走るその先に、見える世界 (ひさっち)
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プロローグ
1.足が軽くなった気がした


 昼間の山道を、小さな少女が歩いていた。

 ジャージ姿で、背中に無地の黒いリュックを背負った少女が険しい山道を苦もなく歩いていく。

 山道を歩いていたのは、綺麗な容姿をした少女だった。むしろ整い過ぎているとまで思えるその顔立ちは、まるで人形のような人間と思えるほどだった。

 ジャージ姿でも分かるすらりとした身体。腰まである綺麗に整えられた芦毛の長い髪に、何故か頭の上にある二つの耳。そして腰にはゆらゆらと揺れる芦毛の尻尾が生えている不思議な少女だった。

 明らかに人間とは違う存在。それは彼女こと――メジロマックイーンは、世間から“ウマ娘”と呼ばれる存在だった。

 ウマ娘と呼ばれる彼女達は、世間では知らない人間はいない存在である。その主な理由は、彼女達が持つ特殊な能力と言える超人的な脚力だった。

 その人間よりも優れた脚力を活かして、世界中でウマ娘だけが行う“とあるスポーツ”が彼女達の人気を確固たるモノにしていた。

 世界中に数多くいるウマ娘の中でも、選ばれた者だけにしか出れない国民的人気スポーツである『トゥインクル・シリーズ』。その選ばれしウマ娘達が競い合うレースが、世界で最も人気のスポーツとして彼女達の人気を確固たるものとしていた。

 この場にいる少女――メジロマックイーンも、その道の頂点を目指す一人のウマ娘だった。本来なら彼女も、毎日を自身を鍛え上げる練習の日々を過ごしているはずだった。

 しかしそんなメジロマックイーンが、人里離れた山道を一人で歩いているのには――彼女なりの理由があった。

 

 

「本当にこんな場所に……話に聞いたトレーナーさんがいるんですの?」

 

 

 渡された手書きの地図を片手に、メジロマックイーンがぽつりと呟く。

 メジロマックイーンの手に持っている地図に書いてあったのは、彼女の在籍する『トレセン学園』から少し離れた山奥だった。トレセン学園から交通機関を使って少し歩いた先にある山奥のとある場所に、小さく印が書かれていた。

 その地図を片手に山道を歩いていたメジロマックイーンだったが、彼女の内心は半信半疑だった。彼女は“ある話”を聞かされて、この場に赴いてしまっていた。

 信じられなかった。こんな山奥に人が本当に住んでいるのかとメジロマックイーンは思いたくなる。

 しかしそう思いながらも、メジロマックイーンはそんな話を少しは頼っても良いかと思うくらいに実のところ心が弱っていた。

 このところメジロマックイーンは、身体の不調が続いていた。その所為で練習でもタイムの伸び悩みが続いていた。練習環境が悪いのかと思い、実家であるメジロ家で自主練しても身体の不調は良くならず、タイムも伸びることはなかったのだ。

 トゥインクル・シリーズを目指すためのウマ娘を育てる『トレセン学園』に入学してから少し経って、メジロマックイーンは自分の成長を実感できない所謂“スランプ”に陥っていた。

 そんな落ち込んでいた日々を過ごしていたメジロマックイーンに、とても腕の良い人材がいると入学式に見たことがあるだけだった理事長から突如の推薦を受けて、彼女は促されるまま“ある場所”へ向かうことになり、人里離れた山道を一人で歩いていた。

 しかし思い返すと、随分と不思議な話だった。先日、理事長から地図を渡された時、彼女が意味深なことを話していたことがメジロマックイーンには疑問だった。

 

 

『うむ! 不調が続くならこの者を頼るとよい! きっとお主の力になってくれるに違いない!』

 

 

 そう理事長が話した後、付け足すように続けた言葉がメジロマックイーンは気になっていた。

 

 

『良いか? なにを言われようとも諦めるでない! なにを言われようとも私を鍛えてくれと懇願するのだ! お主の気持ちが伝われば、きっとあの者も応えてくれるに違いない!』

 

 

 その口ぶりは、まるで最初から断られる前提の話だった。トレセン学園から話が通っていないのだろうかとメジロマックイーンが疑問に思うのも無理のない話だった。

 今、こうしてわざわざトレセン学園から外出の許可を貰ってメジロマックイーンはこの場に来ているが、本当にこんな山奥に人が住んでいるというのも今だに信じられず、ただ不思議としか思えなかった。

 周りを見ても木々しかない。周りを見渡しながら、こんな場所に人間が住んでいるとは到底思えないとメジロマックイーンが思ってしまう。

 だからそこ理事長から話をされた後、メジロマックイーンは調べていた。胸に抱える疑問を解消する為に、彼女はトレセン学園に数多く在籍しているトレーナー達にその噂のトレーナーの話を訊いてみたのだが――彼等は揃って同じこと答えていたのが彼女の印象に残っていた。

 

 

『彼は、とても有能なトレーナーだった』

 

 

 その話についてメジロマックイーンが詳しく訊こうとしたが、トレーナー達はそれ以上のことを彼女に答えることはなかった。

 不思議とトレーナー達がそのことについて話すのを躊躇っている。そんな雰囲気をメジロマックイーンは密かに感じていた。

 だが最後に一言だけ、同じようなことをトレーナー達が揃って言っていたことがメジロマックイーンの疑問を大きくさせていた。

 

 

『そのトレーナーが何処にいるかも分からないが、頼ったとしても無駄だと思う』

 

 

 その話を聞いて、メジロマックイーンの疑問は大きくなる一方だった。と言うよりも、彼女は困惑するしかなかった。

 

 何故、トレセン学園にいるトレーナー達がその噂のトレーナーの居場所が分からないと言ったのだろうかと。

 

 学園長からメジロマックイーンに地図を渡した以上、トレセン学園はその噂のトレーナーの所在地は分かっているはずだった。しかしそれなのにどうして学園にいるトレーナー達は、その噂のトレーナーの居場所を知らないのだろうか?

 聞けば聞くほど妙だと思える話に、メジロマックイーンはただ困惑することしかできなかった。

 

 

「もしかして……あそこかしら?」

 

 

 そうして山道を歩き、地図に印の書かれた場所にいつの間にかメジロマックイーンは到着していた。彼女が見つめる視線の先には、小さな木造の家があった。

 メジロマックイーンがふと視線を横にずらすと、小さな家の横にはとても広い広場があった。彼女が見たところ、そこはレース場のような形をしているように見えた。

 思わずメジロマックイーンが広場に近づいてよく見てみると、彼女は少し驚いていた。

 メジロマックイーンの目の前に広がる広場は、しっかりと整備されたレース用の練習場だった。芝生も整えられていて、一目で整備されている場所だと分かる。彼女が見る限り、練習には申し分ない場所だと思ったほどだった。

 

 

「本当にいるみたいですわ。噂のトレーナーさんが……」

 

 

 明らかに人の手が加えられている練習場を見て、この場に人間が住んでいることを再確認したメジロマックイーンが確信する。ここには、本当にウマ娘を育てるトレーナーがいると。そうでなければ、こんな山奥に芝生が整えられたウマ娘用の練習場を作る意味がない。

 身体の不調とタイムの伸び悩みが続くメジロマックイーンの心臓の鼓動が高鳴る。先日聞いた理事長の話が本当ならば、この場所に自分を変えてくれるかもしれないトレーナーがいるのだから。

 そのことに期待して、メジロマックイーンが意を決して視線の先にあった小さな家に向かおうとした瞬間――彼女は唐突にピタリと立ち止っていた。

 

 

 ふと――彼女の耳に、走る音が聞こえていた

 

 

 リズミカルに、そして規則正しく地面を蹴る音がメジロマックイーンの耳に届く。

 思わずメジロマックイーンが音のした方に振り向く。そして彼女が視線の先に見えた光景に目を疑った。

 

 目の前に広がる芝生の練習場を、走る人影があった。

 

 最初はメジロマックイーンも、その走る人影をウマ娘と思っていた。しかし走る人影をよく見れば見るほど――その人影の姿に彼女は驚くしかなかった。

 歪みのない綺麗なフォーム、走る姿がここまで綺麗だと思える姿は見たことがない。力強く芝生を蹴るその姿は、まるで自分の思い描いた理想の姿だと思えるほどに、メジロマックイーンは圧倒された。

 

 その姿がウマ娘なら――それだけで済んだ。

 

 普通の人間とウマ娘では、走れる速さの限界が違う。それは一般常識と言っても過言ではない。

 普通の人間が走れる最大速度は、時速三十六キロメートル程度。それに比べてウマ娘は時速六十キロメートルを優に超える。それは人間とウマ娘の間にある努力しようとも超えられない壁だった。

 しかしメジロマックイーンの目の前で走っているのは、ウマ娘ではなく――普通の人間だった。本来、ウマ娘にあるはずの耳も尻尾もない。身体の骨格も、間違いなく普通の男性だった。

 そんな普通の人間が明らかにウマ娘と同等の速度で走っている。むしろそれよりも速いかと思えるくらいだ。

 仮にこれを話に聞くだけならメジロマックイーンも一蹴する話だった。しかしこうして目の前で見せられている時点で、彼女も信じるしかなかった。まるで今までの常識が壊されるような錯覚すら覚える。

 驚きのあまり、メジロマックイーンはその場で立ち止まって走る男性を見つめていた。

 そして練習場を走っていた男性が練習場の端にいたメジロマックイーンを見ると、彼は怪訝な顔をしながらその場で走るのをやめていき、彼女の前で立ち止まっていた。

 

 

「……誰だ。アンタ、なんでこんな場所に来た?」

 

 

 メジロマックイーンに向かい合うなり、男性から威圧感のある声色が発せられる。思わず、彼女は一歩後ろに後ずさっていた。

 二十代程度の女性のような顔立ちをしている男性だった。顔だけ見れば女性と勘違いするかもしれないが、威圧感ある声と鋭い目つき、体つきを見れば、流石のメジロマックイーンも目の前にいる人間は女性のウマ娘ではなく“男性”だと思わざるを得ない。

 切るのが面倒なのか長い髪を後ろでひとつに結っているだけで、その男性は鋭くした目つきをメジロマックイーンにただ向けていた。

 その視線に物怖じするメジロマックイーンだったが、目の前にいる人間が学園長の話していた噂のトレーナーだと確信していた。

 学園長が言っていた。もしこの人に鍛えてもらうなら、絶対に諦めてはいけないと。この人は理事長が話していることが本当なら、自分を強くしてくれる人なのだ。ならば、怖がっているわけにはいかない。

 メジロマックイーンはそう決心すると、彼の目をしっかりと見つめながら言い放っていた。

 

 

「初めまして! 私、トレセン学園のメジロマックイーンと申しますわ! この度は理事長から貴方を頼ると良いと言われまして伺いました! 事前に学園から連絡が入っていると思います! この度は私の勝手な理由で申し訳ありませんがお願いします! どうか私を鍛えてください! よろしくお願い致します!」

 

 

 そう言って、メジロマックイーンが綺麗に頭を下げた。

 一方的に用件を伝えている以上、彼からなにを言われるかわからない故に、頭を下げていたメジロマックイーンが思わず頭を下げながら目を瞑る。

 しかし少し待っても一向に返事が来ないことに、メジロマックイーンが違和感を感じる。そして彼女がゆっくりと頭を上げると、先程目の前に立っていた筈の男性が居なくなっていた。

 

 

「えっ……?」

 

 

 メジロマックイーンが慌てて周りを確認すると、先程の目の前に立っていた男性は練習場を走っていた。いつの間にかメジロマックイーンがいる場所の反対側にいて、彼は見惚れるほど綺麗なフォームで走っていた。

 

 

「な、な……!」

 

 

 しっかりとお願いした筈なのに、一切の反応もなく何も言われなかったことにメジロマックイーンが声を震わせる。

 ウマ娘の中で由緒正しい家系であるメジロ家の一人として、礼儀というものを叩き込まれているメジロマックイーンからすれば、彼の態度はあまりにも目に余る行動だった。

 

 

「なんですのっ! 無視しなくても良いではありませんか!」

 

 

 そして練習場を一周してきた彼に叫んだメジロマックイーンだったが、彼は彼女を一瞥すると興味なさげに立ち止まることなくそのまま走り去っていた。

 彼が走り去る間際、自分に関心のない目で見られたことにメジロマックイーンが気づく。そんな彼の視線に、彼女の目は自然と鋭くなっていた。

 明らかにあの人にバカにされている。それはメジロマックイーンには到底許せない無礼であった。

 

 

「良いですわ……バカにするなら、私も同じことをしてあげますわ」

 

 

 普段は落ち着きのあるメジロマックイーンを知る人からすれば、彼女の反応は随分と珍しい反応だった。

 メジロマックイーンが持っていた鞄から“蹄鉄の付いた靴”を取り出すと、すぐに今履いているスニーカーから履き替えていた。

 そして靴を履き替えた後、鞄が邪魔にならないように練習場の隅に置くと、メジロマックイーンはその場で軽い柔軟をしながら彼が練習場を一周してくるのをじっと待っていた。

 そうして彼が練習場を一周して戻ってくると、彼はまたメジロマックイーンを一瞥するなり再度無視して走り去っていく。

 しかしその瞬間、メジロマックイーンは彼を追うようにその場から走り出していた。

 

 

「絶対っ! 私の話を聞いてもらいますわっ! 私の方が貴方より絶対に速いんですのよっ!」

 

 

 そして先を走っている彼を追い掛けようとして、メジロマックイーンが全速で駆け出した。

 一瞬、彼が背後を一瞥していた。しかし彼はメジロマックイーンを特に気にせずに前を向いて走り続けていた。そんな彼の無礼な態度が、彼女の神経を更に逆撫でしていた。

 

 

「私が追いつけないとでも言いますの! 本来、普通の人がウマ娘に勝てる筈がありませんわ!」

 

 

 彼を追うメジロマックイーンが、走る速度を上げる。

 メジロマックイーンの視界に映る彼の背中が少しずつ大きくなるが、ある時点で彼女は気づいた。

 

――距離が縮まない?

 

 彼と距離を縮めたはずが、ある一定の距離からメジロマックイーンは彼に近づくことができなかった。

 メジロマックイーンが全速で走っていても、彼は何故かそれと同等の速さで走っているのか距離が広がるわけでもなく、縮まりもしなかった。

 紛れもなくメジロマックイーンが今走っている速度は、彼女が出せる全速力である。なのに何故彼に追いつけないのかと、彼女は困惑していた。

 疑問に思ったメジロマックイーンが、先を走る彼の姿を凝視する。そして彼女が彼の走る姿を見ると、ふと気づいてしまった。

 

 

「あの走り方って――!」

 

 

 先を走る彼の走り方。それはメジロマックイーン自身の走り方と全く一緒だった。

 自分の走るフォームは、メジロマックイーンは嫌でも分かった。実際に自分の走り方を録画して何度も見直した。タイムが伸び悩んでいる時、フォームの見直しに何度も見返したくらいだ。自分の走り方を見間違える訳がない。

 だからこそ、メジロマックイーンは分かった。目の前にいる男性は、自分と全く同じフォームで走っていると。

 先程彼の走り方を見ていた時、彼の走る綺麗だったフォームをメジロマックイーンはハッキリとは覚えていない。しかし彼の今の走り方は、明らかに先程とは違うフォームだったことは確信していた。

 その確信が本当なら、つまり――彼は少し見ただけでメジロマックイーンと同じフォームで走ることができたことになる。

 わざわざ速く走れることができるはずなのに、あえて自分と同じ走り方をしている彼の行動にメジロマックイーンが目を吊り上げた。

 

 

「人をバカにするのもいい加減に――!」

 

 

 明らかに馬鹿にされている。彼の行動を見て、メジロマックイーンはそう捉えた。絶対に負けたくない、そんな気持ちが彼女の胸に募っていく。

 そうしてスタートから六百メートル程度走ったところで、彼とメジロマックイーンの距離が少しずつ開いていた。

 

 そこで、またメジロマックイーンは彼の変化に気づいた。

 

 彼の走り方が僅かに変わっていた。少しだけ足幅を大きく、踏み込みを更に力強く、そして今よりも早く動かして。

 まるで自分の走り方が違うと否定されたような感覚だった。メジロマックイーンがむっと表情を歪める。

 

 そう思うと、メジロマックイーンは彼と同じフォームになるように走っていた。見様見真似で、彼女が目の前で走る彼のフォームと同じ走り方を試みた。

 

 

「えっ――」

 

 

 思わず咄嗟に彼と同じ走り方に変えた瞬間、背中を誰かに押されたようにメジロマックイーンの身体が前へ進んだ。

 足が軽くなったような、そんな感覚だった。離れていったはずの彼の背中が、少しだけ近づいていた。

 しかしそこで彼がまたメジロマックイーンから距離を離す。走った距離は約千メートル。走り始めた箇所からすでに半周していた。

 

 よく見ると、また彼のフォームは変化していた。

 

 今度はギアを上げたように、身体を少し前に倒して手足の回転が速くなっていた。

 しかし負けずとメジロマックイーンも彼と同じようにフォームを変えて加速する。

 

 

 その瞬間、メジロマックイーンはまた足が軽くなったような気がした。

 

 

 身体の疲労感は勿論ある。身体を酷使しているのだから当たり前だ。足が重くなっていくのも、メジロマックイーンは十分に分かる。

 しかしメジロマックイーンは、いつもよりも更に速く前に向かって走れていることが分かってしまった。

 足が重いはずなのに、軽い。前に進んでいる。思うように前へ駆けれていると。

 先程まで背中を見ているだけだった彼の背中が、少しずつ近づいていく。

 走った距離は、気づけば千六百メートルになっていた。残りは、最後の直線のみとなる。

 そこでメジロマックイーンは、ゴールに向けてラストスパートを掛けていた。しかし彼も、同じようにラストスパートを掛けていた。

 ラストスパートを掛けた彼との距離が縮まらないことに、全速力で走るメジロマックイーンの心が折れそうになる。

 

 しかし、メジロマックイーンは諦めていなかった。

 

 足が限界と言おうとも、メジロマックイーンは更に足を速く動かした。足を速く動かすのは“見た”。あとはそれを更に速くするだけ――簡単なことだ。

 そうして最初にメジロマックイーンが走り出した場所が見えてくると、途端に彼の背中が近くなっていった。

 次第に彼との距離が縮まっていき、いつの間にかメジロマックイーンは彼と横並びに走っていた。

 横目で彼を見る余裕なんてない。気づいたら、ただ全速で、全開で身体を動かすことでメジロマックイーンの頭は一杯だった。

 

 

「こんのぉぉぉぉっ‼︎」

 

 

 メジロマックイーンが、叫びながら身体を酷使する。

 

 そしてその瞬間――メジロマックイーンは彼を抜き去っていた。

 

 自分が彼を抜いたと分かった途端、メジロマックイーンは身体の限界を感じてゆっくりと走るのをやめていた。

 気がつけば、自分は走り出した場所に立っていて、メジロマックイーンは荒くなった息を整えるので精一杯だった。もう、一周していたんだと理解するのに少し時間が掛かるほどに集中していたらしい。

 その後、メジロマックイーンが息を整え終わると、先程まであった彼への苛立ちは消えていて。彼女の中には、今までにない充足感があった。こんなにも、走るのが気持ち良かったのかと。

 

 

「その走り方を忘れるな。ラストスパートは良かった……もう少し身体を前に倒して足に力を込めるとまだ速くなる」

 

 

 メジロマックイーンが声のした方へ勢いよく振り向くと、彼はそう告げて小さな家へと向かっていた。

 

 

「待ってください! なんで貴方はそんな速く走れるのですか⁉︎ 走りのフォームもあんなに綺麗で……どうしてですの⁉︎」

 

 

 彼の言葉を聞いた途端、メジロマックイーンはそれよりもと彼に訊いていた。走り方の助言は有り難い、しかしそれよりも疑問だった。

 人間が、どうしてウマ娘と同じように走れるのか?

 しかし彼はメジロマックイーンの言葉を無視して歩いていく。彼を呼び止めようとメジロマックイーンが足を動かすが、彼女の足は走ることを拒んでいた。

 

 

「あっ――!」

 

 

 走ろうとして、その場でメジロマックイーンが転んでしまう。彼女が自分の足を触ると、足全体が小さく痙攣していた。

 

 

「限界の走り方をしたんだ。当然、動かない。動くまでしばらくそこで休んでから帰れ、帰ってから風呂に入ってマッサージをすれば少しは良くなる」

 

 

 そう言って彼がメジロマックイーンを一瞥すると、背を向けて小さな家に向かって行った。

 背中を見つめるメジロマックイーンが彼を追おうと足を動かそうとしても、思うように足が動かない。

 そして彼がそのまま小さな家に入って行くのを、メジロマックイーンは見つめることしかできなかった。

 その後――彼の言った通り、その場でしばらく休むとメジロマックイーンの足は歩ける程度まで回復した。歩けるようになった彼女は、すぐに彼の家に向かった。しかし結局のところ、彼が家から出てくることはなかった。

 彼の家にはインターホンのようなモノもなく、メジロマックイーンはノックをして彼を呼ぶが、彼は一切反応しなかった。

 そして長い時間が経ち、時刻は昼間から夕方になった。メジロマックイーンがいくら待っても、彼が出てくることはなかった。

 どれだけ待っても彼が出てこないことを察して、寮の門限の関係上でこれ以上はこの場に居れないと判断したメジロマックイーンが諦めて来た道を戻っていくことしかできなかった。

 

 その帰り道。メジロマックイーンの足にある充足感。彼と走った感覚はしっかりと彼女は覚えている。

 

 トレセン学園に帰ったら、風呂とマッサージをちゃんとやってみよう。

 不本意だが結果的に、彼が言ったことは間違いないかもしれないとメジロマックイーンは思わざるを得なかった。

 

 

「また来ますわ……必ず」

 

 

 少し歩いた山道の中で振り返りながら、メジロマックイーンは小さな声で呟いていた。

 思い返せば、よく分からない人だった。そして今でもメジロマックイーンは信じられなかった。ウマ娘と同じ速さで走れる人間が本当にいるのかと。

 まるで夢でも見ていたのではないか、メジロマックイーンは“彼”のことを思い出しながらトレセン学園に帰る為に山道を下って行った。




誤字が多過ぎました。修正・加筆を加えています。

読みにくい文章で申し訳ありません。
メジロマックイーン、好きなんです。


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2.不思議と、似ている気がした

 

 テーブルに置いている携帯電話が鳴った。

 朝のランニングを終えた後、シャワーを浴び終えた時にテーブルの上で鳴り響く携帯電話を一人の男が一瞥する。

 ドライヤーで乾かした長い髪をゴム留めで雑に一つにまとめて、彼が冷蔵庫から飲み物を取り出す。

 小さな家に、ひたすら着信の音が鳴り響く。彼が住んでいるのは、木造で作られた簡素な作りの家だった。家具なども必要最低限しかなく、生活感があまりないような印象を与える。

 飲み物を片手に、彼が携帯電話を手に取る。そして携帯画面に表示された名前を見ると思わず顔を顰めていた。

 しかし相手の名前を見て電話に出ないという選択をできなかった彼は、渋々ながら電話を出ることにした。

 

 

「はい。もしも――」

『ようやく出たか! この寝坊助めっ!』

 

 

 耳に響いた大きな声に彼が咄嗟に携帯電話を耳から離して、顔を強張らせる。しかし彼は携帯電話を眉を顰めて一瞥すると、肩を落としながら渋々と携帯電話を耳に当ていた。

 

 

「なんですか? いきなり電話なんて……ランニングしてシャワー入ってただけですよ。理事長」

 

 

 電話の相手を“理事長”と呼んで、彼が電話に出なかった理由を伝える。決して“出るのが面倒”だからや、出る出ないではなく“出ないと職を失う”から出るしかなかった訳ではない。

 

 

『なるほど! なら良い! お主の身体が鈍ってないようでなにより! ところで今週末、一人のウマ娘をお主のところに向かわせる! よろしく頼むぞ!』

「はっ……?」

 

 

 電話から聞こえた理事長の言葉に、彼が反応に困った。

 理事長の言い出したことに、彼は意味が分からないと本気で困惑していた。

 

 

「嫌です。今俺、休職中ですよ」

 

 

 だからこそ、彼は素直な気持ちで即答することにした。

 

 

『だからと言って二年も休職してる奴がおるか馬鹿者! 今までの功績があるから席は残しておるが、お主は今はもう給料はないのだぞ!』

「金ならあります。俺、金は使わない方なんで」

『口の減らぬ男は嫌われると聞いたことがあるぞッ! 付き合いの長い私の頼みを聞いてその者と会ってやろうと思わぬのか!』

「思いません」

 

 

 即答する彼に、電話越しの理事長は『ぐぬぬぬ……!』と声を震わせていた。

 

 

『えぇぇぇぃ! お主もたまには学園に顔を出さんかッ! 学園の者達は皆お主が行方不明になったと思っているのだぞ!』

 

 

 理事長から電話で聞いた彼は、そのことに特に何も思わなかった。

 別に誰かに心配されたいとも思わなかったのに加えて、忘れてくれるならそれでもいいと思っているほどだった。

 

 

「働いてるって形にして席を置かせてくれるだけで良いです。家族が心配しますからね」

『だから! たまには働けと言っておるのだッ!』

 

 

 珍しくしつこいなと彼は思った。いつもは一ヶ月に数回、生存確認の電話が来る程度だ。そして理事長からの電話に出ても軽い世間話をして切るだけ。こんなにしつこいのは、特に珍しかった。

 

 

「……なにかあったんですか?」

 

 

 そう思い、彼も珍しく訊いていた。

 いつもの気怠そうな声ではなく、少し覇気のある声に電話越しの理事長の反応も不思議と変わっていた。

 

 

『お主……メジロ家は知っておるな?』

「勿論、知らない訳がありません」

『その一人に、メジロマックイーンというウマ娘がトレセン学園に在学しているのだ』

「トレセン学園にはメジロ家の人間は他にもいますよね? メジロドーベルにメジロライアンと有名なウマ娘がいるのは知ってますが?」

 

 

 メジロ家は、とても有名な家系だと彼も理解していた。

 由緒正しいウマ娘の名家、トゥインクル・シリーズではよく見る家系である。

 

 

『なら話が早い。そのメジロマックイーンがスランプになっておる。まだメイクデビュー前なのだが、壁に当たっておる』

「よくある話です。トレセン学園にいるウマ娘なら、絶対にぶつかる関門ですよ」

 

 

 トレセン学園は、国民的スポーツであるトゥインクル・シリーズというレースに出るウマ娘を育成する為の学校である。

 沢山の選ばれたウマ娘が通う学校で、実力の違いは間違いなく出る。それこそ、足の遅いウマ娘や足の速いウマ娘などが挫折や努力を繰り返すところだ。

 彼がそう言葉を返すと、理事長は少し間を置いて答えていた。

 

 

『だからなのだ。メジロマックイーンは、メジロ家に誇りを持っておる。その壁を私も越えられると思っておるが、しかしながら彼女の心は折れそうになっておる。将来有望な彼女も、もしかすればこのまま潰れてしまうかも知れん。それはトレセン学園にとって……由々しき事態ッ!』

 

 

 急に声を大きくしたことに、彼は驚く。しかしいつものことだと理解して、そのことは昔から諦めていたのを思いました。

 

 

『何も専属でトレーナーをしてくれとは言わん。来た時、彼女の走りを見てくれれば良い。彼女に何かキッカケを与えるだけで良いのだ』

「キッカケ、ねぇ……」

 

 

 何を簡単にと、彼は思った。

 自分の壁を越えるキッカケなどが簡単に見つかれば、トレセン学園にいるウマ娘は全員がトゥインクル・シリーズに出ている。

 それができるかできないかが、それこそ才能と努力ではないかと彼は心から思っていた。

 

 

『お主の能力ならできるであろう? 特に走ることならお主の次に出てくる人間などいない。唯一無二の人間で、ただ一人の“ウマ娘の遺伝子”を持ったお主なら――』

「その話はしないと……約束した筈ですが?」

 

 

 自分が休職している理由のひとつを言われて、彼が顔を不服そうにする。自分の特殊体質を言われるのは好きではなかった。

 しかし電話越しに理事長は『分かっておる』と答えていた。

 

 

『お主が休職している理由など分かっておる。だがそれ故に、頼んでいる』

 

 

 意味深に話す理事長だったが、彼は少し苛立ちを感じていた。

 

 

『才能があろうと使い方が違えば、それは才能ではなく宝の持ち腐れである。二年間の休職の対価である。頼みたい……やり方は任せる』

「やる気はしません」

『会えば分かる。お主も少しは気が変わるかもしれぬからな』

 

 

 分かったように話す理事長に、彼は携帯電話に向かって深く溜息を吐いた。

 

 

「やるやらないでも、来るんですよね? その子?」

『うむ! 行かせる! 外出許可は既に出しているッ!』

 

 

 気が乗らない。しかしとりあえずは話を受けるしかない。そう彼は思うことにした。

 別に来ても、気が乗らなければ無視するだけで良い。後がどうなろうとその時に考えようと、彼は密かに思った。

 

 

「分かりました。好きにしてください」

『ようやく納得したか! 気が乗らないからと言って、放置などはしないようにするのだぞッ!』

「はいはい。分かりました」

『期待しているぞ……麻真(あさま)よッ!』

 

 

 そして理事長に“麻真”と呼ばれた彼は、その言葉を聞いたと同時に通話が切れたことに気づいた。

 通話が切れたことに安心して、麻真が携帯電話を机の上に戻す。

 

 

「面倒な話だ。やる気がしない」

 

 

 頭を雑に掻きながら、麻真が呆れる。

 壁にあるカレンダーを見れば、週末までは数日程度しかなかった。

 

 

「気晴らしに走るか……シャワー入ったけど」

 

 

 もやもやとした気持ちを晴らす為に、麻真は身体を動かそうと決める。

 色々とあるが、走ることは嫌いではない。むしろ好きだった。走る時だけは、無心でいられるのが良い。

 麻真は、またタオルを片手に家から出て行く。しかし出て行く前に、彼は棚にある写真に顔を向けると、一言だけぶっきら棒に言った。

 

 

「行ってくる。母さん」

 

 

 そうして、彼は外に出て行った。

 

 

 

 

 

 

 日曜日。前に来た理事長からの電話のことも忘れて、麻真は昼のランニングをしていた。

 麻真も自覚しているが、自分の体力は人よりもある。ある程度は走っても僅かの疲れしかない。

 趣味の延長で作った芝生のレース場をイメージした広場で、麻真は走っていた。

 一周で二キロメートルと広場とはいうにはかなりの大きさ。坂道や登り坂などあり、本物のレース場と似ている構造になっている。

 たまたま見つけた場所に設備を整えると、意外にも立派な練習場ができていた。意外と芝生を整えるのに金が掛かってしまったが……貯金が多かった麻真は「まぁ、良いか」と考えるのを放棄していた。

 

 

 今日も天気が良い。走るのには最適な日だった。

 

 

 風を切って走るのは、快感にも似た感覚を覚える。

 いつもは流す程度の速度しか出さないが、たまには全速を出しても良いだろう。

 

 

「全力出すと、骨が折れるからな……」

 

 

 自分の特殊な体質故に、全力で走ると骨に負担が掛かり過ぎてしまう。故に、麻真は全力で走ることをしない。

 だが少しなら良いだろう。そうならない走り方は知っている。

 麻真はそう思うと、身体を前に倒すと足を速く動かしていた。

 

 

「……ん?」

 

 

 全速で走っていると、練習場の入口に誰かが立っていた。

 随分と綺麗な子だと思った。小さくてよく見えないが、遠目に見ても整った顔立ちだと分かるほど、異様なほど綺麗に見えた。

 そして走っているうちにその子の元に着くと、麻真は顔を顰めていた。

 頭の上にある耳、腰にある尻尾。紛れもなくウマ娘だった。

 目の前にいるウマ娘が何か驚いた表情で麻真を見ていたが、彼は山奥になんでウマ娘がいるのか分からず、思わず問い質していた。

 

 

「……誰だ。アンタ、なんでこんな場所に来た?」

 

 

 そう言って、麻真が反応を待つが目の前のウマ娘から反応がない。

 しかしすぐに大きな声で目の前のウマ娘が声をあげたことで、麻真は前に理事長から来た電話のことを思い出していた。

 

 

「初めまして! 私、トレセン学園のメジロマックイーンと申しますわ! この度は理事長から貴方を頼ると良いと言われまして伺いました! 事前に学園から連絡が入っていると思います! この度は私の勝手な理由で申し訳ありませんがお願いします! どうか私を鍛えてください! よろしくお願い致します!」

 

 

 この時、麻真は理事長が話していたウマ娘がこの子だと理解した。

 だが、不覚にも麻真は思ってしまった。面倒くさいと。

 どんなウマ娘が来るかと思えば、絵にも書いたようなお嬢様が来るとは思わなかった。

 気が強そうなお嬢様は、扱いにくそうだ。そう麻真が思うと、彼は頭を下げているウマ娘――メジロマックイーンを放置して走ることにした。

 何か後ろで騒いでいる気がしたが、麻真は特に気にしなかった。

 しかしまた一周したところで、麻真は視線の先で柔軟しているメジロマックイーンを見ていた。彼女の足には蹄鉄の付いた靴を履いていて、柔軟をしている。

 

 まさかいきなり自分に挑むつもりなのだろうか?

 

 麻真がそう思いながらも、メジロマックイーンを無視して走って行く。

 そうすると後ろから、駆け出す音が聞こえた。

 

 

「ん……?」

 

 

 麻真が振り向くと、メジロマックイーンが全速で自分を追い掛けてきているのが見えた。

 そして同時に、麻真はメジロマックイーンの走り方を“見た”。

 

 

「なるほど……ね」

 

 

 かなり負担の掛かる走り方をしていた。元々の走り方を、タイムが伸びないと思って変化させ、より負荷の掛かりやすいフォームになったと判断した。タチが悪いのは、負荷が掛かりやすくなるだけで速くなる走り方ではない。

 

 麻真は一目見ただけで、メジロマックイーンの走り方のおおよそを理解した。

 

 試しにメジロマックイーンと同じフォームで走ってみるが、かなり身体に負担が掛かると麻真も実感した。

 

 

「これで走るくらいなら――」

 

 

 麻真は、少し走る足幅を大きくして、踏み込みに力を入れる。そして足幅を広くした分、足を動かすスピードを意識する。

 

 

「これなら、少し走るのが楽になる」

 

 

 身体が先程より早く走っていることを実感して、麻真が呟いた。

 これでメジロマックイーンから距離を離したと思うが、意外にも距離が全く変わっていなかった。

 麻真はすぐに分かった。自分の走り方を真似して走っていると。

 

 

「…………」

 

 

 走りながら、麻真は少し驚いていた。

 まさか走りながら自分のフォームを修正するようなウマ娘がいるのかと。少し間違えれば転んで大怪我をする。ウマ娘の走る速度なら、転んでしまえば平気で骨を折って選手生命を断つだろう。

 胆力があるのか、それこそ馬鹿なのか。それとも……天才なのか。

 どれか判断に困った麻真だったが、現に後ろで食らいつくメジロマックイーンを少し面白いと思った。

 

 

「なら、ついてこい」

 

 

 気づけば、メジロマックイーンがスタートした場所まで一直線になっていた。麻真は良いタイミングだと思い、ラストスパートを掛けた。

 身体を前に倒し、足と手の動きを速める。力は込めなくて良い、足の回転にその分の力を注げば速くなる。

 後ろにいたメジロマックイーンを離していると感じる麻真だったが、ふと足に違和感を感じた。

 

 

「ッ――⁉︎」

 

 

 必要以上に足に負荷を与えてしまった。本来なら耐えられない故に、麻真の足が限界を迎えつつあった。

 しかし珍しいウマ娘に会えた。こんな風に走ることは滅多にない。少しの無理は、たまには良いだろう。

 麻真が走るのをやめないでラストスパートを掛けると、メジロマックイーンも全力で追い掛けてきていた。

 麻真も全力で走るが、足の限界を感じていた。そしていつの間にかメジロマックイーンが横にいて、彼女は一周を走るギリギリのところで麻真を抜いていた。

 抜かれたことに驚いた麻真だったが、それと同じく別のことに驚いていた。麻真自身は、そこまで速くはない。全体的に見れば、ウマ娘より少し劣る程度の能力と麻真は判断している。

 だが最初に見た遅い走り方から、ここまで短時間に速い走り方に変化させることができたメジロマックイーンに、麻真は驚いていた。

 理事長が言っていたのも分かる。この子には、流石はメジロ家と言われるほどの才能を持っていると。

 

 

「その走り方を忘れるな。ラストスパートは良かった……もう少し身体を前に倒して足に力を込めるとまだ速くなる」

 

 

 気づけば、麻真はメジロマックイーンにそう告げていた。

 言った後に、麻真は後悔した。まさか自分が助言をするとは思ってもいなかった。

 自分自身に呆れてしまい、頭を冷やす為にシャワーを浴びて寝ようと決心して、麻真は自宅へ戻ろうと足を向かわせる。

 足が少し思うように動かない。麻真の予想通り、足に負担を掛けすぎた。

 それと同時に、後ろでメジロマックイーンが転ぶ音が聞こえた。

 ちらりと後ろを見れば、メジロマックイーンの足が思うように動いていないようだった。

 先程言ってしまったのだから、もう一つくらい言っても良いだろう。麻真はそう思って、言葉を発した。

 

 

「限界の走り方をしたんだ。当たり前に動かない。動くまでしばらくそこで休んでから帰れ、帰ってから風呂に入ってマッサージをすれば少しは良くなる」

 

 

 おそらく先程の走り方はメジロマックイーンの足が出せる全力の走り方だったと麻真は思った。

 がむしゃらに走り、自分の限界の走りをしたのだから足が動かなくなるのも無理もない。

 麻真は、メジロマックイーンに助言すると速足で家に向かって行った。

 手際良くシャワーを浴び、身体の柔軟をするとすぐにほどよい眠気が麻真を襲っていた。

 久々の疲労感だった。おそらく、明日は筋肉痛だろう。

 

 

「たまには、良いか」

 

 

 遠くでノックする音が聞こえた気がしたが、麻真は気にすることもなく襲い掛かる睡魔に身を委ねることにした。

 メジロマックイーン。彼女は不思議と、“似ている”気がした。

 麻真は、意識が途切れる寸前に――そう思った。




読了お疲れ様です。
次から本編になる予定です。


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episode.1
1.鍛えてください!


 

 ウマ娘から生まれる子供は、ウマ娘になるらしい。そんな話が世間にはあった。

 どこから最初に生まれたのか分からない。母親の身体に子を身篭った時、いつの間にかウマ娘になっている。そんな不思議なことが多い存在だった。

 そしてウマ娘を産んだ母も、同じく皆揃って産んだ瞬間に自身の子供の名前が直感で分かるというらしい。

 今、テレビに映っているマルゼンスキーやシンボリルドルフと日本では到底つけられない名前も、何故かウマ娘の母親は確信を思って名前をつけると聞いたことがある。

 本当に不思議なことが多い存在だった。だがこうして世間には受け入れられているのだから、意外と世の中は優しい作りをしているかもしれない。

 麻真はそんなことを思いながら、リビングのソファに座りながら片手に持った珈琲の入ったカップを口に添える。

 一人で過ごす時間は、嫌いではない。麻真は別段、一人を寂しいと思ったことはなかった。

 馴れている、と言うべきだろう。麻真という男は、それだけ“変わった”人間だった。故に、変わった幼少期を過ごしていた。

 

 ウマ娘から生まれる子がウマ娘になるなら、それが適応されなかった場合はどうなるのだろうか?

 

 色々と過去に調べたことのある麻真だったが、自分と同じようにウマ娘を母に持つ男性はいた。しかしどれも自分と同じような体質を持っているなどの情報はなかった。

 

 麻真――北野麻真は、端的に言えば“特別”に部類される人間だった。

 

 麻真は、子供の頃から走るのが好きだった。そしてその欲のままに走っていると、自分は周りと違うことに幼いながらに気づいていた。

 まず、疲れない。子供なら疲労してしまうはずの距離を走っても平然としていて、そして普通の子供には出せない速度で走ることができた。

 故に、子供の頃から徒競走でも全力を出せなかった。流石に自分が人と違うことを理解している身からすれば、出せるわけもなかった。

 家族が心底不思議そうにしていたのを麻真は覚えている。しかし特別何も言われることもなく愛されて育ったと思う。

 しかしそんな疑問を持った家族が、麻真の身体を検査すると不思議な話があった。

 

 どうやら麻真の身体には、ウマ娘の遺伝子があるらしい。だが、特徴的な耳や尻尾はできず、麻真の場合は身体の中身が普通の人間とは違うらしい。

 

 筋肉の質が全然違うと医者は言っていた。それこそウマ娘の持つ筋組織を持っているらしい。と言っても、骨などは普通の人間よりは頑丈程度で全開の力を使うと骨を折る危険性があると医者に注意されたのを麻真はよく覚えている。

 

 

「……で、実際に骨を折ったのは一回だったか?」

 

 

 なんとなく昔のことを思い出して、麻真がぼやいた。

 理由は忘れたが、一度だけフォームも無視したがむしゃらな全力全開で走ったことがあり、それで一度骨を折ったことがある。

 それ以来、麻真は走ることを勉強することにしたのだ。そのような経験があり、今に至る。

 

 

「って何考えてるんだか……先週、久々に全力で走ったからか」

 

 

 先週の日曜日に、メジロマックイーンというウマ娘が来た時に思わず全力で走ってしまい、それから三日間ほど麻真は筋肉痛に悩まされていた。

 今はようやく筋肉痛も治り、次の日曜日を迎えていた。

 昼のひと時を珈琲を飲んで過ごし、またランニングでもしようかなと麻真は思っている。

 二十歳を超えても、アホみたいに走ることが飽きないのだから自分は紛れもなくウマ娘の子供なのだと麻真は実感してしまう。実感しても、走るのをやめないのだからどうしようもない話だった。

 ゆったりとソファから立つと、麻真が寝巻きから洗濯していたランニングウェアに着替える。

 その場で念入りに柔軟をして、軽く汗をかいた麻真が「……良し」と呟く。

 身体の調子は良い。今日も問題なく走れると判断し、冷蔵庫から水分補給用のスポーツドリンクを二本持って、麻真が玄関に向かう。

 今日も気持ち良く芝生の上を走ろう。風を切りながら、誰にも邪魔されない景色を楽しむとしよう。

 そう思って、麻真が自宅の玄関から外に出ると、

 

 

「…………」

 

 

 出た瞬間、麻真はその場で立ち止まっていた。

 

 

「……こんにちは」

 

 

 目の前に、ウマ娘――ジャージ姿のメジロマックイーンが立っていた。

 一週間振りに見た時はよく見ていなかったが、よく見れば見るほど随分と綺麗なウマ娘だと麻真は思った。

 ウマ娘は、決まって容姿端麗な子が生まれるらしい。そう言われるが、メジロマックイーンは特に整った顔立ちだった。小さな顔に大きな目、まるで人形のようだと麻真は思った。それこそ、お城のお姫様という印象を受けるのには十分な容姿だった。

 細身の身体のはずなのに、どうしてこんな華奢な身体で時速六十キロを越える速度で走ることができるのだろうか。筋組織とかの作りが人間とは違うことを痛感するしかない。

 

 

「…………」

 

 

 そんなメジロマックイーンを、麻真は見つめる。

 はたして何時からメジロマックイーンは自宅の玄関に居たのだろうか、麻真の疑問が浮かんだが考えないようにした。

 玄関のドアを閉めるか悩んだが、決めた走るという行動を目の前のウマ娘一人に邪魔されるのも非常に癪だった。

 何故、二週連続で来たのか不思議だったが、麻真は気にするのをやめていた。

 麻真は、玄関に立っていたメジロマックイーンの横を通り過ぎて、自宅の横にある練習場へ向かっていた。

 

 

「ちょっとお待ちなさい! どうしてまた無視するんですの⁉︎」

 

 

 後ろからメジロマックイーンが慌てて麻真を追い掛けてくる。

 特に気にせずに麻真が練習場に向かって歩いていると、麻真の着ているランニングウェアの袖が何かに引っ張られていた。

 麻真が振り返ると、心底むくれたメジロマックイーンが麻真を軽く睨んでいた。

 

 

「無視しないでくださいませ! 私が貴方に何か粗相をしたのなら謝りますわ!」

 

 

 麻真は困った。別に粗相をされた覚えはない。強いて言うなら、この場にいる時点で粗相をしていると彼は答えるだろう。

 しかし理事長から案内されてきた以上は、必要以上に無碍にするのは憚られる。メジロマックイーンから理事長へ何を話すか分かったものではない。

 少し考える麻真だったが、ここは少しくらいは反応してやろうと思うことにした。

 

 

「別に、何もしてない」

「なら、なぜ私を無視したのですか?」

「面倒くさい、それだけだ」

「なっ……⁉︎」

 

 

 まさかそんな簡単な理由で無視されるとは思っていなかったのだろう。メジロマックイーンは目を吊り上げていた。

 

 

「何が面倒と仰るんですの! 私はまだ貴方に何もしていませんわ!」

「だから君がここに来てるってことが、面倒なことになる。理事長から言われてきたんだろうが、俺は君を鍛えるつもりはない」

 

 

 ここで思わず、麻真はハッキリと断っていた。

 理事長にどやされる、と麻真は言った後に“少しだけ”後悔したが言ってしまった以上は取り消す必要もないだろう。

 ゆっくりと腕を動かして、メジロマックイーンの手から掴んでいた袖を外す。

 そしてメジロマックイーンに背を向けると、麻真は練習場へ向かっていた。

 

 

「嫌ですわ! 私は貴方に鍛えて欲しいんです!」

 

 

 しかし麻真の前にメジロマックイーンが回り込むと、彼女は強い眼光で彼を見つめていた。

 

 

「貴方の走りを見させて頂きましたわ。ウマ娘ではない殿方が、なぜあんなに速く走れるかは分かりませんが……私は貴方に鍛えて頂きたいんです!」

「嫌だ。面倒」

 

 

 そう言って麻真がメジロマックイーンを通り過ぎる。

 

 

「駄目です! 私を鍛えてください!」

 

 

 そしてもう一度、メジロマックイーンが麻真の前に回り込む。

 

 

「嫌だっての」

 

 

 また麻真がメジロマックイーンの横を抜ける。

 負けじとメジロマックイーンが麻真の前に回り込む。

 今度は無言で麻真がメジロマックイーンの横を抜けるが、メジロマックイーンが再度回り込む。

 それを数回繰り返したところで、麻真は少し苛立った。

 

 

「俺の日課を邪魔するな」

 

 

 そしてもう一度麻真がメジロマックイーンの横を抜けると、麻真は駆け出していた。

 

 

「あっ⁉︎ また逃げるんですのっ⁉︎」

「逃げてない。走ってるだけだ」

「それを逃げてると仰いますのよっ!」

 

 

 練習場を走る麻真の後ろにメジロマックイーンがついてくる。

 軽く流す程度しか走っていない麻真の横後ろをメジロマックイーンが走る。

 

 

「お願いですわ! 私を鍛えてくださいまし! 先週の日曜日に見た貴方の走りを参考にして学園でタイムを測ったら驚くほどにタイムが伸びましたの!」

 

 

 それはそうだろうと麻真は思った。当初に見たメジロマックイーンの走り方は、到底速くなる走り方ではなかった。負担が掛かるだけで無駄の多い走り方でしかない。

 その走り方に少し手を加えれば力の使い方と身体の負担が変わるのだから、自然とタイムも伸びるに決まっている。

 メジロマックイーンの持つ能力は知らないが、走る脚質によって走り方は変わる故に、麻真は今以上に走り方について教えるつもりもなかった。

 ウマ娘が参加するトゥインクル・ステージのレースでは様々な種類のレースがある。芝生、ダートと二種類の足場がある。

 加えて、短距離から長距離の大きく分けて四種類の距離がある。

 そのレースに参加するウマ娘には、それぞれ脚質というのがある。逃げ、先行、差し、追込と例外を除いて四つの脚質がある。

 ラストスパートでトップを取る脚質もあれば、最初から最後まで先頭を走る脚質もある。それぞれの足に合った走りをしないと、レースでは勝てない。

 故に麻真は、メジロマックイーンの脚質を知らない為、今以上の成長を促すことはないし、する気もなかった。

 

 

「貴方の走り方はとても綺麗でした。一目見ただけで分かりますわ。貴方は走ることがとても好きだというのが」

 

 

 好き勝手に話すメジロマックイーンを他所に、麻真は走る。

 走り続けて、メジロマックイーンの体力が尽きるのを待つのも良いかもしれない。このメジロマックイーンは、はたして一周二キロ程度の練習場を何周できるだろうか。麻真の最高は二十周、力の配分で前後するがランニング程度の速度なら走れる。全力ならすぐに足を使い切ってしまうが、ランニングなら問題なかった。

 

 

「本当に無視しますのね……良いですわ。貴方が勝手なら、私も勝手にさせてもらいますわ」

 

 

 そうしてメジロマックイーンは黙って麻真の後ろを走っていた。

 まるでレース中にマークされているような感覚だった。実際にレースに出たことはないが、麻真にはそんな気がした。

 一周、二周と数を増やしていくが、まだメジロマックイーンは余裕そうに見える。

 たまに違う速度で麻真が走ると、それにすぐに反応してメジロマックイーンが食らいついてくる。

 意地になっているのか、根性で走っているのか分からないが、諦めるつもりはまだないらしい。

 

 

「絶対に振り切らせませんわよ。意地でもついていきますわ」

 

 

 メジロマックイーンが鋭い視線で麻真を見つめる。

 麻真はその視線を軽く流して、足を動かした。

 周回が増えていき、五周を超えたところで麻真は一度止まって水分補給を行った。

 定期的に水分補給しないとまずいことを麻真は身に染みて分かっていた。持ってきていたスポーツドリンクを飲みながら、麻真がメジロマックイーンを見ると彼女は肩で息をしていた。

 しかしそんな状態でも水分補給をしないのは、麻真の目に余った。練習場の近くには水分を補給できるものはない。

 麻真は溜息を吐くと、自宅から持ってきていた二本のスポーツドリンクの内の一本をメジロマックイーンに「使え」と言って放り投げていた。

 そう麻真に言われて、メジロマックイーンが慌てて受け取る。少し驚いたような表情をしたが、スポーツドリンクと麻真を交互に見ると、

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 そう言って、メジロマックイーンはスポーツドリンクを口にしていた。

 その後、ある程度の水分を補給して、麻真はすぐに再度走り始めた。

 麻真が走り始めたのを見て、メジロマックイーンが慌てて彼を追い掛ける。

 

 また無言で、二人は練習場を走り続けていた。

 

 そうしてまた周回が増えていき、周回数が十周を超えたところでメジロマックイーンが限界を迎えていた。

 

 

「はぁ……! はぁ……!」

 

 

 両膝をついて、大きく肩を動かして呼吸を大きくしていた。

 麻真はそんなメジロマックイーンを横目に、水分補給をしていた。

 汗だくのメジロマックイーンに比べて、麻真は少し汗を掻いている程度。

 体力の違いだった。長い期間、長距離を走り続けていた成人の麻真とまだ年齢も幼いメジロマックイーンとの違いだった。

 

 

「まだまだだな。評価点は△ってところだ」

「はぁ……はぁ……化物みたいな体力ですわ……!」

 

 

 悔しそうな顔をするメジロマックイーンに対して、麻真が鼻で笑う。

 

 

「まだお子ちゃまなウマ娘には負けるわけない。鍛えてこい」

「だから私は……貴方に鍛えて欲しいと……!」

 

 

 途切れ途切れに話すメジロマックイーンだったが、麻真は意地悪そうに顔を歪めていた。

 

 

「そんなに体力使って、練習できるわけないだろ? 残念、また次回」

 

 

 そう言って、麻真はメジロマックイーンを放置して自宅に戻っていった。

 悔しそうにメジロマックイーンが拳を握りしめるが、麻真には関係ない話だった。

 これに懲りて二度と来ないと良いんだが、と麻真は後ろのメジロマックイーンを一瞥して思う。

 とりあえずは、シャワーを浴びてスッキリしよう。麻真はそう思うとすぐに自宅に向かって行った。

 その足取りは、少しだけいつもより軽い気がした。




読了、お疲れ様です。

また次回にお会いしましょう。


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2.絶対に逃がさない

 

 今日は日差しが心地良い。今日も清々しいまでのランニング日和だった。

 早朝に練習場の手入れをして眠り、また昼に起きて手入れした練習場を気の向くままに夕方まで走る。それは山奥に住み始めた麻真の日々の楽しみだった。

 しかしそんな日々が続いていたのだが、週末の日曜日になった途端、麻真は肩を落とすことになった。

 日曜日の昼、今日も早朝に練習場の手入れをして、昼からランニングをしようと麻真が玄関の前に立った瞬間――扉の向こうに本来いるはずのない人のいる気配がした。

 とても嫌な予感がしたが、とりあえず麻真が玄関の扉を開けると――案の定、扉の先にはメジロマックイーンが立っていた。

 

 

「……こんにちは」

 

 

 小さく礼をするメジロマックイーンに、麻真は顔を顰めた。

 これで三週連続でメジロマックイーンが来ている。麻真は素直に呆れていた。

 

 

「暇なのか……お前」

 

 

 思わず、麻真は訊いてしまった。毎週日曜日にわざわざトレセン学園から遠い山奥のここに来るなんて、彼からすれば暇人がやることだと思った。

 しかしメジロマックイーンは、そんな麻真の言葉に凛とした顔で答えていた。

 

 

「いえ、私は暇ではありません。意味がないなら、ここには来ませんわ」

 

 

 ならトレセン学園で休日練習でもしていろと言い返したくなる麻真だった。彼は頭を抱えるとメジロマックイーンの横を通り過ぎた。

 

 

「むっ……また取り合ってくれませんのね」

 

 

 メジロマックイーンがむくれている。

 麻真は反応するのも面倒になり、メジロマックイーンの横を通り過ぎてそそくさと練習場に向かっていた。

 

 

「まだ二回しかお会いしてませんが、貴方が私に取り合ってくれないのは分かりました。ですので……私も貴方と同じように勝手に致しますわ」

 

 

 そして麻真がいつも通りに走ると、メジロマックイーンがもう慣れたように彼の後ろをついてきていた。

 あれだけ先週は疲れ果てるまで走らされたはずなのに嫌にならないのかと、麻真は疑問に思う。

 しかしそうは思っても自分の日課をやめるという選択は選ばず、麻真は前回同様にメジロマックイーンを無視して走り出した。

 軽く流す程度で走る麻真の後ろをメジロマックイーンが背後について走ってくる。

 横目で麻真がふとメジロマックイーンを見ると、前見たよりも彼女の走り方は綺麗になっていた気がした。

 前回は、なんとか走り方を矯正しているようなぎこちなさがあったが今のメジロマックイーンの走り方には特にそのようなことはなく、スムーズに走れていると見える。

 随分と努力をしているらしい。麻真はそんなことを思いながら、メジロマックイーンから視線を外した。

 

 

「今日は絶対に貴方よりも走ってみせますわ……!」

 

 

 気合が入っているのか、メジロマックイーンが闘志を燃やしていた。気楽に走る麻真とは正反対であった。

 

 

「別に今日は長い距離を走るつもりはない。一周流して、あとは少し速度を上げて走るつもりだ」

「私にスタミナがないと言っているのですか?」

「別に、先週はたまたま長い距離を走っていただけだ」

 

 

 そんな軽い会話をしながら、二人が走る。

 そして一周して麻真が立ち止まると、彼はその場でゆっくりと柔軟を始めていた。

 柔軟を始めた麻真を不思議そうにメジロマックイーンが見ていたが、彼女も麻真と同じように柔軟を始める。

 そうしてしばらく柔軟すると、麻真は「……良し」と言ってレース場に向かっていた。メジロマックイーンもそれに慌ててついてくる。

 本当に全部自分の真似をしてくる。麻真は帰る気のないメジロマックイーンに、思わず声を掛けていた。

 

 

「お前……帰るつもり、ないの?」

「ありません。私は貴方に鍛えて欲しくて来ましたもの」

 

 

 即答されて、麻真は頭を抱えた。

 何をそこまでこだわるのだろうか、理事長に言われたからなのか、それともたまたまタイムが伸びたからだからか……

 しかしこのままでは良くないと、麻真は思う。放っておくと、本当にメジロマックイーンはいつまでもついてくるかもしれない。

 この先ずっとメジロマックイーンについて来られる未来を想像すると、ぞわりと麻真の背筋が凍っていた。

 冗談ではない。この気楽な日常を壊されるのは麻真には到底容認できないことだ。

 このままいつか分かるまでメジロマックイーンが付き纏うか、それとも一時だけ彼女の練習に付き合って満足して帰ってもらうか。彼に迫られたのは、その二択だった。

 麻真の頭の中で脳内会議をして――結果、彼は渋々メジロマックイーンに少しだけ協力することにした。多少協力すれば、彼女も満足して帰ると心から期待して。

 麻真はそう思うと、溜息混じりにメジロマックイーンに訊いてみることにした。

 

 

「はぁ……距離適正は?」

「えっ……?」

 

 

 麻真から突然の質問に、メジロマックイーンが驚く。

 返事をしないメジロマックイーンに苛立って、麻真がもう一度同じ質問をすると、彼女は慌てたようにたどたどしく答えていた。

 

 

「短距離はあまり得意ではありません。中距離や長距離を走るのが得意ですわ」

「……脚質は?」

「先行、だと思いますわ」

 

 

 歯切れの悪い答え方だった。おそらくメイクデビュー前だからハッキリとは答えられないのだろう。メジロマックイーンの答えに、麻真はなるほどと納得して、彼女に向けて練習場を顎で指していた。

 

 

「一周、約二キロ。今から俺は先行向けの走り方で何周か走る。ついてくるなら勝手にしろ」

 

 

 そう言って、麻真がその場で走り出す構えをした。練習に協力すると言っても、勝手に学べというスタンスを麻真は変えるつもりはなかった。

 急に変わった麻真の対応に呆気に取られたメジロマックイーンだったが、今から彼が自分の適正脚質の走り方をすると聞いて、彼女も慌てて彼と同じように走り出す構えをする。

 メジロマックイーンが構えたのを確認して、麻真はゆっくりと深呼吸した。二人しかいない模擬レース。先行の走り方をするなら逃げ脚質が必要だ。彼は頭の中で、自分以外にも走っている人がいることを想定することにした。

 距離は約二千。バ場は良好。天候は晴れ。逃げ脚質は一人。先行は麻真とメジロマックイーンの二人。

 逃げ脚質の仮想敵は以前にテレビで見た白と緑色のウマ娘を選択。一連の走りを見ていたので、仮想敵としてイメージするのは問題ない。

 麻真は頭の中のイメージを終えると、勢い良く走り出していた。

 

 

「くっ……!」

 

 

 麻真のスタートにメジロマックイーンが懸命についてきたのを確認して、彼はすぐに走ることに意識を向けた。前回までメジロマックイーンに見せていた彼女の走り方とは違い、今度は自分が知っている別のフォーム、先行脚質で足に負荷の掛からない走り方だ。

 先行の脚質は、最後で逃げ脚質のウマ娘を追い抜く脚質。必然的に逃げの少し後ろを目安に走っていなければならない。

 逃げ脚質の仮想敵を追うように、麻真が練習場を駆ける。全速ではなく、最後に全力を出す為に足に後半まで負担の掛からない走り方を心掛ける。

 最初の直線から第一コーナー、そして第二コーナーを曲がる。その後は直線を走り、第三コーナーを曲がった辺りから――麻真は走るフォームを変えた。

 軸足の右足を少し強く踏み締めた瞬間に、彼は加速するフォームへ変えて駆け出した。

 メジロマックイーンはまだ背後にいる。何も言わずに麻真が速度を上げたはずだが、気づいてすぐに合わせたようだ。

 第三コーナーを曲がり、第四コーナーを抜ける。逃げの仮想敵はまだすぐ目の前にいる。

 そこで麻真は最後のラストスパートを掛けた。もう一度、軸足を踏み締めると、彼は身体を前に倒して足へ負荷が掛かるが加速ができるフォームへ変更する。

 あとは足を全開で回すだけで良い。そうすれば後は勝手に逃げ脚質の仮想敵を――抜いていた。

 そしてゴールと、麻真は仮想敵を抜いたことを理解する。そのまま一周を終えて、麻真は全速からゆっくりと速度を落として立ち止まっていた。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 一周をそこそこ全力で走って、麻真は深く呼吸を整えていく。流石に二キロを速度を出して走ると、身体に割と負担が掛かっていた。

 走り終えて軽く上がっていた息を整えた麻真がメジロマックイーンを見ると、彼女はまだ膝に手をついて肩で息をしていた。

 

 

「……もう一本、走るぞ」

「はぁ……はぁ……」

 

 

 麻真の言葉に返す余裕がないのか息を荒くするメジロマックイーンだったが、必死に息を整えようとする。そして僅かに息を整えた彼女は疲れている顔を彼に向けて、大きく頷いた。

 

 

「はぁ……はぁ……お願いします!」

 

 

 根性はまだあるらしい。

 麻真はメジロマックイーンが諦めてないのを実感すると、また先程と同じように走り始めた。

 メジロマックイーンも、平然と走り出す麻真に食らいつく。

 どこまで耐えるか、麻真はそんなことを思いながら先程と同じように練習場を駆けることにした。

 

 

 

 

 

 

 冗談ではない。目の前の走っている人間は化物なのか?

 必死にメジロマックイーンが目の前を走る麻真を見て、痛感していた。

 自分は全力で二周目を走っている。まだ二周目を始めて半周しかしていないのにメジロマックイーンの身体の限界が近かった。なのになぜこの男はまだ余裕そうなのか?

 

 

「くっ――⁉︎」

 

 

 いや、メジロマックイーンは理解していた。

 一周目に、麻真がスタートしてすぐの時点で痛感していた。自分は彼と同じ速度で走ることが困難だと。彼の走るペース配分と、自分のペース配分が全く違う。

 しかし麻真は言っていた“先行の走り方”で走ると。つまり目の前で直に見ている彼の走る姿は、自分の目指している先行の走り方なのだ。

 タイムを測っていないのでどれ程のペースで走っているかは判断できないが、おそらくかなりのハイペースで走っている。スタートから第二コーナーを曲がった時点で、メジロマックイーンの身体には疲労が出ていた。

 二週間前に麻真から見せつけられた自分の本来走っていたフォームを改善した形でメジロマックイーンは走っている。以前よりも足の負荷が軽くなり、速く走れるようになった。

 だがしかし、それでも麻真の走る速度に追いつくのでメジロマックイーンは精一杯だった。麻真の走り方はメジロマックイーンが見る限り、まるで逃げのような走り方のような気がしてならない。

 

 本当に先行の走り方なのだろうか? 嫌がらせで逃げの走り方で走っているのではないかとメジロマックイーンは疑ってしまう。

 

 しかし麻真の目をメジロマックイーンが見る限り、彼は前を見つめていた。まるでなにかを追っているような、そんな目をしていた。

 まるで誰かとレースをしているような気迫だった。メジロマックイーンにはそんなウマ娘は見えないが、麻真には見えているらしい。

 疑いたくなるメジロマックイーンだったが、しかしすぐにそんなことを考えられなくなることになった。

 

 

「ッ――⁉︎」

 

 

 第三コーナーを曲がったところで、彼の走り方が変化していた。

 麻真の加速力が増したのか、メジロマックイーンから距離を離さそうとする。

 

 

「――離されませんわッ‼︎」

 

 

 しかしメジロマックイーンは、反応していた。

 咄嗟に、メジロマックイーンが目の前で変化した彼のフォームを真似ていた。

 軸足を踏み締めて、メジロマックイーンが走り方を変えた麻真のフォームを思い出す。自分が同じフォームで走っている姿を強くイメージする。

 そして僅かな時間にそのイメージを掴むと、メジロマックイーンは麻真が変えたフォームと同じフォームで離されないように駆け出していた。

 

 

(さっきより、辛くない……?)

 

 

 そこでメジロマックイーンは気づいた。速度を上げたはずなのに、足の負担が先程まで走っていた時より少ないことに。

 この感覚をメジロマックイーンは知っていた。これは初めて麻真が使っていた自分の走り方を少し変えたフォームを真似た時と同じ感覚だった。

 確かに足に負荷の掛からない走りができるのなら、走るペース配分は全く変わってくる。走り方は大事だと知ってはいたが、ここまで違うとはメジロマックイーンも思っていなかった。

 と言っても、疲れてることには変わりない。それでもメジロマックイーンは麻真を追い掛けるのをやめなかった。

 そして第三コーナーから第四コーナーを曲がったところで、麻真はもう一段階“速くなった”。

 

 

(まだ速くなると言うんですの⁉︎)

 

 

 麻真がフォームを変えたことを察知して、メジロマックイーンも見様見真似で同じように遅れて駆ける。

 何度もラストスパートの練習をしてきたが、やはり麻真の走り方は今までよりも負担がない。

 むしろ足に羽が生えたように走れる。まだ自分は速くなれる。メジロマックイーンはそれを実感していた。

 この麻真という男は、どんな人間かは少しも分からないが――本物である。

 この男は、自分を速くしてくれる。強くしてくれる存在だと。

 

 

(私を鍛えてほしい……導いてほしい)

 

 

 麻真が勝手に走っているのを、勝手に追い掛けて技術を真似ているだけでこれだけ成長を実感できるのだ。この人にトレーナーとして、導いてもらえるのなら――自分は強くなれるとメジロマックイーンは確信していた。

 ようやく一周目を終えて、メジロマックイーンは肩を大きく動かして呼吸を整える。

 身体の疲労感が大きいが、まだやめるわけにはいかない。麻真は数回走ると言っていた。まだ一周目、あんな走りを見られるのなら意地でも付いていく。それこそ、吐いてでもと。

 

 

「……もう一本、走るぞ」

 

 

 麻真が淡々ともう二周目を走ることを促してくる。

 まだ呼吸が整っていない。なんとかメジロマックイーンがある程度呼吸を整えると、麻真を見つめて答えた。

 あれだけ取り合ってもられなかったこの人が、気分なのか自分に走りを教えてくれる。こんな機会をメジロマックイーンは逃すわけがなかった。

 

 

「はぁ……はぁ……お願いします!」

 

 

 自分の限界まで追い掛ける。メジロマックイーンはその決意と共に、麻真に頷いていた。

 絶対に逃がさない。この人を逃すと、私は後悔する。その思いと共に、メジロマックイーンは走り出した麻真の背中を追い掛けた。

 




読了、お疲れ様です。

メジロマックイーンが引けません。


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3.嫌な予感がする

 とある三週目の日曜日に麻真の元にメジロマックイーンが来てから、一週間が経った。

 あの三週目の日曜日は酷い目に合ったと麻真はしみじみと思っていた。

 先行の走り方を見せるために麻真は練習場で実際に走っていた。それをメジロマックイーンが勝手に見て、勝手に走る麻真を追い掛けて学ぶことには彼は何も文句は言わない。

 しかしメジロマックイーンが身体の限界まで無理をして走るのは、想定外だった。真剣に練習に取り組むのを見て取れたので、彼女も体調の管理をすると思っていたのだが……

 五周目の途中で、メジロマックイーンが走るのを突然やめるとその場で限界を迎えてしまったらしい。彼女は練習場の隅に慌てて向かうと、その場で豪快に吐いていた。

 

 運動で嘔吐するのは幾つかの理由がある。大抵は極度の運動によるストレス、過度の運動による虚血での運動障害。あとは水分不足による症状が主だ。

 

 つまりは無理のし過ぎ、と言うことだ。

 

 流石にそんなメジロマックイーンを見て、麻真も放置はできなかった。腐っても彼は過去に指導する身であった故に、倒れたウマ娘の処置はすぐにしようとした。

 しかしメジロマックイーンは、それを拒むと――強い眼差しで麻真を見つめていた。

 

 

「やめないでください……私は走れますわっ……まだ、私は……諦めてませんっ!」

 

 

 そう言っていたが、メジロマックイーンの両足がふらついている。麻真も大丈夫と言っているなら走ろうとは思わなかった。

 

 

「まったく……」

 

 

 何をそこまで無理をしたのだろうか、麻真はそう思うと溜息混じりに両膝を地面についているメジロマックイーンをさっと両腕に抱えていた。

 

 

「ちょ、ちょっとっ!」

「動くな、日陰に移す。我慢しろ」

 

 

 そして抱えたメジロマックイーンを日陰の木にゆっくりと移して、横にさせる。

 その後、麻真は「そのままゆっくり呼吸していろ」と言って、早足で自宅に戻った。

 自宅に戻った麻真は、手際よく棚からタオルと酸素ボンベ、冷蔵庫から冷却タオルとゼリー飲料とスポーツドリンクをトートバックに詰めた。

 必要なものを回収した麻真がすぐにメジロマックイーンのもとに向かうと、すぐに処置を始めた。

 メジロマックイーンの頭にタオルを枕の替わりにし、冷却タオルを彼女の頭に身体に当てた。

 

 

「これを口に当ててゆっくりと呼吸して、酸素を身体に入れろ。吐き気が治ったら、この二つを残してもいいから少し飲んで栄養入れて身体を落ち着かせろ」

 

 

 さっきまで威勢の良かったメジロマックイーンが大人しく麻真の言うことを頷いて聞いていた。

 メジロマックイーンが酸素ボンベを使ってゆっくりと呼吸し、ある程度落ち着いたところで麻真から受け取った飲料を口にする。

 そして頭に冷却タオルを当ててから、メジロマックイーンの体調が元に戻るまで麻真はメジロマックイーンの様子を見守っていた。

 

 

「……落ち着いたか?」

「はい……ありがとうございます」

 

 

 座ったまま頭を下げるメジロマックイーンに、麻真は溜息を吐いた。

 

 

「無理をするからだ。ある程度インターバルを入れていたし、水分補給もしていた。自分の限界を知らないと身体を壊すぞ」

 

 

 身体の限界まで走り続けたメジロマックイーンに、麻真が少し嗜める言葉を告げる。どの口が言うのかと思うかもしれないが、麻真からすれば自分は勝手に走るからついて来れる範囲でついて来いという意味で話したつもりだった。

 しかしメジロマックイーンは、麻真の言葉を聞いて悔しそうに唇を少しだけ噛んでいた。

 

 

「こんな機会を逃したくはありませんでした。貴方の走る姿を見て走れるなら、私は限界まで走るつもりでした」

「だからと言って吐くまで走る奴がいるか、小娘が生意気言うんじゃない」

「なっ……⁉︎」

 

 

 麻真の言葉に、メジロマックイーンがむっと眉を吊り上げた。

 

 

「元はと言えば、貴方がちゃんと私の話を聞いてくれないからではありませんか! 私は貴方に鍛えてほしいと言っていましたのに!」

「はいはい、だからと言って無理したのはお前の過失だ」

 

 

 メジロマックイーンの頭にタオルを被せて、麻真はあっけらかんと告げる。

 麻真は怒るメジロマックイーンを見ながら肩を落とすと、彼女に呆れて聞いていた。

 

 

「どうしてそこまで無理をする。お前はメイクデビュー前だろう? まだそこまで無理をする必要はないはずだが?」

 

 

 まだレースに出ていないのに、無理するほど練習をするのも如何なものかと麻真は話す。

 しかしメジロマックイーンは首を横に振って、否定した。

 

 

「いいえ、私は慢心などしませんわ。私が目指すのは最強のウマ娘、そして悲願の天皇賞制覇。その為ならどんな努力も厭いませんわ」

「それは知ってる。それがメジロ家の悲願だってのは」

 

 

 メジロマックイーンの話に麻真がそう答えると、彼女は少し驚いた顔をしていた。

 

 

「メジロ家の悲願を知っていますのね」

「まぁ、知ってる。これでもトレーナーだった身だ。そこら辺の話は一通り知ってる」

 

 

 二年前までの情報しか知らないが、とは麻真は流石に言わなかった。

 

 

「だが悲願だからと言っても、無理をするのは話が違う。オーバーワークをしても得られるものはない。その時のできる最善をするだけ、結果は後で付いてくる」

「それでは遅いですわ。私は強くなくてはなりません。私はその為に走っているのですわ」

 

 

 意地でも折れる気はないらしい。メジロマックイーンの態度に、麻真は呆れ返ってしまう。

 志が高いのはとても良い。しかしそれでは、彼女は成長しない。そんなことを思うだけでは、数多くいるウマ娘と同様に埋もれるだけになるだろう。

 

 

「目標が高いのは立派だ。だが……それだとお前の成長は打ち止めになるぞ」

「……どう言う意味ですか?」

 

 

 麻真の言葉をメジロマックイーンは悪い意味で捉えたのだろう。彼はそれを察すると、首を横に振っていた。

 

 

「高い目標ばかり見て、目の前のことを疎かにすれば何もついてこない。天皇賞制覇はステイヤーの目標でもある。デビュー前のお前が天皇賞に出るのは、来年だろう。まだ時間も余裕もあるのに、無理をすれば身体を壊すだけだ。ゆっくりとやれ」

 

 

 天皇賞は春と秋に行われる長距離レース。重賞の中でもトップのG1レースに部類される。つまりは強いウマ娘しか出ない。

 

 

「天皇賞を全て制覇しようとするのなら、それこそ長い目を見て成長していくのが一番だ。急いだところで意味もないし、何より結果がついてこない」

 

 

 麻真にそう言われて、メジロマックイーンは言い返す言葉がないのか悔しそうに俯いていた。

 

 

「お前もトレセン学園でどこかのチームに所属するか知らないが、トレーナーを見つけてその人に鍛えてもられば良い。ここまで根性入れて走るお前のやる気は分かった……自主練くらいは付き合ってやる」

「えっ……?」

 

 

 麻真が最後に言った一言に、メジロマックイーンは目を大きくした。

 麻真は頭を掻くと、渋々話を続けた。

 

 

「また何度もお前がここに来て家の横で吐かれるくらいなら、日曜日の昼からなら面倒見てやる。やる気はしないが、勝手に来られるよりはマシだ」

「ほ、本当ですのっ? 私の練習を見てくれると?」

「何度も言わせるな。だが、トレセン学園が休みの時だけだ。授業サボって来たら追い返すからな」

「そんなことしませんわ! 週末に来るに決まってますわよ!」

「はいはい。勝手にしろ」

「勿論、勝手にしますわ!」

 

 

 心なしかメジロマックイーンが嬉しそうにしていた。彼女の尻尾が勢い良く振られているのを見る限り、嬉しくて仕方がないらしい。

 

 

「ところで私、貴方のお名前を知りませんわ。よろしければ教えてください」

「俺か? あぁ……北野麻真だ。好きに呼べ」

「北野麻真さん。分かりました……では麻真さん。改めて、私はメジロマックイーンです。よろしくお願い致しますわ」

「はいよ。メジロマックイーン」

「学園の方々は、私をマックイーンと呼びます。呼び方はお任せしますわ」

「……分かった。マックイーン」

「はい! 麻真さん!」

 

 

 そうしてメジロマックイーンは、満足そうに帰っていったのだ。

 色々とあって面倒なことを引き受けてしまったと麻真が後悔するが、時すでに遅し。これでメジロマックイーンが毎週来ることが確定してしまったのだ。

 翌週の日曜日、来て欲しくない日が来てしまったのだ。

 

 

「はぁ……面倒……」

 

 

 朝のひと時、麻真は珈琲を飲みながら呟いていた。これから来ると思われるメジロマックイーンのことを考えると気が重かった。

 なにをしてやれば良いのやら。別に自主練に付き合うと言っただけだから、特にメニューを考えることもしなくて良いだろう。

 そんなことを思っていると、家の玄関からコンコンとノックの音が響いた。

 麻真が玄関の方を向いて、そこから時計を見る。時刻は九時を過ぎた辺りだった。

 

 

「……随分と来るのが早くないか?」

 

 

 今までのメジロマックイーンは昼頃に来ていた。加えて、麻真も昼に来いと言っていたはずなので、こんな時間の来客は予定になかった。

 また玄関のドアがノックされる。麻真が怪訝な顔で玄関に向かう。

 

 

「……嫌な予感がする」

 

 

 そして玄関のドアに手を掛けたところで、麻真は手を止めた。

 だがこんな家に来るのはメジロマックイーンくらいしかいない。気のせいだろうか?

 そんな予感がしたが、麻真は意を決して玄関の扉をゆっくりと開く。

 開いた玄関の先、扉の向こうに立っていた人を見て――麻真は意表を突かれた。

 

 

「うむ! 久しぶりだ! 麻真よッ!」

 

 

 小柄な背丈に、白いワンピースと青のジャケット。そして白い帽子の上に乗った謎の猫。

 見間違えなようがない。麻真が会いたくない人間がそこに立っていた。

 玄関の扉を開いた瞬間、麻真が勢い良く扉を閉める。

 

 

「待ちなさい、麻真さん」

 

 

 しかし麻真が扉を閉める寸前、それを止める手が扉を掴んでいた。

 麻真を呼び止める声と共に扉が掴まれた途端、麻真がどれだけ力を入れても扉が動かなくなっていた。

 

 

「くっ……このバカみたいな力……まさかたづなさんかっ⁉︎」

 

 

 本気で力を入れても動かない扉に、麻真が驚愕する。

 駿川たづな。普段はお淑やかで華奢な人のはずなのに、何か感情のリミッターが外れると理解不能な力を発揮する人である。

 

 

「麻真さーん? 一体、今まで何してたんですかぁ?」

「こんのっ……! って閉まらねぇッ!」

 

 

 ゆっくりとたづなに扉が開かれていく。麻真が全力で力を入れても、全く競り負けていた。

 

 

「それが今日、麻真に会いに行くとたづなに言ったらついて行くと聞かなくてな! だから連れてきた訳だッ!」

「余計なことしてるんじゃねぇよッ! 理事長ッ!」

 

 

 実のところ、トレセン学園で麻真の行方を知っているのは理事長だけだった。

 

 

「あ・さ・ま・さーん? この二年間、黙って休職したのはいけませんよー?」

「やめろッ! い、いや、やめてください! そして帰ってください、たづなさん!」

「いいえ、やめません。拒否します」

 

 

 そしてたづなの力に負けて、玄関の扉が開かれた。

 玄関の先には案の定、扇子を開いて楽しそうに麻真を見る理事長と、緑の制服を着たたづなが立っていた。

 

 

「な、なんでこんなところに来てるんですか?」

 

 

 麻真が思わず一歩後ずさって、理事長を見つめる。

 理事長は、そんな麻真を見て嬉しそうに笑って答えた。

 

 

「うむ! お主がメジロマックイーンの練習を見ると聞いたのでな! 連れ戻しに来た!」

「俺は練習を見るとは言ってないぞ! 自主練に付き合うと言っただけだッ⁉︎」

 

 

 確かに事実である。麻真は決して一言も練習を見てやるとは言っていなかった。

 

 

「むっ? 自主練習に付き合うのなら、練習を見るもの同義であろう?」

「違う違う! ただ無理しない様に自主練に付き合うだけだ!」

「焦れったい奴だ。たづな、連れてくぞ?」

「はい。分かりました」

 

 

 理事長に促されて、たづなが麻真に近づいていく。

 

 

「やっ、やめろ! 俺はトレセン学園には絶対に行かないからな! もう俺はトレーナーじゃない!」

「貴方はトレーナーです。それもとても優秀な」

 

 

 麻真が更に後ずさり、たづなが一歩前に進む。

 

 

「もう俺はトレセン学園で走らない! 教えて一緒に走ったところで俺は他の人と違う!」

「いいえ、貴方は私達と変わりません」

「俺があの時学園でなんて言われてるか知ってるだろ!」

「知ってますが、どうでも良いです。麻真さんは麻真さんですから」

 

 

 一歩ずつ逃げるが、麻真が何を言ってもたづなは聞く耳を持っていない。

 麻真は横目で空いている窓を見ると、次の瞬間――全速で窓から飛び出した。

 

 

「あっ! 麻真さんっ! 逃げる気ですね!」

「捕まってたまるか!」

 

 

 そうして麻真が珍しく全力全開で走り出した。

 自分の足なら、間違いなくたづなは追いつけないはずだと。

 しかし――それは麻真の見当違いだった。

 

 

「麻真さーん?」

「――マジかよッ!」

 

 

 麻真の背後に人影があった。

 麻真が横目で後ろを見ると、そこにはたづなの姿があった。

 驚くことにたづなは麻真が見る限り、とても綺麗なフォームで走っている。しかも走っている速度もウマ娘と変わらない。どこからそんな力が出ているのかと麻真は驚愕していた。

 

 

「――絶対に逃しませんよ?」

 

 

 たづなの言葉に、麻真の背筋が凍った。

 必死に足を動かして麻真が逃げる。しかし少しずつ近づいてくるたづなの影。

 その後は――言うまでもないだろう。

 

 

「くっそ……!」

「はい。それでは行きますよ、麻真さん」

「相変わらず愉快な奴だッ! 麻真よッ!」

 

 

 たづなと理事長に捕まった麻真は、そのままたづなに引き摺られるように連れて行かれるのだった。




読了お疲れ様です。

次から新しいウマ娘が出るかも


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4.最高の成績を残せ

 久々に乗せられた車の中で、麻真の身体が揺れる。

 麻真が車に乗るのは、二年振りだった。

 トレセン学園にあるリムジンを出してくる辺り、流石は理事長と思いたくなる麻真だったが――そんなことよりも今は目の前の人を彼はどう対処するべきかと悩んでいた。

 

 

「麻真さん。この二年間、何をしていたのですか?」

 

 

 麻真の向かいに座るたづなが、彼に問う。既に麻真の家から車に乗るまで、たづなから一通り嵐のような小言を聞かされた麻真のメンタルはボロボロになっていた。

 黙っていれば、綺麗な女性だ。いやいつもは物腰の柔らかい、綺麗な容姿の女性だと麻真は認識している。性格も優しく、トレセン学園で働くトレーナー達の中ではかなりの人気がある人である。

 しかしこのたづなを怒らせるとかなり怖いという噂があったが……先程、それを体感した麻真が背筋を凍らせるほど恐ろしかった。

 まさか麻真の全力疾走に追いつくほどの速さで走れるとは思ってもいなかった。

 

 

「……走ってただけです」

 

 

 圧を掛けてくるたづなに、麻真は渋々答えた。

 事実である。麻真はトレセン学園から離れてから、あの山奥で二年を走るだけで過ごしたのである。

 

 

「はぁ……理事長、なぜ知っていたことを教えて頂けなかったのですか? 麻真さんが急に休職してからどれほど大変だったの覚えていないんですか?」

「うむッ! 覚えておるぞ! しかし休職願いは麻真の強い希望だったのだ! まさか二年も休職するとは思ってもいなかったがの!」

 

 

 溜息混じりにたづなが理事長を嗜めるが、理事長は特に気にせずと豪快に笑っていた。

 しかし二人が麻真は気になる話をしていたことに、思わず彼はたづなに訊いていた。

 

 

「大変だった? たづなさん、何が大変だったんですか?」

 

 

 麻真の一言に、たづなが目を大きくした。

 

 

「どの口が言いますか! 三冠ウマ娘やトリプルティアラを獲得したウマ娘達を育成した貴方が抜けてから生徒達が大変だったんですからね!」

「いや、あの時の担当していた子達には俺は休むって言ってましたよ⁉︎ そもそも俺は休職する少し前に担当を外れたことも話してましたが⁉︎」

「まさかただ休むと言って二年も休む人がいますかっ⁉︎ 一週間、二週間と日にちが経つに連れて学校の一部の生徒達が慌て出して麻真さんを探しに行こうとするのを止めるのに、どれだけ苦労したか貴方に分かりますかっ⁉︎」

 

 

 相当怒っている。麻真はたづなに頭が上がらなかった。

 麻真が理事長の方を見ると、たづなを横目に疑い深く訊いていた。

 

 

「理事長。たづなさんの言ってること、本当です?」

「うむ! 本当だッ! あの時はお主を探そうと学園を脱走しようとする生徒もいたくらいだからのッ! まるで監獄のように監視を強化することになるとは思ってもいなかったぞッ!」

 

 

 随分と大事になっているようだった。麻真は面倒臭そうに頭を掻いていた。

 

 

「お手数をお掛けしたみたいですが、当時の俺に担当はいなかった。休んでも問題なかったと判断してましたが?」

「貴方に教わろうとする生徒が多いのはご存知でしたよね?」

 

 

 麻真の言葉に、たづなが圧のある声で彼に答える。

 

 

「今、貴方は行方不明になってて学園の噂で色んなことを言われてますからね? トレセン学園のレベルの低さに呆れて海外に行ったとか、自分が育成するに値するウマ娘がいないからスカウトの旅に出てるとか」

「なんですか、その噂。俺、とんでもない奴になってるじゃないですか……というか理事長、なんで訂正しなかったんですか?」

「面白そうだったからな! 二年も休職してバチが当たったと思うがよいッ!」

 

 

 そしてたづなに「自業自得です」と窘められて、麻真は肩を落とした。

 

 

「それにしても、なぜ休職したんですか?」

 

 

 そんな麻真に、不思議そうにたづなは訊いていた。

 麻真がそう訊かれて、少し言い淀むがしばらくして渋々答えていた。

 

 

「休職は職を探すのが面倒で……理事長に甘えてたんです。正直、働いていた頃から俺はトレーナーを辞めようと思ってたんですよ」

 

 

 麻真の答えに、理事長とたづなが驚く。

 しかし二人の反応より先に、麻真が言葉を続けていた。

 

 

「まぁ色々とありますが……自分が普通の人と違うことが嫌になったんです。別に自分を嫌いになったりしてないですけど……お二人もご存知とは思いますが、トレセン学園で働いていた時から色々と言われていましたからね」

 

 

 確かに麻真の言う通り、当時のトレセン学園での彼の評価は両極端だった。

 普通の人間であるのにウマ娘と同等の能力を持った故、賛否両論な話があった。

 他のトレーナーからは麻真を褒める人間もいたが、大多数はウマ娘を汚す人間の恥、才能に恵まれた人間やウマ娘に媚を売るウマ娘の敵などなど言い出せばキリがない。

 またウマ娘からは彼のトレーナーとしての能力を評価する者が多いが、人間であるはずなのにウマ娘と同じ能力を持っていることを不気味に見ている子も多かった。

 そして麻真にはもうひとつ決定的な出来事があったのだが、それは二人に言うことはなかった。特別、言う話でもないと思って。

 

 

「まぁ、もう潮時かと思いますよ。給料無しで席だけを置かせてもらうのも限界がありましたからね。なんで退職届を出そうかと――」

「拒否ッ! それは断固拒否するッ!」

 

 

 辞めると麻真が言い出した途端、理事長が彼の言葉を遮った。

 

 

「それは許さんッ! 二年も休職してもお主の席を置いていたということは、お主が必要と判断したからッ! 故にッ! お主が辞めることは容認できぬッ!」

 

 

 理事長の言葉にたづなが頷く。

 

 

「別に辞めるのは自由では……?」

「ならぬ! お主がやめるのはトレセン学園の大きな損失ッ! そんな噂など薙ぎ払ってしまうが良いッ!」

 

 

 簡単に言うなと麻真が呆れてしまう。しかし理事長の顔を見る限り、冗談で言っているとは思えなかった。

 

 

「そう言って頂けるのはありがたいですが、俺が戻ったところで担当を持つ気には……」

「なにを言っておる。もうお主はメジロマックイーンの担当で登録してるぞ?」

「……はっ?」

 

 

 そして理事長がポロっと言い出した内容に、麻真は固まっていた。

 

 

「なんで……?」

「お主が言っていたではないか? メジロマックイーンからも聞いたのでな、自主練習を見てくれると言っていたと! ならばそれは担当と言っても同義ッ! 故に理事長権限で担当者登録は済ませてあるッ!」

「ただの職権濫用じゃねぇか!」

 

 

 麻真が敬語を忘れて怒り出すと、たづなが慌てて彼を落ち着かせる。

 たづなに諭されて麻真が大人しくなるが、彼は少し苛立ちながら理事長を見つめていた。

 

 

「……メジロマックイーンの担当トレーナーの変更を希望します」

「拒否するッ!」

「ならどうすれば俺がトレセン学園を辞められるかを話してください」

 

 

 二年も休職した身分が言える台詞ではなかった。理事長にかなり麻真は甘えてきたが、流石に強引にトレセン学園に戻されるとなると彼も早急に退職を考えざるを得なかった。

 

 

「辞めさせるつもりはないぞッ!」

「仮に、辞めるならの条件を聞かせて頂きます。これは確実に答えてください!」

 

 

 頷かない理事長に、麻真が強引に条件の提示を訊く。

 理事長は麻真の剣幕に「むっ……!」と押されると、しばらく彼女は考えてから、何かを思い付いたように答えた。

 

 

「うむ! なら次に言う成績を残せば考えよう! これから担当するメジロマックイーンという生徒でそれを残せたならッ!」

 

 

 理事長の話に、麻真が黙って聞く。

 そして理事長が続けた言葉に、たづなが目を大きくして驚いていた。

 

 

「まずはこれから始める予定のウマ娘の頂点を決めるレースであるURAファイナルズの優勝は必然! そして天皇賞制覇を二年連続、またはクラシック三冠と天皇賞を制覇ッ! それをできればお主の退職を考えようッ!」

「そんな目標できるわけありませんよ⁉︎」

 

 

 たづなが驚くのも無理はない。

 URAファイナルズというのは麻真が知る由もないが、理事長が発案した『どんなウマ娘でも輝ける舞台を用意したい』という思いから生まれる予定のレースである。これは距離適正毎に分かれるレースで言ってしまえば、同じ距離適正の強豪のウマ娘が集まるレースである。

 天皇賞は長距離レースの頂点を決めるレース。毎年、長距離ステイヤーが挑戦する強豪ウマ娘が集まる。それを一度制覇するだけでも難易度が高い。更に二年連続となれば更に難易度が跳ね上がる。

 またクラシック三冠。皐月賞、日本ダービー、菊花賞とデビューしたばかりのウマ娘が出場できる三つのレースを勝つこと。これを無敗で制覇できるのは、本当に稀なウマ娘にしかできない偉業である。それに加えて天皇賞の制覇である。

 理事長に提示された条件は、普通のトレーナーが聞けばすぐ諦めるような内容だ。それを提示した理事長は、言ってしまえばできるはずのないことを言っていることになる。

 たづなも、これには流石に驚愕していた。

 

 

「理事長! 流石に辞めさせたくないと言っても、その条件はあまりにも無理難題です!」

「否ッ! これでも譲歩しているッ! 麻真の実力ならば容易で突破してくると思っているッ!」

 

 

 たづなの反論に、理事長がハッキリと答える。

 そんな条件を突き付けられた麻真をたづなが心配するが、彼は黙って理事長を見つめていた。

 

 

「……それができれば、俺は辞めていいんですね?」

「うむッ! あわよくばお主の気が変わってトレーナーを続けてくれると期待しているがッ!」

 

 

 確かに麻真からしても、無理難題の条件だった。

 メジロマックイーンを使って賭けをしているのは、正直良い気分にはならないが……辞められるなら受けても良いと麻真は思う。

 どの道、先程あれだけ辞めさせないと理事長は言っていたのだ。つまりどんな方法を使っても辞めさせるつもりはないのだ。

 なら理事長が自分で言い出した条件を突破して、反論できない状態にするしか麻真には選択肢がなかった。

 

 

「分かりました。お受けしましょう。その条件で」

「麻真さん、考えてください! 無謀です! 私も貴方には辞めてほしくありませんが、この条件はあまりにも無茶苦茶ですよ!」

 

 

 理事長の条件を受ける麻真を、たづなが止める。

 しかし麻真は、首を横に振っていた。

 

 

「ここまで理事長が言ったんです。条件の緩和は無理でしょう。それにこの人は、自分が言ったことを曲げない人だ。中途半端に色々と拗れて辞めようとすると理事長はなにをしてでも辞めさせてはくれない。なら、理事長の条件をクリアするのが最短です」

「肯定ッ! よく分かっておるッ!」

 

 

 理事長が満足そうに頷いていた。

 

 

「で、でも……」

「別にだからと言って理事長やたづなさんに冷たくする気もありません。お二人の気持ちも察することはできます」

 

 

 その点においては、麻真も理解はしていた。高い功績を出したトレーナーを辞めさせようとはしたくないはず。ただでさえトレーナー不足と言われている中で、優秀と言われる人材を失うのは回避したいと思うのは当然である。

 なら最後に最高の功績を残せ。理事長はそう言いたいのだろうと。

 

 

「それでこそ私が見込んだ男だッ! これからのお主の活躍を期待しておるッ!」

「後悔しないでくださいね。あとから無しと言って約束を破らないように」

「誓おうッ! ただしお主の気が変わってトレーナーを続けるのなら、それはお主が勝手にするが良いッ!」

「今のところはありませんよ。辞める方向で行きます」

 

 

 たづながあたふたと慌てる中で、麻真と理事長が互いに納得する。

 理事長はやれるものやらやってみろと言いたげに笑い、麻真は今に見ていろと笑い合い、不気味な絵面になっていた。

 

 

 そんなやりとりとしていると、車はとある場所で停車していた。

 

 

 三人が乗っていたリムジンの扉が運転手によって開かれる。

 その先に見える建物を見て、麻真はすごく懐かしい気分になった。

 

 

「着いたようだッ! 早速、メジロマックイーンに会ってやるが良いッ! 彼女は練習場にいるように伝えておるッ!」

 

 

 リムジンから降りて、理事長がそう言って歩いて行った。

 理事長を追うようにたづなが降り、そして麻真もリムジンから降りる。

 

 

「あの……麻真さん。大変ですが、頑張ってください」

「頑張ってみます。それで質問ですが、俺の部屋とか荷物ってどうなります?」

「それは問題ありません。トレーナー寮の麻真さんの住んでいた部屋はそのままにしています。あと今まであの山で麻真さんが住んでいた家の荷物は全て明日には届くように理事長が手配していますので」

 

 

 全て手配済みだった。こういう時だけ手際の良い理事長に麻真は感心するが、呆れてもいた。

 

 

「なら今日から復職ですね」

「はい。改めて、今日からよろしくお願いします。北野麻真さん」

「こちらこそ、よろしくお願いします。たづなさん」

 

 

 麻真とたづながそう会話を交わして、たづなは先を歩いて行った理事長を追い掛けて行った。

 二人が居なくなり、一人になった麻真は改めて目の前に建つトレセン学園を見ながら肩を落とした。

 

 

「面倒だな、色々と」

 

 

 そうしてしみじみと呟いた。

 場違いな気がする。成人男性がジーパンに白のTシャツとラフな姿でトレセン学園に入るのも如何なものかと思う。

 だが、そういうことを気にするのも面倒だった。そもそも二年前もそう言ったことを気にしたことはなかった気がする。

 

 

「とりあえず、練習場に向かうか」

 

 

 理事長が言うには、メジロマックイーンは練習場にいるらしい。理事長からなにを言われて練習場に彼女がいるか分からないが、これから長い付き合いになるウマ娘のことを知るところから始めないといけない。

 色々と今後のことを考えながら、麻真はゆっくりとトレセン学園の中に入って行った。




読了、お疲れ様です。

新しいウマ娘は出せませんでした。
次回こそ、出したいと思っています。


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5.心がざわついた

 二年振りだが、変わっていない。それがトレセン学園の中を歩いていた麻真の素直な感想だった。

 歩いて練習場に向かう中、何人かウマ娘とすれ違うが、麻真を不審にチラリと見るだけで特に何もしてこない。以前にトレーナーして働いていた麻真のことを見て反応がないのなら、おそらくすれ違ったのは彼が休職した後に入学した中等部のウマ娘だろうと彼は納得していた。

 トレセン学園の練習場までの道は覚えている。麻真はゆったりとした足取りで歩いていくと、すぐに練習場に着いた。

 

 

「変わってねぇな、相変わらず」

 

 

 二年振りのトレセン学園の練習場を見て、麻真が懐かしさのあまり呟いた。

 充実した設備の整った練習場だった。夜間に練習できるように設置されている照明ライト。芝生とダート、そしてウッドチップのコースも全て整えられている。流石は日本屈指のウマ娘育成学校と圧巻するほどだ。

 だが、そんな練習場の日曜日の午前中は意外とウマ娘の姿は少なかった。休日練習しているウマ娘がちらほらといるくらいだ。いつもなら時間が経つにつれて多くのウマ娘が来て、休日の日曜日でも練習場には多くのウマ娘が自主練習に来るのはおそらく昔から変わってないだろう。

 

 

「さて……アイツはどこにいるかな?」

 

 

 麻真がそう呟いて練習場の入口から周りを見渡すと、一人のウマ娘を見つけた。

 麻真の視線の先にいるウマ娘は、芝生の上でゆっくりと柔軟を丁寧にしていた。朝練前だと伺える。

 丁度良いタイミングだ。麻真はそう思うと、そのウマ娘の元へと歩いて行った。

 そして集中して柔軟しているのか、麻真が近づいても気づかないウマ娘――メジロマックイーンの前に立つと、彼は声を掛けていた。

 

 

「しっかりと柔軟してるのは偉い」

「はっ……?」

 

 

 突然、声を掛けられたメジロマックイーンが顔を上げて、麻真の顔を見るなり目を大きくした。

 そのままメジロマックイーンがキョトンとした顔をした後、彼女は驚いてその場から立ち上がっていた。

 

 

「な、な、な、なんでここに……⁉︎」

 

 

 あまりにも驚くメジロマックイーンを見て、麻真がくつくつと声を殺して笑っていた。

 

 

「驚き過ぎだ」

「で、でも、なんで麻真さんがこんなところに?」

「理事長から聞いてないのか?」

「……え? 理事長からは今日の朝はここで練習するようにと一方的に言われただけですわ。軽く朝練を済ませてから麻真さんのところに向かおうと思ってましたので」

 

 

 余計なことを言わない辺り、理事長の性格が滲み出ている。

 麻真は肩を落とすと、メジロマックイーンに説明することにした。

 

 

「理事長に無理矢理ここに連れて来られたんだ。しかもお前のトレーナーとして登録も正式にされちまった。だから今日から俺は、お前の専属トレーナーになったんだよ」

 

 

 麻真の言葉を理解するのに時間が掛かったのだろう。またキョトンと顔を呆けた後、メジロマックイーンは次第に目を輝かせていた。

 

 

「ほ、本当ですのっ⁉︎ 麻真さんが私のトレーナーになってくださると⁉︎」

「不本意ながらな……やらないといけなくなった」

 

 

 麻真はメジロマックイーンに、なぜ彼女のトレーナーを受けることになった理由はあえて言わなかった。

 麻真と理事長の二人が交わした約束。それをメジロマックイーンに話すのは、麻真には躊躇われた。

 賭けの対象になっていると言われて、良い気分はしない。あとはそんな大人の事情に子供のウマ娘を関わらせるのは、麻真にはできなかった。と言っても、賭けの対象になってる時点で関わってるのだが、知らせない方が良いと彼は判断してのことだった。

 

 

「やりましたわっ! 麻真さんが本当に私のトレーナーになってくださるなんて!」

 

 

 それに必要以上に喜んでいるメジロマックイーンに、そんな無粋なことを麻真は話す気にもならなかった。

 

 

「はっ……! ご、ごほん……ま、まぁ、貴方がトレーナーになるなら私は嬉しく思いますわ」

 

 

 先程まで子供みたいに喜んでいたのを恥じたのか、気を取り直してメジロマックイーンが取り繕う。

 そんなメジロマックイーンに、麻真が思わず笑うと彼女は頬を膨らませていた。

 

 

「そんなに笑わなくても良いのではなくて?」

「別に、お前の反応が面白かっただけだ」

 

 

 むくれるメジロマックイーンを横目に、麻真が練習場を見渡す。

 先程から見る限り、まだ今の時間は練習場にそこまで人数はいないようだった。これなら走っても問題ないだろう。

 

 

「ということだ……これからよろしく頼む。マックイーン」

「……! はい! よろしくお願い致しますわ! 麻真さん!」

 

 

 メジロマックイーンの返事を聞いて麻真は満足そうに頷くと、その場で唐突に柔軟を始め出した。

 麻真が急に柔軟を始めたことに、不思議そうな顔でメジロマックイーンが彼を見ていたが……彼女は彼がこれから何をするか気づいて目を輝かせていた。

 

 

「良し……なら早速、お前も柔軟してるなら朝練とでもいこう。ここは一周二千四百の練習場だ。今日は俺も走る。勿論、お前の脚質に合わせる……ついてくるか?」

 

 

 麻真の言葉に、メジロマックイーンは無意識に尻尾を振っていた。

 毎週日曜日だけだと思っていたが、これから毎日この人に教えてもらえることにメジロマックイーンは素直に喜んでいた。

 故に、メジロマックイーンの答えは決まっていた。

 

 

「はいっ! 是非、お願いしますっ!」

「良い返事だ。ならやるぞ、今はまだ朝練の人がいないが時間が経つと多くなる。しっかりインターバル入れて走れるのは三周くらいだ。気合入れて走れよ」

「分かりましたっ!」

 

 

 麻真がメジロマックイーンの返事を聞くと、その場で走る構えを取った。メジロマックイーンも同様に彼に合わせて構える。

 そして麻真が走り出すと、メジロマックイーンも勢い良く走り出していた。

 前とは違う場所で走っている麻真を見て、メジロマックイーンの顔は歓喜に満ちていた。

 

 

(何度見ても、とても綺麗なフォームですわ……!)

 

 

 メジロマックイーンの先を走る麻真を見て、彼女は何度目か分からない心の震えを感じていた。

 まだ自分には、麻真より綺麗な走りをすることは到底できない。彼の走りを見て、そして追い掛けるだけで精一杯だ。

 麻真の走りを真似していると呼吸が荒くなっていく、走るペースも違うので足の負担もいつもより感じる。

 しかし、メジロマックイーンが麻真の後ろを走っていると――いつも以上の充足感を感じていた。

 今の走り方は、本来の自分の走り方ではないが……これは麻真が見せてくれる“先行の走り方”だ。走る速度も違うし、ペース配分も違う。しかし圧倒的に感じられるのは――自分が速く走れているということだ。

 麻真の走り方を会得すれば、自分はもっと速くなれる。更に強くなることができる。

 

 

「わっ! 速ッ――!」

 

 

 練習場で練習していた他のウマ娘達の近くを麻真とメジロマックイーンの二人が全速で走り抜けたことに驚くが、そんなことをメジロマックイーンは気に留めていなかった。

 目の前の人から目を離してはいけない。前を走る麻真を見て、追い掛けていなければと。

 

 

「ねぇ、あの人ってウマ娘じゃなくない?」

「普通の人だよね、なんであんなに速いの? それにあの人……なんでメジロマックイーンさんと?」

 

 

 走る中でそんな話し声が聞こえた気がした。

 しかしそんなことは、もうメジロマックイーンにはどうでも良かった。

 ウマ娘だろうと、ウマ娘でなかろうと、目の前を走る人は自分を強くしてくれる人ならそれで良いと。

 北野麻真という人間をまだよく知らないが、メジロマックイーンはこの人は十分信頼に値する人だと判断していた。

 こんなにも綺麗に走れる人は、見たことがない。無駄のないフォーム、これは間違いなく走ることに人生の全てを注いだ人の走り方だ。

 尊敬さえできる。数回しか会わなかった自分が、少し真似しただけで前よりも速く走ることができるのが証明だ。おそらくこの人は、きっと教えることも上手な人だと。

 そう思っていると――不思議とメジロマックイーンは、走りながら笑っていた。

 麻真の後ろを走っているだけなのに、自分が速くなっていく実感を感じて――楽しくて仕方なかった。

 

 

「まだ半周だぞ? もうバテたのか?」

 

 

 横目でメジロマックイーンの方を見ながら、麻真が彼女に声を掛ける。

 確かに少し疲れている。しかし、メジロマックイーンにはそんなことは些細なことだった。

 メジロマックイーンは前を走る麻真に、彼女ら大きな声で答えた。

 

 

「全然大丈夫ですわっ!」

「なら、ついてこい! マックイーン!」

「――はいっ!」

 

 

 こんな時間を少し疲れただけで終わらせるのは、あまりにも勿体ない。

 これから麻真と走る機会が多くなるのを分かっていても、メジロマックイーンにはこの時間を無駄にできるわけがなかった。

 こんなにも充足感を感じられる走りができるなら、それこそまた吐いてでも良いと思って、メジロマックイーンは足を動かしていた。

 

 

 

 

 

 

 練習場に来ると何か空気が違った。

 日曜日の朝練にチームを連れてきたトレセン学園のトレーナー“東条ハナ”は、すぐにそれを感じていた。

 

 

「なにかあったのかしら?」

 

 

 何故か練習場にいるウマ娘達が騒がしい。何事かと思ってウマ娘達を見ると、全員が練習場に視線が向いていた。

 そしてハナもその視線の先に目を動かすと、練習場で走っている二人を見て――彼女は目を大きくしていた。

 

 

「まさか……帰ってきたの?」

 

 

 見間違えようがない。髪型は変わっているが、見覚えがある顔だった。それにウマ娘と同等の速さで走れる人間の知り合いなど一人しかいなかった。

 

 

「オーウッ! どうしたんデス?」

 

 

 ハナが驚いていると、ハナの後ろを歩いていたウマ娘の一人が練習場の騒ぎに興味深々と目を輝かせていた。

 

 

「あっ⁉︎ 待て! タイキシャトルッ⁉︎ 見るなっ⁉︎」

「なんでデース? ワタシも気になりマースッ!」

 

 

 ポニーテイルのウマ娘――タイキシャトルと呼ばれたウマ娘が、ハナの静止を無視して練習場の方へ視線を向ける。

 

 

「――ワァオ⁉︎ あの人はッ⁉︎」

 

 

 タイキシャトルが練習場を走る二人を見た途端――彼女の目が変わっていた。二人というより――一人の男性を見た瞬間、彼女は目を輝かせた。

 それはまるで新しい玩具をもらった子供のような目で、気づくとタイキシャトルの尻尾は激しく揺れていた。

 そしてタイキシャトルは練習場を走る二人を見て、即座にその場から彼女は勢い良く走り出していた。

 

 

「アサマァァーーー! お久しぶりデェース!」

「ちょっと待てと言っているッ! タイキシャトルッ!」

 

 

 そしてハナの静止も聞かず、タイキシャトルは全速で走り去っていた。

 

 

「……タイキシャトルさん。どうされたんです?」

「グラス……気にするな」

 

 

 ハナに“グラス”と呼ばれたウマ娘――グラスワンダーが首を傾げる。

 グラスワンダーはハナが頭を抱える姿を見て、思わず訊いていた。

 

 

「何かあったんですか?」

「ちょっと昔の知り合いがそこにいてな。タイキシャトルがはしゃいで行った」

 

 

 ハナが指差した先には練習場を走っている二人。グラスワンダーはその二人を見ると、口に手を当てて驚いていた。

 

 

「あの……メジロマックイーンさんと走ってるあの男の人、随分と走るのが速くないですか?」

「アイツはお前達ウマ娘と同じ速度で走れる変わった奴なんだ……それにしても良かった。ここに“ルドルフ”がいなくて助かった」

 

 

 ハナがそう呟いた言葉に、グラスワンダーは首を傾げていた。

 少し気になったグラスワンダーだったが、とりあえず一番気になる練習場の方へ視線を向ける。

 ふと見るといつの間にか、先程走り出していたタイキシャトルは練習場を走る二人に追い付いていた。

 先を走る二人――というより男の方が速度を上げて走っているのが見える。それをメジロマックイーンが追いかけて、それを更にタイキシャトルが追い掛けていた。

 

 

 

 

 

 

「アサマァーー!」

 

 

 三周目をメジロマックイーンと走っていると、麻真の後ろから自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 明らかにメジロマックイーンの声ではない。彼女は麻真の後ろをピッタリとついて来ていて、声ならはっきりと聞き取れる距離にいる。

 ならば誰だろうかと麻真が後ろを振り向くと、麻真は顔を強張らせていた。

 

 

「ん? げっ……タイキシャトルッ⁉︎」

 

 

 少し離れたところから大きな声を出しながら麻真とメジロマックイーンを追い掛けてくるウマ娘を見て、麻真は懐かしさよりも“面倒臭さ”の方が勝った。

 

 

「アサマーーーー!」

 

 

 ラストスパートのように全力全開で走っているらしく、先を走っている麻真とメジロマックイーンに追いつくような速さでタイキシャトルは近づいて来ていた。

 大声を出していたタイキシャトルにメジロマックイーンは気付かないわけがなく、彼女は麻真に不思議そうに訊いていた。

 

 

「麻真さん? タイキシャトルさんとお知り合いだったのですか?」

「昔に俺が少しだけ面倒見てた奴だ。アイツ、俺を見掛けると所構わず一緒に走りたがる面倒な奴だったんだよ。まったく……マックイーン、速度上げるぞ。ついてこい」

「えっ……はいっ!」

 

 

 加速する麻真に言われるまま、メジロマックイーンは速度を上げた。

 正直なところ全力でメジロマックイーンは走っている。しかしまだ速度を上げられるのかと、麻真が更に加速したことにメジロマックイーンは内心驚いていた。

 

 

「イヤッホォォォ! 相変わらず速いデースッ! 流石は私のアサマーーー‼︎」

 

 

 後ろから二人に迫るタイキシャトル。次第に彼女は速度を上げて来ていた。

 メジロマックイーンは何故タイキシャトルが追い掛けて来てるのが疑問でしかなかったが、ハッキリと分かるのはこの謎の鬼ごっこに自分は確実に関係ないことだけは分かった。

 

 

「マックイーン、もう三周目が終わる。お前はコースから外れて休憩入れて待ってろ。今から俺は逃げの脚質で走る。タイキシャトルは先行脚質だ。アイツは俺を差そうと走ってくるからその動きを見て学べ。適正距離は違うが、意外と参考になるぞ」

 

 

 メジロマックイーンの考えが読まれたのだろうか、タイミング良く麻真が彼女にそう提案していた。

 とりあえずメジロマックイーンは頷いていた。麻真と走るのが終わるのは名残惜しかったが、正直なところ三周も全力で走ったので身体は限界だった。

 それこそ吐いてもいい気持ちで走っていたが、麻真と“二人”で走れないなら別に良いかとメジロマックイーンは言われるままに三周目を終えると緩やかにコースを外れていた。

 

 

「ふぅ……!」

 

 

 かなり息が荒くなっているのを整えながら、メジロマックイーンが走り去った麻真とそれを追い掛けるタイキシャトルを眺める。

 確かに麻真の走り方が変わっていた。あれが彼の言う“逃げ”の走り方らしい。それを追うタイキシャトルの走り方も見ると――メジロマックイーンは少し違和感を感じていた。

 

 

「……似てる」

 

 

 どことなくタイキシャトルの走り方が、麻真の走り方と似ている気がした。改めてメジロマックイーンが彼女の走り方を見てみたが、確かにとても綺麗なフォームだった。流石はマイル王と呼ばれるだけの強豪ウマ娘であると。

 しかしその走り方を見て、メジロマックイーンは不思議と嫌な気持ちになった。不快とはではなく、どことなくモヤモヤとする気持ちだった。

 

 

「ワタシから逃げ切れると思ってマスカ? アサマーー‼︎」

「相変わらず鬱陶しいなお前! 一周だけ付き合ってやる! 差せるなら差してみろ!」

「ワタシと走ってくれるんデスカ⁉︎ ならワタシも全力デースッ‼︎」

 

 

 そして逃げる麻真をタイキシャトルが追い掛ける。そのレースをメジロマックイーンは凝視していた。

 逃げ脚質を先行が差すタイミングは、麻真と走っていたからよく分かる。メジロマックイーンがここだと思った瞬間、タイキシャトルが更に加速して麻真を追い掛ける。

 しかし麻真も更に加速してタイキシャトルを近づかせていなかった。

 

 

「麻真さん、逃げの走り方もできるのですね」

 

 

 多彩な走り方を見せる麻真には、メジロマックイーンも感心していた。

 速く走る方法を数多く知っている麻真には、メジロマックイーンの興味が更に湧いてくる。

 しかし同時に、タイキシャトルと走る麻真に――何故か心がざわついた気がした。

 

 

「なんでしょう? この気持ち?」

 

 

 メジロマックイーンは自分の心の反応に戸惑いながら、麻真とタイキシャトルの走りを見つめていた。




読了、お疲れ様です。

他のウマ娘が出ましたが出番はそこまで多くありませんのでご安心を。
主役はメジロマックイーンです。


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episode.2
1.走ってこい


 

 

 あの北野麻真が、トレセン学園に帰ってきた。

 それは麻真の過去をよく知らないメジロマックイーンには分からないことだったが、トレセン学園では大騒動になるほどの出来事だったらしい。

 まずは高等部の方で色々と騒動があったと噂で聞いた。また在籍するトレーナー達も麻真が帰ってきたことに賛否両論と分かれた反応があるらしい。トレーナー達の噂についてはメジロマックイーンは微塵も興味はなかったが、高等部の噂については少し気になった。一体、麻真についてどんな話があったのだろうと。

 

 そんなトレセン学園で有名だったらしい北野麻真がメジロマックイーンの専属トレーナーになったことは、それが必然と言えるように彼がトレセン学園に帰ってきた当日で高等部の生徒全員へ話が広まっていた。

 そして麻真がトレセン学園に帰ってきた日から、メジロマックイーンは高等部の生徒から話し掛けられることが多くなった。大体の内容はどうやって行方不明の北野麻真を専属トレーナーにしたかや、自分も彼に指導してほしいから専属トレーナーを譲ってくれという内容だ。

 また他のトレーナーからも、麻真から自分に乗り換えないかと直談判が来ていた。何故か知らないが、たまたまその時に近くにいたたづなから聞いた話だと、麻真が目をつけたウマ娘というところがポイントらしい。それについては、メジロマックイーンは実にどうでも良かった。

 無論、メジロマックイーンは即答で全て断りたかった。麻真との大事な練習時間を減らされるなど彼女には到底許さないことだ。自分も麻真に鍛えてほしいと頼み込んでいて、幸運にも彼が自分の専属トレーナーとして登録されたのだ。それを簡単に他の人に譲るなど有り得ない話だ。

 

 しかしこの件は高等部の生徒にとってはかなり大事らしい。彼女達への答え方を間違えると間違いなく角が立つ。あまり学園内で不必要な揉め事を起こすのは控えたかったメジロマックイーンは、慎重に答え方を選んでいた。

 

 メジロマックイーンのところに来た高等部の生徒には、穏やかに麻真が自分の専属トレーナーになったことを学園から一方的に告げられたと答えた。そしてトレーナー達には、麻真で満足しているから問題ないと正直に答えることにした。

 そして麻真がトレセン学園に来て一日経った翌日も、朝から放課後までメジロマックイーンのところに来る上級生から麻真を譲ってほしいという話を適当に躱しながら、彼女は放課後から約束していた麻真との練習を練習場で始めていた。

 

 

「まだ他の奴から色々言われるのか? 全く……今日、俺のところに来たやつ全員には言ったんだがな。俺は他の奴を見るつもりはないって」

 

 

 練習前に麻真とメジロマックイーンが揃って柔軟をする。柔軟をしている最中にメジロマックイーンが“そのこと”を麻真に世間話のように話すと、彼は聞くなり深い溜息を吐いていた。

 麻真がトレセン学園に来てメジロマックイーンのトレーナーになっても、彼は変わらなかった。相変わらず髪は長いままで適当に一つに結っている。普段の格好も他のトレーナーのようにスーツなどを着ているわけではなく、運動し易いジャージ姿だ。

 それが悪いとはメジロマックイーンは思わない。スーツなんて着られたら麻真と一緒に練習できないので、その点はメジロマックイーンも納得しているが――彼女も少しずつ理解してきていた。

 多分、この人は普通のトレーナーではないと。ウマ娘と同等の速さで走れるのも勿論だが、そもそも普通のトレーナーは一緒に同じメニューの練習をすると言わないし、一緒に練習場のコースを走ることもない。と言っても、それもメジロマックイーンは了承しているし、むしろ一緒にしてくれない方が困る。

 麻真の走りに魅入られたのだから、それを見て学べないのはメジロマックイーンには容認できない。むしろそれが彼女の一番の目的であるのだから。

 

 

「それにしても有名人だったのですね、麻真さんは」

 

 

 ふと、メジロマックイーンはそんなことを麻真に話していた。

 麻真はメジロマックイーンの言いたいことが分かったのだろう。彼は少し困った顔をしていた。

 

 

「まぁ、それなりに仕事してたからな」

 

 

 絶対に嘘である。メジロマックイーンは流石にそこだけはすぐに分かった。

 

 

「それなり、という部分が私はとても気になります。私は貴方のことをよく知りませんが、昨日と今日で分かりました。貴方はこの学校ではとても有名人のようですわ。ところで……聞きたかったのですが、麻真さんは休職する前は誰のトレーナーだったんですの?」

 

 

 メジロマックイーンの質問は、麻真を知らない彼女からすれば最もだった。

 北野麻真という人間を有名にした理由はおそらく多くあるだろう。その主な理由は、トレーナーの実力である。なら、彼の育成したウマ娘が誰かで、それが分かるだろうと。

 

 

「色んな奴の練習見てやってたが……最後に担当したのは……」

 

 

 そこで麻真が話を止めると、彼はメジロマックイーンの質問に少し言い淀んだ。そして彼は暫し間を開けると、

 

 

「まぁ誰でも良いだろう。別に、マックイーンが知る必要もない」

 

 

 そう言って、メジロマックイーンの質問を濁していた。

 

 

「あら、秘密にされますの? 別に答えても良いのではなくて?」

「別に秘密にしてるわけじゃない。色んな奴を見てたから最後に見てた奴は忘れただけだ。それこそタイキシャトル、マルゼンスキーとオグリキャップやら色んな奴から臨時で練習をして欲しいと言われてたからな」

 

 

 メジロマックイーンはそう答えた麻真の話に、少し首を傾げた。

 通常、トレーナーはパートナーである特定のウマ娘を育成する。それが不特定いたと言うのだから、メジロマックイーンには不思議な話だった。

 

 

「随分と有名な方ばかり……一人に選べないのは、殿方の甲斐性がないのではなくて?」

「失礼なことを言うな。これでも当時は苦労してたんだぞ? 俺がトレーナーとして面倒を見た奴は、意外と少ないんだからな?」

 

 

 苦笑いする麻真にメジロマックイーンは少しむくれるが、彼が言うには正式にトレーナーとして登録をしたウマ娘はあまりいないらしい。

 本当は嘘かはメジロマックイーンには分からなかったが、とりあえずは――彼女は何故か少し安心していた。

 北野麻真は、メジロマックイーンの専属トレーナー。これは変わらない事実、つまりは彼を独占できると言うこと。

 他のウマ娘に渡したくない。そんな自覚のない気持ちがメジロマックイーンにあった。

 

 

「そうは言いますが、貴方が人気者と言うのは変わりませんわ。今日もどうせ練習終わりに私以外のかたと走るのでしょう?」

 

 

 柔軟をしているメジロマックイーンがそう言って視線を向ける。

 視線の先には、トレーナーの東条ハナが率いるチームが揃って練習している光景があった。

 視線の先にいるチームを見て、メジロマックイーンは口を尖らせた。

 

 

「そうだな……東条さんのところから一人だけ、約束してる奴がいる。なんだマックイーン……妬いてるのか?」

「なっ……⁉︎」

 

 

 麻真の言葉に、メジロマックイーンの顔が僅かに赤くなる。

 メジロマックイーンはそんな麻真を睨むと、ふんっと彼から視線を外した。

 

 

「別に妬いてなどいませんわ……麻真さんは私のトレーナーですのに」

 

 

 言葉の最後が小さくなっていく。メジロマックイーンが話していた最後の方は麻真も聞き取れないほど小さい声になっていた。

 麻真もメジロマックイーンが言いたいことが分かったのだろう。麻真が柔軟を切り上げてメジロマックイーンの近くに寄って行く。

 そしては麻真が芝生の上に座って柔軟していたメジロマックイーンの前でしゃがむと――そのまま彼は彼女の頭を撫でていた。

 唐突に頭を撫でられたことにメジロマックイーンが驚くが、麻真の手を拒むことはしなかった。

 麻真がメジロマックイーンの頭を撫でながら、彼は苦笑いしながら彼女に語り掛けていた。

 

 

「悪かったから、拗ねるな。別にお前を放ったりしない。約束しただろ、お前を天皇賞に連れていくって」

 

 

 確かに昨日、メジロマックイーンは麻真と約束をした。

 昨日の夜。トレーナー登録に関わる諸々のことは後日に説明すると言われた後、麻真がメジロマックイーンに訊いていたことを。

 

 

『マックイーン。お前の目標はなんだ?』

『私の目標は、メジロ家の悲願。天皇賞制覇ですわ』

 

 

 麻真の問いに、メジロマックイーンはハッキリとそう答えたのだ。

 そして麻真は、メジロマックイーンに答えていた。

 

 

『……分かった。お前の目標、俺も手伝ってやる。天皇賞の唯一無二の“盾”が欲しいなら、勝ち取るしかない。だからお前もその為に全力で俺についてこい』

 

 

 その言葉を聞いた途端、メジロマックイーンの胸が熱くなるような感覚があった。

 この人について行こう。そう確信できる何かが、メジロマックイーンにはあったからだ。

 しかしそうは言っても自分以外のウマ娘と麻真が交流を持つのは、メジロマックイーンからすればあまり面白くなかったのだった。

 

 

「ですが……」

 

 

 不貞腐れるメジロマックイーンに、麻真は「大丈夫だ」と言い聞かせた。

 

 

「お前が勉強になるような走りしかしない。まだメイクデビュー前のお前は“見る”のも勉強だ。特に今日、俺が一緒に走る奴は特に勉強になる」

 

 

 そう言って、麻真が撫でていたメジロマックイーンの頭から手を離す。先程まであった感触がなくなったことに「あっ……!」とメジロマックイーンが少し名残惜しい気持ちになる。

 どうしてそう思ったのか……メジロマックイーンには分からなかったが、麻真にそれを悟られないように平然を装うことにした。

 

 

「だ、誰と走るんですの?」

 

 

 たどたどしくメジロマックイーンが麻真に訊く。

 麻真はその質問に、少し考えたように顎に手を添えていた。そして彼は意地の悪そうな顔をしていた。

 

 

「それは今日の練習が終わるまでのお楽しみだ。もしかしたらお前も一緒に走ってもらうかも知れないしな」

「……はぁ?」

 

 

 麻真の濁した答えに、メジロマックイーンは小首を傾げるしかできなかった。

 

 

「さて……そろそろ練習始めよう。まずは俺が“お前のこと”を知るところから始めるか」

 

 

 そしてメジロマックイーンが柔軟を終えたタイミングを見計らって、麻真が柔軟を終えて立ち上がる彼女にそう促す。

 それを聞いて、メジロマックイーンは少し緊張した。無意識に彼女の耳が少しピンと立ってしまう。

 何か特別な練習をするのか、それとも前と同じように麻真の後ろを走るのか……メジロマックイーンが考えを巡らせたが、彼はコースを指差すと一言告げた。

 

 

「まずはランニング一周」

「……えっ?」

「とりあえず一周。絶対に全力で走らない。ジョギングのくらいの速さ程度で良い」

「そ、それだけですか?」

「それだけだ」

 

 

 あまりにも普通だった。しかしトレーナーの指示に従わない訳にもいかないメジロマックイーンは、渋々麻真に言われるままにランニングを始めた。

 

 

「貴方もついてくるんですのね」

「俺のことは気にしなくていい」

 

 

 走るメジロマックイーンの後ろを麻真が同じ速度で走る。

 走っているのを後ろからじっと見られている感覚になれないのか、メジロマックイーンは居心地の悪そうな顔をする。しかし麻真は特に気にも止めずに走っていた。

 そして一周を終えてメジロマックイーンがインターバルを入れていると、麻真はポケットからストップウォッチを取り出していた。

 

 

「次、もう一周。自分が一番走りやすい速度を維持して走ってくれ」

 

 

 また一周するらしい。メジロマックイーンは麻真の指示に従うと、位置についてから走り出した。

 自分の走りやすい速度というのがメジロマックイーンにはよく分からないが、自分がいつも練習場で練習している速度で良いと判断して走ることにした。

 先程と変わらずにメジロマックイーンの後ろに麻真がついてくる。

 そして二周目が終わると、今度は先程よりも長いインターバルに加えて、麻真はいつの間にか持ってきていたスポーツドリンクとゼリー飲料をメジロマックイーンに渡していた。

 

 

「これは?」

「水分補給と栄養補給、ちゃんとしろよ」

 

 

 言われるままにメジロマックイーンは麻真から渡されたモノを飲む。そしてインターバルを終えると、彼は次の指示を彼女に伝えた。

 

 

「三周目、今度はタイムを測る。二千四百メートルを一人で自己ベストを越えるつもりで全力で走ってみろ」

「……また走るんですの?」

「さっきまでのはただのアップだ。本番はこれから」

 

 

 麻真の意図の分からない指示にメジロマックイーンが不服そうに顔を顰める。しかし麻真はそんなマックイーンを無視していた。

 

 

「良いから走ってこい。後ろでタイム測ってやるから」

 

 

 そう言われて、メジロマックイーンは三週目を走った。

 ここ最近はタイムは伸びている。麻真から走り方を学び、自己ベストを更新した走りでメジロマックイーンが走る。

 そしてメジロマックイーンが三周目を終えた後で麻真がストップウォッチを見ると、彼は納得したように頷いていた。

 

 

「良し、最後だ。俺と競争するぞ。俺が逃げるからマックイーン、俺を差せ」

「今度は……麻真さんと?」

「良いか、本気で走れよ。本当のレースのつもりで全力で走れ。俺を抜けなかったら……そうだな、俺は今日から一週間はお前と一緒に走らない」

「えっ……」

 

 

 聞いた途端、メジロマックイーンが固まった。もし今から麻真と競争して、負けたら一週間は彼と走れない。それは彼女には死活問題と言えることだった。

 

 

「なら、差せたらどうします?」

「何か奢ってやる」

 

 

 安い対価だった。別にお金に困っているわけではないメジロマックイーンからすれば、特に喜びはない。むしろ負けた時の対価の方が問題である。

 しかしメジロマックイーンは知っていた。トレセン学園の学食には、高額の食べ物があることを。

 

 

「後悔しませんわね。なら学食の特製ハチミツニンジンパフェを所望しますわ」

「……お前、甘いの好きなのな」

 

 

 麻真があからさまに嫌な顔をしていた。

 それもそのはず、メジロマックイーンが言った“特製ハチミツニンジンパフェ”は本当に高額なのである。稀に学食でスーパークリークが食べている姿がある程度で、それ以外に頼む人がいないことで有名である。

 

 

「よろしくて?」

「分かった。それで良い、だから全力で走れよ」

「勿論ですわ。約束を破るのは駄目ですわよ?」

「そんな子供みたいなことするか、まったく」

 

 

 そして麻真とメジロマックイーンが位置につくと、すぐに二人は勢い良く走り出していた。

 二千四百メートルの中距離レースになると、スタミナを消費し過ぎない為のペース配分とレースセンスが求められる。最後にラストスパートを仕掛ける足を残したまま後半まで焦ることなく走り、良いポジションを維持しつつ、最後にラストスパートでトップになる。これが大まかな流れである。

 唐突に始まった麻真とメジロマックイーンの競争。それは自然と他のウマ娘達の視線を集めていた。

 麻真が先頭を駆ける。その少し後ろをメジロマックイーンが追う。

 走りながら、時折麻真が背後を確認してメジロマックイーンの位置を確認。しかしメジロマックイーンは動揺して足を速めることなく、麻真との距離を一定で維持していた。

 二人の距離は三バ身。第二コーナーを曲がって、二人が直線を走る。一向に麻真は速度を落とさない。メジロマックイーンも必要以上に距離を離されないように心掛けて走る。

 そのまま第三コーナーに入り、第四コーナーに入った瞬間――メジロマックイーンは第四コーナーから仕掛けるタイミングを窺うことを意識した。

 

 

(……ここっ‼︎)

 

 

 そして第四コーナーを曲がるタイミングで、メジロマックイーンが速度を上げた。

 加速をする為にメジロマックイーンが足に力を込める。そして彼女は、勢い良く駆け出した。

 メジロマックイーンが加速したことにより、麻真との距離が縮まっていく。三バ身から二バ身、そして一バ身と麻真との距離を縮める。

 残り四百メートル。その時、麻真が更に加速した。

 

 

(――また速くなりましたわっ‼︎)

 

 

 しかしメジロマックイーンも逃げる麻真に離されないように加速する。

 全力疾走するメジロマックイーンだが、麻真との距離が一バ身から縮まない。

 自分は全開で走っているはず、なのに追いつかない。メジロマックイーンは先を走る麻真を見て、心が折れそうになった。

 

 

(――絶対に諦めませんわッ‼︎)

 

 

 だがメジロマックイーンは先を走る麻真に負けじと食らいついた。

 脳裏にあるのは、初めて麻真と会った時のこと。初めて彼と走った時のラストスパートを思い出す。

 必死になって忘れていた。あの時に感じた感覚と、今の走り方は違うと。

 思い出さなけば、メジロマックイーンは僅かな時間であの時の感覚を思い出すと――すぐに身体が動いていた。

 一度だけ、強く足を踏み切る。次から走るフォームを意識。そして次の瞬間――メジロマックイーンは更に加速した。

 

 

「やああああぁーッ‼︎」

 

 

 声を上げながら、メジロマックイーンが駆ける。

 残りは二百メートル。麻真との距離は一バ身から半バ身。そしてメジロマックイーンは彼と並んで走っていた。

 

 

(まだいける! まだゴールは先ですわッ‼︎)

 

 

 そして文字通り全力全開で走るメジロマックイーンは、ゴール手前で――麻真を抜いていた。

 ゴールした瞬間、メジロマックイーンが倒れるように膝を地面につける。荒くなった呼吸、限界まで使い切った足が小さく震えていた。

 

 

「はぁ……! はぁ……! 勝ちましたわっ⁉︎」

 

 

 そして地面に膝をついたまま、メジロマックイーンが小さくガッツポーズした。麻真に勝てたと、心から喜んで。

 麻真はどんな顔をしているだろうか、自分に負けて悔しがってるのか、それとも自分に勝ったウマ娘を誇らしく思っているのか。

 メジロマックイーンが気になって麻真の方を向くと、彼は平然としていて楽しそうな顔をしていた。

 

 

「良し……これで一通り分かった」

 

 

 手に持ったストップウォッチを見て、麻真が楽しそうな顔をしていた。

 予想外の反応だった。全力で自分は走っていたのに、麻真は元気そうにしている。メジロマックイーンはその姿に、キョトンと呆気に取られていた。

 

 

「あの……どういうことです?」

 

 

 メジロマックイーンが麻真に訊くと、彼は手に持つストップウォッチを彼女にぷらぷらと見せながら答えた。

 

 

「改めてお前の能力がどんなものか見てみたかった。何度か走りを見てなんとなく分かっていたが、流石はメジロ家と言ったところだ。メイクデビュー前でこれか……素質は十分、お前は更に速くなれるぞ。今よりも」

 

 

 麻真が疲れ切ったメジロマックイーンに、そう告げる。

 たったの四回走っただけで、麻真は何か分かったような口振りだった。

 しかしそれよりも前に、メジロマックイーンは言わなければならないことがあった。

 

 

「特別ハチミツニンジンパフェ、約束ですわよ?」

「はいよ。全く……あんな高いの選ぶのは性格悪いぞ」

「それは私の台詞ですわ」

 

 

 麻真に奢らせる約束を取り付けて、メジロマックイーンは満足そうに微笑む。

 そんなメジロマックイーンだったが、麻真は疲れた果てた彼女が落ち着くまで待つと、早速彼女に告げていた。

 

 

「マックイーン、お前はしばらく基礎トレだ」

「なっ⁉︎ 約束と違いますわ……!」

「お前の練習メニューとは別の話」

 

 

 そう言われた瞬間、メジロマックイーンの目から光が消えていた。

 

 

「一緒に走れないのですか……?」

「基礎トレ終わってから考えてやる。走れるなら、だけどな」

「なんですか……その言い方……」

 

 

 麻真の意味深な答えに、メジロマックイーンは幸先不安な気持ちになっていた。




読了、お疲れ様です。

気づいたらお気に入り数がとんでもないことになってました。
皆様ありがとうございます。ご期待に添えるように頑張ります。

前回のタイキシャトルと麻真の競争については、ちゃんと後から出ますのでご安心を。


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2.簡単な話だろ?

 

 

 肩を落としているメジロマックイーンに、麻真は「そう気を落とすな」と声を掛けた。

 

 

「別に無意味にそうする訳じゃない。理由はある」

「じゃあ……どういう訳ですか?」

 

 

 これからの練習が基礎トレーニングと告げられて、口を尖らせたメジロマックイーンに麻真が肩を竦める。

 遠回しに麻真が自分と走らないと言われていると思ったメジロマックイーンは思い切り落ち込んでいた。

 そこで麻真はそんなメジロマックイーンに、先程告げた練習メニューについてに説明をすることにした。

 

 

「さっきも言ったが、今走った四周はお前の能力を見たかったから走らせた」

 

 

 麻真が話出したことで、落ち込んでいたメジロマックイーンが視線を僅かに彼に向けていた。

 

 

「私の能力ですか……?」

「その為にお前の後ろを走ってたんだよ。無意味にお前の後ろを走るかっての」

「なら何が分かったと言うんですの……?」

 

 

 麻真の話に、メジロマックイーンが訊き返す。彼は頷くと、そのまま話を続けた。

 

 

「あぁ、さっきの二千四百メートルの四本でお前の能力は大体掴んだ。自覚してると思うが、お前は確かに中長距離向きだ。スタミナを維持して走るのは上手い。一周目、お前は息がほとんど乱れてなかったからな」

 

 

 先程、麻真がメジロマックイーンを四周も走らせたのは彼女の能力を確認する為だった。

 一周目。麻真がランニングしているメジロマックイーンに思ったのは、間違いなく彼女は短距離向きではないということだった。

 これは麻真の経験からの持論になるが、短距離やマイルを走るウマ娘は例外を除いて基本的にこのランニングである程度体力を使ってしまう。ジョギングで良いと話しているのに速度を出して走る傾向がある。

 しかしメジロマックイーンは、その点では穏やかな走り方をしていた。ゆったりと一定の速度を維持して、長い距離を走ろうとするのは中長距離向けウマ娘の傾向であると。

 

 

「次に二本目はお前のスピードを見た。走りやすい速度で走った時、お前は走り方は基本的には乱れてなかった。でもタイムは遅め、見ていた感じは楽に走れる速度も遅い。それと走る速度がたまに変わっていたから、多分お前は周りに誰かがいると気が散りやすい」

 

 

 二本目はメジロマックイーンの持続速度を見る為だ。麻真が見る限り、メジロマックイーンが楽に出せる速度は遅かった。これは彼女の脚力が足りてなく、言ってしまえば楽に走れるペースが遅い。

 加えて、周りに誰かがいると掛かりやすい傾向になっていると麻真には見えた。他のことに視線が行き集中力が欠けて“掛かり”やすいと、本来の走るペースを乱されたりしてしまいスタミナを必要以上に使ってしまう。

 

 

「三本目、一人で全速のタイム測定。これはメイクデビュー前なら悪くないタイムだ。速い方だが色々と足りてない面が見える。まだ後ろからマークされてることに馴れていないのはレース慣れしていないということで、ここはご愛嬌と思っておこう」

 

 

 しかし三本目は麻真も少し驚いていた。一本目と二本目を見る限り遅いと思っていたが、予想より上のタイムをメジロマックイーンは出していた。

 楽ではないが意識すればしっかりと走れる。二千四百メートルを全速で走ってもまだ走れるスタミナがメジロマックイーンにあるのは、麻真には高評価であった。

 

 

「最後の四本目。あれは俺が“お前より少し速いくらい”で走っていたんだが……お前、かなり負けず嫌いだろ? 誰かと競う方がお前は速い。最後のラストスパートは良かったが、まだ走り方が定まってないのか加速力が不十分」

 

 

 そして最後の四本目で麻真が分かったのは三個だった。そのひとつ、このメジロマックイーンはとても負けず嫌いであることだった。

 誰かと競う方が速くなるのは、闘争心が強い一面があること。メジロマックイーンが意地でも麻真に勝とうとした理由は別にあるが、それでも差せないから諦めるということをせず根性で走り、勝ちたいという意思を感じられる走りができるのは麻真には好印象だった。

 最後に麻真が気がかりだったのは、メジロマックイーンの加速力が不十分ということである。本来ならラストスパートで加速しないといけないのだが、メジロマックイーンのラストスパートの加速は“ある程度”あるが麻真から見ればイマイチという印象だった。

 能力値が足りていないというのも勿論あるが、おそらくはメジロマックイーンの走り方が定まっていないのが理由だと麻真は予想していた。

 メジロマックイーンの走り方は、麻真の真似をしているだけなのだ。彼女はまだ自分自身の走り方をしていない。筋肉の使い方も、足の使い方も、他人のものである。自分の足に合った走り方をしなければ、速くなる足があっても速くならない。

 

 

「ということでまとめると、お前はまだ全体的に能力値が足りてない。だがスタミナとラストスパートで心が折れない根性だけはある方だ。だからお前の課題は、維持できる速度を底上げして、加速する為の脚力を付ける。まずはそこからしないと話にならない」

 

 

 故に、麻真はメジロマックイーンに基礎トレーニングをさせるという選択をした。

 

 

「ずっと、基礎トレーニングですか?」

「勿論、俺が良いと思うまで続けるからな」

「これでも私、鍛えてた方だと思ってましたのに……」

「メイクデビュー前の中等部のウマ娘ならこんなもんだ。むしろ良い方だから安心しろ」

「そんなぁ……」

 

 

 ハッキリと言い切る麻真に、メジロマックイーンは少し落ち込んだ。それもそのはず、今まで努力していたはずなのに“足りてない”と言われれば誰でも落ち込むだろう。

 

 

「だから落ち込むなっての。別に走らせないとまでは言わない。明日から基礎トレが終わって、お前に余裕があるなら走りを見てやる。一緒にお前の走り方を考えてやるから」

 

 

 落ち込むメジロマックイーンに、麻真が呆れながら彼女にそう伝える。

 麻真の話す内容の“ある言葉”に、メジロマックイーンの耳がピクリと動いていた。

 

 

「私の走り方……ですか?」

 

 

 その言葉は、メジロマックイーンが思わず訊き返す程に興味が惹かれることだった。

 麻真は現金な奴だなと苦笑いしながら、メジロマックイーンの質問に答えた。

 

 

「走り方は人それぞれだ。誰でも同じ走り方をすれば良い訳じゃない。それこそ俺の真似だけで強くなるって思うなら、誰だって強くなる」

「でも私は以前の麻真さんの走り方で速くなりましたわ。なら麻真さんの走り方をすれば誰でも速く走れるのではなくて?」

 

 

 メジロマックイーンからすれば、そうとしか思えなかった。現に麻真の走り方を使ってタイムを測った時、彼女のタイムは伸びたのだ。

 その理論からすればメジロマックイーンの考え方も最もに聞こえるだろう。

 しかし麻真は首を横に振って、それを否定していた。

 

 

「俺が走ってた先行の走り方は基本の型みたいなもんだ。あれだと限界がある。あの走り方からお前の走り方に変えていくんだよ。というか最初にお前の走り方を見た時、お前のタイムが伸びない理由もすぐ分かったぞ。あんな負担の掛かる走り方してたら遅いのも当たり前だ」

 

 

 初めて麻真がメジロマックイーンの走り方を見た時、確かに麻真は彼女のタイムが伸びない理由をすぐに見抜いていた。

 

 

「何もそこまで言うことないではありませんか! 私だって色々と考えてたんですのよ!」

 

 

 メジロマックイーンの怒りに、麻真は彼女の気持ちなど知らぬ顔で肩を竦めた。

 

 

「そりゃそうだ。どんな奴だって考えて“そこ”を試行錯誤する。と言うか、本来はそれを繰り返して長い時間を使って自分の走り方を見つけるもんだ。仮に見つけられなかったら、そこまで。見つけられたら先に進める……簡単な話だろ?」

「……怖い話をしないでもらえますか?」

 

 

 簡単に言えば、麻真は自分の走り方が見つけられなければ先はないと言っているのだ。メジロマックイーンはもし自分に合った走り方が見つけられなかった時のことを考えると、背筋が凍るような錯覚を覚えていた。

 

 

「その点だけ言うなら、この学校にいるウマ娘達は幸運だ。ある程度の優劣はあるがトレセン学園で働ける実力を持った優秀なトレーナーが居て、自分を育ててくれるんだからな。地方とかの学校と比べると雲泥の差だ」

「そんなに違いますの……?」

 

 

 自分達が幸運。そう麻真は言うが、メジロマックイーンは考えたこともなかった。

 メジロマックイーンの疑問に、麻真は少し思い出すように考え込みながら答えていた。

 

 

「そうだな……俺も昔の研修時代に地方へ行った時にしか見たことないが、時代遅れのスポ根なトレーナーとか担当の子達の自主性に任せた放任主義のトレーナーとかいるぞ。誰もが自分の考えが担当のウマ娘を育てる為の最適だと疑わない人は必ずいる。それが不正解であってもな」

 

 

 そう言って、麻真が「俺もその一人かもしれないが」とポツリと続けていた。

 

 

「ちょっとお待ちください? 話してること、矛盾してませんか?」

「ここが難しいんだよ……トレーナーって生き物は特に」

「……私にはよく分かりませんわ」

「自分の考えが正解かなんて分からん。だからトレーナーは担当のウマ娘と寄り添うんだよ」

「寄り添う……?」

 

 

 メジロマックイーンの呟きに、麻真は少し照れ臭そうに話を続けた。

 

 

「担当のウマ娘とトレーナーは、一蓮托生。互いに寄り添うもんだ。トレーナーがこうだと言っても、ウマ娘が違うと言えば当たり前に二人の話は噛み合わない。どっちが正解かを模索しない時点で、それはエゴになる。互いに正解を見つける努力をしないといけない。トレーナーは担当のウマ娘を導くのは当たり前だが、ウマ娘の気持ちを理解しないといけない。トレーナーが指導することで一番先に優先するのはウマ娘が“どう在ろうとするか”を叶えることだ」

 

 

 そして麻真は、メジロマックイーンに指を指していた。

 

 

「お前の在り方、お前が目指す夢を叶えるのが俺達トレーナーだ。だから俺はお前の夢を叶える為に力を貸す。天皇賞連覇っていう偉業を成し遂げるお前の夢の為にな」

 

 

 この話を一通り聞いて、メジロマックイーンも麻真の考えを大体は理解できつつあった。

 しかし麻真の話を聞いてメジロマックイーンが改めて感じたのは、この北野麻真という人間はとても変わっているということだった。

 メジロマックイーンも麻真に会う前は色々なチームやトレーナーを見てきたが、殆どのトレーナーが自分の考えを押し付けるタイプの人だと思っていた。

 それこそ麻真が話したようなトレーナーが居るとするなら、それは少数派だろう。

 変わった人間で、変わった考えを持ったトレーナーである。しかし、メジロマックイーンはそれを不快とは思わなかった。むしろ好感を持てる考えだった。

 

 

「お前が俺と走りたいのは分かる。だが、お前が走る為の準備が必要だ」

 

 

 そうして麻真は、拗ねていたメジロマックイーンへ大きく逸れていた話題を元の話へ戻していた。

 

 

「お前はまず基礎トレ、基礎を作るところからちゃんと始める。色々始めるのは基礎ができてからだ。まぁ一日の基礎トレが終わって、もし余裕があるなら、お前の走り方を見直して行く流れにしよう……分かったか?」

 

 

 ここまで言えば分かるだろう。麻真が腕を組んでどうだと言いたげに胸を張っている。

 メジロマックイーンも、麻真にここまで説明されて納得しない訳にもいかない。彼女は小さな溜息を吐いて、頷いていた。

 

 

「分かりました……不本意ですが、そこまで仰るなら麻真さんの言う通り基礎トレーニングしますわ」

「それで良い。なんだお前、意外と素直じゃないか」

 

 

 渋々承諾したメジロマックイーンに麻真は満足そうに頷きながら、彼は彼女の頭をポンっと撫でていた。

 

 

「なっ……!」

 

 

 流石にメジロマックイーンもこのタイミングで頭を撫でられるのは恥ずかしかったのだろう。頭を撫でる麻真の手から逃げるように彼女は一歩後ずさっていた。

 

 

「ちょ、ちょっと頭を撫でないでください! 私は子供ではないですわ!」

「お前は俺から見たらまだまだお子ちゃまだっての」

 

 

 逃げようとするメジロマックイーンを麻真が逃さずに近づいて頭を撫でる。

 

 

「私は汗を掻いてますの! あまり近くまで来ないでください!」

「なに気にしてるんだか、走ったんだから当たり前だろ?」

「そういうことではなくてっ!」

 

 

 またひとつ、メジロマックイーンは麻真のことを理解した。

 この男、乙女心というものを分かっていないと。

 子供扱いされていることもかなり癪に障るが、一番は汗を掻いている女の子に近づくことを全く気にせず平然とする麻真の姿勢が気に入らない。

 メジロマックイーンは逃げるように麻真から離れると、頬を少しだけ彼女は膨らませていた。

 

 

「貴方には女性に対するデリカシーがありませんのっ⁉︎」

「はいはい、悪かったですよ」

「その態度は、全く反省していませんわ! 本当に悪いと思ってますのっ⁉︎」

「分かったから、悪かったよ。それにしても……そこまで怒るか?」

「今まで同じことしたなら、その方に怒られたことありますでしょう⁉︎」

 

 

 メジロマックイーンにそう言われて、麻真がふと考える。

 そして何かを思い出したのか、麻真は「あぁ……」と頷いていた。

 

 

「あったわ。そう言えばアイツ、絶対怒ってたわ」

「誰のことです?」

 

 

 メジロマックイーンの質問に麻真が答えようとしたところで――とあるウマ娘が二人の元に来ていた。

 

 

「……それは私のことか? 麻真さん?」

 

 

 そう声を掛けられて、メジロマックイーンが声の方を向くと――彼女は思わず目を大きくした。

 スラリとした身体に、高い身長。そして長い髪に、前髪に月のような形をした白い髪を持つウマ娘だった。凛とした毅然とした立ち姿。それはトレセン学園では知らない人がいないウマ娘だった。

 

 

「生徒会長……どうされたのですか?」

「メジロマックイーン。私は、約束を果たしに来たんだ。君のトレーナー、北野麻真とな」

 

 

 トレセン学園、生徒会会長。そして最強のウマ娘と言われ、“皇帝”または“無敗の三冠王”と呼ばれているあの“シンボリルドルフ”が二人の前に立っていた。

 




読了、お疲れ様です。

メジロマックイーンの育成方針が決まり、
約束のウマ娘、登場です。そんな話でした。

お気に入り数が多いと緊張しますね。
書きたいままに書いてますので、皆様が満足しているか不安になりますが頑張ります。


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3.本当に楽しみだ

 

 

 

 二人の前に現れたシンボリルドルフはメジロマックイーンに麻真との約束を果たしに来たと伝えると、彼女は麻真の方を向いていた。

 麻真に向かい合うシンボリルドルフは、彼に真剣な眼差しを送る。そんな彼女を見ていたメジロマックイーンは、不思議と彼女の口元が笑っているように見えた。

 

 

「麻真さん。約束通り来させてもらった」

 

 

 シンボリルドルフの言う約束とはなんだろうか、メジロマックイーンはそう思っていた。

 麻真から聞いた彼が約束をした件は、自分と練習が終わった後に東条ハナのチームから一緒に走る約束したウマ娘がいるとメジロマックイーンは聞いただけだ。

 そして今、麻真とメジロマックイーンの目の前にシンボリルドルフがいる。彼女は東条ハナのチームに所属しているウマ娘だ。

 

 

「は……?」

 

 

 そこであまりの出来事に理解が遅れていたメジロマックイーンが“そのこと”に気づくと、驚いて麻真に声を掛けていた。

 

 

「まさか麻真さんが走る約束をしたのって……生徒会長のシンボリルドルフさんっ⁉︎」

 

 

 メジロマックイーンも、流石にこれには予想を超え過ぎていた為に驚いた。まさかトレセン学園で最強と謳われるウマ娘が麻真と走りたい為にこの場に来るなど思ってもいなかった。

 

 

「驚いたか?」

 

 

 しかしあっけらかんと答えた麻真に、メジロマックイーンは自分でも分かるほど苛ついていた。

 流石にトレセン学園で最強と謳われるシンボリルドルフが来ることをあえて自分に言わなかった麻真に、メジロマックイーンは眉を吊り上げた。

 

 

「麻真さん! 生徒会長と走るなら先に言ってください! 私だって心の準備というものがありますわ!」

 

 

 メジロマックイーンは、シンボリルドルフと交流があるわけではない。トレセン学園に入学して間もない彼女にとって、シンボリルドルフとは雲の上の存在とも言える。生徒会室に立ち寄ることもない彼女は、学校生活の中でシンボリルドルフと会うことなどまずない。それこそ練習場で見かける程度である。

 そんなトレセン学園で羨望の目を向けられているシンボリルドルフが用件は麻真にあると言えど、自分の前に来るとなれば流石にメジロマックイーンからすれば事前に伝えてほしいと思うのは当然のことだった。

 

 

「だからお楽しみと言っただろ?」

「なッ――‼︎」

 

 

 しかし麻真はそんなメジロマックイーンの胸の内など気付かず、平然と答えていた。

 その瞬間――メジロマックイーンの感情が爆発した。今までの自由気ままでいる麻真への不満。それが限界を迎えていた。

 

 

「麻真さんっ‼︎ 良いですかッ⁉︎ 貴方は私のトレーナーです! 私にはこういう大事なことは先に言ってください! 初めて会った時から気づいていましたが貴方は少々勝手が過ぎます!」

 

 

 そしてメジロマックイーンは、麻真に感情のまま言葉をぶつけていた。今思えば、麻真には振り回され続けていたと。

 初めてメジロマックイーンが麻真と会った時も面倒だからと勝手に無視され、そして気まぐれに自分に上手い走り方を見せ、そしてトレセン学園に来て自分のトレーナーになったと言われ、そして今回のシンボリルドルフと走るという大事なことをわざと隠していたこと。

 最後の件をキッカケに、メジロマックイーンは遂に堪忍袋の尾が切れていた。

 

 

「もう我慢できませんわ‼︎ 貴方の“そういうところ”はきっとトラブルを招きやすいですわよ⁉︎ 貴方がトラブルに巻き込まれるということは担当ウマ娘である私も同じく巻き込まれますわ‼︎」

「おいおい、怒り過ぎだろ?」

「貴方が怒られることをするのがいけないのですわ!」

 

 

 流石の麻真も、予想以上にメジロマックイーンが怒り出したことに意表を突かれた。

 そして不味かったかと後悔しても、時すでに遅し。麻真の予想外で、メジロマックイーンの怒りは頂点にまで登っていた。

 

 

「わかった! わかった! 俺が悪かった! 次からは気をつけるって!」

「いいえ! 貴方は分かっていませんわ! 初めてお会いした時からわかっていましたが貴方という人は礼儀というモノがなっていません!」

 

 

 メジロマックイーンのあまりの剣幕に、麻真が反応に困る。

 その後しばらくメジロマックイーンが麻真に説教をして、彼がひたすらに謝る絵面が生まれていた。

 

 しかしその時、メジロマックイーンは気付かなかった。

 

 メジロマックイーンに怒られる麻真を微笑ましく見ていたシンボリルドルフだったが、一瞬だけその表情を変えていたことに。

 メジロマックイーンがハッキリと“麻真は自分のトレーナー”だと公言した時――シンボリルドルフの目が本人ですら気付かない無意識の中で、僅かに鋭くなっていたのを。

 

 

「メジロマックイーン、そこまでにしてやってくれ。流石の麻真さんも反省しているだろう」

 

 

 そして少し経って、シンボリルドルフはメジロマックイーンに声を掛けていた。

 周りを忘れて怒っていたのだろう。シンボリルドルフに声を掛けられた瞬間、メジロマックイーンはハッと気づくとすぐに赤面していた。

 

 

「申し訳ありません……私としたことが生徒会長の前でふしだらな姿をお見せしてしまうなんて……」

「いや、気にするな。麻真さんは昔からそういうところはあった。しばらくすればお前も慣れるだろう」

 

 

 恥ずかしがるメジロマックイーンに、シンボリルドルフが笑みを浮かべる。

 実のところ、麻真のフォローを全くしてないシンボリルドルフだった。

 麻真はそれに気付いて文句を言おうと思ったが、メジロマックイーンに怒られた手前それを言うわけにもいかず、またシンボリルドルフも怒らせると面倒なウマ娘と知っていたので――彼は咄嗟に話を逸らすことにした。

 

 

「それでルドルフ。確かにお前と約束はしたが、予定より少し来るのが早くないか?」

 

 

 あからさまな麻真の話の逸らし方に、メジロマックイーンも気付く。しかしこれ以上は麻真を怒っても仕方ないと思いつつ、シンボリルドルフの前であることを再認識していたのでメジロマックイーンがこれ以上は彼女に失礼な姿を見せるわけにはいかないと判断して、それを指摘するのを控えることにした。

 シンボリルドルフも同じくそのことに気付いていた。しかし彼女もメジロマックイーンと同じようにあえて指摘はせずに、麻真の質問に答えていた。

 

 

「あぁ、こちらの練習が終わったからな。そろそろどうかと思って来させてもらった」

 

 

 シンボリルドルフにそう言われて麻真がチラリと東条ハナがいる方へ向くと、彼の視線の先にいたハナと目が合った。

 麻真と目が合ったハナは、彼の視線に気付くと呆れたように肩を竦めていた。

 

 

「お前……まさか練習適当にやってサボってないよな?」

「心外だな。私はそのようなことはしない。しっかりと今日のメニューは終わらせてきた」

 

 

 即答で答えるシンボリルドルフに、麻真は渋々納得した。こと練習において、シンボリルドルフがサボるということをしないことは麻真も理解していたからだ。

 麻真は軽く溜息を吐いて肩を落とすと「まぁ良いか」と呟いていた。

 

 

「マックイーンにはもう二本も二千四百を全力で走らせたからな。お前との約束もあったから、今日はこれで終わるつもりだったし……なら切り上げるか」

 

 

 そう言って麻真がメジロマックイーンの方を向くと、彼は彼女の体調を気に掛けていた。

 

 

「マックイーン。具合は悪くないか?」

「えぇ……問題ありませんわ」

「全力でコースを走れる体力は残ってるか?」

「あと一本くらいなら走れると思いますわ」

 

 

 麻真に体調を訊かれるが、メジロマックイーンは特に体調に問題はないと判断して頷いていた。

 メジロマックイーンの返事を聞いて、麻真は少し考える素振りを見せる。そしてすぐに麻真はメジロマックイーンに指示を出した。

 

 

「なら少し待っててくれ。お前もあと一本走るかもしれないからな」

 

 

 そう言って、麻真はシンボリルドルフの方を向くとそれ以上のことをメジロマックイーンに伝えることはなかった。

 また意味深なことだけしか話さない麻真に、メジロマックイーンがむっと顔を顰める。彼の話した意味を訊こうと彼女が口を開こうとした瞬間――

 

 

「さぁ、始めよう。麻真さん」

 

 

 シンボリルドルフが先に麻真にそう言っていた。彼女が先に話出したことでメジロマックイーンが麻真に先程のことを訊くタイミングを逃してしまう。

 メジロマックイーンもシンボリルドルフの邪魔をするのも憚られた為、渋々彼女は麻真に先程の件について訊くのを後回しにすることにした。

 

 

「この時をずっと待っていた。これほど待ち望んだ瞬間はない……あれから成長した私を見てほしい」

「お前……やる気出し過ぎじゃないか?」

 

 

 高揚感が高まっている様子のシンボリルドルフに、麻真が苦笑いする。

 しかしシンボリルドルフは、そんな麻真に嬉しそうに微笑んでいた。

 

 

「二年、これがどれほど長かったか貴方には分からないだろう。待ち望んでいたんだ……貴方と、走れるこの瞬間を」

 

 

 胸の前で拳を作るシンボリルドルフが、麻真を見据えていた。嬉しくて仕方ないと言いたげに、彼女の尻尾がゆらゆらと揺れている。

 そんなシンボリルドルフの歓喜の気持ちを、彼女の様子を見ていた麻真はなんとなくだが理解していた。彼女は自分と走れることが嬉しくて仕方ないという気持ちを。麻真はそんな彼女に肩を竦めて苦笑していた。

 

 

「あの三冠を取ったウマ娘が俺なんかと走りたがってるなら、光栄な限りだ」

 

 

 麻真が戯けてシンボリルドルフに答える。

 麻真の答えを聞くなり、何か気づいたシンボリルドルフが少し額に皺を寄せていた。

 

 

「麻真さん。私からひとつお願いがある」

 

 

 朗らかだったシンボリルドルフが、声色を変えていた。それは少し怒気のある覇気のある声だった。

 

 

「……急に改まってなんだ?」

 

 

 様子が変わったシンボリルドルフに、麻真は怪訝な顔で訊き返す。

 そしてシンボリルドルフが次に口にした言葉に、麻真の眉が少し動いた。

 

 

 

「――全力で走ってくれ」

 

 

 

 そう言って、シンボリルドルフは真剣な目を麻真に向けていた。

 

 

「俺はいつでも全力だぞ?」

「いや、遠慮はこの場では不要だ。私は、全力の貴方と走りたいんだ」

 

 

 麻真の答えに、シンボリルドルフが首を横に振るう。そして彼女は自分の右拳を麻真に向けていた。

 

 

「私は貴方に全力で勝ちに行く。だから本気の貴方に全力で挑ませてもらいたいんだ」

「俺はお前が思うほどの奴じゃないのは知ってるだろ?」

 

 

 シンボリルドルフに麻真が分かりやすく肩を落として見せる。

 しかしシンボリルドルフはそんな麻真を見ても動じず、ただじっと彼を見つめていた。

 

 

「二年も私を待たせたんだ。その分の対価は払ってもらいたいものだな。私の二年は、安くはないのだからな」

 

 

 その言葉の重みを、麻真は理解できなかった。

 背負っていたモノを全て無くして休職した麻真がいなくなったトレセン学園のことを、彼は知る由もない。

 当時の担当も、全て外れた。もう自分には何もないと信じて休職したのだから。

 だがシンボリルドルフの言葉の重みを理解できなくても、察することは麻真にもできていた。

 麻真が面倒そうに頭を雑に掻く。そして彼が顔を顰めるが、渋々ながらもシンボリルドルフの言葉に答えていた。

 

 

「……分かった」

 

 

 その了承を、シンボリルドルフは聞き逃さなかった。

 シンボリルドルフが麻真の返事を聞いて安堵したような表情を一瞬だけ見せた。

 

 

「応じてくれて感謝する。あぁ……本当に楽しみだ」

 

 

 しかしすぐにその表情は無くなり、今度は朗らかに麻真へ笑みをシンボリルドルフは見せていた。




読了、お疲れ様です。

少し更新ペース落ち気味で申し訳ありません。
あと1〜2話シンボリルドルフが出番です。
何度も言いますが、主役はメジロマックイーンです。
EP2は、ストーリーに必要な麻真の話を出していますのでご容赦を。


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4.見てるだけなんだよ

 

 

 シンボリルドルフと麻真。二人のレースが始まろうとする間際に、東条ハナが柔軟をしていた麻真の所へと近づいていた。

 ハナが近くに来たことに、麻真が気付く。麻真がハナの方を向き二人が顔を合わせると、彼女は手に持っていた鞄を彼に投げ渡していた。

 

 

「こうなると思った。これを使いなさい」

「おっと……って東条さん、これ……?」

 

 

 投げ渡された鞄を受け取って麻真が中身を確認すると――彼は少し意外そうな顔をしていた。

 鞄の中身は、一足の赤い靴だった。麻真が鞄から取り出すと、靴の裏には蹄鉄が付いていた。

 

 

「お前の蹄鉄と靴だ。トレーナーの控え室にずっと置いたままだったぞ。メンテナンスはもうしてあるから確認しろ」

 

 

 それは麻真が過去にトレセン学園で使っていた蹄鉄シューズだった。

 赤い靴の裏を麻真が確認すると、しっかりと蹄鉄が付けられていた。彼が蹄鉄を触って確認するが、緩みなどなくしっかりと固定されているのが分かった。

 

 

「わざわざ持って来てくれたのかよ?」

「お前がルドルフと走ると聞いてたからな。こんなことになると思っていた。お前が普通のランニングシューズで走ったと後でルドルフに知られたら、アイツは絶対に怒るぞ?」

 

 

 麻真が今履いているのは、市販で売られているランニングシューズだった。

 本来、蹄鉄シューズは衝撃の吸収や足のバランスを整える為にウマ娘が履く靴である。

 一般の人間が使う市販のランニングシューズと違い、靴自体の強度も上げられた特別仕様の靴である。

 一般の人間も蹄鉄シューズを履くことはできるが、脚力が足りず蹄鉄が走る邪魔になることがあり、蹄鉄自体も多少は重いので人間が早く走るには不向きである。故に、蹄鉄シューズは脚力のあるウマ娘しか使わないのが一般的だった。

 しかし麻真はウマ娘と同じ身体をしている故に、蹄鉄シューズで走った方が足の負担が減り、ランニングシューズより早く走ることが可能だった。

 

 

「……すまん」

 

 

 ハナに気を使わせたことに、麻真が申し訳なさそうに答える。

 しかしハナは肩を竦めると、彼女はシンボリルドルフの方を一瞥しながら麻真に呆れた目を向けていた。

 

 

「私のことは気にするな。それよりもルドルフを満足させてやれ」

「はいよ。了解」

「一応、言っておくが……無理はするなよ」

 

 

 ハナの言いたいことは、麻真も分かっていた。

 麻真の身体の構造上、彼は全力で走ることができないことをハナは知っていた。

 麻真の身体では、彼が持つウマ娘の脚力に耐え切れない。故に全身全霊の力で加速しようとすると、脚力に耐え切れず骨が折れてしまう可能性があったからだ。

 そのため今から全力で走ってくれとシンボリルドルフに言われた麻真が必要以上に無理をしないかと、ハナは心配していた。

 だが麻真はハナの心配に「無理はしない」と淡白に答えていた。

 そんな麻真に、ハナは呆れた様子で小さな溜息を吐いていた。

 

 

「お前、そのことを言うつもりはないのか?」

「今更言ったところで仕方ないだろ?」

「だからと言って、それは言わない理由にはならないだろう?」

「別に足を壊すつもりはない。ルドルフが満足できる走りをするだけだ……それで勝とうと負けようともな」

 

 

 ハナの質問に戯ける麻真が、履いていたランニングシューズから彼女から受け取った蹄鉄シューズに履き替える。

 履いた靴に違和感がないかその場でつま先をトントンと地面に当てると、麻真は問題なさそうに頷いていた。

 

 

「流石に二年前の靴でもサイズは変わらないか、問題なさそうだ」

「おい、北野――」

 

 

 自分の忠告を無視する麻真に、ハナが眉を寄せる。

 しかし麻真は、ハナの呼び掛けより先に口を開いていた。

 麻真の視線の先には、軽いストレッチをしているシンボリルドルフの姿があった。

 

 

「昨日のタイキシャトルもそうだったが……アイツ等は、多分まだ見てるだけなんだよ。あの頃、俺の背中を見て走っていた時の俺の背中を。もう十分速くなってるのに、なんでまだ俺の背中なんて見てるんだかな」

 

 

 そう言って、麻真はハナの反応も見ずに歩き出していた。

 レース前のアップをする為、麻真はそのまま軽く走り出していた。

 

 

 

 

 

 

「すまんな。うちのルドルフが迷惑をかけて」

 

 

 麻真がレース前の準備で軽く走っている姿を見ていたメジロマックイーンに、ハナがそう話し掛けていた。

 ハナから声を掛けられたことにメジロマックイーンが驚くが、彼女はハナに向き合うと首を横に振って答えた。

 

 

「いえ、私は大丈夫ですわ。それよりも先程、麻真さんと何か話していたようですが……何かありましたか?」

 

 

 麻真とハナが話しているのを見ていたメジロマックイーンが、ハナへ徐に質問していた。

 

 

「何も特別なことはない。アイツとは久々に会ったから、つい世間話をしていただけだ」

 

 

 メジロマックイーンの質問に、ハナは咄嗟に嘘をついていた。

 麻真の足のことをメジロマックイーンが知らないと読んでの判断だった。ハナの予想通り、メジロマックイーンは麻真の足についてのことを知らない。

 麻真が何故か自分の足のことを生徒達に教えないことを知っていたハナは、メジロマックイーンも同様に知らないと予想していた。

 

 

「なるほど、そういうことでしたのね。二年も休職していたと聞きましたから、話すことも多いはずですわ。私ったら、また麻真さんが何かトラブルを起こしたのかと心配しましたわ」

 

 

 メジロマックイーンが心配そうにしていたことに、ハナが思わず笑ってしまう。

 急に笑い出したハナに、メジロマックイーンは小首を傾げていた。

 

 

「どうされましたか? 急に笑われて?」

「ふふっ……いや、アイツも変わらないなと思ってな」

 

 

 ハナの言葉に、メジロマックイーンの目が据わる。

 

 

「やはり麻真さんは昔からトラブルをよく起こしていたのですね……」

「まぁ、アイツは色々とトラブルが多かったからな。特に走ることに関してが多かった」

 

 

 ハナの発言に、メジロマックイーンの耳が動く。気になる内容だった。

 

 

「走ること、ですか?」

「あぁ、お前も知ってると思うが北野は走ることを教えるのが不本意だが上手い。それこそ昔は色んな奴がアイツに教えて欲しいと群がっていたくらいだ」

 

 

 そう聞いて、メジロマックイーンは納得していた。高等部で噂になるほどの話題性があった理由は、やはり麻真の走りに関してのことだったのだと。

 そこで、ふとメジロマックイーンは“あること”を思い出した。丁度良いタイミングだと思い、彼女はハナに訊いていた。

 

 

「そう言えば……先程麻真さんからは聞けなかったので、良ければ教えて頂けませんでしょうか?」

「なんだ?」

「麻真さんが“最後に担当していた”ウマ娘が誰かご存知です?」

 

 

 それを聞いた瞬間、ハナの表情が僅かに固まった。

 ハナの反応にメジロマックイーンが疑問に思っていると、彼女は少し間を開けてから答えていた。

 

 

「いや、アイツは色んな生徒に教えてからな。担当と言えるウマ娘は休職する頃はいなかったはずだ」

「そうですか……」

 

 

 望んだ答えが返ってこなかったことに、メジロマックイーンが肩を落とす。

 そんなメジロマックイーンに、ハナは少し困った顔をしたが気を取り直して彼女に語り掛けていた。

 

 

「別に最後の担当が誰かなんて気にする必要はない。今の北野の担当はお前なんだ。さっきも言ったがアイツは不本意だが教えるのは上手い、良いトレーナーを捕まえたんだ。あとはお前の努力次第でアイツはちゃんと応えてくれる」

 

 

 ハナの言葉に、メジロマックイーンが渋々頷いていた。

 まだ麻真のトレーナーとしての能力を見たわけではないが、彼が走ることに誰よりも詳しいことはメジロマックイーンも理解していた。

 あれだけ綺麗な走りができる。それはきっと麻真が走ることに全てを注いできたのだとメジロマックイーンも分かっていた。

 

 

「分かりましたわ。失礼なことを訊いてしまい、申し訳ありません」

「問題ない。それに今はアイツのことを見てやってくれ」

 

 

 そしてメジロマックイーンを言いくるめたハナが、軽いランニングを終えた麻真を見る。メジロマックイーンも彼女に釣られて麻真を見ていた。

 

 

「麻真さん。生徒会長と走っても大丈夫なんですか?」

「それはアイツがルドルフに勝てるか、という意味か?」

「流石にそれは無理なのでは……?」

 

 

 シンボリルドルフと麻真の勝負。メジロマックイーンはシンボリルドルフが勝つと予想していた。

 無敗で三冠王を取ったウマ娘。レースに絶対はないが、彼女には“絶対”があると言わしめたシンボリルドルフと戦っても、勝てる訳がない。

 それはハナにも分かっていた。そして麻真の足のこともある。だが、彼女は目の前の麻真の担当ウマ娘であるメジロマックイーンには“彼は尊敬できる人”という印象を壊して欲しくないと思っていた。

 故に、ハナはメジロマックイーンの質問に素直に答えていた。

 

 

「本当に不本意だが、アイツはそこそこ速い。こと自分に関しては自己評価が馬鹿みたいに低いのが更に癪に触るがな」

 

 

 その言葉の意味を、メジロマックイーンは知る由もなかった。

 

 

 

 

 とんっ、と麻真がその場で跳ねる。ランニングを終えて、温めた身体の調子を確かめる。

 何度か蹄鉄の付いた靴を履いたままその場で跳んでから、麻真がその場で深呼吸する。そうして彼は自身のコンディションを確認した。

 身体の調子は好調程度。スタミナはやや消費しているが、足の疲労は大してないと判断。

 シンボリルドルフに全力を出せと言われたが、麻真は全力を一部分でしか使えない。足に負荷の掛かりすぎる走り方は、ウマ娘ではない彼の足では足を痛めてしまう。それこそ差しや追い込みなどの加速で強い瞬発力を使う脚質は使えない。

 つまり麻真が選べる脚質は逃げ、または先行の二択になっていた。しかし二択の内の先行ですら差しや追込までと言わないが加速で足に負荷を掛ける。

 

 

「……なら逃げるか」

 

 

 屈伸して足を伸ばして、麻真は走る脚質を決めていた。

 相手を差す脚質は、自分の足に向かない。なら先頭で走り切る。余計な力を使わず、タイムトライアルのような感覚で走ろうと。

 

 

「……懐かしいな」

 

 

 身体の調子を確認している麻真を見て、シンボリルドルフの胸の中には懐かしさが溢れていた。

 その場で跳んでいた麻真の足を見て、変わっていないとシンボリルドルフは思う。

 異様なまでに柔軟性のある柔らかい膝。バネのある足。そして何度もまた麻真の背中が懐かしくて仕方ないと。

 

 

「良し……後は走ってからの足の調子次第だな」

 

 

 そんなシンボリルドルフの気持ちなど知らず、麻真が走る準備を整えると彼女の元へと向かっていた。

 麻真の歩く先には、シンボリルドルフが立っている。

 シンボリルドルフが麻真の方を向くと、彼に気付いた彼女は無意識に尻尾を振っていた。

 尻尾を振っているシンボリルドルフを見て、麻真が小さく笑う。そして麻真は、シンボリルドルフに向けて告げた。

 

 

「ルドルフ、じゃあ早速やるか?」

「私こそ、よろしく頼む!」

 

 

 そうして二人が、コース上で揃って並び立つ。

 二人が同時に位置につき、スタートの用意を待つ。

 そして麻真がすぐに走りだそうとした瞬間――

 

 

「ここは私にスタートを切らせてくれ」

 

 

 位置についていた二人の隣に、いつの間にか一人のウマ娘が立っていた。

 

 

「エアグルーヴ? なんだ? お前がスタートをしてくれるのか?」

 

 

 肩のラインで揃えられた綺麗な髪の綺麗な容姿のウマ娘“エアグルーヴ”が二人の横に立っていた。

 

 

「貴方とルドルフのレースだ。是非、私にスタートを切らせて欲しい」

「物好きだな、お前も」

「貴方の走りを見られるなら本望だ。あと今度は私と走ってくれ、麻真さん」

「機会があればな」

 

 

 エアグルーヴに麻真が軽口を返す。そんな二人にシンボリルドルフが少し不満そうにしていた。

 

 

「おい、エアグルーヴ。今は私の麻真さんだ。邪魔しないでくれ」

「……分かりましたよ、会長」

 

 

 シンボリルドルフに窘められてエアグルーヴは苦笑する。そしてエアグルーヴが気に取り直すと、彼女は右手を大きく上へ上げていた。

 

 

「失礼して――二人とも、準備は?」

「「大丈夫だ」」

 

 

 エアグルーヴの質問に、二人が声を揃える。

 そして麻真とシンボリルドルフが同時に深呼吸すると、二人はすぐに集中していた。

 切り替えるのが早い二人が、穏やかな呼吸と共に集中力を高める。既にもう二人には、周りの雑音は聞こえていなかった。待つのは、二人の横に立つエアグルーヴのスタートの合図のみ。

 

 

 

「では、位置について――」

 

 

 

 気がつけば練習場には、既に練習をしているウマ娘はいなかった。

 シンボリルドルフと北野麻真が走るという噂を聞いたのだろう。いつの間にか、練習場には見物に来ているウマ娘達が多く集まっていた。

 そんなことにも二人は、気付かない。ただ、スタートの合図を待つだけだった。

 そして――

 

 

「用意――始めっ!」

 

 

 エアグルーヴの声と共に、二人の勝負が始まった。




読了、お疲れ様です。

次回は、二人のレース回です!
難産になりそうな気しかしませんが、頑張ってみます!

先程確認しましたが、お気に入り数が2000を超えそうです。
震えてます。本当にありがとうございます。
評価して頂いた方々と一言評価や、感想を頂いた方々には感謝しかできません。執筆頑張る理由になっていますので!
これからもよろしくお願いします!


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5.ひとつしかない

 麻真とシンボリルドルフの二人が駆け出す。

 二人が走るコースは芝、距離は二千四百メートル。バ場は良、天候も晴れとコース状態は最適だった。

 今回、二人が走るこのコースはスタートからすぐコーナーに入る。一周をするコースである以上、必然的に最後は長い直線になるスタートの配置となっていた。

 エアグルーヴのスタートで、二人は走り出していた。スタートでどちらも出遅れることもなく、二人が同時にスタートしている。

 同時に二人が駆け出して、まず先に動いたのは麻真だった。二人しかいない競争になるが、彼はシンボリルドルフより先に前に出て先頭を走る逃げの位置についた。

 前に出た麻真を見てシンボリルドルフがすぐに彼が“逃げ”の作戦を選んだのを察知すると、彼女は逃げる彼に対してすぐに自分の位置を合わせていた。

 麻真よりやや後ろ、彼の二バ身後ろにシンボリルドルフが位置につく。本来、差しウマ娘である彼女には珍しい先行の位置だった。

 そして第一コーナーから第二コーナーに入る最中、シンボリルドルフが気づいた。二千四百メートルという長距離では、基本前半は緩やかに走る。後半に差し掛かるにつれてペースを上げ、ラストスパートへ入るのが大まかな流れになる。

 しかし麻真の走るペースが予想よりも速いことに、シンボリルドルフは彼の意図を即座に理解していた。

 

 

(麻真さん! 簡単に“それ”をさせるほど――私は弱くないぞ!)

 

 

 シンボリルドルフが麻真の背中を見据える。決して彼に先頭を独占させるつもりはないと。

 麻真はこのレース、シンボリルドルフのことなど置き去りにして最後まで先頭を走り切るつもりであると、彼女は理解させられた。

 麻真の走るフォームを見る限り、彼はまだ全速で走ってはいないとシンボリルドルフが推察する。麻真はまだ前傾姿勢になっていない。ということは、まだ彼は速くなることをシンボリルドルフは理解していた。

 しかし簡単に置いていかれるつもりはない。いくらハイペースと言えど、シンボリルドルフは意地でも彼の背中を走る意地があった。

 

 ずっと長い間――この背中を見たかったのだ。

 

 過去何度も見てきた景色。麻真が前を走り自分が彼の背中を追い掛けるこの景色が、シンボリルドルフには懐かしくて堪らなかった。

 麻真の走るフォーム。それは彼の人生を表しているとシンボリルドルフは思っていた。洗練された無駄のない美しいフォーム、それは人生の全てを注いだ結晶とでも言える姿だろう。

 その姿を、こんなにも間近で見ることができる日々が過去にあった。それはシンボリルドルフにとって、自分の誇りとも言えることだったのだから。

 こうして彼の背中をずっと追っていたい。そう思うシンボリルドルフだったが、彼女は望んだのだ。麻真に全力で走って欲しいと。

 全力の麻真と走るならば、自分も失礼な走りはするつもりは毛頭ない。故に、シンボリルドルフはそれが当然と言わんばかりに麻真の後ろから離れるつもりはなかった。

 

 

(貴方を逃すつもりはない。最後で貴方を“差す”ッ!)

 

 

 麻真に闘志を剥き出しにして、シンボリルドルフは一向に“走る速度を変えない”彼の後ろにしがみつくように走っていた。

 

 

 

 

「……速過ぎる。アイツ、かなり飛ばしてるな」

 

 

 二人のレースを見ていたハナが、手に持っていたストップウォッチを見て顔を顰めた。各ハロン毎のタイムが速過ぎる。ハナの隣にいたメジロマックイーンもハナの手に持つストップウォッチを確認して、目を大きくしていた。

 

 

「確かにお二人とも、かなりペースが速いですね」

 

 

 そんな二人をコースの端から見ていたグラスワンダーが呟いた。タイムを見ていない彼女から見ても、走る二人は明らかにオーバーペースだと判断できた。

 前を走る麻真の走りは、逃げの範疇を超えている。位置など関係ないと言わんばかりにハイペースで前に行く姿勢は“逃げ”より更に一段階上の“大逃げ”、博打と言えるような作戦である。これが成功することなど、本来は有り得ない。

 ペース配分を間違えた走りは、後半で大きく失速する。つまりは後半で抜かされてしまうことになるのだ。

 

 

「会長さん、あの方に無理についていかなくてもよろしいのでは? 無理に合わせずにあの方がスタミナが切れるのを待つだけで良いと思いますが?」

「いや、会長の選択は合ってる」 

 

 

 グラスワンダーの考えにエアグルーヴが否定していた。

 

 

「麻真さんがいた頃に学園に居なかったグラスワンダーは知らないだろう。会長と走ってるあの麻真さんのスタミナは底無しだ」

「……底無しと言いますと?」

「昔の話になるが私や会長……というよりこの学園で麻真さんにスタミナで勝てるウマ娘はいなかった」

「……はい?」

 

 

 エアグルーヴの言葉に、グラスワンダーが反応に困っていた。

 そんなグラスワンダーを横目に、メジロマックイーンはそれが普通の反応だと納得していた。

 確かに聞くだけなら、信じられないことだとメジロマックイーンも思うだろう。しかし彼女も麻真と体力勝負をした経験がある。ランニングで倒れるまで走っても麻真は平気そうにしていたし、自分が吐くほど全力で走っても麻真が平然としていたことを彼女は思い出していた。

 

 

「だから麻真さんが逃げてるなら、おそらくあの人はあのまま速度を一切落とさずに走り切れるに違いない。もし判断を間違えて置いていかれれば、そのまま負けることになるのを会長も分かっているんだろう」

 

 

 エアグルーヴはそう予想していた。麻真のスタミナの限界を彼女は今まで計り切ることができなかった。故に、このレースにおいて麻真がスタミナ不足になるという考えはなかった。

 

 

「あの人、そんなにお強いんですか?」

「麻真さんがレースに強いかは私にも分からない。私達はあの人が本気で走ってるところを見たことがないからな。でも、あの人は走る姿がとても上手くて綺麗なんだ……そうでなければ、当時の私達はあの人に教えを乞わなかった」

 

 

 グラスワンダーの質問に、エアグルーヴが肩を竦めて答えていた。

 それを聞いても、グラスワンダーには理解しかねる話だった。あの“絶対”と言われるシンボリルドルフが負ける可能性があるなど予想もできない。

 シンボリルドルフの相手はウマ娘ではない、人間である。それがウマ娘と同様の速さで走れることだけで理解の範疇を超えているのだ。

 

 

「確かにとても綺麗ですけど……」

 

 

 そしてグラスワンダーが麻真の走りを見る。確かに異様なまでに綺麗に走る麻真の姿には、ウマ娘である自分も素直に感動すら覚える。しかし不思議と“妙な違和感”を彼女は覚えていた。

 だが“それ”をこの場で口にすることをグラスワンダーはしなかった。おそらくこの学園で“その言葉”を決して口にしてはいけないと、彼女は確信に近い何かを感じていた。それを言ってしまえば、間違いなく自分は逆鱗に触れてしまうような気がしていた。

 

 

 

 

(……しっかり後ろにいるな)

 

 

 麻真が後ろを一瞥して、自分の二バ身後方にシンボリルドルフがいることを確認する。

 間違いなく考えがシンボリルドルフに“読まれた”。麻真はそう確信していた。

 しかしシンボリルドルフが希望した全力で走ってほしいという要望に応えるには、麻真はこの手段しかなかった。

 他のウマ娘ならば、話は変わる。だが相手がトレセン学園で最強と謳われるシンボリルドルフならば話が違う。彼女と対等に戦う方法を麻真はこれしか持っていないのだ。

 麻真の脚力では体の都合上、加速に限界がある。ならば自分が出せる高速度を維持したまま走り続けることが、彼の選んだ最善だった。

 二千四百メートルの長距離において、自分が走っているペースが明らかなオーバーペースなのは麻真も十分に理解している。

 しかし麻真は、自身の脆い足の使い方を把握していた。自分の足は瞬発力向けの足ではなく、一定の速度を維持することに向いていると。

 レース後半のラストスパートで強い瞬発力で加速をすると、足が壊れる。しかし序盤から後半まで一定の速度を維持して走ることならば足への負担は少なくなる。

 今出している速度は、麻真が出せる最大速度の七割程度。しかし足が耐えられない為に十割の速度を出すことができない故に、彼が足への負担を無視しても出せるのは八割か九割が限界である。

 そのため麻真がこのレースでシンボリルドルフが満足する勝負をするには七割の速度を維持して走り続け、最後に僅かな加速をして走り抜くしかなかった。

 

 

(もう少しは離れてくれると思ってたが、アイツもそこまでバカじゃないか)

 

 

 麻真の作戦は逃げだが、超えたハイペースになればそれは“大逃げ”になる。

 本来、レースにおいて大逃げに合わせることはない。合わせたところで、自滅するからだ。超えたハイペースにスタミナを消費して最後まで走ることができなくなるのは目に見えた結果である。

 しかし麻真はコースをハイペースで走り切れる自信があった。子供の頃から成人になって、今日までひたすらに走り続けた結晶と言えるスタミナがある。それこそ、スタミナでシンボリルドルフに負けるなど彼は微塵も思っていない。

 最初にリードしてシンボリルドルフが差そうとしても差せない状況にするつもりだったが、彼女が即座にそれを読んだのは麻真の僅かな想定外だった。

 

 

(ならアイツがバテるのを期待するしかないか……)

 

 

 麻真のハイペースに合わせるシンボリルドルフだが、麻真の速度に合わせれば必然的に彼女のスタミナ消費も早くなる。

 それこそ後半に勝負を仕掛ける体力が残らなくなるまで走ってくれることを麻真が期待する。

 しかし背中に感じる圧力を感じながら、麻真はそれを淡い期待だということを察していた。

 背後から猛烈な威圧感を麻真が感じる。まるで噛み殺そうと言わんばかりの圧力だ。

 既に第一、第二コーナーを曲がった直線を二人が駆ける。麻真がまた背後を一瞥してシンボリルドルフを目を見ると、思わず苦笑いしていた。

 

 シンボリルドルフが――獣のような目を麻真に向けていた。

 

 そんな目を麻真に向けているのにも関わらず、シンボリルドルフの顔が笑っていた。楽しくて仕方ないと顔が言っているのに、目は獣と言えるような獰猛さを感じていた。

 そんなにシンボリルドルフは自分と走るのが嬉しいらしい。麻真はそう感じていた。

 

 

 

 

「アサマァァァ! ファイトデースッ!」

 

 

 二人の走る距離が千メートルを超えたところで、タイキシャトルが大声で手を振りながら麻真を応援していた。

 そんなタイキシャトルに、エアグルーヴが意外そうな顔をしていた。

 

 

「む? タイキは会長ではなくて、麻真さんを応援か?」

「当たり前デースッ!」

 

 

 タイキシャトルが当然とエアグルーヴに答える。彼女はそう答えて右手で拳を作ると、そのまま上に力強く上に上げていた。

 

 

「アサマに勝つのはワタシデス! だからアサマには誰にも負けてほしくないデース! 昨日のようには行きマセン!」

 

 

 タイキシャトルの話を聞いて、エアグルーヴが何のことだと小首を傾げる。

 そのエアグルーヴの疑問に、ハナが呆れた様子でタイキシャトルを叱っていた。

 

 

「昨日のあれはタイキシャトル、お前が悪い。わざわざ北野を追い掛けて必要のない距離を全力で走った上で、そのままアイツと一周走ったんだ。長距離適正がないお前が最後で体力バカの北野を抜けると思うな」

 

 

 練習場で起きた昨日の出来事をエアグルーヴは噂程度でしか聞いていない。しかしハナの話を聞くと、彼女はすぐに納得していた。

 昨日、タイキシャトルが二年振りにトレセン学園に帰ってきた麻真を見つけて喜びのあまり全力で彼を追い掛けて、そのまま流れで彼と一周二千四百メートルのレースを挑んでいた。

 タイキシャトルの距離適正は短距離からマイルである。そのため彼女の瞬発力に特化した足では、長距離を走ることに向いていない。

 故に、麻真と一周以上の距離で挑んだタイキシャトルでは、彼を差すことはできなかったのだ。

 

 

「だから今度はワタシの距離で勝負デース! なのでアサマにはそれまで負けてほしくないんデスヨ!」

 

 

 だがハナに叱られても、タイキシャトルはそれを気にも止めずに麻真を応援していた。

 タイキシャトルが大声で麻真を応援をしているが、練習場は特別騒いでいる様子はなかった。

 模擬レース、それもシンボリルドルフのような強豪のウマ娘が走るとなれば必然的に彼女のファンなどが応援をしている。

 しかし麻真とシンボリルドルフの二人のレースでは先程まで騒がしかったはずなのに、いつの間にか誰もが応援などをしていなかった。

 その違和感を、メジロマックイーンは感じていた。どことなく、練習場の様子がおかしいと。

 

 

「皆さん……誰も騒いでませんわ」

 

 

 むしろそれはメジロマックイーンは有難いことだった。麻真の走りを見るのに、周りの雑音が邪魔になって集中できないのだから。

 

 

「誰も声を掛けられないのだろう。会長にも、麻真さんにも」

 

 

 メジロマックイーンの疑問。それにエアグルーヴが応じていた。

 その言葉に、メジロマックイーンが首を僅かに傾けていた。

 エアグルーヴが視線を向ける。その先には、笑顔で走るシンボリルドルフの姿だった。

 

 

「会長の“あんな顔”を私は見たことがない。それはきっとここにいる会長を知る子達全員が同じだろう」

 

 

 シンボリルドルフの見据える先には、麻真がいる。彼女が向ける彼の視線は、凶悪な獣のようだとエアグルーヴは思った。それなのに顔が楽しくて仕方ないという笑顔なのだ。

 ここにいるシンボリルドルフを知る全員が思っている。

 

 怖い、と。それは無敗の三冠王。そして“皇帝”と呼ばれるシンボリルドルフが初めて見せた顔だった。

 

 

「あんな顔で走る会長の前を平然と走っているなんて……」

 

 

 エアグルーヴがポツリと呟いた。

 考えるだけでエアグルーヴはゾッとした。もし自分なら、その威圧感は並みのものではない。それこそ自分ならペースを乱されるだろう。真っ当に走れる自信は彼女にはなかった。

 

 

「…………」

 

 

 それはメジロマックイーンの理解できないことだった。

 しかしそれは、まだ十分なレース経験のないメジロマックイーンは分からないことだった。

 

 

 

 

(やる気満々か、スタミナが切れてる様子はなさそうだ)

 

 

 背後から一向に途絶えない威圧感。勿論、麻真もそれを感じていた。

 時に精神は、肉体を超える。そういう言葉がある。

 まさにこのことだと、自分の後ろを走るシンボリルドルフを見て麻真は実感していた。

 スタミナの余裕はかなりある。しかし足の負担が少しずつ増えていることを麻真は冷静に理解していた。

 既に走っている距離は後半に差し掛かっている。第一、第二コーナーを抜けて直線が終わり、第三コーナーに入った。

 ここから速度を維持し続けて、最後まで持たせる。もしシンボリルドルフがこのハイペースの中でも自分に迫ってくるなら――麻真も考えなくてはいけない。

 かなりのハイペースで走っているはずなのに、麻真から見ても背後のシンボリルドルフの足が衰える様子はない。むしろ気迫が増している気がした。

 

 

(麻真さん……やはり貴方は凄い人だッ!)

 

 

 前を走る麻真を見ながら、シンボリルドルフは更に高揚していた。

 オーバーペースで走り続ける麻真を追い掛けるシンボリルドルフの足は、実のところかなりの消耗をしていた。

 それは当たり前のことだった。まるでペース配分を考えない麻真の疾走は、明らかにスタミナが保たない。

 息も苦しくなっている。足も重たくなっている。身体が辛いと言っているのがシンボリルドルフには分かる。

 だがそんな身体の警告を、シンボリルドルフは鼻で笑っていた。

 

 

――“そんな些細なこと”はどうでも良い

 

 

 息苦しさ? 足の負担? そんなことは足を止める理由の考慮にすらならない。

 まだ足は動いて走れる。息が止まらなければ追い掛けられる。それだけで良い。

 そんなことでこの時間を終わらせるなど、シンボリルドルフには有り得ない選択だった。

 むしろ重いはずなのに、足が軽くなっているとすら感じる。呼吸も荒いのに心地良いとすら思う。

 楽しい。それがシンボリルドルフの心を埋めている。

 継続的な運動で起こるランナーズハイのような現象が、シンボリルドルフに起きていた。

 

 

(速度が変わらない! むしろまだこれだけの速度を維持しても平気そうな顔をしている!)

 

 

 麻真を先頭にシンボリルドルフも第三コーナーを抜けて、第四コーナーに入る。

 まだ麻真が余裕そうな顔をしている。ならまだ速くなる可能性もある。それがシンボリルドルフの心を折ることはなく、むしろ更なる高揚を生み出していた。

 レースは終盤。第四コーナーが終われば、後は最後の直線だけ……長く、そして短い直線だけだ。

 

 

(もう終わりが近い! こんなに時間が惜しいと思ったことはない!)

 

 

 二人のレースも、残りは僅か。

 最後の直線に、二人が入った。

 その瞬間、シンボリルドルフが足に力を込めた。軸足を強く踏み締め、僅かな時間で身体を更に前傾姿勢にする。

 スタミナや疲労など関係ない。シンボリルドルフは一瞬のうちに――加速していた。

 

 

「――ここだッ!」

 

 

 エンジンのギアが上がったようにシンボリルドルフが加速した。

 勝つという意思。その威圧感は、勿論麻真も察知した。

 

 

(勝つ気満々だな! ルドルフッ!)

 

 

 ゴールまで、残りは六百メートル。

 麻真の二バ身後ろにいたシンボリルドルフが、先頭に迫る。

 少しずつシンボリルドルフが麻真に迫る。ゴールまでの残りの距離は僅か四百メートル。

 二バ身から一バ身半。シンボリルドルフが麻真との距離を縮めていく。

 だが既に最大速度で走っているシンボリルドルフに、実のところスタミナは残っていなかった。

 しかしシンボリルドルフは、それを無視していた。もう走るスタミナが切れてることは分かりきっていた。

 

 

「麻真さんッ! 私は楽しいぞッ‼︎」

 

 

 堪らず、走るシンボリルドルフが貪欲な目を向けながら麻真に笑顔を送る。

 そう叫ぶシンボリルドルフには、限界の走りをしていても辛い気持ちなどなかった。

 間違いなくシンボリルドルフの限界の走りをしている。それは誰が見ても分かる光景だった。

 そんなシンボリルドルフを見て、麻真も同じ気持ちだった。

 

 

(こんな楽しそうに走るなんて……)

 

 

 まだスタミナはある。しかし負荷を掛け続けている足への負担がかなり大きくなっていた。

 これ以上の酷使は拙い。それは麻真自身も理解していた。

 しかし麻真は背後に迫るシンボリルドルフに、どう応えるか悩んだ。

 シンボリルドルフを勝たせることか、それとも負かせることか、色々と考えたが――どちらにせよ、答えはひとつしかなかった。

 ここまで自分の背中を追い掛けてくれたウマ娘に、応える方法なんてひとつしかないと。

 麻真が、足に少し強く力を込める。そして彼は――身体を更に前に倒した。

 

 

「俺も久々に楽しいぞッ! ルドルフッ!」

 

 

 そしてその声と共に、麻真は加速していた。

 残り二百メートル。二人の距離は半バ身。

 二人が最後のラストスパートに入っていた。

 




読了、お疲れ様です。
何度も言いますが、主役はメジロマックイーンです、

レースの結果は次の話に。
麻真が強いと思いますが彼は子供ではなく成人ということでご容赦ください。
麻真の強さに関してはパラメータで言うなら、スタミナの数値が異常値と覚えて頂ければと思います。速度があっても加速が出せない選手というイメージです。

今回の部分で少し色々と後の話に繋がる部分を入れています。
その点なども今後も見守って頂けると幸いです。

前回に引き続き、今回の更新までに感想・評価をくださった方々に感謝です。これからもまだまだよろしくお願いします。


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6.全てを出し切った

 

 

 麻真とシンボリルドルフが走る先。そのゴールの位置に立つのは、二人がスタートした時にはいなかった褐色の肌をした長髪のウマ娘“ヒシアマゾン”が立っていた。

 二人のレースが始まってから偶然遅れて練習場に来たところをエアグルーヴに見つかり、彼女の一方的な指示で状況がよく理解できないままヒシアマゾンは強制的にゴール役として立たされていた。

 シンボリルドルフがレースをしている相手が北野麻真ということをエアグルーヴから聞いた時はヒシアマゾンもとても驚いていたが、勝負に勝つのは結局のところシンボリルドルフだと彼女は予想していた。

 いくらあの“北野麻真”でも“皇帝”のシンボリルドルフに勝てるわけがない。そんな確信がヒシアマゾンにあった。故に結果の見えたレースにイマイチ興味のなかった彼女は、二人の走るレースを見るつもりはなかった。

 何故かレース中にも関わらず周りが静かなのが幸いして、ヒシアマゾンは芝生に座りながら睡魔と戦っていた。

 だがそれすらも面倒に感じたヒシアマゾンは呑気に欠伸をしながら芝生の上に寝そべって、二人を待っていた。しかししばらくすると、激しく地面を踏み締める轟音がヒシアマゾンの耳に聞こえいた。

 二人しか走っていないレースで、こんな威圧感のある音が出るわけがない。そう思ったヒシアマゾンが音のする方――ゴールに向かって走って来る二人を見た瞬間、

 

 

「ひっ……‼︎」

 

 

 反射的に、彼女の身体が震えていた。

 どんなレースでも、最後のラストスパートではウマ娘達の必死な表情が見える。最後の瞬間、誰もが一番先頭でゴールを迎える為に全力を持って走る。

 何度もゴール役として見届けたことがあり、そんな顔を見飽きたと思っていたヒシアマゾンだったが――ゴールへと向かって走る二人の顔を見た途端、思わず背筋を凍らせていた。

 

 獲物を狩る猛獣のように凶悪な目をしたシンボリルドルフが、“満面な笑顔”で走って来ている。未だかつて見たことがない彼女の“その顔”から感じる強烈な威圧感に、ヒシアマゾンの全身が震えていた。

 対して、シンボリルドルフに追われている麻真も、楽しそうに笑っていた。だが、その目の鋭さにヒシアマゾンの鳥肌が立っていた。

 シンボリルドルフが獲物を狩る猛獣ならば、麻真は獲物を仕留める鷹のような鋭い眼光をゴールへと向けていた。

 

 

「……冗談だろ?」

 

 

 ヒシアマゾンがポツリと呟いた。

 

 この場で行われているのは、ただの模擬レースではないのか?

 

 ヒシアマゾンの頭にその疑問が生まれる。これは公式の重賞レースではない、ただの模擬レースだ。名誉も、栄光も、そんなのはここには存在しない。それなのに、こんな恐怖を覚える威圧感で走る二人の姿など、彼女は想像すらしていなかった。

 こんな勝負を今まで見たことがなかったヒシアマゾンは、即座に寝そべっていた状態からその場に立ち上がっていた。

 ヒシアマゾンの脳が理解した。もしゴール役の自分がゴールの瞬間を“見ていなかった”などと言い出したら――あの恐ろしい形相で走るシンボリルドルフと麻真に何をされるか分からないと。

 それを瞬時に理解して、ヒシアマゾンは近づいてくる二人を凝視する。正直、すぐに恐怖の感情が強過ぎてその場から居なくなりたい衝動に駆られるが――ゴールの役目を放棄した方が更に怖かった。

 ヒシアマゾンが思わず歯を食いしばる。こんな役目を押し付けたエアグルーヴに心の底から怒りを覚えながら、必死に彼女は震える身体を抑えつけて二人のゴールを見届けるしかなかった。

 

 

「やはりあの場所に立つのが私ではなくて……本当に良かった」

 

 

 身体を震わせているヒシアマゾンを遠目から見ていたエアグルーヴが、心から安堵した声を漏らす。

 遠目から見てもエアグルーヴが感じる二人の強烈な威圧感。そんな心が耐えきれないモノを受けながら二人のゴールの役目をするなど、誰がやるものかと。

 

 

「エアグルーヴ、お前……」

 

 

 そんな安堵しているエアグルーヴを見て、ハナはヒシアマゾンを犠牲にした彼女に心底呆れた顔を見せていた。

 

 

 

 

 

 

 麻真とシンボリルドルフ。この二人のレースが間もなく終わろうとしていた。

 最後の残り二百メートル。泣いても笑っても、ゴールまでの距離は確実に近づいていた。

 終わりに近づくレースをまだ先行しているのは、麻真だった。シンボリルドルフとの距離は、もう半バ身もない。僅かに麻真がシンボリルドルフのより少し前を走っている。

 少しずつ着実にシンボリルドルフが先を走る麻真に迫っている。しかし僅かに届いていない。もう少しだけ、あとほんの僅かな距離を詰めるだけで――自分はこの人に勝てるとシンボリルドルフは闘志を燃やした。

 

 

「私は――負けないッ‼︎」

 

 

 すぐ前にいる麻真に、シンボリルドルフが吠えた。

 シンボリルドルフが更に足を酷使する。身体の限界など、既に超えている。スタミナもとっくに絞り尽くしている。しかし足は止まらない、止まらせるつもりなどない。

 しかしシンボリルドルフの身体の悲鳴は大きくなっていた。身体がこれ以上の酷使を拒否して足を重たくさせるが、シンボリルドルフがそれを確固たる意志で一蹴する。

 更に酷使している身体が多くの酸素をシンボリルドルフへ要求する。肺が苦しくなり呼吸が辛いと脳が告げるが、それすらもシンボリルドルフは煩わしいと意識から強制的に切り離していた。

 

 身体の警告、その全てがシンボリルドルフには邪魔だった。ゴールまで残り僅かの時間くらい邪魔をしないでくれと。

 

 走ること以外に思考を割く余裕はシンボリルドルフには少しもなかったが……真横で僅かに先行する麻真に、彼女は心から感謝していた。

 無敗の三冠王。皇帝とまで言われた自分にも挑める相手がまだいることに、シンボリルドルフの胸が高鳴っていた。

 こんなに全身全霊の力を振り絞らなければいけない相手が自分にはまだいる。たとえ最強の“皇帝”と呼ばれたとしても、自分にはまだ先があり、挑める相手がいる。

 それが嬉しくて堪らない。シンボリルドルフの心はずっと震えていた。

 

 

「ははっ――‼︎」

 

 

 走りながら、シンボリルドルフが声を出して笑っていた。猛獣が最高の獲物を見つけたような、凶悪な笑みを浮かべる。

 己の全て吐き出す。自分の持てる全てを振り絞って、シンボリルドルフは挑戦者として挑む。

 

 この男、北野麻真に――自分を僅かな期間でも育ててくれた人に勝ちたいと。

 

 ウマ娘と同じように走れる奇妙な人間など、些細なことでしかない。シンボリルドルフは“この人”とこの学園で出会えたことに心の底から感謝していた。

 この人の美しい走り方を見て、学んだ。呼吸、足の使い方、力の入れ方など多くのことを見て学び、そして教えてくれた。

 だからこそシンボリルドルフはここまで辿り着いた。そしてこの場で、麻真に全力で走ってもらえるまでに行き着いた。

 ウマ娘でなくても、普通でなくてもどうでも良い。この人の走りは“本物”である。

 

 本当にこの人から教えを受けて、良かった。

 憧れて良かった。尊敬して良かった。背中を追い続けて良かった。

 

 この人と走れることが、こんなにも幸せなのだとシンボリルドルフは痛感していた。

 

 

「この勝負ッ! 勝たせてもらうッ‼︎」

 

 

 そう叫んだシンボリルドルフの足が、軽くなったような気がした。

 また一段階、限界を超えたシンボリルドルフの足が加速した。

 

 

(――こいつッ⁉︎ まだ“上げる”のかよ⁉︎)

 

 

 加速したシンボリルドルフに、麻真が驚愕した。もはや彼女には、更に加速する体力など残ってないはずだと。

 シンボリルドルフが限界を振り絞って走っていることなど、麻真も十分に理解している。こんな気迫で走る彼女を、麻真は今まで見たことがない。

 更に自分に迫るシンボリルドルフに、麻真が苦悶する。スタミナはまだある。しかし彼の足は別である。

 麻真がラストスパートで僅かに加速して、自分の出せる最高速度の八割を出している。これ以上の負荷を掛けると、足に支障が出る可能性があった。

 十割など出せるわけがない。仮にここで全力の力で加速してレース中に怪我をしてしまえば、それこそ全身全霊で走っているシンボリルドルフに失礼だと。

 

 

(お前は強くなった……本当にッ!)

 

 

 まだ走りも拙かったあのウマ娘が、大きくなりここまで成長したことに麻真は感慨深い気持ちになる。

 もうここまで速く走れるようになったのだから自分の背中をいつまでも追い掛けることをやめて、彼女の道を走ってほしい。そう麻真は思いたくなる。

 だがそれでも二年間も、シンボリルドルフは麻真を待っていた。麻真と走りたい、その気持ちをシンボリルドルフは色褪せることなくずっと持っていたのだろう。

 その念願が叶ったからこそ、こうして麻真の後ろを走るシンボリルドルフは終始楽しげに笑顔で走り続けるのだろう。苦しくても、身体が重くても、彼女は笑顔でいるのだ。

 

 

(そんなに楽しいんだな、俺と走ってるのが)

 

 

 ここまで慕われるとは思っていなかった。麻真は走りながら、シンボリルドルフに感謝した。自分が過去に彼女にしてきたことは、きっと間違えてなかったのだと。

 ならば、自分も応えなくてはならない。トレーナーとしての道を諦めた身であっても、これからトレーナーを辞めることになっても、今の瞬間だけは彼女に向き合わなければならない。

 今にも倒れようになりながらも猛獣のように駆けるシンボリルドルフに応える方法は――やはり、これしかない。

 

 

 

「――ルドルフッ! 付き合ってやるッ‼︎」

 

 

 

 笑みを浮かべた麻真がシンボリルドルフにそう告げると、彼は更に加速を行っていた。

 それは麻真が出せる九割の限界の速度。これが彼がシンボリルドルフに出せる全てだった。

 

 

「はぁぁぁぁぁっ‼︎」

 

 

 そして叫んだシンボリルドルフが麻真との距離を更に縮め、遂に彼の真横に並んでいた。

 しかし麻真もそれと同じくして加速する。足の限界まで彼が足に負荷を掛けていた。

 シンボリルドルフが麻真が加速したことに瞠目する。だが彼女は心を折るなどなく、笑顔を崩さなかった。

 二人が綺麗な横並びで激走する。誰一人も声援なども掛けれないほどの空間を、この二人は作り出していた。

 ウマ娘と人間。異様な光景で、この場にいる全員が過去見たことがない走りを見せつけられる。

 その二人勝負は、残りは僅か五十メートルを切っていた。

 

 

 

(――麻真さんにッ! 私が絶対に勝つッ!)

(――お前の走りに! 俺が応えてやるッ!)

 

 

 シンボリルドルフが自分の全てを持って、駆ける。

 麻真が自身の出せる身体の全性能を、酷使する。

 そしてそれはあと数秒で、その時間は終わってしまう。

 

 

――一歩でも先に進めれば良い。ほんの僅かだけ彼の先を走れれば、それだけで良い

 

――足に耐えてくれと願う。全力で走る彼女が満足できる走りができる限界まで、走れればそれで良い

 

 

 互いに全てを出し切った。あとはその結果、それを待つのみ。

 そしてゴールラインを超える瞬間、シンボリルドルフに後悔はなかった。

 未だかつてない高揚感。自分の人生の中で、最も速く走ることができた充足感しかない。

 これほどまでの相手と一緒に走ることができた。勝ちたいと本気で思うことができる“人間”がいた。

 自分の全てを出し切った満足感で、シンボリルドルフはゴールラインを超えた瞬間――速度を落としていた。

 

 

 

「……ゴォールッ!」

 

 

 

 ヒシアマゾンが大きな声で練習場に終わりを告げる。

 そうして――二人の長く短い時間の勝負は、終わりを迎えた。

 




読了、お疲れ様です。

二人のレースが終わりました。
どうしてここまでシンボリルドルフが麻真を慕っているかも、彼の過去に繋がる話ですね。
レースの結果は都合上、次回になりました!申し訳ありません!
次の話で今回のChapter2が終わりです。
何度もしつこく言いますが、メジロマックイーンが主役です。
シンボリルドルフではありません!


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7.なれただろうか?

 

 ゴールした瞬間、シンボリルドルフは倒れてしまいたい衝動に駆られていた。

 しかしまだ減速するまで、倒れるわけにはいかない。ウマ娘が出せる速度で転んだ場合、間違いなくそれは大怪我に繋がる。それはウマ娘が走る上で最も気を付けなければならないことのひとつである。

 故に、自身が出していた最高速度のまま転ぶことの意味を理解しているシンボリルドルフは、朦朧とする意識の中でもそれだけは決してしなかった。

 しかし麻真とのレースを走り終えた瞬間、今まで無理を強いてきた身体の反動がシンボリルドルフに襲い掛かっていた。

 全身が熱く、汗が吹き出る。足が鉛のように重い。呼吸が激しくなる。そして意識が遠のいていくような、心地良い感覚が襲いかかった。

 最後の意地で緩やかな減速をし、小走り程度にまで速度を下げたところで、シンボリルドルフの身体は全身の力を全て抜いていた。

 このまま倒れてしまいたい。芝生に向かってシンボリルドルフの身体が倒れていく。全てを振り絞った後に横になる芝生は、一体どれほど心地良いだろうかと思いながら。

 

 

「倒れるな、ルドルフ。お前が倒れたら、他の奴に示しがつかないだろ?」

 

 

 しかし倒れそうになったシンボリルドルフを、そっと麻真が支えていた。

 朦朧とした意識の中でシンボリルドルフが麻真にもたれ掛かる。

 麻真はもたれ掛かるシンボリルドルフに肩を貸すと、彼女の疲れ果てた姿を見るなり呆れたような顔をしていた。

 

 

「こんなになるまで全力で走る奴がいるか、バカたれ」

 

 

 思わず、支えているシンボリルドルフに麻真がそう言っていた。

 麻真も使える限界まで足を使ったことで、足への負担がかなり大きい。シンボリルドルフをなんとか支えているが、彼の足には僅かな痙攣をしている感覚があった。

 

 

「あさまさん……どっちが、かったんだ?」

「さぁな、結果はまだ聞いてない」

 

 

 たどたどしく、シンボリルドルフが麻真に訊く。

 しかし麻真は首をわざとらしく竦めながら答えていた。

 

 

「二人とも! 大丈夫か⁉︎」

 

 

 そんな二人の元に、ハナが慌てて駆け寄った。

 ハナが駆け寄るなり、二人の心配をする。彼女の慌てようも、レースを見ていれば当然と言えた。

 初めて見たシンボリルドルフの限界を越えた走り、そして麻真は足に負荷を掛けられないはずなのに彼女と張り合う走りをした。その為、ハナは二人の身体を心配していた。

 

 

「東条さん、どっちが勝ったんだ?」

 

 

 心配するハナに、麻真は彼女の質問に答えるより先に勝負の結果を訊く。

 しかしハナは麻真の質問に答えるより先に、シンボリルドルフの身体を優先していた。

 

 

「それは後で良いだろう⁉︎ まずはルドルフを休ませるのが先だッ⁉︎」

「いえ、わたしはもんだいありません。それよりも、けっかをおしえてください」

 

 

 ハナがシンボリルドルフを介抱しようとするが、シンボリルドルフがそれを拒んだ。

 疲れ果てた顔をしていてもシンボリルドルフは、ハナに弱々しくも強い意志を感じる目を向けていた。

 ハナはシンボリルドルフのその目を見て、思わず戸惑った。

 

 

「結果は後で教える! だから先に休め、ルドルフ!」

「いえ、いますぐおしえてください。おねがいします」

 

 

 そしてシンボリルドルフが再度強く懇願することで、ハナは彼女が意志を曲げないことを察していた。

 

 

「遠くから見ていた私には……お前達が同時にゴールしたようにしか見えなかった。だからアイツを呼ぶ」

 

 

 そして呆れたような溜息をハナが吐くと、彼女は大きな声で一人のウマ娘を呼んでいた。

 

 

「アマゾンッ! 結果は⁉︎」

 

 

 ヒシアマゾンがハナに呼ばれる。放心気味だった彼女は、ハナに声を掛けられると慌てた様子で反応していた。

 

 

「……姉さん、それが」

「良いから見た結果を言え! アマゾン!」

 

 

 言い淀むヒシアマゾンに、ハナが催促する。

 ハナに催促されたヒシアマゾンは、言いづらそうにしながら答えていた。

 

 

「……同着だった。私の目には……どう見ても二人が同時にゴールしたようにしか見えなかった」

 

 

 ヒシアマゾンが言い淀んでいたのは、これが理由だった。

 二人がヒシアマゾンの立っていたゴールラインを越えた瞬間、彼女は全精神を擦り減らして凝視していた。

 しかしヒシアマゾンがどう見ても、二人は横並びで同時にゴールラインを超えているようにしか見えなかった。

 ハナの差でどちらかが先にゴールしていた可能性もあり得るが、それをウマ娘の目視で確認するのは至難の技である。それこそ精密なカメラでの写真判定が必要なレベルの同着だったとヒシアマゾンは思っていた。

 

 

「同着……?」

 

 

 ヒシアマゾンの答えにハナが困惑するが、同時に納得もしていた。確かに彼女から見ても、二人は同時にゴールしていたようにしか見えなかったからだ。

 

 

「同着か。まぁ、横並びだったなら分からないよな」

 

 

 ヒシアマゾンから着順を聞いた麻真もその答えに納得していた。

 そしてそれ以上の結果を求めても、分からないことを訊いても無意味であることを麻真も理解していた。

 それをシンボリルドルフも理解していたのだろう。二人の勝負の結果が同着と聞くと、彼女は小さく笑っていた。

 

 

「そうか……わたしはかてなかったか」

 

 

 落ち込んでいても、シンボリルドルフは何処か結果に納得しているような顔だった。

 全てを出し尽くしても、麻真に勝つことができなかった。シンボリルドルフ自身も、彼に絶対に勝てる自信があったという訳ではない。

 しかしそれでも麻真に勝つことができなかった悔しさがありつつも、自分には尊敬している麻真をまだ超えることができないという“納得”のようなものがシンボリルドルフにはあった。

 

 

「落ち込む必要あるか? 同着だって言ってるだろ?」

「だが、わたしがかてなかったことにかわりない」

「今回が、ってだけだ。次は分からない……お前だってそれは分かるだろ?」

 

 

 そんなシンボリルドルフに、麻真が肩を落として彼女に呆れる。

 シンボリルドルフが落ち込む必要がどこにあるのかと、今回が同着であったというだけの話だ。

 レースはなにが起こるか分からない。絶対が無いのがレースである。故に、もし同じようにシンボリルドルフと麻真が走っても結果は変わるに決まっている。

 

 

「……そうだな」

 

 

 麻真にそう諭されて、シンボリルドルフが少し顔を俯かせる。

 そしてそのまましばらくシンボリルドルフが俯いていると、彼女はポツリと麻真へ呟いていた。

 

 

「あさまさん。わたしは……はやかったか?」

 

 

 それはシンボリルドルフの本心からの質問だった。

 皇帝と呼ばれるまでに辿り着いた自分自身の出せる全てを出し尽くして、シンボリルドルフは麻真に挑んだ。

 麻真の背中を見て、シンボリルドルフは彼を追い掛け続けてきた。

 麻真から様々なことを学んだ。自分の走りを見つけ、そして鍛え上げてもらった。

 麻真がとある日に突如休職し、姿を消したことに心の底から落ち込んだこともあった。だがこうして二年の時を経て再会し、彼と走る機会を得た。

 しかしまた麻真がいなくなってしまうかもしれない。今度はもう二度と彼と一緒に走れないかもしれないという不安があったから、シンボリルドルフは全力の限りを尽くして彼に挑んだ。

 だからこそ、シンボリルドルフは麻真に訊いていた。

 

 自分は、貴方に認められるほど速く走れることができたのかと。

 

 シンボリルドルフのその問いに、麻真は素直な感想を伝えることにした。

 

 

「速かった。とんでもなく」

 

 

 麻真も自身の出せる身体の性能の全てを出して、シンボリルドルフに応えていた。彼自身も驚愕する程の速さを見せつけた彼女に報いる走りをした。

 シンボリルドルフ。彼女は麻真が今まで見てきたウマ娘の中で“一番速い”と、確信を持って言えた。

 

 

「……つよいとおもってくれたか?」

「あぁ、強かったよ。流石は皇帝だと思ったくらいだ」

 

 

 シンボリルドルフの問いに、再度麻真は素直に答えた。

 今まで見たウマ娘で一番速かったということは、それは一番強いと同等の意味であると。

 

 

「あなたがほこれるウマ娘に、わたしはなれただろうか?」

 

 

 そして俯いていたシンボリルドルフが、僅かに顔を上げていた。

 麻真に支えられながら、シンボリルドルフが彼を見上げる。その目には先程の威圧感などなく、不安そうに彼を見上げる顔は年相応の少女のものだった。

 

 

「なに言ってんだか……」

 

 

 シンボリルドルフの顔を見て、麻真が苦笑していた。

 しかしシンボリルドルフが変わらず麻真を見つめていることに、彼は少し顔を強張らせる。

 そして麻真は居心地が悪そうに雑に頭を掻くと、見つめるシンボリルドルフから目を逸らしながらぶっきらぼうに答えた。

 

 

「俺が一から面倒見たんだ……これ以上言わせんな」

 

 

 これだけで分かるだろう。麻真はそれ以上にシンボリルドルフのその問いに答える気はなかった。

 その言葉だけで、シンボリルドルフには十分だった。

 麻真の口から“その言葉”を聞くことができた。その言葉をどれだけ欲しかったかと。

 麻真に認められた。その事実に、シンボリルドルフの目の奥が熱くなっていく。

 そして麻真の言葉の意味を察してシンボリルドルフはもう一度だけ、最後に彼に訊いていた。

 

 

「なら、また……わたしといっしょに、はしってくれるか?」

「俺の気が向いたらな。別に俺はこの学園にいるんだ。機会なんて幾らでもあるんだからな」

 

 

 麻真が戯けたように、笑いながら答えた。

 また麻真と走ることができる。それを理解して、シンボリルドルフは安堵した。

 

 

「それなら……よかった」

 

 

 そう呟いて、シンボリルドルフが麻真に寄り掛かった。

 いきなりシンボリルドルフが体重の全てを麻真に委ねたことに、麻真が驚く。

 麻真が疑問に思いながら、シンボリルドルフの顔を覗くと――彼は心底呆れた顔を見せていた。

 

 

「寝てんじゃねぇよ。まったく……」

 

 

 限界だったのだろう。シンボリルドルフが小さな寝息を立てていた。

 麻真がシンボリルドルフの身体を軽く揺するが、彼女は一向に起きる気配はなかった。

 

 

「おい……北野」

 

 

 そうして今まで口を挟まなかったハナが、ようやく麻真に声を掛ける。

 力なく麻真に身を委ねているシンボリルドルフを見て、ハナが心配そうに彼女に視線を向けていた。

 

 

「悪い、担架持ってきてくれ。疲れ切って寝てるわ、コイツ」

「それは大丈夫だ。エアグルーヴ達に用意させている」

 

 

 ハナが麻真にもたれかかって寝ているシンボリルドルフを間近で見る。

 熟睡しているシンボリルドルフを見て、ハナは肩を落としていた。

 

 

「こんな風になったルドルフは初めて見た」

「……俺もだ」

 

 

 一向に起きる気配のないシンボリルドルフに、麻真とハナが揃って驚いていた。

 そしてハナは、今回のレースを見て確信していた。最強の名を勝ち取ったシンボリルドルフ、彼女は北野麻真によってまたひとつ前に進ませることができたと。

 

 

「北野、ルドルフは……まだ速くなるぞ」

「あぁ、末恐ろしいよ。コイツは」

「また挑まれる時、今度はどうなるか見ものだ」

「……勘弁してくれ。本気で走るのはしばらく遠慮するわ」

 

 

 ハナと麻真が軽口を返し合う。

 そんな話を二人がしていると、エアグルーヴ達が担架を持って二人の元に来ていた。

 そして麻真がシンボリルドルフを担架に乗せて、エアグルーヴ達と軽く話した後に彼女達がシンボリルドルフが乗った担架を運ぶ。

 エアグルーヴ達が医務室に向かうところで、麻真はエアグルーヴに声を掛けた。

 

 

「エアグルーヴ、ルドルフが起きたら言っておいてくれ」

「……なにをだ?」

 

 

 エアグルーヴが立ち止まって、麻真に向く。

 麻真は一拍置いてから、エアグルーヴに告げた。

 

 

「今度、一緒に飯でも食いに行くかって伝えてくれ」

 

 

 麻真の言葉を聞いて、エアグルーヴは可笑しそうに笑っていた。

 そして一頻り笑った後、エアグルーヴが頷くと担架で運ばれるシンボリルドルフを追って練習場から立ち去って行った。

 

 

「北野、私も行くからな」

「そうしてくれ」

「……足は大丈夫なんだろうな?」

 

 

 立ち去る前に、ハナが麻真の足を見つめる。

 しかし麻真は「気にするな」と淡白に答えるとそれ以上は答えるつもりはないと言いたげに、さっさと行けと手を雑に振っていた。

 それをハナも察したのだろう。彼女はそれ以上は聞くことをせず、麻真に「気をつけろ」と告げて医務室へと向かって行った。

 

 

「麻真さん、大丈夫ですか?」

 

 

 立ち去るハナと入れ違えるようにメジロマックイーンが麻真に声を掛ける。

 心配そうにメジロマックイーンが麻真を見ていたが、麻真は心配する彼女に肩を竦めていた。

 

 

「別に大丈夫だ。スタミナは問題ないからな」

「とてもそのようには見えませんでしたが……」

 

 

 平然と答える麻真だったが、メジロマックイーンにはとてもではないが平気とは思えなかった。

 シンボリルドルフの気迫ある走りを見て、それと同様の走りをした麻真がとても平気とは思えなかった。

 加えて、レース後のシンボリルドルフの状態を見てしまえば、明らかに麻真が平然としているわけがない。

 平気そうに立っている麻真がおかしいとメジロマックイーンは思わざるを得なかった。

 

 

「足に負担掛けただけだ。別に走る分には問題ない」

 

 

 メジロマックイーンは、怪訝な顔で麻真を見ていた。

 確かに麻真のスタミナは異常なくらいあるのは知っているが、それを加味しても到底平気とは思えなかった。

 ふと思い、メジロマックイーンが麻真に近づく。そして彼女が麻真の足を触ろうとすると、麻真が一歩後ろへ下がっていた。

 

 

「……どうされました?」

「むしろ急に触ってこようとしたから驚いただけだ」

「そうですか……?」

 

 

 メジロマックイーンが再度麻真の足を触ろうとするが、麻真はそっと一歩また後ろへ下がっていた。

 

 

「……麻真さん?」

 

 

 またメジロマックイーンが麻真に近づくが、彼はメジロマックイーンが近づく距離に合わせて離れていく。

 

 

「足、触られたくないんですか?」

「そんなことはない。触りたかったから触れば良い」

 

 

 メジロマックイーンの質問に、平然と麻真が答える。

 そんな麻真に、メジロマックイーンが冷たい視線を向けていた。

 

 

「なら動かないでくださいな」

 

 

 だが麻真は近づくメジロマックイーンから距離を取っていた。

 にじり寄るメジロマックイーンと距離を保つ麻真。

 しかしメジロマックイーンが勢い良く近づくと麻真がそれを合わせて離れていた。

 意地になってメジロマックイーンが走って追いかけると、麻真もそのまま彼女から逃げるように走っていた。

 

 

「なんで逃げるんですか!」

「お前が追い掛けてくるからだ!」

 

 

 そして麻真が逃げるのをメジロマックイーンが追い掛けていき、不思議とレースのような構図が生まれていた。

 

 

「足の疲労が酷いのになんで走るんですか! 止まりなさい!」

「別に酷くない! 別に酷くてもお前と走るくらいなら問題ないっての!」

「なッ――バカにしましたわねっ!」

 

 

 端的に言えば、お前に追いつかれることはない。そう解釈したメジロマックイーンが目を吊り上げた。

 メジロマックイーンが走る速度を上げる。しかし麻真も同じように速度を上げていた。

 

 

「文句があるなら追いついてから言ってみろ」

「疲れた貴方に追いつくのは簡単ですわ!」

「言うじゃないか、ならさっきまで俺とルドルフの走りを見ていただろ? 一周だけ付き合ってやるから参考に走ってみろ」

「なんて腹の立つ顔ですの! 絶対に追いついてみせますわ!」

 

 

 売り言葉に買い言葉だった。

 麻真の自信ありげな顔に、メジロマックイーンが怒りながら全力で走る。

 無意識の中で、麻真とシンボリルドルフの走りの一部を参考してメジロマックイーンが走る。

 そんなメジロマックイーンを見て、麻真はまだ拙い走り方に苦笑しながら追い掛けてくる彼女が追いつけない程度の速度で走ることにした。

 

 

 だが、そんなレースを始めた二人を見て、練習場は騒然としていた。

 

 

 中等部の生徒は唖然とし、高等部の生徒は驚愕という反応だった。

 麻真を知る高等部の生徒は彼の実力を再確認し、痛感して震えている人がほとんどだった。あのシンボリルドルフと対等に走ることができる人なのだと。

 そしてシンボリルドルフと全力で走ったはずなのに、メジロマックイーンとまた平然と走り出した麻真の化物じみたスタミナに、彼の底が見えない能力に驚くしかなかった。

 しかし麻真を知らない中等部の生徒は、北野麻真という人間に対しての評価が割れていた。

 ウマ娘ではない北野麻真がウマ娘と同等で走れることに対する“不信感”と“違和感”を持った生徒と、彼の走りを見て“感動”に近い感情を持った生徒の二つに分かれていた。

 そんな生徒達がいる中で、麻真とメジロマックイーンの二人は特に気にも止めずに練習場のコースを走っていた。




読了、お疲れ様です。

これでシンボリルドルフと麻真のレースは終わりました。
シンボリルドルフがここまで思うのにも、色々と過去にある訳があるのです。
次からEP3になります。
今回のEP2で麻真に関することを色々と出させて頂きました。
そして最後にシンボリルドルフと対等に走れた麻真の存在に対して、生徒達の反応が今後の話に出てきます。
それは後々の展開をお待ち頂ければと思います。


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episode.3
1.仲良くなりたい


 

 

 

 北野麻真がトレセン学園に戻ってきて、早一週間が経った。

 麻真がトレセン学園に戻ってきた翌日に行われたシンボリルドルフとのレースをキッカケに、北野麻真というトレーナーの名前は瞬く間に中等部にも知れ渡っていた。

 そしてそれと同じくして、中等部・高等部共にトレセン学園の全校生徒達に北野麻真はメジロマックイーンの専属トレーナーであるという事実も知れ渡っていた。

 北野麻真というトレーナーを獲得したメジロマックイーンは、彼をトレーナーとしたその“代価”をこの一週間で嫌と言うほど痛感することとなっていた。

 

 

 

「……疲れましたわ」

 

 

 

 食堂の席に座ると早々に、メジロマックイーンは心底疲れた表情で肩を落としていた。

 麻真がトレセン学園に来て一週間経っても、多くの生徒が所構わずにメジロマックイーンのところへ訪れるようになったいた。

 朝の登校時、各授業の間の休み時間、放課後とメジロマックイーンの時間が空いているタイミングに合わせて、彼女のところには学年やクラス問わずに生徒達が集まってくるようになっていた。

 中等部の生徒からは麻真がどのような人間なのかや彼とどんな練習をしているかなど訊かれ、また自分も麻真に教えて欲しいと懇願されることが多くなった。

 高等部の生徒からは、相変わらず自分に麻真を譲って欲しいと言われる日々が続いていた。

 そんな生徒達に対し、下手な対応をして揉め事にならないようにメジロマックイーンが細心の注意をして対応し続けていた。

 最初の数日はメジロマックイーンも我慢できた。しかしそれが一週間も続くとなると、流石の彼女もいい加減にして欲しいと心底嫌気が差していた。

 本来ならこの昼食の時間にも、他の生徒がメジロマックイーンの元に集まる。穏やかな昼食の時間などそこにはなく、落ち着いて食事をして休む時間もない。

 しかしここ数日前からこの時間になると、彼女の元に他の生徒が集まることがなかった。

 それは肩を落としていたメジロマックイーンの元に来た一人の男性のお陰――もとい彼の所為であった。

 

 

「まだ練習してない癖に、疲れた顔してるな。お前」

 

 

 トレーを両手に二つ持った麻真が小バ鹿にしたような顔で、疲れた表情のメジロマックイーンに話し掛けていた。

 そう話しながら自分の向かいの席に座る麻真に、メジロマックイーンは半開きの目で批判するように彼をじっと見つめていた。

 

 

「……一体、誰のせいだと思ってますの?」

「なにを言ってるのやら……大体予想はできるが、それは気にするだけ疲れるだけだぞ。特に“そういうこと”はな」

 

 

 呆れた表情で答える麻真に、メジロマックイーンは深い溜息を吐いていた。

 

 

「気にするなと言われても、こうして私は現に実害を被っていますのよ?」

「正直なところ、ここまで騒ぎになるのは俺も予想外だったが……それは俺をトレーナーにした代価ってやつなんだろうさ。マックイーン、そこはお前が上手くやってくれ」

 

 

 そう言って、持って来ていた二つのトレーの内のひとつを麻真がメジロマックイーンに差し出す。

 身勝手な麻真の話に不貞腐れながらも、メジロマックイーンは渋々麻真からトレーを受け取っていた。

 

 

「え……?」

 

 

 そして受け取ったトレーの食事を見て、メジロマックイーンは言葉を失った。

 麻真から受け取ったトレーの上には、巨大なハンバーグににんじんが丸ごと突き刺さった存在感のある“にんじんハンバーグ”と大盛りの白米に味噌汁が乗せられていた。

 麻真から受け取ったトレーに乗せられたその“豪勢な食事”を見るなり、メジロマックイーンは顔を思わず強張らせた。

 昼食にしてはあまりに重量のある献立に、メジロマックイーンは目の前のトレーの上にそびえ立つ“にんじんハンバーグ”と麻真の顔を数回交互に見ていた。

 

 

「……これを食べろと仰いますの?」

「ウマ娘なら、これくらい食べるだろ?」

 

 

 何を言っているのか分からないと言いたげに、麻真は自分の目の前にあるメジロマックイーンと同じ献立の乗ったトレーに視線を向けていた。

 確かにメジロマックイーンも他のウマ娘と同様に“そこそこ”食べる量は多い方である。運動することが多いウマ娘である以上、それはウマ娘なら誰もが通る道である。

 しかしウマ娘だからと言っても、メジロマックイーンはカロリー摂取量のコントロールはしているつもりである。ウマ娘とは言えど“女性”である以上、食べる量に比例してその分だけ身体に反映される“代価”がある。それは女性ならば、決して甘んじて受け入れてはいけない“代価”なのだ。

 昼食ならば、メジロマックイーンはいつもなら軽めの食事を選ぶか、もしくは普通の定食を選ぶ。何をとち狂って昼食に高カロリーである“にんじんハンバーグ定食”などを選ぶかと。

 しかし料理人に作ってもらい、麻真が持ってきてしまった以上は料理を残すという選択を選ぶことはメジロマックイーンにはできなかった。それは料理をした人に対して、最上位の無礼であることを彼女が理解していたからだった。

 

 

「はぁ、なぜ昼にこんなモノを……」

 

 

 故に、メジロマックイーンに食べないという選択はなかった。彼女が箸を持ってから「いただきます」と呟くと、目の前のにんじんハンバーグに渋々ながら箸を入れていた。

 メジロマックイーンが昼食を食べ始めたのを見て、麻真も彼女と同じように自分の食事を食べ始めていた。

 

 

「なに一丁前にカロリー気にしてるんだか……食える時に食っとけ。それに放課後に嫌ってほどトレーニングするならこれくらい食べとかないと持たないぞ」

「そのトレーニングを私にさせている貴方にそう言われると、何故かとても腹が立ちますわ」

「良いから食っとけ。よく動いて、よく食べて、よく休む。これができないと強いウマ娘になれないからな?」

「私をあまり子供扱いしないでもらえませんか?」

 

 

 食事を進めながら、二人がテンポ良く会話をする。

 そして昼食を食べ進めながらメジロマックイーンが麻真を見つめていると、彼女は数日前から疑問に思っていたことを訊いていた。

 

 

「麻真さん、よろしいかしら?」

「……なんだ?」

「あまりにいつも自然にいるから訊けませんでしたが……なぜ貴方は私と“生徒しか来ない時間の食堂”で一緒に昼食を食べてますの?」

 

 

 それはここ数日間、メジロマックイーンが思っていたことだった。

 トレセン学園の食堂兼カフェテリアは、基本生徒達が多く利用する施設である。特に生徒のみしか利用できない訳ではないが、先生やトレーナー達が食事時に食堂を利用している場面をメジロマックイーンは見たことがない。

 メジロマックイーンが噂程度で聞いた話では、先生やトレーナー達は生徒達が利用する時間を避けて利用していると聞いたことがあった。おそらく、立場のある人間が同じ空間にいることで生徒達の食事を邪魔するなどが懸念されるからだろう。

 しかし麻真はなに食わぬ顔で数日前からメジロマックイーンと昼食を共にしていた。メジロマックイーンも麻真と一緒に食事をするのが嫌とかではないが、他のトレーナーと違う行動をする麻真に対して怪訝な顔をしていた。

 

 

「なんでって……そんなのお前と飯食うからに決まってるだろ?」

 

 

 それが当然と言いたげに、麻真は即答していた。

 あまりに自然に言われたことにメジロマックイーンの反応が遅れる。そして理解していくにつれて、彼女は照れ臭そうに頬を僅かに紅くしていた。

 

 

「そうハッキリと仰いますと、照れてしまいますわ」

 

 

 恥ずかしそうにするメジロマックイーンを見て、麻真は苦笑していた。

 

 

「お子ちゃまがなにマセたこと言ってるんだか」

「……ではなぜ私と食事を一緒にするか、理由を是非ともお教え頂きたいですわ」

 

 

 麻真に子供と言われたことに、メジロマックイーンが口を尖らせる。

 拗ねているメジロマックイーンを見ながら、麻真は食事を進めながら答えていた。

 

 

「俺はマックイーンのことをよく知らないからな。同じくお前も、俺のことをよく知らない」

 

 

 そう麻真が話した内容に、メジロマックイーンは僅かに目を吊り上げていた。

 

 

「別に麻真さんのことをよく知らない訳では――」

「なら俺の好きな食べ物が何か言えるか?」

 

 

 メジロマックイーンが話している途中で、麻真が彼女の言葉に被せるように口を開いた。

 麻真の質問にメジロマックイーンが思わず言い淀む。彼女のその反応を見て、麻真は肩を竦めていた。

 

 

「お前が答えられなくても、俺は答えられる。俺はお前の好きな食べ物が甘いものってことは分かるぞ。でも逆に、お前の嫌いな食べ物は知らないけどな」

 

 

 そして麻真が味噌汁を啜って、一拍置いてから話を続けていた。

 

 

「マックイーン。お前は俺の担当ウマ娘、そして俺はお前のトレーナーだ」

「そんな当たり前のことを何故わざわざ仰ってますの?」

「前にも話したと思うが、担当ウマ娘とトレーナーは一蓮托生だ。それこそ互いの信頼がないと成り立たない関係だと俺は思ってる」

 

 

 それは先日に麻真がメジロマックイーンに話していたことだった。

 トレーナーとウマ娘、二人の信頼がなければ練習もレースも結果が出ない。それが麻真の持論である。

 その話は、メジロマックイーンも覚えていた。しかしその話と麻真が自分と一緒に昼食を取るのが繋がるとは彼女には思えなかった。

 

 

「それは前に聞きましたが……それが私と麻真さんが一緒に食事することとなにが関係ありまして?」

「あるに決まってるだろ?」

 

 

 即答する麻真だった。

 麻真が食事の手を止めると、メジロマックイーンに眉を寄せていた。彼は少し目を細めると、彼女をじっと見つめていた。

 

 

「マックイーン。ウマ娘とトレーナーの信頼ってどこから生まれると思う?」

 

 

 その質問に、メジロマックイーンが少し考える。そして思いついたことを彼女はそのまま口にしていた。

 

 

「ウマ娘とトレーナーの関係でしたら……そうですね。トレーナーという育てる方の手腕とそれに応えるウマ娘の成長と結果、その積み重ねではないでしょうか?」

 

 

 ウマ娘が信頼するトレーナーというのは、おそらく自分を強く育て、そして結果を出せる人間である。またトレーナーが信頼するウマ娘は自分の指示に応じ、そしてその成果を出すウマ娘だろう。

 メジロマックイーンのその答えに、麻真は嫌気が差す顔をしていた。

 

 

「上っ面の模範解答。俺からすれば三十点」

 

 

 失笑する麻真だった。しかしメジロマックイーンからすれば、それ以上の答えはないと思っていた。それ以外に望ましい答えなどあるはずがないと。

 メジロマックイーンが不機嫌そうに目を鋭くする。麻真はそんな彼女に溜息を吐いていた。

 

 

「お前が言ってるそれは最前提だ。そんな関係は学校の先生と生徒だ。それ以上の関係がない」

「……大体そうなのではなくて?」

 

 

 教える者と教わる者。それ以上の関係などメジロマックイーンからすればあるはずがないと思っていた。

 メジロマックイーンの思っている関係は、結局は言ってしまえばトレーナーとウマ娘の関係は利害の一致なのである。

 トレーナーは“自分の評価”の為にウマ娘を育てる。そしてウマ娘は自分が“良い成績を残す”為にトレーナーに従う。

 互いに優秀な相方を探し、そして結果を出して評価される。つまるところ、行き着く先は“それ”しかない。

 その前提の上で、互いに信頼をする。それが大体のトレーナーとウマ娘の関係ではないのかと。

 

 

「そうだろうな。だが俺からすれば、そんな関係なんて薄っぺらくて見てられない」

 

 

 しかし麻真はメジロマックイーンが話した“その関係”を否定していた。

 

 

「お前が、ウマ娘が大舞台であるトゥインクル・シリーズに出るのは何故だ?」

「メジロ家の悲願……天皇賞制覇ですわ」

 

 

 その答えに、麻真は満足そうに頷いた。

 

 

「そう、お前に“夢”があるからだ。その夢を文字通り本気で応援してやるのがトレーナーの俺だ。自分の評価なんて関係ない、俺が思うトレーナーの本質は、相方になった人にどれだけ尽くせるかだ」

「どれだけ尽くせるか、ですか?」

「そうだ。その過程があってこそ、関係を深くして互いに信用して初めて信頼ってのが生まれると俺は思ってる。自分の育てるウマ娘に絶対の自信を持って、俺の全てをお前に捧げる。それにお前は努力し、応える。そして結果が生まれる……それが信頼になっていくんだ」

「……先程、私が話したこととあまり変わりないと思いますが?」

 

 

 端的に言えば、麻真が話していることはメジロマックイーンが出した答えと変わりがない。

 結局は、トレーナーの手腕とウマ娘の結果になる。なにが違うのか?

 麻真は話の本質を理解のできていないメジロマックイーンに肩を落としていた。

 

 

「……分からないなら良い。どの道、いつか嫌でも分かるようになるさ。とにかく、俺はお前を知る為に俺の時間をお前に使うって話だ」

「だから私と食事を?」

「そういうことだ。簡単にいうと……互いを知りましょうだ」

 

 

 麻真の長い話だったが、メジロマックイーンが思うに彼の話を簡単にするならきっと一言で終わると思った。

 

 仲良くなりたい、これだと。

 

 わざわざ色々な理由を麻真が話していたが、結局のところ彼は自分と仲良くなりたいのだとメジロマックイーンは思うことにした。

 

 

「だから俺はお前を知るために、お前と一緒に過ごす時間をできる限り増やす。練習だって一緒にやるし、時間があれば一緒に飯も食う。なんだったら一緒に遊びにだって行ってやる。お前のトレーナーであるからには、俺が“俺の時間”をお前に使うのは当たり前だろ?」

 

 

 それはただの過保護なのではないか?

 メジロマックイーンは、率直にそう思った。

 無関心よりは全然良いが、しかし過剰な干渉もいかがなものかとも思う。

 別にメジロマックイーンは麻真のことを嫌ってはいない。むしろ好感を持っている方だろう。

 そしてメジロマックイーンからしても、麻真を知る機会が増えるなら麻真の行動を拒否する理由は特別なかった。

 それと麻真が一緒にいれば、メジロマックイーンには大きな利点もひとつあったのだから。

 

 

「麻真さんがそこまで仰るなら、分かりました。お好きにしてくださいな」

「それなら良い。勝手にさせてもらうさ」

「……貴方が一緒に居れば、他の人も私のところに来ませんので好都合ですわ」

 

 

 メジロマックイーンはそう言って溜息を吐くと、食事を再開していた。

 いつもなら昼食時もメジロマックイーンのところには多くの生徒が集まるが、麻真が彼女と一緒にいる時だけは生徒全員が少し離れて距離を置いてくれるのだ。

 物珍しそうに麻真を見つめる中等部の生徒と、時折彼に気さくに話しかける高等部の生徒しか現れない。これはメジロマックイーンからすれば、天の恵みと勘違いするほどに歓喜することだった。

 安らぐ場が自室しかない。生徒達が自分に群がる辛い数日を過ごしていた中で、麻真といる時だけは静かな時を過ごせる。それはメジロマックイーンにとっては死活問題とも言えることとなっていた。

 と言っても、その原因を作っている当人がその原因を解決するという意味の分からない構図については……メジロマックイーンは考えないようにしていた。考えれば考えるほど麻真への苛立ちが増すことになるので、彼女はそのことを考えるのを“やめる”ことにしていた。

 

 

「なんだ……本当にしんどそうだな。面倒だから聞いてなかったが、一日“何人”くらい来るんだよ?」

 

 

 そして麻真はメジロマックイーンの考えなど知らずに、彼女の“それ”に触れてしまった。

 

 

「“何人”……ですって?」

 

 

 その瞬間、メジロマックイーンの箸が止まる。いつの間にか、彼女の手は小刻みに震えていた。

 それは悲しみや恐怖などではない。紛れもなく、それは麻真に対する怒りの震えだった。

 

 

「まさかとは思いますが“一桁”で済ませるおつもりですか? 朝昼夜、途切れなく来る人達が全員揃って麻真さんのことを飽きもせずに聞いてくる人達を……“一桁”しか来ないと?」

 

 

 そう言ったメジロマックイーンの目つきが変わっていた。

 メジロマックイーンの目が据わっている。その目を見た途端、麻真は流石に顔を固くしていた。

 麻真の予想よりもメジロマックイーンに群がる生徒の数が多いことに、流石に麻真も少し彼女が可哀想と思ってしまった。

 

 

「……すまん。俺から生徒会にちょっと言っとくわ」

「生徒会に言って変わると思いませんが?」

 

 

 いくら生徒会といえど、そこまでの強制力を持っているとは思えない。

 

 

「いや、色々あってな。生徒会に言えば高等部の生徒の方は大体は収まると思う」

 

 

 麻真が少し言いづらそうにしながら、答えていた。

 メジロマックイーンは首を傾けると、麻真に訊き返していた。

 

 

「どういうことです?」

 

 

 その質問に、麻真が少し言葉に詰まったように言い淀んだ。

 少し考える仕草をして、どう答えるか悩んでいる様子だった。

 麻真の返事を待つメジロマックイーンだったが、彼よりも先に口を開いていた生徒がいた。

 

 

「麻真さんの件で生徒会が命じると、高等部の生徒達は言うことを聞くんだ」

 

 

 その声がした方にメジロマックイーンが向くと、そこには特大に盛られた定食を持った葦毛のウマ娘が立っていた。

 芦毛の長い髪を揺らして、凛とした綺麗な顔立ちのウマ娘。それはメジロマックイーンも知るほどの有名なウマ娘だった。

 

 

「オグリキャップさん……⁉︎」

「オグリ? 久々だな、急にどうした?」

 

 

 オグリキャップと呼ばれたウマ娘が麻真にそう言われると、少し誇らしそうに胸を張っていた。

 

 

「麻真さんの担当ウマ娘が困った顔をしていたからな。つい定食をもらう時に話が聞こえてしまい……来てしまった。すまないな、メジロマックイーン」

「いえ、私はそんな……構いませんわ」

「なら良かった。それと隣、良いだろうか?」

「構いませんわ」

 

 

 オグリキャップがメジロマックイーンの承諾を得ると、彼女が安堵した顔を見せてから麻真の隣に座っていた。

 そして特大に盛られた定食を「いただきます」と呟くと、信じられない速度で食べ進めていた。

 

 

「それでオグリキャップさん。さっきの話はどういうことですの?」

 

 

 食べ進めているオグリキャップに、メジロマックイーンが我慢できずに質問する。

 オグリキャップはその質問を聞くと、食べ進めていた手を止めて答えていた。

 

 

「あぁ、昔に揉め事があってな。それで高等部の生徒は麻真さんのことで生徒会が命じると従うんだ」

「おい、オグリ。あまりその話は……」

 

 

 オグリキャップの話を麻真が遮ろうとする。しかしメジロマックイーンは、それを気にもせずに質問を続けていた。

 

 

「なにがあったのですか?」

 

 

 その質問に、オグリキャップが少し間を置く。

 そしてオグリキャップは、その質問に答えた。

 

 

「あぁ、詳しくは省くが……過去に麻真さんを貶した生徒を生徒会が鬼のように折檻したという話がある」

「はっ……? 折檻?」

「そうだ。その件であの“皇帝”シンボリルドルフが高等部から更に恐れられる存在になった訳でもあるが」

 

 

 オグリキャップの話を聞いて、メジロマックイーンが思わず麻真の方を向く。

 メジロマックイーンが見た麻真はオグリキャップの話を聞くなり、少しだけ表情に僅かに影を落としていた。




読了、お疲れ様です。
更新までの間にお気に入り、評価を頂けて感謝の限りです。
本当にありがとうございます!

episode3ですね。
今回は穏やかに進めていきます。
麻真とメジロマックイーンの昼食、学園の揉め事、そんな話です。
次からもメジロマックイーン、出していきますよっ!


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2.渾身の傑作

 

 

 基礎トレーニング。それはウマ娘なら誰もが通る道である。

 速く走る為にウマ娘は自身を鍛える。しかし人の気持ちとは揺らぐものだ。長い時間を掛けていくにつれて、誰もが基礎を疎かにしてしまうものである。

 そしていつの日か基礎を飛ばして、速く走ろうとする者は無理に応用へ行こうとする。

 必ず強いウマ娘になる為の正解などはないだろう。しかし必ずと言って良いほど、強いウマ娘は似たような道を辿っている。

 

 レースで誰よりも速くゴールする為には、なにが必要か?

 

 無尽蔵な体力、強靭な筋力、身体の動かし方、もしくは競争相手との読み合いの巧さか?

 答えは簡単である。それは“全て”だろう。

 レースで誰よりも速く走る為には、誰よりも強ければ良い。

 競争相手よりスタミナがあり、誰よりも加速できる筋肉を持ち、誰が見ても綺麗だと言えるフォームで走り、そして駆け引きが上手い人が勝つ。それがレースの本質である。

 ウマ娘が願っている行き着く理想は、誰もが同じである。しかしその過程である“道”は、誰もが違う道を進む。

 その過程――つまりは努力が結果を生む。誰よりも鍛錬を重ねた者だけが、ただ一人だけの勝利を掴み取る。

 

 努力を怠るウマ娘に、勝利などはない。

 

 それは強者であるウマ娘ならば、心の底から確信していることであった。

 

 

「もうワンセット、行くぞ」

「――はいっ!」

 

 

 麻真の声と共に、メジロマックイーンが大きな声で返事をする。

 麻真が落とさないように支えているバーベルをメジロマックイーンが首後ろと両手で支え、ゆっくりと膝を落とす。

 そして膝を落としてから、今度はゆっくりと立ち上がる。これをひたすらに繰り返す。所謂、スクワットだった。

 通常のスクワットならば、メジロマックイーンも苦もなく回数をこなせる。しかしバーベルという重りを持っている以上は足への負荷が更に掛かっている所為で、回数を重ねるに連れて彼女の顔は険しくなっていた。

 

 

「ぬっ……! ぐっ……!」

 

 

 そして十回をワンセットとして、メジロマックイーンは六回の時点で膝が上がらなくなっていた。

 本来ならここでメジロマックイーンはバーベルを落として身体を休めるだろう。

 しかし麻真はそれをさせずに、メジロマックイーンが持つバーベルを支えたまま彼女に告げた。

 

 

「持ち上がるぞ。ほら、頑張ってみろ」

「こんのっ……‼︎」

 

 

 メジロマックイーンが必死に力を込めるが、膝が持ち上がらない。

 そこで麻真は支えていたバーベルをメジロマックイーンが分からない程度に僅かに持ち上げると、彼女は無事に膝を上げられていた。

 

 

「はぁ……! はぁ……!」

「はい。あと四回」

「……はいっ!」

 

 

 麻真に促されて、メジロマックイーンが膝をゆっくりと落とす。

 また落とした膝が上がらなくてメジロマックイーンの身体が震えるが、麻真は先程と同様にバーベルを僅かに持ち上げて、彼女にスクワットをさせていた。

 そして目標の十回を終えると、バーベルを下ろしたメジロマックイーンはその場に倒れていた。

 

 

「二セット目終わり。インターバル入れてから次は三セット目だからな」

 

 

 無慈悲に麻真がメジロマックイーンに告げる。

 倒れていたメジロマックイーンは全身に汗を掻きながら、麻真を恨めしく見つめていた。

 

 

「本当に鬼ですわ……!」

 

 

 メジロマックイーンは心の底からこのトレーニングが辛いと思っていた。

 麻真の指示でトレセン学園にあるトレーニング用ジム室で基礎トレーニングを始めて数日が経っても、メジロマックイーンはこのトレーニングは一向に慣れる気がしなかった。

 麻真が指示するトレーニングは、翌日になると確実に筋肉痛になる。限界まで身体を酷使させられる所為で、メジロマックイーンはほぼ毎日筋肉痛に悩まされていた。

 

 

「鬼でもなんでも良い。お前がやめるならやらないぞ?」

「ぐっ……! やりますわよっ!」

「それで良い。インターバルはちゃんと休んどけ」

 

 

 悔しそうにメジロマックイーンが睨むが、麻真はけらけらと笑っていた。

 メジロマックイーンが苦しいのは、麻真も十分に理解していた。

 それもそのはず、麻真はメジロマックイーンの筋肉を限界まで酷使しているのだ。

 今メジロマックイーンがしている“バーベルスクワット”は、麻真が決めた回数を彼女がやり終えると限界を迎えるように設定していた。

 十回のスクワットをメジロマックイーンが設定回数を限界を振り絞らないとできないようにバーベルを持たせて行わせる。

 他のトレーニングも同様に、麻真は常にメジロマックイーンが限界まで筋肉を酷使するように設定していた。

 

 

「まるで拷問ですわ……筋肉痛が治ったと思ったらトレーニング。また筋肉痛で、またトレーニング。これの繰り返しですわ」

 

 

 インターバルを終えて、三セット目のバーベルスクワットを始めるメジロマックイーンが不貞腐れていた。

 この基礎トレーニングを行なっている期間、メジロマックイーンは麻真に走ることを禁止されていた。

 そしてこのトレーニングと筋肉痛の日々に、走ることを禁止されているメジロマックイーンがストレスを溜めるのは必然とも言えた。

 不機嫌でもスクワットを始まるメジロマックイーンに、麻真は回数を数えながら苦しむ彼女に朗らかに話していた。

 

 

「筋肉痛ってのは悪いもんじゃない。筋肉が育ってる証拠だ」

「それは……! わかって……ますわっ!」

 

 

 メジロマックイーンも麻真の話していることを理解はしていた。

 筋肉痛とは筋繊維が傷ついて起こる症状である。そしてその傷ついた筋繊維を休めて回復すると、傷ついた筋繊維は傷つきにくくなるように修復し強化される。それが超回復と言われる筋肉の成長である。

 

 

「ならちゃんとやる。その分だけお前の身体は強くなる」

「くっ……! わかり、ました……わっ!」

 

 

 不満を言いながらもメジロマックイーンが麻真の指示通りにトレーニングを行う。

 

 

「あと三箇所回って足のトレーニング終わったら、柔軟とマッサージするからな」

「ぬっ……! ぐぐっ……!」

「ほら、あと三回。まだ持ち上がるぞ。力入れろ」

「こぉん……のっ!」

 

 

 麻真に煽られて、メジロマックイーンが気合でスクワットを続ける。

 そんな二人の姿を見ていた他のウマ娘とトレーナー達は、その過剰なトレーニングを唖然とした顔で見ていたのに二人は気付いていなかった。

 ウマ娘達は思った。あまりに辛過ぎると、自分なら投げ出したくなるような光景だった。それこそワンセットを死ぬ気でやらないといけないのに、それを複数回してるのだからメジロマックイーンの折れない精神力に驚愕する。

 トレーナー達も、そこまで過剰なトレーニングを自分の担当ウマ娘にさせる気はなかった。麻真のトレーニングは理に適っているが、ウマ娘のメンタルが耐えられないと。

 トレーニングをさせる方も、している方もどうかしている。トレーニング用のジムにいる全員が同じことを思っていた。

 そんな空間の中、一人のウマ娘が二人の元に近づいていた。

 

 

「精が出てるな、メジロマックイーン」

 

 

 そしてそのウマ娘――シンボリルドルフがバーベルスクワットを終えたメジロマックイーンに話し掛けていた。

 シンボリルドルフがいきなり現れたことに倒れていたメジロマックイーンが慌てて起き上がろうとしたが、思うように立てずパタリと倒れていた。

 

 

「そのままで良い。見かけたから声を掛けただけだ」

「ですが、会長……!」

「気にするな。休める時に身体を休めておけ、麻真さんはこういう時は特に厳しいからな……ふふっ、お前を見ていると昔の私を思い出すな」

 

 

 倒れているメジロマックイーンを見て、シンボリルドルフが懐かしそうに彼女を見つめる。

 その言葉に、メジロマックイーンは倒れたまま反応していた。

 

 

「会長も……同じことをしたのですか?」

「あぁ、私も麻真さんに鍛えてもらったから勿論したぞ。あの時は私も筋肉痛が酷くてな……それに走るなと言われて禁止されてしまったから特にストレスが酷かった」

 

 

 まさに自分と同じである。メジロマックイーンは同じ被害者がいると、目を輝かせてシンボリルドルフを見ていた。

 しかし麻真はそう話すシンボリルドルフに、不服そうに目を細めて苦笑いしていた。

 

 

「随分言うじゃないか、ルドルフ。だからあの時のお前トレーニングする時は機嫌悪かったのかよ?」

「あれは誰がしてもそうなるに決まってるだろう? それに……麻真さんはそうなるのを分かってたんだろう?」

 

 

 シンボリルドルフがそう言うと、麻真は目を僅かに大きくした。

 麻真は即座に理解した。シンボリルドルフは過去を振り返った時に、自分が指示した練習の意図に気づいたのだと。

 メジロマックイーンが小首を傾げ、シンボリルドルフの話に興味を示したような表情をしたのを麻真はすぐに察知した。

 それにメジロマックイーンが反応するよりも早く、麻真が肩を竦めるとシンボリルドルフの言葉を鼻で笑っていた。

 

 

「勝手に言ってろ。別にお前も話に来ただけじゃないだろ?」

「あぁ、先週エアグルーヴから聞いたことを確認したくてな。麻真さん達がトレーニングジムにいるのは噂で聞いていたから、練習前に立ち寄ったんだ」

「エアグルーヴ? あぁ……あれか?」

 

 

 シンボリルドルフが話しているのは、先週に行われた麻真とのレースが終わった後に彼がエアグルーヴに伝えていたことだった。

 

 

「麻真さんから食事を誘われたんだ。私に受けない理由はない。しかしなかなか時間が取れなくてな……今日の夜ならどうかなと思って声を掛けにきた」

 

 

 そうシンボリルドルフがそう伝えると、麻真は頷いていた。

 その誘いは、麻真からしても都合が良かった。彼も丁度彼女に用事があった。

 

 

「丁度良かった。俺もお前に話があったんだ」

「む? なんだ改まって?」

「コイツのことでちょっとな」

 

 

 麻真が倒れているメジロマックイーンを指差すと、シンボリルドルフは彼女を一瞥して首を傾げた。

 

 

「……何かあったのか?」

 

 

 麻真の用件が読めないシンボリルドルフが怪訝な顔を見せる。

 そんなシンボリルドルフに、麻真は僅かに肩を竦めていた。

 

 

「マックイーンに生徒が群がってる。中等部はまだ分かるが、高等部の生徒もかなり来てる」

「……なに? それは本当かメジロマックイーン?」

 

 

 麻真の話を聞くなり、シンボリルドルフの目が据わっていた。

 シンボリルドルフに問われたメジロマックイーンは、その威圧に驚きながらも素直に頷いた。

 

 

「はい……ここ一週間続いてますわ」

「はぁ……全く、手間の掛かる生徒が多くて困る」

 

 

 メジロマックイーンの返答に、シンボリルドルフが頭を抱えていた。

 

 

「そう言うわけだ。まぁ続きは、夜に話そう。場所はどうする?」

 

 

 困り果てるシンボリルドルフに、麻真がそれ以上の話をすることを控えるように遠回しに伝える。

 シンボリルドルフもその意図を察して、頷いていた。

 

 

「誰かに聞かれるのも都合が悪いだろう。生徒会室の方で良いか?」

「……生徒会室で?」

「あぁ、問題ない。私も生徒会室で食事をしたことはあるからな」

「おいおい、生徒会長が職権濫用は良くないぞ?」

「ふふっ、こう見えて多忙だからな、私も。折角の麻真さんと食事に雰囲気もないが、それは許してほしいところだ」

「別にそんなのいらないって、気にするな」

 

 

 穏やかに笑うシンボリルドルフに、麻真が苦笑しながら答える。

 話をするその二人を横目に、ようやくメジロマックイーンが立ち上がっていた。

 そんなメジロマックイーンをシンボリルドルフが見つめる。彼女は少し考える仕草をすると、メジロマックイーンに提案していた。

 

 

「メジロマックイーン、君も一緒にどうだ?」

「えっ……? 私もですか?」

 

 

 シンボリルドルフの提案に、メジロマックイーンが心底驚く。

 まさかシンボリルドルフが麻真との食事に自分を誘うなどとは思わなかった。

 

 

「その方が君も都合が良いだろう。生徒会室に無断で入る生徒もいない。丁度良い、私も麻真さんの担当である君のことを知りたいと思っていたんだ」

「おい、ルドルフ。それは……」

 

 

 しかし提案するシンボリルドルフに、麻真が彼女の提案に眉を寄せる。

 シンボリルドルフは麻真があまり良い反応をしていないことに怪訝な顔をしていたが、彼女は合点がいったように納得していた。

 

 

「麻真さん、メジロマックイーンには伝えてないのか?」

「……別に話しても仕方ないだろ?」

「全く、貴方のそういうところは本当に変わってないな」

 

 

 麻真とシンボリルドルフが二人にしか分からない話をしていることに、メジロマックイーンが思わず顔を顰める。

 メジロマックイーンの顔を見て、シンボリルドルフも思わず苦笑いしていた。

 

 

「すまない。メジロマックイーンは分からない話だったな。そういう話も色々と来てくれれば話せれば良いと思っている。良ければどうかな?」

 

 

 そして再度シンボリルドルフがメジロマックイーンを食事に誘う。その誘いに、メジロマックイーンが断る理由はなかった。

 

 

「私で良ければ、ご一緒させて頂きますわ」

 

 

 メジロマックイーンの承諾に、シンボリルドルフは満足そうに頷いていた。

 

 

「それは良かった……む? なら一緒にエアグルーヴも呼んでおくか? 彼女も居れば何かと話が早そうだ」

「アイツ、呼んだら来るのか?」

「エアグルーヴならきっと飛んでくるぞ、麻真さんがいるならな」

「犬かよ……その浅はかな考えもどうかと思うがな」

 

 

 麻真が安直に考えるシンボリルドルフを窘める。

 しかしシンボリルドルフは麻真が言った言葉を聞くなり、ハッと何かを思いついたように自信に満ち溢れた顔をしていた。

 

 

「浅ましい考え? それはお互い様だぞ、麻真さん? あさまさんも“あさま”しい……ふふっ、どうだ?」

「はっ……?」

 

 

 シンボリルドルフが意味の分からないことを言い出したことに、メジロマックイーンが目を点にする。

 メジロマックイーンが理解してない顔をしていても、何故かシンボリルドルフは誇らしそうに麻真を見つめていた。

 

 

「良し、メジロマックイーン。次のトレーニング行くぞ」

 

 

 だが麻真はシンボリルドルフの話を聞くなり、そそくさと立ち去っていた。

 

 

「へっ……? あとちょっとっ⁉︎」

 

 

 麻真が速足でその場を立ち去ったことに、メジロマックイーンが慌てて追い掛ける。

 二人が立ち去るのを見届けながら、シンボリルドルフは寂しそうに肩を落としていた。

 

 

「……渾身の傑作だと思ったのだが」

「五点だ! 出直してこい!」

 

 

 立ち去りながら麻真が大きな声でシンボリルドルフに告げる。

 麻真の評価に、シンボリルドルフは心底不服そうに口を尖らせていた。

 

 




読了、お疲れ様です。

メジロマックイーンのトレーニング回でした。
それとシンボリルドルフが登場、そんなお話。
のんびりと進めていきます。


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3.見せてみろ

 

 

 

 

 

 麻真がメジロマックイーンに指示した基礎トレーニングは、彼女の日常を少しずつ変えていた。

 今現在、メジロマックイーンが行っている基礎トレーニングは、麻真の指示で鍛える箇所を上半身と下半身に分けて、この二つの箇所を交互に鍛えている。

 メジロマックイーンが上半身を限界まで鍛えた翌日は、当然のように彼女の上半身の筋肉が筋肉痛になる。だが上半身を鍛えた日は下半身を鍛えていないので、上半身が筋肉痛でも下半身の筋肉を鍛えることができることを麻真は指摘した。

 そして上半身が筋肉痛の日に下半身を鍛えれば、翌日には下半身の筋肉が筋肉痛になる。なら今度は、既に“筋肉痛の治まっている”上半身を鍛えば良い。メジロマックイーンはこれを一日ずつ交互に繰り返していた。

 本来なら筋肉痛は一日程度では治らない。しかしメジロマックイーンの身体の筋肉痛は丸一日休ませると、その翌日には不思議と彼女の身体にあったはずの筋肉痛が消えていたのだ。

 基礎トレーニングを始めたばかりの頃はメジロマックイーンもその変化に驚いていたのだが、数日経てば彼女も納得せざるを得なかった。

 

 それは自分のトレーナーである北野麻真の“トレーナーとしての能力”の一端を、メジロマックイーンが垣間見た瞬間だった。

 

 メジロマックイーンが基礎トレーニングで限界まで身体を酷使した後、麻真は彼女に様々なことを指示し、実施していた。

 まずは基礎トレーニング後に、麻真が何処からか持ってきた“特製のドリンク”と“スナック菓子のようなモノ”をメジロマックイーンに食べさせていた。彼曰く、それはトレーニング後の栄養補給でとても効果があるらしい。

 次に、ストレッチだ。疲れ切っているメジロマックイーンが適当に行わないように、麻真が補助をして丹念に彼女のストレッチを行う。

 そしてストレッチを終えたメジロマックイーンがシャワーで汗を流した後、麻真は彼女の身体を丁寧にマッサージしていた。

 マッサージをすると麻真から聞いた時、初めは流石のメジロマックイーンも男性に身体に触られることに対して否定的だったが、渋々彼からマッサージを受けてしまったのが運の尽きだった。

 このトレーナーこと北野麻真は、マッサージが“非常に”上手かった。実際に受けたメジロマックイーンも麻真からマッサージを受けた途端、心地良さのあまりに惚けた顔をしていた程だった。彼曰く、自分でもトレーニングした後は良くやっていることらしい。

 そうして麻真のマッサージを終えて夕食を済ませ、自室で読書などで時間を過ごした後、夜に適温の風呂に入ることで更に身体を癒し、最後はベッドでしっかりと熟睡する。

 この一連の流れが、麻真と基礎トレーニングを始めたメジロマックイーンの放課後ルーティンとなっていた。

 

 

 

「ようやく今日の練習も終わりましたわ……」

 

 

 

 制服姿のメジロマックイーンがソファに座ると、彼女はそのままソファに身体を預けてるなり全身の力を抜いていた。

 今日も厳しいトレーニングを終え、ストレッチからマッサージまで終えた後、夕食までの時間をメジロマックイーンは麻真に呼ばれてトレーナー室で過ごしていた。

 トレーニング後に麻真から話があると言われてトレーナー室までメジロマックイーンが彼と一緒に来た後、麻真は何かを取りに行くと言ってすぐにトレーナー室から立ち去っていた。

 

 

「……全然戻ってきませんわ」

 

 

 誰もいないトレーナー室で、メジロマックイーンは麻真が戻ってくる来るまでの時間を部屋に備え付けられたソファで寛ぐ。

 トレセン学園のトレーナー室は、文字通りトレーナー達が使う部屋である。部屋にはトレーナーが各々仕事できる用のデスクが並んでいた。

 そんなトレーナーが仕事をする場所でも、休憩する為の場所がある。トレーナー室の一角に、ソファに机、そしてテレビが備え付けられている場所があった。メジロマックイーンはそこにあるソファに座って寛いでいた。

 何故自分以外に誰もトレーナー室にいないのか不思議だったが、メジロマックイーンはそんなことは疲れていて気にするのも面倒だった。

 

 

「ふわぁ……!」

 

 

 少し待っても麻真が一向に戻らないことに、欠伸をしていたメジロマックイーンの目蓋が少しずつ落ちていく。

 メジロマックイーンの疲れた身体にゆっくりと眠気が襲い掛かる。そうしてしばらく経ち、彼女が頭をこくりと落とし始めたところで、ようやく麻真がトレーナー室に戻って来ていた。

 しかしメジロマックイーンは、眠気のあまり麻真がトレーナー室に戻って来たことに気付いていなかった。

 

 

「ん……?」

 

 

 トレーナー室に入った麻真が、頭をふらふらと揺らしているメジロマックイーンを見て眉を寄せる。

 そして麻真がメジロマックイーンが座るソファの後ろに立っても、一向に彼女は麻真に気付く様子はなかった。

 そんなメジロマックイーンに、麻真はニヤリと笑っていた。

 メジロマックイーンの後ろで麻真が右手に持っていた厚めの資料を丸めると――彼は勢い良く自分の左手に振りかぶっていた。

 

――パンッと乾いた大きな音がトレーナー室に響いた

 

 今まで無音だったトレーナー室で、眠る一歩前だったメジロマックイーンの耳に大きな音が響く。

 

 

「ひゃあぁぁぁぁ‼︎」

 

 

 瞬間、メジロマックイーンが大きな声を出して驚いた。耳と尻尾がピンと逆立ち、彼女が心底驚いているのが見て分かる。

 眠さのあまり無防備だったメジロマックイーンに、その大きな音は彼女を覚醒させるのに十分な音量だった。

 麻真は驚いているメジロマックイーンを見ると、心底楽しそうに笑っていた。

 メジロマックイーンが慌てて声の方に振り向くと丸めた資料を持っていた麻真を見るなり、すぐに彼が“犯人”だと理解した。

 

 

「なっ……麻真さんっ! なにするんですのっ⁉︎」

「お前が眠たそうにしてたからだ。でもちゃんと起きただろ?」

「むしろビックリし過ぎて死ぬかと思いましたわ‼︎」

「ははっ、俺は珍しいもの見れたから楽しかったぞ?」

「くっ……いつか絶対にやり返しますわ……!」

「やれるものならやってみろ。楽しみにしておく」

 

 

 当然、メジロマックイーンは怒っていた。

 しかし麻真はそんなことを気にする素振りもなく丸めた資料を元に戻しながら、彼はメジロマックイーンの向かいにあるソファに座っていた。

 

 

「さて……ルドルフと約束の時間まで少しあるからな。ちょっと時間のあるうちに今後の話をしておこうと思ったんだ」

「……今後の話ですか?」

 

 

 驚かされて不機嫌ながらもメジロマックイーンが麻真に怪訝な顔を見せる。

 麻真は手に持っていた資料を見ながら、機嫌の悪いメジロマックイーンを無視して話を進めていた。

 

 

「あぁ、すぐに話しておこうと思ってな」

「……またトレーニングの話ですか?」

「それも少しあるが、本題はそこじゃない。マックイーン、今何月だ?」

 

 

 唐突に麻真に訊かれてメジロマックイーンが眉を寄せる。彼女はトレーナー室の壁にあるカレンダーを一瞥して答えた。

 

 

「五月、ですわ」

「そう、五月の初旬だ。そこで今日、理事長から俺のところに“コレ”がきた」

 

 

 麻真が手に持った資料をひらひらとメジロマックイーンを見せつける。

 メジロマックイーンが麻真の持つ資料に視線を向けていると、彼は楽しそうに告げていた。

 

 

 

「マックイーン、お前のメイクデビュー戦が決まった」

 

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、眠気が吹き飛んだメジロマックイーンの背筋がピンと真っ直ぐに伸びた。

 その反応を見て、麻真が更に楽しそうにしながらメジロマックイーンを見つめていた。

 

 

「俺がマックイーンの専属トレーナーとして四月末で“URA”に正式登録されたからだな。メイクデビュー戦は基本四月末だが、トレーナーが決まるのが遅いウマ娘も多い。URAが決めた日時で臨時で行われることがよくある。だから今回、五月末開催予定のジュニア級のメイクデビュー戦への参加指示が俺のところに来た」

 

 

 URA――Uma-musume Racing Association――とは、ウマ娘競争協会の略称である。ウマ娘のレース登録や競争ルールの策定を取り仕切っている組織である。

 このURAにトレーナーがウマ娘を自分の担当として申請し、登録しなければ出走を認められないレースが存在する。基本的にはトレーナーは担当しているウマ娘を自分の担当ウマ娘としてURAに登録するのが一般的である。

 麻真の場合、これをトレセン学園の理事長である秋川やよいによって登録されてしまい、強制的にメジロマックイーンのトレーナーとしての活動を強いられていた。

 

 

「流石に俺も次のメイクデビュー戦の開催が五月とは思わなかった。多分来月辺りだと思ってたくらいだからな。予定より早いが……もし断ると次がいつになるか分からないこともあって、今回の参加指示を受けることにした」

「もしそれを断ると、どうなりますの?」

「基本的には断らないんだが……断ると次の開催までトゥインクル・シリーズには出れないな」

 

 

 メイクデビュー戦とは、新人のウマ娘がまず初めに出場するレースである。これを初めに出場しなければ、そのウマ娘は他のレースへの出場権利をURAから獲得できない。

 基本的にメイクデビュー戦の開催は、四月末に開催される。トレセン学園に四月に入学したウマ娘がトレーナーを見つけ、URAに登録するのが四月中であることが主な理由である。

 しかし四月中にURAへの新規登録ができなかったウマ娘がいるのも、当然である。その場合、URAに新規登録されたウマ娘の人数が適性毎にレース開催可能人数まで集まるまでメイクデビュー戦は開催されない。つまりは、いつ行われるかが分からないということだ。

 

 

「……貴方が断らなくて良かったと心から思いますわ」

 

 

 メジロマックイーンが心から安堵していた。まさかトレーナーの意思でトゥインクル・シリーズへの参加権を失う可能性があることに内心震えていた。

 

 

「断るトレーナーなんて滅多にいないけどな。とまぁ、お前のレースが決まったから、その詳細を話してやる」

 

 

 おそらく麻真の持っている資料がメイクデビュー戦について書かれた資料なのだろう。

 麻真が資料を見ながら、メジロマックイーンに詳細を伝えていた。

 

 

「お前の適正距離は事前にURAに伝えていたからその辺りは考慮されてるみたいだな。会場は阪神、芝の二千メートルの中距離枠に組み込まれてる」

「二千メートルの中距離……長距離ではないのですね」

 

 

 麻真からレースの内容を聞いて、メジロマックイーンが呟く。

 レースには基本的に四つの距離がある。今回、麻真はトゥインクル・シリーズを仕切っている“URA”にメジロマックイーンの適正は中長距離で登録していた。それによりURAから参加指定を受けたは、中距離となっていた。

 

 

「メイクデビュー戦は中距離までだ。新米のウマ娘に長距離はまだキツいだろう。お前みたいにある程度のスタミナがある奴ばかりじゃないんだ」

 

 

 中距離と言われて首を傾げるメジロマックイーンに、麻真が苦笑する。

 メイクデビュー戦では、短距離から中距離の三種類でしか行われない。

 まだ練習を始めたばかりのウマ娘では、本来ならば中距離でも距離適性があっても速度を出して走り切るのは難しい。故に、ある意味ではメイクデビュー戦の中距離は、割と困難なレースでもあった。

 しかしメジロマックイーンに関しては、麻真はその点は心配はしていなかった。彼から見てもメジロマックイーンは、スタミナ“だけ”はある方だと判断していた。

 

 

「そんな訳だ。だからメイクデビュー戦のある月末に向けての方針を今のうちに話しておこうと思ったんだ。マックイーン……聞く気はあるか?」

 

 

 麻真がわざとらしくメジロマックイーンに訊く。

 メジロマックイーンはそんな嫌味ったらしい麻真に頬を僅かに膨らませていた。

 

 

「……聞きますわよ。別にそれがトレーニングの話でも」

「不貞腐れるな、ちゃんと前向きに話してやるから」

 

 

 そう言って麻真が手に持っていた資料の一枚をメジロマックイーンに渡す。

 渡された資料をメジロマックイーンが確認すると、資料の内容は今後の練習日程が記載されていた。

 

 

「俺はあまり書類とかで残すことはしないタイプなんだが、お前はその方が好みだろう。それがお前の月末までの日程だ」

 

 

 麻真は基本的に練習日程などを書類などに残すことを好まない。彼の場合、決めた日程通りに練習するよりも担当のウマ娘の成長過程を見ながら随時練習内容を変えていくタイプのトレーナーである。

 だがメジロマックイーンの場合は、彼女の性格を麻真が見る限り、今後の練習予定をある程度把握している方が好ましいタイプのウマ娘と判断していた。その為、麻真はわざわざ彼女の為に資料を用意していた。

 メジロマックイーンが麻真から渡された資料を読み進めると、彼女は次第に表情を曇らせた。

 

 

「これ……本気で言ってるんですの?」

 

 

 手に持った資料を指差して、メジロマックイーンが引き攣った表情を作る。

 麻真はそんなメジロマックイーンの反応に、思わず小首を僅かに傾けていた。

 

 

「そうだが? 何か問題あるか?」

「あるから訊いてるのが分かりませんのっ⁉︎」

 

 

 メジロマックイーンが大きな声で麻真に文句を伝える。

 そしてメジロマックイーンが手に持っていた資料を僅かに指を震わせて差していた。

 

 

「レースの十日前まで基礎トレーニングだけってどういうことですのっ⁉︎ 流石に走る練習を全くしないのは私も容認できませんわ‼︎」

 

 

 メジロマックイーンが見た資料には、麻真が考えた大まかな彼女のメイクデビュー戦までの練習日程が書かれていた。

 その内容は五月の初旬である今日から約二週間は基礎トレーニングのみで、レース十日前から走る練習を入れながら基礎トレーニングをしていくという内容だった。

 レースとは、競争である。つまり走って競う。それなのに直前まで走る練習をしない内容の練習日程には、メジロマックイーンも驚愕していた。

 

 

「別に必要ないから入れてないだけだぞ?」

「必要ない訳がありませんわ! レースは競争! つまりは走って競うのですわ! それなのに走る練習をしないなんて……!」

 

 

 メジロマックイーンが頭を抱える。メイクデビュー戦は初めてのレース、初陣なのだ。メイクデビュー戦で幸先の悪い結果を残すなど彼女には到底許せないことだ。

 メジロマックイーンは自分なら基礎トレーニングなどやめて走る練習をする。それこそ競争相手に負けないようにコースを早く走れる特訓をするだろう。

 しかし麻真は、メジロマックイーンの考えと全く違っていた。彼は怒る彼女に呆れたように溜息を吐いていた。

 

 

「走る練習は後で良い。それに走るのもまだ禁止だ」

「それだとレースで勝てませんわ! 明日から走る練習をしましょう!」

 

 

 練習しているのは自分だけではない。他のウマ娘も同様に日々練習をしている。きっと毎日コースを走り、速く走る為の努力をしているに違いない。

 メジロマックイーンはそれに危機感を覚えていた。故に、彼女は麻真に強く懇願していた。走る練習をしたいと。

 

 

「駄目だ。やらない」

 

 

 しかし麻真は首を横に振ると、メジロマックイーンの希望を拒否していた。

 メジロマックイーンが思わず麻真に目を細める。不満を訴えるその視線も、麻真は一蹴していた。

 

 

「お前はまだ基礎トレーニング、これは変わらない」

「ですが走る練習をしないと速く走ることなんて――!」

 

 

 意見を変えない麻真に、メジロマックイーンが再度抗議する。

 そんな焦りの見えるメジロマックイーンに、麻真は少し目を細めて答えていた。

 

 

「基礎が作れてない奴が――速く走れるなんて思うなよ?」

 

 

 珍しく、麻真の声が低くなっていた。

 その声を聞いたメジロマックイーンが、少したじろぐ。麻真のその声は、メジロマックイーンが彼と初めて会った時に聞いた無愛想な声質だった。

 麻真は腕を組むと、その鋭い目をメジロマックイーンに向けていた。

 

 

「お前の力量は一緒に走ったから分かる。お前はジュニアクラスなら速い方だ。だが……今のお前は所詮そこまでだ」

 

 

 麻真の威圧に、メジロマックイーンが言葉に詰まる。

 麻真はメジロマックイーンを見据えたまま、彼女に告げた。

 

 

「お前にはまだ足りないものが多い。唯一あるのはスタミナと根性だけ、速く走る為の加速力と速度が圧倒的に足りてない」

「だから私に基礎トレーニングをしろというのはわかりますわ……ですが!」

「お前がそう思うのも分かる。だからと言って、走らせるのは話が違う」

 

 

 持っていた資料の一枚を麻真がメジロマックイーンに見せつけるように顔の横に持ち上げる。

 メジロマックイーンがよく見ると、それは先程麻真が話していたメイクデビュー戦の資料だった。

 

 

「お前が今から走る練習をすれば、メイクデビュー戦を勝つのは簡単だろう。だが、ただ勝つだけじゃ“足りない”」

 

 

 そう言って麻真が持ち上げた資料をゴミのように丸めると、彼は丸めた資料をボールのようにして掌で遊ばせていた。

 

 

「お前はメジロ家の悲願であり、URAで偉業のひとつと言える天皇賞の制覇を目標にしている。ならメイクデビュー戦のレース程度――圧倒的に勝たなければいけない」

「圧倒的に……?」

 

 

 メジロマックイーンが麻真の圧力に驚きながらも、小さく訊き返した。

 

 

「そうだ。唯一無二の栄誉である“盾”を独占する為に最強のステイヤーになるのなら、初戦は勝つだけじゃ足りない。ウマ娘達に圧倒的な力を示す為のレースをする」

 

 

 そして麻真は手に持っていた丸めた資料を、近くのゴミ箱に向けて投げていた。

 まるでメイクデビュー戦は眼中にないと言っているような麻真の行動に、メジロマックイーンは背筋に冷たいものが通るような感覚を覚えた。

 

 

「それが……コレでできると言うんですの?」

 

 

 メジロマックイーンが手に持っていた練習日程の資料と麻真の顔を交互に見つめる。

 麻真は不安そうに見つめてくるメジロマックイーンに、小さな笑みを浮かべていた。

 

 

「できるから、やらせてる。後悔は絶対にさせない」

 

 

 そうして次に出てきた麻真の言葉に、メジロマックイーンは鳥肌を立てた。

 

 

「俺について来い。お前の走る先の世界、俺に見せてみろ」

 

 

 その自信に溢れた顔、そして麻真から感じる強い威圧感に――メジロマックイーンが抱えていた不安が、不思議と消えていた。

 故にメジロマックイーンは、答えた。その言葉だけで、麻真に伝わると思って。

 

 

「はい。私に後悔をさせないでくださいませ」

 

 

 その答えに、麻真は心底嬉しそうに微笑んでいた。




読了、お疲れ様です。

実は少し難産でした。
さて、今回はメジロマックイーンと麻真のみの登場です。
ようやく決まったメジロマックイーンのレースについてでした。
麻真の考えとメジロマックイーンの考えの食い違い、そんな話でした。

日々、お気に入りが増えていることに恐縮しています。
また多くの評価を入れて頂けて、感謝の限りです。
感想も頂けて、見る度に“書こう”と思っています。
今後とも、見守って頂けると幸いです。


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4.聞かせてもらいたい

 

 

 メジロマックイーンが生徒会室に入ったことは、実のところなかった。

 洋風の家具や絨毯が備えられ、豪華な部屋だと一目でわかる。メジロマックイーンからすれば見慣れた光景の部屋だが、一般生徒からすれば入りにくい部屋だというのも頷けた。

 そもそも生徒会室とは、生徒会の役員が使う為の部屋である。一般生徒の一人であるメジロマックイーンに、入る用件もなければ呼び出されることをした覚えもない。

 メジロマックイーンが聞いた話では、会長であるシンボリルドルフを心底慕っている中等部の生徒が“一人”よく入り浸っていると聞いたことがあった。

 その生徒に関しては、メジロマックイーンもよく知る生徒だった。色んな意味で“その生徒”と交友のある彼女だったが、この場では特にそれを話すつもりはなかった。

 目の前にいる三人と共に席に座りながら、メジロマックイーンは落ち着かない心を冷静に保つことに意識を向けていた。

 

 

「よく来てくれたな。二人とも、ご足労感謝する」

 

 

 メジロマックイーンの正面に座るシンボリルドルフがにこやかな笑みを浮かべる。

 そしてメジロマックイーンの右側に麻真が座り、左にはエアグルーヴが座っていた。

 四人が座り、用意されていた夕食である食堂の定食を食べ進めながらほどほどに会話を楽しんでいた。

 

 

「俺から言い出した話だ。わざわざ場所も用意してくれたんだから、お礼を言うのはこっちの方だ」

「先程も話したことだが、雰囲気もない場所で申し訳ない」

 

 

 シンボリルドルフが顔を僅かに下げて、麻真に謝罪する。

 麻真はシンボリルドルフに呆れたように肩を竦めていた。

 

 

「だから別に気にするなっての。飯食うくらいどこでも良いだろ?」

「そう言ってくれると助かる。だが、貴方と共に食事をする機会がこうしてまた訪れたのは、私は本当に嬉しく思ってるんだ。それくらい気にさせてくれ」

「俺と飯食うくらい、そこまで気にするなよ……」

 

 

 麻真が嬉しそうに話すシンボリルドルフに苦笑する。

 メジロマックイーンが見る限り、麻真と話している時のシンボリルドルフの表情はとても穏やかに笑っていた。

 メジロマックイーンの見たことのあるシンボリルドルフはいつも威厳のある毅然とした表情をしていて、今見ている顔は非常に珍しい光景だと思った程だった。

 そんなシンボリルドルフに、エアグルーヴが小さく笑っていた。

 

 

「ふふっ……会長は麻真さんが“大好き”だからな。麻真さん、会長のこういうところは多めに見てやってくれ」

「おい、エアグルーヴ……!」

 

 

 エアグルーヴにそう言われて、シンボリルドルフが僅かに目を鋭くさせる。不思議と彼女の頬が赤くなっている気がした。

 しかしエアグルーヴはシンボリルドルフに睨まれながら麻真に向くと、意地の悪そうな顔をして麻真を見つめていた。

 

 

「まぁ、そういう私も麻真さんのことは好きだぞ?」

 

 

 エアグルーヴが麻真の反応を待つ。シンボリルドルフが少し目を大きくしていたが、麻真はそう言われても眉を僅かに寄せているだけだった。

 

 

「お子ちゃまがマセたこと言うんじゃねぇっての。それにお前は俺と走りたいだけだろ?」

「ははっ、バレてしまったか」

 

 

 麻真に言われて、エアグルーヴが楽しそうに笑う。

 メジロマックイーンはそんな会話をしている三人を見て、思わず麻真を睨みつけていた。

 

 

「……マックイーン、なぜ俺を睨む?」

「貴方が節操なしというのがよく分かりますわ」

「おいおい、変なこと言うんじゃないって」

「事実ですわ。現に貴方はそうやって過去に色んなウマ娘に手を出してたのではなくて?」

 

 

 メジロマックイーンの麻真の評価がひとつ下がった瞬間だった。

 麻真が過去に色んなウマ娘を鍛えたという話を聞いたが、それにしても数が多いとメジロマックイーンは思わざるを得なかった。

 メジロマックイーンに言われた麻真が顔を顰めていると、彼の顔を見ていたシンボリルドルフが笑みを作っていた。

 

 

「ふふっ、言われてるぞ。麻真さん」

「まぁ、事実だから返す言葉がないんだろう? 麻真さん?」

 

 

 エアグルーヴが続いて麻真に追い討ちを掛けると、麻真は面倒そうに溜息を吐いていた。

 

 

「あれはお前達が集まってくるのが悪いんだろうが?」

 

 

 そう言って、麻真は苦笑いしていた。

 シンボリルドルフとエアグルーヴが麻真の反応を見て、揃ってくすくすと笑っていた。

 そんな光景を見て、メジロマックイーンはふと前から聞きたかったことを思い出していた。

 

 

「ところでお聞きしたかったのですが、お二人はどうして麻真さんに教えを受けようと思ったのですか?」

 

 

 メジロマックイーンの唐突の質問に、シンボリルドルフとエアグルーヴが顔を見合わせる。そして二人が麻真を一瞥すると、声を揃えて答えていた。

 

 

「「感動したからだ」」

 

 

 二人の答えに、メジロマックイーンは納得していた。確かに麻真の走りを初めて見た時、震えるような感動を感じたことをメジロマックイーンは今でも覚えていた。

 しかしメジロマックイーンが聞きたかったのはそこではなく、もう少し深いところの話だった。

 

 

「麻真さんの走りを見たきっかけ……お二人が麻真さんとお会いしたのはいつだったのです?」

 

 

 そう、メジロマックイーンは純粋に疑問だった。シンボリルドルフ、エアグルーヴと名のあるウマ娘が麻真と出会ったキッカケ、それはどんな時だったのかと。

 メジロマックイーンのその質問に、シンボリルドルフが懐かしそうに目を細めていた。

 

 

「麻真さんと出会った時か……あれは私がトレセン学園に入学してすぐだったな」

「会長と一緒だ。私も、入学してすぐだった」

 

 

 エアグルーヴも同じように懐かしそうにして笑みを見せる。

 メジロマックイーンが先の話を待っていると、それに気づいたシンボリルドルフが話し始めていた。

 

 

「当時、新入生だった私はまだトレーナーが決まってなかった。と言っても、練習はできたからあの頃はよく私も朝練をしていた。そこである日に、練習場で朝早くに走ってる人がいたんだ」

「……それが麻真さんでしたの?」

 

 

 メジロマックイーンの問いに、シンボリルドルフはゆっくりと頷いていた。

 

 

「本当に衝撃だった。まさかウマ娘ではない人間が私達と同じように速く走っているのだからな。その姿を見て……私は心の底から震えた」

 

 

 シンボリルドルフが麻真を一瞥して、続けた。その目は、紛れもない尊敬の眼差しだったことを、メジロマックイーンは知ることもなかった。

 

 

「歪みのない綺麗なフォーム、誰も文句のつけようがないその走り。それは私の想い描く“理想”、そのものだった」

「分かりますわ。私も麻真さんの走りを見た時、同じように思いましたもの」

 

 

 メジロマックイーンの返事に、シンボリルドルフが満足そうに頷いた。

 

 

「だから私は麻真さんの走りを見て、すぐ彼に言ったんだ。私のトレーナーになって欲しいと」

「……それでトレーナーになってもらえたんですの?」

「いや、それが……」

 

 

 そう言って、シンボリルドルフは可笑しそうに笑っていた。

 

 

「その時は麻真さんが新人トレーナーだとは思わなくてな。彼は私のトレーナーにさせてもらえなかったんだ」

「……どういうことですの?」

 

 

 シンボリルドルフの話に、メジロマックイーンが首を傾げる。

 そこで今まで口を閉ざしていた麻真が話し始めていた。

 

 

「俺がルドルフと会った時、俺はトレセン学園に就職して一年目だった。知らない奴が多いが、トレーナーは“ライセンス”を獲得して一年くらいは活動が制限されてたんだ」

 

 

 続けて話した麻真のトレーナー事情は、メジロマックイーンが知らないことだった。

 メジロマックイーンも知っている点も勿論あった。トレーナーとはURAからライセンスを取得して初めて活動できる職業である。ライセンスには二種類あり、“地方(ローカル・シリーズ)”と“中央(トゥインクル・シリーズ)”の二つに分かれている。

 トレセン学園は“中央”のレースであり、トレーナーは“中央”のライセンスが必要になる。ここまではメジロマックイーンが知っていることだった。

 しかしトレーナーはライセンス獲得後、特別なことがない限り一定期間の実務経験を得るまでトレーナー活動が制限されていた。

 それが麻真が話していたライセンス獲得後は、上司のトレーナーの下で一年以上の経験を積まなければ、専属ウマ娘をURAに新規登録ができないということだった。

 

 

「それを知った私も流石に困った。もう麻真さん以上のトレーナーはいないと確信していたからな。だから私は麻真さんがサブトレーナーをするチームに入ることを決めたんだ」

 

 

 シンボリルドルフが誇らしそうに胸を張る。

 しかし麻真は当時のことを思い出したらしく、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 

 

「簡単に言うけどな……あの時、大変だったんだからな。俺が名門のトレセン学園の芝がどんな感じなのかと思って走ってたらお前達が来て、俺のいるチームに入るまでは良かった。

 だけど俺が所属してたチームのメイントレーナーをそっちのけでサブトレーナーの俺のところにお前達が来るもんだから、俺があの人に当時どんだけ怒られてたと思ってんだよ」

 

 

 麻真が肩を落として話す姿に、シンボリルドルフとエアグルーヴの二人は揃って肩を竦めていた。

 

 

「そもそも、貴方が練習場を勝手に走ってたのが良くなかったのではなくて?」

「……それは言うな」

 

 

 メジロマックイーンに核心を突かれて、麻真は返す言葉がなく言い淀んでいた。麻真の反応に、三人が揃ってくすくすと笑っていた。

 

 

「そこからはメジロマックイーン、君も知っていると思うが私とエアグルーヴが麻真さんのいるチームに入って一緒に練習していると学園内の噂になったんだ。走るのがとてつもなく上手いトレーナーがいると……それで麻真さんに生徒が集まるようになったんだ」

「なるほど……それでレースも?」

「勿論、麻真さんに鍛えられてレースに負けるなど麻真さんに顔向けできないからな。麻真さんが居なければ、今の私はいないと言っても過言ではない」

 

 

 そこまで説明されて、メジロマックイーンも理解していた。走るのが上手い麻真に鍛えられたシンボリルドルフとエアグルーヴがレースで結果を出せば、当時サブトレーナーだった麻真の下に生徒が集まるのも頷けた。

 

 

「それはお前達の実力だ。俺は手伝いをした、それだけの話だ」

 

 

 しかし麻真はシンボリルドルフの話を聞いても、あっけらかんとしていた。

 麻真の態度に三人が目を合わせると、揃って笑っていた。

 

 

「なんとなくですが、私も分かってきましたわ」

「メジロマックイーン、お前も分かるか?」

 

 

 メジロマックイーンにエアグルーヴが笑みを見せる。

 

 

「なんだよ、お前達。揃って気色悪く笑って」

 

 

 だが麻真は三人の反応を見るなり、顔を顰めていた。

 そんな麻真にメジロマックイーンは彼の顔を見ていると、彼女は小さく笑っていた。

 

 

「麻真さんがそういう顔をされる時……照れてますわよね?」

「……何言ってんだか」

 

 

 メジロマックイーンに問い詰められて、麻真が顔を横に向けてそっぽを向く。

 それが答えだろう。メジロマックイーンは麻真の反応を見ると、彼に“仕返し”ができたことを満足そうに口角を上げていた。

 メジロマックイーンの顔に麻真は悔しそうに顔を引き攣らせるが、これ以上は自分の分が悪いことを察して口を返すことはしなかった。

 そしてメジロマックイーンからこれ以上の追撃もされたくなかったので、麻真は渋々ながら話を変えることにした。

 

 

「昔話はそこまでで良いだろ……まだ話すことはあるんだ」

 

 

 メジロマックイーンからすれば、麻真の“それ”は負けを認めたと言っても良い反応だった。

 不満そうな顔をして話を変える麻真に、メジロマックイーンは勝ち誇った顔をしていた。

 

 

「そうだったな。先程、麻真さんから聞いた話だったが……メジロマックイーン、君のところに中等部と高等部の生徒が集まっていると聞いたがどれ程の人数が来ているんだ?」

 

 

 そしてシンボリルドルフは、そんな二人を見ながらメジロマックイーンに訊いていた。

 しかしシンボリルドルフから出た話をエアグルーヴは知らなかったのだろう。彼女は目を大きくして驚いていた。

 

 

「高等部の生徒もだと……⁉︎」

「えぇ……ちゃんと数えたことはありませんが、少なくても二十人以上は来てますわ。来る人たちは、多分高等部の生徒の方が多いかもしれません」

 

 

 メジロマックイーンが思い出す限り、麻真が自分のトレーナーになってから学園内で麻真についてのことで話し掛けられる人数はおおよそ二十人以上は来ていた。

 

 

「中等部ならまだ分かる。麻真さんのことを知る生徒はいない。だが高等部となると……今一度通達した方が良いか?」

「会長、それよりも確認することがあります。メジロマックイーン、高等部の生徒から何を訊かれる?」

 

 

 シンボリルドルフが考える仕草を見せるが、エアグルーヴが先にメジロマックイーンに質問していた。

 メジロマックイーンはエアグルーヴの質問に、素直に答えていた。

 

 

「トレーナーの麻真さんを、自分に譲って欲しいと言われますわ」

「――なんだと?」

 

 

 そしてメジロマックイーンが答えた瞬間、エアグルーヴの目が鋭くなっていた。それと同じく、シンボリルドルフも目を鋭くさせていた。

 麻真も目を大きくしていた。まさか自分に鍛えて欲しいという生徒が自分ではなくメジロマックイーンのところに行っているとは思ってもいなかった。

 

 

「おいおい、お前のところにその話が行ってたのかよ?」

「えぇ……そうですわ」

「俺のところに来た生徒には直接言ってたんだが、まさかお前のところに行くとはな……すまなかった。それは俺が悪い」

 

 

 メジロマックイーンの話を聞いて、麻真が頭を下げる。

 いきなり麻真が頭を下げたことに、メジロマックイーンは意表を突かれていた。

 

 

「頭を下げないでください。別に麻真さんが悪いわけではありませんわ。私も揉め事を起こしたくなくて、貴方に言わなかったのも悪いと思っていますもの。それに……貴方を他の人に渡す気は更々ありませんわ」

 

 

 そこはメジロマックイーンも譲らないことだった。沢山の生徒が麻真を譲ってくれと言われようとも、彼女は決して譲る気などなかった。

 運良く獲得した北野麻真というトレーナーを、どうして他のウマ娘に渡さなければならないのかと。

 

 

「メジロマックイーン、君にひとつ言っておかなければならない」

 

 

 シンボリルドルフがメジロマックイーンに告げる。

 先程までの朗らかな表情とは違い、今のシンボリルドルフの表情はメジロマックイーンが本来知っている生徒会長としての顔だった。

 

 

「君は知らない話だが……麻真さんがトレセン学園に戻ってきた時、生徒会を通じて高等部の生徒には麻真さんはメジロマックイーン以外のトレーナーにならないことを通達してるんだ」

「……はっ?」

 

 

 メジロマックイーンがキョトンと目を点にした。

 シンボリルドルフの話であることが本当ならメジロマックイーンの元に高等部の生徒が集まること自体がおかしな話なのである。

 

 

「だから会長と私は怒ってる。麻真さんのところに直談判に行くならまだ理解できるが、お前のところに麻真さんを譲れと節度のない行動をしている生徒が学園内にいるのが遺憾なんだ」

 

 

 エアグルーヴが眉を寄せて、表情を歪ませる。

 シンボリルドルフもエアグルーヴと同様に表情から怒りの感情が伺えた。

 

 

「麻真さんに教えを受けたい高等部の生徒は大勢いる。勿論、私もその一人だ。だが麻真さんがメジロマックイーン以外の生徒を担当しないとハッキリ言っている以上、私達は麻真さんに必要以上の迷惑を掛けないようにしているつもりだった」

「レースしたいとか言ってた奴が……それ言うか?」

「それくらいは麻真さんが私達のトレーナーになってくれない代価と思ってくれ」

 

 

 麻真に指摘されるが、シンボリルドルフはふんと不満そうに鼻を鳴らしていた。

 

 

「時折、共に走ってくれるなら私達は何も言わない。麻真さんがメジロマックイーンの専属トレーナーになるのことに文句は言わない。だからこそ、私達は麻真さんの意思を尊重している」

 

 

 そしてシンボリルドルフは拳を強く握りしめていた。

 それはきっと自分の本当の気持ちを押し潰しているからこその反応だったのだろう。本来なら自分も彼に懇願したい、自分のトレーナーになって欲しいと。しかしそれを麻真が望まない以上、シンボリルドルフはそれ以上を求めていなかった。

 メジロマックイーンには、その気持ちを知る由もなかったがシンボリルドルフは確かに怒っていることだけは分かった。

 

 

「高等部の生徒には、生徒会から再通達する。今度は生徒会の意思と麻真さんの意思をしっかりと通達して、仮にそれでも節度を超えた行動には処罰も考える」

「そんな厳しいことをされるのですか……?」

 

 

 シンボリルドルフの決断に、メジロマックイーンが唖然とする。

 しかしシンボリルドルフとエアグルーヴは、その決断に迷いはなかった。

 

 

「私達が我慢してるんだ。同じように他の生徒も我慢してもらわなければ私達も我慢ならん」

「それ職権濫用……」

 

 

 エアグルーヴの言葉に、メジロマックイーンが引き攣った笑みを見せる。紛れもなく私情による職権濫用だった。

 もしシンボリルドルフとエアグルーヴのようなウマ娘達も麻真の下に集まるとなれば、流石にメジロマックイーンも麻真を取られるかもしれないと思ってしまう。その点で言えば、生徒会の節度のある行動に彼女は心の内で安堵していた。

 

 

「だから明日以降から、麻真さんを知る高等部の生徒は私達の方で止めておこう。だが――」

 

 

 そう言って、シンボリルドルフが言い淀んだ。

 そしてしばらく言いづらそうにしながら、シンボリルドルフは話していた。

 それはメジロマックイーンへの絶望の宣告とも言えたことだった。

 

 

「麻真さんを知らなかった中等部は無理だ。そこはメジロマックイーン、君が何とかしてほしい」

「中等部の方もどうにかなりませんか……?」

 

 

 シンボリルドルフの宣告に、メジロマックイーンが懇願する。

 しかしシンボリルドルフはその願いに、苦笑いしていた。

 

 

「私と麻真さんのレースを初めて見た中等部の生徒が、麻真さんに興味関心が出ないわけない。おそらく中等部の一部の生徒は麻真さんに興味津々だ。それは麻真さんの走りを初めて見た時の君なら、理解できるだろう?」

 

 

 麻真の走りを初めて見た衝撃は、メジロマックイーンも覚えている。なら同様に同じウマ娘なら、同じような反応をするのも理解できた。

 

 

「だから中等部の生徒は興味の熱が収まるまで、抑えるのは無理だ。それこそ無理矢理抑え込む方が面倒なことになりかねない。ちなみに中等部の生徒には、なにを訊かれるんだ?」

「麻真さんとどんな練習しているか、あとは麻真さんがどんな人なのかですわ」

「それならまだ良い、しばらくすれば収まるだろう。まだ“私達の頃に比べれば”可愛い方だ。もし仮にしばらくしても収まらないなら、その時に考えさせてもらう。それで手を打ってくれないだろうか?」

 

 

 メジロマックイーンの答えに、シンボリルドルフが意味深なことを話していた。

 その話に、シンボリルドルフ達も自分と同じ経験があることをメジロマックイーンは察していた。

 

 

「……むしろ会長さん達に何があったのか気になるのですが?」

「訊かない方がいい。あまり気持ちの良い話ではないからな」

 

 

 シンボリルドルフが怖い顔で笑っていたことで、メジロマックイーンはそれ以上のことを聞くのを躊躇われた。

 まだ自分は良い方かもしれない。不思議とそんな気持ちがメジロマックイーンに芽生えていた。

 

 

「……分かりましたわ。では、その件はよろしくお願いします」

「任せてくれ。メジロマックイーン、君も“色々”と大変だと思うが、何かあれば生徒会を頼ってくれ」

 

 

 メジロマックイーンが座りながら一礼する。そんな彼女に、シンボリルドルフは大きく頷いていた。

 メジロマックイーンの悩みのひとつが解決するかもしれない。そのことに麻真は胸を下ろして安堵していた。

 

 

「さて……大きな話はこれで終わろう。ところで、私が個人的に“とても”気になっていた話がある話だが……」

 

 

 そして先程まで真剣な表情だったシンボリルドルフが、朗らかな笑みを作る。

 メジロマックイーンが今度は何を言われるのだろうかと身構えていると、シンボリルドルフから投げられた言葉に彼女は顔を強張らせていた。

 

 

「メジロマックイーン、君のことを聞かせてほしい。あと――君はどうやって休職中で行方不明だった麻真さんを見つけたのか、是非とも聞かせてもらいたい」

 

 

 朗らかに笑う――いや、これは圧倒的な威圧感の顔だった。

 エアグルーヴを見ても、シンボリルドルフと同じように朗らかに笑っていた。

 拙い。もし本当のことである理事長に居場所を教えてもらったとも言い出せない。他の生徒に訊かれた時のように学園に一方的に告げられたとメジロマックイーンが答えるが、

 

 

「学園からその手の話が生徒に行くなら生徒会にも情報が入るんだ。だが、それがないのか不思議で仕方ないと思っていた……メジロマックイーン、君はどんな魔法を使って、麻真さんを捕まえたんだ?」

 

 

 エアグルーヴがメジロマックイーンの話を否定していた。

 嘘が使えない。メジロマックイーンがチラリと見て麻真に助けを求めていた。

 その視線を受けて、麻真もメジロマックイーンが本当のことを言えないことを悟っていた。

 もし理事長が麻真の居場所を知っていたと知れれば、この二人が何をするか分からない不安が麻真にもあったからだ。

 麻真とメジロマックイーンが、一瞬だけ互いに目を合わせる。

 シンボリルドルフとエアグルーヴ、この二人の質問を躱す手立てを麻真とメジロマックイーンは考えることになった。




読了、ありがとうございます。

今回はルドルフとエアグルーヴ、麻真の昔話。
それとメジロマックイーンの問題などなどの盛り合わせでした。
少しずつ気になる点を残してますが、お許しを。

また次回にお会いしましょう。
次回か次次回、走る場面が来る予定です。


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5.楽しくありませんか?

 

 

 メジロマックイーンと麻真が夜のトレセン学園を歩いていた。

 生徒会でシンボリルドルフ達との夕食を終えて、メジロマックイーンと麻真は生徒寮へと向かっていた。

 本来なら麻真は生徒寮ではなくトレーナー寮へと向かうはずだった。メジロマックイーンが寝泊りする生徒寮に対して、麻真が帰るべきトレーナー寮はトレセン学園の校舎を中心に反対の位置に建てられている。

 しかし麻真は夜の遅い時間だと言い出し、メジロマックイーンを生徒寮まで送っていた。

 要らぬ気遣いとメジロマックイーンも麻真の提案を断っていたが、麻真は「良いから送らせろ」と言って強引に彼女の横を歩いていた。

 

 

「「はぁ……」」

 

 

 麻真とメジロマックイーンの二人で肩を並べて歩く。二人は溜息を吐くと、揃って疲れ果てた顔を見せていた。

 

 

「なんとか誤魔化せましたわね……」

「アイツら、本当にしつこかったわ……」

 

 

 そう言って、二人が安堵の声を漏らす。

 シンボリルドルフとエアグルーヴの質問攻めをどうにか二人は切り抜けていた。

 メジロマックイーンの抱える問題を解決する話が済んだ後、シンボリルドルフとエアグルーヴからメジロマックイーンに唐突に切り出された話題から場の空気が変わっていた。

 

 メジロマックイーンは、どんな方法で麻真をトレーナーにしたか?

 

 この質問が全ての原因だった。

 メジロマックイーンは咄嗟に麻真を譲ってくれと言い寄ってくる高等部の生徒へ答えている『麻真がトレーナーになったのは、学園から一方的に告げられた』という話をしたのが運の尽きだった。

 

 シンボリルドルフとエアグルーヴは、それを嘘だと見抜いていた。

 

 トレセン学園から一般生徒に対してトレーナーの指定が来ることは、特別なことがない限りありえない話だった。

 基本的に生徒はトレーナーからのスカウトで互いに“契約”を交わす。これを経て、トレーナーはURAにウマ娘を自分の専属ウマ娘として新規登録を行う。

 もし仮にその“特別”が起こるなら、その手の話は生徒会にも通達が来る。しかし生徒会に事前に話が行かず、いつの間にか麻真がメジロマックイーンのトレーナーになっていたことにシンボリルドルフ達は疑問を持っていたらしい。

 本来の過程を通らずに、麻真がメジロマックイーンのトレーナーとしてURAに新規登録が既に行われている。このことに生徒会は疑問を抱いていた。

 

 それもそのはず、麻真の場合はその過程をトレセン学園の理事長である秋月やよいが強引に全ての処理を終わらせていたのだ。

 

 故に、トレセン学園からトレーナーの指定を一般生徒が受け、それを生徒会まで話が通り、そしてトレーナーと一般生徒がURAに登録されるという“本来の過程”が行われていない。これをシンボリルドルフ達は気づいていた。

 だからこそ、メジロマックイーンにシンボリルドルフ達は問い質した。どうやって麻真をトレーナーにしたのかと。

 

 本当のことを話そうとメジロマックイーンも一瞬だけ悩んだ。しかし彼女は、この二人にはそれだけはしない方が良いと咄嗟に判断していた。

 

 だが実際のところ、メジロマックイーンが最初に話していたことは、半分は本当のことであった。

 理事長の秋月やよいから有能なトレーナーがいると言われ、そしてメジロマックイーンは麻真と出会った。その後、本人もよく分からないが麻真がトレセン学園に突然来るなり、彼が自分のトレーナーになったと告げられただけなのだ。

 メジロマックイーンは素直にそれを言うだけで良かった。しかし色々な要因が邪魔をして、彼女はそれを口にすることができなかった。

 まず麻真が二年間もトレーナーの仕事を休職していたことをメジロマックイーンは知らなかった。麻真本人から説明を受けるまで、そのことを彼女は知りもしなかった。

 そして麻真と出会う前に事前に他トレーナー達から聞いていた“情報”が、麻真が自分のトレーナーになってから聞くようになった話でメジロマックイーンは確信を得ていた。

 

 北野麻真は、トレセン学園では二年間も行方不明扱いになっていた。これが話を更に複雑にしていた。

 

 そのことを知ってるからこそ、メジロマックイーンはシンボリルドルフ達に本当のことを話せなかった。

 言えるわけがない。麻真がこの学園で生徒達に慕われているのは嫌でもメジロマックイーンも分かることだ。そんな人が二年間も行方不明で会いたいと思い続けていた人達の前で、麻真の居場所を実は理事長が知っていたなどと言えるはずがない。

 理事長が麻真の居場所を知っていたということは、トレセン学園は麻真の居場所を把握してたことになる。知らないトレーナーも多いことから、一部の数人もしくは理事長本人だけしか知らないことだったのだろう。

 それはシンボリルドルフ達からすれば、トレセン学園が一方的に麻真の居場所を隠していたことになる。その事実をもし自分が伝えたとしたら……一体、どんなことになるかメジロマックイーンは想像すらできない。

 きっと、とてつもなく面倒なことになる。麻真だけが巻き込まれるならまだ良いが、麻真の担当ウマ娘である自分にも確実に巻き込まれる。

 メジロマックイーンはそれだけは避けたかった。皇帝、女帝、更に奥には名高いウマ娘達がいるに違いない。そのウマ娘達を“怒らせる”行為を自らするわけがない。

 そしてメジロマックイーンは理解していた。“それ”を麻真も分かっていたのだろうと。そうでなければ、シンボリルドルフ達に問い詰められる自分を麻真が手助けなどしない。

 つまりそれは、麻真は自分がメジロマックイーンのトレーナーになったことは“正当な方法”ではないということの現れである。

 結局のところ、麻真がトレセン学園の指示でメジロマックイーンのトレーナーになることになったと話すことで、シンボリルドルフ達は渋々納得していた。しかしそれに対しての追求も多かったが、麻真が上手く話して二人をどうにか納得させることでことなきを得ることができた。

 

 

「全く……あの二人、あんなに気にしなくても良いだろう。俺がマックイーンのトレーナーになったことに細かいこと訊いて来やがって」

「それは、あのお二人がそれだけ貴方のことを慕っているということですわ。やはり貴方という人は節操がありませんわね」

「……だからそういうことを言うな」

 

 

 不満そうに眉を寄せる麻真を、メジロマックイーンが横目で見つめる。

 麻真にどんな事情があるかメジロマックイーンは知らない。だがこうして麻真は自分のトレーナーになった。それは彼女にとってはそれは願ってもないことだった。

 色々と言い合いになることも多いが、メジロマックイーンは麻真以上のトレーナーはいないと思っている。彼の走りに魅入られた以上、彼に走りを教われることは喜ばしく思っている。

 きっと色々な事情がおそらく麻真にはあるのだろう。まだ会ったばかりの彼のことをメジロマックイーンは深くは知らない。

 

 

「……麻真さん」

「なんだ?」

 

 

 だからだろう。メジロマックイーンは、ふと麻真に訊いていた。

 

 

「なぜ貴方は……二年も休職されてましたの?」

 

 

 歩きながら、メジロマックイーンがそう訊いた。

 麻真が二年という長い期間も休職していた。それはどんな理由があったのかと。

 トレセン学園での麻真の評価はとても高い。生徒達から慕われているのを見れば、それは嫌でも分かることだ。

 更にメジロマックイーンも、まだ少しの期間だけしか練習を共にしていないが分かる。麻真のトレーナーとしての能力も高い。

 だからこそ不思議だった。そんな人が理由もなしに二年もトレーナーの仕事を休むなど、メジロマックイーンには到底思えなかった。

 

 

「……仕事、したくなかっただけだ」

 

 

 無愛想に麻真が、メジロマックイーンにそう答えた。

 しかしメジロマックイーンには直感で分かった。今、この人は嘘をついたと。

 

 

「貴方がそんなことを思うはずがありません」

 

 

 メジロマックイーンが麻真の言葉を否定する。

 麻真は目を細めると、メジロマックイーンを横目で一瞥していた。

 

 

「俺のことをまだよく知らないくせに、随分と分かったような言い方だな?」

「確かに私は、貴方のことは深くは知りません。それは……貴方の言う通りですわ」

 

 

 確かに麻真の言う通り、メジロマックイーンは彼のことを詳しくは知らない。

 メジロマックイーンが知っている麻真のことと言えば、仕事を二年休職していたこととトレーナーとしての能力が優れていることだ。後は彼の性格の一部、これくらいしか彼女は分からない。

 

 

「ですが……貴方がトレーナーという仕事を嫌いだとは思えませんわ」

 

 

 しかしメジロマックイーンは、不思議と分かった。麻真と短い時間しかまだ一緒に過ごしていないが、彼女には彼が決して仕事が嫌いではないことを。

 だからこそメジロマックイーンは、次の言葉を絶対の自信を持って口にしていた。

 

 

「私は確信していますのよ。貴方は、トレーナーという仕事が好きなのでしょう?」

「……なんでそんなこと思うんだ?」

 

 

 歩きながら、麻真が顔をメジロマックイーンに向ける。

 しかしメジロマックイーンは麻真に向くことなく、前を見ながら歩いていた。

 

 

「貴方は走る時、とても楽しそうに走っています。私が憧れるほど、麻真さんは走るのが好きなのが分かりますわ」

 

 

 それはメジロマックイーンが初めて麻真の走りを見た時から感じていたことだった。

 ウマ娘にとって、走ることは唯一無二の“楽しいこと”だ。それこそ走ることをやめられない。故に走れないことは、ウマ娘にとっては存在意義すら失うことだ。

 しかし走るのが楽しいと感じていても、それが走りに出るウマ娘は少ない。走る姿に“楽しい”という感情が現れるウマ娘は、それだけで人を惹きつける力がある。

 麻真は、それが顕著に現れている。メジロマックイーンは彼の走りを見た時、すぐに分かってしまった。

 

――この人は、走ることが大好きなんだと

 

 走るフォームが綺麗、走る姿が速くて美しいと思う中で、メジロマックイーンは感じていたのだ。

 

 

「それがなんだ? 俺が仕事が好き嫌いの話と関係ないだろ?」

 

 

 しかしそれは走ることに関してだけだ。麻真は見当違いなことを話すメジロマックイーンに思わず鼻を鳴らしていた。

 メジロマックイーンは、そんな麻真に小さく首を横に振っていた。

 

 

「貴方と一緒に練習していると、私は不思議と感じますの」

 

 

 そしてメジロマックイーンは、麻真に言っていた。

 

 

「麻真さんは気付いていないと思いますが……私と練習してる時やレースの話をしている時、走る時と同じような顔をしてますの。楽しい、貴方からはそんな気持ちが伝わりますわ」

 

 

 その言葉に、麻真は思わず立ち止まっていた。

 少し先を歩いていたメジロマックイーンが振り返ると、麻真は怪訝な顔をしていた。

 そんな顔の麻真に、メジロマックイーンはことりと首を傾けて訊いていた。

 

 

「貴方は私を育てるのが、楽しくありませんか?」

 

 

 小さな笑みを浮かべて、メジロマックイーンが麻真を見つめる。

 そう問われて、麻真はメジロマックイーンに見つめられる視線から目を逸らした。

 その問いに、麻真は少しの間を空けて小さな溜息を漏らした。

 

 

「さぁな、別に俺にはそんな顔をしてるつもりなんてない」

「いえ、してますわ。とても楽しそうに」

 

 

 麻真が小さく笑う。そして彼はメジロマックイーンに向き合うと、彼女の目を見つめていた。

 

 

「バカ言ってるんじゃねぇ。仮にでも俺にお前を育てるのが楽しいと思わせたかったら……まずはメイクデビュー戦勝ってから言え、マックイーン」

「言われずとも、勝ちますわ。誰よりも先に、ゴールラインを超えてさしあげます」

 

 

 確固たる自信を持って、メジロマックイーンは答えた。

 メジロマックイーンが自分の胸に拳を当てから、それを麻真に向ける。

 そしてメジロマックイーンが戯けるように肩を竦めて、彼に朗らかな笑顔を見せた。

 

 

 

「ですからその為に、トレーナーの貴方が私を勝たせてくれるのでしょう? なら私を勝たせてくださいな? 私のトレーナーさん?」

 

 

 

 信頼。メジロマックイーンが麻真に向けるのは、紛れもなくそれだった。

 必ず勝たせてくれるというウマ娘の確信。それはトレーナーにとって最大級の信頼とも言えた。

 その言葉の意味を麻真は理解していた。まだそこまで信頼を向けられるほど麻真とメジロマックイーンは知り合ってもいないのに、その信頼を彼女が向けることに、麻真は苦笑いした。

 そして立ち止まっていた麻真が歩き出すと、メジロマックイーンの横を通り過ぎていた。

 

 

「俺についてくれば、勝たせてやる。だからめげずに食らいつけ、メジロマックイーン」

 

 

 通り過ぎる麻真の横顔を、メジロマックイーンが一瞬だけ視界に捉える。

 僅かに見えた麻真のその顔を見て、メジロマックイーンは確信を得たように笑みを見せていた。

 一瞬だけ見えた麻真の顔は、確かに走る時と同じような顔――楽しいという感情が感じ取れた。

 先を歩いていく麻真を追い掛けるように、メジロマックイーンが足を進める。

 そしてメジロマックイーンが追いついて麻真の横を歩き出していると、彼は徐に口を開いていた。

 

 

 

「トレーナーってのは、楽しいことばかりじゃないんだよ。特に……お前達と同じように走れてしまう俺の場合はな」

 

 

 

 聞き逃しそうな声で、麻真がそう呟いたのをメジロマックイーンは確かに聞き取っていた。

 それはメジロマックイーンが先程訊いていた麻真の休職理由の答えなのだろうか?

 

 

「えっ……?」

 

 

 言葉の意図を分かりかねたメジロマックイーンが眉を寄せる。

 トレーナーが楽しいことばかりではない。それはどういう意味なのだろうか。

 仕事なら辛いことも沢山あるだろう。それはメジロマックイーンも想像はできる。

 しかし最後に麻真が呟いた言葉が、メジロマックイーンには気掛かりだった。

 

 ウマ娘と同じように走れることが、辛いこと?

 

 その言葉が、メジロマックイーンには理解できなかった。

 人間なのにウマ娘と同じように走れる麻真は、確かに不思議な人である。それができる理由もメジロマックイーンには分かるはずもない。

 しかしウマ娘と同じように走ることを楽しいと思っているのなら、それが辛いと思う訳がない。それが辛いと確かに呟いた麻真に、メジロマックイーンは理解ができない。

 思わず、そのことをメジロマックイーンが麻真に訊こうとしたが、彼女は麻真の顔を見て――躊躇った。

 

 

 何かを諦めたような、感情が抜けたような顔だった。

 

 

 初めて見た麻真の顔に、メジロマックイーンが言葉を失う。

 麻真の顔が物語っていた。それ以上のことを訊くなと。

 そして麻真の表情は、すぐに変わり……いつもの気怠そうな顔に戻っていた。

 

 

「さて……そろそろ寮に着くぞ。そう言えば、今の寮長は誰なんだ?」

 

 

 メジロマックイーンに話し掛ける麻真の声は、いつもの声だった。

 先程の麻真の表情にメジロマックイーンが反応に遅れるが、彼女はすぐに気を取り直して答えていた。

 

 

「えぇ、寮長はフジキセキさんですわ」

「フジキセキ? アイツが?」

「そんなに意外ですか?」

「あのポニーちゃんとか言ってるアイツが寮長ねぇ……もし入口に居たらからかってやるか」

「からかう? なんと仰るんですの?」

「どうしてそんなところで立ってるんだい? 俺の愛しいポニーちゃん? とかどうだ?」

「……貴方はウマ娘を怒らせるのが好きなんですの?」

 

 

 メジロマックイーンがくだらないことを話す麻真に思わず笑ってしまう。

 まだ麻真のことを多くは知らない。だが、いつか知れる日が来ると良いなとメジロマックイーンは思う。

 今は聞くことのできない麻真の休職理由を、彼自身から話してくれる日が来ると信じながら、メジロマックイーンは肩を竦めていた麻真に深い溜息を吐いていた。




読了、お疲れ様です。

今回の話でEP3は終わりです。
次からEP4、メイクデビュー戦です。

今回はメジロマックイーンの疑問と麻真の抱えるモノについての話。
それとウマ娘とトレーナーの信頼?そんなところです。

EP3終了時点でお気に入りが3000を超えました。
多くの皆様に追いかけてもらえて嬉しく思います。
今後も麻真とメジロマックイーンをよろしくお願いします。

メジロマックイーン、まだガチャで引けません()
いつか引けると信じて、物語でメジロマックイーンと麻真を育てます


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episode.4
1.絶対に許しませんわ


 

 

 五月に入って、気がつけば二週間が経っていた。

 メジロマックイーンが麻真と過ごした二週間は、それはとても“充実”した毎日だった。

 月末に行われるメイクデビュー戦への出走が決まっても、メジロマックイーンの日常は特に変わらなかった。

 麻真は決めていた通りこの二週間、本当にメジロマックイーンには基礎トレーニングしかさせなかった。

 トレーニング期間中、麻真はメジロマックイーンに走る行為を全て禁止し、彼女の筋肉痛を一日たりともズレることなくコントロールして彼女の身体を過剰なまでに鍛えてることに時間を注いでいた。

 だからだろう。そんな苛烈な基礎トレーニングを始めて一週間も経てば、メジロマックイーンも身体中に常に感じる筋肉痛にも慣れていた。もはや身体を動かすと筋肉が痛いと思うことが“普通”と思うまでに彼女の感覚は鈍り出していた。

 その明らかなオーバーワークにも見えるメジロマックイーンの練習光景を大勢の生徒が見ていた。それが次第に噂になり彼女の同級生達も教室などで心配のあまり彼女に声を掛けてしまう程だった。

 だが、その心配は不要だった。メジロマックイーンの身体に、不調の文字はなかった。むしろ体調は良好、調子が良いくらいだった。

 文字通り限界までトレーニングをしているはずなのに、身体は筋肉痛を起こすだけでオーバーワークで身体を壊すことは一切ない。その点に関しては、メジロマックイーンも麻真のトレーナーとしての能力に感心する程だった。

 過剰なトレーニングの対価は、十分に実感している。身体が成長しているのは、嫌でも分かる。しかしメジロマックイーンはこの二週間、常に思っていたことがあった。

 

 

 麻真との基礎トレーニングが、本当に辛いと。

 

 

 それはメジロマックイーンが今まで自主的にしていた基礎トレーニングが可愛いものだと痛感する程だった。

 毎日、毎日、上半身と下半身を一日置きに動けなくなるまで鍛える生活をメジロマックイーンは心から辛いと思っていた。

 トレーニング中に一緒にいる麻真がバーベルスクワットなどで稀にわざと自分が持ち上げているバーベルに上から軽く力を入れて上がらないように押さえ込んでいた時は、本当にメジロマックイーンは彼に対して殺意を何度も抱いたこともある。

 そして他の色々なトレーニングでも最初に決めた回数ができるまで決して中断しない麻真に、メジロマックイーンは何度も後ろから彼の頭をバーベルで殴ってやろうかと思ったことも数多い。

 いつの間にか使っているバーベルの重さが増えていることもあれば、着ているジャージに勝手に重りが仕込んであったりなど、麻真はメジロマックイーンの筋肉をとことん苛めていた。

 

 メジロマックイーンが麻真に向けるトレーナーとしての信頼は、確かにある。彼のトレーナーとしての能力も理解している。だが、それはそれなのである。辛いものは辛い。身体は好調なのに、ストレスが溜まっていくのを彼女は常に感じていた。

 

 更にトレーニング期間中は麻真から走る行為を全て禁止されていたことが、メジロマックイーンの感じるストレスを加速させていた。

 走ることでストレスを発散できない以上、メジロマックイーンは他のことでストレスを発散するしかない。その鬱憤を晴らす為に、基礎トレーニングに八つ当たりをする。そんな悪循環のような生活が、彼女の過ごしていた二週間だった。

 思い返せば、それはとても“充実”していた日々だった。メジロマックイーンが久々に立った“芝生の感触”を足裏に感じながら、今までの日々を懐かしく思う。

 トレーニングの日々から日が経ち、メジロマックイーンのメイクデビュー戦まで今日で残り十日となった。それが意味するのは、ひとつしかない。

 

 

「走れますわ……! やっと……ようやく……!」

 

 

 ジャージ姿のメジロマックイーンが、自分の胸の前で両拳を握り締めて歓喜していた。

 辛い基礎トレーニングの日々が昨日で終わり、今日は待ちに待った走る練習の解禁日だった。

 走りたくて仕方ない。メジロマックイーンの足が走りたいと疼いているのを、彼女自身は感じていた。

 

 

「長かった……! あの辛いトレーニングに耐えた甲斐がありましたわ……!」

 

 

 嬉しさのあまり、メジロマックイーンがその場で腿上げをして走る準備をする。普段の彼女から想像もできないはしゃぎ様であった。

 そんなメジロマックイーンに、ジャージ姿の麻真は呆れた笑みを浮かべていた。

 

 

「なにをそんなはしゃいでんだよ、マックイーン」

「なにって……当たり前ですわ! もう二週間も走ってないんですのよ⁉︎ これから走れると思うと嬉しくて仕方ありませんわ‼︎」

 

 

 早く走らせろ、麻真に向けるメジロマックイーンの目が語っていた。

 対して、麻真はメジロマックイーンに戯けるように肩を竦めていた。

 

 

「はしゃぐのは良いが、俺の指示はちゃんと従えよ」

「分かってますわ! ですから早く走りましょう!」

「ちゃんと走らせてやるから。でもまずその前に、お前はこれを履け」

 

 

 急かすメジロマックイーンに、麻真が持っていた鞄から一足の靴を取り出していた。彼女が見ると、その靴は蹄鉄の付いたウマ娘用の靴だった。

 くるぶしより上まであるブーツのような黒い靴、靴の裏には銀色の蹄鉄が付けられている。その蹄鉄靴は、不思議とメジロマックイーンが好むデザインをしていた。

 

 

「え、嫌ですわ」

 

 

 急に靴を取り出した麻真に、メジロマックイーンが思わず即答した。

 蹄鉄靴ならメジロマックイーンは既に履いている。久々に履いた蹄鉄靴の感触を楽しんでいるくらいだ。それなのに何故、この男は唐突にわざわざ新しい蹄鉄靴を渡してきたのか?

 そう思ったメジロマックイーンが嫌そうに顔を引き攣らせる。そんな彼女に、麻真は悲しそうな表情を見せていた。

 

 

「お前の為に用意した靴なんだけどなぁ」

「それが一番不安なのが分かりませんの……?」

 

 

 嫌な予感がする。メジロマックイーンは今までの経験からそう思っていた。

 わざわざ自分の為に麻真が用意した物。それが一番安心できないところだった。過去に何度も似たようなことで酷い目にあった身としては結果的に最後は従うことになるとしても、メジロマックイーンは素直に彼の指示に従う気にはなれなかった。

 

 

「でも、これ履かないと走らせないぞ?」

「……サイズが合わないこともあり得ますわ」

「俺がそんなくだらないミスすると思うか?」

「くっ……!」

 

 

 メジロマックイーンは言葉に詰まった。彼女が知る限り、麻真がその手のミスをすることはまずあり得ない。

 おそらく、麻真が用意した新しい蹄鉄靴のサイズは、間違いなくメジロマックイーンの足のサイズに合うだろう。

 それを理解したメジロマックイーンは悔しそうに表情を固くしていた。

 

 

「良いから履けって。ほら、置いてやるから」

 

 

 麻真がメジロマックイーンの前に新しい蹄鉄靴を置く。

 メジロマックイーンは渋々ながら自分の蹄鉄靴をその場で脱ぐと、目の前に麻真が置いたブーツの形状をした新しい蹄鉄靴を履いていた。思いの外、それは自分専用と思うくらいに足にフィットする靴だった。

 

 

「良し、靴紐も“ちゃんと”結んでやるからな」

「別にそこまでされなくても……自分でやりますわ」

「良いから良いから、久しぶりに走るなら新しい靴の方が楽しいだろ?」

 

 

 そしてメジロマックイーンの履いた靴の紐を結ぶ麻真に、彼女は麻真を心底疑うような目を向けていた。

 

 

「麻真さん、何か企んでます?」

「いや、別に。靴で何を企むって言うんだよ」

「……本当ですの?」

 

 

 平然と答えた麻真に、メジロマックイーンが目を僅かに細める。

 確かに麻真はよく気がきく人である。だが今の彼の態度は、信用ならない顔をしている気がした。

 

 

「良し、これで良い。さて……じゃあ早速、身体温める為に軽くジョギングでもするか」

 

 

 しかし麻真のこの言葉で、メジロマックイーンの頭にあった疑惑は一瞬にして消えていた。

 走れる。そう思うと、メジロマックイーンの心は弾んでいた。無意識の内に彼女の尻尾が揺れていた。

 

 

「まだフォームは“気にしなくて”良い。身体を温める程度だからな」

 

 

 そう言って、麻真がジョギング程度の速さで走り出していた。

 走る麻真を見て、メジロマックイーンは高揚する。ようやく待ちに待っていた走ることができると。

 わくわくした気持ちでメジロマックイーンが麻真を追い掛けようと足を動かした瞬間――彼女は“違和感”を覚えた。

 

 

「――はっ?」

 

 

 いつも通りに足を軽く動かそうとしたが――足が動かなかった。

 メジロマックイーンがもう一度足を軽く上げようとするが、何故か思うように足が上がらなかった。

 妙な違和感を感じて、メジロマックイーンが足が動くように力を込める。

 そしてメジロマックイーンが少しずつ足に力を込めていくと、彼女の足は“割と”力を入れなければ動かなくなっていた。

 

 

「重っ……⁉︎」

 

 

 突然、メジロマックイーンの足が重たくなっていた。いつものように足が動かなくなり、足に“重り”を付けているような感覚があった。

 その時、メジロマックイーンがハッと何かに気付く。今足に履いているのは、麻真から貰った新しい蹄鉄靴だ。

 この数分で自分の体重が急激に増えるなどあり得ない。なら……原因はひとつしかない。

 

 

「マックイーン? どうしたぁ?」

 

 

 そしてメジロマックイーンが見た麻真の顔は、憎たらしく微笑んでいた。

 やられた。メジロマックイーンが気付いてしゃがみ、すぐに靴紐を解こうとする。しかし自分の履いている靴の紐を見て、彼女は驚愕していた。

 

 

「なんて結び方してますのっ⁉︎」

 

 

 メジロマックイーンが見た靴の結び目は、よく分からない形で結ばれていた。少し触って解こうと試みるが解ける気がしない。明らかに容易に解けそうにない結び目を見て、彼女が目を大きくする。

 その瞬間、頭に血が上るような感覚がメジロマックイーンを襲った。溢れ出るほどの麻真への怒りを覚えながら、メジロマックイーンは理解した。

 この男は、初めから自分を簡単に走られるつもりはなかったのだと。わざわざ重い蹄鉄靴を用意して来ている時点で確信犯としか思えなかった。

 

 

「麻真さん! この靴はなんですかっ⁉︎」

 

 

 メジロマックイーンが履いている靴を指差して、大きな声で麻真に叫ぶ。

 麻真は足をその場で走るように腿上げを動かしながら、楽しそうに答えていた。

 

 

「それか? お前の為に用意した特別製の靴だ。左右の靴にそれぞれ三十キロの重りを足首周りに仕込んだ特注品だ。履いて走ると足腰のトレーニングに効果がある。ちゃんと大事に使えよ?」

「三十キロッ⁉︎」

 

 

 つまりメジロマックイーンの足には、両足で合計六十キロの重りがあることになる。

 

 

「バカじゃありませんこと⁉︎ こんなの付けて全力で走れるわけありませんわ⁉︎」

 

 

 そして当たり前のようにメジロマックイーンが叫んでいた。

 確かに人間とは違い、ウマ娘の身体能力は特に優れている。足は特に筋力に優れ、全体的に人間よりも強い身体の作りになっている。

 それこそトレーニングジムでは百キロを超えたバーベルを軽々と持ち上げるウマ娘も多くいる。

 メジロマックイーンもそれができるウマ娘の一人だ。だが走るとなると話が全く変わってくる。

 ウマ娘と言えど重りを付けて走れば、全力で走ることは難しい。それが数キロ程度なら問題ないが、それが二桁になれば話は違う。

 明らかに本来の力が発揮できない。重りという足枷がある以上、メジロマックイーンが自分の思うままに走ることは困難だった。

 

 

「俺だって同じ重り付けてるんだから文句言うな」

「はっ……⁉︎ 同じ?」

 

 

 麻真がその場で腿上げをしている姿を見て、メジロマックイーンが眉を寄せる。あまりに自然に動かしているので、重りを付けた靴を彼が履いているようには全く見えなかった。

 

 

「お前の靴と同じ足首に各三十キロ。お互いに同じ条件にしてるんだぞ?」

「絶対嘘ですわ! でしたらそんな簡単に足を動かせるわけありません!」

 

 

 麻真が嘘をついたと思い、メジロマックイーンが耳を後ろに伏せて不貞腐れる。

 麻真は呆れたように頭を掻くと、小走りでメジロマックイーンのところまで戻ってきた。

 そして麻真が靴をその場で脱ぐと、その靴をメジロマックイーンの前に置いていた。

 

 

「持ってみろ。そうすれば分かるだろ?」

 

 

 目の前に置かれた靴を見て、次にメジロマックイーンが麻真を見つめる。

 麻真が置いていた靴は、メジロマックイーンの履いている靴と似たようなデザインだった。赤い線が入った黒のブーツを模した靴が彼女の目の前に置かれている。

 ここまで自信満々な態度を麻真が見せている時点で、メジロマックイーンには嫌な予感があった。

 恐る恐るメジロマックイーンが麻真の履いていた靴を持つ。そして軽々と持ち上げようとして、メジロマックイーンの手がその場から動かなかった。

 

 

「重っ……!」

 

 

 明らかに普通の靴ではなかった。メジロマックイーンが靴から手を離すと、彼女は目の前にある麻真の靴を見ながらあり得ないと驚愕する。

 そんなメジロマックイーンの反応を見た麻真は、彼女の反応を面白そうに見ながら脱いでいた靴を履き直していた。

 

 

「これがお前と俺の差だ」

 

 

 そう言って麻真がまた軽々とその場で腿上げをすると、メジロマックイーンはその光景に目を点にしていた。

 明らかに自分と麻真の筋力が違う。メジロマックイーンにはまだ六十キロの重りを付けたまま彼のように軽々と動くことができない。

 突き付けられた現実に、メジロマックイーンが悔しそうに唇を噛む。

 しかし重りを付けたまま軽々と動いている麻真を見て、自分はできないと口が裂けても言いたくなかったメジロマックイーンがなんとか足を動かそうと足へ力を入れた。

 

 

「くっ……!」

 

 

 メジロマックイーンが足に力を込めると、彼女の足は“かなり”動かしにくいが自分の意思通りに足が動いていた。

 力をいつも以上に使わないと動かないが、それでもメジロマックイーンは麻真と同じように“平然を装って”腿上げをしていた。

 

 

「……全然軽いですわね! 重いと“一瞬だけ”思いましたが、思ってたよりも随分と軽かったみたいですわ!」

 

 

 胸を張って、メジロマックイーンは麻真に余裕を見せつけた。

 

 

「ふっ……」

 

 

 虚勢を張るメジロマックイーンを見て、麻真が鼻で笑う。

 そのバカにしたような麻真の態度に、メジロマックイーンがむっと口を尖らせていた。

 

 

「走れないと言いたい顔ですわね⁉︎ こんなの重いうちに入りませんのよ! 全然走れますわ!」

「言うじゃないか、ならついて来い。まずはジョギングでコースを一周だ」

 

 

 メジロマックイーンの啖呵に、麻真が楽しそうに笑いながら走り出していた。

 小走り程度の速さで麻真が走り出したのを見て、メジロマックイーンが追い掛けるように駆け出す。

 走り出した瞬間、足がもつれそうになったがなんとか姿勢を立て直して、メジロマックイーンは走り出していた。

 

 

「走りにくいですわ……!」

 

 

 しかし思ってた以上に蹄鉄靴の重りが、メジロマックイーンの走りを邪魔していた。ウマ娘にとって軽い方と言えど、両足に六十キロの重りは流石に足への負担が大きかった。

 いつものように足が動かせず、足を動かしている筋力を必要以上に使わないと身体が思った通りに前へ進まなかった。

 ジョギング程度の緩やかな速度だったが、その程度の速さでも意識しないといけない。気を抜くと足のバランスを崩してしまいそうになる。

 麻真との筋力差を感じて、メジロマックイーンが麻真を恨めしく睨みつける。一体、何故そんな風に軽々しく走れるのか?

 メジロマックイーンがそう思いながら少し前方にいる麻真の走り方をよく見ていると――ふと、彼女は気づいた。

 

 

「あの足の使い方は……?」

 

 

 少し前方を走る麻真の走り方を見て、メジロマックイーンが眉を寄せた。

 麻真が足を持ち上げて、足を前へ動かす。そして足を下ろし、足が地面に触れた瞬間の動作がメジロマックイーンの目に止まった。

 麻真の足が地面について、地面を蹴る瞬間――足首が“妙に”力強く動いていた。全体的に身体は軽々しく動いているはずなのに、地面を蹴って前に進む際のインパクトの瞬間だけ――彼の足首は力強く動いた。

 爪先が地面を掘るように地面を踏み抜く。まるで地面を抉るような動かし方だった。その動きを見て、メジロマックイーンが疑問に思う。

 自分は重い足を力づくで持ち上げて足を前に進めている。地面を蹴るインパクトの時は、特に何も意識していない。

 初めは気のせいかと、メジロマックイーンも思っていた。しかし走りながら麻真をしばらく見ていると、彼女の内にあった“疑問”は――“確信”へと変わっていた。

 

 

「あの人ッ――走り方が“違います”わッ⁉︎」

 

 

 メジロマックイーンが気づいていた。過去に何度も麻真の走り方をよく見ていたから分かる。彼の足の使い方は、明らかにメジロマックイーンが初めて見る走り方だった。

 一見、ジョギングしているようなフォームだが、足首だけ違う。全体的に緩やかな動きのフォームだが、足首の使い方だけ全くの別物だった。

 フォームを気にするな、どの口が言うのかとメジロマックイーンが前を走る麻真へ目を吊り上げた。明らかに彼はフォームを気にして走っている。

 走るフォームを麻真が気にして走るということは、気にしなければ走ることが難しいということだろう。

 わざわざ目の前で麻真が走り方を変えているのが答えだ。彼は走り方を工夫して重りを付けている状態でも苦もなく走っている。

 それを“あえて”自分に教えなかったことに、メジロマックイーンは麻真に対して血が沸騰するような怒りを感じていた。

 

 

「絶対許しませんわよっ……!」

 

 

 はらわたが煮えくり返るような気持ちで、メジロマックイーンが見ていた麻真の走り方を見様見真似で試みた。

 足を上げる時は筋力を使うこと意識せず、持ち上げた足を前に出し、足を下ろして足裏が地面に触れた瞬間、足首を使う。

 爪先で地面を抉るように動かすイメージで、足首の動きを意識。そして足先に力を入れつつ、足首を素早く動かすと――

 

 トンッ、と身体が軽々と前に進んていた。

 

 メジロマックイーンがやはりと確信する。先程までの自分の走りとは全く足の負担が違っていた。足に重りがあって走りにくいのは変わらないが、先程よりもかなり楽に走れる。

 真似した麻真の走り方に加えて、地面を蹴る瞬間にふくらはぎにも軽く力を込めながら足全体で地面を蹴ると、驚くほど楽に身体が前に進んでいた。

 最初に走っていた走り方はただ重りを上げ下げしているだけだったのだと、メジロマックイーンが理解した。

 今付けている重りは、明らかに足首に意識を向けていないと走れない。だからこそ、麻真はこんな手の込んだ靴を用意したのだと。

 

 

「貴方と言う人はッ……!」

 

 

 メジロマックイーンが内心に怒りを募らせる。

 あえて重い蹄鉄靴を履かせた理由を言わない辺り、麻真の性格の悪さが滲み出ている。

 おそらく麻真は、メジロマックイーンが気付くかどうか試したのだろう。

 麻真の悪い癖である。気づかなければ、そこまで。気づけば先に進める。その言葉を麻真がごく稀に口にしていることをメジロマックイーンは覚えていた。

 本当に人を怒らせるのが上手い。メジロマックイーンが目を据わらせる。

 そして腹を立てながら、メジロマックイーンは先を進む麻真を追い掛けるように速度を上げていた。

 

 

「よく気づいたな。アイツ」

 

 

 背後を走るメジロマックイーンの“足音”が変わったことに、麻真が小さく笑みを作っていた。

 もし気づかなければ気づくまでいつまでも走らせるつもりだったが、麻真はメジロマックイーンが予想よりもかなり早く“察した”ことに驚きつつも、内心では喜んでいた。

 早く気づいたということは、それだけメジロマックイーンが麻真の走り方を見ていたということだ。

 麻真が見ている限り、メジロマックイーンは自分の走り方を真似したがる傾向がある。麻真の走りが自分の理想とまで思っている彼女だからこその思考だろう。過去に何度も彼女と走ったからこそ、麻真も察していた。

 その思考を知っていたからこそ、走る前にわざと麻真はフォームは気にしなくて良いとメジロマックイーンに伝えて走らせていた。わざと自分の真似をさせないようにしていたのだが……それを良い意味で彼女は裏切っていた。

 自分と麻真が靴に同じ重りを付けた状態で走っていると安易に考えることを放棄せず、平然と前を走る彼を観察し、そして洞察した。筋力という絶対的な差はあるが、それを抜いても自分との違いが何か、それを考える思考がメジロマックイーンにあると分かっただけで、麻真は十分だと判断した。

 それ故に、メジロマックイーンは気づいた。自分と麻真との違いに気づき、そして盗んだ。

 

 

「この分なら、この先も仕込み甲斐がありそうだ」

 

 

 それを麻真は良い傾向と判断した。

 二週間。メジロマックイーンを一切走らせなかったのが役に立つと麻真が楽しそうに笑う。

 まず初め、メジロマックイーンは足首の使い方を学んだ。

 この様子ならすぐに次の段階に行けるだろうと麻真は予想する。

 第一段階だったジョギングをメジロマックイーンが理解したのなら、次はランニングにしよう。

 ランニングを終えれば、次はタイム測定と当初の予定通り、走る速さを段階的に上げていこうと麻真がほくそ笑む。

 全ての段階を“あの靴”を履いた状態で終えることができれば、メジロマックイーンの“基礎”ができる。

 その基礎の先、そこまでメジロマックイーンが十日以内に辿り着けるかどうか。その点を麻真は楽しみにすることにした。

 

 

「ん?」

 

 

 そして耳に聞こえるリズミカルな足音に、麻真が振り向く。

 振り向いた先には、ジョギングではなく“ランニング”でメジロマックイーンが鬼の形相で麻真に迫っていた。

 

 

「麻真さんっ‼︎ 今から私の履いている靴でその頭をかち割って差し上げますわッ‼︎」

 

 

 麻真が見る限り、メジロマックイーンの走り方は問題なかった。

 ジョギングで足首の使い方を覚え、ランニングでふくらはぎの使い方を察したらしい。問題ない走り方だった。

 とても両足に六十キロの重りを付けているようには見えない。

 

 

「……逃げよう」

 

 

 麻真がポツリと呟く。

 そして背後に迫るメジロマックイーンから目を逸らすと、麻真は前を向いて走る速度を僅かに上げた。

 

 

「私に走り方を教えなかったこと! 許しませんわよッ!」

「自分で気づけたなら評価点は◯だ。喜んで良いぞ?」

「ぜっったいに! その減らず口を黙らせますわッ‼︎」

 

 

 余計に怒らせてしまったらしい。

 麻真はけらけら笑うと、メジロマックイーンが追いつけないように速度を合わせて走っていた。




読了、ありがとうございます。
一週間振りの更新ですね。色々とあって遅れました。
多分、次回の更新でその理由はお伝えできると思います。

さて、EP4はメイクデビュー戦編です。
麻真とメジロマックイーンのコンビで挑むはじめてのレース、どこまで戦えるかご覧ください。
もしかしたら他のウマ娘もEP4で出るかもしれませんね。

では次回の更新でまたお会いしましょう。ではでは!


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2.切ってみろ

 

 

 

「身体温まったな? じゃあ早速本格的に練習するぞ?」

「こんのっ――!」

 

 

 コースを一周して立ち止まった麻真に、メジロマックイーンが彼に向けて飛びながら右足で回し蹴りを放つ。

 片足に三十キロ、両足で六十キロの重りが付いた蹄鉄靴から放たれる蹴りが空気を切り裂き、轟音を鳴らしながら麻真の頭部へと迫った。

 

 

「元気があり余ってるなら良し。じゃあ説明するから聞けよ?」

 

 

 しかし麻真は表情を変えずに身体を軽く逸らしてメジロマックイーンの蹴りを避けていた。

 本気で当てるつもりだった蹴りを麻真に躱され、メジロマックイーンは不満そうに顔を顰めた。

 

 

「避けないでください! 頭をかち割れませんわ!」

「俺の頭をかち割ったら、お前のウマ娘人生が同時に終わるからな?」

 

 

 淡々と即答した麻真に、メジロマックイーンが頬を僅かに膨らませる。

 第三者から見るとメジロマックイーンのその表情は可愛いものだったが、麻真からすれば自分の命を刈り取りに来た死神の顔にしか見えなかった。

 メジロマックイーンから放たれた蹴り。それは麻真が見る限り、間違いなく“本気”の蹴りだと分かった。ウマ娘は時速六十キロを越える速度で走れる程の筋肉を持っている。つまりそれだけの足で振り抜いた蹴りは、軽々と人間を重症にするだけの威力を備えている。

 それを無視してまで放ってきたということは、それほどメジロマックイーンは本気で麻真に怒っていたらしい。しかし彼女がどれだけ怒ろうとも麻真は特に気にすることはなかった。

 

 

「ふんっ――!」

 

 

 そして再度メジロマックイーンの右足が麻真の頭へ向けて振り抜かれるが、彼は軽々とステップを踏んで回避する。

 メジロマックイーンの蹴りを躱しながら、麻真は彼女に呆れた表情を作っていた。

 

 

「だから無駄な体力使うなって、走る練習の時間減るぞ?」

「それは! 原因を作った貴方が! 意地悪だからです!」

「意地悪もなにも、俺はフォームは気にしなくて良いって言ったはずだぞ?」

 

 

 そんなメジロマックイーンの不満に、麻真は意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

 麻真の言葉を聞いたメジロマックイーンが目を大きくする。そして怒りのあまり彼女の表情は僅かに引き攣ったように震えていた。

 

 

「よくもまぁそんな言葉を口にできますわね! 明らかに楽な方法で走ってた貴方にだけは言われたくありませんわ!」

「別に俺が使ってただけで、やれとは言ってないぞ?」

「貴方が使ってたということは! それが最善なのは分かりきったことです!」

 

 

 メジロマックイーンが叫ぶ。麻真が走る上でフォームを気にしていたということは、彼は“それ”をしなければいけないと判断していたことだ。

 そう叫んでいたメジロマックイーンの口から“その言葉”を聞くと、麻真は満足そうに頷いていた。

 

 

「それだ。その言葉がお前の口から聞きたかった」

「……はい?」

 

 

 唐突に言われた麻真の言葉に、メジロマックイーンが呆気に取られる。

 しかし麻真はそんなメジロマックイーンに楽しそうに笑うと、説明を始めていた。

 

 

「マックイーンが今口にした最善、それは走る上で最も必要なことだ。お前に足りないものは、基礎能力と走り方。基礎能力はトレーニングを続ければある程度は補える。あとは走り方だ」

「……その走り方がこの靴と何の関係があるんですの?」

 

 

 麻真の意図が分からない説明にメジロマックイーンが眉を寄せる。

 そんなメジロマックイーンに、麻真は呆れたと言いたげに鼻を鳴らしていた。

 

 

「あるに決まってるだろ。その為だけに俺はお前に“それ”を履かせたんだからな。俺の真似して走るだけじゃない。身体をどう最善に動かしたら早く動けるか、それを自分で気づいて学べ」

「ですから! その為と言うならこの靴を履かせた意味を教えてください!」

 

 

 再度、メジロマックイーンが麻真に問う。

 急かすメジロマックイーンに麻真が苦笑する。そして彼は小さな溜息を吐いて答えた。

 

 

「その靴を履いて速く走ろうとすると必然的に自分の身体に合った足の使い方を覚えないといけない。力技で走れなくもないが、それは速く走る方法にならない。走る為に身体のどこの部分を効率良く動かすか、それをまずは覚えろ」

 

 

 そこまで麻真に言われて、メジロマックイーンも理解しつつあった。しかし“それ”を初めに教えなかった麻真に対する怒りが消えたわけではない。

 メジロマックイーンは口を尖らせながら、麻真に不服そうな目を向けていた。

 

 

「……初めに教えてくださっても良かったと思いますが?」

「俺が言うよりも、自分で気づいた方が身につく。人から全てを教わるよりも自分で理解した方がいい場合もあるんだよ」

 

 

 あまり同意できない。メジロマックイーンは素直にそう思った。

 教えられた方が良いのでは、とメジロマックイーンは思う。しかし麻真は正反対の意見を話していることに思わず彼女は眉間に皺を寄せていた。

 

 

「それなら麻真さんが私の走り方の悪い所を指摘してくださった方が早いのでは?」

 

 

 そもそもメジロマックイーンには自分の走り方がある。元々の走り方に、麻真が見せてくれた“先行の走り方”を取り入れたフォームで彼女は走っている。

 その走り方に修正点があれば、それを麻真が指摘して直していけば理想の走り方になるのではないか?

 それがメジロマックイーンの意見だった。

 

 

「お前の元々の走り方じゃ駄目だ。色々混ざってる“アレ”だと直し出したらキリがない。それに一箇所直すと他の箇所も直すって悪循環になる。足首の使い方だけ直しても、足腰の使い方が違ったら力の入り方がチグハグになって足を痛めることもあるからな」

 

 

 メジロマックイーンの走り方は、麻真から見れば修正点の塊だった。

 本来の負担の掛かる走り方から、僅かな修正を入れたフォームに変わり、そして麻真が見せた“先行の走り方”を追加で取り入れている。

 その為、今のメジロマックイーンの走り方は、走ることにおいての“良い箇所”と“悪い箇所”が混ざった独特なフォームが作られていた。

 ただ悪い所を直すだけで良くなるわけではない。それに麻真がメジロマックイーンに見せていた先行の走り方は、彼が作った走りの基本の形であり、彼女の走り方ではない。

 悪い走り方の悪い箇所を直すと、その箇所はメジロマックイーンに合った走り方に変わる。しかし彼女に合った走りに一箇所を変えると、元々の良かった部分も彼女に合った形に変えないといけなくなる。それをひたすら繰り返すのは非常に手間の掛かる作業になる。

 だからこそ、その手間に時間を掛けるくらいなら一から作り直した方が早い。それが麻真の考えだった。

 

 

「だから全部直すと?」

 

 

 渋々ながら、メジロマックイーンも麻真の話を少しずつ理解していた。

 悪い箇所を直せば、その箇所に合わせる為に良い箇所も修正する。それならば全てを一から作り直した方が早いと。

 

 

「そう、だからその為にお前をしばらく走らせなかった。理由、今なら分かるか?」

 

 

 そしてここで麻真が告げた言葉に、メジロマックイーンは“あること”に合点がいった。

 

 

「……走る感覚を忘れさせたかった?」

「正解。本当は“数ヶ月くらい”走らせたくなかったが、メイクデビュー戦が入ったから予定変更した」

「あの……麻真さん。今、鳥肌が立つようなことを仰いませんでした?」

 

 

 メジロマックイーンが耳を疑った。目の前にいるこの男が言った言葉は、それだけ彼女には衝撃的だった。

 数ヶ月走らせない。ウマ娘の存在意義である走ることを数ヶ月も禁止されると思うと、メジロマックイーンの背中に寒気が走り抜けた。そしてその期間、おそらく麻真は自分に基礎トレーニングしかさせないことも同時に察していた。

 あの辛い日々が数ヶ月も続き、加えて走れないと考えただけでメジロマックイーンは目眩がしそうになった。

 

 

「当たり前だろ? 走る感覚ってのは自転車に乗る感覚と一緒だ。一度覚えた感覚を忘れるのはかなり難しいんだからな? それこそ染み付いた癖は簡単には抜けない。無意識に癖は勝手に出てくる」

「だからと言って数ヶ月も走らせないのはどうかしてますわっ!」

 

 

 思わず、メジロマックイーンは麻真に叫んでいた。

 しかし麻真も自分の意見は曲げないと言いたげにメジロマックイーンの態度に対して、また溜息を吐いていた。

 

 

「自分の癖を消すってのは、それこそかなりの努力がいるんだ。自分ですら指摘されても気付かない癖を直すのは時間が掛かるんだっての。それならそれを忘れるくらい走らない方が良い」

 

 

 その麻真の言葉は、メジロマックイーンの癪に触る言葉だった。

 麻真が癖を消す為に自分を走らせないと言っているということは、つまりメジロマックイーンの走り方には癖があると言っているようなものだ。

 メジロマックイーンはそれに気がつくと、不満そうに口を尖らせた。

 

 

「……私に癖が多いと言いたい顔してますわね」

「いや、多いぞ。お前」

 

 

 そして麻真に即答されて、メジロマックイーンは顔を顰めた。

 誰しもある癖が自分にも少なからずあると思っていたが、まさか即答される程だとは思っていなかった。

 走り方が悪いだけで、正しい走り方を覚えれば良いと思っていたメジロマックイーンにとって、麻真の言葉は思っていた以上に胸に刺さっていた。

 

 

「どこですか?」

 

 

 メジロマックイーンが目を細める。

 麻真は不満な表情を見せたメジロマックイーンに、話すべきか一瞬悩んだ。

 本来、癖の多いウマ娘には特に何も言わずに癖を消させる方法を麻真は選んでいた。

 しかし麻真はメジロマックイーンの性格を理解していた為、彼は渋々ながら予定にはなかった癖の指摘をすることを選んだ。

 

 

「……お前の場合は意識してないだろうが、走ってる時の加速の踏み込みでたまに必要以上に足首とふくらはぎに力込めて使ってるだろ?」

「そんなこと、ありませんわ」

 

 

 麻真にそう指摘されて、メジロマックイーンは自分の走り方を思い出しながらたどたどしく答える。そんな走り方をしているつもりは彼女にはなかった。

 しかし麻真は、そんなメジロマックイーンに続けて指摘していた。

 

 

「長い時間走ってるとふくらはぎに痛みを感じたことないか?」

 

 

 そう言われて、メジロマックイーンは背筋が凍ったような感覚を覚えた。

 確かにあった。過去、長い時間走っていた時に稀に鈍い痛みを感じたことが何度かあったことがある。

 そして麻真は、更に続けてメジロマックイーンに指摘をしていた。

 

 

「あと俺と会うより前、たまに走り過ぎて膝が少し痛いと思ったこともあるだろ? それ、走り過ぎじゃなくて膝に負荷を掛け過ぎてなってるからな?」

 

 

 続けて麻真から言われた内容に、メジロマックイーンは鳥肌を立てた。

 心当たりが確かにあった。ごく稀に膝が痛いこともあった。しかしそれはオーバーワークによる痛みだとメジロマックイーンは思っていた。

 しかし麻真がそれを指摘したということは、それはメジロマックイーンが知らない癖で起きたことだと理解させられた。

 

 

「柔軟性のない膝で負荷の掛け過ぎ。太腿からふくらはぎに掛けて必要ないところでも力を入れてるから、その力の使い方が癖になってる。膝に負担掛け過ぎてオーバーワークすると靭帯炎とか起こして二度と走れなくなるからな?」

「分かりました! 分かりました! もう良いですから!」

 

 

 そして麻真から指摘され続けたことで、メジロマックイーンは折れた。

 麻真にこれ以上指摘されるのは心が耐えられそうにない。甘んじて受け入れる自信はあったが、的確に悪い点を複数指摘されれば流石に身構えていたメジロマックイーンでもメンタルが壊されそうになっていた。

 

 

「私が悪かったです! ちゃんとやりますからそれ以上は言わないでください!」

「まだ言えるぞ? あとは――」

「良いですから! もう言わなくて良いですっ!」

 

 

 続けて話そうとする麻真をメジロマックイーンが声を上げて止める。

 その態度を見てメジロマックイーンがようやく納得したことに、麻真は安堵して肩を落とした。

 

 

「納得したみたいだな?」

「えぇ……わかりました。走らないことも正しいことは“十分”理解しましたわ」

 

 

 ここは大人しく従おう。そう思ったメジロマックイーンは先程の指摘を受けなくなかった故に、素直に今は麻真に従うことを選んだ。

 麻真は指摘されて落ち込んでいたメジロマックイーンに肩を竦めると、彼はようやく話が進められると安堵して口を開いた。

 

 

「なら良い。じゃあ話を戻すぞ? その靴で走ると、基本的な走り方を学べる」

 

 

 そう言って麻真がメジロマックイーンの履いている靴に指を差す。

 メジロマックイーンが麻真の指先を追うように自分の靴に視線を向けたのを見て、彼は話を続けた。

 

 

「お前は最初のランニングで足首の使い方を学んだ。なんでか分からないがお前は次のステップだったふくらはぎの使い方もできるようになってる。だから次は、その先をやるぞ」

 

 

 麻真がポケットからストップウォッチを取り出すと、それをメジロマックイーンに見せつける。

 メジロマックイーンはそのストップウォッチを見ると、見るからに嫌そうな顔をした。

 麻真がストップウォッチを持ったということは、つまり次にやらされることの想像が容易だった。

 

 

「タイム測定……ですか?」

「その通り。まぁ、ストップウォッチ持ってたら分かるだろうな」

 

 

 重りを付けた靴でタイム測定をするということは、つまり速く走らないといけないことになる。

 メジロマックイーンは重りを付けた靴で全速力で走る自信がなく、加えて転んだ時の可能性を考えていた。

 ウマ娘が走って転ぶ。それは確実に大怪我に繋がるからだ。速い速度を出せてしまうウマ娘故に起きる事故でもある。

 そんなメジロマックイーンの表情を見て、彼女の思っていることを察した麻真は淡々と告げていた。

 

 

「言っとくが、ちゃんと走れば転ばないからな。綺麗な走り方をすれば足はもつれない」

「……分かりませんわよ?」

 

 

 不安そうに表情を暗くするメジロマックイーンに、麻真は苦笑していた。

 それは杞憂だと、麻真はメジロマックイーンの前で自分が履いていた靴を地面にトントンと当てていた。

 

 

「重い靴でも、力の使い方を覚えれば問題ない。だからそれをタイム測定で覚えろ」

「しかし、いきなり全力で走るのは……」

 

 

 メジロマックイーンが自分の靴を見つめながら、ポツリと呟く。

 もし転んだ場合のことを考えてしまう。不安ない気持ちになるのも無理もない。

 しかし麻真は不安そうにするメジロマックイーンに首を傾げていた。

 

 

「いきなり全力で走るつもりか?」

「……はい?」

 

 

 メジロマックイーンが怪訝な顔を見せる。

 麻真は手に持っていたストップウォッチを手元でボールのように遊ばせながら、平然と話していた。

 

 

「お前にやってもらうのはタイム測定だが、目標タイムを設ける。それをクリアしていけ」

「目標タイムですか?」

「あぁ、目標タイムを段階的に上げてく。そうだな、最初は……」

 

 

 そこで口を閉じた麻真がしばらく考え込む。そして十秒程度の時間が経って、彼はメジロマックイーンに告げた。

 

 

「コース一周、二千四百メートル。まずは五分で走ってこい」

「えっ……?」

 

 

 麻真の指定した目標タイムに、メジロマックイーンが反応に困った。

 目標が無理難題ではない。それはむしろ逆だった。

 

 

「そんなに遅くて良いのですか?」

 

 

 そう、その目標タイムはあまりにも遅いタイムだった。

 本来なら二千四百メートルは全力でなら三分弱程度で走れる。公式のレコードタイムになれば三分を切り、二分台の記録となる。

 麻真が指定した五分。それはメジロマックイーンから見ても“遅過ぎる”目標だった。

 

 

「遅くて良い。まずは五分を切ってみろ。そしたら次のタイムを教えてやる」

 

 

 麻真は驚いていたメジロマックイーンに気にする素振りもなかった。まるでそれが当然と言いたげに、彼はメジロマックイーンに指示していた。

 麻真が指定した目標を超えていけば本当に速くなれるのだろうか?

 そんな心配がメジロマックイーンにあったが、あの北野麻真が言うのだから信じるしかない。

 メジロマックイーンはそう思うと、麻真の言葉に頷いた。

 

 

「……分かりましたわ。やります」

「それで良い。その靴が脱げるように頑張れよ?」

 

 

 そして頷いたメジロマックイーンに、麻真が朗らかに笑みを見せる。

 しかしメジロマックイーンは、最後に麻真が話した言葉が耳に残った。

 今、この男……なんて言ったのかと。

 メジロマックイーンは思わず眉を寄せて、麻真に訊いていた。

 

 

「麻真さん……ちなみに、最終目標が終わらないとどうなりますの?」

「終わるもなにも、終わるまでずっとその靴履かせるからな?」

「……どんな時も?」

「走る時は全部それ。それ以外で走るのは禁止だぞ?」

 

 

 メジロマックイーンが膝から崩れ落ちた。

 どうあがいても、麻真の作った目標を終わらせないと自分はこの“靴”を脱ぐことができない。

 こんな馬鹿げた重りを付けた靴を履き続けることを想像するだけで頭が痛くなる。

 メジロマックイーンはそう思うと、溜息を吐きながら立ち上がった。

 

 

「分かりました。なら早速……五分を終わらせますわ」

「やる気があって何より、じゃあ位置につけ」

「勿論、麻真さんも走りますわよね?」

「そりゃお前が走るなら、俺も走るだろ?」

 

 

 当たり前と即答した麻真に、走る準備をしていたメジロマックイーンが呆気に取られる。

 つくづく思うが、この人は変わっているとメジロマックイーンは思った。

 わざわざ走る必要もない場面なはずなのに、一緒に走ると言っているのだから。

 冗談で言ったつもりだったが、まさか即答されるとは思ってもいなかった。

 

 

「……なら良いですわ。よろしくお願いします」

「任せとけ。じゃあ始めるからな。好きなタイミングで走って良いぞ」

 

 

 メジロマックイーンが位置について、走る構えを取る。

 麻真も構えたメジロマックイーンの後方で、ストップウォッチを持ったまま軽く構える。

 メジロマックイーンがその場で深く深呼吸をして、足に意識を向ける。

 重りを付けた時の足の使い方、先程のランニングで学んだことを思い出す。イメージの中で学んだことを思い出して、その点をメジロマックイーンは意識していく。

 そして集中してメジロマックイーンが準備を整えた瞬間、彼女は走り出していた。

 

 

「スタートはまだまだだな」

 

 

 走り出したメジロマックイーンの後ろ姿を見て、麻真が苦笑いする。

 しかしそれはまだ伸ばせるところがあるということ。麻真はそう思うと、前をゆっくりと走るメジロマックイーンを追い掛けるように走り出していた。

 麻真が提示した目標。その最終目標である三分三十秒を切れた瞬間、メジロマックイーンは大きく変わる。

 それを期待して、麻真は前を走るメジロマックイーンを穏やかな目で見守ることにした。

 

 

 

 

「ん……?」

 

 

 

 

 しかしそこで麻真はとあるモノが視線に入った。

 練習場の端にある茂みに隠れるようで隠れ切れていない尻尾と頭が見えていた。

 鹿毛の耳と尻尾が不自然に飛び出ていて、小さな子供のような体型のウマ娘が麻真をジッと見つめていた。

 

 

「なんだ? アイツ?」

 

 

 麻真がそれを見て、一瞬だけ怪訝な顔を見せる。

 だが麻真は、それを見てすぐに視線を逸らしていた。

 おそらく、関わらない方が良い。麻真は直感でそう思った。

 不思議とそれは正しいことだという確信が、何故か麻真にはあったからだった。

 




読了、お疲れ様です。

今回も時間掛かりました。
拙い文章だったら申し訳ないです。
今回は練習回。それと後々の伏線です。
誰でしょうね?最後のウマ娘は?

今後の展開にご期待ください。

では、また次回の更新でお会いしましょう!

追記

さて、皆様にご報告です。
今回、私はちょっとした企画に参加致しました。
皆様がご存知か分かりませんが、
サイレンススズカの作品『十五夜にプロポーズでも』の作者であるちゃん丸さんの企画『ウマ娘プリティーダービー企画短編集』に私、参加しています。
ランキングによくウマ娘の作品を載せている作者様方が多いので、良ければご覧ください。あのタマモクロスの方や、ダイワスカーレットの方などなど。
ちなみに私は、本日の21時に公開させる予定です。良ければご覧ください。
メジロマックイーンを目当てに皆様が私の作品を読まれていると承知していますが、機会があればよろしくお願いします。


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3.美味しいじゃねぇよ!

 

 

 メジロマックイーンが麻真の用意した特注の蹄鉄靴を履いてから、二日が経った。

 メイクデビュー戦まで残り七日。今日もメジロマックイーンはコースを走っていた。

 

 

「踏み切った足が伸び切ってない。背筋伸ばす。姿勢も乱れてるぞー?」

「うるさいですわよっ! 分かってますわっ!」

 

 

 麻真の指摘に、メジロマックイーンが不服そうに叫ぶ。

 この二日で、麻真が見る限りメジロマックイーンの走りは大きく変化していた。

 今まで、メジロマックイーンは“足だけ”で走っていた。しかし足首を使うことも覚えてからは自然と足首も使うようになり、彼女の走り方は下半身全体を使うフォームへと変化した。

 更に爪先で地面を抉るように捉えながら足首を使って地面を蹴ることも覚え、加速する走り方も彼女は習得しつつある。

 この二日のメジロマックイーンの下半身の使い方の成長に関しては、予定よりも上々な成長だと麻真は感じていた。

 しかしまだ発展途上。こうして麻真が前を走るメジロマックイーンに“自分で気づいた部分”だけを指摘するが、未だ指摘しても時折同じことをしてしまう辺り、彼女はまだまだだった。

 自分の改善点に気づいて修正したとしても、それは気づいた時しか直らない。ふと意識から外れたら、まだ同じ動作をしてしまう。無意識で行う動きは、簡単には直らない。

 一度覚えてしまった動作を修正するのは、時間が掛かる。特に癖が多いウマ娘なら特に時間を必要とする。

 

 

「はい。また足が伸び切ってない」

「いちいち指摘しないでくださいませっ!」

「お前が同じことを何度もやるからだ」

「言われなくても気づいてますっ!」

 

 

 麻真に指摘されて、メジロマックイーンが目を吊り上げる。

 身体の動かし方に指摘されて苛立ちを感じながら、メジロマックイーンは別のことに対しても苛立ちを感じていた。

 そんなメジロマックイーンが抱えてる苛立ちを、麻真は理解していた。

 今、メジロマックイーンは自分の身体が思う通りに動かないという苛立ちが募っている。意識していても、無意識に今までの走り方で走ってしまう自分の身体に腹を立てている。

 麻真はそう感じているメジロマックイーンを見ながら、面白そうに小さく笑っていた。

 

 麻真から見て、メジロマックイーンは癖が多い方のウマ娘だった。

 

 しかし特徴的な癖が多いわけではなく、メジロマックイーンの場合は力の使い方が独特なウマ娘と麻真は判断していた。

 メジロマックイーンは走る時の下半身の力の使い方が独特で、足に負荷の掛けやすい走り方をしていた。麻真はまず初めにこの部分を直すことを最優先にしていた。

 正直に言えば、今までのメジロマックイーンの走り方は足の筋力が高くなれば速くなる走り方であった。しかし麻真はそれをすぐに修正することを選んだ。

 足に負荷を掛けてしまう走り方は、後々に足が壊れる。それを麻真は危惧していた。

 ウマ娘が足を壊すことは、一番やってはいけないことのひとつである。走ることはウマ娘の一番の存在意義であり、彼女達が最も大切にしていることだ。それを失うことは、端的に言えば“死”とも言える。

 足の骨折も繰り返せば、走ることができなくなる。更に関節部分に負荷を掛け続ければ、二度と走れなくなる靭帯炎を発症させる可能性もある。故に、ウマ娘にとって走るフォームは最も気をつけなければならないことなのだ。

 だからこそ、麻真はわざわざメジロマックイーンの走り方を矯正させる為に“高額”な蹄鉄靴を用意した。

 本来なら麻真自身が走り方を指摘したり手本を見せるなどで走り方を矯正するのだが、メジロマックイーンの場合はそれを行わなかった。

 筋力の間違った使い方は、走るフォームを直しても直らない。だからこそ、メジロマックイーンに筋力の使い方を覚えさせる為に特別な練習メニューを麻真は用意していた。

 特製の蹄鉄靴を履いて速く走ることができれば、必然的に筋力の使い方を覚える。力技で誤魔化せる可能性もあるが、メジロマックイーンの場合はそれは無いと麻真は判断できた。

 メジロマックイーンには、加速に必要な筋肉がまだ足りていない。彼女が力技で誤魔化そうとすれば、速く走ることに限界が必ず訪れる。

 つまり足に重りを付けた状態では、メジロマックイーンの場合は効率良く筋力を使わなければ速く走れない。

 故に、メジロマックイーンは走りながら考えることになる。特注の蹄鉄靴を履いた状態で速く走る為には何が必要で、何が不要かを。

 それを必死に考えて気づき、そして意識する。その意識で行う動作が無意識にできるようになった時――メジロマックイーンは一段階前に進むことになる。

 その先の段階に進めなければ、メジロマックイーンの目標である天皇賞制覇など夢物語になる。

 その先に進めるかどうかは、それこそメジロマックイーン次第。麻真はストップウォッチを止めると、走り終えた彼女に苦笑しながらタイムを伝えていた。

 

 

「まだまだだな。タイムは四分二十三秒」

「ですが先程より三秒縮まりましたわッ!」

「でも目標まで二十三秒足りてないからな?」

「ぐっ――!」

 

 

 メジロマックイーンが悔しそうに顔を強張らせる。拳を強く握り締めているところを見る限り、相当悔しそうにしていた。

 それもそのはず、二日使ってもメジロマックイーンは目標タイムをクリアできていなかった。

 最初の目標タイムだった五分をメジロマックイーンは一日目でクリアした。しかしその次の目標タイムを彼女は未だクリアできなかった。

 四分。それが麻真が提示した目標タイムだった。二日目を全て使ってもメジロマックイーンは四分三十秒までしか走れなかった。そして三日目、三度目のタイム測定でようやく七秒縮めた四分二十三秒が彼女の最速タイムだった。

 

 

「まだ直せるところがありますわ! 絶対にクリアしてみせますわよ!」

「四本目、次もやるのか?」

「当たり前ですわ! 絶対に今日で四分をクリアします!」

 

 

 肩で息をしながら答えるメジロマックイーンに、麻真は戯けるように肩を竦めていた。

 

 

「ならインターバルしっかりしておけ。あと、これ飲んどけ」

 

 

 そう言って麻真が練習場の端に置いていた鞄からペットボトルと棒状の菓子を取り出すと、それをメジロマックイーンに渡していた。

 渡されたペットボトルと菓子を手に取って、メジロマックイーンがジッと手に持ったそれを見つめる。

 インターバルに水分補給と栄養補給をしっかりと取ることを指示する麻真にも流石に慣れたメジロマックイーンだったが、相変わらず水分補給用のドリンクと一緒に渡される“菓子”を凝視していた。

 

 

「いつも思ってましたが……このお菓子、食べる必要ありますの?」

 

 

 メジロマックイーンが右手に持っていた棒状の菓子を麻真に見せつける。訊かれた麻真も、メジロマックイーンと同じように水分補給と栄養補給していた。

 メジロマックイーンに訊かれた瞬間、麻真が目を点にした。まるで何を言っているんだと言いたげにキョトンとした顔をして、少し間を空けると彼は怪訝な顔をしていた。

 

 

「……マズいか? これ?」

「いえ、美味しいですが……」

 

 

 そうではない。メジロマックイーンは見当違いな答えが麻真から出てきたことに思わず素直に答えていた。

 おいしくないと思ったことはない。むしろ逆、美味しく食べられる。甘いものが好みなメジロマックイーンにとっては、菓子は特に好物と言っても過言ではない。

 しかし栄養補給と言って菓子を食べるのはどうなのかとメジロマックイーンは思っていた。

 メジロマックイーンから見れば、手に持っている菓子はあまり馴染みがなかった。よくあるスナック菓子とも違う、変わった菓子に見えた。

 

 

「なんですの? これ?」

 

 

 そしてメジロマックイーンは遂に訊いてしまった。その質問が、自分の首を絞める行為だとも知らずに。

 麻真は渡した菓子が何かと訊かれると、少し驚いたような顔をしていた。

 

 

「……マジか。知らないのか? これ?」

「知りませんわよ。ただのチョコレートと思ってましたが」

 

 

 麻真が手に持っていた菓子を食べる。食べながら心底意外そうな顔をして、彼はメジロマックイーンを見つめていた。

 

 

「簡単に必要な栄養補給できる菓子だぞ、これ。勿論、ウマ娘用だけど」

「これで……?」

 

 

 そんな風には見えない。ただの菓子にしか見えなかった。

 不思議そうに菓子を見つめるメジロマックイーンだったが、麻真が何か考えるような表情でポリポリと菓子を食べ進めていた。

 

 

「……お嬢様だから知らないのか? 学園で食ってる奴いないのか?」

「気にしたことがないので覚えてませんわよ」

 

 

 メジロマックイーンが思い返すが、食べている生徒を見たことがない。と言っても、仮に誰かが食べていたとしても気にしたことがないので覚えていない、というのが正しいとも言える。

 

 

「走ると身体の水分と栄養が足りなくなるんだ。食っておいた方が良い。身体のパフォーマンスを維持するのもお前の大事な仕事だぞ」

「ですがこれで栄養補給できるとは思えませんわ」

 

 

 どう見てもただの菓子にしか見えない。しかし麻真が食えと言うからには従うしかないとメジロマックイーンは慣れた手つきで封を開けると、菓子を口にしていた。

 ポリポリと食べ進めるメジロマックイーンに、麻真は未だ信じていない彼女に“真実”を伝えてしまった。

 

 

「栄養の塊なんだけどな。これ一本で四百キロカロリーくらいあるんだぞ?」

 

 

 菓子を食べていたメジロマックイーンが麻真の話を聞いた途端、ピタリと手を止めた。そして口に入れた分の菓子を食べ終わると、食べていた菓子を見つめて彼女は目を丸くしていた。心なしか、彼女の手が震えていた。

 麻真の言葉が飲み込めず、しばらく時間が経ってからメジロマックイーンは遅れて反応していた。

 

 

「……はぁっ⁉︎ 四百キロカロリー⁉︎」

「ウマ娘用だからな。人間用ならもっと摂取カロリー下がるけど」

 

 

 平然と話す麻真に、メジロマックイーンは震えていた。

 今、メジロマックイーンが食べている菓子は麻真が練習時に渡してくる時しか食べない。しかし食べている本数が問題だった。

 練習前、練習中に二度、最後に練習終わりの計四回に渡って麻真はメジロマックイーンに菓子を食べさせていた。

 四百掛ける四。その計算をメジロマックイーンが頭の中で計算した瞬間、彼女は反射的に麻真に目を据わらせていた。

 

 

「私になんて物を食べさせてましたの⁉︎ こんな高カロリーなモノを!」

 

 

 実のところ、メジロマックイーンには悩みがあった。

 それは毎朝にこっそりと乗っている体重計の数字だった。女の子には決して無視できない無慈悲な“数字”、それがここ数週間で日に日に増えていることだった。

 麻真との過激なトレーニングをしても、一向に数字が変わらない。むしろ若干増えつつある現状にメジロマックイーンは悩んでいた。

 食事も気をつけていた。好物の甘いものも控えていた。それなのに過剰なまでのトレーニングをしても体重が変わらないという不可解な出来事に、メジロマックイーンは原因が何かとよく考えてることが多かった。

 簡単なところに答えがあった。その答えのひとつが今自身が手に持っている菓子だと知った今、メジロマックイーンは右手に持っている菓子が死神の鎌にしか見えなかった。

 

 

「高カロリーなのは当たり前だろ? 筋肉作るのに必要な栄養を一通り簡単に摂取できるんだぞ?」

 

 

 驚いていたメジロマックイーンに、麻真が顔を顰めて説明した。

 麻真が用意した菓子。それは一般で販売されているスポーツ用の栄養補給食だった。しかし人間用ではなくウマ娘用の食べ物で、麻真が個人的に仕入れているモノだった。

 筋肉を作る上で必要な栄養素を手軽に摂取できる食品であるので、麻真は好んで食べているモノだった。

 

 

「筋肉を作るのに栄養が必要なのはお前も知ってるだろ?」

 

 

 確かに筋肉を作る上で栄養が必要不可欠なのはメジロマックイーンも十分に理解している。しかし“それはそれ”である。

 

 

「ですが千六百キロカロリーって、あのにんじんハンバーグ定食と変わりませんわよっ!」

 

 

 そう、摂取量が千六百キロカロリーはトレセン学園の学食で高カロリーで有名な“にんじんハンバーグ定食”と大差ない摂取カロリーだった。

 まさか自分が練習中にそれと同等のカロリーを摂取していると思わず、メジロマックイーンは震えた手で菓子を捨てたくなった。

 麻真もメジロマックイーンの反応を見て、彼女が言いたいことを理解したのだろう。彼は納得した表情を見せて頷いていた。

 

 

「あぁ……マックイーン。お前もしかして体重、増えたか?」

「なっ――⁉︎」

 

 

 麻真に指摘された瞬間、メジロマックイーンが顔を赤面させた。それが彼女の答えだった。

 その反応を見て麻真が呆れた表情を見せながら、メジロマックイーンに苦笑していた。

 

 

「脂肪より筋肉の方が重いんだ。身体が強くなるってことは体重が増えるってことだ。少しくらい増えるのも仕方ないだろ?」

 

 

 脂肪と筋肉では、僅かに筋肉の方が重い。つまり身体の筋肉量が増えるということは、体重か僅かに増えるのは必然である。

 それもメジロマックイーンは理解している。しかし明らかに体重が増える原因を作っているモノが目の前にあれば、話が変わってくる。

 

 

「限度がありますわ! こんなモノを一日四本も食べさせて私を太らせたいんですのっ⁉︎」

 

 

 メジロマックイーンが怒る理由も、麻真は理解できた。年頃の女の子ならば自分の体重を気にするのは仕方ないところだろう。

 しかし筋肉を育てる以上は、体重が増える。身体の体脂肪を落として筋肉量を増やすと、必然的に体重が増えてしまう。

 だが筋肉量を増やして体重を落とす方法もないこともないが、今のメジロマックイーンはまだ基礎の身体ができていない為、その段階に進むのはまだ先の話である。

 頭の中でどう話すか思考した麻真だったが、どの道まだメジロマックイーンには無理な話だと判断した。そして彼は彼女へただ事実を伝えることを選んでいた。

 

 

「端的に言ったらそうなるな。筋肉量増やしてもらわないと早く走れないし」

「なんてことを仰るの……⁉︎ この人は……⁉︎」

 

 

 事実を突き付けられて、メジロマックイーンが声を震わせる。

 女の子に体重を増やせと突きつける暴挙とも言える麻真の言葉は、メジロマックイーンを驚愕させるのに十分だった。

 

 

「お前も理解してるだろ? 筋肉と脂肪の重さの違いくらい?」

「分かってます……! 分かっていますが……っ!」

 

 

 麻真の前で、メジロマックイーンが葛藤していた。

 女の子ならではの葛藤だった。強くなるには体重を増やさなければならない。しかし女たる者、自分の体重の数字に敏感になるのも当然である。

 激しい葛藤を心の中でしているメジロマックイーンが手に持った菓子を憎たらしい目で見つめる。

 そんなメジロマックイーンに、麻真は小さく溜息を吐いていた。

 

 

「ある程度身体ができたら、体脂肪は自然と落ちてくる。今は増えてるがそのうち体重は減ってくるから今は気にするなっての」

「これを食べるのをやめることは……?」

「これの一本と同じ栄養取るとしたら、どれだけの量の飯を食べないといけないか教えてやろうか? 多分、聞かない方が良いと思うぞ?」

 

 

 小さく微笑んだ麻真に、メジロマックイーンがハッと背筋を凍らせた。

 麻真が意地悪な顔をして話しているということは、つまりそれは自分の想像を超える量なのだと察してしまった。

 きっと今食べている菓子よりも摂取カロリーが多くなる。つまりそれは更に体重が増えることを意味する。

 麻真が簡単に摂取できると言って自分に食べさせているということは、これが一番楽な方法ということもメジロマックイーンは理解してしまった。

 

 

「くっ……体重が……!」

「体重減らしたかったらよく動いて鍛えろ。近いうちに体重変わってくるから」

 

 

 その為、麻真にはそれしか言えなかった。

 まだ成長途中の女の子であるメジロマックイーンには酷な話だと思える。しかし通らなければならない道であるのだから、どうしようもない話だった。

 

 

「あ、早く鍛えたいからってオーバーワーク厳禁だからな。やったらマジで走らせないから」

「あぁぁ………⁉︎」

 

 

 麻真に考えを読まれたメジロマックイーンが地面に崩れ落ちていた。

 単純なウマ娘だった。日に日に麻真も目の前のメジロマックイーンのことを理解しつつあった。

 箱入りのお嬢様と麻真も思っていたが、いつの間にか見ていて面白いウマ娘と思うようになってきていた。

 良い意味で年相応とも言える。ストイックな面もあるが、見ていると大人びている風に見えて子供のような面も見える。

 麻真はそんな印象を感じるようになったメジロマックイーンを見つめながら、肩を落とした。

 とりあえずは我慢してもらおう。麻真はそう思いながら、水分補給と栄養補給を終えると両手を叩いてメジロマックイーンに指示することにした。

 

 

「納得したなら走ってこい。インターバルは終わりだ」

「まだ食べ終わってませんわ……」

「なら早く食え」

 

 

 麻真に急かされてメジロマックイーンが急いで菓子を食べ進める。そして水分補給も終えると、彼女は肩を落としながら走る準備を始めていた。

 なんだかんだ言ってちゃんと菓子を食べる辺り、素直なウマ娘だと麻真は思ってしまう。

 そしてメジロマックイーンが走る準備を整え、コースに立って走る構えを取ったのを見て、麻真も彼女と同じように構えていた。

 

 

「良し、いつでも良いぞ」

「はい……では、行きますわ」

 

 

 そう言って、メジロマックイーンが駆け出した。

 ストップウォッチを動かして、麻真がメジロマックイーンの後を追う。

 心なしか先程よりも気合の入った走り方をしているメジロマックイーンの後ろ姿を見て、正直なウマ娘だと麻真は思ってしまう。

 良い意味で今後の成長が楽しみになってくる。麻真はメジロマックイーンの走り方を見ながら、思わず笑っていた。

 

 

「はい。姿勢が崩れてる」

「うるさいですわよっ!」

 

 

 しかしまだ自分に走り方を指摘されているうちは、まだまだ一人前には程遠い。

 前を走るメジロマックイーンを見つめながら、麻真は彼女の走り方を何度も指摘する。

 何度も不服そうに言い返してくるメジロマックイーンだが、何度も直そうと努力する辺り、根気はある。

 あと七日。メジロマックイーンが最終目標を突破できるか不安になるが、麻真は彼女次第と割り切って見守ることにした。

 

 

「また見てるな、あのガキ」

 

 

 そして麻真が走りながら、感じていた視線に目を細めた。

 二日前から、いつの間にか練習場の隅に一人の鹿毛のウマ娘が現れるようになった。

 特に何をするわけでもなく、ただ練習を見ているだけなのだが妙に視線に棘がある気がしていた。

 理由は不明だが、何がしたいのか意味が分からない。ただ見てるだけなのが妙に腹立たしく思える。

 ふと麻真が横目で隠れているウマ娘を見ると、そのウマ娘が彼の持って来ていた鞄に近づいているのが見えた。

 

 

「何やってんだ、あいつ?」

 

 

 麻真が持っていた鞄には、水分補給用のペットボトル数本と栄養補給用の菓子が数本入っているだけだった。

 恐る恐る鞄の中を覗いていて、そのウマ娘は何を思ったのか鞄に入っていた菓子を一本取り出していた。

 

 

「……まさか食うつもりじゃないよな?」

 

 

 不思議そうな顔でウマ娘が麻真の鞄から取り出した菓子を凝視する。

 そして色々な角度から菓子を観察してから、しばらく考える素振りを見せたウマ娘は、唐突に菓子の封を開けていた。その中身を見て、ウマ娘がしばらく菓子を見つめている。

 

 

「マックイーン。悪い、ちょっと悪ガキを懲らしめてくる」

「はい……?」

「先に行く。ちゃんとタイム測ってるから気にしないで走ってくれ」

 

 

 メジロマックイーンにそう告げて、麻真が珍しく“全速”で走り出した。

 横目でまだ鹿毛のウマ娘が菓子を見つめているのを確認しながら、麻真が第四コーナーを抜けて直線に入った。

 メジロマックイーンは麻真の走りを見て、唖然としていた。自分と同じ重りを付けているはずなのに、信じられないほどの速さで走っていく麻真に素直に驚いていた。

 

 

「食うなよ、食うなよ?」

 

 

 最速で駆ける麻真が、直線の先にいるウマ娘に苦笑いする。

 しかし麻真の願いは叶わず、ウマ娘は勢い良く持っていた菓子を頬張っていた。

 

 

「あっ! これ美味しい!」

「美味しいじゃねぇよ! 勝手に食うなっ!」

 

 

 そして最速でウマ娘の元に辿り着いた麻真が菓子を勝手に食べたウマ娘の襟首を掴むと、猫のように持ち上げていた。

 

 

「えっ⁉︎ なんでいるの⁉︎」

「お前が勝手に鞄漁ってたの見えたからな。そりゃ全力で走ってきたに決まってるだろ? それで……弁明はあるか?」

 

 

 麻真が襟首を掴んで逃げれないようにしているが、ウマ娘がどうにか逃げようと暴れる。

 しかし足を地面に触れされていない以上、逃げることができずウマ娘はただ空中で暴れているだけだった。

 逃げられないことを悟ったのか、ウマ娘は力なく猫のように大人しくなると麻真にたどたどしく答えていた。

 

 

「ちょっとコレが美味しそうで気になって……」

「だからと言って勝手に食う奴がいるか!」

 

 

 麻真が珍しく怒っていた。まさか勝手に鞄の中を漁るウマ娘がいると思わず、麻真も思わず怒ってしまった。

 怒られて大人しくなったウマ娘が、目を潤ませる。麻真がこのウマ娘をどうしようか悩んでいると、遅れてメジロマックイーンが麻真の元に来ていた。

 

 

「四分二十秒。まだ足りないぞ」

「ですからまた三秒縮まりましたわ!」

 

 

 麻真が止めていたストップウォッチのタイムに、メジロマックイーンが目を吊り上げて叫ぶ。

 そしてメジロマックイーンが麻真の手に吊るされているウマ娘を見ると、意外そうな顔で目を大きくしていた。

 

 

「……テイオー? どうされたんですの?」

「マックイーン。この悪ガキ、知り合いか?」

 

 

 メジロマックイーンの反応を見て、麻真が顔を顰めた。

 麻真が悪ガキと言い出したことに、メジロマックイーンが意味が分からずに首を傾げる。

 しかし悪ガキと言われたウマ娘は、不服そうに麻真に吊るされながら暴れていた。

 

 

「ボクは悪ガキじゃないもん! トウカイテイオーってちゃんとした名前があるんだい!」

「人のモノを勝手に食ってる時点で悪ガキだっての」

「でもこれ本当に美味しいね」

「この状況で食い続けられるお前が怖いよ、俺は」

 

 

 麻真に吊るされながら、平然と鹿毛のウマ娘――トウカイテイオーが菓子を食べ進めていた。

 

 

「あの……どういう状況です? これ?」

「俺が聞きたい。コイツ、どこに捨てて来れば良い?」

「そこら辺の川にでも捨てて来てくださいな」

「良いのか? なら捨ててくるわ」

「――二人ともひどくないっ⁉︎」

 

 

 麻真とメジロマックイーンの会話を聞いて、トウカイテイオーが慌てて止める。

 そんなトウカイテイオーを見て、麻真とメジロマックイーンは顔を見合わせていた。




読了、お疲れ様です。

すいません。相当書くのに苦労しました。思ったように書けなくて読みにくかったら申し訳ないです。
今回はメジロマックイーンの練習について、お菓子の話(プロテインバー)、そして遂に現れた新キャラの話です。

まぁ、皆さまお察しの通り出ますよね。トウカイテイオー。
このキャラも話に関わってくるキャラクターになります。
トウカイテイオーがどう関わってくるか、気長に見守ってください。


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4.諦めない!

 

 

 

 良い方向に向かっている。ここ数日間、メジロマックイーンの走りを見守っていた麻真はそう思っていた。

 走る練習を始めて五日目。メイクデビュー戦まで残り五日と折り返し地点になって、メジロマックイーンの走り方は麻真から見ても目に見えて変わってきていた。

 現在の第二目標タイムである四分に、先程でメジロマックイーンは四分五秒までタイムを縮めてることができた。これで残り五秒縮めるだけで、彼女は二つ目の目標タイムである四分をクリアできる。

 おそらくこの調子ならば今日中に目標の四分をクリアできるだろう。メジロマックイーンの後ろを走りながら、右手に持っているストップウォッチの時間を一瞥して麻真は小さく笑っていた。

 

 

「マックイーン。次のコーナー、分かってると思うが遠心力で身体が外側に持ってかれないように意識しろ」

「――はいっ!」

 

 

 麻真の言葉に、メジロマックイーンが大きな声で返事をする。

 この五日間でメジロマックイーンの走り方が改善され、彼女が耳にタコができるほど麻真から受けていた指摘も、今ではかなり少なくなっていた。

 またそれに比例して、麻真がメジロマックイーンに掛ける言葉の内容も少しずつだが変わっていた。

 今まではメジロマックイーンの走り方で悪い点の指摘しかしなかった麻真だったが、今では彼女の走り方を良くする為の指摘もしていた。

 悪い点を指摘されず、良くするための指摘を受ける。それはつまり、メジロマックイーンの走り方で悪い点が少なくなり良い点が増えているということである。

 メジロマックイーンもそれを理解したのだろう。突然、麻真の指摘する内容が変わってきたことに内心で驚いていたが、同時に察していた。

 麻真の指摘する内容が変わった意味。それは麻真がメジロマックイーンに“それ”をするに値する走り方をしていると判断されたことだ。

 それを理解した時、メジロマックイーンは内心では飛び跳ねたくなるくらいに喜んでいた。あの“北野麻真”に認められている。こと走る上で、誰よりも尊敬している人に少しでも認められたことを彼女が嬉しく思わないわけがない。

 それ故に、そのことに気づいたメジロマックイーンは麻真から受ける指摘を聞き逃すことはなかった。身体の動きに意識を向けながら、耳はいつでも麻真から指摘を受けても良いように常に集中していた。

 

 

「足の力で外側に流れる遠心力を抑え込むな。身体の軸を内側に倒して走れ。力技で誤魔化すな、身体全体で曲がれば勝手に曲がる」

「――はいっ!」

 

 

 麻真の指摘を受けて、メジロマックイーンが彼の言葉通りに走る。

 メジロマックイーンの走り方は、麻真から見て初めの頃よりも良くなった。今まで見られた癖も大方消している。力の使い方を理解して、今までの“足に負荷の掛かる走り方”から“力を効率良く使える走り方”へと変化していた。

 

 やはり見た目通り、メジロマックイーンは賢い。麻真は彼女の対応力に密かに感心していた。

 

 言われたことを言葉通りに実行できるのは、教える側の麻真としてはありがたい限りだった。またメジロマックイーンに関して更に評価できるのは、言われたことに加えて自分で更に良くしようと考えられていることだ。

 自分の意見を言えることは勿論のこと、言われたことよりも更に良くしようという姿勢が良い。仮にそれが悪くなることなら自分が指摘するだけのことなので、麻真はメジロマックイーンのそれを特別否定するつもりは微塵もなかった。

 

 

「やっぱり頭良いな、アイツ」

 

 

 麻真がポツリと、小さな声で呟いた。

 こうして麻真がメジロマックイーンの成長の速度を見ていると、彼女の地頭の良さが垣間見えた。走る練習を始めてから、麻真の予定よりも早く彼女は自分の身体の使い方を理解している。

 賢さで言うなら、麻真が今まで見てきたウマ娘達の中でもメジロマックイーンは高い方だと思える。

 その為、麻真は僅かに困惑していた。なぜ、こんな賢い子があんな間違った走り方を覚えていたのかと。

 おそらくある意味では、メジロマックイーンは頭が固いタイプなのだろう。頑固な面もあることから、自分の考えを正しいと思う節もある。

 そんな面があるからこそ、一度覚えた自分の走り方を確かなモノと信じ、その走りに色々な手を加え続けた結果が以前の走り方になったに違いない。

 しかし柔軟な考えもできるのを見る限り、その妙な“歪さ”は中等部に入ったばかりの幼さ故なのだと麻真は心の中で納得することにした。

 だがどちらにしても、この様子を見る限りメジロマックイーンの今後の成長に期待ができた。麻真は彼女の目標でもあり、自分の退職する為の目標のひとつでもある天皇賞制覇への期待が僅かに高まっていた。

 

 

「ねぇねぇ! 麻真さん! ボクのトレーナーになってよ!」

 

 

 しかし麻真がそう思っていた時、彼の後ろを走っていた鹿毛のウマ娘――トウカイテイオーが彼にそう話し掛けていた。

 

 

「……全く、困ったガキだ」

 

 

 溜息を吐きそうな声で、麻真がぼやく。

 折角の良い気分が台無しだった。ポツリと呟いた麻真は聞き飽きたと言いたげに呆れた表情を作った。

 ご丁寧に制服からジャージに着替えてトウカイテイオーが麻真の後ろを追うように走る。麻真に捕まった日の翌日から、彼女はいつの間にか二人の練習に無理矢理付き纏っていた。

 そんなトウカイテイオーに何度も麻真が邪魔だと言っても言うことを聞かずに付き纏うことに心底呆れて、一周回って麻真は彼女を放置していた。

 麻真のその対応を良いことだと思ったのか、トウカイテイオーは彼の意図も気にせず今日も二人の練習に無理矢理参加していた。

 

 

「しつこいな、ガキンチョ。ならないっての」

 

 

 一向に諦める様子のないトウカイテイオーに、麻真は振り返ることなく何度目か分からなくなった答えを告げる。

 

 

「ボクはガキンチョじゃなくてトウカイテイオー! もう! 別に良いじゃん! 一人くらい増えてもっ!」

 

 

 しかしトウカイテイオーも諦めが悪かった。淡白に答える麻真に、彼女は不服そうに頬を膨らませていた。

 

 

「俺は複数人見れる有能なトレーナーじゃないからな。一人で一杯なんだ。すまんな、ガキンチョ」

「だからトウカイテイオー! あと嘘はダメだからね!」

 

 

 走りながらトウカイテイオーが麻真に不満そうな顔を向ける。

 しかし麻真はそんなトウカイテイオーの顔を見ることもなく、前を走るメジロマックイーンを見つめていた。

 

 

「カイチョー達の担当してた時、ぜったいに一人以上担当してたの知ってるんだよ!」

 

 

 麻真は一瞬トウカイテイオーが言っている“カイチョー”が誰なのかと目を細めるが、すぐに理解した。

 カイチョー。それは生徒会長のことを指しているのだろう。トレセン学園の生徒会長はシンボリルドルフだ。

 つまりトウカイテイオーは、シンボリルドルフから自分のことを何かを聞いたのだろうか?

 シンボリルドルフから何を聞いたかは知らないが、別に知られたところで麻真はトウカイテイオーのトレーナーになるつもりは微塵もなかった。

 元々、麻真はメジロマックイーンのトレーナーになることすら断っていた。しかしトレセン学園の理事長である秋川やよいに強制されて、仕方なくトレーナー業に戻っただけなのだ。

 それに加えて、もう一人担当を増やすことなど願い下げであった。よって麻真はどれほど懇願されようと担当を増やすという選択を選ぶつもりはなかった。

 

 

「お前が何を言おうが俺はやらない。いい加減諦めて他のトレーナーを探せ」

「嫌だっ! 絶対に麻真さんにトレーナーになってもらうまで諦めない!」

 

 

 だがトウカイテイオーも麻真と同じく意思を曲げるつもりがないらしい。何度目か忘れるほどの同じやりとりをして、麻真は頭を抱えたくなった。

 ここまでしつこいウマ娘は初めてだった。麻真がトレセン学園に戻ってきてから、自分のトレーナーになってほしいと直談判に来るウマ娘は多くいたが大抵は断るとすぐに諦めていた。

 しかしトウカイテイオーは麻真が見てきた中で、随一でしつこいウマ娘だった。

 邪険に扱っても、何度も断られても、麻真に飽きずに付き纏ってくる。トウカイテイオーのメンタルが図太いのか、それともただの子供なのか疑問に思ってしまう。おそらくは後者だと麻真は呆れながら思いたくなる。

 

 

「マックイーン。第四コーナーを曲がったら最後の直線だ。直線に入る前で身体を更に前に倒せ、絶対に姿勢を上げるなよ。前傾姿勢を維持しながらバランスを崩さずに踏み込みを深く、身体の軸を前にしたまま全力で走ってみろ」

「――はいっ!」

 

 

 麻真の指示を受けて、メジロマックイーンが最後の直線に入り、前傾姿勢を維持したまま加速を始める。

 麻真の思っていた通りのフォームを維持したメジロマックイーンが加速していくのを見て、走りながら彼がストップウォッチを確認していた。

 悪くない加速だった。身体の軸もしっかりと前で維持している。だが筋力不足なのか、もう少し加速力が欲しいと思ってしまう。

 しかしまだメジロマックイーンのクラスがジュニア級を考えれば上々の加速だろう。

 加速したメジロマックイーンがそのまま一周を走り終えたタイミングで麻真は緩やかに減速ながら立ち止まり、ストップウォッチの時計を止めていた。

 

 

「……良い感じだ」

 

 

 そしてストップウォッチのタイムを見て、麻真は小さく笑っていた。

 一周を終えたメジロマックイーンが減速しながらUターンして、立ち止まっていた麻真の元へと戻ってくる。

 

 

「麻真さん、どうでした? 今回のタイムは?」

「自分で見てみろ。受け取れ」

 

 

 麻真がそう言ってストップウォッチを放り投げる。

 綺麗な放物線を描いて、投げられたストップウォッチがメジロマックイーンの元へ向かっていた。

 

 

「えっ、ちょっと――!」

 

 

 唐突にストップウォッチが放り投げられて、メジロマックイーンは慌ててそれを両手で咄嗟に受け取っていた。

 なんとか受け取れたことに安堵した表情を見えるメジロマックイーンだったが、すぐに彼女は麻真に向けて目を鋭くさせていた。

 

 

「麻真さん! 行儀が悪いですわ! 物を投げて渡さないでください!」

「はいはい。良いからタイム見てみろって」

「はい、は一回ですわ! まったく……!」

 

 

 麻真の行儀の悪さに、メジロマックイーンが呆れる。

 しかしそんな彼の素行に慣れてしまいつつある自分にも呆れそうになりながら、メジロマックイーンは受け取ったストップウォッチに視線を向けた。

 そして目に映ったストップウォッチのタイムを見て、メジロマックイーンは目を大きくしていた。心なしか、無意識にストップウォッチを持っていた手に力が込められていた。

 タイムを確認したメジロマックイーンの反応を見て、麻真は微笑むと彼女の頭を雑に撫でていた。

 

 

「四分、クリアだ。良くやった……これで次のステップに行けるぞ」

 

 

 ストップウォッチに記されたタイムは、三分五十八秒。第二目標だった四分をメジロマックイーンは達成していた。

 麻真に目標を達成できたことを褒められて、メジロマックイーンの頬が僅かに緩む。

 しかしハッと気づき、メジロマックイーンは緩めていた表情をすぐに凛とした表情を戻していた。

 

 

「私ならばこれくらい容易いことですわ! というか頭を乱暴に触らないでくださいませ! 髪が乱れますわ!」

「はいはい、そりゃ悪かった」

 

 

 メジロマックイーンに指摘されて、麻真が大袈裟に彼女の頭から手を離す。

 麻真の手が離れて、彼が大袈裟な態度を見せたことにメジロマックイーンがむっと眉を寄せていた。

 

 

「別に乱暴にしなければ、触るなとは言いませんわ。もっと優しく触るのであれば私は何も言いませんのよ」

「はいよ、次から気をつける」

「本当に分かってるのかしら、この人は……」

 

 

 軽口で返事をする麻真に、メジロマックイーンが肩を落とす。

 しかしとりあえずは目標を達成できた。そのことにメジロマックイーンは良しと思い、麻真の見慣れた態度を特に指摘するのを放棄していた。

 

 

「ところで四分をクリアしましたから、もう終わりですわよね?」

 

 

 そしてメジロマックイーンが麻真にそう訊ねる。麻真からの課題だった四分を達成した。それで彼の課題は全て終わったと思って。

 麻真はメジロマックイーンに微笑むと、静かに現実を突き付けていた。

 

 

「まだ終わりじゃないからな」

「……まだ、あるのですか?」

 

 

 麻真の言葉に、メジロマックイーンが崩れ落ちそうになる。ようやくクリアした四分より先があることに、目眩がしそうになる。

 麻真はメジロマックイーンがげんなりした表情を見せているのを見ても、小さく笑いながら告げた。

 

 

「最後の目標、タイムを三分三十秒。残り五日で頑張ってみろ」

「――三分三十秒⁉︎」

「三分にしてないだけありがたいと思え」

 

 

 メジロマックイーンが麻真から告げられた最終目標に顔を引き攣らせる。

 三分三十秒。どうにかクリアした四分から更に三十秒縮める。これがどれほど大変なことなのかをメジロマックイーンは理解していた。

 残り五日。まだ終わらない走る練習に、メジロマックイーンが頭を抱えたくなる。

 しかし麻真がそう言った以上、彼は絶対に止めることはないのを知っていたのでメジロマックイーンは渋々ながら頷いていた。

 

 

「分かりましたわ……やります」

「それで良い。とりあえず、インターバル入れておけ」

「……はい」

 

 

 肩を落としながら、メジロマックイーンがコースの隅に歩いていく。

 そしてコースの端まで歩くと、メジロマックイーンはその場に座ってゆったりと身体の柔軟をしていた。

 

 

「おい、マックイーン。これ忘れてるぞ」

 

 

 そんなメジロマックイーンに、麻真が鞄から取り出したペットボトルと棒状の菓子を渡す。

 いつものやり取りだった。メジロマックイーンは麻真からペットボトルと棒状の菓子を受け取るが――それを見るなり顔を強張らせていた。

 

 

「……食べないと駄目ですか?」

「食べないとこれで練習は終わりだ」

「くっ……食べますわ」

 

 

 麻真が用意している菓子の摂取カロリーを知ってから、メジロマックイーンは彼から菓子を渡される度に無意味な抵抗をしていた。

 無駄と分かっていても、抵抗したくなる。それは女の子には絶望的な摂取カロリーを知ったからこその抵抗だった。

 渋々、メジロマックイーンは渡された菓子とペットボトルの飲料を口にする。それを見て、麻真も彼女と一緒の飲料と菓子を口にしていた。

 

 

「ねぇねぇ! 麻真さん! それボクにもちょうだい!」

「お前、まだ居たのかよ。いい加減帰れって」

「嫌っ! 麻真さんがボクのトレーナーになってくれるまで諦めないからね! 別にマックイーンの練習の邪魔もしてないから良いでしょ! あとボクにもお菓子ちょうだい!」

 

 

 麻真の周りでぴょんぴょんとトウカイテイオーが跳ねる。

 確かにトウカイテイオーは、メジロマックイーンの走る邪魔はしていなかった。メジロマックイーンの進行を妨害するようなこともせず、彼女が走っていた時は必ず一番後方を走っていた。

 トウカイテイオーの言う通り、メジロマックイーンの邪魔はしていない。だが、それは間違いなく麻真の邪魔になっていた。

 先頭を走るメジロマックイーンの後ろを走りながら指摘や走るフォームを確認していた麻真に、トウカイテイオーは常に彼に話し掛けていた。

 自分のトレーナーになってくれと何度もしつこく懇願し、麻真の邪魔をトウカイテイオーはしていた。

 そして走る時以外にも、メジロマックイーンに練習についての話をしていないタイミングを見計って、トウカイテイオーは麻真に付き纏っていた。

 それこそ何故人間なのにウマ娘と同じように走れるのかや、シンボリルドルフとどんな練習をしてきたのかなど、色々な質問を怒涛のようにトウカイテイオーは麻真にしていた。

 だがそんなトウカイテイオーに、麻真はまともに取り合うつもりもなく適当にあしらっていたのだが――それはある意味、悪手だった。

 

 

「だから俺はお前のトレーナーになるつもりはない。だからもう帰れ。この菓子やるから、大人しく寮に帰って食ってろ」

「お菓子はもらうけど、帰らないからね! ボクは麻真さんにトレーナーになってもらうまで諦めないもん!」

 

 

 麻真から受け取った菓子をその場で頬張りながら、トウカイテイオーが誇らしげに胸を張る。

 諦めの悪いトウカイテイオーに、麻真は遂に頭に手を添えて呆れてていた。

 

 

「もん! じゃねぇって! 俺はお前のトレーナーにならないからな!」

「ならなってもらうまで諦めないもん! カイチョーみたいな最強のウマ娘になって無敗の三冠ウマ娘になるのがボクの目標なんだから!」

「ならルドルフが所属してるチームに入れば良いだろ!」

「カイチョーが三冠ウマ娘になった時にトレーナーだったの麻真さんでしょ? ならボクも麻真さんに担当になってほしい!」

「ああ言えばこう言う……! いい加減腹立ってきた……!」

 

 

 麻真も数日付き纏われて理解したことだが、トウカイテイオーは大人びたメジロマックイーンと違い、見た目通りの“子供”だった。

 疑問を疑問のままにしてしまうと、トウカイテイオーは何度も同じ質問をしてくる。そして答えなければタダをこねる。まさしく子供という言葉を体現したようなウマ娘だった。

 麻真もトウカイテイオーのようなタイプを相手にしたことが殆どなかった為、特にその点を考えていなかったのが運の尽きだった。

 雑な対応をした故に、麻真の予想以上にトウカイテイオーは彼にしつこく付き纏っていた。

 学園の先生でもなく、トレーナーという身分であり自分の担当ウマ娘でもない以上、担当以外のウマ娘を叱ることも憚られ、麻真は子供なトウカイテイオーの対応に困るのもある意味では必然とも言えた。

 

 

「マックイーン、お前もコイツになんか言ってやれ」

 

 

 そして思わず、麻真はメジロマックイーンに助け舟を求めていた。

 トウカイテイオーと麻真のやり取りを我関せずと見ていたメジロマックイーンが話を振られて呆気に取られる。

 思わず麻真とトウカイテイオーの顔を交互に見て、メジロマックイーンは眉を寄せて考える素振りを見せていた。

 しかしメジロマックイーンは僅かに目を伏せると、彼女は麻真に首を横に振っていた。

 

 

「私からは何も言えませんわ。テイオーの件は麻真さんがなんとかしてくださいな」

「……勘弁してくれよ」

 

 

 メジロマックイーンから見放されたことに、麻真が肩を落とす。

 しかしメジロマックイーンは、決して麻真を見放したつもりはなかった。むしろトウカイテイオーの思っていることを理解しているが故に、彼女は何も言えなかったと言うのが正しかった。

 メジロマックイーンは、本当に運良く北野麻真を自分のトレーナーにできた。理事長に紹介され、よく分からないままに彼が自分のトレーナーになっただけなのだ。

 麻真の走りに魅入られ、彼に鍛えてほしいと思っていたからこそメジロマックイーンは彼が自分のトレーナーになって良かったと心の底から思っている。

 だからこそ、トウカイテイオーの気持ちも理解できなくもなかった。シンボリルドルフを鍛えたトレーナーである麻真に、トウカイテイオーが興味関心が出ないわけがない。

 トウカイテイオーのことを少なからず理解しているからこそ、彼女が麻真に付き纏うのも理解できる。メジロマックイーンが仮に逆の立場なら自分も同じことをすると自信を持って言える。

 

 そしてメジロマックイーンがトウカイテイオーが麻真に付き纏うことに文句を言わない理由は、もうひとつある。

 

 それはトウカイテイオーが麻真がトレセン学園に来てからメジロマックイーンに彼を譲ってくれなどという戯言を一切言わないことだった。そして彼女に、自分もトレーナーにしてもらうように協力してほしいと懇願することもない。強いて訊かれることがあるとするならば、練習はどんなことをしているのかや麻真の人柄について訊く程度だ。

 おそらく、今までメジロマックイーンの元に麻真目当てで尋ねて来たどのウマ娘達よりも、トウカイテイオーは麻真にトレーナーになってほしいと言う気持ちは強い。

 そんなトウカイテイオーの気持ちを察したからこそ、メジロマックイーンは昨日に一度だけ彼女に訊いたことがあった。

 

 

『テイオーは私に……麻真さんを譲ってくれとは言いませんのね?』

 

 

 そう訊いた時――トウカイテイオーが平然とした顔で答えた言葉に、メジロマックイーンには呆気に取られていた。

 

 

『だって麻真さんはマックイーンのトレーナーでしょ? あんな凄い人をトレーナーにできたマックイーンはすごいと思うよ? だからボクに頂戴なんて言うわけないじゃん?』

『でもあの人は、私以外の担当を持つ気はありませんわよ? それでもよろしくて?』

 

 

 そしてそう訊いたメジロマックイーンにトウカイテイオーが答えた言葉は、彼女には印象的だった。

 

 

『知ってるよ。だから……ボクはあの人にボクを認めてもらって、ボクのトレーナーになってもらうまで諦めない! ボク、カイチョーみたいな強いウマ娘になりたいから!』

 

 

 そう言われた日から、メジロマックイーンは不思議とトウカイテイオーが自分と麻真の練習に付き纏うことに何も思わなくなっていた。

 トウカイテイオーが練習に混ざろうとしていた時は、メジロマックイーンも彼女のことを邪魔だと思っていたことも勿論あった。

 しかしトウカイテイオーの気持ちを知って、メジロマックイーンは彼女を自分と重ねていた。

 まるで麻真と初めて会った時の自分を見ているような気分だった。麻真に付き纏うトウカイテイオーを見ていると、自分もこんな感じだったのだとメジロマックイーンはつい苦笑してしまう。

 勿論、メジロマックイーンは麻真に担当を増やしてほしいとは思っていない。麻真と練習する時間を他のウマ娘に取られるのは、メジロマックイーンの本意ではない。

 だが譲ってくれと言ってくる他のウマ娘と違い、人一倍に自分と同じようにトレーナーになってほしいと麻真本人に懇願するトウカイテイオーをメジロマックイーンは邪険に扱う気にもなれなかった。

 

 その為、メジロマックイーンが行き着いた答えは静観することだった。

 

 麻真がトウカイテイオーのことを諦めさせるのなら良し。もし仮に、麻真が彼女を担当ウマ娘にするようなことがあれば――その時は彼の頭をかち割れば良いと心の中で結論を出すことにしていた。

 

 

 

「ねぇ! マックイーンが休んでる時にボクの走り方も見てよ!」

「誰が見るか! 絶対に見ないからな!」

「えぇぇぇ! 良いじゃん! ちょっとくらい!」

「仮に見たらお前が図に乗るのが目に見えて分かるっての!」

 

 

 目の前で麻真とトウカイテイオーが言い合いをしているのを見ながら、メジロマックイーンが菓子をポリポリと囓る。

 自分の練習を邪魔しなければ、今のところは放っておこう。メジロマックイーンはそう決めると、激しい言い合いをしている二人を気に留めることはなかった。

 そんなことよりも、次の目標である二千四百メートルを三分三十秒で走れる為にどうすれば良いか考えなければならない。

 ポリポリと菓子を食べ進めながら、メジロマックイーンは言い争う二人を他所に思考を巡らせる。

 麻真に指摘された身体の動かし方や、コーナーの曲がり方などを頭の中で反芻しながらメジロマックイーンは頭の中でイメージを作り上げる。

 

 

「ボクもカイチョーみたいに無敗の三冠ウマ娘になりたいの!」

「勝手になってろ! いい加減にしないと頭に拳骨叩き込むぞ⁉︎」

「やられたらやり返すからね! ウマ娘の力舐めたらダメだよ?」

 

 

 騒ぐ二人を他所に、メジロマックイーンは特に気にせずイメージトレーニングを続けていた。

 そしてメジロマックイーンがインターバルを終えて、彼女が麻真を呼ぶまで二人は飽きもせずに同じようなやり取りを繰り返していた。




読了、お疲れ様です。

結構遅れてしまいました。申し訳ないです。
書くのがスムーズにできなくなってきました。
キャラが増えると動かすのが難しくなってきますね。
あとはジェミニ杯のせいです。ごめんなさい。

新しく追加されたセイウンスカイが可愛いですよね。今作で出る予定ありませんが……
でもやっぱり一番可愛いのはマックイーンなんですよ(持ってない)


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5.提案してやる

 おぼろげだった自分の身体の使い方が分かってきた。メジロマックイーンは芝生を駆けながら、そう思っていた。

 走る練習を始めて一週間。メジロマックイーンは今日も麻真と特注の靴を履いてコースを走り続ける。

 走りながら麻真の指摘を何度も受け、何度も思考しながら試行錯誤し、その先に見えた“答え”をメジロマックイーンは掴もうとしていた。

 自分だけの走り方、自分の身体の最善の使い方。麻真に憧れてからずっと欲しかった“それ”に手が届くと、メジロマックイーンは確信しつつあった。

 しかしメジロマックイーンには知る由もない。それが麻真の思い描いている彼女の理想的な走り方の“僅かな一部分”でしかないことを。

 麻真から見て、メジロマックイーンの走り方はまだまだ発展途上。彼女が掴もうとしているその先を麻真が見据えていることなど、彼女は想像すらしていない。

 今、走っている中でメジロマックイーンが見つけようとしている“答え”。その答えがメジロマックイーンにとって、まだ長い階段の一歩目だということを彼女は知ることもなく走り続けていた。

 

 

「はぁ……! はぁ……っ‼︎」

 

 

 走るメジロマックイーンの呼吸が、僅かに荒くなっていく。

 スタートして第一から第二コーナーを曲がり、直線を駆け、第三コーナーに入っていく。

 メジロマックイーンの足は相変わらず重い。両足に付いている六十キロの靴の重みに慣れたと言えど、重い足は身体の動かし方を制限する。

 振り上げる足が重い。しかし力の使い方は理解している。力を使うのは足を上げる時だけ、振り下ろす足は重りの勢いに任せて振り子のように地面に突きつける。

 自然に振り下ろされた足が地面に着いた時、地面を踏むのではなく――蹴る。身体の重心を前に倒した状態で振り下ろされた足が地面に触れれば、地面と足の反発力が身体を前に進める。

 それに加えて、足先で更に地面を抉るように捉えながら足全体で蹴る。振り下ろされた足の力に加えて、足の筋力が更に推進力を作り、身体を前に向かって加速させていく。

 そして次の足が地面を蹴るタイミングに合わせ、素早く足を振り上げる。速さに直結する“足の回転”を遅くしないように意識し、早く足の回転を回すことを無意識でできるように心掛ける。

 これをしっかりとできれば、メジロマックイーンの身体に六十キロの重りを付けていても、彼女の身体はそれが必然と言えるほど勝手に前に進んでいた。

 

 だがメジロマックイーンが速く走る為にはそれだけでは足りない。更なる工夫が必要だった。

 

 走る際に身体の軸がズレないように体幹を意識し、足を自分の身体の可動域限界までしっかりと振り上げ、腕も足に合わせて振る。

 

 

 

(まさかこれほどまでにあのトレーニングが活きているなんて……!)

 

 

 

 麻真からの指摘を受けながら作り出したメジロマックイーンだけの走り方。その走り方で走り続けていると、彼女は色々なことに気づいていた。

 

 今まで麻真に強いられていた走る以外のトレーニングが活きていると。

 

 鍛えてきた上半身が、腕の振りをしっかりと行う。過去にメジロマックイーンは書物で読んだことがあった。足の振りだけで走ろうとすればウマ娘の身体の構造上、身体に回転する力が加わる。だが腕を足に合わせて振ることで、足の身体が回転する力を相殺し、走る上で身体の軸がズレなくなる。

 今まで行っていた基礎トレーニングで背筋や腹筋が鍛えられ、走っている最中でも身体の軸がズレない体幹を作りあげている。

 足の可動域も、麻真と出会ってから始めた柔軟とストレッチのおかげで身体全体の可動域が広がり、今まで以上に足が振り上げられる。

 足も、確かな実感はないが力強く地面を踏めている気がする。下半身の筋肉が強くなったことで、走りに力強さが増したような感覚を覚える。

 

 

「マックイーン、最後の直線だ。思い切り走っていけ」

「――はいっ‼︎」

 

 

 第四コーナーを抜ける前に、メジロマックイーンは麻真に指示されると更に姿勢を前傾に倒した。

 麻真の方針に間違いがひとつもない。今までの練習に、何ひとつも無駄なことはなかった。

 麻真に教わる以上、彼の指示を無視することは勿論ない。しかし信じている反面、疑いたくなることもあった。

 走る練習を捨ててまで基礎トレーニングをすると麻真が言い出した時は、流石のメジロマックイーンも反論した。しかし今覚えば、それは自分が彼をまだ“疑っていた”のかもしれない。

 

 理想的な走り方ができる麻真に教われることを願っていたが、本当に彼に教える力があるのかと。

 

 様々なトレーニングを重ねて、その疑いが晴れつつあったが――自分の走り方の大きな変化を感じて、メジロマックイーンは再確認していた。

 北野麻真というトレーナーは、まさしく一流といえる能力を持っている。

 シンボリルドルフやエアグルーヴなど、名のあるウマ娘を育成したという実績を持つ以上は能力があることは分かりきっている。しかし実際に体験すれば、確信してしまう。

 シンボリルドルフ達が麻真を心から慕う理由。それが理解できてしまっていた。

 

 

(この靴を脱げたら、私は――一体、どれほど速くなりますの?)

 

 

 麻真が課した特注の靴を履いたこの練習で、メジロマックイーンはふと思ってしまう。

 まだメジロマックイーンは、麻真が用意した靴を脱ぐことができない。彼が課した目標を終えるまで、自分はこの靴を脱ぐことができない。

 この練習を麻真が指示したということは、この靴を履いている練習は確実に自分を速くしてくれるとメジロマックイーンは信じている。だからこそ、彼女は走りながら思っていた。

 

 この靴を脱いた時――自分はどれほど変われるのか?

 

 それが楽しみで仕方ない。麻真が課した目標を突破した時、その先にある“走り”がどうなるのか、メジロマックイーンは期待に胸を膨らませていた。

 

 

 

 

「――加速足りてねぇぞ‼︎ 全力で走れッ‼︎」

 

 

 

 

 しかし突然、ゴールに向けて走っていたメジロマックイーンに麻真から珍しく罵声が発せられた。

 最後の直線を走りながら、メジロマックイーンが麻真の声に肩を大きく動かす。

 今まで罵声を出したことのなかった麻真の声に、メジロマックイーンが驚く。しかしその意識とは反対に、彼女の身体は麻真の声に反応していた。

 既に全力で走っている筈だった。しかし麻真が加速が足りていないと言った以上、自分はまだ加速できることをメジロマックイーンは確信した。

 身体を更に前傾姿勢に倒し、足の回転を早くする意識を強く持ち、そして地面を踏む足に先程よりも強く力を込める。

 後は全てを出し切るつもりで、メジロマックイーンは駆けた。

 

 

 

 

「やあぁぁぁぁぁッ‼︎」

 

 

 

 

 思わず、メジロマックイーンの口から声が漏れる。

 最後の直線をメジロマックイーンが全力で駆け抜ける。

 そしてゴールラインを超えて二千四百メートルを走り切ると、メジロマックイーンはその場で倒れるように横になっていた。

 

 

「はぁ……はぁ……! 疲れましたわ……っ!」

「全く……俺に言われてそれだけ走れるなら、最初から走っておけっての」

 

 

 そんなメジロマックイーンに、麻真が倒れる彼女を見下ろすように立っていた。

 呼吸がまだ整わないメジロマックイーンが思わず顔を顰める。彼女は呼吸を整えながら倒れた状態から上半身だけを上げると、彼女は麻真に口を尖らせていた。

 

 

「あれは貴方が大声を出すからですわ……それよりも、走ってる時に大きな声を出さないでもらえます? 驚いて転んだらどうするおつもりでしたの?」

「何言ってんだか……お前がそれくらいで転ぶわけないだろ。足でも引っ掛けられない限り、お前はもう転ばないから安心しろ」

 

 

 ストップウォッチを見ながら、不満げなメジロマックイーンに麻真が淡々と答える。

 しかし麻真から何気なく言われた内容に、メジロマックイーンは僅かに目を大きくしていた。

 過去に麻真が言っていた。ちゃんとしたフォームで走れば、重い靴を履いていても転ぶことは決してないと。そして今、麻真は確かに言っていた。

 

 

――お前は、もう転ばないと

 

 

 その言葉の意味を察して呆けるメジロマックイーンを他所に、麻真はストップウォッチを見ながら微笑んでいた。

 そして麻真が納得したように頷くと、彼は座り込んでいたメジロマックイーンに「見てみろ」と言いながらストップウォッチを投げ渡していた。

 

 

「ですから物を投げて渡さないでくださいと何度言えば分かりますの?」

「はい、はい。分かりましたよ」

「貴方と言う人は……!」

 

 

 相変わらず、目の前の男は学ばないらしい。メジロマックイーンが麻真のふわりと投げていたストップウォッチを両手で受け取りながら目を細める。

 しかし麻真はメジロマックイーンの指摘を気にも止めずに笑みを浮かべるだけだった。

 

 

「ほら、早くタイム見てみろ」

「えっ……?」

 

 

 そして麻真にそう促されて、メジロマックイーンが視線を手元のストップウォッチに向ける。

 

 メジロマックイーンの持っているストップウォッチに記されたタイムは――三分二十九秒だった。

 

 その記録を見た途端、メジロマックイーンは全身の鳥肌が立ったような感覚を覚えた。

 ストップウォッチのタイムを見ていたメジロマックイーンの頭に、ふわりと何かが優しく置かれる。

 メジロマックイーンが頭に感じた感覚に思わず上を向くと、麻真が笑いながら彼女の頭を撫でていた。

 また乱雑に頭を撫でられるのかとメジロマックイーンが呆れそうになる。敏感な耳に手が触れられることを大抵のウマ娘は嫌がる。

 しかし、麻真はメジロマックイーンが思っていたのと違う撫で方をしていた。

 雑に頭を撫でられると思っていた。しかし麻真はメジロマックイーンの頭を、彼女が思っていたのと裏腹に優しく撫でていた。

 敏感なウマ娘の耳に手が当たらないように、髪を乱さないようにそっと撫でる麻真の手つきは、どこか手馴れたような撫で方だった。

 

 

「その手つき……なんか撫でるの手馴れてません?」

「……何言ってんだか」

 

 

 メジロマックイーンにそう言われて、麻真がつい彼女の頭から手を離そうと思いたくなる。しかしそれを悪手だと察した彼は、軽口を返しながらメジロマックイーンの頭を撫でていた。

 しかしメジロマックイーンの口から出た次の言葉に、麻真は思わず彼女の頭から手を離していた。

 

 

「こうやって貴方は色んなウマ娘に手を出してたんですね」

「だからお前……人聞きの悪いことを口にするな」

 

 

 メジロマックイーンの頭から手を離して、麻真が戯けるように肩を竦める。

 顔を顰める麻真を見ながら、メジロマックイーンは撫でられた頭を自分の手でそっと撫でる。そして彼女は呆れたように溜息を漏らした。

 

 

「そんな風に撫でられるなら、初めならそうしてください」

「はいはい。そりゃ悪かった」

「ですから“はい”は一度だけでよろしいのが分からないんですの?」

 

 

 何度も言っているのに、この男は学習しない。メジロマックイーンが何度も伝えているのに理解しようとしない麻真に呆れ返ってしまう。

 だが麻真もメジロマックイーンに何度指摘されようとも、彼は変わらずあっけらかんとした態度を見せるだけだった。

 不満げなメジロマックイーンが麻真にそっぽを向く。そんな彼女に、麻真はどこか優しげな表情を作っていた。しかし彼女には、麻真が見せるその表情が見えていなかった。

 不満そうに不貞腐れるメジロマックイーンの頭を、麻真が軽くポンっと優しく叩く。そして彼は、優しい声色で彼女に告げていた。

 

 

 

「ともかく目標達成、おめでとう……合格だ。今回くらいは評価点◯をやっても良いぞ」

「あっ……」

 

 

 そして麻真の言葉を聞いた瞬間、メジロマックイーンの肩から力が抜けた。

 この一週間、麻真はメジロマックイーンを指摘することしかしなかった。彼が褒められたのは、彼女が目標を達成した時だけだった。

 麻真が褒めたということは、間違いなく自分は最後の目標を達成することができたのだろう。そのことをメジロマックイーンは、遅れながらも理解した。

 ようやく終われた。そのことを理解すると、メジロマックイーンは座ったまま全身の力を抜いていた。

 

 

「これで明日から、もうその靴を脱いでも良いぞ」

 

 

 脱力するメジロマックイーンに苦笑しながら、麻真が彼女の靴を指差す。

 メジロマックイーンは自分の靴を一瞥しながら、麻真の言葉に少しだけ不服そうな顔を作っていた。

 

 

「……今日からじゃありませんのね?」

 

 

 メジロマックイーンがそう答えると、麻真は驚いたように眉を僅かに上げていた。

 

 

「二千四百メートルを全力で五本も走っておいて、まだ走る気かよ?」

「自慢じゃありませんが、体力には自信がありますわ」

「その台詞は俺にスタミナで一度でも勝ってから言える台詞だ」

 

 

 麻真もメジロマックイーンの言いたいことを察していた。

 特注の靴を脱いで走りたい。そんなメジロマックイーンの気持ちを麻真はなんとなく感じていた。

 今まで強いられてきた練習から解放されて、ようやく本来の足で走れるのならすぐに走りたい。それは当然の反応だと麻真も理解できた。

 本来なら長距離を五本も全力で走ったのだから、あまり無理をさせるつもりはなかった。しかしメジロマックイーンの気持ちを察して、麻真は少し悩んだ素振りを見せながら彼女に訊いていた。

 

 

「……足はまだ残ってるのか?」

 

 

 その問いの意味をメジロマックイーンも察したのだろう。彼女は耳と尻尾をピンッと立てると大きく頷いていた。

 

 

「勿論です! あと二本くらいは全力で走れますわ!」

 

 

 練習の時よりも元気が良い返事をしたメジロマックイーンに、麻真が引き攣った笑みを浮かべる。

 そして麻真は「仕方ないやつだ……」と呟くと、コースの端に置いていた鞄を手に取るなり座っていたメジロマックイーンの前でしゃがみ込んでいた。

 

 

「動くなよ」

 

 

 そう言って、麻真がメジロマックイーンの履いていた靴を脱がしていた。靴紐を解き、彼女の足から靴を脱がしていく。

 重い靴が無くなったことで脱いだ瞬間に足に感じる解放感にメジロマックイーンが満足そうに頬を緩ませる。

 そんなメジロマックイーンの表情を見ながら、麻真は座り込んでいた彼女の足首を触っていた。

 

 

「……変なことをしないでくださいね?」

「そんな馬鹿なことするか、マセガキが」

 

 

 子供と麻真に暗に即答されて、メジロマックイーンが口を尖らせる。

 しかし麻真はそう答えてから、メジロマックイーンの足首を両手で触ると丹念に確認していた。

 何箇所か押し、そして足首を色々な方向に曲げたりなどして麻真が真剣な表情でメジロマックイーンの足を見つめる。

 

 

「どうだ? 痛くないか?」

「えぇ、なんともありませんわ」

「そうか……」

 

 

 メジロマックイーンの足首に異常がないことを確認した後、麻真は今度は彼女のふくらはぎを触っていた。

 そして今度は筋肉を少し触って、足首の時と同じように異常がないかメジロマックイーンに麻真が確認する。彼女が特に異常もないと答えると、麻真は納得したように頷いていた。

 

 

「なら良い。じゃあ一本だけ、走ってみろ」

 

 

 麻真が持ってきていた鞄から靴を取り出す。それは一週間前までメジロマックイーンが履いていた蹄鉄靴だった。

 メジロマックイーンの前に麻真が蹄鉄靴を置く。置かれた蹄鉄靴を見て、彼女は嬉しそうな表情を作りながら立ち上がっていた。

 置かれた蹄鉄靴に、メジロマックイーンが足を入れる。そして靴紐を結ぶと、彼女はその場で数回跳んで靴の調子を確認していた。

 

 

「この蹄鉄の感触、とても久しぶりな気がしますわ」

 

 

 足が軽い。まるで羽でも生えたかのような感覚だった。今まで両足にあった六十キロの蹄鉄靴から解放されて、元の蹄鉄靴が軽くて仕方なかった。

 早く走りたい。そんな高揚感がメジロマックイーンに募っていた。

 

 

「麻真さん! 走りましょう! 早く!」

「まぁ、待て。たまには趣向を変えて、アイツでも使ってみるか」

 

 

 急かすメジロマックイーンに、麻真が顎である方向を差す。

 麻真に促された方向をメジロマックイーンが向くと、彼女は思い出したように「あっ……」と呟いていた。

 

 

「そう言えばいましたわね、テイオー」

「うぅぅ……良いなぁ……マックイーン」

 

 

 コースの端に座らされていたトウカイテイオーを見て、メジロマックイーンはすっかり忘れていた。

 今日もトウカイテイオーは麻真とメジロマックイーンの二人の練習に無理矢理参加していた。

 しかし今日のトウカイテイオーは、練習場のコースの端で黙って二人の練習を見学していた。

 頬を真っ赤にしている涙目のトウカイテイオーがメジロマックイーンを見つめる。

 メジロマックイーンはトウカイテイオーの顔を見つめて、彼女の赤く染まる頬を見ながら麻真に話し掛けていた。

 

 

「あそこまでやる必要、ありました?」

「むしろ五日くらい我慢した俺を褒めてほしいところだ」

 

 

 麻真が鼻で笑いながら、メジロマックイーンに答える。

 トウカイテイオーが麻真に付き纏って五日経ち、遂に麻真の堪忍袋の尾が切れてしまっただけだった。

 麻真が鬱陶しいとトウカイテイオーに何度言っても、相変わらず彼女は聞く耳を持たなかった。

 そして遂に麻真が怒って、トウカイテイオーの両頬を思い切り抓って彼女を黙らせていた。

 そして一通り麻真に怒られたトウカイテイオーは、それでも諦めずコースの端で体育座りをしたまま二人の練習を羨ましそうな表情で見つめていた。

 

 

「俺にあれだけ怒られてまだあそこにいるんだ。アイツ、多分バカだろ?」

「……それは否定しませんわ」

 

 

 メジロマックイーンから見て、トウカイテイオーは良い意味で年相応の子供だと認識していた。

 しかしだからと言ってバカだと言えるほど、メジロマックイーンも人を貶すようなことを言うつもりもなかった。

 

 

「良い加減、アイツをなんとかしないと思ってたからな」

「どうされるんですの?」

「考えはある。だが、それはお前の答え方次第だ」

 

 

 麻真の言葉に、メジロマックイーンが首を傾げる。

 麻真がトウカイテイオーを一瞥して、メジロマックイーンの方を向く。そして顎でトウカイテイオーを差すと、麻真はメジロマックイーンに訊いていた。

 

 

「お前にとって、あのガキンチョはどういう奴だ?」

「それは、どう言う意味です?」

「言葉通り。どうでも良い奴か、それともそれ以上の奴か」

 

 

 その質問に、メジロマックイーンが口を噤む。

 メジロマックイーンにとって、トウカイテイオーがどんな存在か。それは彼女自身も明確な答えがなかったからだった。

 入学から、練習場でよく見かける生徒。学園内では入学した生徒の中ではとても速いウマ娘の一人と言われている。

 よく目に止まりやすい生徒だった。トウカイテイオーが夜遅くまで練習していると、自分も彼女が練習をやめるまで練習をしていたことも多かった。

 トウカイテイオーに負けたくない。そんな気持ちを、いつの間にかメジロマックイーンは持っていた。本人すらその理由を理解できずに、どうしてか負けたくないという気持ちが芽生えていた。

 それを麻真にどう伝えるか悩むメジロマックイーンだったが、彼女は少し間を開けると――ポツリと答えていた。

 

 

「……負けたくないウマ娘。それだけですわ」

 

 

 メジロマックイーンの答えに、麻真は素っ気なく「そうか……」と反応するだけだった。

 だが、麻真は気づいていた。メジロマックイーンにとって、トウカイテイオーがどういう存在なのかを。

 しかし本人すら理解できない感情を、麻真はメジロマックイーンに伝えるつもりはなかった。だからこそ、彼はメジロマックイーンに淡白に答えることを選んでいた。

 それはメジロマックイーンにとって、良い傾向となる。それを麻真は察知していた。追い返すつもりだったトウカイテイオーというウマ娘を、メジロマックイーンを前に進ませる為に“使う”ことを麻真は選ぶことにした。

 

 

「なら、まぁ良いか」

 

 

 そう呟いて、麻真がトウカイテイオーのところへ歩いていく。

 そして麻真が体育座りするトウカイテイオーの前に立つと、彼女を見下ろしたまま告げていた。

 

 

「おい、ガキンチョ。良い加減、お前が付き纏ってくるのも鬱陶しくなってきた。だから譲歩して、俺から提案してやる」

 

 

 そう言われて、涙目のトウカイテイオーが麻真を見上げる。

 トウカイテイオーに見つめられながら、麻真が背後のコースを親指で差す。

 そして次に言われた言葉に、トウカイテイオーは目を大きくしていた。

 

 

「ここで今、マックイーンとレースしろ。もしお前が二千四百メートルのレースでマックイーンを抜けたら、一日だけ俺はお前の走りを見てやる。でも抜けなかったら、大人しく帰れ」

 

 

 麻真の提案に、メジロマックイーンも目を大きくした。

 まさかそんな提案を麻真がするとは思わず、メジロマックイーンが咄嗟に彼の提案を止めようとする。

 しかしそれよりも先に、トウカイテイオーが反応していた。

 

 

「本当っ⁉︎ ボクがマックイーンに勝ったらボクの走り見てくれるの⁉︎」

「あぁ、お前がマックイーンに勝てたならだけどな」

「後から嘘って言ってもダメだよ‼︎ ボクが勝ったら、絶対にボクの走りを見てね‼︎」

「勝ったらちゃんと見てやる。勝ったらな」

 

 

 トウカイテイオーが麻真と約束を取り付けたのを見せつけられて、メジロマックイーンが顔を引き攣らせた。

 麻真を止めたい衝動に駆られるが、それはメジロマックイーンのプライドが許さなかった。

 二人の約束を止めされるということは、自分はトウカイテイオーに勝てる自信がないと言っているのと同じである。それはメジロマックイーンの自尊心が許さなかった。

 誰にも負けない最強のウマ娘になることを目標にしてある自分が、シンボリルドルフのようなウマ娘ではなく自分と同じジュニアクラスのトウカイテイオーに負けるなどあってはならない。

 故に、メジロマックイーンには二人を止めることは憚られた。

 

 

「マックイーン! ボクと勝負だよ! 絶対に負けないからね!」

 

 

 そんなメジロマックイーンの気持ちも知らず、トウカイテイオーが誇らしげに宣戦布告をしてくる。

 拙い。まさか軽々しく走ると言って、こんな話になるなどメジロマックイーンは想像すらしていなかった。

 話をややこしくした麻真に、堪らずメジロマックイーンが睨むように見つめる。

 しかしメジロマックイーンに睨まれても、麻真は彼女の目を見ながら平然とした顔をしていた。

 

 

「麻真さん……っ! 貴方という人は……本当にっ!」

 

 

 やる気を見せるトウカイテイオーの後ろで、麻真が意地の悪そうな笑みを浮かべる。

 絶対に、今度こそ、あの男の頭をかち割る必要があるらしい。

 メジロマックイーンはそう思いながら、気がつくと麻真の元へ走り出していた。




読了、お疲れ様です。

はてさて、メイクデビュー戦前に一戦起きることになりました。
メジロマックイーンの練習、目標達成。
そしてメジロマックイーンに襲う、大きな課題。
そんな話でした。

メジロマックイーンのピースを集める為に、今日も私はレジェンドレースへ向かっていきます。
では、また次回でお会いしましょう。それではっ!


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6.育てるつもりはない

 

 

 

 

 トウカイテイオーが麻真と約束したメジロマックイーンとのレースに向けて、身体のウォーミングアップを開始する。

 先程まで麻真に座らされていたトウカイテイオーの温まっていない身体の状態では、すぐにレースで走っても本来の力が発揮されない。その為、麻真はレース前に身体を動かして温めるウォーミングアップを彼女に指示していた。

 しかしそこでトウカイテイオーが「別にボクならそんなのしなくても大丈夫だよ」と安易に答えてしまい、麻真に思い切り怒られるという一部始終があった。

 

 ウォーミングアップとは、簡単に言えば準備運動のことを指す。筋肉の温度を上げることで身体が柔らかくなり、運動中の肉離れなどの怪我を防止する。

 また体温を上げることで血管が拡張され、酸素の供給が円滑に行われる。そして本格的な運動の前に心拍数を上げることで心臓や肺への負担を減らすという効果も期待できる。

 

 メジロマックイーンが練習を行う前に必ず麻真が柔軟やストレッチをさせていたのは、これが大きな理由となる。それは練習で怪我をするという行為を一番の“悪”だと誰よりも思っている麻真だからこその配慮とも言えるだろう。

 故に、まさか“それ”をトウカイテイオーが要らないと口走るとは思っていなかった。その為、彼女の口からそれを聞いた瞬間、麻真は思わず彼女の頭に軽い拳骨を放つほどの怒りを向けたのは当然だった。

 麻真に怒られ、そしてトレーナーになってほしい彼からの指示ということもあり、彼から拳骨を受けたトウカイテイオーは涙目で渋々ながら柔軟とストレッチをした後、コースを走っていた。

 その光景を横目に、メジロマックイーンも勝手にレースを取り決めた麻真に回し蹴りを放っていたが難なくと躱され――その後、彼女は麻真に今日一番の怒りを向けていた。

 

 

「麻真さん! 一体どういうおつもりですかっ⁉︎ 私とテイオーがレースすると勝手にっ⁉︎ それに私が負けたらテイオーの走りを見るなんてっ‼︎」

 

 

 自分とトウカイテイオーのレースを決めた麻真に、メジロマックイーンが彼に不満をぶつける。

 しかし麻真はというと、慌てるメジロマックイーンに心底不思議そうな顔を見せていた。

 

 

「お前、なんでそんなに慌ててるんだ?」

「私は慌ててるわけではありません! 麻真さんが勝手にテイオーと約束をしたことに怒ってるだけですわ!」

 

 

 確かにトウカイテイオーと勝負して自分が負けてしまったら、麻真との大事な練習時間が彼女に丸一日取られてしまう。それはメジロマックイーンにとって死活問題と言えることだった。

 たったの一日たりとも自分のトレーナーである麻真を彼の担当でもない他のウマ娘に取られたくない。そんな独占欲のような感情がメジロマックイーンの心に無意識の中で湧き上がっていた。

 

 

「レースに絶対はありません! 何が起こるか分からないのがレースですわ! 貴方もそのことは理解してますわよね⁉︎」

「勿論、レースに絶対はない。それはこの業界じゃ常識だ」

「ならなんであんな賭けをしたんですの⁉︎」

 

 

 勿論、メジロマックイーンはトウカイテイオーに負けるつもりなど毛頭ない。

 しかしことレースにおいて、絶対はあり得ない。何が起こるか分からないのがウマ娘のレースである。それは麻真の言うように、トゥインクル・シリーズの世界では常識と言えることのひとつでもある。

 それをメジロマックイーンも理解しているからこそ、彼女は自分に一言もなく勝手にトウカイテイオーと約束を取り付けた麻真に心底怒っていた。

 

 

「それは別に良いだろ? お前も俺以外とたまに走ってみると良い。それに“レースに絶対はない”が“絶対と言われる”までのことはできる」

 

 

 意味が分からない。メジロマックイーンは素直にそう思った。

 レースに絶対はないのに、絶対と言われる。その矛盾に、メジロマックイーンは麻真の言葉に怪訝な顔を作っていた。

 

 

「……言いたいことが分かりませんわ」

「何言ってんだ? あそこに良い例が居るじゃないか?」

 

 

 そう言って、麻真が指を差した方向にメジロマックイーンが顔を向ける。

 メジロマックイーンの向けた視線の先には、練習場の端で東条ハナが率いるチームメンバーと一緒にこちらを見ていたシンボリルドルフがいた。

 無敗の三冠ウマ娘。レースに絶対はない、しかし――彼女には絶対がある。世間にそう言わしめたウマ娘――トレセン学園の最強と謳われる“皇帝”シンボリルドルフ。

 そう、レースに起こらないはずの“絶対”が起こる。それを体現したウマ娘は、確かにいた。

 レースに絶対はない。しかし絶対と言われることは、確かに存在していた。

 それを察したメジロマックイーンが目を大きくする。そして彼女が麻真に向くと、静かな声色で訊いていた。

 

 

「私が、必ず勝てるとでも仰ってますの……?」

 

 

 麻真が言った言葉の意味。レースに絶対はないが、絶対と言われることはできる。それはつまり、メジロマックイーンは負けないと暗に言っていることになる。

 メジロマックイーンも、トウカイテイオーに負けるとは思っていない。しかし何が起こるか分からないレースでは絶対に負けないということは、ありえない。

 しかしメジロマックイーンのその問いに、麻真は肩を竦めるだけだった。

 

 

「さぁ? それはお前次第ってところか?」

 

 

 気の抜ける麻真の返事に、メジロマックイーンが眉を寄せる。一体、彼は何を考えているだろうかと思わずにはいられなった。

 

 

「私が仮にテイオーに負ければ、貴方にとって絶対に面倒なことが増えますわよ? それを理解されているのですか?」

 

 

 トウカイテイオーの走りを見ることを麻真は嫌がっていた。もしメジロマックイーンが彼女とのレースに負ければ、彼は約束通り彼女の練習に一日付き合わされることになる。

 麻真は一日だけと言っているが、トウカイテイオーのことを知るメジロマックイーンは察していた。もし一日でも麻真がトウカイテイオーの走りを見てしまえば、彼女は更に麻真に付き纏うことになると。

 メジロマックイーン自身でさえ、麻真の走りを少し見て真似しただけで彼の走りに魅入られたのだ。それこそ、彼を意地でも自分のトレーナーにしたいと思ったほどに。

 なら丸一日も走りを見てもらってしまえば最後、トウカイテイオーは今よりも麻真を自分のトレーナーにしたいと思うに決まっている。

 強くなることを誰よりも望んで、三冠ウマ娘を目指すトウカイテイオーなら一日でも麻真と練習してしまえば嫌でも気付く。麻真が誰よりも自分を強くしてくれるトレーナーであることを。

 そして尊敬するシンボリルドルフを育てた有能なトレーナーである北野麻真を、トウカイテイオーは絶対に自分のトレーナーにしたいと思わないわけがない。

 よって、メジロマックイーンには容易に想像できた。トウカイテイオーがそれ以降、懲りもせず嫌がる麻真に付き纏う光景が目に浮かぶ。麻真も、おそらくはそのことを当然理解しているはずだろう。

 

 

 つまり、それは麻真にとっては不都合になることでしかない。

 

 

 そんな大事な賭けをしたはずが、どうして麻真はこんなにも気楽そうなのかとメジロマックイーンは疑問に思ってしまう。

 どうでも良いと思っているのか、もしくは自分が必ず勝つと確信しているのか……メジロマックイーンは判断に困っていた。

 

 

「負けることばかりを気にするってことは、お前……あのガキンチョに負けると思ってるのか?」

「……そんなことはあり得ませんわ。私は最強のウマ娘を目指すメジロ家のウマ娘。メジロ家の名に恥じぬウマ娘になる以上、私がテイオーに負けるなんて思ってませんわ」

 

 

 だが、どちらにせよ。自分はトウカイテイオーとのレースに勝つしかない。メジロマックイーンも彼女が麻真に付き纏う分には文句を言わないが、麻真が担当を増やすのは本意ではないのだ。

 自分が負けるとは思っていない。いや、負けてはならない。それはメジロマックイーンの矜持と言える。

 トウカイテイオーは新入生の中で強いと言われているが、自分のレースの相手だからと言って不安など思ってもいない。負ければ麻真が一日取られるなども、自分の勝ち負けとは別の話である。

 レースで負けたくない。それはウマ娘の勝ちへの渇望と言える。故にメジロマックイーンにとって、レースで負けることはあってはならないことなのだから。

 

 

「そこまで言うなら、あのガキンチョに勝って来い。だからお前もその為に冷えた身体のアップで軽く走っておけ。言っとくがアップで全力で走るのはダメだからな。軽くなった足の調子を確かめる程度で、コースを軽く二周くらいして来い」

 

 

 麻真にそう言われて、メジロマックイーンは渋々ながら頷いていた。

 

 

「……わかりましたわ。行って参りますわ」

「行って来い。あぁ……待て、言い忘れたことがある」

 

 

 走り出そうとしていたメジロマックイーンを、麻真が呼び止める。

 呼ばれたメジロマックイーンが怪訝な顔をして麻真に振り向くと、彼は少し考えた素振りを見せてから口を開いていた。

 

 

「お前とガキンチョの違いはなんだろうな? それがこのレースの結果になるぞ?」

「……はい?」

 

 

 メジロマックイーンが理解するよりも先に、麻真が手を追い払うように振って彼女を急かす。

 麻真の話した言葉の意味を分かりかねて、メジロマックイーンは小首を傾げていた。

 

 

「……どういう意味ですか?」

「気にするな。ほら、さっさと行ってこい」

 

 

 しかし麻真はメジロマックイーンの質問に答えず、彼女を急かすように促していた。

 メジロマックイーンが眉を寄せる。問い質したい気持ちになったが、彼女も少しの付き合いで分かるようになっていた。

 こういう時、麻真は絶対に答えを言わない。それは過去に何度も似たような経験をしたことのあるメジロマックイーンだから分かることだった。

 しつこく訊いても、それは無駄なことだとメジロマックイーンが判断する。そして麻真がそれ以上のことを話さないことを察して、メジロマックイーンは少し考え込むように眉を寄せながら渋々と走り出していた。

 

 

 

 

 

 

「随分と面白そうなことをしてるな、北野」

 

 

 メジロマックイーンが走り出したのを見送った後、走る二人を見守っていた麻真に一人の女性が声を掛けた。

 麻真は声を聞いた瞬間、その人物が誰か分かると振り向くこともなく苦笑いしていた。

 

 

「俺のところに来て大丈夫なのかよ? 自分のチームの練習はどうしたんだ?」

「もうひと段落してる。それにお前が面白そうなことをしてるから、折角なら高みの見物でもと思ってな」

「なにしようとしてるのか分かるのか? 東条さん?」

「レースだろう? メジロマックイーンとトウカイテイオーの二人で?」

 

 

 ハナの答えに、麻真が意外そうな顔を作る。そして彼がハナに振り向くと、彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

 

 

「ここ最近で噂になっていたぞ。あのトウカイテイオーがお前にご執心だとな。お前のことだ。どうせ鬱陶しがってメジロマックイーンとレースでもさせて、勝てたら走りを見るとでも言ったんだろ?」

 

 

 まるで先程の話を聞いていたように言い当てられて、麻真が思わず顔を引き攣らせた。

 

 

「ご名答。よく分かったな?」

「二人が練習ではなくウォーミングアップしてるのを見れば分かる。お前がそんなことをこんな時間に練習でさせるわけがない」

 

 

 ハナが腕時計を指差しながら、肩を竦める。確かに夕方近いこの時間は、練習を終える生徒がほとんどだった。そんな時間に練習前に行うはずのウォーミングアップを行う生徒はまずいない。

 

 

「俺だって無駄なことをするかもしれないぞ?」

「言ってろ。お前が担当のウマ娘に無駄な練習をさせるわけないだろう」

 

 

 褒められているのか貶されているのか、どっちとも聞こえる言葉に麻真が笑ってしまう。

 そんな気楽そうな麻真の表情を見て、ハナは怪訝な顔を見せていた。

 

 

「言っておくが、トウカイテイオーは強いぞ?」

 

 

 そう言って、ハナが手に持っていたタブレット端末を操作する。

 そして操作したタブレット端末をハナが麻真に渡すと、彼女はコースを走っているトウカイテイオーに視線を向けていた。

 

 

「お前は学園に戻ってきたばかりで知らないかもしれないが、トウカイテイオーは今年の新入生の中でトップクラスの能力を持っている。こぞって色んなトレーナーがアイツを担当にしようと躍起になってるくらいだ」

 

 

 ハナの話を聞きながら、麻真が渡されたタブレット端末に視線を向ける。

 確かにハナがまとめたデータを見れば、トウカイテイオーは新入生の中ではズバ抜けて能力が高いことは分かった。

 入学後に行われた新入生レースでも、トウカイテイオーは驚くほど速い記録を残している。

 

 

「トウカイテイオーが強いと言われる主な理由は、アイツの身体の異様なまでの柔軟性だろう。走る時に生まれ持った膝と足首の柔らかさが強い推進力を叩き出している。他のウマ娘にはない、アイツだけの能力だろう」

「足の柔らかさ、ねぇ……」

 

 

 ハナの説明に、麻真が興味なさげに相槌を打つ。

 初めて見たトウカイテイオーのデータを麻真が一通りを流し読んで見る。しかしこれと言って、彼女のデータを見ても彼の興味を惹く内容は特別なかった。

 

 

「色んなトレーナーがアイツをスカウトしても気分屋なのか誰のスカウトも受けてないみたいだ。この時期にトレーナーを決めてないからと言って、決してトウカイテイオーは弱い訳ではない。お前のメジロマックイーンも、負かされるかもしれないぞ?」

「負けるわけねぇよ。あんな“ふざけた”走り方してるガキンチョじゃ……マックイーンには届かない」

 

 

 ハナがそう語るが、麻真はその言葉を鼻で笑っていた。

 麻真の返事を聞いて、ハナが反射的に眉を寄せる。彼が口にした内容に、気になる言葉があった。

 

 

「トウカイテイオーの走り方が……“ふざけた”走り方だと?」

 

 

 コースを走るトウカイテイオーを見るが、ハナにはそのようには見えなかった。

 トウカイテイオーが強いと言われる所以は、先程彼女が説明したように他のウマ娘が持っていない彼女だけが持つ足の異様なまでの柔軟性から生まれる推進力が要因だ。

 柔らかい膝と足首から生み出された強いバネから作られる推進力は、誰よりも速い加速を生み出す。それはトウカイテイオーだけが持つ特別な力と言える。

 生まれ持った特別な足を使い、ステップを踏むような独特な走り方をするトウカイテイオーを初めて見たトレーナー達が異様な目を向けていたのをハナも覚えていた。自分も同じように違和感を覚えていたことが記憶が新しい。

 しかし走る姿を見れば、それはトウカイテイオーが特別なのだということを理解させられた。ジュニア級とは到底思えない誰も追いつけないような速さを作り出した足腰は、必然的に彼女をトレーナーの間で有名にしていた。

 だからこそ、ハナは思っていた。そのトウカイテイオーだけの走り方を、麻真は“ふざけた”走り方と言い出したのだから。

 

 

「あのガキンチョの走り、アップの時に初めてちゃんと見たが……アレは駄目だ。アイツ、あのままだと潰れるぞ」

 

 

 トウカイテイオーがコースを走る姿を見ながら、麻真が興味なさげに話す。

 しかしハナは麻真の顔を見ると、分かってしまった。トレセン学園で長い付き合いだったからだろう。声は興味のない淡白な声だったが、彼の顔は違っていた。

 まるで心配そうな目をしていた。いや、どちらかと言えば哀れみの目とも言えた。

 麻真の話に、ハナがトウカイテイオーの走りを見て考える。そして思いついたことを彼に告げていた。

 

 

「あの走りだと……足が持たない、か?」

「……持たないなんてもんじゃない」

 

 

 ハナの言葉に、麻真は冷たい声で答えた。

 麻真が目を細める。その目は、まるで怒っているような鋭い目つきだった。

 

 

「あの走りは、見る限り確かに速い走り方だろうさ。異様なまでに柔軟性のある足をあんな風に全力で使えば、嫌でも速くなる」

 

 

 そう言って、麻真がトウカイテイオーの走りを見ながら言葉を止める。

 そして少し間を空けて、麻真は淡々とハナに告げていた。

 

 

「だが……あの走りは、身を滅ぼす走り方だ。きっと近い将来、アイツのふくらはぎの骨は間違いなく折れる」

「――気になる話をしているな、麻真さん? その話、私にも聞かせてくれないだろうか?」

 

 

 麻真がそう話した時、彼の後ろからふと声が掛けられた。

 ゆっくりと歩き、その声の主が麻真の隣に立つ。そしてその主も、コースを走るトウカイテイオーを見つめていた。

 

 

「……ルドルフ、お前まで来るのかよ。あっちで他の奴らと練習でもして来いっての」

「貴方に邪険にされるとは心外だな。練習はひと段落してるから安心してほしいところだ。それにメジロマックイーンとトウカイテイオーが練習ではない走り方をしていたのが見えたから、私も気になっていたんだ」

 

 

 シンボリルドルフの返事に、麻真が頭を抱える。

 まさかハナに加えて、シンボリルドルフまでトウカイテイオーとメジロマックイーンのレースを見に来るとは思ってもいなかった。

 

 

「ハナさんもお前も野次馬根性が強いとは思わなかった」

「それは麻真さんがそこにいるからだ。私は貴方がいるのなら、興味のひとつも湧くからな」

 

 

 シンボリルドルフが小さく笑みを浮かべる。しかし彼女はすぐに表情を真剣な顔に変えると、走るトウカイテイオーを見つめながら麻真に静かな声色で訊いていた。

 

 

「それで麻真さん、テイオーの走りが身を滅ぼすとはどういう意味だ?」

 

 

 麻真が面倒そうに顔を顰める。そして思わず、彼は溜息を吐いていた。

 

 

「なんだ? 知り合いなのか、あのガキンチョと?」

「あそこで走るテイオーは生徒会室によく来るからな。私をとても慕ってくれている生徒だ。簡単に言ってしまえば、テイオーは私の可愛い後輩と答えておくとしよう」

「お前の口から可愛い後輩って言葉を聞く日が来るとは思わなかった……まだ小さかったお前が、ねぇ……」

「私だって成長してるんだ。勝手に二年も居なくなって貴方が私の成長を見てくれないのが悪い」

 

 

 シンボリルドルフの言葉に、麻真が苦虫を噛み潰したように顔を作っていた。

 二年も自分が休職していたことをシンボリルドルフが遠回しに責めているような気がする。

 しかし理由はともあれ自分が休職していたことは事実である以上、麻真も返す言葉がなかった。

 

 

「……あのガキンチョの走り方は足の負担が半端じゃないはずだ。あんな走り方を続けていれば、いつか耐え切れなくなって骨が折れる」

 

 

 咄嗟に、麻真が逸れた話を元に戻す。だがシンボリルドルフはそれを彼は“逃げた”と察する。

 麻真に半目でもの言いたげな視線をシンボリルドルフが向ける。そして彼女は呆れたと小さな溜息を吐いていた。

 また今度、問い詰めるとしよう。シンボリルドルフがそう心に決めると、麻真の話に意識を向けた。

 

 

「確かにテイオーの走り方は独特だ。だがそれほど拙い走り方には私には見えないが……麻真さんには違って見えるのか?」

 

 

 シンボリルドルフから見ても、トウカイテイオーの走り方は独特だった。彼女も初めてトウカイテイオーの走り方を見た時は、足が故障していると錯覚するような動きと思うくらいだった。

 しかしシンボリルドルフもハナと同じく、実際の走りを見て見方が変わった一人だった。

 

 

「独特過ぎて分かりにくいんだろうな。軽々と走ってるが踏み込みの時、足にかなり力を込めてるのが分かる。あの走り方を見ると加速する時、尋常じゃないくらいの力を足に込めてるのが更に致命的だ」

 

 

 楽しそうに加速して走るトウカイテイオーを見て、麻真が表情を曇らせる。

 ウォーミングアップと伝えていたはずなのに普通に全力で走り出しているトウカイテイオーを見て、麻真は呆れた表情を作っていた。

 

 

「アレは身体の負担を度外視した走り方だ。俺も真似できると思うが、まずやらないだろう。やるとしてもラストスパートの時だけだ」

「おい待て、お前……トウカイテイオーと同じ走り方ができるのか?」

 

 

 事前に麻真の口から出た内容に、ハナが目を見開いていた。

 シンボリルドルフも驚いていたが、麻真の身体のことを思い出すと納得したように頷いていた。

 麻真の足は確かに柔らかい。生まれ持ったものか日頃の柔軟のおかげなのかシンボリルドルフには分からないが、明らかに普通のウマ娘よりも身体の可動域が広いことは知っていた。

 

 

「確かに麻真さんも足がすごく柔らかいのは知っていたが……それは驚いた」

「良いから、話を逸らすな」

 

 

 驚くハナとシンボリルドルフに、麻真がそう言って二人を黙らせる。

 二人が自分がトウカイテイオーと同じ走り方ができることを追求したくなるのを諦めたことを察して、麻真は話を続けていた。

 

 

「きっとアイツは、間違いなく上に行けるだろう。あのガキンチョが欲しがってる三冠にも手が届くかもしれない。だが……その途中で、アイツは自分の身体に夢を壊される。文字通り、挫折を味わうことになるだろうさ」

「だがお前がテイオーを育てれば、それは直せる範疇なんだろう?」

 

 

 麻真の話に、ハナがそれか当たり前のように話す。

 ハナにそう言われて、麻真が目を伏せる。そして僅かに間を空けると、彼は淡々と答えていた。

 

 

 

「それは俺の役目じゃない。そもそも俺は……アイツのトレーナーじゃない」

 

 

 

 その答えを聞いて、ハナは意外そうな顔を作っていた。

 

 

「お前、本当にメジロマックイーンしか見るつもりはないのか?」

「ない。俺はマックイーンしか育てるつもりはない」

 

 

 麻真がトレーナーとしてトレセン学園に戻った理由は、トレーナーという仕事を辞める為でしかない。

 メジロマックイーンで天皇賞制覇、クラシック三冠を達成する。または天皇賞制覇を二年連続。そして今後行われるURAファイナルズというレースで勝つこと。それが麻真のトレーナーを辞める課題なのだから。

 トレセン学園の理事長である秋川やよいに課せられた“それ”をする為に、麻真はトレーナーとしてトレセン学園に戻っただけなのだ。ただでさえ無理難題な課題をメジロマックイーンで行っているのに、誰が好き好んで担当を増やすという暴挙に出るというのか?

 それを知る由もないハナとシンボリルドルフには、到底分からない話だろう。麻真はそれを二人に伝える気もなかった。

 言えば間違いなく辞めることを止められる。それを理解していたからこそ、麻真は二人にそのことを伝えるつもりはなかった。

 

 

「なら……どうしたらテイオーの走りが直るか聞いても良いだろうか?」

 

 

 シンボリルドルフも、長い付き合いで分かっていた。麻真がこういう反応をする時は、頑として頷かないことを。

 頷かせることは不可能ではない。しかしそれをすぐにさせることは困難だと察して、シンボリルドルフは後輩であるトウカイテイオーの不安要素をなくせる方法を訊いていた。

 麻真もシンボリルドルフの心中を全てではないが、察していた。自分を頷かせる点までは察してはいなかったが、後輩であるトウカイテイオーを案じて訊いているのだと判断していた。

 麻真が顎に指を添えて考え込む。そして彼が唸ると、ポツリと呟くように答えた。

 

 

「思いつくのは幾つかある。だが、それをやるとアイツの個性を消すことになる」

「それをすると、どうなるんだ?」

 

 

 ハナの質問に、シンボリルドルフが耳を傾ける。

 麻真は言いづらそうに眉を寄せる。しかし彼は、渋々と言いたげに質問に答えていた。

 

 

「間違いなく、アイツの能力は一度並以下に落ちる」

 

 

 麻真の言葉に、シンボリルドルフが目を見開く。

 それは今ある強さを捨てることと同義だった。




読了、お疲れ様です。

毎度ながら難産でした。さらっと書けなくて申し訳ないです。
トウカイテイオーとメジロマックイーンのレース前の話。
そしてトウカイテイオーの足の話でした。
色々と解釈違いなどあるかもしれませんがご容赦を。

麻真が言ったように、現状のメジロマックイーンとトウカイテイオーの違い。これがレースの結果になりますね。
このレースでトウカイテイオーもまた違った道に進むかもしれません。
メジロマックイーンはもう麻真の所為(おかげ)で本来とは違った道を進んでますからね。

メジロマックイーンを気長に見守ってください。


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7.賭けるしかない

 

 

 

 

 

 

 トウカイテイオーがウォーミングアップを終えた。コースを走るのをやめ、彼女は軽くストレッチをしながら温まった身体の調子を確かめる。

 

 

「なんかいつもより……調子が良い感じがする」

 

 

 そして自分の身体から感じる調子の良さに、トウカイテイオーが思わず小さく呟いた。

 麻真に指示をされて渋々ながら始めたウォーミングアップだったが、トウカイテイオーはウォーミングアップを終えた途端、自分の身体の調子が良くなっていくような感覚があった。

 今までは走る前に軽い柔軟をするだけだったトウカイテイオーは、これまで意識したことがなかった。いや、どちらかと言えば意識する為の知識がなかったというのが適切だろう。

 走る前に身体(筋肉)を温めるウォーミングアップという行為が、明らかに身体のパフォーマンスを上げていることをトウカイテイオーはこの時、身を以て実感していた。

 トレセン学園に入学する前まで独学で自分の身体を鍛えてきたトウカイテイオーにとって、ウォーミングアップという行為はあまり馴染みがなかった。

 過去に何かで運動する前に柔軟をすると良いと聞いて、なんとなく走る前に柔軟を軽くする程度。それが今までのトウカイテイオーの準備運動だった。

 そんな温まっていない身体で全力で走り、動きが悪い状態から筋肉が次第に温まり、身体の調子が良くなっていく。それがこれまでのトウカイテイオーの走る練習の一連の流れだった。

 その流れにトウカイテイオーは、ただ走っていると身体が少しずつ動かしやすくなっているという安直な感想しか思っていなかった。

 それは麻真が聞くと怒り狂うような話だったが、今まで誰の指導も受けずに成長してきたトウカイテイオーにはそれが当たり前だった。

 しかし今回、麻真に指示されて初めてトウカイテイオーは全力で走る前にしっかりと身体を温めた。その結果、彼女の身体は完全に全力で走る為の準備が整っていた。

 ウォーミングアップには身体を温めることで怪我の防止や身体のパフォーマンスを上げる以外にも、もうひとつの利点がある。

 

 それは、心の準備だった。

 

 これから自分は全力で走る。身体を温める運動の中で心がそれを認識し、精神的な準備を行う。この行為が無意識に全力で走るイメージを当人に生み出す。

 身体の準備に加えて心の準備も完了したトウカイテイオーは、今までに感じたこのない走る前の高揚感を感じていた。

 

 

「なんだか……いつもより速く走れそう!」

 

 

 そう呟いて、トウカイテイオーが楽しそうに足踏みをする。

 太腿を軽く上げて、まるでステップを踏むような軽快な足踏みをトウカイテイオーが無意識に行う。

 ぎこちなさが一切ない滑らかな足の軽々とした動き。柔軟性のある柔らかい足を持つトウカイテイオーだからこそできる独特な足踏みを見て、メジロマックイーンは彼女がウォーミングアップを終えたことを察した。

 メジロマックイーンも、トウカイテイオーと同じく麻真に指示を受けていたウォーミングアップを丁度終えていた。

 コースを二周、決して全力で走らない。軽くなった足の調子を確かめる程度で走ること。それが麻真から受けた指示だった。

 

 

「分かっていましたが、やはり足が軽いと走りやすいですわ」

 

 

 軽くコースを走った後、メジロマックイーンが軽くストレッチをしながら走った感想をぽつりと呟く。

 メジロマックイーンがストレッチの最中、その場で思わず数回だけ軽く跳んでみるが、不思議といつもより足が軽いと感じてしまう。

 この一週間でようやく慣れたと思っていた重りが無くなった反動だった。足首にあった重りが無くなったことで、メジロマックイーンの足は本来の軽さを取り戻していた。

 まだ全力で走っていないが、この感覚なら早く走れる気がする。メジロマックイーンはそう思っていた。

 勿論、重りの付いた特別製の靴を脱いだからと言ってもメジロマックイーンは足の動かし方を忘れたわけではない。

 ウォーミングアップの最中、メジロマックイーンは感じていた。この一週間で編み出した自分だけの走り方を軽くなった足でも自分ならば問題なく再現できるだろうと。

 重い靴を履いている状態で走っていたフォームを軽くなった足で再現するのに感覚の僅かな誤差はあるだろう。だが先程のウォーミングアップで軽く走った時に感じた感覚を信じるなら、問題なく再現できるだろうとメジロマックイーンが判断していた。

 足の先から足首、ふくらはぎから太腿までの一連の足の力の使い方をメジロマックイーンは忘れてはいない。この一週間、速く走ることだけを考えて変化した自分の走り方を簡単に忘れるわけがない。

 しかし走る姿勢に関しては、メジロマックイーンは麻真から嫌になるほど何度も指摘を受けていたことから無意識ではまだ姿勢が崩れることがある。その点に関しては、走る際に注意深く意識すれば問題ないだろう。

 あとは全力で走った時に、どう変わるか。メジロマックイーンには正直なところ“それ”が一番の気になるところだった。

 速く走る為に麻真から受けた指導。その成果がどう出るかが楽しみで仕方ない。トウカイテイオーとの勝負も負けるつもりはないが、それと同じくらいメジロマックイーンはこれから分かるはずである自分の走りの変化を楽しみにしていた。

 

 

「マックイーン」

 

 

 そう思いながら伸び伸びと身体をメジロマックイーンが伸ばしていると、ふと麻真が彼女に声を掛けていた。

 メジロマックイーンが声を掛けられて麻真に振り向く。小首を傾げる彼女に、麻真は徐に訊いていた。

 

 

「軽く走ってみた足の調子はどうだ?」

「問題ありません。むしろもっと走りたいと思うくらい調子が良いですわ」

 

 

 即答したメジロマックイーンに、麻真が思わず苦笑いする。しかし彼女の気持ちを察していたことから、どこか納得したような表情も麻真は見せていた。

 

 

「そうか、なら良い。お前も見た感じかなりリラックスしてるみたいだから、その辺は心配はしなくてもよさそうだ」

 

 

 麻真が目の前のメジロマックイーンを見る限り、今の彼女はとても落ち着いた様子に見えた。緊張などで肩に力が入っている様子もなく、ストレッチをしている動きにぎこちなさもない。

 

 

「その心配は不要ですわ。そもそも私は、麻真さんが私に相談もなく勝手にテイオーと私がレースをすると約束したことに不満があるだけです。私、レースに負ける気はありませんもの」

「お前、まだそれを言うか? まったく……根に持つ女は嫌われるぞ?」

「なら自由奔放な殿方は女性に見放されますわ。ウマ娘に見境のない麻真さんには分からないでしょう?」

 

 

 メジロマックイーンが目を細めて麻真を見つめる。

 麻真は不満気に話すメジロマックイーンに今日一番の“嫌そうな顔”を作っていた。

 

 

「だからお前な……誤解を生む言い方をするなって」

「事実ですわ。そう言われたくないのなら、初めから私に相談することを覚えてください。あまり勝手の過ぎた行動は甲斐性のない殿方と思われてしまいますわ」

 

 

 そう言いながら、不満そうにメジロマックイーンがぷいっと顔を背ける。

 

 

「口が達者なのも考えものだなぁ……まったく……」

 

 

 不貞腐れるメジロマックイーンに、麻真が面倒そうに心底困った表情を作っていた。

 そんな風に顔を顰めている麻真を横目に見て、メジロマックイーンは仕返しができたと満足そうに頬を緩めていた。

 

 

「自分の行いを改める良い機会と思ってください。まぁ今回は、貴方のその困り果てた顔が見れたので許して差し上げることにしますわ」

「はいはい。悪かった」

「はい、は一回ですわ」

 

 

 呆れた顔で雑に答える麻真に、メジロマックイーンが瞬時に目を座らせる。

 メジロマックイーンの顔を見て、麻真は面倒と思うながら深い溜息を吐いた。

 

 

「……はい、これで良いか?」

「えぇ、よろしいですわ」

 

 

 そして麻真が珍しく素直に自分の言うことを聞いたことに、メジロマックイーンはまた満足そうに笑みを浮かべていた。

 メジロマックイーンの表情を見て、麻真が肩を落とした。不思議とここ最近、自分に対してメジロマックイーンの圧が強くなって来ていると麻真が内心で思ってしまう。

 自業自得としか言えなかった。麻真が今までメジロマックイーンに対してやってきた行いが生んだ結果としか言えない。

 こうして色々と正直に自分に話してくるメジロマックイーンに、麻真は言わない奴よりはマシだと思っていた。

 メジロマックイーンは、内心で言いたいことを溜め込むタイプのウマ娘ではない。ある意味では、麻真はそれは良い傾向であると判断していた。

 溜め込んでストレスなどを作れば、体調に影響を与える。故に、メジロマックイーンのように正直に話してくるタイプは麻真は嫌いではなかった。

 しかしメジロマックイーンからすれば、自分のストレスを生む原因の一端を担っているのは麻真本人だけであり、彼女はストレス発散で彼に当たっているという面があるのだが――それに麻真が気づくことは今のところないだろう。

 

 

「そういえば少し気になってたが、お前……なんでそんなにリラックスできてるんだ? 少しくらいは緊張しててもおかしくはないと思ってたんだけどな?」

 

 

 満足そうに笑うメジロマックイーンを見て、麻真は少し疑問に思っていたことを訊いていた。

 麻真から見る限り、メジロマックイーンがトウカイテイオーに負ける可能性はない。しかしメジロマックイーン本人に麻真がそれを話すことはない。その為、それを知らない彼女からすれば負ける可能性のあるレースに挑むという緊張があってもおかしくはない筈だった。

 しかしメジロマックイーンは、先程から随分と落ち着いてリラックスした状態を保っていた。

 麻真に訊かれたメジロマックイーンが首を僅かに傾ける。そして彼女が少しだけ肩を竦めながら答えていた。

 

 

「緊張などはしませんわ。私が負ければテイオーに麻真さんを一日取られるという不安要素はありますが、どちらにせよメジロの名を汚す気はありませんので負けるつもりはありませんわ」

 

 

 そしてメジロマックイーンが「それに……」と続ける。そう言って、彼女は麻真の少し後ろにいるハナとシンボリルドルフを一瞥していた。

 麻真が途中で言葉を止めたメジロマックイーンに僅かに首を傾げる。

 そんな麻真に、メジロマックイーンは誇らしげに告げていた。

 

 

「麻真さんに育ててもらってるんです。簡単に負けるわけには行きませんわ。後は麻真さんの元担当ウマ娘さん達に、貴方の今の担当ウマ娘である私は貴方が育てるのに相応しいウマ娘だと見せなくてはなりません」

 

 

 そう答えたメジロマックイーンに、沸々とやる気が満ちていくのが麻真には見て取れた。

 麻真本人が予想していなかった部分で、メジロマックイーンがやる気を出している。そのことに麻真が少し意外そうに眉を上げた。

 

 

「そうかい……なら勝って来い」

「はい。お任せください」

 

 

 麻真の言葉に、メジロマックイーンは穏やかな表情ではっきりと答えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「テイオー、調子はどうだ?」

 

 

 ストレッチをしているトウカイテイオーに、シンボリルドルフが声を掛ける。

 その声の主がシンボリルドルフと瞬時に理解したトウカイテイオーは、嬉しそうな表情を作るとすぐに彼女の方を向いていた。

 

 

「カイチョー! 急に来てどうしたの? 練習は?」

「練習はもうひと段落しているよ。テイオーがメジロマックイーンとレースすると麻真さんに聞いたから見に来たんだ」

 

 

 シンボリルドルフがそう答えると、トウカイテイオーは納得したように頷いていた。

 

 

「そっか! じゃあカイチョーも見てくれるなら絶対に勝たないと!」

「ははっ、やはり勝つ気満々だな」

 

 

 トウカイテイオーのやる気にシンボリルドルフが思わず楽しそうに笑ってしまう。

 子供のような一面を見せるトウカイテイオーの無邪気なところは、シンボリルドルフは好感を持っていた。それは可愛い後輩と思っている所以だろう。

 

 

「勿論! マックイーンに勝って麻真さんにボクのことを認めてもらって走りを見てもらうんだから!」

「ん? メジロマックイーンにテイオーが勝ったら、麻真さんに走りを見てもらえるのか?」

「うん! 麻真さんがそう言ってたから絶対に勝たないと!」

 

 

 シンボリルドルフはこの時、初めてトウカイテイオーがメジロマックイーンと走る理由を聞いた。

 麻真とハナが話していた一部始終を聞いていなかったシンボリルドルフは、単にメジロマックイーンとトウカイテイオーがレースをするという認識しか持っていなかった。

 しかしトウカイテイオーとメジロマックイーンの二人が走る理由を聞いて、シンボリルドルフは僅かに目を細めた。

 北野麻真という人間を知っているからこそ、やる気に満ち溢れているトウカイテイオーのことを案じていた。

 麻真はメジロマックイーン以外の担当を持つ気はない。故にトウカイテイオーが話していた“勝てば走りを見てもらえる”という条件を麻真が出すとはシンボリルドルフは思えなかった。

 もし仮に麻真がその条件を出すとすれば、間違いなく相手にやる気を出させる為だけの条件で――麻真本人はそれを“ありえない”と判断していると。

 そして先程、麻真がトウカイテイオーの走りを見て話していたことを思い出して、シンボリルドルフの中で話が繋がった。

 麻真は、トウカイテイオーが勝てないと判断したからメジロマックイーンとレースを組んだと。おそらく勝てれば走りを見て、負ければ噂にもなっている麻真に纏わりつく行為をやめるという条件にしているとシンボリルドルフは察していた。

 

 

「そうか……だが、手強いぞ?」

 

 

 シンボリルドルフが、トウカイテイオーに静かに告げる。

 正直なところ、シンボリルドルフからしても麻真に鍛えられているメジロマックイーンの方が勝算が高いと思ってしまった。

 麻真のことをよく知るからこその考えだった。それは実際に育てられたシンボリルドルフが誰よりも知っていることだ。

 

 

「うん。わかってるよ」

 

 

 それをトウカイテイオーも理解していないわけがなかった。

 シンボリルドルフの言葉に、トウカイテイオーは頷いていた。

 

 

「マックイーンは、ボクが見てきた新入生のウマ娘の中で一番強い。だからボクはマックイーンをライバルだと思ってるよ」

 

 

 トレセン学園に入学して、トウカイテイオーもメジロマックイーンと同じだった。

 トウカイテイオーも、入学してからメジロマックイーンをよく見かけていた。入学した新入生の中で彼女は自分と同じくらい速いウマ娘と言われているのを知っていた。

 よく見かけていた。トレセン学園の練習場で遅くまで練習していた時、メジロマックイーンも自分と同じくらい遅い時間まで練習していた。思わず、彼女が練習をやめるまで練習していたことも数えきれないくらいある。

 不思議と自分の心にメジロマックイーンには“負けたくない”という気持ちがトウカイテイオーに芽生えていた。それが自分のライバルという存在だと気づくのに、時間は掛からなかった。

 だからこそ、そのライバルと言えるウマ娘が北野麻真に育てられているということがどういう意味なのかをトウカイテイオーは理解していない訳がなかった。

 

 

「それでもやるつもりなのか?」

「もちろん。だってカイチョーも麻真さんに鍛えてもらったんでしょ?」

 

 

 トウカイテイオーの質問に、シンボリルドルフが頷く。

 

 

「麻真さんは凄い人だからな。私が最も尊敬してる人だ」

「だよね。カイチョーと麻真さんがレースした時から知ってたけど……ちゃんと自分の目で走るのを近くで見たら分かっちゃった。あの人、めちゃくちゃ走るのが上手いんだなって」

 

 

 トウカイテイオーが近くでメジロマックイーンと話している麻真に視線を向ける。

 ここ数日、麻真に付き纏って嫌でもトウカイテイオーは分かってしまった。走る姿を後ろから間近で見て瞬間、思わず鳥肌が立った程だった。

 尊敬しているシンボリルドルフの走りを、トウカイテイオーは綺麗だと思っていた。そしてそれと同じ、いやそれ以上と思った走りがあるとは思ってもいなかった。

 麻真の後ろで見た瞬間、トウカイテイオーは思っていた。彼の走りが異常だと。

 綺麗だった。足の運び、力の使い方、走る姿勢。全てが尊敬しているシンボリルドルフのように綺麗に整っていた。

 自分にはできないとトウカイテイオーが察してしまうほど、麻真の走りは感動を覚えるほど美しく見えた。

 

 

「だからあの人の走りを見て、ボクは思ったよ。カイチョーを育てた凄い人っていうのもあるけど、あんなに走るのが綺麗なあの人に走り方を教わってみたいって気持ちが強くなってるのが分かっちゃった」

 

 

 トウカイテイオーが麻真を見つめる目は、心から尊敬している目だった。

 その目を見て、シンボリルドルフは少し目を大きくした。トウカイテイオーの目を、彼女もよく知っていたからだ。

 自分と同じ目をしている。そんな気がシンボリルドルフにはしていた。

 初めて麻真の走り方を見た時の自分と同じ目をしているような、そんな直感をシンボリルドルフは感じていた。

 トウカイテイオーの姿を見て、シンボリルドルフは少し懐かしい気持ちになっていた。

 麻真を見つめる目。それは初めて麻真と出会った自分と同じだと。

 シンボリルドルフも、運良く麻真に育てられたウマ娘である。しかしトウカイテイオーには、今はそのチャンスが来ることがない。それを察して、シンボリルドルフは少し心が痛んだ。

 こんな目をしている後輩であるトウカイテイオーに、少しでもチャンスを与えたい。勿論、自分も麻真に鍛えてほしいという気持ちはあるが――それよりも優先したいという気持ちがあった。

 

 

「テイオー、ひとつ聞いても良いだろうか?」

「ん……? どうしたの?」

 

 

 小首を傾げるトウカイテイオーに、シンボリルドルフが言い淀む。しかし意を決したように、彼女はトウカイテイオーに訊いていた。

 

 

「今まで、走っている時にふくらはぎが痛んだことはあるか?」

 

 

 シンボリルドルフに訊かれて、トウカイテイオーが急に訊かれたことに怪訝な顔を作る。

 しかし訊かれたからには答えようとトウカイテイオーが考える素振りを見せて、少し考えた後に答えた。

 

 

「うーん。たまに夜遅くまで走り込んでた時に痛かったことあるかも?」

「それはもしかして加速の時に足に力を込めた時だったりするか?」

 

 

 シンボリルドルフの言葉に、トウカイテイオーは驚いた表情を見せた。

 

 

「すごい! カイチョーよく分かったね! でも練習のし過ぎだと思うからボクもあまり気にしてないんだけどね!」

 

 

 そんなトウカイテイオーのあっけらかんと答える姿を見て、シンボリルドルフは背筋が凍るような感覚が走った。

 間違いなく、先程麻真が話していた通りだった。やはりこと走りに関して北野麻真を超える人間はいないとシンボリルドルフは確信を持ってしまう。

 そして同時に、麻真の予想が現実になる可能性があるとシンボリルドルフは震えていた。彼が話していたことが本当なら、近い将来にトウカイテイオーは足の骨を折ることになる。それはつまり選手生命を絶つ可能性が出てしまうことになる。

 まだ新入生、未来のある可愛い後輩にそんな道を進ませたくない。シンボリルドルフはそう思ってしまった。

 だからだろう。トウカイテイオーの言葉を聞いた瞬間、シンボリルドルフは決心したように彼女に語り掛けていた。

 自分自身の気持ちを捨ててでも、目の前の後輩を救ってあげたい。そう思いながら、シンボリルドルフは口を開いた。

 

 

「テイオー。私からの助言、良ければ聞いてくれないだろうか?」

「えっ‼︎ カイチョーからっ⁉︎ 聞く聞く! 教えてよ!」

 

 

 目の前に近づいてくるトウカイテイオーに、シンボリルドルフが耳元で言葉を告げる。

 これがどんな結果を生むかは分からない。しかし少ない勝機が上がると信じて、シンボリルドルフはトウカイテイオーに語ることを決めた。

 北野麻真が育てているメジロマックイーンに勝つ。それができるとすれば、少ない可能性に賭けるしかないと。




読了、お疲れ様です。

夜になるといつも以上に眠たくなることが多くなってきました。
書くのが遅くなり、大変申し訳ありません。
投稿が遅れてる中でお気に入り、感想、評価を頂けて本当に感謝しています。書こうという気持ちが湧いてきます。

はてさて、今回はトウカイテイオーの出番が多めでしたね。
メジロマックイーンとトウカイテイオーのレースは次の話になるかと。
そして少しだけトウカイテイオー側の話を書かせて頂いています。
でもメジロマックイーンが主役ですから、その点はご安心を!

あと、次回の話の後書きで少しご報告があります。
大きな話ではないので、作者が何か言ってるな程度に見て頂ければと思います。

ではまた次回の話でお会いしましょう!それでは!


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8.たまらなく好きですわっ!

 

 

 

「そろそろ準備も良いだろう。二人とも、俺のところに集まれ」

 

 

 メジロマックイーンとトウカイテイオーが走る準備を終えたのを察して、麻真が二人にそう声を掛ける。

 ウォーミングアップ後のストレッチをしていたメジロマックイーンは、麻真に呼ばれるとすぐに彼の元へ小走りで駆け寄った。

 それと同じくトウカイテイオーもシンボリルドルフとの話し合いを終えると、慌てた様子で麻真の元に駆け寄っていた。

 

 

「二人とも、もう準備は大丈夫だろうな?」

 

 

 二人が揃ったのを見て、準備完了の最終確認を麻真が行う。

 麻真の言葉に、二人は揃って頷いていた。

 

 

「えぇ、勿論ですわ」

「勿論! ボクも準備万端だよ!」

 

 

 二人の返事を聞いて、麻真が満足そうに小さく頷く。そして彼は自分の前に向けて雑に指を差すと、二人に続けて指示を告げた。

 

 

「なら早速始める。二人とも俺の立ってる前をスタート地点と思って横一列に並べ……あぁ、言い忘れたが並び順は二人で好きに決めて良いぞ」

 

 

 麻真にそう言われた途端、メジロマックイーンとトウカイテイオーの二人が互いに顔を見合わせる。走る並び順を好きに決めろと言われ、互いに少し困ったような表情を見せていた。

 しかしそんな中で、唐突にトウカイテイオーが笑みを浮かべると、メジロマックイーンに向けて彼女は自信満々な表情を浮かべた。

 

 

「それならボクはどっちでも良いよ! どっちになってもボクがマックイーンに勝てることは変わらないからね!」

 

 

 平然と話したトウカイテイオーのその言葉を聞いた瞬間、メジロマックイーンが僅かに目を吊り上げた。

 しかしメジロマックイーンは何かを察して高ぶった気持ちを落ち着かせるように一度目を閉じると、小さく深呼吸していた。

 メジロマックイーンが高ぶった気持ちを落ち着かせて、そっと目を開ける。そうして目を開けた彼女の表情は先程までの苛立った表情とは変わり自信に満ち溢れた表情を作っていた。

 そんな顔を見せながら、メジロマックイーンはトウカイテイオーに朗らかな微笑みを向けていた。

 

 

「私もどちらでも構いませんわ。テイオーにどちらを渡しても、勝負に勝つのはこの私ですので」

 

 

 メジロマックイーンの態度に、今度はトウカイテイオーがムッと眉を吊り上げる。

 トウカイテイオーが心底不満そうな表情を作る。だがしかしまた何かを思いついたのか、すぐに彼女はメジロマックイーンに屈託のない笑顔を向けていた。

 

 

「マックイーン、どうしたの? そんなに強がっちゃって、別に遠慮しないで好きな方選びなよ? ボク、マックイーンが負けた時に言い訳されると面倒だから決めてもらわないと困るよ?」

「同じ言葉をお返しますわ。私もテイオーが負けた時に言い訳されると困りますから、貴女の方こそお好きな方を選んでくださいな?」

 

 

 互いがそう言葉を伝え合うと、揃って二人が目を吊り上げて顔を見合わせる。

 二人が睨み合うように顔を近づけると、今度は互いに互いをバカにしたように失笑し合っていた。

 

 

「良いから、早く好きな方選んでよ。麻真さん、待たせてるよ?」

「ですから私はどちらでも構いませんわ。貴女がお好きな方を選んでくださいませ。貴女が早く決めないと麻真さんを待たせてしまいますわ」

 

 

 いつまでも決めようとしないメジロマックイーンに、トウカイテイオーが頬を膨らませる。

 そして遂に我慢の限界が訪れたのだろう。トウカイテイオーは、メジロマックイーンに向けて指を指すと大きな声で叫んでいた。

 

 

「先に決めるのはマックイーン!」

「いえ、決めるのはテイオーですわ!」

 

 

 トウカイテイオーの勢いに触発されて、メジロマックイーンも同じように叫ぶ。

 しかしトウカイテイオーも負けじとメジロマックイーンを睨みながら反論した。

 

 

「マックイーンが先に決めるの!」

「テイオーが先に決めなさい!」

「マックイーンが先!」

「テイオーが先にですわ!」

「マックイーン!」

「テイオー!」

「お前等いい加減にしろよ⁉︎ 二人だけしかいないなら内枠も外枠も大して変わらねぇからな⁉︎」

 

 

 そして二人のやり取りを黙って見守っていた麻真も、二人の口論に我慢できずに思わず叫んでいた。

 まさか内枠と外枠を決めるだけで二人が口論を始めるとは思わず、流石の麻真も二人の仲裁に入っていた。

 確かにウマ娘のレースにおいて、スタート地点から横並びに並んで走るレースでは内枠と外枠に不利と有利が存在する。

 芝のコースでは、内枠と外枠では走る距離に差が生まれることから内枠が有利とされる。またダートでは芝と同様に内枠が有利なのだが、ダートのコースの構成上で走る際に砂が空中を舞うことから砂がかぶりにくい外枠の方が有利とされている。

 しかしそれが適用されるのは、大人数のレースの場合だけである。二人しかいない少人数のレースで芝のコースなら、それは考えられるスタート地点の不利有利の話は適応外としかない。

 そのことをトレセン学園に入学して座学を学んでいる二人なら、間違いなく理解しているはずだろう。まさかそのことで口論を起こすとは麻真も予想すらしていなかった。

 この時点で、心底頭を抱えたくなった麻真だった。しかしメジロマックイーンにとっては、それはある意味では“良いこと”だとも内心で思っていた。

 麻真から見て、二人が無駄に張り合うところを見る限り、二人が互いをかなり意識していることが伺える。

 同期であり、“それ”をできる相手がいるのが何よりも恵まれていることを知っている麻真からすれば、メジロマックイーンには良い経験になると察する。本来なら面倒、もとい二人の気が済むまで放っておくことを麻真は選ぶだろう。

 しかしこのまま放っておけば、いつまでも二人が言い合いをする所為でレースができないと麻真は察して、彼は思わず仲裁に入らざるを得なかった。

 麻真の仲裁に、二人が今まで互いに向けていた鋭い視線を揃って彼に向ける。そして二人は声を揃えて麻真を非難していた。

 

 

「麻真さんが好きにしろと仰ったからですわ!」

「麻真さんが好きにしろって言ったからじゃん!」

「はいはい。俺が悪かった。お前達がそこまで揃ってバカだとは思わなかった俺が悪いから早く決めてくれ……」

 

 

 呆れながら麻真が何気なく返した言葉を聞いて、二人が揃って顔を怒りの感情で歪めていた。

 

 

「私達に向かってバカとはなんですかっ! 元はと言えば貴方が好きにしろと言い出したからですわ!」

「そうだそうだ! 麻真さんがボク達に決めさせた方が悪いじゃん!」

「あぁぁぁ‼︎ うるせぇ! もう良い! 俺が決める! マックイーンが内側でガキンチョが外側! これで良いかっ‼︎」

 

 

 理不尽な怒りと不満を麻真に爆発させる二人に、彼が頭を抱えながら二人のスタート位置を決める。

 麻真にスタート地点を決められた二人は、揃って小さく溜息を吐くと彼に指示されたスタート地点に渋々ながら移動していた。

 

 

「最初からそうすれば良いんですわ! まったく……!」

「これなら初めから麻真さんが決めれば良かったじゃん……!」

「頭痛くなってきた……」

 

 

 そして二人がスタート地点に着くのを見守りながら、麻真は次第にどことなく感じる頭の痛みに堪らず苦悩していた。

 しかしそんな麻真を他所に二人がスタート地点に揃って並ぶ。しかしまだ二人は揃って彼に対して不満そうな顔を見せていた。

 麻真も二人が不満そうなのを察する。しかし彼もいちいち構うのも面倒と思い、むくれる二人を無視して話を進めていた。

 

 

「並んだなら始めるぞ?」

「ご自由に」

「いつでも」

 

 

 淡白で簡素な返答をする二人に、麻真が思わず顔を引き攣らせる。しかしそれに反応してはいけないと思い、その点は考えないようにして麻真はレースを始めることを選んだ。

 

 

「最終確認だ。レースは二千四百メートルの中距離の芝コースを左回りで一周。スタートからすぐにコーナーに入って最後は長い直線、俺が立ってる場所がゴールだ。これで問題ないな?」

「ありません」

「ないよ」

「それなら良い。二人とも、構えろ」

 

 

 二人の承諾を聞いて、麻真が告げる。

 不満そうな顔を見せていた二人も麻真からレースを開始することを伝えられると、それまでの不満な表情から揃って表情を真剣な顔へと変えていた。

 

 

「……よし!」

 

 

 小さく深呼吸をしたトウカイテイオーが走り出す構えを作り、前を見据える。

 

 

「すぅ……はぁ……」

 

 

 メジロマックイーンも、小さく深呼吸をする。しかしその際に彼女が見せた動作に、麻真は少しだけ目を見開いた。

 両手を顔の前で合わせながら、僅かに頭を下げてまるで祈るように小さく深呼吸する。それは麻真が初めて見たメジロマックイーンの仕草だった。

 

 

「お前、それ……」

 

 

 その仕草に、ポツリと麻真が無意識に小さな声で呟く。

 しかし麻真の呟きは、既に集中していたメジロマックイーンには届いてはいなかった。

 麻真も思わず口走ってしまったことに思わず顔を強張らせる。だが、運良くメジロマックイーンに聞こえていなかったことに内心で安堵していた。

 メジロマックイーンの見せた仕草に、麻真は怪訝な顔を作る。彼としては彼女が唐突に見せた仕草に“気になるところ”があった。だが、それをレースを中断してまで訊くことは憚られた故に、彼は渋々ながら二人の勝負を優先することにした。

 

 

「では、二人とも……用意」

 

 

 麻真の声と共に、二人が前を見据える。身体を僅かに前に倒し、力強く前を見つめて足に力を込めていく。

 そして二人が構えた瞬間――麻真は即座に告げた。

 

 

「――始めっ!」

 

 

 麻真の声と同時に、二人がその場から勢い良く跳び出した。

 

 

 

 

 ほぼ同時――いや、僅かにメジロマックイーンがトウカイテイオーよりも早くスタートを切る。

 スタートの反応としては、両者共に可もなく不可もない。平均的な反応速度だった。

 

 

(軽っ――!)

 

 

 メジロマックイーンがスタートを切った瞬間、自分の身体の感覚に思わず驚く。全力で走った際の予想以上の足の軽さに、踏み込みの力を強くし過ぎて転びそうになるのを動揺しながらも堪える。

 どうにか転ぶのを堪えたところで、メジロマックイーンは自分がトウカイテイオーよりも早くスタートしていることを理解すると動揺しながらも身体を動かしていた。

 

 

(先頭を取れるならッ!)

 

 

 先頭を獲得したメジロマックイーンが僅かな加速をして、トウカイテイオーの前に出る。

 そしてスタートからすぐに二人が第一コーナーへ入ると、メジロマックイーンはトウカイテイオーから一バ身の距離を作って前を走っていた。

 しかし背後に気配。トウカイテイオーが後ろにいることを察しながら、メジロマックイーンは振り向くことなく走りに意識を向ける。

 コーナーの曲がり方。足で曲がるのではなく、身体全体で曲がることを意識。

 麻真から何度も指摘されたことだ。メジロマックイーンは、そのことを思い出しながらコーナーを走る。

 

 

(やはり……走りやすいですわッ!)

 

 

 そして走りながら、メジロマックイーンはようやく自分の走りの変化を感じていた。

 この一週間、両足にあった六十キロの重りから解放され、本来の足になった変化をメジロマックイーンは実感した。

 自分の足が軽い。これなら振り上げる足に余計な力を入れなくても良い。

 今まで足を振り上げることに使っていた力を、地面を蹴る為に使う。力強く振り下ろした足が地面を踏み締める。

 地面を捉えた足から、足首と足の先を使って地面を掴むように踏む。そして蹴り出す瞬間、地面を抉るように足首を力強く動かし、その力に加えてふくらはぎと太腿の力で蹴り出した力が、メジロマックイーンの加速力を増幅させる。

 トンッと、身体が前に進む。姿勢は前に、蹴る足は伸ばしきる。腕はしっかりと振り、合わせるように足も動かす。

 崩れることのないリズミカルな心地良い足音が、メジロマックイーンの耳に届く。紛れもなく、これは自分の足音だった。

 

 

(あぁ……これですわ……この感覚)

 

 

 今までに感じたことのない速度感を実感しながら、メジロマックイーンの口角が僅かに上がる。

 麻真の指導の結果、新しくなった自分のフォーム。身体から感じる風を切る感覚が、今までよりも速く走れていることを実感させられる。

 間違いない。今までの自分の走り方は、間違っていた。メジロマックイーンの身体に感じる感覚がそれを本人に訴える。

 身体の使い方が前よりも分かる。自分の身体をどうすれば一番力が使えるか、速く走る為の力の使い方を理解できている。

 速く走れていると実感しているこの感覚をメジロマックイーンは、忘れていた。

 麻真と初めて一緒に走り、彼の走りを真似した時に感じた――背中を押されたような感覚。

 この感覚を、忘れていた。そう、この感覚だった。この感覚が、全身に鳥肌が立つようなこの感覚が――

 

 

 

(――たまらなく好きですわっ!)

 

 

 

 楽しくて仕方ない。そう言いたげに、走るメジロマックイーンが笑顔を見せる。

 第一コーナーから第二コーナーに入るが、メジロマックイーンの表情は一向に笑顔のまま変わることはない。

 スタミナに余裕はある。走る速度もまだ上げられる。何も心配する要素がない。

 間違いなく、自分はトウカイテイオーに勝つことができる。自分の走りの変化に、メジロマックイーンがそんな確信を思うのは必然だった。

 第二コーナーから、更にメジロマックイーンが僅かに加速していく。

 メジロマックイーンの今の筋力は、ラストスパートのような突発的な加速ができるほど強くない。それ故に、彼女は無意識に序盤から後半に掛けて全速力に至る加速する走法を自然と行っていた。

 それは、今までメジロマックイーンが履いていた六十キロの靴がもたらした副産物だった。

 重い靴を履いている以上、筋力のないメジロマックイーンには突発的な加速ができない。しかし速く走るには、加速をしなければならないという問題を解決する為の方法を、彼女は自然と身につけていた。

 序盤から徐々に加速していく。そしてラストスパートの時点で最大速度に至る走り方をメジロマックイーンは会得しつつあった。

 

 

(行けますわ! このままテイオーを置き去りに!)

 

 

 徐々に加速しながら、メジロマックイーンが第二コーナーを駆ける。

 自分でもかなり速い速度まで走っていると察したメジロマックイーンが、コーナーを曲がりながら僅かに背後を一瞥する。

 おそらくは三バ身程度の距離が開いている。メジロマックイーンはそう予想したが――その予想は“全く逆”だった。

 

 

(はっ……?)

 

 

 トウカイテイオーの位置を確認したメジロマックイーンが前を見据えながら僅かに動揺する。

 予想が外れたことに驚いているわけではない。いや、驚いていないわけではない。だが、それよりもメジロマックイーンは、奇妙な場所にトウカイテイオーがいたのが問題だった。

 トウカイテイオーの位置。それはメジロマックイーンから後方に二バ身や三バ身と離れているわけではない。

 それよりも反対。トウカイテイオーはメジロマックイーンの真後ろを走っていた。左右にズレることなく、トウカイテイオーは彼女の後ろにべったりと張り付くような位置にいた。

 

 

(なんですの……その位置は?)

 

 

 見たことがない位置で走るトウカイテイオーに、メジロマックイーンが眉を寄せる。

 まだジュニア級に所属する新入生のメジロマックイーンには知る由もない。トウカイテイオーが行なっていることが何を意図しているかなど。

 

 

(カイチョーの言った通りだ……走りやすい!)

 

 

 トウカイテイオーがメジロマックイーンの背後を走りながら驚きながらも笑みを浮かべる。

 いつもより速く走るメジロマックイーンに問題なくついて行けている。トウカイテイオーは走り方が綺麗になったメジロマックイーンのフォームに感心しながら、楽しそうに笑っていた。

 

 

(マックイーン。ボク、負けるつもりはないよ!)

 

 

 決して位置を変えることなく、トウカイテイオーがメジロマックイーンの背後を駆ける。

 第二コーナーを抜けて、トウカイテイオーとメジロマックイーンの二人が直線に入っていく。

 その二人の光景に、スタート地点から見ていた麻真が意表を突かれたように目を大きくしていた。

 

 

「スリップストリーム……?」

 

 

 麻真がトウカイテイオーの走り方を見ながら、呟く。

 そして麻真は眉を寄せるなり、怪訝な表情を作っていた。

 

 

「あんなのジュニア級になった新入生が知ってる技術じゃないぞ? あのガキンチョ……どこで覚えた?」

 

 

 トウカイテイオーが見せている技術は、本来ならトレセン学園の新入生が知ってる筈のない技術だった。まだ走り方も拙い、トレーナーから満足に指導を受けていないジュニア級のウマ娘が知るはずがないと麻真は思っていた。

 しかし目の前でされている以上、トウカイテイオーは“スリップストリーム”を知っていた。

 トレセン学園の授業で教わったとは考えられない。ジュニア級のクラスでそんなことを教えても無駄でしかない。教えるならクラシックまたはシニア級の話になる。

 なら入学前に知っていた……またはトレセン学園の誰かに教えてもらったかの二択しかない。

 走るトウカイテイオーを見ながら、麻真が考える。彼女にそんな走法を教えるようなウマ娘がいるだろうかと。

 

 ふと、麻真の脳裏に気になった場面が思い出された。

 

 トウカイテイオーとシンボリルドルフが何かを話し合っているような場面があったことを、麻真が思い出す。

 まさかと思いながら、麻真が東条ハナと一緒にレースを見ていたシンボリルドルフに視線を向ける。

 

 

「やはり、すぐバレてしまったようだな……」

 

 

 戯けるように肩を竦めてシンボリルドルフが呟く。しかし麻真にその言葉が届くことはない。

 そして目が合った途端にシンボリルドルフが肩を竦めたのを見た瞬間――麻真は理解した。

 

 

「やってくれる……まったく……」

 

 

 麻真が面倒そうに肩を落とす。

 そしてシンボリルドルフに呆れたような目を向けつつ、麻真は二人のレースに視線を戻していた。

 

 

「……ルドルフ。お前、あのガキンチョに何を教えたんだ?」

 

 

 今だにメジロマックイーンの背後から離れることのないトウカイテイオーの走りを見ながら、麻真は心底気怠そうに頭を掻いていた。




読了、お疲れ様です。
更新が遅れてしまい、申し訳ありません。

さて、マックイーンとテイオーの勝負がスタートしました。
初手はマックイーンの優勢と思いきや、テイオーも作戦あり。
そして麻真にバレるシンボリルドルフ、そんなお話です。
少しずつ色々と今後に関わることを書いてたりします。それが出るのはいつの日かに。
二人のレースの決着を見守ってあげてください。

感想、評価等はお気軽に。
それではまた次回にお会いしましょう。

追伸
前回にご連絡した些細な報告です。
この度、タマモクロスの作品『「Umar EATS」の配達員から、トレセン学園にスカウトされたウマ娘の話』を投稿されてるayksさんからウマ娘の二次創作を書いている人達が集まった合同企画に参加させていただきました。
と言っても、今月の頭から始まっています。もし暇なお時間でもあれば私を初め様々な作品があるので拝見して頂ければ幸いです。


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9.必ず追いつきますわっ!

お待たせしました。


 

 

 

 

 第二コーナーを抜けて、直線をメジロマックイーンとトウカイテイオーの二人が駆ける。

 メジロマックイーンの背後に張り付くトウカイテイオーが楽しげな表情で走る。その表情はとても楽しげで、その感情を表すように彼女の走る足取りは軽々としていた。

 トウカイテイオーの前を走るメジロマックイーンも彼女と同様に、走るその足取りは軽々としていた。しかし軽々と走る足取りとは裏腹に、彼女の顔は困惑の表情を見せていた。

 

 

(一体、なんですの⁉︎ 私の背後にピッタリと……!)

 

 

 メジロマックイーンが走るのを止めてしまえば、間違いなく衝突してしまうくらいの超至近距離。そんな位置で自分の背後を走るトウカイテイオーに、彼女は心底気味が悪かった。

 今までそんな位置でトウカイテイオーが走っている場面など見たことがない。トレセン学園に入学した当初に行われた新入生のみのレースでも、一度も見たことがなかった。

 故に、メジロマックイーンは困惑していた。トウカイテイオーの走る位置の意図が理解できず、彼女は走りながらその表情を歪ませていた。

 メジロマックイーンのその思考も、当然だった。そもそもトウカイテイオーは、その位置で走ることを今この場で“初めて”行っているのだから。

 メジロマックイーンには知る由もない。トウカイテイオーが意図して走っている位置がもたらす恩恵がどれほどのモノかを。

 

 スリップストリーム――それは直前を走るウマ娘を抜く為の技術だった。

 

 車や自転車などの高速度の中で競うスポーツ競技で用いられる技術。それはつまり高速度で走ることが可能なウマ娘にも適用される技術だった。

 走る物体には、走る上で必ず避けられない“空気抵抗”というモノが存在する。

 加速をし、速度を上げていくと速く動く物体は空気の抵抗を受ける。それは走る速度が上がるほど、顕著に現れる。その空気の抵抗という壁に抗う為、走る車や自転車は多くのエネルギーを消費し、結果として走る速度に“限界”を生み出すことになる。これが一般的な空気抵抗の認識である。

 高速度で走る物体に必ず受ける空気抵抗。それはつまり時速六十キロを超える速度で走るウマ娘ならば、その抵抗は必ず彼女達の身体に襲い掛かる。

 加速をして高速度に至った時、必ずウマ娘は空気の(抵抗)をその身体に受けている。そこで応用された技術が“スリップストリーム”だった。

 高速度で走っている物体の真後ろを走る。これだけのことだった。しかしたった“それだけのこと”で、そのウマ娘の走る身に受ける恩恵は大きい。

 空気抵抗に抗って高速度を維持して走るウマ娘の背後を走ると、背後を走るウマ娘は空気抵抗の殆どを受けることがない。

 前を走るウマ娘を壁として、本来ならば空気抵抗に抗う為に使う筈だったスタミナとパワーを温存することができる。その温存した力を壁としてしたウマ娘が疲弊した時、颯爽と抜き去る為に使う。

 空気抵抗に抗いながら走り疲弊したウマ娘と、空気抵抗を受けずに走り体力を温存したウマ娘。その二人が同時に走っていた場合、後者が勝つ確率はとても高い。

 レースに於いて、後半にどれだけ体力を温存できるかは勝つ上でとても重要な要因となる。

 その勝つ為の要因を、このレースでトウカイテイオーは得ようとしていた。

 

 

(くっ……! 離れなさいっ!)

(簡単に離されるわけにはいかないよ)

 

 

 メジロマックイーンが背後を走るトウカイテイオーを離そうと右に位置を移動する。しかしそれと同時にトウカイテイオーは彼女に合わせて動いていた。

 トウカイテイオーが背後から離れないことに再度メジロマックイーンが咄嗟に左へ位置を変えるが、それでもトウカイテイオーは彼女の背後を維持して走っていた。それでも彼女が諦めずにまた左右に位置を変更するが、そんな彼女の抵抗を無駄と言いたげに彼女の背後にはトウカイテイオーが陣取って走ることを維持し続けていた。

 絶対にメジロマックイーンの背後から離れない。トウカイテイオーのその意思を、メジロマックイーンが理解させられた瞬間だった。

 

 

(そこまでテイオーが私の背後に固執するということは、絶対に何か考えがあるということ……)

 

 

 トウカイテイオーが位置を変えない。それはメジロマックイーンにある確信を与えていた。

 何かトウカイテイオーに考えがある。それが何かをメジロマックイーンが考えるが、レース中のこの場で彼女はその意図を推測することができなかった。

 そもそも現時点で、メジロマックイーンは思考に意識を大きく向けることができなかった。走るフォームを維持することにかなり神経を使っている。もし考え事をしながら走れば、間違いなくフォームが崩れることを彼女は察していた。

 走るフォームを崩す。それは今の時点でメジロマックイーンが行なっている終盤で最高走度に至る為の加速を止めることになるだろう。それは間違いなく自分の負ける要因に繋がる。

 故にメジロマックイーンは簡単に考えるしかできなかった。彼女が簡単な思考で思いつくこと。それは――

 

 

(私を後半で抜き去る為に、テイオーはその位置にいる。それだけは分かりますわ)

 

 

 スリップストリームの利点。その結果をメジロマックイーンは察していた。

 自分が負ける可能性を放置することをメジロマックイーンは避けたかった。しかしトウカイテイオーを離せない以上、それは避けることができない点となる。

 

 

(それなら……抜けないくらいまで突き放すだけですわ)

 

 

 ならば、それを踏み倒すしかない。トウカイテイオーの思惑通りにならない為に、彼女が抜けない速度まで至り、置いていく。それを理解して、メジロマックイーンは真後ろに位置するトウカイテイオーを“意識から外す”ことを選んだ。

 そしてメジロマックイーンが走ることに意識を向ける。まだ最大速度まで加速していない。体力はまだ十分ある。走る“足”もまだ生きている。故に、彼女は選んだ。

 

 

(絶対に負けませんわよ! 麻真さんが見てるんですから!)

 

 

 麻真に鍛えられて、初めての勝負。それを黒星で終わらせるなどあり得ない。

 そう思うと、メジロマックイーンは足が少しだけ軽くなったような気がした。そしてまた一段階、彼女は無意識に加速していた。

 

 

(マックイーン……また少し速くなった?)

 

 

 メジロマックイーンがまた僅かに加速した。それを真後ろで見ていたトウカイテイオーが察した。加速した彼女に合わせて、トウカイテイオーも加速する。

 メジロマックイーンと麻真の練習を数日見て、トウカイテイオーも分かったことがあった。

 メジロマックイーンの走りを見てトウカイテイオーが実感したのは、彼女の走りは以前よりも変わっているということだった。

 今までのトウカイテイオーが知っているメジロマックイーンの走り方は、後半のラストスパートで加速するタイプのウマ娘だった。

 しかしここ数日で見た走りは、全く別のモノだった。終盤に爆発的な加速をするのではなく、序盤から終盤にかけて段階的に加速する走り――それはまるで“逃げ”ウマ娘のような走り方だとトウカイテイオーは感じていた。

 

 

(やっぱりカイチョーの言ってた話が本当なら……マックイーンは速度を落とさない。むしろまだ速くなる)

 

 

 そしてトウカイテイオーは思い出していた。先程、自分がシンボリルドルフから聞いた助言のことを。

 シンボリルドルフがそっと耳打ちで告げた始まりの言葉。それはトウカイテイオーを動揺させる言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

『まず始めに……テイオー。君はこのままではメジロマックイーンに勝つことは難しいだろう』

『えっ……?』

 

 

 シンボリルドルフの口から告げられた言葉に、トウカイテイオーは一瞬反応できなかった。

 そんな動揺を見せるトウカイテイオーを見つめて、シンボリルドルフが困ったように眉を寄せる。

 しかしシンボリルドルフは決意したように目を座らせると、トウカイテイオーに向けてハッキリと真実を告げることを選んでいた。

 

 

『考えてみてほしい。メジロマックイーンを鍛えているのは、あの北野麻真だ。私やエアグルーヴを始め、その手腕で私達を勝利へと導き、私達を世間に名を馳せるウマ娘にまで育てた優秀なトレーナーなんだ。そんな人が育てるウマ娘を、新入生の中で強いと言われる程度のウマ娘と同様に見てはいけない』

『……カイチョーもそんなこと言うんだ』

『だからこそだ。そんな風に不貞腐ないで私の助言を聞いてほしい。テイオーには私から三つ、助言を言わせてほしい。おそらくだが……メジロマックイーンに勝てる可能性が大きくなる』

 

 

 その後、シンボリルドルフが告げた助言のひとつ。それがスリップストリームだった。体力を温存し、そして相手を抜き去る為の技術。本来なら前を走るウマ娘の背後を位置を維持し続ける為の技術が必要だったのだが、トウカイテイオーはシンボリルドルフの予想通り苦もなく位置を維持し続けることができていた。

 そして二つ目。それがメジロマックイーンの変わった変化の話だった。

 

 

『メジロマックイーンの走りは、以前とは変わっている。彼女は私やテイオーとは違うタイプの走りをするようになった。どちらかと言うと似てはいないが、アレはサイレンススズカのような走りに近い。瞬発的な加速ではなく、次第に加速していき最大速度を維持し続ける走り。好位置から相手を終盤で差すと言うよりも、アレは全てを置き去りにする“逃げ”の走法だ』

『それは見ててなんとなく思ったけど……マックイーンは逃げじゃなくて先行だった筈だよ?』

 

 

 トウカイテイオーの疑問も当然だった。メジロマックイーンは彼女が知る限り、細かい点は省くが自分と似たような走りをしている。終盤に相手を差す走り、それがメジロマックイーンの走りだった。

 そのトウカイテイオーの疑問に、シンボリルドルフはどこか納得したような表情を見せて答えた。

 

 

『ここ最近、メジロマックイーンは走るのではなく基礎トレーニング……特に足のトレーニングに力を入れていた。それを麻真さんが選んだということは、彼女には“加速に必要な瞬発力が足りない”と判断されたに違いない。私が時折彼女の走りを見ていた限りだと、おそらく彼女はそれを補う為に高速度を維持する走法を身に付けたと見える。今現状の自分の身体でできる最速の走法があの形を作った。故に、今の彼女の走りは必然的にあの形になったんだろう』

『……それで何が変わるの?』

 

 

 いまいちピンとこない。そんな反応をトウカイテイオーが見せる。

 ただ走り方が変わっただけ。先行なのに逃げに近い走りをする。それがシンボリルドルフの話した小難しい話を聞いて、トウカイテイオーが理解できたことだった。

 

 

『変わるさ。特にステイヤーの素質があるメジロマックイーンがあの走法をすると特に。彼女は新入生の中でもかなりスタミナがあるウマ娘だ。そんなウマ娘が加速を続け、その速度を落とさないで走り続けられるということがどれほどの脅威なのかを私は知っているからな』

『とにかく、今のマックイーンは加速すると止まらないってことで良いの?』

『ふふっ……流石にテイオーには難しかったか、君の言う通り簡単に言うとそういうことだ』

 

 

 話の大まかな点だけを理解したトウカイテイオーにシンボリルドルフが思わず笑みを浮かべる。

 しかしその笑みもすぐに消えると、シンボリルドルフは続けてトウカイテイオーに語りかけていた。

 

 

『ともかく、前置きはこれくらいで良いだろう。テイオー、ここからが重要なところだ。君はこの勝負の後半でメジロマックイーンが最大速度まで加速するまでに、彼女を抜いて置き去りにしろ。それよりも先に彼女が最大速度まで上がり切ってしまえば、君が終盤で加速しても彼女を抜くことができなくなる』

『マックイーンが加速し切るまでに、ボクがマックイーンを抜けば良いの? その……すりっぷすとりーむってやつで?』

『そういうことだ。スリップストリームはその為の布石と思ってくれれば良い』

 

 

 シンボリルドルフの二つの助言を受けて、トウカイテイオーは渋々ながら納得して頷いた。シンボリルドルフの話を理解し切った訳ではないが、どうにか概要だけを理解することはできた。

 

 

『そして最後の三つ目だ。これが一番大事だと思ってくれ』

 

 

 そしてシンボリルドルフが“三つ目の助言”を口にした途端、トウカイテイオーは心底驚いた表情を見せた。

 まさかシンボリルドルフから“そんな言葉”が出てくると思わず、トウカイテイオーは目を大きくしていた。

 

 

『カイチョー、それをボクにやれって……?』

『テイオー、これは公式のレースではない。今伝えたのは、グレーゾーンの行為だ。助言の一つ目のスリップストリーム、二つ目のメジロマックイーンの走りと抜くタイミング、そして最後の“それ”は本当にどうしようもない時だけ使うんだ』

『ボク、使う気にはならないよ』

『私も……本当なら話したくなかった。だが、テイオーが今勝負する相手は、君がそこまでしなくてはならない相手であるということだけを覚えていてほしい』

 

 

 シンボリルドルフがそこまで言い切ったことに、トウカイテイオーが思わず眉を寄せる。

 確かに、メジロマックイーンは新入生の中で一番強いとトウカイテイオーも思っている。そしてシンボリルドルフを育てた北野麻真に育てられているという点も、更に彼女を強くしている要因だろう。

 しかしあのシンボリルドルフがそこまでメジロマックイーンを危険視していることが、トウカイテイオーには理解できなかった。

 だからこそ、トウカイテイオーはシンボリルドルフが告げた三つ目の助言を受け入れる気にはなれなかった。

 

 

『ねぇ。カイチョーだったら、ボクの立場だったら同じことできる?』

 

 

 そう思ったからこそ、トウカイテイオーは自然とその疑問を口にしていた。

 もしシンボリルドルフが同じ立場なら、今自分が口にした行為ができるのかと。

 そう問われて、シンボリルドルフは静かに口を噤んだ。しかし彼女はゆっくりと一度目を閉じ、何かを考えるような表情を作っていた。そうして彼女が目を開けると、強い眼差しをトウカイテイオーに向けていた。

 

 

『本当に“それ”をしなければ自分が勝てない状況だと判断したのなら、私はきっとやるだろう。それで……それをするだけで、麻真さんの指導を受けられるなら」

 

 

 そう告げたシンボリルドルフの表情は、トウカイテイオーにはとても印象的に映った。その行いが良くない行為だと分かっていても、自分の願いを叶えたい。そんな負の感情と正の感情がせめぎ合ったような、苦悩の表情だった。

 初めて見たシンボリルドルフの表情に、トウカイテイオーは素直に反応に困った。

 それを口にしたシンボリルドルフの気持ちをトウカイテイオーは察することができなかった。

 

 

『そっか……あの人は、カイチョーにそこまでさせる人なんだね』

 

 

 だから、トウカイテイオーはそう答えるしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 余計なことまで思い出してしまった。トウカイテイオーは頭に過った考えを頭を左右に振って、その思考を消し去った。

 “それ”を思い出してはいけない。そもそも、それを使わない状況にすれば良いだけなのだ。

 

 

(そろそろ直線が終わって、第三コーナーに入る)

 

 

 メジロマックイーンの背後を走りながら、トウカイテイオーが先を見据える。

 長い直線がもうすぐ終わる。そして次のコーナーに入る。

 メジロマックイーンが徐々に加速しているのが嫌でも分かる。彼女の速度に合わせて走っているトウカイテイオーは、嫌でも分からされた。

 かなり速い速度で走っている。間違いなく第三コーナーに入る前で出す速度ではない。トウカイテイオーでも分かる明らかなハイペースだった。

 そして驚くことに、メジロマックイーンはまだ前傾姿勢を取っていない。つまり、それは彼女がまだ速度を上げられるということになる。

 この速度でも、まだ更にメジロマックイーンが加速する可能性がある。そしてその速度を彼女が一切落とさないというのなら、間違いなくシンボリルドルフの言う通り、手がつけられなくなる。

 

 

(今のマックイーンに合わせて走ってみて、分かった。ボクは――君みたいに速い速度を保つのは苦手みたいだっ!)

 

 

 足に掛かる負担を、トウカイテイオーは実感していた。自分はメジロマックイーンのような走りは苦手だと。

 メジロマックイーンが最大速度の維持に適性があると言われるのなら、トウカイテイオーは真逆だった。

 トウカイテイオーの強みは、自前の特殊な足を使った瞬間的な加速力。それはメジロマックイーンにない力だろう。

 だからこそ、メジロマックイーンは自分にない力を補う為に今の走りをしている。しかしこの状態でトウカイテイオー自身もメジロマックイーンと同じような走りで最後まで走れば、彼女の足が持たなくなる。

 

 

(カイチョーの言ってた通り! 先にマックイーンを抜く! それでマックイーンが追いつけない距離まで突き放すっ!)

 

 

 ならば、メジロマックイーンが最大速度になるまでに抜くしかない。トウカイテイオーがそう決意すると、すぐに行動に移した。

 直線が終わり、第三コーナーに入る。そしてメジロマックイーンがコーナーを曲がる為に身体を僅かに左に寄せた瞬間――トウカイテイオーは動いた。

 メジロマックイーンの右側が開く。その道筋に、トウカイテイオーは走り出した。

 

 

(ぐっ……! 風すごっ!)

 

 

 メジロマックイーンの背後で得ていたスリップストリームから外れて、身体全身に空気抵抗を受ける。

 一瞬、身体が止まるような錯覚を覚えたトウカイテイオーだったが全開の加速を用いて、彼女は“それ”を吹き飛ばした。

 

 

(――負けるもんかぁッ!)

 

 

 前を走っていたメジロマックイーンの横を走り抜け、トウカイテイオーが前に出た。

 

 

(ここで前に出ますの⁉︎)

 

 

 自身を抜き去ったトウカイテイオーに、メジロマックイーンが目を大きくした。

 まだ第三コーナーに入ったばかり、本来なら第四コーナーに入ったところから動き出すのが定石だとメジロマックイーンは思っていた。

 鬼気迫るような気迫で走るトウカイテイオーの威圧に、メジロマックイーンの予想外で呆気に取られる。

 一馬身、そして二馬身と距離を離してトウカイテイオーが加速する。

 この場で自分からトウカイテイオーが距離を離していく。離れていく彼女の後ろ姿を見て、メジロマックイーンはようやく理解した。ようやく見つけた自分の最速の走り()がトウカイテイオーに看破されていたことを。

 

 

(テイオー! まさか私の加速より早く前に出たんですの⁉︎)

 

 

 まだメジロマックイーンは最大速度に至っていない。離れていくトウカイテイオーに追いつきたくても、加速力が足りない自分では加速に時間が掛かる。

 メジロマックイーンが想定するに自身が最大速度に至るのは、おそらく第四コーナーに入るところ。その間に、トウカイテイオーは自分からどれほど距離を離してしまうのだろうか?

 考えても仕方ない。タイミングが遅くても自分の最大速度を出して、前を走るトウカイテイオーに追いつくしかない。

 第三コーナーを走る中で、メジロマックイーンが身体を前に倒し、前傾姿勢を作る。

 また一段階、メジロマックイーンが加速する。第三コーナーを抜けた時、自分が最大速度になることをイメージして、彼女が足に力を更に込めていく。

 

 

(離しませんわよ! 必ず追いつきますわっ!)

 

 

 前を見据えるメジロマックイーンの視界には、三馬身離れたトウカイテイオーの後ろ姿。

 少しずつ離れていくトウカイテイオーの姿を見ながら、メジロマックイーンは鋭い視線を彼女に向けていた。




読了、お疲れ様です。
更新速度が遅くなって、申し訳ありません。
レースを書くのが楽しいと思いながらも、死ぬほど苦悩してしまう作者です。読み難かったと思われたら、納得する自分がいるのが悲しい今日この頃。

さて、今回は二人のレースです。次回決着予定。
今回のメインはトウカイテイオーですね。
シンボリルドルフとの話。トウカイテイオーが現状のメジロマックイーンに勝とうとするのなら、当然工夫が必要なんですよね。
それは次回に出てくると思います。お楽しみにして頂ければと。
どんどんメジロマックイーンが強キャラ感が出ていくことに作者も震えてます(予定通りなんですけどね)

それではまた次回にお会いしましょう。
感想、評価、頂ければ励みになります。
いつも感謝しながら拝見させて頂いております。


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10.負けるもんかッ!

お待たせしました。


 

 

 

 

 

 第三コーナーに入った瞬間、トウカイテイオーが早々に勝負を仕掛けた。

 前傾姿勢を作り、第三コーナーから全速力に近い速度でメジロマックイーンをトウカイテイオーが抜き去る。

 まるで終盤のラストスパートのようなトウカイテイオーの走りを見て、麻真は眉を顰めていた。

 

 

「……早過ぎる」

 

 

 それはゴール地点から二人のレースを見届けていた麻真が怪訝な表情を作るのに、十分過ぎる光景だった。

 トウカイテイオーが動き出したあのタイミングは、本来ならレースにおいて先頭を追っている後続が仕掛けて良いタイミングではなかった。

 麻真から見ても、トウカイテイオーの行動は全く最適な判断とは思えなかった。

 あのように第三コーナーから加速して最大速度で走るなど、本来ならあり得ない。一般的なのは第三コーナーから徐々に加速して、第四コーナー辺りから仕掛けるはずである。

 今見せたトウカイテイオーの行動は、まさに異様であった。仕掛けるタイミングを間違えれば、今まで温存していたスタミナを浪費してしまい、終盤のゴールまで最大速度で走れるはずだったスタミナを失ってしまう。それは間違いなく負ける要因となるだろう。

 もしそれが作戦として成立するとすれば、文字通り無尽蔵のスタミナを持っていなければ不可能だった。仮にそんなスタミナがあるとするなら、それは作戦として十分な強さを発揮できるものとなり得るが――それが新入生のウマ娘に適用されるとは麻真には思えなかった。

 そこまでのスタミナを持てる可能性の段階に至るのは、クラシック級以上の長距離に特化したステイヤーのみである。たかが新入生のジュニア級ウマ娘程度がそこまでのスタミナを持っているとは到底考えられない。

 だからこそ基礎を忠実に実行するのが普通だった、並みのスタミナしか持たないウマ娘なら、第四コーナーに入ってから仕掛けるのが一般的である。そうしなければ、まずスタミナが持たない。

 そんな誰もがレースで当たり前にする立ち回りの初歩的な判断。そんな判断すらできないのは新入生のウマ娘だからだと言われれば、麻真も納得もできるだろう。

 

 しかしそのような言葉が、あのトウカイテイオーにまかり通らないことを麻真は理解していた。

 

 今こうしてメジロマックイーンと走っているトウカイテイオーは、トレセン学園の新入生の中で最も強いと言われているウマ娘の一人なのだ。そんなウマ娘が、初歩的な判断ミスをする訳がない。

 トウカイテイオーが強いと言われるのは、彼女が持つ柔軟性のある足から生まれる加速力。それは彼女の走りを実際に見た麻真も理解している。

 しかし先程、ハナのトウカイテイオーが強いと話していた内容に、彼女に無尽蔵のスタミナがあるなどとは一言も言っていなかった。

 つまりトウカイテイオーは、自身の強みである加速力をレース中に発揮できる判断が適切にできるウマ娘と思うしかない。

 それならば、何故そんな判断ができるはずのトウカイテイオーが、第三コーナーから仕掛けたのか?

 そう考えれば、残る答えは――麻真にはひとつしかなかった。

 

 

「アイツ……マックイーンの今の走りを“分かってる”上で、あのタイミングで仕掛けたのか?」

 

 

 心底面倒そうに、麻真が小さく呟いていた。

 トウカイテイオーが第三コーナーで仕掛けたのは、メジロマックイーンに勝つ為の作戦だと麻真は検討をつけた。

 間違いなく、トウカイテイオーは理解している。メジロマックイーンに従来通りのタイミングで仕掛けてしまえば、自分がゴールまでに彼女を追い抜くことができないと。

 

 それはメジロマックイーンの走りを、トウカイテイオーが理解しているからこその判断だろう。

 

 麻真はレースが始まる前から確信していた。普通にトウカイテイオーが走っていれば、間違いなく彼女はメジロマックイーンに勝てないことを。

 メジロマックイーンの走りは、以前の形から変化した。加速力のない彼女が、自らの欠点を補い、そして現時点の自分の身体を最大限に活かす走り方が今の形。

 そしてその走りを活かすのに十分なスタミナをメジロマックイーンが持っている。それだけで十分だった。

 トウカイテイオーが強いと言われようとも、徐々に加速して第三コーナー辺りから全速力でゴールまで走れるメジロマックイーンの方が強い。

 第四コーナーから仕掛ける一般的な攻め方では、今のメジロマックイーンに対抗できない。第四コーナーから全速力で走ったとしても、既にそれより前から全速力で走っている彼女の方が距離を大きく離して減速せずに前を走り続ける。どうにか追いつこうとしても、間に合わずに彼女がゴールする。

 

 そうなることを麻真は予想していた。しかし、トウカイテイオーが予想を外れた行動をしたことに眉を寄せていた。

 

 確かにトウカイテイオーには、ここ数日間のメジロマックイーンの練習を見られていた。その時間の中で、彼女がメジロマックイーンの走りが以前の走りから別の形へ変化したことを察することができた可能性は、十分にあり得る。

 しかしそれだけでは説明がつかなかった。メジロマックイーンの走り方が変わったと分かっていたとしても、まだレース経験の浅いトウカイテイオー本人だけの判断でレースで第三コーナーから全速力で仕掛けるなどという博打をするのは、麻真には考えられなかった。

 レースに勝てる判断ができるということは、レース中にしてはいけない行動も理解していることになる。

 トウカイテイオーは、その判断ができるウマ娘。なら、第三コーナーから仕掛けるなどという博打の行為をすることすら考えないはずだった。それなのにメジロマックイーンに勝つ為にその方法を独断で選んだとすれば、彼女は相当の切れ者になる。

 

 確かに今のメジロマックイーンにトウカイテイオーが勝つ可能性を麻真が提示するとするなら、数多くある中の一つで彼女と同じ方法を考えるだろう。

 

 メジロマックイーンは加速に時間が掛かる加速力のないウマ娘。それだけ見れば遅いウマ娘に思われるが、一度最大速度まで加速してしまえば話が変わるウマ娘である。

 自身で天皇賞制覇を目標にしていることもあり、メジロマックイーンには麻真もある程度は認めるスタミナを持っている。それがあれば、加速が遅くても現時点で十分にその欠点をカバーできた。

 それがメジロマックイーンの走りだった。スタートから徐々に加速していき、第三か第四コーナーに入るまでに最大速度に至る走り方。そこから一度も減速することなくゴールまで走り続けるのが今の彼女の走法である。

 しかし逆に最大速度まで加速されて、一度も減速しないということを分かっていれば――それに勝つ方法はとても簡単だった。

 先に加速される前に、距離を大きく突き放すだけで良い。そしてメジロマックイーンが加速しても追いつけない状況を作る。それを実現可能にする条件は厳しいが、現実的に簡単な作戦だろう。

 しかしその作戦を本当にトウカイテイオーが一人で考えて実行しているとは、麻真には思えなかった。

 それこそ、誰かから指示でもされなければできない判断のはずだった。

 トウカイテイオーはレースでしてはいけないことを理解している。ならばその判断を信じるはず、勝つ為の簡単な作戦を思いついたとしても、負ける可能性の方が大きい。つまり彼女が普通にメジロマックイーンに勝とうと思うなら、自身の走り方で勝負すると考える。

 

 

「面倒くさいこと吹き込んでるんじゃねぇよ……ルドルフ」

 

 

 そこでトウカイテイオーに指示した人物に心当たりしかなかった麻真が、深く溜息を吐いた。

 予想と外れた行動をされて麻真が不満そうに眉間に皺を寄せる。

 余計なことをされてしまい、考えていたことが確認できないことに麻真は肩を落としていた。

 それは決して、メジロマックイーンが負けるという不安ではない。麻真が考えていたのは、逆のことだった。

 

 

「一般的なウマ娘の仕掛けに、マックイーンがどれだけ距離を離してゴールできるか見たかったんだが……これじゃあ、見れそうにないな」

 

 

 その呟きは、紛れもなくメジロマックイーンの実力を信じているからこその言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 突き放されていくトウカイテイオーの背中を見ながら、メジロマックイーンは内心で焦っていた。

 予想外の展開。それがメジロマックイーンの脳裏に過ぎる。

 ゴールに向けて最後の加速をするのには、まだ早過ぎる。しかしその当たり前を無視してトウカイテイオーが仕掛けた理由をメジロマックイーンは即座に理解していた。

 

 

(もう少しでッ――!)

 

 

 加速を続けて距離を離すトウカイテイオーをメジロマックイーンが睨むように見つめる。

 トウカイテイオーとメジロマックイーンの距離は五バ身まで広がる。残りの距離は現時点で第三コーナーを走っているので、ゴールまでは残り八百メートル程度。

 メジロマックイーンは先を走るトウカイテイオーに対して即座に加速をしようと考えたが、それをすぐに一蹴していた。

 

 その手段は、自分の今の走りではない。現時点で自分にできる走り方は、ひとつしかない。

 

 走る速度に身体をならさせ、次第に加速をしていく。そして第三コーナーを抜けた時に最大速度に至り、その速度を一切落とさずにゴールまで走り抜ける。

 トウカイテイオーのような瞬発的な加速力を持ち合わせていない自分には、その走り方が現時点の最適解。それをメジロマックイーンは心から信じていた。

 今すぐ思い切り加速してトウカイテイオーを追いたい気持ちは勿論ある。しかし、それを試みたところで加速が思う通りにできないことも十分に理解しての判断でもあった。

 

 

(私は信じてますの! 麻真さんの教えは正しいと!)

 

 

 そして、今の走りを作った北野麻真という自身のトレーナーを信じているからこその決断だった。

 今の走り方は、北野麻真が作り上げたモノ。そして自分の身体の使い方を理解してメジロマックイーンが作り上げた。それは二人の信頼の証とも言える。

 

 北野麻真が、メジロマックイーンを勝たせると言った。

 メジロマックイーンは、北野麻真を信じると答えた。

 

 なら、それだけでメジロマックイーンには十分だった。

 今できることを、今できる最善を、メジロマックイーンは行うだけだった。

 

 

 

(行きますわよ……! お待たせしましたわ!)

 

 

 

 メジロマックイーンが第三コーナーを抜けた。先に走るトウカイテイオーとの距離は、八バ身まで離されている。

 しかしそんなことは些細なこと。第三コーナーを抜けた時点で、メジロマックイーンの足はようやく“至った”。

 身体を前に更に倒して、前傾姿勢を維持。身体の可動域を全部使って、限界まで筋肉を行使する。

 それが今までメジロマックイーンが積み上げてきたモノをようやく完成させる。

 

 

 

「――テイオーッ!」

 

 

 

 第四コーナーに入った瞬間、メジロマックイーンが最後の加速を終えた。

 まるで背中を押されたように、メジロマックイーンの身体が加速する。

 トウカイテイオーとの距離は、まだ八バ身から縮まない。しかしそれもすぐに結果を示した。

 トウカイテイオーの加速は、定石から外れた行動。その対価は、ゴール前の失速を伴う。スタミナの消費、それがトウカイテイオーを苦しめるとメジロマックイーンは睨んでいた。

 

 

 

(くっ――! キッツ――!)

 

 

 

 事実、トウカイテイオーは苦しかった。

 本来では決して行わない第三コーナーからのラストスパート。まだゴールまでかなりの距離がある地点からの最終加速は、第四コーナーを抜けたトウカイテイオーを苦しめていた。

 ゴールまで六百メートル。その時点で、トウカイテイオーの足には疲労が溜まっていた。

 まだ足は生きている。しかしこれほどの消耗をしたことは、トウカイテイオーにはなかった。

 今までのレースは、第四コーナーから仕掛けても足と体力に余裕があった。逆を言えば、それほど余力を残しても勝てる程度の相手としかトウカイテイオーはレースをしてこなかった。

 自分が全身全霊で戦わなければならない相手、それがメジロマックイーン。あのシンボリルドルフでさえ警戒している北野麻真に育てられたウマ娘であり……自分のライバルと言える相手。

 そんな相手に余力を残すことなどあり得ない。だからこそ、トウカイテイオーは苦しくても、全力で走ることをやめなかった。

 気づけば、最後の直線。視線の先にいる麻真までメジロマックイーンよりも速く走れば、自分が勝てる。それまでどんなことがあろうとも足を止めるわけにはいなかった。

 シンボリルドルフを育てた北野麻真に教えを受けたい。そして自分の目標である三冠ウマ娘になるという願いの為に、自分は勝たなくてはいけない。

 麻真の元まで、頑張れば良い。それだけで自分はあの人に教えを受けることができる。そう思って、トウカイテイオーは走る。

 しかし――それを邪魔する者は、いた。

 

 

(ッ――! この威圧感ッ!)

 

 

 強烈な威圧感がトウカイテイオーの背中に走った。

 反射的にトウカイテイオーが背後を一瞥する。

 一瞬だけ背後を見て、前を見たトウカイテイオーは更に足を酷使した。

 第四コーナーを抜けた時点で、八バ身程の距離があったはずだった。それはトウカイテイオーも自身の目で確認していた。

 まだ距離があるはずと思っていたはずだった。しかしその予想は、大きく覆された。

 

 

 

(なんでもうそこにいるの⁉︎ マックイーンッ‼︎)

 

 

 

 三バ身離れて、後ろでメジロマックイーンが鬼気迫る表情でトウカイテイオーを追い掛けていた。

 

 

 

(追いつきましたわよッ! テイオーッ‼︎)

 

 

 

 メジロマックイーンは一切速度を落とさず駆けていた。

 自身の身体でできる最善を尽くした走りを維持し続け、自分の身体で生み出せる最大速度を落とさずにメジロマックイーンは走り続けた。

 次第に距離を詰めていることに気づいていたメジロマックイーンは、察していた。自分の勝てる可能性を。

 

 

 それはトウカイテイオーが第四コーナーを抜けてから起きたことだった。

 

 

 メジロマックイーンから見て、持ち前の爆発的な加速力でトウカイテイオーが走っていたが――ふと距離が縮まっていることに彼女は気づいた。

 そこでメジロマックイーンはすぐに理解した。トウカイテイオーの状態を。

 

 

(体力を使い過ぎましたわね‼︎ 速度が落ちてますわよッ‼︎)

 

 

 第四コーナーから、トウカイテイオーが速度を落としている。

 当然の話だった。第三コーナーから全力の加速でゴールまで走り続けられるスタミナを持つウマ娘など数少ない。それこそステイヤーの名を持つウマ娘の一部だけにしか許されない行為である。

 トウカイテイオーはステイヤーではない。それ故に彼女の足が、その行為に耐え切れるわけがなかった。

 間違いなく、トウカイテイオーの速度が落ちている。対して、メジロマックイーンには、彼女にはないステイヤーとしてのスタミナがまだある。

 

 

(さぁ! 反撃して差し上げますわッ!)

(絶対に! 負けるもんかッ!)

 

 

 ゴールまで残り四百メートル。

 二人の足を止めるとこが許されない最後のラストスパートが始まった。




読了、お疲れ様です。

次回で二人の勝負、決着です(絶対に決着つけます)
色々と予想通りの展開となりつつあります。
麻真の場合は、彼なりの別の考えもあったという話です。
それも彼なりのメジロマックイーンへの信頼とも言えます。

また次回の話でお会いしましょう。それでは
感想、評価等、お待ちしてます。
頂ければ、今後の励みになります。


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11. 貴顕の使命を果たすべく

 

 

 

 最後の直線を、トウカイテイオーが駆ける。

 第三コーナーから全力で仕掛けるというトウカイテイオーの選ぶはずのない選択のしわ寄せが、彼女の身体を蝕んでいた。

 呼吸が辛い、足が重い、意識が朦朧をしてくる。しかしトウカイテイオーは走るのを止めなかった。

 

 

 

(キィッツッ――――‼)

 

 

 

 身体の限界が明らかに迫っていることを、トウカイテイオーは察していた。

 これまでのレースで、トウカイテイオーは身体をこれほどまで酷使したことはなかった。本来なら、もう足を止めていてもおかしくはない疲労感だった。

 

 

 

(ぜったいに! 足は止めないッ!)

 

 

 

 しかしトウカイテイオーは、どれだけ辛くとも足だけは止めるわけにはいかなかった。

 まだメジロマックイーンより、前をリードしている。この位置を維持し続ければ、自分は勝つことができる。それだけを心の支えにして、彼女は身体を更に酷使した。

 

 

 

(あの人にボクも教わって! カイチョーみたいになるんだからッ‼)

 

 

 

 ゴールに立つ麻真を見つめて、トウカイテイオーが内心で叫ぶ。もう呼吸と身体を動かす以外の感覚を、彼女は無意識に排除していた。辛さや疲労感など、どうでも良いと捨て去った。

 

 北野麻真という人間がトレセン学園に戻って来たという噂を聞いた時、トウカイテイオーは正直なところ興味がなかった。ただ有名なトレーナーが来たくらいにしか思っていなかった。

 

 しかし噂の北野麻真がシンボリルドルフのトレーナーだったと知り、色々な話を聞いていくにつれて、トウカイテイオーは無意識に彼への興味が湧いていた。

 そしてメジロマックイーンのトレーナーということも知り、自身の目で北野麻真の走りをトウカイテイオーが見たのをキッカケに、彼女は決心していた。

 

 

 

 この人に、自分も教わりたいと。

 

 

 

 憧れるシンボリルドルフの元トレーナーで、シンボリルドルフを三冠ウマ娘までに育てあげた実績を持ち、そして誰よりも走るのが上手い北野麻真に、自分も教わりたいとトウカイテイオーは思ってしまった。

 メジロマックイーンの練習を勝手に見ていくにつれて、トウカイテイオーのその気持ちは強くなっていた。

 綺麗な走りをする人間。自分が憧れるシンボリルドルフよりも更に綺麗な走りをトウカイテイオーは見たことがなかった。全てがウマ娘の理想と言える、そんな走りだった。

 北野麻真がウマ娘と同等に走れることに疑問を抱くことはあったが、それは些細なことだとトウカイテイオーも思っていた。ただ、この人は自分を誰よりも強くしてくれる。その確信が彼女にはあった。

 あんな風に走ってみたい。速く、そして綺麗に、見ている人が感動するような走りを、自分もしてみたい。そんな気持ちが、トウカイテイオーに芽生えていた。

 

 

 

(勝つッ! ぜったいに勝つッ! マックイーンに勝ってやるッ‼)

 

 

 

 それが手に届く。あと少しの距離まで、手が届いてる。麻真の元に、メジロマックイーンよりも先に辿り着けば、それが手に入る。

 

 

 

「――マックイーンッッッ‼」

 

 

 

 それがトウカイテイオーの決死の咆哮だった。

 前傾姿勢の身体を更に前に倒して、トウカイテイオーは地面を強く踏み締めた。

 そして無意識に、トウカイテイオーは記憶の中の“あの走り”を真似ていた。

 その記憶は、北野麻真とシンボリルドルフのレース。北野麻真が見せた可動域限界までの前傾姿勢を維持して走る姿を。

 自分の身体の可動域を限界まで使った前傾姿勢のまま、足を最大限に酷使する。太腿、ふくらはぎが限界と悲鳴をあげているが、それすらトウカイテイオーには聞こえていなかった。

 限界まで前傾に身体を倒して、足を踏み締める。力を込めるとふくらはぎに鋭い痛みが走ったが、それでもトウカイテイオーは強く地面を蹴り出した。

 その行為の結果。それは明らかに――トウカイテイオーが無意識で限界を超えた加速をした瞬間だった。

 

 

 

 

(落ちないッ⁉ 速度が落ちてないですわッ⁉)

 

 

 

 

 前方を走るトウカイテイオーを追い掛けながら、メジロマックイーンが驚愕する。

 トウカイテイオーとメジロマックイーンの距離は三バ身から二バ身に縮んだ。しかし、それ以上の距離が縮まなかった。

 前を走るトウカイテイオーの横顔がメジロマックイーンから見える。必死に前だけを見据える鋭い表情で、トウカイテイオーがゴールへと駆けている。

 トウカイテイオーは、既に限界である。それはメジロマックイーンから見ても、一目瞭然だった。

 本来、トウカイテイオーはレース終盤で速度を落とすことはあり得ない。それは今まで彼女のレース、及び彼女の走りを見てきたメジロマックイーンだからこそ分かることだった。

 第三コーナーから仕掛けて、トウカイテイオーは体力を使い果たしている。その証明が、第四コーナー以降からの減速だった。故に、彼女には既に残しているスタミナなどあるわけがない。

 最後の意地で、トウカイテイオーが今まで見せたことのない根性だけで走っている。それをメジロマックイーンは痛感した。

 負けたくない。そのトウカイテイオーの意思が嫌でも分かるほど、メジロマックイーンの目に彼女の走りが鮮烈に映っていた。

 

 

 

(貴女はそこまでして麻真さんに――ッ‼)

 

 

 

 鬼気迫るトウカイテイオーの表情に、メジロマックイーンが全身の鳥肌を立てる。

 まるで減速していない。それどころか更に身体を前傾に倒して、加速すら試みている。

 

 

――まさか、自分が負ける?

 

 

 その思考がメジロマックイーンの脳裏を過ぎったが、すぐに彼女は一蹴した。

 トウカイテイオーが北野麻真に教わりたい。彼女の意思は、メジロマックイーンも痛感した。

 その気持ちはメジロマックイーンも理解できた。自分もトウカイテイオーと立場が同じなら、同じことをしている自信があった。

 

 

 

(負けたくないのは――私もですのッ‼)

 

 

 

 故に、だからこそ、メジロマックイーンは負けるわけにはいかなかった。

 北野麻真に教わっている自分が、教わっていないトウカイテイオーに負けるなど――あってはならない。

 そして自分の悲願を果たすために、最強のウマ娘を体現するために、負けることなど許される訳がない。

 

 

 

(私は、まだ走れます! 諦めませんわッ!)

 

 

 

 体力はある。足も生きている。走る意思も、折れていない。それならば、メジロマックイーンができることはひとつしかない。

 

 自身の身体を最大限に使った走りを、あの人に見せるだけ。

 

 そしてメジロマックイーンも、無意識に思い出した。先日の麻真との練習で、彼が珍しく罵声をあげたことを。

 

 

 

『――加速足りてねぇぞ‼︎ 全力で走れッ‼︎』

 

 

 

 ゴールまで、残り二百メートル。最後の全力をメジロマックイーンは行った。

 加速が足りていなければ、更に限界まで身体を酷使するだけ。加速が足りないと思っているのは、自分の意思がそうさせているだけなのだから。

 麻真が言っていたように、彼が自分の走りが足りていないと言うのなら、それは自分がまだ全力を出し切れていないということ。

 身体を更に前傾姿勢へと倒し、足の回転を早くする意識を強く持ち、そして地面を踏む足へ更に強く力を込める。

 自分の全てを出し切る。自分に挑む最大敵となるウマ娘に向けて、自分ができることを吐き出す。

 最強のウマ娘になる自分の目標の為に、栄誉たる盾を独占するメジロ家の宿願の為に――自分は強敵と言えるウマ娘に勝つ。

 

 

 

「――テイオーッッッ‼」

 

 

 

 自身の決意の為――貴顕の使命を果たすべく。メジロマックイーンは全力を以て、トウカイテイオーを差す。それだけを考えて、彼女は全てを吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……誤算だったな」

 

 

 

 トウカイテイオーの走りを見て、麻真が感嘆の声を漏らした。

 麻真の知っていたトウカイテイオーの走りが、最後の最後で変化した。

 最後に変化したトウカイテイオーの走りを、麻真が苦笑いしながら見届ける。

 自分の足を自壊させる走りなのは変わらないが、トウカイテイオーが最後に見せている走りを麻真は知らない訳がない。

 その走りは僅かしか似てないが、それは紛れもなく麻真がシンボリルドルフとのレースで見せた加速のフォームなのだから。

 

 

 

「トウカイテイオーには感謝してやるか。ここで俺の心配だったマックイーンの心が育つなんて……少しくらいは、アイツに報いても良いかもしれないな」

 

 

 

 そしてトウカイテイオーを追う為に、メジロマックイーンの最後の全力疾走を見て、麻真は笑っていた。

 自分自身だけでは決して辿り着けない。他者との競争の中でしか至れないとされるウマ娘の全力の境地の一端に、メジロマックイーンが僅かに至ったことを麻真は察していた。

 

 

 

「俺が前に発破掛けた時に一瞬見えたが、少しまた良くなって来てる」

 

 

 

 今まで見たことのない綺麗なフォームで走るメジロマックイーンを見て、麻真は感心していた。

 先程まで無意識に出ていたメジロマックイーンの走る様々な癖が、麻真から見る限り“今だけ”殆ど無くなっている。

 自分が全てを出し切ると心の底から決め、相手に勝ちたいという意思だけで走る先に訪れる境地に、メジロマックイーンは僅かに触れている。

 メジロマックイーンが今後、それを意識的に行うのは現時点では不可能だろう。彼女が自身の最高の形を出せる結果を生んだのは、間違いなくトウカイテイオーの存在があったからだ。

 

 

 

「自分が負けたくないなんて思える奴なんて……そんなのライバルだけだ。マックイーン」

 

 

 

 そんな存在をライバルと呼ばずに、なんと呼ぶのだろうか。

 

 

 

「トウカイテイオーが強くなれば、その分だけマックイーンも強くなるか……ほんの少しだけ、考えるのも悪くなさそうだ」

 

 

 

 そのメジロマックイーンの走りを見て、麻真は楽しそうに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 残り二百メートルを切って、二人の距離は僅かに変化した。

 先頭を走るトウカイテイオーに、メジロマックイーンが少しずつ迫っていた。

 二バ身から一バ身半、そして百五十メートルの時点で一馬身まで縮まった。

 

 

 

「はぁぁぁぁっっッ‼」

 

 

 

 メジロマックイーンが無意識に咆哮をあげた。彼女を知る者にはあり得ないとされる叫び声をあげて、最後の根性でゴールを目指す。

 残り、百メートル。二人の距離は、遂に半バ身まで縮まった。

 トウカイテイオーが視界の隅に微かに見えたメジロマックイーンの姿に瞠目する。だが、彼女もここで折れるわけにはいかなかった。

 

 

 

「あぁぁぁぁっっッ‼」

 

 

 

 トウカイテイオーが最後の咆哮を発する。身体の限界を超えても、自身を鼓舞するように叫びながら走った。

 残り、五十メートル。メジロマックイーンがトウカイテイオーに並んだ。

 

 しかしもうここに至って、二人は相手のことを見ていなかった。いや、見えなかったというのが正しい。

 

 自分の全力を以て、先にゴールする。その意思だけで、使い果たした身体を更に使い切ろうと、根性だけで二人は足を動かす。

 必死の表情で走る二人を、麻真が真剣な表情で見届ける。

 そして二人が全力を出し切って――麻真の前を駆け抜けた。

 

 

 

「ゴール、二人とも良い走りだった」

 

 

 

 目の前を走り抜けた二人に、麻真が忖度のない言葉を告げる。

 そして、麻真の目はしっかりとゴールの瞬間を見届けていた。

 映像判定が必要な程の僅差だと、ゴールする瞬間まで麻真は思っていたが――ゴールの瞬間、レースの結果は明白だった。

 麻真は、はっきりと見ていた。それは、遠くで見ていたシンボリルドルフ達も分かる範疇だと。

 

 

 

「マックイーン。やればできるじゃないか」

 

 

 

 ゴールして、少し先の芝生でトウカイテイオーとメジロマックイーンが揃って倒れているのを、麻真が笑みを浮かべて見届ける。

 ゴールの瞬間、麻真がはっきりと見たのは――メジロマックイーンが頭ひとつ分だけ、トウカイテイオーより先にゴールを走っている姿だった。




読了、お疲れ様です。

今回で、レース決着です。
圧倒的な勝敗にならなかったのは、このレースでトウカイテイオーも成長したのだと思ってください。

今回はトウカイテイオーとメジロマックイーンがこのレースで互いに一歩前に進む勝負、そんな話でした。
トウカイテイオーは無意識に麻真の真似をして走りの根本的な大切な点に触れ、意地と根性だけである意味では成長しました。ジュニア級では、この状態の彼女に一人を除いて勝てるウマ娘はいないでしょう。
メジロマックイーンはこのトウカイテイオーとの勝負を経て、至りました。麻真も予想外だった変化ですね。
固有スキルの発現です。そして少しだけ、とある可能性を提示しています。
※シンデレラグレイを読んでる方なら、きっと分かるかと思います。ヒントは白い稲妻と伝えておきます

あと一話か二話で、Chapter4を終えるつもりです。
それでは、次回でまたお会いしましょう。

感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ、作者はまた頑張れます。


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12. 課題は残った

 気付くとレースが終わり、芝生に倒れていた。それが二人の認識だった。

 トウカイテイオーとメジロマックイーンの二人は、残り百メートルの地点からゴールへ向けて限界を絞り出すラストスパートを仕掛けた瞬間までの記憶はあったが、その先の記憶がはっきりとしていなかった。

 いつの間にかラストスパートした後、自分はゴールしていた。その程度の認識しか二人はできてなかった。

 

 

 

「はぁ……! はぁ……っ‼︎」

 

 

 

 全力で身体が酸素を求めているらしい。仰向けに倒れていたトウカイテイオーは芝生の感触を全身で感じ、そして深く呼吸をしながら、身体の力を抜いていた。

 身体全体。主に足から、未だかつてない程の疲労感をトウカイテイオーは感じていた。最早、指の先すら動かしたくないと彼女は身動きひとつせず、芝生の上で倒れていた。

 

 

 

「はぁっ……! はぁぁっ……‼︎」

 

 

 

 深呼吸を繰り返して、メジロマックイーンも仰向けに倒れていた。

 全身から感じる疲労感。残していた体力も使い果たした。いや、使い果たして、そして更に残り滓も残らず絞り出した後のような感覚すらあった。

 そんな無茶を通した代償なのだろう。もう呼吸以外の動作などできるわけがない。メジロマックイーンはそう思いながら、呼吸に使う口だけを動かして必死に酸素を身体に取り入れていた。

 

 

 

「お疲れ。二人とも」

 

 

 

 そんな二人に、スポーツ飲料を手に二本持った麻真が歩み寄った。彼に声を掛けられて、思わず二人が上半身を起き上がらせようと試みるが、その動作を身体が拒絶したようにパタリと芝生に倒れていた。

 

 

 

「動くな。全く、ここまでやるとは思わなかったぞ」

「マックイーンが……」

「テイオーが……」

「まだ張り合ってんのかよ……」

 

 

 

 倒れながらも互いに張り合う二人を見て、麻真が思わず顔を引き攣らせる。

 

 

 

「マックイーン、少しそこで休んでろ。呼吸は深く、ゆっくりと、焦って早く呼吸するなよ」

「わかりましたわ。ところで結果は……?」

「それは後で言う。今は落ち着くまで休んでおけ」

 

 

 

 そうメジロマックイーンに話して麻真は深い溜息を吐きながら、徐にトウカイテイオーへと歩み寄っていた。

 

 

 

「身体が動くようになったら、必ずこれちゃんと飲めよ?」

「はーい……」

 

 

 

 倒れるトウカイテイオーの頭の横に麻真がスポーツ飲料を一本置き、そして足元にしゃがむと彼は彼女の足を凝視していた。

 

 

 

「おい、ガキンチョ。足、触るぞ?」

 

 

 

 唐突に、麻真がそうトウカイテイオーに訊いていた。

 

 

 

「ボクになにする気……まさか疲れて何もできないボクに変なことする気なの……?」

「次にまたふざけたこと言ったら、二度とお前の相手しないからな?」

 

 

 

 顔だけを麻真に向けて、トウカイテイオーが麻真に僅かに嫌悪の目を向ける。しかし麻真は彼女に呆れ果てた表情を見せて、冷たく答えていた。

 麻真の真剣な声を聞いて、トウカイテイオーも彼が何か意図があって話していると察したのだろう。彼女は怪訝な顔を見せながら、小さく口を尖らせていた。

 

 

 

「ご自由に」

「ああ、好きにする。質問するから素直に答えろ」

 

 

 

 トウカイテイオーの返事を聞いて、麻真はそう言いながら彼女の足を触っていた。

 まず麻真が壊れやすい物を触るような手つきで、トウカイテイオーの足首を触っていた。左右に僅かに動かし、回したりなど様々な動かし方を行っていた。

 

 

 

「痛むか?」

「ううん。くすぐったいくらい」

「そうか、ここは問題ないか」

 

 

 

 トウカイテイオーの両足首を触って、麻真が安堵の表情を見せる。

 その後、麻真がふくらはぎに手を添えた。その手つきは足首とは比べ物にならないほど恐る恐ると優しい動作だった。

 トウカイテイオーのふくらはぎを下からゆっくりと触っていく。時折、触っている部分を指圧で押したりなどして、麻真がふくはらぎ全体を触る。

 

 

 

「ねぇ、くすぐったいよ」

「……痛まないのか?」

「全然、なんでそんなこと聞くの?」

 

 

 

 驚いた表情を見せていた麻真に、トウカイテイオーが首を傾げる。

 しかし麻真は真剣な表情を見せると、続いてトウカイテイオーの太腿を触っていた。

 

 

 

「本当に、痛まないのか?」

 

 

 

 一通りトウカイテイオーの足を触って、彼女が表情を一切変えないことに麻真は僅かに困惑したように眉を寄せていた。

 

 

 

「さっきから足触って変なこと訊かないでよ……どうしたの?」

「ラストスパートの最後、足が痛まなかったか?」

「ちょっとはふくらはぎに違和感あるけど……そんなに痛いとか思わないよ?」

「本当に、痛くないのか?」

 

 

 怪訝な表情のトウカイテイオーに、麻真が静かに訊いていた。

 先程から麻真がトウカイテイオーの足を触っていたのは、彼から見て彼女の走りが限界を通り越した走りだったと察してのことだった。

 特に最後の二百メートル地点から走り方を変えた以降、トウカイテイオーは自身の足に限界まで負荷を加える加速を行っていた。

 あまりにも度外視したトウカイテイオーの足の使い方に流石の麻真も足の不調を起こすと懸念していたが、彼の予想とは正反対に彼女の足には痙攣などの目立った問題が見えなかった。

 仮に骨に異常がないのなら、おそらくは過負荷を筋肉に与えた代償として明日か今日の夜から強烈な筋肉痛が起きることを麻真は密かに予想していた。

 もし明日以降に足の不調が見えるなら、それなりの対応をしなくてはならないと麻真は内心で思い、一人頷いた。

 

 

 

「ゴール前くらいからあんまり覚えてないんだよね。でも……」

 

 

 

 麻真に訊かれて、トウカイテイオーが僅かに言い淀む。その問いの答えを、彼女は持ち合わせていなかった。

 それもそのはず、トウカイテイオーにはラストスパート以降の記憶が曖昧だった。

 ふと、トウカイテイオーが眉を寄せて思い出そうと試みる。

 そしておぼろげに薄れていた記憶の中で、トウカイテイオーは感じていたことを口にした。

 

 

 

「最後のラストスパートの時、今までで一番速く走れた気がする。誰かに背中を押されたみたいに、フワッて」

 

 

 

 感覚でしか覚えていなかったが、トウカイテイオーはそう思っていた。

 最後のラストスパート。無意識に全力で走ったあの瞬間、今までで一番速く走れていた気がした。

 身体を限界まで使った走り、今までで一番の走りができたとトウカイテイオーは思っていた。

 

 

 

「そりゃそうだ。お前、俺の走り方で走ってたぞ」

「えっ……?」

 

 

 

 麻真の返答に、トウカイテイオーが呆気に取られた。

 その反応に麻真も気づいたのだろう。彼は小さく苦笑していた。

 

 

 

「最後のお前の走り方は、俺がルドルフと走った時に使った走り方だ。見た目しか似てない中途半端な走り方だったけどな」

 

 

 

 どこか小馬鹿にしたような口調で、麻真が話す。

 トウカイテイオーはそう言われても、実感がなかった。自分が麻真の真似をして走った気など微塵もなかったのだから。

 しかし麻真にそう言われて、トウカイテイオーは何となく察していた。

 自分が今までよりも速く走れた気がしたのは、麻真の走り方のおかげなのだと。彼が見た目しか似てない走りと言っていた以上は、そのフォームの本来の力は出ていないはずである。

 だが、そのフォームの力の一端を身をもって知れただけ僥倖だとトウカイテイオーは思っていた。あの時の感覚が、麻真の感じている世界。そしてメジロマックイーンが感じている世界の一端なのだと。

 

 

 

「そういえばさ。ボクとマックイーン、どっちが勝ったの?」

 

 

 

 おぼろげなあのラストスパートの感覚を思い出しながら、トウカイテイオーはふと思い出したように訊いていた。

 勝負の最後の瞬間を覚えていない。自分とメジロマックイーンのどちらが勝ったのか、トウカイテイオーは知らずにいた。

 

 

 

「ああ、お前とマックイーンの勝敗か……」

 

 

 

 トウカイテイオーの足を触っていた麻真が立ち上がる。今度はメジロマックイーンの方に向かって、彼が背を向けた。

 麻真の背中を見ながら、トウカイテイオーが彼の言葉の続きを待つ。

 

 

 

「頭ひとつ差で、マックイーンが勝った」

 

 

 

 そして麻真から伝えられた勝敗の結果に、トウカイテイオーは静かに麻真から視線を外すと――空を見上げていた。

 負けてしまった。無敗を志した自分が、負けてしまった。今まで校内のレースでは、負けたことはなかったのに。

 トウカイテイオーの目が次第に熱くなっていく。何かが目からこぼれたような気がした。

 

 

 

「前半の足に力を入れ過ぎ。身体が柔らかいからって必要ないところも身体の可動域を全開で使うのが癖になってる。中盤から身体に負担を掛けるから後半で残せたはずのスタミナと筋力を浪費しやすい。足の力を無駄に入れる癖があるから足を痛めやすい。最後も、過負荷を掛けるから力が逃げて速く走れる力を無駄に使ってる」

 

 

 

 麻真から、唐突に怒涛の如く言葉攻めをトウカイテイオーが受ける。

 至らない点が多いと言われているようで、無意識にトウカイテイオーの表情が歪んでいた。目から、とめどなく涙が溢れていた。

 動かない左腕を無理矢理動かして、トウカイテイオーが自分の目に腕を添える。汗で濡れたジャージでも、涙くらいは拭ってくれていた。

 

 

 

「だが、最後のラストスパートだけ。そこだけは下手くそだったが小指の先くらいは見れた」

 

 

 

 そんなトウカイテイオーに麻真が背を向けたまま、伝えていた。

 

 

 

「俺からの条件だ。俺以外のチームに入ってから、俺のところに来い。それをしてくれば、助言くらいならしてやる」

「……ほんとに? そうしたらボクの走り方、ほんとうに見てくれるの?」

「俺に見られても良いって言うトレーナーを見つけたらな」

「……ボクが次にマックイーンと勝負して勝ったら、ボクのトレーナーになってくれる?」

「勝てたらな」

 

 

 

 そう答えて、麻真は嗚咽を漏らすトウカイテイオーから離れていた。

 麻真の歩く音が遠くなっていく。それを聞きながら、トウカイテイオーは我慢できない嗚咽をひたすらに漏らしながら泣いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マックイーン、足の調子はどうだ?」

「もう動きたくありませんわ……」

 

 

 

 メジロマックイーンの疲れ果てた声を聞きながら、麻真は苦笑して彼女の足を触っていた。

 何度も慣れたことだとメジロマックイーンは聞きもせずに足を触る麻真を特に咎めることもなかった。

 

 

 

「正直に答えろ。足は傷むか?」

「ほんの少しだけ、右のふくはらぎが痛みますわ」

「骨か? 筋肉か?」

「筋肉、だと思いますわ。使い過ぎて痙攣したと思います」

 

 

 

 筋肉が痙攣している感覚が右足のふくはらぎにあった。

 筋肉を過剰に酷使した際に起こる症状のひとつとして、筋肉の痙攣が起こることがある。その原因の大きな要因は、多量の発汗により生じた脱水や電解質異常によるものである。また他に極度の緊張によって、脳の反応から無意識に起こる筋肉の収縮などから起こるとされている。

 麻真はそれを聞くと、すぐに横に置いていた飲料をメジロマックイーンの手に握らせていた。

 

 

 

「それを慌てずに飲め。後、軽く足をマッサージするぞ」

「よろしくお願いします」

「身体が起き上がらないなら、マッサージした後に飲ませる」

「……子供ではないので自分でやります」

 

 

 

 麻真に飲み物を飲ませられている光景を想像したのか、メジロマックイーンが顔を強張らせる。そこまでされるのは、流石に恥ずかしいと思ってしまった。

 呼吸が落ち着いて、倦怠感はあれど身体を動かせると判断してメジロマックイーンは上半身を起き上がらせていた。

 麻真が自分の右足のふくはらぎをマッサージしているのを見届けながら、メジロマックイーンは渡されたスポーツ飲料を口に添えていた。

 焦らず、ゆっくりと、メジロマックイーンは水分を摂取していた。枯渇した水分が戻っていくような感覚が、とてつもなく心地良いと感じてしまう。

 

 

 

「それで、麻真さん。どっちが勝ちましたの?」

「頭ひとつ差でお前が勝った」

 

 

 

 即答だった。麻真に即座に答えられて、メジロマックイーンは反応に困った。

 しかし自分がトウカイテイオーに勝てたことに、メジロマックイーンは安堵していた。

 

 

 

「正直、どうだった? 今までの練習に意味はあったと感じたか?」

 

 

 

 マッサージを続けながら、麻真がメジロマックイーンに徐に訊く。

 トウカイテイオーに勝負で勝ったことに喜ぶ表情を見せないことから、麻真は自分が勝つことを疑っていなかったのだとメジロマックイーンは察した。

 だが、勝ったのだからそれなりの反応を見せても良いのではないかと不満そうに眉を寄せながらメジロマックイーンは答えていた。

 

 

 

「ありました。決して、あなたの指導は間違いではなかったと」

「走って感じたこと、言えるか?」

「身体全体、特に足の動かし方が分かりました。力の入れ方も、あの蹄鉄靴のおかげで。今までの筋トレも、意味があるものと理解しましたわ」

「及第点だな。まぁ、それが分かれば十分」

 

 

 

 渋々と麻真が納得して、頷いた。

 しかしメジロマックイーンは面白くないと口を尖らせていた。

 

 

 

「正解の答えを教えていただきたいですわ」

「それは自分で見つけてみろ。俺は教えない」

「甲斐性のない殿方ですわ……まったく」

 

 

 

 失笑して、メジロマックイーンが麻真を半目で見つめていた。

 

 

 

「覚えているか知らないが、最後のラストスパートの時……お前、なにか見えたか?」

 

 

 

 ふと、唐突に麻真がそんなことをメジロマックイーンに訊いていた。

 質問の意味が分からず、メジロマックイーンが首を傾げるが麻真の話していた内容を反芻した。

 ラストスパートの時に、何が見えたか。それをおぼろげな記憶の中でメジロマックイーンが思考した。

 

 

 

「あまり覚えてませんが……今までで一番綺麗に走れた気がしました。身体が風で押されたような感覚で、走る道が見えたような感覚でしたわ」

「そうか……」

「それに何かありまして?」

「いや、全力で走れたのなら良かったと思っただけだ」

 

 

 

 明らかにはぐらかされた。メジロマックイーンはそう思った。問い詰めるべきかと思ったが、渋々と彼女はそれを諦めていた。

 麻真の性格を理解しつつあるメジロマックイーンも、このような時は彼はどれだけ問い詰めても答えを言わないことを彼女も理解していた故だった。

 

 

 

「だが、勝てたと言えど……課題は残った」

「……はい?」

 

 

 

 麻真の言葉を聞いて、メジロマックイーンに嫌な予感が走った。無意識に背中に冷たい汗が流れるような錯覚を覚える。

 

 

 

「ある程度形にはなったが、全体的にまだまだ調整しないと駄目だな。各ハロン毎の速度の向上、加速に掛かる時間の短縮、身体能力向上によるフォームの矯正――」

「聞きたくありません! もうやめてください!」

 

 

 

 麻真の声を遮って、メジロマックイーンが頭を抱えていた。

 そして予期する。たった今、麻真の口した数々の問題点を修正する為に、彼は自分にどんな練習を考えるのだろうかと。

 片方に三十キロの重りを仕込んだ蹄鉄靴を用意するようなトレーナーである。そんな人間がどんな練習を考えるかと思うとメジロマックイーンはそれが効率が良いと分かっていても、今は聞きたくはなかった。

 しかし麻真はそんなメジロマックイーンを無視して、無慈悲に話を続けていた。

 

 

 

「それにお前には、今以上に知識がいる」

「……知識ですか?」

 

 

 

 意表の突くことを言われて、メジロマックイーンの耳がピクリを動いた。

 

 

 

「厳密に言えば技術の範疇だがな。細かいことを教えていく」

「……例えば?」

「さっきの勝負で、トウカイテイオーがお前の背後に張り付いていた理由は分かるか?」

「いえ、分かりませんわ」

 

 

 

 麻真の問いに、メジロマックイーンは素直に答えた。

 

 

 

「スリップストリーム、相手を抜く技術だ。事前に知っていれば、心を乱されないし対処も考えられる」

「つまりはレース中に冷静でいる為の知識を覚えろと?」

「そういうことだ。それに加えてレースの戦略とかも教えてやる」

「ある程度のことは学んでいますわ」

「常識の範疇、以外のことだ。本に書いてることだけ鵜呑みにするのは減点だ」

 

 

 

 諭すような麻真の口調に、メジロマックイーンがまた眉を寄せた。

 しかし麻真の語るそれがどのようなモノか想像できず、メジロマックイーンは不満な表情を見せることしかできなかった。

 

 

 

「まぁ、それは今後の話だ。とりあえず、メイクデビューに向けての良い練習にはなったから今は考えなくて良い」

 

 

 

 麻真に言われて、メジロマックイーンはハッと思い出した。

 気づけば、自分のメイクデビュー戦は二日後まで迫っていた。

 

 

 

「もうメイクデビュー戦でしたわね。明日も練習しませんと……」

 

 

 

 明後日のメイクデビュー戦に向けて、メジロマックイーンがやる気を見せる。

 しかし麻真は呆気に取られた顔を見せながら、メジロマックイーンに向けて言い放っていた。

 

 

 

「なに言ってんだ? 明日はほぼ休みだぞ?」

「……はい?」

 

 

 

 今、意味の分からないことを麻真が口走ったとメジロマックイーンは思った。反射的に訊き返してしまうほど、彼女は麻真の言葉を理解できなかった。

 

 

 

「レース前日に全力で練習させる奴がいるかっての。レースに備えて明日は休み。やるのはフォームの最終確認だけ」

「嫌です」

 

 

 

 再度、麻真が伝えた言葉に、メジロマックイーンは即答した。

 

 

 

「駄目だ。走らせない」

「嫌です。最後まで練習します」

「もし明日の休みに隠れて全力で走る練習したら、走るの禁止で基礎トレ半年と公式レース出場禁止。それでも良いならやれ」

「……は、半年?」

 

 

 

 暴挙とも言える麻真の発言を、メジロマックイーンはあり得ないと目を大きくして驚愕した。

 

 

 

「あの基礎トレを半年……? 走るの禁止で?」

「勿論、その期間中に破ったら回数毎に一か月加算する」

「なんて人ですの……!?」

 

 

 

 口に手を添えて、メジロマックイーンが表情を強張らせた。

 しかし麻真の口から出た以上、彼は本気でやりかねない。メジロマックイーンの脳裏に過ぎったのは、あの辛い基礎トレーニングの日々だった。

 あんなに辛かった日々が半年も続く。それがたったの一日練習しただけで、とんでもない代償である。

 

 

 

「わ……わかりました」

「聞き分けの良いウマ娘だ。頭を撫でてやる」

 

 

 

 麻真に頭を撫でられながら、メジロマックイーンが悔しそうに歯を食いしばる。そして苦渋の選択と言いたげに麻真を恨めしく睨みながら、彼女は頷いていた。




読了、お疲れ様です。

レースが終わり、そして二人に麻真が話す話です。
トウカイテイオーに麻真が色々と諭す部分ですね。
今後の彼女の立ち位置にも関わる話です。
メジロマックイーンに関しては、麻真から有難い今後の課題。
そんなお話でした。

次で、Chapter4を終えたい予定です。
それではまた次回にお会いしましょう。

感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ、今後の励みになります。


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13.ボクだけの実力で

 

 

 

 

 

 トウカイテイオーとメジロマックイーンの勝負をコースの外側で見届けていた東条ハナは眉を寄せながら、静かに震えていた。

 

 

 

「……来年からは、荒れそうだ」

「ええ、間違いなく」

 

 

 

 思わず頭を抱えて呟いたハナに、シンボリルドルフが頷く。

 ハナは小さな溜息を吐くと、持っていたタブレット端末を手慣れた手つきで操作していた。

 ハナが持つタブレット端末の画面に映るのは、過去に行われた新入生レースなどから彼女が個人的に集めたトウカイテイオーとメジロマックイーンの能力データだった。

 タブレット端末の画面上に記載されていた二人の能力データを、ハナが指を走らせて書き換えていく。そのデータの能力内容は大きく上方修正され、画面に映る注意事項の欄には“要注意”と打ち込みを行っていた。

 

 

 

「……このレースを見る限り、トウカイテイオーの今後の成長が恐ろしいな。北野が言っていた足の不安があるが、それでも来年から彼女がトゥインクル・シリーズで頭角を現すのは間違いないだろう」

「テイオーは私から見ても速いウマ娘です。あの子なら、問題なく練習を積めば強くなります。トレーナーの言う通り、来年のシリーズは荒れるでしょうね」

 

 

 

 彼女の足に何も起きなければ――そう最後に呟いたシンボリルドルフの返事を聞いて、ハナが先程のレースを脳内で思い返す。

 トウカイテイオーはハナから見て、レースが始まるまでは概ねデータ通りの能力のウマ娘と思っていた。

 瞬発力に優れた筋肉と柔軟性のある足から生み出される加速力を持ち味にしたウマ娘。それに加えて全ての能力が、新入生のウマ娘の中でトップクラスの実力を持っている。そしてレースセンスもズバ抜けて高いことも評価できる点だとハナは判断していた。

 今回のレースで第三コーナーに入った瞬間から仕掛けるという博打行為をしたのにも関わらず、最後の直線を速度を落とさずに、むしろ加速して走り切れた身体能力と根性も大きな加点となるだろう。

 それを考えば、トウカイテイオーというウマ娘がトゥインクル・シリーズで世間に名を広めることになるのも不自然ではない。むしろ当然のことだと、ハナには思えた。

 それだけなら、まだ良かった。しかし今回のレースの終盤を見て、ハナはトウカイテイオーの認識を改めなければならないと実感していた。

 

 

 

「……だろうな。だがよりにもよって、まさかトウカイテイオーが最後にアイツの走り方をするとは……おそらく見様見真似だとは思うが、それでもあそこから更に加速力が上がったのは私も予想外だった」

「あの状況なら、私もテイオーが意図して行ったとは思えませんよ。きっと無意識でしょう。テイオーは麻真さんに一度も教わったことはありません。しかし見ただけの走りを、完成度は低いとはいえ真似して走れるのは流石だと思います」

「お前もそう思うか……?」

「えぇ、普通はしませんから」

「……それはお前が言える台詞じゃないぞ」

 

 

 

 苦笑いするハナに、シンボリルドルフは戯けるように肩を竦めた。

 ハナにとって、レース終盤にトウカイテイオーの変化した“走り方”が問題だった。彼女も、トウカイテイオーが最後に見せた走り方を知らないわけがなかった。

 それは北野麻真が過去にシンボリルドルフとレースで走った時に見せた走り方だった。ハナには見た目だけの判断しかできず、細かい技術面を見ただけで全てを把握することはできなかったが、それでも察することはできた。

 ここでハナの問題だと思った要因は、トウカイテイオーが“走りながらフォームを無理矢理変えた”ことだった。おそらく本人すら理解していない無意識の中で行われたことだろうと彼女は推察する。

 全速で走りながら走るフォームを変えるなど、本来なら決してあり得ない行動だった。普通のウマ娘が同じ行為をすれば、間違いなく身体のバランスを崩し、転倒して大怪我をしてしまう。

 足の怪我はウマ娘にとって、走ることを失う可能性を伴う“死”を連想させるモノである。そのリスクを背負ってまで、走りながらフォームを変えるようなウマ娘などいるわけがない。

 しかしそんな無謀な行為を、トウカイテイオーは押し通した。身体の可動域を全て使い、身体を酷使する北野麻真の走りを彼女が最後の土壇場で見せた。

 意識があろうと、無意識だろうと関係ない。それができたのは、紛れもなく天性の才能だろう。トウカイテイオーの備え持った“走る”才能が、その無謀を許し、彼女に最後の加速を与えた。

 その結果、あのメジロマックイーンに“頭一つ差”という僅差で敗北していた。

 側から見れば、二人は良い勝負をした。そう見えるレースだっただろう。

 しかしハナとシンボリルドルフは、決してそう思ってはいなかった。

 

 

 

「正直なところ、ルドルフには申し訳ないが……私はトウカイテイオーがあそこまでメジロマックイーンに戦えるとは思ってなかった」

 

 

 

 仰向けに倒れ、嗚咽を漏らすトウカイテイオーを眺めながら、ハナはシンボリルドルフにそう告げていた。

 シンボリルドルフも腕で顔を隠して泣いているトウカイテイオーを見つめながら、僅かに目を伏せた。

 

 

 

「いえ……私も同じ意見でした」

「……流石にお前も、北野が育ててるメジロマックイーンには勝てないと判断したか?」

「麻真さんの手腕を知る者なら、それは当たり前です。しかし私も僅かな可能性に賭けて、テイオーに助言しました。麻真さんのあの話が本当なら、いつか足が壊れると分かっているテイオーを放っておけませんから」

「お前ならそう思うだろうな」

「えぇ、ですが……それでもテイオーがメジロマックイーンに勝つ見込みは限りなく薄いと思ったましたので……私も、この結果には正直驚いてます」

 

 

 

 シンボリルドルフの話に、ハナは素直に頷いていた。

 実際のところ、ハナはメジロマックイーンを頭一つ差まで追い詰めたトウカイテイオーを素直に評価していた。

 まだトレーナーと契約していないウマ娘でありながら、あのメジロマックイーンと真っ当に戦うことのできたトウカイテイオーの能力を見て、ハナは彼女の評価を改めざるを得なかった。

 今後のトウカイテイオーの成長が恐ろしいと感じながら、ハナが小さく肩を落とす。そして彼女は徐に視線を動かして、メジロマックイーンに目を向けた。

 心底不満そうな顔で麻真に頭を撫でられているメジロマックイーンを、ハナが見つめていた。

 

 

 

「メジロマックイーンか……改めて思うが“アレ”はまずいな。北野が見ているから“ある程度”は予想はしているつもりだったが、あんな走りをするウマ娘が入学して間もないジュニア級のウマ娘だと思うトレーナーなんて、まずいないだろう」

 

 

 

 メジロマックイーンの先程の走りを思い出して、ハナは内心で震えるしかなかった。

 北野麻真が育てているウマ娘。そしてメジロ家の長距離レースのステイヤーとして天皇賞連覇を目指すことを公言しているウマ娘――メジロマックイーン。

 そのメジロマックイーンが予想以上に成長していることが、ハナには問題だった。

 事前に調べていたハナのデータよりも、メジロマックイーンの現在の能力が信じられないほど上がっている。最早、先程のレースを見て、彼女がジュニア級の新入生とすら思えない程の走りだった。

 

 ハナから見て、先程のメジロマックイーンの走り方はとても綺麗なフォームだった。一見して、無駄のないフォームとすら思う。

 しかしハナは知っていた。自分が綺麗と判断しても、麻真はそのように思っていないことを。今以上の完成度を彼が見据えていることを理解していたからこそ、ハナは恐ろしいと感じていた。

 現状よりも先の走りがメジロマックイーンにある可能性があると思うと、今後の敵として考えれば、これほど恐ろしいと思うことはないだろう。

 

 北野麻真が育てるウマ娘は、彼の手によってその能力が大きく上げられることはハナも十分に理解していた。

 シンボリルドルフ、エアグルーヴ、タイキシャトルなど現在では名を知らぬ者がいない名ウマ娘を育てた過去の実績から、麻真のトレーナーとしての能力の高さは、トレセン学園のトレーナーの中では畏怖の対象とすら思われている。

 麻真の育てたウマ娘のほぼ全てが、トゥインクル・シリーズの最前線で活躍できる能力を身につけているのである。そんなウマ娘を育てる北野麻真を警戒しないトレーナーなどいる訳がない。麻真と交友のあるハナも、彼の育成能力は内心では認めているくらいである。

 

 

 

「間違いなく、あれは来年のクラシックから文字通りの怪物になる。あの時のお前のように」

 

 

 

 そしてハッキリと、ハナは確信した。メジロマックイーンが異常であると。

 だが元々、メジロマックイーンに才能があったのは間違いない。後に天才と言われる天性の才能を彼女は備えていた。それを麻真があまりにも異常な速度で開花させている。

 

 

 

「当たり前です。あの麻真さんが見てるんです。そんなこと……分かりきってます」

 

 

 

 それをシンボリルドルフも察していたのだろう。麻真に不貞腐れた表情を見せているメジロマックイーンを見ながら、彼女は肩を落とした。

 そしてメジロマックイーン本人も、まだその異常に気づいていないことをシンボリルドルフは理解していた。

 それもそのはず――“その感覚”はシンボリルドルフ本人も一度経験していたのだから。

 

 

 

「きっと今週末のメイクデビュー戦で、メジロマックイーンは気付きます。周りのウマ娘達と自分の違いに、そして自分が異常であることを」

「その強さにメジロマックイーンが胡座をかいて、成長が止まってくれたら助かるんだがな」

 

 

 

 来年以降のことを考えたのか、ハナが苦笑しながら愚痴をこぼす。

 しかしシンボリルドルフはそんなハナに朗らかに笑みを浮かべていた。

 

 

 

「それは無理でしょう。メジロマックイーン本人にも確固たる目標がある故に、向上心が特に強いと見えます。また麻真さんもやる気のあるウマ娘には人一倍厳しくしますから、彼女の成長が止まるとは思えません……何か間違えて仲違いでもすれば別ですが」

 

 

 

 今の麻真とメジロマックイーンを見て、それはあり得ないだろうと察してシンボリルドルフが苦笑する。

 メジロマックイーンも理解している。北野麻真が導く道に間違いがないことを。それは自分の走りが変わり、自分が強くなっていると実感していくにつれて、顕著になる。

 そしてその実感は、無意識に形を変えて信頼となる。決して、間違いではない。その気持ちを自身でも過去に感じていたからこそ、シンボリルドルフは確信していた。

 今後、メジロマックイーンと北野麻真が仲違いすることなどある訳がないと。

 

 

 

「仲違い、か……」

 

 

 

 シンボリルドルフの話を聞いて、ハナが考える仕草を見える。そうしてすぐ、彼女はふと何かを思い出したように眉を動かした。

 

 

 

「確か……お前、一度だけアイツと喧嘩したことあったな?」

「ッ……⁉︎」

 

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、シンボリルドルフは反射的に顔を引き攣らせていた。

 半目でシンボリルドルフがハナを見つめる。心なしか不快な表情を見せつつも、どこか恥ずかしげに彼女は頬を赤らめていた。

 

 

 

「……その話はやめてください。私も、あの頃はまだ幼かったんです。あの人の教えが素晴らしいと知っていても、幼かった故に一度だけ反発してしまったことは今でも恥じてるんですから」

「あの時のお前は見てて面白かったぞ。私も、お前もちゃんと歳相応の小娘なのだと実感した良い機会だったからな」

 

 

 

 そう言って顔を思い切り顰めるシンボリルドルフを見て、ハナが楽しげに頬を緩める。

 そんなハナに揶揄われていると感じたシンボリルドルフは深い溜息を吐いて、この話は終わりだと言いたげに足を動かしていた。

 

 

 

「もう良いでしょう……私はテイオーのところへ行ってきます」

 

 

 

 歩き出すシンボリルドルフの背中を見て、ハナは彼女が逃げたと察してくつくつと笑う。

 しかしそれ以上のことを追求するつもりもなかったハナは笑い終えると、頷いてシンボリルドルフに答えていた。

 

 

 

「あぁ、私も北野と軽く話してから戻る。お前はもう上がってテイオーのことを見てやれ」

「言われずとも、そうするつもりです」

 

 

 

 ハナにそう告げて、シンボリルドルフが視線の先で泣くテイオーに歩を進める。

 しかしふと、シンボリルドルフは視線をメジロマックイーンに向けていた。

 不満そうに麻真を睨みつけているところを見る限り、彼が何かメジロマックイーンの行動を制限することを告げたのだろうとシンボリルドルフが察する。

 こうして見れば、メジロマックイーンも中等部の幼い生徒にしか見えなかった。

 

 しかしシンボリルドルフは、先程のレースで気づいていた。

 

 レース終盤。最後の直線で、メジロマックイーンが一瞬だけ見せた威圧感。外から見ていたシンボリルドルフにも、十分に伝わるほどの走りを。

 それをシンボリルドルフは知らないわけがなかった。幾重にも多くの強豪のウマ娘と競い合ってきた彼女だからこそ、わかることがあった。

 メジロマックイーンが自覚すらしていない垣間見えた境地。その世界に、手を伸ばしたことを――シンボリルドルフは気づいていた。

 

 

 

「……君がこちら側に“至る”のは、早そうだ」

 

 

 

 シンボリルドルフが小さな声で、そう呟く。

 その言葉の意味を知るのは、限られたウマ娘だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「テイオー、よく頑張ったな」

 

 

 

 感情を押し殺しても、我慢できない涙と嗚咽を漏らしていたトウカイテイオーにシンボリルドルフが声を掛けた。

 シンボリルドルフが倒れるトウカイテイオーに寄り添うように片膝を地面につける。

 トウカイテイオーは近くにシンボリルドルフが来たことを察して、目を覆っていた腕で目元を勢いよく涙を拭いながら彼女へ目を向けていた。

 どうにか身体を起き上がらせようと試みるが、やはり身体が思うように動かず、トウカイテイオーは諦めて倒れたままシンボリルドルフを見上げていた。

 

 

 

「カイチョー……ボク、負けちゃった」

 

 

 

 泣き腫らした赤い目で、トウカイテイオーがそう告げる。

 シンボリルドルフはそんなトウカイテイオーの顔を見つめながら、小さく頷いていた。

 

 

 

「ちゃんと見ていたよ。確かに負けたが、君は誇って良い。麻真さんが育てているメジロマックイーンを僅差まで追い詰めたのは、紛れもなく君の実力だ」

 

 

 

 心からの本心を、シンボリルドルフが告げる。

 しかし負けたことには変わりない。シンボリルドルフの言葉でそれを再確認して、トウカイテイオーは悔しそうに顔を歪めていた。

 

 

 

「あと少し……あとほんの少しでボク、勝てたんだ」

 

 

 

 小さな声で、トウカイテイオーが呟く。

 記憶があやふやで覚えていないが、頭一つ差で負けたという事実を頼りに、トウカイテイオーが歯を噛み締めた。

 

 

 

「あぁ、もう少しだった」

 

 

 

 悔しさの滲み出るトウカイテイオーの表情を見ながら、シンボリルドルフは頷いた。それは彼女に対する忖度もない、紛れもない事実だったのだから。

 あと少しで、勝てた。しかし僅かな差が、遠かった。その悔しさをトウカイテイオーが噛み締めながら、彼女は空を見上げていた。

 顔を歪めるトウカイテイオーを見つめながら、シンボリルドルフが目を伏せる。しかし僅かな間を空けて、彼女は口を開いた。

 

 

 

「私の最後の助言……テイオーは使わなかったんだな」

「…………」

 

 

 

 シンボリルドルフの言葉を聞いた瞬間、トウカイテイオーは彼女を見つめて口を噤んでいた。

 向けられるシンボリルドルフの視線から、逃げるようにトウカイテイオーが目を逸らす。

 

 

 

「……ラストスパートからあんまり覚えてないけど、これだけはハッキリ言える。ボクは、カイチョーから言われた最後のことはしてないよ」

 

 

 

 しかしシンボリルドルフが静かに自分の返答を待ち続けるのを察したのか、トウカイテイオーは眉を寄せながら答えていた。

 

 

 

「きっとあの時、ボクが勝つ為ならカイチョーの言われたことをすれば勝てたかもしれない。だけど……ボクにはできなかった。ううん……やろうとすら思わなかった」

 

 

 

 トウカイテイオーはシンボリルドルフの方に視線を向けることもなく、ただ空を見上げて答える。

 そしてトウカイテイオーは深く深呼吸を一度だけして、口を開いた。

 

 

 

「――マックイーンの進路を塞ぐのは、ボクにはできないよ」

 

 

 

 それが、シンボリルドルフがトウカイテイオーに告げた最後の助言だった。

 トウカイテイオーがシンボリルドルフからレース前に伝えられた三つの助言の中で、最後のひとつ。

 

 レース終盤で、メジロマックイーンが抜けないように彼女の進路を塞ぐ。それがシンボリルドルフがトウカイテイオーに告げた最後のメジロマックイーンに勝つ為の手段だった。

 

 その行為がレースに於いて、何を意味するのかなどトウカイテイオーも知らない訳がない。

 レース中の進路妨害は、反則行為とされている。意図して行ったと判断される走行をした場合、失格や降順などの重い処分となる禁止行為のひとつである。

 しかし意図して行われなかった場合もあり、その判断が非常に難しい点から限りなく黒に近いグレーゾーンの行為とされている。故に、疑わしい行為は即座に審査員達から厳正な確認等を行われることから、トゥインクル・シリーズに出場するウマ娘ならば誰もがレース中に最も注意する点とされている。

 公式レースなら、絶対に行うはずのない行為。それをシンボリルドルフはトウカイテイオーに告げていたのだった。

 メジロマックイーンとトウカイテイオーの勝負は、公式レースではない。審査員もいない野試合である点をシンボリルドルフは突いていた。

 

 

 

『もしどうしても最後の直線で抜かれると思った時、メジロマックイーンの進路を塞ぐんだ。僅かで良い、進路にテイオーがいることを分からせる程度でも……十分にそれは効果がある』

 

 

 

 その言葉をシンボリルドルフの口から聞いた時、トウカイテイオーは耳を疑った。まさかそんな言葉が彼女から出るとは思いもしなかったからだった。

 しかしシンボリルドルフがそこまで言わせ、彼女自身もそれを行うことで“教えを受けること”ができるならするとまで言わしめたトレーナーがいる。それが北野麻真という人間。

 トウカイテイオーは、それを聞いて北野麻真がシンボリルドルフにそこまでさせるトレーナーなのだと再確認するほど、衝撃的な言葉だった。

 だが、それを理解していても……トウカイテイオーにはその選択を選ぶことはなかった。

 

 

 

「そんなことをしてマックイーンに勝っても、意味ないよ」

 

 

 

 苦笑するトウカイテイオーを見て、シンボリルドルフが目を伏せた。

 シンボリルドルフも、その行為が意味することなど十分に理解していた。だが、それでも彼女もトウカイテイオーの足に近い未来に訪れることを回避する一心で告げた言葉だった。

 その想いを知らないトウカイテイオーからすれば、反則行為をしてまで勝ちたいとは思わない。それもシンボリルドルフは同時に察していた。

 

 

 

「……すまなかった。私は、君を苦しめてしまった」

「謝らないでほしいな。カイチョーの気持ちも、分かるから」

 

 

 

 頭を下げたシンボリルドルフに、トウカイテイオーがかぶりを振るう。

 

 

 

「それに……」

 

 

 

 そう呟いて、どうにか動かせる腕を動かし、トウカイテイオーは徐に自身の顔の前で拳を作っていた。

 悔しさの思いがトウカイテイオーの疲れ果てた身体で作っていた拳に、強い力を込めていく。

 

 

 

「ボクだけの実力でマックイーンに勝たないとダメなんだ。それができないと……きっとあの人はボクを認めてくれない気がするんだ」

 

 

 

 北野麻真を自分のトレーナーにする為には、メジロマックイーンに勝たなくてはならない。しかし手段を間違えれば、彼は決して自分に振り向いてくれることはない。

 そんな確信が、トウカイテイオーにあった。そして自分のライバルと言えるメジロマックイーンに卑怯な手を使って勝つなどという行為を許せないという、彼女なりの意地もあった。

 

 

 

「……そうだろうな」

 

 

 

 トウカイテイオーの言葉の真意を理解してしまったシンボリルドルフが、苦笑いする。それは自分に対する失笑だった。

 

 

 

「テイオー、私を軽蔑してくれて構わない。もう、今回のようなことを言わないことを約束しよう」

「別に気にしてないよ……カイチョー、あの人のこと大好きなんでしょ?」

「……えっ?」

「見てれば分かるよ。エアグルーヴも、カイチョーも、みんなあの人の話をしてる時、すっごく楽しそうだもん」

 

 

 

 シンボリルドルフが惚けた顔を作る。そしてしばらくして、彼女は小さな笑みを浮かべていた。

 

 

 

「あぁ、私達は麻真さんを慕っている。テイオーも、あの人に走りを見てもらえば分かるさ」

「そうなると良いんだけどなぁ……」

 

 

 

 肩を落とすトウカイテイオーだったが、ふと彼女は思い出したように眉を上げた。

 

 

 

「そうだ……ボクが負けた時、麻真さんが言ってくれたんだ」

「……なにを言われたんだ?」

 

 

 

 その言葉に、シンボリルドルフが首を傾げる。

 トウカイテイオーはそのことを思い出しながら、少しだけ口角を上げていた。

 メジロマックイーンとのレースに負け、麻真にトレーナーになってもらう条件を満たせなかったが……それでもトウカイテイオーには願ってもない話を。

 

 

 

「ボクが麻真さん以外のチームに入った後なら、少しだけボクの練習見てくれるって……それでボクがまたレースしてマックイーンに勝てたら、ボクのトレーナーになってくれるって……」

「……そんなことを、あの人が?」

 

 

 

 シンボリルドルフが、思わず眉を寄せた。

 北野麻真という人間を少なからず知っている身としては、彼が一度決めたことを覆すことを滅多にしないことをシンボリルドルフは知っていた。

 絶対にトウカイテイオーのトレーナーにならない。そう公言していた麻真が少しでも彼女の走りを見ると言ったことに、シンボリルドルフは素直に驚いていた。

 麻真が決めたことを覆すようなモノをトウカイテイオーに見出したのか、それとも後々のメジロマックイーンの為か。それを判断しきれないシンボリルドルフだったが、少なくとも彼がトウカイテイオーの走りを見るということには変わりなかった。

 

 

 

「難しいな……それを許してくれるトレーナーは中々いないぞ?」

 

 

 

 しかしそれでも、麻真の出した条件はシンボリルドルフから見てもかなり厳しいモノだった。

 チームに所属するということは、それを管理するトレーナーと契約を結ぶことになる。

 自分の契約したウマ娘を他のトレーナーに練習を見てもらうことを容認するトレーナーなど本当に数少ない。

 トレーナーは自分の力で、担当のウマ娘をトゥインクル・シリーズで活躍させ、実績を出したいと思っている。それが自身の評価にも繋がるからだ。

 他のトレーナーに練習を見てもらい、そのウマ娘が実績を残しても自分だけの成果とは言えないと思う人間が多い。故に、大抵のトレーナーは契約したウマ娘を僅かな期間でも他のトレーナーに任せることを選ぼうとしない。

 そのことを知ってる故に、麻真の提示した条件を満たすことの難しさにシンボリルドルフはつい顔を顰めていた。

 

 

 

「心当たりはあるのか?」

 

 

 

 そして思わず、シンボリルドルフはトウカイテイオーに訊いていた。

 

 

 

「一応……聞いてみないと分からないけど」

 

 

 

 トウカイテイオーが口を尖らせながら、唸る。

 何か悩むような顔を作るトウカイテイオーを見て、シンボリルドルフが怪訝な表情を見せる。

 

 

 

「どんなチームなんだ?」

「ちょっとね。前に色々と関わることがあった変わった人達のチーム。見てて面白いなぁ、って前から思ってたんだよね。トレーナーも悪い人じゃなさそうだし」

「……? それはどのチームだ?」

 

 

 

 要領の得ないトウカイテイオーの答えに、再度シンボリルドルフが問う。

 その問いに、トウカイテイオーが口にしたチーム名をシンボリルドルフも聞いたことがあった。

 

 

――チーム・スピカ。

 

 

 シンボリルドルフの問いに――トウカイテイオーは小さな声で、そう答えていた。




読了、お疲れ様です。

今回の話は、外野から見たトウカイテイオーとメジロマックイーンについて。ハナさんの二人がヤバい、と思う話。相手にすれば、化物みたいな二人ですから敵にしたくはないです。
またシンボリルドルフから、メジロマックイーンの今後の話を少しだけ。
最後は、トウカイテイオーの今後の話です。麻真からの条件をクリアする為に、彼女も色々考えます。それに伴い、とあるチーム名を出しました。

さて、これにてChapter.4は終わりです。
次からはChapter.5になります。メイクデビュー戦などもろもろを書けたら良いなと思っている次第です。

また次回でお会いしましょう。
感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ、励みになります。


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episode.5
1.引き継いだ名前


 

 

 

 五月末。最後の週末、日曜日。

 毎月、毎週の週末になると全国の各地にあるレース会場では、ウマ娘達によるURA公式レースが行われる。

 名誉ある重賞レースなどを含め、上から下まで様々なレースを見るために、レース場にはこぞって大勢の人が集まるのは今の世間では当たり前の光景となっている。

 そんな日の日曜日。麻真とメジロマックイーンの二人も理由は一般人のようなレース観戦と違うが、彼等もレース場に向かっていた。

 今日はメジロマックイーンのデビュー戦。彼女のメイクデビュー戦が行われる日だった。

 二人の向かった場所は、阪神レース場。兵庫県にあるレース場であることから、麻真達はトレセン学園のある東京都から大きな移動が必要とする。

 朝からトレセン学園から出発して移動を始め、そしてレース場が一般開場する前に会場入りする為、麻真とメジロマックイーンは比較的早い行動を行っていた。

 

 

 

「昨日はほぼ休みにしていたのに、随分と眠そうだな」

 

 

 

 そして阪神レース場内の関係者区間の控え室にて、椅子で眠そうに小さな欠伸をしながら瞼を重たくしているメジロマックイーンに、麻真は苦笑していた。

 いつものトレセン学園の制服とは違い、既にいつでもレースに出られるようにと運動着姿へ着替えていたメジロマックイーンは、麻真に指摘されると驚いたように目を大きくした。

 

 

 

「そんなに私……眠そうにしていましたか?」

 

 

 

 阪神レース場に向かう為にいつもより早起きをすれば眠たくもなるだろう。麻真はそう思いながら、眠たそうにするメジロマックイーンを見て肩を竦めた。

 二日前のトウカイテイオーとのレース後に麻真がしっかりとメジロマックイーンの身体のメンテナンスをしたお陰で、その翌日は彼女が全身の筋肉痛を起こすだけで留まった。

 その筋肉痛も一日身体を休ませれば治るようにメジロマックイーンの身体を管理していたので、現時点で彼女の筋肉に疲労はないと麻真は判断している。

 可能性としてメジロマックイーンが昨日の休みの日に隠れて練習していることも考えられたが、麻真が知る限り彼女が練習を一切していないことは既に確認済みだった。

 加えて、今日の朝の時点でメジロマックイーンが身体の不調を訴えなかったことから、麻真は彼女の身体に異常がないと判断している。

 最初は麻真もメジロマックイーンの身体の疲れが抜けていないのかと判断したが、彼女の身体の動きに筋肉痛特有のぎこちなさもなく、疲れた様子も見られないことから“ただの寝不足”と察していた。

 

 

 

「あぁ、まぁいつもよりもかなり早く起きたんだから仕方ないだろうな」

 

 

 

 麻真に指摘されて、自分が眠たそうにしている自覚がなかったのかメジロマックイーンが不満気に口を尖らせながらも、無意識に目を優しく擦る。

 そして自分が無意識に目を擦っていたことを自覚すると、メジロマックイーンは思わず顔を顰めていた。

 

 

 

「……今日、私の出場するレースが一番最初であることが腹立たしいですわ」

「メイクデビュー戦は、大体最初の方にやるからな」

「それでもこんなに早く会場に来る必要、ありました?」

「今日行われるレース数と、それに出場するウマ娘の総数。全員が使える控え室がこの会場にあると思うなよ?」

「そんなにこの会場、狭くないと思いますが?」

「……百個を超える部屋を用意する意味ないだろ?」

 

 

 

 不満をぼやくメジロマックイーンに、麻真が今日の開催レース一覧を思い出しながら説明することにした。。

 各地のレース場のレース開催日には、その会場では原則として十二レースが開催される。

 つまり会場には、最低でも開催されるレース分のウマ娘達が集まることになる。

 その日、レースに出場するウマ娘達は会場にある控え室の総数の関係上、レース前とレース後の決められた時間しか控え室に滞在することができない。

 それに伴い、各レースに出場するウマ娘達は指定された時間にレース場に到着し、準備、そしてレース後に控え室から退室するのが基本的な流れとなる。

 ただ、例外として各レースの上位三名のウマ娘達は、それには含まれずに控え室を使用することが許されている。それはレース後にレース会場で行われる“とある行事”に参加する義務が発生することから該当のウマ娘は会場に滞在しなくてはないからである。

 そのことからレース数分の各レース上位三名分の控え室を必要として、その分の部屋が使えなくなることを考えれば、必然的に使える部屋の数も限られてくる。

 

 

 

「大抵、どこの会場も三レース分くらいの控え室しかないだろうさ。負けた奴は、すぐに帰るか一般席でレース観戦。勝った奴は、そのまま控え室に夜まで居られる。簡単な話だ」

「またそれですか……」

 

 

 

 麻真の話に、メジロマックイーンが辟易したように肩を落とした。

 麻真と出会ってから、時折彼がメジロマックイーンに話す話である。勝てば様々な特典が得られるのが、彼女のいる世界である。

 しかし負ければ、何も得られない。そういう世界だと、麻真の言いたいことはメジロマックイーンも十分に理解していた。

 

 

 

「レースの数だけ、そういうことも多いって話だ。理解くらいはしておけ」

「……そうですわね。そう言えば、私も今日のレース一覧を見ましたが、色々とレースが行われますものね」

 

 

 

 麻真に言われて、メジロマックイーンもトレセン学園から阪神レース場に向かう途中の新幹線の中で確認していたレース一覧を思い出していた。

 メイクデビュー戦から始まり、未勝利戦、一勝から三勝クラス戦、オープン特別などが本日行われるレース予定である。

 

 

 

「さっきの話になるが、お前も学園の授業や元々の知識では知ってるだろう。レースにも色々ある」

 

 

 

 そう言って、麻真はメジロマックイーンにとある話を始めた。

 基本的にデビューするウマ娘はメイクデビュー戦を始めとして、そこから出場するレースが分岐する。

 メイクデビュー戦を勝ったウマ娘は、そこから一勝クラスに上がる。そのまま勝ち進めば例外を除き、二勝クラスと三勝クラスを経由してオープン特別戦に進み、そして晴れて重賞レースへと進んでいく。

 麻真の話を聞いて、メジロマックイーンは分かってはいたが彼の話で“そのこと”を再確認すると気を引き締めるように深い深呼吸をしていた。

 

 

 

「勝たなければ……前に進めない。そういう世界なんですものね、ここは」

「そうだ。負け続ければ、永遠に未勝利クラスで終わる。そういうウマ娘も実際に多くいる」

 

 

 

 現実として、本当にそんなウマ娘は存在する。メイクデビュー戦から一度も勝つことができず、ずっと未勝利クラスに居続け、そして夢を諦めるウマ娘がいる。

 誰もが映えある道を進めるわけではない。強いウマ娘が前に進み、弱いウマ娘がその場で足踏みをする。そんな弱肉強食の世界が『トゥインクル・シリーズ』である。

 綺麗な世界と世間から思われることもあるが、実のところ完全な実力主義のような世界がメジロマックイーンのいる場所であり、これから彼女が進む険しい道なのである。

 

 

 

「勝たなければ……前に進めない」

 

 

 

 そして再度、メジロマックイーンが再確認するように呟く。膝の上で両手をぐっと力強く握り、引き攣った表情を見せる。

 先程の話によりメジロマックイーンの態度を見て、彼女の緊張感が増したことを察した麻真は溜息混じりに肩を落とした。

 

 

 

「そんなに緊張するなっての。まだレースまで時間があるんだぞ? 今から緊張してたら精神が擦り切れるからやめとけ」

「……私の初めて出場する公式レースですのよ? 緊張しない方がどうかしてますわ」

 

 

 

 メジロの名に誇りを持ち、天皇賞の栄誉たる盾を独占することを志して最強のウマ娘を目指すと言えど、やはりメジロマックイーンも今日デビュー戦を行うジュニア級。彼女もまだまだルーキーなことに変わりないことを理解しながら、麻真が思わず口角を僅かに上げる。

 誰もが通る道である。初めての公式戦、自信があれど緊張するのも当然の話だった。

 そう思いながら、麻真は緊張しているメジロマックイーンに向けてわざとらしく小バカにしたような表情を作った。

 

 

 

「また随分と弱気だな? あれだけ練習しておいて、自分が負けるとでも思ってるのか?」

 

 

 

 明らかに声色からバカにされている。麻真の言葉を聞いたメジロマックイーンは目を細めて、彼をジッと見つめていた。

 

 

 

「そんなことはありません。私はメジロのウマ娘です。最強のウマ娘を目指すのに最初のメイクデビュー戦で負けるなんてあり得ませんわ……それに……」

「……それに?」

 

 

 

 珍しく言い淀んだメジロマックイーンに、麻真が僅かに首を傾ける。

 そんな麻真に、メジロマックイーンは気恥ずかしそうに上目遣いで彼を一瞥していた。

 

 

 

「私は、あなたに育ててもらっているんです。あなたに導かれた私の走りが間違いな訳がありません。まして、それを敗北で汚すことなんて……この私が許せませんわ」

 

 

 

 二人が出会って一ケ月程度しか経っていない。しかしメジロマックイーンは麻真と出会って、見違えるように変われた自信があった。

 確実に以前の自分より強くなっている。その自覚をメジロマックイーンは確かだと確信している。そしてその走りに導いてくれた北野麻真というトレーナーに報いる為に、自分ができることなどひとつしかないと。

 

 

 

「私のこの走りが決して間違いではないことを証明するために、誰よりも速くゴールへと辿り着く。それが私のできる、私のトレーナーであるあなたへの恩返しとなるんですから」

 

 

 

 勝つこと。それがレースに出場するウマ娘ができる自身のトレーナーへの感謝の形となると、メジロマックイーンは思っていた。

 結果を残す。過程など大切なことも多いことをメジロマックイーンも理解しているが、トレーナーの実績となるのはレース結果だということも理解していたからこその考えだった。

 

 

 

「……気張り過ぎだ。そこまで気を張るなって」

 

 

 

 メジロマックイーンの思いを聞いて、麻真が苦笑する。

 思っていた以上にメジロマックイーンは自分を買っているらしいと、麻真が理解した瞬間だった。

 それはトレーナーとしては確かな信頼として受け取れるが、麻真の場合は少し違った。

 その思いが本人の予期せぬ重荷になる可能性があることを考えると、麻真は少し面倒なことになると思っていた。

 過剰な思いは、様々な方に向く。良い方にも、悪い方にも。

 結局、レースに勝つのはトレーナーではなく、ウマ娘本人なのである。極端な話、トレーナーができるのはウマ娘の本来の力を引き出すことだけでしかない。

 ウマ娘とトレーナーは一蓮托生。その言葉の意味をメジロマックイーンが理解するまで、彼女のその強い思いによって悪い結果が起きないように見ている必要があると麻真は内心で思っていた。

 

 

 

「いいえ、これはあなたに育てて頂いている私なりのケジメですわ。こればかりは譲れません」

 

 

 

 しかしそう言って、メジロマックイーンが自分の胸の前で力強く拳を握り締める。

 一蓮托生。その言葉の本当の意味をメジロマックイーンが理解するまでは、道のりが長そうだ。麻真は彼女を見ながら、小さな溜息を漏らした。

 メジロマックイーンがどれだけ気張っても、関係ない。麻真からすれば彼女のレースの結果など既に“分かり切っている”のだから。

 

 

 

「安心しろ。まだ俺も他のウマ娘のパドックを見てないが、お前は負けない。気張らず、自分の走りをすれば勝てる」

 

 

 

 穏やかな口調だったが麻真のその言葉はメジロマックイーンには、とても頼もしく聞こえた。

 レースの勝敗において勝ち負けを濁すことの多い麻真が、珍しく勝つことを断言したことにメジロマックイーンは小さな笑みを浮かべた。

 

 

 

「勿論です。必ずメジロ家の名に恥じぬ結果を出して、麻真さんが誇れる結果を出して差し上げますわ!」

「だからそう気張るなって……」

 

 

 

 相変わらず何度言っても理解していないメジロマックイーンに、麻真は呆れたように溜息を吐いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レース場ではレースが開催される前、必ず会場内で“パドック”というものが行われる。

 該当のレース前に、そのレースに出場するウマ娘の調子や状態を観客に見せる為に設けられた時間が、パドックと呼ばれている。

 どんなレースでも、観客は応援したいウマ娘を見つけようとパドックには多くの人が集まる。特に重賞レースにもなれば名のあるウマ娘を近くで見たいと思う人間も多く、レースによってはかなりの人が集まることもある。

 しかし麻真が足を運んだパドック会場では、行われるのがメイクデビュー戦ということもあり、集まった人はそこまで多くはなかった。

 麻真が歩きながら周りを見ると、純粋な観客と思われる人間が七割程度。他はタブレット端末や手帳などを開いている人間が三割程度だった。おそらく後者はトレーナー業の人間や、記者関連の人間だろうと麻真は予想した。

 

 

 

 

「あ! 麻真さん! こっちこっち!」

 

 

 

 そんな麻真がパドックをどこで見るかと会場内を見渡している時、ふと彼は声を掛けられた。

 呼ばれた方に麻真が向き、そして声の主を見ると彼は怪訝そうに眉を寄せた。

 思わず、行くのが面倒だと麻真は思った。しかしその人物が陣取っている位置がパドックを見やすい場所だと察して、彼は渋々ながら呼ばれた声の主の元へと歩いていた。

 そして声の主の元に行くと、彼はその人物を見つめながら眉を寄せていた。

 

 

 

「なんでお前がいるんだよ? ガキンチョ?」

「だからガキンチョじゃなくてトウカイテイオー!」

 

 

 

 トレセン学園の制服を着たトウカイテイオーが麻真の前に立っていた。

 

 

 

「麻真さん、やはりこちらに来たんだな?」

 

 

 

 そして麻真がトウカイテイオーに会ったと同時に、両手に自動販売機で買ったのか缶の飲料を持ったシンボリルドルフが麻真に声を掛けていた。

 予想していなかったウマ娘が目の前に現れたことに麻真が更に眉間の皺を深くした瞬間だった。

 

 

 

「……ルドルフ? なんでお前もここにいるんだよ? 特に今日は重賞レースはないんだぞ?」

 

 

 

 一般観客以外に、ウマ娘やトレーナーなどがレース会場に足を運ぶ理由は様々ある。

 主な理由は他の好敵手となるウマ娘のレースを見に行くこと。または警戒しているウマ娘の視察などである。

 シンボリルドルフのような有名なウマ娘で、更にトレセン学園の運営に携わるウマ娘ならば麻真が今いる重賞レースの開催されない日にレース場にいることはない筈だった。

 麻真の言葉の意味を察したのかシンボリルドルフは小さく笑みを浮かべて、戯けるように肩を竦めていた。

 

 

 

「麻真さんが育てているメジロマックイーンの初レースなんだ。是非とも私も見させて欲しいと思っただけだ」

 

 

 

 シンボリルドルフの答えに、麻真は内心で呆れていた。そんなことの為にわざわざ東京都から兵庫県まで足を運んだのかと。

 

 

 

「……このガキンチョは?」

「私に行きたいと懇願したから連れてきただけだ。是非ともメジロマックイーンのレースを見たいとな」

「カイチョー! それ言うのやめてよ! それと麻真さん! ボクの名前はガキンチョじゃなくてトウカイテイオー!」

 

 

 

 シンボリルドルフにレース場に来た理由を告げられて恥ずかしそうにトウカイテイオーが尻尾を激しく振るう。

 二人のレース場に赴いた理由を聞いて、麻真は思わず溜息を吐いていた。

 

 

 

「別にメイクデビュー戦くらい見に来る必要ないだろ? コレと言って面白くもないぞ?」

「それは麻真さん目線の話だ。私からすれば、今日のメジロマックイーンのレースは面白いモノになると思ってるから安心してほしいところだ」

「何を安心するんだよ……」

 

 

 

 ここまで来ている以上、帰れなど言えるわけもなく麻真は二人がいることをこれ以上指摘する気力も起きなかった。

 そこでふと、麻真がトウカイテイオーを一瞥する。平然とした立ち振る舞いをしているが、彼は思わず気になって彼女に声を掛けることにした。

 

 

 

「ところでガキンチョ。お前、筋肉痛治ったのか?」

「えっ……? 筋肉痛?」

「太腿とふくらはぎ、痛いんじゃないのか?」

 

 

 

 麻真にそう言われると、トウカイテイオーは心底驚いた顔を見せていた。

 

 

 

「……なんでボクが筋肉痛起きてるって分かったの?」

「あれだけ全力で走れば嫌でも筋肉痛にもなる。それにちゃんとしたケアをしないと後二、三日は治らないからな。どうせ、適当な柔軟しかしてないんだろ?」

 

 

 

 図星だったのだろう。トウカイテイオーが苦虫を噛み潰したように顔を顰めていた。

 トウカイテイオーのそんな表情を見て、麻真はバカにしたように失笑を向けた。

 

 

 

「ちゃんと身体のケアをできないんじゃ、まだまだマックイーンに勝つのは遠そうだ」

「むっ……! ちゃんとやるもん!」

「なら今日帰ったら柔軟とマッサージを丁寧に三十分。風呂には三十八度くらいのお湯で二十分入れ。そうすれば筋肉痛が今よりもかなりマシになるだろうさ」

 

 

 

 細かい麻真の指示の内容に、トウカイテイオーが頬を引き攣らせた。

 しかし麻真がやれと言った時点で、それが正しいことと察したトウカイテイオーは渋々ながら頷いていた。

 

 

 

「……やります」

「別に無理にやれとは言わない。やるならご自由に、だ」

 

 

 

 あくまで自分はトウカイテイオーのトレーナーではない。麻真のその言葉の意味を察したトウカイテイオーは不満そうに頬を膨らませた。

 

 

 

「ぜったいにトレーナーになってもらうまで諦めない……!」

「ご自由に、マックイーンに勝てたら考えてやる」

 

 

 

 ジッと睨んでくるトウカイテイオーを横目に麻真がけらけらと笑う。

 二人のやりとりを見て、シンボリルドルフは楽しげに笑みを見せていた。

 

 

 

「なら私もメジロマックイーンに勝てたなら、麻真さんは私のトレーナーになってくれるのかな?」

「……冗談だろ?」

「ふふっ、冗談さ……今は」

「……勘弁してくれ」

 

 

 

 頭を抱える麻真を見て、楽しそうにシンボリルドルフが笑う。

 積もり積もった昔年の仕返しはとりあえずはこれくらいにしようと、シンボリルドルフは困惑する麻真を見ながらひとまず満足していた。

 

 

 

『それでは第一レースのパドックを行います』

 

 

 

 そんな時、ふとパドック会場内からアナウンスの声が響いた。

 会場内にいる全員が、その声と共に視線をひとつの場所へと向ける。

 パドック会場の中心に作られた演壇のような場所。そこに全員の目が向いていた。

 先程まで話していた麻真達も、アナウンスが流れると自然と三人の視線もその場所へと向けられていた。

 

 

 

『十番人気、一番リュウセンチュリー』

「ねぇねぇ! マックイーンは何番なの?」

「六番だ」

 

 

 

 トウカイテイオーの質問に淡白に答えながら、麻真はパドックから視線を動かさずに見つめていた。

 麻真の見つめていた先にあるパドックのステージに、一番のゼッケンを付けたウマ娘が現れる。

 そしてアナウンスが進む毎に、入れ替わるようにウマ娘達が姿を見せていた。

 それぞれ現れるウマ娘達を、麻真が真剣な目で見つめる。そして五番目まで終わった頃にシンボリルドルフが彼に声を掛けていた。

 

 

 

「麻真さんから見て、今のところはどうだろうか?」

 

 

 

 麻真の集中が緩むタイミングを見計らったのだろう。次にメジロマックイーンが出てくるところで、麻真はシンボリルドルフの質問に答えていた。

 

 

 

「……多分、大丈夫だろう。メイクデビュー戦ってこともあるが今のところは全員、明らかにトレーニング不足。後半でバテる」

「え……分かるの?」

 

 

 

 トウカイテイオーが驚いて麻真を見つめる。

 麻真は平然とした表情でトウカイテイオーに眉を寄せた。

 

 

 

「足見たら分かるだろ? 明らかな筋力不足ってことくらい?」

「いや、分からないよ?」

「ははっ、テイオーにも分かる日が来るさ」

「カイチョーも分かるの?」

「ああ、昔に私も麻真さんに色々と教えてもらったからな。概ねは分かる。私も今のところは麻真さんも同じ感想と言ったところだ」

 

 

 

 麻真と同じように“分かる”シンボリルドルフに、トウカイテイオーが羨ましそうに彼女を見つめる。

 そしてすぐにトウカイテイオーが麻真に視線を向けると、彼女は麻真に懇願していた。

 

 

 

「ねぇ! 今度、ボクにも教えてよ!」

「面倒。マックイーンに勝てたら考えてやる」

「むぅ……! またそれっ⁉︎」

 

 

 

 トウカイテイオーのことで、何かと面倒なことがあればメジロマックイーンに勝てたら考えるという言葉を使えば解決することを麻真は覚えていた。

 とりあえず、それを言えばトウカイテイオーが不満そうにしながらも納得しているから良しとしよう。麻真はそう思いながら、内心でほくそ笑んでいた。

 

 

 

『続きまして二番人気、六番メジロマックイーン』

 

 

 

 そして遂に、メジロマックイーンの名前がアナウンスから呼ばれていた。

 

 

 

「えっ? 二番人気?」

「みたいだな。多分、他に注目されているウマ娘でもいたんだろう」

 

 

 

 トウカイテイオーの声に適当に反応しながら、麻真がパドックから出てくるメジロマックイーンに視線を向ける。

 緊張しているように見えるが堂々とした歩き方でステージに立ち、観客にメジロマックイーンが手を振るう。

 

 

 

『デビュー戦とは思えない素晴らしい仕上がりですね。今回は二番人気となっていますが、注目のウマ娘です』

『どんなレースをするのか非常に楽しみです』

 

 

 

 アナウンスからメジロマックイーンの評価が聞こえる。

 パドックに出てくるウマ娘に会場内から評価等がアナウンスで流され、そしてそれを聞きながら実際にそのウマ娘の状態を見るのが一般的な楽しみ方である。

 

 

 

『彼女の所属チーム名は……おお、これは』

『……どうされましたか?』

 

 

 

 ふと、流れるアナウンスの声が困惑の色を見せていた。

 パドックのステージに立っていたメジロマックイーンも、平然を装っていたが予想とは違うアナウンスに内心では困惑していた。

 

 

 

『このチーム名を私はとても久しぶりに見ました。これは注目です。彼女の所属するチームは――』

 

 

 

 そしてニ拍ほど間を開けて、アナウンスから再度声が響いた。

 その時、麻真がハッとした表情を作っていた。

 

 

 

「あ……忘れてた」

「……何か忘れたの?」

「マックイーンに登録したチーム名の話するの忘れてた」

 

 

 

 明らかにパドックのステージ上で困惑しているメジロマックイーンを見ながら、麻真が忘れたことを思い出す。

 しかし時は既に遅し。もう足掻いても無意味だと察した麻真は、困惑しているメジロマックイーンに苦笑いを向けていた。

 そしてアナウンスから、声が響く。その内容に、会場の一部の人間達が揃って驚くことになる。

 

 

 

『チーム・アルタイル。数年前にトゥインクル・シリーズに名を轟かせた“あの鷲”が帰ってきました』

 

 

 

 その言葉が響いた瞬間、パドック会場にいた一部の人間達が揃ってどよめいた。

 その場で頭を抱える人間や、慌ててどこかへ電話している人間など、色々な反応があった。それらの人間がトレーナー業や記者関連の人間だと察したシンボリルドルフは、麻真に笑みを向けた。

 

 

 

「やはり、その名前を使うんだな。麻真さん」

「まぁ、引き継いだ名前だしな」

 

 

 

 トウカイテイオーが周りの変化に驚く中、シンボリルドルフの言葉に麻真は戯けるように肩を竦めていた。




読了、お疲れ様です。
そして遅いですが、あげましておめでとうございます。
少しの間、筆を取らずにいました。申し訳ありません。

さて、今回からメイクデビュー戦編が始まります。
観戦にはトウカイテイオーとシンボリルドルフが登場。
そして麻真の率いるチーム名が出ました(一人しかいませんが)
色々と小出しになりますが、次回をお待ちください。

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2.増えたんですね?

 

 

 

 

 チーム・アルタイル――阪神レース場のパドック会場にいた人間達は、その名を聞く瞬間まで忘れていた。

 過去の記録の中に消え去り、人々の記憶から薄れていた“その名”を聞いた時、その場にいた人間達は思い出してしまった。アルタイルというチームが過去に作り上げた偉業とも言える多くの功績を。

 それが、阪神レース場のメイクデビュー戦で帰ってきた。重賞ですらない無名のウマ娘が集うレースに、メジロマックイーンの名と共に。それ故、パドック会場に響いたその名に、業界の人間は騒然となった。

 メジロマックイーンと同じレースに出場するウマ娘のトレーナー達は頭を抱えていた。まさか自分の育てているウマ娘の初レースに、その名が出てくることがありえないと。

 そして記者関係の人間達も、揃って震えていた。まさか“あのチーム”が帰ってきた場面に自分が遭遇するとも思わず、一同は揃いも揃って自身の上司へ連絡を行っていた。

 たったひとつのチームに、レース会場が騒ぐ。そんな騒動が起きて少しの時間が経っても、一向にレース場内の動揺は収まることもなく、気づけば第一レースまで残り時間は僅かとなっていた。

 

 

 

「……まだ怒ってんのか?」

 

 

 

 レース場内の控え室で、麻真がそう言って顔を顰める。そんな彼の視線の先にいるメジロマックイーンは、心底不満そうに口を尖らせていた。

 

 

 

「当たり前ですわっ! そんな大切な話を忘れるなんてこと普通ありません! 何も知らなかった私がパドックの時、どんな気持ちだったかあなたに分かりますかっ⁉︎」

 

 

 

 尻尾を逆立てながら力強く叫ぶメジロマックイーンに、麻真は返す言葉もなく引き攣った苦笑いを浮かべるしかなかった。

 麻真自身も察することしかできなかったが……パドック会場にアルタイルという名が響いた時、その時のメジロマックイーンの心境は困惑からの激怒だった。

 自分のパドックが始まってステージに出た途端、自分の知りもしない所属チーム名がアナウンスから響くなり、会場内が騒然となったのだからメジロマックイーンの困惑は無理もないだろう。

 しかしそんな会場を見て、メジロマックイーンもすぐに察していた。明らかに会場内が“そのチーム名”を聞いた瞬間に動揺していたことから、アルタイルというその名が自分のトレーナーである北野麻真が過去に使っていたチーム名なのだと。

 それを麻真が自分に知らせなかったことを故意だと思ったメジロマックイーンは、一瞬にして頭に血が登るような感覚に苛まれた。

 困惑するだけだったパドックが終わり、メジロマックイーンが控え室に戻ってきた麻真に会って早々に怒りをぶつけたのも束の間、すぐに彼が謝罪したことで彼女も思わず毒気を抜かれていた。

 だが麻真が珍しく素直に謝罪しても、事実としてチーム名のことを自分に知らせなかったことに対するメジロマックイーンの怒りは時間が経つにつれて大きくなり、気づくと彼女は目を吊り上げて彼を睨んでいた。

 

 

 

「何度も言ってるだろ……悪かったって。俺だって忘れることもある。だからレース前にそんな風に機嫌悪くしないでくれ」

「私の機嫌を悪くした張本人であるあなたには言われたくないですわっ!」

 

 

 

 麻真が何度も謝罪の言葉を告げても、メジロマックイーンの機嫌は一向に直る様子がない。

 予想以上にメジロマックイーンの機嫌が直らないことに、麻真が肩を落とした。まさかここまで彼女が怒るとは思わず、麻真も困り果てて眉間に皺を寄せていた。

 レースに於いて、出場するウマ娘の調子は走りに大きく影響が出る。機嫌を損ねて走るのと機嫌の良い時に走るのとでは、大きな差が顕著に現れる。その為、ウマ娘のモチベーション管理は重要なモノとして認識されている。

 それを誰よりも理解していたからこそ、麻真は頭を抱えたい衝動に駆られていた。今まで作り上げたメジロマックイーンの走りが、モチベーションひとつで崩れるのは流石の麻真も容認できなかった。しかしその原因を作ったのが自分自身である時点で、彼に困る資格など少しもないのだが……

 

 

 

「どうしたら機嫌を直してくれる? もう俺ができることなら何でもしてやるから……」

 

 

 

 メジロマックイーンの機嫌を直す為、麻真が半ば諦めた気持ちで彼女に問う。

 困り果てた麻真を睨みつけるメジロマックイーンだったが、彼のその言葉を聞くとピクリと耳を動かしていた。

 

 

 

「今……なんでも、と仰いましたか?」

「……」

 

 

 

 反射的に、麻真が唸った。メジロマックイーンがそう聞き返した時、自分がたった今口にした言葉に彼が心の底から後悔した瞬間だった。

 思わず先程の言葉を訂正しようと口を開くが、出かけた言葉を麻真は咄嗟に止めていた。もし自分がそれをすれば、更にメジロマックイーンの機嫌が悪くなると理解して――彼は苦々しい表情で頷くしかなかった。

 

 

 

「……あまり変なこと言うなよ?」

 

 

 

 僅かな抵抗として、麻真が予防線を張る。

 しかしそんな麻真の抵抗も虚しく、メジロマックイーンは彼の言葉を聞くなり少しだけ吊り上げていた目を緩めていた。

 メジロマックイーンが自身の顎に指を添えて、何かを考え始める。そして少しだけの間を開けてから、彼女は口を開いた。

 

 

 

「それなら……今、この場で教えてください」

「はっ……?」

 

 

 

 突然、意味の分からないことを言い出したメジロマックイーンに麻真が思わず聞き返す。

 察しの悪い麻真を見てメジロマックイーンは不満気に眉を寄せながらも、溜息混じりに彼へ自身の要求を告げていた。

 

 

 

「あなたが率いていたその“アルタイル”というチームについて、この場で私に話してください。以前のあなたが作ったチームがどんな成績を作ったか、チームメンバーも全て教えてください」

「今……? いや、レースまでの時間近いんだぞ?」

 

 

 

 メジロマックイーンの要求に、驚く麻真が時計を確認する。第一レースの開催時間までの残り時間は多くはなかった。

 レースに向けての最終確認等を考えると、今からレースまでに使える時間は多くない。パドックが該当レースの三十分前に行われることから、パドックが終了してすぐにレースが始まる。

 それを加味すると、この場でレースに関係のない話をするのは麻真からすれば得策ではなかった。

 

 

 

「関係ありません。まだレースまでは少しだけ時間はあります。今、この場で、あなたが私に説明してください。そうしなければ、私は腹を立てたままレースに挑みます」

 

 

 

 ある意味では脅しとも受け取れる言葉をメジロマックイーンから向けられて、麻真は頬を引き攣らせた。

 いつもの練習ならば後で教えると麻真も言いくるめられるが、レース前の今では話が変わってくる。妙な答え方をすれば、メジロマックイーンの機嫌が更に悪くなってしまう。

 これ以上にメジロマックイーンの調子を悪くするのも憚られ、そして彼女にも頑固な面を持っていることから下手にはぐらかすのは更に面倒なことになる、

 

 

 

「はぁ……」

 

 

 

 そう思って堪らず、麻真が溜息を吐いた。

 こうなるならメジロマックイーンに忘れずに説明していれば良かったと、麻真が心の底から後悔してしまう。

 レースに向けての最終確認、レース場への入場時間、諸々に掛かる時間を頭の中で整理して、もう一度時計を見ながら使える時間を考えて、麻真はメジロマックイーンに答えた。

 

 

 

「……五分だけだ。レースまでの残り時間を考えたら、それぐらいしか時間に余裕がない。その時間内ならお前の要求通り教えてやる。なるべく手短に分かるように話すが、五分過ぎたらすぐにレース準備だ。もし教えきれなかったらレースが終わった後、それで良いか?」

「そんなの関係ないです。全部、細かく話してください。まだレースまでの時間はありますわ」

「駄目だ。五分、今はそれだけだ。まだレースについての最終確認が済んでない。その時間だけは絶対に無くすわけにはいかない」

「あなたが教えてくれた走りだけで、私は大丈夫ですわ」

「それでも、だ。レースに向けて最低限の準備すら怠るのは流石の俺もやらない。勝てるレースで担当のウマ娘が負けるなんて、俺が許せない」

 

 

 

 自分の要求が素直に通らなかった。思わず、メジロマックイーンが目を据わらせる。しかし麻真の言い分も分からない訳ではなかった彼女は、不服だが小さく頷いた。

 

 

 

「……分かりましたわ。では、手短に分かりやすくお願いします」

「本当に手短に話すからな」

 

 

 

 ようやく自分の思う通りにメジロマックイーンが頷いてくれた。彼女の態度を見て、麻真はそっと胸を撫で下ろした。

 そして徐に腕を組みながら、麻真が自分の記憶の中から過去のことを振り返る。そして大事な点だけを思い出しながら、彼は口を開いた。

 

 

 

「まず初めに言っておくと……お前の所属している俺のアルタイルってチーム名は、俺が先代から引き継いだチームの名前だ」

「……先代ですか?」

「あぁ、そうだ。前にも話したと思うが、俺が研修でサブトレーナーだった時にいたチームがアルタイルだった。元々、そこそこ強いチームだったんだが俺の研修期間が終わって、先代のトレーナーが引退する時に俺が引き継いだんだよ」

 

 

 

 その時はまだ結構な人数がいたけどな、と麻真が続けて告げた。

 麻真のその説明に、メジロマックイーンがふと眉を上げる。不思議と気になる言葉だった。

 

 

 

「過去形? その話し方ですと、麻真さんの代になった時にチームを抜けてしまった方が多いと受け取れますけど?」

 

 

 

 メジロマックイーンの言葉に、麻真は小さく頷いた。

 

 

 

「ああ……かなりというか、ほとんど抜けた。元々、チームには先代を慕ってた子達の方が当たり前だが多かったからな」

「麻真さんが居たのにも関わらず? そんなのあり得ませんわよ?」

 

 

 

 麻真の答えを聞いて、メジロマックイーンが理解に苦しんだ。北野麻真というトレーナーの能力を考えれば、当時チームに所属していたメンバー達がチームを抜けるなど彼女には考えられなかった。

 しかし麻真は苦笑して、戯けるように肩を竦めていた。

 

 

 

「そこは色々と面倒な話なんだ。簡単に言えば、当時の俺はあまり好かれてなかったんだ。あの頃の俺には当時のチームメンバーから信じてもらえる実績すらなかった。だから慕ってた先代がいなくなるなら抜けるって子も多かったって話だ」

「……嫌われてた?」

 

 

 

 また意味の分からないことを麻真が言い出して、メジロマックイーンが怪訝に表情を歪める。

 メジロマックイーンの疑問に、麻真は少しやるせない表情を見せていた。

 

 

 

「俺みたいなウマ娘と同じように走れる人間なんて……気味が悪い。それが自分達よりも早く走れるなら尚のことってところだ」

 

 

 

 そう言って、麻真が苦笑いする。

 その表情に、メジロマックイーンは呆気に取られた。その思考に至ったウマ娘達の気持ちが、彼女には全く理解できなかった。

 しかし少し考えれば、納得はできないが理解ができなくもなかった。未だにメジロマックイーンも、麻真がなぜウマ娘と同等以上に走れるのかを知らない。それを考えれば、当時にアルタイルに所属していたウマ娘達が麻真を気味悪がってチームから抜けるという選択を選ぶ可能性も、確かにあり得た。

 

 

 

「それでも私は理解に苦しみますわ」

 

 

 

 だが、それも些細なことだとメジロマックイーンは心の底から思っていた。

 トレーナーとして、麻真は十分過ぎる能力を持っている。自分を強くしてくれるなら、そんなことは些細なことだとメジロマックイーンは思っていた。

 メジロマックイーンの答えを予想していたのだろう。麻真はどこか呆れた表情を見せながら、話を続けた。

 

 

 

「お前の意見は今は置いておくとして……お前みたいなタイプだったのが、ルドルフとエアグルーヴの二人だった」

「それではそのお二人はチームに残ったのですね?」

 

 

 

 アルタイルが麻真に引き継がれ、先代を慕っていたウマ娘達が抜けて残った二人のウマ娘。以前にメジロマックイーンが彼女達から直接聞いた麻真との出会いを考えれば、チームに残り続ける選択を選んだのは必然のことだと思えた。

 

 

 

「そうだ。色んな奴が抜けて、最後まで残ったのはルドルフ、エアグルーヴの二人だけ。その二人が、俺が引き継いだアルタイルの初期メンバーだった」

 

 

 

 初期メンバー。その言葉に、メジロマックイーンは当然とも言える疑問を口にした。

 

 

 

「初期と言うことは、増えたんですね? 全部で何人です? あなたが手に掛けたウマ娘は?」

「お前な? その言い方は気をつけろって何度も言ってるだろ?」

「良いからお答えください」

 

 

 

 まるで浮気したのが発覚したような気分だった。そんな経験などしたことがない麻真だったが、そんな気分になりながら半目で見つめるメジロマックイーンに答えた。

 

 

 

 

「多く見るつもりはなかったんだが、いつの間にか増えてた。一番多くて六人だった」

「六人……どなたです?」

「六人って言っても全員が揃ってた期間は短かったんだが……俺が休職する前の二年間だけタイキシャトルがチームにいたな。それ以外は大体は入れ替わりだった。デビュー前に怪我で走れなくなったマルゼンや一年間だけクリークの面倒を見たり、あとはラストランに出る為にオグリを一時だけ預かったりと、そんなところだ」

 

 

 

 あまりにも平然と麻真が口にしたウマ娘の名前に、メジロマックイーンが顔を顰めた。

 

 

 

「またとんでもない方々の名前を出しましたわね……」

 

 

 

 どんな答えが返ってきても大丈夫なのに身構えていたが、返ってきた答えに対して、メジロマックイーンは素直に反応に困っていた。

 

 

 

「一応、確認ですが……その方達の有名な功績は、麻真さんのチームにいる時ですか?」

「そうだったな。ルドルフやエアグルーヴはともかく、言われてみれば他のメンバーは俺のところにいる時だった」

 

 

 

 その答えに、メジロマックイーンが無意識に頬を引き攣らせた。

 アルタイルに在籍していた六人のウマ娘達。当然ながらメジロマックイーンも、その六人のことは知っている。と言うより、知らないわけがないウマ娘である。

 その六人は、トゥインクル・シリーズでは特に有名なウマ娘として世間に名前が知れ渡っているのだから。

 シンボリルドルフの無敗の三冠ウマ娘。そしてエアグルーヴのトリプルティアラ。タイキシャトルの最強のマイル王。無敗のマルゼンスキー。天皇賞制覇を果たしたスーパークリーク。そして奇跡の復活を最後に遂げたオグリキャップ。

 彼女達の名を有名にした数々の偉業が麻真のチーム所属時に成されたことだと知って、メジロマックイーンもようやく理解した。

 そんな実績を作り上げたアルタイルというチーム名が世間にどういう認識をされているか理解すれば、嫌でも想像できる。

 麻真が休職して消えたそのチームが今になって帰ってきたと知られれば世間がどんな反応になるかなど、分かりきっていた。

 

 

 

「アルタイルというチーム名に騒ぐ人達の気持ちが分かりましたわ……」

「それも過去の話だ。今はお前しかいないから、そこまで騒がれることもないと思ってたんだがな」

「あなたのチーム名を知っている方からすれば、警戒されるのは当然ですわ。と言うよりも、それならその名前があの場で出た時点で……」

 

 

 

 アルタイルというチーム名の意味を知ったからこそ、メジロマックイーンは嫌な予感がした。

 そんな偉業を成し遂げたチームに、自分が所属している。つまり、自分も以前に在籍していたメンバーと似たような見られ方をすると考えれば――

 

 

 

「あの時の会場を見る限り、間違いなく警戒されたな」

「平然と当然のように言わないでくださいっ⁉︎」

「別にそういうのはお前はまだ気にしなくて良い。今は警戒されてもされなくても“関係ない”」

 

 

 

 何が関係ないのかメジロマックイーンには全く理解できなかった。

 眉を寄せたメジロマックイーンに、麻真は特に平然とした声色で告げていた。

 

 

 

「ちゃんと準備して、レースが始まれば分かるさ。それは余計な心配だ。だからお前は安心してレースに挑めば良い」

 

 

 

 疑問を抱くメジロマックイーンだったが、麻真にそう言われて不服ながらも納得することにした。

 明らかに自信しか感じられない麻真の態度。それを見れば、少しは心配にもなるがメジロマックイーンも信じざるを得なかった。

 何か自分には見えていない部分が麻真には見えているのだろう。メジロマックイーンはそう思うことにして、麻真に頷いていた。

 

 

 

「何を安心するか分かりませんが……分かりましたわ」

「それで良い。とまぁ……こんなところだろうな」

 

 

 

 そこで麻真が何気なく時計を見ると、彼がメジロマックイーンに説明を始めて五分が経とうとしていたところだった。

 

 

 

「丁度、五分か。良い頃合いだな。アルタイルの話はざっくりと話すとこれくらいだ。自分の所属してるチームについて、少しは分かったか?」

 

 

 

 もう五分も経っていたのかと、メジロマックイーンは少し驚きながら時計を一瞥する。

 確かに五分が経過していたのを確認してメジロマックイーンが麻真からこれ以上の話が聞けないことを理解すると、彼女は渋々と頷いた。

 

 

 

「ええ、分かりました。近々機会があれば、この話は細かく聞くことに致しますわ」

「言われた通り、ちゃんと話したんだ。機嫌直せよ?」

「怒りは収まりましたわ。それとお忘れなく……今は、これで納得するという意味で言っただけです。ちゃんとまた聞かせていただきますから、お覚悟くださいな?」

「……今度な」

 

 

 

 顔を強張せる麻真に、メジロマックイーンが小さな笑みを浮かべる。

 普段から麻真によって色々な目に合っているメジロマックイーンからすれば、彼が困り果てる姿を見るのは気分が良かった。

 少しは普段の仕返しをしないと割に合わないと思いながら、メジロマックイーンは満足そうに尻尾を揺らしていた。




読了、お疲れ様です。
今回、すごく書くのが苦労した話でした。
文章が読み難かったら申し訳ないです。

今回の話は、麻真のアルタイルというチームの話でした。
ここで麻真が過去に育てたウマ娘が出ましたね。
まだ本編に出てないウマ娘もいますが()
多分、ちょこちょこと出てくるかと思います。
それまでは気長にお待ちいただければと思います。

ではまた次の話でお会いしましょう。
感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ、作者のモチベになります。


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3.本当の使い方

 

 

 

 阪神レース場、第一レース“メイクデビュー戦”。

 今日の天候は晴れ、バ場状態は良。天気が崩れることもなく、非常に走りやすいコース状態となっていた。

 メジロマックイーンが出走する今回のレースは、右回りの芝二千メートルで行われる一般的な中距離レースに分類される。

 しかし二千メートルと言っても、単純な平地のコースを走るわけではない。各地にあるレース場毎に、それぞれのコースには特徴が存在する。それは勿論、阪神レース場も例外ではない。

 

 阪神レース場の芝二千メートルコースは、まず観客スタンド前からスタートする。その後は三百二十五メートルの直線を進み、第一コーナーへと入っていく。

 しかしこのコースの大きな特徴のひとつとして、スタート直後の位置に高低差二メートルもの登り坂が配置されていた。このコースを走るウマ娘の誰もがスタート後、この登り坂を駆け上がらなければならない。

 険しい登り坂を平地と同じ速度で走れるウマ娘などいない。登り坂を走るにはスタミナとパワーを多く必要とする為、この坂を高速度で登ることすらできないウマ娘も多い。

 そんな壁のような坂を走る必要がある以上、ウマ娘達の速度は必然的に速くなることはない。このレースのスタート後は比較的緩やかな速度で始まるのがこの世界の共通の認識となっている。

 しかし打って変わって、その登り坂を越えた後は特別な特徴もなく第三コーナーまで平坦なコースを走る。そして第三コーナーから第四コーナーに掛けて緩やかな下り坂を走りながら、ウマ娘はスタート地点へと戻って一周する。

 だが、スタート地点に戻ってきてもゴールではない。この時点の走行距離は約千八百メートル。まだ二百メートル程度が残っていた。

 つまりコースを一周して戻ってきたウマ娘達はゴールする為に、再度観客スタンド前の直線を走らなければならなかった。それが意味するのは、ひとつである。

 

 彼女達は、またスタート直後に走った高低差二メートルの登り坂を登らなければならない。

 

 千八百メートルを走った後に登る坂は、想像以上に走るウマ娘達の足に重い負荷を掛けることとなる。一度スタミナとパワーを消耗して登った登り坂を千八百メートルも走り続けて疲労を蓄積した足で再度登るのだから、それは容易なことではない。

 その為、本来ならば終盤に加速して差し合う場面であるはずが、このレースの終盤は瞬発的な加速の勝負にならず――いかに登り坂までに好位置を維持しながら疲労した身体を酷使してゴール前の登り坂を速く登るかというスタミナとパワーを必要とする根性のレースとされている。

 

 それが麻真の考える。メジロマックイーンのメイクデビュー戦における今回のレース概要だった。

 

 

 

「――昨日も話したことだが、今の話を忘れたなんて言うんじゃないぞ?」

「はい。しっかりと覚えてますわ」

 

 

 

 控え室からコース入場口に向かう最中でコースの概要を説明した麻真に、メジロマックイーンが頷く。

 元よりメジロマックイーンが賢いウマ娘と認識している麻真だったが、それでも念を押して彼は確認を行っていた。

 

 

 

「なら確認だ。このコースでお前が一番注意しないといけない点は、どこだ?」

「登り坂です。私の足ではまだ力押しで坂道を駆け上がれるようなパワーが足りていません。麻真さんが昨日話した通り、私は坂に合った走りに変える必要があると仰ってましたわ」

 

 

 

 その返事を聞いて、麻真が満足げに頷いた。メジロマックイーンの返答は、彼にそう思わせるだけの意味があった。

 メジロマックイーンの足は、彼女と出会った当初から筋力不足だと麻真は判断している。その判断は、今でも変わらない。彼女の足では瞬発力を必要とする“瞬間的な加速力”を使ってレースを戦うにはまだ不十分というのが、麻真の彼女に対する現在の評価である。

 それ故に、麻真の手によってメジロマックイーンは走り方を変えた。引き出せる自身の足の性能を最大限に引き出す走り方へと変わっていた。

 一瞬の加速ではなく、段階的な加速を行う走法。それが今のメジロマックイーンの最善の走り方である。

 それをしっかりと理解していれば、必然的に坂道を登る為に筋力を必要とするコースを自分が不得手と捉えるのが当然だった。

 

 

 

「その答えで十分。それくらい言えるなら問題なさそうだ」

 

 

 

 しっかりとメジロマックイーンは自分の足の性能を理解している。麻真は彼女がそれを理解できていると知って、胸を撫で下ろした。

 

 

 

「それが原因で私に基礎トレーニングをさせたのでしょう? それに私には筋力がないと麻真さんがしつこく言い続けた所為ですわ」

 

 

 

 そもそも、メジロマックイーンが自分の足をそう認識しているのは麻真が原因だった。

 筋力がないから基礎トレーニングが必要と言われ、地獄だったトレーニングの日々を送ることになったのだ。メジロマックイーンからすれば、嫌でもそう認識するしかなかっただけの話だった。

 

 

 

「ところで……昨日も伝えましたが、もう一度言いますわ。私は麻真さんの指示通り、この一週間はずっと足に重りを付けて走ることしかしてません。今の走り方で坂道を登る練習なんて、一度もしていませんわよ? あなたが問題ないと仰るから信じましたが……本当に大丈夫ですの?」

 

 

 

 思い返せば、メジロマックイーンは今日のレースまで基礎トレーニングと走り方を作る練習しかしていない。

 今回のレースで重要視されている坂道の練習を、メジロマックイーンは今の走り方で一度たりともしていなかった。

 レース前日に麻真からレースの概要を伝えられた時、メジロマックイーンは勿論そのことを指摘した。しかし麻真は、その指摘に対して問題ないと答えるだけだったのだ。

 麻真はメジロマックイーンにそう訊かれると、平然とした顔で答えた。

 

 

 

「あぁ、大丈夫だ。今教えるから」

「はい……?」

 

 

 

 思わず、メジロマックイーンは自分の耳を疑った。今、目の前の男は何を言ったのかと。

 自分の耳が正常なら、この男は今日のレースで一番大事な登り坂の走り方を“今”教えると言っていた。

 

 

 

「……冗談ですわよね?」

 

 

 

 引き攣った笑みを浮かべて、メジロマックイーンが訊き返す。

 しかし麻真は悪びれもしない表情で、簡素に答えていた。

 

 

 

「いや、本当に今教える」

 

 

 

 麻真の言葉に、気を失いそうになった。メジロマックイーンはふらりと倒れそうになる身体を咄嗟に立て直しながら、頭痛が起きそうだとこめかみに指を添えていた。

 頭の血管がはち切れそうになる。メジロマックイーンが手を震わせながら、無意識に鋭く目を細めていた。

 

 

 

「またあなたは、私を怒らせたいみたいですわ……!」

「だからすぐ怒るなって。まだ若いのに血圧上がるぞ?」

「その頭、かち割りますわよっ⁉︎」

 

 

 

 メジロマックイーンが怒りを吐き出しても、麻真は鬱陶しそうに眉間に皺を寄せるだけだった。

 怒りを露わにするメジロマックイーンに、麻真は小さく溜息を漏いた。

 

 

 

「確かに坂道の練習も本当なら必要だったが、そもそも前提の基礎がなかったお前だと、その練習をしても意味がなかった。だから先にフォーム作りを優先したんだ」

「それなら基礎トレーニングをしなければ時間は沢山ありましたわ!」

 

 

 

 耳と尻尾を逆立てて、メジロマックイーンがまるで猫のように怒りを見せる。

 レースまでに坂道用の走り方を作りきれなかった。それが問題だとメジロマックイーンは思わざるを得なかった。

 基礎の形を作っても、登り坂の走り方を練習する時間がなかった。それならば、そもそもあの基礎トレーニングの期間を走る練習にしていれば間に合っていた。

 あの辛かった基礎トレーニングをせずに、ひたすらに走る練習をすれば登り坂の練習もできていた。

 怒るメジロマックイーンの言い分を理解していた麻真だったが、そんな彼女に対して今度は深い溜息を吐いていた。

 

 

 

「ああ言えば、こう言うやつだな。全く……何度も言ってるが、走り方を作るにはまず基礎の身体作り。その基礎がないと走り方が定まらない。走り方が定まらないと、先の練習ができない。つまりはそういうことだ」

「ですが……!」

「基礎トレ、した意味あっただろ? 今のお前なら分かると思うが?」

「ぐぬぬっ……!」

 

 

 

 それについては、メジロマックイーンは返す言葉がなかった。

 地獄だった基礎トレーニングで身体を鍛えたからこそ分かる。アレがあったからこそ、今の走りができていることをメジロマックイーンは実感していたからだった。

 腕、背筋、腹筋、足。そして柔軟と、全てがメジロマックイーンの今の走り方に結びついている。あの日々がなければ、今の走りを作れなかったことも嫌でも理解しているからこそ、麻真の言葉に返せる言葉が出てこなかった。

 悔しそうに口を噤むメジロマックイーンを見ながら、麻真が呆れたように肩を竦める。そして彼は肩を小さく落としながら、メジロマックイーンに告げていた。

 

 

 

「俺がそうしなかったのは、別に今しなくても問題ないと判断したからだ。そもそもメイクデビュー戦で、今回の出走メンバーならお前の走り方に少し手を加えるだけで十分勝てる」

「……私に何をさせる気ですか?」

 

 

 

 また良からぬことを言い出すのかと、メジロマックイーンが怪訝な表情で麻真を睨みつける。

 麻真はそんなメジロマックイーンに、簡潔に告げていた。

 

 

 

「登り坂の時だけ、走る歩幅をいつもより半分短くして足の回転数を限界まで上げろ」

「……それだけですか? それで登り坂を越えられると?」

 

 

 

 予想と違う内容だったことに、メジロマックイーンが顔を顰めた。

 力の使い方や姿勢など細かいことを伝えられると思っていたはずが、予想よりも遥かに簡単な内容に思わずメジロマックイーンは疑っていた。

 たったそれだけのことで難所と言われている登り坂を越えることができるのかと。

 

 

 

「マックイーン。お前は階段を登る時、どうやって登ってる?」

 

 

 

 脈絡のない麻真の問いに訝しむメジロマックイーンだったが、そう思いながらも彼女はその質問に素直に答えることにした。

 

 

 

「そんなのは普通に――」

「歩幅は? いつも通りに歩いてる歩幅で登ってるか?」

 

 

 

 また妙なところで追及してくる。メジロマックイーンは何を言っているのかと思いながら、口を開いた。

 

 

 

「そんな訳ありませんわ。そんな風に歩く訳ありません」

「ならどうやって登る?」

「そんなの簡単ですわ。登る階段に合わせて歩幅を――」

 

 

 

 言いかけた言葉を、メジロマックイーンは咄嗟に止めていた。

 階段を登る時、階段に合わせて歩幅を変える。普段歩いている歩幅では、階段の作りに歩幅が合わないからだ。

 更に階段を早く登ろうとすれば、その分だけ足を速く動かす。そんなことは誰もがしていることだろう。

 登る時、歩幅を変え、回転数を上げる。それをメジロマックイーンが理解すると、呆気に取られた表情を見せていた。

 

 

 

「少し違うが、大体のイメージはそういうことだ。分かったか?」

「本当に、それだけで良いと仰ってますの?」

 

 

 

 あまりにも、簡単過ぎる。メジロマックイーンにはとてもではないが信じられない話だった。

 

 

 

「簡単そうに聞こえてると思うが、スタミナが並以上あるお前だから言ってるんだ。言っておくが今話した走り方、かなりスタミナを使うことになる。俺もメイクデビューのウマ娘に言うことなんてまずないが……お前なら問題ない」

 

 

 

 その走り方について、今時点で麻真もメジロマックイーンに詳しく話すつもりはなかった。

 ピッチ走法――歩幅を短く、足の回転数を上げる走り方がある。主に坂道を登る時に用いる走法で、重賞ウマ娘になると当たり前のように使われている走法である。

 その走法の対価として、足を速く動かしただけ大量のスタミナを消費する諸刃の剣とも言える走り方だった。

 

 

 

「そう仰ると言うことは……私の実力を少しでも認めてくれたのですね?」

「違う。スタミナは他のウマ娘よりあるってだけだ。お前はまだまだひよっこだっての」

 

 

 

 誇らしげに胸を張るメジロマックイーンだったが、麻真に即落とされて不服そうに頬を膨らませていた。

 

 

 

「ともかくだ。次、登り坂を上がった瞬間から練習通りに走れ」

「他に作戦はありませんの?」

「特にないが、注意点はある。逆を言えば、それだけ守れば良い」

 

 

 

 麻真はそう切り出すと、首を傾げるメジロマックイーンにその注意点を告げていた。

 

 

 

「下手に周りにペースを合わせなくて良いから、お前は自由に走れ。お前のペースで、先行だからって位置を気にする必要もない。練習通りの手順で加速して走るだけで良い。それだけはちゃんと守れ、そうすればレース中にすぐ分かる」

「それだけ守れば、何が分かるのです?」

「それは走ってからのお楽しみだ」

 

 

 

 まさしく、それは作戦とは言えない内容だった。いつも通りに走れ、それだけだった。

 麻真の意図が理解しきれないメジロマックイーンは、相変わらず大事な部分を話そうとしない彼に呆れていた。

 

 

 

「ちなみに、第四コーナーまで振り向くのも駄目だ」

「……それも理由は教えてくれませんの?」

「教えると、お前の為にならない」

 

 

 

 自分のペースで自由に走り、第四コーナーまで振り向かない。

 それだけがトレーナーである麻真からの指示だった。

 にわかには信じられないが、これを本気で言っているのはメジロマックイーンも嫌でも分かっていた。加えて、その意図を絶対に教えることがないのも過去の経験から把握している。

 

 

 

「分かりましたわ……あなたを信じます」

「物分かりが良くて助かる」

 

 

 

 どの道、信じるしかない。今日まで麻真の指示に反抗しながらも従っていたが、正しいことだと実感もしているのだから。

 どこか小バカにした表情で、麻真がメジロマックイーンの頭を撫でる。

 くりくりと頭を撫でられるのをメジロマックイーンは頭を振って逃げると、二人はいつの間にかレース場の入場口まで来ていた。

 入場口の先から、騒がしい喧騒が聞こえて来る。メジロマックイーンはそれを聞くと、不思議と背筋に冷たいモノが通るような感覚が走っていた。

 

 

 

「さて……そろそろ入場時間か」

 

 

 

 周りを見渡して、麻真が呑気にそう呟く。

 二人の周りには多くのウマ娘が居て、それぞれが入場口に向かって歩いていた。

 トレーナーに見届けられるウマ娘。一人で胸を張って歩くウマ娘など、様々なウマ娘が歩いていく。

 入場口から聞こえる喧騒、周りを歩くウマ娘の気迫。レース前の緊張感のある空気を、麻真は久々に感じていた。

 

 

 

「……頑張りますわ」

 

 

 

 少し間を空けて、メジロマックイーンがそう呟いた。そして深い深呼吸をして、彼女は入場口を見据えたまま歩き出した。

 

 

 

「では……行って参りますわ」

「おい、待て」

「はい?」

 

 

 

 気持ちを引き締めてメジロマックイーンが歩き出したところで、麻真に引き止められた。

 

 

 

「なにか伝え忘れがありまして?」

 

 

 

 言い残したことでもあったのだろうか。そんなことを思いながら、メジロマックイーンは首を傾げた。

 

 

 

「そう言えば、お前に訊きそびれたことあったわ」

「急になんですの?」

 

 

 

 藪から棒に、そんな言葉がしっくりと来る言葉だった。

 メジロマックイーンが怪しがりながら、表情を顰めた。

 しかし麻真はメジロマックイーンの態度を特に気にも止めず、訊いていた。

 

 

 

「一昨日、ガキンチョとお前がレースした時、スタートの時に妙なことしてたな?」

「……その話、今する必要あります?」

「良いから、答えろって」

 

 

 

 どうにも答えさせたいらしい。麻真の珍しく強引なところを見せられて、メジロマックイーンは渋々と答えることにした。

 

 

 

「妙なこと……ですか?」

 

 

 

 しかし麻真の問いに、メジロマックイーンは思い当たる節がなかった。

 トウカイテイオーとレースした際、スタートの時に自分は何が変なことをしたのだろうか?

 しかし考えても、メジロマックイーンにはそんな行動をした覚えなどひとつもなかった。

 

 

 

「両手を合わせて、お祈りみたいに顔に近づけるアレだ」

「あぁ、アレですか?」

 

 

 

 そこで麻真がそう言ったことで、メジロマックイーンもようやく思い当たった。

 麻真はメジロマックイーンに“その行動”の自覚があることを察すると、すぐに追及していた。

 

 

 

「あれをどこで覚えた?」

「別に変なことをしてるつもりはありませんわ。やめるつもりはありませんわよ?」

 

 

 

 指摘されていると受け取ったメジロマックイーンだったが、麻真は首を横に振っていた。

 

 

 

「そう言うんじゃない。単純に気になった」

 

 

 

 なら何故、こんな時に訊くのだろうか?

 レースが終わってからでも良いのにと、メジロマックイーンは思いながら渋々と答えた。目を僅かに伏せ、過去の記憶を思い返しながら。

 

 

 

「かなり昔のことで私もあまり覚えてないんですが……昔誰かに教わったモノですわ。緊張を解すおまじないと言われましたの。今では、もう私の癖みたいなモノになりましたけど」

 

 

 

 両手を合わせて、顔の前でお祈りのように近づけてから深い深呼吸。それがメジロマックイーンのレース前のルーティンだった。

 いつから始めたのかは、メジロマックイーン本人ですら覚えていない。誰かに教わったこととその行為の意味だけしか、彼女は覚えていなかった。

 

 

 

「そうか……そういうことか」

 

 

 

 メジロマックイーンの答えに、麻真が目を細めて何か納得したように頷いた。

 

 

 

「なにかありまして?」

「いや、大したことじゃない」

「いえ、気になりますわよ? その反応は?」

「別に気にするなって。じゃあ折角だから、ここでやってみてくれ」

「一体、さっきからなんですの……?」

「良いから、ちょっと気になったことがあっただけだ」

 

 

 

 怪訝になりながらも、メジロマックイーンは溜息を吐きながら麻真の要望通りにした。

 麻真の前で呼吸を整えて、そっと両手を合わせる。そして顔の前まで合わせた両手を近づけて、まるで祈るような形を作る。

 気持ちを整えるような感覚を覚えながら、一度だけ深い深呼吸。それをすれば、メジロマックイーンのレース準備が終わる。

 しかしどうしてか、何故か“手の震えが止まらない”。だが、それでも今から走る準備はできている。そう思うと、メジロマックイーンは深い深呼吸をしていた。

 

 

 

「それっ」

 

 

 

 ふと、麻真の気の抜けた声と共に――バチンッと何かを叩く音が響いた。

 

 麻真が何かを叩いたのだろうか?

 

 そんなことを考えたのも束の間、その音と共にメジロマックイーンの両手から“鋭い痛み”が全身を駆け回った。

 

 

 

「いっっったいですわッ‼︎」

 

 

 

 あまりにも唐突に感じた両手の激痛に、メジロマックイーンは尻尾を逆立てた瞬間だった。

 

 

 

「いきなりなにするんですのッ‼︎」

 

 

 

 犯人など一人しかいない。目の前で両手を広げて楽しげに笑っている麻真に、メジロマックイーンは目を吊り上げていた。

 麻真はけらけらと怒るメジロマックイーンを見ながら一頻り笑うと、呆れたような苦笑を見せた。

 

 

 

「手、震えてるの止まっただろ?」

「えっ……?」

「自覚なしか? まぁ良い、それで少しはマシになったぞ?」

 

 

 

 そして麻真にそう告げられて、メジロマックイーンはキョトンと呆けた表情を作っていた。

 確かに何故か自分の手は震えていた。先程、手を合わせた時に自覚したが、それを麻真に指摘されるとはメジロマックイーンは思ってもいなかった。

 思わず、ヒリヒリと痛む両手をメジロマックイーンが見つめる。いつの間にか震えていた手には、先程まであった震えが止まっていた。

 

 

 

「俺はお前のトレーナーだ。一応、お前のことはちゃんと見てるんだからな?」

「叩く必要ありました?」

「緊張を解す為の俺からの激励だ。素直に受け取れ」

 

 

 

 そんなことで叩かれるのは堪ったものではない。叩かれる側は良い迷惑である。

 レースが終わったら、この人の頭をかち割ろう。メジロマックイーンは心の中でそう決意した。

 しかし確かに先程まで背筋に走っていた寒気と、手の震えは止まっていた。

 

 

 

「なら、今はそう受け取っておくことにしますわ」

 

 

 

 メジロマックイーンは赤くなった手の甲を一瞥して、溜息を吐きながら呆れた笑みを浮かべていた。

 麻真が手を雑に振って早く行けと催促する。それを見たメジロマックイーンは肩を小さく竦めると、彼に背を向けていた。

 先にあるレース場への入場口を見据えながら、メジロマックイーンは一歩前に進んだ。

 

 

 

「それでは行って参りますわ。私が誰よりも速くゴールする姿を、しっかりと見てもらいますわよ」

「ちゃんとスタンドから見てるから安心しろ」

 

 

 

 メジロマックイーンが歩きながら告げた言葉に、麻真がそう答える。

 

 

 

「気抜いて怪我すんなよ……それと思い切り、楽しんで来い」

 

 

 

 無意識に、メジロマックイーンが立ち止まった。思わず、顔だけ振り返ると麻真は既に背を向けて歩いていた。

 本当に素直じゃない人。メジロマックイーンはそう思いながら、入場口に歩き出す。

 しかし麻真の言葉に、返事をしない訳にはいかない。メジロマックイーンは歩きながら、自身の柄ではない大きな声で麻真に向けて答えていた。

 

 

 

「……はいっ‼︎」

 

 

 

 そして、メジロマックイーンは入場口からレース場へと歩き出していた。

 メジロマックイーンがレース場に出たことで、会場の喧騒が大きくなるのが分かる。

 麻真はその喧騒を聞きながら、ゆっくりと歩いていた。

 

 

 

「アレがあのおまじないの本当の使い方だ。マックイーン」

 

 

 

 その呟きは、メジロマックイーンには届かなかった。




読了、お疲れ様です。
毎回、悩みながら書いてます()

次回、レーススタートです。
今回は今回のレース概要とメジロマックイーンのとある仕草について。
一応、頑張って書きましたが不備があったらごめんなさい。
それとアプリの話ですが、マックイーンはレース前にこれをやってます。気になった方は見てみてください。
何故、麻真がこれを聞いたのかも後々に分かる日が来るかもしれませんね。


それではまた次回にお会いしましょう。
感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ、作者は頑張ると思います。
前回、沢山の評価を頂き、感謝です。素直に嬉しかったです。
そして誤字脱字修正をして頂いた方々、ありがとうございます。至らぬ作者ですいません。


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4.導く道の先には

 

 

 

 

 地下バ道を抜けて、入場口からメジロマックイーンが本バ場に出ると、そこには騒がしい喧騒が響いていた。

 会場内のメインスタンドと呼ばれる観客達がいる場所から、大勢の人達の声が聞こえる。本バ場に出たメジロマックイーンが立ち止まって後ろを一瞥すると、大勢の人間が自分へ視線を向けているのが分かった。

 

 

 

『続きまして、本バ場に入場したのは二番人気メジロマックイーン』

『本レースの注目されるウマ娘の一人です。数年振りに帰ってきたチーム・アルタイルに所属している彼女の走りにはとても注目です』

 

 

 

 メジロマックイーンがレース場に現れた瞬間、レース会場内のアナウンスから声が響く。

 自分の名前が聞こえて、今から本当に自分がこの場で走るのだと再確認してしまう。メジロマックイーンは、自分の心臓が大きく高鳴ったのを感じていた。

 今までは観客としてレースを見ているだけだったが、今回は違う。今日は、自分がこのレース場で走る側に立っている。初めて感じる本場のレース場の熱気に、メジロマックイーンの中には自然と高揚感が募っていた。

 勿論、緊張はしている。しかし両手の甲に感じるヒリヒリとした痛みが、不思議と“ソレ”を和らげているような気がした。

 メジロマックイーンがそっと右手を胸の前まで上げて、ほんのりと赤くなった手の甲を見つめる。不本意だとは思いながらも、彼女は小さく笑みを浮かべた。

 

 

 

「……後で絶対にやり返してさしあげますわ」

 

 

 

 そう呟いて、立ち止まっていたメジロマックイーンは駆け出していた。

 自分の目の前に広がる初めてのコースの景色。いつも見ているトレセン学園の練習場とは違う。初めて走るコースが、メジロマックイーンの視界に広がっていた。

 このレース場で自分がどこまで走れるのか、メジロマックイーンはそう思いながらレースが始まるのを待ち遠しく思ってしまう。しかしそうは思っても、その為の準備は怠る訳にはいかない。

 レース開始のゲートインまで、残り十五分程。それまでに自分がやらなければならないことは多くある。そのことは事前に麻真から耳にタコができるほどメジロマックイーンは言い聞かせられていた。

 まずはレースに向けて、身体を温める為にウォーミングアップ。温まっていない身体では自分の能力が十分に発揮できないことは麻真から教わり、メジロマックイーン自身も十分に理解している。

 ジョギング程度の速さでメジロマックイーンがコースを走っていると、先にレース場に出ていたウマ娘達がゲートインの時間までレースに向けた最終準備を緊張した表情をしているのが見えた。

 

 

 

『最後に本バ場に姿を現すのは、一番人気ハギノレジェンド』

『今日、一番注目されているウマ娘です。どんな走りを見せてくれるのか注目です』

 

 

 

 そうしてメジロマックイーンが駆け出して僅かも経たずに、そのアナウンスの声と共に一人のウマ娘が姿を現した。

 長い鹿毛を靡かせて、自信に満ちた表情でレース場に現れたウマ娘“ハギノレジェンド”。

 そのアナウンスの声が聞こえて、思わずメジロマックイーンが入場口に立つハギノレジェンドを一瞥してしまう。

 メイクデビュー戦ということもあり、初めて公式レースに出場しているウマ娘達のほとんどが強ばった表情で緊張している中で、ハギノレジェンドは平然とした表情でレース場を駆け出していた。その姿は、まるで緊張などしてないと言いたげに余裕を見せている。

 果たして、一番人気のあのウマ娘は自分よりも速いのだろうか。そんな疑問を抱きながら視界の端に見えた“ハギノレジェンド”からメジロマックイーンが視線を外して、自身のウォーミングアップに集中する為に走ることへ意識を向けることにした。

 とにかく、今はレースが始まるまでに身体の準備を終わらせなければならない。メジロマックイーンはそう自分に言い聞かせて、麻真の指示通りに足を動かした。

 レース開始のゲートインまで身体のコンディションを完璧に近い状態へどこまで近づけることができるのかが、レースの勝敗に大きく左右するのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 レース開始前のゲートインまでには間に合った。

 麻真はそう思いながら地下バ道から移動してレース場内一階のメインスタンドに到着していた。

 コースに一番近い立ち見エリアとなっている最前列側には、大勢の人が集まっているのが麻真から見える。しかし今から始まるレースが人気のある重賞レースではないメイクデビュー戦ということもあることが原因なのか一階メインスタンド内後方に位置する座席エリアには座っている人が僅かに見えるだけだった。

 二階席や三階席を麻真が見上げても、ある程度の席は埋まっているが空席が見えていた。

 それだけ聞けば、それ程多くの人間がレース場に集まっていないと思える。しかし立ち見エリアが埋まっているだけでも実のところかなりの人数がいる。たかがメイクデビュー戦と言っても、ウマ娘の人気が底が知れないと言うところだろう。だが阪神レース場の収容可能な人数が八万人というのを知っていれば、今この場にいる人数も実際は大した数ではないのだが……

 

 

 

「さて……空いてるかねぇ」

 

 

 

 小さく呟いた麻真が、ゆったりとした足取りで一階メインスタンドの後方へと向かう。

 おそらく、この人数なら空いているだろう。そんなことを思いながら麻真が目的の場所まで歩いていくと、既にそこで座っていた人物を見た途端、彼は無意識に眉を寄せた。

 小柄な鹿毛の少女が、席に座って退屈そうに足をパタパタを動かしている。その少女がふと視線を麻真に向けると、彼女は驚いたように目を少し大きくしていた。

 

 

 

「あ、本当に来た」

 

 

 

 麻真が座ろうとしていた席付近に、何故か缶ジュースを飲んでいるトウカイテイオーが座っていた。加えて、その二つ隣にはパドックの時に彼女と一緒にいたシンボリルドルフも座っていた。

 

 

 

「む? あぁ……やはり来てくれた」

 

 

 

 トウカイテイオーの声を聞いて、シンボリルドルフがふと顔を動かして麻真を見た途端、彼女はどこか嬉しそうに頬を緩めた。

 

 

 

「テイオー、だから言っただろう? 麻真さんなら最前列ではなく、ここに来ると」

「……最前列に行ったんじゃないのかよ」

 

 

 

 思わず、麻真が反射的に思ったことを口にしてしまう。

 そんな麻真に、シンボリルドルフは小さな笑みを浮かべていた。

 

 

 

「あなたとレースを一緒に見るなら、ここに居れば来てくれると思っていたんだ」

「お前……俺がこの場所に来るって分かってたのか?」

 

 

 

 予想してなかった二人がこの場にいることに、麻真が顔を顰めつつも自身の疑問を口にする。

 本来、レースを間近で見たいと思うならコースに一番近い最前列付近の立ち見エリアにいるのが普通である。その為、麻真のようなに“意図的”に後方の座席エリアに座る人間は少数派となる。

 トウカイテイオーとシンボリルドルフも最前列付近にいると思っていた麻真の予想が大きく外れた。まさか自分の座る予定だった場所に、この二人がいるとは思ってもいなかった。

 

 

 

「麻真さんのことなら、私ならば“ある程度”のことはお見通しだ。トレーナーのバッチを出せば最前列まで最優先で通してくれるのに、このレース場だと麻真さんが最前列にいることはなかったからな」

 

 

 

 そんな麻真の疑問に、シンボリルドルフが楽しげに笑って答えていた。

 トレーナーという職業はウマ娘を育成する為の資格であることから、その分野に於いて様々な利点が存在する。そのひとつがシンボリルドルフが告げたレース会場での優先権利である。

 トレーナーは担当ウマ娘や好敵手となるウマ娘のレースをしっかりと見る為に、間近でレースを見れる特権を持つ。その権利を行使する為に必要なのが、トレーナーが所有する自身がトレーナーであることを証明する“トレーナーバッチ”の存在である。

 一般観客達はレース会場入場時に、とある説明を受ける。それはメインスタンドの立ち見エリアに於いて、トレーナーからトレーナーバッチを見せられた際、優先して先を譲らなければならないことを指示される。これにより、トレーナーはどんな場合でも最前列まで無条件に入ることが許されている。

 当然であるが、麻真もトレーナーバッチを携帯している。しかし麻真の育成方針ではスーツなどを着ることがない彼にとって、トレーナーバッチをスーツに付けるという一般的なトレーナーのようなことをしていない。

 メジロマックイーンとの練習時は、当たり前のように麻真はジャージを着ている。またトレセン学園内の普段着としては、学園内でトレーナーとしての“最低限の体裁”を保つ為だけの理由で、半袖のワイシャツにスラックスという“相当”ラフな姿でいる。

 

 その時の麻真のトレーナーバッチの行方は、彼のスラックスのポケットの中である。

 

 トレーナーという職業に就くのは、一般的には困難とされている。それは地方と中央に分かれて難易度が大きく変わるが、トレーナーライセンスの獲得に必須とされている試験の突破率が異常なまでに低いことから、世間ではそう言われている。

 それ故に、トレーナーライセンスを獲得した人間の多くは、少なからずトレーナーという仕事に誇りを持つ。それが顕著に現れるのがトレーナーバッチの扱い方である。大抵のトレーナーは、このバッチを大切に扱うのか普通である。

 そんな本来大切にするはずのトレーナーバッチを麻真が雑に扱っている。それは他のトレーナーが知れば小言のひとつも受けそうな話だが、トレーナーを辞めたいと思っている彼としては実にどうでも良い話だった。

 麻真がバッチを携帯している理由は、トレーナーとしての身分を証明する為とトレーナーが行使できる利点を使う為だけというトレーナーらしくない考えだけだった。

 追加で補足する点があるとすれば、麻真がバッチを雑に扱うようになったのは、彼がトレーナーを辞めたいと思うようになってからであり、以前は違ったという点だけだろう。

 

 

 

「最前列だと“見えにくい”からな」

「でもカイチョー? 前の方に行かないって分かってるだけで、なんで麻真さんがここに来るって分かったの?」

 

 

 

 トウカイテイオーのその疑問は、麻真も同感だった。先程のシンボリルドルフの話だけでは、麻真自身が最前列に行かないということしか分からない。それだけの情報では、麻真がメインスタンドの後方の座席に来ると予想することは難しいと思える。

 シンボリルドルフもトウカイテイオーの言いたいことを理解したのだろう。彼女は納得したように一度頷いて、答えていた。

 

 

 

「それは簡単なことだ。この阪神レース場は最前列だとコース全体が見え難いと麻真さんが思っているからだよ。それ故に、席が空いていればゴール板から一直線位置にある後方の席に麻真さんがいることが多い。この位置ならばレースの動き全体が見えることができて、ゴールラインもしっかりと見える」

「他のレース場だと、麻真さんはどこにいたの?」

「それはレース場によって変わるな。勿論、最前列にいることもあったから麻真さんはそのレース場で一番見やすい場所を選んでいるんだ」

「……そうなんだ」

 

 

 

 シンボリルドルフの説明を聞いて、トウカイテイオーは呆気に取られた顔を見せる。

 単にレースを見るということだけに、そこまで見る場所を考えたことなどトウカイテイオーにはなかった。安直に最前列で見るのが一番見やすいと彼女は思っていた故の反応だった。

 

 

 

「そうは言っても、決してレースが見えないわけではないんだ。本来ならこの阪神レース場の最前列も“見えにくい程度”だ。他のトレーナーも気にしないことが多い。だが、麻真さんはそれでも嫌厭するんだ」

「嫌がる……? 麻真さん? なんでそんなに見る場所にこだわるの?」

 

 

 

 シンボリルドルフの話を聞いて、自身の疑問をトウカイテイオーが麻真へ素直に向ける。

 その疑問に、麻真は全てを話すのは面倒と思いながら簡単に答えることにした。

 

 

 

「担当してるウマ娘のレースで、見なくてもいい場面なんてレース中にあるわけないだろ。特に走るフォームなんてレース状況で勝手に変わる。それを把握するのが、俺の役目だ」

「……どういうこと?」

「それは自分で考えてみろ」

「えぇぇ! 教えてよ!」

「担当してないウマ娘に、そこまで教える義理ないっての」

「それなら麻真さんがボクのトレーナーになってよ!」

「だから何度も言わせるな。マックイーンに勝てたら考えてやる」

 

 

 

 伝家の宝刀と言わんばかりに、トウカイテイオーを黙らせられる言葉を麻真が使う。

 相変わらず返す言葉がないのか心底悔しそうにするトウカイテイオーを見て、シンボリルドルフは苦笑していた。

 トウカイテイオーに説明しない麻真を見る限り、おそらく彼は単に説明するのが面倒なのだとシンボリルドルフは察していた。

 その為、シンボリルドルフは苦笑しつつも面倒そうにしている麻真の代わりにとトウカイテイオーへ説明することにした。

 

 

 

「走る時に自分のフォームを練習で正しく維持するのは当然だが、レースになれば話が変わるんだ。レース中の自分の周りを走るウマ娘達の圧力やレースの展開内容で、私達ウマ娘の心理状態は変わる。それによって、無意識の中で走るフォームに僅かながらも変化が起きるんだ。それを麻真さんが把握する為に、担当しているウマ娘のレースをしっかりと一番見やすい場所で見てくれているんだ」

 

 

 

 それは麻真の個人的な考えだった。今、三人がいる阪神レース場でレースを観戦する際、立ち見エリアの最前列ではコース全体が把握しにくくレースが見えにくいと彼は思っている。

 担当しているウマ娘のレースを見るのは、トレーナーとしての責務である。それに加えて麻真の場合は、担当しているウマ娘の走り方を終始見届けるようにしている。その理由は、レース中の走り方に誰よりも注目しているという彼らしい考えだった。

 練習とは違い、レースでは他のウマ娘がいる。レース中の担当ウマ娘の心理状態やレース状況により、少なからずその走りに変化が起きる。

 その変化を、麻真は特に注目して見ている。周りに囲まれて動揺を見せて走り方が乱れることもあれば、周りの状況を把握できずに自分の走りができないなど言い出せばキリのない変化がレース中に起きることが多い。

 それを把握すれば今後の走り方やレースの対策として活かせる。それはどのトレーナーもしていることだが、麻真の場合は走り方に関する指摘を担当ウマ娘に与えることが多いだろう。

 

 そんな多くの対応を適切に行う為には、担当しているウマ娘のレースを始まりから終わりまでしっかりと見届ける必要があった。見なくて良い場面などレース中にはあるわけがないと。

 

 その為、レースは一番見やすい場所で見なくてはならない。それ故に、麻真はこのレース場では敢えて後方の座席エリアに座ることがほとんどだった。

 

 

 

「走り方、そんなに変わるものかなぁ……?」

 

 

 

 シンボリルドルフの話を聞いて、トウカイテイオーが納得できないと怪訝に傾げてしまう。

 麻真はそんなトウカイテイオーを見ると、呆れたと溜息を漏らしていた。

 

 

 

「そんなんだから、お前はまだまだひよっこなんだ。あぁ……そうだった。まだデビュー前のお前には分からない話だったな。これは俺が悪かった」

「むっ……!」

 

 

 

 明らかにバカにされている。そう受け取ったトウカイテイオーが不服そうに頬を膨らませた。

 しかし麻真は不満を訴えてくるトウカイテイオーの視線を軽く受け流す。そしてこれ以上構うのは面倒だと威圧してくる彼女に取り合うこともなく、飄々と放置していた。

 

 

 

「それにしても、ルドルフ。お前、よくそこまで分かったな。今までそのことを俺は一度も話したことなかったぞ?」

 

 

 

 今だに睨んでいるトウカイテイオーを無視して、麻真がシンボリルドルフに心底意外だったと告げる。

 シンボリルドルフも、そう話し出した麻真がこれ以上はトウカイテイオーに構わないことを察したのだろう。麻真の性格を知っている彼女は肩を竦めて呆れながら、答えることにした。

 

 

 

「私のレースが終わる度に、フォームの矯正を過去に何度もされたんだ。練習の時になかった指摘が出てくれば、あなたがどこからそのことを知ったか私も考える。それを考えれば、嫌でも分かるようになったよ」

 

 

 

 過去の自身の経験からシンボリルドルフは“そのこと”に気づいていた。

 まだジュニア級だった頃から数々の指摘を自分のトレーナーだった麻真から受けてきたシンボリルドルフだからこそ、その原因を考え、そして答えに辿り着いていた。

 

 

 

「俺のレースを見る場所のこともそうだが、よく見てるもんだ。全く……」

 

 

 

 昔から知っていたが、相変わらず賢いウマ娘である。シンボリルドルフの頭の良さに、思わず麻真は苦笑していた。

 

 

 

「麻真さんが私のトレーナーだった頃、レース場で何度か走れば察するさ。特にこのレース場の時だけ、決まって麻真さんが同じ場所にいるのを私は探して何度も見ているんだ」

 

 

 

 何食わぬ顔で平然と恐ろしいことを口走っていたシンボリルドルフに、麻真が顔を引き攣らせた。

 自分の大事なレース前に本バ場で自分のトレーナーが観客席のどこにいるか探す時間があるなら、他にやるべきことがあるだろう。ウォーミングアップなどを行う大事な時間に、まさかシンボリルドルフがそんなことをしていたとは麻真も思ってすらいなかった。

 

 

 

「今まで大事なレースの時にお前がどこに座ってるか分からない俺を探してたことに、俺は心底驚いてるよ」

「自分の走るレースを自分のトレーナーがどこで見ているか、私達はとても気になるんだ。それはあなたも少しくらいは察してほしいところだ」

「そういうものか……?」

 

 

 

 納得できないと麻真が眉を寄せる。トレーナーの身としては、いまいち理解できない話だった。

 別にレースを見ていないわけではない。事実として、間違いなくレースは見ている。その事実があれば特に問題はないと麻真は思ってしまう。

 しかしウマ娘側の気持ちは違うらしい。トレーナーがどこで見ているか気になるというその気持ちは、麻真には理解できそうになかった。

 仮に自分がレースに出る立場だったなら、その気持ちは分かるのだろうか。そんな夢物語のようなことを考えるが実に“くだらない妄想”だと一蹴して、麻真は戯けるように肩を竦めていた。

 

 

 

「まぁ、その話はこれくらいでいいだろう。とりあえず、もうすぐレースが始まるから麻真さんもいつまでも立っていないで座ると良い。その為に場所も空けていたからな」

 

 

 

 そう言って、シンボリルドルフが隣の席に視線を向ける。トウカイテイオーと挟むように開けられた空席を、麻真は額の皺を寄せて見つめた。

 

 

 

「お前達の間に、俺が座れと?」

「それに何か問題があると?」

 

 

 

 別に嫌などと言うわけではないが、何故わざわざ二人の間に座らなければならないのだろうか。

 子供二人に大人が挟まれる姿も、中々に滑稽である。麻真はそう思いながら断ろうとするが――シンボリルドルフの今までの経験を考えると頑なに座らせようとしてくるだろう。それを断るのもまた面倒だと思うと、彼は渋々と了承の意を伝えて、二人の間の空席に座ることにした。

 麻真が席に座ると、彼の右隣に座っていたシンボリルドルフが嬉しそうに笑みを浮かべる。しかし左隣では、トウカイテイオーが今だに睨むように麻真を見つめていた。

 

 

 

「……まだ何か言いたいことでもあるのか?」

「べっつにー! 絶対、マックイーンに勝って麻真さんにトレーナーにやってもらうから覚悟してよ!」

 

 

 

 別にと答えていたのにも関わらず、隠し切れていない。それを見るとまだまだトウカイテイオーも子供だなと麻真は思ってしまう。

 だが、トウカイテイオーの年齢を考えれば当たり前のことだろう。

 

 

 

「頑張ってみろ。楽しみにはしておいてやる」

「絶対、麻真さんにぎゃふんって言わせるからね!」

 

 

 

 今日日、なかなか聞かない台詞である。そんな言葉がトウカイテイオーの口から出てくると思わなかった麻真が小さな笑みを漏らす。

 しかしそんな麻真の心情など知らず、言いたいことを言えたのかトウカイテイオーは満足そうに胸を張っていた。

 やはり見れば見るほど、子供である。トウカイテイオーの仕草や行動を見て、やはりメジロマックイーンとは正反対だと麻真は思っていた。

 ある意味では、正反対の二人だからこそ互いを意識してしまうのだろう。性格も、走りも、麻真から見れば、二人は正反対のウマ娘なのだから。

 

 

 

「そうだ! ねぇねぇ! 麻真さん!」

 

 

 

 先程までの不満はどこかへいなくなったのか、驚くほど平然とトウカイテイオーが麻真に話し掛けていた。

 感情の切り替えが早い。そう内心で思いつつ、麻真が顔をトウカイテイオーに向けた。

 

 

 

「……なんだ?」

「パドックの時に聞きそびれちゃったけど、あの一番人気のウマ娘ってどうだったの? 今さっき出てきた時、すっごい自信満々な感じだったよ?」

「一番人気……?」

 

 

 

 何を聞かれると思えばそんなことかと、麻真がトウカイテイオーに言われた“一番人気”のウマ娘を思い出す。

 本バ場入場は見ていないが、パドックの時はレースに出場するウマ娘を麻真は全員確認している。

 そして頭に浮かんだ一番人気の鹿毛のウマ娘のことを麻真が思い出して、トウカイテイオーに答えていた。

 

 

 

「あぁ、あのウマ娘か……あれなら問題ない。今のマックイーンなら気にすることもないだろうさ」

 

 

 

 一番人気のハギノレジェンドという名前の鹿毛のウマ娘。確かにパドックの時、麻真から見る限りでは今から始まるメイクデビュー戦に出場するウマ娘の中で、能力は確かに上の方になるだろう。

 しかしそれは全員がデビューしたばかりのウマ娘を比較対象とした時である。今回、その中にメジロマックイーンがいれば話は全く変わってくる。

 

 

 

「あのウマ娘、多分トレーナーにやる気の出ることでも言われたんだろう。メイクデビューで自信のあるウマ娘なんて時々いるからな」

「……マックイーンが負けるかもとか、少しくらい思わないの?」

「俺は自信のある奴がいるって言っただけだぞ? それくらいのことでマックイーンに負ける要素なんてあるわけないだろ?」

 

 

 

 パドックでハギノレジェンドが出てきた時のことを麻真が思い出しながら、そう告げる。

 あの時、明らかに他のウマ娘達よりも件のウマ娘は自信に満ちた表情を見せていた。レースで間違いなく勝てるという確信を持ってパドックに出てきているのは一目瞭然だった。

 しかしやる気があるだけでレースに勝てるわけではない。確かに身体のパフォーマンスを最大限に発揮するのに調子の良し悪しが大きく影響する。だが今回のレースに関しては、それ以前の話であった。

 

 

 

「別に悪く言うつもりは微塵もないけどさ……麻真さんってよくそこまでマックイーンのこと信じられるよね」

 

 

 

 メジロマックイーンが負けることなど考えてすらいない麻真の態度に、トウカイテイオーが呆気に取られてしまう。

 しかし麻真の考えは、そう言う話ではなかった。トウカイテイオーの話していることは、彼からすれば見当違いの話だった。

 

 

 

「信じる信じないって話じゃない。それが結果ってだけだ」

「……結果?」

 

 

 

 トウカイテイオーが意味が分からないと怪訝に顔を顰める。

 しかし結局のところ、それが麻真の答えでしかなかった。

 メジロマックイーンを信じるから勝てるや信じないから負けるではなく、最終的に結果としてレースに勝つということを麻真が確信している以上、信じる信じないという話には全く意味がないだけなのだから。

 

 

 

「ふふっ……実に麻真さんらしい答えだ」

 

 

 

 困惑するトウカイテイオーだったが、麻真の先程の返答を聞いてシンボリルドルフが楽しげに笑っていた。

 その態度で、トウカイテイオーは麻真の話した言葉の意味をシンボリルドルフが理解していると察した。

 

 

 

「もう! ボクに分からない話を二人で話さないでよ!」

 

 

 

 また二人だけで分かり合っている状況に、トウカイテイオーは我慢できないと耳と尻尾を逆立てる。

 麻真は特に説明する気もないのか、失笑に近い笑みをトウカイテイオーに向ける。

 しかしシンボリルドルフはくすくすと一頻り笑ったところで、トウカイテイオーに「すまないな、悪気はないんだ」と謝罪していた。

 

 

 

「レースを見れば、すぐ分かるよ」

「もう! またそれ⁉︎」

 

 

 

 何度も聞いたシンボリルドルフの答えに、トウカイテイオーが辟易する。

 だが、シンボリルドルフは微笑ましく頬を緩めるとトウカイテイオーに話していた。

 

 

 

「テイオー、レースに絶対はないのは知ってるな?」

「それくらいは知ってるけど?」

 

 

 

 レースに絶対はない。何が起こるか分からないのがレースである。そんなことはトウカイテイオーも十分に理解している。

 

 

 

「でもカイチョーは絶対レースに勝つウマ娘だって、ボクは知ってるよ?」

「ははっ、そう言ってくれるのは嬉しいが、それは私の力じゃない」

「……えっ?」

「このレースで、テイオーも知ると良い。北野麻真というトレーナーが導く道の先には、絶対という言葉があることを」

 

 

 

 どこか誇らしげに、シンボリルドルフが告げる。

 だが、トウカイテイオーはその言葉の意味が分からないと眉を寄せていた。

 

 

 

「ルドルフ、俺を変に持ち上げるな。俺は所詮はトレーナーだ。レースに勝つのはお前達で、今まで勝てたのはお前達の才能と努力が実っただけ、それだけの話だ」

「今の私がいるのは、あなたが居てくれたお陰だと私は心の底から思っている。ただ、それだけだ。麻真さん」

 

 

 

 呆れて肩を落とす麻真に、シンボリルドルフが笑みを見せる。

 そんな二人を見て、トウカイテイオーは二人の間にある妙な雰囲気に怪訝な表情を作っていた。




読了、お疲れ様です。

次回、メイクデビュー戦スタートです。
今回の話は一番人気のウマ娘の話と麻真達三人の話。
こんなに長くなる予定はなかったんですが……いつの間にか文量が多くなってしまいました。

一番人気のウマ娘に関しては、色々と悩みましたがメジロマックイーンの史実の初レースから一部参考にしています(色々と変更点を加えていますが)。また出番としては少ないですがお許しを。

色々と指摘点があるかと思いますが、何かあればご指摘ください。

感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ、今後の励みになります。


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5.歩幅を半分に、足の回転を早く

 

 

 

 

(そう言えば……私のレース、麻真さんはどこで見てますの?) 

 

 

 

 ウォーミングアップをしている最中に、ふとメジロマックイーンはそんな疑問を抱いた。

 

 自分のトレーナーである北野麻真は、自分のレースを観客席のどこで見ているのだろうかと。

 

 担当ウマ娘のレースをトレーナーが見るのは当たり前である。しかし自分の担当ウマ娘がレースに勝つことを信じて疑ってすらいないあの麻真なら、結果の分かりきったレースなど見ないとでも言い出しそうな気がしてならない。

 

 本バ場をゆっくりと走りながら、メジロマックイーンが麻真の姿はどこかと観客席に視線を向けるが……この会場に集まっている大勢の人間達を見ると、たった一人の人間である麻真の姿を探すは困難だと思ってしまった。

 もし麻真がレースを見る場所を予想するなら、おそらく最前列だろうか。そう思ってメジロマックイーンが視線を動かして探してみるが、どうにも彼の姿を見つけることができなかった。

 メジロマックイーンの視力は、かなり良い方である。観客席の最前列で麻真の姿を見つけられないということは、立ち見エリアの人の群れの中に紛れているのか、もしくは観客席後方の座席にでも座っているのだろう。

 

 

 

「まったく……」

 

 

 

 こと“走り”に関してだけは人一倍細かい配慮を欠かさず行うのに、相変わらず“そういうこと”には無頓着で自分勝手なトレーナーである。堪らず、メジロマックイーンが溜息を漏らしていた。

 出会ってから何度もデリカシーがないことを指摘しても、一向に変わることのない麻真にメジロマックイーンはうんざりしてしまう。

 このレースが終わったら、担当ウマ娘にレースを見る場所くらい初めから教えることを絶対に言い聞かせよう。メジロマックイーンはそう決心して、後で麻真の脛を蹴り飛ばそうと決意した。

 

 

 

『レース開始時間まで、残り僅かです。レースに出走するウマ娘はゲート前に集合してください』

「……もうそんな時間ですの?」

 

 

 

 そんなことを考えながらメジロマックイーンがウォーミングアップをしていると、いつの間にかゲートインの時間になっていた。

 アナウンスからゲート前に集合を促されて、レース出場のウマ娘達が続々とコース上に設置されたゲートへと向かっていく。

 本バ場に入場してからレース開始まで十五分という短い時間だったがレースに向けた準備を終えて、全員が緊張した面持ちでゲート前へと集まっていた。

 しかしその例外として、ゲートに向かい合うメジロマックイーンの表情は平然としたモノだった。

 開かれた自分が入ることを待っているゲートを見つめて、メジロマックイーンが自分の胸の前で思わず拳を握り締めた。

 

 

 

(遂に始まりますのね。私の……初めての公式レースが)

 

 

 

 これからレースが始まる。その時間が近づいていることを実感してしまう。

 そんな気持ちでメジロマックイーンがゲートを見つめていると、ふと唐突に胸を鷲掴みにされたような感覚が彼女を襲っていた。

 しかし、それがレースに対する恐怖ではないことメジロマックイーンは不思議と察していた。自分の足が竦むようなこともなく、むしろ正反対に心が高揚しているくらいだった。

 それなのにレースの時間が迫るにつれて、麻真の“有難い”おまじないのお陰で収まっているはずだった身体の震えが僅かに戻っているような感覚があるはどうしてだろうか?

 

 

 

「調子が悪いはずありませんのに……」

 

 

 

 そわそわと震えている自分の身体に、思わずメジロマックイーンが呟いてしまう。だが、それも違うと彼女は直感していた。

 ウォーミングアップの時も、間違いなく身体の動きに問題はなかった。身体が温まる程度に軽く走って、麻真と練習していた時と同じ感覚が身体にある。不調ではない、むしろ身体の調子は良い。

 ならば、この震えはどうしたのだろうか。身体も、気持ちも、怖気づいてなどいない。一向に収まることのない自分の身体の僅かな震えに、メジロマックイーンは首を僅かに傾げていた。

 

 

 

『レース会場まで、残り一分です。ゲートに集まっている各ウマ娘はゲートインをお願い致します』

 

 

 

 メジロマックイーンがそう考えているうちに、アナウンスからゲートインを促される。

 アナウンスの声が会場に響いてから二拍程の後、静かになったレース会場内にレース開始を告げるファンファーレが鳴り響いた。周りにいたウマ娘達が、その音と共に続々と各々のゲートへと入っていく。

 いつまでも呆けている場合ではなかった。自分も、ゲートに入らなければ。ゲートインするウマ娘を横目に、メジロマックイーンも自身の割り振られたゲートへと足を動かしていた。

 六枠六番。自分の割り振られたそのゲートに、メジロマックイーンが向かっていく。

 開かれたゲート内にメジロマックイーンが入ると、早々に開かれていたゲートが彼女の背後で大きな音を立てて閉じられる。

 過去にトレセン学園で何度も入ったことのあるゲートだが、この窮屈さには慣れそうにもない。徐にメジロマックイーンが顔を左右に動かせば、他のウマ娘達は真剣な眼差しで前を見据えていた。

 

 

 

『美しい青空が広がる阪神レース場! 天候に恵まれ、ターフは良バ場となりました!』

 

 

 

 ファンファーレの音が終わり、アナウンスの声が会場内に響く。レース開始時間まで、残り時間は本当に僅かとなった。

 

 

 

「……集中、しないといけませんわ」

 

 

 

 自分も、他のウマ娘と同じようにレースに集中しなければならない。そう思うと、自分の胸の前でメジロマックイーンが両手をそっと合わせていた。

 レーススタート前に自分が必ず行なう、もはや自身のルーティンと言っても差し支えない所作。幼い頃から行なっている慣れ親しんだ動作は、まるでスイッチのように自分の気持ちを切り替えてくれる。

 走ることだけに意識を強制的に向ける為の“おまじない”。これをいつから始めたのか、メジロマックイーンは覚えてすらいない。

 だが、これは“誰か”に幼い頃に教わったモノだということだけ、彼女は朧げに覚えていた。今更、彼女はそれを思い出したいとも思っていない。誰に、どのように、どこで教わったかなど彼女にはどうでもいいことだった。

 胸の前で合わせた両手に、メジロマックイーンが祈るように頭を少し下げた。

 

 

 

「すぅ……はぁ……」

 

 

 

 一度だけの、深い深呼吸をゆっくりと行う。それがメジロマックイーンのルーティンに、終わりを告げる。

 その瞬間、カチリと頭の思考が切り替わった。それにより先程まであった雑念が綺麗に消え去り、メジロマックイーンの意識が走ることだけに向けられていた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 走ることだけに意識を集中させたメジロマックイーンが、構える。

 

 

 余計なことは、考えなくていい。

 ただ走ることに、勝つことだけに意識を向ける。

 今から自身が見据えるのは、前だけ。

 そしてこのゲートの先にある、ゴールへと。

 

 

 レース開始のゲートが開かれる瞬間を、メジロマックイーンはじっと前を見つめて、待つ。

 

 

 

『各ウマ娘、ゲートイン完了。出走準備が整いました』

 

 

 

 アナウンスから、ゲートイン完了の知らせが響く。

 これでレース開始の準備が、全て整った。

 最後に残されたのは、ゲートが開かれるだけだった。

 レース会場に、静かな沈黙が訪れる。会場内にいる全員が、ゲートが開かれるのを見守る。

 

 

 そして遂に――その時が訪れた。

 

 

 沈黙を破るようにガシャンと大きな音を立てて、メジロマックイーンの前にある閉じられたゲートが開かれた。

 

 

 

『レーススタートですッ‼︎』

「ッ――‼︎」

 

 

 

 ゲートが開いた瞬間、メジロマックイーンが駆け出した。

 周りに出遅れることなく、自身でも満足できるスタートだと思いながら、メジロマックイーンの足が芝を力強く踏み締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「スタートはまずまずか、もう少し早く反応させないと駄目だな」

 

 

 

 レースが始まって、すぐに麻真がメジロマックイーンのスタートに小さく肩を落とした。

 長い時間を掛けて色々と準備をしてきたレースだが、昔と変わらず始まってしまえばなんとも呆気ない光景に、麻真がつい苦笑いを見せる。

 

 

 

「……アレでまずまずって本気で言っているの?」

 

 

 

 横で聞こえた麻真の突拍子もない発言に、トウカイテイオーが頬を引き攣らせた。

 トウカイテイオーから見て、レースに出走しているウマ娘達は全員揃って綺麗なスタートをしているように見えた。

 メジロマックイーンの今回のスタートも、何も問題ないスタートだとトウカイテイオーが思ったくらいだった。

 レースを見るのに集中している麻真が驚愕していたトウカイテイオーを一瞥すると、彼は怪訝に眉を寄せていた。

 

 

 

「本気も何も、アレだとまだ遅いだろ? まだメイクデビュー戦だから大目に見てるが、重賞クラスのレースならまだ全然足りないからな?」

「えぇ……」

 

 

 

 一体、この男はメジロマックイーンにどれほどの能力を求めているのか。麻真が求める能力の高さに、トウカイテイオーが呆れてしまう。

 しかしシンボリルドルフを含む有名なウマ娘達を育てたアルタイルのチームトレーナーであった麻真ならそれも当然のことなのだろうと、トウカイテイオーは呆れながらも渋々納得することにした。

 

 

 

「もしかしてボクも麻真さんと担当ウマ娘になったら、それくらいできるようにならないとダメ?」

「勝手に俺をお前のトレーナーにするな」

「必要か必要じゃないか、それくらい教えてよ」

「まったく……」

 

 

 

 トウカイテイオーと話している間、決してレースから目を逸らさない麻真が溜息を漏らす。

 麻真から見て、今のところメジロマックイーンの走りには問題はない。今までの練習通り、彼女の走りに若干の“癖”が出ているが、その点は及第点と言ったところだろう。

 

 

 

「そんなの必要に決まってるだろう。スタートを上手くする技術なんて、どんなウマ娘にもいずれ必要になることだ。それが重賞クラスなら尚更、特に逃げや先行脚質のウマ娘なら必須項目だ。俺はお前のレースを一度しか見てないがマックイーンとレースした時、俺のスタートの声に反応するタイミングは二人とも大体一緒だったな」

 

 

 

 先日の二人のレースを思い出して、麻真が片手間に語る。

 メジロマックイーンとトウカイテイオーのスタートに関しては、麻真から見れば平均的なスタートだった。

 特別に優れたと言えないスタートの時点で、麻真が育てるのならば必然的にそれも強化する項目のひとつとなる。

 逃げや先行などの位置取り争いが激しい脚質なら、早いスタートで好位置を獲得しなければ話にすらならない。

 

 

 

「その言い方ならボクもスタートが上手くならないといけないじゃん」

「音に対する反射神経だけなら、ジュニア級ならまだ良い方だ」

 

 

 

 スタートの上手さが求められるのは、一定のラインを超えた能力を持つウマ娘達とのレースである。トウカイテイオーのジュニア級ならば、彼女のスタートは麻真から見れば“まだ良い方”というのが彼の評価だった。

 

 

 

「ジュニア級ならって今の言葉、すっごいムカつく」

「事実を言っただけだ。勝手にムカついてろ」

 

 

 

 むくれるトウカイテイオーに、麻真が淡白に応えて彼女の顔を見ることもなくレースを見つめる。

 その麻真の態度が相手にされてないと思ったのか、トウカイテイオーは目を吊り上げて彼を睨んでいた。

 そんな怒りを向けられても、麻真は平然とした表情でメジロマックイーンの姿を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

『各ウマ娘、揃って綺麗なスタートを切りました』

『これは位置取り争いが熾烈になりそうです』

 

 

 

 アナウンスから実況と解説の声が会場内に流れる。

 無名ウマ娘達が出走する人気のないメイクデビュー戦だが、観客席にいる人々はウマ娘が好きなのだろう。人気とは言えないレースでも、レース開始と同時に観客席からは大きな声援が響いていた。

 スタート直後、メジロマックイーンの最初の順位は二番目だった。今回は不利とされる外枠からのスタートだったが問題なく外側へ入ることができ、スタート後の先行ウマ娘の位置取りとしては好位置を彼女は獲得していた。

 

 

 

『ここで一番人気ハギノレジェンドが前に出た!』

 

 

 

 コース内側を走るメジロマックイーンの視界に、ひとりのウマ娘の後ろ姿が映った。

 長い鹿毛を靡かせて、ハギノレジェンドが走っていた。他にウマ娘達の姿はなく、単独で先頭を駆ける。

 自身から見えるその情報から、現在のレース状況をメジロマックイーンは即座に推察した。

 

 

 

(逃げは一人。他の方々は私より後ろ、みたいですわ)

 

 

 

 メジロマックイーンから見えるのは、前方から二バ身前にいる逃げウマ娘のハギノレジェンドただ一人。他のウマ娘は自分より前にいない。

 これに加えて、メジロマックイーンが聞こえる周りの足音から察するに、各ウマ娘のスタート直後の位置取りは自身の後方に先行ウマ娘が数人、それ以外の差し、追いウマ娘が更に後方の位置についていると判断する。

 メジロマックイーンの脚質は、先行である。逃げの走りをするウマ娘を前に出やすい位置でマークしつつ、終盤で加速して差すのが一般的な先行脚質の動きである。故に、スタート直後でこのレース展開なら、彼女の位置取りは文句なしの好位置となる。

 だがしかし自分の脚質が先行だと言っても、メジロマックイーンはこの好位置を維持し続けることはないだろうと思っていた。この後のレースの展開を見た人達は、自分の脚質が先行だと思うはずがない。今からこの場で見せる走りは自分で思うのも問題だが……到底、先行とは言われないだろうと。

 

 

 このレースでメジロマックイーンは麻真の指示通り、位置取りやポジションキープなど一切気にしないで走るのだから。

 

 

 唯一レース開始直後に懸念される点があったのは、前に多くのウマ娘が位置取りを行って自身が前に出れないことだったが、いざレースが始まってみれば、その懸念はメジロマックイーンの杞憂だった。

 

 

 

(始まりでこの位置は上々、これなら前を塞がれてませんので加速が問題なくできますわ)

 

 

 

 スタートから初速の加速をメジロマックイーンが終える。走っているこの感覚が確かなら、次の加速を終えるのは第一コーナーを抜けた辺りだろう。

 長い直線を進み、スタート地点から百メートル程度でメジロマックイーンの視界に“大きな壁”が迫る。

 次第に大きくなるその壁を見て、メジロマックイーンは眉間に皺を寄せながら息を呑んだ。

 

 

 

(これが、坂? まるで壁ですわ……!)

 

 

 

 高低差二メートルの高い登り坂。このコースに於ける第一の関門がスタート後のウマ娘達に襲い掛かった。

 

 

 

(壁でも関係ありません! こんな坂、軽々と超えて差し上げますわ!)

 

 

 

 メジロマックイーンが覚悟を持って、坂道に入った。

 一歩、また一歩とメジロマックイーンがいつも通りの走りで坂道を登った瞬間だった。

 坂道を数歩走っただけで、メジロマックイーンが苦悶の表情を見せていた。

 

 

 

(足が思うようにっ……!)

 

 

 

 坂道を登る足に掛かる負荷が、メジロマックイーンの予想よりも数段大きかった。踏み込み、そして前に進む足が数段重くなった。傾斜に対する対応など一切していない従来の走りでは、思うように足が動かせない。

 間違いなく、今まで通りの走り方では思うように前へ進めない。つまり、速度が落ちてしまうこの状態では、この坂道を最速で登れないことを否応なしにメジロマックイーンが理解した瞬間だった。

 

 

 

(これはマズイですわ! 麻真さんの言う通りに走り方をっ――!)

 

 

 

 即座に、メジロマックイーンは走り方を変えることを選んだ。坂道に適した走り方は、既に彼女は麻真から聞いている。

 

 

 

(歩幅を半分に――!)

 

 

 

 そして、メジロマックイーンが走りを変化させる。

 まず、大きく振っていた足幅を小さく振る。その足幅は、本来の足幅からしっかりと半分に。

 

 

 

(足の回転を――早くッ!)

 

 

 

 半分になったあしでいつも通りの足の回転数で走れば必然的に前に進む距離が少なくなり、走る速度が下がってしまう。それ故に、足の回転数は縮めた歩幅に比例して上げる。

 その瞬間、メジロマックイーンの足が驚くほど簡単に前に進んでいた。

 

 

 

(先程まで重たかった足が、嘘みたいですわ)

 

 

 

 ただ足幅と足の回転を変えただけで、前に進まなかった足が嘘のように前に進む。

 走り方ひとつで、ここまで変わるとは。メジロマックイーンも麻真と知り合って何度も理解させられたことだが、こうして体験すると何度も実感してしまう。

 こと走りに関して、やはり北野麻真は全幅の信頼を寄せるに値するトレーナーであると。

 

 

 

(これなら、まだ速く走れそうですわっ!)

 

 

 

 坂道を駆け上がりながら、メジロマックイーンがその走りを自身の足に合った走りへと更に最適化させる。

 この走り方を、少し走っただけでメジロマックイーンは分かった。この走り方に一番必要なのがパワーであることは分かるが、それよりも大事なのは足の回転数だと。

 一歩毎に足へ強い力を込めてしまうと、足を早く動かしにくくなる。歩幅が短くなっている以上、歩数を多くしなければならない。

 芝を踏み締める力は、坂道に対して走る姿勢が崩れない程度だけに留める。だが芝を蹴るインパクトの瞬間だけは、力強く。

 回転を早くしつつ、最低限の力で芝を踏み締め、前に進む為の力は強く。

 

 

 

(まだ速く、もっと速くっ!)

 

 

 

 そしてメジロマックイーンの走りは、更に変化した。坂道を登る為に用いる必須と言われる走法のコツを彼女が掴み取る。

 ピッチ走法――坂道を最速で登る為のその走法を、メジロマックイーンが会得した瞬間だった。

 

 

 

 




読了、お疲れ様です。

メイクデビュー戦、執筆難航中です。
執筆、遅くてすいません。
とても難しくて、頭を抱えてます。

さて、お待たせしました。ようやくレーススタートです。
武者振るいするマックイーン、そして彼女もまたルドルフ達と同じ道を辿る予兆を見せる。そんなお話。

今回はスタートから坂道まで。次でゴールまで行きたい所存です。
メジロマックイーンが麻真と出会って一ヶ月程度、彼女が身につけたモノを全て出すレースにしたいと思っています。

※あらすじを修正しました。あまり気にしないでください。

感想、評価、批評はお気軽に。
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6.予想とかけ離れた光景

 

 

 メジロマックイーンが坂道を駆け上がる姿を見て、麻真は意外そうにしながらも、どこか嬉しそうに頬を僅かに緩ませた。

 レースが始まる前、麻真はピッチ走法の大まかなコツ“だけ”をメジロマックイーンに簡潔に説明していた。その麻真の想定では、このレースで彼女の行うピッチ走法には、大した完成度はないと判断していた。

 練習など一切していない初めて使う走法に完成度など求める訳がない。その点は、流石の麻真も理解していた。その為、このレースで麻真がメジロマックイーンに求めていたのは、ある程度の速度で周りに大きく遅れることなく坂道を登ってくれれば良いという程度のモノだった。

 しかし実際にこうしてメジロマックイーンが坂道を駆け上がる姿を見ると、予想外の光景を前に麻真は素直に目を大きくしていた。

 

 

 

「アイツ、やっぱり賢いな」

 

 

 

 思わず、そう無意識に呟くほど麻真は素直に驚いていた。

 歩幅と足の回転、そして力の使い方も、麻真の想定よりも良い形をメジロマックイーンが作っている。彼女が走り方をピッチ走法に変えた瞬間は、その走りに明らかな“ぎこちなさ”が出ていた。しかしすぐに、そのぎこちない動きは見違えるほど滑らかな形へと変化していた。

 その変化を見て、麻真はすぐに察していた。メジロマックイーンが走りをピッチ走法に変えた瞬間、即座に彼女はその走りを自分の足に適した形へ変えたのだろうと。まさか彼女がトレーナーの手を借りず、一人でピッチ走法を自分用の走りに修正をするなど麻真は思ってもいなかった。

 今日までメジロマックイーンが行っていた練習が良い方向に影響している。自分で考えながら走り方の形を矯正したお陰なのか、ピッチ走法でも自分に合った形へすぐに変化させた彼女の対応力に麻真は素直に感嘆していた。

 だが麻真から見て、メジロマックイーンが今見せているピッチ走法の完成度は正直に言えばまだまだである。まだ練度を上げる箇所など幾らでもある。

 

 

 

「そうか……」

 

 

 

 だが、それでもメジロマックイーンが自分の意思で走りを自分なりに最善の形に変化させようとしたことに、麻真は大きな価値を見出した。

 走り方の矯正とは、一般的に個人だけの力では一朝一夕でできるモノではない。それこそ、長い時間を掛けて変わるモノである。慣れ親しんだ動作を変えることは、並大抵の努力では為せることではない。

 加えて突発的に行っている新しい走り方なら尚のこと、走りながら走り方の矯正などするウマ娘などいない。それがレース中なら尚更である。

 そもそもレース中に新しい走り方をすること自体が稀なのだが……普通ならおぼつかない足取りでも良いから、とにかく転ばずに走ることだけに意識が向く。それを修正しようという意識は、メイクデビュー戦のウマ娘にはまず生まれるはずのない考えである。

 普通なら無意識に恐れるはずだった。自分の足が今より遅くなるかもしれない。そんな不安が生まれ、一番初めに作った形を維持して走ろうと無意識に行動してしまう。

 

 

 その普通から、メジロマックイーンは明らかに逸脱していた。

 

 

 自分の足の使い方を理解していなければできるはずのない行為。自分が“できること”と“できないこと”を把握し、そして現状の中で最善の選択を選ぶという“素質”の価値がどれほど貴重なモノなのか、それを平然と行っているメジロマックイーンは理解すらしていないだろう。

 メジロマックイーンが走りの修正という行為の根本のところには、勿論だが麻真が今まで教えてきたことが根付いている。彼が居なければ、彼女はその判断と行動はできなかっただろう。

 他者から教わり、自分で考え、今の最善の選択を選ぶ。それができる“素質”を持つウマ娘は、本当に稀である。

 トレーナーに言われたことだけを行うウマ娘は、大勢いる。むしろ、それが普通である。そしてそれだけで強いウマ娘は、多くいる。

 しかし教わったことから自身で考えて更に成長し、より良い最善を選ぼうとするウマ娘は、そんなウマ娘達よりも高みに登れる。

 トレーナーが指示したことが全て正解ではない。ウマ娘の身体は、本人しか分からない部分も多い。些細な部分は当人しか分からない点も多い。それらの中で、トレーナーへの反抗ではなく更なる最善の選択を選べるかは、ウマ娘本人しかできない。

 時に、その選択が間違いでも良い。間違いは、誰にでもある。その時は、トレーナーである者が道を正すだけなのだから。

 最善を選び続けようという意思を持つこと。この意思を持っているウマ娘が、強くならない訳がない。

 

 

 

「お前が“それ”をできるなら、この先はかなり楽ができそうだ」

 

 

 

 麻真がメジロマックイーンの“素質”を垣間見て、小さな笑みを浮かべた。

 後々の予定が、大きく短縮されるかもしれない。そんな期待を麻真は抱いた。

 

 

 

「ねぇ? さっきから一人で何をぶつぶつ言ってるの?」

「はっ……?」

 

 

 

 そんな時だった。トウカイテイオーがレースを見ていた麻真に、引き攣った表情を向けていた。

 予想外の指摘をトウカイテイオーから受けて、麻真はそれが自分に向けたモノだと理解するのに僅かな時間を要した。

 

 

 

「……俺、今なにか喋ってたか?」

「マックイーンが坂道登った辺りから小さい声でなんかぶつぶつ言ってたよ? 正直、ちょっと怖かった」

「…………」

 

 

 

 麻真が思い切り顔を顰めていた。トウカイテイオーのその指摘が冗談ではないのは、彼女の表情を見れば一目瞭然だった。

 明らかに引かれている。トウカイテイオーに引かれることはどうでも良いことだったが、麻真が頭を抱えたのは無意識に何かを口にしているという点だった。

 

 

 

「俺が何言ってるか……聞こえたか?」

「そんなの聞こえないよ。なんかぼそぼそ言ってるくらい。それ、麻真さんの癖?」

「やはり知らなかったテイオーには指摘されてしまったか……仕方ない。麻真さんは何かに対して強く集中すると、稀に呟く癖があるんだ」

 

 

 

 その時、何故かシンボリルドルフが麻真の癖を認知しているような発言をしていた。

 麻真が目を大きくする。シンボリルドルフが認知しているということは、自分のその癖が休職する前からあったと言っているようなものだった。

 

 

 

「おい……ルドルフ、いつからだ?」

「それは昔からだ。あなたが私のトレーナーだった頃からあった。勿論、エアグルーヴ達も知ってる」

「嘘だろ……?」

 

 

 

 そしてシンボリルドルフだけでなく、当時のアルタイルメンバーも認知しているという事実に、麻真は驚愕していた。

 

 

 

「ルドルフ? なんでその時、俺に教えなかった?」

「その癖が出る時、大抵は麻真さんが真剣に何かを考えてる時だったから邪魔する訳にもいかないと思ったからだよ。それに……見てて可愛かったからな。別に教えなくても良いかと当時の私達で決めたんだ」

「嫌がらせかよ」

 

 

 

 二年の休職を経て、新しい事実を麻真が突きつけられた瞬間だった。

 つまり、自分は今までレースを見ていた時、勝手に一人で喋っていたことになる。

 実に気味が悪い人間である。流石の麻真も、無意識に呟く癖は不味いと思ってしまった。

 それを可愛いからという理解できない理由で長年放置されていた事実にも、麻真は頭を抱えたくなった。

 

 

 

「今度から気をつけるか……」

「無意識の癖は簡単になくならない。それは麻真さんが一番分かってることだろう?」

 

 

 

 シンボリルドルフから思わぬ追撃を受けて、麻真が唸る。

 麻真が困惑している姿に、シンボリルドルフは満足そうに笑みを見せていた。

 それを見て、麻真はシンボリルドルフが自分に協力的ではないことを察した。

 

 

 

「おい、ガキンチョ。次に俺が何か言ってたら言ってくれ」

「麻真さんがボクのトレーナーになってくれたら言ってあげるよ?」

「……言わなくていい」

 

 

 

 自分でなんとかしよう。麻真はそう決意しながら、肩を落としてレースに意識を向けることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 険しい坂道を登れば残りはゴール前の坂道を除き、平坦な道だった。

 ピッチ走法で坂道を無事登ったメジロマックイーンの現在の順位は、二位を維持していた。

 メジロマックイーンより先を走るウマ娘は、ハギノレジェンド。スタートから坂道を登り切るまで、彼女は先頭を走り続けていた。最初の関門となる坂道も彼女がピッチ走法で駆けていたことはメジロマックイーンも目視で確認している。

 流石は一番人気と言われているだけはある。メジロマックイーンは先頭を維持している二バ身離れたハギノレジェンドの背中を見据えながら第一コーナーへと入った。

 

 

 

(坂道、キツかったですわ!)

 

 

 

 第一コーナーに入って、メジロマックイーンが自身の足を一瞥した。

 足の消耗がいつもよりも大きい。足に予想以上の疲労感があるのをメジロマックイーンは感じていた。しかし、彼女のまだ足は死んだわけではなかった。

 

 

 

(まだ! 走れますわっ!)

 

 

 

 ここで足を止める訳がない。この程度のことで速度を緩める姿など“あの人”に見せられる訳がない。まだ自分の最大速度まで、加速は三回も残っているのだから。

 メジロマックイーンの足が、第一コーナーに入って更に加速した。

 二段階目の加速を、メジロマックイーンが終えた。第一コーナーから第二コーナーに入り、前方のハギノレジェンドとの距離が一バ身まで縮まっていく。

 その時、ハギノレジェンドが背後を一瞥してメジロマックイーンの位置を確認していた。

 

 

 

「ッ――⁉︎」

 

 

 

 背後のメジロマックイーンを見た瞬間、ハギノレジェンドの表情に動揺が走った。

 予想よりも背後にメジロマックイーンが迫っていることに焦ったのか、ハギノレジェンドが彼女と距離を離そうと更なる加速を行う。

 それにより、メジロマックイーンとハギノレジェンドの一バ身まで縮まっていた距離が少しずつ開いていった。

 離れていくハギノレジェンドの背中をメジロマックイーンが見つめるが、彼女はその光景に焦ることはなかった。今はまだ第二コーナーに入ったところ、ゴールまで距離が半分以上残っている。焦るには、まだ早い。

 

 

 

(次の加速は――直線の中間っ!)

 

 

 

 第二コーナーを抜けて直線に入り、先頭を走るハギノレジェンドから三バ身半離れてメジロマックイーンが追い掛ける。

 直線の中間まで走り、メジロマックイーンが三段階目の加速を迎えた。彼女の出せる最大速度まで、残る加速はあと一回となった。

 

 

 

(次で、最後っ!)

 

 

 

 これでメジロマックイーンに残された最後の加速は、自身の経験から第四コーナーの区間と彼女は想定する。

 それまで、最後の加速を終えるまで、この位置を維持していれば自分は先頭のハギノレジェンドへ迫れる。メジロマックイーンはそう思いながら、三バ身半先にいるハギノレジェンドの遠い背中を見つめていた。

 

 そして長い直線が終わり、メジロマックイーンは第三コーナーへ入った。

 

 先頭を走るハギノレジェンドを視界に捉えていたメジロマックイーンが、彼女の走りを見て僅かに眉を寄せた。

 メジロマックイーンの目には、先頭のハギノレジェンドの足運びが先程よりも悪くなっているような気がした。

 

 

 

(まさか……落ちてる?)

 

 

 

 その時だった。前方にいたハギノレジェンドが徐々に速度を落としていた。

 ゆったりとハギノレジェンドとメジロマックイーンとの間に開いていた距離――三バ身半も離れていた距離が縮まっていた。

 第三コーナーの間に二人の距離が二バ身、そして一バ身と縮まっていく。

 そしてメジロマックイーンは、ハギノレジェンドに半バ身まで詰め寄っていた。

 メジロマックイーンは三段階目の加速を終えてから速度を落としていない。その状態でハギノレジェンドとの距離が縮まるということは、単純に彼女の速度が遅くなっていると判断するのは容易だった。

 

 

 

(先程の加速は選択ミスでしたわね)

 

 

 

 ハギノレジェンドの減速の原因を、メジロマックイーンは瞬時に理解した。

 おそらくは、レース中盤に後続が迫っているのを確認して焦って加速した所為だろうと。後続から距離を離したい逃げという位置に固執し、スタミナ管理がおそろかになったハギノレジェンドの選択の答えがコレなのだろう。

 レース中に速度を落としたウマ娘に、メジロマックイーンが情けを掛けるつもりなど毛頭なかった。

 

 

 

(横、失礼しますわ)

 

 

 

 第三コーナーを抜けたところで、遂にメジロマックイーンがハギノレジェンドを外から抜いていた。

 ハギノレジェンドが苦悶の顔で減速していく隣を、メジロマックイーンが駆け抜ける。

 この瞬間、順位が変動してメジロマックイーンの順位は一位に変わった。

 第三コーナーで先頭を獲得するとはメジロマックイーンも思っていなかった。しかし先頭の位置を獲得した以上、この位置から後ろに下がる理由もない。

 単に状況は逃げのウマ娘がいなくなっただけ、後方のウマ娘達は仕掛けるタイミングを見計らっているはずである。ならば、自分はこの位置を維持するだけで良いとメジロマックイーンは判断する。

 まだ自分には、まだ最後の加速が残っている。それを迎えて、ゴールへ走るだけで良いと。

 麻真と共に走った時と同じように、練習通りの走りをすれば良いのだから。

 そして第三コーナーの終わりから、メジロマックイーンが第四コーナーへと入った。

 

 

 

(行けますわ! これで最後ですっ!)

 

 

 

 そこでメジロマックイーンの足は、最後の加速を迎えた。

 自身の出せる最大速度まで加速したメジロマックイーンが足を一切止めることなく走り続ける。

 第四コーナーに入った時点で、レースは終盤である。そろそろ後続が迫ってくる頃だろう。そう思ったメジロマックイーンが後方から足音が聞こえていないか耳を澄ませた時――

 

 

 

『二番人気メジロマックイーン! ここで大きく前に出たっ!』

『後続から大きく距離を離してます! これは掛かっているのかっ⁉︎』

 

 

 

 ふと、アナウンスから不思議な言葉がメジロマックイーンの耳に入った。今まで走ることに集中していてアナウンスの声が聞こえていなかったが、その言葉は彼女には不可解な言葉にしか聞こえなかった。

 ウマ娘のレースで“掛かる”とは、加速し過ぎることや前に出過ぎることを指す。レース状況や周りの圧力で当人に起こる走るペース配分の乱れが主な原因とされている。

 

 

 

(――私が掛かってる?)

 

 

 

 意味のわからないことを言っているアナウンスに、メジロマックイーンが走りながら眉を顰めた。自分は麻真の指示通り、いつも通りに走っているだけである。それなのに、どうしてそのようなことを言われなければならないのか?

 

 

 

(足音が、聞こえない?)

 

 

 

 アナウンスにそんな不満を抱きながらも、メジロマックイーンはしっかりと耳を澄ませていた。背後から走る足音が聞こえていないかを。

 しかし一向にメジロマックイーンの耳に、自分以外の足音が近くに聞こえていなかった。いや、微かに聞こえてはいる。しかしそれは、かなり遠くの足音だった。

 思わず、メジロマックイーンがコーナーを曲がりながら後方を確認しようとした時、彼女は思い出していた。

 

 

 

(そう言えば、あの時――)

 

 

 

 レースが始まる前、麻真から第四コーナーまで後ろを決して見るなという不可解な指示を受けていたことをメジロマックイーンが思い出した。

 未だ理解できない麻真の指示。メジロマックイーンは今走っているのが第四コーナーであることから、この時点で後方を確認しても麻真の指示に違反していないと判断する。

 

 

 

(なんだったんですの? あの指示は――)

 

 

 

 そう思って、走りながらメジロマックイーンが後方を一瞥した。

 

 

 

(はっ……?)

 

 

 

 そして一瞬だけ見えた後方の光景に、メジロマックイーンは目を大きくしてしまった。

 予想では、少し離れた位置に後続のウマ娘達がいるとメジロマックイーンは思っていた。既に第四コーナー、もう仕掛けてくるウマ娘が居てもおかしくない状況である。

 それなのにどうして、こんな状況になっているのかメジロマックイーンには理解ができなかった。

 

 

 

(何故あなた達は、まだ……そんなところにいますの?)

 

 

 

 第四コーナーの後半を走るメジロマックイーンに対して、後続のウマ娘達はようやく第四コーナーに入っていたところだった。

 あまりにも予想とかけ離れた光景にメジロマックイーンが酷く動揺する。

 

 

 何故、後続があんなにも遠く後ろにいるのか?

 

 

 ペース配分を間違えたかとメジロマックイーンが瞬時に思うが、すぐに一蹴する。自分は間違えていないと。

 走るペースは、麻真と練習していた通りに走っていた。初速から最大速度に至るまでに必要とする距離は変わっていない。

 足には坂道による想定以上の疲労があるが、それはペースを乱す要因になっていない。スタミナも、まだ残っている。

 この状況なら掛かっていると言われるのも不思議ではない。明らかにおかしい距離がメジロマックイーンと後続の間に開いているのだから。

 

 

 

(まさか……私が掛かって……?)

 

 

 

 もしかしたら自分が無意識に本番のレースでミスをしたのかもしれない。そんな不安がメジロマックイーンに襲い掛かる。

 その不安。それはメンタルがまだ鍛えられていないメジロマックイーンに、大きな影響を与える。

 メジロマックイーンの走りに、僅かな変化を生み出そうとした時だった。

 

 

 

(ッ――!)

 

 

 

 ゾクリ、とメジロマックイーンの背筋に鋭い悪寒が走った。

 今、足の動きを絶対に悪くしてはいけない。そんな直感がメジロマックイーンの脳裏に過った。

 現状に対する不安よりも……自分のフォームを崩して走る速度を落とすことの方が恐ろしいと、メジロマックイーンは確信していた。

 

 

 

(練習通りに、麻真さんが言ってましたわ。それで私が勝てると……なら、信じない理由はありませんわっ!)

 

 

 

 乱れかけたフォームを、メジロマックイーンがどうにか抑え込む。

 胸にあった不安は、いつの間にか消えていた。自分が先行とは違う走りをしているなど、最初からメジロマックイーンは知っている。なら、今更何を気にする必要があるのか。

 フォームも、ペース配分も、加速のタイミングも、麻真と走っていた時と同じである。麻真がそれで走れと言ったのだから、自分はそれだけで良い。

 

 

 

(麻真さん! 見ててください! 私の走りをっ!)

 

 

 

 前だけを見据えたメジロマックイーンが、第四コーナーを駆け抜けた。




読了、お疲れ様です。

はい。レース終わりませんでした。
前半パートに文量を使い過ぎました。申し訳ありません。
最後まで書くと万字を簡単に超えるので、一度分けさせて頂きます。
次回で本当にメイクデビュー戦は終わります。

今回の話は、麻真から見たマックイーンの可能性についてと麻真の癖。そしてメジロマックイーンのレースは第四コーナーまででした。
第四コーナーで彼女は何故悪寒が走ったのか?
そんな話でした。

では、また次回でお会いしましょう。
感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ、今後のモチベになります。


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7.初めて勝ち取った結果

 

 コースを走るメジロマックイーンが第四コーナーに入って、すぐにそれは起こった。

 

 突然――背筋が凍りついた。

 

 それは比喩でもなく、その文字通り、冷たいモノが通り抜けるような寒気が背中に駆け巡った。

 

 

 

「ひっ――⁉︎」

 

 

 

 初めて感じる感覚に小さな悲鳴を漏らして、トウカイテイオーの身体が本人の意思を無視して――震えていた。

 問答無用に恐ろしいと思わせるような、重い圧迫感。まるで周りの空気が底冷えするような錯覚さえしてしまう。

 突如襲い掛かったその感覚に、トウカイテイオーが何事かと周りを見渡した。

 しかし彼女の周囲には、これと言って変わったことが起きていなかった。自分と同じ場にいる観客達は、目の前で行われているレースを見ながら、コースを走るウマ娘達を応援するのに夢中の様子だった。それ以外に変わったことなど、なにひとつもなかった。

 怖いと思えることがこの場で起きていない。何も変哲もない周りの光景を見ながら、トウカイテイオーは怪訝に眉を寄せるしかなかった。

 もしかすると先程の寒気は、きっと自分の気のせいかもしれない。そう、彼女は自分自身に言い聞かせた。しかし、そう思ったところで、肌に感じるこの寒気は一向に収まることがなかった。

 それなら一体、この寒気はなんだろうか。解消されないそんな疑問を抱きながら、トウカイテイオーが何気なく隣を見た瞬間――意図せず、少女はその答えに辿り着いていた。

 

 

 

「っ…………⁉︎」

 

 

 

 反射的に、息を呑んでいた。トウカイテイオーの視線の先にあったのは、一人の人間の顔だった。

 先程から全身に感じていた不可解な圧迫感。それがコースを真顔で見つめている人間から発せられていると、気づいてしまった。

 額に皺を強く寄せ、眉を吊り上げて細められた黒い瞳が、走るメジロマックイーンを凝視している。

 その目を見て、トウカイテイオーは瞬時に感じ取ってしまった。その瞳から感じ取れるモノが、紛れもなく“怒り”の感情であることを。

 その人間――北野麻真から、彼女も過去に一度だけ怒られたことがあった。メジロマックイーンの練習に無理矢理参加して彼を怒らせててしまい、思い切り頬を抓られた経験がある。

 あの時の麻真は思い出すまでもなく、非常に怖かった。その経験があるにも関わらず、今の彼から感じる恐怖は……それと比べるまでもなかった。

 

 

 

「麻真さん。あなたが怒る理由は予想できるが、少し抑えてくれ。()()()()()()()()()()()()。あなたの所為でテイオーが酷く怯えてしまっている」

 

 

 

 そんな麻真に、シンボリルドルフが声を掛けていた。彼女も彼から何かを感じ取ったのだろう。視界の隅でトウカイテイオーが縮こまっている姿を見て、咄嗟に口を開いていた。

 その声に、麻真が顔を僅かに動かしてトウカイテイオーに目を向ける。彼の視線が、その少女へと向けられた。

 麻真の黒い瞳と目が合った瞬間――全身に先程までのとは比にならない重圧がトウカイテイオーに襲い掛かった。

 

 

 

「ひぅ……」

 

 

 

 まるで全身の毛が逆立つような感覚だった。麻真から発せられている怒気を直に受けて、無意識にトウカイテイオーが身を逸らせた。それは咄嗟に麻真から離れようと距離を空けてしまう程の圧迫感だった。

 トウカイテイオーが自分に怯えている。その少女の反応を見た麻真は、そう判断したのだろう。ゆっくりと目を伏せながら、彼は深く息を吐いていた。

 それと同じくして、今まで麻真から感じていた圧迫感が薄れていくような気がした。トウカイテイオーはそう感じると、安堵のあまり、つい胸を撫で下ろしていた。

 

 

 

「……なんでそんなに怒ってるの?」

「お前に怒ってる訳じゃない」

 

 

 

 素っ気ない、いつも通りの声色だった。しかしその声とは裏腹に麻真の目は鋭いまま、変わっていなかった。

 明らかにまだ怒っている、何が彼をそこまで怒らせたのか。そんな疑問を晴らしたいトウカイテイオーだったが、それ以上の追求を自然と控えていた。先程の体験が、無意識にそうさせていた。

 しかし気になる。でも、訊けない。そんなもやもやとした感情を抱えて、トウカイテイオーが助けを求めてシンボリルドルフを見つめてしまった。

 その視線を、シンボリルドルフは感じ取ったのだろう。彼女はトウカイテイオーが不安そうに見つめてくる姿を見て、小さな苦笑いを見せていた。

 

 

 

「彼が怒っているのは、テイオーが原因ではない。それは安心するといい」

 

 

 

 原因が自分でないのは、トウカイテイオーもなんとなくだが察していた。麻真の今の怒りが自分にもし向けられたなら、きっと先程よりも怖いと思うはずだと。

 それなら原因はなんだろうか。トウカイテイオーがその理由を考えていると――

 

 

 

「……マックイーンだ。アイツ、俺の指示通りに第四コーナーで後ろを確認した時、気を緩めて足の動きが悪くなった。自分ですぐに気づいて立て直したみたいだが……アレは減点だ」

 

 

 

 意外にも、麻真がトウカイテイオーに応えていた。

 まさか本人が口を開くとは思わず驚くが、それよりもトウカイテイオーは彼の言葉に唖然としてしまった。

 

 

 

「たった、それだけで?」

 

 

 

 足の動きが悪くなった。たった“それだけ”のことで、これまでにない怒りを見せた麻真にトウカイテイオーは言葉を失った。

 しかし彼女のその問いは、麻真の琴線に触れる言葉だった。

 

 

 

「……レース中に足を緩める場面があると思ってるのか?」

「どこにもないです」

 

 

 

 スッと細められた麻真の目を見た瞬間、トウカイテイオーは即答していた。咄嗟に敬語で答えてしまう程の有無を言わせない彼の威圧感に、肯定する以外の選択が浮かばなかった。

 彼女の返答に、麻真が満足そうに頷く。その返答に気分を良くしたのか、珍しく麻真は彼女に向けて“走り”に関することを口にした。

 

 

 

「このレース展開で、あれだけ後続と距離を離してリードしていれば、気を緩めたくもなるのは理解できなくもない。だが、だからと言ってそれを実際のレースでするのは御法度だ。実力差がどうであろうと、レース中に気の抜けた走りなんてして良い訳がない。今回、マックイーンがあの場面でどうするか見る為にあえて指示してたが……駄目な手本みたいに気を緩めてやがった」

 

 

 

 確かに、先頭のメジロマックイーンと後続のウマ娘達の間に開いている距離を見れば、確かに気を抜きたくもなるかもしれない。トウカイテイオーの目視で察するに、先頭と後続の間の距離が十バ身以上も離れていれば自分なら気を緩めただろう。

 実際のところ麻真の言う通り、レース中に気を緩めて良い場面はない。適当な走り方で勝てるレースなどある訳がない。

 実力が大きく開いていれば話は変わるかもしれないが、実力が違うからと言ってレースで手加減するなどあり得ない話である。それは経験の浅いトウカイテイオーにも理解できることだった。

 しかしそこで、トウカイテイオーは自身の耳を疑った。麻真が最後の方で聞き流せない言葉を告げていたような気がしたと。

 

 

 

「どうするか見る為にあえてって……それじゃあ麻真さん、わざと指示したの? マックイーンがレース中に気を抜くか見る為だけに?」

 

 

 

 つまり、そういうことになる。

 圧倒的に優位な位置でも、気を抜かずに走れるか?

 それだけの為に、麻真は事前にそうなることを伝えずに意図してメジロマックイーンにその指示を出したことになる。

 僅かに目を大きくするトウカイテイオーだったが、麻真はあっけらかんとした表情で頷くだけだった。

 

 

 

「これはお前も知ってることだがら話すが、アイツは今日まで走りの矯正をしてきた。本来なら長い時間を掛けて直すフォームを力づくで直したんだ。本人は今のフォームに慣れてたとでも思ってるかもしれないが、練習中は俺が常に“それ”を意識させるようにした。それこそ、気を抜けばフォームが乱れるのを嫌でも分かるようにな。

 それを分かっていれば、あの場面でも気を抜けない。加速力がないウマ娘の高速度を維持する走り方は繊細なんだ。少しでも気を抜けば、速度が落ちる」

「そこまで分かってたなら先に言えば良かっただけなんじゃ……?」

「それはちょっとした“今後の確認”の為だ。マックイーンなら気を抜かないかもと少しは思ってたんだが……流石に言わないと駄目だったか。つまるところ、アイツもまだまだひよっこってことだ」

 

 

 

 それは嫌がらせだろう。むしろ、理不尽と言う方が正しいかもしれない。麻真の話に、トウカイテイオーは素直に思った。

 そうなるように仕向けている時点で確信犯である。そして分かってて指示しているのが尚のこと質が悪い。

 麻真が何故そうしたのか、トウカイテイオーは彼の意図を一ミリたりとも理解できなかった。

 

 

 

「それで負けたらどうするつもりだったの?」

「それはない。内容はともかく、レースには勝てる」

 

 

 

 そしてこの返答である。余計に意味が分からなかった。

 密かに麻真の意図を考えてみたが、トウカイテイオーには予想すらもできなかった。むしろ理解しようとするのが間違っているかもしれない。

 麻真の勝手な意図で指示を受けたメジロマックイーンに憐れむ目を向けつつ、自分も彼から指導を受ければ同じ道を歩かされるのだろうか。そんな不安が、トウカイテイオーを襲った。

 しかし現にシンボリルドルフ達を育てたトレーナーであるのだから、能力があるのは間違いない。いつの日か、自分が彼の意図を理解できる日が来るのだろうか?

 未だにトレーナーになってもらえないことに僅かな悔しさを感じつつも、トウカイテイオーはそのことについて考えるのを放棄した。今考えても仕方ないことだと、そう割り切ることにした。

 

 

 

「それで? このレース終わったら、マックイーンに何か言うつもりなの?」

「自分で俺の“意図”に気づいていれば何も言うつもりはない。分かってなければ、次の練習の時にでも言うさ。そういうことも、練習でどうとでもなる……内容はさて置いて、だがな」

 

 

 

 静かに、黙祷。トウカイテイオーは両手を合わせると、走るメジロマックイーンの今後を哀れんだ。

 そして横目でシンボリルドルフを見れば、どこか引き攣った笑みを浮かべてレースを見ていた。

 彼女のその笑みの理由を、トウカイテイオーは不思議と訊けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 信じられない光景だった。遠い先で先頭を走る芦毛のウマ娘に、後続のウマ娘達は困惑するしかなかった。

 ペース配分を間違えているとしか思えない速度で走り続けるメジロマックイーンの姿は、どう見ても愚かだとしか思えなかった。

 序盤から周りのことなど眼中にないような加速を続け、速度を上げて走り続ければ、どう考えてもスタミナが持つ訳がない。それが彼女の後方を走っていたウマ娘達の思考だった。

 無理に走る先頭集団に、自分のペースを乱してまで無理に追う必要もない。レースが後半になれば、必然的に先頭組は速度を落とすと後方のウマ娘達は思っていた。

 しかし中盤以降から実際に速度を落としたのは、一番人気のハギノレジェンドだけだった。先頭から落ちても、どうにか後続の集団にしがみつくように紛れているが、その苦悶の表情を見る限り、もう彼女には先頭に出る為の加速に必要なスタミナは残っていないだろう。

 逃げの脚質持ちがスタミナを中盤で使い切ることは早々ない。そんな場所で逃げウマ娘が速度を大きく落とす理由など、簡単である。

 ハギノレジェンドは、自分のペースで走ることができなかった。これに尽きる。必要以上に背後からメジロマックイーンが迫っていたことから、彼女は自分のペースを乱してでも前に逃げてしまった。

 それが悪手だった。彼女は自ら、勝ちの目を摘んだのだ。暴走しているとしか言えないウマ娘に合わせたことが間違いだった。

 しかしそんなハギノレジェンドとは真逆に、メジロマックイーンは前に出ていた。第三コーナー辺りから、更に暴走したような加速して前へと進んでいだ。

 側から見て、メジロマックイーンのペース配分は異常である。スタミナを度外視したような加速と速度を維持して走る様は、明らかに掛かっているとしか思えなかった――はずだった。

 

 

 

『落とさないっ! メジロマックイーンが落ちないっ!』

『明らかなハイペースで掛かってると思いましたが、これは凄いことになりました』

 

 

 

 実況と解説のアナウンスが会場に流れた。

 第四コーナーを抜けて、最後の直線。メジロマックイーンは最大速度を維持して走り続けていた。

 

 

 

(後ろは決して見ずに! フォームを意識っ! 走りが乱れないように、最大速度を維持ッ!)

 

 

 

 乱れかけたフォームを崩さないよう最大限の注意をして、メジロマックイーンは(ターフ)を走っていた。

 第四コーナーを抜けて、ゴールまで残り四百メートル。スタートから一周して、観客席前まで戻ってきた。

 先頭が観客席前まで戻ってきたことで、観客席から歓声が響く。しかし彼女には、そんなことを気に掛ける余裕などなかった。

 

 

 

(足を早く動かして、踏み込みは力を入れ過ぎず、地面を蹴る時だけ強くっ!)

 

 

 

 頭の中で自分のフォームを振り返りながら、全力で走ることだけでメジロマックイーンは精一杯だった。周りを気にすることなど、先程の出来事で彼女は綺麗に頭から切り捨てていた。

 第四コーナーで後続と開いている距離を見た瞬間、気が緩んだ。それに呼応するように、自分の走りが乱れかけた。あの時に感じた“悪寒”が、それを寸前のところで留めた。

 レース中に自分の走りが崩れかけた。これはやり直しのできる練習ではない、取り返しのつかないレースなのだ。そんな大事な場面で、僅かでも気を抜いてしまいそうになったことをメジロマックイーンは心の底から恥じていた。

 

 

 

(何のために私はここで走っているんですのっ⁉︎)

 

 

 

 この場所で全力を尽くす為に、自分は今日まで辛い練習を積み重ねてきたのだ。レースで勝つ為に、そして自身の願いの為に、それを思えば――レース中に甘えた走りなどできるわけがない。

 

 

 

(間違いなどありませんわッ! この状況で! ちゃんとあの人に導かれた自分の走りができているのに! 何を不安になると言うんですのッ‼︎)

 

 

 

 そして何よりも、自分が間違っているという判断をしてしまいそうになったことを悔いていた。

 自分の行動が間違っていると迷うよりも、あの人に導かれた自分の走りが崩れることの方が恐ろしいと感じたあの直感を、メジロマックイーンが愚直に信じたからこその思考だった。

 故に、周りなど一切気にしてはいけない。先頭で、尚且つ後続と大きな距離を離している絶好の状況。それが自分の走りでできているのだから、よもや心配などある訳がない。

 想定よりもスタミナを使ったが、自分のペースは乱れていないのだ。練習通りの走りはできている。それに今、周りに競り合う相手がいなければ、もう駆け引きも何もない。

 自分のできる最善の走りで、最速でゴールまで駆ける。たったそれだけのことなのだから。

 

 

 

(腕の振りは雑にならないように! 踏み切った足は伸ばす! 姿勢も崩さずに!)

 

 

 

 前傾姿勢を維持して、今日まで培ってきたことを出し尽くす。自分の全てを出して、誰よりも先にゴールする姿を見せなければならない人がいるのだ。これ以上、不出来な走りなど見せるわけにはいかない。

 

 

 

『走る! まだ走るっ! メジロマックイーンが更に走るッ! 後続のウマ娘達も上がってくるッ! 残り三百メートルッ!』

 

 

 

 ゴールまで残り三百メートルを切っても、メジロマックイーンは止まらなかった。ただひたすらに、全力でゴールを目指す。

 その時、遅れて第四コーナーを抜けたウマ娘達がラストスパートを仕掛け、先頭の彼女へと迫っていた。

 

 

 

『ゴールに向かってウマ娘達がラストスパートを掛けるッ! だが先頭メジロマックイーンも止まらないッ!』

『本当にこれが初めてのデビュー戦とは思えない走りです。あの走りができるスタミナ、彼女がジュニア級のウマ娘とは到底思えません』

 

 

 

 実況と解説の声に、観客達は沸いていた。

 競り合うことすらしない独走状態で先頭を走るメジロマックイーンの姿に、観客席の人間達は騒いだ。

 圧倒的な光景。そして乱れることなく、綺麗なフォームで芦毛を靡かせて走るウマ娘の姿。まるでこの場の主役のようなそのウマ娘に、その場に居た人間達は純粋に魅入られた。

 メイクデビュー戦で、こんなレースが見られると思っていなかった。間違いなく、あの芦毛のウマ娘は大物になる。そんな予感が観客達に走っていた。

 

 

 

『後続と大きな距離を空けたまま! ラスト二百メートルッ! ここで最初の関門が、最後の関門として再び立ち塞がるッ!』

『スタミナを使い、疲労した足であの坂を速く登るのは厳しいです。先頭のメジロマックイーンも疲労が蓄積してここで足踏みをしなければ良いですが……』

 

 

 

 そして千八百メートルを駆け抜け、スタート地点を通り過ぎた先に――ゴールの二百メートル手前の“壁”が走るウマ娘達を拒んでいた。

 

 

 

(ようやく……ここまで走って分かりましたわ! この足の状態でアレを登るのは正気じゃないと――!)

 

 

 

 足の疲労が大きくなっている。全速力で走り続けた所為で、余力があったはずのスタミナの消耗が激しくなっている。

 そんな状態で残された最後の関門。スタート直後にも見たはずなのに――その時よりも“それ”は大きく見えた。

 高低差二メートルの登り坂が、メジロマックイーンに立ちはだかった。ゴールまで残り二百メートルを切れば、このレースを走る誰もが必ず通らなければならない道だった。

 

 

 

(ここで多少速度が落ちるのは目を瞑ります! ですが、それでもッ!)

 

 

 

 可能な限り、自分の全力で駆け登る。その覚悟で、メジロマックイーンが坂道に入った。

 壁のような坂道を、ピッチ走法で数歩駆けた瞬間――ガクンと彼女の身体が崩れ落ちそうになった。

 

 

 

 

(――重ッ‼︎)

 

 

 

 

 先程までのとは比にならない程、メジロマックイーンの足が重たくなった。

 ここで彼女は思い知ることとなった。坂道をピッチ走法で走る代償を。そしてこの登り坂の怖さを。

 足の回転数を上げるピッチ走法は、足の回転数を多くすることから必然的にスタミナを大きく消耗する。そして地面を素早く蹴る為のパワーも使うことを強いられる。

 それが千八百メートルも走った足に、更なる負担を掛けた。目の前にあるはずのゴールが、遠くなったような錯覚さえした。

 一歩、また一歩と進む足が、まるで“重りを付けている”かと思うほど重たい。

 

 

 

『ここで流石にメジロマックイーンがスピードを落としたッ! 後続のウマ娘達が彼女を追い掛けるッ!』

『あの登り坂はクラシック、シニア級のウマ娘でも苦戦する場所です。ジュニア級とは思えない彼女でも、それは例外ではないでしょう』

 

 

 

 速度を落とした。このままでは後続が追い掛けてくる。これ以上は手こずる訳にはいかない。

 

 足が重いのがなんだというのか?

 足に重りが付いているように感じるのがどうしたか?

 

 こんな足の重さなど、あの練習で足に付けていた重りよりも軽い。

 この程度の重さで弱音を吐くほど、優しい練習など自分はしていない。

 

 

 

(こんのッ……!)

 

 

 

 意地で、根性で、メジロマックイーンが駆け登った。

 重い足の使い方など、既に彼女は知っていたのだから。

 足を上げる時だけ力を込めて、下ろす時は流れるままに地面に、そして地面を蹴るインパクトの瞬間だけは――力強く。そして前に進む力を逃がさないように、姿勢は辛くても崩さない。

 身体に染み付いたその経験が、疲弊した足でも彼女の身体をしっかりと前に進めていた。それはまるで、あの憎かった蹄鉄靴を履いて走っているような感覚だった。

 

 

 

(あの人! 絶対に分かってましたわね! こうなるのがっ⁉︎)

 

 

 

 坂道を登って僅かして、メジロマックイーンは瞠目していた。それと同時に、やり場のない怒りが彼女に襲い掛かった。

 重い足の使い方。それを知るキッカケの練習を自分に強いた麻真の姿を思い出して、彼女は直感していた。

 あの男は、自分がこのレースで“足が重い”状態になることを分かっていたのだと。

 知らなければ、まるで鉛のように重たくなった足に心が動揺していたかもしれない。しかしあの重さを知っていれば、その使い方を知っていれば、意思さえあれば足が重くても前へと走れた。

 足を止めないという折れない心で、辛くても全力で前に進む根性があれば、スタミナが切れない限り――走れる。

 

 

 

『お前はスタミナと根性だけある方だ』

 

 

 

 そう言っていつも小バ鹿にされ続けた麻真の言葉が、メジロマックイーンの脳裏を過った。

 あの男が指示してきた今までの練習。それがどこまで先を見据えていたモノのか、本当に分からなくなる。まさかこの場面まで想定されていたなど、微塵も思わなかった。

 

 

 

(絶対っ! レースが終わったらっ! あの頭、かち割ってやりますわッ‼︎)

 

 

 

 感謝こそするが、それをあえて伝えなかった意地の悪さは到底許せない。

 絶対に誰よりも先にゴールする。そして必ず、あの男に“一撃”報いらなければならない。その確固たる決意の元、メジロマックイーンは駆けた。

 

 

 

『ゴールまで残り百メートルッ! メジロマックイーンを後続集団が追い掛けるッ! しかしメジロマックイーンも負けじと走るッ! 後続と距離はまだ開いてるッ!』

 

 

 

 登れ、走れ、駆け抜けろ。そんな沢山の声が観客席から轟いた。

 残り百メートル。メジロマックイーンは自分の足がまた一段階、重くなった気がした。

 地面を蹴る足が重い。あの重かった蹄鉄靴を履いていた時のように、足が動かなくなっていく。言うことを聞かない足が、休ませろと必死に訴え掛けている。

 そんなことは分かっている。自分の身体の悲鳴など、何度も聞いている。休めるのなら、すぐにでも休みたい。

 しかしここで足を止めるなど、あり得ない。初めての公式レース――デビュー戦でそんなことを許すような甘えた覚悟で、自分はこの場にいるのではない。

 

 

 

(少し――お黙りなさいッ‼︎)

 

 

 

 訴えてくる身体の悲鳴を、メジロマックイーンが無理矢理捩じ伏せた。

 足の筋肉が疲弊しても、スタミナが残っているのなら走れ。弱音を吐くくらいなら、黙って従っていろと。

 (ターフ)を踏み締める足で、その悲鳴を粉砕するように、彼女はそれを蹴り飛ばした。

 

 

 

『ラスト五十メートルッ! 後続が諦めずに追い掛けるッ! しかし開いた距離が縮まないッ! メジロマックイーンが先頭を譲らないッ!』

 

 

 

 あと少し。坂道を登る視線の先に、ゴール板が見えた。

 あそこまで走れば、誰よりも速くゴールできる。望み、そして掴み取りたいモノが、目の前に。

 ゴール板は、目と鼻の先。もう残す余力のことなど――考えなくていい。

 

 

 

 

「やあああぁぁぁぁッ‼︎」

 

 

 

 

 咆哮。足を限界まで酷使して、芝を抉る。

 視界に迫るゴール板が、大きくなる。

 最後まで足を止めずに、全てを振り絞れ。

 

 

 

『追いつかない! メジロマックイーンに全員追いつけない! 圧倒的な距離を離して、メジロマックイーンが坂道を単独で駆け登った! もうゴール版は目の前ッ! 観客を圧倒する走りを見せて――』

 

 

 

 メジロマックイーンの身体が、ゴール板を横切った。

 それが意味することは、ひとつしかなかった。

 

 

 

『独走したメジロマックイーンが今一着でゴールッ! お見事ッ! 圧倒的なレースでした! 二番人気メジロマックイーンが誰よりも速くこのメイクデビューを制しましたッ!』

『本当に素晴らしい走りでした。一時は掛かっていると思いましたが、私は間違えました。とてもジュニア級とは思えないあの走り……まさに本物です。あのチーム・アルタイルの復活に相応しい走りを見せた彼女がデビュー戦を勝ち取りました』

 

 

 

 その実況と解説の声と共に、会場内が大きな声で湧き上がった。

 ゴールラインを超えて全速力から速度を落として徐行しながら、メジロマックイーンはようやくその歓声に耳を向けた。

 レース会場に響き渡る歓声。観客が少ないと言えど、その迫力は彼女を圧倒させるのに十分過ぎる声量だった。

 その光景を、立ち止まったメジロマックイーンが呆けた表情で見つめる。息は上がって整い切らず、止まらない汗と熱くなった身体で意識がぼんやりとして、それを理解するのに彼女は僅かな時間を要した。

 

 そして時間が経つにつれて、その歓声の意味を彼女が理解した瞬間――全身の鳥肌が立った。

 

 視界の先で、観客席から向けられる歓喜の声。

 それは紛れもなく、メジロマックイーンが初めて勝ち取った結果に対する賞賛の歓声だったのだから。

 観客席に、彼女が小さく手を振るう。その表情は淑やかさを残しつつも――年相応の少女の笑みが、そこにはあった。




読了、お疲れ様です。
毎度のことながら、とても書くのが難しかったです。
考え過ぎて頭を抱えたくなりました。

そんな私のことはさておき、
これにて、彼女のメイクデビュー戦は終わりました。
麻真と出会い、そして初めての公式レースまで長い時間と文字数を使いました。ここまで読んで頂けて、本当に感謝しています。
ちなみにレース結果の詳細に関しては、次回以降に出てきます。
次回以降の話からも、色々と二人に起きますし、考えてます。
どんなキャラが新しく出るか楽しみにして頂ければと思います。

また次回の話でお会いしましょう、それでは。
感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ、作者のやる気に繋がります。


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8.希望に満ちたレース

 

 

 

「大儀ッ! まさに期待通りの結果であるッ! お主ならば必ずやってくれると思っていたぞッ!」

 

 

 

 心底嬉しそうに、秋川やよいが扇子を開いた。満面な笑みを浮かべて、どこか誇らしげに慎ましやかな胸を張っている。

 その扇子に書かれた“流石ッ‼︎”という文字はいつ書いたのだろうか。見る度に幾重にも変わる扇子の文字の謎は、彼女と出会ってから一向に明かされていない。

 やよいの持つ扇子に視線を向けながら、麻真は呆れ混じりの溜息を漏らした。

 

 

 

「そこまで言われることはないですよ、理事長。それにメイクデビュー戦に勝ったくらいで喜び過ぎです」

 

 

 

 メジロマックイーンのメイクデビュー戦が終わって一日経ち、その翌日に麻真はやよいから理事長権限で呼び出しを受けていた。

 現在の時刻は、時計を見れば午前十一時頃。トレセン学園内にいる生徒は、一般教養の授業を受けている時間であった。麻真も、この時間は比較的時間を持て余している時間だった。

 その時間を指定されて、麻真は渋々ながらも理事長室へと足を運んでいた。

 理事長室のソファに麻真が座り、テーブルを挟んで対面のソファに座るやよいは終始笑顔を見せていた。

 

 

 

「いえ、そんなことはありませんよ! メジロマックイーンさんのこの結果は本当に素晴らしいです! 流石麻真さんですねっ!」

 

 

 

 そしてやよいの隣に座る理事長秘書の駿川たづなも、嬉しそうに頬を緩める。

 そんな二人の反応を前に、麻真は居心地が悪そうに眉を寄せていた。

 

 

 

「……たかがメイクデビュー戦ですよ?」

「否ッ! メイクデビュー戦と言えど公式レース! それを圧倒的な勝利を収めた事実は変わらぬッ! 勝利を祝うのは当然のことであるッ!」

 

 

 

 やよいの言う通り、所詮メイクデビュー戦と言えどURAが主催する公式レースで勝利した事実は変わらない。

 URAには記録として、メジロマックイーンの成績に今回のレース結果はしっかりと残る。そんなレースを勝てたことを喜ぶのは、至極当然の反応だろう。

 だがそう言われたところで麻真が目指している目標の高さを考えれば、デビュー戦など勝って当たり前なのだ。こんなところで躓くようでは話にならない。

 メジロマックイーンが天皇賞制覇を二年連続。または天皇賞制覇とクラシック三冠を獲得。そして今後行われるURAファイナルズというレースで優勝するのが、麻真が退職する条件なのだ。序盤のデビュー戦程度、勝たずにどうするのかと。

 確かにメジロマックイーンがメイクデビュー戦を問題なく勝てたことには、麻真も少なからず喜びはある。しかし今の彼女の実力を考えれば当然の結果、加えて今後の課題が多く増えたレースでもあった。それを考えれば、彼も気軽に喜ぶわけにもいかなかった。

 

 

 

「結果ッ! これを見て大儀と言わずに何と言うのか! あれば言ってみるがよいッ!」

 

 

 

 唐突、やよいが目の前のテーブルに右手を叩きつける。その手の下には、先程からテーブルに広げられていた新聞があった。

 麻真の目の前に置かれた新聞。それが、やよいが麻真をこの場にまで呼び寄せた理由だった。

 つまるところ、仕事の成果を称賛する為にこの場に呼び出されたのだろう。その新聞を見た瞬間、麻真はそう察していた。

 

 

『メジロマックイーン、デビュー戦初勝利! 驚異の大差勝ち!』

 

 

 テーブルに置かれた新聞には、その見出し書きと一緒にメジロマックイーンの写真と記事が掲載されていた。

 新聞にトゥインクル・シリーズのレース結果が載ることは非常に多い。世間のウマ娘の人気を考えれば、当然のことである。特に重賞レースの記事は特に人気がある。

 しかし重賞レースが開催されない週がある以上、その手の記事はいつでも書けるものではない。そんな時、重賞ではないレースの記事が書かれていることは麻真も知っていた。

 

 

 

「確認ッ! 先程、お主もこれを読んだであろう? 世間は期待の新星たるウマ娘が現れたことに興味津々であるはずッ! これはまさしくウマ娘界に新しい風を運ぶであろうッ!」

 

 

 

 理事長室に来て早々に、麻真はやよいに件の新聞を渡されてメジロマックイーンの記事を見せられた。

 十バ身以上の差をつけて勝利しなければ表示されない、大差勝ち。それは稀に見る着差だった。あのレース直後、電子掲示板に表示された大差という二文字に、観客達は大いに盛り上がっていた。

 着差の距離は、結果としてそのウマ娘の実力を示す。更に加えて走破タイムも、大きな意味を持つ。阪神二千メートルをジュニア級でありながらも、クラシック級にすら届く二分を切ってゴールしたという結果は、彼女の実力を世間に知らしめるものとなった。

 そのレース結果から、少しはメジロマックイーンが記事になると思っていた。しかし新聞の一ページを埋めるほどの内容が書かれているとは流石の麻真も思っていなかった。

 初めて麻真がメジロマックイーンの記事を見た時、怪訝に顔を顰めた程だった。まるで重賞レースの記事のような扱いである。

 

 

 

「まぁ、読みましたが……」

 

 

 

 顔を顰めて、麻真がテーブルに置かれた新聞を一瞥した。それはその記事の内容を確認したからこその反応だった。

 

 

 

「記事の書き方が気になって、ここまで持ち上げられると気味が悪い」

 

 

 

 メジロマックイーンの記事内容は世間が見るものからすれば面白いモノとして読めるが、麻真には難色を示す内容だった。

 レースの大まかな流れとメジロマックイーンのレース展開について書かれた記事。特に強調して書かれていたのは、彼女の異様と見られた走りに関してだった。

 始まりはメジロマックイーンのことを暴走列車などと好きに書いていたが、その結論はデビュー時点で既に実力はクラシック級以上などという随分と大層な書かれ方だった。

 他には彼女の生まれであるメジロ家について、そしてチーム・アルタイルに関する内容が少々書かれている程度。その内容も、随分と大袈裟な書き方をしている文章だった。

 

 

 

「そんな風に捻くれるではない! 彼女が注目されていることを少しは喜ぼうとは思わぬのか!」

「捻くれたくもなりますよ。注目されるのは分かってましたが、こんな書かれ方すれば顔も顰めたくなりますって」

 

 

 

 明らかに意図して書かれている。その記事を読んだ麻真は素直にそう思っていた。

 メジロマックイーンがジュニア級の誰よりも強いことを特に強調し、読み手の興味を惹かせようとしているのが透けて見えた。自分の担当しているウマ娘が注目されるのは喜ばしいことだろうが、程度を超えた誇張表現は麻真の癪に障るものだった。

 新聞や雑誌とは、そういうものである。それを理解していても、相変わらずこの手の記事は好きになれそうになかった。

 

 

 

「天才。そんな言葉をつらつらと書いてるのが気に入りません」

 

 

 

 実のところトレーナーという職に就てから、麻真は新聞が好きでなかった。

 シンボリルドルフ、エアグルーヴ、タイキシャトルを始めとした過去の担当ウマ娘達が新聞に載ることは多くあった。その記事に目を通す度に、彼は新聞という物に嫌悪感を感じるようになっていた。

 あの子達の実力を才能という言葉だけで――たったそれだけの言葉で片付けて良いようなウマ娘達ではないと。

 天才だから、才能に恵まれたから、トレーナーが優れているから、確かにそれはあるだろう。しかし一番大事なことが昔から記事に書かれないことに、麻真は心底不服だった。

 長く積み重ねてきた練習、そして途方もない努力によって、彼女達はその強さを掴み取ったのだ。それを無かったことにしている記事が、麻真は嫌いだった。

 

 

 

「こんな単純な言葉で、アイツの努力を片付けて良い訳がない」

 

 

 

 それはメジロマックイーンにも言えることだった。

 その努力を僅かな期間でも見届けてきた。才能という芽はあれど、努力という水がなければ育たない。それを単に天才という言葉だけで強いと表されるのは、麻真からすれば彼女の努力が侮辱されているようなモノだったのだから。

 その麻真の言葉に、やよいとたづなが意表を突かれてキョトンとした表情を見せる。しかしすぐに二人は揃って、呆れた笑みを見せていた。

 

 

 

「そういうところは……本当に変わりませんね、あなたは」

「お主もそういうところを彼女に見せれば良いものを……意固地な奴だ」

 

 

 

 向けられる二つの視線から、麻真が目を背ける。僅かながらの抵抗だった。

 

 

 

「提案ッ! お主、少しは素直になろうとは思わぬか?」

 

 

 

 やよいの言葉に、たづなも頷いていた。

 担当するウマ娘のことを案じる麻真の姿勢は、トレーナーの手本とすら思えるモノだった。

 しかし麻真は、決して担当のウマ娘にそのことを悟らせないように立ち回っていることを二人は知っていた。損をする役回りをする彼の行動は、昔から一向に改善は見られない。

 その行動に麻真なりの意図があると、二人も分かっている。だが、それでも彼の心遣いを担当ウマ娘に知ってもらえれば、その関係はより良くなるだろうと思ってしまう。

 

 

 

「俺は素直ですよ。それに必要なことはしっかりと本人に伝えています。言う必要がないから言わない、それだけです」

 

 

 

 やはり変えるつもりはないらしい。麻真の返答に、やよいは深い溜息を吐き出してしまった。

 

 

 

「……そこまでお主が頑なに変えぬと思うなら、それでも良い。お主の“それ”を見抜く者がいるのだから、どちらにせよ遅いか早いかの違いなのだろう」

 

 

 

 結局、麻真は担当ウマ娘に懐かれる。どれほど気持ちを内側に隠そうとも、察するウマ娘はいる。彼がトレセン学園に帰ってきた今でも過去の担当ウマ娘に好かれるの要因が、トレーナーとしての能力以外にもあるのは容易に分かることだ。

 麻真の走ることを教える能力は、トレセン学園内にいるトレーナーの中で随一の実力を持つ。その為、彼が指導する練習はとても厳しいと言われている。

 ウマ娘に厳しく接するトレーナーも、実際に多く存在する。その厳しさ故に、トレーナーとウマ娘の関係が崩壊し、契約が解消されたトラブルもある。実際、トレーナー側に問題があった場合もあり、トレセン学園も厳格に対処したことは過去に何度もあった。

 しかしそんなトラブルが麻真の元で過去に起きたことはなかった。担当ウマ娘がトレーナーを怖がるなどということもなく、関係は良好な状態を築いていた。

 担当ウマ娘達が麻真に全幅の信頼を向けている。それは彼と担当ウマ娘達が一緒にいる風景を見れば、一目瞭然であった。

 それが何よりの答えなのだろう。やよいは麻真のことを案じながらも、そう納得することにした。

 

 

 

「俺のことはもう良いでしょう? 話を戻しますよ? 理事長、俺をこの場に呼び出したのは単に成果を労うだけではありませんよね?」

 

 

 

 これ以上の追求が面倒になって、麻真はそう言って話を無理矢理戻した。

 やよいも頑なに意思を曲げない麻真に言及する気もなく、頷いて彼の問いに応えることにした。

 

 

 

「うむ! だがしかしっ! お主の成果を祝い、労いたかったのは事実! それは本当であるから素直に受け取ってほしい! それ以外に私がお主に聞きたかったのは、私の興味本位の質問であるっ!」

 

 

 

 そしてやよいが麻真をこの場に呼び出したもうひとつの要件を伝えた。

 コホンと小さく咳払いをして、気を引き締めながら慎ましい胸を張りながら、やよいは誇らしげな表情を見せた。

 

 

 

「今回のレースで、彼女は世間に注目される存在となった! 今後、彼女の出走するレースの予定をお主がどう考えているのか私は非常に興味があるのだ!」

 

 

 

 それが、やよいの興味を惹かれることだった。訊かずにはいられないと、輝かせた目を麻真に向ける。

 色々と訊かれることを即座に予想していた麻真だったが、思いのほか取り留めのない質問だった。

 

 

 

「一応……幾つか考えています」

 

 

 

 別に答えられない質問ではない。そう思って、麻真は答えていた。

 メジロマックイーンは、今回のレースでトゥインクル・シリーズで一目を置かれる存在になった。今後、彼女がどのようなレースに出ることを予定しているか、興味を惹かれる人間もいるだろう。

 それはウマ娘の活躍を人一倍応援し、心を躍らせて楽しみにしているやよいならではの質問と察するのは容易だった。

 

 

 

「関心ッ! 是非教えてほしいッ!」

「マックイーンの練習が問題なく進めば、今年の後半に幾つかレースに出る予定です。可能ならば、年末に重賞レースに出ようと考えています」

 

 

 

 麻真が頭の中で考えていた予定を思い返す。そして頭に浮かんだ“とあるレース”をメジロマックイーンの年内の目標と定めていた。

 

 

 

「年末ですか? ジュニア級のメジロマックイーンさんが出れる重賞レースということは……もしかして“あのレース”ですか?」

 

 

 

 麻真の告げた少ない言葉で、たづなは答えに辿り着いたらしい。

 流石、というよりトゥインクル・シリーズに詳しい人間なら誰でも気づくだろう。

 やよいも察したらしい。満面な笑みを浮かべて、“歓喜”と言う文字が書かれた扇子を広げていた。

 年末に行われる重賞レースで特に有名なのは、有馬記念である。しかしクラシック級以上という出走制限があることから、メジロマックイーンは出走できない。

 実のところ、ジュニア級で出走できる重賞レースは数少ない。その中で中長距離適正のメジロマックイーンが出れるレースは、ひとつしかなかった。

 

 

 

「ホープフルステークス。ジュニア級で最も強いウマ娘を決めるあのレースで、マックイーンには取ってもらおうかと」

「取る、ですか? 勝つではなく?」

 

 

 

 怪訝に、たづなは小首を傾げた。勝つではなく、取るという妙な言葉に。

 希望に満ちた。文字通りの意味を持つホープフルステークス。それはジュニア級で最も強いウマ娘を決めるレースとされている。

 そこでメジロマックイーンに、麻真は何を取ら(獲得)させようというのか?

 不思議そうにするたづなに、麻真は小さく笑みを浮かべた。

 

 

 

「ジュニア級最強のウマ娘って称号。最強のウマ娘になるってよく言ってるアイツには、ピッタリでしょう?」

 

 

 

 楽しげにそう告げた麻真の表情に、二人が呆気に取られた。

 そう言った麻真の顔は、相変わらず負けることを考えてすらいない自信に満ちた表情だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 割と時間が経っていたらしい。理事長室を出て、ふと麻真が時間を確認すれば時刻は十二時を過ぎようとした。

 なんだかんだ色々と長話をしていたらしい。意外とあの二人と会話をすれば、何かと話題が尽きないのはどうしてだろうか。そんな疑問を麻真は抱いた。

 別に疑問にすることでもないか。そう思い考えることを放棄して、麻真はトレセン学園内の廊下を歩いていた。

 

 

 

「そろそろ昼時か」

 

 

 

 何気なく、麻真が呟いた。

 まだ生徒達は授業を受けている最中だが、今の授業が終われば昼食の時間になる。その時間になれば、学園内の学食には生徒達が集まるだろう。

 それならむしろ、麻真には良い時間だった。いつも通り、メジロマックイーンと昼食を済ませよう。

 そう思って、麻真が学食に足を向けた時だった。

 

 

 

「おっ! ちょうど良いところにいたな!」

 

 

 

 唐突に、麻真は声を掛けられていた。

 学園内にいる生徒は授業中で、この場にいるはずもない。この時間に、この場にいる人間など限られていた。

 それは聞き覚えのある声だった。その声に呼ばれて、何気なく麻真が声の方へと振り向いた。

 

 

 

「よっ! 久しぶりだな!」

 

 

 

 振り向いた麻真の先に居たのは、随分と派手な格好の男だった。黒のベストとスラックス、そして黄色のワイシャツが特に目立つ。剃り上げた側頭部、長い髪を後ろでひとつに結った髪型は、昔から変わっていなかった。

 その姿を見て、麻真は意外そうに少しだけ目を大きくした。その人間は、彼も知っていた人物だった。

 

 

 

「……沖野さん? どうしたんですか?」

「そんな他人行儀な話し方すんなって。俺とお前の仲だろ。久々にお前が帰って来たってのに、俺と全然話してくれなかったからな」

 

 

 

 沖野と呼ばれた男が、麻真の前まで来るなり苦笑いを見せる。

 麻真も返す言葉がないと、堪らず頬を引き攣らせていた。

 

 

 

「悪気があった訳では……すいません。何かと忙しくて」

 

 

 

 無意識に頬を掻きながら、麻真はそう答えていた。

 トレセン学園に戻って来てから、麻真は学園内にいるトレーナー達と交流を殆どしていなかった。

 元より、あまり他のトレーナー達から良い顔をされていないこともあり、麻真は他のトレーナーと交流することは少なかった。

 東条ハナのような例外のトレーナーもいるが、目の前の男もその数少ない例外の一人だった。

 別段、麻真が彼を避けていた訳でなかった。自室に籠る以外の時間は全てメジロマックイーンに使っていたため、自分から他のトレーナーに話しかけに行くことが全くなかっただけだった。

 

 

 

「それは別に気にしてないさ。お前がそういう奴だってのは知ってるからな」

 

 

 

 それを察したのか、沖野は肩を竦めていた。

 事なきを得て内心安堵する麻真だったが、唐突に沖野が話し掛けてくるとは思ってもいなかった。

 

 

 

「それで? 俺に何か用でも?」

「ああ、お前に用があってな。ちょっと時間良いか?」

「別に構いませんが……」

「その前に、その話し方はやめてくれ。前みたいに戻せって、もしかして俺嫌われてる?」

 

 

 

 悲しそうに沖野が肩を落とした。麻真も意識していた訳ではないが、彼を久々に前にすると無意識に敬語が出ていただけだった。

 軽い咳払いをして、麻真は意識して敬語を使わないよう気持ちを整えた。

 

 

 

「別に嫌ってない。嫌いなら話さないって。久々に会ったから出ただけだ」

「それもそれでどうかと思うがな」

「俺より歳上なんだから当然の反応だろ?」

「お前、歳上とかちゃんとする奴だったか?」

「アンタ、失礼だな。俺をなんだと思ってるんだよ」

「え? 高飛車な奴?」

「……その頭、かち割るぞ?」

「お前の筋力は洒落にならねぇから勘弁してくれ」

 

 

 

 軽く会話をすれば気にならなくなった。もう敬語が出て来ることはないと麻真が判断する。特に最後のバカにしてきた言葉で、二度と目の前の男に敬語は使わないと決意した。

 

 

 

「それで? 改まって俺に用って何だ?」

 

 

 

 そんな決意を持って、麻真は沖野に訊いていた。

 トレーナーが別のトレーナーに用事があるとすれば、大抵はウマ娘のことだろうと予想できる。例外に友人として交流するためなどもあるが、沖野の場合は果たしてどちらだろうか。

 面倒なことでないことを願って、麻真がその返答を待つ。しかし返ってきた言葉に、彼は驚くことになった。

 

 

 

「トウカイテイオーのことだ」

「……はぁ?」

 

 

 

 沖野から返ってきた意外な言葉に、麻真が思わず目を見開いた。

 他のトレーナーがわざわざトウカイテイオーの話をしてきた。それは麻真の中で、ある可能性を予期させた。

 トウカイテイオーが所属するチームを決めてきた時、彼女の走りを見る。そんな約束を、麻真はトウカイテイオーとしていた。

 しかしそれはトウカイテイオーが所属したチームのトレーナーが許可を出した場合のみに限る。そもそも、自分の担当ウマ娘が他のトレーナーの指導を受けることなど、あり得ない話である。

 それを分かった上で、麻真はトウカイテイオーにそう伝えていた。可能性がないに等しい条件をクリアするのは容易ではないと思っていた。

 

 

 

「まさかアイツが……あなたの所に?」

 

 

 

 咄嗟に訊いてしまうほど、麻真は驚くしかなかった。

 まさかその条件をクリアする可能性が一番高いトレーナーを初っ端から選んでくるとは、流石の麻真も思っていなかった。

 その彼の反応で、沖野は何か確信したように頷いていた。

 

 

 

「心当たりあるみたいだな……まぁそれは良いさ。なんとなくだが俺も予想はできたからな」

 

 

 

 そう言って、意地の悪そうな笑みを沖野が浮かべる。

 その笑顔に、麻真は不思議と嫌な予感がした。こういう時の予感は、大抵は面倒ごとになると。

 

 

 

「そこで、だ。ちょっとした俺の頼みがあるんだ」

「……それをダシに何を頼む気だよ?」

「話くらい聞いてくれって」

 

 

 

 両手を合わせて、沖野が懇願してくる。

 その姿を見て、麻真の中で嫌な予感が更に強くなった気がした。

 一体、この男は自分に何を頼むつもりなのか?

 そんな一抹の不安を抱えながら、麻真は怪訝に顔を顰めるだけだった。




読了、お疲れ様です。
この話でEPは終了です。次からはEP6になります。

さて、今回は麻真メインの回でした。
まずはメジロマックイーンのレース結果とその今後について。
ちなみに、アプリの“E”の悲劇にはなりません!

そして遂に出てきた新トレーナーです。
彼が出てきたということは、つまりそういうことです。
次回のEPから色々と出て来ると思いますので、お楽しみに。
ちなみに、沖野Tの名前。勝手に私で決めますのでご容赦ください。

それでは、また次回の話でお会いしましょう。
感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ、作者のモチベに繋がります。


追伸。
今回の話で本作を投稿して約一年経ちました。
変わったトレーナーとマックイーンの話を、これからも見守ってくださると嬉しいです。
それと執筆速度が上がらなくて申し訳ありません。頑張ります……


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episode.6
1.二人と走りたいウマ娘


 

 

 メジロマックイーンにとって、それは良い日になるはずだった。

 

 いや……実際、あの日はとても良い日だった。

 

 初めて出走した公式レース。走り、そして競うレースであることには全く変わりはないのに、トレセン学園で参加したことのある模擬レースとは全く違うモノだったとメジロマックイーンは断言できた。

 空気が違うと分かる、肌にピリピリと感じた圧迫感。レースに出走しているウマ娘達の勝ちたいという気迫がコース中に溢れ、賑わう観客達の無数の視線が己の緊張感を増していた。

 あの感覚は、決して模擬レースでは感じられないモノだった。だがしかし、断じてトレセン学園で行われている模擬レースで走るウマ娘達が手を抜いている訳ではないことは、彼女も重々理解していた。

 模擬レースの中で“選抜レース”と呼ばれるレースが存在する。それはトレーナーがスカウトするウマ娘を見るために行われるレースである。

 トレセン学園に所属するウマ娘は、トレーナーとの契約がなければ公式レースへの参加権を獲得できない。長年トレーナー不足と言われている中でトレーナーと契約するのは、ある意味ではトレセン学園に所属するウマ娘のひとつの関門とすら言われているくらいである。

 そのことからトレセン学園のウマ娘達は、公式レースに出走する為にトレーナーを必要としている。

 その選抜レースに勝てればトレーナーからスカウトされる可能性が大きくなるのだから、そのレースで勝ちたいという思いが極めて強いものになるのは当然だと言えた。

 自身の道を開く為に、必ず勝つという意思でレースに挑むのは当然のことだ。そんなレースで手を抜いているウマ娘など、いる訳がない。

 勝ちたい。その意思から発する気迫は、何も変わらないはずだった。しかし公式レースでは、それよりも数段上の強烈な気迫がピリピリとした空気を不思議と作っていた。

 負けたくないという気迫。それは自分も同じだった。最強の名を体現することを目指すウマ娘として、勝ちたい。その気持ちだけは誰にも負けない自信があった。

 

 だからこそ――あの時の気持ちを、彼女は今でも鮮明に思い出せた。

 

 絶対に勝つ。その思いを胸に全力で走り、誰よりも速くゴールした。文字通り、一位という名の勝利を勝ち取った。

 あの時、ゴールした瞬間、観客声から聞こえた歓声は心を震わせるほどに嬉しかった。自分の勝利を祝福されていることが、肌に感じて分かったのだから。

 恐る恐る観客席に向かって手を振れば、それに応えるように更に観客達の歓声が増したあの光景は、何物にも変え難い歓喜の気持ちに満ち溢れていた。

 頑張って良かった。辛い練習に耐えてきて良かった。努力して良かったと、心の底から思える瞬間だった。

 あの人に報いる結果を作れた。きっと捻くれ者のあの人も褒めてくれるに違いない。そんな歓喜の気持ちが溢れるのも、仕方のないことだった。

 だが……そんな気持ちを抱いても、メジロマックイーンにも許せないことはあった。

 

 

 

『まぁ色々と言いたいこともあるが、とりあえずこれは先に言っておこう。マックイーン、初勝利おめでとう。今日まで努力したお前の成果だ』

『ふんっ――‼︎』

 

 

 

 レース後、控え室で自分を出迎えた麻真を見た瞬間、咄嗟に蹴りを放つくらいの余力は意外にも身体に残っていたらしい。

 疲れた身体でも、麻真の頭部に向けて右足を思い切り振り抜くことはできた。しかし難なく蹴りを躱され、狙いを定めていた彼の頭を叩き割ることは叶わなかった。

 

 

 

『レースが終わったばかりだってのに元気だな。嬉しくて戯れたいのも分かるが今は休んでおけって』

『大事なことを隠していたあなたに! そんなことを言われる筋合いはありませんっ‼︎』

 

 

 

 再度、メジロマックイーンが足を振るう。しかし二回目は限界を迎えていた身体では満足な威力は出せず、緩やかな速度でしか足を振り抜けなかった。

 パチンと麻真に足を受け止められて、瞬く間に自分の身体が宙を舞う。そしていつの間にか、彼女はストンと椅子に座らされていた。

 突然の出来事にきょとんと呆けるのも束の間、麻真は小さな笑みを彼女に見せていた。

 

 

 

『お前の言いたいことは大体分かるが、それは後にしておけ』

『……いいえ! 今言いますわっ! あなたに言いたいことは沢山ありますのよっ!』

 

 

 

 呆けていたが、すぐにメジロマックイーンは目を鋭くさせた。

 あの憎き蹄鉄靴で行っていた練習の目的だった走るフォームの改善以外にも、麻真は大事なことを隠していた。その事実は彼女には許せないことだった。

 疲労が蓄積して重くなった足の使い方。辛くても、前に走れる方法を自覚もなく会得していた。スタミナと意地たる根性さえあれば、前に進める走法について麻真は過去に一度たりとも口にしていなかった。

 そして今回のレースで、第四コーナーまで後方を確認するなという彼の指示。あれは間違いなく、今回のレース展開を分かっていた上で出したものだと察するのは簡単である。

 全てを分かっていて、そうなる為の布石を麻真が隠していた。あえてそのことを自分に伝えなかった意地の悪さは、とてもではないがメジロマックイーンは簡単に許せそうになかった。

 

 

 

『良いから今は抑えろって。言いたいことは明日の反省会まで取っておけ』

『は、反省会ですって……?』

 

 

 

 そんな感情を抱いていたメジロマックイーンだったが、麻真から不吉な言葉が返ってきて無意識に頬を引き攣らせた。

 非常に嫌な予感しかしない。湧き上がる怒りの感情と、先程まで満ち溢れていた歓喜の気持ちが薄れていくのを感じた。

 反省会。目の前の男がそれで一体何を言い出すのか考えるだけで頭を抱えたくなる。そこから始まる練習のことも考えれば、何をさせられるか予想すらできない。

 結果が必ず出てくることは分かっていても、その目的に向かう方法が突拍子もないかもしれないと過去の経験が告げている気がした。それに練習の目的が複数あった場合、隠されることも予想できた。

 そんなことを考えれば、彼女が肩を落とすのは仕方のないことだった。

 

 

 

『そんなしょぼくれた顔するなっての。別に悪いことじゃないだろ? 勝っても負けても、反省会くらいする……って言い方が悪いのか、振り返り会とでも言った方が聞こえは良いか?』

 

 

 

 妙に言いくるめられている気がした。しかし理解できる話でもあった。

 完璧で反省点がないというのは、まずない。つまり勝ったレースでも振り返れば反省点があるということ。それはどんなことでもあり得ることだ。

 麻真の言った反省会、もとい振り返り会。しかしメジロマックイーンは麻真が“誰”の反省会かを明言してないのをめざとく聞き取った。

 

 

 

『確認しますわ。それはあなたの反省も含まれる、ということですわね?』

 

 

 

 正直、メジロマックイーンはこの場で目の前の男を怒涛のように責め立てたい気持ちに溢れていた。

 レースが始まるまで隠していた練習の秘密。それを教えなかったことは、今だに許せない。麻真が反省会まで我慢しろと言うのなら、その時に責めてやろうと思った。

 レース後で疲れているのだ。休みたくて仕方ない。こんな状態から更に体力と精神を減らすのは、彼女も本意ではなかった。

 

 

 

『随分と俺に言いたいことがあるみたいだな。まぁ、それでも良いか……お前がそう言うなら、俺の反省会も含めることにしておいてやる』

『はらわたが煮え繰り返りそうですわ……!』

 

 

 

 絶対にその反省会でこの男を反省させてやる。麻真のあっけらかんとした態度を見て、静かにメジロマックイーンは決意した。

 

 

 

『それよりも、今は大事なことがあるだろ?』

『大事なこと?』

 

 

 

 首を傾げて、メジロマックイーンが聞きかえす。

 反省会よりも大事なこと、それが思いつかず、眉を寄せてしまう。

 麻真は気づいていない様子の彼女に、意外そうな表情を見せた。

 

 

 

『ウイニングライブ。勝った奴しか出れないライブだ。まさか忘れたとか言わないだろうな?』

『あっ……』

『忘れてたみたいだな』

 

 

 

 つい、メジロマックイーンが麻真から顔を逸らす。頭から抜けていたことに、僅かながらも恥じてしまった。

 ウイニングライブ。それがどれほど栄誉あるものかを知っている彼女だからこその反応だった。

 全レース終了後、レース場に特設されたステージにて夕方以降から行われるライブ。該当レース毎の上位三名のウマ娘がステージで歌って踊り、応援してくれた観客達に感謝を表す行事である。

 レース上位三名。つまり強いウマ娘達ができるライブ、それに出ることすらできないウマ娘も存在するのだ。

 それを忘れるなど、メジロ家として恥ずべきこと。静かにメジロマックイーンは己の中で自身を叱責した。

 

 いや、待て。それよりも、今日までのことを振り返ろう。思い返せば、自分は麻真と出会ってから今日まで基礎トレーニングと走ることしかしていない。

 

 それから導かれる答え。それに気づいた瞬間、彼女は目を大きく見開いていた。

 

 

 

『私、ウイニングライブの練習してませんわよっ!』

 

 

 

 今日までメジロマックイーンは、レースに向けた練習しかしていない。つまりウイニングライブの練習など一切していない。

 ウイニングライブに欠席などない。体調不良や怪我などがなければ、基本的に必ず出ることを義務とされている。

 デビューしたばかりのウマ娘がウイニングライブで大失敗をすることも多くある。それが後々の有名になったウマ娘の笑いの種になることを知っていれば、由緒あるメジロのウマ娘として失敗は許されない行事である。

 

 

 

『どうしますの⁉︎ ウイニングライブまで時間がありませんわよ⁉︎』

 

 

 

 故に、メジロマックイーンの慌てようも当然だった。

 しかし慌てる彼女に、麻真は続けて意外そうな表情を見せていた。

 

 

 

『いや、メジロ家のウマ娘がトレセン入学前にウイニングライブの練習してない訳ないだろ? メイクデビュー戦のライブならそこまでの完成度は必要ないぞ?』

『あなたの仰る通りメジロ家たるウマ娘としてウイニングライブの備えはあります! ですが――!』

 

 

 

 確かにメジロマックイーンはトレセン学園に入学する前から、ウイニングライブに備えたダンスや歌唱のレッスンを受けていた。

 ウマ娘の名家たる由緒あるメジロ家のウマ娘は、淑女としての立ち振る舞いも当然叩き込まれている。そして強いウマ娘となるべく、ウイニングライブに備えた練習も当然していた。

 しかしそんな備えはトレセン学園入学前までである。トレセン学園に入学してからウイニングライブに向けた練習などしていない。

 練習をしていない期間が長ければ、その分練度が下がる。それを分かっていれば、ウイニングライブの備えがあると言えど多少の練習や見直しは必要だった。

 

 

 

『……ちょっと待ってください。何故、あなたがメジロ家の内情を知ってますの?』

 

 

 

 ふと、何気なく麻真が口にした内容にメジロマックイーンが眉を寄せた。

 トレセン学園入学前から、メジロ家のウマ娘がウイニングライブに向けた練習をしていることなど彼女は過去に一度も麻真に話したことはなかった。加えて、表沙汰にメジロ家のウマ娘がウイニングライブの練習を密かにしていますなど公表したこともない。

 それなのに何故、麻真はそのことを知っているのか疑問でしかなかった。

 メジロマックイーンに訊かれた麻真は、何事もなかったような平然とした表情で肩を竦めていた。

 

 

 

『メジロ家ならそれくらい当然してるだろ?』

『それは答えになってませんわ』

『……何かで聞いたことがあるだけだ。たまたま覚えてただけだっての』

 

 

 

 はぐらかされているのか、はたまた本当にどこかで聞いたことがあるだけなのか、メジロマックイーンは判断に困った。

 しかし麻真はメジロ家に関わりのある人間ではない。もし仮にあるとすれば、自分と面識がなければおかしい話なのだ。過去に会ったことがない彼が、メジロ家と関わりがあるとはメジロマックイーンは思えなかった。

 

 

 

『それなら良いですわ……妙なことを訊いて申し訳ありません』

 

 

 

 その為、素直に彼女は麻真のその情報源が他から得たモノだと判断するしかなかった。

 話の腰を折ってしまった。ともかく、今はこの後に控えているウイニングライブのことを考えなくては。

 頭を悩ませるメジロマックイーンだったが、麻真はいつの間にか手に持っていたタオルを彼女の頭に放り投げていた。

 ふわっと頭に被さるタオルに驚きながら、メジロマックイーンが麻真に向くと、彼は呆れたように肩を落としていた。

 

 

 

『ともかく午前中はシャワー室で汗ながしてから休んでろ。午後から俺が軽くダンスくらい見てやるから』

 

 

 

 親指で乱雑に麻真が控え室の扉を差す。レース場にはシャワー室があることはメジロマックイーンも案内図を見て知っていた。

 

 

 

『え……あなた、踊れますの?』

『言っておくが、トレーナーの必須項目だからな?』

『……冗談ですわよね?』

 

 

 

 麻真曰く、得手不得手はあるがトレーナーの職に就いてる人間はダンスも踊れるらしい。

 実際、麻真の言う通り汗を流して午前中は休息し、午後からウイニングライブに向けた見直しを行った。

 麻真のダンスはメジロマックイーンから見ても圧巻するモノだった。

 そのおかげかどうかはさておき、その日のウイニングライブは無事に成功と言える内容だった。

 色々と懸念する点が多く残ったが、思い返せば良い日だった。そう思える一日だと、メジロマックイーンは思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「またこうなるんですのね……」

 

 

 

 その翌日。メジロマックイーンは、頭を抱えていた。

 トレセン学園の教室にて、ホームルームを待つ彼女が自身の机に置かれているモノに視線を向ける。

 

 その視線の先には、自分の写真が大きく載っている新聞の記事があった。レース中、そしてウイニングライブの写真など掲載され、一目見るだけで彼女のことが大々的に取り上げられているのが分かる記事だった。

 

 メジロマックイーンがメイクデビュー戦で圧勝した。この事実は瞬く間にこの新聞によってトレセン学園中で噂になり、特にジュニア級のウマ娘達に広まっていた。

 それも当然だろう。本来なら新聞の記事になったとしても小さく載る程度のメイクデビュー戦なのに、実際の記事は大きく違っていた。

 確かに十バ身以上の大差勝ちという稀に見る結果は、注目されるのも仕方ないことだ。本来の書かれる規模の記事よりも、大きくなることはメジロマックイーン自身も予想できた。

 しかし、まさか彼女も自分の記事が新聞の一ページを埋めるとは思ってもいなかった。

 その内容に関しては、この新聞をクラスメイトから渡されて既に確認している。正直、これを書いた人物を小一時間くらい説教したい気持ちになる内容だった。

 そもそも大袈裟に書き過ぎである。自分のことを天才や才能に恵まれたウマ娘などと書き、クラシック級の実力などと書かれれば目にも止まるに決まっている。一体、どういう考えでこれを書いたのか問い詰めたい衝動に駆られてしまう。

 そして何より、自分よりも凄い人間がいるのだ。その件に関しての内容が少ないことがメジロマックイーンには少し不服だった。

 しかし不思議なことにアルタイルのチームに関する記載はあるのに、そのトレーナーに関する記載が妙に少ない気がした。

 

 

 

「マックイーン? そんな頭抱えてどうしたの?」

 

 

 

 そんなメジロマックイーンの前の席に一人のウマ娘が座るなり、そう言って彼女に声を掛けていた。

 顔を向けるまでもない。その聞こえた声で誰か分かったメジロマックイーンは、静かに自身の机に置かれた新聞をそのウマ娘に手渡した。

 

 

 

「あぁ、これかぁ。まぁ、あれだけ圧勝すればこうなるよね」

 

 

 

 メジロマックイーンに渡された記事を見て、トウカイテイオーが納得と言いたげに頷いていた。

 

 

 

「こんな書かれ方したら、朝のマックイーンも分かるなぁ」

「前より酷くなってますわ……」

 

 

 

 苦笑いするトウカイテイオーに、メジロマックイーンが溜息を吐く。

 彼女が頭を悩ませていたのは、今日の朝の出来事だった。

 寮からトレセン学園に来るまで、妙な視線を感じていた。そして自分の教室に入るなり、クラスメイトが総勢で自分に押しかけてきた。

 今回のメイクデビュー戦の結果を賞賛する声と共に、彼女の能力を褒める声が主なモノと最初は思っていたのだが、徐々にその内容は変わっていた。

 通常ではできるはずのない結果をウマ娘が作ったのは、トレーナーが大きな影響を与えている。そう考えるのは自然の流れである。

 元々、メジロマックイーンもトレセン学園内で注目されているウマ娘だったが、それよりも北野麻真というトレーナーの方がトレセン学園内では注目されていたからだろう。クラスメイトのほぼ全員が、麻真について訊いてくるようになった。

 以前まではクラスメイトの半数くらいだった。それがほぼ全員にまで増えればその対応に使う労力も倍まで増える。

 全員に無難な対応をしてひと段落したと思えば、他の教室からも興味津々と訊きに来る生徒が居れば、その労力には終わりが見えなくなっていた。

 先日、シンボリルドルフから高等部の生徒達には再注意すると言っていたおかげなのか、高等部の生徒は一人も未だに来ていないのが彼女の救いだった。だが、それでも中等部の生徒が大勢来れば、大変なことには変わりなかった。

 

 

 

「麻真さんに鍛えてもらってるなら仕方ないじゃん?」

「それはそうですが……限度というものがありますわ」

 

 

 

 疲れ果てたと、メジロマックイーンは肩を落とした。

 訊きに来る人数に対して、あまり時間を掛けて対応はしていない。一人一人に時間を掛ければ、それこそ終わりがない。

 一問一答程度の対応をしていたが、気になるウマ娘は他の時間でも訊いてくるに違いない。朝、昼、夜と自由な時間にウマ娘達が自分の元に群がってくるのを想像するだけで頭を抱えたい衝動に駆られていた。

 

 

 

「見てる分には面白かったよ」

「テイオー、はっ倒されたいんですの?」

「そんなに怒んないでよ。別に麻真さんだけが注目されてる訳じゃないから仕方ないと思うよ。実際、マックイーンがあのレースで強かったのは本当のことだもん。それだけ、みんながキミを注目してるってこと」

 

 

 

 確かにメジロマックイーンのところに来る生徒は、麻真のことだけを訊きに来る訳ではない。自身のことも訊かれることから、妙な疎外感などを彼女が感じているわけではない。

 

 

 

「それは私も分かりますわ。それでも、騒ぎ過ぎですわ」

「大差勝ちって、カイチョーが言うには本当に稀らしいよ?」

「……それは知ってますが」

 

 

 

 大差勝ち。それが意味することは、メジロマックイーンも理解している。

 レースに勝って、注目される。それを鬱陶しいと思うのは、贅沢な悩みとは思う。しかし程度を超えば、嫌にもなってしまう。

 これはしばらく収まりそうにもない。中等部の生徒は生徒会も抑制できないと言われている以上、どうにかしなければ学園生活に支障が出る。

 麻真にでも相談しようかと考えるが、解決してくれそうな気がしない。メジロマックイーンが顎に指を添えて考え始めた時だった。

 

 

 

「そうだ。ボク、マックイーンに言わないといけないことあるんだよね」

「藪から棒に、なんですの?」

 

 

 

 唐突にトウカイテイオーに思考を邪魔されて、メジロマックイーンが眉を寄せる。

 改まって何を言い出すのか。トウカイテイオーの言葉を彼女が待っていると、出てきた言葉に意表を突かれた。

 

 

 

「ボク、チーム決めたよ」

「はっ……?」

 

 

 

 その言葉をメジロマックイーンが理解するのに、僅かな時間を要した。

 自分の記憶が正しければ、トウカイテイオーは麻真と“約束”を交わしていたはずだった。

 トウカイテイオーが麻真のアルタイル以外のチームに所属した時、彼女の走りを麻真が見てくれるという約束。

 麻真に執着しているトウカイテイオーが簡単に他のチームに所属するとは思ってもいなかった。

 そして他のトレーナーに担当ウマ娘を見てもらっても良いというトレーナーがいないことは、以前に麻真から聞いていた。だからこそ、簡単にトウカイテイオーが来ることはないと話していたのは、メジロマックイーンの記憶に新しい。

 そのはずだったのに、その困難と言える条件を早々にトウカイテイオーが満たしたことはメジロマックイーンも予想外だった。

 

 

 

「そういうこと。だからボク、麻真さんにそのうち走りを見てもらうからマックイーンにもちゃんと言っておこうと思って」

 

 

 

 麻真の思惑が外れた。きっと彼は、これからとても面倒なことを抱えるに違いない。

 麻真との練習時間が減らなければ、そのことに関して特に文句を言うつもりはない。彼が辛い目に遭おうとも、自業自得である。わざわざメジロマックイーンも自ら面倒事にが関わる気は微塵もなかった。

 願わくば、麻真“だけ”が不幸になりますように。決して普段の意趣返しではない。それは行ってきたことの報いであると、メジロマックイーンは自身に言い聞かせた。

 

 

 

「それとなんかボクのところのトレーナー。麻真さんに何か頼むみたいだよ」

「それ、私に関係あります?」

「今朝、契約書書くのに会った時、詳しく教えてくれなかったけどあるらしいよ。なんか練習絡みみたい」

 

 

 

 前言撤回。自分も巻き込まないでほしかった。トウカイテイオーの口ぶりから、間違いなく自分も関係あるとメジロマックイーンは予感した瞬間だった。

 

 

 

「面倒なことにならないと良いんですが」

 

 

 

 何度目か分からない溜息を吐いて、メジロマックイーンが切実に願いたくなった。

 しかしそう願う彼女だったが、トウカイテイオーは更なる追い討ちを無意識に掛けていた。

 

 

 

「あとね。麻真さんとマックイーンの二人と走りたいってうるさいウマ娘がいるんだけど、良かったら走ってくれない? 麻真さんが良いって言うか分からないだろうけど」

「麻真さんだけではなく……私も、ですか?」

 

 

 

 随分と妙な話だった。一緒に走ることで多くを学ぶことができる麻真と走りたいと言うウマ娘がいるのは理解できるが、それに自分が含まれているのは奇妙だった。

 まだ自身も麻真から学んでいる身。そんな自分が他者に教えられることなどあるわけがない。そもそもジュニア級のウマ娘と走りたいと思うウマ娘などいるとは思えなかった。

 

 

 

「うん。ボクが二人と接点あるの知られてから、二人と走りたいって壊れたオモチャみたいにうるさいんだよ。本当に」

「そこまで走りたいと思うなら、私と麻真さんに直接言いに来ると思うのですが……」

「多分だけど、恥ずかしがって誘えないっぽいよ。ボクが見てる感じ」

「……だからテイオーに頼んだと?」

「そういうことだと思う。全然そういうタイプのウマ娘じゃないんだけどね」

 

 

 

 話を聞く限り、全く見当がつかなかった。麻真と自分の二人を指定して走りたいと言うウマ娘が誰かメジロマックイーンは予想すらできなかった。

 

 

 

「ちなみにそのウマ娘って……誰ですの?」

「ゴールドシップ」

 

 

 

 その名を聞いた瞬間、メジロマックイーンは自分の耳を疑った。

 無意識に自分の表情が強張っているのが、嫌でも分かった。そして眉間の皺を寄せながら、彼女は頬を引き攣らせた。

 

 

 

「ゴールドシップですって……⁉︎」

「え、知ってるの?」

 

 

 

 メジロマックイーンの慌てる姿に、トウカイテイオーが意外そうに驚く。

 トウカイテイオーに訊き返されて、メジロマックイーンが唸るような声を漏らした。

 そして何か困惑するようにトウカイテイオーから視線を逸らすと、メジロマックイーンは強張らせた表情のまま答えていた。

 

 

 

「……知りませんわよ。あんな奇妙なウマ娘」

「嘘つくの下手じゃん」

 

 

 

 どうやら知り合いらしい。メジロマックイーンの反応を見て、トウカイテイオーがそう察するのはとても容易だった。




読了、お疲れ様です。
日に日に文章を書くのが難しいと感じてしまいます。

さて、今回からEP6がスタートです。
今回の話はマックイーンの振り返りと後々出てくる話について。そしてとあるキャラの前置き、そんなお話。
EP6に入り、ようやくあのチームが主に出てきます。
トウカイテイオーが約束の条件も満たしたので、彼女も麻真に関わっていくことになります。どんな関わり方をするかは、麻真次第ですが。

また次回の話でお会いしましょう。それでは。
感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ、頑張る力になります。


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2.反省会を始めましょう

 

 

 

 

 

 反省会という名を借りた口論をこれから始めよう。

 午前の授業が終わり、昼食からの午後の授業を経て、トレセン学園内はウマ娘達の練習で賑わう時間になった。ようやく、待ちに待ったこの時間がやってきた。

 トレセン学園内、別棟として建てられた各チーム毎の部室が集まる部室区画にて。チーム・アルタイルの部室に備えられているソファに座りながら、メジロマックイーンはテーブルを挟んで対面に座る麻真をじっと見つめていた。

 

 

「頼んで部室を用意してもらったは良いが……やっぱり最初だと何もない部屋だな」

 

 

 そう言って、麻真は呆れた笑みを浮かべて部屋を見渡す。メジロマックイーンが鋭く見つめてくる視線に彼も気づいているはずだが、あえて反応していないのは面倒だからか、それとも単に嫌がらせなのか、彼女には判断できなかった。

 とりあえず麻真の“その手の反応”はいつも通りと言ったところ、メジロマックイーンもようやく慣れつつある彼の態度に今更一々気にするのも正直なところ面倒だった。これから反省会で疲れることをするというのに、他のことで余計な体力を使う気など彼女には微塵もなかった。

 故に、今の麻真に過剰に反応しないというのがメジロマックイーンの選んだ最善の選択だった。しかし自分がどんな選択を選んでも腹が立つ、という事実が変わらないのが実に苛立ちの増すポイントだった。

 

 

「……そうですわね」

 

 

 麻真の言葉に、沸々と増す苛立ちを抑え込んでメジロマックイーンも何気なく部屋を見渡す。トレーナー用のデスク、ソファとテーブル、そしてロッカーと最低限の物しか置かれていないテンプレートな部室。心なしか、どの備品も新品のような真新しさを感じた。

 最低限以外の物しか何もないのは仕方ない。なにせ今日から使えるようになった部室なのだから、チーム毎の個性の色が出る内装になっているはずもないだろう。

 部屋の中を見て、メジロマックイーンが少し眉を寄せる。そして思わず、彼女は麻真に向けて口を開いていた。

 

 

「私と麻真さんの二人しかいないチームに学園から部室が与えられたのは、正直意外でしたわ」

 

 

 今のところ二人しかいないチームに専用の部室が与えられた。普通なら絶対にあり得ない学園からの高待遇にメジロマックイーンは内心で密かに驚いていた。

 本来ならチーム専用の部室は、もっと所属人数の多いチームに与えられるモノだとメジロマックイーンは思っていた。部室にも数に限りがある。そう簡単にチームで使う部室に空きができるなんて都合の良い話があるとも思えず、よく使える部室を学園から用意されたなと思うしかなかった。

 

 

「まぁ、昔にルドルフ達のおかげで作れたアルタイルの実績があったからだろうな。普通なら二人しかいないチームに部屋なんて用意してもらえない。せいぜい二人のチームなら校内のトレーナー室を貸してくれるくらいだろうさ」

「それって……普通に贔屓じゃありませんこと? あまり行き過ぎた贔屓は不必要な反感を買いやすくなりますわよ?」

 

 

 あまり気分の良い話ではない。反射的に顔を顰めてメジロマックイーンは指摘してしまった。

 麻真のおかげで特別扱いで使えるようになった部室というのは、彼女からすれば実に居心地が悪い場所になってしまう。

 明らかに普通では考えられない優遇をされると後々に面倒事を抱えやすい。ただでさえ麻真をトレーナーとしている時点で面倒事を抱えているのに、これ以上のトラブルを招くようなことは避けたいのがメジロマックイーンの本音だった。

 しかし部室を用意されて、やはり要らないと部室の使用権利を返却できる権限などメジロマックイーンは持っていない。それは麻真が持つ権限である以上、彼女は麻真へ遠回しに諭すような返事をするしかなかった。

 

 

「別に良いんじゃないか? 使える権利はありがたく使わせてもらえば良い。使っても良いって学園に言われてるなら他の奴に文句なんて言われる筋合いなんてないだろ?」

「それはその権利を使える側の意見です。私達の所為で本来この部室を使っていた方々が使えなくなった、なんて可能性も十分にありえますわ」

 

 

 自分の心情を分かっていない様子の麻真に、思わずメジロマックイーンは溜息を漏らした。

 普通に考えれば、新設したチームが使用できる部室なんてトレセン学園にあるわけない。約二千人のウマ娘が在籍するマンモス校のトレセン学園には、それこそ数多くのチームが存在する。それを踏まえれば、既存の部室は全て使用されていると思うのが普通だ。

 つまり単純に考えれば、メジロマックイーンと麻真がいるこの部室は、以前に使用していたチームから学園側が使用権利を剥奪したと考えるのが妥当だろう。

 そう考えたメジロマックイーンは、堪らず顔を強張らせた。もし自分のその予想が本当だとしたら、かなりマズイと。下手をすれば、この部室を使っていたチームから恨まれても何もおかしくない。

 それは今後のトラブルの原因に絶対になると、メジロマックイーンが頭を抱えたくなった時だった。

 

 

「それはない。この部室が使えるって理由だけで妙なトラブルになることなんてないから安心していい」

 

 

 そう、麻真が断言していた。彼のこの自信はなんだろうか?

 一体、麻真のどこからそんな自信が出てきているか全く理解できなかったメジロマックイーンは呆れて肩を落としてしまった。

 

 

「また訳の分からないことを……この部室、本当は他のチームが使っていた場所ではありませんこと?」

「いや、先に伝えてなかったがこの部室は新しく建てた部室なんだ。ついでに言うとこの部室の建設費用は俺持ちだから余計な心配なんて要らん。前に理事長に部室を新しく用意してもらう為に建てる場所の確保と工事の手続きを任せる代わりに、その費用は全部俺持ちって契約で建ててもらったんだ」

「はい……?」

 

 

 何気なく言われて、その内容がすぐに飲み込めず、メジロマックイーンは反応に困った。

 そんなメジロマックイーンを無視して、麻真はまるで世間話をするような気軽さで続けて話していた。

 

 

「どうにも理事長が言うには、部室の建設場所の確保に手こずったらしい。建築云々の諸々で色々と時間が掛かって、ようやく完成した部室を先週末から使っても良いって話になった」

 

 

 時間を掛けて、少しずつ麻真の話をメジロマックイーンが頭の中で反芻する。

 そして脳内でその話を整理したメジロマックイーンは、彼の話を理解した上で表情を怪訝に顰めていた。

 

 

「ちょっと待ってください。費用が麻真さんから……? そんなお金、どこから?」

 

 

 そう訊くことが、メジロマックイーンの精一杯だった。

 特別高額とは言えないがプレハブ小屋程の大きさの建物の建設をするのにはある程度の費用が掛かる。財布に入る程度の金額でできることでないのは、流石に一般層からかけ離れた富裕層に位置する家柄の彼女も知っていた。

 そんな気軽に使える額ではない。そう思って、メジロマックイーンは反射的に麻真に訊いてしまった。

 

 

「簡単だったぞ。今年度分の俺の給料なしで話が済んだ」

 

 

 その疑問に、あっけらかんと麻真は答えた。

 予想を超えた返答は、脳が処理できなくなるらしい。

 麻真の返事を聞いて、メジロマックイーンは目をパチパチと激しく瞬きしていた。未だ、彼の話を理解できなかった。

 

 

「一年間、給料、なし?」

「あぁ、なしだ」

「キュウリョウ、ソレ、毎月の賃金、デスノ……?」

「そうだが……その口調どうした? それに最後は変な疑問系になってるぞ?」

 

 

 にわかに信じられず、再度メジロマックイーンが訊いても麻真の返事は全く変わらない。

 頭の中でゆっくり整理しよう。新しく建てたチーム・アルタイルの部室の代価は、麻真の給料一年分。

 今、自分のいるこの空間は、トレセン学園から支払われるはずだった麻真の給料一年分で成り立っている。

 理解の範疇を超えた麻真の話が、長い時間を掛けてメジロマックイーンの脳が理解した瞬間、自身の中に湧き上がる未だかつてない怒りの感情に、彼女はその表情を歪めていた。

 プツン、とメジロマックイーンのこめかみの血管が切れたような音がした。

 

 

「――なんてことをしていますの⁉︎」

「なにか問題でもあったか?」

 

 

 テーブルを強く叩いて立ち上がるメジロマックイーンだったが、麻真は心底不思議そうに首を傾げるだけだった。

 何も問題はない。そう告げている麻真の態度がメジロマックイーンに更なる苛立ちを募らせた。

 この男は全く理解していないのだろうか。自分の行った行為がどれほど愚かな行動か分かっているのなら、普通なら選べるはずがない。

 メジロマックイーンは今日一番の鋭い目つきで、麻真を睨みつけていた。

 

 

「あり得ませんわ! あなたは何のためにこの学園で働いてるんですの! たとえトレーナーが好きな仕事だと言えど! その根底にあるのはひとつですわ! それが何か麻真さんに分からないわけありません!」

「別に好きな仕事って訳じゃないんだが……」

「大事なのはそこではありませんっ‼︎」

 

 

 誰もが働く理由なんて決まっている。好きな仕事、嫌いな仕事があれど、その根にあるのはひとつしかない。慈善活動だけで人は生きていけるわけがない。それをもし理解していれば、麻真から返ってくる答えなど決まっていた。

 

 

「あなたなら分かるはずですわ! どうして人は働くのか⁉︎ お答えください!」

「随分と哲学なことを訊いてくるな。そんな深いことを急に訊くなんて将来のことで不安でもあるのか?」

「次にまたふざけたことを口にしたらはっ倒しますわよ‼︎」

 

 

 本気で怒っているメジロマックイーンに、麻真が呆けた表情を見せる。そして呆れたように肩を竦めて、彼は面倒そうに答えていた。

 

 

「……誰しも働く理由なんてひとつしかない。生活する為だ」

「ならあなたのしたことがその生活を捨てる行為だと理解されてますの⁉︎」

「それに何か問題でもあるか?」

 

 

 即答だった。それを理解した上での行動だと知って、なおのことタチが悪いとメジロマックイーンは更に麻真への怒りを露わにした。

 給料がないということは、賃金がないことだ。つまり今後一年間、麻真は仕事によって得られる金銭が一切ない。

 正気の沙汰ではない。給料がなければ、金銭が得られない。ずっと一年間も無給で働くことがどれほど異常なことか目の前の男が理解していない訳がない。

 それなのにそれを理解した上で麻真がその選択をした理解の範疇を超えている行動に、メジロマックイーンは頭痛すら起こしそうだった。そこまでして専用の部室を得る必要があるとは、彼女には微塵も思えなかった。

 

 

「私とあなたの二人しかいないチームに専用の部室がなくても問題ありませんわ! それなのに、どうしてそんなことを……!」

「チームに俺とマックイーンの二人しかいなくても、誰かに聞かれれば困る話はいくらでもある。後々に重賞レース……それこそ天皇賞に出ることも考えれば、誰にも聞かれる心配がない場所が必要だった。この部室の防音設備、かなり凄いんだからな?」

「そんな理由で押し通せると思ってますの⁉︎ 冷静に考えてください! あなたはこれから一年間もお給料がないんですのよ! これからの生活をどうされるつもりですか⁉︎」

「そもそも別に俺は金に困ってない。生活するくらいの貯蓄はある方なんだ。一年間給料がなくても大したことじゃない。それに復職したが二年も休職すれば俺のトレーナーランクもかなり降格になって、今は一番下になってるから給料もたかが知れてる」

 

 

 メジロマックイーンの知らないことだが、トレセン学園で働くトレーナーの給料にはランク制というモノがある。

 最上位のSから始まり、そこからAからFまでの六段階の計七段階までのトレーナーランクがトレセン学園には存在する。これは担当しているウマ娘の実績などからランクの昇格や降格の査定が行われている。

 そこから基本給を算出し、その他の付加要素を加味してトレーナーの給料が決められる。

 現在、麻真は二年間の休職によりトレーナーランクが降格してFランクとなっていた。

 しかしランクによって給料の変動があれど就職難易度が最高峰のトレセン学園で最低のFランクだとしても、その給料は世間からすればかなりの高給なのは言うまでもなかった。

 

 

「それにトレセン学園に居れば、金なんて使う場面なんて数が知れてるだろ?」

 

 

 それがトレーナーになった人間の悲しき定めだった。

 高給を得ているのに使うタイミングがないのが、トレセン学園にいるトレーナー達の抱える悩みでもあった。

 トレセン学園内のトレーナー寮に住み、毎日の時間の大半を担当ウマ娘に使っていればトレーナーのプライベート時間などごく僅かしかない。平日は勿論のこと、土日の休日すら担当ウマ娘の為に時間を費やす。トレーニングの付き添いや事務仕事等の多忙な短時間で終わらない量の仕事を夜遅くまでしていると、いつの間にかプライベートの時間がなくなる。それがトレーナー達の生活だった。

 故に、彼等が金を使う場面など生活必需品と趣向品、稀に同僚達との飲食くらいだ。稀に暴食のウマ娘によって高給でありながら金欠になるトレーナーも極少数だが存在する。

 多忙な仕事に対する時間の使い方が上手くならなければ、自分の金が使えない。ある意味ではブラック企業とでも言えるのが、このトレーナー業である。

 逆を言えば、仕事が効率良くできれば自由な時間が多いことになる。こと麻真は後者の部類に入るのだが、彼の金の使い方は特殊な部類に入るので一般的なトレーナーから逸脱しているので例外となるだろう。

 だがしかし、そんなトレーナーが抱える悩みなど今のメジロマックイーンには知ったことではなかった。仮にこのトレーナー業の闇を今説明されたとしても、彼女が次に発する言葉が変わることなどなかった。

 

 

「そういう問題ではありません! 仮にあなたが貯金してもしていなくても大事なところは変わりませんわ! これから一年間もお給料がないこと自体が問題なのがどうして分かりませんの⁉︎」

「だから別に俺が困らないから良いだろ?」

「あなたが良くても! 私が困るのが分かりませんの⁉︎」

 

 

 そう叫んで、メジロマックイーンは頭を抱えるしかなかった。

 もう後戻りができない。現にこうして新しい部室がこの場にある以上、麻真の一年分の給料を代価にしたという条件をなかったことにする方法がメジロマックイーンには思いつかなかった。

 麻真の給料の補填にメジロ家の財力を使うことすら一瞬考えたが、メジロマックイーンは苦悶に表情を歪めるしかなかった。

 それだけは絶対にできない。トレセン学園に金銭の支援ですら不味いのだから、個人的な形でトレーナーに金銭の譲渡をするのは更に面倒な事になるのが分かりきっていた。

 噂というのは、どこからでも出てくる。火のないところに煙は立たぬ、という言葉すらあるくらいだ。例えそれを秘密裏に行ったとしても、ふとしたことで露呈する可能性がある。

 メジロ家が個人的な理由で担当トレーナーに金銭の譲渡が知られでもすれば、私的な金銭でメジロ家がトレセン学園での待遇を良くしていると良からぬ悪評が付き纏うことになる。

 部室の代価である麻真の給料一年分をメジロ家が立て替えるということは、部室の代金をメジロ家が出したことになってしまう。それが仮にバレてしまい、メジロ家は金でトレセン学園で高待遇を得ていると学園内で思われるのはメジロマックイーンにとってかなり問題になることだった。

 メジロ家のウマ娘は自分だけではない。メジロの名を持つ他のウマ娘達にも迷惑が掛かる可能性が大きいことを考えれば、安易にメジロマックイーンがその手段を使える訳がなかった。

 そもそも、トレーナーが自分の給料を一年分使って自チームの部室を用意したというのも大概だった。それを通した学園側もどうかと思うが、そこは麻真と学園側の何かしらのやり取りがあったのだろう。トレセン学園が麻真の給料を一年分無しにしても問題ないと判断したからこそ、彼の意見が通った。そう考えるしかなかった。

 

 

「俺が困るならまだしも、お前のなにが困るんだよ?」

 

 

 怒り狂うメジロマックイーンに対して、麻真は至って平然と答えた。

 麻真にとって、専用の部室を用意したのは理由があった。それは彼が先程公言した通りだった。

 チーム専用の部室が必要だったから用意した。麻真にはそれをする意味があったからこそ、一年分の給料を対価にする価値があった。彼にとっては、それだけの話だった。

 麻真がトレセン学園に戻ってきたのは、退職する為だ。極端に言えば、彼は現時点で給料など最初から眼中になかった。戻るつもりがなかったのに、強制的に戻されただけなのだ。元々得られるはずのない金なのだから、退職する為に使っているだけだった。

 もし今回のトレセン学園に戻された原因であるメジロマックイーンの件がなければ、麻真は本来ならトレセン学園に籍を置いたまま山の中で無給で過ごしていた。それができるだけの貯金を彼は持ち合わせていた。

 それがあったからこそ、他のトレーナー達が絶対にできるはずのない自身の給料を対価にチーム専用の部室を得るという暴挙を麻真はトレセン学園に押し通せたのだった。

 しかしそんな麻真の内情などメジロマックイーンは知らない。麻真が退職する為に自分を育てていると思いもしない彼女は、ただ純粋に“彼のことを案じて”、その怒りを露わにしていた。

 麻真に分かるわけもなかった。メジロマックイーンがここまで怒る理由など、彼女が怒るのは単に無駄に金を使ったからだと決めつけていた。

 故に、次に出てきたメジロマックイーンの言葉を聞いて、麻真は素直に呆気に取られることになった。

 

 

「私の所為で! あなたが本来得られるはずだったモノがなくなったことが問題なんです!」

「……お前の所為?」

 

 

 麻真は首を傾げて、そう言うしかなかった。

 根本的に二人の考えが違っていた。麻真はただ自分の為に金を使ったと思っていて、メジロマックイーンは彼が自分の為に金を使ったと思っている。その違いだった。

 

 

「私は麻真さんがそこまで自分を犠牲にされたことに怒っているんです! 給料一年分、私でもそれが大金なのは分かりますわ! 専属のトレーナーとして多くの時間と労力を私に使って頂いてるのに、その仕事の対価である給料まで失ってしまえば……私はあなたに何を返せば良いんですの‼︎」

 

 

 そこまで言われて、麻真は自身の失念にようやく気づいた。そしてメジロマックイーンというウマ娘の少女のことを自分は理解しきれていなかった。

 専属トレーナーと担当ウマ娘の関係になってまだ日は浅い。その日々の中で友好ながらも、言い争いの絶えない関係の中で麻真は気づいているはずだった。

 担当ウマ娘であるメジロマックイーンというウマ娘は、根本的な部分で心優しい性格のウマ娘だったことを麻真は忘れていた。

 自身の願いの為ならどんな犠牲も厭わない。その意思を持って日々を過ごしている彼女だが、実のところ優しい性格の持ち主だった。

 その片鱗を多く見てきた麻真も気づいていたはずだったのだが、忘れていた。自分の今回の行動でメジロマックイーンは大して驚かないだろうと安易に答えてしまったのが運の尽きだった。

 ここで麻真は自分は余計なことを口にしたと心底後悔していた。しかし後悔しても、もう遅い。メジロマックイーンの怒りは簡単に消えることはなかった。

 

 

「私が麻真さんに返せるのは勝利だけしかありません! それしか私は返せないのに、あなたが多くのことを犠牲にすればするほど私はあなたに何を返せば良いか分からなくなるんですっ!」

 

 

 目を吊り上げて、睨みつけてくるメジロマックイーンに麻真は静かに見つめ返しながら首を小さく横に振った。そして呆れたと肩を分かりやすく落としていた。

 

 

「そこまでお前が思い詰める必要なんてない。俺はお前の願いが叶う手伝いをしてるだけなんだ。レースで勝ちたいマックイーンが勝ってくれれば、俺はそれで十分なんだぞ?」

 

 

 メジロマックイーンの心情を察して、麻真は素直に本心を告げる。事実、彼女が勝ち続けてくれるだけで麻真は十分だった。それが彼の目的達成の近道なのだから。

 しかしメジロマックイーンは、それでは納得できなかった。

 

 

「例え麻真さんが納得しても私が納得できませんの! きっとあなたは理解されないんでしょう! 私が麻真さんと出会ってから今日まであなたにどれほど感謝しているかなんて!」

 

 

 麻真に向けて、メジロマックイーンは怒りを向ける。決してそれは負の感情ではなく、真逆の感情から生まれた怒りだった。

 

 

「良いですわ……そこまで分かって頂けないのなら教えて差し上げるだけですから」

 

 

 そう告げて、メジロマックイーンが再度テーブルを強く叩く。そして鬼のような形相で麻真を見つめて、彼女は静かに告げた。

 

 

「では、これより反省会を始めましょう。私と、麻真さんの反省会を」

「おい、反省会ってメイクデビュー戦の反省会だぞ? 変なこと――」

「余計なこと、仰らないでくださいませんこと?」

 

 

 まるでレース終盤に見せるような決死の表情で、メジロマックイーンが静かに告げる。

 初めて見せるメジロマックイーンの異様なその迫力に、麻真は心底驚きながらも引き攣った笑みで頷くしかなかった。

 これは予定と違った反省会になる。そんな確信が、麻真に深い溜息を吐かせていた。




読了、お疲れ様です。

久々の投稿です。帰ってきました。
久々に文章を書いたので色々と不備があったらすいません。

今回は反省会の前置き会とでも言っておきましょう。
次回、反省会です。
今までの麻真のトレーニングの解説と彼とマックイーンの食い違いについて書くことになるかと思います。

それでは次回にまたお会いしましょう。それでは。

感想、評価、批評はお気軽に。
頂ければ作者は喜びます。


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3.あなたを追い越したい

 反論は許さない。決して勝手な発言は認めないと、麻真を見つめる彼女の瞳が告げている。

 メジロマックイーンから向けられる強烈な威圧を受けて、改めて麻真は自身の認識の甘さを後悔するしかなった。

 まさかメジロマックイーンがここまで怒るとは――麻真は思ってもいなかった。

 

 認識を誤った。それが麻真の失態であり、全ての原因だった。

 

 トゥインクル・シリーズで由緒ある家柄のメジロ家は、世間一般の常識として俗に言う金持ちの一族だと広く認知されている。そのメジロ家のウマ娘であるメジロマックイーンなら新しく部室を建てた費用など大した金額ではない。そう思うだろうと、麻真は思っていた。

 別段部室を新しく建てた件を知られても、メジロマックイーンのズレた金銭感覚なら軽く聞き流される程度の話。仮に怒ったとしても無駄に金を使ったことに対する小言を言われるくらいだと、勝手に麻真は決めつけていた。

 

 それが間違いだった。メジロマックイーンというウマ娘のことを麻真は分かっているはずだったのに――分かっていなかった。

 

 先日のアルタイルというチーム名に関する説明を麻真が忘れた件でも、メジロマックイーンは怒っていた。しかし今回は、彼がいつもの見慣れた怒りなどではなく、いまだかつてないほどの大激怒。ここまで怒る彼女を、彼は今まで一度も見たことがなかった。

 この大激怒に最初は困惑した麻真だったが、メジロマックイーンが先程告げた言葉で察してしまった。

 

 麻真がメジロマックイーンの為に、本来得られるはずだった一年分の給料を失った。

 

 この結果を麻真の事情を知らない第三者が見れば、この度の彼の行動はメジロマックイーンの為だけに行われたようにしか見えない。

 少しの躊躇もなく行ったその行動は、明らかに常軌を逸した行動だった。

 普通なら決してできるはずがない選択。その選択をした麻真にメジロマックイーンが強大な怒りを生み出したのは、それは紛れもなく彼のことを案じてに他ならなかった。

 

 今回の一件で、麻真はトレーナー業で得られるはずだったモノを失ってしまったのだ。それがメジロマックイーンの逆鱗に触れてしまった。

 

 最強のウマ娘になるべく自身に人一倍の厳しく、そして同じ道を目指す友に厳しく在りながらも、メジロマックイーンというウマ娘は他者を思い遣れる心を持っているウマ娘であることを麻真は失念していた。

 そんな心を持っている彼女は、麻真から多大な時間と労力を掛けて自分を強く育ててもらっていると思っている。

 事実、麻真と出会う前よりも強くなっている実感を感じ、その結果もレースで実際に出ている。彼と出会ったことで、メジロマックイーンは多くのモノを得ることができた。

 そう思っている麻真に対して、メジロマックイーンは返せるモノがあまりにもなかった。自分が彼に返せるモノはレースで勝つことだけ、勝利しかない。ただ勝つだけ、たったそれだけのことしか彼に返せるモノがないと彼女は思い続けていた。

 

 そう心の中で苦悩し続けていたメジロマックイーンに、その仕事の唯一の対価だった給料すら麻真が失ったと知れば……彼女がどうなってしまうかなど、分かりきっていた。

 自分のことなど一切無視した自己犠牲を続ける麻真から様々なモノを与えられ続けた結果、遂にメジロマックイーンの抑え込んでいた感情が限界を超えてしまった。

 

 麻真の差し出したモノに対しての見返りが、あまりにも少な過ぎる。これではトレーナーと担当ウマ娘の契約による等価交換が成り立たない。今回の一件で、彼はメジロマックイーンの地雷を思い切り踏み抜いたのだから。

 これではあまりにも麻真が報われない。そう思って感情が爆発したメジロマックイーンを止めず術など、麻真にある訳がなかった。

 

 決して、彼女に伝えてはいけない。必要だったチーム専用の部室を麻真が給料一年分を差し出してまで作った本当の目的など、口が裂けても彼が言えるわけがなかった。

 

 

「改めて言いますわ! 今回の麻真さんの行動はハッキリ言って異常です! わざわざ部室を用意する為だけにご自身の給料を一年分も差し出すなんて、たった一人の担当ウマ娘にトレーナーがすることではありません!」

 

 

 そう言って、メジロマックイーンが声を大きく荒げた。ここまでの大声を淑女たる彼女が出すこともあるのかと現実逃避をしながら、この部室が防音完備していて良かったと麻真は心の中で安堵していた。

 誰かにこの喧嘩を聞かれでもすれば、間違いなく余計な面倒が増えそうだ。そんな安堵を胸の中に持って、麻真が口を開いた。

 

 

「だからそれは――」

「私が話して良いと言うまで口を開かないでください! まだ私の話は終わってませんわ! 話している人の話を途中で遮らない! 誰でもできる簡単なマナーくらい守りなさいッ!」

 

 

 どうやら自分が満足するまで話さないと喋らせる気がないらしい。メジロマックイーンの怒涛の勢いに負けて、麻真の身体が僅かにのけ反った。

 

 

「絶対に私は許しませんわ! 失うことを平然と受け入れているあなたのそのふざけた態度が、ここまで私を本気で怒らせたんですッ! あなたがご自身の行動を今後改めない限り、絶対に私はあなたを許しませんからねッ‼︎」

 

 

 圧倒される麻真に、メジロマックイーンは決して主導権を握らせるつもりはないと間髪入れずに声を荒げた。

 それでもどうにかタイミングを見計らって麻真が言葉を返そうと試みるが、それを察知したメジロマックイーンに喋るなと目で威圧されてしまう。

 こうなってしまったらお手上げだった。この場の主導権が完全にメジロマックイーンに握られている。それを取り返そうにも、麻真にはその手段が見つからなかった。

 メジロマックイーンによって発言を禁止されている。無理にでも話そうものなら彼女の怒りが更に増してしまう可能性が高い。今の時点で怒りが頂点を超えて天まで登っている彼女を更に怒らせても別にもう変わらないとも思えるが、ここまで怒る彼女と口論して仲が更に抉れる選択を選ぶのは、麻真としては得策ではなかった。

 

 麻真の目的を達成するには、メジロマックイーンの存在が必要不可欠。今まさに拗れかけている彼女との仲を修復不可能にする訳にはいかない。

 告げられたメジロマックイーンの言葉で麻真も既に察している。彼女の怒りが、自分のことを案じてのモノであることを。

 故に、今日まで胸の内で抑え込んでいたことを全て吐き出させるのが最善だろう。麻真はそう判断して、メジロマックイーンの言葉を全て素直に聞くことを選ぶしかなかった。

 

 

「何よりも私が許せないのは、それを私に何も言わずに実行したことですわッ! 以前にもお伝えしたはずです! 大事なことは事前に必ず話してくださいとッ‼」

 

 

 確かに、そんな話も合った。

 シンボリルドルフとレースをした時、意図的に伝えなかった麻真にメジロマックイーンが話していたことだ。

 大事な話は事前に伝えること、決して事後報告にしないでほしい。そんな話を彼女がしていたことを麻真は思い出していた。

 

 

「その相談すらないあなたの犠牲で得られたモノで私が喜ぶとでもお思いでしたかッ⁉︎ あなたのその身勝手な行動が担当ウマ娘である私をどんな気持ちにさせるか一度でも考えたことがありましてッ⁉︎ 私はあなたに色々なものを頂いてばかりなのに……その犠牲であなたは一体何を得られると言いますの⁉︎」

 

 

 思えば、それも麻真の認識が違ったのだろう。

 トレセン学園にいるウマ娘は、自分の目的の為に走っている。名のあるウマ娘達が進んだトゥインクル・シリーズの栄えある道を進み、栄誉と名声を得るために、彼女達は走っている。

 全ては自分の為に。そしてその目的の為に、彼女達ウマ娘はトレーナーを必要としている。

 自分を誰よりも強くしてくれるトレーナーを求めて、そしてトレーナーは自分の地位を上げてくれる強いウマ娘を求める。

 

 その互いの利益の為に、トレーナーとウマ娘は契約を交わす。

 

 担当ウマ娘は前を見て、道を進む。そしてトレーナーは、その道を進む手助けをする。それが麻真の考えるトレーナーと担当ウマ娘の関係だった。

 トレーナーは献身でなければならない。時間も、労力も、なにもかもを捧げて、彼女達の歩く道の手助けをする存在でないといけない。そう彼は思っていた。

 その対価として担当ウマ娘は強さを得て、前に進む。その歩く道が、トレーナーの功績となる。

 それが当然のことで、当たり前のことだった。結果として、担当ウマ娘が栄誉と名声を得られれば、彼女達はなにも思わないはずだった。

 その過程を作るトレーナーの事情など、些細なこと。そう思っているだろうと、麻真は思っていた。それが、彼の間違いだったのかもしれない。

 

 

「前々からずっと思っていましたが、あなたは隠し事が多過ぎます! いえ……この表現はきっと違うんでしょう!」

 

 

 話す権利を失っている麻真に、メジロマックイーンが絶えず叫ぶ。

 

 

「必要な隠し事があることは私も分かりますわ! メイクデビュー戦に向けたあの練習で、あなたは私に多くの隠し事をしていたことは分かってますのよ! あのことは今でも決して許せませんが、それはあなたにそれ相応の考えがあった故と理解はしています!」

 

 

 今までのことを思い返しているのか、メジロマックイーンが拳を握り締める。その拳が小さく震えているのを見れば、彼女の怒りが果てしないのが一目でわかった。

 麻真と出会ってから今日まで、彼に数多くの隠し事をされた記憶がメジロマックイーンの頭を駆け巡る。

 くだらないこともあった。悪戯をされたこともある。そして知らないことが前に進む手助けになることも、理解はできる。

 しかしそれを理解していても、メジロマックイーンは納得できないことがあった。

 

 

「ですが! それを考慮してもあなたは必要以上に隠し事をする癖があります! まずはそこを改めてくださいッ!」

 

 

 隠す必要である秘密と必要ではない秘密。その判断ができるのは秘密を作る側しかできない。

 必要を作ることに慣れれば、それが当たり前になる。隠すことを当然としている麻真の行動を再認識して、メジロマックイーンは尻尾を逆立てた。

 

 

「あなたが多くの隠し事をしなければならないほど、あなたにとって私は信用に値しないウマ娘に見えますの! それはあまりにも私をバカにしている行為ですわ!」

 

 

 それをするということは、隠し事をするこということは、それを伝える必要がないと言っていた。

 別に伝えなくていい。伝える必要がない。それは麻真が自分をどう扱っているのか公言しているようなものだ。

 それはあまりにも、メジロマックイーンには許し難いことだった。

 

 

「一蓮托生! 以前、麻真さんはこの言葉を私に言いましたわ! その言葉の意味を本当にあなたは分かってますの⁉︎ その言葉の意味を分かっているのなら、そんなことを私にできるわけありませんわ‼︎」

 

 

 一蓮托生。それは行動と運命と共にする言葉。

 互いに信頼関係が結ばれなければ、決して使えない言葉だ。

 それを使うということは、そうなることを望んでいるから使う。

 しかし麻真の行動は、明らかにそれと逸脱している。そうメジロマックイーンは受け取っていた。

 

 麻真からの信頼を向けられていない。それはこれ以上ない担当ウマ娘である自分に対する侮辱だった。

 

 決して麻真がそう思ってないと言ったところで、彼の態度がそう受け取れる時点で彼女は納得できるわけもなかった。

 メジロマックイーンが、下唇を噛む。それは自分を信頼していないと思っている麻真に対する不満か、それともそれに値しない自分の不甲斐さに対する怒りなのか、自分でも分からない行為だった。

 

 

「今一度、私は改めてあなたにお伝えしますわ! あなたには言葉で何度も伝えないと決して理解されないでしょうから!」

 

 

 だから、メジロマックイーンは伝えることにした。

 自分が、どれほど麻真を信頼しているか伝える。それしかできないと思って、もう一度胸の想いを告げていた。

 

 

「あなたと出会って、私は前よりも見違えるほど変われました! 私一人では勿論のこと、他のトレーナーさんでも決して辿り着けない強さを得ました! それに対する感謝を私が思うのは当然のこと、それすら麻真さんは理解されてないッ‼」

 

 

 北野麻真という人間がいたから、自分はここまで来れた。その道を作った彼に、メジロマックイーンが伝えきれない感謝を抱くのは当然だった。

 

 

「まだあなたにとって、私はまだまだ未熟者ですが……! それでも私はあなたに多大な感謝をしています! 辛いこと、腹の立つことが山のようにありますが、その気持ちは一度たりとも薄れたことはありません!」

 

 

 例え、それが麻真にとって当然な結果でも、感謝すらされることじゃないことだとしても、それを当然のことだと彼が認識していることがメジロマックイーンには許せなかった。

 

 

「私はあなたに会えて本当に良かった! そう思えるほど、私はあなたに育てられていることを喜ばしく思っています!」

 

 

 だからこそ、麻真との出会いをメジロマックイーンは自信を幸運だと思っていた。この出会いがなければ、間違いなく自分は違う道を進んでいたに違いない。

 走り方を矯正されなければ、足を故障していたかもしれない。いつかの未来、二度と走れない身体になっていたかもしれない。

 今よりも遅い成長で、ゆっくりと強くなって、結果が出ない自分を嘆いていたかもしれない。

 その数多い未来を全て壊してくれた麻真に、彼女が向ける想いなど決まっていた。

 

 

「だから私はあなたに全幅の信頼を寄せています! あなたが指し示す道標が間違いはないことを私は心の底から信じてます!」

 

 

 麻真が作る道に、間違いはない。その確信をメジロマックイーンが持つのは、当然のことだった。

 

 

「だからあなたの示す道を私は迷いなく歩きます! その歩く道が例え茨の道でも、どんなに険しい道でも、あなたがその道の歩き方を教えてくださるのなら……私は歩き続けます! その先にあるモノが正しいモノだと私は確信していますから!」

 

 

 故に、その道が正しいのなら彼女は進むだけだった。

 間違いなどない。この道は、絶対に正しい未来に進む道だと。

 例え泣きたくなっても、辛くて挫けそうになっても、その先に望む未来があるのなら進む。

 トレーナーである麻真が示す道なら、それを進み続けることが担当ウマ娘である自分の役目。その道に間違いないなどない。

 その信頼を向けるこそが、自分のできることなのだから。

 そう思って、メジロマックイーンは自身の想いを麻真に告げていた。

 

 

「…………」

 

 

 そんな彼女の想いを聞いて、麻真は黙っていた。

 なにも言えずに、まっすぐに向けられるメジロマックイーンの目を見つめることしかできなかった。

 

 相変わらず、このウマ娘は尋常ではない信頼を向けて来る。

 こんなにもまっすぐに、純粋な目をしている。

 この素直な気持ちを向けられたのは、とても久々だった。

 いや、きっとずっと前から向けられていたんだろう。

 

 メジロマックイーンから向けられていた感謝の気持ちを、麻真は知っていたんだろう。

 ただ、それを理解しようとしなかった。それを分かろうとしないで、目を逸らしていたのかもしれない。

 

 シンボリルドルフ、エアグルーヴ、タイキシャトル。まだ多くいる過去に担当していた今までのウマ娘から向けられていたのは、間違いなくこの感情だった。

 それを麻真が見ようとしなくなったのは、いつからだろうか。そんなことを思った時だった。

 

 

『だったら! 私じゃなくあなたが走れば――!』

 

 

 麻真の脳裏に、あの時の言葉が通り過ぎた。

 忘れたくても、忘れられない。ずっと胸の中で、今でも響いている彼女の言葉が、麻真の耳に響いたような気がした。

 

 あの時から、きっと自分は見ようとしなくなったのかもしれない。

 色んな言葉を連ねて、そして自分の気持ちを分からなくして、見ようとしなくなった。

 そして自分でも分からないまま、変わってしまったのかもしれない。

 メジロマックイーンからここまで言われるまで、自分の行いが担当ウマ娘にどんな想いをさせていたのかも理解できないように、変わってしまったんだろう。

 

 

「はぁ……」

 

 

 深い、とても深い溜息を麻真が吐いた。

 ムッと眉を寄せるメジロマックイーンだったが、麻真はあえて反応せずに口を開いた。

 

 

「……もう喋っても良いのか?」

「発言を許可しますわ。何か反論はありまして?」

「まず先に、謝る。マックイーン、俺が悪かった。そこまでお前が思い詰めているとは思わなかった」

 

 

 もう隠しても仕方ない。だから素直に、麻真は話すことにした。

 

 

「隠してたのは、別にお前に知られる必要がなかったからだ。この部室のことも単に口が滑っただけで、もしかしたら言ってなかったかもしれない」

 

 

 メジロマックイーンの目が吊り上がるが、麻真は絶えず口を動かした。

 

 

「知らなくても良いことは何にでもある。知ることが良いことばかりじゃない。知ってしまえば悪いこともある」

「それはあなたが決めることではありませんわ」

「だから教えないんだ。それが分からないから教えない。だから俺は知る必要があることだけ、伝えてきた」

 

 

 それが麻真の秘密を作る理由のひとつだった。

 隠すことで意味のあることもある。それは練習などで顕著に現れる。

 しかし練習以外のことは、教えても良いか分からないことが多かった。

 トレーナーが抱えている努力などを言っても、担当ウマ娘を不安にさせるだけだ。変に心配させるのは,彼女達のメンタルに影響する。それはトレーナーが望むことではない。

 下手に伝えれば、面倒なことになるかもしれない。なら、伝えない方が良い。そう、いつの日か麻真は思うようになった。

 そんな秘密を重ねるようになって、隠すことが当たり前になって、日常になった。

 本当に必要なことだけを伝えて、不必要なことは伝えない。それ以外に不安要素になることも、伝えないようにしてきた。その取捨選択を無意識に行ってきた。

 

 その全ては、トレーナーが掲げるたった一つの目的のために。

 

 だからメジロマックイーンは、そんな不要な心配などしなくていい。知らなくてもいい。そう思って、麻真は伝えないことを選び続けてきたのだから。

 

 

「お前は、ただ前を向いて歩いてくれれば良かった。お前の後ろで背中を押してる俺のことなんて気にしなくて良かったんだ」

「その認識は違いますわ。私はあなたに背中を押してもらってるのではないんです。私は、あなたの背中を追い掛けているんです。今も、そしてこれからも、私はあなたの背中をずっと追い掛けるんです」

「……お前もか」

 

 

 それは変わらない言葉だった。

 目の前の彼女も、彼女達と変わらないことを言っていた。

 昔から、そして今も、決して変わらない言葉だった。

 

 

「お前達は、全員揃ってそうだ。もう一人で十分走れるようになっても、ずっと俺の背中ばかり見てる」

 

 

 思い返せば、全員そうだった。

 

 

「俺がお前達に教えてるのは、お前達が自分の目標に向かって一人で走れる走り方だ。それが分かるようになれば、言ってしまえば俺なんて要らなくなる。ルドルフ達も、もう一人で走れるのになんでか俺と走りたがる……なんでなんだか」

「それは私達が、あなたを心から尊敬しているからですわ」

「俺の役目は、一人で歩けないお前達を歩かせるだけだ。そんな尊敬なんて、要らない。そんなことを思うのが間違いなんだよ。ルドルフ達も、お前と全く同じことを言うんだ。俺はウマ娘じゃない。トレーナーなんだ。それなのに、どうにもお前達は俺の背中を追いかけようとする。俺のことなんて捨てて、もう一人で歩けるのに」

 

 

 担当ウマ娘に、輝かしい道を歩かせる。その影に、トレーナーはいる。

 なにも知らずに、ただ自分の道を担当ウマ娘が歩いて進む。それを望むのが、トレーナーの本質なのだから。

 それができた時、ウマ娘はトレーナーを必要としなくなる。独り立ちしたウマ娘がどこに行こうとも、それは彼女達が勝手にすれば良いことだ。

 トレーナーを捨てて、新しい道に進む。それがいつか来る未来だと。

 

 

「……会長さん達が麻真さんをどう思っているかは、私にも分かりません。ですが私に関しては、答えられますわ」

 

 

 吊り上げた目を変えないまま、メジロマックイーンが右手を胸に添える。

 それはまるで自身の覚悟を、決意を告げているような姿に見えた。

 

 

「私があなたの背中を追い掛けるのは、自分が強くなる為。そしてとても綺麗で、思わず見惚れてしまうくらい素晴らしい走りをするあなたを超えたいと思っているからです」

 

 

 一度、ゆっくりとメジロマックイーンが瞼を閉じる。そして目を開けた彼女は、変わることのない鋭い視線を麻真に向けていた。

 

 

「あなたの後ろ姿を追うだけではなく、全力で走るあなたの隣を一緒に走ってみたい。あなたに憧れて、あなたと同じくらい綺麗に走れるようになって、いつかあなたが誇れるくらいの綺麗な走りになって、あなたを追い越したい。私は、そう思っていますの」

 

 

 その目は絶対に諦めない意思が込められた、宿敵に向けるような瞳だった。

 

 

「闘争本能が強いウマ娘が一度追い掛けた以上、必ず追い越したいと思うのは当然のことですのよ? 負けることを受け入れるウマ娘なんて誰一人もいないこと、あなたが知らないわけ、ありませんわよね?」

 

 

 そう言って、メジロマックイーンが笑っていた。

 微笑むような笑いではない。それはいつか来る未来を心待ちにする、狂気じみた顔に麻真は見えた。

 絶対に超えてやる。その意思がハッキリとわかる。そんな目だった。

 

 

「……ルドルフ達ならまだしも、一丁前にひよっこの下手くそが俺より上手く走れるなんてよく言えたな」

 

 

 この顔を麻真は知っていた。

 今までも、何度もこの顔を向けられた。

 昔から変わらず、ウマ娘は走ることになると目の色変わる。

 このウマ娘から向けられる信頼に、自分がどう答えるのが正解なのか?

 その疑問に麻真は目を伏せて、考えることにした。




読了、お疲れ様です。
そしてお久しぶりです。

今回は、メジロマックイーンの不満の話と麻真の過去を少し。
秘密と隠し事をすることが正解かどうかなんてわかりませんよね?
そして麻真の異常な一面とウマ娘の異常な一面、みたいなお話。

それでは、また次回の話でお会いしましょう。
感想、評価、批評はお気軽に。


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4.理想の走り方

 

 

「確かに麻真さんの仰る通り、私は未熟者ですわ。麻真さんの走りと比べれば、私の今の走りはあなたの足元にも及びません。ですが……それは今だけの話ですわ。私もいずれはあなたのようになります」

 

 

 それは自身の決意を告げているようだった。

 メジロマックイーンが語る自身の想いを聞いて、麻真は笑ってしまいそうになった。決して声には出さないが、口角を少しだけ上げて、出そうになる声をどうにか我慢した。

 

 まだ未熟なウマ娘が強気なことに言うのは麻真も慣れていた。どんなウマ娘も強くなる為に、その志を高くする。

 だがその志があっても、才能があっても、努力があっても、辿り着けない場所がある。限られたウマ娘にしか立つことを許されない場所がある。

 

 最も速く、強く、そして運のあるウマ娘が辿り着ける世界がある。その三つの要素を持つウマ娘は、本当に数少ない。

 

 それが顕著に現れるのが、走り方だ。極論、その走りを極めれば、その世界に辿り着ける可能性が高くなる。しかしそれが簡単にできないから、走りは奥が深い。

 だからこそ、走り方で全てが変わる。足の動かし方、足先の使い方、腕の振り方、身体を使う全ての些細な動きが走る速度に影響を与える。

 今の自分の身体に一番最適な走り方を見つけること。それを突き詰めることこそが、最も速く走る術である。

 

 その境地に辿り着く苦労を誰よりも知る麻真だからこそ、メジロマックイーンの覚悟は未熟者である故に出る安直な言葉にしか聞こえなかった。

 

 知れば知るほど、それは先の長い道のりなのだ。自分の本当の走り方を見つけて、極めることの難しさを知れば、大抵のウマ娘は心が折れてしまう。だから妥協して、自分を納得させる。

 その妥協を一度してしまえば、戻るのはとても難しい。その妥協をメジロマックイーンにさせるつもりは麻真としても毛頭ないが、その覚悟が本当に彼女に備わっているのかは本人にしか分からないことだ。

 

 麻真自身も、彼女にその覚悟があると思っている。担当しているウマ娘なのだから、その信頼を向けてはいる。だが、実際に彼女からそれを言われると笑える話だった。

 まだジュニア級になったばかりの、生まれたての小鹿のような存在でしかない小娘のウマ娘が威勢良く吠えていると。

 

 そう語る彼女達に、麻真が思うことは同じだった。

 そんな簡単に、走りの道を舐めるなと。

 

 

「随分と簡単に言うな」

「簡単ではない道ですが……それでも、そうなるのが当然ですわ」

 

 

 なにがそこまでメジロマックイーンに自信を持たせているのか。

 そんな疑問を麻真が抱いた時だった。

 

 

「だって、麻真さんが私をそうさせてくれますもの」

 

 

 そう、あまりにも自然にメジロマックイーンは言っていた。

 当然のことで、それは当たり前のことだ。トレーナーが担当ウマ娘を導くのは、普通のこと。しかし改めて彼女に言われて、麻真の目が無意識に大きくなった。

 

 

「ですから……何度でも私はお伝えします。私を強くしてくれるあなたに、私は心からの信頼と尊敬をし続けます。だから私のこの気持ちにあなたも気づいて、私だけを見てください。メジロ家のウマ娘として、最強のウマ娘になる私をあなたも信じてください。本当は嫌ですが、必要な秘密なら許しますから……だから、今後はもうふざけた隠し事をしないで、私を信じ続けてください。あなたが私を信じてくださるのなら、私はこの胸を張って、その信頼に誠心誠意応えることができるんです」

 

 

 それが互いに信頼する担当ウマ娘とトレーナーの関係。一蓮托生の言葉だと言っているようだった。

 全幅の信頼を向けるから、応えて欲しい。そんな担当ウマ娘がトレーナーに抱く想いを、麻真は忘れていたのかもしれない。

 あれだけメジロマックイーンに一蓮托生として担当ウマ娘とトレーナーの関係性について説いても、どこか自分の中で線引きをしていたのだと改めて再認識した。

 

 ここまでの信頼を向けられて、どう答えるのか正解か。

 

 それは、もう麻真の中で決まっていた。肩を落として、彼は小さく頷いた。

 

 

「……わかった。もうふざけた隠し事はしない」

 

 

 自分もメジロマックイーンに不必要な心配をしない。彼女のことを案じてのことだと勝手に決めつけるようなことをしないで、彼女にありのままで向き合おうと麻真は心の中で密かに決めた。

 だからと言って、メジロマックイーンに対する練習が優しくなるわけではない。その点だけは絶対にないと思いながら。

 

 

「もしまた同じことをされたら、どうされるおつもりです?」

「それは時と場合によるだろ?」

 

 

 次に麻真が隠し事をした際、どうするか?

 それはどんな隠し事をしたかに左右されることだ。

 その判断はその場の状況で大きく変わる。

 麻真の返答にメジロマックイーンが顔を顰めるが、少し考える素振りを見せながら答えた。

 

 

「……では、今回の部室の件のようなことを次にしたらとしましょう。どうされるつもりです?」

「するつもりはないからお前が勝手に決めろ。別になんでもいい」

 

 

 意図的にするつもりがないのだから、今回のようなことはもう起きない。そう思って麻真は答えていた。

 しかし麻真のその考えたとは違い、彼の返事を聞いたメジロマックイーンの耳がピクリと動いた。

 

 

「今、なんでもと仰いましたね?」

「……めんどくさ」

 

 

 奇妙な反応を見せたメジロマックイーンに、麻真が反射的に呟いた。また面倒なことを言い出すような気がしてならなかった。

 メジロマックイーンが小さく笑う。どこか不気味な彼女の微笑みに麻真は顔を顰めるしかなかった。

 

 

「なに言うつもりだよ、お前」

「いいえ、まだ決めませんわ。その時が来ましたら、私が自由に決めさせていただきますので」

「いや、今決めろよ」

「それはこれからも秘密をすると言っている、と受け取れますわよ?」

 

 

 途端に鋭くなったメジロマックイーンの視線に、麻真がわざとらしく両手を上げた。

 降参と態度で麻真が示すと、彼女は満足そうに胸を張っていた。

 

 

「それで良いんですわ。では、満足しましたので続きをしましょう。まず今後の問題は置いておくとして、今回の部室の件を秘密にした罰をお伝えしますわ」

「は? 今回のは違うだろ?」

「……今、なんと仰いましたか?」

 

 

 メジロマックイーンの威圧感が増した。本来なら麻真も気にすることではないが、今回ばかりはどうすることもできず、渋々と彼は頷くしかなかった。

 

 

「わかった、わかったよ……全く」

「えぇ、それで良いんですわ」

「それで? お前はなにが望みなんだ?」

 

 

 溜息を漏らしながら、麻真が訊く。

 その問いに、メジロマックイーンは元から用意していたことを告げていた。

 

 

「私が今回望むのは、ひとつですわ。それはあなたの反省会としてでもありますが……この度の私のメイクデビュー戦であなたが隠したことを全て、包み隠さず教えてください」

 

 

 そう言ったメジロマックイーンの目は、絶対に教えろと告げていた。

 今までのことを思い返して、そして実際のメイクデビュー戦を終えた彼女なら、その考えに辿り着くのも自然の流れだった。

 その考えに至ったメジロマックイーンに、麻真はほんの少しだけ意表を突かれた。

 

 

「なんでそう思ったんだ?」

 

 

 思わず、麻真は訊いていた。

 その返事に、メジロマックイーンは今までのことを思い出しながら答えた。

 

 

「なにを仰ってますの? その程度、私が分からないはずありませんわ。ですが、私もいまだに分からないのは……麻真さんがどこまで先を見据えて練習メニューを考えていたか、ですわ」

 

 

 走り方から始まり、あの重い蹄鉄靴の件、そして実際のレース場を見据えているとしか思えなかった今までの練習。それを麻真がどこまで想定していたのか、メジロマックイーンには分からないままだった。

 

 

「答えてやるが、先にお前の考えを言ってみろ」

 

 

 それを察した麻真が、先にメジロマックイーンに話すように促す。

 もし彼女が自分の思う通りの返事が返って来れば、それは良い傾向だと判断できた。

 素直に話してくれない麻真にムッと口を尖らせたメジロマックイーンだったが、それでも話す必要があると察したのか渋々と口を開いた。

 

 

「まず、今回のメイクデビュー戦であなたは私に加速をする為の筋力が不足していると言いましたわ。それが原因で、麻真さんに私はとても辛い基礎トレーニングをさせられました」

 

 

 今まで起きたことを、メジロマックイーンがひとつずつ思い返す。

 

 

「そして麻真さんは、私にあのふざけた蹄鉄靴を渡しましたわ。私の走りを矯正する為と言って、本当の意図が他にもあることを隠されて」

 

 

 その言葉に、麻真は少し意外そうな表情を見せた。まさか彼女が気づいたとは思わなかったと。

 

 

「へぇ……? なにを思ったんだ?」

「白々しいですわね」

「良いから、言ってみろ」

「……あのメイクデビュー戦のレース場は、坂道が最難関だと言ってましたわ。あの時、私が終盤であの坂道を駆け上がった時、とてつもなく足が重たく感じました。それこそ、あの蹄鉄靴を履いていた時のように」

 

 

 レースで坂道を走った時の感覚がメジロマックイーンの足に蘇る。足を振り上げることすら辛かった時の感覚は、今でも忘れられなかった。

 

 

「その時、思いましたわ。あなたは私に何度も仰ってました。私にあるのは、根性とスタミナだけだと。それはあの坂道を登るのに必要な要素でしたわ。そして思い知りました。私が実際に坂道を登る時に困らないように、麻真さんは私にあの蹄鉄靴で重い足の使い方を教えたのだと」

 

 

 あの時の足の重さは、尋常ではなかった。

 あのバカげた蹄鉄靴を履いていなければ、実際に経験していなければ、間違いなく動揺していたかもしれない。そう思えるほど、あの時の経験が活きてくるとは思わなかった。

 

 

「あの蹄鉄靴ひとつで、あなたは私にふたつの練習をさせました。おそらく、まだ何かあると思ってます。それを教えてください」

「思ってたより良い答えだった。評価点は○だな」

 

 

 予想より良い答えが聞けたことに、麻真が驚きながらも素直に褒めるのは珍しいことだった。

 そこまで分かるなら、教えても良いだろう。そう思って、不貞腐れているメジロマックイーンに麻真は口を開いた。

 

 

「だが、その答えだと正解は半分くらいだ」

「まだ半分もあるんですの……?」

 

 

 麻真の答えに唖然とするメジロマックイーンに、彼はそのまま話を続けた。

 

 

「あの蹄鉄靴から得られることはお前が思ってる以上に多い。そのひとつが走り方の矯正だ。そもそもの話、あれは普通の練習じゃない」

「そんなのはわかりきってますわよ」

「うるさい、良いから黙って聞けって」

「言われるようなことするからですわ」

 

 

 呆れる麻真に、メジロマックイーンが口を尖らせる。

 あれを普通の練習と思う方がどうかしている。あんな練習をさせるのは麻真くらいしかいないだろう。

 

 

「あれは力の使い方が異常なウマ娘に使う練習なんだよ。お前の場合、一番的確に走り方を矯正させる方法だった。それに加えて、あの靴の経験は間違いなく今回のメイクデビューであの坂道を登るのに一番大事な要素だった。それはお前も実感してるだろうから説明は省くけどな」

 

 

 そう語る麻真に、メジロマックイーンが渋々と頷く。そこまでは自分の思っている通りのことだった。

 

 

「後はそうだな……今後の話だ」

「今後、ですが?」

「あぁ、あれは自分の走りを見つめ直させてくれる靴でもあるんだよ」

「走りを見つめ直させる、ですか?」

「何度も言うが、走りってのは無意識の内に変わるんだ。本人の意図もなく、自然と走りは変化する。だから困った時、あの靴を履けば良い」

 

 

 それはメジロマックイーンにとって、奇妙な言い方に聞こえた。

 今、最後に言った麻真の言葉は、まるで一人で困った時と言っているような、そんな妙な言葉にしか聞こえなかった。

 

 

「なにを変なことを仰ってますの? 私の走りはこれからも麻真さんが見てるんですから、あなたが居ればそれで良いはずでは?」

「……なにがあるか分からないだろ。俺が急に事故とかで入院したら面倒見れなくなる可能性だってあるんだから」

 

 

 そう話す麻真に、メジロマックイーンが眉を寄せた。

 まさかと思いながら、彼女は怪訝な表情を作った。

 

 

「あり得ないこととは思いますが……麻真さん、また急に休職されるなんてことされるおつもりですの?」

「するわけないだろ?」

「……本当ですか?」

「そんなことする理由がない。そんな心配なんてするなっての。もしも俺が事故とかで面倒見れなくなった保険も兼ねてるんだよ」

「それなら良いんですが……」

 

 

 麻真がそう言うなら、きっとそうなのだろう。そうメジロマックイーンは渋々と思うことにした。

 だが実際のところ、麻真本人は内心で冷や汗をかいていた。また口が滑ったと。

 

 メジロマックイーンに渡した靴は、彼女が一人で歩けるようにする為のモノでもあった。

 

 麻真が退職した後、彼女が他のトレーナーと契約しても、一人で自身の走りを見つめ直させる為の靴。それがあの蹄鉄靴に秘められた秘密のひとつだった。

 いくら秘密をしないと言っても、麻真は自分が退職しようとしていることだけは伝えるつもりはなかった。メジロマックイーンだけでなく、誰一人としてその話を口外することはない。

 もしバレればどうなるか、それを考えることすら麻真は面倒だった。

 

 

「ともかく、それもひとつって話だ。まだある」

 

 

 そして自然に麻真が話を続けて、メジロマックイーンからその意味から意識を逸らした。

 彼の思惑通り、メジロマックイーンの意識は次の意味に向けられていた。

 

 

「アレには、お前の走りの進化を促す効果がある」

「進化?」

 

 

 どことなく良い響きだとメジロマックイーンは思った。

 走りの進化。それは今よりも自分が速くなることを意味している言葉に聞こえた。

 

 

「今のお前の走りは、今のお前の身体ができる精一杯の走り方だ。だが、あれは本来の先行向けの走りじゃない。それはお前も分かってるんだろ?」

「えぇ……まぁ」

 

 

 メジロマックイーンが再度頷く。確かに、今の自分の走り方は先行とは言えない。あれはどちらかと言えば、逃げの走法だろう。

 

 

「それなら理解してると思うが、お前の今の走りは先行よりも逃げ脚質の走りに近い」

「そう言われれば、前にテイオーに言われましたわ。私の走り方を生徒会長がサイレンススズカさんと似ていると評したと」

「……アイツ、またガキンチョに余計なこと吹き込みやがって」

 

 

 明らかに不満そうに顔を歪める麻真に、メジロマックイーンが首を傾げた。

 

 

「私の走り方がテイオーに知られたら良くありませんの?」

「それはそうだろ。他所のバカに知識を与えるもんじゃない。知られることが不利になることもある。お前が前のレースでガキンチョから綺麗にスリップストリームされた時が良い例だ」

「それはそうですが……というか相変わらずテイオーのことはバカにされますのね」

「だってバカだろ、あのガキンチョ」

「……反論はしません」

「まぁ良い。ともかく、お前の今の走り方は特殊だって話だ。段階を踏んで加速して、最大速度を維持して走り続けるあの走り方は逃げの走法になる」

 

 

 それが今のメジロマックイーンにできる最速の走り方だ。

 爆発的な加速力のない彼女の体で戦える唯一の走法。この走りがなければ、今回のメイクデビュー戦のような結果を彼女が残すことはできなかっただろう。

 しかしそれは今の彼女だから、そうするしかなかっただけの走法だった。

 

 

「これから私の走り方は進化すると?」

「勿論、お前の走りはまだ変わる」

「今の走り方にようやく慣れてきましたのに……」

「それで妥協するようなウマ娘に俺がお前を育てるわけないだろ。お前はもっと速くなる」

「……そう、ですか」

 

 

 何気なく麻真が言った言葉に、メジロマックイーンは意表を突かれた。

 普段は褒めることを滅多にしない麻真が稀に褒めることに言うと胸に来るものがある。

 今よりも強くなれる。それができるウマ娘だと麻真から認めてもらっている。その事実が、メジロマックイーンの心に大きく響いていた。

 

 

「ここまで言ったし、もう言っても良いか……軽く話してやる」

 

 

 そんなメジロマックイーンに気づかず、麻真は話し続けていた。

 まだ彼女に伝えるつもりのなかったこと。麻真の思い描くメジロマックイーンというウマ娘の本当の走りの道を。

 

 

「まず、第一に話す。俺が思うお前の理想の立ち回りは、レース全体の走るペースを乱すことだ。今のお前の走りでもジュニア級なら間違いなくレースペースは乱せるが、今のままだと重賞レースになれば通用しなくなる」

「レースペースを乱す? ですか?」

 

 

 当然のように語る麻真の話が、メジロマックイーンにはあまりピンと来ない話だった。

 レースのペースを作る存在は、逃げ脚質のウマ娘だ。逃げに合わせて、先行が位置を取り、その後方に差し、そして追込が走る。

 逃げのウマ娘が早く走れば、その分だけ全員の走るペースが上がるが、その逆もある。

 自分の理想の立ち回りが、それを乱すこと。そう麻真に言われても、メジロマックイーンはすぐに理解できなかった。

 

 ふと、メイクデビュー戦のことをメジロマックイーンが思い返す。

 

 麻真が言うには今の走りでもレースペースを乱していたらしい。そう思って先日のレースを振り返った時、メジロマックイーンはハッと気づいた。

 

 確か、あの時の自分は全てのペースを無視して走った。その結果、逃げのウマ娘が勝手に脱落していた。

 アレは周りのペースを無視して走った自分に逃げウマ娘が合わせたから起きたことだった。

 

 

「あのようなことが……私の走り方になりますの?」

「お前なら分かるだろ? あの走りがどれだけ周りに脅威になるかって?」

 

 

 そう話す麻真の話し方は、自分を試しているような言い方にしか聞こえなかった。

 自分なら分かる。そう言われてメジロマックイーンは考えるしかなかった。

 

 あの時、メイクデビュー戦の内容を再度振り返る。

 あの走りを今よりも昇華した走りでできれば、周りが自分を強敵だと認識していれば、周りはどうするか。

 もし敵として自分のようなウマ娘がいた時、どう戦わなければならないのか。

 止まることなく加速し続けるウマ娘に勝つには、自分も合わせなければいけない。放置すれば、置いていかれる。だから追いかけるしかない。それはつまり、必要以上に自分のスタミナを削る行為になる。

 その判断をした時、メジロマックイーンは気づいた。そしてそれが、あまりにも強引で、強力な戦法だということを。

 

 

「……えげつないですわ」

 

 

 そう呟いて、メジロマックイーンは全身の鳥肌が立ったような気がした。

 その反応に、麻真は満足そうに頷いていた。

 

 

「それがお前の目指す長距離向けの走り方だ。スタミナと根性があるお前なら、これが一番簡単に相手の心を折れる。レースペースを強引にハイペースにして、周りを自分勝手にかき乱して、そして崩れた状況から一気に加速して先頭を走る。それが俺の考えるメジロマックイーンっていうウマ娘が使う理想の戦法だ」

「それが通用しない、とは考えませんの?」

 

 

 つい反射的に、メジロマックイーンはそう言っていた。

 語る上での理想と現実は違う。たまたまメイクデビュー戦ができただけで、この先のレースで本当に通用する戦法なのかと。

 

 

「通用するに決まってるだろ? こんな強引な走り方をされれば他のウマ娘達はお前に合わせるしかない。この作戦に勝てるウマ娘がいたとしたら、それはお前以上のスタミナがあって、お前に合わせて走っても十分に加速する足を温存できる奴だけだ。そんな化物みたいなウマ娘なんて片手で数えるくらいしかいない」

 

 

 鼻で笑いながら、麻真が苦笑する。それは絶対に負けないと言っている顔だった。

 麻真の思い描く理想。その走りを実際に自分ができるか疑問に思うメジロマックイーンだったが、それでも信じるしかなかった。

 

 

「だから、あの靴で加速が十分できる走りができればお前の走りはもう一段階上がる」

 

 

 北野麻真というトレーナーを信じる。そう決めた自身の決意を変えることなどあり得ない。そう思える実感が、メジロマックイーンにはあったのだから。

 その時、ふとメジロマックイーンの中にある疑問が浮かんだ。

 

 

「……ちょっと待ってくださいな」

「なんだ?」

「そう仰るということは……もしかしてあの靴、また使うんですの?」

 

 

 メジロマックイーンの脳裏に過ったのは、あの辛い記憶だった。

 あの蹄鉄靴を脱ぐことが許されなかった練習の日々。思うように走れないストレスを強烈に感じていた不快の日々を。

 

 

「そんなの当然だろ?」

「……また前みたいにタイムを測る練習をしますの?」

 

 

 死ぬほど嫌だったが、麻真から伝えられた理想の走りを作る為ならするしかない。

 そうメジロマックイーンが心に覚悟を決めた時だった。

 

 

「いや、前とは違う」

「なにをするつもりですの?」

 

 

 嫌な予感がメジロマックイーンの背中を駆け巡る。

 

 

「学園の近くに山あったよな?」

「ありますけど……」

 

 

 トレセン学園の近くには、山がある。そこでランニングするウマ娘がいると聞いたことがあった。

 ランニング。その言葉がメジロマックイーンの頭を過った時、彼女の全身の毛が逆立つような悪寒がした。

 

 

「まだやらないが……近いうちあの山、麓から頂上まで登るぞ」

「は……え……あの靴で?」

 

 

 それは、絶望としか言えない言葉だった。

 確か、あの山は見上げるほど高かった。

 あの山を、あのふざけた靴で走る。その事実を受け入れられないメジロマックイーンに、麻真は追い打ちを掛けていた。

 

 

「勿論、それもタイムトライアル」

「あぁぁ……終わりましたわ」

 

 

 ソファに座っていたメジロマックイーンの身体から、全身の力が抜けた。

 設定したタイムトライアルが終わるまで、決して終わらない山登り。きっと麻真なら終わるまで他の練習はさせてもらえない。

 必死に坂道を駆け上る自分を想像して、その苦労を予想したメジロマックイーンは心が折れそうになった。

 

 

「それは流石に……隠してほしかったですわ」

「先にやることがあるからな」

「……もう何を言われても驚きませんわよ」

「マックイーン、お前は明日から格上と走ってこい」

「はい……?」

「明日から特別メニューだ。チーム・スピカと合同練習するぞ」

 

 

 怪訝に眉を寄せるメジロマックイーンに、麻真はそう答えていた。




読了、お疲れ様です。

今回は麻真の考えるメジロマックイーンの理想の走り方についての話でした。
そして告げられる今後の練習についてと、スピカとの練習について、そんなお話。

アニメ三期の告知がされてましたね。キタサンブラックとサトノダイヤモンド、この二人、私は大好きです。メジロマックイーンとトウカイテイオーの二人と同じくらい好きです。
この作品でも、キタサトチビコンビを出そうと考えてましたが……出せてもかなり先なんですよね。アニメ三期が始まるまでには出したいです。

それでは、まだ次回の話でお会いしましょう。
感想、評価、批評はお気軽に。


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