ジョゼと虎と魚たち~人魚とかがやきの翼・After~ (空想病)
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前編

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 ◇

 

 

 

 

 

 恒夫は、どことも知れぬ闇の中にいた。

 自分の呼吸音ばかりが、やけに大きく聞こえる。

 何故だろうか。まるでダイビングの時のような感覚に近い。

 ふと、振り返る。

 

「ジョゼ?」

 

 降り始めた雨の中。

 電動車椅子のジョゼが立ち往生していた。

 まるで、あのときのように────

 

「ジョゼ!」

 

 そこは横断歩道の中ほど。

 見れば、バイクが高速で車椅子のいる方向へ突っ込んでくる。

 ジョゼは動けない。溝にはまって動けない。

 

「ッ!」

 

 たまらず恒夫はジョゼのもとへと駆け出した。

 そして、光が恒夫に突っ込んできて────

 

「!!」

 

 轢かれた衝撃で目を覚ました。

 荒くなった呼吸を整える。薄暗い天井を凝視する。

 ……あの時のフラッシュバック。

 恒夫を呼ぶジョゼの声すら聞こえなかった、事故の記憶。

 

「……っ……イヤな夢」

 

 恒夫は、ふと横を向いた。

 そこには、小さな体をさらに小さく丸めるように寝入る恋人(ジョゼ)がいる。

 恒夫の不安をかき消してくれる可愛らしい様子に、思わず笑みがこぼれた。

 寝入るジョゼの頬を指先で少し触れてみる。

 

「んー、こらー、つねおー……アタイは諭吉ちゃうで──」

 

 思わず吹き出しかける恒夫。

 どんな夢なのか気になる寝言を呟く彼女を起こさないよう、慎重に抱き締める。

 まるで見えない翼でジョゼを包み込みようにしながら、恒夫は再び、眠りの世界へ。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 恒夫のメキシコ留学が終わり、再び日本での暮らしが始まって、数ヶ月が経った。

 彼の地元である広島を訪れ、観光がてら恒夫の母親との顔合わせもすませたジョゼは、彼と再び同棲することに。

 なにせジョゼは車椅子の身。月一のヘルパーさんなみに頼りになる同居人がいた方が良いだろうという、恒夫からの当然すぎる提案であった。

 無論、ジョゼには断る理由もなかったことだし、恒夫との共同生活自体、メキシコ留学まえにすませている。

 二人が共に暮らすことに、何の問題もありえなかった。

 

 そんなある日。

 

「絵本の、続き?」

 

 花菜と二人きり、女友達同士のショッピングの休憩中、ジョゼはカップから口をはなした。

 

「そ。あの『人魚とかがやきの翼』の続き」

 

 花菜は笑顔で首肯した。

 モールのカフェで話題にあがったのは、図書館に寄贈されたジョゼの手描き絵本のことだった。

 図書館で司書を務めるジョゼの親友は続けざまに言い募った。

 

「里緒ちゃんたちな、あの続きが見たい見たいって、もう聞かへんのよ。

『あのあと人魚はどうなったん?』とか、『青年とはもう会えへんかったん?』とか」

 

 里緒とは。

 図書館ではじめジョゼが人魚姫の絵本の読み聞かせをした際に、最後まで残ってくれた女の子だ。

 彼女の質問に催促されるままジョゼは人魚姫のお城を描き、それによって花菜はジョゼの絵の才能を賞するに至った。

 言ってしまえば、ジョゼの夢の“原点”となったと言っても過言にはならない。

 他にもたくさんの子供やその両親らが、ジョゼの絵本を高く評価してくれている。

 

「里緒ちゃんたちがか……せやけどな」

 

 ジョゼは唸った。

 ジョゼが恒夫を励ますために書き上げた絵本『人魚とかがやきの翼』

 あれは最終的には青年は夢を実現し、人魚はそれを見届けて海の底に帰る。キラキラと輝く宝石のような思い出を胸に抱いて──

 

「あの話、もうあれで完結してもうてるから、続きなんて書けへんと思うけど?」

 

 少なくともジョゼはそう思った。

 青年は光の海へ至る夢を叶えたし、人魚も満足の内に海に帰る──これ以上のハッピーエンドなどありえるのか疑問なほどだ。

 

「うん。ジョゼの気持ちも分からんではないけどな」

「つか、花菜ちゃんかて『物語のラストは読者の想像にゆだねる感じがええ』って、いうてくれてたやん」

「まぁな。でもあそこまで気になる子らがたくさん出ると、うちも気になってしゃあないし」

「……さては、ほんまは花菜ちゃんが続き読みたいんとちゃう?」

「まぁ、正味(しょうみ)なはなしな」

 

 二人は同時に微笑んだ。

 

「ほんまに、最初ジョゼから相談された時はどうなるかと思ったけど……うちの見立てにまちがいなかったからな」

 

 図書館のホワイトボードへ溢れんばかりに描き出された。ジョゼの才能。

 それを見ていたから、花菜はジョゼの試みを全力でサポートした。

 そうして書きあげられた絵本の完成度は見事だった。

 とても処女作とは思えないほどに。

 花菜はティースプーンで紅茶をほどよくかき混ぜながら、ジョゼの才能をあらためて実感する。なにより、彼女はジョゼと協力して絵本を完成に導いたのだ。彼女がどんな思いで、人魚と青年のラストを描き切ったかも、今ではよくわかる。そのうえで、花菜は持論を述べる。

 

「そんでも。

 物語の続きが見たい・読みたいって気持ちは、ジョゼにも判るやろ?」

「それは──まぁ、確かに」

 

 紅茶を口に含みつつ、ジョゼは考える。

 たとえば、自分が大好きなフランソワーズ・サガン──彼女が描いた数多くの物語、その続きが読めるものなら、たとえ千金を積んででも読んでみたいという欲求は確かなものだ。

 

「ん~、里緒ちゃんには読み聞かせの時に世話んなったし、なんとかしてあげたいねんけど……」

 

 花菜は眼鏡の奥の視線を鋭くする。

 

「でも、アタイじゃあどうにも……

 あの後の結末なんて、どんだけ頭こねくりまわしても思いつかへん」

「せやな。そこはうちもそやし──あ。だったら、恒夫くんとかに相談してみない?」

「──管理人に?」

「あと、舞ちゃんに、隼人君も。皆で考えたら、結構ええアイディアも出るんちゃうかな?」

 

 ジョゼは考える。

 サガンですら『眠くなりそう』といっていった無骨者(つねお)はともかく、舞であればその心配は少ないはず。隼人に関しては未知数だが、恒夫の友人であることを念頭において、頭数には加えない方がいいだろう。

 

「わかった、花菜ちゃんがいうなら」

 

 花菜はジョゼの死角になってるテーブルの下でガッツポーズを握った。

 

 

 

 

 

 



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中編

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 ◇

 

 

 

 

 

「やっぱり人魚と青年を再会させるべきです!」

 

 ジョゼの新居にて。

 絵本の続編の話となるや否や、舞は熱く語りだした。

 

「ジョゼさんの物語はとても素敵で、人魚さんの自己犠牲精神なんかも童話のようにお子さんへの教訓じみていて素晴らしいと思います!」

 

「それでも!」と早口で熱弁を振るう舞を抑えるように花菜が両の肩を押さえつけた。

 いったん落ち着いてと言われて初めて、ジョゼを押し倒しかねない勢いで顔を近づけていた事実に気づく舞。

 

「す、すいません。熱くなりすぎちゃって」

「い、いや、かまへんけど」

 

 一度は恒夫を巡って火花を散らした両者ではあったが、それも過去のこと。

 いまの舞はジョゼの手掛ける絵本の、一人のファンとして、その完成を待ち望む立場に甘んじている。

 そんな彼女が、あの『人魚とかがやきの翼』を知らぬわけもなく、今回の話を携帯で話した瞬間に家にまで駆けこんできたほどであった。

 

「男性陣はどう思う?」

 

 花菜の呼びかけに隼人がグラス片手に上機嫌な調子で答えた。

 

「えへへへ、エエんとちゃいます?」

「おまえな……」

 

 隣にいる恒夫が顔をしかめるのも無理はない。

 隼人は女性三人がキャッキャウフフしている様を文字通り眼福という視線で拝んでいた。

 

「恒ちゃん。俺、いま、人生で一番幸せかもしれへ~ん」

「そうかよ。お気楽な人生だな、おまえは」

 

 恒夫は思い出したようにつぶやく。

 

「おまえ、それで“社長”が務まんのか?」

「心配いらんて! 恒夫の方も、大学の仕事のうなったら、いつでも雇ったるさかい!」

「はいはい。せいぜいセクハラで訴えられるなよ?」

 

 恒夫はぶっきらぼうに言い終えると、部屋の隅のソファでジョゼたちのやり取りを見学するしかない。

 留学を終えてから恒夫とジョゼは、なんだかんだと理由をつけて、同棲中の真っ最中だ。

 恒夫は「ジョゼの管理人」なのだから、当然といえば当然か。

 部屋を見渡せば、メキシコ留学時代に撮ったクラリオンエンゼルの写真や友人たち、さらにはジョゼたちとの思い出の数々等が、棚の上や壁のコルクボードを席巻していた。

 

「…………」

 

 本当に、ジョゼと出会ってからいろいろなことがあったと、改めて思う恒夫。

 グラスに注がれているレモンサワーを一口あおる。

 

「──人魚と青年を再会させるにしてもやなあ。まずどうやって会わすかやな」

「そこは、やっぱり、青年の方が努力していくんとちがうん?」

「でもそれだったら、人魚の方にも相応の代価みたいなのが必要になってきません?」

「青年は翼を失ったかわりに夢を叶えとる──これ以上を望むとしっぺがえしがきそうやな」

「せやったら、──」

「…………!」

「────?」

 

 三人よれば何とやら。

 彼の視線の先で、熱く物語の展開を語るジョゼの様は、絵本作家の、創作者のそれだ。

 ジョゼの真剣そのものな様子を眩しく愛おしく思いつつ、恒夫は静かに見守り続ける。

 

「恒夫くんは?」

「ん……えっ?」

「ですから、恒夫さんも続編について何かご意見はありませんかって」

 

 二人の視線に恒夫は背筋を伸ばす。

 花菜と舞の申し出は完全に予想していなかった。

 

「はいはいはい! 俺の意見はやな!」

「隼人さんは黙って酔いつぶれてください」

「え~、ケチ~」

 

 ぶーたれる隼人。

 恒夫はそんな友人の隣で何を言うべきなのか迷う。

 

「いや、俺は」

「二人とも。恒夫みたいな無骨者(ぶこつもの)の話、きくだけ無駄やで」

 

 あまりの物言いに二人はジョゼを振り返る。花菜は怪訝そうに首を傾げ、舞が率先して恒夫の擁護にまわった。

 

「ジョゼさん、そういう言い方は」

「ああ、大丈夫だよ。舞」

「でも」

 

 訳知り顔で微笑む恒夫の様子に、舞は二の句が告げなくなる。

 

「こりゃあ、ま~た“二人の秘密”かいな?」

「さあな?」

 

 隼人と恒夫のやりとりに眉をひそめるしかない舞。

 実のところ。

 ジョゼが花菜から『人魚とかがやきの翼』の続編について語られたその日のうちに、恒夫はジョゼから意見を求められていた。

 そうして、恒夫の意見はすでに伝え終わっている。

 恒夫は思う。

 ジョゼの照れ隠しな横顔を肴に、酒をあおるのも悪くない。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ジョゼは連日作業机で筆を走らせ、恒夫は自分の仕事の合間にジョゼを手伝う。

 もちろん、ジョゼもただ甘えるだけではない。

 自分も事務の仕事で忙しいだろうに、美味しい手料理をふるまってくれる。

 てんで料理の才能がない恒夫は、ジョゼの手が届きにくい洗濯や掃除を担当。

 二人はずっと以前からそうであったかのように、自然と互いの存在を受け入れあい、夜は同じベッドに入り、朝は共に起きる──怒ることも泣くこともあるが、それ以上に笑い合える関係が幸せで──互いの息遣いを感じながら生活し続けて──それがあたりまえにように感じられて──

 

 だからこそ、恒夫は夜、寝入るジョゼの手指を握りながら、決心した。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 三々五々、意見を出し尽くした結果、ジョゼの『人魚とかがやきの翼』のアフターストーリーが無事に完成した。

 その報告を真っ先に受け取った少女が、図書館の外で花菜と連れ立って進む車椅子のジョゼに前から飛びついてきた。

 

「ジョゼせんせー!」

「り、里緒ちゃん!?」

 

 初めて会った時から背丈も伸びた里緒は、いたずらっ子めいた表情で微笑んだ。

 ジョゼは微笑み返しつつもたしなめる。

 

「も、もー、急に抱き着いたりしたら危ないって、言うてるやろ?」

「にししし、ごめんなさい!」

 

 あんまり反省した様子のない里緒。

 

「それよか! 花菜ちゃんから聞いたで! あのお話(・・)の続き書いてくれて、ほんまありがとう! ジョゼ先生!」

 

 感謝の言葉と共に頬を摺り寄せる少女に対し、さすがのジョゼもたじたじである。

 

「り、里緒ちゃん、そ、外で、その、アタイのこと、せ“先生”いうんは、やめ」

「えー? だってウチにとっては、ジョゼ先生はジョゼ先生やもん!」

 

 まっすぐ断言され、ジョゼは真っ赤になって俯くしかない。

 その口元は、嬉しさと気恥ずかしさが半々という具合に波打っているのが見てわかる。

 

「もう。里緒ちゃん? あんましジョゼを困らせたらアカンよ?」

「う……ごめん。ジョゼ先生」

「それに、ジョゼ先生やのうて、“クミコ”先生って読んであげな、失礼やろ?」

「あううう」

「え、ええから、ええから」

 

 花菜に指摘され、ようやく里緒は体を離した。

 お団子にした髪の毛がチャームポイントはそのままに成長した少女は、ジョゼの車椅子の隣に並ぶ。

 ジョゼは里緒を改めて眺める。

 

『なあなあ。

 人魚姫、どんなお城に住んでたん?』

 

 あの読み聞かせの頃から数年、里緒は立派に成長した。

 童話を読んでもらう側から卒業し、自分の力で読むのがあたりまえな年ごろだが、彼女ははじめて会った時にジョゼの描いた人魚のお城を気に入ってくれた──そして、ジョゼが恒夫のために書き上げた『人魚とかがやきの翼』のファンとなった。ジョゼが読み聞かせを終えた後、図書館の絵本コーナーに残されたスケッチブックを大変気に入り、花菜に読んでもらうのが定番となったほどに。

 そうして何度も何度も人魚と青年の物語を読みふける内に、『物語の続きが見たい』と思うようになったのは、ジョゼの作品を愛好する読者として、当然の帰結ですらあった。

 

 ちなみに、ジョゼが花菜の勧めでネットに掲載・世界中に発信するようになった絵本などについても、里緒はすべて網羅している。

 学校でも友人諸氏に勧めては、かなりの高評価を得ているらしい。

 ジョゼの筆名(ペンネーム)「クミコ」のSNSのフォロワー数が鰻登りな状況に貢献していることは、ほぼ間違いないだろう。

 ──ジョゼを“ジョゼ”と呼べるのは、恒夫たちなど、ごく限られた者だけなのである。

 

「? どうかしたん? クミコ先生?」

「な、なんでもない。──ほな、これ」

 

 頼まれていたものを、ジョゼは鞄からスケッチブックを一冊取り出した。

 里緒は一瞬の思考を空白に費やし、ついで両手を叩いて跳びあがる。

 

「ひょ、ひょっとして、これが?」

「せやで?」

「新作……ジョゼ先生……やのうて、クミコ先生の!『人魚とかがやきの翼』の続編!」

 

 目を煌めかせて、手渡されたスケッチブックを掲げる里緒。

 ジョゼのファン一号にとってはまさに垂涎の代物である。

 

「うう、うちが、よよよ、読んでしもうてもええんでっしゃろっか!?」

 

 緊張と幸福感のあまり素っ頓狂な口調をしてしまう少女に、ジョゼは口元に笑みを浮かべ頷いた。

 

「ええよ」

 

 里緒は体中が震え上がるように飛び跳ねた。

 

「ほあああああ! あ……ありがとうございます! じゃ、じゃあ、さっそく図書館の中で!」

 

 今にも小走りしそうな里緒にすすめられ、ジョゼと花菜は図書館に入った。

 興奮しきった様子で読書スペースの一角から席を一脚のけて、電動車椅子が入れるスペースを開けた里緒は、スケッチブックを胸に抱きつつ、深呼吸を数回繰り返す。

 

「では、僭越(せんえつ)ながら、読ませていただきます!」

 

 小声でのやりとりを終えて、里緒は夢中になって絵本の表紙を開いた。

 タイトルは『人魚とかがやきの翼~After~』──文字通りのアフターストーリーである。

 

「…………」

 

 里緒はページをめくる指が震えるのをこらえつつ、真剣なまなざしでジョゼの作品に没頭する。

 そんな少女の様子を、ジョゼと花菜は(いつく)しむように見守っていた。

 最後のページにさしかかろうという時、里緒は感極まって大粒の涙を両目に(たた)え始める。

 だが、ジョゼ渾身の新作にして、己が夢にまで見た続編を汚すまいと、最後の最後までぐっとこらえる。

 そうして、里緒は絵本を閉じた。ほうっと静かに息を吐く。

 

「どうやった?」

 

 ジョゼは(たず)ねる。

 彼女の読者は、言葉にならないという風に首を振る。

 

「うち、幸せや……」

 

 思わずジョゼは咳き込みかけた。

 いつかの日に、自分が誰かさんに言ったことを思い出してしまう。

 

「ありがとうございます、ジョゼ先生!」

 

 涙をぬぐった里緒は、絵本の表紙を宝物を見つめるように瞳を輝かせて見下ろした。

 真っ赤な夕暮れの色にそまる幻想的な海──そこにたたずむ人魚と、青年の光景。

 里緒の感動する様子に、ジョゼと花菜は安堵の吐息をついた。

 

「よかった……こんなんアカンやんとか言われたら、アタイへこむとこやったわ」

「そんな! ジョゼ先生の作品はどれもすごいです! 私だけじゃなくて皆も!」

 

 里緒の素直な弁護は嬉しいが、作品を創り発表する上で、低評価を受けることも覚悟する必要はある。

 万人を納得させることは難しい──以上に不可能なことだと、花菜から説かれてジョゼは理解している。

 それでも。

 

「ありがとう、里緒ちゃん」

「?」

「里緒ちゃんが頼んでくれんかったら、アタイ、これの続き描こうなんて、思えへんかったわ」

 

『人魚とかがやきの翼』は、恒夫を励ますべく書き上げられたもの。

 当時、歩けなくなるかもしれないと、夢に手を伸ばすことがどれだけ恐ろしいことかと、絶望の海に沈んだ青年を救いあげるべく紡いだ物語。

 人魚と青年は別れて終わるはずだった──ジョゼが、恒夫たちと離れようとした時のように。

 だが、恒夫はジョゼを見つけてくれた。

 一人孤独に、海の谷の底に落ちかけた人魚(ジョゼ)を、青年(つねお)が救ってくれた。

 それで十分だと思っていたが──

 

「アタイ、もっと描けるようになりたい」

 

 絵を。

 物語を。

 まだまだ、ジョゼの挑戦は始まったばかりだ。

 里緒が喜び、花菜が評価してくれた時にもらった力が、ふつふつと体の奥底からわきあがってくる。

 そんなジョゼの様子に感化されたのか、里緒は勢い込んで語りだす。

 

「私も! 全力でジョゼ先生を応援します!」

「う、うん。ありがと!」

 

 ジョゼも勢いに押されるように頷いた。

 

「そうなると、やっぱり、あの計画を推し進める必要がありそうですね!」

「……けー、かく?」

 

 ジョゼが首を傾げると、里緒は打てば鳴る鐘のごとく応えた。

 

「ジョゼ先生の絵本『人魚とかがやきの翼』を題材にした“劇”をやってみたいんです!」

「……劇?」

 

 オウムのように言葉を繰り返すジョゼ。

 

「そーです! 小学校の学芸会! コンクールに出るのに、なんかええもんはないかなって、クラスの皆と相談してて!」

「そ、それをアタイの、絵本で?」

 

 はちきれんばかりの笑顔で頷く里緒。

 

「ジョゼ先生の絵本をもとにした劇を、みんなに見せたろう思います!」

「で、でも、アタイの絵本で劇なんて──そんな」

「ええんとちゃう?」

 

 これまで貝のように沈黙を保っていた花菜が、里緒の提案に賛成票を投じた。

 

「これも()い経験になる思うし……絵本の読み聞かせの時と、やることはそんなに変わらんのとちゃう」

「せ、せやけど花菜ちゃ」

「花菜ちゃんの言う通りです! あのお話なら、会場のひと皆が感動してくれる思いますし! 勿論、クラスの皆や担任の先生にも話はつけます!」

 

 熱弁を振るう里緒の勢いはすさまじい。一回り以上も歳が離れてるとは思えない論調でまくしたてられるが、

 

「……先生が嫌や言うたら、やめにするけど?」

 

 里緒に判断をゆだねられ、ジョゼは花菜を振り返った。

 そこには優しい微笑みの色しか、うかがえない。

 

「────ええ、よ」

「ほんとですか!?」

 

 ジョゼは真っ赤になって頷いた。

 里緒と花菜がお互いの手を叩いて喜んだ。

 劇の題材に自分の絵本が使われるという異様な事態を前に、目の前の二人が隠れて親指を立て合っていることに、ジョゼは気づいていない。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 めくるめくうちに、月日は流れた。

 ジョゼは慣れた事務仕事の合間に絵本の製作、さらには里緒の学芸会で行われる「劇」の“監修”を受け持つことになった。

 このことを恒夫に事後相談した時は、何故か恒夫も乗り気だったのだが、その真相を明らかにする間もなく、ジョゼは多忙を極めた。

 何しろ、自分の処女作と、その続編を主題にした劇など、初の試みである。

 舞台設定や大道具小道具、劇の進行方法やアレンジの有無などをチェックしていくため、里緒と緊密な遣り取りを必要とした。時には小学校の教室に招かれ、細かな指示やリテイクなども行った。学校に通いきれなかった思い出を有するジョゼにとってはけっして小さくない障害ではあったものの、恒夫と共に通ううちに障害は取り払われた。里緒の担任の先生や級友、学年主任や保護者の方々とも親交を深められた。皆がジョゼの絵本を気に入ってくれていたのが、涙が出そうなほど嬉しかった。

 恒夫や花菜や舞や隼人らの全力サポートを受けて、ジョゼの絵本による劇は無事に公開の運びとなった。

 

 しかしながら。

 ひとつだけ誤算だったことが。

 

「こ、ここで、……劇、するん?」

 

 劇の公開日、ジョゼたちが訪れた場所は、大きなシアター形式を(よう)する地域最大の公会堂であった。

 学校の体育館など目ではない収容人数を誇り、1000人以上の観客が座席を埋め尽くしていた。

 

「一学校の学芸会、ちゅーよりも、地域小学校のコンクール、って感じやな?」

 

 隼人が入り口(エントランス)で手にしたビラにも、その趣旨の言葉が載っている。プログラムには里緒たちの学校ではなく、多くの学校学年が参加していることを示していた。里緒たちが舞台に立つ以外にも複数の小学校が、歌や踊り、そして劇を披露して、その中で優秀なものを競うということらしい。

 ジョゼは確かにコンクールという単語を里緒から聞いていたが、やはり昔から学校というものと縁遠い生活を送ってきたジョゼにとっては、その意味を完全に理解することは難しかった。公会堂について事前に説明を受けた時も、せいぜい体育館や公民館程度の規模だろうとタカをくくってしまったのだ。

 今更な事実を前に慌てふためくジョゼ。

 観客席に移動するのさえ畏れ多い──傍にいる恒夫の腕に縋りつかないと、車椅子から転げ落ちそうな畏怖に(とりつ)かれる。

 

「ア、アタイの絵本の劇で、ホンマに大丈夫なんか?」

「──ジョゼ」

 

 ひざを折り背中を優しくさすりながら、言葉をかけようとする恒夫。

 それに先んじて、駆け寄ってくる元気溌剌な声が響く。

 

「クミコ先生! 来てくれはってホンマ嬉しいです!」

「あ、えと」

「うはー! 今日の先生、髪型もメイクもお洋服も素敵です! 本当にありがとうございます!」

 

 舞台用の衣装に身を包んだ里緒と、彼女の級友たち──劇の演者となる少年少女が大挙して現れた。

 どうやら、花菜から連絡を受け取ったようだ。

 

「り、里緒ちゃん……アタイ」

 

 どう取りつくろうべきか惑うジョゼであったが、劇の直前という興奮状態にある里緒たちに、彼女の異様を気づくことは不可能であった。

 

「──うち、絶対やり遂げます。……あん時の先生みたいに……先生の劇、必ず成功させてみせます!」

 

 これまた元気いっぱいに応じるクラスメイトたち。

 その様子を前にして、ジョゼは物怖じする自分が急に情けなく思えた。

 恒夫の顔を見やり、彼の微笑みを受け取る。深呼吸をひとつ。

 

 

「皆、きばりやっ!!」

 

 

 ジョゼの発破に対し、里緒たちは姿勢を正して応じる。

 

 

「「「「「 はいッ!! 頑張りますッ!! 」」」」」 

 

 

 里緒に先導され、再び舞台裏へと駆け戻っていく演者の子どもたち。

 

「さすがジョゼ子ちゃんやな。一発で皆の火力全開やな」

「何いってんですか、隼人さん。ジョゼさんと一緒に、皆あれだけ練習してきたんですから!」

「やね、舞ちゃん。──きっと大丈夫」

「うん。大丈夫だよ、ジョゼ」

 

 恒夫の腕に縋りついていた握力を、ジョゼは緩める。

 

「──せやな。皆の言う通りや」

 

 自分一人で物怖じしている場合ではない。

 実際に舞台に立つ里緒らの前で、情けない姿など晒せるはずもなかった。

 

「ほな、行こか」

 

 ジョゼは恒夫にグリップを押されつつ、エレベーターに乗り込み、自分たちに用意された二階ボックス席に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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後編

/

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 二階から見渡すアリーナの様子は、無論、ジョゼにとってはじめてのこと。

 里緒たちの出番まで他の学校の演目を楽しみつつ待つ間も、拍手の時以外は隣に座る恒夫と手を握り合わねば緊張に堪えられそうになかった。

 

《続きまして、プログラム10番。「劇」『人魚とかがやきの翼、プラス、アフターストーリー』です》

 

 里緒たちの学校名が読み上げられる。

 とうとう出番が来た。

 ジョゼは自分が舞台に立つような恐怖を必死に抑え込みつつ、見知った少女が舞台脇の演壇に立つのを見守った。

 ふと、里緒と視線が合った。

 自分が頷くと、里緒もほころぶように笑みを返した。

 里緒はマイクに向かって語りだす。

 かつてジョゼが読み聞かせた時とは違う、まぎれもない語り手の声。

 

「『人魚と、かがやきの翼』」

 

 里緒はゆっくりと、それでいて聴くものに不快さを一切感じさせない歯切れの良さで、ジョゼの紡いだ人魚の物語、その第一節を読み上げた。

 

 「青い青い海の底から、賑やかな音楽が聞こえてきます」

 

 それと共に、緞帳(どんちょう)が左右に流れた。

 舞台上には海底にある人魚の城が現れ、人魚役の少女と共に、海の仲間たちが姿を現す。同時に、音響室で学年主任の先生がBGMを流した。

 

 かつてジョゼが語った内容を忠実に再現した劇は、書いた本人でも息をつくほど素晴らしい仕上がりである。まるで絵本の世界が、そのまま立体を得たかのよう。

 物語は進んでいく。

 

 ──魔法の貝殻をプレゼントされた人魚。

 ──美しい足に変わった尾ひれ。

 ──目の前に現れた怖ろしい虎。

 ──人魚を助けてくれる翼を広げた青年。

 

 舞台上で演じられる物語に、ジョゼたちだけでなく、コンクールの観客たちの多くが魅了されていく。

 演者たちのパフォーマンスや舞台装置の再現度なども秀逸だが、何より、里緒の口から紡がれる物語の顛末が、聴くものの耳に心地よく響いていた。

 里緒は直前、言っていた。

 

 ……あん時の先生みたいに……

 

 ジョゼは感嘆するしかない。

 もはや自分以上と評するほかない里緒の語りに聞き入りながら、恒夫の肩に頭を預ける。

 

「ジョゼ?」

 

 薄暗闇の中、ひそめた声で彼が訊ねるが、ジョゼは猫が甘えるように恒夫の肩の感触を確かめた。

 

「劇って、こんなにええもんやったんやな……」

 

 公開前の稽古・練習では実感していなかったが、いざ本番を迎えて、その魅力を十分噛み締めるジョゼ。

 そうして、物語も佳境を迎えた。翼を失くした青年が再起し、夢をかなえ、光の海へ飛び込むと、観客席もワァっと沸き立った。

 それを見届けた人魚が、青い青い海の底へ戻っていって──これで、物語は「おしまい」とはならない。

 スポットライトを浴びる里緒が玉のような汗をこぼしつつ、「続き」を語りだす。

 ここからが、『人魚とかがやきの翼』そのアフターストーリーとなる。

 里緒の肩が、深呼吸するように上下した。

 

 

 

 ・

 

 

 

「──光の海に辿り着いた青年は、オレンジ色の魚たちと泳ぎ終えると、自分をここまで導いてくれた優しい人魚を探します。

 ──ところが、どの浜辺にも、どの入江にも、彼女の姿はありません』」

 

 舞台上には、途方に暮れる青年の孤独な姿がのこされていた。

 

「『彼女は、いったいどこにいるんだ!』どんなに強い心の翼も、彼女を失った衝撃にはひとたまりもないようでした」

 

 膝をつき項垂れる青年に、光が差し込みます。

 そのさまは、さながら光の翼が生えてきたかのようにも見える。

 

「それでも、青年は諦めません。

『そうだ。彼女が教えてくれたんだ! ぼくは心の翼でどこへでも飛んでゆける! “彼女のもとにだって”!』」

 

 その一念で立ち直った青年は、再び航海を続けました。

 オレンジ色の魚たちに助言を請い、海の底へもぐって、彼女の手掛かりを求めました。

 しかし、海の仲間たちは多くを語りたがりません。

 

「青年は彼女との思い出を頼りに探し続け、ついには、自分を傷つけ翼を折った虎にまで、彼女のことを尋ねました」

 

 虎は青年の説得に応じ、長旅で疲れきった彼を背に乗せて走り出します。

 虎の跳躍はすさまじく、まるで青年の翼がもどったかのようなスピードで大地を翔けていきます。

 

「そうして、虎の証言により、彼女がはじめて陸に上がった浜辺が分かったのです!」

 

 そこへ一目散に飛び込む青年。

 しかし、人魚は見つけられません。

 日もすっかり落ちかけ、青年は体力の限界でした。

 今度こそ打ちのめされたように、浜辺にぐったりと身を横たえました。

 

「青年は、月下の浜辺にうちあがった貝殻を見つけます。いつだったか、自分の傷を癒してくれたひとが持っていたものと似たそれに向かって祈ります。

『──彼女に会いたい。もう一度会って、この気持ちを伝えたい。君のおかげで、僕は夢を叶えられた。君がいたから、僕は光の海に辿り着けた。彼女がいまも助けを求めているなら、また助けてあげたい。僕を絶望の暗闇から救ってくれた時のように。

 ……僕の気持ちを、彼女に、伝えたい……』」

 

 青年の祈りは、西日が沈みゆくのと合わさるように消え入りそうでした。

 しかし、貝殻が答えます。

 

 

 

『わかりました』と。

 

 

 

 青年は人魚の城へと飛ばされ、そこで、思い出だけを胸に生きることを決めた彼女と再会します。

 

 そうです!

 彼が願った貝殻こそ、人魚に足を与え、青年の傷を癒した、魔法の貝殻だったのです!

 

「『どうして、ここに?』人魚の問いかけに、青年は貝殻へ願った事実を口にします。人魚は悲嘆にくれました、『ああ、なんてこと! あなたは自分のために願いを叶えた! これでは、あなたは、泡となって消えてしまう!』」

 

 その事実を聞かされても、青年は清々しい笑顔で人魚に歩み寄ります。

 

「『それでもいい。僕は、君のおかげで夢を叶えられた。君がいたから、あのオレンジ色に輝く魚たちと、光の海を泳げた。そして、最後に、夢にまで見た君と、再会できた……君に「好きだ」と、ようやく伝えられるから』」

 

 悲哀の涙を歓喜の雫に変えて、人魚は青年の胸の中に飛び込みます。

 

「『ああ、貝殻さん! どうか! どうか彼を泡にしないで! 彼が泡になるくらいなら、私も泡になって消えてしまいたい……私も、あなたが好きです!』」

 

 青年は人魚を力いっぱい抱き締めました。

 これが最後の別れになるならばと、互いに強く抱き合います──しかし、彼の体は、泡になりません。 

 魔法の貝殻は、言います。

 

「『彼は“自分のためでなく、君のために願い事をした”──だから彼は、消えることはないのだよ』」

 

 魔法の貝殻は続けて言いました。

 城に戻ってからも、青年のことを思わずにはいられなかった人魚の日々を。

 海の仲間たちですら閉口してしまうほどに重い、葛藤と苦悩を。

 そうして、彼女を助けたいと願う青年の言葉に、魔法の貝殻は答えたのです。

 

「『だから、もうけっして離れてはいけないよ。

  君らは互いを助け合い、支え合い、共に暮らすほうが、きっとお似合いだから』」

 

 そう告げて、魔法の貝殻はどこかへと消えてしまいました。

 残された二人は、固く抱き合ったまま、ある誓いを交わします──

 

 

 

 

 青い青い海の底から、にぎやかな音楽が聞こえてきます。

 夕暮れの海の上では、人魚と青年の結婚式が、盛大に開かれています。

 

 

 

 海の仲間たちは勿論のこと、あのオレンジ色の魚たちも、二人の門出を祝福しようと集まっています。

 

 陸に住む青年と海に住む人魚。

 

 二人は互いに住む世界は違えど、共に生きることを固く誓ったのでした──

 

 

 

 

 ──おしまい──

 

 

 

 

 里緒が最後の締めの言葉を言い終え、息をついた直後、ホール内は万雷の拍手で満たされた。

 ジョゼと恒夫たちも、惜しみない拍手を送る。感動して半泣きになっている舞を、花菜と隼人が支え立たせた。

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 コンクール後、恒夫とジョゼは最優秀賞を受賞した里緒たちとの挨拶もそこそこに、公会堂からほど近い夕暮れの浜辺を訪れていた。

 

「波打ち際まで行く?」

「うん。頼むわ」

 

 ジョゼは甘えるように恒夫の首に縋りつき、慣れたように彼の両腕に抱えられて、波打ち際の砂浜に連れていってもらう。

 その道中。

 

「ありがとな、恒夫」

「うん? 何? どうしたの?」

 

 ふと思い出したようにジョゼは呟く。

 

「ほら。恒夫がくれたアイディア、意外とよかったからな」

「俺のって? ──ああ! あの虎が青年を助けるとこ?」

 

 恒夫はなんてことはないという風に語り明かす。

 

「実はさ。ジョゼがいなくなった時、動物園で虎舎の前まで行って、その時に、ジョゼの車椅子の轍跡(わだちあと)があってさ」

 

 あれがなければ、到底ジョゼの後を正確に追うことはできなかった。

 一度はその轍跡も途切れてしまったが、恒夫はどうにかジョゼのもとにまで追いつくことができたのは、今も鮮明に記憶の中に残っている。

 それが文学に対しては疎い恒夫にとって、天啓のごときヒントを授けてくれたのだ。

 

「それにほら。物語の悪役が、主人公のピンチを助けてくれるって、物語の展開だと熱くない?」

「むむ、確かに──管理人のくせに生意気や」

 

 二人は笑い合った。

 恒夫は波打ち際の白い砂浜あたりでジョゼを下ろし、自分はその隣に腰を下ろす。

 潮騒の音色が心地良い。夕暮れの海の光景は、二人が初めて訪れた時と何ひとつ変わっていないのに、今では二人とも、立場も関係性も、あのころとは違い過ぎている。

 

「今日は、すごかったな」

「うん……まさか本当に、アタイの絵本が劇になる日が来るなんて、夢にも思えへんかったわ」

 

 今でも夢を見ているような気分だ。

 授賞式で一番大きなトロフィーを授与された里緒たちの姿が、今でも瞼の裏に張り付いている。

 

「里緒ちゃん、ホンマに立派に育って、びっくりするわ」

「ああ。あんな大舞台で、劇の進行役をやり遂げるなんてな」

「うん──あの里緒ちゃん見てたら、なんか、変な気分になってしもたわ」

「変な気分?」

 

 ジョゼは言ってしまうべきかどうか、数旬の間だけ考える。

 けれど、肩を抱いて寄り添ってくれる恋人の顔を見て、つい口がすべってしまった。

 

「……アタイに子供ができたら、こんな気ぃになるんかな……って」

 

 言ってしまってから羞恥心が耳まで熱くさせた。

 砂浜の砂を掴んで恒夫に投げつけると、恒夫はまるで予期していたように避けてしまう。

 

「よっ、避けんな、アホッ!」

「いや、誰だって避けるって」

 

 ジョゼはムキになって砂を両手に鷲掴むが、どれも恒夫には効力を示さない。

 ジョゼ自身がそこまで本気ではぶつける気がない以上に、こんな至近距離でそれが可能なほど、二人の心が通い合っている証左であった。

 

「残念、全部はずれ」

「ぐぬぬぬヌヌヌ!」

 

 ジョゼは頬を膨らませてそっぽを向くしかできることがない。

 

「つ、恒夫の方はどうなんや! ア、アタイと……アタイと、その……」

 

 二の句が告げなくなるジョゼ。

 不安と緊張と、何よりも自分からそういうことを告げることへの臆病さが、彼女の唇を(つぐ)ませている。

 そんな恋人の様子をどう思ったのか、恋人はすくりと立ち上がる。

 

「俺もさ、今回の劇を見て、ひとつ決めたことがあるんだ」

 

 恒夫はジョゼの前に片膝をついた。

 砂浜の傾斜分高い位置にいる女性に対し、男はポケットから小さな小箱を取り出す。

 ジョゼは目を見開いて固まった。

 

「へ?」

「──結婚しよう、ジョゼ」

 

 恒夫が開いた小箱の中には、夕日に煌めく見事な指輪があった。

 それを恒夫はジョゼの左手薬指に難なくはめる。

 

「ちょ、い、いいい、いつの間にサイズ調べたんや!」

「夜中眠ってる時。ジョゼの指は本当に調べやすかったです」

「こ、こここ、こんな急に……き、聞いてへん!」

「もちろん、『ジョゼを驚かせようと思って』?」

 

 ふと、桜の雨の中で再会した時と言葉が重なった。

 その事実に気づいて、ジョゼは嬉しいやらくすぐったいやら、絶妙な心持ちを味わう。

 自分の左手に輝く銀色の光沢が、夢や幻ではないかと疑うが、口元に引き寄せて触れた指輪の硬さは、偽りでも何でもなかった。

 まるで、その硬さこそが、恒夫の決意の堅固さを表明するかのごとく。

 

「あの劇──あのアフターストーリーでさ」

 

 恒夫は滔々(とうとう)と語りだす。

 

「青年が言ってただろ?『僕を絶望の暗闇から救ってくれた時のように』って」

 

 恒夫が足に重傷を負った日。恒夫は闇の底に落ちた。

 赤い点滅灯が瞬き、自分の呼吸と鼓動の音が不自然なほど耳をつんざいていた。

 目覚めてから告げられた、足が動かなくなる可能性。

 夢を追いかけることの辛さ。

 夢に届かないことへの怖さ。

 ジョゼが言っていたことの本当の意味を、絶望の暗闇の深さを、あの時期に嫌になるほど痛感した。

 それでも、恒夫は

 

「ジョゼのおかげで、俺は夢に向かって歩き出せた──メキシコへ、光の海へ行くことができた」

 

 そのきっかけをくれた、救い出してくれた愛しい女性に、恒夫は意を決して申し込む。 

 

 

 

「俺と、結婚してくれますか?」

 

 

 

 真っ赤な顔で告げる愛しい青年に対し、ジョゼは真珠のように大きな涙をこぼしながら、答えた。

 

 

 

「……はい」

 

 

 

 答えを聞いた瞬間、恒夫はジョゼと唇を重ねた。

 ジョゼもすぐに応じて彼の肩に腕を回す。

 恒夫は嬉しさと幸せを抑えきれず、ジョゼの華奢な体を抱き上げた。

 

 

 

 

「これからは、ずっと一緒だ、ジョゼ!」

「うん────うん!」

 

 

 

 

 二人は初めての頃のように、夕暮れの陽射しの中、蒼い空の下で、蒼い波の上を、まるでワルツを踊るかのように、はしゃぎまわった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな二人の様子を、ジョゼが置いていった電動車椅子のそばで見つめる隼人と舞、そして花菜と里緒の姿が。

 

「はっはー。お熱いね~、お二人さん!」

「ちょ、なに本格的なカメラ回してんですか隼人さん!」

「いやいや~。式あげる時に、二人の思い出映像として流してやろうかな思て?」

「大成功やね、花菜ちゃん!」

「うん。ありがと、里緒ちゃん」

 

 手を叩き合って喜びを分かち合う二人。

 ──恒夫から、今回の告白に至るまでの遠大な計画を相談されたのは、花菜と隼人。

 そうして、二人を経由する形で、里緒と舞まで巻き込んだプロジェクトに成長するのに、時間はかからなかった。

 

「ほんま、手のかかる二人やでー」

「ええ。まったくです。これで幸せにならなかった許しませんからね?」

「あら、略奪愛? 略奪愛に興味あるの、舞ちゃん?」

「ナンデソウナルンデスッ?!」

「舞ちゃん、りゃくだつあいって何なん?」

「あー、もう! 小学生(こども)の前で何てこと言うんですか花菜さん!」

 

 恒夫とジョゼが、四人の喧騒に気が付くまで、まだ数分の猶予がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さらに数年後。

 

「なあ、お父ちゃん」

「うん? どうした?」

「これなんて書いてるん? ──の、ワ、ル、ツ?」

 

 おやつのプリンを食べ終えた娘が、Blu-rayディスクの山から見つけ出してきたものには、父親と母親が結婚を誓い合った日の思い出を記録したもの。結婚式の日に、記念にと友人からの贈られたものであった。

 どうにも娘は、そのタイトルの漢字一文字が読めないらしいが、無理もない。まだそれを習うのに適した年齢ではなかった。

 父親は当時を振り返りつつ、妻が()れてくれた紅茶を一口すすってから、娘に教えてあげた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おしまい

 

 

 

 

 

 

 



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