かたなリバース (白山羊クーエン)
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ファーストレディ

軽い気持ちで読んでください。


 

 

 君がこれを読んでいるということは、私はもうそこにはいないのだろうね。

 思えば君が私の副官としてやってきた時は、なんでこんな若造が……とも思ったが、いややはり上層部はその才能を見抜いていたようだね。私がしくじった時の対応は実に堂々としていて、その手さばきには感心したものだよ。私が褒めても、君は決して嬉しそうではなかったがね。

 不満もあったことだろう。上官が女であるという事実を内心納得していなかったのも知っている。性差別な気もするが、それも個性の一つとして受け入れた。私は君の上官だからね。

 しかしできることなら、これは私の願望に過ぎないが、それは改めて欲しいと思う。

 矯正できなかった私が言うのも何だが、視野狭窄だよ、それは。世界には君より強い女がいて、君より強い男がいる。事実としてはそれで十分だろう?

 性差なんて、子どもが生めるかどうかというだけさ。だから君が疎むべきは性別関係なく、君より上の階級であるべきだ。そしてそれは向上心が強い、出世意欲が高い、という評価に変わる。決して今のようなマイナス要素にはなりえないはずだ。

 

 長々と語ったが、そろそろ限界なので筆を置こうと思う。願わくば、私のこの思いが、十全に伝わってくれることを祈る。

 

 

 

「…………」

 最後に綴られた名前を見て、俺はその手紙をくしゃくしゃにしてしまった。思わず力が入ってしまう文面だったのだから仕方のない。更に丸めてゴミ箱に投げてしまったのも激情故に仕方のないことだ。

 踵を返す。艦長室の扉を乱暴に開いて通路を通っていく。踏みしめる一歩一歩が体重以上の重さを持っているように思えてならない。

「お、どうした?」

 向かいからやってきた同僚が尋ねてくるが、俺は一瞥しただけで返答しなかった。何故って、それはそいつの顔が気に食わなかったからだよ。にやにやと気持ちの悪い面しやがって。どうせ事情は予想しているんだろうよ。それでも正義の海軍か!

 

 艦はそこまで広くないし、複雑な構造をしているわけでもない。そして向かう場所も通いなれた場所だ、時間がかかるわけもない。そうして階段を一度下り、左折。最寄の部屋に入る。

 ああ、もちろんノックは忘れない。他に利用者がいたら申し訳ないからだ。そして俺は静かに三度戸を叩き、

「中佐ぁぁあああああああ――ッ!」

「うわぁ! いきなり大声を出すなよ、軍曹!」

 怒鳴り散らして入った先には白く清潔そうなカーテンがあり、その先から若い女性の声が聞こえてくる。いや、若い女性などと失礼なことを言った、中佐だ。

「いや失礼でも何でもないからねっ、完全に事実だからね。まるで私が老婆のような言い方はやめてよね!」

 ちなみに美人な、と付け加えてもいいよ? とのたまうカーテン。変わらぬ足取りで近づき力の限り開放する。

 

「それは失礼しました。では改めて――――中佐てめぇ!」

「うわ、なんも説明されない呼称だよ。もうちょっと親しみを込めてよ」

「うるせぇ! 何度言ったらわかるんだあんたは!」

 ベッドに上半身だけ起こしてこちらを見つめる中佐。栗色の髪を肩口で切りそろえた童顔娘。垂れ目なところは小動物を思わせるが、別にこやつをかわいいと思ったことはないし、庇護欲を駆り立てられたことも皆無だ。むしろ率直に言ってむかつくのである。

 寝ていたからか、上着は脇のハンガーにかけられており、白いシャツのいでたちでリラックスしているようである。

 

 イライラする。

 

「いいご身分だな」

「中佐なもんで、艦長なもんで」

「あの手紙はなんだ」

 あの、とは読む人が間違えば遺書のように取れるゴミ屑である。丁寧な文字で、高級な紙を使用するあたり性質が悪い。人の悪意を煮詰めて作ったと言っても過言ではないはずだ。だって読んだ俺の堪忍袋が炸裂したんだから。

 ああ、あれ、と思い出しながら中佐は上に視線を向け、そして顔色を青にした。まずいと思う間もなかった。

「でも嘘は書いてないうぇろおおおおおおおああっ!」

「くそがああああああああああ!」

 ぶちまけられた、間に合わなかった。中佐のやろう、清潔なベッドをその吐瀉物で汚染しやがった。まるで油の混じった水溜りのような色をしている。こやつの胃の中で何が起こっているというのだろう。

 滝のように口の幅のそれを吐き出し、途絶えたと思ったら息を整え口を拭う中佐。

「でも嘘は書いてないよ。私嘘つけないから」

「何さらっと流してんだあんたは!?」

「嫌だなぁ、これを流すのは君の役目だよ軍曹」

 これ、と指すのは現在進行形で侵食を続けるゲロである。このアマは本当に女なのだろうか、羞恥の欠片もない。

「でもさ、君もなってみればいいんだよ、私のようにさ。そうしたら私の気持ちがわかるってもんでしょう?」

「わかりません、全く以って理解できません。艦長室をゲロの海にし、避難先でさえもその魔の手で破壊するあなたの気持ちなんて」

 魔のゲロか……などとどうでもいいことを考えつつ、俺は仕方なくベッドから中佐を抜き出し腰に巻いた仕事道具でゲロの始末をする。仕事に入ると汚いとか汚くないとかそんなことがどうでもよくなるのは自分のことながらいい性質だと思う。

 そしてそんな俺の横で腕組しながらうんうん頷く中佐。殺したい。

 

「いやはや、やはり君は掃除の才能があるね」

「ありがとうございます。死んでください」

「でも軍曹なのに清掃員って……ぷぷ」

 口元を抑えぷすーっと笑う中佐。今腹部に肘鉄を入れても俺は悪くないと思う。しかしそんなことをすれば仕事が増えること請け合いだ。きっと今度は胃液をぶちまけることだろう。

「ぷ、くくく…………うぇろあああああああっ!」

「アンタって人はああああ――っ!」

 俺の眼の中で何かが弾けた。やはり入れておけばよかったと後悔した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 中佐も落ち着いたと信じたい。とりあえず元に戻った艦長室、備え付きの机に腰掛け中佐は資料を読んでいた。俺はその横でただ立ち尽くしている。紙がめくられる音だけが響く艦長室。実に平和なことだと思う。わずか一時間前まで腐海だったことを思えば本当に心安らぐというものだ。

「――ねぁ軍曹」

 そして平和は消え去った。

「…………なんでしょう」

「なんで君は私を邪険にするの?」

「………………」

 なんということだろうか。彼女は俺がこやつを厭う理由がわからないと言う。思わず半目で睨みつけるが、僅かに小首を傾げるだけである。本当に年上か、こいつ。

 

 すると中佐は得心したのかぽんと手を叩き、

「あれかな? 私が刀嫌いだから?」

「違います」

 中佐が刀嫌いなんて情報は初耳である。というか中佐は俺にしきりにちょっかいを出してくるのでそれは意外だった。なんせ俺の得物は言ったとおり中佐の天敵なのである。確かに赴任前に調べたデータでは、中佐が人生を終わらせた人たちは剣士が一番多かったけれど。

「むぅ……ならやはりアレかな? 掃除の腕を褒めたからかな? 確かに海軍軍人たるもの、海の平和を守ってこそ褒め称えられるべきだと思うけど、別に私は君を貶しているわけではなくてだね……」

「――あのですね」

 うん、と佇まいを正しこちらに向き直る中佐。こうして見るとやはり年上には見えない、普通の少女である。しかし俺には日頃から蓄積してきたものがある。ここは遠慮なく言わせてもらおう。

「毎度毎度汚物を撒き散らしていく上官、それを片付けさせられる部下。部下からしてみたら堪ったものじゃないでしょう」

 中佐の言ったとおり、海軍たるもの平和を守ってこそ存在を認められるべきなのだ。俺はゲロを掃除するために海軍に入ったわけではない。

 中佐もようやく気づいたのか(本気でわかってなかったのか?)、しかし困ったように笑った。その表情は初めて見た。

 

「――でもね、仕方のないことなんだよ。これは代償だから」

「悪魔の実の、でしょう? ならそれに見合う力を得たはずだ、それで余りあるんじゃないですか?」

 悪魔の実、それは契約を具現化したものだ。特殊な能力を得る代わりに海に嫌われる、それでもいいのか、という契約。そして彼女はそれにサインしたのだ。

 まぁ、海の上でまで嫌われる人は初めて見たが。

「それを言われると何にも言えないんだけど……でも、私のコレは不条理だよ。今では後悔してる」

 ぎゅっと両手を握り締めて俯く中佐。俺は何も言わず、ただ言葉を待った。今まで聞いたことがなかった話、それをなんとなく聞ける気がした。いや、あんま興味ないけど。

「私の手に入れた力はね、悪魔の実を食べなくても使えるのよ」

「は?」

「ほら、不条理でしょ? 海に嫌われ、毎日戻して、それを対価に得た力のはずなのに、それなのにそんな代償なくたって使える人は使える。こんなのってないよ……」

 声が震えているのがわかった。いつも朗らかに能天気に、こちらを振り回す中佐が見せた暗部。きっと彼女は俺を信用して、そして信用されたくてこれを話したのだろう。こんな間抜けな話、誰だってしたくはないはずだ。

 割り切っていればその類ではないが、中佐が違うことはわかりきっている。本当に、この人は今弱い部分をさらけ出している。もしかしたら泣いているのかもしれない。

 いや、マジでどうでもいいけど。

 

「その、中佐……?」

 しかし俺は、そんな中佐に本心を言えなかった。ただどもり、言葉に詰まり、沈黙する。あまりにマイナスな感情が伝わってくるので、流石に哀れに思ってしまったのだろうか。

「失礼しますっ、前方に海賊船を発見しました!」

 そして空気を読まずに乱入する同僚その2である。しかしこの空気を打破したあなたには賞賛を送りたい。

「ぐす、どこの……?」

 中佐が鼻をすすりながら聞いた。本当に泣いていたのか、何の間違いか少し胸が痛かった。

「サウスブルーのスコール海賊団! 船長は“五月雨”のムラクモ、懸賞金6400万ベリーです!」

「部下でめぼしいのは?」

「2100万ベリーの“石手”のイチジリがいますがそれ以外は問題ないかと!」

 そう、と中佐は呟き、一つの命令とともに彼を下がらせた。

 

 彼がいなくなると中佐は、ふう、と一息吐き、それまでの様子を急変させて俺を見た。そんな時の中佐はいつ見てもゾッとする瞳をしていて、全てを見透かされているようにさえ思えてしまう。

「石手は君が討て、ハリー」

「……了解です」

 席を立つ。軍服がはためき、絶対正義の意志が笑った。

「五月雨は私が受け持つ。私より先に勝てたなら、褒美を一つやろう」

「褒美、ですか……?」

 ああ、と呟く中佐。艦長室を出て、甲板に出る。既に歪に爛れた髑髏のマークは間近に迫っていた。

 辺りを見回して他に人がいないことを確認、剣を抜く。曇りのない刀身が俺の迷いを断ち切ってくれる。今から俺はただの剣士、剣をいかにして最速で振るうのかという命題しか存在しない。

「そうだな、君に一日うぇろうううあああああっ!」

「あんたまだそれやるのかああああ!?」

 がくりと膝を着いた中佐は口元を拭い、まるで仇を見るかのような瞳で呻く。

「く……未だかつてここまで動きの酷い艦は乗ったことがないよ! 責任者出て来い!」

「あんたが艦長だろうがっ!?」

「っ!?」

「いや驚くなよこのくそ中佐!」

 剣士としての心得なんてなかった。そう、俺は剣士なんかじゃない。思わず手で顔を覆った。

「俺はっ、この人の副官でしかないのか……っ」

 

「うぷ、何を今更――――あ、あいつか」

 中佐が見やる先には多くの海賊たち、その中で一際異様を誇っているのがおそらくはムラクモだろう。紫色の髪を腰まで伸ばした厳つい男は、何故だろう、全身がずぶぬれだった。腰に挿してある剣が得物なのだろう。

 その傍にはムラクモの二倍以上の体躯を誇る巨漢がいる。両の拳が岩のような物体になっているので間違いないだろう。海軍の軍艦を前にして戦意が落ちるどころか漲っている様子、賞金額の割には好戦的なようだ。

「中佐、俺が――」

「ハリー、慎め。それと私が話し出したら奥歯噛み締めて耐えろよ」

 ムラクモが剣士だとわかったので俺が相手をしたかったのだが、それは中佐に遮られてしまった。こればかりは上官の意向に従うしかなく、また、中佐の横顔を見ればそれが無駄な提案であったことが歴然である。さっきまでゲロってた人にはとても見えない。双子説を提唱したい。

 

「私はカタ・ナユタ中佐だ」

 ギリ、と言われたとおりに奥歯を噛み締め気合を入れた。

 

「さて、五月雨のムラクモ及びスコール海賊団に告ぐ――――死ね」

 

「――ッ!」

 瞬間、中佐から異常なまでの威圧感を覚えて気が飛びそうになる。まるで衝撃波、物理的な力ではないのに吹き飛ばされるかのようである。それは中佐を中心に波紋のように広がって彼方に消えていく。

 必死になって耐え、そしてそれが凪となった時――

「ふむ、二人か」

 無数にいたはずの海賊どもは船長と副船長を残し泡を吹いて気絶していた。

「な、なんだ今のは……」

 ムラクモが唖然とする中、俺は確かにそれを知っていた。いや、現実に使い手を見るのは初めてなので俺も驚いているのだが。

「やはり小物だな、五月雨。覇気も知らないでグランドラインの三分の一を抜けたのは褒めてもいいが、それにしても運が悪い……」

 

 覇気。人であれば当たり前のように持っている力。しかし常人ではそれに気づくことはできず、また気づいても使えるようになることが困難な力だ。俺も少ししか使えない。

 そして中佐が使ったのは間違いなく覇王色の覇気。選ばれた存在にしか備わっていない伝説の力だ。普段のおちゃらけた中佐からは想像も付かない能力である。

「ハリー、行っていいよ」

「中佐?」

「先、譲ってあげる」

 指で先を促されたので仕方なく跳ぶ。あっけに取られたままの二人が見つめる中敵艦に侵入。ムラクモ――じゃないイチジリに照準を合わせ一閃。吹き飛ばした。

「イチジリ!? くそ!」

 ムラクモが喚き、剣を抜いた。その瞬間、中佐が跳躍する。高高度から舞い降りた中佐は眼前のムラクモを冷めた目で見やる。半身となり、指を鳴らした。

 

「くそがあっ!」

 ムラクモが剣を振るう。すると剣にまで付いていた水滴が散弾銃のように飛ばされた。剣戟と水弾、これこそムラクモが五月雨を冠する由来である。

「――――」

 しかし、当たらない。着弾するであろう水滴だけを拳で弾き、斬撃を紙のように回避する。

 全ての攻撃を受けきった後、中佐は左手を突き出した。指の第二間接までしか曲げない妙な握り方。人差し指と中指の間だけが広く開けられている。

「終わりだよ、五月雨」

 刹那、中佐は神速の踏み込みでムラクモの懐を制圧する。それに気づいたムラクモが驚愕に顔を染める暇すら与えず拳打を見舞う。

 その矛先は、剣。歪に開いた隙間に刃が滑り、その瞬間に力を込めて固定。肘先からを捻転して負荷をかけ破壊する。金属音を立てて二つに分かれる剣。そして中佐の拳には折れた切っ先が残っている。その牙を得た拳を更に引き絞り、一言。

 

「――武装硬化」

 

 そして、ムラクモの顔が破裂した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「中佐、結局褒美って何だったんです?」

 やってきたハエの始末をし、上機嫌で艦長室に戻った中佐に聞く。すると中佐は、ああ、と呟き、悪戯が大好きで仕方ない子どもが大層いいことが思い浮かんだぞ、というような表情を見せた。

「日頃から世話になっているハリー軍曹のために、私が一日君の世話をしてやろうと思ってね」

 むん、と慎ましい胸を張る中佐。この時ほど俺は賭けに負けたことを喜んだことはない。

 

 ちなみにあの時、俺はイチジリを吹き飛ばしてしまったがために海に沈めてしまった。一向に浮く気配なし、そりゃ両手に重いもんつけてりゃ沈むわな。戦闘終了後に引き上げるのが大変だった。

 あからさまにホッとした俺に対し、中佐は機嫌が悪そうだ。

「なんだよー、私の世話にはなりたくないってこと?」

「どうせその間もちょくちょくゲロるんでしょう? なら一緒じゃないですか」

 四六時中一緒にいることになりそうだし、それはそれで俺の仕事が増える。そんな褒美より一日のゲロ回数を減らす努力をしてほしい。

 

「ん?」

「え、何?」

 そういえばさっきのが中佐の副官になって初の戦闘だったわけだが、はて。

「中佐、悪魔の実の能力って何なんです?」

「うん? 見てなかったの?」

「え、使ってたんですか?」

 中佐が能力者だとは知っていても、それが何なのか俺は知らない。先の戦闘でも使っていた様子はなく、むしろ覇気くらいしか使っていない。

「あれですか? ゲロゲロの実、とか……」

 実は戦闘前に吐いたことで何かしらの作用が…………ないな、うん。精神攻撃でしかない、味方への。

「そんなわけないでしょ! どうして私がそんな妖しげな、そして例え良くてもカエルにしかならなそうな実を!」

 だってなぁ。中佐の悪魔の実の効果で俺が知っているのって毎日吐くことくらいしか――――吐く?

 

「……中佐、今気分はどうです?」

 毎日吐いている。実を食べなくても使えるようになる。戦闘中に使った力。

“私嘘つけないし”

 そして中佐の何気ない一言。

「え、気分? そりゃいつものように吐き気がこみ上げてきてるうぇろおあああああ!」

「しまったああああああ!?」

 本日何度目のリバースであろうか。そして俺は中佐に駆け寄りながら思ったのである。

 

 

 ――――なるほど。だから中佐は嘘を()けないのか。

 

 

 

 



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激情

 

 

 

 生まれて最初に思ったこと、なんて覚えている人はいないのだろうが、残念なことに例外も存在する。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「中佐、またですか……」

 既に当たり前になった言葉、十分な顔見知りとなった人事担当の女性に素直に頭を下げる。こればかりはどうしようもないとはいえ、流石に同情を禁じえない。いや、全く以って私のせいなのだが。

「海楼石を付けたらどうです? 超人系の方ならそれで抑えられるのでは?」

「私も試したんだけどね、もう体に染み付いちゃっているみたいなんだ。それに何でか知らないけど上層部から海楼石使用禁止、なんていうわけのわからない辞令が下っちゃって……」

 首をかしげる彼女だが、それをしたいのは私なのである。能力者を封じる海と同質の石は貴重だが確かな成果を見せている。実体のない自然系など覇気以外ではこれぐらいしか共通の弱点はないくらいだし。そしてそれは私の吐き気を確かに抑えてくれるはずだ。はずなのだが……

「結局体質になってしまった、ということですか……あなたは海賊にではなく海と船に殺されますね」

「それはそれで嫌だなぁ」

 苦笑い、のち沈黙。

「ふう、まぁいいです。中佐からの希望転属という形でいいですね」

「ありがとう。いつもいつも世話になる」

「仕事ですから」

 眼鏡を直し、さらさらと書類を作る。どうでもいいけど眼鏡変えたんだね。個人的には前の女教師みたいな黒縁丸のが好きだけど、ピンクも似合ってるよ。

「…………彼氏ができたんです」

 ばーかばーか。

 

 

 ***

 

 

 また一人副官がいなくなってしまった。非常に有能で、将来を嘱望されていた人物だが、どういうわけか私のところに来てしまった。南無。

「というわけで『美人艦長の補佐になれるよ! やったね!』くじ引きを行います!」

「中佐ー」

 食堂にて行われる一大イベントである。発案は私。しかし宣言の後に現れるのは喧騒ではなく沈黙、そして一人の挙手であった。ラマラ曹長、軽薄だが確かに海軍の誇りを持っている者である。その癖のある灰色の髪が揺れていた。

「はい、ラマラ君!」

「もう個人で清掃員雇ったほうがいいと思いまーす」

「しゃらっぷ! 私は同時に仕事を補佐してくれる人がいい!」

「人事に頼んでダメならもうダメですよ。中佐の実態知っている俺らじゃ罰ゲ――――力不足ですよ」

「何、だと……?」

 こんな垂涎ものの機会に対してクルーの全てが曹長に同意して頷いている。この一体感はすばらしい。責任者は誰だ? 私だよ!

「しかし同時に上司を敬わない態度。責任者は誰だっ!?」

「いやあんただよ」

 これまたすばらしい一体感でつっこみを入れられる。どうでもいいけど合唱みたいですごいね。しかしこれでは私も考えてしまう。

 

 今はまぁ停泊しているのでそこまでの吐き気はないが、一度海に出ればそこは死と隣り合わせなのである。具体的には書類が読めなくなり頻繁に栄養失調になる。食べても食べても外に出るのだから、もういっそ点滴とかつけようか。

「そしたら私の二つ名が点滴になる。“テンテキのカタ”って響きはすばらしくないか?」

「一目見れば失笑ものですけどね」

 点滴をつけて戦う病人海軍とか面白すぎるが、私は威厳が欲しいのである。こう、部下が迷わず敬礼してくれるような圧倒的な威圧感が。

「はっ!? 覇王色の覇気を使えば――」

「仕事になりませんよ」

「む、職務怠慢か? 許さんぞ」

「訓練不足を他人に押し付けないでくださいよ」

 やれやれ、と首を振る曹長。確かに覇王色がコントロールできないのは私のせいか。もともと選ばれた存在のみの力、私にはその適正がないためにここまで苦労するのだろう。これを使うときは戦場に部下を出せないのが私の現在位置なのである。

「心配しなくてもまたガープ中将が誰か寄越してきますよ」

「う、あの人のくれる人材は少し苦手なんだ。特に君とか」

「いやぁ、あっはっは」

「うん、そうだよ褒めてるよ」

 たぶんだけど、中将も私が苦手なんだと思う。だからこそ私の苦手なタイプがわかるんだろう。関わってから長いしね。

 いやらしい爺だが、あの拳骨には逆らえない。痛いし、痛いし、痛いし……

 

 

 

 ***

 

 

 

「本日よりカタ・ナユタ中佐の副官を勤めさせていただきます、ハリー・キサヤ軍曹であります。よろしくお願いします」

「…………」

 そして数日後、見事に中将から渡された彼は不思議に苦手なタイプではなかった。青い髪は襟足だけが伸ばされていて不潔感はなく、切れ長の黒の瞳は意志の強さを思わせる。刀を差しているのは……まぁ目を瞑ってもいい。そこまで干渉することもないだろう。

 しかしそれ以外は特にない。うん、中将からなのに苦手じゃない。

「中佐?」

「あ、いや。うん、よろしく頼むよ軍曹」

 とりあえず握手をば。友好な関係を築いていけることを祈って。軍曹は一瞬面を食らったようだが、しかしさわやかな笑顔で握ってきた。うーん、しかし、わかっていたけどさ……

 

「……ちっさ」

「…………何か?」

 君の手です。いやほんと、資料には18歳って書いてあった気がするけど、でも君本当に小さいな。私より小さいってやばいぜ?

「…………ちっさ」

「聞こえました、しかし触れないでいただきたい。中佐よりは高いとはいえ、それでも平均を大きく下回っているのです」

「いや私より小さいだろうがよ」

「小さくないです」

「小さいよ、認めなよ」

「うるさいな中佐、僻みですか?」

 何この若造急に態度悪い! 苦手じゃないとか間違いだった。いや間違いじゃないや、苦手じゃないけどむかつくわ! 少しは敬え、私は上官だぞ!

「しかも年上だぞ! 24歳!」

「うっわ」

「処刑」

 侮蔑の声が響いたので、とりあえず覇王色でオトス。そして落書き地獄だ。地獄だ。

「…………あれ?」

 地獄が、というより気絶しないんですけど。というか本人何されたかわかっていないんですけど。

「――何か?」

 ジト目で睨む軍曹、いやハリー。これがわざとでないのは明らかだが、それがなおさら堪える。私の覇王色は、この程度の奴すら落とせないのだ。

「く、くそぅ……」

「いや何勝手に落ち込んでんだあんた」

 そして地を隠す気のないこやつ。中将、あんたって人はとんでもない刺客を送り込んできたもんだぜ。

「中佐、とりあえず俺はあんたの副官ということで何をすればいい」

 だが甘い。私は上官でこいつは部下だ。その階級差、せいぜい利用してやろう。

「模擬戦」

 とりあえず曹長に嬲ってもらおう。

 

 

「…………」

 私は見誤っていた。私の覇王色が効かなかったハリーだが、よく考えるとそれ以外の現行のクルーには効いているのだ。それはつまり彼らよりもハリーのほうが強いというわけで……

「しかし少しは抵抗しなよ、曹長」

「いや無理ですわ。強いッス」

 息も絶え絶えなくせになぜか笑顔の曹長。むかつく。そして曹長を一蹴した彼はというと模擬刀を鞘に収めてこちらを見ている。今回は私の負けのようだ。

「強いな、軍曹。まさか曹長を負かすとは」

「これぐらいはできます。階級は下でも、副官という立場である以上は簡単に劣るわけにはいきませんから」

 そこには確かな自信が見えていた。確かにハリーの実力は想像以上である。伊達に中将に名前を知られているわけではないのだ。

「これで性格が変わって得物も変われば最高なのに」

「中佐、何か?」

「気にしないで」

 ハリーは首を傾げるが、既に私という存在のおおよそを掴んでいるのか言及はしてこない。ああ、やっぱり有能なんだなぁ。

 

「ハリー軍曹、大変だなお前も」

 気づけば曹長が肩に腕を回して絡んでいた。それに無表情で応えるハリー。しかし曹長、大変とはどういうことだ。

「ま、明日の出航には間に合ったね」

 何とか副官を手に入れ、再びの巡航に入る。点滴はどうしようか。

「中佐、やっても中佐の二つ名は変わりませんよ?」

 曹長、それはどういう意味だ?

 

 

 

 

 

 

 そして始まる私の憂さ晴らしの日々。ハリーはなかなかにからかい甲斐のある奴で、反応がとにかく楽しくてしょうがない。私が初めて吐いた時は狼狽して必死になってくれたので根はいい奴なのだろう。やはり彼には海軍としての資質はあるのだ。

 私が戻した理由を説明しなかったためにハリーは港に戻ろうと提案したようだが、それをにやにやと跳ね除けた曹長がいる。結局二日目にネタばらしをして半殺しにされていたが。

 三日目には自分の仕事の大半が掃除だと気づいたのか、腰にはゴム手袋と雑巾が常備されるようになった。彼が名を上げた時には雑巾のハリーとして海賊に恐れられるだろう。やばい、これは彼には早く武功を立ててもらいたいものだ。

「いや待て、掃除屋のハリーとか割とかっこよくないか?」

 悪を駆逐する掃除人とか粋じゃないか。それは正直羨ましいぞ。

「軍曹、君の腰にあるそれは捨てていいか?」

「中佐がもう吐かないってんならいいですよ。もしくは吐いても自分で片付けるなら」

「掃除屋のハリー、いいじゃないか」

 雑巾のハリーの可能性もあるんだ、希望は捨ててはいけない。当の本人はそれも嫌いそうだが。

 

「そうだ、軍曹。君の剣術だが珍しいな。私も多くの剣術を見てきたが君のは初めて見た」

「そりゃそうですよ。刀という武器の長所を台無しにする剣術ですから」

 ハリーとマラマ曹長との試合、曹長が棒術を駆使するのに対し、ハリーは刀を振るった。いや、突いたと言うべきか。

 彼は斬撃と呼ばれる一切を使用しなかった。行ったのはただ一つ、突きだけである。それが何を意味するのか私にはわからなかったが、それはやはり固有剣術の特性というものなのだろう。

「突きのみ、というのなら剣である必要はないだろう?」

「それがあるんです。とはいえ俺もそこには達していないんですけど」

 一種の誓約か、突きのみを使用し続けることである日突然悟るのだとか。わけわからん。

「わけがわからないよ」

「でも挑む価値はあると思っています」

 ということは彼自身わけわからんと思っているわけだ。しかしそんな自分の認識と剣術の信頼を天秤に掛けたら重かったのが後者だと。それはそれで一途だな。

「よし、君は例外ということにしようじゃないか」

 それなら君は剣士じゃない、突込みだ。なんか性格的にもそうっぽいし。

「何のです?」

「後で話すよ」

 そう、とりあえず木っ端の海賊倒してからね。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 あれからどれほどの月日が経ったか知らないけれど、というわけで倒しました。グランドラインの中では小物であった五月雨は海の藻屑である。刀を持ち、私の前に立ったことが敗因だ。

「刀が嫌い、というよりは剣士が嫌いなんだよ」

「そういえば言ってましたね。付け加えると、五月雨が剣士とわかった瞬間の中佐は凄みがありました」

 いつもあれならいいのに、なんて失礼なことを言う軍曹には夕食の中にとっておきを入れてやろうと思う。

 大きく息を吐いた。するとハリーも姿勢を正し沈黙する。こういう機微に敏い所は彼の長所だろう。彼を立たせたままなのは、座っている私が見上げたい心境だからだ。なんとなく、本当になんとなくだけれど。

「――私が海軍に入ったのはね、とある海賊をこの手で殺すためなんだよ」

「…………」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 雨。

 それが“私”の最初の思考だった。

 手には真っ赤な血だけがあり、周囲には無数の屍と蹂躙された家々がある。既に雨により鎮火されたのか、ただ煙が小さく上がっているだけで、それ以外の変化は一切なかった。

 

「――――」

 目の前には血まみれの少女がいた。栗色の髪をした、十歳くらいの、もうすぐ死ぬ女の子。雨で顔に張り付いた髪を除けることすらできず、しかし最期の力を振り絞って私を見た。

 口が動く。

「お……ね、ちゃ…………」

 その短い言葉すら言い切ることもできず、おそらく妹だった子は死んだ。その生の消滅を、しかし“私”は何にも感じることができなかった。

 それはそうだ、“私”が生まれたのはついさっきのこと。私の妹だった少女は、“私”にとっては妹ではなかったのだ。

 

「…………ぁ」

 小さく声を出してみた。他人の口のようにうまく動いてはくれない。いや、真実他人の口だったのだろう。他人の体だったのだろう。だから“私”のその小さな動きが、私の体を覚醒させた。

「ああ、あああああああ、あああああああああああああああああああ!」

 声と、涙が止まらない。“私”の意志とは関係なく、体はそれをし続ける。肉親の死を、悲しみ続ける。

「あああああああああああああああ! ああああああああああああああああああああああっ!」

 いつしか、“私”も声を出していた。“私”が声を出していた。体に引っ張られるように感情の奔流が襲い続ける。手に取ったもう動かない手は私の心に深く深くとげを刺していく。優しい、悲しい痛み。

「ああああああああ、ああああああ、あああ――! わ、だじ、は……」

 雨が強くなっていく。体を強かに打ちつけていく。でもそれでよかった、私だけ助かったなんて、そんな痛い事実を弱めてくれたから。

「わたじ、は……わたしは…………」

 

 

 ――――どうして私だけ助かったのか。それを知るのはまだ早い。

 

 

 そして、声が聞こえた。その声はただ雨をかき消すように脳に響き、不思議と心を落ち着けた。

 辺りを見回しても姿はない。そんなこと、聞こえたときにはわかっていた。きっとこれは幻聴だ、私が崩れないために聞こえてくる無為なものだ。

 

「私は……誰……?」

 

 だから、そんなありえない疑問を口にする。そうすればこの声が答えてくれる気がした。

「生まれたばかりの君に名があるとでも? 自分で適当につければいいだろう」

 しかし求めた答えは残酷だった。名前はない、ただそれだけが真実だった。私には名前がない。今まで生きてきた私の体にある名前は、私の名前にはなり得ないとわかった。

「そうだな、一つだけ教えておいてやろう。君の傍には常に刀が存在する、それも最悪の形でな」

「どういう、こと?」

「この惨劇を作ったのは一人の剣士だ。そら、もう君の人生に刀なしなどありえない」

 おかしそうに声は笑う。最初の時に比べてずいぶん癇に障る口調だったが、でも私にとって大切なことを教えてくれた。

 けんし、と小さく呟く。それだけで、何かが沸き起こってくる。考えられない感情が爆発する。

 

「あ、はは、ははははははははははははは」

 

 にやりと、口が曲がった気がした。

 それは間違いなく歓喜の証明、今私は、初めて生きていてよかったと思っている。

「剣士。それが、それが……私の敵か――」

 当たり前の話だが、この惨状には原因がある。それが自然災害なら悲しむほかないが、それが人為的なものだというのなら。

 

 

 ――これを作った人間が今ものうのうと生きているのなら、私はそれを許さない。

 

 

「許してなるものか。私は、私は――――そいつを塵一つ残したくない……っ」

 にやりと、声が笑った気がした。

 それは間違いなく愉悦の証明、今そいつは、自身の成功を確信している。

「ふふ、まぁいいよ。幻聴だろうがそうでなかろうが、私には何にも関係がない」

 いつの間にか雨が上がっていた。立ち上がり空を見上げると鉛雲の隙間から青空が見えている。

「ああ、真っ赤な青空だ」

 天と地がひっくり返った気がする。地上の惨劇は天にも写った。そう、私の世界はそれでいい。そのために“私”は生まれたのだから。

 

「ああ、名前、考えないと」

 せめてもの名残をと、妹の体を具に見る。また涙が溢れてきた。すると妹のポケットの中から一枚の紙が見つかった。

「――か、た、なゆた」

 女の子が二人、男の子が一人描かれている。それぞれの下には名前が書いてあったのだろうが、それは少女の血で歪に潰されていた。読める文字は一人の名前と二人の一部だけ。

「ナユタ、か。どこかにいるのかな……」

 この死体の海の中にいるのだろうか、それすらもわからない。ただせっかくだから名前をいただいていこう。

「カタナって言うのは皮肉が利いているね。でもそれだけじゃ癪かな」

 私は剣士を許さない。剣士にだけは絶対に負けない。だからこそ、剣士を剣士足らしめるそれを許さない。

「カタナなんて、私が真っ二つに折ってやる」

 それが、私の名前だ。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

「というわけでね」

 流石に話し疲れたね。あまり話すようなことじゃないからついつい興が乗ってしまった。

「――中佐」

「うん」

 流石に軍曹も顔が強張っている。ふふ、あまりそういうのに耐性なさそうだしね。黙っていればそこそこイケる顔なだけあってその深刻さがよく伝わってくる。少しかわいそうなことをした気がした。

「中佐は、どうしてその話を俺にしたんですか」

「…………」

 さて、困ったな。特にこれと言った理由はなくて、単なる話の流れというのが本音だけど。ここは少しだけ優位に立たせてもらおうかな、今後のからかいのために。

「君が、信頼に足る男の子だと思ったからかな。この話を知っているのはこの艦では君だけだ」

 そして放つ必殺のアルカイックスマイル。この俗世を超越した笑みは今の雰囲気にぴったりじゃないかと思う。密かに練習した甲斐があるってものだ。

 というか、今の私の心境こそ空気読めと言われそうである。

 

「中佐」

「うん」

「その剣士って誰ですか」

 そうだよね、そうくるよね。というか私の必殺コンボは無視かな。

「……いや、もうやめよう」

 流石に心が荒んでくる。これ以上仮初の本音ではいられない。ゆっくりと深呼吸して、そして彼を見る。

 小さいな、でも、結構頼りたくなる顔だよ、ハリー。

 

 

 

「ジュラキュール・ミホーク。それが私の――――“刃斬り”のカタが殺したくてたまらない奴だよ」

 

 

 



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麦わらわら

 

 

「げろあああああああ!」

「のっけから戻すな、くそ中佐」

 一日の始まり、最初の挨拶である『おはようございます』のおの字も言えやしない。もはや条件反射か、腰に手を伸ばして仕事道具を召喚する。ほらったく、早速艦長室が汚れ――いや、汚れていない!

「うぃ……く、ふはは、私も学習するんだよっ」

 勝ち誇る中佐の手の中には茶色い袋。中にはもう一枚袋が入っている、まぁエチケット袋である。

 そもそもの話、万年吐いてばかりの中佐がその考えに行き着かないわけはない。当然のことながら今までもそれはあったのだ。しかし俺の仕事は減らなかった。答えはすなわち、今まではその袋のキャパシティを凌駕する量を出していたというだけである。

「しかしこの袋は違うよっ。長年の研究というか妄想というか、とにかくそんなものを結集して作られたその名も『私専用』――」

「私専用……」

「…………」

 なんか自慢顔の中佐。以上。

「いや私専用、何ですか?」

「うん? だから私専用」

 もしかしてそれが名前か? 普通専用って言ったら次に何かしらあるだろう、ザクとか。ザクって何だ?

「ふう、何でこんなに馬鹿なのに中佐なんだ」

「な!? それは侮辱だぞ軍曹!」

 ゲロ袋を振り乱して詰め寄る中佐、汚いんでやめてください。というかなんでそんな髪がぼさぼさなんだ。寝起きか? 寝起きゲロなのか? 上向きで吐いてそのまま窒息すればよかったのに。

「窒息すればよかったのに」

「お前、顔で語るのみならず実際に口にするとは……! げ、ゲロまみれにするぞっ!?」

 それは困るので仕方なく謝罪する。しかし考えは改めない。どうしてこんな馬鹿で、かつ海軍として致命的な欠点を持つこの人は俺の上司なのだろうか。

 

「げろろろろろろっ」

「……中佐、夜食食ったでしょ」

 今までの液体大半のそれとは音が違う。嫌だなぁ、音だけで出たものがわかるこの特技。

「ぎく、そ、そんなことないこともない、みたいな?」

 嘘が吐けないところは実に便利だ。彼女、否定していると見せかけて実は正直に犯行を供述しているのである。

「あれ中佐、ほっぺにトマトソース付いてますよ?」

「しまった、食べ残し!?」

「食ってんじゃねーかっ!」

 雑巾を振りぬくと中佐の頭から小気味よい音が鳴った。見事に空っぽである。

「は、ハリー貴様っ、上官の頭を雑巾で叩くなんて……っ」

「違います俺が叩いたのは上官ではなくこそ泥です」

 ただでさえ中佐は大食漢で食糧事情が厳しいのに、内緒でこっそり食っているとは指揮官の風上にも置けない女である。まぁ中佐の場合食ったらすぐ吐き出すために量が増えてしまうだけで、実はそんなに食べないのは細身の体格通りだったりする。

 

「あ、おはよう軍曹」

「何さらっと何事もなかったかのように挨拶を?」

 しゅびっ、と効果音が響きそうな機敏さで手を上げる中佐。いつの間にか寝癖が直っている。どんな手品だ。

「ちなみにそれは君が雑巾で叩いたからだよ軍曹」

 俺は副官の鑑なんじゃないだろうか。

 

 

 

 さて、中佐の副官になって一ヶ月が過ぎた。その間戦闘と呼べるものはそこまで多くはない。五月雨が一番の獲物であり、それ以外だと本当にどうしようもない弱さだった。むしろどこぞの村を襲っていた変な動物のほうが強かったくらいである。

「ああ、あれは強かったね、イルカ」

 中佐が背もたれに寄りかかりながら感慨深げにつぶやく。いや、イルカが強敵だったのはあなただけです中佐。そしてあなたの敵は飛び上がったイルカではなく、海に帰ったイルカが作った波だったでしょう。確かにあのイルカは異次元の大きさでしたが。

「暇だなぁ」

 さながら揺り篭のように椅子を揺らす中佐、片側を浮かせてバランスを取る行為は誰もがやったことがあるのではないだろうか。事実、立ったまま控える俺は少し羨ましい。

 一見すると本当に子どもにしか見えない中佐、体質だけなら嫌われて当然なのにそれでもクルーがいなくならないのは実はこれが理由だったりする。クルーの実に七割が故郷に弟妹子どもを残していると知った時は愕然としたものだ。つまりは子守感覚なのである。

 しばし揺れていたそんな中佐だが、不意に音を立てて硬直してしまった。トイレか?

「うぇろああああああ!」

「……何でこんなに馬鹿なのに中佐なんだ」

 この人を妹のようにだなんて俺には精神疾患にしか思えない。

 

「失礼します。中佐、前方に海賊船です」

 そして同僚その2はいつものように俺を助けてくれる。曹長より頼りになるこの人が俺は大好きだ。

「うぷ、どこ?」

「麦わら帽子のドクロマーク、麦わらの一味かと」

「あれま」

「中佐、それは――」

 それは、ガープ中将のお孫さんです。

 

 

 

 

 甲板に出ると中佐は遠くを見るように手を額にくっつける。いつものように絶対的正義を背に掲げる軍服が風に揺れていた。

 なんとなく中佐を見ていると彼女が軍人であることを忘れてしまう。そんなときは決まって、この風に揺れる文字でそれを思い出すのだ。

「砲撃しますか?」

「いいよ、別に。無駄だろうし」

 何せ砲弾を拳で射出する男の孫である。どんな化け物であるか想像に難くない。麦わらのルフィ、悪魔の実超人系『ゴムゴムの実』を食したゴム人間である。

「懸賞金3億ベリーですからね」

「そ、それに私出撃制限出されてるからあっちから攻撃してこなきゃ相手できないもの」

 なんでもないことのようにのたまう中佐。まーた初耳ですよ、このやろう。すると中佐もこっちの視線に気づいたのか間抜けな顔を返し、しかし目を細めて睨んできた。少し意外である。

「というかそれって私が言うこと? 副官として調べておくべきことじゃないの?」

「調べました。でも中佐のデータって異常なほどに少ないんですよね、わかったのは外見的特徴と経歴と――」

 その異様なまでの出世の遅さくらいで。

 

「ま、いいか。私には相手をしていい賞金額が決められていてね。それで言うならあの一味だと海賊狩りのゾロくらいまでしか狙っちゃいけないの」

「そんな決まりがあるんですか?」

「知らない。でも私にはあるんだってさ」

 ぷいっと拗ねたようにそっぽを向く。しかし視線は元通りに海賊船を見ているだけだった。どうやら彼らも様子見のようで砲撃等してこない。このまま素通りというのは海軍としてあるまじき行為だが、中佐にそんな制限がある以上それもやむなしである。

 ふう、と静かに息を吐き、踵を返そうとして――

「おいっちに、さんしっ」

 なぜか準備体操をしている馬鹿を見た。

 

「……中佐」

「うん、何かな?」

「何をしているので?」

「見てわかんない? 上に行けないぞ?」

 ぐるぐると腕を回す中佐に思わず頭を抱えてしまう。ああもう、今日に限って馬鹿度がやばい。

「戦わないけど気になるし、ちょっくらお邪魔してくるよっ」

「じゃあそのまま海賊にでもなればいいんじゃないですか?」

 半ば投げやりに言った言葉、普段の中佐なら即座に反応してくるのだが、今回ばかりはそうではなかった。

「冗談でも言っちゃダメだよ、ハリー。海賊ってのは悪なんだよ。そして悪とは滅びなきゃいけないものだ、塵一つ残っていてはダメなんだ」

 まじめな顔で返される。中佐の過去を知った身でありながら、確かに度を越えた冗談だったようだ。それは素直に反省するべきである。

 

 準備体操を終えた中佐は両手を合わせ、うん、と一つ頷いた。引け目を感じるのでもう止められない。

 ええ、ええ、行ってらっしゃいまし……

「よし、じゃあ行こうか軍曹!」

「は?」

「は、じゃないよ。私に海を渡れって? 冗談じゃない」

 中佐はちょいちょい、と手招きし、俺に屈めというジェスチャーを始めた。いや、それはおかしい。ボートでいけばいいし、そもこの艦で近づいてもいいじゃないか。

「ガープ中将の孫で3億だよ? それなりに敬意を払ってだね」

「その接近方法は断じて敬意など払っていないわ!」

 こっちが少し反省したかと思えばこれである。一般常識の欠片も感じられない我が上官、今更ながらに中将を恨みたくなる心境である。

 中佐は難しい顔で腕を組んで唸っている。あの顔だ、どうせろくでもない案しか浮かんでこないので勝手に準備させてもらう。

「上官命令に逆らうか……なら選ばせてやろう。私を負ぶって海を泳ぐか、私が飛べる距離ぎりぎりで浮かび私の足場になるか!」

「砲撃準備っ!」

「へ?」

「中佐を詰めろっ!」

 途端に甲板に集まってくる筋骨隆々のクルーたち。あれよあれよの間に中佐は担ぎ上げられ、ゲロを吐き、そして砲身に詰め込まれた。

「発射!」

 放たれる人間砲弾。その軌跡は半透明の液体で彩られている。

 バイオ兵器だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ひぎゃ!?」

 放たれる直前に武装色の覇気を纏ったことで致命傷は避けられた。が、痛いものは痛い。そして気持ち悪い。

「うぇろああああああああっ!」

「は、吐いたぁー! 医者ぁあああああ!?」

「いやお前だろ!」

 口元を拭い顔を上げる。すると小さなタヌキがいる。目が飛び出んばかりに動揺して混乱していた。それを殴って落ち着けるのは緑色の髪の男。腰には三振の刀を差している。三刀流というのも嘘ではないようだ。

「あ、海賊狩り。死ね」

「ああ!?」

「間違えた、気にしないで」

 心を落ち着ける。私は争いに来たわけではないのだ。あくまで興味本位、中将の弱みを握りたいとかそんな思惑は決してない。

 服についた誇りを払い、起き上がる。目の前には、えーと、何人かな?

「海賊狩り、悪魔の子、女の子、タヌキ、変な奴、金髪に……麦わらっと」

 あと鼻、海賊狩りの後ろに隠れていて一瞬わからなかった。というかあの鼻の長さは人間とは思えない、もしかしたら魚人族かも。まぁ全部で八人、これが麦わらの一味の全クルーかな、少人数だって聞いているし。

「たった一人で乗り込んでくるたぁ随分余裕じゃねぇか」

 海賊狩りが抜いてきた。ざわりと揺らいできて思わず覇王色を滲ませてしまう。鼻とトナカイがくらっときていた。

「あ、ごめん。悪気はなかったんだ」

「わわ悪気ってお前、今何したんだよぅ……!?」

 ガタガタ震える長鼻と青っ鼻のタヌキ、なんかめんどくさい。さっさと用事を済ませてしまおう。

 

「麦わらのルフィだね」

「おう。何だお前?」

 左ほほに刀傷、水色のベストとデニム生地の半ズボンに草履というよくわからない服装に麦わら帽子が特徴の精悍な男。

「初めまして。海軍本部中佐カタ・ナユタ、ガープ中将のお孫さんだと言うんでね、挨拶に来たんだよ」

 中将の名前が出たからか、彼らに一様の反応が現れる。ああ、あの人か、みたいな感じ。もう会ったことあったのか。

「なんだ、じいちゃんの知り合いか?」

「苦労させられている身だよ。なんとなく君は中将と同じにおいがする。苦労しているんだね、みなさん」

 同情を禁じえないよ、みたいに哀れんだ顔を向けると不思議と敵意が緩和された。本当に大変そうだ。

「おっ嬢さん! 入れたての紅茶を用意いたしましたっ!」

 気づいたら金髪が回転しながら紅茶を差し出してきた。右目しか出ていない変な髪形、眉毛はカールを巻いていておかしすぎる。真っ黒な服装は細身の体をより細く見せていた。

 端的に言えば好みじゃないので軽く無視をすると、案の定女の子に叩きつけられていた。オレンジ色のショートカットが似合うメリハリのついたけしからん体を持つ子だ。うらやましい。

 そんな中、今まで沈黙を保っていた悪魔の子が口を開いた。悪魔の子ニコ・ロビン。『ハナハナの実』の能力者、揃えられた黒髪が似合う彫りの深い女性である。

 

「刃斬りのカタね、あなた。対剣士に特化した人物で、敵対した剣士を皆殺しにするという悪鬼だって聞いているわ」

「…………」

 海賊狩りが反応した気がするが、流石にいちいち対応しているときりがない。とりあえず回答をば。

「悪鬼なんて心外だ。君ほどは殺していないよ」

「それは、肯定と見ていいのかしら」

「まぁ嘘じゃないね」

「ききき危険人物と判断しましたっ、速やかに投降しなさーい……っ」

 相変わらず鼻がスピーカー持って何かしているが、まぁ触れないでおこう。時間の無駄だ。

 

「麦わら、君は何を目指す」

「海賊王!」

 胸を張って麦わら帽子に手をやりながらそう言い放つ。うん、覇王色の素質を感じるよ。流石は中将の、いや、もうこれはいいか。つまりはあれだな、いずれは戦うことになるということかな。

「で? やるのか?」

 海賊狩りが挑発してくる。ああもうほんと、剣士って人種は耐え難い。

「やめておくよ。私一人で相手できるのはせいぜい麦わら以外の七人だけだ」

「何?」

 そうなれば麦わらという最高戦力が野放しになる。いくらハリーでも止められない。まぁハリーが麦わら以外を押さえられるって言うのなら私は麦わらと相打つ自信はあるけども、ここで戦うと被害が大きすぎる。できることなら味方に犠牲者が出る可能性がある戦いはしたくはない。

「あわよくば一人か二人消しておこうと思ったけど、まだ時期尚早かな」

「っ!? てめぇ……」

「かわい子ちゃんでもそれはいただけねぇな」

 タバコに火をつけた金髪が呟く。そこでようやく思い出した。一つだけ手配書に似顔絵があった。

「ああ、君黒足か。写真じゃないからわからなかった」

「そっくりなのにな」

 麦わらにとってはそっくりのようだ。いやあれ似てないよ。

 

「絶対的正義、それが海軍が掲げるものだけれど、実際のところ海軍が必ずしも正義とは限らない」

 麦わらは首を傾げた。話の流れが理解できないのだろう。それもいい、きっと本能で理解するだろう。

 

「――でもね、海賊は全てが悪だよ」

 

 渾身の覇王色の覇気、鼻とトナカイ、女の子が膝を付いた。

「ナミ、ウソップ、チョッパー!?」

「てめぇ、何しやがった!」

 海賊狩りが切りかかってくる。見聞色で見極め鳩尾を武装硬化した足で抉った。

「が――ッ!?」

「戦う気はないって言ったじゃないか。話をするだけだよ」

「手ぇ出すな、お前ら!」

 麦わらの言葉に皆が沈黙する。これで話しやすくなった。

 

「君たちが略奪行為を行った、というのはあまり聞かないけど、でも海賊を名乗る以上海軍に狙われるのは避けようがない。一般の海賊のイメージは最悪だ。海賊=悪だというのは我々が決めたことじゃない、民衆が決めたことなんだよ」

 ひとつなぎの大秘宝、大いに結構だ。しかしそのために海賊を名乗る必要はない。

「海賊というレッテルを自ら貼った以上、それは悪を名乗ったも同義。行いなんて関係ない、実態を知らない人たちにとって君たちは悪でしかないんだ。そしてそんな脅威を刈り取るのが海軍、私の役目だ」

 小型艇がやってくる。特徴的な青い髪が見えた。

「迎えが来たから帰るよ。戦力が整ったら君たちを狩りにくる。それまで平和に生きるといい」

 背を向ける。もう吐きそうだし、海賊狩りから素晴らしい殺気が放たれている。このままでは正気を失ってしまう。最後に麦わらに意見を尋ねた。彼の言葉はしかし、私の言葉に対する感想ではなく、私自身に対するものだった。

 

「お前、いいやつだな」

 

「………………」

 くそ、流石ガープ中将の……流石、麦わらのルフィだよ。まったくさ。

「それはどうも。海賊からの言葉だと思うと虫唾が走るよ」

「それでもいいさ。俺はお前が仲間思いのいいやつだと思ったんだ」

「そう。最後の最後にいいかな」

 言葉を促す麦わら。そんな彼に対し私は顔を向ける。きっとハリーがいたならいつもの顔だと呟いただろう。

 

「ガープ中将の弱点って知ってる?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ガープ中将、お届け物です」

 ガープは咥えかけた煎餅を戻し、それを受け取った。四角い箱、普通の小包である。送り主はカタ・ナユタと書いてあった。

「む、あやつか……」

 もう一度煎餅を持ち、噛む。バリバリと小気味よい音が室内に響いた。中身が何であるか見当もつかない。是非もないと乱雑に開け放った。そこにはただ、一枚の紙があるだけである。

「なんじゃ、手紙か?」

 綺麗に折りたたまれた便箋を訝みながらも太い指で摘み、目を通した。進むにつれ手紙を持つ手が震えてくる。

「ぶわっはっはっは!」

 ついに堪えきれずガープは高らかに笑い出した。届けた青年は何事かと面を食らっている。ひとしきり笑った後、ガープは静かに笑みを深めた。

「やってみろ、馬鹿娘が……」

 ガープは静かに手紙を置き、空いた手で煎餅を掴んだ。その一連の流れは小さな風を生み手紙を飛ばす。偶然にも青年の足元に流れ着いた手紙、彼はそれを無言で読み取った。

 

 

 お孫さんに会いました。

 中将の苦手なものを聞きましたが、じいちゃんに苦手なもんなんてねぇと言われてしまいました。

 中将にそっくりでしたから、彼を中将と思っていじめることにします。悔しかったら代わりの弱点を教えなさい。

 

 

 

 

 



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麦カタわら

 

 

 

 グランドラインに入ってから随分時間が経った。麦わら帽子を被ったドクロが描かれている海賊旗が風にゆれ、その下ではこのドクロに夢をかけた者たちがそれぞれに過ごしている。

 サウザンドサニー号、太陽を模したライオンが微笑む。その庇護下にいる八人の海賊は、ただ一人の異物に対してそこまでの関心を抱いていなかった。

 

「サンジ君、喉渇いちゃった」

「任せてナミさんっ、すぐに極上のロイヤルミルクティーを!」

「なぁフランキー、ビームは出ないのかー?」

「出ねぇよ、現在鋭意開発中だ」

「…………」

「ロビン、何の本読んでるんだ?」

「ふふ、異国の歴史書よ。あなたが興味ありそうな医学の話はまだね」

「そっかー」

「…………」

 その中で、しかし普段と様子の違う者がいた。三本の剣を差し、腹巻を巻いた緑の髪の男、ロロノア・ゾロである。

「珍しいな、ゾロ。お前が修行も昼寝もしないなんて」

 何かを調合しているウソップが訊ねると、ゾロは苦虫を噛み潰したような表情で呻いた。

「流石にこの状況で普段どおりにいられるほどお気楽じゃねぇよ」

 ウソップは首を傾げる。グランドラインでは珍しい、長らく長閑な暖かい気候が続いている休息の時間に何を言っているのか、彼にはわからない。

 そんなウソップにあからさまに溜息を吐き、ゾロはある一点を見つめた。そこにはみかんの木々の傍でウッドチェアに寝転がるナミが見える。しかし彼は彼女を見ていたわけではない。

「あ、黒足君、私にもお願い」

「お任せあれっ!」

 もう一人、椅子に寝転がり便乗する女性。それにくるくると回転しながら頷くコック。ゾロは頭痛がしてきた。

「なんで、あいつが乗っているんだ……」

 

「なんでって、ルフィが認めたからだろ」

 寝不足で頭が回らないのかとウソップは本気で心配になるが、むしろゾロにとっては彼のほうが重症にしか見えなかった。海賊船に捕虜でもない海軍軍人が乗っているという矛盾の解消方法を彼は知らない。

「うん、おいしい」

 そんな当の本人は差し出されたミルクティーに舌鼓を打ってコックの瞳をハートに変える。

「全く以ってタイプじゃないけど、君の腕はほんもぶふぉあっ!」

 そして吐き、コックの顔を汚した。流石のプレイボーイも硬直である。

「は、吐いたぁー! 医者ぁー!?」

「医者はあなたでしょ?」

 そしていつもどおりにトナカイの医者は混乱し、黒髪の考古学者は冷静に突っ込む。

「ルフィのやろう……っ」

 顔を手で覆い、ゾロは呻いた。異物を異物と見なさない脅威の浄化機能、どうして自分以外が普通でいられるかほとほと疑問だった。

 

「ねぇみかんさん、黒足君はいつもこうなの?」

「そうだけど、それより何事もなく会話するのはどうかと思うわ」

 みかんさん、と呼ばれたナミは吐しゃ物を無視して話しかける様に疑問と不安を覚える。というか、堂々と軍服でくつろがないでほしい。

 ルフィが乗船を許可したとして、流石に海軍がすぐ傍にいるという雰囲気を醸し出してほしくはない。個人的にはそれを抜きにすれば好感が持てる人物だと評しているナミである。

 ちなみに彼女に対する呼称が最初泥棒猫であったことは言うまでもない。当然変えさせた。

「ぬぐ、いやまぁ慣れるものなんだよ」

 あっはっは、と口元を拭って高笑いする彼女に対し、乗船について何も言わなかったニコ・ロビンは本を捲りながら思う。

「人として恥ずかしいわ」

「病気なのかなぁ」

 医者としての習性か、チョッパーは心配そうに見守る。それに気づかない海軍の彼女はルフィを見やり、尋ねた。

「麦わら、迷惑かい?」

「いんや」

「あっそ。じゃあもっと頑張るよ」

 何も好き好んで海賊と共にいるわけじゃあない。海軍本部中佐カタ・ナユタ、現在任務中である。

 

 

 

 * * *

 

 

「うぇろあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

「中佐あああああああああっ!」

 麦わら海賊団との邂逅を終え艦に戻ってきたカタは、艦長室に着くや否やそれまで硬直していた真剣な表情を一気に豹変させた。過去最大級の勢いはまるで洪水か、どこぞのマーライオンの如く衰えを知らない激流は、最近開発された彼女専用エチケット袋を破裂させるだけに留まらず周囲を呑み込んでいく。絶叫するハリーはしかしその惨劇に恐怖したわけでも困ったわけでもない、ただただ怒り狂っただけである。

 体中の全ての水分もかくやと言わんばかりの量を吐き出すと共にその吐しゃ物で喉を傷つけた彼女はその痛みにもがいていた。血は出ていないのか、赤くは染まっていない。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

「ち、中佐、てめぇ……っ!」

「はりー……みす、みずをくれ…………」

 まるで砂人間に吸い尽くされたかのようにしわくちゃになるカタは液体を求めて青年に手を伸ばした。まるで老婆である。しかしその窮地に青年は笑みを深める。思わずぞっとするような悪魔の笑みだった。

 

「周りにあるじゃないですか、中佐ぁ」

「は、はりー、許して……」

 それは悪魔の所業、先ほど吐き出したそれを飲めという残虐さ。流石の彼女も床を舐めることはできてもゲロを飲むという行為には耐えられない。泣き出しそうな表情だが涙は一切出ない。もしかしたら既に泣いているのかもしれないが、そんな無駄な水分は存在しなかった。

「はりぃぃいい……っ」

「ち、わかりましたよ」

 上官を殺す気はないのか、ハリーはポットを放り投げた。渾身の力で受け止めたカタは象のようにバキュームする。空になった頃にはすっかり元の姿に戻っていた。異常である。

 

「いやぁ、死んだ死んだ」

「そのままでよかったのに」

「でも君は私を助けた、つまりは本心は違うってことだねっ」

 ツンデレさんなんだねっ、とのたまう。ハリーは水をやったことを後悔した。

 しかしとにかくもまずはこのゲロ海の掃除である。この量は雑巾では不可能だ、故に彼は新兵器を使う。カタがエチケット袋を作るなら、彼もまた掃除道具を作るのである。

「駄犬、餌の時間だ」

 犬型掃除機ドッグ-er0である。ミニチュア・ブルテリアを模した鋼鉄の一品はその吸引力で全てのものを呑み込む。そう、たとえ――

 

 たとえ重要な資料であっても。

 

「私の報告書!?」

「全て呑み込んでしまえ、ゲロとともに!」

 普段より発狂している気がするが、それもおそらくは日ごろの蓄積ゆえであったのだろう。彼女のその後を考えれば彼の行為は無駄でしかないのだが、刹那の欲に従った彼を責めることはできないだろう。報告書が消えたのは決してわざとではないのだ。

 全てを掃除し終えた後、そこには真っ白になっているカタと晴れやかな表情のハリーがいた。

 

 

 

 

そんなわけで、さて麦わらの一味との今後について考える会が発足、中将に似ているので憂さ晴らしをしましょうという結論に至る。

「人として最低の部類ですね、中佐」

「でも海軍としては優しい部類だと思うな」

 海賊に対し強攻策に出ず地道に嫌がらせをするという選択、確かにハリーはそれを疑問に思っていた。いや、懸賞金総額が6億を超える海賊団だ、慎重になるのもわかるが。

「どうしてすぐ打って出ないんです?」

「総額は高いけど人数が少ないから、かな」

「人数、ですか?」

 うん、と頷き、カタは背もたれに寄りかかって船室を見上げた。

「人数が少ないってことはね、それだけ仲間内の繋がりが強固になっているってことなんだ。たとえば総勢100以上なら自然と個々の繋がりも薄れていく。その二つの違いは、仲間を失った時に起きるよ。少人数のほうがその分心の隙間が大きくなってしまう。それが有利になることもあるけれど、きっとあの一味はそれ以上に感情を爆発させるはずだ。それこそ――」

 大損害。こちらが全滅するほどには、ね。

「……中佐の考えはわかりました。中将のお孫さんですからその可能性は高いでしょう。これに関してはもう何も言いません」

 ハリーは一息吐き、その話題を終了した。彼の視界の中にいるカタは変わらず天井を見つめている。不思議と彼女が吐きそうには見えなかった。

 

 その後、私的な手紙を書き終えたカタはハリーにそれを頼み、数日後、それは正しくモンキー・D・ガープへと送られる。それに対する彼の返事は、『好きにしろ』ということだった。

 

「お許しが出たね、ストーキングしていた甲斐があったよ」

 手紙を机に置き頷いたカタはにやりと笑い、瞬間に顔を真っ青にして戻した。幸いなことにエチケット袋が間に合ったのでハリーに仕事はない。

「中将が許可するのは目に見えていましたが、全く似たもの同士ですね」

「……ちょっと待て、それは誰と誰が?」

「中佐と中将ですよ、お互いに苦手なのは同属嫌悪なんじゃないですか?」

「私と中将じゃ何から何まで違うよ! やめてよまるで長年の疑問が解けたみたいな顔しないでよっ!」

 悪戯好きというか、おもしろそうなことに対して理性が働かない辺りは実にそっくりだとハリーは思う。むしろ血縁なんじゃないかとすら思えてきた。

 余談だが、カタ・ナユタに家族はなく、後見人としてガープの名が記されていた時期もあったらしい。

「まぁ影響とかじゃなくて絶対に素だと思うけど」

「何か言った?」

「いえ、言いましたよ?」

「そう…………ってどっちだよっ!」

「どっちでもいいじゃないですか、それよりどうする気なんです?」

 正直に言って、ハリーとしてはこうしてストーキングしている時点で結構な嫌がらせだと思うが、それではこの上司は納得すまい。もっと自分がやっているという感覚が得られる方法をとるはずだ。この辺りもガープそっくりである。

 案の定腕組して唸るカタ、そして彼女がこのポーズで考え事をした場合、まず間違いなく良案が出てこないことを彼は知っていた。

 

「よしハリー、彼らの後ろで毎日宴会をやろう!」

「ほら出たよ、なんで馬鹿中佐だよ」

 もはや長台詞すら言いたくないハリー、即切りされたカタは唇を尖らせながらも再び唸り始めた。おそらく宴会→酒→うぇろあああ! のコンボに気づいたようである。

「参ったな、じゃあ彼らに向かって腐りかけの食料を投げ込む」

「誰かさんのせいでうちには腐りかけるほど食料が余りません」

「砲撃する」

「吐いた唾を呑み込むな」

「そんな汚いことをするかっ!」

「物のたとえだよっ、ことわざだよ馬鹿中佐!」

「汚物を放り込む」

「………………採用」

「おおう……ってあれ? 何かがおかしい」

 急に黙り込むハリーと不思議そうな表情で止まるカタ。半分冗談を言い続けていた彼女は採用され急に黙り込まれたことに拍子抜けを覚えるとともに、自分こそが上官なのにどうして決定権が部下にあるのかという謎がその思考を占めていた。

「ねぇ軍曹、私中佐で君軍曹なんだけど。偉いの私なんだけど」

「うん、これなら一石二鳥だな」

「ハリー? もしもーし? 聞こえてますかー? “雑巾”のハリー・キサヤさーん……ぷろぉ!?」

 うんうん頷いて笑みを深める部下とここぞとばかりに煽る上官、そして上官は殴られる。何もなかったかのような彼は極上の笑顔で物言わぬ上官に作戦を話し出した。とはいえ一言で済むので話すというよりは告げる、そして同時に突き落とすとも変換できた。

 

「中佐があっちに移ればいいんです」

 

 言うや否や艦長用の電電虫で曹長を呼びつける。やってきたラマラはふらふらのカタを見て間の抜けた顔を披露した。

「で、なんでしょうかハリー副官殿、というか中佐どうしてぼろぼろなんです?」

「来たか、ち○こ曹長」

「ふざけんな馬鹿野郎っ、俺はラマラだ!」

「ふむ、では唾が臭い曹長」

「ラマじゃねぇよ! ラマラだよ!」

「失礼した、ではラマラ曹長」

 はぁ、と息を吐き出すラマラ。

 ちなみに彼の認識上ではハリーは完全にカタに毒されている。というより一月以上副官が務まった人物は稀なので、その時点でカタとハリーはセット扱いであった。

 そんなことは露知らず、立て続けにストレスを発散させたハリーは今後の展開と先ほどの侘びとしてラマラにあることを告げた。それを聞いたラマラの口が曲がる。答えは明白だった。

 二人はがっしりと固い握手を交わし、同時に一点を見た。その先にいるのは事態を呑み込めない中佐で艦長である。

「え、何、何なの?」

「説明もなく失礼しました中佐、今しますよ」

「大丈夫です、後のことはお任せください」

「いや二人とも不気味な微笑みで近づかないでよ。そ、曹長、君も普通にしてなよっ」

 アルカイックスマイルの二人に詰め寄られるカタは泣き出しそうである。傍から見るとえらい光景だが、あいにくここは海の真っ只中の一室である。助けは来ない。

 

「中佐、毎日吐くでしょう? それをあっちでやってもらいたいんですよ」

「そうすればあの船は汚れ、臭くなります。更にあっちの食料も減り、ストレスと空腹で一気に弱弱しくなるはずですよ」

 食料庫にもダメージを与える精神攻撃、実益だけを見れば確かに有用である。しかしカタは迫る圧力が恐ろしくて頷けない。

「で、でも海賊が私を乗せてくれるわけが――」

「大丈夫でしょう、中将の命令と言えば麦わらは納得しそうですし、手を出さないってことは伝えてあるんだし」

 そうだそうだ、とガヤ担当のラマラ。ハリーは一気に距離を詰め、机に両手を打ちつけた。

「物は試し、やりましょう」

「は、はひ……」

 涙目の女性、それに更なる嗜虐心を煽られたハリーは既に決定された計画の実用性を彼女が絶叫するまで話し続けた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 という流れでやってきた麦わら海賊団、海賊が周りにいるという雰囲気が一名以外微塵もないので割と心地よかったりする。料理は美味しいし。

「でも不思議ね。ルフィのお爺さんはどうしてこんな命令を出したのかしら?」

 ナミが新聞を置き呟く。海軍将校をたった一人で敵艦に放り出す任務とは何なのだろうか。

「って嫌がらせだっけ」

「そうそう。私嘘つけないから信用していいよ」

「まずその言葉を信じなきゃいけないけど……」

「大丈夫だ、嘘じゃねぇから」

 眉間にしわを寄せナミ、そこにいつの間にかやってきたルフィが口を開いた。

「どうして?」

「勘」

 自信満々に言ってのける船長にナミは深く息を吐いた。動物的直感は信頼しているし、言っても無駄だとわかっているからだろう。そんな彼女に親近感が湧いてくるカタ。

「ねぇみかんさん、お酒飲もうよ」

「まだ昼間でしょ。それにまだ無理よ」

 まだそこまで信用していない、暗にそう告げていた。そっか、と彼女があっさり引いたのもそれを理解しているからである。元より海軍と海賊、相容れることはないのだ。

「ちぇー、ちぇー。固いこと言いなさんなって、私の奢りだよ?」

「あなたが食べてるもの全てがうちの備蓄だってこと忘れてない?」

「麦わらよりは食べてないよ、私」

「そしたら今すぐ海に放り出しているわ」

 簡潔に告げるナミに唇を尖らせ、カタは船長であるルフィを見た。彼の口がもごもごと動いている、肉だった。

「おいしい?」

「あひゃりまへだ!」

 当たり前だ、と言ったのだろう。しかしその当たり前がいつまで続くか見物である。

 

 カタは立ち上がり、ルフィの正面に立つ。彼女のほうが小さいので少し見上げる形だが、それでも妨害は容易だ。

「ふ、その至福がいつまでも続くと思うな」

「ひゃんわと?」

「うぇろあああああっ!」

「ぎゃあああああああ!? 俺の肉っ!?」

 カタが吐き出した吐しゃ物がルフィの口に捕獲されている肉を襲う。虹色の胃液は肉とルフィを襲い、逃げ遅れたルフィはその被害をもろに受ける。悲惨だった。

「お前っ、なんてことするんだ!」

「うぷ……どうだ、私の自己犠牲アタック…………」

 口元を拭うも顔色は真っ青、今にも倒れそうなカタは強がりを維持しながら不適に笑う。顎が外れんばかりに怒り狂うルフィを冷ややかに見つめながら、しかし彼女は一つの達成感と適度な敗北感を覚えていた。

 その敗北感が足を襲い、揺れも同調してカタは膝を着く。涙が輝いていた。

「私は……汚物か…………っ」

 ハリーの言葉を思い出す。彼が採用した案は『汚物を放り込む』というもので、実際に送り込まれたのは自分自身という屈辱。そしてそのとおりにぶちまける己の不甲斐なさ。

「貝になりたい……」

 もう生きていたくないほどに気分が沈んでくるも、その間敵船の船長は不快感に苛まれていた。

「くそ、もう食えねぇ」

 ゲロまみれの食べかけの肉を捨てる。瞬間、後頭部に高速の蹴りが直撃した。

「てめぇルフィ、食いもん捨てるたぁいい度胸だ! 晩飯いらねぇんだなっ!」

「ぶろっ!? さ、サンジ待ってくれ!?」

「言い訳無用っ!」

 そして始まるコックと船長の死闘。見事に仲間割れを誘発したカタだが、

「貝に、なろう……」

 奈落に落ちたテンションのままそこに横たわっていた。ちなみにゲロはまだ掃除されていない。

 

「人として恥ずかしいわ」

 ロビンは我関せずを決め込みつつも呟き、チョッパーは何故だろう、鼻に棒を挿してドジョウ掬いをしていた。

「なぁゾロ、これでもまだ警戒するのか?」

 ウソップが見下ろす地獄絵図、それを眺めたゾロは大きく肺の空気を吐き出し横たわった。

「寝る」

「おう、俺はその間究極の脅し兵器を開発するぜ」

 おもちゃのゴキブリを詰め込んでいるウソップを尻目にゾロはいびきをかく。穏やかな日々だった。

「ち、負けちゃいられねぇ。俺も究極のビーム兵器、いや究極のマシンフランキー将軍をだな……」

 大工魂をなぜか刺激されたフランキーはぶつぶつ呟きながら船室に消えていった。彼は既に全ての事象を放棄している。

「はっ、貝は生きている。なら死んだも同然の私がなることは不可能! やっぱり私は螺子になろう……」

 どこまでだって捩れてやる。意味不明な決意を胸にカタは沈む。

 そのまま昼寝した。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 そして、この一連の騒動で得をした二人の人物は肩の荷が下りたことを心底喜んでいた。

「まさかゲロを見ない日が、掃除しない日がやってくるなんて……」

「くうふふ、今は俺が艦長だ。野郎共っ、今日は大食漢がいねぇっ、好きに食え!」

「うおおおおおおおおおおっ!」

 訂正、数多の人物が得をしていた。

「でも、中佐がいないと癒されない……」

「うおおおおおおおおおお……っ」

「病だな」

 更に訂正、やはり得したのは一人だけだった。

 

 

 



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今週のシリアルなナンバー

 

 

 同僚その2がぶつぶつとぼやいているのを見た。

 彼は幾度となく俺の窮地を救ってくれた恩人だ、できることなら力になってやりたい。そう思い話しかけたところ、どうやら目当てのものが手に入らなかったらしい。その目当てとは悪魔の実図鑑、存在が確認された悪魔の実を網羅した一冊である。

 そも、悪魔の実は同一の実が存在しないとされているが、それは同時期に、という前提が付く。過去に存在した実、及び能力者がいた場合、その存在が消え去ってしまえば後に再びその実が現れるのだ。

 だからこその図鑑、子どもの頃は図鑑に実が載っているのにどうして能力者はばらばらの場所から現れるのだろうと思った(実を確認したならその時点で確保しているはず)が、長い世界の歴史からそれは編纂されたのだからそれも納得がいく。

 つまりはかの有名な海賊王ゴールド・ロジャーも能力者で、その実も既に新しく生まれている可能性すらあるのだ。実質、その能力者こそがひとつなぎの大秘宝に最も近いという極論も出てくる。

 

 等しく弱点はあるとはいえ、どんなびっくり能力があっても不思議じゃない。海軍として、知ることができるのなら知っておきたいはずだ。その2さんは図鑑を持っている人物を知っているらしいが、その人に断られてしまったらしい。

 で、その人はラマラ曹長だと。

「金でも取る気か?」

 あの人ならあり得る話だ。

 

 

「曹長、悪魔の実の図鑑持ってるんですか?」

 というわけで交渉である。

「ん……まぁ、持ってるな」

 何故だろう、曹長はあまり気の進まなさそうな顔で頬を掻いている。図鑑自体がプレミアというわけではないので持っている人は持っているが、それでもなかなかお目にかかれるものではないのは確かなので一度見てみたかったのだが。

「興味深いですね、見せてもらえませんか?」

 それでも一応頼んでみる。こちらがお願いする側なので礼儀は欠かさない。すると曹長は少し考えるように間を置き、やがて口を開いた。

「……ちなみに、一番見たいのは何だ?」

「もちろん中佐のです」

 いや、確かに中佐の実も見てみたいんだけど、他にどんな種類の実があるのかが知りたいというのが一番だと思う。食べたいとは思わないが不測の事態を考えて知識を増やしておくのも悪くない。

 そんな風に思っていたはずなのだが、口に出たのはその一言だった。

 

「………………まぁ、お前ならいいか」

 どうしてそんなにもったいぶる必要があるのだろう。そして俺ならどうしていいのだろう。

「どういう意味です?」

「中佐のお気に入りだし、お前も中佐を気に入っているみたいだしな」

「別に俺は気に入ってませんよ、このムスコ曹長」

「後で俺んとこ来い」

 いつもなら乗ってくる軽口に曹長は一切の反応を見せずに踵を返した。去っていく背中は言葉をかけづらく、無言のままそれを見送ってしまう。

 

 悪魔の実の詳細を知ること、それがどんな意味を持つのか、俺はまだ知らなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 なんか知らないけど、麦わらの一味は一味でどこぞの海賊にちょっかいかけられているらしい。

「フォクシー? ごめん、知らないや」

「銀ギツネのフォクシーっていう頭の割れたキツネみたいな男よ。デービーバックファイトをしょっちゅう仕掛けてくるの」

 デービーバックファイトとは、何でも仲間を賭けて勝負するゲームらしい。海賊旗でもいいとか。それでもらわれた奴はもらった側に忠誠を誓わないといけないとかなんとか。

「馬鹿じゃないの?」

「ほんっとそう! うちもルフィの馬鹿が軽はずみに受けなければそもそもこんな面倒なことになってないのにっ!」

「いででででっ、やめろナミ!?」

 頬を常人離れした勢いで伸ばされる麦わら。しかしゴムなのに痛いとはどういうことだろう、覇気を使っているようには見えないのに。精神的なものか異次元空間か、少し羨ましい。

「でも私が知らないってことは大したことないんでしょ?」

「……すごい自信ね。確か懸賞金は3千いってなかったと思うわ」

 ほら、雑魚じゃん。でもそのデビルなんとかだと無類の強さを発揮するらしい。つまりは小ざかしいってことだね。

「馬鹿言えナミ、あいつのすごいところはビームだ! ノロノロビームだ!」

「ああそうねそうだったわねすごいわねビーム」

 全く相手にしないみかんさん。しかしビームか、風の噂で大将の一人がビーム撃つって聞いたことあるけど似たようなものかな?

「で、そのキツネさんが目の前にいる、と」

 つまりはそういうことだ。ウッドチェアに座ったまま眺めると、そこには巨大な海賊船。でも海賊旗はなかった、取られたからだろう。

 

 みかんさんが双眼鏡を貸してくれたので船員を見る。えーと、変なマスクを被った群れがなんかすごい勢いで踊ってる。

「え、何これ怖い」

「ほんと、怖いわ」

 みかんさんの同意を得られると妙に安心するのはきっと彼女が数少ないこの船の良心であるからだろう。というか、私ってばいつの間にか海賊に馴染んでる不思議。海賊=悪の考えは変わっていないはずなんだけどなぁ。

「おいウソップ、チョッパー! ビームだ、ビームが見られるぞ!」

「うお、そういえばそうだ!」

「う……おれは嫌だな」

 興奮する長鼻君とトナカイ君。トナカイ君のおびえる姿がかわいくてうっとりしてしまう。そう、この子タヌキじゃないんだってさ。

「でもよ、なんか様子がおかしくねぇか?」

 水色の変態が呟く。私は変態とは距離を離すようにしているので声が聞こえた瞬間には飛び退くことにしている。彼は彼で気にする様子もないのは海軍が嫌いだからだろう。

「確かに楽しそうに踊ってるな、宴か?」

 麦わらよ、どうして他の船に見せ付けるように宴を開く必要があるんだ。嫌がらせか? だとしたら頭悪いぞ。

「あれ? なんか誰かに罵倒されたような気がする……」

「というより踊っているんじゃなくて慌てているんじゃない?」

 ニコ・ロビンの言葉にもう一度覗き込む。確かに踊っている。

「いや踊ってるよ」

「いや慌ててるわよ?」

「…………」

 みかんさんと意見が違えると落ち込むのは、きっと彼女が数少ないこの船の良心だからだろう……

「じゃあ何に慌ててるんだ? ウソップ、何か見えるか?」

「ちょっと待ってな…………あぁ、なんかすごい勢いで船の後方から波が来てるな」

「なんだ、ナミか――ってえええええええええ!?」

「私じゃないわよ!」

 トナカイ君が目を剥いてみかんさんを見、みかんさんの強烈な拳が炸裂した。

「ナミじゃない!? じゃあ何だ!?」

「だから波だって言ってんでしょうが!」

 どうしてそこで麦わらが便乗して殴られるのか、私にはわからない。

 

 というより大波が来るからか、船の揺れが強くなって――

「ぶえるげれごぉぉっ!?」

「あんたも大概にしろぉ!」

 スッパーン、と素晴らしい音が響いて頭に痛みが来る。わざとじゃないのに酷すぎる。そして吐いた直後の私の頭を叩かないでほしい。そこはお腹と同様、ジャックポッドなのだ。

「むげらあぁああ!」

「きゃあああああああああああ!?」

 追撃のセカンドリバースである。このまま範囲が広がればみかんさんの大事なみかんが私のゲロを栄養にしてしまいそうだ。

「ナミさん、じゃれあってる場合じゃなさそうだぜっ」

 気づくと黒足君が厨房から出てきて状況を見つめている。眼前のフォクシー海賊団は相変わらず不思議な踊りを披露しこちらに迫ってくる。その気持ち悪さは吐き気を誘引して仕方がない。

「く、その変な踊りをやめれうぇろあああ!?」

「舵取って! 避けるわよ!」

「最悪風来バーストを使うか……」

 慌しく動き回るクルー達と、吐き続ける私。その元凶は同じである。

 

「よくも私の胃と喉に多大な負担を……許すまじ!」

 口元を拭い船首に立つ。麦わらが何か喚いていたが無視だ。前方、既にほど近い海賊船に集中し、目を閉じる。

 イメージは地獄の釜、煮えたぎる極熱の念。感情を無から最大に、初速から最高速へのギアチェンジ。両手を前に、世界を掌握するように。

「覇王色――煉!」

 開眼と握撃は同時、瞬間波濤のように突き進む覇王色の覇気は海賊船を丸ごと飲み込み、その船員全てを卒倒させる。

 覇王色――煉。最近覇王色の訓練中に見つけた独自のものだ。実際はただ方向性を限定できるようになったっていうだけだが、私はこう言わないとそれができない。そこらへんがまだまだ未熟であるという証である。

「武装色、硬化」

 そして危機は去っていない。まだ船員を止めただけ、向かってくる船は止まらない。吐き気を催すおぞましい原因は絶ったが、どうせならここで藻屑になってもらおう。どうせ海賊、生きている必要は皆無なのだ。

「麦わらっ、破壊できるだろ!?」

「当たり前だ!」

 隣に降り立つは3億の首。世界政府に喧嘩を売るほどの男があれを下せないはずはない。

「ギアサード!」

 指に息を吹き込むと、それが腕に伝わっていき巨大となる。まるで巨人族の腕、その一撃は絶大だろう。流石は麦わらのルフィと言ったところか。

「ゾロ、サンジ、フランキー、来い!」

 麦わらの一声に三人が集まる。それぞれが思い思いの構えを見せた。

 ちなみにみかんさんと長鼻君、トナカイ君は涙目である。回避運動は取らない辺り、その信頼は硬い。この海賊団は強い、そう思わせる絆がある。

 ならば私は、その強さをくじく力を見せよう。いつか、万全の体制でこの一味とやりあうために。

「血雨の掌」

 引き絞る左腕には武装色の覇気。私がイメージする破壊とは血と雨、故にその色は赤く染まる。ぼたぼたと零れ落ちる覇気は雨、触れた地を侵食し固くする。

「ゴムゴムの――」

「三刀流――」

「悪魔風」

「コーラ全開!」

 

羊肉巨人六百煩悩(ムートンギガントろっぴゃくポンド)功城風来砲(クー・ドキャノン)!」

覇気千穿(はきせんせん)

 

 

 

 総計五人の大技が船を襲撃、大破させる。船員がばらばらと海に散っていくさまはまるで花火のよう。汚ぇ花火だ。みかんさんとトナカイ君が抱き合う中、サウザンドサニー号は船の残骸を突破する。

 そして――

「あ、いけない」

 そういえば高波が来ていたことを忘れていた。

「心配ねぇ」

 麦わらは小さくなって腕組している。どんなからくりなのだろうか。

 しかしそんな彼の言葉通り、押し寄せてきていたはずの波は船とともに割られている。まるで伝説上の海割りのようで、しかし普通にこの海ではそれができる人物が結構いるという事実。海軍としては頭が痛い。

「ってほんとに痛い!?」

 精神的な幻痛ではなく物理的な鈍痛である。何かがぶつかったようで、それは先ほど壊した船の欠片。それが大量に降ってきていた。当たり前である。

「うほー! お宝だぁ!」

 麦わらが大口を開けて喜んでいる。木片なんかには目もくれず、そこかしこに落ちてくる金銀財宝をこそ見つめていた。流石は海賊、そしてこれらは海軍として須らく回収するべきである。

「だって一般市民から奪ったものだしねー」

「ちょっと待って! これは私たちの成功報酬よ、どうして海軍に引き渡さなきゃいけないわけ!?」

 みかんさんが目をベリーに変えて猛抗議、彼女は守銭奴のようだ。

「だって不当に得られたものだし、奪われた人たちに返さないと」

「もしかしたらどこかで見つけたものかもしれないじゃない! というかあなた今海賊船に乗っているってことわかってるの!?」

 むぅ、しょば代を主張する気か。確かに私が似合わず寛いでいたことは事実。そしてここが敵地であることも事実。ここは引いて、しかる後に回収するのが吉か。

「わかったよ、納得する」

 今はね。

「ちょっとアンタらっ、早くかき集めなさいよ!」

 というかもう聞いていなかった。鬼のような形相で洩れなくかき集める気である。ここらへんは流石は海賊と見ていいだろう。最近本気で彼らが海賊か怪しんでいたが、まぁ目の色を変えるものである。

 

「うあー、力が抜ける……」

 皆がこき使われ奔走する中トナカイ君がへばっていた。彼が持っているのは何の変哲もない銀の手錠。しかし私には見覚えのあるものだ。

「海楼石の手錠、なんで海賊なんかが……」

 海楼石は貴重だ、その実半無敵な自然系能力者にも覇気なしでダメージを与えられるようになる一発逆転の道具。その硬度は容易く破壊できるものではなく、事実多くの有名海賊がその拘束を突破できずに終わりを迎えている。

「どっかで紛れ込んだのかしら。でも貴重品ねっ」

「ウソップ助けてくれぇ……」

「海に飛び込んだり海楼石持ったり大概だな、チョッパー」

 長鼻君の救済で生き返るトナカイ君。まぁ能力者の天敵であるので、この子の気持ちはすごくわかる。むしろその反応は私にしてみれば軽いもんだ、私失神するし。

「と、それは海軍のものなので回収っと」

 長鼻君の手から取り上げる。希少なんだ、海賊の手に回したくはない――

「あ、まず……」

 直前に思ったのに馬鹿か私は。私も能力者だからなぁ、これ持てないんだよね。意識が遠くなるんだよねぇ……

 一気に視界が暗転する。その不思議な感覚は、まるで時を遡行するかのようだった。自分が倒れこむ音すら、体の感覚すら消去して、私はあっけなく消え去った。

 

 

 

 

 

 

 手錠を掴んだまま倒れたカタに注目が集まる。彼女の様子から、彼らは彼女が能力者であったことを知った。

「でもそんな素振り全くなかったわよね、あまり変化のない実だったのかしら」

「まぁこの海軍の嬢ちゃんにも弱点があるってわかったんだ。心配が減るじゃねぇか」

 フランキーがぼやくが、ウソップは何かを思い出し当たりをつける。

「前に意識が遠くなったことがあったな、あれじゃないか?」

「ああ、三人ぶっ倒れたやつな。あれは凄かった。なんだったんだ、あれ?」

 ルフィが帽子を抑えて呟くも答えは出ない、博識であるロビンもその答えを知らなかった。

「大変だ、早く看護しなくてはっ」

 サンジが好機とばかりに突進し、ハートの瞳のまま鼻息荒くカタに近づいた。しかしその表情は一瞬で凍り付いてしまう。その異常に全員が首をかしげた。

「どうしたんだサンジ?」

「チョッパーすぐ見てくれ!」

「え」

 

 

 

「息がねぇ、死んじまってる――ッ!」

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 持ってきてもらった分厚い本、ぱらぱらと捲っていくと様々な実が載っていた。写真こそ少ないが、名称及び分類、その能力が書かれている。

 自然系よりも動物系のほうが希少だったりするのが面白い。幻獣種だったり飛行可能だったり、やはり動物というものは人間よりも多様性に優れているようだ。

 一番多いのが超人系というのは、自然と動物に合わなければ超人だというその他的な分類によるものである。正直いい加減な気もする。

「お、あった、ハキハキの実」

 潜在エネルギーである覇気を自在に操れるようになる。特に選ばれた者でなくとも覇王色の覇気が使えるというものにこそ意味があるようだ。しかし能力者の覇気の力は悪魔の実のものと同一になってしまうので、仮に能力を封じられた場合、能力者本来の覇気を使うことはできない。

「最悪だ、中佐もなんでこんな実を……」

 そういえば中佐の食べた経緯を聞いていなかった。あの人はどうして悪魔の実なんか食べたんだろう。曹長は知っているのか、怖いくらいの無表情でこっちを見つめている。

 って――

「あれ、でもこの図鑑間違ってますよ」

「どこが?」

「だってほら、中佐の食べたハキハキの実。あれって超人系ですよね」

「…………それが?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほら、ここに“動物系(・・・)”って書いてますよ」

 

 

 

 

 

 



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それはそれは残酷な言葉

 

 

 グランドライン最大最高の監獄“インペルダウン”は、歴代数々の重罪人が収容されている地獄である。

 その罪の重さによって収容されるレベルが決まっており、一般的にはレベル1からレベル5までが知られているのだが。

 実際には世界に公表できないレベルの犯罪者を閉じ込めるレベル6が存在する。とはいえ基本的にレベル5までで十分なのは、レベル6に該当する存在が早々あっては世界の危機に他ならないからだろう。

 そのインペルダウンには罪人を逃さないための様々な仕掛けや存在があり、監獄署長マゼランを筆頭とした能力者も存在している。そんな中、受刑者の中で一際恐れられているのが獄卒獣と呼ばれる大型の獣である。獄卒獣は二足歩行の武器を持つ獣で、正確な種族はわからないが、馬であったりサイであったりするようだ。

 しかし実際のところ、彼らは悪魔の実の能力者である。悪魔の実動物系の何らかの実を食した彼らはやがて覚醒者と呼ばれるレベルにまで到達し、結果、今の姿になったと言われている。

 悪魔の実には悪魔がいる、故に覚醒者とは、実の中にいるとされる悪魔に身も心も支配された姿であると言えよう。そしてその実に宿る動物を反映した姿になったのだ。

 

 では覚醒者となるにはどうすればいいのか。その事実を知る者はほんの一握りしか存在しない。そしてその全てが、その事実を他者に伝えようとはしなかった。これは悪魔の実の真実に到達しうる情報だからである。

 しかし今、海軍上層部の中で一つの実験が行われていた。それは一石三鳥の計画である。覚醒者を作り出す方法を確定させること、巨大な戦力を作り出すこと。そして――

 

 ――たった一人で世界を滅ぼしうる“咎人”を消滅させることである。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 ハキハキの実が動物系、そんなことはありえない。動物系とはそれを冠する種族の名前を実に持ち、かつモデルとして細かく分類される悪魔の実だ。中佐が変身したところも見たことがない。いや、見たことがないだけでできるのかもしれないが、一番の可能性はやはりミスだろう。

「ミスじゃねぇよ」

 心を読んだようにラマラ曹長が言う。

「じゃあ何ですか? 中佐も変身するんですか? そも、ハキハキの実って何の動物ですよ」

「逆に聞くが、じゃあ“覇気”って何だよ、キサヤ」

 何って。覇気とは人間全てが宿す生命力だ。気合だとか威圧なんかと似たようなものだけど、それを意識するのも使いこなすのも容易ではない。およそ人間の持つ原初にして最終的な武器であると言える。

「そうだ。全ての人間が持っているもんだ。だが、限られた人間しか持っていない覇気もあるよな?」

「……覇王色」

「なら、わかるだろ」

 人の上に立つ資質を持った人間だけが持つ特別な覇気。威圧の最終形態とも言えるそれは、弱者では耐え切れずに気絶してしまうほどだ。これは確かに万人が持っているわけではない。

「ヒトヒトの実……?」

「はずれだ。ハキハキの実はハキハキの実でしかない。だがこれは人だけが持つ力だ、超人系の全ての実の中でも人間だけの力を宿す実はないからな。だからこれは動物系なんだ。言ってることわかるか?」

「人間だけのものだから自然系でもない。人間だけが持つ力故に超人系でもない。人間の力だからこその、動物系……」

 そうだ、と曹長は頷いた。顎に手を当てて考える。しかしそれでも超人系のほうがしっくりくる。何か、この実を動物系足らしめる絶対的な要素があるのだろうか。

 俺の表情を見て曹長は静かに背を向けた。部屋の中、図鑑が入っていた本棚から一冊の本を取り出す。

「何ですか、それ」

「研究資料だよ、悪魔の実に関して――特に、動物系に関しての」

 放り投げられたそれをキャッチして、中を見る。今までに発見された動物系の実と、そして覚醒という項目。

「覚醒……?」

「動物系にしかない要素、それが覚醒だ。全ての能力を引き出す代わりに、悪魔の実にいるという悪魔と動物の遺伝子に人格が喰われ個としての自我が消滅する、待っているのは戦闘狂の化けもんだ」

「それは……っ、まさか――!」

 動物系たる理由がそれなら、つまり中佐は――

「ハキハキの実の能力者は覚醒する。それがお偉いさんが認めた、動物系である理由なんだよ。そして今、着々とそれは進んでいる」

 

 

 

 ***

 

 

 

 気がついたらご丁寧にベッドの上だった。いやはや、海賊にここまで接待される海軍人なんて私くらいだね。自慢にならない。

「いやー死んだ死んだ」

 ほんと、毎回意識がなくなるから死んでいる気分です。なら今の私は死人なのかと聞かれれば違うと答えよう。何せ私は、生命力に満ち満ちた存在だからだ。

「あ……」

 扉が開き、濡れタオルを持ったみかんさんが入ってきた。顔色が悪い。船酔いだろうか。

「みかんさん、体調悪いの?」

「は? あ、あなたこそ大丈夫なのっ?」

「いやー私は海楼石付けたらいつもだし?」

「い、いつも死んでいるっていうの!?」

 おう、私の感性に追いついているな。さすが常識人、冗談が通じるぜ。

「顔色が悪いよ、酔った?」

「あのねぇ…………まぁいいわ」

 呆れたように溜息を吐き、傍にある丸椅子に座る。備えつきの台には水の入った桶があり、いわゆる病人看護のあれこれが置いてあった。

「いやぁ、参っちゃうね。海賊に看病されるなんて」

「だったら倒れないでよ。いや、海軍を看病って私もどうかと思うけど、でも目の前で倒れられたらそうせざるを得ないでしょう?」

 頭を掻く。うーん、海賊は悪なんだけど、どうにも人が良すぎてみかんさんを海賊認定しづらいなぁ。もっと外道外道してたら良かったのに。

「私が倒れるのは海楼石と吐き気だけだよ。生命力に溢れているからねっ!」

 ウインクすると、何故かみかんさんはまじまじと見つめてきた。真剣な眼差しで見つめられると照れてしまうよ。

 

 そして空気を読まない我が体質である。

 

「むるしえらご――っ!?」

「ぎゃあああああああっ!? やめんかっ!」

 異次元から取り出されたハリセンが頭をすっぱ抜く。やっぱり私はリバースからは解放されないのだ。

 

 一息つく。倒れたばかりの私は自分で自分の処理をした。ここで病人扱いをしないところで海賊認定をしようじゃないか。

「覚悟しなみかんさん、君はこれで私のロックオンだ」

「何を言っているのかわからないわ……少し聞きたいことがあるんだけど」

 目を逸らし、言いづらそうに尋ねてくるいじらしさ。流石は花も恥らう乙女だね、私なんか吐いても何にも思わないくらいに図太くなっ………………え。

「……私、乙女じゃない……?」

「何を落ち込んでいるのかわからないけど、ロビンとチョッパーを呼んでくるわ。待ってて」

「む、悪魔の子か」

 彼女は私の中での危険人物第三位だ。一位は言わずもがな、二位は秘密である。

 やがて薬を持ってきたトナカイ君と彼女がやってきて、次いで人数分の飲み物を持ってきたみかんさんが来る。何故か異常なまでに冷えた体にホットドリンクが沁みて安心した。

「ホットだけにね」

「何がだ?」

「知らなくていいことよ」

 トナカイ君はさておき悪魔の子は気づいているみたいだ、少し悔しい。しかし悪魔の子とは呼びづらい、ここらで新たな名前を開拓しよう。ニコ・ロビン、ニコ・ロビン、ニコニコ・ロビン……

「このスマイルめっ」

「…………」

 無視された。ノースマイルだった。

 

「うん、体温が少し低いけど問題なさそうだ」

 肌蹴た胸元を戻し、トナカイ君が安堵した。当たり前だ、私健康ですもの。

「それで、聞きたいことって何かな?」

「あなたの能力についてよ」

 簡潔に告げるみかんさん。頭を掻く。これは、間違ったかな?

「――あのさぁ。気を抜きすぎじゃないかな」

 覇王色の覇気が零れる。部屋の中を蹂躙し、三人を軒並み威圧する。

「海賊の敵の海軍が、自分の力を話すと思うの?」

「少なくとも海賊船で倒れたあなたの言うせりふじゃないわね」

 スマイルの言葉に覇気が消える。自分で言っていて間違ってるんじゃね、と思っていたから仕方ない。息苦しかったのか、スマイルはふうと深く息を吐き、

「倒れたあなたの看病代、でどうかしら」

「…………ちょっとだけ、ならね」

 実際、言ってもあまり意味はない。対応策なんてないんだから。なら、知られたらまずい情報よりも何倍もいいのだろう。そう思い、自分を納得させた。

 

「なら、改めて聞かせてもらうわ。あなたの能力」

 みかんさんの問い、一つ息を吐き、口を開いた。

「私はハキハキの実の能力者。つまり覇気人間ってことだね」

「ハキハキ? え、吐くだけ?」

「最悪の実だ」

 トナカイ君が引いていた。なるほど、覇気を知らないのか。これはこれで結構有益な情報を渡すことにもなるのかな。

 まいっか。麦わらの一味は悪をそこまで働く印象はないし、どっかの悪人ぶったたく分にはいいだろう。

 

 右手に武装色の覇気を集中、硬化させる。一瞬で黒く染まった腕に三人が絶句した。

「覇気は生命力。攻撃・防御の手段として、また気配を読むことで索敵・回避にも使える。今のこれは武装色の覇気、鎧を纏っていると思えばいいよ」

「気配を読む。まさか空島の?」

「心網、もしかしたらそうかもしれないわ」

 まんとら。知らないけど、心を読むというのならそれは見聞色の覇気だろう。私はあまり得意じゃない。それでも覇王色よりはできるけど。

「覇気の最大の利点は、実体のない自然系にも通るということ。たとえば白ひげ海賊団二番隊隊長“火拳”のエース。彼もメラメラの実の自然系だけど、覇気を纏った一撃なら当たるし、麦わらにも打撃が効くようになる」

「そんなっ、じゃあルフィのおじいさんの拳骨を痛がったのも覇気!?」

「そ、そうだっ。ルフィは痛がってたから変だと思ったんだ!」

 騒ぐ二人に考え込む一人。見ていておもしろい。そしてやはりと言うべきか、ガープ中将は孫にも鉄拳を喰らわせているらしい。ざまぁないな麦わら、お前も私と同じ苦しみを味わうがいいさ!

「じゃ、じゃあもう一つ。なんであなたは海楼石をつけたら死んだの? 海楼石は能力者の力を封じるだけで殺しはしないでしょう?」

 はてな。何を愚問な。

「当たり前だよ、能力者は海に嫌われるけどそれはカナヅチになるだけで即死なんてないよ。こんなの常識でしょう?」

「ならなんであなたは死んだのよっ!

「だから死んでないって。死んだならこうして話してないでしょ」

 頭腐ってるんじゃないのかなぁ。腐ったりんごよろしく、みたいな?

「だからっ、じゃあなんであなたは――」

「刃斬りのカタ、少しいいかしら?」

 声を荒げるみかんさんを制してスマイル――もうめんどくさいからニコでいいや――が口を挟む。絶妙のタイミングでみかんさんが口ごもり、トナカイ君の動揺も収まった。

 私としてもよくわからない質問よりはいい。頷くと、ニコは何てことない真顔で言った。

 

「あなた、海楼石の手錠をつけたら心臓が止まったけど――どうして?」

 

「へ?」

「海楼石が心臓を止めないのならどうしてあなたは付けた瞬間に死んで、外したら息を吹き返したの?」

「…………え。私、死んだの?」

 

 はっつみみぃ(初耳)。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 グランドライン、とある春島にて。二人の大人物が対峙していた。

 一人は王下七武海の一人にして現在世界最強の大剣豪“鷹の目”ジュラキュール・ミホーク。

 一人は新世界にて四皇の一角として恐れられる赤髪海賊団船長“赤髪”のシャンクス。

 その二人は今膝を突き合わせていた。言わずもがな、宴である。

 この二人は、過去好敵手として互いを認め合っていた。しかし東の海に赤髪が立ち寄った際、彼は左腕をなくしてしまう。好敵手との決着を着ける前にそうした事実が二人の未来を決めてしまった。

 もう決着は着けられない。鷹の目はそう判断し、そうして好敵手はいなくなった。現在はその存在を認めつつも、剣士として対峙することはほぼない。

 

「かつて、取り逃した者がいた」

 ミホークは酒を含み楽しんだ後、思い出したように呟いた。その言葉は彼の口から零れていいものではなく、シャンクスは目を丸くして彼の顔を見る。その表情に不快を表したミホークは、今度は楽しそうに笑い出した相手に殺気を向けた。割と本気だった。

「悪い悪い、お前があんまりにもおもしろい冗談を言うからな。しかし鷹の目、冗談を言って笑うなとはどういう了見だ、ええ?」

「事実だ」

 酒を含む。うまいはずのそれが、何故か味が変わった気がした。

「世界最強の大剣豪が取り逃がす。そんなやつがこの世界に何人いるんだ? 仮にその何人かに当たったとしてもだ、そんな事実を俺が知らないのか?」

「無理はないだろう。これは辺境の、実に小さな村での出来事だ。政府もこの事件を秘密裏に処理し、歴史から抹消した。これを知る人間などそうはいまい」

 杯を置き、体勢を変えたシャンクスは少しだけ前のめりになった。無言で先を促す。

 

「西の海の小さな漁村だった。村人は百人もいない、互いに助け合って細々と暮らしていたと聞く」

 ミホークがそこに向かったのは王下七武海としての要請である。世界の趨勢になんの影響ももたないであろう小さな村、そこに彼が向かわざるを得なかったのは、何の偶然か、ある時魚の代わりに一つの果実が採れたのが原因だった。

「たった一つの悪魔の実。それが、ナガシ村を歴史から消した原因だ」

「能力者が生まれたのか。いや、不思議なことじゃない。希少だとされる悪魔の実は、それでも世界に数多く存在する。まるで能力者同士を鉢合わせたいかのように――――それで、何の実だったんだ?」

 シャンクスの問いに応える前に、ミホークは己を清めるように残っていた酒を飲み干した。視線でシャンクスにも空けさせ、新たに注ぎ合う。そして言った。

 

「トガトガの実」

「トガトガ? いったいどんな能力なんだ?」

 聞き覚えのない不可思議な名前。ミホークは酒を飲んだ。杯の中の自分は、いつになく真剣な目をしていた。

「咎人となり、それまでの善意が反転する。人は罪を犯すものだという固定観念の固まりとなり、その力は、他者の悪意を増幅させる」

 シャンクスの口が真一文字に結ばれた。体中から覇気が洩れ、そして静まる。

「それは……海軍が黙っちゃいない力だな」

 そして、おそらくは海賊も。

「実を食したのは幼子だった。無垢で、おそらくはまだ穢れも知らなかっただろう。先ほど、善意を反転させると言ったな。そんな善良な存在の全てが反転した。想像は容易だろう」

 何も知らない、およそ全てが自分のことを好きでいてくれて、悪い人間なんて一人もいないと信じていた頃が誰にでもあったはずだ。その時分に食べてしまったのは間違いなく悪魔の実、故にその子の世界は反転し、世界には悪しかいなくなった。

「あれの力に耐えられる覇気を持つ人間でしか討伐し得ない。故に俺がその任を受けたわけだ。しかし、殺すつもりでかかった俺は、結果として奴を取り逃がした」

「それがおかしいんだ。能力の詳細を知っていて、そして成功できる人間を送って、そして失敗した。いくらなんでも変だろう」

 シャンクスは一気に酒を喰らい、不機嫌そうに杯を置く。ライバルであったミホークの失敗談が予想外に楽しくなかった。そんなシャンクスに微笑したミホークは思い出す、あの時の惨劇を。

 

「俺が着いた時、無事だったのは二人だけだった。その一人ももう一人を庇って死に、糸が切れたようにもう一人も倒れた。そして、ソレは笑っていた」

 村人は皆、誰かと重なるように倒れて事切れていた。おそらくはトガトガの力、一対一で憎しみあったのだろう。結果、助け合って生きてきた村は、殺しあって壊滅した。

「すぐに斬った」

「当たり前だ、悲しい話だがな」

「だが、死ななかった。あれは俺では殺せなかった。トガトガの実の能力者は、悪意があっては殺せない」

 それこそがトガトガの実の真の力。最凶と云われる所以。

 

「悪意、だと……?」

「弱点を突くこと以外で能力者を打倒しうるのが覇気だ。しかしトガトガの実は違う。どんな攻撃も通るが、それでも死にはしない。悪意を持った攻撃は全てアレ自身だからだ」

「馬鹿な、それでは誰も殺せない。悪意なく殺す、なんてできるのか? それは慈悲か?」

「慈悲、確かにそれで殺せるだろう。だが少なくとも俺には無理だ。確かに哀れではある、だがそれ以上の感情もある。だからこそ政府は、アレ専用の兵器を作ることにした」

 不快だがな、とミホークは立ち上がる。もう去るようだった。

「鷹の目、兵器とは何だ?」

 シャンクスの問い、ミホークは振り返らずに告げた。

 

 

「身内に殺させるそうだ。トガトガの実の能力者――哀れな少女の姉を使ってな」

 

 

 

 



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ファーストレディ、醒める

 

 

 

「人間は正義がなければ生きていけない。それは正義というのが平和的に人生を送るためには必要不可欠であるからで、故に人間は平和を愛し秩序を好み、混沌を忌避し無秩序を憎む。正義を追い求める海軍は自分達の味方で、その対極を成す海賊は悪であり自分達の敵である」

 長くなった爪に鑢をかけ、塵になったそれを息で吹き飛ばす。出来栄えをつまらなそうに眺め、その先に見える景色をおぼろげに捉えた。

「正義とか、悪とか、そんな抽象的で脆弱な概念に拠り所を求めて行動しては物事を尽く都合のいいように解釈して呑み込んでいく。結局のところ、人間は自分にとって都合のいいことしか正義じゃないんだ」

「…………」

 不自然なほどに滑らかな岩に腰掛ける彼女の横に後ろ手で立つスーツ姿の青年はただ黙って聞いている。身長は高いが顔の造りはそこまで年輪を表していない。まだ二十にも至っていないようだった。

 少女の口は止まらない。粉になった自身が風に乗って空気に溶けていった。

 

「正義も悪も人間の利己的な判断で全て変わる。だからこそ人によって正義も悪も変わるの。でもさ、それってつまりはその人次第で世界が変わるってことでしょ? イリカはね、そんな変てこなものはいらないと思うんだ」

 さらりとまっすぐに伸びた髪が風に揺れる。額に大きな傷を持った青年は、絶えず形を変えて靡く栗色をただ見ていた。

「世界は綺麗だなんて戯言を言っていいのなら、イリカの見る世界がどんなに醜悪か力説しても、それを否定することはできないの。でもなんでかなぁ、イリカってばずっとずっとそれを否定され続けてきたの。会う人会う人にお前は間違っているとかもっと素直に見つめてみろとか言われてさ、でもおかしいよ。イリカはずっと素直に世界を見て、だからこそこんな汚物塗れの世界なんて嫌いなのにさ」

「……イリカが感じたことが全てだ。それを疑う奴らはイリカの前にいなくていい奴だったんだ」

 青年の同意に対しても興味を示さず、長い睫毛は若干伏せられ瞳は腰掛ける岩を見つめていた。凹凸のない完全な球体を地面に埋め込んだような岩、その冷たさが心地よい。

「ヒゼンってばおかしいこと言うのね。イリカが知ってる人は二人だけなのに、まるでいろんな人がイリカと会ったみたい」

 くすくすと笑う少女の言っていることは破綻している。しかし青年はそれを言わず、ただ沈黙で返した。これが最善の対処法だと知っていた。

 

 よっと掛け声一つ、岩から飛び降りた。踏みしめる地面にも何の凹凸はない。土は均したように平らで、その平坦さは異常であるが少女にとっては正常だった。彼女の歩く道はただ平らでしかないのである。

 そこかしこが赤くなっている地面の中、まるで道しるべのように自然な色をした茶色の道を少女は歩く。その後ろを一定の距離を保って青年は続いた。

「ああ、汚いなぁ。匂いもすごいし、ここにいるこトガ堪らなく好きになってきたよぉ」

「……何が、好きなんだ?」

「好き? 好きって何だっけ。スキップ?」

 跳ねるように軽やかに進む少女、青色のワンピースがひらひらと舞った。彼女の感情のようにふわふわと、しかし決して離れることはなく。

「ここにもいなかった。何が人口300人よー、一人もいなかったじゃない」

「そうだな、君の求める人間なんてここにはいなかった」

 夥しい300の屍の景色がまるで視界に入っていない少女はくるっとその場で一回転、ハイヒールの踵が地面にめり込む。僅かな土煙が起こり、それは一瞬で掻き消えた。

 

「ねぇヒゼン、そういえば思い出したわ。もう一人いた、イリカが会ったことあるの」

「そうか。どんな奴だった?」

「んーとね、すっごい髭で、すっごい目つきで、すっごい丸い人間」

「マーシャル・D・ティーチ?」

「そんな名前だったっけ? まぁ名前なんていっか。あの人はすっごくかっこよかったわ、人間という存在を煮詰めて凝縮して腐らせたような人だった」

 黒ひげと呼ばれる危険人物との邂逅を思い出し、少女は手を広げてバランスを取りながら歩く。新品のような服には鼻をつく匂いがまとわりついていた。

「彼の勧誘には興味がなさそうだったが」

 自分より一回りも小さい身長、少女の成長速度がおかしいことを青年――ヒゼンは気づいていた。それが力の代償であることも承知の上で、それでも少女を止めることはできなかった。

「勧誘? なんかおかしいのよあの人。イリカは全ての人の頼みを断らない、だからイリカは全ての人間の味方なの。それなのに仲間になれって変な話じゃない?」

 

「……イリカ、君がそういうつもりでも、他の人はそうじゃないんだ。君が思う以上に世界は君に厳しくなってしまった」

 ヒゼンは立ち止まった少女――イリカの前に立ち、その両肩に手を置いた。ゆっくりと引き寄せ、小さな体を抱きしめる。イリカはそれを不思議そうな顔で受け止めていた。

「世界中の誰もが君の命を狙っている。でも俺は、この先どんなことになっても君の傍に居続けるよ。それが俺の――君を守りきれなかった俺の咎だと思うから」

 抱きしめた腕に力が篭りすぎて、イリカは青年の胸で苦しそうにもがく。それにようやく気づき、ヒゼンはその腕を解き放った。

「もうヒゼンっ、私を殺す気なのっ?」

 頬を膨らませる少女にヒゼンは曖昧な笑みを返し、背を向けた。もうこの場所にはいられない。左右から怨嗟の声が聞こえてくる気がしてヒゼンは歩みを速めた。

 小鴨のように彼についてくるイリカは鼻歌を刻みながら上機嫌で、その空気がより一層彼の気持ちを強固にする。

「Dが付く名前、あいつはきっと危険な存在だ」

「何か言った、ヒゼン?」

「いや、何も――――イリカ、今度はどこに行きたい? ここは寒かったから暖かい島に行こうか?」

「んー、ヒゼンの行きたいところでいいよ。イリカが行きたい場所よりもヒゼンの行きたい場所のほうがお姉ちゃんがいそうなの」

 早く会いたいなー、と鉛色の空を見つめて呟く少女。青年は嘆息し、内ポケットに入れておいた永久指針を見て行き先を決める。三択である次の行き先、しかし彼にとってはそうではなかった。

 

「……決めたよ。じゃあ船に戻ろうか」

「次はどこかなー」

 イリカは今まで目的地を聞いてきたことはない。新鮮な感情を大事にしているから、という理由は遠い昔の少女のそれだ。もう理由が違っていても、結果的に行動が同じなら青年にとっては嬉しいことだ。

 ほんの少しだけ、幸せだった過去を思い出すことができるから。

「ヒゼン。イリカはね、ヒゼンが大嫌いなんだよ」

「そっか。俺はイリカが大好きだよ」

「殺したいくらい?」

「殺したいくらい」

「なら許してあげるっ。えへへ」

「イリカは、俺のこと殺したいか?」

「ううん、ヒゼンはイリカに殺されたがっているから殺してあげないっ」

「そっか」

「そうだよ」

「……そっか」

 いつの間にか手を繋ぎ、青年と少女は血塗られた島から消え去った。残ったのは血生臭い人間だったモノの塊と視界が陵辱されるような濃い空気の色だけ。

 冬島故に、腐敗の速度は遅い。だからこそ、これより一週間後にこの島を訪れた海賊が見た光景は、氷の中で鮮明に残り続けていた惨事そのものであった。

 

 

 “咎人”イリカ・レベッカ。懸賞金4億1600万ベリー、デッドオンリー。

 “導き”ヒゼン・ソーマ。懸賞金2億ベリー、アライブオンリー。

 

 探し物は見つからない。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 カタ・ナユタは久方ぶりに彼女の船に戻っていた。艦長室の椅子に身体を預け目を瞑り、静かに頭を整理していく。自分の中にある始まりの記憶と先ほど聞いた事実を照らし合わせると、驚くほど簡単に真実が浮かび上がった。とても滑稽で、酷刑な事実だ。

「私は死人、か」

 手のひらを見つめるとそこには確かに血色はある。しかし実質、彼女の出した結論ではそれはまやかしでしかない。

 覇気とは、生命力だ。彼女が食した悪魔の実がそれそのものだというのなら、確かに彼女は死人であってもおかしくはないのだろう。

「生命以外でも悪魔の実を食べられる、というのは事実だね。それなら生物だった私が食べることもまた可能」

 そこで、彼女の疑念は深まっていく。カタ・ナユタが死人で、悪魔の実を食べたことによって存命しているというのなら、今の自意識はいったい何なのだろうか、と。

 生前のカタ(本名不詳)がそのまま残っているのか、それとも悪魔の実に宿る生物の遺伝子の作り出した人格か。それとも、悪魔の実に宿る悪魔の意識なのか。

 

「ハキハキの実、モデル“海賊王”。いったいどういう経緯で生まれたのやら……」

 カタ・ナユタが生まれたのは滅び去った漁村、その場には夥しい死体の山と、カタを呼び起こす声だけが存在していた。あの声の主が悪魔なのか、それとも自分に実を食わせた人物なのか。それもわからない。

 ゆっくりと椅子を揺らしながらまどろむ。吐き気は不思議と落ち着いていた。彼女の帰還を知っているにも拘らず、しかし未だ些細な音すら届かないのはその異常を察しているからなのか。普段とは違う雰囲気はありがたくもあり迷惑でもあった。現状の異常を間接的に教えてくれている気がするから。

 

 ノックが響く。音の位置が低いのですぐにわかった。

「どうぞ」

「失礼します」

 入ってきたのはいつものハリー・キサヤ軍曹。表情には若干の固さが入っている。まるで初めて会った時のようだと思った。

「――それで?」

「……中佐、間もなく新しい島に着きます」

 差しさわりのない報告。おかしくて哂った。

「それで? そんな報告のために私の前に姿を見せたと、そう言いたいのかな?」

「はい」

 その即答に、たった二文字の言葉に、カタ・ナユタは全てを理解できてしまった。手のひらで目を覆い、背もたれに寄りかかる。軋む音が響いた。

「あのさぁ軍曹、私今ちょおっと不機嫌でね。言いたいことがあるなら言ってくれないかな? それとも私の八つ当たり相手にでもなってくれるの?」

「……それが命令であるなら」

「――ッ!」

 机を弾き飛ばし一直線にハリーに飛び掛る。上を取り両手で首を絞めた。肉の感触と温度を感じながら力を込めていく。

「…………」

「――――ッ」

 埃が舞う中でカタは鬼の形相で手に力を入れ続け、ハリーは何の抵抗もせずに表情を歪めていた。爪が食い込み血が流れていく。

「血が出てるねっ、ん、生きている証拠だよっ……」

「…………」

「気づいてなきゃいけなかったんだよ、今までもっ、変なことはたくさんあったのに……っ、ね」

 少しだけ力が抜けて、ハリーがむせるような呼吸をした。慌てて力を込めるが、それ以上入ってくれなかった。

「海楼石を使った後の記憶がないとか、どんなに吐いても血も出なければ栄養失調にも脱水症状にもならない。風邪だってひいたことない……」

「…………」

 ハリーは何も言わない。風邪を引かないのはあなたが馬鹿だからだ、そう言ってほしかった。

「身長だって伸びなかった。そりゃ伸びるべき年は越えていたけどさ、生理だって来なかったんだよっ。それが異常なんだってことすら気づかないでさ、いくらなんでもおかしいじゃないか……っ。トイレだって、行ったことすらなかったんだよ……?」

 カタ・ナユタは摂取した全てを口から逆流してしまう。それは彼女の身体がもう必要としていなかったからだ。ハキハキの実による生命力は彼女の行動力にのみ注がれ、それ以外の機能は全て停止したまま。排泄という当たり前の行為すら、彼女は必要としなかったのだ。

 

 ハリーは黙って聞いていた。ただ、苦しさが徐々に消えていくのは理解していた。目の前の顔がくしゃくしゃになっているのも理解していた。

「今だって泣こうとしているのに、そんな水分なんかない。身体が健康に見えるのは生命力が溢れているからで、生きている人みたいに成分が充実しているからじゃないんだよ……」

「前、泣いていたじゃ、ないですか……」

 ようやくハリーは口を開いた。その言葉にカタは首を振り、悲しそうに笑う。

「なんでかな、理解しちゃったんだよ。私は生きていないんだから、そんな機能はないんだよって、そう理解しちゃったから、もう出す方法がわからないんだ」

「出す方法、ですか……」

 ハリーはカタの瞳をまじまじと見つめ、そして言った。

 

「出す方法なんて知らなくていいでしょう? ――知ってますか中佐。今、泣いているってこと」

「え」

 一滴、頬に落ちた。それを契機として止め処なく、それは数を増やしていく。冷たくて、でも温かい涙だった。

「……な、んで……」

「あのですね、中佐。中佐は今“生きている”んですよ、涙なんて出るに決まってるじゃないですか」

「で、でも……わた、し……」

「血が出ないとかトイレに行ってないとか、そんなあほなことばっかり言ってるからあほなんですよ。いいじゃないですか、不必要な行為をしなくていいなんて羨ましい。排泄なんて煩わしいものをしなくて済むようになった、生理なんていう鬱陶しいものを気にする必要がなくなった。それだけでしょ」

 どいてください、とカタを押しやりハリーは立ち上がった。座り込んだカタは呆然と彼を見上げる。涙は止まっていない。

「涙なんて無理して出すもんじゃない。出す方法なんてたまねぎ切るだけで十分です。後は、自然に出てくるもんでしょう」

「あ、えと……」

「いってぇ、治療代請求しますからね。何で俺がこんなことに付き合わなきゃいけないんだ」

 首を擦り、手に付いた血を見て顔をしかめるハリー。カタはそれを見、しかし言葉は出てこなかった。

 

 あ、そうそう、とハリーは首を鳴らしながら言う。

「あんた頭良くないんだからそんな考えるもんじゃないよ。何者か知らないけど、俺にとっては迷惑な上官ってだけで十分だ」

 扉が閉まり、カタは一人残された。座り込んだまま呆然と青年が去った扉を見つめ続ける。不意に手を見ると彼の血が付いていて、

「鉄の味だ」

 なんとなく、これでいい気がした。

「あんた頭良くなんだから、かぁ……」

 少しだけ、悔しくて。

 

 彼女は、少しだけ笑った。

 

 

 

 

 そして、彼女と彼を乗せた艦はその島にたどり着く。麦わらの一味も上陸したその春の島には既にある二人がやってきていて、季節に合った桜吹雪を舞わせていた。

 不気味なほどに綺麗で、それ故に恐怖を呼び起こす。

 その花は、四年ぶりの再会を祝福していた。

 

 



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妖精の国のアリス

 

 

 

 突如、身体が急上昇した。

「うわっ!?」

「なんだぁ!?」

 それは見る見るうちに高くなりサウザンドサニー号の高度を凌駕する。開けた俯瞰風景は即座に島の大部分を知らしめるが、遥か彼方に見える螺旋を描くように削られた不思議な山が印象的過ぎて、そこに見えた違和感を忘れさせてしまった。

「よ、っと」

 モンキー・D・ルフィはようやっと着地し、しかしトランポリンのように再び飛び上がる。船の上で見守っていた残りのメンバーはそんな彼を見て口を開けていた。

 空中で一回転し、ルフィは甲板に戻る。着地した彼が顔を上げると、そこには輝いた目と大口が存在していた。

「何コレ、地面が跳ねてる?」

 ナミが大地を見下ろして呟く。ゾロ、チョッパー、ウソップが続々と飛び降りては弾んで中空に消えていく。ロビンはそれを見て、やはり同様の結論に至ったようだ。

「地面の中に空気が入っていて、それで跳んでしまうのね。これは慣れるのに時間がかかりそう」

「また変な島、と言いたいけど。感覚的には空島みたいね」

 空島スカイピア、彼らが経験した空に浮かぶ島と似たような印象を受ける。あの時は一面が雲の海で、異なるのはそこでは下に突き抜けてしまうことがあることくらいか。

「ナミさん、ロビンちゃん。どうする? あいつらはもうどうしようもねぇが」

 サンジが眺める中、ルフィを加えた四人は跳ね回り続けている。フランキーは自分の重量が心配なのか、まだ様子見のようだ。

「偵察はあいつらに任せましょう、そのほうがいいわ。楽しそうだけど、それ以上に不気味だし」

「私は行くわ」

 ロビンはリュック片手に飛び降りて合流、ここに偵察班と見張り班に分かたれた。

 

 

 ぶよんぶよんと跳ねては体勢を入れ替え進んでいく。茶色の地面は固そうでいて、実質とても柔らかい。まるで生物の腹の上のようだ。

「さて、どうする?」

「とりあえず町だろ、誰か住んでいるんじゃねぇか?」

 胡坐をかいて跳ねるゾロが尋ね、逆さになったウソップが答える。

「俺はとりあえずあのでっけぇ木を目指すぞ!」

「おれもー」

 ルフィとチョッパーは弾みながら見える大樹を目指すようだ。ロビンは興奮しているチョッパーを微笑ましく見守ると共に思いを馳せる。

「気候が安定しているのが幸いね、こんな状態で悪天候ならどんな影響を受けるかわからないもの」

 雨や雷が起こった時、この地面がどうなるのかはわからない。そういった意味では最初に晴天で、弾む地面を体験できたことはよかったはずである。

 

 それぞれが様々なことを考えながら進むとやがて大きな林が見えた。枝に頭を打ち付けないように器用に(ウソップは数度打っていた)進んでいくと木々の世界が消え、今度は夢のような花畑へと到達する。

「あら」

「ほう」

「すっげぇええええ!」

 色鮮やかな花畑、春の心地よい空気と相まって別世界のようだ。段々と下がっていく花畑、その向こうには人工物と思われる建物群が見える。間違いなく人は住んでいる。彼らが景色に息を呑む中、

「詩……?」

 左方に見えるやや丈の長い植物の向こうから詩が聞こえてきた。少女のものと思しき高い声質の綺麗な歌。メロディーは美しく、しかし詩のほうはどこか物悲しい。誘われるままに弾んで進むと、やがて、背に羽をつけた少女がくるくると踊っていた。

「んー?」

 少女の瞳がルフィらを捉える。刹那――

「――ッ!?」

「おいルフィ!?」

 振り上げた拳と刀にかかった手が同時にその動きを止めた。強引に行為をやめ、顔を歪ませる。着地すると数度弾み、やがて静止した。

「何やってるんだよ二人とも!」

「あ、ああ、悪い」

「…………」

 チョッパーに諭されルフィは謝り、ゾロも無言でいた。そんな二人に訝しげな表情を向けるロビン。そして、にこにこと笑う少女。

「あら、見ない人。ここの島の人?」

 栗色のウェーブのかかった髪を肩口まで伸ばした15歳くらいの少女。ロビンが抱く第一印象は、無。

「いや、違うよ。俺達はさっき来たばっかなんだ」

「トナカイがしゃべってる……不思議なこともあるのね」

 目を瞬かせる少女とその言葉に感激しているチョッパー。彼を人目でトナカイと察した人間は少なかった。

「島の人、と聞くということは、あなたは島の人間じゃないのね」

「そうよ、二日くらい前かなぁ」

 そう言って回る少女。時折弾んでいる少女だが、しかし驚くほどに高度は低く通常の跳躍と同じだ。どういった仕掛けなのだろうか。

「なぁ、ここはなんて島なんだ?」

 ルフィが尋ねると少女は、んー、と考え、思い出したように手を叩いた。

「妖精の国フェアリーウォーク、だったかな? 地面が不思議でまるで妖精のように歩くから、だったっけ」

「フェアリーウォーク……」

 ロビンは心当たりがあるのか、頤に手を添えて考え込む。彼女を置き去りにして会話は進んだ。

「俺はルフィだ、よろしくな」

「おれチョッパー」

「ルビーに、ちょ……チョウダー?」

「違う、ルフィだ」

「チョッパーだっ」

「人の名前ってなんだか覚えづらくて……えっと、わろしく」

 わろしく、という言葉に首を傾げる二人。ゾロがようやっと口を開いた。

 

「それで、お前はいったい誰なんだ」

 ん? と自身を指で指す少女に頷く。少女が答えようと口を開く。

「戻った」

 寸前で、少女の横にスーツを着た青年が現れた。一瞬の出現に五人が驚く。少女はぱぁ、と満面の笑みを浮かべて青年に向き直った。

「おっそいよぉヒゼン! イリカがどんだけ待ったと思ってるのっ!」

「すまない……それで――――――――え」

 青年は少女の近くにいた五人を認め、驚きに目を見開いた。そこには信じがたいものを見たという感情があふれ出ていた。

「ん、なんだ、どうした?」

 ウソップが何かを求めるように順番に顔を眺める。少女を除いた六人は一様に笑みが消えていて、ルフィも背筋を伸ばして青年を見つめている。

「モンキー・D・ルフィ、なんで……」

「俺を知ってるのか」

「…………ああ、そこそこにはな。イリカ、この人たちは?」

「んー、さっき会ったのよ。ねぇヒゼン、イリカは名乗ってもいいの?」

 一人称が名前である時点で気づく者はいる、仕方がないと首を振り、いいよと告げた。

「イリカはイリカだよ」

「そっか、よろしくなイリカ。それで」

「ヒゼン・ソーマ」

 青年は彼らから視線を外さず、厳しい目で見つめている。イリカと名乗った少女は嬉しそうにからからと笑い、チョッパーも楽しそうに笑っていた。ゾロとルフィは青年を視界から外さない。

 

「ヒゼン?」

 イリカが見上げ、ヒゼンは目を閉じた。暫しの後、開く。

「麦わらの一味、今すぐここから消えろ」

「嫌だ」

「即答かよ!?」

 ウソップは突っ込んだ。

「この島に長居してもいいことはない、すぐに次の島に行くといい。幸いログが溜まるのは半日と破格だ」

「なんで俺がお前に指図されなきゃいけねぇんだ?」

「血を見ることになる。いや、見ることはできないかもしれない」

「俺はこの不思議島を探検するんだ。出ていかねぇ」

「……なら仕方ない。俺が――」

 臨戦態勢を如実に感じ取り、ルフィとゾロ、そしてロビンは警戒心を一気に高める。感覚は青年を強者と認めるとともに、今まで分散していた意識を彼一人に注ぐことに繋がった。が……

 

 

 ――――ヒ ゼ ン?

 

 

 咄嗟に、ヒゼンは言いかけた言葉を飲み込んだ。自分にまとわりつく異常な気配に全身から汗が噴き出る。原因はわかっている、隣に居る、唯一無二の存在。無垢な、少女。

「イリ、カ……」

「ヒゼンったら良い子なんだからぁ。いいじゃない、勝手にさせれば」

 イリカはにこにこと笑いながらヒゼンを見上げる。その身体からは血のような粘度を誇るナニカが吹き出ていた。

「……お前、何だ?」

 ルフィは麦わら帽子を押さえ、簡潔に言う。臨戦態勢は崩さず、ルフィは刃のような視線を向けていた。その問いに果たしてイリカは首を傾げる。柳に風、少女は何も感じない。

「またね、ルヒー。イリカのお姉ちゃんを見つけたら教えてね」

「……残念だけど、ここまでだ。麦わらのルフィ、もう二度と会わないことを祈るよ――――あぁ本当に、俺は君たちと関わりたくはなかったのに」

 踵を返す。二人は地面の影響をものともせず、ゆっくりと歩いて消えていく。繋いだ手は離れず、しかしどこか、その絵には不自然さを感じずにはいられなかった。

 

「……何だったんだ?」

 ウソップは呆然と呟き、そして手を見やる。吹き出た汗にようやっと気づいた。動悸も酷い。まるで急激な運動をした直後のようだ。

「おいルフィ、どうするんだ? あいつらは早くこの島を出て行けって言うけどよ」

「やめとけウソップ、ルフィが人の言うことを聞くわけがねぇ。とはいえ、あいつらのことは気になる」

 ゾロは三本の刀の内の一つ『三代鬼徹』を手に取った。刀の呼吸が感じられる。その刀は歓喜に震えるかのように確かな息吹を感じさせた。

「……ルフィ」

「チョッパー、気にすんな。とにかく行くぞ」

 心配そうなチョッパーの視線を断ち切りルフィは行動を開始した。相変わらず跳ね続ける身体、まるで地面に嫌われているかのようだ。

「どうして、イリカたちは普通に歩けたんだろう」

 チョッパーの疑問を解ける者はここにはいなかった。

「…………」

「ロビン? どうしたんだ?」

「……いえ、ただあの二人の名前、どこかで聞いたことがあるような……」

「手配書じゃないのか?」

 ゾロが言う。ロビンは先を促した。

「あいつらは強い、そう肌で感じ取れた。腕が鳴る」

 壮絶な笑みを浮かべるゾロは獣を体現している。ロビンはそれに溜息を漏らし、ウソップは若干引いていた。

「ま、まぁとりあえずは大丈夫じゃねぇかな? 男はともかく女の子のほうは襲ってこないだろ」

「違うぞウソップ」

「ん?」

 スーパーボールのように曲線を描く五人、その先頭に立つルフィは帽子が飛ばされないように抑えながら、鋭くなった目つきを隠さずにいた。

 

「やばいのはあのちっこいほうだ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ところで、イリカ、その背中の羽はどうした」

 思い出したかのようにヒゼンは口を開き、ようやっとそこに触れたかと言った風に顔を綻ばせたイリカは背中を見せ付けた。

「んー、えへへ、似合う?」

「似合うよ。それで、どうしたんだ?」

「お花畑を飛んでた小さい動物が持ってたの。欲しかったから殺しちゃった」

 それは小さいと形容してはならない動物だったが、彼女にとってはその程度の認識でしかなかった。既に記憶の中にはそんな漠然としたイメージしか残っていない。ヒゼンは嘆息した。

「そうか。今度からは俺に言ってくれ。服が汚れるのはよくない」

「あ、それもそっか。わかったよ、ヒゼン」

 とりあえず、とハンカチで羽の根元を拭う。真っ赤な血はもう乾いていて取りづらい。若干の妥協をして元に戻し、そしてヒゼンは本題を口にした。

 

「イリカ、あの人たちには近づくな」

「えー、ヒゼンってばイリカに我慢ばっかりさせすぎだよっ。この間だって……この間って何だっけ?」

 ん、と自分の発言の源を探ろうと思考するイリカ。その小さな頭を優しく撫でた。

「この間っていうのは、海軍のことだね。俺達は狙われているから、イリカを危険に晒すわけにはいかないんだ」

「ヒゼンも頑固よね、海軍なんてどうでもいいものを気にしてイリカを拘束するんだもの。人間はみんな平等、平等に無価値で有害で無益で災厄で無関係で無駄なのに」

 困っちゃうわ、とイリカは頬を膨らませてそっぽを向いた。そんな少女に苦笑しつつヒゼンは思いを巡らせる。

 彼にとって先の邂逅は間違いなく予定外で、それ故に今まで以上に慎重にならなければならなかった。麦わら海賊団、東の海出身の船長“麦わら”のルフィを頂点にする異質なグループである。

 何が異常であるか、それをヒゼンは他者に話すつもりはない。そして彼自身、それを明確に言葉にすることはできなかった。ただ一つ、確定していることとすれば。

「彼らは希望、消えることのない光」

「ヒゼン?」

「なんでもないよ、イリカ。君は君のままでいい、俺がそれを許すよ。だから君も、俺が許すことを許して欲しい」

「い・や・よっ」

 イリカは笑った。ヒゼンは笑えなかった。

 

「それよりもヒゼン、あの人たちは不思議だったね。イリカのことを変に言わなかったよ」

 スキップしながらイリカは言う。後姿しか見えないためにヒゼンには表情がわからないが、どこか楽しそうでおかしそうだ。

「それはねイリカ、イリカのことをよく知らないからだよ。あと少し、あと一分でも同じところで顔を合わせていたらきっと狂っていただろう」

 それだけイリカ・レベッカの力は強大だ。彼女の無意識の力ですら、一般人を発狂させるには十分すぎる。おそらくは、一般人よりも修羅場を経験した海賊でも、その時間がリミットであるだろう。

「じゃあヒゼンは? ヒゼンはずっとイリカと一緒だけど、イリカのことを悪く言わないよね」

「……イリカ、俺が君を憎んだり恨んだりすることは正常なんだ。だからそれを成せない俺は、既に狂っているんだよ。自覚のある狂気なんて、そんなでたらめなことありえないって言うのにね」

「――へぇ」

 刹那、イリカの身体が大きくなった気がしてヒゼンは目を細めた。それは間違いで、間違いではない。イリカ自身の身長は変わらない、しかし少女の放つ異質な気配はその何倍にも強くなっていた。

 周囲の花が一瞬で枯れつくし、その色が悲しみに満ちていく。ぞっとするそれに、しかしヒゼンは表情一つ変えなかった。

「じゃあイリカがヒゼンに向かって使ったら、ヒゼンはどうなるのかな? 死ぬのかな、生きるのかな、消えるのかな」

 ゆっくりと手を伸ばすイリカ、それに合わせるように膝を着いたヒゼン。少女の手が青年の首に噛み付いた。猛禽類のような瞳が青年の首を注視し、流れる血液を見つめて舌なめずりした。それでも、ヒゼンは何も変わらなかった。

 

「……失敗しちゃった。ヒゼンは殺されたがっていたのに、こんなことしたらダメだよね」

「残念、また死にぞこなったな」

 口を尖らせるイリカに立ち上がるヒゼン。青年はそして、決意するように言い放った。

「イリカの力は俺には効かないよ。いや、効いてはいても意味を成さないのかな。だからこそ俺は、君の傍に居られるんだ」

「あーあ、ヒゼンの変なところ見たかったのになぁ。でもいっかぁ、これからお姉ちゃんに会うんだし」

 軽やかに進むイリカ、ヒゼンはそれを見届ける。たとえどんなことになっても、ヒゼンがイリカから離れることはない。

「お姉ちゃん、か…………もう会うことはないんだよ、イリカ。リタ姉はもう、この世にはいないんだから」

 ヒゼンの声は風にかき消されイリカには届かない。しかし仮に届いたとしても結果は同じだろう。その真意は伝わらないのだから。

 

「あ、ヒゼン」

 思い出したかのようにイリカは振り返り、問うた。ヒゼンは何がしかを言った後に頷く。イリカは笑った。

「楽しみだなぁ、お姉ちゃんいるかなぁ。イリカのこと覚えてるかなぁ?」

「…………」

「きっと覚えているよね? 無事に会うこトガ、お姉ちゃんとの約束なんだから」

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 二時間後。

 

 

「ほい、妖精ブタの串焼きだよ」

 屋台で売られていた食欲をそそるそれを買ったルフィは嬉しそうに頬張りつつ、その他の人員が話を聞いていた。

 フェアリーウォーク唯一の街『ピスタリオン』、周囲を木々に囲まれた小規模の町であるが、島に住むほぼ全ての生物が集結しているために活気は凄まじい。聞いた限りでは、残る名所は螺旋の大山『スパイラルガーディアン』だけであるという。そしてその大山も、特にコレといって見るものはないようだった。螺旋の大山に繋がる一本道、その果てにあるのがピスタリオンであるために、両者の間にある広大な自然こそが生物の憩の場になっているようだ。

「ちなみに妖精ブタって普通のブタとどう違うんだ?」

「羽が生えてるんだ、妖精みたいな蝶のようなね。この島で生まれたものは皆羽を持っていてね、それ故にフェアリーと名づけられた、なんて説もあるよ。ちなみに、ブタとは言っても本物のブタじゃあない。ブタの形をした植物の種なんだ」

 ちなみに屋台の親父には羽はない。たまたま流れ着き、永住が決定したとのことだ。

 

「この島は全ての生物を受け入れる、それがたとえ凶悪犯であってもね。人間は誰もが美しい心を持っている。真心を持って接すれば、どんな人間も優しくなれるものなんだよ」

「随分甘いんだな」

 カツを咀嚼しながらゾロが言う。その物騒な言葉にも親父は笑って対応した。

「それがここの流儀だ。まぁ仮に君たちのように腕っ節の強い奴らが暴れてもここでは勝てないし、本当に危険な存在は私達のように跳ねることはないんだ」

「それ、どういう意味だ?」

「トナカイ君、君は移動するときに高く高く弾んでいただろう? あれはこの島が、ひいてはスパイラルガーディアンが君を危機なしと判断したからなんだ。万が一、この島に害をなすものがやってきた場合、その人物は島に嫌われて弾むことはない。つまりは、この島でも平然としていられる奴は危ないってことなのさ」

「え、それって……」

 チョッパーが何かを言いかけたとき、街に歓声が沸き起こった。驚いて振り向くと、そこには羽を背負った三人の屈強な男たちがいた。揃いの服装はまるで教会の神父のように真っ黒なものである。

「あれはこの島で騒動が起きた時に解決してくれるスパイラルガーディアンの管理者様だ」

 親父が言う。大山の世話をしている人物こそが調停者であり、武力行使を唯一許された人物であるという。尤も、その力はよほどのことがない限り発揮することはないそうだ。

「でもおかしいな。今は賑やかではあるけど争いはないし、何をしに来られたのだろうか」

 首を傾げる親父の前でカツを頬張る麦わらの一味。そして周囲の注視を受けて賑わいの中心にやってきた三人の管理者は――

 

「今すぐここから逃げなさい」

「早く、ハヤクシナイト……」

 

「――っ!?」

「お、おいチョッパー!?」

 ウソップの声を聞かずにチョッパーは飛び出し三人に駆け寄った。そのままの勢いで飛び掛り押し倒す。突然の暴挙に悲鳴が上がるが、それよりも大きい声が彼から放たれた。

「動くなぁっ!」

 絶叫に停止する人波、それを確認したチョッパーは立ち上がり、静かに言い放った。

「致命傷を負ってる、もう助からない」

 歯軋りが聞こえ、全員がチョッパーを見た。救えない命に直面し、医師としての力不足を呪っているのだろう。そんな彼の元には、いつしか仲間が集っていた。

「ここは争いなんてそうそう起こらないんじゃなかったか?」

「言ってやるな。だが問題は誰がこれをやったかってことだろ?」

「胸に刺された痕が残っているわね、死因はそれ?」

「うん、三人ともそうだ。斜めから入った槍みたいなもので心臓を一突き。時間はそこまで経ってないけど、どうしてここまで生きられたのか不思議だ」

 

「……チョッパー、ここは任せた」

 ルフィが指を鳴らし、前方を睨む。人の壁を越えた先にはスパイラルガーディアンに続く長い長い道があった。上り坂になっているために先は見えない、だがルフィはそこに確かな存在を視認していた。

「チョッパー、ここはお前が指示を出せ。いいな」

 ゾロも船長に追従するように前に出る。チョッパーは頷き、ウソップは慌てていた。

「私は船に戻って事情を説明してくるわ。あとはお願い」

「ちょ、待てよ! 俺を置いていくなよ!」

「ウソップ手伝ってくれ、俺一人じゃ運べない」

 

 

 極端な話、今回の騒動に麦わらの一味が関わらなければならない要素はなかった。訪れた街でたまたま目の前で人が死んだ。ただそれだけである。

 まだ島に愛着を持つほどに時間も経過していない。海賊である彼らが行動を起こす理由は全くない。

 

 しかし、モンキー・D・ルフィは駆け出した。それがどんな理由からなのかは彼にしかわからない。だが間違いないのは、彼の進んだ先には、残しておけば後々厄介になるだろう存在がいるということだけである。

 王になる資質の持ち主ゆえの危機察知能力の恩恵か、『麦わら』と『咎人』は、これより一時間もかからずに再会することになる。

 

 

 

 ――――そして。

 妖精の国の演劇が始まる。

 

 

「懐かしい空気の匂いがするよ、ハリー。この島は初めてだって言うのにね」

「寝ぼけてるんですね、中佐」

「…………」

 

 

 



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BTTFは見ていない

 

 

 

 モンキー・D・ルフィが走り出す二時間前、スパイラルガーディアンへの道を歩んだ二人の人物は、しかし少女のわがままによって二手に分かれることになった。

「……イリカ、あまり一人になるのは歓迎しない」

「うるさいなぁ、いいじゃない。イリカってばいくつなのよぉ」

 ヒゼンは黙る。身体的な年齢を言えばいいのか、それとも精神的なことを言えばいいのか。

 身体の面で言えばイリカ・レベッカは確かに16歳で、精神の面で言えば彼女は4歳の赤ん坊でしかない。それもしかし、不幸中の幸いなのかとある事象によって4年前よりは格段に発達しているのだが、青年にとって心配の種であるのは変わりがなかった。

「イリカ、でもね」

「ヒゼンも少しはイリカ離れの練習をするべきなのよっ」

「…………」

 腰に手を当てて唇を尖らせる少女の真っ赤になった顔を見てヒゼンは溜息を吐く。最早平行線は変わらない、ならば折れて交わる役割は彼しかいない。

 すぐ戻ると告げてヒゼンは掻き消えた。それを数秒待ち青年が帰ってこないことを確認したイリカは空を見上げる。真っ赤な青空、とても澄んでいて気分が悪い。

「あーあ、これからどうしようかなぁ」

 先ほど青年を去らせたわがままを忘れたイリカはゆっくりと歩いていく。歩行は淀みなく、澱みしかない。妖精の島に嫌われた少女はそのまま長い坂道を上り始めた。思考と並行して行われる歩行、それがゆっくりなのは当然であり、また子どもである少女がこのなだらかで長い山道を登りきることが不可能なのもまた当然だ。すぐに疲れ、または飽いて止まるのは必然。しかしそれ以上に、

「んー?」

 その坂は彼女を拒絶するように傾斜を高くしていく。普段どおりで十分なのにも関わらず、それ以上の苦痛を与えるかのように。既に地平線とほぼ直角になるまでに角度を変えた大地はある種絶景だろう。

 しかし、哀しいかな。

 

 少女は何の問題もないように足をつけて佇んでいた。

 歩みは止まった。しかし拒絶は意味を成さない。

 

 嗤った。少女の目的が生まれてしまった。

 壁を歩く、歩く、歩く。視界にないスパイラルガーディアンが鳴動し、坂は既に直角を越えて天井のようになっている。それでも少女の進行は変わらない。が、その表情は変化を見せていた。不満顔である。

「前が見えない景色が見えない、一寸先は闇のよう……なんてつまらないんだろう」

 ついに足が止まった。蹲り、ひざを抱える。腰を落として両足をぱたぱたと振り上げた。

「まるで人生ねー、最後には自分に全て返ってくることを教えてくれているのかも。進んだはずなのにその道はカーブを描いて、いつの間にか逆戻り。進化と遡行、相反する要素を体現するかのよう」

 顔を伏せ、足を止めた。その現実にスパイラルガーディアンは再び鳴動する。外敵を排したことを喜んでいる。

 

 

 ――ホントウニ、ナンデセカイハコンナニモミニクイ。

 

 

 それが間違いだったことを、知ることになる。 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 しかしどうかね、この島の穏やかさといったらないよ。グランドラインに数多ある島の中でもトップクラスに穏やかだ。露店もおいしいし。

「どうせ吐くんだから食わなきゃいいのに」

「うっさいよ軍曹、私は味覚を楽しんでいるのっ。これは口の中及び食道を越えるまでの嗜好なんだよっ」

 味と食感と喉越しと。これで詩を一つ作れる気がする。妖精焼きそばはどこがどう妖精でどこら辺が普通のものと違うのか欠片もわからないがおいしいのでいいのだろう。うん、だってぶっちゃけこれがゲテモノでも変わらない、どうせ吐くのだ。

「なんか達観してきたなぁ、おばあちゃんみたいで嫌だなぁ」

「ご冗談を、既におば――――なんでもありません」

「最後まで言い切りなよ途中で切って顔逸らさないでよ! まるで私が本当におばあちゃんみたいじゃないかっ!?」

 周りにはたくさんの人がいるのに、これで私がなんか可哀想な視線を受ける破目になったらどうしてくれる! もしくは悲しそうに目を逸らされたら――

「あ、逸らさないでぇ!?」

 言った傍からぁ!?

「もうわかっているんですよ、中佐が若作りなんだと」

 こいつ、こないだいいこと言ったはずなのにまるで態度が変わりやがらない。それがありがたいことなのかそうでないのかわからない。いやありがたいんだけど、でも癪だよね。

 

 現在フェアリーウォーク唯一の都市ピスタリオンにて休憩中です。お供はハリーのみ、私としても気楽なのでいいことである。

 とはいえこいつの自分保護者です的な振る舞いには一言申したいところだ。上司は私、中佐な私、艦長イズ私。彼は軍曹で部下で掃除人なのである。その証拠に彼の腰には今も雑巾が見えている!

「おい雑巾」

「張り倒すぞ」

「ごめんなさ――ぶろぉ!?」

「謝るなら早くしてくださいよ手が動いちゃったじゃないですか」

 こいつ、やっぱり苦手で嫌いだ。

「苦手といえば、中佐は苦手な食べ物ないんですか?」

「独白に切りこむだなんてさすが剣士、死ねばいいのに。苦手はそうだね、食べ物じゃないけどよくお弁当に入ってる緑の奴。なんて言うか知ってる?」

 私は知らないのだが、ここは答えを求めて知ったかぶってやろうと思う。これは断じて嘘ではないのだ。

「バランですか?」

「お、よく知ってたね。褒めてあげようえらいえらい」

「ああ、すいませんバレンでした。で、何が偉いんです?」

「…………」

 こいつのにやにやした顔をめちゃくちゃにしてやりたいと思った私を誰が責められようか。

「それで、何で苦手なんです?」

「……ほら、剣山みたいじゃないか」

「その理由だと他にもやばそうなものがありそうですけど」

 イグザクトリィ。ちなみに他に苦手なものは櫛とかです。だから私はいつも手櫛で髪を梳いているのだ。

 

「それにしても、ここは人口どれくらいなんだ?」

「そんなに多くないはずですよ。やっぱりここが一番栄えていますからね、逆に言えばここ以外は閑散としているかと」

 なんだか次第に人が多くなってきている気がする。時刻がやがてお昼時だということだからか。しかしこう、人混みってなるとちょおっとまずいよね。

「ハリー、吐いていい?」

「いいですよ。ただし頭上に吐いて、落ちてきたものは飲み込んでください」

「そこは“私専用”で妥協させて」

「……まぁいいか」

 このエチケット袋があれば人に迷惑をかけることはそうない、はずだ。鬼畜な要求の軍曹は後でしっかり絞めておくとして今は余裕のあるうちに戻しておこう。

「さむわんわんわん、さむわんわんわん……」

「恐ろしいほどに奇妙な音を出すな」

「やだなぁ軍曹まだだよう、少しでも気分を軽くしようと歌をだね」

「へぇ、聞いたことないですね」

「だろう? これは昔弟に――」

 

 ……………………………………弟?

 

「……中佐、弟いたんですか?」

 ハリーが真面目な表情で問うてくる。私だっていきなり零れた衝撃の事実をうまく呑みこめていないのに、なんだって君がそんな顔をするんだよ……

「…………そうそう、弟がいたんだよ。確か――ナユタって言ったかなぁ」

 そうだ、確か死んだ妹の描いた絵には血で見えない二つの名前のほかに、はっきりと“ナユタ”と書かれていた。その名を今は借り受けているわけだけども、そうか。私は弟に歌を教えてもらったんだった。

 

 でも、なんだろうこの違和感。確かに弟に教えてもらったはずだけど、でも、それはそんな名前じゃなかったような――

 

 

「そ、んな…………」

 

 

 ふと、喧騒に置いていかれそうな小さな声が響いた。ハリーから目を外し、声のほうに振り向く。真っ黒なスーツ、濡れたカラスの羽のような黒髪、額には大きな刀傷がある童顔。軽く見上げるほどの長身の青年は、幽霊でも見たかのような呆然とした表情で私を見つめていた。

「君は……?」

「あ…………」

 首を傾げる私にはっとして、青年は首を振った。目を閉じた彼は諦めのような悲しそうな顔を隠せなかったようだ。流石にそんな顔をされると、正義の海軍たるもの見逃しておけないのです。

「どうかしたのかな?」

「――いえ、ただあなたが知り合いに似ていただけです」

 あなた、と私を呼ぶ。彼は私が外見よりも大人なことをわかっているようだった。それは嬉しくもあり、自分の外見が年齢不相応だという自覚があるんだという悲しい現実をも教えてくれた。

「…………」

「そんなへこんでいないで対応してくださいよ中佐」

「……海軍、か。そうだな、格好を見ればすぐわかるのに、俺も大概馬鹿だ」

 青年は納得したのか呆れたのか、礼をして踵を返した。その後姿が妙に物悲しそうでなんだか心が痛む。心臓が痛いわけじゃないのが現実の厳しさってやつかな。

 

「君、いいかな!」

 だから呼び止めた。その雰囲気は、空気は、やっぱり人として放っておけないのだ。

 青年は足だけを止めて、振り返らなかった。彼と私の間には不思議と人が通らない。動き続ける背景たちはモノクロになり、色があるのが私達だけのようだった。

「私達はしばらくここにいるから何かあったら頼りなさいっ! 子どもなんだからっ、お姉さんには頼るものよっ!」

 青年が――少年が少しだけ震えた気がした。やがてゆっくりと振り返る。泣きそうな顔をしていた。

 心が痛かった。

「――ありがとう、ございます。できるだけ早く、ここからいなくなってください」

 きっと、もう会うことはないと思った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 可能な限り早く、ここを出て行かなければならない。ヒゼンはイリカのわがまますら放り出して懸命に足を動かした。

 身体能力は決して高くない、むしろ最底辺に位置する彼は、それでも持ちうる最速でスパイラルガーディアンを上っていく。上に向かう道は彼にとって苦ではない。

 だからこそ常識を遥かに超えた速度で頂上に上り詰めた彼は、そこで楽しそうに遊んでいた少女を視界に捉える。案の定と言うべきか、少女の服には新たな色彩が入っていた。

「…………」

 ヒゼンの傍を虚ろな瞳で過ぎていく三人の男。もう手遅れである。

「あ、ヒゼンおっそい! 待ってたんだからぁ!」

 花が咲いたような笑顔で走り寄ってくるイリカの頭を撫でたヒゼンは、ねだり物を求めるイリカを無視して告げる。

「――イリカ、もうここを出よう」

「…………」

「ここにはリタ姉はいないから、次の島に行こう。きっと次の島にはいるはずだから」

「ヒゼン、変」

 そんなことは青年にもわかっている。しかしだからといって態度を変えられるほどの余裕など持ち合わせてはいなかった。両肩に手を置き、目線を合わせる。純粋悪の瞳が青年の顔をまっすぐに見つめた。

「ヒゼン、変よ。おかしいわ。おかしいおかしいおかしいおかしいおかしい……」

 

「――だから、詩を歌おう」

 

「――――」

 その提案は少女には予想外のもので、故に少女は呼吸を止めた。イリカを説得するようにヒゼンは続ける。

「詩を、この島の天辺で詩を歌おう。歌い終わったらこの島を出る。いいかな?」

「――ヒゼン、やっぱり変。歌っていいなんて一度も言ったことなかったのに」

「この島を早く出たくなったんだ。でも俺のわがままで君を連れて行けない。だから歌うんだ。歌い終わればそれで君も納得するだろう?」

 

 

 

 ***

 

 

 

 真摯な願いが届いたなんて都合のいい夢物語を信じるつもりはない。しかし結果的にイリカは了承し、ヒゼンはそれを神に感謝した。

 そして同時に神を恨む。イリカが歌うまでの時間を、きっと彼らは許してはくれない。歌い始めるまでの時間は疎らで、最短で一時間。規則性はないのできっと彼ら次第だろう。彼ら――麦わらのルフィとその仲間。Dの意志。

「…………」

 彼らがこの島に来たこと、あの女性海軍がこの島に来たこと。それが同時期であったことは、全てが偶然とは思えない。きっとそう決められていたのだろうと思う。

 そして、これから始まる惨劇を見て見ぬ振りができないことも知っている。

「でも俺は、イリカを守るって決めたから。どんな罪を背負っても、どんな報いを受けてもいい。それだけは絶対に譲れないんだ……………………俺は間違ってるかな、リタ姉」

 きっと、頬をぶたれるなぁ。

 螺旋と麓の中間で木に背を預けたヒゼンは笑った。今ならぶたれても嬉しいと、おかしな考えをし続けた。

 

 

 

「――時間だ」

 遠くから聞こえる物音は段々と大きくなっていく。ヒゼンはゆっくりと山道の真ん中に立ち、待った。やがて土煙とともに走り寄ってくる一人の人物。それはヒゼンを認め両足で急ブレーキ、立ち止まった。

「お前」

「もう二度と会いたくないって言わなかったか? 麦わらのルフィ」

「さぁ、忘れた」

「それで、お前この先に何の用だ?」

 びりびりとした威圧感が襲ってくる。麦わら帽子を押さえこちらを睥睨する彼は間違いなく海賊だ。ヒゼンが殺したあの海賊に勝るとも劣らない覇気、正直逃げ出したいくらいだった。

「お前、あのおっさんたちにナニカしたか?」

 おっさん、とは先ほどすれ違った彼らだろうか。おそらくはイリカが遊んだ相手、それが彼の逆鱗だったのだろうか。

「してないって言ったら、またはしたよって言ったら、お前はどうするんだ? 麦わら」

「してないならそこをどけ。したんならぶっ飛ばす」

 肩を回すルフィにヒゼンは冷や汗を隠せない。もともと小心者だ、彼のような時代の寵児を押し止められるほど強くはないのだ。ヒゼンは両手で宥めるかのような仕草をした後、軽薄な笑みを浮かべて言った。

「確かに俺はやってないが、まぁやったとも言える。でも待つといい、君一人じゃあここから先には行けないよ。お仲間を待ったほうがいい」

「なんでだ?」

「ここから先は迷路、君一人じゃ行けないんだよ」

「だから、なんでだ?」

 右腕を引き絞り、ゴムの特性ゆえに腕が伸張する。ヒゼンが顔を強張らせる間もなくそれは解き放たれた。

 伸縮を利用した一撃はヒゼンを容易く吹き飛ばし彼は地を滑る。しかしその勢いのままに飛び跳ねて体勢を整えると危なげなく着地した。傷はない。

「…………」

「おっさんをどうにかしたお前の言うことを、なんで俺が聞かなくちゃいけねぇんだ?」

 ヒゼンにはわからない。モンキー・D・ルフィがどうしてここまで動いているのかということがわからない。

 しかしそれは彼にとって関係のないことであり、ルフィが動いているという事実だけが重要だった。汚れを払い、また薄く笑った。

「君はどうしてそんなに怒っているんだ? そのおっさんとやらは君にとって重要な人物だったのか?」

「別に。さっき会っただけだ」

「ならどうして? どうしてさっき会ったばかりの見知らぬ存在のためにそこまでの感情を励起させているんだ。海賊の君は、そんな些細な出会いにも日々感謝しているというのか?」

 ルフィは指を鳴らし、首を鳴らした。特に変化はない。ヒゼンの言葉にも何の反応もない。それならそれでいいとヒゼンは思った。

 

「この島はいい島だ。食いもんはうめぇし、あったけぇし、気持ちがいい」

「そうだな、ここはいい島だ」

 実に都合のいい島だ。

「だからお前はぶっ飛ばすぞ」

「……よくよく考えれば、君と話をして終わり、なんて都合のいいことは有り得なかった。島自体は良くても、君はよくなかった」

 首を振り、ヒゼンは溜息を吐いた。彼に戦闘の意志はない、彼の目的は時間だけだ。だからこそこの状況は歓迎で、今ならまだ引き伸ばせると感じていた。

 その為には相手の注意――ひいては興味を引かなければならない。ならばここは、現状を教えると共に昔話でも語ろうか。

 

「――そういえば麦わら。おかしいと思わなかったのか?」

「何がだ」

「自分が普通に走っていた、ということさ」

 ルフィはその事実を反芻し、なお首を傾げた。それはどこがおかしいのかということではなく、おかしかった大地がどうして普通になってしまったのかという原因に対する反応だった。ヒゼンは島の反発についての知識を話し、改めて口を開いた。

「島が悪だと判断したものは弾まない、という常識で考えるなら、君も島に害悪だと判断されたことになるけど、そうじゃない。もう島にそんな力は残っていないんだ。なんせ、島の動力源であり象徴でもある螺旋の大山スパイラルガーディアンが死んだからね」

 ルフィは沈黙した。今度こそわけがわからないようだった。自分の説明が難しかったのかと少し沈んだヒゼンは彼にもわかるように噛み砕いて話す。

「つまり、弾むために必要だった螺旋の大山はもう死んだんだ。だからもう二度と誰も弾まない」

「……要はもう不思議島じゃなくて、それはお前が原因だってことか?」

 七割五分正解だ。イリカの所業はヒゼンの責任でもあるが、あくまで実行犯はイリカである。

 

「――君は俺の事を知らないだろうから自己紹介しておくよ、モンキー・D・ルフィ。俺はヒゼン・ソーマ、昔の名前は相馬肥前。懸賞金二億ベリーで“導き”って言われてる」

 昔の名前を語ったのは、ルフィで三人目である。最初の人はイリカ、次はイリカの姉だった人。

 尤も、イリカは順番は気にしないと言って気にも留めず、姉はそっかと儚く笑った後、嬉しいことを言ってくれた。

 相馬肥前の大切な思い出。

「懸賞金があるのはとある海賊を殺したから。実質俺はそいつだけしか殺してないし海賊でもないんだけど、そいつが二億の賞金首だったからそのまま挿げ替えったって感じかな。額の傷はその時のものだ」

 ただ一人、村を襲った海賊ではない者を殺した。村の中での出来事ではないし、村が破滅した後の話だ。自分で決めて殺したが、最初から殺そうと思ったわけじゃない。ただ一つの目的のために殺すしかなかった。

 それだけのことだが、それだけでいいのである。

「そしてモンキー・D・ルフィ、悪魔の実超人系ゴムゴムの実を食ったゴム人間。東の海のフウシャ村で育ち、海賊赤髪のシャンクスに憧れて海賊になる。二つ名の麦わらは彼の物で、いつか返しに来いと言われている、だっけか」

「お前、何でそんなこと知ってるんだ……」

 ルフィは若干驚いた表情で尋ねた。それに内心で笑みを浮かべたヒゼンは両手を広げ、大仰に言い放つ。

 

「――俺は未来から来たんだ」

 

 

 

 直に海賊狩りのゾロがやってくるだろう。せめてその時までは、彼をここに足止めしておきたい。願うなら一味を全員、自分の手の届く範囲で動きを止めて。

 そして願うなら、あの人が既に島を出てくれていれば言うことはない。

 

 

 

 彼らの冒険をここで止めることになろうとも、イリカがいてくれればそれでいい。

 

 



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ありったけの願いをかき集めて、それでもたどり着けないもの

 

 

 

「何これ」

「さぁ、道、じゃないかしら」

「でも何で道が空中を飛んでこっちに来るんだ?」

「この島特有の何かじゃないか。俺乗りましょうかナミさん?」

「スーパーな俺が乗ろう!」

 結局全員で乗りました。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 艦に戻ってきた。相変わらず中佐は人ごみの中でゲロを出しまくり、しかしなんとかエチケット袋は頑張ってくれたようだ。俺としても街中で雑巾を振るいたくはない。

 犬を連れてきても他の物まで飲み込んでしまうから正直言って使いどころが中佐の部屋しかない。機械だからペットにもならない。

「あれ、本部からの通知だ」

 海軍御用達の郵便から便りを受け取る中佐、とりあえず俺は待機と言ったところだ。そもそも戻ってきたのは本部からの通知がありますよ、っていう連絡があったからなので中佐の言葉は蛇足である。

 ぺりぺりと机に腰掛け捲る。いや、三つ折だからそんな難しくないはずなんだけどどうして少し破るのか。

「中佐って器用ですね」

「え、そう? 初めて言われたよ」

 えへへ、と照れる中佐。うんそうだろうね。悪い意味で器用だ、なんて言葉使わないからね。お歴々の方々は皆不器用ですねと優しく言っていたのだろう。

 前任の彼は今頃どこで何をしているのだろうか。

 

「それで中佐、何と?」

「ん? ナント?」

 首を傾げておられる。手に持っているものの内容ですよ。

「あー、うん。えーっと……?」

 首を竦め目を凝らす。なんだろう、少しだけ普段と様子が違うような。言うならば、そう。

「いつもより幼い、ような……?」

「――カタ・ナユタは本日1200を以って大佐に昇進、及び戦闘可能上限条件を解除する」

 戯言が聞こえてきた。俺は疲れているのだろう。

「中佐、もう一回」

「カタ・ナユタは本日1200を以って大佐に昇進、及び戦闘可能上限条件を解除する」

「なん、だと……」

 中佐が大佐になってしまった。はは悪い冗談だ深呼吸をしよう。

「…………またまたご冗談を」

「いやいや冗談じゃないってば」

 苦笑いの中佐も脂汗が流れている。当然だ、だって昇進理由が思い当たらないのだから。彼女が中佐になってからの功績といえばスコール海賊団の殲滅と日々の巡航だけである。

 麦わらの一味? 知らないな。

 

「こ、こっ、これってなんかあるのかな。ど、どっかに左遷とか変な生物が来るとか、もしかして人体実験の生贄とかっ!?」

 がたがた震える中佐、もとい大佐。びびり過ぎである。しかしながら思い当たらないことがないでもない。それを思えば――中佐の過去を知っていればむしろ遅いほうなのだ。

“刃斬り”の由来、それは剣士を悉く殺傷した証明。

 最近は巡航が多くて一所にいないのでさっぱりだが、その昔海賊の半分が立ち寄る島に常駐していた頃はそれはもう凄まじかったらしい。とりあえず相手をした九割を処刑し、相手が死んでもそれが剣士ならばその命とも言える剣を粉々にするまでやめなかったという。

 ちなみに残った一割は上官命令で衝動を抑えたとか。

「今の中佐を見たら別人と思うようなキラーマシンっぷりだったんですからようやっと階級が追いついたんじゃないですか?」

「いやいやでも私が殺ったのは制限以下の雑魚ばかりだし。そうだっ、制限解除ってどういうことなのっ!? もしかして上限オーバーの賞金首でも近くにいるの!?」

 今度はわたわたと椅子を回して不思議な踊りを行う。MPがない俺にはついに狂ったのかという感想しか湧かない。

「落ち着いてくださいバカ。回ったって吐くだけなんだからそれは自虐パフォーマンスと判断しますよ? その場合俺はあんたを殺します。部下だから」

「おっかしいだろ殺すなよっ!」

「部下だから、俺、中佐殺します」

 悲しいけど、これ以上狂っていく中佐を見ていたくないから、だから……とか、悲劇の主人公のように喜んで殺します。

「狂ってないから! それと落ち着くのは君もだよハリー! さっきから中佐中佐って、階級上がったんだよっ!」

「何をおかしなことを。ちゅーさ、という少し馬鹿っぽい音がいいのにそれが大佐なんて、コイキングにギャラドスって名前付けるのと一緒ですよ。はねるしか覚えてないコイキングがギャラドスなんてどんだけ痛いんですか。あの阿呆な見た目にギャラドスってどんだけ見栄張りたいんですか」

 待てよ、それじゃあ中佐はいずれギャラドスになるのか? 考えて見ればあの大口っぷりは中佐にぴったりである。海がダメなのも淡水魚だからなのか?

「中佐って風呂入れますっけ」

「入れることは入れるよ。悪魔の実の能力者は基本溜まり水がダメだから力は抜けるけどね。まぁ私の場合は全身浸かったらそれでおしまいだからシャワーだけど」

 はは、こうなったら全身浸かってみようかなどと遠い目をしてのたまう彼女。いい具合に自暴自棄である。

 俺としては賛成でもあり反対でもあるのが正直な気持ちだ。上が抜けることは歓迎だしゲロ掃除をしなくていいというのは魅力だが、何も今すぐ死ねとまで思うほど嫌っているわけじゃないのである。なんか微妙。

 

「っと、もう二枚あるね。何だろ」

 残る二枚のほうには何が書いてあるのか、という話に戻る。先のインパクトが強かったためにもう驚くことはないのだろうが、一応心の準備だけはしておこう。

 人生何が起こるかわからない、仮に死んでももしかしたら生き返るかもしれないのが恐ろしい。ヨミヨミの実とか。

 

 

 

「え…………」

 

 

 

 思考に耽っていた俺はその声で思い出したかのように意識を引き戻した。目の前の中佐は紙に釘付けで瞬きすらしない。開かれた瞳と震える指先、そして言うことを聞かないように開いた口。

「中佐?」

 違反ものだとは知っている、だがそれでも覗き込まずにはいられなかった。視界に入る写真と文字を読み、認識する。それは手配書だった。

「“導き”ヒゼン・ソーマ、こいつは……」

 先ほど街であった青年。額の傷という間違えようのない特徴があった。

 なるほど、こいつを中佐に任せるというわけだな。懸賞金は2億、今までの中佐では手を出せない相手だ。でも、中佐の目はそこには向いていない。名前と、そしてもう一枚のほうを交互に見続けている。

 もう一枚も手配書、無邪気に笑う栗色の髪の少女。それはどことなく中佐に似ている。

「“咎人”イリカ・レベッカ、懸賞金――――4億!?」

 4億1600万、今まで見た中でも上位の賞金額である。見た感じそこまで年はいっていないはずなのに、どうしたらここまでの金額に至れるのだろうか。

「イリ、カ……イリカ・レベッカ…………ソーマ・ヒゼン……」

 中佐はずっと、その名前を言い続けている。病的なまでにその行為をし続けている。冷や汗が出ていた。震えは全身を覆い、顔色が真っ白になっていく。

「中佐、しっかり。どうしたんですか?」

 

 

 

 

「ソウマ君、イリカ……」

 

 

 

 

 

 膝を着いた彼女は、瞳から水を零していた。俺はただ、彼女を見続けることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 麦わらのルフィ相手に時間を稼ぐという危険な行為、それがようやっと実を結んだことを実感した。既に彼の攻撃に何度晒されたかわからない。自分の戦闘能力を考えれば上出来以上の何物でもないが、彼らの編成もこちらに味方していたようだ。

 ロロノア・ゾロはたとえ一本道でも迷うほどの方向音痴だ。そのタイムロスと、船番をしていた残りの彼らがこちらに向かうのとはほぼ同時だった。こちらが用意した近道を何とか使ってくれたらしい。

 

 つまり、ようやっと俺は本当の全力でこの身を捧げられる。

 

 

「これで全員、というわけだな。麦わら海賊団は」

「というより先に出発したはずのあなたがどうして私達と同時なのかしら」

 ニコ・ロビンがゾロを見ながら呟き、しかしゾロは意に介さない。というよりは言葉もないという感じなのだろうか。

 獣になったトニー・トニー・チョッパーも合流し、結果的に八人が集結した形になる。土で汚れだらけの俺と無傷の麦わらという状況は、後からやってきた彼らにも明瞭に真実を告げるだろう。

「ルフィ、こいつが?」

 ナミが聞く。ルフィは何も言わずに俺を注視している。彼女は答えを求め周囲を見回し、ゾロやチョッパー、ウソップの緊迫感を察してこちらを見た。

「ちゃんとこちらのタクシーに乗ってくれたようで何よりだよ。改めて初めまして、ヒゼン・ソーマだ」

「タクシー? どういうことだ?」

「サニー号のところに変な板みたいなのが来たのよ。ためしに乗ってみたら動いちゃって、そしたらここに……」

 ウソップの問いに応えるナミ、それに頷き、とりあえずは歓迎することにする。なんといってもこれで心配の種が減るのだから。

 

「君たちは俺の願いを聞き届けてくれなかった。だから、ここからは俺も全力でいくことにするよ。とは言っても麦わら、俺はさっきまで手を抜いていたわけじゃないから安心するといい」

「…………」

 麦わらは沈黙している。こちらの動きを待ってくれるのならありがたいことだ。おかしな力のあるこの世界では先手こそ必勝で、俺にとっては先手以外の選択肢なんてありえない。

「ここからは交渉かな。麦わらのルフィ、海賊狩りロロノア・ゾロ。二人は先に行ってもいい、でも残りは行かせない。それでどうかな」

「え!?」

「どうしてその二人はいいのかしら?」

「簡単なことだよ。俺にはこの二人を抑えきる自信はない。でも残りの奴らならなんとかなる、それだけだ」

 そして、眉間に皺を寄せて一気に不機嫌になる金髪の男。

「おいてめぇ、それぁどういう意味だ」

「言葉通りだよ。あぁそれと、行くなら早くしたほうがいい」

 彼らに選択権はない。仮に一斉にかかられれば俺に勝ち目はないのだ。できるだけ早くこの二人を分断させたい。

「どういう意味だこらぁ!」

 サイボーグフランキー、でかいな。俺としてはこいつには空気でいてもらいたいところだ。

 技術者というのは総じて状況を打破しやすい傾向にある、おそらくは思考回路が他とは異なるのだろう。できるかぎり大仰に、余裕を持って、言葉に重みをかけていく。

 

「――この島の全ての人間が死ぬ。そうなるように仕向けたから」

「な!?」

「何言ってるんだお前! す、全ての人間が死ぬって、そんなことは……!」

「できるさ、俺の村もそうだった。助けようとしても無駄だぞトニー・トニー・チョッパー、これは医学でどうにかなる事態じゃない。止めるにはただ一つ、詩を止めるしかない」

 尤も、そうならなくてもいずれは滅んだのかもしれない。でもやっぱり、あの幸せな日々を壊したのは間違いなくイリカだったんだ。イリカの無垢な、穢れの詩だったんだ。

「詩、ですって……あなたは一体何を仕掛けたというの? 医学でどうにもならない、というのは単純な外傷ではないのでしょうけど」

 さすがニコ・ロビン、お前も足止めしなければならない存在だ。肯定し、タネを話す。話しても何の問題もない、どちらにしてもたどり着けない。

「精神が死ぬんだ。狂い、イカれ、原初に立ち返り、破滅する。そうなる詩が聞こえてくる――――ほら、もう時間はないぞ」

 

「ッ!? ルフィ、ゾロ! 先に行って!」

 ナミが叫んだ。しかしルフィとゾロは不思議な顔をしている。そうだろうな、好戦的なお前達ならそうだ。だからこそわざわざ全員呼んだんだよ。

「何言ってんだナミ、こいつを全員でぶっとばして先に行けばいい」

「こいつはタイムリミットを言ってない、仮に全員で倒しても時間が来たら終わりなの! それなら二人が先行するほうがいいわ!」

「行かせてくれるってんならさっさと行っちまえ! どの道早く行けるのはお前らくらいだ!」

「そうだそうだ、早く行け! お、俺はここで指示を出しながら待機する……!」

 フランキー、ウソップと賛同し、押される形になってルフィとゾロが俺の横を通り過ぎた。ゾロなんかはすれ違い様に斬りかかってきそうだったが、それぐらいなら俺も受けられる。時間と労力の無駄と悟ったのだろう。

 

 ということで、本当に計画通りの状況になった…………いや、本当なら、ここで会いたくはなかった相手だ。まるでこの先を暗示させられるような、そんな相手だ。

「そう殺気だってもいいことはないよ、黒足のサンジ。それに俺は君を侮ったから残らせたわけじゃない、むしろ逆だ」

「あん?」

 タバコを銜えながら腑に落ちない様子のサンジ。ま、説明前に準備をしないといけないな。両足で踏みしめる大地を感じ取り、世界を身体の一部のように錯覚する。両手で球を作り、それをこねるように握り締めた。

「迷宮・ロシアンルート」

 背後の構造が作り変わる。一本道だったスパイラルガーディアンまでの道を迷路へと変更させる。

 そしてこれは迷路であって迷路ではない、マップ作りは意味を成さない。行き止まりにたどり着いた時点で運が良ければ抜けられる。運が悪ければ永遠に抜け出せない。

「てめぇ何しやがった!」

 それは当然視界に入っている六人にもわかってる。フランキーが叫び、しかしサンジは冷静に俺の隙を狙っていた。

 ……だからだよ、黒足のサンジ。お前は絶対に俺が直接相手取らなければいけない相手なんだ。

「頂上までのルートを変更しただけだよ。さて、じゃあ鈍足な君たちには退場願おうか」

 右手を突き出し、左手を捻転する。呼応するように大地が鳴動し、異変を覚えた彼らは急速に遠ざかっていく。

「何だこりゃあ!?」

「一条逆行。運動の時間だ、もう戻ってくるな」

 一気に小さくなっていく六人を見つめる。これで終わり、なんて話なら何の苦労もない。だからこそ見続ける。おそらくは二人ほどこちらに戻ってくる。

 そら、戻ってきた。

「……ち、やってくれるぜ」

「みんな大丈夫かな。俺が乗せられたら良かったんだけど」

「やめたほうがいいよ、そうしたらもう一度俺がやるだけだ」

 サンジとチョッパー、この二人だけは戻ってこれる身体能力を持っている。残りの四人にはずっと走っていてもらおう。こちらを睨みつける二人に涼しい顔を見せる。俺が優位だってことを空気に出し続けなければいけない。そうしなければ負けてしまう。

 

「さっきの続きだ。どうして俺が君を残したのか、それは君が一番やっかいだからだ」

「…………」

「確かに先に行かせた二人の戦闘力は目を見張るものがある。でもそれだけだ、あの二人は相手にたどり着いてからの行動しかできない。相手にどうたどり着くかを考える力が足りないが…………君は違う。あの二人に劣らぬ戦闘力を持ち、同時に状況を打破する頭脳も持ち合わせている」

 ルフィとゾロはガチンコなら強い。対応策が見当たらないほどに強い。ならばそうさせなければいい。だから先に行かせて迷路に迷わせる。

 他の彼らは能力の差こそあるが俺の力でどうにでもなる、身体能力の、走力の欠如を突けばいい。気がかりなのはウソップの狙撃だが、山という環境が俺を隠してくれる。気にしなくてもいい。

「本当に止めるべきは戦闘馬鹿や参謀じゃない。その両者をバランスよく持つ君、そしてその次点である君なんだ。麦わらの一味で本当に無力化するべきは君たちだよ」

「…………」

「………………」

 照れていた。

 にやけた顔はだらしなく、また奇妙な踊りはまぁ和むものがある。待つこと数秒、戻ってきた二人は落ち着いて話し出した。

 

「お前、能力者だな。まぁどんな力かは想像がつくが……」

「俺はどっかの自信家や自慢屋、馬鹿とは違って自分の力をバラす気はないよ」

「ご尤も」

「――それと、君と俺は同じだと思ったんだ」

 サンジがタバコを落とし、新しいものに火をつけた。待っているようだ。

「俺は女の子のために生きている。女の子のためにこうして相対して、戦っている。君も一緒だろう、黒足」

「……なるほどな、“詩”を歌うのはそのレディか」

「ああ、俺の大好きな、大切な子だよ」

「そ、それでも他の人を死なせていい理由にはならないじゃないかっ」

「なるさ。なるんだよトニー・トニー・チョッパー。あの子が生きるためには人を殺し続けなければならない。俺にはそれを止められない。そして俺にとってイリカの命は他の全てのものより重い大事なものだ。ほら、十分な理由じゃないか」

「……っ」

 チョッパーはきっと理解できない。でもそこまでは望んでいない。ただ俺がそれを信じていればいいんだ。

「――イリカの邪魔は絶対にさせない、そう思っている俺が、お前らになんか負けるわけない」

 才能とか、環境とか、定めとか。そんなものに恵まれる必要はない、そんなものは乗り越える。イリカのために戦う俺が、この二人に負けるはずはない。

 

「ふー」

 煙を吐かれた。ゆっくりと指で挟んだそれが向けられる。

「――わかってねぇな、てめぇ」

「わかってるさ、でもそれでもいいって思ったんだ」

「じゃあそれでいいさ。だが俺はてめぇとは違うんでね、折らせてもらう」

「俺も、お前のやることは認められない。医者として、命を粗末にするお前には負けない!」

 構えなんて俺にも、彼らにもない。だからこそ始まりは何の前触れもなく起こり、そして爆ぜた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ふんふんふーん」

 螺旋の大山の頂上で少女が舞う。山頂とは思えないほどの平らな地面、草木はほどよく生えて剥き出しの土との調和を見せている。彼方に見える社は管理者の住まう場所か、それも既に無人であり意味を成さない。この大山も既に死滅していた。

「どーんな詩にしようかなぁ」

 彼女の詩は決まらない。その時々に感じたことを独自の感性で編み上げる。故に早いときや遅いときなどばらつきがあり、本人にも、追従するヒゼンにもそれはわからなかった。今回は進みが良く、しかしその代償として曲自体が長くなりそうだった。

「お姉ちゃんがいたらすぐ決まるんだけどなぁ」

 彼女の姉がいた時に、彼女は詩を作ったことはない。しかし彼女の頭の中の姉はそれを褒めてくれていた。血まみれの姿で褒めてくれていた。

 

 けたけたと嗤う。ペンキをかぶったような姉の姿に嗤う。でもおかしい、彼女の姉には顔がない。どんな顔だっけという疑問は生まれたが、表出することはなかった。それでよかった。

「ありったけーのー、ゆーうーめーえーをー……」

 ありったけの有命を、散らせるために。

 

 少女は一人、まっていた。

 

 

 

 

 



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千の道、万の悪

 

 

 

 ヒゼン・ソーマの力。その力を見たのはたった二回きりだがサンジはもう確信している。そもそも悪魔の実の能力者の能力判断は一部を除いて特に難しいものではない。そして彼の力は見たとおりのもの、疑う余地はない。

「ふー」

 余地はない、が。それは予想以上に頭を使う苦しい戦いになることを証明している。単純な能力だが、しかしそれは地上に住む生物には不可避の力だ。この島の特性が万全ならその限りではなかったはずだが是非もない。

 そんな機能は既にない。

「チョッパー、サポート頼む」

「わかった」

「…………」

 相対する“導き”は自然体だ、それがどういった考えの下での行為かは知らない、とにかくも先手こそが重要である。

 

 そして、サンジは駆けた。蹴撃のみを駆使する彼の絶大な脚力で離れていた距離を一瞬でゼロにする。直前に踏みしめた右足を軸にした鞭のような一撃、それはまっすぐ相手の米神を抉り――

「ち」

 切れず、風切り音とともに空気を飛ばした。瞬間伸びてくる右掌底はサンジの背中を射抜こうとする。それを不発に終わった蹴りの反動で回避。着地した左脚で地面を蹴り回転のままに右足裏で右肩を狙う。

 今度は対空、狙いは正確に。

「――っ」

 肩に入った自身の足、その感触に違和を覚えつつ、その反動で後方に飛びぬいた。

「おらぁあああ!」

 交代するように飛び込んでくるチョッパーは獣人形態、両腕が恐ろしいまでに発達したパワー型の形態だ。振りかぶった右拳を相手の正中線目掛けて放つ。

「くっ」

 が、それは後一歩で届かない。振り切った腕を挟み込むように相手の両手が伸びてくる。間一髪、必死に戻したおかげでその両手は打ち鳴らすだけに終わった。チョッパーは後方に退き、サンジと足並みを揃える。

「思ったよりも厄介だね」

「ああ、間合いの大事さをひしひしと感じる」

「そんなに強い攻撃をしないでくれないか、俺の防御力じゃもって一撃程度なんだ」

 自身の貧弱ぶりを言っているが、ヒゼンの言葉の裏には一撃ももらわないという自信が見える。それが癇に障り、サンジはタバコを噛んだ。

「てめぇは悪魔の実の能力者だな。ミチミチの実ってところか」

「俺達の攻撃の瞬間、足元が微妙に動いて狙いが外れる。間合いの制圧こそがこの力の一番の肝だ。一本道を迷路にしたり、高速で動かしてたどり着けないようにする、なんてかく乱もできるあたり汎用性のある能力だよ」

「空鳥の道≪ウイングロード≫」

「ッ!?」

 言葉に構わずヒゼンは戦闘を続行する。二人と一人を繋ぐ道が大地から切り離され、うねる。突然の変化に二人がたたらを踏む間にヒゼンは駆けた。

 脚力では二人に劣るが、彼には環境の援護がある。エスカレーターのように移動スピードを速め、かつ二人の足元を引き寄せる。一秒に満たず到達し速度の乗った拳を放った。

「……っ!」

「チョッパー!?」

 狙いは体格の大きなチョッパーである。パワー系の変化の代償か、その速度に反応できずにまともに受け血を撒き散らしながら中空に投げ出される。既に高高度、落下ダメージは無視できない。

「く、ランブル……!」

 特製の丸薬ランブルボールを咀嚼、ガードポイントの強化で体毛を練り上げ衝撃を殺した。

 基本的に悪魔の実動物系の変化は三種類、しかしチョッパーはランブルボールで悪魔の実の波長を狂わせることで更に四つの変形ポイントを持っていた。ダメージなく弾み復帰したチョッパーだが自身の失態に臍を噛む。ランブルボールの効力は三分間、そのとっておきをいきなり使う破目になってしまった。

 元来臆病な性格である、後々を考えればとっておく必要のあったそれを目先の痛みに気を取られて使ってしまったのは痛い。だが後悔しても遅い、ジャンピングポイントで再び空の道に復帰する。

「サンジ!」

「下がってろチョッパー! 近い位置に来るな!」

「ッ! うん!」

 空中で反転して距離を取る。彼の視界には近接の応酬を繰り広げるヒゼンとサンジの姿があった。

「ッ!」

「…………」

 蹴りの乱舞、抜群のボディバランスで空振りの隙を最小限にして連撃を放っている。一方は微妙なコントロールで狙いを外しつつ攻勢に出るも、相手のポテンシャルの高さに決定打を打ち込めない。戦況は五分に見えるが、実際の二人の心情にそんな余裕はなかった。

 

 くそ、当たらねぇ……!

 サンジは螺旋の勢いとフェイントで攻撃のタイミングを逐一変えつつ相手に攻撃させないように息を吐く間もなく戦っていた。足場の微妙な変化にはまだ慣れない、結果振るう蹴撃全てが不発に終わり、その反動で反撃を回避しているものの肉体に蓄積される空足の負担は長期戦を望んでいなかった。

 事実、彼はここで攻撃を休めたら終わりだと思っている。今でこそ微妙な変化で致命傷はないが、攻撃が当たらないことは致命的でもある。

 だがそれが、自身が相手に余裕を持たせていないからこその現状であることは今の状況を生み出してしまった隙からの教訓だ。のんきに相手の能力がわかりました、なんて話しているからこそ空の舞台に引き上げられこちらの手札を一枚切ってしまった。

 自分の能力がたとえばればれでも話そうとしない慎重な相手にじっくりと時間をやるなんて愚行はできないのである。仮に一端距離を置いた場合、どんなびっくり効果が襲ってくるかわからないのだ。

 跳躍――空に浮けばその瞬間は確かに相手の領域外、確実に目論見どおりの一撃、いや複数撃を放てるだろう。しかしそれが万一不発になった場合、その隙が齎す結果は想像に難くない。その予測と現状を天秤にかけると、彼にとっては安易に踏み出せない一歩だ。

 幸いこちらは二対一の数的優位、後方にはチョッパーが控えている。彼がこの間に突破口を考え付いてくれなければ時が経つにつれて戦況は不利になるとしても、まだ分のわからない賭けに出る必要はない。ただ少し、忍耐が必要なだけだ。

 自分が踏ん張ればいい、その一心で足を振り続けていた。

 

 そして、ヒゼン・ソーマにはそんな考えを巡らせる余裕すらなかった。

 彼は自己申告どおり身体能力の面では最弱の部類である。元々の生まれが平均的な彼にはサンジやチョッパーとやり合えるだけの力はない。故に偶然手に入れた能力に感謝し、同時にこれを鍛えるほかないとその力の全てを捧げてきた。

 ミチミチの実、彼はその力で村の道を馴らしたり、子ども用の滑り台を作ったりなど、戦闘用に使うことなど一切なかった。が、能力を使っていたのは事実、普段の生活ですら自然と訓練になっていた。

 転機となった数多の事象、そして村の壊滅。ヒゼンが村のために、あの姉妹のためにできることはもう戦闘しかない。戦って戦って敵を退け、イリカの生きる道を作っていくことしかできない。

 ミチミチの能力を使うにつれて唯一底上げされた視力だけが彼の全てで、それ故に彼はサンジの攻撃をいなすことができた。しかしそれでも息の詰まる緊迫戦において高出力の能力発現はできない、このまま続けば自分がとちることは明白だ。

 

 状況は膠着、サンジは蹴り続け、ヒゼンはいなし続けた。この状況を望んでいるのは一人だけだった。

 

「……ッ」

 だからこそ、彼は攻勢に出る。イリカのためにいくつもの命を奪ってきたヒゼンにとって、後ろに続く道はない。既に見飽きるほどの悪魔のような足を避けさせ、しかしまた流れに乗った蹴りが来る。それを――

「何っ!?」

 四分の一ほど受ける。額の傷をなぞるように焼けるような感覚が突き抜ける。それでもこれは一撃ではない、故に耐え切れる。四分の一の代償に四分の一の速さを得てヒゼンは能力を行使する。サンジの蹴りの到達点、その僅か前を凝視し――

「通行止め≪デッドロック≫!」

「が――っ!?」

 苦悶の声、それは突如生まれた痛み。ヒゼンの額を裂いた足は着地の前で止められる。それまで何もなかった中空に僅かな道が生まれたことでその軌跡は阻まれた。振りぬかれるはずだったサンジの右足を強引に停止させ、ヒゼンは勝負を仕掛けた。

「――――ッ!」

 その一瞬の好機は逃せない。ヒゼンは道と共に後方に退き、追撃をかけるサンジより早く次の行動に移った。両手を地面に押し当てる、紫電が身体を走り、道に通じる。

「砂利蛇行≪バウンドスネーク≫!」

 空の道がうねりを上げて上下に不規則に動き、それに呼応して道の破片が刃のように無数に襲いかかる。小さく捉えづらいそれは完全には防げず、また相殺しようにも足場は不確か。故に両手で顔を守るしかできない。

「があぁあああああっ!?」

「サンジっ!?」

 裂傷は過多、裂けたスーツからは夥しい血の色が見える。それでも隆起の終わった足場に立ち、サンジは膝を屈しない。

 チョッパーは駆け出そうとして、しかし思いとどまった。自分のやるべきことはそうじゃないのだと、腕の蹄を合わせてダイヤを作り、ヒゼンを覗き込む。

「ブレーンポイント、スコープ!」

 弱点を解析する、それが離れながらにできること。今サンジがどうなろうとも、勝つためにはこれしかできない。チョッパーは歯を食い縛り血まみれの仲間を見た。自分の脆弱さに吐き気がした。

 

 彼の視界の中のヒゼンが動く。これぐらいで打倒できる相手ならば苦労はしないのだ、自分が勝つためにはこれからの全てを相手に受け止めさせなければならない。

 両手で空気の玉を練りこむように形作る。それを更に足場に叩きつける。

「螺旋蝸牛≪スピンループ≫!」

「っ!」

 サンジの後方の道が渦を巻いて巨大化しながら迫ってくる。先の攻撃の余波か歪に削られたそれは凹凸を凶器に変えて唸りをあげている。あれでは蹴ろうにも足が傷つく、避けるしかない。それは当然ヒゼンとの間合いを詰めるもの、一石二鳥である。

 が……

「そうだよなぁっ!」

「二重螺旋≪ダブルループ≫」

 当然ヒゼンにもわかっていて、彼はもう一撃を繰り出していた。前後から同種の螺旋が迫る。横によければ道を外れ空に投げ出されてしまう。覚悟して飛び降りる分損傷は気にしなくてもいいだろう。だがその距離はまずい、再びたどり着く前にチョッパーが狙われるだろう。故に選択肢ではない。

「上だ!」

 チョッパーの声、咄嗟に反応して跳躍する。彼の跳躍力と螺旋の巨大速度では前者に分があり、故に彼の真下で二つの螺旋は互いを削りあい相殺された。

「まだだ」

 振り向く先には追撃を試みるヒゼン、半ば呆れたような表情でサンジは見つめた。中空で激しく動く術はなく精々体勢を変える程度だ、大技には対抗できない。

「伽藍道≪ゼロ≫」

 空の道が遡行するように大地に帰っていく。僅か一秒でそれは元の高度ゼロへと戻り、チョッパーとヒゼンは大地に降り立った。

 結果、サンジとの距離は絶望的に開く。

 見上げる前に一度チョッパーを見つめたヒゼンは彼の動作に意図を知り、しかし無視をする。サンジを見上げ、両手を引き絞った。指は曲がり鉤爪のよう、それは猛禽類の攻撃力を夢見た彼の意思の体現。

「沿道≪エンド≫」

 サンジの落下の軌跡と自身の速度、それらを加味した上で交差する場所に道が生まれる。それを知ったサンジも衝突のタイミングを知りそれに合わせるように体勢を整えた。

 

 道が走り、ヒゼンも走る。両者の速度を加算したおぞましい速度は常人には捉えられないが、それができるのがサンジである。筋肉を強引に使役して体幹を軸に回転する。

 回転しながら落下するサンジ、腕を引き絞り駆けるヒゼン。両者の激突はこれより二秒後。それが現在の速度から見て取れる未来だった。

 

 そして、それより先にスコープを終えたチョッパーは結果に愕然とし声を振り上げた。

「だめだサンジ――」

 

「滝道≪ロード≫!」

 

「な」

 気がつけば、予測より早くヒゼンの両腕が迫っていた。自身の予測より半瞬、いやもっとずっと早い。

 そして自身の体勢が驚くほどに崩れているのに気づき、違和感に気がついた。踏みしめられる足場が現れていることに気がついた。

 野郎……っ!

 脳内で罵倒し、胸部に走る衝撃に吹き飛んだ。 

「がふ――!」

「ジャンピングポイントッ!」

 チョッパーが脚部を強化、吹き飛んだサンジを追い、抱きとめる。ゆっくりと着地、ダメージを診る。

「まずい、肋骨が……」

「がはっ、ごほ、はぁ……」

 吐血し、呼吸も苦しそうだ。折れた骨が内臓を傷つけている可能性もある。これ以上の戦闘は難しいと判断した。だが――

「ぐ……っ」

 だが一方で、攻撃を成功させたヒゼンもまた、その両腕の痛みに必死の形相で耐えていた。指は数本が歪に曲がり使い物にならない。赤く腫れ上がった左手首は折れているのだろう。

 それでも気持ちは決して折れず、痛みを堪えて握り締め、腕から血液を吐き出していた。

 あっちももう無理だ。チョッパーはそう確信し、サンジに応急処置を施しながら口を開いた。

 

「スコープで見てわかった。お前には弱点なんかない、ないけど――その全てが平均以下だ、きっとサンジの攻撃が一発でも当たっていたら立ち上がれないほど身体面のポテンシャルは低い。だから必然的に攻撃は避けるしかできない、耐えられないから」

「…………っ」

「その証拠がそれだ。攻撃した側がこんなに傷ついて、だからこそ不思議だ」

 

「お前、最後どうしてサンジに近づいたんだ?」

 

 どうして、最後まで距離を保たなかったのか。

「……それを、俺が答えると思っているのか? トニー・トニー・チョッパー……」

「…………」

「――もういい、チョッパー」

 サンジが治療の手を止めて身体を起こす。チョッパーの制止を振り切り立ち上がり、タバコに火を灯した。

「ふー」

「化け物だな、羨ましいよ」

「これくらいで寝てたらルフィの相手はできねぇし、糞マリモに舐められるんでね」

 タバコを落とし、踏みつける。大きく息を吸い、痛みが走る身体を実感した。

 

「これからお前をへし折るわけだが……」

「大きく出るね」

 別にそんな大きくはないか。ヒゼンは内心では自分を否定していた。

「その前に、お前の間違いを正さなきゃ俺の気がすまん」

 サンジは目を細め、睨む。血で汚れた相貌には今まで以上の迫力があった。

「女の子のために俺達と敵対したんだったな」

「そうだ。俺はイリカのためにこの島を滅ぼす。その邪魔は絶対にさせない」

「女の嘘は笑って許す、女は死んでも蹴らねぇ。それが俺だし多分お前だが、だが女が間違っているなら正すのが俺だ。そこが俺とお前の最大の違いだ」

「俺は嘘は許さないし女も殺すよ。間違っていてもイリカがいいならそれでいい」

 サンジの思想は女という種類で、ヒゼンのそれはイリカという個人だ。比べるのもおかしいが、それでも大別すれば同じこと。故にサンジはその中で一番許せない、正しくないことを勝手に叫ぶだけだ。

「女が間違った道に行くならそれを正しい方向に持っていく。それが男で、そしててめぇの役割だろうが! そんなお誂え向きな力持っといてほざくんじゃねぇぞッ!」

 ≪導き≫ヒゼン・ソーマ、道を操るミチミチの実の能力者。しかし誤った道に進む大事な少女は正さない。そんな怠惰、彼に許せるはずもない。

 

「……はは」

 それがどんなに正論か、ヒゼンにもわかっている。そしてそれが理想論で、力がなければ守れないことも知っている。だから笑う。

 嗤って、ふざけるんじゃないと言った。

「そんな理想押し付けるなよ黒足。お前のような天才が背負える荷物はな、一般人には重過ぎんだよ!」

 右腕を振るう。ヒゼンの足元が隆起し遥か高みへと至っていく。巨大な坂を目の当たりにしたサンジは見上げ、高い坂の上に立ったヒゼンは激情を滾らせた。

「お前はいいさ! 守るための力も振るうべき力も持っている。そんなお前が自分に見合った理想を持つのは結構だ! だがそれは他者には通じない! 自分を基準にしてのたまうな! 最初に言った言葉、訂正する。俺とお前が同じなのは守るべき対象の一つの要素が同じってだけだ! お前は女全て! 俺はイリカ一人! これが身の丈にあった理想だ! 多くを守れるお前と一人も守れない俺の差で、決定的な違いだッ!」

 だん、と。大きく足を踏みしめた。そこを起点としていくつもの皹が走り道を分断する。坂の中間まで続いた皹は道を八つに分け、大顎を以って威嚇した。

 八岐大蛇、その圧力で強引に新たなルートを掘っていく大地の化け物である。それを見上げ、サンジはしかし泰然としていた。

「間違った道に進むなら正せと言ったな。でもな、イリカにはもうそんなことはわからないんだ! 善とか悪とか、そんな概念なんてイリカには本の中の言葉でしかないんだよっ! イリカは全てに平等だ、そこに善も悪もない! イリカの進む道が多くの悪だったとしても俺はそれを曲げたりしない、それが俺の進む道だッ!」

 悪を是とする道でもいい。悪是道(あぜみち)こそがヒゼンの進む道だ。だからこそ彼は全てを犠牲にし、全てをイリカに委ねている。

 

 決して悲しくならないように、イリカが生きてくれるように。

 

「サンジっ」

「いや、いい。もうわかってる――――頼めるな?」

「うん、ランブルの時間ももうない。最後だよ」

 サンジは片足を軸に回転、それは風を巻き起こし唸りを上げ、次第にその身体を熱で包んでいく。大地との摩擦は攻撃力、昇ってくる熱さは黒の足を深紅に染め上げた。

「――悪魔風脚」

「行くよ、ジャンピングポイント!」

 両足に全てを注いだチョッパーは軽く跳躍してリズムを作る。相手の攻撃の呼吸を読み、最適解を導き出す。

 

 幾度目かの着地、その一瞬後――

 

「穿て――っ!」

 八つ首の大蛇が圧殺せんとその大顎を振り上げた。同時、チョッパーが駆ける。その俊敏性は屈指、八つの凶器の隙間を正確になぞりながら回避する。

 が、八岐大蛇の攻撃は一度では終わらない。回避されたそれは大地を穿ちトンネルを作り、また舞い戻ってくる。後方からの攻撃に気づいたチョッパーは辛くもそれを回避、しかし着実に逃げ場はなくなっていく。

 と、五つの大蛇が同時に迫った。その迫力たるやさながら壁が押し寄せてくるかのよう、前後左右に道はない。

「はッ!」

 故に、チョッパーは大きく跳躍した。そのためのジャンピングポイント、大蛇の群れを凌駕する高高度、それはちょうど坂の上に立つヒゼンと同じ高さだ。

「サンジ!」

 呼ぶ声。それに応えるようにサンジが駆ける。先ほど不発に終わった五つの大蛇、それを避けるように展開する三つの同種。その先方に狙いを定め高速で接近。

「ジェンガシュートッ!」

 首を切り飛ばすように高熱の蹴撃が切断する。切り離された頭部を更に上へと蹴りこみ攻撃へと昇華する。

「く……!」

 飛んできた巨岩にヒゼンは横っ飛びで対応するも、無様に地面を滑った。八岐大蛇の操作で手一杯の彼にはこんなことしかできず、またこんなことで、一瞬の操作不能に陥ってしまう。

 

「チョッパーッ!」

「おお!」

 ――そして、その隙を見逃してくれる二人ではない。大蛇の上を走り高度を得、更に跳躍することでチョッパーの傍へと来る。

「アームポイント!」

 強化を両腕に、拳を握り締め極大の力で引き絞る。その腕の前にサンジは足を合わせ待つ。見据える先は同じ高みの導き。

 

 果たして、深紅の弾丸は放たれた。

 

「刻蹄 画竜点睛(フランバージュ)ショット――ッ!!」

 

 放たれた巨腕に後押しされるように跳んだサンジはまっすぐヒゼンに迫る。八岐大蛇が迎撃せんと立ちはだかるも無残に破壊され、勢いこそ若干弱ったものの、その一撃はヒゼンにとっては致命的だった。

 

 鈍い、しかし確かな破壊音。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

 絶叫し、血だるまになって吹き飛ぶヒゼン。荒々しく道を滑り土煙を上げ、ようやっと止まったときには既に動くことはできなかった。

「ぐ、あ……」

 着地したサンジもまた、胸の痛みに膝を着いた。ランブルボールの効力が切れたチョッパーが獣形態で走り寄る。サンジのスーツは血に染まっていた。

「無茶だよサンジ! こんなひどい怪我で……」

「何言ってやがる。こんなもん怪我に入んねーよ……」

 確かに過去の戦いではもっと大きな怪我をしていた、故にサンジの言葉は真実だ。しかし真っ赤なスーツを見るにあたり過去を振り返っても見ないほどの大怪我のはずである。

 が、服を裂き、傷を見たチョッパーは首を傾げた。

「あれ? ほんとだ、そんなに大怪我じゃない」

「だから言ったろうが、ったく」

「おかしいな、この怪我じゃここまで出血しないのに……」

 そして、ああそういえば相手も怪我をしていたなと思い出して。

 

「――――血路≪ブラッドライン≫」

 

 

 一際大きく鼓動が響いて――

 

 

「俺の、勝ち、だ…………っ」

 

 

 そして。

 ヒゼン・ソーマはそう言った。

 

 

 



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姉と妹と弟と

 

 

 

 

 きっと、これは決められたことだったと思うから。そんな顔をしないで、昔の笑顔を見せて欲しい。

 きっと、曲げられないことだったと思うから。そんな顔をしないで、ただただ頼って欲しい。

 きっと、とても辛いことだったと思うから。こんな私だけど、言わせて欲しい。

「ありがとう、ヒゼン君。今までイリカを守ってくれて」

 血塗れで泥だらけの男の子、それがとても誇らしい。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

「何しやがった、てめぇ……」

「う、動けない……っ」

 サンジとチョッパーは全身が硬直している。それが戦闘におけるダメージのせいかと言われればそれは否、サンジは重傷こそ負っているが慣れたものであるしチョッパーに至ってはほとんど万全である。

 それなのに、動けない。それは正しく、この終局がヒゼン・ソーマの狙ったとおりの結果だったからだろう。

 

「ぐ、ごほ……はぁ、はぁ……」

 ヒゼンは血の混じった吐息を零しながら痛む身体を引きずって歩いていく。まっすぐには歩けない。よろけ、蛇行しながらそれでも少しずつ二人との距離を縮めていく。

 やがて、体感時間は果てしなく、しかし実質三分ほどで二人に到達したヒゼンは薄ら笑いを浮かべて二人を見下ろした。

「トニー・トニー、チョッパー……質問に答えよう」

 それは、チョッパーが最初に投げかけた問い。ヒゼンが言わなかった答え。

「君たち二人、相手に……俺が敵うとは思わなかった…………それでも足止めは、しないと、いけない…………だから、こうした」

 二人を包むヒゼンの血液は既に凝固している。だがそれでも凝固と呼べるほどに量があるわけもなく、実際は付着したという程度だろう。だが彼にとっては、自分の血があるというだけで十分だった。

 

「俺と、君たちの生命力は繋がった。俺が致命傷とも言うべき一撃を喰らっても歩けるのは、君たちの力を使っているからだ。ごふ、はぁ……まぁ、怪我が治るわけじゃないけどね……」

 内臓がやられた状態では呼吸もままならないが、それでもこれが最後、二人には話してもいいと思った。どのみち三人は運命共同体となっている、意識を失うのは同時だ。

「それじゃあっ、俺たちが動けない説明にならない……っ」

 座ったままで話すチョッパー、今でも全力で動こうとしているが動けない。生命力を共有し、ヒゼンがサンジとチョッパーの力を使えるからと言われても二人の行動不能の理由にはならないのだ。

 ヒゼンは頷き、ゆっくりと腰を下ろした。もう動けない、身体が限界だった。

「血路は凝固する。これでいいかな?」

「わかるかっ!」

「でも実際、俺には説明できない。そういう仕様だよ……はぁ」

 大きく息を吐き、痛みを感じる。ここで彼が気絶した瞬間二人の束縛は解かれるだろう。それでは何の意味もない。

 わざわざご丁寧にここまで歩き、説明までしたのは自分への追い込みと生命力の消耗を早めるためだ。ヒゼンが力を使えば使うほどに二人は消耗する。仮に気絶しても結構なダメージになるはずだ。

 そして彼が近くにいることで精神的な追い込みも行う。敵が近くにいるという状況は、動けないことを地力で何とかしようと思う気持ちに繋がり、それは徒労に終わるのだ。

 

 後はそう、この目蓋を決して閉じなければそれでいい。他の麦わら海賊団はオートでタイムオーバーだ。そうすればイリカの詩が響き渡り全てが終わる。

 

 

 

 ――――久しぶり、ソウマ君。

 

 

 

「え………………」

 

 

 そんな、懐かしい声さえ聞こえなければ。

 全てが終わったはずだったのに。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 中佐が放心し、俺も何も言えない中、不意に電電虫が鳴きだした。それにようやく意識を引き戻された俺は本部からの直通連絡を受けることになる。それはまるで今の俺達を見ているかのような正確さで今回の核心に触れてきた。

「中佐が、駒……」

「そうじゃ。カタはトガトガの実の能力者の唯一の肉親であり、対抗できる術もようやく身についた。ここらが潮時だと上は判断した」

 咎人イリカ・レベッカに対抗できるものは限られており、かつその存在を殺しきることができる人物は存在しなかった。故に海軍上層部は咎人専用の軍人を生み出すことを決める。それが咎人のただ一人の肉親である。

 既に死亡していた肉体に悪魔の実を食べさせることで再稼動させるとともに、咎人との戦闘に耐えうるだけの性能を得るまで慎重に慎重を重ねて育て上げてきた。そして今、彼女の戦闘能力は計算上咎人を上回ったのである。

 

 通信先は俺の元上司モンキー・D・ガープ、かつて中佐の後見人だった人物である。俺自身豪快ながら配慮もできるこの人を信頼し尊敬していた。が、今聞いた話に絡んでいたとなれば話は別である。

「ガープ中将、一つお聞きしたい……中将はいつから、どこまで知っていたのですか?」

「…………最初から、何もかもじゃ」

「っ、あんたは――!」

「――キサヤ、お前人のために命を捨てられるか?」

 突然の問いに沸騰した感情が冷え、一呼吸置いて答える。はい、と。

「ならばわかるな?」

 自分の命を無力な民のために投げ出せるのなら、自分の良心やプライドも捨てて然るべきである。何の罪もない人間を利用し、結果として多くの人間が救えるのなら、自分自身がどんなに許せない所業でも為すべきだ。それが海軍としての使命であり宿命なのである。

 

「それでも」

「…………」

「それでも俺は、あなたにはそうあって欲しくなかったです。どんな壁も壊して進むことができる人だと、信じていたかったです……」

「ありがたい話じゃがな、わしには力が足りんよ。年若き娘を利用してしまうほどに無力じゃ。だからのキサヤ、お前に頼みたいことがある。これは命令ではない、頼みじゃ」

「…………はい」

「あの馬鹿娘を守ってくれ」

「………………はい」

 そんな頼みは命令と同じだ。俺にとっては、どちらも遵守しなければならないことなのだから。それでも中将が頼みと言ってくれたのが嬉しかった。頼られることがこんなに嬉しいことなんて知らなかった。

「上の席が一つなくなると思ったのに、残念だ」

「そうじゃな、じゃから精々力をつけることだ」

 笑いがこみ上げてくるがいつまでもそうしていられない。俺の仕事はここからだ、心ここにあらずの守るべき上官を叩き起こさなければならない。

 

「中佐。行きますよ」

「…………」

「よくわからないが、導きに会わなきゃ何も始まらないし、ここで座っていても何も変わらないってのだけはわかるぞ。馬鹿なあんたにはわからないのか?」

 ふ、と彼女の視線が上を向き、俺を見た。涙で濡れた瞳は扇情的だがそれ以上に繊細で脆い印象を与える。言葉には出さなかったが、否の感情が伝わってきた。

「わかっているなら早く立て。俺はさっさと上に行きたい、だけどそれは俺自身がその地位に見合う実力を付けてからの話だ。はっきり言って、今の俺はあんたに及ばない。だからあんたが勝手にこけて、その後釜に入っても意味がないんだよ。わかるか? あんたが正しく俺より下にならないと、俺がここにいる意味がないんだ」

「…………」

「今あんたがどんな状態か知らないけどさ、今行かなきゃ全部終わるんだ。俺の野望にもケチがつく、引っ張ってでも連れて行くぞ?」

 

「…………ふふ。引っ張られるのは、嫌だね……」

 どんな心境の変化か、瞳に生気が戻り、ぎこちなく笑う。温かな、しかし困ったような微笑はまるで今までと別人のようだ。

 ……いや、もしかしたら彼女は既に、俺の知る中佐ではないのかもしれない。ゆっくりと立ち上がり涙を拭う。頬を両手で張り気合を入れた。

「ハリー。私ね、全部思い出したよ」

「そうっすか」

「それと、どうして私が今ここにいるのかも、さっき知った。いや、わかった、かな?」

「……」

 聞こえていたのだろうか、それとも始めからわかっていて、それすら忘れていたのか。

 

 歩き出す。そのまま部屋を出ようとする中佐は、そうそう、と付け足すように何気なく。

「私はカタ・ナユタだから安心するといいよ、軍曹。変わらず君の壁であり続けると約束する」

「……小奇麗過ぎて気持ち悪いな」

「君の天邪鬼っぷりには負けるよ、あははは」

 振り向いてそう言った彼女だけど、それでもやっぱり違っていた。

 

 まるで、嘘を吐いているかのようだったから。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 踏みしめる道が懐かしい。関心があるわけでもないから普段歩く地面に思い入れは何もないけれど、それでも今立っている場所には不思議な感慨が湧いてきた。

 

 ずっと、ずっと歩いてきた道だった。

 

 三人の姿がある。一人は寝転がりタバコを銜えたままで、そのタバコの灰が今にも落ちそうな黒足のサンジ。その彼を診断するように傍に座り動かない綿飴大好きトニー・トニー・チョッパー。

 そして――

 

「久しぶり、ソウマ君」

 幽霊でも見るかのように呆然とこちらを見つめる導きのヒゼン・ソーマ。隣にいるハリーが一歩後退した。その配慮に素直に感謝する。

「ど、うして……」

「それとも初めましてかな? 私は海軍本部大佐カタ・ナユタ。こっちは副官のハリー」

 ぎり、と歯をかみ締め導きは私を睨む。それには今日会ったばかりの人間に向けるべきでない激情が込められていた。

「どうしてここにいるっ!? 早く島を出ろと言った――がはっ!」

 最後まで言い切れずに吐血し頭を垂れた。血塗れで、泥だらけで、いっぱいいっぱいで。記憶にある彼とはちょっと違うけど、それは成長したって証拠だから愛おしい。

 何もできなかった彼が、こんなになってまでやろうとしていることが容易に想像できて、とても嬉しい。

「約束、守ってくれているんだね……」

「だからっ、早く……!」

 

 胸に手を置き、万感を込めて。

 

「改めて久しぶり、ソウマ君。私はカタ・ナユタ、昔の名前はリーティア・レベッカ。君の義理のお姉さんだよ」

「…………………………………はは」

 ソウマ君は私から視線を外し乾いた笑いを浮かべた。そこには自嘲と侮蔑と、何より怒りが込められていた。小さすぎる動作に大きすぎる感情を感じた。

「――イリカのことは調べているんだな、まさか姉さんを利用するなんて思わなかった。ああそうさ、死んだ人を騙るなんてごみくずにも劣る行為をするだなんて思わなかったさ!」

 文字通り姉の仇を見るが如く睨んでくる。満身創痍であるにもかかわらず、出血がひどくなることにも構わずソウマ君は立ち上がった。

 呼吸音がおかしい、内臓の損傷は命の危険にまで達していた。

 それでもわかる、ソウマ君はまだ、自分を騙しきれていない。

 私が死んだことは知っているけれど、それでもここにいる“私”が本人のように感じてしまっているのだ。だからこそ、そんな幻想を振り払うために彼は立ち上がった。自分の手で、そんな逃げ道を塞ぐかのように。

 

「でもね、私はそんなことしてほしくないよ」

「バウンド――!」

「――――やめなさい」

 間合いを詰める。一瞬で距離を零にし両手を掴んだ。六式の一、高速移動術“剃”。きっと万全なら目で追うくらいはできたかもしれないけれど、今のソウマ君では捉えきれない。

 呆然と私を見下ろす。ああ、ちょっと前までは私と同じくらいだったのに今ではこんなに大きい。

「わかっているんでしょう? 私が“私”であることを」

「違うっ! リタ姉は死んだんだっ、あなたは別人だ――ッ!」

「悪魔の実はモノでも食べることができる。死体というモノになった私に海軍は悪魔の実を食べさせ蘇生させたの。動物系ならば悪魔の他に動物の因子がある。銃が犬になるように、私はそれで今の私になったんだ」

 可能性はあるという程度でしかない説明だ、ソウマ君には判断のしようがないと思う。

 だから私には彼を信じて見つめることしかできない。記憶を掘り起こして本人だと教えることしかできない。

 

「ありがとう、ソウマ君。イリカはあんなことになっちゃったけど、近くにソウマ君がいたから今まで生きてこれたんだと信じてる。君とイリカが婚約した時、あの子はもうわからなくなっていたけど、それでも幸せだったって今でも思うんだ」

 村のみんなで祝った二人の門出は少し物悲しかったけれど、でも私は本当に嬉しかった。

 本当に嬉しかったから、だから今は嬉しくて、苦しい。こんなになってまでイリカを守ってくれるソウマ君――――いや、ヒゼン君。

「ねぇ、イリカはもう君のことをヒゼンって呼んでいる?」

「…………」

「――あの時のように、私は君のことを“ヒゼン”って呼んでもいいのかな……」

「………………あ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イリカがヒゼンって呼ぶんなら、じゃあ私がソウマ君って呼んであげるよ。そうすれば君は故郷を忘れずにいられるでしょう?

 ……じゃあ俺はリタ姉って呼ぶ。リタ姉が俺をそう呼んでくれるなら、俺もみんなと違った呼び方がいいから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ありがとう、ヒゼン。イリカは幸せだね。

 …………どうして、ソウマじゃないんだ……?

 ……ごめんね。きっとイリカは本当ならこう言ってくれると思ったから。それに君はもう、本当の家族でしょ……?

 ……だめだよリタ姉。俺にはレベッカは名乗れない。イリカを守れない俺には、まだその名前は重過ぎる。いつか、いつか、それを受け入れるから、今はまだ……

 …………うん、わかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 膝が折れ、ようやく私と彼の視線は同じ高さになった。瞳から流れた涙が乾いた頬を伝っていく。

 血塗れの両手を優しく包んだ。歪な手は骨も砕けて痛々しい。私に治す術がないのが悔しいけれど、せめてその痛みが少しでも和らいでほしい。

「リタ姉…………イリカを殺すの?」

 あの時のような子どもの目で、ヒゼン君は私を見た。懇願に似た問いかけ、それに私は微笑むだけ。答えを言ってしまってはいけなかった。

「ありがとう、ヒゼン君。今までイリカを守ってくれて…………お姉ちゃんは、イリカは――――とても幸せだった」

 受け止めるように抱きしめた。彼の体は固くて、温かくて、それはとても幸せな感触。儚い夢のように、泡沫のように、それを二度と感じることはないだろう。

 覇王色の覇気を、最低の力で送った。苦しむこともなく眠るように崩れ落ちる。それを契機として今まで黙っていた二人が動きを開始した。とはいっても黒足は寝たままである。

「黒足のサンジ、山に向かったのは麦わらか?」

 ハリーが問い、黒足は頷いた。あと糞マリモ、とはおそらく海賊狩りのロロノア・ゾロだろう。ヒゼン君が気絶したとて彼の変えた道が戻ることはない。まだ迷路の中にいるはずだ。

「ハリー、君は海賊狩りを頼むよ。望むところだろう?」

「ええ。中佐は――」

 

 これが本当。本当なら村はあそこで終わっていて、私もイリカもヒゼン君も、あそこで果てていたはずだから。

 

 

 

「――咎人を止めるよ。麦わらは、まぁ余力があったらやろうかな」

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 ヒゼン・ソーマが倒れたことによってそれぞれの足止めに変化が起きた。サンジ・チョッパーは予想以上の消耗にへたり込み、ウソップ・ナミ・ロビン・フランキーは無限に修正されていた移動通路から解放された。

 そしてロロノア・ゾロは奇跡的な方向音痴ぶりを発揮して山の反対側に到達し、モンキー・D・ルフィはじれたために道を形成していた壁を壊しながら上を目指していた。

 そして麦わらのルフィはヒゼンの予想外の速さで頂上に到達、そこで死の羽を持った少女と再会した。

 

「あら? ……えーっと、そう。ルフィ、だったかしら。何しに来たの?」

「お前を止めに来たっ!!」

 ずっと走り続けたからか、ルフィは大汗を掻き肩で息をしながら叫ぶ。そのテンションの違いは常人ならば軽く引く、しかしイリカに変化はない。

「“詩”をやめさせたいの? ここまで来るの大変だったでしょう? ヒゼンが頑張ったからね。そういうところは本当にだいっ嫌い」

 からからと嗤う。その得体の知れなさ、違和感を覚える不自然さにルフィは張り詰めた緊張をなおも加速させた。

「……でも残念、もう終わったの」

 両手を広げ、満面の笑み。怖気を感じたルフィは剃を敢行、瞬く間に少女との距離を詰める。その時間は一秒にも満たない、それなのにルフィは、少女の言葉を確かに聴いた。

 

 

「――もう、歌える」

 

 

 

 

 終わりの鐘が、イリカ・レベッカを祝福した。

 

 

 

 



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針小膨大

 

 

 

 トガトガの実の咎人。それは超人系に分類されるが、しかしある意味では自然系に及ぶとされている。その理由は即ち、ゴムゴムの実のゴム人間に打撃が効かなくなることと同じ、超人系でも種類によっては一定の攻撃が通らなくなるという事象である。

 それはある種当たり前の常識だ。しかしトガトガの実はその無効化する攻撃種類が異常なのである。

 

 即ち、悪意。

 人間の感情を理解する咎人は悪意ある攻撃では倒せない。害意を持つ攻撃では意味がない。そしてそれはほぼ全ての攻撃が無効化されるという結果と同義なのである。

 攻撃とは、相手を害する行為なのだから。

 

 さて、では覇気を使えばどうなのだろうか。覇気は自然系――ロギアの流動する身体にすら通用する。それは確実に能力者の実体を把握するからだ。確かに覇気は咎人にも効果はあるだろう。実体はあるのだ、むしろ効かないほうがおかしい。

 しかしここで重要なのは、覇気の力が能力者の実体を捉えるという事実だ。だからこそ覇気では咎人を打倒し得ないのだ。

 咎人にはちゃんと実体がある。ゴムのように伸びることもなく、煙のように実体がないわけでもない。実体はあり、それは間違いなく生身の人間と同じなのだ。

 しかし敵意ある攻撃では殺せない、というだけで。

 

 覇気は確かに咎人を捉えるだろう。きちんと打ち、切り、射抜くだろう。しかし絶対に殺せない。

 攻撃は通り、ダメージもいく。しかし絶対に殺せない。

 明確な敵意は咎人の心臓の敵にはならない。それは即ち己と同じだから。

 だからこそ彼女はジュラキュール・ミホークの襲撃を退けられた。幾度とあったピンチがピンチ足りえなかった。

 

 咎人となった彼女の行為に、敵意を催さない人間など皆無なのだから。

 

 

 

 ***

 

 

 

「それで、ルフィ? あなたはどうするつもり? イリカを殺すの?」

「は? 何言ってんだお前。俺はお前を止めるって言っただろうが」

「……うーん、それは殺すって意味と何が違うの?」

「馬鹿か。殺すのと止めるのなんか違うに決まってるだろ。俺はお前を止めたいと思うしぶっ飛ばしたいと思うけど殺したいなんて思わねぇ」

 頤に指を当て、

「わかんないなぁ。殺すのと息の根を止めるのと何が違うのよ?」

 イリカ・レベッカは当然のように言葉を足した。

 

「ねえルフィ。あなたはどう思う? 自分の好きなことを遮られた時、その相手を殺したいと思う? イリカは思うわ。絶対に許さない絶対に許さない絶対に許さない絶対に許さない嬲るように脳みそを弄って弄って弄って弄り倒して、それからもう考えることもできないくらいにめちゃくちゃにするの。そうするとみんなが“お前は間違っている”と言うわ。最近気づいたの、みんなが間違っているって言うことこそがイリカにとって当たり前のことなんだって」

「……気持ち悪ぃ」

 両手を広げて口上を続けるイリカを、モンキー・D・ルフィは素直にそう思った。

 眼前の少女には言葉が通じないのではないか、そう思うほどにその思考は異常で、だからこそ彼は少女を止める必要があると直感した。パキ、と指を鳴らす。威圧するように睨んだ。

「正義とか悪とか良いとか悪いとかそういうのが蔓延しているけれど、結局は都合って言葉を言い換えただけなのよね。イリカがすることが都合が悪いから違うって言うだけ。明確な基準なんてたった一つよ。認められるか認められないか、ただそれだけなのに。そんな主観を押し付けてくるのはおかしいわ。やっぱり人っていうのはおかしいのよ」

「俺はお前の言いたいことが小難しくてわかんねぇ。わかんねぇけど――」

 

「イリカのしたいことは、俺がしたくねぇことだから止める」

「…………」

 

 畢竟、そこに尽きる。モンキー・D・ルフィが考えることはイリカ・レベッカには関係がなく、改めさせることもできない。つまりは平行線、最終的には対立する運命は変わらない。それをおそらくルフィはわかっていて、イリカはわかっていなかった。

 彼女は本気で狂いながら、それでも自分が狂っていないと信じていた。彼女のすることも押し付けだとわかっていなかった。

「――ふぅん、そう。でもさ、ルフィ……?」

 ぞわりと気味の悪い風がルフィの頬を撫でた。自身は風下、風上にいるのは得体の知れない少女である。対照的に心地よさそうに髪が揺れ、イリカは見下すように彼を見た。

「イリカを止めることはできないよ? だってもう“謳える”んだもの」

 

 少女が息を深く吸った、瞬間、ルフィは駆け出した。超人的な身体能力を持つ青年と通常以下の力しか持たない少女の対決は対決にすらならない。

 イリカが一音すら奏でることは叶わずに、ルフィは彼女のどてっ腹に拳の弾丸を撃ち込んだ。

「……っ!!」

「…………」

 確実な手応え、足場もしっかりとしているために全ての力をうまく伝えられた。彼方まで吹き飛んでもおかしくない、少女の体格では言うまでもない。骨を粉砕され激痛にもがいてもおかしくない。

「え……!?」

「…………だからさ、ルフィ?」

 

 ――ならば、今目の前にいる少女は、一体なんだと言うのだろう。

 

「聴いてよ、イリカの詩“覇悪”」

 

 大きく息を吸い込んだ。肺が膨れ、めり込んでいた拳が突っ返される。呆然とするルフィを嘲笑うかのように、イリカの高音が空間を支配した。

「…………っ!」

 音の津波が世界を襲う。怖気も消し飛ぶ圧倒的な支配力。それに対し、飲み込まれる刹那ルフィは記憶を呼び起こした。

 

 

“精神が死ぬんだ。狂い、イカれ、原初に立ち返り、破滅する。そうなる詩が聞こえてくる”

“止めるにはただ一つ、詩を止めるしかない」”

“この島の全ての人間が死ぬ”

 

 

 

 

「やめろぉぉおおおおおおおおおおおおおお――――っ!!!!」

 

 

 

 何かが、そこで弾けた。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 おそらくは山の中腹だろう。下を見ても傾斜、上を見ても傾斜な辺りそうだと思う。そんなことを悠長に考えながら、ロロノア・ゾロは頭をがしがしと掻いた。

「妙だ、てっぺんが遠い」

 ヒゼンの作り出した迷宮にゾロの生来の方向音痴を加えれば、実はまさかの頂上まで一直線。という終わらないランニングマシンに疲れきったナミが考えた妄想は正しく妄想で、実は上を目指していたのに今では下っているという予想の斜め上、いや斜め下を行っているゾロ。

 流石に疲れたのか汗は滝のように出ているが、表情は馬鹿っぽいのでそこまでの疲労ではないのだろう。

「ふむ」

 思考する。この道は正しいのだろうか。上を目指せばいいだけの簡単なお仕事だったはずなのに道が上に続かない。ということはこれは罠か、と今更ながらに考えた彼がすることは一つだった。

「上まで真っ直ぐ、邪魔なものは斬ればいい」

 体力は使うがそれが一番である。ということで壁に穴を開け続け始めたのが五分前の話。

 

 そして現在――

 

「わかりやすくて助かるよ、ロロノア・ゾロ」

「あ? なんで海軍がここにいるんだ」

 

 見つけてくださいという風に行動しまくっていた彼は、見事に彼を狙う人物に遭遇した。

 

「上の命令でね、お前の相手をする者だよ」

「俺は海軍なんかに付き合っていられるほど暇じゃないんだが」

 腰に挿した剣を見て、ゾロは相手が剣士だと知る。願うなら戦いたいが、そんな時間はないことくらいわかっている。付き合う気はないと手を振った。

「上のことなら心配ない、この事件のために全てを尽くす人が向かったからな。それになロロノア、お前剣士の俺に見逃されたなんて噂されていいのか?」

「――へぇ、いい挑発だ。確かに剣士に逃げたなんて言われちゃあ俺の名が廃るってもんだ」

 剣を抜き、切っ先を向ける相手に対し、鬼のような表情で刀を抜くゾロ。わかっていたことだが、相手取って他を考える余裕はなさそうだ。

「海軍本部ナユタ大佐副官のハリー・キサヤだ」

「ロロノア・ゾロ、世界一の大剣豪になる男だ」

「勝手になればいいさ、あの世でな」

 

 ハリーが跳ぶ。一直線にゾロに向かい刺突、

「っ」

 それを二本の刀で交差するように受け止めた。二本の交差部位と拮抗する切っ先にハリーが笑う。

 刹那、怖気の走ったゾロは強引に身を屈め――

「吹き飛べ」

 間に合わず、一度止めた突きに弾き飛ばされた。土煙を上げて吹き飛ぶゾロは転がりながら体勢を整える。膝を着きながら止まった。

 

 なんだ、今のは……

 

 完全に勢いを殺したはずの攻撃、まるで衝撃が通ったかのような錯覚だ。原因を考える間もなくハリーが跳ぶ。受けるのはまずいと二本の刀で切っ先を逸らしながら避ける。振り切るのと異なり刺突は見づらい上に戻りが速い。攻撃に転じる隙がない。

 と、ハリーが消える。

「ちぃ!」

 反転し、後背を狙った剣を弾いた。剃、高速移動術。六式の内もっとも応用力のある技だ。

 しかしゾロも六式使いとの戦いを経てここにいる。ハリーの剃では決定打を狙えない。だが、それでいい。弾き返され開いた間合い、ハリーは腕をしならせた。剣の間合いの外だが、ゾロにも攻撃手段はある。故に油断しなかった。

「刺弾」

 馬鹿の一つ覚えの突きは大気を突破し弾丸となる。鎌鼬を極限まで圧縮したようなものだ。その鋭さは並の斬撃を上回る。しかしゾロはそれをかわすことなく受け止めた。

「それが三刀流か、馬鹿みたいだな」

「うるせぇ」

 両手の二本、そして口に一本。三振りの刀を携えてゾロはそれを受けた。衝撃に弾かれることもない。

 と、彼は刀を離し頭に黒のバンダナを巻いた。本気の戦闘態勢の表れである。その隙をハリーは黙って見つめていた。慢心ではない、彼の役割はこの男の足止めだ。ならば時間がかかることは歓迎するべきだ。

「一つ聞きたいんだが」

「あ?」

「どうして口に銜えようとしたんだ」

「二本じゃ勝てなかった奴がいたんでな」

「……?」

「…………?」

 互いに首を傾げた。ハリーはその理屈が理解できず、ゾロはこの説明を不思議そうに受け取った相手の仕草に対してだった。

 

「……いや、本気か?」

「当たり前だろうが」

「え……本当に馬鹿なのか? ええと……だ、大丈夫か?」

「何の心配してるんだてめぇは!?」

「普通は口に銜えようなんて思わないだろ。二本で勝てなかったから三本だって、数の問題じゃないだろうに」

 心底かわいそうなものを見るかのようなハリー、それに対し若干恥ずかしそうなゾロである。

 いや、わかっていたのだ。ただ当時は子どもだったから、剣の数を増やせばいけるんじゃないかと思っただけなのだ。そしてそのまま修行し続けてしまっただけなのだ。

「ちゃんと手入れはしているのか? 口に銜えて唾液塗れなんてかわいそうだろ。ああ、口に含むんだ、消毒もしているか?」

「いちいちうるせぇ! お前俺の敵だろうが!」

「違う、お前が俺の敵なんだ」

「……?」

「世間一般に見れば、お前が俺の敵だ。海軍と海賊がいて、民草が味方するのは俺だろう?」

 ハリーの敵ということではない、世界の敵だ。海軍が敵というのは海賊やその他犯罪者の弁に過ぎない。本来海軍は敵という括りに入らないグループなのだ。

 とはいえそんなことは今この場に関係がない。ゾロは考えることをやめた。

 

「おんなじだろうが。俺がお前を斬ることに変わりはねぇ」

 前傾姿勢となり、纏う空気が獣のそれになった。いつ踏み込んできてもおかしくない、凶暴なイキモノ。それに対し、ああ、と呟いて――

 

「というよりなんだ、ロロノア。お前――ただ逃げただけじゃないか」

 

 話を引き戻した彼はその空気をぶち壊した。

「何……?」

「だってそうだろう。二本で勝てないから三本、ということはどうせ最初は一本同士だったんだろうが。同じ得物の数で負け、増やして負け、更に増やした。ということはお前、同じ土俵じゃ勝てないから逃げたってことだろう? ああ、同じ剣士だ、とか言うなよ。条件が対等じゃないって言ってるんだ。端からお前が二本や三本でかつ相手が一本なら別にいいがな、お前はそいつに負けたことでスタイルを変えたんだろう? じゃあやっぱり逃げたってことじゃないか。最初のスタイルで勝とうって思えなくなったんだろ?」

 そしてそのまま、ハリーは間合いを詰めた。一方的に言って反撃を待たずに突きを連ねる。ゾロはそれに一瞬反応が遅れ、結果後手になる。刺突のスピードに迎撃できない。

 無数の剣戟、ハリーは突きの間合い外に踏み込んだ。即ち、超々至近距離である。

「黒雛」

 剣を持たない左手の指、その一本一本が刺突となりゾロの胸元を貫く。

 六式の一、指銃に似たそれはもともとはハリーの扱う剣術のものだ。おそらくはどこかから洩れたのだろうが、指銃は通常指一本で貫くのに対し、黒雛は五本全てで相手を貫くものだ。

「ぐぅ!?」

 素手での攻撃にゾロは咄嗟に距離を取る。圧倒的な脚力で弾かれるように間を開け、それはつまり中距離の攻防の合図である。

 

「刺弾」

「三十六煩悩鳳!」

 にらみ合う先で斬撃が相殺される。それを見届けることなくもう一度距離を詰めた。ゾロの背後に鬼の形相を見たハリーは心なしか防御に意を注ぐ。

「鬼――斬りッ!」

「く……っ!」

 剣の腹で受け詰めるもその衝撃は凄まじい。突進からの三振り同時攻撃、踏鞴を踏み、体勢が崩れた。そこに再び猛牛が現れる。

「牛――針!」

「ちぃ――っ!」

 お株を奪うかのような突きの連打、更に突進による勢いまで加わっている。もともとの体格ではゾロのほうがパワーはある、結果的にハリーは堪えきれずに弾き返された。

 それでも体勢は崩しきらず、更に猛追するゾロに対し剣を構える。肩よりも高く構え、切っ先を僅かに下ろした。

 

「百合の太刀――!」

「牛鬼――勇爪!!」

 更なる突き、しかしこれは一撃に特化したものだ。それに対して上段からの突きを放つハリー、その威力はゾロのそれに引けを取らず、五分。

 しかしたとえ五分でも、こと突きに関してハリーに負けはない。手首の返しで刀を逸らし軌道を変え、そのまま腕を伸ばして地面へと突き刺す。地面が抉れ土が飛び散る。その目くらましに咄嗟にゾロは目を細め――

「――!?」

「落葉遡行!」

 地面を抉った切っ先が反射され上へと伸び、勇爪を放ち懐が開いたゾロの隙を突いた。逃げ切れず、受け切れない。ゾロは反射的に身体を仰け反らせ決定打を避ける。避けきれず肩口を剣が貫通し血飛沫が弾けた。

 激痛を無視し、避けた反動で回転、次打に繋げる。今度はハリーが避けきれない。

「竜巻!」

「――――っ!」

 斬撃の竜巻に飲み込まれ切り刻まれながら浮上する。それでも声を出さずに耐え収まるのを待ち、遥か上空で受けきった。そしてそこは、彼にとって最も都合のいい高さである。

 

「世界樹の太刀――!」

 剣を地に向け落下体勢に。位置エネルギーと自身の技量を乗算した威力の最大の刺突を敢行する。対するゾロは相手の構えに背筋を震わせながら対空攻撃の準備を整えた。

 

 ――風が吹き、星が引き寄せる。

 

「千穿万華!」

「青龍印――流水!」

 

 

 衝突が齎したものは空気の炸裂と衝撃、そして立っている勝者の存在だった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 風が吹き、歌声が響き渡る。同時に叫んだ懸命な声も響いた。その二つは両者の予想とは裏腹に同時に止み、そして同時に両者の顔色を変えた。

「はぁ、はぁ、はぁ…………あ?」

「……何? 何であなたは平気なの? それよりも、どうしてイリカの詩は止まってしまったの……?」

「な、なんか知らんけど、助かった……っ!」

 等しく発狂を齎す詩は、しかしどんな理由かかき消された。当然イリカは途中で止めておらず、ルフィは元々明確な阻止方法を知らなかった。結果攻撃に訴え失敗したわけなので更に蚊帳の外である。

 しかし、その理由を知るもう一人が現れたことで、この事件は終息へと一気に近づいた。

 

「――久しぶりね、イリカ。お姉ちゃんがお仕置きに来たよ」

 

 

 リーティア・レベッカ――カタ・ナユタ。

 お姉ちゃん、と風が泣いた。

 

 

 

 



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自分を騙せる嘘

 

 

 

 トガトガの実が脅威足りえる理由の最大の一こそが、イリカの言うところの“詩”である。いや、ただそれだけが脅威であったと言っていい。もとよりトガトガの実によって齎される力はそれだけだったのだから。

 広範囲の能力拡散、それは精神汚染のそれであり、イリカの持つ精神構造を他人にも押し付けるという理不尽なものである。人間の汚い部分を丸ごと飲み込み、最早それ自身となったイリカにこそ耐えられるそれは常人には毒でしかない。

 最終的に自我が崩壊し精神死するわけだが、それまでの間に今までの心持ちではありえない行為をし続ける。それは肉体が強ければ強いほど脅威となり、イリカにしてみれば他人を武器にするような行為である。

 

 さて、そんなトガトガの能力者。過去駆除されなかったわけではない。この詩に耐え切れるものは存在するのだ。それは現世で言えば海軍に指令を出されたジュラキュール・ミホークであり、そして、今イリカの眼前にいる二人でもある。

 条件は偏に、ただ持っているかどうかである。

 

 

 

「トガトガの最高の能力――いや最低の能力か――覇悪は、云わば覇王色の覇気と同系統だ。つまり覇王色の覇気を扱える人間になら覇悪は相殺でき、正常な精神で相対することができる。そして当然、その拡散にも対応できる。ま、覇王色なんて完全に資質だし、彼のように制御できなかったりするから考え物だけれど」

 そして、カタ・ナユタは妹を見た。

 イリカ・レベッカ、咎人と呼ばれ忌避される殲滅対象。そんな彼女に対し、カタが思う心は一つだけだ。

「イリカ、今までごめんなんさい。お姉ちゃんはもういなくならないから、寂しい思いなんてさせないから…………だから一緒に帰ろう?」

 手を伸ばす。それを潤んだ瞳で見つめるイリカは、しかし三日月のように、蝕まれた笑みを浮かべた。

「お姉ちゃん、イリカを殺したいんだね? わかるよ、わかるわかる。お姉ちゃんは優しいことを言っているけど、でもイリカを殺したいんだ。覇王色の覇気っていうのが何なのかわからないけれど、でもイリカは歌えないってことよね? ならイリカはお姉ちゃんとソレを砕いて歌うわ。だってヒゼンが歌っていいって言ったんだもの」

「お前……」

 今まで呼んでいた人間を“ソレ”に降ろし、イリカは哂う。

 ルフィは姉妹の会話に口を挟まない、挟めない。彼は頭が足りないが、大事なことはわかっている。

 

「違う、違うのよ。イリカ」

 ふるふると首を振った。カタは――リーティアはまだ、戦うつもりはない。

「イリカはわかっているんでしょう? 私たちの村が、あの穏やかなナガシ村が消滅したのはあなたのせいではない。でもそれをやったのは、あなただっていうことを」

 イリカが悪魔に取り付かれたことは不幸以外の何物でもない、だからこそ村の破滅は運命だったとしか言えないだろう。しかしどうであれ、その実行者はイリカなのだ。未来に村のことが書かれたのなら大罪人は彼女なのだ。リーティアの妹のイリカなのだ。

 イリカは笑みを消し、天を仰いだ。それは涙を堪えているかのようでちぐはぐだった。

「村、か……確かにイリカとお姉ちゃんとヒゼンの大切な村だったね」

「そうよ。大切な、思い出の場所。あなたが悪いわけじゃない、でもあなたが村を復興させられるならそれが一番なのよ。一緒に村に帰ろう? 一緒に、今までの時間を取り返そう? だから――」

 

 

「うん。それでお姉ちゃん、その村ってなんて名前だったっけ?」

 

 

「………………え」

 

 

「村、むら、ムラ……前は大切だった気がするんだけど今は違うから忘れちゃったっ。えーと、お色気?」

「…………」

 ルフィが口をぱくぱくさせていた。普段の彼ならば、おそらくは突っ込みを入れていただろう。しかしそれはなんでもないボケに対して、という前提が付く。今回の発言は、ボケにしてはいけない言葉だった。

 故郷の村、おそらくは言葉通り大切だったはずの場所。それすらも彼女にはもう残滓しかない。

「…………っ」

 顔を歪め、リーティアは頭を振った。依然考え込むイリカの姿は苦痛に余る。もう見ることすらしたくなかった。

 それでも、見ないわけにはいかなかった。

「…………ナガシ村よ、イリカ」

「あ、そっか。覚えたわ、もう忘れない!」

「ええ、いい子よ、イリカ」

 イリカは破顔する。それは褒められた無垢な子どもで、だからこそもう、後戻りなんてできないのだ。

 精神年齢はおそらくは事故後とそう変わらない。しかし悪魔の実に蓄積した負の意志は彼女の行動原理を変えてしまった。優先順位を歪めてしまった。

 

「――わかっていたことなのにね」

「ん? どうしたのお姉ちゃん?」

 なんでもない、とリーティアは微笑んだ。哀しそうな笑みだった。

「麦わらのルフィ、お願いがあるんだけれどいいかな」

「なんだ?」

「イリカが終わったら、私を殺して?」

「…………」

「お願い」

「嫌だ。ちゃんとお前、そいつに殺されろよ」

 ルフィはどっかと腰を下ろした。彼の空気は完全に観客のそれである。詮無い返事にリーティアは苦笑した。自分らしくないな、と思った。

 

「――イリカ、お姉ちゃんはイリカが大好きなの。あなたの幸せを何より祈っているわ」

 ――だから、安心して眠って。

「――――あははは、お姉ちゃん! お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんッ!」

 

 

 そして、ありえなかった姉妹喧嘩が始まった。

 

 

 

 

 リーティアは六式使いだ、故に彼女の戦法は徒手空拳である。妹を殴る蹴るというのは姉として心が痛む行為だが、既に痛みすぎて無痛状態である。できる限り早く妹を救いたい彼女としては、最早取れる手段なら全て活用する腹積もりであった。

 剃で移動、懐に入り、指銃を放つ。それをイリカは哂ったまま受け止めた。

「あああああっ!」

「――っ」

 絶叫、妹の苦痛。唇を噛み千切ってそれに耐えた。

 肉親を傷つけた証明が耳を犯してくる。指に触れる肉の温度が気持ち悪い。引き抜いたそれには血が付いていて、それが吐き気を催した。

「うぇ、ああああ――っ!」

 後方に飛び退き、膝を着いて吐いた。久しぶりの感覚だった。涙で視界が滲む中、イリカが笑っていた。

「痛い、痛いよぉお姉ちゃん……っ、こんなに痛いなんて、すごいよぅ……」

 哂いながら泣いて、両手を掲げた。手術前の意志のように十指を立て、そして一気に開いた。吐き気を催す覇気が指先から離れ、形作られる。

 

「十牙-トガ-」

「っ!」

 無垢故の対価だろうか、イリカは詩以外の力も持っていた。十体の黒き狼は心身を殺すべく襲い掛かる。口元を拭ったリーティアは立ち上がり獣の突進を受け止めた。

「武装硬化!」

 黒くなった両腕で狼を打ち据える。実体のない彼らを丁寧に叩き伏せ、見聞色で避けきる。しかし相手は獣、傷も相応に負った。

「すごい、すごいわお姉ちゃん! 前から強かったけど、でも今はもっと強いんだね! イリカ嬉しいわ!」

「ありがと。でも違うわ、私は変わっていない。イリカが変わったのよ」

 

 とても弱くなった。私も、たぶん弱くなった。大切な人を守れなかったのだから。

 

「行くよ」

 嵐脚、脚力による鎌鼬が迫る。イリカも流石に痛いのを嫌がったのか、横っ飛びで避ける。蝶のように綺麗だった。

「冥府の風-プルートガスト-」

 十指が球体を包むように動いた。覇気が激流の竜巻となり顕現する。上空に放り投げられたそれは一気に拡大し大気の奔流となってリーティアに襲い掛かる。

リーティアは左腕を引き絞り、血に塗れた腕を振るった。

「覇気千穿!」

 大技の衝突はイリカの勝ち、リーティアは吹き飛び地に叩きつけられた。しかし軌道を逸らすことには成功しており、冥府の風はスパイラルガーディアンの残った木々を死滅させて彼方に消えていった。

 

「あはははははは、すごいよお姉ちゃん! あれを見て生きてるの、お姉ちゃんとヒゼンくらいだよ! ……あれ、そういえばヒゼンはどこに行ったんだろ? お姉ちゃん知ってる?」

 それまでの攻防をないがしろにし、血を流したままイリカは問う。リーティアもまた、それまでを忘れ姉として答えた。

「ヒゼン君は、向こうで先にお休み中よ」

「そっかぁ。ヒゼンってばイリカを放っといてどんなご身分なのかしら………………あれ?」

「…………」

 そうしてまた、イリカは首を傾げる。自身の記憶と今の会話ではナニカが違っている気がした。だが、思い出せない。

「その約束は覚えていてほしかったな……」

 あの時、イリカも一緒にいて、一緒に笑い合ったのだから。

 諦めきれない気持ちが口から零れていく中、リーティアは駆けた。中遠距離では一撃の威力が違いすぎる。リーティアには近距離でしか勝つ手段はないのだ。

 一気に飛び込みつつ、嵐脚を放つ。加速する斬撃を避けきれずイリカは左腕を裂かれ、鳴いた。

「イリカ……っ」

 辛い。しかしもう止まらない。五指で放つ指銃はハリーの見よう見まねだ。心臓を狙い、しかし逸れ、右肩に突き刺さる。イリカの目が見開いた。

 声は洩れず、しかし口が動いた。手が動いた。リーティアは気づくが遅かった。

「きゃあああああああ!?」

 今度はリーティアが絶叫する。貫いた五指が離れ、吹き飛ぶ。彼女の腹に突き刺さるのは四足動物の頭部だ。

「偽善狼-ライトガルム-」

 漂白された狼は先の十体よりも大きく、速い。リーティアを吹き飛ばした後、大顎を開けて飛び掛ってくる。体勢を立て直したリーティアが月歩で中空に逃げる。が、ガルムのほうが速く、高かった。

「く……紙絵――――じゃない鉄塊!」

「――――――!」

 声鳴き咆哮、回避を選択した後考えを改める。

 そしてそれは正解、結果としてガルムの牙に軽傷で済んだ彼女は鉄塊を解き蹴りつける。ガルムはしかし大事無く着地した。

 

 間違ってはいけないのは、ガルムもまた覇悪であるということである。

 トガトガの能力者の覇気は全て精神を狂わせる力を持つ。紙絵は回避技、物理攻撃を回避できてもその覇気からは逃れられない。一歩遅ければ覇王色での相殺が間に合わないレベルの汚染を受けてしまうだろう。

「武装硬化」

 全身を武装色で覆う。ガルムは着地後すぐに狙ってくるだろう、そこをカウンターで仕留める。

 果たしてリーティアが着地する瞬間、ガルムは動いた。神速の歩行、突進だけで骨が砕けるそれをもう一度喰らったならば命はない。

「もう死んでるけど、ねっ!」

 着地と同時にガルムの両爪が襲い掛かった。槍のようなそれに貫かれれば如何に武装色でも致死だろう。

 だからこそ――

「砕破九竜!」

 それを模した一撃で打ち倒せる。頬を裂いたその一撃の威力に何の感傷もなく、消えていくガルムの先にいるイリカを見る。両腕で自身を掻き抱くイリカを見て、リーティアは自分の予測が真実だと確信した。

 

 このままでいい――!

 

 トガトガの実の能力者を殺すには悪意無き攻撃が必要だが、それでも攻撃という行為自体は緩和されるのである。しかしその緩和の原因は間違いなく覇悪にある。

 つまり、覇気。イリカの覇気を削れば削るほど、リーティアの攻撃は致死になる。

 本来ならばいくら覇気を削ろうとも殺すことは不可能だ。しかしたった一人の肉親であり、真実イリカを思って攻撃できるリーティアにならば、それだけで確率は高くなる。

 事実、たった二発しか入っていない攻撃で、イリカは驚くほどに消耗していた。あるいは姉との戦闘に昂揚が大きすぎて制御が効かなくなっているのかも知れない。

 

「イリカ……」

「う……あは、あははは、あはハハハはははハハハっ! 嗚呼、すごい! すごいすごいすごい! 痛いことなんて何度もあったけど、こんなに痛いのは初めて! これってもしかして、イリカも平等!? あはは、あはははははははははは!」

 全てに平等に訪れる死の感覚にイリカが哂う。そんな妹を哀しげに見つめながらリーティアが覇気を纏った。

 両手が鈍く哀しく染まる。赤い液体が優しく零れ落ちる。

「武装硬化――晶」

「あはっ――――お姉ちゃんかっこいいわ。ならイリカも――」

 黒い歪みが形を作る。イリカの何倍もの大きさに膨れ上がったそれは二腕二脚の巨人。スパイラルガーディアンを模した守護者。

「堕つ神-レンブラントガーディアン-」

 巨人が鉄槌を振り絞り、放つ。壁が迫るかのような圧力に対し、リーティアはまた、両手を球のように合わせた。

「覇気万穿!」

 拳と拳がぶつかり合い、リーティアの身体が地面にめり込む。支えきれない力に膝が折れた。それでも、彼女の一撃は巨人に風穴を空ける。

 彼女を包むように巨人の拳が通過して大地に大穴を開ける。余波が髪を揺らし、赤い液体が跳ね上がって髪を染めた。

「んー、お姉ちゃん、いる?」

「……いるよ」

 巨人が消え、光に溶ける中でリーティアは呟いた。覇気を纏ってもダメージは受ける。スケールの差は埋められない。

 ぼろぼろの彼女に対し、イリカもまた吐血した。流れる血を気にしないのは、自身に関心がないからだ。その考えを改めさせることがリーティアの姉としての仕事である。

 

「血だらけよ、お姉ちゃん。汚いわ」

「あら、イリカだって血塗れじゃない」

「そうだっけ? イリカ忘れちゃったわ。血に塗れるなんて空気の中にいるのと一緒でしょ?」

「……なら私も一緒よ。だから汚くなんてない」

「そうなの? ヒゼンも前に似たようなこと言ってたわ。俺の手は血塗れだーとかかっこ悪いこと言ってた」

「それは、かっこ悪いね」

 笑う。二人して笑った。

「でもね、その後こう言ったの。『何があってもイリカを許す』って。『それが俺の咎だ』って」

「それは――」

 

 それもかっこ悪いわ、と少女は同じように言った。

 それはかっこ悪いよ、と彼女は困ったように言った。

 

「――なら、イリカ。あなたはヒゼン君が嫌い?」

「うん、だいっ嫌い!」

「お姉ちゃんのことは?」

「だいっ嫌い!」

「そう、私は大好きなんだけどな」

「前にヒゼンもそう言ってたわ。ああ、ヒゼンってば早く来ないかなぁ」

 もう、この子の言動はめちゃくちゃだ。言っていることならまだしも、行動ですら統一性はない。気まぐれと言ってしまえばそれまで、じゃれているだけと言えばそれまで。

 

 問題は――ただ一つの問題は、その規模が大きすぎたということだけ。それをリーティアは、呪わずにはいられない。

 

「――――ねぇイリカ。お姉ちゃんもう死んじゃったんだ」

「え?」

「お姉ちゃんはイリカに殺されちゃった。何年前の話だか覚えてる?」

「……馬鹿ねお姉ちゃん。お姉ちゃんが死んだっていうんなら、今イリカの前にいるお姉ちゃんは何なのよ」

「そうね。周りから見たら人間、黒幕から言ったら兵器。自分で言うなら、死んだ姉かな」

 リーティアは両手を広げ、攻撃の意志がないように問いかける。状況を見るに、もう彼女には時間がない。血の出ない彼女から流れた血は時間に等しい。

「ねぇイリカ。お姉ちゃんをどうやって殺したか、覚えてる?」

「……………………忘れたわ」

「あら、珍しく嘘を吐いたわね。そんなイリカ、お姉ちゃん嫌いだな」

「っ!?」

 

「思い出して御覧なさい。あなたの最初の記憶を、最初の虐殺を。その中にはきっと、あなたの家族の姿があるわ」

 

 

 

 



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想起 レベッカの家

 

「はぁ、はぁ、はっ、ぁ……っ、なんでっ、なんでだよっ!?」

 わけがわからないどうしてこんなことにちょっと待ってくれ。

 そんな何にもわからない思考がぐるぐると脳裏を埋め尽くす中、一人の少年が必死に木々を駆けていく。全く以って整備されていない地面は歪で、土と植物、あるいは動物の王国だ。その中を裸足で走る彼は既に痛みを忘れてしまっている。そんな感覚、もう三日前に消し去った。そうでなければ耐えられなかったから。

 ジャングル、その言葉が少年の語彙の中で世界を表すのに相応しい。南国を思わせる気温と湿度、見たこともない虫や小動物。およそ映像の中の現実を少年は生きている。とはいえそういったドキュメンタリーが好きではなかった少年は数えるほどしか見ていない、だからこそここを単純な言葉でしか表現できなかった。

 とはいえ、そんなことが意味を持つわけではない。

 いくらここを的確に表現できようとも、生きていけるわけではない。

 既に服は泥だらけ、傷だらけ。幸いなことに危険な動物にすぐに出会わなかったので、これらは徒にひたすらに歩き回った結果だ。どうにかして現実を否定したくて、でも叶わずなんとか抜け出そうと思って行った結果だ。確か部屋にいたはずだから、当然の如く靴は履いていなかった。ここが冬のような環境ではなかったのは少年にとって僅かに幸運である。

 走っている。現行、少年は走っている。

 最初の夜は怖さで眠れず、二日目の夜は疲れで気を失った。三日目に全てに絶望し、四日目は全く動かなかった。五日目で欲求に耐え切れず歩き出し、六日目で水の大切さと人間の強度を思い知る。そして七日目の今日――彼は命を失いかけている。

「あっ、あっ、はぁああぅあああっ、がああ……っ!」

 最早呼吸もままならない、酸素を渇望する身体が静止を願っている。だが理性はそうもいかない、止まれば死ぬとわかっている。もうすぐそこ、背中に届きそうな位置にまで迫ってきている。振り向かなくてもわかるほどの死の感覚はここに来てから覚えた。

「あ、ああ、っ、あは、あはああああははっ!」

 だから、わかる。もうこの行為に意味なんてない。笑わずにいられない。涙なしには動けない。何故なら少年は諦めているから。否定なんてできないから。おかしな話だと友人は笑うだろう、呆れるだろう。でも仕方がない、そもそも友人には話せないし、何より――

 

 

 5メートルはありそうな虎なんて俺は知らないけど、道を塞ぐように今目の前にいるのだから。

 

 

「ひは、ぐう、っは、はっ、はっ、んあ……!」

 間抜けな音が口から洩れ、少年は勢いよく転んだ。いや、前のめりに倒れたというのが正しいのか。もう身体は1ミリも動かないので、爆発しそうな心臓が代わりに必死に頑張っている。まぁそれで状況が変わることはない、終わりだ。食われる前に死ぬだろうが、同じこと。恐怖なんてもうないからどっちでもいい。

 虎はゆっくりと近づいてくる。気配と足音でよくわかる。普通なら音は消すだろうに、このサイズだと地鳴りのようで意味がない。視線は自然と地面から正面に移っていた。表情の読み取れない珍種の虎が目の前に佇んでいた。

「…………」

 不思議と、呼吸が収まった。いやおそらくは意識が霞んできたのだろう。ああ、それは嬉しいことだ。少年はそう思った。もう二度と覚める事のない眠りが穏やかに訪れる。

 最後に見たのは能面のような虎の顔、そして脳は――――どうしてこんなことになったんだろうという疑問に支配されていた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 おかしな話で、目が覚めた。最初に見たのは目に優しい茅葺のような屋根、次いで屋根。とにかく屋根。

「…………」

 痛みで身体が動かない中必死に首を動かして横を見ると、簾のような壁から光が洩れていた。台所と食器棚、その他諸々の雑貨、銛。生憎ぴくりともしない身体ではこれらがぼんやりと映るだけで頭は巡らない。落ち着く天井を見て、もう一度目を閉じた。

「あれ、起きたのかな?」

 そんな声が、聞こえた気がした。

 

 

 そして、少年は目を覚ました。まだ身体は動かないが、痛みは感じられた。自分がここにいる感覚があった。

「…………」

 暗い。おそらくは夜だろう。とんとんと小気味良い音が聞こえてくる。誰かがいるのがわかった。包丁の音だろうか、それとは別にゆっくりと近づいてくる音が聞こえてくる。目を閉じず、首を動かさず天井を見つめていると、生えてくるように顔が視界を埋めた。

「あ、お姉ちゃん、起きてるよ」

「ほんと? なら良かったわ」

「うん。ねぇ君、見える? 聞こえる? はいお水」

 コップが近づけられ、反射的に口が開いた。ストローがささっていて、ゆっくりと吸い込む。乾いていた喉に幸せな感触が流れていく。

「はぁ、はぁ……」

「はいよくできました。えっと、うーんと…………話せる?」

 きっと次に何をするべきかわからなかったのだろう。少女は柔らかな疑問顔で尋ねた。

「あ……っ、ぅ……」

「あ、無理しなくて良いよ。じゃあね、ご飯は食べられる? あ、食べられなくても食べてね」

「…………」

 それでは聞いた意味がないが、きっと良い子なのだろう。少年はぼんやりとそんなことを考えた。栗色の髪を肩口まで伸ばしている。少しばかり釣り目で、鼻筋の通った美人顔だ。同じ位かなと判断した。

「うん、生きていて良かった。じゃあ辛いかもしれないけど、頑張って入れてね」

 お姉ちゃん、と呼ばれたもう一人がゆっくりとお皿を持ってくる。先の少女をより大人びさせたような女性。とはいえ垂れ目なところが実年齢より幼く見なされてしまう彼女は、スプーンですくった流動食を少年に含ませていく。温かい、少年はただ思った。

「大丈夫、大丈夫だからね」

 妹のほうが手を握りながら言葉をかけてくれる。それが安心を生んだのか、少年はすぐにまた眠りに着いた。

 お休み、という二つの声が心に沁みた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「改めて自己紹介をしないといけないね。私はリーティア・レベッカ」

「イリカ・レベッカよ、よろしくね。ちなみに君を見つけたのは私だよ」

 姉がリーティア、妹がイリカ。そう名乗った姉妹はようやっと上半身を起き上がらせた少年に向けて笑いかける。少年が目を覚ましてから数日の後、初めて素性を明かすことになった。少年は口内で二つの名を呟いた後、頭を下げた。みしりと身体が悲鳴を上げた。

「俺は相馬肥前。まず助けてくれてありがとうございました」

「あ、ううんいいのよ。たまたまだったんだから」

 イリカが照れくさそうに笑い、それを微笑ましくリーティアが見守る。と、リーティアは肥前を見、首を傾げた。

「でもソーマ、くん? どうして君はあんな所に倒れていたの?」

「…………」

「あ、もしかして言いづらかった?」

 いや、と肥前は首を振った。布団を見つめ、拳を握り締める。

「よく、わからないんです」

「わからない?」

「気がついたら森の中にいて、俺はずっと自分の部屋にいたのに、本当に気がついたら変なところにいて……あぁごめんなさい、もうほんとよくわからなくて……」

 頭をがしがしと乱雑に刺激し肥前は唸る。改めて状況を振り返っても何もわからない、返って混乱してしまったようだ。そんな肥前の背中をリーティアは優しく撫でる。深呼吸を繰り返し、なんとか落ち着いた。イリカが神妙な顔つきで口を開く。

「でもソーマの言ってること、わかるよ」

「わかるの、イリカ?」

「だってソーマの服はおかしいもの。こんな格好でシンラには入れないよ」

「あ、そっちね」

 リーティアはてっきりソーマがどうしてそこにいたのかがわかるのかと思ったが、どうやら彼の言葉が嘘じゃないということがわかるということだったようだ。微笑ましい妹に姉の頬が緩む。とはいえ、リーティアとしても疑問があるのは確かだ。

「ソーマ君はここがどこかわからない、よね?」

「はい……えっと、どこなんですか?」

「ここはナガシ村、ウェストブルーのナガシ村だよっ」

 イリカが元気よく手を広げて宣言する。が、肥前には何のことかわからない。ウェスト、つまり西のほうなのか。

「もしかしてここヨーロッパ、ですか? 二人は日本語通じてるけど」

「よーろっぱ? ニホンゴ? 何を言ってるの?」

 イリカが首を傾げる。あれ、と肥前も首を傾げた。リーティアは黙っている。僅かに汗を垂らし、肥前はもう一度尋ねた。

「だからウェストブルーのナガシ村だってば。小さな島の小さな村だから知らないかもしれないけど……」

「…………あれ」

 肥前は違和感しか覚えなかった。少しいじけている少女を見て、言葉を思い返し、しかしよくわからない。何から何まで思い通りにならない状況に頭がパンクしそうだった。ヨーロッパがわからない、日本語がわからない。なのに言葉は通じている。英語の成績は悪かったので急に上達したなんてこともありえない。いや、ありえないで言えば瞬間移動のほうがありえなかった。

 

「――シンラはね」

「え?」

「お姉ちゃん」

 リーティアが沈黙を解き、視線を集める。徐に話し出す彼女の言葉は不思議と脳によく入った。空気が重たくなった。

「シンラはこの島にとって神聖な場所なの。かつて天竜人がこの島にやって来て、それでも不思議と立ち入れない気配を漂わせていたとすら言われるほどに。だから自然のままに残っていて、はっきり言えばその全貌を知る人間はいないくらいよ」

 ま、この子には関係ないみたいだけれど。そう言ってイリカの頭を撫でた。ネコのように目を細めてイリカは身を委ねている。

「島の人間も入ることができないシンラに唯一出入りできるのが、何故かこの子。理由はわからないけれど、ね」

「入れるんだから仕方ないよー」

「村長もそれがシンラの意志だって認めてくださっているからありがたい話ね。で、そんなシンラで倒れている子がいた。それが君」

「…………」

 肥前もなんとなく予感していた。この流れはまずい、なんというかすごくまずいんじゃないかと。しかもなんとなく理解できてきた。いや本当にこれが事実なのかは置いておいて、彼の頭の中にはこれまで出てきた単語が合致する物語が浮かんできていた。

 ウェストブルーに、天竜人。これってつまり、やばいんじゃないか。

 

「でもその男の子はシンラを知らない。シンラの中にいて、その場所がシンラと呼ばれていることを知らなかったなんて考え方もできるけど、そうなら君の困惑や消耗には説明がつかないわ。そうするとどこからか入ったのか」

「あ、でも私と同じなんだね。シンラに入れるんだからっ」

「そうね、でもその前に。ソーマ君、この島にはナガシ村しかないのよ。だから君は間違いなく島外の人間、でもウェストブルーで通じないなら、じゃあ君はどこから来たのかということになるわ」

「……気がついたら、そこに」

 そうじゃなくて、とリーティアは遮った。悪意があるわけではないが誤魔化そうとしたようでなんとなく肥前はばつが悪い。

「手段じゃないし、家とか部屋とかじゃないわ。君のいた地名、村名、国名……ううん、きっと私たちは知らないのでしょうね」

 頭が良すぎて引く、その感覚を肥前は初めて味わった。自分の風貌や状況で異国の者だと判断するのはわかるし、大半がたどり着くだろう。しかしこの姉はそれの一歩先を読んでいる。会話の食い違いが勘違いだとかそんなわかりやすいもので生じたものではないと悟ってしまっている。

 とはいえ、冷静に考えれば肥前にとってはありがたい話だった。彼にとって、最初に出会ったのがこの姉妹だったのは確実に幸運だ。それを肥前はなんとなく感じていた。

 やがてその予感を裏切らずにリーティアはそれまでの柔和な様子をかき消して肥前を見た。視線で射抜かれるとはこのことだと彼はびびった。

 

「ソーマ君、君は……何者なの?」

 

 この人はきっと、異世界人の俺を理解してくれる。

 少し怖いけれど……。

 

 

 

 

 

「なんてねっ」

「へ?」

 と、緊迫した空気をかき消すようにリーティアは舌を出した。呆然とする肥前を他所にイリカがじゃれる。

「もーお姉ちゃん本気出しすぎよっ、ソーマ固まってるじゃないっ」

「ごめんなさい、でも必要なことだったのよ」

 全くー、とイリカが抱きついてくるのを嬉しそうにあやすリーティア。呆然とする肥前。ひとしきりじゃれた後、イリカを離したリーティアは笑った。

「少し脅かすように言っちゃったけれど、これでも女二人暮らしだから。大丈夫、ソーマ君が悪い人には見えないし、態度でよくわかるから」

「あ、あの……?」

「別に何者でもいいのよ。確かにシンラに入っていたことは驚きだけどイリカがいるし、傷だらけで倒れていた見た感じ普通の子をずっと怖がらせてもなんだしね」

 さてと、とリーティアは腰を上げて伸びをする。時刻は午前10時20分、そろそろいつもの一日に戻さなければならない。

「イリカ、村長さんにソーマ君の話をしてきてちょうだい」

「わかったー」

 ぱたぱたと駆けていくイリカを呆然と見送り、はっと意識を戻した肥前は傷む身体を無視して言った。

「ま、待ってください!」

「え、何?」

 エプロンをつけるリーティア。

「話! 俺の話、聞かないんですか!?」

「後でゆっくり聞くわよ、元気になったらね」

「う……」

「それにね、さっきも言ったけど君が悪人じゃないってわかったんだからゆっくりでいいの」

 最初からわかってたけど、とリーティアは笑う。その笑顔がくすぐったくて、肥前は頬を赤らめた。

「……なんで、わかってたんですか?」

 

「決まってるじゃない。イリカが笑っていたからよ」

 

 

 



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想起 ヒゼン・ソーマ

 

「え、じゃあ名前がヒゼンなの?」

「そう。ちなみに言うとソーマじゃなくて相馬」

 それはちょっとした違い。あくまで彼にとって“相馬”は家名であり、さも名前のような発音をされるのには慣れていなかった。彼がこの世界について気づいたことが事実であるならばそれも致し方ないかと諦めてもいたが、まぁ言わないよりはましだろうという少しだけ後ろ向きな要望。

 少年――肥前がレベッカ姉妹とゆっくりと話をしたのは彼がほぼ体力を回復し、村長への挨拶を終えた頃だ。彼は自分がいた国について事細かに説明し、一方でここがどういった世界なのかを姉妹に聞いていた。そうして彼は、自分の予想が当たってしまったことを理解したのである。

 当然途方に暮れる。が、原因も、理由も、何もかもがわからない現状。助けてくれたこの姉妹を更に頼るという選択肢しか彼には残されていなかった。ということで肥前はある日突然投げ出されてから二週間の後、ようやく初めての安堵を得たのである。

 

 さて。肥前の故郷とこことの違いはいわゆるカルチャーギャップである。ジェネレーションが付かなかっただけましと思いたい肥前だったが、とりあえずその差は埋められれば言うことはない。そこでまず、彼女らが勘違いしてそうなことを修正することにしたのである。尤も、きっかけは村長との挨拶だったのだけれど。

「イントネーションが違うんだ。ごめんね、変な感じだったでしょう?」

 リーティアがすまなそうに言い、肥前は首を振った。知っていて欲しかっただけで実害はほぼない。これは自分の感傷に似た何かが原因だった。わけのわからない世界に放り投げられて自分の足元が揺らいでいる。そんな危機感が不安を煽っていただけの話で、彼女らには罪は無い。

「平気です。ここの人たちとはまた違うみたいだから」

「んー。じゃあ私はヒゼンって呼ぶねっ、私のこともイリカでいいよ!」

「わかった。よろしく、イリカ」

 えへへ、とイリカが笑いかけ、肥前も微笑した。まだぎこちない笑顔だが、なんとか表情筋は動いてくれている。やっと落ち着けたのだろうと少年が微かな痛みを奥底へと押しやる中、リーティアはと言うと思案顔。

「…………」

「お姉ちゃん?」

 やがて、うん、と頷き手を合わせる。そこに自賛の意はなく、ただ純粋に相手を思いやっていた。

「イリカがヒゼンって呼ぶんなら、じゃあ私はソウマ君って呼ぶわ。そうすれば君は故郷を忘れずにいられるでしょう?」

「――――っ」

 不意打ち。

 肥前がしまいこもうとした僅かな傷をしかしリーティアは見逃してくれなかった。

 本当はわかっていた。発音なんて細かいことにわざわざ断りを入れた理由、それが郷愁の念から来ているということを。

 表情に隠して誤魔化そうとしたことを。

 だが、それももうできなくなってしまった。リーティア・レベッカは相馬と呼び、イリカ・レベッカは肥前と呼ぶ。ただそれだけで、少年は視界が歪んでしまった。

「ありがとう、ございます……っ」

「あ、ヒゼン泣いてるー」

「泣いてないっ」

「からかわないの。私のことはティアでいいわ、みんなそう呼ぶから」

「ティアお姉ちゃん、だからね。敬意を持って!」

 調子に乗り始めた妹を嗜め、今後の関係構築を行う。リーティアにとって少年の呼び方を決めるのは全く難しくなかったが、肥前にとってはとても重い事態だったことは言うまでもない。全てを失った状況で家族ができる。故に、彼がそう決断するのも当然の帰結だった。いや、多分に照れ隠しが混じっていたことは否めないが。

「……じゃあ俺はリタ姉って呼ぶ。リタ姉が俺をそう呼んでくれるなら、俺もみんなと違った呼び方がいいから」

「あら」

「あらら」

 レベッカ姉妹は呆ける。何に対してか。

「なんだよ……」

「ううん、ふふふ……」

「ヒゼンってばかわいんだからー」

 出会って一週間、命の恩人に当たるとはいえ、まさか姉と呼んでくるとは――

「な、イリカ!」

「逃っげろー」

 

 全く、可愛い弟ができたものだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ナガシ村は小さい。そもこの村がある島がはっきり言ってしまえば金魚の糞と同等なのだから当たり前だ。島に住む人間は昔偶然にも流れ着いた人間たちの子孫であるが、肥前と同様(というわけではないが)に流れ着いた者も数多くいる。始まりは同じなのだと一人が歓迎し、そして全島民が歓迎する。そんな成り行きでできた現在のナガシ村は総数100に満たないが、それ故に少人数ならではの絆を確かに持っていた。

「ねぇヒゼン、魚好き?」

「好きだけど……いきなり何?」

 追いかけっこはいつの間にか村の散策と名称を変え、先をゆっくりと歩くイリカは肥前に尋ねる。肥前から見て三つ年下のこの少女は自由気ままで、しかし人を引き寄せる不思議な魅力を持っている。少年が僅かな時間で家族を感じられたのも偏に彼女の功績が大きかったのは言うまでもない。

「この村は漁村だからね、毎日いろんな魚が出てくるから食べられないときついわよって話」

「ああ、なるほど」

 肥前は周囲を見回して得心する。今までの彼周辺では見られない作りの住居に加え、少し遠くを見れば途端に真っ青な空間が広がっている。この世界の象徴とも言うべき海だ。

 なんか怖いな……

 肥前は漠然と恐怖を抱き身体を震わせる。歩みが遅くなり、イリカが不思議そうに見つめていた。

「そういえばヒゼンはどうしてシンラにいたんだろーね」

 素朴な疑問、しかし聞き飽きた言葉。肥前はうんざりするようなトーンで、知らないよ、と。

「私はお姉ちゃんが何を考えているのかわからないけど、でもヒゼンが少し違うことはわかるの」

「……違う、ね」

 踏みしめる場所は土から砂へ、塩の香りが強くなる。

「うん。なんていうのかな、違和感、ってほどじゃないけど、違うの。そこらへんがシンラに認められたのかな?」

「それを言うならイリカだって違うんじゃないか?」

「うん、違うよ」

 さらりと潮風が髪を揺らした。イリカはくるりと振り返り、止まる。バックには穏やかな、恐ろしき海。ぞっとするような錯覚に肥前は息を呑んだ。

「私はお姉ちゃんがいないと死んじゃうの。だから違う」

「…………好きすぎだろ」

「好きとか嫌いとかそういうんじゃないわ。あ、もちろんお姉ちゃんは大好きよ。でもね、うーん……難しいなぁ」

 イリカは頤に手を添えて眉間に皺を寄せた。言いたいことを適切に表現する手段がない。語彙力がない。そういった部分は姉に比べてかなり差がある。

 やがてぽんと手を叩き、目を見開いた。瞳の奥の少年が驚いていた。

 

「イリカは考えすぎちゃうから、代わりにお姉ちゃんが考えてくれているのよ」

 

 

 

 ***

 

 

 

「本当よ」

 リーティアは静かにそう告げて肥前にお茶を差し出した。向かいに座り、ぱちぱちと音を出す火を眺める。

 夜。イリカが静かな寝息を出し始めた頃、少年は昼の出来事を姉に話していた。姉は静かに最後まで聞き、そして肯定を示した。

「どういうことかさっぱりなんだけど」

「難しいのよ。イリカの言葉が全てなの」

「全てと言われても」

 お手上げ、と万歳して寝転がる。そんな弟に苦笑したリーティアは、思い出すように口を開いた。

「例えば他人が3人いるとするじゃない」

「うん」

「一人は知らない人、一人は知っている人、最後は親しい人。それぞれが一つ話をするとします」

「どんな話?」

「嘘みたいな話、いや嘘かもね。夢みたいな良い話を三人に聞いたとして、ソウマ君は信じる?」

「マブダチのはまぁ信じるかな。後はうそ臭い」

 話の信用度をその話し手への信用度で上げるということだ。いきなり初対面で嘘みたいな儲け話など信じられない。リーティアも同じく、と同意する。と、ここまでで肥前はもしかしてと想像した。この話が前振りだとして、ということは――

 

「イリカは全てを信じるわ」

 

 ばち、と火が音を立てた。ぼんやりと室内を暗く彩る炎に照らされてリーティアは話す。

「あの子は疑うことを知らない。ううん、疑っても同じ。最終的には全てを信じ、受け入れる。それが例えどんなに途方もない話でも、ね。どうしてそうなったかなんてわからないわ、でも気づいたらそうだった。一度海賊がここに流されてきた時に危ないことが起きて、わかったの。イリカは、考えることはできてもその結果を必ず同じところに持っていってしまう」

 それは普通に生きていればありえないような事実。実際にリーティアを始めとする村の皆は肥前の見たところ彼の普通の範疇にしっかりと入っている。それはもちろんイリカもそうだ。普通に話し、普通に働き、普通に笑う。世界が変わっても、そこだけは変わりない。が、今イリカだけは否定されようとしている。

「……例えば、俺が島みたいにでっかい金魚の糞を見た、とか言ったら」

「信じるわ」

「空には島が浮かんでいるんだって言ったら」

「信じる」

「俺が――――別の世界から来たって言ったら……」

「それは私も信じるけれど?」

「………………」

「とにかくね、どんなことすら受け入れてしまうの。器が大きいと言えば聞こえは良いけど、この世界、決して良い人だけじゃないから」

 だから私は、イリカの姉なの。そうリーティアは言った。何かが外れてしまっているイリカを縛り、普通の生活を送らせる。それがリーティアの日々の全てだ。村の人間は皆家族、それでも血が繋がった肉親はもう少女しかいないのだから。

「だからこそ、私は君を信じてもいいと思っているわ」

「え…………?」

 不意に話が自分になったことに肥前は驚き、眼前のリーティアは真っ直ぐに彼を見つめた。暗闇よりも暗い瞳の中で火が爆ぜていた。

「あの子がシンラに唯一入れる理由、正解かわからないけれど私はこれがそうだと思っているわ。無垢で、人を疑うなんて知らない、純粋そのもののイリカだから。自然と溶け込むのが当然だから、だからシンラは受け入れたんだって。だとすると、そのシンラから出てきたソーマ君は、つまりはイリカと同じなんじゃないかなって」

「……俺は人を疑うし、そんな純粋じゃない」

「でも、私たちとは違う。そうでしょう?」

 少し、少しだけ、肥前はその言葉が突き刺さった。頼るもののないこの現実で唯一縋れる女性から零れた否定の言葉。まるで自分のことを嫌悪しているかのように聞こえてしまった。

 ふるふると首を振る。リーティアがそんな人間じゃないことはわかりきっているし、話の流れ上当然の言葉だ。ナイーブになっているのかと、肥前は複雑な心情を自覚する。

「でもその違いはきっと良いものだから。だから私は君を信用しているし、これからも一緒に生きていけると思う。イリカもそう思っているはずよ、きっと」

「…………」

 ほら、言ったとおりじゃないか。肥前は自分に言い聞かせた。独り相撲とはこのことだと、野球の一風景を思い浮かべながら思った。

「これから先、私だけじゃイリカを見ていられなくなると思う。だからこそ、聞くわ。これからもイリカと一緒にいてくれる?」

 正直、元の世界に帰りたいと思った。だって何もかもが違うこの世界では、肥前は生きていく自信も、拠り所もなかったから。でも、今目の前で笑う彼女と、安らかな寝息を立てている少女を思えばそれも変わる。帰れるのなら、帰りたい。でも、この二人に恩を返すまでは、ここにいたい。そう思った。

「ありがとう。これはもしかして、いつかはレベッカを名乗ることになるのかな?」

「ならないから」

「イリカかわいいでしょ?」

「知らないよっ」

 リーティアは笑う。少年の性格ももうよくわかった。言葉には出ない感情はしかしとてもわかりやすい。不謹慎だが、弟でありペットであるかのように思った。

 

 さて。

 とりあえずの話が終わり、いよいよ以ってリーティアも遠慮を排除する。困ったように頬に手を当て、首を傾いだ。

「ところでソーマ君、これから一緒にいるにあたって穀潰しはちょっとねえ」

「あ…………」

「明日から働いてね、男の子っ」

 

 

 そして、彼は大工になった。

 そして、彼は溺れた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「本当にあるのねぇ、悪魔の実」

「ぜぇ、ぜぇ……っ」

「ヒゼン、生きてるー?」

 全ての力を振り絞って倒れ伏すヒゼンとそれを見守るレベッカ姉妹。姉は不思議発見、妹は死体発見と言ったところか。ちなみに弟は不思議な死体役である。

 ヒゼンは溺れた。完膚なきまでに溺れた。始まりはそう、イリカがふざけてヒゼンにちょっかいをかけ、追いかけるように海に入ったことである。ちなみにイリカは少しも悪いと思っていない。

「もう一度聞くけど……って今は無理かな。ソーマ君、とりあえず移動しよっか。立てる?」

 息を荒立てながら頷く男の子。うん、と笑顔になったリーティアは頤に手を当て、さてと考える。

 自称カナヅチではないヒゼンが溺れたのは多分悪魔の実が原因だろう。ならば、その実に宿る能力を彼は手にしていることになる。それが何なのか未だ特定できていないのは、偏に彼自身がそれを自覚していなかったからであろう。

「うーん、これはお仕事の前に把握かな」

 自分を知る、何と難しいことか。まぁそれも三人でなら大丈夫だろう。

 これからを思うとリーティアは頬が緩む。不安もある、だがそれ以上に楽しい日々になるだろうと確信していた。

 

 

 



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