑えていた理性の手綱をアンコウは緩めた。

 手放した理性の分だけ、脱糞しそうになるほどにアンコウが感じていた恐怖も薄らいでいく。

 

(…イヒ、ただで死んでたまるか。一人でも多く道連れにしてやる……)

「イッヒヒヒィー!」

 

 アンコウの動きが変わった。単に力が増しただけではない。それまで受身逃げ腰で振り回していた剣が、自ら敵を求めるように前に出る。

 アンコウは、一歩二歩と群がる敵兵の中に、自分から進みはじめた。

 

「イッヒヒヒィー!」

 

 アンコウは奇声を発しながら、次々と敵を斬り倒し、斬り倒した死体の道の上を歩いていく。

 しばらくすると、功名乞食(こうみょうこじき)と化していた敵兵の様子が再び変わってきた。

 

 彼らの中に再び恐怖の色を顔に浮かべる者が出てきた。1人2人3人4人5人と、次々とアンコウから距離をとりはじめる。

 しかし、アンコウももうすでに全身血まみれだ。アンコウにも、もう余裕はない。

 

 敵兵の中からひときわ大きい体躯をした人間族の男が、まわりの兵たちを押し退けて進み出てきた。自分の腕に自信があるのだろう。

 

「何をビビってるんだお前らっ!見ろっ、あいつはもうボロボロじゃねぇか、俺が始末してやる!」

 

 巨漢の男が、アンコウを剣で指し示しながら、まわりを叱咤するように吼えた。

 男はその巨体にふさわしい大剣を手に持って走り出す。無論、狙うはアンコウだ。

 

「うおおぉぉーっ!」

ザァンッ!!

「オ…エ…オ……!!」

ドサァンッ!

 

………巨漢の男は死んだ。

 

 アンコウは自分に向かって、走り迫ってきた男に対し、それ以上に速いスピードで一気に踏み込み、男を上から下に真っぷたつにするように剣を落とした。

 アンコウの斬撃は、巨漢の男を頭のてっぺんから唐竹割りに斬り裂いた。

 

「イヒヒ」

 

「なぁっ!」

「な、何てやつだっ!」

「ま、まだあんなに動けるのか」

 

 アンコウのまわりにドーナツ状に人がいない空間ができる。

 アンコウはまだかろうじて理性を残している。自分に恐怖を感じはじめた敵兵たちを見て、アンコウはその場に立ち止まり、ニヤリと歯を見せて笑いながらまわりを見渡した。

 

(……まだ、逃げることができる…可能性がある…か)

 しかし……

ヒュンッ!

 グサッッ!

「あっ、」

 小さく声を出し、突然アンコウの体が大きく前に揺らぐ。

 

 アンコウの背中に、斜め後ろから飛んできた矢が突き刺さっていた。アンコウは何とか足を踏ん張って、前に倒れそうになる体を何とか支えた。

そして、

 

「ウ、ウ、ウガアアァァーーッ!」

 

 アンコウは真実血を吐きながら叫び、身を翻して、矢が飛んできた方向に走り出す。

 

 アンコウは赤鞘の魔剣を狂ったように振り回し、しかし、かつ的確に敵を斬り裂き、アンコウのまわりを取り囲んでいた敵兵の壁の一角を一気に突き破った。

 

 アンコウの開けた視界の先に、弓に矢をつがえた兵士たちがずらりと並んでいるのが見えた。弓兵だけでなく、精霊法術を発動しようとしている黒いエルフの姿もあった。

 

 アンコウはかろうじて残っている理性的な思考力で、あれにむかって突っ込んでいくことは自殺行為であると理解していた。

 しかし、アンコウは理性ではなく、怒りの感情と戦いを求める衝動に引きずられていく。

 

 ついにアンコウは、自分の生き死になど意識の外に放り捨て、思いのままに戦うことを選択しようとしていた。

 

「ウガアアァァーッ!」

 

 アンコウは吼え、血を撒き散らしながら横一列に並んだ弓兵にむかって足を止めることなく突っ込んでいく。

 

 しかし、まだアンコウと弓兵たちとのあいだには少し距離がある。

 弓兵たちは落ち着いて、無謀な特攻攻撃を仕掛けてくるアンコウを(まと)に弓を引き絞り、矢を放たんとする。

 

 アンコウの剣は、まだ彼らにはとどかない。

 弓を引き、自分に鏃をむける兵士たちを見てアンコウは、雄叫びをあげ、彼らに向かって全力で走りながらも、頭の隅で “死んだな俺” と思っていた。

 それでもアンコウは、止まらなかった。

 

 弓兵を指揮しているだろう男が叫んだ。

「放てっ!」

そして、

 ヒュンッ ヒュンッ ヒュンッ !!

  ヒュンッ ヒュンッ ヒュンッ !!

 雨のように降りそそぐ矢が、外すことなく的をとらえていく。

 

「なぁっ!!」

 もう一方の弓兵を指揮する男が驚きの声をあげた。

 

 その降りそそぐ矢が刺さった(まと)は、アンコウではなかった。

 

 矢の雨が頭上に降りそそいだのはアンコウではなく、アンコウに弓を射かけようとしていた敵兵たちのほうであった。

 弓を持った男たちはアンコウに矢を放つことができず、あるいはあさっての方向に矢を放ち、バタバタと倒れていく。

 

 男たちを倒した矢は、男たちが並んでいる場所の背後にある森の木々の隙間を縫って飛んできていた。

 

「今だっ!突撃いーっ!」

 

 そして、その矢が飛んできた森の中からは、何頭もいるのだろう 大きな馬蹄の音が響いてきた。迫る馬蹄の地鳴りの音が、さらにどんどん大きくなっていく。

 

 次の瞬間、物凄いスピードで、その森の木々のあいだから、武装した兵士を乗せた馬が次々に飛び出してきた。

 

 そして、森から飛び出してきても彼らのスピードはまったく落ちず、彼らの前にいるまだ倒れずにいた弓を持った男たちを次々と馬で跳ね飛ばし、剣で斬り裂き、槍で突き殺していった。

 

―― ウオオォォオオォォーッ! ――

 

 突如、森から飛び出してきた男たちの闘志に満ちた声が戦場に響き渡る。

 

 それを見てアンコウは走るのをやめ、その場に足を止めた。

 魔剣はいまだしっかりと握ぎり、共鳴は維持していたが、アンコウは自分の理性を完全に飲み込もうとしていた戦闘享楽的な衝動を再び必死で押さえ込みはじめた。

 

 森から飛び出し、弓兵たちを一瞬で屠った武装兵たちが、そのままの勢いでアンコウに迫る。

 先頭を走っていた騎兵の男がアンコウの前で馬を急停止させた。

 

ヒヒンッ!

「アンコウ殿っ!」

 アンコウは自分の名を呼んだ男の顔を見る。その男はヒルサギだった。

 

 アンコウは何とも言えない安堵の気持ちを感じていたが、この時点では、まだ自分を飲み込もうとする呪いの力を完全には制御し切れておらず、顔に普通の笑みを浮かべる余裕はない。

 

 ヒルサギもこの戦場の真っ只中で、無駄な言葉を発するようなことはせず、目でアンコウの状態を確認しているようであった。

 

 ヒルサギは味方の兵士の一人に何やら指示を出す。

 そのあいだにも、アンコウの横を次々と馬に乗った兵士たちが走りすぎていった。そして、アンコウの背後ではすでに新たな戦闘の音が響きはじめていた。

 

 ヒルサギは指示を出し終えると、馬の背に乗ったまま再びアンコウのほうを見た。

 

「アンコウ殿お見事でございましたっ!あとは我らにお任せを!」

 

 ヒルサギは闘志をあらわにそう叫ぶと、アンコウの背後ではじまっている戦闘に参加すべく、馬を駆り、突っ込んでいった。

 このヒルサギたちの登場で再び戦いの流れが大きく変わる。

 

 アンコウの目の前には、ヒルサギから指示を受けていた騎兵の男がいた。

 アンコウは体をフラフラを揺らしながらも、何とか魔剣を赤鞘におさめる事に成功した。そして、それを確認した騎兵の男は馬上からアンコウに腕を伸ばす。

 

「アンコウ様!失礼!」

 男はそういうとアンコウの両腕を掴み、アンコウを馬上に引っ張り上げた。

 

 アンコウは体の傷が痛んだのか、眉間にシワを寄せ顔をゆがめていたが、男の行動に抵抗することはなかった。

 

 共鳴を解いたアンコウには、馬の背に乗せられてももはや座る力も残っておらず、アンコウはただ全身を力なくダラりとさせて、手綱をとる男の前にうつぶせに体を曲げて、まるでただの荷袋のように馬の背に乗せられている。

 

 その状態のアンコウにむかって、騎馬の男が言葉をかける。

「アンコウ様、しばらく我慢してください」

 

 男はそう言うと、馬の腹を蹴り、全速力で走らせはじめた。

 馬は他の味方の兵士たちの進行方向とは逆に、広くひらけた山道を振り返ることなく上に向かって走っていく。

 

 アンコウが、先ほどまで死を覚悟しながら戦っていた戦場がどんどん遠くなっていく。アンコウは、自分が戦場から遠ざかっていくことに安堵していた。

 

 そしてアンコウは、馬が走る振動に激しく体を揺さぶられながらも、動かない体を走る馬の背にだらりと預け、離れゆく戦場で今なお戦い続けている戦士たちの姿を見つめていた。

 

(……強いなぁ、あいつら)

 と、アンコウは声に出さずに思う。

 

 アンコウの目の中に、大剣を軽々と振りまわし、馬上から敵を草を薙ぐように斬り倒していくヒルサギの姿も映っていた。

 

 その戦うヒルサギの姿を見ながらアンコウは思う。

 互いに万全の状態で戦えば、俺はヒルサギには勝てると。ヒルサギは俺より弱いと。

 実際に共鳴を起こした状態のアンコウならば、ヒルサギよりも戦闘能力が高いというのは客観的事実だ。

 

 アンコウは、ヒルサギをじっと見つづける。

 

「いや……ヒルサギは強い」

 

 ヒルサギは敵を斬り倒しながら、大きな動作、大きな声で、味方の指揮をとっていた。自分とは明らかに違うと、アンコウは思う。

 

 ヒルサギが指揮をとる兵士たちの動きは、美しいまでに統制がとれていた。

 ヒルサギの指示は的確で、効率よく敵を押し込み、あっというまに戦況を自分たちに有利な流れへと変えていく。

 

 アンコウはその兵たちの動きの美しさに心奪われる思いがした。

 アンコウもこの戦場での状況判断は的確にできていたという自負はあるし、今ヒルサギがとっている戦術も、自分にはまったく思いつかなかったようなものではない。

 ただアンコウには、窮地に陥ったとき自分の手足のごとく兵を動かすことができなかった。

 

(信頼、経験、人柄の差か……)

 

 そして、いつのまにかヒルサギの指揮の元には、敵の攻撃によって分断され、散り散りに戦っていたアンコウが指揮をとっていた兵士たちまでもが集まり、ひとつの塊となって共に戦いはじめていた。

 

(…すごいな、さすが本職だ)

 アンコウは少しぼぉーっとしてきた頭で思う。

 

 こんなことなら自分から手を挙げて、この作戦にシャシャリ出たりしないで、初めから全部ヒルサギに任せておけばよかったのかもなと。

 

 アンコウは少し考え、すぐに思い直す。……いや、俺がしっかり露払いをしたから、真打のヒルサギが効いてるんだと。

 遠ざかる戦場を見ながら、アンコウは今度は逆に少しだけ自画自賛してみたりした。

 

「……へへっ」

 アンコウはひとり、馬の背で激しく揺さぶられながら自賛とも自嘲ともとれる短い笑いを発した。

 

 その時、アンコウの鼻が新緑の香りににも似たなじみのあるニオイを感じとった。

(いいにおいだ)

 アンコウの鼻についたにおい、それはポーションの香り。

 アンコウの顔やダラリと下げた両手の先から、ボタボタと伝い流れてきたポーション液が地面にむかって落ちていく。

 

 アンコウはチラリと目線を上にむける。アンコウを乗せ、馬を走らせている戦士が、馬を走らせながらも器用にアンコウにポーションをふりかけていた。

 

「……悪いな、」

「アンコウ様!必ず助かりますから!」

 

 その戦士の言葉にアンコウは、当たり前だ、死んでたまるかと心の中で思う。

 

 戦士は空になったポーション瓶を投げ捨て、すぐに新しいポーションをアンコウにふりそそぎ始めていた。

 

 そしてアンコウは、徐々に体が熱くなってくるのを感じていると、まぶたが鉛のように重くなってくるのを感じた。視界が暗くなり、体が浮いていくような感覚にとらわれる。

 

 しばらくすると、アンコウの五感から戦場の風景がすべて消え去り、アンコウは眠るように意識そのものを手放した。

 

 

 

 

――おい、大丈夫か!――

――こっちが先だ!早くしないと手遅れになる!――

 

 何人もの人が大声で叫び、ドタバタと走りまわる音がする。

 

「う、うぅん」

(……うるさいなぁ)

 目を閉じているアンコウは、まわりのその騒々しさに眉をしかめる。そしてアンコウはわずかに目を開いた。

(……あ、あれ?)

 

 アンコウの意識はまだ定かではなかったが、アンコウは仰向けに寝かされており、薄目を開けた視線の先に天井が見えていた。アンコウはいつのまにか屋内に収容されていた。

 

(どこだここ、助かったのか俺)

 

――早くしろ!こっちには毒消しだ!――

――回復ポーションが足りないぞ!――

 

(ああ、体中が痛い)

 

 アンコウの周囲はずいぶんと騒がしい。

 アンコウは見覚えのある石造りの大きな部屋の床に寝かされており、アンコウのまわりには外にも多くの怪我人が寝かされていた。この部屋は、怪我をした兵士たちの救急治療をおこなう修羅場となっていた。

 

 ただ、アンコウは無事にサミワの砦に戻ることができたようだ。

 

(……砦の中なのか)

 

 アンコウの体は思うように動かなかったが、アンコウはまわりを確認しようと少し視線を動かす。

 

 アンコウの視界に入ってきたのは1人の女。

 どうやらその女はアンコウの手当てをしてくれているようで、アンコウの太ももの辺りを包帯のようなものでグルグルと巻いている最中だった。

 

 まだ完全には視点の定まっていないアンコウの目が、女の横顔をじっと見ている。

 それは綺麗な顔立ちをした女だった。金色の髪を後ろでまとめ、魅惑的な白い肌に汗が滝のようにつたっていた。

 

 兵士の治療を行うために、簡易な薄手の動きやすそうな服を着て、アンコウの手当てを懸命にしている。

 

 しかし、アンコウは献身的な治療を受けているにもかかわらず、途中から女の尻をじっと見ていた。

 アンコウの目は、まだぼやけているにもかかわらず、女の腰のラインだけは、なぜかはっきりとその目に映すことができた。

 

(いいケツだなぁ)

 

 アンコウの意識はまだ混濁していたのかもしれない。だからアンコウの手は、理性に邪魔されることなく、本能のまま自然に動いた。

 

「キャッ!」

 アンコウの手が女の尻を撫ではじめた。

「あ、あのっ」

 女はアンコウの治療の途中で、自分の尻を撫でるアンコウの手から逃げるに逃げられない。

 

 アンコウは「いい尻だ」とか「いい女だ」とか、うわごとの様に声に出して言っている。

 

 女はしばらくアンコウに尻を撫でられ続けていたが、手当てが一段落するとすばやく体の位置を変えてアンコウの不躾(ぶしつけ)な手から逃れた。

 しかし、女はそれで怒って立ち去るわけでなく、そのままアンコウの他の傷の手当てを続けた。

 

 アンコウは、今度は自分にむかって正面を向いた女をじっと見ている。

 女は、アンコウのその視線が気になるようで、手当てを続けながらも、チラチラとアンコウの顔を見ていた。

 

 しかし、女がアンコウの傷の手当てに集中し始めた瞬間、アンコウの手がすばやく女の大きな胸にむかって伸びた。

 大怪我をしているとは思えないすばやさ、意識が混濁しているとは思えない女の隙を狙ったすばらしきアンコウの判断力であった。

 

「あんっ、」

 女が押し殺したような声をあげたとき、

「ゴホッ!ゴホンンッ!」

 アンコウの横で、男が咳払いをする低い声がした。

 

 アンコウはその咳払いの音の反応し、せっかく掴んだ柔らかくて気持ちのいいものから手を離す。アンコウが咳払いが聞こえたほうに視線を移すと、そこには大きな体に鎧をまとった男がひとり立っていた。

 アンコウは、その男の顔を目の焦点が合うまでじっと見つめる。

 

「……あれ?」

 アンコウはその男の顔に見覚えがあった。

 

 なんともいえない複雑な表情をして、傷だらけの体で横たわるアンコウを見下ろしている男の顔は、このサミワの砦の留守居役にして、砦守将代理のヒルサギの顔。

 

「ゴホンッ」

 ヒルサギがまた咳払いをする。

 

 実はヒルサギは、アンコウの容態を心配し、しばらく前からアンコウの横に立っていた。

 つまりヒルサギはアンコウの怪我の状態を心底心配しつつも、アンコウが怪我の手当てをしてくれている女の尻を撫でたり、胸を揉んだりしている一部始終も見ていた。

 それゆえヒルサギの顔は、何とも言えない複雑な表情になっていた。

 

 アンコウの頭は、まだぼぉーっとしている状態であったが、自分の横にヒルサギが立っていることは理解した。

 

 そして、そのアンコウのはっきりしない頭に、ヒルサギに聞かなければいけないことと、言わなければいけないことが浮かぶ。

 アンコウは、うつろな目でヒルサギの顔を見つめながら、ヒルサギに聞く。

 

「成功したんですか?」

 

 アンコウにそう言われ、ヒルサギの眉が少し上にあがる。

 ヒルサギでなくとも、アンコウの今の様子を見れば、まだアンコウが朦朧とした状態にあることはわかる。

 

 そのアンコウが突然自分の存在に気づき、はっきりした口調で話しかけてきたことにヒルサギは驚いた。

 

 ヒルサギは一瞬アンコウがうわごとを言ったのかとも思ったが、うつろながらもアンコウの目はじっと自分の目を見つめており、少しの間をおいて、ヒルサギはアンコウが何について自分に聞いてきたのかも理解した。

 

「はい、アンコウ殿。あの場にいた敵を押し返し、その隙に砦に逃げ帰ってきましたわ」

 ヒルサギは、口元に少し笑みを浮かべながら言う。

「この砦のある山林は我らの庭のようなもの、敵が何人いようとも逃げ足では負けませぬ」

 

 ヒルサギは逃げた、逃げたと言うが、それはアンコウには出来なかったことだ。

 ヒルサギはアンコウが戦場から離脱した後、味方の兵士たちを見事に統率し、一気に敵に攻勢を仕掛け、長い時間をかけることなく、敵を敗走させる事に成功していた。

 

 そしてヒルサギは欲をかくことなく、次なる敵の部隊が到着する前に、全軍に撤退の命令を下した。

 

 それが、ヒルサギが笑みを浮かべながら言うほど簡単なことでなかっただろうことは、壊滅・死亡しかけたアンコウにはよくわかっていた。

 ヒルサギ自身も、未だ全身が真っ赤に染まっており、それは敵の血であり、自分の血であり、ヒルサギにとっても相当厳しい戦いであったに違いない。

 

 しかし、危ういところであったがアンコウもヒルサギも、今はこの砦の中にいる。

 当初の作戦工程どおりとはいかなかったが、敵将ラースカンを討ち取り、味方の損害も許容範囲内に抑えることができていた。

 アンコウたちのこの奇襲攻撃は、望む成果を手にして終了した。

 

 ヒルサギは口元の笑みを消し、真剣な顔になる。

「アンコウ殿。作戦は成功しました」

 

 それを聞いてアンコウは、まだ乾いた血がこびりついている口元に笑みを浮かべた。

 

「……さすが、ヒルサギ殿」

「いえ!アンコウ殿はじめ、皆の決死の働きがあればこそです」

 

 そして、ヒルサギは真剣な目でアンコウを見つめながら、膝をつきアンコウの手を取る。

 

「ア、アンコウ殿……」

 ヒルサギは何か言おうとしているが、なかなか言葉にならないようであった。

 

 ヒルサギの目の前に横たわるアンコウは、怪我の酷い箇所の治療はすでに終わっていたが、ボロ雑巾のような有様だ。

 

(アンコウ殿は公爵様の臣下の腕輪をお持ちの方とはいえ、この砦に関して何の責任もお持ちではない)

 

 ヒルサギの脳裏に、たったひとり多勢の敵に囲まれながらも、獅子奮迅(ししふんじん)の戦いを繰り広げていた豆粒アンコウの姿が蘇る。

 ヒルサギの思い込みは強いようで、ついさっき見た意識朦朧としながらも女の尻やら胸やらをまさぐっていたアンコウのことは、すでにどこかに追い払われているようだ。

 

(アンコウ殿はこのような姿になっても、私の作戦を実行してくださった……)

 

 アンコウにしてみれば、確かに死にそうになり戦場で後悔の念にとらわれもしたが、此度(こたび)の奇襲襲撃作戦に参加したのは、自分自身が生き残るために、より可能性の高い方法を客観的に選択しただけこと。

 そこに自己犠牲的な精神、あるいは忠義や義理人情といった要素はまったく介在していない。

 

 だが、ヒルサギの思いは違う。

 この砦にヒルサギを慕い、生死を共にしようと思う者は少なからずいる。しかし、それとは逆に、突然この砦の総指揮官となった農民あがりのヒルサギに反感を持つ者も、特に上官職にある者の中に多くいる。

 

 上官職にある者たちがヒルサギの命令に従わなかったら、この砦を守れるわけがない。

 ヒルサギはこの戦いを指揮するうえで、彼らをどうやって自分の命令に従わせるかということに、最も頭を悩ませていた。

 

 そういった状況で、グローソン公の臣下の腕輪をするアンコウが、ヒルサギがこの砦の総大将として適任であると幹部連の前で強く主張し、この作戦においても、アンコウ自ら志願して指揮をとってくれたことで、まわりのヒルサギに対する感情的な反発は相当に抑えられていた。

 

 アンコウにしてみれば、それはヒルサギのためにしたことではなかったが、アンコウが思っている以上に、ヒルサギはこの防砦戦を指揮するにあたって、アンコウの言動行動によって実際に助けられていた。

 そのことをヒルサギは、非常に恩義を感じ、心からアンコウに感謝していた。

 

 ヒルサギは、アンコウの手を握る手を小刻みに震るわせながら、何かを話し出そうとしている。

 一方アンコウは、自分の右手をつつみ込むヒルサギの手の温度が少し気持ち悪いと感じていたが、さすがにそれを口にすることはせず、ヒルサギに言わなければならない別のことを言葉にしようとした。

 

「アンコウど」

「ヒルサギ殿」

 ヒルサギとアンコウがほぼ同時に話しはじめる。

 

 ふたり同時に話し出したことで、ヒルサギは思わず言葉をとめるが、まだ意識のはっきりとしていないアンコウは、そのまま話をつづけた。

 

 アンコウは、どこかロレツが回っていないところもあったが、

「ありがとう」と、ヒルサギに礼を言った。

 

 あの時、ヒルサギらが一軍を率いて戦場に現れなかったら、間違いなく自分は死んでいたという自覚がアンコウにはある。

 自分の命が最優先、この砦がどうなろうが知ったことではないアンコウではあったが、命の恩人に礼を言わないほどの恥知らずではない。

 

 ただアンコウはヒルサギと違い、受けた恩は必ず返さなければならないという意識は薄いのだが。

 

「ア、アンコウ殿!!礼を言わなければならないのはこちらのほうです!!」

 

 ヒルサギは大きな体をプルプルさせながら、叫ぶように言った。

 その声は、この大広間の一番端っこで治療活動をおこなっている人たちまでもが、思わず振り向いてしまうほどの大声であった。

 

(……うるせぇよ……)

 

 アンコウは、思わずグリフォンの破音咆哮(はおんほうこう)を思い出してしまったほどのヒルサギの大声に、また少し意識が遠くなってしまった。

 ヒルサギがまだ何やらアンコウにむかってしゃべり続けていたが、もうアンコウの耳には入ってこない。

 

(……ああ、今日は疲れた。慣れないことはするもんじゃないな。だけど、よかった。死なずに済んだよ…………

 

「キャッ!」

 アンコウの横で、まだアンコウの手当てを続けていた女がまた声をあげる。

 アンコウのヒルサギに握られていないほうの手が、また女の尻を撫でていた。

 

「ア、アンコウ殿!」

 

 ヒルサギの声に、アンコウはもう反応しない。アンコウは半笑いのニヤけた顔のまま、女の尻をつかむ手の指をうねうねと動かしながら、また眠りについた。



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第41話 サラのお仕事

 敵軍の猛将銀髪の獣人の戦士ラースカンを討ち取った戦いから、7日が過ぎた。

 あの戦いで全身に傷を負ったアンコウであったが、完全回復とまではいかないまでも、すでに戦場に立ち指揮をとれるまでに回復していた。

 

 ヒルサギたちはアンコウにまだ休んでいるように言ってくれてはいたが、ラースカンを討ち取ったとはいえ、未だサミワの砦が敵軍に囲まれている状態であることに変わりはなく、アンコウ自身としても、この状況下でのんびり寝ていられるほど太い神経は持っていない。

 

 ただ幸いなことに、あのラースカンを討ち取った戦い以降、敵軍の動きはヒルサギやアンコウたちの目論見(もくろみ)どおりに、かなりの変化を見せていた。

 

 まず、連日のようにサミワの砦に攻撃を仕掛けてきた敵軍が、あの戦い以降まともにこの砦に攻撃を仕掛けてきたのは、この1週間でたった2度だけであり、しかもその攻撃に以前の苛烈さはなくなっていた。

 

 敵側の最前線で戦う将の中でも、名実共に中心的存在であったラースカンが死んだことをきっかけに、元々それぞれが違う思惑を持った者の集まりである反乱軍は、その内部で意見の対立が噴き出してきており、中には勝手に砦を包囲している陣地を離脱しようとする動きを見せる者さえ出てきていた。

 

 砦を包囲する敵の結束に、ほころびが見えはじめていたのである。

 

 そういった包囲軍の混乱をうかがわせる情報が次々と砦側にもたらされてきており、この日も昼が過ぎても敵軍が砦に攻め寄せてくる気配はなかった。

 兵を指揮して戦う以外、この砦で特別ほかの仕事を持たないアンコウは、午後には防壁に見張りを配置し、あてがわれている自室にひとり戻ってきていた。

 

――――――

 

 ところが、自室でゆっくり休もうと思っていたアンコウだったが、部屋に戻ってみると、アンコウの部屋を掃除している女がおり、アンコウはなぜかその女に泣かれ、戦場で剣を振るうのとは別のストレスを感じるはめになっていた。

 

 アンコウの目の前で泣いている女、いや、女ではあるがその者はまだ少女といえる幼さも残している年齢の娘だ。

 

 見た目も実年齢も10代半ばのこの美しい娘の名は、サラ。サラというのは愛称で、アンコウははじめの挨拶の時に、本人からそう呼んで欲しいと言われていた。

 本名は、ファーストネーム、ミドルネーム、ファミリーネーム合せて、かなり長い名前であったが、アンコウはもう覚えていない。

 

 そして、このサラという少女が、アンコウがお手つき自由と言われていた娘でもあった。

 

 サラはアンコウがこの部屋に戻ってきたとき、掃除の最中であったのだが、これまでは戦争中であるにもかかわらず、明るく笑みを絶やさぬようにアンコウに接していたサラが、あからさまに暗く沈んだ表情を浮かべていた。

 

 その様子を不審に思ったアンコウが何かあったのかと問い正すと、サラは暗い表情のまま、躊躇(ちゅうちょ)しつつも、アンコウ様にお聞きしたいことがあると話をはじめた。

 

 はじめは暗い表情ながらも、涙は流していなかったサラだったが、アンコウに話をしているうち、こみあげる感情を押さえ切れなくなったのだろう、涙がひとすじふたすじとその頬を伝い落ちるようになった。

 

(……なんだよ、これ。俺がいじめてるみたいだ)

 アンコウはそのサラの様子に、どんどん気が重くなっていく。

 

「いや、だからサラに悪いところなんかないんだ」

「でも、だったらどうしてなのでしょうか?」

 

 さっきからアンコウとサラは同じような問答を繰り返していた。

 

「サラはよく働いてくれている。悪いところなんか何もない」

 アンコウは少しうんざりしながら言う。

「……でも、アンコウ様は一度も私に声をかけてくださいません」

 

 声をかけてくれない、つまりサラは、アンコウの夜伽(よとぎ)の役目のことを言っている。サラ自身、自分にその役目が課されていることは承知の上でここにきている。

 

 そしてそれは、アンコウが思っていた以上に、サラが与えられた仕事の中で重要なものであったらしい。

 アンコウが、サラに手をつけていないことをどこからか聞いたサラの家の者が、かなり強くサラを叱責し、サラはこの役目から外され、別の者が代わりに来ることになるらしい。

 

「……私、このままでは、このままでは……」

 そう言ってサラは大粒の涙を流しだす。

 

 サラの話によると、サラにこの役目を課したサラの家というのはサラの本当の生家ではなく、サラの生家は彼女が幼いころにすでに没落・断絶しており、サラはその容貌の美しさゆえに、親族の中でも比較的裕福な今の家に名目上は養子として引き取られていた。

 

 そして、そのサラを引き取った家の主である養父に、サラはこの今回の役目を命じられて来た。

 そういう話自体はこの世界では特別珍しくない、よくある話ではあったのだが。

 

 アンコウはチラリと自分の腕にはめられたグローソン公拝領の金色の臣下の腕輪を見る。

(この金ピカ腕輪は、この砦では本当に効果があるな。何だってんだ)

 

 アンコウは断言できるが、このサラという娘は自分に惚れているわけではない。

 だが、サラが言うにはアンコウの夜の相手をすることはなぜか名誉なことになるらしく、子を身ごもっても構わないとまで養父から言われているらしい。

 

 彼らから見ると、アンコウは自分たちの主君であるグローソン公に直接つながりを持つ権力者の一人。

 要は、その権力者たちと縁を持つ絶好の機会であるうえに、アンコウのように抗魔の力を持つ者の子供はそれを遺伝する可能性も高い。

 その事実は、この世界では誰もが知っている常識であり、サラがアンコウの子を孕むことさえ大歓迎だそうだ。

 

 これを聞いてアンコウは、さすがに自分たちが生きるか死ぬかのこの戦時に何考えてんだと顔をしかめていた。

 

「とにかく、その夜伽云々(よとぎうんぬん)て言うのはナシだ」

 アンコウは、はっきり言った。

 

 サラの顔に絶望の色が浮かぶ。このまま家族の元に戻されたら、サラの立場はかなり厳しいことになることは、アンコウにもわかった。

 自分自身の気持ちをさておき、自分のことを、このグローソンの権力者の一人であると仮定して考えれば、アンコウも、サラとその家族の行動理由を全く理解できないわけではない。

 

 しかし、アンコウは何というか、そのサラの夜伽云々(よとぎうんぬん)ということ関しては、本当に()えていた。

 

 サラがやろうとしていることは、この世界では決して珍しい話ではなく、倫理・常識に反することではない。

 ただ、これまでにこのような行為の対象となった経験のないアンコウは、当初からかなり戸惑ってはいた。

 

 頭で理解することと気持ちは別だ。アンコウは、このままこの金ぴか腕輪をはめ続けるつもりは毛頭ないうえに、目の前で泣いている10代半ばの少女に、そこそこ胃が重くなるような不幸話を聞かされた。

 

 そして、そんな不幸な生い立ちにもかかわらず、この頬を涙でぬらして立っている純粋そうな一人の少女は、昨日までは笑いながら一生懸命アンコウの身の回りの世話をしてくれていたのだ。

 

 アンコウは生き死にのかかった戦場に身を置き、正直に言えば、男の(さが)と言うべきものが間違いなく溜まっている。

 それにアンコウがサラをここで抱こうが抱くまいが、サラが置かれている状況自体が変わるわけではない。アンコウが抱かなくても、いずれ他の男に同じような理由で、サラは抱かれるかもしれない。

 

 しかしそれでも、アンコウはこの娘を抱く気にはなれなかった。あえて言うなら、これはアンコウの趣味ではないと言うほかない。

 アンコウはそんな妙に紳士的な気持ちになっている自分に気づき、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。

 

 アンコウはふと思い出したのだ。

 自分が通っていた娼館の女たちの中には、この娘よりもはるかに不幸を背負って生きている者たちがたくさんいるということを。

 

 アンコウはそんな女たちを金を払って買ってきた。それについこのあいだも、この娘を抱く代わりに金を払って気軽に抱ける女を探していた自分を思い出した。

 

 ああ、おまけにアンコウは、人生のドツボに(はま)った人の良い人妻子持ちの女奴隷をお手頃価格の安値で買ってもいた。

 

 アンコウはさらに気が重くなってきた。

( くそっ )

 アンコウは自分の顔を両手でゴシゴシと強くこすった。

( くそっ、この手の話は深く考えちゃあダメだ。自分が嫌になってくる)

 

 アンコウが顔をあげると、両手を前でギュッと握り締め、下を向き、悲しみを必死でこらえているサラの姿が見えた。

 

「……ハァ、」

 それを見て、アンコウは思わずため息をつく。

 これじゃあ、敵と斬り合い殺し合いしているほうがマシだと、アンコウは思ってしまった。

 

「……まぁ、あれだ。夜伽云々(よとぎうんぬん)はナシだけど、サラはよく働いてくれている。だからこの戦いが終わるまで今までどおり働いてもらうから」

 

 アンコウがそう言うとサラはパッと顔をあげた。その表情は変わらず不安げで、顔をあげた拍子に、また涙が頬を伝っていた。

 

「で、でも、アンコウ様、それだけでは……」

「大丈夫。ちゃんと話はしておくから」

 

 アンコウはそう言うとサラに仕事に戻るように促した。

 サラは必死の面持ちで、アンコウをすがる様な目で見ていたが、アンコウが大丈夫心配いらないと何度も言うと、ようやく部屋を出て行ってくれた。

 

パタンッ、と扉が閉まる。

 

「………クゥーッ、面倒くせぇっ」

 アンコウはしばらくのあいだ、軽く自己嫌悪するような気持ちにとらわれていた。

 

「はぁ、」

(仕方がないだろ。あの子はダメでも、男に女は必要なんだ。……まったく余計なストレスだよ………)

 

 

 

 

 アンコウは一人になって、あらためていろいろと考えを巡らせる。

 実は砦を包囲している敵軍に乱れが見えてきた現在、アンコウは再び本格的にこの砦から逃げ出すことを考えはじめていた。

 

 アンコウはグローソン公と自由を賭けた鬼ごっこの真っ最中であり、この砦の防衛戦に勝てたとしても、アンコウを追いかける鬼であるバルモアに捕まってしまえば意味は無い。

 

 それゆえに可能であれば、一刻も早く、この砦からの逃亡することを考えていた。

 ただ、それとは別にアンコウは、この鬼ごっこを続けること自体に、かなり強い疑問を感じ始めてもいた。

 

 というのも、まずアンコウは初めから、この鬼ごっこに勝てたとしても、本当にグローソン公が自分を自由にしてくれるのかどうか、かなり疑問に思っている。

 

(あの男は相当に自分勝手な男だ)

 

 グローソン公爵ハウルにとって、自分は遊びの駒に過ぎない存在だというのがアンコウの認識だ。

 それでも、わずかでもチャンスがあるのならとの思いで受けた賭けであったが、実際に自分が置かれた今の状況を考えて見ると、

 

(これ、どう考えても命がけの賭けになってるよな)

 

 ネルカの城でグローソン公ハウルに謁見したときは、アンコウは思いがけず感情的になり、予期せぬマニの登場もあって、剣をとっての自由を賭けた戦いを演じた。

 しかしアンコウは、できることならば剣をとること、命を賭けることなく自由を得たいと当然思っている。

 

 腕輪のことや、何だかんだでいろいろいろ有りはしたが、アンコウがあの時受けた賭けの内容は、逃げる範囲に制限がなく、時間が1ヶ月と長丁場とはいえ、所詮逃げるか捕まるかだけの、ただの鬼ごっこだったはずだ。

 

 それが、ここまで生きるか死ぬかのギリギリの状況に身を置く羽目になるとは、賭けを受けたとき、アンコウはまったく思ってもみなかった。

 

 グローソン公の犬になぞになることなく、自由に生きたいとアンコウは思っている。

 しかしアンコウの言う自由というのは、どれだけ辛く苦しい環境に身を置くことになっても、自由であればそれで良いというようなものではない。

 

 アンコウはうまいものも食べたいし、いい女も抱きたいし、楽もしたい、そういう願望込みの自由だ。

 アンコウの言うところの自由の感覚は、アンコウが元いた世界で培った相当身勝手で贅沢な自由だ。

 

 じつはグローソン公ハウルは、同郷であるがゆえに、アンコウの言う自由という言葉に含まれている感覚を的確に見抜いており、そのことを内心鼻で笑っていた。

 じつに生ぬるい甘く()()()な感覚だと。

 

 グローソン公は、アンコウがこの賭けに負けても命はとらないと、奴隷にはしないと言っていた。

 先日、戦場で死にかけたことを思い出すと、命がけでこの賭けを続ける意味があるのだろうかという疑問が、アンコウの脳裏によぎっている。

 

(……ほんとについてない。いずれにせよ、いつまでもこの砦にいるわけにはいかないしな。あと、サラのことはなぁ)

 

 他人の心配などしている暇はないアンコウだったが、このままサラのことを放って消えるのも、いささか目覚めが悪かった。

 

「……ま、ここを逃げ出すことになったとしても、あの子は真面目に働いてくれてるからな。ちょっとは骨をおっておくさ」

 

 アンコウはしばしのあいだ何をするでもなく自室で時間をつぶした後、自分の身の回りの世話をしている者たちの責任者的な立場にある初老の男を部屋に呼んだ。

 その初老の男の名はロプス。アンコウが商売女を用意しろと言ったことを、わざわざヒルサギに報告した男だ。

 

 それ以来アンコウは、この男にはあまり物を頼むことはしないようにしていたのだが、アンコウにサラの家に直接意見する伝手(つて)があるわけはなく、この男を使うのが一番てっとり早いと考えた。

 

 

コンッ、コンッ

「アンコウ様、お呼びでしょうか」

 扉がノックされ、ロプスの声が聞こえた。

 

「ああ、入ってくれ」

 

―――――

 

「あ、あの、アンコウ様これは……」

 

 ロプスの手のひらに、アンコウが渡した小袋がふたつ乗っている。その小袋はロプスが確認のため、ヒモを緩め、口が開かれていた。

 

「見てのとおり中身は銀貨だ。ひとつはお前に。もうひとつはサラに渡しておいてくれ」

 

 この砦に来た時点で、アンコウは亜空間収納の背嚢を所持しており、その中にはある程度の逃亡資金が入っていたのに加えて、それとは別にこの砦で影響力のある地位に就いたことを利用して、軍資金名目でかなりの金額の金をヒルサギたちから引き出してもいた。

 

 無論、アンコウは軍資金名目でヒルサギらから受け取った金が余ったところで(確実に余るのだが)、彼らに返す意志はなく、はなから自身の逃亡資金として流用するつもりだった。

 そのためアンコウは、この時点で自分の自由にできる相当な額の金を手に入れることに成功していた。

 

 ロプスに渡した銀貨はその一部であり、今現在すべて他人から手に入れた金で小金持ちになっているアンコウにとっては、特別惜しいと思うほどのものではない。

 しかし渡されたロプスにとって、今自分の手のひらに乗っている銀貨はめったに拝むことができない大金だ。

 

「あ、あの、しかし…」

 

 ロプスはアンコウの意図が分からず、その銀貨を受け取ってよいものなのかと躊躇(ためら)っていた。

 

「俺からお前たちへのほんの感謝の気持ちだ。ロプス、お前は俺がここに来てからほんとによくしてくれているよ」

 アンコウはにこやな顔で心にもない事を口にする。

「い、いえ、それが私の仕事ですから」

 

 アンコウは顔に浮かべた笑みを消すことなく言葉を続ける。

 

「それにサラもだ。お前ら二人は特によくやってくれてる」

 

 アンコウはサラとロプスをほめる言葉を続け、今は明日どうなるかわからない戦争中だから、感謝の気持ちとしてお前たち2人だけには今のうちにこれを渡しておくという内容の説明をした。

 そのように言われれば、ロプスもその銀貨を受け取らないわけにはいかない。

 

「は、はい。ありがとうございます。アンコウ様」

「じゃあ、俺がこの砦にいるあいだは引き続きよろしく頼む。サラにもそう言っておいてくれ」

 

「……あっ、」

 アンコウにそう言われて、ロプスは何かを思い出したような戸惑いの表情を顔に浮かべた。

 

「ん?どうかしたのかい、ロプス」

「い、いえ、何でもございません!」

「ああ、ロプス。わかっているとは思うが、サラの仕事は()()の俺の世話係だからな」

 アンコウは一応念押しのつもりで、そう言った。

「は、はい!」

 ロプスはあわててアンコウに頭をさげた。

 

 ロプスは立場上、サラがアンコウ付きの世話係を近々交代させられることを当然知っている。ゆえに焦った。

 

 アンコウが誉め、褒美を渡し、これからも頼むと言ったサラを交代させるわけにはいかない。

 アンコウも当然、そのロプスの立場と反応を予想したうえでの行動である。

 

 それにアンコウは、自分がサラに手を出していないという情報がサラの家に伝わる過程のいずれかの段階で、ロプスが関与している可能性が高いと考えていた。

 

 直接ロプスがサラの家に情報を流していないとしても、ロプスはヒルサギが直接自分と意思疎通をはかれる者として、アンコウのまわりに配置した者の中の一人だ。

 ならば、少なくともアンコウのサラに対する評価は、ロプスからヒルサギに迅速に伝えられるだろうし、そうなればサラの家のほうにも伝わるだろうと、アンコウは考えた。

 

(まっ、これでサラに対する風当たりは少しは弱まるだろう)

「じゃ、ロプス。そういうことだから頼むよ。お前は仕事ができる男だから俺も安心だ」

「は、はい!わかりました!」

 

 ロプスはそう言うと、銀貨の入った袋をふたつ、ギュッと握ってそそくさと部屋を出て行った。

 

 しかし、アンコウはひとつ失敗をしていた。

 アンコウはこのあいだ、娼婦でいいから女が必要だというようなことをロプスに話していた。

 

 しかし、その話をロプスはヒルサギに伝え、ヒルサギの口から自分が女を用意しろと要求した話をされたことに身悶えするような居心地の悪さを感じたアンコウは、その場でその話しをうやむやにした。

 それでその話は終わったものだとアンコウ自身は思っていた。

 

 しかし、ロプスもヒルサギも終わった話だとは思っていなかった。

 

 それに今回のサラのことも、アンコウの夜伽の役目に関わることが元であり、アンコウははっきりと、もうお手つき自由の女を用意する必要はないとロプスに言っておくべきだったのだ。

 

 慌てて出ていったロプスの頭の中には、サラをこのままアンコウの世話係に留め置くということともうひとつ、アンコウに女を用意するということも自分に課せられた命令として残っていた。

 

 ロプスは自分に与えられた銀貨の袋を胸元にしまい、早足で廊下を歩いていった。

 そしてロプスはサラのことだけでなく、アンコウが女を要求しているということをもう一度ヒルサギに伝えてしまうという、やはり使えない男だった……

 

 ……いや、ロプスはアンコウにもらった銀貨の分だけ、この前より大げさに、気合を入れて伝えたのだ。

 

 

 

 

 2日後、アンコウはいつものとおり朝早い時間から装備を整え、防壁の上に立っていた。

 

「アンコウ様」

 

 防壁の上から周囲を警戒し、見渡していたアンコウに、本陣からの連絡兵が急ぎ足で駆け寄り話しかける。

 

「現時点では敵が攻撃を仕掛けてくる気配はないそうです」

「そうか、今日もか」

 

 ヒルサギたち砦側の基本方針としては、この砦に籠城し、味方の援軍を待つというものであるから、敵が攻撃を仕かけてこないということはありがたい話だ。

 

「それからアンコウ様、アンコウ様直々に周囲の偵察に出られたいとの申し出なのですが」

「ああ」

「このまま昼まで敵陣に動きがないようなら、短時間に限り許可できるとの事です」

「そうか、わかった」

 

 連絡兵はアンコウに一礼し、その場を離れていった。

 アンコウはこの砦から逃げ出すことができるかどうかを確かめるために、数日前から直接周囲の偵察に出ることをヒルサギたちに申し出ていた。そしてその許可がようやく下りた。

 

「よし、昼からだな」

 昼間ではまだ少し時間がある。アンコウはそれまでの時間を自室で休憩と偵察に出る準備に当てることにした。

 

「あとは頼む。油断はするなよ」

「「はい、」」

 

 

 

 

 アンコウが部屋まで戻ってくると、部屋の扉は開け放たれており、部屋の中からかすかな鼻歌が聞こえていた。

 アンコウが部屋の中をのぞくと、一人の娘が部屋の掃除をしていた。

 

(ご機嫌だな)

 アンコウはその女の様子につられて、自分も口元を緩めながら部屋の中に入っていった。

 

「あっ、アンコウ様!」

 

 娘が掃除をする手を止めアンコウのほうを振り返る。

 突然アンコウが戻ってきたことに驚いたようだが、その顔には愛らしい笑顔が浮かび、アンコウのほうを見ている。

 

「よう、せいが出るなサラ」

 アンコウはそう言いながら部屋の中を歩き、椅子に腰掛けた。

 

 そう、部屋の掃除をしていたのは先日同様サラだった。しかし、その様子は先日とは打って変わって、とても明るい。

 

「サラ、今日はここの掃除はもういいよ」

「は、はい」

 

 アンコウに言われて、サラは掃除の道具を片付けたが、すぐに部屋を出て行こうとはしなかった。そんな様子のサラにアンコウのほうから声をかける。

 

「どうした、サラ?」

「は、はい!」

 サラは小走りでアンコウのそばまで近づいてきた。そして、

「アンコウ様、ありがとうございました!」

 と元気よく頭をさげた。

 

 そしてそのまま言葉を続ける。

「アンコウ様のおかげで、このまま仕事を続けさせていただけることになりました。それにあの…あんなにいっぱいの銀貨までいただいてよろしかったんでしょうか?」

 

 この数日は、この世の終わりのような顔をしていたサラであったが、どうやらサラのところまで、アンコウがロプスにした銀貨がらみの話が無事アンコウの思惑どおりに届いたようだ。

 

「ああ、言ったろ、お前は良く働いてくれている。銀貨はその褒美だ。まぁ、この戦いが終わるまで、その調子で働いてくれ」

「は、はい!私がんばります!」

 元気いっぱいに答えるサラ。

 

 10代半ばの少女とはいえ、サラの体はもう大人のものだ。アンコウのまわりにいる若い男たちが、熱っぽい目でサラを見ている姿をアンコウは何度も見ていた。

 

 アンコウの目にもその腰まわりや胸は十分に育って見えているし、サラはグローソン公の臣下の腕輪を持つ男の夜伽の役割を与えられるだけあって、とても綺麗な顔立ちをしている。

 

 それにアンコウがこれまでに抱いた娼婦の中にも10代半ばの女もおそらくいたはずだ。しかし、どうにもこうにもこのサラという娘はまだ子供っぽいと、アンコウの目には映っていた。

 

「ロプスさんに褒めていただきましたし、養父(ちち)からも引き続きがんばるように言われたんです。アンコウ様のおかげで、」

「俺のおかげじゃないさ。サラは実際がんばっていただろ。それがちゃんと皆に伝わっただけだ」

「アンコウ様……」

 サラの目にじんわり涙が溜まってくる。

 

「おっと、サラ。もう泣くなよ。お前は泣いているよりも笑っているほうがずっと似合う子だ」

 

 アンコウにそう言われてサラはほんのり頬を赤らめる。

 

「は、はい!ありがとうございました!」

 

 アンコウには、サラが元気よく笑って返事をしているときの姿が、特に子供っぽく見えている。

 

(これは子供の笑顔だよなぁ)

 

 アンコウも微笑みを浮かべながら立ち上がり、ポン、ポンとサラの頭をやさしくたたく。すると、ますますサラの頬の赤みが増していった。

 

「サラ、水だけ持ってきてくれるか」

「は、はい!」

 

 サラはアンコウの命令に答えようと、あわてて動き出す。アンコウは部屋を出て行こうとしているサラの後姿をじっと見送っていた。

 

(……でも、尻は大人の尻なんだよなぁ)

 とアンコウは思う。

 歩くたびに右左に揺れ、上下に動くサラの尻は、確かに大人の女の魅力をすでに備えていた。

 

 そしてサラは、掃除道具を乗せたカートを押しながら急いで部屋を出て行った。

 

 部屋にひとりとなったアンコウは、大きく息を吐き出す。

「フゥーッ……」

 そして、目をつぶったアンコウの脳裏には、ネルカで別れてきたテレサの生尻が浮かんだ。

 

「……とっととこんなところは抜け出して、どっかの娼館にでもしけこもう」

 

 アンコウは天井を見上げて、ひとりつぶやいた。

 



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第42話 異世界魔法と星空の絵画

 アンコウの忍耐にも限界がある。アンコウはこの世界に来てから、ただの一度も魔法を使ったことはなかったのに………

 

「!!『チェンジッ』!!」

 

 アンコウはこの世界に来てから初めて、元いた世界の魔法の言葉を、元いた世界の言葉で叫んだ。気がついたときには叫んでいたのだ。

 それはアンコウの心の底からの魂の叫び。

 

 アンコウの抑えきれない激情と共に発した魔法の言葉は、夜の闇の中、冷たい壁や天井に反射し響き渡る。

 

…………しかし、アンコウの嘘偽りの無い真実の心をもって叫んだ魔法の言葉であったが、チェンジの魔法は発動しない。

 

 それは当然のこと。

 精霊法術が精霊の神聖なる力を借りうけてはじめて発現できるように、アンコウの元の世界の魔法も、魔法の術者の意をうけて、その者の思いに答える真に偉大なる力を持つ者の意思が介在しなければ、魔法が世界に具現化されることはない。

 

 当然そのことはアンコウもわかっていた。わかっていたが叫ばずにはいられなかったのだ。アンコウが生まれ育った世界の魔法の言葉を。

 

「くそーっ!!」

 

 アンコウの怒りの叫びが、夜の闇の中、むなしく響く。

 

 

――――――――――

 

 

 アンコウが夜の闇の中、怒りの咆哮をあげた その日の正午過ぎ、アンコウは砦外の偵察に行くための準備をすませ、砦の門のひとつの近くまで来ていた。

 

「じゃ、行くか」

 アンコウが3人の男に声をかける。

 

 この3人の男は、ヒルサギがアンコウの同伴者として指名した者たちであり、1人はこの砦では希少な戦力となっている精霊法術を使えるダークエルフも含まれていた。

 

 この3人はアンコウを護衛する任もヒルサギから命じられていた。

 有難いことではあるのだが、アンコウのこの偵察の真の目的が、逃亡ルートの調査ということを考えれば、ぴったりと付きまとわれるのは少し迷惑でもあった。

 アンコウたちは、この合計4人のパーティーで砦の外へと出て行った。

 

 このサミワの砦の背後には、さらに険しい山地が広がっている。

 まずその山地を抜けるルートからの逃亡は難しい。なぜならその山地は魔素が存在する魔獣たちのテリトリーだからである。

 

 砦から近い地域の魔素はかなり薄いもので、アンコウクラスの冒険者にとって、たいして脅威になる魔獣が出てくるところではない。

 しかし、さらにその奥に行くにしたがって魔素が濃くなる地域が広がっており、魔素の広がる山地そのものを突き抜けて移動しようとすれば、かなりの危険が伴う。

 

 アンコウは、よく知らない魔素の濃い山岳地帯をひとりで抜けようなどという危険を犯すつもりは毛頭なく、逃げるのならば、どうしても敵が陣をかまえている山の(ふもと)を抜ける必要があると考えていた。

 

 アンコウも、この辺りの地形や山道に関してはすでにかなり詳しくなっていたが、有力な逃亡ルートを特定するには至っていなかった。

 

 アンコウとしては、真に有力な逃亡ルートを見出すために、砦山(とりでやま)(ふもと)に陣取っている敵軍の索敵網(さくてきもう)が、今現在どの程度の範囲に、どの程度の力が割かれているのかを知りたかった。

 

「アンコウ殿」

 アンコウに同伴者のひとりである軽装の戦士が話しかけてくる。

 

「なんだ」

「このあたりはすでに、以前敵のラッパたちが確認されている地域に入っています」

 

 気がつけば、アンコウたちが砦を出てからかなりの時間が経過しており、すでにずいぶんと下のほうまで山くだってきていた。

 

「……ああ、わかっている。だけどそれらしい気配はないな」

「はい、ここ数日は敵の偵察区域も後退しているのかも知れません。しかし、油断はできないかと」

「ああ、わかってる」

 

 アンコウたちはさらに移動を続ける。先ほどからアンコウたちの視界の先に入っている敵陣地の一部がまだかなり距離はあるものの、少しずつ大きく見えるようになってきていた。

 

(ここまで来ても、特別罠が仕掛けられていることもない。……元々敵の索敵の網は、そんなにキツくなかったのかな)

 

 アンコウは、これならば麓まで下りても敵陣周辺の警備の隙も大きいかもしれないと考えはじめていた。

 他の3人も、アンコウと同じように感じており、アンコウたちパーティー全体の警戒心が弛緩しはじめたときだった。

 

 アンコウの視界に何かキラめくものが映った。

「くっ!」

 危険を本能的に察知したアンコウは、とっさにその近づいてくるキラめきにむかって、抜剣一閃する。

 

ギャンッ!

 金属を弾く甲高い音が、静かな森の中に響く。

 

 アンコウにむかって一直線に飛んできたものは、金属性の先が鋭く尖った投げクナイ。

 

 アンコウは、それを剣で合わせ弾くことに間一髪のタイミングで成功した。

 アンコウ以外の3人も、人間よりも気配察知の優れているダークエルフも含めて、敵の存在に気づいていなかったようだ。

 

(油断大敵)

 アンコウは瞬時に意識を戦闘モードに切り替えた。

(さすがに、そこまで甘くないか)

 

「敵だっ!備えろっ!」

 

 アンコウが叫ぶ。アンコウの目は、すでに敵の姿をとらえていた。

 

「右上方、木の枝の上、ダークエルフが一人いるぞ!」

「アンコウ殿!左から敵戦士2人接近中!」

「迎撃するぞ!」

「「「 おう!! 」」」

 アンコウたちは、一斉に動き出した。

 

 アンコウは、すでに赤鞘の魔剣と共鳴を起こしている。その剣を手にアンコウは、クナイを投げてきたダークエルフがいる木にむかって全力で走り出す。

 

 そしてアンコウは走り出すと同時に、自前のクナイを敵のダークエルフに向かって投げ返していた。

ビシュッ!!

 

「チッ!」

キンッ!

 

 敵のダークエルフは木の枝に立ったまま、器用にアンコウが投げたクナイを弾き、防いだ。投げたアンコウもそのクナイが、そのまま敵に当たるとは思っていない。

 

「何っ!」

 敵のダークエルフが驚きの声をあげる。

 アンコウが投げたクナイは一本だけではなく、アンコウは走りながら次々とクナイを投擲(とうてき)していた。

 

「チィイッ!」

 キャンッ! ガンッ! ギンッ! カンッ!

 

 敵ダークエルフは、何とかそのアンコウが投げてくるクナイを弾いて防ぐ。

 しかし敵ダークエルフは、次々と自分に向かって飛んでくるクナイを防ぐために、不安定な木の枝の上から動くことができなかった。

 

「いまだっ!」

 アンコウが走りながら叫んだ。

 

 アンコウの叫びに呼応して、先ほどからアンコウの後ろで精霊法術を発動させる準備をしていた味方のダークエルフが、敵にむかって一気に力を解き放つ。

 

「ハアァッ!」

ドォシューーッ!

 アンコウの走る横を、無色透明空気の塊のようなものが、猛スピードで通り過ぎていく。

 

ドォンッ!

「ぐがあぁっ!」

 その空気の塊は、敵ダークエルフに一直線に飛んでいき、直撃した。

 

 アンコウの投擲するクナイを防ぐのに手一杯になっていた敵ダークエルフは、猛スピードで飛んでくる空気の塊を避けることができなかった。

 

「…あ、あが……」

 木の枝のうえからはじき飛ばされたダークエルフが地面にむかって、落ちてくる。

 おそらく意識が飛びかけているのだろう。彼は受身をとる様子もなく落下していく。

 

 アンコウは、自分に背中をむけながら、木の上から真っ逆さまに落ちてくるダークエルフにむかって、さらに速度を上げ、一気に走り迫った。

そして、

 

「ギャアァーッ!」

 響く絶叫。

 アンコウは落ちてくるダークエルフの背中に、走ってきた勢いのまま剣を突き入れた。

 

 そのアンコウの剣は敵ダークエルフの体を完全に貫通。

 耳をつんざくような絶叫が止むと、そのダークエルフの口から漏れる音は一切なくなり、体はピクリとも動かなくなった。

 

 アンコウたち4人の敵は、あと2人。アンコウから少し離れたところで、敵の戦士2人と味方の戦士2人が激しく剣を交えていた。

 アンコウはそれを見て、すでに(むくろ)となった敵ダークエルフの体から剣を引き抜き、戦闘中の4人がいるほうへ移動をはじめる。

 

 しかし、アンコウはそれほど急いではいない。

 なぜなら、明らかに味方の2人の戦士の動きのほうが、敵の戦士2人の動きよりも勝っていたからだ。

 

(時間の問題だな)

 先ほどの味方のダークエルフの精霊法術とその冷静な判断力といい、ヒルサギはかなり使える者たちをアンコウにつけてくれていたらしい。

偶々(たまたま)のなりゆきとはいえ、ヒルサギはほんと良くしてくれる)

 

 ヒルサギのアンコウへの高評価は、彼の生真面目な性格による勘違いといえる部分がかなりあり、アンコウにとっては、それが面倒なときもあり、ありがたいときもあった。

 

 アンコウは自分が黙ってこの戦場から逃げ出したとき、ヒルサギはどんな態度をとるのだろうかとふと思ったが、ここから逃げることができれば俺には関係のないことだと、アンコウはすぐにその思考を放棄する。

 

ギンッ! ギャンッ!

「ぐばあぁっ!」

 アンコウの視線の先で、敵戦士の一人が血を噴き出しながら地面に倒れ落ちた。

 

 アンコウはそれを見て、走るのをやめて歩き出す。アンコウは一応まわりを警戒するが、隠れているもの、近づいて来る者の気配もない。

 

「ぎゃあぁーっ!」

 残り一人の敵兵士も、アンコウたちが加勢するまでもなくあっさりと倒された。

 

 

「さすがだな。怪我はないか」

「はい」

 アンコウが近づき声をかけると、全員が頷いた。怪我をしているものも誰もいない。

 

「アンコウ殿、たいした敵でありませんでしたが、これ以上進むのは危険かと」

 戦士の男の一人が言った事にアンコウも同意する。

「ああ、そうだな。これぐらいの距離を保って、別の場所を調べよう」

「はい」

 

 そしてアンコウたちは、このあと夕暮れ時まで偵察をつづけた。

 

 

――――――――――

 

 

 アンコウたちは、まだ空が明るいうちの月が昇り始める頃に砦に帰還した。

 アンコウが皆に(ねぎら)いと感謝の言葉をかけて、この日はその場で解散となった。

 

 しかしアンコウはすぐに自室に戻ることはせず、砦の防壁の上にのぼり、眼下に広がる森と山を見渡しながら、何か考えを巡らしていた。

 

 結局、アンコウたちがこの日の偵察で敵と出会ったのはあの一度だけだったが、それでも敵はまだ完全に機能不全に陥っているわけでは無いようだ。

 

(敵は間違いなく、内部でかなり混乱を起こしている。一時期よりも周囲に張っている警戒網も緩くはなっているようだけど……)

 

 ある程度緩くなったきている敵の囲みではあったが、アンコウ1人で楽に突破できるほどには緩んでいない。

 

「……もう少し待った方が賢明だけど。果たして時間があるのかどうか……」

 

 砦を囲んでいる敵の勢いは間違いなく落ちている。

 ただアンコウのもうひとつの悩みは、目前の敵の動静はわかっても、じつはネルカを含めたグローソン軍全体の戦いの情勢に関する情報が、未だこのサミワの砦にまったく入ってきていないことだ。

 

「……もしネルカ周辺での戦いがとっくに終わっていたら、ここで敵の自壊を待っている間に、バルモアがここに来るかもしれない……」

 

 では今のうちに命がけで1人で逃亡を図るか、現時点ではまだ、1人で敵の包囲網をかいくぐり、これを突破するのは相当困難だろうとアンコウは思っていた。

 一方バルモアに捕まった場合、殺されたり、奴隷にまで落とされることはないだろうが、自由は相当に制限されることになるだろうとアンコウは悩んでいた。

 

 アンコウはなかなか決断できずにいた。

 アンコウはまたふと思う。あのグローソン公ハウルのただの思いつきの遊びが、自分にとってはこのとおり命がけだと。

 

「はぁ、やってらんねぇ」

 

 所詮この世は弱肉強食、力の強い者には従うしかない。しかしアンコウは続けてこうも思う。俺も強くはなりたいが、度の過ぎた強さを求め続けるのは面倒だと。

 

「俺のことはほっといてくれよ。なんだよまったく、だいたいよぉ

 

 というのがアンコウの本音であり、いつのまにかひとりでグチをこぼしはじめているアンコウであった。

 

 

 

 

 アンコウは防壁の壁に背をもたれ、両足を投げ出して座り込んでいた。

 いつのまにか、どこを見るわけでもなく、ただぼぉーっとしながら座り込んでしまっていた。

(……まぁ、結局、なるようにしかならないよなぁ……)

 

 

「アンコウ殿」

 そんなアンコウに声をかけてきた者がいた。その声はアンコウが知っている声だった。

 アンコウはその声の主を見る。

 

「いや、アンコウ殿が防壁の上にいると部下の者から聞きまして」

「ああ、ヒルサギ殿。何、ちょっと風をあびながら一休みしていただけですよ」

 

 アンコウはヒルサギが近づいてきたので、よいしょと腰をあげようとする。

 その立ち上がろうとするアンコウに、ヒルサギはご丁寧に両手をさしだして、アンコウが立ちあがるのを助けてくれた。

 ヒルサギの腕は太く、その手もごつく肉厚な戦士の手である。ヒルサギの手は軽々とアンコウの体を引き上げた。

 

「ありがとう」

「いえ。アンコウ殿今日の偵察はいかがでしたか?」

 ヒルサギが聞いてくる。

 

 無論、ヒルサギのもとには多くの情報があがってきており、ヒルサギにとってアンコウのこの度の偵察が重要だったわけではない。一応程度の質問だ。

 

「無理を言って偵察に出る許可をいただいてありがとうございました。それにもうお聞きでしょうが、一度敵に遭遇しましたが、ヒルサギ殿が付けてくれた者たちが活躍してくれましたよ」

 

「いえ、感謝するのはこちらのほうです。アンコウ殿。アンコウ殿が、この砦のためにここまで働いてくださること大変ありがたく思っています」

 ヒルサギはアンコウを引きあげる時に掴んだアンコウの手を、まだしっかりと両手で握っていた。

 

 ヒルサギは今日のアンコウの偵察によって、重要な情報が得られるとははじめから思ってはいない。

 ただ、グローソン公の臣下の腕輪を持ち、この防衛戦でもすでにかなりの活躍を見せているアンコウ自身が砦の外に偵察に行くことによって、兵士たちの気を引き締め、士気を高める効果があると、今この砦を預かる責任者であるヒルサギは判断した。

 そして、当然アンコウの真の狙いもそこにあると考えていた。

 

「本当に、アンコウ殿あなたは……」

 

 真剣な目でアンコウを見つめ、言葉を詰まらせているヒルサギを見て、アンコウはヒルサギに握られた手を強引に引き抜いた。

(こいつ絶対またなんか勘違いしている)

 

 アンコウの無自覚とヒルサギの勘違いが、今の2人の関係を作っている。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているというわけでもない。

 

「じ、じゃ、だいぶ暗くなってきましたし、俺はそろそろ行きますよ」

 

 アンコウはヒルサギの横をすり抜けて歩いていこうとする。そのアンコウにヒルサギはまた話しかけてきた。

 

「アンコウ殿、お約束の夜伽(よとぎ)をつとめる女をご用意しておきました」

 

 アンコウがまったく予想もしていなかったヒルサギの言葉にアンコウは思わず足を止めた。

「えっ?」

 

 足を止めたアンコウがヒルサギの顔を仰ぎ見ると、妙に真剣な面持ちでヒルサギがアンコウを見ていた。

 

(何だ?約束の夜伽の女って…だいたい何で、またその話がでる?)

 アンコウは、思わぬヒルサギからの不意打ちに戸惑っていた。そのときアンコウの頭に、一人のジジィの顔が浮かんだ。

(ロプス、またあいつか!)

 

 よくわからないが、またあのジジィが余計なことをしたに違いないとアンコウは思った。

 この砦の責任者として間違いなく大変な思いをしているであろうヒルサギの口からこの話をされると、アンコウはどうにも申し訳ない気持ちになる。

 

「ああっと、その話はもういいですから。自分で何とかしますので、ヒルサギ殿はこれ以上気にしないでください」

 

「いえ!ここまでアンコウ殿の要求にこたえられず、申し訳ない限りです!先日アンコウ殿の要望を聞き、ロプスからの話も聞いて、アンコウ殿の要望にかなう女子(おなご)を用意しました」

 

 アンコウ自身はヒルサギに女の要望を出したつもりはなかったが、ヒルサギの中でアンコウの求めに応じるということはかなり優先順位の高い仕事になっていたようで、物凄く真剣な口調で話していた。

 アンコウは、ヒルサギのその深刻とも言える真剣な様子に若干引いていた。

 

(何で俺に女をあてがうことに、そんなに真剣になってんだよ)

 しかし、アンコウが女を抱きたいと思っているのは事実であるし、ロプスにその話をしたのも事実である。

 

「……あの、サラみたいな娘は困るんだけど」

「はい、アンコウ殿のご要望はわかっています」

 

 アンコウは申し訳ないという気持ちはありつつも、それならいいかと、せっかくヒルサギがこう言ってくれてるんだしと、いまさら断るほうがヒルサギに申し訳ないだろうとも考えた。

 そしてアンコウは、ヒルサギに無言で頷いて見せた。

 

「………では、今夜アンコウ殿のお部屋のほうに伺わせますので」

「ああ」

 

 ヒルサギは真剣な表情を崩すことなく、アンコウに頭をさげるとその場から去っていった。

 

 また防壁のうえで一人になったアンコウは、ぼりぼりと自分の頭をかいていた。

 

「はぁ、砦守長代理に女衒(ぜげん)の真似事をさせるのはさすがに申し訳ないな」

 

 それでもアンコウは、多少ヒルサギに申し訳ない気持ちがあっても、これで楽しみがひとつ増えたと内心嬉々とした気持ちにもなっていた。

 

「おおっ、今日は星が綺麗だな」

 

 すっかり夜になり、アンコウの頭上には星空が広がっている。確かにその空は、美しい。

 アンコウが元いた世界の都会の空とは比べ物にならない。夜空だけでなく、この世界の自然だけは、いつもアンコウの心を打つほどの美しさを備えている。

 

「冷える前に部屋に帰るか」

 

 そう言って歩き出したアンコウの顔は、間違いなく少しニヤけたものになっていた。

 

 

 

 

「いつもより警備の兵士が少ないな……」

 

 アンコウは今、砦内の廊下をひとり歩いている。

 食事も風呂もすませて、しばらく前から自室にこもっていたアンコウは、用を足しに部屋を出ていた。

 

 そして、アンコウの部屋のまわりに配置されている夜間の警備兵の数がいつもより少ないことに気づく。ただアンコウ自身は自分のための警護の兵などは現状必要ないと思っていたので、特別問いただすことはしなかった。

 

 しばらくして、用を足したアンコウは、再び部屋の前まで戻ってきた。

 部屋を出たときにも気づいていたが、アンコウの部屋の前にいつも立っている顔なじみの警備兵の姿も今日はない。

 

「……まっ、ここも別に必要ないしな」

 

 アンコウは特に深くは考えず、そのまま部屋の中に入っていった。

バタンッ、

 アンコウは部屋の扉を閉め、もう見慣れてしまった自分の部屋の様子を見た。

 

 いつもと大きくは変わらない。ただ、部屋の真ん中に置かれたテーブルのうえに綺麗な花が飾られ、ワイングラスがふたつ、椅子も二脚置かれていた。

 アンコウはこれからこの部屋に来る女と少しワインでも飲みながら話でもしようと思っていた。

 

 アンコウとしてはいきなり押し倒すのもちょっとな、という気持ちだった。

 しかしアンコウが、このあと訪れるであろう めくりめく時間を心待ちにしてしまっているのは最早明らかであり、何だかんだ言っても男という生き物には、この手の欲望の火が、本能として常に消えずに燃えている。

 

 男が一度そういうモードに入ってしまえば、表面上どのように取り繕っていても、男の中で燃える火の勢いは増していく。

 アンコウの内心の期待と興奮も高まってくる一方だった。

 

(いい女だったら、いきなり押し倒してしまうかもなぁ)

 

 そんなことを考えつつ、アンコウは徐々に高ぶっていく気持ちを落ち着かせようとするかのように、部屋の大きな窓のところまで、ゆっくりと歩いていった。

 

 窓の外に広がる夜空には、さまざまな輝きを放つ無数の星たちが(またた)いている。

 

 そして流れ星がひとつ、ふたつ、なまめかしいまでに美しい数え切れない光輝を含有した漆黒のキャンパスの上を走り抜けていく。

 この世界の夜空は、アンコウの世界の夜空より、なぜか流れ星の数が圧倒的に多かった。

 

(今日はいつも以上に流れ星が多いな。流れ星ってのはどうして起こるんだったかな……)

 

 アンコウは、かつて元の世界で聞いたことがあるはずの知識を脳内で検索するが、

「……だめだな。もう思い出せねぇや」

 

 

コンッコンッ

 部屋の扉がノックされた。

 

「来たか」

 アンコウは窓に背を向け、部屋の扉のほうへ向かって小躍りするかのように歩き出した。

 

 

 

 

 ワイングラスを傾けるアンコウの目の前に女が1人座っている。

 美しい金色の長い髪、妖艶な大人の色香が漂う身体つき、見た目には20台半ばぐらいであろうか、ランタンの明かりに照らし出されている白い肌の整った容貌もなんとも言えずなまめかしい。

 

 アンコウの目の前に座っている女は、アンコウ裁定では完全に当たりの女だった。

 アンコウは女をじっと見つめている。

 

「カエラ、飲まないのか」

「はい、お酒は結構です」

 

 女の名はカエラ。少し緊張の色は見えるが、落ち着いた口調でアンコウの質問に答えていた。

 ただアンコウが気になった点がひとつ、このカエラと言う女の態度、口調、明らかに平民の女ではなく、それ相応の教育を受けている身分の女であることはあきらかだ。

 

 アンコウはチラリと自分の腕の金色の腕輪を見る。

(まぁ、これのせいだろうな。仮にもグローソン公の臣下の腕輪をしている者に市井の娼婦は回せないか)

 

 カエラの美しくしさに釘付けになっているアンコウは、もはや彼女が平民であれ貴族であれ、どちらでもよくなっている。

 

 そして、そのあともアンコウはカエラに話しかけるものの、カエラはアンコウの質問に最低限の答えは返すだけで、自分から必要以上のことを話すことはしなかった。

 カエラが酒を飲む気もおしゃべりをするつもりもないらしいと悟ったアンコウは、最後の質問をカエラに投げかけた。

 

「カエラは、強制されたわけじゃなく自分の意思でここに来たのか?」

「……はい」

 わずかに間をあけて、カエラは頷いた。

「そうか。だったらそれでいい」

 

 アンコウはわずかにほっと胸をなでおろす。アンコウは別にこの女の心が欲しいわけではない。目的は体だ。

 

 それでも、この状況で脅されて無理やりつれてこられたとか言われた日には、このままカエラを押し倒す気にはなれないだろうし、もしそうなったら、今現在、限界まで高まっている欲望の持って行き所がないというものだ。

 

(まぁ、あのクソ真面目な男のヒルサギが、そんな女を回してくるわけがないか)

 

 アンコウは椅子から立ち上がり、カエラをベッドの脇までいざなった。

そして、

「ああっ」

カエラが声をあげる。

 

 アンコウはそこで、理性の衣を脱ぎ捨てて、獣の心をあらわに動き出した。我慢の限界というやつだ。

 

「あ、あのアンコウ様、あまり乱暴には、アンンッ」

 

 カエラの声はアンコウに聞こえているが、もはやアンコウはそれを聞き入れるつもりはないようだ。

(いい女だ。ヒルサギのやつ意外と女衒の才能があるじゃないか……胸も大きいな)

 

 ベッドのうえに、カエラはすでに押し倒されている。

 

「ああっ……あんんっ!」

 アンコウは少し乱暴に体を動かしながら、カエラの唇に吸い付いた。

「んんっ、んんっ!」

 

(……ん?)

 カエラにキスをしながら、アンコウは少し手の動きを止めた。アンコウが感じたわずかな違和感。

 

 カエラは抵抗はしていない。しかし、アンコウはカエラの唇に吸い付きながら、カエラの自分に対する隠しきれない拒絶の心を敏感に感じ取っていた。

 

 それでもアンコウはまた手を動かす。

「あんんっ」

 カエラは抵抗をしているわけでない。カエラは、アンコウが自分の体におこなっている動きを認めてはいるのだが……。

 

 アンコウはカエラの唇に重ねていた自分の唇を離し、カエラの顔を間近でじっと見る。

 

「…あっ、お前」

 そこでアンコウはカエラの顔に、以前見覚えがあることにようやく気づいた。

 

「カエラお前、このあいだ俺の傷の手当てをしてくれていた女か?」

「…はい」

 

 カエラはこのあいだ戦闘で傷を負ったアンコウの手当てをしてくれていた女であり、アンコウが尻やら胸をさわっていた女であった。

 じつはあの時は人手不足のため、専門の者だけでなく、身分の上下も関係なく、多くの女が怪我をした兵士の救護活動に駆り出されていた。カエラも自主的に救護活動に参加した女の1人。

 

 ヒルサギは、あの時怪我をして横たわっているアンコウのすぐ近くにいて、アンコウがカエラの尻やら胸を触っていたのを見ていた。それを思い出したアンコウは、

(ヒルサギのやつ、あれでカエラに目を付けて……)

 と思い至る。

 

「そうか、それでヒルサギはお前をここに寄越したのかな」

 

 アンコウが思ったことをそのまま口に出すと、アンコウの間近にあるカエラの顔が、一瞬苦痛に歪んだ。

(ん?)

 これだけ顔を近づけているアンコウがそれに気づかないわけがない。

 

 それでも今のアンコウは、9割、男の獣性に行動を支配されている。何かいやな予感を感じはじめながらも、アンコウの手は動き続けていた。

 

「あんっ!」

 

 アンコウは身をよじるカエラの動きをコントロールしようとするかのように、体の位置を変え、彼女の手を握ろうと自分の手を伸ばした。

 その時、あからさまな抵抗や拒絶は一切見せていなかったカエラが、おそらく反射的に、アンコウが握ろうとした左手を引いた。

 

 そのカエラの動きにアンコウも気づき、アンコウは密着させていた体をわずかに離して、カエラのその左手を見た。そしてアンコウはカエラの左手の薬指にはめられている指輪に気づく。

 

 その指輪の存在に気づいたアンコウの動きが停止する。

 それは普通の指輪でも魔具の指輪でもなかった。それは明らかにこの世界の特徴的な誓いの指輪、マリッジリングだった。

 

「……あー、」

 アンコウは考える。自分の都合のよい方向に考えようとする。

 

 この戦いの絶えない世界では、夫を戦争でなくした寡婦(かふ)は多い。

 平民の寡婦の中には、春をひさぎ、生活の糧とする者は珍しくなく、同様に身分のある家の寡婦でも、女であることを武器にその地位を守ろうとする者もいる。

 

 また権力に関る家門においては、家長である夫が自分の妻を、より社会的権力を持つ男の元に実質的な妾として差し出すことで、さらなる出世を遂げるということが、ここではごく当たり前に存在する社会だ。

 

 それになにより、カエラは自分の意思でここにきたと言った。ならば問題はないとアンコウは思おうとした。

 ……だが、アンコウは気がづけば、カエラの体の上に覆いかぶさったままで彼女に聞いてしまっていた。

 

「カエラは結婚しているのか」

 声には出さず、うなづくカエラ。 

「旦那はこのことを知っているのか」

 言いにくそうに夫に言われてきたと答えるカエラ。 

 

 アンコウはなぜか物凄くいやな予感が増してきた。いや、本当はなぜかはわかっていた。

 ただアンコウの心は、それを素直に認めることを全力で拒否していた。しかし、現実は変わらない。

 

 じつはカエラが左手薬指にしているマリッジリング、アンコウはそのデザインに見覚えがあった。

 この国のマリッジリングは一般的に細い輪状のものではなく、幅の広めリングに精緻な彫り物が施されたり、2人の名や2人の誓いの言葉が彫り込まれていることが多い。

 

 アンコウは、ある予想を断じて認めたくないと思う心とは裏腹に、その予想を確認するためにカエラの左の手首を掴み、自分のほうへと引き寄せた。

 

「あ、あのアンコウ様」

 

 アンコウは答えない。じっとカエラの左手を見ていた。そしてアンコウは、カエラのマリッジリングに小さな字で彫られた名を確認した。

 

 1人の名はカエラ、もう1人の名はジル。そして、その2人の名の後ろに2人のファミリーネームが刻まれている。

……… “ヒルサギ” と。

 

 アンコウはカエラの左手から手を離した。そのアンコウの顔からは、一切の表情が消えている。

 

 数時間前、砦の防壁の上でアンコウの手を握っていたヒルサギの無骨な手。その手に嵌められていたリングは、このカエラのリングとよく似たデザインのものだった。

 

 そしてアンコウは、あの時、夜伽の女を用意したとヒルサギが言ったとき、アンコウが頷いて了承の意を示したとき、あの時にヒルサギが見せた真剣をとおりこした深刻な表情の意味を理解した。

 

(………なんだこれ)

 

 ヒルサギは自分の妻にアンコウの夜伽の相手を任せたのだ。

 ヒルサギがどういう経緯で、こういう決断に至ったのかも、アンコウは無意識のうちに考えをめぐらし、わずかな時間で結論にたどりつく。

 その結論は、ヒルサギは “真面目をとおりこした馬鹿だ” というものだった。

 

 アンコウは無言のまま、カエラから体を離し、ベッドの端に座った。

 そしてアンコウは、両手でゴシゴシと自分の顔をこすりはじめる。

 ゴシゴシ、ゴシゴシと顔をこするうちにアンコウの足はガタガタ、ガタガタと貧乏ゆすりをはじめていた。

 

(!!し、信じられねぇ、何てことするんだあの野郎!!)

 声にならないアンコウ心の叫びである。

 

 アンコウの胸のうちには、とめどない怒りと嫌悪感が噴き出し渦巻いていた。

 ヒルサギへの怒り、カエラへの怒り、自分がカエラにしていたことへの嫌悪感。

 

 多少首を傾げるところはあっても、ここに来てからアンコウはヒルサギにはよくしてもらっていたし、何と言ってもこのあいだの戦いでは命を助けてもらった恩人だ。

 その男の女房を、その男の斡旋(あっせん)で抱けるかよ、という話だ。

 

……いや、アンコウはその男の目の前で、その男の女房の尻と胸をお触りしていたことを思い出した。

「ぐっ、」

 

 アンコウはよりいっそう強く、ゴシゴシと顔をこすりはじめた。そしてその自分の顔をこすり続けるアンコウの手が不意に止まる。

 そしてアンコウはカエラに聞いた。

 

「……なぁ、カエラ。お前旦那のことをどう思ってる?」

 

 アンコウの突然の奇妙な行動に、どうしてよいかわからず、ただアンコウを見ていたカエラはアンコウの不意の質問に戸惑ったが、さして悩むこともなくアンコウに答えを返した。

 

「……あの、すばらしい人だと思っています」

 

(どこがだよっ!!) アンコウは心の中の絶叫と共にガバッ!と、立ち上がった。 

 そのアンコウの勢いにカエラはベッドのうえで思わず身をすくめた。

 

 そしてアンコウはベッドから離れるように歩き出した。それを見たカエラは自分が何かアンコウを怒らせるようなことをしたのかと焦る。

 

 カエラは、アンコウ殿のところへいって欲しいと、目を伏せて、必死な面持ちで自分に頭をさげてきた夫の顔を思い出していた。カエラはカエラなりに覚悟を決めてここにきたのだ。

 

「ま、待ってください、アンコウ様。私なにか粗相をしたのでしょうか!?」

 

 そのカエラの言葉を聞いて、すでに容量をオーバーしていたアンコウの怒りと嫌悪感がさらに噴き出す。歩きはじめていたアンコウの足がピタリと止まった。

 

「……うるせぇ……」

 アンコウの口から小さな声が漏れる。その声もアンコウの体も小さく震えていた。

 

「えっ?アンコウ様、いま何と?」

 

 カエラに背中を向けているアンコウの目がカッと見開く。

 アンコウは憤怒の表情でカエラのほうを振り返り、ビシリとカエラを指差した。

 

 そしてアンコウは(いか)れる猛虎(もうこ)咆哮(ほうこう)のごとく叫んだ。

 

「!!『チェンジだっ』!!」

 

 激情に突き動かされるままにアンコウの口から出た言葉は、この世界の言葉ではなかった。

 それはアンコウの元いた世界の魔法の言葉。アンコウはこの世界に来てはじめて、この魔法の言葉を口にした。

 

 しかし、『チェンジの魔法』は発動しない。

 

 アンコウが叫んだ魔法の言葉は、虚しく夜の闇の中に溶けていく。そしてアンコウの顔に苦渋の色が浮かぶ。

 

 かつて、かの世界でアンコウがこの魔法の言葉を叫んだ時、それは部屋の扉を開いたアンコウの目の前に、オバちゃんとすら言えないオッサンのような顔をした薄毛のロン毛を紫に染めた女が立っていた時、

 アンコウは今のように魔法の言葉を叫んだ。

 

 すると、オッサンのような顔をした薄毛のロン毛を紫に染めた女は、アンコウをさげすむような目で見たが、チェンジの魔法は発動し、女は煙のごとくアンコウの目の前から消え失せた。

 

 しかし、今アンコウの目の前にいるカエラは消えはしない。

 

 カエラはアンコウが何を言ったかわからない。ただ、アンコウの激しい怒りをぶつけられたカエラは、ベッドのうえで怯えていた。

 そのカエラの姿を見て、アンコウは罪悪感に襲われる。

 

「…『チェンジだ』…」

 

 (すが)るように言っても、チェンジの魔法は発動しない。

 

 なぜならカエラは、女神(めがみ)たちが(つど)うちょっぴりヤクザで素敵な組織から派遣されてきた女ではないからだ。そんなことはアンコウにもわかっていた。

 それでもアンコウは、叫ばずにはいられなかった。

 

「くそっ!」

 

 アンコウは再びカエラに背を向けて、部屋の扉にむかって歩き出した。

 こんなところにいてられない、アンコウはただそう思っていた。アンコウは早足で扉の前まで進み、噴き出す怒りを扉にぶつけるように、乱暴に扉を開けた。

 

バンッ!!

 しかし、扉を開け、アンコウが廊下に足を一歩踏み出した瞬間、アンコウの足はビタリと止まる。

 

 その瞬間のアンコウの顔。目を大きく見開き、口は半開き、吹き出す怒りと嫌悪感も一瞬忘れたかのように呆けた顔になっていた。

 

 アンコウの部屋の扉の正面、廊下に大きな男がひとり直立不動の姿勢で立ち、心配そうな顔で、乱暴に部屋から出てきたアンコウを見つめていたのだ。

 

 アンコウはその男を知っている。男の名は、ジル-ヒルサギ。

 

 ファーストネームはついさっき知った男で、このサミワの砦の留守居役にして砦守長代理、アンコウのシンパにして、先の戦いで、敵に追い詰められたアンコウを窮地から救った男。

 そして今もアンコウの部屋のベッドの上にいるカエラの夫にして、そのカエラをアンコウの夜伽役として派遣してきた男だ。

 

 そして、アンコウがついさっき “クソ真面目をとおりこした馬鹿” に認定した男でもある。

 

 ヒルサギはカエラと共にここに来て、ずっと扉の前に立っていた。事が終わるまでここで待っているつもりだったのだろうことは、アンコウも瞬間理解した。

 いわゆる見届け人である。

 

 ふたりのあいだに流れるわずかな沈黙の時、オロオロしはじめたヒルサギが口を開く。

 

「ア、アンコウ殿。どうかなさいましたか?」

 

 発せられたヒルサギの声に、一瞬引っ込んでいたアンコウの怒りと嫌悪感が、それまで以上に一気にスパークする。

 

「ぐぅがああぁぁー!!!」

 

 アンコウは、心で血の涙を流しながら吼えた!アンコウは吼えながらヒルサギに飛びかかり、全力でヒルサギの顔をぶん殴った。

 

ボグァンッ!!

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「ア、アンコウ殿、申し訳ありませんでした」

 

 何発か顔を殴られたヒルサギは、廊下にしゃがみこんだままアンコウに詫びていた。ヒルサギの隣には、彼をかばうようにして、目に涙を溜めたカエラが寄り添っている。

 

「あんたの女房だろう!あんたもあれか、女房の体も出世の道具のひとつだと思っているクチか」

 

 アンコウはまだ怒っていたが、先ほどまでとは違い、幾分理性による制御を取り戻しているようだ。

 

「い、いえ!そんなことは思っていないっ!」

 

 そう叫ぶように言ったヒルサギとヒルサギに寄り添っているカエラが、意識的にか無意識にか、アンコウの目の前でギュツと手を握り合う。

 その姿を見てアンコウさらにイラつく。

 

「だったらはじめからこんなことするんじゃねぇ!気持ち悪ぃんだよっ!カエラ、お前もだっ!この馬鹿の馬鹿な提案を受け入れてんじぁねぇよっ!それとも何か、お前は俺に抱かれたいと思ってんのかっ!」

 

「い、いえっ!」

 カエラは大きな声で、頭を振りながら否定する。アンコウ自分で言って、ちょっと傷つく。

 

「もういい!お前らとっとと帰れ!」

 アンコウはそう言って、両手を大きくふたりを追い払うように振った。

 

「し、しかし、それではアンコウ殿、」

「あんたはもうしゃべるな!その女を抱くのはあんたの仕事だろ!とっとと部屋に戻って、あんたがカエラを抱いてやれ!」

 

 アンコウのその言葉にカエラは少し照れたような表情を見せた。そのカエラの顔にまたムカついたアンコウは、犬を追っ払うようにふたりに腕を振り続ける。

 

「帰れ!帰れ!」

 

 アンコウの剣幕に追い立てられて、ヒルサギとカエラもついに立ち上がり、歩きはじめた。

 

 アンコウはそのふたりの姿が廊下の角を曲がるまで、ふたりにむかって悪口雑言(あっこうぞうげん)を吐き続け、両手で追い払うような動作をつづけた。

 ふたりの姿が見えなくなってしばらくしてから、アンコウはようやく口を閉じた。

 

そして、

ドンッ!ドンッ!ドンッ!――――――

 アンコウは、石の廊下を踏み抜こうとでもするかのように、無言で廊下を踏みつけた。

 

 アンコウは残った怒りをすべてぶつけるように、しばらく廊下を力一杯踏みつけつづけたのだった。

 

―――――――――――

 

「フゥーーッ!」

 

 ようやく廊下を踏みつけることをやめたアンコウは、勢いよく大きく息を吐き出した。そして次に、ため息をひとつこぼす。

 

「………はぁっ、」

 

 この騒ぎで、気も力も抜けてしまったように感じたアンコウは、もう部屋に戻ろうと思い、ゆっくりと自分の部屋のほうを振り返る。

 そして、それまではまったく気がついていなかったのだが、アンコウは自分の部屋の扉の横にも、もうひとり人が立っていることにようやく気づいた。

 

「あん?」

 その扉の横に立っているのは初老の男。彼は顔をこわばらせ、おびえた表情でアンコウのほうを見ていた。

 彼は体が硬直して思うように動けないようだった。

(ロプス………)

 その男はアンコウのお世話役の1人、ロプスであった。

 

 ヒルサギはカエラをアンコウの夜伽役に寄越すにあたって、なるべく人目には触れないように配慮していたようだ。

 ヒルサギは、アンコウの部屋の周辺の警備の数を減らし、カエラに自ら付き添い、部屋の前で控えていたのは警護兵の代わりのつもりもあったのだろう。

 

 ロプスはすべての事情を知っている男であり、今夜も仕事を与え、ここまでつき合わせたといったところか。

 ロプスの横にあるカートの上には、魔具が仕込まれているのだろう湯気があがっている大きな湯壷が置かれ、それに大きめの桶や真新しいタオルのようなものも置かれている。

 アンコウはそのカートに近づいていく。

 

「……ふぅーん。俺はこれで体を拭いたらいいのか?それともヒルサギ殿の奥方用か?」

 アンコウは、ロプスを見ながら尋ねる。口調は穏やかだが、ロプスを見るアンコウの目はまったく、ひとかけらも笑っていない。

「ひっ、いえっ!」

 

 元々こいつが余計なことを言わなかったらこんなことにはならなかったんだ、という思いが、ようやく少し落ち着いてきていたアンコウの心の中で渦巻きはじめる。

 ああ、こいつ諸悪の根源じゃねぇかと決めつける。

 

 アンコウはロプスの胸ぐらを突然掴み、グイと力任せに引き寄せた。

「ヒィッ!」

 

 ロプスは抗魔の力を持っていない、ただの初老の人間族の男。アンコウの力に抵抗する術などない。

 アンコウに胸ぐらを掴まれ、引き寄せられたロプスの両足は、ほとんど宙に浮いてしまっている。

 

「……お前、十分に生きただろう?ここで死ぬか?」

「ヒィィーッ、お、お助け、グガッ!ブブッ、」

 

 アンコウがロプスの胸ぐらを掴む手に少し力を入れると、のどを詰まらせたロプスの口から唾が飛び、アンコウにかかった。

 

「汚ねぇ!てめぇっ、この野郎!」

 

 ロプスの唾がかかり、怒ったアンコウは、空いているほうの手でロプスのフグリを潰さんばかりの勢いで掴んだ。

 

「ふぎいぃぃっ!」

 ロプスの口から豚の断末魔のような声が漏れ出る。

 

「いいか。とっくにお前には何も期待していないんだ。だから、お前はこれ以上何もするな。このあとちょっとでも、俺に不愉快な思いをさせてみろ。金玉引っこ抜いて、お前の口に詰めてやるぞっ!」

 

 アンコウはそう言って、ロプスのフグリを掴む手にさらに力をこめた。

 

「ふぎょぉぉーっ、」

 ロプスの口から情けない声が漏れる。

 

 アンコウは怒りのままにロプスを折檻(せっかん)し脅した……しかし、アンコウは知らなかったのだ、ロプスという男の特殊な趣味を。

 

「プギョォォーー、」

 アンコウに折檻され、意味をなさない声をあげつづけているロプスの目が、いつのまにか妖しげに潤み、頬には赤みが差してきていた。

 

 そして、そのロプスの変化は下のモノにも……アンコウも、そのロプスの変化にすぐに気がついた。

 

「なっ!?おまえっ!なにデカくしてやがるんだっ!なめてんのかっ!クソジジィッ!!」

バシイィィッ!

 アンコウはロプスの横っ面を思いっきりひっぱたいた。

 

 そしてアンコウは、ロプスがちょっぴり幸せそうに泡を吹いて気を失うまで蹴り飛ばした。たぶん、死にはしていない。

 

 

 

 

 アンコウは独り、部屋にある大きな窓の近くでたたずんでいる。

 あれから何時間過ぎたのであろうか、大きな窓のふちには何本もの空になったワインボトルが並べられていた。

 アンコウはまだ中身の入っているワインボトルを片手に持ち、窓の外の満天の夜空を眺めている。

 

「おおっ、綺麗だ……ヒック、」

 

 流星群。漆黒のキャンバスにきらめく無数の星たち。

 その完成された美しい一枚の絵画のうえを、さらに、この世のものとも思えぬ美しさを放つ無数の流れ星たちが走り抜けていく。

 

「ヒック、綺麗だなぁ」

 

 夜の闇の中、星々の明かりに照らされながら、その星空を見上げるアンコウの目にうっすらと光るものが見える。

……アンコウは悲しみも寂しさも、微塵も感じてはいない。

 

「……ヒック」

 アンコウはじっと夜空の星々を見つめ、その星々をアルコールの力を借りながら、脳内で、次々と線でつないでいく。

 

 そして、星空を見つめるアンコウの目の中に、ひとつの絵が浮かびあがってくる。

 それは、ネルカで別れたテレサの生尻であった。それは、アンコウの目の前に広がる星空の中に、テレサの生尻座(なまじりざ)が完成した瞬間である。

 アンコウは今、歴史の闇の中に消えてしまった星座誕生の過程を再現してみせたのだ。

 

………アンコウは悲しみも寂しさも、微塵も感じてはいない。ただ少し、酒に酔っているだけである………

 

 

 

―――アフェリシェール大陸第十二暦 12236年 赤火(しゃっか)の月

 

 流星降りそそぐ美しき夜

 

  テレサの生尻座(なまじりざ)誕生す

 

 数多(あまた)の星座が描き出された満天の星空は、まさに神々の画廊

 

  その神々の画廊の中に、独りの異世界人の酔眼によって、新たな一星座が描き出される

 

 その他に類を見ない妖艶なる星空の絵画は、それを見出(みいだ)した異世界人にさえ、二度と見つけることができず

 

  永遠(とわ)に神々の記憶にのみ残る幻の星空の絵画となる

 

 

―――――――――――

 



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第43話 迷いの逃亡劇

「ロンドの残存抵抗勢力はもういないのか?」

 

 グローソン公ハウルは、ネルカ城の執務室で、豪奢な長椅子にだらしなく座りながら問いかけた。

 

「はい。南方にわずかに残っていた敵軍勢もすでに殲滅(せんめつ)したとの報が入っています」

「ロンドの領内からの援軍の動きは?」

「今のところ確認されていません」

 

 それを聞いて、グローソン公ハウルは、面白なさげに「チッ」と舌打ちを漏らす。

 

「……少し急ぎすぎたか」

 

 ネルカの城下町ではとっくに戦闘は終結し、平穏を取り戻していた。

 ネルカでグローソンに弓を引いた者たちは、逃げることも許されず、皆殺しにされたといってもよい。

 

 また、ネルカだけでなく、グローソン軍が占領した地のあちらこちらでロンドの残存勢力が示し合わせて、いっせいにグローソンに対して攻撃を仕掛けてきたのだが、グローソン公ハウルはネルカ城下の敵を殲滅(せんめつ)したあと、嬉々として、一軍を率い彼らとの戦いにおもむいた。

 

 その時の行楽にでも出かけるような軽く楽しげなグローソン公ハウルのさまは、ハウルにとって(いくさ)というものが、どのようなものであるのかを端的に表すものであった。

 

 そして、ハウルが率いるグローソン軍の動きは疾風のごとく速く、その攻撃は苛烈を極め、グローソン公の占領地にいたロンドの残存抵抗勢力をわずかな日数で、次々に踏み潰していった。

 

 グローソン公ハウルは、占領下でのロンド残存勢力の蜂起に呼応して、ロンドの領内からも再び援軍が来るだろうと予測していた。

 いや、ハウルはロンド公爵に決定的な打撃を与えるべく、そうなるように仕向けていたのだ。

 

 しかし、ハウルは少々戦いを楽しみすぎた。あまりにすばやく、苛烈に占領下で蜂起した敵を殲滅してしまった結果、ロンド側は援軍を送り込むことを躊躇(ちゅうちょ)してしまった。

 

「……仕方がないな。あまり加減しては、せっかくの(いくさ)が面白くなくなる。そのあたりのバランスが難しいところだ」

 

 グローソン公ハウルはつぶやき、引き続き面白なさげな顔をしながら、しかし、と考える。

 

「だが、おかしい。我が領内にいる愚か者どもが、この機に乗じて踊り出すようにも細工をしていたはずだ。

 あの連中が我を裏切り、このネルカに向けて進軍してきたのなら、ロンドも援軍を出しただろうし、もっと楽しい戦いができたはずなのだがな」

 

 ハウルは信じがたいことに、自分が(いくさ)を楽しみたいがために、わざわざ自分に剣をむける者たちが出るよう、敵味方関係なくあちこちでいろいろと細工を施していたらしい。

 しかし、ハウルが思っていたようには事態が動かなかったようだ。

 

 ハウルが首をかしげながら呈した疑問に、横に控えている家臣の1人が答える。

 

「殿。おそれながらそのことに関して、報告があがってきております」

 ハウルは少し気だるげに首を回し、その家来を見る。

「……申せ」

「はっ」

 

 ハウルはその家臣の報告に口をはさまず、耳を傾けていた。

 

――――

 

「チッ!」

 グローソン公ハウルは、その報告を聞き終えて、不機嫌そうに舌打ちをした。

 

「我が領内の裏切り者どもは、未だトードラスの小城を越えることができないでいるというのか」

 

 ハウルのいうトードラスの小城とは、このネルカを含めた新たに占領した地域との境にあるグローソン領内にある城である。

 

 ハウルはロンド側だけでなく、自分の支配下にいる腹に一物抱えているであろう者たちにも、この機に乗じて自分に対して剣をむけるように、秘密裏に仕組んでいた。

 ハウルの予想では、彼らはトードラスの小城を越えて、自身を標的にして攻め込んで来ているはずだった。

 

「あの程度の小城も落とせぬとは、情けないにもほどがあるな」

 どうやらハウルの中では、トードラスは捨て城であったらしい。

「しかし、思っていたよりトードラスに押し寄せた裏切り者どもの兵が少ないようだが」

 

「殿」

「……バルモアか、どうした?」

 

 そのグローソン公ハウルの疑問に答えるべく、ここまで口をはさむことなく控えていた参謀兼精霊法術師のダークエルフのバルモアが進み出てきた。

 

「殿、裏切り者どもの一部が、いまだトードラスに達することなく、サミワの砦に足止めされているとのことです。

 それがためにトードラスも未だ落ちず、裏切るであろうと考えていた一部の貴族、土豪たちも、兵を動かすことなく、様子見を決め込んでいるようです」

 

「ふむ、詳しく話せ」

 

「申し訳ありませぬ。あの方面で情報収集にあたらせている者がまだ戻ってきておらず、おそらく今日明日中には詳しいことがわかるかと」

 

「そうか、ではわかり次第報告せよ」

「はっ」

 

 ハウルは相変わらず長椅子にだらしなく座ったまま、もう邪魔だと言わんばかりに、居並ぶ家来たちに手を振ると、バルモアをはじめ家臣たちは、次々とハウルの前から消えていった。

 

 ハウルはテーブルの上に置かれたワインの入ったグラスに手を伸ばし、つまらなそうにゆっくりとそれを飲み干した。

 

 

 

 

 グローソン公ハウルは私室に置かれた大きなベッドの上で横になっていた。

 彼の頭は、枕代わりの(たくま)しい筋肉のついた彼の小姓の若い男の太ももの上に乗っている。

 

 その若い小姓は、太ももがむき出しになる ぴっちりとしたショートパンツを履いている。

 上半身は肌着を一枚着ているだけで、腕を隠す袖部分はなく、胴体はお腹の半ばぐらいまでしか布に隠れておらず、大剣をも自在に操れるであろう逞しい両腕と、板チョコのようにいくつもにも割れた腹筋が露になっていた。

 

 その若々しい筋肉質な体を持つ小姓の顔は、その(いわお)のような肉体とは対照的に、中性的な実に綺麗な顔立ちをしている。

 彼は、ベッドのうえで自分の主君であるハウルの頭を自分の太もものうえに乗せて、(なまめ)かしい微笑を浮かべていた。

 

 

「アンコウだと?あいつはローアグリフォンの餌になったんじゃなかったのか」

 

 ハウルがベッドのうえで、小姓に膝枕をされたままバルモアに問うた。

 

「いえ、食われたのではなく、サミワ砦の近くで落ちたようで」

「……あの男、悪運は強いようだな」

 

 そのままハウルは、バルモアの報告に時おり質問をはさみながら耳を傾ける。

 

 報告を続けるバルモアの声とは別の声が、ときおり混じる。

「ううんっ、」

 バルモアの話を聞きながら考えをめぐらしているハウルの手が、膝枕をしてくれている小姓の腹から胸へと這い上がり、逞しい胸筋についている敏感なふたつのピンクのボタンのひとつを刺激し、若者はビクリと反応を示していた。

 

「ああっ、ハウルさまぁ」

 

 ハウルは意外だった。サミワの砦守将が裏切り者どもに討たれたという報はすでに聞いていた。

 しかし、その砦守将の後を任されたヒルサギという男が、予想以上の働きを見せて裏切り者どもをサミワで食い止めており、しかも、それになぜかあのアンコウが力を貸しているという。

 

「あのアンコウが、敵の中心的な将を討ち取ったことが大きいようです」

 バルモアは淡々と報告を終えた。

 

「……チッ、アンコウめ。余計な真似を」

 グローソン公ハウルは少し不愉快そうに眉をひそめた。

 

「あっ、」

 再び小姓の若者から声が漏れ、ハウルの表情はすぐに緩む。

 

 ハウルはロンドの残党狩りだけでなく、ロンド本領からの援軍や配下の裏切り者どもとの戦いも楽しむつもりだったらしい。

 むろん、その三方から攻撃をうけたらハウル率いるグローソン軍といえども、確実に勝利できる計算は立たない。

 

 しかし、(だからこそ、おもしろい)というのがハウルの嗜好(しこう)だ。グローソン公ハウルは、まさに戦争享楽者といえた。

 

「殿。我が手の者が、途中でサミワの砦からの援軍を求める伝兵を拾い、このネルカまで同伴しているようなのですが」

「……そうか」

 

 ハウルはしばらくそのままで、考えをまとめているようだった。

 

「……バルモア、サミワに返答の伝兵を出す必要はない。この後もサミワからの伝兵が来るようだったら、すべてこの地に留めおけ。サミワには、余計な情報はもたらさず、いきなり兵を派遣する。

 バルモア。お前もその援軍に同行せよ。アンコウとの遊びはもういい。連れ戻せ。興がそれたわ」

 

「はい。承知いたしました」

 

 バルモアがハウルに、うやうやしく頭をさげる。

 頭をさげたバルモアに、ハウルはベッドのうえから、もう下がれと手を振った。

 

「はっ」

 バルモアはもう一度頭をさげてから、部屋の扉にむかって歩き出した。

 バルモアの歩く床には、派手なバラの刺繍が施された豪華な絨毯が敷きつめられている。

 

 このネルカ城のグローソン公の私室は、すでにハウルの趣味一色に染めあげられており、じつに無駄に派手で、妙に怪しい雰囲気が部屋全体に広がる空間となっていた。

 ハウルが寝転がっているケバケバしいベッドもまたしかりである。

 

「……アンコウめ。まったく余計なまねを……」

 ハウルが気だるげにつぶやく。

 

 しかし、特別怒っている様子でもなく、ハウルは、もはやバルモアがもたらした報告には興味がなくなっているようだった。

 

 バルモアが部屋の外に出ようと扉を開け、もう一度グローソン公のほうに向き直って頭をさげたとき、ハウルは若い小姓の両ももを広げ、そこに顔をうずめようとしていた。

 

「ああ、ハウル様、」

「この(いくさ)はここまでだな。別の遊びをするとしよう。のう、フフフッ」

「あああっ」

 

 若き小姓の漏らす低い声が部屋中に響きはじめたとき、バタンッ、とバルモアが扉を閉める音が響いた。

 

 

 

 

「くそーっ!」

 

 アンコウはサミワの砦の外壁に駆け上がり、山をくだったところに広がる光景を確認して吼えた。

 

 見張りの兵の報告どおり、小さく見える砦のある山の裾野で、すでに大規模な戦闘がはじまっていた。アンコウは強い焦りの表情を浮かべながら、その光景をにらみつけるように見ていた。

 

「どういうことだっ。あれはグローソン軍だ。援軍の情報なんて何も入っていなかったのに!」

 

 アンコウは、未だひとりでこの砦の周囲に広がる戦闘地域から逃げ出す機会を得ることができずに、今日という日を迎えていた。

 

 今の今まで、援軍が来るなどという情報はまったくなく、アンコウはまだしばらく逃げるための方策を講じる時間に余裕があると考えていた。

 それなのに何の前触れもなく突如グローソンの援軍が現れ、休息することもなく山麓に陣を構えていた敵軍にむかって一気に襲いかかった。

 

「……ちくしょう」

 眼下の光景に見入るアンコウの額から、大粒の汗が流れ落ちる。

 その時、背後からアンコウを呼ぶ声がした。

 

「アンコウ殿!」

 

 アンコウは、その声がしたほうを振り返る。そこには、ヒルサギが後ろに兵を引き連れ、急ぎ足でアンコウのほうに近づいてきていた。

 

 アンコウは先日、ヒルサギに彼の妻であるカエラを夜伽(よとぎ)役としてあてがわれ、ヒルサギの妻であるカエラをもう少しで抱いてしまうところだったのだが、すんでの所でその事実に気づき、怒りと共にヒルサギにカエラを突き返すということがあった。

 

 しかし、その翌日には、ヒルサギたちは夫婦そろって二日酔いのアンコウに許しを求めて、頭をさげにきた。

 そしてアンコウは、昨日の今日で内心まだ怒りはおさまっていなかったが、それを表に出すことはなく、そのふたりの謝罪をすんなり受け入れた。

 

 アンコウは、今後ヒルサギには絶対に女の世話は頼まないと心に誓いはしたが、それ以上ふたりの関係がギクシャクすることはなく、これまでどおりヒルサギとの良好な関係を維持することができていた。

 

「ここにおられましたか!アンコウ殿!」

 

 ヒルサギの顔にも声にも隠しようもない喜色が浮かんでおり、同時にヒルサギの武人としての闘志が、全身から噴き出していた。

 

「アンコウ殿!ついにハウル公爵様からの援軍が到着しましたぞ!いやはや公爵様の采配にはまったく驚かされます。これだけの軍勢が突如現れるとは」

 

「というと、ヒルサギ殿も知らなかったのですか?」

 

 ヒルサギはアンコウの前まで近づいてきて足を止めた。

 

「ええ。あの援軍が到着するまで、公爵様とはまったく連絡すらつかない状態でした。しかし、あれだけの軍勢が、このサミワまで来たということは、ネルカ城のほうは最早問題がなくなったということでしょう」

 

 ヒルサギは、山の裾野で繰り広げられている戦闘の光景を目を細め、遠望しながら言った。

 

( くっ、よくわからないが、ロンドの反撃もこの裏切り者たちの目論見(もくろみ)もうまくいかなかったってことか)

 

 アンコウも山の麓を遠望しながら、額の汗をぬぐう。

 アンコウは考える。グローソン公との賭けに勝つため、まだ逃げるか。しかし、賭けに勝ったところで本当に自由にしてもらえる保証はない。

 

 この戦闘の混乱を利用して逃げるというのは悪い手ではないが、間違いなく命の危険も伴うだろう。それだけのリスクを負う価値があるのか。

 それとも賭けに勝つのは諦めて、少しでもこの戦いの勝利に貢献したように見せかけ、グローソン公ハウルの家来となったときの待遇を少しでもよくしてもらえるように、このままヒルサギたちと一緒に戦い続けるか。

 

 アンコウは脳細胞をフル回転させて考えていた。

 アンコウにとって、ここで死ぬのは論外で、辛くて苦しいだけの自由にも意味はない。

 

( くそっ!自由にはなりたい。だけど、どうするのが一番安全で、俺の得になるのか)

 

 その時、ヒルサギの元へ1人の兵士が駆けつける。

 

「ヒルサギ様!出撃の準備が整いました!」

「うむ。わかった」

 

 ヒルサギはその伝令兵に返事をすると、アンコウに声をかけながら、自らも動き出した。

 

「アンコウ殿、参りましょう!あの裏切り者どもに目にものを見せてくれる!」

 ヒルサギは武者の顔となり、怒りを吐き出すように言った。

 

 ヒルサギは、立場上その内心の感情を余り表に出すことをしてこなかったが、砦を囲む裏切り者どもに、敬愛していた砦守将や多くの仲間を殺され、ここまで守勢一辺倒に甘んじてきたことで、彼らに対する怒りや鬱憤(うっぷん)を相当に溜め込んでいた。

 

 それがついに到着した援軍と眼下で繰り広げられている裏切り者どもとの戦いを見て、抑えていたヒルサギの感情が一気に噴き出してきたようだ。

 

「アンコウ殿!反撃の時ですぞ!」

「あ、ああ」

 

 ヒルサギに促され、アンコウもヒルサギたちについて早足に外壁を駆け下りていく。

 

 そして、わずかな時間の(のち)には、アンコウも戦支度を整え、馬にまたがり、将兵の集団の中に身を置くこととなっていた。

 

(とりあえず、この戦陣に参加しないわけにはいかない。ここからどうするかだ……)

 

 アンコウは焦る心を必死に抑え、勝利の臭いを嗅ぎつけた出陣間近の戦士たちの興奮の中で、自身の生存と自由を思い、自分にとってのベストの選択肢を求め、考えをめぐらせ続けていた。

 

「……この砦のことはもうどうでもいい。あとは自分のことだけだ……」

 

 

 

 

ウオオオォォォォォーーー!!!!―――

 

 戦場に響き渡る音。怒声、悲鳴、罵声、爆音、多くの者たちが理性を放棄し、多くの者たちの命が潰える音が響く。

 

 アンコウたちが砦を出で、山の麓まで下りてきたときには、そこにはすでに凄惨な戦場が広がっていた。

 そして、馬を駆り、先頭を走っていたヒルサギたちの一軍は、休むことなくそのままの勢いで戦場に突っ込んでいった。

 

ウオオオォォォォォーーー!!!!―――

 

 

「アンコウ様!我らもヒルサギ様たちに続きましょう!」

 

 戦場の形勢は、援軍が駆けつけたグローソン軍が明らかに優勢な状況だ。

 それを見てアンコウのまわりにいる兵士たちも、この勢いに後れてはならじとばかりに興奮した様子を見せている。

 

 この目の前に広がる戦場は、彼らにとって、これまでの鬱憤を晴らし、手柄を立てる絶好のチャンスなのだ。

 

「ああ、そうだな」

 アンコウは鋭い目で戦場をにらみつけながら、しかし、妙に冷静な口調で答えた。

 

 そしてアンコウは、腰の赤鞘の魔剣をスラリと引き抜き、剣先を空に掲げ、自分の指揮下に配せられた兵たちにむかって叫んだ。

 

「お前たち!ここからは、作戦も何もない!すべての敵を屠り、思いのままに手柄をたてろ!」

 

「「オオォーーッ!」」

 

 アンコウの叫びに呼応して、多くの兵たちが興奮をさらに高めながら雄叫びをあげた。その興奮して、戦意をむき出しにした兵士たちにむかって、アンコウは号令をかける。

 

「ゆけ!ゆけ!行けぇー!」

 

 アンコウは叫びながら、何度も剣を持った手を大きく振りまわしている。

 しかし、アンコウ自身はその場に止まって動いておらず、そのアンコウを次々と味方の兵士たちが追い越し、目の前の戦闘へと嬉々とした興奮につつまれながら、突っ込んでいく。

 

 しばらく号令をかけながら、指揮下の兵たちが戦闘に参加していく様を見ていたアンコウであったが、皆が戦闘に入ったのを見て、ようやく自らも馬の腹を強く蹴り、戦場へと突っ込んでいった。

 

「うおおぉー!!」

 

 アンコウもまわりの兵士たちと共に、すでに明らかに逃げ腰になっている敵兵士たちを次々と斬り倒していく。

 圧倒的に有利な戦況の中で、アンコウはすでに味方の兵士を統率し、指揮をとる役割は放棄していた。

 

 アンコウの指揮下にある兵士たちも戦功を求めて思いのままに戦っており、アンコウに指示を求めてくる者もすでにいない。

 アンコウはそんな周りの状況のに変化を、血刀を振るいながらも冷静に観察していた。

 

 そしてアンコウは、大きな掛け声と共に再び強く馬の腹を蹴り、全力で馬を走らせはじめた。

 

「はいやっ!」

 アンコウは戦場からの逃亡をついに決意し、行動に移したのだ。

 

 味方の兵士も各々の戦いに集中しており、アンコウの行動に気をとられる者はいない。

 それに、アンコウは馬を走らせて前線からの後退をはじめたわけではない。

 

 敵軍の手薄になっていそうな箇所を突いて馬を走らせはじめたのであって、アンコウの行動に気づいた者にも、アンコウも自分たちと同じく戦功を求めて思うままに戦っているようにしか見えなかった。

 

 アンコウは、時おり剣を振るい、邪魔な敵を斬り倒し、馬で敵を跳ね飛ばしして、敵陣の手薄な場所を切り裂くように馬を走らせて行く。

 アンコウはひとりどんどん離れていく。

 

 そして、敵味方が密集した背後の戦場をチラリと見やる。

 その戦闘の最前線には、大剣を振りまわし、何やらまわりに指示を飛ばしているヒルサギの姿があった。

 

「……まぁ、いいやつだったな」

 

 ひと悶着ありはしたが、世話になったと、アンコウは戦場で一瞬優しい気持ちになる。

(死ぬなよヒルサギ)

 

 アンコウはヒルサギから目を離し、そのまま全力で馬を走らせつづけた。

 そうするうちに、いつのまにかアンコウのまわりには敵も味方もまばらにしか見えなくなっていった。

 

「はいやっ!」

 しかしアンコウは、走る馬の速度を落とそうとはしない。

 アンコウは前方に見える森に向かって、まっすぐに馬を走らせていた。

 

「よし!いけるっ!あの森に入れば、この戦場から離脱できるはずだ」

 

 アンコウは馬の速度をさらに上げ、森へと続く細い道を突っ走り、そのまま木々の生い茂る森に入っていった。

 

(やったぞ)

 アンコウは思い通りに事が進んだ喜びを感じながら、

(やっぱり、逃げ続けることを選んで正解だったな)

 と、笑みを浮かべながら、森の中でも止まることなく馬を走らせた。

 

 しかし、アンコウが、このままこの戦場から逃げ切ることは許されなかった。

 アンコウは馬を走らせている左右の森の中から、自分を追いかけてきているのだろう追跡者の気配を感じた。

 

「!?まじかよっ」

 

 アンコウが周囲から感じる気配の正体を確認しようと、馬を全力で走らせながら周囲に顔を動かしていると、突然アンコウの体が大きく宙に投げ出されてしまった。

 

「ヒヒィーンッ!」

「うおぉぉーっ!?」

 

 アンコウが走らせる馬の前に、一本の縄が突然、ピンと張られた。全力で走っていた勢いのままに、馬は倒れ転がり、アンコウは大きく宙を舞う破目になる。

 

 そして、宙を舞うアンコウの目に、一瞬森に潜む者の姿が見えた。

 それはダークエルフ。壮年の容貌をした見るからに精霊法術師風の風体をしたダークエルフの男。そして、そのダークエルフの顔に、アンコウは見覚えがあった。

 

(バルモア!!)

 

 それは、グローソン公ハウルがアンコウを捕まえる鬼の役目に指名した男。

 一瞬であったが、アンコウの目は、間違いなくバルモアの姿を確認した。

 

 せっかく逃げ続ける決意をしたのに、ここでバルモアに捕まったら、その時点でこの賭けはアンコウの負けで終わってしまう。

( くそっ!)

 アンコウは宙を舞いながら、器用に体勢を立て直し、いったん鞘に収めていた赤鞘の魔剣を引き抜いた。

 

 アンコウは地面にたたきつけられることなく、着地し、地面に足が着いたときには、すでに呪いの赤鞘の魔剣との共鳴を発動していた。

 

 そしてアンコウは動きを止めることなく、馬から投げ出された勢いのままに、今度は自分の足で全力で走り出す。

 追われれば、逃げる。それは生き物の(さが)だ。

 

 追われるということは、逃げなければという恐怖心を引き起こす。

 このときのアンコウの頭からは、逃げることをあきらめ、わざとバルモアに捕まるという選択肢は消えていた。

 

 1人ではない。剣を片手に全力で逃げるアンコウを複数の者が追ってきていた。

 

「くっ!」

 アンコウは走る!全力で走り続ける!しかし、アンコウの後ろを走るバルモアの姿は一向に小さくならない。

「くそっ!」

 

 アンコウの背中をしっかりと捉えながら走るバルモアは、何やらぶつぶつ口ずさんでおり、走りながら精神の統一をはかっている。

 

 そしてバルモアの口元に、ニヤリとした笑みが浮かぶと、走るバルモアの前方の空間がぐにゃりと歪み、風切り音をあげながら、歪んだ空気の刃がアンコウにむかって放たれた。風の精霊法術だ。

 

ビュンッ!

 目に見えなくとも、アンコウは背後から襲いくる風の刃の気配をはっきりと感じ取っており、走る足を止めることなく、斜め前方に飛ぶようにして、アンコウはその攻撃を避けた。

 

ザァンッ!

 地面に衝突した風の刃が地面をえぐりながらはじけ、周囲に土や砂をまき散らす。

 

「ちぃっ!」

 アンコウは、横顔に飛んできた土や砂をうけながらも走る。

 バルモアの風の精霊法術による攻撃は、1度だけで終わることは当然なく、連続してアンコウにむかって放たれる。

 

ビュンッ!ビュンッ!ビュンッ!

 ザァンッ!ズサンッ!ザァンッ!

 

 アンコウはその攻撃を必死で避け続ける。バルモアの放つ風刃の威力は抑えられているようで、アンコウを一撃で殺そうというような殺意は籠められていない。

 しかし、即死はないかもしれないが、まともにこの風刃をうければ、アンコウはただではすまないだろうことも間違いない。

 

 息をつかせぬバルモアの連続攻撃に徐々に追い詰められていくアンコウ。

 そして無情にも、森の中を走り続けるアンコウの視界の先に、林立する木々ではない別の自然の景色が見えてきた。

 

「か、川か!」

 

 そう、アンコウの進行方向を遮るように一本の川が流れていた。それほど大きい川ではないようだが、決して一足飛びに飛び越えられるほど小さいものでもない。

 

(ち、ちくしょうっ!)

 自分の行く手をさえぎるように流れる川を見て、アンコウの判断に迷いが生じる。

 

 このまま川に突っ込めば、間違いなくバルモアたちに追いつかれてしまう。

 川辺につく前に道を外れ、森の中に活路を見出そうにも、自分を追いかけてくる者たちは、森の民のひとつであるダークエルフだ。

 

(ダークエルフたちを俺が森の中で()くなんてことは、)

「無理ゲーだろ…くそっ!」

 

 アンコウの迷いが、走るアンコウの足を若干鈍らせる。

 そのアンコウの心の動揺を見透かすように、バルモアはこれまでよりも威力も速度も大きい風刃をアンコウにむかって放つ。

 

ビフゥンッ!!

 

 アンコウは、背後から放たれたこれまでよりも強い精霊法術の気配に気づき、あわてて回避行動をとる。

「くくっ!!」

 

ドザァンッ!

 風刃が衝突した地面がはじけ、一瞬で地面をえぐり取る。

 

 アンコウは体勢を崩しながらも、からくもその風刃をかわすことに成功した。

 しかし、風刃を大きく飛び跳ねるようにして避けたアンコウの足が、地面に着地した瞬間、

「ぐわぁっ!!」

 アンコウの口から、意図せぬ苦痛の叫びが発せられる。

 

 そのアンコウの叫びの理由、地面に着地したアンコウの足のふくらはぎに、一本の小型のクナイが突き刺さっていた。

 

 バルモアが発動した強めの風刃は囮であり、本命は精霊法術ではなく、手投げの小クナイのほうであった。

 己が投げ打った小クナイが、思惑どおりに見事にアンコウの足に命中したのを見て、バルモアは走りながらほくそ笑んだ。

 

「ぐくっ!」

 アンコウの顔が、痛みで歪む。

 しかしアンコウは、倒れることも立ち止まることもなく、気合で痛みをこらえると、小クナイが足に刺さったままの状態で走りつづけた。

 

「ぬおぉっ!」

 アンコウは真直ぐに走り続ける。

 

 もはや右に行くか左に行くかなどと考える余裕もなくなっている。

 しばらく走り続けても、まだバルモアたちはアンコウに追いつかなかったが、必死の形相で走り続けているアンコウに対して、バルモアたちの表情には余裕があった。

 まるで獲物が弱るまでじっと待っている肉食獣のようだ。

 

 そして、そのまま真直ぐに走り続けたアンコウは、ついに川の近くにまで来てしまう。

 

(く、くそっ!)

 追い詰められたアンコウは、そのまま川に突っ込む決意をした。

 アンコウ自身も賢い選択だとは到底思えなかったのだが、他にどうしようもなかった。

 

「一か八かだ、がっ!?」

ドオォンッ!

「がぐぁーっ!」

 

 しかしアンコウは、その川に飛び込むという逃げ切れる可能性の低い賭けすらも打つことができなかった。

 アンコウの足元で、背後から飛んできた火球がはじけ、アンコウの体は宙を舞い、地面に投げ出されたのだ。

 

 その火球はバルモアが放った火の精霊法術。地面に転がるアンコウ。

 しかし、地面にたたきつけられはしたものの、アンコウに直接火球が当たったわけではなく、アンコウのダメージはさほど大きくない。

 

「……ふぐぐぐぅ、」

 アンコウは、苦痛をこらえた唸り声をあげながら立ち上がる。

 

 さらに追い詰められてしまったものの、立ち上がったアンコウの目つきは鋭く、強い怒りの色が浮かび、まだあきらめてはいない。

 

 川を背に立ち上がるアンコウにむかって、走ることをやめたバルモアが、アンコウの目に映るだけで背後に2人のダークエルフを従えて自然な歩調で近づいてきた。

 手に武器も持たず、精霊法術を発動する準備をしている気配もなく、無造作に近づいてくるバルモアは、アンコウにとって実に腹立たしい余裕を見せている。

 

(この野郎!)

 アンコウは心でバルモアに悪態をつきながら、小クナイが突き刺さった足へと手を伸ばした。

「ぐはっ!」

 アンコウは、足に刺さった小クナイを引き抜き、地面にたたきつける。

 そして、ギラリとバルモアをにらみつけた。

 

「バルモアぁ!卑怯だぞっ!俺を捕まえる役はお前だけのはずだろう!後ろのふたりだけじゃない!森の中にもまだいるだろう!」

 

 アンコウの大声の怒声にもバルモアは動じることなく、言葉を返す。

 

「相変わらず口の悪い男だ。貴様を捕まえる賭けの条件はよく覚えているし、破ってもいない。貴様に攻撃を当てたのは、このバルモア1人だけだ。今から貴様を捕まえるのも私1人。約束どおりであろう」

 

「なっ!」

 アンコウは怒りのあまり言葉に詰まる。

 確かにバルモアはウソをついてはいないが、きわめて勝手な物言いだ。

 

「後ろの者たちも、森の中にいる者たちも、ただ情報収集のために見ているだけ。縄には貴様が勝手に引っかかっただけだ。何なら森を散歩しているだけだと言ってもいいんだぞ?」

 

「ふざけたこと言ってんじゃねぇ!」

 アンコウが目を見開き吼える。

 

 アンコウの剣を握る手に力が籠もり、全身の筋肉が膨れ上がる。赤鞘の呪いの魔剣との共鳴の度合いを増していく。

 アンコウは追い詰められつつあるものの、体力はまだ十分残っており、ふくらはぎの傷も、さして深くはない。アンコウはまだ十分に戦う力を残している。

 

 アンコウ1人で周りを囲む者たちすべてを屠ることはできはしない。

 しかし、戦うことで、この危地から脱出する道を開くしかないと、アンコウは怒りを露にしながらも頭の冷静な部分で判断していた。

 

(……バルモア1人しか手を出してこないにしても、ここから逃げ切れる可能性は低そうだ)

 アンコウは目を見開き、バルモアをにらみつけながらも、その額や背中には冷たい汗が流れ続けている。

(後ろに川、前に森とダークエルフか)

 

 アンコウは、相当追い詰められている自分の置かれた状況を認めざるをえなかった。

 

「ほう、アンコウ。戦うつもりか?」

 バルモアが問いを発しながら、さらにアンコウに近づいてくる。

 

 バルモアは顔から笑みを消しはしていたが、その態度には、自分が明らかに優位に立っているという余裕が見えている。

 バルモアは歩きながらも、じっとアンコウを観察し続けている。バルモアはアンコウが表面的に見せている怒りとは別に、その心の動揺を正確に見抜いていた。

 

 そして、さらにそのアンコウの心の動揺を増すべく、バルモアは言葉を重ねていく。

 

「貴様が聞き分けなく、あまりに抵抗するようだったら、貴様を殺してもよいという許可も殿より得てきている。よいか、私が貴様を殺さざるを得ないと判断すれば、賭けの条件など気にすることもなくなるのだ。どういう意味かわかるな?アンコウよ」

 

 バルモアはチラリと背後に付き従う配下の者たちと左右の森のほうを意味ありげに見てから、再びアンコウのほうに目を戻す。

 アンコウは、そのバルモアの態度の意味するところをさとり、剣を持つアンコウの手が、かすかに震えながら下がっていく。

 

「……く、くそぉ、」

 

 アンコウの顔に浮かぶ怒りの表情が、徐々に苦悩を表すものに変わっていく。

 

 バルモアだけでなく、アンコウを囲むすべての者たちが、一斉に攻撃を仕掛けてきたのなら、とてもではないが(すき)をつくって逃げることなどかなわない。

 間違いなく殺されると、アンコウ自身もよくわかっていた。

 



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第44話 アンコウ、川海豚になる

 アンコウに無駄な抵抗はするなと、おとなしく捕まれと言いつつ、バルモアがさらにアンコウに近づいてくる。

 

 アンコウはこの逃亡期間中、いや、アネサでグローソンの手の者に捕まって以来、散々考え続けてきた。

 

 自分の望む自由について、アンコウはどのような境遇にあろうとも、自由でなければ人生に意味は無いという大前提の元で行動してきた。

 それは果たして正しかったのかと、最近わずかに疑問に思うようになってきている。

 

 今になって思えば、アンコウがこの世界に落ちてきた時に、何の力も無いままに、奴隷となって過ごした一年ほどの経験が、アンコウの心に与えた影響があまりに大きかったのかもしれない。

 

 それまで豊かで平和で自由な社会で生きてきたアンコウが、突然あらゆる自由と人権を奪われ、心身ともに暴力に晒され、人としての尊厳を完全に踏みにじられた。

 その経験が、抗魔の力を得、この世界で冒険者と生きるようになってからも、他人の支配下に入るということを過剰かつ無思考に、反射的に拒否する(かたく)なな心をつくってしまっていた。

 

 しかし、完全に他者からの干渉を受けずに生きつづけることなど、この世界でも元の世界でも、山奥にひとり籠もる生活でもしない限り、客観的に考えれば不可能だ。

 

 ようは、どの程度の他者からの干渉を受け入れ、どの程度の自由と思える状況を確保できるかということが問題なのだ。

 

 現状、グローソン公ハウルという権力者に目をつけられた以上、そう簡単にハウルの手が完全にとどかない場所に逃げることはできないということは、アンコウも認めざるをえない。

 

 そして、そのハウルはアンコウを奴隷にはしないと言った。だだ昔を懐かしむために自分の手の内に置くと言った。

 ハウルは、アンコウの唇を奪い、ケツをまさぐったホモ野郎だが、あれはあの場における一種の脅しのようなものであり、グローソン公ハウルが本気で自分の体を狙っているとはアンコウも思っていない。

 

 無論、権力者の家来となれば、貞操は奪われなくとも、忠誠という名の自己犠牲を強いられる覚悟は必要であろうし、その行動の自由も制限を受けることは間違いない。

 

 ここに至ってもアンコウは考え続ける。あの男の軍門に降れば、どの程度の自由を奪われ、どのような生活の保障が為されるのだろうかと。

 

 アンコウが自分の感情を排除し、自分が置かれた現状を客観的に考察すれば、仮にこのまま逃げ切れたとしても、アンコウがアネサにいたころのような冒険者としての生活にすぐに戻れる可能性は低い。

 それでもアンコウは、ここまで逃げたいという衝動に圧され行動してきた。

 

 そして今、ついにアンコウは追い詰められてしまった。

 

 

「……ちくしょうがぁ」

 

 諦めの心が明らかに芽生えはじめているアンコウに、近づいてくるバルモアが話しかける。

 

「アンコウよ。これ以上貴様のために労力を割く気は私にはない。貴様の言う自由のために死んでもいいと思うのなら、再び逃げるために走ればよい。殺してやる。

 先ほども言ったが、貴様を殺すと判断したときには、私だけでなく、まわりにいる私の手の者すべてが貴様に襲いかかると思え」

 

 冷静な口調であるが、バルモアがアンコウを見る目に殺気を籠めながら、脅し文句を吐く。

 

「くっ、」

 そのバルモアのセリフに、悔しげに口をゆがめたアンコウにむかって、今度は少し殺気をやわらげてバルモアが語りかける。

 

「しかし、アンコウよ。グローソン公爵様に忠誠を誓うということが、なぜ自由を失うことになるのか。私にはわからん。貴様は我が殿の手をこれだけ(わずら)わせたにもかかわらず、殿は貴様を奴隷にはせず、正式な家臣として処遇すると仰せになっているのだぞ。何と慈悲深いことか」

 

 (勝手なことを言うな)と、アンコウは思うものの、もはやアンコウが強気のセリフを吐けるような状況にはない。

 それに、アンコウの心は楽そうなほうへと、徐々に引き寄せられてもいる。

 

「公爵様は、これ以上無用に手向かうようなら貴様を殺してもよいと言った。しかし、おとなしく捕まれば、貴様の身分は保証される。それに心配するな。私の見るところ、殿は貴様を(いくさ)の駒とする気はないだろう。

 フフッ、それに尻の心配もせずともよいと思うぞ。いずれも貴様は、殿のお好みではないからな」

 

 それでもバルモアの言いようは、その真偽に関係なく実にアンコウの神経を逆なでする。

 

「くっ!」

 それでもアンコウは、その怒りをこらえて聞く。

「……ほ、保障はあるのか」

 

「フン!貴様は忠誠を捧げるのだ、保障などあるものか。死地に赴けと言われれば、それに従うが誠の忠臣よ。

 ただ、まちがいなく貴様は奴隷にはされず、グローソンの臣として遇される」

 

「ぐぐっ……」

 アンコウはついに下を向き、口籠もってしまう。

 

 そしてバルモアは、言葉を発しなくなったアンコウの目の前まで歩いてきた。

 しかしバルモアは、殺す殺すとアンコウを脅してはいるものの、本気でアンコウを殺すつもりはない。

 

 グローソン公のアンコウに対する関心は、実際そうたいして高くはない。

 アンコウを殺したところでたいして咎められることはないだろうとバルモアは思っていたが、それでもグローソン公の命令はアンコウを捕まえて来いというものであり、グローソン公ハウルの忠実な僕であるバルモアは、当然その命令の達成を第一に考えていた。

 

 それにバルモアは、アンコウがサミワの砦で為した戦功のことも考慮していたのだ。

 バルモアとしては、どうしてこのような個人的な欲望でしか動かない男が、サミワの砦において、この短期間でこのような立場に就いているのか不思議ではあったが、アンコウは間違いなく褒賞に値する戦働(いくさばたら)きをおこない、サミワの将兵たちの信望を得ていた。

 

 サミワの砦の兵力など高が知れており、ただの戦争享楽者であるグローソン公ハウルなどは、はなから捨て砦としか見ていなかったが、バルモアの考えは少し違う。

 バルモアは此度、サミワの砦の将兵が見せた忠節疑いなき戦いぶりを早々に戦死した砦守将らを含め、実に高く評価していた。

 

 バルモアは、いまさら主君であるハウルの持つ戦闘享楽者的な気質を改めさせようとは考えていない。それも含めて、心よりの忠誠を尽くすべき主なのだ。

 

 ただ、ハウルの忠実な僕であることを誇りとするバルモアとしては、そのようなハウルの行いを補佐することが重要な仕事のひとつであると考えており、ここでアンコウを殺してしまえば、どのような理由をつけても、大なり小なりサミワの将兵の心にグローソン公爵に対する疑念を生じさせるだろうと思っている。

 

 バルモアとしては、サミワの将兵という小勢であっても、これだけの忠節を見せる戦いをする者たちの離間を生じさせるのは、グローソンにとって惜しいことだと考えていた。

 

 それも、こんなどこの馬の骨ともつかない冒険者風情の命ひとつでと思うと、馬鹿馬鹿しくて、バルモアはアンコウを殺す気にはなれなかった。

 

「……しかし、アンコウよ。それが貴様の望みではないということはわかるが、決して悪い話ではないのだぞ。この血なまぐさい世界で、人は死ぬまで生きていかなければならない。貴様に用意されている地位は、他人から見れば決して悪いものでない。

 それに、運良くこの場を逃げおおせたとしても、生涯逃亡者として、周りの目を気にし、逃げ続けなければならないということもわかっておろう。そこに貴様の言う自由はありはしないはずだ」

 

 そして、アンコウの目の前に立ったバルモアは、最後に比較的穏やかな口調でアンコウに語りかけた後、うつむくアンコウの肩にゆっくりと手を置いた。

 そして、何ら感情の籠もらない口調で、アンコウにゲームオーバーを告げる。

 

「アンコウ、捕まえたぞ」

 

 アンコウはバルモアのその言葉をしっかりと聞き、軽く目を閉じて、力なく(うなず)いた。

 そのアンコウの頷きを見たバルモアが、アンコウの肩から手を離す。

 

「これで終わりだ」

 バルモアが、アンコウに念を押すように言う。

「……ああ、もういい。俺の負けだ」

 

 アンコウはそう答えると、右手で掴んだままだった剣を赤鞘におさめた。力なく鞘におさめられた呪い魔剣は何の音もたてず、アンコウとの共鳴を解く。

 力なくうなだれているアンコウを、バルモアはしばし見つめている。

 

「では、ついて来い。アンコウ」

 

 アンコウに、これ以上の抵抗の意思がないことを確認したバルモアは、そう言うと、くるりとアンコウに背を向け、元来た方向に再び歩き出した。

 

 ギャーッ、ギャーッ、ピィーッ!

 

 バルモアがアンコウに背を向け、歩き出したその時、突然森の中から無数の鳥たちが飛び立ち、バサバサと羽音を周囲に響かせた。

 その鳥たちの鳴き声は、明らかに仲間たちに警鐘を発するものだった。

 

「なんだ!?」

 アンコウは思わず、うつむき加減であった顔を跳ねあげ、森のほうを見る。

 

 そして次に、鳥の鳴き声でなく、アンコウの耳に新たに響き始める音。それは、

 

(馬蹄の響きか!)

 

 アンコウがそう察した次の瞬間、アンコウの視線の先、アンコウが走ってきた森の中の道上に、武装した兵士を乗せた一頭の馬が飛び出してきたのが見えた。

 

 その騎馬兵が飛び出してきた場所は、アンコウが立っているところから、まだ少し離れていたが、アンコウの耳に聞こえている馬蹄の響きは一頭だけのものではなく、いまだ響き続けている。

 

 一人の騎馬兵が森から飛び出してきた後、そう時間をおかずに、次々と他の騎馬兵が森の中から飛び出してきた。

 そして、アンコウの耳に聞こえる馬蹄の響きは、どんどんアンコウたちがいるほうに近づいてくる。

 

「あれは……」

 

 アンコウがよく見ると、飛び出してきた騎馬兵たちの中には、体に矢が刺さっていたり、顔や体にべっとりと赤い色が着いている者がいたり、手負いの者たちが多く見られた。

 

「何ごとだっ!」

 バルモアが、大きな声で叫ぶ。バルモアが叫ぶ先にも、森から別の騎兵が飛び出してくる。

「くっ!敗残兵どもか!」

 

 そう、突如現れたのはサミワの砦を囲んでいた反乱軍の兵士たちであった。

 彼らはグローソン軍の猛攻を受け、すでに潰走を始めており、その一部がこの森の中まで逃げ込んできたようだ。

 

 ズザァッ!!! バサァッ!!!

 ついにアンコウのすぐ近くの森の木々のあいだからも、逃げる敵騎馬兵たちが飛び出してきた。

 

 そして、その騎馬兵たちとバルモアについてきていた兵士たちが戦闘状態になる。

 

 悲鳴、怒声、罵声、悲鳴、怒声、罵声

 

 あっという間に、再びアンコウの周囲が戦場と化していく。

 そして、アンコウは自分でも意識することなく、気がつけば、ついさっき鞘におさめたばかりの剣を無言のまま再び引き抜いていた。

 

 それはこの数年間冒険者として、生きるか死ぬかの戦いを当たり前の日常として生活てきたアンコウの本能的な反応だった。アンコウの目が再びギラリと光る。

 

 賭けに負け、気持ちはすでに降伏しているはずのアンコウが、自分の目の前で背中を見せ、森から飛び出してきた騎馬兵たちに気を取られているバルモアに、反射的に斬りかかっていた。

 

 刹那、アンコウ自身が自分の行動に驚き、今更愚かなことをするなと自分の理性的な部分が心で叫ぶが、すでに遅い。

 アンコウの抜き打ちに放った剣刃が、バルモアを斬り裂くべく走る。

 

 しかし、間違いなくバルモアも歴戦の強者である。そう簡単には、まともにアンコウの不意打ちの一撃を受けてはくれない。

 バルモアは後ろを振り返ることなく、自分に襲いかかってくるアンコウの攻撃を探知し、それでもなお振り返ることはせず、すばやく前方に跳び退いた。

 

 これは簡単なようでなかなかできることではない。もしバルモアがアンコウの攻撃を察し、後ろを振り返っていたならば、アンコウの不意打ちの一撃をまともに喰らっていたはずだ。

 

 それほどアンコウの攻撃も容赦ない速さで繰り出されており、バルモアが迷うことなく前方に跳んだことで生まれたわずかな時間が、バルモアの命を救った。

 

 しかしさすがのバルモアも、卑怯と言わざるをえないアンコウの強烈な速攻不意打ち攻撃を完全に避けることはできず、アンコウの剣がバルモアの背中の肉を浅く斬り裂く。

 

「ぐかっ!」

 思わずバルモアの口から漏れ出る苦痛の声。

「こ、このっ!」

 背中に痛みを感じたバルモアの目に強い怒りの色が浮かぶ。

 

 バルモアにしてみれば振り向くまでもない。

 自分に攻撃を仕掛け、自分に痛みを与えた者はアンコウ。つい今しがた負けを認め、降伏したはずの男であった。

 

(こ、この愚か者の卑怯者がっ)

 バルモアは背中に痛みを感じつつも、いまだ宙を跳んでいる状態の内に、アンコウに反撃をおこなう体勢を整えようとする。

 

 まず、バルモアは地に足が着くと同時に精霊法術による攻撃をアンコウに放つことを考えるが、あまりにアンコウとの距離が近いことに思い至る。

 バルモアは簡単な法術なら、わずかな精神集中のみで放つことができるのだが、アンコウのスピードを考えればリスクが高い。

 

 それならば剣にするかとバルモアは考える。バルモアは精霊法術師ながら、剣の腕前も相当なものだ。

 アンコウの攻撃を避けるために跳んだわずかな時間の間になされたバルモアの思考であったが、そのわずかな判断の躊躇(ためらい)がアンコウに付け入る隙を与えることになった。

 

 バルモアは結局剣をとることを選択し、剣の柄に手をかけつつ地面に着地し、それと同時に後ろを振り返る。振り返ったバルモアの目に映ったもの。

 バルモアとしては、もうすぐそこまでアンコウが迫って来ていると思っていた。しかし視界に映ったアンコウは、決して遠くはないが、剣がとどく位置にはいない。

 

 ただバルモアのすぐ目前に、アンコウ自身ではなく、アンコウが投げつけた精霊封石弾が迫っていた。

 

「何だとっ!!」

 

 バルモアは踏み出した足を急停止させて、精霊封石弾から離れるために、さらに後ろに飛びさがる。

 

「チィッ!何を考えているアンコウ!?」

 バルモアは飛びさがりながら、怒りと疑問をこめて吐き捨てた。

 

 アンコウがバルモアにむかって投げつけた精封弾。バルモアは飛びさがりながらも、完全に避けることは難しいと覚悟をするが、

 

「アンコウ、貴様っ!!」

 アンコウが今いる場所も、バルモアとそこまで遠く離れてはいないのだ。

 

 バルモアは飛びさがりながら、自分に投げつけられた精封弾を見る。

 

(火だ。爆発系。決して威力の弱いものではない。くっ!)

「自爆でもする気かっアンコウ!」

 

 一方、その精霊封石弾を投げつけたアンコウも、己の顔の前で両手を交差させ、後ろに飛び退く。

 とっさに、いわば頭よりも体のほうが勝手に動いてしまったようなアンコウの行動ではあったが、アンコウも自分が何をしたかはわかっている。

 

(ちくしょう!やっちまった!)

 

 アンコウのその心の叫びとは裏腹に、アンコウは事態に対応して、流れるように動いていた。

 

ドゥオンッ!

 火の精霊封石弾が、バルモアとアンコウのあいだで爆ぜた。

 

 バルモアは精封弾が爆発するわずかな時間のあいだに、微弱ながら爆発による受ける衝撃を軽減するための風の精霊法術を発動させており、自分の体のまわりに渦巻くような風の流れを纏っていた。

 

 しかしそれだけでは、アンコウが投げた精封弾の爆発の衝撃を完全に防ぐことはできず、バルモアは精封弾爆発の衝撃をうけ、地面に叩きつけられ、そのまま地面を転がっていく。

 

「ぐわあぁぁーっ!」

 

 そしてアンコウもバルモアと同様、己が投げた精封弾爆発の衝撃に巻き込まれる。

 アンコウは爆発に対して体を正面に向けたまま、後ろに飛びさがっていた。

 爆発の衝撃がアンコウを襲ったとき、アンコウの足は未だ、飛びあがった状態で宙に浮いていた。

 

 アンコウは、自分も爆発に巻き込まれるということはよくわかっていた。アンコウは、意識的に自分をも飲み込んだ爆風に、その身を任せたのだ。

 結果、アンコウは大きく宙を舞うことになる。

 

「ぐぐぅぅっ!!」

(熱い。痛い)

 

 アンコウを襲ってきた爆風はまさに熱風だ。アンコウの体は熱炎に飲まれたに等しい。

 さらに爆発の衝撃によって飛ばされてきた大小の石や何かが、連続してアンコウの体にぶち当たる。

 

 しかし、それでもアンコウは宙を舞う体制を保ちながら、爆風の中に身を置き続けた。それによってアンコウの体は、大きく川の中ほどまでも吹き飛ばされた。

 

「痛てぇ、」

 宙を舞い、痛みをこらえながらも、アンコウはかすかに笑う。

 それはアンコウの計算どおりでもあったからだ。

 

 アンコウは宙を舞いながら、川の中に落ちる寸前まで空を見上げていた。

 青い空、白い雲、降りそそぐ太陽の光、それはすばらしい晴天の空だった。

 

(ああ、何やってんだ俺)

 

 アンコウはほんの一瞬、記憶にも残らないだろう微小の時、その心に虚しさがよぎる。しかし、当然ながらアンコウに感傷に浸る余裕などはない。

 

 刹那の感傷を認識することもなく、アンコウは自分の肺に入る限界まで大きく息を吸う。そして、

 

 ザブゥンンッ!!

 

 アンコウの体は強い衝撃と共に川に落ち、その身を水に包み込まれた。

 

 川に落ちると同時に、アンコウは水中で猛烈に動き出した。

 魔具鞄の中から紐を取り出し、その紐を魔剣とその魔剣を握る自分の手にグルグルと巻きつける。その作業をしながらもアンコウは、潜水状態で泳ぎ続けていた。

 

 そのアンコウの泳速はきわめて早い。魔剣との共鳴で強化されている肉体をフルに使い、川特有の強烈な水の流れに乗ったアンコウの強烈なドルフィンキックが水中でうねりをあげる。

 

 人間川海豚(にんげんかわいるか)と化したアンコウは、精封弾の爆発でうけた痛みなど意にも介さず、傷から流れ出る血もそのままに弾丸のような勢いで水中を驀進(ばくしん)していく。

 

 こうなってしまったら、バルモアに捕まれば、自分は殺されるに違いないという恐怖がアンコウの心をがっちりと掴んでいた。

 10分、15分、泳ぎ続けたアンコウが、泳速を落とすことなく、息継ぎをするためわずかに水面から顔を出す。

 

 一瞬で肺に空気を満たすと、アンコウは周囲を確認することなく、再び水中に潜る。川海豚アンコウは体力の続く限り、ただひたすら泳ぎ続けた。

 

 アンコウはどれぐらいの時間、どれぐらいの距離を川海豚アンコウとして泳ぎ続けたのだろうか、いつのまにかアンコウの意識は水中で朦朧としはじめており、その思考能力が怪しくなるほどまでに、アンコウはドルフィンキックを続けた。

 

 アンコウが潜行している川の水は濁り水であり、視界は悪い。

 しかし、この川の中で泳ぎ続けているうちに、アンコウの目には水中深くまで差し込む太陽の光が見えはじめていた。

 

 それだけではない。アンコウの目には鮮やかな色をした大小さまざまな魚の群れが見えていた。

 その色とりどりの魚のウロコに、空から差し込む陽の光が反射して水中でキラキラときらめいている。

 

(綺麗だ……!!まるで南国の海のようだ)

 

 アンコウがそう思うと、アンコウの口に入ってくる川の水が海水特有の塩味に変わる。

 そしてアンコウの耳には、水中深くを潜っているにもかかわらず、キャッキャ、キャッキャと騒ぐ若い女の声が聞こえてきた。

 

(ビーチバレーだ!若いビキニのギャルたちが真っ白い砂浜でブルンブルンとビーチバレーをしているに違いない!)

 

 アンコウがそう思うと、そのブルンブルンな光景が見えてくる。

(おおっ!)

 

 川の中を猛スピードで泳ぎ続けているアンコウのテンションがあきらかにおかしくなってきている。しかし、アンコウ自身はそれらの変化に何ら違和感を感じていない。

 

 アンコウは今、太陽の光などまったく届かない濁った水の川の中、魚の姿もまったくない、むろん若い女の声や姿などあるはずもない、川の深く速い流れの中で1人泳ぎ続けている。

 

 アンコウは幻覚を見、幻聴を聞いていた。

 

 これは精封弾の爆発によってうけた傷からの出血。それに共鳴によって強化された肉体をフルに使った潜水泳法により、脳が必要としている酸素の供給不足。

 出血多量と酸素不足の状態が、長時間続いた影響により現れた症状だ。

 

 しかし、おかしなテンション域にまでトリップしてしまったアンコウは、精神だけは上機嫌で、さらに延々と全力で泳ぎつづけた。

 

 そして、アンコウの逃亡の遠泳の終わりは突然やってくる。

 少し前からこれまで以上に早くなっていた川の流れにも、まったく逆らうことなく猛スピードで泳ぎ続けていたアンコウの体が、突然川の中とは違う浮遊感に包み込まれた。

 

ザバァンッ!!!

 

 アンコウは突然川の中から、空中へと飛び出した。アンコウの眼下にあるもの、それは大きな滝と、その滝壷だ。

 

「ウヒョオーー!?」

 

 猛スピードで泳いできたアンコウは、その勢いのままに滝に突っ込み、空中に飛び出した。

 

 この流れ落ちる滝は相当に高い。アンコウの眼下には滝つぼだけでなく、生い茂る森の木々が広がっていた。

 

 しかし、その高さの空中に突然投げ出されたアンコウだったが、恐怖も焦りも感じていない。思考の働きが鈍っているアンコウの脳は、未だ幻覚を見、幻聴を聞いており、とってもよい気分だった。

 

 滝から飛び出したアンコウが宙を舞う。川海豚(かわいるか)アンコウが、今度は大空を飛ぶ鳥になった。

 

「アチョオォォーッ!!」

 

 大空を舞い飛ぶ鳥になったアンコウは、今度はその脳内で、極彩色に色ずく空と虹色の雲の中を、見目麗(みめうるわ)しい天女たちに囲まれて、イチャイチャと優雅に舞い踊っていた。

 

 しかし、現実には、アンコウの体は滝のテッペンから、真っ逆さまに落下中。

 勢いよく大きく滝から飛び出したアンコウの体は、さらに吹きつける強い風にあおられて、空中でさらに大きく移動する。

 

 いつのまにか落下するアンコウの真下にあるのは滝壺の水ではなく、生い茂る森の木々になっていた。

 それでも幻の中にいるアンコウは、何ら恐怖を感じることなく、上機嫌で落ちていく。

 

 そして、ついにアンコウの天女たちとの空中ランデブーは終わりの時を迎えた。

 

バキィッ!!バキ!ボギィ!メキッ!バサバサバサバサバサッ!!

 ギャーッ、ギャーッ、ピィーッ!

バタッバサッバサッバタバサッ!!

 ドザアァンッ!!!

「!!!!!!!」

 

 滝の上から真っ逆さまに地面に落下したアンコウは、騒々しい音を森の中に響かせたあと、悪ガキに地面に叩きつけられたウシガエルのごとく、地に落ちた。

 

「…………………」

 

 しばしの間、ただ滝の水が落ちる轟音のみが響く、ある種の静寂の時が過ぎる。

 

「………!!う、うぎゃあぁぁーっ!!痛ってぇぇ!!」

 

 そしてアンコウは、七転八倒。痛みのあまり、地面の上を転がりまわりはじめた。

「クゥゥゥゥゥゥーーーッ!!!」

 

 しばしのあいだ、ゴロゴロゴロゴロゴロゴロと地面を転がるアンコウ。

 しかし幸いなことに、アンコウはこの落下の衝撃を受けても、そう大きな怪我は負っていない。

 

 アンコウの手には未だ赤鞘の魔剣がしっかりと握られており、身体は共鳴による強化が保持されていた。

 そして、いくつもの森の木の枝に体が引っかかったことによる落下速度の緩和。

 さらに、アンコウが叩きつけられた地面は、滝壺からそう遠くは離れておらず、水を多く含んだ柔らかい土のうえに、やわらかそうな苔が層をなして生い茂っていた。

 それらが、アンコウの落下衝突の衝撃を相当に弱めてくれた。

 

 しばらくそのまま全身の痛みに悶え苦しんでいたアンコウだったが、ようやくのた打ち回るのをやめると、

 ハァハァハァと息遣い荒く、仰向けで地面に転がり、顔には涙、鼻水、ヨダレ、土に葉っぱをへばりつけ、何とも言いようのない表情で天を仰ぐ。

 

 天を仰ぐアンコウの視線の先、かなり高いところに滝の落ち口が見える。あんなのところから落ちてきたのかと、アンコウは気が遠くなる思いがした。

 

「……何がアチョーだよ。くそったれ……」

 

 アンコウが見上げる空に浮かぶ太陽は、もうずいぶん傾いてきている。

 

 一体どれだけの時間、どれだけの距離を泳いできたのか、アンコウはわからなかった。ただ、アンコウを追ってくる者はおらず、人の気配すら感じられない場所にアンコウはいた。

 そして地面に仰向けに寝転がったままで、そのままゆっくりと目を閉じた。

 

 

 一方、サミワの砦の戦闘はすでに終結しており、砦を囲んでいた反乱軍どもは完膚なきまでにグローソン軍に叩き潰されていた。

 

 アンコウがいた川辺には、すでに人の姿はまったくなく、ただいくつもの死体がそこかしこに横たわっているだけであり、バルモアたちの姿は、戦場にもサミワの砦にもすでになかった。

 

 砦では、姿が見えなくなったアンコウを案じ、ヒルサギがアンコウの安否を皆に尋ねてまわるものの、アンコウの行方を知る者は誰一人いなかった。

 

 

 

 

 アンコウはゆっくりと目を開き、周囲を見渡して「チッ」と舌打ちを漏らす。

 

(こんなところで寝ちまってたのか)

 

 アンコウが寝ていたのは短い時間だ。まだ周囲には明るさも残っている。

 アンコウは、ヒールポーションを飲みながら疲労でかなり重くなっている体をゆっくりと起こす。

 アンコウは体の重さだけでなく、心の重さもズシリと感じていた。

 

「……これからどうするよ、俺」

 

 アンコウはつぶやいてみたものの、どうするもこうするもない。

 すでにハウルとの賭けにも負けたにもかかわらず、バルモアに斬りかかったアンコウは、これから延々と逃げ続けるしかない。

 

「………くそっ」

 

 アンコウは滝壺から離れるように、森の中へと足を向け、重い足を無理にあげて走り出す。

 

 バルモアから逃げることができたのに、アンコウの顔色はさえない。

 森を走るアンコウの目には、もうムチピチビキニのギャルも透け透け羽衣の天女も見えなくなっていた。

 アンコウは薄暗い森の中を独り、ただ走る。

 

 

「………あちょー……アチョーッ!!」



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第45話 アルマの森の少女 カルミ

 アンコウがサミワの砦を離れて、3ヶ月が過ぎた。

 アンコウは今、グローソン公領北部にある森の中をひとり歩いていた。グローソン公領内のどこの町にも、アンコウを捕縛せよの通達がとどいていおり、アンコウはひとつ所に落ち着くことができなかった。

 

 右手にグローソン公の臣下の腕輪をしているアンコウは、無論、通常時はその腕輪を布で覆い隠している。

 しかし、町に入ろうとすれば、ほとんどの町で、門前で布で隠している腕を見せるよう命令され、町に入ることすらできず逃げ出すはめになった。

 

 また、ある町では何とか入ることができても、町にあるどのギルドでも腕を見せてみろと言われ、ギルド員登録をすることがかなわず、迷宮を管轄する町に行ってみても、手首の金色腕輪を隠し続けたままでは探索者登録をすることができなかった。

 

 グローソン公領内だけではなく、アンコウは隣接する他公貴族領地に入ったこともある。しかし、領境を越えること自体も難儀だったのだが、他公貴族領に入った後はもっと大変だった。

 グローソンは、周辺のすべての支配領主と大なり小なり揉めており、ロンド公爵家だけからではなく、その周囲に割拠する他勢力から思っていた以上に警戒されていた。

 

 いくら王国内での喧嘩自由のウィンド王国とはいえ、同じウィンド王国の公貴族同士にもかかわらず、周りに揉めていない公貴族が一人もいないというひどい状況だ。

 

 そんな土地で、右手にグローソン公拝領の臣下の腕輪をしていることを知られた日には、生命の危機レベルで、ただでは済まないということをアンコウは思い知らされた。

 アンコウは、周辺公貴族にここまでの警戒心を抱かせるに至った戦争享楽者としか言いようのないハウルのこれまでの行いに、何度となく呪詛(じゅそ)の言葉を吐いた。

 

 一方、グローソン公領内で出されていたアンコウ捕縛の命令は、サミワ逃亡時にバルモアに斬りかかったにも関らず、アンコウが知り得た限り、なぜかアンコウをはっきりと罪人とはしておらず、単に重要人物として強制的に身柄を確保するようにとの命令だった。

 

 それゆえに、一度はグローソン公領を出たアンコウであったが、いきなり問答無用で斬り殺されるという危険すらあるグローソン憎しの他公貴族領内に潜伏するよりはと、再び領境を越えて、グローソン公領内へと舞い戻ってきて現在に至る。

 

 アンコウは、この3ヶ月間で、予想していたこととはいえ、心身ともにヘロヘロのくたくたになっていた。

 

 

 

 アンコウは、緑深い森に囲まれた道を北に向かって歩きながら空を見る。

 

「……雲ひとつない青い空がこんなにムカつくとは知らなかったよ」

 

 アンコウは今、グローソン公領と同じウィンド王国内の有力貴族の領境ではなく、グローソン公領が北部の一部で接する他国との国境を越えることができないだろうかと考え、歩き続けている。

 

 この国の有り様として、たとえばウィンド王国内において、各貴族たちが武力を用い互いに領土や利権を奪い奪われしたところで、王国から咎められることはほとんどない。

 

 しかし、その国内の貴族たちがウィンド王国内から出て、勝手に他国の領土に攻め入るとなると、さすがに話は変わってくる。

 ウィンド王国のような放任支配を続けているエルフの王家であっても、他国の兵が攻め入ってくれば号令一下、国内の貴族を動かし、防衛戦をおこなう。

 

 逆にウィンド王国内の貴族が勝手に国境を越えて兵を進めれば、それがウインド王の命でなくとも、当然ながら国と国同士の戦いに即発展しかねない状況が間違いなく生じる。

 そのような状況を生みかねない勝手な軍事行動は、さすがのウィンド王も許しはしない。

 

 よって、自分の欲望に任せて、王国内の()()相手に好き勝手に(いくさ)をおこなっているグローソン公ハウルでも、ウィンド王の命令なく、王国の外に侵略の兵を進めたことはない。

 

 当たり前の話のようであり、おかしな話のようでもである。

 それゆえにウインド王国の外に出れば、国内よりもグローソンに対する警戒心は緩くなるのではないかとアンコウは考えた。

 

 しかし、残念ながらグローソン公領北部の国境を越えるという選択肢は、アンコウがこの3ヶ月間さまざまなことを試してきた挙句に残っている選択肢だ。

 それが悪手であることに違いなく、それでもその選択肢を試さざるを得ないところまで、アンコウは追い詰められていた。

 

 アンコウが目指しているウィンド王国の北に広がる大地に蛮居する国は人間の支配する国である。そこが唯一グローソン領が直接国境を接している国だ。

 

 このアフェリシェール大陸にあるほとんどの国において、その国を支配する最高支配者層を形成しているのはウインド王国同様エルフ族であり、人間が支配権を確立している国は極めてめずらしい。

 

 ではなぜ北方の一部の地域にだけ、種族的に能力が劣ると考えられる人間族が国を形成することができているのかというと、北に住む人間族が他の地域の人間族と比べて特別優れているというわけではない。

 

 単に極寒の大地が広がる最北部寒冷地帯は、うまみが少ない土地だということが理由だ。

 優等種ではあるが勝手気ままなエルフはもちろん、ドワーフ族等の妖精族が敬遠し、彼らが一族が居住する地として、北方に広がる大地を大昔から現在に至るまで、選択してこなかったというだけの話。

 

 はっきりといえば、そこは人が生きるに厳しい土地なのである。

 

(嫌だ、行きたくない……)

 アンコウにとっても、本音をいえば、あまり行く気が起きない土地であり国だ。

 

 しかし、そんな贅沢の言える身分でないアンコウは、気鬱ながら北に向かって歩き続けて、ここまでやって来た。

 

 また、それとは別に、

(……そもそも北の人間の国に抜ける道があるのかっていう問題もある……)

 これに関しては、行きたい行きたくない以前の問題だった。

 

 北に人間族が統治する国があるのは間違いないのだが、アンコウは詳しい情報を持っていない。今の時点では行けるのか行けないのかさえ、よくわからない。

 

 グローソン公領の北部と北の人間の国の国境というのは、線で表せるような国境でなく、イサラス山脈と呼ばれるかなり大きな山脈地帯で隔てられており、その山脈には濃い魔素も漂っているという魔獣のテリトリーが広がっている。

 

 それゆえ、イサラス山脈以北の地の正確な情報というのは、これまでアンコウが移動してきた地域では、あまり得ることができなかった。

 

 ただ海があるわけではなく、大地がつながっているのは間違いない。

 アンコウがいろんなところで情報を集めた結果、

そりゃあ地続き何だからどっか往来できる道があるだろ? という情報ともいえない推測をもとに、ほかに選択肢がないアンコウは、より詳しい情報を得るためにも近くまで行ってみることにしたのだ。

 

「イサラス山脈は見えてきたけど、希望は見えないな……」

 

 アンコウの心も足も重い。

 アンコウが歩いている一帯の森には、薄いとはいえ魔素が漂っており、遠くに見えるイサラス山脈は、魔窟というべき高濃度魔素地帯だ。

 

「………はぁ、陰気臭い。歌でも歌いながら歩くか……」

 

 

 

 

 薄っすらと魔素が漂う森の中、わずかに開けた場所に、一人の幼い少女が立っていた。

 その童女の名は、カルミ。死んだ彼女の母親がつけてくれた名前だ。

 

 カルミの目の前の地面の上に、大きな石が置かれている。その石の下には、ひと月ほど前に死んだカルミの父方の祖父の骨が埋められていた。

 その祖父の墓石を見つめるカルミの幼い顔には何ら感情の色は浮かんでいない。ただ、じっとその墓石を見つめている。

 

 カルミは、彼女のたった一人残った家族だった祖父が、ひと月ほど前に死んでから、暇さえあればこの場所に来て、ただ祖父の墓石を見つめながら時を過ごしていた。

 

 死んだカルミの祖父はドワーフだった。カルミが生まれてすぐに死んだ父親もドワーフだった。カルミが4歳の時に死んだ母親は人間だった。

 6歳の童女カルミは、人間とドワーフのハーフだ。

 

 さもありなん、抗魔の力を持たない者は、たとえ薄くとも魔素が漂う地で呼吸をすれば、魔素という毒に身体を侵されいずれ死に至る。

 普通の人間の6歳の少女なら、たとえ薄いとはいえ、このような魔素が漂う森の中にいられるわけがない。

 

 カルミは人間の母が死んだ4歳の時から2年間、父方の祖父に引き取られ、祖父とふたりでこのアルマの森で生活をしてきた。

 そして、その祖父が死んでからのこの約一ヶ月ほどは、独りこの森で生きてきた。

 

 妖精種であるドワーフは、強弱はあっても皆生まれつき抗魔の力を持っている。

 そして驚くべきことに、半分人間の血を引いているにもかかわらず、カルミが持って生まれた抗魔の力は、一般的な純血のドワーフのそれをはるかに凌ぐものだった。

 

 カルミが今日この祖父の墓のある場所に来てから、もうすでに3時間以上が過ぎている。

 そして、じっと祖父の墓石を見つめるカルミの背後には、ぱっと見ただけで10体は軽く越えるであろうグシャグシャになった醜悪な容貌を持つ全身緑色の小鬼ゴブリンの死体が転がっていた。

 

 6歳の子供らしい小さな体のカルミが、襲いかかって来たゴブリンどもを死んだ祖父がつくってくれた愛用のメイスを振るい、返り血ひとつあびることなくひとりで叩き潰したのだ。

 

 カルミの目はじっと祖父の墓石を見つめている。

 カルミが祖父の墓の前に立ち尽くしたまま、さらにいくらかの時間が過ぎたとき、カルミが不意に視線を祖父の墓石から逸らした。

 

 カルミの鋭敏な感覚が、遠くから近づいてくる者の気配を捉えた。

 

(なにかな?…魔獣…じゃない。人?誰か近づいてきてる?)

 カルミが、かわいらしく少し首を傾ける。

 

 薄いとはいえ、ここは魔素が漂う森の中であり、どの種族の集落も近くにはなく、めったにこのアルマの森にやってくる者はいない。

 少なくとも祖父が死んでからは、カルミは誰とも会っていなかった。

 

 カルミはさらに神経を集中し、何か近づいてくる気配がする方向に意識を傾ける。

 しかし、しばらくすると、カルミは気配を察知することに力を注ぐ必要がなくなった。

 

 なぜなら、

「♪ヨーデル ヨーデル ヨーレホッホッホー♪」

 と、遠くで何者かが大声で歌っている わけのわからない いい加減な歌声が、カルミがいるところにまで響いてきたからだ。

 

(………うた歌ってる?)

 

 湧きあがる警戒心と好奇心に動かされて、カルミは、声が聞こえてくる方向に移動し始めた。

 そしてカルミは、歌の主が歩いてくる道が見える場所まで来ると、見つからない様に身を潜めた。

 

 しばらくすると、

♪ヨーデル ヨーデル ヨーレホッホッホー♪  

 と、歌いながら歩く者の姿が、カルミの視界の中に入ってきた。

 

「人間の大人の男の人だ」

 

 カルミに目に映ったのは人間の大人の男。この森の中を歌いながら歩いてくるのだから、間違いなくこの男は、抗魔の力を持っている。

 

 その人間の男は、カルミの亡くなった祖父がつくった武器や道具を定期的に買いに来ていた商人ではないし、カルミがこれまでに この森で見たことがない人間の男だった。

 その男は腰に剣を差し、旅装束に身を包んでいる。

 

(旅の人。冒険者かも)

 

 カルミは身を潜めながら、さらに男が歩いてくる道の近くへと移動した。

 

 ♪ヨーデル ヨーデル ヨーレホッホッホー♪

 と、歌う男がカルミの目の前を通り過ぎていく。

 

 カルミは、その男の姿をじっと見つめている。

 その目は、ついさっきまで、死んだ祖父の墓石をじっと見つめていたカルミの目つきとは、まったく違う目だった。

 

 カルミの戦闘能力の高さは、普通の6歳児とはあきらかに違う。

 しかし、戦闘能力が高いからといって、その心までも子供ではないというわけではない。カルミはどうしようもなく寂しかったのだ。

 

 カルミはよく覚えている。2年前、祖父に連れられてこの森にやってくる前、4歳まで、母と過ごした母の故郷である人間の村での出来事。

 村の人たちがカルミを見る目はひどく冷たかったということを。

 

 ふつうの人間なら、憶えていないぐらい幼い日のことをカルミはよく覚えている。

 だから、祖父とたった2人のこの森での生活も、カルミには苦ではなく、寂しくもなかった。

 

 しかし、2人と(ひと)りとでは、まったく違うということを、このひと月で、6歳の童女カルミは身にしみて味わっていた。

 

 カルミはどうしようもなく寂しかった。

 6歳の女の子が、こんな森でたった一人生きていくのは、人といることの暖かさも知っているカルミには耐えられなかったのだ。

 

 だからカルミは、気がついたときには人間に抱く不信感も忘れ、その見ず知らずの人間の男の後ろをついて歩きはじめていた。

 6歳の童女に、人間の大人の男の善し悪しなど、一見して判別できるわけもない。ただ独りでいることの寂しさと不安が、カルミの足を動かしていた。

 

 目の前に自分以外の人がいる。聞いたこともない面白そうな歌を歌っている。だからカルミは、見ず知らずの男の後ろをついて歩きはじめた。

 

 そして、カルミの視線の先には、歌うアンコウが歩いていた。

 



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第46話 カルミ VS 一つ目の大猿

 アンコウは人と接するのを避けるため、わざと問題ない程度の薄い魔素が漂う地域を選び移動していた。

 時々、魔獣が飛び出してくるような鬱蒼(うっそう)とした木々に囲まれた森の道を追っ手の目を避けるために歩きつづけていれば、気持ちが暗く重くならないわけがない。

 

 人目を避けるためにこんなところを歩いているにもかかわらず、アンコウは先ほどから大声で歌いながら森の道を歩いている。アンコウは気が滅入り過ぎてどうしようもなく、やけくそ気味に歌い続けていた。

 そうしていれば、わずかながらだが気持ちが軽くなる気がした。

 

 しかし、やけっぱっちに歌いながらも、アンコウは、イサラス山脈の峰々も徐々に大きく見えてきた今、あの山脈を越えるための情報を集める必要があると考えていた。

 

(とりあえず、一時的にでも魔素の森を出て、人の集落を探す必要があるな)

 

 さてどうするかと、アンコウは歌うのをやめ、再びあれこれ考えながら歩く。

 しかし、如何(いかん)せんアンコウも初めて来る土地である。

 情報が少なすぎる現状、選択肢が増えるわけでもなく、とりあえずはこのまま歩き続けるしかない。

 

 アンコウは苛立たしげに息を吐き出し、軽く眉をしかめる。

 

「くそっ。やっぱり無駄に考えたところで、ここまできたら歩くだけだ」

 

 そう吐き捨てるとアンコウは、今度は大きく息を吸い、再び大きな声で歌いはじめた。

 

♪ヨーデル ヨーデル ヨーレホッホッホー! ♪

 

 しかし、しばらくするとその歌いながら歩き続けるアンコウの歩みと歌声が、突然にピタリと止まる。

 なぜなら、歌う自分の声に別の者の歌声が重なったからだ。

 

「「♪ヨーデル ヨーデル ヨーレホッホッホー!! ♪」」

「!!なっ!!」

 

 その陽気で楽しげな歌に反して、物憂げで、やけっぱっちの表情だったアンコウの顔が、一瞬で冒険者の顔に変わる。

 

 ここに来るまでにアンコウは何度も低度の魔獣に襲われている。魔素の漂う森を歩いているのだから当然のことだ。

 だからアンコウは、馬鹿みたいに歌いながらも周囲への警戒は決して解いてはいなかった。

 

 それにアンコウは、気配を察知することに関しては、そこそこの自信がある。だからこそ、やけくそとはいえ馬鹿でかい声で歌っていられた。

 にもかかわらず、自分に近づいてくる者の気配をまったく感じることができなかった。突然、自分以外の者の歌声が、耳に響いたのだ。

 

 アンコウは、驚きにとらわれながらも、体はすばやく反応する。

 

 声はアンコウの背後から聞こえた。アンコウは前方に大きく飛び、腰の剣の柄を握り、声がしたほうを振り返る。振り返ったアンコウの目は鋭い。

 

「誰だっ!」

 アンコウは振り返ると同時に誰何(すいか)する。

 

 そして、アンコウの視界に映ったもの。アンコウは、別の驚きで目を大きく見開くことになる。

 

「なにっ!?」

 アンコウの目に小さな女の子が1人、映っていた。

(何だ!?あのアフロのガキは!?)

 

 アンコウの目に映っているのは、身長が120,30cmぐらいの人型の子供だった。しかしアンコウは最大限の警戒心を持って、その子供らしきものに対峙する。

 

 アンコウにしてみれば、突然現れたその子供はあまりに怪しすぎた。

 アンコウの常識で言っても、魔素が漂う森の中で、普通の子供がひとりでいるわけがない。たとえ、抗魔の力があっても、子をひとりで魔素の森でうろつかせる親はいないだろう。

 

 それに、自分がこの距離に近づかれるまで、その接近にまったく気がつかなかったこと自体が異常で、人型をした何らかの魔獣の類かもしれないと、とっさに考えていた。

 

(いずれにしても普通じゃない)

 

 アンコウの背中にわずかに汗が伝う。

 アンコウは、その子供らしきものをにらみつけ、腰を落とし、剣をいつでも抜けるように強く握って、戦闘体勢をとる。

 

 

 カルミは、表情にはまったく見せることはしなかったが、内心かなり焦っていた。

 寂しさのあまり警戒心も忘れ、考えなしに知らない人間の男の後ろをついて行ってしまった。

 

 そして、その人間が歌っている歌があまりに楽しそうで、思わず自分も歌ってしまった。

 そうすると、当然ながらその人間の男は、カルミが男の後ろについて行っていることに気づいてしまう。カルミは子供なのだ。

 

(……怒ってる?……怖い)

 

 自分の存在に気づいたその人間の男は、足を止め、歌うのも止め、こちらをにらみつけている。

 カルミも男をじっと見つめているが、どうしたらよいのかわからない。

 

 そしてカルミは、人間の男が剣の柄を今にも抜かんと握り、自分に向かって構えているのを見て、慌てて自分もメイスを握り、男の顔をにらむように見た。

 魔獣に襲われたときと同じように、カルミも戦闘体勢をとった。

 

 戦闘体勢をとったカルミを見るアンコウの顔が、先ほどとは違う驚愕の色に染まる。

 

(なんだっ!!!)

 

 目の前にいるアフロの子供のようなものが、アンコウに相対して武器に手を伸ばし身構えた。その瞬間、目の前にいるアフロのガキの雰囲気が一変した。

 

 その子供から発せられる覇気のようなものが、まっすぐにアンコウにぶつかってくる。

 その覇気の質から魔の者ではないようだとアンコウは感じたが、如何(いかん)せん、その子供のような者から発せられている覇気の強さが半端ではない。

 

(やばい!やっぱりコイツやばいもんだっ!)

 

 アンコウの顔や背中に流れる汗の量が急増した。

 

 一合も剣を打ち合わないうちに、たとえ魔剣との共鳴をなしても、この者とまともに戦えば、自分のほうが分が悪いことをアンコウは認めざるをえなかった。

 

「……何だ、お前」

 アンコウは汗をアゴからしたたらせながら問うが、カルミは答えない。

 

 そして、アンコウは気づく。この子供のような者が身につけている装備は実に実戦的な物で、おそらくコイツは戦いに慣れている。

 それにこのアフロの子供が握るメイスの柄のようなもの。見えているのは柄の部分だけで、それ以外の部分は剣でいう鞘のような役割をしているものにしまわれている。

 

(魔具の鞘か!?)

 それはいうなれば、折り畳みができる袋状のものにメイスを突っ込み、柄の部分だけ外に出して腰にぶら下げているのだ。

 それもまた、普通の子供が持てるようなものではない。

 

 それは、ドワーフの魔工匠であったカルミの死んだ祖父が、カルミにつくってくれたものだったのだが、当然そんなことはアンコウが知る(よし)もない。

 

 アンコウは目の前にいる子供に対して、どんどん警戒の度合いを高めていくが、剣を抜けば、自分がやられるかもしれないという恐怖から、身動きがとれなくなっていた。

 

 アンコウとカルミは、どちらからも動き出すことなく、互いに戦闘体勢を崩さないまま、しばらくのあいだにらみ合いが続いた。

 アンコウは強い緊張を()いられながら、一瞬の隙も見せまいと踏ん張っていたが、ある程度の時間が過ぎてもカルミは動かない。

 

 そして、しばらく相手をにらみつけているうちにアンコウは、ふと気づく。

 

(………何だ?)

 

 目の前の子供は、強い警戒心を見せながらも、自分から襲いかかって来る素振りはない。

 そして、何となくではあるが、カルミの感情の動きの読み取りづらいわずかな表情の変化の中に、躊躇(ためら)いのようなものを感じとった。

 

 アンコウは何ともいえない違和感を感じはじめる。

(……コイツの覇気の強さは、間違いなくヤバイ。でも……)

 

 そういえばこのアフロのガキは、最初はただ歌っていただけだったし、自分に対して攻撃姿勢をとったのも、自分が身構えたのを見た後だったと、アンコウは思い至る。

 

「……とりあえず、魔の物ではないよな……」

 

 いつまでも、こんなにらみ合いを続けることはできないと思ったアンコウは、警戒心は解くことなく、ゆっくりと剣の柄から手を離す。

 そしてアンコウは、柄から手を離した右手をダラリと下にさげた。アンコウの額から汗が伝う。

 

 するとカルミは、わずかに首を傾げた後、アンコウの動きをなぞるようにメイスから手を離した。

 

 カルミがメイスから手を離したのを確認したアンコウは、自分の体からも発せられている覇気を意識的に抑え込んでいく。

 

 アンコウの体から相手を威圧するように出ていた波動は、カルミのものと違ってあきらかな殺気が混じっていた。

 それを消して見せたのは、あくまで表面上のパフォーマンスに過ぎないが、アンコウはそうすることによって自分には戦う意思がないことを見せ、相手の反応を(うかが)ったのだ。

 

 一方カルミは、そんなに深く考えて行動しているわけではない。

 アンコウが歌っていたからつられて歌い、アンコウが剣を抜こうとしたから自分もメイスを握り、アンコウが剣から手を離したから自分も離した。

 

 アンコウがゆっくりとカルミの様子を見ながら、戦闘体勢を解いていったのに対し、カルミはアンコウが覇気を抑えるとあっさり自分も溢れる波動を内側に隠して見せた。

 

(……怒るの、やめた?)

 

(……このガキ、戦う気はないのか……)

 

 それでもアンコウはなかなか警戒を解くことはしない。

 カルミの素性を知らないアンコウにとって、目の前の子供が怪しすぎる存在であることに変わりはない。

 

 アンコウは剣から手を離し、外に発する覇気を抑え、ゆっくりと体を起こし、じっとカルミを見つめる。

 カルミも少し離れたところで、アンコウと同じように直立して立ち、じっとアンコウを見つめている。

 その状態がまたしばらく続く。

 

 そんな2人が立つ道の周りは、鬱蒼(うっそう)と茂った森の木々に囲まれている。森の木々が風に揺られて、サワサワザワザワと微かに奏でる音がアンコウの耳に流れ込んでくる。

 

(!?……何か来る)

 

 アンコウは森の中から、何か、いや複数の魔獣が自分たちのほうに向かって近づいてくる気配を察知した。

 しかし、アンコウは直立したまま動かず、表情も変えずにカルミのほうを見ている。カルミも同じく……。

 

「……チッ、こんな時に」

 アンコウが視線を上にむけてつぶやく。

「来たな」

 

バサッ!!

「グギアャー!!」

 生い茂る緑の木々の上部から、1匹の魔獣が飛び出してきた。

 

 人と変わらぬほどの背丈があり、全身茶色の毛で覆われている一つ目の大猿(サイラアイモンキー)

 1匹だけでは終わらない。木々を飛び移り、次々と猿の魔獣が飛び出してきた。

 

一つ目の大猿(サイラアイモンキー)か!」

 

 アンコウは剣を抜き放つが、その場から動かない。

 なぜなら次々に飛び出してくる一つ目の大猿は、アンコウのほうではなく、カルミのほうに飛びかかっていたからだ。

 

 アンコウもカルミも覇気は抑えている。ならば弱そうに見えるほうから狩るのが獣の習性だ。

 今にも大猿どもの獰猛な爪と牙が、カルミにとどこうとしている。

 

 アンコウは、どうやらカルミは自分に襲いかかってくる気はなさそうだが、かといってアンコウにカルミを助ける義理はない。

 逆に、カルミに襲いかかる一つ目の大猿(サイラアイモンキー)を見て、共にくたばってくれないものかと思った。

 

ドンッ!ドォンッ!

「「フギイィィー!!」」

 

 破裂音にも似た大きい音が2度したかと思ったら、2匹の一つ目大猿の頭が吹き飛んでいた。

 

「なっ!」

 その瞬間を見たアンコウの目が大きく見開く。

 

 カルミが振るったメイスが、2匹の大猿の頭をほぼ同時に吹き飛ばしていた。

 それを見た今にもカルミに襲いかかろうとしていた他の大猿たちが動きを止めた。

 

 その後も次々に森の中から飛び出してくる大猿たちだったが、今度はいきなり襲いかかることはせずに、警戒しつつ素早くカルミの周りを取り囲んでいく。

 

 大猿たちは、カルミの周りを取り囲みはしたが、カルミに再度攻撃を仕掛けるのは躊躇(ためら)っている。

 

 一方カルミは変わらず落ち着いたものだ。

 いまのアンコウにとっても、この大猿一匹の魔獣としての強さは、恐れるほどのものではない。

 それでも、まわりを自分よりも大きい何匹もの一つ目の大猿(サイラアイモンキー)に取り囲まれて、まったく動じる様子を見せない子供は普通ではない。

 

 そして、サルたちが躊躇(ためら)っているうちに、今度はカルミのほうが攻撃を仕掛けた。

 

ドンッ!ドォンッ!ドンッ!

 ギャー!、ギャー!、ギャー!と、大猿たちは大声をあげ、カルミのメイスに叩き潰されていく。

 

「な、何てガキだ」

 

 その光景を見ているアンコウの声が、驚愕で震える。

 その驚くアンコウの隙をつくように一匹の大猿がアンコウに襲いかかって来た。

 

「ちっ!」

 アンコウもうろたえることなく、襲いかかって来た大猿に剣を振るう。

 ザシュッ!

「ウキイィィーッ!」

 一つ目の大猿のアンコウのむかって伸ばした手が宙を舞う。

 

 アンコウは引き続き、2撃3撃と大猿を斬りつけ、アンコウに襲いかかって来た大猿は血溜まりに沈む。

 

 アンコウは、自分ひとりで戦っても、この一つ目の大猿(サイラアイモンキー)相手に命を落とすとは思わない。その程度の強さの魔獣だ。

 しかしそれでも、目の前で繰りひろげられるカルミの戦いぶりを見れば、自分がこのガキから感じていた脅威は、決して間違いではなかったと確信を持った。

 

 目の前で、まるで動かぬ卵を潰していくように、次々と一つ目の大猿(サイラアイモンキー)を屠っていくアフロのガキの強さの底は、あきらかに自分より深いとアンコウは認めざるをえなかった。

 

「ほんとに何なんだあのガキ……」

 

 アンコウは、カルミが一つ目の大猿(サイラアイモンキー)の相手をしている隙に逃げようかと、一瞬考えるがやめた。

 この大猿どもをこのガキが皆殺しにするまで、そう多くの時間が必要だとは思えなかったし、このガキが自分を追いかけてくれば間違いなく追いつかれる。

 

(どういうつもりで俺の後ろをつけてきたのかは知らないが、攻撃を仕掛けてはこなかったしな……話は通じるのか……)

 アンコウは頭の中で、損と得との打算のそろばんをはじき続ける。

(あのアフロのガキは、おそらくこのあたりの地理にも詳しい)

 

 アンコウは、カルミの中身がただの子供だということをまだ知らず、カルミに対する無駄な警戒と計算を続けている。

 

 難しい話ではあろうが、カルミを相手にするのなら、

 最初に “こんにちは、お嬢ちゃん。お歌が上手だね” が正解だったのだ。

 しかしこの状況でそのような対応をすることは、アンコウでなくとも無理な話というものだ。

 



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第47話 大きい お猿さんは好きですか?

 カルミはまるで(はえ)を追い払うかのように、その背丈にそぐわない大きさのメイスを軽々と振るい、一つ目の大猿(サイラアイモンキー)どもを動かぬ肉塊へと変えていく。

 

 人間の男であるアンコウに(にら)まれて、殺気をぶつけられたとき、表面的にはわからずとも、カルミは内心怯えていた。

 しかし、一つ目の大猿(サイラアイモンキー)に対しては、表も内も平静そのものであり、怯えなど微塵も感じていない。

 

 カルミにとってはいつものこと、毛むくじゃらの肉塊がむこうから転がってきた程度に過ぎない。

 

ドバァンッ!

 いちいち数えていないが、カルミが何匹目かの大猿の頭を砕いた時、

 

バササッ!!

「「ウギィィーッ!」」

 と、また数匹の大猿が森の木のうえから飛び出してきた。

「また、増えた」

 カルミが、かわいらしくつぶやく。

 

 カルミは上から降ってくる大猿をチラリと確認して、まず目の前にいる別の大猿の頭をすばやくカチ割る。

 

ドンッ! 断末魔を発することなく、またカルミを囲む大猿が1匹減った。

 

「「ウキィーッ!」」

 と、カルミの頭の上から聞こえてくる大猿の声が、間近に迫る。

 

 カルミは無言のまま、流れるような自然な動きで、そのサル声のほうに体を向けた。

 

「あっ!」

 次の獲物を見上げたカルミが、わずかに驚きの声を発した。

 

ザシュッ!!バザァンッ!! 

「「ギャアギイィィー!」」

 

 空中で派手に血を噴き出した2匹の一つ目の大猿(サイラアイモンキー)が、カルミに襲いかかることなく、悲鳴をあげながら、ドサン、ドサンと、そのまま地に落ちてきた。

 

 そして、その2匹の大猿とは別の2本の足が、音もなく地に()り立った。

 カルミの目が、その降りてきた2本の足の持ち主である男の顔を捉える。アンコウの顔だ。

 

 地面に降り立ったアンコウの手に持つ剣からは、足元に転がる2匹の大猿の血が伝い落ちていた。

 

 カルミが、そのアンコウを見て驚く。

(すごく強くなってる)

 

 アンコウは、カルミとにらみ合っていたときとは違い、すでに共鳴を発動している。

 カルミは自分が予測していたよりも、アンコウの力が強いことに驚いた。

 しかしカルミは、アンコウの力が増していること以上に、アンコウが自分に襲いかかろうとしていた大猿を斬り殺してくれたことに驚いていた。

 

「……助けてくれた?」

 カルミが、アンコウを見ながらつぶやく。

 

 その驚きは、カルミの心の中で、見ず知らずの人間の男であるアンコウに対する怯えを少し小さくさせていく。

 

 アンコウは、損と得との打算のそろばんをはじいた結果、いまさらながら、カルミに自分は敵じゃありませんよ アピールをすることにした。

 アンコウは、少し不思議そうな表情を見せるカルミをちらりと見て、わざとらしくニコリと笑う。

 

 もうすでにカルミを取り囲んでいる大猿の数も少ない。

 現在のカルミの状況は、別にピンチでもなんでもなく、それはアンコウもカルミ自身もわかっていることだ。

 しかしアンコウはわざわざ戦いに割って入り、カルミに襲いかかろうとしていた大猿を斬ってみせた。

 

 そう、文字どおりカルミに襲いかかる大猿を『自分が斬り殺すところ』を、カルミに『見せた』のだ。

 そしてアンコウは、

「大丈夫か!助けに来たぞ!」

 と、わざとらしく大きな声で、カルミにむかって(のたま)わった。

 

 アンコウとしては、いま自分がとったわざとらしい行動だけでは、この得体の知れない子供のような者に対して、さほどの好感度上昇効果があるとは思っていない。

 また、このチビアフロが自分に対して邪の者なら、元より意味はないと思っている。

 

 これはカルミの反応をうかがうための、とりあえずの様子見の意味も含む行動であり、アンコウはカルミの反応しだいでは、即逃げる心積もりもしていた。

 

 しかし、そのアンコウの言葉を聞いたカルミの目は大きく見開き、アンコウを見るその瞳には、あきらかに喜びの色が浮かんでいた。

 

 アンコウの変身ぶりは、実にわざとらしくしらじらしいものであったし、アンコウの助けなどなくともカルミは一つ目の大猿(サイラアイモンキー)など歯牙にもかけないほど強い。

 しかしカルミの心は、絶賛(ぜっさん)孤独に(さいな)まれ中の6歳の子どもなのだ。

 

 先ほどよりも、はるかに至近距離でカルミを見ているアンコウは、そのカルミの瞳に浮かんだものを見逃さない。

 

(……何だ?喜んでるのかコイツ、……普通の子供みたいな反応しやがって……)

 

 アンコウは、口元に笑みを残しつつも、(いぶか)しげにカルミを見る。アンコウは、ようやくひとつの事実に近づきつつあった。

 アンコウが、そのカルミの反応にわずかに戸惑っていると、

 

「カルミ!!」

 

 カルミが突然アンコウに対して、大きな声で自分の名を名乗った。

 しかし、あまりに脈絡のない突然の名乗りに、アンコウにはその発言の意味がわからない。

 

「えっ!?」

(カルビ?お肉?)

 

 アンコウは一瞬何言ってんだコイツという顔をするが、カルミは名乗りを挙げた次の瞬間、再び動き出していた。

 再びメイスを振るいはじめたカルミは、まわりに残っている大猿どもを先ほどまで以上の勢いで、縦横無尽に叩き潰していく。

 

ドガッ!ドォンッ!ドガッ!………

 

「……………」

 その光景を間近で見ているアンコウの顔が、ぴくぴくと引き()る。

 

 アンコウがこれ以上戦いに加わる必要もなく、襲いかかってきた残りの一つ目の大猿(サイラアイモンキー)どもも、わずかな時間で1匹残らず動かぬ肉塊となった。

 

 地に転がるその大猿どもの肉塊に囲まれて、カルミは表情も変えずに立っている。

 戦い終えたカルミは、手に大猿どもの血が滴るメイスを握ったままで、アンコウのほうを見ていた。

 

 用心深いアンコウは、自分からこれ以上カルミに近づこうはしない。

 しかし、相変わらず頬のあたりが引き攣ってはいるものの、何とか口元に笑みを浮かべて、カルミを見つめている。

 

 アンコウは呼吸を整えながら考えていた。

(大丈夫だ。言葉は通じる。魔物でもない)

 それにさっきは普通の子供のような反応だったと、アンコウは意を決してカルミに話しかけた。

 

「……よう、怪我はないか?」

 

 アンコウは話かけるが、すぐにはカルミの表情に変化はなく、黙ったままアンコウを見ている。

 

「…えっと、大丈夫か?」

 

 アンコウが重ねて尋ねると、アンコウを見るカルミの目が、また大きく見開いてくる。アンコウが自分のことを心配をしてくれているのがうれしいのだ。

 一方、そんなカルミの微妙な変化を観察しているアンコウの額から、汗が伝い落ちる。

 

(……喜んでるん、だよな……何とか言えよこのガキ)

「お、おい、」

 

「カルミ!」

「ま、またか?カルビが何なんだよ」

「カルミっ!!6歳っ!」

「あ……名前か。そ、そうか、カルミか、いい名前だな」

 

 いい名前と言われて、カルミが少し嬉しそうに頷く。そんなカルミを見てアンコウは思う。

 

(コイツ……()()なのか)

 

 カルミの足元に転がる大猿どもを見て、カルミをただの子供とはどうしても思えないアンコウであったが、どうもカルミの持つ雰囲気はメイスを振るっているときとは違う。

 

「……俺はアンコウだ。旅の途中でここにいる」

「アンコウ!」

 

 アンコウは少し首をかしげながらカルミを見る。

(………少し話をしてみるか)

 

 アンコウは警戒を解く気はないものの、少なくともカルミが自分に危害を加える意思はないようだと理解した。

 

 アンコウは、とりあえずカルミは恐ろしく強いが、中身は本当に子供らしいという前提で接することにした。

 これが人の子なら、近くに親か家族がいるはずだと思ったのだ。

 

(普通なら考えにくいが、これだけの強さだ。こいつなら一人でこの魔素の森をうろつかせても何も問題はない。親や家族もそう思うだろう)

 

 アンコウは、この目の前にいるアフロのガキの伝手(つて)で、イサラス山脈を越えるための情報を入手することができるかもしれないと考えた。

 

(子供がこんなところをうろついているんだ。カルミと一緒にいるやつらは、このあたりの情報には詳しいだろう)と。

 

 ただ、危険がありそうならすぐに逃げなければならないと、アンコウは頭の中で考えをまとめる。

 そしてアンコウは、カルミに話しかけた。

 

「えっと、カルミ。お前が住んでる村はこの近くにあるのか?」

「村じゃない。家」

「ん?」

 

 アンコウはどう違うんだと一瞬思うが、アンコウが首を傾げている間に、カルミが1歩、2歩、3歩と、アンコウのほうにむかって近づいてきた。

 カルミの手には、まだ一つ目の大猿(サイラアイモンキー)どもを叩き潰した血が滴り落ちるメイスが握られている。

 

「うぐっ、」

 アンコウは思わずたじろぐが、

(ここでビビッたところを見せたらだめだ)と、何とか後ずさりすることなくその場に踏みとどまる。

 

「家、あっち!」

 カルミは手に持っているメイスで、アンコウのななめ後ろの森のほうを指し示した。

 

 その森は薄いとはいえ魔素の漂う森だ。カルミが死んだ祖父と住んでいた家は、その森の中にあった。

 

 アンコウも、カルミはこの魔素の漂う森に住んでいるのかと理解したが、その驚きとは別の理由で、今、アンコウの手は微かに震えている。

 そのアンコウを見るカルミの口から声が漏れた。

 

「あっ……」

 

 カルミの視線の先で、体をプルプルさせながら立つアンコウ。

 カルミが血まみれのメイスで、勢いよく家がある方向を指し示したために、メイスにたっぷり付いていた大猿の血が派手に飛び散っていた。

 そして、その飛び散った大猿の血がアンコウの顔や体にべったりとついていた。

 

(……こ、こいつ!そりゃこうなるだろうがっ!)

 大猿の臭い血を浴びたアンコウは何とか怒りを抑え、血まみれになった顔を引きつらせながらも笑みを浮かべている。

 

 そのアンコウの状態を見たカルミは、

「ご、ごめんなさい」

 と、申し訳なさそうに謝った。

 

(……へぇ)

 

 アンコウの頭から怒りがスッと引いていく。別にカルミの謝罪を受け入れたからというわけでもない。

 

(素直に謝るのか……)

 

 さっきといい今といい、戦っているときはとんでもないが、カルミの態度はそれ以外のときは完全に普通の子供と変わらないとアンコウはあらためて思う。

 アンコウは、少なくともカルミから邪悪さは感じていない。

 

(……これなら大丈夫か)

 アンコウは、少しカルミに対する警戒心を解いていく。

 アンコウは怒りを消し、やさしくカルミに話しかける。

「……気にするな」

 

 アンコウは顔についた血をぬぐい、手に持つ剣をごく自然な動作で鞘におさめた。

 それを見て、カルミもメイスを不思議な鞘袋におさめた。

 

「……カルミ、家に帰るのか?」

 

 アンコウはカルミに尋ね、カルミは(うなず)く。

 

「もうすぐご飯の時間」

「そうか……。なぁ、カルミ、俺も一緒に行ってもいいか?」

 

 カルミは家を訪ねてきた商人たちに、いつも祖父が食事を用意していたのを思い出した。

 

「アンコウも一緒にご飯食べる?」

「ん?いいのか?」

「うん!」

 

 カルミは、少しうれしそうにまた(うなず)いた。カルミは祖父が死んでから このひと月ほどは、ずっと一人で食事をしていた。

 

 カルミはアンコウに肯定の返事をすると同時に、どこか機嫌良さげに動き出す。

 カルミは、地面に転がっている1匹の一つ目の大猿(サイラアイモンキー)の両足を持ち、軽々と引きずりながら歩きはじめた。

 

(何やってんだ……)

 アンコウは(いぶか)しげな目でカルミを見ている。

 

 カルミは、そのまま大猿をズルズルと引きずりながらアンコウの横をすり抜け、先ほどメイスで指し示した森のほうへと歩いていく。

 

「アンコウ、こっち!」

「え、あ、ああ」

 

 見れば見るほど、なんともシュールな絵だ。

 前を向いて歩く6歳の童女の後ろに、その童女に足を持たれたその童女よりも大きい猿が、仰向けにズルズルと地面を引きずられている。

 

 軽々と童女に引っ張られている大猿の両足の間には、形状自体は人の男と変わらないものの、実に大きなモノがダラリと垂れさがっている。

 この引きずられている魔獣の大猿は、動物でいうところのオスの仕様となっている。

 

(…グロいな)

  アンコウは、自分のモノよりもはるかに大きいムケムケ黒光沢(くろこうたく)のそれを見て思う。

 

 両手を上に顔は空にむけたまま、軽々と童女に引きずられていく一つ目の大猿(サイラアイモンキー)の口は大きく開き、目は白目を剥いている。

 その大猿の顔には、あきらかな死相が浮かんでいる。だって死んでいるのだもの。

 

 アンコウは何ともいえない目で、その様子を眺めている。

「……………」

 

 大猿の背丈は、おそらくアンコウとそう大きくは変わらない。

 目がひとつしかなく、顔と分厚い筋肉があらわになっている胴体の胸と腹の辺りを除いて、全身が茶色い毛で覆われているが、体のフォルム自体も人間のごっついオッサンと変わらない。

 

 見方によれば、小さい女の子が毛深い全裸のオッサンを引きずっているようにも見える。実際、この世界の獣人と呼ばれる者の中には、全身が毛で覆われている者もいる。

 

 それを見ながら、アンコウの嫌な予感のメーターが振り切れそうになっていた。

 

「……おい、カルミ。それどうするんだ……」

「ごはん!」

「!!!」

 

 やっぱり!いやいやいやいや、待ってくれ! と、アンコウは心の中で叫んだ。

 

 6歳童女が、ワイルドにも程があるだろう。いや、アンコウも一つ目の大猿(サイラアイモンキー)という魔獣が、食べようと思えば、食べられる魔獣であることは知っている。

 

 しかし、(こんなもん食べたくない!)見た目があまりに人間に近すぎるのだ。

 

 アンコウが元いた世界でも猿を食す文化のある地域はあったし、アンコウ自身もこの世界に来てから、飢えに苦しんだ末に相当グロいものも口にしてきた。

 しかし、今のアンコウは特別飢えてるわけじゃない。

 

 食うや飲まずで働かされる奴隷ではなく、迷宮で迷い、食料が尽きた状態でもない以上、アンコウはわざわざこんな毛深いオッサンをさばきたくないし、心の底から食べたくない。

 

 アンコウはこの世界においても、未だ都会派(シチィーボーイ)のようだ。

 

「だ、だめだ!」

 アンコウは思わず叫ぶ!

 

「………どうして?」

 カルミは足を止め、不思議そうに聞く。

「一緒にご飯食べてくれないの?」

 カルミの目が少し悲しそうにアンコウを見る。

 

「い、いや、違う。一緒に行くよ。えっと……そ、そうだ、これ!」

 

 アンコウは(このオッサン猿だけは勘弁してくれ)と、慌てながらウエストバッグのように腰に着けている魔具鞄の中に手を突っ込んで、

そして、

 これだっ!と言いながら何かを取り出した。

 



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第48話 ひみつの道

 アンコウは、一つ目の大猿(サイラアイモンキー)という名の毛深いオッサンを食べたくない一心で、腰の魔具鞄の中に入れていた ある物を取り出した。

 

「こ、これだっ!」

 

 アンコウが魔具鞄の中から取り出したもの、それは、見た目がニワトリのような鳥。アンコウはそのニワトリのような鳥の足をつかみ、ぶら下げるように手に持っている。

 

 しかしその鳥は、羽は全身真っ白で、ニワトリのような形状の鶏冠(とさか)もあるものの、ニワトリにしてはあきらかに巨大で、くちばしや足の爪も大きく鋭い。

 それに2本の鳥足のほかに、翼の根本からも鋭いカギヅメの付いた手が生えていた。

 

 そのアンコウが取り出したものは、動物の鳥ではなく、数日前にアンコウがたまたま狩って、食用にと魔具鞄にしまっておいたロンバドル鳥といわれる魔獣の鳥だ。

 

 アンコウが突然、魔具鞄の中からロンバルド鳥を取り出したのを見て、カルミは何だろうと首を傾げる。

 

「ほ、ほら、あれだ。そんな猿より鳥のほうがうまいぜ。これを食べよう。それに、そんなデカイ猿持って帰るのは重いだろう?」

「別に重くないし、一つ目猿もおいしい。それにその鳥よりも大っきい」

「!! ま、待て、もう一羽あるんだ!」

 

 アンコウはあわてて、もう一度腰の魔具鞄に手を突っ込んで、同じくロンバルド鳥を取り出した。

 そしてアンコウは、両手でロンバルド鳥の足を持って、カルミのそばに駆け寄っていく。

 

「ほら見ろ!丸々太っていて、2羽もあるぞ!血抜きもしてある。貰ってくれ、プレゼントだ!」

「………プレゼント!」

 

 カルミはロンバルド鳥そのものよりも、アンコウが言ったプレゼントという言葉にピクリと反応を示す。

 

「……カルミに?」

「そ、そうだ、カルミにプレゼントだ!貰ってくれるか?」

「う、うん!ありがと!アンコウ!」

 

 カルミの顔がうれしそうな表情に変わり、アンコウにお礼を言うと同時に、両手で持っていた一つ目の大猿(サイラアイモンキー)をひょいと放り投げた。

 

 たいして力を入れていないような軽いカルミの動作であったが、地面を引きずられていた大猿の体が、フワリとアンコウの目線以上の高さに浮き上がり、ドサリッ!と、また地面に落ちる。

 美しい放物線を描きながら自分の目の前を飛んでいき、再び地に落ちた毛深き全裸のオッサンのような大猿兼食材をアンコウは複雑な表情を浮かべて見た。

 

(………まっ、これであれを食べずにはすみそうだ)

 

 そして、両手が空いたカルミは、その両手でアンコウが差し出している2羽のロンバルド鳥をしっかりとつかむ。

 アンコウが視線をカルミに戻すと、カルミは両手にデカイ鳥を2羽持ち、うれしそうな顔でアンコウを見ていた。

 

「……喜んでくれたみたいで、よかったよ」

「うん!カルミこれ食べる!」

 

 カルミはあまり表情豊かとはいえないが、その分、声の調子はもの凄くわかりやすい。カルミは大きな声、うれしそうな口調で答えるとまた歩き出した。

 

「アンコウこっち」

「ああ、」

 

 今度はアンコウも、おとなしくカルミの後ろをついて歩き出した。

 カルミは魔素の漂う森の中を、両手に持った大きな鳥をグルングルン振り回し、そして歌いながら歩いていく。

 

「♪ヨーデル ヨーデル ヨーレホッホッホー♪」

 

 アンコウはそんなカルミの後姿を何ともいえない顔で見つめながら歩いていく。

 

「……まぁ、喜んでるみたいだし、いいだろう……」

 

 

 

 

「……しかし、こんなところで、まさか一人暮らしとはなぁ」

 

 ひとり椅子に座るアンコウは、何度目かの(つぶや)きをもらす。

 

 アンコウがカルミの家に着いてから、すでに1時間近くが経つ。そこは薄い魔素の森の中にポツリと立つ一軒家。

 

(なるほど、村じゃなくて家だったな)

 しかもカルミは、たった一人でこの家で暮らしていた。

(当てが外れたか。まさか6歳のガキが、こんなとこで一人暮らしとは)

 

 カルミのまわりにいるだろう大人たちから情報収集をするという目算は外れたが、アンコウはまだカルミの家にいる。

 

(何か知っているだろう)

 

 カルミは6歳の子供といえど、こんなところで一人暮らしをしているのだ。

 これからイサラス山脈を越えようかと考えている自分にとって、何らかの有益な情報を聞くことが、カルミからもできるんじゃないかとアンコウは思った。

 

(まぁ、特別急いでるってわけでもないしな)

 

 そのカルミが ♪ヨーデル、ヨーデル♪ と歌う声が、アンコウがいる部屋の外から、かすかに聞こえている。

 

「……どんだけ気に入ったんだ、あの歌」

 

 カルミは只今、ご飯の支度真っ最中である。

 

 このカルミの住んでいる家に足を踏み入れると、そこは鍛冶工房になっていた。

 アンコウは、そこがカルミの祖父の工房で、その祖父はひと月ほど前に死んだとカルミから聞いた。

 

(そこそこの腕があったみたいだな)

 

 カルミが身につけていた装備は、すべてその亡くなった祖父がつくったものらしい。

 

 同じ妖精種でも、エルフ族の多くの者が精霊法力を精霊法術として具現化する(すべ)に長けているのに対して、ドワーフ族は一般的に精霊法力を用いた魔工の術に長けている者が多い。

 

 魔武具、魔道具を製作している優れた魔工匠の多くがドワーフであり、歴史的に傑出した魔工匠といえば、そのすべてがドワーフ族かその血を引く者であるといって過言ではない。

 

 

「アンコウ、ごはん出来た!」

 

 アンコウがあれこれ考えていると、土間のほうからカルミの大きな声が聞こえた。

 

 しばらくすると、カルミができたばかりの料理をアンコウが座っているテーブルの上まで持ってくる。

 そしてアンコウは、テーブルの上におかれた料理をじっと見る。

 

 一つ目の大猿(サイラアイモンキー)を普通に食べているカルミだ。

 おかしなものを作られたら堪らないと思ったアンコウは、自分も手伝うとカルミに言ったのだが、カルミは聞き入れなかった。

「アンコウはお客さんだから、座ってる」の一点張りだったのである。

 

 テーブルの真ん中には、大きな皿のうえに何枚もの少し厚めに焼かれたナンが積み重ねられている。

 そしてアンコウの目の前には大きなお鉢がひとつ。ロンバルド鳥の具だくさんスープだ。

 

(…………普通だな)

 

 山盛りのロンバルド鳥の肉と、野草、キノコのようなものがたっぷり入っているが、アンコウが見る限り、グロテスクなものや怪しげなものは見当たらない。

 アンコウは目の前の大きな汁鉢から目をあげて、自分の正面に座っているカルミのほうを見る。

 カルミは何やら得意げな顔でアンコウを見ていた。

 

(……少し慣れれば、わかりやすいやつだなぁ)

 

 ひと様の家で、食事をご馳走になるのなら、当然6歳児相手でもマナーは守らなければならない。それになにより、この6歳児は万が一怒らせた場合、アンコウでも命取りになりかねないぐらいヤバイ強さを持っている。

 

「すごくおいしそうだな、カルミ。全部お前が作ったのか?」

 アンコウは、全部カルミが作ったということを当然知っている。

「うん!」

 カルミはさらに自慢げに大きく(うなず)く。

 

「そうか……じゃあ、いただくか」

「うん!」

 

 アンコウは、おもむろに箸を持った手を伸ばすと、目の前の器の中に入っている肉をつかみとり、ひとくち口に放り込む。

 

「……………」

 その肉とスープの味は、これ以上ないぐらいまったく普通の味であった。

(……ふつうだな。普通に食べられる……)

 

 前を見れば、カルミはまだ食事に手をつけず、じっとアンコウの様子を伺っている。

 そのアンコウを見るカルミの目が、なぜかキラキラしているようにアンコウには見えた。実にわかりやすい。

 

「……うまいな!カルミは料理が上手なんだな!」

「うん!じいちゃんにも作ってたから!」

「そうか」

 

 アンコウは少々面倒くさいと思いながらも、食事をしながら、しばらくカルミとそんな会話を続けた。

 そしてアンコウは、カルミの様子を見つつ、頃合いを見計らって自分が知りたいことをカルミに尋ねはじめた。

 

「なぁ、カルミ。俺はいま旅の途中で、これからイサラスを越えなくちゃいけないんだ。あの山を越える道を知らないか?」

「ング、ゴクッ、ひぃらない、」

 

 カルミはもぐもぐと食べながら、あっさりと答える。

 

「………い、いや、どんなことでもいいんだ。じいちゃんが何か話してたこととかさ、商人とかもここに来てたんだろ?誰かがあの山を越えて、商売をしに行ったとかさ」

「じいちゃんはここからイサラスに入るやつはバカだって言ってた。それか死にたがり。あの山の奥にはものすごく強い魔獣がいるって言ってた。アンコウ、バカ?」

「……………」

 

 子供と話をするのは時に疲れ、時に腹が立つものだ。アンコウは、スープとともに怒りをグッと飲み込んで話しを続ける。

 

「……バカではないよ。だから考えなしにあの山に入る気はない。

 なぁ、カルミ。どんなことでもいいんだよ。グリフォンに乗って越えていくとか、秘密の道があるとか、……何でもいい、どんなバカバカしいことでもいいんだ!……カルミ、何か思い出してくれないか」

 

 クサい演技ではあるが、アンコウは必死な表情を浮かべて再度カルミに問いかけた。

 カルミは、一瞬大きくなったアンコウの声に少しビクッとなる。

 それにアンコウが発した言葉の中に、カルミが反応を示したワードがあった。

 

「……ひ、ひみつのみち……」

 こどもの反応は素直なものだ。アンコウが見逃すはずもない。

 

「……カルミ?ひみつのみち、あるのかい?」

「し、しらない!」

 

「カルミ、俺はすごく困っているんだ。どうしても、どうしてもイサラスを越えないといけないんだよ」

「ち、ちがう!ひみつの道、イサラスを越える道じゃない!」

「道はあるんだ?」

「あう………じいちゃんが誰にも言ったらだめだって」

「カルミ、俺は困っているんだ。イサラスを越えられないと死んでしまうかもしれない」

「……アンコウ死ぬの?」

 

 死と聞いて、カルミはついこの間死んだ祖父のことを思い出す。

 カルミの食事をする手が止まり、薄っすらと目に涙が溜まってくる。

 

「大丈夫、カルミ。死なないさ。お前が秘密の道のはなしをしてくれたらね」

「で、でも、あの道はイサラスを越える道じゃないと思う。それにじいちゃんが」

 

「カルミのじいちゃんはとってもやさしい、いい人だったんだろ?じいちゃんはカルミに言ってなかったか?人には優しくしてあげなさいって。思いやりの心は大事だよって」

 

 アンコウは気持ち悪いほどのやさしい声色を使い、誰にでも当てはまるようなざっくりとした内容の話で、カルミの大切な人との思い出に訴えかける。

 きわめて単純稚拙な話法だが、エセ霊能力者的な話術の効果をアンコウは知っている。

 

 そしてアンコウのその言葉は、確実に6歳児の心を揺さぶった。そのアンコウの言葉が、カルミに死んだやさしいじいちゃんの言葉を思い出させる。

 

『カルミ、人にはやさしくするもんだ。人にあげたやさしさはまわりまわって、自分のところに帰ってくるからな。

 カルミ、この先どんなつらいことがあっても人に対する思いやりの心を捨てちゃダメだぞ。人は見ていなくても、大精霊様はいつも見ておられるからな。思いやりの心を捨てたら、お前が大精霊様に見捨てられるぞ』

 

「……フグッ、じ、じいちゃん。じいちゃん、言ってた」

「そうだろ?だから大丈夫さ。カルミが秘密の道の話をしても、こんなにも困ってる俺を助けるためだもの、天国のじいちゃんは褒めてくれるに決まってる」

「ほ、ほんと?」

「ああ、俺は大人だからわかる。じいちゃんは、困ってるアンコウさんに話してあげなさいって言ってるよ……」

 

 目に涙をいっぱいに溜めたカルミが、こくりと頷いた。

 

 その後アンコウは、カルミから『ひみつのみち』の話を聞き出した。

 しかしカルミは、ぽつぽつと秘密の道のことを話してくれはしたが、やはり話すことに抵抗があるようで、何度聞きなおしても、なんとも要領を得ない。

 

 とにかく死んだじいちゃんから入ってはいけないと言われている秘密の道が、この森の中にあるということだけはアンコウにもわかった。

 

 カルミは、その道はイサラスの向こうに続く道じゃないと言っているし、アンコウもたいして期待を持ったわけではない。

 だが、せっかくここまできたのだから、ついでに見ておきたいと考えた。

 

 アンコウは、しぶるカルミをなだめすかし、だまし、結局その道のあるところまで行ってみるだけだという約束で、カルミに道案内をしてもらうという頼み事を受け入れさせた。

 複雑そうな顔のカルミに、アンコウは 『じいちゃんは褒めてくれてるさ』 と何度も笑顔で言った。

 

 心汚れた大人のアンコウには、毛深いオッサン(一つ目の大猿(サイラアイモンキー))の活け造りを口いっぱいに詰め込むぐらいのことをしてもよかったのかもしれない。

 その程度のことなら、大精霊様もカルミを許しただろう。

 



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第49話 突然の迷宮

「おい、カルミ。ここのどこに道があるんだ」

 

 小一時間ほど、森の中の道なき道を歩かされたアンコウが、さすがに少し不機嫌そうに問う。

 

 アンコウの目の前にあるのは森の中の小さな池。自分が歩いてきたところも、池のまわりも全部、木々が生い茂っている。

 しかし、ここまでアンコウを案内してきたカルミは、この池の前で 「ここ」 とだけ言って立ち止まった。

 

 アンコウが聞いても、カルミは口をもごもごさせるだけで何も言わない。

 家を出てからここまでの道中も、アンコウが話しかけてもカルミは、あまりまともには答えてくれず、途中からはアンコウも話しかけるのをやめてしまった。

 

 しかし、ここまで来てしまった以上、アンコウもこのまま元来た道を戻る気にはなれない。

 

 

「……カルミ、どうしてこんな意地悪をするんだい?『秘密の道』を教えてくれるって言ったのに、ウソはだめだろう?」

 

 アンコウは苛立ちを抑えて、猫なで声で言う。しかし、カルミは黙っている。

 

(チッ、死んだ爺さんとの約束ってやつか。面倒だな)

 

「カルミ、ウソはついたらダメだって、じいちゃんは言わなかったか?」

「………ウソついてない」

 

 カルミはそう言って、前に歩き出す。カルミは池の近くまで行って足を止める。

 

「……ん?その岩がどうかしたのか」

 

 カルミの後ろを付いていったアンコウが、カルミに聞く。カルミの目の前には大きな岩がひとつあった。

(別に何も感じない。普通の岩だよな)

 アンコウには、それはただのでかい岩に見える。

 

「ここ」 と、カルミがまた言いながら、目の前の大岩に手をあてる。

「えっ、何だ!?」

 

 カルミが大岩に手をあててしばらくすると、それまで感じられなかった力の波動が、その大岩から噴き出してきた。

 

(何かの術が作動した!?)

 

 アンコウにはどういったものかまではわからないが、間違いなく何かの法術が作動したことはわかる。

 

「な、何だその岩!」

 

 どうやらこの大岩そのものに何かの法術が組み込まれていたようだ。

 アンコウが思わず柄に手をやり、身構えていると、カルミの視線が岩の横に移る。アンコウもそれにつられるように視線を移すと、

 

「な、何だ……」

 大岩の横の何もないはずの空間が、大きく波打つように揺らいでいた。

 

 アンコウが呆気にとられながら、それを見ていると、不意に目の前の空間の揺らぎが消えた。

「あっ、」

 アンコウが小さく驚きの声をあげ、視線を移す。

 カルミが大岩から手を離していた。

 

「あれがひみつの道」

 カルミはそう一言いうと、すぐに大岩の前から離れようと動き出す。

 

「お、おい、カルミ!ちょっと待って!どこに行くんだ?」

「もう見たから帰る」

「!!」

 

 どうやらカルミは本当に見ただけで帰るつもりらしい。アンコウが予想していたものとはまったく違う『ひみつの道』。

 

 しかし見てしまった以上、このまま立ち去るには今アンコウが目にした光景はあまりに興味深すぎた。

 好奇心猫をも殺す。慎重派であるはずのアンコウでも、人は生きている限りその地雷から逃れることはできないようだ。

 

「ま、待てよ、カルミ。確かに見るだけとは言ったけど、いまのは短すぎるだろ?ここまで何時間歩いてきたと思ってんだ?頼む!もう少しだけ見せてくれよ」

 

 アンコウがそう言って、拝み手でカルミに頭をさげた後、ニコリとカルミに笑って見せた。

 

「…………」

 足を止めたカルミが、子供らしからぬ渋面でアンコウを見る。

 

「頼むよカルミ、よく見えなかったんだ」

 アンコウがカルミに微笑みかけながら、また頭をさげる。

 

「……もう少しだけ、なら……」

「おお!ありがとう!」

 

 アンコウは大げさにカルミにお礼を言って、カルミの体を大岩のほうに押し返した。そしてカルミはしぶしぶといった感じながら、もう一度大岩に手を置いた。

 

「………おおっ、来た来た」

 

 再び大岩の横の空間が揺らぎ、波打ちはじめる。

 

 アンコウは、このような現象をこの世界に来てからも見たことはない。

 しかし、カルミが秘密の道と言っている以上、あれがどこか別の空間につながる扉のようなものかもしれないと思った。

 

 アンコウはじっと見つめているが、その空間はただ揺らいでいるだけで、向こう側の景色は何も映していない。

 

(とりあえず、ちょっと確認ぐらいはしとかないとな)

 

 そう考えたアンコウは、カルミに許可を取ることもなく、何の躊躇(ちゅうちょ)もなしに、その揺らぎに近づいた。

 

 祖父との約束を破り、ここに人を連れてきたことに心乱されていたカルミが、そのアンコウの動きに気づいたときはすでに遅く、

 

「あっ、アンコウだめ!」

「えっ?」

 

 アンコウの左手はすでに、その揺らぎにわずかながら触れてしまっていた。

 

「アンコウ!それに触ったらダメッ!」

「なにっ!?」

 

 アンコウは、カルミのその真剣な声と表情に瞬時に反応し、その場からとっさに離れようと体を動かす。

 しかし、わずかに揺らぎに触れてしまっていたアンコウの左手が動かない。それどころか、少しずつアンコウの左手が揺らぎの中に引き込まれ始めている。

 

「な、なんだっ。ぬ、抜けないっ!」

 その状況に焦りだすアンコウ。

「お、おいカルミっ!手が抜けないんだっ!どうなってる!?」

 

「それに触ったらダメ!」

 カルミは、もう一度叫ぶように言うがすでに遅い。

 

 アンコウが揺らぎの中に引き込まれるスピードが少しずつ増していく。

 

「だめだっ!引っ張り込まれるぅう!」

 

 アンコウの顔が、恐怖まじりの必死の形相になってきた。

 カルミはすでに大岩から手を離している。しかし、さきほどとは違って、空間の揺らぎと波打ちは消えない。

 まちがいなく、その原因は今情けない声を出しているアンコウだろう。

 

「やばいっ、カルミ何とかしろ!」

 

 まさに油断大敵。軽々しく軽率な行動をとるからである。しかし、どれほど慎重な人間でも、24時間隙無しなんてできやしない。

 アンコウの言葉に反応して、カルミがアンコウに駆けより、アンコウの体をつかみ、自慢の怪力で引っ張り始める。

 

「うーん!!」

「い、痛てぇ!う、腕がちぎれるっ!」

 

 しかし、アンコウの腕はまったく抜ける気配もなく、ただアンコウの苦痛を訴える声が宙に響く。

 

「があぁーっ!何やってんだ!カルミっ!」

「うーん!!」

「ひっ、引っ張るんじゃねぇーッ!痛てぇ!」

 

 アンコウは喚きながらも、どんどんどんどん揺らぎの中に引き込まれていく。

 そして、アンコウの左腕のすべてが揺らぎの中へと消え、胴体の一部も揺らぎの中に飲み込まれた時、アンコウを揺らぎの中に引き込む力が一気に強くなった。

 

「ふわあああぁぁぁーーっ!!!」

 

 アンコウの体が一気に揺らぎの中へと消えていく。

 

「アンコウ!!」

 

 アンコウの体が引き込まれた勢いで、カルミの足が宙に浮く。しかし、カルミはアンコウの体を持つ手を離さない。

 

「うぅーーーー!!!………」

 

 カルミの体も揺らぎの中へと消えた。

 

 

 ………とある魔素の森の中、大人の男と子供が一人。

 名も無き池のそばに鎮座する大岩があり、その大岩の横の何もなかった空間に突如出現した不思議な波打つ揺らぎ。

 そして気がつけば、その揺らぎのまわりには誰もいなくなっていた………。

 

――― ギョォーーーーゥ

…………… 森の中に響く魔獣たちの声が、森の木々のあいだを巡る風とともに、名も無き池の水面(みなも)をほんのわずかに揺らしている

 

―――

 

 ああ、ふと目を大岩に戻すと、アンコウとカルミが吸い込まれた波打つ空間の揺らぎも消え去り、何もない元の状態に戻っていた……。

 

 

 

 

「痛つつ」

 

 地面に尻もちをつき、腰の辺りをさすりながら、アンコウが頭を振っている。

 

(……何だここ)

 痛みのおさまったアンコウが、無言のまま立ち上がる。

 

 アンコウの目に映る光景。それはアンコウがさっきまでいた緑の木々の生い茂る森の中とはまったく違う。

 周囲を眺めるアンコウの目が、自然、厳しいものに変わる。

 

 アンコウが今居る場所。それは当然アンコウが一度も来たことがない場所なのだが、同時にアンコウにとって馴染み深い場所でもあった。

 

「……迷宮か……」

 

 周囲を岩や土で囲まれ、いたるところにある発光石がほのかな光を提供している魔素漂う空間。

 アネサの迷宮での魔獣狩りを生活の糧としていたアンコウにとって、懐かしくもあるが、それ以上にその恐ろしさも知っている場所。

 

「くっ、なんで迷宮にいるんだっ!?」

 

 思わずアンコウは叫ぶ。アンコウはすぐに今の状況を理解することができない。

 

ジャリッ

 アンコウのすぐ近くで、砂を踏む音がする。

 あの不思議な空間の揺らぎを通って、この場所に落ちてきたのはアンコウひとりだけではない。

 はっとしたアンコウも、その存在を思い出す。

 

(あのガキっ)

 アンコウが視線を移した先には、カルミが立っていた。

 

「おい、カルミ!ここは何だ!何で迷宮にいるんだっ」

「知らない」

「ああ?知らないって何だよ!」

「カルミもここに来たのは初めて。じいちゃん、絶対このひみつの道に入ったらダメだって言ってた」

「なんだそれ!もう入ってるじゃねぇか!」

「アンコウは見るだけって言った。勝手に入ったのはアンコウ」

「外からは見えなかっただろっ!それにちょっとあれにさわったら引っ張りこまれたんだよ!何で先に言わないんだっ!」

 

 しばしアンコウとカルミの不毛な会話が続いた。

 

 

「………道って、これ迷宮だろうが」

 

 結局カルミも、この迷宮のことについてはほとんど何も聞いていなかったようで、少し落ち着いてきたアンコウは、それ以上カルミを問いただすことをやめた。

 ただ、

「なぁ、カルミ。この迷宮は本当に()につながっているのか?」

 

 アンコウはカルミが話したことで、唯一気にかかったことを確認する。

 

「じいちゃんは、ひみつの道は()につながっているって言ってた」

 

 国ねぇ、とアンコウは考える。

 カルミも、どこの何の国かは聞いていないみたいだが、もしかしたらイサラス山脈の向こう側にある人間の国につながっているかもしれないと、アンコウは一瞬思った。

 

 しかし、行き当たりばったりで未知の迷宮をほっつき歩くなど愚の骨頂だと、アンコウはひとり首を振る。

 

「まぁ、もういいや。カルミ、とりあえずここから出よう」

 

 迷宮の怖さはよく知っているアンコウとしては、何の情報もない迷宮に長居する気などまったくない。

 しかし、ふとアンコウがあらためて自分たちがいる周囲を見渡してみても、自分たちが引っ張りこまれてしまった大岩の隣で見たような空間の揺らぎはどこにも見当たらない。

 

「………カルミ、ここからどうやって出るんだ?」

「知らない」

 と、簡潔に答えるカルミ。

 

「えっ………………」

 口を半開きに思わず固まるアンコウ。

 そして自分がいま置かれている状況が、想像以上に悪いことにようやく気づく。

 

「そ、それも、知らないぃぃぃ!?」

 

 その後、再び感情的になり取り乱したアンコウがカルミを問い詰めるが、カルミは本当に何も知らないようで、結局、

「アンコウが勝手に入った」 ということになった。

 

「く、くそっ!……これはまずいぞ……」

 

 

 

 

 アンコウとカルミは、意図せず入ってしまった迷宮の中をふたり並んで歩いている。

 

(仕方がない。とにかくここから出ないと)

 

 アンコウはアネサの迷宮において、通常浅い階層を中心に活動していた。

 迷宮は千差万別で、浅い層でも安全だと言い切ることなどできないのだが、いまアンコウが感じてる魔素は、アンコウが活動していたアネサの低層よりも明らかに濃い。

 それだけ強い魔獣が活動している可能性も高いということだ。

 

 アンコウは歩きながら、ふと腰の剣に目をやり、おもむろに鞘を握る。

(大丈夫だ。いまの俺にはこいつとの共鳴がある)

 

 アンコウが最後にアネサの迷宮に潜ったときには、アンコウはまだ呪いの魔剣との共鳴の力を手に入れていなかった。

 今なら、アネサの迷宮で相手をしていた魔獣どもより、強い者が出てきたとしても、十分相手にできる自信がアンコウにはある。

 

 ただ、いずれにしても迷宮とは常に死と隣り合わせの場所。

 アンコウは少しでも早くこの迷宮から出るために、上へと続く道を求めてすばやく探索を始めていた。

 

 

(そろそろ歩き始めて、2時間近くにはなるはずだ。このまま魔獣どもと遭遇しない時間が少しでも長く続いてくれたらいいんだけど)

 

 しかし、残念ながらこの魔獣どもの住処たる迷宮で、いつまでも彼らに出会わないなどということはありえない話。

 そして、ついに彼らの存在を察知したアンコウの足がピタリと止まる。

 

バサバサッ、バサバサッ、

 いくつもの羽音とともに、前方にある横道の暗がりの中から、魔獣どもが姿を現す。

 

 アンコウたちの目の前に現れた魔獣は、大きいボール状の体を持ち、コウモリのような形状の黒く大きい一対の羽が生えている。

 さらに、そのボール状の体の下の部分からは、タコの足のような触手が何本も生え、蠢いていた。目は退化でもしているのか実に細く小さい。

 しかし目の小ささに反して、ボール状の体を二分するかのような大きな口を持っていた。

 

 その魔獣どもはアンコウたちの存在を確認すると、大きく鋭い歯を持つその口を汚らしくヨダレをたらしながら開く。

 アンコウたちの前方に浮くその魔獣の数は、全部で5体と少し多い。

 

(……何だあれ、見たことない魔獣だな)

「カルミ、あれは何だ?」

「まんまる羽つきウニョウニョ足」

 

(……そのまんまだな、おい)

「……戦ったことは?」

「ない。初めて見た」

「くっ、お前も初めてかよっ」

 

 子供とのコミュニケーションは難しいと再認識しながら、アンコウは気持ちを切り替え、警戒心を高めていく。

 どのみち目の前に立ちふさがる『まんまる羽つきウニョウニョ足』どもとの戦闘は避けられそうもない。

 

(初顔の魔獣相手に、考えなしに真っ向勝負なんてごめんなんだけどな……)

 



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第50話 迷宮迷子

 アンコウは赤鞘の呪いの魔剣を引き抜き、すばやく共鳴を起こす。

 アンコウが感じる限り、目の前にいるタコ足のコウモリ羽の魔獣が、自分の命を脅かすほどの強き魔獣には見えなかったが、アンコウは足を止めたまま自分から仕掛けようとはしない。

 

 あの魔獣は精霊法術を使うかもしれない。あの触手には毒があるかもしれない。もしかしたら、俺が感じている以上に強いのかもしれない

 

 アンコウはさまざまな可能性を考え、剣を構えたまま静止する。

 しかし、そんなアンコウの横から、スタスタと魔獣どもにむかって進み出る者がいた。カルミだ。

 

「おぃっ……。」

 アンコウは思わずカルミを呼び止めようとするが、とっさに口をつぐむ。

(……あのガキは、まちがいなく俺よりも強い)

 

 カルミはすでに自慢の大きなメイスを手に持ち、まちがいなく目の前にいる魔獣どもとやるつもりだ。

 魔素の森で生きてきたカルミにとって、魔獣が現れれば戦うのみなのである。

 

(……あいつが戦ってくれるのならありがたい話だ。万が一あのガキが死んでも俺が死ぬわけじゃない)

 

 保身のための最善の選択として、ここは様子見を決め込むことを瞬時に決めたアンコウだが、この迷宮に落ちてきた経緯のこともあり、この先迷宮を無事脱出する前には、カルミから決定的な悪感情を持たれるリスクは避けなければならないとも考えた。  

 そして、

 

「カルミ!」

 と、アンコウは前を歩いていくカルミを呼び止めた。

 

 敵を前にカルミは足を止め、頭だけをわずかにアンコウのほうに動かす。

 

「なに?」

「背中は俺に任せろっ!ふたりで戦えば、こんなやつら敵じゃない」

 

 いつもどおりに、ただ目の前に現れた魔獣と戦うつもりだったカルミ。

 

「ふたりでたたかう……」

 

 アンコウにそう声をかけられて、カルミはこの迷宮に来る前、アルマの森で自分に襲いかかってきた一つ目の大猿(サイラアイモンキー)をアンコウが斬り倒してくれたシーンを思い出す。

 あの時カルミは、それはそれはうれしかったのだ。

 

「うん!わかった!アンコウ!ふたりでたたかう!」

 カルミは元気良くそう言うと、また前を向いて弾むように歩き出す。

 

 それを見てニヤリとほくそ笑むアンコウ。カルミの後ろにも、アンコウの後ろにも敵はいやしない。敵は前にだけいるのだから。

 

 カルミは小さい背丈に似合わない大きなメイスを頭上に掲げ、勢いよく走り出す。

 それを見て、「「キィーッ、キィーッ!」」 と魔獣どもが耳障りな鳴き声を発する。

 

(戦うことにためらいなしか。子どもは怖いね)

 

 アンコウも一定の距離は開けつつも、走り出したカルミについて走る。

 あまりカルミとの距離を開けすぎると、羽持ちの魔獣どもが二分し、自分のほうにも襲いかかってくる可能性が高くなると思ったからだ。

 

「つっ!何だあれはっ!」

 走るアンコウが、魔獣どもの方を見ながら声をあげた。

 

 カルミを攻撃目標に定めたタコ足コウモリ羽の魔獣が、(うごめ)く複数のタコ足をねじる様にひとつにまとめあげ、そしてその纏めた足の先に、仄かに白い光を発する球をつくり出していた。

 タコ足コウモリ羽の魔獣は、間髪入れずにその光球をカルミに目がけて発射する。

 

ボシュッ!ドンッ!

 仄白光球は、カルミの足元に着弾。

 

 小石や土が舞いあがった。しかし、カルミにはかすりもしていない。

 カルミは余裕を持って、その仄白光球を避けて見せた。

 

 アンコウは今見た情報をすばやくインプットする。

(精霊法術……ではないな)

 タコ足コウモリ羽の魔獣が、生み出して見せた仄白光球には、精霊力は感じられなかった。破壊力もさほどのものでもない。

(気弾の一種か)

 

 しかし、その光の気弾を避けて見せたカルミの体さばきはすばらしかったなとアンコウはおもわず感心する。

 そのカルミは魔獣の突然の気弾による攻撃を受けても、足を止めるどころか、一気に魔獣との距離をつめていた。

 

(あのガキっ、早いっ)

 

ドンッ!!

「プギイィッ!」

 

 最も近くにいたタコ足コウモリ羽の魔獣が一匹、カルミの振り落としたメイスによって、あっけなく叩き潰され地に落ちる。

 

「「「ギイイィィーッ!ギイイィィーッ!」」」

 

 それを見た残りのタコ足コウモリ羽の魔獣の魔獣どもがいっせいに騒ぎ始める。

 

 そして、その残り4体すべての魔獣どものタコ足の先に、次々と同じく仄白光球が現れた。

 タコ足コウモリ羽の魔獣を一匹叩き潰したあと、動くことなくその場に立っていたカルミにむかって、今度は複数の仄白光球が打ち出されていく。

 

 ボシュッ!ボ、ボシュッ!ボ、ボシュッ!ボシュッ!

 

 カルミは無駄のない動きで、まるでその場でステップでも踏むかのように、次々と飛んでくる気弾を華麗にかわす。

 

 それはギリギリでかわしているかのようにも見えるが、カルミがその気弾による攻撃を完璧に見切っているからこそできる技だと、アンコウはパワーだけでないカルミの力量にあらためて舌を巻く。

 

「あ、あいつ、ほんとに凄いな。何てガキだぁ…あぃぃいいっ!?」

 突然慌てだしたアンコウ。

 

 迷宮では油断大敵、ましてや戦闘中だ。カルミがナイスステップでかわしているいくつかの仄白光球の気弾が、後ろにいるアンコウのほうに飛んできたのだ。

 

ビュンッ!ドンッ!

「いやあぁーっ!」

ビュンッ!ドンッ!

 

……アンコウもなんとかギリギリで2発の気弾をかわしてみせた。

 ただし、完全に油断していたアンコウのステップには、余裕もなければ、華麗さの欠片もない。

 

「クッやばっ……カ、カルミっ!!」

 

 気弾が当たりかけたアンコウは、思わず瞬間的な怒りにまかせて怒声をあげた。

 しかし、怒声をあげた瞬間、アンコウは (しまった) と思う。ここでアンコウがカルミを怒鳴りつけていい理由もなければメリットもない。

 

 戦闘中のカルミは振り向きはしないが、アンコウの声は聞こえているし、続く言葉を待ち受けてもいるだろう。

「チッ」 アンコウは心の中でどうしたものかと思い、舌打ちを発した。

 

「…カルミっ、…ゆ、油断大敵だっ!変な余裕は怪我の元!た、叩き落せる気弾は全部自慢のメイスで叩き落とせっ!」

 

 考える時間の余裕がなかったアンコウは、訳のわからない謎アドバイスをカルミに贈る。

しかし、

「うんっ!わかったアンコウ!」

 カルミは内容は関係なく、アドバイスしてもらえたこと自体がうれしかったらしい。

 

「お、おう」

 アンコウ、ほっと一息。

 

 カルミの背は130センチほど、小さい。

 アンコウはカルミの背後、少し離れたところで身を屈め、戦況を見守る。

 

 タコ足コウモリ羽どもは断続的に気弾を放っているが、

ボシュッ!ボシュッ!ボシュッ!

 今度はそれをカルミが、ひとつ残らず叩き潰す。

ボンッ!ボンッ!ボンッ!

 

「ふぅむ、やっぱりアイツらたいした強さじゃないな」

 少し離れたところでアンコウはひとりごちる。

 

 そして、しばし足を止めて魔獣どもの攻撃をしのいでいたカルミが、再び攻撃に転じた。

 

「やああぁぁーっ!」

ボゴオォォンッ!

「「「ギイイィィーッ!」」」

 

 カルミのメイスに薙ぎはらわれて、また一体、タコ足コウモリ羽が吹き飛ばされる。吹き飛ばされたタコ足コウモリ羽は、一直線に横の岩壁にたたきつけられ、

メチイィィッ!! という破裂音を立てながらペシャンコになり、岩壁にへばりついた。

 

「「ギイィィッ!ギイィィッ!」」

 

 それを見た残りの魔獣どもは、耳障りな鳴き声を発しながら、さらにカルミに気弾を打ち込んでいく。

 

 ボシュッ!ボシュッ!ボシュッ!ボンッ!ボンッ!

 

 すでに攻撃態勢に転じているカルミは、さすがにそれらの気弾をメイスで叩き落すようなことはせず、一部は華麗なステップでかわしながら敵にむかって前に進む。

 

 そのカルミにかわされた気弾が、アンコウのほうに飛んでくる。しかし、今度はアンコウも油断をしていない。

 

「よっっと!!」

 アンコウはカルミの背後で、カルミが避けた気弾を余裕を持ってかわす。

 

「よしっ!カルミっ、うしろは任せろっ!いけえっっ!」

 

 アンコウが大声でカルミに檄を飛ばす。うしろは任せろというが、今も敵は前にしかいない。

 その激に答えるようにカルミはメイスを振るう。

 

ボゴオォンッ!バガアァンッ!ドゴオォンッ!

 

そして、タコ足コウモリ羽の魔物どもは、すべてカルミのメイスの餌食となった。

 

――――

 

「カルミよくやったな」

 アンコウがカルミに近づいて褒める。

「次もこの感じでいこう。お前が前衛で、俺が後衛だ」

 

 カルミは、素直に「ウン」と(うなず)いた。

 

(とにかく、ここから一刻も早く出ないと。こうなった以上、俺が無事に地上に出るためにはカルミの力は有用だ)

「カルミ。俺とお前はいいコンビになれそうだ」

「うんっ、アンコウ!」

 

 あちこちに散らばる魔物の死体を見て、アンコウは内心少し首を傾げる。

 カルミの父親が妖精種であるドワーフであることは、カルミ本人からも聞いていたし、カルミの外見にもその遺伝的影響は見てとれる。

ただ、

(いくら馬鹿力のドワーフの血が半分入っているからといっても、カルミの年でこれはちょっと強すぎるだろ)

 と、アンコウは思う。

 

(………まぁ、使える道具は性能が良いにこしたことはないか。どうせここを出るまでの短い付き合いだ)

 

 そして魔物の死体の確認を終えたアンコウとカルミの二人は、巨大な魔物が大きく口を広げているかのような迷宮の空間を再び歩き始めた。

 

「よし!カルミ。とっととこんなところからは出るぞ」

「うん!」

 

 

 

 

 迷宮と呼ばれる空間は概して広大で、基本的には下層にいけばいくほど魔素の濃度は濃くなる。

 しかし、より具体的に言うと迷宮内の魔素の濃度の有様(ありよう)はさまざまで、同一階層であっても濃薄の差があったり、場所によっては迷宮内であっても、魔素に覆われていないゾーンさえある。

 

「おーっ、アンコウこれおいしいね」

「……ああ、そうだな」

 

 今、アンコウとカルミは比較的魔素の薄い場所に陣取り、食事をとっている。火をおこし、肉を放り込み、温かい肉スープを食している。

 魔素が薄いのに加え、魔物の避けの魔具を起動させ、周囲の警戒も怠らず、アンコウは十分な備えをして、束の間の休息を取っている。

 

 おいしいスープを食べているカルミの表情は比較的明るい。それに対してアンコウは、手早く肉スープをおなかに流し込みながらも、その表情は険しい。

 実は、今現在アンコウたちがこの迷宮に落ちてきてから、すでに丸2日が過ぎていた。

 

(クソッ、何だこの迷宮は)

 アンコウは相当焦っていた。

(丸2日も寝る間も惜しんで歩き続けたってのにっ)

 

 そう、アンコウたちは未だ迷宮の中にいる。しかもアンコウたちは、この迷宮に落ちてきたときと同じ階層いた。

(上層に続く道がひとつも見つからねぇっ)

 

 上層へ行く道は見つからないが、下層へと降りる道はあった。

 アンコウは、今いる階層自体が行き止まりの階層で、いったん下に降りて、別の上層道を進めば、外に続く道があるのではないかという可能性を考えてはいる。

 

 しかし、これだけ広大な空間を有する階層に上層道がひとつも見つからないなんてことは、アンコウの持つ迷宮に関する常識からして異常としか言いようがなかった。

 

(下層に続く道はいくつもあったんだ)

 

 アンコウたちは下層に続く道を見つけてはいても、まだ一度も下には降りていない。それでも、下層に完全に降りてはいなくても、当然多少様子をさぐる程度のことはしている。

 その結果わかったことは、

 

(この下の層は、魔素の濃さがいきなり跳ねあがっている)

 ひとつでも下の層に降りれば、魔獣の強さも跳ねあがることは確実だ。

(リスクがでかい……だけど、このままじゃ(らち)があかない……)

 

 岩の上に腰掛けているアンコウのひざが、細かく震えている。

 

(だけど、この下はヤバイんだ。くそっ、これだけ広大な階層で下に降りる道はいくつもあるのにっ。普通あるだろ上に行く道もっ………)

 

 そしてアンコウは、この状況から導き出される最悪の予測を考え、恐怖を覚えはじめる。

 

(……まさかこの迷宮、外に出る道がないんじゃないのか………?)

 

「……ア、アハハ。ま、まさかな」

「ん?アンコウ、どうかした?」

「い、いや。早く飯をすませて。外に出る出口を探しにいこう」

「うんっ、わかった!」

 

 ゴクゴク、モグモグと、カルミが勢いよく肉スープを飲み干していく。

 

「ングング、でもアンコウ」

「ん?何だ、カルミ?」

「ゴクンッ、ここって上にいく道どこにもないんじゃないのかなぁ」

 

 その言葉の意味の重大性をいまいち認識していないカルミが、ものを食べながら普通の口調で言った。

 

「あ、あるっ!!」

 

 アンコウは内心、なんてことを言うんだこのガキ、それは思っても口にしたらだめだろと思いながら、叫ぶように断言する。しかし、そのアンコウの目は泳いでいた。

 

「ふーん。そっか」

 

 カルミには、アンコウが感じている不安や恐れは伝わっていないようだ。カルミはそれ以上おしゃべりを続けることなく、また肉スープをほおばりはじめた。

 しかし、しばらくすると頬を膨らませながら肉を咀嚼していたカルミの動きが突然止まった。

 

「!!」

 

 再び頭の中で考え事を始めていたアンコウは、すぐにはそのカルミの変化に気づかない。

 

「……アンコウ」

「ん?どうしたカルミ」

 

 アンコウがカルミの方を見ると、すでにカルミは立ち上がっており、自分たちが身を隠している岩の向こう側、迷宮の洞窟の遠くのほうをじっと真剣な表情で見つめていた。

 アンコウは、そのカルミの目が魔獣どもと戦っているときと同じものだと言うことに即気づき、自分も素早く立ち上がり、カルミの視線の先を追う様に見た。

 



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第51話 ナナーシュと豚鬼

 今アンコウたちがいる場所は、周囲一帯にゴツゴツとした大小の岩が転がり、横の幅も天井の高さも相当にある 通路と呼ぶにはあまりに広い迷宮内の空間だ。

 

「何だ……」

 

 カルミの視線を追った先、アンコウたちがいる場所からかなり離れた地点に、アンコウも妙な違和感を感じ始める。

 

「アンコウあれっ」

 カルミが、少し驚きの色が浮かべながら言う。

 

「あ、あれはっ!」

 アンコウの目が驚きで大きく見開く。

 かなり距離は離れているが、アンコウの目がとらえたもの、

「カルミっ!あそこ、空間が歪みだしてるんじゃないのかっ!」

 

「うん、池の岩のと似た感じがするよ」

 

 そう、間違いなく何もない空間に歪みが生じ始めていた。

 まだ距離がかなり離れているため、アンコウはその場所に近づくべきかどうか思案するが、カルミは警戒したまま動き出そうとはしない。

 

(カルミのやつ、何か感じているのか)

 

「お、おい、カルミ、」

「!なにか出てきたっ」

「何っ!」

 

 アンコウは再び視線を空間の歪みが生じたほうへと戻す。

 アンコウが再び空間の歪みを視界にとらえるのとほぼ同時に、その歪みの中から人型の何かが飛び出してきた。

 

「人かっ!?」

(小さい。子供か)

 

 アンコウはわずかに間をおいた後、走り出す。

 突然現れたあの歪みから、この迷宮を抜け出せる可能性を考え、慎重さよりも行動することを選択した。

 

(自分の目で確かめるっ)

 

 そして、アンコウが走り出したのを見て、カルミも警戒モードを解くことなく、そのアンコウの後を追って走りだした。

 

 アンコウは走りながら前方の状況を確認する。空間の歪みはそのまま維持されており、今すぐに消滅するという状態ではないようだ。

 そして、その歪みから勢いよく飛び出してきた人型のものは、地面に伏せたまま(うずくま)っている。

 

 アンコウはさらに広い範囲に視線を走らせる。

(今のところ周囲に魔獣の気配はないな)

 

 アンコウはさらに走るスピードを上げ、わずかな時間で歪みの近くまでたどり着いた。

 

 

「……やっぱり子供か」

 

 アンコウは警戒しつつも足元に(うずくま)っている子供を見る。

そして、

「まぁた、ドワーフのガキだ」

 と、アンコウ。

 

 ウ、ウ~と、苦痛に堪えるように声を漏らしている子供を見て、最近妙にドワーフのガキと縁があるなとアンコウは思う。

 ただ、カルミはドワーフと人間とのハーフだ。その容姿には人間風味が多分に混じっている。

 しかし、今アンコウの足元で苦痛にうめいている子供は違う。

 

(多分純血だな)

 

 その容貌には、ドワーフらしさや、その特徴がはっきりと見て取れる。

 しかし、その造作自体はアンコウの目から見ても、かわいらしい整った顔立ちをしたドワーフの女の子だった。

それに、

(こいつ、いいところのお嬢様か何かか)

 

 この娘が着ている服は、ボロ雑巾のようにあちこちが破れ、汚れてしまっているが、かなり質のよい上流階級の者が着るような一品。

 それに手首や首につけている宝飾品も、相当な値打ち物であることがアンコウでもわかった。

 

 アンコウが新たに現れたドワーフの子供と、揺らぐ空間を見ながら、どうするかと考えていると、

 

「ねえ、大丈夫?」

 と、カルミがアンコウの横をすり抜け、うめき声をあげている女の子の横にしゃがみこみ、顔をのぞき込むようにしながら声をかけた。

 

「うっ、うぅ~~」

 

 その倒れている娘は、目をあけてカルミのほうに視線をやるが、まだ思うように声が出ないらしい。

 カルミに続きアンコウも、ドワーフ娘の横にしゃがみこんだ。

 

「おい、あの歪みの向こう側はどこに続いているんだ」

 

 アンコウが知りたいことはそれだけ、この娘自体に興味はない。

 娘はアンコウに何かしゃべろうとするが、うめき声が漏れるだけでまだ声にならない。

 

「チッ」

 アンコウの見る限り、この娘の服はボロボロに破れているが、大きな外傷はなく、体のあちこちから出血をしていても命にかかわるようなものには見えない。

 この娘が受けている主なダメージは、打撲と疲労、それに精神的なショック状態程度だろうとアンコウは判断した。

 

 するとアンコウは、おもむろにヒールポーション瓶を取り出し、無言のままドワーフ娘の口の中に強引にそのポーションを流し込み始めた。

 

「うっ!ウウーッ!」

「気付け薬がわりだ。飲め。それでとっととしゃべれ」

 

 娘が顔を左右に振って逃れようとするが、アンコウはそれを許さず、瓶の口を娘の口の中にねじ込みつづける。

 瓶の中の液体がなくなると、ようやくアンコウは娘の口から瓶を離した。

 

「がはっ!はぁっ、はぁっはぁっ、」

 

 ドワーフ娘の口まわりや胸元は、こぼれたポーション液でべちゃべちゃになっている。

 

「あーあ、もったいないな。で、どうなんだ?あの歪みの向こうは外につながってるのか?あれが消える前に早く教えてくれっ」

 

 少々強引だが、このままこの迷宮内に閉じ込められるか、魔素の濃い下層に降りるほかないと恐怖していたアンコウはかなり必死だ。

 この得体の知れない迷宮から出て行けるかもしれない。突如、眼前に下りてきた希望のクモの糸らしき可能性に必死になるなというほうが無理だ。

 

 そんな利己的なアンコウの行動とは対照的に、カルミは未だ地面に倒れこんでいる娘を、スッと抱え起こした。

 そしてカルミは、その少女の体を支え、背中をさすり始める。

 

「だいじょうぶ?わたし、カルミ」

 

 ハァ、ハァと未だ息があがっている少女が、カルミの顔を見ながら、カルミの肩をつかむ。

 

「に、逃げて」

 少女はようやく言葉を口にした。

 

 カルミにむかって発せられた少女の言葉であったが、先に反応を示したのはカルミではなくアンコウだった。

 

「何?それはどういう意味だ?」

「に、逃げないと」

「わたしカルミっ!」

「くっ。おい、カルミっ。ちょっと黙っててくれ」

「…わ、私はナナーシュ、こほっ」

「おーっ、ナナーシュ!ナナーシュもドワーフだね。わたしも半分ドワーフなんだよっ」

 

「カルミっ!」

 話を続けようとするカルミを、アンコウが苛立った声でさえぎった。

 

「カルミ、自己紹介は後にしてくれっ。おい、ナナーシュって言ったか、逃げろってのはどういうことだ?」

 

 その時、ナナーシュが出てきた空間の歪みが、それまでになく大きく揺らぎ始めた。

 

「ああっ、に、逃げてっ、アイツがくるっっ!」

 突然ナナーシュが、切迫した口調で叫けんだ。

 

「なっ!なんだっ!?」

 

 アンコウは空間の激しい揺らぎの中から、押し寄せる強い力の波動のようなものを感じた。その力が何らかの魔獣のものであることを、アンコウは瞬時に感じとる。

 

 と同時に、アンコウは走り出していた。

 

 ついさっきまで外への脱出が出来るかもしれない希望の扉であったその空間の歪みは、一瞬でアンコウにとってまったく正反対の対象に変化したのだ。

 アンコウはその歪みから一刻も早く遠ざかろうと、一言も発することなく、ひとり走り出した。

 

 アンコウが歪みの中から感じた同様のものを、カルミも感じている。

 しかしカルミは、まだナナーシュの横にしゃがみこんだまま動いていない。

 

「あなたも早く逃げてっ、私はまだ思うように足が動かないからっ」

 

 ドワーフの少女ナナーシュは、自分の体を支えてくれているハーフドワーフの童女カルミの体を力なく両手で押す。

 それは、自分のことは置いて早くひとりで逃げて、というナナーシュの意思の現れ。

 

「逃げるの?」

 と、カルミ。

「そうよっ、早くっ!」

「わかった」

 と、カルミ。

 

 空間の揺らぎがさらに激しくなり、歪みの中から噴出してくる力の波動が急速に強まっていく。

 カルミはちらりとその歪みに目をやってから、スッと立ち上がり、

ザシュッッと、地面を力強く蹴り上げ、周囲に小石をはじき飛ばす勢いで走り出した。

 

「えっ…!?ええっ~!」

 

 目を見開き驚きの声をあげたのはナナーシュだ。

 そのナナーシュは、急発進して走り出したカルミの腕の中にいた。

 

「ちょっ、ちょっとあなた、何してるのっっ!?」

 

 ナナーシュは自分を置いて一人で逃げるようにカルミに言ったつもりだった。しかし、カルミはナナーシュを軽々と両手で抱えて走り出したのだ。

 

「わたしカルミっ、6歳っ。逃げてるっ」

「カ、カルミ!?い、いや、でも、ちょっと…6歳っ~!?」

 

 ナナーシュの背丈は、120,30cmのカルミとほとんど同じぐらい。

 カルミの年は6歳。じつはナナーシュは今12歳になっている。

 

 種族的にいって、ドワーフの身長は人間よりも低い。カルミは半分ドワーフの血が入っているにもかかわらず、同年の人間の子供の身長と比べても少し高いぐらいの背丈があった。

 

 自分もけっして大人ではないが、ナナーシュは6歳の子供に抱きかかえられて逃げていることに強い抵抗を感じた。

 

「わ、私のことはいいから、あなたひとりで逃げてっ!」

「カ・ル・ミっ!」

「え、ええっ!?カ、カルミ、」

 

 カルミにナナーシュを放り出す意思はないようだ。

その時、

 

ブホホオオオォォォォォーーンッッーー!

 

 という大きい咆哮(ほうこう)が、周囲一帯に響き渡る。

 

「き、来たっっ!!」

 

 その咆哮(ほうこう)の主の姿を見て、ナナーシュが恐怖の声をあげる。

 

 カルミとナナーシュよりも、少し先を走るアンコウも後ろを振り返り、歪みの中から咆哮(ほうこう)をあげながら、かなり窮屈そうに強引にこちら側に出てこようとしている魔獣の姿をとらえた。

 

「なあぁっ!う、うそだろっ!」

 

 アンコウは目を大きく見開き、信じられないと驚愕の表情を浮かべる。

 その魔獣は空間の歪みの中から上半身の途中まで、こちら側にすでに出ている。しかし、現段階で見えている上半身からも容易に想像できる巨体のためか、下半身は未だ歪みの中につっかえているような状態。

 

 しかし、その魔獣の顔を見れば、この魔獣が何なのかということはアンコウにもすぐにわかった。

 

「な、なんでこんなところに豚鬼(オーク)がいるんだあぁーっ!」

 

 すでにこちら側に出てきているその魔獣の巨大な頭、その顔は凶悪な豚面。鋭く尖った巨大な牙が、その下顎から突き出ている。

 

 そしてこれ以上ないぐらい筋肉な発達した人間のような上半身には、胸と肩の辺りに鋼のような毛が生えている。

 下半身はまだ見えていないが、オークの下半身は、人間風味が漂う上半身と違い、全体が獣毛で覆われている獣仕立てのはずである。

 

 アンコウはこれまでにオーク種と呼ばれる魔獣を見たことがあるし、戦ったこともある。

 

 しかしアンコウがこれまでに見てきたそれは、この世界の中で、一般的に小豚鬼(チープオーク)と呼ばれている小型のもの。小型といっても小豚鬼(チープオーク)も普通の人間よりは大きく強い体を持っている。

 

 とはいえ、小豚鬼(チープオーク)ならば、赤鞘の呪いの魔剣との共鳴の力を手に入れた今のアンコウの力量で、問題なく対処できるはずだ。

 しかし今、空間の歪みから這い出てこようとしている豚鬼(オーク)は違う。

 

「でかいっ!」

 

 噂に聞く伝説級の極大豚鬼王(ビッグオーク)ほどの大きさはないようだが、あきらかにアンコウが自身の目で見たこともある小豚鬼(チープオーク)とは違い、中級豚鬼将(ミドルオーク)相当の大きさがある。

 

 魔獣オークの強さは同じオーク種であっても、そのランクによって天と地ほどの違いがある。それは、この世界に住むものなら、誰もが知る常識だ。

 今アンコウの視界に映るオーク。見た目の大きさもさることながら、その発せられている魔の力の覇気の強さ、

 

「ぐふっっ!何だこの圧はっ!」

 

 この世界で魔獣の頂点種の一つといわれるオーク種。

 最強クラスの極大豚鬼王(ビッグオーク)ともなれば、霊獣ドラゴンさえも真っ二つに引き裂く力を備えているといわれている。

 

「ちっくしょおぉぉーっ!」

 叫ぶアンコウ。

 

 突然のこのピンチ。今、アンコウができる選択は、逃げの一択だった。

 

 

 アンコウはすでに引き抜いた赤鞘の魔剣を右手に持ち、魔剣との共鳴による肉体の強化を図っている。その強化された両足の筋肉を全力で用い、アンコウは走る。

 

 しかし、そのアンコウの背後から急速に近づいてくる足音がある。カルミだ。

 ナナーシュを抱えているにもかかわらず、カルミの走る速度は共鳴を発動させたアンコウよりも速い。その走るカルミの姿が、後ろを振りむいたアンコウの視界にも入ってくる。

 

「なっ!?」

(なんてガキだよっ、ほんとにっ)

 

 全力で走り続けるアンコウの横をナナーシュを背負うカルミが追い抜いていくのにさほどの時間はかからなかった。

 

「くくっ~~」

 置いていかれてたまるものかとアンコウも必死にカルミに喰らいついていく。

 

ビシッ、

「痛てっ」

ビシッ、バチッッ、

「ぐがっ、痛ててっ!」

 

 カルミの後ろに食らいつくようにして必死で走るアンコウの顔や体に、走るカルミが地面を蹴りあげるたびに地面をえぐり巻き上げる土や小石がビシバシ当たった。

 

「!!~~~、おいっ!カルミっ!!」

 アンコウがカルミの背中に向かって、いい加減にしろと怒鳴りつけようとしたその時、

 

ブホホオオオォォォォォーーンッッーー!

 

 と、再び豚鬼(オーク)咆哮(ほうこう)が迷宮内の空間に響き渡った。

 

「ぐぐぐっ!」



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第52話 怖い豚が追ってくる

 心臓を鷲づかみにされるかのうような豚鬼(オーク)咆哮(ほうこう)に、アンコウは反射的に後ろを振り返る。

 そのアンコウの視界に映ったもの、振り返ったアンコウの視界の先には、空間の歪みの中から、完全に抜け切った状態で立つ オークの巨体があった。

 

ブホホオォォーンッー!!

 

 全身にかかっていた強烈な圧迫感から開放されたオークが天井を見上げ、歓喜の咆哮(ほうこう)をあげる。

 

 まるで小山のような体躯のテッペンにのっかっている凶悪なオークの豚面(ぶたづら)。その凶悪な豚面についている禍々(まがまが)しい赤い光を放つ両の目。

 咆哮(ほうこう)をあげ終えると、鋭い2本の牙の備えた大きな口を閉じ、オークはゆっくりと、その禍々しい赤い目玉が捉える映像を天井から地面へと移していく。

 

ブホオォッッ!!

 

 オークは走るアンコウたち3人のほうを(にら)むように見ながら、

ドザンッ!

 と、獣毛に完全に覆われた足を踏み出した。

 

ドンッ!ドザンッ!ドンッ!ドザンッ!ドンッ!ドザンッ!

 

 中級豚鬼将(ミドルオーク)が地響きをあげながら走り出した。

 

「ヒイィィッ」

(やべえぇっ、マジかっ)

 

 アンコウは必死で走っているものの、相変わらずカルミたちより後ろを走っている。

 

(このまんまじゃ、俺が真っ先に食われるじゃねぇかっ)

「カルミっ!!カルミっ!!」

 

 アンコウは走りながら、必死の大声でカルミを呼んだ。

 アンコウの呼ぶ声に反応して、カルミがちらりと後ろを見る。

 

「ん?アンコウなに!?」

「ナ、ナナーシュをこっちに寄越せ。重いだろ?代わってやるっ!」

「大丈夫、おもくない」

「ぐっ、い、いいからっ!子供を守るのは大人の仕事なんだっ!だからその子は俺が運ぶっ」

 

 そのアンコウの言葉を聞いて、カルミはわずかに首を傾げたが、

「…んっ、わかった!」

 と言うと、カルミは走る速度を落とし、アンコウに近づいていった。

 

 そしてアンコウとカルミは走りながら、ナナーシュをカルミからアンコウへと受け渡す。

 

「………よ、よしっ」

「あ、あの、」

 アンコウの肩に担がれたナナーシュが何か言いたげに声を出すが、アンコウにナナーシュにかまっている余裕などまったくない。

 

ドンッ!ドザンッ!ドンッ!

 と、どんどんとオークの巨躯がアンコウたちに近づいてきているのだ。

 

「よしっ!カルミ、俺たちが前を行く。カルミ、お前は後ろを頼むぞっ。フォーメーションツーだっ!」

 

 アンコウは、カルミと二人、この3日間に渡る迷宮での戦いの中で自然と生まれたフォーメーションツーを発動した。

 

 このフォーメーションにはいくつかのパターンがあるのだが、そのすべてにある共通する点がある。

 それは、カルミが前線で戦い、アンコウは安全圏で待機。あるいはごっつあんゴール的な感じで時々戦うこともあるよ、というものだ。

 

「うんっ、わかった!」

「えっ!?」

 

 カルミはあっさりと了承し、アンコウの肩に担がれているナナーシュは驚きの声を漏らす。

 するすると走る速度を落として下がっていくカルミをアンコウはちらりと見て、ニコリと笑みを浮かべながら言う。

 

「カルミ!前から来る敵は俺に任せろっ!」

 そのアンコウの言葉にカルミも答える。

「うん!アンコウ、後ろはまかせろっ!」

 

 なかなかふたりの息はあっている。

 ただ、アンコウたちが走る前方に敵の姿はなく、後ろには凶悪な波動を撒き散らしながら、巨躯のオークが迫っていた。

 

 アンコウの肩に担がれているナナーシュの頭はアンコウの背中側にある。

 少し顔をあげれば、迫り来るオークの姿も、するすると下がっていくカルミの姿も彼女にははっきりと見えている。

 

「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ!あなたどういうつもりっ!」

 ナナーシュがアンコウに抗議の声をあげる。

 

 カルミはアンコウの指示に何の躊躇(ためら)いなく従ったが、ナナーシュは6歳の童女を迫りくるオークの矢面(やおもて)に立たせるようなアンコウの指示に強い反発を覚えた。

 

 しかしアンコウは、ナナーシュの抗議の声に答えを返すことなく、全力で走り続ける。

 ナナーシュの目には、カルミとオークの距離がどんどん縮まっているのが見える。

 

「止まってっ!このままじゃあの子が、カルミがオークに追いつかれるっ!」

 

 ナナーシュは、アンコウの肩の上で大きく身をよじりながら叫んだ。

 

「チイッ!暴れるなよっ、走りにくいだろうっ!」

「なっ!あんな子供を一人であのオークと戦わせる気なのっ!」

 

(くそっ、うるさいガキだなっ)

「俺とカルミの戦い方ってものがあるんだよ!ちょっと黙ってろ!」

 

 アンコウにそうは言われても、ナナーシュは納得ができないようだ。

 

「お、降ろしてっ。私もいくわっ!」

 

(ったく、うだうだと)

「人に担がれているやつが何言ってんだ!お前はまだ、思うように体を動かせないんだろ!カルミの足手まといになるだけだっ」

「でも、でもっ、」

 

 ナナーシュには、アンコウがカルミを犠牲にして自分が逃げる時間を稼いでいるようにしか見えていない。そして、その認識は間違ってもいない。

 

「あ、あなたは恥ずかしくないんですか!あんな小さな子を犠牲にしてっ!」

「ぐっ」

 アンコウは一瞬言葉に詰まる。

 

 この世界で生きていれば、人の生き死にというものに否応なく慣れていく。

 アンコウの中で、元の世界にいた頃と比べれば、随分と人の命の重みというものが軽くなってしまっている。

 

 しかし決してアンコウは、人の心を捨て去った化物(モンスター)になったわけではない。

 それどころか、変わることなく実に人間らしい利己的で常識的な外面を気にする小心な心も、アンコウはしっかりと保持している。

 

 6歳の童女をおとりにして保身を図る行為が、恥ずかしいのか恥ずかしくないのかと聞かれれば、恥ずかしいに決まってるだろと、口には出さないがアンコウも思っている。

 しかも、(だい)の大人の男のアンコウに、その指摘をしているのが、カルミと背丈の変わらないドワーフの少女なのだ。

 

 それでもアンコウは、自分の行動を変えることはしない。そんな常識や道徳よりも、自分の命が大事。

 アンコウは、その程度の恥ずかしさのために自分の命を捨てるつもりはない。

 

「お、俺たちには俺たちに戦い方があるって言ってるだろ!何にも知らないお荷物が勝手なことを言うなっ!」

「で、でもっ!」

「大体あのデカ豚を連れてきたのはお前なんじゃないのかっ!」

「!そ、それはっ~~!」

 今度はナナーシュが口ごもる。

 

 そうなのだ。あの豚鬼(オーク)はナナーシュを追ってきた。

 自分が、この人たちを巻き込んでしまったという自覚がナナーシュにはある。

 

「~~で、でもっ~~」

 ナナーシュの声が震える。

「~~あんな小さな子をおとりにするなんて~~」

 申し訳なさと情けなさで、ナナーシュの声と体が震える。

 

 そのナナーシュの声と体に現れた彼女の心の震えが、アンコウの中で自身の生存欲よりもかなり小さくなっている良心というものを、チクリチクリと刺激した。

 

「ひ、人聞きの悪いことを言うなっ、こ、これも作戦だっ!い、いいかっ、俺はカルミより弱いんだよっ!強いやつが最前線に立つのは当たり前だろうがっ!」

 アンコウが、思わず叫ぶように言う。

「えっ、」

 

 事実とはいえ、大声で大の男が6歳女児より俺は弱いと宣言するのは、さすがのアンコウもくるものがあるらしい。

「~~~~っ」

 言い終えた後のアンコウは、なんとも言えない顔をしている。

 

 カルミには半分ドワーフの血が流れている。アンコウに言われて、ナナーシュもドワーフと人間の間にある種族的優劣性というものに思い至る。

 それに、目の前に映る身の丈ほどもあるメイスを片手に走るカルミのあの動き、少し冷静に見れば、カルミのあの動きはドワーフの常識で言っても6歳の童女ができるものではない。

 

「………あの子、強いの?」

「ああ、俺よりも…ずっとな……」

 

 事実としてカルミはアンコウより強い。しかしアンコウは、カルミがひとりであのオークを屠る力を持っているとも思っていない。

 

ブホオオォッ!

 中級豚鬼将(ミドルオーク)が自分の攻撃圏内にカルミをとらえたようだ。

 オークが太っとい腕の先、巨岩のような拳をカルミ目がけて叩きつける。

 

ドガアァンッ!

 カルミに避けられたオークの拳が、地面をえぐりクレーターをつくる。

 オークの拳によってえぐられた岩土が周囲に飛び散り、アンコウたちにも襲いかかる。

「キャアァッ!」

 

 自分のすぐ横を飛び過ぎて行った 自分の頭よりも大きい岩に驚き、ナナーシュが悲鳴をあげた。

 アンコウは走る速度を落とすことなく、そのまま大きい岩影に飛び込んだ。

 

ズザアザァァーッ!

 

 アンコウは地面を滑りながら、担いでいたナナーシュを放り出すように降ろしつつ、身を隠す。

 

ゴンッ!ガンッ!ゴンッ!ガンッ!

 岩壁にブチ当たる大小の石の音。

「チイィッ!」

 

 そして、石が岩壁に当たる音が聞こえなくなるのを確認してから、アンコウは岩壁の影から様子を覗き見た。

 

「ウゴォアッ!」

ゴオッガンッ!

「ブモモォォッ!」

ドォンッ!

「タアァァーッ!」

ボゴォンッ!

 

「!!……あいつ、マジか」

 

 カルミの戦闘力の異常性には初めから気づいていたアンコウだが、

中級豚鬼将(ミドルオーク)と、正面からやり合ってやがる!?)

 

 思っていた以上だと、ビビるってことを知らないにも程があると、自分がそうなるように仕向けたにもかかわらず、アンコウは驚き呆れ、その戦いに見入ってしまう。

 

「ブゴォアッ!」

ドオッガンッ!

「ブモォォーッ!」

ドオォッ!

「ヤアァァーッ!」

バゴォンッ!

 

 しばしの間、カルミとオークの戦いを見ていたアンコウの口から、また「チッ」と、舌打ちが漏れた。

(……さすがにムチャだな)

 

 カルミの戦闘力の高さには、この3日間を通してアンコウは驚かされつづけた。

 今もまた、アンコウが初めてお目にかかる中級クラスのオーク相手に臆することなくやりあっている。しかし、眼前の巨躯の豚鬼(オーク)もまた、聞きしに勝る強さを披露していた。

 

 戦いが続くにつれて、あきらかにカルミは守勢に回りつつある。

(地力の違いだ)

 このままいけば、時間とともにオークが優勢になることは間違いないとアンコウは見た。

 

 そして、アンコウの後ろで、カルミとオークの戦いを見ているナナーシュも同様に感じたらしい。

 

(な、なにあの子っ。肉弾戦であのオークとまともに戦えるなんてっ……で、でも、このままじゃっ)

 

 この12歳のドワーフの少女は、年齢によらず、なかなか戦いを見抜く目を持っているようだ。

 ナナーシュはアンコウに問いかける。

 

「ね、ねぇっ、あの子。精霊法術は使えないのっ!?」

 

 妖精種に属するドワーフは皆、生まれた時から抗魔の力を有し、人や獣人と違い、その抗魔の力を源とし昇華させた精霊法力をも有する。

 その精霊法力をもって、精霊法術や魔工の術は具現化される。

 

「カルミは放出攻撃型の精霊法術は使えないらしい。魔工は多少出来るみたいだけどな」

 

 カルミは持って生まれた抗魔の力の大きさに比べて、その力を法術に具現化させるのが得意ではないようだ。

 

「あいつは半分人間だからな。お前らみたいにはいかないさ」

 

 アンコウはカルミの戦いを見つめながら淡々と言い、それを聞いたナナーシュの表情がさらに厳しいものになる。

 ナナーシュは、あれだけの戦いができるカルミが放出攻撃型の精霊法術を使えれば、あのオークに勝てる可能性があるように思えた。しかし、肉弾戦だけでは厳しい。

 

「言っとくが、俺も使えないぞ」

「で、でもあなたのその力、魔剣と共鳴してるんじゃ」

 

 やはりナナーシュは、戦いに関して、なかなかの知識・眼力を持っている。

 アンコウは自分はカルミより弱いと言い、それについてはナナーシュも納得した。

 

 しかしナナーシュは、カルミより弱いとしても、このアンコウという人間もかなりの戦う力を持っていると見抜いている。

 

「このままじゃ、あの子が、カルミは殺されるわっ」

 

 ナナーシュのその言葉は、アンコウには、自分にオークとやり合っているカルミを助けに行けと言っているように聞こえた。

 

 するとアンコウは、わざとらしく自分の足を手で抱えるようにし、

「あ、足が痛いっ!」

 と棒読み口調で言った。

 

 アンコウを見るナナーシュの眉間にしわがよる。

(何この人っ、さっきからっ)

 

 ナナーシュには、自分が中級豚鬼将(ミドルオーク)を連れて来て、この人たちを巻き込んでしまったという思いがある。

 だから、口に出しさなかったが、アンコウに先ほどからの一連の行動には少なからず苛立ちを感じていた。

 

 強いとは言っても、(カルミはまだ子供だし、あなたの仲間なんでしょっ)ということだ。

 

 アンコウは先ほどから会話をしながらも、ナナーシュのほうにはまったく目を向けていない。ずっと、カルミとオークのほうを見ている。

 それでも、ナナーシュが自分に向け始めた負の感情を敏感に感じ取っていた。わかったうえでフル無視をかましている。

 

 アンコウにとってカルミは間違いなく味方であり、アンコウはカルミに何ら悪意は抱いていない。

 しかし、アンコウはカルミと知り合ってわずかに3日。カルミを救うために命がけで無謀な戦いに身を投じる理由はない。

 

 ただ、あのクラスのオークを敵にすれば、こんな岩壁の後ろに隠れていたところで、お前の命は風前の灯だという点では、いま直接戦闘をおこなっているカルミも自分も大差はないとアンコウは理解している。

 

 その理解のうえで、アンコウは自分が生き延びるためには何をするればよいのか、何か出来ることがあるのかと必死で考え、脳みそを回転させていた。

 そしてアンコウは、ナナーシュの自分に対する苛立ちはまったく無視して問いかける。

 

「おい、ナナーシュ。お前が出てきたあの空間の歪みの向こうはどこにつながっているんだ?」

「えっ?」

「あそこから外に出られないのか?」

 

 アンコウは、もう随分と距離が離れてしまった空間の歪みのほうを見ながら聞いた。

 



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第53話 行動する者、観察する者

「外にはつながってないわ。忘れたの?あの中級豚鬼将(ミドルオーク)も、あの歪みから出てきたのよ」

 

 ナナーシュの口のききようは、驕慢(きょうまん)ではないが自然と上の立場からものを言う雰囲気が漂っている。

 

(やっぱり、いいとこのお嬢ちゃんなのか)とアンコウは思う。

 

「それはわかってる。だけど、お前もこの迷宮の中に住んでいるわけじゃないんだろ」

「ナナーシュよ。お前なんて呼ばないで。アンコウ」

 

(お前は、いきなり大人を呼び捨てか。カルミといい最近のガキは)

 と、アンコウは思うが、いちいちそんなことを指摘することはしない。

 

 種族に家柄、身分差別が当たり前のこの世界では、ナナーシュがドワーフという妖精種のいいところのお嬢ちゃんだとしたら、ただの人間族の冒険者でしかないアンコウが、ナナーシュをお前呼ばわりすることのほうがよほど非常識なのだから。

 

「………チッ、ナナーシュお嬢様。あんたのお屋敷がこの迷宮の中にあるわけじゃないんだろう」

 

 ナナーシュも、この状況下で、これ以上アンコウに噛みつくことはしなかったが、アンコウの舌打ちと面倒くさげな言いように眉をしかめていた。

 

「ご機嫌を損ねたんだったら御容赦を、お嬢様。だけど、俺はこの迷宮から出たいだけなんだ。カルミと一緒にあのオークと戦うよりも、カルミと一緒にこの迷宮から逃げ出すほうが上策だろ」

 

 ナナーシュも、そのアンコウの意見に(うなず)くものの、そのすぐに頭を横に振る。

 

「……幻扉(ファンポルト)の鍵を使って、この迷宮に入ったの。だけど、迷宮に入ってすぐに、あのオークが現れて……」

 

 ナナーシュは、自分がここに至るまでの経緯を手短にアンコウに話しはじめた。

 幻扉(ファンポルト)の鍵というのは、あの空間移動ができる歪みを発生させる魔具の鍵で、この迷宮の内と外をつなぎ、この迷宮の内部で空間移動することもできるのだそうだ。

 

 アンコウはそんな魔具の存在は初めて聞いた。

 普通、迷宮を稼ぎ場としている冒険者は、どれほど高い能力を持つ冒険者であっても、自らの足で迷宮に潜り、出てくる時も自らの足で戻ってくるもの。

 ただ、この幻扉(ファンポルト)という魔具も、どこの迷宮でも使えるというような代物(しろもの)ではないらしい。

 

 ナナーシュは、その幻扉(ファンポルト)の鍵という魔具の扱いに慣れておらず、それがためにオークがいるような迷宮の階層との扉を開けてしまい、気づかずに入り込んでしまったようだ。

 

 そこで、あのデカいオークに襲われたらしい。

 慌てて逃げ出して、焦って、再び幻扉(ファンポルト)の鍵を使ったのだが、それが今度は、たまたまアンコウたちがいたこの階層とつながったとのこと。

 

 さらに悪いことには、逃げながら何とか開いた歪みの道に飛び込む際、その幻扉(ファンポルト)の鍵を向こう側の階層に落としてきたと言っていた。

 

(なんていうか、やらかしていることが実にガキっぽい)

 と、そのナナーシュの話を聞いてアンコウは思った。

 

 アンコウは、ナナーシュがこの迷宮に入ってきた理由や聞いたことのない魔具の存在などについて、この場で聞くようなことはしない。

 この切迫した状況で聞くようなことではないからだ。そんなことよりも、ナナーシュの話の中でアンコウが一番反応したこと、それは、

 

「チイッ。それじゃあやっぱり、この階層には外への出口はないのかよ」

「それはわからないわ。私もここに来るのは初めてだから」

 

 固定式の出入り口もあるらしいのだが、ナナーシュはその場所もわからない。

 アンコウはいっそう眉を(しか)めながら考える。

 

「……あの歪みの向こう側に、その幻扉(ファンポルト)の鍵ってのが落ちてるんだよな」

「ええ」

「それを使えば、外に出られるんだよな」

「ええ。だけどあなたには使えない。カルミにも」

「………お嬢様なら使えるのか?開くとこ間違って、あのオークに会いにいったんだろ?」

「うぐっ、し、仕方がないでしょ!初めて使ったのよ。次は失敗しないわ!それに里に戻るだけなら、ある程度時間さえあれば間違いなくつなげてみせるわっ」

 

 ナナーシュは少し強い口調で言いながら立ち上がった。

 アンコウが、ちらりとそのナナーシュの姿を見る。

 精神的ショック状態からも脱し、回復ポーションも効いてきたのか、ナナーシュはもう普通に動けるようだ。

 

 アンコウはずいぶんと離れてしまった空間の歪みのほうに再び目をやり、

「だったら、その幻扉(ファンポルト)の鍵を取りにいくしかないな」

 と、言いながら腰を浮かす。

 

「カルミと3人であの歪みの中に飛び込んで、その鍵を手に入れたら、お嬢様に外につながる道を開いてもらう。それしかないだろ?」

 

 ようやく行動を起こす気になったアンコウは、少し格好をつけながら、ナナーシュのほうを振り返り、キザにニヤリと笑う。

 ナナーシュがアンコウのその言葉に、何か言葉を返そうとした瞬間、ナナーシュの視線がアンコウの顔から逸れる。

 

 そして、

「あっ!」

 と、ナナーシュが突然驚きの声を出した。

 

「うん?どうした」

 アンコウのナナーシュを見る目が、怪訝なものに変わる。

 

 ナナーシュは目を見開き指差した。ナナーシュの視線も指先もアンコウのほうを向いていない。

 アンコウはナナーシュの指先をたどり、

「どうかしたのか?」

 と、もう一度言いながら視線をその方向にむける。

 

「消えたわ………」

 と、ナナーシュ。

 

 かなり距離は離れてしまっていたものの、ついさっきまで間違いなく視認できていた空間の歪みが、キレイに消えてしまっていた。

 ようやくアンコウが行動をおこす決意を固めたとたん、どうやら時間切れらしい。

 

「…………………………」

 それを見たアンコウは、無言のまま、再びゆっくりとしゃがみこんだ。

 

(何だよおおぉぉぉーーっ)

 

 アンコウは、そして再び動かなくなった。

 

 

(くっ、何もできない)

 アンコウはひとり逃げるか、と思ったところで、ここは出口がどこにあるかわからない迷宮の中。

 

 ナナーシュが話した幻扉(ファンポルト)の鍵が手に入らなくなった以上、仮にひとりで、あのオークから逃げることができたとしても、この迷宮内から出ることはできない。

 

 アンコウはしゃがみこんだまま動かない。

 

「ああっ!」

 と、声をあげたのはナナーシュ。

 

 少し離れたところで戦闘を続けるカルミと中級豚鬼将(ミドルオーク)。オークの強烈な一撃を受け止めたカルミが、大きく弾き飛ばされていた。

 

「くっ!」

 グッと口を真一文字に結んだナナーシュが動き出す。

 

 ナナーシュはアンコウの横をすり抜け、岩壁の後ろから出て行こうとする。

 そのナナーシュをアンコウはちらりと見た。

 

「……待てよ。どこに行くつもりだ」

 

 ナナーシュがどこに行き、何をしようとしているのか、もちろんアンコウにもわかっている。

 

「カルミを助けに行くのよっ。このまま見殺しにはできないっ」

 

 アンコウは軽くため息をついた。

 

「オーク相手に得物(えもの)もなしでか?お嬢様は大精霊法術師か何かなのか?」

「うぐっ、せ、精霊法術なら使えるわっ。……回復と支援系だけしか使えないけど」

 

 ナナーシュは、まだ残っていた自分の体のかすり傷に手をあて、精霊法術を発動させる。すると、スウッとその傷が癒えていった。

 

「へえっ」アンコウは少し驚いた。

 

「攻撃系はぜんぜんなのか?」

「だめ、使えない……」

「何で今まで自分に回復術をかけなかった?」

「そ、それは、オークから逃げるので手いっぱいで、集中する隙もなくて……」

 

 確かに、あのオークの攻撃を受けながら精霊法術を発動することは容易(たやす)くない。

 また同じ少女でも、ナナーシュはカルミと違って、こういった実戦戦闘に不慣れなことはあきらかで、とっさに適切な判断をすることができなかったのだろう。

 

「お前が行って、カルミの役に立つのか」

 アンコウは少し鋭い口調で言う。

 

「くっ、わ、私は行くわっ。あなたは戦う気はないんでしょう!カルミの足手まといにはならないっ!」

 ナナーシュの決意は本物のようだ。

 

 アンコウは、ナナーシュの体つきを値踏みするように見て、そして、ナナーシュの目を見る。

 

 このお嬢様は実際の戦闘経験はおそらく乏しい。だけど、それなりの修練はつまされているようだと思った。

 どうせこのままでは埒が明かない。アンコウとしては、カルミ以上にナナーシュの命はどうでもいい。

 

(このガキに動いてもらうのも悪くはないか……)

 

「ナナーシュ、剣は使えるか?」

「えっ?ええ、少しは」

 

「そうか」

 と言って、アンコウは魔具鞄の中から予備の長剣を取り出す。

 

「あっと、これは重過ぎるか」

 取りだした剣の重みを感じて、アンコウは小さくつぶやく。

 

 アンコウは、その剣を鞘に入ったまま上下に揺すり、重さを確認する。

 そこにナナーシュが、スッと手を伸ばし、アンコウの手から剣を取った。

 

「お、おいっ、ナナーシュ」

「大丈夫よ。重くなんかないわ」

 

 ナナーシュは鞘から剣をスラリと引き抜くと、その場で2、3度、軽く剣を振って見せた。

 ナナーシュの動きに鈍さはなく、剣の重さはまったく感じていないようだ。

 

(……片手かよ。そうだ、こいつもドワーフだったな)

 

 人間の同じぐらいの体格の少女だったら、こんなことは絶対にできない。ドワーフという種族の持つ身体能力の高さをアンコウは思い出した。

 

 ナナーシュは剣を手に再び歩き出す。

 ナナーシュはチラリとアンコウを見るが、アンコウの視線はすでに、カルミとオークのほうへと向いていた。

 

(もう止めないんだ)

 ナナーシュは口に出すことなく思う。

 

 本当は止めて欲しいと思っているというわけではない。

 ただナナーシュは、今までずっと危険な目にあわないようにと周囲に守られ、善意によるものではあるが、自由に行動することを制限されてきた少女だった。

(少し新鮮ね)

 

 ナナーシュが幻扉(ファンポルト)の鍵を使って迷宮に飛び込んだのは、周囲の者たちの日頃の過保護に反発し、感情的に起こした行動だった。

 その結果ナナーシュは、巨躯のオーク相手に戦う破目になっている。それを思いナナーシュは、自嘲気味な笑みをその口元に浮かべた。

 

(自分の軽率な行動が原因。死ぬかもしれない)

「………だけど、カルミを見殺しにすることはできないわっ」

 

 ナナーシュはさらに足を踏み出し、岩壁を抜ける直前にアンコウに一言声をかけた。

 

「………あなたはいつまでここにいるの?カルミは仲間なんでしょ」

「足が痛いんだよ」

 

 アンコウは、ナナーシュの方をもう見ることなくそう言い、申し訳程度に足をさすってみせた。

 それを見たナナーシュの眉間に、また深いしわがよる。

 

(さっき抱えていた足と逆じゃないっ)

「……あのっ」

「チッ!」

 まだ何かアンコウに言おうとしたナナーシュの言葉をアンコウの舌打ちがさえぎった。

「!!~~!!」

 

 ナナーシュの顔にあきらかな怒りの色が浮かぶ。

 しかしナナーシュは、それ以上アンコウに突っかかることはせず、すぐにアンコウから顔をそむけ、岩壁から出て歩き始める。

 

(だめだ、この男は当てにならないっ。私がカルミを助けないとっ)

 

 

 

 ナナーシュと言葉を交わしているあいだも、アンコウはカルミとオークの戦いを視界に入れ続け、考え続けていた。

 そして、ナナーシュは気がつかなかったようだが、ナナーシュが岩壁の影から離れる少し前から、カルミとオークの戦闘を見るアンコウの目の鋭さが増してきていた。

 

 アンコウは少し離れたところで繰りひろげられている戦いに、ある変化を感じはじめていた。

 

「やっぱり変だ……おかしい……」

 

 カルミと中級豚鬼将(ミドルオーク)の戦いは、序盤からオークの優勢は変わっていない。

 カルミは会心の痛打を受けることはないものの、時折オークの攻撃をその身に受け、オークの攻撃を避け続けることであきらかに体力を消耗している。

 

(カルミの息が荒い、動きも鈍くなってる)

「だけど………」

 

やあぁぁっ、とカルミの気合声が響き、当たりはしないもののカルミもメイスを振るう。

 そして、オークの足元が、わずかながらフラリフラリと揺れている。

 

 それを見て、アンコウは首を傾げる。

(オークのほうも体力を消耗している?……おかしいだろ)

 

 オークは初めからずっと動き回ってはいるものの、カルミからそこまでのダメージを受けたわけではない。

 本来ならあのクラスのオークが、この程度動いたぐらいで体力をすり減らすなんて考えられない。

 

「あっ!!」

 アンコウはようやく気づいた。

 

「………魔素かよ…そうかぁ」

 

 アンコウはおもむろに周囲を見渡し、目は鋭いままニヤリと笑った。

 

「そっか、そっかぁ。あのオークは、薄い魔素の適応能力がそんなに高くないってことか」

 

 ここは迷宮、もちろん魔素はある。しかし今アンコウたちがいる場所は、眼前にいるクラスのオークが通常生息するような濃度ではない。

 

 オーク種の特徴として、その個体による能力や性質の差が大きいということがある。

 それは極大豚鬼王(ビッグオーク)小豚鬼(チープオーク)との身体・戦闘能力の差しかり、個体別の魔素濃度の低い場所における耐性力もしかりだ。

 

 カルミに襲いかかっているオークは、カルミとの戦闘により体力をすり減らしているのではない。この階層の魔素濃度に対応できず、疲弊しつつある。

 あのオークは、魔素濃度の低い場所における耐性能力が低い個体なのだ。

 

「そっか、そっかぁ。そんなところで元気いっぱい暴れるかぁ?オークの唯一いいところは頭が悪いところだよなあぁ」

 

 アンコウは、前方で激しく戦いを続ける中級豚鬼将(ミドルオーク)とカルミ、そして、それに近づいていくナナーシュの姿を視界におさめながら、ゆらぁりと動き出した。

 



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第54話 天井に潜む者

ドガァンッ!

 ズザザッッ!

バギイィッ!

 ブモオォォッ やあぁぁーっ と響く声。

 

「カルミーっ!助けに来たわっ!」

 

 ナナーシュが、カルミと中級豚鬼将(ミドルオーク)の戦いに参戦することを宣言する。

 アンコウから借り受けた長剣を握るナナーシュの手は細かく震えていたが、中級豚鬼将(ミドルオーク)を睨みつけるナナーシュの目には、怯えの色は浮かんでいない。

 

 カルミは助けに来てくれたナナーシュを見て、うれしそうな笑みを見せたが、

ハァハァハァッ と呼吸はかなり荒く、ナナーシュに言葉を返すことはしなかった。

 

 そして、そのまま幼いハーフドワーフの戦士は、ギラリと中級豚鬼将(ミドルオーク)を睨みつけ、大きなメイスをギュッと握り締めて動き出す。

 

「やああぁぁーっ!」

 

 

・・・・・・・

 

 

 カルミとオーク、それにナナーシュも加わった戦いが続いている。

 それをじっと見つめるだけのアンコウ。

 

(やっぱりオークの動きが鈍くなっている)

 

 カルミの攻撃は未だまともにオークをとらえていないが、やはり魔素濃度の薄さによる活動機能の低下が起こっているようだ。

 

(でも、それはカルミも同じか)

 カルミに、ここの魔素濃度は問題ないが、あきらかに疲労による体力消耗によって、動きが鈍くなっていた。

(それでもカルミはよく戦っている。俺には絶対無理だな)

 

 そして今は、カルミとオークの近くにはナナーシュの姿もある。

 ここまで一度だけではあるが、オークの隙をついたナナーシュによる回復系精霊法術がカルミに使われていた。

 

 このオークを相手にし、味方は二人という状況で回復系精霊法術を発動させるのはかなり難儀なことだ、まだ1回だけとはいえ、その効果は小さくない。

 

(……予想以上だな、あのお嬢様も)

 その一度だけ決まった回復法術は、十分とはいえない発動時間で繰り出したにもかかわらず、かなりの回復効果をカルミの体にもたらしていた。

 

 それに、ナナーシュが頻繁に発動させている『見えざる壁(エアーズウォール)』も、中級豚鬼将(ミドルオーク)の剛力による攻撃の威力を効果的に低減させている。

 

(あのオーク相手に通用する精霊法術を使えるのか。でも、カルミやオークよりも、あのお嬢様が一番へばってるな)

 

「ハァハァハァッ、ハァハァハァッ、」

 ナナーシュの息遣いは荒く、肩が大きく上下に動き続けている。

 

 それは致し方がないこと。実戦経験が乏しく、あきらかに自分よりも体力が勝るオークとカルミの戦闘に飛び込み、全力で戦っているのだ。

 カルミの後方に位置取り、オークの攻撃もカルミひとりに集中してるとはいえ、ナナーシュの体力的損耗は甚だしいものがある。

 

 

ドゥオォンッ!

「キヤアァァーッ!」

 ナナーシュの悲鳴が響く。

 

 繰り出されたオークの豪腕。カルミは転がりながらも、何とかそれを避けた。

 猛烈な勢いで地面に衝突したオークの拳により抉られ、弾け飛んだ大岩がナナーシュの近くに着弾したのだ。

 

「ナナーシュだいじょうぶ!?」

 カルミがナナーシュにむかって叫ぶ。

 

 ナナーシュは大岩が弾けた衝撃で、カルミ同様 地面に転がったものの、すぐさま無理やりに立ち上がってみせた。

 

「はぁはぁっ、え、ええ、大丈夫よっ!はぁはぁっ、あっ!?」

 しかし、ガクンとナナーシュの膝が再び地面に落ちた。

 

(だ、だめ、足にきてるわ)

「くっ、オークの攻撃は全部カルミが狙われているのにっ」

 

(こ、このままじゃ、私足手まといになる)

「そ、そんなことは認めないっ!」

 

 ナナーシュの意地とプライドが、彼女を再び立ち上がらせた。

 

「ナナーシュだいじょうぶ!?」

 カルミは大きな声で呼びかけながら、ナナーシュに駆け寄ろうとするが

 

「だ、大丈夫よカルミっ!!」

 

 ナナーシュはカルミが自分のほうに来ようとするのを声と目で制した。

 それを見て、カルミは足を止める。

 

「はぁはぁ、わ、私は、足手まといにはならない」

 

 ナナーシュは疲労で震える自分の足を見つめながら、精神を集中して、自分自身に回復法術をかけようと試みる。

 薄っすらとナナーシュの体が光に包み込まれていく。

 その時、

 

「だめっ!ナナーシュ!!」

 カルミが大声で叫んだ。

 

「ブフモオオォォーッ!!」

 

 カルミをとらえていたオークの禍々(まがまが)しい眼が、いつのまにか薄っすらと光を放つナナーシュに移っていた。

 

ドンッ!ドンッ!ドンッ!

 と、地響きを響かせながらナナーシュにむかって走り出すオーク。

 そうはさせるかと、カルミもオークにむかって走り出すが、

「あっ!」

 焦ったカルミの疲労する足がもつれ、体勢を崩してしまう。

 

「えっ」

 自分に向かって迫りくる巨躯のオークを見て、ナナーシュは目を見開き、棒立ちになる。

 

 その間にも

ドンッ!ドンッ!ドンッ!

 と、さらにナナーシュに迫るオーク。

 

「あっ、あ、あ、ああっ」

 

 恐怖に心を乱されたナナーシュの精霊法術はすでに霧散しており、動くこともできず、最早為す術(なすすべ)がない。

 

「ナナーシュ逃げてーっ!」

 

 カルミが叫ぶが、ナナーシュは動けない。

 しかし、カルミの叫びが天には通じたのか、薄い魔素に適応できていない走るオークの体が、再びフラリフラリと揺れた。

 

 それでも地面に足を突き刺すかのように、

オズザンッ!と、オークはふらつく体を何とか支えて見せた。

 

 そしてオークは一時的に走る足を止めたものの、すぐさま体勢を立て直した。

 

「ブフモオォッ!」

 ナナーシュを視界に入れながら()えたオークが、再び走り出す。

 

 それでも何とか心を奮い立たせたナナーシュが、ようやく逃げようと動き出すものの、時すでに遅く、このままではオークから逃げることができないのはあきらかだ。

 

 それを見て焦るカルミ。どれだけ早く走っても、最早、間に合いそうもない。

 

(ナナーシュが危ないっ)

「ナナーシューっ!」

 

 それでも何とかナナーシュを助けようしたカルミは、手に持っていた大切な武器であるメイスを再び走り出していたオーク目がけて全力で投げつけた。

 

「やああぁーっ!」

 

 そのカルミが投げつけたメイスは、巨木のごとく太いオークの太ももに見事に突き刺ささった。

 

「ギイィガアァァーッ!」

 

 猛烈な勢いで太ももに突き刺さったメイスの痛みにオークは叫び声をあげたが、それでもなお走る足は、すぐには止まらない。

 醜悪な面相をさらに凶悪にして、叫びながら足を動かす。

 

「グギィィーッ!」

ドンッ!…ドンッ!……ドンッ、

 しかし、勢いのままにしばし走り続けた後、オークは両膝を崩れるよに地面についた。

ドザアァンッ!

 

「キャアァーッ!」

 ナナーシュが悲鳴をあげる。

 

 両膝を地面に着いた オークの巨体が、さらに前に傾き、ナナーシュが逃げている方向に、つんのめるように倒れてきたのだ。

 ナナーシュは下敷きにはならなかったものの、そのオークが倒れてきた勢いに巻き込まれて、オーク同様地面に転がってしまった。

 

「あうっ!くっ、は、早く離れないとっ」

 

 ナナーシュは、地面に体のあちこちを打ちつけながらも、必死に立ち上がろうとする。

 

「ナナーシュぅーっ!あぶなぁーいっ!」

 少し離れたところにいるカルミの叫び声が響く。

 

「えっ!?」

 と、振り向くナナーシュ。

 

 そのナナーシュの視界に、オークが体を伸ばし、ナナーシュに向けて毛むくじゃらの丸太のような手を伸ばしてくるのが見えた。

 

「あっ………」

 ナナーシュの口から絶望混じりの息が漏れた。

 

 カルミはナナーシュの名を呼びながら再び走り出していた。

 しかし、

「間にあわないよおっ!」

 

 カルミが走る前方で、今にも巨躯のオークの手がナナーシュを捕まえようとしている。

そのとき、

「あっ!」

 突然膨張する力の波動を感じたカルミは、走りながら天井を見上げた。

 

 

 

 アンコウはじっと機を窺っていたのだ。突然目の前に現れた巨躯のオークの脅威から逃れるために。

 アンコウは中級豚鬼将(ミドルオーク)とカルミとナナーシュの戦いをただじっと観察していた。

 

 ぽたりぽたりとアンコウの汗が地面へと向かって落ちつづけている。

 しかし、同様に地面へと落ちる他の水滴に紛れ、地面に落ちるアンコウの汗に気づくものなど誰もいない。

 

 天井を見上げるカルミの目に驚きと期待の色が浮かぶ。

 アンコウは気配を殺し、いつのまにか蜘蛛のように巨大洞窟ともいえる迷宮の天井に張り付いていた。

 

 アンコウの両手には、コの字型の金属具が握られている。

 そのコの字型の金属具の先は鋭く尖っており、アンコウはそれを天井に軽々と突き刺し、両足もぴったりと天井に張りつけながら移動してきた。

 

 赤鞘の呪いの魔剣は、鞘から抜かれた状態で、アンコウの腹側に一本のヒモで縛りつけられている。魔剣との共鳴状態を維持するための処置であろう。

 

 天井に張り付くアンコウの眼下に、地面に倒れながらもナナーシュに手を伸ばそうとしているオークの姿が映る。

 

 

 ナナーシュは絶望を感じながらも、今度は戦うことをあきらめなかった。

 迫り来るオークの手をなんとか退けようと、見えざる壁(エアーズウォール)を発動しようとする。

 しかし、

(だめっ、間にあわないっ)

 

 精霊法術を発動させる時間は足らず、

「ああっ、来るなあぁーっ!」

 ついにナナーシュが叫び声をあげる。

と、同時に

 

「アンコウだっ!!」

 カルミの大きな声も響いた。

 

 

 アンコウは両手両足、四肢に全力をこめて、ドンッ!!と天井を弾き、地面にむかって飛び出した。

 天井を弾いた瞬間、アンコウは落下しながら腹面にくくられていた魔剣を手に持つ。

 

 アンコウが張りついていた天井から、その衝撃で大きな岩がガラガラと崩れ落ちる。

 そして、アンコウが落下するスピードは、崩れ落ちる大岩よりはるかに早い。

 

 猛スピードで落下するアンコウの視界には、ナナーシュに手を伸ばす巨躯のオークが映っている。

 魔素の不適合により変調をきたし始めた標的(ターゲット)は、未だ地面に倒れたままで、その意識はナナーシュにのみ向けられている。しかも、その標的はでかい。

 

 まさにアンコウが狙っていたチャンスだ。

 

「うおおおぉぉぉぉーーっ!」

 

 落下しながらアンコウが吼えた。

(俺がこのクラスのオークにまともに攻撃を与えられる機会はそうはない!)

 

 アンコウはこの攻撃が、最初で最後のアタックのつもりだ。

 しかし、自分の力ではとてもではないが、たった一撃でこの中級豚鬼将(ミドルオーク)を倒すことなど叶わないこともわかっている。

 

 だからこそ、いきなり理性を保っていられる限界まで呪いの魔剣との共鳴レベルを引き上げ、天井からの落下速度を加えて攻撃力を高めた。

 

(倒せなくてもいい。でも、出来るだけダメージは与えるっ)

 

 剣を両手で握り、真下にいるオーク目がけてその剣先を突き出す。アンコウは高速で落下しながらも身をよじり、今度は竜巻のごとく体を回転させる。

 

「うおおおぉぉぉぉーーっ!」

 そして、そのままアンコウは標的(ターゲット)を正確に捉えた。

 

ザギユュルルウゥゥゥゥ!!

「ブホホオモオオォォォォーーッ!!」

 

 オークの苦痛に満ちた叫び声があがり、それと同時にナナーシュをいまにも捕らえようとしていたオークの手が彼女から遠ざかる。

 

 突然耳に響いたオークの悲鳴に、目を丸くし、「えっ?」と驚くナナーシュ。

 ナナーシュの目に、オークの背中に剣をつきたて、残像を残すほどの速さでくるくると回り続ける者の姿が見えた。

 

「うそ、なにあれ………」

 

「ブホオモオォォーッ!!」

 

 オークはまだ叫び声をあげ続けているが、オークに剣を突き刺しクルクルまわっているアンコウも苦悶の表情を浮かべていた。

 

(くうぅぅぅっ、何て固さなんだっっ)

 

 アンコウの手に伝わってくるオークの皮膚と筋肉の固さは、想像以上のものがあった。

(それに脂肪も厚すぎるだろっっ)

 飛び散るオークの血と肉をアンコウはあびつづけるなか、その回転速度が急速に遅くなっていく。

 

「ブホモオォォッ!」

 

 背中から受ける攻撃の圧力が低下し、オークは、視界には入らぬ背後の敵を押しつぶさんと、180度体を回転させた。

 

 それに気づいたアンコウは、オークの背中から剣を抜き、地面に押しつぶされる前に飛び逃げた。

 

ズザザザザアァァーーッ!

 

 飛び逃げた勢いのままに地面を転がるアンコウ。

 しかし、剣はしっかりと手に握っている。

 

「くううぅぅーっ!」

 

 自分に攻撃を加えた者の姿をようやく捉えたオークは、その攻撃目標を転換する。

 先ほどまでナナーシュに伸ばしていた手を、今度はアンコウにむかって伸ばそうと動き出す。

 

 しかし、オークは体を起こそうとしたものの、強い痛みを背中に感じて、

「ブホォモォッ!」

 と、再び苦痛の声をあげた。

 

 アンコウの攻撃はオークに致命傷を与えることは叶わなかったが、かなりのダメージを与えることに成功していた。

 

 オークは ドスンッ! と、再び地面に背中を落とした。

 

 その隙に、

「ぐおぉっ!」

 と、アンコウは未だ震える足で立ち上がった。

 

「ぐうっ、カルミっ!ナナーシュっ!逃げるぞ!」

 アンコウは大きな声で叫んだ。

 

 アンコウには、初めから剣でこのオークを倒すつもりなどはない。少なくとも自分には絶対に不可能だと決めつけている。

 ただアンコウは、このオークはこの階層の魔素濃度に適応できない個体であることを知った。では、このオークの脅威から逃れるために何をすべきなのか。

 

 変調をきたし始めているとはいえ、このクラスのオークと真っ向からやりあうリスクは高い。現状では、このまま逃げても追いつかれるに違いない。

 ならば、逃げて追いつかれない程度のダメージをヤツに与え、そのうえで逃げ出せばいい。

 

 力のみの攻撃で打ち倒すのではなく、時間の経過が魔素濃度の不適応症状を進行させ、大木が朽ちて倒れるようにあの中級豚鬼将(ミドルオーク)を倒すだろうとアンコウは考えたのだ。

 

「逃げきれば、このデカ豚は自滅する!」

 

 アンコウはもだえるオークを見て、十分なダメージは与えたと確信する。

 

 初めから逃げることを第一に考えているアンコウに、このまま戦闘を続けて剣でオークを屠るという選択肢は頭にはない。

 アンコウの頭はそれは無駄なリスクだと判断する。

 

 アンコウ自身はまったくの無傷、逃げ続けるためのスタミナも十分に残っている。

 そして、アンコウはオークに背を向け、走り始めた。

 

「逃げるぞっ!……え、へっ?」

 

 しかし、アンコウの体はカニのごとく、ほぼ真横にフラつくように走り出した。

 そしてアンコウの目は、勝手に右から左、右から左と高速で動いている。

 

「あ、あれ?」

 

 想定外。アンコウの三半規管は、クルクルまわりすぎて馬鹿になっていた。

 

(や、やべぇっっ)

 

 自分の体の状態に気づいたアンコウは心底焦る。

 このままでは絶対にオークに捕まる。自分が、カルミたちが逃げるための時間を稼ぐ撒き餌になってしまうと。

 

(じょ、冗談じゃねぇっっ)

 

 焦りながらも、横走りを続けるアンコウの視界に、未だ地面に尻もちをついているナナーシュの姿が見えた。

 しかしアンコウは、もうナナーシュに逃げろと声をかけることはしない。

 

(よ、よしっ、まだいけるっ。あいつが腰を抜かしている隙に逃げるんだっっ)

 

 全員で逃げるための出来る限りの努力はしたとアンコウは瞬時に判断し、アンコウはナナーシュをオークの撒き餌にし、自分は逃げきるという作戦に変更する。

 ナナーシュには悪いが、自分の命には代えられない。

 

「うおおぉぉーっ!」

 

 気合を入れなおし、アンコウはさらに両足に力をこめて必死で走り始める。しかし残念ながらスピードはまったく出ず、横走りもまったく改善されていない。

 

 

ガシイィィッ!

 

 アンコウがオークに捕まった。

 

「な、なんで俺なんだよおぉぉーッ!」

 



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第55話 怒れる中級豚鬼将

「うきいぃぃぃーーっ!!」

 

 アンコウの口から、甲高い悲鳴があがる。

 中級豚鬼将(ミドルオーク)のごっつい手で、体を潰されんばかりに握り締められている。

 

うきいいぃぃっと、叫びつづけるアンコウの口から、そのうち白い泡が吹き出し始め、目が白目を剥きはじめた。

 

「アッ、アアッ…………(ヤバイ…い、意識がとぶぅぅ)」

 

 アンコウが白目の向こうに、そろそろ三途の川の景色を見はじめた頃、まだ交互に見えている現世(うつしよ)の景色の中に、見覚えのあるアフロヘアーが現れた。

 

「アンコウをっ離せえぇーーッ!!」

 

 カルミだ。カルミは、オークのぶっとい毛むくじゃらの太ももにとびかかり、その太ももに突き刺さっていた自分のメイスを一気に引き抜いた。

 

「ブモモオォォッ!」

 太ももに強い痛みを感じたオークが悲鳴をあげる。

 

「うきいぃぃぃーっ!」

 そして、もうひとつの悲鳴。

 

 オークは太ももに痛みを感じると同時に、反射的にアンコウを握る手にも力がこもった。

 アンコウは悲鳴をあげながら、体をビクつかせている。

(は、離してええぇぇぇ)

 

 メイスを取り戻したカルミは、助走をつけるように走り出した。

 そして、

「アンコウをっ

………離せええええっ!こいつめえぇぇっ!」

 

 カルミは叫びながら、メイスを豪快に振りあげ、大きく飛び上る。

 此岸(しがん)彼岸(ひがん)の風景を行ったり来たりで映しているアンコウの目が、大きなオークの体のそのまた上に飛びあがるカルミの姿を捉えた。

 

「カ、カルミ、この、豚の手をぶったたけぇぇ!」

 

 アンコウは、一刻も早くこの豚の手の中から逃れたい一心だ。

 しかし、カルミが飛び上がっている場所では、自分を捕まえているオークの手には届かないことも瞬時に理解するアンコウ。

でも、

(カルミのメイスは、俺を捕まえている豚の手にはとどかない、でも、豚肩にだったらギリギリとどくっ)

 アンコウは混濁する意識の中、渾身の力をふりしぼり、もう一度叫ぶ。

 

「クゥアルミぃぃっ!こいつの肩を叩けぇぇぇッ!」

 アンコウの叫び声が、何とかのどの奥から搾り出された。

 

 しかし、少し遅い。カルミの耳に、アンコウのその声はとどいたが、カルミのメイスはすでに振り落とされはじめていた。

 

「やああぁぁーーっ!!」

 

 カルミのメイスが振り落とされはじめた先、それはオークの豚頭の脳天。

 頑丈にできているオークの体の中でも、オークの頭が特に硬いことは広く知られている。

(頭はだめだっ、カルミっ)

 

ガゴォォォオオオオンンッ!

 

 カルミのメイスが、オークの頭に振り落とされた瞬間、凄まじい音が響いた。

 カルミの全力の一撃だ。効かないわけはない。

 

「グゥモモオォォーッ!」

 

 オークの苦痛の叫びが響く。

 ただ、オークの頭はあまりに硬い。その脳天の痛みに、オークはさらに怒りを燃やした。

 

「ブブブモモオオォォォッ!」

 

 オークは怒りの叫びを上げながら、カルミにむかって(こぶし)を繰り出した。そして、その拳にはアンコウが握られていた。

 

「ヒイィィィッ、や、やめえぇぇーー」

 叫ぶアンコウの顔は、信じられないぐらい引き攣っている。

 

 カルミは、そのオークのアンコウ入り拳を軽やかに避けた。オークの動きは、先ほどよりあきらかに鈍くなってきている。

 カルミに、あっさりと攻撃をかわされたことに腹が立ったのか、オークは鼻息荒く再び叫んだ。

 

「!ブホモオオォォッ!」

 

「あっ!」 と、声を漏らすカルミ。

 オークは地に伏したまま、右手を大きく横に振りかぶり、地を這うようなアンダースローで、カルミめがけてアンコウを投げつけたのだ。

 

ビイィィィユウゥンッ!

 剛速球。ボールはアンコウ。

(!ひいぃぃぃぃっ!)

 凄まじい風圧で、アンコウは叫び声も出せない。

 

 カルミはとっさに飛んできたアンコウボールをギリギリ避ける。

 とてもじゃないが、アンコウを受け止める余裕はなかった。

 

「アンコウッ!」

 

 カルミにかわされた後も、アンコウの速度は落ちない。アンコウはこんなザマになっても、まだその右手に例の呪いの魔剣をしっかりと握っていた。

 アンコウもあきらめてはいない。アンコウはとっさに魔剣との共鳴度合いを再度引き上げる。

 

「がああぁぁぁーっ!」

 アンコウの眼前に岩壁が迫る。

ドゴオオォォォンッ!

 アンコウは速度が落ちることなく、岩壁に激突。爆ぜた岩壁が周囲に散らばった。

 

 

「…アガ……あが…アガガ……」

 崩れた岩の塊と共に、アンコウは地面に倒れている。

 

「ア、アンコーゥっ!」

 カルミが、それを見て叫んだ。

「このおぉっ!よくもアンコウを!」

 

 カルミは(いか)った。初めてできた仲間のアンコウを思い、(いか)った。

 カルミはメイスを握る手に力を籠め、激しく地を蹴り、オークにむかって突撃した。

 

 中級豚鬼将(ミドルオーク)は立ち上がろうとするが、また体勢が崩れる。

 オークは進行する魔素濃度の薄さに対する不適応症状とカルミのメイスによる攻撃により、完全に足がおぼつかなくなってきている。

 それでも自分に迫るカルミに対して、攻撃せんと手を伸ばす。

 

「ブホオォッ!」

 

 しかし、そのカルミを大きな手で叩き潰さんという攻撃はカルミに当たることなく、虚しく地面をたたく。

ドオォンッ!

 

 オークの手によるハエタタキのような攻撃をかわし、カルミは再び飛び上がった。

 

「やああぁぁーっ!」

 飛びあがりながら、メイスを握るカルミの狙うは、オークの肩だ。

 

(アンコウが肩をねらえって、さっき言った)

 

 さっきはタイミング遅く間に合わなかったが、アンコウが肩を叩けといった言葉はカルミに耳にとどいていた。

 この三日間のアンコウとの共闘を通じて、カルミはアンコウの指示にかなりの信頼を持つようになってる。

 

 実際には、アンコウは自分に都合のよい指示を出していただけなのだが、カルミの実力により、結果的に敵をうまい具合に倒し続けることができ、子どもなカルミは、それはアンコウの指示どおりに闘ったからだと理解してしまっていた。

 

 アンコウが、カルミにオークの肩をたたけと言ったのは、オークの手に捕らえられていた自分が解放されたかったからでしかなく、すでにオークにブン投げられて、岩壁にぶつかり済みのアンコウとしては、いまさらカルミがオークのどこを攻撃しようがどうでもよい。

 

 しかし、そんなことは知らないカルミは、アンコウの指示に従ってオークの肩を狙い続ける。

 

ドォガァッン!

 カルミのメイスが、オークの右肩を強打する。

「ブモオォォーッ!」

 

 効いた。怒りに狂うカルミの一撃は、あきらかに先ほどよりも威力が増している。

 オークは苦痛に悶えながらも、今度は左腕を大きく上にあげ、地面に着地したカルミを狙う。

 オークの左腕が唸りをあげながら、高所から小さなカルミめがけて振り下ろされる。

 

「肩っ!!」

 カルミは逃げることなく、オークにむかって再び飛びあがる。

「かたカタかたぁ、かぁたあぁぁっ!」

 

 紙一重で、オークの手の平をすり抜け、完全にカウンターの形でカルミの一撃が、今度はオークの左肩にきれいに入った。

 

ドォガアアァッ!

「ブゥフモオォォーッ!!」

 さっきより大きいオークの苦痛の声があがる。

 

 完全にカウンターで入ったカルミのオークの左肩への一撃は、オークの左肩の肉を裂き、筋肉を断裂させ、間違いなく骨にまでダメージを与えた。

 

 痛みと怒りに狂うオークは、必死に立ち上がろうとする。

 しかし、上半身は何とか持ち上がるものの、生まれたての子鹿のようにひざが笑っている。足に思うように力が入らないようだ。

 

「かぁたあぁぁっ!」

 

 オークの体を駆けあがるようにカルミは突進し、今度はオークの右肩を狙う。

 

ドォンッ! バゴオォッ! ドオォガァッ!・・・・・・・・・・・・・!

 

カルミはアンコウの指示に従い、抵抗する力を失いつつあるオークの右肩をブッ叩きつづけた。

 

 そして、

ドザァンッ!

 ……オークの右腕が地に落ちた。

 

 ブモモォォ~~!!! と、オークの絶叫が響き、大量の血が吹き出る。

 

 上半身が揺れ、ゆっくりと地に倒れそうになるオークに、再び飛びあがったカルミが、容赦なく全力でメイスを振り下ろす。

 

メエェギイィィィッ!

 

 カルミの強烈なメイスによる一撃が、中級豚鬼将(ミドルオーク)豚鼻(ぶたばな)にめり込んだ。

 オークの体が、ゆらあぁりと、なぎ倒された大木のように崩れゆく。

 

 そして、崩れゆくオークの目から命の光が消えていく。

 オークの豚鼻からは噴水のごとく鼻血が噴き出し、その大量な鼻血は放物線を描き、宙を舞う。

 

 

 中級豚鬼将(ミドルオーク)にブン投げられ、岩壁にぶつけられたアンコウは、なんとか立ち上がろうとしていた。

 

 とっさに魔剣との共鳴を高め、肉体の強化を図ったことが功を奏し、まだ体は思うように動かないものの、アンコウはそれほどのダメージは受けていないようだ。

 クルクル回り過ぎて、バカになっていた三半規管も元に戻っている。

 

「く、くそぉぉ、どうなった、オークとカルミはっ」

 

 アンコウは戦況を確認しようと顔をあげる。しかし、顔をあげたアンコウの視界前方は、押し寄せる真っ赤な何かでいっぱいになり、何も見えない。

 その赤がなんなのか、アンコウにはとっさに判断できなかった。

 

 そのアンコウにむかって迫ってきていた赤いものは、カルミに豚鼻をブッ叩かれて噴き出したオークの鼻血だ。

 

「!へっ!」

ジャバアアァァアアーー!

 アンコウは、放物線を描いて飛んできたオークの鼻血にのまれた。

「!!っっっ~~~!!」

 

 

 

ドオォザアァンッ!!!

 オークは地に倒れ、仰向けのまま動かなくなる。

 

 鼻と腕から流れ出つづける血で、オークのまわりに、あっという間に血の池ができた。

 

「………うそ……あの中級豚鬼将(ミドルオーク)を倒したの……」

 

 まだ地面に尻もちをつきながら、動かなくなったオークを呆然と凝視しているのはナナーシュだ。

 そして、そのナナーシュが見つめる倒れたオークの近くには、

ゼェゼェゼェと、肩で激しく息をしながら立っている童女がいた。

 

(ハッ!)

「 カ、カルミっ!!」

 

 ナナーシュに大きな怪我はない。ナナーシュは大きな声でカルミの名を呼び、急いで立ち上がろうとした。

 その時、

 

------ ナナーシュさまっ

 

 ナナーシュは、遠くから自分の名を呼ぶ声を聞いた。

 ナナーシュが、声が聞こえたほうを見ると、ものすごいスピードでこちらのほうに駆け寄る人の姿がみえた。

 

(!あれは………!)

「ボルファスっ!!」

 

 ナナーシュは、少し安堵したような表情を浮かべて、駆け寄る者の名を呼んだ。

 

 

 

 

「では、ナナーシュ様はこの者達にお命を助けられたと」

 

 ボルファスの言葉に、「ええ」と、ナナーシュは(うなず)く。

 

 ボルファスは、ナナーシュに付き従う者らしい。

 身長は160センチに満たないだろう。分厚い肉に覆われたダルマのような体。頬からあごを覆うような立派なヒゲ。

 実践向きではあるが細かな彫刻も施された鎧を身につけ、腰には太い剣を差している。魔力を纏うその剣は、おそらく相当な力を秘めた魔法剣。

 

 その所作態度からも察するに、間違いなく高い地位にある者だろう。その男がナナーシュを目上の者として扱っている。

 それにボルファス以外にも、ナナーシュを取り囲むように、五人の武装した者たちの姿があった。そして、その全員がドワーフだ。

 

「……ナナーシュ様、本当にお三人だけで、この中級豚鬼将(ミドルオーク)を倒されたのか」

 

 ドワーフの中年戦士ボルファスは、鋭い目をオークの死体に向けながらナナーシュに聞く。

 

「え、ええ。私も闘いに参加したけど、そのオークに直接ダメージを与えたのは、そこにいる二人よ。その二人がいなかったら、私は死んでいたわ」

 

 ボルファスはちらりとナナーシュに目をむけた後、また直ぐ、オークの死体に目を戻す。

 

極大豚鬼王(ビッグオーク)ほどの大きさはないが、まちがいなく中級将クラスはある)

 

 ボルファスは、ナナーシュから簡単な状況説明はすでにうけており、どうやらこのオークは、この階層の魔素濃度に対し、不適応症状を起こしていたと認識していた。

 

 しかし、目の前で死んでいるオークは、自身の血の海の中に沈んでおり、魔素濃度不適応症状によって息絶えたのではないことはあきらかだ。

 

(しかも、この傷は………)

「精霊法術による攻撃ではないな」

 

 ボルファスが、誰に言うでもなく呟いた言葉に、ナナーシュが反応する。

 

「ええ、カルミもアンコウも精霊法術は使っていないわ」

「………なるほど、それなりの手練(てだれ)のようですな」

 

 ボルファスは顔には出さないものの、内心本当にあの二人だけでと驚いていた。

 ボルファスは、また少し考え込む。目の前にこのオークの死体がなければ、たとえナナーシュの言葉であっても、ボルファスはにわかには信じられなかっただろう。

 

 

「カルミっ、ほんとに大丈夫?」

 

 ナナーシュがカルミに近づき、カルミの身を案じて、声をかける。

 背の高さはナナーシュとさほど変わらないカルミが、だいじょうぶと(うなず)いている。

 その二人のやり取りを、ボルファスは口を挟むことなく聞いている。

 

(……子供だ。ドワーフの血は混じっているようだが、ナナーシュ様よりも、かなり幼いのではないか)

 ボルファスの目にカルミの外見は、完全に子供にしか見えない。

 

 しかし、中級豚鬼将(ミドルオーク)との激闘の後を思わせるカルミのボロボロの姿。カルミの持つ身の丈より大きなメイス。

 

(本当に見た目どおりの年の子供だとしたら、このカルミという娘、末恐ろしいの)

 ドワーフの中年戦士ボルファスは、カルミを見て、少し背中に冷たいものを感じた。

(………それにもう一人か)

 

 

「お、お~いっ!お、俺にも、癒しの精霊法術をかけてくれっ!体中が痛いんだよ」

 

 少し離れたところにいたアンコウが、そう言いながら近づいてくる。

 

「ちょっ、近づかないでよっ!アンコウ!」

 ナナーシュがアンコウに言い放つ。

 

「なっ、なんだとっ!俺も助けてやっただろうがっ!」

 

 カルミはすでに癒しの精霊法術を受けており、かなり高級そうな回復ポーションも貰い、今、アンコウの目の前で、それをゴクゴク飲んでいる。

 

「おいっ、カルミっ。俺にも、その高級なやつ飲ませてくれっ」

 

 アンコウがカルミに近づこうとすると、カルミがその分逃げていく。

 

「なっ!逃げるなカルミっ!俺たちは仲間だろう!」

「アンコウ臭いよ」

 カルミはアンコウを見ながら鼻をつまむ。

 

 オークの鼻血を浴びたアンコウは、今の頭のテッペンから爪先まで真っ赤に染まっており、ポトポトと、血を滴らせているのだ。

 そして、オークの血というのは、かなりの臭気がある。

 

 今、ナナーシュたちやカルミはオークの死体の風上に立っている。それは大量に噴き出したオークの血の臭気を避けるためでもあった。

 そのオークの血溜まりから出てきたアンコウは、猛烈に臭い人になっていた。

 

「し、仕方ないだろうっ!血が空から降ってきたんだよっ!」

 

「とにかく、それ以上近づかないでっ!」

 

 ナナーシュはそう言うと、手に持った高級そうな色をしたポーション瓶をアンコウにむかって投げ渡した。

 

「お、おわっ!」

 アンコウはその瓶を慌てて受け取る。

「お。おいっ!命の恩人を何だと思ってんだっ!」

 

 ナナーシュは眉をしかめて、臭い血塗れアンコウを見ている。

 ナナーシュは、確かにアンコウに命を助けてもらった。だけど同時に、アンコウに対しては、そこそこの不信感も持っていた。

 

 ナナーシュが、自分に不信感を持っていることはアンコウも察しがついている。その理由に、大いに心当たりがあるからだ。

 それにアンコウは、突然現れたボルファスたちの装備やナナーシュに対する態度を見て、自分が思っていたよりもナナーシュは大物なんじゃないかと思い始めていた。

 

(……ちょっとまずかったか)

「お、おいっ、お譲様っ。オークを倒したのは、俺の計算どおりだったんだぞっ」

 

(ウソつけっっ!!)と、ナナーシュは思うが、カルミが純粋な目をして、

オオーッと、感嘆しているのを見ると、声に出してそれを言うことはできなかった。

 

 

 

 

 「ナナーシュ様、三つしかない幻扉(ファンポルト)の鍵を紛失するわけにはいきません。まず、幻扉(ファンポルト)の鍵を回収してから里に戻りましょう。それでよろしいですか」

 

「ええ、アレをなくすわけにはいかないもの」

 

「それに………この件に関して、里に戻った後、ナナーシュ様にお話があります。わしだけでなく、多くの者たちが、ナナーシュ様の心配をして館で待っておりますぞ」

 ボルファスのナナーシュを見る目が、威圧的な凄みをおびる。

 

「え、ええっと、ええっと……み、みんなも仕事があるだろうし、」

 ナナーシュの目が泳ぎまくっている。

 

「お役目をサボり、逃げた挙句に、幻扉(ファンポルト)の鍵を使って迷宮に逃げ込んだ御人(おひと)が、他人(ひと)の仕事の心配ですか。ナナーシュ様に御諫言(ごかんげん)申し上げるのも、我等の大切な仕事なのです」

 

「………は、はい………」

 

 どうやらナナーシュは、里とやらに帰れば、複数人によるお説教が待っているらしい。

 

「あ、あのっ!」

 その会話にアンコウが割って入る。

 

 アンコウは、あまり臭わなくなっている。

 ここに駆けつけてきた者たちの中にいた水の精霊法術を使える者に、アンコウは頭の上から水の塊を何度か落としてもらって、オークの血をきれいに洗い流してもらっていた。

 

「俺たちもこの迷宮から出たいんだ。出口が見つからなくてさ、俺たちも連れて行ってくれないか」

「ええ、カルミとあなたには、オークから助けてもらったわ。あなたたちを私の名で里に招待します」

 

 そのナナーシュの言葉を聞いて、アンコウは胸をなでおろした。

 

(いろいろ大誤算だったけど、とりあえず、この迷宮で死ぬことはなくなった。助かったぁ)

 

 ナナーシュはカルミのほうに近づき、アンコウの時とは違い親しげな笑みを浮かべて、カルミにも里に招待する旨の言葉を告げる。

 

「カルミ、本当にありがとう。感謝してるわ」

 

 アンコウは、俺に対する態度とはえらい違いだなと思うが、ここから出られるんだったらどうでもいいことだと、そんなナナーシュの態度など気にはしない。

 

「カルミ、あなたも半分ドワーフ族なのよね。それにあなたは、すでに閉じられている幻門(ファンゲート)を開けて、ここに来たのよね。それを聞いて本当に驚いたわ。

 あれを開けられたのなら、あなたも太祖オゴナルの力の流れを汲む者のひとり。……ふふっ、後で説明してあげるわ。カルミ、あなたをドワーフの古里、母なる都市ワン‐ロンに招待するわ。

 ワン‐ロンの統治者ナナーシュ・ド・ワン‐ロンの名においてね」

 

 そう言われても、カルミにはよくわからなかったようで、首をひねりながら、

 

「ナナーシュの家に遊びに来いってこと?」

 と言った。

 

「ふふっ、そうよ、カルミ。遊びに来てくれる?」

 カルミの顔が、パアァと明るくなる。

「うん!いくよ!やったぁぁっ!」

 

 一方、目を剥き、固まっているアンコウ。

 

(ナ、ナナーシュのやつ、い、今なんて言った)



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第56話 迷宮地下都市 ワン‐ロン

 ナナーシュたちは、ボルファスが持ってきていた幻扉(ファンポルト)の鍵を使って、ナナーシュが落としたほうの鍵を回収するために、その場から消えた。

 

 アンコウとカルミ、それに数人のドワーフたちが、その場に残っている。

 少し離れてはいるが、アンコウたちがオークと戦ったこの階層にも、ドワーフの古里ワン‐ロンへと通じる固定設置用の空間移転魔具である幻門(ファンゲート)が置かれている場所があるらしい。

 

 アンコウたちも、ナナーシュからアンコウたちを案内するように命令をうけたドワーフたちに先導されて、その隠されたゲートがある場所目指して移動を開始していた。

 

 

 

 

「うおおっ!ここが、ワン‐ロンなのか」

 

 アンコウは、周囲の景色を見渡しながら驚きの声をあげた。

 

 アンコウたちは通行手形代わりの魔具を持つドワーフの先導で、無事幻門(ファンゲート)を見つけ、迷宮からワン-ロンへと到着することができた。

 

(マジかぁ、まさかワン‐ロンに来ることがあるなんて)

 

 アンコウは門を通り抜けたところで立ち止まり、キョロキョロとせわしなく首を動かしている。

 そのドワーフの古里の話は、アンコウも耳にしたことがあった。

 

『ドワーフの玉都・迷宮地下都市ワン‐ロン』

 

 遥か(いにしえ)の昔より、ドワーフ族が居住し造りあげてきたという この大陸で唯一の地下都市。

 本来迷宮であった一層を、古のドワーフが創造した魔工技術により、テラフォーミングを成し遂げて造られた人工都市・ワン‐ロン。

 

 この街は、いわば街自体が一見(いちげん)さんお断りの超老舗のようなもの。誰もが自由に入れる場所ではない。

 アンコウは噂に聞いたことはあっても、そもそも、あまりに自分には無縁の存在であるがゆえに、この街に来ることなど考えたことすらなかった。

 

 アンコウたちは今、端を見ることができないぐらい大きい広場のような場所にいる。

 振り返れば、アンコウたちが出てきた幻門(ファンゲート)が、意図的にであろうが、迷宮側とは違い視認できる形で設置されていた。

 

 アンコウたちがあの迷宮に落ちたとき、森の中にあった池の大岩にカルミが手を触れるまでは、あの空間の揺らぎは出現しなかった。

 迷宮からこの広場に転移する際も、通行手形となる魔具を所有しているドワーフが、迷宮内の何の変哲もない壁に手を触れて初めて、例の空間の揺らぎが現れた。

 

 この広場には厳重な警備が敷かれ、アンコウたちが出てきた門以外にも、大小さまざまないくつもの視認できる幻門(ファンゲート)が設置されており、しかも、それらは単なる空間の揺らぎとして存在しているのではなく、その揺らぎを囲むようにして、実際に荘厳な大きな門も造られていた。

 

(こんなものが、こんなにいくつもあるなんて………)

 

 幻門(ファンゲート)は、両門固定式の遠隔地空間移動の魔具らしい。

 そのどれもが、このワン‐ロンとは離れた場所につながっている。この遠隔地との空間移動を可能にする魔具は、この大陸ではワン‐ロンにしか存在していない。

 

 より正確に言えば、この大掛かりな魔具は、ワン‐ロンと連なる迷宮内での空間移動か、迷宮外に空間移動するときは、必ずこのワン‐ロンを経由しなければ使用することができない。

 つまり、外の世界だけでは利用不可な代物(しろもの)で、ワン‐ロン・ドワーフの秘宝魔術具ともいえるものだ。

 

 アンコウはこれまでに、実際に、このワン‐ロンに行ったことがあるという者と出会ったことすらなかった。

 ワン‐ロンの噂話を耳にしても、アンコウにとってはファンタジーに近いような存在にすぎず、冒険を求めないアンコウのような男にとっては興味の対象にすらならなかった。

 

(まさか俺が、そのワン‐ロンにいるなんてな)

 

 許可のない者が入ることが許されないドワーフの古里、母なる都市、ワン‐ロン。

 そのワン‐ロンに、アンコウたちがこうもあっさり入ることができたのは、ナナーシュがいたからだ。

 落とした幻扉(ファンポルト)の鍵を取りに行ったナナーシュは、今ここにはいない。

 

--------『ワン‐ロンの統治者、ナナーシュ・ド・ワン‐ロンの名において』

 

 迷宮内でナナーシュが言っていたセリフをアンコウは思い出す。

 ワン‐ロンの統治は世襲制ではない。太祖オゴナル以外、すべての後継者が、大精霊様の神託によって決められている。

 ナナーシュは3歳の時にその神託を受け、今はこのワン-ロン・ドワーフの頂点に君臨する正真正銘の統治者だっだ。

 ボルファスら迷宮に駆け付けた者たちは、当然全員がナナーシュの家臣だ。

 

(………ここの全部がナナーシュの支配下にある。お嬢様どころじゃない、女王様じゃねぇか、あいつ)

 

 アンコウは、迷宮の中でナナーシュに対して行った不敬な言動については、自分の中ですでになかったことにしている。

(……うん。何も知らなかったし、仕方がないよな……大丈夫大丈夫……)

 

 

 

 そして、アンコウたちは、あちらこちらをキョロキョロ見渡しながら、かなりの時間をかけて、ようやくこの大きい広場の端まで、歩いて移動してきた。

 

 

「アンコウ、すごいね!おっきい家がいっぱい並んでるよっ」

「ああ、そうだな」

 カルミの驚きの声に、アンコウが答える。

 

 広場の終わり近くまで来ると、ワン-ロンの街そのものが見えてきた。

 広場の向こう側には、びっちりと建物が並んでいるのだが、そのいずれもが、3階、あるいは4階までもあるだろうと推測できる高さのある建築物だった。

 

(大きい街なんだなぁ)

 

 その景色だけで、このワン‐ロンの街が、アンコウがこれまでこの世界で見てきたどの街より、規模が大きいだろうことが推察できる。

 

「どうだ、すごいだろう。ワン‐ロンの街は。ここが俺たちの里だ」

「うんっ!あんなおっきい家、見たことないよ!ミゲルっ」

 

 目をキラキラさせ、素直に驚くカルミを見て、ミゲルは満足そうに、ウンウンと、頷いている。

 

 ミゲルは、アンコウたちをここまで案内してくれたドワーフ戦士の一人。

 ミゲルもドワーフらしく、小柄で筋肉質な男だが、ボルファスと違い髭は蓄えておらず、その容貌も若い。

 

 ドワーフも妖精種、エルフに次ぐこの世界の優勢種族だ。彼らはエルフほどの選民主義思想は持たないものの、それでも種族的に人間を下に見るきらいは大いにある。

 それは、ボルファスや案内をしてくれたドワーフ戦士たちのアンコウに対する態度からも少なからず見てとれた。

 

(このミゲルって男には、あんまりそういうのがないな)

 

 そんな中でも、さっきからアンコウたちにも気安く話しかけてくるこのミゲルというドワーフ戦士は、そういった差別的な優越意識が少ないのか、アンコウも、ほかの者たちと違ってこの男は比較的接しやすいと感じていた。

 

 そして、どうやらここからはミゲルが一人でアンコウたちを案内してくれるらしく、俺について来い と、ミゲルはアンコウたちを促し、広場の外にむかって歩き出した。

 

 

 

 

「うわあぁー、すごいな」

 

 ミゲルの後について歩いていき、アンコウたちは、ある広い通りに足を踏み入れた。

 その通りは右側も左側も、武具・防具・魔道具といった店がずらりと並んでいた。

 

「そうだろう。すごいだろう、アンコウ。この街を初めて訪れた者は、みんなそうやって驚く。しかもだ、この通りに並んでいる店は、すべて工房が併設されていて、自前の品を売り物にしているんだ」

 

「マジかっ!」

 アンコウは本気で驚いていた。

(……さすが魔工の術に長けたドワーフの玉都だな)

 

「この(たぐい)の通りが、このワン‐ロンにはいくつもあるんだ」

「マジかっ!」

 

 アンコウは大きくため息をつく。

 

(考えてみれば、この街自体が隔絶された迷宮の中に造られた人工の街だもんな。見渡す限りのこの空間のすべてが、魔工の術が生み出した作品みたいなもんなんだ………)

 

 そう考えると、このワン‐ロンという街の存在に対して、アンコウの知識も想像力も追いつかなくなり、アンコウの頭ではとてもではないが理解が及ばない。

 

 この街では天を見上げても、そこには空はない。ただ、アンコウたちがさっきまでいた迷宮のような、岩や土がむき出しになっている天井でもない。

 

 天井は遥かに高く、綺麗に成形されているように見える。

 そして、この空間を取り囲んでいる壁のすべてから、やわらかな光が発せられている。そしてその光も、この街の統治者によって管理されていて、夜になれば、その光量が人為的に大きく落とされるという。

 

(………なんて街だよ。ここの魔工の術の発展度合いは異常だな)

 

 アンコウたちは店舗の連なる通りを、ミゲルに先導されて歩いていく。

 

 わあーっ おおーっ すごいーっ カルミが驚きと感嘆の声をあげながら、あっちこっちの店舗のショーウィンドウにへばりつきながら歩いている。

 

(ああ、そうか、あいつの爺さんは、鍛冶打ちや魔具作りなんかをしてたんだったな)

 

 アンコウは、カルミの家で見た景色を思い出す。カルミ自身も魔工の基礎の基礎ぐらいは習得しているようで、こういった類の品々に相当興味があるようだ。

 

「わはははっ、カルミは魔具に興味があるんだな。さすがドワーフの血を引くだけはある」

 ミゲルが、楽しげにカルミの様子を見ながら言う。

「まだ時間もあるしな。よしっ、ちょうどいい、この近くに俺の知り合いの店があるんだ。案内してやるよ」

 

「ほんとにっ!」

 カルミが目を見開き、嬉しそうにミゲルを見上げる。

 

「ああ、その店にも、武器も防具も魔道具も置いてあるぞ」

 

 カルミは、それを聞いて おおーっ と、目を輝かせていた。

 

 アンコウは蚊帳の外で話が進められていくが、周囲に並ぶ店々に強く興味を覚えているのはアンコウも同じだ。

 再び歩き出したミゲルとカルミに、アンコウもおとなしくついていった。

 

 

 

 

「ほぉ、ミゲル。人間に混じり者とは、珍しい客を連れてきたのぉ」

 

 店の奥から出てきた主とおぼしき、白いモノが目立つ髭を蓄えたドワーフの男が言った。

 

 ミゲルがアンコウたちを連れてきた店は、大通りから少し横道に入ったところにある店で、金色の剣と銀色の盾が交差している目立つ看板を掲げている店だった。

 すでに老齢に入っているだろうそのドワーフは、実にアンコウがイメージするドワーフの職人らしい姿かたちをしている。

 

「ああ、親方、この二人はナナーシュ様の客人なんだ」

「………ほう、ナナーシュ様のか」

 

「それで俺がお屋敷まで案内中ってわけだ。まぁ、急いでいるわけでもないからさ。この通りの店に興味があるみたいだったから、ここに連れて来た。少し中を見させてもらってもいいかな」

 

「ああ、好きにしたらいい」

 

 白髭の親方の許可が出て、アンコウとカルミは店の中を見てまわる。

 

(……すげぇな。剣も鎧も、見たことのない一流の魔武具がそろっている)

 

「ほわぁー、アンコウ、すごいねぇ」

「あ、ああ、全部一級品だ。不出来な物がひとつも見当たらない」

 

 アンコウは、これほど一流の品を揃えた この手の店を今までに見たことがなかった。

 

「当たり前だ、アンコウ。この店はな、この界隈(かいわい)でも、ちっと名の知れた職人がそろった店なんだよ。不出来な物なんてあるわけねぇよ」

 なぜかミゲルが、胸を張って自慢げに言う。

 

「……ミゲル、何であんたが威張ってんだ」

「チッ、何だアンコウ、ここに案内してやったのは俺だろ?俺様御用達の店だ」

 

「あははっ、ミゲル面白い」

 カルミの楽しげな笑い声が、店の中に響く。

 

 

 

「………おい、そこの人間」

 

 それまで黙ってアンコウたちを眺めていた白髭の親方が、ふいに声をかけてきた。

 

「………俺のことかい?俺はアンコウだ」

 アンコウは軽い調子で名を名乗る。

「そうか、わしはログレフだ」

 

 アンコウは、もう一、二歩、ログレフと名乗った白髭の親方のほうに近づきながら口を開く。

 

「で、ログレフさん。俺になんかようかい」

 

 ログレフは、取り立てて表情を変えるでもなく、ただ、スッと視線をアンコウの腰の辺りに移した。

 

「アンコウ、お前はどうして、そんな使えん剣を腰に差しておるんだ」

 

 さすが一流の魔工術師といったところか、ログレフはあっさりとアンコウの腰の物の性質を見抜いたようだ。

 

「これのことかい?」

 アンコウは腰に差した赤鞘の魔剣の柄に軽く手を置き、聞く。

 

「魔剣のようだの」

「ああ。だけど、ここに並んでいるものとは、比べ物にならないけどな」

「お前の腰のそれは、比べる以前の問題だろう」

「呪いのことか?」

 

 ログレフは、白い髭をしごきながら(うなず)く。

 アンコウはログレフの前でピタリと足を止め、口の端に、ニヤリと笑みを浮かべた。そしてアンコウは、少しだけ剣を鞘から引き抜いて見せた。

 スウゥーッ と、アンコウが身体に(まと)う覇気の波が変わる。

 

「!ほぉう、共鳴か。それはまた、よりにもよって呪い憑きと共鳴とはのう」

 

 アンコウの後ろでは、ミゲルもそのアンコウの変化を少し目を大きくしてみていた。

(迷宮の中で話は聞いていたが、本当に共鳴してやがる)

 

チンッ アンコウはまた完全に剣を鞘におさめた。

 

「ふむ、呪いの制御もある程度できておるようだの、どれ、少しその剣を見せてくれんか」

・・・・・・・・・・

アンコウは動かない。

ログレフも動かない。

アンコウは無表情。

ログレフは自然体で髭をしごいている。

ミゲルがアンコウに声をかけた。

 

「アンコウ、親方は信頼できる人だ。それにあんたはナナーシュ様の客人だ。それは親方にも、さっき話しただろう。たとえあんたが人間でも、ここで余計な心配する必要はないと思うぜ」

 

「………そうかい、わかったよ」

 アンコウは鞘ごと、さっと腰から剣を引き抜いた。

 

 別にアンコウは本気で、このワン‐ロンの一流の職人であるログレフが、何かよからぬことを考えていると思っていたわけではない。

 この程度の警戒は、中途半端な力量の冒険者がこの世界を生き抜くための(たしな)みというものだ。

 

「どうぞ、好きなだけ見てくれ。なんだったら、好きに整備してくれてもかまわないよ、タダでね」

 

 アンコウが軽い調子で冗談も交えつつ、赤鞘の魔剣を差し出すと、ログレフは変わらず無言のままで、それをごく自然に受け取った。



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第57話 人にも物にも歴史あり

 しばらくの間ログレフは、じっとアンコウの剣を眺めていた。

 気軽く鞘から抜いた剣を手にしていたが、ログレフが剣の呪いに当てられている様子はまったくない。

 

「……なんで呪いが影響しない」

 アンコウが聞く。

 

「影響していないわけではないが、戦意を持って剣を使っているわけでもないしのぉ。ちょっとしたコツだの」

「………コツね」

 

 コツというのは往々にして感覚的なものだ。妖精種のドワーフ。しかも、一流の魔工匠が言うコツなど、アンコウにわかるわけもない。

 

 カルミは、すでに店内の商品の観察に戻っており、ミゲルと時折楽しそうにしゃべっている。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

「知っておるか、アンコウ。このアフェリシェール大陸に流通している一級の魔武具の多くが、このワン‐ロンで作られたものだといわれておる。特に神与の魔武具といわれるものにいたっては、そのほとんどが、このワン‐ロンの職人の手によるものだ。

 神与の魔武具は選ばれし者にしか造れないと言われておる。魔工に関する優れた能力だけでなく、大精霊様のご加護があって初めてできるとな。

………アンコウ、わしはな、神与の力を宿した剣も鎧も、つくったことがあるのよ」

 

(何だこの爺さん。いきなり話しかけてきたと思ったら自慢話かぁ)

 

 アンコウは少し面倒くさくなってくる。年寄りの自慢話は、超絶長くなるからだ。そのアンコウの心の声が、表情にも表れる。

 

「まぁ、そうだ。自慢話だ」

 ログレフは、アンコウの内心を察してか、ニヤリと笑いながら言った。

 

「だがのぉ、アンコウ。魔工の術は、精霊法力を用いた技術だ。何世にも渡って継承されてきた数々の知識と技。職人本人の長年に渡る弛まぬ修練。そして、新たなものに挑み続ける情熱。大精霊様の御加護。

 どれほどの才能に恵まれた者であっても、いずれがかけても、真に望むもをつくることはできん。わしも未だ、魔工匠の一職人として、望む高みには至っていないのじゃよ」

 

(結局、何が言いたいんだ、このじいさん?)

 

「しかしのぉ、この不細工な呪いの魔剣を見ていると、わしも魔工術師として、多少成長できたのだろうと不思議な思いがするわ」

 

 自分の剣を不細工といわれ、反射的に眉をひそめるアンコウ。と同時に、ログレフのその言いように、強く引っかかるものを感じた。

 

「……?ん?それは、どういうことだい?」

「これはのぅ、わしが造った剣だよ」

 

 ログレフがどこか懐かしげな目で抜き身の剣を見つめながら言った。

 目を大きく見開くアンコウ。

「!えっ?」

 

「まさか、またこうして手にすることがあるとはなぁ、実に稚拙で、不細工な剣だ。これだけ質の良い鉱材を使っておるというのに、まさに職人の腕の未熟さゆえの駄作じゃな。

……ふっ、ふっ、ふっ、しかし……懐かしいのぉ、親父殿の怒声を思いだすわい。あのときの拳骨(げんこつ)は痛かったのぉ。これは親父殿が始末したとばかり思っておったが………

 しかしこいつも、190年間もどこをさまよっていたのかの」

 

「ひゃ、ひゃくきゅうじゅうねん!?」

 

「ああ、これは190年ほど昔、わしがはじめて造った魔剣だ」

 

 ログレフは、変わらず懐かしげなまなざしを刀身にむけながら話をつづけた。

 そのログレフの話によると、

 ログレフがこの赤鞘の魔剣をつくったのは、ログレフ8歳の時(当時使われていた鞘は、この赤い鞘ではない)。ログレフは幼き頃より精霊法力に富み、魔工の術の才にも恵まれ、将来頼もしき幼子と言われていたらしい。

 

(……やっぱ自慢か……)

 

 ログレフの魔工の師でもあった実の父親は、そんなログレフに幼い頃より厳しい教育を施した。

 子供のうちは精霊法力を心胆の内で練り上げ続け、技術的な基礎を体に叩き込むことがなりより重要としたログレフの父師は、幼いログレフに通常の剣槍鎧をつくらせるものの、それらに魔工の術を直接施すことは許さなかったらしい。

 

「わしはそれが不満でのぉ、つい親父殿の目を盗み、魔工の術をもって剣を打ってしもうた」

 

 そして出来上がったのは、優れた鉱材の力を十分に引き出すこともできていないうえに、呪いまで宿した剣だった。

 

 そしてそのことは、すぐにログレフの父師にばれてしまい、

「それはもう、死ぬほど怒られたものよ」

 と、ログレフは昔を思い出しながら、どこか楽しげに言う。

 

「わっはっはっはっはっ、」

 ログレフは剣を見ながら、ついに笑い出した。

 

 そしてログレフは笑いをおさめると、またじっと手に持った剣を無言で見つめはじめる。

 

(………おどろいたな、人にも物にも歴史ありか)

 

 

「お~い、アンコウっ」

 カルミが、アンコウの名を呼ぶ。

 

「ん?」と、アンコウがカルミのほうを振り返ると、カルミは両手に何かを抱えて、こちらに向かって走ってきていた。

 

「……おい、カルミ。それ売りモンだろ」

 

 カルミは身の丈ほどもある大剣二本と、これまた大きな戦斧を一本抱えて、アンコウの目の前で立ち止まった。

 三つとも、まちがいなく一級の魔武具であり、しかも全体に施されている絵柄や彫刻といった装飾が、実に美しく、まるで美術品のようだった。

 

「アンコウっ、これカッコイイ!」

 

 どうやらカルミは自分が気に入った武器をアンコウにも見せたかったようだ。

 

「………そうか、」

「うんっ!」

「……俺は買わないぞ(絶対死ぬほど高いぞ)」

「うんっ!私も買わないよ」

 

 一瞬、カルミがこれらを欲しい、買ってくれ的なことを言ってくるのかと思ったアンコウだったが、そういうことではなく、純粋に自分がカッコイイと思った武器をアンコウに見せたかっただけらしい。

 

「……そうか、カッコイイなそれ」

 

「えへへ、やっぱりアンコウもカッコイイと思うでしょ。わたしほんとは、メイスよりも、剣とか斧のほうが好きなんだ。だけど、むいてなくてぇ、じいちゃんにも狩りに行くときは絶対メイスを持っていけって言われてたんだ」

 

「……まっ、カルミだったら、剣でも斧でも練習したら使えるようになるだろ」

「ほんとにっ!?練習したら使えるようになる!?」

「あ、ああ」

 

 カルミの勢いに少し押されるアンコウ。

 確かに今のカルミは、数ある武器の中でもメイスの扱いが最も上手なのだが、

(お前だったら、今でも剣でも斧でも戦えるだろう)

 と、カルミの強さを知るアンコウは、本当に思っている。

 

「ま、まあ、とにかく、三つとも凄そうな武器だな、カルミ」

「そうなんだよっ。みっつとも凄くて、まず、このツルの絵の剣のほうはねぇ、」

 と、カルミは持ってきた三つの武器について語りだした。

 

 カルミは、この店の武器防具魔道具を見て、相当興奮しているようで、この後止まることなく剣や斧について延々しゃべり続けた。

 

・・・・・・・・・・・・

(……ハァ、ジジイの話の次は、子供とお話かよ……しんどいわぁ)

 

 アンコウは、ついにカルミの話をさえぎる。

 

「ああっと、俺ちょっと外の空気吸ってくるわ。カルミはまだここでいろいろ見ていてもいいから」

 アンコウはそう言うと、カルミの横をすり抜け、店の扉に向かって歩き出した。

 

「待て、アンコウ」

 しかし、出ていこうとするアンコウをログレフが呼び止めた。

 アンコウは足を止めて、顔だけログレフのほうにむける。

 

「この剣、強化してみる気はないか?」

 アンコウの赤鞘の呪いの魔剣を示しながら、ログレフが言った。

 

「強化?そんなことができるのか?」

 

「ああ、元々わしが鍛えて、魔工を施した剣だからのぉ。とは言っても、やることは所詮打ち直しの手入れだ。魔工の(いただき)を極めるようなものはできはしない。

 それでも強化はできる。190年ぶりに、この手に持った出来損ないの我が子よ。少しはマシなものに鍛え直してやりたいと思うてしまったのは親心なのかのぉ。

………しかし、今はこの剣はお前のものだアンコウ。お前が必要ないと言うなら、それでよい」

 

「…………掛かりは?」

「むろんいらん」

「呪いは解けるのか?」

 

「童の頃に自身が魔工の術でつくったものだからの、今のわしになら可能だ。が、できるが、そこまで変えてしまえば、すでに別の魔武具も同然になる。

 普通ならそれでもよいのだが、お前の場合はおそらく共鳴ができなくなるぞ」

 

「……それは困るな」

「うむ」

「どれぐらいでできる?」

「これに掛かり切りにはなれんからなぁ、半月は見てもらわんとの」

 

「………ミゲル」

 突然アンコウが、ミゲルに話をふる。

 

「ん?なんだ」

「俺はここに、どのくらいいられるんだ」

「わからん。が、あんたが望めば半月ぐらいは十分滞在許可は下りると思うぜ。なんせ、ナナーシュ様の命を助けたんだからな」

「そうか…………じゃあ、頼むわ。ログレフさん」

 

 アンコウはあっさりログレフの申し出を承諾した。

 ワン‐ロン一流の魔工匠の手で、無料で剣を強化してもらえるもなら、アンコウにとってデメリットは少ない話だ。

 アンコウは心の中で、ラッキ~と喜んでいた。

 

「ねぇねぇねぇ、アンコウの剣、こんなふうにかっこよくしてもらえるの?」

 カルミはお気に入りの売り物の魔武具を抱えながら、ログレフに言う。

 

「はっはっはっ、まぁやろうと思えば、多少はかっこよくできるかのぉ」

「おおっ、アンコウできるってっ!」

 

 カルミが目をキラキラさせながら、アンコウを見た。武具の見た目の装飾などにあまり興味のないアンコウである。しかし、カルミは興味津々のようだ。

 

「ねえっ、アンコウできるってっ!」

「……あ、ああ。まぁ、その辺はカルミの好きにしてもらえ、あんまり派手なのはやめてくれよ」

「おお~っ」

 

 ログレフに任していたら問題はないだろうと了承し、アンコウは再び扉のほうへと歩き出した。

 

 一方、アンコウの剣を強くかっこよくしてもらえるという話をしているうちに、カルミは少しうらやましくなってきたようだ。

 手に持っていた店の魔武具を、そっとカウンターの上に置くと、すらりと自分のメイスを取り出した。

 

「ねぇねぇねぇ、私のメイスも、もっと強くてかっこよくできる?」

 

「おいおい、カルミ」

 ログレフにメイスを差し出すカルミに、ミゲルが苦笑を浮かべながら言う。

「アンコウの剣は、親方にとって特別なんだよ」

「?」 

 

 カルミは、ミゲルを見上げて首を傾げた。

 ログレフも、そんなカルミを見て笑みを浮かべる。

 

「嬢ちゃん。無論、そのメイスの強化もできんことはないがのぉ。わしもこれが商売での、タダでというわけのはいかんのよ」

「………そっか。お代もらわないと、買い物できないもんね」

 

 カルミの祖父も、鍛冶屋稼業をしていたのだ。

 そのへんはよくわかつているカルミは、言われたことに、ウンウンとうなづき、即納得した。

 

「ハハッ、そうだぞ、カルミ。ここはワン‐ロンでも一流の店だからな、お前が思っている以上に高いんだぞ」

 ミゲルが、カルミの頭を撫でながら言う。

 

「うんっ、わたしお金もってない」

 カルミは別に悲しむでも、落ち込むでもなく、普通に言ってメイスを引っ込めた。

 

 ログレフも、自分の腕に自信があり、職人としての誇りを持つ、一流の魔工匠だ。

 目の前の幼子を愛らしいと思っても、自分の腕を安売りすることはしない。アンコウの赤鞘の魔剣は、彼にとって例外なのである。

 

 店の扉の前まで来ていたアンコウにも、そのカルミたちのやり取りは聞こえていた。

 するとアンコウは、店の外に出ることなく、ゆっくりと身を翻して、ログレフたちがいるカウンターのほうに近づいてきた。

 

 そして、カウンターまで来ると、

ゴォドンッ

 

 アンコウが亜空間魔具鞄の中から何かを取り出し、それをおもむろにカウンターの上に置いた。

 

「ほうっ、これは……オークの魔石か」

 

 片手では掴めないほどの大きさの魔石。濃く深い琥珀色の魔石の中に血管のような赤い筋が縦横に走っている。

 

「………中型級のオークのものだろうが、質はかなり良さげだのぉ」

「………これで足りるか」

 アンコウが、ログレフの目を見て言う。

 

「ふふふ………ま、十分だのぉ」

「そうか」

 

 じゃあ頼むと言って、アンコウはオークの魔石をカウンターに置いたまま再び(きびす)を返し、店の扉のほうへと歩いていく。

 

 すぐ横で二人のやり取りを見ていたカルミが首をかしげている。どういうことなのか、よくわかっていないようだ。

 

「嬢ちゃん、カルミといったかの。そのメイスも、かっこよくしてやるぞ」

 

 ログレフにやさしげな眼で見られながらそう言われても、カルミは首をかしげたままだ。

 

 ログレフは、オークの魔石をポンポンとたたきながら、

「これがそのメイスをかっこよくする代金(だいきん)じゃよ」

 と、言った。

 

 アッと、目を大きくしたカルミが、バッと後ろを振り返った。

 ちょうどアンコウが店の扉を開け、外に出ようとしていた。

 

「アンコウ!ありがと!」

 

 アンコウはカルミたちに背中をむけたまま、スッと右手を上げた。

 そして、店の扉は閉まり、アンコウの後ろ姿は扉の向こう側へとキザに消えていく。

 

「アンコウっ!ありがとーっ!」

 

 扉のほうを見つめるカルミが、もう一度、これ以上ないぐらいうれしそうに笑いながら言った。

 

 

(………いや、確か、あのオーク倒したのは、ほぼカルミの力のおかげだって話じゃなかったのか………)

 

 ミゲルは、ナナーシュがしていた説明を聞いており、オークが倒された経緯をほぼ真実のままに知っている。

 

(………だいたいアンコウ、何であんたがその魔石を持ってるんだ。あの場でいつ取ったんだよ………)

 

 ミゲルが、アンコウが消えた扉を見つめる目は、カルミのそれとはまったく違っていた。

 

 

「良かったのぉ、カルミ」

 ログレフが、やさしげな声で言う。

 

「うんっ!アンコウはね、やさしいんだよっ」

「そうか、そうか」

 

 ミゲルはカルミの小ぶりアフロに再び手を伸ばし、クシャクシャクシャと、カルミの頭をなでつづけた…………。

 

「?」

「カルミ、お前は優しいな」

 

 

 いつまでも自分の頭をなでているミゲルに、なに?と首を傾げるカルミ。

 ミゲルは、それ以上何も言わなかった。

 



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第58話 ワン-ロンでの立場

 アンコウたちが、幻門(ファンゲート)を利用して、ワン‐ロンへと移動した後も、ナナーシュとボルファスをはじめとする護衛たちは、ワン‐ロンに連なる迷宮に残っていた。

 

 その目的であったナナーシュが落とした幻扉(ファンポルト)の鍵は、さして時間をかけることなく見つけることができた。

 しかし、ナナーシュたちは、未だワン‐ロンに帰還することなく、迷宮内に留まっている。

 

 

「………やっぱり変だわ」

 

 ナナーシュは周囲を見渡しながら厳しい目をしている。

(さっきはいきなりオークに出くわしたから、周囲を探る時間なんかなかったけど………)

 

「………そうですな。先ほどの階層よりは、確かに魔素は濃いですが、あのオークが、存在できるほどのものではない」

 ナナーシュの隣に控えているボルファスも、疑義を呈じる。

 

「ええ、あのオークは中級のなかでも、薄い魔素濃度に対する耐性はあきらかに低い個体だったと思う。あれが、この階層でもそんなに長時間活動していられるとは思えない………移動してきたにしても、どうやって………」

 

「ナナーシュ様、何やらおかしなものを感じませんか?」

 

 ボルファスが今言ったのは、あのオークに関するこの状況のおかしさではなく、もっと感覚的なもののことだ。

 ボルファスは、精霊法術も使うワン‐ロン屈指のドワーフ戦士。その第六感的な感覚は鋭い。

 

 そしてナナーシュは、戦闘能力はあまり高くないものの、そのワン‐ロン‐ドワーフの太祖オゴナルに連なる血脈の尊貴さはドワーフ種全体でも屈指のものであり、大精霊の神託により選ばれた正統統治者だ。

 その感覚の鋭さ、特殊性という点では他に類を見ないものを持つ。

 

「………ええ、迷宮がざわついている。すごく……すごく嫌な感じがする」

 

 ナナーシュは、全身からジワリと汗が染み出てくるのを感じた。

 そしてナナーシュたちは、再び迷宮内の探索を続けた。

 

~~~~~~

 

 ナナーシュたちは、かなりの時間、その後も迷宮内に留まっていたが、結局、その嫌な感じの原因をつかむことはできなかった。

 

「………気のせいで、ありましたかな……」

 周辺の探索から戻ってきたボルファスが、鋭い目つきのまま言う。

 

「……いえ、ここでは五感では感じられないだけ……気のせいなんかじゃない…必ず何か原因がある」

 

「………わかりました、ナナーシュ様。継続的に調査、警戒をしばらく続けましょう」

 ボルファスが、ナナーシュに頭をさげる。

 

「ボルファス、それに皆も、お願いね」

 

「「「はいっ」」」

 ナーシュの周囲に集まっていた家来衆が、いっせいに頭をさげた。

 

 ナナーシュが大精霊の神託により、ワン‐ロンを統べる次代の正統後継者に選定されたのは、ナナーシュ3歳の時だ。この12歳の少女は、物心ついたときからワン‐ロンの統治者として周囲に(かしず)かれる身分にあった。

 

 物質的には何ら不足することない生活。しかし、統治者としての責務も重い。

 ナナーシュは心身の成長と共に、ワン‐ロンの統治者、太祖オゴナルの正統後継者としての誇りを育み、それと同時にその重みも理解していった。

 

 その貴人としての地位は、ナナーシュにとって心地の良いものばかりではく、

(もっと自由に生きたい)と、世間を知らぬ12歳の少女が思うことは致し方がないことだろう。

 

 そんな時、ナナーシュはワン‐ロンの館内(やかたうち)にありながら、迷宮内で何かが起こっているではないかというわずかな違和感を感じた。

 

 それはナナーシュだけが感じ取れる良いものか悪いものかさえわからない、言葉で説明のしようもない感覚。

 それに加えて12歳の少女らしい大人や自分の環境に対する反抗心が、今回のナナーシュの行動の動機だろう。

 

 ナナーシュが自ら迷宮に入るといっても、いつものごとくナナーシュの身を案じる周囲の者たちがいつまでたってもそれを許さない日々が続き、ナナーシュの反抗心が理性を越えた。

 そしてまさに今日、ナナーシュは周囲の意見を無視し、日々のお役目を放り出し、幻扉(ファンポルト)の鍵を使って一人勝手に迷宮に転移した。

 

 今回の一件は、迷宮の異変が気になったということ以上に、過保護な周囲に反発し自由を求める12歳の少女の心の作用のほうが大きかったのかもしれない。

 だからナナーシュを探しに来た大人たちから、日々のお役目をサボった挙句、迷宮に逃げたと指摘されれば、その自覚もあり、これ以上反発することはできなかった。

 

 それに自分が起こした行動の結果、どれほど危険な目にあったかは、周りにいる大人たちより、ナナーシュ本人が一番よくわかっていた。

 

 自分が思っていたのとは違う迷宮内の階層に転移してしまい、たいして探索もしないうちに、予想だにせず中級豚鬼将(ミドルオーク)に遭遇した。

 まともに戦うことなどできず、為す術なく逃げ回り、もう少し運が悪ければ確実に死んでいた。

 

 もし今、ナナーシュが死んでいれば、まちがいなくワン‐ロン全体に大混乱を引き起こしていただろう。

 

 ナナーシュは大きく息を吐き出しながら、ふと目を(つむ)る。

 ワン‐ロンの統治者という重責を背負う12歳の少女は、そのまぶたの奥の暗闇の中で何を思っているのだろうか。

 

 

「……ボルファス、皆も、今日は本当に迷惑をかけました」

 

 少女はそう言うと、皆に向かってゆっくりと深く頭をさげた。

 しかし、殊勝な態度で深く頭をさげつつも、ナナーシュという12歳の少女は、今日生まれて初めてした冒険を思い、心の中でニコリと笑みも浮かべていた。

 

 

 

 

 アンコウたちに用意された宿泊所は、かなり立派なもので邸宅と呼べるような屋敷だった。

 ワン‐ロンの統治者であるナナーシュの命を救ったのだから、アンコウたちの扱いが悪いわけがない。

 

「あははっ、まったく、突然の貴族暮らしだな」

 

 アンコウは部屋に置かれた無駄に豪奢なテーブルを前に、これまた無駄に細かく彫刻が彫られた御立派な椅子に座り、茶をすすり、甘味を口に運んでいる。

 アンコウは、この2週間ほど、悠々自適な何不自由ない生活をしていた。

 

 しかし、アンコウの機嫌はあまりよろしくない。そう、物質的には申し分なく満たされている。

 それに多少の制限はあるものの、行動の自由も認められてはいるのだが…………

 

「………チッ」

 アンコウはちらりと右側の壁の方を見て、ちいさく舌打ちを漏らした。

 

 その壁際には、メイド服を着たドワーフ女がピクリとも動かずに立っていた。

 この屋敷には同じような者たちが、アンコウたちの世話係と称して、男女問わず何人も配されている。

 

(何が世話だ。完全に監視役じゃねぇかよ)

 

 正式な許可なく突然やってきたアンコウたちは、結果的にナナーシュの命を救ったとはいえ、それなりに警戒されていた。

 屋敷の中のどこにいても、このメイドのように誰かがついてくる。

 

 それは外出しても同じだった。ついてくるな、ひとりにしてくれ と言ってみても、大切な客人にそんな失礼なことはできないと、きわめて頭にくる同じセリフをどいつもこいつもが口にした。

 

(………それになにより、こいつらの態度)

 

 ドワーフは妖精種、エルフに次ぐ優勢種族とされている。元々人間に対する差別意識は強い。

 無論、ナナーシュの客扱いであるアンコウに対して、あからさまな差別は行わないが、

(んだよ、その目はよっ)

 

 メイドたちがアンコウを見る目、接する態度、その節々にアンコウに対する蔑視の意識が感じられるのだ。

 この二週間で、かなりストレスを溜め込んだアンコウは、

 はあーっ とため息をつきながら椅子から立ち上がり、おもむろに開け放しになっている部屋の扉のほうに歩き出す。

 

「あの、アンコウ様どちらに」

 

 このドワーフメイドの身長は、140㎝ほどであろうか、年の頃は若いということしかわからないが、立派に成人したドワーフの女だ。

 

「……ただの散歩だ」

「では、お供します」

「……ただの散歩にそんなものはいらない」

「いえ、大切なお客人に、共の者もつけないなど、そんな失礼なことはできません」

 

 この2週間で何度こんな会話を交わしただろうか、アンコウが派手な罵声を浴びせたことも、一度や二度ではない。

 

 アンコウが憎憎しげな目で、そのドワーフメイドをにらみつけてもドワーフメイドはどこ吹く風。

 それどころか、ごねるアンコウに対して、いっそう蔑むような目を向けてきた。

 

「私どもは、このお屋敷に滞在されるどのようなお客様に対しても、全力でお世話いたしますのが勤めでございます」

 

「へえぇ~、どのようなねぇ~。どんな客でも神様ですってことかい。その割には見え見えで、人間様を見下しているように見えるけどな。ああ、アレか、あんたまだ見習いかなんかで演技力が不足してるとか?」

 

「………いえ、そのような失礼なまねはいたしません。アンコウ様は慣れないワン‐ロンでの生活で、お疲れなのでは?

 お出かけは止められて、お屋敷でごゆっくりされてはいかがでしょうか。ご要望があれば私どもがお世話させていただきます。そう上より命を受けておりますので」

 

(こ、このやろおぉぉ)

 アンコウはさすがにキレた。

 

「……………………………そうだな、じゃあ、お言葉通り、今日は一日この部屋で休むとするかな」

 

「ええ、それがよろしいか えっ?」

 アンコウは突然、腰を曲げて、メイドに顔を近づけてきた。

 メイドのすぐ目の前まで、アンコウの顔が接近する。

「あんたが言い出したことだ、きっちり付き合ってもらうからな」

「……えっ、キャアッ!」

 

 するとアンコウは、すばやくドワーフメイドの背後に回り、メイド服の上から二つのふくらみを鷲づかみにした。

 

「な、何をするんですかっ!」

「今日は一日、部屋でゆっくり休むんだよ。あんたにお世話してもらってな」

 

 ドワーフメイドは逃げ出そうと前かがみになるが、後ろからぴったりくっついたアンコウは離れない。

 

「いやっ、やめてっ、やめてくださいっ」

「おいおい、さっきまでの高飛車な態度はどうしたよ」

 

 140㎝といえば、ドワーフの成人女性としては、高くもなく、低くもなくといったところか、

(へぇ、背のわりに結構胸あるな、この女)

 メイドはアンコウに抱きつかれながらも何とか逃げようと歩き出すが、ぴったりとくっつくアンコウは離れない。

 

「ああっ、離してっ!」

 足がもつれたメイドは、前にあったテーブルに両手をつき、体を支えた。

 

 そんなメイドの背中からアンコウは体重を乗せ、動きを封じようとする。

 そして、アンコウの両手の動きがさらに激しくなってくる。

 

「なっ、なにをしてるのっ!」

「全力で、お世話してくれるんだろ。部屋で休みながらよっ」

「こ、こんなのはちがいますっ」

 

 ドワーフメイドの胸が、アンコウの手によって大きく形を変えていく。

 

 アンコウたちが今いる部屋の窓は、大きく開け放たれている。窓の外から、昼前のさわやかな風が吹き込み、また、部屋の外へと流れていく。

 

・・・・「ああ、やめてっ」

・・・・「ああ、はなしてっ」

・・・・「ああっ、あんっ、アアッ」

 

「なぁ、知ってるか、人間の男も悪くないんだぜ」

 アンコウの実に悪いセリフだ。

 いつのまにか太ももが見えるまでアンコウにたくし上げられたメイドの長いスカート。

「アンッ、もう、やめてくださいっ」

 

 このドワーフメイドは、確かに人間族であるアンコウに蔑視の気持ちを抱いている。

 ただ、それと同時に、メイドとしての教育をしっかり受け、キャリアを積み重ねてきたこのメイドは自分の仕事に誇りも持っていた。

 

 だからこそ、表面的にとはいえ、このワン‐ロン宗家が所有する屋敷において、人間族相手にもうやうやしく奉仕してきた。

 だからこそ、乳を揉みしだかれても、ここまで我慢した。

 

「あっあっ、やめっ」

「かわいい声も出せるじゃないか」

 

 そして、アンコウの右手が、たくし上げられたドワーフメイドのスカートの中に消えていく。アンコウの指が動く。

 

「!アアンッ!

 い……………い、いいかげんにしろおっ!この人間がっ!!」

ドガァンッ!

 アンコウに引き続き、今度はドワーフメイドがキレた。

 

 ドワーフメイドの振り向きざまの右フックが、アンコウの顔を打ち抜いた。

 ドワーフは皆、抗魔の力を持っている。そしてドワ-フは特に筋力が強い。男も女もだ。

 殴られ、吹き飛ぶアンコウ。

 

「ぐがあぁっ!」

ズザザザアァーッ

 勢いよく床に転がったアンコウ。口の端から血が出ている。

 

「ぐうぅっ、痛いてえぇっ………」

 

 アンコウは上半身をわずかに浮かし、自分を殴った女を見る。

 ドワーフメイドは両腕で、自分の胸を押さえ、アンコウをきつく睨みつけている。しかし、その目には涙が溜まっていた。

 

 アンコウは床に転がったまま、ゆらりと右手をその女に向かって伸ばし、

「もっと揉ませてくれよお~~」

 と、言った。

 

「し、しねっ!クソ人間っ!」

 

 そのドワーフメイドは大声でアンコウを罵ると、目に涙を溜めたまま部屋を走って出て行った。

 

 

「…………へっ、ざまぁみろ。素直になったじゃないか、クソドワーフメイド」

 

 アンコウはしばらく床に寝転んだままでいた後、ゆっくりと立ち上がり、ドサリと再び椅子に腰をおろした。

 

「ふうぅーっ………やっとひとりになれたな」

 

 窓の外から吹き込むさわやかな風が、アンコウの腫れた頬をなでていく。

 

 

 

 

 アンコウは、どれぐらい一人の時間に浸っていたのだろう。まだ椅子に座り、目を瞑っていたアンコウに、

 コンッコンッと開けっ放しになっている扉をたたきながら声をかけてくる者がいた。

「アンコウ、ちょっといいか?」

 と、聞き覚えのある声。

 

 アンコウが目を開けると、扉のところに立っていたのは、ドワーフ戦士のミゲルだった。

 

「何だ、ミゲルか」

 

 ミゲルは、ドワーフの中では人間に対する差別意識が薄いようで、アンコウにとってはこのワン-ロンの数少ない知り合いの中でも、話し易い相手のひとりだ。

 しかし、アンコウが返事をしても、ミゲルは扉の付近から動こうとしない。

 

「どうした?話があるんだろ、中に入ってきたらどうだ」

「……ああ、話がある。だけど今日は個人的な用事ではない」

 

 ミゲルが目つき鋭く、背筋を伸ばす。

 

「ワン‐ロン宗家が家臣、ミゲル・ナスリムスとして、グローソン公ハウル・ミーハシ殿が直臣、アンコウ殿にお話しがあり参上した」

 

 ミゲルのその口上を聞き、アンコウは反射的に布でグルグル巻きにしている右腕を押さえた。

 そして、アンコウの顔が複数個所、いっせいに引きつりはじめた。

 

「…………………なんのことでしょう」

 



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第59話 逃亡者 発見される

「悪いな、アンコウ。怪しげなやつの素性を調べるのも仕事のうちなんだ」

 

 ミゲルの身長も、ドワーフらしく150cmの半ばほどだろうか。そのミゲルが椅子に座っていると、さらに小さく見える。

 

「あやしいか、はっきり言うねぇ。一応俺は、ナナーシュ様の命の恩人だぜ」

「だからこそだ、アンコウ。ナナーシュ様に近づく見知らぬものは、たとえ精霊の羽がついていようと、素性は洗うさ」

 

 ミゲルの口調が丁寧だったのは初めだけ、今は完全に元に戻っている。

 ミゲルの話によると、アンコウの素性がこうもあっさり割れたのは、やはり右腕の金色に輝く臣下の腕輪が原因だった。

 

 アンコウは布をグルグル巻きにして、それをずっと隠していたつもりだったのだが、何かの折に、この屋敷の使用人という名の情報要員に見られていたらしい。

 

「そんな派手な身分証を体につけていたら、バレない訳がないだろ、アンコウ」

 

 ミゲルの言葉に、そりゃそうかもなと思うアンコウだが、すでに後の祭りである。

 

「アンコウよ。何か事情があるということは、お前がそれを隠していたことと、お前の態度でもわかる。だけどな、ワン‐ロンはお前をグローソンに引き渡すことにした」

 

「!!お、おいっ、ちょっと待ってくれっ!」

 

 アンコウは座っていた椅子から腰を浮かし、ミゲルに掴みかからんばかりに抗議する。

 

「まぁ聞けっ!アンコウ!」

 

 ミゲルが鋭い声を出し、アンコウを制する。アンコウはしぶしぶながらも、また椅子に腰をおろした。

 

「アンコウ。お前がグローソンの人間だとわかったとき、まず疑われたのは、お前がグローソンの密偵である可能性と何らかの理由でグローソンから逃亡している犯罪者であるという可能性だ。

 どちらにせよ、そんな者をナナーシュ様に近づけるわけにはいかないだろう。

 言われなくてもよくわかっているだろうが、お前はずっと監視されていた。その結果だな、どう考えても密偵の線はないだろうっていうのが、俺たちの総意だ。

 で、犯罪者の線を確認するために、お前の素性をグーローソン側に()()に問い合わせた」

 

「!!じ、じゃあ、俺がここにいることは、もうグローソンに知られてるってことかっ」

「ああ。そうだ」

「!!」

 

 淡々と答えるミゲル。うなだれるアンコウ。

 アンコウがサミワの砦で、バルモアの捕り手から逃れて約4ヶ月。ネルカの街で、グローソン公に臣下の腕輪をはめられてから数えれば、すでに5ヶ月以上の逃亡生活が続いている。

 実のところアンコウは、相当にこの逃亡生活に疲れ果てていた。

 

(自由に生きたいだけだった。だけど、圧倒的強者から逃げるっていうのは本当にきつい)

 

 アンコウは逃亡者生活というものを、かなり軽く見ていたといわざるをえない。

 嫌味な監視人付きのこのワン‐ロンの生活に怒りを見せていたにもかかわらず、身も心も休まることのない逃亡者生活を思えば、衣食住に不自由しないこの貴族モドキの生活の中に、アンコウはある種の安心感も感じていた。

 

 いろんな感情がない混ぜになって、アンコウは沈んでいく。

 

「…………くそおぉ」

 

「なぁ、アンコウ。そこまでへこむようなことなのか?」

 うなだれるアンコウを見て、ミゲルが首を傾げる。

 

「な、なぁ、ミゲル、何とかここに、かくまってもらえないのか」

 

「無理だな。ワン‐ロンは、グローソン公とも政治的に友好関係を築いている。グローソン公の領内には、このワン‐ロンとの交易を認められている商人もいるんだ。だから、あちらからお前の()()を要請されれば拒否はできないんだよ」

 

「………俺は、ナナーシュ様を助けたのにか」

 

 ワン‐ロンでの生活の中で、アンコウはナナーシュの命を助けたという、たまたま手にした唯一の功績をフルに利用してきた。

 

「あのなぁ、アンコウ。グローソンは、お前の()()を要求してきたんだ。

 そりゃあ、お前にして見たら実質身柄を拘束されるっていう点では変わりはないなかもしれないがな。こっちとしてはぜんぜん違うんだよ。

 お前が言うように、お前はナナーシュ様を助けてくれた客人だ。それを軽んじるつもりはない。

 だがグローソンは、お前を犯罪者でもなく密偵でもないと言った。自分たちの正式な家臣であり、4カ月前の戦争時に功を挙げた後、行方知れずとなった捜索中の人物だと言ったよ」

 

「………へっ、そんなことを信じるのか?ミゲル。俺は犯罪者かもしれないし、密偵かもしれない。(いくさ)で、裏切りを働いた逃亡者かもしれない」

 

「グローソンはそんなに愚かなのか?ワン‐ロンは一都市であるが、その力は一国家に等しく、ドワーフ族が玉都、迷宮地下都市という その特異性は、エルフといえども無視できないものだ。

 ウィンド王国内の一公領に過ぎないグローソンと比べれば、どちらの格が上かはあきらかだ。

 俺たちは()()なルートで、ナナーシュ様の名のもと、事情も説明したうえで問合せた。グローソンが、俺らを(たばか)るなんてのは自殺行為なんだよ」

 

 ワン‐ロンが敵に回れば、グローソンはウィンド王家も敵に回すことになり、必ず滅ぶとミゲルは言った。

 

「…………だから。なぁ、アンコウ。グローソンは、お前に危害を加えることはしないし、褒賞を与えるとまで言っていたらしいぞ。お前は何で、そんなにへこんでるんだ?」

 

 アンコウは、フウーッと、大きく息を吐く。

(あの時、バルモアに攻撃を仕掛けて逃げたことも罪に問われてないってことか)

 

 確かに、ここに至るまでにアンコウが知り得た情報でも、アンコウを罪人としての捕縛命令は出されておらず、重要人物としての身柄確保命令が出されているだけだった。

 

「…………でもなぁ、ミゲル。俺はそもそもグローソンの家来じゃないんだよ」

「ん?それはどういうことだ」

 

 アンコウは、自分が異世界人だなどということは口にしなかったが、これまでの経緯を大まかにミゲルに話した。

 

 

「なるほどなぁ、

  ……………としかいいようがない話だな」

 と言って、ミゲルは ゴクリと茶を一口飲んだ。

 

「ふぅ、そうなっちまったんだったら仕方がないだろう アンコウ。当たり前だけどな、お前の個人的な事情や心情まで考慮できないぜ。

 これは個人の問題じゃないんだ。グローソンは、お前をひどい扱いはしないと約束した。

 で、ある以上、ワン‐ロンとしてはナナーシュ様を救ってくれたお前に感謝して、丁重にグローソンに送り帰すことになる。それが当たり前の対応ってもんだ」

 

 納得しかねるアンコウだったが、これが自分のことでなかったら、そりゃそうだろうですませる話だ。

 

(………詰んだ………もうどうしようもない……疲れた、逃げるのはもう嫌だ………)

 

 アンコウは、はああぁぁーーっ と、息を吐き出し、天井を仰いだ。

 そんなアンコウの様子を見て、ミゲルはその心境を敏感に感じ取る。

 

「まっ、半月以内に、ここまで迎えを寄越すらしいから。それまでゆっくりしていけよ」

「………えらく大雑把だな」

 

「そうだな、俺もけっこう雑だと思ったよ。実はグローソン公領内には、ワン‐ロンと常設されている幻門(ファンゲート)がひとつあるんだ。

 アンコウを迎えに来る目的なら、いつでも通れるようにすると伝えたらしいんだが、………その答えが、『半月以内に行くから、また連絡する』だったそうだ」

 

「………クソッ。相変わらず、雑で扱いが適当だっ。だったら、初めからほっといてくれたらいいんだっ」

 

 ミゲルは、ご愁傷様とでも言わんばかりの目でアンコウを見ていたが、伝えるべきことは伝えたとばかりに席を立つ。

 

「ああ、そうだ アンコウ。カルミのことはどうする?」

 椅子を立った時点で、思い出したようにミゲルが問う。

 

「……どうするもこうするも、俺がカルミと知り合ったのは、ここに来る3日ぐらい前だよ。それぐらいのことはもう知ってんだろ。それにあいつは俺と違って、マジのVIP待遇だろ」

 

 そう、カルミは今、ナナーシュの居館に呼ばれ、昨日の夜は向こうで泊まっている。いわゆるお泊り会、ナナーシュはカルミを妹のようにかわいがっていた。

 

 ここワン‐ロンはドワーフの都市(まち)であるのだが、純潔のドワーフの社会的地位が圧倒的に高く、ハーフドワーフは決して彼らと同列に扱われることはない。

 

 ましてや、このワン‐ロンの統治者にして、太祖オゴナルの正統後継者であるナナーシュの館に招かれ、寝食を共にするなど、通常、混ざり者に許されることではない。

 それを思えば、カルミのここでの待遇の良さは際立っている。

 

「まぁ、カルミは、ナナーシュ様のお気に入りで、オゴナルの流汲者(りゅうきゅうしゃ)だからな。ハーフでも粗略(そりゃく)には扱えないだろうさ」

 

 迷宮の中で、オークを倒した後、ナナーシュが言っていた。

 

――― カルミ、あなたも太祖オゴナルの力の流れを汲む者の一人 ―――

 

 そのオゴナルが造ったという魔工装置『ロブナ‐オゴナル』は、現在も生き続けており、その力によって、本来迷宮内の一階層であったこのワン‐ロンは、地下都市として存在できている。

 

 また、幻門(ファンゲート)という空間移動の力を、このワン‐ロンでのみで具現化できているのも、その『ロブナ‐オゴナル』があってこそだという。

 

 そして、そのオゴナルの血の力を最も色濃く受け継いでいるとされる者が、大精霊の神託によって選ばれ、このワン‐ロンの統治者の地位を継承し続けている。

 その当代が、ナナーシュ・ド・ワン-ロンなのだ。

 

 伝承に残るワン‐ロンの初代統治者オゴナルは超越者的な魔工匠であり、またエルフに次ぎ生殖能力が低いドワーフという妖精種であるにもかかわらず、100人以上の妻に、子を300人以上成したという性豪であり、その子孫の数というのは、現在ではとても把握しきれていない。

 

 そして、カルミもまたそのオゴナルの血の力をハーフであるのも関わらず、かなり濃い目に受け継いでいる者であるらしい。

 

 アルマの森の奥深く、あの池のほとりの岩に仕込まれていた幻門(ファンゲート)。あの幻門(ファンゲート)は、撤去はされていないものの長きに渡って閉じられているもの。

 

 本来ならば、ナナーシュの操作・関与がなければ、開くことはないのだが、ごく稀に統治者でなくとも限定的にそれを開く力を有する者が出る。

 それは当代の統治者ほどでないにせよ、太祖オゴナルの血の力を間違いなく受け継いでいる者に限られる。

 

 あの池のほとりの幻門(ファンゲート)を開けたことが、カルミがオゴナルの流汲者である何よりの証拠であり、混ざり者だからといって、誰もそれを否定することはできない。

 

 

「だから、俺がどうするこうするってことじゃないだろ、カルミのことは」

「………まぁ、そうなんだけどなぁ。………なぁ、カルミはナナーシュ様の屋敷に泊まりに行っても、またここに戻ってきてるだろう」

「ん?ああ、そうだな」

 

 実はカルミは、ナナーシュからアンコウのところには戻らずに、このまま自分の側にとどまるように何度も言われている。

 しかし、カルミは連泊はせず、自分の意思で、必ずアンコウがいるこの屋敷に戻ってきている。

 

「ガキの相手は疲れるんだよ。あっちいったまま、残ってりゃいいのにな、カルミも」

 

 アンコウは、カルミの家族ではないし、保護者でもない。

 出会ってから、ひと月も経っておらず、あの迷宮から脱出できた今、アンコウのほうはカルミに対する仲間意識もかなり希薄になっている。

 

「まぁ、カルミはここに残るか、アルマの自分ちに戻るか、好きにするだろう。いずれにせよ、俺が口をはさむことじゃないよ、ミゲル」

 

「………………」

 ミゲルは、それに何も言葉を返さない。

 

 しかし と、ミゲルは考える。

 ミゲルが見る限り、カルミのアンコウに対する信頼感はかなり強い、ある種の依存性すら感じさせるほどだ。

 ミゲルは、それと似たようなものに覚えがあった。実はミゲルはすでに妻帯者であり、男の子ではあるが、子供も一人持つ父親なのだ。

 

(………うちの子供が、俺や妻に見せる態度に似てるんだよなぁ)

 と、ミゲルはカルミのアンコウに寄せる態度を見るたびに思うのだ。

 

「………まぁ、確かに、カルミはカルミの好きにするかもな」

「そういうことだ。俺は俺、カルミはカルミだ。俺はあいつの意思を尊重するさ」

「………なるほど、尊重ね。じゃ、俺は行くわ。アンコウと違って、これでも忙しくてね」

「チッ、俺だって好きで引きこもってるわけじゃねぇよ」

 

 ミゲルは、部屋の扉にむかって歩き出す。

 

「ああ、そうだアンコウ。強姦は、お前がナナーシュ様の命のご恩人でも犯罪だぞ。

 特に他種族のドワーフ女に対する強姦は重犯罪になる。さっきメイドの一人に泣きつかれたぜ」

 

「……うるせぇ、いやがらせに、乳揉んだだけだっ」

「ハハハッ、暇つぶしに娼館にでも行ってこいよ」

「……ドワーフ娘の監視付きで娼館通いか、何のプレイだそれ」

 

 ミゲルはまた、ハハハッ と笑いながら、ヒラヒラと手を振って、部屋の外に消えていった。

 

 

 また、部屋に一人になったアンコウ。

 

「…………あぁ、くそっ。グローソンに戻るのか。…………まだ、逃げるのか…………いやだあぁぁ」

 

 どちらも選びたくないアンコウに、見通し明るい選択肢は用意されていない。

 



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第60話 侵撃の兆し

ナナーシュの居館、太陽城内。

 ワン‐ロン統治の中枢機関であり、統治者であるナナーシュの私邸も兼ねている。

 大精霊様の次代統治者神託を受けたのはナナーシュが3歳の時、そして先代統治者が逝去し、新たな時代のワン‐ロンの統治者となったのは、わずか9歳の時だ。

 

 次代統治者神託を受けた時、ナナーシュの実の両親も健在であり、ナナーシュにとって血のつながった兄弟もいた。しかしワン‐ロンの掟により、統治者に選定された者は選定前の家門に関るつながりはすべて絶たねばならなかった。

 親兄弟、家族、親戚、配偶者、子などとは他人となり、統治者は一旦、弧人とならねばならない。

 

 ワン‐ロン統治者に即位後は、結婚し、子を生すことも認められてることを思えば、いささかの理不尽さはあるものの、その掟に対して誰にも拒否権はない。

 それゆえナナーシュも、親兄弟、生家との関りを一切断ち、この太陽城へと入ってきたのだ。

 

 実は、ナナーシュが現在の12の年になるまでに、本当の両親や兄弟に会う機会が何度かあった。

 しかし彼らがナナーシュに接する態度は、まったく民が支配者に接するものであり、家族の情など一片たりとも示すことはなかった。

 

 それがこのワン‐ロンにおいては当たり前のこと。太陽城で育ち、ワン‐ロンの統治者としての帝王教育を受けているナナーシュにとってもだ。

 

 しかし、いつの頃からだろう。それとは別に、ナナーシュは孤独を感じるようになっていく。

 ナナーシュのまわりには、いつも(かしず)く者たちがおり、完全に一人になることなどはない。

 

 しかし、いずくの国、時代であっても、権力者とはその手に持つ権力が大きければ大きいほど、(こうべ)を垂れる者がどれだけ増えたとしても孤独なものだ。

 その現実は、子供といえども避けることはできなかった。

 

 

「おーい、ナナーシュ!これおいしいねぇっ」

 

 カルミが赤い実の果物を抱えて、ひとつは齧りながら、ナナーシュのほうに駆け寄ってくる。

 

「ふふふっ、そう?気に入ってくれてよかったわ」

 

 だから、ナナーシュはうれしかった。自分を支配者や主君としてではなく、まさに友のように普通に接しくれるものの存在が。

 

「はい。ナナーシュもどうぞ」

「ふふっ、ありがとうカルミ」

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

「ねぇ、カルミ。今日も泊まっていきなさいよ」

「ん?昨日とまったから、今日は帰るよ」

「………ねぇ、館の誰かに、何か言われた?」

 

 この館にいる者の中にも、たとえ太祖オゴナルの流汲者(りゅうきゅうしゃ)とはいえ、混ざり者であるカルミがナナーシュの近くにいることを快く思わない者が少なからずいる。

 

「ん?なにかって?」

 

 間違いなくいるのだが、ナナーシュの目もあり、そこまであからさまに嫌がらせをしてくるわけではなく、多少(さげす)みのこもった目で見られたところで、カルミは気に留めることはない。

 

「……ううん、ないならいいの」

「? アンコウに今日帰るっていったから帰るよ」

 

 カルミは自分の意思で言っている。それをナナーシュもわかっているから、それ以上、自分の希望をカルミに強いるようなことは控えている。

 

「そう、わかったわ」

 

 まわりに控えている幾人かのドワーフメイドのカルミを見る目がきつくなる。

 ナナーシュの近くにカルミがいることを内心よしとしていない者は、ナナーシュの言うことにカルミが従わないことも不快と考えるようだ。勝手なものだ。

 

 ナナーシュは気分を入れ替えるように、顔に笑みを浮かべる。

「ふふふっ、じゃあ今日は、カルミにいいもの見せてあげる」

「え~っ、なになにっ!?」

 

 カルミがこの館で目にするものは、カルミが今までに見たことがない豪奢なものや不思議なものでいっぱいだった。

 特に、城内のあちらこちらに飾られているワン‐ロンの一流の魔工匠が作った魔武具・魔道具の類が、ひどくカルミの興味を()いた。

 

「カルミは、魔道具も大好きでしょ」

「うんっ!好きっ!」

 

「ふふっ、このワン‐ロンにはね、この世界で、もっとも不思議な魔道具があるのよ。それはねぇ、私たちの御先祖様が創ったの。このワン‐ロンという里を造るためにね。それをカルミに見せてあげるわ」

 

「おお~~」

 カルミは興味深そうに、大きく目を見開いている。

 そんなカルミを見て、ナナーシュも満足げだ。

 

 

 

 

 ナナーシュに先導されて、カルミは庭に造られた屋根つきの道を歩いている。きれいな庭だ。

 カルミの視界に映る庭には、草が生え、花が咲き、大きな木も植えられていた。

 

 ワン‐ロンは地下都市だ。広大な空間が広がっているとはいえ、太陽の光がとどく場所ではない。

 ワン‐ロンに広がる光は、光の強弱を人の手で調節していることからもあきらかなように、迷宮の土石が放つ迷宮光をベースに、何らかの人為的な干渉がなされている。

 そのワン‐ロンの光も、しっかりと植物を育む力を持っているようだ。

 

「きれいなお庭だねえ~、ナナーシュ」

「ふふっ、そうね」

 

 カルミたちが歩いている道は、太陽城敷地内にある北の祭殿に続いている道だ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「さぁ、着いたわよ」

「おお~、大きいねぇ」

 

 白亜の大祭殿。それは一層構造の建築物のようであるが、その柱はとても太く長い。その大きい柱や長大な壁を埋め尽くすほどに、精緻な彫刻が全体に施されており、見る者を圧倒する存在感を放っている。

 

 一見、神殿のように見えるこの建造物だが、ワン‐ロンの大精霊の神殿はまた別のところにある。

 この祭殿の中に置かれているもっとも尊いものは、神像ではなく、魔道具。ワン‐ロンの太祖オゴナルによって創られたという 魔工装置『ロブナ‐オゴナル』だ。

 

「お待ちください!ナナーシュ様っ!」

 

 ナナーシュとカルミが、祭殿正面の大きな出入り口の手前まで来たとき、中から数名のドワーフの男女が現れ、(ひざまず)き、二人の行く手をさえぎった。

 この祭殿の管理警備を担っている者たちのようだ。

 

「…………なに」

 

 居並ぶドワーフ男女の中で、もっとも豪奢な衣服をきている者が、進み出てくる。

 

「畏れながら『ロブナ‐オゴナル』は、ただの魔道具ではありません。このワン‐ロンが存在そのものであり、このワン‐ロンにあるすべての者の命を支えている力なのです」

 

「………あなた誰にむかってそんなことを言っているの。私がそんなことを知らないとでも?このナナーシュ・ド・ワン‐ロンを侮辱するつもり?」

 ナナーシュが冷たい目で男を見る。

 

「い、いえ!滅相もございません!ナナーシュ様ではなく、その後ろにいる者のことでございます!このロブナ殿は、資格なき者は立ち入ることを禁じられて言います。畏れながら、その者は外地の者であり、混ざり者にございます」

 

 それを聞いて、ナナーシュのまなじりが釣りあがり、顔が朱色に染まる。

 一方、カルミは平然とした顔で、突然現れた大人たちを眺めている。

 

「資格がないとはどういうことか!ここにいるカルミはこのナナーシュの友であり、オゴナルの流汲者(りゅうきゅうしゃ)です!いわば、私の姉妹(きょうだい)

 お前たちの中に、幻門(ファンゲート)を開く力を持つ者がいるのですか!カルミを人間の血が入っていることで侮辱する者は、このナナーシュ・ド・ワン‐ロンを侮辱する者と知りなさい!!」

 

 ナナーシュのマジ怒りの怒声が響く。12歳の少女らしからぬ、ワン‐ロンの統治者らしい迫力ある怒声だ。

 居並ぶドワーフの男女は、(こうべ)を垂れ、動かなくなる。恐れ、顔を上げることができないようだ。

 

「………ナナーシュ、だいじょうぶ?」

 そんな怒るナナーシュを心配して、カルミがナナーシュの顔をのぞきこむ。

 

「え、ええ、ごめんなさいね、カルミ。この人たちは、何か勘違いしていたみたいね?」

「カルミはハーフだからね、しかたがないよ」

 

 カルミは悲しむでもなく、まるでそんなことはいつものことだよといわんばかりに、普通の口調で言った。

 

「!そ、そんなことはないわっ、カルミあなたは、オゴナルの流汲者なのよっ、そして私の友達でしょ!?」

「うん、カルミはナナーシュのお友達だよ」

 

 カルミはまた、普通の口調で言った。お友達、それを聞き、少し目が泳ぎ、もじもじするナナーシュ。

 

「そ、そう、友達よ。カルミは、ここに入る資格があるのよ。それこそ、この人たちよりもね」

 ナナーシュはそう言うと、再び祭殿入り口正面に向き直り、

 

「命ず!道をあけよ!」

 と、(のたま)わった。

 

「さぁ、カルミ。私について来て」

「んっ!ナナーシュ!」

 

 

 

 

 遡ること万世を越える(いにしえ)の時代、英傑オゴナルという魔工匠として超越した一人のドワーフの出現を経て、このワン‐ロンは歴史の幕を開けた。

 

 それ以前の時代、このワン‐ロンがある空間は、外地から完全に隔絶された誰も知らない知りようもない迷宮、その深部にある一階層であった。

 しかも、このワン‐ロンがある階層は、前後の階層と比しても、濃ゆい魔素、魔獣蠢く、特異点であったのだ。

 

当時、オゴナルと行動を共にしていた精霊法術師が書き残した書には、

 『身の毛もよだつオークの巣であり、絶望の子宮ともいえるなり

 それ何故か、この階層にはロブナの大魔石卵があるためなり

 その大魔石卵、濃密なる魔素を吐き出し、あまたの魔獣を引き寄せる

 極大豚鬼王(ビッグオーク)がまるで赤子を守る父母のごとく徘徊し、そのさま卵の守護者の如し』 

 と、述べられている。

 

 オゴナルは大精霊様の導きにより、誰も入り口さえ見つけることができなかった この迷宮に侵入し、その最深部にまで足を踏み入れたという。

 

 オゴナルは、当時であっても誰も理解し得なかった術を駆使し、ロブナの大魔石卵を掌握、逆にその大魔石卵の力をも取り込み、その階層の魔獣たちを一掃。

 上下の迷宮階層に至る道を遮断、幻門・幻扉という魔工の術を編み出し、迷宮内の移動ならびに外地との行き来を可能とした。

 

 この階層をテラフォーミングしていく そのすべての過程において、大魔石卵の力が、何らかの形で用いられた。

 

 その都度必要に応じて、ロブナ大魔石卵は、太祖オゴナルの手により魔工の術が施されていき、その最終形態として、ロブナの大魔石卵は、後世、魔工装置『ロブナ‐オゴナル』と称される存在として完成することとなる。

 

 

 ロブナ祭殿最奥部。幾重にも防衛策が講じられた向こう、大きな広間に魔工装置『ロブナ‐オゴナル』は設置されている。

 

 3メ-トルはあろうかという卵型の濃透紫色をした巨大な魔石-ロブナ。

 それが、極めてメタリックな光沢を放っている山型の巨大オブジェの上部に、ブローチに宝石が嵌るように納まっている。

 それが放つ異様な存在感は、()()()でも、言葉で言い表せるものではない。

 

-----そしてこの日、魔石ロブナが放つ異様な存在感は、()()()を超えることになる-----

 

 

 ナナーシュたちが祭殿に現れたほぼ同時刻、ロブナ-オゴナルに異変が生じ始めた。

 ロブナの魔石から放出される力の波動に、あきらかな乱れが生じ始めたのだ。それは通常時ではありえない乱波動。

 

 その時ナナーシュは、祭殿入り口で制止してきた者どもを退かせたあと、カルミと二人、おしゃべりをしながら祭殿内を歩いていた。

 はじめに祭殿の吏官たちを一喝してからは、誰の制止を受けることもなく、『ロブナ‐オゴナル』が設置されている大広間へ向かって歩いていたのだが、その途中で突然最初の異変を感じた。

 

 その瞬間、ナナーシュはカルミの友ではなく、ワン‐ロンの統治者の顔となった。

 そして、カルミに何も告げることなく『ロブナ‐オゴナル』のもとに向かって走り出したのだ。

 

 そのままナナーシュは、誰よりも早く大広間へと駆け込んだ。

 

 

「!こ、これは何………?」

 

 あきらかに、『ロブナ‐オゴナル』が発する力に乱れが生じていた。

 それは、『ロブナ‐オゴナル』の装置としての働きそのものに、何らかの異常が生じている可能性さえ感じさせる現象だった。

 

 万が一、一時的にでも装置の働きが止まれば、ワン‐ロン全体の存亡に直結するほどの大惨事になりかねない。

 

 こんなことは、ナナーシュが統治者となって以来、初めてのことだ。

 その変調は、オゴナルの血の力を受け継いだ者でなくとも感じ取れるほどあきらかなもの。

 

「どうかされたのですか!?」

「ナナーシュ様、一体なにが!」

「は、波動に乱れがっ!」

 

 次々とこの際殿に詰めているドワーフたちが、大広間に飛び込んでくる。

 広間にいる人の数が増えるほど、ざわつく声が大きくなり、うろたえ出す者が増していく。

 

 

「みんなっ!静かにっ!」

 ナナーシュが鋭く言い放つ。

「あなたたちがうろたえて、どうするの!落ち着きなさい!」

 

 ナナーシュがまわりを見渡しながら、皆を落ち着かせていく。

 そのナナーシュの視界に、カルミの姿が映る。カルミは、走るナナーシュの後ろにしっかりついてきていた。

 

(あっ、カルミっ)

 突然のこの異変に、ナナーシュはカルミの存在を忘れてしまっていた。

 

 カルミは太祖オゴナルの流汲者、現在起こっている『ロブナ‐オゴナル』の異変を、おそらくナナーシュに次いで敏感に感じ取っているはずだ。

 初めての友であり、わずかな時間で、妹のように感じるようになってしまっていたカルミ。ナナーシュは、一瞬、カルミの友に心が戻り、カルミのことを私が守らなければという思いに囚われた。

 

 しかし、こちらを見て、じっと立っているカルミは、周囲の大人たちと違い実に落ち着いている。

 ナナーシュがカルミのほうを見ていると、カルミはナナーシュにむかって歩き始めた。

 

 この突発的事態下で、実に落ち着いた歩みを見せる6歳児。まわりが、スーーッと、静かになっていく。

 

 ナナーシュの前まで来て、カルミは立ち止まった。

 

「………ナナーシュ、大丈夫?」

 

 カルミの目が、迷宮であの中級豚鬼将(ミドルオーク)と戦っていた時の目になっていた。

 

「……カルミ……ええ、大丈夫よ」

 

 ナナーシュも再びワン‐ロンの統治者の顔になる。

 そして、カルミから目を離すと、壁際に並ぶドワーフたちにむかって声をかけた。

 

「これから、『ロブナ‐オゴナル』の状態を確認するわ。皆、少し静かにしているように」

 

 ナナーシュがよく通る落ち着いた声でそう言うと、無言のまま皆がいっせいに頷いた。

 ナナーシュはカルミを一瞥すると、『ロブナ‐オゴナル』のほうに体を向け歩き出す。

 

 歩みを進め、ロブナ-オゴナルが設置されている階段を登りはじめる。

 ロブナ大魔石卵が嵌め込まれている巨大オブジェ自体も魔道具であり、2つが合わさることで、表現できない重厚な威圧感を発している。

 ナナーシュは階段を上りきり、ロブナ-オゴナルの間近まで来ると足を止めた。

 

 その剥き出しの大魔石卵の色は、いつもと変わらぬ美しい濃透紫色。

 しかし、ナナーシュの体を通り抜けていく波動はあきらかにいつもとは違い、例えるのなら、美しい調べに、耐え難い雑音が混じっているいるような感じだ。

 

 ナナーシュは、ゆっくりと両手をロブナ大魔石卵に直接触れ、目を閉じ、集中を高めていく。

 

 『ロブナ‐オゴナル』の波動は、このワン‐ロンが属する迷宮全体に及んでいるとも言われている。

 そして、この波動に直接リンクできるのは、大精霊様の神託を受けたワン‐ロン・ドワーフの太祖オゴナルの正統継承者たるナナーシュ・ド・ワン‐ロンただ一人。

 

 大広間中にいる者たちが、固唾(かたず)を呑んでナナーシュを見守っている。

 重苦しい緊張感に溢れた静寂が広がる。ただ乱れるは、ロブナの波動のみ。

 

 10分、20分、時間が過ぎていく。

 ナナーシュの魂が、魔工装置『ロブナ‐オゴナル』と溶け合う。そして…………異変の原因を探り当てる。

 

(!!干渉されてるっ!!)

 

 『ロブナ‐オゴナル』に直接干渉するなど、太祖オゴナルの血の力の流れをどれほど強く汲む者であっても、正統後継者以外できはしない。

 しかし、万世のワン‐ロンの歴史において、およそ千年に一度の頻度で、それに反する事象、いや、災害が起きている。

 

 そして、ナナーシュは最近迷宮内から感じていた違和感を思い出す。そこから導き出されるとてつもなく嫌な可能性。

 

 

極大豚鬼王(ビッグオーク)!!!)

 



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第61話 不快な感覚

 何者かによる干渉が原因と思われる、魔工装置『ロブナ‐オゴナル』の不具合はしばらく続いた。

 

 その間に、ロブナ祭殿の大広間にはナナーシュの家臣団に属するワン‐ロンの大物たちが次々とやってきて、現場対応がなされると同時に臨時の緊急会議も行われた。

 その集まった者たちの中には、ボルファスやミゲルらの姿もあった。

 

 そして、皆でさまざまな対策を講じているとき、何の前兆もなく不意に『ロブナ‐オゴナル』は落ち着きを取り戻した。

 

 

「ナナーシュ様、残念ですが、この落ち着きは一時的なものに過ぎぬと考えられたほうがよろしいかと」

 

 ボルファスが厳しい顔のまま言う。ナナーシュも深刻な顔で(うなず)く。

 

 『ロブナ‐オゴナル』に対する干渉が行われていることに確信を持っていても、ナナーシュも、この場にいる他の者たちも、即時それを防ぐ手段は思いつかない。

 その干渉による影響は、ワン-ロン全体に広がるほど大きかったが、どこで誰の手でなされていたかを現時点で実際に確認することはできていない。

 

 ただ、ワン-ロンの歴史上において、約千年に一度の頻度で、同じように『ロブナ‐オゴナル』の力に直接干渉してくる 災害というべき事象が起きている。

 その事象が最後に起こったのは、1200年ほど前であり、その時のことを直接知る者は当然いない。

 

 しかし、歴史の記録によれば、そのいずれもが、『ロブナ‐オゴナル』の力に干渉しうる特異な能力を持つ極大豚鬼王(ビッグオーク)によるものだ。

 

 過去に、このような干渉が為されたとき、最終的には、このワン‐ロンが存在する階層全体に施された空間防壁を突破され、いずれもこのワン‐ロン階層内に極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵入を許してしまっている。

 それはつまり、必ず起きることはわかっていても、事前にその災害を予知し、未然に防ぐことは、かなり難しいということだ。

 

 ワン-ロンにとって極めて重要な不可避の災害ともいうべき極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵入については、ナナーシュもいやというほど聞かされている。

 

 アフェリシェール大陸の魔獣の中でも、最強クラスの力を持つ極大豚鬼王(ビッグオーク)。その個体としての強さは、誰も否定することはできない。

 しかし、ワン‐ロンはドワーフの玉都、ドワーフはエルフに次ぐ優勢種族であり、その中でも優れた力を持つ者たちが多く集まっている都市だ。

 

 いくら極大豚鬼王(ビッグオーク)が突出した強さを持つ魔獣だといっても、一匹ならば、ワン‐ロンとして対処不可能な相手ではない。

 問題なのは、この事象が生じたとき、過去いずれの時も、その特異な極大豚鬼王(ビッグオーク)は、他の多くの魔獣を引き連れてやってきたということだ。

 

 ボルファスが厳しい顔つきで言う。

「ナナーシュ様、これが極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃の前兆だとすれば、奴らを撃退するための軍団戦の準備をする必要があります」

 

 ナナーシュが瞑目(めいもく)して言う。

「………ええ、住民の避難の準備もね」

 

 続けて、他の者が首を振りながら言う。

「しかし、ナナーシュ様、問題がございます。

 記録によると、過去にあった極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃、そのいずれの時も、このような『ロブナ‐オゴナル』への干渉があった後、直ちに奴らの侵入が始まったとされるものもあれば、『ロブナ‐オゴナル』への干渉のみが、数年もの長期間続いた後に侵入が始まったとされるものもございます」

 

 明日ある戦いに対する対応と、数年先にある戦いに対する準備、そのふたつは当たり前であるがまったく違うものになる。

 

 数年先の戦いを想定した動きでは、明日の戦いに間にあうわけがないし、また明日の戦いに対する備えを年単位で維持できるわけがない。

 住民を年単位で外地に避難させれば、それはもう避難ではなく移住だ。

 その両方を想定して、短期間で万全の備えをすることは極めて難しい。

 

 簡易の会議卓に座る者たちの表情は一様に暗い。その周囲に居並ぶ者達も同様だ。

 みなのまわりに、強烈な不安と緊張感が漂っていた。

 

 魔工装置『ロブナ‐オゴナル』への干渉が始まった時より、すでに数時間が過ぎている。

 すでに、この大広間の中にカルミの姿はない。『ロブナ‐オゴナル』の波動が落ち着き、みなの話し合いが始まった時点で、カルミはこの祭殿から去っていた。

 

 

 

 

 ミゲルが手をヒラヒラと振りながら部屋を出て行って小一時間ほどが過ぎた。アンコウはまだ、そのまま自分の部屋に居た。

 アンコウが ズズゥーッ と、何杯目かの茶をすする。

 

「………まっ、ミゲルの言うとおり、たしかに気分転換は必要だな」

 

 アンコウはカップを置き、身支度を整えると部屋を出た。

 そして廊下を歩いていると、アンコウは声をかけられた。

 

「お出かけになられるんですか?」

 アンコウが、乳を揉みしだいたドワーフメイドだ。

「ああ、ちょっと娼館にね」

 

 メイドの顔に、今まで以上の侮蔑(ぶべつ)の色が浮かぶ。もうアンコウに対する悪感情を隠すのはやめたようだ。

 

「……こんな真昼間から」

「昼間のほうが安いんだよ、デイサービスだ」

 そんな割引制度はない。

「それに俺は明るいところで抱き合うほうが好きなんだ。あんなとことか、こんなとことか、いろんなところがよく見えるからな」

 アンコウは歩きながら言った。

 

 アンコウを見るメイドの目が、さらに厳しいものになる。しかしアンコウは、そんなことは全く気に留めてない。

 

「お前も明るいほうが監視しやすくていいだろ。まぜてくれって言ってもまぜてやらないからな」

「!~~!」

 バギィィ と、噛みしめたドワーフメイドの奥歯が鳴った。

 

「わ、私はいきません。こ、今後外出するときは、別の者がつくことになりました。ですから外出するときは、必ず行き先と用件を事前におっしゃってくださいっ」

「そっ。じゃあ、俺はこれから、おしろい臭い無駄に派手な街に行って、変な穴に変な棒を突っ込んでくるよ」

「!!~~!!」

 

 ドワーフメイドは姿を消した。そしてアンコウは歩き続ける。

 

 スタスタと、アンコウはそのまま屋敷の門をくぐる。

 だが、やはり一人で自由に行動することは許されないようで、先ほどのメイドが言っていたように別の者が一人アンコウの後ろについてきていた。

 

 チビ、ヒゲ面、ダルマ体型、ドワーフの男だ。兜はつけていないものの、しっかりと鎧を身につけ、身の丈にそぐわぬ長剣を腰に差している。

 そんなに高い地位にあるとは思えない男だが、この男がアンコウを見る目にも、蔑みの色が見えた。

 

(こいつもか………まっ、ついてきたけりゃついてくりゃいいさ。女連れでいくよりは、マシってもんだ)

 

 アンコウが滞在していた屋敷は、ワン‐ロンの権力者階級にある者達が住んでいる地区にある。そのような地区に色町はない。

 アンコウは力車をひろい、市場が近く、商人が多く活動する地区にある色町を目指す。

 

 ワン‐ロンではドワーフ以外、利用できない色町もあり、間違えて人間のアンコウがそんなところに足を踏み入れたら、問答無用で叩き出されかねない。

 その点、商人が多くいる地区では、ワン‐ロン側の許可を得て、外地より来ているドワーフ以外の種族の者もおり、(くるわ)の敷居も低い。

 

 

 

 

「ウフフ~、お客様もこんな昼間っから好きねぇ~」

 

 すでに、上半身は何も身につけていない女が言う。

 アンコウは、金は十分に持っていた。到着した色町でも、かなり高級感が漂う娼館を選んで、アンコウは入った。

 

 アンコウの目の前にいる女はドワーフ。この街で、他種族の者がドワーフの娼婦を買おうと思うと、かなり高くつく。

 女は140cmを少し越えているほどであろうか、細身だが胸は大きく、どことなくアンコウが乳を揉んだ屋敷のメイドに似ていた。

 

 アンコウが、どういう心理でこの女を指名したのかはわからない。ただ、欲望の声に従ったのみだ。

 アンコウが案内された部屋は、かなり清潔感のある部屋で、アンコウも不満はない。

 

「夜になったら、贔屓(ひいき)の客が来るんじゃないのか?昼間じゃなかったら、あんたみたいなキレイどころ、つかまらないだろ?」

「まっ、言うわねぇ」

 

 さすが娼婦。その心の内はどうあれ、ドワーフであっても、人間であるアンコウに対する差別意識など見せない。アンコウにとって、それは心地よくはあったが、少し不満でもあった。

 お高くとまっている女を組み敷く快感。頭の中に、あの屋敷の高慢なメイドの姿があったからだろう。

 

 そして、アンコウは手早く着ているものを脱ぎ捨て、籠の中へシワにならないように入れる。

 女と同じくベッドの端に座ったアンコウ。

 

「ふふっ、もうこんなになって」

「あうっ!へへっ」

 アンコウはグイッと女を抱き寄せた。

「ああんっ」

 

 女はアンコウの胸の中から、見上げるようにアンコウを見る。アンコウのほうも、じっと女を見ていた。

 

「?お客さん、どうしたのぉ」

「………前に、どこかで会ったことがなかったかな?」

「……?お客さん、この街、初めてなんでしょ?」

「……ああ、そうか。あんた、夢の中で見た女神様に似てるんだ」

「も、もうっ、なに言ってるのよぉぅ」

 

 ベッドの上では、アンコウもこの女も、少し頭が悪くなるようだ。

 アンコウが優しく女を押し倒し、女の足がアンコウに絡みつく。

 

 アンコウの護衛という名の、監視役のドワーフ戦士は、アンコウと娼婦が抱き合う部屋の外、扉のすぐ近くに立っている。

 

 アンコウが、『お前も遊んでいけよ、お代は出すから』と言ったが、それを断り、アンコウを監視する仕事を続けている。

 この娼館の壁も扉も、そんなに厚くない。アンコウと女の普通の会話も、そんなところに立っていれば聞こえてくる。

 

 アンコウたちだけでなく、他の客や娼婦たちの卑猥な会話や嬌声も、『いや~ん、あはあ~ん』と、廊下に響いていた。

 

(……早く帰りてぇ)

 厳しい顔つきで立っているドワーフ戦士ではあるが、先ほどから心の中で嘆き続けていた。

 

………

 

「ああっんん~~っ」

 

 久々のお楽しみだったとはいえ、少し時間をかけ過ぎたかとアンコウは思う。

 そしてついに、アンコウが女のからだに割り入ろうとした その時、

「!!」

 アンコウの体の動きがピタリと止まった。

 

 何か異様な違和感を感じた。それほど強い感覚ではない。しかし、何とも言えない気持ちの悪い感覚。

 

「あうんんん~~っ…えっ!?」

 ドワーフ女も、アンコウと同様に何かを感じたらしい。

 

「な、なにかしらこれ」

「………さあな」

 

 女も体を起こし、アンコウの目つきも鋭くなる。

 

 それは例の『ロブナ‐オゴナル』の波動の異変がはじまった時間だった。

 

 通常時なら、『ロブナ‐オゴナル』の波動を感じ取る者などほとんどいない、感じ取れてもそれは決して嫌な感覚ではない。

 しかし、この乱れた波動はまったく違った。

 

 まだそれほど強くなかった時点でも、このワン‐ロンに居る多くの者に何ともいえない違和感と不快感を感じさせた。

 

 『ロブナ‐オゴナル』の乱れた波動は、アンコウの乱れた行為の邪魔をした。

 

「チッ、いつまで続くんだ……気持ち悪りぃな………」

 

 アンコウはこの手の感覚がかなり鋭い。

 ついさっきまでの、妙なフェロモンが混じったような男臭い汗は止まり、アンコウの背中に冷たい汗が流れ落ちはじめていた。



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第62話 身を守るには剣が必要

 結局アンコウは、そのまま娼館を出た。

『ロブナ‐オゴナル』の波動の乱れ、確かに気持ち悪さを感じさせるものではあったが、現時点ではそれほど強いものでもない。おそらく普通の人間族であれば、気づかないのではなかろうか。

 

 しかし、ここは、ワン‐ロン ドワーフの玉都。

 アンコウが屋敷の帰路についていると、あちこちでドワーフたちが、これは何だと話をし、街全体がざわついていた。

 ただ、ナナーシュたち支配層の者たちと違い、極大豚鬼王(ビッグオーク)の名を口にするものはなく、現時点ではパニックというような状態にはなっていない。

 

「なぁ、これは何なんだ」

 アンコウが供をするドワーフ戦士に(たず)ねる。

「わからない、こんなことは初めてだ」

 と、戦士も首をかしげている。

 

 何しろ最後にあったワン-ロンへの極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃が千年以上も昔の話だ。

 このワン‐ロンに住むものなら、歴史上周期的に繰り返し起こっている極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃という事実は、ほとんどの者が知っている。

 しかし、その歴史的事実と今起こっている事象とを、すぐにリンクさせる者は少なかった。

 

 アンコウは急いで屋敷に帰ることはやめた。周囲の様子をうかがいながら、街を歩いてまわった。

 

 何ともいえない気持ち悪さを感じ続けていたアンコウだったが、次第に街は落ち着きを取り戻していく。

 皆が違和感を感じなくなったわけではない。ただ、多くの者たちは危険はないようだと自己判断をしたのだろう。

 

 そうこうしているうちに、『ロブナ‐オゴナル』の波動の乱れは次第に収まり、本格的に街はいつもの喧騒を取り戻していく。

 

「おい、アンコウ。いつまでこんなふうにうろついているつもりだ」

 

 この供のドワーフ戦士は、まったくアンコウのことをこの里の統治者たるナナーシュの客扱いはしない。

 このドワーフ戦士程度の地位では、ナナーシュとの直接的な関わりなどなく、アンコウに対する気遣いも少ないようだ。

 

「うるせぇ!だまってろっ。気に入らないんだったら、お前一人で帰れっ!」

 怒鳴るアンコウの顔色はひどく悪い。

 

 アンコウは少々考えすぎたようだ。危険を感じてしまったとき、臆病者はマイナス思考に物事を考えることを止められなくなることがある。

 アンコウの心は不安にとりつかれつつある。

 

「チッ!」

 鋭い舌打ちを打ったのは、(とも)のドワーフ戦士。

 

 このドワーフの戦士は、この程度の違和感では恐怖を感じたりはしない。ドワーフ戦士の目には、アンコウは情けない男に映っているのだろう。

 娼館で女たちの卑猥な声が響く中、お供をさせられたことも、このドワーフ戦士をイラつかせている原因の一つかもしれない。

 

 ドワーフ戦士のアンコウを見る目が鋭く尖る。

 朝、屋敷に居たときのアンコウなら、こんなふうに睨まれたところで、右から左に受け流したのだろうが、今の不安に取りつかれつつあるアンコウは違う。

 

「な、なんだよ」

 得体のしれない不安感が、けっして敵ではないドワーフ戦士に対してすら、おびえを感じてしまうほどにアンコウは敏感になっていた。

 

 赤鞘の魔剣との共鳴を繰り返すことにより、この半年ほどの間で、通常時においてもアンコウの抗魔の力はかなり増強されている。

 しかし、仮にこのドワーフ戦士相手と戦ったとして、共鳴なしでは確実に勝てるか微妙だ。

 

 アンコウは、いま自分の腰にある剣は、あの赤鞘の呪いの魔剣ではないことを思い出した。

(共鳴さえできれば、俺はもっと強くなる)

 自分の心の中に生じた怯えを無理やり押さえつけるように、ドワーフ戦士をギラリとにらみ返すと、アンコウは(きびす)を返して走り出した。

 

 アンコウが目指す先は、金色の剣と銀色の盾が交差している看板を掲げている店、ログレフの店だ。

 今あの剣は、強化するために、ログレフの店に預けてある。

(半月で出来ると言っていた。もう二週間が経つ)

 

「おいっ、アンコウ!どこに行くんだっ!待てっ!」

 

 ドワーフ戦士が制止するが、アンコウは走るスピードを落とさない。

 

「もうできているはずだっ」

 

 実はアンコウ、今の今まで、預けた剣のことなど、ほとんど気にかけていなかった。いろいろと文句を言いつつも、このワン‐ロンに来て、かなり気抜けしていたらしい。

 

 別に、御供の不愉快なドワーフ戦士をどうこうするつもりはないアンコウだが、先ほどまでの得体の知れない波動の乱れ、この程度のドワーフ戦士一人に睨まれて、怯えた自分、

(力がなけりゃあ、この世界は生き残れないっ)

 という当たり前のことを思い出した。

 

「剣だっ、剣だっ、この剣じゃないっ、あの剣がいるっ」

 

 それにアンコウは収まったとはいえ、先ほどまでの波動の乱れのことを決して軽視していなかった。

 

(あれは何か、やばい感じがするっ)

 

 やべぇやべぇと、取り乱した様子でアンコウは、すでに落ち着きを取り戻したワン‐ロンの街を激走する。

 まわりのドワーフたちが自分を見る冷めた目を気にすることなく、アンコウは走った。

 

「剣だっ、あの剣を取りに行くぞっ!」

 

「ねぇお母さん、あの人間なぁに?」

「しっ!見ちゃだめよっ!」

 

「おいっ!待てえぇ~、アンコウー!」

 

  必死にアンコウの後を追いかけるドワーフ戦士。ドワーフ戦士は足が短い。

 ドワーフ戦士の視界に映るアンコウの姿が、どんどん小さくなっていった。

 

 

 

 

 武具屋、魔道具屋がズラリと並び、時折、飲み屋や食堂っぽい店も見える賑やかしい通り。

 その大通りから少し横道に入ったところに、金色の剣と銀色の盾が交差している大きな看板を掲げている店がある。それが、白髭の魔工匠ログレフの店だ。

 

ガラランッ!

 と、その店の扉が勢いよく開けられた。

そこには、ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ、 と、肩で息をするアンコウが立っていた。

 

「ロッ、ログレフさんっ!!剣を返してくれっ!!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「………どうだ、アンコウ。少しは落ち着いたかの」

 白髭の親方ログレフが、ぶっきらぼうながら穏やかにアンコウに話しかける。

 

「………ああ、すまなかった。みっともないところを見せたよ」

 

 アンコウは店のカウンターの前、出してもらった椅子に座り、これまた出してもらったお茶をすすっていた。

 

「………さっき妙な乱れた波動が続いただろ。あれが変に気にかかってしまって、気づいたら、多分ちょっとパニクってたんだと思う……騒がせた」

 

 アンコウは一息ついて、だいぶ落ち着きを取り戻していた。

 

「いや、気にすることはない」

 ログレフはまったく表情を変えない。

 しかし内心では、

(この人間、かなり勘が鋭いようだの。そうでなければ、共鳴なぞできぬか)

 と、思っていた。

 

 ログレフは、ナナーシュらと同様、先ほどワン‐ロン全体を覆った波動の乱れから、極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃という歴史上の事実を連想していた。

 

 いま店の中にいるのは、アンコウとログレフの二人だけ。

 お目付け役のドワーフ戦士は、途中でアンコウを見失ったようで、今ここにはいない。

 

「さっきも言ったが、預かっていた武具の強化はできておる。カルミのメイスのほうもな」

「あ、ああ」

「持ってくるから、もうしばらくここで待っておれ」

「わかった。茶をもう一杯もらうよ」

 

 落ち着きを取り戻したアンコウは、さっきまでの自分の取り乱した姿を思い、さすがに少し恥ずかしいのか、頭をボリボリと掻き続けていた。

 

 しばらくすると、ログレフが大きめの包みを片手にぶら下げて戻ってきた。

 

「……ログレフさん、さっきは騒がせて、」

「しつこいのぉ、それはもういいわ」

「あ、ああ」

 

ドサン と、ログレフがカウンターのうえに包みを置く。

 

 決して小さくはない包みだが、ログレフは先ほど、預かっているアンコウとカルミの武具を、両方とも持ってくるといっていた。だとすれば、この包みの大きさでは小さすぎる。

 

「………小さくないか?」

「ああ、お前の武具の鞘も、カルミのと同じく魔具の鞘に変えた」

「へぇ、それでか」

 

 ということは、あの特徴的な赤い鞘はなくなったということだ。しかし、アンコウはあの赤鞘に特別な思い入れはまったくないため気にしない。

 

 カルミ愛用のメイスは、重厚で、その長さはカルミの背丈以上ある。

 しかし、通常時は小型の魔具鞄を特別に改良したようなものに収められており、柄の部分だけがそこから突き出ている状態で、カルミはいつも持ち運こんでいた。

 

(あれは便利そうだったからなぁ)

 アンコウの心の中で、子供っぽいワクワク感が膨らんでいく。

 

「見てもいいかい?」

「ああ、確認してくれ。わしにとっては、懐かしき過去の駄作の手直しじゃ、なかなかに力が入った出来じゃぞ」

 ログレフが満足げに言う。

 

 アンコウの魔剣の手直しは、アンコウと呪いの魔剣との共鳴を維持するという制限があった。

 そのために、今のログレフの魔工匠としての技量を存分に発揮できる作業とはちと違ったものの、その制限の中で、ログレフ自身、納得のできるものに仕上げることができたようだ。

 

 アンコウは包みの結び目を(ほど)き、カウンターの上に広げる。

 

「おおっ」

 と、自然とアンコウの口から声が出た。

 

 ひとつは、小さな鞄状のものの口から、にょっきりと見覚えのある柄の部分が突き出ている。これはカルミのメイスだ。

 預ける前と、形状に変わりはないが、色艶の輝きが増しているように見える。

 

 もうひとつのほうはカルミの魔具の鞘と比べると、口の部分が大きく、長方形の綺麗な装飾がなされた袋のようだ。

 こちらがアンコウの魔剣なのだろうが、カルミのメイスと違い、その突き出ている柄が以前とずいぶん変わっている。

 

(………これがそうなのか)

 

 突き出た柄は丸いポール状で、不思議な光沢のある何かの皮のようなものが、グルグルと巻きつけられている。その丸い柄のお尻の部分には、金属製の石突のようなものが付けられていた。

 また、柄の部分には、ガードであろうカギヅメ状の赤い金属が取り付けられていた。

 

 アンコウはそっと手を伸ばし、柄の部分を握る。

 

「うおっ!」

 

 アンコウの手を通して、流れ込んでくるこの感覚、まちがいなく今や随分と使い慣れた相棒の感覚だ。

 しかし、前と大きく異なっている点、それは、

 

「どうじゃなアンコウ。それだけで強化されているのがわかるだろう」

「……あ、ああ、流れ込んでくる力が、あきらかに熱く強くなってる……すげぇ、こんなにかよ」

「そうじゃろうて。もともとの素材の金属は、親父殿が練成した一級品よ」

「……抜いてもいいかい?」

「もちろんじゃ」

 

 アンコウは一度大きく息を吸い、ゴクリとのどを動かして唾を飲む。

 アンコウは柄を持つ腕に力を籠め、一気にスラリと剣を抜く。その強化されたアンコウの魔剣が姿を現す。

 

 その姿、一言でいえば美しい。それは芸術作品のようだった。

 現れた金属部分のすべてが、赤い妖しげな光沢を纏っている。

 

「お…おお……おおお……」

 唸り声をあげ、目を丸くするアンコウ。

 

 ログレフは、白い豊かなヒゲをしごきながら、見たかといわんばかりのドヤ顔で、威風堂々構えている。

 

 アンコウの右手によって掲げられた赤い刃。

 穂先には、あらゆるものを突き通さんばかりに、鋭く尖ったスピアーヘッド。

 柄の半分ぐらいまで、ランゲットが伸びてきており、その終わりの部分にも小さな(つば)が、ぐるりと取り付けられている。

 

 そして最も濃く赤い輝きを放っているのは(やいば)の部分。ポールにしっかり接合されたスパイクを基点にして、扇型に広く厚みのある刃が広がっていた。

 その感触、その重み、なんともいえず、アンコウの手に馴染む。

………しかし、何かがおかしい。

 

「お…おお……おわあぁぁああ」

 アンコウの体が、プルプルと震え始める。

…………アンコウはそのおかしさに、一目見たときから気づいていた。

 

 アンコウの赤鞘の呪い魔剣は、ワン-ロンでも一流の魔工匠ログレフの手により強化された。

 しかしその際、アンコウの呪いの赤鞘の魔剣は、赤鞘を失い、魔具の鞘袋に変わったのみならず、

………魔剣は魔剣ですらなくなっていたのだ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「……お…お……(おの)じゃねえかあぁぁあーっ!!」

 

 アンコウの絶叫が店内に響く。

 

「そうじゃよ、片手持ちの戦斧(バトルアックス)だ」

 

 ログレフ、あっさり肯定。アンコウ驚愕。

 アンコウの呪いの魔剣は、呪いの魔戦斧になっていた。

 

・・・・・・・・・・・アンコウは、斧など、農奴をやっていた時に木を切る時にしか使ったことがないというのに・・・・・・・・・・・・・

 



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第63話 ふろ場のスーパーマン

 アンコウは、魔剣が魔戦斧になったことについて、ログレフに抗議したが、すげなく受け流された。

 魔戦斧へのシェイプチェンジについては、アンコウの指示通り、カルミの案を採用したとのこと。

 

「ア、アレは装飾とかそういうのをカルミの好きにしろと言ったのであって……」

 …うんぬんと、言ってもすでに遅い。

 

 それに、ログレフは考えなしにカルミの案を採用したのではなく、魔戦斧へのシェイプチェンジを行ったほうがより強化できると判断し、またカルミが、アンコウは剣より斧のほうが合っていると言ったことを信じたのだと言った。

 

「いずれにせよ、再び剣に戻すようなことをすれば、今より確実に武具としての力は落ちるでの。そんなバカげたことは、魔工匠の誇りにかけて出来んよ」

 

 ログレフにそう言われては、アンコウは納得できずとも、受け入れざるを得なかった。

 

 そしてそれ以上に、この後、ログレフの口から極大豚鬼王(ビッグオーク)に関する話を聞いたことが、アンコウにとって重大な懸念事項になったのだ。

 

 

極大豚鬼王(ビッグオーク)って、そんなヤバいもんが………まさかな…でも)

 

 アンコウは万が一の事態を考え、たとえ使い慣れていない斧でも、このワン‐ロンにいるうちは、共鳴が可能な武器をいつも手元に置いておかなければならないと考えた。

 

 そしてアンコウは、しばらくログレフと二人で話をした後、荷物を持って店を出た。

 

 アンコウは、剣が戦斧に変わっていたことにも驚いたが、それ以上にログレフから聞いた波動の乱れに関する彼の見解と、極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃に関する歴史の話が頭から離れなくなっていた。

 

 屋敷に帰る道中で、あの御供のドワーフ戦士が何やら怒声を発しながらアンコウの前に現れたが、それにもほとんど反応を示すことなく、屋敷に着くまで、ずっと険しい表情のまま考え込んでいた。

 

 

 

 

ザァブゥンッッ

「ふうぅーーっ」

 

 アンコウが滞在している屋敷の風呂は広い。

 アンコウは、大きい浴槽の端にある階段部分に腰をかけ、湯に体を浸す。

 

「……はあぁ、ほんと疲れる一日だったよ」

 

 アンコウは屋敷に戻ってきてすぐに、帰り道考えていたことを実行に移した。

 アンコウは屋敷の責任者を呼び、あれほど嫌がっていたグローソンへの帰還をすぐに行いたい旨を申し伝えたのだ。

 

 それがすぐに起こる可能性は低いのではないかと思っていたが、ログレフから聞いた極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃などに、万が一にも巻き込まれるのは真っ平御免だった。

 

 この屋敷の責任者の男も、ミゲルがグローソンに関する事柄をアンコウに話したことを知っていたようで、すぐに上に連絡を取ると言ってくれた。

 

 しかし、その責任者の男が言うには、すでにワン‐ロンとグローソンの間で、アンコウを迎えに、半月以内にグローソン側からワン-ロンに人を送るという話がついており、もう明日来るかもしれないのに、あらためて約束を変更するということにはならないのではないかとも言われた。

 

 道理である。アンコウはそれなら自分ひとりででも帰ると言ったが、それは難しいだろうと訳知り顔の責任者の男に即答されてしまった。

 つまりアンコウは、保護帰還という体でグローソンに身柄を引き渡される立場であり、そこにアンコウの自由意思は介在しないということだ。

 

「……チッ!どうしたもんかな……」

 

 アンコウの舌打ちが、20人でも入れそうな浴室に響く。

 

 アンコウは湯につかりながら、また考え込み始める。その時、扉の向こうの脱衣所のほうから人の気配がした。

 

ガラララッ!!

 と、勢いよく扉が開く。

 

「アンコウ!はいるよっ!」

「チッ」

 カルミの大きな声と、アンコウのあからさまな舌打ちが重なった。

 

 アンコウが帰って来たときには、カルミは一足先に屋敷に戻って来ていた。カルミは、この屋敷にいる時は、いつもアンコウと一緒の風呂に入りたがるのだ。

 手ぬぐい片手に、素っ裸で駆け込んでくるカルミ。

 

「おいっ、カルミっ、走るなっ!」

「は~い」

 

 走る横目で、カルミは浴室の端の台の上に置かれている魔具の鞘袋に入ったアンコウの魔戦斧を見つけた。

 

「おあっ!」

 と言いながらカルミは急速方向転換。魔戦斧に向かって一直線だ。

 

 そこまで行くと、カルミは躊躇(ためら)いなく魔戦斧の柄を握り、魔鞘袋から一気に引き抜いた。

 

「おお~、かっこいい~」

 カルミはキラキラした目で、アンコウの魔戦斧の赤い輝きを放つ刃を見つめていた。

 

「あ、あれっ!?」

 そんなことをしていると、突然カルミの斧を持つ手が揺れ、足もわずかにふらつく。

 

「こらっ!それを勝手に触るんじゃないっ!」

 

ゴンッ!

 湯船から飛び出してきたアンコウの拳骨(げんこつ)が、カルミのアフロの中に入った。

 アンコウは慌ててカルミの手から魔戦斧をとりあげる。

 

「いた~っ、なんかちょっと変な感じになった」

「これは俺専用、呪われてるんだよっ。じっと持ってたらそうなるんだ、言っただろうがっ」

「そっか。でもやっぱり、そのオノかっこいいね」

「知るかっ!お前が斧にしろって、あの爺さんに言ったんだろうがっ」

「そうだよっ、かっこいいのができたねっ!アンコウはオノのほうが似合ってるよっ」

 カルミは実にうれしそうに言う。

 

「はぁ、だからその根拠は何だって、さっきから聞いてるだろっ」

 

 アンコウは屋敷に戻ってきて、カルミが先に帰ってきているのを見つけると、この魔戦斧の件で怒り問いただしたものの、カルミはずっとこんな調子でお話しにならない。

 

「知らなあ~い」

 と、カルミは言って、またパタパタと走り出した。

 

 カルミは再び一旦脱衣所に戻り、今度は自分のメイスを持ってきた。

 ログレフの手で強化されたカルミのメイスも、カルミが言うには、

「ものすごく硬くて、つよくなってる」らしい。

 

 そしてカルミは、そのメイスをアンコウをまねて、呪いの魔戦斧の隣に並べて置いた。

 

「よしっ!」

 

 それを見て、

「はあぁー」 

 と、ため息をつくアンコウは、すでに湯船の中に戻っていた。

 

 カルミが木桶を持って、パタパタと湯船のふちにまで来ると、そこに背中をもたれて湯に浸かっていたアンコウに、その木桶を渡す。

「はい」

「ああ」

 

 その場にしゃがみこんだカルミの小ぶりアフロの上から、アンコウは木桶を使って、

ザバアァー、ザバアァー と、風呂の湯を流しかけた。

 

プフアアーッ と、カルミ。

 顔にかかったお湯をきりながら、カルミは湯船のふちに手をかける。アンコウにだいぶお湯をかけられたが、カルミのアフロは健在だ。

 

(………スゲェな、こいつの髪の毛)

 

「カルミ、飛び込み禁止だからな」

「うんっ、わかってる」

 

 カルミはアンコウに何度も怒られ、飛び込むのはやめた。

 その代わり、湯船のふちに腹を乗せて、アシカやオットセイのように、ぬるりんっと、お湯の中に潜っていった。

(………器用なやつ)

 

 この浴槽はかなり深い。ふち近くの階段状になっているとこと以外では、カルミの身長では足が着かない。しばらくすると湯船の真ん中のあたりに、もさもさアフロと、小さな尻が浮かんできた。

 カルミは、くるりと仰向けになる。

 

「プフアアーッ」

 

 本来なら泳ぐなよと言うところなのだが、この浴槽は深すぎる。

 

「カルミ、お湯を飛ばすなよ」

「うん、わかってる~」

 

 カルミも気持ちよさそうだ。仰向けにぷっかり湯船に浮いて、あっちらこっちら漂っている。カルミはそのぷっかりのまま、アンコウに話しかけた。

 

「ねぇ、アンコウ。ナナーシュってね、わたしと背はそんなに変わらないのに、おっぱいが大きくなってるんだよ」

「へぇ、そうか」

「わたし、ぺったんこなのに」

「お前はまだ6歳だろ」

「アンコウ、どうやったら大きくなるのかなぁ」

「さぁ、揉んでりゃ大きくなるんじゃねぇの」

 

 カルミは浮かびながら、自分の胸板あたりに手を持っていく。

 

「ン~、何もないからもめない~、アンコウー」

「はあぁぁ、知らんっ。風呂あがったら牛乳でも飲んどけ」

 

 ザバアァァ と、湯船から出たアンコウは体を洗いにいく。

 

 浴室の壁には、大きな鏡が何枚も埋め込まれており、幅50センチほどの高溝の中には、常にお湯が流れている設備がつくられていた。

 アンコウは、その高溝の前にある低い椅子に座り、体を洗う。いつのまにか、アンコウの横で同じようにカルミが体を洗っていた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「アンコウ!やって、やってー、あれやってよー。背中洗ってあげたよー」

「うるさいなぁ、一度だけだぞっ」

「うんっ!」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ザアブゥゥンッ! ぷふああーっ! おもしろいおもしろいっ! アンコウもう一回!・・・・・・・・・・

アンコウもう一回!・・・・・・・ぷふああーっ!おもしろいっ!・・・・・

・・・・・・・

 

「アンコウーー」

「何回目だよっ!」

もういっかいだけ~ と、カルミがまた近づいてくる。

はああぁぁーっ と、ため息のアンコウ。

 

 早歩きでまた近づいてきたカルミが、アンコウの前でピョンとジャンプする。アンコウはまたかという顔をしながらも、しっかり両腕でカルミを抱きとめた。

 カルミは、アンコウに上下逆で横抱きにされている。

 しかし、顔は真っすぐ正面、両手両足をピンと伸ばし、目線はしっかり湯船に向いている。

 

 湯船から少し離れた場所から、アンコウはゆりかごを揺らす10倍ぐらいの勢いで両手で抱えているカルミを前後に揺らし始めた。

 

「よ~しっ!」

 

 カルミは目をガッと見開き、お尻をギュッと締めて、全身からワクワク感がにじみ出ている。

 

「あんまり湯を飛ばすなよっ。これが最後だからなっ、カルミっ!」

 アンコウはそう言うと、カルミを湯船目がけて勢いよく放り投げた。

「そおおらっよっ!」

 

「わあーーっ!」

 

 空中でダンゴムシのようになったカルミは、くるくる回りながら飛んでいく。そして再びスーパーマンのような姿勢になり、

 

 カルミは、ちゃぽんっっ! と、湯船の中に消えていった。

 

 高飛込みばりに、着水が美しい。アンコウに、お湯を飛ばすなと言われたことを忠実に守ったのだ。

 

「ぷはあああーー!」

 楽しげに笑いながら、カルミの顔が湯船から突き出てきた。

 

「あははっ!アンコウ!もういっかい!」

「もう終わりだっ!!!」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 アンコウは、脱衣所で真っ裸のままぐったりしている。カルミはほとんど半裸の状態で脱衣所を後にしたため、もうここにはいない。

 

「………くそっ、カルミと風呂に入ると、一日の疲れが倍増する………」

 

 しかし、風呂に入ってくるカルミを追い出そうとすると、それ以上に疲れることになるため、カルミが入ってくること自体は放置するようになり、そして現在に至る。

 

「………はあぁーーっ、フルーツ牛乳が飲みたい………」

 

 アンコウは服を着ると、のっそりと浴場を後にし、寝室に向かった。

 

 少々厳し目の、アンコウの今日という一日が終わった。

 

 

 

 

 『ロブナ‐オゴナル』の波動の乱れが生じた次の日、ワン‐ロンの街の雰囲気が一変することになった。

 

 ワン‐ロン統政府が統治者ナナーシュの名において、昨日の『ロブナ‐オゴナル』の波動の乱れと、それに関連する極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃の可能性について、正式に全市民に対して公表したのだ。

 

 最初、公表するなんてバカな真似をとアンコウは呆れたのだが、その日が終わる頃には逆に感心することになった。

 

 パニックが起こるとアンコウは思っていたのだが、このワン‐ロンのドワーフたちは違った。確かに多少の騒ぎは起き、一部混乱は生じたのだが、その混乱が全体に波及・拡大することにはならなかった。

 

 ここが人間の街だったなら、一斉に住民が逃げ出しただろう。

 しかしドワーフたちは、だてに自分たちのことを優等種族と自認しているわけではないようで、逃げ出すのではなく、老若男女を問わず、多くの者たちが戦う覚悟を決めた。

 

 夜に入った頃には、多くの者たちがワン‐ロン・ドワーフの誇りを声高らかに、酒のジョッキ片手に歌う姿が、ワン‐ロンの街中(まちじゅう)で見ることができた。

 

 

「俺は、ワン‐ロン・ドワーフじゃないからな、こんなところで極大豚鬼王(ビッグオーク)なんかと戦う義理はない」

 

 と、アンコウは思うものの、やはりグローソンからの正式な迎えを待たずして、自主的に帰還する許可は下りなかった。

 そもそも、アンコウのことを今更そんなに真剣に取り上げてくれる者などいなかったのだ。

 



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第64話 揺らぐテレサ

 グローソン公ハウルの居城、イェルベン。テレサはその城下町にいた。

 テレサがネルカでアンコウと別れてから約5ヵ月、テレサがイェルベンに来てからも3ヵ月がすでに過ぎている。

 

 テレサは、イェルベンにある(おおやけ)の客人用宿泊施設として使われている まるでホテルのような大きな屋敷の一室に滞在していた。

 

「はぁーっ、」

 と、テレサは憂鬱気(ゆううつげ)に息を吐く。

 

 テレサに対する周囲の目は冷たい。屋敷で働く奴隷たちや他の滞在客の奴隷たちの中でさえも、テレサを敬遠する雰囲気がある。

 この屋敷において、テレサは微妙な立場にあった。

 

 というのも、テレサは今でも登記上はアンコウの奴隷なのだが、ここではマニの付き人として滞在を認められていた。

 そして、マニのおまけのような存在として滞在が認められている身なのだが、ここでの正式な客であり、テレサの(あるじ)であるはずのマニがいないのだ。

 

 マニは、ネルカ並びにその後参加した反乱軍鎮圧戦での戦功が認められ、正式に褒賞を受けている。その実績があったので、このイェルベン訪問に際して、この屋敷での滞在が許可された。

 

 グローソン公ハウルが、イェルベンに帰還するにあたって、

 マニは、「私も行くぞ、テレサも行こう」と、完全に興味本位で言い出した。

 

 その頃のテレサは、実質的に追っ手がかかっているアンコウの奴隷であり、その身柄をグローソンに拘束されてもおかしくないはずだった。

 しかし実際には、どのような形であれ、グローソンの関係者がテレサを拘束しようとしてくることは、ただの一度もなかった。

 

 当然アンコウがいない状況では、テレサは自分一人の力で生活をしていかなければならなかったのだが、主のいない奴隷の身で、どのようにしたらそれが為せるのか、テレサは途方に暮れていた。

 そんな時に、マニからイェルベン行きのお誘いがあったのだ。

 

 そして、いろいろ考え、かなり不安もあったのだが、テレサには、マニを頼るという選択肢が一番現実的なものに思えた。

 自分自身の身の安全のために、ほかに選択肢がなかったとも言える。

 

 しかしマニは、このイェルベンの屋敷に着いて一泊もすることなく、

「じゃあ、テレサ、ちょっと行ってくるよ!」

 と言って、姿を消した。

 

 マニは、ネルカからイェルベンに至る道中で、ある冒険者の一団と仲良くなった。

 彼らの故郷では、未だ反グローソンの武装兵や暴漢たちが暴れ回っているらしく、イェルベンで準備を整え次第、彼らも戦うために故郷に赴くと聞き、

 マニは、「私も行くぞ」と、なったらしい。

 

 それから3ヶ月、マニもアンコウと同様、まったくの音沙汰なしだ。

 

「ハァー、どこで何をしてるのかしら。旦那様もマニさんも」

 

 テレサが、廊下の片隅で何をするでもなく(たたず)んでいると、

 

「へへっ、どうかしたのか?ため息なんかついて」

「おねぇさんもヒマそうだね。俺たちもヒマしてるんだよー」

 と、テレサに声をかけてくる男が二人。

 

 その男らの顔を見て、テレサの眉間にしわがよる。この客人宿泊用の屋敷には、今現在、15組ほどの宿泊者がいる。

 その滞在理由、身分などはさまざまで、時にはあまり素行がよろしくない者たちもいた。

 

 テレサの身長は160cmの半ばほどか、明るい栗色の長い髪、白人種の白い肌、胸は大きく尻も大きい。太っているのではなく、腰のくびれもちゃんとある。

 30半ばの実年齢だが、見た目では30を超えているようには見えない。良し悪しを問わず、テレサは男を引き寄せる力を十分に持っている。

 

(……この人たち、確か鶴の間に滞在している地方貴族様のお供の……)

 

 テレサは、無言で頭をさげて、そのままこの場を立ち去ろうとする。しかし、男たちに腕をつかまれ、止められてしまう。

 

「……はなしてください。急ぎますので」

「何だよ、つれないぜぇ。話し相手ぐらいしろよ」

「お前、主人に捨てられた奴隷なんだってなぁ」

 

 やはり男たちは、どこかで今のテレサの境遇を耳にしてきたようだ。主がいない奴隷など、何をしても問題ないとでも思っているのだろう。

 しかも、こんな絡み方をしてくるぐらいだから、テレサが抗魔の力の保持者だということまでは知らないようだ。

 

「……ご主人様は、いま所用で出ているだけです」

「へへっ、所用だってよ」

「ご主人様がいなくて、寂しいんだろ?なんだったら俺たちが相手してやってもいいんだぜぇぇ」

 

 これまでにも何度か似たようなことがあったが、この二人の男は、かなり下品な部類らしい。しかし、男二人に囲まれながらも、テレサは冷静だった。

 

 この男二人は人間族。少し着崩れた文官風の服を着ている。

 腰に短剣を差してはいるが、武器の扱いには長けていないだろうし、抗魔の力も保持していないようだ。

 

 テレサはこの5ヶ月の間も、ヒマがあるときは、ふり棒を続け、アンコウに言われていた身体の鍛錬も続けている。

 この二人なら、いざとなれば自分の力だけでもどうにでもできると思っていた。

 

「やめてください」

 それでもテレサは奴隷、そう簡単に貴族のお付きである この二人の男を実力で排除することはできない。

 

「いいだろうが~」

「もう、やめてください」

「いい尻してるじゃねぇか」

「やめてっ」

「おほぉー、オッパイでけえぇ」

「キャッ!~~っ!」

 

 そろそろテレサの目元も険しくなってくる。その時だった。

 

「おいっ!何をしているんだっ」

 

 作業用の文官服を着た、獣人の男が声をかけてきた。

 

「あっ、モージストさんっ」

 

 その獣人の男は、テレサもよく知っている男。テレサに絡んでいた二人組みも、この男のことを知っているようで、「チッ」と舌打ちをしている。

 

 モージストは、この屋敷の副責任者の地位にある者の一人で、グローソンに仕える一文官だ。

 しかし、文官といっても、モージストのがたいはいい。身長は190cmを越え、服の上からでも筋骨逞しいのがわかる。モージストは、元軍隊経験者の文官なのだ。

 

 抗魔の力には恵まれなかったモージストだが、その恵まれた体格には、それなりの威圧感がある。

 

「ほう、あなたがたはキュリツ卿の御従者の方ですね。確か名前は、ログ殿とナグサ殿でしたか」

 

 まさか自分たちの名前まで覚えられているとは思わなかったのだろう。二人の男は目を大きくして驚いている。

 

「私はこの屋敷の従邸副長を務めています。モージストです。この屋敷内での平安を守るのも私どもの仕事でして、……」

 モージストが二人の男にさらに近づき、見下ろす。

「………ログ殿、ナグサ殿、このような振る舞いは、キュリツ卿のお顔に泥を塗ることになると思いますが?」

 

 言葉遣いは丁寧だが、モージストが二人を見下ろす眼光は鋭い。

 

「な、なにをっ、我らは何もしていないっ」

「そ、そうだそうだ、い、行こう、ログ」

「あ、ああっ」

 

 二人はスタコラと、その場から姿を消した。

 

 

「ありがとうございました。モージストさん」

 

 テレサがモージストに頭をさげる。

 

「だめだよテレサ、気をつけないと。ああいう連中はどこにでもいるんだから」

「あ、あの、モージストさん……」

 助けてもらったはずのテレサの様子がおかしい。

 

 実はこの時モージストは、テレサに諭すようなことを言いながら、すばやくテレサの手を取って、熱っぽい目でテレサを見つめていた。

 

 獣人モージストの手は、少々毛深く、ごつい。実はテレサがこの屋敷に来てから、一番初めにテレサにちょっかいをかけてきたのは、このモージストだった。

 

「特に、テレサみたいな綺麗な人はね」

「ちょっ、モージストさん、またそんなことを言って」

 

 しかし、戸惑ってはいるものの、テレサの反応はあきらかにさっきの二人組みのときとは違う。モージストのアプローチをいなそうとはしているが、テレサの顔は笑っている。

 笑みを浮かべながらテレサがモージストの手をほどく。

 

「おっと」

 手をほどかれたモージストは、笑っているテレサの前で、肩をすくめて見せた。

 

「テレサ、今度お茶でも付き合ってくれるかい?」

「ふふっ、お茶ぐらいだったらいいですよ」

 

 モージストは何か用事の途中だったらしく、そのままテレサに手を振りながら去っていった。テレサも自分の部屋へと帰っていく。

 

 モージストは下心が透けて見えているが、この屋敷で数少ない、テレサに優しくしてくれる人の一人なのだ。

 モージストはこの屋敷の従邸副長で、それなりの権限を持っている。そんな人物に味方をしてもらえるというのは、ここで生活をしていくうえで大きい。

 

 その職権を利用して、テレサにアプローチをかけるのはどうかとは思われるものの、決して脅迫じみたことはしてこない。

 

 テレサも初めは警戒し、拒否感のほうが強かった。

 しかし、獣人モージストは、190cmを越える細マッチョで、なかなかの濃い顔の男前。

 年の頃は40前後で、テレサとも年齢は近く、話も合う。

 女性に対して積極的で、先ほどテレサにしたようにボディタッチが多いが、踏み込み具合、引き際を心得た大人の男だ。

 

 3ヶ月間、一人で心細く過ごしているテレサが、いつのまにか、そんなモージストに多少惹かれてしまっても責める事はできないだろう。

 テレサはここに来た頃、毎晩アンコウの顔をベッドの中で思い出していたが、いまは五日に一度は、モージストが出てくるようになっている。

 

 アンコウ………テレサは知っている。ネルカの混乱の中で、アンコウは自分を置いて、走り去って行ったのだということを。

 しかしその時、自分のそばにはマニがいたし、テレサには自分の身を守る術もあり、アンコウが自分を見捨てたとは思っていない。

 

 怒りや恨みではなく、実は、いまテレサがアンコウに対して持っている一番強い思いは、後ろめたいという感情だった。

 夜、アンコウの顔を思い出していると、テレサは必ず、アンコウがローアグリフォンにさらわれていった あの光景を思い出す。

 

(私が毒矢を射たせいで、おかしくなったローアグリフォンに旦那様はさらわれた。旦那様は悲鳴をあげてて、血がいっぱい出ていたわ)

 人の良いテレサは、アンコウに対して罪悪感を抱くようになっていた。

(だけど、旦那様は生きているらしい)

 

 テレサがアンコウが生きていると聞いたのは、このイェルベンの屋敷に来てからだ。誰かグローソンの者が、わざわざテレサに教えに来てくれたわけではない。

 アンコウのことを知る者も、テレサの存在を気にかける者もいないと言ってもよいこの街で、アンコウに関する情報が入ってくる機会などそうはないのだ。

 

 この街での情報収集能力もないテレサがそれを知ったのは、まったくの偶然のこと。

 テレサがこのイェルベンに来て間もないとき、この屋敷の逗留者を訪ねてきた者の中に、サミワの砦の戦いに巻き込まれた者たちがいた。

 そして、その者たちの会話をたまたまテレサは耳にした。

 

 その男は、サミワの砦で反乱者たちと戦い、砦が解放されて、すぐにイェルベンにやって来たという。

 その男の自慢げな武勲話の中に、アンコウという名が何度も出てきた。

 

 驚いたテレサは、男に頭をさげ、自分とアンコウの関係を説明して何があったのか教えて欲しいと乞うた。

 男はなかなかよき人柄の人物で、テレサの事情を知ると、気安くサミワでの出来事を教えてくれた。

 

 サミワでの数々のアンコウの奮戦活躍、身を挺して守備隊を勝利に導いた立役者の一人であるとまで男は言い切った。

 

 テレサは神妙に聞いていたが、内心首を傾げていた。どこの誰の話だと、テレサの知るアンコウの為人(ひととなり)と一致しない。

 しかし、説明されたその人物の外見的特長は、まさにアンコウそのものであった。

 

(旦那様が生きているっ)

 

 それはテレサにとって、安堵であり、喜びであった。

 しかし、そのサミワから来た男が最後に話したこと。

 

「俺も最後の戦いで最前線で戦ったんだが、アンコウ様が単騎で敵方に突っ込んでいくのを見た。そして最後は、そのまま森の中に消えていった」

 

 それ以降、アンコウの姿は消えたという。その話をテレサとともに聞いていたこの男の友人が、アンコウという男は逃げたんじゃないかと言った。

 すると、サミワで戦った男は血相を変えて怒り出した。

有りえないっ! と。

 

 アンコウのような勇敢な男が、敵前逃亡などありえないと怒り、アンコウがいなければ自分は今ここにこうしていないだろうと吼えた。男は、友人の男が頭をさげるまで怒っていた。

 

「それにな、その最後の戦いは、俺たちが圧倒的優位にあったんだ。援軍が到着して、相手は完全に戦意を失っていた。武勲のあげ放題だ。援軍の中には、あのバルモア様率いるダークエルフ部隊もいたんだぞ」

 

 それを聞いて、友人の男は、なるほど、それは逃げるわけがないなと、納得した。

 しかし、テレサはそれを聞いて、ああ、旦那様は逃げたんだと思った。

 

 テレサは、アンコウからバルモアの話も聞いている。アンコウは戦場から逃げたのではなく、バルモアから、グローソンそのものから逃げたんだと思った。

 

 テレサの脳裏に、ネルカでの混乱の際、馬の背でマニにしがみつきながら見た、アンコウがひとり馬に乗り、人の波の中に消えていく映像が浮かんだ。

 あの時と同じようにアンコウは逃げたのだと。

 

 男たちは、その後すぐ屋敷を引き払い、去った。テレサはそれ以後、今日まで誰にもアンコウのこの話はしていない。

 

 アンコウは何やらサミワで武勲を立てたらしい。自分は、そのアンコウの奴隷だと大きな声で主張すれば、いまの自分が置かれている環境が改善されるかもしれないとテレサは考えもした。

 しかし、アンコウが逃げていると思われる以上、真逆の扱いを受ける可能性、叛徒(はんと)所有の奴隷の烙印を押される危険性もあると考えて、口を閉ざした。

 

 テレサらしい、冷静な判断だ。叛徒所有の奴隷など、行き着く先は生き地獄以外考えられないのだから。

 

 テレサの悩み、不安は尽きない。

 

「………もう…誰か助けて…」

 

 テレサは部屋で、一人(つぶや)く。

 

 

 

 

 数日後、モージストは約束どおり、テレサをお茶に招いた。招いたといっても、場所は屋敷のモージストの執務室だ。

 それでも、モージストの軽妙なおしゃべりもあって、ふたりは、あはは、うふふ と、楽しげな雰囲気をつくっていた。

 

「こんなふうに二人で話しをするのは初めてだね、テレサ」

「そうですね、モージストさん」

 

 モージストは軍属から文官に転属し、己の努力と才覚で、比較的短い時間で、今の地位まで出世をした男だ。なかなかに才あり、人柄もいい。

 身長190cmを越える威丈夫で、獣人らしい(こゆ)い顔の男前で女にもモテると、テレサはちらりと耳にしたことがある。

 

 一方、モージストは、顔には屈託のない笑みを浮かべ、テレサとおしゃべりをしながらも、心のうちでは、

 いい女だ。いい肉体(からだ)をしているし、気立てもいい と、テレサに対して抑えきれない下心を持っていた。

 

 しかし、それは特別変態的なものではない。男が女に持つ、ごく当たり前の欲望だ。

 そして、客観的に見てモージストは、まちがいなく良い男のカテゴリーに分類される人物だし、そのことをモージスト自身も自覚している。

 

 モージストは夢想する。テレサを連れてきたマニという戦士は帰ってくる気配がなく、本当のテレサの所有者は、行方が知れないと聞いている。

 もしかして、この女を自分のものにするチャンスがあるのではなかろうかと。

 

 しかも、テレサは抗魔の力を持っている。モージストは抗魔の力に恵まれず、軍属時代は悔しい思いを散々してきた。そんな自分が、テレサのような抗魔の力を持ったいい女を己の所有物にする。

 夢想するだけで、痺れるような快感を覚えてしまう。

 

 テレサは思う。モージストは間違いなく、自分に気がある。モージストは見栄えのよい楽しい男だ。

 それにここでの社会的な地位もあり、自分に何かあったとき、助けてくれるのでは?自分という奴隷を買い取って、庇護してくれるのでは? と、都合のいいように考えてしまう。

 

 

「ああ、テレサきれいだ。君のことを考えると、胸の鼓動が高鳴るんだ。ずっと君の顔を見ていたい」

 

 モージストのありきたりな臭いセリフ。しかし、そんなセリフが、目に見えない不安にさいなまれ続けているテレサには甘美な響きに聞こえてしまう。

 

 モージストが、テレサの手を握る。

 

「あっ、ダメですっ」

 テレサは手を引き、椅子から立ち上がる。

 それにあわせて、モージストも立ち上がり、テレサのほうに移動してくる。

 

 グッと、テレサの腕を取り、熱い瞳でテレサを見つめるモージスト。

 

「テレサ、俺は君が心配なんだ。君の力になりたい」

「えっ、あっ、」

 動きが止まるテレサ。

 

 その機を逃さず、モージストは強引にテレサの唇を奪った。

 

「!んん~~っ」

 

 テレサは、初めはもだえていたが、徐々に身体から力が抜け、瞳が閉じていく。

 その変化をモージストも敏感に感じ取る。

 

「んんっ、『ピチャ』ハンンッ、『クチャ』」

 

 緩くなったテレサの唇の間に、モージストの舌が割り入ってくる。

(ああ、だめっ、こんなすごいキス……)

 

 そしてモージストは、さらにテレサを自分のほうに引き寄せようと、テレサの腰に手をまわし、力を籠めた。

 

「ンンッ!」

 

………その時、目を閉じているテレサの脳裏に、なぜかはっきりとアンコウの顔が浮かんだ………。

 

(!あっ!)

 



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第65話 心の隙間を埋めるもの

何かに(すが)りたいという思い。

優しく甘い男の言葉。

奪われた唇から全身に広がる熱。

その奔流に、完全に流されつつあったテレサの心が堰き止まる。

 

 何の予兆もなく、突然、熱に支配されはじめていたテレサの脳裏に浮かんだアンコウの顔。

 

『テレサ、留守を頼むよ。浮気は絶対だめだからな』

 

 いつだったかアネサのあの家で、アンコウが迷宮に魔獣狩りに出かける朝、笑顔と供にテレサに言った言葉。

(あっ、旦那様)

 いままで一度も思い出すことなどなかった 過ぎ去った日常の刹那の記憶。テレサの肉体(からだ)を覆おうとしていた熱が霧散した。

 

「だめっ!!」

 

 テレサは、モージストの両腕を握って、ピタリとくっついていた二人の体を引き剥がす。

 

「なっ!?」

 

 モージストは、テレサが落ちたと思っていた。

 

 テレサの柔らかい唇の感触。

 突き入れた自分の舌に応えるテレサの舌の動き。

 一気に濃度を増していたテレサの体から立ち昇る女の香り。

……なのに突然の拒絶。

 

 モージストは女に積極的で強引なところはあるが、嫌がる女を無理やり ということはしたことがない。

 だが、こんな拒絶のされ方をかつて経験したことがなく、男の熱は急には収まらない。

 

「ど、どうしてっ!」

 モージストは反射的に、再びテレサを抱きしめようと動き出す。だが、モージストの体は動かない。

「あっ」

 

 モージストの腕をつかんだテレサの手は、モージストが動こうとしても、ビクリともしなかった。

 

 モージストの体は、テレサよりもはるかに大きい。

 しかし、獣人モージストは元軍属ながら抗魔の力はなく、人間女のテレサは、元宿屋の女将にして今奴隷ではあっても、抗魔の力がある。

 

 その差は天と地ほどにもなる。

 モージストは、テレサの腕力で動きを封じられてしまった。

 

「くっ」

 モージストの表情が歪む。

 

 痛みがあるわけではない。抗魔の力に恵まれなかったゆえに、軍属時代に何度となく感じた無力感を思い出していた。

 

「こ、こんなことをしたらだめです。私は奴隷で、ご主人様がいますからっ」

 

 テレサはそう言うと、モージストの腕から手を離し、すばやく身を翻した。

そして、

 ガチャ!バタンッ!バタバタバタバタ・・・・……!

 

 テレサは慌てて逃げるようにして、モージストの執務室を飛び出していった。

 

 

 テレサが出て行き、開け放たれたままの部屋の扉。

 

 モージストは、はぁーーっ と、大きくため息をつき、その開いたままの扉を見つめている。

 小さくないショックを受けたモージストだったが、モージストの欲望の疼きは、まだ続いていた。

 

 

 

 

 テレサはこの後夕食もとらず、自分にあてがわれた奴隷用の宿泊部屋に閉じこもっていた。

 頭の中がグルグル回り、胸の動悸も激しくなったりと、心の動揺が身体に変調をもたらしている。

 

 テレサの心の揺れの根本原因は『不安』だ。現状の不安、将来の不安、その心の隙間にいろんなものが入り込んでくる。

 

(………ほんとうにどうしたらいいのかわからない………)

 テレサは声を押し殺して泣いている。

 

 もうすぐ30半ばになる大人の女が、理性で涙を抑えることができなかった。

 夫の借金と暴力に悩まされたトグラスでの厳しい生活の中でも、不安で湧き出る涙など忘れて久しかったのに………

 

「……う、ううぅっ……あうぅぐっ……」

 

 

 日が沈み、あたりが暗くなってから、随分時間が過ぎた頃、

 

トンッ、トンッ、トンッ

 と、部屋の扉をノックする音がした。

 

「!」

 まだ泣いていたテレサは、慌てて涙をぬぐう。

 この奴隷用の部屋は、内側から鍵をかけることができるものの、外から中の様子を確認するための、小さなのぞき窓がつけられている。

 

トンッ、トンッ

 

「は、はいっ」

 

「モージストです。……テレサ、ちょっといいかい?」

「!……は、はい……」

 

 テレサは歩いて扉のところまで行く。しかし、扉の鍵は開けない。

 モージストが小窓を開けてもいいかと聞く。テレサが、かまわないと答えた。

スッと小窓が開かれた。

 

「………テレサ、泣いてたのかい?」

 

 モージストは、まだテレサをあきらめていない。これもアプローチの続きだ。

 モテる男は、攻め時を心得ている。

 

「いえ……泣いてなんか、いません……」

 

 一度は拒絶したものの、テレサの心臓の心拍数があがるのはどうしようもなかった。テレサは女なのだ。

 

「………俺のせいだな。泣かして、すまない。できるなら、朝までそばにいてあげたいんだけど、君には少し時間が必要かもしれないね………これから 3、4日ほど、仕事が忙しくなるんだ。

 テレサ、5日後の水瓶の日にまた来るよ。夜12時を回った頃、鍵を開けておいて欲しい。それまでに君が泣き止んでくれているのを大精霊様に願っているよ。

 でも、もし5日経っても君が泣いていたら、俺が涙を止めてあげるから」

 

 そう言い残し、テレサの部屋の扉の向こうから、モージストの気配が消えた。

 

 テレサはこの日、ベッドに入ってもなかなか寝つけなかった。

 脳裏にモージストの姿が浮かび、モージストのセリフがリピートされる。テレサの肉体(からだ)が、どんどん火照(ほて)る。

 しかし肉体(からだ)が、ある程度熱を帯びると、必ず脳裏に浮かぶモージストの姿がアンコウの顔に変わるのだ。

 

『テレサ、留守を頼むよ。浮気は絶対だめだからな』

 

「あうっ………」

 テレサは、この時初めてアンコウに殺意を覚えたのかもしれない。

「………バカアンコウっ、だったら、早く帰ってきなさいよっ」

 

 テレサは枕に顔をうずめて吐き捨てた。

 

 

 

 

 結局、テレサはモージストが言い残した約束の水瓶の日までの丸4日間、答えを出せず、悶々と過ごしてしまった。

 約束の日も昼を過ぎた。夜が来て、0時になれば、モージストが来てしまう。

 

(ああ、どうしよう………)

 

何をしに来るのか?

モージストは自分を抱きに来るのだとテレサはわかっている。

その先はどうなるのか?

モージストは自分を買い取ってくれるのだろうか?

そんなお金があるのかしら?

もしかして奴隷ではなく、妻にしてくれるのかも?

平穏で幸せになれるかしら?

 

 不安を解消するために希望を探し、それはテレサの頭と心の中で、根拠なく拡大していく。

 

「ああっ!もうだめっ!」

 

 悶々とした思考が限界に達したテレサは、気分転換するために外に買い物に行くことにした。

 テレサは小さな手提げ袋を手にとって、一人屋敷を出る。テレサは自由に外出できる。行動の自由は一切制限されていない。お金もある。

 

 今は収入のないテレサだが、もしものときのために、アンコウから結構な額のお金を持たされていた。

 そして今は、アンコウの言う もしものときの状態にテレサはいる。アンコウが死んでいるか、連絡がつかないときだ。

 それに、マニが置いていってくれたお金もあった。

 

 テレサは決して無駄遣いはしないが、時々こうして買い物に出かけている。

 

 

 テレサは随分と見慣れてきたイェルベンの街を歩く。

 イェルベンはグローソン公の本拠地。グローソン公ハウルの勢い盛んな今、ウィンド王国内でも発展著しい街でもある。

 

「ふぅーっ、やっぱり外はいいわね。歩いてるだけでも気持ちが軽くなる気がするわ」

 

 街にはいろんな人の姿がある。冒険者、貴族、商人、物乞い、そして何より街の活気を形作っているのは、多数の庶民たちだ。

 それに、テレサと同じく、首に奴隷の首輪をはめている者の姿も多くある。

 

 この街、この国、この社会の構造は、奴隷という安価な労働力なくしては成り立たない仕組みになっている。

 だから、その数は決して少なくないし、ひどい環境にある者、恵まれた環境にある者、同じ奴隷といっても実にさまざまだ。

 

(私はどっちなのかしら?)

 と、テレサは思った。

 

 町の片隅で、何か落ち度があったのか、棒切れで叩かれ、折檻をうけている奴隷。

 貴族の奥方のごとく、華美な衣服を着、宝飾品を身につけ、なにやら高級そうな店で、店員の接客を受けている奴隷。

 

(………くらべても意味はないわね、今の私は一人だもの………)

 

 テレサはひとり雑踏の中を歩き、お目当ての店にたどり着く。なんてことはない、そこは、どこのでもあるような青果店だ。

 

 基本テレサの食事は、奴隷であっても滞在している屋敷が用意してくれる。テレサは、ここで時折、おやつ代わりに日持ちのする果物などを購入していた。

 店頭では、何人かの客が商品をながめ、店の者と話しをしている光景があった。

 

「あっ」

 小さな女の子が突然、声をあげた。大したことではない。

 

 母親の買い物にでもついて来ているのだろう女の子は、母親とおぼしき女の横で(まり)をついて遊んでいたのだが、その(まり)つきを失敗し、(まり)があらぬ方向へ転がっていったのだ。

 

 その(まり)がテレサの足元に転がってきた。

「あら、あら」

 テレサはそのマリを拾い上げ、笑顔で女の子に近づいていく。

 

「はい、どうぞ」

 テレサは笑顔で、女の子にマリを差し出す。

 

 その女の子の身なりはなかなか良い。テレサは奴隷という自分の立場もあり、ひざを曲げて、女の子と向かい合った。

 女の子が少し恥ずかしそうにテレサを見る。

 

「ありがと、おばさま」

「どういたしまして」

 

(………おばさまかぁ)

 

 最近、このぐらいの小さな子と接することがなかったテレサ。

 この子から見れば、自分は間違いなくおばさんなのだが、元々若く見られることが多く、最近男のことで悩んでいたこともあり、不意打ちのおばさんに、内心少しだけ、ドキッとした。

 

「あら、ごめんなさい」

 テレサと女の子のやり取りに気がついた女の子の母親と思われる女性が近づいてきた。

 

「娘が御迷惑をおかけしました」

 笑顔でテレサに軽く頭をさげる。

 

 その母親は、子供がいるとは思えないぐらい若い獣人の女だった。

 それに、

(キレイな人)

 健康的な小麦色の肌をした目鼻立ちが整った女性だ。

 

 女の子同様、この女性の身なりもなかなか良い。お貴族様ともなれば別だが、ちょっとした良い家柄ぐらいの奥方なら、自分で買い物をするのも普通のことだ。

 

 この母娘の身なりから、そこそこ身分のある人だと思ったテレサは、そのひざを曲げた姿勢のまま、

「いえ、とんでもございません」

と頭をさげ、丁寧に対応した。

 

「いえいえ、お立ちになって。私たちにそこまでする必要はないわ」

 

 女に笑顔で言われて、テレサは立つ。

 

「ありがとう」

 女の子が、またお礼を言ってきた。

「いいんですよ。気をつけてね」

 女の子に笑顔で答えるテレサ。

 

 その時、上品な獣人の女の買い物を袋に詰め終えた店員が、その袋を持って近づいてきた。

 

「モージストの奥様、どうぞこちらになります」

(えっ!?)

 袋を持ってきた店員は、テレサも見知っている店員だった。

 

「あら、ありがとう。お代はこれで足りるかしら」

「へい、へい」

 

(モージストの奥様!?)

 テレサは不意打ちに、最近よく考えている人と同じ名前を聞いて、おもわずピクリと反応してしまった。

 

「あれ、テレサさんじゃないか?」

 テレサに気づいたその店員の男が声をかけてきた。

 

「え、ええ」

「ああ、テレサさんもマブルのお屋敷に滞在しているんだったね。モージストの奥様とも顔見知りだったのかい?」

「えっ!?」

 

 テレサは思わず固まってしまう。

 

「あら、あなたもマブルのお屋敷に?」

「えっ、あ、は、はい」

「そう、うちの主人があのお屋敷で働いてるのよ。従邸副長を務めているモージストっていうの、御存じないかしら?」

「!!~モ、モージスト様の~!!」

 

 テレサは知った、知ってしまった。激しく動揺するテレサ。

 

 しかしテレサは、その(あと)も何とか内心の動揺を抑え込み、長年培った対人コミュニケーションスキルを発揮して、表面上は平静を装ってモージスト夫人と会話をこなした。

 

 ただテレサは、夫人と何をどう話したのか、そのあと屋敷に帰ってからも、その時の会話の内容をどうしても思い出すことができなかった。

 

 

 

 

 

 すでに日は沈み、夜になった屋敷の部屋。

 

(……………私バカだ……いい年して何やってるんだろう)

 

 少し調べればわかったことだろうに、テレサは自分の頭の中に妄想にとらわれて、ごくごく当たり前の情報収集を怠っていた。

 本気で自分のことを抱きたいと思ってくれている男が、必ずしも本気でその先のことを考えてくれているわけではない。夢想・妄想と現実は違う。

 

 テレサは屋敷に帰ってから、部屋で一人、また悶々と考え続けている。

 しかし、その悩みの種類は昼までとはまったく違うものになっていた。

 

 そしてそのまま、闇は深まり、深夜0時の時が過ぎる。

 

トン、トン、トン、トンッ

 テレサの部屋の扉がノックされる。

 

 テレサはベッドに腰をかけたまま動かない。その表情は悶々と悩み続けていたときのままだ。

 

トン、トン、トン、トンッ

・・・・・・・・・・・・・・

トン、トン、トン、トンッ

 

 ランタンの明かりが照らす夜の暗闇の中、甲高いノック音が響く。テレサは動かない。

 

「………テレサ。俺だよ、モージストだ。約束どおり来たよ。…………まだ、泣いているのかい?」

 

・・・・・・・・・・・・テレサは動かない。

 

「テレサ、大丈夫かい?つらいんだね?ごめん俺のせいだな。二人で、朝まで話をしよう」

 

 テレサは動かない。

 

「………テレサ。小窓を開けるよ」

 

 しかし、テレサの返事はない。

 

 あまりの無反応に、何かあったのではと心配になったモージストは、テレサの返事のないままに奴隷用の部屋の扉につけられている のぞき窓をスッと開けた。

 

 ランタンの明かりに照らし出されたテレサの部屋。

 モージストの目に、ベッドの端に腰掛けているテレサの姿が見えた。

 

「よかったテレサ。何かあったのかと思った」

 モージストは本当に心配したようで、本気で胸をなでおろしていた。

「テレサ、中に入れてくれないかな。君と話がしたい」

 

 すると、スッと立ち上がるテレサ。

 

 ようやく動き出したテレサは、モージストがこちらをのぞき見る扉の前まで歩いていった。二人の目と目が、のぞき窓を通して合う。

 

「テレサッ、俺は君が好きなんだっ」

 

 扉ごしにも伝わるモージストの情熱的な突然の告白。

 ここしかないとでも思ったのだろう。

 

 しかし、テレサの心に火をつけることはできない。

 

「はぁっ」

 と、テレサのため息ひとつ。

 

「……モージストさん、それはお家に帰られて、奥様におっしゃってください」

「!……?なぜだい?俺は今、君に会いに来ているんだよ?」

 

 モージストにさほどの動揺はない。

 

「……そうですか……モージストさんは、奥様はお一人ですか」

「ん?ああ、今はね。でも……いずれはと、思っているよ。俺にはもう子供もいるし、種族にはこだわらない。それに奴隷に対する偏見もないさ」

 

「……………」

 

 獣人種は、一夫多妻を容認する傾向が庶民レベルから強く、モージストも御多分に洩れないらしい。テレサは、そんなことにも考えが及んでいなかった。

 

 モージストは、別にテレサをだまそうとしていたのではなく、ごく自然体で行動してきたにすぎない。ただ、妻を多く娶ろうと思えば、当然金がいる。

 テレサは、今のモージストにそこまで稼ぎに余裕があるとは思えなかった。

 

「……私を第二夫人に?」

「い、いきなりだなぁ、いや、結婚というのは恋の先にあるものだろう?」

 

「そうですか、でも、私は奴隷です。私には、恋をする自由も結婚をする自由もありません。それに私の本当の御主人様は、女のマニさんではなく、男の方です。

 女である私は、その御主人様のものです。これは誰にも言ってはいませんが、御主人様はサミワの砦で戦功をあげられ、今も生きています。

 御主人様は私よりずっと強い抗魔の力を持っています。浮気をすれば、私はきっと許してもらえません。私の命など、どうなってもかまわない軽いものですが、旦那様は相手の男も許さないだろうと思います………」

 

「!!なっ~~~~」

 モージストの顔色が変わった。

 

 実はテレサは、自分が浮気をしたとして、結果、アンコウに捨てられることになったとしても、そんなに怒られることはないんじゃないかと思っている。

 アンコウが、テレサを置いて逃げることを選択したのなら、その先の人生はテレサの自由にしたらいいと、本気で言うような人だとテレサは思っていた。

 

 しかし、モージストはアンコウという男を知らない。ただ、強い抗魔の力を持つ男の戦士だということだけ認識した。

 あからさまに態度が変わるモージスト。

 

「モージストさん、私なんかを気にかけていただいてありがとうございます。でも、今日はもう遅いから私はそろそろ寝ようかと思うんです」

 

「そ、そうか……………

あ~っと、んっ、テレサそうだね、元気になるには、寝るのが一番かもしれない。テレサ、いい夢が見れたらいいね」

 

 モージストはそう言うと、あっさりテレサをあきらめた。女にモテる軽めの男は、積極的でしつこいが、変わり身もまた早い。

 

シヤッッと、のぞき窓が閉められてしまった。

 

 モージストは、本気でテレサに好意を持っていた。それは偽りのものではない。

 ただ少しばかり、綿毛のごとく軽いものではあった。一夜の恋、あるいは、一時期の大人の恋を求めていたのだろう。

 

 そのことにあからさまに気づかされたテレサ。テレサの眉が釣りあがり、思わず扉を蹴り飛ばしそうになる。

 しかし、こみあげてくる衝動を何とか抑え、テレサはベッドのほうへ戻っていく。

 

「ハァーッ、自業自得かな………」

 

 

 ようやくベッドに潜っても、まだ悶々とするテレサ。怒りなのか悲しみなのか情けなさなのか、よくわからない感情が心を覆う。

 そんな時また、テレサの脳裏にアンコウの姿が浮かんだ。

 テレサには、アンコウが プッと笑った気がした。

 

(!!!~~旦那様ッ)

 

 

 さらに夜が更けてもテレサは眠れない。テレサはいつのまにか、久しぶりにアンコウのことばかり考えるようになっていた。

 

 真っ暗なテレサの部屋。

 すでにランタンの明かりもない。

 のぞき窓もしっかり閉められている。

 

……ああっ…あんっ……旦那さまぁ……

 

完全な闇に漏れるテレサの声。

ベッドにはテレサ一人のまま。

テレサの寝間着は乱れている。

テレサは枕に顔をうずめ、左手は自分の大きな胸をつかみ、右手はもものほうへと伸びている。

 

……ンンッ……アンッッ……アンコウっ……

 

………… 仕方がない 女 30半ば、一人寝がどうしようなく寂しい夜もある。

 

 

 

 モージストを拒絶した次の日、まだ朝の早い時間帯に寝不足のテレサは、懐かしいふたつの顔を部屋に迎え入れた。

 

「やぁテレサ、久しぶり。元気にしてたかい?」

 

 綺麗な若草色の毛、健康的な褐色の肌、女ながらに勇ましい戦士の風貌。それは約3ヶ月ぶりに会う獣人の女戦士マニ。

 それにもう一人。マニに腕を引っ張られるようにして連れてこられた、整った文官服を着た年配の人間族の男。

 

「いや、イェルベンに入る少し前で、たまたま会ったんだ。なぁ、モスカル」

 

 モスカルは、ネルカでアンコウやテレサの世話役を勤めていた男で、ハウルの側近というほど高い身分ではないが、このグローソンでハウルに直接目通りが許されているほどの地位にはある。

 

 このモスカルの文官としての戦地行政手腕は、それなりに高く評価されているようで、此度(こたび)のグローソンのロンド領進攻からグローソン領内の反乱を通して、あちらこちらで働かされていたようだ。

 

「お、お久しぶりです。テレサ殿」

 

 モスカルは、テレサに対しても丁寧に接してくれる。そのモスカルの息はまだ乱れており、かなり乱暴にマニに連れてこられたようだ。

 

「あ、あの二人とも一体どうしたんですか?」

「ああ!それなんだテレサ!アンコウが見つかったらしいぞ!」

 

 マニの突然の知らせ。

 

「…………え…ええっ!!」

 テレサの目が大きく見開く。

 

「なぁ、モスカル!」

「は、はい、そう知らせを受けました」

 

 モスカルは、未だグローソン公ハウルの中でアンコウ担当にされているらしい。

 諸地での緊急的な戦時混乱収束作業を終えた モスカルのイェルベン一時帰還と、ワン‐ロンからグローソンに、アンコウに関する問い合わせがあった時期が重なり、アンコウ回収に関する事案がモスカルに丸投げされていた。

 

「だ、旦那様はどこですかっ!」

「いや、まだイェルベンには来ていないんだ」

 そう言ったマニの体が、楽しげに跳ねた感じがした。

 

「アンコウのやつ、どこで見つかったと思う!?」

 さらに楽しげに聞くマニ。

「どこですかっ!!」

 テレサの勢いもすごい。

 

「ワンタンだっ!!」

「えっ………(わんたん)?」

 

「ワン‐ロンです、マニ殿」

「そうそう!ドワーフの古里、あの迷宮地下都市ワンタンだっ!!」

 

 テレサの目が、さらに大きく見開く。

 ワン‐ロン そのドワーフの街の名は、当然テレサも耳にしたことがある。

 

『ドワーフの古里、迷宮地下都市ワン‐ロン』

 

 この世界の一般の人間族にとって、無論、テレサにとってもそれは御伽噺(おとぎばなし)のような存在。

 

(ドワーフの玉都(ぎょくと)ワン-ロン……旦那様はどうやったらそんなところに……)

 

 テレサの顔色が青白く変わっていく。

 

 そんなテレサの心情の変化にはまったく頓着することなく、

 

「テレサも一緒にアンコウを迎えに行こう!ワンタンにっ!!」

 と言いながら、

バンッと、マニの手がテレサの肩をたたいた。

 

「…………えっ?」

 

 マニの後ろで、だめだこりゃとばかりに、モスカルが首を振っていた。

 



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第66話 極大豚鬼王の侵撃

 『ロブナ‐オゴナル』の波動の乱れが生じた日から、一週間が過ぎていた。

 アンコウは、まだワン‐ロンにいる。グローソンからのお迎えがまだ到着していないからだ。

 

 あれほどグローソンの追っ手から逃げ回っていたアンコウなのに、一度、グローソンに身を任せると決めてしまうと、

 まだ来ないのか、まだ来ないのかと、お迎えを待ちわびるようになってしまっていた。

 

 逃亡生活に疲れ切ってしまっていたのに加え、何よりアンコウは、極大豚鬼王(ビッグオーク)の襲来が恐ろしかった。

 

 歴史上、約千年に一度ほどの頻度で発生している ワン‐ロンへの極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃。それは、このワン‐ロン建国の成り立ちからして避けられない災害。

 

 記録によると、いずれの時も事前に『ロブナ‐オゴナル』の波動の乱れが生じ、その波動の乱れが生じたときから、実際の侵撃が始まるまでの期間は、

 記録に残されているものでも、ほぼ即日に侵入がはじまったものから、数年に渡って断続的に波動の乱れが続いた後に侵入が始まった事例もあり、規則性はまったくない。

 

 そして、

 

 

「くそったれっ!なんだこれはっっ!!」

 

 

 ワン-ロン全体を飲み込む大波のような激しい波動の乱れ。アンコウの怒号のような叫びが響く。

 此度の極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃は、わずか一週間後に始まってしまった。

 

 

 

 結局、アンコウが心よりお待ちしていたグローソンからの迎え(引き取り?)の使者は、わずかな差で間に合わなかった。

 逗留している屋敷から庭に飛び出たアンコウは、外壁を器用によじ登り、ものすごい速さで屋根の上に駆け上がる。

 

(この間の比じゃないっ!それに何だこれっ、とんでもない覇気がっ)

 

 アンコウは屋敷の屋根の一番高いところに到達すると、そこから街を眺める。

 

「アンコウっ!」

 アンコウに続いて、カルミも屋根の上にやってきた。

 

「くっ!何だよっ、あれ……何だ……」

 

 アンコウは、最も強く波動の乱れを感じる方向を見ている。

 アンコウの額から、次々と汗が(したた)り落ちる。アンコウの表情は極めて険しい。

 

「あそこは……東の広場のあたりだな」

 

 アンコウがいる屋敷からはかなり距離があるが、東の広場といえば、アンコウたちが初めて、このワン‐ロンに入った場所。

 いくつもの幻門(ファンゲート)が設置されていた場所だ。

 

 このワン‐ロンで、公に設置されている幻門(ファンゲート)があるのは、東西南北中央の5ヶ所の広場のみ。

 

「何だよあれ………あそこはどうなってんだ」

 

 東の方角から、とりわけ激しい波動の乱れが感じられる。何かはわからない強烈に強い覇気。それに、

 

「……あの辺りから、ものすごく濃い魔素が吹き出してきているっ」

 アンコウの目つきが、これ以上ないぐらい厳しい。

「………あそこに、何かいる………」

 

 アンコウは街の東方をにらめつけながらつぶやいた。

 アンコウと同じく屋根の上に立ち、アンコウと同じ方向を見つめていたカルミが、そのアンコウの独り言に答えるようにつぶやき返す。

 

「……びっぐおーく」

 

バッ!と、アンコウはカルミのほうを見た。

「わかるのか!?」

 

「このあいだ、マグナ‐オゴナルの祭殿で、ちょっとだけ感じた覇気とおなじ。ナナーシュは、極大豚鬼王(ビッグオーク)が干渉してるっていってた」

 

「く、くそっ、じゃあやっぱり極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃ってやつが始まったんだな」

 

 万世の歴史を持つワン‐ロン。その悠久の歴史の中で、約千年に一度の頻度で発生している 極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃、その恐るべき災害に出くわした。

 

(ついてないなんてもんじゃねぇよ………)

 

 アンコウは真っ先に逃げることを考えるが、そもそも逃げられるなら、この一週間のうちに逃げ出しているアンコウだ。

 

 ここワン‐ロンは、迷宮地下都市。地上世界に戻るためには、幻門(ファンゲート)を通る必要がある。

 しかし、その幻門(ファンゲート)は、すべてワン-ロンの統政府の直接管理下にあり、誰一人許可なく出入りすることはできない。

 

(それでも行ってみるべきか)

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃は、多くの魔獣の侵入を伴うという。この後、ワン-ロン全域が、大混乱に陥るのは必死だ。

 

 ワン-ロン・ドワーフたちは、ナナーシュらワン-ロン統政府が一週間前、極大豚鬼王(ビッグオーク)侵撃の可能性を公表した時、多くの民衆が戦う意志を声高らかに宣言するという気概を見せた。

 

(でも、全員が戦えるわけじゃない)

 

 なかには、必ず戦えない者もいるだろうし、少数でも逃げる者もいるはずだと、アンコウは考えている。

 ワン-ロンは大きな街、人口も多い。全体の割合としては一部でも、数でいえば、決して少なくない人数が逃げ出すだろうとアンコウはみていた。

 

(必ず幻門(ファンゲート)に人は殺到するはずだ)

 

 アンコウは、波動が激しく乱れ、強烈に強い覇気と、ものすごく濃い魔素を感じる東の広場の方角から目を転じ、ここから比較的近い北の広場のある方向を見た。

 

「………とりあえず、北の広場に行ってみるか」

 

 アンコウは、もはや行動することを躊躇(ちゅうちょ)する時間はないとみた。

 わずかな時間の判断の遅れが、死に直結する事態だと認識した。

 

「カルミ、北の広場に行くぞ」

 

 アンコウはごく当たり前に、カルミにそう声をかけたが、

 

「そっか、カルミはあっちに行くよ」

 

 カルミはごく自然にそう言って、街を指差した。

 カルミが指差した方向、それは(こゆ)い魔素の立ち昇り始めている東。

 

「!……何しに行くんだ……」

 カルミを見るアンコウの目が、(いぶか)しげに鋭くなる。

 

「カルミは戦うよ」

 

 カルミはこの一週間のあいだにも、一度ナナーシュを訪ね、話をしていた。

 ナナーシュはかなり疲れているようだったが、カルミが来てくれたことをとても喜んでいた。ナナーシュはカルミのことを案じ、地上の家に帰ってはどうかとも言ってくれていた。

 

「落ち着いたらいつでもワン-ロンに遊びに来られるようにするから」

 と、言ってくれたのだ。

 

 カルミは死んだじいちゃんに、

「友達が困っていたら、全力で助けてやれ」

 と、言われたことがある。

 

 ナナーシュは、カルミにとって初めての友達だ。だからカルミはナナーシュに、

「帰らないよ、ナナーシュのちからになる」と伝えた。

 

 ナナーシュはそれを聞いて、カルミに安全なところに行くようにと説得したが、カルミが首をたてに振ることはなく、最後にはナナーシュは声を震わせながら、

「……カルミ、ありがとう……」

 と、言っていた。

 

 

「じゃ、行くね」

 カルミはあっさりそう言うと、屋根から下りようと動きだす。

「お、おいっ、カルミっ!」

 反射的にアンコウがカルミを呼び止める。

 

「なに?」

 と言って、振りむいたカルミの目。

 真っすぐに迷いなくアンコウを見ているその目には、燃えるような闘気が宿っていた。

 

 カルミは、ただの6歳の子供ではない。6歳にして、戦いというものを知っているハーフドワーフの戦士。

 

「………………いや、」

 アンコウは止めるのをやめた。

 

「……俺はそっちには行かないぞ」

「うん」

 

 カルミは、別にアンコウについてきてもらいたいとは思っていない。

 戦うか戦わないか、どこで何と戦うのか、それはそれぞれが決めることだと、カルミは思っている。

 

 そんな感覚がいつどのようにして身についたのかは、カルミ本人にもわからない。

 それは、まるで生まれつきカルミに魂に宿っている感覚のようだ。

 

「終わったら、アンコウのところに戻ってくるね」

「………ああ、好きにしたらいいさ」

 

 

 屋根の上からカルミの姿が消えるのを見届けた後、アンコウの姿も屋根の上から消えた。

 

 

 

 

青幌精霊法術師団(あおほろせいれいほうじゅつしだん)赤幌重装騎士団(あかほろじゅうそうきしだん)黄幌槍剣白兵隊(きほろそうけんはくへいたい)

 以上各部隊の先兵部隊の東広場への出陣っ、開始いたしましたっ!」

 

 勢いよく駆け込んできた伝令人が大きな声で告げる。

 その大声が響いた広間には、ナナーシュをはじめ、ワン‐ロンの有力家臣の面々がずらりとそろっていた。

 

「うむ、引き続き、兵の移動を急がせよ」

「はっ!」

 

 伝令と受け答えをしていたのは、ボルファスだ。

 ナナーシュの側近、分厚い筋肉に覆われたダルマのような体、頬からあごを覆うような立派なヒゲ、見た目は50歳ぐらいの中年、将軍ボルファス。

 

「ナナーシュ様、東広場の幻門(ファンゲート)より、侵入を図ろうとしている極大豚鬼王(ビッグオーク)への先陣部隊に引き続き、このワン‐ロンの全戦力を動かす御許可をっ」

 

「………ええ。ボルファス、皆も、」

 

 ナナーシュの声に反応して、ナナーシュの足下に居並ぶ者たちが、一斉にナナーシュを見る。

 ナナーシュが自分の体の大きさには合わない大きな玉座から、スッと立ち上がり、皆を見渡す。

 

「万世のこのワン-ロンの歴史の中で、幾度となく繰り返された極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃も、そのすべてを我らワン‐ロンの祖先たちは跳ね返して、今があります。

 ならば、今回も同じこと。必ずや極大豚鬼王(ビッグオーク)を打ち倒し、湧き出てくるであろう魔獣どもを一匹残らず排除しますっ!

 このワン‐ロンの統治者、太祖オゴナルの正統後継者、ナナーシュ・ド・ワン‐ロンの名において命ず、このワン‐ロンに仇なす魔獣どもを、たとえ死しても一匹残らず狩りとれっ!」

 

「「「「はははーーーーーっ!!!」」」」

 

 ナナーシュは玉座の高台から下り、歩き出す。

 ナナーシュの足下に居並んでいた者たちが、戦意をあらわに、一斉に広間から出て行く。

 

 ただひとりボルファスだけが、まだナナーシュの後についていた。

 

「ボルファス」

「はっ」

 

極大豚鬼王(ビッグオーク)が、このワン‐ロン内に侵入してくること自体はもはや避けられない。間違いなくそういう力を持っている個体だから。

 私はこれからロブナ祭殿に行き、『ロブナ‐オゴナル』に干渉している極大豚鬼王(ビッグオーク)の力の排除に努めます。私はやつのロブナ‐オゴナルへの干渉による悪影響を最小限に食い止める。

 だからボルファス。前線の指揮は、あなたに任せます」

 

「ははっ!承りました。ではナナーシュ様、大精霊の御加護があらんことをっ」

 

 そう言うとボルファスも皆の後に続いて広間を去り、ナナーシュは自分の戦場へと向かった。

 

 

 

 

~~ロブナ祭殿~~

 

「ナナーシュ様っ、ロブナ-オゴナルがっ!」

 

 ロブナ祭殿の護祭官たちが、群がるようにナナーシュに走りよる。

 

「わかっているっ。皆、落ちついてっ!」

 

 鋭い目つき、これ以上ないほどの真剣な表情でナナーシュは、ロブナ祭殿最奥部『ロブナ‐オゴナル』が設置されている大魔石卵の間に足を踏み入れる。

 ロブナ‐オゴナルを中心に渦巻くように乱れる力の波動。

 目には見えぬが、目に見える以上に鮮明に、ナナーシュはそれを感じとっていた。

 

「ナナーシュ様っ、我々ではどうしようもございませんっ」

「…………わかってる。皆、さがっていて」

 

 なすすべなく多くの護人官たちが立ちすくむ中、ナナーシュは意を決し、波動の激流の中に足を踏み入れた。

 ナナーシュは海を割り開く聖人のごとく、波動の奔流の中を 『ロブナ‐オゴナル』に向かって歩みを進めた。

 

「くっっっ」

(す、すごいっ、ここまで干渉されるなんてっ)

 

 顔を(しか)め、全身から得体の知れない汗を吹き出しながらも、ナナーシュは『ロブナ‐オゴナル』の設置されている台座に登り、その前まで進み止まる。

 

 

「ああっ……ナナーシュさま」

 

 多くの護祭官たちが、そんなナナーシュの姿を必死の思いで見守っている。

 

 ナナーシュは、目の前にある濃透紫色の卵形の巨大魔石‐ロブナを挑むように睨むように見つめる。そして、ナナーシュはゆっくりとロブナ‐オゴナルに両手を伸ばし、その手のひらを当てた。

 

 そして……ナナーシュの天をも破る様な気合声が祭殿に響いた。

 

「ああぁぁあああーーっ!!」



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第67話 排泄された大豚と殴る童女

 うおぉぉおーっ!!

ギヤァァアアーッ!

 ガンッ!ゴンッ!ガンッ!ゴンッ!ガンッ!

ぐわわあぁぁーっ!

 グギャイィーンッ!!

 

 東の広場周辺部で、すでにはじまっている戦闘。

 怒号、悲鳴、爆発音、血が飛びかい、命が次々と散華していく 戦場の残酷な音が響きつづけている。

 

 幻門(ファンゲート)からは、次々と小型のオークや様々な種類の魔獣どもが湧き出していた。

 

 ワン‐ロン兵と魔獣どもが、激しい殺し合いを演じている。全体的な戦況としては、ワン‐ロン側が押している。

 何しろワン‐ロンの精鋭部隊の軍勢が、この東の広場周辺に集結しつつあるのだ。

 

 しかし、幻門(ファンゲート)から湧き出す魔獣たちの数はあまりに多く、ドワーフたちの剣刃から逃れた魔獣たちが、個々にワン‐ロンの街中に侵入していくことは止められない。

 

 

「ミゲル様っ!あれはっ!」

 

 実はミゲルは、嫡男ではないものの、このワン‐ロンの有力な将軍家門の子息である。

 そのミゲルの従者が、東の広場に設置されている幻門(ファンゲート)の中でも、ひときわ大きなものを示しながら叫んだ。

 

 その門からは、ニョッキリと毛むくじゃらの大きな腕が突き出ていた。それは、ミゲルがこれまで見たこともないような大きな腕。

 しかし、その外見的特長から、その腕がオークのものであろうことは推察できた。

 

 そして、その腕の周囲から吹き出る強烈な覇気と門全体から噴き出る濃厚な魔素。

 

「ぐっ、あれが極大豚鬼王(ビッグオーク)か……ははっ、ありゃあ、腕を斬り落とすだけでも全軍総がかりだな」

 

 ミゲルはそうつぶやきながらも、

ズバンッ!

グギャアンッ!

 一刀で、目の前にいた魔獣を唐竹割りにした。

 

 東の広場周辺での戦闘はさらに激しさを増していく。

 

 そうこうしているうちに、極大豚鬼王(ビッグオーク)の腕が出てきていた門の外枠は壊れ落ちた。

 さらに、空間の揺らぎを押し広げるように突き出てきた 大豚の腕が、その付け根あたりまで見えている。

 

 戦況は変わらずワン‐ロン側が優勢とはいえ、広場は湧き出た魔獣で埋め尽くされつつあり、極大豚鬼王(ビッグオーク)の腕に、直接ドワーフたちの剣はとどいていない。

 強弓の矢や精霊法術による遠距離攻撃は、多少とどいているものの、さしてダメージは与えられていないようだ。

 

 それでも時間の経過に連れ、東の広場周辺には魔獣たちの死骸が山積みになっていく。

 

「よしっ!押せっ押せえぇぇええー!」

 

 そして、ミゲルたちワン‐ロン軍の勢いがさらに強まり、ついに広場中心部に主力部隊がなだれ込もうとした時だった、

 

!!ピカッッ!ガラッゴロッゴロッゴロッッ!!

 

 目が眩むような閃光が走り、空間が崩れ落ちるのではないかと思うほどの雷鳴が響く。

 しかし、ここは迷宮地下都市ワン‐ロン。天を見上げても、そこに真実の空はない。

 

 魔獣もドワーフも区別することなく、黒焦げの炭塊に変えていく雷撃(いかづち)は、空からではなく、極大豚鬼王(ビッグオーク)の巨腕が突き出ている幻門(ファンゲート)から放出されていた。

 

!!ピカカッッ!ガララッ!ゴローッゴロッゴロッッ!!

 

 うぎああゃー、ギギャアアー と、さまざまな種類の悲鳴が、雷撃(いかづち)の放出とともに響いた。

 

 そして、陸にあげた小さな蛸壺から、大ダコがぬるりと這い出てくるように、はちきれんばかりに変形した幻門(ファンゲート)の中から、腕しか見ていなかった極大豚鬼王(ビッグオーク)が、一気に排泄された。

 

 

 シンッ と突如静まりかえる戦場。

 

 詰まりが取れた大きな幻門(ファンゲート)の揺らぎから、

ブシユュュューー!! と、それまで以上の勢いで、(こゆ)い魔素が吹き出している。

 

 とても1匹の魔獣のものとは思えない巨大な肉塊。

 その山のように巨大な体をゆっくりと起こす極大豚鬼王(ビッグオーク)

 そして、

 

ブフウウゥゥウウモオォォオオーーー!!!

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)は、まるで生まれ出でた喜びに狂うような歓喜の咆哮(ほうこう)をあげた。

 

 その威圧力は凄まじく、並みの精神力の者なら確実に気を失うだろう。しかしここに集うたワン‐ロンの兵士たちは、一騎当千の強兵(つわもの)ぞろい。

 

 ミゲルは愛剣を握る手に、これまで以上に力を籠め、剣先を極大豚鬼王(ビッグオーク)にむける。

 

「怯むなっ!!!あれを倒すのが、俺たちの目的だっ!我らが故郷ワン‐ロンのためにっ!」

 

 ミゲルだけではない、あちこちで同じようなドワーフたちの声があがる。

 脆弱な人間族とは違う。ドワーフは種として強い。

 

「「「うおおおぉぉぉぉぉおおおおーーー!!!」」」

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)に勝るとも劣らないドワーフたちの咆哮(ほうこう)が響いた。

 

 

 絶え間なく命が散華する戦いが続く。

 東の広場付近の戦況は、大きく変化した。極大豚鬼王(ビッグオーク)幻門(ファンゲート)から排泄され、それまでワン‐ロン軍が圧倒的に押していた戦場の旗色が、明らかに魔獣群に傾いてきている。

 

 一匹の魔獣の出現で、これだけ戦力の天秤が動くものなのか。

 ドワーフたちが弱いわけではない、それほど極大豚鬼王(ビッグオーク)は強かった。

 

 それこそ敵味方関係なく、動く肉塊を次々に大きな口に放り込み、無尽蔵の食欲を見せ、周囲に雷撃を飛ばし続けている。

 

 しかしそれでもなお、ワン‐ロンの精鋭軍たちは退かない。

 怯むなっ!進めっ!進めっ! 押されはじめていても、戦意に溢れたドワーフたちの声が戦場に響き続けている。

 

 一匹の巨大な個の力、極大豚鬼王(ビッグオーク)

 それを目前にして、退くことなく戦いを挑む、誇り高き妖精種ワン‐ロン・ドワーフ。

 

 進めっ!進めえぇぇーっ! 極大豚鬼王(ビッグオーク)を前にしても、統制が崩れないワン‐ロン軍。

 

 しかし、東の広場にあるすべての幻門(ファンゲート)から、次々と無秩序に飛び出し続ける魔獣ども。

 その数の多さに、なかなかワン‐ロン軍は極大豚鬼王(ビッグオーク)へと斬り込む道を開くことができない。山のようにそびえ、好き放題に暴れ続ける極大豚鬼王(ビッグオーク)

 

 そして、そんな大敵に遠距離攻撃ではなく、肉薄した最初の一撃を加えたのはワン‐ロン軍の者ではなかった。

 それを成した者、その者は軍の統制下にはなく、自分の意思で自由に動き、極大豚鬼王(ビッグオーク)を敵と見定めた者だった。

 

 山のように大きい極大豚鬼王(ビッグオーク)のさらに上、空のほうからそれは落ちてきた。

 

「やああぁぁぁあああーー!」

ドオォンッ!

「ブフモォォォオオオッ!」

 

 その綺麗に調整されたばかりのメイスの一撃では、極大豚鬼王(ビッグオーク)に大きなダメージを与えることはできなかった。

 しかし、その直接打撃は確かに極大豚鬼王(ビッグオーク)にとどいた。

 

  極大豚鬼王(ビッグオーク)に与えたダメージは小さくとも、その価値は果てしなく大きい。

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)に迫らんと、最前線で剣を振っていたミゲルも、確かにその瞬間を見た。

 

 ドワーフは、大人の男でも背が低い。ミゲルもそうだ。

 しかし、どこからどのようにして降ってきたのだろう 極大豚鬼王(ビッグオーク)の頭に一撃を加えた者は、そのミゲルよりも小さき者だった。

 

 ミゲルは、その極大豚鬼王(ビッグオーク)に飛びかかったモサッとした小ぶりのアフロの者を知っていた。

 ミゲルは目を大きく見開いて、その者の姿をとらえている。

 

「カルミっっっ!!!」

 ミゲルは思わず叫んだ。

 

  極大豚鬼王(ビッグオーク)に最初の一撃を加えた者は、カルミ。

 そして、極大豚鬼王(ビッグオーク)の頭にメイスを叩き込んだカルミは、そのまま魔獣たちが(うごめ)く地面へと落ちていく。

 

 それを見たワン‐ロンの戦士たちがいっせいに声をあげた。

 

オオォォォォオオオオーーー!!!

 

 そして、ミゲルたちは雄叫びをあげながら、魔獣どもの海に向かって、さらなる突撃を開始した。

「うおおぉぉおおーー!!」

 

 ワン‐ロンの将兵たち全体の戦意が膨張し、勢いを増す。ミゲルたちは、再び魔獣どもを押し返しはじめた。

 

 

 

 

 アンコウは北の広場に向かって、ひた走った。

 ワン‐ロンの街全体がすでに戦闘モードに入っていたが、アンコウの予想通り、全てのドワーフが戦うことを選択したわけではなく、あきらかに逃げようとの意識を持って行動している者たちもいた。

 

 そういった者の中には、魔具鞄には収まり切らなかったのか、そもそも所持していないのか、家財道具を積んだ荷車を押す者たちもいた。

 アンコウ同様、北の広場を目指して移動している そのような者たちの姿を視界におさめつつ、アンコウは走っていた。

 

(やっぱり、こいつらは北の広場の幻門(ファンゲート)を使って、ワン‐ロンから逃げ出すつもりだな)

 

 ワン‐ロン統政府が、現段階でそのような住民のワン‐ロン外への脱出を促しているという情報はない。

 むしろ、事ここに至った以上は、全住民とともに背水の陣を敷き、極大豚鬼王(ビッグオーク)との戦いに臨んでいるようにみえる。

 

 そしてそれは、ワン‐ロン‐ドワーフ全体の主流をなす意思でもあった。

 

(だけど、少数派とはいえ、決して少ないとは言えない人数がワン‐ロンから脱出するために動いている)

 ワン‐ロン全体では少数派であっても、実際にまとまって行動を起こせば、決して無視できない数にはなる。

極大豚鬼王(ビッグオーク)が暴れている東以外の広場に、そういう連中が必ず集まる。この大荷物の連中まで広場に入ったら、相当な騒ぎになるはずだ)

 

 もしそうなれば、統政府側も彼らが脱出したいという要望を無視できなくなるのではないかと、アンコウは考えていた。

 

 幻門(ファンゲート)が外界につながれば、多くの脱出希望者がそこに群がるだろう。そうなれば、その人の群れにまぎれて、アンコウもこのワン‐ロンから逃げ出すことができるのではと算段していた。

 

 しかし、アンコウも、我先に逃げ出そうとしているドワーフたちも知らなかったのだ。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の『ロブナ‐オゴナル』に対する干渉。

 その影響は非常に甚大なものがあり、広場にある幻門(ファンゲート)の移動地点の設定が、すでにナナーシュにも統政府にもできなくなっていたことを。

 

 

 

 

 「頼むっ!地上への道を開いてくれっ!」

 「そうだっ!どこへでもかまわないからっ!」

 「お願いっ!この子達だけでも脱出させてっ!」

 

 北の広場のあちこちで嘆願の声が響いている。しかしそのようなことを、この状況下で、ただの警備の兵ができるわけもない。

 

「うるさいっ!勝手なことを言うなっ!皆が命をかけて戦っている時に、恥を知れっ!」

 

 武器を手に持つ警備兵の威圧混じりの怒声の効果か、かなり騒がしいものの、今のところ暴動にまでは至っていない。

 しかし、刻々と増えるワン-ロンからの脱出を求める住民たちをいつまで抑えられるかは相当怪しい。

 

 そんな中、すでにアンコウは北の広場の中に踏み入り、殺気すら漂う周囲の様子を観察していた。

(……思ったより、警備兵の数が少ないな。さて、どうなるか)

 

 

「どうしてだっ!?逃がしてくれてもいいじゃないかっ!誰もが戦えるわけじゃないんだぞっ!」

 

 そうだ、そうだ 女子供もいるんだぞっ と、罵声にも似た叫び声が、警備の兵に浴びせかけられている。

 警備の兵たちの中には、その数の力を前に、少し腰が引けてきた者たちも出てきていた。

 そんな中、

 

「ま、まてっ!幻門《ファンゲート》は今、コントロールできていない状態なんだっ!」

 

 警備兵の一人がそう叫んだセリフをアンコウの耳がとらえた。

 アンコウの足が、その場で ピタリと止まる。

 

(!幻門(ファンゲート)が制御できていないだって?)

 

 アンコウは厳しい視線を兵士たちがいるほうに送り、兵たちの話に耳を集中させた。

 すると、同様の主張をしている警備兵が、あちらこちらで出てきていた。

 

 アンコウはまずいなと思いながら、あらためて現状確認をする。

 幻門(ファンゲート)は使用禁止の命令が出ており、統政府側に、脱出希望者の要求を飲む意思はない。

 それに、真偽のほどはわからないが、仮に統政府がゲートを開こうとしても、幻門(ファンゲート)のコントロール自体がきいていないらしい。

 

 『ロブナ‐オゴナル』が、極大豚鬼王(ビッグオーク)に干渉されている今、それも十分にありえる話だ と、アンコウは思った。

 

ドンッ

「!ん?」

 突然、背後から人に押されて、アンコウはうしろを振り返る。

 

 アンコウが警備の兵たちの話を聞き、考えを巡らしているあいだに、同じように警備の兵の話を聞きに来たと思われる人たちが周辺に集まってきていた。

 

 嘘をつくな 道を通せ と、周囲から殺気だった声があがり始める。

 

「チッ!」

 しまったと思ったアンコウが、急いで人の壁をかき分けて、その場から離脱しようとするが、ごく短時間の間にすでに思うように進めないほど人が集まってきていた。

 

「くそっ!おいっ!通してくれっ!」

「おいっ!人間っ!押すんじゃねぇよっ!」

 

 ドワーフとは思えないヒョロヒョロしたドワーフ風の男が、この場から離れようとしているアンコウの体を ドンッと押した。

 

「何するんだ、通せって言ってるだろう!」

 

 アンコウが反射的に、男を ドンッと押し返すと、ドワーフのくせにその男は、

ギャンッ! と情けない声をあげ吹き飛んだ。

 すると、周囲の視線が一斉にアンコウに向けられる。

 

「何のつもりだ、人間っ!」

「人間風情がどうしてここにいるっ!」

「くさいっ!人間は近づかないでっ!」

 

 それでなくとも、苛立ち殺気だっていた者たちの意識が攻撃的にアンコウに向けられる。

 

(………やばいな)

 突然のまずい状況に、アンコウの背中に冷たい汗が流れ落ち始める。

 

「………あ、あははっ、手がすべった…かな」

 

「おいっ!!」

 アンコウのすぐ近くにいた男が、アンコウに向かって怒鳴るような大きな声を出した。

 

 その男は腰に剣を差しており、先ほどのヒョロヒョロとは違い、ドワーフの戦士らしい体格をしていた。

 アンコウは、チッ と内心で舌打ちをし、自身も腰にぶら下げている魔具の鞘袋から突き出ている剣、いや、魔斧の柄にそっと手を伸ばす。

 

「お、おいっ!!」

 その男がまた、大きな声をあげた。

 

 再び自分が怒鳴りつけられたと思ったアンコウだが、男をよく見ると、その視線が自分に向けられていないことに気づく。

(ん?)

そして、

 ゾゾワァアアッ と、アンコウの全身に強烈な悪寒が走った。

 

(なんだ?!!!!!)

 

 アンコウは、とっさに男が視線を向けているほうを振り返える。

 その視線の先には、この北の広場に設置されている幻門(ファンゲート)のひとつが見えた………………

 



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第68話 空から降ってきた救出者

 つい先ほどまで、まったく作動していなかった幻門(ファンゲート)。門の大きなふたつの柱の向こう側には同じ北の広場の風景が広がっていた。

 しかし、今は違う。今、幻門(ファンゲート)を見つめるアンコウの目に映るもの。

 

 幻門(ファンゲート)の大きなふたつの柱の間は、何も写さない真っ黒な壁に変わり、それが激しく揺らいでいる。

 その真っ黒な壁の向こう側はどこにつながっているのか、アンコウは激しい悪寒を感じていた。

 

(やばいっ!!)

 

 アンコウは(きびす)を返し、周囲の者たちに体がぶつかることも気に止めず走り出した。

 しかし、さほどの距離を逃げる間もなく、周囲が悲鳴につつまれる。

 

キャアアァァアアーーッ!

ぐわあぁぁああーーっ!

 

 響く悲鳴に引っ張られるようにアンコウは振り返る。

 

ブシユユュュュユユーーッ!

 

と、その幻門(ファンゲート)から吹き出る(こゆ)い魔素。

 

 そして、幻門(ファンゲート)の左右上下隙間なく、吹き出る魔素とともに魔獣どもが飛び出してきた。

 アンコウの視界に映った魔獣、そのほとんどが小型のオークだ。

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の『ロブナ‐オゴナル』への干渉による幻門(ファンゲート)への影響は、極大豚鬼王(ビッグオーク)そのものが出現した東の広場だけでなく、ワン‐ロン内のすべての幻門(ファンゲート)で強まっていた。

 

(やべええぇぇっ)

 

 すでに、ギィヤアァァ、ぐわあぁぁああ と悲鳴や怒号が北の広場のあちこちから聞こえ始めていた。

 この広場に設置されているすべての幻門(ファンゲート)で、同様の事態が生じていた。

 

 気が付けばアンコウの真後ろに、返り血に染まった一匹の小豚鬼(チープオーク)が迫っていた。

 

「野郎おぉぉおおーっ!」

ザグウゥゥッ!

「グギイィィイイッ!」

 

 アンコウは無理な体勢ながら、腰から引き抜いた勢いのままに魔斧を一閃。

 無理な体勢の上に、まだ使い慣れていない武器。しかし、会心の一撃とは程遠いものの、アンコウが振るった斧は、その小豚鬼(チープオーク)の左腕を斬り飛ばし、胴体深くに刃がめり込んだ。

 

 小豚鬼(チープオーク)の動きが止まり、勢いのままに地面を転がる。

 アンコウはそれに止めを刺そうともせず、周囲の者たちを弾き飛ばしながら、再び走り始めた。

 

 幻門(ファンゲート)から、現れた小豚鬼(チープオーク)は一匹や二匹ではない。一匹(ほふ)ったところで、この状況は何も変わりはしない。

 

(ここから逃げるしかないっ)

 

 そして、わずかな時を経て、北の広場は地獄と化した。

 

 キャアアアアーッ

助けてええーッ

 ぐわああーっ

 

 広場中から、苦痛と絶望の声が聞こえてくる。

 無論、魔獣相手に一歩も退かず、戦い続けている者もいる。しかし、如何せん多勢に無勢だ。

 

 ワン‐ロン統政府が、北の広場の備えをおろそかにしていたわけではない。

 ここを警護する精鋭部隊も配置されていた。しかし彼らは、東の広場に極大豚鬼王(ビッグオーク)現るの報を受け、すぐさまそちらに移動を始めてしまっていた。

 

 その後のことを考えて、この北の広場を守る代わりの部隊の手配もなされていたようだが、未だ到着しておらず、しかもその間に北の広場にはワン‐ロンからの脱出を希望する住民たちが殺到する事態になっていた。

 

 北の広場に殺到していた者たちは、通常のドワーフより戦闘能力、あるいは戦闘意欲が劣っている者たちの集まりだ。

 エルフに次ぐ、優等種族ドワーフといえども、そのような惰弱者の集まりでは、無尽蔵に湧き出る魔獣たちに抗することなどできない。広場は大混乱だ。

 

ぎいゃあああーーっ 痛いいいーーッ たすけえええーっ

 

 戦う力のない男たちに、小型のオークの牙が食い込む。腹を食いちぎり、新鮮な臓物を引っ張り出し、文字どおり湯気が立つ真っ赤な臓物に喰らいついている。

 実にうまそうだ。いや、うまいのだろう。

 

イヤッ、イヤッ、イヤッ、イヤッ、イヤーーーッ

いやぁぁぁあああああーーーっ

 

 男たちの断末魔とともに、女たちの絶望の悲鳴が響く。

 中型や、大型のオークとは違う 小型のオークの特徴。小型のオークは女を襲う。

 中型、大型のオークが、底なしの食欲にのみに突き動かされて行動するのに対して、小豚鬼(チープオーク)は食欲よりも性欲のほうが強いとされている。

 

 広場中で、数え切れないドワーフの女たちが、小豚鬼(チープオーク)に襲われ始めていた。

 

 小豚鬼(チープオーク)といえども、その丸太のような体の全長は 2,3メートルはある。その小豚鬼(チープオーク)たちが、何人もの女たちの上で(うごめ)き、

ブフウモォォオオオッ と、怖気(おぞけ)の走る悦楽のうめき声をあげていた。

 

 蚊が人を刺すとき、人の皮膚下に、まず麻酔物質を注入するという。

 小豚鬼(チープオーク)も同じようなことをする。突き入れ、まず女の正気を弛緩させて官能を暴走させる物質を注入するらしい。すでに、その効果が現れている者もいるようだ。

 

 悲鳴ではなく、激しい嬌声も響きはじめている。

アアァァーーンンッ

 蠢く小豚鬼(チープオーク)の下で、自ら腰を振りはじめている。醜悪すぎる地獄絵図である。

 

 

「どけええええーーっ!」

 

 アンコウは周囲の弱いドワーフたちを、老若男女を問わず、はじき飛ばしながら逃げ続けている。

 

 そして、ようやく広場の外周部に近づく。すでに北の広場の外に飛び出した魔獣もいたが、今ならまだ、この広場さえ抜け出れば、十分に逃亡路を確保することができる。

 

 しかし、(わずかな遅れが、致命傷になる) と、湧き出す魔獣の多さを確認していたアンコウは、此処(ここ)は死地であると、ここで油断すれば死ぬと、はっきりと認識していた。

 

 広場の終わりに近づいてくると、アンコウと同じく逃げ出そうとしている人々で、ここまで以上の大混雑が生じていた。

 あちらこちらで将棋倒しが起き、そこに魔獣どもが群がり、阿鼻叫喚の惨状が広がっている。

 

「クソッ!進めないっ」

 

 ここまできて足を止めるほかなく、瞬時にアンコウは本気で目の前で壁となってしまっている人々を魔戦斧で斬り倒し、道を開くことを考えた。

(仕方がない。俺が死ぬよりかはマシだ)

 アンコウの目から感情が消え、魔戦斧を握る手に力がこもる。

 しかしその時、少し離れたところに、比較的そこまで人が密集していない場所があることに、アンコウは気づいた。

(ん?)

 

 そちらに目を凝らし、見つめるアンコウ。

 そこには小豚鬼(チープオーク)の一群が密集しているようだ。ゆえに人はその場所から逃げ出していた。

 

(あれは………女か)

 

 アンコウが見つめる小豚鬼(チープオーク)の姿が見える場所。

 そこには、このワン‐ロンに何らかの理由で訪れていた人間の集団がいたようだ。その人間の中の雌たちが、小豚鬼(チープオーク)たちに襲われている。

 

 それを確認するとアンコウは、魔戦斧を下げ、突如そちらに向かって、これまで以上の速さで走り出した。

 

 小豚鬼(チープオーク)はその種族を問わず、女を襲い、自らの欲望を満たそうとするが、その中でもドワーフや獣人よりも、なぜか人間族の女を好むということが広く知られている。

 

 少し距離があったにもかかわらず、一気に走り、距離を詰め、人間の女を襲っている小豚鬼(チープオーク)の集団に迫るアンコウ。

 

「うおおおっっ!」

 気合声を発すると同時に、アンコウは跳躍し、

「ブフゥウモオォッ!」

 アンコウの足が、腰振る小豚鬼(チープオーク)の背中を強く踏みつけた。

 

 アンコウの目に、踏みつけたオークの体の下にいる人間の女の顔が一瞬映る。それは、吐き気を催すような悦楽の表情。完全にラリっている。

 そして、その周囲には人間の死体がいくつも転がっていた。

 

 ウゲッ と、喉までこみあげてくるものをこらえて、アンコウは小豚鬼(チープオーク)の背中を蹴り、再びジャンプする。

 

 当たり前だが、アンコウに襲われている人間の女を助けるつもりはない。

 いや、小豚鬼(チープオーク)たちが女に気を取られてくれているのなら、逆に好都合なのだ。

 

 実際、この小豚鬼(チープオーク)はアンコウに背中を踏みつけられても、声をあげ、一瞬アンコウのほうに意識をやっただけで、すぐにその意識を女のほうに戻してしまった。

 

 ブモオォッ!

ボフウウウッ!

 ブフウウウッ!

アンコウは小豚鬼(チープオーク)の背中の上を、次々に飛び移っていく。

 

(よしっ!よしっ!よしっ!)

 

 広場の終わりがどんどん近づいてくる。

 大量の魔獣たちが、この北の広場の幻門(ファンゲート)から、今も飛び出し続けているが、まだその多くは広場の内側にとどまっている。

 

(この広場には、魔獣どもの足止めする撒き餌どもが、まだいっぱいいる。このまま広場を抜けきれば、十分逃げられるっ)

 

「もう少しっ、もう少しだっ」

 

 もうあと何匹かの小豚鬼(チープオーク)の背中を蹴れば、この死地からの逃亡のルートが開ける。

 オークに襲われている女の嬌声も、周囲に転がる死体も今のアンコウには気にかからない。

 

 今はただ、自分が助かるために安全地帯に逃れることが第一で、そのルートが見えてきている。自然、アンコウの口元がわずかにほころんでくる。

 

「よしっ、もう少し!!」

 

その時だった。

 

「ゃゃぁぁぁぁああああああーーっ!!」

 

 なぜか空から近づいてくる叫び声。

 

ドオオンンッ!!

 

 アンコウが次に飛び移ろうとしていた小豚鬼(チープオーク)の上に、何かが降ってきた。

 

「!!なっ!!」

 

 アンコウはやむを得ず、とっさに小豚鬼(チープオーク)の背中の上で足を止めた。

 

 アンコウの眼前。次に飛び移ろうとしていた小豚鬼(チープオーク)

 その背中に薄っすらと紫色の光を放つ長い剣が突き刺さっていた。

 

 ついさっきまで人間の女の上で腰を振っていた小豚鬼(チープオーク)は、今は完全に地面に縫いつけられてしまっている。

 小豚鬼(チープオーク)に襲われていた人間の女も、地面と小豚鬼(チープオーク)の間に押しつぶされて完全にスプラッターだ。

 

 一瞬のあまりの出来事に、アンコウは事態がまったく把握できない。

 しかし、アンコウの眼前、動かなくなった小豚鬼(チープオーク)の背中には、グサリと突き立てられた紫光の長剣だけでなく、その剣の柄を握る者もいた。

 

綺麗な若草色の毛、健康的な褐色の肌、それは獣人の女のようだ。

 ただの女ではない。

その雌豹のような躍動的な身体、その装備、その噴き出す覇気。

 あきらかに戦士、勇ましき女獣人戦士だ。

その女獣人戦士が、ゆっくりとアンコウのほうに顔をあげる。そして、

 

「アンコウっ!!助けにきたぞっ!!!」

 

デジャブ

 一瞬で真っ白になったアンコウの頭の中に、いつか見たあの日の光景がほのかに浮かぶ。

 

 ここにいる筈のないヤツがいる。

ここにいてはいけないヤツがいる。

 目の前に、いま此処に来られたら、一番やばいヤツがいた。

アンコウは、その女獣人戦士の顔を知っていた。

 

「ウゲッ!」

 それを見てアンコウは……少し吐いた。

 アンコウは口の端から、少し吐瀉物をたらしながら、顔をあげる。

「……お前、何で……マニ」

 

「助けに来たぞっ!!おおおおーーっ!!」

 

 マニの戦意はマックスをすでに越えていた。アドレナリンが出まくっているのはまちがいない。

 小豚鬼(チープオーク)の背中から、紫光の長剣を引き抜き、いきなり雄叫びをあげている。

 

 呆気に取られているアンコウだったが、自分の足元がぐらりと揺れ、いま自分が置かれている状況を思い出した。

 

「や、やめろっ!マニっ!!」

 しかし、もう遅い。

 

 人間の女たちを襲っていた小豚鬼(チープオーク)たちがいっせいに体を起こし、少し離れたところにいた魔獣たちも、マニの方を見る。

 そして、その魔獣どもの視界の中には、アンコウも入っているのだ。

 

「ブモオオォォオオッ!」

 アンコウの足の下にいた小豚鬼(チープオーク)も立ち上がった。

 

「チイィッ!」

 アンコウはとっさに飛びさがるが、周囲にいた小豚鬼(チープオーク)たちは、すでに(みな)体を起こしていた。

 

「なんで、なんで、何がどうなってる?」

 

 一瞬で消えた逃げ道、アンコウはまだ混乱している。しかし、アンコウが混乱していても魔獣どもは待ってはくれない。

 

 そして、その次の瞬間には、アンコウは乱戦に巻き込まれていた。

 

 ザアァンッ!

ドォオンッ!

 ザグウゥゥゥッ!

「ブモォォォッ!」

「くそぉぉおおおっ!」

 

(ちくしょう、なんだ、なんだこれっ、どうなってる?)

 

「あはははっ!やるなぁアンコウ!何でそんなに強くなってるんだ!?」

ザグググゥゥゥ!

「グヒイイィィィッ!」

 

「!マ、マニいぃっ!お前マニだろおっ!」

 

「何バカなことを言ってるんだアンコウ、当たり前だろっ」

 

 そう言いながらマニは、嬉々として、アンコウがこれまで見たことがない紫光の長剣を振るい続けていた。そう、マニは確かに強い。

 だが、そんなことは今のアンコウにはどうでもよかった。

 

アンコウはわけがわからないながらも、泣きそうになっている。

アンコウはわけがわからないながらも、誰のせいかはわかっていた。

アンコウは、ようやく混乱から脱する。

 

「ふ、ふざけんなっ!!俺はここから逃げるんだよっっ!!」

 



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第69話 迎え人

――極大豚鬼王(ビッグオーク)のワン‐ロンへの侵撃が始まる当日の早朝――

 

「おおっ、ここがワン‐ロンかぁ」

 周囲を見渡しながら、マニが感嘆の声をあげる。

 

「マニ殿、ここでの勝手な行動は厳に慎んでください」

 モスカルの口調はさすがに厳しい。

 

 モスカルもマニも、グローソンからの正式な使者団の一員として、ここワン‐ロンを訪れた。

 ここでの失態は、どのようなものであれ、モスカルの主君であるグローソン公ハウルの顔に泥を塗ることになる。

 

「わかっているよ。モスカル」

 

 出発前に、さんざんモスカルから注意を受けていたマニは、おとなしく(うなず)く。

 

「マニさん、旦那様に会うまでですから」

「わかってるよ、テレサ」

 

 テレサにも、おとなしく(うなず)いて見せたマニ。

 

 それでも心配であったのだろうモスカルは、テレサに近づき、

「テレサ殿、お手数ですが、しばしマニ殿をよろしくお願いします」

 と、小声で(ささや)いた。

 

 マニがここで何か失態を犯せば、アンコウと会うことができなくなるかもしれないと、モスカルに言い聞かされていたテレサは、真剣な表情で(うなず)いていた。

 

 そして、そのまますぐに、モスカルをはじめとするグローソンの使者御一行は、彼らを迎えに来ていたワン‐ロン側の担当者に案内され、そのまま迎賓館的な施設へと移動していった。

 

 

 

 

 太陽城の広い敷地内にある迎賓館のひとつ、その館内の一区画がグローソン御一行に割り当てられており、皆がそこで待機していた。

 

「あの、モスカル様、旦那様はここには来ていないのですか?」

 テレサが、モスカルに問う。

 

「ええ、私どもの身元の確認が先ということのようです。ワン‐ロンは外部からの訪問者にかなり厳しいところですから」

 

 モスカル自身も、このワン‐ロンにやって来るのは初めてだ。

 このワン‐ロンに知己(ちき)がいる者は、使者団の中に誰もおらず、一見様(いちげんさま)お断り的なワン‐ロンにおいては、グローソンの正式な使者といえども、その確認作業自体がかなり厳しいようだ。

 

「アンコウ殿には、今日我らが来ること自体まだ知らされていないようです。しかし、我らの身分に偽りなきことが確認され次第、面会も帰還もすぐに認められるだろうとのことですから、そう時間はかからないと思いますよ」

 

「そうですか………」

 

 テレサは流れのままに、このワン‐ロンまで来てしまった。

 今回の使者団の代表はモスカル。目的はアンコウを引き取ることのみ。ゆえに訪問団の規模はとても小さく重要度も低い。

 

 だから、グローソンでの使者団帯同の申請において、護衛役のマニのみならず、アンコウの奴隷であるテレサが同行することもあっさり認められた。

 

(ああ、私がワン‐ロンにいるなんて)

 

 テレサにとっては御伽噺(おとぎばなし)に出てくる街に等しいワン‐ロン。テレサはこの街に入って以降、ずっと気持ちが落ち着かない。

 

 しかし、それでもここに来たのはアンコウに会うため、主人のいない奴隷の身では、どこにいたって結局落ち着けやしない。

 そのことは、この数ヵ月の経験で、テレサはいやというほど味わっていた。

 

「大丈夫ですよ」

 と、モスカル。

 

 モスカルは白髪の目立つ人間族の初老の男だ。

 白髪初老と言っても、モスカルの容貌は優れ、抗魔の力を持っていないものの、武術の心得もある身体は今なお引き締まっており、若い時は随分(ずいぶん)女にモテたに違いない。

 

 今でも、じっとその顔を見ていたら、テレサのような年齢の大人の女なら、ぽっと頬を染めてしまうようなダンディな色気がある。アンコウの のっぺりとした顔とは違う。

 テレサも、モスカルのことはかなり頼もしく思っているようだ。

 

「アンコウ殿のここでの待遇はかなり良いようです」

 

 実はモスカルも、アンコウに関する事前情報がかなり不足している状態でここに来ていたのだが、折衝役(せっしょうやく)のワン‐ロンの者たちと少し話をした手応えとして、これなら特別もめることなく、アンコウを引き渡してもらえそうな感触をすでにつかんでいた。

 

「遅くとも明日にはアンコウ殿に会えるはずです」

「ほ、ほんとうですか!?」

 

 30半ばのテレサだが、明日にはアンコウに会えると聞いて、大きな胸の前で両手を合わせ、弾むような笑みを浮かべた。

 

「ええ」

 そんなテレサの様子を見て、モスカルもニコリと笑った。

 そうして話を続けていたテレサとモスカルに、マニが近づいてきた。

 

「ふああぁぁあー、退屈だな。テレサ、ちょっとここを抜け出して、街を見て回らないか?」

 

 今はまだグローソンの御一行に自由行動は認められていないのに、しかしマニならばやりかねない。

 それを聞いて、テレサの顔色がサッと変わる。

 

「何言ってるのっ!ダメに決まってるじゃないっ!今はまだおとなしくしててっ、マニさん!」

 

 マニはテレサに、ガッ!と、両肩を掴まれる。マニを見すえるテレサの目が、これ以上ないぐらいマジだ。

 

「………マニさん、明日には旦那様に会えるから、それまではおとなしくしていてください」

 言葉遣いは丁寧になったが、テレサの眼力(めじから)がさらに増している。

 

「わ、わかったよ、テレサ………」

 

 

 

 

「ふぁぁああーっ、どうしようかなぁ」

 

 マニが庭でも大きくあくびをしている。

 モスカルは今、休むまもなくワン‐ロン側の者と会談中なのだが、マニは警護の仕事をしていない。

 サボっているのではなく、その必要がないほど和やかで、すでに事務的な手続きの会談になっており、モスカルから休んでいていいと言われていた。

 

「マニさん」

「ははっ、テレサ、大丈夫だよ。街に出たりしないさ」

 自分の横に立っているテレサに、マニは苦笑しながら声をかける。

 

「ふふっ、信じてますよ、マニさん」

 

 テレサは笑顔で返すが、実際のところ、この目の前にいる獣人女をそういう意味では信じていない。

 マニは悪気なく衝動的に動く、そのことをテレサはよくわかっている。

 

 そうこうしているうちに、退屈しのぎか、日々の日課か、マニは、スイッと庭の開けたところまで移動し、おもむろに剣を振りはじめた。

 

 

(……きれい)

 テレサはマニの剣振りを見て、そう思う。

 

 テレサも、日々の日課で振り棒をする。剣を振るようになって、テレサにも少しわかるようになったことがある。

 

(マニさんは強い)

 ただ強いだけではない。マニはテレサと行動を共にするようになった この数ヵ月の間でさえも、

(マニさんは強くなっている)

 

 それはテレサにも、はっきりとわかるほどの成長速度だ。

 

 アンコウが言っていた。

『テレサ、マニは馬鹿だが、剣に関しては天才の(たぐい)だ』

 

 二十歳(はたち)そこそこのマニは、まだまだ強くなる伸びしろも大きい。

 

(だから余計厄介だとも、旦那様は言ってたわね)

 

 剣を(ふる)うマニの向こう側に、ワン‐ロン太陽城の本館が見える。

(ほんとうに立派なお城ね)

 

 テレサはまだ、自分があのワン‐ロンにいるという事実が信じられない。

(旦那様、何でこんなところに来たんだろう)

 

 テレサは、ぼぉっと城を眺めながら、アンコウのことを考える。

(明日には会える)

 

 テレサをあっさり切って、ひとり逃げたアンコウだったが、テレサがアンコウに抱いている一番強い感情は、申し訳ないという思い。

 

 自分が毒矢を射って、頭がおかしくなったローアグリフォンにアンコウは連れ去られた。

 苦痛の悲鳴をあげ、血を撒き散らしながら、ネルカの街の上空を飛び去って行ったアンコウの姿がテレサの脳裏に焼きついている。

 

 無論、アンコウは自分を連れ去ったローアグリフォンとテレサの事情など今も知らない。

 テレサとマニの間で、その経緯については、わざわざアンコウに言う必要はない ということになっている。

 

 マニが言うには、『テレサが悪いじゃわけじゃないし、戦場での出来事なんだから』と、さらりと言っていた。

 

(……そうね)

 少し心は痛むが、テレサも同意していた。

(………でもやっぱり、ちゃんと話して謝ったほうがいいのかしら、でも、旦那様だって、ひとりで逃げたんだから………)

 

 テレサはあれやこれやと悩み考えを巡らしているが、アンコウの元に絶対に帰るということはすでに決めているようだった。

 

 

 昼時までにはまだ少し間がある。手入れの行き届いた広い庭で、剣を振り続けるマニ。アンコウのことを思い続けるテレサ。

 そんな二人が、突然、ほぼ同時に同じ方向を振り返った。

 

「「!!!!」」

 

 それは東の方角。空間が揺れた。そう表現できるほどの爆発的な波動の乱れ、そんな大波が突如襲ってきた。

 その大波が襲ってきた方向が東。

 

 目を大きく見開き、一瞬で硬直してしまったのはテレサ。

 マニも振っていた剣を止め、じっと動くことなく立っているが、マニはテレサと違い硬直しているわけではない。

 異常に鋭く変化したマニの目が、東の空をにらみつけている。

 

「………………確かめてくる」

 

 マニはそうつぶやくように言い、剣を腰におさめた。そしてマニは、そのまま走り出そうとする。

 

「!ま、待ってマニさんっ!旦那様が先よっ!」

 そう叫ぶと同時に、テレサの体の硬直は解け、マニに走り寄る。

 

ガッ! と、テレサはマニの手をつかむ。

 そして、真剣な目でマニを見つめる。

 

 テレサが見たマニの目、表情に、先ほどまでの退屈そうな緩さは欠片も残っていない。

 その目は戦場に立ち、敵を前にした時と同じものになっていた。

 

「……テレサ。よくわからないけど、あれは普通じゃない」

 

 マニは真剣な口調で東の空を指し示す。テレサの目が大きくブレる。

 テレサにも、何か普通でないことが起こったということはわかっている。

 戦士マニの表情を見れば、自分が思っている以上に、ただ事ではないらしいとも感じた。

 

「……でも、でも、ここには旦那様を迎えに来たのだから……」

 

 テレサはマニから目をそらしたものの、マニの腕を掴む手にはさらに力が入った。

 

「……痛いよ、テレサ」

「あっ、ご、ごめんなさいっ」

 テレサは慌てて、マニの腕から手を離した。

 

 そんなテレサを見て、フフフッ と、笑うマニ。

 

「……よかった。本気でアンコウのことを思っているんだねテレサ」

「そ、それは、私は旦那様の奴隷だから」

 

「……演技なのかなぁって思ってたんだ」

「?演技?どういうこと?」

「テレサは、あのモージストっていう従邸副長といい仲になってるんだろ?」

 

 この状況下で、突然のマニの爆弾投下。

 

「!!~~なっ!!」

 

「キスしたり、互いの部屋を行き来してたり、いろいろ聞いてさぁ。アンコウに会ったら、どう説明したらいいか悩んでたんだけど、どうやらほんとに一時(いっとき)の浮気みたいだから、ちゃんと話して謝ればアンコウも許してくれるさ」

 

 断続的に東のほうから波動の乱れが襲ってくる。

 しかし、テレサの心中は、その波動の乱れに勝るとも劣らぬほど乱れ始めていた。

 

「なっ!ご、誤解よっ!私、浮気なんかしてないわっ!マニさん、旦那様に説明するって、何を話す気なのっ!」

 

「いや、アンコウは命の恩人だしさ。さすがに浮気となると話さないわけにはいかないかなって。でもテレサも大事な友達だからね、ちゃんとフォローはするから」

 

 テレサの顔が真っ青になる。東から襲い来る禍々(まがまが)しい波動のせいではない。

 

 浮気がばれたっ、いや、浮気なんかしてないっ!だけど、この人はしたと思っている、何でこの人が、キスをしたとか、部屋の行き来をしたとか知ってるのっ!と、とにかく誤解を解かなくちゃ!

 と、テレサは軽くパニクる。

 

「マ、マニさんよく聞いてっ、それは誤解だから」

「でもそうだな。まずはアンコウだ。これはとんでもないことになる」

 

 マニは東の空に湧き上がりはじめた(こゆ)い魔素を見て、さらに表情を引き締める。

 

「と、とんでもないことって何っ!私浮気なんて」

 

 そのテレサの言葉の続きを最後まで聞くことなく、屋敷に向かってマニは走り出した。

 

「!ちょっ!マニさんっ!どこに行くのっ!」

 

 

 

 

 全力で屋敷の中に駆け込んだマニは、そのままモスカルの元へ。

 

「あっ!マニ殿っ!これは一体!?」

「わからない。だけど、相当ヤバイのは間違いない」

 

 モスカルの表情も、真剣そのもの。しかし、この状況では、モスカルたちは自主的に動くことさえできない。

 

「くっ、とにかくできるだけ情報の収集をします」

 

 モスカルと会談をしていたワン‐ロンの者たちも、少し前には話が終わっており、すでにこの迎賓館を引きあげた後だ。

 

「いや、まずはアンコウだ。モスカル、アンコウはどこにいる?」

「い、いや、先ほどの会談でも、そのことは聞いていません。明日には会えるということでしたから」

「そうか、じゃあ、さっきまでここにいたワン‐ロンの者達は?」

「もう、しばらく前に帰りましたが」

「どこに?」

 

「………おそらく本城の方だと」

「そうか」

 と言って、マニは(きびす)を返す。

 

「マ、マニ殿っ!」

「まずはアンコウだっ!」

 

 足を止め、にらみ合うように互いを見合うマニとモスカル。

 

「……モスカル。これは本当にただ事じゃないぞ。とんでもないことになるはずだ」

 

 モスカルは、全身から冷や汗が噴き出し続けている。とんでもないことが起きはじめている、その認識がモスカルにもあった。

 そして、無言のまま、モスカルは(うなず)いた。

 

「………マニ殿、あまり無茶はしないで下さい」

 

 マニも無言で(うなず)き返し、そしてまた走り出した。

 ちょうどその時、モスカルたちがいた部屋に飛び込んできたテレサ。

 

「あっ!待って!マニさんっ!」

 マニを見つけたテレサが、マニの後を追って、また走り出す。

 

「あっ!テレサ殿っ!あなたはここに残って!」

 

 モスカルが声をかけるも、あっという間に、二人の姿は消えてしまった。

 モスカルにも、この突然の事態になさなければならないことがある。モスカルは、仕方がないと二人を放置することを即断した。

 

 

――――波動の乱れはさらに激しさを増していく。

 

「……くっ、一体何なんだこれはっ!」

 

 普段穏やかなモスカルが、厳しい表情のまま吐き捨てるように言った。

 

 



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第70話 走るマニ、追うテレサ

 本館がそびえる方向にむかって、走り続けるマニ。相当に早い。

 その後ろをテレサが必死で追うが、なかなか追いつくことはできず、時々そのマニの後姿さえ見失いつつも全力で追いすがる。

 

 マニは庭を横切り、柵を飛び越え、途中、別の建物の中に入り走る。

 ここは太陽城敷地内、通常ならこのような爆走女は、すぐに見咎(みとが)められ、取り押さえられてしまうだろう。

 

 しかし、今はマニやテレサ以外にも、敷地内を大声をあげ、走り回る者の姿がいくつもあった。すでに周囲は非常事態一色となっていた。

 

「どこだっ!さっきのやつらはどこにいるっ!」

 

 マニは先ほどモスカルと会談をしていた者たちを探しているようだが、マニは彼らの名前も肩書きも聞いていない。

 

 太陽城の敷地とされているエリアは広い。本館やグローソン御一行がいた迎賓館以外にも、いくつもの建物・施設がある。

 そう簡単に探し人が見つかるわけがない。

 

「おまえかっ!ちがう、くそっ!」

 

 それでも、マニの考えなしの行動力は衰えない。マニは周囲にいる者の顔を確認しつつ、随分近づいてきた本館を目指して走りつづけた。

 

 

「はぁはぁはぁはぁ、マ、マニさん、どこ?」

 テレサが走っていた足を一時止め、周囲を見やる。

 

 しかし、マニの姿は見当たらない。テレサはもう、太陽城本館のすぐそばまで来ていた。

 周囲にマニの姿はないが、人の動きはさらに激しくなってきている。

 ちらりと東の空を見ると、先ほど以上の勢いで、魔素が噴き出していることが見てとれる。

 

「………なんなのよ、あれ」

 テレサは顔に怯えの色を浮かべながらつぶやいた。

 その時、建物の中から、人が言い争うような声が聞こえてきた。

 

「~~~~!!」

「~~~~!!」

 

「!あの声、マニさんだわっ!」

 

 テレサは走り出し、声が聞こえてきている建物の中へと駆け込んだ。

 

 テレサが建物の中に入ると、そこは広く、大きな通路。

 そしてマニが、入ってすぐのところにある詰め所のような部屋の前で、数人のドワーフの男相手に、何やら言い合いをしていた。

 

「だから!アンコウがどこにいるかを教えてほしいだけなんだっ!」

「そんなヤツは知らないと言っているだろう!」

「だから!知っているヤツがここにいるはずなんだっ!」

「ええい!いい加減にしろっ!この非常事態がわからないのかっ!この獣人がっ!」

 

 かなり険悪な雰囲気だ。テレサは慌ててマニの元へと駆け寄る。

 

「マニさんっ、何やってるのっ!」

 

 テレサは強い口調でマニをたしなめ、警備兵であろう男たちからマニを引き離す。

 マニを何とかなだめ、テレサは男たちに深々と頭をさげた。

 

「申し訳ありませんでしたっ」

 

 しかし、アンコウの居場所を知りたいのはテレサも同じくだ。

 

「あ、あの私どもはグローソンからの使者の一員でございます。つい先ほど我らが代表と会談いたしておりました担当の官吏の方と急ぎお会いしたいのです。人を探しておりまして、その方々は知っておられるはずなんですっ」

 

 テレサはそう申し出るも、今はワン‐ロン全体が緊急事態となっている。

 グローソンはウィンド王国内の一公爵に過ぎず、その重要性は高いとは言いがたい。しかもテレサは、その使者団に同行して来たただの人間族の奴隷にすぎない。

 

「人間の奴隷がっ、この緊急時に何を言っている!後にしろっ!」

 男たちは、とりつく島もない。

 

 さらにテレサは頭をさげるが、うるさい、いい加減にしろ と、男たちはさらに苛立(いらだ)つばかりだった。

 それでもテレサは食いさがった。

 

「お、お願いします!取り次いでさえいただければ、それで、

バシッ!! ズザザッ!!

 テレサがいきなり、廊下に転がった。

 

「黙れと言っているだろう!」

 

 警備の男の一人が、頭をさげているテレサの横っ面を(はた)いたのだ。

 

 男たちの数は三人。残りの二人は、当然だと言わんばかりに廊下に倒れているテレサを見て笑っていた。

 そして、頬を押さえながら顔をあげたテレサ。そのテレサは、顔をあげると同時に叫んだ。

 

「やめてっ!」

ドンッッ!! ゴロゴロゴロッ!!! ドンッッ!!

 強烈な衝撃を顔にうけて、廊下を転がり、壁にぶつかる。

 

「ぐはあぁぁっ」

 野太い男の声だ。

 

 転がり、壁にぶつかったのはテレサではない。壁にぶつかったのは、テレサの顔を打ちすえたドワーフの男。

 

「マニさんっ、だめよっ!」

 

 テレサの視線の先には、テレサを引っぱたいた男を蹴り飛ばしたマニが、激しい怒りの色を浮かべて立っている。

 

「お、お前ッ!何をするんだっ!」

「こ、この獣人風情がっ!」

 二人のドワーフの男たちが、口々にマニに怒りの声をぶつけてきた。

 

「……何をするだって?それはこっちの台詞(せりふ)だっっ!!」

 

 マニが男たちの怒りをはるかに上回る怒気をまとい、怒鳴りつける。

 

「こっちはアンコウを探しているだけだっ!頭をさげているテレサを引っぱたいたヤツを蹴り飛ばして、何が悪いっっ!!」

 

 緊急事態に対応し、まわりであわただしく動いていた人たちも、一体何事かと足を止める。

 

「こ、この獣人女がっ!」

「ろ、狼藉者がっ!ここは太陽城本館だぞっ!」

 

 二人のドワーフ警備兵は、一気に殺気立ち、腰の剣に手をやった。

 二人をにらみつけているマニの雰囲気が変わる。マニの身体から噴き出す闘気。

 それを感じた男たちの動きが止まる。いつの間にやら、マニの手も自らの腰の剣へと伸びている。

 

 瞬間、周囲の空気が痺れるような緊張感で覆われた。

 

(マ、マニさん)

 その張りつめた緊張感ゆえに、テレサも声をあげることができない。

 

 その緊張感に耐えられなくなったのだろう。男の一人が、

「きぃ、きさまあぁぁ!」

 と声をあげ、剣を引き抜こうとした。

 その時、

 

「やめんかっっ!!!」

 

 廊下に響き渡る裂帛(れっぱく)の怒声。

 

 空間が揺れるかのような大声。周囲にいた者たちが、ビリリと体を硬直させる。

 マニに対して剣を抜こうとしていたドワーフの男もまた、動きを停止させた。

 

「ボ、ボルファス様っ」

 

 おお、ボルファス様だ。 ボルファス様が登城なされた と、周囲のものがざわめきはじめる。

 

 そう、その声の主は、ナナーシュの側近の一人にして、ワン‐ロンを代表する武将のひとりであるボルファスだった。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)によるものと思われる異変をうけ、いち早くナナーシュの元へと駆けつけてきたのだ。

 

「双方退(しりぞ)け!このような時に何をしておるか!」

 

 声のトーンはいくぶん押さえたものの、ボルファスの声には並々ならぬ迫力がある。

 

 周囲の者は皆、突如現れたボルファスとそれにつき従う戦士たちに釘づけになっている。

 マニと揉めていた警備兵たちも、すぐさま剣から手を引き(こうべ)を垂れた。

 

 ただ、そんな中、マニだけは変わらない。

 マニはボルファスを見ることもせず、二人の警備兵を変わらず見すえ、剣の柄を握っている。

 

 二人の男はボルファスにむかって頭をさげながらも、自分たちにむけられているマニの闘気に恐れをなしたか、顔中に汗をかき始めていた。

 そんなボルファスを無視したマニの態度に周囲も気づき、再びざわめきが起き始める。

 

「そこの女、ボルファス様が退(しりぞ)けと言ったのが聞こえなかったのか!」

 

 ボルファスに付き従ってきた銀色の光沢を放つ(そろ)い甲冑を身につけた戦士たちの一人が、そう言いながら前に進み出てくる。

 見た目、まだかなり若いドワーフの戦士だ、いや、その風貌から言えば騎士と表現したほうが正確かもしれない。

 

「お前ら、頭をさげるのなら、まずテレサにさげるのが先だろう」

 

 マニは声をかけてきたドワーフ騎士をまったく無視して、警備兵の男たちに話しかける。

 

 すると、マニを見る目をさらに鋭くしたドワーフ騎士が、歩く速度を速め、音もなくマニに近づいていく。

 周囲は息を飲み、その騎士の動きを注視しているが、マニは変わらず背を向けたまま。

 

 ドワーフ騎士は突如急加速し、マニとの間合いを詰める。そして、スラリと流れるように抜剣した。

 

「危ないっ!マニさんっ!」

 静寂を破り、テレサの声が響く。

 それに続いて、

ギイイィィィンッ!

 響く金属音。

 

 マニの背後から振り落とされた剣を、振り向きざまにマニが腰から抜き放った剣で受け止めた。

 マニとドワーフ騎士は、互いの剣を交差させたまま、動きを止める。

 交差した2本の剣を(あいだ)に、鋭くにらみ合う二人。

 

「マ、マニさんっ!」

 

 突如はじまった戦闘にうろたえるテレサ。

 一方ボルファスと残りのドワーフ騎士たちに取り立てて動きはなく、マニと仲間のドワーフ騎士の様子をじっと見つめている。

 

(ほぉう。あの獣人の女、カジュマの剣を受け止めおったか)

 ボルファスは、内心、少し感心する。

 

「いきなり何をするんだっ!」

 マニが剣を押しながら吼えた。

 

 カジュマという若きドワーフの騎士は、自分の剣が完全に受け止められたこと、そして剣を押し返してくるマニの膂力に驚き、少しばかり眼を大きくしていた。

 そして、次に仕掛けたのはマニ。

 

「おおうっ!」

 気合声と共にマニは剣を押し弾く。

「くっ!」

 

 カジュマは一旦後ろに飛びさがるが、マニは時間を空けることなく攻撃に転じた。

ギィンッ!!

 今度は、マニの剣をカジュマが受け止める。

 

 マニの頭には、ここがワン‐ロン太陽城本館で、周囲にはワン‐ロン・ドワーフたちが多くいるということの考慮がないらしい。

 

ギンッ!ゴンッ!ガンッ!ゴンッ!ギンッ!

 マニとカジュマの激しい剣戟がはじまってしまった。

 

 ボルファスはそれをすぐには止めようとせず、しかし、困ったものだと言わんばかりに、少し首を振りながら見ていた。

 

 カジュマはボルファス側近の騎士の一人で、その戦闘能力は確かなものがある。

 周囲のドワーフたちから見れば、そのカジュマとまともに打ち合っているマニの強さのほうが意外だった。

 

 一方、声を出したことで、少し気を取り直したテレサは、何とか止めなくてはと焦るが、とても二人の剣戟に割って入ることなどできない。

 

「で、でも、どうしよう、どうしよう」

 テレサはそうつぶやきながら、ふらふらと動き出す。

 

 マニはどんどん戦闘に没頭していく。カジュマは相手にとって不足のない十分に楽しめる男であった。

 

「やあぁぁっ!」

「おおぉぉっ!」

ギイィィンッ! ギヤアァァンッ!

 

 

「クソッ、あの獣人女めっ」

 二人が戦っているうちに、先ほどマニに蹴り飛ばされ壁にぶつかっていたドワーフ男が、憎々しげな目をマニに向けつつ、立ち上がっていた。

 

 男は、フゥーッ、フゥーッ、フゥーッ と息荒く呼吸をしながら、腰の剣を引き抜いた。

 

 

「………驚いた。なかなかやるな貴様」

 カジュマがマニに話しかける。

「ふんっ!お前こそっ!」

 マニもカジュマも、どこか楽しげである。

 

「では、これならどうかな」

 

 そう言うと、カジュマそれでまでより一段速いスピードで踏み込んできた。

 そして、下段から上方へ剣を一閃。

 

ギイイィィィンッ!

「くうっっ!」

 

 マニは何とか剣を合わせ防いだものの、剣を持つ手を大きく上方へ弾かれてしまう。

 

「がら空きだぞっっ!」

 

 無防備となったマニの腹、カジュマはそこに思いっきり蹴りをたたき込んだっ。

 

ドゴオォォッ!

「ゲエフゥゥッ!!」

 その衝撃で吹き飛び、ズザアァァーッ と、廊下を転がるマニ。

 

うおおぉぉっ と、周囲で見守る者たちからざわめきが起こる。

 派手に蹴り飛ばされはしたものの、マニは剣を手放すことはなく、すぐさま立ち上がろうと動き出すが、体が思うように動かない。

 その時、

「死ねええぇぇーっ!」

 という男の声が響いた。

 それは、マニに蹴り飛ばされたドワーフ警備兵の声だった。

 

 衆目の前で、獣人女のマニに蹴り飛ばされたことは、この男にとって相当な屈辱だったのだろう。

 顔を怒りで歪め、たまたま自分の近くに転がってきたマニにむかって、これ幸いとばかりに剣を振り落とそうとしている。

 

 それに対するマニの動きは鈍い。カジュマの強烈な蹴りが余りに綺麗に腹に入っていた。まだ息が詰まっているマニは思うように動けなかった。

 

「チイィッ!」

 まずいっ と、マニは思う。

 その焦るマニの耳に、

ヒユュゥゥゥンッ! という風切り音が聞こえた。

 

グザァッッ!

「ぎやあぁぁっ!」

 

 マニを斬ろうとしていたドワーフ男が悲鳴をあげた。

 振りあげていた剣を持つ男の腕に、一本の矢が突き刺さっていた。

 マニが矢が飛んできた方向を見ると、その先には弓を手に持つ女の姿が。

 

「!テ、テレサっ!?」

 

 その矢を放ったのは、テレサ。

 廊下の壁にインテリアの様に掛けられていた弓矢を使った。マニを助けるためのとっさの行動。

 しかし、テレサは自分たちが置かれている状況をよくわかっている。

 

(大変なことをした。もうだめ)

 

 矢を放った体勢のまま、テレサは真っ青な顔で、弓を持つ手をプルプルと小刻みに震わせながら立っていた。

 



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第71話 魔剣と魔弓と魔矢筒と

 ボルファスのまわりには、カジュマと揃いの銀色の甲冑を身につけた戦士たちがいる。その内の一人が音もなく走り出す。

 その走る先にいるのはテレサだ。テレサは弓を射た姿勢のまま、まだ動いていない。

 

「テレサっ!逃げろ!」

 

 それに気づいたマニが叫び、何とか体を起こし走り出そうとする。しかし、

ギイィンッ! 剣と剣がぶつかり合う音。

 

「どこに行く気だ?貴様の相手は俺だろう」

 いつのまにかカジュマが距離を詰め、マニに剣を振り落としてきた。

「ど、どけよっ!」

 カジュマの剣を受け止め、マニは吼えるが、カジュマがおとなしく退くはずもない。

 

 

「あっ」

 テレサも自分にむかって走り迫る戦士に気づくものの、どうすることもできない。

 ただ目を見開き、硬直するテレサ。

 走り迫る戦士はいつのまにか抜剣し、あっという間にテレサの目の前に来ていた。

「あっ、ああっ」

 テレサは何もできない。

 

「テッ、テレサあっ!」

 

 マニは叫ぶも、カジュマの前から離れることができない。

 テレサを見るマニの目にも、絶望の色が浮かぶ。

 

 テレサの頭上に非情の剣が振り落とされた。

 

(あっ、もうだめ……)

 テレサの視界に白刃が(きらめ)いた刹那、死を覚悟したテレサの眼球に滲み出る涙。そして、テレサの脳裏にはアンコウの顔が浮かんでいた。

(……旦那様、元気にしてるのかしら……)

 

 テレサは死を覚悟した瞬間、アンコウの顔が脳裏に過ぎる程度にはアンコウのことが好きになっているらしい。

 

 しかし、その非情の剣がテレサを斬り裂く前に、なすすべなく固まっているテレサの視界が、いきなり赤く染まった。テレサの血……ではない。

 

ボオォォオオンッ!!

 

 爆発!と、同時に広がった赤い炎がテレサの視界を覆ったのだ。

 

キャアァァーッ うおおぉぉーっ ぐわあぁーっ

ドサァンッ バタアァンッ ズザアァァーッ

 

 悲鳴と人が周囲に吹き飛ばされた音が響く。

 テレサも、テレサに襲いかかって来ていた戦士も、マニも、カジュマも、誰も彼も床に転がっていた。

 

 

「やめろと言ったはずだ」

 ボルファスの低く重い声が聞こえた。

 

 ボルファスの右手が、手の平を前に、前方に突き出されている。

『精霊法術・火球』 ボルファスは精霊法術を使えるようだ。

 

 しかし、屋内でこのような使い方をするなど、かなり非常識だ。

 ただ、爆発が収まってみれば、周囲の建物が破損している形跡はなく、床に多くの人が転がっているが、死者は一人もいない。

 

 完全に計算づくで、爆発をコントロールできていたということだろう。

 

「これ以上暴れる者は、黒焦げになる覚悟でやれ」

 

 そのボルファスの言葉に皆が動きを止めた。

………いや、まだひとり、ボルファスを睨みつけ、動き出した者がいた。

 

「な、なにをするんだこの野郎っ!!」

 

 マニだ。誰が見ても、マニが勝てる状況ではない。

 しかし、マニはまだやるつもりだ。手には抜き身の剣を握り、立ち上がる。

 そんなマニの動きを周囲のドワーフたちが黙って見ているわけがない。マニに向けられた殺気混じりの覇気が、多くの者たちから発せられ始める。

 

「マニさんっ!やめなさいっ!!」

 

 そんな中、吹き飛ばされていた床から身を起こしたテレサが怒鳴るように叫んだ。

 テレサにも怪我はない。しかし、状況の悪さを十分に理解しているテレサの顔は真っ青だ。

(やめてやめてマニさんっ)

 

 しかし、マニは止まらない。動き出す。今度はその標的をボルファスに定めたようだ。

 

「マニさんっっ!!」

 テレサがまた叫ぶ。

 

 しかし、やめろと言ったところで、マニが止まらないだろうことは、ここにいる誰よりテレサが知っている。

 

 テレサは起き上がり叫ぶと同時に、離さず手に握っていた弓を再び引き絞っていた。

 

「止まれえっ!馬鹿っっ!!」

 

 テレサはマニへの罵声とともに、躊躇(ためら)いなく矢を持つ右手を離した。

 矢はマニに向かって真っすぐに飛んでいくが、テレサにマニを殺すつもりはない。

 

 ただ、逸らすことなくマニめがけて矢を射ったのは、自分の放った矢など、マニなら簡単に避けるという確信があったから。

 テレサは目いっぱいの力を込めて矢を射った。これぐらいのことをしないとマニは止まらないと思ったのだ。しかし、

 

ビシュユユユーーーンッッ!!

 

「!えっ?」

 自分が放った矢にテレサは驚く。

 

 マニに向かって真っすぐに飛んでいく矢。その空気を切り裂く音がいつもとまったく違った。

 テレサは先ほど、マニに斬りかかっていたドワーフ警備兵を射た時に気づくべきだった。

 

 一警備兵と言えども、ワン‐ロン‐太陽城本館出入り口に配されている兵士だ。それなりの腕はあろうし、ドワーフなのだから当然抗魔の力も有している。

 また、それなりの防具も身に着けていた。腕にもだ。

 しかし、テレサがドワーフ警備兵を射た矢は、その男の腕を貫いた。

 

 テレサは男を殺すつもりなどなかったし、力加減もしていた。それなのに矢は男の防具を貫き、抗魔の力で強化されている腕もあっさりと貫いていた。

 必死であり、余裕などなかったテレサは、自分が放ったその矢の威力のほどに気づくことができていなかった。

 

 テレサが手に持つ弓は、ワン‐ロン統治者が居城‐太陽城廊下に飾られていたもの、飾りと言えども当然それを作製した者はワン‐ロン一流の魔工匠。

 その弓はワン‐ロン一級品クラスの魔弓だ。

 

 そしてテレサは、マニならあっさり避けるはずだと、一切の加減なく、全力で矢を放った。

 殺意はなくとも、先ほどのドワーフ警備兵を射たときよりも、その一矢に込められた力ははるかに強い。

 

ビシュユユユーーーンッッ!!

 

 今度はテレサも、自分が放った矢の威力にさすがに気づいた。矢は真っすぐにマニ目掛(めが)けて飛んでいく。

 

「マッ、マニさんっ、避けてっ!」

 思わず矢を放ったテレサ本人が叫ぶ。

 

 テレサの言葉など完全に無視し、ボルファスに意識を集中していたマニは、テレサの行動に気づいていなかった。

 マニが気づいたときにはテレサの弓から矢が放たれた後、その矢は、凄まじいスピードで迫り来ていた。

 

「えっ?!!!っっ」

 

 マニはとっさに体勢を転じるが、間に合うかどうか厳しい。

 

( くそっ!)(マニさんっ!)

だめかっ マニとテレサはそう思った。

 

 突如、

ドォンッッ!!

 マニとの距離、約1メートル。矢が爆ぜた。

「!!!」

 

 自爆装置つきの矢ではない。

 ボルファスの二発目、『精霊法術・火球‐小』が、テレサが放った矢を捉えたのだ。

 一発目と比べたら、かなり小さな爆発であったが、それなりの衝撃は生じていた。顔のすぐ近くで火球が()ぜたマニは、顔を押さえて床を転げまわる。

 

 ゴロゴロゴロゴロ転がるマニ。

 

 悲鳴はあげず、無言で転がる。たいした傷ではないようだが、とにかく熱くて痛かったらしい。

 

「マ、マニさんっ!」

 

 マニのその姿を見て、慌てて駆け寄るテレサ。

 

 

「ここまでだっ!」

 再びボルファスの低く重い声が響く。

 

 一時は殺気だっていたドワーフたちも動きを収め、マニもさすがにもう動けない。

 床を転げまわるのは収まっているが、肩をしっかりテレサに掴まれている。

 

 爆発の余波もすっかり消え、静寂がつつむエントランスロード。

 ボルファスが堂々と、テレサとマニの方へと歩き出す。マニがわずかに動き出そうとするが、テレサが強く肩を押さえる。

 

「マニさん」

「…………わかったよ」

 

 マニは剣を鞘におさめ、ゆっくりと立ち上がった。

 

 

 テレサとマニのすぐ近くまで来て、ボルファスは足を止めた。

 ボルファスは、マニよりもテレサよりも小さい。しかし、その覇気は強圧で、テレサにはこのダルマのような中年のドワーフが、灰色大熊のごとく巨大に見えていた。

 

 テレサは許しを請うため、謝罪の言葉を口にしようとするが、声帯までも緊張し、呼吸をするのがやっとだ。

(怖いっ)

 

 マニも言葉を発しない。ただマニは、ボルファスを睨みつけてはいた。

 張り詰めた緊張感の中、ボルファスが口を開いた、

 

「………貴様ら、アンコウの知り合いか?」 と。

 

 

 

 

 テレサとマニは詰め所の中の椅子に座っている。

 テレサは身じろぎひとつせず、居心地悪そうに座っていた。マニは時折、ふあぁああー と、欠伸(あくび)などをしながら、退屈そうに座っている。

 

 そして、そのマニとテレサを監視するかのように、ドワーフ警備兵たちが、じっと二人のことを見ていた。

 その中に、テレサを引っ叩き、マニを斬ろうとした男の姿はない。

 

 ドワーフが第一種族であるワン‐ロンにおいて、奴が人間族の奴隷であるテレサを引っ叩いたことは、さして問題にはならない。

 しかし、カジュマと一対一で戦っていたマニに、突然斬りかかったことは問題があったようだ。

 騎士カジュマの戦いを邪魔したことを卑劣であると責められ、連行されるように姿を消した。

 

 今、テレサとマニを監視しているドワーフ兵たちに、二人に危害を加えようとする気配はない。

 テレサとマニは、ボルファスの言に従って、ただここで待っている。

 

(………でもよかった。ボルファス将軍が、旦那様のことを知っていたなんて)

 

 テレサは死すら覚悟した。この城内で剣を振るい、弓を引いたのだ。その場で首を刎ねられても文句は言えない。

 それなのに、なかなかに身分があるお偉方らしいボルファスがアンコウの名を口にし、

知っていると、恩ある客人であると言ったとき、テレサは足から力が抜けた。

 

 ただ、ボルファスも、マニかテレサがアンコウの名を口にしたのを聞いていたのなら、

(もう少し早く言ってくれていたらよかったのに)

 とも、テレサは思った。

 

 ボルファスがどういうつもりだったのか、楽しんでいたのか、面倒だったのか、何かを確認したかったのか、それはわからない。

 でもまぁ、(よかった。2人とも死なずにすんだ)と、テレサは素直に喜ぶ気持ちが一番強い。

 彼らドワーフにとって、自分たち2人の命など安く軽いものであることは、テレサもよくわかっている。

 

 ボルファスは何か重要な会議があるらしく、彼らの(あるじ)の元に急いでいた。

 それでもテレサは短い時間で、自分たちがアンコウを探していることを必死で訴えた。

 そしてボルファスは、ここで待て と、アンコウをここに呼ぶ と、言ってくれたのだ。

 

 状況が一変した。テレサは何か言いたげにしているマニを抑え、ありがとうございます ありがとうございます と、頭をさげた。本当にうれしかった。

 ボルファスは、テレサたちのいる前で、アンコウをここに呼んでくるようを部下の者に命じ、即時走らせた。

 そして、自分たちは城の奥へと足早に消えていった。

 

 テレサは警備兵の詰め所で、居心地悪そうにアンコウを待っている。けれども、テレサの心は(はや)り、心は上気している。

 テレサは小声で、隣に座るマニに聞いた。

 

「旦那様、来るかしら?」

「来なかったら、あのヒゲ親父ぶっ飛ばしてやる」

 

 マニの服は、頭からぶっかけられたポーションのせいで、まだ少し濡れている。

 声を抑えることなく、ぶっ飛ばすと言ったマニをまわりのドワーフ兵たちが(にら)むように見た。

 ふんっ と、マニの鼻息は荒い。

 

 時を追うごとに、外がどんどん騒々しくなってきているのが詰め所の中にいてもわかる。

 

(旦那様、無事に来られるかしら)

 

「おいっ、外で何が起こってるんだ?戦いがはじまるんだろう」

 マニが、警備兵たちに聞く。

「あ、あの、旦那様は後どれぐらいでここに来ますか?」

 テレサも、警備兵たちに聞いた。

 

 警備兵たちはわからないながらも、二人それぞれの話に応じてくれた。

 今の彼らは、ボルファスの命を受けて、二人の側についている。邪険にはできないということらしい。

 

 そして、しばらくしてからボルファスからの使いの者がテレサとマニが待つ詰め所にやって来たのだが、そこにアンコウの姿はなかった。

 

―――

 

「ど、どういうことですかっ」

 使いの者に詰め寄るテレサを今度はマニが抑えている。

「落ち着いて、テレサ」

 

 使いの者が言うには、アンコウはすでにあてがわれていた屋敷から姿を消していたとのこと。

 

「とりあえずどこに向かったのか、おおよその見当はついています」

 

 アンコウは北の広場に向かったのではないかと思われるとのこと。

 おそらく幻門(ファンゲート)を使って、ワン‐ロンからの退去を考えているのだろうが、現状それは不可能だろうとのこと。

 

「じゃあ、その北の広場に行けば、旦那様がいるんですねっ」

 

 テレサはそう言うと、詰め所から飛び出そうとする。それをまたマニが止める。

 

「マニさん放してっ」

「私も一緒に行くよ、だからちょっと待って」

 

 マニは警備兵たちのほうに顔をむける。

 

「ここから出る。武器を返してくれ」

 

 マニたちは一時的に武器を取り上げられていた。それの返還を求めた。

 マニが警備兵と話していると、テレサがマニにつかまれている手を振りほどこうとしはじめる。

 

「放してっ」

「テレサ落ち着けっ!丸腰じゃその北の広場までも辿り着けないかもしれないだろ!」

 マニがテレサを叱責するように強い口調で言った。

 

 テレサは驚き、目を見開いて、マニの顔をじっと見る。

 そして、しばらくしてから首を振った。マニの言うことを否定しているのではない。

(マニさんに言われるなんて)といったところか。

 

「………そうよね、ここまで来たんだもの。死んだら意味がないものね」

 

 それを聞いてマニがにこりと笑い、使いの者に問いかける。

 

「アンコウのところにいってもいいんだよな」

「それはあなた方の御自由にと、ボルファス様が言っておられました」

 

 ボルファスはすでに緊急会議とやらを終え、兵を率いて城を出立しているとのこと。事態は急速に動いている。

 

「それと、あなた方がアンコウ殿を迎えに行くのなら、これを渡すようにと言われています」

 

 使者の男は魔具鞄からスラリと一本の長剣を取り出し、マニに手渡す。

 それを何の躊躇(ためら)いもなく受け取ったマニは、

スゥーッと、その剣を引き抜いた。

 その剣身は薄っすらと美しい紫色の光を放っていた。魔剣だ

 

「……へぇ、これはすごいな」

「ワン‐ロン一級クラスの魔剣といえる一品です。その魔剣の銘は 『もろこし』 。ボルファス様所有のものですが、アンコウ殿を助ける必要があれば使ってほしいとのことです」

 

 マニは紫光を放つ魔剣 『もろこし』 を掲げ見る。

 その幅広の剣身には、隙間なくトウモロコシの彫り物が施されていた。鞘のレリーフもトウモロコシだ。

 

 しかも、そのトウモロコシデザインはどれもこれも微ミョーなデフォルメがされており、とてもじゃないが芸術性が感じられるものではない。

 そして、マニが握る柄の下からは、トウモロコシのヒゲに見立てたような飾りがぶら下がっている。

 

 落ち着きを取り戻したテレサが、横からじっとその剣を眺め見ている。テレサは言葉を発しない。

 

(……なにこの変なトウモロコシだらけのデザイン……)

 

 テレサは、自分と同じように その剣を見ているドワーフ警備兵のほうをちらりと見たが、目をそらされてしまった。

 

 今度はマニがテレサの顔を見た。

「テレサ、見てくれ。この剣すごいよ」

「…………………ええ、そうね」

 すごい力を持った剣だということは、テレサにもわかる。

 

 そしてテレサは、脳裏に威厳ある風貌のドワーフの将軍、ボルファスの姿を思い浮かべる。

 

(あの将軍様は、きっとこの剣は使わない)

 テレサはそう確信した。

 

 それでも、

「す、すごいわね、魔剣『もろこし』 」

 テレサはとりあえず剣を褒めた。

 

「それと人間の女。そなたにも預かってきている」

「えっ」

 

 驚くテレサに、使者の男はおもむろに魔具鞄の中からスッと筒状のものを取り出した。

 

「何をしている。さぁ、受け取れ」

「は、はいっ」

 

 テレサはその筒状のものを受け取るも、それが何かわからない。しかし、戦場経験も豊富なマニはすぐにそれが何かわかったらしい。

 

「へぇ、矢魔筒か。でも、テレサに使えるのか?」

「えっ、えっ」

「あの魔弓をあれだけ使えたんですから大丈夫でしょう。ですが一応試しておきましょう」

 

 使いの者はそう言うと警備兵に何やら指示を出し、詰め所を出て行こうとする。マニもおとなしくそれに従う。

 

「マ、マニさんっ?」

「時間が惜しい。急ごうテレサ」

「え、あ、はい?あっ、待って」

 

 三人は詰め所を出て、そのまま建物の外へ出て行った。

 

 

 

 

「………どんどん魔素が広がってきているな。それに、この大きくて禍々(まがまが)しい魔獣の波動。極大豚鬼王(ビッグオーク)のものか」

 

 外に出たマニは、東の空を見つめながらつぶやく。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)のことに関しても、先ほど詰め所で大まかなことは警備兵たちから聞いていた。本当はマニは今すぐにでも東の広場に行きたかった。

 

(見てみたいなぁ、極大豚鬼王(ビッグオーク)

「………でもなぁ」

(まずはアンコウ、それにアンコウを助けるために借りた剣)

 

 マニは、トウモロコシの茎を模した剣の柄にそっと手を置いた。

 

「マ、マニさん?」

 テレサの声を聞き、マニは視線を下に戻す。

「ん?どうしたテレサ、早くやってしまおう」

「は、はい」

 

 テレサの左手には、警備兵が持ってきた例の魔弓。背中には、先ほど渡された矢魔筒。

 実はこの矢魔筒、テレサは知らなかったが、それほどこのワン‐ロンでは珍しいものではない。簡単に言えば、精霊法力を矢状のものに変える魔武具である。

 

 抗魔の力を精霊法力に変換する能力の低い人間種にはあまり馴染みのないものだが、ドワーフ族の古都である このワン‐ロンの軍隊などでは、その魔武具自体の製造能力も高く、ごく一般的に用いられているものだ。

 

「で、でも、わたし精霊法力なんて、法術なんて使えないのに」

 

 ボルファスの使いの者が言う。

「法術が使えない者が、必ずしも法力を有していないわけじゃない。そんなこともわからないから人間は下に見られる。お前はその魔弓を引き、見事に使った。

 それを抗魔の力ゆえの腕力のおかげのみと思うな。その魔弓はそんな安いものではない」

 

 テレサはその言葉を聞き、しばし考えた。

 そして、大きく深呼吸すると真っ黒で何も見えない矢魔筒の中に手を突っ込んだ。

 

「………!あっ!」

 矢魔筒に手を入れたテレサが小さく声をあげる。

(何この感覚っ)

 

「感じたか女。その矢魔筒は量産性のある道具。排出する精霊法力さえ有していれば使用者を選ばない。ただ、体内の法力の残量だけは気をつけないといけない」

 

 テレサは使いの男の言葉を聞きながら、ゆっくりと矢魔筒から手を引き抜く。

 そのテレサの手には淡い昼白色の光を放つ矢状の光棒。テレサは恐る恐るその光矢を弓につがえ、引き絞った。

 そして、的を狙い。放つ。

 

シユュューーンッ! ズザアァンッ!

 

「テレサッ!連射だっ!」

 マニの声。

「は、はいっ!」

 

シユュューーンッ! ズザアァンッ!

 

・・・・・・・・・

 

 テレサは息荒く、弓を手に持ったまま、前方の大きくへこんだ壁を見つめている。

 

「お前はその弓と、この細剣(レイピア)を使え」

 

 使いの男が差し出してきた細剣(レイピア)を、テレサは受け取った。

 

 そして、テレサに近づいてきたマニが、ポンッとテレサの肩に手を置く。

 

「テレサ急ごう。アンコウを助けに行こう」

 

 まだ少し呆けたような驚きの表情をしていたテレサだったが、そのマニの言葉聞いて、その表情が一変する。

 強い決意の目、口元は引き締まる。そしてテレサは力強く頷いた。

 

「旦那様を迎えに行きます」

「………ふふっ、いい目だなぁ、テレサ」

 

 テレサの目に浮かぶもの、それはマニの好む戦う覚悟を決めた者が持つ光。戦士の目だ

 

「……うんっ、テレサ、いいなその目。うんっ、その必死さに免じて、今回だけは浮気のことはアンコウに黙っていてあげるよ」

 

 突然マニが、再び浮気しただろう爆弾投下。この騒動で、テレサの頭から吹き飛んでいたことを、またかなりの上から目線で言ってきた。

 再び、テレサの顔色が一変。何で自分がマニを追ってきたのかを思い出す。

 

「うなっ!だ、だから浮気何てっ………」

 

 一線を越えてはいないが、何もしてないとは言い切れないテレサ。

 マニは困ったものだとでも言うように、苦笑を浮かべながら頭を振っている。

 そして、ポンポン、ポンポン、テレサの肩をたたいた。

 

「………わかってるって、テレサ。私は口が堅いんだ」

 

 そう言われて、テレサはうつむき加減に口を閉じた。その場から動かないテレサの両肩が小刻みに震え続けていた。

 

……………多分、テレサはムカついていたのだ。

 

「テレサ、人は過ちを犯すものだよ」

 マニがお姉さん風味を醸し出しながら言った。

 テレサの肩の震えが大きくなったが、

 

「…………………………はい」

 と、長い沈黙の後、一言だけ返した。

 

 テレサはいろんな感情を飲み込んだようだ。テレサは大人だから。

 



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第72話 テレサも豚の撒き餌に

「くそっ!くそっ!クソッ!」

 

 ワン‐ロン、北の広場。小豚鬼(チープオーク)を中心とした魔獣相手の戦いをアンコウは続けていた。

 

(き、キリがないっ)

 

 小豚鬼(チープオーク)相手なら、アンコウは十分に戦える。しかし、如何せん数が多すぎる。

 小豚鬼(チープオーク)といえども決して雑魚と言うわけではない。

 

(これ以上囲まれるとヤバいっ)

 

 しかも、いまだ幻門(ファンゲート)から、次々と魔獣が湧き出し続けている。

 

「くうぅぅっ、しつけぇんだよっ!」

ザグウゥッ!!

 アンコウの戦斧がまた、一頭の小豚鬼(チープオーク)の頭をカチ割った。

 

 それぞれに、多くの幻門(ファンゲート)が設置されている東西南北中央の広場は、どこも広大だ。

 アンコウは今、広場の北の境界近くで戦っているのだが、そのアンコウがいる真逆の方角、広場の南の境界で、大きな衝突が起きていた。

 この北の広場へと向けられていたワン‐ロン軍の援兵が到着し、南境から突入を開始していたのだ。

 

 アンコウがいる場所からはまったく見ることはできないが、南の方角からうねるような戦場特有の大声の波が、アンコウの耳にもとどき始めている。

 しかし、それは即、アンコウにとって救いとなるものではない。

 

 救いどころか、南から兵団が突入したということは、援兵が強ければ強いほど、北に向かって魔獣どもが押し出されてくるはずであり、もうじき一層の危機が北辺にいるアンコウに訪れることはあきらかだ。

 

(マズいっ)

 焦るアンコウ。

 北の広場全域および、その周辺部での戦闘も、拡大激化の一途の様相だ。刻々と動かぬ肉塊が量産されていく。

 やはり、逃げるしかないとアンコウは思う。

 

 アンコウを含め、逃げることを選択した者たちの姿が目立つ北の広場北辺だが、すべて者たちが逃げまどっているわけではなく、すすんで戦うことを選択し、魔獣たちと戦い続ける者たちの姿もあった。

 

「おおぉぉぉおおおーっ!!」

 

 マニが紫の光を放つ長剣を風車のごとく振り回している。次々と魔獣たちの体の部位がはじけ飛ぶ。

 それを見てアンコウは、(狂戦士(バーサーカー)バリだな)と思う。

 

 マニに対しては、この野郎が来なかったら、今頃俺はこの戦場を離脱できていたはずだ という思いがあり、アンコウの感情は複雑だ。

 しかし、そのマニに対するネガティブな感情とは別に、今のアンコウは、マニの後ろを自分の定位置と定め、魔獣相手に魔斧を振るい続けている。

 

 アンコウは、マニ風車を盾代わりに、再びこの戦場からの離脱の機会を探っていたのだ。

 だが、このマニ盾はアンコウの思うようには動いてくれない。

 

「おいっ!マニっ!こっちだっ!道路側にきてくれっ!」

 

「ぬおぉぉぉおおおーっ!!」

 

 マニはただ全力で戦う。

 

「………くそっ!聞いてねぇっ!」

 

 

「おおお、!オオッ!?」

 戦闘中、マニが何かに気づいた。そしてアンコウも、その異変にほぼ同時に気づく。

「チィィッ!まずいっ!」

 

 アンコウの視界に入ってきたもの。それは、少し離れた場所、広場の中央よりにある幻門(ファンゲート)

 

 そこから、小オークとあきらかに違う 巨躯の体を持つ豚が這い出てきている姿が見えていた。

 その個体は、このあいだワン‐ロンへと続く迷宮の中で戦った中型のオークと同じぐらいの大きさがあるように見える。

 

(やべえぇぇ、あれがこっちに来たらっ。こっちはこの数さばくだけでめいっぱいなのにっ)

 

「マニいぃぃっ!一旦退く」「行くぞっっ!アンコぉーおおおおーーっ!!」

 

 マニが加速スイッチが入ったかのように走り出した。

 真っすぐ広場中央方向、中級豚鬼将(ミドルオーク)が這い出てきている幻門(ファンゲート)に向かっている。

 

「お、おいっ!マニっっ!」

 

 乱戦の中マニは、あっという間にアンコウから離れていく。

 アンコウは、マニだからとわかっていることだとはいえ、それでも全身に青筋が浮き出る思いだった。

 

 だったらはじめから一人で勝手に戦え、助けにきたふりをしてんじゃねぇよ と心で叫ぶが、声にすることはなかった。

 マニに言っても仕方がないからだ。戻って来いと叫ぶことも時間の無駄だとアンコウは割り切り、次の行動を考える。

 

(マニについていくなど問題外)

 

 それでなくとも死地なのに、これ以上マニについて行ったらドツボにはまるだけ。

 アンコウはもう一度、強引に広場の外に向かって突進するしかないと決断した。

 

(虎穴にいらずんば虎子を得ずか…ケッ、まわりにいるのは豚ばっかりだけどな)

 

「おおおおうっ!!」

 

 アンコウは気合声を発し、赤い光を放つ魔戦斧を大きく振るう。

 そして、醜悪な子豚どもの合間を縫うように走り出した。

 

「どおけえぇぇーーっ!」

 

 アンコウはマニとは逆方向に向かって走る。

 

ザアァンッ! ザァシュュッ!

ブモォォオッ! ピグウゥゥッ!

 

 しかし、豚どもに邪魔をされ、なかなかアンコウの走る速度は上がらない。それでもアンコウはわずかづつながら、豚どもの密集地帯から抜け出していく。

 

「おらあ!邪魔だっ!豚どもっ!!」

 

 魔戦斧を振り回し突撃を繰り返すうち、ようやくアンコウの視界の前方にわずかに開けた場所が見えてきた。

 

「よ、よしっ!」

 その時、

 小豚鬼(チープオーク)どものあいだから、突然飛んできた仄白光球。

ボォォオンッ!

 それがアンコウの側面に命中した。

 

「ぐわああーっ!」

 吹き飛ばされるアンコウ。

 

 豚どもの向こう側から、ゆっくりと姿を現した宙に浮かぶ3体の魔獣。

 それはこのワン‐ロンの迷宮で見たタコ足コウモリ羽の魔獣。ドワーフたちは、あの魔物をコーギルと呼んでいた。

 

 しかし、迷宮で見たものよりも大きく圧が強い。亜種か上位種かもしれない。

 そいつらが放った気弾がアンコウに当たった。

 

(し、しまったあっ)

ズザザザアアアーーッ

 アンコウは地面を転がる。

 

「く、くそっ!」

 

 ダメージは大きくはない。しかし、アンコウのまわりには再び小豚の肉壁。

 さらに、向こうに浮かぶ3体のコーギルたちが、再び仄白光球の気弾をつくり出していた。

 

 間髪おかず、アンコウに襲いかかる小豚鬼(チープオーク)

 片ひざをついた姿勢のまま、アンコウも、それに応戦する。

 

(まずいっ、いま気弾を放たれたら避けられないっ)

 

 焦るアンコウ。今にもコーギルたちのタコ足の先から、先ほどよりも大きく膨張した仄白光球の気弾が放たれようとしている。

 その時、

 

 シュンッ!シュンッ!シュンッ!

 

 と、アンコウの頭上を3本の淡い昼白色の光の矢が飛んでゆく。

 

「!なにっ!」

 

 その3本の矢はそれぞれに3体のコーギルに突き刺さった。

 

「「「ギイイィィィーーッ!」」」

 

 3体のコーギルは耳障りな声をあげながら、地に墜ちた。

 

――――「旦那さまっ」

 アンコウの耳に聞き覚えのある声。

 

 アンコウはその声が聞こえた方、光の矢が飛んできた方向を振り返る。と、同時に目を見開いた。

 

(!テ、テレサもかっ)

 

 ネルカの騒乱時に別れて以降、久方ぶりに見るテレサの姿。

 ネルカで別れたとき、正直もう会うことはないかもなとアンコウは思っていた。

 実際、アンコウがグローソンの手から障害なく逃れることができていたならば、そうなっていたかもしれない。

 

 できるなら、テレサにもマニにも会うことがない状況になっていたほうが、アンコウにとっては望ましいことだった。

 しかし、今のアンコウにそんな悠長な感傷や思いに浸っている余裕はない。

 

 アンコウは再び立ち上がり、戦斧をもって、豚を斬り裂く。

ザアァンッッ!

 ブヒイィィィッ!

(もう一度隙をつくるっ)

 

 アンコウがさらに戦斧を振るおうと周囲を見渡すと、わずかなあいだに自分に群がっていた小豚鬼(チープオーク)の数が減っていた。

 

(ん?)

 アンコウが斬り倒したわけではない。

 

「ブヒイィィッ」

 何匹かの醜悪な豚たちが鼻息荒く、同じ方向を見ている。

 

 その方向にいる者、それはテレサだ。小型のオークは食欲よりも性欲が強い。

 小豚鬼(チープオーク)たちは種族に関らず、すべての女に反応するが、特に人間の女を好む傾向がある。

 

 オークどもの意識が、あきらかにアンコウからテレサへと移りつつある。

 テレサの周囲に他の人の姿はない。テレサはここまでひとりできたわけではないが今は一人になっている。

 

 太陽城からマニとボルファスにつけてもらった数名の兵士とともに、テレサはこの北の広場を目指した。

 しかし、早々にマニは独走し始めて、その姿は見えなくなり、途中何度か少数の魔獣と遭遇して戦闘を繰り返しているうちに、皆バラバラになってしまっていた。

 

 テレサは何とかこの北の広場に到着し、幸か不幸かすぐにアンコウの姿を見つけて、一人駆けつけたのだ。

 

 テレサはこの状況で、アンコウと合流すれば何とかなると思っていたのだろうか。いや、テレサは何も考えていなかった。

 アンコウの姿を見つけると、気がつけば走り出し、魔獣たちに向かって矢を放っていた。

 

 アンコウに対する豚どもの包囲網に、あきらかな隙が生じている。

 アンコウがそれを見逃すはずがない。もう一匹豚に斧で斬りかかると同時に走り出し、再び豚の囲みから抜け出した。

 

「よしっ!」

 

 アンコウは自分の命をあきらめるつもりなど毛頭ない。どれだけ自分が弱かろうが、どれほど状況が悪かろうが、その気持ちだけは変わらない。

 だから、これまでも今も足掻き続けている。足掻くことを放棄した時点で死んでしまう、ここはそういう世界だ。

 

(あっ、旦那さまっ)

 

 テレサの目にも豚の囲みから抜け出したアンコウが見えた。しかし、アンコウが抜け出し、走り出した方向は自分がいる方向とは違う。

 

「あっ、だん」「ブモォォオオッ!」

 テレサはアンコウに向かって声をあげようとするものの、豚の鳴き声に邪魔をされてしまう。

 

「!ああっ!」

 

 気がつけば、何匹もの醜悪な豚がテレサのほうに向かって走り出していた。

 テレサは慌てて、その小豚鬼(チープオーク)どもにむかって矢を放つ。魔矢筒で生成、抜き出された光魔矢を次々と一級の魔弓を用いて射出する。

 

 なかなかの威力だ。正確に小型のオークの眉間、心臓部を射抜き、オークたちを地に這わす。

 

 しかしだ、やはりあまりに敵の数が多い。すべてを射抜くことなどできない。

 テレサの周りには、テレサをかばい、フォローしてくれる仲間はいない。

 

 しばしの時間抵抗を続けたが、ついにテレサは一匹のオークに体をつかまれた。

 

「いやあぁぁっ!」

 

 テレサは魔弓を手放し、腰のレイピアを引き抜こうとする。しかし、遅かった。

ドザァンッ!

「がはっ!」

 肩をつかまれていたテレサは、オークに力まかせに地面に押し付けられてしまう。

 

 小豚鬼(チープオーク)といえども、背丈は2メートル50ほどはあろうか、その体躯は太く毛深く、豚面だ。

 

 テレサは地面に縫い付けられた自分にむかって伸びてきたオークのもう一方の手を必死でつかむ。

 しかし、抗魔の力を持つテレサであっても、小豚鬼(チープオーク)の体重をかけた腕の力を完全に押し留めることはできない。

 

「んんん~~~~!」

「ブモォホオッ!」

 小豚鬼(チープオーク)の荒い鼻息が直接テレサにかかり、よだれが垂れてくる。

「い、いやっ」

 

 オークは魔獣、当然服など着ていない。小オークの身体的仕様はすべからく雄であり、顔は豚、体つきは人種を模している。

 雌に興奮した雄がどうなるか、人種を模したオークの股ぐらのそれが隆起していた。体のわりに小さいのは標的を人種の女にしているからだろう。

 

「ひいぃっ、いやああぁぁぁーっ!!」

 

 テレサの目にも、オークの気持ちの悪いそれがはっきりと見えた。テレサは悲鳴をあげ、必死の抵抗をはじめる。

 火事場の馬鹿力か、テレサはオークの腕を押し返しはじめるが、地面に縫い付けられた状態から、脱することまではできない。

 

「イヤッ、イヤッ、イヤアァッ!」

 

 テレサは足をバタつかせ、がむしゃらの体を動かし抵抗する。

 しかし、バタつかせている足を別の小豚につかまれ、腕もつかまれてしまう。

 

「あああっっっ」

 

 小豚鬼(チープオーク)たちが、テレサに群がり始めた。

 

 テレサの目に何匹もの小豚鬼(チープオーク)の醜悪な豚面が見え、どれも興奮しきった目でテレサを見下ろしている。

 

「!!!!~~っ」

 テレサの目が絶望と恐怖に染まる。

 

「いやああっ、アンコウおゥ!ガッ!!」

 再び発せられたテレサの悲鳴が急に止まった。

 テレサの口の中に突き入れられた小豚鬼(チープオーク)の太い指。

「!!~~!!」

 テレサの目から噴き出す涙。

 

 テレサは動けない。テレサの存在がその周囲にいた小豚鬼(チープオーク)どもの動きを大きく変えた。

 

 テレサに群がりはじめたものだけでなく、周囲にいるオークたちの意識が大なり小なりテレサの存在に惹きつけられ、自然、その一帯に隙が生じる。

 他の者たちが、小豚鬼(チープオーク)から逃げ出す隙だ。

 

 アンコウは、その真っただ中にいた。この場から逃げ出す道が見えた。

 それをはっきりと認識したうえで、アンコウは走り出していた。

 

 人間の女一人を撒き餌に死地から脱する。それは、すでに先ほどからアンコウが(おこな)っていたことだ。

 そのことにアンコウは、何ら罪悪感を感じていない。

 自分が生き残るためやむを得ない、当然の行為だと思っている。それに先ほどは何人もの人間やドワーフの女が尊い犠牲になっていたが、今度はひとりだ。

 

 いやああぁぁーっ というテレサの悲鳴はアンコウの耳にも聞こえていた。

 しかし、走るアンコウの表情は変わらなかった。

 

 アンコウが横目で見ると、テレサを押し倒した小豚鬼(チープオーク)の姿も見えていた。

 

 抗魔の力と共鳴で強化されているアンコウの目は、恐怖と絶望に染まる女の顔もとらえていた。

 それに、小豚鬼(チープオーク)どもの興奮し切った吐き気を催しそうになるそれも。しかし、アンコウの表情は変わらなかった。

 

 『アンコウ』と最後に自分の名を呼んだ女の叫びもアンコウの耳に入っていた。しかし、アンコウの表情は変わらなかった。

 全力で走る速度にも変化は一切なく、ただ(わずら)わしそうに「チィッ」と、舌打ちを漏らしていた。

 

 

 テレサはあまりの恐怖と絶望にただ震え、何もできなくなっていった。

 

(あ……ああ……あぁ…!?)「!えっ?」

 

ザアァンッ!!グザアアアッ!!ビシユュューッ!!

 ブモオォォオオッ!!ピギイイィィッ!ギイガアァァッ!!

 

 テレサの目に突如、自分に群がっていた豚どもの首が飛び、腕が飛び、腹が裂ける姿が見えた。

 テレサの視界を埋め尽くしていた醜悪な豚どもの姿が消えていく。

 

そこには宙を舞うように踊る テレサが見たことのない魔戦斧。

赤い輝きを放つ刃が小オークを叩き割る。首を斬り裂き、腹を裂く。

スピアーヘッドで小オークの目障りな一物を串刺しにする。

金属部のスパイク部分には、加工された大きい赤い魔石が埋め込まれていた。

 

美しい戦斧。その魔戦斧のポールを握る男が、テレサの開けた視界に映りこむ。

最後に見えたときは、あさっての方向にむかって走っていっていたはずの男。

テレサとは違う民族と思われる人間族の男。

美しいともかっこいいとも言いがたい容貌。ただ、醜くもない。

 

 今は何ら感情を読ませないような無表情、その無表情の顔に埋め込まれたふたつの黒い瞳がテレサをとらえていた。

 

 それを見たテレサの目から、また涙が溢れる。

 しかしそれは、先ほどまでの小豚鬼(チープオーク)に襲われていたときとは違う種類の涙だ。

 

 

「だ、旦那さまっっ!!!」

 



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第73話 追い詰められた末の選択

 アンコウは、テレサに群がっていた小豚鬼(チープオーク)を次々に排除していく。アンコウの猛々しい動きに、小豚鬼(チープオーク)どもの動きが鈍る。

 

(やっぱり俺、強くなってるよなぁ)

 己の力を客観的に分析して、ふと思う。

 

(まぁ、あれほどじゃないけどな)

 

 逃げようと走り続けた結果、さらに距離が離れたが、アンコウの視界遠くに中級豚鬼将(ミドルオーク)の姿が映っており、それにむかって飛びかかり、紫の光を纏う長剣で斬りつけているマニの姿も小さく見えていた。

 

 今もマニにはとても及ばないと自覚するアンコウではあるが、この数ヵ月間で格段に戦闘能力は上がっている。

 だから、以前なら逃げるしかなったはずの小豚鬼(チープオーク)の集団相手に、ここまで一人で立ち向かうことができている。

 

 この広場での短い戦闘を通じて、それを理解したからこそ、襲われているテレサを助けに来た。弱いままであれば、間違いなくテレサを撒き餌にして逃げただろう。

 

 しかし、わずかながらでも敵より勝る強さがあるのなら、テレサをこの醜い豚どもに陵辱させて、己が逃げる時間稼ぎのための撒き餌にすることをアンコウは受け入れることができなかった。

 

 この広場で見殺しにした見ず知らずの女たちと違い、テレサの存在はアンコウの心の中で、ある程度の重みを有している。

 

 ただ、(マニやテレサがここに来なければ、俺は今頃逃げることができていた)という思いもある。だからアンコウの表情は硬い。

 だが、今のテレサにアンコウのそんな心の内はわからない。

 (旦那様が助けに来てくれた)と、潤んだ目で戦うアンコウを見ていた。

 

「テレサッ!立てっ!」

 アンコウが魔戦斧を振るいながら叫んだ。

「は、はいっ」

 

 テレサは、はっきりと返事をしたものの、

「ああっ!?」

 と、足腰にすぐには力が入らないようで、ヨタついている。

 

「チッ、テレサッ!弓を拾えっ!」

「は、はいっ!」

 

 アンコウはちょうど目の前にいた小豚鬼(チープオーク)の腕を叩き斬ると、テレサのほうに走りよる。

 テレサは弓を拾うものの、まだ中腰で立ち上がれていない。

 

「あっ、旦那さまっ」

 

 アンコウは、テレサに駆け寄ると同時に肩に担ぎ上げた。

 久しぶりにアンコウに体を触れられたテレサ。テレサの鼻にアンコウの懐かしい匂いが薫る。

 

 アンコウは久しぶりに触れたテレサの肉付きのよいやわらかい体の感触を楽しむ間もなく、小豚鬼(チープオーク)どもの隙間をついて走り出した。

 

 走るアンコウ、テレサを担ぎながらもその走る速度はかなり速い。テレサなど軽いものだと言ったところか。

 

ブモオォォオッ!ブフウゥゥウッ!ブヒッ!ブヒッ!ブヒヒッ!

 

 鼻息荒く、股間を膨らました豚どもが、アンコウ・テレサの後を追いかけてくる。

 

 アンコウに担がれ、走る後方を見ているテレサは、その豚どもの姿を見て 「ヒッ」と声をあげた。

 

 その小豚鬼(チープオーク)の全体の姿が見える分、先ほど覆いかぶさられていた時とは、また違う醜悪さがある。

 走る豚の目は獣欲に血走り、ヨダレを垂れ流し、股間の突き出た粗末な棒がぶるぶる揺れている全形が見えていた。

 

「いやだあぁっ」

 

 恐怖と嫌悪感に耐えかねたテレサは、アンコウの肩の上で弓を構えた。

 

ヒュンッ!ヒュンッ!ヒュンッ!

 

 テレサは不安定な体勢ながら器用に矢を放つ。

 威力はかなり小さいものの、狙いは正確に小豚鬼(チープオーク)に命中していく。

 

ブモォォッ!ドザンッ!ブモホオォォッ!

 ゴロォォオオオーー ドザンッ!ドザンッ!

 

 足を矢で射られ、転ぶ小豚鬼(チープオーク)。後ろを走る小豚鬼(チープオーク)がそれに巻き込まれ、次々に転がる豚が続出する。

 

(へえっ、やるなぁ)

 テレサを見てアンコウは思う。

 

 いつの間にこれほど弓の技術を上げたのか、手に持つ魔弓はおそらくこのワン‐ロンのものだろう。それに矢魔筒をごく自然に使いこなしている。

 アンコウは走りながら、肩の上に担いでいるテレサが見せる技に驚き感心していた。

 

 アンコウにとって、自分の所有物の価値があがることは喜ばしいことだ。

 すると何を思ったか、アンコウはテレサを担ぐ左手をももから尻の方へと少し移動させ、指を(うごめ)かせた。

 

「!んんっ、ちょっ、だ、旦那さまっ」

 テレサの足がビクリと跳ね上がった。

 

 アンコウは何も言わず、左手はすぐに元の位置に戻しそのまま走り続ける。その前を向いて走り続けるアンコウの顔には、ニタリと笑みが浮かんでいた。

 

 小豚鬼(チープオーク)よりさらに小さなオークが、テレサの下にいたようだ。

 魔獣は魔素の吹き溜まりで、その形を成すとき、森羅万象生者死者の形なき漂う負の思念を取りこみ生まれる存在と言われている。

 ならば 小豚鬼(チープオーク)の下劣さは、人の下劣さの一部なのかもしれない。

 

(も、もう、こんなときにぃっ)

 

 テレサは一時動きを止め、眉を(しか)めていたものの、顔に嫌悪の色はない。

 ただ少し、指が入ってこないよう、さっきまでよりもお尻に力を入れて、テレサはまた矢を射はじめた。

 

 

 今、この北の広場でのワン‐ロン兵と魔獣との戦闘は南側を中心に行われている。

 広大な広場ではあるが、大規模な衝突が南側で起こっていることは北側にいるアンコウにもわかる。

 

(戦闘はワン‐ロン軍が優位に進めているようだ。だけど、その分こっちに魔獣が流れてきている)

 アンコウは時間に余裕がないことを悟る。

 

 アンコウは、マニのようにこの戦場に身を置き続けるつもりはない。

 アンコウも逃げているといえ、魔獣どもを斬り倒し続けているし、マニ以外にも勇敢に戦いを挑んでいる者たちもいる。

 

 ただ、北側ではワン-ロンのドワーフ兵は少なく、魔獣の群れに蹂躙されている者たちの数が多く目立つ。

 

(あいつら、みんな抗魔の力は持っているはずなのに)

 

 ドワーフは生まれつき、強弱はあっても抗魔の力を持っている種族。本来ならば弱いといえども戦う覚悟を持ち、集団戦を挑めば、十分に戦えるはずだ。

 

 ただやはり、この広場に来ていた者の多くは、戦わずに逃げることを選択したワン‐ロン・ドワーフの中の弱者であるか臆病者たち。

 弱者と臆病者の集団など、数が多くなればなるほど激しく混乱をきたし、弱い者がさらに弱くなるだけらしい。

 

 走るアンコウの周囲に広がる凄惨な光景。弱者は他者を蹴落としながら逃げ惑い、次々と食われる肉塊となり、あるいは陵辱される肉塊となっている。

 アンコウはどこからか流れてきた血の川を踏みながら、テレサを担いで地獄の中を駆け抜ける。

 

「!テレサっ、スピードを上げるぞっ!」

 

 アンコウはそう言うと、走る方向を変え、速度を上げた。

 広場と市街地の境目(さかいめ)近い場所に、木々に遮られ見えにくくなっているが、道らしきものがあるのを見つけた。

 その付近には、あまり魔獣の姿も逃げ惑う者たちの姿も見えない。

(あの道に逃げ込もう)

 

「テレサっ!弓はもういいっ、しがみつけっ!」

「は、はいっ!」

 

 アンコウは魔戦斧を時折り振るいながらも一気に駆けた。

 路地というには幾分広いが、アンコウは目指したその逃走路に飛び込み、速度を落とすことなく走り続ける。

 

「だ、旦那さまっ、私も走りますっ、降ろしてくださいっ」

 

 アンコウはテレサを肩から下ろし、二人並んで走る。

 

(……テレサ、もう大丈夫そうだな)

 

 テレサはアンコウの横をしっかりと走っている。一本道のようだが、アンコウたちの前方に敵の姿はない。

 

「よしっ!このまま逃げきるぞっ!」

 

「はいっ!」

 

 さらに速度を上げて二人は走る。前方に敵の姿はないが、後ろから追ってきているのは間違いない。

 アンコウたちは、走って走って全力で逃げる。

 

 

‐‐‐‐-‐‐‐‐‐‐‐‐-‐‐‐‐‐‐‐‐-‐‐‐‐

 

 

「はぁはぁはぁはぁはぁ」「ハァハァハァハァハァ」

 

 アンコウとテレサは息を荒くしながら立ちすくんでいた。

 

 飛び込んだ道はどこまで走っても一本道で、途中からは左右も石垣のような壁になっていた。それでも、いまさら引き返すこともできず、ゆったりと大きく曲がりはじめた道をそのまま走った。

 そして今、アンコウたちの前方にも高い壁。

 

行き止まり―――――――

 

「ざけんなっっ!」

 

 アンコウは吐き捨て、今来た道を走って戻り始める。少し走ると一本道の前方が開ける。

 アンコウの目に一本道を進み来る物凄い数の小豚鬼(チープオーク)の群れが見えた。

 

「!!!くっ!」

 

 やむを得ずアンコウは再び、今来た道を戻る。そして、その前方には高い壁。

 

 

「ぐうぅぅぅ………っ」

 唸るような声を漏らした後、アンコウは高い壁を睨みつけた。確かに高い、高いが、

(………道具を使えば、十分越えられる。だけど……少し時間がかかる)

 

 アンコウはまた後ろを振り返る。

 

(じき豚どもが来る。壁を登っているとき叩き落されたらさすがにまずい)

 

 冷たい汗がアンコウの額から落ちる。ポタポタと。

 なぜこの道に逃げる者の姿がなかったのかをもう少し考えるべきであった。ワン‐ロンの住人たちは、当然この道が袋小路であることを知っていたのだ。

 

「チッ!」(しくじったっ)

 

 アンコウは再び高い壁を仰ぎ見る。

 

(俺一人なら、そこまで長い時間をかけずに越えられる………)

 

 魔獣どもの姿が此処になかったのは、ここに獲物がいなかったから。

 いま醜い小豚の群れが押し寄せてきているのは、ここにアンコウとテレサがいるから………主に人間族の女であるテレサがいるからだ。

 

「……………時間を稼ぐ………撒き餌」

 アンコウの思考の声が小さく小さく漏れた。

 

「………あ、あの………」

 テレサが不安げに壁を睨むアンコウを見ている。

 

 アンコウは振り返り、今度はテレサをじっと見る。アンコウの顔に何ら表情は浮かんでいない。

 

「だ、旦那様、魔獣が来ますっ」

 そう言うテレサの顔は真っ青だ。

 

 アンコウについて、道を行ったり来たりしたテレサも、後ろから迫る醜い小豚の群れを視認していた。

 

(あ、あれに飲み込まれたら)

 テレサの心は、再び絶望に染まる。

 

 ゆえにテレサは、(すが)るような思いでアンコウを見つめている。アンコウも逸らすことなく、そのテレサの目を見ていた。

 

 不安に染まるテレサの足が、もっとアンコウに近づこうと動き出す。

 しかし、アンコウはテレサから目を逸らし、近づいてくるテレサをかわすように歩き始めた。

 

「あっ」と声を漏らすテレサ。

 

 アンコウはその声に反応を示すことなく、無表情のまま歩くスピードを速める。そして、テレサを無視してアンコウは走り出した。

 

「あっ!旦那さ、待ってっ!」

 テレサも走る。

 

 アンコウはゆったりとしたカーブを全力で走る。そうするとアンコウの前方に数え切れないほどの醜き豚の群れが見えてきた。

 

「テレサっ!そこで止まれっ!」

 

 アンコウは、後ろを走りついてきていたテレサに命令する。

 しかし、テレサは止まらない。怖いのだろう。

 

「止まれっっ!!!」

 

「ヒッ!は、はいっ」

 テレサは怯えるような声を出して、ようやく停止した。

 

 アンコウは醜き豚の群れに向き直り、空を見上げる。ここはワン‐ロン地下迷宮都市。そこに空はなかった。

 しかし、人工の暖かい光が降りそそいでいる。

 

(すげぇよなぁ、誰がつくったんだぁ)

 

 アンコウは(まぶ)しくない暖かい光を仰ぎ見た。

 

「………テレサっ!」

「は、はいっ」

「お前はそこにいろっ、自分の身は自分で守れっ!」

「!!~~~」

 

 テレサは一瞬見捨てられたのかと思うが、どうも違う。

 魔戦斧を右手に持ったアンコウが押し寄せる小豚鬼(チープオーク)の群れのほうに向かって、さらに足を踏み出したのだ。

 

「!だ、旦那さまっ!?」

 

 

 

「ああ、最悪だ、最悪だ、ちくしょう、ちくしょう」

 

 歩くアンコウは薄っすらと涙を浮かべながら、ぶつぶつとつぶやいている。アンコウに死ぬ気はない。

 

「なんなんだよ、クソッたれ、天気はいいのによぉぉ」

 

 死ぬ気がないなら、アンコウも自分の身は自分で守るしかないのだ。

 

「あーーー誰か助けてくれよぉ………………………………」

 

 ………アンコウが纏う覇気が変化していく。アンコウは魔戦斧との共鳴を高めている。

 

 アンコウは手に持つ魔戦斧のスパイク部分に加工され、嵌め込まれた大きい赤い魔石を見る。

 少しするとその加工された赤い魔石のあたりに仄白色の光球が形成されていく。気弾のようだ。

 

 アンコウは覚悟を決めた。

 

「…………うひひっ、この斧は高性能だねぇ」

 

 魔工匠ログレフの仕事はすばらしい。そして次の瞬間、

 

ブオォォンンッ! と、アンコウは魔戦斧を大きく振るった。

 

 高速で飛び出す仄白光球の気弾。

 

シュウゥゥンッ!―――――――ドグゥアンッ!

 

 着弾、破裂、押し寄せる小オークの集団の先頭にいた豚が弾け飛んだ。

 

「「「「ブモオオオォォォオオオーーッ!!!」」」」

 

 響く豚どもの雄たけびの中、

「…………」

 アンコウは無言のまま、魔戦斧を握りなおす。

そして、

 

「イヒヒヒヒィィィイイイイーーッ!」

 

 アンコウは奇声を発しながら、小豚鬼(チープオーク)たちの群れにむかって走りはじめた。

 

 テレサはそのアンコウの一連の行動を、呆然と、ただ眺めていた。

 しかし、豚の群れに突き進むアンコウを見て、テレサの顔から怯えの色は消え、目に宿る光が変わる。マニの言う戦士の目に変わった。

 

 

 そして、テレサは弓を構え、光矢をつがえた。

 死にたくない者は、誰であっても戦うしかない。

 



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第74話 ワン‐ロン興亡戦

 現在、ワン‐ロン側が完全に掌握できている幻門(ファンゲート)は、太陽城内に設置されているもののみ。

 東西南北中央の広場に設置されている幻門(ファンゲート)からは、次々と魔獣が湧き出し、それら広場を中心にワン‐ロン全域で激しい戦闘が行われていた。

 

 北の広場で戦うアンコウの眼には、惰弱なドワーフの姿が目立ったが、全体的にはまったく違う。ドワーフはこの世界で第二の優等種族、その矜持も高い。

 

 ナナーシュが、極大豚鬼王(ビッグオーク)侵撃の予兆を住民たちにあきらかにしたとき、彼らの多くが勇ましく戦うことを躊躇(ためら)うことなく叫んだ。

 その叫びに偽りのないことを今証明していた。

 

 

 もっとも激しい戦闘が行われているのは東の広場。

 この騒乱の元凶たる極大豚鬼王(ビッグオーク)そのものが出現した東の広場の戦いの激しさは、アンコウのいる北の広場の比ではない。

 

ブモオオォォォオオオオーーーッ!!!!!

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の魂さえも押し潰してしまうかのような、凶悪な咆哮が響きつづけている。

 

 もし、この極大豚鬼王(ビッグオーク)と対峙しているのが、抗魔の力を持たない者が多数を占める 人間族の軍団ならば、大げさではなく、この響きつづける咆哮の影響だけで精神に錯乱をきたしてしまう者が続出するだろう。

 それほど、その存在感は禍々しい。

 

「第六軍、第七軍を左方に展開させよ!青幌精霊法術師団(あおほろせいれいほうじゅつしだん)を前進!!攻透魔力障壁を張り、融合火弾攻撃っ!!!」

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の咆哮響く中、大将軍ボルファスが大声で命令を下している。

 

 ボンッ!ボンッ!ボボボォォォーーンッッ!!!

 ブギャオオォォオオーーーッ!!!

 

 強大な力を持つ魔獣極大豚鬼王(ビッグオーク)を前にしても、ワン‐ロン軍は統制を保ち、戦闘を続けている。

 

 おおおぉぉぉーーーっっ!!!

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の首を獲れと、何人もの仲間が肉塊と変わっても彼らは退かない。

 ワン‐ロン軍精鋭ドワーフ兵団、彼らは強い。

 

 

「突撃いぃーーっ!!」

 

 馬装魔具に全身を覆われた軍馬に(またが)り、ミゲルは率いる部隊とともに戦陣を駆ける。

 

 小豚鬼(チープオーク)四牙狼(フォッツァウルフ)などは剣刃にかけるまでもなく、馬勢で吹き飛ばしている。ただの馬ではないようだ。

 

「「「おおおおおおーーっ!!」」」

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の壁になるように立ち塞がっている中級豚鬼将(ミドルオーク)に、ミゲルたちは襲いかかる。

 

グブウゥモオオオーーッ!!

 

「カルミいっ!」

「たああああっ!!!」

 

 ミゲルの呼びかけに応じるように、中級豚鬼将(ミドルオーク)の背後にカルミが現れ、飛びかかり、ヤツの足をメイスで強打。

 カルミは、一人でこの東の広場の戦闘に参加し、極大豚鬼王(ビッグオーク)に最初の一撃を与えた後も、魔獣ども相手に自由に暴れまわっている。

 

ボオォガアンッ!

「ブヒイイイッ!!」

 オークはそのまま背中から地面に落ちる。

ズダアァァァアアンッ!

 

「いくぞおおおーっ!一気に仕留めろおオオーーっ!」

 

 ミゲル率いる騎兵部隊は、勢いをさらに増し、地面に倒れた中型オークに襲いかかった。

 次々と、弓兵が放った光矢が降りそそぎ、ドワーフ兵たちの剣が中豚の体にとどく。

 

 弾ける気弾、火球、水弾、雷撃。

 

 ワン‐ロン・ドワーフたちは退かない。故郷を守るため、大切な者を守るため、己の矜持のために命知らずの猛者の集団と化している。

 

モギイイィィィイイイーーッ!

 オークは悲鳴も醜い。

 

 

「だあああっっっ!!」

 

バガアアァンッ!!!

 カルミのメイスが痙攣している中型の眉間を打ち据えた。

 

 カルミもいる東の広場には、ワン‐ロン軍の最精鋭、最大戦力が投入されている。

 仮にほかの広場の戦いがすべて敗北に終わったとしても、極大豚鬼王(ビッグオーク)を打ち倒せば、この戦いはワン‐ロン側の勝利に終わるはずだ。

 

 

 ワン‐ロン中の設置型幻門(ファンゲート)から湧き出しつづけている魔獣ども。

 東西南北中央、それぞれの広場でワン‐ロンの戦士たちが必死の戦いを続け、魔獣どもを押しとどめている。

 

 また、魔獣どもを足止めしているという意味では、東の広場を除く、四つの広場にワン‐ロン外への脱出を望み集まってきていた弱き臆病な住民たちも役立っていた。

 

 彼らの中には戦うことなく逃げ惑い、互いに蹴落としあい、そして、次々と死んでいった者たちも多くいた。

 その死体は、湧き出してきた魔獣どもの贄となり、血と肉を捧げ、魔獣どもの足を止めていた。

 

 しかし、それでも大量に湧き出る魔獣どものすべてをそれぞれの広場で止め置けるわけではない。

 それなりの数の魔獣どもが街中に侵入し始めていた。

 

 

ドザァンッ!!

 

 名もなきドワーフの職人が、大きなハンマーで小オークの頭をカチ割った。彼の店の看板が豚の血で染まる。

 

「あなたぁっ!」

「オヤジっ!」

「親方っ!」

「お父さぁんっ!」

 

「ふぅふぅはぁはぁ、み、みんな無事かっ!」

「オヤジっ、俺も戦うぞっ!」

「親方っ!俺たちもだっ!」

 

 街中いたるところで暴れる魔獣ども相手に、兵士ではないドワーフの住民たちが武器を取り、命がけで戦っている。

 家族を守るため、仲間のため、ドワーフの故郷ワン‐ロンを守るため、統治者ナナーシュに忠誠を誓い、街中で多くの勇者たちが戦っていた。

 

 

 

太陽城‐ロブナ神殿。

 

 ひとり戦い続ける高貴なる者。太祖オゴナルの正統後継者、ワン‐ロンの当代統治者、ナナーシュ・ド・ワン‐ロン。

 

(私は一人じゃない………みんな………皆が戦っているのがわかるっっ!!!)

 

 ワン‐ロンの創成者‐太祖オゴナルが創りあげた魔工装置『ロブナ‐オゴナル』。

 

 ワン‐ロンを居住可能地域とし、それを維持している力の根源であり、同様に、空間移動魔工装置である幻門(ファンゲート)幻扉(ファンポルト)などの、ワン-ロンのみで使用可能な特殊な魔道具の原動力ともなっている。

 この世界でも比類なき、魔具の域をはるかに超えた魔具。

 

 そのドワーフの至宝『ロブナ‐オゴナル』を通じて、ナナーシュは、今ワン‐ロンで起こっている事象を感じとっている。

 ワン‐ロン全域で行われている激しい戦闘。人々の怒り、悲しみ、恐怖。そして、次々と消え去る命の灯。

 

 そして、ワン‐ロン・ドワーフたちの家族を思い、仲間を思い、故郷を思う魂の叫び声。

 

「わ、私は……太祖オゴナルの正統後継者……その力を継ぐ者………ワン‐ロンの当代統治者……皆の思いを…命を背負う者、ぐっ、うぐぐぐぐ~~」

 

 ナナーシュは、暴風のように荒れ続けるロブナ‐オゴナルから発せられる禍々しい波動に耐え、濃透紫色の大魔石卵ロブナにしっかりと両手を当て続けている。

 今、ロブナ-オゴナルは極大豚鬼王(ビッグオーク)のものと思われる強い干渉を受けている。

 

 ナナーシュは、『ロブナ‐オゴナル』が完全に極大豚鬼王(ビッグオーク)の支配下に落ちることを全力で防ぎ、その統制力を自分の手に取り戻すために命を削って戦っているのだ。

 

 もう、どれぐらいそうして戦っているのか、ナナーシュにはわからない。時間の感覚もなくなってしまっている。

 ただ、ナナーシュは感じていた。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の干渉力が少しずつではあるが弱くなってきていることを。

 

 それはつまり、彼らが、彼女らが、極大豚鬼王(ビッグオーク)と命を懸けて戦い続けてくれているということだ。

 

「はぁはぁはぁはぁ、私は………私は負けない、たとえ、たとえ死んでも私の責務を果たすっっ!」

 

 

 恐るべき力を誇る魔獣極大豚鬼王(ビッグオーク)。しかし、そのすべての個体がこのような『ロブナ‐オゴナル』への干渉能力を有しているわけではない。

 

 太古、このワン‐ロンがある迷宮のこの階層はオークの巣であったという。

 大魔石卵ロブナとともにオークたちは、長い長い時間、この場所にいたのだ。

 

 大魔石卵ロブナとオークたちのつながりは、ドワーフたちが考えているよりも強固で特殊なものがあるのかもしれない。

 だからこそ、極大豚鬼王(ビッグオーク)は東の広場であれほど激しく戦いながらも、大魔石卵ロブナに対して、これほど強く干渉することができるのだろう。

 

 彼らにしてみれば、ドワーフたちのほうが自分たちの故郷を不当に占領し続けている侵略者なのだ。

 

 魔工装置『ロブナ‐オゴナル』を総べることができるナナーシュが、魔工装置『ロブナ‐オゴナル』を創造した太祖オゴナルの正統後継者であるように、これに干渉し得る力を持つ極大豚鬼王(ビッグオーク)は、大魔石卵ロブナと特別なつながりを持つ選ばれし者なのかもしれない。

 

 しかし、偉大なる力の所有者が二頭共存することなどありえない。

 

 

「『ロブナ‐オゴナル』は、私たちドワーフのものだっっ。やあああぁぁぁああああーーーっ!!!」

 

 ナナーシュは命を削り、『ロブナ‐オゴナル』への干渉力を限界まで強めていく。

 

 東の広場では、

 

「ブモオオオォォォオオオーーッ!!!」

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の苦しみの咆哮がこだまする。

 

「 !! ゆけええぇぇーーっ!あの大豚を打ち倒すのだああーーッ!」

「「「「オオオオオオオーーーーーッッッ!!」」」」

 

 ナナーシュを頂点としたドワーフたちはその生存権そのものをかけ、ワン‐ロン全域で一丸となって戦い続けている。

 

 

 ワン‐ロンの戦士たちは北の広場でも決死の戦い繰り広げていた。

 

「隊長っ!押しとどめるには人数が足りませんっ!」

「泣き言をいうなっ!!」

「隊長おーっ!右の幻門(ファンゲート)から、また中型がああーっ!」

「な、なんだとぉ!?」

 

 東の広場と比べると、他の地区のワン‐ロン軍の数はどうしても少なく、精兵もまた、ほとんどが東に回されており、極大豚鬼王(ビッグオーク)と戦っている東とは違う意味で苦労を強いられていた。

 

 そんな中において、北の広場にいるマニは思う存分に剣を振るう。

 

「だあああぁぁーーーっ!」

「ブギイイィィィーーッ!」

ズダアァァァンッ!

 

 マニの渾身の一撃で、中豚はひざを地面に落とす。

 

「あ、あの獣人の女を援護しろおーーッ!」

 

ズガァァンッ! ザグウゥゥゥッ! ヒュンッ! ヒュンッ!ヒュンッ! ヒュンッ!

 

「プギイイィィィィィーーッ!!」

 

 

 倒れ動かなくなった一匹の中豚の上に、紫光の魔剣を手にマニが立つ。

 頭から血のシャワーを浴びたかのように、マニの体は真っ赤に染まっている。

 

「ハァッ!ハァッ!ハァッ!ハァッ!ハァッ!」

 

 口を開け、激しく肩で息をしているものの、マニの眼光は鋭く、その目だけ見れば疲労しているようには見えない。

 

「!!」

ダアァンッ!!

 マニが突然、中豚の腹の上から大きくジャンプ。かなりの跳躍力だ。

 

「があああーーッ!」

 

ザァンッ! ザグウゥゥッ!

 マニは、そのまま空中で二体のコーギルを斬り捨てた。

 

ダアァンッ!! と、再び地に両足を着けたマニ。

 

 そして顔をあげ、何かを目にしたマニは口元にニヤリと笑みを浮かべる。

 マニの目は、前方約1000メートル、少数のワン‐ロン兵と戦っている別の中級豚鬼将(ミドルオーク)の姿をとらえている。

 

「う…うおおおーーーっっ!!」

 

 マニは新たな標的目がけて走り出した。

 

「あ、あの獣人の女に続けえええーーッ!」

 

 北の広場でも圧倒的優位とは行かないが、時間の経過とともにワン‐ロン軍は勢いを得て、魔獣どもを徐々に駆逐していく。

 

 しかし広場の南側から突入したワン‐ロン軍が今到達しているのは、広大な広場の敷地の中央部分ぐらいまで、北側には未だ兵を進めることはできていない。

 そんな状況下で、ワン‐ロン軍に押された比較的力のない魔獣どもが、どんどん北へと移動していく。

 

 

 

「ああっ、だ、旦那様ああーーっ!」

 

 テレサの悲痛な叫びが響く。

 

 テレサの眼前には迫り来る大波のような小豚鬼(チープオーク)の群れ。ただ道幅は広くなく、魔獣たちも一斉に四方から襲いかかることはできない。

 

 そして、魔獣の群れとテレサのあいだには、魔戦斧を縦横に振るい、時に、その魔戦斧から気弾を放ち、時に、持てる精霊封石弾を次々に投げつけ、思いつく限りのあらゆる手段を用いて戦い続けるアンコウがいた。

 

「ブモホッ!」

 時おりアンコウの横をすり抜け、テレサのほうへ向かって来ようとする豚がいる。

 

 テレサはそれに対してすばやく矢を放つ。

「ハァッ!」

シュンッ!

「ビホオォッ!」

ズザァァンッ!

 

 アンコウは地面に転がったその個体を、まるでゴルフのボールのように、魔戦斧とその気弾を用いてフルスイング。

 

ドォバアァンッ!

 

 小豚鬼(チープオーク)といえどもかなりの大きさがあるにもかかわらず、それが吹き飛び、魔獣の群れの中に砲弾のように突っ込んでいく。

 

 ギユュューーンッ! ドガガガガンッ!!

 

 次の瞬間、何頭もの豚どもが、ブヒ!ブヒ!ブヒ!と、悲鳴をあげる。

 

「らああぁぁーっ!」

 

 そしてまたアンコウは、魔戦斧を手に敵群に突っ込んでいく。

 その様を見るテレサの表情は悲痛そのもの。

 

「あああっ」

 

 アンコウが、どんどんどんどん傷ついていく恐怖。迫り来る醜き豚の群れに対する恐怖。

 

 アンコウはとっくの昔に血まみれだ。

 はじめ小豚鬼(チープオーク)たちは皆、テレサに意識を向けて襲いかかってきた。しかし、今は違う。

 

 すべてではないが、奴等の意識はアンコウに強く向かっている。

 この者を殺さなければ、自分たちが死ぬということがわかったのだ。

 

「ああっ!旦那様っ!」

 

 アンコウが自分のために戦ってくれているのか、テレサには本当のところはわからない。ただ間違いなく、アンコウが全身血まみれになって戦ってくれているから自分は今生きている。

 

(旦那様が死ねば、私も死ぬっ)

 それも、アンコウ以上にむごたらしい死に方をテレサはすることになるだろう。

(い、嫌だっ!!)

 

「旦那様っ!」

 

 テレサは全力で夢中で光矢を放つ。自分の中の精霊法力の残量など考慮していられない。

 

シュンッ!シュンッ!シュンッ!シュンッ!シュンッ!シュンッ!

 

 とにかく前に放てば、どれかの豚に当たる。次々に豚は倒れ、アンコウの手によって砲弾のように吹き飛ばされていく。

 

「ラアアアァァァアアアーーッ!」

 

 アンコウの魔戦斧が小豚を次々に斬り裂いていく。

 

 カルミは何度も言っていた。 

『アンコウには斧が合ってるよ』―『なんとなくっ!』

 カルミの何となくの勘の正しさが今、証明されている。

――― アンコウには斧が合っていた。

 

 特に今のように魔斧との共鳴を限界を超えるほどの高めたとき、その戦闘能力の増幅幅(ぞうふくはば)は、はるかに大きくなっていた。

 アンコウは魔戦斧を振るい、食べることのできない豚の肉塊を次々に製造していく。

 

「アンコウーーっ!」

 

 テレサは叫びながらも、矢を射ることをやめない。

 テレサの視界が涙でかすむ。それでも問題はない。アンコウにさえ当てなければ、矢を前に放てば魔獣に当たるのだから。

 

 

 

 各々の戦う理由は違えども、たった一つしかない命を賭けた戦いがワン-ロン中で繰りひろげられている。

 

 そんな戦いの時が、ワン‐ロン中で延々と続いた―――――――――――

 

 



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第75話 カルミ 宙を舞う

「おおおぁぁぁぁああーーーッ!!!」

 

「ナ、ナナーシュ様あっ!!」

 

 ナナーシュの魂が爆散したかのような絶叫が響き、ナナーシュを見守る者たちが悲鳴をあげる。

 今のナナーシュは、体中から血が噴き出し、頭のてっぺんからつま先まで真っ赤に染まっている。

 

「い、癒しの法術を途切れさせるなっっ!!」

「ポーションを噴きかけつづけるんだッッ!!」

 

 ナナーシュをサポートする法術師や神官たちが、命を賭してナナーシュを支えている。

 彼ら全員にナナーシュのために命を捧げる覚悟がある。実際に神殿の床には、命尽きるまで法力を搾り出した法術師や神官たちが何人も倒れ伏していた。

 

 もう、このナナーシュの戦いがはじまって、丸一日以上が過ぎている。

 彼らの献身がなければ、とっくの昔にナナーシュは力尽き、『ロブナ‐オゴナル』は完全に極大豚鬼王(ビッグオーク)が支配するものとなり、ワン‐ロン全体が魔獣どもに蹂躙される事態を招いていたことだろう。

 

「 くくっ、わ、私は負けない  ワ、ワン‐ロンを守る   皆を守るっ   『ロブナ‐オゴナル』は………私たちのものだっっっ!!!」

 

 ナナーシュの纏う覇気が大きく変化し始めた。

 ナナーシュにべったりと着いていた血が蒸発していく。

 命のそのものを搾り出すように、ナナーシュの覇気が具現化されていく。

 

 それは、金色に輝く竜のようにナナーシュ自身を巻き込み、天に向かってのびていった。

 

「お、おおーっ!!」「なっ、何だっこれは!!」「ナナーシュ様っっ!!」

 

 天井ぎりぎりまで伸びた金色の竜の覇気が再び形を崩し、黄金の霧が神殿の広間全体に満ちる。

 

「ロ、ロブナ‐オゴナルは、私たちの宝物……ふぐうううっ!だ、誰にも渡しはしないっっ!!!」

 

 ナナーシュの体から、さらに強力な金色の光気が噴き出す。

 

「きぃ、消いぃ…えぇぇ  ろおぉぉおおおおーー!!出て行けえぇぇぇぇっっ!!!」

 

バアアアシユュュュンンッッッ!!!

 

――――― 何かが 弾けた ―――――

 

 池に放り込まれた石。生じる波紋。

 その波紋が石が落下した地点から周囲へと、池全体に広がっていくのと同様に、太陽城‐ロブナ神殿で弾けた何かが、それを震源としてワン‐ロン全体に波動が広がっていく。

 

 そして、その波動の正体をすべてのワン-ロン・ドワーフたちは感じとることができた。

 なぜなら、すべてのワン-ロン・ドワーフたちが魂に刻み込んでいる覇気を含有した波動だったからだ。

 

!!! ナナーシュ様っ !!!

 

 その波動は何波にも連なって、ワン‐ロン全体を包み込んだ。

 

 

 ~~~~~~~~~

 

 

幻門(ファンゲート)を見ろおーーッ!!」

 

 東西南北中央、すべての広場で同様のいくつもの叫び声があがる。

 

「も、門が閉じたぞおオオーーーッ!!!」

 

 迷宮深くとつながっていたと思われる幻門(ファンゲート)が、ひとつ残らず全て閉じた。

 門が閉じるということは、噴き出しつづけていた濃ゆい魔素が止まり、湧き出し続けていた魔獣どもの侵入が止まるということだ。

 

 

「ブモオオオォォォオオオーーー!!!」

 

 東の広場では、極大豚鬼王(ビッグオーク)が強烈な咆哮(ほうこう)をあげていた。怒り、悲しみ、苦しみ、そういった思念を感じさせる咆哮だ。

 

 ワン‐ロン中で戦っているドワーフたちは知った。ワン‐ロンの統治者、我らが主、ナナーシュ‐ド‐ワンロンが、主にしかできぬことをやり遂げたのだと。

 

 

!! うおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおお !!

 

 

 ワン‐ロンが、ドワーフたちの雄叫びで揺れた。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の咆哮もかき消されてしまった。極大豚鬼王(ビッグオーク)を囲むワン‐ロン軍の士気が一気に上がる。

 

「皆の者おお――ッ!!!ナナーシュ様に勝利を捧げよおオオーーーッ!!!」

 ボルファスが檄を飛ばす。

 

「「「おおおおおおおおーーーーっ!!」」」

 

 砂糖に群がる蟻のように、ワン‐ロン兵たちが大豚にむかって群がりはじめた。

 

 青幌精霊法術師団(あおほろせいれいほうじゅつしだん)、最大法力複合精霊法術「火水雷風四天神融合破魔光線弾(ウルアルカシテンデューラリオン)」が、天をつくような巨躯の極大豚鬼王(ビッグオーク)を撃つ。

 

 バジユユユュュューーーーーンンッッ!!!

 グガアアアアァァーーーーンッツ!!!

 

 黄幌槍剣白兵隊(きほろそうけんはくへいたい)、大魔弓による全体一斉連射。

 

 シュンッ!ビシュンッ!ビシュンッ!ビシユューンッ!!

 

 一斉連射の後、間髪入れずに弓を捨て、すべてがワン‐ロン魔工匠の手による一級の魔槍・魔剣を掲げ、極大豚鬼王(ビッグオーク)に一斉突撃。

 

「弓を捨てよっ!!槍剣を手にっっ!!!」

 

うおおぉぉぉおおおーーーっ!!!

 

 赤幌重装騎士団(あかほろじゅうそうきしだん)、馬上に乗るは全員銀色に煌く甲冑で全身をかためた騎士。

 その甲冑の胸の部分には色とりどりの加工魔石がはめ込まれている。

 全騎、手には長い円錐形の九長槍、これも同じく銀色に煌いている。

 腰に差したり、背中に背負っている剣はそれぞれ違うものの、その剣の全てがこのワン‐ロンで鍛えられた一級魔剣である。

 

 全騎軍が一体化し、メタリックな銀色に輝く超速の巨大な(やじり)のように、極大豚鬼王(ビッグオーク)に襲いかかる。

 

ドドッ!ドドドッ!ドドドッ!!ドドドドドドドドッ!!!!

 

 魔装馬具に全身を覆われた馬の大群。

 

「全騎突撃いいぃぃぃっ!!臆するなあああっ!!命を捧げよオォォーッ!!!」

 

 

 

 

――――――――――――

――――――――――――

――――――――――――

 ギイイィヤアアアアアモオオオォォォーーー!!!

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の咆哮が、ついに悲痛な叫びに変わる。

 全身至る所が、焦げ、傷つき、足元がフラつき始めてひさしい。

 

 ワン‐ロン軍はこの好機を逃すことなく、一斉果敢に極大豚鬼王(ビッグオーク)を攻めつづけた。

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)は山のようというよりも、山と言い切れるほど巨大だ。

 

 エルフが支配する国家が、正面から戦うことを避けるワン‐ロン軍。

 そのワン‐ロン精鋭三軍を挙げて、一体の極大豚鬼王(ビッグオーク)と死闘を演じているという事実。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の強さの凄まじさが知れよう。

 

 その山がついに崩れ落ちるときが近づいている。

 

 全身黒茶色の鋼鉄のような剛毛に覆われている極大豚鬼王(ビッグオーク)

 その剛毛もあちこちが焦げつき、剥がれ、斬り裂かれている。大滝のように流れ落ちる赤い液体。オークの血も赤いのか。

 

 所々裂けたところから肉が見え、骨がのぞいている。そんな状態でも数時間に渡って戦い続ける極大豚鬼王(ビッグオーク)

 

 しかし、幻門(ファンゲート)が閉じられ、極大豚鬼王(ビッグオーク)を守るように周囲で暴れていた魔獣どもは、ほぼ殲滅されている。

 ワン‐ロン軍の全ての刃が、今まさに大豚1匹に突きつけられた。

 

 

ブモオオオォォォオオッ!!

  ドォザアアアンンッッ!!

 

 ついに、極大豚鬼王(ビッグオーク)の膝が地に墜ちた。

 

 それでも、極大豚鬼王(ビッグオーク)の目は禍々しい眼光を保っている。足掻き続ける大豚が、ボロボロの右手を天にかかげた。

 

「雷撃だっっ!!広域に来るぞおおーーっ!!」

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)が突き出した右手の上空、禍々しい黒雲が生じている。しかし、それも当初の大きさはない。

 その極大豚鬼王(ビッグオーク)の動きに対応し、一時攻撃の動きが止まるワン‐ロン将兵と軍。

 

「全軍、備えよおおおーーっ!!」

 

 しかし軍の指揮命令下に属さない者たちも、この戦場には多くいる。

 

ボンッ!バシュッ!ボンッ!バシュッ!ボボンッ!バシュシュッ!

 

「なあっ!?誰だあれはっ!!」

 

 誰かが叫んだ声に反応し、空を見上げたミゲルは、身の丈以上のメイスを手に持ち、高速で宙を駆け上がっていく少女の姿を見つけた。

 

「あれはっ!………カルミかっ!?」

 

 確かにそれはカルミだった。

気跳宙歩(エアラング)』 足元で小さな気弾を連続的に爆発させ、空中移動を行う技だ。

 

 この戦いの中でも、ワンロン-軍-黄幌槍剣白兵隊(きほろそうけんはくへいたい)を中心に、この技を用い、山のような大きさの極大豚鬼王(ビッグオーク)相手に戦っている者が多くいた。

 

(カルミは気跳宙歩(エアラング)を使えたのかっ!?い、いや、使えなかったはずだ)

 

 ミゲルたちとは、いつのまにか離れてしまっていたが、この戦いの初期、カルミもミゲルたちの隊と共に行動をしていた。

 その時カルミは、

 

『うわぁー!そら飛んでるよっミゲルっ!わたしは塔の上から法術で打ち上げてもらわないと頭にはとどかなかったのにぃー』

 

(………カルミのやつは気跳宙歩(エアラング)を見て、確かにそう言っていた)

 

 ボンッ!バシュッ!ボボンッ!バシュシュッ!

 カルミはどんどん宙を駆け上がる。

 

「この戦いの間に、気跳宙歩(エアラング)をものにしやがったのか………なんてガキだよっ、あ!、カルミっ!!!」

 

 呆れるように宙を駆けるカルミを見ていたミゲルが、突然カルミの名を叫んだ。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)が生み出した黒雲が稲光(いなびかり)を発し始めたのだ。

 

!ピカッッッ!!!カカカッッッ!!ピカカカッッッ!!!

 

「雷撃が来るぞおおおーーっ!!」

 

 あちらこちらで声があがり、全軍が広域に降りそそぐであろう雷撃に備える。

 

「ちいぃぃぃっ!カルミいぃぃぃーーッ!!逃げろおおおーーっ!!!」

 

 ミゲルの声が、カルミに届いたかどうかはわからない。ただ、カルミが止まることはなかった。

 それどころか、カルミは一層スピードを上げ、宙を駆け昇る。

 

ゴロロロロロオオオーーーーッ!!!

 

 特大級の雷撃の第一撃目が、カルミの頭上に襲いかかってきた。

 

「カルミいいいいぃぃぃぃーーーー!!!」

 

 その様を見ていた地上から、ミゲルの悲壮な叫びが響く。

 

―――――しかし、空を舞うカルミは落ちてこなかった。

 

「「「な、何だとッッッ!!!」」」

 カルミを見上げていた者たちか一様に驚きの声をあげた。

 

 

「たあああああああーーーーーッ!!!」

 カルミが叫ぶ。

 

 カルミが天に突き出したメイスが雷を纏っている。まるで襲いかかってきた大豚の雷撃を受容してしまったかのようだ。

 そしてそれが、螺旋(らせん)を描きながら、逆に空を昇っていっている。そのあまりの光景に地上にいる誰もが息を飲んだ。

 

ボボボンッッ!!! とカルミが、大きく宙を蹴った。

 

 カルミが大きくメイスを振りかぶる。そのカルミのメイスは巨大な(いかづち)の棍棒のごとくに見えた。

 

「やあああああああーーーーーっっっ!!!!」

 

 カルミはその巨大な(いかづち)の棍棒を全力をもって、極大豚鬼王(ビッグオーク)の脳天目がけて振り落とした。

 

ドガアアアァァァンンッッ!!!バリイイィィッ!ビリィバババババッッッ!!

 

 凄まじい打撃音と(いかづち)が跳ね踊る音が、いっしょくたに響く。

 

 カルミのその強烈な一振りにより、かなり弱体化していた極大豚鬼王(ビッグオーク)の頭部の一部が損壊、激しい電撃が大豚の全身に伝わっていく。

 それでも、それでもなお、極大豚鬼王(ビッグオーク)はその背を地につけなかった。

 

ブモオオッホォォォオオオーーッ!!

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)は突き上げていた右手を勢いよく振り落とす。その標的は、もちろんカルミ。

 眼前を飛び回るうっとおしい蝿を叩き落すように、太く巨大な右手でカルミを、

バシシイイィィ!!と ブッ叩いた。

 

 まともにその極大豚鬼王(ビッグオーク)の一撃を受けたカルミが宙を舞う。

 先ほどまでの跳ね踊る舞とはちがう。桜の花びらが宙を舞い落ちるようにカルミは飛んだ。

 

 

「今だあああーッ!!雷雲は晴れたぞッッッ!!!ゆけえええーーーっ!!!」

 

 しかし、此処は戦場、全てが滅びるかどうかの瀬戸際の戦い。

 皆の意識は跳ね飛ばされた一人の少女にはいかず、眼前に見えた勝利の機会(チャンス)に向く。

 

 さらに光矢が飛び、法術飛弾が飛び交い、爆ぜ、散る。

 

 怒号、絶叫、馬音、咆哮、爆音、戦場の全ての音が最大音量で轟き、全てをのみ込んだ。

 そして、

 

ドオォザアアアーーーンッ!!!

 

 ついに、極大豚鬼王(ビッグオーク)が地に尻をつき、

 

おおおおおおおーーーーっっっ、と大きな どよめきが起きた。

 

 

「ボルファス様っ!準備が整いましたっ!」

「よしっっ!よいタイミングだっ、すぐに攻撃に参加させよっ!」

「はっ!」

 

 その伝令の報に、馬を駆けていたボルファスは手綱を引き、停止する。

 

「聞けえぃっ!弓矢ならびに、法術による飛弾攻撃を大豚下方に集中させよっ!!これより神与魔剣の者たちを降下させるっっ!!」



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第76話 生き残りし者たち

 極大豚鬼王(ビッグオーク)とワン-ロン軍が、対峙している戦場に大きな影がよぎる。

 

 戦場の上空に大きな布状のものが浮遊しており、それがかなりのスピードで移動していた。

 その空飛ぶ布状のものは、まさに大きな空飛ぶ絨毯と呼べるようなものであり、これもまた、このワン-ロンで製作された魔具のひとつだ。

 

「来たかっ!!」

 

 その空飛ぶ絨毯の上に乗っているのは、総勢27人の戦士。

 無論、ただの戦士ではない。その27人の戦士たちが手に持つ武器は、神与の魔剣・魔槍・魔斧。神与魔武具を所有する選ばれし二十七士。

 

 神与の魔武具 呪いの魔武具と真逆の対をなす存在。

 

 その製造過程において魔石を用いてつくられる魔武具の中には、稀に製作者の意志によらず、神の祝福と呼ばれる力を宿すモノが現れる。

 この場合の神の祝福というのは、実際に何かの意志がそこに介在しているというわけではなく、たまたま造られた魔武具に宿った特性のひとつに過ぎない。

 

 それがなぜ神の祝福などといわれるのかというと、本来魔武具の類は、それそのものが持っている武具としての優劣はあっても、それを使う者が有する力そのものに影響を与えることはない。

 

 しかし、この神与の魔武具や呪いの魔武具といわれるものは、使用者の力そのものに影響を及ぼす。

 そして、そのような力を持つ魔武具のうち使用者にプラスの影響をもたらす魔武具を、一般的に神与の魔武具と呼んでいる。

 

 また、ある種の偶然の産物とはいえ、この神与の魔武具のほうは、魔武具そのものも超一級品でなければ、そのような特性が備わることはない。

 それゆえ、呪いの魔武具の出現率と比べても、それがこの世に生まれ出ることは極めて稀だ。

 

 その神与の魔武具を所有する27人の極めて優れたドワーフ戦士が、空を飛ぶ絨毯の上に乗っている。

 

 

「ブモオオオォォォォオオオーーッ」

 

 地に尻をついたまま、最早立ち上がることもままならなくなっている 極大豚鬼王(ビッグオーク)

 その巨躯の魔物は、己の周りを取り囲み、攻撃を続けてるワン-ロン軍に気をとられ、上空迫り来る 大きな絨毯(じゅうたん)に対応できていない。

 

 その大きな絨毯が極大豚鬼王(ビッグオーク)の上空真上に到達したとき、遠目から見れば、毛むくじゃらの山の上に空から、ぱらぱらと小人(こびと)が落ちてきたかのように見えた。

 しかし、その小人(こびと)が落ち始めると、大山豚の周囲をかこみ、攻撃を続けていたワン-ロン軍の動きがピタリと止まった。

 

 

 落ちて来た小人(こびと)が持つ 様々(さまざま)な神武具が、次々に血塗れの大山豚の毛の中に消えていく。

 その次の瞬間、

 

グウウギイイィィイイギギイイヤヤァァアアアアーーー!!!

 

 これまでにないほどの極大豚鬼王(ビッグオーク)の絶叫がこだました。

 

 

ズウゥダダァァアアンンッッ!!!

 

 大豚の背が地に落ちた。

 

 静かなる血塗れの崩山となった極大豚鬼王(ビッグオーク)

 その崩山を中心に、石を投げ入れた池の(おもて)に波紋が広がっていく(さま)をまるで巻き戻していくかのように、禍々しき極大豚鬼王《ビッグオーク》波動が薄れ、収束していく。

 

 

―――――――――終わったのだ。

 

 

 

 うおおおぉぉぉぉぉおおおおおおおおーーー!!!!

 

 勝利の轟音(ごうおん)がとどろいた。

 

 

 

 

 

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)が倒されたことは、その禍々しき覇気の収束によって、ワン-ロン全域に知らされた。

 ワン-ロン中で沸きあがった歓喜の雄叫び。そして、残された魔獣どもの掃討戦がはじまった。

 

 すでに幻門(ファンゲート)が閉じてから、かなりの時間が経過している。

 幻門(ファンゲート)が閉じたことによって、そこから湧き出ていた魔獣も止まり、同様に噴き出していた濃ゆい魔素も止まっている。

 

 魔獣の数がもうこれ以上増えることはなく、ワン-ロン中に充満しつつあった魔素は時間の経過と共に薄れいき、実はそれが極大豚鬼王(ビッグオーク)の体力の消耗を加速させていた。

 

 また、その他の魔獣の中でも、薄い魔素濃度に対する耐性が低いものは、同様に、その活動力を低下させていた。

 ゆえに、残った魔獣どもの掃討戦は、ワン-ロン側の一方的な屠殺・蹂躙に終わった。

 

 

 

 

「隊長、このあたりは一般住民の犠牲者が多いですねぇ」

 

 ドワーフ兵が、自隊の隊長とおぼしき、馬上の人物に問う。

 

「ああ、そうだな。我が隊も含め、軍は南から突入したからな。この広場に逃げ込んでいた住民たちも溢れ出ていた魔獣どもも、この北側に押し込まれてきたんだろう。

 しかし、彼らも戦えば、これほどまでの死体を重ねずにすんだはずだ。このワン-ロンの興廃をかけた一戦に剣をとらず、最後まで逃げまどったのだ。むごいが同情はできない」

 

 累々たる死体が連なっている。多くがドワーフで、そのほかに人間族などの他種族も混ざっている。

 食い散らかされ、陵辱されている。そういう死体の山。

 

「まったくです。皆が命を賭けて戦っていたというのに、逃げ出すなんてっ。ワン-ロン-ドワーフの恥だっ」

 

 若い兵士が憤る。その若い兵士の言葉に答えて、別の年嵩(としかさ)の兵士が飄々(ひょうひょう)と言う。

 

「まぁ、そう言うなって。見てみろ、子供や他種族の死体も多いだろ?みんながみんな戦えるわけじゃねぇさ」

 

「し、しかしっ」

「ふむ、たしかにな」

「た、隊長まで!」

 

「いや、故郷ワン-ロンの危機に逃げ出すのは恥だ。だから、私は戦わずに逃げた者には同情しない。

 しかし見ろ。今は彼らは死体だ。その最後は凄惨なものだったろう。命を対価に差し出した彼らに、これ以上の嘲弄も侮辱も必要ないだろうと思ったまでだ」

 

「!は、はい………」

 

 彼らの隊が行っているのは、北の広場の北側の状況確認。

 生き残っている魔獣がいれば、その息の根を止め、生存者がいれば、必要があれば助ける そういう作業だ。

 彼らは数え切れない死体が転がっている広場を歩き続ける。転がっているのは人の死体だけではなく、当然魔獣の死骸もある。

 

 

「………隊長、このあたりはまた、小豚鬼(チープオーク)の死骸が多いですねぇ」

 

「ああ、北側の幻門(ファンゲート)からは、小豚鬼(チープオーク)が大量に湧き出していたらしい。それに南から逃げてきたものもいただろう」

 

「しかしこれは、人も魔獣も、死体の始末が大変そうですねぇ。はぁっ、それもきっと俺たちの仕事になるんでしょうねぇ」

 

「まぁそうだな。しかし、死体を迷宮に放り捨てるだけだ。そんな時間はかからないだろう。それにこれだけの戦さだ。片づけが終わったら、派手な戦勝祭が行われるぞ」

 

「おお~、それは楽しみだ。振る舞い酒も出るんですかねぇ~」

 

「当然だろう。出さないなんて言ったら、酒蔵を襲ってやるわ」

 

「アッハッハッ、隊長お供します」

 

 まだ、湯気あがる血だまりの道。彼らは未だギラついた目つきのまま、普通の会話を交わしている。

 

「!隊長!あそこに何かっ」

 

 その時、若い兵士が広場を越えた向こう側に、わずかに動く何かを見つけた。

 

「魔獣かっ!」

「い、いえ、まだ姿が見えていませんっ」

「よしっ、いくぞっ!ついてこいっ!」

「「「はっ!」」」

 

 

 馬を操り、走り出した隊長に、隊員たちがついていく。

 

 

―――――――――

 

 

「……ハァハァ……ハァハァ……ハァ……ハァハァ」

 

 息荒く呼吸をする女。

 その女は一人の男を支え、男の体を抱き、引きずるように歩いていた。

 

「隊長!生存者2名!人間のようです」

「そのようだな」

 

 生存者が人間であると聞き、彼らの目に宿る温度が一段下がったようだ。人間など劣等種族という意識が、大なり小なりあるのだろう。

 それでも彼らは走る速度を落として、その生存者2名のところに近づいていく。

 

 しかし、彼らがたどり着くまでに、人間の女は力尽き、ドサリッ と地に倒れた。

 女に支えられていた男も、女が倒れれば、自然、地に伏した。

 

 それを視認しつつも隊長らは足を速めるでもなく、彼らに近づき、その様子を確認する。

 

(やはり、人間か………)

 

 男のほうは全身傷だらけで、意識もないようだ。しかし、女のほうは倒れたもののまだ意識を保っており、必死の形相で訴えかけてくる。

 

「た、たすけて、ください。だ、だんな様が死んでしまいます。も、もう……ポーションは全て使い切ってしまってぇ、お、おねがいします………た、たすけて」

 

 二人を観察しているドワーフの隊長は、女のほうは疲労困憊しているが、命にかかわるほどの怪我はなさそうだと見た。しかし、

 

(男のほうはまずいな、これは……生きているのか)

 

 今は街中に怪我人が溢れかえっている。無駄に使えるポーションなどない。しかも、目の前にいるのは同胞であるドワーフではなく人間だ。

 ただ、この偵察部隊の隊長には少し気になることがあった。

 

(この男の武器、魔戦斧か。かなりの業物(わざもの)だ)

 

 隊長は馬から下り、地面に倒れ伏しても離すことなく男が強く握り締めている魔戦斧をより近い距離から見る。

 

「……ん!?ログレフの刻印っ、この魔戦斧はログレフ工房のものかっ!」

 

 魔工匠ログレフの名はワン-ロンで知らぬものはいないというぐらい有名だ。ログレフ造の魔武具など、ただの人間が持てるものではない。

 

(………盗んだもの……ではないのだろうか)

 

「お、おねがいします……たすけてぇ…ください」

「!ん?」

 

 何かに気づいたこの隊長は、助けを求める女の肩をつかみ、グイッと女を引き寄せた。

 

「あうっ!」

 

 女の体勢が変わり、女の背中がこの隊長の目の前に向けられる。その女の背中に掛かっていた魔弓と矢魔筒。

 

(!!この魔弓も一級品ではないかっ。それにこの矢魔筒、軍の選抜弓隊の支給品かっ)

 

 隊長は再び女の体を自分の正面に向けさせる。女の首に奴隷の証がはめられているのに気づく。

 

(奴隷だとっ!人間の奴隷がどこでこれを)

 

「おいっ、お前たち何者だっ?」

「……ア、アア……た、たすけて、たすけ……だんなさまが、死んでしまうか……ら」

 女の意識もかなり怪しくなってきている。

「チッ!」

 

 隊長は女の肩から手を離し、立ち上がる。立ち上がったこの隊長の目に、目の前で倒れ伏す男女が歩いてきたのだろう血の跡が見えた。

 

 その生々しい血の跡は少し離れたところにある あまり広くない道へと続いていた。そして、その道の()り口付近には、かなりの数の小豚鬼(チープオーク)の死体が転がっていた。

 

(…………なんだ、これは)

 

 勘か、何かが意識に引っかかったのだろう。隊長は再び馬上に、そして駆け出した。

 

「た、隊長!?」

 

 慌てて部下の兵士たちも隊長の後に続く。馬で行けば、その道の入り口まではすぐ近くだ。

 

 

「なっ!!!」

 馬上のままで、その道を覗き見たこの隊長は絶句した。

 

 そして、すぐに隊長に追いついてきた兵士たち。

 

「隊長どうかしましたか?」

 

 怪訝そうに隊長の様子を覗う。そして、彼らも見た。

 

「っ!!な、なんだっ!この小豚鬼(チープオーク)の死骸の数はっ!」

 

 その道には幾重にも積み重なった小豚鬼(チープオーク)の死骸があった。

 

「お、おいっ!お前たちっ!」

「は、はいっ、隊長!」

「何人かにこの道の先を調べさせろっ!先にまだ戦っている仲間がいるかも知れないっ!」

「ははぁっ!」

 

――――――――――

 

 

「おいっ、女っ!あの道の先で何があった!?」

 

「あ…………たすけ………だんなさま…死んでしまぁ……」

 

 急ぎ戻ってきた隊長が女に問うも、もう女も質問に答えられる状態ではない。

 

「くそっっ」

 

――――――――――

 

 

一方、

「お、おい、おい、何だぁこれは」

「「「……………………………………」」」

 

 道の奥まで偵察に出た者たちは、皆一様に驚きを隠せない。

 道の入り口を見たとき、皆 『何だこの小豚鬼(チープオーク)の死骸の山は 』と思った。

 しかし、驚くべきことに、この道を進めば進むほど、さらに小オークの死骸の山は高さを増していった。

 

「………生き残りはひとりもいないようですね」

 

「馬鹿、お前何見てたんだ。この一本道に入ってから、豚の死骸は山ほどあったが同胞の死体はほとんどなかっただろうが」

 

「そうだ。それに数少ない同胞の死体も、間違いなく一般住民のものだった。兵士はここには来ていない」

 

「………じゃあ、この死骸の山は」

「………見てみろ。この死骸の傷を。相当数が戦斧によるものだ。それに矢傷……矢自体が残っていないから光矢によるものだろうな。あと、この体の一部が吹き飛んでいるよな跡は……気弾、だな。…………とにかく、攻撃の手段がかなり限定的だ」

 

「それはどういうことですか?」

「チッ、これをやったのは少人数によるものだってことだろ」

 

「………あの人間の男と女。魔戦斧と魔弓・魔矢筒を持っていた。それにあの魔戦斧に嵌め込まれていた大きな加工魔石は、気弾を生み出す媒介装置なんじゃないか」

 

「魔工匠ログレフの魔戦斧ならその程度の仕掛けは容易(たやす)いか………」

 

「なっ!ち、ちょっと待ってくださいっ、あいつら人間ですよ、いくら小豚鬼(チープオーク)相手だからっていっても、」

 

 若い兵士は来た道を振り返る。そこには延々とつながる小豚鬼(チープオーク)の死骸の山。

 

「こ、この数ですよっ!人間なんて劣等種族にっ」

「じゃあ、ここまで見た状況をお前はどう解釈するんだ?」

「そ、それは…………」

 

「…………………とにかく、俺たちは見たままのことを隊長に報告しよう」

 

 

――――――――――

 

 

「………そうか、ご苦労だった」

 

 彼らの隊長は、偵察に行っていた兵士たちの報告をだまって聞いていた。そして、報告を聞き終えた隊長はおもむろに指示を出した。

 

「………この二人にポーションを与えろ。死なすな」

「はいっ」

 

 この二人を知る者はいないか と隊長たちが周囲に問いただすも、この人間の男女を知る者はここにはいないようであった。

 

 しかし、しばらくするとこの二人を知る者が現れた。

 

 

「ア、アンコウっ!テレサっ!大丈夫かっ!!」

 

 獣人の女が、未だ地面に倒れている二人に駆け寄って来た。

 二人のひどい姿に驚愕し、二人に前にしゃがみこんだ獣人の女、マニだ。

 

「マニ殿っ!この二人のことを知っているのかっ!?」

 

 この偵察隊の一部の者たちは、戦いの終盤、北の広場中南部で中級豚鬼将(ミドルオーク)をはじめ、魔獣ども相手に八面六臂の勢いで戦っていたマニの活躍をその目で見ていた。

 ゆえに、マニのことはもう知っている。

 

「あ、ああ、二人とも私の友達だ」

「それなら、このお二人もグローソンの」

 

 ほとんど意識を失っていたテレサが与えられたポーションが効きはじめたのか、マニの声に反応を示した。

 

「あっ……マ、マニさん……」

「テ、テレサぁっ!ああっ!よかった生きてるっ!」

 

 マニはテレサの手をがっちり握る。テレサはにこりと微かに笑みを浮かべた。

 

「あっ、……だ、旦那様は……私を、私を守って、ひ、ひどい怪我をぉ、」

 

 テレサのすぐ横にボロ雑巾アンコウは横たわっているが、未だピクリとも動かない。

 

「あっ、旦那さまぁ」

 テレサはアンコウのほうに、あまり動いてくれない手を伸ばす。

 

「お、おいっ!ポーションはっ!もっと回復剤はないのかっ!」

「い、今、用意しますっ!」

 

 マニの要求に、ドワーフ兵たちは即時対応した。マニの戦場での活躍が効いているようだ。

 

 ひとりのドワーフ兵が慌てて持ってきた貴重な一級回復ポーションを、マニはひったくるように受け取った。

 

「さぁアンコウっ!これを飲むんだ!」

 

 といってもアンコウに意識はなく、先ほども、ちょろちょろとポーションをアンコウの口に何とか流し込み、後はアンコウの体にふりかけていた。

 

「おいっ!チューブを持ってきてくれ!」

「えっ!あ、あれを使うんですか?」

「早くしろっ!」

「は、はい」

 

 マニに言われてドワーフ衛生兵が持ってきたもの、

 

「ここには旧式のものしかないんです。癒しの法術が使える医療班のところに連れて行ったほうが」

「それでいいから貸してっ」

 

 それはチューブというよりも筒。筒状のものに押しポンプのようなものがついている。マニは手早く筒の中にポーション液を充填。そして、その筒をアンコウの口から強引にのどの奥へとつきいれた。

 

「えっ……ちょっ……マ、ニさん……」

 

 テレサはあまりの光景に心慌てるが、マニがアンコウにポーションを飲まそうとしてくれているのは事実であるし、マニがやっていることを止めるほど体が回復しているわけでなく、どうしようもない。

 

 マニが、グイィィッとポンプを押すと、アンコウの胃袋にポーションが一気に流れ込む。

 

「よしっ!おいっ!追加だっ!」

「は、はいっ」

 

 マニはまた、その筒状のチューブポンプにポーションを入れ、同様の方法でアンコウの胃袋にポーションを注入。

 何と言うか………フォアグラガチョウが、無理やり口の中にエサを流し込まれている光景に似ている………。

 

 何度かその作業を繰り返し、時間が経過する。すると、

 

「!んんっ!?………!!!んんん~~~っ!!」

 

 アンコウが意識を取り戻したようだ。

 

「おおっ!アンコウ!よかったぁっっ!!生き返ったんだなっ!!」

 

 別にアンコウは死んでいたわけではない。マニは両手でしっかりとアンコウの手を握り、よかった よかった と喜んでいる。

 

「テレサのために戦ったんだってなアンコウ!私も戦っていたんだっ!勝ったんだっ!私たちは勝った!

 あー、でも極大豚鬼王(ビッグオーク)とは結局戦えなかったよ。まぁそれでも、あれだけの数の中級豚鬼将(ミドルオーク)がいる戦場もないからなっ!あれと戦って私たちは勝ったんだっっ!!」

 

 マニは興奮しきって話している。

 

「マ、ニさん……マニさん、早く抜いてあげてぇ…だ、旦那様が」

 

 テレサが横で必死で何かを訴えているが、マニの大きな声でかき消されている。

 

「んんん~~~!ンン~ッッ!」

 

 アンコウの口には長めの筒が突きささったままだった。

 大道芸人が刀を飲むように、アンコウは長筒を飲んでいる。

 しかし、アンコウにそんな芸の手持ちレパートリーはない。苦しいだろうが、今のアンコウには自分の力でそれを引き抜くほどの力さえ残っていない。

 

 見るに見かねた隊長がマニに声をかける。

 

「あ、あのマニ殿」

「ん?何だ、隊長」

「先に筒を抜いてあげたほうが………」

「ん?ああ、そうだな」

 

 マニが勢いよくアンコウの口に突きささっている筒を抜くと、ポンッッ! と少し景気のいい音がした。

 するとアンコウは、またパタリと倒れた………。

 

「ア、アンコウ~~~ッ!!」

 

 

 

 

「カルミ、本当に大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫」

 

 ミゲルが馬を走らせながら、後ろに乗せているカルミの身を案じていた。

ふたりは今、北の広場に向けて馬を走らせている。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)との戦いを終えた二人の姿はボロボロ、特にカルミはひどい。

 

 ミゲルは自分の背中に摑まっているカルミをちらりと見た。

 

(………ほんとにとんでもない子供だな)

 

「ミゲル、どうかした?」

 

 ミゲルは、極大豚鬼王(ビッグオーク)が動かぬ肉塊となってからすぐに、ふらふらと歩きながらどこかに行こうとしているカルミを見つけた。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の強烈な一撃を食らったのを見ていたミゲルは、カルミが自分の足で歩いているのを見て、本当に安堵した。

 

 しかし、カルミは倒れそうになりながらも、ひとりで広場を離れようとしていた。そんな状態のカルミに、ミゲルは慌てて声をかけに行ったのだ。

 

 

「なぁ、カルミ。やっぱり戻って休んでいたほうがいいんじゃないか」

「ミゲル疲れたの?じゃあ、カルミは降りて一人で走っていくよ」

「い、いや。そういうことじゃなくてな……」

 

 東の広場で、立っているのもおぼつかない様子のカルミに、動くな、ゆっくり休んでいろと、ミゲルは何回も言った。

 しかしカルミは、アンコウが北の広場にいるかもしれないから会いに行くと言ってきかなかった。

 

 結局ミゲルはカルミを自分の馬の後ろに乗せて、北の広場まで一緒に行くことになった。

 

(仕方がないなぁ)

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)との戦いでのカルミの活躍と、ミゲルの主君でもあるナナーシュとの関係性を思えば、カルミを放っておくわけにはいかなかった。

 

「体の調子が悪くなったら、無理にでも屋敷に連れて行くからな」

「うん、わかったー」

 

 二人はそのまま魔獣どもとの戦いで傷ついた街を馬で駆けていく。

 多くの死体と死骸が転がる街。生者と死者、絶望と希望、歓喜と悲嘆、戦いの余韻に包まれた街。

 

 その景色を見ながらミゲルは、自分たちの勝利を、自分が生き残ったことを実感していた。

 

(……北の広場か、アンコウのやつはどっちだろうな。生きているのか死んでいるのか)

「……(生きて)見つかるのかな」

 

「アンコウはいるよ、北の広場に」

 

 カルミはミゲルの背中を掴み、馬の背で焼け縮れたアフロヘア―を風にたなびかせながら、自信ありげに言った。

 

「………そうか。……そうだといいな、カルミ」

 



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第77話 カレイジアのハーブ茶

「今日も花火あげていやがる。空もないのにさぁ」

 

 アンコウは部屋の窓から、暗くなってまもない仮の空を眺めている。

 

「ふふっ、そうですねぇ。でも、昼間はみんな街の復興に働いて、夜になったら毎日お祭り。いつ寝てるのかしら。ふふっ」

 

 アンコウの何気ない一言に、テレサは笑いながら返事をかえした。

 

 テレサは部屋の長椅子に座り、なにやら縫い物をしている。

 アンコウは、テレサこそ暗くなってまで、針仕事なんかしなくてもいいんじゃないか と思うが、当のテレサが機嫌よく手を動かしているので、やめるようには言わない。

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃から、約一ヶ月が過ぎたが、アンコウはまだワン-ロンにいた。

 

「旦那様、いつまでここにいられるんですか?」

 テレサが手を止めて、ふと問う。

「ん?まぁ、少し前にモスカルに聞いたら、あとひと月ぐらいなら問題ないって言ってたからな。もうあと半月ぐらいか」

 

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の災難は終わったが、アンコウは、もうグローソンに帰還(?)することを拒んではいない。そこはもうあきらめている。

 

(………グローソン公にどんな扱いをされるかはちょっと心配だけどな)

 

 心配不安は山盛りあるアンコウだが、モスカルからも、戻っても悪い扱いはされないという言質を取り、

『正直、グローソン公爵のアンコウ殿への関心はかなり小さくなっているかと』ということを聞かされ、放っといてくれるんだったら何よりだと、運を天に任せてグローソンに行くことにした。

 

 アンコウがふと考え込んでいると、

 

「………旦那様?」

「ん、いや、まぁ、長い祭りだけど、陰気くさいより、バンバン花火あげて、酒を飲んで騒いでくれているほうが楽しそうでいいよな」

 

 アンコウは、また窓の外を見た。

 アンコウは一応、先の極大豚鬼王(ビッグオーク)との戦いにおいて戦功有りと認められ、ワン-ロン統治者ナナーシュ-ド-ワン-ロンの名のもとに、正式に賞されている。

 

 しかし、アンコウとしては命がけで大量の小豚鬼(チープオーク)(ほふ)ったのだが、それは戦況全体に大きな影響を与えたわけではなく、普通ならナナーシュの名のもとに直接褒賞される対象にはならなかったそうだ。

 それでもアンコウが、ワン-ロン統治者より直接褒賞されたのは、グローソン公の臣下の腕輪をつけていたからこそ、その対象となったらしい。だから、その褒賞の内容は実のあるものではなかった。

 

(まぁ、別に立身出世がしたいわけでもないんだけどさ………ただ、マニのやつがさぁ)

 

 そう、アンコウと違い北の広場での活躍が大いに認められたマニは、大々的にその戦功を讃えられ、ワン-ロンの名誉市民的な称号さえ手に入れていた。

 これには他国の王侯貴族であっても簡単には認められることのない権利が付随しているのだそうだ。

 

 マニは冒険者として、このワン-ロンの迷宮にもかなり興味を持ったようで、

「私はしばらくこのワンタンにいることにしたっ」と、酔っ払いながら言っていた。 

 マニは連日、あちこちの宴にお呼ばれされており、今日もどこかの宴に参加しているのだろう。

 

(………宴に参加したいわけでも、この街に住みたいってわけでもないんだけどな)

 

 マニと比べたときだけ、何となく納得がいかないアンコウであった。

 

 

「………旦那様、どうかしました?」

「ん?そうだな。テレサはこの街に住みたいと思うかい?」

「えっ?………そうですね」

 

 テレサは少し考えたあと、長椅子からおもむろに立ち上がり、アンコウが立つ窓際まで歩いてきた。そしてアンコウの横に並び立ち、窓から街を眺め見る。

 

 テレサがこのワン-ロン-に来てから、まだ約一ヶ月。

 怪我がひどかったアンコウが、高価な薬やナナーシュが派遣してくれた癒しの術に優れた精霊法術師たちの手による治療の末に、ようやくベッドから起きて共に生活できるようになってからは、まだ半月も経っていない。

 

――ドォンッ―― テレサの顔が爆ぜる花火の明かりに照らされている。

 色白の綺麗な肌だ。テレサの中の抗魔の力は確実に増している。

 

 テレサはアンコウの顔を見つめた。

 

「………私は旦那様がここにいるから、ワン-ロンに来ました。旦那様がグローソンに行くなら、私もグローソンにいきます。もう、置いていかないでくださいね」

 

 テレサは笑みを浮かべながら、どことなく軽い感じで言った。しかし、その目は真剣そのもの。

 その動くテレサの唇に、アンコウは妙な色気を感じてしまった。

 

「あ、ああ、約束…する」

 

 二人はネルカで別れたときの話はしていない。ただこの半月のあいだ、テレサはずっとアンコウのそばにいたし、アンコウもそれを認めていた。

 その返事を聞いて、ニッコリ笑ったテレサは、また元の長椅子のほうに歩き戻っていく。

 

 アンコウの目は窓の外ではなく、そのままテレサの後ろ姿を追う。

 その目は、動くテレサのまぁるい大きな尻をじっと見つめていた。逸らせなかったと言うべきか。テレサのお尻は肉づきがよく、じつに女性らしい。

 

 テレサがいま穿いているスカートは、長さは脚の下のほうまであるものの、腰まわりはタイトで、お尻にぴったりとくっつき、その形がよくわかる。

 テレサが椅子に座るとき、少しそのお尻をアンコウのほうに突き出した。その動作に反応して、アンコウは ゴクリと唾を飲んだ。

(テ、テレサっ………)

 

 そしてアンコウはまた、窓の外に目をやった。

 

「………す、少し窓を開けるか」

 

 開けた窓から、スーッと、心地よい風が入ってきた。

 

 

 アンコウは昼間、少し街を歩いてきた。その時の事を思い出す。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)の侵撃と大量の魔獣の侵入から、まだわずか一ヶ月。それを思えば、この街の復興速度は異常だった。

 特に建築物の再建、新造速度は凄まじいものがある。

 

(さすがドワーフの玉都(ぎょくと)だよなぁ、ものづくりに関しちゃあ、間違いなく世界一だ)

 

 そして夜は、戦勝の宴と称して連日連夜このお祭り騒ぎだ。

 

(これもさすがドワーフの玉都(ぎょくと)だ………どんだけ酒飲むんだよ、こいつら)

 

 アンコウのいる屋敷も夜になれば、ほとんど人が空になる。みんな祭りにくり出していくのだ。

 祭りの雰囲気は楽しんでいるアンコウだが、もう夜の街中におりて行こうとは思わない。それぞれの楽しみ方があるといったところか。

 

「ははっ、まぁ悪い気分じゃないけどな。(いくさ)の騒がしさより、祭りの騒がしさのほうがずっといい」

 

 アンコウは、しばらくそのまま、窓から ぼぉーと街の光景を眺めていた。

 

 

――――――

 

 

――「旦那様?」

 

「ん?……何?テレサ」

「あの、お茶を入れたのですけど。どうですか?」

 

 テレサはいつのまにか長椅子の前にテーブルを移動させ、お茶の準備をしていた。

 

「果実酒のほうがよろしかったら、用意しますけど」

「いや、酒はいいや、お茶をもらうよ」

 

 

――――

 

 

「へぇ、不思議な香りのお茶だな」

 

 アンコウは長椅子にテレサと並んで座り、ゴクリと一口お茶を飲んだ。

 

「ふふっ、カレイジアのハーブなんですよ」

 

 そう言われても、あまりハーブの知識のないアンコウにはピンと来ない。

 

「アネサよりもずっと南方にあるハーブで、どこでも、あまり見かけることがなかったんですけど。このワン-ロンの街には、どの地方のハーブもそろってたんですっ」 

 ハーブ茶好きのテレサが、驚きをまじえて、楽しそうに話している。

 

 ワン-ロンは一流ぞろいに職人の街であると同時に、幻門(ファンゲート)を利用した知られざる流通の集積地でもあり、東西南北かなり広範囲の地域の物産が集まっている。

 

「不思議な香りだけど、おいしいお茶だ。テレサはお茶を入れるのがうまいよな」

 

 褒められてテレサは、フフッと笑っている。

 気を良くしたテレサは、しばしアンコウ相手にハーブの講釈をつづけた。

 アンコウは、そのテレサの話に相槌を打ちながら、別に苦にすることもなく、おとなしく、どこか楽しげに聞いていた。

 

 しかし、しばらくして話に熱が入りすぎたのか、テレサがアンコウの体のすぐ近くにまで、にじり寄ってしまった頃合から、アンコウの様子が変わってきた。

 テレサの胸は大きい、それは服の上からでもよくわかるほどだ。アンコウの視線はいつのまにか、それをチラチラ見るようになっていた。

 

(………あっ、もう旦那さまったら)

 

 テレサはそのままハーブの講釈を続けていたが、アンコウの視線の変化には、いち早く気づいていた。そして、テレサの行動も変化していく。

 話をしているテレサの手が、いつのまにかアンコウの(もも)のうえに置かれていた…………

 ふぅー、ふぅーと、アンコウの呼吸が少しずつ深くなっていく。

 

 

「――― ねっ、だからこんなにおいしいお茶になるんですよ」

 

 そう言いながら、テレサはアンコウの顔をのぞきこむように見た。

 

 アンコウの目に映ったそのテレサの顔。目は潤み、頬は赤く上気し、いつのまにか耳まで赤くなっている。テレサ本人はその自分の変化に気づいているのだろうか。

 そして、アンコウの手が動き出す。

 

「!! ああっ、だ、ダメですよ、旦那さまぁ、まだお茶の話をしているんですからっ」

 

 身をよじり、逃げ出すふりをするテレサ。

 

「テ、テレサっ」

「ああっ、ま、待って……あんっ、ンン~~」

 

 

 

 

 薄暗くなった部屋の中、

 

 ――ドォーンッ ドォーンッ――と、未だ打ち上げられている花火の明かりが強く入り込んでくる。

 

 その部屋の小さなバルコニーにつながる大きな窓が開いている。その窓につけられている長カーテンが、ゆらりゆらりと揺れ動いていた。

 

 

――あっ ああっ ああんっ  『ハッ、ハッ、ハッ、ハッ』 アンンッ――

 

 ベッドのシーツも薄手の掛け布も、ひどく乱れている。このベッドの主たちが床に入って、それなりの時間が経過しているのだろう。

 しかし、ベッドの主である二人は、共にまだ起きているようだ。

 

「アンッ、ンンッ、ああっ だんなさまぁぁ」

「はっ、はっ、テレサっっ」

 

 大窓が開いているバルコニーから、少し肌寒くなってきた風が入ってきている。

 ベッドの上の二人は、なぜか服を着ていない。時折いる裸で寝るタイプの人たちなのだろうか。

 

 ベッドの上の二人にも、間違いなく冷たくなり始めた風がとどいている。

 しかし、二人ともその体はじんわり汗ばんでおり、まったく寒くはないようだ。寒くもないのなら、なぜぴったりとくっついているのだろうか。

 ああ、アンコウとテレサは仲直りしたのだった。

 

 テレサの胸は大きい。服を着ていないから、よりよくわかる。その揺れ具合から、やわらかいものであることもわかる。

 一方、細マッチョのアンコウの体には無数の傷がついていた。先日の小オークとの戦いでついた傷跡が、未だ消えずに残っていた。

 しかしこれも、もうしばらくケアを続けたら、ほとんどわからないぐらいに薄くなるらしい。

 

「ああっ、あなたアアッ」

 

 テレサはその傷跡に手を伸ばし、いとおしそうにそれを撫でる。

 そして……アンコウはテレサにおおいかぶさり、テレサはそのぬくもりにつつまれていく。

 

「!くっ、テ、テレサぁっ!」

「!アッ、あぁんン~っ!」

 

 その時、

 

ビユュゥゥゥゥーーーッ

 

 バルコニーから吹き込んでくる風が、急に強く、騒々しいものに変わった。

 

バンッ!!

「ただいまあーーっ!!」

 

((!!えっ!!))

 

 バルコニーのほうから、突然大きな声がした。

 アンコウたちが顔だけそちらに向けると、そこには小さな人が立っていた。

 小ぶりのアフロにかわいらしい顔。手には何か荷物を持っている。ただいまと言った声は、小さな女の子のもの。

 

 バルコニーの大窓を開け放ち、そこから部屋の中に入ってきたその女の子は、トコトコとベッドのほうに近づいてくる。

 裸で抱き合っているアンコウとテレサは動けない。ピンチだ。

 

 女の子はベッドの横でピタリと足を止めた。

 

 

「ねぇ、アンコウ、テレサ、何してるの?」

 

(!カ、カルミっ!)(!カルミちゃんっ!)

「「!!~~~~!!」」

 

 テレサも、カルミとは、とっくに顔合わせをすませており、アンコウにカルミの世話を押しつけられた事もあって、この短期間で二人はすっかり仲良くなっていた。

 

 そのカルミは、今日はナナーシュのお招きを受け、ひさしぶりに太陽城のナナーシュのところに泊まってくるはずだった………のだが、ナナーシュも怪我が癒えて以降、相当に忙しいようで、今晩も急きょ来客があり、カルミの相手をできなくなってしまった。

 それに退屈したカルミは、連絡なく、アンコウたちのところに帰って来た。

 

 この突然の状況に、テレサは完全にフリーズ。アンコウも頭が回っていない。

 

「ねぇ、アンコウ?」

「……じゅ、柔術だっ、柔術の稽古をしてたんだっ」

「ふ~ん、じゅうじゅつか~、なんで裸なの?」

「は、裸のほうが相手に技をかけやすいんだよっ」

 

 へぇ~と、カルミは屈託なく、アンコウとテレサの顔を交互に見ている。

 

「これなんてワザ?」

 

 まだ思考がまとまらないアンコウ。

 

「か、かにバサミだっ」

「!!」

 

 何のごまかしにもなっていない技名を言ったアンコウの顔から、汗がぽたぽたテレサのほうに落ちた。

 フリーズしていたテレサは、ハッと覚醒し、「か、風がさむいわね」と言いながら、薄布を自分たちに掛けた。

 

「へぇ~、テレサがワザをかけてたんだね」

「そ、そうなのよ」

 フリーズが解けたテレサも、そう答えるほかない。

「そっか、これおみやげっ」

 

 と言って、カルミはアンコウたちの枕もとに手に持っていた袋を置いた。中には、飲み物の瓶やナン、ハムなんかも入っているようだ。

 

「あ、ありがとう、カルミちゃん」

「これおいしいんだよ。ナナーシュ、お客さんが来たから、これもらって帰ってきたんだ」

「そ、そう」

「ねぇ、テレサ」

「な、なに?」

「わたしおフロ入るっ、沸いてるかなぁ」

「だ、大丈夫よ」

「そっか……!ああっ!」

「な、なに!?」「ど、どうしたっ!?」

「アンコウとテレサも一緒に入ろうよっ!ふたりとも裸だし、ちょうどいいねっ」

 

 カルミがよい思いつきをしたとばかりに、キラキラとした目で二人を見ている。

 アンコウは、カルミのその穢れなき勢いに負けた。というよりか、早くこの状況を何とかしたかった。

 

「わ、わかった。部屋に行って、用意をして来なさい」

「はーいっ」

 

 カルミが部屋の扉にむかって走り出す。

 

「カルミっ!」

キキッ!「なーに?」

 

「バルコニーから部屋に入ってくるのは禁止だっ、ちゃんと扉から、ノックをし」

「はーいっ!」

 カルミはアンコウの言葉を最後まで聞くことなく、部屋から飛び出していった。

「くくっ!」

 

 

 再び部屋にはアンコウとテレサの二人きり。アンコウとテレサは、ようやくのろのろと体を離す。

 

「「はあぁーーっ………」」という、二人のため息は深い。

 

 二人ともベッドのうえで座り込んでいる。

 

「………旦那様、お風呂、入るんですか?」

「……仕方がないだろ。カルミのやつは約束したらしつこいんだ」

 

 最近はカルミと風呂に入るのも、テレサに押しつけていたアンコウである。

 

「………テレサ、用意をしてくれ」

「はい………」

 

 二人とも地味に精神的ダメージが大きいらしい。

 

 二人がノロノロと動いていると、

ダダダダダダダッ! ゴンゴンッ! バタン! と部屋のドアが開き、もうカルミがやって来た。

 

「用意してきたっ!アンコウ、テレサっ、おフロいこう!」

「!カ、カルミっ!何で裸なんだっ!」

「えへへへ~」

「服は脱衣所で脱げって言ってるだろっ」

「アンコウとテレサもはだかっ!」

「うぐっ」

「わたし先にいってるねっ、ふたりとも早くきてよ~」

 

 と、カルミは言うと、ダダダダダダダッ!と走っていった。

 

 アンコウとテレサの今宵の柔術の稽古は完全に終わった。

 

「ハァーッ、風呂、行くか」

「だ、旦那様、裸で行くんですか?」

「!いかねぇよっ」

「そ、そうですよね、ガウン持ってきますね」

 

「「はあぁーーっ………」」 

 

 アンコウとテレサ、二人の動きはまだ鈍い。

 



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第78話 ワン-ロンから イェルベンへ

「カルミ、本当に行くの?あなただったら、ずっとここにいてもいいのよ?」

「カルミはアンコウと一緒にいくよ、ナナーシュ」

「……そう」

 

 カルミの気持ちが変わらないのを見て、ナナーシュは少し寂しそうだ。

 極大豚鬼王(ビッグオーク)との戦いでうけた傷もすっかり癒えたナナーシュは,いつも以上に忙しい日々を送っている。

 しかし、そんな多忙な中でも、カルミと会う時間を持ち続けていた。

 

 

 ここは太陽城、ナナーシュの居住区域、その一室。今日はナナーシュが友と認めるカルミだけでなく、アンコウも招かれていた。

 ナナーシュは、カルミの後ろに立っているアンコウを見る。

 

「カルミのことよろしく頼むわよ」

「知りませんよ、そんなことは」

「!なっ」

 

 アンコウは一応の敬語は使っているものの、まわりに数名のメイド女しかいないとはいえ、ワン-ロンの統治者であるナナーシュに対して、かなりぞんざいな態度で接している。

 

 世間の常識で言えば、ワン-ロン統治者ナナーシュ‐ド‐ワン-ロンは、グローソン公ハウルよりもずっと地位が高く、持つ権力も大きい存在だ。

 しかし、アンコウはグローソン公と相対していたときのほうが、はるかにおもねり縮こまっていた。

 

 アンコウは人を見る。ナナーシュの人柄の良さを理解し、そこに甘え、つけ込んでいるわけだ。アンコウらしいカメレオン的な対人対応法である。

 

「俺はこいつの親でも何でもないんだ。ついてくるのは了承しましたけどね。よろしくって言われても困りますよ」

 

「~~っ!」

 ナナーシュのアンコウを見る目が鋭くなる。

 

 しかしナナーシュも、アンコウがカルミに、このままワン‐ロンに残ったほうがいいんじゃないかと、何度か話をしていたことを知っており、カルミがワン-ロンを去ることで、アンコウを非難するのは筋違いだとわかっている。

 

 カルミはハーフとはいえ、半分はドワーフの血を引いているし、このワン‐ロンの太祖であるオゴナルの力の流れを受け継ぐ流汲者(りゅうきゅうしゃ)の一人だ。

 しかも、このあいだの極大豚鬼王(ビッグオーク)との戦いでは、誰もが認めざるをえない戦いぶりを示し、何より現ワン‐ロン統治者のナナーシュが自分の友として、ワン‐ロンに残ることを強く望んでいた。

 

(カルミのやつ、ここに残れば、何不自由ない生活が保障されているっていうのによ)

 

 アンコウは、自分なら二つ返事で残るのにと思う。

 しかし、カルミは首を縦には振らなかった。という以前に、はじめからワン-ロンに残ることを選択肢に入れていないようだった。

 

『カルミはアンコウと一緒にいくよ、約束したからね』

 

 アンコウは本当にそんな約束をした覚えはなかったのだけれども、

(近いような話はしていたかな?)という記憶と、ブレないカルミの態度に 好きにしろよ ということになった。

 

「じ、じゃあ、どうしてお金を受け取ったのよっ」

 

 実はアンコウ、カルミをよろしく頼むという意味合い込みで、先日ナナーシュからかなりの額のお金を餞別として受け取っていた。

 

「くれるものはもらう主義なんで」

「!くっ」

 

「それにこのあいだも、餞別を持ってきた人にも言いましたよ。どこに行こうが、基本的にカルミが自由に決めること。俺たちについてくるっていうのは了承しましたけど、それと面倒を見るっていうのは別の話」

 

「で、でも、カルミはいくら強くても、まだ子供なのよっ」

 

 お前も子供だろ?と心で突っ込みを入れるアンコウであったが、さすがに余計ややこしくなりそうだったので、声に出すことはしなかった。

 

「俺は今までと同じようにしか接しないとカルミにもちゃんと伝えてます。で、カルミも了承済み。ナナーシュ様の言う子供の世話みたいなことは、全部うちのテレサに任せてますんで、そっちによろしく言ってください」

 

「………そのテレサはあなたの奴隷でしょ」

「とにかく、俺がカルミを連れて行くわけじゃないということは御理解を。もしカルミの身に何かあっても、俺を責められても困るということです」

「………何?結局自分の保身?」

 

 当たり前だろ とアンコウは思う。ナナーシュは相当カルミに入れ込んでいる。カルミに何かあって、下手に恨みなんか買いたくないのだ。

 アンコウはぞんざいな態度を取っていても、ワン‐ロンの女王様なんかを敵に回せば百万遍は殺されると、その力の恐ろしさはよくわかっている。

 

「ねぇねぇ、ナナーシュ。わたしは自分が行きたいからアンコウと一緒にいくんだよ。それにテレサがカルミのははおや代わりをしてくれるんだってっ」

 カルミがうれしそうに言う。

 

「そっ、そうなの?」

「うんっ、テレサはねぇ、料理もいっぱいしってるんだよ。カルミ教えてもらうんだぁ~」

 

 アンコウは、これまで纏わりついていたカルミを、今は完全にテレサに丸投げしていた。

 母親を亡くしているカルミはテレサに懐き、子煩悩で実際娘を育てた経験を持つテレサも、カルミのことをとてもかわいがっている。

 

 カルミの意思が変わりそうもないことを知り、ナナーシュもあきらめたのだ。

 

「………そう、わかったわ、カルミ。だけどあなたは私の大切な友達で妹みたいなものだから、絶対また遊びに来てね?」

「うんっ、ぜったい遊びにいくよっ、ナナーシュおねーちゃんっ」

「!~お、おねーちゃん~!」

 

 ナナーシュが幸せそうに悶えていた。

 

 

 そのあとアンコウは、ナナーシュから(カルミの)落ち着き先が決まったら、必ず連絡するようにキツく言われ、一人先に太陽城を後にした。

 

 

 太陽城内庭園から、今しがた出てきた本城を仰ぎ見ているアンコウ。

 

「………ワン‐ロン太陽城かぁ。俺がこんなところにいるなんて、やっぱ信じられないよなぁ」

 

 もう二度と来ることはないかもしれないと思いながら、アンコウはひとり、その立派な建物を眺めていた。

 

 

 

 

「モスカル、明日の出発は早いのか?」

「はい。もう準備は整えとりますので、朝のうちにはゲートをくぐることになっております」

 

 モスカルはアンコウを迎えに来たグローソンの使節団の団長を務める人間族の初老の男だ。初老といっても、未だ引き締まった肉体を持ち、その苦味のある風采はマダムキラー的な魅力がある。

 

 グローソン側に設置されている幻門(ファンゲート)は、不視認型のもので、グローソンの拠点・イェルベンから約一日の行程距離の場所にあるとのこと。

 

「あちら側に出ましたら、そのままイェルベンを目指します。深夜にはイェルベン城郭内に入れるかと」

「真夜中まで歩くのかよ………」

「いえ、馬は御用意してあります。なにぶん、アンコウ殿の御帰還が予定より相当遅れていますので」

 

 少し嫌味の籠もったモスカルの言いようを、アンコウは完全スルーする。

 

「で、その後は?」

「未定です。イェルベンについた後は、公爵様の指示のままに」

 

 アンコウは、ふうーっと息を吐く。

 

 アンコウの思うところ、グローソン公ハウルという男はかなり身勝手な思考を持つ権力者だ。

 アンコウとは同じ異世界からの落人(おちうど)という大きな共通点はあるものの、それがためにグローソン公ハウルという面倒な権力者に目をつけられたのだから、今のアンコウにとってそれは不幸な共通点でしかない。

 

 グローソンより力のあるワン‐ロンのナナーシュとは普通に会話もできるのに、同郷のハウルとは、本音を言えば顔も見たくないアンコウだ。

 

(あのホモ野郎は、遊びで人を(なぶ)るし、命を奪いもする。タチの悪い権力者だ)

 

 しかし今、様々な行程を経て、アンコウはそのグローソン公ハウルの前に膝をつき、その配下に加わることを嫌々ながら決断していた。

 

(ほかにマシな選択肢はない。である以上、問題はその後のことだ)

 

 グローソン公の臣下となり、その後の自分の処遇がどうなるか、それが目下最大のアンコウの関心事だ。

 

「アンコウ殿、そう御心配なさらずとも良いかと。何度も申しますが、公爵様はアンコウ殿の身分・処遇は悪いようにはせぬとはっきりと申しておりました。

 いや、アンコウ殿が信用できないと思われるのは致し方ないと思いますが、此度(こたび)はワン―ロン統政府のほうからも、その確認の問い合わせがあったと聞いておりますので」

 

 つまり、グローソンに帰還したアンコウにハウルが罰を与えたり、ひどい処遇を行えば、ワン‐ロンにも嘘をついたことになる。

 

「グローソン公は、決してそのような何の得にもならない愚かなことはいたしません」

「…そうだな」

 

 信義の問題ではなく、損得の問題であり、その損得とは、万が一にもワン‐ロンを敵に回すようなことになれば、グローソンにとっての存亡を賭けたものになりかねない。

 

 実際にはアンコウ一人のことで、そこまでの重大な事態にはならないだろうが、第2の優等種族であるドワーフの玉都・ワン‐ロンを、人間の一公爵が(たばか)るようなことをすれば、喜ばしくない状況が生まれることは間違いない。

 

(確かに、命の心配はしなくてすみそうだ)

 

「それに……これも申しましたが、いまの公爵様のアンコウ殿に対する関心度合いはかなり低くなっているように思います。アンコウ殿がワン‐ロンに入りこんでいたこと自体はおもしろがっておられましたが、公爵様はワン‐ロンそのものには余り関心がないようですので」

 

「なるほど。それじゃあ、あの思い出話に時々つき合えって程度の要求が、公爵様の本心だってことなのか」

「………おそらく」

 

 アンコウが、ふざけた話だと内心思っていることは、重々モスカルはわかっている。モスカルの表情には、アンコウに対する申し訳なさも滲み出ていた。

 

「……まぁいいや、とにかく、できるだけ自由で平穏無事な生活ができる待遇を俺は望むよ」

 

 アンコウがグローソンに戻り、どのような運命を辿るかはハウルの気まぐれ次第、モスカルにはそれ以上何も言うことはできなかった。

 

 

 翌朝、アンコウはグローソンへと続く、幻門(ファンゲート)をくぐる。テレサとカルミも一緒だ。

 マニは、この日も朝まで宴で夜通し酒を飲んでいたようだ。今頃どこかで、大いびきで寝ているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 グローソン公領 拠点城市 『イェルベン』。

 

 アンコウは初めて訪れる街だ。アンコウが長年住んでいたアネサに比べるとかなり大きな町。しかし、アンコウはドワーフの玉都ワン‐ロンを経由して、ここに至っている。

(大きい街だけど、まぁ、こんなもんなんだろうな)

 というのが第一印象であった。

 

 万年の歴史を持ついわば都市国家であるワン‐ロンと比較すれば、一公爵領の拠点城市であるイェルベンは、当然見劣りしてしまう。比較すること自体が間違っているのだろう。

 ただ、イェルベンはグローソン公の台頭にしたがって、成長を続けている若々しい活気の溢れる街ではあった。

 

(なるほどな。グローソンのウィンド王国内での勢いが、街全体の活気にもなってる)

 

 アンコウは街の市場の賑わいを眺めつつ、それを実感している。

 

「らっしゃい!らっしゃい!」

「どうだい!今日は大角兎のいい肉が入ってるぜ!」

「見なよ、このアポの実っ、今年は出来がいいんだっ!」

「もうちょっとまけておくれよ!」

「無理だ無理だ!これ以上はビタ一文まけられねぇ!」

 

 アンコウは、大分見慣れてきた街の風景を眺めながら歩いている。

 

「もう、ひと月か………」

 歩きながら、アンコウがつぶやく。

 

 そう、アンコウがイェルベンに入ってから、すでに一ヶ月が過ぎていた。

 前回のネルカのときと同様、アンコウは放置され、待たされていた。

 

 ハウルがイェルベンにいないというわけではない。彼にとってアンコウに会うということの優先順位が低い、ただそれだけのことだろうとアンコウは思っている。

 そして、その見立ては正しいものだった。

 

「まぁ、あの男に変に関心なんか持たれても困るしな。ネルカのときと違って今は自由もある」

 

 ネルカのときは半軟禁状態であったアンコウだが、今回は、逃げるなら死ぬ覚悟して逃げるようにと脅しめいたことを言われているものの、こうして一人で街を自由に歩くことも許されている。

 

 それに今のアンコウは随分と落ち着いてもいた。ネルカの時はかなり無様なところを見せ、テレサに慰めてもらったりもしていたアンコウだったが、今回は覚悟も決まっているせいか、心の乱れも少ないようだ。

 

 それに、ネルカを逃げ出してから、ワン‐ロン経て、ここイェルベンに至るまでの経験が、多少なりともアンコウの小物胆力を鍛えてもいた。

 

(今は待つだけだ。自力でできることはない)

 

 そう腹を決め、暇つぶしに連日イェルベンの街中を見てまわっていた。朝から街に出ていたアンコウだが、そろそろ陽が高くなってきている。

 

(腹減ったなぁ。軽くなんか食べていくかな)

 



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第79話 思わぬ再会

 縞栗鼠(しまりす)亭。イェルベンにある中の上クラスの宿屋だ。その縞栗鼠亭を目指して、アンコウは歩いている。

 イェルベンでの宿泊場所は、三食お世話付きでグローソン側から用意してもらっているので、アンコウがこの縞栗鼠邸に宿泊することはない。

 

 宿泊はしないが、食事処として宿泊客以外にも、この宿では酒食を提供しており、少しお高めではあるがなかなかに美味いものを出すため、アンコウは何度もこの縞栗鼠(しまりす)亭を利用していた。

 

「たまには昼酒もいいかもな」

 

 

 しかしアンコウは、今日はすんなりと店の中に入ることができなかった。

 店の入り口に近づいていくアンコウ。その背後から 「おいっ」 と声をかけてくる者がいた。

 アンコウは、普通に足を止めて振り返った。

 

「へっ、へっ、へっ、兄ちゃん、今日も縞栗鼠亭でお食事かい?」

「うらやましいな~、なかなか懐があったかいみたいだなぁ、兄さんよぉぉ」

 

 振り返ったアンコウの視界に五人の男。薄汚れた人間族の男だ。腰には全員剣を差しており、三人は鎧も身につけている。

 

(兵隊崩れのゴロツキか)

 アンコウのその感想がぴったりな五人組だった。

 

 「今日も」と、言ったところをみれば、以前にアンコウがこの縞栗鼠(しまりす)亭を利用しているところを見たことがあるのだろうが、アンコウにはまったく見覚えがない男たちだった。

 

 一方、今日のアンコウの出で立ちは、腰に魔具鞘におさめた魔戦斧をぶら下げてはいるが、着ている服装は散歩着のような軽装だ。

 服を着ていれば、アンコウはかなり細身に見える。それにアンコウの170cmほどの身長は、この世界の平均的な男たちの背丈からいえば、まちがいなく低いほうになる。

 

 にやけた面でアンコウを見下ろしている男たちも皆、アンコウよりも10~30cmほども背が高い。

 それにアンコウの平坦でヒゲも綺麗に剃っている顔には厳つさは皆無、アンコウの見た目にビビる要素は何もない。

 

 しかし抗魔の力を持っている冒険者なら、見た目ではなく、ある程度抑えられているとはいえ、アンコウが身に纏っている覇気に気づくはずだ。

 ようはアンコウの実力を推し量れないようなゴロツキなのだが、この声をかけてきた五人の男たちが完全にアンコウをなめているという事実に変わりはない。

 

「…………………」

 アンコウの表情は能面のようになる。

 

「おいおい、おにぃちゃあ~ん、そんなに緊張しなくてもいいんだぜぇ、ただ、ちょっとお願いがあるんだよぉ」

「まぁ、そういうことだ。ちょっと、そこまで顔を貸してくれよ」

「…………………」

 アンコウの能面フェイスは変わらない。

 

 アンコウは4年近く冒険者として飯を食ってきた男だ。この手の連中に、なめられることは決して良しとしない ヤクザチックな精神構造はすでに構築されている。

 

「おいっっ!!テメェ聞いてんのかよっっ!!何無視してんだあぁぁ!?」

「いい度胸じゃねぇかっああっ!?こっちこいよおっ!!」

 

 男たちはアンコウの体をつかんで、引きずるように歩き出す。

 アンコウも特別抵抗をせず、男たちに引っ張り連れて行かれている。

 

「ケッ!情けねぇ!この野郎ビビって声も出せねぇぜっ!」

「おいおい、もうチビってんじゃねぇのかぁ?」

 

 男がアンコウの股座(またぐら)をつかむ。無抵抗のアンコウは、そのまま路地の奥に引っ張り込まれていった。

 

 

 まわりで、その様子を見ていた人たちは眉をひそめ、ため息をつき、首をふっている。珍しくない光景なのだろう。

 彼らには、ゴロツキどもに憤りを感じても、それを止めるだけの力がない。

 

 しかし、そんな中にも数名、薄笑いを浮かべていた者。冷めた目で見つめていた者がまじっていた。そんな彼らはゴロツキどもの愚かさに気づいていたのだ。

 そして、その内の二人が席を立ち、アンコウたちが消えていった路地にむかって歩き出した。

 

 

 

 

「も、もう勘弁してくださぁいっ!」

「ああ?勘弁するわけねぇだろうがっ!このボケナスがぁっ!」

 

ドガッ!ドガッ!ドガッ!

「ヒイィッ!ヒグッ!グゲエェッ!」

 

 四人目の男がアンコウにけり倒されている。鎧をつけていた三人は、すでにボコられ、地に倒れ伏し、ピクリとも動かない。

 アンコウは、自分より弱い邪魔者に容赦はしない。

 

ドゴォッ!バギイィッ!

 嫌な音が響いた。男の腕が決して曲がらない方向に曲がっている。

 

「ひいぃぃぃー、や、やめてくれぇぇ」

「しゃべんなっ!息が臭せぇんだよっ!」

 

ドゴッ!バゴォッ!ドガアァッ!

 と、シバきつづけるうちに四人目の男の耳障りな声もしなくなった。

 

「ふぅーーっ」

 

 アンコウは手を止めて、大きく息を吐く。

 アンコウは武器を手に持っていない。素手だ。

 

 抗魔の力を持たぬ人間族など、どれほど力自慢であろうと、古参兵であろうと、抗魔の力を持つ者の敵ではない。

 アンコウは自分の手をグッパッしながら、じっと見つめる。

 

「………………」

(カラダん中の抗魔の力が相当に増してるよなぁ)

 

 アンコウは例の呪いの魔剣を手に入れ、共鳴を為して以降、自身の抗魔の力が増強されていることをあらためて実感している。

 

 

「ヒッ!ヒィッ!ヒイッ!」

 残っていた最後のゴロツキが腰を抜かし、涙と鼻水で顔をグチャグチャにしていた。

 

「………チッ、まだいるのか」

 

 アンコウの頭にのぼっていた怒りは、四人をシバキ倒したことで、かなり解消されてしまっていた。

 

(……なんか面倒くさくなってきたな……)

 

「………おい」

「ヒイィッ!」

 

 男は完全に怯えている。

 

「お前、殴られるの好きか」

「ひぐぅぅぅ、ゆ、ゆるしてくれぇぇ」

 初めの威勢の良さはかけらも見えず、男は実に情けない顔で、ブンブンと必死で首を横に振っている。

 

 この男は五人のゴロツキの中で一番背の高かった男だ。190cm以上はある。

 関取のような肉付きのよい体躯。顔半分が隠れている髭面で、実に厳つい。

 その男がアンコウの前で泣き、怯えている。

 

「そうか、でもお前みたいなクソのわびはいらねぇ、その代わり働け」

 

 アンコウは血まみれで路地奥に倒れている四人をアゴで指し示す。

 

「こいつらが持っている金を全部集めろ」

「ヒグッ!」

 怯えた男は動かない。

「……なんだぁ、殴られるほうがいいのかっ」

「ひ、ひえっ!す、すぐに集めますぅぅぅ」

「銅銭一枚でも残してみやがれっ!テメェぶち殺してやるからなっ!」

「はひぃぃぃぃ」

 

 大柄の男は地を這い進み、血まみれで倒れる仲間たちの懐をあさり始めた。

 その時、路地の向こう側から進み出てくる人影がふたつ、それにアンコウも気づいている。

 

(ふぅん、出てくるのか。殺気もないから、ただの野次馬かと思ってたんだけどな)

 

 その人影と向き合おうとしたアンコウより先に、その人影のほうから声をかけてきた。その声は、アンコウにとって実に意外なものだった。

 

「よう、アンコウ。お楽しみだなあ」

 

 野太い男の声。転がっているゴロツキども以上に厳つい顔。筋肉の鎧をまとったようなガッチリとした体格の人間族の男が、アンコウに話しかけながら近づいてきていた。

 

 その男の姿を視認したアンコウは、目を大きく見開いた。

 

「!!あ、あんたっ、ダッジかっ!?」

 アンコウも、さすがに驚きの声をあげる。

 

 そこにいた男は、あのダッジだった。ダッジはアンコウがアネサで冒険者をしていたとき、何度もパーティーを組んで、迷宮で魔獣狩りをしたことのある男だ。

 アンコウがダッジに会うのは、アネサがグローソン軍の侵攻をうけ、陥落した時以来になる。

 

 ダッジもアネサを中心に活動している冒険者だったのだが、裏でグローソンのDE(ダークエルフ)隠密部隊と通じ、グローソンのアネサ侵攻戦の時は、グローソンの側について戦っていた。

 

 久方ぶりに見る変わらぬ男の顔を見つめるアンコウ。アンコウにとってダッジは別に友人というわけではない。

 迷宮の魔獣狩りという仕事を行う時に、互いに互いを利用し合うというビジネスライクな付き合いの相手であり、好きとか嫌いとかそういう感情の対象でもない。

 

「……ダッジ、何であんたがこんなところにいるんだ?」

 アンコウがごく当然の疑問を口にする。

 

「そりゃあ、お互い様だ。何でお前がイェルベンにいる。確かネルカに行ったと聞いていたんだがな。まぁ、もう随分前の話にはなるが」

「チッ、俺が先に聞いたんだぜ、ダッジ」

「フンッ、お前も知ってるだろう。俺はグローソン側について()()()に働いた。その俺が、グローソンの拠点にいても何も不思議はねぇだろう」

 

 ダッジは自分の都合でイェルベンに来ていて、たまたまゴロツキに路地に連れ込まれていくアンコウを見かけたらしい。

 

 アンコウは、ダッジの前身が滅んだ地方貴族の騎士の家門の者であったことを思い出す。

 

「ああ、そうか、新しい御主人様を探していたんだったな。アネサの功績で、グローソンで騎士様にはなれたのかい。そのわりには馬は連れていないし、その格好も()()()みたいだな」

 

 この二人は特別仲が悪いわけではないのだが、いつも腹の探り合い、嫌味の言い合いじみた会話になりがちだ。

 

「………るせぇぞ。アンコウ」

 ダッジが目でアンコウに凄んで見せる。

「おお、怖えぇ」

 アンコウはわざとらしく肩をすくめて見せた。その時、

 

「あ、集めてきましたあぁ」

「あん?ああ、忘れてた、お前か」

 

 アンコウから、倒れた仲間から金をあさってくるように命じられていた大柄のゴロツキの男が、小さな袋に金を詰めて持ってきた。

 怯え震える男は(ひざまず)き、アンコウに金の入った袋を差し出す。

 

 アンコウは中身を確認することなく、その袋を受け取ると、

バギィイッ!

 男のアゴを下から上に蹴り抜いた。

 

 ドザァンッ 男は白目を剥いて、仰向けに倒れた。

 

「おい、アンコウ。そいつ顎の骨(あごのほね)砕けたんじゃねぇか」

「ん?そうか?」

 

 アンコウもダッジも、どうでもいいという風だ。

 

「アンコウ、小金が入ったんなら、昼飯でも奢ってくれや。積もる話もあるってもんだ」

 

 アンコウは、左の手の平の上にある血が滲んでいる銭袋を見る。

 

(まぁ、こんな金は持っていてもインケツの元だからな)

「まぁ、いいよ、奢ってやるよ。―――ホルガ、お前もな」

 

 アンコウは、ダッジの後ろに立っている白毛の獣人女にも声をかけた。ホルガは、ダッジが使役している奴隷で、ダッジ同様アンコウの古馴染みである。

 そしてアンコウたちは、3人連れ立って粗大ごみが5つ転がる路地裏を後にした。

 

 

 

「ダッジさんっ!」「どうでしたかっ?」「ホルガもっ」

 

 アンコウたちが路地から大通りに戻ると、三人の男たちがダッジのほうに走り寄ってきた。

 それをじっと見つめるアンコウ。

 

(………三人とも知らない顔だな。それに武装はしているが、三人とも抗魔の力は持っていないか)

 

 その三人組の視線が、ダッジの横にいるアンコウのほうに移る。

 

「おうおう、お前、ダッジさんにちゃんと礼は言ったのかぁ。ついてるやつだな、ダッジさんとホルガさんに助けてもらえるなんてよォ」

 

 そのうちのひとりが、悪気があるのかどうかはわからないがアンコウに絡んできた。

 

「なに黙ってんだ?もしかして怖くてしょんべんでも漏らしたのかよ、情けねぇヤロウだな~。おいっ、聞いてんのかよ!?」

 

「……………」

 アンコウの顔が再び能面に。

 

「ん?おいお前、その手に持ってるのなんだ?おおっ、金かっ!なかなかよくわかってるじゃねぇか、チビっ」

 この男も身長が190cm近くある。

 

 アンコウは腰の魔戦斧の柄に手をかけた。その瞬間、アンコウの(まと)う気配が変わる。

 その変化は抗魔の力を持たない者たちにも伝わる種類のものだ。

 そして、

 

ビュンッ! 一閃。

「へぇっ!?」

 アンコウに絡んできた大男の口から、間抜けな声が漏れる。

 

 男の額の辺りが、浅いながらパックリと割れ、びしゅーっ と血が噴き出していた。男はその場で腰を抜かした。

 

 アンコウの右手には、大きな加工魔石が嵌め込まれ、刃が赤く妖しく光る魔戦斧。それがただの魔戦斧でないことは誰の目にも明らかだ。

 

 アンコウは無言のまま、腰を抜かした男の胸のあたりを足で踏みつけ、地面に縫いつけた。

 男は何の抵抗もしない、三人組の残りの二人もピクリとも動かない。いや、動けなかったのだ。

 

 三人組だけではない、周囲が凍りついたような静寂につつまれている。

 その原因は言うまでもない、アンコウだ。

 

 

 

 



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第80話 ダッジの目にも涙

「ざけんじゃねぇよ。誰が誰に助けてもらったってぇ?」

 

 アンコウは男の胸の上に足を置いているだけだ。しかし、男は動けない。

 男はようやく相手が、自分では到底敵わない抗魔の力持ちであることに気がついた。

 

「それになにより―――これは俺の金だろうがっ!ああっ!?」

「ひぃぃぃぃぃ」

 

 アンコウは足の下の男を睨みつけ、左の手の平で、ぽんぽんと銭袋をはねさせている。

 その男だけでなく、周囲にいる人たちもアンコウに怯えていた。

 

 先ほど五人のゴロツキを相手にしたときのアンコウは、腰の魔戦斧を抜くことはなく、素手で相手をしていた。

 しかし今は、ふざけたことを言われはしたが、相手はダッジの連れの者であるにもかかわらず、いきなり抑えていた覇気を開放し、魔戦斧を抜き放って共鳴さえ起こしている。

 

 持たざる者が怯えるのは当然だし、ダッジの知り合いと思われる者相手に、いささか過剰ではないのか。

 いや、違う。これはアンコウの彼に対する威嚇なのだ。足で踏みつけている男に対するものではない。横に立つダッジに対するものだ。

 

 アンコウはゴロツキどもを血祭りにし、久方ぶりにダッジに会ったせいで、すっかり冒険者モードに入ってしまったようだ。

 冒険者など、サル山の猿に等しい。敵味方など関係なく、俺のほうが上なのだと、常に己の力を我彼(われかれ)に対し誇示することで世を渡っていく生き物だ。

 

 実際、今のアンコウを見て、あのダッジの顔色が変わっている。これはかつてなかったことだ。

 

(何だ……これは、この野郎………この短い時間で何があった………)

 

 アネサにいた頃、ダッジの力は常にアンコウよりも上だった。

 しかし、ダッジは認めざるをえなかった。今のアンコウには、自分は到底勝てないということを。

「!くくっ」

 

「おい、ダッジ。この馬鹿はお前の知り合いか?」

「あ、ああ、そうだ」

 

 アンコウは男を足で踏みつけたまま、おもむろに魔具鞄の中から回復ポーションを取り出した。

 そして、足の下で額から どくどくと血を流し続けている男の顔に そのポーションをドバドバぶちまけた。

 

「ひぃぃぃぃ…………」

 

 アンコウは男から足を離して、手に持っていた魔戦斧を鞘袋の中へ。

 そしてアンコウは、戦闘態勢を解いた。

 

「ダッジ、下のもんの教育はしっかりしとけよ」

 

 これまでとは違い、若干上から目線のアンコウが、ダッジの肩に右手をポンッと乗せながら言った。

 一瞬怒りの色をその目に浮かべたダッジだったが、なぜかすぐに、その色は消えた。

 

(うん?)

 アンコウはダッジの視線が自分の右腕にむかっていることに気がついた。

 

「おい、アンコウ、それは………」

 

 アンコウの右腕にグルグル巻きにしてあった布切れが解けかかっており、その布切れの隙間から黄金色に輝く腕輪がのぞいていた。それは、グローソン公ハウルに無理やりはめられた臣下の腕輪だ。

 ダッジは、それに目を奪われていた。

 

 アンコウは、「チッ」と舌打ちをし、布切れを巻き直しながら 縞栗鼠亭(しまりすてい)の入り口に向かって歩き出した。

 

「何してんだ、ダッジ、ホルガ。メシにするんだろ?」

「あ、ああ」

 

 

 

 

 アンコウ、ダッジ、ホルガの三人は、テーブルを囲み、縞栗鼠亭(しまりすてい)自慢の豚肉と山菜の小鉢五品の料理に舌鼓(したづつみ)を打っている。

 

 アンコウ、ダッジの二人は酒も飲んでおり、特にダッジの酒量は多い。

 二人の会話は自然、アネサ陥落からこれまでの道程と現状についての話になる。

 

「タダめし食ってんだ。詳しいことは、まずそっちから話してくれよ」

 

 アンコウがそう水を向けるものの、実はダッジ、ここに至るまでのことをあまり話したくなかったようだ。

 

(……あまり気は進まねぇが、俺が話さないと、アンコウのやつも話さねぇだろうな)

 

 先ほどアンコウが見せた魔戦斧と明らかに増している強さ、それに加えて、右腕の金色の腕輪。

 ダッジにはアンコウに訊ねたいことが、いくつもできてしまっていた。

 

 アンコウは腹をくくってグローソンに来ている以上、別に聞かれて隠し立てするようなことはいまさらない。

 しかし、自分のことを話さない相手から問われて、進んでお話をするようなお人よしでもなかった。

 そんなアンコウの性格は、ダッジもよく知っている。

 

「………まぁ、あんまり面白い話じゃねぇぜ」

 

 ダッジは酒を一杯仰いでから話しはじめた。

 

 

―――――――――

 

 

(…………ほんとにあんまり面白い話じゃなかったな)

 とアンコウ。

 

 ダッジはまた、二杯三杯と酒をあおる。

 

(まさか、そこまで本気で騎士様に戻りたかったとはなぁ)

 

 アンコウも一口 酒を口に運んだ。

 

 ダッジもアンコウと同様、一級の冒険者とは言いがたい存在だ。

 そもそも人間族や獣人族の冒険者で、マニのように迷宮深部を目指して、アタックを試みるほどの実力者のほうが稀なのだ。

 

(抗魔の力保持者っていっても、ピンキリだからな)

 

 アンコウも、ひどい冒険者と組んで迷宮に潜り、上層であっても死にそうな目にあったことが何度もある。

 そんな中でダッジは、共に迷宮に潜るパーティーのリーダー役として、アンコウが信頼をおいていた数少ない冒険者の一人だった。

 

 アンコウの目から見たダッジは、冒険者として、それなりの実力があり、冷徹ではあるが的確な状況判断ができる男で、 迷宮潜りを生業(なりわい)とする実に冒険者らしい冒険者だった。

 

 そんな男がアネサでの戦功を手に立ち回り、真剣にグローソンに取り立ててもらおうと考えていたことが本気で意外だった。

 

 ダッジの話を聞いて、首を傾げたアンコウは、

「なんで、そんなに騎士に戻りたいんだ?」と聞いた。

 ダッジは、「知るかっ」と答えたが、その後に話をつづけた。

 

 ダッジの家は地方貴族の家臣ながら、300年も続いていた騎士の家門であったらしい。幼い頃より、騎士の誇りやら、家を守ることの重要性を相当に叩き込まれたようだ。

 

(すり込みか……一種の洗脳の域までいってたのかもな。教育は怖いな)

 

 ダッジが十代後半の時に(いくさ)で敗れ、家は断絶。

 それから約15年、その大半を冒険者として過ごしてきたダッジではあるが、騎士道とやらを捨て、心の芯まで冒険者になりきることはできなかったようだ。

 

 できるものなら、アネサでの迷宮冒険者生活に戻ることを望んでいるアンコウには、まったく理解できない価値観だった。

 

「そんなにいいのかねぇ、宮仕えの騎士様がよ」

 

 アンコウがそう言っても、ダッジは酒をあおるばかり。

 アネサでの戦功だけでは足りないのだろうと思ったダッジは、手勢となる冒険者や兵士を引き連れ、グローソン領に入り、叛徒どもとのいくつかの戦いにも参戦したらしい。

 

 多少の武勲もあげた。しかし、結局ダッジに与えられた恩賞は、金銭と望むのなら傭兵団の一隊を棒給制で任せるというもの。

 また、ダッジに付き従い戦場を共にした抗魔の力を持つ者たちには、同様に金銭と望むのなら傭兵団の副隊長格として入れてやるというものだった。

 それ自体は冒険者に与えられるごく普通の恩賞で別段(べつだん)何もおかしいものではなかった。

 

 しかし、ダッジの話に乗って、土地持ち騎士か、どこかの領主になったダッジの家来になろうとついて来た者たちにとっては、聞いていた話と違うということになる。

 その段階で大半の者がダッジを(なじ)り、彼の元から去った。

 

 このイェルベンには新たな戦場を求めてやってきたらしい。

 そこでまた、さらなる戦功を求めて……と、ダッジのやつは退くに退けなくなっているのだと、アンコウは感じた。

 

「ふっ、あんまり面白い話じゃなかっただろう」

「ああ、まったくだ。理解できないな」

 アンコウは、はっきりと言った。

 

「……アンコウ、お前のほうはどうなんだ」

「まぁ、そうだな……俺のほうも面白い話じゃまったくないぞ」

 

 アンコウはアネサの町を離れてから、このイェルベンに着くまでにあった 散々な出来事を思い出していた。

 

(………あらためて思い出したら、生きてるのが奇跡だ………)

 

「どうしたアンコウ。俺は全部話したぞ。お前のその魔戦斧や、あきらかに増している強さのこと。それに、その金の腕輪のことも全部話せよ」

 

「ん?ああ、べつにいいぜ。どれも、ろくでもない話だけどな」

 

 嫌な思い出混じりの話にはなるが、別に今更隠す必要もない話なので、アンコウはこれまであったことを有りのままに話し始めた。

 

―――――――――

 

 アンコウは話した。

 ネルカでのグローソン公との謁見 ― ハウルの部下と戦わされたあげく、臣下の腕輪をはめられたこと(ケツの穴を(まさぐ)られたことは言わず)。

 そして、ローアグリフォンにさらわれ、半死(はんじに)でサミワへ。

 

 サミワでは(いくさ)の最前線に立つことになり、敵大軍に囲まれ、またもや半死(はんじに)になったこと(知り合いに、彼の妻を夜のお相手にあてがわれ、泣きそうな目にあったことは言わず)。

 サミワから逃れ、あちらこちらへ自由への逃亡を図るも、グローソンの影響力は大きく、失敗(精も根も尽き果てかける)。

 

 たどり着いた北の森で、何の因果かドワーフの子供と謎の迷宮に落ち、またもや死にかけた挙句、なぜかあのワン‐ロンに行くことになり ―そして、そのワン‐ロンで千年に一度の災厄が起こり、 極大豚鬼王(ビッグオーク)と魔獣の群れに襲われたこと。

 自分は逃げ損ね、小豚鬼(チープオーク)の大群に襲われ、ここでもとにかく死にかけたこと。

 

 今生きていることが、本当に奇跡だという話をした。

 

 そして、現在イェルベンにて

  ― グローソン公ハウルに屈し、(こうべ)を垂れ、靴を舐める覚悟をしてここに来たこと。

 

 などなど、ここまでの経緯を、アンコウは眉間にしわを寄せながら酒を飲みつつ話した。

 

 ダッジに話をしているアンコウの口調は完全にグチであった。

 アンコウとしても、積もりに積もった鬱屈とした思いが胸の内にあり、話し出すと止まらなくなったようだ。

 

「ほんと最悪だったぜ。どいつもこいつもよォ、ふざけたことばかりだ。俺はアネサの生活に戻りたいんだよ」

 

 ダッジは酒を飲む手も止め、じっとアンコウの話を聞いている。

 アンコウは聞いてくれるならこれ幸いと、溜まっているストレスを一気に吐き出さんばかりに、グチを言いつづけた。

 

 アンコウは、自分が話をすることに集中していたため、ダッジの眉間にもシワがより、酒杯を持つ手が小刻みに震えはじめていたことに気がつかなかった。

 

「だからよ、この金ピカの腕輪がそうなんだよ。まぁ、役に立ったこともあったんだどな。そもそもこんなもんが初めからついてなければ、どこにでも逃げられたんだ。タチの悪い奴隷の首輪みたいなもんだ」

 

 アンコウは右手に巻いていた布を取り、金ピカの腕輪をバシバシ叩きながら嘆いていた。

 

バギイィッ!

 突然、ダッジが持っていた木製の酒器が割れた。ダッジが握りつぶしたのだ。

 

「………てめぇ」

「あん?何だ?ダッジ、どうした」

 

ダアァァンッ!

 ダッジがテーブルを強く叩いた。

 

「どうしたじゃねぇっ!何だてめぇっ!さっきから自慢話かっ!この野郎ッッ!」

「!ああ?何言ってんだ?」

 

 突然、ダッジに派手に怒鳴りつけられて、アンコウのダッジを見る目つきも剣呑なものに変わっていく。

 

「いいか、アンコウ。その金色の腕輪は、グローソン公の直臣の証しだ。ただの家来じゃねぇんだぞっっ」

バァンッッ!

 ダッジがまた、テーブルを叩く。

 

 主持ちの騎士になるため、東奔西走していたダッジにとって、グローソン公に直接謁見し、臣下の腕輪まで拝領したアンコウの愚痴は、許しがたいものがあったようだ。

 

 アンコウもようやくダッジの怒りの意味がわかった。そして、呆れた。

 

「馬鹿じゃねぇのか、ひとの話を聞いていたのか?あきれたぜダッジよ。あんたの騎士様願望なんぞ知るかっ。ケッ!俺はあんたとは違うんだよっ!

 ああ、そうだ。あの野郎の騎士になりたいんだったら良い方法を教えてやるぜ。あの野郎とケツの穴をなめなめし合うんだ、これマジだぜダッジ。ヒハハハハッ」

 

「!アンコウッッ!!」

ドォガアアッ!

 ダッジが右のこぶしで思いっきりアンコウをブン殴った。

 

「ぐくっっ!」

 アンコウは大きくのけぞるが、椅子に座ったまま床に倒れることなく踏みとどまった。

 

 騒がしかった食堂が、一瞬で静まり返る。

 椅子に座ったままアンコウは口元をぬぐい、睨みながらダッジを怒鳴りつけた。

 

「てめぇぇっ!ダッジッいぃ!何のつもり!?~?!」

 しかし、ダッジへのアンコウの怒声が途中で途切れた。

 

 アンコウは目を見開いて固まっている。ダッジが……泣いていたのだ。

 

 号泣しているわけではない。ダッジは立ち上がった姿勢のまま、憤怒の表情でアンコウを睨みつけている。

 その頬に涙が伝い落ちていた。

 

 アンコウはこんな状態のダッジをかつて見たことがなかった。

 アンコウが思っていた以上に、ダッジの騎士への執着は強く、追い詰められてもいたようだ。

 長年ダッジと行動を共にしている奴隷のホルガも、驚きの表情でダッジを見ている。彼女にとっても、信じられないダッジの涙なのだろう。

 

 ダッジは顔には出さなかったものの、この数ヶ月間ひどく悩み苦しんでいた。

 (いくさ)に敗れるも世の習いといえども、家族と家門の誇りを失って十数年。ダッジは冒険者として生き、アンコウの言うように実に冒険者らしい冒険者になっていた。

 

 実はダッジの抗魔の力も、この十数年の冒険者生活の中で増強させてきたものであり、家が滅びた戦いのとき、ダッジは四、五人の普通人兵を相手にするのが精一杯だった。

 

 ダッジは家門の滅びの戦いのとき、やむを得なかったとはいえ、最後は生き延びるために家族や仲間を捨てて逃げた。

 そしてダッジは生き延びたものの、この時に感じた自分に対する怒りと屈辱、絶望を今でも忘れていない。

 

 しかしそんな過去があっても、誰にも言わず、悟らせもしなかったが、幼少年期にすり込まれた騎士の家門への誇り、執着は常にダッジの心の底流にあった。

 グローソンによるアネサ侵攻戦、ダッジは長年思い出さないようにしてきた その願いを叶える またとないチャンスだと考えた。

 そして行動を起こし、ほぼ予定通りにことは進んだのだ。

 

 しかし、ダッジの願いは叶えられそうもない。

 一緒に行動を起こした仲間も、腕に自信がある者ほど先にダッジに見切りをつけて、去っていった。

 ダッジに力が足りなかったと言われればそれまでであり、それが事実だ。

 

 それに、敗亡したダッジの主家と関わりのある者たちの一部が、今現在グローソン公に仕えており、その者たちからダッジの過去に関する良くない噂が流されていた。

 ダッジに、その悪い噂を払しょくする方法などなく、そのことも、彼がグローソンに仕官する妨げになっていた。

 

 アンコウなどからすれば、仕官などあきらめてしまえば、ほかのより良い選択肢も出てくるだろうと思うのだが、執着心が強ければ強いほど、そう簡単に割り切れるのものではないのかもしれない。

 

 その憤怒の表情のダッジの目尻から、一筋の涙が伝い落ちていく。

 あらためて、そのダッジの涙を確認したアンコウは、

 

「……ははっ……はっ、アーハッハッハッハー!」

 

 と、大爆笑しはじめた。

 



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第81話 臣下としての通過儀礼

だせぇ、だっせぇ と言いながら、大声で笑い続けるアンコウ。

 

 ダッジもホルガも、まわりで様子を(うかが)っていた者たちも呆気にとられる。ひとしきり笑い続けたアンコウが、ようやく口を開く。

 

「大の男が泣くか、ふつう?ボクちゃん騎士になりたいのぉってか?」

 

「!テメェっ!アンコウオオオッ!」

 

 ひどく侮辱されたと感じたダッジは、飲んだ酒のせいではなく、顔を真っ赤に染めあげた。

 

「ブチ殺してやるっ!」

 ダッジが腰の剣に手を伸ばした。

 しかし、

 

ヒイュンッ!

「!ウグッ!」

 

 ダッジの剣は剣身の半分ほどまで引き抜いた時点で停止した。

 気がつけば、アンコウを睨みつけていたダッジの眼前に、アンコウの魔戦斧の穂先に取りつけられたスピアーヘッドの鋭く尖った先端がつきつけられていた。

 

「……やめとけ、ダッジ。もうあんたじゃ俺を殺せねぇよ」

 

 アンコウの顔から笑いは完全に消え、殺気のこもった目でダッジを見据えている。

 

「く、くそやろうがぁ」

「剣を鞘に戻せよ、ダッジ」

 

 その時、ダッジの横にいた奴隷のホルガも動きを見せる。アンコウを見、剣を引き抜こうとする。

 アンコウはそれを視界に入れているが、動じる気配はない。

 

「ホルガっ!やめろっ!」

 

 ダッジが鋭い口調でそのホルガの動きを制止する。主人の命令にホルガは従い、その動きを停止させた。

 

 シーン と静まりかえる空間。次に口を開いたのはアンコウだ。

 

「見損なったぜ、ダッジ。あんたはもうちょっとまともな判断ができる人間だと思ってたんだけどなぁ。騎士になろうが、王様になろうが、そいつの勝手だ。

 だけど、そんなもん力あってこそだろうが。いい年かました夢見るオッサンのその手の涙なんざぁ、気持ちが悪いだけだぜ。メシも酒もまずくなった」

 

「くっ」

 

 ダッジはおとなしく、引き抜きかけた剣をゆっくりと鞘に戻していき、両手をダランと垂れさげた。

 戦う意志はないということだろう。それを見て、アンコウもゆっくりと魔戦斧を引いていく。

 

 そしてアンコウは、テーブルの上においていたゴロツキどもから巻き上げた銭が入っている袋を取り上げ、自分のポケットの中に押し込む。

 次に、残っていた豚足をほお張り、それを酒で流し込むと、

「ごちそうさん」と言った。

 

 そしてアンコウは、そのまま御宿兼酒食処(おやどけんしゅしょくどころ)縞栗鼠亭(しまりすてい)から、一人出て行ってしまった。

 

 

 縞栗鼠亭(しまりすてい)を後にしたアンコウは、一人(ひとり)屋敷に向かって、帰りの道を歩いている。その足どりは重い。

 

「はぁーっ」

 と、何度もため息をついている。

 

「………ダッジのやつ、あんな弱い人間じゃなかったのに……いや、俺がもっと弱かったから、わからなかっただけなのか………」

 

 現実は厳しいとは知りながら、なんとも言えない嫌なものを見た思いで、アンコウの気持ちは晴れず、

 また 「はぁーっ」 と、ため息をついた。

 

 

 

 

 アンコウがグローソン公ハウルより、登城謁見の命令を受けたのは、イェルベンの街中で偶然ダッジと出会ってから、さらに一週間も過ぎてからだった。

 しかも、登城したアンコウが案内されたのは、城の奥部にあるハウルの私室。

 

 アンコウが案内を務めた侍従に、武器は預けなくていいのか と尋ねると、

「公爵様はその必要はないと仰せです」と言い、

「公爵様はごく一部の者しか私室に招かない アンコウ殿はその公爵様のご配慮に心より感謝し、その信頼に全力をもって応えねばなりません 」と、

 実に押しつけがましいことを堂々と言ってきた。

 

 それでも力なきアンコウには、ただ言われるがままに従い、ついて行くしかない。

 命にかかわる事でもない限り言われるがままに従う その覚悟はして、ここに来ていた。

 

 

 そして今、アンコウは案内されたハウルの私室にいた。

 その部屋は薄暗い照明で照らされており、その照明の中、御香の煙がくぐもっていた。実に、なんとも言えない甘い香りが部屋中に充満している。

 

(………なんなんだよ、これは)

 

 アンコウは用意されていた革張りの背もたれ付きの椅子に座っていた。

 そのアンコウの前方には、レースの天蓋付きの大きな寝台が置かれている。そして、主君となるグローソン公ハウルはそのベッドの上にいた。

 

 ハウルは、薄手の鮮やかな色使いのガウンを羽織っているが、前は止めておらず、完全にはだけている。赤いブーメラン型のパンツが目障りだ。

 

 そのハウルにうながされ、アンコウはサミワからローアグリフォンにさらわれた時からの一連の出来事を話した。

 アンコウがその話をしている間中、ハウルは(いわお)のような肉体を持つパンツ一枚の若者の(もも)の上に頭をのせていた。

 そんなハウルを眼前にしても、アンコウは真面目な顔で話をつづけた。

 

 

「まぁ、大体聞いていた通りだな」

 ハウルはあまり興味なさげに言う。

 

 話を終えたアンコウは無言のまま椅子に座り、ハウルの言葉の続きを待つしかない。

 

 無駄な肉など一切ついていない筋肉美を誇る若者は、髪の毛を女性のように長く伸ばしており、ハウルは若者の腿の上に頭をのせたままで、その金色の長い髪を指でいじくっている。

 

「ラヴの髪は綺麗だな。なぁ、ラーニャ」

 

 大きな寝台の上には、ハウルとハウルに膝枕をしているラヴという若い男、それにもう一人、ラーニャと呼ばれた女性もいた。

 

 ラーニャという人間族の女の見た目は、どう見ても10代の半ばほど。

 スレンダーな体つき、胸のふくらみも実にささやかだが、天使のごとく美しい。

 その胸を隠している薄手の布は、煌めくような光沢があるものの、あきらかに透けている。

 

「はい、ハウル様。ラヴの髪の毛は美しゅうございます」

 

 ラーニャはそう言いながら、ハウルの口にチェリーのような果実を運んだ。

 

「フフフ、ラーニャ、お前の肌も綺麗だ」

 

 アンコウの眼前、豪奢で大きな寝台の上で、そんなやり取りがずっと繰り広げられている。

 

(……なんだよ、これっ……)

 内心ムカムカしながらも、アンコウは神妙な顔で控え続けるしかない。

 

 

 ウィンド王国 臣 グローソン公爵 ハウル・ミーハシ。

 貴族・豪族の生まれではなく、その出自は一般的には定かではない。ある地方豪族の娘と結婚し、ウィンド王国の一地域に、はじめてその名があがったのは、今から30年ほど昔。

 その後、約30年の彼の歴史はまさに戦いの歴史であり、戦い続けることで、領地を広げ、名を広め、今ではウィンド王家から正式に王国公爵の地位を認められている男でもある。

 また同時に、このハウルという男は実に享楽主義的なタイプの権力者でもあった。

 

 アンコウの目の前、ベッドの上で、二人の男女相手に淫卑な雰囲気を醸しだしている男の容貌は、20代前半ぐらいの美しい若者に見えるが、その実年齢はすでに50歳ぐらいになっているはずだ。

 

(いい年こいて、よくやるぜ)と思いながら、アンコウは心の底から早く帰りたいとも思っていた。

 

 

「………アンコウよ。お前、いくらかは強くなったようだな。どうだ、武人としてこのハウルに仕える気にはならないか?」

 

 ハウルは、小姓(こしょう)の男の(もも)の上に頭をのせたままだ。

 アンコウはハウルに(こうべ)を垂れ、(ひざまづ)くことを受け入れた。しかし、彼の命令で、戦場(いくさば)に駆り出されるようなことは、ゼロとはいかなくても、なるべくしたくないと思っている。

 

(チッ、思い出ばなしのお相手じゃなかったのかよ)

「……申し訳ありませんが、そういうのはできれば……」

 

「かまわん、言いたいことを申せ。ただし口のききようには気をつけよ」

「はい………」

 

 アンコウは少し悩むが、いまさら多少言いたいことを言っても殺されるようなことにはならないだろうと、本音で話すことにした。

 また、このハウルという男はそういう態度のほうを好むだろうとも考えた。

 

「……できれば、領地の争いや権力の奪い合いで、戦場に引っ張り出されるのは勘弁してほしいと思っています」

「なぜだ、(いくさ)で功を挙げれば、それ相応の褒賞は与えるぞ」

「……そういうのは趣味じゃない、としか言えないんですが」

 

 アンコウが以前と変わらないことを言うと、

 ハウルはおもしろくなさそうに、「フンッ」と鼻を鳴らした。

 

「まぁいい、では予定通り、お前には時折り私の暇つぶしの遊びに付き合ってもらう役目としよう」

 ハウルはそう言うと、少し何かを考えた後、

「ラヴ、確か今日は例の宴の日だったな」

 

「はい、ハウル様」

 

「よし、アンコウ、初仕事だ。今夜の宴に付き合え。我が家臣となった以上、本音はどうあれ、表には忠誠を誓ってもらう。今宵の宴への参加は、その通過儀礼を兼ねるものとする。では下がれ、アンコウ」

 

「えっ、あの」

 

 ハウルはそれ以上アンコウの意思を確かめることはせず、アンコウにむかって下がれと手を振った。

 と同時に、ハウルはラヴと口を吸い合いはじめたので、アンコウは 勘弁してくれ とばかりに、急いで部屋を出て行った。

 

 そして、そのあとアンコウは屋敷に戻ることを許されず、日が暮れるまでこの館にとどまり、そのままハウルが言っていた例の宴とやらに参加することになった。

 

 

 

 

「ではアンコウ様、こちらにお入り下さい」

「あ、ああ………」

 

 アンコウは薄闇の中、イェルベン城の敷地内にある 美しい外観の建物に連れて行かれ、侍女の案内を受けている。

 侍女が案内をするのはごく当たり前のことなのだが、アンコウは激しく戸惑っていた。なぜなら、その侍女は何も身にまとっていなかったからだ。

 

 胸も腹も尻も、全てがアンコウの目に見えている。ただ、頭にメイド帽をつけており、それのみが侍女の証となっている。

 アンコウが侍女たちに、何で裸なんだとたずねても、誰も何も答えてくれなかった。

 

 侍女が大きな扉をノックすると、内側から扉が、ギイギギィィィと、開いた。そしてアンコウは中へ。

 

「こ、ここは……」

「アンコウ様。宴の間は、さらにこの向こう側のホールになってございます」

 

 アンコウが今しがた入ってきた扉のほうを振り返ると、その扉を開けてくれたガタイのよい男たちも真っ裸で、真剣な顔つきで立っている。

 

 アンコウのほかにも先に来ている人たちがいて、男も女も誰も彼もがこの部屋で服を脱いで裸になり、部屋の奥にある ホールへと続く階段に向かって歩いていく。

 

(え……な、なんだここ)

 

「さぁ、アンコウ殿も早くお召し物を脱いでください。公爵様はすでに宴の間に来ておられます。今宵の宴はもう始まっておりますので」

 

「はあっ!?……」

 

 どうやらここは、そういうところなのだとアンコウは理解した。

 そういうところが、どういうところなのかはイマイチわからないものの、アンコウはおとなしく服を脱いだ。脱ぐしかなかった。

 しかし、

(……嫌な予感しかしねぇ)

 

 すっぽんぽんになったアンコウは、引き続き裸の侍女に先導され、例の階段を上っていく。階段を上った先には一本道の廊下、その廊下の先には、さらに大きく華美な扉があった。

 

「さぁアンコウ様。存分にお楽しみを」

 侍女は満面の笑顔をアンコウに向けた。

 

 そして、その扉がアンコウの眼前で、ギイギイィィと開かれた。

 

 

 

 

 

 アンコウの目に飛び込んでくる(まばゆ)い光。大きなホール中に、魔石を利用した照明器具が設置されている。

 それに、光源は魔具光だけではない。ホールを見下ろすアンコウの目に、ホールのあちらこちらで、祭りのように火が焚きあげられているのが見えた。

 室内のホールで火柱をあげるだけの十分な広さがある空間だ。

 

ギイイィィ と、アンコウの背後で扉が閉められる。

 

 今アンコウはホールの踊り場のようなところに立っており、目の前にはそのホールに下りていく階段があった。

 アンコウは、一歩一歩階段に近づいていく。進むにつれて、ホールの全景が見えてくる。

 

 壁にも柱にも緻密な彫刻が施されており、本来なら荘厳さのある美しいホールであるはずなのだが、アンコウの目に映る光景は異常と言うほかない。

 

「マジかよ………マジでこんなことやってんのかよ……」

 

 アンコウの目に映っている光景。

 裸の人たちが踊り狂っていた。男も女も、老いも若きも、音楽にあわせて踊り狂っている。その音楽を奏でている音楽団もまた、全裸である。

 

 踊る者たちの手には酒の杯、あちちこちらには満タンの酒樽が置かれている。裸で踊り、酒を浴びるように飲んでいる者たちが、何人も何人も何人もいた。

 

 絶句してその光景を眺めているアンコウの鼻に、強烈に甘美で刺激的な匂いが漂ってくる。

 おそらく大量の香木も焚きあげらており、数え切れないほどの御香の匂いが混じりあって、ホール中に充満していた。

 

「くそっ、これはただのお香じゃないな」

 

 アンコウは匂いの中にあきらかに幻惑系の草木の香りが混じっていることに気づいた。アンコウは精神集中を高め、それに飲まれることがないように備える。

 

 そして、ホールの中央あたり、少し周囲より高くなっている場所から、アンコウのほうを見ている者がいた。

 かなり距離は離れているが、今のアンコウには視認することができた。

 

「!」

 その存在に気がついたアンコウは、反射的にそちらにむかって頭をさげた。

 その人はグローソン公ハウルであった。

 

 ハウルはアンコウにむかって手招きをしている。こんなところに下りて行きたくないアンコウであったが、いまさらどうしようもない。

 アンコウはゆっくりと目の前の階段を下りはじめた。

 

「……ちくしょう……マジかよ」

 

 ふつうではない光景はまだ続く。ホールのあちこちに、ベッドのような長方形の台座が置かれている。その全てに全裸で絡まり合う人の姿が見えている。

 男と女、男と男、女と女、複数人が団子のごとく固まっているところもある。台座の上だけではなく、床のそこら中で同じような光景が見られた。

 

 大音量の楽器の音に、騒ぎ喚く声、そして、獣の嬌声、わけがわからない音の嵐だ。

 

 アンコウは元の世界でも、こちらの世界でも、この手のパーティーに参加したことはない。それがいきなり最大級のこれだ。

 アンコウには、この空間は狂態狂楽狂錯(きょうたいきょうらくきょうさく)坩堝(るつぼ)にしか見えない。

 

「……マジかよ、何の邪教徒の集まりだよ」

 

 アンコウは階段を下り、その『イカれ乱パ』の中をハウルがいる中央付近目指して歩いていく。

 そしてアンコウが、敷かれている毛の長い絨毯の上を歩いていると、

ガッ! と、いきなりアンコウの肩をつかむ者がいた。

 

「なっ、なんだっ」 思わず、ビクリッ としたアンコウが振り返る。

 

 するとそこには、全裸で中年太りの金髪バーコード頭の男が立っていた。じっとアンコウを見つめる その男の目は、トロンと濁っている。

 

「なっ、何だお前っ」

 

 その男からは抗魔の力は感じられない。ただの中年男だ、いや、ただの中年男とは言えない。

 アンコウは()も言われぬ恐ろしさをその男に感じていた。

 

 その全裸の中年太りの金髪バーコード頭の男は、凄むアンコウにまったく怯えを見せず、アンコウの目を見ながら、右手人差し指をおもむろに天に突き上げるポーズをとった。そして、左手は腰に。

 

 アンコウは何をする気だと息を飲む。すると男は大声で叫んだのだ。

 

「イエェェェェーーイッ!」 と。

 

「!!っ…………………………」

 アンコウは言葉も出ない。すると男は、

 

「イエェェェェーーイイッ!」

と、また言った。

 

 そして、そのポーズを決めたまま、トロンとした濁った目でアンコウをじっと見つめる。男は見つめつづけた。

 あきらかにこのポッコリおなかのバーコードは、お前もやれオーラを出している。

 

「うぐっ」

 

 アンコウは仕方がなく、男と同じように右人差し指を天に突き出し、左手を腰にポーズを決める。

 そして、アンコウは、

「イ、イエエ~~イ」 と言った。

 

 すると、全裸の中年太りの金髪バーコード頭の男は、大きく頷きながらポッコリおなかを波打たせ、無言のままアンコウの前から立ち去っていった。

 

(なっ、なんなんだよっっ!!)

 

 この空間は、アンコウの理解を超えていた。

 



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第82話 狂楽の宴

 ホール中央、一段高くなっている場所。その上にも、寝台のような形の大きな台座が置かれている。

 その端に腰かけているハウル、もちろんハウルも裸だ。

 そして、そのハウルのまわりには、何人もの見目麗しい美女と筋骨逞しい美男子が(はべ)っていた。

 

「アンコウ、よく来たな」

 

 ハウルが、下で(ひざまづ)いているアンコウに声をかける。

 

「は、はい。お招きありがとうございます」

 

パチンッ とハウルが指を鳴らす。

 

 すると、貧弱な体つきの年配の男が、アンコウに近づいてきて、飲み物がのった盆を差し出してきた。

 その飲み物はガラスの容器の中に入れられており、ピンク色の液体が透けて見えていた。

 

「まぁ飲め、アンコウ」

「!」

 

 ハウルに促され、アンコウはそのガラスの容器を手に取るものの、口にするのをためらっている。

 

(……中身なんだよこれ)

 

「ふふ、心配するなアンコウ、その桃色のものはただの酒だ。もっといい気持ちになりたいのだったら青色の酒を飲め」

 

「は、はぁ」

 

 どうやらやはり、やばい酒もあるらしい。それはまわりで踊り狂い腰を振っている者たちを見ればあきらかだった。

 アンコウは手に持ったグラスをじっと見つめている。

 

「……アンコウ、まさか俺の酒が飲めないと言うのではなかろうな、フフフ」

 

 ハウルは意地悪そうな笑みを浮かべている。あからさまにアンコウをからかって楽しんでいる。

 

 アンコウは、自分の感情を表には出さないようにしながら考える。自分は自由への逃走をあきらめ、グローソン公の下につく覚悟をしてここにきた。

 

 アンコウは元の世界で、営業職のサラリーマンをしていたときの事を思い出す。

 付き合い酒、クラブ接待、キャバクラ接待、セクキャバ接待、付き合い風俗、それと同じようなものだと自分に言い聞かせた。

 

 アンコウはニコリと笑い、

「頂戴します」と、まったく心のこもらない声で言った。

 そして、ぐいぃぃっ と、一気にそのピンクの酒を飲みほした。

 

(きっつい酒だな。だけど、確かにただのカクテルみたいだ)

 

 それを見とどけたハウルは、

「楽しんでいけ、アンコウ」

 と言い、さらに、

「ふふ、しかし、一人では楽しめなかろう。パートナーをつけてやろう

」と、言った。

 

「い、いや、一人でも十分楽しめるので」

 

 これまで、娼館で普通に遊んできた経験はあるアンコウだ。

 しかし、

(こ、これは勘弁だ。変な酒で飛びたくなんかないし、乱交なんてごめんこうむる)

 

「ふふ、この手の(うたげ)は初めてか、アンコウ。何、そんなこともあろうかと思ってな。もう一人招待しておいた」

 

 パチンッ とハウルがまた指を鳴らす。

 すると、アンコウの背後から近づいてくる人の気配。

 

「だ、旦那様」

 

 その声にアンコウは思わず、後ろを振り返る。

 

「テ、テレサっ!?」

 

 アンコウの後ろに、メイド帽を乗せた二人の裸の女に挟まれて、テレサが立っていた。無論、テレサも全裸である。

 

「では、アンコウ。二人して、今日の宴を楽しんでいけ」

「えっ!ちょっ!公爵様っ」

 

 アンコウがハウルに話しかけても、ハウルはもう行けと アンコウに手を振るだけで、何度アンコウが話しかけても、それ以上相手にしようとはしなかった。

 アンコウはやむを得ず、テレサを(いざな)って場所を移動していく。

 

 

 

「だ、旦那様………」

 テレサは恥ずかしそうに手で体を隠しながらアンコウについていくが、いろいろと隠しきれていない。

「テレサ、お前」

 

 アンコウが滞在している屋敷を出たあと、公爵の使いを名乗る者が馬車でテレサを迎えに来たらしい。

 その使いの者にとり立てて怪しいところはなく、アンコウの奴隷であるテレサが、その迎えを断ることなどもちろんできなかった。

 

 そして、その迎えの者に城に連れてこられたテレサは、館の奥の大きな部屋に案内され、アンコウが脱いだ服を見せられて、

「主は脱いだから、あなたも脱ぎなさい」と、問答無用で服を脱がされたらしい。

 

「て、抵抗はしました」

 と、テレサ。

「はぁーーっ」

 と、ため息をつくほかないアンコウである。

 

 周囲は相変わらずの狂乱の馬鹿騒ぎに興じている。

 テレサはただ怯え戸惑い、アンコウにくっついている。一方アンコウは、このどうしようもない状況の中でも、ちゃんと周囲に目を配り続けている。

 

 少し離れたが、中央台座のところにいるハウルが、時折りこちらに意識を向けていることにも気づいているし、

(それにこいつらも……)

 この大ホールの中に、狂態を示しながらも目だけ鋭く周囲をうかがっている者が何人もいることにも、アンコウは気づいていた。

 

(公爵が配置している草の者だろうな)

 

 彼らが代わる代わる自分の様子を観察している視線も、アンコウは感じていた。

 

(公爵は私室で、この宴に参加することは、俺が家臣となる通過儀礼を兼ねると言っていた)

 

 アンコウは自分が試されているのだと、このイカレた宴で、自分がどういう態度をとるのか観察されているのだと思った。

 

「………しかたがねぇな、ほんとに邪教教団の入信儀式な気がしてきた」

「あ、あの、旦那様」

「テレサ、あきらめろ。今はこれに付き合うしかない」

 

 アンコウに耳元でそう(ささや)かれて、テレサは(うなず)くほかない。

 アンコウたちはしばらくホールをうろうろしていたが、観察者たちの目もある、いつまでもそんなことをし続けているわけにもいかない。

 

「……テレサ、酒を飲め。とりあえず踊るぞ」

「え、ええっ」

 

 アンコウは、裸のウェイターから受け取ったピンク色の酒をテレサに渡す。

 

「しらふでここにいられるのなら別にいいけどな、どうする?」

「ほ、ほんとうに帰れないんですか?」

「無理だ」

 

 アンコウが断定したのを聞き、テレサは大きくため息をついたあと何とも言えない表情で、その酒を一気にあおった。プハァーッ かなりキツイ酒だ。

 

「テレサ、踊るぞ」

「はっ、ひゃぃぃっ」

 

 アンコウとテレサは室内の火柱を囲んで踊り始めた。

 

!♪♪♪~♪♪♪♪―♪♪♪♪~♪!

ウヒョー アヒョー エッサッサァァー

 

 

 何重もの人の輪の中で、響く音楽の音と意味をなさない人々の歓声の中で、アンコウたちは踊りつづけた。

 それこそ、アンコウはやけくそで踊り続ける。テレサはアンコウから渡される酒を次々に飲み干し、酒の力に身をゆだねていく。

 

「旦那ひゃまあぁ~」 酔っ払うしか、この場にいていられなかったのだろう。

 

 さすがにアンコウは、この状況で前後不覚になるわけにもいかず、へべれけになっていくテレサがうらやましいと思いつつ、正気を保っていた。

 

 アンコウは火柱を囲み、踊り、歌い、踊り、歌い、踊る。そしてアンコウは踊り続けた。

 

 アンコウは、ウッッヒヨョョーーウッ! と言ってみた。

 アンコウのまわりで踊り狂う裸形の者ども。老若男女、人間、獣人、それにわずかながらダークエルフの姿もある。

 

 いくぶん肌が衰え、乳が垂れている踊る女。しかし、髪型やその身につけている宝飾品から、貴族階級に属する女だとわかる。

 張り艶のある綺麗な肌、艶やかな髪、女性かと見まごう中性的な美しい顔の踊る男。しかし、テレサと同様その首に嵌められている首輪から、奴隷であることがわかる。

 その中年の女が美しい男を誘い、火柱の踊りの輪から抜けていく。

 

 踊るアンコウが次にその二人を見たとき、二人は踊りの輪のすぐ近くの床で絡まり合い、蠢いていた。享楽痴態(きょうらくちたい)の宴。

 アンコウが見たくもない そんな光景がここには(あふ)れている。

 

 そして、踊るアンコウに、見目麗しい裸の一人の女が近づいてきた。

 

「アンコウ様、寝台がひとつ御用意できました。御案内いたします」

 

 アンコウは、周囲にいる観察者の視線を感じる。離れた中央の台座からも。

「……ああ」

「では」

 

 その女に(いざな)われ、アンコウは踊りの輪から外れ、移動する。

 

「だ、だぁんなさまぁぁ?」

 アンコウに、腕を引かれてついていくテレサ。

 

 テレサは酒だけでなく、周囲に充満する蠱惑的な(こう)のかおりにも のまれてしまったようだ。

 

 アンコウが女に(いざな)われて行った先、ずらりと並ぶ寝台の列。その寝台の上には絡まりあう獣が何組もずらりと並んでいた。

 その中にひとつ、誰もいない整えられた寝台があり、女はそれを指し示し、アンコウにむかって、「さぁ、どうぞ」と言った。

 

「ああ」 アンコウはテレサと共に、その寝台に移動して、テレサに覆いかぶさる。とっくの昔に二人は裸である。

 

 アンコウとテレサも、そのずらりと並ぶ絡まりあう獣の一組となった。

 

 

 ―――中央、長台座の上。裸の美男子を組み敷くハウルが、わははと笑っていた。

 

 

 

 

 この大ホールには外からの明かりは入ってこない。もうアンコウにはどれぐらい時間が過ぎたのか、正確にはわからない。しかし、感覚的に、

(もう、夜が明けているんじゃないのか)と感じていた。

 

 そう感じとれるぐらいには、アンコウは正気を保っている。

 しかし、アンコウの後ろに横たえられているテレサは意識朦朧、「だぁんなぁさまぁ~」な状態だ。

 

 

 ホールの中では未だ、乱痴気騒ぎが続いている。

 

―――――

 

 

「アンコウ、どうであった今宵の宴は」

 

 ハウルが、下で(ひざまず)いているアンコウに問いかける。

 

「は、ハッ。な、なかなか……経験できない宴だったかと……」

「正直に申せ、アンコウ」

 

 ハウルは半笑いで聞いてくる。この問答を楽しんでいるらしい。

 アンコウは、自分の目の奥が少しこわばってくるのを感じた。

 

「……では、あの、公爵様。聞いてもよろしいですか」

「なんだ」

「………このような宴には、これからも出ることになるんでしょうか?」

 

 アンコウは、できる限り表に出さないよう努めていたが、その声に幾分怒りがにじむ。

 

(今夜だけならいい。だけど、これが仕事で、当たり前の日常になるのなら……)

 アンコウは、命を賭ける事になっても、また身の振り方を考え直さなければならないかもしれないと思う。

 

 アンコウを見下ろすハウルの口元から笑みは消えない。

 

「お前はどうしたいアンコウ。気に入ったのなら、いつもお前の席を用意しよう」

「い、いえっ、……こんなに騒がしくては、私の仕事である公爵様と昔話はできないのではないかと」

 

「ふふっ、ハッハッハッハッ!アンコウよ、俺もこんなところで思い出ばなしに興じようとは思わぬわ。

 ふふふっ、アンコウ、この宴は自由の宴ぞ。参加したい者だけが参加するものだ。今日は貴様の我が家臣となった通過儀礼も兼ねていたが、次はお前が参加を希望した時にだけ来ればよい」

 

「は、はいっ!」

(絶対に希望なんかしねぇっ!)とアンコウは心の中で付加えた。

 

 アンコウは少しほっとするものの、この先、このグローソンでの宮仕えの日々が本当に続くのかと思うと、いっそう気が重くなってきた。

 

 

「アンコウよ。それにもう一つ、我が臣下となったお前に、お前に贈るものがある」

 

 ハウルはそう言うと、パンッ! と一度手を打った。

 すると、アンコウのほうに向かって、妖艶な雰囲気を漂わせた裸の男が、その両手で木製の献上台をうやうやしく持って、近づいてきた。

 

 そしてその献上台は、ひざまずいた姿勢のままのアンコウの前に、コトリ と置かれた。

 そこのは何か片手で抱え持てるぐらいものが置かれており、その上に白い布がかぶせられていた。

 

「よい、見てみよ」

 ハウルがアンコウに言う。

「………はい」

 

 アンコウは献上台に近づき、手を伸ばすが、その手が ピタッと止まる。

(!これ、血か……)

 

 献上台の底と(かぶ)せられた布の下のほうが赤く染まっていた。

 アンコウは視線だけ、チラリとハウルのほうに向けるが、ハウルは一切表情を変えることなく、変わらずアンコウを見ていた。

 

(…………しかたがない)

 アンコウは視線を戻し、無言のまま、再び手を伸ばした。

 そしてアンコウは白布をつかみ、ゆっくりと動かし取った。

 

「なっ!?これはっ」

 白布の下から現れたものを見て、アンコウは驚き、一瞬固まった。

「に、人間の首か……」

 

 そう、ハウルが贈り物だとアンコウに差し出した献上台の上には、今斬ったばかりのような人間の生首が乗っていた。

 

 現れた予想外のものに、アンコウは驚きはしたものの、今さら生首ひとつで恐怖するほどアンコウも初心(うぶ)ではない。

 これは何のつもりだと、再び視線をハウルに向けた。

 

「見覚えがないか、アンコウ」

 軽く笑みを浮かべながらハウルが言った。

 

「えっ?……あっ!こ、こいつ!」

 ハウルに言われ、あらためて生首を見直して、アンコウは思い出した。

「こいつ!アネサで俺を拷問した連中のっ!」

 

 アネサがグローソンの手に落ちる前、アンコウはそのグローソンの関係者に拉致され、拷問を受けた。そのときに、一味の連中に指示をしていた男の顔だった。

 

「その男の名はデンガルという」

 

 確かそういう名前だったなと、アンコウも思い出す。

 

「一応俺に仕える貴族の手の者だ。俺の命を都合の良いように曲解し、勝手な真似をしたから斬った。俺にとっては虫けらのごとくどうでも良い男だが、お前の贈り物ぐらいにはなるかと思ってな、とりあえず首を落としておいた」

 

「………そう、ですか」

 

 アンコウは何とも言えない気持ちになる。どこかで会うことでもあれば、ぶっ殺してやりたい人間ではあったが、こんな風に首だけで出てこられても、特別うれしくもスッキリもしない。

 

「どうしたアンコウ。その首だけで不服なら、その者の一族郎党、ついでにその者の主の首も足してやってもよいぞ」

 

「……いえ、その必要は……」

「……ないか」

 

 アンコウを見るハウルの目が少し鋭くなる。

 

「アンコウよ、俺は下の者たちには寛容な男だ。義務さえこなせば、自由を認め、享楽(きょうらく)(ふけ)ることも許す。

 ただ、何をするにしても俺の機嫌を損ねるようなことはするな」

 

「は、はい……」

 ハウルの威圧的な言葉に、アンコウはまた顔を伏せた。

 

 何のことはないハウルはアンコウに、自分に逆らえばお前もこうなるということを見せただけだ。

 アンコウは心の中で、チッ、この野郎 と舌打ちをした。

 初めの頃よりは、ハウルに対する恐怖心も薄れてきてはいるようだ。

 

 アンコウは、ハウルのやること、生き方は自分には合わないと再認識した。

 ハウルが主宰する この宴のような享楽的な快楽に沈溺する喜びは理解できないし、主従として野心を共有することもむずかしいと思っている。

 

 グローソン公ハウルは、武を持って己の勢力圏を拡大し続けてきた。しかし、それに何の意味があるのかとアンコウは思っていた。

 このグローソンがあるウィンド王国はエルフが王族、支配者階級に君臨する国だ。自分たちに税を納めている限り、信じられないぐらい放任主義的な統治を行っているエルフたちであったが、それにも限度がある。

 

 もし、ハウルが限度を超えて、ウィンド国内で勢力圏を拡大すれば、エルフたちも動くはずだ。そうなれば、必ずグローソンは滅ぼされる。

 ハウルの軍事行動は、常にエルフたちの手の平から出ることはないという暗黙の条件下で許されているものに過ぎない。

 

 そんな中で、何十年と戦い続け、十分な富と権力を手に入れても なお戦うハウルという男は、アンコウの感覚でいうと、戦闘享楽者にしか見えないし、実際そうなのだろう。

 ハウルは、今宵(こよい)のこの狂楽的な宴と変わらぬ感覚で、戦争もしているのだろうとアンコウは感じた。

 

(いくさ)の駒として配下に加わることを望まれたわけではないけれど、この先大丈夫なのか。とてもじゃないが平穏無事な生活があるとは思えない………)

 

 と、自分ではどうしようもないことながら、アンコウは不安を感じずにはおられなかった。

 

 

 

 ごうごうと燃えさかっていた火柱が細くなり、音楽団の奏でる音色が緩やかなものに変わっていく。

 酔い潰れ、踊り疲れ、トリップして倒れ伏した人たちが、次々と運び出されてしまった宴の間。イカレた宴の時間が終わろうとしている。

 

「して、アンコウよ」

 

 少し考え事に気をとられていたアンコウに、ハウルが声をかける。

 

「えっ、あっ、は、はいっ」

 アンコウが慌てて顔をあげる。

 

「それは放おっておいてよいのか?」

「えっ?」

 

 ハウルは壇上から、アンコウの後方をあごをしゃくらせて示しながら言った。そのハウルの顔には、いたずら小僧のような笑みが浮かんでいる。

 何のことかわからないアンコウであったが、ハウルが指し示した後方を振り返り見た。そして、

 

「!?なあぁっ!」

 

 アンコウは、酒と御香(おこう)に酔い、酩酊していたテレサを自分が(ひざまず)いている場所の少し後方に寝かしていた。

 しかし、振り返ったアンコウの目には、テレサだけでなく、もう一人 別の人物の姿が映った。

 

 それは、金髪バーコードにテカテカに脂ぎった顔、はち切れんばかりのでっぷりおなか、デカいケツの色つやの良さが妙にムカつく、あの「イエェェーイ」の中年親父だった。

 

 それを見て、アンコウは怒鳴り声をあげた。

 

「オッサン!何やってんだっ!」

 

 金髪バーコードのでっぷりおなかは、酩酊するテレサに覆いかぶさっていたのだ。当然、二人とも裸。すでに男はテレサの足のあいだに割り入っている状態。

 テレサはとろんとした目をしており、男の首の後ろに両手を回していた。

 そして、迫る男の顔を見つめながら、

「アンコぉおうぅ、来ぃてぇぇん」と、言っていた。

 

 テレサはわかっていないが、ワン‐ロンで小オークに襲われていた時よりも、ギリギリの貞操の危機だった。

 

ドガアァッ!

「げふぅんっ!」

 

!!危機一髪!!

 

 アンコウのヤクザキックが、おやじのダボンダボンの脇腹にヒット、おやじはふっ飛んだ。

 

「このクソオヤジっ!油断も隙もあったもんじゃねぇっ!」

 

「ああっ!アンコぉおう~」

 

 テレサは助けに来たアンコウのほうではなく、ふっ飛んだ金髪バーコードデカいケツおやじのほうに腕を伸ばしている。

「チッ!」

 

 アンコウはテレサの横にしゃがみ込み、テレサの顔を無理やり自分のほうに向ける。

 

「こっちだっ、テレサっ」

「ええ~、あっ!アンコーだぁ~」

 アンコウの首に腕を巻きつけ、抱きついてくるテレサ。

 

「……テレサ、頼むからあんなのとだけは、間違えないでくれよ……」

 

 アンコウは視線の先に転がっている金髪バーコードの肉の塊を見て、つぶやいた。

 

 中央台座の上で、

「アッハッハッハッハッハーー!」

 と、ハウルの大きな笑い声が響いていた。

 

 

―――――

 

「………失礼いたしました」

 

 アンコウはテレサを横に抱きかかえ、再びハウルの下に(ひざまづ)いている。

 

「くっくっくっ。アンコウよ、今のはお前が悪い。ここでは女を抱くのも男を抱くのも自由だ。その女を他の男に抱かせたくないんだったら放置するな。くっくっくっ」

 

 ハウルは、今のアンコウ&テレサ&バーコードケツおやじの三人組による『ド下ネタコント』がいたくお気に召したらしい。

 

「アンコウよ、朝が来た。宴は終わった。お前の処遇とお前に与える知行地については近いうちに正式に通達する。それに従え、以上だっ!」

 

 ハウルは壇上から姿を消し、狂乱の宴が終わった。

 

 

~~~~~

 

 

ガラ ガラ ガラ ガラ ガラ

馬車が揺れる。

 

 帰りの馬車の中、アンコウはぐったりとし、目は開いているものの動かない。ただ出るのはため息ばかり。

 アンコウのひざの上に頭を乗せたテレサは、スヤスヤと寝息を立てているが、時折うなされている。

 

 日はもう空高く昇っている。アンコウは屋敷に着くまで、ただただタメ息をついていた。

 

(………ん?……知行地って何だ………)

 



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第83話 アンコウ いらない物をもらう

「ハァーッ、体がだるい……ちょっと寝すぎたか」

 

 窓の外に見えるお日様は、もう高くなっている。しかし、アンコウは上半身は起こしているものの、未だベッドの上だ。

 

 アンコウが、主君となったハウル公爵主催の享楽の宴に参加し、この屋敷に帰ってきたのは昨日の昼前、帰って来てすぐにベッドに倒れこみ、そして、目が覚めたのがつい先ほどだ。

 

 アンコウが眠るベッドの横にもうひとつのベッド。

(テレサはもう起きているみたいだな)

 

 昨日の昼前、屋敷に帰ってきたとき、アンコウは確かに隣のベッドにテレサを寝かした。

 疲労困憊していたのはテレサも同じで、実はテレサも今日の朝方までずっと眠っていたのだが、アンコウよりも少し前にベッドから出て、今はここにいない。

 

 アンコウが、このベッドで寝起きするようになってから、すでに一ヶ月以上が過ぎ、この枕にもすっかり慣れた。

 ハウルから声がかかるまでは平穏無事そのもの、仕事がなく、することがないことが不満だったぐらいのアンコウだ。

 

「まぁ、上げ膳据え膳の生活も、もう終わりだろうな」

 

 アンコウは窓の外の景色を見ながらひとりごちる。ただ、アンコウにはどんな新生活になるのか未だわかっていない。

 

「……戦争の駒になるのも、イカレた宴の常連様になるのも、俺ぁお断りだよ……」

 アンコウはまた、つぶやいた。

 

ガチャ

「あら、旦那様、起きられたんですか?」

 

 ドアを開けて入ってきたのはテレサだった。入ってきたテレサの様子を見るに、どうやら風呂に入っていたようだ。

 テレサに朝風呂をいただく習慣はないが、あの宴から帰って、そのまま寝ていたのだ。アンコウの体からも、いろんなニオイがしている。

 

「あ、あの………」

「あ、ああ………」

 

 二人の間に、何ともいえない空気が生まれる。二人とも間違いなく、例のイカレた宴のことを思い出している。

 

「……ああっと、テレサ?」

 アンコウがその妙な空気の中、口を開く。

 

「は、はい」

「あの宴のことなんだけどさ。もう出なくていいみたいだから」

「ほ、本当ですかっ?」

「ああ。でも自由参加らしいから、いきたいんならいけるけど」

「い、いきませんっ!」

 

 即答したテレサを見て、そうだろうなぁ と思う。

 しかし、あの宴には多くの人が参加していた。おそらく半分以上は貴族や社会的地位の高い階層に属する者たちだったと、アンコウは考えている。

 

「………まぁ、いろいろだわな………」

 

 自分にとっての普通や当たり前だと思っていることが、他者にとっても同じくそうであるとは限らない。そのことを改めて実感するアンコウだった。

 

「ん~~っ、はぁぁー、」

 伸びひとつ、アンコウは大きく息を吐きながら、ベッドから立ち上がった。

 

「俺も風呂入ってくるよ」

「あ、はい」

 

 アンコウは、そのままドアにむかって歩き出す。

 

「テレサも、もう一回一緒に入る?」

「えっ、え、ええっと、あ、あの」

 

 顔を赤らめて、うろたえているテレサ。30半ばになっても、テレサにはこういう初々しさが残っている。

 それを見て、十近く下のアンコウは、くすりと笑う。

 

 もじもじしているテレサを置いて、アンコウは部屋を出て行った。そのあとテレサがどうしたかは、アンコウにしかわからない。

 

 

 

 

 アンコウとテレサが少し遅めの昼食を終え、お茶を飲みくつろいでいた時、この屋敷の上級使用人の男が、慌ててアンコウたちがいる部屋にやってきた。

 

「ア、アンコウ様っ」

「ん?どうかしたのか?」

「は、はい。いま公爵様のお使いが、この屋敷に馬車で参られましたっ」

 

「!」

 公爵様のお使いと聞いて、テレサが身を固くする。

 

 二日前、この屋敷にやって来た公爵様のお使いにテレサは連れて行かれて、あの宴に参加することになったのだ。その話をアンコウも聞いている。

 

「………また、あの宴のお誘いじゃないだろうな」

 

 アンコウも冗談ではなく、あのハウル公爵ならおもしろがってやりかねないと思った。

 

「い、いえ、使者の方はモスカル殿で、公爵様の御伝命をアンコウ様にお持ちになられたとのことです」

 

「………ハウル公爵から、御伝命」

(そういえば、宴の終わりのとき、近いうちに正式に何か通達をするとか言ってたな、これの事かな………)

 

 アンコウは少し考えるものの、考えるよりも使者がモスカルなら直接聞いたほうが早いと思い、立ち上がった。

 

「まぁ、何のことかはモスカルに会えばわかることだ」

 

 アンコウは部屋を出ようと歩き出す。

 

「お、お待ち下さい、アンコウ様。モスカル様は公爵様の御伝命の使者なのですよっ、その格好でお会いなさるおつもりなのですかっ」

 上級使用人の口調は、あきらかにアンコウをとがめるものだ。

 

 アンコウは今、ラフな部屋着を着ている。普段ならモスカルに会うのに、この姿で何の問題もない。

 しかし、今のモスカルは、公爵の御伝命を持つ正式な使者なのだ。アンコウが主君からの正式な使者に、この姿で会うということは、あきらかに礼儀に反する行為に当たる。

 

「チッ」

 アンコウは顔をしかめて、舌打ちをした。

(これだから宮仕えなんてしたくねぇんだ)

 

 心の中で悪態をつくものの、嫌々ながらもグローソン公に従うと決めたのはアンコウ自身、受け入れるほかない。

 

「こういう時に着る 問題ない服ってのはあるのかい?」

「は、はい。こちらにご用意しております」

 

 アンコウは自分の頭を乱暴に掻き、ハァーッと、ため息をつきながらも、その使用人に従って部屋を出た。

 

 

 

 

―――アンコウが滞在している屋敷のもっとも大きな応対の間にて、

 

 ハウルの使者であるモスカルは、壁に彫り込まれた大精霊を背に立ち、うやうやしく書状を両手で開き持つ。

 モスカルの横にも、左右に一人ずつ、二人の男が立っている。その前には正装をして(ひざまず)き、(こうべ)を垂れるアンコウ。

 

 アンコウは心の底から面倒だと思うものの、宮仕えとなれば、こっちの世界は封建的階級支配の社会ゆえ、アンコウが元いた自由民主社会よりも、いっそうこの種の儀礼儀典作法(ぎれいぎてんさほう)ごとには重い意味があり、厳しい。

 

「御伝命!」

 

 モスカルがうやうやしく伝命書を読みあげはじめる。

 

「ウィンド王国臣、グローソン公爵 ハウル・ミーハシ (ほつ) 臣、アンコウに命ず。

 直臣の任、これを解き、別して、コールマルの地を知行地として与える。以後、これを治め、税を納めよ。また、公主公家より命ありし時は、万難を排して、帰参すべし!以上である」

 

 服装をわざわざ整え、仰々しい雰囲気の中、伝命書の通達はごく短い時間で終わる。

 しかし、アンコウはその短い伝命書の内容に思わず、バッと顔をあげてしまう。

 

(!知行地!?)

 

 そういえば、知行地がどうこうということも、宴の終わりの時にハウルが言っていたことをアンコウは思い出す。

 知行地といえば、主君から家臣が拝領する領地のことだ。どうやらアンコウは、グローソン支配下にある どこぞの土地の御領主様にされてしまったらしい。

 

「お、おいっ!ちょっと待って」

 アンコウが思わず立ち上がろうとすると、

「頭をさげよ、アンコウ!公爵様の命に異をとなえる気かっ!」

 

 モスカルがいつもとは違う厳しい口調でとがめる。今のモスカルはグローソン公爵の名代なのだ。

 

「!は、はっ」

 アンコウも再び膝を屈するほかはない。

 

 そのアンコウに、うやうやしく御伝命の書状が、モスカルから手渡されたのである。

 

「臣アンコウ、以後、不惜身命(ふしゃくしんみょう)して、ご恩に報じるように」

「は、ははっ」

 

 

 

 

 先ほどとは場所を変え、アンコウとモスカルはテーブルを挟んで向かい合って座っている。

 先ほどのような上下の関係性も仰々(ぎょうぎょう)しさも、今はまったくなくなっている。しかし、話をするアンコウの眉間には深いシワがより、楽しい会話というわけにはいかないようだ。

 

「どういうことなんだモスカル。何で俺が領地持ちにならなけりゃいけないんだ?」

 

 アンコウとしては、自分はハウルの暇つぶしのため、元の世界の思い出話のお相手要員として雇われたぐらいの感覚だった。

 ようは御伽遊興衆(おとぎゆうきょうしゅう)の一員であり、このイェルベンに中古の屋敷でも賜って、呼び出しがあれば城に行って、ハウル公爵の御機嫌取りをする。そんな役割になるのだろうと思っていた。

 

 もし、ハウルからの声掛かりが少なければ、近場の迷宮か、魔素の森にでも、魔獣狩りに行くことぐらいできるようになるかもしれないとさえ考えていた。

 

「いや、それは………アンコウ殿がそれだけのお働きをしたということでは………」

 

 モスカルの口は重い。モスカルは知っている。ハウルから御伝命の書状を受け取りに行った時、

 

「何、アンコウのヤツは年に一、二度、呼び付けて、話し相手をさせるか、将棋の相手でもさせればそれでいい。領地持ち、アンコウのやつはこういうのは嫌いだろう? 

 いつまでも迷宮で小銭稼ぎをしたがるようなヤツだからな。

 くっくっくっ、アンコウのヤツがこの伝命を聞いて、どんな顔をして、どんなことを言ったか後で教えてくれ、モスカル。

 くっくっくっ。ん?ああ、ここはド田舎のうまみの少ない土地だ。問題もあるようだしな。こんな土地がどうなろうと知ったことではない。誰が領主でもよいのだ、あはははっ」

 ハウルはいたずらっぽく笑いながら言っていた。

 

(アンコウ殿には言えぬよなぁ………)

 

「……働きってなんだよ」

「そ、それは、アネサでのお働き、サミワ砦での御活躍、そ、それにワン‐ロンの統治者様より頂いた御褒章なども、評価される対象なのではないでしょうか」

 

 モスカルはそれらしいことを言って、この場を収めようとしている。

 

「………なぁ、モスカル。あの公爵様はよ、もしかして、ただおもしろがってやってるだけなんじゃないのか……」

 

「!」

 モスカルが言葉に詰まり、アンコウから目をそらした。

バァンッ! テーブルをたたくアンコウ。

 

「やっぱりそうなんじゃねぇかよっっ!」

 

 少し申し訳なげな表情が顔に出たモスカルだが、続けて口にした言葉に、アンコウへの救いはなかった。

 

「………アンコウ殿。公爵様の胸の内がどうあろうと、この御伝命に変更はないことだけは、はっきりと承ってきております。お諦めください。御伝命は間違いなく伝達いたしました」

「ぐくっ!」

「それと、バルモア様の法力を封じた魔石をお預かりしてきています。これを使えば、アンコウ殿の臣下の腕輪を外すことができますので、直臣の証であるその腕輪は今日、回収させていただきます」

 

「腕輪は好きにしろっ、そ、それより知行地うんぬんのほうの変更はっ」

「ありません」

「くっっ!ふざけんなっっ!」

 

 アンコウがどれだけ怒り抗議したところで、ハウルが下した命令を、それがどれだけふざけた理由で出された命令であっても、一文官に過ぎないモスカルが取り消せるわけもなかった。

 

―――――

 

「はあぁぁぁーー」 と、アンコウは大溜め息をつく。

 

「では、アンコウ殿、確かにお預かりしていきます」

 

 モスカルはアンコウの右手から取り外したグローソン公の臣下の腕輪をうやうやしく袋の中に仕まう。

 

 アンコウは邪魔なものがなくなった右手をぶらぶらと振っている。

 しかし、邪魔なものがひとつなくなったはずのアンコウの顔色はさえず、気は重いままだ。

 

「アンコウ殿、臣下の腕輪はとりましたが、すでにアンコウ殿の名はグローソン公爵様の臣下の籍に入っております。今度無断で、その籍から逃れようとされた時は、問答無用で処断されることになるでしょう。そのことをお忘れなく」

 

 モスカルの忠告とも脅迫ともとれる言を聞き、アンコウは(うなず)くほかない。

 

「わかってるよ。逃げられなくて、ここに来たんだ。多少の無理は飲むさ。だけどな、俺は領地の税の取立てなんかしたことがない。代官かなんかを代わりに送るわけにはいかないのか?」

 

 モスカルはいたずらっぽく笑っていたハウルを思い出す。

 

「………おそらくそれは無理かと。しかし、アンコウ殿には自前の家臣も兵もありませんので、」

「そんなもん、日銭稼ぎの冒険者にあるわけないだろう!」

「ええ、ですから、公爵様への多少の支援の御要望は通るかと思います」

「ハァー、結局その領地はもらわないといけないんだな」

 

 モスカルは多少アンコウに同情するも、それ以上は何も言わなかった。

 

 

 

「…………ではアンコウ殿、私はこれにて失礼します」

 

 モスカルは話しを終えると、その席を立ち、再び馬車にて屋敷を去っていった。

 アンコウはそれを見送ることもせず、そのままモスカルのいなくなったテーブルに座り続けていた。

 

 

「………また逃げるか?……いや、それも面倒くせぇぇ……はぁぁー、」

 

 



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第84話 就職希望者

 アンコウは、今日も起きた時からイラついていた。

 イェルベンの空は、今日は天高く雲ひとつない青空。ただ、外に出て空見上げるだけで、気分が良くなる陽気だというのに。

 

「アンコウー、テレサと外にお昼食べにいくんだぁ。アンコウもいっしょにいこう」

 

 アンコウがいる部屋を廊下からカルミがのぞき込んでいる。

 

「いや、俺はいま忙しいから、二人で行ってきてくれ」

 アンコウは、カルミのほうを見ることもなく断った。

 

「ダメよ、カルミちゃん」

「あっ、テレサっ」

「旦那様は今お仕事中なの、さっ、早く用意していらっしゃい」

「はぁ~い」

 

 パタパタと、カルミが部屋の扉のあたりからいなくなると、テレサは部屋の中に入り、アンコウの近くまで歩いてきた。

 

「あ、あの、本当にまた二人で外出してきていいんですか」

 

 ここのところテレサは、カルミにせっつかれてという事もあるのだが、毎日のように二人で外出している。

 

「ん?ああ、かまわない。言ったろ?いつまでここにいられるかわからない。この街で行きたいところがあるんなら今のうちに行っといてくれ」

 

 アンコウがここ数日イラついている原因は、ハウル公爵からの御伝命により、どこにあるかもわからない土地の領主にされてしまったことだ。

 そのことは、すでにテレサも知っている。

 

 テレサは、アンコウの口から、

『もし、本当にそこに行くことになったら、テレサも連れて行く』と、はっきりと聞いた。

 それならば、テレサはアンコウについていくだけであり、アンコウと違って、悩んだり(ふさぎ)ぎ込んだりすることなく、実に落ち着いたものだ。

 

(……旦那様には悪いけど、私はあまりこの街にはいたくない)

 

 テレサは、このあいだ参加させられたハウル公爵主催のいかがわしすぎる宴の衝撃が、今も強く心に残っていた。

 

 アンコウからは、もうあの宴に参加することはないと言われたものの、もし公爵に参加せよと言われたら断れないこともよくわかっている。

 当然、イェルベンにいるほうが、先日のような怪しい行事に誘われる可能性は高いはずだ。それを思えば、このイェルベンから出ること自体は悪いことではないと思っていた。

 

 

「テレサ。昨日も言ったけど、街に出たら、ついでに旅に必要そうなものも買っておいてくれ」

 

 よくわからない領地に行くなど、まったく気が進まないアンコウなのだが、一応準備はしておくつもりのようだ。

 

「あの、カルミちゃんの分も」

「ああ、カルミも連れて行く」

 

 カルミの戦闘能力はきわめて高い。アンコウはカルミが自分についてくるのなら、どこに行くにしても、カルミの利用価値は高いと考えていた。

 一方、カルミにずいぶんと情が移ってしまっているテレサは、アンコウとはまったく違う意味で、カルミとは離れがたいと思うようになっている。

 

―― テレサぁー、用意できたよぉー

 

「あっ、はぁーい。いま行くわぁーっ」

 

 アンコウが、気をつけてな と言うと、テレサは笑って会釈し、急ぎ足で部屋を出て行った。

 

 

 アンコウはハウルから御伝命を受け取って以来、ここ数日の間どうにもならないことで無駄にイラついている自覚はあるものの、気持ちを切り替えるにはまだ時間がかかりそうだった。

 

「………まったく何なんだよ。わけのわからない命令をしといて、ほったらかしかよっ」

 

 正直言って、アンコウはこれからどうしていいのかまったくわからなかった。縁もゆかりもない土地の領主になれと言われて、それっきりなのだ。

 

 ただ、この数日の間なにもしなかったわけでもない。

 頭にきたアンコウは、先日モスカルが多少の支援の要望は通るだろうと言っていたのを思い出し、一応自分の主君になったハウルに宛てて手紙を書いた。

 

 手紙の内容としては、

まず、領主なんかしたくない ということを、命令を拒絶しているように取られない様な言い回しで書き連ね、

それでもモスカルの態度から、何を言ったところでこの命令が取り下げられる可能性は低そうだということは感じていたから、

次に、どうしても領主の真似事をしなければならないのならば、自分は経験も才能もないことを強調しつつ、

潤沢な資金と、数も質も申し分ない兵隊と、寝てても勝手にその領地とやらの運営をしてくれる行政文官団を寄越せと、

それ以外にも思いつく限りの欲しいものを次々とあげ連ね、気がつけば、自分の欲しいもの要望書というようなものが書きあがっていた。

 

 そして、それを持って本当に城に行った。だけど、勢いだけで城に行ったところで、すぐにハウルに会えるわけではない。モスカルもつかまらなかった。

 そしてアンコウは気づく、自分はこの城に知り合いらしい知り合いなんていねぇと。

 

 妙に頭にきたアンコウは、通りすがりのちょっと偉そうに見えた文官服の男に、

「これを公爵様に渡しておいてくれっ!」と、無理やり押しつけて帰ってきたのだった。

 

 

「……あの手紙どうなったかな、感情に飲まれてバカなことをしたよ。そのまま捨てられてるかもしれないな……いや、捨てられてた方がいいな。……はあぁーー」

 

 アンコウは自分の感情まかせの稚拙すぎた行動に、ちょっと自己嫌悪していた。

 

「チッ、せめてモスカルに頼むべきだった……もっぺん書くかな、もうちょっとまともなやつを………」

 

 確かにアンコウはハウルの下につくことは受け入れたが、それでも何でもかんでも言うなりになっていたら、あのホモ野郎は面白半分で何を言ってくるかわかったもんじゃないと思っていた。

 

「…………といってもなぁ、何ができるってもんでもなし。どうしたもんか」

 

 アンコウはひとり、日当たりの良い部屋で、イライラもんもんと考え悩んでいた。

 

 

 

「アンコウ様、よろしいでしょうか」

 

 突然声をかけられ、アンコウが顔をあげると、開け放しになっている扉のところに、男の使用人が立っていた。

 

「ん?どうした?」

「あの、アンコウ様の御友人という方が訪ねてきておられるのですが」

「友人?」

「はい、冒険者のような風体のダッジという方で、女の獣人の奴隷を1人、伴っているようですが」

「ダッジがここに?」

 

 アンコウは瞬間少し眉をひそめて、なにやら考えを巡らし、首をひねる。

「ふ~ん、ダッジがね~」

 

 アンコウがこのイェルベンで偶然ダッジと出会ってから、すでに10日以上が過ぎている。

 アンコウは、そのダッジが突然この屋敷に訪ねてきたことについて、何やら思い当ることがあったらしく、口の端にニヤリと笑みを浮かべた。

 

(耳が早いな、ダッジのやつ。しかし訪ねてくるかよ)

 

「その2人、ここに通してくれ。椅子と茶の用意も頼む」

「はい、かしこまりました」

 

 

―――――

 

 

「本気で言ってんのか、ダッジ」

「ああ、本気だ」

 

 テーブルを挟んで、アンコウの真正面に座るダッジは、(にら)むような真剣な目でアンコウを見ている。

 ダッジは開口一番、お前の手下にしてくれと言ったのだ。

 その一言でアンコウは、ダッジが自分がグローソン公から知行地を賜ったということを知っていると確信が持てた。

 

(……まぁ、そんな話だろうとは思ったけどさ。いきなり頭下げて、手下にしてくれとはな……ダッジのあれも、くるところまできたって感じだな)

 

「で、どこで聞いてきた?……俺が、どこぞの御領主様になるかもって話だよ。早耳にも程があるぜ」

「…………」

 ダッジはアンコウから目を逸らすことはしないが、口は開かない。

 

「おい、ダッジ。手下にしてくれなんて言ってきたヤツが、いきなりだんまりか。お前ならどうするよ、そんなやつ手下にするかい?」

 アンコウは余裕のある口調で問いただす。

 

 一方、ダッジのほうは少し苦しげな表情をしている。あきらかにアンコウが言っている事のほうに利があり、ダッジも自分の望みをかなえるためには、答えないわけにはいかない。

 

「………デグというやつを知っているだろう、アンコウ」

「んん?デグ?…………あっと…確か…下男のデグのことか?」

 

 とっさにはわからなかったアンコウだが、この屋敷で掃除や飯炊きをしている下男に、そんな名前の男がいたことを思い出した。

 

「そうだ、そのデグだ」

 

 

 ダッジの話によると、ダッジはそのデグという下男に金を握らせ、この屋敷の情報を収集していたらしい。

 

 アンコウが、「いつからだ」「なんでそんなことをしていた」と聞けば、この屋敷の(アンコウの)情報を集めるようになったのは、先日アンコウと縞栗鼠亭(しまりすてい)で会った直後から。

 

 ダッジは縞栗鼠亭(しまりすてい)でアンコウに激しく侮辱されたのにもかかわらず、その前に聞いたアンコウとグローソン公のつながりの話から、グローソンの権力者と何らかの伝手(つて)ができるのではないかと、アンコウに探りを入れていたようだ。

 

(たくましいというか、(したた)かというか、しつこいというか)

 アンコウも少しあきれるダッジの執念だ。

 

「………なるほどね。だけど、俺んところに来るのは見当違いだ。だいたい俺は御領主様になんかなるつもりはないんだよ、ダッジ」

「……断るのか?いや、断れねぇだろう、アンコウ」

 

 今のアンコウはすでにグローソン公の家臣となっている。常識的に言って、正当な理由なく主君の命令を断ることは難しいだろう。

 それにダッジは、このあいだ縞栗鼠亭(しまりすてい)にて、アンコウとグローソン公とのこれまでの経緯を、アンコウが一部伏せておいたことを除いて、おおよそ聞いていた。

 

「お前は逃げて、逃げて、そして諦めてここにいるんだろう。今度逃げたら縛り首なんじゃねぇのか」

 ダッジは確信を持って言う。

 

「チッ」

(余計なことを話しちまったかな)

 

 アンコウは舌打ちをし、茶をひとくち口に運ぶ。そしてまた口を開く。

 

「いいか、この話はな、公爵の俺への嫌がらせみたいなもんなんだ。知行地をもらったなんていってもな、そこは山ん中の濃い魔素地帯かもしれない。もしかしたら、ただのゴミ捨て場ってこともありえるな………………」

 

 話しながらの思いつきで、濃い魔素地帯だのゴミ捨て場だのと言ったアンコウだが、いざ口にしてみると、

(………本当に可能性あるよな、あのおもしろがりならやりかねない………)

と、さらに不安が増してくる。

 

「……ふざけるなよアンコウ。コールマルだろうが。それも知っている」

「あん?」

 

「チッ、確かにあそこはグローソン支配下の北の辺境だ。ろくな産物は聞かねぇし、間違いなく小領だ。だからと言って、兵隊がいらねぇなんて平和な土地はこの世界のどこを探しもないだろうがっ。断るにしても、もうちっとマシなことを言え」

 

 アンコウは少し目を見開いて、ダッジの顔を見つめている。

 

「………なんだ。ほんとにあるんだな、そこ」

「ああ?」

 ダッジが訝しげな目でアンコウを見つめ返した。

 

「……お前まさか…コールマルがどこにあるのかも知らなかったんじゃねぇだろうなっ」

「知らん」

「くっ!ふ、ふざけんじゃねぇぞ、アンコウ!」

 ダッジが嫉妬含みの怒声を発する。

 

「んだよっ!コルマルか、おまるか何だか知らねぇけどな、んなところ、行ったことねぇんだよっ!」

 

「行ったことがあるなしの問題じゃねぇだろう!伝命が下りてから何日経ってんだっ!それぐらい調べとけっ!てめぇ、今日まで何してやがったんだっ!」

 

「な、なんだとっ!いろいろ俺もやってたんだよっ」

「いろいろって何だっ」

「…あぁ、て、手紙を書いたり、だ」

「アア?何の手紙だよ」

「………う、うるせぇ!そもそもお前には関係ない話だろうがっ!黙ってろっダッジィッ!」

 

 柄悪く、品のない口論がこの後もしばらく続いた。ダッジの後ろに控えていたホルガは、一言も口をはさむことなく、じっと立っていた。

 

―――――

 

 さすがにしばらくすると、声を出し疲れたのか、二人ともクールダウンしてくる。

 

「……チッ、なぁ、ダッジ。仮に俺がその御領主様になったとしてだ。所詮辺境の小領なんだろう。あんたそんなところに行って、俺なんかに下についてうれしいのか?」

 

 ダッジの顔が隠すこともなく歪む。

 

「………………今よりはマシだ。お前はグローソン公を嫌っているみたいだがな。グローソンの勢力は確実に増している。戦える人材はこれからも必要になるはずだ」

 

「あんたは俺の下につくことを成り上がりの糸口にするつもりかもしれないが、俺は戦争には極力参加するつもりはない。そのコールマルってところがある辺境は、公爵が主戦場にしている前線から程遠い場所なんだろ?そんなとこ行ってどうするつもりなんだ」

 

「言ったろ?今よりはマシ、だ。このままの状態じゃあ話にならねぇんだ。今のままいくつ戦場を巡り歩いて、ちょっとした戦功を立てたところで、俺は使い潰しの流れ者のままだろう。いいとこ高給取りの傭兵隊長だ。

 悔しいがな、アンコウ。今の俺は、お前にも剣をもって敵わねぇ。俺には単身、成り上がるだけの力が足りねぇ、それは認めるしかない。だったら賢くやるしかない。

 まずは下の下でも、下の下の下でもかまわない、グローソンの内側に入る。そこから始める」

 

「……わからないな。元騎士の家門っていっても、言っちゃ悪いが大した御家(おいえ)でもなかったんだろう。何でそんなに必死になって、御家再興なんてことがしたいんだ?」

 

「さぁな、俺にもよくわからん。ただ俺はそれを欲している。まぎれもねぇ俺の欲だ。無論、雇ってくれたら、その責任は果たす。お前のために汗も血も流す。ただ、もし機会があれば、俺は少しでも上を目指したい」

 

 これが隠すところのないダッジの野心なんだろう。それを聞いてアンコウは、(おとこ)だねぇダッジ と思った。

 

「……………そうか。わかったよ、ダッジ」

「ア、アンコウっ、じ、じゃあ、」

 

「ああ、ダッジ、がんばってくれよ………ただし、俺がいないところでな。近くにいられても鬱陶しいから」

 

「!くくっ!アンコウてめぇえ!」

 

 結局アンコウはダッジの願いを最後まで受け流し、相手をするのが面倒になった時点で、丁重にお引き取りいただいた。

 



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第85話 宮仕えの準備

 アンコウが感情まかせに、自分の要望を書き連ねた手紙。

 勢いのままに城に行っても、伝手(つて)もなく右も左もわからない状態の中、たまたま見かけた何となく偉そうな文官服を着た男に押し付けた あの手紙。

 

「くっくっくっ、アハハハッ!バルモア、これを読んでみろっ」

 

 その手紙は、しっかりグローソン公ハウルに届けられていた。執務室の机に座り、声をあげて、面白そうに笑うハウル。

 ハウルは、横に控えていた側近の一人であるダークエルフの精霊法術師バルモアに、自分の手に持つ手紙を渡した。

 

~~~

 

「………何ですかこれは」

 

 アンコウの手紙に目を通したバルモアは、思いっきり眉間にシワを寄せている。

 明らかに過剰に見積もられた 金に兵に人にモノ、一応役目上必要なものにとどまらず、個人的に欲しいと思うものまで書き連ねている アンコウからの御手紙(おてがみ)だ。

 

「くっくっくっ、相当俺の下で領地持ちになるが嫌だったんだろう。これ以上ないぐらいのヤケクソのバカ手紙だ。そのくせ、妙に気を使った言い回しを使っているのが実に笑える。クックッくはははっ、なぁバルモア、笑えるだろう?くっくっくっ」

 

 ハウルは、モスカルの報告で聞いたアンコウの言動といい、この手紙といい、予想どおりに笑えるアンコウの反応を得られたようで上機嫌だ。

 

「はい、確かに笑うしかありません」

 バルモアは主君ハウルにあわせ、頭をさげたが、内心苦いものを感じていた。

 

 バルモアのハウルに対する忠誠心に嘘偽りはない。しかしバルモアは、常にこのハウルが行う治世に関しては頭を悩ませていた。

 

(ハウル様は内政に無関心すぎる)

 

 ハウルの内政に関する姿勢というものは、結果として、エルフの王族たちのやりようとよく似ている。放任統治である。

 ハウルもエルフも同じく、実に享楽主義的な生き方を嗜好している。ただ、エルフたちがあまり積極的に戦闘というものを行わないのに対し、ハウルは戦闘という行為も、その享楽の対象としている。

 

 グローソンが属しているエルフが王族のウィンド国では、その臣下であるはずのハウルたちのような爵位領土持ちの貴族や豪族たちが群雄割拠し、興亡を繰り返している。

 

 ハウルはその戦闘享楽者ぶりゆえ、ウィンド王国内において、一代でここまで権力者として台頭してきたのだが、内政にはあまり関心がなく、人任せにしている部分が大きい。

 それゆえに、ウィンド王国内で行われている内戦同様のことが、少なからずグローソン領内においても起きていた。

 

 その現状を常にバルモアは憂いていた。

 

(領内での反乱、領内領主同士の諍い、何とも頭の痛いことよ)

 

 そのハウルの無策ぶりをバルモアたちのような側近たちがフォローしている。しかし、あまりバルモアたちは直接的な諫言をハウルに行うことはしない。

 

 ハウルに疎まれ、権力の場から遠ざけられてしまえば、フォローすらできなくなるし、何よりハウル自身がその現状を知った上で、改める気がないということをバルモアたちは知っているからだ。

 

(ハウル様は良くも悪くも武を尊ぶお方よ、それに付き従って、我らもここまでやってきたのだ)

 バルモアはそのことに後悔はないし、ハウルへの忠誠も真実無比を自負している。

 

 グローソン公ハウルは自覚しているのだ。所詮自分たちはエルフどもの手の平のうえ、やつらのルールの中で生きているのだと。

 実はこのハウルの現実認識は、アンコウのそれとまったく一致している。

 そのうえで、

 

 どうせ何をやってもエルフたちには敵わないのに、何で戦争やら権力やらに関らないといけないんだ? というのがアンコウ。

 

 エルフどものご機嫌さえ損ねなければ、何をやってもいいんだろう。ならば思う存分戦いを味わい、得た権力で快楽に身を浸そう。というのがハウルか。

 

 基本的には二人の性格の違いが端的に現れた価値観の相違だ。

 しかし、ハウルはこの世界に落ちてきたときから、アンコウよりも大きな個の戦闘能力を有していたという事実も大きい。

 

 弱肉強食実力主義のこの世界において、トリップ時のその戦闘能力の差が、その後の二人の有様(ありよう)に極めて大きな影響を与えたことも間違いない。

 

 また、ハウルは、アンコウが自分の配下となることを拒否したときに何度か口にした『 趣味じゃない』 という言葉は、本心であり真実だと思っている。

 それでもハウルは、アンコウが自分の配下に入らず、自由に生きることを許さなかった。

 

 なぜなら、ハウルがアンコウを自分の配下に置くことが、自分の趣味にかなうことだからだ。優先すべきは他人の趣味ではなく、自分の趣味ということだ。

 弱き者は強き者に従う。力なき者に選択肢などない。それはたとえ世界が違えども、誰も逃れえない摂理なのだろう。

 

「くっくっくっ、バルモアよ。アンコウのやつめにはどうしてくれようか?」

「………そうでございますな」

 

 この手紙に書き連られられたアンコウの個人的な要望などは放っておいたらよいと吐き捨てるバルモアだが、何もしないわけにもいかないとも思っている。

 おそらくハウルは、このままアンコウ一人で送り出すのも、それまたおもしろいぐらいに思っているだろう。しかし、バルモアは違う。

 

(北の辺境の小領とはいえ、荒れるがままに任せてよいということはない)

 

「やはり、最低限度の支援の要望に関しては為すべきかと」

 

「ふぅむ…そうか、では後はお前に任せる、バルモア」

「ハハッ」

 

 

 

 

「はぁぁー、やっぱり断れないんだな」

「はい、あの御伝命自体は受け入れてください」

 

 天井を見上げて嘆くアンコウに、最終伝達に来たモスカルが声をかける。

 

「モスカルにも悪かったな。だけど本当にいいのか?」

 

「ええ、公爵様からの命令ですから」

 モスカルは淡々とした表情で答える。

 

 実はアンコウの領地先への赴任に際し、モスカルも同行することになった。

 

 アンコウは例のハウル公爵への手紙に、行政手腕に長けた文官団を寄越せ的なことも書いていた。

 無論、アンコウが拝領した辺境の小領に対し、そんなものが与えられるわけはないが、実務行政指導官として、数名の人物はつけてもらえる事になった。

 

 そして、アンコウの手紙にモスカルみたいな人材という一文があったことから、その行政指導間の筆頭として、モスカルが任命されることになってしまった。

 

 あの手紙を感情のままに勢いで書いていたアンコウとしては、モスカルの名前なんか書いたかなという程度の記憶しかないものの、いろいろ世話にもなってきたモスカルが、自分が書いた手紙が原因で、そんな僻地に付き合わせることになったことを申し訳なく感じていた。

 

「気になさらないで下さい、アンコウ()。私はもう何年もひとつのところに留まっていたことなどないのですから。これまでと何も変わりません」

 

 モスカルの文官としての能力は決して低いものではない。

 しかし、グローソン公の臣下の中には、モスカルと同等程度の能力を持つ人材なら、いつでも替えがきくほどに存在していた。

 それに、モスカルはハウルに忠誠は誓ってはいるものの、子飼いの臣というわけではなく、ハウルにとって何か特別な関係性がある家臣というわけでもない。

 

 それゆえに、モスカルをアンコウに同行させるということは、特に反対する者もなく、かなりあっさりと決まったようだ。

 

「………まぁ、モスカルにそう言ってもらえると助かるよ」

 

 

 ただ、実質バルモアが決めたアンコウに対する支援内容は、人的なものはモスカルたち数名の行政経験者と、そのほかには ある程度の食料と支度金だけだった。

 

 領地を与えられ、そこに赴く。そんな経験など、当然アンコウにはない。

 領地経営に関する知識などもなく、コールマルという土地に関する情報も、まったく持っていないアンコウには、これから自分がやるべきことが何なのか、おぼろげにすら 見えてこない状態だ。

 

「なぁ、モスカル。早速なんだけどな、俺たちだけで、そのコールマルってところに行って何とかなるものなのか?」

 

 アンコウのその質問に、モスカルの表情がとたんに厳しくなる。

 

「相当に……あらゆることが難しいと思います」

「………まっ、そうだろうなぁ………」

 

 たとえ小領とはいえ、知識も経験も情報もない自分が行って、すぐにその土地の統治などができるとはアンコウも思っていない。

 だから、どうしても行かなければならないのなら、できないことは他人任せにしようと思ったのだ。だけどそれも、モスカルを借り受けただけでは簡単にいきそうもない。

 

「なぁ、そこはどんなとこなんだ?辺境だとは聞いたけど、安全なところなのか?」

「……」

 モスカルは無言で首を横に振る。

 

「……行って歓迎されると思うか?」

 

「……前々任の領主は、実質謀反による戦闘で死亡しています。

 その次の領主は代官を派遣し、すべて任せていたようですが、その代官というのも領内の実力者たちのあやつり人形のような存在だったようです。

 しかし、そのようなことはどこにでもある話ですし、義務と定められていた税はきちんと納めていてたようで、何ら問題視されていなかったと聞いています。

……しかし、こたびのグローソン領内での反乱で、その代官を派遣していた前任の貴族が叛徒として処罰されたため、領主不在となったコールマルを今回アンコウ殿に与えることになったのです。

 ああ、それと、その前任時代のお飾り代官は、前領主の反乱に連座して、コールマル領内で地場の実力者たちに捕らえられ、すでに首をはねられています」

 

 アンコウの顔色が見る見る悪くなる。

 

「………貧乏くじか?」

「……かも、しれません」

「やっぱり代官を頼んで、そいつに任せよう」

「……無理かと。公爵様はアンコウ様に行かせたがっているようですので」

「俺が嫌がることをして、おもしろがってるだけだろ?」

「……」 モスカルは口をつぐむ。

「……もう一回逃げよう」

「次は殺されますよ」

「……」 アンコウは口をつぐんで、顔を伏せてしまった。

 

 モスカルは軽く目を閉じて、ふぅーっと、大きく息を吐いた。そしてまた目を開いて、アンコウを見た。

 

「とりあえずは、コールマルに行くほかありません。しかし、現状では行くだけでも、いささか不安かと」

 

「……そうなのか?」

 

「今でも無理だとは言いませんが、最低限度の資金、食料、護衛兵は必要です。資金、食料は支援されたものを使えば、ぎりぎり何とかなるかもしれませんが、兵は……」

 

「兵も公爵様から借りられないのか?」

 

 モスカルは首を振る。

 

「とりあえず最低50もいれば形は整うでしょうが、そのままアンコウ様の手勢として、コールマルに留まってもらわなければなりません。もし、公爵様から兵を借りられたとしても、彼らはコールマルに着き次第引き揚げてしまうでしょうし、現地で徴集できる保証もないのです。

 金で傭兵を雇い続けるほどの資金があれば別ですが……」

 

「………なぁ、モスカル。俺、本当にコールマルに行かなきゃいけないんだよな」

 

 アンコウは、いつまでも相当にぐずっている。

 しかし、

「アンコウ殿、それに関しては最早(もはや)悩むだけ無駄。選択肢など他にありません。あきらめてください」

 モスカルに無情に言い切られてしまう。

 

「………はぁっ、」

 

 アンコウは再び天井を仰ぎ見る。

 そして、アンコウの目に映る天井のシミが、ある男の顔に見えた。

 

「………モスカル、安い給金で護衛兵の成り手に少しあてがある」

 

 アンコウは天井を見つめながら、そうつぶやいた。

 

 

 

 

 昨日モスカルと会っていた屋敷の同じ部屋、同じ椅子にアンコウは座り、そして、昨日モスカルが座っていた椅子には、ダッジが座っている。

 

「本当かっ、アンコウ!」

 

「いや、待て、本決まりってわけじゃない。ただ、やっぱり領地持ちになるのは断れそうもなくてな。支援するからとか言って、上の連中、金と食料と、行政官まで送ってきやがったんだ。はぁっ」

 

 アンコウは自分の本意ではないのにという風情で、首を横に振っている。

 

「まぁ、多少人手が足りないからといって、コールマルはグローソン領内の小領だ。()()()()でたいした問題があるわけじゃない。

 だけどダッジ、やっぱりあんたは、良くも悪くも昔馴染みだ。このあいだは冒険者仲間の頃のノリで、強い言い方もしたけれど、あんたの真剣さが心に残ってな。

 俺も一応情報を集めたんだが、コールマルって土地は、あんたが言っていたとおり、辺境の何もなさそうな土地だ。俺としてはそんな土地は欲しくもないが、今では俺もグローソン公の正式な家臣だ。命じられれば、従うほかない」

 

 アンコウはそう言いながら、テーブルの上にグローソン公の名で書かれ、正式な印章が押されている知行地授与の書状を広げて見せた。

 それを食い入るように見るダッジ。

 

「もう一度聞くぞ。俺の下について、そんな辺鄙(へんぴ)なところに本当に行きたいのか、ダッジ」

 

「………ああ、ただし、俺を正式なお前の家臣として、名簿に載せてくれ。それに、裏切るようなことは絶対にしねぇが、上を目指す機会があったときは名簿から抜けることを許してほしい」

 

 アンコウの家臣名簿に乗れば、陪臣ながら、ダッジもグローソンの正式な臣下となることを意味する。

 そこから出世の道が開ける可能性は、低いといえどもゼロではない。

 ダッジにしてみれば、今よりはマシ、なのである。

 

 アンコウは、わざとらしく ハアアーと、大きく息を吐き出したあと、

 

「昔馴染みだ、仕方がないか……ただ、現状 別に人材の募集をかけていたわけじゃなし、正直、俺にもメリットが欲しい。だから俺のほうからも、ちっと持ち掛けたい話がある。何、ダッジにも悪い話じゃねぇと思うぜ。

 なぁ、ダッジ。メシだけ食わしておけば、当分コールマルまでついてくるような連中を集められるか?いや、どうしても必要ってわけじゃないんだけどな。何分この御時勢だ、どこでどんな物騒なことがあってもおかしくない。多少手持ちの兵があっても困ることはないだろうと思ってな。

 いや、なけりゃないでいいんだが、あんたには他にも食い扶持に困っている知り合いやお仲間もいるんじゃないかとも思ってな」

 

「お、俺の仲間たちも連れて行ってくれるのか」

 

「まぁ………昔馴染みの顔は立ててやらないとな。俺も兵があって困るワケじゃない。メシは食わす。給金は働きを見てからだな。50人ぐらいなら何とかなると思う」

 

「ありがてぇ、仲間たちに不義理をしなくてすむぜ。なぁ、俺についてきた連中はもう50人も残ってねぇが、こっちで知り合ったやつらもいる。そいつらもいいか」

 

「チッ、仕方ないな……50人までだぞ」

「ああ、わかった。感謝する」

 

 アンコウは、なるべくダッジに借りは作りたくないと思っている。

 

(切羽詰ったヤツはだめだよなぁ、余裕がないヤツはいいように使われて損をするってな)

 

「ああ、それからダッジ、それとは別に頼みがあるんだが」

「ん?なんだ」

「ホルガを譲ってくれないか?」

「何?ホルガをか?」

「ああ」

「…………」

 

 ダッジが所有する獣人女奴隷戦士ホルガ、彼女もまた抗魔の力を保有している。

 アンコウがアネサの迷宮でダッジとパーティーを組んだときは、いつもダッジはホルガも帯同しており、ホルガが十分戦える戦士だということを知っている。

 

 そのホルガは今もダッジの後ろに立ち、控えている。

 ホルガはアンコウの突然の要求を聞き、わずかに眉を上げたが、ただそれだけ、目に見える大きな反応は示さなかった。

 

 ホルガは生まれついたときからの奴隷だった。ホルガはこれまでに何人もの主の手を経て、数年前にダッジの所有物となって現在に至る。

 アンコウはいつだったか、ダッジが アイツは奴隷以外の生き方はできねぇ とホルガのことを言っているのを聞き、なるほどその通りかもなと、思ったことを覚えている。

 

(抗魔の力持ちの戦士は貴重な戦力になる。それに、万が一ダッジのやつが敵にまわったとき、ホルガがいないほうが楽に始末できる)

 

 アンコウはこの時点で、ダッジという男を無条件で信用しているわけではない。

 

 アンコウはダッジに対して、ホルガを譲渡することについて説得するような言葉も、無理強いするような言葉を吐くこともなく、じっとダッジを見ていた。

 なぜならアンコウは確信していたから。

 ダッジの騎士の生まれである御家再興への執着心は相当に強く、どんなものであれ、今の境遇か抜け出せる切っ掛けが掴めるのなら、ホルガを手放すことを選ぶだろうと。

 

 ダッジがその結論を出すのに、それほどの時間は要しなかった。

 

「…………わかった。ホルガはお前に譲る」

 

 アンコウはにやりと笑う。

 

ドサンッ、ジャラジャラッ

 アンコウがテーブルの上に袋を置いた。

 その袋の口は開いており、中に金貨銀貨が見えている。

 

「!……アンコウ、何だこれは」

「決まってるだろう。ホルガの買い取り賃だ」

 

「!」ダッジは驚いた。

 てっきり、アンコウの臣籍に入れてもらえる代わりに、ホルガは無償で引き渡すことになると思っていたからだ。

 

 それに数えるまでもなく、あきらかにその袋の中に入っている金銀貨の額が多すぎる。

 

 実はアンコウ、個人的に使う分には多少金に余裕がある。

 ネルカの騒乱時、滞在していた屋敷から掻き集めた金。

 サミワに砦脱出時、砦に蓄えられていた公金を拝借した金。

 グローソンに追われ、あちらこちらを逃亡し彷徨(さまよ)っていた時、そのあちらこちらで盗んだ金。

 ワン‐ロン滞在時、ナナーシュからなんやかんやの名目で、賜り、あるいは頂戴した金。

 先日、このイェルベンでからまれ、シバキ倒した5人組のチンピラから巻き上げたささやかな金。

 それに、グローソン公から賜ったばかりの支度金も自分の懐に入れた。

 

 その合計は決して少ない金額ではなく、アンコウは、いつのまにやら小金持ちになっていた。

 

「………ダッジ、50人の仲間の旅支度もいるんだろう。いろいろと入用なんじゃないのか」

 

「!くっ…す、すまねぇ、アンコウ。い、いや、今からは大将だっ」

 

 ダッジは金の入った袋を両手で抱え、厳つい顔の大きなギョロ目に涙を溜めていた。

 

 それを見たアンコウは、心の中で うまくいったとほくそ笑んでいた。

 

(へへっ、相当追い込まれてたんだな、ダッジのやつ。いい取引になったよ)

 



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第86話 領地コールマルへの旅程

「カルミっ!そのまま突っ込めぇぇ!」

「うんっっ!」

 

 それまで後方に控えていたアンコウとカルミ。予想外の戦況の悪さに、二人飛び出すように荷馬車の元を離れた。山賊たちの数は思いのほか多く、

 

「チィィッ、百はいやがるっっ」

 

 おそらくアンコウたちの倍ほどはいる。

 アンコウはつい先ほどまで敵の数はその三分の一ほど、偶発的な接触だと思っていたが、これは違う。あきらかにここを通る者を待ち伏せていたのだ。

 

 アンコウたちは事前に、このあたりを根城にしている賊はいないと聞いていた。

(情報が古かったのかっ)

 先般の少々規模の大きいグローソン領内の反乱以降、領内に跋扈(ばっこ)する賊徒は明らかに増えており、それに関する昨日の情報が、今日も正しいとは限らない状況になっている。

 

 それでもアンコウの目に賊の姿が見えた時、はじめは余裕があった。

 あきらかに、こちらよりも数が少なく、食いつめた敗残兵崩れの賊が破れかぶれで襲ってきた程度に思っていた。

 だからアンコウ自身は動かず、ダッジたちの実力のほどを見てみるかと、彼らのみを動かした。

 

 しかし、双方が戦闘を開始すると同時に、側面に伏せてあったのだろう賊どもが飛び出してきた。アンコウたちの数的な優位は一瞬で崩れ、アンコウはカルミと共に即時、戦闘に参加せんと飛び出したのだ。

 

 

「くそっ!お前ら何やってんだっ!退くんじゃねぇぇ!」

 

 アンコウは怒声を味方に浴びせる。アンコウ自身は次々と薄汚れた装備の賊どもの頭を戦斧で叩き割っている。

 カルミも同様、身の丈以上もある愛用のメイスを馬上で振り回しているし、ダッジやホルガの活躍もなかなかだ。

 

 このまま戦えば、この戦い自体は負けるわけがない。それはアンコウにも予見できている。

 ただ、その四人以外の者たちが……弱い。

 

 ダッジが護衛兵として連れてきた者たちは約50。しかし、その中に抗魔の力を持つ者は一人もいなかった。

 人間8、獣人2ほどの割合で構成されている普通人の集団であり、食いつめ者たちの集まりだった。

 

 アンコウが見る限り、敵賊の中には数名の抗魔の力保持者がいる。それらに一斉に襲いかかられたアンコウ側の護衛兵たちは、あきらかに腰が引けていた。

 

「……ちぃぃっ」

 アンコウは もう知るかと、護衛兵たちを統率する意思を早々に捨てた。

 

 アンコウは馬を駆り、周囲の賊どもの命を狩ることに集中し始める。

 

ダァンッ! ギィヤァァーッ

ザァンッ! ぐわぁぁーっ

 

 アンコウ、カルミ、ダッジ、ホルガが戦っている。それぞれの周囲にのみ、次々と賊の死体が増え、積み重なっていく。

 

「た、大将ぉぉ、助けてぇぇー!」

 

 アンコウ、カルミ、ダッジ、ホルガが近くにいないところから、賊に押し込まれている護衛兵の助けを呼ぶ声がアンコウの耳にとどく。

 彼らはダッジに倣い、アンコウのことを大将と呼ぶか、アンコウ様と呼んでいる。

 

 アンコウは、ちらりと声が聞こえたほうを見た。

 それはまだ年若い、なかなか端正な顔立ちをした人間族の男。名は確か、リューネルと言ったか。

 兵隊崩れにしては礼儀をわきまえている男で、愛想も良く、アンコウが彼に入れてもらった茶もなかなか美味かった。

 

 しかし、アンコウはその男を一瞥した後、すぐに目を逸らし、再び戦斧を振るいはじめた。

 役に立たないやつ と、アンコウの顔は語っていた。

 

 

「ひぃぃぃっ!」

 足がもつれ、地面に倒れこんだリューネルに敵の剣刃が迫る。

 このリューネルという若者は、元商家の丁稚(でっち)あがりの兵士であるらしい。腕に覚えなぞ、まったくないのだ。

「や、やめろぉぉ」

 

 リューネルは恐怖で剣を持つ手にも力が入らなくなる。もはや彼の死は眼前に迫っていた。

 

ヒュンッ! ザクッ!

  

「………へっ?」

 突然、リューネルの口から呆けた声が漏れた。

 

 目の前にいたリューネルを斬り殺そうとしていた賊の胸に、一本の光の矢が突き立っていた。

 

ドサァァンッ

 その賊の男は背中から地に倒れ、胸に刺さっていた光の矢は消える。

 

 アンコウの目が、再びリューネルのほうに向く。さらにアンコウの目は、光矢が飛んできた後方へ。

 そこには、停止した荷馬車の前、弓を手に矢をつがえるテレサの姿があった。

 

ヒュンッ!ヒュンッ!ヒュンッ!

 矢を連射。

 

ドサン バタン ドタン と、

 リューネルたちの周辺にいる賊どもが次々とテレサの光矢に射抜かれ、地に倒れる。

 

「………テレサめ」

 アンコウの口角が上がり、ニヤリと笑った。

 

 戦場の全ての衝突場面で、アンコウたちが一方的に押しはじめた。

 

 そして、

 ―――アンコウーっ!――― カルミの声。

 

 カルミは馬から下り、愛用のメイスをアンコウのほうに掲げ叫んでいる。そのカルミの足の下には、頭を砕かれた賊の頭らしき男がいた。

 百の賊は、アンコウ、カルミ、テレサ、ダッジ、ホルガの五人の存在にほぼやられた。敗走をはじめる賊残党。

 

「ホルガ!ダッジ!魔具鞄を持ってるやつだけ仕留めてくれっ!後はもういい!」

「了解だっ、大将!」

 

 ダッジとホルガ、それに何とかついていっている一握りの護衛兵たちが、アンコウの指示に従い逃げ出した賊どもを狩り始めた。

 

 

―――――

 

 

「ダッジ、何なんだコイツら」

 

 アンコウは味方の兵士たちをあごで示しながら、不満そうにダッジに言う。

 

 イェルベンからアンコウの知行地コールマルにまで行く旅程の、まだ半分にも達しない時点で初めて行われた本格的な戦闘。その戦闘で10を越える味方の兵が死んだ。

 しかも相手は、数に勝っていたとはいえ、正規の兵ではなく、そこらにいる賊徒である。

 

「まぁ、こんなもんだろ。矢避け、肉壁だ。大将」

「チッ」

 

 アンコウはメシ代だって馬鹿にならないんだぞと思うものの、一日二食の粗末な食事のみの待遇でついて来る兵士なんか、こんなもんだということは認めざるをえない。

 

「………まぁ、こんなもんでもいないよりはマシか」

 

 その兵士たちのなかの傷を負った者には最低限の治療を施し、動ける者には倒した賊どもの身ぐるみを剥がさせていた。

 食いつめ者の賊の所有物などたいしたものはないが、ケガをした味方に使うポーション類ぐらいは補えた。

 

「金に魔道具にポーション類、食料の類は全部頂戴するんだぞっ」

 

 ダッジがアンコウの横を離れ、味方の兵どもに指示を出している。

 

 

「ねぇねぇ、アンコウ」

 カルミがアンコウの横に立つ。

 

「ん?何だ?」

「カルミたち、山賊?」

「………ちがう。……山賊はあっち、山賊から物を返してもらってるんだ」

「おー、そっか」

 

 

 そして、アンコウたちは後始末を終えると、再び移動をはじめた。

 

 

 

 

 アンコウたちは、コールマルへの移動を続けていた。

 アンコウたちがはじめて賊の襲撃をうけたのが、グローソンの拠点都市イェルベンを発し、約半月程が過ぎた頃。

 

 それからは安心して移動を続けられる地域などなく、アンコウたちは慎重に慎重を重ねて移動していたのだが、それでもその後これまでに、さらに2度の武装賊徒集団との戦闘を経験していた。

 

 一度目の損害に懲りたアンコウたちは、二度め三度めに関しては初めから自分たちが戦いの先頭に立ったこともあり、その損害は軽微なものですんでいる。

 ただ、

 

(わかってはいたんだけどさぁ)

 

 アンコウはグローソン公ハウルの手から逃れようとしていたとき、グローソン領のあちこちをさまよっており、その治安の悪さは十分に理解していたが、一応武装した数十の兵団を襲う賊が、こうも度々いることには驚きを隠せなかった。

 

「なぁ、モスカル。ちょっとこれはひどすぎないか?」

 

「はい。この辺りの地域は先の騒乱時、特に反旗を翻した貴族・豪族たちが多かったのです。そのほとんどが公爵様の軍に討ち取られ、今一時的な権力の空白が生まれているのでしょう。

 アンコウ様のような新たな領主がやってくるか、この地で新たに台頭する者が現れるまではこの状態が続くのかもしれません」

 

 アンコウがこれから行くコールマルは、この地域よりさらに北、より山の多い地方にある。それを思えば、気が重くなる一方のアンコウだ。

 

「……なぁ、モスカル。食料と金はまだ多少余裕がある。このあたりで、一旦体勢を立て直して、コールマルの情報を集め直してみるっていうのはどうだ?死んだ兵隊の補充ぐらいはできるかもしれないし」

 

「それは、ここにしばらく滞在するということですか?」

「……ん~、まぁ、そうだなぁ」

 

 この地域には今、領主がいない。当然治安は悪い。物資も情報も、ここに留まったところで思うようには集まらないだろう。

 ここに留まることのリスクの高さ、メリットの少なさは、アンコウもよくわかっている。

 

 アンコウは、やはりコールマルに行きたくないのだ。ここに留まりたいというのは、その気持ちがここに来て瞬間的に強くなり、ゴネて、つい言葉に出たに過ぎない。

 

「アンコウ様、ここに留まることに利があるとは思えませんが」

「……まぁ……そうなんだけどさぁ……」

 

 アンコウは周囲の荒れた田畑を見渡す。ここから先、コールマルまで、もうイェルベンのような大きな街はないということも聞いていた。

 

(……田舎になる一方なんだよな。行きたくねぇよぉ)

 アンコウはグダグダと考え続けている。

 

「どうなさいますか。アンコウ様が留まるというのなら、そのように指示を出しますが」

「………ああ、そうだな」

 

 アンコウが一定期間留まるかどうかは別にして、少し考えをまとめるために、一時休息を取るかと考えていた時、

 

「えっ?このあたりがロボウルなのっ?」

 というテレサの声が聞こえた。

 

 テレサは馬を下り、今は荷馬車の荷台にカルミと共に乗りこんでいる。

 テレサがいま話をしているのは、その荷台の横について歩いている若い男。

 

「へぇ、このあたりがロボウルだったのね、リューネル」

 

 テレサが話しかけているのは、あのリューネルだった。リューネルは、はじめての賊との戦闘でテレサに助けてもらって以来、まるで姉を慕うような態度でテレサに接していた。

 

「はい。テレサさんはロボウルに何か?」

「ええ、知り合いがね。この間の反乱の時にロボウルで戦って、反乱軍側に組したロボウルの領主を討ち取ったって聞いていたから。そう、ここがロボウルなの」

「えっ!?テレサさんはあのアネサの太陽の戦姫と知り合いなんですかっ?」

「ん?」

 

 テレサは、獣人を中心にアネサの冒険者の中で、マニが太陽の戦姫と呼ばれていたことを思い出した。

 

「ああ。マニさんのことね、ええ、そうよ」

 

 グローソンのアネサ侵攻の際、グローソンの猛将コローツォを一騎打ちで討ち取り、その後、経緯はわからないものの、そのまま グローソンに味方して戦いを続けたマニ。

 

 マニが行動を共にした一団は、このロボウル中心に、グローソンに刃を向けた逆徒どもを相手に戦った。

 その戦いの中で、ロボウル領主の首級をあげたマニの名は、リューネルの耳にも届いていた。

 

「すごいですね、テレサさん。あの太陽の戦姫と知り合いだなんて。共に戦った冒険者たちの部隊がロボウルの反乱兵に追いつめられる中、戦い続けて、単騎でロボウル領主を討ち取ったんでしょう?すごいなぁ、強いんだろうなぁ」

 

 リューネルは少し憧れを含んだような口調で言った。

 

 テレサはそのリューネルの話を聞いて、マニと一緒に、ネルカからイェルベンに来た時のことを思い出した。

 マニは、旅の途中で知り合った冒険者たちと意気投合し、彼らの故郷で共に戦うことに決めた。そして、イェルベンに着くと、そのままテレサを滞在の館に残して、すぐさま彼らと共に、新たな戦場に向かって出立したのだ。

 

 テレサは、そのマニと共にいた冒険者や傭兵隊の人たちの姿も思い出していた。

 彼らとは短い付き合いだったが、気の良い者たちが多く、テレサもイェルベンに着くまではいろいろと世話になっていた。

 

「ええ、マニさんは強いと思うわ。ねぇ、リューネル。マニさんと一緒に戦っていた人たちはどうなったの?」

 

 リューネルは首を振る。

 

「太陽の戦姫がいた冒険者と傭兵の部隊は、ほぼ壊滅したそうです。でもっ、そんな劣勢の中でも戦姫マニは決してあきらめることなく戦い続けて、敵将を討ち取ったんですよっっ」

 

 リューネルは、少し興奮しながらテレサに言った。

 

「そ、そうなの……壊滅……」

 

 どういう戦いが行われたのかはわからないものの、テレサはマニの顔を思い出し、なんとなく嫌な感じがした。

 

 テレサの目がリューネルの向こう側、少し離れたところにいる馬上のアンコウを見た。

 少し離れていると言っても、リューネルの興奮気味の声が、アンコウの耳にも十分届く距離だ。

 

(あっ……旦那様……)

 テレサはアンコウと目が合った。

 

 テレサの目に映ったアンコウの様子。そのアンコウの表情は、渋面そのもの。嫌な事を聞いたと、顔全体が語っていた。

 間違いなくリューネルの話が聞こえていたようだ。

 

 

 ―――アンコウ様、アンコウ様

 

「……!ん?何だモスカル?」

 

「ああ、聞こえておりましたか。一時的に留まるのなら、少し進路は逸れますがこの少し先に小さな町がありますので、そこまでは行ったほうが良いかと」

 

「………そこも、ロボウルの一部なのか?」

「ええ、その町も旧ロボウル領内にある町です」

「なら、そこには行かない。このまま移動を続けて、ロボウルを抜ける」

 アンコウは迷いなく言い切った。

 

 その迷いのない態度に、ついさっきまでの逡巡(しゅんじゅん)するアンコウの心の内を見抜いていたモスカル、は思わず首をひねる。

 しかし、ここに留まることは得策ではなく、早く任地であるコールマルに向かったほうが良いとモスカルは考えていたので、アンコウにそれ以上問いただすことはしなかった。

 

 

 

 アンコウは跨る馬の足を少し速め、荒れた道を進んでいる。

 

(ああ、いやだ、いやだ。この土地は瘴気(しょうき)で満ちている……気がする)

 

 アンコウが操る馬の速度がまたあがる。

 

 別に、本当に瘴気が満ちているわけではないし、急にコールマルに行きたくなったわけでもない。

 ただアンコウは、マニの話を聞いて、卦体糞(けったくそ)悪くなった。おそらく、今のアンコウの心情を的確に察しているのはテレサだけだろう。

 

「………旦那様」

 

 テレサには、アンコウの気持ちがよく理解できたから。



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第87話 歓迎!新御領主御一行様!

 アンコウたちの眼前に広がるコールマルに属すると思われる山々。

 少なくとも今アンコウの目に見えている範囲については、そこまで険しい山岳地帯ではないようだが、グローソン領の北の辺境ということもあり、冬場はその全体に積雪があるという。

 

 ハァー と、アンコウはため息をつく。

 

 しかし、そこは田舎であることは変わりなく、一応都会派(シティーボーイ)であるアンコウには魅力ある地には映らない。

 

 アンコウは、昨日まで滞在していたスネの町のことを思い出す。スネの町はイェルベンなどと比べれば、ずっと小さい町だった。

 しかし、それなりに人口があり、大通りには各種店舗が軒を並べ、活気ある市場もあった。

 

 なかなか悪くない町だと思ったアンコウが、モスカルに この町はコールマル領じゃないのかと聞くと、あっさり違うと答えた。

 このスネの町は、グローソンの とある有力貴族の氏族が持つ飛び領だ とモスカルは言っていた。

 

 くそ~貴族め、ちょっとでもおいしそうなところは全部押さえてやがる とアンコウが愚痴を言うと、

 モスカルは、当たり前のことです と言っていた。どこに行っても、うまみのある土地ほど力ある者が押さえていると。

 

 ただ、この時のモスカルとの会話で、アンコウは自分のことについて、初めて認識したことがある。

 

「しかし、アンコウ様。アンコウ様も、この一般の住民たちから見れば、隣領の御領主様なんですよ。アンコウ様は爵位を賜っておりませんので貴族ではありませんが、豪族領主ということにはなりますね」

 

「……えっ………お、おれ豪族なの?」

 

 このウィンド王国において、一般的に貴族と呼ばれるものは、まず、グローソン公爵のようにウィンド王家より直接爵位を賜った者、それにグローソン公もそうだが、一部大貴族には自らの家臣に対し、独自に授けることが許されている陪臣爵位があり、それを受けた者も、このウィンド王国の正式な貴族として認められている。

 そして、アンコウのように爵位は受けていないが、ウィンド王国内において、正式に知行地を有する領主を一般的に豪族と総称している。それに自分が当てはまるということに、アンコウは初めて気づいた。

 

「俺が豪族………」

(………豪()なんていっても、俺、この世界で天涯孤独だぜ……(ぞく)の意味ないな……)

 

「ああ、そういえばアンコウ殿。豪族といえば、普通 (うじ)を名乗るものですが」

「ん?」

「家名のことです」

「ああ、その(うじ)ね。俺は()()が家名だよ」

「えっ?そうなのですか?」

「まぁ、そんな氏なんてものはどうでもいい。それよりも、コールマルの情報は集まったのか、モスカル」

 

 アンコウたちが、スネの町で数日滞在した目的は、間近にせまったコールマル領についてのより正しい情報を収集するためであった。

 

「あっ、はい。一般的に知られている大まかな情勢はわかりました。それに地図も。ただやはり、より正確で詳しい情報となると、領境を越えないことには……」

 

「いや、それはそうだ。わかったことだけでいい、教えてくれ」

 

 

――――――

 

 

 そして今、アンコウたち一団はコールマルに入る領境にいる。眼前に広がる山の緑は濃く、その匂いも同様に濃い。

 それは、自然の厳しい辺境なれども、決して自然の恵みが少ないわけではないということを示している。

 

 アンコウは頭の中に写したコールマルの地図を思い浮かべる。

 山と森が広がる土地。領内北境に進めば、そこは広大なアフェリシェール大陸を東西に分断するかのように連なるイサラス山脈に達し、その大山岳牢の向こう側はグローソン公領でもウィンド王国でもなく、極寒の大地広がるアフェリシェール大陸最北地域へとつながっている。

 

 

「いつまで待たせるつもりなのかっ、ここに御領主がおられるのだぞっ」

 

 モスカルがめずらしく、怒りの籠もった厳しい声を発していた。

 アンコウたち一行は、今、コールマル領へと入る関所にいる。そして、その関所で足止めを食らっていた。

 

「申し訳ありません。いま関守長が確認をしておりますので」

 

 モスカルと関所の人間が、そんなやり取りを少し前から続けていた。

 アンコウはというと、あまり興味を持つこともできず、馬上の人のまま、ぼぉーっ と、コールマルの緑深き山を見つめていた。

 

「どっからみても田舎…だよなぁ」

 

 そんなアンコウの元に、モスカルが引き返してくる。アンコウのそばまで来るとモスカルは、兵士に預けていた手綱を受け取り、馬の背に(またが)った。

 先ほどまで関所の人間相手に怒気を見せていたモスカルなのだが、今は至って平静だ。それを見てアンコウは、ニヤリと笑う。

 

「怒ってみせるのはやめかい?モスカル」

「……予想はしていたことですが、それでも怒りというものも見せておかねばなりません」

 

 アンコウはそれを聞いて、(まつりごと)の処世術も難儀なものだと思う。

 関所の者たちにとっても、アンコウは自分たちの上に立つ新たな領主だというのに、関所の者たちのこの対応、当然ながら無礼・非常識と言えるものだ。

 

 だが同時に、こんなことはどこにでもある話だと、グローソンの文官であるモスカルは知っているし、それをアンコウも理解している。

 

 自分たちは突然外からやって来た新領主という名の余所者(よそもの)

 

 モスカルが情報を集め、アンコウがスネの町で聞いたコールマルに関する報告によると、当然ながら、コールマルにも地場の実力者という者がいる。

 その地場の実力者の権力と影響力はかなりのものがあるとのこと。

 

 もう十年以上前のことらしいが、前々任の領主の時代、時の領主は、今のアンコウと同様に直接コールマルに入り、領地運営を行おうとしたらしい。

 その結果、地場の実力者たちとの武力衝突に発展し、結果、領主側が敗北、領主も敗死。

 

 しかし、そのような謀反じみたことがあっても、地場の実力者たちはグローソンの他の貴族豪族にうまく取り入り、何ら咎め立てを受けることはなかったようだ。

 そして、次の新領主が決まり、お飾り代官を迎え入れ、そのまま自分たちの権力を保持することに成功したらしい。

 

 その前任の貴族領主の代官がいたときは、形式上表面的には代官を立てて、実質自分たちで領内を仕切っていたという。

 それでも領主に対する税はきちんと納めていたため、特別問題は生じていなかった。

 

(まぁ、力があれば、やりたい放題出来るってことだな)

 と、アンコウは理解した。

(連中はハナから俺の言うことなんか聞くつもりはないんだろうな)

 

 ただ、別に聞いてもらおうとも、聞かせてやるという気もないアンコウではある。

 

「なぁ、モスカル。貧乏くじなのも、歓迎されていないのもわかっている。それに、別にやりたくてやる御領主様じゃなし、余計なことをする気もない。ただな、向こうに行ってさ、自由気ままに平穏無事にやっていけると思うか?」

 

「………さて、それは……どうでしょうか……」

 モスカルがしばし考え込む。

「たとえアンコウ殿が、彼らの既得権益を侵さないことを明言したとしても、こうして自ら領地に乗り込んできた以上、そう簡単に信じてもらえるかどうか……」

 

「……チッ……ほんと、めんどくせぇよなぁ、権力が絡むとさぁ」

 

 アンコウは小声で(なげ)きながら、自分をこんなところに送り込んだハウルの顔を思い浮かべる。

 

「公爵のヤツは、ほんといい趣味してるよ。モスカル、俺のことを公爵様に報告するよう命令されているんだろ?」

「特別な命令。というわけではありませんが、当然定期報告の義務はあります」

 

 モスカルは、あくまでグローソン公から借り受けている吏官なのである。その忠義を尽くす対象はアンコウではなく、グローソン公爵だ。

 あんまりあのホモ野郎を喜ばせるようなことにならなきゃいいんだけどなぁ と思うアンコウである。

 

 

 さらにしばらく待つと、ようやく関所側に動きが出る。

 

「やあ、やあ、やあ、これはこれは、お待たせいたしました。御領主様」

 

 それなりに質の良さそうな生地でつくられた文官服を着込み、頭に布製の冠を載せた男が、何やら のたまわりながらアンコウのほうに近づいてきた。

 その男を先導してきたのは、初めに少しだけ顔を出したこの関所の関守長である。

 

 そして、彼らの後ろには10人ほどの武装した者たち。

 

「私、シクと申します。現在ハリュート城にて、筆頭執政官を努めておりますナグバル様の命を受け、新御領主様をお迎えに参りました」

 

 アンコウは馬上の人のまま、そのシクと名乗った男の挨拶の口上を聞き続ける。

 その言葉の中に、事前情報として仕入れていた名称がいくつか登場していた。ハリュート、このコールマルの中心地で、代々領主が居館をおいている地でもある。

 

(……ナグバルっていうのが一番の実力者だったよなぁ)

 

 ナグバルという男は、コールマルの南部を中心に多くの所領を有している豪士族の長であり、先代領主時代の初期からハリュートで筆頭執政官を勤めている。

 また、先々代の領主との戦争時には、反領主豪士族連合の指導的地位にいた人物でもあった。

 

(つまり、俺がここに来なけりゃ、今までどおり実質コールマルの支配者でいられたってことだ)

 

 

「――――ナグバル様はじめ、家臣一同、新御領主アンコウ様の御到着を今や遅しと、ハリュートでお待ち申しております」

 

 挨拶口上を言い終えたシクという男が頭をさげる。

 一応深く頭をさげて見せたものの、膝を突くことはせず、アンコウが声をかける前に、その頭も上げた。

 

 そしてアンコウは、顔をあげたそのシクという男の顔をじっと見つめた。しかし、アンコウは何も声をかけない。ただ、じっと馬上からシクを見下ろす。

 

「あの、御領主様……」

 シクという男の顔に、少し動揺が見え始める。

 

 アンコウたちも、このシクという男がずっとこの関所の中にいたということは、わかっている。

 

 アンコウたちは、今日あたり、この関所に着くという知らせを、しばらく前にはコールマルに対して通知していた。

 そして、城代より命を受けたシクも、二日前にはこの関所に入っていた。つまり、わざと新領主であるアンコウを外で待たせていたということ。

 その真意は言わずもがなである。

 

 しかしシクも、関所にやって来たアンコウたち一行の姿を隠れ見て、関守長ともども非常に驚いてもいた。

 

『なんだあの連中は?』

 

 かつてこの地にやって来た領主やその代理の者たちは、(みな)妙に着飾り、派手な馬車や輿に乗り、こちらを田舎者と見下す中央人気取(きど)りの者ばかりだった。

 しかし、今度やって来た新領主たちの様子はまったく違う。

 

『まるで、北山(ほくざん)の山賊ではないか』

 

 コールマル領の北山に根城を置く山賊共と、じつに良く似た風体の一団であった。

 その(かしら)たるアンコウは今、黒光りする薄汚れた鎧兜で身をかため、口を開かず、馬上から鋭い眼光で、シクを見下ろしている。

 

 シクは抗魔の力を有していない。しかし、新領主であるアンコウが抗魔の力を有しているという情報は得ていた。

 それでも、どこぞの貴族や豪族の縁故で、コールマルの領主という地位を得た ただの苦労知らずの若造であろうと考えていた。

 そんなものならどうとでもあしらえると考えて、ここに来ていた。

 

 だから、予想外のアンコウたちの姿形(すがたかたち)を見て、驚きはしたものの、当初予定していた通りに対応を取ったのだ。

 

「あ、あの、御領主様……」

 

 シクもさすがに、アンコウがわざとらしく放つ殺気には気づいている。

 

「………よう、シク。てめぇ、人を外で待たせてどこで茶を飲んでたんだ?」

「い、いえ、……し、少々準備に手間取りまして……」

 

 アンコウは別に本気で気分を害しているわけではない。こんなものだと思っていたし、余計な揉め事を起こすつもりもない。

 ただ、なめられっ放しはよろしくないというのは、この世界の冒険者一同のモットーであるし、モスカルが先ほど怒気を見せていたのも同じような理由だろう。

 

 そして、アンコウの殺気含みの言葉に反応し、後方にいたダッジが馬から下り、シクの横に近づいてくる。山賊面といえば、ダッジだ。そのイカツさは、アンコウの六段上をいく。

 

 そのままシクに接近したダッジは、シクの真横すれすれに立ち、剣の柄に手を置き、シクの顔間近に自分のイカツい顔を近づけた。

 シクの体が硬直していくのがわかる。

 

 そしてダッジは、アンコウよりもはるかにドスのきいた声で囁いた。

 

「……テメェ、遅れてきたら、まずワビだろうがぁ」

「ひっ!あ、あのっ」

 

 シクは背後に目をやるものの、いつのまにかシクの背後に控えていた武装兵たちの周りを山賊風味のアンコウの手下どもが取り囲んでいた。

 

「あっ………は、はい」

 

 そして、顔中に汗をかき始めたシクは、ゆっくりと両膝を地に着けた。そして、詫びた。

 

「お、遅れまして、申し訳ございませんでした」

 

 

「………あんまり、ナメたまねをするなよ。俺がアンコウだ」

「……は、はい………」

 

 張り詰めた空気が関所を支配する。

 

 アンコウは、「チッ」と一度舌打ちをしてから、「もういいから立てよ」 と言った。

 



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第88話 おかしな御領主様御一行

 アンコウたち新領主一行は、関所を抜け、コールマル領内に入り、中心城市ハリュートを目指し、北東に進路を取る。

 その一団を案内し先導しているのは、ハリュートの執政府から遣わされてきた男 シクだ。

 

 シクは馬に(またが)り、一行の先頭にいる。徒歩の者も多くいることもあり、その移動速度は速くない。

 

 シクの横には奴隷の獣人戦士ホルガがいる。アンコウは自らが目立つことは望まず、ホルガに先頭に行くよう命じた。

 アンコウとしては、不意打ちにでもあった時に、領主の俺が目立っていたら俺の身がヤバイだろう と思ってのことだ。

 

 一方、コールマル側の出迎え人であるシクとしては、新領主のお国入りに、奴隷女が馬上にて先頭に立つというのは如何(いかが)なものかという思いがあったが、自分がそれを指摘できる立場にないことは理解していた。

 

 それゆえ口に出して言いはしないものの、シクは関所からここまで、内心ずっと首を傾げていた。

 

(この一団はいろいろとおかしい)

 

 少なくとも、シクが当初考えていた よくいる貴族や豪族とはあきらかにちがう。 

 

 さすがに本物の山賊だとは思わないものの、

(……成り上がりの傭兵団か何かなのか……それにしては人数が少ない……)

 

 新領主のアンコウ、それに自分を脅したダッジ、いま横を併走するホルガという奴隷の女獣人戦士、彼らが連れてきた数十人の兵隊の(なり)

 もう少し数がいれば、領地持ちとなれるだけの戦功をあげた傭兵団だと言われても、すぐに納得できる有様(ありよう)なのだ。

 

(少なくとも普通の貴族や豪族が持つ常識はない連中だ)

 

 シクは、ちらりと後ろを振り返る。

 一団の先頭を進むシクの後方には、一台の馬車が ガラゴロとついて来ている。

 なかなかに豪奢(ごうしゃ)な装飾も為されている立派な馬車。これはシクが、新領主のお迎え用にと準備したものだった。

 

 シクたちは、やって来た新領主一行をわざと関所で待たせるという、言ってみれば、あなた方を歓迎しないというコールマルの既存勢力側の意志をわざとらしく見せた。

 しかし、相手がグローソン公から正式に知行地としてコールマルを与えられた領主である以上、その受け入れ自体を拒否することはできない。

 

 (ゆえ)に、歓迎しないという意思表示をすると同時に、それ相応の受け入れの準備も、ちゃんと整えてきていた。そのひとつが、この豪華な送迎馬車だ。

 しかし、そのガラゴロと進む馬車の中に、アンコウは乗っていない。

 

 アンコウは騎乗しての移動を希望して、馬車には乗ろうとしなかった。

 そして、先頭を行くこともホルガに任せ、自身は今、その馬車の少し横で馬に(またが)り、ゆっくりと進んでいる。

 ならば馬車の中は、今は空かというとそうではない。

 

「おーい、アンコー、ぶどうのジュースがあったよ。飲んでいい?」

 馬車の中から、小ぶりもっさりアフロが顔を出す。カルミだ。

「ほら、これこれー」

 

 カルミは手にボトル瓶を持ち、馬車の中から体を大きく乗り出してきた。

 

「カルミちゃん、危ないわよっ」

 それをもう一人、馬車に同乗している人物が制止する。

「だいじょうぶだよ、テレサっ」

 

 アンコウがカルミに聞く、

「カルミ、それ本当にジュースか?酒なんじゃないのか?」

 

「ん~、ジュースだよ。ねっ、テレサっ」

「え、ええ、ワインもありますけど、これはジュースみたいです」

 馬車の中から、テレサの声が聞こえている。

 

「そうか……、おいっ、シクっ!」

 するとアンコウが、突然、前方にいるシクに声をかけてきた。

 

「えっ、あっ、はいっ!なんでございますかっ!」

「馬車の中の飲み物、毒入れてないだろうなっ!」

「なっ!?そ、そんなことはいたしませんっ!」

 

 それを聞いてアンコウは、一旦シクのほうに向けていた視線を再び馬車のほうに移す。

 

「だとよ。好きなだけ飲めよ。腹壊すなよ」

「はーい」

 

―――馬車の中の者たちとアンコウとの会話が終わる。

 

 何なんだろう と、シクは思う。

 この辺境の小領にはふさわしくない豪奢な馬車をわざわざ用意したのに、やって来た新領主であるアンコウにはまったく喜ぶ気配はなく、

 結局、その新領主のために用意した豪奢な馬車に乗り込んだのは、小ぶりアフロの小さな子供と、30前ぐらいの乳と尻の大きい奴隷女。

 

(女のほうはアンコウ様の慰み者か、しかしずいぶんと良い扱いを受けているようだ……それにあの子供のほうにいたっては、)

 

 あのカルミという子供は、完全に新領主と対等に接している。

 はじめはアンコウの子供かとも思ったシクだったが、どうもそうではないようで、しかもあの子供は、シクが連れて来た護衛の抗魔の力保持者が言うには、ドワーフの血が多く混じっているようだという。

 

(ドワーフと人間との混ざり者とは珍しい……)

 

 それに、この小ぶりアフロの小さな子供と、30前ぐらいの乳と尻のデカい奴隷女に対する周りの者たちの接し方、

 カルミ様っ、テレサ殿っ というような、二人を下にはおかないという態度を見るに、この集団における二人の地位は間違いなく高い。

 

「………よくわからないな」

 

 シクもこのコールマルにおいて、小なりといえども所領を持ち、一族を率いる総領なのだ。今後の自らの身の処し方を考える上でも、もう少し彼らを観察する必要があるようだと、シクは思った。

 

 

 

 

 アンコウたち一行は、小山をひとつふたつ越え、ハリュート目指し移動を続けている。

 

「アンコウ様っ!」

 警戒心を乗せた鋭い声が突然響いた。

 その声を発したのは先頭を進んでいたホルガだ。

 

 小山をひとつふたつ越え、アンコウたちは今、比較的視界の広がる木々の少ない平坦な土地を移動中である。

 ホルガが、その土地の左前方を指差しながら、アンコウを振り返る。

 そのホルガが指差す方向、アンコウたちの遠目に、ぞろぞろと森の奥から姿を現す者たちの姿が見えた。

 

「アンコウ様、あの者たち武装しているようです。こちらに来ます」

 

 アンコウが、ホルガのいるところの馬を進めてくる。

 

「ああ、新たなお出迎えかな」

 アンコウはそう言いながら、視線をシクのほうに移す。

 

「い、いえ、そのような予定はありません」

「じゃあ、気に入らない余所者(よそもの)領主を討ち取ろうとでも?」

「ま、まさかっ!」

 

 ハリュートで(まつりごと)に携わっている面々が、外からやってくる領主に対してよろしからぬ感情を抱いていることはシクもよくわかっている。

 それについては、これまでの経験からシクも同様に、外から来る領主にはあまりよい感情は抱いてない。

 

 しかし、実はシクの一族は、今の執政府を取り仕切っている中心的な一派から、あまりよい感情を持たれていなかった。

 今回、アンコウの出迎え役に任ぜられたのも、歓迎されていない新領主を案内してくるのだから、ある意味押し付けられたあまり喜ばしくない役回りなのだ。

 

 だからと言って、シクもろとも、いきなりグローソン公爵から正式に任命されてやって来たばかりの新領主に刃を向ければ、大義名分の立てようもなく、彼らにとっては自殺行為以外のなにものでもない。

 

 無論、この世界、この国、この公領においては、上を弑逆(しいぎゃく)することはやれないことではない。

 事実、彼らはかつてそれをやってきているし、よくある事だとも言える。ただそれは、事前に十全な根回しや準備をなしたうえでのことだ。

 

(ハリュートに迎え入れる前に新領主を殺したりすれば、さすがにグローソン公に滅ぼされるっ)

 

 アンコウを排斥しようと思えば、多少時間をかければ、やりようはいくらでもあるのだ。ハリュートにいる連中がそこまで愚かでないと、シクは思っている。

 

「あ、ありえませんっ!」

 

 そんなアンコウたちに、次に近づいて来たのはダッジ。

 

「よう、大将。ありゃあ、正規の兵士じゃねぇぜ。ここに来るまでも何度もお目にかかっているのとおんなじ連中だ」

 

 徐々にあきらかになってくる湧いて出てきている武装兵たちの姿。

 

 鎧兜が揃っているわけでもなく、高々と自分たちの軍旗を掲げているわけでもない。まちまちの装備、所々馬に乗っている者の姿は見えるが、全体の動きとしてはバラバラで、それほど統率が取れている一団ではないようだ。

 

「まぁ、どっから見ても賊徒だな」

 ダッジは、自分の見た目は棚にあげて断じる。

 

「チッ、またかよ」

 

「ま、まさか、こんな南部にまでっ!?」

 

 驚きの声をあげたのは、シクだ。コールマルにも山賊の問題はある。少なくない賊徒による襲撃被害を恒常的に受けている。

 しかし、その被害は主にコールマルの北部地域が中心なのだ。

 

 コールマル北部には、このあたりよりももっと険しい山岳地帯が広がっており、そこを根城としている賊徒が存在し、彼らを総称して『北山(ほくざん)の山賊』 と呼んでいる。

 しかし、今アンコウたちがいる場所は、北部どころか、まだ南部の領境に近い場所だ。

 

北山(ほくざん)の賊どもが、こんな南方にまで下りて来たのか!?い、いや、そんなはずは」

 突然の予期せぬ事態に驚きを隠せないシク。

 

 じっと森から出てくる賊どもの数が増えていくのを眺めているアンコウ。

 アンコウは頭の中に写したコールマルの地図を思い浮かべている。

 

「………違うだろうな。あんな北から、わざわざこんなところにまで出張ってくる山賊なんかいないだろ。あれは北からじゃなくて、ここよりもっと南から来た連中だろう」

 

 ダッジが先ほど言った 『ここに来るまでも何度もお目にかかっているのとおんなじ連中』というのが、まさにそのとおりだろうとアンコウは思った。

 

 今はこのコールマル南方領境を越えた地域には、領主不在の多くの土地が広範囲にまだらに存在している。

 そして、その元領主に組していた者たちの生き残りの多くが食い扶持をなくし、彷徨(さまよ)っているはずだ。

 

「南の領境を越えて来た兵隊崩れどもだろう。しかも、わざわざこんな見晴らしのいい場所に現れるとはね。本職の山賊がやることじゃないな」

 

「アンコウ様」とホルガ。

「ん?」

「およそ百以上二三十(にさんじゅう)

 ほぼ全体像が見えた賊徒と思われる集団を見て、ホルガがその数を伝える。

「ああ、また百か」

 

「大将」とダッジ。

「今度の連中も薄汚れてはいるが、ちょっと良さ気な装備を着けているヤツもいるぜ。それにこれまでのヤツよりかは肌の色つやもよさそうだ。飯はまだ食えてんだろ」

「……へぇ、それはそれは」

 

 アンコウの口元にかすかに笑みが浮かぶ。どうせ戦うなら、物持ちのいい賊と戦いたいと思うのは、アンコウ一味にとっては極々自然な心理。

 そして、アンコウは後ろを振り返り、途中少し補充して再び50名ほどになっている護衛兵たちを見渡し、一言指示を出す。

 

「お前たちっ!手順はこれまでどうりだっ!」

 

 はいっ!おうっ!へいっ! と兵士たちがそれぞれに返事をかえす。

 

 アンコウは、再び馬首を現れた賊どもがいる方向にむけると、おもむろに腰の魔戦斧を引き抜いた。

 と、同時に魔戦斧との共鳴を起こし、アンコウの纏う覇気が膨れ上がる。

 

「!なぁっ!」

 アンコウのすぐ近くにいたシクは、アンコウのその変化に驚きの声をあげる。

 

 シク自身は抗魔の力を持たないが、アンコウのその変化を間近で見て何も感じないほど鈍くはない。

 シクが護衛にと連れてきていた数名の抗魔の力を持つ兵たちも言葉を失っている。その変化があまりに劇的であったからだ。

 

 そしてアンコウは、無言のまま馬を走らせ始めた。

 

ズザッ!ズザッッ!ズザッザッ!

 それにダッジとホルガが遅れることなく付いて行く。

 

 おなじような賊の襲撃を受けた2回目以降、決まった戦い方だ。

 こんな辺境で賊徒にまで落ちた連中だ。普通人がほとんどであるし、抗魔の力の保持者が混ざっていたところで、まず間違いなく玉石(ぎょくせき)の石ころのほうだ。

 

 戦法としては、とにかく、アンコウ、カルミ、ダッジ、ホルガが敵陣に突っ込み、敵の首を一つでも多く狩る。

 後のおこぼれを50人の味方が頂戴するという極めて単純な戦い方である。

 

 あっという間に、シクの目に映るアンコウ、ダッジ、ホルガの姿が小さくなっていく。そして、

 

「カルミ様っ、お馬をっ」

「うんっ!」

 

 いつのまにか、先ほどまでアンコウたちがいたシクの横に、小ぶりアフロの小さな子供が立っていた。

 そのミニアフロに、なかなか(いかめ)しい面構(つらがま)えをした男が(うやうや)しくお馬の手綱(たづな)を引いてきた。

 

「!?」

(この子供も戦うのか?……いや、ドワーフの血を引いているのならば……)

 

 ドワーフは妖精種である。純血ならば、抗魔の力を持たぬ者はいない。その種族としての強さは、人間族の比ではない。

 

(しかし、まだ子供……それに、混ざり者であろう)

 シクは言葉にすることなく、自分の横にいるカルミを見ている。

 

 小さなカルミは馬の手綱(たづな)を持つことなく、まるで風に舞う綿毛のごとく、フワリと宙に飛び上がった。

 そして、同様にフワリと馬の背に(またが)り落ちた。馬はまるで何の衝撃も受けていないかのようだ。

 

 カルミの左手にはぶどうジュースのボトル瓶が持たれたまま、そして、カラの右手で腰にぶら下げている魔具の鞘から突き出ている愛用メイスの持ち手を握る。

 

 カルミがそのメイスを一気に引き抜いた。長い。

 カルミの身の丈とはあきらかに不釣合(ふつりあ)いなメイス。それを高々と天に掲げ持つ。

 

「なっ!」

 シクが、子供が持つには似つかわしくない その長さに驚きの声を発した 次の瞬間、真の驚きがやってくる。

 

「アンコーッ!待ってえぇーーっ!!」

 

 カルミは大声でアンコウを呼ぶと同時に、抑えていた自らの覇気を ブワリッと開放したのだ。

 

「!ひいぃぃっ!」

ドサッ!

「シ、シク様っ!」

 

 すぐ近くでそのカルミの覇気に当てられたシクが、跨っていた馬からずり落ち、それを近くにいた護衛の者が慌てて抱き止めた。

 その者は、シクにカルミには多くのドワーフの血が流れているようだと指摘した者だった。

 

 その男も額から大量の汗を流しているが、ある程度は予想もしていたのだろう。

 なんとも言えない、あからさまに恐怖の混じった眼差(まなざ)しで、カルミを見つめている。

 

 カルミの声が聞こえたのだろうアンコウが、馬を走らせながら、後ろを振り返ることなく手に持つ戦斧を軽く持ち上げて見せた。

 それを見て、ニッコリと笑うカルミ。

 

「よ~しっ」

 

 カルミはまだ瓶の中に残っていたぶどうジュースを、まるで景気づけでもするかのように、ングッ ングッ ングッと、ラッパ飲みに飲み干し始めた。

 あっという間にボトルの中身が空になり、カルミはその空のボトルを投げ捨てた。

 

「プハァァーッ!よーし、いくぞっ!」

 

 カルミはようやく開いた左手で手綱を持ち、馬を走らせんとする…したのだが…

 

「こらっ!カルミちゃん!ごみをポイ捨てしちゃダメだって言ったでしょっ!」

 カルミは、いつのまにか馬車から出てきていたテレサに怒られた。

「あっ!テレサっ………は~い」

 

 つい今まで闘志むき出しの戦士の顔に変貌を遂げていたカルミが、テレサに注意されて、あっさりと馬の背から下りる。

 そして、トコテコ 自分が投げ捨てたボトル瓶のところまで早足で歩いていき、それを拾い上げる。そしてまた、トコテコ テレサの前まで歩いていった。

 

 カルミは、拾ったボトル瓶をテレサに差し出して、

「ごめん、テレサ」

 と言った。

 テレサはそれを受け取ると、

「もうしちゃだめよ」

 と優しく言って、カルミの頭を撫でた。

 

「……はーぃ」

 カルミはうれしそうだ。

 

「……じゃ、いって来るね、テレサっ」

「ええ、気をつけてね」

「うんっ!」

 

 

 カルミは再び馬に飛び乗ると、遅れを取り戻さんと一気に駆け出した。

 あっという間にカルミの姿も小さくなる。

 

 50人のアンコウの護衛兵たちも、一部をテレサの周りに残して、アンコウたちの後を追い、動き始めている。精兵(せいへい)とは、とてもじゃないが言うことはできない彼らだが、彼らの動きに怯え躊躇(ためら)いはない。

 

 あの四人の後についていれば大丈夫だという安心感が、彼らの心の中に、この一月強の旅の間に生まれていた。

 

 シクたちは、ただただ驚きの表情を浮かべながらアンコウたちの行動を見つめている。

 今の時点でひとつだけシクが理解したこと、アンコウとそのまわりにいる数名は、シクが思っていた以上に強いということだ。

 

(………アンコウ様もだが、それ以上にあのカルミというハーフドワーフの子供は………)

 

 この世界の戦争は、アンコウが元いた世界より、個人の戦闘能力の大小が全体の勝敗に与える影響が非常に大きい。

 優れた戦闘能力をもつ人材は、すぐに中央や有力貴族にリクルートされてしまい、めったなことでこんな辺境には残らない。

 

 強引に気持ちを切り替えて、その顔から驚きの表情を消したシクは真剣な顔つきになり、今まさにその視界の先で始まろうとしている戦闘に意識を集中させた。

 

「シ、シク様、我々は、」

「話しかけるな………しばらくここにて待機する」

「は、はい……」



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第89話 辺境は賊ばかり

 戦いは一方的だった。賊の中にはカルミはもちろん、アンコウと伍することができる戦士もいなかった。

 ただ、たしかに、

(なるほどなぁ、確かに、結構いい装備を着けているヤツが混じっている)

 

 おそらくつい最近まで、民衆から合法的に富を吸い上げる側にいたのだろうと思われる者たちが、少なからず混じっていた。

 (あるじ)がグローソン公に歯向かい、破れ、全てを失ったのだろう。無論、そんな個々人の事情はアンコウたちの知ったことではないし、やることは変わらない。

 

ザァンッ!ザグゥゥ!ドシュウゥゥ!

 血飛沫(ちしぶき)があがり、命の花びらが散る。

ぎゃあぁぁー うぎゃああーっ と悲鳴がこだまする。

 

 血をまき散らし絶叫しているのは、いずれも森の中より現れた賊徒どもばかり。

 アンコウ、カルミ、ダッジ、ホルガの突撃を賊徒どもはわずかな時も押し留めることができなかった。

 

 破れかぶれとなり、アンコウに向かって白刃を振りかざして突撃してくる者がいる。

 

ヒュュウンッ!

 そこに空を切り裂き一本の光矢が飛来。アンコウに突撃してきた男のこめかみ辺りに突き刺さる。

 

ザグゥッ!

 ズザアアーーッ

 男は声もなく、地面を転がり、もう二度と動くことのないモノとなる。

 

 アンコウが、ちらりと(くだ)りおりて来た丘のほうを見れば、その中ほどの岩の上に立つテレサの姿。そのままテレサは次々と光の矢を放つ。

 

 

 敵の半分ほどの命を奪った時点で、残りの賊共も潰走をはじめた。

 アンコウ一味もこの賊徒集団も、ほぼ人間族と獣人族で構成されていた。人間族と獣人族の種族間の能力差は小さく、共に妖精種よりはるかに劣る。

 

 また、この世界において、普通人と抗魔の力保持者との戦闘能力の差は絶対的なものがあり、賊徒側にも、いつものことながら、わずかに抗魔の力を有する者もいた。

 しかし、それゆえに戦闘開始早々から真っ先に狙われ、次々に狩り取られていった。

 

 どうやらダッジやホルガでも、問題なく斬り伏せることができる敵しかいないようだ。

 カルミに至っては、抗魔の力のあるなしに関わらず、まるで宙に浮かぶシャボン玉を割るかのように敵の頭をざくろにしていった。

 この賊徒どもは、目をつけ、襲いかかる相手を間違えたというほかない。

 

 

「敵が弱いっていう点だけは、辺境万歳だな」

 

 アンコウはすでに戦闘を停止し、戦場の真ん中で周囲を見渡している。

 ダッジもすでに自身は戦闘を止め、手下どもにいつものごとく指示を出している。

 

「てめぇらっ!いつもどおりだ!魔具鞄を持ってるヤツだけは逃がすんじゃねぇぞっ!あとは放っとけ!」

 

 おう!へいっ!はいっ! 手下どもが戦場の興奮のままに威勢よく答えている。

 アンコウはその様子を眺めつつ、まぁ最後の仕上げぐらいこいつ等にも働いてもらわないとな と、味方の兵士たちを見ながら考えていた。

 

(………こっちは、2,3人やられた程度か。まぁ、この程度の相手なら、こんなもんだろうな………)

 

「アンコウ!」

「ん?」

 

 アンコウが名を呼ばれたほうを見ると、カルミが馬を走らせ近づいてきていた。

 

「アンコウっ、もうテレサのところにもどっていい?」

 

 カルミが子供らしい小首を傾げる仕草をしながら、アンコウに聞いてきた。

 しかし、カルミが手に持つメイスからは今も血が(したた)り落ち、顔にも体にも敵の返り血を浴びている。

 カルミのごく自然な様子をみるに、その心には何ら動揺は生じていないのだろう。

 

(………やっぱりドワーフの血なんだろうな。たとえ抗魔の力を生まれ持っていたとしても、純粋な人間の子供じゃあ、こうはならないはずだ………)

 

 アンコウは、親が死んだ時点で、カルミには人間の里で暮らすという可能性は消えたのだろうと、その姿を見て思う。

 

「………ああ、行って血を拭いてもらえ」

「はーいっ」

 

 カルミは顔に飛び散った返り血をそのままに、にっこりと笑い、テレサがいる丘のほうに馬を駆け出していく。

 

 

――――――――

 

 

 シクたちは、アンコウたちと賊が戦闘を行っている(あいだ)、結局最後まで、まったく動かなかった。

 

「……シク様」

「ふふっ、本当に何もする必要もなかったな……」

 

 初めから様子見を決め込んでいたシクではあるが、戦える手勢を20人ほどは連れて来ており、いざとなれば、戦いに参加するつもりだった。

 しかし、終始アンコウたちの優勢は変わることはなく、自分たちが行っても邪魔になるだけだと感じさせるほどの一方的な戦いで終わった。

 

「シク様、新しい御領主様らと、なにより………あの少女は……」

「ああ、思っていたよりも強い御仁らのようだ」

 

 この戦闘がはじまってから、かなり驚かされ続けたシクであったが、今は落ち着きを取り戻している。

 

「………もう、いいだろう」

 

 眼前で繰り広げられていた戦闘は、ほぼ終結している。

 そしてシクは、ふうぅぅーーっ と一度大きく息を吐き出した後、

「いこう」 とまわりの者に声をかけ、ようやく馬を進めて丘を下り始めた。

 

――――

 

 丘を(くだ)()りる途中の傾斜面に、弓矢を武器にしていたテレサたちが陣取っていた。

 

 テレサの働きもまた、シクにとっては驚きだった。

 ワン‐ロン軍ではドワーフ弓兵たちがごく当たり前に使用していた魔矢筒であり、精霊法力を用いた光の矢であるが、人間族でそれを使えるものはごく限られている。

 

(あの女もまた、ただ乳と尻がデカイだけの、アンコウ様の奴隷女ではなかったということか)

 

 シクは、テレサの戦いぶりを見て、テレサもまたアンコウの戦いの手駒であると理解した。ただ、テレサに関していうと、それは少しだけ違う。

 テレサ本人は未だ戦うことに慣れてはおらず、今しがた何人もの人間の命を奪っておいてなお、自分自身が戦士であるなどと自覚していない。

 

 テレサは賊が現れる少し前、アンコウの昼食の世話をした。

 テレサは今朝、小さな谷に流れる小川のせせらぎでアンコウの服を洗濯した。

 テレサは昨晩、関所の小さく粗末なベッドの上で悦楽の声を押し殺しながら、激しく求めてくるアンコウに抱かれた。

 そちらが自分の仕事であり、戦場は恐ろしく、弓矢を取ることよりも、ただ乳と尻がデカイだけのアンコウの女であるほうがいいと本人は思っている。

 

 

 少し前、そのテレサたちが陣取っている場所に、

 テレサ、ただいまぁ! と、元気な声を出しながら、カルミが戻って来ていた。

 

 カルミはテレサの前まで来た時、両手を自分のももにピシリとつけて、テレサの前におとなしく立っていた。

 そしてテレサは、綺麗な布を手に、自分の前に立つ小さな女の子の顔を拭いてあげた。

 

 その時のテレサの手は、かすかに震えていた。

 

「?どうかしたの、テレサ?」

 カルミが閉じていた目を開いて聞くと、

「ん?何でもないわよ、さぁ、まだきれいに拭かないと」

 そのテレサの口調はいつもどおりだ。

「は~い」

 カルミはまた、おとなしく目を閉じた。

 

 テレサが持つ白い布は、もう半分以上が真っ赤に染まっている。テレサの手はまだかすかに震え続けている。

 テレサはその手に持つ布が、完全に赤い布に変わるまで、カルミを拭いてあげた。

 

 テレサも、カルミが戦わなければならないことはわかっている。カルミがここにいる味方の中で一番強いこともよくわかっている。でも、

 

――テレサは膝を折り、カルミをギュッと抱きしめた。

 

「んん~?テレサぁ?」

「………きれいになったわよ、カルミちゃん」

「んっ、ありがとテレサっ。アンコウがね、テレサに血をふいてもらってこいって言ってたんだよ。テレサ、カルミがお願いしなくてもふいてくれたっ」

「…そう、きれいになったわ」

「へへへっ」

 

 

 今は、のんびりと斜面に座っているテレサとカルミ。

 その二人の横を会釈をしながら通り過ぎる時、シクたちは恐怖混じりの目で、ちらちらとカルミを見ていた。

 そして、シクたちはさらに下へと、アンコウたちがいるところに向かって進んでいく。

 

 

 

 

「ダッジ隊長!みてくだせぇっ、これとこれとこの魔具鞄の中っ。食料でいっぱいですぜっ!あっちにゃあ、酒も入ってるっ!」

「てめぇらっ、ちょろまかすんじゃねぇぞっ!分捕り品は全部こっちに集めるんだっ!」

 

 ダッジが手馴れた様子で、全体に指示を出している。

 今度の戦いも数名の犠牲者のみで(しの)いだアンコウの兵士たちが、討ち取った敵の死体に群がり、次々に身ぐるみを()いでいく。

 

 そんな中、丘の上より下りて来たシクたち。

 

「「「…………………」」」

言葉少なく、アンコウたちの行いを見ている。

 

 アンコウたちの(なり)を見ても、さすがに本物の山賊ではなかろうと思っていたシクの考えが揺れる。シクに付き従っている護衛の者たちが眉をしかめていた。

 

 アンコウは未だ馬上に。そのアンコウの前に次々に分捕り品が積み重ねられていった。

 

「へぇ~、予想以上だな。これまでの分、全部合わせたのと同じぐらいあるんじゃないのか」

 

 アンコウも頬を緩めながら、それらを眺めていた。そんなアンコウの元にシクがやってくる。

 

「ア、アンコウ様、お見事でございました」

「ん?ああ。お前たちは何もしてないから、分け前はないからな」

 

 一瞬自分たちが高みの見物を決め込んでいたことを責められたのかと思ったシク。

 

「も、申し訳ございません。アンコウ様たちのあまりの強さに割りいる隙がなく……」

「………あまりの強さねぇ、俺たちはイェルベンからの落ちこぼれだぜ。このコールマルは山賊相手にでも城を落とされるんじゃないのか」

「い、いえ、さ、さすがにそんなことは……」

 

 嫌味を少し言いはしたが、アンコウは特別シクに対して敵愾心を持っているわけではない。ただ、シクとの会話にハナから興味はないようで、アンコウはすぐに視線を元に戻した。

 

(山賊を狩る義勇団。これで意外と本気で食っていけるんじゃないのか)

 

 なにやら面倒くさそうな連中が待ち受けているハリュートに行くよりも、アンコウにとってはよっぽど魅力的な選択肢だ。

 

(だけど、今逃げたら間違いなくグローソンの連中からの追っ手がかかるだろうし、そうなったら、まぁ、俺は間違いなく殺されるな)

 

「………まぁ、とりあえずハリュートには行かないと仕方がないよなぁ」

 

 未だに、うじうじと一人考え事を巡らしているアンコウの元に、馬に乗ったホルガが近づいてきた。

 

「あの、アンコウ様よろしいですか?」

「何だ?」 とホルガのほうに顔を向けたアンコウ。

「ん?」 ホルガの後ろに付き従ってきていた何名かの兵士たちの姿がアンコウの視界に入る。

 

 そのうちの一人は、アンコウも知った顔のリューネル。その後ろに、もう5人。その5人の顔にアンコウは見覚えがない。

 

「………ホルガ、捕虜は獲るなと言ったはずだぞ。殺すか放っておけと」

 

 捕虜を養う余裕などないし、味方に組み入れるにもあまりに信用が置けない。

 歯向かうヤツは殺せばいいし、逃げるヤツはお宝を持ってなさげなら、放っておけばいいとアンコウは考えている。

 

 逃げた賊が、またどこかで悪さを働こうが、それはアンコウの知ったことではない。

 

「はい、そうなのですが、この5人はこのリューネルの顔見知りのようで。何でも無理やり、この賊徒の仲間にされていたとか」

 

「へぇ」

 アンコウはそれでも興味なさげだが、ホルガの後ろに必死の形相で控えているリューネルが言わんとしていることは予想できた。

 

「ア、アンコウ様っ」 リューネルが一歩前に出てくる。

「こ、この者たちをこちらで雇っていただけないでしょうか?元々悪い人間ではないんですっ。住んでいた土地を私同様、戦乱で追われて、逃れ逃れて、この賊の一味になっていたのも脅されて仕方がなく」

 

「リューネルよ。脅されて、この程度の賊の手下をやっているようなやつらがなんの役に立つんだ?お前の知り合いにタダメシ食わせてやる義理はないぞ」

 

「は、はい。この連中は皆、確かに剣の腕はありませんが、私が商家で働いていた頃の知り合いで、文字は書けますし、算術の腕も確かです…………」

 

 紙の上での文字や算術は、戦場では何の役にも立たない。

 そのことは、この戦闘でもほとんど役に立っていなかったリューネル自身もよくわかっており、その言葉はどんどん尻つぼみになっていった。

 

「……ふぅん……。ホルガ、この戦闘で何人死んだ?」

「今確認しているだけで4人です、アンコウ様」

「そうか………」

 

 わずかに考えたあと、アンコウは視線を後ろに控えている5人の男たちに向ける。

 

「おいっ!メシは一日二回っ、給金は当分払えないっ、朝から晩まで働くことっ、裏切り、命令違反は許さない!」

 アンコウはそれだけ言って、じっと5人を見つめる。

 

 そのアンコウの言葉の意味に、まず気がついたのはリューネル。リューネルは、バッと地に伏し、

「あ、ありがとうございますっ!」 と言った。

 

 そのリューネルの行動で、やっと自分たちが許され、雇い入れられたことを理解した5人も、リューネルに習い地に伏し、次々に ありがとうございますっ と礼を述べていた。

 

「お前ら、この分捕り品を荷馬車まで運んでいけ」

「「「は、はいっ」」」

 

 そんなアンコウに、またシクが近づいてくる。しかしアンコウは、何か話しかけてこようとするシクを無視して、馬首を丘の上に向ける。

 そして一人、移動をはじめた。

 

 

「………やれやれだ。でもこの程度の相手なら、武器を担いで戦っているほうが楽でいいな」

 

 ハリュートに行けば、そこには武器を使わない戦いが山ほど待ちうけているはずだ。読み書きや算術ができるやつのほうが使える仕事もあるだろう。

 

 小領といえども人の欲望の有様に変わりはなく、権力などが関れば、それは極めてドロドロした醜いものになる。

 人は、猫の額ほどの土地を奪い取るにも競争者を皆殺しにできる生き物だ。アンコウは一応、その恐ろしさ、面倒臭さをわかっている。

 

「ふぅーーっ……」

 



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第90話 ハリュートの狐と狸

 アンコウたちは、ハリュートに至る道程の最後の山を越えた。

 

「もうあと一刻ほど、このまま進めばハリュートが見えてまいります」

 シクが馬上からアンコウのほうを振り返りながら言った。

 

 アンコウたちがイェルベンを発し、旅程についてから、すでに一ヶ月以上が過ぎている。長旅の目的地が近いことを知り、一行の顔に喜色が浮かぶ。

 しかし、そうと聞いてもアンコウの顔色は優れなかった。

 

 無論、元々全く乗り気でないこの領地行きの話だ。それに加えて、このコールマル領に入ってから見てきた光景が、アンコウの気持ちをさらに暗くしていた。

 

 アンコウは、ここに至るまでにいくつかの村落を目にして来た。いずれも農村であったが、荒れた畑も多く、農民たちに活気は乏しく、どう贔屓目(ひいきめ)に見ても貧しい土地にしか見えなかった。

 

(………もし俺が領主様になりたがっている人間だったとしても、ここはハズレだ)

 アンコウは率直に、そう感じている。

 

 アンコウは馬を操り、するするとシクに近づいていき、声をかける。

 

「なぁ、シク」

「はい。何ですか、アンコウ様」

「コールマルも、最近大きな(いくさ)に巻き込まれたのか、そういう話は聞いていなかったんだけど」

 

「はい、小さな争い事はここでも日常茶飯事ではありますが、先般の叛徒との戦いのおりも、領主の代官は早々にその身柄を拘束されましたゆえ、領内で大規模な戦闘にはなりませんでしたし、近年は比較的落ち着いているかと」

 

「………そうか……じゃあ、飢饉(ききん)があったとかは?」

「いえ、特には…見てのとおり、山がちで農地自体にあまり恵まれているとは言えませんが……それがなにか?」

「いや、ちょっとな……」

 

 アンコウはシクとの会話をやめ、馬の手綱を緩めて、また後方へ下がっていった。

 

(典型的だな) とアンコウは思う。

(生かさず、殺さずってやつだ)

 

 この世界の現実として、決してめずらしくない農村の姿ではあるが、年貢・税金として相当搾取されているんだろう と思った。

 

「はぁ、……町だけでも、もうちょっとマシであってほしいもんだ」

 

 このコールマル領に入る直前に立ち寄ったスネという領境の町は小さいながらも、なかなかの繁盛をみせていた。

 

 これから行くハリュートという町は、このコールマル領の中心城市とのことであるし、ここまでのコールマルに対する印象はあまり(かんば)しくないアンコウであるが、

 

「………これ以上、あんまり陰気臭いのは勘弁してくれよ。……まぁ、期待は捨てずにいこう」

 と、一人(つぶや)いた。

 

―――――――

 

 このアフェリシェール大陸において、街(町)と呼ばれる存在は、かなり小さなものでも周囲を防壁や柵で囲まれているほうが一般的だ。

 

 アンコウたち一行が今、足を踏み入れたハリュートもまた、町の周囲を防壁で囲まれている。シクが言うには、防壁に囲まれた町の広さは、アンコウが比較したスネの町よりはかなり広いとのこと。

 しかし、

 

「………広いって言ってもな………」

 アンコウは周囲を見渡しながら眉をしかめている。

「……スネの町のほうが、ずっと活気があったな」

 

 町の大通りを歩いても、閉まっている店が多く、人通りもまばらだ。それに、これは町に入る前からなのだが、物乞いの数がかなり多い。

 

「はぁぁー……」

 この町に入ってから、アンコウはもう何度ため息をついたのかわからない。

 そんなアンコウの横に、モスカルが馬を並べて進んでいる。

「………なぁ、モスカル。お前、知ってたのか?」

 

「いえ、ただ地方の町では、同じように疲弊した町は少なくありませんので」

 モスカルは予想の範囲内であったらしく、淡々としたものだ。

 

 アンコウはまた、ため息をつきながら天を見上げる。アンコウが見上げた空はどんよりと曇っていた。

 

(……上も下も陰気くせぇ……)

 

 

 

 

「わっはっはっは。さぁさぁ、アンコウ様、どんどんお飲みになってください」

 

 ハリュート城‐本館宴の間。今、新領主歓迎の宴が開かれていた。

 コールマルに着いた当日に開かれた宴。アンコウたちに、ろくに休息も与えない配慮のなさに、自分たちを迎え入れたコールマル側の悪意を感じつつも、アンコウはそれに素直に応じた。

 

「何をしておるっ、御領主様の盃が空いておるぞ。おつぎせぬか」

 

 高級そうな布地の衣服を着たでっぷりと肥えた男が、アンコウに酒をすすめている。

 領主であるアンコウに次ぐ席次に座るこの男が、コールマル第一の実力者ナグバルだ。

 

 ナグバルの言葉をうけ、後ろに控えていた女が酒の入った容器を抱えて、アンコウの横に。

 

「失礼いたします」と声をかけて、女はアンコウに豊満な体を押しつけるようにして酌をする。

 見目(みめ)美しく、蠱惑(こわく)的な匂いを撒き散らす、無駄に色気のある女だ。

 

「さぁ、どうぞ。御領主さま」

「ああ、悪いな」

 

 アンコウは手に持った盃を口の運び、酒をあおる。酒に女、それにアンコウの目の前には豪勢な食事がずらりと並べられている。

 

 アンコウ側の出席者はモスカルとダッジ。モスカルはこういった宴席にも慣れているのだろうが、ダッジがこなれた挨拶をし、テーブルマナーも心得ていたのは意外だった。

 

(……ダッジのやつ、ほんとに騎士の家の生まれだったんだな)

 

 それ以外の出席者は皆、ナグバルをはじめとするコールマルの土着実力者の面々がずらりと顔をそろえている。

 その末席には、アンコウたちをハリュートまで案内してきたシクの姿もあった。

 

 酒と女と豪勢な食事、居並ぶ皆の顔には笑みが浮かび、アンコウの顔にも同じような笑みが浮かんでいる。

 

 いや実に……アンコウは気分が悪かった……。

 

「チッ」

 アンコウは顔に笑みを張り付けたまま、誰の耳にも聞こえない小さな舌打ちを漏らす。

 アンコウを見る宴席に座る者たちの顔には、一様に笑みが浮かんでいた。

 しかし、顔は笑っていても、アンコウを見る誰の目も笑っていないのだ。

 

(狐と狸の化かし合いだな)

 

 コールマル側の誰もが、新領主となったアンコウの品定めをしている。こちらの腹を探りに来ている。

 無論、一方のアンコウたちもしかりだ。

 

( くそっ、酒が全然うまくない。タチの悪い接待営業みたいなもんだ)

 

 元の世界では、接待するほうの経験しかなかった駆け出しヒラ営業マン安光(あんこう)だが、接待される方も結構なストレスなんだと初めて知った。

 

 

「なに、アンコウ様は、領地を持たれるのは初めてとのことですが、何もご心配には及びませんぞ。このコールマルのことは我々がよく存じてますゆえ、安心してお任せくだされ」

 

 ナグバルの一見親切そうな言葉に、アンコウは無言の笑みで返す。

 

 ナグバルは、先ほどから似たような発言を繰り返している。

 

(うぜぇ………)

 アンコウは早くも辟易(へきえき)してきた。

 

 何が親切なものか、ようは新領主となったアンコウに、このコールマル領内のことは自分たちがするから、お前は何もするなと言っているのだ。

 この男はアンコウから、その言質を取ろうとしている。

 

(うっとおしいな、このヒゲブタ)

 

 ナグバルは、見た目40ぐらいのヒゲブタである。髪の毛はフサフサしている。しかし、幾ばくかの抗魔の力を有しているようで、実年齢は60近いという。

 現在では、このコールマルで最も広い所領を有し、筆頭執政官の地位にもある名実共にこのコールマルにおける最大実力者だ。

 

 ここにいる他のコールマルの土着実力者は皆、ナグバルの顔色をうかがいながら、アンコウに接してきている。

 

(………まったく、どっちが御領主様かわかったもんじゃないな)

 

 アンコウは、その笑顔とは裏腹に、まったくもって楽しんではいない。

 しかし、かなり面倒くさく、うっとおしい思いをしていたが、それほど腹を立てているわけでもない。

 ただ、

(早く終われっっ)

 とは、全力で思っていた。

 

 結局、アンコウの上っ面の笑みの奥にある本当の気持ちを察してくれていたモスカルが、ほどほどのところで、

 

「御領主様は長旅でお疲れですので」と、助け舟を出してくれるまで、アンコウはナグバルたちの腹に一物も二物も含んだ腹芸の相手をさせられ続けた。

 

 しかしその間アンコウは、心底うんざりしつつも、その顔に笑みを張りつけ続けていた。

 

 

—————

 

 

 そして、宴の間を後にしたアンコウたちは、領主のブライベートスペースとして割り当てられた城内の一区画に移動して来た。

 その区画にある小さな部屋に今、アンコウ、モスカル、ダッジの三人はいた。

 

「……ダッジ、あんた最初に挨拶したきり、ずっと酒飲んでたよな」

 アンコウがダッジに、非難がましい口調で言う。

 

 モスカルに関していうと、最終的に宴がお開きなったのはモスカルの言葉があったからだし、それまでにも何度となく、ナグバルらとの言葉の神経戦にアンコウを援護する形で加わってくれていた。

 一方ダッジはというと、宴に出された芳醇な香りのする酒を実にうまそうに最後まで飲み続けていただけ。

 

「何言ってんだ、大将。歓迎の宴だろう?酒を飲むのが仕事だろうが」

 ダッジの様子には、まったく悪びれたところはなく、ニヤリと笑って見せた。

「チッ、」

 アンコウは、椅子の背もたれに大きくもたれ掛かり、舌打ちひとつ。

 

「……まぁ、いいさ。なかなか見事な挨拶だったぜ、ダッジ」

「そいつぁ、お褒めにあずかり光栄だ、大将」

 

 そう言った後、ダッジの口調が少し真剣なものに変わる。

 

「……そんなことより、これからどうするつもりだ。連中ありゃあ、これっばかしもこっちに権限を譲るつもりはねぇぞ」

 

 さすがに酒飲みダッジも、ナグバルたちの真意はちゃんとわかっているようだ。

 

「…ああ、そうみたいだな」

 

 アンコウは、その点に関しては実にあっさりしている。

 このコールマルの領主となったには違いないが、どうしてもこの地の実権を握りたいとは思っていない。

 逆に、この地で自由気ままに生きて行けるのなら、政治的な権力なんて、まったくもって欲しくはないのだ。

 

 アンコウのそういう(たち)は、ダッジもよくわかってはいるのだが、意外と権力志向が強いダッジはアンコウのやる気のなさが不満なようだ。

「……チッ!」

 そんなダッジの不満気な様子も、アンコウは完全に受け流している。

 

 

「ふあ〜ぁ、ねむ………」

 これからどうしようかと、ぼぉーっとしてきた頭で、アンコウは考える。

 

「……なぁ、モスカル。この町の近くに迷宮でもないのかなぁ?」

 

 アンコウは貴族チックな遊び‐キツネ狩りならぬ、魔獣狩りでもして余暇を過ごせないかと思ったらしい。

 

「いえ、この辺りには、迷宮もたいした魔素の森もないようです」

「……そう。……ほんと、なんもねぇなここ。あんな権力キチのおっさん連中との宴会づくしの日々なんてごめんだぜ……」

 

 アンコウは力なくぼやき、天井をあおぐ。

 

「しかしアンコウ殿、先ほどの宴席での対応は、なかなかお見事でございました」

「ん〜、何言ってんだ?普通だろ」

 

 アンコウは天井を仰ぎながら、だるそうに言った。それ以上、言葉を続けることもない。

 そんなアンコウの態度に、モスカルもそれ以上言葉を重ねなかったが、その普通というのが、なかなかできないものなのだ と、思っていた。

 

 アンコウは先ほどの宴席で、ナグバルらの術中に()まることなく、また、彼らの真意を見抜いていたにもかかわらず、怒り表に出すことなく、わざとらしい笑顔を保って応対し、彼らにつけ入る隙を与えなかった。

 

(簡単なようで、誰にでも出来るということではない)

 

 アンコウと同じように知行地を与えられ、領主となり、赴いたその領地で土着勢力にいいようにあしらわれ、時に煮え湯を飲まされ、時に命まで失う羽目になった者をモスカルは何人も知っている。

 

(とりあえず今宵は、アンコウ殿は、あの連中を上手くあしらわれた。ただ、勿論……これで終わるわけもない……)

 

 モスカルには、よくわかっている。

 アンコウが、権力は要らない 自由気ままに生きたいだけだと言ったところで、ナグバルたちが信用するわけがない。

 

 それを疑いなく鵜呑みにし、信用するような者がいれば、そいつはただの愚か者だとすらモスカルは思う。

 そして、そのことは口にはしなくても、アンコウもダッジもわかっている。

 

(アンコウの野郎、この状況で、暢気(のんき)に魔獣狩りなんてしていられるわけがねぇだろうが……まぁ、おとなしくやられる(タマ)でもねぇだろうがな)

 

 

(あぁ、面倒くさい………あぁ、面倒くさい)

 

 

 三人それぞれに明日以降のことに思いを巡らせ、さらに夜は更けていく。



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第91話 ナグバルの思惑

「ねぇ、テレサ。アンコウ機嫌わるいね」

「カルミちゃん、旦那様はお仕事が忙しいのよ。邪魔しないでおきましょ」

「わかったー」

 

 アンコウたちがハリュートに来てから、約一ヶ月。アンコウは日に日に口数が減り、近しい者には、アンコウが不機嫌さを溜め込んでいることがわかっている。

 

 そんなアンコウがいる城館の一室に、モスカルが訪ねて来た。

 

「アンコウ様、そろそろ迎えの者が来るかと」

「………ああ、わかっている」

 

 今日は、ハリュート防衛兵団の訓練をご覧いただきたい とのナグバルからの申し入れがあり、アンコウは、これからそれを見に行く予定になっていた。

 アンコウは、ガタリと椅子から腰をあげ、モスカルともあまり話をすることなく、部屋を出ていった。

 

 

———カツン、カツン と金属質な音を響かせながら、アンコウが城内の廊下を歩く。

 

 ハリュート城は、城といっても領主の館といった規模の建築物だ。

 建物の規模だけでいえば、同じくハリュート防壁内にあるナグバルの私邸のほうが新しく大きい。

 

アンコウ様、どちらへ?

アンコウ様、ご用向きは?

 

 ハリュート城に勤める使用人たちが、廊下を歩くアンコウに次々に声をかけてくるが、アンコウがそれに答えることはない。

(……ったく)

 

 アンコウがハリュートに来て、まだわずか一ヶ月ほど。

 この城の使用人たちは、アンコウがここに来る以前から働いているか、アンコウがやって来るのに合わせて、新たに配置された者たちだが、いずれにしてもその多くが、ナグバルの影響下にあることは間違いない。

 

 アンコウもそのことはわかっているし、実際に、あからさまにアンコウたちを監視する動きをみせている者たちもいた。

 

(………うぜぇ)

 

——————

 

 

「アンコウ様!このようなところにおいででしたか」

 廊下を歩くアンコウの前に、突如立ちふさがる獣人の武人の姿。

「ああ、サイードか。お前がお迎えか」

 

 サイードは、ナグバル家中で、もっとも剣の腕がたつと評されている男だ。

 

「アンコウ様、我が主はすでに演兵の場所に出向いております」

 

 名ばかりとはいえ、この城の主にしてコールマルの領主であるアンコウに対して、ろくな挨拶もなく、(おのれ)の用件を述べるサイード。

 

(けっ、腹芸のひとつすらできない田舎脳筋め)

 

 現実として、ぽっと出の領主であるアンコウよりも、土着勢力の最大実力者であり、筆頭執政官であるナグバルの意思を優先する者は多いが、このサイードにいたってはそれを隠そうともしない。

 

 彼のなかでは、明確に ナグバル>アンコウなのだろう。また、そんな男を武装したままに使いに寄越すナグバルの心の内も、実に分かりやすい。

 

(威圧的な覇気を抑えることすらしていない……確かに多少は腕がたつんだろうけど、こういう奴を田舎侍って言うんだろうな)

 アンコウのサイードに対する評価はあまり高くないようだ。

 

「アンコウ様、下に馬車を待たせておりますので、お早くご準備をっ」

「……ああ、わかってるよ」

 

 

 

 

「いかがですか、アンコウ様。我らがハリュート防衛兵団は」

 

 ナグバルはでっぷりと肥えた腹を突きだし、自慢気にアンコウに語りかける。

 

(……我らが、ね)

「まぁ、頑張ってるんじゃないか」

 

 アンコウは乾いた風を頬に感じながら、今、町の防壁の上に立っている。演習を行っている防衛兵団は防壁の外側、その数、約五百といったところか。

 

 ハリュート防衛兵団は、その名のとおりハリュート城市の防衛を主任務としている兵団だが、領主の直轄組織でもハリュート城市自体の税金だけで賄われている組織でもなく、コールマルの各土豪が兵と金を出しあって創られた部隊だ 。

 

 しかも、そのうち約半分の兵はナグバルが(おの)が私兵を供出しており、今では実質、ハリュート防衛兵団全体がナグバルの思うがままに動く組織となっている。

 

(……これはあれだ、俺に対する単なる威圧行為だろ)

 

 いまアンコウの眼下で行われていることは、領主となったアンコウに対して、町の防衛の要であるハリュート防衛兵団ですら自分の統率下にあるのだということを、演習の名の元に見せつけているナグバルの示威行為であると感じていた。

 

 しかも、このようなナグバルの行動は今回だけのことではなく、自分の力をアンコウに見せつけるような催しが連日行われており、これではアンコウでなくとも誰だって不機嫌になるというものだ。

 

「……まぁ、よく訓練はされているみたいだな」

「無論です。このハリュートで、いざ事が起こったときに役に立たぬようでは話になりませんからな、ワッハッハ」

 

(いざって時っていうのは、町のためじゃなくて、お前にとって都合が悪い事が起こった時だろ)

 と、アンコウは心の中でツッコミをいれる。

 

 ただ、客観的にアンコウが見るところ、およそ人間種7:獣人種3 内-抗魔の力保有者が1割ほどのこの兵団は、思いのほか統制はとれていた。

 

(……でもまぁ、同じ数のワン-ロン軍と比べたら屁のカッパみたいなもんだけどな)

 

 

「ではアンコウ様、次に甲虫の陣をお見せいたしましょう」

 

 ナグバルは、まだこの演習という名の示威行為を続けるつもりらしい。

 

「いや、もう十分だ、ナグバル」

「ん……左様ですか」

「ああ、この町に立派な防衛隊があるのはわかった。十分だ」

 

 さすがに、これ以上つき合っていられないと思ったアンコウは(きびす)を返し、後方に移動し始めた。

 まだ何やら話しかけてきているナグバルを無視して、アンコウは防壁の上を歩く。

 

 アンコウの足元の砂塵を舞い上げながら、乾いた風が吹きぬけていく。

 そのうちにアンコウの目には、兵団が演習をしていた逆方向、防壁の内側の景色が眼下に広がってくる。

 

(……ほんと、上から見ても陰気くさい町だなぁ)

 

 上から見て何がわかるというわけではないが、この半月ほどのあいだでアンコウの頭には、ハリュートの活気のない町の景色がイメージとして焼きついてしまっている。

 

 アンコウは今日、城館からここに来るまでのあいだにも、かっぱらいに物を取られる町人の姿を見た。

 誰も驚きもしない。アンコウの護衛と称して付き従う者たちも、そのかっぱらいを捕まえようともしない。犯罪が多発している眼下に広がる町の当たり前の光景。

 

(………あの防衛兵団を使って取り締まればいいじゃねぇかよ)

 と、アンコウはふと思う。

 

 それなりの訓練はしているようだが、彼らは平生(へいぜい)の町の治安維持にはまったく使われていない。

 まさに、ここハシュートで、ナグバルの権威を示すためだけの兵団になってしまっている。

 

「………ばかばかしい、これだから(まつりごと)ってやつは」

 

 こんな茶番に付き合わされて、アンコウの機嫌はすこぶる悪い。だが、眼下に広がる陰鬱な町の光景を領主として、どうこうしようという気もないアンコウだ。

 

(自分の町って気は、ぜんぜんしないな)

 この町はヒゲ豚ナグバルのもの、それでいいと思っている。

 

 ようするにナグバルは、アンコウが領主として此処にきて以降ずっと、この町は自分のものだアピールをしてきている。

 そういう自分に対する干渉が、心の底から鬱陶しいと感じているアンコウなのだ。

 

 アンコウとしては、

 まったく好みのタイプでもないブス女をわざわざ目の前に連れてこられて、これは俺の女だとるんじゃねぇと言われても、ただただ額に青筋が浮かんでくるばかりだ。

 

(まったくもって、どうでもいい)

 と、アンコウが思っていても、領主という肩書きがある以上、まわりが放っておいてはくれない。

 

 

「御領主様」

 ナグバルの御付きの者の一人が、防壁から下りようとしているアンコウに駆け寄ってきた。

 

「んだよ?」

「下の詰め所にて、昼餉(ひるげ)の用意をいたしております。すぐにナグバル様も参りますので、御案内いたします」

 

 そう言うと、アンコウの意志を確認することなく、そのお付きの者はアンコウを先導し始める。

 ハァー、と頭を掻きながらも、それについて行くアンコウ。

 

 散々アンコウに不愉快な思いをさせているナグバルではあるが、完全にアンコウを邪険に扱っているというわけではない。それどころか、できうる限りアンコウを歓待してはいる。

 

 今のところナグバルは、このコールマルにおける自分の力をアンコウに見せつけながらも、アンコウを懐柔し、取り込もうとしているようだ。

 

(………ようは前の代官同様、贅沢はさせてやるから、お飾りをやっとけってことだろうな)

 

「………チッ」

 苦い顔で舌打ちひとつ。アンコウは贅沢な、昼餉(ひるげ)の待つ詰め所へと歩いていく。

 

 

 

 

「さぁ、さぁ、御領主。防壁の上は風が冷たかったでしょう。さ、さ、もう一献」

 

(まったく、昼間っから酒かよ)

 そう思いつつもアンコウは盃を傾けている。

 

 ナグバルとアンコウを囲む形で、真昼の宴会が始まっている。

 わっはっはっと、笑いながらいつものごとくアンコウに話しかけてくるナグバル。

 しかしアンコウは、そんなナグバルに常に愛想笑いで返すようなことはもうやめている。

 

(チッ、このヒゲ豚は相変わらず目が笑ってねぇ)

 

 アンコウもこの一ヶ月ほど、何もせずにおもしろくもないこんな接待を受け続けていたわけではない。あの手この手を使い、できうる限り情報を集めようと努めていた。

 その集めた情報をもとにモスカルらと、今後の方針を検討していた。

 

——————

 

昨晩アンコウの私室で、

 

「なぁ、モスカル。何でナグバルのやつは、自分がこのコールマルの領主になっていないんだ?」

 

 ナグバルはコールマル領の南部を中心にかなりの所領を有しており、その自領の富で抱えている私兵の数もコールマルの土豪の中で最も多い。

 しかも、ハシュート行政府の筆頭執政官の地位にあり、他の土豪や官僚たちも彼らの本音はどうあれ、その大部分をナグバルは掌握できているようだ。

 

「間違いなく、その野心は持っていると思います。今はその八合目と言ったところでしょうか」

 

 モスカルが集めた情報によると、ナグバルは、このコールマルで父祖伝来の所領を相続したとき、その広さは今の十分の一ほどでしかなかったらしく、数十年かけて今日の勢力を築き上げてきた。いわば、このコールマルでの成り上がり者なのだ。

 

 ナグバルという男は、すぐにこのコールマルの領主という地位に手が届くところにいたわけではなかったらしい。

 

「………なるほどね。あれでも叩き上げで、今までは力か運がまだ足らなかったのか」

 

「はい。罪には問われなかったとはいえ、前々領主を(しい)したとき、その反領主豪士連合の指導的地位にあったという事実は重く、また当時は今ほどの力はなかったようで、どのような根回しをおこなったとしても、その時点ではさすがに彼を次の領主にするなどということは認められなかったでしょう。

 次にこの地を与えられた前領主の時代には、ナグバルはその領主によって派遣されてきた代官を飾り物とし、自らの勢力を拡大させて、この地で専横を振るうだけの権力を得たようです。

 しかし、代官を派遣したその領主自身は、他地方にも多く所領を多く持っている かなりの権勢をほこっていた貴族でしたから、ナグバル自身がこのコールマルの領主となるような動きはさすがにできなかったと思います」

 

 そのモスカルの言葉を聞いてアンコウは、とあることに思い至る。

 

「………じゃあ、今はどうなんだ」

 

 客観的に見て、今のナグバルはこのコールマルを支配するための十分な実力を蓄えているように見えるし、アンコウは貴族でもなければ、このコールマルのほかに知行地など持っていない。

 モスカルは真剣な目でアンコウを見る。

 

「もし、私がナグバルならば、長年の望みを叶える絶好の機会であると考えます。

 ただそれでも、アンコウ様はグローソン公爵様より正式にコールマルを知行地として与えられた御領主であり、さすがに性急なまねはできないでしょう。

 今のナグバルの動きを見るに、やはりアンコウ様をまずは取り込み、自分のいいように操るつもりかと思われます」

 

「………その後は」

 

「当然いずれアンコウ様を排し、このコールマルを名実ともに自分が支配することを考えていると見ておくべきかと」

 

「……まぁ、……あれはそんな感じだなぁ……」

 

——————

 

 アンコウは自分の横でニコニコと笑って見せているナグバルを見るに、まったくもってよくやるぜと、少しあきれてしまう。

 

 こんな陰気くさい土地に何の魅力があるんだかと思うものの、先々のことを思えば、油断すれば命をとられかねない。

 そんな自分が置かれた状況を考えると、さすがに面倒くさいで済ますこともできない アンコウだ。

 

「おお、そうだ。アンコウ様、今日はリマナもここに呼んでおるのです。少しアンコウ様の話し相手をさせましょう」

 

 ナグバルは実にわざとらしく、そんな言葉を口にした。

 

「えっ、いや、」

 アンコウが言葉を続ける前に、

 パンッパンッ と手を打ち、「リマナをこれに!」とナグバルは指示を出した。

 

 リマナというのは、ナグバルの十何人目かの娘である。ナグバルは、当初からこのリマナという娘をアンコウの側に仕えさせようと動いている。

 実の娘まで使い、あからさまにアンコウを懐柔し、自らの掌中に取り込もうとするナグバルの動きも、アンコウにとっては実に鬱陶しいものであった。

 

 しばらくすると、そのリマナが昼宴会の席へと姿を現す。

 

「お父様、お呼びでしょうか?」

「おお、リマナ。これへ」

「はい」

 

 (きら)びやかな装飾が施された光沢のある白が基調の衣服に身をつつんだ年のころ二十歳前ほどの女性。長い金色のウェーブがかった髪、ハリのある白い肌、スレンダーなスタイルで可憐な印象が強い女性だ。

 

 そんなリマナがこの場に姿を現すと、同席していた他の男の面々がオオーッと声をあげていた。確かに衆目の目を引くほどに美しい。

 

 ただ、このリマナという女。アンコウを見つめる目だけは、父親のナグバルに実に良く似ていた。

 

「アンコウ様、ご機嫌よろしゅう」

「ああ……ご機嫌よろしゅう……」

 



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第92話 嫌な女

 ナグバルの十数番目の娘であるリマナは、その美しい容姿で周囲にも評判である。

 しかし、幼い頃よりナグバルの娘として、まわりから蝶よ花よと甘やかされ放題に育てられ、その恵まれた容姿もあいまって、かなり問題行動も多い令嬢となってしまった。

 

 その問題となる振る舞いが、これまであまり表に出てきていないのは、リマナ自身がなかなか狡猾な面を持つ女であるということと、父親であるナグバルが金と権力を使い もみ消してきたからだ。

 

 ナグバルは、コールマルの領主となったアンコウを懐柔し、取り込む手段の一つとして、自分の実の娘であるこのリマナをアンコウの側に置き、妻の座に据えることを考えていた。

 

 ナグバルとしては、問題のある見目美しい麗しい娘の最も有効な利用法であったのだろう。

 その父の意向を受けたリマナは、アンコウがハリュートに来て以来、この一ヶ月の間にアンコウを訪ねて足しげく城に通いつめていた。

 

 ハリュート城は領主の居館であるが、同時に行政機関であり、支配者階級の社交の場でもあるために、アンコウのプライベート区画を除いて相応の地位にある者ならば、かなり自由に出入りできる場所になっている。

 

――――

 

数日前の、ハリュート城館にて、

 

 

「あら、アンコウ様はここにおいでと伺ったのだけど、どちらにおられるのかしら?」

 

 リマナが顔にあからさまに不機嫌な色を貼り付けて、中庭で茶器の片づけをしていた女中に聞く。

 

「も、申し訳ございません。アンコウ様は急ぎのお仕事ができたと申されまして、つい今しがた私室のほうに………」

 

 アンコウに急ぎの仕事などなく、リマナが来たということを伝え聞いた瞬間、すぐさま仕事ができたと女中に言い残して、この場を立ち去ったのだ。

 

「………仕事で私室へ?」

 リマナが視線鋭くその女中を見る。

 

 リマナにすれば、自分がわざわざ来てやったのに、あの男は何のつもりだという思いがある。

 父であるナグバルに言われなれれば、あの男にコールマル領主という肩書きがなければ、自分と話すことなど叶わないであろう容姿・出自の男なのにと。

 

 女中はあきらかに怯えている。リマナが女中や使用人に対する態度がきついことは、この城で下働きをしているいる者たちは皆知っていることだ。

 

「は、はい。そうです……」

「……そう、ならば、これからそちらにおうかがいしましょう」

「い、いえ、あ、あの、大切な仕事だから、誰も通すなと……」

 

 その女中の言葉に、リマナの(まなじり)があがる。

ビシィッ!

「!っっ」

 リマナが手に持っていた扇で、女中の肩を打った。

 

「ならば、私が来たとアンコウ様に伝えなさいっ!」

「!~~!」

 リマナに強く言われて、女中は声もない。

 

 この女中は、リマナのことを権勢家ナグバルの娘として逆らってはいけない存在と認識しているが、実はアンコウのことはもっと恐ろしいと思っていた。

 

 アンコウは、この城の使用人たちにナグバルの息がかかっていると判断した時点で、完全に彼らのことを敵認識していた。

 この女中も、アンコウから殺気混じりの覇気を直接的にぶつけられたことがある。

 

 アンコウに、じっと見据えられて、

『お前らにもいろいろお仕事があるだろうが、あんまりナメたまねをしていたら殺す』

 と、淡々と言われたときは、恐ろしくて死ぬかと思った女中である。

 

 あの~その~と、その女中はうろたえ、どうにもできなくなっていた。

 その時、

「あれぇー、アンコウはっ?」と、子供の声が中庭に響いた。

「ここにいるって言ってたのにぃ」

 

 小ぶりアフロの女の子がトコトコ中庭に入ってきた。

 そして、

「ねぇねぇ、アンコウは?」

 と、リマナと話をしていた女中に声をかけた。

 

「あっ、カルミ様っ」

 

 現れた女の子はカルミ。この城で働いている女中も、当然カルミのことを知っている。

 

 自分を前にしながら、カルミに意識を移した女中を見て、さらにリマナの眉がつり上がる。

 リマナは、アンコウに馴れ馴れしく接し、アンコウのプライベートスペースでともに生活しているこのハーフドワーフの少女をかなり苦々しく思っていた。

 

(聞けば、あの男と血のつながりがあるわけでもなく、ただ付きまとっているだけの混じり者の孤児だそうではないの。しかも、あの奴隷女が母親代わりだなんてっ。ずうずうしいのも程があるわっ)

 

「ちょっとっ、今わたくしが、この女中と話をしているのよっ。お前のような混じり者はさがってなさいっ!」

 

 カルミに対して、そうリマナが叱声をあげると、リマナの後ろに控えていた二人の武装した男がカルミのほうに進み出てくる。

 

「ほー、そうなんだ。ごめんなさい」

 

 しかしカルミは、あっさり頭をさげて謝ると、その場でじっと立っている。これは順番を待っているつもりなのだろう。

 

 リマナは、カルミに対して一度、フンッと鼻息を荒く飛ばしてから女中のほうに向き直り、

「お前も、このようなずうずうしい混じり者に、様などとつけるのではないわっ!」

 と、いら立ちを隠すことなく言った。

 

「で、ですが、リマナ様、この少女は御領主様の、」

(わたくし)に、口ごたえをする気っ!」

「い、いえっ、まさかっ、も、申し訳ございませんっ」

「この娘はアンコウ様の縁者ではないっ!あの奴隷女の養い子よっ!」

 

 リマナの言うあの奴隷女とは、もちろんテレサのこと。アンコウを狙うリマナにとって、カルミ以上にテレサは目障りな存在だ。

 

(あんな年増の奴隷女が、私の邪魔をするなんて許せないっ。抗魔の力を持っているからって何だと言うのよっ) 

 と思っている。

 

 リマナがアンコウに何度かアプローチをかけてみても、未だあちらからのお誘いはなく、聞けば連れて来ていた乳と尻の大きいだけが取り得の年増の奴隷女と寝室を共にしているという。

 

 別にアンコウに惚れているわけではまったくないリマナだが、自分の女としての美しさには自信があり、事実、これまでに自分の誘いに乗ってこなかった男などいなかったのだ。

 それゆえに、あんな奴隷女に自分が負けているなど認められるわけもなく、かなり感情的に意地にもなっていた。

 

 感情を剥き出しにしたリマナに、女中はただうろたえるばかりだ。

 いくらナグバルの娘であるリマナに叱責されても、女中はアンコウも恐ろしく、そのアンコウが、このカルミという少女を特別扱いしていることも知っている。

 

 ただ、頭をさげつづける事しかできない。

 

「も、申し訳ございません、リマナ様っ」

「もうよいっ!早うアンコウ様のところに(わたくし)が来ておるとお伝えせよっ!」

「い、いえ、しかし、ア、アンコウ様はお仕事で、私室のほうに……」

 

 実は、この女中にもナグバルの息はかかっている。

 それがため、先日アンコウの私室の掃除をしていた時、アンコウの机の中をこっそりとのぞき見た。

 

 命じられていた情報収集の一環だ。しかし、その作業中ふと女中が気づいた時には、アンコウがこのスパイ女の真後ろに立っていた。

 

 その時にアンコウに言われたセリフが、

『お前らにもいろいろお仕事があるだろうが、あんまりナメたまねをしていたら殺す』であった。

 

 アンコウが先ほど、この中庭から立ち去るとき、

『俺は仕事だ、私室に行く。誰も通すな、誰の伝言も持ってくるな。わかったな?俺からの仕事もちゃんとしろよ、でないとわかっているよな?』

 と、女中に言い残した。

 女中は、その時アンコウが自分に向けた酷薄(こくはく)な目に震えあがった。

 

 当然女中は、アンコウが仕事ではなく、リマナが来るのを嫌がって姿を消したことはよくわかっている。

 そのうえ、なめたまねをしたら殺すとまで言われているのに、リマナをアンコウの元に案内することはもちろん、伝言を伝える勇気も、この女中は持ち合わせていない。

 

 目の前の女中が自分の言うことを聞きそうもない様子を見て、リマナは脳天に血を上らせる。

 

「~~っ!こ、このっ!わ、(わたくし)の言うことが、」

「なんだー、アンコウはじぶんの部屋にいるのかー」

 

 女中を怒鳴りつけようとしていたリマナの声に、別の声が被さってきた。

 口を閉じ、自分が女中に質問する番を待っていたカルミが口を開いたのだ。

 

 そしてカルミは、すぐさまトコトコと移動をはじめる。アンコウの私室に行くつもりなのだ。

 それがあきらかであっても、リマナの案内を断っていた女中はカルミを止めることはしない。

 

「!くっ、お、お前っ、なぜあの小娘を止めないっ!」

 

 リマナは目を向いて女中をにらみつけ、扇を女中の鼻先に突きつける。

 女中としては止めるも止めないもなく、カルミもこの城の領主のプライベート区域で生活をしているのだ。当然アンコウの私室もそこにある。

 

「い、いえっ、そんなっ」

 

 リマナと女中が、そんなやり取りをしているあいだにも、カルミは中庭をトコトコと歩いていく。

 

「くっ!もうよいっ、どきなさいっ!」

 

 頭に、限界を越えた血を上らせたリマナは、女中を乱暴に押しのけて、カルミめがけて駆け出した。

ダダダッ

「待ちなさいっ!」

 

 カルミはその声に、ん?と足を止め、リマナのほうを振り返る。

 リマナは手に持った扇を頭上に振りあげながら、カルミの元に。

 そして、その勢いのままに手に持った扇をカルミの小ぶりアフロめがけて振り下ろした。

 

バシッ!ビシッ!

 一度二度と、リマナは鬼の形相でカルミの頭を扇で打擲(ちょうちゃく)した。

 

「この混ざり者がっ!分をわきまえよっ!」

 

 そしてリマナは、フーッ、フーッと、鼻息荒く、カルミを怒鳴りつけた。

 

 カルミは怒るリマナを見つめながら、頭に手を置く。

(たたかれた……)

 別に痛くはなかったが、カルミには目の前の女が何を怒っているのかわからない。

 

 カルミは強い。まず間違いなく、このハシュートでカルミと五分で戦うことができる戦士はいないだろう。

 ただそれでも、カルミはまだ6歳の子供に過ぎない。

 

 カルミの目にじんわりと涙が浮かんでくる。

 愚か者は、相手が弱いと見たときには強く出るものだ。カルミがハーフドワーフで、抗魔の力があるとかないとかそういうことも、リマナのような己の権威の絶対的優位性に疑いすら持たぬ愚か者には意味がない。

 

 カルミの目に涙が浮かんだのを見たリマナは、嗜虐的な笑みを口の端に浮かべて、再びカルミめがけて扇を振りかざす。

 

「カルミちゃんっ!」

 その時、カルミの名を呼び、ものすごい勢いで中庭に走りこんでくる一人の女。

 

「あっ、テレサぁっ」

 

 そう、それはアンコウの奴隷にして、カルミの母親代わりを自認しているテレサだ。テレサはリマナの扇がカルミに振り落とされる前に、二人の間に割って入ってきた。

 

「くっ、お前はっ!どきなさいっ、この奴隷女ッ!」

 

 リマナは、カルミ以上に、このテレサのことを嫌っている。

 

「も、申し訳ありません、リマナ様。この子が何か失礼なことでもいたしましたでしょうか?」

「テレサぁ」

 カルミは、サッとテレサの体の後ろに隠れる。

 

「どけと言っているのが聞こえないのっ!お前はこの私に逆らうつもりかっ!」

 

 すでにテレサも、このリマナがどういう立場の者であるかをよく知っている。

 

「い、いえ、そんなつもりはありません。ですが、この子はまだ子供で、私はこの子の面倒を見ている者です。何をしたのかは知りませんが、この子がしたことは私の責任でもあります。どうかお許し下さい、リマナ様」

 

 テレサは深々と頭をさげるが、そこから退くつもりはまったくないようだ。

 

(ど、奴隷女風情がっ、ぽっと出の領主の寵愛を受けているのをよいことに、私の邪魔をしたあげく、このような無礼な態度をっっ)

 

 リマナは頭から怒りの湯気を上げながら、わなわなと体を震わしている。

 そんなリマナに駆け寄ってくる従者護衛の男たち。

 

「………そ、そう、お前が責任を取るというのね。ナグバルが娘であるこのリマナを虚仮(こけ)にしたのよ……お前のような奴隷女に相応の罰を与えてやるわっ」

 

 リマナは駆け寄ってきた従者護衛の男に、何やら耳打ちをして、自分は少し後ろに下がっていく。

 従者護衛の男はリマナに対して頭を下げると、ニヤリと笑みを浮かべながら、テレサに近づいてきた。

 

「あ、あの、」

 テレサはこの展開にうろたえるものの、男が近づいてきても、カルミを背にして逃げることはしなかった。

 

 そしてニヤニヤとした笑うその男は、テレサのすぐ近くまで来て、ようやく足を止めた。

 

「!ああっ!何をするんですかっ!」

 するとその男は、いきなりテレサの肩を抱き寄せて、テレサの大きな胸を鷲づかみにしたのだ。

「ああっやめてっ!」

 

 テレサは、乱暴に自分の体をまさぐり始めた男を押しのけようとする。

 しかし、それを少し離れたところから見ていたリマナが、扇を突き出しながら、テレサに向かって大きな声で吼えた。

 

「逃げるなっ!逃げれば、その後ろの混じり者に(わたくし)にこんな不愉快な思いをさせた責任を取ってもらうわよっ!」

 

 そう言われれば、テレサは(こら)えるしかない。

「うっ、うううっ……うんんっ、」

 テレサは眉間にしわを寄せ、下唇を噛みしめ耐える。

 

「へへへっ」

 男は触り得だ。

 

 また吼えるリマナ。

「ふんっ!この売女(ばいた)の奴隷女がっ!少しは立場をわきまえなさいっ!」

 

 もはやカルミは何の関係もない、リマナのテレサに対する悪感情が噴き出している。

 調子づいてきた男はテレサの胸を掴みながら、さらにテレサに密着し、己の顔をテレサの顔に近づけていく。

 

「いやっ、やめてっ」

「だ、だまれっ。お、おとなしくしてるんだっ」

 男は目を充血出させて、鼻息も荒くなっている。

 しかし、その男の動きが突如(こお)った。

「!ヒッ!?」

 

 強烈な悪寒と重圧。テレサの体を触っていた男は突然、目には見えないふたつの鎖に体を縛られた。

 体を硬直させた男は、恐る恐るその目に見えない鎖がつながっている先へと、視線を下におろしていく。

 

 そこにはもっさりとした毛の塊が見え、

 さらにその少し下には、男を下からぬめつけるような光宿(ひかりやど)双眸(そうぼう)

 それはそれは恐ろしい眼光、男の魂を鷲づかみにするかのような力を放つふたつの目がそこにあった。

 

「ひぃぃぃっ」

 男の体が(おこり)のように震えだす。

 

 その目の持ち主はカルミ。カルミの目に、先ほどまで浮かべていた子供らしい涙は跡形も残っていない。

 カルミは小ぶりアフロを逆立てて怒っていた。

 

「おまえぇっ……テレサを……いじめたなあぁ」

 

 カルミは隠れていたテレサの後ろから、一歩踏み出してくる。と同時に、カルミは腰にぶら下げているメイスの持ち手に手をのばす。

 

「ひぐぅぅぅっ」

 テレサを触っていた男の顔は真っ青、叫び声をあげようにも声すら詰まっている有様だ。

ドサンッ

 男の腰が崩れ、その場に尻もちをつく。

 

 カルミと男の視線が合う。カルミはついにメイスの持ち手を強く握り、それを引き抜こうとした。

 

「や、やめなさいっ!カルミちゃん!」

 

 しかし、テレサがカルミを制止した。カルミは動きを止めるものの、その目は未だ無慈悲な戦士の眼光を放っている。

 

「……どうして?こいつテレサをいじめた」

「わっ、私なら大丈夫だからっ、ねっ、カルミちゃん」

 

 テレサが必死でカルミを制止するものの、それでもカルミは尻もちをついて動けなくなっている男をじっと見つめて離さない。獲物を狙う捕食者の目だ。

 

 男は体中から冷や汗を流している。声はまったく出ていない。

「!~~~!」

 男は、蛇に睨まれた蛙のような状態になっている。

 

 テレサは焦る。

「カ、カルミちゃんも旦那様から言われていたでしょ!」

 

 何をか?それは、カルミもテレサも、アンコウから城の連中、特にナグバルと関わりがある者と今はもめるなと、強く言われていたのだ。

 

「憶えているでしょっ?このお屋敷でけんかはダメなのよっ。カルミちゃん!」

 そう言われて、ようやくカルミの瞳の色に変化が生じた。

 

「………う~~ん、アンコウ言ってた………」

「ねっ、そうでしょ、言ってたでしょ。旦那様の言うことは聞かなきゃだめよっ。私は大丈夫だから、ねっ、カルミちゃん、ねっ?」

 

 そのテレサの必死の説得が、なんとか功を奏したらしい。

 

「………う~~……ん、んっ、わかった、テレサ」

 

 カルミは目に宿っていた戦士の光を消し、すっとメイスから手を離した。

それを見て、テレサはほっと息をつく。

 

「えらいわ、カルミちゃん…………」

 テレサの全身から、どっと冷や汗が流れ出てきた。



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第93話 カルミに金棒

 恐怖で腰を抜かし、声も出ない状態になっている護衛の男の姿を見ても、リマナはカルミがメイスを振るえば自分の命も危なかったという認識が持てない。

 ゆえに、突然目の前で起こった理解できない光景に怒りを爆発させた。

 

「何をしているのっ!早く立ち上がりなさい!」

 

 突然腰を抜かし、テレサから離れた男を強く怒鳴りつける。しかし、カルミの覇気を直接ぶつけられた男は完全に腰が抜けたままだ。

 

「くっ!お前たち何をしたのっ!」

 

 今度はテレサとカルミを怒鳴りつける。そして、まだ自分の左右に残っている従者護衛の二人の男に叫ぶように命じた。

 

「お前たちっ!あの二人を取り押さえなさいっっ!」

 

 その残っていた護衛の男たちは、躊躇(ためら)いながらもリマナの命を受けて前に出た。

 

「「は、はいっ、リマナ様っ」」

 

「カルミちゃん!」

 テレサはカルミを庇い、前に出る。

 

 あっという間に距離をつめてきた男たちが、テレサの前に迫る。

その時、

 

ドガアァッ!

ドゴオォッ!

「「ぐわあぁぁーっ」」

 

 その二人の男たちの手がテレサに届くことはなく、男たちは中庭を転がり飛んでいった。

 

「なっ!」

 今度はさすがに何が起こったのか理解でき、目を大きく見開くリマナ。

 そして、テレサとカルミが、ほぼ同時に声をあげた。

「ホルガさんっ!」

「ああっ、ホルガだあぁ!」

 

 

 白い体毛、白い眉、シャープな顔つきに鋭い眼光。アンコウが所有する二人目の奴隷となった獣人女戦士ホルガの姿がそこにはあった。

 ホルガに殴られ、蹴り飛ばされた男たちは中庭の端まで飛んでいき、ピクリとも動かない。

 

「あの、ホルガさん……」

 助けてもらったテレサではあるが、これではせっかくカルミを抑えた意味はない。

 

「あ~あ。ホルガ、お城でけんかしちゃダメなんだよ、アンコウに怒られるよ?」

 と、言ったのはカルミだ。

 

「大丈夫です。私がアンコウ様より命じられている仕事の一つに、カルミとテレサの警護見守りがありますから。これは私のやるべきことなのです」

 

 おおーそうなのか~ と、カルミは納得。

 それでもこれはやりすぎよ と、うろたえているのはテレサだ。

 

 

「 くくっ、~~こ、こんな、こんな、~~」

 

 一方、護衛の男たち三人全てを排除されてしまったリマナは、屈辱で全身をぶるぶると震わせて、顔面は蒼白になっている。

 

 テレサ、カルミ、ホルガの三人が、そんなリマナをじっと見つめる。

 一見穏健派に見えるテレサも、これまでに何度も嫌がらせをされたリマナに同情する心などさらさらない。

 

「!くっ~~~!」

 リマナはキッと歯を食いしばり、(きびす)を返す。

「お、憶えてらっしゃいっ!(わたくし)虚仮(こけ)にしたこと後悔するわよっ!」

 

 それでも、この状況で捨て台詞を吐けるのは見上げたものである。

 そして、のびている三人の護衛を放置したまま、リマナはつかつかと足早にその場を去っていった。

 

―――――

 

 その中庭から少し離れた建物の陰影の中、さらに気配を完全に殺したもうひとつの影が潜む。

 

(………なんともはや。あんなところにいなくてほんとよかったよ。これ以上ないぐらい不毛な(いさか)いだな、あれは……。

 しかし、テレサもホルガも融通が利かないよなぁ、もうちっとうまいことやればいいのに、タイプはぜんぜん違うけど、そういうところは似ているかもな)

 

 次に影は、そのまま中庭で何やらテレサと話しているカルミを見る。

 

(……カルミのやつに好き勝手に暴れさせてやっても別によかったんだけどな、遅かれ早かれって気もするし……で、でも……ブッ)

「ブフッ!あ、あいつ、アフロ頭、ハデハデ扇でぶっ叩かれてやんの。ブフフッ、に、2回も」

 

 完全に気配を消していた その影だったが、どうしても笑いを堪え切れなくなったらしい。

 

「ブフッ、ふははっ」

 

 

「ん?どうかしたのカルミちゃん?」

 テレサと話をしていたカルミが突然口を閉じ、あらぬ方向をじっと見つめていた。

 

「ん~~~んん?……だれかこっちを見てる?」

 

「「「えっ?」」」

 と、テレサもホルガもその場に残っていた女中も、カルミがじっと見ている方向を見る。

 しかし、三人には何も見えない。

 

「?ほんとに?向こうに誰かいるの?」

 

 カルミが自分よりずっと優れた感覚を持っていることはテレサも心得ており、自分には見えないからといって、頭からカルミを疑うようなことはしない。

 

「んん~~っ、…………んん!? あっ!アンコウだ!アンコウがいるっ!」

「えっ!旦那様がいるのっ!?」

 

 テレサもじっと目を凝らすが、どこにも何も見えない。でもテレサはカルミを信じた。アンコウがいるんだと。

 

「あっ!アンコウにげた!テレサっ、アンコウ走っていったよっ」

「えっ…………」

 

(…………ああ、旦那様ここにいたんだ。ずっと見ていたんだわ)

 

 テレサは、ああそうか と、いかにもアンコウがやりそうなことだと理解した。

 

「………ふふふっ」

 何も見えない少し離れたところにある建物の陰を見つめながら、テレサは穏やかに笑った。

 

 しかし、そのテレサの笑う顔を見たホルガは若干身を反らせる。フフフと笑うテレサの目が、まったく笑っていなかったからだ。

 

(……怖い笑い方ね、テレサ)

 

 

 

「チッ、しくった。カルミのやつはほんと勘が鋭いっ」

 

 建物の陰から抜け出したアンコウは只今移動中だ。

 リマナの相手をしたくなくて姿を隠したアンコウだったが、先に現れたのがカルミであっても同様に逃げ出すつもりでいた。

 

 リマナの質の悪い下心丸出しのアプローチの相手をするのは本当に面倒くさいし、そんな女は気持ちが悪い。

 また、カルミが先に現れていれば、間違いなくアンコウはアフロなあの子の遊び相手にされてしまい、それはとにかく体力的に恐ろしく疲れることになる。

 

「チッ、俺は忙しいんだよっ。どっちも相手にしてられるかよっ」

 というのが、アンコウの弁である。

 

 

「ねぇねぇ、アンコウお仕事中なんだよねー?」

 

 カルミは、まだその場にいた女中に話しかけた。確かにその女中は、アンコウは私室で仕事をしていると言っていた。

 

「えっ、あ、は、はい。た、確かにそうおっしゃっておられましたが………」

「ん~、でも今そこにいて、カルミが見たらにげていったよー」

 カルミは首をかしげながら言った。

 

パンッ!「ああっ!わかったわ!」

 すると、突然テレサが手を打ちながら大きめの声を出した。

 皆がテレサのほうを向く。

 

「カルミちゃん!」

「なに?テレサ」

「旦那様はカルミちゃんを見て逃げたのよね?」

「うん」

「カルミちゃん、この間お風呂で旦那様と今度遊んでもらう約束をしてたじゃない?」

「おお~。うんっ、したっ」

 

 このあいだ、アンコウ視点ではカルミ主導で無理やり三人で風呂に入ることになったとき、確かにアンコウとカルミはそんな会話をしていた。

 

 しかしそれは、さんざんアンコウに遊んでくれとせがんでいたカルミを、アンコウがまた今度、また今度とカルミを煙に巻いていただけだということは、一緒に湯船に浸かっていたテレサはよくわかっているはずだ。

 

 それにアンコウの口から、カルミの遊びにつき合うと恐ろしく疲れるということを、これまでに何度も聞いているテレサだ。

 

「それが今じゃないのかしら」

「?」

「鬼ごっこじゃないのかな。前にワン‐ロンでしてたでしょ?だから旦那様、カルミちゃんの顔を見て逃げたのよ」

「おおっ、鬼ごっこかぁ!」

 

 それはアンコウが一番疲れたと言っていたカルミとの遊びだ。

 カルミの目がキラりんと輝いた。くるりとアンコウのいた建物の陰のほうを見るカルミ。

 

「ふふっ、カルミちゃん。今度はもっと鬼っぽくしてみたらどうかしら?」

「?おにっぽく?」

「そう。鬼に金棒って言ってね、鬼は金棒を持っているのよ。今は金棒はないけど、カルミちゃんはメイスを持っているでしょ?」

「おおー、そっかっ」

 

 カルミはご機嫌にすらりとメイスを引き抜いた。自分の身の丈以上のメイスをカルミは掲げ持つ。

 

「まあっ、鬼に金棒ならぬ、カルミちゃんにメイスねっ!よく似合ってるわよ!」

 

 何となく褒められたような気がしたカルミは、ムフーッと、鼻息を荒くする。

 

「じゃあ、カルミ、アンコウを捕まえてくるっ!」

「ええ、カルミちゃん。それに、せっかく()()を持ってるんだから、それで旦那様を捕まえたらどうかしら?ボカンと」

「たたくの?」

「ふふっ、旦那様は強いから大丈夫よ」

「うん!わかったー!」

 

 

 

「うん?」

 

―― まてまてーー

 

(?何だ?)

 

― まてまてーー……・・・・・・ アンコウ、まてぇー!」

 

 突然、遠くから聞こえはじめた子供の声。

 

 その声が自分の名を呼んだことに気づいたアンコウが後ろを振り返ると、その視線の先にはカルミがメイスをグルングルン振り回しながら、走ってくる姿が見えた。

 そのカルミが、あっという間に近づいてくる。

 

「いっ!カ、カルミっ!」

「みつけたぁーアンコおぉー!鬼にかなぼうだー!」

 

ボガァン!ガラガラガラガラッ!

 

 カルミが振り回していたメイスが、アンコウがのん気に歩いていた庭に置かれている石像にぶち当たり、ガラゴロと崩れ落ちる。

 

「なっ!な、なんだ!?おいっ、カルミっ、止まれっ!」

 

 止まれと言っても絶賛鬼ごっこをお楽しみ中のカルミが止まるわけがない。それまで以上に、ぐるんぐるんメイスを振り回しアンコウに迫る。

 

「!~~っ!」

 アンコウは何が何だかわからないが、とにかく逃げないとヤバイことだけはわかった。

「く、くそっ!」

 

 アンコウは、カルミに背を向け全力で走り出した。

 

「あ~っ!!まて、まて、アンコーー!!」

 

ぐるんっ ボカァンッ! ガラゴロロッ!

ぐるんっ ボカァンッ! ガラゴロロッ!

 

「なっ、なんなんだっ!カルミ~っ!」

 

 

 メイスを振り回すカルミが笑顔で追いかけ、汗ダラダラのアンコウが必死の形相で逃げる。

 そんな光景が、この(のち)二時間、アンコウがボカンとやられるまで、ハリュートの城中で見ることができた。

 

「アンコウ、つっかまえたあああーーっ!」

 

「ぐわあぁぁー!!!~~~~~………」

 

 

 

 

「さぁ、アンコウさまぁ、もう一献(いっこん)

 

 演兵視察を終えた昼の宴の席。アンコウの横に座ったリマナは、周囲の目を気にするそぶりなく、しなだれかかるようにしてアンコウに酒を注ぐ。

 

「……ああ、ありがとう」

「ねぇ、アンコウ様。このあいだのお城でのことですけれど………」

「ああ、ナグバルからも聞いている」

 

 この間、城でリマナの従者護衛たちが乱暴をうけたことについて、アンコウはナグバルから一応の抗議をうけていた。

 

 無論、全てを覗き見ていたアンコウとしては、

(馬鹿が、自業自得だろうが。知るかよ) というのが本音なのだが、リマナにとって一方的に都合の良い内容になっていたその抗議を、特に反論なく受け取っていた。

 

「ああ、申し訳なかったね。うちの者たちが、君の従者たちに怪我をさせてしまったみたいで」

 

「い、いえっ、そんなっ。アンコウ様にお謝りいただくようなことではありませんわっ。悪いのは乱暴を働いたあの人たち。でもそれも、まだこの土地に来て日が浅く、(わたくし)たちのことをよく知らなかったからでしょう。

 もう、よろしいのです。あのような下賤の者たちが、アンコウ様のような御立派な方の近くにいるのは如何なものかとは思いますが、それ()()()()で許して差しあげてくださいませ。

 ………そんなことよりも、アンコウさまぁ。今度はお城で、一度このようにアンコウ様にお酒をおつぎできたらと、リマナは思うのです」

 

 上目遣いにアンコウに甘えるようにして、リマナが言う。

 その自分に体を密着させてくる女の容姿を見て、アンコウも率直に、綺麗で色気のある女だなぁと思ってしまう。

(……まぁ、上っ皮だけのことだけどな)

 

「おおっ、それは良い考えだの、リマナ」

 

 ナグバルが、アンコウとリマナの会話に入ってくる。

 

「このリマナは、奥手な娘でしてな。このようなことを自分から申すのを初めてみました。アンコウ様のお人柄ですかな、わっはっはっは」

 

「も、もういやですわ。お父様ったらっ、アンコウ様の前でそんなことっ」

 

「………………。」

 

 当然アンコウ側も、いろいろとナグバルたちのことを調べている。その中にはこのリマナに関する情報も入っていた。

 アンコウは、リマナが遊び好きの股緩女(またゆるおんな)であることも知っているのだ。

 それに、自分がいないときのリマナの城での振舞いも当然知っている。

 

(何言ってんだっ。おすすめするなら、もうちょっと身持ちの固い女を紹介しろってんだ。娘、十何人もいるんだろうがこのヒゲ豚絶倫オヤジがっ)

 アンコウは心の中で毒を吐く。

 

 ただそれとは別に、確かにリマナの容姿は美しく、色気も十分にある。

 それはアンコウも認めるところであって、妻にするには問題大有りの女なのだが、

 

(まぁ、一回ぐらいお願いするのは……アリかもな……)

 と、思ってしまうのは、男の(さが)だろう。

 

そして、アンコウの手がリマナの腰に回る。

 

「まぁっ……ウフフフッ、アンコウさまぁ」

 

 それを見たナグバルがまた、話し始める。

「それにアンコウ様。アンコウ様も御領主となられたのですから。いつまでも、お一人身ですと何かと不便もございましょう。そのリマナも、そろそろ良い年頃でして。良い嫁ぎ先を探しておりましてなぁ、ワッハッハッ」

 

( くっくっ、たわいもないのぉ。何やら武に優れているとの報はあったが、所詮考えが足りない青二才よ)

 

 

 アンコウは見目麗しい女を片手に抱き寄せ、美酒美食を口に運ぶ。

 確かに女は美しく、酒は芳醇な香りを放ち、頬が落ちそうなくらい美味な料理が並んでいる。それは間違いなくアンコウという男が望む夢生活のひとつでもある。

 

 しかしその全てが、致命的に根っこの部分がずれていた………

(チッ………こんな生活いつまでもしてられないなぁ………)

 

「……アンコウさまぁ。リマナは一度、アンコウ様のお城のお部屋で、お話がしとうございますぅ」

 リマナは実に巧みに恥らって見せつつ、アンコウの耳元で甘く囁いた。

 

「……ああ、今度な……リマナ……」



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第94話 リマナ 夜の訪問

「なるほどな。やっぱりこのコールマルの力のバランスは、かなりハリュートもある南部に偏っているんだな」

 

「はい、さようです」

 

 ハリュート城館、領主の執務室とされている部屋で、アンコウとモスカルが真剣な様子で話し込んでいる。

 部屋は優しいランタンの明かりで照らされ、二人が視線を向けるテーブルの上には、ここコールマルの詳細な地図が複数枚ならべられていた。

 

「モスカル。北部はこの辺り以上に厳しいんだよな?」

 

 このコールマル領の北境は極めてけわしいイサラス山脈が広がっており、その深奥部は濃厚な魔素の地であり、生半可な抗魔の力の保有者ではそこを越えることは困難だ。

 

 また、コールマル領を南北に分断するように流れているヨラ川以北の地は、その北境のイサラス山脈だけでなく、東西にも魔素の漂う山があり、イサラスほどの険しさはないとはいえ、他所への人的移動、物流ルートを考えれば、どこにいくにもコールマル南部を経由せざるを得ない。

 

 コールマル北部は、ある種の閉ざされた区域のようになっている。

 

「このコールマルはグローソン公領の辺境、さらにその南北を比べれば、北部は辺境中の辺境と言えましょう。そのうえ北部は山賊どもの被害も多いようですから」

 

「しかしモスカル、領主の直轄地のほとんどが、その北部にあるというのはどういうことだ?」

 

 現在、コールマル南部に領主直轄地はほとんどない。ちなみに現在、南部でもっとも多くの所領を持っているのはナグバルの一族である。

 

「昔は、領主の直轄地は南部にも多くあったようですが、」

「地場の実力者たちに奪われのか?」

「まぁ、実質そうですね。彼らは褒賞として頂いたとか、北部にあった自領と交換して頂いたとか言っておりますが、ようは好き勝手にやったということでしょう」

 

「なるほどねぇ。領主を無視して好き勝手っていうのは、今も変わらない気がするけどな。

 ……なぁ、モスカル。ちなみにお前だったら、この鬱陶しい状況をどうやって解消する?」

 

「……そうでございますな。敵方の頭を獲り、武で制圧すれば、それが一番後腐れなく確実かと」

 モスカルは、眉ひとつ動かすことなくそう言った。

 

(……あっさりナグバルを()ったうえでの、武力制圧を進言しやがった。忘れてたぜ。モスカルのやつも、あの戦争キチのハウルの野郎の家来を長年勤めていたんだったな)

 

 モスカルは一見穏やかな文官だが、いざ(いくさ)となれば鎧兜を身につけて、部隊を率いて戦場に立つことにも慣れている男だ。

 

「アンコウ様にカルミ殿、テレサ殿、それにダッジにホルガ。後詰めに手勢50。それに場合によっては、シク殿や北部豪士(ほくぶごうし)の一部の者たちの協力も得られるかと」

 

「ん?シクや北部豪士(ほくぶごうし)ってのは何だ?」

 

「シク殿をはじめ、北部に所領を持つ方々はこのコールマルでの立場は総じて低く、ナグバル一派に不満を持つ者もいるようです。皆ナグバルに歯向かうには力が足りない者ばかりですが、

 ……アンコウ様に力があるということを示せば、呼応する動きを見せる者も出てくるでしょう。特にシク殿などは、すでに自分の目でこちらの武威の一端を目にしているのですから。

 それに彼は、我々をハリュートまで案内してくる道中で見た 我らの武威について、ナグバルらに正確に報告していないようです。その事からも、少なくともシク殿にはナグバル一派と一歩距離を置く思いがあるのでしょう」

 

「……なるほど、だけど今はこの土地の連中の力を借りるつもりはないな。まず、俺にはナグバルの首を獲るつもりがない。そのあとが面倒そうだからな。

 たとえ奴を殺すにしても、それは最後の手段にしたい。俺は別にコールマルが欲しいわけじゃないんだ。どっちかっていうといらない。

 ただ、今のまんまじゃあ目障りな奴が多すぎる。俺は奴等とこれ以上かかわり合いになりたくないだけなんだよ」

 

「………では如何されますか」

「ようは、ここにいるから面倒なんだ。だったら、ここにいなきゃいいだけの話だろ。

 ………まぁ、グローソン公を相手にしてるんじゃないんだ。ビビって逃げ出す必要もないからなぁ。モスカルの意見を半分取り入れるぐらいがちょうどいいかもな」

 

 

 

 

「ねぇ、あの人たちは何をしているの?」

 

 すでに日が沈みかけ、夕闇迫る時間帯。

 テレサは、このハリュート城館で寝起きするようになって二月(ふたつき)が経ち、すっかり顔馴染みになった頬っぺたにまだ赤みが残る若いメイドに聞いた。

 

 ここはハリュート城館内、領主のプライベート区域。

 アンコウだけでなく、テレサやカルミ、ホルガもこの区域で寝起きしている。

 そこにあるアンコウの寝室に、見かけない顔のメイドの一団が、さきほどから出入りをしている。

 

「あ、あの、テレサ様はご存じなかったのですか?」

 

 テレサに問われた若いメイドは、何やら言いづらそうに言葉を濁している。

 彼女らメイドたちのテレサに対する態度は、今では概ね丁寧なものになっている。

 

 テレサは奴隷だといっても、領主であるアンコウが連れてきた唯一の()

 それは、テレサにも自分用の部屋が用意されているにもかかわらず、毎日のようにアンコウの寝室で朝を迎えているという事実が、この城館で働く使用人たちにも、テレサがアンコウにとって、どのような女なのかをあきらかにしていた。

 

 そのうえ、この若いメイドを含め、アンコウの身の回りの世話をしている使用人たちは、アンコウがこの2ヶ月の間、テレサ以外の女を(ねや)に引き入れていないことも知っている。

 

 で、ある以上、たとえ奴隷であっても、事実上領主のただ一人の()であるテレサは、自然、周囲の者たちにとって特別な存在となる。

 

 それにテレサは、領主であるアンコウの寵愛をカサにきて、周囲の者たちに対して偉ぶるようなことも全くなかった。

 この若いメイドも、自分にもいつも優しく接してくれるテレサに、今ではすっかり好意を持っていた。

 

「ねぇ、あなた知っているんでしょう?」

 

 テレサが重ねて聞いてくる。だからその年若いメイドは、顔に同情の色を浮かべながらテレサに答えた。

 

「あの、テレサ様……あの、リマナ様が今夜、こちらにお遊びにこられるそうです」

「えっ………」

 

 つまりそれは、そういうことである。

 リマナの2ヶ月に渡るアンコウに対するアプローチが実り、ついにリマナはアンコウから、夜の語らいという名目のお誘いをうけたのだ。

 

 その準備にリマナ付きのメイドたちが、事前にアンコウの寝室にリマナの身だしなみの道具を持ち込んだり、寝台のシーツを変え、マイピローまで持ち込んでいるらしい。

 

「そ、そう。リマナ様が……」

 寝耳に水のテレサは動揺を隠しきれないようだ。

 

 この2、3日、確かにアンコウの様子が少しだけおかしいと感じていたテレサだが、

(まさかリマナ様を……でも、あの人はたしかに美しいから……でも、…でも、…あんな女……)

 

 テレサの心に、少しの本音と共に どろっとした感情が湧いてくる。

 

 若いメイドが、少し考え込みはじめたテレサの横顔を見ている。テレサを見つめるその目には、おかわいそうに という心の声が滲み出ていた。

 

 常識的にいって、奴隷女のテレサと筆頭執政官ナグバルの娘であり、若く美しいリマナとでは、その社会的価値は比べるまでもなく、テレサに勝ち目はまったくないといってよい。

 それにこの若いメイドも、リマナという女の本性を知っている。

 

(リマナ様が御領主様の奥方になられたら、きっとテレサ様は………)

 

 メイドは、間違いなくテレサはこの城館にいられなくなると思っている。

 リマナはこの城に来る度にテレサの悪口を言い、そこにテレサがいれば、人目を気にすることなく嫌味をぶつけ、嫌がらせをすること まるで呼吸をするが(ごと)くだった。

 

(……テレサ様、殺されてしまうかも……)

 メイドは、本気でそんな心配すらしてしまう。

 

 テレサは、じっとうつむいている。テレサは、自分の奴隷という立場を十分に心得ている。

 自分以外に夜伽(よとぎ)をするような女が他にいたとしても、まったくおかしなことではないし、独り身のアンコウがいつ他の女と結婚しても、何ら問題があることでもない。

 

 しかも、アンコウが領主という社会的地位を得た今なら、なおさらのことだ。ただそれでも、

 

(……あの女は(いや)……)

 

 テレサはこれまでリマナにどんな嫌味を言われ、嫌がらせをされようとも、時に笑顔さえ見せながら受け流してきた。

 

 しかし、テレサがそんな対応をとることができたのは、相手がどのような権門(けんもん)御令嬢(ごれいじょう)であっても、アンコウの(そば)にいる女は自分だと、

 もっとはっきり言えば、アンコウは自分の男だという 口にはしたことがない意識があったからだ。

 

 それがあっさりと崩れ、自分ではどうしようもなく、これまであまり意識していなかったあのリマナという女に対する敵意がテレサの心の内で膨らんでくる。

 

「あ、あの、テレサ様、大丈夫ですか?」

 メイドが心配そうに声をかけてくる。

 

「えっ、ええ、大丈夫よ」

 ハッと、顔をあげたテレサは慌てて答えた。

 

 

 そんなテレサの存在に、アンコウの寝室に物を運び込んでいた見慣れないメイドの一団が気づいたようだ。

 そのリマナのメイドの内の一人が、スルスルとテレサに近づいてきた。

 

「テレサさんですね?」

「え、ええ」

「我らが姫君、リマナ様より御伝言です」

 

 このメイドがテレサを見る目にはあきらかな(さげす)みの色がある。ある意味、(あるじ)に忠実なメイドなのだろう。

 

「何でしょう?」

「今宵の御領主様との語らいを邪魔することなきよう、混ざり者と白い獣人共々、一歩たりとも部屋の外に出ること許さぬとのことです」

 

 テレサの眉間にしわが寄るものの、何も言い返すことができない。

 

「聞こえましたよね?」

「………ええ、わかったわ」

 テレサの声に、抑えきれない悔しさが(にじ)んだ。

 

 そして、そのメイドの一団は、アンコウの寝室に物を運び込み終えると、一旦、(おの)(あるじ)が待つ屋敷へと帰っていった。

 

 

 

 

 テレサはこの日、アンコウ無しの夕食を終え、そのまま夜の帳が下りた。

 夕食時には、まだどこかに出かけていたアンコウも、今は城に戻ってきているようだ。

 

 ハリュート城館は、石造りの建造物。その廊下に立ち止まり、テレサは、ぼぉーっと窓の外を眺めている。

 空はもう暗く、眼下に広がる寂れたハリュートの町も薄暗く物悲しい。

 

「………はぁぁーっ」

 テレサのため息が夜の闇に溶けていく。

 これから、あのリマナがアンコウの寝室にやって来るかと思うと気が重くなるばかりである。

 

「あっ、テレサ!こんなところにいたのか」

「えっ?」

 

 突然、自分にかけられた声。その声のほうをテレサは見た。

 そこには廊下のむこうから、しかめっ面して歩いてくるアンコウの姿があった 。

 

「テレサっ、カルミを風呂入れるのはテレサの役目だって言ったろ?結局、俺が一緒に入ることになっちまった」

「えっ?あっ、ご、ごめんなさい」

 

 アンコウはどうやら、今までカルミと風呂に入っていたようだ。疲れた、疲れたと言いながら、薄暗い廊下を歩いてくる。

 そして、アンコウはそのままテレサの横を通り過ぎていく。

 しかし、テレサの目にうつるアンコウが後ろ姿になった時、ピタリとアンコウは足を止めた。

 

「あっ、テレサ」

 足を止めたアンコウは、顔だけテレサにむけてくる。

 

「は、はい、何ですか旦那様?」

「テレサも風呂に入るだろ?今日は風呂に入ったら早めに寝室のほうに来てくれ。カルミのやつは、ホルガに任せたから」

「えっ?」

 

 驚いたテレサが、どういうことかと聞き返す前に、アンコウは再び自分の寝室に向かって歩き出していた。

 

「じゃあ、早く風呂入れよ」

 

 アンコウは背中をむけたまま、ヒラヒラと手を振り、遠ざかっていく。

 

「あっ………今夜はリマナ様が来るんじゃ………」

 

 遅れたテレサの小さな問いかけは、アンコウの耳に届かなかった。

 アンコウの姿は廊下の曲がり角の向こうへと消えてしまい、テレサはまた一人、薄暗く冷たい石造りの廊下に取り残された。

 

「……………………」

 

—————

 

 

 結局テレサは、アンコウに言われたとおり風呂に入り、疑問に思いながらも、いつもより早くアンコウの寝室を訪れた。

 その寝室はいつもと雰囲気が違っていた。

 部屋のすみには、見たことのない綺麗な装飾が施されている大小のつづらが、大きなカートのうえにいくつも置かれている。

 

 部屋の真ん中には、今までにはなかった高級そうなソファーとテーブルのセット。

 そのテーブルのうえには、洒落(しゃれ)たガラス製の一輪挿(いちりんざ)しの花瓶とメルファスの茶器一式が置かれている。

 

 そしてベッドだ。天蓋(てんがい)に垂れ下がっている白いレースの布地は、昨日までのものより明らかに光沢があり、デザインも複雑かつ芸術的だ。

 それに、ベッドのシーツ、掛け布、ピロー、すべてが数段、質の良いものに変えられていた。

 そんな状態の寝室に、いつものように訪れたテレサ。

 

 

「……あっ……んんっ、アンッ」

 しかし、いつもとは違う雰囲気の寝室の中でも、アンコウがテレサに求めてくることは変わらなかった。

「んんっ、アッ!あんっ、ンンッ」

 

 テレサはリマナ様が来るんじゃないんですかとは聞けなかった。

 聞けないままに、いつのまにかアンコウに抱きすくめられて、ベッドの上で(うごめ)き、絡まり合うひとつの塊りになってしまった。

 

 ただ、テレサに頭の中に、(どういうことなんだろう?)という疑問はある。

 

(何か急な用事ができて、来られなくなったのかしら?)

 

 馴染みのない枕がテレサの頭の下に敷かれている。いつもよりもずいぶんとやわらかく、何とも言えない芳しい香りが漂ってくる。

 

(香水でも染込ませているのかしら?)

 

 そんな香りや、いつもと少し違うシチュエーションにアンコウも普段より刺激をうけているのか、

 

「アッ!アッ!アッ!あんんっ!旦那さまぁんっ」

 アンコウも普段より少し激しい。

 

 そして、そんなアンコウとテレサの二人の夜の時間が過ぎていく。

 

―――

 

 

(……来たか……)

 

 アンコウが部屋の外の気配の変化にすばやく気づいた。

 しかし、この寝室と廊下の間には、石壁と厚い扉がある。事前に意識し待ち構えていたアンコウは、すぐにその変化をとらえることができたが、未だアンコウの腕の中でめくりめく快楽に身も心もゆだねているテレサは、まったくそれに気づいていない。

 

 その外の気配の変化とテレサの変わらぬ様子に、アンコウは口の端にいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 しかし、テレサも今では立派な抗魔の力保有者であり、その感覚は常人よりもかなり鋭くなっている。廊下の気配の変化が扉の前まで来たとき、さすがにテレサも気がついた。

 

 その瞬間、テレサを見下ろしていたアンコウはテレサの口を手で塞ぐ。

 しかし、アンコウは体の動き自体は止めなかったため、それでなくてもピンクに染まっていたテレサの顔が、目は潤み、わずかな時間で真っ赤になってしまった。

 

「~~~ンンン~~ンン~~」

 

 そして、部屋の外の気配の変化が、部屋の中まで波及してくる。扉のノブが回された。

 ガチャッ ノックもなく扉が開き、廊下にあった人の気配が部屋の中へと侵入してきた。

 

「!!~~ンン~~!!」

 

 当然テレサも気づくが、アンコウは驚きもせず、変わらず口元に笑みを浮かべている。

 

 それは当然のことで、アンコウはここに()()を呼んだ張本人であるし、ノックも不要だと言付けておいた張本人でもある。

 いきなりあなたの美しい顔を見せて俺を驚かせてくれと。

 

 開かれた扉から、着飾った若く美しい女が入ってきた。

 

「失礼しますわっ。アンコウ様」

 

 入ってきた女は、リマナだった。リマナは今宵、夜の語らいにこのアンコウの寝室に招かれており、キャンセルしたわけでも、されたわけでもなかったらしい。

 

「!!ンンッ」リマナの姿を視界におさめたテレサは、アンコウに口を押さえられたまま目をむく。

 

 リマナは今の部屋の中の状況をまったく予想もしていなかったのだろう。

 すぐに足を止めることなく、つかつかと暗い部屋の中へと進んできて、ようやくその異常な事態に気づき、足を止めた。

 

「!!!?」

 リマナは目を見開き、口を半開きに立ちすくむ。

 すぐには目の前の状況を理解できなかったのだ。

 

 するとその時、アンコウはテレサの口を塞いでいた手を離した。

 

「アアンッ、だ、旦那さまぁ、リマなぁさまがぁんっ」

 

 アンコウは、まったくもって動きを止める気はないらしい。テレサの押し殺しきれない声が暗い部屋中に響く。

 

「!!な、なにをっ」

 

 ようやくリマナも、ベッドの上の状況を理解した。

 知った男の人数だけで言えば、テレサよりもずっと経験豊富な二十歳前のリマナであるが、さすがにすぐに次の行動を起こすことはできなかった。

 リマナは目をむいたまま、ベッドの上を見つめ固まっている。

 

「テレサ、あの女に見せつけてやろう」

 アンコウがテレサの耳元で(ささや)く。

「テレサ、あの女の顔を見てみろよ」

 

 驚きによる硬直から脱したリマナの顔は、怒りと屈辱でこれ以上ないぐらい歪んでいる。そして、全身をブルブルと震わせていた。

 アンコウに促されるままに、それを見たテレサの顔には、無意識の内に何とも言えない笑みが浮かんだ。

 

 さらに、アンコウは動く。

「アッ!アッ!あんんん~ッ!」

 テレサの容赦のない嬌声が、リマナの鼓膜を揺らす。

 

「!!~~くっ!!」

 

 自分たちが整えた寝台の上で、絡まり合うテレサとアンコウ。

 リマナはいっそう激しく体を震わせ、屈辱で顔を歪めたまま、部屋の扉にむかって(きびす)を返した。

 

バタバタバタバタバタッッ !!! 

 

「ああっ、リ、リマナ様っ」

 お付きのメイドたちも、うろたえるばかり。

 

 そして、そのままリマナは、激しく足音を響かせながら寝室から出ていくが、その開け放たれたままの寝室の扉から、テレサの艶かしい声がリマナの背中を追ってきた。

 

~ だ、だめよ、だぁんなさまぁぁーー ~

 

「!くっ、くくくっ~~」

 リマナはテレサの声を耳にしながら、鬼のような形相でお付きのメイドたちと共に廊下の闇の中に消えていった。

 

 

 アンコウの寝室の前に残っているのは、リマナたちを先導してきた この城勤めのメイドが一人だけになっていた。

 そのメイドは、夕方テレサと話をしていた赤いほっぺの年若い娘。

 

 突然のまったく予想外の展開に、呆気にとられていたそのメイドは、ようやく扉が開きっ放しになっていることに気づき、扉を閉めようと動き出す。

 しかし、そうしている間にも、そのメイドの視界には寝室の中のテレサとアンコウの姿が目に入ってきた。

 

(!ま、まぁ、あ、あんなことをっっ)

 まだ年若いメイドは、そういう経験が今までに一度もない。メイドは、ベッドの上の二人から目を離せなくなってしまった。

(あ、あの優しいテレサ様が、あ、あんなになって)

 

 赤いほっぺのメイドは故郷にいる許婚(いいなずけ)の男の顔を思い出した。

 

(わ、私もいつかレオとあんなことを ~~っ)

 

 そして、顔全体が赤いほっぺのようになってしまった若いメイドは………… 

バタンッ と寝室の扉をようやく閉めた。

 

―――

 

「り、リマナ様、お待ちくださいっ。そんなに急いでは危のうございますっ」

「う、うるさいっ!」

 

 リマナが声をかけてきたメイドを怒鳴りつける。足元も暗い館の廊下を走るような速さでリマナは歩いていた。

 そのリマナの顔は、屈辱と怒りで鬼のような形相になっている。

 

「あ、あの男、あの女もっ!よくも、よくも、(わたくし)にあのような真似をっ!」

 

 リマナは典型的な苦労知らずの御嬢様であり、また、周りの者を見下し、何でも自分の思うようになることが、あたり前だと思っている高慢な女でもある。

 そのうえ、その生来の美貌ゆえ、自分の望むようにならない男にも出会ったことがなかった。

 そんなリマナが、このような仕打ちに耐えられるわけがない。

 

「ゆ、許さない。絶対に許さないわっ!お父様にお話しして、あ、あの男にも、あの女にもっ、思い知らせてやるわっ!」

 

 そんな怒り狂うリマナに、暗闇の中から話しかけてくる声がした。

 

「リマナ様」

 

 突然、正面の暗闇の中から名を呼ばれ、リマナは驚いて足を止める。

 

「!だ、誰!」

 

 前方の暗闇の中から、廊下に設置されたランタンの明かりが照らす場所に男が一人出てきた。

 

「リマナ殿、お待ちください」

 

 それは、執事風のきれいに整えられた服を着た 白髪の人間族の男だった。それはリマナも面識がある人物。

 

「モスカルにございます」

 

 グローソン公の臣だとはいえ、今のモスカルはアンコウに仕えている。

 リマナは、そのモスカルをアンコウの仲間として憎々しげな眼で見た。

 

「どきなさいっ!(わたくし)は急いでいるのよっ!」

 

 しかし、モスカルはリマナの前からどこうとしない。

 

「くっ!こ、この館の者どもは、どいつもこいつも無礼な者ばかりっ!」

 

 そう叫ぶように言うとリマナは手に持った扇で、モスカルの頭を打ちすえようとした。

 しかし、

バシッ

 モスカルは、その扇を片手でつかみ止めた。

 

「おとなしくしなさい」

 

「なっ!こ、このっ、離せっ!」

「モスカル殿!リマナ様に無礼な!」

 

 リマナとそのメイドが怒りと抗議の声をあげても、モスカルは眉一つ動かさない。

 そして、モスカルが カツンッと靴のかかとで音を響かせると、モスカルの背後、暗い廊下の曲がり角から、武装した兵士がぞろぞろと出てきた。

 

「な、なにをっ!さ、さがれ下郎どもっ!」

 

 しかし兵士たちは、無言のままリマナとメイドたちを取り囲んだだけでなく、腰から剣を引き抜き、その剣をリマナたちに突きつけた。

 

「「!なっ……!」」

 リマナたちは、思わぬ事態に声も出せなくなる。

 

 モスカルはリマナの扇から手を放し、さきほどと顔色を変えることなく、じっとリマナを見つめている。

 そのリマナを見るモスカルの目は実に冷たい。

 

「……リマナ殿、少々お付き合い願います。逆らえば、その綺麗なお顔に一生消えぬ傷が残ることになります」

 

「なっ!?そ、そのようなことが許されると思っているのっ!」

 

「ああ、この館までご一緒に来た護衛の戦士たちは、もうここには来ませんよ。

 ……すでに息もしておりません」

 冷たいモスカルの目に、鋭い殺気が宿る。

 

「ひぃっ!」

 

 体を震わせ、何も言わなくなったリマナたちを見て、モスカルは兵士たちに合図を出した。

 

 そして、リマナたちは身柄を拘束され、兵士たちによって、薄暗い廊下をいずこかへと連行されていく。

 モスカルは、まるで何事もなかったかのように、ごく自然な態度で、リマナたちの後をゆっくりとついていった。

 

 そして、ランタンのほのかな明かりが照らす廊下には、誰一人いなくなった。

 

 

 

 

 しばしの二人の時間が過ぎ、アンコウはベッドの外で服を着ている。テレサは未だ裸身のままベッドの上だ。

 リマナに対するささやかな嫌がらせが終わったあとも、しばらくの間テレサは、アンコウの手から逃れることはできなかった。

 

 事前に何も知らされることなく、あられもない姿を人目に晒すことになったテレサであったが、アンコウに対する苦情はなく、どこか満足気ですらあった。

 リマナ個人に対するわだかまりは、アンコウより間違いなくテレサのほうが大きかったのだろうから。

 

そしてその時、

 トンットンットンッ と部屋の扉をノックする音。

 

「アンコウ殿、モスカルでございます」

「入れ」

 

 アンコウは、即入室の許可を出した。それに驚いたのはテレサ。

 

「えっ?」

 テレサはまだ服も着ていない。

 

 しかし、ガチャリと、モスカルはすぐに部屋の中に入ってきた。

 テレサはとっさに、首まで掛け布の中にもぐり込む。

 

「失礼いたします」

 

 しかし、そんな部屋の光景を見ても、何ら気にするそぶりを見せず、部屋の中まで入ってくるモスカル。

 

 そして、テレサはモスカルの様子がいつもと少し違うことに気づく。ある種の緊張感というか、張りつめた気配を漂わせていた。

(モスカルさん………?)

 

アンコウとモスカルが小さな声で話しはじめる。

 

「アンコウ様。リマナ嬢より、必要な情報の確認はできました」

「簡単に話したか」

「はい、指の爪一枚で素直なものでした」

「そうか。あの女では人質にもならないだろうから、あとは縛り上げて、どこかの部屋にでも放り込んでおけばいい」

「承知しました。あとの手筈はすべて整っております」

「……ああ、わかった」

 

 

 ふと気づけば、アンコウの眼光も鋭くなっており、雰囲気が一変していた。

 

(えっ………)

 そのアンコウとモスカルの間に漂っている緊張感に思わず身を強ばらせるテレサ。

 リマナへの嫌がらせなど、今宵のアンコウたちの計画のついでにすぎないということをテレサはまだ知らない。

 

 モスカルは、しばらくの間アンコウと話し合った後、より目つきを鋭くして部屋を出ていった。

 

再び二人きりになった寝室。

 

「あ、あの旦那様、何かあったんですか?」

 さすがにテレサも、聞かずにはいられなかった。

 

「………何、今日はちょっとサプライズを多めに用意してるんだ」

「サプライズ……ですか?」

「ああ。ナグバルの屋敷に日頃の感謝をこめてサプライズ訪問をね。それとテレサ。今夜、引っ越しをするから、このまま寝るなよ」

 

「えっ!?」(!訪問に、引越しって?……………)

 



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第95話 ナグバル邸 襲撃

 ハリュートの夜の町を照らす満月と、その月光にも負けぬ輝きを見せている無数の星々。

 アンコウは、その月と星の光りに助けられて、ハリュートの夜の闇の中、全力で馬を()る。

 

ドガラッ ドガラッ ドガラッ !!!

 

 薄汚れた装備に身をつつんだ騎兵の集団が夜の町を走り抜けていく。

 アンコウは、付き従う全ての兵に馬を与えた。すべての馬の4つの馬蹄が土を蹴りあげ、その震動が幾重にも重なり合い、凄まじい地響きを生み出している。

 

 月明かりに照らし出されているハリュートの町並みは、よりいっそう寂れて見える。

 もしこの町がイェルベンほどでなくとも、アンコウのホームタウン アネサの町ぐらいの活気があったなら、たとえ御飾り領主であっても、アンコウはこの町に留まることを選んだかもしれない。

 

(………いや、それでも無理か……)

 アンコウは、心の内でその可能性を否定する。

 

 実力者ナグバルは、アンコウが贅沢な生活をするだけの金は用意してくれる。しかし同時に、アンコウに対する行動監視にも怠りがない。

 

(領内でも自由に移動するのは許されないだろうな)

 

 わずか二ヶ月半ほどのこのハリュートでの生活で、すでに相当にストレスを溜め込んでしまっているアンコウだ。

 それに、

(ナグバルの操り人形になったところで、奴が望みをかなえるためには、俺の存在自体が邪魔であることに変わりはないんだ。いずれ時が来れば、ナグバルは俺を殺すだろう)

 

バカラッ バカラッ !

 

「ん?」

 アンコウは自分の横に馬をつけてきた男を見る。

 

「よう」ダッジだ。

「なぁ、大将。やっぱりナグバルの奴は殺したほうが早くないか?」

 ダッジはアンコウと並走したまま、話しかけてきた。

 

「まだ言ってんのか、ダッジ」

 

 ダッジもアンコウが今夜の計画を話したとき、モスカル同様、ナグバルの命を奪うことを主張してきた。

 アンコウとしては、食うものと寝るところに困らず、それに加えて、ある程度自由気ままに動ける生活ができれば、それでいいのだ。

 

 しかし、ナグバルを殺し、そのすべてを奪えば、別の種類の面倒事を抱え込むことになる。

 アンコウの本音である『コールマルの領地なんて(ひと)かけらもいらない、こんな土地のご領主様なんて真っ平ごめんだ』という思いは変わっていない。

 

「……何が正解なのかは俺にもわからない。ただ、今の状況は居心地が悪すぎるし、こんな辛気くさい町はいらねぇ。

 だから引っ越すことにした。今はそれだけだ。行き掛けの駄賃は貰っていくけどな。

 ヤアァッ!」

 

 アンコウは馬の腹を強く蹴り、さらにスピードをあげ、並走していたダッジの馬を一気に引き離した。

 

 

 

 

「て、敵襲だあああー!」

 

 何者かの襲撃を告げるいくつもの声が、真夜中の静寂に支配されていた屋敷の廊下に響き渡る。

 

 

 

「な、何事だっ!」

 

 屋敷の中にある最も高価な寝台が置かれている部屋にて、掛け布で下半身を隠した裸の男が、その寝台の上で大きな声を発した。

 

「ナ、ナグバル様っ!武装した集団に御屋敷が襲われておりますっ!」

「何だとっ!」

 

 ナグバルは、でっぷりと肥え太った腹の肉を震わせた。そのナグバルの横には対照的に華奢な体つきをした可憐な女が横たわっている。

 

 女の年は二十歳を越えたばかり、この女はナグバルの十一番目の妻で、ナグバルとの間に5歳になる息子がいる。

 

 ナグバルには20人を超える子供がいるのだが、そのうち抗魔の力を保有する子供が4人。その中でも、この女との間にできた5歳になる息子が最も有望株であり、当然ナグバルはその息子を家門後継者の最右翼と考えていた。

 そして今、その息子もこの屋敷に滞在している。

 

「くくっ!」

 ナグバルは眉をつり上げ、怒りを(あらわ)に寝台から立ち上がった。

 

「サイードは何をしておるっ!」

「は、はっ!サイード様は兵を率い、いま正門付近に向かっておりますっ」

 

 サイードは、ナグバル配下の将の中で、最も強いと言われている戦士だ。

 

「よいかっ、何としても賊どもの侵入を防ぐのだっ!」

 

(……我が屋敷を襲うとはいったい何者だっ)

 

 ナグバルはこのハリュートにおいて、最高実力者となってすでに久しい。その自分の屋敷を襲う者がいるとは全く予想していなかった。

 ゆえに今現在、この屋敷を守る備えが万全であるとは言い難い状況だった。

(くっ、その緩みをつかれたかっ)

 

 ナグバルも田舎豪族とはいえ、一代でコールマルの最高実力者となった男だ。決して愚か者の惰弱というわけではない。

 

(しかし、町そのものが襲われたのなら、賊どもがこの屋敷に至るまでに必ずわしの元に報告が入るはずだ。それがないということは、ハリュート内の勢力の仕業ということになるが……)

 

 ナグバルは、何人もの豪士実力者たちの顔を思い浮かべる。

 しかし、

(わしに良い感情を持たぬ者は何人もおるが、このような大それた真似をする輩は思い当たらないが………)

 

「………あっ」

 その時ナグバルは、あまり出来の良くない娘が、領主アンコウからお声掛かりがあり、今日の夜に領主城館に行くと話していたことを思い出した。

「………まさか」

 

 新たに、この地にやって来た領主アンコウ。グローソン公領各地で同時多発的に起こった反乱に前領主が関わったために突然起こった領主の交代であった。

 そのためナグバルも、事前に新領主となったアンコウという男の十分な情報を入手することができなかった。

 

 ただ、何やら武功をあげたことによって、初めての領地としてこのコールマルを与えられた成り上がり者であり、如何(いか)なる貴族の後ろ楯もない男だと聞いた。

 ナグバルは、そのようなものが新たに領主になるならば、自分が名実共にこのコールマルの支配者となるチャンスが訪れるのではないかと密かに喜んだのだ。

 

 実際にアンコウがこのコールマルに来て二ヶ月半。

 娘のリマナをアンコウの妻にするということがあまりうまくいっていなかったぐらいで、それ以外のことは概ね思いどおりにいっていた。

 

 ナグバルが新領主がコールマル入りすると聞き、最も警戒したことは、新領主の野心のありようだった。

 この新領主が普通に野心を持つ男だったら、間違いなく地場の実力者である自分達の既得権益を奪いにくるだろうと当然考えていた。

 

(……しかし、あの男は違った)

 

 ナグバルはアンコウの顔を思い浮かべる。

 実際にナグバルが接した新領主のアンコウという男は、ナグバルの常識からいえば、驚くほど権力に淡白な男だった。

 

 ほぼ、こちらの要求どおりに動き、こちらの権限を委譲するようなことも何一つ求めてこなかった。

 せいぜい時おり面倒くさげな顔を見せ、一言二言文句を言う程度が、こちらに対する不満の主張にすぎなかったのだ。

 

 後ろ楯になる中央貴族もおらず、本人の野心気力も薄いアンコウという男。

 ナグバルのアンコウに対する評価は、今この時まで、『容易(たやす)い男』で定まりつつあった……筈なのに……。

 

 

「あ、あの男が攻めてきたというのかっっ!」

 

—————

 

 ハリュート(いち)の邸宅の豪奢な門は、すでに打ち壊されて全く見る影を失っている。

 それをやったのは他でもない、夜の闇の中、濁流とともに押し寄せる岩石群のように突如現れたアンコウ一党である。

 門の周辺にはすでにいくつもの死体が転がっていた。

 

「大将、門の周辺にいた連中は粗方(あらかた)片づけた。思ってたほど数もいねぇみたいだな」

 血剣を手に、ダッジが口許に笑みを浮かべながら言う。

 

「ああ。だけど時間が経てば、間違いなくあっちこっちから、この屋敷にむかって兵が集まってくるはずだ。なるべく時間をかけないにこしたことはない」

 

「それはそうだ」

 

 門を手早く打ち破り、屋敷と門との間の道程でアンコウとダッジが話をしていた時、

 

「き、貴様ら、いったい何者かああーっ!」

 と、響く怒声。

 

 アンコウらは、その大声が発せられた方を一斉に見る。そこには、ゆうに2メートルは越えているであろう巨躯の獣人戦士の姿があった。

 アンコウは、その獣人の戦士を知っている。

 

「サイードか」

 

 それはナグバルの配下で最も強いと言われている猛将サイードであった。この正門で突如始まった戦闘に気づき、一隊を率いて、屋敷内から飛び出してきたのだ。

 しかしすでに門は破られ、正門を守っていた兵らはほぼ全滅している。

 

「くくっ、こ、これはっ…!」

 そのサイードの目に、自分たちの方を見ているアンコウの姿が映った。

「なっ!?お前はっ!領主っ!」

 

「……チッ、」

(相変わらず無礼なヤローだな)

 

 アンコウは、自分の事を軽んじ、いつも(さげす)むような態度を全く隠そうともしないこのサイードという男が嫌いだった。

(普通にムカつくんだよ、コイツは)

 

「そうかっ!これは貴様の仕業かっ!領主っ!」

 

 サイードは引き抜いた剣先を離れたところにいるアンコウに向けた。サイードは精霊法術は使えない。

「……………」

 アンコウは無言のまま、冷めた目をサイードに向けている。

 

「貴様っ!ナグバル様より、あれほど厚遇をうけているにも関わらず、このような暴挙に及ぶとはっ!この恩知らずがっ!」

 

「………」

 アンコウはこのサイードという男の頭の悪さも嫌いだった。

(何が恩知らずだ、クソが)

 

 この男の頭の中では、徹底的にナグバルが一番偉いらしい。

 

 さらにサイードは、言葉を続ける。

「領主っ!いや、アンコウ!一騎討ちだっ!夜襲などをかける卑怯者に、誇り高きコールマル戦士の戦いようを見せてやるっっ!」

 

「………………」

 

 アンコウの返事を聞くことなしに、サイードは前に進み出てきた。サイードにはアンコウが一騎討ちを拒否するという考えがないらしい。

 

(……どこの坂東武者(ばんどうむしゃ)だよ、コイツは)

 

 アンコウは苦々しげな表情で、はぁぁぁっ と大きくため息をつく。

 そしてアンコウは、隣にいたダッジと少し話した後、ゆっくりと動き出した。

 

 まずアンコウが行ったのは、少し離れたところにいたカルミの方へ。

 アンコウが自分の方に近づいてきているのに気づいたカルミも、自らアンコウの方へと走り出す。

 

「おい!アンコウ!どこへ行く!」

 サイードが(わめ)いている。

 そのサイードを、アンコウは(わず)わしそうに見た。

 

「……うるさい。そこで少し待ってろ」

「何だとっ!」

 

 アンコウはそれ以上サイードと会話することなく、カルミのほうへ。

 

 アンコウが右手に持つ魔戦斧から、ポタポタと血が(したた)り落ちている。が、それ以上に、カルミのメイスにはべっとりと血肉が付着していた。

 周囲に転がるナグバル兵の命を、現段階で最も多く奪ったのは間違いなくカルミだ。

 

「なに?アンコウ」

 アンコウの側まで来たカルミが聞いた。

 アンコウは、一言だけ答えを返す。

「……カルミ、フォーメーション-セブンだ」

 

 アンコウは小さな声で、カルミにフォーメーション-セブンを告げる。あのワン-ロンに連なる迷宮を二人で歩いて以来、二人でつくり上げてきた戦型法(せんけいほう)の一つだ。

 カルミは、こくりと無言で(うなず)いた。

 カルミの頭の中には、すべてのタッグフォーメーションが完璧にインプットされている。

 

 そしてアンコウは、あらためてサイードに対して向き直り、彼に向かって歩き始めた。

 

 

「ふんっ、ようやく来たかっ!この臆病者がっ!たとえ領主といえども容赦はせんぞっ!アンコウっ!」

 

(……うるせぇよ、このデカイヌが)

 アンコウは、しかめっ面のままサイードに対峙している。

 

 — サイード様、おまかせしましたっ

 — あのような卑怯者、成敗してくださいっ

 — 余所者(よそもの)に天誅をっ

 

 サイードは味方の声援を背中にうけ、長剣を天に掲げる。

 

「静まれぇいっ!フッフッフッ、」

 不適に笑うサイード。

 

 サイードの巨躯全体から、自信が溢れ出ているようだ。

 しかし、そんなサイードを見ても、アンコウは落ち着いたもので、

 

「……根拠のない自信を持てるのが、まさに馬鹿の証明だ……」

 と、小さな声で(つぶや)いている。

 

 そうこうしている内に、アンコウとサイードを中心に周囲が緊迫した空気に包まれていく。

 そして、先に動いたのはアンコウのほうだった。

 

「サイードよ!俺は忙しいんだっ、手早くケリをつけてやるよっ!」

「ハッ!世迷い言をっ!殺れるものならやってみるがいい!」

「ああ、言われなくてもやってやるよ。…いくぞっっ!」

 

 アンコウは魔戦斧を月にむかって突き上げ、何も持たぬ左腕をサイードにむかって突き出して、その手のひらをサイードの顔に照準を合わせてかざした。

 

「な、なんの真似だっ、アンコウっ!?」

 

 サイードは一瞬、アンコウが精霊法術でも使うのかと思った。しかし、

(い、いや、あの男は人間族だし、法術が使えるなんて話は聞いていない。なら、一体何をっ!?)

 

「……月の光を戦斧に宿し、月神(げっしん)の力を大地に降ろす……」

 アンコウが何やら朗々と唱え出す。

 

「な、なんだ…領主、何をするつもりなんだ、まっ、まさかっ本当にっ、」

 

 アンコウの魔戦斧に嵌め込まれた赤く大きな魔石が、月の光に反射して妖しく(きら)めいた。

 サイードは思わず身構える。

 

「……天に輝く星々は、皆これ月神(げっしん)愛児(あいじ)……天に月満ち、星あふれる真夜(ミッドナイト)、我ここに、この真愛(しんあい)を闇の王に捧げん……偉大なる者よっ、我にその力を貸しませりっ!

 隕石降落(メテオフォール)!!…()()()!!」

 

「!あっ、ありえんっっ!!」

 

 驚愕したサイードは、とっさに夜空を見上げた。

 その瞬間、

ドォガアァンッ!

 強烈な衝撃がサイードの頭部を襲い、サイードは一瞬、意識を狩り取られた。

 

「!ぐっ…ガッッ……」

 

 粉々に砕け散った石の破片が、サイードの周囲に飛び散る。

 

……ただ…サイードの頭部に当たったのは、隕石ではなく、ただの大きな石。

 それは、天空から堕ちてきたのではなく、夜空を見上げていたサイードにむかって、水平に物凄いスピードで飛んできた。

 

 全員が一斉に、その石が飛んできた方向を見た。そこにいたのは、血塗(ちまみ)れの小ぶりアフロの女の子…カルミだ。

 カルミは、ヨシッ と、ばかりにドヤ顔を決めている。カルミがその石を投げたのだ。

 

 あまりに予想外の出来事に、言葉を失っていたナグバルの兵たちであったが、状況を理解した者たちが次々に非難の声をあげはじめた。

 

「な、何てことをするんだっ!」

「卑怯者がっ!」

「戦士の一騎討ちだろうっ!」

 

 アンコウたちに対する怒号が響く。

 

(何言ってやがる。知ったことかよ)

 

 アンコウは、そんな自分に対する非難の声など全く気にもしていない。アンコウにしてみれば、一騎討ちをしようとも受けるとも言った覚えはない。

 ただ、カルミにフォーメーションセブンを指示しただけ。

 

 そして、アンコウが敵を引き付け、その隙をついて、カルミが投石攻撃を行う[フォーメーションセブン]が実行された、それだけのことである。

 

 

「……き、貴様ああ、」

 

 片ひざを地面に突き、頭から血を流しながら、サイードは凄まじい憎悪でアンコウを睨みつけてきた。

 サイードは一瞬意識が飛んだものの、何とか頭に投石を喰らった衝撃に耐えた。

 

「……ふ〜ん」

 しかし、その程度のダメージに終わるだろうことは想定済みのアンコウだ。

 

「ゆ、許さんぞオオーッ!!」

 

 サイードは憤怒の表情で、剣を杖がわりに立ち上がる。

 アンコウは、そんなサイードを視界におさめながら、

「ダッジ!」と、大きな声を出した。

 

 そのアンコウの声を受け、ダッジはもっと大きな声で兵たち指示を出した。

 

「てめぇらっ!今だっやれえぇいっ!」

 

 ダッジの後ろにずらりと並んだアンコウの兵たち、その全員の手に火の精霊封石弾が握られていた。

 

「「「オオーッッ」!」!」

 

兵たちが一斉に、その精霊封石弾を投擲。

 

ヒュンッ!ヒュンッ!ヒュンッ!―――――

 

ドォォンッ! バァァンッ! ゴガァンッ!―――――

 次々に(はぜ)る精霊封石弾。

 

「ギャアアー!」

「ぐわああーっ!」

「いひぃいいーッ!」―――――

 あちらこちらで次々にあがリ続ける悲鳴。

 

 自分の周囲にまで、次々に飛んでくる肉片にサイードは更なる怒りを募らせるものの、指揮官として、アンコウたちの動きに対処しきれていない。

 

「き、貴様らああーっ!」

 

 サイードはただ怒りの雄叫びをあげ、冷めた目でこちらを見ているアンコウに向かって、単騎の突撃を行おうと足を踏み出した。

 しかし、サイードが進めたのは、わずかに2歩だけ、

 

「グワアアーーッ!!」

 サイードが次にあげた声は、断末魔の絶叫であった。

 

 サイードの口から止めどなく溢れ出す真っ赤な血。

 それは音もなく、ものすごいスピードでサイードに接近し、サイードの胸板を貫く勢いで、メイスを突き入れていた。

 

 サイードの目に、下から自分をねめつけるように見る恐ろしい双眸(そうぼう)が見えた。そしてそれが、サイードがこの世で見た最後のものになった。

 

「ぐっ……があぁ……あ、ぁぁぁ………」

ドザァンッ!!

 

「サ、サイード様ああー!」

「う、うわああーっ!サイード様がぁー!」

「や、やられたっ!?サイード様が殺られたっ!!」

 

 地面に倒れたサイードの死体の前に立っているのはカルミだ。

 サイードの体を貫いていたメイスを引き抜き、何の感情も読み取れない冷酷な目で、大声でわめいている敵兵どもを見つめている。

 

 そして、メイスの血塗れ度合いがさらに増したカルミは、その大きなメイスを振り上げると同時に、再び敵兵に襲いかかっていった。

 

「「「ウワアアーッ!助けてくれー!!」」」

 

 さらに、

ビュンッ!ビュンッ!ビュンッ!ビュンッ!

 と、テレサが放つ光矢がカルミを援護し、逃げようとしていたナグバル兵たちが、

バタバタと倒れていく。

 

 そして、わずかにいた カルミに向かっていく姿勢を見せた勇敢な者たちも、皆、カルミに打撃を与えることはかなわず、逆に次々と この戦場で命を散らしていった。

 

 

 それを見ていたアンコウは、再び魔戦斧を月星煌めく夜空に掲げた。

 

「カルミっ!テレサっ!気をつけろよ!」

 

 そのアンコウの声に反応し、カルミは、は~い と返事をしながらもメイスを振り回し続け、テレサは魔弓を引き絞りながらアンコウにむかって頷いてみせた。

 

 ナグバル兵は、あきらかに戦意を喪失しつつある。

 

「ダッジぃ!ホルガっ!行くぞおおっ!」

 

 そしてアンコウも、魔戦斧を握る手に力をこめると、敵兵にむかって突っ込んでいった。

 



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第96話 アンコウの戦い方

 アンコウ一党の夜襲はものの見事に嵌まった。ナグバルたちに油断があったとはいえ、アンコウたちの綿密な事前準備が見事であった。

 

(まだ気は抜けない。時間が経てば必ず援軍が来る)

 

 アンコウは、カルミや自身の戦闘能力を考えれば、援軍が来ても十分に戦うことができると考えているものの、できれば全軍を相手に戦うのは避けて済ませたいと思っていた。

 

 そのアンコウの思惑どおりに事が進んでいる。

 想定以上の早さで門を破ることができ、門内に入って早々に、ナグバル配下一(はいかいち)の戦士と言われているサイードを討ち取ることができた。

 

 あきらかに腰が引け、戦意が低下したナグバル兵たちを尻目に、アンコウたちは一気に邸内に突入する。

 

 

「ナグバル様ああっ!」

 

 ドタバタと激しい足音を響かせながら、屋敷の執事の一人が血相を変えて、ナグバルのいる寝室に飛び込んできた。

 ナグバルは、すでに服は着ているものの、未だ武装は整っていない。

 

「いかがしたっ」

「り、領主の兵がっ、敵がっ、邸内に侵入いたしましたっ!」

「なっ、何だとっ!」

 

 驚愕。邸内に敵兵に入られたことはナグバルにとって恐怖以外の何ものでもなく、しかも襲撃をうけているとの報せが入ってから、まだそれほど時間が経っていない。

 

「へ、兵はっ、守備兵たちは何をしているっ!サイードはどうした!?」

 

「わ、わかりませんっ。せ、正門付近はかなり混乱しておりまして、も、もう、近づくこともできませんっ!そ、それよりもナグバル様っ、今すぐここからお逃げください!侵入した敵兵が、まっすぐこちらに向かっているようなのですっ」

 

「なっ、何だとっ!?」

 

 ナグバルは、思っていた以上に、はるかに事態が切迫していることにようやく気がついた。

 

(くっ、屋敷内の情報も把握されているのかっ)

 

 この手際のよさ、アンコウの今宵の襲撃が、単なる思いつきによるものではなく、相当に事前準備がなされているということにナグバルは思い至る。

 

「くくっ、あ、あの領主めっっ!」

「ナ、ナグバル様、お早くっ」

 執事の男は、自分が飛んで入ってきたばかりの寝室の出入口のほうに主人を(いざな)う。

「……くっ、わかった」

 

 ナグバルは、自分の後ろに立っている十一番目の妻のほうを振り返る。

 その妻の名はフラン。フランはあきらかに怯え、その美しくも華奢な体を震わせていた。

 

「フラン、大丈夫だ。何も心配はいらない。さぁ、わしについて来い」

 ナグバルはフランに手をさしのべ、優しく声をかけた。

「は、はい」

 フランの声は、5歳になる息子がいるとは思えぬほど愛らしい。

 

「ナグバル様、フラン様、お急ぎをっ!」

 寝室の扉の辺りで待つ執事が、(あるじ)夫婦に急ぎ逃げるよう、さらに促す。

 

 ナグバルはその執事の言葉に、うむ と頷き、妻の肩に手を回して歩き出す。しかし、ようやく歩き出したナグバルの足がすぐに止まってしまった。

 扉の前にいる執事の様子が、何やらおかしくなっていたからだ。

 

「おい、いかがした?」

 ナグバルが執事に声をかけた。

 

「…ひっ…い…ナ、ナグバル様…………ぁ」

 執事は立ちながら体を震わせ、顔に恐怖の色を浮かべて固まっている。

 

 廊下の暗がりの中から、執事の顔にむかって、鈍く赤い光を放つ戦斧が伸びてきた。執事は震えながら後退する。

 ナグバルの視界には、その全体像は見えていないものの、扉の向こう側から現れた戦斧の先に取り付けられているスピアーヘッドの先端部は、はっきりと見えていた。

 

 執事の耳に、暗がりの中から『動いたら殺す』という男の囁くような声が聞こえた。

「ひぃぃぃ、」

 

 そして、その戦斧を握る男が、扉の向こう側の暗がりの中から姿を現した。

 

「き、貴様はっ、アンコウ!」

 

 現れた男の姿を見たナグバルが思わず叫んだ。

 

「おい、おい、ナグバル。御領主様を呼び捨てにするたぁ、いったいどういう了見だ。あぁ?」

 

 アンコウは、そう凄みながら ドカッ! と、執事男を蹴り飛ばした。

「ヒグッ!」ドザァー

 

 執事は、ナグバルの足元まで転がっていった。

 ナグバルは、何とも言えない顔つきで、その転がってきたものを見ている。

 

 そして、そのまま寝室の中に足を進めてくるアンコウ。

 さらに、そのアンコウに続いて、アンコウの手下の兵たちが、次々に部屋の中に入ってきた。

 

 アンコウが手に持つ戦斧にも、後ろに付き従う兵士たちが持つ武器にも、真新しい血がべっとりと着いている。

 幾人もの兵士を従えて、堂々とナグバルの眼前にまで歩いてきたアンコウは、戦斧のスピアーヘッドの先端を、今度はナグバルの鼻先に突きつけた。

 

「うぐうぅっ」 

 ナグバルにとっては絶望的な状況。

 

 自らの死を覚悟しつつも、つい数時間前まで、『容易(たやす)い男』と軽く見ていたアンコウに追い詰められているという事実を、ナグバルは感情的に受け入れることができていない。

 

「き、貴様ぁぁ、」

 憎悪のこもった目で、ナグバルはアンコウを睨みつけている。

 

 アンコウは、ハァァーと、大袈裟にため息をつく。

 

「てめぇは、ここまでやられても、まだ自分の()()ってもんがわかってないみたいだなぁ、ああ?」

 

 アンコウは、戦斧をナグバルに突きつけたまま、ナグバルの横にいるフランに手を伸ばす。

 

「イ、イヤッ!」

「動くなっっ!!」

 

 魔戦斧との共鳴を上げ、その覇気をナグバルとフランの二人にぶつけた。

 

「なあっ!」「ヒィッ!」

 

 この二人は共に抗魔の力保有者である。アンコウの力の変化にも敏感に反応した。

 

(こ、この男っ!)

 ナグバルは、アンコウ個人の武力も過小評価していたことを知る。

(ち、力を隠していたのかっ)

 

 ナグバルも身に抗魔の力を有しているが、共鳴を起こしたアンコウに対抗できるほどの戦闘力はない。

 

 アンコウは、ナグバルからフランを引き剥がした。そして、背後にいた兵士を二人呼び寄せて、薄笑いを浮かべながら何やら指示を出した。

 

「キャアアッ!」

ドサンッ!

 突然、アンコウに突き飛ばされたフランが、勢いよくベッドに倒れ込んだ。

 

「うへへへ」

「おほぉー」

 そのフランに、アンコウが指示を出した二人の兵士が襲いかかる。

 

「フ、フランっ!」

 ナグバルが、十一番目の妻の名を叫ぶ。

 

「いやっ!」

ドンッ!

「ぐわっ!」

 フランにのしかかろうとしていた兵士の一人が、フランに突き飛ばされ、ベッドの下に無様に転がった。

 

 この二人の兵士は普通人兵であり、たとえ華奢な体つきの女であっても、抗魔の力を保有するフランに膂力では勝てない。

 それを見て、もう一人の兵もフランに襲いかかることができなくなってしまった。

 

「フグワッ!?」

 しかし、次に床に転がるはめになったのは、フランのたった一人の夫ナグバル。

 ナグバルがフランのほうに気をとられている隙をつき、アンコウがナグバルの贅肉腹(ぜいにくばら)をひざで蹴りあげたのだ。

 

「ふっ!ふぐううーっ!」

 

 脂肪腹を抱え、床でのたうちながら呻き声をあげるナグバル。

 そんなナグバルに斧を突きつけ、アンコウはベッドの上のフランを見た。

 

「おい、女。このヒゲ豚がどうなってもいいのか?」

「アッ…ご、ご主人様、」

 

 夫を人質にとられたフランの目に、恐怖と絶望の色が浮かぶ。それを見た二人の野卑な兵士の顔に、再び醜い笑みが戻った。

 

「へへっ!おとなしくしやがれっ!」

「おほぉー!」

「い、いやああーっ!」

 

 アンコウは一呼吸つくと、ナグバルの体をグイッと引き上げた。

 

「……見えてるか?」

「フ、フラン、やめてくれぇ」

 

「人って奴はどうしようもなく欲深い。だからこそ謙虚は美徳なんだと思わないか、ナグバル。

 権力者なんて人種のやつに、聖人君子並みの謙虚さなんて求めないけどな。度の過ぎた傲慢不遜(ごうまんふそん)な奴には、天罰が下るんじゃねぇかと俺は思うんだよ?」

 

 アンコウがしゃべっている最中にも、フランの悲痛な悲鳴が響き続けている。

 

「や、やめろ、アンコウ。フ、フランには関係な」

「ああ!?てめぇはさっきから誰に口きいてるんだって言ってんだよっ!(さま)はどうした!様はよう!?」

「くくぅ……ア、アンコウ様…も、もうやめてくれえぇ」

 

 ナグバルの顔に、屈辱と怒りと恐怖がない混ぜになったような表情が浮かんでいる。

 

「フンッ!はじめっからそう言えや、このヒゲ豚がっ」

 

 アンコウは、汚いものを放り捨てるようにナグバルの体から手を離した。

 そしてアンコウは、再びベッドのほうに目を戻し、フランに襲いかかっている二人に、

 お前らもうやめろ と面倒くさげに言った。

 しかし、

「そりゃあないですよ、大将〜。す、すぐ終わらせますからっ、へへへっ」

 

 今、フランに馬乗りになっている男は、アンコウの言葉を無視して目的を遂げるために行為を続けようとした。

 

「……………ぁあ?……………」

 

 男のその態度に、アンコウは表情を消した。

「…………………」

 そして、その能面のような表情のまま、ちらりと後ろを振り返る。

 そのアンコウの視線の先には、ホルガがいた。

 

 アンコウのアイコンタクトを受けて、ホルガが動き出した。ホルガは音をたてることなく、騒がしいベッドのほうへと素早く近づいていく。

 

 フランを組敷くのに忙しい二人の男は、ホルガの接近に気づかない。

 ホルガがベッドの横にまで来て、フランの腕を押さえていた男がようやくその存在に気づいたようだか、フランの胸に吸いつこうとしている男のほうは、まだ気づいていない。

 

(……下衆(げす)の極みだな。この衆人監視の状況で、上官の命令無視して、嫌がる女相手に本気でヤれるってのあ、マジ頭イカれてるだろ)

 

 アンコウは自分がけしかけたことは棚にあげて、フランに襲いかかっている男たちを見て心底から(さげす)んだ。

 

 ただ現実問題として、あちこちで金や食料を餌に雇い入れたアンコウの兵の中には、素行に問題のある者も少なからず混じっていた。

 この二人の男も、アンコウの配下になった初めから、下衆と言われて当然な人種だった。

 

「ぐわあっ!?」

 

 ホルガが男の髪の毛をつかみ、フランの胸に顔をうずめていた男をひっぺがした。そうして、男はようやくホルガの存在に気づいた。

 

「!?ホ、ホルガ殿、へ、へへッ……な、なんだよぉ、ウグッ!」

 

 さらにホルガに、頭を後ろに反らすように髪の毛を引っぱり上げられて、男は喉がつまり、声がでなくなる。

 ようやく静かになったベッドの上。そこに、アンコウ冷たい響きの言葉が発せられた。

 

「この作戦決行の前に俺は言ったはずだ。上からの命令には絶対服従だと、従わない者は死刑だとな」

 

 それを聞いて、ボルガに頭をつかまれている男が震え出す。アンコウの目にも声にも、冗談を言っている雰囲気がまったくなかったからだ。

 

「!…ゥア…ァァアァ……アー…!」

 

 男は必死に何かを言葉にしようとするものの、頭を引っ張り続けているホルガの力は強く、意味のある言葉を発することはできなかった。

 

「ホルガ、やれ」

 アンコウは顔色ひとつ変えず、淡々と言った。

 その瞬間、鈍い音が部屋に響いた。

ボギイィィ!

 

 ………ホルガの腕が、まだフランに馬乗りになっている男の首に巻きつき、その男の首がありえない方向に折れ曲がった。

 

「きゃあああーっ!」

 

 フランの悲鳴。フランは知ったのだ。今も自分に跨っている男が死んだことを。

 そして、続けて悲鳴が響く。

 

「ぎぃやああっ!!……ああ…ぁあ…」

 

 その悲鳴の主は、フランを襲っていたもう一人の兵士。その兵士の目に、深々とクナイが突き刺さっていた。

 そのクナイを投げ打ったのはアンコウだ。ナグバルは驚きの目で、クナイを投げたアンコウを見上げている。

 

「キャアアアーッ!」

 再びフランの悲鳴が響く。

 クナイが目に突き刺さった男の体が、フランの横でユラユラ揺れている。

 

ドザンッ!!

 そして、その男の体はベッドの下に落ち、落ちた男の体は動かぬ死体となった。

 そして……部屋中が静寂に包まれる。

 

 

「さぁて」

 静かになった部屋で、アンコウは再び後ろに控えている兵士たちを振り返る。

「おいっ、あれを持ってきてくれ」

 

 ハ、ハイッ と、声を震わせながら返事をした一人の兵士が、何やら大きめの包みを持ってアンコウの元へ。

 

 アンコウはその兵士に、そこに包みを置けと、ナグバルが座る目の前の床を指し示す。

 

ドサンッ と、床に置かれた包み。

「開け」 と、アンコウはさらに指示を出す。

 そして、その兵士の手によって包みの結び目はほどかれた。

 

「なあぁっ!」

 包みの中から現れたものを見て、ナグバルの口から驚きの声があがった。

「………サ、サイード」

 

 ハラリと開かれた包みの中から出てきたのは、サイードの血塗れの首級。サイードは、ナグバル配下で最も強いはずの武将であった。

 アンコウが言う。

「ナグバル。たぶんだけどな、サイードの奴は助けに来ないと思うぜ」

 

 ナグバルはアンコウの言葉に反応せず、ただ目を大きく見開き、サイードの首を凝視している。

 そのナグバルの顔をのぞき込みながら、アンコウは口元に笑みを浮かべつつ、重ねて言う。

 

「サイードの野郎は助けには来ないぜぇ、ナグバルよぉぉ」

 

 その時、開け放たれた寝室の扉の向こう、廊下の方から、

—— うわぁぁぁん と、子供の泣き声が聞こえてきた。

 

 そして、その子供の泣き声が、どんどん近づいてくる。その声に、はじめに顕著な反応を示したのはフランだ。

 男に襲われ、その男たちが目の前で殺された後は、ベッドの上で呆然としていたフランが、突如覚醒したように視線を廊下のほうに向ける。

 

「!……オスカー!?」

 そして、小さな声で人の名を(つぶや)いた 。そのフランの呟きに、ナグバルが反応する。

 

「なっ、まさかっ、」

 

 ナグバルは目を見開き、アンコウの顔を見上げる。そのアンコウの顔は、ナグバルを見て、またニヤリと笑っていた。

 

 

うわぁぁぁん —

「よう、大将。連れてきたぜ」

 

 子供の泣き声とともに廊下から現れたのはダッジ。アンコウの命令をうけて、少し前から別行動をしていた。

 

「うわあぁーん」

 ダッジの左手は、泣き叫んでいる小さな男の子の二の腕を乱暴にひっ掴んでいる。

 

「ああっ、父うえぇー、母さまああー」

 部屋の中を見た男の子が叫んだ。

 

「ああっ!オスカーっ!」

 

 ベッドの上にいたフランが男の子の名を叫び、その子の元へと動き出そうとするがホルガに体をつかまれてしまう。

 

「離してえっっ!」

 

 フランはホルガを振りほどこうと激しく抵抗する。その暴れようは、先ほど男に襲われていたときよりも激しい。

 

「オスカーっ!」

 子を思う母の愛情の現れだろう。

 

 ダッジが連れてきたこのオスカーという男の子は、フランとナグバルの間にできた5歳になる息子であった。

 

「騒ぐな女。それ以上騒ぐと、そのガキがどうなっても知らないぞ」

 アンコウが冷たく脅しの文句を口にする。

 

「おいっ、ダッジ」

 アンコウが何やらダッジにアゴで指示を出す。

 

「い、痛たいい〜っ、母さまああ、」

 

 子供の悲しい叫び声が聞こえる。アンコウの意思を察し、ダッジが男の子の腕を捻りあげていた。

 

「や、やめてーっ!その子には何もしないでぇー!」

「ア、アンコウ様っ!やめてくれっ!頼むうっ!」

 オスカーの両親がアンコウに懇願する 。

 

「……ダッジ、やめろ。……わかるかナグバル、お前の家族がどうなるはお前次第だ」

「た、頼む。何でも言うとおりにするから……」

 

 アンコウは、恐怖と怒りを目に宿しているナグバルを無感情な目で見下ろす。

 

「………そうか。じゃあ、ナグバルよ。まず、この屋敷のすべての兵士に武装解除を命令させろ。

 それに、もう援軍の要請も出しているんだろ?それもすべて撤回して、この屋敷に誰も近づかせるな。話はそれからだ。いいなっ!」

 

「わ、わかった……」

 



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第97話 行き掛けの駄賃

 草木も眠る丑三つ時。

 あれほど地上に明かりをとどけていた月星の光が、一転、分厚い夜雲群に覆い隠され 真闇夜(トゥルーダークネスナイト)(とき)となった。

 しかし、ナグバル邸では安穏な眠りに就いている者は誰一人としていない。

 

 アンコウもナグバルもまだ、例の寝室にいた。寝室には、テーブルと椅子が持ち込まれ、アンコウとナグバルが向かい合って座っている。

 アンコウが言っていたとおり、ナグバルとの簡易の話し合いの場を設けたのだ。

 

 この状況に、ナグバルはかなり戸惑っている。

 

(……この男、いったいどういうつもりなんだ……)

 幾分落ち着きを取り戻したナグバルは、自分の目の前に座っている男をじっと見つめている。

(……くっ、アンコウっ)

 

 いまアンコウは、ナグバルの生殺与奪権を完全に握っている。しかしアンコウは、話し合いと称して、ナグバルを自分と同じテーブルに本当につかせた。

 

 ただ、部屋の隅にはナグバルの息子オスカーと十一番目の妻フランが兵士に囲まれて椅子に座らせられており、妻子が人質にとられている状況に変わりはない。

 自らの命もいつ奪われてもおかしくないナグバルにとって、まったくもって対等の話し合いができるような状態ではない。

 

 とはいえ、領主という肩書きを持つアンコウなら、ナグバルを殺しさえすれば、ナグバルの持つ全てのものを誰(はばか)ることなく奪い取ることができる。

 にもかかわらず、形だけのことであっても、このように話し合いの席を設けたアンコウの真意をナグバルは量りかねていた。

 

 アンコウが、『後々、いろいろと()()くさそうだから』というテキトーな理由で、ナグバルを殺さないつもりでいることなど、権勢欲の強いナグバルに想像できるわけがない。

 

(なぜだ。なぜわしを殺さない………)

 

 

「旦那様、どうぞ」

 テレサが、カチャリとアンコウの前にお茶を置く。

 

 アンコウがナグバルの身柄を抑えるまでは、テレサやカルミは邸内に入っていたものの 、小規模ながら断続的に続いていた守備兵たちとの戦いにあたっていた。

 しかし、その戦闘も屋敷の主であるナグバルから武装解除の命令が出た時点で止んでいる。

 

「どうぞ」

 ナグバルの前にも、カチャリと置かれたティーカップ。

 

 茶などを出されても、ナグバルはそれを口にする気にもなれず、緊張感に満ちた悲壮な顔つきをしている。

 そして、ピリピリした緊張感に襲われているのはナグバルだけでなく、この部屋に居る者は皆、約一名を除き、それぞれに険しい表情をしていた。

 

ジィ〜〜(ガン見)

「ねぇねぇ、なんで泣いてるの?」

 

 その約一名が、泣きすぎて今も嘔吐(えず)き続けている オスカーに話しかけていた。小ぶりアフロのハーフドワーフの6歳児、カルミだ。

 

 カルミは、オスカーがダッジに腕を捻りあげられているところは見ていない。

 

 この部屋に来るまでに、カルミは何人もの敵を自慢のメイスで(ほふ)り、倒した敵の血で血塗れになっていた。

 戦闘が中断してから、全身に浴びた返り血をテレサに拭いてもらったものの、所々、拭き取れなかった血のシミが今も残っている。

 

 そのカルミが、さらに一歩オスカーに近づく。

 

「ひぁっ、母さまっ」

 カルミの姿に怯えたオスカーは、並んで隣に座らせられているフランにしがみついた。

 

 フランはオスカーを庇うように抱きかかえた。子を思う麗しき母の愛、といったところか。

 

「ほおー……」

 小首を(かし)げた仕草で、その母子の姿をしばし見ているカルミ。

 

 そして、何か思いついたように目を大きくしたかと思うと、突然カルミはくるりと振り返り、

 ダダダッ と、走っていってしまった。そして、

 

———— 「あらっ、どうしたの?カルミちゃん」

 カルミが駆けよった先、アンコウたちに茶を入れ終えたテレサの腕をカルミが掴んでいた。

 

 ちらりとテレサの顔を見上げたカルミは、掴んだテレサの手を グイグイッ と、ひっぱり、また動き出す。

 

「えっ?カ、カルミちゃん?どうしたのっ?」

「テレサこっち」

 えっ?えっ? と、言ってる間に、テレサは、カルミに腕をひっばられていく。

 

 そして、テレサが連れていかれた先はフランとオスカーがいる部屋の隅。

 テレサを連れて戻ってきたカルミを見て、相変わらず怯えているオスカーとそのオスカーを抱きかかえているフラン。

 

「ど、どうしたの?カルミちゃん?」

 

 急にカルミに引っ張ってこられたテレサは、カルミに尋ねる。

 カルミは、そのテレサの問いかけに答えることなく、いきなり

カバッ!と、テレサの体に抱きついた。

 

「?えっ?なぁに?」

 

 カルミのしていることがよくわからないテレサ。

 そしてカルミはテレサに抱きついたまま、顔だけオスカーのほうに向けた。そのオスカーを見るカルミの顔は、実に子供らしいドヤ顔をキメていた。

 

「「「 ? 」」」

 

 

(………ほんとガキだな、カルミのやつは。いや、間違いなく子供なんだけどな)

 

 アンコウは、そんなカルミの様子を見るでもなく見ていた。

 アンコウには、母親に抱きしめられているオスカーのことが、カルミは単純に羨ましかったんだろうとわかっている。

 

(それでテレサを連れてきて……わかりやすいやつ)

 アンコウの口元に微かに笑みが浮かぶ。

 

 アンコウは、そんなカルミのおかげか、少し体から余計な緊張感が抜けていくのを感じていた。

 

(……さぁ、こんな茶番な話し合いは、とっとと済ませよう)

 アンコウは、再びナグバルに向き直り、

 

「さぁ、お話し合いを始めようか、ナグバル」

 と、鋭い目つきで言った。

 

 

 

 

 アンコウの話を聞き終えたナグバルは、何とも言えない顔つきで考え込んでいる。

 アンコウが提示した話の内容は、ナグバルにとって全く予想外のものだった。

 

その大まかな内容は、

 

・アンコウは領主の居館をハリュートから、クークに移す。

(クークはコールマル北部にある町で、一応名目上は領主直轄の町とされている)

 

・ハリュートは、以後、筆頭執政官を中心とする執政府が管理する。

 

・ヨラ川以南は、執政府が統治し、グローソン公よりコールマルに課せられた全ての税及び賦役は執政府が負担する。

 

・執政府は、ヨラ川以北の地に領主の許可なく兵を進めない。

 

・執政府側が、これらの決め事を破るときは死ぬ覚悟をしてやれ。

 

 わかりやすく言うと、以上のような内容であった。

 

(……どういうつもりなのだ)

 ナグバルの内心の当惑は大きい。

 

 アンコウが提示した話の内容の要諦(ようてい)は、実質的にコールマルの南北分割にあるとナグバルは理解した。

 

 ナグバルの権勢欲は強い。今現在、実質的にコールマル領全域に対する強い影響力を持っていることを思えば、北の地を奪われることはナグバルにとっては業腹(ごうはら)ものである。

 

 しかし、今のナグバルは戦いに敗れ、自分の生殺与奪権を完全にアンコウに握られているのだ。

 

(……なぜだ)

 今の自分の不利な状況を思えば、アンコウが提示した案は、自分ににとって有利過ぎるとナグバルは思う。

(わしを殺さないうえに、南部を与えるということか……)

 

 コールマルを南北に分ければ、北部は土地が広いだけで、このハリュートも含まれる南の方が豊かであることは誰もが知るところだ。

 

 ナグバルは、自分にとってあまりに有利な話であったがために、却って強い疑念と警戒心を抱いたが、いずれにしろ今の状況では、どんな提示がアンコウからされたところでナグバルはそれを受け入れる他ない。

 

 実際、話し合いなどと言っても、アンコウが一方的に話をし、それが終わればナグバルは首を縦に振るしかなかった。

 

 

 一方、この案を提示したアンコウに、政治的な深い考えや謀略の類いの含みがあったわけではない。

 そもそもアンコウは、コールマルの領地を一寸たりとも欲しいなどと思っていない。ただ、ここで御領主様をやっていないと自分の命が危なくなるから、ここに居るだけの話。

 

 ハリュートの居心地がよければ、お飾り領主であってもアンコウは、この町に留まっただろう。しかし、このハリュートの町の居心地は悪かった。

 その主たる原因は、今アンコウの目の前にいるヒゲ豚ナグバルとその縁者のせいだ。

 

 それでも、ナグバルがグローソン公ほどの力を持つ強者なら、アンコウは忍耐し、従っただろう。たが、幸か不幸かナグバルにそれほどの力をアンコウは感じなかった。

 ゆえにアンコウは、ナグバルと敵対することになっても、やりたいようにやって、お引っ越しをすることにしたのだ。

 

 そして、夜襲をしかけ、ナグバルの喉元に剣刃を突きつけることに成功しても、今現在ナグバルの命を奪わないでいるのは、常識的に考え得るものとは全く違う理由によるもの。

 

 ナグバルなどは、自分を殺せば、名実ともにこのコールマルの全てを手に入れることができるというのに、なぜ話し合いなのかと心の底から疑問に思っている。

 だがアンコウにしてみれば、ナグバルを殺してしまえば、全てが手に入ってしまうことこそが問題なのだ。

 

 アンコウとしては、自由気ままに、ぼちぼち豊かに楽しく生きていければそれでいい。コールマルの北部は南よりもまだ貧しいというが、

 

(どんだけ地域が貧しくても、領主ひとりが贅沢三昧できるぐらいの実入りはあるだろう)

 

 と思っている。それは確かにそうだろう。

 だったら、鬱陶(うっとお)しい連中のいない北に行って、煩わしそうなことはできる限りナグバルたちに押し付けたらいいじゃんよ という結論に至ったのだ。

 権勢欲の強いナグバルのような男には、まずない発想である。

 

 アンコウとしては、それでもナグバルたちがなめた真似をしてきたときには、そのときに殺せばいい と考えている。

 

 

 アンコウは言うべきことを言い終えると、おもむろに ガタリと席を立つ。

 

「……じゃあ、そういうことで。後はモスカルと話して書面にしておいてくれ」

 

 ナグバルには、何がそういうことなのかまったく理解できないが、この場ではアンコウの意向に従うほか選択肢はない。

 

「………わかりました」

 と、ナグバルは何とも言いようのない表情で頷く。

 

「ものわかりがよくてなりよりだ、ナグバル。お前の妻子(つまこ)も喜んでるぜ、なぁ?」

 

 アンコウがちらりと目をやった部屋の隅、フランとオスカー母子が武装した兵士に囲まれて、変わらず座っている。

 時々カルミに話しかけられて、オスカーがビクついているのは愛嬌だろう。

 

「ぐくっ……」

 ナグバルは、アンコウの自分を見下した目と、部屋の隅に捕らわれている妻子の姿を見て、再び湧き上がってきた屈辱に肩を震わせた。

 

「じゃあ、ナグバル。宝物庫のカギを出してくれ」

「えっ?」

 

 アンコウがごく自然な口調で言った唐突な要求に、ナグバルは直ぐに反応できない。

 

「えっ じゃねぇよ。北棟にある宝物庫のカギだよ」

 

 ナグバルは顔をあげ、返事に窮する。確かに、この屋敷の北棟には宝物庫がある。しかし、そのことはこの屋敷の極秘事項になっている。

(なぜ、この男が知っている)と、ナグバルは思うものの、それは今さらというものだ。

 

 アンコウ一味は今宵の襲撃において、ナグバル邸の兵数とその配置、屋敷の見取り図にその部屋割りを把握していなければできない動きをしていた。

 

 アンコウは事前にナグバル邸の内情を完全に()めており、さらに念を入れて、リマナを拘束して情報の裏どりと補完もしていた。

 当然、金庫や宝物庫の位置は最重要情報として押さえており、それこそが、アンコウが襲撃前に言っていた『行き掛けの駄賃』になる。

 

「何だよ、ナグバル。俺のほうが、ハリュートから出ていってやるって言っているのに、お前は引っ越し賃も出さないつもりなのか?

 だったら俺がここに残って、お前とお前の家族に引っ越してもらうことになるぜえぇ。そうなると、お前らがいくのは北じゃなくて、土の下だけどなぁ」

 

 アンコウは少々悪ノリが過ぎているようだ。

 それでも、家族諸共、死の刃を喉元に突きつけられている状態のナグバルには効果があった。

 

「わ、わかったっ。す、すぐに持ってこさせる」

 

 それを聞いたアンコウは、ニッコリとわざとらしい笑みを浮かべて見せた。

 

「ああ、悪いな。遠慮なく頂くよ、ナグバル」

 

 

 

 

 アンコウ一味の数は少ない。領主の肩書きをもって、コールマルに来てから多少兵の数を増やしたが、ナグバル邸に連れてきたのは百人ほど、残りは他所で展開させている。

 寡兵ということもあって、夜陰に乗じた奇襲攻撃を選択し、またその攻撃に際しては、敵大将であるナグバルの身柄確保を最優先目的とした。

 

 そして今も、アンコウ一味は、全兵一丸となって働いていた。今、最前線で指揮を執っているのは、ダッジだ。

 ダッジたちは屋敷の生き残りたちを中庭の一つに集め、完全に屋敷を制圧したのち、今は北棟にいた。

 

「てめぇら!嵩張(かさば)るもんには手ぇ出すな!金と宝石の(たぐ)いから放り込めっ!」

 

へいっ! おうっ!と、手下の兵どもが口々に返事をする。

 

 彼らの手には、この屋敷より無期限で借り受けた魔具鞄が持たれており、全員が嬉々として、宝物庫のお宝を魔具鞄に収めていく

 アンコウは、宝物庫の扉の前に仁王立ちになり、手際のよい部下たちの働きぶりを眺めていた。

 同様にアンコウの側にいるカルミも、ほぉーとか、おぉーとか言いながら、その光景を見ている。

 

「……ねぇねぇ、アンコウ」

 そのカルミがアンコウに話しかけてくる。

 

「何だ?カルミ」

「ねぇアンコウ、カルミたち盗賊?」

「…………違う。……引っ越しのお金を貰ってるだけだ。言ったろ?これからみんなで引っ越しだ。お金がいっぱいいるんだ」

「ほおー、そっか」

 

 

 アンコウのところにホルガがやって来る。 

 

「アンコウ様、あらかた接収し終えました」

「そうか」

 

 アンコウはホルガからの報告を受け、宝物庫の中にむかって、作業終了の指示を出した。そして、一味にむかって新たな指示を出す。

 

「お前ら、次は食料庫だっ!時間が惜しいっ、手早くやれよっ!」

 

へいっ! おうっ! 大将! と、手下どもが口々に返事をした。

 

 宝物庫を後にしたアンコウたちは、意気揚々と夜の闇が支配する通路を食料庫にむかって歩いていった。

 通路には、幾体もの死体が血溜まりのなか倒れている。しかし、アンコウ一味の中に、それを見て叫び声をあげる者は誰もいない。

 なぜならそれは、自分たちの剣刃でつくった肉塊だからである。

 

 

「ねぇ、アンコウ、テレサ。次のお部屋、ケーキあるかなあー」

 

 ランタンの明かりが照らす石造りの廊下に、カルミの無邪気な声が響いた。

 

 



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第98話 千の山賊

「どう、どう、どうっ !!」

ヒヒィーン!!

 

 アンコウたちが夜通し馬を走らせ続けて、ヨラ川河畔に着いた時、陽はすでに高く昇っていた。

 

「へぇ、これがヨラ川か」

 

 アンコウも初めて見るヨラ川。それは大河といえるほど大きな川ではないが、山がちな土地のせいなのか、かなり流れが早い。

 アンコウたちの目の前には、北岸へ渡ることができる大きな橋がある。

 

(なるほど。確かに、ここからなら()()渡ることができそうだ)

 

 実はここに来るまでに、アンコウたちは2本の橋を渡らずに通り過ぎてきた。なぜなら、その2本の橋の向こう側には魔素漂う森が広がっていたからだ。

 

 このヨラ川北岸には薄い魔素の漂う浅い森が広がっており、薄いとはいえ、抗魔の力を持たない者は立ち入ることは好ましくない。

 アンコウと行動を共にしている兵隊のほとんどが普通人であり、アンコウたちは、どれほど薄くとも魔素地帯を抜けていくという選択肢は除外していた。

 

「なぁ、モスカル。さっきまで見えていた魔素の森には、どんな魔獣がいるんだ?」

 

 何となく気にかかったことをアンコウはモスカルに尋ねた。

 モスカルは情報収集に関するノウハウも、ある程度身に付けているようで、アンコウはコールマルに来てからの情報収集について、かなりモスカルに頼っている。

 

「そうですね。かなり魔素の濃度は薄く範囲も狭いですから、角兎や牙鹿、黒魔狼などが主なようですが、一部ゴブリンが湧く場所もあるようです」

「へぇ、そうか」

 

「おそらくコールマル領内を流れているヨラ川北岸沿いの5、6割ほどが、小規模ではありますが同じ程度の薄い魔素の森になっているようです」

「なるほどね。それのせいで人や物の行き交いも、この川を境にさらに制限を受けているわけだ」

「はい。橋に設けられた関所の通行料も決して安くはないようですから」

 

「ははぁ〜、たいして広くもない同じコールマルの領内で、そんなのまで取ってるのか?馬鹿じゃないのか。

 それでなくとも自然厳しい僻地なのに、ショボい目先の小銭欲しさに人や物の流れをこれ以上塞き止めるようなまねをしてどうするんだ?領地全体がよけい貧乏になるだけだろう」

 

 アンコウは少し呆れながらも、軽い感じで話している。

 

 アンコウの横に並ぶモスカルは、少し感心しながらアンコウの話を聞いていた。

 アンコウがいま言ったような発想は、アンコウが元いた世界で受けた教育や情報に触れてきた者なら、誰もがごく当たり前に考えることだろうが、この世界においては決して当たり前の感覚ではない。

 

 イェルベンより、アンコウと行動を共にしている行政武官のモスカルは、そのアンコウのものの考え方や感覚に、ここまでに何度となく驚かされている。

 モスカルは、グローソン公ハウルとアンコウが、同郷であることは知っていたが、それが具体的にどこなのかは知らない。

 

「………アンコウ様はこれまでに、いずれかの御主君にお仕えした経験がお有りなのですか?」

 

 モスカルは、以前アンコウが、何らかの形で行政に携わった経験があるのではないかと思ったのだ。

 

「ん?そんなのあるわけないだろ?宮仕えなんて、やめられるんだったら今のコールマル領主なんてくだらない肩書きも、このヨラ川に放り捨ててやりたいぜ」

 アンコウは実に苦々しい口調で言った。

 

 モスカルは、そんな態度をみせたアンコウに、無言で軽く頭を下げて返した。

 

 

 アンコウは、カッポカッポと馬を橋の上まで進めていく。当然ながら、橋の関所の者に止められることはない。

 

 名ばかり領主のアンコウが馬上にいて、その後ろの馬車の中には、彼らが実質的に命令を受けてきたナグバルが押し込められていることを橋関の者たちも知らされているからだ。

 

「さぁ行こうか!北の更なる辺境へ!」

 

 アンコウは後ろに続く者にむかって、大きな声で叫んだ。

パシイィッ!

 ヒヒィンッ!

!!ドドッ!ドドドドッ————!!

 

 アンコウ一味が、橋の上を砂塵を巻き上げながら渡っていく。

 

 

 

 

 アンコウが初めて入ったコールマル北部領域。アンコウの視界に広がるもの。田舎らしい明るく豊かな田園風景……というわけにもいかなかった。

 

(やっぱりここも、南と一緒だなぁ)

 ようやく見えてきた農村は教科書に出てくるような寒村だ。

「……あっちもこっちも陰気くせえぇ、はぁぁぁー」

 

 アンコウはため息を吐く度に、跨がっている馬の足取りが重くなっていくように感じた。

 それでも馬を進めていくアンコウたち。

 

「ん?」

 そんな中、暗くなっていくアンコウの気持ちとは裏腹に、少し離れたところから楽しげな歌声が聞こえてきた。

 

♪♭♪ヨーデル ヨーデル ヨレホッホッホー♪♯♪

 

 後ろを見れば、テレサと馬を並べ進んでいるカルミが歌っていた。

(ガキはいいよな。生きてるだけで楽しそうで……)

 

 今度はアンコウの隣から、落ち着いた響きの声が聞こえてきた。

 

「アンコウ様。ここまで来れば、早馬を飛ばせば夜のうちにクークに着くことも可能です」

 

 モスカルの重低音ボイスだ。アンコウはちらりとモスカルの方を見て、

「そうか」と、答えた。

 

 

 ナグバルと息子のオスカーを人質として、ここまで連れてきている効果だろう。

 アンコウたちは、ハリュートを出てから一度も、ナグバル派の勢力からの攻撃を受けていない。

 

「モスカル。もうクークの連中も俺たちが来たことを知っているかもしれないが、こっちから直接クークの太守に使者を出しておいてくれ。一応、軽い脅しつきでな」

 

 北部の町クークの太守などという職は実質的には閑職であり、今の太守もあまりナグバルの覚えめでたくない人物がその役を任ぜられていた。

 そんな人物が、囚われのナグバルのために、領主であるアンコウに歯向かう可能性は常識的に考えれば小さい。

 

(まぁ、仮にナグバルに忠義を誓っているような人物だったとしても、そのナグバル親子を人質にされていたら逆らいようもないだろうけどな)

 

 それに、ハリュートで人質にとったのはナグバル親子だけではなかった。

 

「わかりました。クークへの使者は私が参りましょう。何、ご命令どおり、ハリュートよりクーク太守の子供たちも同行させております。まず間違いなく戦闘にはならず、クークに入ることができるでしょう」

 

 現クークの太守はハリュートにも屋敷を持っており、彼の幼い年齢の子供たちは全員そちらの方で生活をしていた。(てい)のよい形での人質である。

 その子供たちをアンコウは頂戴していたのだ。

 

 アンコウとモスカルは、ハリュートを脱出し、クークに拠点を移すためにかなり入念に計画を練っていたのである。

 

「そうか。じゃあ、お前に任せるよ、モスカル」

 

 

—————

 

 

 この世界の馬は相当に頑強だ。アンコウたちは昨晩から一睡もせず、その後も相当なスピードを維持して移動を続けた。

 そして、クークまでもう一歩となった地点で、アンコウたちは移動を一旦停止した。

 そこで一晩明かした後、明日クークに入ることにしたのだ。

 

 

「……田舎だよなぁ」

 

 アンコウは馬からおり、木の幹に背中を預けながら、初めてコールマルにやって来たときと同じ台詞を(つぶや)いた。

 

 ふと上を見上げると、太陽は少し傾いてきていたが、まだ抜けるような青空が広がっていた。

 

(……空はどこでも青い、か……)

 

 アンコウは、(しば)し思考することを止め、天空に心を飛ばした。そして一瞬、うつらうつらし始めたアンコウだったが、少し冷たい山の風を体にうけて意識を取り戻す。

 

 周囲を見渡せば、アンコウに付き従ってきた兵たちがアンコウと同様に馬からおりて、体を休めている。アンコウの兵たちは皆、馬に乗っていたが、その他にも数台の馬車が同行していた。

 

 アンコウは体を起こし、おもむろにその馬車の列のほうに歩き出す。

 

 その馬車に乗っているのは、まず人質として連れてきたナグバル親子。

 アンコウが馬車の中を覗くと、怒り憎しみ頂点に達しているのだろうが、今の命を握られている状況ではそれを露にすることもできず、ナグバルは何とも言えない表情で顔を伏せた。

 

 それを見てアンコウは、

「……大変だな、人質は」と、他人事のように(つぶや)いた。

 

 残りの馬車に分乗しているのは、クーク太守メルソンの子供らとその関係者だ。

 

 彼らも事前にアンコウから申し入れがあったわけではなく、ナグバル邸を襲撃した後、ハリュートを退去する前に、アンコウ一味がメルソンの家族が住む屋敷を経由し、その際、領主の名と武力による威圧によって彼らを馬車に詰め込んだのだ。

 

 ゆえに彼らも、アンコウらに対して、かなり怯えていた。

 アンコウが馬車の中を覗き込むと、皆が身を寄せ合い、女子供は体を震わせて、まるで悪党を見るような目でアンコウを見た。

 

(………まったく、心外だな)

「もうすぐクークに着く、あんたらに危害を加えるつもりはないから、安心してくれ」

 

「……あの、領主様」

 馬車の中にいる女が話しかけてきた。

 

 この女は、馬車の中にいるメルソンの子供たちの世話をしている女官らしい。

 今は子供たちの父親であるメルソンも、母親であるメルソンの妻もクークにいる。ここにいる子供たちの中には、赤子はいないものの 3人ともまだ幼く、皆この女官を頼りにしているようだ。

 

「わ、私はどうなっても構いませんっ。で、ですから、お子様たちだけは、どうか無事にメルソン様の元にっ」

 

(……俺いま、危害は加えないって言ったよな……)

 

 アンコウは、メルソンの関係者からも、まったく信用されていないようだ。

 アンコウは、ハアァァーッと溜め息をつくと、馬車が停まっている列から離れていった。

 

 

————

 

 

 翌朝、

 

「そうか。じゃあ、クークの太守は、こちらの命令を受け入れたんだな?」

「はい。御領主様の来訪を心より歓迎します、とのことでした」

 

 モスカルと共に早馬を飛ばして、一足先にクークに赴いた男が一人、伝令として戻ってきていた。どうやらメルソンとの話し合いは、首尾よくいったようだ。

 

「よしっ。じゃあ、全員で新しいねぐらにいくとするか!」

 

~~~~~

 

 そして、その日の昼頃、クークの町にむかって、ゆっくりと移動していく二、三百の騎馬を中心とした集団がいた。アンコウたちだ。

 

 クーク太守の受け入れと恭順の意思を伝え聞いた後は、彼らの緊張感も若干緩み、クークまで残りわずかとなった低い山の(ふもと)にのびる道を比較的遅い速度で進んでいた。

 しかし、

「……………。」

 そんな中、アンコウは何が気にかかったのか、馬を走らせながら首を後ろにまわし、山の方を見つめている。

 

——クケエェェー ——

 どこにでもいる山鳥が、時折、山の中の木々の中から飛び立っていく。

 

 それ自体はどこにでもある山間の田舎の風景。

 しかしアンコウは、そのどこにでもある風景の中に、何とも言い難い違和感を感じていた。

 

(………おかしいな、)

 トクン、トクンと、アンコウの心臓の鼓動が、早まってくる。

 

 そんなアンコウの目に、自分と同様の山の方向をじっと見つめている馬上のカルミの姿が見えた 。

 不意にカルミが視線を動かし、アンコウを見た。カルミを見ていたアンコウと視線が合う。

 

 カルミはそのまま馬足を早めて、近づいてきた。

 

ヒヒンッ、ブゥゥ

「アンコウ」

 

 アンコウの横に馬をつけ、名を呼んできたカルミの顔を見た瞬間、アンコウの心に緊張感が湧き上がる。カルミが子供の顔ではなく、戦士の顔をしていたからだ。

 

「……どうしたカルミ」

「山の中に、いっぱいいるよ。こっちに近づいてきてる」

「!……敵だと思うか?」

「わからないけど、イヤな感じがするよ」

「……そうか」

 

 アンコウは、カルミの言葉を聞いて、敵だと思って行動した方が良さそうだと判断した。

 

(でも、敵だとしていったい何者だ……)

 ナグバル親子を取り返しにきたナグバル派の部隊か、

(……いや、無謀だな。そんなことは子供でもわかる)

 

 単にアンコウたちを滅ぼす事が目的なら、戦いを挑んでくる可能性がないとは言えない。しかし、今そんなことをすれば、勝敗に関わらずナグバル親子は確実に命を奪われることになるだろう。

 

(今、連中のなかに、ナグバルに取って変われるほどの実力者はいないはずだ)

 

 ならば、ナグバルを無駄に危険にさらすようなことは避けるだろうと、アンコウは考えている。また、そのためにナグバル親子を人質にとっているのだ。

 

(……クーク太守メルソンの兵の可能性は……)

 

 クーク太守にはナグバル派ほどの兵はないし、アンコウはメルソンの子供たちを抑えている。

 

(……メルソンが、モスカルたちに示した恭順の意志が(はかりごと)の一端だとは考えずらい。今俺たちと敵対するメリットなんてないはずだ…………)

 

 様々な事情、状況を考慮すれば、どう考えてもクーク太守メルソンが、自分たちに敵対してくる可能性も小さい。

 

(………なら、誰だ………)

 

 

「………ホルガっ!」

 顔をあげたアンコウは、ホルガを呼んだ。

 

 このまま考えていても答えは出ないと、直接偵察を出すことにしたのだ。

 

 

 

 

「ホ、ホルガ様」

「しっ、口を開くな」

 

 アンコウの命をうけて、ホルガは二人の兵を連れて山に入った。

 

(……本当にいた)

 

 抗魔の力を持つ獣人戦士であるホルガも、気配察知の感覚は鋭い方だ。しかし、アンコウの命を受けた時点では何も感じるところはなかった。

 だが、アンコウとカルミが示した山に近づくにつれ、ホルガの体内センサーにも引っかかるものがあり、警戒度をMAXに高めて山に入った。

 

 ホルガたちは岩場に伏せ、眼下の獣道を見下ろしている。そして、その獣道には、黙々と移動していく武装した者たちの姿があった。

 

「ホ、ホルガ様、あの連中は……」

「しっ!」

 

 この連中は一見して、いわゆる正規兵と呼ばれる者たちでないことがわかる。まちまちの装備に、じつに特徴的な雰囲気を身に纏っている。

 それは、グローソンの公都イェルベンをアンコウらと共に出立して以来、何度となくホルガも見てきた雰囲気を持つ者たちだ。

 

(………山賊)

 

 彼らの装備、雰囲気は、アンコウたちがここに来るまでに何度もやりあってきた山賊そのものだった。

 しかし、獣道を歩いて行く者たちには、これまでとは明らかに違う点がある。

 

 ホルガの隣に伏せている二人の男の顔色がどんどん悪くなっていく。

「……ホ、ホルガ様ぁ、こいつぁ」

 

 獣道をいく武装兵が、なかなか途切れないのだ。

(………ここまででも、少なくても千は越えている)

 

 これまでに戦った百やそこらの山賊団とは明らかに規模が違う。一体いつまで続くのかと、眼下の獣道を見下ろしていたホルガが、

「!っ!」

 何かに反応し、伏せている体を咄嗟(とっさ)にさらに低くした。

 

 ホルガたちの眼下の獣道をいく馬の上、その馬に跨がっていたのはダークエルフ。一人だけではない、その後にも何人ものダークエルフの姿があった。

 この山賊団には、ダークエルフも団体で属しているようだ。さすがのホルガも、全身の太い毛穴から汗がじんわり溢れ出てくる。

 

(ダークエルフの部隊まで………)

 

 

 そして、しばらくして後、ホルガたちは伏せたまま岩場をゆっくりと後退していった。

 

「………急いで、アンコウ様のところに戻る」

「は、はい」

 

 すでに顔を真っ青にさせている同行の二人が、ホルガにむかって(うなず)いた。



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第99話 逃げる鯉のぼり

 ホルガたちは、少し離れた場所につないである馬のところへと急いで移動していた。

 

― カサッ

「…!」

 その移動の途中、ホルガはわずかな気配を捉える。

 

 山道を急いで移動していたホルガが突然方向転換したかと思うと、全力で地を蹴り、音もなく走り出した。

 ホルガと共に移動していた味方の二人の兵は驚き足を止める。

 

 一瞬、ホルガの姿を見失った二人だったが、何とかホルガの後を追って木々の間を走り始めると、少し離れた場所に立ち止まり、腰の剣を引き抜いているホルガの姿が見えた。

 

 

 ホルガが突き出した剣先に、しゃがみこんでいる人間族の男の姿。大きな木の根の影に隠れていたらしい。

 

「ヒッ!」

「……お前、あの山賊どもの仲間か?」

 ホルガが殺気を孕んだ眼光をその男に向けて聞く。

「ち、違うっ」

「…………」

 ホルガは無言のまま、剣先をわずかに動かす。

 男の頬が切れ、ツツーッと、赤い血が垂れてきた。

 

「まっ、待ってくれっ。ほ、本当に違うんだっ!」

「だったら何だ?こんなところで何をしていた。言え。言わないなら、ここで二度と何も言えなくしてやる」

 

 ホルガの剣が、男の首筋に移動していく。ホルガは本気だ。

 

 この男が何者かはわからないが、ホルガは一刻も早くアンコウに山賊の大集団の存在を知らせる必要があり、目の前にいる素性不明の男が黙秘を続けるなら、手早く息の根を止め、アンコウの元に帰ることを優先するつもりだった。

 

 ホルガに追いついた同行の二人の兵も、男を囲むようにして立っている。

 ホルガの男に向ける眼光と剣先から、男にもホルガの本気度が伝わったようだ。

 

「や、やめろっ、やめてくれ!言う、言うからっ!俺は山賊じゃない!メルソン様の命をうけて、あの『北山(ほくざん)の山賊』ども動きを、この向こうの山にある小屋で見張っていたんだっ」

 

 ホルガは、必死の形相で叫ぶように言った男の目をじっと見つめる。

(……メルソン……)

 

「それは、クーク太守のメルソンのことか?」

 ホルガの問いかけに、男は、

「そ、そうだ」

 と、力なく答えた。

 

 

 

 

「じゃあ、あの山にいる連中は、北山(ほくざん)の山賊どもなんだな?」

「は、はい。左様でございます、御領主様」

 

 アンコウの問いに答えた男は、山中でホルガに見つけられたクーク太守メルソンの偵察要員を勤めている男。

 男は、目の前にいる人物がコールマルの新領主であるアンコウだと確信すると、積極的に自らが知る情報を話してくれた。

 

「……しかし、北山(ほくざん)の山賊の襲撃がここまで大規模で切迫したものだったとはな、初耳だ」

 

「は、はいっ。北山(ほくざん)の山賊といっても、元は険しい山岳地帯に逃げ込んだ流民の集まりです。それがいつの間にか、いくつもの集落をつくっていったのですが、以前は山賊行為を含めて、それぞれの集落が独自に活動していたのです。

 それが昨今になって、集落間で何らかの合意がなされたようでして、集落同士が連携して襲撃を仕掛けてくるようになり、賊徒の規模が大きくなってきました。

 それに加えて、最近では北山に住むダークエルフの姿まで混じるようになってきていたんですっ。

 メルソン様は、ハリュートにもその危険性について報告をあげておられたはずなのですが………」

 

 アンコウは一瞬、空を見上げる。アンコウが全く知らない情報だった。

 かなり最近の急激な変化ということもあり、モスカルも短期間の情報収集では、キャッチできなかったようだ。

 

(だけど、あの野郎は知っていただろうな……)

 

 アンコウは、苛立ちの浮かんだ目で、ナグバルが乗る馬車のほうを見た。

 クーク太守メルソンがハリュートに伝えた情報が、筆頭執政官であるナグバルに届かないわけがない。

 ただ、

(……どうでもよかったんだろうな、ナグバルの奴は)

 

 コールマル領は、中南部さえ押さえていれば、北はおまけのようについてくる。

 それどころか、直接統治しようとすれば、様々な負担が増えるうえに、北山(ほくざん)の山賊とお隣さんになってしまう。

 ゆえにナグバルをはじめ、ハリュートにいる者たちは北部に対する関心が薄い。

 

(ナグバルは、ここにくるまで一度も北山の山賊どもの動きが活発化しているなんてことは言わなかった。自分も北に連れてこられているというのにだ。

 ……そういう情報を耳にしていたとしても、頭に残ってもいないんだろうな)

 

 アンコウは、一瞬ナグバルを問いつめてやろうかとも思ったが、フウッと軽く息を吐き、今さら無駄なことだとやめた。

 

(もう時間がない。山賊どもが、そろそろ山の中から出てくるはずだ)

 

 アンコウは、再び眼前の男に視線を戻す。

 

「こっちにむかっている賊の数は二千だったな」

「は、はいっ」

「で、標的はクークか」

「はいっ」

 

 アンコウは、どうしたものかと考える。つまり、このままクークを目指すか、目的地を変更するかなのだが……。

 

(……行き先変えるっていっても、行く当てなんかねぇよ……)

 

「……クークの備えは、どうなんだ?二千の賊どもを追い払えるのか?」

「もちろんです!我々クークの兵は命がけで町や家族を守るため戦う覚悟はできております!」

「……いや、精神論じゃなくてさぁ。クークに今、兵士は何人いるんだ?」

「は、はぁっ…。正規兵で、七,八百ほどかと」

「………三倍ちかい差じゃないか」

 

(二千の敵に八百の味方か…クークなんて辺境中の辺境の町に、それほど高い戦闘能力がある戦闘員がいるとは思えない。反対に向こうには、ダークエルフの部隊がいるらしい……ヤバいんじゃないのか)

 

 アンコウのあまり芳しくない表情を見て、クークに対する思いが強い偵察要員の男は言葉を少し強くする。

 

「か、数には少し劣りますが、奇襲さえ防げば、クークの勇敢な戦士はあんな山賊どもには負けませんっ」

 

(それも精神論だろ……でもなぁ、ハリュートに戻るわけにもいかないし……)

 アンコウは男の話を聞きながら、考えを巡らす。

 

「メルソン様が、町を守るため強化煉瓦(きょうかれんが)を用いて修復した周囲防壁も先頃できあがっておりますっ。食糧の備蓄も、全兵全住民3ヶ月分は十分にございます」

「…ほおぅ」

 

 今の男の言葉には、アンコウは素直に驚いた。

(金の余裕なんてないだろうに、防壁を整備して、食糧も確保しているのか)

 

 北部の情報を集めているとき、クーク太守を務めているメルソンという男は、ナグバルに意見したことが原因で北部に行かされることになったらしいと聞いただけで、実際赴任先のクークで、どのようなことをしているかという具体的な情報を集める時間はなかった。

 

(そういや、メルソンはハリュートにいた時も、それなりに人望があったって話だったな。こっちでも、それなりにまともな(まつりごと)をしているってことか………)

 

 味方八百で戦うには、敵二千は多い。しかし、この偵察員の話を信じるのなら、町は戦いの準備がある程度整っているらしい。

 今のアンコウの力を考えれば、山賊相手なら身一つで逃げることもできるはずだ。まだ状況的に余裕はあるとみた。

 

 そして、アンコウは決断した。

 

(メルソンって太守は、少なくとも自分の仕事はちゃんとする人物みたいだ。今が逃げるラストチャンスってわけじゃなさそうだし……なら、実際自分の目で確認してみるか)

 

 

 アンコウは横にいた馬の(くつわ)をとり、馬の背に飛び乗った。そして、

 

「総員騎乗っ!」

 全体にむかって、指示を発した。

 

「じきに二千の賊どもが、あの山から姿を現すだろう!その山賊どもはクークにて迎え撃つ!これから一気にクークまで走るぞ!遅れた奴は置いていく!死にたくなければ、全力で馬を駆り続けろっっ!」

 

 

――――

 

 

バガラッ バガラッ バガラッ !!!

 

 アンコウたちは、クークへと続く山間(やまあい)の比較的平坦な道を激走していた。

 はじめから相当なスピードで馬を駆けていたのだが、しばらく前から後方に、北山山賊の騎馬兵が見えはじめてからは、命がけの激走になっている。

 

ヒュューードオォン!

「ぎやああーっ!」

 アンコウの後ろを走っていた兵の一人が、火球の直撃をうけて吹き飛んだ。

 

「チイッ!これで何人目だ!?」

 

 アンコウたちに追いつきつつある賊の騎兵の多くがダークエルフだった。

 二千の賊兵といっても、ダークエルフは一握りしかいない。それなのに、エルフ種の劣等亜種、黒の耳長たちが戦闘の最前線に出てきている。

 

「くそっ!力の出し惜しみをする気はねぇってことかっ」

 

 三百弱ほどいたアンコウ一味はすでに統率された行動はとれておらず、各自が自分の判断でクークを目指して走っている。

 

 アンコウは再び視線を前に戻して、馬を駆る。

 今アンコウたちに肉薄し、遠距離攻撃を仕掛けてきている賊騎馬兵の数はおよそ80と多くはない。

 おそらく偵察も兼ねた先行攻撃部隊なのだろう。しかし、内半数の40騎ほどの乗り手が黒の耳長なのだ。

 

 しかし、全力で馬を()りながら精霊法術を発動させるということは、ダークエルフといえども誰でもできる技能ではなく、

(騎乗法術発動ができているのは、一割程度か。4、5人しかいない)

 

 アンコウは馬を走らせながら、ここにいる黒の耳長一団の質はそこまで高くない と冷静に観察、判断する。

 

(……だけどっ)

 

ヒュューードォン!ドオォン!

 アンコウのすぐ後ろに火球が着弾し、地面が弾け飛ぶ。

 

「く、くそおおーっ!俺のほうに来るんじゃねぇよおーー!」

 

 賊騎兵80、途中から明らかにアンコウを狙っていた。

 敵も馬鹿ではない。少し観察すれば、誰が相手側の指揮官なのかはすぐにわかる。わかれば、その指揮官が狙われるのは戦場の常道だ。

 

 いくらアンコウが、少し離れたところで馬を走らせているダッジに向かって、

総大将お待ちくださいっ!

 と叫んでみたところで、敵は騙されてはくれない。

 ただ、周りにいる味方のアンコウを見る目が、少し冷たくなっただけだ。

 

「チィッ、これ以上飛ばしたら馬がもたないっ!」

 

 振り返れば、賊どもの馬にはまだ余力があるように見える。北山の厳しい山々で育ち、鍛えられた強馬なのだろう。

 アンコウは馬に詳しいわけではないが、元の世界の馬よりも、こちらの世界の馬のほうがスピード、持久力共に優れていることは明らかだ。

 

「くそっ!土地の領主が乗っている馬より、山賊の馬のほうが優駿ってどうゆうことだよっ!」

 アンコウは、馬を駆りながら吐き捨てた。

 

 視線を前方に戻せば、一番先頭を逃げているナグバルやメルソンの子供たちが乗っている数台の馬車の一団が見える。

 数人の人を乗せた車台を引いて走るのだから、騎兵よりも当然馬車のほうが遅いように思うかもしれないが、この世界の常識としてはそうではない。

 

 馬そのものが違うのだ。馬車を引いている馬はあきらかにデカい。アンコウが元いた世界では、そもそも存在しない種だ。

 跨がって乗るには全く適していない大きさの馬だか、比較的気性も穏やかで、荷台を引かせるにこれほど適した馬はない。

 その馬が二頭で一台の馬車を引いており、全力で走らせれば恐ろしく早い。

 

「マジで速いな。たぶん、あれでもまだ全力じゃないはずだ……」

 

 あの馬車は、中に乗っている人に振動が伝わりにくいように設計はされている。しかし完全に振動を吸収することはできないので、それなりにスピードは抑えているはずだ。

 

(余裕もありそうだし、なんたって楽そうだ)

「……よしっ、あっちに乗り換えよう」

 

 アンコウは、前方を走る馬車を目指して馬を走らせはじめた。

「ハイヤアッ!」

ヒヒンッ!

 

 アンコウは、一番近くに見えていた馬車目掛けて猛スピードで馬を駆り一気に接近する。

 

(よしっ、御者の横にでも飛び乗るか)

 アンコウはそんなことを考えながら、御者席を目指して全力疾走のまま馬を馬車の横につけた。

 

(おおっ、これはメルソン屋敷のメイドさんを乗っけてる馬車じゃないかっ。やっぱ御者席じゃなくて中にいれてもらおうかな、いひひ)

 アンコウが、そんなくらだらない考えに気を取られていた時だった。

 黒の耳長が放った火球が再び飛んできた。

 

ドオォン!バガアアンッ!

 

 距離的にはアンコウにとどいていないものの、たまたま大岩に直撃し、火球と共に、その大岩が()ぜた。

「!えっ!?なあっ!」

 

 そして、爆ぜた岩の大きな破片がアンコウの馬の後ろ足を直撃。

 

「ヒヒイィィーンッ!」

 馬の悲痛な(いなな)きが響く。

 馬は尻から崩れ落ち、アンコウは馬の背から投げ出された。

 

「うおおおうっ!?」

 

 そのまま宙に飛ばされたアンコウは、とっさに目の前にあったものをつかんだ。それは、アンコウが飛び移ろうとしていた馬車屋根の一部。

「!?おおっと」

 アンコウは結果オーライとばかりに、そのままメイドさんの待つ馬車の中に入ればいいと、瞬間的に考えた。

 しかし、世の中そううまくはいかない。

 

 火球の衝突で爆ぜた大岩の大小の破片は、アンコウがしがみついている馬車にも降りそそいでいた。その破片の一部が、馬車を引っ張っている馬にも直撃したのだ。

 

ビヒヒィーンッ!

「えっ!?」

 

 一頭の馬が暴走したのに引きずられ、もう一頭も、ビヒヒィン モヒヒィンと、猛烈な勢いで走り出す。

 

グガラララララッ !!!

「いっ!?いいぃぃぃいいいーー!!」

 急加速した馬車、物凄い風圧がアンコウを襲う。

 

 何とか両手はしっかりと馬車の屋根の一部を掴んでいるものの、足は完全に風圧に負けて流されている。

 アンコウのからだは、強風にさらされる鯉のぼりのようにたなびいていた。

 

「うひいぃぃぃいーー!!」

 

 とてもじゃないが、しがみついている馬車の中に乗り移ることなどできそうもない。

 皆、自分の命優先でクークに向けて馬を走らせており、領主といえどもアンコウに対する忠誠心など薄いアンコウの愉快な仲間たちは、このアンコウの危機に誰も駆けつけてくれない。

 

 風がアンコウの口の中に入り、歯茎をむき出しにしながら、アバアバアババ と、言っている。

 

「だ、旦那様あっ!」

 いや、アンコウのことをずっと気にかけてくれている者が一人いた。テレサだ。

 

 テレサは泡を吹きそうになっている馬に構うことなく、アンコウにむかって猛烈に馬を急き立てていた。

 テレサは、無造作に後ろで束ねた栗色の長い髪をたなびかせ、窮地の鯉のぼりアンコウの元に駆けつける。

 しかし、暴走する二頭の大馬が引く馬車に、普通馬で追いかけるというのは少々無茶が過ぎたようだ。

 

「旦那様っ!大丈夫で、えっ!?」

ボギィィッ!ヒヒーンッ!

 

 たなびくアンコウに追いつこうとした瞬間、テレサの乗る馬の前足が折れた。地面に崩れ落ちる馬。

 猛烈に飛ばしてきた勢いのままに、テレサも宙に投げ出されてしまった。

 

「きゃあああーーっ!!」

宙を舞うテレサは、とっさに目の前にあったものを掴む。

 ガシイィッ それは、宙をたなびくアンコウの足だった。

 

「うおおっ!?な、何すんだっ、テレサアアーッ!」

「だ、旦那さまああー!」

 

 軽くパニックを起こしたテレサが、必死にアンコウの足にしがみつく。すると、当然ながらアンコウの体の負担は激増した。

 

「ぐわあああーっ!も、もげるうぅぅーっ!」

「キャアアアー!」

 

 そんな騒がしい二人に近づいてくる新たなる馬影。その馬に乗っているのはカルミだ。

 アンコウたちが逃げ出す際、カルミはアンコウからテレサのことを守ってくれと任されていた。そのテレサが突然猛然(とつぜんもうぜん)と走りだし、カルミの(そば)から消えた。

 テレサを追ってきたカルミは、アンコウと一緒に騒いでいるテレサを見つけた。

 

「おおー。テレサ、アンコウといたっ」

 

 アンコウたちがしがみついている馬車は、まだまだ猛スピードで走ってはいるものの、乗員が二人増えたのと、ある程度の距離を走り続けた影響で若干スピードが落ちてきていた。

 

 その馬車に、カルミが一気に近づいてくる。

 カルミの馬の扱いの確かさと、若干ではあるが馬車の速度が落ちてきていたこともあり、カルミが猛烈に走らせている馬は何とか()っている。

 

「テレサっ!アンコウー!」

 

 カルミの馬は、アンコウやテレサの馬のように崩れ落ちることはなかった。

 カルミはアンコウたちに追いついた。

 それなのに……

 

「やあああーっ!」

 と、声をあげながら馬の背から飛びあがり、カルミも二人同様、宙を舞ったのだ。

 

そして………

 ガシイィッ! カルミは、アンコウの空いている方の足にしがみついた。

 

「ナガアアーッ!なっ、なにしてんだっ!カルミいぃぃいー!」

「えへへぇっ!カルミもおー!」

「もお、じゃねえーっ!股が裂けるううーー!!」

 

 風にたなびく人間鯉のぼり。ただ、緋鯉(ひごい)と子鯉が、真鯉の尾ひれに食いつく形で強風に晒されている。

 それほどの風圧にさらされながらも、子鯉の小ぶりアフロは乱れない。

 その状態のままで、しばし馬車は走り続けた。

 

………しかし、なんにでも限界というものがある。

 

(う、腕がっ、足がっ、股がっ、胴もっ、マジヤバイっっ!)

 

 それでも、必死に耐えているアンコウだったが、

ガタンッッ!! 馬車の車輪が、岩に乗り上げた。

 

「あっ」

 

 そのはずみに、馬車の屋根の一部を掴むアンコウの手が離れた。

 

「うわああぁぁーっ!」

「キャアアァァーッ!」

「アハハハハーー!」

 

 アンコウ、テレサ、カルミ、三人全員が再び宙を舞った。

 

(や、やばいっ!)

 焦るアンコウ。

「助けてっ!」

 テレサが叫ぶ。

 

 飛ばされた時の加減か、このままではテレサのほうが先に、地面に叩きつけられることになりそうだ。

 

「ちょっとまってね、テレサ」

 宙に飛ばされながら、妙に普通の声がした。

「えっ?」

 

 アンコウがその声のほうを見ると、その声の主はカルミ。カルミは宙を舞いながら笑顔すら浮かべていた。

 そのカルミの笑顔を見て、アンコウは少し冷静さを取り戻す。

(…俺もパニクってたのか)

 

 カルミは山猫のように空中で体勢を建て直すと、造作もなくテレサを捕らえ、テレサを抱き抱えたままクルクルと宙を回転し、

 

ズザザザザアアーー!

 と、アンコウより先にあっさりと着地を決めて見せた。

 

 そんなカルミを見ながら、宙を飛んでいるわずかな間にパニクる心を抑え込み、現状を把握したアンコウ。

 魔戦斧との共鳴を起こさずともアンコウの身体能力はかなり強化されている。

 カルミほど簡単華麗にはいかないものの、アンコウも空中で自身の体勢を建て直すことに成功した。

 

(よしっ!)

ズザザザザアアーー!

 そのまま見事、着地も決めた。アンコウの周囲に土ぼこりが舞い上がる。

 

 

「ふううぅぅ・・・………た、助かったな」

 

 しばらくして、ハレてきた土ぼこりの向こうから聞こえてくるカルミの笑い声。

 

「あははははっ、あっ!アンコウ!」

「……カルミ、大丈夫か?」

「うんっ!大丈夫だよ!」

「あ、ありがとう。カルミちゃん」

 テレサも無事のようだ。

 

「アハハッ!おもしろかったねえ!アンコウ、テレサっ!」

 

 両足を二人につかまれ、痛い思いをしたアンコウとしては何一つ面白い要素などなかったが、ここは未だ戦場真っ只中。カルミに説教している暇などない。

「くくっ……チッ」

 

 アンコウは素早く立ち上がると、来た道を振り返る。そこには少し前まで迫ってきていた賊騎兵の姿はない。

 

「……かなり引き離したようだな……ん?」

 

―― アンコウさまぁぁ 

 

 そこには敵ではなく、アンコウの名を叫びながら近づいてくる見覚えある騎兵の姿があった。

 

 

「アンコウ様っ」

 

 アンコウの近くまで来た騎兵が、

どう、どう、どうっと、馬を止めた。馬上にいるのは白毛の獣人女戦士。

 

「ホルガかっ、どうした!?」

「賊の先遣騎兵80、まだ追ってきてますっ。じきにまた姿が見えるはずですっ」

「チッ、しつこいな。さっきの奴らか?」

「はい」

「……その後ろはどうなっている?」

「え?」

「賊本隊との距離だ」

「あっ、はい。賊の本隊との距離はかなり開いているかと、私の目にも本隊は見えなくなっていましたから」

「………へぇ」

 

 アンコウは考える。賊どもは、自分がこの一団の親玉だと認識して追って来ているものの、コールマルの領主であることには、おそらくまだ気づいていない。

 気づいていれば、二千の全軍あげて襲いかかってきているはずだ。

 

 アンコウが周囲を見渡すと、馬車はひっくり返ることはなく、そのまま先に行き見えなくなっていた。

 しかし、ダッジやモスカル配下の兵たちは、まだ自分達よりも後方にいる。

 

「アンコウ様っ」

 ホルガが声をあげる。

 ホルガの視線の先には、未だ姿は見えないものの、立ち上る砂煙が見えていた。

 

(……来たみたいだな、黒の耳長どもめ。二千相手じゃ逃げたほうが得策ってもんだが、80だけじゃ違うんだぜ。たとえ精霊法術を使えてもさぁ。

 ああ、黒耳は40だけだったか)

 

 アンコウは考えがまとまったのか、腰の魔戦斧を引き抜いて、共鳴を発動させた。

 

「……ホルガっ、カルミっ!行くぞ!賊の先遣部隊が本隊と離れているうちに奴らをつぶす!

 テレサは後ろから弓で援護を頼む!時間はかけられない、賊本隊の援軍が間に合わないうちに一気にやるぞっっ!」

 

 アンコウはそう言うと、未だ姿は見えていない砂塵に向かって全力で走り出した。



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第100話 次はこちらが狩る番だ

 比較的平坦とはいえ、山間(やまあい)の道、それなりにアップダウンはある。ゆえに遠方をうかがうのに見晴らしがよいとは言い難い。

 アンコウは、しばらく走って足を止めた。そして、ついて来ていた馬上にいるホルガと話を始める。

 

「ホルガ、ほかの連中はどうしていた?」

 

 アンコウは全体にむかって、クークを目指して走れとのみ命令を出していた。

 しかし、カルミやホルガに個別の指示を出していたのと同様、ダッジをはじめ(おも)だった部下たちにも、命令ではないものの要望は伝えていた。

 余裕があれば、お前たちは手勢をまとめながら走れ と。

 

 クークでは、かなりしっかりとした迎撃準備ができていると知り、弱き者、遅れたものは、山賊どもの餌食になっても構わないと判断したアンコウは、味方の兵の統率を部下に丸投げしていた。

 

 それでも初めは皆、アンコウの後ろに続く形で走っていた。ゆえに、走るアンコウ一味を見つけ、追ってきた山賊どもに、アンコウが総大将であることをあっさりと見抜かれてしまった。

 

(あいつら、敵が来てから、分散して逃げはじめやがって)

 

 しかし、そのことで味方を責めるのは御門違いだとアンコウもわかっている。

 各自の判断でクークまで走れというのは、アンコウが命じていたことでもあったし、初めから分散して走れと命じていたら、皆それに従っただろう。

 アンコウが適当過ぎたのだ。

 

 それにアンコウにとっては散々でも、馬車と共に猛スピードで逃げたアンコウがさらに敵の意識を引きつけたことで、結果的にダッジやほかの者たちにはかなり余裕ができていたし、敵の先遣部隊と後方の山賊本隊をさらに引き離せていた。

 

「ダッジ様も、モスカル様配下のグローソンの行政官を中心とする者たちも、それぞれに手勢をまとめながら逃げていました。ダッジ様は比較的敵に近い場所で、モスカル様配下の者たちはそれよりも少し離れた場所を走っておられました」

 

「……そうか」

(ダッジのやつはチャンスがあればまだやる気だな。モスカルに近い連中は全体を見ながら、完全に離脱する隙を窺っているってところか……)

 

「…………ホルガ、モスカルのところの連中に伝令を頼む」

「はい、アンコウ様」

 

 

――――

 

 

 浅い窪地(くぼち)に這いつくばるアンコウの鼻に土の臭いが満ち、体には土の冷たさが伝わってくる。横に並んで這いつくばっているのは、カルミだ。

 

 今ここにいるのは二人だけ。少しずつ、アンコウたちの耳に響く馬蹄の音が大きくなっていく。

 

「ねぇアンコウ、ふたりだけで戦うの?」

 カルミは怯えた様子は微塵もなく、単純に疑問を口にする。

 

「さぁ、どうかな。とりあえずカルミ、俺が飛び出したら、お前も続くんだ。いいか、狙いは黒の耳長だ。人間は後でいい」

「はーいっ」

「元気のいい返事で結構だ」

 

 アンコウは、流石に若干緊張してきているようだ。

 

(確認できた限り、追ってきている人間の賊の中には抗魔の力保有者はいない。ダークエルフの警戒すべき点は精霊法術、それにつきる。接近戦に持ち込む。奴らの術の発動を最小限に抑える)

 

 ダークエルフの身体能力、身体強化度合いというのは、種族としてそれほど高くはない。魔剣との共鳴を起こす以前の冒険者アンコウですら、剣戟(けんげき)のみなら平均的戦闘能力のダークエルフ相手にそこそこやりあえていた。

 

 アンコウは上半身を持ち上げて、前方をうかがう。

「!来たっ」

 アンコウの視界に、ズラリと並ぶ騎兵の集団が見えてきた。

 

(……黒の耳長たちが前、人間たちが少し離れて後ろ。はじめっから変わらないな。これは陣形って訳じゃない……)

 

 敵賊徒二千は、いくつもの集落から集められた集団だという。

(たぶん今でも、顔見知り単位で動いているだけだ。連携なんざ全くとれちゃいない)

 アンコウは敵の馬蹄が迫るにつれ、かえって冷静になっていく自分を感じていた。

(……あの逃げ場のない一本道。押し寄せる無数の小豚鬼(チープオーク)……あれに比べりゃあ屁でもないさ…まぁ、怖いもんは怖いけどな…)

 

 アンコウは無言のまま、少し気合いを入れ直した後で動き出した。

 

「カルミ、移動するぞ。ここは連中の進行方向とは少しズレている」

「うん、アンコウ」

 

 

―――――

 

 

バカラッ バカラッ バカラッ !!

 

「隊長、人間どもの部隊との距離がかなり開いてきていますが、」

 

「かまわん。どうせなんの役にも立たない連中だ。せっかく人間どもが幅を利かせている本隊から離れられたんだ。それなのにあの連中に近くにいられては人間臭くてかなわない」

 

「はい、まったくです。しかし村長(むらおさ)も、いつまで人間たちに協力などするつもりなのか」

「言うな。村長(むらおさ)も好んで我らにこのようなことをさせているのではない。お前もわかっているだろう」

「……はい」

 

 北山(ほくざん)に住むダークエルフ。彼らは他との接触を嫌うがゆえに、このような僻地に留まっている者の集まりだ。

 

 まわりは人間や獣人中心の『北山(ほくざん)の山賊』と呼ばれている者たちの集落に囲まれているが、その交流は最小限度の物資の交換など、これまでは極めて限定的なものにとどめられてきた。

 ましてや、彼らと協力し、彼らがやるような山賊行為に手を貸すなどなかったことだ。

 

「……しかし、お前の気持ちもよくわかる。あの山津波さえなければ、人間どもに手を貸すようなことにはならなかったのに」

 

 それでなくとも作物の実りがあまりよくない年が続いていたのに、昨季はちょうど刈り入れの時期に豪雨が続き、山を切り開いて作ったダークエルフたちの集落の畑が山津波で押し流されてしまった。

 

 隊長と呼ばれたダークエルフは、苦々しげに空を見上げた。

(村のためだ。二年もしたら、畑も元に戻るだろう……)

 

 その時だった、

「た、隊長おおーっ!」

 

 馬を走らせながら、ほんのわずかな時間ぼんやりと空を見上げていた男の耳に、すぐ横を走る部下の叫び声が唐突に響いた。

 部下の目に見えていたもの。それは、突然ものすごいスピードで飛んできた精霊封石弾。

 

「!?」

 部下のただならぬ叫び声に反応して、視線を空から下へ戻す。

 この隊長と呼ばれていたダークエルフの男は、自分に向かって飛んできていたものを確認することができたのだろうか?

 

ドゥガアアンッ!

 男が視線を前に戻すと同時に、男の目の前でそれは爆発した。

 

「た、隊長ぉおお!!」

 

 馬を走らせていた隊長は、為すすべなく後ろに吹き飛び、後続の仲間の騎兵にぶち当たる。

 

ヒヒヒィィン うわあぁぁ

 巻き込まれた馬と黒耳長兵が、叫び声をあげながら地面を転がり、また別の騎兵を巻き込んでいく。

 

 一瞬の出来事。真横にいた隊長が吹き飛ばされ、背後で起こっている惨事を部下の男は首を後ろに回して見た。

 

 その男の耳に、突然声が聞こえた。地獄の底から聞こえてくるようなその低い声は、馬蹄の響きと風切り音の中でも、恐ろしいほどはっきりと男の耳にとどいた。

――次はテメェだ

「!なっ」その声に反応し、男は顔を正面に戻す。

 

 しかし、男はその声の主を確認することができたのだろうか?

ズガアアッ!!

「!!!はがあっ!?」

 

 男の両目に、分厚く鋭い斧の刃《やいば》が叩き込まれた。男の意識は一瞬でこの世から消えた。

 

「「「なあっ!?」」」

 

 突然、指揮官クラスの二人を失ったダークエルフの部隊はすぐには状況を把握できない。その間にも襲撃者は畳み掛けるように攻撃を仕掛けてきた。

 

ドォオンッ!ドォオンッ!

 

 と、ダークエルフ騎馬部隊の二列目、三列目付近でも、次々に投げ込まれた精霊封石弾が()ぜ、馬が乗り手ごと吹き飛ばされていく。

 

 襲撃者の男が、片手で魔戦斧を振るいながら、もう片方の手でほぼ同時に精霊封石弾を投擲し続けていた。

 

 男が魔戦斧を振るっている場所とは、少しだけズレた場所で、また黒の耳長の絶叫が響く。

「ぎぃやああーっ!」

 

 そこには身の丈以上のメイスを飛び跳ねながら縦横(じゅうおう)に振るい、馬上の黒の耳長たちの頭を次々にザクロにしていく少女の姿があった。

 そのスピードは、初めに飛び出してきた魔戦斧の男よりさらに早い。

 

 それに、この少女も風車のごとくメイスを振り回しながら、斧の男と同様に次々に精霊封石弾を放り投げている。

 

 ドォオンッ! ドォオンッ!

ヒヒィィン ぎぃやああー

 

(カルミのやつ、俺のまねをしていやがる)

 魔戦斧の男はメイスの少女の戦いぶり見て、わかっていたことではあるものの、少女の力量に目を見張る。

 

 言うまでもなく、襲撃者魔戦斧の男はアンコウだ。

 アンコウがカルミに出した命令は、待ち伏せし、奇襲をかけ、黒の耳長たちを狩る ということだけで細かい指示は出していない。

 

 カルミは、ほんの少しだけ先に飛び出したアンコウの戦いぶりをほぼ同時進行的に模倣し、アンコウ以上の戦闘能力をもって、次々に黒の耳長どもを()ふっていく。

 

 アンコウは魔戦斧を、カルミはメイスを血に濡らしながら、敵に反撃にでる時間を与えることなく、飛び移るように馬上のダークエルフを次々に討ち取っていく。

 

 次々に爆発する精霊封石弾の影響で、ダークエルフ部隊全体がかなりの混乱の様相を呈しており、部隊の後衛部も含め、誰もすぐには精霊法術を発動できずにいた。

 

(よしっっ!)

 それを見たアンコウは、狙いどおりだと魔戦斧を振るいながらほくそ笑む。

 

 アンコウとカルミは敵騎馬の周りを走りまわり、飛びまわり、着実に敵の命を一つずつ狩りとっていく。

 アンコウの見立て通り、この40のダークエルフの中には特別高い戦闘能力を持つ個体はいないようだ。

 アンコウたちが逃げていた時、馬を走らせながら精霊法術の騎乗発動を行っていた数人の者は真っ先にアンコウとカルミに襲われ、息の根を止められていた。

 

「そ、その二人を止めろおっ!ほ、法術をっ」

 

 なんとか体勢を立て直した者が、精霊法術を放とうとするものの、アンコウたちはすでに自分たちの部隊の中に飛び込んで暴れまわっており、味方に当たるリスクがあまりに大きく、術を飛ばす隙が見つからない。

 

「く、くそっ!か、囲めっ!囲んで、奴らの動きを封じろっ!」

 

 しかし、囲んだかと思えば、アンコウは魔戦斧との共鳴度合いを瞬間的に跳ね上げ、あっさりと囲みから抜け出し、さらに彼らを撹乱(かくらん)させる。

 

「くっ、どこに逃げたっ!なっ、ぐわああっ!」

 男の目に、アンコウが投げたクナイが突き刺ささり、男は落馬する。

ドサアンッ!

 

 カルミに至っては、囲まれても抜け出そうともしない。

 

「ヤアアアー!」

 という掛け声とともに、それまで以上に力を込めて敵の頭を叩き割っている。

 そうすると自然と囲みが解けるのだ。

 

 絶叫と爆音が響き続け、ダークエルフたちの混乱はいつまで経っても収まりを見せない。

 

 それでも何とかアンコウとカルミから、少し離れたところにいる黒耳長が法術を発動させ、

「くっ、仕方がないっ」と、味方を巻き込む覚悟で風刃を放とうと手を天に掲げる。しかし、

「ぐわあっ!!」

 その黒耳長の悲鳴とともに、風刃はかき消える。

 その男の胸には、一本の光の矢が突き立っていた。

 

ヒュンッ! ヒュンッ! ヒュンッ!

「ぎゃああっ!」「うがああっ!」「ギヒイイッ!」

 

 顔に胸に腹に、次々に光の矢が突き刺さっていく。

 

「ど、どこだあーっ!どこから射てきているっ!」

 

 矢が飛んできた方向には、すでに人の姿はない。

 ダークエルフたちに光矢を射ていたのは、言うまでもなくテレサだ。

 テレサはアンコウの指示に従い、窪地、物陰に身を潜めながら、ヒットアンドアウェイで攻撃を放っていた。

 

 

 黒の耳長たちの部隊より少し後方にいた人間の山賊たちは何をしているのだろうか?

 カルミ・アンコウ両名の個の戦闘能力が、この戦場では抜きん出ているとはいえ、数はたったの二人。

 すでにダークエルフの数はかなり減ってきているが、ダークエルフとともに先遣部隊にいた山賊ども40が加勢していれば、アンコウ・カルミも今ほど自由に動き回れていなかったはずだ。

 

 ある程度の足止めができれば、至近距離からでもダークエルフたちの精霊法術を発動させるチャンスはつくれるのに。

 四十人の人間の山賊どもは突撃することもなく、退くこともせず、突然前方で始まった戦闘をただ眺めていた。彼らは、決断ができなかったのだ。

 

 

「あ、兄貴ぃ!あ、あの二人強えぞっ!?黒耳たちが殺られていってるぞっ!ど、どうするっ」

「う、うるせえっ!黙ってろ!く、くくっ、何なんだ奴らはっ」

 

 そもそも、アンコウたちの小勢を完全に甘くみていた山賊たちは、常日頃、妙に自分たちのことを見下しているダークエルフたちにこの戦闘は任せて、お宝ブン取りの段になれば参加しようぐらいにしか考えていなかった。

 

(し、信じられねぇっ。ダークエルフたちが、たった二人に押されているっ)

 

 無論山賊たちも、初めは多少なりともアンコウたちに警戒心を持っていたのだが、アンコウたちは誰一人戦う意思さえ見せず、初めから逃げ続けた。

 それを見て、山賊たちはアンコウたちのことを戦う力のない弱者の集まりと決めつけてしまった。

 

 それゆえに、まだ自分たちの近くにいたバラバラに散らばったアンコウの仲間たちに対しても、その動きを把握できていなかった。

 

ドドドドォォーー !!

 うおおおーーっ

 その動かぬ山賊の部隊に、突如、地響きと雄叫びが近づいてきた。

 

「あ、兄貴いーっ!奴らの仲間が突っ込んできやがったあー!」

 

 いつの間にか、再びグループを形成していたアンコウ配下の集団が、山賊部隊に突撃をかけてきたのだ。

 

ドドドオオオーー!!

「ぎゃああっ!」

「に、逃げるなあーっ!ぐわぎゃっ!」

 

 襲いかかるアンコウ一味、その戦意、勢いが全く違う。完全に相手をなめ、油断していた山賊たちはまったく対処できていない。

 そして、その突撃部隊を率いているのは、

 

「てめえらっ!このまま突っ込めえーっ!」

 山賊以上に山賊面の男、ダッジだ。

 

 山賊たちは、最初のターゲット(標的)を総大将であるアンコウに定めて、他の者たちの存在をほぼ無視していた。

 それを見たダッジは、山賊たちの部隊から大きく距離を開けることはせず、味方を再びまとめつつ、じっと奴らの様子を(うかが)っていたのだ。

 

 それゆえに、彼らの部隊に異変が生じたとき、つまり、アンコウとカルミが暴れ始めたとき、ダッジは即反応し、攻撃命令を発することができた。

 ダッジたちの猛突撃は、ひとつの大きな矢尻のごとく、四十人の人間の山賊部隊に突き刺さり、彼らを蹴散らしていく。

 

――――

 

(流石だな、ダッジ。攻め時を見誤らない)

 アンコウは黒耳長に魔戦斧を叩き込みながら、ダッジたちの突撃を確認していた。

 

 アンコウは、ダッジに攻撃命令を伝達していたわけではない。

 しかし、ホルガから聞いていた情報により、

ダッジの奴は、俺たちが仕掛けたら必ず自主的に呼応する と、確信していた。

 

 だからアンコウはホルガを伝令として、ダッジではなく少し敵との距離を長めにとっていたモスカル配下のグローソン行政官を中心としたグループのところに送ったのだ。

 普通人の文官ではあるが、戦場の心得もあるグローソンから借り受けている行政官たちは命令を受けたあとの行動は早いが、戦場での臨機応変さに()けているわけではない。

 

 アンコウは、ダッジたちに続いて別方向から現れた騎馬集団を遠目に確認して、ニタリと口元に笑みを浮かべる。

 遠目ではあっても、その新たに現れた集団の先頭に、白毛獣人戦士のホルガの姿があることをアンコウははっきりと確認できた。

 

 そしてその新たな一団は、アンコウとカルミの少し後方、山賊の人間部隊とダッジたちとの戦場に止まることなく突っ込んでいった。

 

 

「う、うわああーーっ!」

「も、もうダメだあっ!」

 

 それでなくとも、逃げ腰であった山賊の人間部隊の統率は完全に崩壊。彼らは少し前方にいるダークエルフ部隊の方へと押し出されるように逃げ出した。

 

 しばらくすると、アンコウたちがダークエルフたちと戦っているところに、逃げ出してきた人間の山賊どもが雪崩れ込んできて、黒耳長も人間も関係なく、山賊どもはこれまで以上の大混乱に陥った。

 

 アンコウは、くっくっくっ と、抑えきれない笑い声を漏らし、この局地戦の勝ちを確信する。

 アンコウとカルミが攻撃に転じ、ここに至るまでに、それほど長い時間はかからなかった。



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第101話 クーク 到着

 アンコウたちと山賊どもの先遣部隊との戦闘は終結した。今、アンコウたちがいる周囲で立っているのはアンコウ一味の者ばかり。

 

(九割方は殺ったが、あとは逃げたな)

 

 アンコウは周囲に転がる死体を見渡している。しかし、その死体の中には少なくない数のアンコウ一味の者も含まれていた。

 

(まぁ、仕方がないな)

 

 アンコウの表情には、怒りも悲しみも浮かんでいない。

 アンコウは、自分たちが押している戦況のまま、敵味方入り乱れる混戦になった時点で勝ちを確信した。実際に一部逃亡を許してしまったが、敵先遣部隊は壊滅したと言ってよい。

 

 ただ、混戦になったがために、アンコウ側の普通人兵が敵ダークエルフ兵と()り合う機会も当然生じ、そうなれば普通人兵は次々に黒耳長兵に倒されていった。

 

(戦争だからな、弱兵は死ぬのさ)

「十分役に立った。こいつらも……」

 

 敵味方の幾体もの死体を見つめながら、アンコウは思いを巡らしている。

 しかし、現在は未だに危地の真っ只中、いつまでもそんな物思いに(ふけ)っている余裕はない。

 

「大将、これからどうする」

 近づいてきたダッジが、アンコウに尋ねる。

「どうもこうもない。今まで以上にぶっ飛ばして、クークを目指すだけだ」

 

 70ばかりの敵を()ふっても、山賊どもの総数が、約二千いる状況に変わりはない。

 逃げることに成功した敵先遣部隊の生き残りが本隊に戻れば、緒戦(しょせん)の敗北を知った二千の軍勢が本気で追撃してくるかもしれない。

 

「なぁ、大将」

「何だ、ダッジ」

 

「こっちから奇襲をかけるってのはどうだ。山賊なんてのは、そもそも統率や規律なんてものとは縁が薄い。連中は、そんな山賊どものさらに寄せ集めだ。今戦った連中のなかには、抗魔の力を持っている人間や獣人はいなかったし、ダークエルフもそんなに残ってるとは思えねぇ。

 森を移動して、奴らの本陣に一撃を加える。完全に不意をつけば、あんたとカルミがいれば不可能じゃねぇと思う。そのあとすぐに、また森に入ってクークに走ればいい」

 

 アンコウは、ダッジの顔をじっと見ている。

(………何言ってんだ、こいつ)

 

「十分やれる目はある。山賊相手に逃げるだけってぇのは領主としてもカッコがつかねぇだろう」

 

 いま戦ったところだろうが とアンコウは思う。

 この山賊面は、そんなに戦闘狂の類いだったか と考える。

 

(………グローソンに毒されたか……いや……)

 アンコウは、ああ、そうか と思い当たった。アンコウはまだ、じっとダッジの顔を見ている。

 

 アンコウは目の前にいる(いか)つい男が元騎士で、現在進行形で騎士に恋い焦がれる夢見る中年オヤジであることを思い出した。

 

「……山賊ごときに逃げるのは騎士の恥ってか?ダッジよ」

「チッ!そ、そんなんじゃねぇ」

 ダッジの表情がなんとも言えないものに変わる。

 ダッジを見るアンコウの目が、少し鋭いものに変わった。

 

「俺に騎士道精神なんか、これっぽっちも期待するなよダッジ。

 なぁ、仮にその奇襲とやらが成功したとして、俺に何の得がある?命懸けで敵の本陣に討ち入って、一撃加えても、どう考えても壊滅させることはできない。

 で、そのまま森の中に逃げ込んだら手ブラじゃねぇか。騎士の誉れじゃあ、腹は膨れないだろ?そんなもんは他所に行ってからやってくれ。

 ……見ろよ、この連中をよぉ」

 

 アンコウは地に倒れている味方の死体を顎で示した。

 

「こいつらが先払いしてくれた命を何に使うかって話だ。俺はクークに逃げるために使う。クークで、山賊の本隊を迎え撃つつもりではいるけどな。万が一負けそうなら、クークからも逃げるぜ。

 ダッジ。迷宮に潜っていたときのお前なら、リスクがデカいだけで、たいしたお宝も期待できないような戦いは避けていただろうが。俺の下についている内は冒険者のままでいろ。騎士に戻るのは次の主君に鞍替えしてからにしてくれ」

 

 けんもほろろにそう言われて、ダッジは地面に転がっている死体をあらためて見渡す。

 

「……ふ、ふっわっはっはっ……確かにな……了解だ、主殿」

 ダッジはそう言うと、アンコウに背中を向けて離れていった。

 

 

 そして、ダッジと入れ替わるようにアンコウの前にやって来たのは、グローソン公から借り受けている行政官の一人。

 

「アンコウ様、敵の本隊が現れる前に、早くここを離れましょう」

 

 その男は、馬に跨がりながら話しかけている。そして、男が乗る馬の後ろ足は、戦いで死んだ味方の兵士の亡骸を踏みつけにしていた。

(…………寄せ集めの烏合の衆ってのは、こっちも大差はないからな……)

 

 アンコウは無言のままため息をつきながらも動き出し、乗り手のいなくなった誰かの馬の背に飛び乗った。

ブヒヒンッと、馬が(いなな)く。

 

「………テレサっ、カルミっ、ホルガっ、行くぞっ!」

 アンコウは先頭をきって、再び馬を走らせ始めた。

 

 

 テレサ、カルミ、ホルガの三人が、ぴったりアンコウについてくる。

 さらにその後ろには、いつの間にか形成されたダッジとモスカルの部下たちが率いる二つのグループがつづく。

 

「チッ!」

 アンコウは馬を走らせながら、盛大な舌打ちをする。

(嫌だ、嫌だ。こんなちっぽけな集団でも、派閥モドキができやがる。いっそ奴隷と少年兵だけで、親衛隊でもつくるかぁ………それも面倒だな)

 

 アンコウは、領主たる自分の責任は完全に棚にあげて心の内で嘆く。

 そしてアンコウたちは、クーク目指して一路(いちろ)馬を駈りつづけた。

 

 

 

 

「アンコウっ、あれがクーク?」

「ああ、みたいだな」

 

 馬を止めることなく、アンコウがカルミに答える。アンコウたちの前方、山に囲まれた小高い丘陵地の上に造られた防壁が見えていた。

 走る馬の速度を落とすことなく、アンコウは、ちらりと後ろを振り返る。

 

(……追いつかれなかったか)

 同じ道を進んできているはずの北山(ほくざん)山賊の本隊は見えない。敵の先遣部隊と衝突してからここまで一度も山賊どもの姿は見ていなかった。

 

(いい方に転んだみたいだな)

 撃破した敵先遣部隊の中には、生きて逃げおおせた者もいる。当然、緒戦(しょせん)の敗退は山賊本隊にも伝わっているはずだ。

 

(これまで以上に追撃の手が強くなる危険性もあったけど、ダークエルフ込みの部隊があれだけ、あっさりやられたんだ。連中慎重になったのかもな)

 

 アンコウはそれ以上無駄口を利くことなく、視界に入ってきた町に向かって、さらに馬足を早めた。

 

「ハアッ!」

ヒヒンッ!

 ドドドドーーッ !!!

 

 

――――

 

 

 アンコウの眼前に、防壁の門がある。クークの町の規模は大きくない。

 

(なるほどな。町の規模のわりには、しっかりした外壁を築いている。町の立地自体も籠城するのに悪くはない)

 

 アンコウらが門壁にむかって、開門を叫ぼうとしたとき、

ギギギイィィイ っと、軋み音を響かせながら門がゆっくりと開いていった。

 

 そしてアンコウは、その開いた門の内側へと、馬を進めていく。

 

 門の内側には、ズラリと出迎えの者たちが並んでいた。その多くが武装しており、町に迫りつつある山賊どもを迎え撃つ準備はできているようだ。

 

(山賊どもは、不意打ちの形で町を襲いたかったんだろうが、それはいずれにせよ失敗していたみたいだな)

 

「アンコウ様、ご無事でしたか」

 まず、アンコウの前に進み出て来たのは、使者として、ひと足先にクークに入っていたモスカルだ。

「ああ、ご苦労だったな。モスカル」

 

 モスカルに労いの言葉をかけながら、少し後ろに控えている壮年の男をアンコウは見た。

(あの男が、太守のメルソンか)

 

 再びモスカルに視線を戻し、声量を抑えて尋ねる。

「もう知ってるだろうが、途中で賊に襲われた」

「はい。援兵を出立させようとしていたところでした」

「その時、メルソンの子供たちやナグバルたちを乗せた馬車が先に逃げて、今もいっしょには来ていないんだ」

「ご心配なく、メルソン殿の御家族やナグバルを乗せた馬車なら、ほんの少し前にこちらに到着しています」

「……そうか」

 

 ナグバルはともかく、メルソンの家族に何かあった時は、メルソンとの関係が間違いなくややこしくなると思っていたアンコウは、それを聞いて ほっとする。

 

 

「御領主様、ようこそおいでくださいました。お初にお目にかかります。クーク太守を仰せつかっております。メルソンでございます」

 

 鎧兜を身にまとった中肉中背の男がそう言うと、アンコウのほうへと進み出て、ひざを折った。

 

(……この男も、どっちかっていうと、武人肌っぽい雰囲気がするなぁ)と、アンコウ。

 

 メルソンの鎧兜は、きれいに磨きあげられており、腰の剣もただの飾りというわけではないようだ。その面構(つらがま)えも、上品さがあるものの、なかなかに精悍(せいかん)である。

 

 モスカルが、さらにアンコウのほうに顔を近づけてきて、

「……アンコウ殿。少なくとも、この男がナグバルに(くみ)する心配はないかと思います」

 と、(ささやく)くように言った。

 

 元々、ナグバルに疎まれて、この北部のクーク太守の役職に実質的に左遷されたメルソンである。

 ナグバルに対して、反感こそあれ忠義などない。子供たちが手元に戻ってきたのなら尚更だ。

 

「……そうか」

 

 アンコウは、さらに一歩二歩と、跪くメルソンに近づいていく。

 

「いまは挨拶はそのぐらいで十分だ。聞いているだろうが、二千の山賊どもが近づいている。備えのほうはどうなんだ、メルソン」

「はっ!準備は整っておりまする。このメルソン、山賊の領袖(りょうしゅう)どもの首をとり、忠義の証といたしましょう!」

 

「……まぁ、とりかえず、現状の確認をしてから、このあとの対応を決めたい。時間はないが、急いで主だった者たちを集めてくれ」

「はいっ、承知いたしましたっ」

 

 

 

 

 防壁の比較的近くにある兵舎の一室に仮の司令部を設け、アンコウたちは互いの状況説明と情報交換を行った。

 

「おお、それでは敵のダークエルフを40人近くすでに撃ち取ったと」

 

 メルソンの驚きの声に続き、クーク側の在来の者たちから、オオッと、感嘆の声が上がる。

 

 たとえ数が自分達より多いといえども、寄せ集めの山賊団など恐るに足らぬとばかりの風情(ふぜい)のメルソンであったが、精霊法術を使うダークエルフ部隊だけはかなり危険視していたようだ。

 

「山賊どもの人間、獣人の中で、抗魔の力を保持する者は極めて小数です。北山(ほくざん)のような生きるにも難渋(なんじゅう)する土地に力ある者が留まり続ける理由などありませんからな。

 ただ偏屈者のダークエルフたちは別です。あの者たちは、自分達だけで集落を作り、定住することが許されている土地が限られておりますゆえ、集落をつくるなら、自然北山のような僻地になります。

 きゃつらの集落が、先般の山津波が原因で人間獣人の山賊どもに手を貸しているということは聞き及んでおりましたが、それでも百を越えるような人数を山賊どもに同行させている可能性は、これまでの経験からいってもかなり低いでしょう。

 とすれば、この町に攻撃を仕掛ける前に40ものダークエルフ兵を失ったことは、連中にとって間違いなく、かなりの痛手になっているでしょうし、連中の進軍速度が落ちているのも、それが一因かと思われます」

 

「なるほど」

 

 アンコウはメルソンの話を聞くにつれ、少々感心していた。ハリュートで、ナグバルやその取り巻きどもの相手をしばらくしていたせいもあって、

(ちゃんと仕事してるよな、このメルソンって男は)と、余計に思ってしまう。

 

 事前に聞いていたとおり、町の防壁はしっかり強化補修されており、守りを固める兵の士気も高かった。また、町の周辺部に住む農民の防壁内への収容も手際よく行われており、それらの兵や民がしばらく食べるだけの食糧の蓄えもある。

 

 町の住人や農民たちが積極的に町の防衛準備に手を貸している姿などは、ハリュートではあり得ないだろうなと、アンコウは思ってしまう。

 

(……くそっ、メルソンがコールマルの筆頭執政官だったらな。ハリュートで、そのままダラダラと過ごせたかもしれないのにっ)

 と、思わず考えてしまうものの、この手の一本気(いっぽんぎ)で真面目な男が権謀術数を用い、権力を掴みとるなどということは至難の技だろう。

(ったく、ままならないよなぁ)

 

 

 アンコウたちがクークに入ってから一刻以上の時間が過ぎても、山賊どもは姿をあらわしていない。

 そんな時、山賊どもがクーク近辺で進軍を一時停止しているとの偵察部隊からの情報が入った。

 

「……そうか。クークがすでに守りを完全に固めているってことに、やっと気づいたんだろ。それにメルソンが言うように、あのダークエルフ部隊に一撃を入れられたのが、本当に精神的に効いてるのかもしれないな」

 アンコウは地図を眺めながら、(ささやく)くようにつぶやいた。

 

(どうせなら、このまま北のお山に帰ってくれねぇかな)

 

 戦うことに消極的なアンコウに対して、

 

「御領主様っ、どうか私めに出陣の御命をっ」

「大将、俺たちも出るぜ」

 メルソンとダッジは、打って出る気のようだ。

 あきらかに、ここには積極的攻撃派のほうが多い。

 

「………なぁ、メルソン。山賊どもは食い詰めてるんだよな?」

 

「えっ、はい。先ほども申しましたが、北山の辺りは元々耕地が少ないのに加えて、ダークエルフの集落ほどではないにせよ、山賊どもの集落にも、かなり近頃の天候不順の悪影響が出ているとのことですので。

 やつらの襲撃の第一の目的は、今でも食糧の強奪にあると思われます」

 

「で、ついでに金と財宝と女も奪っていくか……。まっ、今回はあれだけの数の兵を集めてるんだ。クークを含めたこの辺り一帯の支配権も狙っている可能性も高いな」

 

「ならばこそっ!」

 メルソンが身を乗り出してくる。

 

「我が方の倍の兵数といえども、所詮は山賊。しかも、複数の山賊団を寄せ集めた烏合の衆です。自ら、あの堅牢な北山から這い出てきて早々、虎の子のダークエルフ部隊に打撃を受け、あきらかに進軍に迷いが出ている今が好機っ。

 電光石火で奴らに攻撃を仕掛け、身のほどを思い知らせてやりましょう!」

 

 これまで山賊どもには相当苦労させられてきたのだろう。メルソンは山賊どもに対する敵意を隠すことなく、攻撃を進言してくる。

 それを聞いて、我が意を得たりとばかりに、ダッジが頷いていた。

 

 その後も、次々と威勢のいい意見が飛び出してきた。そして、ひとしきり皆の意見が出終わったあとで、ただじっとそれらを聞いていたアンコウが口を開いた。

 

「………籠城する」と、一言のみ。

 

「えっ!?」

「御領主様っ」

「チッ!」

 

(……舌打ちはやめろよ、ダッジめ)

「これは決定事項だ。この場にいる者はもちろん、この町にいる者全員に従ってもらう。モスカル、メルソン。お前たち二人が中心になり、籠城の準備を進めてくれ」

 

 (しば)しの静寂(せいじゃく)が部屋を支配したあと、

 

「かしこまりました、アンコウ様。命に従い、これより籠城の準備に入ります」

 モスカルの低い声が響いた。

 

 それに従う形で、各々思うところはあっただろうが、メルソンやダッジもコールマル領主アンコウにむかって頭を下げた。

 

 

 

 

 夜、この世界の夜空の星々は、どの土地にいっても空を見上げた人の言葉を奪うほどの美しさがある。

 しかし、クークの防壁の上に立つ兵士たちは、天に輝く星ではなく、眼下に陣を構えた山賊どもの篝火(かがりび)を鋭い目つきで眺めていた。

 二千の山賊団は、日が沈みきる前にクーク眼前に姿を現していた。

 

 クーク中心部、太守の館。

 

「で、連中は一矢も放ってくることなく陣を張ったのか」

「はい、さようです。それと、ダッジとメルソン殿が、正面攻撃がダメなら夜討ちならどうかと申しておりましたが」

「夜討ちねぇ。成功しないとは思わないけど、今日はとりあえず、夜は寝るってことでいいんじゃないか?」

 

 ランタンの明かりが照らす部屋で話をしているのは、アンコウとモスカルだ。

 二人がいるのは、太守の館の客間の一室。

 本来なら領主のアンコウが、このクークを居住地に定めたのだから、この館が領主の館となるのだが、さすがに現在の状況ではそのような居住空間の環境整備に割く時間も労力もない。

 

「アンコウ殿は、何故籠城(なにゆえろうじょう)を選択なされたのですか?」

 

 アンコウが命じた籠城策に、アンコウの意を汲み周囲に先んじて従う意志を示したモスカルだが、少なからず疑問も感じていた。

 このモスカルという男も文官の普通人であるにも関わらず、グローソン公の配下らしく、なかなかに武闘派の一面も持っている。

 

「兵一千強。全兵をアンコウ殿が率い、カルミ殿ら力ある者たちを全面に押し出せば、あの程度の山賊二千なら、十分に勝機はあるのでは?」

「………逆だ。何であの程度の連中に、この有利な状況で、わざわざこっちからすぐに打って出ないといけないんだ?めんどくさい」

 アンコウは辟易(へきえき)とした表情を浮かべて言った。

 

 しっかりとした防壁。アンコウが戦ったダークエルフクラスの精霊法術なら十分に跳ね返すだけの強化煉瓦が使われている。

 合流したアンコウたちを合わせても、千を少しばかり超える程度の専属兵の数だが、クークにいた兵たちは、しっかりと組織だった動きができており、その練度はなかなかのもの。

 それに加えて、一般住民の戦闘経験者も自主的に協力参加して、補完部隊を形成しているという。思っていた以上にクークの戦争準備は整っていた。

 

「それになによりだ、山賊どもは食糧の持ち合わせが少ない。だろう?モスカル」

「はい。それは間違いないようです」

 

「この辺りの作物の収穫はすでにすんでいる。連中は、この町を落とさない限り、十分な食糧は得られない。ほっときゃ早晩、腹ペコパニックを起こすだろ。いや、連中は元からまとまりがないみたいだからな。腹ペコになる不安だけで、内側から崩れてくるかもしれない。

 とにかくだ、寝てりゃ勝てるかもしれないのに、何でわざわざ剣振りかざして突撃なんかしなけりゃならないんだ?俺はごめんだね。果報は寝て待てだよ、モスカル君」

 

 アンコウの性格をある程度理解しているモスカルは、アンコウらしい言葉だと思うが、一応重ねてアンコウに問うた。

 

「しかし、アンコウ殿。それならば、メルソン殿かダッジに兵を任せて攻撃させてはいかがですか。そのうえで、アンコウ殿は寝て待っていれば」

 

「………まぁ、それも悪くはないんだけどなぁ。しかしだ、一度の突撃攻撃でケリをつけたら、勝利のすべてがその突撃攻撃を指揮していた者の大功になるだろう。その褒賞はどうするんだ?

 なんで何もしなくも勝てそうなのに、部下に褒美をやるために戦わせなきゃならないんだ? って思うのは間違ってるかい?モスカル君」

 

 アンコウの口調は軽いが、間違いなく本音を言っている。

 モスカルは、だったらあなたが兵を率いて攻撃すればいいのでは と思ったが、同じ会話のやり取りを繰り返すだけになることはあきらかだったので、

 なるほど と言い、ただ(うなず)いてみせた。

 

「まっ、とにかく頼むよ。メルソンと二人で全体の監督を任せる。それに、俺はメルソンのことをまだよく知らない。今の状況では現場の指揮はある程度メルソンに任せざるを得ないが、一応メルソンの動向も監視しておいてくれ」

 

「承知しました。メルソン殿なら心配はいらないと思いますが、そのようにします」

 

 アンコウへの報告と、新たな指示を受けると、モスカルは現場へと帰っていった。

 

(大変だねー。下手したら、あれは朝まで、敵とにらめっこだ)

 アンコウは消えていったモスカルを思い、まるで他人事のように同情していた。

 

――――

 

 山地の夜の空気は冷える。そんななかでも、たいまつに火をともし、魔道具で明かりをつくり、モスカルやメルソンの指示の下、クークの兵や住民たちが必死に必要な作業を続けている。

 ダッジも、アンコウから借り受けたホルガと共に防壁の外に陣をはる山賊団の動きを睨みつけるように監視し続けていた。

 

――――

 

カチャカチャカチャ ゴクゴクゴク

 ものを咀嚼(そしゃく)し、何かを飲みこむ音がする。

 

 部屋の暖炉には、小さめの火がおこされ、部屋全体をちょうどよい温度に保っている。壁にはいくつもの魔具ランタンが掛けられており、十分な明るさを部屋全体に供給していた。

 

「ねぇ、アンコウ。このスープおいしいね」

 

「ああ、これはあれだな。いいバターと生クリームを使っているからだ。濃厚でコクがあるのに、全くしつこくない。

 きれいな水と新鮮な若草を十分に食べ、適度に穀物を与えられて育てられた八角赤牛から搾った新鮮な乳から作られた本物のバターと生クリームが使われているからこそ出せる味だ。

 それがまた、この角ウサギのモモ肉と実によく合っている」

 

「ほおー、バターと生クリームかー」

 

 カルミは、本当にわかっているのかどうかは謎だが、実においそうに、そのクリームスープを飲んでいる。

 

「ッパアー。おいしいねー、テレサ」

「え、ええ、そうね」

 

 この心地よい環境の部屋で食卓を囲んでいるのは、アンコウ、カルミ、テレサの三人だ。

 

 食卓の上には、その角ウサギのクリームスープの他にも料理が並べられている。

 何段にも重ね置かれた厚みのある真っ白いナンに、香草とキノコの炒めものや、色とりどりの新鮮な野菜が混ぜこまれたポテトサラダのようなものがボールいっぱいに。

 それに汁物がもう一種類、濃厚なクリームスープとは対照的なわずかに香草を散らしただけで、具は何も入っていない琥珀色(こはくいろ)の透きとおったスープが人数分置かれていた。

 

(……うまい。こっちの琥珀色のスープは、ものすごく複雑な味だ……)

 

ムムムと唸るアンコウ。

おいしい、おいしいと、次々に料理を頬張るカルミ。

 しかしテレサは、他の二人と違い複雑そうな顔をしている。

 

(……みんなまだ働いているのに)

 

 一緒に来た人たちも、クークの人たちも、町を守るために陽が沈んだ今も懸命に働いている。自分たちだけがこんなことをしていてもいいのかと、テレサは罪悪感を感じていた。

 

 アンコウは、

 『俺は領主だからいいんだ』と言っていた。

 『世の中こんなもんで、明日はどうなるかわからない。だから楽はできるときにしとくもんだ』とも言っていた。

 

(……たしかにそうなんだろうけど)

 

 それに、同じアンコウの奴隷であるホルガと自分を比べて聞くと、テレサとホルガとでは役目が違うと、あっさり言われてしまった。

 

「アンコウっ、このナンものすごくやわらかいっ」

「それは小麦のいいところだけを使っているからだ。それにこのナンは、特殊な焼き釜で作られているな。だからこそ出るやわらかさだ」

「おおー、特殊なやきがまかぁー……。ねえ、その釜、カルミにもつくれるかなあっ!」

「そんなことは知らん」

 

 だいぶんと食事が進んだ頃、執事服を着た男が新しい飲み物を小台車に乗せて部屋に入ってきた。

 アンコウとテレサの前には、新しいグラスに真っ赤なワインを注ぎ、カルミにはたっぷりと蜂蜜を溶かし込んだホットミルクを置く。

 

 そして、その執事は ピシリと姿勢をただすと、

「御領主様、このような粗末な御膳しかご用意できず、申し訳ございません」

 と、謝罪の言葉を口にし、深々と頭を下げた。

 

「あん……何が?太守に用意していた食事と同じものだって聞いたんだけどな」

 

 アンコウは、突然この屋敷にやって来て、突然食事を要求した。

 屋敷の者が御領主様に出せるような料理を作るには時間がかかるというと、アンコウが今あるものでかまわないと言ったため、太守に用意していた食事と同じものに少し手を加えたものを出すことになった。

 

 アンコウのイメージでは、太守という奴は毎日贅沢なものを食べている奴と同義である。そんな感覚のアンコウが、その食事を拒否する理由はない。

 

というような流れで、持ってこさせた料理を三人で食べていたのだが……。

 

「はい。確かにメルソン様にご用意していたものをベースにしてございますが、メルソン様は普段から我ら使用人とほとんど同じものを召し上がっておられるのです。それは、この料理をご覧になられて、すでにお気づきのことと思いますが……。

 本来なら慣例に従い、御領主様には八鮮百味の御膳をご用意しなければなりませんのに、このような粗末なものしかお出しできず、誠にもって申し訳ございませんっ」

 

 執事は再び深々と頭を下げた。どうやらマジで言っているようだ。

 

「……………。」

 どういう心情なのか、アンコウは無言。

 代わりに口を開いたのはカルミだ。

「ねえねえ、ひつじの人。これのおかわりある?」

 

 カルミがそう言いながら手に持っているのは、空になった角ウサギのクリームスープが入っていた器。

 

「は、はい。すぐにお持ちします」

 執事服の男は、後ろに控えているメイドの一人に、すぐさま指示を出した。

 

「ほんもののバターと生クリームを使ってるから、こんなにおいしいんだね、ひつじの人」

「は、はぁ、」

 

 確かに本物のバターと生クリームを使ってはいるが、それは庶民でも口にできる一般的なものであり、執事は戸惑う。

 

「きれいな水と草とコクモツを食べてる八角赤牛のバターと生クリームはすごいねっ」

「………い、いえ、このスープに使われているバターと生クリームは、ヤギの乳から作ったものですが、」

「おおー、そうなのかー。アンコウ、ヤギだってっ」

「………あ、ああ、その可能性もあるな」

「ねえ、ひつじの人、このナンもすごくやわらかくておいしいよっ」

「は、はい。ありがとうございます」

「とくしゅな釜で焼いてるから、こんなにやらこくなるんだねっ。その釜、カルミにも作れるかなぁ?」

「?つ、作れるかどうかはわかりませんが、この屋敷の釜は普通の釜ですが………」

「アンコウっ、ふつうの釜だってっ」

「カ、カルミ!」

「なに?」

「ホ、ホットミルクが冷めるぞっ。くだらないおしゃべりはやめて、早く飲みなさいっ」

「は~い」

 

 そのやり取りを聞いていたテレサが、

 「ぐふっ」 と、堪えきれずに噴き出した。

 

 アンコウは、そんなテレサのほうは見ずに、注がれたワインをあおる様に飲んだ。

(くくっ、執事めっ)

 アンコウの顔が赤いのは、酒のせいだけではないだろう。

 

 

「テレサ様、何か他のものをお持ちしましょうか?と申しましても、すぐにお持ちできるのは果物ぐらいしかないのですが」

 

 突然、執事に話しかけられたテレサは、

「えっ?」 と、驚く。

「あっ」 テレサは自分に出された料理が、アンコウやカルミに比べて、あまり減っていないことに気づく。

「い、いえ、まだ、これからいただきますら」

 

 そう言うとテレサは、目の前にあった角ウサギのクリームスープをほお張った。

 そんなテレサを横目で見ながら、アンコウはワインを飲みつづける。

 

 

(そうだ、俺たちはここで飯を食ってりゃいい。それだけで勝てる(いくさ)だ。

 ……だけど、戦いたがりがいっぱいいるからなぁ。多少ガス抜きは必要かぁ……メルソンたちの実力も一応確認しといたほうがいいだろうしな。

 あれは抗魔の力は持っているようだが、ダッジほどもない。だけど、将才はそこそこありそうだな)

 

 アンコウは明日以降の戦い方を、ワインの心地よい酔いが回ってきた頭で考えていた。

 

―――しかし、しばらくするとアンコウの頭から(いくさ)のことは消えてなくなる。その代わりに、

 

(………テレサのやつ、さっきはよくも笑いやがったな。後でいじめてやるぞ……うひひひ)

 

 ずいぶんとワインを飲んだアンコウは、いつのまにか酔いのまわってきた目でじっとテレサを見つめながら、いやらしく笑っていた。

 

 

 館の外では、ひんやりとしてきた夜の空気の中、汗まみれになりながら、多数の兵や住民たちが今も必死に働いている。

 



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第102話 自壊の山賊

「……おおむねうまくいっているみたいだな」

 

 アンコウは、椅子にダラリともたれ掛かり、ひとりごちる。

 この半月の間、毎朝晩に行われている現在の戦況や町の様子などの報告を受け終え、今は一人になっている。この部屋は、太守の館にある一室。

 

 アンコウはこの半月、町が山賊団に囲まれている状況であるにも関わらず、あまり屋敷の外に出ることをせず、もっばらこの屋敷で報告を受け、指示を出していた。

 

「たった半月で、千五百を切ったか。連中、まとまりを保つのもそろそろ限界だろう。……退くか、一か八かで攻めてくるか」

 

 この半月の間、クーク側も山賊側も全軍あげての攻撃には出ていない。

 クーク側は城に籠り守りを固め、それを攻めるには、山賊どもは力もまとまりも不足していた。

 ただ、守り固めるといっても、クーク側はまったく防壁内から出てきていないわけではない。

 

 全面攻撃は禁じているものの、アンコウは現場のメルソンやダッジに命じ、小勢を率いさせ、嫌がらせのように山賊どもの陣地の周りをうろつかせていた。朝、昼、夜、関係なくだ。

 

 時に攻め、時に火壺を投げ込み、時に楽器を打ち鳴らし、敵が本気で攻めてきたら、全力で防壁内に逃げ帰らせた。

 

(腹いっぱい飯が食えないうえに寝不足じゃあな。山賊の寄せ集めじゃあ、そりゃあ、統制は効かなくなるよな)

 

 敵山賊同盟内では離脱者が続出し、日々その数を減らしていた。

 今、アンコウにあがってきた情報では、その数が当初の二千から、ついに千五百を切ったという、クーク側からの嫌がらせのような小規模攻撃で死んだ者は50を越えないだろうから、戦わずして消えた敵兵が相当数に上ることがわかる。

 

「思っていた以上に、早く終わるんじゃないか、これ。……くっくっくっ…――

 ………ハアァー」

 

 アンコウは、悪者っぽい含み笑いを漏らしたかと思えば、一転ため息をついた。

 

「……チッ、負けて殺されるのはまっぴらだけど、俺もこんなド辺境で何やってんだか」

(……死にたくはないから戦いもするけどさ。勝ったからっていって、とくになぁ……)

「……まっ、先のことを考えるのは、壁の外の髭面どもにお帰りいただいてからか」

 

 

 

 

「ゲジムの頭目よぉ、レスカル村の連中は、全員昨日の夜の間に引きあげちまったぜ。

 うちとあんたんところは一番付き合いが古いがな、そんなうちの連中の中からもあんたに対する不満の声があがり始めている。もうそう長くは抑えられんぜ」

 

「チイッ、ナバ村のぉ、それを何とかするのが、お前らの器量だろうがっ」

 

 クーク防壁外、山賊同盟陣地内。

 

 この山賊同盟の実質的総大将の地位にあるのは、北山(ほくざん)にある山賊の集落のなかで、最も大きい集落であるゲジムの頭目、ウガキであった。

 

 このウガキが中心となって、北山12ヵ村ならびにダークエルフの集落にも号令をかけ、今回の攻撃を仕掛けたのだが、ウガキは彼らの主君ではなく、絶対的な命令権限者ではない。

 ゆえに、現状のように戦況が不利になったとき、他の村の者たちを強制的に、この場に留まらせることはできなかった。

 

「ウガキのお(かしら)ぁ、残っているダークエルフたちの動きも怪しいらしいですぜ。アイツらも山に帰る気なんじゃあ」

 

「うるせええっ!」

ガシャンッ!

 ウガキが叩きつけた(さかずき)が地面で砕ける。

 

「いまぁ考え中だっ!黙っていろっっ!」

(くそおっ、クークの守りは思っていた以上に堅てぇっ。それにあの連中、ちまちま嫌がらせみたいにちょっかいを出してきやがるっ。おまけに食糧も調達できねええっ)

 

 出撃前の想定が大きく狂い、ウガキ本人の苛立(いらだ)ちも募ってきている。

 しかも、遅まきながらクークにコールマルの新領主がいるとの情報が、ようやくウガキたちの耳にも入ってきていた。

 そして、新領主がクークにいるとはどういうことだど戸惑っているうちに、周辺地域から、クークに向けて援兵を出そうとしている動きがあるとの情報まで入ってきたのだ。

 

 それはウガキや山賊どもにとって、全く想定していなかったこと。

 そもそもこれまで、このコールマル北部地域において、各太守豪族たちの横のつながりはないに等しかった。

 

 これは、ナグバルを中心としたハリュートの執政府が自分たちに反抗的な人物を次々に北部地域に蟄居、左遷させ、彼らに連携させないために、その交流を制限させたためである。

 これが軍事行動となるとなおさらで、北部の太守・豪族は自分たちの管轄地域以外に兵を送るには、必ずハリュートの許可を仰がねば罪に問われてしまう決まりがあった。

 

 そのことを北山(ほくざん)の山賊たちもよく知っており、今回もたとえクークを攻撃しても、クーク太守の管轄地域以外から援兵が来ることはないと考えていた。

 

「……くそっ、クークにいるっていう新しいコールマルの領主のせいかっ」

 ウガキは苛立ちをあらわに吐き捨てた。

 

 確かに、周辺地区でクークに援兵を送ろうとする動きがあるのは、コールマル領主アンコウがいるからだ。

 しかし、彼らのそのような動きは、自主的なものではなく、援兵を送れという命令書をアンコウが出したからだ。

 

 アンコウはクークに到着して、すぐに周辺諸将守に、その旨を命じた使者を出していた。それを思えば、周辺諸将守の動きは鈍い。

 

 アンコウの使者に対し、ほとんどの諸将守が曖昧な返事を返したという。

 それを聞いてメルソンなどは、

不埒者(ふらちもの)どもめっっ!』と、たいそう(いきどお)っていたのだが、アンコウ本人は違った。

 

「まっ、それは仕方ないだろ。俺は突然ここに来たわけだし、領主といっても、この辺りに面識のあるやつなんていない。ナグバルも拉致ってクークに連れてきてるって使者に伝えさせはしたけどな、すぐに信じることもできないだろう。

 それにそもそも、俺が本物かどうかも疑ってるだろう。すぐに動くような奴がいたら、かえってそいつのほうがあやしいってもんだ。周りに援軍要請したのは一応の保険みたいなものだ。あとは引っ越しの挨拶代わりか。

 まっ、そのうち動いてくれたらラッキーぐらいに思っていればいいさ」

 と、実にあっさりしたものだった。

 

 しかし、もし実際に周辺地域から援兵が送られてくる事態を考えれば、山賊どもは挟撃されることになり、それは山賊どもにとっては全滅につながりかねない悪夢だ。

 それゆえに、周辺地域にクークへの援兵の動きが現れたことによって、山賊どもが感じる焦りは数倍増しとなった。

 

 ウガキも、このまま時間が過ぎれば過ぎるほど、自分達が不利になると認識している。

 とはいっても、このまま北山(ほくざん)に撤退すれば、北山山賊同盟内での自分の求心力は間違いなく失墜するだろう。

 

 それに、

(ここで総退却すりゃあ、間違いなく追撃をうける……誰も殿(しんがり)なんざぁ引きうけねぇだろう)

 

 この状況で、逃げる尻を追われながら攻撃をうければ、自分たちが持ち堪えられる絵がウガキの頭には思い浮かばない。

 それに、今逃げ出せば、総大将である自分は徹底的に狙われるという恐怖が、ウガキの心を支配しつつあった、

 

 

「……………そ、総攻撃だ」

「お頭?」

「……ゲジムの」

 

「全員でクークを攻めるぞっっ!!壁の中に閉じ籠ってる臆病者どもに思い知らせてやるっ!!奴らの援軍が来る前に、その領主の首を獲るんだっっ!!」

 

 

 

 

 穏やかな午後の一時(ひととき)。アンコウは庭に大きくつき出しているテラスに置かれたテーブルを囲み、ティータイムを過ごしていた。

 左手横を見れば、あまり甘くないクッキーのようなものを次々に口に放り込んでいるアフロ童女。

 

「……カルミ。それ、うまいか?」

「うんっ、おいしいよ、アンコウっ」

 

 アンコウも、その勢いにつられるように手を伸ばし、クッキーをひとつ、ヒョイと口の中に放り込んだ。

(……パッサパサだな。やわらかいカンパンみたいな味だ)

 

 アンコウは、後ろに控えていたメイドを呼び、蜂蜜を持ってきてくれと頼む。

 

 しばらくして、お持ちいたしましたと、黄金色(こがねいろ)の粘りけのある液体が入った透明のガラスの器をテーブルの上にメイドが静かに置いた。

 

カチャカチャ ヌルリ サクッ

(だいぶうまくなったな)

 

「ああー、アンコウずるいー」

 カルミもスプーン大盛りの蜂蜜をクッキーに塗りたくり、口に放り込む。

「ほぉー、もっとおいしくなったっ!」

 

 アンコウはクークに来てから、ほとんどこの屋敷から出ずに過ごしている。

 別に引きこもりになったわけではなく、戦時ゆえ、町の店はほとんど閉まり、住民も戦時労働力として働いているため、町に出たところで面白いことが何もない。

 

「ああ、退屈だ。早く終わらないかな、戦争」

 アンコウが茶をすすりながら、他人事のように愚痴る。

 

 あなたが終わらせるように働かないといけないんじゃ…… と、アンコウの右手横に座っているテレサは、反射的に思ってしまう。

(だって、旦那様がコールマルの領主なのに……)

 

 テレサはアンコウの指示で、アンコウと共にずっとこの屋敷に籠っている。

 

 ちなみに、実質的お屋敷ヒッキー・アンコウと違い、カルミはこの半月の間もそれなりに働いていた。

 山賊どもの睡眠を妨げ、精神的嫌がらせを狙った小規模攻撃にも、カルミはたびたび参加していた。

 

 特に、小規模とはいえ直接的な交戦がある場合などは、カルミの戦闘能力の高さは圧倒的な影響力があり、カルミが戦闘に参加することによって、味方の損害も極めて軽微なものですんでいる。

 

「だ、旦那様、」

「ん?何?」

「私も何か町の人たちと一緒に働いたほうが…炊き出しとか、矢作りとか」

 

「ああ、いいって、いいって。テレサが行っても迷惑になるだけだ。

 知ってるか?テレサは御領主様の愛妾奴隷って認識になってるんだぜ。御領主様の御愛妾様がそんな雑役をしたら、まわりに余計な気を使わせるだけだ」

 

 アンコウは、やめとけ、やめとけと手を振った。

 

「………あ、愛妾奴隷」

 

 テレサははじめて聞く、自分のことを指しているのだろう肩書きに何とも言えない表情になる。

 それを見て、ハハハと笑うアンコウ。

 

「だから楽できるときは、しときゃいいんだって。面倒だけど、どうせ近いうち、また働かなきゃならなくなるだろうからさ」

 

 アンコウ、テレサ、カルミ、三人のティータイム。

 それぞれの思いの違いはあるものの、周囲から隔絶されたような穏やかな午後の時間がそのまましばらく流れた。

 

――――

 

 しかし、そんな穏やかな時間は夕刻を迎える前に絶ち切られてしまう。慌てた様子でアンコウたちが座るテーブルに近づいてくる執事服の男。

 

「ご、御領主様っ」

 

 執事服の男の後ろには、武装したもう一人別の男が付き従っている。

 

「どうした?」

「メルソン様より、急ぎの伝令がっ」

 

 アンコウは視線を後ろに控える兵士の方にむけ、用件を話せと促す。

 

「敵、山賊どもが総攻撃を仕掛けてまいりましたっ!」

「………そうか」

 

 アンコウに、慌てた様子はない。

(やっぱり仕掛けてきたか…馬鹿だねぇ)

 

 勝手に攻め入ってきて、あっという間に自壊しはじめ、どうにもならなくなっての総攻撃だ。

 アンコウは、俺だったら身一つで逃げるけどなぁと思う。

 

(……まっ、敵がバカな分には大助かりだ)

 

「カルミ、いくぞ」

「はあーい」

「……テレサもくるか?」

「は、はい」

 

 そして、アンコウは(おもむろ)に椅子から立ち上がり、歩き出した。

 

 

 

 

うわああーっ

 いけええーっ

ギィヤアアアーッ

 ドンッ ヒユゥンッ ドオオンッ

 

怒号、悲鳴、絶叫、爆音。

 戦場につきものの音が、あちらこちらで絶えることなく響いている。

 

 太陽が西の稜線(りょうせん)に沈みかけ、夜の闇が迫りつつある時間に入った。

 戦闘開始直後は最前線に立って指揮をとり、自らも斧を振るっていたアンコウだったが、今はまだ防壁の上にいるものの、テレサを連れて、あっちこっちをうろうろ見て回っている。

 

「よう、モスカル。どうだ、こっちは?」

 

「アンコウ殿、すでに防壁にまでたどり着く敵の数は相当減っており、時間の問題かと思います。初めから敵の攻撃には何ら策なく、いたずらに突撃を繰り返してくるのみでしたから味方の損害も軽微なもので済んでいます」

 

「そうか。ダークエルフはどうだ、こっちには現れたか?」

 

「いえ、こちらでも姿を見ていません。敵の陣内から町とは逆の方向に消えていった部隊があったようですから、その中にダークエルフたちもいたのかもしれません」

 

「そっちの情報でもそうか。黒の耳長たちは一足先に帰ったみたいだな。こっちとしては、ありがたい話だ」

 

 アンコウはさらに一言二言、モスカルに言葉をかけ、次に一緒に行動していたテレサに じゃあなと言い残すと、今度は一人でまた移動をはじめた。

 

(それでもはじめは多少不安もあったけどなぁ。クークの備えがしっかりしていてほんとに助かったよ)

 

 アンコウは防壁の階段を(くだ)()りながら考える。

 

(……俺たちがいようといまいと、この町は落ちなかっただろうな。よくあの烏合の二千の兵で、この町を落とせると思ったもんだ。

 まともな情報収集をしてなかったか、自分たちに都合のいい解釈をしたか。いずれにしても所詮は田舎山賊だったわけだ)

 

 防壁の階段を下りきったアンコウの視界に、出撃準備を万全に整えた一軍の姿が映る。その中にはメルソンやダッジ、ホルガやカルミの姿もあった。

 

(チマチマした戦闘だけじゃ、ストレス発散にはならなかったみたいだからな。最後に思う存分、暴れさせとこう)

 

 アンコウは足を止めることなく、この明らかな勝ち(いくさ)の流れの中、戦意をみなぎらせている兵の群れの中に入っていった。

 

 

 

 

ギギギイイィィイイ と防壁門が開かれていく。

 その門の前に居並ぶ兵馬。一番先頭で口を真一文字に結び、馬に跨がっているのがアンコウだ。

 

「皆の者!これよりあの山賊どもを蹴散らしに参るぞっ!二度とこのクークの地を踏めぬようにしてくれようぞっ!」

 アンコウの右後方でメルソンが檄を飛ばす。

 

「てえめぇらっ、連中は弱いっ!振り下ろした剣の数だけ、敵の首を斬り落としてやれっっ!出遅れんじゃねぇぞっ!」

 アンコウの左後方で、ダッジがハッパをかけている。

 

 アンコウは、じっと開いた門の前方を見つめながら、二人の大声を聞いていた。

 そのアンコウの隣に馬を並べているのはカルミだ。

 

「……カルミ」

「なに?アンコウ」

「山賊の親分の名前は、ウガキっていうそうだ。ハゲでデコに大きい刀傷があるらしい。そいつはお前が()れ」

「おー、わかった」

 

 開いた門の外側から内側へと一陣の風が吹き抜け、その風に逆らうかのように一羽のツバメが門の内から外へと飛び出していく。

 まるで、そのツバメに促されるかのように、クークの兵士たちが動き出した。

 

 カルミが、メルソンが、ダッジが、次々に門を駆け抜け戦場に飛び出していく。

 

「さぁ、いくか」

 

 そしてアンコウも、魔戦斧を肩に担ぎ馬を走らせはじめた。

 

 

 

 

「ウアアーッ!お(かしら)ああーっ!」

「く、くそうっ!お前らっ、逃げるんじゃねえっ!戦えっ!戦えっ!」

 

 しかし、そう部下を怒鳴りつけている総大将のウガキ自身が逃げているのだから、山賊団の瓦解は止めようもない。

 

ドガアッ!「うがあっ!?」

バギイッ!「ヒイイーッ!」

 

 ウガキの横についていた重装備の山賊二人が一瞬で弾き飛ばされた。頭が割れ、顔が潰れ、すでに息をしていない。

 

「ヒグッ!な、なんだテメェはっ!」

 

 いつのまにか、ウガキの前に一頭の馬に跨がった小ぶりアフロの童女がいた。

 その体躯の小ささに比べて、跨がっている馬の大きさと右手に持っているメイスの大きさが実にアンバランスだ。

 

「わたしカルミ。……ハゲてて、おでこにキズ。あと、えらそうにしてる。ねえねえ、おじさんがウガキ?」

 

 この期に及んでも、カルミのような子供に怯えるのは沽券に関わるとでも思ったのだろう。ウガキは引きつった顔に無理やり笑みを貼りつけ、胸を張る。

 

「そ、それがどうした、クソガキっ!俺がゲジム村のウガキ様よおっ!!」

ボォガアンッ!

 その瞬間奇跡が起こった。

 

 頭頂部ならびに前頭部の毛根が完全に死に絶えていたウガキのハゲが治ったのだ。

 ただし髪の毛が生えたわけではなく、ウガキの禿頭(とくとう)自体がカルミのメイスのによる一撃で潰され、消滅してしまったのだが。

 

ぴゆゅゅーー と、噴水のごとく噴き出す血。

 

ドザアァァンッ! 

 噴き出す血が止まらないままに、ウガキの体は地に崩れ落ちた。

 

そしてカルミは、

 ビュンッ!と、メイスに着いた血を振り落とすと、くるりと馬首を返した。

 

「ヨシッ、おしまいっ!…!あっ、アンコー!終わったよー!」

 

 すでに日は落ち、周囲は薄暗い闇が支配している。

 しかしカルミの目には、自分のほうを見て、遠くで斧を突き上げているアンコウの姿がはっきりと見えていた。

 



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第103話 クークの町を散策する

 山賊同盟団を蹴散らして半月が過ぎた。

 クーク側は山賊同盟の総大将ウガキの首は取ったものの、徹底した追撃はおこなわなかった。それでも最後の戦いに参加していた山賊兵の約半数が戦死しており、北山(ほくざん)の山賊どもが大きなダメージを負ったことは間違いなかった。

 

 

「へぇ、結構活気があるじゃないか」

 

 アンコウは今、クークの町の商店や屋台が軒を連ねるメインストリートを歩いている。山賊どもとの(いくさ)でも防壁内の町はほぼ被害を受けておらず、すでに日常の生活が戻っていた。

 

「ねえ、アンコウ。あれおいしそうだねー」

 

 アンコウの横でキョロキョロまわりを見ていたカルミが、気になるものを見つけたようだ。カルミが指差した屋台では、ボール状のカステラのような揚げ菓子を売っていた。

 

「ん?じゃあ、買うか」

「うんっ」

 

 カルミは素早く、その屋台のほうへと走っていく。アンコウに同行しているのは、カルミと護衛の者が二人。

 

 領主といっても、アンコウのことは、その顔さえ知らない住民たちのほうが圧倒的に多い。

 そのうえ、アンコウたちはフードつきの服を着るなどして軽く変装めいたこともしているため、ここまでにアンコウが領主であることに気づいた者は誰もいない。

 

「これ、ふた袋もらえるか」

「へいっ、ありがとうございますっ」

 

 アンコウは受け取ったカステラボールの入った袋をひとつ、カルミに渡す。

「ありがと、アンコウ」

 

 カルミは早速食べながら、アンコウは自分の分を手に持ったまま、またブラブラと町を歩き出す。

 

「わりと商品が豊富にそろっているよなぁ」

 

 クークの町は、ワン-ロンやイェルベンの規模とは比べるまでもなく小さい。

 また、コールマルの中心城市ハリュートと比べても、その規模は小さいのだが、ハリュートの町が重苦しく停滞した雰囲気に包まれていたのに比べて、このクークの町のほうが、はるかに活気が感じられた。

 

(メルソンがまともな統治をしていたってことなんだろうし、ハリュートに関してはナグバルたちの統治がろくでもないってこともある)

 

 アンコウは、未だこのクークの町に軟禁しているナグバルの顔を思い出す。

 ハリュートをはじめ、コールマル領で行われているロクでもない統治というのは、端的にいうとそれは搾取(さくしゅ)という一言に尽きる。

 

(まぁでも、コールマル以外の土地だって、そっちのほうが一般的だからなぁ)

 

 統治という名の搾取する側とされる側、それは人の社会の弱肉強食をあらわす典型的な現実。

 人権の保護や社会福祉の概念など、天国極楽の夢物語に過ぎない この世界において、生かさず殺さずで庶民が搾り取られるのは極当たり前の現実だ。

 

(小なりといえども御領主様かぁ)

 アンコウ自身には、いわゆる権力を志向する欲は少ないが、

(まぁ、搾り取られるよりは搾り取る側にいるほうがいいに決まってる)

 とは思っていた。

 

 

「おーい、アンコウ。こっちの通りに行っていい?」

「ん?ああ、いいぞ」

 

 アンコウはこの数日間で、とりあえずクークの町で見ておこうと思っていた場所は、すでに(おおむ)()まわり終えていた。

 今日は町の視察というよりは、カルミの要望を聞き入れて、町を散策している感じだ。

 

 アンコウはカルミの後について、メインストリートを外れて別の通りに入っていく。その通りには、武器・防具、魔道具などを扱う店や工房がパラパラと並んでいた。

 

 アンコウが少し驚いたことに、クークの住人は大部分が人間と獣人で構成されているのだが、小さいながらもドワーフのコミュニティーが存在していたことがある。

 

「おおー、ドワーフのお店だ。アンコウ、ちょっと見てきてもいい?」

「ああ、好きにしろ」

 

 カルミはハーフドワーフ。そのカルミの死んだ祖父は魔工匠であったこともあり、カルミはこういった製作物に対する関心が強い。

 二軒、三軒と店を見て回るアンコウとカルミ。

 

(……やっぱりあんまり質はよくないな)

 

 この通りにある どの店も、生活用の商品を中心に扱っていた。武器・防具も置いてあるのだが、どこも二流、三流の品揃えだ。

 

 そもそもこんな辺境の町に小さいとはいえドワーフのコミュニティーがあるのは、ここが山岳地域に属し、鉱物原材料が手に入り易いからに過ぎない。

 また、ドワーフはこの世界において、エルフに次ぐ第二の優等種族であるが、種族内における個人の能力差が大きいことでも知られている。

 

 ワン-ロンで見たような戦士として、あるいは魔工匠として、底の知れない超一流の技量を誇る者もいれば、小豚鬼(チープオーク)に蹂躙されていたドワーフのように、今のアンコウなら容易に斬り倒すことができるような者も少なからずいる。

 

(こんな辺境に流れてくる奴は、そりゃあ三流だわな)

 

 それでもドワーフが作るような魔道具や魔武具などは、人間族や獣人族の者が作ろうと思うと、よほどの適正がなければ、三流のモノすら作ることはむずかしい。

 居てくれるだけマシ、なのだ。

 

「アンコウっ、つぎはあのお店にいこう!」

 

 たいしたモノを扱っている店がないことは、カルミにもわかったはずなのに、それでも実に楽しそうにしている。

 わかった、わかった と、カルミの後ろをついて歩くアンコウ。

 

 そして、そんなアンコウにむかって、小走りで近づいてくる少年がいた。

「ん?」

 年の頃は、11,2歳といったところか。それに気がついたアンコウの眉間にシワがよる。

「チッ」

(こっち来てんじゃねえよ。くそガキ)

 

 アンコウは、その少年を視界の端に入れながらも、それ以上の反応を示すことなく歩く。

 

 少年は、アンコウが自分の存在に注意していることに気づくことなく、いつもどおりの行動に移る。

 それは、駆け寄るままに男にぶつかり、(ふところ)の中のものを頂戴する。

 そして、その後は、時にペコリと頭を下げ、時に悪態をつき、それまで以上の早さでその場を去るのだ。

 

 少年が、ドンッとアンコウにぶつかる。しかし少年の予定と違い、少年の右手は何も掴み取ることができなかった。

 

「くそガキがっ」

「!えっ?」

 気がつけば少年は腕をとられ、宙を舞っていた。

「うわあっ!」

 

ドスンッ!

 背中から地面に叩きつけられた少年。

「ゲ、ゲホオッ」

 衝撃で全身がしびれ、一瞬で体の自由が効かなくなる。

ゲスッ!

 仰向けに倒れる少年の胸をアンコウが踏みつけた。

 

「……ガキ、いい根性してるじゃねぇか」

 

 地面に叩きつけられた衝撃で、涙が浮かんでいた少年の目に恐怖でにじむ涙が加わる。

 

 今日のアンコウの出で立ちは、鎧兜はつけず、魔戦斧は魔具鞄の中に納め、一見した分には武装はしていない。

 さして背も高くなく、のっぺり顔で小さな童女の後をぷらぷらついて歩くアンコウは、普通の人間族である少年にはいいカモに見えたのだろう。

 

――――だめだ いっちゃだめだ でもお兄ちゃんがっ だめだ でもお兄ちゃんがころされちゃうよ だめだよっ ――――

 アンコウの背後、少年が飛び出してきた路地のほうから、複数の子供の声が聞こえてきた。

 

「お、おいっ、スーニャっ!戻って!」

 

 アンコウの背後に迫る小さな足音。その足音がすぐ近くまで来た時点で、アンコウは少年を踏みつけたまま、ぐるりと顔を向けた。

 アンコウが向けた視線の先には、アンコウの目に怯え足を止めた薄汚れた服を着た女の子。背丈はちょうどカルミと同じぐらい。

 

「……く、来るな、ス、スーニャ、に、にげろ…」

「お、…おにぃちゃん」

「……に、にげろぉ…げほっ」

 

 どうやら兄妹らしい。兄が何度逃げろと言っても、妹は震え、涙を流しながらも、その場を動こうとはしない。

 

 スリを働く子供たちの存在は、この辺りの住人も常日頃から苦々しく思っていた。

 だからアンコウがスリの少年を投げ飛ばしても、それ自体に文句を言いはしない。しかし、現状の絵面(えづら)はあまりに……

 

 大の男が少年を踏みつけ、その足の下で少年は苦しげに泣いている。その近くには少年の妹らしき女の子が泣きながら立ち尽くしている。

 男に踏みつけられながらも少年は妹を思い、来るな逃げろとよびかける。それでも妹は、怯え震えながらも兄を思い動かない。

 その絵面は、麗しき幼き兄妹愛に見えてしまう。

 

 自然、周囲にいる者のなかに、眉をひそめてアンコウを非難めいた目で見る者たちが出てくる。

 

「チッ」

(ガキでも、泥棒は泥棒だろうがっ)

 

 アンコウとしては、子供であっても泥棒は腕の一本ぐらい切り落としてもかまわないと思っているが、それ以上に今はあまり目立ちたくないという意識が勝った。

 

(くそっ)

 アンコウは少年から足をのけ、ギラリと()りの少年をにらみつける。

「ひっ」

「……お前、親はいるのか」

「と、父ちゃんも母ちゃんも死んだ……」

 

 ハリュートより活気があるといっても、クークにも貧乏人は山ほどおり、行き場のない孤児も年々増えているとメルソンから聞いていた。

 

「……いいか、今回だけは見逃してやる。ただし、次にやったらお前の両腕叩き斬ってやるからな!わかったかっ!」

 

 アンコウに怒鳴りつけられて、少年はブルブル震えながら|頷いた。

 アンコウはまわりの注目から逃れるように歩き出す。

 アンコウが離れると、すぐに女の子が、

「お兄ちゃんっ!」 と叫びながら、まだ地面に倒れている少年に駆け寄っていた。

 

「チッ」

(一気に気分が悪くなったぜ)

 

 アンコウは、メルソンが予算上の問題で孤児院などにはお金がまわせていないと言っていたことを思い出した。

 

(しかし、こんなガキらに、いつまでものさばられたら全く迷惑だな)

 

 金がないから子供らは悪さを働き、その子供らを支援するにも結局金がいる。これだけ不思議魔道具(ふしぎまどうぐ)があふれた世界でも、金に勝る道具はない。

 

「アンコウ?」

 

 カルミはごく普通に、アンコウが少年を折檻する様子を眺めていた。

 今はまた、アンコウの隣を一緒に歩きはじめている。

 

「……カルミ、金は大事だぞ」

「うんっ、金はだいじっ」

 

 

 

 

「これはこれはメルソン殿、ようこそおいでくださいました」

「いえ、こちらのほうこそ突然の訪問の申し入れを快く受け入れてくださり、感謝いたします。モスカル殿」

 

 グローソン公からアンコウへの、いわば派遣家臣の代表であるモスカルが滞在している屋敷に、アンコウがこの地に来るまでクーク太守を務めていたメルソンが訪ねてきていた。

 

 アンコウはこのクークを拠点に、コールマル北部を統治するにあたって、かなりの権限をこのふたりに与えるというか、放り渡していた。

 ざっくり言うと、クークの行政に関しては太守をしていたメルソンを中心に、コールマル北部全体の差配はモスカルを中心にといった具合だ。

 

 メルソンは客間に招き入れられ、モスカルと話をしはじめている。

 

「モスカル殿。懇意にしている北部地域の諸衆から、今後のことについて問い合せてくる (ふみ)が届きはじめているのですが」

「そうですか。実は近々、北部諸衆に対し、クークへの参集命令が下されることになっています」

「ほう、それはモスカル殿の御発案か」

「いえ、アンコウ様直々の命です。アンコウ様は北部と南部の統治を完全に分割し、ご自身は北部を掌握し、南部はこれまでどおりナグバル派に任せ、最大限利用するおつもりのようです」

「ほほう」

 

 メルソンはまだ、アンコウという新たに主君となった人物のことをよく理解できていない。

 ただ、良くも悪くも、あまり為政者らしくなく、戦場での働きはなかなか見事であったものの、あまり(まつりごと)に関心があるようには見えなかった。

 

「おそれながら御領主様におかれましては、このクークを、いやこのコールマルをどのようになさりたいとお考えなのでしょう」

 メルソンに真剣な様子で聞かれ、モスカルは、

「そうですな………、」と考え込む。

 

 アンコウはコールマル領主としての理想や展望などは特別持っていない。そのことをここまで行動を共にしてきたモスカルは、よくわかっている。

 しかし、この地の人間であり、郷土愛も旺盛に見えるメルソンに、そのことをストレートに伝えるのはさすがに(はばか)られた。

 

「……アンコウ様は現実主義者です。夢や理想を語るのではなく、今ある力で、できることから手をつけていかれるのではないでしょうか」

 

 ものは言いようである。その後も続いたモスカルの当たり障りのないアンコウ評を、メルソンは ウンウンと、相づちを打ちながら聞いていた。

 

 ある程度本音を隠しつつのモスカルのアンコウ評ではあるが、実際のところ、モスカルから見た 統治者としてのアンコウに対する評価は以外と高い。

 

 どこで身につけたものかはわからないが、アンコウ様は統治・行政というものに対する基本的な見識を身につけている。また、結果的にではあろうが、その見識に基づいて部下に仕事を任せる度量もある。

 

 人間的には、決して器大きく徳多し、と言える人物ではないが、権力を濫用(らんよう)したり、享楽に沈溺(ちんでき)するタイプでもない。

 コールマル程度の小領なら十分に治める能力はあるのではないか と、モスカルはみていた。

 

「アンコウ殿は北部諸衆を一堂に集め、己の所信を述べられて新たな領政の第一歩となされるおつもりなのでしょう」

 

 メルソンは、なるほど、その話を聞けば御領主様の治世の方針を皆が知ることができるわけですな と頷いていた。

 

 

 

 

「失礼いたします」

 

 遊戯室の扉がガチャリと開く。

 

「おー、モスカルだあ」

 ビリヤードキューを振り回しながら、カルミがモスカルに近づいていく。

 

「これはカルミ殿、楽しんでおられますか?」

 モスカルは、童女カルミにも丁寧に接するナイスオールドミドルだ。

「うんっ!テレサとホルガとビリヤードしてるっ」

 

 ビリヤード台を囲んでいるテレサとホルガのふたりも、モスカルにペコリと頭を下げた。モスカルもにこりと笑いながら頭を下げ、さらに部屋の奥へと歩いていく。

 

 部屋の奥に置かれたゴブリン皮張りのグリーンのソファーには、真剣な顔で何かを読みふけるアンコウが座っていた。

 

「アンコウ様、それは?」

「ん?明日の式次の確認だよ」

「アンコウ、きんちょーしてるんだって」

 モスカルと一緒にアンコウの前まで来たカルミが、モスカルに告げる。

「うっさい!こういうお堅い場で大勢の前で話するのは久しぶりなんだよっ」

 

 この世界にやって来てから、元の世界では考えられない修羅場もくぐり抜けてきたアンコウだったが、逆に、明日行われる予定の真面目な式典のような場で、人前で何かをするということは、こちらの世界に来て以来初めてのことだ。

 

「アンコウ様、御心配にはおよびません。式典と申しても簡素なものですし、次第準備もすでにすんでおりますれば、アンコウ様は座っておられるだけでも式は終わりますので」

「……そうか。さすがに座っているだけってわけにはいかないだろうけど、儀礼的なことは何もわからないからな。お前に任せるよ、モスカル」

 

 アンコウはテーブルに置かれていた果実酒をひとくち口にふくむ。

 

「カルミ、お前はテレサたちと遊んでいろよ」

「は~い」

 

 カルミは再びビリヤード台に戻り、アンコウに促されたモスカルは、アンコウの向かい側にも置かれているゴブリン皮のソファーに腰かける。

 

「で、声をかけていた北部の諸衆ってのは集まったのかい?」

「はい。参集令を出した者は、すべてクークに入ったことを確認しています」

「全員来たのか……」

「むろんです。あの参集命令書は、コールマル領主の名で出されたものであり、筆頭執政官ナグバルの名も連名署名されていましたから。どのような考えを持っていようとコールマル領下にある者なら逆らえないでしょう」

「そうだな」

 

 アンコウはクークでの足場が固まりしだい、ナグバルは無事にハリュートに帰らせてやるつもりでいる。

 ただし、クークでの足場固めのために筆頭執政官ナグバルの名をフルに利用するつもりだ。

 

「ナグバルのやつはおとなしく従っているのか?」

 

「はい。従わなければ、命の保証すらなくなることをはっきりと申し伝えておりますから。自分に選択権も交渉権もないことはよくわかっているはずです。ナグバルをハリュートに帰した後も、このクークに別邸を置き、息子のオスカーはこのままクークに留めおくことにも、すでに同意させております」

 

「そうか。北部にあるナグバル派の領地を領主直轄地に編入させることも同意させたし、グローソン公に差し出す上納金(じょうのうきん)は執政府持ちだ。足場を固めて背負う荷は軽くする。ここで気楽に生きるための第一歩だな」

 

「ええ、アンコウ殿のご指示どおり、順調に進んでおりますよ」

「……そうか。じゃあ、明日は前向きな気持ちで緊張するとしますか」

 

 アンコウとモスカルは、もうしばらく話を続けていたが、話が一段落(ひとだんらく)つくと、アンコウは座ったままで大きく一度伸びをして、光沢感がハンパない緑のゴブリン皮のソファーから、ゆっくりと立ち上がった。

 

 おっ?と、アンコウがソファから立ち上がったのをめざとく見つけたカルミがまたパタパタ近づいてくる。

 

「アンコウっ、ナインボールでカルミと勝負しよっ!」

「……そうだな。息抜きにワンゲームだけやるか」

「やった!」

 

 アンコウは、ソファの背に掛けてあった上着をとる。

 

「ソファに座りっぱなしも体に悪いしな」

 

「ほおー……」

 緑のソファに目をやったカルミが、はたと目を大きく見開く。

「ねえ、ねえ、アンコウ。しってる?」

 突然カルミが得意気な顔で、アンコウに聞いてくる。

 

「ん?なにが?」

「ゴブリンの皮はねえ、こどもゴブリンの皮を生きたまま剥いでなめしたのが、いちばんやわこくて上等なんだよっ!」

「!ぐっ、んなプチ情報知りたくねぇよっ!」

 

 アンコウは何とも言えない表情で、今まで自分が座っていた光沢がハンパないグリーンのソファを見た。

 ドワーフ魔工匠の祖父と魔素の森で暮らしていたカルミは、魔道具や素材に関する知識が多少あり、それを披露したくなったらしい。

 

「たくっ」

 アンコウもキューを手に取り、ビリヤード台のほうに歩いていく。

 

「おおー、カルミがブレイクショットするっ!」

「なに言ってんだっ、ちゃんとバンキングするぞっ」

「え~~」

 

 

 アンコウとカルミは、あーだこーだと話をしながら、テレサとホルガが笑って立つところへと歩いていった。



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第104話 ネイマのお味

 静まりかえる大広間。

 この場に居並ぶ者たちは、コールマル領主アンコウが発した参集命令をうけて、この参議の場に(つど)うたコールマル北部の実力者たち。

 

 ピリピリとした緊張感が漂う中、皆の目が大広間の中央におかれている台座のほうへと注がれている。

 その台座に座るはコールマル領主アンコウ。そして、その台座の横にはテレサが立っていた。

 

「異議なく忠誠を誓うのならば、態をもって示せ!」

 

 厳めしい表情をつくり、重々しく言い放ったのはテレサだ。普段の口調とは全く違う。

 しかし内心では冷や汗もので、

(ど、どうして私がこんなことをっ、早く終わってちょうだいっ)

 と、声なき叫び声をあげまくっている状態だ。

 

 そして、テレサとアンコウの視線の先には、ひとりの肥太った男。

 

「は、ははあー」

 

 テレサの声に反応し、真っ先に台座に座るアンコウの前に(ひざまず)く。それはナグバル。

 

 それを見た居並ぶ者たちは驚きで目を見開く。

 アンコウの命をうけ、参集した者たちのほとんどがここに来るまでアンコウの顔を知らなかった。

 しかし、ナグバルは違う。ハリュート執政府筆頭執政官ナグバルの顔を知らない者はいない。

 

 恐れ、怒り、憎しみ、北部の者たちはナグバルに対してあまり良い感情を持っていない者が多いが、彼らにとってナグバルは間違いなく(こうべ)を垂れなければならない上位者であり、このコールマルという小域においては、彼らの生殺与奪権すら握っている存在であった。

 

 そのナグバルが、こともあろうに奴隷女に促され、跪き、深々と(こうべ)を垂れたのだ。

 皆は、経緯はわからないものの、これまで実質的にコールマルを支配してきた筆頭執政官ナグバルが、完全に新領主であるアンコウに文字どおり膝を屈したという事実を見せつけられた。

 

 ナグバルを跪かせたまま、アンコウがおもむろに台座から立ち上がる。

 

「よく聞け。これからコールマルは南北に大分して治めることにした。南はこれまでどおり、このナグバルを筆頭執政官にすえたハリュートの執政府に任せる。そして北部には、俺がこのクークに拠点を置くことにした。

 北部諸衆の皆はハリュートにおいている屋敷を引き上げ、このクークに屋敷を移し、税もこちらに納めること。この事に関しては、すでにハリュートの執政府も同意している。―…・・・なぁ、ナグバル」

 

「は、はっ。ご命令に従います……」

 

 ナグバルは頭を下げたまま神妙に従い、アンコウは鷹揚にうなずきながら腰を下ろす。

 ザワザワと、ざわめきが広がっていく。北部諸衆は、突然の事態に困惑していた。

 

「お静かに!」

 

 周囲に広がりつつあった雑音を制止ながら、進み出てきたのはモスカルだ。

 

「どうぞ、ご静粛に願います。お初にお目にかかり申します。わたくし、アンコウ様がコールマル領主になられるにつき、グローソン公爵様より新しきご領主様を補佐するよう命をうけ、共にこの地に参りましたモスカルと申します」

 

 モスカルの名乗りをうけて、再び先ほど以上のざわめきが起こる。当然ながら、このコールマル領もグローソン公の支配地域。

 ここに居並ぶ諸衆にとっては、グローソン公爵はアンコウよりもはるか上の主格者であり、その権威は大きい。

 

「言うまでもないことですが、アンコウ様はグローソン公爵様が正式に認められたこのコールマルの領主です。

 ……国内における武の交わりが認められている このウィンド王国といえどもその意味するところは軽いものではない。諸衆よ、そのことわかっているであろうな」

 

 徐々に威圧的な響きが加えられていったモスカルの言葉。

 

 そして、再びアンコウが立ち上がり、ゆっくりと諸衆を見渡す。

 モスカルがそのアンコウの動きに合わせるように、立ち上がったアンコウの前まで進み出て、また口を開いた。

 

「何をしているっ!アンコウ殿の命に従い、忠誠を誓う者は(ひざまず)けっっ!」

 

 突然のまるで叱責するかのようなモスカルの鋭い声に、居並ぶ諸衆は固まった。

 諸衆が固まるなか、一番に反応を示したのは、このクークの元太守であるメルソン。おもむろに前に進み出るとと同時に、その場に(ひざまず)いた。

 

「ははっ!このメルソン、アンコウ様に忠誠を誓いまするっ!」

 

 それを見て周囲の者たちも、我先にと一斉にその場に(ひざまず)き始めた。

 

 

(芸達者だなぁ、モスカルは。メルソンのやつは地か)

 

 アンコウは厳めしい表情を保ちながら、跪き、頭を垂れた諸衆を睥睨(へいげい)する。

 全員、モスカルの言葉に従い膝を折ったものの、無論、彼らが心からアンコウに忠誠を誓っているわけではない。

 

(心なんて、すぐにはどうにもならない。ビビって表向きだけでも従ってくれるならそれでいい)

 

 アンコウが望んでいるのは、自分がここにいる間は、彼らが自分に(やいば)を向けることなく、税を納めてくれること。

 彼らの内心の在り様は問わない。人の金でする左うちわの生活というものを、せっかくだからしてみようかと思っている。

 

 アンコウがちらりと横を向けば、台座のとなりにテレサが変わらず立っている。

(テレサの芝居もなかなかのもんだったな)

 

 我ながら、なかなか効果的な演出だったと、自画自賛するアンコウ。

 しかし、昨日突然思いついたアンコウの演出に巻き込まれたテレサにしてみれば、とんだ災難だ。

 

 何とかアンコウの指示どおり、領主の力をかさにきた偉そうな愛妾奴隷の役を演じたテレサだが、背中は冷たい汗でびっしょり濡れてしまっていた。

 

(さぁて、あとの細々(こまごま)したことはモスカルに任せるかな……)

 

 アンコウは、グイッと胸を張り、意識して重々しい声を出す。

 

「……いいか、そうして忠誠を誓った以上、今後は俺のやり方に従ってもらう。あとの指示は、このモスカルに仰げ。従わない者は反逆者として誅罰を下す。いいなっ!」

 

ハッ、ハハアーと、跪く者たちがいっそう深く頭を下げた。

 

 

 さて もう行くかと、アンコウがテレサの顔を見た。しかしテレサは(いかめ)しい顔で、じっと前を見つめたまま。よく見れば顔が引きつっている。

 

(……んだよ。テレサも俺とおんなじあがり症かぁ。演技はなかなかのもんだったけど、てんばってるなー)

 

 クスッと笑うアンコウ。

 一歩テレサに近づき、スッと後ろに手を伸ばす。

 アンコウの手は柔らかい尻の感触をとらえると、5本の指を蠢かせた。

 

「!キャッ」

 テレサは小さな声をあげると同時に、ようやくアンコウの顔を見た。

 戸惑いながらも、テレサの白い肌の頬が赤く染まっていく。

 

「ちょっ、な、なにを…こんなところで……だ、だんなさまっ」

 

 跪き、頭を垂れている諸衆と違いアンコウとテレサが横目で見えているモスカルは、さすがに冷たい目で二人をみていた。

 

バシッ

「!いてっ」

 アンコウの手がテレサから離れた。

 

 テレサもさすがに頭にきたようだ。そんなテレサの怒りを受け流し、にやにや笑っているアンコウ。

 

「じゃあ、そろそろ行きますか」

 

 そして、アンコウはテレサをうながし、諸衆が跪き頭を垂れている中、大広間をあとにした。

 

 

 

 

「なぁ、ドルング。今日はちょっと賑やかじゃないか?」

 

 アンコウは久方ぶりに、クークの中央市場をお忍びでブラブラしている。

 

「はい、アンコウ様。この季節の収穫がしばらく前から始まり、多くの作物が市に集まり始めているのだと思います」

 

「へえー」

 

 お忍びで町をブラつくアンコウに、今日は二人の護衛がつけられている。二人とも、元はメルソンが太守をしていた時から、クークの守護隊に所属していた腕利きで、抗魔の力の保有者だ。

 

 特に、このドルングという獣人の男は、

(ダッジとタメを張れるぐらいの力量はある)

 と、アンコウはみていた。

 

 アンコウたちがクークに来る以前は、間違いなくこの町でトップクラスの戦士だったはずだ。

 しかし同時に、ダッジと互角ということは、己が武勇をもって、さらなる上の地位を目指そうと思えば、コネ・伝手(つて)がなければ、いささか困難を伴うだろう。

 

 先日、アンコウが、

『ドルングは出世したいと思わないのか』

 と聞いたら、

 『自分はスラムの生まれで 、もう十分出世しました』と、ごく自然な笑みを浮かべながら言い、その後に 『今は孫の成長が楽しみだ』と、続けて言った。

 

 出世なんてどうでもいいという気持ちは、アンコウにもよくわかる。ただ、ドルングの孫うんぬんという言葉には少し驚いた。

 

 獣人にしては毛深くなく細みの体型のドルング。身長は190ぐらいか。

 ドルングは、人間成分強めの容姿をしている獣人だ。その容貌(ようぼう.)は誰がみても、30代そこそこにしか見えない。

 

 もちろん、抗魔の力保有者にみられる保若長寿(ほじゃくちょうじゅ)の効果によるものだが、孫の存在などを考えて聞いたわけではなかったアンコウは、さすがに少し意表をつかれた。

 

(これで50超えてて、孫がいるんだからなぁ。すげぇよなぁ、抗魔の力)

 

 

「しかし、アンコウ様。この(いち)の賑わいは、例年以上のものです。市で扱われている物資の量がかなり多いように思います」

 

 このドルングの言葉に反応して、もう一人の護衛の男も口をひらく。

 

「この市だけじゃなく、町全体がどんどん明るくなってきてますよ。これもアンコウ様がこのクークに来てくださったおかげですっ」

 

「………そうか。じゃあ、せいぜい感謝してくれ、ベジー」

 アンコウが、気のない様子で返事を返す。

 

 もう一人のベジーという人間族の護衛は、ドルングの直属の部下らしい。

 少々、性格的な軽さも目立つ男だが、今アンコウに言ったことは全く事実に反する おべんちゃらというわけでもない。

 

 アンコウがこのクークに居館を定めてから、それまで互いの交流をかなり制限されていたヨラ川北部地域の規制は大幅に緩和され、関所の通行料も廃止減額されたことにより商業活動がずいぶんとやり易くなった。

 農民に対する年貢も同様で、領主直轄地などでは一割から二割も負担率が削減された。

 

 また単純に北部の諸衆の税の上納金の納め先がクークに変わったのだから、それだけでも、金、物資、人が、何にもせずともこのクークに流れ込んできているということも大きい。

 

 コールマル北部地域全体が急に豊かになるわけではないが、クークのみに関して言えば、わずかな期間で間違いなく活気が増している。

 

 

 右左(みぎひだり)に並ぶ露店を眺めながら、アンコウは市をねり歩く。アンコウは、ある露店の商品に目を止めた。

 

「……ちょっと小腹がすいたな、買っていくか」

 

 アンコウが足を止めた露店には、大きな篭が三つ並べられており、すべての籠一杯に()()()が入っていた。

 

「どうだい、兄ぃちゃん!丸々太って、うまそうだろ、この()()()!」

「ああ、十匹ほどもらえるか」

「へいっ、まいどっ!」

 

 金を払い、()()()の入った袋をもって、アンコウたちはまた歩き始める。

 

「ほら、お前らも食えよ」

 ドルングとベジーにも、三匹ずつ()()()を渡す。

 二人とも、ありがとうございますと、うれしそうにそれをうけ取った。

 

 アンコウは自分も食べようと、袋から()()()を一匹つまみ出す。

 ()()()は丸々と太っており、透きとおるような黄金色をしていて、実に食欲を誘う。

 

 形状はカブトムシの幼虫をひとまわりほど大きくした感じのイモムシそのもので、このクークの名物でもある。

 

 ネイマの頭部をつまみ、うねうねうごく尻の部分から口に頬張り、頭の部分でプチンと噛みきる。口のなかでまだ動いているネイマを一回二回と咀嚼すると、アンコウの口いっぱいに濃厚で、ほんのり甘くクリーミィーなネイマの中身が広がる。

 

(相変わらずうまいなぁ、これ)

 

 リスのように頬を膨らませて、ネイマを堪能するアンコウ。

 食べ歩きながら、指でつまんでいるネイマの頭をポイッと道に捨てると、待ち構えてたかのように飛んできた小鳥がそれを(ついば)んでいく。

 

 ネイマはどこにでもいるイモムシではない。かなり珍しい虫で、ネイマはツゥンツァイの樹林にのみ生息する。

 ツゥンツァイの木は、境界(きょうかい)の木とも言われており、常住の地と魔素の地との境目付近にのみ生えている。また、常住の地と魔素の地との境目だからといって、どこにでも生えている木でもない。

 

 ツゥンツァイの木は、人工的に育てることができない群集生息する木であり、 熱帯の地であっても、寒冷の地であっても、一旦根付けば、常に新緑の葉を生い茂らせ、毒の樹液を滴らせる不思議の木。

 

 そのツゥンツァイの樹林あるところ、必ず生息しているのがネイマだ。

 いや、他の生き物にとっては毒であるツゥンツァイの樹液を唯一のエサとしているネイマは、ツゥンツァイの樹林以外で、そもそも生きることができない。

 

 ネイマという虫は糞尿という形で排泄をせず、ツゥンツァイの樹液を摂取し黄金色(こがねいろ)の汗を流す。その黄金色の汗は樹林の土に染みわたり、ツゥンツァイの樹林が生き続ける糧となる。

 ネイマとツゥンツァイは、切っても切り離すことができない共生関係にある。

 

 そのツゥンツァイの樹林がクークの東方にあり、季節に関係なく一定数食料として確保することができるネイマは、味良く高カロリー食であり、遥か昔よりクーク近辺に住む人たちの命の糧となってきた。

 

「一度見てみたいな。ツゥンツァイの樹林」

「少し見るだけなら、日帰りで行くこともできますよ、アンコウ様」

「そうか。獲り立て食べ放題だな……じゃあ、これからいってみるか」

「えっ」

 

 アンコウは、もう一匹ネイマを口に放り込み、モグモグと口を動かしながら(いち)を後にした。

 

 

―――――― 

 

 

 アンコウはよほど暇なのか、その一時間後にはドルングとベジーの二人を引き連れ、クークを発し、東に馬を走らせていた。

 

「ア、アンコウ様っ、よろしかったんですかっ。この時間からでしたら、今日中にクークに戻ってくるのは厳しくなりますが!」

 

「んー、いいって、いいって。一日二日(いちにちふつか)、俺がいようがいまいが影響なんてありゃしないよっ!」

 

 馬を走らせながら会話を交わす。

 

「ハハハッ!たまにはこういうのもいいですねーっ、アンコウ様!お供しますよっ!」

 

 あまり乗り気でなさそうなドルングと違い、ベジーはかなり楽しそうだ。

 クークの町を出れば、すぐに木々が生い茂る山々が間近に広がる辺境の地。

 

「ハハッ、空気と水だけは間違いなくきれいだ」

 アンコウは、水筒の水をラッパ飲みしながらも馬を駈る。

 

「ベジー!お前が道案内しろよっ!」

「了解ですっ!大将!」



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第105話 ツゥンツァイ樹林

 アンコウたちは、ツゥンツァイの樹林にむかって、数時間、馬を走らせ続けた。

 その間、いくつかの農村を走り抜けたが、やはり山間(やまあい)の寒村という印象をうけた。

 ただ、クークの行政区域内にあるこれらの村々では、村民たちの顔に明るさがあったことにアンコウは希望をみた。

 

「大将っ、見えてきました!あれがツゥンツァイの樹林です!」

 アンコウに道案内を任され、先頭を走っていたべジーが叫ぶ。

 

どうどうどうっ ヒヒンッ

 アンコウたちは、小高い丘を駈け上がったところで一旦馬を止めた。

 

「へえーっ、デカいなあー!どこまで続いてんだ、この森!」

 

 小高い丘の上から見下ろすその樹林は、遥か彼方の山の裾野まで続いていた。

 

「……ふへ~、聞きしに勝るな、これは」

 

 コールマル領のなかでも、北部は特に搾取がひどい地域が多く、民の暮らしは厳しかった。そんな中、大規模な餓死者を出さずにすんできたのは、この樹林から安定供給されるネイマの存在が非常に大きい。

 

「すげぇな。これ全部ツゥンツァイの木なんだよな」

 

「そうです、アンコウ様。このツゥンツァイ樹林に住むネイマは、常に一定の個体数を保つと言われています。どれだけ取っても一月(ひとつき)も放って置けば、その数が回復するんです」

 

「へぇ、ドルングはツゥンツァイ樹林やネイマのことに詳しいのか?」

「私はこの近くにある村の出身なのです。子供の頃は、ネイマばかり食べていましたよ」

「へぇ、そうなのか」

「さぁ、アンコウ様。この丘を下れば、もう森です」

「ああ。じゃあ、いくか」

 

 アンコウたちは、再び馬を駈り、丘を下っていった。

 

――――――

 

「おわっ、これがツゥンツァイの木かっ」

 

 アンコウは、ヒョイッと、馬の背から飛び降りて、初めて見るツゥンツァイの木に近づいていった。

 

(……この木、トックリキワタにそっくりだなぁ)

 

 ツゥンツァイの木は、普通の樹木と比べて異様に幹の部分がまるまると太っており、アンコウはこんな木をこの世界で見るのは初めてだったが、生まれ故郷の世界で見たトックリキワタの木によく似ていた。

 

 アンコウは、ポンポンと、大樽のようにまるまると太った木の幹を叩いた。そのアンコウの後ろに、ドルングたちも近づいてくる。

 

「アンコウ様、その肥えた幹の中には、ネイマの大好物の樹液が詰まっているんですよ」

「へぇ、本当に樽かよ。中身は、酒じゃなくて樹液か」

 

 アンコウが触れているツゥンツァイの木も、所々から濃い琥珀色の樹液が溢れ出ていた。何の気なしにアンコウがその樹液のほうに手を伸ばす。

 

「アンコウ様っ、いけません!」

「!ん?」

 ドルングの鋭い制止声に反応して、アンコウは手を止める。

 

「ツゥンツァイの樹液は毒ですっ。少し触っただけでも、ひどくかぶれます」

「!っと、そうだったな。うっかりしてた」

 アンコウは、慌てて手を引っ込めた。

 

「……不思議なもんだな。俺たちにとったら毒でも、ネイマにとっては唯一の食料だもんな。で、その樹液を食らって、まるまると太ったネイマを俺たち人が食料にする。食物連鎖だねえ」

 

 

 アンコウたちは、そのまま森のなかへと入っていく。

 30分、40分と歩いても、まわりにあるのはツゥンツァイの木ばかり。

 

「……ほんとにツゥンツァイの木以外ないんだな」

「はい、ツゥンツァイの樹林には、決して他の木は生えることができないそうです」

「へぇ」

 

 アンコウは、まだ疲れたわけではなかったが、近くの岩場に腰をおろした。そして、アンコウはぐるりと周囲を見渡す。

 

「……豊かな森だなぁ」

「はい。ネイマを食料にしているのは、何も人種だけではありません。鳥や小型の動物たちも、ネイマ目あてに集まり、その小動物を目あてに大型の動物たちも集まります」

「で、人はネイマだけじゃなく、その鳥や動物たちも美味しくちょうだいすると」

「はい。人にとって、まさに恵みの森です」

 

(食物連鎖だねぇ)

 

「それに魔獣も時おり姿を見せます。ツゥンツァイの樹林自体には魔素はありませんが、御承知のとおり、ツゥンツァイの樹林は必ず魔素の地との境目に生じます。弱小の魔獣には無魔素地帯で比較的長く活動できる個体が多いですから、時折り樹林の奥地でネイマ目当てに現れたスライムやゴブリンなどに襲われたという話を聞きます」

「へぇ、アイツらもネイマを食うのか?」

「はい」

 

(魔獣は魔素の地にさえいれば、別に飯を食わなくたって生きていける食物連鎖の外の存在だ。アイツらはなんだって、わざわざ魔素のない土地にまで出てくるんだろうな。

 ……たぶん、うまいんだろうな……力のない人族にとっちゃあ、迷惑な話だ)

 

 アンコウとドルングの会話にべジーも入ってくる。

 

「さすがは、ツゥンツァイの樹林育ち。いろいろと詳しいですねー、ドルング隊長」

 

 アンコウが視線をべジーのほうに移す。

 

「べジー、お前は詳しくないのか」

「私は町生まれですから。まぁでも、このあたりで常識的なことは知ってますし、ネイマもよく食べますよ。あと、子供の頃はツゥンツァイのおとぎ話なんかも好きでしたねー」

「ん?おとぎ話か、そんなのもあるのか」

「ええ、よくある男の子向けのおはなしで、この辺りの者だったらみんな知ってますよ」

「へえー」

 

 アンコウは岩に座ったまま魔具鞄をあさり、木の実の入った小袋を取り出すと、ヒョイと木の実を自分の口に放り込んだ。

 モグモグと、口を動かすアンコウ。

 

「どんな話なんだ、それ。ちょっと教えてくれよ」

「いいですよー」と、べジーは気軽く応じた。

 

 

~~~

 

 昔々、ツゥンツァイの森は何もなかった荒れ地に、ある夜突然現れた。突然現れた小さな森は、昼間のように明るく光っていた。

 近くの村に住む娘が様子を見にくると、その光る森の中に見たこともない服を着た一人の人間の男がいた。

 男はアインズと名乗り、ここではない別の神の国から来たという。

 

 その頃、アインズを見つけた娘の村は蛮族の略奪と作物の不作で滅びる寸前であった。

 しかし、娘も村の者たちも、故郷に帰ることができないと嘆くアインズをあたたかく村に迎え入れ、限られた食料の中から、アインズのためにそれを分け与えた。

 アインズは村の者たちにひどく感謝した。

 

 アインズは恩を返したいと言い、見たこともない透き通った箱の中から一匹の白い芋虫を取り出し、共にやって来たツゥンツァイの森に放った。

 その芋虫の名はネイマ。

 しばらくすると、ネイマは何十匹何百匹とツゥンツァイの森で増え、村人の糧となり、村を飢えから救った。

 

 その森の話を聞いた蛮族たちが、村を滅ぼし、この森を自分達の者にしようと再び襲ってきた。村人たちは、今度こそだめだと恐怖し泣いた。

 アインズを村に連れてきた娘、村一番美しく、しっぽの毛並みのよいハルンという娘がアインズの下に来て言った。お逃げくださいと。

 

 アインズが、お前はどうするのかとハルンに聞き直すと、ハルンは祖先より受け継いだこの土地を離れることはできない、戦うと、女の身でありながら言った。

 アインズは、ならば自分は君のために戦おうと言った。

 

 アインズは、村の先頭に立って蛮族と戦った。

 アインズはとても強く、剣を振るえば、一閃で十の蛮族を凪ぎはらい。精霊法術をつかえば、火球ひとつで百の蛮族を吹き飛ばした。

 三日三晩戦い続けて、ついにアインズは蛮族の王を打ち倒し、ハルンと村を守ったのだ。

 

 その(のち)、アインズはハルンを妻に迎え、多くの子をなし、家族と共にツゥンツァイの森を守りながら幸せに暮らしたという。

 

~~~

 

 

「まっ、(おおむ)ね)こんな感じの話ですねー」

 

 アンコウは、べジーが話している間、一言も口をはさまなかった。

 はじめは木の実を食べつつ、物珍しそうに周囲のツゥンツァイの木々を眺めながら、べジーの語るおとぎ話を聞いていたアンコウだったが、途中からアンコウの目が真剣なものに変わり、べジーの話にじっと聞き入っていた。

 

 べジーの語る物語を聞きながら、アンコウはあることを思い出していた。

 

(そういえば、前にハウルのホモ野郎が言ってたよな)

 

――――『この世界の歴史は古い。一般の者が目にすることはまずないが、いくつかの国や地域の歴史書や伝承に、異世界からの落人や異界渡りの者の記述や語りが残っている。

 アンコウ、貴様はただの一介の冒険者なのだ。貴様の目に国の歴史書などが触れることはないだろう。それを研究している者の話を耳にすることなどなかろう。

 ひとつの町のひとつの迷宮に引きこもり小銭稼ぎをしている狭き冒険者が、古き森の民や山の民の伝承の歌を聞くことなどはないのだ』(第29話より)――――

 

 もしや、このおとぎ話もハウルが言っていた異界渡りの者の伝承のひとつなのかと思い至った。

 コールマルは、グローソン支配下の地だ。グローソン公ハウルが知る異界渡りの者に関する伝承の中に、このツゥンツァイのおとぎ話も含まれているのかもしれない。

 

「なぁ、べジー。その物語に出てくるツゥンツァイの森は、ここの樹林のことなのか?」

「さぁ、それはどうなんでしょうね。ツゥンツァイの木は、どこにでも生えるものじゃないですけど、ここ以外の土地にも間違いなくありますから」

 

「私の村では、今の『光の森の勇者アインズ』の物語に出てくるツゥンツァイの森は、この樹林のことだと信じられてます。自分たちは勇者アインズとハルンの子孫だって話す老人もいました」

 と、ドルング。

「ただ現実的に言って、実際のツゥンツァイの森は光りませんし、私の村と同じようなことを言っている村がコールマル領内にはもちろん、領外にも他国にもありますから。言ったもの勝ちみたいなところはあるでしょうね」

 

「このおとぎ話は、そんなに広い地域に伝わっているのか」

 

「ああいや、実はこの樹林を東に抜けて、魔素の山を越えれば、そこは同じくグローソン公爵様の支配下ながら、コールマル領外の土地になります。

 そこにも、ここよりは小さいですが、ツゥンツァイの森がありまして、その森の周辺にある村でも、このおとぎ話は知られていますし、私の村と同じように自分たちの森こそが、物語に出てくる光の森であり、自分たちこそが光の森の勇者の子孫だと言っておりました。

 どちらの村も、この話になると自分たちこそがと言っております」

 

 ドルングは最後は苦笑を浮かべながら話していた。どちらも実に子どもっぽい意地の張り合いだとでも思っているのだろう。

 アンコウは樹林の向こう、東の方角に見える低い山々をちらりと見やる。

 

「なぁ、ドルング。あの山の向こうにある村なら、めちゃくちゃ遠いってほどの距離じゃないよな。お前の故郷の村と行き来はないのか?いや、嫁に行ったり来たりってことでさ。血が混じってんじゃないのか」

 

「ないわけではありませんが、よくある話ではないと思います。あちらとこちらの間には、領界線があるうえに、薄いとはいえ魔素の地が横たわっていますから、通常人の獣人や人間は気軽に越えることはできません。交流自体が少ないのです。

 私が何度か向こうに行ったのも、あくまで仕事でありまして、いずれの時も太守様より正式な命を受け、先方にもちゃんと許可を得た上でのことでしたから。

 ただ……よくある話ではないと申しましたが、私の村の者ではないですが、ちょうどその数少ない例がここにいたりもするのですが」

 

 そういうと、ドルングはにやりと笑いながら、ベジーのほうを見た。

 それに気づいたベジーがポリポリと頭をかいている。

 

「ん?どういうことだ?」

 

「実はこのベジーの婚約者が、この樹林を越えた隣領にある村にいるんです」

 

「へぇ、そうなのか」

 

 聞けば、ベジーもドルング同様、役務で隣領と行き来している時に、その村に立ち寄ることがあり、婚約者の娘と知り合ったらしい。

 アンコウはベジーの色恋事情には全く興味はなかったが、隣領の状況について少し聞いてみた。

 

「まぁでも、あれですよ、大将」 と、べジーが話し出す。

「私は向こうに行ったことは何度もありますけど、あっちもこっちもド田舎で、大して違いはないですよ」

「……そうか。でっかい町でもあるんだったら、遊びに行ってみてもいいと思ったんだけどな」

「う~ん、ハリュートより大きな町だったら、領境を越えて、もっと東南に行かないとないですよ」

「そうか、そこまでは行けねぇなー」

 

 

 アンコウたちはツゥンツァイの森の中で、ずいぶんと話し込んでしまったようだ。気がつけば、生い茂る枝葉の間から見える太陽が、ずいぶん西に傾いてきていた。

 

「おっと、これはいけない」

 それに気づいたドルングが立ち上がる。

「アンコウ様、今からクークに戻ろうと思うと、夜の闇の中をかなりの時間走り続けることになりますが」

 

「クークのほうは大丈夫だって言ったろ。ちゃんと伝言はしてきてるし、俺がいなくったって、(まつりごと)に支障がでたりしないよ。それより、今晩寝るところだな。この辺に宿屋がある村ってあるのか?」

 

「アンコウ様。それなら是非、私の里の村にお越しください。ここからでしたら一番近い村ですし、御領主様に来ていただけるのは村の誉れです」

 

「大将、ドルング隊長の村のネイマのキノコ汁は絶品ですよ」

「へえっ、そいつはいいな。ドルング、突然行って、村の迷惑にならないか」

 

「無論です。この辺りは今季の作物の出来も良く、御領主様の直轄地ゆえ、例年より年貢も少なくなることになりました。御領主様には、皆感謝しております」

 

 ドルングの言葉に安心したアンコウは、

 じゃあ、邪魔するかと、三人そろって、また移動を始めた。

 三人は、来た道をまたのんびりと戻っていく。

 

 ツゥンツァイの樹林は、緑の香り濃い、生き物のゆりかごのような優しい森だ。

 

「なあ、そういえば、ネイマを全然見ないなあ」

「アンコウ様、ネイマは夜行性にございます。昼間のうちは地面の下で寝ておりますよ」

「へえ、そうなのか。市場で買って食べてるだけじゃ、そんなこともわからないからなぁ」

 

 アンコウたちは森の中を歩く。

 

 

 

 

 アンコウは、案内されたドルングの村で実に手厚いもてなしを受けた。

 ドルングが言っていたとおり、貢納率を下げたことがこの村でのアンコウの評価を極めて高めていたようだ。

 彼らの態度は、ご領主様だから仕方がなくというものではなく、心からアンコウたちを歓迎してくれていた。

 

 アンコウが貢納率を下げたのは、別の彼らに対する慈愛の精神から為したことではない。

 はっきり言えば一時的な人気取り、そうした方が自分の都合によかったからに過ぎない。必要があれば、今まで以上に上げることにも躊躇(ためら)いはない。

 

(わかりやすい連中だ。今度は貢納八割にしてから来てみたらどうなるかな)

 と、半ば本気で面白そうだやってみようかなと思うアンコウだ。

(……まぁ、一揆が怖いからやめとくか)

 

 この村も決して豊かとは言えないものの、穏やかな雰囲気の漂う村だ。わざわざ好感度を下げる必要もない。

 

(べジーの言ったとおり、ネイマのキノコ汁もうまかったしなぁ、芋の焼酎もなかなかのもんだった)

 

 田舎料理を十分に堪能したアンコウである。すでに日はどっぷりと暮れ、フクロウの鳴き声だけが外に響いている。

 

 御領主様歓迎の(うたげ)も終わり、アンコウは村長の屋敷に一室を借りて、すでに床に就いている。

 ただ、それなりに体力を使い、多少酒も飲んだアンコウであったが、思いのほか目が冴え、いまだ心地よい夢幻の御国へと旅立てずにいた。

 

 そんなアンコウの目に、突然外から差し込む光が見えた。

 ん? と、アンコウは疑問に感じる。

 

(宴の時は、月も星も厚い雲に覆われて、今日は真っ暗な夜だったんだけど……あの厚い雲が、もう晴れたのか?)

 それに、どうも差し込んでくる光の感じがおかしい。

(……月や星の光とは、少し違う)

 

 アンコウの目に見えている光は、遥か天空から降り注ぐ月や星の明かりの具合とは、どうも違うことにアンコウは気づいていた。

 どうしても、それが気にかかり、アンコウはついにベッドからむくりと起き出した。

 

「チッ、気になって眠れない。一応確認しておくか」

 

 すでに夜の冷気が支配する時間、アンコウはごく短い時間で武装し身支度を整えた。元奴隷・元冒険者の経験が自身を無防備にすることを許さなくなっている。

 そっと扉を開き、アンコウは廊下から庭に出た。村長の屋敷の庭には塀はなく、低い垣根があるだけ。

 

 そして、アンコウの足は、2,3歩、庭を歩いただけでピタリと止まった。

 

「………なんだよ。あれ………」

 

 アンコウの大きく見開いた目は、村の外に広がる森に向けられていた。

 その森は、アンコウが昼間、散策していた森、ツゥンツァイの樹林だ。

 

「……森が光ってる……」

 

 そう、樹林が光を放っていたのだ。

 

 アンコウの寝間に差し込んでいた光は、月のものでも星のものでもない。月も星もまだ厚い雲に隠れている。

 ツゥンツァイの樹林の光が入り込んでいた。目が痛むような眩しい光ではなく、提灯の明かりのようなオレンジ色の優しい光だ。

 

 呆けたように森を見つめるアンコウ。

 当然ながら、このときのアンコウの頭に浮かんでいたものは、昼間べジーとドルングから聞いた『光の森の勇者アインズ』のおとぎ話。

 

「……確か、ドルングが実際には光らないって言ってなかったか……思いっきり光ってるじゃないか」

 

 アンコウはしばらくは立ち尽くしたまま動かなかったが、あんぐり開いていた口を閉じると、おもむろに光る森にむかって歩き出した。

 

―――――

 

「……完全に光ってるよな」

 

 村を出て、森の入り口まで来たアンコウは、オレンジ色に光っている森をじっと見つめている。

 ツゥンツァイの木には、夜になって土の中から這い出てきたのであろうネイマが何匹も取りついていた。

 

「……ツゥンツァイの木にネイマ、それに土もか」

 

 光を発しているのは、この三つだった。草や岩など、それ以外のものは光っていない。

 

 

……・・・「アンコウ様っ!」「大将っ!」

 ドルングとべジーの声。

 

 アンコウが村長の屋敷からいなくなったことに気がついた二人が、アンコウの後を追ってきた。

 

「アンコウ様っ、いかがなされたのですかっ!」

 

 アンコウは後ろを振り返り、ドルングの顔を見る。

 

「いかがしたじゃねえよ。見たらわかるだろ?なぁ、ドルング。この森は光らないんじゃなかったのか?」

 

 アンコウの問いかけを聞いて、ドルングもべジーも怪訝そうな表情を浮かべる。

 

「……それはどういうことでしょう?」

「大将、光るって何が光ってるんです?」

 

 二人の反応に、今度はアンコウが怪訝そうな顔になる。互いに首を捻りながら、アンコウたちはしばし話をした。その結果………、

 

(……マジかよ)

 

 アンコウが理解したこと。ドルングとべジーには、森が光っては見えていないということだ。

 

(ど、どういうことなんだ……)

 

「あ、あの、アンコウ様には本当にこの森が光って見えているんですか?」

「いっつもどおりの真っ暗い森ですよー。今日は月も星も隠れてますし」

「……ああ、光ってるな。これが光ってないんだったら、この世に光ってるもんなんてないってぐらい光ってる」

 

 御領主のアンコウにそう言われては、ドルングとべジーはこれ以上反論することができない。

 アンコウも、ドルングとべジーが嘘を言っているとは思っていない。

 

「……しかし、これはどういうことなんだろうな」

 

 アンコウは、この光そのものからは特別な力も気配も何も感じてはいない。本当にただ光っているとしか感じていない。

 

「ただひとつ不思議なことは、俺にしか光っていることが見えていないってこと……」

 

 アンコウは、自分が特別な存在だとはこれっぽっちも思っていないし、実際にそうだ。

(ほかの連中と比べて、俺に特異な点があるとすれば、生まれ育ちがこの世界じゃないってことだけだが……)

 

 アンコウは、『光の森の勇者』の話を思い出す。

「………本当に、それが答えかもな」

 

(この森には魔素はない。俺にだけ光って見えているが危険は感じない。なんなだろうな)

 

 そして、顔をあげたアンコウは、ツゥンツァイの樹林の中にむかって歩き出した。

 

「アンコウ様っ?」

「大将っ」

 

 どうするおつもりですかと、二人が問う。

 

「決まってるだろ、夜の散策だ」

 

 アンコウは、そう答えると、ツゥンツァイの木から、ネイマを一匹ヒョイとつまみ取り、自分の口にポイッと放り込んだ。

 そして、そのまま森の中へ。

 

「お、お待ちくださいっ、アンコウ様。お供いたしますっ」

「私も行きますよー」



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第106話 朝日が昇ればロワナ領

 アンコウはツゥンツァイの森の中、林立する木々の間をぬうように走っていた。

 

「待ってくださいっ、アンコウ様っ」

 ドルングが必死の形相で、アンコウに呼びかけ、

「うわっ!とととっ」

 べジーが木の根に足をとられながらも、必死にアンコウについていく。

 

 アンコウ本人は全力で走っているわけではなく、余裕を持って走っている。しかし、ドルングとべジーはそうもいかない。

 

 二人とも抗魔の力保有者で普通人よりはかなり夜目が利くものの、ひとり森の発光現象を認識し、昼間のような明るさを感じながら、苦もなく森の中を走り続けるアンコウの姿を見失わないよう食らいついていくだけで精一杯だ。

 

 

――――――

 

 

(別になんもねぇなぁ)

 

 もう、アンコウが走りはじめて2時間は過ぎている。ドルングとべジーは、ハァハァと肩で息をしながらも何とかアンコウについてきている。

 

(……ただ光ってるだけだ)

 

 光る森を間近に見て初めに感じた印象どおり、一度も魔力や特別な力のようなものをアンコウが感じとることはなかった。それでもなお、アンコウは森の奥へ奥へと走る。

 

(……未練、だよなぁ)

 

 自覚はあった。なぜ目的地もなく、こんな夜中に森の中を走り続けているのか、アンコウは自分の心がわかっていた。

 元の世界への未練だ。

 

 確かに、ドルングとべジーには認識できず、アンコウにしか森が光っているのがわからないというのは不思議だ。

 しかし、それはただ光っているだけなのだ。そこに特別な力は何も感じられない。

 

 そもそもこの世界は、アンコウが元いた世界では考えられないような不思議な事象で満ち溢れており、いちいち過剰に気にしていても仕方がない。

 それでも、『光の森の勇者アインズ』の物語を聞いたばかりだったアンコウは、この森と異世界転移者との関係を連想してしまった。ちゃんとした根拠など何もないのに。

 

 元の世界に帰ることは、とっくに諦めていたつもりのアンコウだったが、こんなふうに少し刺激されただけで、大きく心が揺れるほど、自分の中に望郷の思いが残っていたことに驚き、あきれてもいた。

 

 しかし、自嘲気味の笑いを口許に浮かべながらも、アンコウは走る自分の足を止めることができなかった。

 

(……ただ、光ってるだけなのに。未練だねぇ、我ながら……)

 

 それでもなお、アンコウは森の中を走り続けた。

 

 

――――――

 

 

「ハァハァハァ」

(……結局なんもなかったなぁ)

 

「ハァハァッ、ア、アンコウ様っ。も、もう少しで森が終わりますぅっ!」

 

 アンコウの視界の先にもツゥンツァイの樹林の終わりが見えていた。あれからアンコウたちは、さらに数時間走り続けた。

 妄想に等しい願望であることがわかっていても、走り探し続けなければ、アンコウは自分の気持ちの揺れを沈めることができなかった。

 

 しかし、アンコウはついに走る速度を落とし、歩きはじめた。

 

「ハァハァハァッ、疲れたっ。ハァハァ、我ながら馬鹿だな、まったく、」

 

 そして、ドルングとべジーの二人も何とかアンコウについてきていた。

 

「ぜえっ!ぜえっ!ぜえっ!ア、アンコウ様っ、」

「がはっ!ヒィヒィッ!た、たいしょお~」

 

 ドサリ 大きなツゥンツァイの木の根元に、アンコウは腰を下ろした。ドルングとべジーも肩で息をしながらしゃがみ込む。

 

「……夜のかけっこは終わりだ、諸君」

 

「ゼェッゼェッ、か、勘弁してくださいよ。大将」

 べジーが恨みがましい目でアンコウを見つめる。

 

「ハァハァ、し、しかし、アンコウ様、まだ森が光って見えているのですか?」

 

 走っている間にずいぶん夜空の雲が晴れ、森の中まで月明かりが差し込んできてはいるが、やはりドルングたちの目に森が光っては見えていない。

 

「ああ、光ってるな。……だけど、俺には光って見える、お前たちには光って見えない。もう、それでいいよ」

 

 実際に見えている者といない者、その中間などはない。また、他の者に森が光って見えないからといって、アンコウに何か不都合が生じるわけではない。

 

「それにしても、かなり走ったよな」

「か、かなりどころじゃないですよ、大将っ」

 

 相変わらず肩で息をしているべジーを見て、アンコウはくすりと笑う。べジーよりも、年配のドルングのほうが体力があるようだ。

 

「ドルング、ここがどの辺りかわかるか?」

「……樹林の北東最奥境界ですね。お気づきでしょうが、向こうの山林に入ればもう魔素地帯です」

 

 ドルングの言う向こうの山林は、アンコウの目にも全く光を放っておらず、ツゥンツァイ樹林と魔素の山林の境目は、文字通りアンコウの目には一目瞭然であった。

 

「ああ。魔素濃度自体はかなり薄いみたいだけど、奥へ進めばどうなっているんだ」

 

「東は先に進んでも、ずっと魔素濃度は薄いままです。また、この東の魔素地帯の2/3までほどは、こちら側の管轄地ですが、それ以上東は隣のロワナ領になります」

 

 現在ロワナとの間に、取り立てていさかい事はない。ただ、魔素の森の存在もあって、交流が盛んに行われているわけでもなかった。

 むろん、抗魔の力を持つアンコウたちなら、この程度の魔素濃度地帯であれば、問題なく活動できる。

 

「むこうもこっちも田舎ですからね。商売人はみんな南に行きますよ。そっちのほうが儲かりますから」

 と、べジーが言っていた。

 

 二人と話をしながら周囲の確認をしていたアンコウが、ふと首をかしげた。

「……ん?」

 ゆっくりと、立ち上がるアンコウ。そして、そのまま歩き出す。

 

「アンコウ様?」

「た、大将、もう休憩は終わりですかっ」

「……いや、ちょっとな」

 

 今度は別に走りはしないが、アンコウはしばらく歩き続けてから立ち止まった。

 

「……やっぱり」

 

 アンコウが、じっと見つめている魔素地帯側の山林を、あとをついてきたドルングが覗きこむ。

 

「ほう、そこに獣道がありますね」

「……光ってるんだ」

「えっ?」

 

 アンコウの目には、その獣道も光って見えていた。正確に言うと、土が光っているようで、約幅3mの光の道がツゥンツァイの樹林から魔素の山林に向かって伸びており、その光道の中に獣道もある。

 

「……どういうことだろうな」

「今度は樹林の外なのに光っているんですか?」

「ああ、土が光って道みたいに伸びている」

 

 アンコウが、その獣道のほうに歩き出す。

 

「ア、アンコウ様っ、行かれるのですか?」

「ん、まぁ、ここまで来たんだからな。ついでにちょっと見に行くよ」

 

 正直、何かあるかも、などという勘がアンコウに働いたわけではない。ただ多少、好奇心が刺激されただけ。

 

 ガサゴソと、山林に分け入ってしまえば、そこはもうツゥンツァイの樹林の外、魔素漂う地帯になる。左右が茂みに覆われている獣道の入り口をくぐり抜ければ、かなり視界が広がる場所に出た。

 

 この山林の木々の生え方は、ツゥンツァイ樹林と比べるとかなり間隔があり、月星の明かりも届きやすい。ドルングとべジーも、かなり移動しやすくなったようだ。

 

「た、大将、また走るんでしょうか?」

「いや、走るのはもういい」

 

 衝動的に走り続けたアンコウの気持ちも、すっかり落ち着きを取り戻している。

 それを聞いて、ホッとするべジー。さすがに抗魔の力があるといっても、あのマラソンペースで何時間も走り続けられては限界も超える。

 

「アンコウ様っ、」

 何かに気づいたドルングが声をかけてきた。

「何だ」

「ここには魔素がないようなのですが……」

 実に不思議そうな顔をドルングがしている。

「本当だ」

 と、べジーが同調する。

「普通の動物の通り道ができてるんだから、魔素がなくて当たり前だろ」

 

 人以上に普通の野生動物は、魔素の地に入ることを嫌う。

 獣道についている足跡は魔獣のものもだけでなく、普通の動物のものと思われるものもあった。

 普通の動物たちの中にも、魔素に適応している種や個体もいるのだが、この獣道に残されている足跡のものは違う。

 

 ドルングとべジーが戸惑うのは無理もない。彼らはこの魔素の山林に、このような無魔素の道のようなものがあることなど知らなかった。

 彼らがロワナ領に行くときには、いつもこの魔素地帯の山林を通り抜けている。

 

 ただ魔素地帯とはいっても、魔素濃度は薄く、魔獣も低レベルのものしか出ないため、魔素があっても二人が移動するうえで、これまで何ら問題が生じたことはなかった。

 

「アンコウ様の言う光っている道には魔素が入り込めないのか、いや、ここもツゥンツァイ樹林の続きなのか?」

「でも、ドルング隊長。ここにはツゥンツァイの木はないですよ」

 

 ドルングとべジーも、歩きながら互いの疑問をぶつけ合っているが何ら結論は出ない。

 

「……アンコウ様、これは一体どういうことなんでしょう」

 

「さぁ、俺には何もわからない。ただ、俺の目にツゥンツァイの森が光って見えていたのも、この辺りの地面が同じように光って見えているのも、今起きたことじゃなくてずっと昔からなんだと思う。気づく者が少なかっただけでさ。

 だとしたら、見方によれば、いつもどおりのことで、何も不思議なことは起こっていないとも言える。一番我を忘れてた俺が言うのも何だがな」

 

「「…………」」

二人はアンコウが言ったことの意味を黙って考えていた。

 

「……では、アンコウ様はなぜ今もここを歩いているのですか?」

 その質問にアンコウは、

「今はもう、単なる興味本位」

 と、即答した。

 

「そ、そうですか」

 

「おっ!」

 と、アンコウが声をあげる。

「今、あの離れた木の根元にスライムがいたぞ。すぐに見えなくなったけど」

 

「こちらの気配に気づいて、逃げるか隠れるかしたのでしょう。我々の気配に気づけば、ここの魔獣なら逃げるもののほうが多いでしょうから」

「………そうか。じゃあ、ちょっと二人とも覇気を抑えてみてくれるか?この辺りの魔獣をちょっと見てみたいんだ」

「大将、それも興味本位ですか」

 

 アンコウはべジーのほうを見て、「そうだ」と答えながら、ニヤリと笑った。

 べジーは少し可笑しそうに、ドルングは少しあきれた感じで、それに従った。そして、しばしアンコウたちは、山林に伸びる光の道に沿って歩き続けた。

 

 

(おっ、出た出た)

 それなりに速いスピードで歩いていたアンコウの足が急に緩まる。

 

 アンコウの目には、こちらに近づいてくる2匹の青いスライムの姿が映っている。アンコウは足を止め、後ろの二人もそれに従う。

 

 スライムたちは、魔素の山林と無魔素の光の道の境目まで来て動きを止める。スライムのような低ランクの魔獣なら大抵のものが、ある程度無魔素地帯での活動が可能だ。

 

 魔獣は、無魔素地帯での活動能力を持つものであっても、本能的に魔素地帯から抜け出ることを忌避する。

 しかし魔獣と呼ばれる存在は、人種を襲うという衝動がより強く本能に刻み込まれており、覇気を抑えたアンコウたちを目の前にして、スライムたちは若干(じゃっかん)逡巡(しゅんじゅん)をみせたものの あっさりと境界を越え、アンコウにむかって飛びかかってきた。

 

ザザッ、ビシュッ!ビシュッ!

 

 アンコウはわずかな動きで一匹目をかわし、二匹目もかわした瞬間、腰の魔戦斧を引き抜いた。

ザシュッ!

 抜き打ちざまの魔戦斧の一撃で、スライムのからだは破裂したかのように飛び散った。

 

 アンコウの強さを感じたもう一体は、再び襲いかかろうとはせずに、光の道をはさんで逆方向の魔素の山林に飛び込んだ。しかし、一瞬でアンコウに追いつかれてしまう。

 

ザアンッ!

 魔戦斧の刃が逃げるスライムのからだを斬り裂き、そのまま大地をえぐる。当然、そのスライムは死んだ。

 

―――

 

「大将、この魔石はどうしましょう?」

 スライムの魔石を手に持ったベジーが聞く。

「やっぱり小さいし、魔力も薄いな」

「ハハッ、スライムですし」

 

 べジーの言うとおり、スライムとしては当たり前の魔石の質と大きさなのだが、アンコウが頭の中で比べていたのは迷宮で倒したスライムから取れた魔石。

 同じ種類の魔獣、同程度の強さの個体がドロップする魔石であっても、地上の魔素地帯よりも迷宮の魔石ほうが一般的に大きく含有魔力も強い。

 

(特に含有魔力は、迷宮のスライム魔石と比べれば半分程度か)

 故に、魔獣狩りを生業《なりわい》にする冒険者たちの主な狩り場は、自然と迷宮(めいきゅう)になる。

 

「魔石はべジーが持っていてくれ」

「はい、わかりました」

「じゃ、行くか」

 と、アンコウは山の奥へと、また歩き出す。

 

 どうやらアンコウは、このまま移動しながら、魔獣狩りを楽しむつもりらしい。

 ドルングとべジーも、最早なにもアンコウに言うことなく、ついていくことにしたようだ。

 

 

―――――

 

 

「グギャアー!」ドサァン!

「よしっ。ドルング、べジー!そっちにいった奴らを頼むっ!」

「はいっ」と、二人は了承。

 

 ドルングとべジーは、逃げてきた二匹のゴブリンの前に素早く立ち塞がる。二人が手に持つ武器は、共に両刃の長剣だ。

 

「ギギッ!」

「ググッ!」

 

 ドルングもべジーも、抗魔の力を持つ戦士。この程度のゴブリン相手に遅れをとる要素はなにもない。

 一撃、二撃と確実にゴブリンに剣刃を食い込ませていった。

 

「グギャアー!」

「ゴブゥゴブウー!」

 

 掠り傷ひとつ負うことなくゴブリンたちを倒した。

 辺りを見渡せば、夜の闇はかなり薄れ、暖かさを持つ太陽の光が周囲を照らしはじめていた。

 

「べジー、こっちのゴブリンたちからも魔石だけは取っておいてくれ」

「はい、わかりました」

 

 べジーとドルングが、アンコウのところへやってくる。

 

「ずいぶん明るくなってきたな。今の戦闘中に完全に地面が光らなくなったよ」

「さようですか。では、これからいかがしましょう。アンコウ様」

 

「……太陽のせいで地面の光が消えても、光の道が通っていたところは魔素がないままだからな。どこに光の道が通っていたかはわかる。

 ドルング、俺たちが今どの辺りを歩いているかわかるか?」

 

「先程も申しましたが、私もこのような場所を通るのは初めてで、正確な位置はわかりかねます。しかし、もう確実に領境を越えていることは間違いなく、この魔素地帯の山林の東端が近いのではないかと思います」

 

「へえ、ずいぶん歩いたんだなぁ。じゃあ、ここはもうロワナ領なんだな。…ん?」

 

 アンコウはその時、足元のもう光らなくなった地面が何やらモコモコ動いていることに気づいた。魔戦斧のスピアーヘッドの先で、アンコウがそのモコモコをほじくると、

 

「!おっ、ネイマか」

 ポロンと丸々太ったネイマが出てきた。

 

 土から出てきた時は、まだうっすらと光って見えたネイマだったが、太陽の光にさらされた瞬間、アンコウの目に映っていたネイマがまとっていた光は消えた。

 

「これは、ネイマですか?」と、ドルング。

「ああ。……おおっ!」

 

 地面のモコモコは一ヶ所だけじゃなかった。あちらこちらの地面がモコモコしている。アンコウが、それらを同じようにほじくりかえすと、ネイマが次々にポロンポロンと姿を現した。

 

「た、大将。このモコモコが、全部ネイマなんですか」

 べジーが驚いて、辺りの地面を眺めている。

「みたいだな。……光の道はネイマの通り道だったのかもな」

 

 

 

 そして、ドルングが言ったとおり、昇る朝日の中、アンコウたちがしばらく歩くと、その眼下にツゥンツァイの木々が生い茂る森が見えてきた。

 それは、アンコウたちがやって来たコールマル北東部にあるツゥンツァイの森ではなく、ロワナ北西部にあるツゥンツァイの森だった。

 

「アンコウ様、これはどういうことでしょう?」

 

「コールマルとロワナのツゥンツァイの樹林は光の道でつながってたってことだろ。ネイマが通るから地面が光るようになったのか、土が光るからネイマの通り道になったのか、どっちの森が先にできたのかは知らないけど。

 ネイマはツゥンツァイの樹液しか食べないらしいから自然にそうなっただけなんじゃないか。いずれにしても、ただの自然現象の結果な気がする」

 

「そうですね。しかし、ロワナ領側のツゥンツァイの森まで来てしまいましたが、これからどうされるのですか?」

 

「ロワナとはうまいことやってんだろ?せっかくここまで来たんだ、取っ捕まる心配がないのなら、こっちの様子も少し見ていきたいかな」

 

「……それも、興味本位でしょうか」

「まぁな」

 

 アンコウはいたずらっぽく笑った。

 ドルングは致し方ないとばかりに、軽く息を吐いた。

 

「あの、大将」

「何だ、べジー」

「たぶんですけど、まだ少し離れているとは思うんですが、自分の婚約者がいる村が、この森を抜けた先にあると思うんですよ。そこに行ってみるっていうのはどうですか」

「おい、べジー!公私混同をするんじゃないっ」

 ドルングがいきなり叱責するような口調で言った。

「い、いや別に公私混同してるってわけでは……」

 

 そんな二人のやり取りを見て、アンコウは少し意地悪そうにベジーに聞く。

「何だベジー。お前は俺をダシに女に会いに行くつもりなのか」

「い、いやっ、そんなっ」

 焦る様子のベジー。

 

「まったくです。べジーの奴は、自分がその婚約者の娘に会いたいから、その村に行きたいだけなんですよ」

「ちょっ、ドルング隊長っ!別に彼女に会いたいから言ったわけじゃないですよっ」

 

 あたふたと否定するベジーを、ドルングはなま暖かい目で見ていた。

 

「ぐっ……そ、それは確かに、せっかくこんなところまで来たんだから、ちょっと会いに行きたいとは思いますけど……」

 

 その二人のやり取りを聞いて、アンコウは、

「あははは」と、笑いだし、べジーの彼女の顔を見に行くことに決めた。

 

 

「しかし、アンコウ様、」

「いいから、いいから。どうせ目的があって、ここまで来たわけじゃないし、急いでクークに戻らないといけない理由もないんだ。とりあえず、その村に行ってみよう」

 

 これもまた、アンコウの『興味本位』であった。



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第107話 惨劇の村

 ロワナ側のツゥンツァイの森は、コールマル側の森の1/3ほどの面積だという。

 それでも決して小さい森ではなく、アンコウたちが、そのロワナ側に広がっている森を抜け出たとき、すでに陽は高く昇っていた。

 

 そして、ベジーの婚約者がいるという村を目指して移動を続けた。

 

――――

 

「べジー、お前の婚約者の村はもう近いのか?」

「もう少しだと思います。このまま南に歩いていけば、見えてくるはずです。いつもは馬を使って、もっと近いコースで領境を越えていくんですが、もうかなり近くまでは来ているはずなので」

 

 ロワナは、グローソン公ハウルの有力家臣である武将ハナモンの所領である。

 しかし、ロワナはハナモンの飛び地知行地となった当初から代官が置かれ、武将ハナモン自身は一度もこのロワナの地を訪れたことはない。

 

 アンコウは道中、ロワナについてのより詳しい情報をドルングとべジーから聞きながら歩いていた。

 

「ん?」

 調子よく歩いていたアンコウの足が突然止まる。

 焦げ臭い、何かが焼ける微かな臭いが鼻についたのだ。

 

 アンコウは再び歩き出しながら、

「……少し焦げ臭いにおいがしないか」

 と、横を歩く二人に聞いた。

 

 この時点では、二人はまだ首を傾げ、アンコウが指摘した臭いに気づいていなかったが、なだらかな上り坂が続く道を進んで行くにつれて、何かが焼ける臭いは次第に強くなり、ドルングとべジーもその臭いに気がついた。

 

 特にべジーは、臭いが強くなるにつれて、その表情が目に見えて厳しくなっていく。

 ついには、アンコウとドルングを置いて走り出すべジー。

 

「おいっ、べジーひとりで行くんじゃないっ!」

 ドルングが、慌ててべジーの後を追った。

 

 アンコウは走り出した二人を制止することも、追いかけて走り出すこともせず、少し早歩きで上り道を歩き続けている。

(……イヤな臭いだ。面倒事かもしれない……)

 

 

「け、煙だっ!煙が上がってる!」

 

 しばらくすると、かなり距離があいてしまった前方から、べジーの叫ぶような声がアンコウの耳に聞こえた。

 そして、そのべジーとドルングが何やら押し問答をはじめたようだ。

 

 その二人がいるところまで、アンコウが追いつく。

 

「行かせてくださいっ、ドルング隊長っ!あの煙があがっているのは、ハカチ村がある方角なんだっ」

 

 ハカチ村というのは、べジーがアンコウたちを案内しようとしていた村で、べジーの婚約者がいる村だ。

 

「いい加減にしろ、べジー。貴様も正規の訓練を受けたクークの兵士であり、武人の端くれだろう。変事には、まず状況を確認することが何よりも優先されることなど新兵でも知っている。落ち着けっ」

 

 かなり慌て興奮しているべジーに対し、ドルングは冷静な口調で制している。

 ドルングは追いついてきたアンコウのほうに顔を向け、言葉をかけてくる。

 

「アンコウ様、まずあの煙の原因を探るため、周囲に警戒しつつ慎重に村に接近したいと思うのですが」

「ん、まぁ、そうだな。……まぁ、考えなしに特攻するのだけはやめてくれ」

 

 ドルングの無難な提案にアンコウは頷き、べジーのほうに視線を移して軽挙をたしなめる。

 

 普段はどちらかといえば、軽い言動も目立つべジーだが、彼もいっぱしの兵士武人。アンコウやドルングが言っていることの正しさは理解している。

「~くくっ」と、べジーは大きく顔を歪めながらも、アンコウたちの意見に従った。

 

 

―――――

 

 

「待てっ!べジー!」

 

 ドルングの制止も聞かず、ついに村にむかって走り出すべジー。

 

(しゃあねぇなぁ)

 アンコウは村のすぐ近くにあった大岩の影に隠れたまま、飛び出したべジーを見送った。

 

 べジーの婚約者がいるこのハカチ村は、武装した集団に襲われていた。村にある程度接近した時点で、村で戦闘が行われているらしいことはすぐにわかった。

 

 しかし、襲撃者の素性や人数、戦闘能力などを確認するため、とりあえずアンコウたちは今いる岩影に身を隠した。

 そこまでは、べジーも感情を抑えて、アンコウの横についてきていたのだが。

 

(……たぶんもう略奪がはじまっている)

 

 岩影の横から顔を出したアンコウの目に映るもの……ついさっき、村の者と思われる女が一人、武装した兵士と思われる男に引きずられるようにして、アンコウの視線の先にある干し草が積まれている場所まで連れてこられていた。

 

 そして今、その女の衣服は、兵士の手によって大きく引きちぎられてしまっている。上半身の肌が(あらわ)になった女に馬乗りになったまま、兵士の男はガチャガチャと下半身につけた装備を外していた。

 襲われてる女の悲鳴が、アンコウの耳にも入ってくる。

 

「チッ」

(耳障りだな)

 

「アンコウ様っ、いかがしましょう」

「ん?予定どおり状況の把握だ。襲っている連中が強い場合は、即この場から離脱する」

「べジーのことはどうしますか」

「たとえ死んでも自己責任だ。アイツの個人的な事情に付き合う必要はない。まぁ、領主をほったらかして私情に走ったことは大目に見てやるよ」

 

 それを聞いて、わずかに顔に苦渋の色を浮かべたドルングだったが、すぐに、

「……わかりました」と、アンコウの指示に従った。

 

「チッ、やりやがったな」

 と、ドルングと話をしながらも、村のほうの様子を窺っていたアンコウが(つぶや)いた。

 

 アンコウの視界に、村の女を襲っていた兵士が干し草の山から転げ落ち、尻を丸出しにしたまま動かなくなった姿が映っている。

 その横には乳を丸出しにしたまま恐怖で固まっている村の女と、血の(したた)る長剣を手に下げたべジーの姿があった。

 

 そしてべジーは、そのまま村の中へと走り去っていった。(いと)しき(ひと)を探しにいったのだろう。

 

「アンコウ様……」

「……じゃあ、俺らも動く。だが、慎重にな」

 

 

―――――

 

 

(……ふむ。そこまで大規模な襲撃じゃないみたいだな)

 

 そのことは村に入る前の状況確認と襲われていた女の話から予測していたとおりだった。大規模な襲撃だと感じていたら、アンコウはそもそも村の中に入ることに同意しなかっただろう。

 

「なぁ、ドルング。この村を襲っている連中、ただの賊だと思うか」

「……あの女を襲っていた男の装備は、雑兵とはいえ、明らかに正規の兵士がよく用いるものでした。兵隊崩れの賊も珍しくはないのですが……」

「兵隊崩れにしても、整い過ぎていたか?」

「……はい。昨日、今日、賊になったばかりというなら別ですが」

 

 たとえ小規模でも、地場の領主や豪族の正規兵だったら面倒な話になりかねないと懸念しつつ、アンコウとドルングは、慎重に村の中心部へと移動を続けた。

 

 

 

 

ギンッ! カンッ! ギャンッ! ぎゃああっ!

 激しい金属音と、それに続く悲鳴が響く。

「どけええ!」

 長剣を振るい、怒声を発しているのは、べジーだ。

 

 肩までとどく、赤髪の長髪を振り乱しながら、ハカチ村の村長(むらおさ)の屋敷の前で襲撃者の一部とおぼしき武装兵たちと斬り結んでいた。

 

――(敵に抗魔の力を持つ者はいない。時間の問題だな)

 

 アンコウはその様子を物陰から(うかが)っている。

 アンコウの見立てどおり、わずかな時間でべジーは三人の敵を斬り倒し、屋敷の中へと駆け込んでいった。

 

 べジーが、「レマーナ!」と叫んでいたのは(いと)しき(ひと)の名前だろう。

 

 動く者が誰もいなくなった村長(むらおさ)の屋敷の門前まで、物陰から身を現したアンコウが歩いていく。

 

 べジーが斬り殺した死体を観察するアンコウ。

(……やっぱり無法者の集団ではないな。この小綺麗な装備もそうだが戦い方が組織だっていた。まぁ、それでも弱ぇし、やってることは賊と一緒だ)

 

 その時、誰かが近づいてくる気配を感じたアンコウは、スッと身を隠し、様子を窺う。そのアンコウの視界に入ってきた人影。

 

「……なんだ、ドルングか」

 

 近づいてくる者が、一人で周囲の偵察に出ていたドルングであることを確認したアンコウは、再び道上の目につく場所へと姿を晒す。

 それを見つけたドルングが、真っ直ぐにアンコウに近づいてきた。

 

―――

 

「そうか。やっぱりそんなに数はいないのか」

 

「はい。村民もかなりの部分、村の外に逃げ出しているようです。おそらく襲撃してきた集団は、50人ほどなのでは。また、私が確認できた範囲内では取り立てて強い力を持った者はいませんでした」

 

「……だけどこいつら、賊の類いじゃあないよな」

 アンコウは足下に転がる死体を足蹴にしながら言う。

「はい。私もこの連中は主持ちの兵隊だと思います」

「地場の有力者の勢力争いか、何かか……」

「さぁ、それは……、」

「面倒だが……何人か生け捕りにして聞いてみるか」

 

 アンコウとドルングは、門の前で今後の行動方針について話し合いを続けていた。

 かなりのんきな様子だか、現状、慌てて逃げ出さなければならないほどの状況ではないと、アンコウもドルングも判断したのだろう。

 

 そして、そうこうしているうちに、少し前に屋敷の中へと駆け込んでいったアンコウとドルングのもう一人の()れであるべジーが、暢気(のんき)さなど欠片もない様子で、アンコウたちの前に飛び出してきた。

 

「フウッ!フウッ!フウッ!フウッ!」

 

 屋敷の中から飛び出してきたべジーの呼吸は極めて荒い。

 

「べ、べジー、」

 

 べジーの直属の上官であるドルングは、飛び出してきたべジーの様子を見て言葉を失っていた。

 

 全身が返り血を浴びて真っ赤に染まり、その表情は新兵の頃からべジーを知っているドルングも、かつて見たことがないほど怒りで染まっていた。

 

(うわ~怒ってんな。どこの阿修羅くんだよってくらいキレていやがる)

 と、アンコウ。

 

「うがああーっ!一人残らずぶち殺してやるっ!」

 

 敵を求めて、再び走り出すべジー。

 

「おいっ!待つんだべジー!」

 

 べジーはドルングの制止の声に振り返ることすらしない。

 

「くっ!アンコウ様っ」

「ん?」

「あの暴走している状態では、さすがに心配ですっ。敵の中に強者(つわもの)がいる可能性がないわけではないですからっ。できればべジーの奴を追うお許しをっ」

 

 アンコウとは違い、ドルングはべジーに対して、長年の部下として戦友としての思い入れは強い。べジーの身を真剣に案じているようだ。

 

「……わかった。できれば、何人かは生け捕りにしておいてくれ。情報がほしいから」

 

 そう言って、アンコウが許可を出すと、ドルングはアンコウに頭を下げて、べジーの後を追って走り出した。

 

 ボリボリと頭をかき、自分はどうしたものかと、アンコウは考えた。

 そして、アンコウの足は村長の屋敷の中へと向いた。べジーのあの激怒ぶり、中で何があったのか少々気にかかったのだ。

 

 

(田舎の家っていうのは結構でかいよなぁ)

 そんなことを思いながら、アンコウは警戒もしつつ、屋敷の中を移動している。

 

「……血の臭いが濃いな」

 

 アンコウがそう思うのも当然で、屋敷のなかには何体もの血塗れの死体が転がっていた。

 

(この国に平和な土地なんかない。どこに行こうが明日には自分がこんな死に方をしてもおかしくない)

 

 感情を高ぶらせることなく、アンコウはこの惨状の中をそのままどんどん屋敷の中に踏み入っていく。

 

(ここまでに見た死体は、ほとんどがこの屋敷の人間のものだったな。……!おっ、あれは)

 

 屋敷の奥に来るまで、武装している死体を全く見なかったアンコウの目に、初めて鎧をまとった死体が映った。

 その死体に近づいていったアンコウは、ゴロリと足でひっくり返した。

 

「……鎧のうえから、袈裟がけで一撃か」

 

 つい今斬り殺されたことがわかる死体だ。それにこの斬り痕、

「べジーのヤツ、結構やるな」

 

 

 アンコウはその鎧死体が転がっていたすぐ近くの扉を開き、その部屋の中へと入っていく。

 

「……うへぇ、派手にやりやがったなぁ」

 

 そこに転がっていたのは、おそらく5人分の襲撃者と思われる死体。

 

「……これ以上ないぐらいバラバラだ」

 

 どの部位が誰の物かわからないぐらい全員が斬り刻まれていた。床に壁に天井にまで、真っ赤な血が飛び散っていた。

 それにアンコウの鼻につくのは血の臭いだけではなく、わずかに生臭いニオイも残っている。

 

「5人、全員男、兵士だが、みんな甲冑は脱いでいる。裸でいた時にべジーに襲われたか……」

 

 アンコウは、眉をひそめ、首を(かし)げる。

(……状況的に、ここでなにがあったのかは明らかだな)

 

 この部屋の様子から察するに、ここでこの屋敷の女が襲われていた可能性が非常に高い。その中にべジーの愛しき婚約者もいたのか、その現場をベジーはその目で見てしまったのか。

 

(……だとしたら、そりゃあ阿修羅化するよな)

 

 ふと、部屋の奥へ目をやれば、そこにはもうひとつ扉がある。

 アンコウは、扉に近づいていくと、扉は完全には閉まっておらず、その隙間には何者かの衣服が挟まっていた。

 

 扉に近づいていくアンコウ。

その時、

 

「ううぅ」と、扉の中から、女がすすり泣く声が聞こえた。

 

 アンコウは、ゆっくりと、その扉を勢い開いた。

 

 

 アンコウの推理したとおり、その部屋には4人の女がいた。

 突然、入ってきたアンコウを見て、4人全員の表情が恐怖で固まる。

 

「ヒッ!」

「っと、大丈夫だ。俺は敵じゃない」

 

 アンコウが慌てて魔戦斧をおさめ、両手をあげて見せた。

 しかし、彼女らの顔から恐怖は消えない。それは当然だろう。彼女らの4人のうち3人には明らかに着衣の乱れがあり、4人全員に暴力をうけた跡があった。

 アンコウはさらに言葉を重ねる。

 

「俺はべジーといっしょにこの村に来たんだ。あんたたちの敵じゃない」

「……べジー様と?」

 

 警戒はしつつも一人の若い女が、じっとアンコウの顔を見る。

 その女の年は、見た目20代前半ぐらいか。美しい女だった。羽織(はお)っている服と装飾品から、それなりの身分があるものだとわかる。

 

(……この女がべジーの婚約者か……痛々しいな)

 

 美しい女の顔には殴打の跡があり、着ている物の乱れ具合からいって、べジーが彼女の貞操を守るのに間に合わなかったのはあきらかだった。

 その女と同じような惨状になっている女があと二人。40歳ぐらいの年嵩の女が一人と、今も涙が止まらない様子の少女が一人。

 

(ひどいな)とアンコウは思うが、残念ながら、この国この世界の、どこの戦場でも必ずある光景でもあった。

 

 女の年齢など関係なかったのだろう。少し年は重ねているがまだ色気も残っている女と、非常に愛らしい容貌をした少女。獣どもの欲望の牙は、容赦なく獲物としたようだ。

 その横では、比較的着衣に乱れのない初老の女が、布を使って汚された少女の体を拭いていたようだ。

 

 その様子を見て、さすがにアンコウも怒りをにじませながら眉をしかめた。

 

 警戒心を持って、アンコウを見つづけている若く美しい女が、

「……あなたは、」と、問うてきた。

 

「ああ、俺はべジーの同僚みたいなもんだ」

 

 興味本位で屋敷の中に入ってきたアンコウだったか、さすがにそれをこの女たちを前に口にすることは(はばか)られ、

「………べジーを探してたんだ。あいつ、村が襲われているのに気づいたら一人で突っ込んでいったからさ」

 

 アンコウは、自分はべジーを探しているんだという(てい)にした。

 

「……べジー様はもうここにはいません。屋敷を襲ってきた兵たちを討ち果たした後、出ていかれました」

「……そうか」

 

 単に怒りに飲まれただけじゃなく、ここにいてられなかったんだろうなと思った。

 と同時に、女たちに対して、『正直あんたら、命があっただけラッキーだ』とも思うアンコウだったが、それを口にしないぐらいの分別は持っている。

 

(確かに、こんなところに長居は無用だな……)

「……じゃあ、俺はいくよ」

 

「あ、あのっ」

「なんだ?」

「べ、べジー様のことをお願いしますっ。あの方まで死ぬようなことがあってはっ」

 

 この部屋に来るまでに転がっていた死体のなかには、間違いなくこの女の家族もいるはずで、その事も知っているのだろう。

 

「……わかったよ」

 

 アンコウはそう言うと入ってきた扉のほうではなく、女たちのほうに近づいていく。

 女たちは一斉に身構えるものの、アンコウは気にすることなく近づいて、女たちの前で身を(かが)めた。

 

「な、なんですか」

 女の声に震えが混じる。

「これ使ってくれ」

「えっ」

 

 アンコウが魔具鞄の中から何かを取り出し、ゴトリ、ゴトリと女の前に置いていく。

 

「……これは」

「ヒールポーションだ」

 

 アンコウは流れ作業的にヒールポーションを並べ終えると、全ての瓶の中身を わずかづつ口に含んでいく。

 

「見てのとおり毒じゃないから」

 

 アンコウがすることをじっと見ていた4人の女。

 

「あ、ありがとうございます」

「いや、いいんだ」

 

 アンコウは再び立ち上がる前に少女のほうに手を伸ばし、くしゃりとその頭を撫でる。

 

「強くなれよ。嬢ちゃん」

「!……」

 少女はビクリと身を縮めた。

 

 アンコウは、それ以上何も言うことなく立ち上がり、そのまま入ってきた扉の外へと出ていった。

 

 

 バタンと、後ろ手に扉を閉め、肉塊の散乱した血まみれの部屋で顔をあげる。

 

「……ふうーっ」と、ため息ひとつ。

 

 次に、腰に手をかけたまま、

ゴツッ! と足元にあった兵士の頭部をサッカーボールのように蹴り飛ばした。

 

 そしてアンコウは、ピチャリピチャリと血だまりの中を歩き、廊下へと出ていった。

 そのあと、アンコウが歩いた後には、廊下から屋敷の外の門まで、いくつもの赤い足跡がくっきりと残っていった。

 

 

 

 そして、屋敷の門前、太陽の下で、

 アンコウは小袋の中からウネウネ動くネイマを一匹取り出して、口の中へと放りこんだ。

 

 モグモグと、ネイマを咀嚼しながら歩く。

 

 プッと吐き出したネイマの頭が、ポチャリと道端の血だまりの中に落ちた。

 

 血だまりの道を歩くアンコウの顔は能面のようで、その表情からは何の感情を読み取ることもできなかった。



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第108話 ベジーの婚約者

 村の中を足早に移動を続けるアンコウの目に、いくつもの死体が目につく。

 先ほどまでは、村民らしき死体しか見えなかったのだが、今はいくつもの武装した兵士の惨殺死体も転がっていた。

 

「ベジーのやつだな。派手にやってる。―――こっちはちがうな」

 

 ベジーがやったと思われる死体は、鋭い刃物で斬り刻まれたと思われる死体だが、なかには鈍器のようなものでボコボコに殴られている死体もあった。

 

「ん?」

 

――「も、もう、やめてくれーっ。ヒブゥ!」

 アンコウの目に、何人もの村の者に囲まれて、棒切れのようなもので殴られている血まみれの兵士の姿が見えた。

 

「……ベジーと、あとたぶんドルングのやつも戦闘に参加したことで形勢が変わったのか」

 

 ベジーとドルングが戦闘に参加しただけで、村民たちだけでも村を襲ってきた兵士たちに報復攻撃に出られるような状況に既になっているようだ。

 それはつまり、

(やっぱり村を襲ってきた連中は数もそれほど多くなく、たいして強い者も混ざってなかったってことだ)

 

「この様子じゃあ、俺が戦う必要はなさそうだな」

 

 アンコウは走っていた足を緩めて歩き始めた。

 

「まぁ、人様の獲物をとることもない」

 

 アンコウとしては、この村の人間が何人殺されたところで、多少の同情はしても報復戦をするほど怒りが渦巻くわけでもない。

 この村に来た時から、その表情には若干面倒くさそうな色すら見える。

 

(……田舎でも都会でも、この世界は戦争ばっかりだ)

 

 何となしにそう思ったアンコウだが、たまたま元の世界で自分がいた場所が平和だっただけで、ここと同じようなところも少なからずあったんだろうなとも思いなおした。

 

「……どっちの世界も、運か力がないとだめだってことだ」

 

 殺気ただよう村の中を、散歩でもしているかのような速度で思いを巡らしながら、アンコウは歩いていく。

 

――「おいっ!あそこにもひとりいるぞっ!」

 

 襲撃者狩りをしていた村人の一人が、アンコウを見つけ叫んだ。

 

「あん?」

 アンコウは声がしたほうを見る。そこには棍棒や剣を手に持った5人ほどの村人の姿があった。

「チッ、面倒だな」

 

 相手にしても何も得はなさそうだったので、アンコウはこの場を離れようと方向転換した。しかし、アンコウの足はすぐに止まった。

 方向転換した先からも、アンコウのいるほうに向かって走ってくる者の姿があったからだ。

 

 そちらからは、

―― まてええーっ

 武装した二人の男が10人程の村人の集団に追われ、逃げているようだ。

 

「チッ、こっちもかよ。なんでこっちにくるかね。面倒くさいな」

 

 アンコウは、もう一度だけ後ろと前をキョロキョロと見比べる。

(……まっ、こっちだな)

 アンコウは、そのまま走る方向を変えることなく、前に向かって再び走り出した。

 

「ど、どけーっ!」

 村人に追われ、逃げている武装した男が、アンコウに向かって叫ぶ。

 

 逃げる二人の男は、間違いなく村を襲った兵士らだろう。

 アンコウの目前に迫った二人の兵士は、一人は白刃を頭上に振りかぶり、もう一人は剣先を勢いよくアンコウに突き出した。

 

ブシュユユーーッ!!

 突如吹き出す血飛沫(ちしぶき)

「へ?」「あ?」

 

 アンコウに襲いかかった二人の男。そのそれぞれが、剣を持っていたほうの腕が宙を舞い、二人の斬られた腕から血が噴き出していた。

 

「ぎいぃやああーっ!!」

 それに気づいた二人がひどく叫ぶ。

 

 アンコウは魔戦斧を引っさげて、その二人の背後にいた。一気に加速したアンコウは、二人の兵士の間を駆け抜けざま二人の腕を切断したのだ。

 

 それを見ていた前後から走り迫ってきていた村人たちが、ぴたりと足を止める。

 

「お、おい、あの男、抗魔の力を持っているぞ」

「に、逃げないと」

 

 アンコウの動きと、してのけたことを見れば、ただの村人たちにもアンコウが抗魔の力の保持者であることは明らかだ。

 この世界の住人である村人たちは、戦士でもない普通人の自分たちが、10人20人いたところで勝てる相手でないことをよくわかっている。

 

「ひっ、や、やばいぞ」

「べ、ベジーさんたちはどこだ」

 村人たちは、突然現れた抗魔の力を持つ知らない男を前に一瞬恐慌を起こしかけるものの、

「ま、まて。あの男は兵士たちを斬ったんだぞ」

「そ、そうだ。敵じゃないんじゃないのか」

 と、思い至る。

 

 村人たちが(ざわ)めきはじめる中、アンコウは、

ドガッ! ドガッ! と、腕を斬り飛ばした二人の兵隊を蹴り飛ばし、地面に転がした。

 

 そして、

「俺はあんたらの敵じゃない!ベジーと一緒にこの村に来た!」

 と、村人たちに向かって、大きな声で叫んだ。

 

 それを聞いた村人たちは互いの顔を見ながら、信じていいものかどうか、さらにざわざわと話を続ける。アンコウはそんな村人たちの相談が終わるのを待つことなく、

 

「この二人はこのまま置いていく。煮るなり焼くなり、あんたらの好きにしたらいい!」

 

 そう言い残すとアンコウは村人たちがいない方向に、スタスタと再び歩き出した。

 アンコウを信じる信じないにかかわらず、抗魔の力保持者であるアンコウの行動を妨げようとする村人は一人もいない。

 

 

 しばらくするとアンコウの背後から、村人たちの罵声と二人の兵士の悲鳴が響いた。

 

「ぎぃやああーっ!」「やめてくれええーっ!」

 

 村人たちは、アンコウにはそれ以上関知せず、残された二人の兵士に襲いかかったのだ。

 

 

(しかたがないな。やっぱとりあえず、ベジーたちと合流しないと。あの程度の連中が50人ほどなら、もうケリもついているだろ)

 

 

 

 

「ドルング隊長!そこをどいてくれ!」

「いい加減にしろっベジー!情報収集のため、ひとりふたりは捕えておけというのがアンコウ様の命だっ!」

 

 ドルングの後ろには、村を襲ってきた一味と思われる二人の兵士がいた。

 ベジーとドルングがにらみ合っているのは、村の中にある広場のような少し開けた場所。そこには何人もの武装した兵士の死体が、血だまりの中、転がっていた。

 

 一番多く斬り殺したのはバーサーカーのごとく暴れまくったベジーだったが、ドルングや武器を手に戦闘に参加してきた村人たちに殺された兵士たちも少なからずいた。

 

 今現在結果的(いまげんざいけっかてきに)に、ドルングが庇う形になっている村を襲ってきた残り二人の兵士。

 そのうちの一人が、とうとう恐怖に耐え切れなくなったようだ。

 

「ひぃぃい!助けてくれっ!」

 情けない声をあげながら逃げ出そうとする。

 

 しかし、その行為が逆に庇うドルングの背後から離脱してしまう結果となった。

 その隙をベジーは見逃さない。

 

「ちぃぃ、ベジーっ、やめるんだ!」

 

 ドルングの横をすり抜け、ベジーが逃げるへっぴり腰の兵士に迫まる。

 

「死ねっっ!」

「ひいぃあっ!」

 

 逃げ出した兵士の命運は完全に尽きたと思われた次の瞬間、

ギィィアンッ! と、響く金属音。

 

「……やめろ、ベジー」

「!あっ……た、大将、」

 

 ベジーが振り下ろした長剣は、突如疾風のごとく割って入ってきたアンコウの魔戦斧によって、完全に受け止められていた。

 

「し、しかしっ!こいつら」

「うるせえっ!面倒だから何度も言わせんなっ!やめろって言ってんだよ!」

 

 アンコウは怒声を放つと同時に、敵に放つような種類の闘気をベジーにぶつけた。

 

「!!っっ!!」

 

「……剣をおさめろベジー。お前は俺の敵か?」

「いっ、いえ………」

 

 そして、アンコウに威圧されたベジーは、渋々ながら剣をおさめた。

 

「ひぃぃい」

 それを見た兵士は、再びその場から逃げようとする。

 

「チッ。お前は、おとなしくしとけってんだよっ!」

 強い舌打ちをしながら、アンコウが魔戦斧を逃げる兵士に向かって振るう。

 

 それに合わせて、魔戦斧のスパイク部分に埋め込まれた赤い大きな魔石から、仄白色の小さめの気弾が飛び出した。

 

ドンッッ!

「ゲフゥゥッ!」

 その気弾は逃げる兵士の背中に直撃、兵士は地面を転がり意識を失った。

 

「アンコウ様っ!」

 ドルングだ。

 

 捕虜にしたもう一人の生き残りの兵士を物でも扱うように引きずりながら、アンコウのほうに近づきてきた。

 

「よう、ドルング。派手にやったな。血だまりだらけじゃないか」

「いや、ほとんどはベジーが、」

 

 ドルングの表情は少し苦々しそうである。好んでこの状態にしたのではなく、ベジーが全くドルングの指示に従わなかったんだろう。

 

「まぁ、いいさ。とりあえずこいつらの素性を聞き出しといてくれ。だいたいで構わないから」

 

 アンコウは「おい、ベジー」と、再びベジーに視線を移す。

 

「ちょっと頭冷やせよ。敵を殺すのは構わないけど、情報を取らずに皆殺しはまずいだろうが」

「………は、はい」

 

 体を震わせているベジー。疲労のせいではなく、未だ怒りの収まりがついていないようだ。

 

「だだ、こいつらだけは許せない……こいつらは俺のレマーナを汚したっ」

「………そうか。そりゃまぁ、許せないよな。ただ、この二人を殺すのはドルングが情報を取ってからにしろ。俺が言ってんのはそういうことだ」

 

 アンコウは、ベジーの怒りを否定はしないものの、ギラリと厳しい目つきでベジーを見据えた。

 

「……は、はい、わかりました」

 

 ベジーはようやく了承したようだ。それを見て、しゃねぇなぁとばかりに頭をかくアンコウ。

 

「わかりればいい。だけどな、ベジー。お前が怒りに狂うのはわかるし、こいつらを許せないのも当然だ。それでも、レマーナって言ったっけ、お前の婚約者なんだろう?あの状態の女たちをほっぽらかして、怒りに飲み込まれるなんてのは褒められたもんじゃない。

 お前より強いやつが敵に一人でもいたら、今頃お前は死んでるだろう。

 それにお前が出て行ったあとで、あの屋敷にほかの兵隊が押し入っていたらどうなる?お前の婚約者たちは今頃ほかの男たちにも凌辱されているだろうし、殺されていたとしても、ちっとも不思議じゃない」

 

 アンコウのその言葉を聞いて、ベジーの顔色が分かりやすいほど変わる。

 どうやら怒りに我を忘れて、アンコウが指摘した可能性を本気で考えていなかったらしい。

 

 アンコウは、何とも言えない表情を浮かべながら大きく目を見開いたベジーの顔を、じっと見つめる。

(……若いねぇ、ベジー)

 と言っても、ベジーはアンコウよりも一つ二つ年上だ。

 

「た、大将。い、今レマーナたちはどうなって……」

「あん?そんなの知らねぇよ。俺の婚約者じゃないからな」

 と、アンコウはあっさり言う。

 

 実際のところ、あの屋敷に再び兵隊が押し入る可能性は低いと思っているアンコウだが、そうなっていたとしても自分の責任ではないと思っている。

 

「そ、そんなっ。どうしてっ!」

 

「どうしてって、それはこっちのセリフだ。あの女のことが大切なのは俺じゃない。お前だろう?あの女を守るのはお前の役目だろう。俺はあの女を守るよりもほかにすることがあったからここにいる。それだけだ。

 まぁ、俺だったら自分の大切な女をあんな状態でほっといたりしないけど、人それぞれ考え方はいろいろだからな。お前が報復を優先させたことは、それはそれでいいんじゃないか」

 

 ベジーが絶望的な顔色になる。

 

「ち、違うっ!」

 叫んだベジーの視線はすでにアンコウからは外れ、さっきまでの憎悪の炎も見えない。

「レマーナっ!」

 そしてベジーはまた、愛しき(ひと)の名を叫び走り出した。

 

(……こいつ、好きだよな。女の名前叫んでダッシュするの)

 

 走り出したベジーが、そのままアンコウの横をすり抜けていった。その時だった。

 

「ベジーさまっ!」

 ベジーの名を呼ぶ女の声が響いた。

 

 ベジーは猛然と走り出していた足を止めて、その声がしたほうを見る。

 そこにいたのは愛らしい少女を庇うように(いだ)く一人の美しい女性。

 

(……あれは)それはアンコウもすでに知っている女。

 

「レ、レマーナっ!!」ベジーが叫ぶ。

 

(……へぇ、あの女、ボロボロだったのに。ベジーを探しに態々(わざわざ)ここまで出て来たのか……愛ってやつかぁ)

 

 ベジーは抗魔の力を持つ上に、赤い長髪をなびかせているかなりのイケメンで、婚約者のレマーナも白い肌に金色の長い髪が映える見目麗しい美女。

 

 それを見ているとアンコウは、今日レマーナたちを襲った不幸に同情する気持ちはあるものの、イケメンベジーに対して、どこか鼻白(はなじろ)んだ気持ちになってしまうのは、モテない男の(さが)だろう。

 

「レマーナ!大丈夫だったかっ!」

 ベジーがレマーナに走り寄る。

 

 何言ってやがんだ、ほっぽらかしたくせによ と、アンコウは思わず心で悪態をつく。

(ケッ、ベジーの野郎にも気弾を食らわせてやろうか)

 さすがにそんな真似を本当にやりはしないが、アンコウの妬みの心は本物だ。

 

「レマーナっ!」「ベジーさまっ!」

 

 アンコウの視線の先で、ベジーとレマーナががっしりと熱烈に抱き合った。

「へっ!?」

 と、そのシーンを見たアンコウの口から思わず素っ頓狂(すっとんきょう)な声が漏れた。

 

(!な、なにそれ?どういうこと?)

 

 アンコウの視界の先で抱き合う二人の男女。それは、ベジーと……レマーナ……なんだろう。

 ベジーは190cmを越えているだろう長身だ。その二つ折りになるほどに身を折り畳んだベジーの腕の中にすっぽりと収まっているのは、背は150cmほどの愛らしい少女のほうだった。

 

 アンコウがレマーナだと思っていた見目麗しい女は、その二人を眺めながら目頭を押さえていた。

 

「………………… ―――っ!」

 

 しばし言葉を失っていたアンコウだったが、突然、パパパッと、周囲を見渡すと、一番近くにいた村人のグループのほうに向かって、ものすごい速さで駆けていった。

 

―――ズザァアアッ!

「おいっ!お前らっ」

「ヒッ!は、はいっっ」

 

 村人は、突然自分たちの前に走ってきた抗魔の力を持つ見知らぬ男に怯える。

 ただ、ベジーの知り人らしいということはわかっているので、アンコウに武器を向けるようなことはしない。

 

「あのベジーと抱き合ってる子は誰だっ!」

「えっ、あ、あれは村長の娘のレマーナ嬢さんですが」

「………ベジーの婚約者の?」

「は、はい。そうですが」

 

 それを聞くと、アンコウは再び抱き合っている二人のほうを振り返る。

 アンコウの目には、ベジーに抱きしめられている少女はやっぱり12歳ぐらいにしか見えない……………

(子供だろっ!?)それは率直なアンコウの感想だ。

 

……あの子がレマーナなのか。

 その少女も確かに美しくはあるが、どう見てもマジ物の童顔だし、先程かなり肌が晒された状態の少女を間近で見ていたアンコウは、胸も腰も尻も太モモも、完全に未成熟だろ……。と、知っている。

 

「……あの子、年いくつだ」

「じ、14歳です」

(……思ったよりは少し上だな)

「ベジーといつ結婚するんだ?」

「さ、再来月、15歳になったらと聞いておりますが」

 

……15かとアンコウは考える。この世界の結婚適齢期は、元いた世界よりずいぶん早いんだったとアンコウは思い出した。

……テレサも15で結婚したんだったな。だけど、

 

 アンコウは、またチラリと抱き合う二人を見る。この世界の14の娘にしてはレマーナはかなり幼く見える。

……あれは子供だろう!?

 

 頭ではそういう社会なんだとわかっていても、元いた世界から引きずっている感覚と視覚が邪魔をする。

 いいのかあれ!?

 ボンッキユッボンッ好きのアンコウとしては、レマーナは完全に対象外だ。

 

 ベジーがレマーナを熱っぽく抱きしめる光景は、この社会ではおかしくないものでもアンコウの感覚では犯罪臭がする。

 

「……いいのかあれ。まだ子供じゃないのか?」

 だから自然に、そう口に出してしまう。

 

「ま、まさか。いくらなんでも子供ならば、村長が結婚など許しませんよ。ベジー様は、三月ほど前からは何度かお泊りにいらしてますし、」

 

「!?」 アンコウは、その村人の言いように意味深なものを感じ問いただした。

 その泊まりに来たとはどういうことかと。

 

 

―――(………マジかよ)

 

 そうして、村人の説明を聞いたアンコウは、そのカルチャーギャップに言葉をなくした。

 

 この辺りでは、結婚が決まった男女の婚前交渉が家族の同意で認められているという。子を為すのは早いほうがよいということらしい。

 つまりあのレマーナという少女は、今日、暴漢に襲われる以前に婚約者であるベジーの手によって純潔はすでに散らしていたということだ。

 

(女は子供が産めるようになったら、それで大人ってことか)

 

 レマーナの意思を無視して、その貞操を踏みにじった暴漢どもが許されないのは当然ながら、アンコウはベジーに対しても、

(アウトーーッ)と、叫びたい衝動に駆られた。

 

「………じゃあ、あの後ろにいる綺麗な女は誰なんだ」

「あの人はレマーナ嬢さんの母親で、クシュカさんです」

「母親……マジかよ」

 

 アンコウは、はあーーっと、大きく息を吐く。

 もうすっかりこの世界に馴染んだつもりのアンコウだったが、時折こういう些細(ささい)なことが、以外と驚きを生じさせる。

 

「……まっ、しゃあない。ここじゃロリは合法ってことだな」

 

 そして、これ以上は詮索無用。自分には関係ないことだとして、アンコウは生き残りの兵士を捕まえているドルングのところへ行こうと歩き出した。

 

 しかし、アンコウが五歩六歩と進んだ時点で、その視界に熱っぽいベーゼを交すベジーとレマーナの姿が見えた。からまりあう二人の舌が見えるかのような激しいキス。

 アンコウにも我慢の限界というものがある。アンコウは思わず足元の石を拾い、ブン投げた。

 

ビュンッ!

ゴンっ!「ぎゃあっ!」

「べ、ベジーさまっ!?」

 

 路チュウ反対。そしてアンコウは、そのままドルングのほうへと歩いていった。

 

「フンッ!」



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第109話 静寂の夜の蛞蝓男

リーン リーン  虫の声が響く。

 

 陽属不明の兵士たちに襲われたハカチ村の傷跡を覆い隠すように村全体を包み込む。

 アンコウは村にある一軒家を借り、一人夕餉(ゆうげ)の膳をかこんでいた。

 ベジーは婚約者である傷ついた少女レマーナの下に行っており、アンコウの指示を受けたドルングは、生け捕りにした兵士の尋問から、まだ戻ってきていない。

 

「……まったく、どこに行っても(いくさ)ばっかりだ」

 何度目かの同じ独り言が、アンコウの口から漏れ出る。

 

 アンコウの目の前に並べられた膳には、質素ではあるが野趣あふれた馳走が並んでいる。この村では、これまで比較的平和な時間が続いていたのだろう。

 しかし、それが今日破られた。

 

「少し(いくさ)が長引けば、あっという間に今日の飯も食えなくなるっていうのによ」

 

 アンコウは何となしにそうつぶやきはするものの、飢えるのは村の者たちであって、(いくさ)に勝利した者たちの腹は、さらに満たされるということを知っている。

 だから、

 

「……どうしたって、(いくさ)はなくならない。(いくさ)と縁がなくなるのは、死んで天国極楽に行ったヤツらだけだ」

 

 アンコウは心に決めている。戦うことが避けられないのならば、自分も勝って、欲望という腹の虫が満たされる側にいなくてはいけないと。

 

 アンコウは、先程から口に運んでいる質素な膳を見つめる。

「………まぁ、飯が食えたんだ。今回はこれで良しとしておくか」

 と、今日の戦いを振りかえった。

 

 これでケガでもしてりゃあ 割りが合わなかっただろうけどなと、アンコウは ズズズッと、キノコ汁をすすりながら考えた。

 

 リーン リーン  虫の声が響く。

 

――――――コツコツコツ とアンコウが食事をしている部屋のほうに足音が近づいてきた。

 

「アンコウ様」

 部屋の出入り口から、彫りの深い獣人の男の顔が見えた。

 

「よう、ドルング。もう尋問は済んだのか?腹減っただろ」

 

 アンコウはもぐもぐと口を動かしながら、軽い口調でドルングに話しかける。

 しかし、ドルングの表情は硬い。アンコウは、そのドルングの目に深刻な色を見た。

 アンコウの口元からも、緩みが消える。

 

「どうした、ドルング。何があった」

 

 ドルングが真剣な表情のまま、アンコウの近くまで歩いてきた。

 

「アンコウ様、少々まずいことになりました。この村を襲った者たちは先遣斥候(せんけんせっこう)部隊であったようで、本隊は別にあるようです」

 

「!何っ?」

 

 

 

 

 ゆらゆらと燭台の炎が揺れる。その暖かい色の炎の明かりが、先ほどから真剣な様子で何やら話し込んでいるアンコウとドルングの二人を照らし出していた。

 考え込むアンコウの眉間に、深いシワが生じている。

 

 アンコウたちが今いる場所は、グローソン公ハウルの有力家臣である武将ハナモンの飛び地所領であるロワナだ。

 

 ドルングの話によると、このロワナ領を実質統治しているにのは代官であるマラウト=ゼバラという人物らしいのだが、そのマラウトの実弟グーシという男が兄の持つ権力を狙って反乱を起こしたらしい。

 

「じゃあ、この村を襲ってきた連中は、そのグーシっていう弟のほうの兵隊なんだな」

「はい、そのようです」

 

 代官マラウトが居館を離れ、視察に出ていた道中を弟のグーシが襲撃したらしいのだが、マラウトは危機一髪で難を逃れ、グーシの襲撃は失敗した。

 その代官マラウトが、どうやらこのハカチ村のある方角に逃走したらしく、グーシ側の兵が血眼(ちまなこ)になって、代官マラウトの行方を追っているとのことだった。

 

「チッ」

 アンコウの小さな舌打ちが、明かりが満足に届いていない天井の角へと吸い込まれていく。

 

 ドルングの話が事実だとすれば、今日このハカチ村で起こったようなことが近隣のあちこちの村でも起こった可能性がある。

 そして下手をすれば、もっと大きな戦闘が起こり、この村も巻き込まれる(いくさ)に発展する可能性もあるとアンコウは判断した。

 

「………面倒すぎる」

 

 そんな他人の領地で起こっている兄弟同士の権力闘争なんて、アンコウが関わっても1ミリも得があるとは思えない。

 巻き込まれたその時点で、割りのあわない(いくさ)だ。

 

 はぁ~~ と、大きなため息ひとつ吐いた後、アンコウは座る向きを再び御膳のほうへと戻し、かき込むように残りの食物を腹の中へと流し込みはじめた。

 

 ガシャン と、空になった食器をアンコウは食卓の上に置くと勢いよく立ち上がった。

 

「ア、アンコウ様、」

「帰るぞっ」

 

 アンコウはそういうとスタスタと歩き出した。

 

「え、ええ、今からですか?」 

 ドルングも、慌ててアンコウの後についていく。

 

 確実に、この村が戦闘に巻き込まるという確信があるわけではないが、

(可能性はある。だったら、呑気にこんなところにいる理由はない)

 

 大きい戦闘などに巻き込まれたら、夕餉朝餉(ゆうげあさげ)を馳走になったぐらいではどう考えても割が合わない。

 

「し、しかし、アンコウ様。もう夜で、」

「来た時も夜だ。二晩ぐらい寝なくても死にはしない。少し仮眠もとったしな。

 とにかくツゥンツァイの森を抜けて、コールマル側に入るぞ。ドルング、お前にここで戦う理由があるなら残ったらいい。俺は帰る」

 歩くアンコウの足が、さらに早まる。

 

「ま、待ってください。私も参りますっ。それにベジーにも知らせないと」

「………あー、そうだな」

 

 さすがに一緒に来た自分の部下でもあるベジーに、何も言わずに村を出るわけにはいかないかと、アンコウも思う。

(……ただ、あいつがこのまま一緒に帰るとも思えないけどな……)

 

 ベジーは、村を襲った兵士たちに凌辱され、心身共に深く傷を負ったと思われる婚約者のレマーナと共に村長の屋敷へと行っている。

 レマーナは、2カ月後ベジーの妻となることが決まっている可憐な美少女だ。

 

 一時(いっとき)は大事な婚約者を汚された怒りで暴走していたベジーだが、アンコウが広場で最後に見た時には、小さな体のレマーナを包み込むように両腕に抱えながら歩き去っていった。

 

「ベジーの奴はあの娘から離れないだろう?」

「はい。ですが、一緒に連れていくというかもしれません」

「………一緒になぁ、」

 

 足手まといになるかもしれないと、アンコウは余り乗り気がしない。

 

「と、とにかく、村を出るならベジーに知らせないわけには、」

「まぁ…そうだな。なら、急いでいこう。村長の屋敷だ」

「はいっ」

 

 

 

 

 パカラパカラ と、アンコウとドルングは馬を走らせて夜の田舎道をゆく。

 そうしてしばらくすると、お目当ての村長の屋敷が見えてきた。

 

「どうどうっ」 「ヒヒンッ」

 屋敷の門前で馬を止めるアンコウたち。

 

 屋敷の門の前にはいくつかの真新しい棺桶と、布のようなものでミイラのように全身をグルグル巻きにされた おそらく死体であろうものが並べられていた。

 ここに着くまでの間にも、同じような光景がいくつかの家の前で見ることができた。

 

 死体を外に出すというのが、この村の風習であるのかどうかはわからない。

 ただ、今日一日で多く出てしまった死人の遺体は、明日まとめて荼毘(だび)に付すということが、すでに決められていた。

 

 馬から下りたアンコウは、とりあえずその居並ぶ棺桶とミイラにむかって手を合わせた。

 

 屋敷の周囲はすでに真っ暗。屋敷の中のほうからも全く物音は聞こえてこない。

 ドルングと二人、アンコウは門をくぐり、玄関先まで歩いてきたものの、昼間は開け放しになっていた玄関扉が、ガッチリと閉じられてしまっている。

 

「アンコウ様」

「ん?なんだドルング」

「私が呼び出します」

 

 ドルングはそう言うとアンコウを追い抜かし、閉じられた扉の前まで歩いていく。

 アンコウが立ち止ると、周囲は死んだ者たちを弔うかのように、本当にシンッと静まり返っている。

 

静謐(せいひつ)なる空間か……今は死者の時間(とき)か……)

「……ドルング、あまり大きな声は出すなよ。死者の眠りを妨げる」

 

 アンコウはこの闇の中の静寂を乱すことが、不意に死者に対する冒涜であるかのような感覚に襲われた。

 

「………はい。わかりました、アンコウ様」

 

 その時、―――(ん?)

 足を止め、ドルングを見ていたアンコウの耳に、人の声らしきものが(かす)かに聞こえた。

 

「ドルング、ちょっと待て」

 

 アンコウに制止され、ドルングは今にも板戸を叩こうとしていた手を止める。

 そのままアンコウは、玄関の横のほうへと庭を移動し始めた。

「アンコウ様?」

 ドルングも、慌ててアンコウの後を追っていく。

 

 角を曲がれば、村長屋敷の広い庭を見ることができる。そこは貴族のような芸術的に手入れがされた庭ではなく、田舎にただ土地が余っているというだけの庭。

 その庭の奥に建てられている離れから明かりが漏れているのがアンコウの目に入った。

 

(……あそこか)

 

 アンコウはドルングに声をかけることなく、そのまま歩みを進める。

 ザッザッザッ と、庭の草土を踏みしめ歩いていけば、

リーンリーン ジィージィー ギリリギリリ と虫が鳴く。

 

 離れの明かりが、はっきりと見えるところまで来ると、アンコウが玄関先で微かに聞いた人の声が、かなりはっきりと聞こえてきた。

 

「ア、アンコウ様、」

 

 今はドルングの耳にも、その声が聞こえているのだろう。ドルングが慌てたような声でアンコウの名を呼ぶ。

 

―――アア……アッ……アンッ……

 声が、明かりが漏れる離れの窓のほうから漏れ出ていた。

 

 アンコウはドルングの呼びかけに反応しない。止まることなく歩くアンコウの足、先ほどまで聞こえていたアンコウの足音が、いつの間にか全く聞こえなくなっていた。

 

 夜の闇の中を歩くアンコウの表情は、後ろからついていくドルングには全く(うかが)い知ることができない。

 そしてアンコウは、夜を行く幽鬼のごとく、気配なく離れの開け放たれた窓前に立った。

 

 

―――「レマーナっ、レマーナは俺のものだっ」

  「ああっ、ああっ、ベジーさまっっ」

 

 離れの中、一糸まとわぬ男と少女が、床に直接敷かれた寝具の上にいた。

 

 ベジーは、アンコウよりも一つ二つ年上の20代後半の男。レマーナは、2月後に花嫁になるとはいえ、アンコウ感覚では間違いなく少女だ。

 二人ともその顔立ちは整っている。美男子と美少女といえるだろう。

 

 ベジーは細身の190cmはある体躯をしており、その汗に濡れた白い肌に、長く伸ばした赤い髪の毛が張り付いている。

 レマーナは身長もまだ伸びきっていない、まさに発展途上中の体つきをした少女だ。

 しかし、ほのかなランタンの光に照らし出されている その少女のあられもない姿からは、得体の知れない妖艶さが漂っていた。

 

「ああっ、ベジーさまっ」

「レマーナっ、レマーナっ」

 

 ベジーは少女の名を呼びながら、ひたすらに汗をまき散らしている。

 

「い、いやなことは全部忘れさせてやるっ!」

「はあぁぁ」

 

 

 ――アンコウは窓の外からその様子を見つめていた。その表情からアンコウの感情は読めない。

 

 アンコウのすぐ後ろにいるドルングにも、なかの光景は見えていた。

 ドルングとしては、すぐにこの場から立ち去りたかったのだが、主であるアンコウが微動だにしないため、自分一人でこの場を去ることはできなかった。

 

「………ドルング」

 そんなドルングに、アンコウが話しかける。

「な、なんでしょう」

 

 アンコウはくるりと顔をドルングのほうに向け、にこりと笑った。

 「?」ドルングにはその笑顔の意味がわからない。

 そしてアンコウは再び視線を部屋の中へむける。ドルングは何とも言えない目で、アンコウの後頭部を見つめている。

 

 

(……ベジーの奴め。きれいなケツを見せやがって)

 アンコウの心の中に、ついさっきまで感じていた死者に対する厳粛な思いは、すでに欠片も残っていない。

「………ベジーの野郎、もいでやろうか」

 

 男と女のことは文化や時代が違えば、その倫理基準は全く違うものになる。

 アンコウの根っこにあるその手の感覚は、この世界から見れば、文化・時代が違うどころか異世界のもの。

 アンコウの元世界での感覚は、ここでは正しきものとはなりえない。

 しかし、

(ここまで来てしまった以上、仕方がない)

 アンコウは、おもむろにガサゴソと魔具鞄をあさり出した。

 

 そして何か細長い筒状のものを取り出すと、実に流れるような自然な動作で、窓から部屋の中へとかまえた。

 アンコウは息を大きく吸い込み、その長い筒状のものに口を当てる。

 

「!ア、アンコウ様、何をっ」

 ドルングの声にまったく反応することなく、

「プフッッ!」

 と、アンコウは勢いよくその筒状のものに息を吹き入れた。

 

 アンコウが魔具鞄から取り出したもの、それは吹き矢。

 その吹き矢の口から飛び出したメタリックな光沢をもつ細い長針が、ベジーの白い尻に向かって、一直線に飛んでいき、

!プスッッ! っと、突き刺さった。

 

「!?~~っナガッッ!」

 反射的に力が入ったベジーの尻の割れ目がきつく閉じ、体が大きく()け反る。

「!ベジーさまっっ!?」

 

 突然、苦悶の声をあげたベジーに反応し、思わず上半身を浮かしたレマーナ。

 そして、

「!えっ」 

 

 そのレマーナの目に、開け放たれた部屋の窓から、ナメクジのようにぬるりと中に入ってこようとしている男の姿が見えた。

 

「キッ、キャアアアーッ!!」

 

 言うまでもない。そのナメクジ男は、アンコウだった。



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第110話 ゼバラ兄弟の諍い

 先ほどまで男と少女が一つ床についていた離れの間に、今は3人の男が板間のうえに腰を下ろしていた。

 敷かれていた寝具は部屋の隅に放り置かれ、少女レマーナはすでにこの部屋を後にしている。

 

「何だ、まだ尻が痛むのか?」

 

 眉間に深いシワを寄せているベジーに、用件を言い終えたアンコウが尋ねる。

 

「い、いえ。尻は大丈夫です………。そうじゃなくて、今、大将が言われたことなんですが、」

「ああ」

「……それは命令ですか」

 

 アンコウは、ベジーにこのロワナ領内で反乱が起きていること。

 昼間に村を襲った連中は反乱を起こした代官の弟であるグーシの兵隊であり、ロワナ領の代官マラウト=ゼバラを探していたこと。

 今後この付近で、さらに大きな戦闘に発展する可能性があることを説明した。

 

 そして、自分たちは直ちに、このハカチ村を出立し、再びツゥンツァイの森を抜けて、コールマル領側に戻るつもりであることを話した。

 

「命令じゃない。ただし、お前がどうしようと俺は帰る」

 

 ベジーは真剣な表情で、アンコウの言に(うなず)く。

 そして、

「そうですか……私は残ります」

 と、迷いのない顔つきで言った。

 アンコウは、ベジーを説得するようなそぶりは全く見せず、

「そうか」

 と、一言(ひとこと)だけ言うと同時に立ち上がった。

 

 しかし、アンコウが歩き出す前に、

「ちょっといいか」

 と、ベジーに声をかけたのはドルングだ。

 

「ベジー。お前が婚約者の娘のことを思い、クークに帰ることを拒否するのではないかということは、ここに来る前からアンコウ様も言っておられた。

 お前の気持ちもわかる。しかし、大きな(いくさ)に巻き込まれれば、お前もろとも、あの娘も命を落とすような状況にならないとは言えないだろう。ならば、あの娘を連れてこの村から逃げればいいんじゃないのか」

 

 ドルングは、娘を連れて一緒に逃げるという選択肢を自分のほうから示した。

 ベジーが仕官したすぐの頃から彼のことを知るドルングは、ベジーに対する情も厚く、彼をこの村に置いていくことに躊躇(ためら)いが大きいのだろう。

 

 一方、一応足は止めたもののアンコウは、ベジーがここに残りたいなら好きにすればいいと思っていたし、もし、力のない娘などに同道されれば、最悪足手まといになりかねないとすら考えていた。

 

 

 

「………ドルング隊長。今日殺された村人の中に、レマーナの父親もいたんです」

「……そうか」

 

「この村の村長(むらおさ)で、私の義父(ちち)になる人でした。この屋敷の前に並べられていた棺を見たでしょう?その中の一つに義父(ちち)が入っているんです。

 でも、彼はこの屋敷で殺されたわけじゃないんです。村の異変を知り、村を守るために、すぐに屋敷を飛び出したんだそうです。義父(ちち)は兵たちに襲われている村民を守ろうとして、奴らに(なぶ)り殺されたと聞きました。

 レマーナやこの屋敷の者たちは、自分たちもひどい目にあったにもかかわらず、ひどい傷を負っていた義父(ちち)の遺体を見ながら、誇らしいと言っていましたっ。

 この村の長は代々世襲です。レマーナに兄弟は妹しかいません。だから今は、レマーナがこの村の村長の名代ということになります。

 村のために殺された義父(ちち)を誇りだと言ったレマーナは、自分一人、いや、ここにいる家族を全員連れていくと言っても、他の村人たちをおいて、この村から逃げることを了承しないと思います。

 ……ドルングさんっ、今はまだ結婚はしていませんが、レマーナは俺の妻なんですっ!結婚したら、レマーナがクークに来る予定でしたが、こうなった以上、俺がここに住むつもりです」

 

「………ベジー」

 

 ドルングはベジーを見ながら、うれしいような悲しいような顔をしていた。それぞれの思いを込めて、見つめ合っているベジーとドルング。

 

 そして、その二人の見つめ合いに参加することなく、二人の横に立っていたアンコウが、音もなくスッと歩き出した。

 そのアンコウの動きがあまりに自然で静かな動きだったため、ベジーとドルングが気づいたときには、すでにアンコウが部屋から出ていく直前だった。

 

「!アンコウ様っ」

 

「……じゃあな、ベジー」

 

 振り返ることもなく、短い別れの言葉だけを残したアンコウは、そのまま部屋を後にした。

 

 

 

 

 夜の闇の中、幾分スピードを落として、アンコウたちは馬を走らせている。

 今が太陽の光降り注ぐ昼間だったとしても、後ろを振り返ったところでハカチ村は全く見えないところまで来ている。

 

バカラッ バカラッ

 

 オレンジ色の優しい光に、森全体が包み込まれている。

 しかし、その光を知覚できているのはやはりアンコウだけ。アンコウの後ろに馬を走らせているドルングには、夜の闇に包まれたツゥンツァイの樹林しか見えていない。

 

「ドルング、このまま森の中も馬で行くぞ」

「はい」

 

 アンコウたちが今乗っている馬は、ハカチ村で買い取った普通の農馬だ。

 アンコウがクークで普段乗っているような薄い魔素に対する耐性を持つ特殊な馬ではない。

 

 しかし、ツゥンツァイの森には魔素はないし、ロワナ領とコールマル領の境にある魔素の山を抜ける無魔素の光の道をアンコウは見ることができる。

 アンコウは馬に乗ったまま、そこを抜けるつもりでいた。

 

 

 

 

「どうしたっ、マラウトは見つかったのかっ」

 

 なかなか手の込んだ意匠の施された甲冑に身を包んだ男が、いらだたしげに自分の前に進み出てきた部下に問いただす。

 

「い、いえっ。し、しかし、西のツゥンツァイの森の近くで、逃げる代官らしき一団を見たという情報が入っています」

「なにっ!?よしっ、ではあの愚かな兄に、わしが直接引導を渡してくれよう!」

 

 馬上のこの偉そうな男の名は、グーシ=ゼバラ。このロマナ領の代官であるマラウト=ゼバラの弟で、今回の反乱の首謀者だ。

 

 事は計画通りに進んでいた。しかし、最後の最後でマラウトに気づかれてしまい、その首を獲り損ねてしまったのだ。

 グーシが予定の襲撃場所に兄の首を見られるものと信じて到着した時には、すでに兄たちは窮地を逃れ、その姿はなかった。

 

「一度は逃したが、次は必ず仕留めてみせる。あのような劣等が、兄というだけで、このロワナの代官を務めていることが間違っている。

 あの劣等の首さえ獲れば、ハナモン様もおわかりになられるはずだっ」

 

 ハナモンはグローソン公ハウルに仕える有力家臣。その知行地も多く、このロワナの飛び領地には拝領以来一度も来たことがないという。

 

 そもそも初めに、このロワナの代官に任じられたのは、マラウト・グーシ兄弟の父親だった。

 その父の死後、長男であったマラウトが何の問題もなく代官の地位を引き継ぎ、何の問題もなく15年に渡って代官としての務めを果たしてきたのだが、弟であったグーシは、ロマナ領の代官の地位にあるべきは本来自分であると、年々その鬱屈とした不満を溜め込んできたのだ。

 

 自分こそが代官職に就くべきであると考えるその根拠はたったの一つ。自分は抗魔の力を持ち、兄は普通人であるということのみ。

 

 確かに兄マラウトには抗魔の力はなかったものの、代官職を務めるだけの十分な才覚はあり、その事実はこの15年間の代官としての統治実績がそれを証明している。

 ロマナもコールマル同様、豊かな土地とは言えないが、つつがなく領地を治めていることで、領民からの信頼も比較的厚い。

 

 しかし皮肉なことに、それらの事実がグーシの兄に対する歪んだ怒りを一層募(いっそうつの)らせていき、さらにグーシの怒りが殺意と変わる決定打になったのは、マラウトの長男であるレイリーの存在だ。

 

 レイリーは父マラウトと違い、抗魔の力を生まれ持っており、その性質も悪くない。

 そのレイリーが、先日15歳の誕生日に元服の儀式を執りおこない、成人として正式にゼバラ家の次期当主の座に就いた。

 

 それはつまり、15歳のレイリーが事実上ロマナの次期代官となることが世間に認められたに等しく、グーシにはどうしても受け入れることができない事実であった。

 

(あの二人さえ殺せば、わしがロワナの代官だっ!)

 

 レイリーは抗魔の力を持っているとはいえ、元服したばかりの15歳の少年だ。

 マラウトを倒せば、代官側は大混乱を起こし、レイリーを殺すのは容易(たやす)い作業だとグーシは考えていた。

 そして、次は自分が代官の地位に就くのだと。

 

 そのグーシの身勝手な考えは、決して大きく(まと)を外してはいない。

 ロマナ領の所有者であるハナモン将軍は、この地をグローソン公より加料されて以来、一度もロマナの地を踏んでいない。彼自身、この地に興味も執着も持っていない。

 

 ゼバラ親子が2代続けて代官職を任じられ、実質その職の世襲が認められているのは、彼らがハナモンより決められた税という名の貢納金物を遅滞なく納め続けていたからにすぎない。

 

 つまり、グーシが兄マラウトとその息子レイリーを(しい)したとしても、グーシがハナモンに忠誠を誓い、貢納の義務に反せず、多少の金品をバラマキ根回しすれば、ハナモンは彼が代官になることを認めるだろう。

 ロマナは、ハナモンにとって都合のよい小銭入れに過ぎないのだから。

 

 

「よしっ、ゆくぞ!我がロマナの癌、マラウトを必ずや排除するのだっ!」

 

 

 

 

 ―――ロワナ側、ツゥンツァイの森の中―――

 

「マラウト様、お加減はいかがですか?」

「うむ。出血は止まったし、痛みもかなり引いた」

 

 マラウトは、ここまで共に逃げてきた部下の一人にそう言うと、もたれ掛っていたツゥンツァイの木に体をあずけながら立ち上がろうとする。

 しかしすぐに、その顔が苦悶の表情に変わる。

 

「ぐふぅっ」

「マラウト様!無理をなさってはいけませんっ」

「だ、大丈夫だ。馬に乗っていけばよい」

 

 実際この森までは馬に乗り、潰れんばかりの勢いで走らせてきたのだが、馬が潰れる前にマラウトのほうに限界が来た。

 傷は反乱兵との戦闘中にうけたもので、命に関わるようなものではなかったものの、決して軽いと言えるようなものでもない。

 

「いけませんっ。ヒールポーションで表面的に傷がふさがってもダメージは間違いなく残っていますっ。それに、今この森から出るのは危険です。

 敵の追手が迫ってきているのは間違いなく、今ここにいるのはわずか15名ばかり、敵に遭遇すれば勝ち目は薄うございます。今は身を隠し、援軍を待つしかありませんっ」

 

「………そうか」

 マラウトは、その部下の判断が正しいと思った。

 

 マラウトは再び木の根元に腰を下ろす。マラウトのふくらはぎのあたりがブルブルと痙攣を起こしている。

 

「……ふふふ、わしも年を取ったものだ」

 

 マラウトは今47歳になる。2つしか離れていない弟のグーシが、まだまだ若々しさの残る容貌をしているのに対して、抗魔の力のないマラウトは白髪が目立ち、顔のシワも深く刻まれた年相応の容貌をしている。

 

「……グーシの愚か者め。このような暴挙に出るとは。ここまでの愚かさとは思わなんだわ」

「………マラウト様」

 

 

 

 

「ドルング、このまま森に入るっ。速度は落として俺の後ろについて来ればいいっ」

「はいっ」

 

 アンコウには油断があった。

 (いくさ)が起きる可能性を感じて、急ぎロマナ領から出る選択をしたのだが、実際には大きな戦闘に巻き込まれる可能性はそう高くはないだろうと考えていた。

 また、情報を得てから即行動に移したことで、逆にアンコウの心に根拠のない余裕を生じさせてしまい、周囲に対する警戒を甘くさせてしまっていた。

 

「……やっぱきれいだよなぁ。この光っているツゥンツァイの森はぁ」

 

 だからアンコウは、後ろからドルングが叫ぶまで気が付かなかった。

 

「矢だっ!アンコウ様っ!」

 

 まさに迂闊(うかつ)

 せめて、ハカチ村を出たばかりの時の警戒心を今も持っていれば、ドルングに言われるまでもなく、アンコウなら自分に向かって矢が放たれたことに間違いなく気づいただろう。

 

 しかし、のんきに光る森の幻想的な光景に気を取られていたアンコウは気づけなかった。

 

「チィィッ!しまったっ!」

 アンコウがとっさに、グイッと馬の手綱を引き寄せる。

「ヒヒィィンッ!」

 

 しかし、わずかに間に合わない。闇夜を切り裂き、いずこよりか飛んできた複数の矢の一本がアンコウが乗る馬の前足に突き刺さった。

ヒヒンッと馬が大きな悲鳴をあげながら、勢いよく前につんのめる。

 

ズザアアーッ ゴロゴロ ドザアァンッ!

 

 アンコウは、馬から投げ出された勢いのままに、ツゥンツァイの木の幹に激突した。

 

「グガアッ、がはっ!」

 アンコウの肺の中の空気が、一瞬で外に押し出される。

 

「ア、アンコウ様っ!」

 ドルングが慌てて、馬から下りて駆け寄ってきた。

 

 ドルングが、アンコウが倒れる木の傍まで来た時、今度は駆け寄ってきたドルングめがけて複数の矢が飛んできた。

 アンコウは、前方の低い丘の上から、馬に乗った3人の兵士が矢を射てきたのを今度ははっきりと視認していた。

 

「くそがあっ!」

 

 未だ木で体を強打した時の苦悶の表情のまま、アンコウは立ち上がり、腰の魔戦斧を引き抜く。

 

ビュン!ビュンッ!

 凄まじいスピードで魔戦斧を二閃。

  ボトボトボトボトボト、五本の矢が地に落ちた。

 

「アンコウ様っ」

 いつの間にかドルングも腰の剣を引き抜き、臨戦態勢をとっている。

 

 アンコウはギラリと丘の上を睨みつけた。

(……たったの三人。ふざけやがってぇぇ)

 

ダダダッ!

 アンコウは馬に跨った三人の兵士のシルエットに向かって、怒りと恥ずかしさのままに、全力で走り出していた。速い。

 

 

 その物凄い勢いで近づいてくるアンコウを見て、丘の上の馬上の三人は一瞬躊躇(ためら)素振(そぶ)りは見せたものの、迎え撃つ態勢をとった。

 

「よしっ、あの走ってくる馬鹿を生け捕りにするぞ」

 三人の統率者と思われる獣人の男が言う。

 その獣人の男に向かって、別の男が懸念の声をあげる。

「あの男、もの凄い速さですっ。抗魔の力保持者ではっ!?」

 

 三人が、迫るアンコウをあらためて見て、ムムッと唸る。

 おもむろに獣人の男が、ぶっとい腕に持っている弓を構えて、アンコウを狙い、矢をつがえる。

 先ほどアンコウの馬を射た矢を放ったのは、この獣人の男だ。この獣人の男も抗魔の力を持っている。

 

ビヒューンッ!

 

 男の先ほどの生け捕りにするというセリフは何だったのか、アンコウの頭部めがけて物凄いスピードで矢が飛んでいく。

 一方アンコウも、(かわ)す気配もなく、さらに走る速度を上げた。

 

 ギィンッ! 矢じりが派手に砕け散る。アンコウの魔戦斧が砕いた。

 しかも、ただ矢を排除しただけではない。

 

ビユゥゥンッ!

 

 今度は矢を射た獣人の男に向かって、射た矢以上のスピードで、西瓜(すいか)大の気弾が飛来した。アンコウは矢を跳ね除けると同時に気弾を放っていた。

 

「何ぃいっ!」

 

 最初の弓矢の攻撃で、アンコウは隙を突かれ醜態を晒したものの、敵の能力もある程度推測していた。

(敵の中に、抗魔の力の保持者が一人はいる。ただし、おそらくさほどの高位能力者ではない。所詮敵は三人。推測が外れていても、なんとかできるはずだ)

 

ドオォンッ!

「がはぁあっ!」

 (かわ)すことができず、獣人の男はまともにアンコウの気弾を顔面にうけた。



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第111話 遭遇 敵か味方か

 アンコウの気弾をまともに顔面に受けた獣人の男は、何とか馬の背の上に踏みとどまっているものの、白目を剥きフラついている。

 アンコウがこのチャンスを逃すわけがない。全速力で距離を詰めたアンコウは、男の下から魔戦斧の穂先を全力で突き上げた。

 

ズブゥッ!

「ギヤアアーッ!」

 

 獣人の男の白目に黒目が戻ることはなく、男の断末魔がこだまする。

 抗魔の力を保持していようとも、心臓を突き刺されれば人は死ぬ。

 

「ざぁんねん。お前が、どれぐらいの力を持ってるか確認することはできなかったなあー!」

 

 アンコウは、獣人の男の心臓にスピーアーヘッドを突き刺したまま、力任せに男を馬上から引落とした。

ドサァアンッ と、地に落ちた男は白目のまま息をしておらず、動くこともない。

 

 何ら手を出す間もないままに、自分たちの上官を殺された残り二人の兵士。

 

「!なっ!」「ああっ!」

 

 残った二人は、抗魔の力を持たない普通人兵だ。一瞬にして起こったあまりの状況の変化に、明らかに判断能力が追いついていない。

 

「へっ」(殺し合いで、のろまな亀には勝ち目はねぇんだぜ)

 

 アンコウはギラリとした目つきのまま、至近距離から敵の馬めがけてクナイを投げ打つ。

「「ヒヒンッ!」」

 突如襲ってきた痛みに、二頭の馬は恐慌をきたした。

 

 馬上の2人の兵は、暴れ出した馬に気を取られ、アンコウに対処することができない。

 そしてアンコウは、一瞬の躊躇(ちゅうちょ)もなく、2人の兵をめがけて魔戦斧を縦横に振りぬいた。

 

ビュンッ!「ギヤアッ!」

ザァアンッ!「グフゥゥンッ!」

 

 獣人の男に引き続き、二人の兵士も鮮血を撒き散らしながら、ドサンッ!ドザァン!と、地に落ちた。

 

「ケッ、偵察兵が出過ぎた真似をするから寿命を縮めるんだよっ!」

 

 アンコウはこの三人の兵たちも、昼間ハカチ村を襲った兵らと同様に反乱軍の偵察兵だと思っていた。いや、アンコウのその見立ては間違いではない。

 ただ、昼間の連中と大きく違う点が、この三人の偵察兵にはあった。

 

―――アンコウ様っ、ご無事ですかっ!」

 

 ドルングが、アンコウが走ってきた道をなぞるように、低い丘を駆け上がって来た。

 

「遅いぞ、ドルング。お前は馬に乗ってきたらよかっただろう」

「ハハハ、気づいたときには、もうずいぶん走り出しておりまして」

 

 もう済んだと思っているアンコウが、

じゃあ行くか と、ドルングに声をかけようとした時、アンコウたちがいる低い丘のもうひとつ向う側の丘のほうから、何やら騒がしい気配が、――――――

 

「!っ何だ」

 

 アンコウはじっと目を凝らして、向こう側に広がる夜闇の丘を見つめた。

 丘の向こう側から、せりあがるように現れたもの。

 それはいくつもの馬と人の影。それは偵察部隊というような規模ではない。

 

(!軍勢だっ!)

 

「ア、アンコウ様っ!」

 

 言葉をなくすアンコウと、叫ぶドルング。

 そう、昼間の偵察部隊と違い 、アンコウが殺した三人の男たちは、目の前に現れたグーシの本陣と共に行動していた偵察兵だった。

 月星の照明を天空より受けながら、突如、アンコウたちの目の前に現れた軍勢。

 その中から、およそ数十の騎兵の一隊が先行し、馬を駆り始めた。

 

「……やべぇ」

「アンコウ様っ、あの騎兵の部隊、こちらに向かってきていますっ!」

 

 アンコウたちの存在が、グーシの軍勢にばれてしまってたことは明らかだ。

 

「チィィッ」

 派手に舌打ちするアンコウ。

「ドルングっ、急いで森の中に逃げ込むぞっ!」

「は、はいっ!」

 

 

 

 

「グーシ様、偵察兵が三人殺されたようです」

「そうか。それはさっき報告にあった森に向かって馬を走らせてたという二人組の仕業か」

「はい、間違いないかと」

「その二人は、マラウトの手の者かもしれん。捕えてマラウトの居場所を聞き出すのだ」

「はい。すでに騎兵の一隊に、五人の強者(つわもの)をつけて後を追わせております」

 

 グーシと配下の話に、別の配下が加わる。

 

「グーシ様。やはりマラウトは、このツゥンツァイの森に潜んでいるのでは」

「かもしれん。ネズミを逃さぬよう周囲を警戒する兵を増やしておけ」

 

 グーシは、まわりを味方の騎兵にしっかりと守らせながら、ツゥンツァイの森に向かって進んでいる。

 ここにいるグーシの軍勢は、騎兵を中心におよそ二千。明らかに逃げるマラウトの首一つを狙った機動力重視の編成だ。

 

 自分が、このロワナの代官となる長年の夢に手が届こうとしていることに、グーシは興奮を隠しきれなくなっている。

 

「フフフフッ、」

(もうすぐ、もうすぐだっ。ようやくあの憎きマラウトの首を獲れるっ)

 

 グーシとマラウトは、先代代官であった父だけでなく、同じ母から生まれた兄弟であった。

 

 たった2歳年が下というだけで、グーシはマラウトにすべてを奪われたという強い被害者意識を子供の頃より膨らませてきた。

 さらに、自分には抗魔の力があり、兄にはなかったということが、その思いをより強固に、狂信的なまでの信念に昇華させてしまっていた。

 

 実際に、この世界において、抗魔の力があるということは、圧倒的なアドバンテージを持つ。

 長子世襲が絶対的なものでは全くなく、弟あるいは妹、あるいは庶子であろうが、抗魔の力を持つ子供を自分の後継者とする権力者のほうが多い。

 

 にもかかわらず、先代代官である二人の父は、二人が幼少の頃より、抗魔の力を持たない兄マラウトを自分の後継者として扱い、弟のグーシを後継者にとの声を聞き入れることはなかった。

 

 その二人の父である先代代官の真意は今となっては知る由もないが、グーシには、そのような父の態度は不公正・不正義としか思えなかったのだ。

 己の正義を信じきっているグーシにとって、反乱を起こしているにもかかわらず、その心にやましさなど欠片(かけら)も存在しない。

 

「いまこそ父の誤りを正し、あの劣等を排除するのだっ!」

 

 

 

 

 丘の上で倒した三人が乗っていた馬は、アンコウが敵の軍勢に気づいた時にはすでに、一頭は逃げ去り、残りの二頭は使い物にならなくなっていた。

 こんなことなら、馬を無傷で確保しておくんだったとアンコウは思うが、すでに遅い。

 

「くそっっ。ドルング走れっ!全力で森に逃げ込むんだっ!」

「はいっ!」

「あ、こらっ!俺を追い抜くんじゃない!」

 

 

 距離はまだ離れていたため、アンコウたちは森までは問題なく走りつくことができた。

 

 アンコウは森の中に走りこむ前に、背後を振り返り見た。

 そのアンコウの目に、遠くに映った敵の影。

 

「なっ!?!」

(!なんだ、あれ。千……いや、もっといるかもしれない)

 

「く、くそっ!」

 

 アンコウとドルングは、そのまま全力でツゥンツァイの森に逃げ込んだ。

 三分、五分、十分と森を走り続ける。

 

 姿は見えていなくても、自分たちを追って、敵の騎兵部隊がこの樹林の中へと入ってきたことは間違いない。

 それは、背後の森のざわめきからも、容易に察することができた。

 

「何やってんだドルングっ!もっと速く走れっ!」

 

 光る森の中を走るアンコウと比べれば、月星の光のみを頼りに走るドルングは、どうしてもスピードが上がりにくい。

 

「チッ!」

(仕方がない。一人で先に行くか)

 

 ドルングはアンコウの家臣で、ドルングにとってアンコウは主君だ。

 主君の命が大事と考えれば、この状況でアンコウがドルングに合わせる理由はない。

 で、あるのだが、ドルングを撒き餌にすることに、アンコウらしくもなく、わずかに躊躇(ためら)いが生じていた。

 この状況の中で、自分一人になってしまうことへの不安も当然強くあるのだが、けっして、それだけというわけでもない。

 

 戦場(いくさば)において、顔の見えない千の味方の兵をおとりにするよりも、たった一人の同行者であるがゆえに、その者の個人としての輪郭がはっきりと見える。

 それゆえに、ドルングを撒き餌にすることに多少の躊躇(ためら)いが生じているのだろう。

 

 時に人の心というものは、おかしなものだ。

 領境を越える行きの山の中、ドルングが楽しそうに孫娘のことを話していた顔なども脳裏に浮かんでくる。

 

『突然ロワナに行くことになりましたが、孫に何かお土産でも買って帰ってやろうかと思います。いや~、女の子なのですが、これがおじいちゃん子でして、』

 

(………孫に土産か………)

 アンコウの走る速度が、若干落ちてくる。

 

「アンコウ様っ!」

 そんなアンコウに、少し後ろからドルングが声をかけてきた。

 

「な、なんだ?」

「先にお逃げくださいっ!」

「!」

 

 ドルングは田舎侍ながら、自分なりの武士道というものを持ち、自分の主君となって間もないアンコウであっても、忠義という武士の一分は守るつもりのようだ。  

 ドルングの目は真剣だ。本気で言っている。

 

 そういう奴っぽいなと、以前からドルングのことを見ていたが、実際に、この状況でアンコウの盾となるような行動がとれるのなら、本当に武士道か騎士道にかぶれてやがるんだなと思った。

 

(まぁ、本人がそう言うんなら御言葉に甘えよう)

 

 これっぽっちのことで、アンコウの心の揺れは調整された。

 本人の希望なら、アンコウのささやかな良心も痛みはしないということだ。何と言っても、自分の命が一番大事なのだから。

 

「わかった!先に行くっ!」

 

 加速して、夜の森を走り出すアンコウ。

 しかし、その加速した走りを持続することはできない別の事象が起きた。

 

ヒュュンッ!ドスッ!

 一本の矢が、アンコウが走る近くの木に突き刺さったのだ。

 

「ちぃぃっ、何だってんだっ!」

 強い舌打ちとともに、やむなくアンコウは、走る足に急ブレーキをかけた。

 

 ただ、おかしなことに、その矢が飛んできた方向は、追手が来ているはずの森の外側からではなかった。

 

( くっ、どこから飛んできたんだっっ)

 

 

 

 

 日が沈み、夜の時間が訪れたツゥンツァイの森の中。

 ロワナ代官職にあるマラウトと、そのマラウトを護衛する者たちの数は、すでに20名ほどになっていた。

 敵に発見されることを恐れ、彼らは火さえ起こさず、月星の光を頼りに周囲の警戒にあたっていた。

 

・・・・・・・・

 

「マラウト様。森が騒がしくなってきたようです」

「ああ、そのようだな」

 

 出血はすでに止まっているものの、思うように体を動かすことはできず、マラウトは未だ大きな木の幹に座り込んでいる。

 

「うぐぐっ」

 それでもマラウトは、無理やり両足に力を込め、ゆっくりと立ち上がろうとする。

「マ、マラウト様っ」「殿っ」

 マラウトは手を貸そうとする部下たちを手で制した。

 彼なりの意地なのだろう。

「だ、大丈夫だ」

 

 マラウトには抗魔の力はなく、武人としてよりも文人としての能力のほうが高い。

 しかしながら、若いころには抗魔の力を持たないコンプレックスに抗うように、剣武の修練を重ねた過去も持つ。

 

 もしこのまま、弟の凶刃の手にかかることになっても、世に無様な死に方を晒すことだけはしたくなかった。

 若干からだをフラつかせながらも、マラウトの目は鋭さを失わない。

 

「敵が姿を見せたならば、戦おう。あのような卑怯者どもに背中を斬られることだけはあってはならぬ」

 

「殿っ」「マ、マラウト様っ」

 約20名の男たちの瞳に、決死の覚悟が宿る。

 

・・・・・・・・・・・・

 

 数十分が過ぎたころ、マラウトのもとに斥候に出ていた兵士が慌てて駆け戻ってきた。

 

「マラウト様っ、森の中をこちら方向に向かって走ってくる男を二人発見いたしましたっ」

「!……来たかっ」

 

 その報を聞いて、マラウトたちの緊張が一気に高まる。

 

「しかし、その二人の男。少し様子がおかしいのです。どうも、追われているようで、」

「追われている?味方の兵か?」

「いえ、その走る速度、様子から、二人とも抗魔の力保持者と思われますが、共に見たことのない顔です」

 

 マラウトは一瞬考え込む顔になる。

 

「抗魔の力保持者が二人……都合のよい解釈は捨てねばなるまい……。その二人に関しては、これ以上こちらに近づいてくるようなら敵として対処せよ」

「はっ」

 

 

 

 

 突如、目の前の木に突き刺さった矢に驚き、ドルングを置いて一人全力で走り出したばかりのアンコウが慌てて足を止める。

 

「誰だっ!」

 矢が飛んできた方向をギラリと睨みつけるアンコウ。

 

(……おかしい)

 

 追ってきている敵が先回りをしていたのかとアンコウは考えるが、そこまでの時間の余裕はなかったはずだと否定する。

 

(なら、……敵の敵か……。森の外にいた連中はおそらく反乱軍のはずだ、グーシって言ったか。……じゃあ、この森の中に先にいる者は……)

 

 わずかな時間の間に、アンコウはぐるんぐるん考えを巡らす。

 そしてアンコウは、

 

「………貴様らっ!グーシのくそったれの手下かっ!」

 と、わざと自分の考えとは違うことを大声で叫んだ。

 

 ざわざわざわ 本当に音が聞こえてきたわけではない。

 しかし、アンコウの言葉に反応するように、矢が飛んできた方向に潜む者たちの気配が動くのをアンコウは感じ取った。

 

 ざわざわざわ しばし森の奥の気配が動くままにアンコウは待つことを選択した。

 

(また攻撃をしてくるようだったら、誰だろうが敵に認定だ。だけど、)

 

 矢を放ってきた連中と戦う覚悟を固めつつも、そうはならない目に出てほしいとアンコウは待つ。

 

「!おっ」

 森の奥を見つめるアンコウの口から、小さな驚きの声が出る。

 

 木と岩の向こう側から、複数の人影が出てきたのだ。

 アンコウにとって、このツゥンツァイの森は今も光を放っている。

 彼らは夜の闇の中に立っているつもりだろうが、アンコウにはその姿が遠目にもはっきりと見ることができた。

 

 その彼らが、アンコウのほうに向かって大きな声で話しかけてきた。

 

「我らは、裏切り者グーシの兵ではないっ!貴様らは何者かっ!」

 

 彼らはアンコウに対する警戒は解いていないものの、即攻撃する選択肢を取り下げたようだ。

 

「……ビンゴ、だな」

「アンコウ様、」

 連中の出方を見ているうちに、追いついてきていたドルングが、アンコウの傍らに控えている。

 

「間違いなく代官側の者だろうな、マラウトって言ったか」

「はい……いかがいたしますか」

 

 無視して逃げることも考えていたアンコウだが、逃げれば前後に敵を作ることにもなりかねない状況であり、どの選択肢が正解かの答えをはじき出すことはできなかった。

 

「……迷っている時間はないな。目の前の連中の戦力に関する情報も少ない。一応挨拶だけはしておこう。

 だけど、即逃げる準備も戦う準備もしておいてくれ。少なくとも今見えている連中の中に俺たちが敵わないほどの奴はいなさそうだが、抗魔の力を持っているやつはいるようだ」

 

「はい、承知しました」



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第112話 森の中の誤算

 武器を収めたアンコウたちを、森の木々の間から姿を現したマラウトの護衛兵たちが遠巻きに取り囲んでいる。

 

「今、貴様たちが言ったことが本当だと証明することができるのかっ」

 

 彼らを統率している立場にあるのだろう一人の兵士が、強い口調でアンコウに問いかける。

 

「ただの旅人だってことを証明しろって言われてもな。俺たちみたいな さすらい者の傭兵なんか、この世界の何処(どこ)にでもいるだろう?」

 アンコウは落ち着いた口調で答える。

 

「傭兵ならば、グーシの裏切り者たちに雇われていてもおかしくはないではないかっ」

 

 アンコウたちの周りを取り囲む兵士たちから殺気がおさまる気配はない。

 アンコウは対話相手の統率者の戦士を怯む素振りなくジッと見つめ、ドルングはまわりを威圧するように視線を動かし続けている。

 

「だから証明のしようがないって言ってるだろ、それに………もうお話してる時間もないんじゃないか?」

 

「何?それはどういう、!?」

 戦士が言葉を言い終わる前に、かすかに馬蹄の響きと森のざわめきが伝わってきた。

「こ、これは、グーシの手の者かっ」

 

 そう、アンコウたちを追ってきていた敵が、とうとう間近に迫ってきていた。

 馬蹄の響きだけでなく馬の(いなな)きも、わずかに聞こえてきた。

 

 

「……仕方がない。行くぞ。ドルング」

「はい。アンコウ様」

「お、おいっ!お前たちっ」

 

 アンコウたちを取り囲んでいるマラウトの兵たちも、実際はアンコウたちが、自分たちの敵であるグーシの兵に追われて、森に入ってきたという事実はつかんでいた。

 

 だから、問答無用でアンコウたちに刃を振り下ろすことはしなかった。

 そんな気配を敏感に察知したアンコウは、ピタリと足を止めた。

 

「……なぁ、あんたら、お代官様の兵隊なんだろ?ここに来るまでの村で、あんたらのお家騒動の話は聞いたぜ」

「!?」

「あんたらが信じようが信じまいが俺たちはただの旅人で、この土地の権力争いには関係ない。こんな戦いに巻き込まれるのは迷惑千万だ。

 だけど、あいつらは俺たちを殺そうとした。だから俺たちもやられる前にやった。もし、あんたらが俺たちを殺そうとしたら、あんたらも敵になる。いいのかい?」

 

「………」

 答えを返してこない男に向かって、アンコウはニヤリと笑う。

 

「俺たちは抗魔の力を持っている。すでにグーシの兵隊を複数殺している。間違いなく俺たちは、あいつらに敵認定されているはずだ。

 どうするよ?あんたらも俺たちの敵に回るのか、それとも俺たちを利用して、グーシの連中と戦うのか」

 

 マラウトを守る兵は、比較的精兵(せいへい)が揃っているとはいえ、その数は20ほど。

 対して、アンコウたちを追ってこのツゥンツァイの森に入ってきた敵の騎兵部隊の数は、少なく見ても4,50は越えていたし、さらに、その背後には千人単位の兵士が控えている。

 

(もはや敵は目の前。こいつらだって、馬鹿じゃないはずだ)

 アンコウの口元には、まだ笑みが浮かんでいる。

 

「くっ、……いいだろう。ただし貴様らを信じたわけじゃない。一度でもこちらに刃を向けたその時は、死ぬことになるぞっ」

 

 (ひげ)のない大柄の人間族のその男は、アンコウをギラリと睨みつけながら、凄んで言った。

 

 アンコウの視線の先にいる良い鎧を着たその男は、確かに抗魔の力を有しているようだ。確かに弱くはない。

 アンコウも、その値踏みはすでに済ましている。

 だが、

(ケッ、やれるもんならやってみろよ。田舎武人が、人を見下しやがって)

 

 アンコウは、この男は自分より間違いなく弱いと見抜いてもいた。しかし、自分の周囲にいる代官側の兵士はこの男一人ではない。

 アンコウは、男に対するイラ立つ感情を表に出すことなく、それどころか逆に、ニヤリと浮かべていた不敵な笑みを、ヒマワリのような満面の笑顔に張り替えて、

 

「そうですかっ。よろしくお願いします、皆さんっ」

 と言ってのけた。

 

 

 

 

ぐぅああっ! ドサァンッッ ヒヒィィーン!

 

 また兵士が一人、喉元から血を噴き出しながら、馬から地に落ちた。

 怪しげな赤い光を放つアンコウの魔戦斧から、血が滴り落ちる。

 

「ドルングっ!そっちの栗毛に乗ってる奴は、お前がやれっ!」

 

 アンコウの指示に従い、少し離れたところで剣をふるっていたドルングが動く。

 

「承知!」

 

 すでに周囲には何体もの死体が転がり、血だまりを作っていた。

 そして、そのすべてがグーシ騎兵の者だった。

 

「ヒョーーッ!フンッッ!」

 

 ブォォオンッ とアンコウが魔戦斧に埋め込まれた赤い魔石から生じさせた気弾を放つ。

 ボンッ!ドサァンッ!と、また的確に一つの敵戦力を無力化した。

 

 むろん周囲に転がる敵兵のすべてをアンコウ一人で(むくろ)に変えたわけではない。アンコウにドルング、それに代官側の精兵十数人が総出で戦っている。

 しかし、その中でもアンコウの戦いぶりは、なかなかに際立つものがあった。

 

「……あのアンコウという男、強い」

 先ほどアンコウと話をしていた髭のない男が、アンコウの戦いぶりを見て思わずつぶやく。

 

「……カラク殿と()するのではないか」

 

 今は少し離れたところで、主であるマラウトを守っているはずの同輩の名を思わず口にしていた。

 

 その後もひとしきり怒号と悲鳴が響いた後、ようやく夜の森は、一時の静寂を取り戻した。

 

 

「ふぅっ、とりあえず片付いたな」

 

 アンコウは、血塗られた魔戦斧を手に持ったまま周囲を見渡す。

 

(ドルングも問題なさそうだ。しかし、あいつらも予想以上に戦えるんだな。個の力も思った以上だったけど、組織戦闘の能力も高い。よく訓練されている)

 

 アンコウのマラウトの護衛兵に対する評価は、大きく上方修正されたようだ。

 

「……とは言ってもな」

 アンコウは、視線を今はまた静かになった森の向こうへと移した。

(じきに連中の本隊が突っ込んでくるだろう。あれは、どう少なく見積もっても千以上はいた。いや、たぶん千じゃきかないはずだ。二千はみておいたほうがいい)

 

 次の行動を考えながら、アンコウは森に入る前に見たグーシの軍勢の影を思い出している。

 そして、考えながらもアンコウは体の向きを変えて、戦いの直前に話をしていた髭のない長身の男のほうへと歩き出す。当然、あの男も生き残っていた。

 

(……俺とドルングを入れて、十数人で約50のグーシ兵を屠った。こっちに死人は出ていないようだ。

 だけど、今戦った連中は弱兵だったが、この程度の連中ばかりの千を超える軍勢なんてありえない。もっと強い戦士が混じっているはずだ)

 

「……まぁ、あとは戦うのは当事者に任せて、関係ない俺たちは逃げるだけだ」

 

 アンコウは、歩きながらつぶやいた。

 

 十人で千の軍勢を打ち負かす。この世界の(いくさ)において、これは決して不可能なことではない。

 実際、普通人兵千人なら、アンコウがワン-ロンで見た 突き抜けた強さを持つドワーフの戦士や精霊法術師を十人そろえれば、蹴散らすことは十分可能だ。

 

 しかし、いくら多少強くなったとはいえ、アンコウに彼らほどの非常識な強さはないし、迫りくる敵がそれほどまでに弱いと考えるほど、楽観的な軽い脳ミソはしていない。

 

 

 アンコウは、長身の髭のない男の前で立ち止まった。

 

「これで俺たちが、あんたらの敵じゃないってことは証明できただろう。俺たちは旅の途中なんでな、これで失礼するよ」

 

 それでも、やはり逃げるしかない。アンコウのその選択に変わりはないようだ。

 アンコウが、一応の義理で別れの断りを入れた男が問う。

 

「……お前たちは西に向かって移動をしていたようだが、ここからどこに向かっていくつもりなんだ」

「ん?だから西だよ」

 

 男のその問いかけに、これ以上細かいことをお前に説明する義理はないと、アンコウの顔つきが語っている。

 男が、フンッと少し小馬鹿にするように鼻息を飛ばす。

 

「余計なことかもしれんが、つい今しがた一緒に戦った仲だ、一つだけ教えてやろう。この位置からまっすぐ西に向かえば、岩壁(いわかべ)にぶち当たるぞ。

 森の中にある岩壁だ。木々にさえぎられて、ここからは見えないがそう離れてはいない。

 ここから西に向かうというのなら、お前は領境を越えるつもりなのかもしれんが、それならここから大きく東か北に一旦移動する必要がある」

 

「何だと?」

 アンコウの顔つきが変わった。

 

 敵の軍勢は間近に迫っている。

 残念ながら、この争いに関係のないアンコウ自身も、すでに巻き込まれ、追い詰められてしまっていることは認めざるをえないところだ。

 

 それでもアンコウは、

(おそらく代官自身がこの近くにいる可能性が高い。間もなくこの連中は反乱軍からの本格的な攻撃をうける。

 反乱軍の狙いはマラウトっていう代官一人のはずだ。ヤツの首を獲れば、俺のケツを追いかけまわす理由なんかなくなる)

 

 と思っていたので、それならば、今一緒に戦ったこの連中から遠ざかりさえすれば、もう自分たちを追ってくる者たちはいなくなると判断していた。

 

 しかし、同じツゥンツァイの森でも、アンコウたちがロワナに来たときに通った場所からは、確かにまだかなり離れている。

 今、眼前の男が言ったことが本当で、一旦この場所から、東か北に移動しなければいけないとなると、敵から逃げ切る難易度が跳ね上がるだろう。

 

 アンコウの眉間に深いシワが生じる。

 

(敵は目前だ。……今から東や北に移動なんかしてたら、俺たちが先に連中とぶつかる)

 

 敵を避け迂回するには、時間が少なすぎる。

 

(連中の狙いはマラウトっていう代官一人、絶対取り逃がさないつもりで、今も動いてるはず。必ずある程度は兵を分散させて、逃げ道を塞ぐように迫ってきているはずだ……南も間に合わないだろうな、敵が迫りすぎている……)

 

 このまま真っすぐ西に、森の奥へと逃げれば、十分逃げ切れると踏んでいたアンコウの目算が狂ってしまう。

 

「チッ。おいっ!ドルング!」

 アンコウはドルングを呼び、男の言った事の真偽を確かめようとした。

 

―――

 

「申し訳ありません、アンコウ様。私もこちら側の森の地形には、あまり詳しくはなく。ただ、今申されたように森の中に垂直に切り立つ岩壁(いわかべ)があるというのは、確かに以前聞いたことがございました………」

 

 ドルングは、森の中の岩壁の情報を以前耳にしたことがあったようだが、アンコウに聞かれるまで、まったく思い出すことがなかったようだ。

 

「………いや、仕方がない。お前が頭を下げる必要はないよ」

 

 ベジーのように、こちら側に婚約者がいるなど、よほど特別な事情がなければ、コールマルに在住しているものが、領境を越えてロワナ側に来ることはほとんどない。

 

 お役目で何度か行き来したことがあるドルングであっても、通るルートはいつも決まっており、こちら側の地理に精通しているはずもない。

 だからドルングを責めることなどできない。

 だが、次の策を考えている時間の余裕も、もうほとんど残っていない。

 

「………チッ、やべぇな」

 

 アンコウが状況の悪さに焦りだしていた その時、

マラウト様っ 代官様っ と少し離れたところにいた兵士たちの声が聞こえてきた。

 

 アンコウの近くにいた髭のない長身の男も、

「マラウト様っ」と、声をあげて駆けだした。

 その声と動きに反応して、アンコウもそちらに視線を向けた。

 

 そのアンコウの視線の先に、ロワナ領代官職であるマラウトの姿があった。

 

「お代官様自身のご登場かよ………」

 

 

―――

 

 

「皆、よくやってくれたな」

 

 自分の足で歩いているものの、未だ顔に濃い疲労の色を浮かべながら、ロワナ領代官マラウト=ゼバラその人が兵たちに慰労の言葉をかけていた。

 

 マラウトは47歳という年齢にしても、白髪が多く、顔に刻まれたシワも深い。

 田舎の良家の生まれにしては、苦労の歳月を忍ばせる容貌をしている。

 

 マラウト様ご無理をなさってはいけません

 代官様少しでもお体を休めてください

 と、戦闘で傷を負っている兵士たちもが、マラウトの身体を気遣っていた。

 

「へぇ、慕われてんだな……だけど、ここにいる全員が命を捨てたところで……」

 

 アンコウは、マラウトともに現れ、若干増えた兵士の数を数えてみた。周囲を軽く見渡しただけで、数えられるほど少ない。

 

( ,18,19……。19……代官入れてちょうど20……20対2千……これは無理ゲーだな………)

 

 天を見上げたアンコウは、この20人全員がカルミクラスの強さを持ち、相手がよくある田舎軍団だったら何とかなるかなと、ありえない妄想に逃げてみるが意味はない。

 

 

 アンコウがごく短い時間、妄想世界に逃げているうちに、戦っていた家来たちから簡単な報告を受けたマラウトが、アンコウのほうへと歩いてきていた。

 アンコウもそれに気づく。

 

(まぁ、こっちにも来るよな)

 

 アンコウは逃げることも自分から近づくこともせず、視線をマラウトに合わせて、その場にとどまっていた。

 そんなアンコウの横から、アンコウを守るようにドルングが一歩前に出た。

 

「……ドルング。かまわない、下がっていろ」

「しかし、アンコウ様」

「いいから」

「…はっ」

 

 そして、ドルングを後ろに下がらせたアンコウの前に、ロワナ領代官マラウト=ゼバラが立つ。

 

「部下たちが助けられたようだ。まず礼を言おう」

 

 現れてからの短い時間で部下たちに見せたマラウトの言動、その態度を見れば、彼がなかなかにできた人物であることは明らかだった。

 

(別に助けたわけじゃないんだけどな……そう思われている分には損はないか)

 

 敵の敵は味方。とりあえずこの瞬間はそういうことにしたアンコウは、肯定も否定もせず軽く目礼を返す。

 

「もうわかっているようだが、わしはマラウト=ゼバラという。このロワナ領の代官だ。聞けば、おぬしはかなり強い力を持つ旅の傭兵だそうだな。嘘は言わぬわしの部下が、このカラクにも伍するかもしれんと言っておったぞ」

 

 そう言ったマラウトのすぐそばに、巨漢の一人の戦士が立っている。

 このカラクという戦士は、まるで相撲レスラーのような体格に、かなり重量のありそうな甲冑をまとい、またその巨漢にふさわしい金属製の太く長い棍棒のような武器をたずさえていた。

 

 マラウトの言葉を聞いてアンコウは、得意の曖昧(あいまい)な笑みを浮かべた。これは悪い意味を含む笑みではなない。

 

 アンコウのこの世界における権力者に対する印象は、元の世界の比にならないほど悪い。

 そういう世界において、旅の傭兵を名乗っている自分に対するマラウトの対応は、素直に気持ち良いものがあった。

 今のアンコウの曖昧な笑みはそういう種類のものだ。

 

「おぬしの名は?」

 とマラウトがたずねる。

 

 そう聞かれて、初めてアンコウは少しまずったなと思った。

 

 アンコウはまがりなりにも隣領の領主だ。ここでは偽名を使ったほうが無難だろう。

 しかし、自分から名乗りはしていないが、先ほどの戦闘中から、ドルングが何度もアンコウの名を大きな声で口にしていた。

 当然、一緒に戦ったマラウトの部下たちには、アンコウという名を知られてしまっているだろう。

 

 仕方なく、まぁ大丈夫だろうと、

「私はアンコウと申します」と正直に名乗った。

 

 すると、アンコウを見るマラウトの様子がわずかに変わった。

 

 自分をジッと見つめるマラウトの様子に、アンコウも(いぶかしさ)しさを感じるが、アンコウが言葉を発する前にマラウトは少し離れたところにいた自分の部下の一人を手招きしてこちらに呼び寄せた。

 

 アンコウはマラウトの妙な反応に警戒しつつも、口を開くことなく、その場を動くことなく、マラウトの手招きに反応して近づいてくる男を見ていた。

 

(……ダークエルフか)

 

 近づいてきているダークエルフの男は、先ほどの戦闘には参加していなかった。巨漢の戦士カラクと同様、マラウトのそばについていたのだろう。

 

 アンコウより背は高いが細身で、身に纏っている防具・武具から察するに精霊法術専門ではなく、腰のレイピアを使った剣術を主体に、精霊法術を合わせて戦うスタイルの戦士なのだろう。

 それは、ダークエルフの戦士のスタイルとしてめずらしいものではない。

 

 近づいてきた そのダークエルフの男に、マラウトが何やら耳打ちをした。

 長い耳がマラウトの口元から離れ、次にそのダークエルフの男は視線をアンコウに向けた。

 

(何やってんだ。こいつら)

 

 そう思ったアンコウの目とダークエルフの男の目が、空中でバチリと合う。

 その瞬間、ダークエルフの男の目が大きく見開き、驚愕の表情に変わった。

 

 そして、

「アンコウ……コールマルの……」

 という小さな声が漏れ出た。

 

 小さな声であったが、その声は確実にアンコウの耳に届いた。

(!コイツっ)

 反射的にアンコウの目は鋭く尖り、魔戦斧を持ったまま思わず身構える。

 

 さらにそのアンコウの動きに、マラウトの横にいたカラクが反応し、戦棍の先をアンコウへと向け身構えた。

 そのカラクの動きを、マラウトが素早く、声もなく制した。

 カラクはわずかな時間静止した後、戦棍をもとの位置へとスゥーッと戻した。

 

 それを見たアンコウも、「チッ」と、舌打ちを漏らしながら構えを解く。

 

 アンコウから覇気が抑えられたことを確認したマラウトは、

「アンコウ殿()。なぜこんなところにおられるのかは知らぬが、今は我らが争っている場合ではない」

 と、抑えた低い声で言った。

 

「チッ」と、アンコウはまた舌打ちを一つ。

(~~信じられない。こいつら俺の名前も顔も知っていやがった)

 

 

 アンコウは推測する。

 コールマル領とロマナ領は隣り合っているとはいえ、その境には低濃度の魔素の森が広がっており、互いの交流は限定的で、また普通人主体の田舎軍団しか持たないため、互いの間に長年大きな(いくさ)は生じていない。

 だからアンコウは、自分の(めん)がロワナ側の者に割れているなど思っていなかった。

 

(だけど、こいつらは俺の顔と名前を一致させた。あの黒の長耳っ)

 

 自分の顔を見たときのあの黒の長耳の反応、あの反応は間違いなく俺の顔を見知っている者、名もあわせて知った者の反応だ とアンコウは断じた。

 

 諜報、密偵、草の者としての任務はダークエルフ族の十八番(おはこ)だ。

 アンコウがコールマル領主として領内に入ってからのそれほど長くない期間は過ぎていないのに、

 

(こいつら、その間にきっちり情報収集をしてやがったのかっ)

 

 なるほど、マラウトという男は代官として実に優秀である。

 

 アンコウの東洋人系の容姿の者もいないわけではないが、白人系やオリエント系の深い顔立ちの人間族が大部分を占めるこのあたりの地域では珍しい。

 また、アンコウという名前はもっと珍しい。国中探しても同名の者はいないかもしれない。

 

 そして、きちんとした情報収集をしているなら、当然アンコウが抗魔の力を保有する魔戦斧使いであることも押さえているはずだ。

 

(この黒の耳長は俺のことを知っていた。そしてマラウトは、その情報をこの黒の耳長から直接聞いていたんだろう)

 

 マラウトはアンコウの名前、容姿、その出で立ちからアンコウの正体を推測し、アンコウの顔を知る部下に確認させたのだ。実によい記憶力をしている。

 

「……あんた…どうするつもりだ?」

 アンコウは、マラウトに鋭い目つきを向け問いかけた。

 

「わははっ……」

 マラウトはアンコウの問いに、疲れの色が混じったわざとらしい笑い声で返し、再びアンコウをジッと見つめた。

 

「……おぬしとわしは今、同じ死地にいる。ともに戦うか、ともに死ぬしかあるまい」

「ふざけるな。俺は逃げる、その一択だ」

 

「チッ」 アンコウの口から漏れ出る舌打ちが止まらない。

 マラウトに対するものではなく、この状況の悪さに対する焦りだ。

 

 アンコウとマラウトが小声で話し出す。

 

「逃げることが不可能とは言わないが、あまりに時間がなかろう。我らはここに追い詰められた。

 おぬしは不幸にも、わしらが追い詰められた この場所に自らの足でやってきたのだ。逃げるにしても、戦ってその可能性を切り開くしかあるまい」

 

「ちぃっ。うるせぇ、わかってるよ。言われなくても敵陣を突破してでも逃げる。逃げの一手だって言っただろ」

 アンコウは、ついに内心の苛立ちを抑えきれなくなってきている。

「……くっ、あんたは自分の心配だけしてろよ。その体、ケガしてるんだろ。俺もあんたもオオカミに追いつめられた同じ鹿かもしれない。だが、俺のほうは逃げる足も戦う角もまだ健在だ。

 だけど今のあんたは違う。手負いの鹿はオオカミに狩られるしかない。それとも、この危機を脱する何か秘策でもあるのかい」

 

「……秘策はないな。ただ当たり前の策はあるぞ」

 マラウトは、えらく落ち着いた口調で言った。

 

 自然とマラウトの話の続きを待つアンコウ。

 

「先ほどから、援軍を待っている。

 ――ふっ、そう呆れた顔をするものでもないぞ。確かにグーシの愚か者が管理している土地はこのロワナにおいて大きい。動かせる兵の数もな。

 しかし、わしに味方する者たちも少なからずおるのよ。

 騙し討ちに遭いこのざまだが、このグーシの暴挙は最早周囲に知れ渡っておろうし、援軍の要請もこの少ない手勢を割いて、すでにおこなった。

 敵の手に落ちていなければ、それらの者も近隣の砦や駐屯地についているはずだ」

 

 アンコウの顔に怒りにも似た、呆れとも落胆とも判別べきない色が浮かんだ。

 

「……何言ってんだ。もう敵に追いつかれてるんだぞ。間に合ってないだろうが」

「はっはっは、そうだのう」

 

 のんきに笑ってんじゃねぇよと、アンコウが突っ込みを入れようとした時だった。

 

うおおおおーっ

 と、かなり近いところから、野太い時の声が響いてきた。

 

「マラウト様―っ!敵の部隊が来ますっ!早く馬にお乗りくださいっ!」

 

 状況が一気に動き出す。マラウトの護衛兵たちが、次々と馬に飛び乗る。

 マラウトも部下が引いてきた馬に、部下の肩を借りながら跨っていた。

 

 それを見て、

(あの様子じゃ、そう長くは馬に乗っていられないだろう)

 と、アンコウ。

 

 

「アンコウ様―っ!」

「!ドルング」

 

 自分を呼ぶ声に振り返れば、ドルングが先ほど戦った敵兵が乗っていた馬を二頭確保して、アンコウに近づいてきていた。

 

「アンコウ様っ!お急ぎくださいっ。次の敵がすぐそこまで来ていますっ」

「チッ!逃げるぞっ、ドルング」



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第113話 変わり身アンコウ

 木々が林立している夜の森の中であるにもかかわらず、アンコウは馬を走らせ続けている。アンコウは逃げているのだ。

 しかし、今のアンコウにとって逃げているというのは、戦っているというのと同義だ。

 

「死ねッッ!」

ザァアンッ!

「ぎやああーっ!」

ヒヒィィンッ!どざぁあんっ!

 

 アンコウは逃げながら戦い続けている。

 もう何人のグーシ兵の血を固く握りしめている魔戦斧に吸わせたのかもわからない。

 

「ちぃぃっ、くらえっ気弾っ!」

ボシュゥゥーッ!ボンッッ!

ぎやああっ!

 

 策など考える余裕もなく、次々に攻撃を繰り出していく。

 

(キ、キリがねぇぇっ)

 

 振り払っても振り払っても、次々に襲い掛かってくるスズメバチのように、敵兵がまとわりついてくる。

 

 ただ、ほんのわずかな救いは、約二十名の味方の戦士たちと共に、自然と一個の戦闘集団となって行動できていることと、少なくともここまでは、アンコウの予想以上に敵が弱いということだ。

 

 アンコウとしては、マラウトたちと共闘するつもりなどなかったのだが、あっという間に自分たちに追いすがる敵の数が増えて、単騎で、この乱戦か抜け出すことなどできなくなってしまった。

 

 気がつけば、

『あれこれ考えてる場合じゃない』という状況になっていた。

 

 

「アンコウ様ご無事ですかっ!」

 少し後方で馬を走らせているドルングが、大きな声で尋ねてくる。

 

 ドルングも、彼が乗っている馬も返り血を浴びまくっている。手に持つ剣で、何人もの敵兵を餌食にしていた。

 

「うるせぇっ!よそ見をするなドルングっ!やられるぞっ!」

「はいっ!」

 

 追いつめられたオオカミのごとく牙をむき出しにして暴れているのは、アンコウとドルングの二人だけではない。

 

 アンコウたち以上にマラウトの十九人の護衛兵たちは、まるで草を薙ぐように敵の命を刈り取り、これ以上(あるじ)マラウトに傷ひとつつけさせぬとばかりに、獅子奮迅(ししふんじん)の働きをみせていた。

 そこには彼らの命を懸けた主マラウトへの忠義の心が見て取れた。

 

(特にあの大男、強いっ)

 

 アンコウがそう評するのは、マラウトの側に控えていた超重量級の戦士カラクだ。

 

 アンコウは、カラクが巨馬の上から大きな金属製の戦棍(せんこん)を振り落とし、その一閃で4,5人の敵兵が無力化されるところを何度も見た。

 圧倒的な敵の数に押され、逃げるしかないアンコウたちであったが、今のところ最前線の局地的な衝突においてはアンコウとマラウト側が圧倒している。

 

 しかし、それにしてもだ、

(こいつら、ほんとに弱いな)

 というのが、アンコウの敵兵に対するここまでの感想だ。

 そうでなければ、逃げる小勢が追う側の敵の多勢相手に、ここまで圧倒できやしない。

 

 敵の攻勢をうけ始めてから、そこそこの時間が過ぎている。その間、森の中をアンコウたちは逃げ走った。

 しかし、敵は次から次へと押し寄せてくるわりに弱兵のままだ。

 

(こいつらロクに訓練も受けてない。マシなのは装備だけで、徴発された農民兵なみだ)

 

 実際にアンコウたちが斬り倒していっている敵兵士たちは士気も低い。

 後ろから追い立てられて、否応なく最前線に押し出されてきているような印象をアンコウはうけていた。

 

(田舎軍隊の中でも、かなり程度が悪い)

 

 グーシたち反乱軍としては、マラウトの首さえ取れば勝てる戦いだ。しかもマラウトを守る者たちは20人ほどしかいない。

 

 普通なら功を望み、腕に覚えがある者たちが我先にとマラウトに殺到してもいいはずなのに、やってくるのは士気が高いとは思えない弱兵の群れ、これはどういうことか。

 

(敵に強い力を持つ者が少ない……いや、それにしても、)

 

 ここまでにアンコウが斬り殺した者のほとんどが普通人兵であり、抗魔の力を保持している者でも、その力のほどはかなり弱く、アンコウは苦もなく倒すことができた。

 

(これだけの数の優位があって、何か策でもあるのか)

 

 敵が弱いぶんには大歓迎だ。しかし、何かの策にはめられているのではないかと、アンコウは一瞬心配したのだが、それも即否定する。

 

(いや、ちがうな。……たぶん、グーシ側の連中はビビりやがったんだ………このマラウトの周りを固めている護衛兵たちは、ロワナでは屈指の戦士の集まりのはずだ)

 

 ここまでの戦いっぷりを見れば、カラクをはじめとするマラウトの護衛兵たちが、このロワナやコールマルのような田舎においては、間違いなく強者に分類される戦士たちであることは明らかだ。

 

 グーシ側にも、抗魔の力を保持する者はそれなりにいるはずだ。

 しかし、彼らはマラウトの身辺を守る者たちの力量を恐れ、個人の功名を追い求めることはせずに、犠牲者が増える覚悟で数の力で押しつぶすことを選択したのだとアンコウは見た。

 

(返り討ちにあって、自分が死んじまったら仕方がないとはいえ、マラウトの首を自分が獲るという功績を皆して放棄したのか)

 

 功名乞食(こうみょうこじき)にもなれないほどの弱兵の群れであるならば、こんな有難いことはないと、アンコウはそうであってほしいと願った。

 

「……ならば、いま前線に出てきているグーシ兵の中には、カラク以上の力を持つ者はいないかもしれない」

 

 敵の中に、自分以上の強者がいないことは、アンコウにとって僥倖(ぎょうこう)だ。

 

(後の問題は数だけ。だけど……)

 

「その数が確かに厄介だっっ、セイイッ!」

ズガッッ!

「ぎやああっ!」

 

 アンコウたちに向かってくる敵の数は、まだ当分減りそうもない。

 ツゥンツァイの豊かな森。その木々の心癒す緑の匂いや豊饒な土の匂いよりも、今は人が撒き散らした血の臭いのほうが強く漂っている。

 

 

「マッ、マラウト様っ!大丈夫でございますかっ!?」

 

 護衛兵の一人が大きな声をあげた。その兵士が騎馬のままマラウトに近づいていく。

 

「だ、大丈夫だ。持ち場に戻れっ」

「し、しかし」

「よいっ、…戻れっ!」

「ハ、ハッ」

 

 その光景を視界の端で見て、

アンコウは、「チッ」と 舌打ちを漏らす。

 

 敵が弱兵ばかりを押し出してきてくれているおかげで、今のところマラウト側の兵士には一人の死者も出ていない。

 しかし、一人だけ明らかに様子がおかしくなってきている者がいた。

 それは、こちら側の大将、ロワナ領代官マラウトその人だった。

 

「……くそっ。あれはマズいな、体力的に限界が近づいている」

 

 アンコウだけの思いではない、おそらくここにいる誰もがそれを感じ取っていた。

 

 アンコウたちを含め、ここにいるマラウト側の人間の中で、抗魔の力を有していないのは代官マラウト一人だけ。

 その上、ケガのダメージが蓄積されたままで、この逃亡劇を演じている。

 何とか馬を走らせ続けてはいるものの、マラウトの体がふらりふらりと揺れ始めていた。

 

「チッ、足手まといな奴だ」

 

 アンコウは、その一言で吐き捨てるが、マラウトの兵士たちは当然そういうわけにはいかない。

 

 彼らにとっては、マラウトこそが命を捨てでも守るべき存在であり、自分が生き残ってもマラウトが死んでしまえば何の意味はない。

 自然と徐々に馬を駆る速度が全体的に落ちてくる。

 

 

ズザァン!ぎゃああーっ

 アンコウの魔戦斧が、また一人の兵士の頭をたたき割った。

 

 彼らと行動を共にしているアンコウも、同様に馬の速度を落とさざるをえない。

 

 アンコウはマラウトの護衛兵たちとは違い、マラウトが死んでも自分が逃げることができればそれでいい。

 何ならマラウトを撒き餌にして逃げることにも躊躇(ためら)いはない。

 

 しかし、今は周囲を敵に囲まれ過ぎている。

 マラウトたちの集団から離れれば、それだけ一人で相手をしなければならない敵兵の数が増え、それに時間を費やしているうちにマラウトたちがまた追いついてくる。

 

 まるで、自分が率先してマラウトのために戦っているような状態になるだけだ。

 

「……辛抱、辛抱だ。もう少し、もう少し敵を倒せば、必ずマラウトたちの集団から抜けても、逃げることができる道が開けるはずだっ」

 

 敵の数は確かに多い。しかし、自分たちはここまでにかなりの数の敵を倒した。

 にもかかわらず、未だ敵は最前線に弱兵しか出してこない。

 ならば、もう少し味方が惨たらしく殺されていく姿を見せつけてやれば、いずれ敵の肉壁兵の群れに崩れが生じるに違いないと、アンコウは自分に言い聞かせながら魔戦斧を振るい続けた。

 

(焦るな、焦りは禁物だ。敵を斬り続けるんだ)

 

 

 

 (はや)る気持ちを抑えて、戦い続けたアンコウの辛抱がついに実る。

 

「おっ!?」

 

 アンコウの右手前方に視界が広がったのだ。間が空くことなく続いていた敵兵の攻撃に、ついに隙が生じた。

 

(!よしっ!)

 アンコウはその隙を見逃すことなく、一気にその方向に馬を駆る。

 

「いけっ!」

バシッ!ヒヒイィンッ

 バカラッバカラッ!

 

 アンコウは周囲にいた敵兵を一気に引き離す。

 

(よし、よしっ、抜けたぞっ。この方向には、敵の追撃が間に合っていないっ)

 

 その時、ようやくアンコウの行動に気づいたドルングが―――

「アンコウ様っ お待ちをっ」 と声をあげた。

 その声はアンコウの耳にも届いたが、この状況でドルングを待つ気持ちはない。

 

 ただそれでも、わずかにドルングを気遣う心が動いたのか、アンコウは声が聞こえた後方に首だけを向けた。

 そのアンコウの視界に、アンコウの後を追い馬を走らせるドルングの姿が、木々の(あいだ)のかなり後方に、わずかに見え隠れしていた。

 

「まぁ、がんばってついて来いよ、ドルング」

 

 しばしドルングの様子を目で追ってはいたものの、やはりアンコウはドルングを待つという選択はしなかった。

 アンコウはさらに馬の速度を上げるべく、前方に視界を戻した……その瞬間、前方から自分に向かって、かなりの速度で飛んで来る物体が視界に入った。

 

「!なっ」

ヒユゥーンッ!

「矢かっ!くそっっ!」

ギィィンッ!

 

 アンコウはとっさに戦斧を振るい、矢を弾くことに成功した。

 しかし、不意を突かれたアンコウは大きく態勢を崩し、手綱から手が離れ、その体も馬の背から離れてしまった。

 しかも、そのアンコウに向かって、次々と矢が飛んできていた。

 

「ちぃぃっ!」

ギィンッ!カンッ!キィンッ!

 

 アンコウは体が宙に浮きながらも、巧みに矢を弾き、地面に着地。着地と同時に木の影へとダイブした。

 

ヒィィンッ!ドォサアンッ!

 アンコウが乗っていた馬には何本も矢が突き刺さり、地面に転がり倒れ伏す。

 

「ちぃぃっ!くそったれっ!」

 

 大きな木の幹に隠れながらアンコウは怒りの言葉を吐き出した。少し離れた場所に弓兵が伏せられていたようだ。

 

「こんな下らねぇ策は思いつきやがるのかっ、こいつらはっ!」

 

 アンコウに放たれた矢の勢いは強く、明らかに抗魔の力を持つ者が放ったと思われる攻撃だった。

 グーシの反乱軍は、力ある者を直接マラウトの首を獲りにいかせるのではなく、矢を持たせ遠距離攻撃に使ったようだ。

 

「くっだらねぇ!ほんとくだらねえっ!二千対二十で普通使う策じゃないだろうがっ!」

 

 しかし、まんまとその下らないに策にハマったアンコウだ。

 その自分に対する何とも言えない居心地の悪い感情が、そのまま怒りに転換しているようだ。

 

「ちくしょう……」

 

 アンコウはジッと飛んでくる矢が止まるのを待つが、なかなか止まらない。

 

「チッ。連中、目くらめっぽうにうっていやがる」

 

 これは、いま矢を撃ってきている兵たちの指揮がお粗末な証拠だ。

 実際この矢はアンコウが隠れているところを狙ってるとは思えないし、当然、マラウトたちのところには全くとどいていない。

 

「こんなポンコツ攻撃に俺はハマったのか……」

 赤面もののアンコウだ。

 

「ただ、これは本格的にまずいな……」

 

 アンコウの表情に強い焦りの色が浮かび始めていた。

 今の状況で、アンコウが敵軍の配置や動き全体を正確に把握するのは不可能だが、ポンコツ攻撃とはいえ、明らかに自分たちに対する包囲網が二重三重に出来上がりつつあることがその攻撃からうかがえた。

 

(たぶん、あの茂みの向こう側にいる弓隊を突破しても、その後ろにもいるな。……それでも、敵もマラウトがいる位置はもう把握しているはずだし、俺一人突っ込んで突破すれば、逃げ道を開くことができる可能性はある。

 ただ、成功するかどうかは完全に運次第だ……)

 

 アンコウは、ふぅーっと、大きく息を吐く。

 アンコウはここまで、極力手傷を負わない様に注意して戦ってきた。

 

(ここを強引に突破しようと思えば、さすがに無傷じゃすまないだろう)

 

 元々アンコウには全く関係のない戦いだが、今となってはそんなことを言って許してくれるグーシの兵は一人もいない。

 アンコウは、はあぁぁーっと、大きく息を吐き出して覚悟を決める。

 

(仕方がない。迷っている時間が長くなればなるほど状況は悪くなるだけだ。

 何とかこの包囲を突破して、ここを離れる。その間に、あのマラウトって代官が首を獲られたら誰も追ってこなくなるだろう)

 

 アンコウがちらりと振り返ると、まだこちらに近づくことができず、矢のとどかない場所で剣を振るっているドルングの姿が小さく見えていた。

 

(……逃げるだけだからな。この状況で、一人が二人になっても大差はない。生きてればドルングのやつは追ってくるだろう。

 ……よし、矢の勢いがおさまったら一気にいくっ)

 

 他人の喧嘩でケガをするのは馬鹿らしいと、逃げることを第一に考えて今一つ戦闘自体には力が入っていなかったアンコウの目つきが変わる。

 アンコウは大木(たいぼく)の影に身を潜めながら、魔戦斧との共鳴を高めていく。

 

「ひひっ、邪魔な奴は全員ぶっ殺してやる」

 

 矢はまだ飛んできているが、落ち着いてみれば大して怖くはない。

 矢は確かに速い。しかし、森が光って見えているアンコウには、はっきりとその矢の軌道は見えているし、不意を突かれなければ、あれが自分に当たるとは思えなかった。

 

「しかも、手あたり次第()を撃ち込んでいるだけで、技術も練度も足りてない……冷静にやれば何とでもなる」

 

 気合を入れなおし、集中力を高めて、敵に突っ込むタイミングをうかがう。

 

「ん!?」

 その時、アンコウの知覚が森の空気の変化を感じ取った。

 

(……何だ?まだ微かだが、遠くから響いてくるこの振動。……まさか敵の一斉攻撃でも始まるのか)

 

 今にも突撃を敢行しようと腰を浮かしていたアンコウが、再び物陰にしゃがみ込んだ。

 そのアンコウの耳に、徐々に大きくなってくる振動とかすかな悲鳴が、夜の冷気と共にとどけられた。

 

(!?どこか別の場所で戦闘が起こっているのかっ。これは……敵の一斉攻撃じゃないっ……)

 

 

 しばし様子をうかがいながら考えを巡らした後、アンコウの口角がニタリとあがる。

 アンコウは、遠くから聞こえてくる悲鳴は、おそらくグーシ軍のものだと察知した。

 

 マラウトやアンコウたちを取り囲むように攻撃し、追い詰めてきている敵のさらに外側から、奴らを攻撃する者が現れたのだと。

 

「……この地面を伝わってくる振動、かなりの速さでこっちに近づいてきている」

 

その時、

 ヒユユウゥゥーーッーーパアァーンッ!

 

 光の尾を引く光球が空にあがり、夜空の星よりも明るい光を発しながら()ぜた。

 それは、アンコウがいる場所より少し離れたところ、 マラウトたちの一団がいる辺りから打ち上げられた。

 

「……精霊法術が閃光弾代わりか。派手だな」

 

 アンコウが眩しげに、その夜空で爆ぜた光を見上げている。

 

 閃光弾代わりに精霊法術を夜空に向かって発動したのは、マラウトの護衛兵の一人だろう。

 マラウトの護衛兵の中にはダークエルフやドワーフの姿もあり、ここに来るまでに彼らが精霊法術を使い、群がる敵を排除していく姿をアンコウは見ていた。

 

 何のために放った閃光弾か、間違いなくマラウトたちも、この戦場に生じた状況の変化に気づいたのだ。

 

「おそらく、援軍、だな……ほんとに来やがったのか」

 

 マラウトが期待していた援軍が、どうやら本当に来たらしい。

 そいつらに、より正確な居場所を教えるために閃光弾を放ったんだと推察し、アンコウの顔にも喜びの笑みが浮かぶ。

 

 そのまま木の陰に隠れながら、アンコウが様子をうかがう時間が長くなるにつれて、地面を揺るがす振動は大きくなり、悲鳴、罵声の声も大きくなっていった。

 そのうちに、アンコウの周りを飛びかっていた矢の数が、明らかに少なくなっていく。

 

(……よし、ここらでいいだろう)

 

 今だと、意を決したアンコウが一気に大木の影から飛び出した。

 矢が飛んできていた方向に向かって一気に走るアンコウ。速い。

 弾丸よりも速くとまではいかないが、矢よりも速いのではないかと思わせるスピードで突き進んでいく。

 

 そのアンコウに向かって、数は少ないながらも、ビュンッ ビュンッ!と、矢が襲いかかってくる。

 それを、ギィンッ ギィンッ! とアンコウは魔戦斧で弾き返す。

 

「そこかっ!」

 その攻撃は、逆にアンコウに正確な敵の位置を教えることになる。

 

 アンコウは一気に接近をはかり、

ザァンッ!「ぎやああっ!」

 キンッ!カンッ!ザグッ!「うがああっ!」

ヒュンッ!ドォォオンッ!

 

 金属音が響き、悲鳴が聞こえ、怒声が続く。

 風がうなり、土ぼこりをあげ、爆音が響き渡る。

 

(さっきまでの奴らよりは強い。だけど、十分やれるっ!)

 

 アンコウが突っ込んだ場所にいた敵の数は思ったよりも少なかった。

 かなりの数がすでに移動したようだ。

 

(北のほうで大きい衝突が起こっている。たぶん、そっちの戦いに回されたのか)

 

 アンコウは敵を斬り裂き、精霊封石弾を投げつけ、敵の死体を増やしながら森の中で少し高くなっている場所まで駆け抜けた。

 

――――――

 

「……!見えたっ!」

 

 盛りあがった土の上に立つと、アンコウの目にもう一つの戦場の景色が見えた。

 マラウトの援軍と思われる馬群が、森の中を走っているとは思えない速さで、連なる矢のように突き進んでいく。

 

 その進行方向にいるグーシの兵たちは斬り倒され、弾き飛ばされ、その進攻を食い止めることができない。

 

「……三、四百騎はいるな。真っすぐ閃光弾があがった方向に進んできている。まず間違いなくマラウトの援軍だろう。グーシのポンコツ兵団よりは、ずいぶんとマシみたいだ」

 

 目を細めて、さらにアンコウは遠くの森へと目をやる。木々が揺れ、鳥が騒いでいるのが見える。

 

「……その奥にもまだいそうだ。マラウト側の援軍の後続か、歩兵中心の部隊かもな。あれと合流できれば、命がけの戦いは仕舞いにできる」

 

 さてどうするか と、アンコウは考える。

 

 

パカラッパカラッ!

「アンコウ様っ!」

 

 ドルングだ。敵に行く手を阻まられ、一時アンコウの姿を見失っていたドルングがようやく追いついてきた。

 

 アンコウもドルングの接近に気づいていたが、わざわざ振り返ることなく、今も刻々と近づいてきている前方の戦いに注視し、何やら考えを巡らしている。

 

「……アンコウ様、」

 ドルングがまだ息の荒い馬の背から降りようとすると、

「まて、降りるな。必要ない」

 アンコウが制した。

 そしてアンコウは、くるりと身をひるがえす。

「ドルング行くぞ」

 と言い、なだらかな坂道を駆け上ってきた方向に、再び下り降り始めた。

 

「!アンコウ様、どこへっ?」

「マラウト殿()たちのところへ戻るぞ!」

 

 そのままアンコウは、敵の死体を避けながら全力で坂を駆け下り、坂の下で主をなくしてうろついていた駄馬に飛び乗って、馬を駆る。

 

「アンコウ様っ!」

 今度はドルングも遅れることなくアンコウについてきていた。

 

 ついさっきまでマラウトに敵を引き寄せて、その隙にこの戦場からの脱出を図っていたアンコウだが、今またそのマラウトの(もと)へと全力でひた走っていた。

 

(このままあっちの戦場に突っ込んでいったらやばい。俺はどっちにも敵認定されてしまう。だけど、今マラウトと合流すれば、あの援軍は間違いなく俺の味方にもなる。

 あれと合流できれば、この危地を脱出できる可能性は間違いなく高まるだろう。敵は数だけのポンコツが主体みたいだからな。

 それにマラウトの奴は、なかなかの人格者気取りだった。

 俺の正体を知ってるのは間違いないだろうし、ああいうタイプは味方のふりをしておけば、それなりの待遇をしてくれそうだ。

 ならば、いま俺がすべきこと……まずは全力で味方のふりをすることだっ)

 

 アンコウは魔具鞄の中を(まさぐ)る。

 

「せいっっ!」

 アンコウは取り出した精霊封石弾を全力で天高く放り投げた。

ドオオォンッ!

 暗い夜の空に、火の玉が生じる。

 

 そして、アンコウは大きく息を吸い込み、

「マラウト殿っ!援軍を連れて来たぞっっ!」

 夜の闇が震えるような大声で叫んだ。

 

 むろん、近くまで来ている援軍とアンコウは何の縁もゆかりもない。何となく自分が連れてきたように見えればそれでいいのだ。

 

 そのアンコウの叫び声を聞いたドルングは、自分(じぶん)が忠節を尽くすべき主君であるコールマル領主アンコウの背中を実に複雑な眼差しで見た。

 自分の意思とは関係なく最近仕えることになった この主君のことを、ドルングはまだそこまでわかっていない。

 

 アンコウの変わり身はとても早く、自分の得になるのなら、恥も外聞も知ったことではないのだ。

 

「マラウト殿っ、いずこにおられますかっ!」

 

「アンコウ様………」

 

 バカラッバカラッ!と、アンコウとドルングは、戦場の真っただ中、馬を走らせ駆け抜けていく。



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第114話 勝ち馬に乗れば、怠惰な生活

「アンコウ様っ」

 ドルングは、馬をアンコウの真横につけて話しかける。

 

 アンコウが探していたマラウトとその仲間たちの一団は、もうすぐ近くに見えていた。

 

「どうした、ドルング」

 アンコウは、まったく馬の速度を落とすことなく言葉を返した。

 

「あ、あまりにもあからさますぎるのでは。私たちが援軍を連れて来たのではないのは明らかですし」

 

 ドルングはあまりに見え透いたアンコウの変わり身が、マラウトたちの不興を買うのではと心配していた。

 

「チッ。いいんだよ、そんなことはわかってる。でもな、俺たちは今のこの状況を切り抜けてコールマルに戻ることができれば、それでいいんだ。

 あからさまでも上っ面でもかまわない。マラウトたち相手に分厚(ぶあつ)い面の皮はりつけて、俺たちは味方だってデッカイ声張り上げていればそれでいい。

 この場をしのげれば、それでいいんだ。連中の味方で、ここを切り抜けることができれば、俺たちは問題なくコールマルに戻れるはずだ。それ以外のことは、どうでもいいんだからよっ」

 

 アンコウはそう言うと、ハアッ!と、声を出しながら、さらに馬に気合を入れた。

 アンコウの乗る馬が土を跳ね上げ、速度を上げる。

 

「アンコウ様っ!」

 

 ドルングも慌てて馬の速度を上げアンコウの後についていった。

 二人はそのまま真っすぐに、マラウトたちがいる所へと突っ込んでいく。

 

そして――

 マラウト殿っ 助けに来たぞおおーっ ――アンコウの大音声が森に響いた。

 

 

―――――

 

 アンコウたちは問題なく、マラウトたちの集団に受け入れられた。

 そして、その後、戦況は大きく変化した。 

 

 アンコウとドルングは、『助けに来た、援軍を呼んできた』と大声で叫びつつ、周囲にいるグーシの敵兵を斬り倒しながら満面の味方面(みかたづら)を貼り付けて戦い続けた。

 

 そのアンコウたちを見て、多少眉を(ひそ)める者たちがいても、アンコウとドルングの持つ戦闘能力を思えば、未だ窮地にいたマラウトが総大将の判断として、アンコウたちを拒否するという選択肢はなかった。

 

 そして、アンコウたちの再合流後半刻(はんとき)もしないうちに、アンコウが丘の向こう側に見たマラウト救援の騎馬部隊と、それに続く歩兵部隊が森の木々を斬り裂くかのような勢いで次々に現れた。

 

 グーシの反乱軍は、またもや千載一遇(せんざいいちぐう)の機会にマラウトの首を獲り損ねた。

 これが、この戦いの大きな転換点となった。

 

 

 

 

「な、何をしているのだ!どうなっているっ。マ、マラウトの首はどうしたっ!」

 

「グ、グーシ様っ。敵の突撃部隊に加え、戻ってきた騎馬部隊が我が軍の横腹に突っ込んできたようです!」

 

 マラウトを救出に来た援軍の数は歩・騎兵合わせて、およそ七百。グーシ側の約3分の1に過ぎなかったが、その質と戦意はグーシ反乱兵をはるかに勝っていた。

 

 グーシは馬上にあり、周囲を護衛の兵士たちに囲まれている。そして、その全員の表情が険しい。

 敵兵は未だグーシたちがいる場所までは到達していないものの、もうかなり近いところから戦いの騒々しい音が聞こえてきている。

 

「マ、マラウトはどうしたのかと聞いているのだっ!」

 

 グーシの荒げた声も、彼の中の焦りと苛立ちそのものをさらけ出している。

 

「……首級はあげられなかったようです。おそらくはすでに現れた援軍とともに行動しているかと」

 

「こ、この役立たずらめがああーっ!」

 

 いくら大声で怒鳴ったところで、戦場の状況が変わることはない。

 グーシには何度も何度も、兄マラウトを打ち取る機会があったのだ。戦女神がグーシを袖にしたわけではない。

 己の指揮官としての無能さが、手の平の中にすくい取った大いう結果を生んだ。

 

 しかし、グーシ陣営の中にも冷静に今の状況を判断できる者はいる。

 グーシの近くにいる武将格の男がひとり、騎馬のまま進み寄ってきた。

 

「グーシ様」

「何だっ、レイガルかっ」

 

 苛立ちを隠せないグーシと違い、進み寄ってきたレイガルと呼ばれた武将は比較的まだ落ち着いている。

 

「敵に勢い有りといえども、まだまだ数の上では我がほうが勝っております。代官が援兵の懐の中に入ったとしても未だこの近くにはおりましょう。

 今こそ全軍をあげ、一丸となり突撃を仕掛けましょう。まだ、代官の首を獲る機会はあります」

 

 それを聞いたグーシの側近の一人が口を挟む。

 

「しかしレイガル殿っ、もはやマラウトめの所在は把握できていませんぞっ。この混戦でいたずらに兵を進めれば、敵の罠に(はま)り、グーシ様の身に敵の刃が及ぶようなことにもなりかねんっ」

 

 レイガルは、その側近の言葉に実に(わずら)わしそうな顔をしたが、グーシの子飼いの部下であった その側近を無視することはできなかった。

 

「……戦場に完全な安全地帯などありますまい。ましてや、このような事態になれば、どれほどの危険を背負っても、ここで代官の首をあげておかなければ取り返しのつかないことになりますぞ」

 

「何と無責任なっ、殿を危険に晒せとはっ。

 グーシ様っ、一旦この場を退くべきです。本拠地に戻られれば、まだ新たな兵を集めることができましょうし、周囲から我らの味方に馳せ参じる者も多くいるはずっ。マラウトのような劣等者の代官に誰が味方しましょうかっ」

 

 二人の言い分を聞いて、グーシは「むむむむぅ」と唸っている。決断ができないのだ。

 

 よくこのようなざまで謀反など起こせたものなのだが、グーシにおもねることしか能のない側近たちがこの舞台を用意し、それを自分の発案のように乗っかり、まるで物語の主人公のような心持ちで戦場にやって来たグーシだ。

 膨れ上がった虚栄心と自負心だけで行動し、現実的な計算は何もできていなかったようだ。

 

 グーシが決断できずに悩み続けている間にも、戦況は動き続ける。

 

ドオオォンッ! どこからともなく飛んできた精霊封石弾が地に落ち爆ぜた。

 グーシたちがいるすぐ近くだ。

 

 地面が爆ぜたすぐ近くにいた兵士とその馬が派手に吹き飛ぶ。飛び散った土や血が、グーシの頭上にも降り注いだ。

 喚声、爆音、馬蹄の響き、剣戟の響き、マラウト側の突撃部隊がすぐ近くまで迫って来ていた。

 

「ひっ!」

 顔を真っ青にしたグーシが、馬の手綱を引き絞り、くるりと馬首を返した。

 

 そのままグーシは何の命令も下すことなく、馬の腹を強く蹴り、全力で走り出した。グーシはこの戦場からの撤退を選択したようだ。

 

「グーシ様っ!お逃げなさるのかっ!」

 レイガルがグーシの背中に向かって、非難めいた声をあげる。

 

「レイガル殿っ!言葉をひかえられよっ!これは戦略的撤退だっ!」

 

 グーシの側近たちはレイガルを叱責すると、次々にグーシの後を追って馬を駆りだした。

 あっという間にレイガルの周りから、グーシとその側近たちの姿が見えなくなった。

 

 

「……何と情けない。あのような男だったとは……」

 

 レイガルはグーシたちが逃げ去った場所で、グーシ側についたことを心から悔いていた。

 

「くくっ、無念だ」

 

 そして、レイガルのような戦う意志のあったグーシ側の戦士たちも、次々に戦場から逃げ出していった。

 

 

――

 

 

 一方アンコウは、

 

(ハデに煙が上がっている。あの方向は確か、敵の本陣があるっていっていたほうだな。……距離的にも間違いなさそうだ)

 

 アンコウは馬を走らせながら、森の木々の上に立ち上る煙を視認していた。走る馬は、その煙が上がっている方向に尻を向け、真逆の方向に駆けている。

 

 そのアンコウのすぐ前方には、マラウトを乗せた馬が走っている。

 マラウトはひとり馬に乗っているのではなく、マラウトの後ろにもう一人ガタイの良い鎧兜の男が馬にまたがり手綱を握っていた。

 

 そのマラウトとアンコウたちの周囲には、百近い護衛の兵たちが取り囲むように並走していた。

 

「アンコウ様、どうかなさいましたか」

 アンコウに話しかけてきたのはダークエルフの男だ。

 

 彼はマラウトのすぐ近くで、ずっとここまで付き従ってきた男であり、先刻、アンコウの正体を見抜いた男だ。

 

 今マラウトを護衛している百余りの武人たちには、アンコウの正体が隣領コールマルの領主で、自分たちの味方であることが、マラウトより直接伝えられていた。

 ゆえに今はアンコウもマラウト同様に、彼らにとって護衛の対象となっており、アンコウもその状況を受け入れていた。

 

 彼らにしてみれば、なぜ今この場所に隣領の領主がいるのか皆目見当はつかなかったが、主であるマラウトの味方であり、その(マラウト)よりアンコウを守るよう命令されれば、それに従うのみである。

 

「もう、あの突撃部隊が敵の本陣に到達したのかと思ってな」

 

 グーシの本陣に突撃した部隊の中には、マラウトを救出に来た兵士の大部分が合流していた。

 

 アンコウは、自分たちに直接攻撃を仕掛けてきたグーシ兵の弱兵ぶりを見て、抗魔の力を持つ強兵たちは、後方のグーシの本陣近くに配置されているのではないかと推測していた。

 だから、さすがにあの煙が上がっている地点に到達するのは少々骨だろうと思っていたのだ。

 

「……あの反乱軍はそんなに力を持っている者が少ないのか。本陣の主力まで普通人兵なのか」

「いえ、賊将グーシをはじめ、本陣には抗魔の力を持つ者が少なからずいるかと」

「にしては(もろ)過ぎやしないか」

 

「いえ、おそらくグーシ本人が逃げだしたのでしょう。あの男は自尊心の塊ながら、その反面実に胆力がない。

 そして、本陣を固めている強者(つわもの)たちは皆、グーシを守ることを任務としている兵たちです。グーシが動けば彼らも動く。それだけのことかと思います」

 

「………そうなのか」

 

 まさにポンコツ兵団。アンコウの反乱軍に対する評価は完全に固まった。

 もうどっちにつくのかとか、どうやってひとり逃げ出すのかということは考える必要はなく、このままマラウトについていけばよいと最終判断をした。

 

(マラウトの奴もだいぶ疲弊してはいるが、命の心配をするような怪我じゃない。俺の扱いも悪くないし、油断は禁物だけど、変に利用される心配もないだろう。

 後は少しでも多く恩を売っておくべき)

 

 アンコウは馬の手綱を引き絞り、その速度を落とす。

 

「せいっ、」

 ズルズル後退していくアンコウに、話をしていたダークエルフの男が声をかける。

 

「アンコウ様っ。どうされましたか!」

殿(しんがり)を務めさせていただこう!」

「なっ!アンコウ様にそのようなことをさせるわけにはいきませんっ!」

「皆疲弊しているようだ。兵の数も多くはない。隣人としてマラウト殿のため、その程度の働きはしないとなっ!ドルング行くぞっ!」

 

 アンコウの呼びかけに、ドルングが はっっ! と間髪入れずに答え、二人は後方に下がっていく。

 それを見ていたマラウトの兵たちのあいだに、ささやかながら熱い感動の思いが湧きあがってくる。

 

「アンコウ様……」

 

 困ったときの友こそ真の友。つまり困っている人間の心には、つけ入る隙が多くあるということだ。

 

「……へへっ、悪くない反応だな」

 アンコウは後退しながら、注意深く周りの反応を確認していた。

 

「アンコウ様っ、このドルング。命に代えてもアンコウ様をお守りしますっ!」

 

 若干アンコウの評価が下がりつつあったドルングの中でも、アンコウのこの行動により、再び評価があがってきているようだ。

 しかし、アンコウはそんな気合の入ったドルングを見て、

冷静に考えろよ。そんなに危なくなることはないだろ と声に出さずに思う。

 

 敵は間違いなくポンコツ兵団だ。それに、本当に敵の本陣が撤退を始めたのだとしたら、間違いなく間もなく敵の全軍が混乱し始め、統制を失う。

 

(今でも、さっきまでと比べれば、これだけまとわりついてくる敵兵は減っている。

 それに加えて、自分たちの大将が逃げだしたとしたら、独自にマラウトの首を狙ってくる気概のあるやつがこのポンコツ反乱軍の中にいるかどうか、その可能性は低いだろうな)

 

 それに殿(しんがり)と言っても、アンコウはマラウトの周りを取り囲むように展開しているおよそ百の兵士の最後尾につけるだけのつもりだ。それを殿(しんがり)と呼んでいいものかどうか相当怪しい。

 しかし、そんなことはアンコウにとってどうでもいいこと。

 

(まぁ、この後のことを考えてのイメージアップ作戦の一環だからな)

 

 

 アンコウはそのまま最後尾に馬を移動させ、森の中を走り続ける。

 今宵の月の明かりは力強い。むろんそんな光がなくとも、森自体が光って見えるアンコウに夜の闇が障りとなることはない。

 

 

 そして、その後もアンコウの予想通り、敵が集団で攻撃を仕掛けてくることはなかった。

 ただアンコウは、時折混乱している敵の小勢を見つけるたびに、

 

「マラウト殿には指一本触れさせないっ!」

 

 と、叫びながら、敵兵を派手に己が魔戦斧の錆にしていった。

 

 

 

 

 ロワナ領カナン。カナンは領主の居館があるロワナの中心城市である。

 中心城市とはいっても、その規模はコールマルのハリュートと同じぐらい、田舎の大きな町だ。

 

 また、領主の居館とはいえ、このロワナの正式な領主であるグローソン公ハウルの有力家臣ハナモンは、この所領には一度も来たことがなく、当然、このカナンの居館の実質的な主は、領主代官であるマラウト=ゼバラその人であった。

 

 

「今日は小春日和だなぁ」

 アンコウが少し眩しそうに空を見上げながら言った。

 

 アンコウは今、カナンの領主館の別館、その一室に滞在している。

 あてがわれた豪華な部屋のルーフバルコニーに椅子を置き、気分良さそうに新鮮な果物を頬張っている。

 

 ロワナもコールマル同様、山に囲まれた土地で明け方などはかなり冷える日もあるのだが、雲一つない空に太陽が昇れば、実にポカポカした陽気になる季節だ。

 

パチッ

 丸テーブルをはさんで座っているドルングが、盤上の駒を一つ進め、アンコウの桂馬を取る。

 

「っと、そうきたか」

 

 アンコウは手に持っていたブドウの(ふさ)を皿の上に戻し、盤面をにらんで、ムムムと頭をひねる。

 

「……あの、アンコウ様」

「んん~、なんだドルング」

 

 アンコウはドルングの呼びかけに答えるが、盤面から目は離さない。

 

「あ、あの、本当にしばらくここに滞在するつもりなのですか」

「ん?ああ、まぁな。問題ないだろ、ひと月やふた月俺がいなくたって」

 

 アンコウがこの館に滞在して、今日でちょうど10日目。

 他人の喧嘩にこれ以上巻き込まれるのはまっぴらごめんと、初めは早々にロワナから退散するつもりのアンコウだったが、マラウト軍の警護をうけているうちに、このカナンまで同行してしまった。

 

 着いてみれば、このカナンには全く戦乱の気配などなく、代官マラウトの危機に現れ、その救出に尽力した隣領の領主ということで、熱烈な歓待を受けたアンコウだ。

 

 むろん、隣領の領主が供の者を一人だけ連れて、なぜこのロワナに突然現れたことについては、かなり(いぶか)しがられた。

 

 アンコウはそれに対し、

『個人的に親しい部下が一人、このロワナ領内にある村に婿入りすることになった。その者の見送りに身分を隠して、ロワナに来たのだ』と、言った。

 

 これも十分に(いぶか)しい話なのだが、アンコウはその部下との関係については、わけあって詳しいことは話せない。

 だが、このロワナに対して害意は全くないと説明した。

 

 それなりに真実もちりばめてアンコウは話を作っているが、ロワナ側にすれば、どう言われても(いぶか)しい話であることに違いはない。

 

 しかし、アンコウがマラウトを救出するために共にグーシ兵と戦ったという事実と、それ以上の詮索は大切な客人に対して失礼であると代官マラウト自身が制したため、それ以降アンコウに対して、そのことを詮索してくる者はいなくなった。

 

 

「しかしアンコウ様。今このロワナは、いわば内乱状態。もしこの町が襲われでもしたら」

「それはないな、ドルング。お前もそれなりに情報を集めているんだろ?マラウトがグーシに負けると思うか?」

「はっ、確かにそれは……」

 

 アンコウはこのカナンに来て十日。グーシはマラウトの首を獲る最後の機会をあのツゥンツァイの森で失ったのだと確信するに至っている。

 カナンの町の守りは固く、マラウト軍の兵の結束も強い。

 

「グーシの討伐に四千の軍勢を動かしているそうだ。その討伐軍の総大将はマラウト殿の長男殿で、ここの精鋭ぞろいだそうだぜ。

 で、一方お家に逃げ帰ったグーシに味方する者は少なく、どんどん離反者が出ているらしい。おそらくあの森にいた人数よりも、兵の数は減っているんじゃないか。あのポンコツ兵団がさらに弱くなってるってことだ。

 あの森での戦いが、グーシがマラウトに勝つ最後のチャンスだったんだ。連中はそんなことにも気づいていなかったんだろうな。お気楽な脳ミソだ。

 この状況になって、まだこの町を襲ってくる者がいるとは思えない。まぁ、仮にいたとしても、この町の守備兵の餌食になるのがおちだろうさ。

 万が一マラウトの兵が負けたときは、その時逃げ出せばいい。

 そう心配するなよドルング。クークにはマラウト殿が使者を出してくれた。そいつにしばらくここにいるからって書いた手紙を渡しておいたからさ」

 

「は、はぁ、」

「まぁ、うまいもん食って、うまい酒飲んで。しばらくゆっくりしようやドルングよ」

 

パチリ

「へへっ、王手だドルング」

 

 

 

 

「や、やめろっ!き、貴様何をしているのかわかっておるのかっ!」

 

 体中のあちこちから血を滲ませたグーシが、床に尻もちをつきながら後ずさっている。ここはグーシの本拠地、その館である。

 

「いい加減お覚悟を決めなされよ。見苦しい」

 

 グーシを見下ろす形で、(やいば)に血が伝い落ちる剣を手に、男が冷たく言い放った。

 その男の名はレイガル。ツゥンツァイの森の戦いにも参加していたグーシの配下の武人の一人だ。

 

 先ほどまで、この館のあちこちで悲鳴、怒号が飛び交っていたが、今はもう収束に向かいつつある。

 

 ロワナ領主代官のマラウトに謀反を起こしたマラウトの弟グーシ。

 そして今、そのグーシの配下の武人であるレイガルらが、グーシに対して反乱を起こしていた。

 

 グーシに剣先を突き付けているレイガルの後ろには、昨日までグーシに対し(こうべ)を垂れ、忠誠を誓っていたいくつもの面々が連なっている。

 

「こ、この裏切り者めらがああーっ!」

 グーシが叫び声をあげる。

 

 もはやグーシは完全に追い詰められていた。

 すでに館と町を取り囲む防壁の向こう側には、マラウトの息子レイリーが率いる討伐軍が、(あり)が這い出る隙間もない堅固な陣を構えている。

 その状況下での身内の反乱だ。

 

「こ、このわしを裏切って、あの劣等につくというのかっ」

 

 何を言われようとも、グーシを見つめる冷たいレイガルの目に変化は起こらない。

 

『貴公はグーシの虚言に騙されただけ、反逆者グーシの首を持参すれば、此度のことについて一切罪は問わない』

 町を取り囲むレイリーの使者が密かにレイガルらに遣わした手紙には、そのような内容がしるされていた。

 

 ツゥンツァイの森から撤退して以降、あっという間にマラウト勢に追い詰められて、もはや自らの無残な死しか想像できなくなっていたレイガルらにとって、それは唯一示された救いの道。

 

 グーシが何を言おうと、最早、レイガルらの心が変化することはない。

 

「裏切り者とは心外っ!元々我らが仕えているのはマラウト様だっ!グーシっ!貴様に騙されて我々はここにいるだけだっ!貴様のその首を持って、我らが潔白の(あかし)とせんっ!」

 

 レイガルは剣を大きく振りあげて、すでに血まみれになっているグーシに向かって躊躇(ためら)いなく振り下ろした。

 

「やめっ、ぎいゃああああーーっ!」

 

 正面からグーシの背骨を斬り裂くような強烈な一撃。

 グーシはバタリと床に倒れ伏し、一面の血の海に沈む。

 時に裏切り、時に裏切られ、生き残った者こそが正義を名乗れる。それは戦乱の世の常であろう。

 

 ()れるときに()りそこなったグーシの上に、死が落ちてくるは必然というものだ。

 

 

 レイガルらは、その口を開くことのなくなった(むくろ)から首を切り落とし、それを土産にレイリーの陣に駆けこんでゆく。

 

 そして……彼らは明日という日を生きるのだ。

 

 

 

 

 チチチチチッ チュンチュンチュン

ギヨォーギョォー

 

 様々な鳥たちのさえずりが聞こえ、心地よい清浄な風が頬をなでる ある晴れた日の庭。

 

 マラウトの居館にある実によく手入れされた庭だ。その庭の芝生の真ん中、白い木製の椅子の座ったアンコウの姿があった。

 グーシの乱が鎮圧されて、すでに一カ月が過ぎ、ロワナ領内は完全に平穏を取り戻していた。

 

 アンコウの頬には少し肉がつき、非常に血色がよい。マラウトの客分として、何申し分ない待遇を受けていた。

 

そして今は、

パチッ

 働きもせず、また将棋を打っている。

「王手です。アンコウ殿」

「な、なにっ」

 

 本日のアンコウの将棋のお相手は、代官マラウトの継嗣(けいし)レイリーだ。

 レイリーはまだ15歳の少年ではあるが、父マラウトとは違い抗魔の力を生まれ持ち、その体躯もすでに大人と変わらずラガーマンのように(たくま)しい。

 

 また性格は比較的温厚ながら線の細さはなく、先日、実の叔父である逆徒グーシを打ち取るという大功をあげたばかりだ。

 

「むむむむぅ」

 盤上をにらみ、唸り声をあげるアンコウ。

 

「……レイリー殿、将棋はこのあいだ教えたばかりだよな」

「この遊戯はそうですが、似たような盤上遊びは子供のころから好きでして」

「くそっ、これをこっちに動かしていれば、」

「待ったをされますか?」

「…………いいのかい」

 

 気持ち悪い上目遣いで見るアンコウに、15歳のレイリーはさわやかな笑顔を返した。

 アンコウは、いや~さすが、マラウト様のご嫡男レイリー殿だ。器が違うなどど臆面もなく言いながら、盤上の駒を手早く三手も戻した。

 

「ああ、賭け金は変わらないぞ。レイリー殿」

「かまいませんよ、アンコウ殿」

 

 暖かい日差しの中、二人は仲よく将棋を打っている。

 そんな二人を少し離れたところから見ている者たちがいた。見張っているわけではない、たまたまアンコウたちがいる庭に面した廊下を通りがかったのだ。

 

 それは、ロワナ領代官職マラウトとその側近事務官だった。

 マラウトの体調は完全に回復しており、すでに日常の務めに戻っている。

 代官職としての業務こなしている途中、たまたまここを通り、アンコウたちの姿を見つけた。

 

「マラウト様」

「何だ」

「……アンコウ様が当館に滞在されて、もうひと月になります。いえ、アンコウ様が滞在されることに否やはないのですが、アンコウ様は隣領コールマルの御領主、あちらとの間で問題はないのでしょうか」

 

 そう言われてマラウトは難しそうな顔になる。

 コールマルにはとうに使者を出しているし、あちらからも確認の使者が来た。

 アンコウ自身がコールマルから来た使者に、自分の意思でしばらく滞在するとの話もしている。

 

 しかし、突発的な滞在で、すでに問題も解決している今、一カ月を超えて帰らないとなると、確かにいささか長い。

 

「コールマルの者たちに痛くもない腹を探られる様なことになるのでは」

 

 という側近の心配ももっともで、マラウトもこれ以上アンコウの滞在が長引くことは、あまり良いことではないと考えていた。

 

 しかしマラウトは、性格的に自分の窮地に力になってくれたアンコウを邪険にするようなことはできず、アンコウに対して、できる限りの厚遇を続けていた。

 そんな状況に甘えて、どっぷりと浸かっているアンコウである。

 

 

――「おーい。このめちゃくちゃおいしい何かのジュースお代わりっ」

 と、アンコウが言えば、

「はーい。ただいま」

 と、見目麗(みめうるわ)しいメイドたちが、謎のおいしい飲み物をすぐに持ってくる。

 

 同じ田舎町と言っても、クークに比べれば、このカナンのほうが他地域との交流が容易で、物資も豊かで娯楽も多い。

 

「あーっ、こっちのほうが居心地がいいな」

 というのが、アンコウの偽らざる本音であった。

 

 しかし、アンコウも常識というものはわきまえている。

 もうそろそろここからお(いとま)しなければ、いろいろと不都合が起きてくることは当然予測できている。

 実際、自分のことを冷たい目で見る者が、日に日に増えていることは察知していた。

 

(……まぁ、当然だわな。気を使わなければならない穀つぶしなんて、いつまでも世話やいてられないよな)

 

しかし、レイリーから

「ああ、アンコウ殿。そういえば、イェルベンから上質な蒸留酒が近いうちに届くのですが、今度ご一緒にどうですか」

 

 などと言われると、

 

「!ほ、ほんとに?………そりゃあ、せっかくだから御馳走になろうかなぁ……」

 

 (も、もう少しだけならいても大丈夫だろう)ということになってしまうアンコウである。

 

 しかし、いつまでもこのような居候生活を続けられるわけもなく、この日から十日ほど後に、コールマルのほうから、アンコウを連れ帰るための使者が到着することになる。

 

 

 

 

 アンコウがカナンに滞在して、ひと月半。

 アンコウを迎えに来たというコールマルからの使者は、代官マラウトに挨拶をすませて礼物を渡した後、早々にアンコウが居座っている部屋へとやって来た。

 

 

「……全然似合ってないな、その格好」

 

 アンコウがソファに座ったまま、自分の目の前の立っている男に話しかけている。

 

「うるせぇ、大きなお世話だ。あんたこそ、突然いなくなったと思ったら、いつまでもこんなところで何していやがる」

 

 男の言葉遣いは乱暴だが、怒っているというより呆れているようだ。

 

 代官マラウトに挨拶をしてきたということもあり、その男は達磨のように筋骨の発達した体に、宮廷吏官(きゅうていりかん)のような整った衣服を(まと)っていた。

 しかし、その顔には無精髭が生やし放題になっている。

 

「……中途半端だな。顔と服装が全く合っていない。せめて無精髭ぐらい剃って来いよ、ダッジ。コールマルの品性が疑われる」

 

「……大将、てめぇにだけは言われたくねぇな。あんたがここで食っちゃ寝の生活をしていることは知っているぞ。それが隣領の領主のすることか」

 

「別に俺が頼んだわけじゃないさ。向こうが勝手にしてくれているだけ。人の好意を無碍(むげ)にはできないだろう?ダッジ」

 

「だから他人の好意に甘えまくっている野郎に、品性云々言われたくねぇって言ってんだよ」

 

 今のダッジにとって、アンコウは主君だ。しかしその言葉遣いは極めて粗雑(ぞんざい)

 この部屋に今もう一人いるドルングは、二人の以前の関係性をいまいち知らないため、ハラハラと二人の会話を聞いていた。

 

「ハハハッ、そりゃそうだな」

 

 しかしむろん、アンコウは、ダッジが多少ぞんざいな言葉遣いを自分にしたところで(いか)るようなことはない。

 アンコウ自身、自分がひと月半もここに留まっていることが、多少他人から文句を言われ、なじられても仕方がないことだという自覚もある。

 

「しかしよ、そろそろまた誰か来るかとは思っていたけど、なんでお前なんだ?」

 

 山賊面で無駄に威圧感があるダッジは平時の使者に向いているとは言い難い。

 

「チッ、モスカルが言うには、大将、あんたにはっきりものをいうには俺が適任だそうだ。俺だって暇じゃねぇんだぞ」

 

「ハハハッ、そりゃあ悪かったな。しかし、モスカルたちがいれば、領内の運営に支障はないだろ」

 

「チッ、そうはいくかよ。南部のナグバル派執政府、北山の山賊ども。北部の豪族にしてもだ、あんたに心から忠誠を誓っている奇特な奴なんざ、ほとんどいねぇんだぞ。

 あのちっぽけな領内に、あんたは味方よりも敵のほうが多い。たとえ寝ているだけの領主でも、あんたがクークにいない、領外にいて戻ってこないっだけで怪しい動きを見せる連中ばかりだ」

 

「………あー、そうだったな」

 と、抑揚なく言って、天井を見上げるアンコウ。

 

(そんなことはわかってる。だからここのほうが居心地がいいんだろ)

 と、思うアンコウであった。

 

「で、どうすんだ。大将」

「わーってるよ、帰るさ。これ以上長居していたら、こっちの人間に追い出されることになるだろうからな」

「ふん、わかってるじゃねぇか。いつまでも無駄飯食いを置いてくれる場所なんざ、どこにもねぇからな。で、いつ出立する」

「…………来年」

「おいっっ!」

 

 

 

 

 カナンを去る日が明日に迫り、アンコウはマラウトの私室へと、これまでの歓待に対する礼を言いに訪れた。

 

 マラウトは名残惜しいと、アンコウが去ることを残念がる言葉を口にしたが、内心はホッとしている部分があることは明らかだった。

 これ以上アンコウの滞在が長引けば、内からの疑問の声以上に、

 

(周りから見れば、わしが隣領の領主を人質に取っていると思われかねない)

 

 という恐れがあり、コールマルはもちろん、その他の周辺地域との関係が悪化する可能性さえあったからだ。

 

「それとアンコウ殿」

「何ですか」

「先日アンコウ殿から伺ったロワナとコールマルのツゥンツァイの森をつなぐ、魔素無き道のことなのですが」

 

 アンコウたちは、コールマルからこのロワナに来る際、互いのツゥンツァイの森につながっている無魔素の道を通ってきた。

 

 道といっても整備されたものではなく、コールマルとロワナを隔てている魔素地帯に、魔素がない場所がまるで道のように伸びていたというものなのだが、その存在をアンコウはマラウトに教えていた。

 

「アンコウ殿が言われた地点に、確かにそれが存在していることを部下に確認させ申した」

「そうですか。あれがコールマル側のツゥンツァイの森まで、魔素の山林を横断する形でつながっているんですよ」

 

 アンコウはあの魔素無き道に関して、マラウトに一つの提案をしていた。それは魔素無き道を整備して、本当の道をつくってはどうかという提案だった。

 コールマルとロワナの領境の魔素地帯は、その濃度は薄い。

 出没する魔獣も、スライム、ゴブリン、グレイウルフ、角ウサギなど、かなり弱い種類の弱い個体だ。

 

『魔素無き道は山林に走っているが、その山林もかなり平坦な部分が多い。周囲の木々を広めに切り開き整備すれば、往来可能な道をつくることはできそうだ。

 むろん実際そこを通ろうとすれば、それなりの護衛はつける必要はある。

 また、それとは別に警備拠点をつくり、警備兵を常駐巡回させておけば安全性が、より確保できると思う。

 コールマルとロワナの領境は北から南まで完全に魔素地帯が走っているが、それができれば他領を迂回することなく、普通人の商人でも互いに行き来することが今より容易になる』

 というような話を、アンコウはマラウトにしていた。

 

 ただ、それはマラウトにとってそれほど魅力的な話というわけではない。

 なぜなら、コールマルはロワナ以上の田舎であり、何か特別な特産品があるわけでもない。ロワナにとって交易をするメリットが大きいとはお世辞にも言えない。

 

 しかも、それなりの資金労力を投じてもできるのが道一本では、その後の費用対効果も知れているだろう。

 

 一方アンコウとしては、道一本通すぐらいだったら、侵略を受けるリスクがさほど高まることはないだろうし、何よりこのカナンでは、田舎町といえどもグローソン公都イェルベンからの物品がそれなりに流通している。

 そのことを知ったことが大きい。

 

 これからコールマルのクークに帰らなければならないアンコウとしては、このロワナと交易路を確保することは、自分自身の身の回りの生活必需品を充実させることができるという極めて個人的なメリットを感じていた。

 

「で、どうですか。マラウト殿」

 

「ふむ。家臣の中には反対する者もいたが、わしは悪くない案だと思っております。こうしてアンコウ殿と親しき(えにし)を結べたことも、素晴らしき(えん)でしょう。やってみましょう」

 

「お、おお。さすがマラウト殿、私もまったく同意見です」

 

 この世界の土木技術というのは、クークやカナンのような町でも、立派な防壁と要塞を備えていることからも分かる通り、かなり高度なものがある。

 やろうと思えば、アンコウが出した案は十分に現実可能な計画だ。

 

「ハハハッ、いや~、良いご縁が結べましたよ。マラウト殿っ。ハハハッ」

 

 ダメもとでした提案が通り、アンコウは上機嫌だ。

 

 

 こうして、アンコウは楽しいカナンでのプチバカンス生活を終えた。

 

 この次の日の早朝、マラウトとその息子レイリー、家臣一同に見送られながら、カナンの町を出立していった。

 

 

 

 短い反乱が終わった後、この時のロワナには平穏な時間が流れていた。

 アンコウにダッジにドルング、それにマラウトが付けてくれた屈強な護衛兵十名ほどが、クークへの帰路の道を移動している。

 

 穏やかな日差しの中、アンコウたちはゆっくりと馬を進めていた。

 

 

「どうせ領主になるんだったら、コールマルよりロワナのほうがよかったな」

「チッ、ぜいたく言ってんじゃねぇよ、大将」

 

 権勢栄達(けんせいえいたつ)願望が強いダッジが、アンコウをたしなめる。

 

「んだよ、ダッジ。お前だってどっちを取るって言われたら、ロワナを取るだろうが」

「チィッ、だからそんな話は早々ねぇんだよっ。どっちもなっ」

「ああ?じゃあ、お前もグーシみたいに俺に反乱起こしてコールマル奪ってみるか?そうしたらカルミに命じて、お前の寝首を掻かせてやるぜ」

「誰も反乱起こすなんざ言ってねぇだろうがっ」

 

 アンコウとダッジは何やら言い合いながら、それなりに楽しそうに馬を進めていた。

 そんな中に、真剣な表情をしたドルングが入ってきた。

 

「あの、アンコウ様。少しよろしいでしょうか」

「ん?どうしたドルング」

「あの、もしよろしければ、途中でハカチ村に寄っていただくわけにはいかないでしょうか、」

「ん?ハカチ村」

 

 その村の名を聞いてもピンと来ないアンコウ。

 

「いえ、できればもういちどベジーの様子を確認したいと思いまして……」

「……あ~、そうだな。ハカチ村ね。そうだな、ベジーか」

 

 すでにハカチ村の名も、ベジーのことも頭になかったアンコウ。

 しかし、ドルングはベジーが新兵のころから知っている関係があり、どうにも気になっているようだ。

 

(まぁ、あの村は、帰りの通り道の途中にある村だからな)

 

「いいぞ、ドルング。ベジーのことが心配だからな、寄っていくか」

 

 ベジーの存在すら忘れていたくせに、適当なことを口にするアンコウ。

 

「は、はい。ありがとうございます。アンコウ様っ」

 

 しかし、ドルングは素直に喜び、深くアンコウに頭を下げた。

 

「じゃあ、少し、スピードを上げていくとするか。

ハイヤァッ!」

 

ピシッ! ヒヒィン!

 

 

―――― 翌日、アンコウたちはハカチ村に到着する。

 

(………おい、おい。なんだこりゃ)

 

 アンコウたちが村の入り口あたりに到着した時、そこには老若男女、おそらく村人全員が、文字どおり地に額を擦りつけんばかりにアンコウたちに平伏して、待ち構えていた。

 

「……え~、」

 

 グーシの反乱兵に襲われていたこの村を守ることに、確かに少しは手を貸したアンコウだが、ここまでありがたがられることをした覚えはない。

 そして、その(へい)つくばる村人たちの先頭にはベジーの姿があった。

 

「アンコウ様、ありがとうございますっ!村人一同を代表して心から御礼申し上げますっ!」

 

 ベジーが額を地につけたまま、叫ぶように言った。

 

「おい、大将。あんたこの村で何をしたんだ?」

 アンコウの横に並んでいるダッジが不思議そうに聞く。

「………さぁな」

 アンコウも(いぶか)しげな表情で、馬上から村人たちを見渡している。

 

 

「……チッ。おいっ、ベジー!顔をあげろよ。ほかの村人も全員だ。何だこれは、大げさすぎるだろ」

 

「大げさなんてとんでもないっ。村が再建途中で、何もおもてなしもできず心苦しいばかりですのに。村があの野獣どもに襲われて、本当なら、あのまま村を捨てることになってもおかしくなかったのに。

 代官マラウト様の御厚情により、多大なる援助物資をいただいたうえ、ケガ人病人の治療までっ。このような厚助を受けるなど今まで聞いたことがないと村人全員が言っております。マラウト様のご使者の方は、我らにアンコウ様の御徳に感謝せよと申しておりましたっ」

 

 顔をあげ、体を震わせながら一気に言うと、ベジーはまた額を地に伏した。

 

(……そういうことか。マラウト…ほんと人格者だな、あのヤローは。粋な真似をしてくれるよ)

 

 アンコウはカナンに滞在するにあたって、あのグーシの反乱のさなか、隣領の領主である自分がこのロワナにいた理由を問われた。

 そして、その理由として、結婚することになった大切な部下を見送りに、このロワナまで来ていたという、内容的には、かなりいい加減な話をマラウトたちにしていた。

 

(ちゃんと調べて、大体のことは把握済みってことか……まぁ、当然ちゃあ、当然か。それで、ハカチ村に特別な支援をしてくれたのか……なるほどねぇ、立派な御代官様だ)

 

 アンコウは自分の護衛として、マラウトに命じられて、カナンから付き従ってきた者たちを見た。その表情、

(……なるほど、こいつらも知っていたか)

 

「ふぅっ………ベジー、お前はこのままロワナに残るんだろ?」

 

「は、はい。私はコールマルには、もう近しい家族はいないので。レマーナたちの側にいてやりたいと」

 

「そうか。なら、このことで俺に礼を言う必要はない。この恩はすべてマラウト殿にお返ししろ。お前との主従の(えにし)はここを持って切るが、ドルングがお前に教えたクークの騎士としても誇りは決して忘れるな。

 一朝《いっちょう》(こと)が起こった時には、その剣をマラウト殿に捧げ。御恩に報いろ」

 

 アンコウは、今自分が言ったことが護衛兵たちの口からマラウトの耳に入ることを計算して言っている。

 

「はいっっ。このベジー、アンコウ様、マラウト様より受けた御恩は決して忘れませんっっ!」

 

 そのアンコウとベジーのやり取りを見ているドルングの目が涙で潤んでいる。

 同様にあくびをかみ殺したダッジの目も涙で潤んでいた。

 

 そして、アンコウの目がベジーの横で寄り添うように控えている若く愛らしい娘、レマーナを見つめる。

 きちんとした正装に身を包んでいるレマーナは、アンコウの目にはやはり幼く見えるものの、天使のような美しさではあった。

 

 アンコウはベジーがレマーナを抱いていた場面を思い出す。

(……まっ、べジーもクークで兵隊なんかやってられないな)

 

「……式は挙げるんだろ?ベジー」

「は、はい。近々とり行う予定です」

「そうか、ほらよっ」

 

 アンコウはそう言うと、魔具鞄の中から取り出したきれいな刺繍が施された布袋をベジーに向かって放り投げた。

 ガシャッと重みのある袋を受け取ったベジーが、その袋の中を開けて見る。

 

「こ、これはっ、銀貨がっ」

 

 袋の中にはいっぱいの銀貨。それはアンコウがカナンで、土地の有力者や裕福な商人から言葉巧みに手に入れた贈物の一部だった。

 

「祝儀だ。受け取れ」

 

「こ、こんなっ。あ、ありがとうございますっ、アンコウ様っ!

 我が妻となるレマーナ、クシュカともども心からお礼を申し上げますっ。この御恩一生忘れませんっ!くくくっ」

 

 感極まった様子で泣き崩れるベジー。ドルングの目からも流れ落ちるものが。

 一方ダッジの目はかなりシラケたものになってきている。

 

「気にするな、ベジー」

 

 いい加減面倒にもなってきているアンコウは、たいして面白味もないこの村を早々に離れようと思っていたのだが、

(……ん?あれ?)

 

 先ほどのベジーの言葉に、少し引っかかるものを感じた。

 

(!あっ)

 

「……おい、ベジー。我が妻となるレマーナ、クシュカともどもって言ったか」

 

「あ、はい。レマーナの父、クシュカの夫である村長が先の賊徒の襲撃で命を落としましたので、このたびレマーナとともにその母であり、寡婦であるクシュカも私の妻となることになりました」

 

 クシュカとレマーナが、ありがとうございましたと揃ってアンコウに頭を下げる。

 

 それを見て、(なんだそりゃっ!?)のアンコウである。

 

 天使レマーナの母だけあって、クシュカも童顔だが、大人の女の美しさも漂わせている。

 また、細身ながら出る所はしっかり出ているクシュカの肉体は、何とも言えないエロスも感じさせた。アンコウとしてはこちらのほうが好みだ。

 

「ほ、ほう。二人と結婚するのかい……」

「はいっ」

 ごく自然に当たり前のことのように返事をするベジー。

 

 アンコウは周囲をゆっくりと見渡す。どの顔にも特別の驚きはない。

 どうやら、そんなおかしなことではなく、このあたりの村では珍しくない慣習なのだろう。

 

 しかしアンコウの心のうちは、

(レマーナだけでも犯罪臭かったのにっ。初婚で、こんな美人の母娘を妻にするだと!?ざけんなっ、コノヤロウッ)

 という、妬み嫉み(ねたみそねみ)の感情が噴き出していた。

 

 それでも、せっかくかっこよく決めた手前、そのどす黒い感情を表に出すことはできない。

 

 本心では、馬から飛びおりて、ベジーのまたぐらを全力で蹴り上げ、渡した銀貨袋を取り返して、顔にツバでも吐きかけてやりたい思いがしていたアンコウだが、ここはグッと(こら)えた。

 

 アンコウは無言のまま馬首を返す。

 そして馬はハカチ村を背に歩き出した。

 

「アンコウ様っ!?」

 

 その背中に向かってベジーが声をかけるが、アンコウは振り向かない。

 そしてアンコウは振り返ることなく、そろえた指を三本、上にあげて、

 

「幸せにな」と言った。

 

「アンコウ様っ!ありがとうございましたっ!」

 ベジーの涙まじりの絶叫が響いた。

 

 空に向かうアンコウの三本の指がかすかに震えている。そのアンコウの震えに気づくことができた男は一人だけ。

 

 その男がアンコウの近くまで来て、周りには聞こえないように小声でささやいた。

 

「おい、大将。指が震えてるぜ。ションベンでもしたいのか?」

 

「……うるせぇ。殺すぞ、ダッジ」



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第115話 魅惑の双丘と三匹のおサルさん

「ハナ、鶴の間のお掃除は終わったの」

「はい、終わりました。テレサ様」

「そう。明日あの部屋で、今度買い入れする小麦の価格について、事務方の人たちと商談をしに町の商家の方が来るらしいから。その準備もしておいてくれるかしら」

「はい、わかりました」

 

 ここはクークの領主の館、その一棟。つまり、アンコウの居館だ。

 今日もテレサは忙しそうに働いている。テレサはこの館の奥向きの事柄と一部事務方の仕事に関しても、アンコウより権限を与えられ、日々その勤めに励んでいた。

 その適度な労働は、長年アネサのトグラスの宿屋で朝から晩まで働いてきたテレサにとって、なかなか心地のよいものであった。

 

 しかし、ここクークでのテレサに対する周囲からの当初の認識は、領主アンコウの愛妾奴隷であり、その認識自体は今も変わっていない。

 普通の愛妾奴隷ならば、今テレサがしているような仕事は、本来彼女の仕事ではない。

 

 館内(やかたうち)の奥向きの仕事の関しては、下働きをする 女中(じょちゅう)女官(にょかん)も、それまとめる女官長もきちんと配置されている。

 しかし、アンコウは適当なようで、かなり猜疑心(さいぎしん)が強いところがあり、初めから自分の本当に身近な部分は、よく知らない女官ではなく、信頼しているテレサに管理させるようにしていた。

 

 それがいつの間にか奥向き全般のことに及び、特別な役職に就いたわけではないものの、テレサが奥向きで持つ発言権は、かなり強いものになっていた。

 

 また、この館での仕事をする際に、テレサのトグラスでの宿屋経営の経験がかなり役に立っており、その仕事ぶりもなかなか玄人じみたものがあり評価も高い。

 しかし、あくまでこの館でのテレサの権勢基盤を固めているものは、仕事ができるできないなどということではなく、領主アンコウの愛妾奴隷という領主の寵愛あってこそのものだ。

 

 ナグバル派の監視を受けながら過ごしていたハリュートにいた時と違い、このクークでは名実ともにアンコウが最高権力者だ。

 その寵愛のあるなしで、テレサのような立場の女が持つ権力は天と地ほどの差にもなる。

 

 また、妻がいないアンコウには、クークに来て以降、この短い期間にも何度も婚姻の申し入れがあったらしい。

 しかし、こんなところで身を固めるつもりなど全くないアンコウは、どんな結婚話にも全く興味を示すことなく、

『時間の無駄だからもうそんな話は持ってくるな』と、周囲の者に命じたということをテレサは聞いていた。

 

 テレサは決して、口にも表情にも出さなかったが、アンコウが結婚話を拒絶していることに喜びを感じている自分がいることを認めざるを得なかった。

 

(………わたしって、浅ましいのかしら)

 

 アンコウは意外と猜疑心が強い。女のこともそうだ。

 娼館遊郭(しょうかんゆうかく)で女遊びをすることに躊躇(ためら)いはないが、自分の生活圏内にいる女となれば話は違う。

 

 そのような女は自分を()めることができるし、何なら寝首を掻くことも不可能ではないからだ。

 ゆえにアンコウはこのクークに居館を定めてからも、この館内(やかたうち)の女に手をつけたり、外からこの館内に女を引っ張り込むようなことは今のところ一度もしていない。

 

 今日までこの館内(やかたうち)においては、アンコウの獣欲のすべてを、テレサの肉体が一手に引き受けてきた。

 

 そのことを少なくとも、この館に仕える女たちは全員が知っている。

 館の女たち全員が知っていれば、その事実は噂話として、いずれクーク中に広がることは確実だ。

 その事実は重く、たとえテレサより年若く美しい良家の娘であっても、このクークではテレサに一目置かざるを得なくなっていく。

 

 

「さて、帳簿の整理もしておこうかしら」

 

 領主の愛妾などと言えば、派手な衣装で着飾り、無駄に宝飾品を身につけ、メイドにかしずかれて茶会などを催しているのが昼間の時間の過ごし方のようなものだか、テレサの性には合わない。

 

 テレサが今着ているものは、明るい青い色合いの光沢のある生地が使われ、多少きれいな刺繍などが施されているものの、そのデザイン自体は労働者向きの動きやすさを重視したものになっている。

 

(これでも少し派手な気がするわ)

 と、テレサは姿見を見るたびに思う。

 

 しかし、この服はテレサがアンコウに希望を伝えて、アンコウが職人に作らせてくれたもの。

 

(でも、旦那様はよく似合ってるって言ってくれたから)

 と、姿見を見ては、ふふふと笑っているテレサだった。

 

 次の仕事に取りかかるため移動をしていたテレサだが、アンコウのことを不意に思い出して立ち止まり、何かあるというわけではないが庭のほうをじっと見つめて動かなくなった。

 アンコウは、もう ひと月半近くもこの館に戻ってきていない。

 

「……旦那様、どうしてるのかしら」

 

 アンコウは誰にも相談なくロワナへ行ってしまったが、モスカルたちの調査により、かなり早い時点で、アンコウたちが自分たちの意思でロワナへ行ったのではないかということは推測されていた。

 

 その後、ロワナでは例のグーシの反乱が起こったのだが、その情報がクークに伝わった時には、

ロワナで反乱が起こったこと、

反乱は鎮圧されたこと、

アンコウは無事であり、ロワナの代官職と行動を共にしていること、

アンコウは自分の意思で、しばらくロワナに滞在すること、

 これらのことが全部、ほぼ同時に伝わってきた。

 

 このクークの(やかた)でも、それなりの騒ぎになり、一時出兵の準備などもされた。

 しかし、こちらからロワナに送った使者が早々に帰参し、直接アンコウに会って、その無事を確認し、アンコウの意思も確認してきたことが知らされた。

 

 それによって、ロワナ側が言ってきたことに嘘偽(うそいつわ)りがないことが明らかになり、この館の者たちも、すぐに落ち着きを取り戻した。

 

 

「本当に勝手なんだから、あの人は、」

 と、テレサは庭を見ながら、ふぅーっとため息をつく。

 

 むろん相当に心配していたテレサだが、アンコウがどこかに行ってしまうことはいつものことでもある。

 また今回はかなり早い段階から、ほぼリアルタイムでアンコウの無事がクークにまで伝わってきたこともあり、表面上テレサは平静を保ち、今日のようにいつも通りの日常をこなしていた。

 

 そして今、皆の頼みを聞き入れ、ダッジがアンコウを連れ戻しにロワナへと(おもむ)いている。

 出立前にテレサを訪ねてきたダッジは、アンコウはロワナで食っちゃ寝の生活をしているらしいと言っていた。

 そのダッジの言葉を思い出したテレサの眉間にシワが浮かぶ。

 

「なによ。食っちゃ寝なんて、ここですればいいのに」

 

 ふぅーっ、と テレサがまた溜息をひとつ吐いた。

 

 

「テレサさん、何をしているんですか?」

 

 そんな憂いのテレサに親しげに話しかけてくる者が。

 

「あら、リューネル。どうしたの、お仕事は?」

「今日は暇なんです。何かお手伝いできることがないかと思って、こっちに来たんですけど」

 

 淡い金髪を風になびかせて、テレサの前に立っている青年の名はリューネル。人間族普通人の男で、なかなかに甘いマスクをしている。

 彼はアンコウがコールマルの領主の任を受けて、イェルベンからコールマルにやってくる途中で、アンコウの配下に加わった者の一人だ。

 

 粗暴で荒くれ者がほとんどであったその集団の中で、元商家の丁稚(でっち)あがりの兵士であったリューネルはかなり珍しい存在だった。

 リューネルは、アンコウたちがイェルベンからコールマルへと赴く旅の途中、山賊どもの襲撃を受けた際、危機一髪の状況をテレサに助けてもらい、それ以来、実にテレサに懐いている(第86話)。

 

 また、彼は商家の丁稚(でっち)あがりということもあり、読み書きができ、算術を心得ている。

 戦場では全く役に立たなかった甘いマスクのリューネルだが、クークに入ってからは、文官としてモスカルの配下で働き、重宝がられているようだ。

 

「これからちょうど、帳簿の整理をしようと思っていたんだけど」

「ああ、それはよかった。それなら僕でも役に立てそうです」

「あら、ほんとうにいいのかしら」

「はいっ」

 

 テレサに、じゃあ行きましょう と言われ、リューネルはテレサの後をついて歩いていく。

 リューネルは、本当に暇だったわけではない。わざわざ暇を作って、テレサに会いに来るのが彼の習慣になっていた。

 リューネルはテレサに恋心を抱いていた。

 

 リューネルは自分の前を歩いているテレサのお尻をじっと見つめている。

 テレサが歩みを進めるたびに、テレサの大きく肉づきのよい臀部が、彼にとっては挑発的に上下左右に動く。

 

(ああ、テレサさんっ)

 

 リューネルは、思わずテレサのお尻にむしゃぶりつきたくなる若い衝動を覚えるが、その劣情をグッと堪える。リューネルは自分の気持ちと共に、ごくりと生唾をのみこんだ。

 

 しかしリューネルも、ただのヘタレた草食系男子というわけではない。元々彼が、子供の頃より勤めていた商家を放逐(ほうちく)された理由。

 それは、働いていた商家の主人の妻女と、ただならぬ仲になってしまったからだ。

 

 15の頃のリューネルは、今以上に線の細い美少年だった。その美しく成長したリューネル少年に、主人の妻女が触手を伸ばしてきたことが始まりだった。

 リューネルは恐ろしく、いけないことだとわかっていたが、主人の妻女の強引な誘いを断ることができなかった。

 

 初めはいやいやだった。しかしリューネルは、その妻女の大人の女の手管にあっという間に落ちていった。

 初めて知った大人の世界の甘美な快楽に彼は沈んだ。彼はずるずると、いや途中からは自ら望んで、その許されざる関係を続けてしまった。

 

 しかし、そんな関係がいつまでも続けられるわけもなく、ついに彼らの不貞は商家の主にばれてしまう。

 

 激昂した主はリューネルを半死半生になるまで打擲(ちょうちゃく)し、最終的には身ぐるみを剥いで彼を旅の傭兵団に引き渡してしまった。

 奴隷にされなかったのは幸運だったが、それからの彼は地獄の青春を送ることになる。

 

 そして、戦士としてはあまり役に立たないリューネルは、雑務をこなす下働きとして、いくつかの傭兵団を放り出されるように渡り歩いた。

 そして、偶然か運命か、ある村でアンコウの一団が人員募集をしているのを知り、その一員として加わることになったのだ。

 

 とある熟女に人生を狂わせられたリューネルだが、もう今の彼にその商家の妻女に対する特別な思いは残っていない。

 ただ、その妻女との甘美な背徳の経験が、年上の豊満な女性に対する憧憬(どうけい)を、性的な興奮と共にリューネルの心に強く刻み込んでしまっていた。

 

 

 いくつもの棚が並ぶ小さな部屋に入り、調べ物をしながら、テレサとリューネルは帳簿を整理確認していく。坦々と進む事務作業。

 

「ふぅっ、少し熱くなってきたわね。窓を開けましょうか」

 そう言いながら、テレサは席を立つ。

 

(!あっ)

 そのテレサの動作を書きものをしながら、何気なく見たリューネルの手がピタリと止まる。

 

 席を立とうとテレサが前かがみになった時、わずかな時間、露わになった胸元に、リューネルの目はくぎづけになった。

 テレサの白い肌の大きい胸の谷間が、自分に迫ってきているように、リューネルは感じた。

 

(ああっ、あの胸っ。すごく大きい。すごくやわらかそうだっ)

 

 リューネルは込みあげるものを感じながら、ごくりと唾をのんだ。

 リューネルの内心の興奮に気づくことなく、テレサはそのまま窓際まで歩いていく。窓からは暖かい日差しが部屋の中へと差し込んでいた。

 

「いいお天気になったわねぇ、リューネル」

 

 と言いながら、カラカラとテレサはガラス窓を開ける。

 その瞬間、サアァァッと、心地よい冷たい風が部屋の中まで入り込んできた。

 

「ああっ、気持ちいいっ」

 

 テレサは心地よい風を肌で感じながら、明るい栗色の長い髪の毛を左手でかきあげた。

 

 リューネルはそのテレサの仕草を眩しく、湧きあがる劣情を抑えながら見つめている。

 テレサは確かに若いとは言えないが、三十路前ぐらいには見える。

 身長は160センチ半ばぐらいで、人間族の女性としてはごく平均的な背丈。やせても太ってもいないが、実に豊満な体つきをしている。

 

 そして、いまテレサが着ているアンコウから贈られた青い仕事着は、両肩部分に膨らみを持たせている以外、上半身はかなり体にぴったりとしたデザインで、テレサの大きな両胸のふくらみがかなりはっきりとわかる。

 

(ああ、テレサさんっ)

 リューネルは何度妄想の中で、テレサのその大きな胸を揉みしだいたことだろうか。

 

 上半身とは違い、テレサの下半身を覆う同じく青い色のスカートは、ゆったりとしており、テレサの足首近くまで隠している。

 しかしそれでも、テレサの腰まわり、お尻の形ははっきりとわかる。

 

 そのスカートが、外から入ってきた風にたなびき、時折テレサの白いふくらはぎをチラチラと見せた。

 

 リューネルは何度妄想の中で、テレサのスカートも下着も剥ぎ取り、その両足を掴み広げ、そのむっちりとした両もものあいだに、自らの腰を割り入れたことだろうか。

 

(ああっ、テレサさんっ)

 

 石鹸の匂いだろうか、風がリューネルの鼻にテレサのにおいを運んできた。リューネルはテレサから感じる母性に堪らない興奮を感じていた。

 

(ああっ…………)

 

 リューネルの脳が、広がる野火のような速さで、本能的な欲望の熱に侵食されていく。その熱に支配されるにつれて、彼の思考の妄想と現実の境目があいまいになっていった。

 

 

――「あら、どうしたの?リューネル」

 テレサが少し様子のおかしいリューネルに気がついた。

 

 思わずハッとするリューネル。テレサは窓際から離れリューネルに近づいていく。

 

「リューネルどうしたの?何かあった?」

「い、いえ、あ、あの、そのぉ、」

 

 つい今しがたまで、妄想の世界にトリップしていたリューネルは狼狽(うろた)える。

 

「あぅ、こ、ここの数字が合わなくて、こ、これは何の品目なのかと、」

「えっ!?どこのことかしら」

 

 テレサはそのままリューネルの(そば)に近づいていき、彼の目の前に開かれている帳簿をのぞき込む。

 すると、テレサの胸がリューネルの顔のすぐ横にきて、テレサの汗のにおいがリューネルの鼻腔に流れ込んできた。

 

「…あ…あ、あ…テレサさん…」

 リューネルの胸の鼓動がバクバクと破裂しそうなほどに跳ね上がる。

(テ、テレサさんの胸が…お、俺のものに……)

 

「変ねぇ、何か間違っているかしら」

 

 リューネルのすぐ横で、さらに前かがみになるテレサ。

 テレサの首筋からひとすじの汗が流れ落ち、リューネルの目の前で、その流れる汗がテレサの胸の谷間へと流れ込んでいった。それを見た瞬間、リューネルの理性が吹き飛んだ。

 

「テ、テレサさんっっ!」

「えっ!?」

 

 テレサの目が、リューネルの目と合う。

 

「!あっ」

 テレサは三十半ばの大人の女。長年にわたって、スケベ心丸出しの荒くれ者相手に宿屋商売もしてきた。テレサ自身も何人かの男を知っている。

 リューネルの目を見た瞬間、今彼がどういう状態にあるのかを理解した。

 

「あっ!だめよっ!何をしているのっっ」

 

 リューネルの右手が、がっちりとテレサの左の乳房をつかんだ。ずっしりとした柔らかい感触がリューネルの手に伝わり、彼の脳天をさらに痺れさせる。

 

(ああっ、やわらかいっ)

 

「痛いっ。やめてっ、リューネルっ。あなたどうしたのっ!」

 

 テレサはリューネルに対しては良い感情を持っていた。整った容貌をした礼儀をわきまえた若者で、テレサの手伝いをよくしてくれていた。

 

 そんな彼が自分に好意を持ってくれているのも、実はなんとなく気がついていたテレサだ。

 しかし、そうであっても、彼がいきなりこんな大胆な振る舞いに出てくるとは思ってもいなかった。

 

 リューネルは、女が好意を持たれて悪い気分がするようなタイプの男ではなく、それはテレサも例外ではなかったが、だからといって、テレサはリューネルのこのような振る舞いを受け入れることはできない。

 

 今のテレサは奴隷の身であり、アンコウの所有物だ。それに、たとえ奴隷でなくても、今のテレサはアンコウ以外の男に体を許すつもりがない。

 

 座っていた椅子を勢いよく背後に飛ばしながら、リューネルは立ち上がり、右手に次いで、今度は左手でテレサの右胸を鷲掴みにした。

 服の上からだが、男の握力によって、テレサの左右の乳房の形が変わる。

 

「いやあっ」

 

 テレサはそれを感じ取り、自分の乳房を握っている綺麗な男の顔を確認した瞬間、心の中で怒りが弾けるのを感じた。

 目の前にいる男がどれほどきれいな顔立ちをしていようとも、この男は自分の男ではない。こんな風に自分の乳房を触ってよい男ではない。

 

「んっ!」

 テレサは無言のまま、右ひじを斜め上から下へ、振り下ろした。

 

がごんっ! 鈍い嫌な音が部屋に響いた。

 

 テレサの右ひじは正確にリューネルの(あご)をとらえ、彼の脳ミソを揺らし、一瞬でリューネルの意識を刈り取った。

 

「!ふがっ!」

ドサンッッ!

 床に倒れたリューネルは、白目をむいて泡を吹き、ピクリとも動かなくなった。

 

 獣欲に負け、理性を失った男は愚かに過ぎる。普通人の優男(やさおとこ)であるリューネルが、抗魔の力を持つテレサを力で組み敷けるわけがない。

 

 しかもここはテレサの所有者である領主アンコウの館の中。アンコウが留守だといっても警備兵たちはあちこちに配置されている。

 そのすべてがテレサの味方だといってよい。

 

 テレサはリューネルが働いていた商家の妻女ではない。テレサが受け入れてくれなければ、今のリューネルの行動は自殺行為に等しい。

 獣欲に飲み込まれた男は、そんなことすらわからなくなる。まったくもって愚かに過ぎる。

 

――――

 

「…………」

 テレサは無言で、倒れて動かなくなった男を見下ろしていた。

 

 テレサはその部屋から逃げ出すでもなく、誰かを呼ぶわけでもなく、じっと泡を吹いて倒れているリューネルを見ている。

 

 テレサは昔、同じようなことが何度かあったことを思い出していた。

 トグラスの女将をしていた時、夫との不仲が決定的になったころ、何人かの泊まり客に同じように強引に迫られて、そのまま体を許したことがある。

 

 彼らはリューネルとは違い屈強な体つきをしている男たちだったが、拒絶しようと思えば拒絶できていた。

 彼らを受け入れたのは、その当時のテレサの意思。今では(馬鹿なことをした)と思っているテレサだ。

 

 夫やそのころ関係を持った男たちのことを考えると、テレサの心の中に必ずアンコウの姿が浮かんでくる。

 

 夫はテレサに対して淡白で、結婚当初からテレサの体を求めることは(まれ)、それでも子を為し、15の時より20年近く連れ添ったが、夫との間に心の絆はできなかった。

 それどころか、20年にも及ぶ忍耐の挙句、その夫の借金が原因で、テレサは奴隷の身に落ち、ついには、その夫の命を自身の手で奪うことになってしまった。

 

 テレサの体を抱いた夫以外の男たちは、女に飢えた野獣のごとく、その行為自体は夫とは比較にならないぐらい激しかった。

 ただ、テレサにとって一時の気散じにはなったが、それ以上に虚しさが残る 後味の悪いものだった。

 

(……旦那様は違う)と、テレサは思う。

 

 アンコウも時に乱暴にテレサを求めることはあるが、基本的にテレサが嫌がることはしない。

(あの人の手は優しい)テレサはアンコウに体を愛撫されているときのことを思い出す。

 

 しかし、本当のところそれは少し違う。アンコウの手も優しさでできているわけではない。

 

 テレサは男運がよくなかったのだ。

 死んだ夫はテレサにたいして、あまり興味自体がなかった。テレサを抱いた泊まり客の男たちは、たまたま皆強引で女の反応など関係なく、自らの欲望をぶつけることのみに快楽を感じるタイプの男たちだった。

 

 それに比べるとアンコウは、女の反応を楽しむことで快感を得るタイプの男。アンコウの手も優しさではなく、いやらしさでできていることには変わりはない。

 テレサも大人の女とはいえ、それほど男の経験を積んでいたわけではなく、その違いには気づいていない。

 

 ただ実際に、テレサはそれまで知らなかった女としての喜びをアンコウの手で知らされてしまった。

 今のテレサはアンコウに抱かれた時、どの男に抱かれた時も感じることはなかった女としての強烈な肉体の快楽を得ていた。

 

(……どうしてあんなに気持ちよくなるんだろう……あの人が私にやさしいから……)

 

 アンコウは決して女にもてるタイプではない。恋愛経験も豊富とはお世辞にも言えない。

 ただ、元の世界で得ていた知識だけは豊富に持ち、この世界に来てからは娼館通(しょうかんがよ)いを続けることによって、それらを実践技術として昇華させ、それなりに身につけてきたアンコウだ。

 

 それらのすべてをその身に(ほどこ)されれば、浅い経験しかなかったテレサは、その湧きあがる快楽に抵抗しようもなかった。また、実際に二人の相性はよかった。

 

 テレサはアンコウの奴隷となり、彼と(ねや)を共にするたびに、男女の悦楽の深みへと引きずり込まれていった。

 テレサはそれを、相手がアンコウだから得られるものだと勘違いをしていた。

 

 ただ、事実はどうであれ、今のテレサが、

(旦那様以外の男に抱かれたくはない)と思っているのも事実である。

 

 テレサはどんどんアンコウに依存しつつある。それは単に男女の性愛のことだけではない。ある意味性愛など一時のおまけに過ぎない。

 テレサは今、このクークの館で誰もが気を使い頭を下げる存在になっている。宿屋の女将をしていたころには、想像もできなかった生活を今のテレサは送っていた。

 

 人の欲は深く、一見慎ましく思えるテレサのような女でも、権勢や贅沢を望む心は持っている。

 

 小領といえども領主の館に住み、大きな寝台で寝起きしている。

 服は、高価な布地でつくられた衣装を何着も持ち、下着までオーダーメイドだ。

 食べる心配もなく、一日三食の食事は専門の料理人が支度をしてくれる。服も食器も洗い物をする必要がない。

 そして皆が、この奴隷であるテレサに頭を下げるのだ。

 

 そのすべてをもたらしてくれたのはアンコウの存在。アンコウが消えれば、そのすべてがテレサの手の中から消え去ってしまう。

 ただの普通の女であるテレサに、それらに対する執着を持つなというのは無理な話だ。テレサは自分の人生そのものを、自分の心と一緒にアンコウに依存し始めていた。

 

 

 開け放った窓から、少し強めの風が入り込み始めた。

ひゅううぅぅーっ

 机の上に置いていた書類が、一枚二枚と風に飛ばされ、机の下へと落ちていった。

 テレサがハッと気づけば、ずいぶん時間が経過したようだ。

 

「……あ、…あ、うううんっ、」

 

 床に転がっていたリューネルが、意識を取り戻したようだ。

 テレサはまだ、リューネルを見下ろしている。

 

「…あぅ…テ、テレサさん……」

 

 テレサは膝をつき、リューネルの顔をのぞき込んだ。

 

「……気がついた?リューネル」

 

 リューネルは意識は取り戻したものの、まだ思うように体は動かないらしい。意識を失う前、自分がテレサにしたことを思い出して、心も混乱しているようだ。

 

「頭にのぼっていた血はさがったみたいね」

「……あぅぅぅぅ、」

「あなたがさっき私にしたこと、旦那様に話すわ」

 テレサが冷たい口調で言った。

 

「!あっ……そ、それは……」

 リューネルの顔色が一気に悪くなっていく。

 

 リューネルも、主君アンコウという男のことは知っている。抗魔の力の保有者で、到底自分が戦って勝てる相手ではない。

 そして時に冷酷だ。何人もの山賊や敵を無慈悲に殺してきたことをその目で見ていた。

 

 テレサは、アンコウが寵愛している女だ。そのテレサに乱暴を働いた自分を、あのアンコウが許すわけがないと思った。

 

「旦那様は、あなたの命なんかに何の価値も見出さないと思う。なぶり殺しにするかもしれない」

 

 テレサはわざと冷たい口調で言い放つ。

 リューネルはその通りだと思った。

 

「ああっ、お、お許しを……ど、どうしてあんなことを……き、気の迷いで…テ、テレサ様っ、」

「だめ。許せることと許せないことがあるわ」

「あああっ、そ、そんなっ」

 

 仰向けに転がるリューネルの両眼から涙があふれ出してきた。体は(おこり)のように震え出す。

 リューネルは魔戦斧を振るうアンコウに姿を思い出し、心の底から恐怖した。

 

「ああっ、許して、許してくださいっ。テレサ様」

 

 綺麗なリューネルの顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていく。

 

(せっかくの男前が台無しね……もう)

 

 テレサはリューネルから視線を離し、ふうーっと、ため息をつく。

 そして、

パァンッ!

 小気味よい破裂音が部屋中に響いた。

 

 テレサが寝転がっているリューネルの頬を張り飛ばしたのだ。

 驚いて目を大きく見開くリューネル。

 

「……そうね。あなたにはこれまでいろいろ助けてもらったわ。今回のことだけで、あなたが旦那様に殺されるのは私も後味がよくない。………だから、今回だけは見逃してあげる」

 

「あっ、………ありぎゃとうごじゃいますぅ。テレサしゃまぁ」

 

 溢れ出る涙と鼻水で、リューネルはまともに(しゃべ)れていない。

 

「ただし!今回だけよ。次同じことをしたら許さないから」

 

 テレサは、お仕置きのつもりで、もう一回リューネルの頬を

パァンッ! と派手に張った。

 

 そしてテレサは、まだ床に転がるリューネルをそのまま放置して、その部屋を後にした。

 

 

―――――

 

「ああっ、テレサ様、テレサ様っ。申し訳ございませんっ」

 

 一人残されたリューネルは、その後もしばらく床に転がったまま涙していた。

 テレサに張られたリューネルの頬が赤く腫れあがっている。彼は後悔し反省しているのか、それにしては彼の様子が少しおかしいようだ。

 

 リューネルは泣きながら、右手を自分の股間へと伸ばしていた。

 

「ああっ、僕はだめだ、だめだ。ど、どうしてこんなっ」

 

 リューネルは、頭では本当に反省している。自分がした愚かな行為を悔やんでもいる。

 ただ、ここにきて彼の中で新たな扉がまた一つ開かれたらしい。

 

「ああっ、どうして、どうして、僕はこんなふうなんだっ。テ、テレサ様ぁっ、もっと、もっとダメな僕を叱って、叩いてくださいぃっ」

 

 リューネルの右手の動きが、さらに激しくなった。

 

………こいつは本当にだめだ。テレサの好意も、この手の奴には通じない。

 (へき)というものは恐ろしい。この手の癖に目覚めた者は、息をしているかぎり変われやしない。

 

 

 

 

「テレシャ、モグモグ、アンキョー、モグ、かえってくりゅのぉ。ングッ」

「こら、カルミちゃん、口の中にものを入れたままでしゃべらない」

「ふぁい、モグ」

 

 テレサとカルミが二人で朝食のテーブルについている。アンコウがいなくなってからは、二人での食事が基本だ。

 そして、今朝のテレサはいつになく機嫌が良い。

 

「旦那様は明後日にはクークに帰ってくるそうよ。カルミちゃん」

「おおー」

 

 昨日、ロワナにアンコウを連れ戻しに行っているダッジからクークに連絡が入った。

 それはアンコウがクークへの帰還に同意し、近々戻ってくるというものだった。また、アンコウは健康そのもので、何ら問題は生じていないということも伝えられた。

 

(よかった無事で)

 テレサの喜びは、カルミにも伝染する。

 

「よかったねーテレサ。アンコウ、おみやげ持ってくるかなー」

「ふふふ、それはどうかしらね。旦那様もあっちで忙しかったみたいだから」

 

 アンコウは割とマメなところがある男だが、土産物なしに帰って来た時、変に期待させてはカルミが悲しむだろうと思い、テレサは配慮した。

 

「そっかー」

「さぁ、おしゃべりばかりせずに食べましょう」

「はーい」

 

 今日の朝食は、やわらかい白パンと大きなチーズの塊に玉子ときのこのスープ、それに山盛りの野菜サラダが盛りつけられている。また、テレサの前には紅茶が、カルミにはオレンジジュースが置かれていた。

 一見質素なようにも思えるが、どの料理に使われた素材も、一級品であり新鮮なものだ。

 

―――「ぷはぁーっ、おいしかったー」 「ふふふ」

 

「さぁ、私はもうお仕事に行かないといけないし、今日、カルミちゃんは午前中お勉強の日でしょ?」

 

 実はカルミには、このクークに来てから家庭教師がつけられている。それはカルミが自発的に勉強することを望んだわけではなく、テレサが勧めたわけでもない。

 アンコウがカルミに、ここに居たいんだったら勉強しろと条件を付けたのだ。

 

 それがテレサには意外だった。子供に学をつけさせようなどという冒険者は少ない。

 アンコウ曰く、どんな生き方をしようとも読み書きと基本的な計算ぐらいできなきゃだめだということだった。

 

(……それはそうなんだけど。旦那様はどんな家で育ったのかしら)

 テレサはそう疑問に思い、それとなくアンコウに生い立ちを尋ねてみても、アンコウは煩わしそうに普通の家で普通に育ったとしか答えてくれなかった。

 

 また子供つながりで言うと、アンコウは資金の目途がつき次第、このクークに孤児院と子供たちの学校を、数は少なくてもかまわないからとにかく建てろと領主としての指示を出していた。

 

(そんなに子供好きには見えないんだけど……)と、それを聞いたときにも、テレサは思った。

 実際アンコウはそれほど子供が好きではない。

 

 ただ、好きでやっている領主ではないが、アンコウなりに権力者がやらなければならない仕事というものが頭の中にあるらしい。

 その事に関しては、テレサよりも、アンコウからいろいろと直接指示を受けたモスカルのほうが頭をひねっていた。

 ただの冒険者上がりの感覚ではないと、彼も感じていたのだ。

 

 

「うん、そうだよー。今日はおべんきょう。でも今日は、お昼はテレサのおやつの日だからねっ」

 カルミがニコニコしながら言う。

 

「ええ、約束だからね。ちゃんとお昼はお仕事もお休みにしたわ」

「えへへ~。テレサのアップルパイ、たのしみだなー」

 

 カルミの楽しそうな顔を見ていると、テレサも幸せな気持ちになってくる。

 カルミはテレサの手作りおやつが大好きで、その中でも特にアップルパイがお気に入りだった。

 

「うふふふ、おいしいの焼くからね」

 

 

―――

 

 テレサはこの日の仕事は早々に切り上げて、庭の一角につくられた白壁の小屋にやって来た。

 この小屋はテレサが料理をする目的だけにつくられた小屋だ。

 

 むろん館の中にはもっと立派な調理場があるのだが、そこにはこの屋敷の調理を担当する専門の料理人たちが朝から晩まで交代で働いている。

 そこにアンコウの愛妾であるテレサが入り込み、調理場を使いだすと、間違いなく彼らの邪魔になってしまう。

 

 今日のようにカルミにおやつをせがまれることもあるし、アンコウがテレサが作る口に慣れた料理を食べたいということもあった。

 そこでテレサがどうしたものかと悩んでいると、アンコウが命じて、ここに、この白壁の調理小屋をつくらせたのだ。

 

 アンコウは完成したこの小屋を見て、

『はぁー、典型的な金持ちの道楽って感じだな』と、他人がつくったものを見るようにつぶやいていた。

 しかし、この小屋のおかげでテレサは、作りたいときに自分で料理をすることができている。

 

「さぁ、早く仕上げないと、そろそろカルミちゃんが来ちゃうわね」

 

 もう調理場中に、煮リンゴと砂糖が焼けた甘い香りが漂っている。

 テレサが金属製の焼きガマのふたを開け、中を確認すると四角に形作られたアップルパイが5つ、ちょうどよい具合に焼けていた。

 

「よしっ、完璧ね」

 テレサは手早く窯の中から、パイを取り出して皿の上に置いていく。

 

「さて、私は何のハーブティにしようかしら」

 

 

 しばらくすると、

――「テレサ―っ、きたよーっ」――と、少し離れたところからカルミの声が聞こえてきた。

 

「カルミちゃーん!もうできてるわよーっ!」

 

――「はーいっ」――

 

「うふふっ」

 

 

 

 

チャポーンッ……

 

「ねぇねぇ、テレサ。アンコウ、あした帰ってくるんだよねー」

 

 カルミがちゃぽちゃぽと湯船に浮かびながら、テレサに尋ねる。

 昨日アンコウが戻ってくるということが分かってから、カルミは何度もテレサにアンコウのことを尋ねてきた。

 

 テレサは、その女らしい肉づきのよい大きな胸と大きな尻を持つ豊満な体を湯につけて、湯船の端に座っている。

 

「ええ、明日のお昼までにはクークに着くらしいわ」

 

 カルミは、「そっかー」と言って、テレサの体にぴったりとくっついてきた。カルミはテレサに対して、かなりの甘えただ。

 6歳児ならば当たり前のことかもしれないが、カルミの場合、基本的には他人に甘えることはしない。

 無表情で、人と一定の距離をあけているのがカルミの標準だ。

 

 ハーフドワーフであるカルミは、生まれた人間の村で、ひどく差別的な扱いを受けていた。カルミは、その赤子に近い年齢の頃からの記憶を失わずに今も持っている。

 そして、アンコウに出会うまでの2年間は、魔素の漂う森の中で、ドワーフの祖父と二人で過ごしてきた。そんなカルミは、他人に対する警戒心が強い。

 

 テレサとアンコウが、カルミにとって特別なのだ。

 だから、クークに来てカルミに家庭教師をつけることになった時、初めの頃カルミは相当嫌がり、テレサはかなりてこずった。

 

 普段は実に子供らしい様子を見せている童女カルミだが、一旦戦場に立てば、愛用のメイスで敵の脳天を次々に叩き割り、戦場に地獄絵図を描き出して平然としている恐るべき戦士でもある。

 

 無理やり勉強部屋に放り込めば、教師を睨みつけ、殺気を叩きつける。そんなことをされると教師も勉強を教えるどころではなくなってしまう。

 テレサの言うこともなかなか聞き入れず、連日殺気を叩きつけられて怯えた家庭教師はアンコウに泣きついた。

 

 眉をしかめ、ただ面倒くさがったアンコウだったが、とりあえずカルミを捕まえて、

「勉強しないんだったら、アルマの森にたたき返すぞ」と叱りつけた。

 アンコウがしたのはそれだけ。

 

 アンコウに怒られたカルミは目に涙をためならがら、テレサのところへやって来た。

『アンコウがおこった。アンコウが嫌なことをカルミにさせる。アンコウが森に帰れって言った』

 そう言ってきたカルミを、テレサはやさしく諭した。

 

「ねぇ、カルミちゃん。私はここでカルミちゃんの母親代わりでしょ?」

 

 カルミは、上目遣いでテレサを見ながら頷く。

 

「だったら、旦那様は私のご主人様だから、ここでのカルミちゃんの父親代わりじゃない?私はそう思うけど」

「……ちちおや代わり?」

 

 テレサが膝を折り、カルミと目線を合わせて頷く。

 

「そうよ。父親はね、子供を叱ることが一番目の仕事なの。でもそれはね、子供のことが嫌いだから叱るんじゃないのよ。子供のためを思って叱るのよ。

 勉強することはカルミちゃんのためになることなの。だから、それを嫌だって言ったカルミちゃんを父親代わりの旦那様は叱ったのよ。カルミちゃんのためにね?」

 

「……カルミのため」

「そうよ」

「ぉー、カルミのため。アンコウちちおや代わり」

「そうよ。だから、カルミちゃんの母親代わりの私と父親代わりの旦那様は、カルミちゃんがちゃんと勉強してくれないと悲しいわ」

「ぉー……そっか……」

 

 うまいことを言うものだ、もうカルミの目に涙は浮かんでいない。

 

「カルミっ、勉強するっ!」

「まぁっ!うれしいっ!」

 

 

 そんなこともあったカルミだが、アンコウがいなくなった この一か月半の間、テレサに対する甘え方が明らかにひどくなっていた。

 

(私と一緒。旦那様がいなくなって不安なのね、カルミちゃん。あんなに強いけど、まだ六つの女の子だもの)

 

 テレサは、自分にぴったりくっついて湯船に浸かっているカルミのもっさりとした髪の毛を見ながら思った。

 

「テレサぁ……」

 

 カルミが湯に浸かるテレサの両ももにまたがり、テレサにしっかりと抱きついてきた。カルミは、テレサの大きなおっぱいの間に顔をうずめている。

 

「あらあら、カルミちゃん、赤ちゃんみたいよ」

「カルミ、赤ちゃん?」

 カルミが顔をあげてテレサに聞く。

「ふふっ。そうね、ずいぶん大きい赤ちゃんだけど」

「ぉー、ねぇ、テレサ」

「なぁに?」

「テレサのおっぱい吸ってもいーい?」

 カルミは真っすぐテレサの顔を見ながら言った。

「えっ?」

 

 それを聞いてテレサは、カルミが赤子がえりしてるのかしらと思った。

 

 テレサは以前、アネサの町に住んでいた時に聞いたことがあった。

 養子に貰った子や、かなり幼い年齢で丁稚(でっち)に入った子供たちが、まるで赤ちゃんに戻ったかのように振舞うことがあると。

 

 そして、その話をしていた初老の女が、

 それは一時(いっとき)のことだから、もしその子を自分の子供として責任を持って育てるつもりなら叱らずに受け止めてやれ。もし何かの役目を課すためにその子がいるのなら厳しく叱れ

 と、言っていたことをテレサは思い出した。

 

「…そう、いいわよ。カルミちゃん」

 テレサは微笑みながら言った。

 

 テレサの許しを得たカルミが、テレサのぷっくりとした乳首に吸いついた。ちゅぱちゅぱと、本当に赤ちゃんのように吸っている。

 テレサは自分の乳首を吸うカルミを、やさしいまなざしで見つめていた。

 

(フフフッ、不思議ねぇ。本当に赤ちゃんみたいな吸い方をしてる)

 

 テレサは自分の一人娘であるニーシェルが赤子であった時のことをぼんやりと思い出していた。

 

 今、日常的にテレサの乳首を吸っているのは、もっぱらアンコウ一人。

 アンコウに乳首を吸われれば、テレサの体には淫秘な熱が巡る。しかし今カルミに乳首を吸われて、テレサの中で湧きあがってくるものは母性そのものだった。

 

 テレサの心が湧きあがってくる母性で満たされた時、わずかながらテレサの表情に陰りが見えた。カルミに対する罪悪感を覚えたのだ。

 

(カルミちゃん……)

 

 テレサは間違いなくカルミに愛情を抱いている。心の中に湧きあがってきた母性も本物だ。

 しかし、そもそもテレサが母親代わりとしてカルミを受け入れたことには、別の打算もあった。

 

 それはアンコウを自分の(もと)に、つなぎ留めておく一つの理由になるのではないかと、テレサは誰にも見せることのない心の隅で考えていた。

 

 アンコウにとって、カルミの価値は高い。カルミのその戦闘能力は間違いなくこのクークで一番のもの。

 この戦乱の世の中において、領主アンコウにとって、カルミという(いくさ)の手駒がいることは自身の存亡に直結するほどの価値がある。

 

 また、それ以上の価値もカルミは持っていた。

 カルミは、ドワーフの玉都ワン-ロン、その太祖オゴナルの王力の流れを汲みし者であり、ワン-ロンの現統治者ナナーシュ・ド・ワン-ロンの友であり、特別な愛顧を受けている。

 

 アンコウはカルミに対して、多少ぞんざいな扱いをすることがあっても、そんなカルミとの関係を自分から完全に切ることはおそらくしないと、テレサは思っていた。

 

(私よりカルミちゃんのほうが旦那様にとって価値がある……)

 

 テレサは、アンコウよりも十歳近く年上の愛妾奴隷。

 自分よりもっと若く美しいアンコウ好みの女が現れたなら、自分の価値はなくなるかもしれない という不安がある。

 

 そんなテレサが、愛妾奴隷としてアンコウとの絆を深めるのに最も有効な方法はアンコウとの子供をつくること。だけど、それは期待できない。

 テレサはアンコウの精を、間違いなく100人以上は子ができる程に、己が子宮の中に直接注ぎ込まれている。それでも子ができることはない。

 

 なぜなら、アンコウは子を欲してはいないからだ。テレサはアンコウと交わるようになってからずっと、アンコウの指示で避妊薬を飲み続けている。

 それはアンコウと奴隷契約をした当初からの約束事の一つだった。

 

 だからこそテレサの中の打算のそろ盤は、カルミの母親代わりとなることに愛情とは別の、もう一つの価値を見出していた。

 

 ただのつながりではなく、母親代わりとなればその絆は特別なものになる。カルミの持つ価値が、テレサにとっても自分を守る力となる。

 

 いつかアンコウがテレサを切り捨てようとしても、その時、カルミの存在がまだアンコウにとって価値あるものであったならば、アンコウはカルミの母親代わりであるテレサを切ることを躊躇(ためら)うに違いない。

 

 そしてテレサは、アンコウがカルミの父親代わりであるという意識をカルミの中に植え付けようともしている。

 自分とアンコウとの本当の子供ができなのなら、互いにカルミの親代わりとなり、疑似家族をつくってしまえばいい。

 

 それは、アンコウがあずかり知らぬところの話ではあるが、自分をカルミの母親代わりにと言い出したのはアンコウだし、一方的にとはいえ、カルミがアンコウを父親代わりと認識してしまえば、アンコウも無視することはできないはず。

 

 テレサは、カルミの存在を自分とアンコウとのかすがいにできないかと、ぼんやりとではあるが考えていた。

 

 

 まだカルミは、テレサの乳が出るはずのないおっぱいを ちゅぱちゅぱと吸い続けている。

 

「カルミちゃん………」

 

 テレサの心が、チクチクと痛んだ。テレサは自分のおっぱいを吸うカルミをぎゅーっと抱きしめた。

 

「ぷはぁ、テレサぁ」

「カルミちゃんっ」

 

 風呂の湯船の中で、テレサとカルミはぎゅっと抱き合っている。

 

「テレサぁ、あした、アンコウ帰ってくるね」

「……そうね、明日は旦那様と三人でご飯を食べましょうね」

 

――――大きな湯船から、水蒸気となった湯気があがり続けている。天井一面についた水滴が、所々でポタポタと落ちていた。

 

 

 

 

 2カ月近くぶりに、アンコウはクークへ帰ってきた。

 特別派手な出迎えがあったわけでもなく、町の住人たちがいつも通りの日常生活を送っている中、ふらりとアンコウたちは帰ってきた。

 

 

「よう、テレサ元気か?」

 

 領主の館の門前まで出迎えたテレサに、アンコウはまるで一日視察にでも出かけていたかのような気軽さで声をかけてきた。

 

「は、はい。旦那様もっ」

 

 アンコウは特別機嫌が良くも悪くもなく、あまり疲労もない様子であった。

 

 そしてアンコウは、(やかた)に入ると手早く旅装を解き、旅の垢を落とすため、早々に風呂に入りに行った。

 しかし、2時間ほど後、部屋に戻ってきたアンコウは、なぜかクタクタに疲れた様子を見せていた。

 

「カ、カルミのやつめ。なんであいつはあんなに元気なんだ……」

 

 カルミが、風呂に入ったアンコウのところへ突撃したらしい。

 

「ま、まぁ、カルミちゃんが、」

「百回ぐらい、湯船に放り投げさせられたぞ……」

「ご、ごめんなさい。旅帰りでお疲れでしょうに。私がちゃんと見ていなかったから」

「いや、いい。テレサが謝ることじゃないさ」

 

 テレサは一応アンコウに謝りながらも、

 そうか、それなら自分も一緒に入ればよかった と、少し悔やんでいた。

(もうカルミちゃん、一言声をかけてくれればいいのに)

 

 アンコウはいろいろ文句を言いながらも、手早く身支度を整えていく。

 

 ここはアンコウとテレサのベッドが二つ並ぶ寝室だが、二つベッドを並べても十分空きスペースがある部屋で、アンコウはこの部屋にソファやらテーブルやらタンスやら、日常に必要な家具のほとんどを持ち込んでいた。

 

 また、メイドたちのこの部屋への出入りも必要最小限にしか許しておらず、この部屋は、アンコウのというより、アンコウとテレサの本当の意味でのプライベートルームのような場所になっている。

 

「旦那様、これからどうなされるのですか」

「ん?まずはモスカルのところだな。あっちこっちから呼び出しをくらってるんだ」

 

 基本、統治のことは他人任せ領主のアンコウだが、そんな領主でも本人でなければ勝手に決済できない案件もそれなりにあるらしい。

 そのため、アンコウの(もと)にはクークに到着早々、幹部連中やあちこちの部署から怒りと懇願まじりの出仕要請が来ていた。

 

(まぁ、そんなものは放っておいてもいいんだけど、このままここに居たら、またカルミのやつに捕まってしまいそうだし)

 

「あっ、お着替え手伝います」

「悪いな」

 

 テレサが甲斐甲斐(かいがい)しくアンコウの着替えを手伝う。

 

(テレサの匂いだ。久しぶりだな……)

 

 テレサはアンコウが着ている服を整えていく。そのテレサを見つめるアンコウの目の色が、少し怪しげなものに変わっていった。

 

「……悪いな、テレサ」

「いえ、あっ!」

 

 アンコウは突然テレサの腕をとり、テレサを抱き寄せた。

 

「あっ、旦那様っ」

 

 アンコウは抱きしめたテレサの首元に顔を近づけ、思い切りテレサの匂いを吸い込んだ。

(………テレサの匂いだ)

 そして、相手の匂いを嗅いでいたのはアンコウだけではない。

(ああ、旦那様のにおい……)

 テレサも久しぶりに、懐かしい男の匂いを嗅いでいた。

 

 アンコウの唇がテレサの首元に吸いつく。

 

「あっ」

 テレサの両腕がアンコウの背中にまわり、ギュウッと抱きしめる。

 テレサの首の肌がアンコウの舌の動きを感じていた。

「ああっ」

 

 はぁはぁと、アンコウの呼吸が少し荒くなっていく。それはテレサも同様だ。

 アンコウはテレサの首元から顔をあげ、テレサを見つめる。

 アンコウの目が濁り、熱を帯びてきていることが、テレサの目にもはっきりとわかった。

 

「……だんなさま」

 

 テレサもアンコウから目を離さない。アンコウはテレサを再び抱き寄せ、唇を重ねた。

 

「んんっ、」

 

 部屋から声が消えた。互いを求めて唇を()(こす)り、二人の舌が絡み合う。深く甘美な大人の接吻。

 

―――互いの唾液が十分にまじりあった時点で、二人の唇はようやく離れた。

 

「ああっ、だんなさま」

「……テレサ」

 

 アンコウもテレサも、その顔には赤みが差し、明らかに性的な興奮を覚えている。ベッドもすぐ近くにある。

 しかし残念ながら、今はまだ陽が高く、アンコウにはむさ苦しい男の待ち人たちが、列を連ねて待っている。

 

 アンコウは熱っぽい目でテレサを見つめながらも、

「……もう、行かないと、」と言った。

 

「は、はい。そうですね」

 

 アンコウはゆっくりとテレサの体を名残惜しそうに離していった。

 テレサと同じだけアンコウもご無沙汰なのだ。男と女なら、男のほうがずっとその衝動は強い。

 テレサをこのまま押し倒したいという衝動を、アンコウはグッと(こら)えた。

 

(……まぁ、しゃあねぇなぁ。ふた月近くも休んだんだ……働くかぁ)

 

 アンコウはため息をつき、頭をかきながら扉のほうへと足を向ける。

 扉のほうに顔を向けたアンコウの目に、ロワナから持ち帰った荷物が目に入った。

 

「おっと、そうだった」

 

 アンコウは積まれた荷物の一番上に置かれていた魔具鞄をつかみあげる。そして口を開けて手を突っ込んだ。

 

―――「あった、あった。これだな」

 

 アンコウは魔具鞄の中から、さらにもう一つの袋を取り出して、床に置く。そして、その中から小さく平たい箱を取り出した。

 それを持ってアンコウは、再びテレサの前へと戻って来た。

 

 テレサは、何をしているのかしらと、不思議そうにアンコウを見ていた。

 

「はい」と、アンコウは、

 手に持った平たい木箱をテレサに差し出した。

 

「えっ?」

「ロワナみやげだ」

「あっ」

 

 差し出された飾り気のない木箱は、テレサへの土産物(みやげもの)だったらしい。

 

「あっ、ありがとうございます、旦那様」

 

 それと知ったテレサはアンコウに喜んで見せた。

 いや、実際にうれしかったのだが、アンコウの態度がかなり素っ気ないものだったため、幾分とってつけた感も出てしまった。

 

 しかし、アンコウからその質素な木箱を受け取り、アンコウの許可を得て箱を開いたテレサは本当に驚いた。

 その箱の中には、透き通った緑色をした大きな石のペンダントが入っていた。その豪奢さは、箱の質素さとは全くそぐわないものだった。

 

「………旦那様、これは………」

「ああ、テレサも分かんないか。俺も宝石には詳しくないんだけどな。それは希少石のエメパウラらしい」

「エメパウラ………」

 

 テレサは木箱をテーブルの上に置き、ネックレスをそっと手に取る。

 それは銀色に輝く精緻な彫刻が施された厚め石座に、栗ほどの大きさがある綺麗な半透明の翠色の石が嵌めこまれていた。

 

(……すごい、キレイ……)

 

「あー、見たらわかると思うけど。それ、中にちっちゃい虫が入ってるだろ?まぁ、石は本物だからさ。その辺は大目に見てくれよ」

 

 そのネックレスは、アンコウがロワナに店を構えている ある商人から手に入れたものだ。

 アンコウが言うところの、『人格者気取りのロワナ領代官職のマラウト』は、町の民衆からの人気もたいへん高く、その商人も、そんなマラウトシンパの一人。

 

 アンコウは、何人ものロワナの富裕商人に会う機会があったのだが、実際に会って話をしてみたところ、皆から、それはもう恐ろしく感謝されてしまった。

 そして、その感謝の気持ちにつけ込んだアンコウは、言葉巧みに、多くの商人から様々な贈り物を頂戴した。

 

 テレサに、お土産として渡したエメパウラのネックレスも、感謝の気持ちとして、金持ち商人から頂戴した贈り物の一つだった。

 なんでも、イェルベンの有力貴族に、(まいない)として送る宝石の一つになるはずだったのだが、石の中に虫が入っていたため、その贈答品からは弾かれてしまったらしい。

 

 テレサは魅入られたように、そのエメパウラのネックレスをじっと見つめて動かない。

 その様子を見て、アンコウはテレサが気に入らなかったのかと思った。

 

「ま、まぁ、あれだ。確かに虫は入っているけど、ちっちゃいからな、まわりの人間には見えないさ。そ、その金属細工自体はちゃんとした一流の職人がしたみたいだしさぁ……えーっと、」

 

「あっ、ありがとうございますっ、旦那様っ!うれしいっ、大切にしますねっ!」

 押し黙っていたかと思うと、一転喜びの声をあげたテレサ。

 

「お、おう……そ、そうか」

 

 女はやっぱりよくわからないな と、アンコウは思う。

 まぁ、嫌がられるより喜ばれた方がいいに決まっているとアンコウは少しホッとした。

 

 アンコウはおもむろにテレサの手からネックレスを取り、そのままテレサの首にかけてやる。

 そして、テレサの首の後ろに回されたアンコウの手が離れる。

 すると、大きく綺麗なエメパウラの翠石が、テレサの胸元を綺麗に飾っていた。

 

「うん、似合ってるな。綺麗だと思うよ、テレサ」

 アンコウは自然な口調で、笑みを浮かべながら言った。

 

 そのアンコウの野暮ったい微笑みを見た瞬間、テレサの心臓が、ドクンッと跳ねた。

 蓼食(たでく)う虫も()()き と言ったところか。

 

「だ、だんなさま………」

 

 一瞬()が空いた後、テレサはアンコウに抱きつこうとするが、アンコウはそれに気づかず、一瞬早く後ろに向かって動き出していた。

 

(あっ…旦那様、)

 

 

 アンコウは再び扉近くまで歩いていき、テレサに渡した木箱が入っていた袋を持ち上げた。

 

「さてと、あとこれもだな」

 

 そして、それを持ってテレサのところにまた戻ってくる。そして今度は、その袋ごとテレサのほうに差し出した。

 

「これはカルミに渡しておいてくれよ」

「えっ」

 

 テレサはアンコウからその袋を受け取り、袋の口から中身を覗き見る。

 その袋の中には大きなサルのぬいぐるみらしきものが入っていた。

 

「あっ、これ、」

「それはカルミの分の土産だ。じゃ頼んだぜ」

 

 そう言ってアンコウは踵を返し、扉のほうへ向かって歩いていこうとする。

 

「あっ、待ってくださいっ。これは旦那様からカルミちゃんに渡してあげてくださいっ」

 

 テレサは昨日、カルミがアンコウからのおみやげを期待しているかのようなことを言っていたことを思い出した。

 

「………いや、俺はこれから仕事だから、」

 アンコウは一応足は止めたものの、かなり気が進まない様子。

 風呂場で相当カルミの相手をさせられたようだ。

「渡してあげてから、すぐに行ってくださいっ」

 

 カルミの気持ちを知るテレサは、なかなか引く様子がない。

 何だ、やけに熱心だな。面倒くせぇ とアンコウは思い、そのまま無視して出ていこうとしたのだが、この時はテレサのほうに運があったようだ。

 

 

バタンッ!ドンッ!

 アンコウが出ていこうとしていた扉が勢いよく開いた。

 

「アンコウ!遊ぼう!おにごっこ!」

 小ぶりアフロ娘、カルミだ!

 

「無理だっ!」

 アンコウは反射的に拒否した!

 

 アンコツとカルミは、この後、遊ぼう、無理だと押し問答を続けたが、ここはテレサがアンコウ側に立ち、カルミに諦めさせた。

 

―――「旦那様はこれからお仕事なのよ。みんなのためのお仕事なの。これ以上わがままはダメよ、カルミちゃん」

 

「……は~い」

「でも、夕食は一緒に取ってくださるのよね、旦那様」

「……あぁ、晩飯はこっちで食べるよ」

「ねっ、晩御飯は三人で一緒よ。カルミちゃん」

「うん……わかったっ」

「えらい、えらい。それにね、旦那様がカルミちゃんに渡したいものがあるんですってっ」

「?」

 カルミが小首をかしげる。

 

 アンコウは、ハァーと、疲れるとばかりに息を吐き、テレサが床に置いていた例の袋を持ち上げた。

 そして今度はカルミの前に。

 

「ほらよ、カルミ。ロワナのおみやげだ」

「!?ほおーっ、おみやげだっ!」

 

 カルミは袋の中から、おみやげを取り出した。それは大きなぬいぐるみだった。

 アンコウは自分が買って来たものながら、それを見て微妙な表情になる。

 一つ目の猿が、かわいらしく?デフォルメされた大きいぬいぐるみで、スカートを履いているのだから、一応女の子なのだろう。

 

 アンコウがこれを買ったカナンの玩具店の店主に聞いたところ、この人形は長年カナンの町で愛されているロングセラーキャラクターらしい。

 アンコウにはいまいち理解できないキャラだったため、他のも見てみたのだが、よりリアルな猿のぬいぐるみやら、夜になったら動き出しそうな薄気味悪い人形やらしか他にはなかったので、結局これを買ってきた。

 

 しかし、あらためて見ても、アンコウにはこのぬいぐるみのロングセラーの理由がわからない。

 

(……何でしっぽがヘビなんだよ……まぁ、これでもこっちの世界のモンチッチみたいなもんなのか)

 

 アンコウとしては首を傾げるほかないセンスなのだが、それを貰ったカルミは、そのデフォルメ一つ目猿子のぬいぐるみを両手で持ち上げて、目をキラキラさせながら、

 

「おお~~っ」 と声をあげ、明らかに喜んでいる様子だったので、

(こっちの世界の子供にはウケるんだな)と、アンコウは納得した。

 

「アンコウっ、ありがとっ!」

「お、おう。まぁ、ぶん回して、しっぽをちぎらないようにな」

 

 そんな二人の様子を見て、テレサは ふふふと笑っていた。

 

「じゃあ、俺は仕事に行くから」 とアンコウは部屋を後にした。

 

 

―――

 

 

 その日の夕刻、仕事を切り上げたアンコウは、テレサ、カルミと約束どおり夕食をとった。何の変哲もない、これまでどおりの三人での食事。

 

 カルミとテレサは、アンコウにロワナでのことをいろいろと質問し、アンコウはそれに適当に答えていく。

 終始、話し声が聞こえ、笑い声も聞こえる和やかな普通の食事風景。

 

 そして、カルミが座る椅子の横にはもう一つ椅子(いす)が置かれ、その椅子には変なデフォルメがされた一つ目の女の子ザルのぬいぐるみが置かれていた。

 また、カルミのもう一方の隣の席に座る テレサの胸元には、首からさげられた美しいエメパウラの大きな翠石(すいせき)があった。

 

 アンコウたちが食事をしていた部屋には、いくつもの豪華な燭台に火が灯されていた。

 そこにはまったく暗さも陰りもなく、部屋中が明るく輝いているようだった。

 

………そして、三人の食事が終わるころには完全に夜のとばりが下りていた。

 

 

 

――――――

 

「……ああんっ」

 

 ソファに座る上半身裸のテレサ。テレサの胸元にはアンコウの頭がある。

 

 テレサは、リューネルに胸を鷲掴みにされた時のような怒りなど全く感じることはない。

 カルミに乳首を吸われた時のような母性が湧きあがることもない。

 ただただテレサは、一人の女という(けもの)になっている。

 

「アンッ、だんなさまぁ」

 

 陽が沈めば、クークの空気は冷えてくる。しかし、上半身裸のテレサの胸元と、アンコウの背中には汗が流れ落ち始めている。

 限られた燭台(しょくだい)の炎が部屋を照らす中、アンコウとテレサはソファの上、互いの肉体を(いじく)り合い続けている。

 

 アンコウがテレサにきれいだと囁き、テレサの女体を褒める言葉を吐く。

 劣情に燃え盛る男が吐く言葉でも、同じく悦楽の奔流に飲み込まれ始めている女には甘美な響きとなる。

 

「テレサっ」

「はぁあんっ」

 

 互いに最後に異性と抱きあったのは、ふた月ほど前、その時もアンコウの相手はテレサ、テレサの相手はアンコウだった。

 男が女を、女が男を、互いに求めあう時間が流れる。

 

 いつの間にか、テレサが身に纏っていた高級な絹布を使った夜着も、レース付きの白いオーダーメイドの下着もすべて床に落ちてしまっている。

 

「……テレサ、ベッドに行こう」

 

 アンコウに促されて、テレサは立ち上がる。

 アンコウはテレサの肩を抱き、テレサはアンコウの体にぴったりとしがみついている。

 

 テレサの目にも、アンコウの引き締まった汗ばむ肉体のすべてが見えている。

(ああ、だんなさま。私のもの………)

 移動しながらも、興奮したテレサの唇がアンコウの胸元を這う。

 

 アンコウとテレサは、もつれ合い、倒れ込むようにベッドに落ちた。

 

 そして、夜の闇がさらに深みを増していく――――

 

「アンッ、アンッ、ああっ、アンンッッ、」

 

 悦楽の熱に支配されたテレサは、もう何も余計なことを考えることができなくなっている。ただひたすらにアンコウを求めるだけ。

 

「テレサっ、テレサっ」

「ああっ、アンコウっ、いいんっ!」

 

 テレサの手が時にベッドのシーツをきつく握りしめ、時にアンコウの体をきつく抱きしめる。そこにはリューネルの手を拒絶した冷たい女の顔も、カルミの頭を抱きしめた母性あふれる母の顔もない。

 淫秘ないやらしい女の顔をしたテレサが、ただ体中を巡る悦楽の炎に身を任せていた。

 

 そして、今のテレサにとって、自分を凌辱し、卑しき雌に堕落させることが許されるのはアンコウという男ただ一人。

 

「アンコオォっ、もっと、もっとおっ!アンンッ!」

 

 テレサの激しく悩ましい雌の声が、夜の闇の中、響き続けた…………

 この夜テレサは、夜の闇が白み始めるまで、寝ることを許されなかった。

 

……………ああぁ、だんなさまぁああっ……………

 

 



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第116話 調略 北山山賊同盟

 コールマル領北西部山岳地帯、レスカル村。レスカル村は北部山賊同盟に名を連ねる一村である。

 

 レスカル村は、先頃(さきごろ)クークで大敗を喫した領主アンコウとの戦いにも参加していた。

 しかし、レスカル村は山賊同盟側と領主軍が全面衝突する前に前線から離脱していたため(第102話)、村の戦闘員はほぼ無傷で今も残っている。

 

 

村長(むらおさ)ぁ、なんですかその金貨は?」

 

 村の中でもひときわ大きい木造の藁ぶき屋根の建物の中、レスカルの村長キームルが、丸い藁編(わらあ)み座布団の上に胡坐をかいて座っている。

 

「ああ。これはな、クークのアンコウからの贈り物だ」

 

 もじゃもじゃの胸毛をあらわに、キームルは金貨の入った袋を自分の目の前に居並ぶ手下どもに大きく開けて見せた。

 おおおっ と言う歓声が一斉に沸き起こる。

 

「……で、ですがアンコウっていやぁ、確かあの新しい領主の名前じゃあ」

 

 キームルをはじめ、居並ぶ男たちの多くが先のクークでの戦いに従軍していた。

 敗北する前に戦場を離れたとはいえ、自分たちが属する山賊同盟を完膚なきまでに叩きのめしたアンコウは敵であり、少なくともこのような贈り物をもらう(いわ)れはない。

 

「………そうだ、あの新しい領主からの贈り物だ。これだけじゃない。もうすぐ領主の家来どもが、この村に食料や物資を運びこんでくる」

 

 キームルの言葉を聞いた手下の男たちは驚きを隠すことなく、いったいどういうことだと互いに顔を見合わせる。

 

「あ、あの、お頭、何であの領主が俺たちに金貨や食料をくれるんですかい?」

「ああ、むろん、ただってわけじゃねぇ。領主の野郎は俺たちにゲジムとナバの村を攻めろと言ってきた」

 

「なっ!?」 「そりゃあ、いったいっ」 「ど、どいうことでございますかいっ」

 男どもが口々に驚きと疑問の声をあげる。

 

 ゲジムとナバと言えば、この北山山賊同盟の中で、一、二を争う大きな村である。いや、だった というべきか。

 ゲジムとナバは、先の山賊同盟によるクーク侵攻戦を提案し、実際に主導した。

 そして大敗を喫したのだ。ゲジム、ナバ両村の村長(むらおさ)は討たれ、参戦していた村の男たちも、かなりの数が村に帰ることができなかった。

 

(今この北山で、一番多くの兵を動かせるのは俺たちよ)

 レスカルの村長キームルはニタリと笑う。

 

「くっくっくっ、」

「む、村長ぁ?」

 

「あの新しい領主もバカではないみたいだな。俺たちレスカルの力をわかっているようだ。ゲジムとナバは、今ボロボロになっている。それを俺たちが攻め滅ぼす。

 で、あのアンコウという領主は、俺たちに金貨と食料だけでなく、北山の半分を所領としてくれるそうだ。悪くねぇ取引だ」

 

 キームルの周りを囲む男たちがざわめく。

 

「し、しかし村長、確かにゲジムとナバは弱っちゃいるが、俺たちだけで二村を攻めるのは無理がないか?」

「俺たち、だけじゃねぇ。テジクと黒耳どもも、こちら側についた」

 

 おおー と、ざわめく男たち。

 

 こちら側についたとエラそうに手下どもに語っているキームルだが、別に彼が何か工作したわけではない。

 テジク村とダークエルフの集落に根回しをしたのも、アンコウたち領主側が行ったことだ。

 

「確かにこのあいだはクークで負けたが、あの領主は俺たちの力を恐れているのよ。さんざん金や物をばらまいているらしい。

 なに、一時(いっとき)は新米の御領主様の顔を立ててやろうじゃねぇか。それで北山の半分は俺たちのものよ」

 

キームルは、ガハハ と声高らかに笑う。

 

 より正確に言うと、領主アンコウからはゲジム、ナバを滅ぼした後は、テジク村、黒耳村を含む北山の西半分をキームル個人の所領として認めるという提案がなされていた。

 それはつまり、

(このキームル様が、ここいら一帯を治める豪族になるってことよぉ)

 という、キームルが断る理由は何もない話であった。

 

 

 

 

「ぎゃあああーーっ」「いやああーっ」「たすけてええーっ」

 

 村落一帯、あちこちから悲鳴があがっている。

 ここは北山山賊同盟の一村、ゲジムだ。

 

 レスカル、テジク、黒耳の三か村合同軍は、一昨日突如ナバ村に攻め入り、村中に火を放ち攻め落とした後、そのままこのゲジム村に向かって侵攻してきた。

 すでに()(すべ)なく蹂躙(じゅうりん)されたナバ村と同様、ゲジム村も、攻め入ってきた合同軍に対して、効果的な反撃をできるだけの力はなかった。

 

「大人の男は全員殺せっ!女とお宝は根こそぎブン獲れっっ!」

 

 目を血走らせたキームルの興奮に満ちた命令が下る。

 しかし、キームルがわざわざ命令するまでもなく、すでに攻め入った山賊たちによる略奪、暴虐行為が村中で行われていた。

 

 村中の建物から火とともに煙が立ちのぼり、収奪品を抱えた男たちが威勢よく道を歩き、その道には幾体もの男たちの血まみれの死体が転がる。

 それに飢えた兵士たちに組み敷かれる女たちの数えきれない悲鳴がこだましていた。

 

 しかし、村中に転がる死んだゲジムの男たちも山賊。彼らも自分たちを殺した男たちと同じことをあちこちで(おこな)ってきた。

 ゲジムの女たちが着ている服や装飾品の多くも、他者から略奪して手に入れたものだ。因果応報と言えなくもない。

 

 弱き者はすべてを奪われ、強き者がすべてを手にする。ただそれだけの戦乱の真理。

 

「ぐわっはっはっ!野郎どもっっ!何ひとつ残すなっ!全部俺たちのものだっ!このレスカルのキームル様がこれからは北山の支配者になるんだっ!ハッハッハッー!」

 

 キームルの興奮しきった雄叫びが轟く。

 そんなキームルに近づいてくる騎馬の一隊。

 

「おい、キームル。俺たちの取り分もちゃんとあるんだろうな」

「おおー、テジクの頭目か」

 

 キームルに近づいてきていたのは彼らとともに、ゲジム、ナバに攻め入ったテジク村の村長(むらおさ)だった。

 

「無論だ、テジクの。好きなだけ奪い取って、自分たちの村に持ち帰るがいい。それにナバ村のことは、これからはテジクに任せようと思っている」

 

「おおーっ、それは剛毅(ごうき)なことだ、レスカルの。今後俺たちテジクはあんたを北山の盟主と認め従うぞ」

 

「おおっ、それは頼もしいな、テジクの。わっはっはっはっー!」

 

 キームルの馬鹿笑いが周囲に響き渡る。

 その時、馬鹿笑いを続けるキームルの眼前を何かが横切った。

 

ヒユューンッ!

 

「ぎゃああーーっ!」

 

 突如響く絶叫。

 

 その声の主は、キームルと話をしていたテジクの頭目その人。

 テジクの頭目(とうもく)の目に、深々と一本の弓矢が突き刺さっていた。

 

「!なっ?」

 

 悲鳴をあげながら馬の上から崩れ落ちていくテジクの頭目。

 

「お、お(かしら)ああー!?」

 

ドサンッ! と地に落ち、彼の悲鳴は永遠に止まった。

 

「な、なにいっ!?」

 

 突然の事態に驚き狼狽えるキームルと山賊たち。

 

「頭目っ、頭目っ!」「ど、どうしたっ!」「どこからうってきたんだっ」

 

 そんな彼らの視界の中に、湧き出るように一つ二つと人影が現れた。

 ある者は木の影から、ある者は屋根の上から、ある者は何もないところから突如魔法のように、ある者はそれまで見知った者の顔が突然別人の顔へと。

 

 そのいずれもが黒い褐色の肌を持ち、半ばほどからダラリと垂れた長い耳を持っていた。

 

「ダークエルフっっ!」

 

 それは彼らの味方であるはずの者、北山の黒耳たちの里 キルフェの戦士たちだった。

 その中に、黒い長マントを身に纏う年配のダークエルフの姿。

 その男を見たキームルが(つばき)を飛ばしながら叫んだ。

 

「こ、これは、何のつもりだっ!クリャップ!」

 

 

―――――半月前、クークの領主の館

 

 アンコウは椅子を執務机の反対側に向け、部屋の大きな窓から真っ青な空に浮かぶ入道雲をガラス窓越しに眺めていた。

 

(……あの(とんび)みたいな鳥、ここじゃあ、よく飛んでるなぁ)

 

 基本、任せられる仕事は部下任せのアンコウだが、働かざるもの食うべからずの精神で多少は仕事もしている。

 

「アンコウ様、アンコウ様」

 

 そんなアンコウに先ほどから話しかけているのはモスカルだ。

 普段のモスカルは、相変わらずイェルベンにいた時と同じ文官服に身をつつんでいる。その整えられた身だしなみは、仕事のできるベテラン官僚の雰囲気を醸し出していた。

 

「ああ、聞こえてるよぅ。何だモスカル」

 

 アンコウがやる気なさげに、外の景色を眺めたまま答える。

 

「北山のキルフェの里から代表者が来ております」

「キルフェ……ダークエルフの村だったな」

「はい」

「ここに来たってことはうまくいったのか」

「はい、おおむね」

「そうか。連中が来たことは周りにはふせてあるのか」

「はい。極秘裏に、誰の目にもつかぬように控えさせております」

「そうか。じゃあ、長居させるわけにもいかないし、今すぐ通してくれ」

「はい」

 

 

――――

 

 

「………御領主様、今モスカル殿が言われたことを信じてよろしいのか」

 

 アンコウの目の前に三人のダークエルフ、その一番年長と思わる男がアンコウに聞く。

 

 ダークエルフは基本的に髪の色も黒色だが、この男の長髪はすでに白髪になり、顔に刻まれたシワも深い。背筋は未だシャンと伸び、おそらく今も戦場に立つ力を持つと思われるが、その年は150は越えているだろう。

 男の名は、クリャップ。キルフェの里の長老だ。

 

「ん?そうだな、嘘はついてない。だけど、そう簡単にお前らが信じられないっていうのももっともだ。だから信じる信じないはお前らの好きにしたらいい」

 

「…………」

 クリャップはどういうことだと訝しげな顔でアンコウを見つめている。

 

 自分たちに味方につくようにと、水面下で接触してきたのはアンコウのほうなのだ。

 

「悪くない条件は提示した。それを蹴るってんなら、これ以上条件を上乗せするつもりはない。お前たちは敵のままってだけだ。この条件に乗ったふりをして俺たちを裏切るってんなら、やっぱりお前たちは敵のままってだけだろ?

 クリャップ、勘違いするなよ。俺たちは、今の北山の山賊ども全体を殲滅するぐらいの力は持ってるんだぜ?このあいだの戦いで、北山全体の戦力は間違いなく大きく減少した。いくつか無傷の村が残っていたとしてもな。

 それに対して、こっちは今すぐにでも北山を除く北部コールマル全体から兵を集めることができる。多少時間をかければ南部からだって兵を集めることができる。

 お前たちが田舎の中の田舎に留まらざるを得ない格落ちのダークエルフだとしても、最低限度の情報収集はしているんだろ。俺が事実を言っていることは、お前はわかっているはずだ」

 

 クリャップはアンコウをじっと見つめたまま無言。クリャップは、アンコウが本当のことを言っていると知っている。

 と同時に、

(事実であっても、簡単には信用できない)というのが、クリャップの思いだ。

 

 アンコウは自分たちの軍門に降れと言った。その見返りに北山地域の半分をくれてやるといった。

 しかしクリャップは、アンコウが全く同じことをレスカルのキームルに言ったことも知っていたのだ。

 

 ただ、元々知っていた情報ではあったが、先ほどモスカルの口からも、その事実は隠すことなく語られており、自分たちが(だま)そうとしているのは、レスカルのキームルたちのほうなのだと語っていた。

 

 クリャップの深い顔のシワに、汗が伝い落ちてくる。

 彼は悩み逡巡している。今、村全体の存亡がかかった決断を強いられているということをクリャップはよくわかっていた。

 

 

「……いいかげんにしてくれよ、クリャップ。選択肢なんかないだろうが。この条件を飲まなきゃ、お前たちは俺たちの軍隊に攻め滅ばされるんだぞ?

 いいか、俺はお前たちの()()()約束は反故にするつもりはない。この条件を飲んで、後は天にでも祈っとけよ」

 

「……ふたつお聞かせ願いたい」

「なんだ」

 

「あなたが今言われたとおり、我らキルフェの里だけではなく、なぜ北山全土の山賊すべてを殲滅しない。そうすれば、全土があなたのものになるはずだ。先の戦いで、それだけの戦力の差ができたことは我らも認識している」

 

「ああ、そりゃあ、いらないからだ。かといって、今のままで放ったらかしにしておくこともできないからな。なら、面倒なことはできるだけ人にやらせるのが一番楽だろ?」

 

 アンコウの人を食ったような答えに、クリャップはただただ驚く。

「なっ!?そ、それはどういう」

 

 だがアンコウは、それ以上説明を足そうとはしなかった。

 

「……で、二つ目の質問はなんだ」

 

 クリャップは一度大きく息を吐き出し、気持ちを落ち着けてから再び口を開いた。

 

「なぜ我々なのかという疑問がある。一つ目の質問の答え、その理屈ならなおさら北山の半分を任せるのはキームルでいいはずだ」

 

 なぜアンコウと同じ人間族のキームルではなく、忌み者であるダークエルフの自分たちに任せるのかが、クリャップには全く分からないところだった。

 

「ああ、それも簡単な話だ。北山の盗賊どもより、ダークエルフであるお前たちの方が役に立ちそうだってことと、あのクソ山賊連中に比べれば、まだお前たちの方が信用できるってだけの話だ」

 

 その答えにクリャップは、今度は言葉がすぐに出ないほど驚かされたようだ。

 

 北山のダークエルフの里にいる者たちは、同種族の平均的な能力と比すれば、その力は高いとは言えない。

 強い力を持つ者たちは、間違いなくこんな辺鄙(へんぴ)な里からは離れていくから、それは当然のこと。

 

 しかし、ダークエルフは皆、抗魔の力を生まれ持つ種族。普通人の人間族よりも二流三流の集まりだとしても、ダークエルフの戦闘能力のほうが確実に上回る。

 一方、北山を根城にしている山賊たちの中に抗魔の力を持つ者はかなり少ない。

 ゆえに、数では圧倒的に劣るダークエルフたちの里が、北山で滅ぼされることなく、今まで存在し続けてこれた。

 

 だがそれゆえに、通常自分たちより強い力を持ち、外部に対して閉鎖的なダークエルフにたいして、北山の山賊たちだけではなく、コールマルの歴代の為政者たちも、強く警戒し、感情的な嫌悪感を持ち続けてきた。

 

 そのことをクリャップもよく知っている。だからこそ、まだ信用できるなどというアンコウの言葉に驚き、より思考の混乱を強めた。

 ただ、いくら考えたところで、クリャップたちに選択肢がないという事実が変わることはない。

 

「後のことは心配するな。個の力じゃ圧倒的にお前たちが上なんだからさ。領主の後ろ盾があれば、人間の村もお前たちに従わざるを得なくなるだろ。いくら北山の人間たちがお前たちのことを嫌っていたとしても、だ。

 こっちとしては、提示した貢納と労役の義務を果たしてくれたら、後はお前たちの好きにしてくれたらいい」

 

 アンコウがクリャップに提示した貢納と労役の義務というのも、厳しい内容のものではなかった。

 

 クリャップはアンコウから目をそらし、しばらく目を閉じた後、意を決したように再び顔をあげた。

 

「………わかりました。我らキルフェの里は御領主様に従います」

 

「そうか。だけどな、クリャップよ。今の時点で、相手を完全には信用していなのはこっちも同じだ。まずお前らから誠意を示せ。言葉じゃなく、行動でだ」

 

「………はい、承知しました」

 

 

――――クリャップたちが部屋から消え、残されたのはまたアンコウとモスカルの二人。

 

「さすがだなモスカル。よくあいつらを連れて来てくれたよ」

「いえ。まっとうな状況判断ができるものなら、あの条件を提示されたら来ないわけにはいかないかと」

「でもよ、その状況判断ができないやつが山ほどいるだろ」

「まぁ、それは確かに。では、アンコウ殿。こちらからは誰を北山に派兵させますか」

 

「そうだなぁ、地場の豪族どもを中心にやらせよう。クリャップたちのついでに、連中にも踏み絵を踏ませようか。アンコウ様のために命懸けられますかってな、ハハハ。

 主だった村を潰した後は、そのまま北山全体を押さえさせる。人選はお前に任せるよモスカル」

 

「はい、承知いたしました」

 

 

 

 

「シク様、始まったようです」

走り寄ってきた歩兵の男が、馬上のシクを見上げ伝達した。

「そうか」

 

 シクは、コールマル北部に領地を持つ土豪だ。アンコウが初めてコールマル入りをした時、領境までアンコウを出迎えに来ていた男である。

 

 シクたちが潜む山林の先に、キームルたちに襲われているゲジムの村があり、そこでキームルたちの仲間であったはずのキルフェの里のダークエルフ兵たちが裏切りの狼煙(のろし)をあげた。

 

 ここに潜むシクたちコールマル北部の土豪たちはアンコウの命令を受けてここにきている。

 

 彼らのすべてが、アンコウがクークに拠点を構えて後、ハリュートからクークに屋敷を移し、そこに自分たちの家族の何人かを住まわしている。

 体のよい人質であり、彼らがアンコウに逆らうことは、即その家族らの命に直結する事態を生む。

 

 ただ、主君や権勢者に人質を差し出すことはこの世界の何処に行っても当たり前の話。

 シクをはじめ、彼ら北部に領地を持つ土豪の大部分は、ナグバル派が牛耳っていたハリュートの執政府によって冷遇されていた者たちであり、アンコウの支配自体を無条件に拒否しているわけではない。

 

 シクなどはナグバルの尊大な態度に辟易(へきえき)していた者の一人であり、今は積極的にアンコウ従うことに舵を切っていた。

 

「よいか。ここで我らのアンコウ様への忠誠が本物であることを示すのだ。アンコウ様の調略により、敵はすでに分断されている。ダークエルフどもはこちらの味方だ。

 レスカル、テジクの山賊どもを皆殺しにせよとのアンコウ様の命だっ。賊どもの首を一人残らず斬り飛ばすぞっ!」

 

 シクが周囲に檄を飛ばすと、

オオーーッ!! という野太い合唱が山林に響いた。

 

「ゆけーーっ!!」

 

 

 

 

 結局、北山山賊どもの制圧は、アンコウ側の圧勝で終わった。北山山賊同盟の中心となっていた村々は、そのすべてが壊滅的な打撃をうけた。

 

 

 アンコウは、長い昼寝の時間を終えて執務室に戻り、まだ少し眠たそうな顔で椅子に座っている。

 

「いつまで昼寝の時間をのばすつもりだ、大将よ」

「ん?眠たいものは仕方がないだろう、ダッジ」

「昼寝をするなとは言わないが、ここは仕事をする部屋じゃなかったのか」

「午後は書類仕事はやめだ、ひとを待ってるって言ったろ」

 

 アンコウは領主として、この執務室に人を呼び出していた。

 

「クリャップって言ったか、北山のダークエルフの(おさ)らしいな」

 

「ちょっとした戦後処理の確認事でな。それに連中の密偵としての能力を、これからただで使い倒してやるつもりだ。今日は、その念押しもかねて呼びつけた」

 

「はっ、それはまた。連中も、退屈で暇を持て余す心配をする必要はなくなりそうだな」

 ダッジは、かわいそうにとでもいうように肩をすくめて見せた。

 

 しかし、ダッジが北山のダークエルフに本気で同情するなんてことはあり得ないし、それはアンコウもよくわかっている。

 

「ダッジは、まだ奴の顔を見ていなかっただろう。これから一緒に仕事をすることもあるかもしれないからな、今日は顔を見て行けよ。信用できる奴なのかどうかは、まだ知らないけどな」

 

「なんだそりゃ?信用できない奴と仕事をさせる気かよ」

 

 ダッジは眉をしかめて、(いか)つい顔をさらに厳つくさせて、アンコウを見た。

 

「ハハッ、そんなのいつものことだろう。全幅の信頼のおける仲間になんて、俺は恵まれたことはないぞ」

 

 軽く笑いながら、机の横に立っているダッジを見かえした。

 

「………ふんっ、確かにそりゃあそうだな」

 そう言ったダッジの口元も笑っていた。

 

 ダッジも今は一応アンコウの家臣だ。つまり自分も全幅の信用とやらは置かれていないということになる。

 ただ、ダッジ自身も、アンコウに絶対的な忠誠心を持っているわけではないので、苦笑しながら納得するほかない。

 

「まぁ、あの黒の耳長たちは使える。それに連中の利益の保証をすれば、すぐに裏切ることはないだろうと今は思っている」

「……なるほどな。確かに、味方にすれば、ダークエルフは貴重な戦力になる」

 

 アンコウは椅子に座り、ダッジはその横に立ったまま、2人はしばらく会話を続けていた。

 

 

 

コンッコンッ

 アンコウたちがいる執務室の扉がノックされた。

「アンコウ様、お連れいたしました」

 

 どうやら待ち人が来たらしいと、アンコウとダッジは話をやめて、扉のほうへと視線を向けた。

 

「入れ」

 と、アンコウが言うと、扉がガチャリと開く。

 

 案内してきた文官に促されて、部屋の中へと、白髪のダークエルフの男が入ってきた。キルフェの里の長老、クリャップだ。

 

 クリャップは、アンコウが座るアンティーク調の執務机の前まで来ると、片膝をつき、(こうべ)を垂れた。

 そして、領主であるアンコウに対して、何やら丁寧に挨拶の言葉を連ねた。

 口をはさむことなく、その姿をじっと見つめていたアンコウ。

 

「クリャップよく来たな。頭をあげてくれ、そのままでは話がしにくい」

 

 

――――

 

 

「………ほんとうに我らにくださるのか」

 

「ん?ああ、そういう約束だからな」

 

 アンコウは約束したとおり、北山の山賊どもが占拠していた西半分をダークエルフたちが住むキルフェの里が総べることを正式に認めることを伝えた。

 

「ただし、きちんと税は収めてもらうし、相応の働きはしてもらう」

 

 クリャップが手に持つ書面に書かれた税の額は特別高いものではなく、アンコウの求める主に密偵としての仕事は、彼らの本領といえるものだった。

 正直言ってクリャップは、アンコウが事前の約束を最悪反故にするか、良くても相当修正がされるだろうと思っていた。

 

 しかし、この書面に書かれた条件は事前の口約束と何ら変わることなく、これならば里に持ち帰っても反発する者は誰もいないだろうと、クリャプは納得した。

 

「気に入らないんだったら、その書付(かきつけ)をおいて里に帰っても構わないぞ、クリャップ」

 アンコウはごく自然な口調で言った。

 

 冗談で言っているわけでも、何かの駆け引きをしているわけでもない。本気でお前たちの好きにしろとアンコウは思っている。

 

「ただ、無事にキルフェの里に帰してはやるが、その後で討伐軍は送る」

 

 アンコウはごく当たり前の話をしている。本来、北山一帯もアンコウの領地に含まれいる土地であり、そこで一度は弓を引いたキルフェの里の連中を、彼らがアンコウに服従することなしに放置するわけがない。

 

「その時はダッジ、お前が行ってくれ。ヒマそうだしな」

 

 アンコウはからかうような調子も含ませながら言ったが、目は笑っていない。

 

「命令ならもちろん行くがな。ダークエルフ相手だ、それ相応の戦力はつけてくれよ」

 

「当然だ。何人でも、好きだけ兵隊を連れて行けばいい。ただし、2度も3度も同じことをやられたら面倒すぎる。

 ………その時はダッジ、根絶やしにしてこい」

 

「……ああ、了解した」

 

 アンコウとダッジが、当事者であるクリャップの目の前で、極めて物騒な話をしている。

 間違いなく脅しではあるのだが、もしクリャプが従わなかった場合、単に行動がともなわない脅しで済ますつもりもなかった。

 

 ただ、脅されようがされまいが、クリャプの答えはもう出ていたようだ。

 

 クリャップは、アンコウたちの脅しに何ら感情を動かすことはなかったが、再びその場に膝をつき、(こうべ)を垂れた。

 

「我らキルフェの里はアンコウ様の命に従い、この約定に決して背かぬことを誓います」

 

 そう言うと、クリャップはさらに深く頭を下げた。

 その姿を見たアンコウもダッジも、それ以上脅しの言葉を連ねることはしなかった。

 

 

――――

 

 

 パチリと、アンコウは飛車前の歩を突いた。

 ダッジは指し始めた盤面をゆったりと眺めている。

 

「ダッジ、クリャップのやつをどう見た」

 

「……冷静に損得のそろばんは弾ける。感情的に動くことは少ない。老成したダークエルフによく見るタイプだ」

 

「……そうだな、今回は自分たちに益が多いと見たんだろう。だけど、損が多いと見た場合には」

「手の平を返すことを躊躇(ためら)わない。まぁ、黒の耳長なんざ、そんなもんだろう」

 

「へっ、ダッジ、そういうお前はどうなんだ」

 

「今のところ裏切るつもりはねぇ」

 ダッジはパチリと駒を動かしながら、顔色を変えることなく言った。

 

「今のところはね、正直で何よりだ」

 

 アンコウも別段気分を害した様子もない。

 

 そのまま穏やかに話をしながら、アンコウとダッジは将棋を指し続けた――――

 

 

「くそっ、また負けた」

 

 アンコウは悔しそうに詰んだ盤面を見ている。

 

 ダッジは舌打ちをしているアンコウを見ながら、器に残っていた茶を飲みほした。

 そして、飲み終わった茶器を置くと、おもむろに立ち上がろうと動き出す。

 

「じゃあ、俺はそろそろ行くぜ」

 

 腰を浮かしたダッジをアンコウが、

「待てよ」

 と、呼び止めた。

 

 そして、何やら折りたたんだ紙のようなものを将棋の盤面の上に、ポンと投げ置いた。

 

「ん?何だそれは」

「持ってけよ、勝者の取り分ってやつだ」

 

 今の将棋は、何かを賭けて指していたわけではない。それは二人ともわかっている。

 

「何か知らねぇが、良いもんだったら貰ってくぜ、大将」

 

 ダッジは軽い調子で言い、その投げ置かれた紙を手に取った。

 そして、その紙を広げ見ると、それは地図のようだった。

 

「何だ?これは北山の辺りの地図か」

「ああ、そうだ」

 

 ダッジが広げた北山の地図は、何やら大きく2つに色分けされていた。

 

「西側の青に塗られた地域がキルフェの連中にくれてやった土地だ」

「ふぅん。何もねぇ山奥の土地だが、気前のいい話だな。まぁ、これで連中もしばらくは裏切らねぇだろう」

 

 アンコウの欲望の在り方は、まだ冒険者の頃とあまり変わっておらず、支配する土地に執着も持っていない。

 以前からアンコウ本人が言ってることでもあるが、コールマル領主という地位も、捨てる時にはあっさりと捨てるのだろうとダッジは思った。

 

 土地持ち騎士の家門に生まれ育ったダッジだ。その家は没落し、とっくに失ったその地位に今も執着している自分のことを思うと、ダッジは何とも言えない複雑な気持ちになった。

 

 その複雑な思いを抱えながら、ダッジはじっと地図を見ていた。

 座ったままのアンコウは、そんなダッジを興味なさげに眺めている。

 

 

「で、東側の赤く塗られた地域だけどな。そこはお前にくれてやるよ、ダッジ」

 

 アンコウがそのセリフを言った瞬間、ダッジの周囲から時間が止まったような空気が流れる。

 アンコウはそんな空気は意に介さず、ズズッとお茶をすすった。

 

 ダッジは顔だけ動かして、アンコウを見た。

 

「なん、だって」

「だから、やるって言った。お前の所領にしろ」

 

 それはつまり、ド田舎の土地ではあるが、ダッジは下っ端のさらにその下っ端の土地持ちの領主になるということだ。

 地図を持つダッジの手が、細かくぶるぶると震えだしている。

 そのままダッジは、何もしゃべらなくなった。

 

 

「なんだ、いらないんだったら別にいいんだぜ」

 

 アンコウは手を伸ばして、ダッジの持つ地図を取ろうとする。

 

「い、いらねぇなんて、言ってねぇだろうがっ!」

 

 ダッジは叫びながら飛ぶように後ろに下がり、地図を強く握りしめていた。

 

「……そうか。じゃあダッジ、お前に言っておく。その土地をどう治めようと自由だ、お前の好きにしたらいい。ただし、そこを治めるついでに、西隣りの黒耳たちの様子も見ておいてくれ。俺に悪さをしないようにな」

 

 ダッジは、アンコウが北山のダークエルフたちが反乱を企てないように監視しろと命じていると理解した。

 

「……わかった」

 

 さらにアンコウは、ゆっくりと立ち上がり、ダッジの間近(まぢか)まで歩いていった。そして、ダッジの顔に自らの顔を近づけ、覗き込むように見た。

 

 アンコウは蛇のように感情のこもらない目で、ダッジを見つめている。

 ダッジは思わず、ごくりと(つば)を飲み込んだ。

 

 そして、アンコウは話し出す。

 

「……それによダッジ、お前もだ。絶対に俺に悪さをしようとは思うなよ。

……もし、なめた真似をした そのときは……わかっているだろうな」

 

 アンコウのその目と口調に、ダッジは背筋がぞくりと寒くなる感覚を覚えた。

 

「わ、わかってる。絶対に裏切らない」

 

 アンコウはそれを聞くと、ニッコリとあからさまに作ったような笑みを浮かべて、再びダッジから離れて、元いた椅子に座った。

 

 椅子に腰かけたアンコウが、またダッジを見る。

 しかしダッジは、また地図を見つめ、何とも言いようのないような表情のまま、先ほどと同じ場所に立ち尽くしていた。

 

(……そんなに呆けるようなもんかよ、ダッジ)

 

 なかなか動き出そうとしないダッジに、アンコウのほうから話しかけた。

 

「……それともう一つ、これは昔馴染みの冒険者としての警告だけどな、」

 

 アンコウは、そこで意図的に言葉を区切り、ダッジの顔をじっと見つめる。

 アンコウに話しかけられて、ダッジはようやく覚醒したようだ。ダッジは慌てて顔を上げ、一度大きく深呼吸をしてから声を出した。

 

「なんだ、大将」

 

「………いいか、ダッジ。そんな土地、どんだけもらったところで、クソほどの価値もないぞ」

「な、なに?」

「ド辺境で行き場のなくなった山賊どもが、村をつくってるような土地だ、そのまんまの意味で価値がない。それに、そんな土地の御領主様なんて肩書は、我らが御館様 グローソン公の野郎が鼻毛を抜くついでに掃き捨てられておかしくない代物だ。

 いいかダッジ、そんなもんに執着なんかするなよ」

 

 アンコウが何かを見透かしたような目でダッジを見ている。

 ダッジは何か感じるところがあったのだろう。アンコウから視線を外すと、わずかな時間 宙を見つめ、大きく息を吐きだした。

 

 そして、顔をあげたときには、体の震えは止まっていた。ダッジは声を出すことはなく、アンコウを見ながら頷いて見せた。

 

「………俺の話はそれだけだ」

 

 そう一言いうと、アンコウはダッジから視線を離し、黙って将棋の駒の後片付けを始めた。

 

 

――――

 

 

 カチャリと、アンコウの執務室のドアは閉められた。

 ドアを閉めたのはダッジ。ダッジは今、執務室の外、廊下にいる。

 しかしダッジは、ドアノブをつかんだまま動かない。

 

 しばらくしてようやくダッジはドアノブから手を離し、2歩3歩と扉から後退した。

 しかし、ダッジは真剣な顔つきのまま、未だ執務室の扉を見つめている。そして何を思ったのか、ダッジはおもむろに腰の剣を引き抜いた。

 

 ダッジは直立した姿勢のまま、その抜身(ぬきみ)の剣を目の前にかかげ持つと、ゆっくりと剣で空を十字に切るように動かし、次に円を描くように切っ先を動かした。

 そしてまた、剣を眼前にかかげ持つ。その動作を3度ほど繰り返した。

 

 それは実にきれいで流れるような動きだった。

 

 そして最後に、足をそろえ直立した姿勢のまま、かかげた剣を右斜め下に斬り下ろすように素早く動かした。

 

 何かの儀式のような一連の動きを終えると、ダッジはゆっくりと剣を戻し、鞘に納めた。

 そしてダッジは、アンコウの執務室の前から姿を消した。

 

 

 ダッジがいなくなった執務室前の廊下に、待っていたかのように姿を現した者がいた。

 イェルベンで一般的に使われている文官服に身を包んでいる男、その男はモスカルだった。

 

 モスカルは、単に日々の仕事のため、アンコウの執務室を訪れただけだったのだが、扉の前にダッジがいたために、しばらく様子を見ていたようだ。

 

「………あれは確か、メイラン騎士の誓いの儀礼の所作だったか。メイラン騎士の決意と高潔さ、その覚悟を表す作法であったはずだ。

 ……メイランが滅んでもうずいぶんと経つ。なつかしいものを見た」

 

 モスカルは過去の記憶の出来事に思いを巡らせながら、廊下を歩き、執務室の前まで来た。

 

 ダッジとアンコウとの間に何かあったのだろうと思ったが、モスカルにはそれよりも日々の行政処理をすることのほうが重要だ。

 刹那の懐古の思いさらりと流し、モスカルは、できる行政官の顔に戻った。

 

 最近、仕事をさぼりがちなアンコウに、今日こそは抱え持ってきた書類の処理をしてもらわねばならない。

 

 そして、モスカルは執務室の扉をノックした。

 

「アンコウ様、モスカルでごさいます」

 

 『今忙しいから後にしてくれ』というアンコウの声が聞こえた気がしたが、モスカルはその幻聴をまったく無視して、颯爽と執務室の中へと入っていった。

 

「アンコウ様、お仕事の時間でございます」

 



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