わざわいてんじて (ふえるわかめ16グラム)
しおりを挟む
第一話
オレは藤田稔、二九歳。バキバキのアラサー。そんで元男。
というのも、かれこれ二年前にちょっと遅めのTS症候群にかかってしまい、性別が変わってしまったからだ。この病気、普通は思春期くらいまでに発症することが多いらしく、病院のお医者様もこの歳でこんな完璧にTSするなんて珍しいとお目々をキラキラさせていた。最悪の場合どこかしら障害が残ってもおかしくなかったらしく、そこら辺は幸運というべきか何というか。当初、なんかヒゲが薄くなってきたヤッターとか言っていた能天気な自分を責めたいがもう遅い。
それはともかくとして、こうしてどこに出しても恥ずかしい独身アラサーTS済みOLの出来上がりって訳だ。人生って哀しいね。
ただ、生憎と世の中は予想外に長期化している某新型感染症パンデミックの真っ最中。出来る限りのテレワークや外出自粛の風潮は大歓迎だ。一々めんどくさい服の着回しや化粧から解放されてお肌の調子もすこぶる良い。ずっとこのままの社会でいて欲しいもんだぜ。一応社会人としてそろそろ中堅、外面を繕うのは慣れっこだが、やらなくていいならそれにこしたことはないし。
しかし、好きに飲みに出歩けないのだけはいただけない。これまでは隙さえあれば飲みに出掛けてたのに、そういうのが出来ない世の中になるなんてびっくりだぜ。
と、愚痴はここまでにして。テーブルの向かいに座る高校時代の友人、伊藤颯斗とビールの缶をぶつけ合い、「おつかれさん」と乾杯を交わした。
「ッんあ〜〜〜! ようやくキンタマキラキラできるわあ……!」
喉を鳴らして缶ビールを流し込んだ颯斗が、平日の疲れをくだらない言葉とともに吐き出した。少し面長で、人畜無害な草食動物みたいな風貌なのになかなか言ってる内容がひどい。人の良さがにじみ出ているような印象とのギャップってやつか。オレは嫌いじゃないぜ。
そしてざんねん、オレにはもう付いてないんだゴールデンボールは。「オレの分までキラキラさせといて」オレは片手をヒラヒラさせてそれを受け流すと、道中買ってきた牛丼を開封する。
「おっけーキンタマにグリッター塗しとくわ!」
「すっげえビカビカになりそう!」
酒盛り開始直後からフルスロットルのくだらなさにゲラゲラと笑い合う。
颯斗とは高校時代に仲良くなって、それなりに遊んだりした仲だった。しかし、大の仲良しと呼べるかは微妙なところで、大学はそれぞれ別々に進学して、学生時代は全くというほど関わりがなかった。だが奇妙な縁があるもので、就職のため上京してみればまさかの二駅違いのところにこいつが住んでいたのだ。とりあえず遊んでみると、お互い酒好きだということが発覚して、それ以来よく飲みに行くようになった。
意外にも長続きした交友関係だったが、オレが例の病気のせいで一年くらい酒飲んでる場合じゃなくなり、少し疎遠になったこともあった。そして、ようやく身の回りも落ち着いて来たと思った、そんなタイミングでこのパンデミックだ。夏の間もコンスタントに流行していて、大分肌寒くなって来た今、また酷くなる兆しすらある。こうなると会社の飲み会や各種懇親会も完全になくなり、いよいよ人に会わない生活になってしまった。
そんな時、颯斗から『宅飲みでもしようや』という誘いがあったのだ。どうやら颯斗もこのサツバツとした冷凍都市の暮らしに辟易していたようで『せや、ご近所に酒飲みがいるやんけ』と思い至ったらしい。これにはオレもニッコリ。電車で二駅くらいなら自転車でもあればあっという間だ。まあ気の知れた友人同士サシで飲むだけなら大丈夫っしょ、たぶん。
そんなノリで、週末だったりにお互いの部屋を行き来するルーチンが出来上がったのだった。本日はキンタマキラキラゴキゲン金曜日、颯斗の部屋からお送りしております。
オレは紅生姜を適量乗せた牛丼を頬張ると、それをビールで流し込んだ。
「あぁ〜。今週もなんとか生き残ったわぁ」
思わず感想が溢れる。これこれ、これよ。仕事終わらせて速攻風呂入って酒持ってチャリでマッハした甲斐ありましたわ。トランクひとつだけで浪漫飛行負けじとリュックひとつだけで飲酒希望だぜオレは。
どうせコートとか着るからスウェットのままだし、ひとまず腹に収めるための飯は牛丼だしと雑さ極まりないけど、これがいいんすわ。月並みな表現だけど、小さな幸せってやつ? ほんと、一週間お疲れ様でした、すべての労働者よ。そして今も働いてくれている人、とてもありがとう。世界はみんなの仕事でできています。
「だなあ〜。ということで、今日は飲もう!」
「飲むぜ〜めっちゃ飲むぜ〜」
颯斗は笑って宣言すると、テーブルにラベルのほとんど貼られていない緑色の瓶をドガンと置いた。どうやら、一本目の缶ビールは速攻飲み終わったらしい。
「ハートランドか、いいね!」
「とりあえず一人一本な」
颯斗が早速栓抜きで王冠を抜いて俺の前にボトルとグラスを差し出して来た。なんか彼の背後から後光が射してる気がする、およよ……。
「今日はビールの日?」
「そうそう。駅から反対側で気がつかなかったんだけどさ、個人経営の酒屋さんあって。試しに入ってみたらなんかハートランドが目に入ってさ、久々に飲みてえなって思ったのよ。あと、ネットで色々クラフトビール買ってみた」
「えっヤバ。いくら払えばいい?」
「んーまあ、適当で」
オレが財布を取り出そうとすると、颯斗は顔の前で手を横に振り、後でなと言った。こんなの、絶対あやふやになるやつじゃん。いつもごめんなあ。
あなたは神を信じますか? の問いに今明確な答えが出たぜ。目の前にいるわ。どうしよう、オレ今日金麦と角瓶しか持って来てないんだけど。大丈夫? お布施足りる?
そんなオレの表情を見て、しばし考えを巡らせたような素ぶりをした颯斗が口を開く。
「んー、そうだなあ。じゃあ、ツマミ類、頼んだ」
手酌で飲み始めようとした颯斗のグラスへ、半ば無理矢理ビールをお酌してやると、彼は小さく礼を言って「冷蔵庫の中適当に使っていいから」と続けた。
「あいよ任された」
うむ。これならなんとか精神的な負い目はなくなったか? いや、食材とか結局は颯斗の使うわけだし、これじゃ同じか? ぐぬぬ、どうすれば、どうすればいいのか。
そうだ、とりあえずビールを飲もう。開封済みの金麦を一気して、ハートランドをグラスに注げば最高さ。きっといい案浮かぶっしょ。
++
「ぐあーよっぱらった」
俺の向かい側で、緩めのパーマをかけたボブカットの女——友人の稔だ——が座椅子に背中を預けてのけぞった。丸っこいクラシカルな眼鏡の奥の目はトロンとしていて、首から上は見事に真っ赤になっている。自己申告の通り、かなり酔っ払ってるんだろう。テーブルには、食べ終わった皿や空の缶・瓶が散乱している。
「んいぃ……煙草吸ってくるわ」
「おう」
稔はそう言うとリュックのポケットから喫煙セットを取り出し、ゆらりと立ち上がった。細っこい体格と女性としては長身な彼女が、ふらふらと窓の方へ歩いていくのを目で追う。
窓の外、ベランダに出た稔が夜の空気に身を震わせるのが見えた。そりゃあ、あんなスウェットだけで外に出たら寒かろう。それに、さっきから気になっていたが少し風も出てきたようで、稔はバタつく髪の毛を鬱陶しそうにしている。俺は煙草をやらないから、そうまでして吸いたいもんなのかなんて思ってしまった。
ただ、俺も結構酔いがキテいるようだ。思考がごちゃごちゃと長ったらしくなってきている。ここはちょっと夜風に当たって醒ますべきか。俺は飲みかけの瓶を手に取ると、浮ついた足取りでベランダへの窓を開けた。
「ん、どしたの」
「風に当たりに」
思っていた以上に風が冷たくて、思わず寒いと呟いてしまった。稔は耳聡くもそれを聞き取ると、なぜかドヤ顔で寒いだろお? とのたまう。君に言われなくても寒いってのはわかってたさ。俺はもう一足のサンダルを履くと、室内からベランダへ足だけを放るように座った。
窓から吹き込む風によって、篭った部屋の空気が攪拌される。それと同時に、稔が吸う煙草の匂いが鼻先をかすめた。鼻の粘膜を斬りつけるような冷たい風の中に混じる、独特の煙臭さ。正直に言えば、嫌いじゃない。胸のどこかが締め付けられるような、なんとも言えないノスタルジーを覚えるからか。
そんな感傷を肴にビールを飲もうと顔を上げれば、目の前に肉付きの良い尻がドーンとあった。どうやらその尻の主は、ベランダのフェンスに肘をついて、黄昏ながら煙草をふかしているらしい。つまり、俺の方に尻を突き出している格好だ。そのスウェット越しでもわかるボリューム感に、俺は思わず手を伸ばしそうになった。
(やっば。俺、今何しようとした?)
無意識とはいえ、しでかしそうになった事を自覚して冷や汗が背中に滲む。なんだかんだと長い付き合いの稔だとしても、やっていいことと悪いことがある。俺は若干酔いの醒めた頭を振ると、再び黄昏のポーズをとる稔を視界に収めた。
ふと、脳裏にいつかのワンシーンが蘇った。稔が女になって、一年くらい経った頃か? エスカレーターに乗った時、目の前に稔の尻があって、真っ黒なスキニーパンツにショーツのラインが浮かび上がっていたことがあった。その時は、こいつも馴染んでるなあとか、意外とちゃんとした下着履いてるんだなあとか、そういった感想しか浮かばなかった。当時は別段『そそられる』とかそういった感情は抱かなかったはずだ。確かに長いこと恋人だとかには縁遠く、それこそセックスなんて久しくしていないが、稔のことをそういった対象として見れなかった。
なにせ稔は乳がないからである。しょうがねえんだ、俺はそういう性癖の星の元に生まれたんだから。
……なのに、今のは一体なんだったのか。正に衝動的というか、意識の外で体が動こうとした。
そして、アルコールで口が軽くなっているのか、それとも自分自身の戸惑いを誤魔化すためか、俺はパッと頭に浮かんだままを口にしてしまっていた。
「稔、ケツでかくなった?」
「ッエホッゲホッ! な、なんだよ急に、デリカシー」
俺の発言と煙に咽せた稔が、顔を真っ赤にしてこちらに向き直った。涙ぐんだ目尻に赤い頬。濃い茶色の髪の束が数本顔にかかって、なんだか色っぽく見える。
ただ、言いたいことはわかるけど単語が足りてねえのよ、君。
「いや、そんなズボンパツパツだったっけって」
「……あー、うー、んなー」
彼女は若干唸り声を上げ身を捩ると遠い目をして、戯けたポーズをとりこう言った。
「自粛太りってやつ、だな」
「なるほど」
ここで俺はビールの瓶に残っていた分を飲み干すと、追い打ちをかけてみた。というのも、こいつはいつも適当なことを言ってヘラヘラしているので、苦虫を噛み潰したような顔をしているのが珍しいからだった。
「上半身はお変わりないようで」
「……ああね。うん。そういうのって漫画の中だけなんだわ。な」
「なので、下半身とお腹周りばっかり増えていくと」
「……勘のいいおっさんは嫌いだよ」
「わはは!」
煙草の吸い殻を携帯灰皿にねじ込んだ稔が笑いながら、俺のことを半ば跨ぐように部屋に戻っていく。その、ちょうど俺の脇を通った時、普段は意識したことのない彼女の匂いを感じた。稔がまだ男だった頃、居酒屋で上着を預かる時なんかに感じていたのとおおよそは同じ種類の匂い。だが、これまでとは確実に異なる、女性特有の体臭と呼ぶべきか、そんなものが混ざっていた。
……やべえ、急になんかムラっときたぞ。
いやいや待て待て。冷静になれよ、俺。こいつとは高校時代から訳わかんないこと言い合ってた仲だぞ。流石に女になった時は驚いたし気の毒に思ったこともあるが、これまでも変わらず遊んでただろう。そもそも全然タイプでもなんでもないじゃないか。なのに、今日に限って”異性”として認識してしまうとは、あんまりだ……。
「颯斗見て見て」
もう少し夜風を体に取り入れて頭を冷やそうとしたら、背後から俺を呼ぶ声がした。
「なにさぁ……あ?」
「お腹やばくてクソワロタ」
そこでは、服をたくし上げて腹を出した稔が嫌にニコニコとしていた。なるほど、アルコールのせいで赤くなったところとそうでないところが斑ら模様になっているのか。まあそれはいい。問題は、腰パン気味のズボンのウエストから臙脂色したショーツが覗いていることだ。
「パンツ出てんぞアホ」
「出してんだよバーカ」
彼女はそう言ってケラケラ笑うと、座椅子へ腰を下ろしまた酒を飲み始めた。え、なんだ。こいつ急に露出癖に目覚めたのか、やべえな。
稔の奇行によっていい感じに熱が冷めたから、俺も窓を閉め席に戻ることにする。しかしこの両目には、しっかりと先ほどの光景が焼き付いてしまっていた。思っていたより柔らかそうな彼女の身体を目の当たりにして、初めて理解させられた気分である。あれは、まさしく女性の身体だ。
大変参ってしまったぞ、これは。見た目は変わっても、ただの気の合う友人だと思っていたのに。こう、見せつけられると、どうしても意識せざるを得ない。こんなしょぼくれたアパートの部屋の中、俺は今異性と二人きりでいるのだということを。
何度でも言うが、これはあれだ。大変よろしくない。自分の部屋のはずなのに、急に居心地が悪くなってきた。急激に喉が渇く。俺は新しい瓶を手にすると、焦るようにその中身を流し込んだ。するとビールの苦味が口の中に広がり、同時に嫌な思い出も蘇ってしまう。
「おうおうおう、どうしたよ颯斗くん。急に黙っちゃって、あれかな、セカンド童貞には刺激が強かったかな? うん?」
「うっせえ。君も似たようなもんだろ」
上体を起こした匍匐前進のような動きで、稔が隣にやってきて変なことを言うので、とりあえずチョップしておいた。
すると彼女は痛ー! と声をあげ、破顔しながらあぐらをかいた俺の脚の上に崩れ落ちた。
「なあ、リハビリがてら、オレのケツ揉んでみるか?」
「なんでケツなんだよ」
くつくつと笑う稔が、俺を見上げてそう言う。酩酊によって音量ばかり大きくて呂律の怪しい言葉だったが、彼女の俺を心配する気持ちが本物であることはよくわかっていた。——こう見えて普段から、友人想いでそこそこお人好しなのだ、稔という人間は。
そんなことを考えつつ脚の上から稔をどける。すると、おまえはおっぱい星人だけど、いきなりおっぱいはハードルが高いかと思ってな、とか。形的にはケツもパイも同じようなもんだろ、とか。そんな甘言を述べながら彼女は姿勢を変えた。ちょうど、俺の左半身にしなだれかかる具合だ。
「オレもなー、尻には自信あるのよ」
柔らかいぞー? と彼女は自身の臀部を撫でながら、俺から奪ったビールを飲んだ。
「お前なー。……俺が本気にしたらどうすんだよ」
俺は体の左側に感じる体温を、努めて意識しないよう心がけつつ、稔の手から瓶を奪い返す。
「オレだって友達の役に立ちたい気持ちくらいあるのさ」
すこし、寂しげな声音に思えた。
「いや! もうここは! 荒療治塩麹!」
優しく細められた瞳にハッとしたのもつかの間。やっぱダメだこの酔っ払い。
「君は無駄に韻を踏むなあ」
「いいからほら揉んでみろよぉ〜」
稔は俺の左肩に額をグリグリと押し付けてくる。なんだこいつ揉ませたがりか。
「そうだよ揉ませてえんだよ自慢させろよぉ」
クソ馬鹿だった。しかし、一度異性として見てしまった対象がこう迫ってくると、悲しいかな腹の奥がぐらぐらする。ヤニと彼女の体臭が混ざった甘い匂いがして、思わず生唾を飲み込んだ。
「ほ、ほんとにいいんだな?」
「漢に二言はねぇああい!」
稔は馬鹿高いテンションでそう宣言すると、横座りで俺のことを待ち構えた。眼鏡はずり落ちて鼻眼鏡になってるし、諸々の勢いとは裏腹に眠そうな表情をしている。くそ、なんだか無性にムラムラさせやがる……。
俺は居住まいを正すとビールを一口飲み覚悟を決めると、若干浮かせた彼女の腰に手を伸ばした。
「うわ、柔っこい……」
「だろお? 稔ちゃんのスペシャルロイヤルヒップだぜ、堪能したまえよぉ?」
女性経験は人並みだと自負しているが、稔の尻はまた格別だった。いや、そもそも彼女の肉質がこうなんだろうか。予想以上に全身の肉が柔らかい。どこに触れても、ふわふわとした柔らかさを感じる。色気のない鼠色のスウェットに詰め込まれた四肢に、俺はすっかりヤられてしまっていた。
「いやあ……すげえな……無限に揉める……」
無意識にそう呟いてしまった俺を、いったい誰が責められようか。
「おっぱい星人討ち取ったり、だな。エリア五一でたっぷり可愛がってやる」
「いやいやいや。まだ負けてねえから。とりあえずここまできたら胸もだな」
「えー、リハビリだってのに節操ねえやつだなあ! ……しゃあねえ、お前だけだぜブラザー」
「恩に着るぜメーン」
そういうや否や、まずはブラの上から揉んでみた。俺に半身を任せた稔は、やはり酔っ払ってトロンとした目を若干細めこそしたが、特に何も言わない。しかし俺は、いつもとさして変わらないようなその態度が、妙に愛おしく思えてしまった。
「どうよ?」
「……パッドしかわかんね」
「そんなはずねえだろ、よく探せ?」
探せときたか。そこまで言うならしょうがない。俺は空いてる左手を稔の背中に回すと、服の上からブラのホックを外した。これで障害は何ひとつない。素晴らしき無垢なる世界へ、いざ参らん。
「……どうした怖い顔して」
「……やっぱおっぱいないないさんだよこれ」
「ハァー!? そんなことねえし! 手のひらでよく感じてみれば揉めるくらいはあるからバーカ!!」
それは無いのと同じじゃ。そこまできたら四捨五入してゼロなんよ。これ以上生き恥を晒すな。
「うるせえ! なら決着つけてやろうじゃねえか! おらお前ザコチンコ出せよこのやろ!」
「言ったね!? 言ってしまったねそれを! もう怒ったぞう!」
最低ランクの売り言葉に買い言葉に合わせてパンツごとズボンを下ろしたら、半勃ちのマイサンが中途半端な勢いでボロンした。
「怒ったぞう! ぱおーん! うへへへへ!」
「ぱおーん! ワハハハハ!」
完全に学生時代の飲み会のテンションだ。よくいただろう、無駄にチンコ出したがるやつ。
お互い訳わかんないテンションで爆笑しつつ、俺たちはそのままベッドにもつれ込んだのだった。
++
朝目が覚めた時には、もうすっかり日が昇りきっていた。カラッと爽やかな秋晴れであることが、カーテンの隙間から差し込む日差しでよくわかる。それと、アパートの横を歩いていく子ども達の声。飲みすぎて頭いてえけど、なんて平和な土曜日なんでしょうか。太陽さんさんハッピーデイだわ。
——全裸で颯斗と同衾しているってのを除けばだけどよォ。
夢ならばどれほど良かったでしょうってか? ほんとその通りだわボケナス。
(やべえよやべえよ、ヤっちまったよ……)
二年前まで男だったオレが、ただの友人の颯斗とズッコンバッコンやってしまったのだ。あんまりすぎるこの現実せいで、鼓動に合わせてズキズキする頭痛が何倍もしんどく感じる。思わず、内臓を絞り切るようなため息が出た。
「あたたた……」
身を起こすと、体のいろんなところが痛む。だーめだこりゃ。いやあまあ昨晩は結構激しかったからなあ。普段しない体制とか、運動不足とか、そういうののダメージが如実に……。
ぐおお、今更になってクソ恥ずかしい……。やらかした内容がフラッシュバックして顔がバーニングダウンだわ……。やべえよ、ほんと。女としてヤるのは初めてだったのに、いろいろヒーヒー言わされてしまった訳だ、コイツに。うーわ、最悪だマジで。こんなやつに処女捧げるつもりとかなかったんだが? そもそも処女捨てるとか考えたことなかったけどさぁ。
(いやまあ、気持ちよかったといえばよかったんだけど……)
発狂しそうになるのを無理矢理押さえ込んでベッドから出ると、床に散らばった下着類を拾い上げる。頭痛に耐えながらショーツを履いて、ブラをつけるのに振り向いた時だ。
「うおっ……お、起きてたの……」
ベッドの中から、颯斗が真顔で天井を睨みつけていた。真剣な眼差しがなんかキモい。
「稔」
「は、ハイ」
颯斗はオレの名前を呼ぶと、のそのそと体を起こし、そのまま土下座の姿勢になった。
「……ごめんなさい」
「あ、あー……。いや、オレもなんか、完全に訳わかんなくなってたから……ごめん……」
「本当にごめんなさい」
「ま、まあ、お互い様ということで……」
「すまん」
はーあ。マジでやらかしてしまったなあ。いろんな意味で頭が痛すぎる。いやだって、なんかドギマギし出した颯斗が面白くてからかい出したのはオレが悪いし、結局最後まで本気で拒否しなかったのもオレだしなあ……。最悪だあ。
「よし、それじゃあ、この話はこれでおしまいということで。極力忘れような、な?」
「かたじけねえ……」
未だに土下座の姿勢を崩さない颯斗が蚊の鳴くような声でそう言った。
その後、微妙すぎる距離感で服を着て、二人して水をがぶ飲みする。二日酔いにはなによりもまず水分補給だ。キッチンに二人、死んだ顔で並んで立つ。
「んで、今日どうする……?」
虚無を眺めるような目をした颯斗が、コップを水で満たしながら呟いた。
「あー、あれ、とりあえず塩っけ欲しいな」
回らない頭で、何を食いに行くか考える。まず絶対重いのは無理だ。ピザとか食ったら胃が対消滅しそうだもの。それに水分はもちろん、全部の栄養素が足りてない気がする。ここは、そう。ラーメンとかいっときたい。それも、シンプルでオールドスクールなやつ。
「じゃあ、いつものとこ行くか」
「あー、アリ。超アリ。モハメドアリ」
オレたちはそれぞれガンガン痛む頭を労わりながら、徒歩三分、行きつけの町中華に足を向けた。よく澄んだ十月の日差しがちょっとしんどい昼前だった。
続く、かも
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
第二話
「お疲れ様でしたー。お先失礼しますー」
「うん、おつかれさま」
タイムカードはもう切ってある。ちらほらと残っている上司や同僚に横目で挨拶しながら、早足でオフィスから出た。エレベータホールにたどり着いたオレは操作盤のボタンを押すと、コートのボタンを全て留める。
早いもので、いつの間にか秋は過ぎ去り、今じゃ木枯らしが幅を利かせている。すぐにやってきたエレベーターに乗り込むと、オレは首に巻いたマフラーに隙間ができていないか再確認した。
「っあー疲れた」
誰もいないエレベーターの中、思わず独り言が溢れる。
今日は週一回の出社日かつ金曜日。普段テレワークのため、運動不足気味で通勤するだけでも結構体力を持っていかれる。それプラス週末でもうヘロヘロだ。
しかしまあ、悪いことばかりじゃない。気分の問題かもしれないが、ちゃんと身だしなみを整えて一日仕事をして、それが終われば休日だという切り替えの感じとか。ずっと家で仕事をしていると、どうにもそこら辺の境界が曖昧になってしまう。
そう、体の底に溜まった疲労感を噛み締めている間にエレベーターは地上一階に到着した。
(寒っ……)
感染症対策のため開けっ放しになった出入り口から冷たい外気が吹き付けてくる。なんだか、毎年冬が来るたびに体感の寒さが厳しくなっている気がする。あれかしら、体が女になったから? それとも加齢? ……まあ、どっちだっていいか。
季節に敏感でいたいとは常々思うけど、冬は嫌いだ。
コートのポケットに両手を突っ込んで、身を縮めながら歩道に出ると、示し合わせたかのように一陣の風が枯葉を散らしていった。
また一段と冬の匂いが濃くなっている。だからか、死にたくなる。クソ。
マフラーを口元まで引き上げ、マスクの中で悪態を吐くと、オレはパンプスの踵を鳴らしながら家路を急いだ。
——この体になって初めて迎えた季節が冬だった。
今まで歩んできた人生の道程や自分自身のことを、綺麗さっぱり否定されたような気分だったのをよく覚えている。病院から退院した時、女物の服なんて持ってるはずもなく。身長こそあまり変わらなかったものの、完全にサイズの合っていない服のまま街を歩いた。そうそう、歩き方や立ち振る舞いなんかも男女で違うな。つまり、なんだか変な奴がいるぞと、道行く人々の目を引いてしまったわけだ。悪意のない好奇の目は、生理で弱っている時なんかに未だ夢に見る。
そうして、オレはひどく惨めな気持ちになって、部屋に逃げ込んだ。
大して信じている訳じゃないけれど、神様とか己の運命とか、そういうのを人並みに恨みもした。
だが、オレはとてつもなく臆病だった。自暴自棄にもなれず、ましてや自分自身で人生の幕を引くこともできなかった。
だから順応した。外面を繕った。
ある程度仮面をかぶれるようになれば、普通に生きていくだけの仕事もできた。しかし、言い換えればそれはただ生きているだけだった。何もない、何も持っていない。ただただ目の前を素通りしていく世間を眺めるだけの、味のしない日々。そんな無為に過ごすだけの毎日に危機感も持てず、漠然と人生を費やすことに必死になっていたら、性別が変わって一年が経っていた。
窓の外を流れていく街の明かりを眺めながら、取り留めのないことを考える。
こんなご時世だって言うのに相変わらず混み合う電車には辟易するが、痛いくらい冷たい風に震えるより何倍もマシだ。うまい具合に開かない側のドア付近をゲットしたオレは、冷気で強張った体が暖房によって解れていくのに嘆息する。すると、意識に余裕が生まれたせいか急激に空腹感がやってきた。
(晩飯どうすっかなあ。常備菜も使い切ったし、金曜だしなあ。なんか、こう、テンション上がるもの食いてえよな)
そうして頭の中が夕食のことでいっぱいになった時、ショルダーバッグの中でスマホが振動した。
(はいはい何でしょう……お、颯斗か……)
最早片手で操作するのも億劫なサイズ感のスマホの画面には『おつかれしごおわ。うちくる?』の文字が。そういえば、あのやらかしから大体一月ほど経っている。あの後、お互い普通に仕事が忙しくてあまり遊べなかった。まあ、かえってそれが良かったんだろう。これまでと変わらず、あいつとはちゃんと友達のままでいる。
『おつかれ。今日はオレん家にすっか』
簡単な返事をして、マスクのせいで据わりの悪い眼鏡を直して顔を上げる。すると、ちょうど線路脇の道路を、デリバリーピザの原付が並走していた。
宅配ピザねえ。
……たまにはアリだな。パーッとやるかあ。
オレは基本的に自炊派だが、こんな日があってもいいと思う。
『ピザとってビールで優勝したい。したくない?』
さっき送ったメッセージに既読が付いているのを確認したオレは、颯斗の返信を待たずに追撃した。もう完全にピザの口になっているオレは、早速家から最寄りの宅配ピザチェーンのサイトを開いた。今はウェブ注文とかできてめっちゃ便利になったよなあ。おかげさまでちょっとお腹がぐうと鳴った。……恥ずかしい。
『おけ。風呂入ったらいく。しばし待たれよ』
ピザのメニューを眺めていると、颯斗からの返事が届いた。
『ハイヨー』
それに対し了承の意を伝えてすぐ、間も無く最寄駅だと告げる車内アナウンスが流れた。ふむ。帰ってから適当に頼むか。酒も買わなきゃロクなのないし。オレはスマホの操作をやめると、再びバッグへそれをしまい込んだ。
今年の正月は、帰省できないだろうな。
記憶よりは若干空いている車内と、マスクで顔を覆った乗客達を見て、ふとそう思った。
思い返せば、颯斗にもいろいろあった。今でこそ本人は笑い話だと言っているが、あの出来事は彼の心へそれなりに深い傷を残したはずだ。
あれは社会人三年目くらいの時か。当時颯斗には一年程付き合ってる彼女がいて、あいつはその彼女のことをめちゃくちゃ溺愛していた。確か、同じ大学の同じ学科だった女の子で、たまたま街で再開して付き合うことになったとか。とにかく、たまに飲みに行けば会話の殆どがノロケ話になるくらいには入れ込んでいた。聞いた話では、結構貢いだり、旅行に行ったりもしていたらしい。
そんな、生きるの楽しい、人生最高状態の颯斗とパッタリ連絡が途絶えたことがあった。どんなメッセージを送っても、電話をしてみても何の反応もない。そして、流石にただ事ではないと思ったオレがあいつの部屋に押しかけてみると、颯斗はこの世の終わりのような顔をしていた。
どうやら、颯斗は最初から二股をかけられていたらしい。しかも颯斗は本命ではなく、逆に二股相手から有る事無い事脅されて金も集られたそうだった。可哀想がすぎる。
その当時の颯斗は哀れすぎて、放っておけば消えてしまいそうに見えた。ちょっとでも強い風が吹いたら真っ二つに折れて、雨に濡れたら溶けそうなくらい。ともかく、その時のオレは、一番身近な友人のはずなのに一言も相談がなかった苛立ちと、ただこいつを何とかしてやりたいという思いを燃料にひたすら構い倒した。有給を取って、男二人北海道へ傷心旅行なんてのもした。
結果として、なんとか颯斗を立ち直させることに成功した訳だが、それ以来彼は女性不信気味になり、特に色恋沙汰から遠ざかるようになってしまった。あんな仕打ちを受けたのだ、それもしょうがないと思う。
ただ、そろそろあいつもいい歳だ。SNSを覗いてみれば、高校の時の共通の知人が結婚してたりなんて珍しくない。オレはもう色々と諦めているが、一人の友として、あいつにはちゃんと幸せになってほしいと思う。
駅から出て一番近いコンビニに吸い込まれる。やっぱりここもドアはあけっぱなしでクソ寒い。オレは入り口横に積んである買い物かごを手に取ると、一直線に酒類コーナーへ向かった。なんせフライデーナイトをピッツァでビクトリーするんだ、備蓄のビールもどきじゃあ荷が重い。こんな日くらい、ホンモノのビアを飲んでもバチは当たらねえだろう。
オレは目ぼしい銘柄のビールをカゴにジャカポコ入れていく。大盤振る舞いでてんてこまいだこのやろう。ふへへへ。高まってきた……。
メインディッシュはピザだから、あと何か必要なものあるかな。あーそうだ。ラップ切らしてたんだ。ううむ、明日買ってもいいけど、もしも食べきれないものが出たら保存に困るな。しょうがない、ここで一緒に買ってしまおう。確か向こうの棚の方だったよなあ。
オレはひとまず酒類コーナーを離れて、日用品とかもろもろを陳列している方へ足を向ける。ええと、ラップはどこだ? 確か、前にこの辺で見た記憶が。
ああ、あったあった。あちゃー、巻いてるメートル数短いやつしか売ってないか。まあしょうがない。予備とか買ってないオレが悪いんだから。などと胸中でボヤきながらラップをカゴに放る。
あとは、何か買うものあるかな。そう思って視線を巡らせると、とある棚の一角が目に留まった。
煙草にもすこし似たサイズ感の箱に、デカデカと小数点付きの数字がプリントされたパッケージ。
——そうだね、コンドームだね。
突然視界に性的なアイテムが入ってきて、オレは面食らってしまった。…………ハッハッハ、バカいえ、思春期のガキじゃあるまいし。オレしってる。コンドームはセックス以外にも水筒にしたり火起こしに使えるからサバイバルで役立つってしってる。おれはてんさいなので。
……念の為、買っておくか? あ、あくまで、自衛の為で、他意はないけど、一応? だ、だって、今日は颯斗がうちに来る番だし、オレん家にゴムとか無いし。もしこの前みたいなことになったら、今度こそちゃんと付けなきゃヤバい。いや最初から付けろって話だけど。
もしも、もしもだけど、またあんなことが……。
あの夜、オレのことをベッドに押さえつける、颯斗のからだが脳裏に蘇った。汗でしっとりした肌と、燃えるような体温。外側はもちろん、内側からも同じくらい暖かくて、ひとつに溶け合うような。
(やべ……顔あっつ……)
少し思い出しただけで顔に熱が集まる。なんだこれ……一体どうなってるんだオレ。下腹部の方もなんか変だ。なるほど、これがアレか、おなかが切ないってやつかーなるほどなるほど。ちぃ、おぼえた。
(もう、なんなんだよ……オレ、そんなんじゃないのに……)
こんなの絶対おかしい。あんなのまともじゃない。あれは、ただの、酒での失敗だ。
だって、オレは元男で、嗜好自体は昔と変わらない。それなのに、また、あの夜みたいに熱を分けて欲しい。そう思ってしまうなんて、もうどこかおかしくなってしまっているんじゃないか。
なんだか、無性に人肌恋しい。
寒くて、凍えてしまいそうだ。
どうしようもないくらいひとりぼっち。嫌になるぐらい人がいっぱいのこの世界で、限りなく完結したひとりぼっち。
出口のない迷路を、思考がトップギアでぐるぐると回る。
まだ、思春期の香りを引きずっていた頃なら、こんなふうに自意識が拡大していって、足元が揺らいでしまうような感覚に陥ることも許されるだろう。でも、オレは、もう大人なんだ。社会と自分の間で心をすり減らして、年相応に角が取れて丸くなった。なにも、特別なことなんてない。掃いて捨てるくらい有り余った、”普通”の人間だ。清濁併せ吞んで、自分の足で立つしかない、普通の人間……。
「あの、すみません」
「あっ、ご、ごめんなさい」
呆けてしまっていたオレは、隣に立つ壮年の女性の声によって現実に引き戻された。どうやら、オレが邪魔で商品を取れなかったらしい。オレは一言謝罪すると、あうあう唸りながら店内の物色に戻った。
++
「おつかれー」
マンゴー材のローテーブルに宅配ピザの箱を広げ、その上で乾杯する。
これまでと、普段と何ら代わり映えしない一幕。目の前では、髪を下ろしてオフの装いとなった颯斗が少年のように目を輝かせている。その視線は複数枚のピザの上を行き来していて、なんというか微笑ましい。彼はどうしようかな、と呟くと缶ビールをぐびっと飲み、オレに目を向けた。
「何から食っても同じだろ」
オレは、道案内を求めるような颯斗の目に苦笑しつつ、自分から一番近いマルゲリータピザに手を伸ばした。オレが「ほれほれ早く食おうぜ」と颯斗に促すと、彼はオレのと同じピザを取る。
「いただきまーす」
軽い調子の声が、二つ重なる。
うん、うまい。とりあえずで選んだド定番なだけある。トマトとチーズの味、バジルの爽やかな香り。言っちゃえばそれでおしまいだけど、シンプルイズベストという言葉もあるし。かなり久しぶりにデリバリーのを食べるけど、楽だしうまいしで文句なしだ。お値段に目をつぶればだけど、まあこれは宅配料ということで。
すかさずビールを流し込めば、これが合わないわけがない。ビアとピッツァ、合いすぎて合鴨になったわね……。ぐわぐわ。
ここでようやく人心地ついたと、オレはあつい息を吐いた。
すっかり暖房の効いた部屋、毛足の長いラグの肌触りがくすぐったい。座椅子替わりのビーズソファに体を任せると、しみじみと旨いものを食べているといった顔をした颯斗が目に入った。
「今日、泊まっていくっしょ?」
自分でも驚くくらい、優しい声が出た。
目次 感想へのリンク しおりを挟む