ゴジラVSガメラ (マイケル社長)
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ープロローグー

・2020年 7月29日 17:49 東京都墨田区錦糸町4丁目 錦糸公園

 

 

折からの高気圧による熱波に加え、公園にぎっしり集まった人の熱気で錦糸公園は夕刻にも関わらず茹だるような暑さとなっていた。

 

押し寄せる人の波は引きも切らず、30分ほど前に東京都東部に発令された避難指示に則り、区の指定避難場所となっているここ錦糸公園を目指して北は押上方面から、南は江東区方面からさらなる人の列が伸びていた。

 

『柊木さんたちが一緒なら大丈夫だね、とにかく一緒に行動しな』

 

電話の向こうで母の由加がいつもと変わらぬ朗らかな口調で話してきたため、三崎真琴はむずがゆくなるような、なんとも言えない気分になった。

 

「お母さんごめん、オレ・・・」

 

早くそっちに戻れば良かったね、と言おうとしたとき、由加がそれを遮った。

 

『あんた、民生委員の仕事はあたしの仕事なんだから、大丈夫よ。それに自治会のみんなで手分けして独居老人や母子家庭に声かけて、もう少しで避難も始められるところ。第一にゴジラもギドラも、流山から先まで進んだらしいじゃない。いまのうちに避難できちゃえば、なんとかなるわさ』

 

明るい母の声に、真琴は込み上げてくるものがあった。

 

『とにかく、電車乗れて無事だったら連絡しよね!大丈夫、ここは日本なんだから。落ち着いたらなんとかして落ち合おうね!』

 

柊木さんたちによろしくね、と由加は電話を切った。自治町内会のかばん屋の奥さんだろうか、背後で由加を呼ぶ声がしていた。あちらはあちらで、やるべきことが多いのだろう。

 

年末年始以上の通信電波利用による不通が続き、ようやくつながった電話だったが、さみしさと心配はあまり晴れなかった。真琴のアルバイト先である『おそうざいの柊木』の女将、柊木里子が声をかけてきた。

 

「由加ちゃん、やっぱり忙しいみたいだね」

 

「はい。民生委員だから、独り暮らしのおじいちゃんなんかを面倒みなきゃ、って」

 

真琴は自宅がある押上の方向を仰いだ。どんよりした空からはいまにも雨が降り出しそうで、濃密な熱い空気は真琴がまなざす方向にひときわ大きくそびえる東京スカイツリーの上半分を完全に包み込んでしまっていた。

 

「でも、由加ちゃんだけじゃなくて、かばん屋の北本さんや肉屋の肇ちゃんも一緒なんでしょ。大丈夫だよまこっちゃん。由加ちゃんにはみんなついてるし、あんたにはあたしらがついてるじゃないのさ」

 

元気出しな、と真琴の肩をポンと叩いてくる里子。「おい里子、まこっちゃん!」と声をかけられたのはそのときだった。

 

「あんたぁ、どうだった?」

 

人の波をかきわけるようにやってきたのは、里子の主人で惣菜店を経営する柊木潤三だった。小学2年になった息子の拓磨と一緒に、この先の交差点で警備誘導に当たっている警官に避難の状況を訊きに行っていたのだ。

 

「まぁだだいぶ時間はかかるが、それでも総武線も東西線も小岩まで伸ばすってよ。そこからピストンで避難輸送してくれるって話だぜ」

 

「ホントか、潤三?」

 

「ようし、そう来たら我慢比べよ!」

 

「よぉし、もうちょっと辛抱だ!」

 

周りの人々も皆顔見知り(潤三の競馬仲間)であり、わずかではあるが避難の目処がついたことで活気づいた。

 

「ゴジラとギドラのヤロウ、常総まで行きやがったって話だ。このまんま北上してくれりゃ、避難もしねぇで済むかもしんねえぜ!」

 

普段からラジオで競馬実況を聴いている印刷屋の旦那が、イヤホンを外して言った。

 

「そいつはありがてえ。このまんま海へ出てくれりゃ、今度こそ自衛隊も弾ァ撃ち放題だ。やっつけちまえるぞ!」

 

「早いとこそうなってもらいてぇな。暑くてかなわねぇ!」

 

「おい、ビール買ってこいビール!」

 

脅威が遠ざかりつつあることで、潤三と近所のオヤジ連中はガハハと笑いながら話している。蒸し風呂のような熱気で殺伐としていた空気が、弾けるように軽くなった。

 

「真琴ねえちゃん」

 

柊木夫妻の息子である拓磨が、真琴のTシャツをひっぱった。手のひらにキャンディを乗せている。

 

「いいよ。拓磨が食べな」

 

真琴ははにかんでそう言ったが、ニッコリ笑う拓磨の左頬はぷっくり膨らんでいた。

 

「もう舐めてんのかよ」

 

笑って少し小突くと、真琴は拓磨の手からキャンディを受け取り、口に放った。

 

「ねえ真琴ねえちゃん、ゴジラとギドラ、こわい?」

 

拓磨はいつもしてくるように真琴の腕にしがみつくと、ふいに訊いてきた。

 

「うん・・・こわいかな。やっぱり」

 

どう答えれば良いかわからなかったが、素直に真琴は答えた。

 

「えー、ねえちゃん怖いんだぁ。オレ、ゴジラもギドラもカッコいいって思うのに」

 

そうはにかむ拓磨。たしなめの言葉を投げ掛けようともしたが、やめた。ゴジラもギドラも、おそるべき存在ではあるが、実際に遭遇したこともなく、ネットやテレビ越しに見た場合、小学生は常識と異なる印象を持つのだろう。

 

印象が恐怖に変わることなく、このまま平穏に時が過ぎてほしい・・・そう思った時、後ろから人の列が押してきた。押されるがままの人が波を作るように、自分より前の人を押していく。その流れから守るべく真琴は拓磨を抱き寄せ、おしくらまんじゅうの震源地に目をやった。

 

「おい、お前ら周りに迷惑かけるんじゃねーぞ!腹ひっこませろ!」

 

聴いたことのあるダミ声が、分厚い皮膚を持つ人々の中から聞こえた。

 

「親方!」

 

近所の相撲部屋、立海部屋の龍野海親方だった。岩のようのごつい顔が真琴の声に目を向けると、険しい顔が明るくなった。

 

「おうまこっちゃん!おいお前ら、まこっちゃんだぞ!」

 

龍野海親方が声を張り上げると、おしくらまんじゅうの原因であった立海部屋の力士たちがこちらを向いた。

 

「まこっちゃん!」「おお拓磨」

 

あまり言いたくはないが、こういった状況ではいささか迷惑、もとい立派な体格をした力士たちが、汗だくの顔に笑みを浮かべた。

 

「なあんだ、やたらめったら押してきやがると思ったら、オメエら!」

 

言動とは裏腹の笑顔で、潤三が力士の腕を叩いた。

 

「肉密度高くてかなわねぇや!」

 

そういう潤三に、龍野海親方が食ってかかった。

 

「何をテメェ、いざってなりゃオレたちが壁になって守ってやんだから、感謝しろィ!」

 

「コノヤロー、減らず口叩きやがって」

 

罵り合う龍野海親方と潤三を、力士たちと真琴は苦笑しつつ見遣る。

 

「やめなあんたら!ただでさえ暑いのに」

 

大抵こういったときは、里子がそれ以上の怒鳴り声を上げると鉾が収まる。

 

「暑いっていえば、アレだ。先に避難できた稲妻部屋の奴等、エアコン効いてる永田町駅で涼んでやがるとよぉ!早いとこオレたちも涼みてぇな」

 

龍野海親方が潤三を小突きながら言った。

 

「オメェらと避難してたら、エアコンも効かねえくれぇあったまっちまうわ!」

 

またじゃれ合い始めた2人をさておき、力士の1人、喜乃里が真琴の肩を叩いた。

 

「まこっちゃん、大丈夫だったかい?」

 

喜乃里は立海部屋の新人力士で真琴とも年齢が近く、立海部屋の力士たちの例に漏れず『おそうざいの柊木』が作る爆盛りメニューのお得意様でもある。

 

「うん。お昼過ぎにバイト来た時に屋内待避の警報出て、潤三さんちでそのまま。友達らも課外ある子たちは学校にとどまってたって」

 

看護師を志している真琴は江東区にある看護学院に通っており、学校は2週間前のゴジラやギドラ、モスラといった怪獣たちの激戦が新潟県から千葉県にかけて繰り広げられた前後から臨時休校となっていた。怪獣による災害が直接的にも間接的にも落ち着いてきたことと、避難先から戻って来る生徒も増えてきたことから、3日前から通学できる生徒たちへの授業が午前・午後の2部制で再開していた。

 

「良かった。お母さんは?」

 

「家にいるよ。民生委員の仕事で近所の人たちを世話してる」

 

それを聞いて、喜乃里は安心したように微笑んだ。真琴の事情は知っているのだろうが、時折真琴に対し、行きつけにしている惣菜店の看板娘以上の感情が読み取れることがある。悪い気はしないのだが・・・真琴はどうしても、彼に対し作り笑顔で接することが多くなってしまう。

 

拓磨が喜乃里に飴を振舞っているところに、彼の兄弟子たちが声をかけてくる。

 

「いやあ〜、暑い暑い」

 

「なんでかなぁ〜、汗が止まらねぇよ。なあ喜乃里?」

 

「オ、オッス」

 

恐縮しきる喜乃里に苦笑する真琴。

 

「おい、電車の往来多くなってるぞ」

 

「避難だいぶ進むな」

 

「でもオレたち、車両ひとつ貸し切んねぇと入らねぇんじゃね?」

 

「そうなる前に避難指示解除されんべ。そんときは、まこっちゃんとこに爆弾からあげ買いにいかねーとな」

 

「アレ食ってスタミナつけねぇと」

 

「まこっちゃん、アレちゃんこに入れるとうまいんだぜ」

 

力士たちの景気良い話のかたわら、拓磨の顔が曇りつつあった。

 

「おい、どうしたんだ拓磨?」

 

真琴が訊いた。

 

「姉ちゃん、あれ、何?」

 

拓磨は人ごみの向こう、灰色の空の先を指差した。

 

「おっきな豆みたいなの落ちてくる」

 

拓磨の言う通りだった。一面に敷かれたような灰色の雲は、ギドラが関東地方に接近した1時間前からそのままだった。ゴジラと邂逅した千葉県東部は暴風雨らしいが、やや外れた東京は小雨と旗がなびく程度の風に収まっていた。

 

その灰色の空を、何かが割った。黒い塊が落下してきている。地表に接近するに従って、口笛のような音が空を揺らしてきた。

 

そのころには真琴と拓磨以外の人々も、空から降ってきた何かに気づいていた。建物群の向こうに見えなくなった刹那、大轟音と激しい揺れが真琴たちを襲った。

 

「姉ちゃん!」

 

しがみついてきた拓磨を守るように抱き寄せ、真琴は目を瞑った。揺れと轟音がおさまっていき、恐る恐る瞼を開ける。ここから東側、小岩か柴又辺りにものすごい砂煙が天を衝くようにそびえ立っている。

 

何かをひきずるような地響きがした後、そこはかとなく低く重い音がしてきた。

 

・・・・ズン・・・・ズン・・・・ズン・・・・。

 

何かが割れるような、砕けるような音の後、何が起きているのかわからず身体が硬直している真琴たち錦糸公園の人々の鼓膜に、おぞましい咆哮が飛び込んできた。

 

一度、二度、まるで天を震わせるように大きく吼える。全身が痺れたように強張り、真琴は固唾を呑んだ。しがみつく拓磨の手がより強く、真琴のシャツを握った。

 

建物のすき間に強風が吹き荒ぶ音がした。灰色の雲が渦を巻き、一気に雨脚が強くなる。

 

雲の渦が晴れ、黄金の光が差し込んだ。だがそれは、万物の源である太陽光とはまるで異なっていた。鳥肌が立つほど明るく、不気味な黄金の光だった。

 

甲高い咆哮が、まるで多重ステレオ音声のように周囲を震わせた。咆哮は合わせて3つ、重なり合うように響き渡る。強烈な一陣の風が吹き、公園の砂が巻き上がり、電線が大きく揺れた。視界いっぱいに拡がったものは、金色に輝く両翼だった。

 

ちょうど真琴たちの頭上で旋回すると、巨大な両翼に3つ首の怪獣は葛飾方面を向いた。3つの首が一斉に吼え、翼をはためかせてさらに降下しようとしたそのとき、地上から極太の青い光が発せられた。避難している人々の網膜を青く照らすその光は、本能的に直視を避けたくなる禍々しいものだった。

 

青い光の渦は黄金の大怪獣を押し出すように空中で後退させている。白煙を上げながら吹き飛ばされていく黄金の大怪獣は、そのまま東京スカイツリーに激突した。634メートルの威容を誇る日本一の建造物はちょうど真ん中付近から亀裂が入り、黄金の大怪獣ごと地表に倒れ込んでしまった。

 

とてつもない揺れと轟音に、錦糸公園に避難していた人々はようやく【恐怖】という感情を呼び起こした。頭上で繰り広げられる信じられないような光景に、すべての神経が集中してしまっていたのだ。

 

折れてしまったスカイツリーは押上から本所・両国付近に倒れ、周囲の建造物を木片や鉄塊に変えてしまった上でそれらを宙に舞い上げた。

 

その瞬間、息が止まったのを真琴は感じた。本所吾妻橋、あの辺りは自宅がある。唯一の肉親である母が、地域の職務をこなしつつまだ居るはずだ・・・・・。

 

「真琴!」「まこっちゃん!」「拓磨!」

 

潤三や里子、あるいは力士たちか近隣の旦那衆らの声が入り混じった。気がつくと後ろからものすごい人の波が押し寄せ、身体が硬直していた真琴の足がもつれた。

 

「姉ちゃん!痛い、痛い!」

 

手をつないでいる拓磨が絶叫し、真琴は我に返った。人の波にちぎれそうな手を引き寄せ、拓磨の肩を寄せる。いつのまにか拓磨の額が赤く染まっていた。

 

「ほら、拓磨!」

 

拓磨を抱き寄せながら、真琴は走り出した。潤三も里子も、旦那衆も立海部屋の力士たちも、いつのまにか周囲にいなくなっている。絶叫と喧騒の中で自分と拓磨を呼ぶ声が聞こえた気もしたが、人の流れに逆らえず錦糸公園からJR錦糸町駅のガード下をくぐり、錦糸町駅南口へ躍り出た。

 

「落ち着いて、落ち着いて!」

 

ガード下で必死に避難誘導に当たる警官の怒声も虚しく、完全に恐怖に支配され秩序を失った人々は思い思いの方角へ走り込み、勢い転倒した者を容赦なく踏みつけていく。真琴の目の前で倒れたまま助けを求めていた中年の男性は、無数の足に腹を踏まれて血液混じりの吐瀉物を噴き出したところで動かなくなった。

 

避難しようとする人々の流れから逃れ、真琴は錦糸町駅舎に背をつけて拓磨を見た。避難しようと人々が一斉に動き出した際に負ったらしい、額の傷から絶え間なく出血している。

 

真琴は自分のTシャツを破り、拓磨の額に当てた。

 

「拓磨、痛かったな」

 

周囲の喧騒と混乱に呑まれぬよう、真琴は顔を近づけた。看護学院んで習ったように、小さな子の手当てをするときはまず一番に優しく宥めてやる必要がある。

 

目頭と頰まで流れた血をぬぐってやったとき、再び強風がなびいた。だがその風はこれまでとは比べものにならなかった。

 

錦糸町駅ホームの屋根が吹き飛ばされ、衝撃と音に気づいた真琴は顔を上げた。ガラスや破片と一緒に、停車していた総武線の車両が地表めがけて落下してきたのだ。

 

電線がひきちぎれ、オレンジ色の火花が降る中、真琴は必死で拓磨を抱き寄せた。鼓膜が激しく打たれるような音がして、真琴は息を止めた。

 

 

 

 

 

 

・同日 18:06 東京都立川市緑町 陸上自衛隊立川駐屯地 東部方面航空隊本部

 

 

『ゴジラとギドラ、茨城県笠間市付近から南へ反転。ギドラ、ゴジラを咥えたまま首都圏上空に到達!』

 

防衛出動が発令されたことに伴い、立川駐屯地に所属する東部方面航空隊は命令あればいつでも飛び立てるよう、準備を進めているところだった。

 

ニュージーランド沖から現出し、オーストラリア東海岸からニューカレドニア、ビスマルク諸島を壊滅させて北上するギドラの日本到達が確実となり、また倒されたはずのギドラ出現に呼応するかのように目覚めたゴジラ掃討と合わせ、瀬戸内閣総理大臣より防衛出動が下されたのは15時過ぎだった。

 

元々浦安で活動を停止していたゴジラ復活に備え、特科隊の対ゴジラ兵器が葛西臨海公園に展開こそしていたのだが、ゴジラ復活時に核爆発のごとき膨大な衝撃波が引き起こされ、浦安の旧東京ディズニーリゾートを爆心とした周囲2キロが完全破壊されたことにより、部隊は攻撃する遑もなく壊滅。

 

その後は爆発的衝撃波により多大な被害を受けた江戸川区へ災害派遣要請が成されたこともあり、攻撃より避難・救出活動が行われていた。

 

復活したゴジラは幸いにも2週間前怪獣たちが激突したことで既に廃墟と化していた市川から船橋・習志野方面へ侵攻。千葉県内の道路網が寸断され復旧もままならぬことで陸上部隊の展開は不可能であり、チタノザウルスの横須賀侵攻でイージス艦による遠隔攻撃も望めぬ状況で、入間の航空自衛隊第一高射群によるギドラ攻撃が唯一即応可能な作戦ということもあり、活動による被害はギドラの方が脅威という判断でまずギドラ掃討を最優先とされた。

 

17時過ぎ、第一高射群のぺドリオットによる多重攻撃をものとせずギドラは千葉県九十九里に到達。既に千葉東海岸に達していたゴジラと会敵後は、昨年の浜松・浜名湖の悪夢をたどるかのように争いながら東金、三郷と千葉県を北上。当初の予想ではそのまま茨城県を北西に移動するものと思われたため、残存兵力を考慮し、茨城・栃木県境を要撃拠点として青森県三沢のF2による空爆と、宇都宮駐屯地の第12特科隊の統合部隊による攻撃を敢行すべく準備が進められていたのだ。

 

2週間前、ギドラが千葉県に襲来したことで木更津駐屯地が半壊、木更津に駐機していた第一ヘリコプター団が立川に緊急配備された。これにより、東部方面隊所属の主立った対戦車ヘリコプターはすべてここ立川に集結したことになる。こうした事情もあって、立川の部隊は首都防衛のために温存されることとなり、必要あればいつでも出動できるよう爆装を完了させた上で待機していた。

 

『ゴジラ、葛飾区柴又付近に落下!ゴジラの攻撃により、東京スカイツリー倒壊。葛飾区から墨田区、台東区にかけて被害甚大!』

 

駐屯地内の放送で、待機中の隊員たちは一斉に顔を強張らせた。

 

『第一、第64対戦ヘリコプター隊に出動命令』

 

そう告げられれば、いつでもローダーを回して街を荒らし回るゴジラとギドラに対戦車誘導弾を叩き込む準備はできていた。だが肝心の命令が、なかなか下される気配がない。

 

『ゴジラとギドラ、台東区浅草付近に到達。ギドラ光波により、墨田区から江東区にかけて大規模火災発生!』

 

『東京消防庁要請、消火剤搭載のヘリを東京都東部に派遣』

 

『警視庁航空隊、被害状況確認のため出動』

 

立川飛行場は陸自だけではなく、東京消防庁・警視庁・海上と航空自衛隊がそれぞれ共用している。他の航空隊が続々と飛び立っていく中、対戦ヘリ部隊のパイロットたちは歯噛みして霧雨を弾き都心へ向かっていくヘリを注視していた。

 

「なぜ、我々に出動命令が出されないんですか!」

 

立川駐屯地のAH64アパッチパイロット、仁河1曹は傍らの三瓶3尉に食ってかかった。元より口数の少ない三瓶は口を真一文字に締めたまま、迅る後輩と違い沈黙を守っていた。

 

ポン、と肩を叩かれた仁河は弾かれたように振り返った。

 

「若いの、早まるな」

 

同じ駐屯地のUH1イロコイのパイロット、鳴海真人2尉だった。再来年に定年を迎えるというのに、ヘリパイロットを現役で務め上げる駐屯地ヘリパイロットたちの中心人物だった。

 

「いつ都民避難完了の報告を受けた?いつ総理大臣が人口密集地での攻撃を命じた?おい?」

 

本来禁じられている滑走路上での喫煙を平然と行いつつ、鳴海は仁河に問いかける。

 

「し、しかし、このままでは被害が広がるばかりです!我慢なりません」

 

今年春にパイロットとして任官したばかりの仁河はなおも食い下がる。鳴海は紫煙を大きく吐き出すと、仁河と肩を組んだ。

 

「お前が行けば、確実にゴジラとギドラを止められるってのか?」

 

「そ、それは・・・」

 

「お前な、戦争するなら確実な勝算がないとならん。いまだ火力効果の程が不明な点も多い怪獣相手とはいえ、せめて戦力・戦略的優位な状態になって実力行使をするってのが頭の冴える作戦であり、軍隊だ。そこを考え無しに、遮二無二特攻するのが軍隊か?気持ちはわかるが、いまは刻を待て」

 

それでも仁河は不満げだった。だが、総理大臣を含めた政府首脳が都心を離れ、立川の政府予備施設を目指してまだ30分と経っていない。新たな作戦、命令を立案することは容易ではなく、少なくとも政府首脳が立川に到着するまでは、新たな攻撃命令を下せる状況にないのだ。

 

「血気盛んなのは大いに結構。だが、もう少し冷静になって考える訓練もしろ」

 

以上のことを説き、鳴海は煙草を握り消した。

 

「で、では、鳴海2尉はどのような作戦が有効だと考えますか?」

 

仁河に訊かれ、鳴海は新たな煙草に火をつけた。近くに航空隊副司令がいるのだが、煙草を燻らす鳴海には何の注意もする様子はない。

 

「そうさなあ。とりあえずコブラやアパッチの対戦誘導弾だけじゃ奴らにとっては豆鉄砲同然だ。こんだけの騒ぎっになりゃあな、横田と厚木の米空軍が準備を進めてんだろな。んで、ヤツラと連携保ちつつ我らには富士裾野と霞ヶ浦の対地・対艦中距離誘導弾がある。宇都宮の対怪獣削岩誘導弾も射程距離だ。以上これらを一気に集中させりゃ、少なくともコイツ(アパッチ)で突撃するよりはるかに有効だろう」

 

煙草をふかしながら、鳴海はアパッチと仁河を交互に叩いた。

 

『待機中の各隊、待機中の各隊。都内侵攻中のゴジラとギドラに対し、特科大隊及び米軍と連携した攻撃作戦の実行が決定。作戦開始時刻、18:20』

 

「ほれ見ろ」

 

鳴海は仁河にニヤリと笑って見せた。だが次の指令には顔を曇らせた。

 

『特殊作戦群、都内被害状況確認のため出動命令。立川航空支援隊運輸の任に就け』

 

「ンだとぉ?」

 

煙草を指で握りつぶすと、たまたま近くにいた航空隊副司令の宮本に歩み寄った。

 

「宮本2佐、聞き慣れねぇ任務ですな。特殊作戦群を乗せて都内まで運べ、なんて」

 

鳴海より年下の副司令は若干困惑気味の顔をした。

 

「30分前だ。入間からここに到着、待機していたらしい」

 

「しかしいったい何のために?まさかゴジラとギドラ相手に近接戦闘しろって言うんじゃないでしょうね?」

 

特殊作戦群。陸上自衛隊が創設以来初めて特殊部隊として公開した部隊であり、かねてから事実上の特殊部隊として機能していた第一空挺団と双璧を成す精鋭部隊だ。最大の特徴は有事の際に米軍特殊部隊であるデルタフォースと連携できるよう、銃火器や装備を統一していること、場合によっては他国での作戦展開も考慮し、潜入・撹乱に特化した訓練もなされていることだ。

 

「怪獣たちの抗争による被害状況把握を骨子とする都内潜入が任務とのことだ。降下・引き上げ地点はいま市ヶ谷から連絡がくる」

 

言いながら、宮本は鳴海の顔に不敵な笑みを浮かべていることに気づいた。

 

「まあ、連中の作戦内容は我々にすら明かされんでしょうから」

 

そう言いつつも、「仕事です、ローダー回しておきます」と背中を向ける鳴海に、宮本は短く頷いた。

 

それから10分後、鳴海が隊長を務めるUH1イロコイ3機のチームは、それぞれ特殊作戦群の隊員5名を乗せて立川飛行場を離陸した。

 

「特殊作戦群・権田1尉であります。鳴海2尉、お目にかかれて光栄に思っております」

 

離陸前、今回の作戦に投じられた特殊作戦群の指揮官だという権田が敬礼の後、握手を求めてきた。この辺り、陸自だけでなく米軍を始めとする外国軍との共同演習をよく行っていることがうかがえた。

 

「鳴海だ。オレのこと知ってるのか?」

 

「は!我が部隊の先輩諸氏はもちろん、宇都宮の中央即応連隊からも、お話はかねがね」

 

「よせよ。下働きが長かっただけだ」

 

ぶっきらぼうに握手を返し、鳴海はさっさとコクピットに収まった。

 

「権田1尉、もっかい確認だが、降下地点は明治神宮、引き揚げ地点は新宿御苑で良いんだな?」

 

ヘリを離陸させた鳴海は、本作戦の責任者である特殊作戦群の若きトップに訊いた。

 

「はい。お願いします」

 

顔を隠す権田は言葉少なめだ。

 

「言っとくが、ゴジラもギドラもどこ行くかわかんねーんだ。想定外の状況も充分考えられる。まあお前さんらには釈迦に説法だろうが、状況だけはしっかり知らせてくれよな。どんな状況と場所だろうが、あんたら連れて帰るのがオレらの仕事だからな」

 

「お世話になります」

 

緊張も感じられない、大したものだ。そんな権田を見てニヤリと笑うと、鳴海は前方に目を向けた。

 

曇り空のため普段より薄暗い。霧なのか雨なのか判別できない水滴が降りしきる。だが目指す先である東京都心は、地上にうっすらとオレンジ色の灯が複数見られる上、そこからドス黒い煙が幾筋も立ち昇っていた。

 

「この先荒れるぞ」

 

誰にともなく言うと、鳴海は操縦桿に力を込めた。

 

 

 

 

 

 

・同日 18:20 東京都江東区森下 都営新宿線森下駅構内

 

 

すし詰めになっている階段で立ち往生したまま、真琴は荒い息を整えていた。手をつないでいる拓磨は外から流れ込んでくる煙に、そして周囲の殺気立った大人に、何より数分前に目撃した光景に、怯えきってしまっている。

 

JR錦糸町駅では飛んできた総武線車両が真琴と拓磨の眼前に落ちてきた。直後から激しい強風と爆音が轟き、細かいガラスやコンクリート片が降る中、ひたすら目をつむるしかなかった。

 

周囲が落ち着き、目を開けた真琴の前にスーツ姿の若い女性が倒れていた。まるで驚愕したかのように目をカッと見開いている。

 

「大丈夫ですか・・・ッヒ!」

 

思わず悲鳴をあげた。女性の大腿部から下が総武線車両に押しつぶされており、車両の下からは赤い血がじわじわ広がっていた。

 

「い・・・いたい・・・」

 

老人のようなしわがれた声で助けを求める女性だが、真琴は目を開けた拓磨がその様子を見ないようにするのが精一杯だった。

 

その少し先では、男性の足だけが車両の下から伸びていた。

 

「拓磨、目開けるなよ。いこう」

 

すがるような女性の視線に真琴はギュッと目をつむった。立ち上がると、東の方に猛烈な炎が筋状に昇っているのが見えた。再び強風がなびき、駅北の方から打ち上げ花火を一斉に破裂させたような轟音が続く。何かが焦げるような臭いがしてきた。

 

東の方からは炎がこちらへ広がりつつある。真琴は周囲の人々と共に森下方向へ駆け出し、地下鉄構内へ逃れようとした。途中何人もの人が事切れたように倒れているのを見たが、あまり考えないように走るしかなかった。

 

炎から逃れんとする人で森下駅はパンクしており、ホームへ降りる階段で身動きが取れなくなった。

 

「先に行けよ!早く!」

 

「どうなってるの!?」

 

血相を変えて怒鳴る人々に、拓磨は泣きそうな顔をしている。とにかく真琴は拓磨を壁に寄らせ、うしろから押してくる人に煽られぬよう階段に置く足を踏ん張った。

 

一瞬、階段と天井すべてが揺れた。どよめき声も大振動と轟音にかき消された。

 

「うわあー!!」

 

地下から人々が上がってきた。下へ下がらんとする人たちと衝突し、混乱の極みになっているところへ地下から鉄砲水が押し寄せた。

 

息を呑んだ真琴は拓磨の手を引き、階段を掛け上がらんとした。

 

「ジャマだ!」

 

「どけよ!」

 

押しのけられた真琴は足がもつれ、壁に肩を叩きつけられた。それでもゆっくりと階段を上がり、押し寄せる洪水から逃れようとしたとき、激しい地響と突風がなだれこんだ。

 

出口から何かが降ってきて、真琴は顔を覆った。強風と共に悲鳴があちこちから木霊する。

 

真琴を押しのけて先に出た男の右肩に、タブレット大のガラス片が突き刺さっていた。肩から絶え間なく血を流し、人の波をのたうち回っている。

 

「かなこ、かなこ!」

 

右隣では若い男性が傍の女性に声を張り上げていた。女性の右額に拳大のガラスが刺さっており、顔半分を真っ赤に染め上げていた。

 

驚愕の表情を浮かべる拓磨の目をふさぎ、ガラス片の被害を受けなかった人々とどうにか外に逃れた。

 

いったいどれだけ強い風が吹けばこうなるのだろうか。通学路である都道50号線は車両がひっくり返り、ビル屋上の看板やベランダがちぎれて散乱していた。また地響きがして、真琴はよろめいた。

 

そこから西側、隅田川の方を見た。黄金の巨体が隅田川に横倒しになっていて、3つの首を揺らして吼えている。あの巨体が倒れたことで地下鉄ホームが圧壊し、隅田川の水が流れ込んだのが鉄砲水の原因だったのだろうか。

 

ものすごい咆哮が周囲に響いた。黒い巨体が首都高速両国ジャンクションを倒壊させ、ビル群のすきまから姿を現した。

 

歯ぎしりさせて唸るその巨体は、隅田川堤防を崩しながらもがく黄金の巨体に強い憎悪の目を向けている。

 

その威容を目の当たりにしたとき、真琴も拓磨も周囲の人々も我を忘れ、黒い巨体を凝視していた。

 

空気と地面を震わせる咆哮を上げ、黒い巨体・・・ゴジラは天を仰いだ。そして下を向きざまに口から青い熱線を放射した。

 

一瞬強烈な青い光の後、水混じりの黒い土砂が噴き上がり、それを追うように火炎が広がった。爆炎の波は隅田川から新大橋を吹き飛ばし、真琴たちの眼前に迫った。

 

慌ててビルの陰に隠れた刹那、爆風が道路を舐めた。逃げ遅れた人々や車両が吹き飛ばされ、肌を焦がす熱気が周囲を揺らす。

 

オレンジ色の揺らめきが隅田川から先、人形町方面に昇っている。そしてその揺らめきは、じわじわと広がりつつあった。そしてその揺らめきの中心で、猛り狂ったようにゴジラは吼えていた。

 

真琴は瞬時に行動計画を立てた。隅田川が寸断され東からも西からも火の手が迫っている以上、南を目指すしかない。

 

「拓磨、いくよ!」

 

そのとき気がついたのだが、細かいガラス片が拓磨の顔に食い込んでいる。自分の左腕も、何かがぶつかったのか赤黒い肉刺ができていた。

 

つんざくような咆哮と共に、強風が炎を仰いだ。黄金の巨体・・・ギドラが舞い上がったのだ。

 

瞬間的に恐怖を覚え、真琴は顔を上げたまま足を止めた。大きく啼くと、ギドラは3つの首から金色の光線を放射した。

 

それらすべてがゴジラに当たり、弾かれたようにゴジラは倒れる。そこを舐めるように光線を吐き散らしていくギドラ。

 

人形町から小伝馬町、秋葉原方面から火の手が上がった。激しい地響きに立っていられず、路肩の植え込みに拓磨を覆って伏せるしかなかった。

 

黄色い光に青い光が混じった。ゴジラが怒り狂ったように熱線を放射し、ギドラの胴体に当てていた。光の渦に押されながらギドラも光線を吐くのを止めない。やがて光線と熱線がぶつかり合い、激しく爆発した。

 

爆風と熱波に悲鳴を上げながらも、真琴は拓磨を抱きしめた。爆風に吹き飛ばされた人々がガードレールやマンションに叩きつけられ、電柱が横倒しのまま滑り込んでくる。

 

咳き込みながら立ち上がった真琴は、拓磨に声をかけた。

 

「拓磨、いこぅ・・・・」

 

拓磨の右足にコンクリート片がのし掛かり、足首が在らぬ方向に曲がっていた。

 

「ねぇ・・・ちゃん・・・いた・・いたい」

 

涙と鼻水を噴き出しながら、かすれるような声で訴えかける拓磨。

 

「拓磨!拓磨ァ!」

 

絶叫し拓磨を抱きかかえるしかなかった。熱気が広がり、炎と煙が周囲を圧巻する。

 

ゴジラとギドラの咆哮、そして轟音は遠ざかっていた。だが、コンクリートすら溶解させるゴジラとギドラの熱線は容赦なく真琴たちにせまっていた。

 

とにかく真琴は死力を尽くし、拓磨を抱えたまま走り出した。周囲の人々も炎から逃れんとあてもなく逃げ回る。

 

真琴は南、江東区清澄を目指したが、東側の住吉・両国方面へ逃れんとした人々は燃え崩れたマンションに行く手を塞がれ、身体を焼かれ絶叫しながらやがて全身を炎に包まれていった。

 

南へ走る一団も衣服に火がつき、燃えながら走る人も多かった。体力のない人や老人、あきらめたように走るのを止めた人々を炎が包み、火の粉が舞う中、真琴は必死に南を目指した。

 

だが小名木川を渡る手前で、真琴は足を止めた。清澄から深川の先、芝浦から月島、有明付近が炎に包まれていた。真琴は知る由もなかったが、日本橋・八重洲に侵攻したゴジラとギドラの熱線が南方向を直撃、江東区辰巳にあるナフサタンク群に命中したのだ。

 

大爆発を起こしたナフサコンビナートは江東区東雲から豊洲・有明を一瞬で火に包み、極大の爆炎と黒煙はじわじわと江東区北側、港区お台場方面へ伸びていたのだ。火災に巻き込まれるのはもちろん、激しい火災の熱波で気道を焼かれる者や酸欠になる者、ナフサ炎上に伴う煙や炎上すると猛毒を発する建材のガスによって命を奪われる者が続出していた。

 

「ねぇちゃん・・・」

 

激しい熱気の中立ちすくむ真琴に、粗い息をしながら拓磨が声をかけた。右足はちぎれかかっており、応急処置の止血ではどうにもならなかった。

 

「みず・・・・・」

 

それだけ口にすると、拓磨は息をしなくなった。

 

 

 

 

 

 

・同日 20:52 東京都新宿区西新宿上空

 

 

「作戦中止?」

 

鳴海はインカムの先に訊いた。

 

『申し上げた通りだ。特殊作戦群の回収任務は中止し、ただちに都内複数で発生している火災の消火任務に当たれ』

 

副パイロットの半澤と顔を見合わせた。

 

「宮本2佐、たしかに新宿はひでぇ有様だ。御苑への着陸も絶望的だ。だが回収場所の変更ならできるんではないですか?」

 

『陸上総隊司令の命令だ。特殊作戦群は別ルートでの都内脱出を図る。さきほど内閣より、防衛出動から災害派遣への命令切り替えがあった。以後我々の部隊も警察や消防と連携し、災害救援活動を実施する』

 

鳴海は唇を噛んだ。助手席の半澤は命令は命令ですが、と言いたげに鳴海を見遣る。

 

『鳴海2尉、命令だ。ただちに入間の空自基地へ飛び、燃料補給と消火剤搭載を行うように』

 

「・・・了解。ただちに入間へ飛び、燃料補給と消火剤搭載を行います」

 

インカムを切ると、「くそったれが」とつぶやいた。

 

1時間ほど前、特殊作戦群を明治神宮へ下ろし立川へ帰投した直後だった。ゴジラとギドラ掃討のために向かったコブラ・アパッチ部隊全機墜落の報が入った。不可解なことに横田と厚木の米軍空爆隊は出動せず、宇都宮と御殿場からの中距離誘導弾も都民の避難未達を理由に実施されなかった。結果的に、即応可能かつ暴れ回る怪獣攻撃に最適との理由で対戦ヘリによる攻撃しか行われなかった。

 

だがゴジラとギドラは対戦車誘導弾の攻撃をものとせず、まるで存在に気づかぬかのように争いながら赤坂から四谷・市ヶ谷を荒らし回り、新宿から渋谷にかけてさらに被害を拡大させた。その最中、争いに巻き込まれた対戦ヘリ部隊がギドラの起こす暴風と吐き散らされたゴジラの熱線になす術なく墜とされてしまったのだ。

 

「なんにも変わっていねぇじゃねえか・・・自衛隊も、この国も」

 

鳴海が発したそのつぶやきに底知れぬ怨嗟が窺い知れ、半澤は戦慄した。

 

眼下では西新宿の高層ビル群が例外なくなぎ倒され、新宿駅から東側の3丁目から歌舞伎町にかけては、赤々と盛る炎が立ち昇っていた。

 

都庁危機管理センターで指揮をとっていた大沼東京都知事始め都の中枢は全員が都庁倒壊に巻き込まれ、その生存は絶望視されている。そこから南、代々木から渋谷、五反田から大崎もオレンジ色の光が煌々と盛っている。

 

そこからさらに南は、ひときわ大きい炎が立ち上がっていた。川崎の石油化学コンビナートが全滅、想像を絶する火災が川崎から東の大田区・世田谷区を焼いていた。

 

『ゴジラとギドラ、茅ヶ崎市へ侵攻』

 

『神奈川県知事より要請、都内消防・自衛隊に災害応援派遣』

 

『バカ野郎、都内の火災で手一杯だ!』

 

『横浜市長より要請、火災猛烈を極める横浜市関内・桜木町・みなとみらい地区に対し、横須賀の海自ヘリによる消火剤散布を実施せよ』

 

『海自ヘリ部隊、先に大田区長より要請のあった大田区内の火災鎮圧作戦に投入中。こちらの作戦を中止してよろしいんですか?』

 

東京都庁、警視庁そして防衛省が倒壊したこと、及び火の手が中野区から三鷹・国分寺方面に広がり始めたため、内閣は立川予備施設からの退避を始めていたことで、自衛隊はもちろん警察・消防と本来災害救助の要となる機関の指揮系統の混乱は極まっていた。インカムから伝わってくる無線内容に鳴海はいきり立ち、半澤は暗澹たる面持ちで目をつむった。

 

 

 

 

 

 

・7月30日 9:58 東京都江東区深川1丁目 聖都大学付属病院

 

 

「大阪から赤十字の派遣チームが到着しました!」

 

「トリアージ、急いで」

 

「おいそっちの患者はあきらめろ、救える命を救え!」

 

猛火に見舞われた江東区だったが、ここ聖都大学付属病院がある一帯は奇跡的に延焼を免れ、甚大な被害を受けた江東区・墨田区・葛飾区の負傷者や避難者が殺到していた。

 

だが在勤の医師及び看護師に対し対象となる患者の数は圧倒的に多い上、非番の病院職員の安否も不明で行政機能も破綻してしまったため、対処療法的な措置を取ることすら困難だった。

 

煤だらけのまま、真琴は病院入り口に座り込んでいた。

 

拓磨が事切れた後、迫る炎に逃げ場を失ったが、目の前を流れる小名木川に入ることで少なくとも焼死の危険性は少なくなった。

 

だが浅瀬のない小名木川では何かに捕まりながら浮かび続けるしかなかった。行き場を失った人々が続々と真琴と同じように川へ飛び込み、ボートや堤防柵にしがみつく。

 

それでも両岸まで炎が迫ると、川面から頭だけ出していても髪の毛が焦げるほどの高熱が空気を伝播してきた。

 

水に潜っても息苦しさに水面から顔を出し、気道を焼かれ咳込みながら溺死、あるいは体力が持たず沈んでしまう者が増え、やがて川は浮かぶ死者であふれていった。

 

最初から橋の下で息を潜めていた真琴は幸運だった。ちょうど目の前に地下から延びている側溝があり、大火災による周囲の酸素不足に伴いそこから風が流れ続けたことで伝播する熱気から逃れることができたのだ。

 

だが拓磨の亡骸を抱えたまま、ボートにしがみつき首から下を水に浸けることには限界があった。すでに真琴の他7名がしがみつくボートは操縦席に水が流れ込み、真琴たちごと沈んでしまうことも考えられた。

 

深夜、雨雲が晴れ浮かぶ満月が、大火災による煙が蔓延したことで不気味に紅く薄く見える頃、真琴は拓磨を抱える手を離した。いつ沈むかもわからぬ中、どうしても仕方のないことだ・・・何度自分に言い聞かせても、軽くなった左手の感触が真琴を責め続けた。

 

とうとうボートが浮力を失い、ゆっくり沈む頃には堤防柵や他のボートへ移ることができた。だがそれは、いままでそうしてきた人たちがいなくなったことを意味していた。

 

死体でいっぱいの中を泳ぎ、あるいはかきわけて真琴は堤防柵にしがみついた。川の温度は風呂くらいに熱くなり、今度は脱水症状で事切れる人も出てきた。

 

たまらず真琴は川の水を含み続けるしかなかった。死を覚悟はしているが、喉の渇きがそうせざるを得なかったのだ。

 

このまま川の水が茹で上がり、死んでしまうことを想像していたとき、都内に雨が降り出した。

 

東京大空襲、また昭和29年のゴジラ東京襲撃時もそうだったが、猛烈な火災に巻き上げられた煙と煤は上空の水蒸気成分と凝結する。そうすることで大雨となるのだ。

 

翌日未明まで続いた大雨は火災の鎮火に役立った。真琴のように川に逃れ、運良く生き永らえた人たちの恵みにもなった。だが浅草・両国と隅田川堤防が倒壊したために今度は大水害が発生した。海抜ゼロメートル地帯といわれる墨田区から台東区、江戸川区、足立区は業火が収まらぬうちに洪水が襲い、火災から辛くも逃れた建物や人々を呑み込んでしまった。

 

陽が昇った。都内を包む煙で太陽の輝きが失われ、黒煙の先にまあるい太陽がぼんやり見える中、真琴は近くにある聖都大学病院を目指した。

 

バイト先だった錦糸町は炎と瓦礫に埋まり、自宅がある本所へは橋梁が倒壊した上、洪水で浸水したため近づくことができない。

 

せめて、この病院に誰か逃れていれば・・・。

 

柊木夫妻がもし逃れていたら、あやまろう。

 

もしかしたら、立海部屋の親方や力士がいるかもしれない。

 

印刷屋やハンコ屋の旦那衆が、いつもみたいに競馬の話で盛り上がっているだろうか。

 

そんな期待は、病院に入ろうとしたときに打ち砕かれた。

 

中から黒いトリアージタッグをつけた遺体が運び出されてきた。その中に、印刷屋の旦那が変わり果てた姿になって横たわっていたのだ。

 

あまりの衝撃と姿に、真琴はたまらず嘔吐した。もはや何度目だろうか。

 

物が焼け焦げる臭い、そして言いようのない、しかし人あるいは人だったものから発せられる臭いに、真琴は何度も吐いていた。

 

嘔吐には慣れてしまったが、これまでにない気分の悪さだった。

 

学生で資格はまだないが、看護学校に通う真琴は病院業務にボランティアとして参加することもできた。

 

事実学校の授業でも、地震や怪獣といった災害が起きたら、身分を告げて病院や避難所でできることをしなさいと言われていた。

 

そんな気もおきなかった。

 

長時間水に浸かったことで、真琴のスマホは機能を失っていた。そもそも都内は通信機能に著しい損傷を受けていた。似たようなことは去年のカマキラス、ガイガン出現時にもあったが、今回は物理的に基地局や通信施設を破壊されていた。

 

「安否確認用のパソコンを用意しました!」

 

病院前に設置された仮設テントで、青いベストを着た女性が声を上げた。災害ボランティアのNPO法人がすでに動き出していたのだ。

 

あてもなく逃れてきた人々は並んだパソコンに殺到した。真琴も例外ではなかった。

 

「ネットは見れないのか!?」

 

「もうしわけないです、安否確認用の災害アプリのみ閲覧可能です」

 

「家に帰りたいんだけど!」

 

「ゴジラとギドラはどうなったの?」

 

テント前が喧騒に包まれた。怒声や悲鳴、慟哭が飛び交う中、それでも人々は順番を守り、パソコンの順番を待った。

 

隣のテントでは電池式のラジオを持ってきた男性に人々が群がっていた。ネットもスマホもつながらないが、ラジオだけは機能を果たしていた。

 

『この時間は、NHK大阪放送局からお送りしています。各地の被害状況に続いて、ゴジラとギドラに関しての続報です。海上自衛隊佐世保基地からの情報によると、ゴジラとギドラは海中で争いながら未明に沖縄本島から南東に100キロ地点まで達し、なおも南下を続けている模様です。また昨夜からの闘争により、遠州から東南海沿岸に高さ10メートルを超える大津波が襲来。長野県飯田市に逃れた内閣により、対象となる地域に大津波警報が発令されております。また猛火に見舞われた東京都と神奈川県では、両都県の行政機能損傷により被害の全容すらいまだ把握しきれておらず・・・』

 

ラジオの音量が最大になり、内容を感心げに、あるいは不安げに聴く人々。家族か友人かわからないが、名前を検索した後沈痛な面持ちで席を立った男性に代わり、真琴はパソコンに向かった。

 

柊木夫妻の名前を打ち込んだときは指が震えた。検索に該当しないということは、安否が不明だということを意味していた。

 

母である由加は、このアプリに登録していただろうか。

 

あるいは、生きていて無事を報告してくれていないだろうか。

 

「早くして〜!」

 

後ろに並ぶ中年女性にせっつかれ、真琴は【三崎 由加】の名前を打ち込んだ。

 

【しばらくお待ちください】

 

ほんの数秒だったが、何十時間にも感じられた。

 

【死亡 7月29日23:51 本所消防分署確認】

 

椅子から崩れ落ち、真琴は喉を押さえた。呼吸ができなくなり、口笛のような音が喉から出て来た。

 

慌ててやってきたNPO法人職員の姿がかすみ、必死に開いた口に土が混じり込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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主な登場人物・架空の設定解説

~主要登場人物~

 

 

 

 

 

 

 

・三崎 真琴

 

 

 

年齢:20歳

 

 

 

ICA(イメージアクター):平手 友梨奈

 

 

 

聖都大学附属病院付看護学院 → NEVER隊員

 

性同一性障害

 

 

 

 

 

 

 

・鳴海 真人

 

 

 

年齢:52歳

 

 

 

ICA:吉川 晃司

 

 

 

陸上自衛隊立川航空支援隊ヘリパイロット → NEVER隊員

 

 

 

 

 

 

 

・緑川 杏奈

 

 

 

年齢:48歳

 

 

 

ICA:篠原 涼子

 

 

 

KGI損害保険株式会社 保有再保険担当取締役

 

独身

 

 

 

 

 

 

・進藤 英作

 

 

 

年齢:48歳

 

 

 

ICA:小藪 千豊

 

 

 

KGI損害保険株式会社 海外事業担当取締役

 

緑川の同期

 

 

 

 

 

 

・斉田 公吉

 

 

 

年齢:48

 

 

 

ICA:大泉 洋

 

 

 

調査事務所『斉田リサーチ』代表取締役

 

元KGI損保社員で緑川の同期

 

 

 

 

 

 

・芦屋 滋

 

 

 

年齢:62歳

 

 

 

ICA:内場 勝則

 

 

 

うどん屋「あしやん」店主

 

 

 

 

 

 

 

・尾形 大助

 

 

 

年齢:61

 

 

 

ICA:片岡 愛之助

 

 

 

京都大学大学院 生命科学研究科教授

 

ゴジラ研究の第一人者

 

山根恭平博士の孫

 

 

 

 

 

 

・剱崎 俊哉

 

 

 

年齢:51歳

 

 

 

ICA:香川 照之

 

 

 

京都大学大学院 生命科学研究科教授

 

昆虫研究の大家

 

 

 

 

 

 

・北島 佳澄

 

 

 

年齢:51歳

 

 

 

ICA:羽田 美智子

 

 

 

総務大臣

 

 

 

 

 

 

 

・佐間野 力哉

 

 

 

年齢:54歳

 

 

 

ICA:北村 一輝

 

 

 

経済産業大臣兼怪獣災害復興担当大臣

 

 

 

 

 

 

・望月 馨

 

 

 

年齢:74歳

 

 

 

ICA:志賀 廣太郎

 

 

 

内閣官房長官

 

 

 

 

 

 

 

・瀬戸 周一朗

 

 

 

年齢:73歳

 

 

 

ICA:渡 哲也

 

 

 

内閣総理大臣

 

 

 

 

 

 

・原田 信輝

 

 

 

年齢:73歳

 

 

 

ICA:綿引 勝彦

 

 

 

大阪府知事兼内閣参与

 

 

 

 

 

 

 

・三蔵院 永光

 

 

 

年齢:66歳

 

 

 

ICA:佐野 史郎

 

 

 

新興宗教団体『黄金の救い』教祖

 

 

 

 

 

 

 

・三上 紀明

 

 

 

年齢:70歳

 

 

 

ICA:鹿賀 丈史

 

 

 

民俗学者

 

 

 

 

 

 

・足立 優吾

 

 

 

年齢:21歳

 

 

 

ICA:宮沢 氷魚

 

 

 

慶応義塾大学3年 → NEVER隊員

 

 

 

 

 

 

・大宅 和叉

 

 

 

年齢:25歳

 

 

 

ICA:染谷 将太

 

 

 

フリーター → NEVER隊員

 

通称「マタンゴ」

 

 

 

 

 

 

・泉谷 瑞穂

 

 

 

年齢:27歳

 

 

 

ICA:本田 翼

 

 

 

航空自衛隊航空総隊航空救難団ヘリパイロット → NEVER隊員

 

 

 

 

 

 

・ジョニー・石倉

 

 

 

年齢:50歳

 

 

 

ICA:吹越 満

 

 

 

NEVER日本支社ブランチマネージャー(教務指導官)

 

 

 

 

 

 

・テッド・村岡

 

 

 

年齢:51歳

 

 

 

ICA:佐藤 二朗

 

 

 

NEVER日本支社長

 

 

 

 

 

 

・山路 耕の介

 

 

 

年齢:84歳

 

 

 

ICA:伊東 四朗

 

 

 

KGホールディングス社長

 

 

 

 

 

 

・近藤 悟

 

 

 

年齢:48歳

 

 

 

ICA:反町 隆史

 

 

 

フリーのジャーナリストでありユーチューバー

 

元共同通信社記者

 

 

 

 

 

 

※イメージアクターはあくまでイメージであり、イメージとなった俳優さんたちを誹謗・毀損する意図はないことを記します。

 

 

 

 

 

 

 

~架空の設定解説~

 

 

 

 

 

 

・KGI損害保険株式会社

 

 

 

 

 

 

KG(海洋漁業)ホールディングス傘下企業。

 

 

 

主に国内外の船舶保険、自動車保険を取り扱う損保会社。

 

 

 

英国の損保大手「ランスロット生命保険」を買収し、世界有数の規模を誇る損害保険会社となる。

 

 

 

大阪に本社を置き、東京、札幌、福岡、上海、シンガポール、ドーハ、ロンドン、トロント、マイアミに支社、その他親会社のKGホールディングスのネットワークを活かし、大きく展開していたが、2020年、バトラ襲撃によりロンドン支社が閉鎖。

 

 

その後のゴジラ・ギドラを始めとする怪獣たちの戦いで東京支社を失うとともに、直接・関接被害での保険金支払いが重なり、国内外での事業規模を縮小・リストラを余技なくされた。

 

 

社訓は「窮すれば通ず」。

 

 

 

 

 

 

・KGホールディングス

 

 

 

 

 

 

創業1947年。本社は大阪府。

 

 

 

元は「海洋漁業」という遠洋漁業と食品加工を核とした会社。

 

 

 

1955年のゴジラ大阪襲撃時、本社社屋を含め多大な損害を被るも、創業者・山路耕平の「必ず立て直す」との言葉通り復興。

 

 

 

1957年、本業に加え、船舶保険や金融業へも参入。

 

 

 

現在は中核企業である大手都市銀行「日本海洋銀行」を中心に、「KGI損保」「KG食品」等関西を中心にグループ企業を展開。

 

 

2020年7月のゴジラ・ギドラ襲来による首都崩壊で在京メガバンクが軒並み機能を失う中、大阪を拠点とする日本海洋銀行が取引高・預金高共に日本の中核となった。

 

 

 

 

 

 

・ガルファー社

 

 

 

米国籍のIT企業。

 

 

2020年に怪獣ダガーラのシアトル侵攻を受けてAmazon、アップル、マイクロソフトといった主要IT企業が経営危機に陥る中、それらに出資することでITから物流、携帯端末機能までを幅広く手掛ける時価総額世界一の企業となる。

 

 

またギドラの襲撃をうけ本社と基幹工場を失った日本の重工業・難波重工を買収し傘下に収め、ダガーラとギドラによって主要工場を喪失したマクドネル・ダグラスを抜き世界有数の軍需産業にもなった。

 

 

なお企業の籍こそ米国に置かれているが、株主は世界各国の機関・政府投資庁・財閥や投資ファンドが入り乱れており、事実上の多国籍企業とも言われる。

 

 

 

 

 

 

・NEVER

 

 

 

ガルファー社傘下の民間軍事企業。

 

 

1998年に米軍退役者たちによって設立され、2000年代に入ると主に中東・アフリカ等紛争地域にて主に米軍の職務補助や代行、紛争地帯における要人警護、兵器売買により急成長を遂げる。

 

 

2016年、ガルファー社傘下となる。

 

 

2020年、ゴジラ・ギドラの起こした災厄により日本の関東・東海地区が国連管理下に置かれた際、国連軍任務補助・代行を目的として日本進出。

 

 

現地住人を採用し、国連管理下地域の警備業務に従事させつつ、見直しが決定された米軍の太平洋地域展開に伴う軍事的空白を埋めるような動きを見せる。

 

 

 

 

 

 

・ゴジラ

 

 

 

水爆実験によって恐竜の生き残りである水棲生物が突如変化した怪獣。

 

 

1954年、太平洋上で多数の船舶を襲った後、小笠原諸島・大戸島を経て首都・東京を襲撃。

 

 

その後東京湾に潜伏するも、或る科学者が開発した「水爆以上の兵器」で葬り去られる。

 

 

翌1955年、東京を襲ったものとは別のゴジラが出現。

 

 

同じく水爆実験により変異したアンキロサウルス=通称アンギラスと激しく争いつつ、大阪に上陸。

 

 

大阪でアンギラスを屠ると北方海域へ進行、当時日本領であった千島列島・神子島へ上陸(この際海洋漁業北海道支社の船舶を沈没させる等猛威を奮う)。

 

 

神子島で航空自衛隊・海上自衛隊と対決、人工的に引き起こされた雪崩に巻き込まれ、完全に沈黙する。

 

 

千島列島を治めるソビエトの調査団による幾度かの調査の末、1967年、凍土の下で生命活動を停止しているとされていたが、2019年6月に復活。

 

 

宇宙から飛来したと思われるアメーバ状の生命体によって進化を遂げたカマキリ―カマキラス、ガイガン、そしてダイオウイカが変異したと思われるゲゾラと茨城県・東京都において交戦。

 

 

これをいずれも屠るも、多大なダメージとエネルギー放出のため、日本海溝へ沈む。

 

 

死亡したかと思われたが、1カ月後、フィリピン沖より現出した黄金の三つ首龍・ギドラと示し合わせるかのように再出現。

 

 

東海地方を壊滅させたギドラと浜松市郊外にて対戦する通称『浜名湖決戦』が勃発。激闘の末、ギドラと共に遠州灘へ沈み、以後行方不明だったが、2020年7月、日本海にて未知の怪獣を屠った後新潟県新潟市に上陸。

 

 

途中新潟・群馬県境でモスラ・バトラと争いつつメガギラスを倒し、利根川を下るように関東地方を南下。群馬県でサンダ・ガイラと、千葉県でギドラを始めとする多数の怪獣と激突した。

 

 

激闘の末ギドラを倒すが、エネルギーが尽きたのか千葉県浦安市で沈黙。

 

 

死亡説も流れたが、同年7月末のギドラ再度出現に呼応するように核爆発に類似した衝撃波を伴いつつ復活。

 

 

ギドラとは争いつつ東京23区から川崎、横浜、湘南へと進撃、沼津まで到達したところで駿河湾に没する。

 

 

その後も海中でギドラと争いながら太平洋を南下したが、台湾沖南東80キロ地点で中国人民解放軍の新型爆弾を受け、ギドラ共々行方不明となる。

 

 

ゴジラとギドラの戦いで東京都を含めた南関東は建造物倒壊と過去類を見ない火災により壊滅状態となる。また駿河湾から太平洋上にて争った際、潜航波により遠州~東南海沿岸に20メートルを超える大津波を巻き起こした。

 

 

これにより、南関東・東海地区における犠牲者は360万人、重軽傷者及び被災人口は2000万人に迫った。

 

 

日本政府は自力での首都圏・東海地域再建を断念、特別立法により日本の首都は臨時的に大阪に置かれることとなった。

 

 

被害の大きさと高濃度の残留放射能を理由とする再建無期延期の対象となった南関東4都県と静岡~和歌山県沿岸は国連管理区域となり、特にゴジラの熱線による放射能が残る地域は特別警戒区域となった。

 

 

被災地域の警備・治安維持を目的とした国連軍、多国籍軍派遣が延べ1年間続いた後、米軍及び米国籍の民間軍事企業を中心とした管理・警備体制が構築された。

 

 

このため北日本と西日本は分断に近い状態となり、日本は3つにわかれた状態となった。

 

 

 

 

 

 

 

かつて出現した個体はいずれも推定身長50m、体重2万トン。

 

 

 

2019年に再出現した際は、身長90m、体重4万トンまでに達していた。

 

 

 

水爆実験の影響で全身から強い放射能を発し、口からは強烈な放射能を含んだ超高熱の息、白熱光、さらに白熱光を凝縮・強化したと思われる放射能熱線を主な武器とする。

 

 

浦安市におけるギドラとの交戦時には、ゴジラのエネルギーを吸収する性質を持つギドラの習性を逆手に取るような全身から放射能熱線を放出させる技を披露。

 

 

これはその後復活時にも見せ、周囲1キロを完全に掃滅させてしまう威力を見せつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 1ー

・2021年 10月24日 17:34 東京都小笠原村大戸島 大戸神社

 

 

年配の神主が御神体である銅鏡、続けて列席者にこうべを垂れ、手にしている大幣で2、3度祓った後、神楽殿に揃った神楽を手にしている少年少女たちを同じように祓った。

 

最初に中央の少女が笙を吹く。和音独特の響きが木霊した後、3人の少年によって和太鼓が鳴らされる。奥の神殿から天狗の面をつけた少女が現れ、きびきびと、そして雅に舞う。

 

この神楽を見るのは久しぶりだった。尾形はいつもに増して感慨深げに神楽を見遣る。

 

南の島とはいえ10月末にもなると陽が落ちるのも早い。夕闇が迫る中神殿を前に2本の篝火が焚かれ、薪が爆ぜてオレンジ色の火の粉が舞う中、天狗の舞はその動きを激しくしつつある。

 

やがて舞が止まり、2つの笙の音が重なり合う。途端に天狗の舞は緩慢になり、ゆったりと神殿の奥へ戻っていった。

 

薪が燃える匂いが立ち込める中、和太鼓がゆっくり、そして強く何度も打ち鳴らされる。最後の一打の余韻が残る中、再び笙が音を発した。神主が一礼し、神楽に集った少年少女たちを祓い、続いて列席者、最後に御神体を祓うことで神楽は終了するのだ。

 

この神楽は古来から島に伝わっており、島の伝承に従い『呉爾羅神楽』と呼ばれていた。

 

列席者たちは静かに立ち上がると、順に神殿へ向けて二礼二拍手一礼をしていく。スーツや袴を召した他の列席者と異なり、尾形はジャケットを羽織っただけの比較的ラフな格好だったが、前に参拝した村議が恭しく一礼して神殿へ案内してくれた。

 

神主が口上を述べた後、列席者に御酒が振る舞われた。尾形もそれを口に含む。芳醇なその香りは薪が燃える香りとも混じり合い、なんともいえない豊かな風味となって全身を駆け巡る。その感触は、身体の中の邪気をすべて打ち払ってくれるようにも思えた。

 

それまで神妙に神楽を奏でていた少年少女たちは正装のまま、年頃らしく賑やかに談笑しながら神殿から降りてきた。彼らの学校の教師らしき男性がそのまま控え室となっている社務所内へ引率していく。

 

「えーそれでは、ささやかですが宴席を設けております。お集まりのみなさまにおかれましては、社務所わきの広間へお越しください」

 

村議会の議長が、合わない入れ歯をフガフガさせつつたどたどしく宣言する。三々五々、広間へ向かう中、尾形は列席の地元重役に混じり、見慣れない男性が後をついていくのを見た。

 

髪は黒いが、おそらく染めているのだろう。生え際が白いところを見ると、尾形よりも年齢は上に思えるが、歳を隠そうともしない島の重役たちとは異なり、垢抜けた印象を受ける。学校の教師、それも文系を教える穏やかな年配の教師を彷彿とさせた。

 

大戸島は平成の大合併で小笠原諸島がひとつとなった小笠原村に編入され、自治体としての『大戸島村』は消滅したが、離島という性質上、また行政区分が変わったのみで他は旧来どおりの仕組みが続いていることもあって、現在でも独自の村議会を持ち、選挙で島の代表となる『村長』が選出されることは何ら変わっていなかった。

 

現在の村長を務める、齢76歳になる田中伊佐次の発声により乾杯が行われ、人々は盃を重ねあった。

 

尾形の元には村議から村の漁船団の頭から、続々と酌をしに訪れる。その最中でも、尾形はさきほどの見かけない男性が気になった。村の商工会会頭と何やら話しているが、やはり島外の人間にしか見えない。

 

「尾形先生」

 

村長の田中が酌をしにやってきた。

 

「村長、大変ご無沙汰しております」

 

尾形は90度のお辞儀をした。

 

「いやいや、もう年末の選挙には出馬せんでしてな。いままで通り、いさじぃと呼んでくださいませんか」

 

尾形は破顔した。自分が幼い頃のことを、村長は覚えているのだ。

 

「島にいらしたのは、新吉あんちゃんの3回忌以来でしたか」

 

「ええ。新吉叔父さんが亡くなって、そういえばもう3年になりますね」

 

「そうですなあ。この3年で、だいぶ世の中も変わり果ててしまいましたなぁ・・・」

 

そういうと田中は目を伏せた。尾形もまだ世の中が平常通りだった、3年前を思い起こしていた。

 

山田新吉。いまは亡きこの人物と尾形が出会ったのは10歳のとき、祖父である山根恭平博士に連れられて初めて大戸島へ来たときのことだった。

 

昭和29年、後に帝都東京を焼き尽くした最初のゴジラが太平洋上で活動を活発化させた頃だった。何隻かの船舶を海に葬ったゴジラは、暴風雨の中ここ大戸島へ上陸し、当時1500名にのぼっていた住民の半数近くが家屋倒壊の犠牲となってしまった。

 

その際に当時高校生だった新吉少年の母と兄が少年の目の前で押し潰された。当時大戸島の調査団長として島へ渡った山根恭平博士は新吉少年から話を聴くうち、一度養子に迎えて東京の山根家へ連れてきたのだ。

 

だが新吉少年が大学を卒業する頃、ゴジラ襲来の後遺症に苦しむ故郷の大戸島がどうしても忘れられないと、山根家との養子縁組を解消した後島へ戻り、廃れかけていた漁業に従事しつつ島民たちと島の復興に務めた。

 

尾形が初めて新吉に出会ったときには、30を過ぎた脂の乗った頃だった。島の青年団と民宿を開業させ、忙しそうに額に汗して動き回っていた。

 

「恵美子姉さんの息子なら、僕の甥っこだね」

 

年齢を重ねても祖父の自宅に飾られている写真と変わらぬ素朴な笑顔で、尾形のことをたいそうかわいがってくれた。

 

それからは年に2回、盆と正月にゴジラによって亡くなった島民の慰霊に訪ねる祖父にくっついて、尾形は大戸島に渡った。そのたびに新吉叔父は笑顔で迎えてくれた。

 

やがて祖父が亡くなってからも、大学生活やその後の研究職の合間を縫って、また住まいを東京から京都へ移した後も、尾形は大戸島を訪れ続けた。ゴジラ研究の要職に就いてからは学術的調査を目的とした訪問もあるが、敬愛する祖父と叔父にとって特別な場所であるこの大戸島へ渡ることは、尾形にとってライフワークとなっていた。

 

晩年には島民に推されて島の村長を務め上げ、高齢を理由に引退して間もなく、79歳で新吉叔父は逝去した。

 

その頃には尾形も教授職に忙殺され、新吉叔父が亡くなった後は、叔父の法事くらいにしか訪れることができずにいた。

 

3回忌をあげた後、64年ぶりのゴジラ出現にカマキラス、ガイガン騒動。そして昨年の忌まわしき怪獣乱立戦からの首都崩壊により、物理的に大戸島へ渡ることが難しくなってしまっていた。いまは国連管理下に置かれている伊豆半島・下田港から小笠原諸島への定期航路が述べ2年ぶりにむすばれたのは、今年の8月になってからだった。

 

「あんちゃんがいま生きていたら、ゴジラや怪獣のせいでこんなふうになった日本をどう思うでしょうかなあ・・・」

 

田中がしんみりとつぶやき、酒を飲み干した。

 

朗らかで温厚な叔父だったが、殊ゴジラの話題になると、決まって顔が険しくなった。あるいは寝床に布団を並べたときには、「あんちゃん、おっかさん・・・」や「ちくしょう、ちくしょう・・・」と寝言をつぶやくこともあった。

 

それでも、この島にゴジラという伝説上の異形の怪物が実際に現れ、島の人々の尊い命を奪ったという出来事を後世にも伝えようと、廃れていた呉爾羅神楽を再興させ、島の小・中学生に神楽を奏でてもらうようにしたのは新吉叔父である。そして祖父と同じく、ゴジラという存在に対し並々ならぬ興味と敬愛に近い感情を持つ尾形にも、内心複雑な心境は持ちつつも理解を示していてくれた。

 

そんな叔父が、再度ゴジラが現れた上日本を破綻寸前まで導き、昭和29年の初出現時とは比べものにならない犠牲が出たこの現状を知ったら、どう思うだろうか。

 

叔父の朗らかな顔がゴジラを意識したときに見せる、あの憎悪に満ちた目を思い起こし、尾形は深くため息をついた。

 

「いや、いけませんなこりゃあ。今日はせっかく尾形先生が来てくださったんだ。ささ、先生。どうぞどうぞ」

 

沈痛な雰囲気を打ち消すように、田中は酒を浸いできた。婦人会長や小中学校の校長、小笠原地方振興局の次長といった村の重役が、いつのまにか尾形に酌をすべく行列をなしていた。尾形は恐縮しきって苦笑し、しばらくは酒のつきあいをした。

 

「失礼します、尾形先生」

 

後ろから声がした。新吉叔父が立ち上げた民宿の女将であり、また新吉叔父の娘である藤子がぷっくりした頰を揺らしながら呼び掛けたのだ。

 

「お夕飯の用意ができましたので、どうぞお宿へ」

 

社務所まで歩いてすぐの距離とはいえ、わざわざ呼びにきてくれたのだ。

 

「ああ、ありがとう」

 

尾形は礼を言うと、婦人会長と学校長に話を中座させてしまうことを詫び、頭を下げて社務所を出た。南の島とはいえ11月近い夜風はさすがに冷たく、日本酒の余韻もすぐに醒めた。

 

「ごめんなさいね先生、おしゃべりしてたとこ」

 

「いや、空きっ腹に日本酒は効くからね。ちょうど良かったよ」

 

歩きながら、尾形と藤子はしゃべった。民宿に戻ると、自宅にある新吉叔父の仏壇に線香を上げ、広間に用意されたお膳を前に腰を下ろした。

 

新吉叔父がよく振舞ってくれた、自慢の新鮮な海鮮料理はいまも健在だった。尾形は手を合わせると、タコの刺身に箸をつけた。

 

「お召し上がりのところ、もうしわけない。失礼ですが、京都大学の尾形教授でいらっしゃいますね」

 

箸を止めて顔を上げると、神楽のときから見かけていた見慣れない男性が頭を下げてきた。同じようにお膳が用意されているところを考えると、宿泊客だろうか。

 

「ええ、そうですが・・・あなたは?」

 

尾形は警戒半分、食事を削がれた嫌悪感少々に訊いた。

 

「やはり。これは突然失礼しました。私は三上と申しまして」

 

そう名乗ると名刺を差し出してきた。北陸大学生活教養学部客員教授、難波大学民俗伝承学会顧問、日本民話の会理事、怪獣とお伽話を結ぶ会代表と数多く並べられた肩書きのわきに、『三上 紀明』と記されていた。

 

「三上さん・・・ああ、そうか。よく雑誌に怪獣に関する記事を寄稿なさってますね。読んだことがあります」

 

「ご存知とは、誠に恐れ入ります。光栄です」

 

恭しく頭を下げてくる三上に、尾形は恐縮した。

 

「私も、怪獣に関する学問を修めている者のはしくれですから」

 

言いながら、尾形は藤子に頼んでふたつの膳をくっつけてもらった。

 

「いやいやこれは。私なぞ、古の伝承から怪獣の謎を紐解くという、まあおよそ非科学的なことばかりしておりますもので。尾形教授のように、しっかりと生物学・進化学に基づいて怪獣を研究なさっていらっしゃる方が人類のためになっていることでしょう」

 

三上は謙遜こそするが、自ら声をかけてきたところを見ると尾形に興味があることは間違いないだろう。尾形は笑みを浮かべ、自身のとっくりを三上に傾けた。

 

「やや、恐れ入ります」

 

2人は盃を軽く当て、グイと日本酒をあおった。

 

「こちらへは、取材ですか?」

 

三上の呑み方からして、相当な酒好きのようだ。尾形自身も無類の酒好きであるため、三上への警戒心はとうに失せていた。さらにお近づきになるべく、尾形は訊いた。

 

「ええ。かねてからこの島に伝わるゴジラ(呉爾羅)の伝承を調べるべく、3日前からこちらに御厄介に」

 

「ほう。でしたら、さきほどの呉爾羅神楽などはいかがでしたか?」

 

「ええ。神道の儀式である神楽には違いないが、果たしていつごろから在り伝わってきたものか、大変興味がございますな。いわゆる、祈祷としての神楽が現在の様式に収まったのは室町時代末期といわれてます。幕府や朝廷からかなり距離があるこの島へいかにして伝わったのか。はたまた、神楽としての様式が伝わる前は呉爾羅を鎮めるこの島独自の儀式が存在したのか、郷土史的にとても興味深いのですが・・・」

 

三上は文系理系問わず学者にはよくある、自身の得意とする分野を語り出すと熱を帯び勢い良く口角を飛ばす口調となるらしい。こういうとき講義を受ける学生はその怒涛のような口調と圧倒的な熱量に引いてしまう者が多い。だが研究分野も系統も違えど、同じ教職であり研究職としてはしっかり話に耳を傾けるのが礼儀だ。第一、分野がまったく異なるからこそ、まっさらな状態で面白く話を聴くことができる。

 

「あ、いやはや失礼。どうも余計なことをしゃべってしまう悪癖が出てしまいましたな」

 

尾形の表情に気づき、そう恐縮し苦笑する三上だった。

 

「島の文献や郷土資料にも目を通しましたが、伝承によれば呉爾羅は近海の魚を食い尽くすと、ここへと上がってくるのでしたか。そのため、生贄として若い娘を舟に乗せ海へ放つことで災いを防ぐことができるそうでして。そして贄となった若い娘の鎮魂と漁場の隆盛、何より海の神とされる呉爾羅への祈祷として、神楽が演じられてきたとありますな。興味深いのは昭和29年のゴジラ襲来後、一時神楽が行われないこともあったが、昭和40年頃から復活して現在も続くことだ。ゴジラの犠牲となった人々の鎮魂という目的が加わったと、郷土資料館で説明を受けました」

 

三上はまるでその様子を心の中に映し出すように、遠い目をして盃をあおった。

 

「神楽を再興させたのは山田新吉。ゴジラによって家族を奪われた後この島の村長を長く務め、私も叔父と甥として、とても懇意にさせていただいた方でした」

 

叔父のことを語る尾形は、誇らしさに溢れていた。

 

「そうか。あの山根恭平博士の養子になられていた・・・」

 

得心したように、三上は頷いた。

 

「不思議なものですな。肉親や友人の命を奪った相手を神として祀り、祈りを捧げるというのは」

 

尾形はしみじみとつぶやき、盃をのみほした。すかさず三上が自身のとっくりを尾形の盃に注いだ。

 

「そこが、神道のおもしろいところなんです。山岳信仰を例にとっても、時に火山噴火や山体崩壊、はたまた土石流を巻き起こし里を荒らしてしまう。それでも山を神として奉るのは、山からの清冽な伏流水が里へ流れることで田畑が潤い、人々の生活が豊かになるからだ。ゴジラを神として崇めるというのも、虞れという概念がそのまま自然への信仰となる神道の考え方そのものですからな。いえ、私自身も実はそうなんです。近しい人を怪獣によって奪われたことを、さきほどの神楽を観て強く思い起こしました」

 

それまでにこやかに笑みを浮かべて話していた三上に、ふとさみしげな陰が差した。

 

「村議会議員の方と話したんですが、昨年2度に渡ってギドラが島の近海まで近づいたことがありましたな。特にオーストラリアから北上してきた2度目のギドラによって、八丈島から三宅島、伊豆大島が壊滅といって良いほどの被害を受けたにも関わらず、大戸島を含めた小笠原諸島は高潮も暴風雨も被害が軽微だった。これも呉爾羅を祀っていたおかげ。そう考える人もこの島には少なくないそうで。ですが・・・私はなんとも、なんとも言えない、言いようのない感情が込み上げて参りまして」

 

するとスマホを取り出し、2名の女性が写っている写真を表示させた。

 

「こちらは、私の妻です。2年前のカマキラス騒動の際、新宿でカマキラスに襲われ亡くなりました。そしてこちらは、血のつながった娘ではありませんが、子どものいなかった私ら夫婦にとっては娘も同然だった雑誌記者です。この娘も、昨年ゴジラとギドラの争いに巻き込まれてしまい・・・」

 

そこで三上は声を詰まらせた。

 

「本当にわかりませんな。ゴジラに、そして怪獣に対し、憎しみの感情があることは違いないのです。ですが、神楽を見せてもらうと、本当に何と申し上げて良いか・・・表現が正しいのかわかりませんが、畏敬の念も同じくらい抱いているのが否めないんです。そしてその念こそが、いまの私の力の源なのかもしれないと、強く感じたんです」

 

グイと盃を飲み干す三上。

 

「三上さん、実は叔父もそうでした。明らかに、ゴジラを憎んでいたと思います。母親と兄を殺されていますから。ですが、そんな叔父にもどこか、ゴジラへの畏れというか、敬う気持ちもあったのだと思うんです。一言では語れない、複雑な心境だったのだろうと察します」

 

尾形は酒を注ぎ、静かに三上へ傾けた。三上も尾形に返盃すると、同じ仕草をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 2ー

・10月26日 13:38 大阪府大阪市中央区大手前4丁目 大阪府合同庁舎内

 

 

「国民行動党、鳩中幸成君」

 

桜井衆議院議長に促されると、野党第一党である国民行動党党首・鳩中は大きなギョロッとした目をさらに大きくし、気合いを入れてマイクの前に立った。

 

「え、実に1年と3ヶ月ぶりの衆議院予算委員会ということで、まずは政権与党要職、並びに瀬戸総理以下国務大臣のみなさまには、前代未聞の危機的状況の中、そのお役目を果たされていることに感謝を申し上げます」

 

映されているテレビカメラの向こうにいる国民の目を気にしつつ、鳩中はそこから声色を変えた。

 

「そのような状況下だからこそ、私は国民の声を代弁し、敢えて瀬戸総理を始めとする政権幹部のみなさまに申し上げます。まず、昨年7月の怪獣多数襲撃、そこから2週間後のゴジラ・ギドラ襲来によって、関東・東海・南紀に至る我が国の重要な産業・人口密集地帯が壊滅状態となり、被害の大きさ故に自国での再建を断念。さらには、それら被災地域を国連による暫定統治に委ねるという、我が国建国以来類を無い事態となっております。ここで私はうかがいたい!これら地域をどのように復興させ、希望が潰えた我が国をどうやって立て直していくのか!総理、具体的な政策をお話願いたい」

 

鳩中がまくし立てたことは、1億もの日本国民が直接総理大臣に問い質したいことだった。私の背中には、大勢の国民がいる!そう言わんばかりに、鳩中は勢いをつけた。

 

「内閣総理大臣、瀬戸周一郎君」

 

挙手した瀬戸を、桜井は名指しした。

 

「まず、関東・東海地域の国連による暫定統治は、国内基幹産業の復興、ならびにゴジラが発した残留放射能の半減期を考慮した結果、5年後を目処に終了。その後は、国内外からの産業技術集約と積極的な財政投融資、また国の内外を問わず民間からの融資による資金調達を行い、被災地域の復興に尽力する所存でございます」

 

与野党議員の発する熱気と殺気に動じることなく、冷静に瀬戸は話す。

 

「国民行動党、鳩中君」

 

がまんならん、とばかりに挙手した鳩中を、桜井は指名した。

 

「そのための具体的な方法はどうするのか、そこをお訊ねしているんです!良いですか総理、日本円は昨年以来暴落して最新の大阪外国為替市場では1ドル195円!安全資産とされていた日本国債も海外市場を中心に売価が額面の8割で取引されている始末です。世界有数の資産国家だった我が国も、GDPがポルトガルにすら抜かれ、アジアに於いてもマレーシアを下回るかどうかの局面まで来ております!良いですか、世界に見捨てられ、我が国は復興どころか貧乏国家への道を突き進んでいるんですよ!このような状態で、どこからどうやって投融資をひっぱるというのですか!」

 

「そうだそうだ!」

 

「国民が苦しんでるんだぞ!」

 

国民行動党を始め、野党議員からはすさまじい野次が飛ばされる。これまでは烏合の衆であった野党各党も、この局面で連携を取り、瀬戸内閣に対して集中攻撃を仕掛ける動きがある。それでもたじろぐことなく、瀬戸は軽く咳払いをして挙手した。

 

「え、来年度より、復興特別予算を計上し、主に自国内にて投融資を進めてまいります。財源ですが、IMFからの拠出金、G7(先進7ヶ国首脳会議)中央銀行からの、日本国債を担保とする融資、政府が保有する米国債の一部取り崩し、新規国債発行により、合わせて75兆円の予算を見込んでおります」

 

「だから!肝心の日本国債の価値が下落してるでしょうが!」

 

「米国から国債売却の承認を得てんのか!?」

 

怒声の野次に、桜井議長の「静粛に!質問は順を追い、挙手にてお願いします」という執り成しが入った。そこで鳩中が再び挙手をした。

 

「総理、聞こえましたでしょう?予算の担保はいかがなさるのですか?」

 

「きちんと質問しなさいよ!」

 

今度は与党側から怒鳴り声が響いた。総務大臣の北島香澄が鋭く響く声を張り上げたのだ。

 

「まず日本国債ですが、おっしゃるように他国市場にあっては、額面価値より低く売買がなされているのが現状です。しかしながら、G7の中央銀行同士では、経済危機に対応すべく実際の市場価格に関わらず額面通りの資金を融通し合う取り決めがなされております。また米国債ですが、米国連邦制度理事会のファーガソン議長と、我が国の財務省及び日本銀行とでのコンセンサスは既に得られております。最終的にはオヘア米大統領の承認を必要としますが、オヘア大統領より実行に前向きとの言葉を、先日の日米首脳電話会談で頂戴しております。これらの額を限りなく積み増すことで新規国債発行を低減させ、我が国の財政負担を少しでも減らして参る所存です」

 

瀬戸の答弁の最中、野党議員たちは小声で言葉を交わした。

 

「日本共産党、畠中文也議員」

 

今度は矛先を変えるようだ。

 

「うかがいます。かつてない被害により、国民生活は困窮を極めております。円安によるガソリン価格や小麦原料、木材資源の高騰に、15%を上回る失業率。このような事態を救済・打開するにはどうするのか、みなさんのご意見を拝聴したい」

 

「都合悪くなったからって矛先変えないで!」

 

北島の怒鳴り声を背に、瀬戸は答弁台に立った。

 

「現在、経済産業省主導による外資誘致を積極的に行っております。これにより、少しずつでも経済回復と失業率改善を図って参ります」

 

「うかがいます!たしかに米大手企業のガルファー社には、官民共に助けられております。しかしですよ!被災地の若者はガルファー社傘下の民間軍事会社NEVER社員として徴用され、被災地域の警備と新兵器開発・試験に当てられているではありませんか!そしてさらにですよ、狙ったかどうか知りませんがねえ!円安により主に中国企業による関西地域の不動産買い漁りによって西日本の不動産は暴騰し、国民は物価上昇と通貨価値下落のダブルパンチに見舞われている!これでは外国人ばかりが利益を得て国民が貧しくなる上、仕事がないなら他国の企業で戦争に加担しろ。こんなことを進める現政権は何ですか!こういうのを売国奴っていうんですよ!」

 

「あなたたちに言われたくないです!」

 

「よく言うよ!」

 

「テメーらこそ売国奴じゃねえか!」

 

北島を筆頭に、与党から壮絶なツッコミが入れられた。

 

「そうだ!与党が日本を売り捌いてんだろ!」

 

「未来ある若者を戦争に従事させるな!」

 

「テメーらとはなんだ!謝罪しろコラぁ!」

 

野党も応酬し、一段と騒がしくなる。

 

「静粛に、静粛に!」

 

そう呼びかける桜井議長も、咳混じりになり声がかすれてきた。瀬戸は神妙に一礼し、マイクを握る。

 

「心苦しい限りですが、現状では外国に頼ることで我が国を支えていかざるを得ないことは認めざるを得ません。先ほどお答えしたように、今後数年かけて我が国が自立していくために、必要なことだと考えております。国民のみなさまにおきましては、多大な痛みと苦しみに遭われていることは痛切に感じております。しばらくは、耐え忍ぶことをお願いすることになりますが・・・」

 

「我慢ばかりするのは国民だけですか!うかがいますがね、あなた方与党はそうやって我慢ガマンて、国民は限界なんですよ!」

 

議長の促しなくマイクを手にした畠中には、さすがに桜井も「質問は議長の承認あってからなさってください!」と声を荒げた。

 

「国民が怒ってるんだよ!」

 

「いつまで我慢させるんだ!」

 

「円安政策進めれば経済回復するなんて嘘だったのかぁ!」

 

だが野党席からの加勢は熱くなるばかりだった。

 

「あなたたちが与党のときも円安基調だったでしょう!」

 

「なら対案持ってるのか!」

 

「おたくの党首は円安で株価だけ上がって儲けてんだろがよぉ!」

 

与党も勢いづき、もはや収拾がつかなくなっている。

 

「ご静粛に!国民が見てますよ!!」

 

限界を超えた怒声を桜井がマイクに浴びせかけたことで、場内はようやく静まりかえりつつあった。

 

「収拾が取れないので次の質問に移ります。民主第一党、狩野議員」

 

すかさず挙手した狩野を、桜井は指名した。これまでと違い、声を荒げず与党を追求することで定評のある男が席を立ったことで、瀬戸以下の閣僚は姿勢を正した。

 

「質疑の前に、与党も野党も何たる体たらくですか。恥ずかしい」

 

ピシャリと告げ、それまで野次を飛ばしていた与野党の議員たちは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「私の質問ですが、復興への道筋は把握できました。ですがそれ以前の話をします。まず、今後また現れるやもしれぬ怪獣への対策はどのようになっていますか?」

 

静かに、しかし威圧感ある口調で閣僚に訊く狩野。ややあって、防衛大臣の奈須野がおずおずと手を挙げた。

 

「奈須野公之防衛大臣」

 

答弁台に促された奈須野は、多量の汗をぬぐいながらマイクに顔を向けた。

 

「現在、関東中部地域の陸海空、すべての自衛隊を再編。主に西日本への注力をするべく展開を検討しています。それと、米軍・国連軍とも連携を強化し、怪獣を含めた有事対応にも当たれるよう、方策を進めておるところです」

 

「すなわち、事実上首都となった大阪を守護する布陣を整えている、ということですか?」

 

「さようです」

 

奈須野は眼鏡を外し、まぶたに溜まった汗をしきりに拭いている。

 

「兵力を集中させることで、怪獣たちへの対抗は充分にできるとお考えですか?」

 

「さ、さようです」

 

「昨年来、鳴りを潜めているゴジラとギドラへも、その対応が有効とお考えですか?」

 

次々と放たれる矢に辟易したように、奈須野は髪の毛がない頭を掻いた。

 

「げ、現在の自衛隊の兵力を考慮した場合、それが最善と考えて、おります」

 

「防衛省では、中国が発表したように、ゴジラとギドラは昨年の中国による空爆で死亡したとの見解ですか?」

 

すかさず防衛省の官僚が数人、奈須野に駆け寄った。

 

「奈須野さんに訊いてるんだよ」

 

「お前らひっこんでろ」

 

辛辣な野次に聞こえないフリをする防衛官僚。奈須野は立ち上がり、汗を拭った。

 

「防衛省としては、再出現を想定した行動を取るべく準備が済んで・・・おります」

 

奈須野の様子がおかしいことに、怪訝な顔をしつつも狩野は挙手した。

 

「では、実際に出現した場合、どのような方法で迎撃に当たるのか、教えてください」

 

防衛官僚がいくつか耳打ちすると、奈須野はよろめきながら立ち上がった。

 

「そー、それは、まずは、海里上に出現した場合・・・場合から・・・カッ」

 

そこで奈須野は顔を天に向き、そのまま仰向けに倒れてしまった。閣僚と秘書が慌てて駆け寄るが、奈須野は焦点の合わない目をしたまま、顔を土気色にしてうなっている。

 

騒然とする中、救護を要請すべく警護のSPが議会場から駆け出した。

 

 

 

 

 

 

衆議院予算委員会は、奈須野公之防衛大臣が倒れたことで急遽休止となった。奈須野はそのまま救急車で搬送されていった。

 

かねてより高血圧の持病を抱えていたところに、時勢的にもっとも激務となる防衛大臣の職を任命されて以来、まともに睡眠を取れぬ日が続いたことが堪えたのだろう。2年前のゴジラ再出現と怪獣たちの跋扈により、体調不良で倒れる防衛大臣は奈須野で2人目だった。

 

大阪府合同庁舎内にある小会議室へ場を移し、もともと予定されていた閣僚会議が開催されることとなった。大臣職に就いている議員たちと付随の官僚、そして暫定的に首都機能が置かれたことで行政機能の統一を図るべく、内閣参与として原田大阪府知事が入室した。

 

官房長官秘書が望月に耳打ちすると、短く頷いた望月は咳払いをして一同に向き直った。

 

「それでは閣議の前に。いまほど病院から連絡があり、奈須野さんは中度の脳梗塞を発症、回復後も運動・言語機能に麻痺が残る可能性が低くないという診断結果が出されました。今後党の要職とも相談しますが、職務続行は難しいようです」

 

一同は深くため息をついた。この時節に防衛大臣が交替することで生じる影響は大きい。ただでさえ、勢いづく中国による南西諸島近海での領海・領空侵犯対応がのしかかる上、根本から見直すこととなった国防体制と再来が懸念される怪獣対策に大幅な影響が出ることは必至だ。

 

「だいたい、野党の追及に品がないからですよ」

 

不満気に口を尖らせる北島。

 

「平時から防衛予算や軍備削減を声高に叫んでたクセに、いざゴジラやギドラが出たら国防の不備を政府になすりつけてくるんだから。奈須野さんじゃなくたってストレスたまりますって」

 

「まあ、もひとつお手柔らかに願いたかったのはたしかだねえ」

 

岡本文科大臣も同調した。

 

「そもそも日本始まって以来の国難なんだから、野党も文句言わずに挙国一致で打開していかなきゃいけないのに。総理、やっぱり廃案になった言論統制の時限立法、考え直すべきではありませんか?」

 

「北島君」

 

身を乗り出す北島を、瀬戸は制した。

 

「たしかに与野党、力を合わせていかなくてはならない局面だが、かといって政権を批判して罰せられる法律を作り、強制的に言論を統一させるなど民主主義への冒涜だよ。批判はあってしかるべきだし、こんなときだからこそ、民主主義の根幹を守るべきだ。どうか滅多なことは口にしないでもらいたいね」

 

瀬戸に窘められ、北島は顔を赤くして俯いた。

 

「・・・もうしわけありません、言葉が過ぎました」

 

まあ良いさ、と瀬戸が頷いたのを合図に、望月は咳払いをして顔を上げた。

 

「それでは、本日の閣議を開きます。え、配布してある通り、本日は怪獣対策を念頭に置いた、新たな兵器導入に関して、防衛省と経産省より説明を願います」

 

望月がしゃべり終えると、病に伏した大臣に代わり参加した平田防衛政務官が佐間野経済産業大臣を見遣った。佐間野は右手を挙げ、メガネの位置を正した。

 

「資料2ページに写真がある通り、ガルファー社は今月22日、メーサー攻撃車両・・・通称メーサータンクを完成させました」

 

メーサー。高出力のマイクロ波を増幅・凝縮させ、対象へ照射・命中させることで対象を焼滅させることを目的とした兵器。21世紀初頭に万が一再び怪獣が出現した場合、理論上生物に対し極めて有効とされ、開発実験が行われた。

 

ところが実際に大出力のメーサーを発射する場合、膨大な電力を必要とし、それほどの電力を備えたまま移動する特殊車両を製造することは不可能だった。主に沿岸部へ設置型のメーサーアンテナを建造する案もあったが、必要な電力量と予算がつかず、開発は凍結に追い込まれていた。

 

そんな状況を、一昨年夏に出現したギドラが覆した。ギドラの体表が傷ついたことで散らばった青い鉱石(ギドラの細胞を構成する物質と思われる)を研究したところ、人間の拳ほどの大きさでも東京都23区の電力消費量3日分に相当するエネルギーが安定的に得られ、メーサー照射機を搭載した特殊車両の建造が技術的に可能となった。

 

三菱重工、日立、IHIといった日本の長重工業による技術開発協力もあったが、主に日本の難波重工と米国のガルファー社による共同開発によって昨年秋までには試験車両が仕上がる見込みであった。

 

ところが、昨年ギドラが千葉県の京葉工業地帯を破壊。本社工場を擁していた難波重工の生産拠点は完膚なきまでに焼失してしまった。これによりガルファー社が青色吐息となった難波重工を傘下に収め、かつてゴジラとギドラの戦いで崩壊した旧浜松経済特区にて米国主導による開発が進められていた。

 

その直後に東京一円を滅ぼしたゴジラとギドラの潜航波により、遠州から東南海にかけて高さ30メートルを超える大津波が押し寄せたことで開発の中断はあったものの、今年に入り生産拠点が整備されたことで開発が再開、ようやく完成にこぎつけられた。

 

「有効射程距離が最大で10〜15キロメートル。怪獣ばかりでなく、外国勢力の航空爆撃機や中長距離弾道ミサイルも撃破可能。こりゃあ我が国にとって、喉から手が出るほどほしい戦車だわなあ」

 

党の重鎮であり、保守本流である井岡財務大臣が口を開いた。

 

「井岡さんのおっしゃる通りです。目下我が国における脅威は、ゴジラやギドラを始めとする怪獣。敢えて名指ししますが、中国・北朝鮮が我が国に照準を合わせている、核兵器を搭載した延べ70基の長距離弾道ミサイル。そして中国人民解放軍が、極秘裏に開発していた新型高性能爆弾“神雷”であります」

 

佐間野が答えた。いつから防衛大臣になったんだ、という冷やかしの声もあったが、列席の閣僚と官僚、内閣関係者は一様に納得した。

 

昨年7月、南関東を業火に包んだゴジラとギドラは大津波を巻き起こしながら太平洋を南西へ侵攻。日本の排他的経済水域を越え台湾沖南東80キロの洋上にて、中国人民解放空軍・東部戦区空軍所属のHー6K爆撃機が投下した新型爆弾“神雷”の攻撃を受けた。

 

約3平方キロを完全破壊するほどの大爆発でゴジラとギドラはその姿を消した。これを以てゴジラ・ギドラという恐るべき脅威は死亡したとの見方も強く、殊に中国政府は『人類による偉大なる勝利』と盛んに喧伝した。

 

ゴジラとギドラの生死判別はついていないが、この攻撃で中国は日米を始めとする世界各国に熾烈な軍事力を誇示することに成功した。

 

今後新たな怪獣が現れたとしても、神雷による撃退作戦は極めて有効であることが明確となり、怪獣出現の際は中国に相当なイニシアチブが生じることがはっきりした。

 

そして台湾沖で空爆を実施したという事実も、日米台への大きな牽制となった。

 

神雷は核兵器と異なり、放射性物質を発せず後々への深刻な影響もない状態で、戦術核兵器に匹敵する威力を持つことがわかった。今回は爆撃機からの無誘導爆弾だったが、ここまで兵器として仕上がっていれば、既存の長距離弾道ミサイルに搭載することなど造作もないはずだ。

 

それはすなわち、台湾はおろか日本、そして米軍が駐留する東アジア一円を新たな兵器でもって威嚇できることである。核兵器はその威力もさることながら、爆発と同時に発せられる猛烈な放射性物質による影響が最大の脅威であり、だからこそ最終兵器として在り得た。今回は中国が最終兵器の一歩前に使い勝手の良いオプションを保持していることをまざまざと見せつけられた。

 

それでなくとも、米軍、そして米国はダガーラとギドラによって深刻な損傷を受けており、早晩GDPを中国に抜かれる日も遠くない状況になりつつある。米軍も大規模な世界展開の見直しを余儀なくされており、日本においても横田・厚木の基地を閉鎖。横須賀の米海軍司令部も佐世保に移された挙げ句、往時の6割にまで戦力を減退させていた。

 

この状況下において、神雷に比類する兵器開発は日米はもちろん、親中国以外のアジア諸国全体の悲願であり絶対の達成目標であった。今回開発に成功したメーサーなら、既存兵器とは比べものにならない範囲への攻撃も可能となるため、東アジアの軍事バランス修復に大きく期待が持てる。

 

「検証・実践はガルファー社傘下の民間軍事企業、NEVER社が行います。11月1日より、社内訓練で選抜されたメンバーを中心に旧茨城県霞ヶ浦で半年間にわたり実施される予定です」

 

佐間野は淡々と説明した。

 

「これほどの新兵器を、正規軍ではなく民間企業が試験するとは」

 

氷堂外務大臣が額に手を当てた。

 

「氷堂さんもご存知のはずです。米軍も米国も、そこまでの余裕がありません。ま、NEVERは米国籍ですし、基幹社員のほとんどが米軍出身者です。事実上米軍による検証が行われると考えて差し支えありません」

 

佐間野が答えた。今回に限らず、ガルファー社と深い関係を持つ佐間野が、閣議において主導権を持ち話す機会はここ数ヶ月で増えつつあった。

 

「して、陸上自衛隊への導入は?」

 

今度は瀬戸が尋ねた。

 

「現在のところ、はっきりした時期は未定です。ガルファー社では来年5月までの試験期間を経て、翌月に米陸軍に24台のメーサー戦闘車を納入する方針です。そこからかんがえますと、我が国への販売は早くて来年末になるかと」

 

佐間野が説明すると、瀬戸は静かに目を閉じ、氷堂は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「佐間野大臣、いま少し早く・・・いやもっといえば、メーサー戦闘車とやらを真っ先に導入されるべきは我が国ではありませんか。中国は海を隔ててるとはいってもお隣だし、怪獣の脅威にもっとも晒されているのは日本なのですぞ。だいたい、ゴジラとギドラが本当に倒せたという確証もないのに・・・」

 

岡本が苦言を呈すると、佐間野は少し軽蔑したように視線を向けた。それに気づき岡本が怪訝な顔をすると、何もわかってないな、といった風に氷堂がため息をついた後、言った。

 

「日本が保有する米国債のうち20兆円を取り崩し、復興予算に計上するのは岡本さんもご存知でしょうな?」

 

「それがどうしたというんです?」

 

「あんたねえ、ちぃっと考えればわかるじゃないか」

 

井岡が我慢ならんとばかりに声を荒げた。

 

「通常なら米国債を20兆円も売り飛ばすなんて宣言したら、米国が怒髪天突いて喰ってかかってくるだろうが。ところがこっちはそんな無茶を頼むしかないんだ、そこは大人の話し合いをする他ないだろうが」

 

「総理はメーサー戦闘車の配備を米国優先とし、また日本導入においてはガルファー社から購入するという条件を呑んだことで、米国債取り崩しの承認をオヘア大統領から得られたんだ」

 

氷堂が説明すると、岡本は得心したように顔を上げたが、それを意味することがわかると消沈した。

 

「佐間野くん、引き続きガルファー社からはメーサー戦闘車の情報を集めてもらいたい。

また少しでも早く日本導入に向けて交渉を進めることとしよう」

 

瀬戸が言うと、佐間野は黙って一礼した。

 

「では本日の閣議はこれまで。明日の閣議では、大阪へのさらなる外資誘致と経済効果の具体的な数値を、財務省と経産省から報告願いましょう」

 

望月が言うと、閣僚は立ち上がって一礼した。慌ただしく官邸職員が瀬戸と望月に駆け寄り、小声の早口でまくし立てた。

 

「いまから高嶋幹事長と緊急の会合を行う。経団連との会食はそれからだ。佐間野くん、そちらの準備を頼む」

 

瀬戸は言いながら歩き始めた。突然の幹事長会談となると、奈須野防衛大臣の公務復帰は不可能、後任人事をどうするか、といった内容だろう。

 

「ねえ、総理ってここんとこ毎日、経団連と食事してない?」

 

隣で書類の整理を始めた佐間野に、北島は訊いた。

 

「それはそうだろう。東京も名古屋も炎と瓦礫の山になって日本の経済はズタボロだ。事実上の首都になった大阪に国の内外から産業と資金を集中させるいまの政策は間違っちゃいないだろ。ところがこんなときでも保守的で臆病な国内の大企業には、そこんとこの細かいすり合わせが必要なのさ。その実働部隊になってるうちも、それで忙しい」

 

佐間野があっけらかんと答える奥で、大阪府知事の原田が神妙な顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 3ー

・10月27日 14:36 大阪府大阪市中央区城見2丁目ツイン21 KGホールディングス本社会議室

 

 

12月のKGグループ連結決算を見据え、グループの中核である海洋漁業株式会社と海洋地所にKG食品、そして稼ぎ頭である日本海洋銀行とKGI損害保険を筆頭に、業績報告と経営方針を決める会議が開催されるに当たり、合わせて14ものグループ企業、関連企業、連結子会社の重役が顔を揃えていた。

 

慣例に則ってグループ企業の社長が持ち回りで議長を務めるこの会議、今回は海洋漁業商事の相原社長が議長席に座り、資料から目線を上げることなく会議を進行させていた。

 

目線を上げられないのは緊張ばかりが理由ではなかった。ゴジラとギドラによって日本の広範囲が被害を受けたことで景気が悪化、物販を生業としている海洋漁業商事の業績悪化は目を覆わんばかりであり、数百年に一度クラスの災害が原因とはいえ相原は針の筵状態で議長を務めることとなってしまった。

 

「それでは、続きまして・・・。日本海洋銀行・竹中平介頭取より今季業績と、それから・・・今後の事業方針に関して、話していただければ・・・」

 

弱々しい相原と異なり、指名を受けた頭取の竹中は意気揚々と立ち上がり、部下に目配せをした。正面のスクリーン、またパソコンやタブレットを使いこなせる列席の役職者たちの画面に棒グラフが反映される。

 

「え、本日はお忙しい中ご参集くださいまして、誠にありがとうございます」

 

別に竹中が音頭をとってグループ企業を招集したわけではないのだが、グループ企業のうち数少ない好業績かつ稼ぎ頭である日本海洋銀行のトップであり、また創業家であるKGホールディングスの社長が不在とあり、実質的にこの場でもっとも権力を持っている。しかしながらその余裕綽々で傲岸な雰囲気に顔をしかめる列席者も少なくなかった。

 

「ご覧の通り、昨年の度重なる怪獣災害に対する政府からの積極的財政出動、またアジア全域に波及した経済危機において、超長期資金を融資できる銀行が国内外共に事実上当行のみとなったことで、おかげさまで単体黒字を達成。自己資本比率も4割を上回っております」

 

どうせお上が資金融通した結果の棚ボタ式黒字だろうが・・・そう陰口を叩く者もいたが、竹中はかまわず続ける。

 

「さてみなさんご存知のように、ここ大阪は事実上日本の首都となっただけでなく、もはや国内唯一の巨大都市として国内外から膨大な資金が流入しております。復興を見越した投機筋はもちろんのこと、主にアジア圏の富裕層や機関投資家がこぞって大阪の都市機能促進と不動産投機により我が国で唯一土地の価格が高騰中です。当行ではこうした資金融通のお手伝いをすることで国難にあっても業績を保ち続けて参りましたが、復興元年を標榜する来季にあっては、さらに攻めの方針を掲げることとしました」

 

竹中の全体を見回した説明に合わせるように、部下の行員がパソコンを手繰る。関西地方のグーグルマップが表示され、そこから兵庫県・淡路島がクローズアップされた。

 

「現在、大阪の地価は全体が高騰したことで、新たに投資・開発に携わる余地はありません。周辺の京都・神戸もそれに引っ張られる形で地価が上昇中です。そこで当行とKG地所が着目したのがこちら、淡路島です」

 

マップはさらに拡大され、緑豊かな淡路島の様子が流れる。

 

「ご覧のように、近畿大都市圏に近い立地でありながら、まだまだ開発の余地を充分残している上に、地価の上昇には至っていない。そこで、グループ企業であるKG地所さんを筆頭に関西の不動産デベロッパー総力を挙げて開発用地を取得。当行は用地取得に関わる資金を融資させていただくと共に、開発後の土地価格上昇を狙った投資商品を造成。国内外・・・特に現況にあっても資金力豊富な中国企業から広く資金を集中させ、投資のリターンと販売手数料でさらにグループ、引いては日本経済に貢献していくことを目指します」

 

開発後の予想図として、最新工法によって建てられたリゾートホテルやコンドミニアムが明石海峡から瀬戸内海に拡がる様子が反映されている。

 

「そしたら、ますます関西は外国人が増えてまいますわなぁ」

 

つまらなそうにKGI損害保険の進藤がぼやいた。

 

「地元の方からすれば複雑な心境でしょうけれど、日本の復興には外国の資金に頼ることが近道であり不可欠です。そのような感傷的なお考えは果たしていかがなものでしょうか」

 

竹中はチラリと進藤を見遣って、それから具体的な用地買収の方法や手続きの説明に移った。

 

「以上が、当行が提案する来季事業計画です。ご質問のある方は?」

 

進行の相原を差し置いて質問を募る竹中にしかめ面をする列席の面子だったが、かといって竹中の案に反対、あるいは疑義をはさみ込める者はおらず、仏頂面で腕組みをして下を向くかブツブツと文句を垂れるのが関の山だった。

 

「ほんじゃ、ハイ」

 

進藤が挙手した。

 

「趣旨は理解したんですが、買収する予定の土地は農地も多いです。まあ淡路いうたらね、玉ねぎの一大産地ですさかいに。まあほんで農地取得となれば、通常よりも行政手続きがかなり面倒なことになるんちゃいますか?」

 

進藤は意味のない会議、やる気のない会議では気怠そうな方言を隠さない悪癖がある。普段なら上役から注意を受けて然るべきなのだが、本人が役員に出世したこと、何より竹中への反発心はありながら情けない自社業績を理由に、声をあげられない不甲斐なき他の列席者ばかりなこともあり、誰もそれを咎めなかった。

 

「その点はご心配なく。来月に予定されている臨時国会で、現行の農地法を一時的に凍結する時限立法を与党が提出することになってます。もちろん国会審議を経て決められることですが、既に野党へも根回しをして国会通過を確定的にさせております」

 

「はあ〜、辣腕ぶりに磨きかかっとりますなぁ」

 

棒読みにぼやく進藤。

 

「では、私からもよろしいですか」

 

進藤の傍らに座る緑川杏奈が声を張り上げた。

 

「取得しようとしている用地の保有者が用地売却に反対した場合、当然本計画は頓挫してしまいます。確実に進められる根拠は何ですか?」

 

ただでさえ張りのある声をしている上、こういった場でも臆することなくハキハキとしゃべる緑川。たいていのエライさんはそれだけで声尻が下がったりうつむき加減になったりと萎縮してしまうものだが、百戦錬磨の竹中は表情を崩すことをしなかった。

 

「既に用地取得の対象となる不動産の価値算定は大詰めに入っています。当行では自行及び他投資者による出資額を基に、基本地価の最大1.8倍まで拠出することで用地の取得はスムーズに進むものと考えております」

 

「それだけで済む問題でしょうか」

 

すかさず突っ込んだ緑川に、竹中は口を真一文字に結んだ。

 

「私は群馬の兼業農家出身です。農家さんにとって、先祖代々受け継いできた自分の土地は何にも代え難い財産であることを理解しています。果たして、買い取り金額を増額するばかりで地主さんが納得してくれるものでしょうか」

 

「それはもちろん、用地取得後の住居などもこちらで提案をさせていただきますとも。この1年で、関西地域における再開発が顕著で土地余りも少なくなっているが、淡路島を渡った先の四国であればまだ余裕がある。淡路島の開発と並行してこちらの用地取得も行っていく方針です」

 

「そんなに単純な話ではありません。失礼ですが竹中頭取、あなたはいままで大地に根を下ろして生活していた土地を離れなさい、条件は良くするからと言われて、何の感慨もなく首を縦に振ることができるのですか?」

 

まっすぐに竹中を見据え、まくし立てる緑川。傍らの進藤はうんうんと頷いている。

 

「え・・・緑川取締役。あなたともあろう方が情緒論に走ってくるとは」

 

参ったように苦笑いをする竹中は、表情を硬くした。

 

「いいですか、本計画が実行されれば、新しく開発された地域の建造物保険はもちろん、他所から移住してくる方々の個人保険がけっこうな数字となることでしょう。それこそ、中国大陸には環境が整備された新天地に移住したいと希望する人たちが一族、あるいは集落単位で数多く存在する。そういった方々への団体信用保険を造成することすらできる。現在の用地保有者へ思いを馳せるのもけっこう。だが、そうした観点で捉えるとあなた方の業績にも大いに貢献するのだということも理解なさってはいかがだろう」

 

今度は緑川が口を真一文字に結んだ。

 

「当行による計画発表は以上です。次は・・・KGI損保さんですか。ぜひとも、グループそして日本経済に貢献が期待できる計画を提示していただきたいものですね」

 

にこやかに微笑む竹中を、緑川は首を据えて睨み一歩手前の強い眼差しで見据えた。

 

 

 

 

 

「なあ、なあ緑川」

 

会議が終了し、足早にオフィスへ戻ろうとする緑川を進藤が呼び止めた。

 

「ごめん進ちゃん、いま機嫌悪いの」

 

「そら見てわかる」

 

顔を合わせようともせず、ツカツカと歩く緑川に進藤は追いすがった。

 

「にしても、あの竹中っちゅうおっさん、ホンマけったいなやっちゃなあ。昨日お前が指摘受けたトコをズバっと突いてきよったで」

 

進藤の言う通りだった。現在緑川は従来かけていた各種保険の見直し等を行う部門の取締役を勤めているのだが、見直しとは大変な語弊がある。実際は保険加入者に御用聞きを行い、保障も利率もよりバージョンアップさせることを目的とする。怪獣災害が頻発した昨年以降、被災地域を除けば見直しに応じる加入者が多くそれによる業績向上を想定していた期首の目論見は見事に外れ、担当役員として十村専務取締役から叱責を受けたところだったのだ。

 

「まあなあ、お前昨日言うたように、保険見直そうにも金がない、それどころか明日失業するかもわからん。日本中そんなヤツばっかりや。そもそもの計画が見積もり甘すぎたんやって」

 

「その見積もり出してきたのってさあ、十村のアホだよ」

 

「おう、それも知っとる」

 

まったく歩みを緩めない緑川に、進藤は歩調を合わせる。怒りのオーラを纏い歩く緑川に、廊下をすれ違うKGI損保社員たちは道を空けるようにわきへどけていく。

 

「あれ絶対いやがらせだよね。それで今日はあのワン公。どこから聞き及んできたんだか」

 

プリプリと頬を膨らませる緑川。ワン公とは、犬顔である竹中のあだ名である。

 

「ワン公なあ、あんの守銭奴、ホンマええ加減にせいよって話やわ。しかし、外様のアイツが入行して日本海洋銀行を改革・改善した結果収益がうなぎ上りになったのもたしかや。プロパー出身の行員役員では、ああはいかんかったでぇ」

 

「社長もだいぶ目にかけてるみたいだしね」

 

突き放したように言う緑川だった。

 

「それは、どうかな。先に社長との懇談済ませた役員にいわせりゃ、会社の風土とメッチャ違うとるワン公をどこか警戒してたって話やで」

 

「懇談っていえば、あたしたちが懇談するのっていつだっけ?来月?」

 

ようやく緑川は脚を止めた。

 

「そやったかな?まあ、社長もお忙しいからなあ」

 

「経団連でしょ。最近会合多いよね」

 

「日本再生会議、やったかな。そんなん、再生した挙句またゴジラやギドラ襲ってきたら元の朽網やでぇ。怪獣やっつけること考える方が先決や」

 

「でも・・・ゴジラとギドラ、中国の新型爆弾で死んだってもっぱらのウワサじゃない」

 

ちょうどそのとき、緑川のスマホが鳴った。

 

「なんや、彼氏か?」

 

進藤が身を乗り出して訊いてきた。

 

「ううん。でも、アフター5のお誘い」

 

そう答える緑川は、穏やかな笑みを浮かべていた。心の奥底から湧き上がる不快な感情を表に出さぬよう、進藤は真顔を維持するのに苦心した。

 

 

 

 

 

・同日 18:58 大阪市北区梅田1丁目 ヒルトン大阪32階 レストラン「Pearl」

 

 

少し遅くなる、というLINEをもらうと、近藤悟はかまわず白髪頭のウエイターを呼び、ブルゴーニュ産の赤ワインをボトルで注文した。

 

ゴマ塩頭を短く刈り込んだソムリエに供されたワイングラスに口をつけ、外に広がる梅田から御堂筋、そしてさらに南に見える見慣れぬ高層ビル群に注目した。

 

「やはり、気になりますか?」

 

ワイングラスをアイスボトルに仕舞いながら、ソムリエが訊いてきた。

 

「あの辺、いわゆるミナミだっけ?あんなビルあったかなあって」

 

「あの辺りは今宮から西成です。お客様、大阪はご無沙汰でしたか?」

 

「うん。日本も、かれこれ1年と半くらいになるかな」

 

感慨深くつぶやくと、赤ワインをひと口含んだ。苦みを纏った芳醇な液体が口から喉を通り抜け、長旅の疲れを消し去ってくれる。

 

「左様でしたか。あの辺りは数年前から再開発計画があり、3年前くらいに外資系ホテルがオープンしたのを皮切りにオフィスビルと高層マンションが立ち並んだのです。昨年の東京崩壊以来、その流れは加速してますね」

 

言われた通りだった。陽が落ちてだいぶ経つというのに、赤い警戒灯をつけたクレーンが動いているのがここからでもわかる。

 

「西成っていえば、大阪でも治安の悪いドヤ街だって聞いてたけどね」

 

「いまではすっかり再開発で浄化され、日本でもっとも先鋭化された地区になりつつあります。来年春には国内最大規模の大型ショッピングモールが開業予定です」

 

そう語るソムリエの顔は、言動とは裏腹に忌々しげだった。

 

「しかし、あそこは身寄りのない人たちも多かったはずだ。その人たちはいったいどこに?」

 

「まあ大阪は世界的に発展が見込める都市として注目されてますが、その周辺に追い出された人も多いです。ただでさえ昨年から住まいを失った関東の人たちが激増してたというのに、半ば強制的に・・・」

 

大きく息を吐くと、ソムリエは近藤のグラスにお代わりを注ぐと、ごゆっくりと頭を下げて席を離れた。新たに入店した老夫婦の接遇に回ったのだ。

 

Yahooニュースを開くと、ソムリエの言っていたことが理解できた。

 

【西宮・尼崎で少年犯罪激増。少年ギャング団による抗争相次ぐ】

 

【宇治市、来年度には財政破綻か。生活保護申請急増で市の福祉財源底をつく】

 

【奈良市で交番襲撃。拳銃奪われ警官2名が重体】

 

いずれの記事にも目を通していたところ、ふいに気配を感じた。バッグを携えた緑川が、照れくさそうにはにかんで立っていた。

 

「おつかれ」

 

相対した近藤も、ひさしぶりの再会にどう声をかけて良いか決められず、何とも無難な声かけとなった。

 

少し俯き加減に席に着くと、白髪頭のウエイターが料理を出して良いか訊いてきた。近藤が手を挙げて答えると、代わるようにソムリエがワインを注ぎにきた。

 

「ごめんね、遅くなっちゃって」

 

やや気まずそうに頭を下げる緑川に、近藤は少し含んでから頷いた。

 

「この時節に忙しいのは何よりだろ」

 

ちょうど2つのワイングラスがブルゴーニュで満たされた。

 

「じゃあ、再会を祝して」

 

「久々の日本帰国に」

 

「「乾杯」」

 

グラスを重ねてから、互いに赤ワインを口に含む。ちょうどアペタイザーのアンチョビ料理が供され、空腹に我慢ならぬといったように早速近藤はつまんだ。

 

「なんだか、いろいろ変わったな」

 

頬張りながら近藤が言った。

 

「びっくりするよね、ミナミの街がずいぶん変わったもの」

 

矢継ぎ早にワインを口にしつつ、緑川が言う。

 

「街並みもだけど、君もな」

 

近藤に言われ、緑川はグラスを傾ける手を止めた。

 

「そうかな。相変わらず仕事とお酒第一で足が臭いけど」

 

そうは答えたが、内心自身でも感じる容貌や雰囲気の違和感を指摘されるのは憚られる緑川だった。

 

「昇進したそうじゃないか。上に立つ人間の顔をしてるよ」

 

おめでとう、そう言って近藤は緑川のグラスにボトルを傾けた。

 

「ありがとう。変わんないんだね、悟ちゃんは」

 

少しワインを口にすると、緑川は自嘲気味に笑みを浮かべた。

 

「そうか?だいぶ陽に灼けたと思うんだが」

 

フランスパンでアンチョビソースをすくいつつ、ワインの追加を注文しながら近藤は言った。

 

「ちょっと南国チックになったけど、全体的な雰囲気は最初に会ったときのまんまだよ。いいなあ、変わらないって」

 

フランスパンをちぎりながら、緑川はフフっと笑う。

 

「そういうこと言うと自分が老けちまうぞ」

 

「いいの、認めてるから」

 

年齢は同じだが、責任を大きく背負い込まなくてはならない立ち位置と、自分自身の力で人生を切り開いていく立ち位置は対照的だった。それは増えた皺を少し厚くした化粧でごまかす自分と、活力に溢れる顔つきの近藤を比べるとわかってしまうものだ。

 

レストランの入り口がにぎやかになった。中国人の団体が入ってきたのだ。老若男女一族郎党、多様な年齢層で構成される団体は声こそ大きいが、巷で謂われるようなマナーの悪さを感じさせず予約席となっている窓側の一角に進んだ。ガラス越しに映える大阪の夜景にはしゃぎながら、ワインを嗜み始める。

 

「ねえ、悟ちゃん」

 

上目遣いに緑川が尋ねてきた。

 

「日本にはずっと居られるの?」

 

「そうだなあ・・・やっぱり祖国で家持ちたいしな。しばらくは日本とシンガポールを往復することにはなるが、いずれこっちに腰を落ち着けるつもりだ」

 

ちょうどカブのポタージュスープが出され、スプーンでひと口すくってから近藤は答えた。

 

「まあ、月島の自宅へはもう戻れなさそうだから、大阪で家探しだ。でもだいぶ家賃も物価も上がってるようだな」

 

「うん・・・大阪越すと安いところもまだ多いんだけどね」

 

「でも治安良くないらしいじゃないか。だったら、シンガポールよりも地価が高くなったとはいえ、大阪に住んだ方が良い。何かと便利だしな」

 

「そうだね・・・」

 

そうしてもらえたら嬉しい・・・そこまで言いたかったが、緑川はその言葉を呑み込んだ。

 

「でもまあ、家建てるよりも賃貸だな。高くはなってるんだろうが」

 

「えー?家建てるっていうんならウチに良い住宅保険あるのに?」

 

イタズラっぽく話す緑川に近藤は笑みを浮かべたが、穏やかながらも笑顔に影を射した。

 

「家建てたり買うのも良いが・・・用地取得やら大変そうだしな。何より・・・また怪獣に壊されでもしたら目も当てられん」

 

運ばれてきた鱈のムニエルにレモンを絞りながら、近藤は言った。

 

「でも、ゴジラもギドラもあれ以来出現してないじゃない。やっぱり、大方の話通り死んだんじゃ・・・」

 

そこでふと、詳細は不明ながらも目の前に座る近藤が政府、はたまた日本の中枢につながる人物と関連があることに気がつき、緑川は言い淀んだ。

 

「そんな話もあるが、誰ひとり奴らの死体をたしかめたわけじゃない。それに・・・ゴジラやギドラとはまた別の脅威が存在しているとすれば、どうする?」

 

「・・・何、それ・・・?」

 

「いや、ま、たとえばの話だ。何にせよ、いつ怪獣に踏みつぶされて多額の住宅ローンを抱えたまま途方に暮れるなんてのはゴメンだからな」

 

ちょうどウエイターが、メインである牛ヒレステーキの焼き加減を訊きにきた。改めて声をかけられるまで、緑川は近藤が話したことの真意を考えあぐねていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 4ー

・10月28日 6:32 大阪府大阪市北区梅田1丁目 ヒルトン大阪

 

 

微かな寝息を立てて微睡んでいる緑川を起こさぬようにベッドを抜け出すと、近藤はiPhoneを開き、この2日の間こなしてきた仕事の様子を収めた写真を抜き出すと、とあるところへメールで送信した。

 

ルームサービスで注文したまま昨夜から残っているシャルドネを含み、ブルーチーズとカナッペをつまみながら文字に書き起こした内容を反芻する。

 

『中国の商人たちが禁断の森に入り込んだ』

 

シンガポールに滞在していた近藤の元に、以前懇意にさせてもらったニューギニアのグミピ長老から衛星電話があったのは、1週間ほど前のことだった。

 

『商人たちが山から持ち出したものの中に、ギャオスの卵があるやも知れぬ。オオサワにも話すが、もしも卵を外に出すれば人類が滅んでしまうやもわからぬ。ひとつ、お前さんに力を貸してもらいたい』

 

大恩あるグミピ長老からの頼みでは断る理由がない。程なくして大澤蔵三郎の秘書からも連絡があり、ニューギニアを出て中国へ向かっている中国船籍の貨物船が港に入った際、積荷を確認した上で卵らしき荷物をすべて買収した上で処分してもらいたい旨を伝えられた。

 

ただし、時間が経過したとはいえ近藤自身のパスポートで中国へ入国した場合、昨年のあかつき号沈没とスマートブレイン社をめぐる経緯から中国当局に拘束されかねない。そのためシンガポールからひとまずフィリピンへ飛び、大澤の息がかかった現地の協力者の手を借り『静かに』中国へ入国。

 

ニューギニアからの貨物船が入港する広東省珠海市でやはり大澤の協力者である現地の黒社会関係者と落ち合い、外国からの密輸品を中国各地へ売り捌く生業をしている密売組織と交渉。多額の現金でニューギニアからのコンテナを買い取ると、卵とおぼしき楕円の個体を取り分けた上でガソリンをかけ焼き尽くした。

 

近藤が大澤に報告し終えると、ニューギニアで中国籍の商社に現地住人が襲いかかったこと、及び島の広範囲に山火事が発生したということが報じられた。

 

仕事を終えた近藤は改めて大澤へ報告するため中国を離れ、フィリピンから関西国際空港へ降り立ったのが昨日の午後だった。近藤にとって、昨年夏にニューギニアへ潜伏して以来、実に1年と3ヶ月ぶりの帰国となった。

 

シャルドネを飲み干し、クラッカーをかじるとベッドがむくむくと動いた。近藤はかまわずシャツとズボンを履くと、身支度を始めた。

 

「もう行っちゃうの?」

 

下着姿の緑川がベッドから半身を起こし、寝ぼけ眼で訊いてきた。

 

「やることが多くてな」

 

それだけ答えてスーツケースを閉じると、洗面所で顔を洗い髪を整える近藤。

 

緑川はグラスにシャルドネをたっぷり注ぐと、何かを振り払うかのように豪快にあおった。

 

「朝のミールクーポン。32階のレストランでビュッフェでも良いし、ルームサービスも頼める」

 

ジャケットのポケットから黄色のクーポンを出して机に置くと、緑川の顔を見ずに近藤はドアへ向かった。

 

「ねえ・・・!」

 

緑川がベッドから起き出し、近藤を止めるように歩み寄った。

 

「今度連絡する。またな」

 

一瞬振り返った近藤の視界に、やるせない表情の緑川が映った。名残惜しさも見せずドアを閉め、エレベーターで1階へ降りる。

 

フロントには頭部後ろまで禿げ上がった年配の担当がいて、近藤からルームキーを受け取り宿泊料の精算を済ませてくれた。

 

「またのお越しをお待ちしております」

 

折り目正しくお辞儀をする担当に微笑み、ホテルを出ようとした。

 

「近藤悟さん、だね」

 

視界の隅にロビーの椅子から立ち上がる男をとらえてはいたが、ふいに背後から自分の名を呼ばれて近藤は身をすくめた。

 

声をかけてきた男は耳を覆うほどの長い髪がつばめの巣よろしくモジャモジャになった天然パーマで、口許に笑みこそたたえているが近藤を見据える両目には油断ならぬ鋭さを発している。

 

「いきなりすまないんだが、ちょっと話をしたいんだ」

 

警戒を隠さない近藤と、入り口付近のホテルマンがこちらを凝視していることで、男は露骨ともいえる愛想笑いを浮かべてきた。

 

「誰だかわからん相手と話すのは趣味じゃないんだが」

 

こちらはホテルを利用した身だ。いざとなれば近くのホテルマンに危機を伝える心の準備をしつつ、近藤は足を引いた。

 

「悪かった」

 

モジャモジャ頭の男はズボンのポケットから名刺入れを取り出すと、中から1枚抜き出して近藤に渡してきた。

 

『株式会社斉田リサーチ 代表取締役社長 斉田 公吉』

 

素性こそ明らかになったものの、近藤は警戒を解くことはせず疑いの眼差しを向けた。昨年、ゴジラとガイガンの争いをYouTubeにアップした動画が1週間で3億再生を上回り、一躍時の人となって以降、近藤に近寄ってくる連中が急に増えた。

 

『うちの動画でコラボしましょう』

 

『共同で取材させてもらいたい』

 

『これまでの取材結果を是非弊社で本にまとめませんか』

 

こうして言い寄ってきたYouTuberや同業者、はたまた出版社たちは、皆例外なく目に円マークを浮かべていた。無論、食べて行く以上収入増はありがたいが、必ずしも金儲けのために活動を続けているわけではない。

 

中には会ったこともない親戚や知人を名乗る者から、共同で事業を起こしたいだの金の無心だの、話にならない連中も混じっていた。

 

「調査会社・・・興信所の類か。それで、オレに何を?」

 

「少し話をさせてもらいたい。ああ、そりゃ不審がるのも無理はないが・・・おたく、KGI損保の緑川取締役と知り合いでしょ?」

 

近藤の顔が一気に険しくなったことで、斉田は狼狽気味に手を振った。

 

「いや、実はオレ以前KGI損保に勤めてて。彼女同期入社だったんだ」

 

なんだったら本人に訊いてみてもらっても良いぜ、とまで言われたことで、多少警戒を和らげた。少なくとも緑川と同期だった、ということはウソではなさそうだ。

 

「それで、話っていうのは?オレと彼女の関係性でもお尋ねしたいとか?」

 

「そうじゃない。できれば少し時間を拝借して、落ち着いた環境で訊きたいんだが・・・腹も減ったしな」

 

困ったように腹をさする斉田。まだ訝しい相手だが、京都の嵯峨野にある大澤蔵三郎の別邸を訪ねるには時間がある。さきほどワインとチーズとカナッペを嗜んだとはいえ、腹ごしらえもしたいところだ。

 

「駅の構内に吉野家がある。そこで良いなら」

 

「乗った」

 

それからややあって、2人は大阪駅構内南口にある吉野家のテーブル席に腰をかけた。白髪を後ろで束ねた威勢の良い老婆が注文を聴きにきて、いずれも牛丼大盛りと味噌汁を頼んだ。まだ出勤時間前で客足も少なく、ものの数分で牛丼と味噌汁が出てきた。

 

食事が出される前の時間を過ごすには気まずい相手であることから、近藤は一度外に出て大澤の従者に連絡を入れた。元より午前中に訪ねてくれば良いと言われたこともあり、久しぶりの牛丼を腹にかきこんでからでも充分間に合うはずだ。

 

「うまい。朝から牛丼なんて久々だな。いっつもカミさんお手製の大して美味くもない朝飯なモンで」

 

勢い良く牛丼をかっ込みながら、斉田は言った。物を食べながら喋るもので、咀嚼中の口内が丸見えなのは褒められたことではないが、こういった同業の者は多い。概してこういう人種は良くも悪くも飾らない性格をしている。そうした姿に、近藤は斉田に対し少しばかりの親近感を沸かせていた。

 

「近藤さんも、もしかして牛丼は久々?日本にいなかったってウワサきいたけど」

 

「まあね。いや吉野家は日本国外にもあるんだが、この味はやっぱり日本でなきゃ味わえない」

 

実際その通りだった。日本に帰国したのも久しぶりだ。

 

「いままでどこにいたの?」

 

「シンガポールだよ」

 

「そりゃ良いや。資産運用しながら暮らすにはもってこいだし、貧しくなる一方の日本よりはるかに快適だったでしょ。で、今回は日本に用事があったんでしょ?どんなこと?」

 

ガツガツと米をかっこみ、味噌汁で残渣を飲み干しながら斉田は訊いた。

 

「野暮用だよ」

 

この斉田という男、親近感を振りまきながらも飄々とした様子で尋ねてくる。近藤は改めて警戒心を働かせた。

 

「近藤さん、長いこと日本離れてたんでしょ。それなのに戻ってくるんだもん。野暮な用事なんてことないでしょ」

 

「いや、そろそろ日本の生活が恋しくなったからな。いい加減こっちで住まいを探そうかと思って」

 

「緑川のことも恋しくなったの?」

 

近藤は箸を止めた。

 

「あ、気を悪くしたら謝るよ。大人の付き合いだもんな」

 

斉田はモジャモジャ頭をボリボリと掻いた。

 

「斉田さん、あんたこそいい加減何を知りたいんだよ?まさか世間話をしにオレを待ち伏せてたワケでもないだろ」

 

イラつきを隠さず、近藤は訊いた。

 

「発端は、去年緑川から調査依頼を受けた案件だったんだ」

 

軽く咳払いをし、丼の牛肉を平らげてお茶を含むと、斉田は話し始めた。

 

「去年東シナ海で沈没した大和客船のあかつき号。あの船の保険を緑川ンとこで受け持っててさ。あの事故の中、2名だけ生き残った双子の姉妹の話、近藤さんもきいたことあるだろ?」

 

「知ってるよ。まあワケあって時間経過してから詳しく知ったんだけどな」

 

ちょうど近藤がニューギニアの奥地に潜伏、テレビもネットもつながらず原始人生活をしていた頃だった。

 

「不思議なことに怪我もなく、事故の衝撃からか記憶喪失状態のまま沈没現場から鹿児島の病院に収容。その後病院を脱走したが、直後に桜島が大噴火を起こし、鹿児島市と垂水市が壊滅。その上噴火口から怪獣バラゴンが鹿児島市を蹂躙したことで彼女たちの捜索もままならず、数日後遺体となって発見されたんだったな」

 

「その通り。当時緑川は船舶損害保険部の責任者で鹿児島市の現場へ飛んでてな、かといって社内も過去最大規模の海損事故対応で余裕なく、零細調査会社のオレにその姉妹の身上を調査してほしいって依頼があったんだ」

 

代表取締役がみずから動き回るということは、部下なし経営者なのだろう。零細と自嘲したのは間違いなさそうだ。だが緑川が斉田に仕事を回すのは、元同期のよしみという事情だけではなさそうであることは窺え知れた。

 

「経緯はわかったが、それで?」

 

ひとしきりしゃべった後、斉田は勢いをプッツリと途切らせてゆっくりと茶をすすり、店員にお代わりを頼んでいる。焦らすほどの間を持たせることで、こちらの興味を惹かせるのだろう。苛立ちも手伝って近藤はまんまと斉田の術中に堕ちているのを自覚していた。

 

「本題はここからなんだが・・・その双子ちゃん、人格がまるっきり入れ替わったという話をしたら、近藤さん信じるかい?」

 

「話の意図がよくわからないんだが」

 

「去年、怪獣がジュラシックワールドみたいに出現しまくったよな。その中に、蝶々というか、蛾のような怪獣・モスラっていただろう?」

 

「ああ。怪獣、とはいうが、なんだろうな、恐ろしさとか禍々しさとはまったく違う・・・むしろ神々しさと美しさの権化」

 

「そう。鹿児島じゃあ、噴火の被害受けた人々がモスラに励まされたかのように感じたって話もあったよな。そのモスラ、伝承によれば人間とのコミュニケーションを仲介し、祈りを捧げる巫女というのが存在したらしい」

 

聞いたことはあったが、近藤はその話を口にすることはしなかった。昨年ゴジラとギドラの東京襲来以降廃刊状態となっているオカルト雑誌『UTOPIA』にもそんな話題が載っていたような気もしたが、どこのどんな伝承にそんなものが書かれてあったのか、まったく書かれていなかった。執筆者の創作ではないかとすら思えたほどだ。

 

「そのモスラの巫女がね、あかつき号生存者となっていた双子に・・・その、憑依したようなんだ」

 

近藤はそうきいて目を丸くした。

 

「オレの常識を疑いたくなる気持ちはわかるよ。オレだって未だに半信半疑なのが正直なところだからな。だが、彼女らが祈りを捧げたことで、モスラ進化を遂げ、ギドラ撃破に一役買った現場を見たからなあ」

 

「ちょっと待て、じゃああんたは・・・去年千葉で怪獣たちの争いを直に目撃した上、双子と行動を共にしていたってことになるぞ?」

 

「そう、間違いない」

 

近藤は絶句した。だが斉田の表情をうかがうと、デタラメをしゃべっているようには見えない。

 

「じゃあ、彼女たちが鹿児島で遺体となって見つかったのは?」

 

「・・・信じてもらえなくても良い、ギドラを倒してから、彼女たちは力尽きたように光になって空へ飛んでいったんだ。言っとくが、その現場にいたのはオレばかりじゃない。複数人が目撃してる。当然、緑川もな」

 

「・・・いや、あんたを信じないわけではないんだが・・・」

 

「そうなるよな。オレがあんたでもそう思うよ」

 

ひとり頷くと、斉田はお茶をふくんでおしぼりで手を拭いた。

 

「近藤さん、オレはあれ以来、個人的にだが怪獣に興味を持ってね。たとえばバランは北上地方に古来からおとぎ話として伝わっているとか、モスラやバトラは超古代文明における神のごとき存在で、ギドラと激しく争ったとかね。そういうのに詳しい先生と一連の流れで懇意にできたってのも大きいが・・・。それでだ、近藤さんも怪獣には詳しいよね?」

 

「そんなことはないと思うけどな」

 

「ご謙遜を。あんたはおととし、ゴジラとガイガンの戦いをもっとも近くで目撃し映像に収めた人だ。あんたの映像から、ゴジラやガイガンについて研究が進んだ点も数知れない。いまや事実上学問のひとつとなりつつある、怪獣学の第一人者といっても過言じゃない」

 

「おだてても何も出ないぞ」

 

「はは、まあここの食事代くらいは持ってくれるとありがたいけどね。まあ、そんなわけで怪獣への知識を深めたくて、そういった分野の先進者と仲良くしたかったから、オレはあんたにアプローチしたんだ」

 

「そういうことか。なら教えてもらいたいんだが、オレがあのホテルに滞在していることをどうやって知った?」

 

そう訊くと、斉田は一瞬黙りこくった。

 

「ひょんなことの調査をしててね。少なくとも、あんたが帰国してたのを知ったのは偶然だ」

 

「本当はオレではなく、彼女を探ってたんじゃないのか?」

 

再び黙りこくった。まさか近藤が日本に入国した記録から居場所を探り当てるなど、いくら斉田でも警察まがいのことはできないはずだ。となれば、近藤に接触できたのは本当に偶然で、真の調査対象は緑川と考える方が自然だ。

 

「彼女はあんたと親しいんだろう。そんな相手を気づかれぬよう付け回すなんざ、穏やかな話だとは思えないぞ」

 

「誤解ないように言っとく。緑川を調査しているのは間違いない。で、守秘義務ってのがあるから目的は言えないが、少なくとも緑川が不利益を被る内容じゃないことは信じてほしい」

 

「信じられないような話をふっかけてくる相手の話を信じろと?」

 

近藤の言葉尻には明らかに怒りが混じっている。これは微妙な部分だと判断したのか、斉田は咳払いをして財布から小銭を取り出した。

 

「近藤さん、これに懲りずまた会えたら嬉しい。連絡先なぞもらいたいんだが」

 

やや躊躇したが、近藤は名前とフリーアドレスのみ記載された名刺を渡した。対象の素性が信用ならない場合、渡しているものだ。そうした意図が通じたのか斉田は口を「へ」の字に曲げたが、今日のところはと思い直したのか、握手を求めてきた。

 

「ありがとう。これが終わったら、大澤蔵三郎のところにでも行くんでしょ?」

 

大澤蔵三郎という単語を耳にし、せめて握手くらいなら、と握った近藤の手が強張った。斉田はしてやったりといった表情でにんまりと笑った。

 

しまった、と近藤は手を引っ込めた。どうやら斉田のハッタリだったらしい。だが大澤の名前を耳にしたリアクションで、斉田は理解したようだ。いまさら否定しても通じないだろう。

 

「今度は酒でもご一緒しましょう」

 

自分の代金を置くと、斉田は立ち上がって店を出て行った。近藤は忌々しげに斉田の後ろ姿を見遣った。少なくともこちらから連絡を取るようなことはしないつもりだった。

 

とはいえ、斉田が話した内容に興味を惹かれていることもたしかだった。超古代の人間の魂が現代人に憑依するなど、まるで三文のSF小説だ。にわかに信じろという方が無理だ。

 

だが、近藤が去年グミピ長老から預かった緑色の勾玉を考えると、あながちおとぎ話と片付けられぬようにも思えてくる。

 

『最後の希望、ガメラ 刻のゆりかごに託す 禍の影、ギャオスと共に目醒めん』

 

あの碑文には、そう書かれていたという。

 

「この石を持つことでの、巫女としてガメラの目醒めを祈る者がどこかにいるはずじゃ」

 

ニューギニアを離れる際、グミピ長老はそうも話していた。斉田ではないが、これこそまともに信じられるはずもないだろう、普通ならば。

 

ましてや、ニューギニアの密林から持ち出された禍の影なるギャオスとやらの卵を、孵化前に焼き払ってきた話など、他人に話したところでどこの誰がまともに受け取るだろうか。そういった意味では、斉田の話を眉唾物と一蹴できる資格はない。

 

近藤はイヤな夢を振り払うように頭を振ると、勢い良く味噌汁とお茶を飲み干し、2名分の勘定を済ませた。斉田が置いた小銭はレジの横に置いてある『令和2年 怪獣災害義援金』と書かれた募金箱に放り込んだ。

 

店を出ると、出勤時間に差し掛かったことで消沈した表情の人々が駅構内をせわしなく往来している。あの日以来、日本からは明るさが失われたかのようだ。それは概して日本でも陽気な人が多いとされるここ大阪も例外ではないようだった。

 

憂鬱な雰囲気に呑まれるように近藤はひと息吐き出すと、京都を目指すべく阪急梅田駅を目指し歩き始めた。

 

 

 

 

 

・同日 6:08 中華人民共和国広東省珠海市 水湾社口区国際埠頭港

※日本より1時間遅れていることに留意

 

 

濃密な霧に支配された埠頭の一角は、夜明けにも関わらず密輸品をたんまり積載した大型船が停泊していることで賑やかな活気に満ちていた。

 

スリランカとニューギニアから正規の税関手続きを経ずに持ち込まれた動植物や鉱石、あるいは物価の安い地域で作られた食糧や耐久消化剤を求めるバイヤーや山師と密輸業者が、大声で競りを行なっているのだ。

 

少しでも高く売りたい、少しでも安く売りたい、そんな双方の思惑が激しく衝突し、納得づく、あるいは片方が妥協した際に赤い人民元札がけたたましく積まれ飛び交う。中国では電子決済が世界有数のレベルで普及しているが、殊闇市場においてはいまだに毛沢東が描かれた現金が好まれている。

 

声が枯れんばかりの怒声を張り上げる同業者が買い手たちと神経衰弱を繰り広げる中、ニューギニアからの密輸品を取り仕切っている陳馬怜は早々に品物がなくなったことで、暇そうにタバコをふかしていた。

 

「陳さん、今回は大漁だよ!見たこともない鳥をたくさん捕らえたんだ」

 

ニューギニアを出港した後、現地ブローカーの揚が弾んだ声で電話をよこしてきた。

 

これまでもニューギニアのジャングル奥深くから、希少性の高い動物を捕らえては国内や欧米の希少動物マニアに販売、あるいは希少性がなければ広東省や福建省の市場や精肉業者に“のちの鶏肉や豚肉として”売り渡していた。

 

食用としての販売ならともかく、希少動物マニアに売り捌く場合は販売価格が大きく跳ね上がる。陳にはまるで理解できないが、連中は趣味としての収集には金に糸目をつけない。ときにはこちらの言い値以上で買い取ってくれる場合もある。陳にとってニューギニアの動物密輸ルートはドル箱であった。

 

したがって揚の報告には大きく胸を躍らせた。曰く、「三角頭の羽毛がないコウモリ」らしく、その大きさも「孵化後でニワトリの倍近く」だそうだ。どうやらこれまで発見されていない新種の可能性も出てきた。これならば何もコレクターではなく、政府の生物学研究局にでも売りつけて高音を稼いでやろう・・・そう考えていたのだ。

 

「残念だけど陳さん、あいつら一晩のうちに共食いしやがった。しかも急に成長して船員にも噛みついてさあ、憶病な船長が殴り殺しちまったよ」

 

当然陳は怒ったが、成長したその鳥はとても獰猛だったようで、商売がかかっている揚を除いて全員が駆除を推したようだ。

 

「鳥はみんな死んだが、奴ら卵を産んだんだ。これだけでも持ち帰るよ」

 

それが入港2日前だったため、孵化に期待して待つこととした。ところが、ニューギニアからの船が入港した途端、今度は珠海の密輸業者を束ねている彾というマフィアの幹部がやってきた。

 

「お前等が持ち込んだ卵をすべて出せ」

 

そうしてワケもわからずせっかくの収穫品を奪われると、石のように硬くパイナップルよりも大きな卵にガソリンをかけ、火を放たれた。

 

「省政治委員の把先生からの依頼でな。この卵を買い取った上で処分してくれだそうだ。これだけあれば足りるだろう」

 

怜は人民元の札束を渡してきた。額はそれなりだが、ショバ代と流通経費を差し引けば利益が出るかどうかギリギリの金額だ。しかもこうした場合、支払いを仲介する者がいくらかマージンを抜いているのが暗黙の掟となっている。

 

苦労には見合ってないが、怜に逆らうワケにもいかない。燃え盛る炎の中で弾ける卵を見ながら、陳は歯噛みした。

 

他の収穫物もめぼしいものがなく、せいぜい市場に流れて市井の屋台で豚肉や羊肉として焼かれるトカゲやイタチくらいしかいない。

 

収支を考えれば今回は赤字か、良くて学生の小遣い程度の利益が残る程度だろう。

 

しかも今朝早く、ニューギニア入りしている山師の洪から気が滅入るような電話があった。

 

「ニューギニアでまた大きな山火事が起きて、気が立った現地の奴らに襲われた。車が焼かれて当分密林に入れない」

 

災難が続いて商売あがったりだ。活気溢れる競りの様子を忌々しくにらみつけ、陳はフィルターまで火が達したタバコを踏み消した。

 

海面から昇る湿気混じりの熱波は皮膚とシャツを容赦なく汗で接着させる。今日は早めに切り上げ、副業として小銭を稼いでいる売春ホテルでビールでも飲みながら新人を味見しよう、そう思って現場を立ち去ろうとしたときだった。

 

「おい、お前」

 

積み荷の上げ下ろしをしている角刈りの青年に声をかけた。

 

「いま出発したトラックにうちの積み荷があったぞ」

 

大声でなじったが、まだあどけなさが残る青年は困ったように眉をひそめるばかりだ。思い出した、こいつは広東語も普通話も話せないようなど田舎からやってきた出稼ぎ労働者だったのだ。

 

「焼き払った卵は全部で64のはずだぞ。なんで残ってたんだ?」

 

言葉が理解できるかどうかもわからないが、陳はスマホの履歴を見せながら青年に詰め寄った。だが画面の伝票を見せても、青年は首をひねることしかしない。

 

「陳さん、どうしたの?」

 

競りにも負けない声をあげたことを気にしたのだろう、競りを終え汗まみれのシャツに札束をいくつかはさんだ揚がやってきた。どうしたもこうしたも、と陳は事情を説明した。

 

「ああ、こいつ字が読めないんですよ。でも福建語ならたしか通じたはずです」

 

すると揚は福建語で話しかけた。ようやく青年は喋り出したが、方言が強いのか揚は何度も訊き返していた。

 

「どうやらこのボンクラ、数を勘定するのもまともにできないらしい。とにかく親方にどやされながら卵を集めて火をつけたことはしたが、今朝になって倉庫のわきに一個残ってたのを見つけたようだ。親方に話すとまた怒鳴られるからって、知り合いの山師に渡しちまったらしい。で、売れたんでしょうな」

 

「くそったれが!」

 

陳は青年を思い切り平手打ちした。涙目で頬を押さえ、青年はトボトボと歩いていってしまった。

 

「さっき出たんなら、たぶん広州行きのトラックでしょう。売っちまった山師をつかまえて、トラックを呼び戻しますか?」

 

陳が訊いてきたが、怒りと派手に動いたことで顔中に汗がにじんできた。

 

「もういい。あの卵は全部燃えちまったことにする」

 

どうせ孵化したところで、すぐに焼肉にされるだろう。とにかくもうたくさんだ。さっさとビールをあおってどこかから売られてきた女を抱こう。陳はタバコに火をつけると、自分の車に向かった。

 

「そういえばあっちの競りはずいぶん盛り上がってたな。何かあったのか?」

 

陳は揚に訊いた。

 

「ああ、台湾ルートを仕切ってる馬ってヤツいるでしょう。あいつが違法操業の漁船から変なもの引き揚げたらしいですぜ」

 

「なんだそりゃあ?」

 

「ええ、なんでも台湾沖でマグロくらい大きな青い岩を引き揚げたようなんですがね、これが鉄クズやら包丁やら、なんでも引き寄せちまうものみたいで。珍しいって福州の物好きが買い取ってったらしいんですわ」

 

「なーに、プランクトンでも繁殖した磁石か何かだろ」

 

つまらなそうに吐き捨てると、陳はタバコを投げ捨ててBMWのエンジンをかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 5ー

・11月1日 14:16 旧埼玉県秩父市荒川付近 国道140号線

 

 

 

 

 

「真琴ちゃんて、なんか変だよね」

 

同級生の女子からそう言われるようになったのは、真琴が小学三年生に進学して間もない頃だった。

 

「スカート履かないのって女の子じゃないみたい」

 

そう言われ、自分でも自身の感覚に疑問を持つようになった。

 

当時の女子たちに流行っていたズーブルズやヘアコレカチュールにはまるで興味がなく、どちらかと言えば男子が夢中になっていたヴァンガードやダンボール戦機に興味があり、おもちゃ屋へ行く度に母の由加にせびっていた。

 

小学二年生くらいまではそうしたことも違和感がなかったが、男子は男子として、女子は女子として育ち始める三年生になると自分の趣向に違和感を覚えていった。というより、覚えざるを得なかった。

 

真琴が通っていた小学校では、進級してすぐの4月末に学習発表会がある。各学年、演劇や合唱などの出し物を披露する場である。真琴たち三年生は三上という民俗学者が書いたという童話を演じることになった。夏休み、宿泊学習で田舎の宿坊を訪れた小学生たちが、河童や天狗といった妖怪たちと出会い、仲良くなるといった内容だ。

 

「主人公の女の子、三崎さんが良いと思います」

 

主人公となる少女を演じるのは誰が良いか、各クラス推薦か立候補で選出し、学年集会で決める算段をするため、クラス内で主人公役候補を決める会でのこと。

 

同級生の女子、陽菜乃ちゃんが真琴を推してきた。陽菜乃ちゃんはクラスのリーダー的存在で、授業や学級会でも真っ先に手を挙げ発言する積極的な女子だ。一・二年生とクラスは違ったが、通学路が同じこともあって真琴とは比較的仲が良かった。

 

「えー?陰キャの真琴がやるってヘンじゃね??」

 

そう囃子立てる男子もいた。

 

「でも真琴ちゃんて、きっと舞台の上で存在感発揮してくれると思う」

 

「真琴ちゃんかわいいから、良いじゃない」

 

学級委員であるガリ勉二人がそう養護すると、賛成~!と同調する声が相次いだ。

 

「みんなこう言うんだけど、真琴さん、あなたはどうしたい?」

 

担任の先生に訊かれ、しどろもどろに「いや・・・陽菜乃ちゃんの方が・・・」と小さな声で答えるのが精いっぱいだった。

 

「先生、たしかにお話の主人公・燿香ちゃんは明るくて活発な女子って書いてあります。けれど、委員長が言う通り真琴ちゃんて舞台の上で存在感光ると思います。だから私より、真琴ちゃんを推薦しようと思います」

 

陽菜乃ちゃんがそう話したことで、クラスの雰囲気はまとまった。

 

「じゃあ、うちのクラスは三崎さんを推薦しましょう」

 

担任の一言でクラスのみんなから拍手される中、真琴は顔を真っ赤にして俯いたが、悪い気はしなかった。

 

その後の学年集会で、各クラス代表の中から誰を主役にするか話し合ったところ、他のクラスからも真琴を推す声が多かった。これで真琴が主役を演じることになった。

 

劇の主役を演じるなど当然産まれて初めてのことだったが、自分では感じなかったもののみんなが言うように、真琴の澄んだ声は舞台の上で良く通った。陽菜乃ちゃんが言うには、遠くから見ても真琴ちゃんが真琴ちゃんてわかるくらい存在感強いよ、とのことだった。他のクラスの先生からも褒められた。ちょっとこそばゆかったが、真琴は次第にみんなが選んでくれた役を一生懸命こなそう、そう考えるようになった。

 

ところが、初めての衣装合わせで各々劇中の衣装を着る際、問題が起きた。

 

それまでは学校の体操着で練習していたから違和感はなかったのだが、主役が「スカートを履いた活発な女子」ということで、必然的に真琴もスカートを履くこととなった。

 

だが河童や天狗役の子たちが恥ずかしそうにしながらも衣装を着てはしゃぐ中、真琴だけは赤面が収まらず、これまでの練習ではご愛敬で済んでいたセリフや動作の間違いが多くなった。

 

思えば、これまでズボンやハーフパンツばかり履いていた真琴だったが、特に意識はしていなかった。ただなんとなくスカートは履かないだけだと自分でも思っていたのだが、初めて履いたスカートがこれほどまでに心地悪く、そして恥ずかしいものだとは思わなかった。

 

その後の練習でも、スカートが恥ずかしいあまりセリフが読めず、練習が進まないことが増えた。あるとき、真琴は思い切って担任にスカートではなくズボンを履いて劇に出たい、と申し出た。

 

怪訝な顔をしながらも、担任は学年の先生たちと相談すると言ってくれた。だが次の練習のとき、学年主任の

 

「あなたは女の子なんだから、スカートを履きなさい。お話の燿香ちゃんもスカートを履いた元気な女の子って設定なんだから」

 

という一言で、真琴の具申は却下されてしまった。小学三年生で、学年主任の先生にそこまで言われなおも食い下がる子はかなり少ない。言いようのない虚しさと恥ずかしさを抱えたまま、真琴は劇の衣装であるスカートを履いた。

 

だが、そのときの練習はいままで以上に上手くいかなかった。劇の半分もいかないうちにとうとう真琴はしゃがみ込んでしまった。羞恥に耐えられず、顔を覆ったまま動けなくなってしまったのだった。

 

「何やってるの!こんなことくらいで恥ずかしがって!あなたを選んでくれたみんなにもうしわけないと思わないの!?」

 

学年主任の金切り声で、真琴は涙が止まらなくなった。立ちなさい!と言われても、不可解さと怪訝さを含めた学年全員の冷めた視線が突き刺さり、身体も、そして心も沈んでしまっていた。練習はそこで打ち切られた。

 

泣きながら家に戻ってからしばらくすると、ちょうど母の由加が出先から戻ってきたタイミングで担任が訪ねてきた。今日、真琴に学校で起きたことを話しにきたのだ。だがそれは、真琴を案じてというより、事を大きくしないように保護者へ釈明に来たようにしか思えなかった。

 

「ねえ、前から思ってたんだけど、真琴はスカートはイヤ?」

 

話を聴いた由加は、担任が帰ったあとそう訊いてきた。

 

「・・・・・うん」

 

女の子がスカートがイヤだなんておかしいんだ、だから正直に言わない方が良いのかもしれない・・・そうも思ったが、由加には素直に話した。

 

「・・・そうっか」

 

それだけ返すと、由加はご飯にしようと言って鍋のカレーを温め始めた。

 

それだけ?なんでスカートがイヤなの、とか、これから劇はどうするの?とか訊いてくれるんじゃないの?

 

不安になる真琴をよそに、由加は何も言わず鍋の中のカレーをかき混ぜていた。その顔は微笑んでいるようであり、どこか不安を押し殺しているようにも思えた。

 

翌日、真琴は主役を降ろされた。発表会まで10日を切っていた。

 

急遽他のクラスの子が主役となり、練習は再開された。スカートを履いたその子は本番も役の子そのままに元気に舞台をかけまわった。

 

真琴は、発表の日以来学校に行けなくなった。

 

みんなで選んだのに、役割を果たせなかった子。そんなレッテルを貼られてしまった。陽菜乃ちゃんのようにそんな真琴をかばう子もいてくれたが、面白がったり、嫌がらせをしてくる子も少なくなかったからだ。

 

布団にこもり、ご飯も食べようとしない真琴を由加はひきずり出すでもなく、気が向いたときに食べなさいとパンを置き、仕事に出かけた。

 

本当は心細かった。由加にかまってほしかった。仕事が忙しいのは、わかっていたけれども。

 

置かれたパンを食べ、袋をその辺に放った。由加に見つけて叱ってほしかった。

 

だが帰宅した由加はそんな真琴を咎めなかった。黙って袋をゴミ箱に捨て、スープが出来てるからいつでもあっためて食べなさい、とだけ告げて部屋を出た。

 

次の日、真琴は由加が仕事に出てから部屋を散らかした。作ってくれたスープも流しに撒き散らした。それでも由加は怒らなかった。

 

空腹とさみしさ、やるせなさで、布団の中で泣きじゃくった。

 

次の日、由加は朝からハンバーグを焼いた。漂ってきた匂いをかぐと、すぐにでもリビングへ行き、口いっぱい頬張りたかった。だがもうしわけなさと、恥ずかしさが意固地となって真琴は布団の中で固まった。

 

「真琴」

 

ほかほかのハンバーグを皿に盛り、由加が部屋に入ってきた。

 

「一緒に食べるよ」

 

それから、涙の味しかしないハンバーグをたいらげた真琴に、由加は学校に行きなさいでも、ここ数日の所業を咎めるでもなく、ただ微笑みかけた。

 

「学校に行きたくないんなら、行きたくなるまで休んじゃおう」

 

その一言で、どこか自分の中に残っていた「学校へ行く」という常識が霧消した。

 

それから、陽菜乃ちゃんが時折家に来てくれた。学校であった話、勉強の話なんかを他愛なくしてくれた。担任も幾度か訪ねてきたようだが、真琴は顔を合わせたくなかった。何回か、あの金切り声を上げる学年主任と由加が話す声がしたが、しばらくすると来なくなった。

 

学校へ行かなくなるのが当たり前になると、真琴は布団から出るようになった。

 

朝はしっかり目を覚まし、由加と一緒に食事の支度をする。保険外交員の仕事をしている由加が出勤すると、家を毎日キチンと掃除して天気の良い日には布団を干した。学校にも行かないで、というご近所さんの視線や声に傷つくこともあったが、夏休みになる頃には聞こえなくなった。

 

「真琴、今日はお台場行こう」

 

由加に明るい声で言われたのは、8月になろうかという良く晴れた暑い日だった。平日なのに仕事を休んだのか、朝の食事を終えると真琴を連れ出した。こんな暑い日はエアコンがよく利いた家にいたかったが、お台場という響きが真琴を動かした。

 

「お台場行く前に、ちょっと病院寄っていこう。夏バテしないように予防注射しなきゃね」

 

そう言われ、バスに乗って江東区にある大きな大学病院に連れていかれた。注射は並の小学生くらいにはイヤだったが、夏バテしてお台場で美味しいもの食べられなくなるのイヤでしょ、と言われれば、我慢しても良っか、くらいに病院へ入った。

 

ずいぶんと奥まった部屋に入ると、白髪頭の優しそうな先生が笑顔でいろいろ訊いてきた。普段どんな遊びが好きなの、とか、どんなこと言われて嬉しい、とか。それから注射をされた。チクッとした後、別室に案内してくれた優しい看護師さんといろいろお話をした。由加は先生と何か話しているようだった。

 

お昼近くなり、いい加減お腹が空いてきた頃、由加がやってきた。

 

「今日は真琴の好きなもの、なんでも食べよう!」

 

それからお台場に連れていってくれた由加は、笑顔でそう言った。目元だけお肌の色が少し変だな、とは思ったが、お台場で食べた大きなハンバーガーがその日の印象を大きくまとめてくれた。

 

由加は夏休みが終わる前に、保険外交員を辞めた。自宅の一部を事務所にして、保険代理店を開業したのだ。

 

「これで真琴が学校行かなくても大丈夫、いつでも一緒だよ」

 

そう話してくれた。夏休みが終わっても、真琴は学校へは行かなかった。たまに陽菜乃ちゃんが家に来てくれることも続いた。

 

真琴は学校に行かないまま四年生になり、やがてもうすぐ五年生になろうかという春休み前、陽菜乃ちゃんがやってきた。

 

「真琴ちゃん、今度クラスが替わるから学校においで!また一緒のクラスだし、先生たちも代わるみたいだから」

 

真琴は迷った。正直、学校へは行きたくない。だけども陽菜乃ちゃんがそこまで話してくれると、後ろ髪が引かれる思いがしたからだ。

 

「・・・真琴、また江東区の病院、行こっか」

 

由加に相談すると、そう言ってきた。あの病院・・・聖都大学附属病院だったか、一度夏バテ予防の注射を打ちに行ったきりだ。なのに、なぜ・・・。

 

数日後、またあの優しい白髪の先生が迎えてくれた。今度は、少し難しい質問もされた。マークシートのような書類も何枚か書いた。今度は看護師さんが3人も付き添い、由加が先生と話す間におしゃべりの花を咲かせた。

 

だが前と違い、しばらくして真琴も由加と先生の話し合いに呼ばれた。看護師さんたちもついてきた。

 

「真琴くん。あなたを、性同一性障害と診断します」

 

先生は慎重に、言葉を選ぶように告げてきた。そう言われても、よくわからなかった。

 

「あなたは身体は女の子なんだけれど、心は男の子なんだ。だから、ズボン履くことや、ヴァンガードだっけ?ヴァンガードが好きなんだよ」

 

それから、先生はたくさん話した。どれも真琴の耳には入らなかった。自分自身が否定され、肯定されたんだと、だいぶ後になって気づいた。

 

由加は隣で涙を流していた。それでも、先生の話すことに、力強く頷いていた。

 

「真琴くん。これからたくさん大変なことがあると思う。けれどね、あなたはあなたなんだ。ちっともおかしいことなんてない、あなたが思ったように生きていこう」

 

そう言われても、そのときはよくわからなかった。看護師さんたちも泣いていた。当の自分だけ、よくわからないままぼんやりとしていた。

 

「・・・あんたが大きくなったら、話すことにしてたの。いままで、ごめんね・・・・」

 

家に帰ってから、由加がボロボロ涙を流して抱きしめてきた。それでも、よくわからなかった。

 

真琴は五年生に進級した。よくわからないまま、学校へ行くことにした。

 

陽菜乃ちゃんも、新しいクラスの子たちも、新しい担任も、真琴を迎えてくれた。後になって、由加が担任や陽菜乃ちゃんに事情を話し、「障害と言われたけど、上手につきあっていくから、どうか一緒につきあってください」とお願いしていた、と聞かされた。

 

陽菜乃ちゃんには毎日一緒に帰ろう、と言われた。嬉しかったのは、始めだけだった。

 

だんだんと、一緒に並んで帰ることが恥ずかしいというか、むず痒くなっていった。陽菜乃ちゃんと一緒にいること、お話することが、照れくさくなっていった。

 

家が反対方向なのにも関わらず、仲の良い男子たちと下校することが増えた。男子たちは妙な顔をしていたが、なぜか真琴自身はその方が落ち着いた。

 

あるときから、男子に教わり髪型を少しいじってみた。

 

「真琴ちゃん、髪もっと切ったらカッコ良くね?」

 

そう言われ、肩くらいまであった髪を耳にかかる程度まで切ることにした。通っていた美容室ではなく、床屋さんに切ってもらった。由加は微妙な表情を浮かべつつ、「凛々しくなったね」と笑顔を見せた。

 

次の日登校すると、男子が色めき立った。

 

「やべー、真琴ちゃんカッコ良い」

 

そう言って、本来禁止されている整髪料をつけられた。仕上がった髪を見て、真琴もまんざらではなかった。担任にはこっぴどく叱られたが、その日はなんだか嬉しくて楽しかった。

 

男子と遊ぶようになり、ゲームの腕前も人並み程度になると、学校での話題はそのことが中心になった。

 

女子とは・・・特に陽菜乃ちゃんとは、相対的に話さなくなっていった。

 

「真琴ちゃんが楽しそうにしてるんだもん、私も嬉しいよ」

 

そう言う陽菜乃ちゃんの顔は、どこかさみしそうだった。

 

六年生になり、中学進学の話題がクラスに漂い始めた頃、真琴は学校で問題を起こした。

 

違うクラスの意地悪な男子が真琴をからかってきた。オメー男みてぇ、宝塚・・・そんなことを言われても、真琴は堪えた。だが、お前胸出てきてね!?とあざけ笑ったことに、我慢ならなかった。

 

この男子にからかわれた女子は、大抵泣き出すか強く言い返すかしていた。だが真琴は手を出した。人を殴ったことなどなかったが、怒り任せに頬を殴りつけた。そこから取っ組み合いになり、誰かが先生を呼んでくるまで手を振り回した。

 

「やめなさい!女の子に何てことするの!」

 

隣のクラスの担任が怒鳴った。真琴は動きを止めた。しまった、とその先生は表情に浮かべたが、憎悪を込めた真琴の視線に顔を背けた。

 

お互いの親が呼ばれ、取っ組み合いの件はひとまず手打ちとなった。だが真琴は、次の日学校を休んだ。

 

心配した陽菜乃ちゃんが、放課後お見舞いにきてくれた。真琴は、それまでのように家に上げ、いろいろおしゃべりをしなかった。いや、できなかった。

 

「大丈夫だから!ウザいからもう帰って!」

 

何度も食い下がる陽菜乃ちゃんに、強く言った。顔を紅潮させた陽菜乃ちゃんは、強く踵を返していなくなった。

 

「あんた、女の子に何てこと言うの」

 

由加の言葉に、真琴は嗚咽を上げた。自分はいったい、何なのだろう・・・。

 

それから、真琴は再び学校へ行けなくなった。

 

小学校の卒業式、自分は女子の席に座り、スカートなんて履きたくない・・・そんな心配もせずに済んだ。卒業式すら、出席しなかったのだ。

 

前後して、そのまま中学校へ進学するに当たり、女子の制服であるスカートを着るべきか否か、小学校と中学校の教員、果ては区の教育委員までやってきた。

 

「そうおっしゃられても・・・区としても、前例のないことですからねぇ・・・」

 

この子には男子の制服を着させてほしい、と強く由加に言われても、情けなく答える教育委員と小中それぞれの校長を睨みつけ、真琴は部屋に閉じこもった。

 

中学校へは、1日も行かなかった。

 

陽菜乃ちゃんも、訪ねてくることはなくなった。

 

15歳になり、「学年も学校も枠がない、私服で通える民間のフリースクール」とやらを由加が紹介してくれるまで、真琴は家で家事をし、テキトーにゲームをし、ネットで動画を見たりする生活を送った。由加は一度も、そんな真琴を注意しなかった。

 

フリースクールとやらは、赤羽にあった。少し遠かった上、生徒は非行や犯罪歴があったり、軽い知的障害、統合失調症など、問題のある子ばかりだった。

 

生徒も先生も、みんな優しかった。だからこそ感じた。

 

この人たちは、他人に深く干渉しないんだ。だからこんな優しくできるんだ。干渉することは、ある種のタブーなんだ、と。

 

登校は週に3回、それなりに楽しかった。生徒の入れ替わりも激しかったが、それなりにうまく付き合えた。

 

干渉しなかったので。

 

そんなある日、下校時に陽菜乃ちゃんとすれ違った。浅草の公立高校へ進んだと聞いていたが、制服姿の陽菜乃ちゃんはすっかり大人びていた。

 

「真琴ちゃん、ひさしぶり!」

 

小学校以来の再会に、陽菜乃ちゃんは顔をほころばせた。

 

「元気だった?学校行ってるんでしょ」

 

矢継ぎ早に訊かれ、真琴は答えに窮した。激しく胸が波打ち、顔が熱くなるのがわかった。

 

「ごめん、急いでいるんだ」

 

ぶっきらぼうに言うと、真琴は走り出した。振り返らずとも、陽菜乃ちゃんがさみしそうに見つめる姿が目に浮かんだ。

 

「・・・ねぇ、今日陽菜乃ちゃんに会ったらしいじゃない?」

 

その晩に夕飯のカレーを食べながら、由加が訊いてきた。陽菜乃ちゃんか、はたまた彼女のお母さんにでも聞いたのだろう。

 

「せっかく久しぶりに会ったのに、話すことなかったの?」

 

責めるでもなく、ただ疑問を口にしたのだろう。だが真琴はスプーンを置いた。

 

「なあに?久しぶりで照れちゃった?」

 

「・・・そんなんじゃねえよ・・・」

 

怒気を込めた言葉に、由加はハッとしたように手を止めた。

 

「・・・じゃあ、どうしたの?」

 

なおも訊いてくる由加。真琴は乱暴に席を立ち、部屋へ戻ろうとした。

 

「知らない・・・わかんねぇんだよ、わかんない」

 

絞りだすように言うのが精いっぱいだった。部屋へ戻り、布団の中で泣いた。

 

陽菜乃ちゃんとは、それっきり顔を会わせていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次に会えたのは、彼女の告別式だった。

 

2019年6月。

 

入部していた吹奏楽部の遠征で列車に乗っていたとき、他の生徒ともども襲ってきたカマキラスの犠牲になったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 6ー

・11月1日 14:24 旧埼玉県秩父市荒川付近 国道140号線

 

 

 

 

 

「お母さん、看護師って、どうやってなれるのかな?」

 

2019年初秋、カマキラス、ガイガン、そしてゴジラとギドラの襲来による混乱から少し落ち着いた頃だった。夕飯のカレーを食べながら、真琴は由加に訊いた。

 

「な、なに?どうしたの、急に」

 

口に運ぼうとしていた手を止め、眼を丸くして由加が訊き返してきた。

 

「いや・・・訊いただけ」

 

顔を俯けてカレーをかきこむと、真琴は自分の食器を流しに入れて洗い流し、部屋に戻った。

 

看護師になれる方法など、スマホを手繰ればいくらでも情報は得られる。だが真琴は敢えて由加に訊いた。なれる方法を尋ねるというより、看護師になりたいという真琴なりの意思表示だった。

 

でも、自分が看護師だなんて・・・そんな葛藤も去来していた。

 

由加は折からの怪獣災害に伴う保険請求や調査手続きで多忙を極めていた。そんなときに声をかけるのも気が引けたが、どうしても言いたかった。だがすぐに後悔していた。オレは何を言っているんだろう・・・。ベッドに潜り、枕に顔をうずめ、自己嫌悪に堅く目を瞑り夜が明けた。

 

翌朝、真琴はフリースクールを休んだ。気分が優れないのは寝不足だけではない。こうして落ち込むたび、身体がずしりと重くなり、身を起こす気分になれないのだ。元より通学の義務はないフリースクールである上、ゴジラとガイガンが都内で暴れ回った余波なのだろうか、学校都合による休校ということも少なくなかった。

 

課題は後日、郵送で送られてくる。そうしたら、回答欄を埋めて送り返すだけだ。

 

「三崎さんも、自分のメールアドレス持てばもっと便利だよ」

 

スクールの教師にそう言われたが、気が進まなかった。由加のパソコンに送ってもらっても良かったのかもしれない。クラスによっては、グループLINEでやり取りするところもあるらしい。だが真琴はグループLINEに参加こそすれ、これまで一度も書き込みをしたことはなかった。

 

当たり障りのないやり取りだったら、特別自分がどうこう口を出すことはない。第一、カマキラスが現れたときは都内中のあらゆる通信網が途絶してしまった。またあんなのが現れた場合、すっかり生活必需品となったネットも役に立たない。そんな儚い存在に依存するなんて、バカじゃないか・・・。

 

陽が落ちてきて、ようやくエアコンを止めても大丈夫な時間になった。部屋のドアをノックし、由加が入ってきた。

 

「ねえ真琴、急だけど明後日病院行こ」

 

「なんで?通院日は再来週じゃん」

 

「いいから。ちょうどお母さんも東雲に用事あるし、あそこのオムライス食べたいって言ってたでしょ?」

 

真琴が小さいころからの常套手段だ。だがふわふわたまごとデミグラスソース、ホワイトクリームをふんだんに使ったオムライスの誘惑に、真琴は下った。

 

翌日も学校を休み、真琴は炊事、洗濯、掃除を1日かけて過ごした。由加はひっきりなしの電話対応と来客の応接に追われ、日付が変わる頃まで書類作成などの残務整理に費やした。そんな中寝るのもなんだかもうしわけなく、真琴は夜食を用意しながら看護師に関する情報をネットで集めた。

 

通院日当日、由加と一緒にすっかり馴染になった錦糸町駅前から東雲へ向かうバスに乗り、聖都大学附属病院を訪れた。フリースクールに通うようになってからは、2カ月に一度の通院で「変わりはないか」「困ったことはないか」くらいのことを白髪の先生・・・宝生先生に尋ねられる程度だった。

 

診察室に入ると、いつものように満面の笑みで宝生先生が迎えてくれた。いつも元気に挨拶してくれる、看護師さんたちも一緒だ。

 

戸惑いながら勧められるままに椅子に腰かけると、宝生先生は軽く咳払いして真琴に向き直った。

 

「あのね真琴くん。お母さんからうかがったんだが、看護師さんになりたいんだって?」

 

そう訊かれ、真琴は部屋を出て行った由加を見遣った。ちょうどお客から電話がきていたらしく、診察室から遠ざかりながら何やら話をしていた。

 

「いや、でも・・・」

 

「でも?」

 

「・・・・・」

 

真琴は下を向いた。

 

「ねえ真琴くん、看護師になりたいと思ったのには理由があるはずだ。それを教えてもらいたいんだがね」

 

宝生先生の眼鏡の奥の眼差しは優しく、真琴を許容してくれそうな気がする。しばらく唇を結んでいた真琴は意を決した。

 

「あの・・・ここの先生も、看護師さんたちも、オレに優しくしてくれて・・・それで・・・」

 

顔が紅潮し、声が詰まる。宝生先生は黙って微笑み、辛抱強く真琴が二の句を告ぐのを待ってくれた。

 

「・・・それで、オレ学校行ってないから先生になんてなれないし、だったら看護師さんになって、オレがしてもらったみたいに、患者さんに優しくしたいって・・・」

 

俯く視線の向こうで、宝生先生が大きく何度も頷くのがわかった。

 

「でもオレ、変ですよね。こんなんで、看護師だなんて・・・」

 

すると今度は真剣な目で真琴の肩を支えた。

 

「真琴くん、君はきみだ。そして君がやりたいと思ったことなら、まっすぐやってみるんだ」

 

そう言うと、後ろの看護師に頷き合図する宝生先生。すかさず看護師が封筒を差し出してきた。

 

「うちの大学病院には、併設して看護学院がある。看護師を養成する2年過程の学校だよ。この中に願書がある。真琴くん、来年度ぜひ、来てみないか」

 

真琴は目を丸くした。

 

「あたしたち嬉しいなあ、真琴くんそんな風に思っててくれたなんて」

 

「看護師になったらウチにおいで。ビシビシ鍛えてあげるから」

 

看護師さんたちは笑いながら、涙を浮かべていた。真琴も目頭が熱くなった。電話を終えて診察室に戻ってきた由加は少し怪訝な顔をしたが、状況を察知したのだろう、真琴の肩に手を置いた。

 

そうして診察を終えてとびきり美味しいオムライスを食べた翌日、真琴は早起きして学校の課題に取り掛かった。高卒認定を取るためだ。これまでの無気力がウソのように、積極的に登校もした。登校日でなくとも、課題でわからないところがあれば直に尋ねるべく学校へ出向いた。これまで必要ないから、と敬遠していた定期券も購入した。

 

「あんた、ずいぶん目が輝いてるね」

 

秋も深まり、東京都内も冷房から暖房を使い始めた頃のある晩、由加はスープカレーを口に運びながらまじまじと真琴の目を見た。

 

「えっ??」

 

「なんていうんだろう・・・すごいキラキラしてるの。お父さんによく似てるなあ、その瞳」

 

真琴は素揚げしたたまねぎを運ぶ手を止めた。会ったことのないお父さん、いまの自分みたいな目をしていたのか・・・。

 

「ねえ、知り合いが錦糸町で総菜屋開いてるんだけどさ、夫婦2人でやってるもんだから、夕方の買い物タイムが忙しくてしょうがないんだって。あんたさ、バイトしてみない?」

 

「バイト・・・オレ、が?」

 

いままで、人が集まる場所を避けてきた。人と深くかかわると、自分が傷つく一方だったからだ。真琴はすぐに返事はできなかった。だが、いまの自分だったら、大丈夫かもしれない・・・新しい世界に、飛び込んでみたい・・・そんな意識が芽吹いてきたことも、感じた。

 

数日後、由加と一緒に錦糸町の『おそうざいの柊木』という総菜屋を訪ねた。お饅頭みたいにふっくらした顔の旦那さんと、チャキチャキとしてにこやかな奥さんが迎えてくれた。きけば由加が保険会社に勤めてた頃からの顧客で、家族の生命保険から家屋・店舗の家財保険、1人息子である拓磨の学資保険まで、一家総出で由加の勧める保険に加入しているそうだ。

 

旦那の潤三と、女将さんの里子には、真琴が抱える事情を正直に話した。

 

「なぁーんだ、娘さんにしちゃずいぶんとイケメンだと思ったら、そういうことか!」

 

潤三さんは豪快に笑い、

 

「真琴ちゃん、うちで良ければ、力貸してちょうだい」

 

里子さんは真琴の手を握り、しっかり目を見て言ってくれた。暖かく力強い手だった。

 

「うちの拓磨もひとりっ子だからな、ちょうど良かった。まこっちゃん、お前コイツの兄貴になってくれや」

 

傍らで恥ずかしそうに座っていた拓磨の頭を、潤三はポンポン叩く。

 

その次の日から、真琴は午前中家事と課題をこなし、昼を済ませ午後2時から錦糸町へ通い、潤三と里子に教わりながら総菜の下ごしらえや接客をすることになった。登校日には融通を利かせてくれたが、それでも真琴は学校が終わると、そのまま錦糸町へ向かった。

 

『柊木さんとこにかわいい子がきた』

 

『まちの総菜屋にイケメンがいる』

 

そんなウワサはすぐに町内へ広まり、真琴はすっかり『おそうざいの柊木』の看板娘(?)になった。元々家事をこなしていた真琴は料理もそれなりにしていたため、お惣菜の作り方もすぐに頭に入った。主なお客である近隣の人たちともすぐに顔見知りになり、買い物がてら雑談していくことにも慣れていった。近隣の人々はみんな明るく陽気で、そんな雰囲気になじんだ自分は、こんなにも笑えるんだ・・・。

 

最初は人見知りしていた拓磨も、すぐ真琴に懐いてくれた。

 

「オレおっきくなったら真琴ねえちゃんと結婚する!」

 

と言われたときにはなんとも複雑だったが、少なくとも悪い気はしなかった。

 

おそうざいの柊木はボリュームの濃さが売りであり、両国国技館が近いという土地柄もあって、夕方になると近所の相撲部屋で稽古を終えた力士たちが道いっぱいに並んだ。とりわけ立海部屋という部屋は親方が潤三の競馬仲間ということもあって、特に懇意にしてくれた。

 

アルバイト代が支払われると、真琴はいままで由加が出していた病院の診察料や生理調整薬代、胸をつぶせるシャツのお金を自分で支払うことにした。アルバイトが楽しくほぼ毎日通っていたため、3カ月もすると少しずつ貯金もできるようになった。

 

その話をすると、宝生先生はたいそう喜んでくれた。表情が明るくなった真琴に目尻を下げ、ややあって咳払いをした。

 

「真琴くん、今後なんだけど、ホルモン治療をやってみる方法もあるよ」

 

話を聴くと、男性ホルモンを定期的に接種することで身体的にも、そして精神的にも男性に寄せられる、ということだった。ただ回数を重ねるため治療費用がかさんでしまうことと、ホルモン接種により薄毛や肥満等の副作用が現れる場合もあるという。

 

「まあ、あくまで今後長い先までを見据えた話だよ。いまはまだ大丈夫かもしれないね」

 

真琴の微妙な表情を察知した宝生先生はそう言って、話題を切り替えた。

 

 

 

 

 

 

真琴は初めて、淡々と家事をこなし布団に潜るだけの冬から脱した。おそうざいの柊木では翌朝の仕込みまでこなすと帰宅が夜10時近くなることもあったが、目標に向けて進む毎日はそんなキツさを忘れさせるほど充実していた。

 

年が明け、両国の梅の木が花開く2月末、晴れて真琴は高卒認定試験に合格できた。そして桜が舞い落ち、暖かい春の息吹がなびく4月、念願の聖都大学附属病院付看護学院に入学することができた。

 

クラス顔合わせの際、真琴は臆さず自身の抱える障害を話した。39名のクラス中ほとんど女子だったが、みんな腫物に触るようなことをせず、真琴を男性として、時として女性としてしっかりつきあってくれた。学校が終わると、わざわざおそうざいの柊木までおかずを買いにきてくれる友だちもできた。

 

やっと、やっと自分が自分らしく、楽しく生きられるんだ・・・。

 

 

 

 

 

・・・そう思えたのも、その年の7月までだった。

 

 

 

 

 

ウトウトしていた目が醒めた。相変わらず真琴たちを乗せたバスは冷たい霧雨が辺りをしっとりと濡らす中、埼玉県秩父の山道をひた走っていた。

 

一緒に乗っているのは、真琴とだいたい同年齢の男女40名ほど。静岡県富士山麓にある、米国籍の民間軍事企業『NEVER』の訓練施設から茨城県つくばにある演習場へ移動している最中だった。

 

7月末、ゴジラとギドラが東京を襲い、都市機能を完全に崩壊させてからのことだ。

 

奇跡的に被害を免れた聖都大学附属病院へ避難していた真琴は、そこで由加の死を知った。真琴の予感は当たってしまっていた。ゴジラの放射熱線によって弾き飛ばされたギドラによって東京スカイツリーは倒壊。その倒壊した先に、由加は居たのだ。

 

一緒に逃げようとした拓磨は、真琴の腕の中で息を引き取り、川に沈んだ。

 

潤三も、里子も、立海部屋の力士たちにもあれ以来会えていない。おそうざい屋の常連だった近所の印刷所の旦那が死亡しているのを、病院の外に寝かせられた幾多もの死体のうち確認できたくらいだ。

 

学校の同級生とも先生とも、はたまた宝生先生やいつもの看護師さんたちも所在、生死不明だ。病院の人に訊いても、わからないと言われるのみ。

 

そこから真琴は、病院に押し掛ける膨大な避難者に混じり、煤にまみれた空気とサウナのような外気の中過ごした。怪我が重度の場合は病院内へ運ばれるが、軽傷者、あるいは真琴のようにほぼ無傷の人々は病院の駐車場に昼夜問わず留まらざるを得なかった。本来、災害などが発生した場合の司令拠点となる東京が計滅的被害を受けたためか、赤十字や宗教団体関連の支援以外はなかなか届かなかった。

 

そのためせいぜい水くらいしか喉を通せない日が幾日も続き、一緒に駐車場にゴザや段ボールを敷いて過ごしていた人の中には過酷な環境下で体調を崩し、手の施しようもなく亡くなる災害関連死を迎える人も増えた。

 

いままでの真琴ならば、ふさぎこんでしまっていただろう。だがもしかしたら、知り合いがここに逃れてくるかもしれない、という一縷の望みが身体を動かした。看護学院にはまだ3ヶ月程度しか通学していないが、ボランティアとしてできることをやった。看護師になりたい、困った人を助けたい・・・その夢はいまだ自分の中で生きているのだ。

 

東京が壊滅してひと月が過ぎようとしていた頃だった。

 

真琴の働きぶりに感心し、ぜひうちで困っている人を助けないか、という男性が現れた。聞けば普段から貧困・生活困窮者をサポートするNPO法人を運営しているそうで、今回の怪獣災害にも団体のメンバーがチリヂリになりながらも、活動を続けているというのだ。

 

「海外からの支援もあって、我々のような団体から衣食住の手助けが行われている。いまの過酷な環境では君が参ってしまうだろう。どうだろう、ぜひうちに来てもらえないか」

 

やや長髪で少し煙草の匂いがするその代表の言葉に、真琴は1も2もなく乗った。病院を離れると、ゴジラとギドラの戦いで直接的に倒壊した建物被害に加え、決壊した隅田川の浸水被害、果ては道中何度も生き残った住民たち同士の暴力沙汰や略奪を目にした。

 

雰囲気の悪さに真琴は怯えたが、代表の後をついていくと、墨田区と葛飾区の境あたりにある雑居ビルに案内された。そのうちの一角に、明らかに人のいなくなった商店やスーパー等から盗んできたダンボールが山積みになっており、数人の男性が屯している部屋があった。

 

その男性たちが自身を見遣る目に真琴が身体を強張らせたとき、代表の男性が振り返り、真琴の首を絞めた。

 

 

真琴は、凌辱された。

 

 

薬でもやっているのか奇声を上げ、早く姦せと騒ぐ。そこに、ドヤドヤと鉄パイプやバットを手にした男たちが突入してきた。

 

自警団を名乗るその連中が、NPOを謳う連中と衝突する。

 

「おい、大丈夫か!?」

 

どっち側の男性かわからない。そう怒鳴られ、真琴は意識を、そして心を失った。

 

そこからはどこでどうやって生き延びたのか、自分でも記憶が覚束ない。

 

路上や廃屋、時には瓦礫の中で暮らし、水や食べ物はどこかから盗み・・・はたまた奪ったりしたことも、あった気がする。

 

夏の暑さが鳴りを潜め、瓦礫のすき間で暮らすのも寒さとの戦いを覚悟する頃だった。ジープを頑丈にしたような車が通りかかり、路上に佇む真琴を見つけると中から白人男性が降りてきた。

 

「ここは国連管理区域となった。滞在は許されない」

 

やや片言の日本語で話しかけてきた。真琴は、顔を上げなかった。

 

「お前は、独りか?」

 

真琴は応えなかった。こいつも、自分に乱暴をはたらくかもしれない。増してや体格が段違いの外国人だ。

 

「我々は独りだけの日本の若者を募っている。飢え死にを選ぶか、我々と来るか、いま決めるんだ」

 

飢え死に、という単語には、さすがに反応してしまった。ここ数日、まともに食べていなかったからだ。

 

「・・・なんか、条件でもあんの?」

 

真琴が訊いた。白人男性は怪訝な顔をした。

 

「食べ物くれる代わりにってんなら、好きにしろよ、この身体」

 

真琴が言うと、あきれたような、そしておかしそうにため息をつく白人男性。

 

「そういうヤツ、我々はたくさん見てきた。安心しろ、お前の身体など要求しない。だが、しっかり働いてくれることを、条件としようか」

 

どういうこと、と訊きたくて真琴は顔を上げた。大型のジープらしき車は1台だけではなく、5、6台連なっていた。そして中には、真琴と同じくらいの子汚い姿をした男女が乗っていた。

 

「これからは、我々がこの管理区域の治安を担う。範囲が広いため、現地の若者をリクルートしているんだ。お前は、うってつけだ」

 

白人男性は言いながら、「NEVER」と書かれた紙を渡してきた。真琴は空腹が満たされるなら、と、とりあえずついていくことにした。今度は他に似たような境遇の連中がいる。もし万が一何かあったとしても、独りでないことは安心できた。

 

そこから、真琴は府中に仕付けられたNEVERという組織の拠点に連れていかれ、充分な食事と2日間の休養を与えられた。何か月ぶりかに入浴もでき、服も着替えられた。

 

「これから、半年かけて戦闘基礎訓練を行う。この車に乗るんだ」

 

真琴をスカウトした男性に促され、一緒にやってきた連中とバスに乗せられた。

 

「わが社は静岡県の富士山麓に新兵訓練拠点を設けた。そこで軍事・戦闘の訓練するんだ」

 

それだけ告げると、男性は降りようとした。

 

「あ、あの」

 

真琴の呼びかけに、首を向ける男性。

 

「訓練所も、ここと同じく、部屋は個室ですか?」

 

そう訊くと、男性はゆっくりと頷いた。

 

そこから真琴は数時間かけて、静岡県の富士山がよく見える高原地帯に運ばれた。白人男性は半年と言ったが、1年かけて戦闘の知識と訓練、そしてどうやら戦車らしきものの操縦を目的としたVR訓練を施された。

 

静岡の訓練拠点に来ておよそ1年が経った今日、真琴を含めた80名ほどが広場に集められた。

 

そこには、いままでの白人・・・NEVERは米軍を始め、西側諸国の軍を退役した社員が多かった・・・とは異なり、自分たちと同じアジア系の男性が2名、バスの前に立っていた。

 

「NEVER日本支社長、テッド・村岡だ」

 

緑色の軍服に身を包み、階級章らしきものをジャラジャラと身につけたオールバックの男が声を上げた。

 

「お前たちは、かねてから訓練していた『メ―サー戦車のVR操縦訓練』において、好成績を収めた者たちである。よってお前たちを実際にメ―サー戦車要員として特別訓練を施していくことになった。いまからこのバスに分乗し、旧茨城県つくばにある我が社の訓練施設に向かうこと」

 

それだけ告げるとクルッと回れ右をし、ヘリポートに待機していたヘリに乗り込んでいった。

 

「アイツ一緒に行くんじゃなかったのか」

 

そうつぶやいた男性を、残ったもう1人の男が黒い棒でしたたかに殴った。

 

「以後、君たちの指導教官を務めるジョニー・石倉だ。いまのように、上官をアイツ呼ばわりするようなマネは以後許さない。そのつもりで来い」

 

まるで感情がなさそうな死んだ目を薄紫のサングラスで隠し、顔色が悪そうな顔は病的な神経質さを感じさせた。

 

「30分以内に支度を済ませ、各自バスに乗り込むこと。そろい次第、出発だ」

 

 

 

 

 

 

あれから数時間が経った。東名高速は寸断されたままということで、訓練拠点があった富士山麓から一度山梨県へ抜け、ゴジラとギドラの被害が及ばなかった東京の山奥から埼玉県秩父を経由してつくばへ向かうらしかった。

 

一緒に乗っているのは、真琴と同じく怪獣災害で天涯孤独となった者、あるいはその後の大不況で仕事がなく、衣食住を確保できるこの仕事を選んだ者とさまざまだが、下は16歳から上は30歳くらいまでの男女だ。

 

訓練を通して仲良くなった連中は、指導教官のカミナリが落ちない程度にバスの中でおしゃべりに興じている。

 

 

 

 

 

 

真琴は、常に独りだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 7ー

 

 

 

 

 

年が明け、2022年を迎えた。

 

世界総人口75億の人類のうち、これまででもっとも多くの人間が重苦しく先の見えない絶望感に苛まれた新年を迎えることとなってしまった。

 

年が明けて2日目、かねてより財政危機が叫ばれていたカリフォルニア州が州債務の支払いを継続できなくなり、事実上の破産状態となった。

 

地方政府の独立性が高い米国においては、地方自治体のデフォルトは珍しいことではないが、全米最大の人口とGDPを誇るカリフォルニア州の財政破綻は米国経済に深刻な影響を及ぼすばかりでなく、行政や警察力の執行不能状態となりギドラ襲撃による被災地域の治安悪化に歯止めがかからず、もはや世界でもっとも治安の悪い地域となったことで、経済の回復はおろかさらなる無法地帯化が避けられぬ情勢となった。

 

またニューヨーク証券取引所はかかる事態を受けて、過去類を見ない株価下落に見舞われ、1929年の世界恐慌をはるかに上回る経済的パニックに陥った。普段は煌々たるニューヨークの摩天楼も、ビルからの飛び降り自殺防止のため午後4時以降は軒並み閉鎖され、折りからの電力不足も相俟って闇夜に不気味な墓標が聳え立つ街に変わってしまった。

 

1週間後の1月9日には、前年にギドラの襲撃を受けて主要都市が壊滅していたオーストラリア政府が自国での被災再建と行政執行権を放棄。オーストラリア全土は日本の関東地方に続いて国連管理区域となることが決まった。

 

ただし国連管理とはいえ事実上米国主導の被災復旧と治安維持が図られている日本と異なり、オーストラリア大陸へ派遣された国連軍の構成比は圧倒的に中国が勝っていた。一連の怪獣災害で米欧を中心とした西側諸国が計り知れない損失を被った中、世界でただ一国不気味なほどの経済成長を遂げている中国がオーストラリアに進出した事実は、中国による世界覇権主義の初手と見られていた。現にオーストラリアでは強引な治安維持と中国からイナゴのように渡ってくる中国人に現地住民の不満と不安がピークに達し、暴動と強権的な鎮圧が毎日のように報道されるようになった。

 

そして怪獣災害最大の被災国となった日本であるが、年明けから1ドル240円という超円安状態が続き、これまで以上に輸入へ頼っていた日本経済はもはや救いようのない奈落へと落ち込み続けていた(これでもカリフォルニア州破綻によって、米ドルが急降下したことで救われた部分すらあったのだが)。

 

ガソリン価格はレギュラーで1リットル280円を突破し、海外産の農産物が高騰したことで、ただでさえ希少となった国内産農産物が急騰。かねてより囁かれていた第二次大戦中及び直後以来となる食糧難の時代に足を踏み入れることになった。

 

各地で農作物・食料の奪取や闇取引が横行し、政府による適正価格買取の呼びかけや、異例とも言える農水省主導の価格・流通への安定介入執行も虚しく、また作物の生育が期待できない冬季を迎えたことで、食料の流通量そのものが減退。燃油価格高騰によりインフラが断絶し始めた地方では餓死者・凍死者すら出始めた。

 

そんな中、失われた東京に代わって日本の玄関となった大阪は、雪崩れ込んでくる中国の富裕層によって経済は近年類を見ないほど肥大化し続けていた。地価は往時の東京をはるかに上回り、郊外の1K安アパートですら家賃月額17万円という、異常ともいえる物価高を迎えた。もちろん給与が減り続ける日本人に支払える額ではなく、富める者が府内に住まい、貧しい者はより郊外を目指す、といった現象が加速していた。

 

アメリカ、日本と世界有数の経済大国が極めて不安定な経済状況を迎え、煽りを喰らう欧州諸国も経済対策に頭を抱える中、事実上世界唯一の超大国となった中国は不気味な動きを見せていた。

 

連日ニューヨークとロンドンの株価暴落が叫ばれる中、ベトナムとラオス国境に人民解放軍が侵攻。名目上は軍事訓練だったのだが、威圧感ある戦闘車両や装甲車が国境を越えていく様を、ベトナム、ラオス両軍は指を咥えて見ている他なかった。

 

また中国海軍は南沙諸島、台湾沖での軍事演習を活発化させた。通常であればすかさず米軍の偵察隊が発進し中国を牽制するところなのだが、軍事再編成を受けたことで米軍の対応が遅れ、結果的に『南沙諸島、台湾沖で中国が演習を始めても、米軍は介入しない』という既成事実が出来上がってしまった。

 

そして中国国営企業配下の商社連合は、世界各地で原油や小麦といった資源を高値で買い占め始めた。もはや中国の言い値に対抗できる国家も企業もなく、中国による物資価格の世界的な策定がじわじわと進みつつあった。

 

 

 

 

 

 

・2022年1月12日 14:36 大阪府大阪市中央区 大阪ビジネスパーク内 KGI損保本社

 

 

緑川杏奈が進藤と共にKGグループ社長の山路耕の介から呼び出されたのは、新成人が着慣れない振袖やスーツに身を包み大阪城ホールへ集まった1月12日のことである。

 

昨年からKGI損保を含めたKGホールディングスでは役員体制が一新され、緑川たち新役員は恒例の社長面談をすることになっていた。

 

「ねえ、大丈夫?」

 

緑川は一緒に歩き、しきりにネクタイを気にする新藤に声をかけた。

 

「大丈夫なワケないやろ。お前、よく緊張せんなあ」

 

普段大きいことを口にする割に小心者なところがある進藤は、こういうとき手先が落ち着かなくなる。そういえば入社式のときもこうだったな、と緑川は少し微笑んだ。

 

「一杯ひっかけてきたからね」

 

「おっ?お前、なんちゅうことしてんねん?」

 

「ウソウソ、冗談だって」

 

実のところ、緑川が言ったことは冗談でもなんでもなかった。前までは朝一番に栄養ドリンクを一気飲みして出社していたが、ここ数年では焼酎やウイスキーをあおってからでないと、まともに仕事ができない身体と精神状態になっていた。

 

社長室の前に立つと、進藤は大きく息を吸った。そんな進藤を尻目に、緑川はドアをノックする。

 

「お、おま・・・わしまだ心の準備できてへんねんけど」

 

小声で焦る新藤。「どうぞ」と、男性秘書の声がして、ドアが開いた。

 

「「失礼します」」

 

緑川と進藤が揃って頭を下げると、男性秘書は恭しく返礼し、応接間に2人を通した。既に社長の山路は応接間におり、窓の外から見える大阪城公園に目を馳せていた。

 

「社長、失礼します」

 

いつもと変わらぬ声色の緑川と対照的に、進藤はうわずった声で「失礼します」と頭を下げず言う。「新喜劇じゃないんだから」という緑川のツッコミに過剰に顔をしかめる進藤。

 

「見てごらん、2人とも」

 

山路は穏やかで温かそうな声で、2人に声をかけた。

 

「いろんな価格が上がった結果、振袖のレンタル代も去年の2倍近くになってるそうだね。それでも、数少ない若者たちは必死にお金を貯めて今日のために振袖と髪を整えてきてるんだ。こんな世の中にしてしまった私たち大人の責任は大きいと思う反面、若者たちは若者たちなりに状況を受け入れてなんとかしようとしている。巷で言われるように、将来、決して悲観ばかりじゃないと思わんかね」

 

それだけ言うと、「さあどうぞ、座りなさい」と2人を促す山地。一礼して腰を下ろすと、緑川と進藤は姿勢を正した。

 

「忙しいところすまないね。父の代から、こうして役員の率直な意見を聴く場を大切にしているものだから」

 

山路は一見すると大企業の代表とは思えない、穏やかで優しそうな笑顔で話す。

 

「いえ、私たちもこうして社長とお話できる機会を楽しみにしておりました」

 

緑川の臆しない性格は、山路にも伝わっていた。感心したようにウンウン頷く山路と、気が気でなさそうに緑川をあおぐ進藤。

 

「今年でもう2年になるか。東京を始めとした南関東が壊滅し、日本の中心がここ大阪に移り変わったのは。君たちもいろいろご苦労があったことと思う。どうだね、いまの仕事は?」

 

社長面談はあまり堅苦しいものではなく、雑談レベルであるとはきいていた。だが山路はただの好々爺ではなく、油断ならない部分もあるとも耳にしている。

 

「おかげさまで、責任ある立場になり、これまで経験したことを総動員して業務に当たっております」

 

緑川が答えた。

 

「緑川君は、加入再保険担当だったね。保険の切り替え提案や、支払い後のフォローを担当する部署だ。して、君になってから、その業務が以前より活発になっている、ときいたのだが」

 

思った通りだった。山路が切り出す話題は。

 

「加入再保険業務が活発になる、ということは、従来の保険契約について支払いが進んだということになる。もちろん、一昨年あんなことが起きたことだし、だからこそより魅力ある保険契約をお客様に勧めることは素晴らしいことだ。だが、いずれも一度は保険契約に従って保険金を支払ってからの話だからね。緑川君、君は保険会社というものをどういう存在だと捉えているかな?」

 

そう突きつけられても冷静な緑川と違い、進藤は顔に汗を浮かべ出した。昨年から、KGI損保の役員会でよく突っ込まれていた話題だったからだ。すなわち、緑川が役員になってからというもの、保険金支払いの速度と件数が上昇しているのだ。

 

「私は入社以来、保険会社とは万が一への備えになる役割を果たすべきとずっと考えて参りました。人は長い人生を送るうち、いろいろなことが起きるものです。予期せぬ事故や病気、はたまた災害。そんなときに困ることのひとつに先立つもの・・・すなわち資金の心配が尽きません。そんなとき、資金を出してお客様を安心させることが、私たちの役割だと思っております」

 

「うん、そうだね。まあ保険会社の常だが、今回のように大規模な災害が発生すると、あまりにも対象件数と支払い額が増えてしまうため、何かにつけて理由をくっつけて支払いを渋ったり、減額するのが常套だ。して、君の仕事を見ていると、どうもそういったことをせず契約通りキチンと進めているように思えていたのだが、やはり君の信念に基づいて実行した行為だったようだね」

 

「はい、間違いありません」

 

それが問題でしょうか、言外にそう匂わせて返事をした。

 

「そんな君の行動をだ、問題視する役員もいるようでね」

 

一杯茶を啜り、2人にも勧めてから山路は言った。

 

「私はあくまで、契約に則った範囲でのみ支払いをしております。個々の事情はもちろん精査しておりますが、あまつさえ難癖をつけるようにして契約より少ない金額を支払うことこそ問題ではないでしょうか。万が一の備えにならない保険会社には存在する意義はないと考えておりますし、もし支払いが多額で経営に支障が出るようでしたら、利率の上昇と資産運用で乗り切るべきです。そうしてお客様に満額、ないしは契約通り支払いをして、結果的に危機的状況を迎えている日本経済へ寄与していくのが、我々に求められていることではないでしょうか」

 

この席に限ったことではない、KGI損保の役員会で緑川が幾度も話したことだった。だが渋面、あるいは呆れ顔を浮かべる他の役員と異なり、山路はウンウンと話を聞き入れ、笑顔を浮かべた。

 

「当たり前のことを当たり前にやる。できるようでできないことだが、緑川君、君はそれを実践しているようだね。うん、私としても、君と考えは同じだ。もちろん、出て行く資金は気にするが、目先に囚われずやがて資金は還流してくるという発想を、我々は持つべきなのだろうな」

 

山路の言葉に、緑川は内心ホッとした。隣の進藤はそれ以上に安堵した表情を浮かべていた。

 

「今日もこれから経団連の会合なのだが、君の考えを披露させていただくとしよう。この時勢、本当に我々が果たすべきことは何ですか、とね。いやどうも、他の企業の社長連中が口にすることはわかるのだが、もはや国家存亡の事態となっても自身の任期中は保守的、保身ばかり、ひたすら問題を起こさない姿勢ばかり感じられてね。怪しからん話だ」

 

そこで茶を一杯含むと、すかさず秘書がお代わりを用意する。お茶の苦味とまろみを存分に味わうように目を瞑る山路。この絶妙な間が、時に相手へ興味と緊張感を高める作用を果たしている。

 

「なあ、緑川君、進藤君。日本は、そして私たち日本人は過去、欧米列強との戦争に負け、ゴジラとアンギラスによって2度も帝都を焼かれ、それでも復活を果たしてきた。そしてここ2年、それらの被害に匹敵する・・・いやそれ以上の災厄に見舞われた。どうだろう、今度こそ、真に日本は生まれ変わるべきだとは思わんかね?」

 

山路はにこやかな目を鋭く光らせた。

 

「過去何度も、考えを改める機会があったにも関わらず、日本は経済的成長ばかり追求し、真に追求すべき精神的成長を果たそうとしてこなかった。世の話題を見渡してみたまえ、やれ、どこで経済的苦境から自殺者が出ただの、企業倒産件数が戦後最大に達しただの、気が滅入るような話題ばかりだ。先代の社長・・・私の父だが・・・ゴジラとアンギラスに工場を含めた本社社屋を破壊されたときも、『必ず会社を復興させて大阪の発展に寄与する』と言って憚らなかった。当時も、能天気だのなんだのとだいぶ周囲から叩かれたものだが、結果的に海洋漁業KKは日本有数の企業に成長できた。これは父が常々、語っていたことだ。『耕の介、良いかい?他所様が何を言おうと、自分が正しいと思ったことは貫き通しなさい。ただし正しい答えを見つけ出すまで、とことん考え抜きなさい』・・・・・緑川君、君のように信念を持ち、自分で答えをつかんで仕事に当たれる人間が我が社に、いや、この日本にどれほど存在するやら・・・・・」

 

山路は遠い目をして、席を立った。外の大阪城公園では、成人式が終わったのか久しく見なかった若者たちが色とりどり、華やかな衣装で談笑したり、記念写真に興じている。

 

「うん、君の考えを聴けただけで、私は嬉しい。今日の経団連会議でもしっかり話をさせてもらおう。ああ、進藤君。もちろん君の実績にも注目しているよ」

 

「へっ?い、いや、そんな私なんぞ・・・・」

 

「何を言うのかね。先日の会議で、『真っ先に怪獣被害を受けたウチらこそ、怪獣被害保険の先駆者となって世界に売ってくで!』と吠えたそうじゃないか。実際、君がコネを持つロンドンでは我が社の怪獣保険契約がうなぎ上りのようだね。その意気だよ。うん」

 

進藤は顔を真っ赤にさせ、「こ、こ、光栄です!」と素っ頓狂な声を上げた。

 

 

 

 

 

 

・同時刻 大阪府大阪市中央区大手前 大阪府庁舎5階 

 

 

「以上、経産省による来年度の復興計画案でした。ご質問があれば、どうぞ」

 

佐間野による説明が終わると、座長を務める望月が列席の閣僚に問いかけた。誰ひとり、質問を発する者がいなかった。計画はケチのつけようがないものだし、そもそもこの閣議は先に結論ありきの既定路線をひた走るものである。野党でもあるまいし、難癖をつけて計画を阻害するなどできようはずもない。

 

「では以上で、本日の閣議を終了します。以後業務連絡ですが、この後15時30分よりホテル阪急インターナショナルにて、経団連との会合がございます。出席される閣僚の方はお支度くださいました上、ご移動をお願いいたします」

 

望月はメガネを外し、そう話した。瀬戸総理と佐間野に秘書官が数名駆け寄り、経団連との会談内容のおさらいを矢継ぎ早に話し始める。

 

概要を聴いて経団連会議へ出席するべくゆっくり立ち上がる閣僚に、慌ただしく荷物をまとめてくっついていく幾人かの秘書官と、泰然として正面と背後に回るSP。

 

「やれやれ、お若いのにもうすっかり、内閣の重鎮だな。佐間野さんも」

 

メガネを拭きながら、岡本文部科学大臣がボヤいた。

 

「まあ、日本復興の要となるポジションに就いている上に、事実上防衛大臣も兼ねてますからなあ」

 

氷堂外務大臣が苦笑いしながら答えた。昨年10月、国会答弁中に脳溢血を発症して倒れ、政治家を引退せざるを得なかった奈須野前防衛大臣の後任には、当時防衛政務官を務めていた駒野が昇格してその任に就いた。だが駒野は44歳、当選3回目のヒヨッコ議員である上、佐間野陣営から強力な選挙応援を受け当選した、いわば佐間野子飼いとされる人物であり、口さがない議員や党職員の中では「佐間野先生の傀儡」呼ばわりされる始末だった。

 

実際、将来的な米国製の新兵器導入は佐間野がトップである経済産業省主導で行われていることもあり、佐間野の言う通りにしか大臣職を進められない実情がある。経験不足も相俟って、駒野は現瀬戸内閣の顔ぶれではもっとも存在感に乏しい人物だった。

 

本来経団連との会合には防衛大臣が出席する機会はないはずだが、将来的に米国企業であるガルファー社から購入することになるメーサー戦車の打ち合わせの席として、そして佐間野の忠実な太鼓持ちとして駒野は出席する手筈が整えられたのだ。

 

「ホント、すっかり偉くなっちゃいましたよねえ」

 

閣議の資料に目を落としながら、北島が同調した。佐間野とは年齢が近く、また同期当選を果たして以降政治家としてのキャリアも似たような部分があったため、彼女の声色からは複雑な心境が読み取れた。

 

「しかしまあ、ガルファー社の後ろ盾を得て国内産業の隆盛と、臨時とはいえ首都大阪の地価上昇及び超円安をむしろ好機として捉え、世界中の投資を大阪へ集中させて国力を回復させるというのは、この時勢に於いては悪くない発想でしょうしなあ。そこを実現させ得るだけの力もあるでしょうし」

 

氷堂が天井を仰いでつぶやくと、「あのー」と背後から声がかかった。首都が大阪へ遷って以降、内閣参与として閣議に参画している大阪府知事の原田だった。

 

「私の立場上、申し上げ難い部分なのですが・・・」

 

顔を俯けがちながらも、原田の口調は確固たるものだった。

 

「いまの大阪は物価が高騰し、これまで普通に暮らしていた府民が満足に食糧も買えない、1DKのアパートを借りるにも金銭的に苦労するほどになりました。豊かな暮らしを送れるのは一握りの府民・・・いやそれだって、所得以上に物価高が進行してこれから同水準の生活を送れる保証はありません。満足に生活できるのは訪日外国人や外国の駐在員くらいなものです。グローバル化を謳い文句に国策として大阪を変えていくといいますが、それは私たち大阪府民の暮らしを土台にしたものなのでしょうか」

 

原田の弁舌は熱を帯びていた。それ以上に、府民の怨嗟をすべて吸収して吐露したようにも思えた。

 

「大臣方、私は今日も、いやいままでもずっと大阪のためと思って国が進めようとする政策に黙ってついていこうとしてました。ですが、どうしても我慢ならないんです。このままじゃまるで、大阪が大阪ではなくなるのではありませんか?」

 

そうは言っても・・・そんな表情で氷堂と岡本は顔を見合わせたが、北島は真剣な眼差しで原田が繰り出す言葉に向き合っていた。

 

「日本という国家のため、大阪は大阪の個性を喪うことになってしまう。そんな府民の声を耳にします。我々は大阪府民のために働いてますから、直に聞こえてくるんです。そりゃあ、国全体を見渡さなくてはならないみなさん方にも、ご事情があることは充分理解しています。しているんですが・・・!」

 

原田は言葉に詰まり、やがて「・・・いやはや、熱くなってしまいました。いまの件、忘れてくだすっても良いですが、少しでも大臣方の心の片隅に残るのなら」と消え入るような声で言うと、頭を下げて退室していった。

 

「まあ・・・原田さんのおっしゃることもわかるんだが、もう止めようがないものなあ」

 

岡本がつぶやいた。

 

「しかし、原田さんがおっしゃるような、地方が地方らしさを喪う事例。総務省の長として今回の件に限らずとも、いくつか事例を見てきました」

 

地方を統べる立場にある北島が言った。

 

「ご心中はお察しするが、いまは地方らしさとか言っている場合ではない。まずは国家の存続を第一に考えなくては」

 

銀縁メガネを直して資料に目を落としながら、氷堂が言った。

 

「いつまで、こんな状態が続いていくんでしょうか」

 

北島がため息のごとく出した言葉に、氷堂も岡本も答えられなかった。

 

 

 

 

 

 

・同日 18:57 京都府京都市右京区嵯峨観音寺 茶懐石「翁庵楼」

 

 

一昨年のギドラ襲来以降、どういうわけか日本列島は平均気温が軒並み3〜5℃上昇していた。夏は激しい酷暑に、冬は暖冬傾向にあったのだが、ここ数日の京阪神地方は身を切るような冷たい風が吹き荒び、今日夕方には風が治まったのと入れ替わるように凍てつく空気が京都盆地を支配した。京都盆地のやや高台にあり、夜になると市街地を一望できるこの料亭に、経団連との会合を終えた瀬戸と望月の乗った高級車が到着する頃には、キラキラ輝く細やかな雪がチラつきだしていた。

 

車を降り、茶楼の玄関に案内されるわずかばかりの時間にも、2人の肩に雪が残る。身をすくめながら入ると、奥の座敷に座っている老人が泰然と日本酒に口をつけていた。

 

大澤蔵三郎。日本政界に隠然たる力を持ち続けるその老人は、瀬戸と望月が頭を下げても応えず日本酒を嘗めるように嗜むばかりだった。

 

「ここ京都も、成人の儀だったようだな」

 

ふいに口を開く。瀬戸と望月は言葉を発することなく同調する。

 

「一見、暗い世の中に差した明るい話題のように思えるが、衣服を新調して成人の儀に出られる若者なぞ、経団連関係者のような大企業勤めを親に持つような者たちしかおるまい。ほとんどの若者は今日が成人の儀だとしってか知らずか、明日の日銭を稼ぐことに精一杯なはずだ。あるいは、米国の尖兵として軍事訓練に勤むしかあるまいて。そして彼らの親世代、祖父母世代も、年老いたからと優雅に暮らす暇もなく働き続けなくてはならぬ。なんたる世になってしまったことか」

 

大澤自身、こうした世の中を経験するのは3度目なのだ。それもいま現職の政治家と異なり、ある程度の年齢になって終戦後の混乱とゴジラ襲来後の大不況を味わっている。

 

「今度ばかりは、日本が割譲され明日はおろか数年先も読めない事態となってしまった。どうにかして日本の国体を維持せんと奮闘した先達たちに、もうしわけが立たぬ」

 

長くなるから食べなさい、そう瀬戸と望月に促したのだが、上品で洗練された茶楼の料理も、大澤の言葉の前には砂の味に等しかった。

 

「本題に入ろう。君たちはいつまで、ガルファー社を頼りに日本を復興させるつもりかね?」

 

やはりその話題だったか・・・時の首相すら平気で呼びつけ、今後の日本の在り方を話し合ってきた日本の裏の権力者は、進駐軍のこれ以上の参画を大いに嫌っているのだ。

 

「先日、衆参両院を可決した復興法案は5年間の時限立法です。それまでの間に筋道をつけ、ガルファー社果ては米国の参画なく日本の領土と経済を復興させる方向でございます」

 

瀬戸が答えると、その言葉を幾度も噛み砕くように目を閉じて頷く。大澤はいまだ病気ひとつせず矍鑠としているが、さすがに年齢による反射速度の低下を瀬戸と望月は感じ取っていた。

 

「計画通り、進められる見込みはあるかね?」

 

「は。既にガルファー社とは計画の策定はおろか、旧遠州地域を復興特区とした実証を進めております。無論、米国政府の理解と協力を得たものでございます」

 

「んん。ところで、ガルファー社と日本政府との橋渡しになっている若いのがいるそうだが」

 

「はい。たしかに、先代の頃より米国企業、とりわけ軍産複合体や金融機構と関係が深い地盤を持つ男が現在の復興の旗振り役でございます」

 

「んん。そのことなのだが・・・」

 

大澤はチラリ、と望月に視線を向けた。瀬戸がその視線を追うと、望月は静かに目を閉じた。

 

「なんにせよ、1日も早くこの国から国連を隠れ蓑にした米国を追い出していく必要がある。それが叶ったときこそ、我が国家はより独立国として歩んでいく第一歩になる。戦後77年に及ぶ事実上の属国から抜け出さんとする良い機会になる。現内閣には、その点を推し進めてもらいたいものだ」

 

そう言って大澤が合図すると、柔道選手のような大澤の従者が襖を開け放った。隣席には日本の影の重鎮が3人。いずれも首相経験者、元財界総理、そして日本最大の右翼団体である誠和会の現会長が座していた。

 

「いいかね、これは現職の君たちを糾弾すべく揃えた人材ではない。明日のこの国を如何に良くしていき、立派な若者を育てていくか、今晩はとことん話し合ってもらいたい」

 

大澤が言うと、それぞれが座した姿勢のまま頭を下げてきた。瀬戸と望月も同じように返す。

 

「総理、お話の前に少し中座させてくださいますか」

 

いざ向き合おうとしたとき、望月が瀬戸に囁いた。瀬戸が首を縦に振ると、望月は一度立ち上がって大澤たちに一礼すると、玄関わきの茶楼で待機している自身の秘書官たちに何かを告げた。

 

2、3電話したいところがあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 8ー

・旧 茨城県牛久市ひたち野下根町 民間軍事企業「NEVER」訓練宿泊施設

 

 

 

 

 

「ふざけんじゃねーよ!」

 

怒声と共に、腹部を蹴られた真琴は浴場から脱衣所へ倒れ込んだ。

 

「ニヤニヤしてんじゃねーよ!」

 

「ちっ、ちがっ・・・ぐうっ!」

 

倒れたまま必死に否定する真琴の腹に、追い打ちの一撃が加わる。

 

「テメー2度とこの風呂に来んじゃねーよ!」

 

「キモいんだよ!」

 

次々と蹴りが真琴の腹部に突き刺さる。腹の奥底から嗚咽となり、激しく咳き込む。呼吸もままならない痛みと苦しさで、真琴は否定する手を振ることすらできなくなった。

 

涙でにじむ目をうっすら開けると、3人の女子がなおも罵倒する様子、そしてオドオドと浴場からこちらを窺っている女子の姿が見える。

 

苦しくとも呼吸しながらどうにか腰を上げた真琴だったが、身を起こしたところに強烈な蹴りの一撃が顎に食い込んだ。強制的に歯が食いしばられ、歯茎から血が噴き出した。

 

「出てけよクソやろー!」

 

3人のうち、一番後ろにいた女子がオケをなげつけた。真琴の額に当たり、そこからも血が滲むのがわかった。

 

痛む額と顎、そして腹部を押さえながら、真琴は辛うじて立ち上がった。碌に洗えていない身体にはボディソープが泡となってまとわりついていたが、かまわずバスタオルで拭うと、真琴は肌着、そして支給された寝衣を身にまとい、みじめな気分で浴室を後にした。

 

 

 

 

 

 

昨年秋、富士山麓から霞ヶ浦に程近い現在の訓練施設へ移動してきてから、それまでの軍事基礎訓練に加え、主にシュミレーターとVRを駆使した戦闘訓練が行われていた。

 

特筆すべきは、この施設に入る際に告げられた『メーサー戦車』なるものの操縦・運用訓練だった。まだ正式に配備されているワケではないものの、訓練教導課程としてこの訓練所が選ばれたらしい。そして真琴たちは施設長であり、「NEVER」日本支社長も務めるテッド・村岡いわく「選ばれし者たち」らしく、場合によっては終日、VRによる戦車操縦訓練を受ける日もあった。

 

「まるでゲームじゃね?」

 

「こんな楽な訓練で1日費やせんのマジ草」

 

などとのたまっていた連中は、教導官の主任であるジョニー・石倉を始めとする教官たちによって容赦なく顔面か脳天を警棒でブン殴られた。あるいは、訓練で一定のスコアに達しなかった者たちも、また然り。

 

そしてそれは男女の区別がなかった。まだ20歳にもなっていない女子の訓練隊員も、日に日に顔や身体にアザを増やしていった。

 

体罰教育、あるいはブラック企業などという単語を気軽に使える環境が如何に幸せだったか、真琴たちは思い知った。ここには体罰、肉弾教育といった苛烈な教導訓練を咎める保護者、あるいは大人はいない。ちょっと教育を受けた連中が「人権」とやらを盾に抗議抗弁を行ったこともあった。それらは皆、一様にブン殴られるだけでは済まない懲罰を受けることになった。

 

訓練隊員の間で恐れられているのが、施設の地下にある「懲罰房」だった。刑務所でもあるまいし、とタカを括って連行されていった元ラグビー部員の屈強で生意気な男子は、1ヶ月の懲罰期間を経て連れ出されるとすっかり大人しくなった。それは、態度だけではなかった。

 

筋肉でふくれ上がった肉体はすっかりナリを潜め、ガリガリにやつれた姿で真琴たちの前に姿を現したのだ。血色の悪い皮膚からは何とも言えない異臭が放たれて、はち切れんばかりだった訓練服はブカブカにゆるくなっていた。

 

そして何より、生気がすっかり失われた瞳。白目のない濁った瞳は、真琴たち訓練生を震え上がらせるのに充分な効果があった。

 

彼はその後しばらくして、訓練所を追われた。聞いた話では「NEVER」の別な部署へ配属になったということだったが、ボロ切れ同然にトラックの荷台へ放り込まれる姿は、皆を畏怖させるのに充分だった。

 

そうして訓練所へ連れてこられてから2ヶ月もすると、過酷という単語では到底及ばない環境に音を上げ、脱走する者、精神を病む者が全体の2割を回った。ただし脱走したところで、この国にまともな仕事はない。

 

大抵、北関東周辺都市でホームレスになるか、地元の愚連隊、あるいは半グレ集団に仲間入りするか。ないしは本来彼ら彼女らを守り、保護する日本の警察に訓練所へ連れ戻される末路をたどることになる。精神を病んだものは、逆に訓練所から放逐される始末だった。

 

そのような環境で何が起きるか。

 

訓練生同士のいじめである。

 

過酷な環境、あるいは強権的な圧力に曝される集団に身を置いた場合、人は自分、あるいは周囲より弱い対象を攻撃するようになる。

 

年が明ける前、通常ならクリスマスに世間が浮かれる頃には、いじめを原因とする訓練所からの脱走、あるいは失踪、自死が相次いだ。

 

さすがにいじめは取り締まりの対象となり、発覚次第いじめを行った隊員は「いじめ」という単語すら生ぬるいほどの肉体的制裁を受ける。それで、いじめはなくなったか。

 

むしろ巧妙化し、一度いじめの標的となった隊員は男女問わず身も心も壊していった。

 

誰もが、自分を守ろう・・・集団生活を送る部屋の奥底、かろうじて隊員のプライバシーが少しは守られる浴場の片隅で弄られる対象を尻目に、ビクつく毎日を送っていた。

 

とりわけ真琴は、自身が抱える障害が発覚しないよう本能的に悟っていた。このような環境でいじめの対象となるのは、気の弱い者、他者に相容れない者、ひどく自信のない者、そして、何らかの問題、障害を抱えている者・・・。

 

性的マイノリティ。

 

トランスジェンダー。

 

LGBTQ。

 

近年ではそういった単語を駆使し、多様性を謳った社会が形成されつつあった。そんなものは世が平和で、明日食べるものも住む家も保証され、何を発言しようと許容(あるいは、許容と言う名の無関心)された社会でしか通用しないということを、強く思い知らされた。

 

 

 

 

2月になった。

 

異様に暖かい2月だった。

 

いままでなら、世間は「異常気象」などと煽り、自身にさして影響がないにも関わらず大騒ぎしていたことだろう。

 

このような世になれば、そんなことすら騒ぐこともしない。

 

そんな中だった、真琴より少し年下の、男性隊員2名が寮のわきに打ち捨てられていたのは。

 

元看護学生ということもあり、真琴は介抱に呼ばれた。

 

2人とも、これまでのいじめによる殴打がかすむほどひどく殴られていた。意識こそあったものの、1人は左足首がありえない方向に曲がり、もう1人は血反吐と吐しゃ物が混じり合った液体を口から絶え間なく垂れ流していた。

 

真琴の応急手当を受けた後、彼らは民間の病院へ搬送された。それは二度とここへ戻ってこないことを意味していた。

 

石倉たち教官による調査が行われたが、正直に実行した連中が名乗り出るはずはなく、新たな訓練プログラムが導入されたこともあり、それ以上満足な調査が続けられることはなかった。

 

だが、隊員たちの間ではなぜ彼らがそんな運命をたどったのか、ウワサがすぐに広まった。

 

2人とも、同性同士で行為をしていたというのだ。

 

彼らがもともとそのような性癖だったのか、苛烈な訓練環境故に目覚めた結果なのか、それはわからない。だが、隠れて行っていた行動が誰かの目に止まり、白日の下に晒された結果、周囲の興味、そして暴力の対象と相成ってしまったというのが真相らしかった。

 

真琴は、気が気でなかった。

 

いつ、自分の障害が明らかになるか。

 

周囲に知られた場合、どのような制裁を受けることになるのか。

 

元々生物学のみで寮を振り分けていたため、真琴は女子が生活する寮に入っていた。2段ベッドが3つ、窮屈に置かれた部屋で、同年代の女子に囲まれて暮らしていたのだ。当然入浴も女子の浴場を利用していたのだが、入浴のたびに火照ってしまう顔面を隠すのに必死だった。

 

件のボコボコにされた男子2名のこともあり、誰とも顔を合わせることもなく、必死に歯をくいしばってシャワーだけ浴びる日々だった。周囲は、そんな真琴に奇異の視線を向けつつあったとき、決定的な出来事が起こった。

 

3日前、ある女子が寮にやってきた。さまざまな理由で欠員も出てしまうため、常にリクルート活動を行っている結果なのだが、その女子は真琴が通っていたフリースクールの同級生だった。そして彼女は、真琴が性同一性障害だということを、知っていた。

 

おそらく、彼女に悪気はなかったことだろう。何かの話題の中で、真琴のことをしゃべってしまったようだ。浴場で殴られ、蹴られる真琴を見遣る瞳には、強い後悔と哀れみ、そして不安が浮かんでいた。それからは、とても女子寮の部屋に居続けることはできなかった。

 

訓練が終わると、真琴は風呂にも入らず、訓練施設の隅に雨よけのシートで身を包み、夜を明かす毎日を過ごした。

 

だが冬とはいえ、徐々に全身をまとう空気になんとも言えぬ臭いがまとわりつくようになる。頭はベタベタし始めた。

 

しかたなしに、浴場から底をつきつつあったボディソープをくすね、外の水洗い場で身体を洗うことにした。異常ともいえる暖冬とはいえ、北関東の夜風は冷たく、ただでさえ氷のような水を浴びた真琴の身体を容赦なく冷え切らせた。こんなこと、毎日できるはずがない。

 

ある日、そんな真琴を見かねたように声をかけてくる者がいた。

 

足立 優吾。訓練隊員たちの中ではリーダー的存在で、爽やかそうな見た目は女性隊員の心をつかみ、訓練の成績も良いことから頭脳も冴えていた。そして一部では、彼こそ一連のいじめに関わっている黒幕、ともウワサされていた。

 

「三崎さんだよね?事情は知ってるよ」

 

凍てついた水で必死に頭を流していた真琴に、そう声をかけてきたのだ。

 

「男子の部屋に、空きがあるんだ。教官には話をつけておくから、そこに入りなよ。風呂も、男子の浴場に来れば良い。悪いようにはしないよ」

 

文面のみなら、理性的で優しさあふれるものだろう。だが真琴は、感覚は女性だった。

 

かつて、自分を甘い言葉で誘い、ボロボロの廃墟に連れ込んで輪姦させた、あのタバコ臭い息の男と、まったく同じ目をしていたのだ。

 

真琴は無言で顔を背けた。無意識で、生理的な拒否だった。いきなり髪をつかまれ、強い力でひっぱられた。

 

「せっかく親切で言ってやってんのに、その態度ひどくない?」

 

引っ張られるまま立ち上がらせた真琴の腹部に、思い切り拳を叩き込んだ。みな、同じように軍事訓練を受けているとはいえ、女子から受けたそれとは強さがまるで異なっていた。

 

身動きが取れない真琴をひきずるように、男子の浴場まで連れ込むと、足立の取り巻き、というより子分的な男たちが数人、裸で待ち構えていた。

 

「かわいそうに」

 

「ようく、洗ってやろう」

 

口々に、連中はシャンプーやボディソープを手のひらにすり合わせて、真琴の身体をまさぐり始めた。

 

身を起こそうと必死にもがいたが、数カ月とはいえ軍事訓練を受けた男数人にかなうはずもなく、為すがまま、真琴は泡まみれになって身体を汚された。

 

事情を知らず、浴場に入ってきた気の弱そうな男子たちにも、足立は同じことを要求した。とまどいながらも身体を反応させて真琴を弄び始めたこいつら、頬を食いちぎってやろうか・・・一瞬見せた真琴の怒りに満ちた表情は、足立のボディブローで打ちのめされた。

 

 

 

 

浴場の床がすっかり冷たくなっても、真琴は横たわったまま起き上がることをしなかった。できなかったのではない、しなかったのだ。

 

それは見廻りにきた教官に発見されるまで続いた。乱暴に真琴の身を起こす教官は、執拗に何が起こったのかと怒鳴ってきた。

 

「しゅ・・・主任教官に話をさせてください」

 

生気のない声は、そのまま生気のない表情を映したものだ。教官は顔をひきつらせ、連れて行くからさっさと着ろ、と真琴の訓練服を放り投げてよこした。

 

そのまま主任教官であるジョニー・石倉の部屋に連れていかれた。冷徹な表情を常に崩さない石倉は、異様な雰囲気をまとう真琴を一瞥しただけで吸いかけのタバコを灰皿に押し込んだ。

 

「何があったのか」

 

無機質な声で、そう訊いてきた。

 

「あの・・・個室を・・・」

 

それだけつぶやいた真琴に、石倉は詰め寄った。

 

「聴こえない」

 

「あっ・・・個室を・・・個室を、用意してくれませんか・・・」

 

話すだけで、数時間前までの出来事が頭を支配してしまう。怒り、悲しみ、それらを通り越すと、人間は途端に態度も、声も弱弱しくなってしまう。一度や二度経験したことではなかった。

 

それだけ耳にすると、石倉は窓を仰ぎ、タバコに火をつけた。

 

「そういうことは、私の仕事の範疇ではない。村岡支社長に話をしろ」

 

それだけ言うと、左手で真琴を外へ出せ、と部下に指示する石倉。部下に外へ出された真琴は、しかたなく最上階にあるテッド・村岡日本支社長の部屋へ向かった。

 

部屋のドアには2名、屈強な教官が休めの姿勢で立っていた。何をしに来たのかと強い口調で訊くが、何やらインカムから音がした。石倉が話を通したのだろう、不機嫌そうにドアを叩き、真琴は部屋に通された。

 

「ん?どうしたの?」

 

爪やすりで右手の中指を丹念に磨いていた村岡は、開かれたドアの先に立つ真琴に声をかけた。

 

「あ、あの・・・」

 

動揺はまだ収まらない。顔が紅潮しうつむく真琴を見て、村岡は立ち上がった。

 

「なに、なに?どうしたの?ん?ん?」

 

下から覗き込むように、真琴の表情をうかがってくる。

 

「なに?お話長くなるの?よし、それなら座って。座りなさい。落ち着いて話を聴こう」

 

そう言いながら、部屋の右手にあるソファーに真琴を勧める。真琴は手を差し伸べられるがまま、ソファに座った。

 

真琴は唇を噛み、必死に頼みごとをどのように話すか、思考をめぐらせた。

 

「君ね、隊員がここへひとりで来るっていうのはね、よほどのことなの。でね、ジョニーから話があるっていうことだからね、支社長決裁が必要なことなんでしょ?どれ、聴いてみるから話してごらんなさい、うん」

 

村岡は飄々としているが、どこか油断ならない強い視線を向けてくる。

 

「形式は軍隊だけどね、一応ホラ、外資系企業だから。風通しのよさもね、ウリだからね」

 

真琴に向かい合う形で、村岡は腰をかけた。

 

真琴は、歯を食いしばりながら話し始めた。もちろん、すべてを話すことは告げ口になる。真琴はそれでも、辛い現状が打破されると祈りながら、洗いざらい話した。

 

「フン、フン」と相槌を打っていた村岡は、話し終えた真琴を見遣り、天井を仰いだ。

 

「えーっとね、よーするにね、要点をまとめると・・・ひとりでお風呂入れて、ひとりで休める部屋が欲しいってことだよね?」

 

「・・・はい」

 

ややあって、真琴は意を決したように頭を縦に振った。

 

「ん-、っそう。隊員個人を特別扱いすることになるよねぇ」

 

村岡は顎をやすりで整えた指でせわしなく撫でた。

 

「普通はできないことだよねえ・・・」

 

村岡は立ち上がり、真琴に背を向けた。

 

「君、まだ若いよねえ?」

 

村岡は真琴に向き直った。話し終えて呼吸と意識を整えていた真琴は、顔を上げた。

 

「世の中はね、契約社会なの。うちの会社入る時だって、雇用契約書、書いたよね。弊社は、君たちを雇用し、仕事をしてもらう。君たちは、その対価として、報酬を得る。まあ、満足な報酬かと問われれば議論の余地があるかもしれない。衣食住、すべて会社が面倒みているとはいえ、ね。まあそれでも、この国の紙屑みたいな貨幣じゃなくて、キチンと米ドル建てでお支払いしているのは評価してもらいたいんだけど」

 

そこでググっと、村岡は真琴に顔を寄せた。

 

「契約以上のことを要求するんなら、君はそれなりの対価を提供してくれるんだろうねえ?」

 

村岡の見開いた目を見て、真琴は戦慄した。一気に、あのヤニ臭い息が蘇ってきた。さんざん甚振られた肌と下半身の火照りが、急激に冷めていくのがわかった。

 

「うぐっ・・・!」

 

村岡が両手をいっぱいに伸ばし、真琴の首を絞める。

 

「普通なら問題だろうって?こういうね、命のやり取りをする戦場では、身体も立派な取引材料になるの。つまんないこと考えないで、取引に身を委ねて、ここのお部屋で一緒に過ごせば大丈夫だよねぇ?」

 

意識が朦朧とする中、真琴は首筋に村岡が唇を当ててきた感触で覚醒した。意識だけは。

 

「大丈夫、お風呂と寝場所はきちんとプライベート確保するから、ね、ね?」

 

やがて整えた指先で、真琴の身体を弄り出す村岡。首絞めのために身体に力が入らず、一切の抵抗がままならない。

 

それでも、必死に声を押し殺すことだけが、真琴の最後の抵抗だった。

 

 

 

 

 

朝になった。

 

極度の脱力と倦怠感、虚無感で頭がぼうっとするが、真琴は身を起こした。

 

大いびきをかいて眠り込んでいる村岡を放置し、しわくちゃになった訓練服を身にまとって部屋を出た。

 

外の護衛2人は、一切真琴に目線を向けなかった。そんな2人に、血走った怒りの目でにらみつける真琴。

 

何の反応もない護衛に背を向けると、階下の部屋へ向かった。もうこれで拒否されれば、こんなところ飛び出してやる。追手を差し向けるのなら、顔が粉々になるまで殴りつけてやる・・・。

 

そんな怒り、憎悪の表情を浮かべた真琴に、石倉の部屋を護衛していた日系人の教官は気圧されたように一歩下がった。

 

「何の用だ?」

 

部屋に入るなり、石倉は訊いてきた。こいつはいつ寝ているのだろう。それほど薄白く堅い表情は、昨晩のそれとまるで変わらなかったのだ。

 

真琴は、昨晩のことをすべて話した。村岡は石倉にとって、上官にあたる。まさか上官に弓を引くようなことはそうそうできないとは思うが、言わずにはいられなかった。石倉は頷きもせず、まったく表情を変えないまま真琴の話を聴き終えた。

 

「話はわかった。結論から言おう。お前の要望を受け容れる余地はない」

 

それだけ言うと、石倉は話は以上だ、とばかりに椅子を回転させ、タバコに火をつけた。

 

「でも・・・でも・・・・」

 

ここまで話したのに、この男には赤い血が通っていないのか・・・真琴は全身を駆け巡る絶望感、そして激しい怒りを抑え、口にした。

 

「絶え間なく隊員は補充されてくる。お前ひとりのためにこの施設があるわけではない」

 

それはわかっている・・・でもせめて、自分に同情の言葉ひとつでもかけて・・・真琴はそう強く念じ、唇を強く噛んだ。

 

「どうしてもと言うのなら、テッド支社長の取引にこれからも応じたらどうだ」

 

石倉は立ち上がると、真琴に向き直った。呆気に取られる真琴に、なお続ける。

 

「いまのままでは男子寮でも、女子寮でもお前の身の安全は保証されない。一番は支社長の案に乗ることだ。少なくとも集団暴行からは、身の安全は保たれる」

 

真琴は大きく目を見開いた。目の前で冷酷な表情と顔色で話すこの男は、正気なのだろうか・・・。

 

「あるいは」

 

タバコを消し、咳ばらいをした石倉は、全身をワナワナ震わせる真琴に詰め寄った。

 

「お前だって、なんだかんだ快感なのではないか。男に抱かれるということが」

 

その瞬間、真琴は全身の血液が頭に急上昇したのがわかった。反射的に、全力を右手に込めて、したたかに石倉の右ほおをブン殴った。

 

「ふっざけんじゃねえーー!!!」

 

倒れた石倉に馬乗りになり、石倉を殴りまくる。鼻から口から溢れ出てきた血液で、病人のように青白い石倉の顔は鮮血に染まっていった。

 

「やめろ!」

 

騒ぎをききつけた外の護衛が飛び込んでくると、警棒を出して何やらスイッチを入れ、真琴の背中を打ち付けた。

 

「ぐああああっ!!」

 

殴られた痛みではなかった。その警棒はスタンガンになっており、3万ボルトのすさまじい電流が真琴の全身をほとばしった。

 

「・・・上官への暴行。貴様は重大な違反行為を犯した。規則により、2カ月の懲罰房入りだ」

 

血をぬぐいながら、石倉は立ち上がると冷酷に真琴を見下ろした。全身の筋肉が激痛とともに弛緩した真琴は、歯すら食いしばれず護衛に引きずられ始めた。

 

「ちょっとちょっと、朝から何のさわぎ?」

 

入れ替わるように、だらしなくシャツをはだけさせた村岡が入ってきた。

 

「あらら、ひどく殴られたねえ。ダイジョウブ?」

 

そう訊いてくる村岡に、石倉は短く頷いた。

 

「まったく、最近の若いヤツは気が短くていかんよねぇ。ああ、若くなくても気が短いヤツもいたか」

 

やや乱れた髪の毛を掻くと、村岡は「早いとこ治療しな」とだけ告げて部屋を出ていこうとした。

 

「お待ちください」

 

口の中に溢れる血に難儀しながら、石倉は上官を呼び止めた。

 

「いま懲罰となった三崎真琴ですが、期間は規則通り2カ月でしょうか?」

 

「当たり前でしょうが。社則だけど、それでも短いくらいだ。上官ブン殴った上に乱闘起こしたヤツもいたし、ソイツと同じく4か月でもブチ込んでやりたいところだよ」

 

「ですが、これを・・・」

 

石倉はタブレットに、とある画面を表示させた。

 

「ほほーう、これはこれは・・・」

 

村岡は目を丸くして、画面に見入った。

 

「でもこれは困ったなあ。成績上位2名が、そろって懲罰房入りじゃないの。訓練にならないよなあ」

 

「はい。本国からもこの新型機の操縦データを要求されていることですし、三崎真琴は特例として、先に入房しているあの男が出てくるタイミング・・・すなわち1ヶ月後の解放でよろしいかと思うのですが」

 

「うーむむむむ・・・」

 

しばらく思案して、昨日さんざん駆使した指先で顎を撫でる村岡。

 

「わかった、そうしよう。早いところデータ提供して、機体量産化させにゃならんよねぇ」

 

書類書いといて、とだけ言い残し、村岡は石倉の部屋を出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 9ー

・3月7日 7:05 シンガポール ブンケン地区

 

 

 

 

 

昨夜しこたま酒をかっくらったはずなのに、強い朝の日差しで意識が覚醒してしまった。

 

近藤悟は咳払いをして喉にからみついた痰を取り払うと、サッシを開放してすっかり見慣れたマリーナベイサンズ、そしてシンガポールフライヤーを仰ぎ見た。強烈な陽射しは近藤の瞳孔を限りなく萎め、思わず目を背けてしまう。だがこれで、完全に夢の世界から戻ってきた。

 

昨日半端になっていたワイルドターキーは、まだ瓶に半分ほど残っている。近藤はグラスにロックアイスを入れ、割るものもなしに喉へ流し込んだ。熱い感触が喉から食道を駆け抜け、胃に流れ落ちるのがわかった。

 

かまわず二杯目を口に駆けつけさせ、ソファにどっかりと腰を下ろした。すると昨日のアルコール残滓が脳裏を強烈に刺激し、鈍い痛みが脳天を楯突く。大きく息を吐き出すと、グラスいっぱいにワイルドターキーのおかわりを注ぎ込む。

 

アルコールの作用と適度な二日酔いで身体が熱ってくるのがわかる。もう少ししたらシャワーでも浴びて汗を流し、朝の食事でも摂りにいこう。近くのホーカー(大衆屋台市場)にするか、向かいのラッフルズホテルでモーニングと洒落込むか、あるいは、飲みすぎて外へ出るのも億劫になり、結局Uberでチキンライスとラクサでも頼むことにするか・・・。

 

だが脳内で空腹と相談しようとしても、結局さっきまでみていた夢の中身へと意識が戻っていってしまう。これは酒ごときでは振り払えないと判断した近藤は、苛立ち気味にグラスをテーブルに置くと、シャツとパンツを脱いでシャワーを浴びることにした。

 

『いつ、逢える?』

 

昨夜、数ヶ月ぶりに緑川杏奈から来たメールは、わずか7文字だけだった。その7文字を送信するのに、どれほどの躊躇と葛藤があったのか、近藤は感じ取れた。

 

そのメールを受けて、一気に日本のこと・・・もっといえば本来の仕事のこと、そして緑川のことが気になってしまった。毎日酒と睡眠、時折女性遊びといった怠情な生活で紛らわせようとしていた、そして避けようとしていた現実から、強引にも引き戻された。

 

シャンプーの泡を洗い流しても、しばらくの間近藤は俯いて、ただただシャワーの水が頭皮を叩き、顔や身体を伝っていくのもかまわず、項垂れるようにして目を閉じた。

 

3年前だった。東京・汐留に上陸しカマキラス、そしてガイガンと争うゴジラの様子をすべて動画に収め、自身のYouTubeチャンネルにアップしたところ、瞬く間に再生回数が3億回を突破した。その後出現したギドラとゴジラが浜名湖で激突するところも、遠巻きながら撮影したところ、合わせて20億回越えの再生回数を弾き出すことができた。

 

広告収入は10億円を上回り、これまでせいぜいが月5万円程度のYouTube広告収入とさまざまな媒体に寄稿した原稿料暮らしの貧乏ジャーナリスト生活から一変した。その後も日本、そして世界各国が立て続けに出現する怪獣の恐怖に怯え、日常生活が崩壊する中でも月にして数千万円の広告収入が継続して得られるようになった。

 

だが・・・億万長者になった途端、言い寄ってくる連中が引を切らなくなったのも事実だった。金の成る木と見たのだろう、国内外の有名無名YouTuberからひっきりなしにコラボ動画依頼が舞い込むようになった。はたまた、街中、あるいは自宅付近で突然凸され、ムリやりコーラを飲まされそうになったこともある。

 

そのほか、有象無象の出版社から取材要請・・・中には、取材後掲載料を支払えとのたまう悪質な企業もあり、すっかり近藤は辟易してしまった。

 

そのようにすっかり著名人となった弊害だろう、あるときから近藤は、おかまいなしに突撃してくるYouTuberやストーカーのような輩とは異なる連中が、自身の後をつけてきているのを察知していた。おそらくは・・・とも思っていたのだが、極秘裏に会っていた、緑川杏奈との逢瀬のときにはっきりした。鮮烈なスクープ記事で有名な、あの週刊誌だった。

 

緑川とは、ギドラが南洋海上から名古屋を中心とした東海地方を襲った際、知り合ったことが付き合いをするきっかけとなった。

 

ゴジラとギドラが浜松市から浜名湖を荒らし周り、遠州灘へ消えるまでの間、行動を共にした。部下を喪い消沈した彼女を、近藤はごく自然に抱擁したのだ。

 

そこからは、大人の関係となった。彼女が自身を逢瀬を重ねるごとに元来の気丈さを取り戻していく様子は、金の匂いを嗅ぎつけたハイエナたちに悩まされていた近藤の癒しとなった。それでも、お互い立場がある身だ。それに、時折緑川が見せる不安定さも気になっていた。

 

ごく当たり前のように、恋人同士の逢瀬を済ませて、当時まだ存在していた東京・池袋のホテルを出た際に、2人の記者に詰め寄られた。

 

狼狽する緑川を見て、近藤は「後日こちらから取材に応じる。今日のところは勘弁してくれ」と記者に告げ、動揺が収まらない緑川を大阪へ送ると、週刊誌の本社を訪ねた。

 

そこで、「自分がキャバクラや風俗遊びに没頭していることを記事にして良いこと」を条件に、緑川の存在は記事にしないよう取引を持ちかけた。週刊誌側はその取引を呑んだ。

 

翌週には、近藤の評判が激しく毀損することとなった。それはかまわない。本来事実ではないことであるし、緑川を保護する目的も果たせた。この記事が出されたことで、ハイエナたちの動きも幾分かおとなしくなったこともある(相変わらず突撃系YouTuberはまとわりついてきたが)。

 

だが、自身の行為は、真実を著しく曲げることであった。そしてそれは、「いつ何時も真実を世に解き放つ」ことを信条としていた近藤のジャーナリスト魂の根幹を、激しく揺さぶることとなった。

 

以降、緑川に会うことはなくなった。空気を察した緑川から、連絡がくることはなかった。だが、揺れ動く彼女の精神がアルコールに逃避することは、容易に想像できた。近藤も同じだった。

 

そんなときだった。ジャーナリスト仲間の稲村友紀から、「すごいとくダネがある」という相談を持ちかけられたのは。

 

紆余曲折あり、近藤は稲村が文字通り命をかけて守り抜いた原稿を持って、日本を離れることになった。元より稲村は、日本の大物国粋主義者で、国家を裏で操っているとされる大澤蔵三郎のエージェントを務めており、その縁で近藤も大澤に謁見する機会は多かった。

 

日本を離れニューギニアに潜伏したのも、大澤の手配によるものだった。ほとぼりが冷め、ニューギニアのグミピ長老から「最後の希望と災いの影」なるものの調査を依頼されていたことで、日本へ戻ろうとした矢先、再び出現したゴジラとギドラにより南関東は崩壊。

 

物理的に帰るべき地を失ったこと、そして何より、事実上の日本崩壊を受け、かねてからブレていた自身の魂が完全に折れたことで、近藤は帰国を断念。数十億円に達した豊富な資産を元手に、大澤の助力を得てシンガポールへ移住。以降は、適当に資産運用をしながらこうして自堕落の日々を送ることに決めた。

 

昨年の10月に、とある仕事をこなした上で日本へ一時帰国した以外は、特にすることもない日々。数年ぶりに緑川と逢瀬を重ねたが、それすらもいまの近藤には虚しさを募らせるばかりだった。

 

そこへ、緑川からのメールである。まるで、「あなたはいつまで、そうして腰砕けになったまま燻ってるの?」と問われているようだった。そして示し合わせたかのように、もう一人、近藤へ連絡をよこしてきた人物がいる。

 

斉田公吉。去年緑川と別れたあと、図々しくも声をかけてきた、あのイケすかない興信所の所長だ。

 

「お久しぶり。近藤さん、ぜひ日本へ戻ってきてほしい。いま日本の若者たちがどのような立場に置かれているのか、あなた自身の声で真実を発信してほしい」

 

そんなメールが、昨晩遅く入ってきた。

 

自分の魂が、ゆらゆらとカゲロウのように沸き立ち、そしてゆらめくのを感じた。そこから、しこたま酒をかっくらった。

 

だがどれほど酔おうとしても、かえって意識が覚醒するばかりだった。

 

冷水を浴びた身体は、かえって火照り出した。さっきあおったワイルドターキーの作用もあるのだろう。

 

近藤はタオルで全身を激しく弄りながら、パンツ姿でソファに腰を下ろした。またロックアイスをグラスに放り込み、ワイルドターキーを一気飲みする。そこで口と鼻を押さえて空気を遮断し、気化したアルコールを体内に巡らせようとした。

 

大学生のときだ。バカな同級生たちの間で流行った飲み方だ。こうすることで、一気に酔いが回るのだ。おかげで仲間の半数が卒倒し、救急車を数台呼んでこっぴどく叱られたのも、今となっては良き思い出だ。

 

だがそれすらも、近藤の意識をまどろませることはできなかった。さらに目一杯グラスへ茶色い液体を流し込み、グイッと呑み込む。

 

もはや、自身の葛藤も迷いも打ち消す何かが、近藤の身体の中心にそそり立った気がした。やめてくれ、もう少し迷う時間を用意してくれ・・・酒の力を借りて必死に叫んでも、近藤の魂はガンとして受け付けないのだ。

 

中のアイスが溶け切っていないグラスを割れんばかりに握り締めると、近藤は壁に向かって思いっきり投げつけた。派手にグラスが砕け散るのもかまわず、近藤は激しい息遣いを整え、怒りに満ちた顔を、忌々しいばかりの朝日に向けた。

 

 

 

 

 

 

 

・同時刻 中華人民共和国 広東省広州市従北区 悌面村

※シンガポールと時差はない。

 

 

「このドラ亭主が!」

 

心地よい眠りは、鬼嫁である楊頌理のダミ声と殴打で見事妨げられた。

 

いきなり頭を殴りつけられたことにムッとしたものの、楊天如は言い返すことも抗議することもせず、固い床に敷いた南京虫だらけのゴザから身を起こした。楊の家庭は中国の夫婦関係において、極めて典型的な「妻管厳」なのである。

 

注・妻管厳・・・かかあ天下

 

「何してくれてんだい、金の成る木が逃げちまったじゃないかい!」

 

鬼嫁の罵声に、頭をかくフリをしながら耳を塞ぐ楊。

 

(おかしいな、しっかり檻に囲っているハズなんだが・・・)

 

そう心の中でボヤきながら、楊はボロ家のわきにある小屋へ入った。そこで、錆びているとはいえ人間の指ほどはある鉄で形取られた檻が、見事両断されているのを目にした。

 

「どうすんのさ!卵なんてあと3つだよ!せっっかくの春節だってのに商売上がったりじゃないかいい!!」

 

ヒステリックに叫ぶ鬼嫁を無視して、楊は檻を確認した。

 

おかしいのだ。

 

錆びて崩れたのではない。何か鋭利なもので切断されたような・・・そしてその断面は、汚らしい青錆にまみれた檻に相応しくない、ごく美しい断面であった。何せ、鏡のように楊の寝ぼけ顔を映し出すくらいなのだから。

 

3ヶ月ほど前だった。

 

ここで屋台を営む楊の元に、闇市の商人である于が訪ねてきた。

 

「珠海で昨日上がったものだ。何かの卵らしいんだが・・・楊、買ってくれはしないか?」

 

卵、というには、いささか大仰だった。パイナップルの倍近いその大きさは、まるでゴツゴツした岩のように膨れ上がっている。

 

「コイツのどこが卵だよ。どっかの鉱山から持ってきた岩なんじゃないのか?」

 

そう悪態をついた楊だったが、于は顰めっ面になって否定した。

 

「何やら、南洋の島でたくさん孵化してたらしくてな、肉付きのよい鳥が何羽も生まれたって話なんだ。なあ頼むよ楊。先週、ドブネズミを100匹納品してやっただろ?」

 

そう言われれば、無碍に断ることもできない。

 

「オレがコイツを300元で仕入れたから、安くしといてやる350元でどうだ?」

 

「むうう・・・わかった」

 

楊は現金が入ったザルからいくばくかの赤い紙幣をつかむと、于に渡した。

※于は「どうせ引き取り手もないだろうから」と、珠海から持ってきたこの卵をタダでもらった。350元丸儲けである。

 

楊の屋台は主に羊肉の串焼きとされるものを販売している。

 

実際は羊肉など、採算に合わないので使うことはない。于のような商人から、トカゲや鹿、イノシシ、そしてときにはネズミを買い入れ、それらを誰にも見つからないように「こっそり」調理し、羊の血で満たされた壺に数時間漬け置きした後、すっかり羊の風味がついたそれらを羊肉として焼いて売るのである。

 

技術も学もない楊のような者にとって、気軽に始められる商売だ。

 

ときにはよくわからない鳥を使うこともあり、楊はこの得体の知れぬ卵を自宅傍の小屋に放置していた。

 

ひと月ほど経った頃だった。ここのところ鹿やトカゲの肉が入らず、どうやってネズミを買い上げるか苦心していた頃、小屋から音がした。

 

見ると、岩のように固い殻を破り、三角形の頭をした鳥が粘液まみれの顔を覗かせていた。

 

しばらく様子を見ていると、その鳥は殻を破って出てきた。羽毛がなく、始めから翼がある鳥なんぞ見たことがない。

 

すでに中型犬ほどのその鳥は、近寄る楊に対して激しく威嚇してきた。驚いた楊は近くにあった鍬で、鳥の頭を叩いた。三角頭に横一文字、パックリと傷を作った鳥はややするとおとなしくなり、地面に項垂れた。

 

とりあえず、これだけあればしばらく肉には困らないだろう。楊は近所のゴミ処理場(などと書けば聞こえが良いが、実際は人口1500万人の広州人が捨てたゴミをただ山積みにして、自然に還るまで野積みにしておくだけの場所である)へ赴き、鼻がひん曲がるような悪臭に耐えて、青錆だらけの檻をかっぱらってきた。

 

驚くべきことに、その鳥は頭の傷こそ残っているものの意識を取り戻し、キャーキャーと鳴いていた。

 

ひとまず檻に入れ、明日の朝一番で羊処理場へ行って羊の血を用意するべく、そのときは早めに床についた。

 

翌朝、今日と同じように鬼嫁に文字通り叩き起こされた。小屋へいくと、例の鳥の足元に卵が3つ。しかもうちひとつは殻が割れて、ドブネズミ程度の雛が産まれていた。ただしその雛も、すでに形が完成されていたのだが。

 

早速雛を包丁で両断し、いつも通り羊の血に浸けて「羊肉」として販売した。昼を迎える頃にはもう2つ卵を産んでいて、先の卵からは雛が孵っていた。

 

それからは笑いが止まらなかった。何せ、商人から材料を買い付けることなく、タダで肉が手に入る。産んでは孵り、楊が捕殺する。そして「羊肉」として焼いて売る。

 

商人の于は、簡単に稼げる先を失って途方に暮れた。むしろ、捕殺した鳥の肉を于に売りつけてもオツリがくるくらい、産めよ増やせよが成功していた。

 

こいつが人間だったら、急激な人口減少に悩む習主席もさぞかしお喜びになるだろうな・・・などとテレビのニュースを観ながら思ったものだ。

 

最初の鳥・・・頭に傷を作った鳥は、エサを与えなくともどんどん卵を産んだ。日に日に、少しずつ大きくなっていくような気もするが、金の成る木、打ち出の小槌。ただひたすら、与えず恩恵を被る日々が続いた。

 

そういえば昨日、コイツの啼き声がひときわ大きかった。さすがに飢餓に耐えかねたのだろう、産んだ雛を片っ端から食い荒らしていた。

 

大事な商品を喰われてはかなわぬ。楊は棍棒で、死なない程度に殴りつけた。そういえば、いつの間にかこの鳥、自分と同じくらい大きくなっていた。

 

そして、どうやら眠っている間に、逃げてしまったようだ。

 

「こんな安物の檻なんか使うからだよ!この甲斐性無しが!」

 

真っ二つになった檻を前にして怒鳴りつけてくる鬼嫁。

 

「うるせえ!ガタガタ抜かすと、お前を鳥に喰わすぞ!」

 

とは、口が裂けても言えない楊であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 10ー

・3月14日  6:07   旧 茨城県牛久市ひたち野下根町 民間軍事企業「NEVER」訓練宿泊施設

 

 

 

 

 

異常なほどの暖冬でも、施設地下に設けられた懲罰施設は日光が届かないこともあって寒く、冷たかった。

 

通路を中央にして、黒い金属に覆われた個室がそれぞれ5部屋ずつ並ぶ。訓練生からドロップアウトした配膳係が、死んだ魚のような目で朝食の配膳を始める。中身も死んだ魚の如く、ほとんど米のないお粥と具のないスープに、生卵ひとつだけだ。

 

過酷な訓練が科される『NEVER』訓練生の、数少ない娯楽が食事だった。育ち盛りを集めた上、極限まで体力を酷使する訓練についていくには、豊富な栄養を湛えた食事が欠かせないのだ。

 

だが懲罰房に入れられた者は別だった。3食こそキチンと供されるものの、腹を満たすには到底足りないボリュームだった。無論、懲罰故だが。

 

そもそも、懲罰房に投獄されている隊員は食事すら満足に取ろうとしない。始めこそ空腹故に手を出すが、徐々に精神を蝕まれていくにつれ、食事すら億劫になって、骨と皮だけになっていく。ただでさえ訓練生から脱落した配膳係だが、そんな様子を目にして余計に自身も生気を失っていく(訓練生の間では、それも脱落者の受ける罰だと囁かれていた)。

 

そんな中、最奥の部屋に投じられた者は違った。そして、給食係からその部屋に入った人物に対して、生卵をふたつ、渡されていた。

 

最近脱落したばかりの配膳係は、意味をよく知らずに言われるがままお椀状の皿へふたつの生卵を放ると、最奥の部屋わきにある配膳口へ食事が載せられたトレイを置いた。その部屋の主だけは、どんなときでも必ず即座にトレイを受け取るのだ。

 

こんな環境でも、心を蝕むことなく過ごす奴もいるのか・・・そんな感心も、すぐさま打ち消し、配膳係は頭を俯きがちにして地下を後にした。

 

そしてトレイを手にしたその男は、手早く食事を済ませた。飢えにあえぐ故のがっつきではなかった。まるで健康に腹を空かせた高校生男子のそれだった。だがお粥に投入した生卵は、ひとつだった。

 

男はもうひとつの生卵を皿に叩きつけ、中身を投入した。だが黄身は殻の中に残して、器用に白身だけを皿へ注いだのだ。そうして黄身をグイっと口の中へ勢いよく放り込み、一気に嚥下すると、白身を両手になすりつけた。そのまま、ボサボサの髪の毛をなでつけ始めたのだ。

 

白髪、というか銀色の髪の毛を白身に塗れた指で整え、手のひらで撫でつける。鏡はないが、銀色のトレイを鏡代わりにして整髪の様子を確認する。整ってない箇所を手櫛でなでつけると、耳たぶまであった髪の毛がすべて後頭部へ流れる、立派なオールバックが仕上がった。

 

大きく息を吐くと、下膳のチャイムが鳴る。男は黙ってトレイを片すと、大きくあぐらをかき、どっかりと腰を下ろした。

 

ややあって、配膳係とは異なる影が懲罰房に現れた。2名の屈強な護衛を従えた、村岡と石倉だった。

 

「鳴海真人、出ろ」

 

房の鉄格子にカード式の鍵が差し込まれると、格子が音を立ててスライドした。鳴海、と呼ばれた房の中の男は目を開けると、開いた格子の向こうに立つ男たちをギロリと睨みつけた。

 

「4ヶ月の懲罰期間終了。以後、このようなことのないように」

 

感情が読み取れない、機械のような抑揚で石倉が述べた。鳴海は立ち上がると、村岡一行を一瞥して、黙って房の廊下へと踏み出た。

 

「あの、ね。わかってるよね。ここは軍と一緒。上官への反逆行為は懲罰の対象なの。君みたいなズバ抜けた成績の持ち主でもね、例外ないの。逆らっちゃダメでしょ、良い年して。私たちはね、ここでは神なの。神様なの。わかる?understand?」

 

そのまま歩き出そうとした鳴海を呼び止めるように、村岡が言った。「フンっ」と軽く鼻を鳴らす鳴海。

 

「いいか、エセ日本人。オレは神奈川県の川崎市ってとこの産まれでな。いまじゃすっかりゴジラとギドラにやられて廃墟になっちまったが、そこにあった川崎大師って寺さんが小さい頃から参ってた神様なんだ。いまでも存在してたら参拝してぇくらいだ。だがな、あんたらは悪魔だ。鬼だよ」

 

それだけ言うと、村岡に背を向けて廊下を進み、階段を昇り始めた。勝手に歩みを進める様に護衛2人は咎めようとしたが、村岡が制した。

 

「困るよねぇ、ああいうの。ま、また何かあったら懲罰房にブチ込めば良いんだろうけど。でも、すごいよねぇ。4ヶ月まったく音を上げないで、ちゃーんと食事も摂って出てきてるんだから」

 

傍らの石倉に言うと、同調の素振りを見せなかった。

 

「しかし、奴は航空機・・・とりわけ、新型のメーサー攻撃機の操縦シミュレータにおいて、群を抜いた成績です。あまり懲罰生活が長いと、新型機のテストに支障をきたしてしまいます」

 

「だからといって、ねえ?上官に暴行加えるなんざ、あってはならない一大事だよ?隊内の規律を守らにゃあ、ねえ?しかし、いま思い出してもアレは痛かったあ」

 

まるでそのときの幻痛を感じたように、村岡は殴られたみぞおちをさすった。

 

「あ、上官への暴行、といえば、1ヶ月前君を殴りつけた女の子いたでしょ。ええーっと・・・」

 

「三崎真琴、ですか」

 

「ああ、そうそう」

 

村岡は笑みを浮かべた。一隊員の名前など覚えていないが、自身がしたことを思い起こした、下卑た笑みであった。

 

「まったく、似たもの同士がいたモンだよねえ。でも彼女、新型機の成績良いんでしょ?もう出してあげよっか」

 

元より、石倉の希望で真琴の懲罰期間短縮を上申していたのだ。石倉は頷くと、こことは別の房が開くカードキーを用意した。村岡は頭をボリボリ掻き、「うー、あっちも痒い」などと独り言をぼやきながら、あとは任せるとばかりに上階へ向かっていってしまった。

 

 

 

 

 

 

同じ懲罰房にて、冷たく固い床にうつ伏せで寝そべったまま、呼吸以外微動だにしない隊員の姿があった。

 

時刻を知らせる時計などはなく、朝も夜もない、薄暗い照明のみに照らされる空間では、時間の感覚も失われる。唯一、時間きっちりに提供される3度の食事があるが、日替わりではあるものの朝昼晩変わらぬメニューのため、懲罰を受けた隊員たちは3日ほどで数えるのをやめた。

 

風呂もシャワーもない。3日に一度配布されるボディシートで身体を拭く程度で、髪を洗う設備も水もない。ひどく痒む上に髪を切ることもない。伸び放題に伸びる髪はまとまりがなく、ボサボサのままフケだらけの頭皮を掻きむしる他ない。だが、この房に横たわる三崎真琴はそれすらもせず、感情を完全に失ったかのような瞳で灰色の床へ視線を落とすのみであった。

 

入房前は耳を覆うほどの長さだった髪は両肩をとうに過ぎ、肘に達するほどに伸びている。いくら仕草も精神も意識づけたところで、彼、もとい彼女は、生物学上は女性なのだ。

 

排便以外、真琴は床から起き上がることはしなかった。

 

他の懲罰対象者はせいぜい1週間で精神を病み、頭皮が剥がれるほどに頭を掻きむしるか、あるいはボディシートでは到底拭えきれぬ垢を爪いっぱいに溜めて絶望に苛まれるか・・・食事を摂ることもしなくなり、挙句に使い物にならないとばかりに懲罰房を追い出される。放逐された後は、国連管理下とは名ばかりの無法地帯となった旧南関東圏をふらつき、飢えか浮浪者のに暴行を受け、誰にも知られることなく屍となって瓦礫のかたわらで腐り果てるのみだ。

 

真琴は、それ以前から精神を壊していた。

 

意識が肉体と異なるだけで、まるで存在を許されないような仕打ちを受けていた頃から、この世に存在する意義を見出せなかった。母や仲間の理解を得られ、下町の弁当屋で働きながら看護師を目指していた頃は、自分でも驚くほど希望に満ち溢れていた。もう2度と、自分の存在を忌避しない・・・本気でそう考えていた。

 

だが、母や仲間を喪い、心の拠り所も・・・そして、自身のどこか奥底に存在していた、女性としての尊厳も、惨めに踏み滲みられてから、真琴はもう心が死んだも同然だった。

 

唯一、腹は減るので食事は欠かさなかったが・・・その気力も湧かぬいま、緩慢なる死を甘んじて受け入れよう・・・そんな心境にすらなっていた。

 

否、せめて、せめて自分を汚したヤツら・・・踏み躙ったヤツらへの怒り、怨嗟は、真琴の中で照善と暗い炎のように燃えたぎっていた。

 

あのヤニに塗れたような舌が自分の口内を弄る感覚が、思うまいとしても蘇ってしまうのだ。その度に、何度も舌を乱暴に喰いちぎる妄想をしただろうか。

 

そして・・・なにより、これほどの地獄へと自身を導いた相手は、何だろうか。

 

ゴジラ・・・・・?

 

同じ訓練生の中には、家族や大切な存在を奪った対象として、ゴジラへ激しい怒りをたぎらす者もいる。では自分は・・・ゴジラが、憎いか。

 

そんな怒りも、不思議と湧き上がらない。

 

ただただ、学校へ行かず引きこもっていたあの頃のように、無気力に横たわるのみだ・・・。

 

突然、自身の房を閉ざしていた電子錠が開く音がした。青白く正気の無い、サングラスの奥の薄ら気味悪い瞳を向けながら、訓練教官の石倉が入ってきたのだ。

 

「三崎真琴、出房だ」

 

それだけ言うと、傍らの屈強な警備員が2人がかりで真琴を立ち上がらせた。されるがまま立ちあがろうとして、真琴はふらついた。当然ながら、脚の筋力が弱りきっているのだ。

 

「1日だけ与える。普段通りの訓練に戻れる身体にしろ」

 

それだけ告げ、石倉は背を向けた。いくら弱っているとはいえ、教官へ暴行をはたらいた訓練生である。がっしりと抑え込まれた両腕を引きずられるように、真琴は房を出た。

 

出房・・・嬉しくもなんともなかった。また訓練生と同じ生活をして、ヤツらに殴られ、果ては身体の尊厳を損なわれる日々を送るのだろうか・・・。

 

 

 

 

 

出房した後、用意されたまともな食事にこそ手をつけたが、大浴場の利用は拒否した。シャワーを浴びたい気分でもない上に、ここは自身を穢されたところである。ボディシートでサッと身体を拭くのみで済ませた。その後訓練が終わるまで待機、と言われ、ひとまず真琴は椅子に背をもたれ掛け、目を瞑った。だが睡眠などと優雅な行為は取らなかった。

 

訓練所内での散髪などは、美容師あるいは美容学校などに通っていた腕に覚えある訓練生が都度呼ばれ、ハサミを入れることになっている。説明によると、これまで散髪を担当していた訓練生が使いものにならなくなったことで、これまでとは別の人間が担当するそうだ。

 

だが入ってきた男性を見て、真琴は身体が強張った。1カ月前、足立に半ば強要される形で真琴の身体を穢した、あの気が弱そうなヤツだったのだ。

 

罪悪感でもあるのか気まずそうに顔を背ける。真琴はそんな彼に、射るように睨みつける。だがそこへ続いて、足立たち一行が入ってきた。

 

「三崎さん・・・てか、三崎。出房できてよかったね?」

 

うすら笑いを浮かべながら真琴に近寄る。さらに強く睨む真琴だが、怯えの色も浮かんだのを見逃さなかった足立は、無造作に長く伸びた真琴の髪を強引にひっつかんだ。

 

「そんな怖い顔すんなって。てかだいぶ伸びたなあ。オイ真矢」

 

真矢、と呼ばれた気の弱そうな男は、足立の声にビクついたように肩を震わせた。そのハサミよこせ、という足立の顔色を察知した真矢は、まるで献上するような形で足立にハサミを渡してよこした。

 

「綺麗にしてやるからさ、おとなしくしとけよ?」

 

足立は乱暴に真琴の髪の毛をしばりあげると、一気にジョキジョキとハサミを入れた。長かった真琴の髪の毛は切断され、無造作に耳の辺りまで髪の毛が垂れるばかりとなった。

 

息を吸い込んだまま、真琴は堪えようのない悲しさと怒りが自身を込み上げ包むのを感じた。髪の毛をいともあっさりと切られるショックもあるが、何より、そう感じてしまう自身の中にある女性としての感傷に腹を立てた。

 

「おい、こいつもっと短くしてやろうよ?」

 

「ハサミで坊主作ってやるか!」

 

足立たちの嘲るような口調に歯ぎしりしながらも、腕力でかなうことがない。後頭部の髪の毛からさらにハサミを入れられ、ジョキジョキという音と感触が何度かしたが、「何をしている?」という声がした。石倉だった。

 

「散髪に関係のない者の入室を許可していない」

 

抑揚のない声でそう告げる。少し慌てたふうの足立が「いえいえ」と手を振った。

 

「すみません、僕ら三崎さんが出てきてくれたことが嬉しくて、つい」

 

すると石倉はしばし足立の目を見るも、「夕食の時刻まで各部屋待機だ、早く戻れ。貴様は早く散髪してやれ」とそれぞれに向けて言った。石倉に対してヘコヘコする足立たちは、気づかれぬように舌打ちして真琴にガンを飛ばしながら出て行った。

 

「散髪が終われば、お前は再び懲罰房だ」

 

冷たい目をしながら、真琴に告げる石倉。

 

「はあ?」

 

「生憎、療養室も医務室も満床だ。寝具などは用意する。いましばらく房で生活し体力を戻せ」

 

冷徹に言い放つと、石倉は部屋を出て行った。あっけに取られたような真琴だったが、俯き加減の真矢に鋭い視線を向けた。いいから、早く切れよ、と。

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 11ー

・3月15日 19:47 大阪府大阪市中央区天満橋 うどん屋 「あしやん」

 

 

 

 

「それじゃあ、同期3人の再会を祝してー!」

 

「「「乾杯!!!」」」

 

緑川の音頭で、四人掛けのテーブルに腰掛けた進藤と斉田の3人は、ビールがなみなみと注がれた大ジョッキを勢いよく重ね合わせた。

 

「くあー!」

 

「やっぱたまらんわ〜!」

 

「この瞬間のために生きてるようなモンだ」

 

三者三様、口々にビールを含んだ吐息を満載させて、五臓六腑に染み渡った歓喜の声を吐露する。

 

「や〜、やっぱアレやな。ここで飲むんが一番やな!」

 

早速ふた口目を口に含んだ進藤が、なおも黄金の液体がもたらす作用に身体を震わせながら言った。

 

「やっぱりなあ緑川、お前がチョイスしたトコなんかよりも、オレらの原点!ここで飲むのが一番だよってな!」

 

斉田が隣席の緑川の肩を叩く。時世的にともすればセクハラになりかねないが、当の緑川は苦笑いして頷き、ビールを一気にあおる。

 

「ごめんねぇ〜、偉くなっちゃうとどうしてもああいうところに行っちゃうんだあ」

 

斉田を真似して緑川もグイッとジョッキを空かす。

 

会話の内容にあった通りだった。斉田が関西を拠点に活動を始めたことで、緑川と進藤が斉田を招き、同期3人組の会合を設けることになった。

 

その際、緑川は会社の業務で利用回数が多い、梅田近辺のシティホテル内にある高級中華料理の店で執り行うつもりだった。ところが、良くも悪くも形式ばった画一的で丁寧すぎるサービスは、ある程度年齢を重ねたとはいえ同期の会合にしては、やや不釣り合いで合った。やがて数皿の料理と数本の高級紹興酒を平らげたところで、他所へ行こう!ということになったのだ。

 

そこでここ。うどん屋「あしやん」である。KGI損保同期の中でも特に仲の良かった3人が、現在の観点ではスパルタパワハラな新入社員研修を終えた後、川向かいにあるKGグループ本社からここへたどり着き、ジョッキいっぱいに注がれた生ビールを浴びるほど飲みながら鬱憤を晴らしたことがきっかけで、晴れてKGI損保入社後も3人で頻繁に訪れる先となっていた。

 

ただ・・・断っておくが、うどん屋「あしやん」はうどん屋である。ビールサーバーとタンクを置いているとはいえ、居酒屋ではないのだが・・・。

 

「まったく!久々に来た思ったらお前ら、相も変わらず飲兵衛やないかい!ちぃーっとも成長してへんな!」

 

憎まれ口を叩きながらも、頼まれる前にビールジョッキを3つ持ってくるのは、主人である芦屋である。先代が存命の頃から緑川たち3人とは付き合いがあり、当時から底なしとも言える3人の飲みっぷりに振り回されているというわけだ。

 

「エエか、うちはうどん屋や!居酒屋あらへんで!」

 

もう何万回と耳にしたツッコミだったが、3人はお構いなしに3杯目をオーダーする。

 

「エエやないの大将。なんだか大将の元気な顔見たら酒進むんや」

 

「ホント、あたしもせっかく本社勤務になったのに、全然来れなかったから」

 

「杏奈ちゃん、あんた出世しよったんやろ。そらこんなしがないうどん屋来てるどこじゃないがな」

 

そう言いながら、芦屋は頼まれてもないのに天ぷらを揚げ始めた。お互い、気心の知れたもので、ビールのつまみに天ぷらを数種類あげて出すのが恒例になっている。もちろん伝票にも記載されるため、「頼んでへんのにぼったくりや!」と進藤に突っ込まれるまでが様式美となっている。

 

「それにしても」

 

そう斉田が声を上げた。

 

「大将、怒らないで欲しいんだけど、一頃に比べて、その、お客さんいないんじゃないか?」

 

いくら遠慮のない間柄とはいえ、斉田は言葉を濁しながらも訊いた。

 

「いや、公ちゃん言う通りや。馴染みさんもめっきり減りよったし、一見のお客さんもあんまし入って来なへんのや」

 

うどん屋「あしやん」は天満橋といって、大阪市内でも「キタ」と呼ばれる梅田エリアに程近い。周辺はビジネス街であり、これまでは昼夜それなりのお客が店を訪れていたはずなのだが・・・。

 

「まあ、アレやなあ。首都壊滅騒ぎで、大手企業といえど日本国民の所得は減る一方や。ウチのうどんかて、世界的な原材料価格高騰と極端な円安でにっちもさっちもいかん。値上げしたところで、今となれば外食のうどんかて高級食材や。かといって、インバンドいうんか?外国人がいくところは梅田やミナミの観光地や。こんな中途半端な場所まで来るのはよっぽどの物好きやでぇ」

 

いつもの調子で話す芦屋だったが、やはり経営は深刻なのだろう。表情の翳りが物語っていた。

 

「ま、あれやな。嘆いてもしゃあない。気持ちだけは明るくいかなアカンな!」

 

そのフレーズは、緑川たち3人が新人の頃から繰り返されてきたものだ。自分自身奮い立たせるように放ったが、過酷な社会人1年目を過ごす3人にとって、貴重な激励となっていたことを思い出した。

 

「・・・そうだね」

 

少ししんみりした空気をかき消すように、緑川はジョッキの中身を一気飲みした。斉田と進藤も続けてジョッキを空にすると、またおかわりを頼んだ。当時のことを思い出して飲み干したビールはほろ苦く、また暖かいものだった。

 

「どれ、テレビでもつけよか」

 

気分を変えるように、芦屋は帳場の上にしつけられたテレビにリモコンを向けた。

 

「なんやあ、また香港でデモ騒ぎかいな」

 

さらなるビールのお代わりに応じながら、芦屋はぼやいた。

 

「何やら、中国共産党もごっつい調子乗ってるみたいやしなあ」

 

「そりゃそうやろ。実際はともかく、ゴジラもギドラもワテら作った爆弾でいてもうたりましたーって、エラい喧伝しとるやろ。アメリカはあの通りやし、世界の覇権握ったつもりでおりよるで、ホンマ」

 

「ははーん、ほんでいよいよ香港と台湾をエエ加減自分とこのモンにしたろ、ちゅう話かいな。ほんな、好き勝手話されんしネットもようけ出来んような体制化に組み入れられるのなんかまっぴらやな!」

 

画面に映し出される、香港の大通りを大勢で練り歩き、シュプレヒコールを上げる光景を見て、芦屋と進藤が話す。大阪人同士気が合うのか、昔からよく2人でテレビにツッコミを入れながら床屋談義に華を咲かすのも、ここを訪れた風物詩である。

 

「ねえ進ちゃん、そういえば、ウチの香港支社を閉鎖するかって話、進展あった?」

 

テレビに映し出される大勢のデモ隊と、背後の摩天楼を見ていた緑川が、思い出したように進藤へ訊いた。

 

「んああ?どうやろな・・・まださすがに支社業務への影響は出てないんとちゃうか?」

 

「でもさ、何年か前の香港雨傘革命だっけ?あのときも予想以上にデモが過激化したせいで、支社の営業停止したことあったじゃない。現地邦人企業を中心に安全確保が確認されるまで業務を停止したところも多かったし。こないだの役員会議でも議題に上がってたじゃん?」

 

「んー、まあ、様子見やろなあ。本国の日本がこんな状態やし、かまってられんみたいなトコあるんちゃうか?」

 

グビグビとビールを飲み干すと、芦屋が持ってきたお代わりに口をつける進藤。

 

「話変わるけど」

 

同期とはいえ、退職した身である斉田はKGI損保内部の話題には乗り切れない。それまで口をへの字に曲げていたが、空気を変えるように切り出した。

 

「ゴジラもギドラも、本当に死んだと思うか?」

 

二人どちらともなく訊いてくる斉田。急に何を・・・そんなふうに目をパチクリさせながら、斉田を凝視する。

 

「そ、そらあ、二匹ともあれほど頑丈な身体やさかい、爆弾程度でいてまうとは・・・いや、中国が使ったあの爆弾・・・何やったかな、シンライだか何ちゅうかだが・・・ともかく、放射能出さず核兵器並の威力やったかな?さすがに、無傷ちゅうワケやあらへんちゃうか?」

 

「うーん・・・それに、あれ以来2年近くになるのに、あれっきり姿を現してないもんねえ」

 

「それもそうやしなあ・・・。だが、再編中の自衛隊も、アメリカ傘下のあの軍産企業・・・NEVERいうたか?前にも増して兵器充実させとるっちゅう話やろ。もしかして国は、ゴジラもギドラもまだ生きとるちゅう情報でもつかんどるんちゃうか?ほいで、なんや?オレら国民にはそれらの情報が秘匿されとんのとちゃうか?」

 

「進ちゃん、それは週刊誌の読みすぎ。でもなあ・・・」

 

思案の表情を浮かべる緑川を見た斉田が、顔を覗き込みするように首をかがめた。

 

「なあ、緑川。一昨年ゴジラとギドラの無双ぶりを見たオレたちからすりゃあ、どんなに強力な爆弾だろうが、ゴジラもギドラもくたばるとは思えねえよなあ?」

 

酔っているのか、据わるような目つきになる斉田。言い知れぬ雰囲気に、良い感じにアルコールが作用していた緑川の思考は妙に醒めた。ふいに斉田はスマホを手に取った。

 

「お、ちょっとすまん」

 

そう言うと店の外に出て電話をしてきたようなのだが、ややあって戻ってくると、

 

「悪い、用事ができたから先に失礼するわ。ごめんな」

 

そう言って千円札をいくばくか置き、「悪ぃ、じゃあな」と去ってしまった。

 

「ねえ進ちゃん、公ちゃんてなんか変わったよね」

 

「おお、そうか?」

 

「だってさ、彼万年金欠病患者だったじゃない。別に気にしてないけど、たまに飲んでもあたしたちにおねだりするくらい貧乏だったのにさ」

 

「んー、まあ、なんや仕事でも増えたんちゃうか。それにしても、妙に思わせぶりなんはオレも気になったなあ」

 

ともあれ、斉田は自分が飲んだ分以上のビール代を払っている。いつかまた飲む際にお返ししようということになり、二人はさらにおかわりを頼んだ。

 

 

 

 

 

 

・同日 19:12 中華人民共和国 広東省 冷抗鎮県 愛荷区

※日本より1時間時差があることに留意

 

 

「おい、そろそろだと思うが、どの辺だ?」

 

広東省消防局冷抗鎮分屯所に所属する消防士、栄馬順は、消防車両のハンドルを握る部下の永蘇壮に尋ねた。

 

「もう10分頃だと思います」

 

若くまじめな永は、まともに街灯もなく舗装もロクにされていない道路まっすぐ前を注視しながら、ハキハキと答える。

 

20分ほど前だった。近くにある安西区で起きた山林火災を消し止め、分所へ戻ろうとしていたところ、再び火災発生の一報があった。帰り際であったが、通報箇所が分所よりも近かったため、栄の車両がそのまま向かうことになった。この車両は貯水タンクを携えた放水車ではなく、車両にポンプが備わったポンプ車両であるが、水利さえ確保できればある程度消火活動が可能だ。よしんば火災の規模が大きかったとしても、初期消火くらいは役に立つ。

 

2年前に中国人民解放軍陸上部隊から消防局へ移った栄はもともと香港に隣接している深圳市出身ということもあり、省都である広州市から北東へ70キロほど離れたこの辺りの地理には未だ不案内だ。新入隊員ながら地元出身の永らに運転を任せ、自身は年長者として現場指揮判断をする立場にある。

 

「今回通報あったこの、紅番区っていうのか?あまり耳慣れない地名だが、どんなところなんだ?」

 

栄は相変わらずまっすぐ前を凝視する永に訊いた。

 

「貧困窟です」

 

事もなげに答える永に、栄は納得したように頷いた。

 

「するとバラックの並びか・・・火の移りが早いだろう、急ぐぞ」

 

急激な経済成長を遂げた中国では、国家を挙げて成功を讃える陰で、経済的に困窮し上昇する地価や物価に耐えきれず都市部を捨てて、山間部の寒村や過疎地域に移り住んで貧しい暮らしをする人々が少なくない。そうした人々が集まり暮らす地帯を貧困窟と呼ぶ。

 

中国では移住の自由がなく、これらの行為は違法ではあるが、処罰しようにもそれだけの人民を収容する刑務所や拘置所はない。従って事実上黙認状態なのだが、時たま党の上層部や政治委員の来訪がある際など、デモンストレーション的に人民武装警察や解放軍を動員してこうした違法集落を取り締まることがある。

 

だが違法とはいえ、火災となれば無視はできない。それに栄たちは消防が仕事だ。違反者を取り締まるのは公安や人民武装警察の役割なのだ。

 

ものが焼ける臭いがしてきた。ここまで臭ってくるとは、どうやら規模はやや大きな火災のようだ。木材が焦げる濃密な臭いに加え、ほのかにだが薫ってくる臭いに、栄は違和感を覚えた。そこをつんざく、搭載している無線の通知音。栄は無線のマイクを手に取った。

 

「こちら車両072」

 

『片だが』

 

驚いたことに、栄たちが所属する分屯所の所長だった。一瞬唖然としたが、気を取り直して無線機に耳を傾ける。

 

「どうしましたか?」

 

『お前たち、紅番区の貧困窟へ出動してるな?』

 

「はい、通報を受けましたので」

 

『紅番区への出動はとりやめる。引き返すんだ』

 

言葉に詰まった栄は、永と顔を見合わせた。

 

「どういうことです?」

 

自身の職務からかけ離れた上席の指示に、栄の言葉尻には怒気がこもった。

 

『上からの命令だ。紅番区への火災は、陸軍の広東省駐屯部隊が対応中。我々の出る幕ではない』

 

「そんな・・・もう軍が出動してるんですか・・・というか、現場は間もなくです。ここへ来て引き返すなど・・・」

 

『言っただろう、上からの命令だ!』

 

栄の一番嫌いな言葉だった。そして、自身が所属している分屯所の上席は、片を含めよくこの単語を口にする。

 

「上ってどこですか?」

 

案の定、片は押し黙った。消防も、以前所属していた軍もそうだが、この国は上からのお達しには思考停止してしまいがちだ。そうした状況に陥るたびに、栄は上席に突っかかっていた。そうしたことが重なり、軍を離れざるを得なくなった事もたしかなのだが、栄が忠実なのはあくまで職務であり、不透明な『上』とやらの理不尽な命令ではない。

 

「・・・とにかく、もうすぐ現場が見えてきます。軍が動いていようが、我々は現場でできることをしますよ」

 

何か怒鳴ってきた無線を乱暴に置くと、噴飯やる方なしとばかりに栄は背もたれに身体を押し付けた。若く真面目な永は、要らぬ反骨精神に自分を巻き込まないでくれと言わんばかりに不安げな顔を向けてくる。

 

だが栄がこうした言動を取るのは反骨精神だけが理由だけではなかった。先ほどから感じているが、焼ける臭いがおかしいのだ。明らかに石油、もしくはそれに準ずる可燃性物質が炎上する臭いがしてくるのだ。貧困窟の石油暖房機から出火したとしても、鼻腔で感じるほど薫ることはないはずだ。暗い未舗装道路の先に、やがて赤々と昇る火の粉と、大木のような黒煙が幾筋も見えてきた。

 

「あそこは盆地状になっていて、この坂を登りきればくだりです」

 

永の解説に、ならば高所からの放水が有効だと思案していたが、より一層焼ける臭いが強くなった。栄は確信を持った。

 

「・・・これは、ナパームじゃないか」

 

つぶやくと同時に、車両は坂の頂に至った。すり鉢状になっている盆地は、広範囲にわたって燃え盛っていた。ただどこかの火災が火元になった、といった様子ではない。焼夷兵器を用いて一斉に着火、爆発状に火炎が拡がったとしか思えない燃え広がり方をしていたのだ。

 

そしてこの臭い・・・栄は、軍にいたときの演習で広西チワン族自治区にて行われた、空爆からの退避訓練を思い起こした。あのときは広大な山砂漠に、空軍がナパーム弾を投下して広範囲を焼き、その近くで火炎と黒煙から如何にして身を守り、空の敵から逃れるかという演習だった。間違いない、この集落はナパームによって「人為的に」焼かれているのだ・・・。

 

眼下の火災に勝る勢いで、栄は激しい怒りを激らせた。いったい、どこの誰・・・もとい、どこの部隊がこんな残虐非道なマネをしやがったというのだ・・・!

 

「おい、お前ら!」

 

立ち昇る黒煙の向こうから、誰かが声をあげてきた。呆然と眼下の猛火を眺めていた永が弾かれたように身体を硬直させた。すると、野戦服の上から防火蓑をまとった陸軍の兵士が数人やってきた。

 

ここへやってきた栄たちを咎める目的があるのは、連中の声色から明らかだった。だが栄は相手の反応を待つまでもなく、先頭をやってきた兵士につかみかかり、その身体を軽く浮かせた。左手の爪がいくつか引っ張られて剥がれたような気もしたが、まるで気に留めなかった。

 

「貴様らぁ・・・これはなんだ!?」

 

そう怒鳴る栄を、仲間の兵士が引き剥がすも、なおも食ってかからんとする栄。掴み上げられむせ込んでいるヤツの階級章が首元から見えた。少尉の位だった。以前なら栄よりも階級が上で上官にあたるが、除隊したいまなら関係ない。

 

「何が目的でナパームを使った!?住人たちはどうしたぁ!!」

 

そう怒声を張り上げる栄。すると何人かの兵士が目を伏せた。栄の発した言葉のどこかに、後ろめたさがあるかの如く・・・。

 

「クソ・・・ふざけるな!貴様らそれでも解放軍兵士かあ!!守るべき人民になんてマネをしやがったんだ!!」

 

すでに栄の拳が振り上げられていた。いくら同じ公僕とはいえ、消防局と人民解放軍では格が違う。そこを察知した永と、目の前の少尉についてきた若い兵士が、必死に栄の腕を押さえにかかった。

 

「やめてください!」

 

永の叫ぶような嘆願で栄はいささかばかり冷静さを取り戻しはしたが、それでも、食いしばる歯茎から血が滲むほどの怒りを露わにし続ける栄。

 

「・・・お前ら、出動の命令は出ているのか?」

 

どうにか息を整えた少尉が訊いてきた。

 

「通報があったんだよ!」

 

「このあたりはこの貧民窟以外、住居はないと聞いていたが・・・人民たちに携帯電話が行き渡るというのも考えものか」

 

そうつぶやく少尉は、栄よりもやや年上の40くらいに見えた。

 

「おい、質問に答えろよ。なんだってこんなこと・・・」

 

そう言いかけた栄だったが、そこでようやく周囲の様子に気がついた。すり鉢状になっているこの盆地の外周に、装甲車や軍用トラックがけっこうな数、立ち並んで

いたのだ。

 

これは・・・この数は、ただの演習や訓練などではない。コイツら、「実戦として」この」集落を焼き払ったのだ。

 

怒りが込み上げ続けるも、栄は冷静に思考を巡らせた。是非はともかく、軍が実力を行使して「人民ごと」村を焼き払うとなれば・・・。

 

「まさか、未知の疫病でも生じたというのか・・・」

 

そうつぶやいた栄。だが少尉はそれに答えなかった。

 

「いいから、ここから失せろ。黙って去るなら、オレたちはお前らに銃口を向けることはしない」

 

如何にも忌々しそうに、少尉は吐き捨てる。

 

「いや・・・疫病なら化学防護車が出てくるはずだ。そうではない、とすれば・・・」

 

なおも思案を駆け巡らせる栄。いい加減に堪忍袋の尾が切れかけているのか、少尉は周囲の兵士に「さっさとコイツを摘み出せ!」と怒鳴った。

 

「それとも・・・香港か?共産党支配への反発を強める香港への牽制・・・いや、にしても・・・」

 

興奮と困惑のあまり、思ったことがそのまま口をついてしまう。いよいよ兵士に肩をつかまれたとき、銃声がした。それも1度や2度ではない。栄も永も、兵士たちも音がした方をに顔を向けた。西側の頂に鎮座している装甲車のあたりから、銃声と発砲する際のフラッシュが見える。だがどこへ向けて撃っているのか。

 

そうしているうちに、今度は悲鳴が紅い夜空に響いた。続いて、聞いたこともないような甲高い、啼き声・・・。

 

「まだいやがったのか!」

 

そう叫ぶ少尉。かたわらの兵士たちは栄と永から手を放し、携えていた08式歩兵槍(人民解放軍制式の突撃銃)に手をかけた。

 

「おい、なんだっていうんだいったい?」

 

さっぱり状況が飲み込めない。栄は少尉を捕まえてそう訊くが、ホルスターからノリンコの自動拳銃を抜いた少尉に「さっさと去れ!」と怒鳴られた。火災の近くという割には、妙に冷たい風が流れ出した。

 

「状況を教えてくれ!」

 

栄がそう怒鳴ったと同時だった。頭上で何かが空を切ったかと思うと、一刃の強い風と共に、永の身体が、空を舞った。

 

「ぎええええええええ!」

 

まるで獣のような永の絶叫が、炎に照らされた夜空に響き渡る。永の姿はすっかり見えなくなった。いつの間にか、あちこちで銃声がするようになっていた。

 

また、熱い空気を裂くように何かが頭上を滑空した。今度は弾けるような音がして、さっきまで自分を押さえていた若い兵士が倒れ込んできた。まるで引きちぎられたように首から上がなくなっており、噴水のような血が地面と栄に降り注いだ。

 

「うわあ!うわあああ!」

 

すっかり動転した隣の兵士が、叫びながら銃を乱射する。そのうち数発が地面から空を薙ぎ、射線上にいた別の兵士は哀れ弾丸をまともに喰らい、仰向けに倒れ込んだ。

 

兵士はそのまま空へ向けて発砲していたが、フルオートで発射していたために1分も経たず弾が切れた。慌てて別な弾倉に交換しようとするが、手から滑って地面に落ちてしまう。拾おうと身をかがめた兵士に、何かが襲いかかった。

 

いったいどこから来たというのか、闇を突き抜けるように兵士を薙ぎ倒し、兵士の苦悶に満ちた叫びが上がった。炎の光に少しばかり照らされたそれは・・・人間より少し大きな、茶色い・・・鳥だった。

 

そこへ、少尉が拳銃を放った。人間のものではない叫びが短く聞こえ、少尉は片手で無線機に怒鳴った。

 

「鳥だ!鳥が・・・」

 

一閃。

 

少尉の顔面に黄色い光が走った。顔の右半分が「綺麗に」切り落とされ、そこに別の鳥が舞い降りた。

 

もはやこの世のものと言えぬ光景に慄然と立ち尽くしていた栄。左のこめかみに、鋭い何かが喰い込んだのがわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ーChapter 12ー

 

 

・3月16日 8:08 茨城県牛久市ひたち野下根町 民間軍事企業「NEVER」訓練施設

 

 

 

 

 

「空き部屋がない」

 

「訓練施設整備までの措置」

 

石倉にそう告げられて一昨日から再び懲罰房に収容された真琴だったが、今回の懲罰房生活はいささか面食らうものだった。

 

固く冷たい床に寝そべるだけの生活ではなく、それなりの寝具も用意され、身体を拭くボディシートも提供された。食事も、訓練時と同じような内容のメニューが3食きちんと出され、凍てつくような地下空間の寒さも、毛布に包まればどうにか凌いでいけるものだった。

 

だが、それでも回復しないものがある。真琴の、心だった。

 

腹はそれなりに減るので食事は人並みに食べるが、それ以外は・・・毛布にうずくまり、何も、深く考えない刻を過ごす。もはや、成り行きでやってきたこの訓練施設も、あるいは訓練も、何ら真琴の興味を掻き立てる・・・もとい、生きる意義になり得ないものだった。

 

訓練に引きずり出されたところで、男でも、女でもない自分は、教官の目を盗んで他者をいたぶる連中の餌食となるばかりだろう。あんな生き地獄をこれからも味わうくらいなら・・・真琴は、そればかり考えた。

 

もしも訓練が再開したら、射撃訓練の際渡される自動小銃で・・・だが、教官の目が思いの外厳しい。実際、訓練中に自殺者が出たこともあり、自動小銃を台座から固定されてしまう、あるいは、ゴーグルによるVRでの戦闘訓練へと内容が変更され、訓練以外の用途で扱うことはできないのだ。

 

他の手段・・・といっても、もしこの房内で自殺など図ろうものなら、どこに仕掛けられているのかわからない監視カメラに察知され、すぐに警備の連中が駆けつけてくる。それに天井がかなり高く、何かを吊り下げようにも叶わない。

 

少なくともここを出られない限り、死ぬことすらできない。逆にここを出れば、鬼畜どもに痛めつけられ、なぶられ、やがて命を失うことになるかもしれない。それなら、それで良い、そのときをただ待てば良い・・・そう考えるに至り、真琴は考えるのをやめた。

 

最初は苦痛でしかなかった時間の経過(何もすることがなく時が過ぎるのを待つ、というのは通常この上ない苦痛なのだ)も、何も感じなくなった。しっかり時間通り出される食事のみが、陽の光も入らぬ、無機質な地下空間において時間を把握する手段であった。

 

「三崎真琴、出房だ」

 

おそらく朝食を食べた後、おもむろに現れた石倉にそう告げられ、房の錠が外された。銃を携えた警衛が2名つき、真琴は促されて外へ出た。今、この銃を奪って自身の頭に撃ち込めば・・・そんな考えが頭をよぎったが、背後にいる警衛の体格に抗えそうにない。自死の機会を逸したまま、真琴は促されるがままに房を出た。

 

すっかり自分のニオイが染み込んだ訓練服を脱ぎ、また同じような、しかし新品の服を支給される。手短に着替えろと指示され、真琴は反応もせず黙って済ませた。

 

先日切られた髪の毛はうざったく耳にかぶさっているが、前髪も含め前に比べればだいぶスッキリしている。傍目から見れば、真琴を女性と認識することはないだろう。思えば、1ヶ月にわたる懲罰房生活でだいぶ髪が伸びた上、ロクに洗髪もできずごわついた髪の毛を伸ばし放題に任せるのみだった。

 

房内に照明はあったが、それでも直射日光には到底及ばない。数日ぶりの朝日に、真琴は目を強く細めた。

 

「お前に与える訓練の用意まで時間がかかる」

 

こちらに背を向けたまま、先を歩く石倉が口を開いた。

 

「身体を慣らす意味合いもあるが、今日は朝から格闘戦闘術訓練だ。そのまま合流しろ」

 

一気に胃が萎むような感覚になった。真琴は平静の表情を浮かべながら、顔にイヤな汗が浮かぶのを感じた。

 

NEVERの訓練は一般的な軍隊とやや異なり、親会社が超大手IT企業なこともあって、戦車などの車両操縦や白兵戦を想定した模擬訓練はVRを使用する場合が多い。あるいは模擬銃、模擬弾を用いた実戦訓練だが、ルールの厳しいサバイバルゲームをやっているようなもので、各隊員ごとにスコアリングされるものの半ば遊び感覚で取り組む隊員も少なくない。

 

そんな中、どうしてもVRではなく実際に訓練しなければならないものがある。体術、軍隊式格闘技の訓練である。

 

米陸軍の近接格闘術をベースに、各国軍出身者のNEVER社員たちが独自に編み出したものである。これを体術に優れた教官数名が真琴たち新入隊員に文字通り叩き込むのだ。この訓練時には骨折、捻挫をしてしまう隊員が珍しくなく、当該日には多くの隊員が杞憂の表情で朝の食事を喉に流し込んでいる。

 

訓練復帰の端からこの格闘技とは・・・訓練の際に殴られ、蹴られることが怖いのではない。実はこの訓練において、弱い者は「訓練をしている風に」なぶられ、虐げられるのである。

 

おかしい、死んでしまっても良いと考えていたのに・・・この身を他者に甚振られることへの恐怖、抵抗が真琴の精神を大きく震わせていた。

 

訓練所の中庭は学校の校庭ほどの大きさがあり、すでに数十名の隊員が中央に集まっていた。だがいつもなら、二人一組のペアで教官指導の下行われるものなのだが、今日はやや趣が異なった。

 

まるでギャラリーのように隊員が中央を囲み、その中央では時折歓声が上がっている。普段との相違に足を止めている真琴に気づいたものがいた。足立優吾だった。

 

端正な顔にまるで似つかわしくない下卑た表情を浮かべた足立は、真琴に近寄るとやや強引に腕をつかんだ。反射的に腕を振りほどいて侮蔑を込めた睨みの視線を送る真琴をかまわず、その腕を再度つかみ、円陣の中央へと誘おうとする。

 

「おい!三崎が出てきたぞ」

 

すると足立の取り巻きである男子たちからは気持ちの悪い濁った目を向けられ、事情を知る女子たちはまるでゴミを見るように真琴へ険しい視線を向ける。

 

足立に連れられるがまま円陣中央へ来ると、幾人かの隊員が地面に突っ伏し、のたうち回っていた。

 

「鳴海さん!こいつのことも仕上げてやってくださいよ!」

 

足立が嬉々としてそう話しかける男。累々と倒れている隊員たちを尻目に立っている、白髪を短く刈り込み、捲っている腕はスリムながらも鍛え上げられた筋肉が浮かび上がっているのがわかる。

 

様子からして、この鳴海という壮年の男性が隊員数名を打ちのめしてしまったようだ。それも男子ばかりではない、女子にも容赦はないようで、腹部や腕を痛めたのか苦悶の表情で真琴を見上げている。

 

しかし鳴海と呼ばれた男、何者なのだろうか。当初教官かと思ったが、着用しているのは真琴たちとおなじ隊員の服装だ。本来教導する立場である教官らは、やや後ろに下がってこちらの様子を伺うのみ。

 

奇異を感じる真琴に、鳴海は視線を合わせた。真琴がこれまでの訓練で相手をしてきたどの教官とも異なる雰囲気をまとっていた。上手く言い表せぬが、ギロり、と真琴を見やる目は、それこそ肉食動物のようであった。だがライオンやハイエナのように荒々しく粗野なものではない。冷静に狩るべき対象を見定め狙う、あたかも猛禽類、もしくは狼のそれだった。

 

「・・・おい兄ちゃん。お前、ここへきてどのくらいだ?」

 

拳を握り、格闘の構えをとって鳴海と呼ばれた男が訊いてきた。

 

「・・・4ヶ月、くらい」

 

その迫力に押されつつも、真琴は答えた。「兄ちゃん」と呼ばれたことが、やけに真琴の心を引っ掛けた。

 

「その前は?富士かどこかで訓練は積んだんだろ?」

 

その通りだ。真琴は言葉に出さず、首を縦に振った。

 

「オラ早く構えろよ」

 

足立が低く、小さくもドスの利いた声で真琴の尻を蹴る。苦痛と憎悪に顔を歪めつつも、真琴は訓練通り、徒手格闘の構えをとった。

 

「先にかかってこい、かまわないから」

 

鳴海という男が言う。だが男の威容に気圧され、まるで足が前に出ない。

 

「オラっ!」

 

また、足立が真琴の尻を蹴り上げる。後がなくなった真琴は「うおおおお!」と怒声を上げ、左手拳で殴りかかった。徒手格闘術の突き、お手本通りの技だった。

 

「!!うぐぁっ・・・!」

 

これまで味わったことのない衝撃が股を揺らした。直後に襲いくる、脳が痺れるほどの鋭い痛み。

 

「グェあああああ・・・・!」

 

声を絞り出すのも精一杯、真琴は股を押さえて地面に崩れ落ちた。完全に突っ伏し、顎が地面についても痛みがまるで収まらない。顔中に脂汗が浮かび、呼吸をする度に蹴られた股がひどく疼く。

 

「あああああああ!!!」

 

耐えきれず、のたうち回って叫ぶ。声を出しても、押さえても痛みが引かない。そんな真琴を怪訝な目で見遣る男は構えの姿勢を崩した。

 

「鳴海さん、さすがっすね!」

 

足立がまるで権力者の太鼓持ちかの如く、鳴海に寄った。

 

「いやあ、もっと実戦の恐ろしさを知ってもらいたいヤツがいるんですよ!今度懲罰房から出たら、つれてきますから!」

 

ヘラヘラと喋りかける足立。だが、その足立の足が宙に浮いた。

 

「お前は実戦の怖さ、知ってるのか?」

 

鳴海が右手で足立の胸ぐらをつかみ、そのまま持ち上げたのだ。

 

「い、いや・・・」

 

その迫力に、ヘラついた表情が固まったまま足立は答えた。

 

「そういえば、お前はまだ手合わせしていなかったな?」

 

まるでカエルを睨む蛇のように、冷たく険しい目で鳴海は足立を覗き込んだ。

 

「そ、そんな、オレは、別に・・・」

 

恐怖からヘラヘラ笑いをまた浮かべる足立。そのまま放り投げると、鳴海は鼻を鳴らした。ギャラリーの向こうから石倉がやってきたのだ。

 

「鳴海。実戦経験ある貴様に指導は依頼した。だが、隊員を負傷させろとは言っていないはずだ」

 

必要があれば、いつでも高圧電流を帯びた警棒を叩きつけるべく握りながら、石倉が言った。

 

「大丈夫だ。痛みはあるだろうが、怪我はさせてない。じきにこいつらも立てるようになる」

 

数名は一撃で鳩尾を突かれ、また数名は人中(鼻と口の間)に強烈な指突きを受けてもんどり打っている。男も女もなく悶絶、あるいは恥も外聞もなく吐瀉物を撒き散らしている。そして真琴は、股間の痛みに喘ぎ、必死に呼吸していた。

 

「たしかに、相手を無力化させる攻撃だ。彼らにとり良い教訓となっただろう。だがそれもほどほどにしておくことだ」

 

そう言うと、石倉は集まっている訓練生たちを仰いだ。

 

「格闘訓練はここまでだ。いつも通り休憩した後、メーサー戦車のVR訓練を行う」

 

その言葉で取り巻きの指導官たちが訓練生たちを移動させる。足立は石倉の見えないところでひどく悪態をつき、子分のように取り巻いている男子の腰に蹴りを入れた。

 

「鳴海、貴様は別だ」

 

同じく移動しようとした鳴海を、石倉は呼び止めた。

 

「貴様は引き続いて、メーサー攻撃機のVR訓練だ。いつも通り。いや、今日からは違うな」

 

すると石倉は膝を折り、真琴の髪の毛をつかみ上げた。

 

「おい、動けるようになったらこの鳴海と行動を共にしろ。鳴海、今日からこいつにVRでメーサー攻撃機の訓練を教えてやれ」

 

乱暴に髪をつかまれても、真琴は痛みに悶えることしかできない。いくらか痛みは引いてきたものの。

 

「わかったら行け」

 

それだけ告げると、そこを去っていった。

 

「なあ、おい」

 

鳴海はむんずと真琴の頭をつかんだ。

 

「そういうわけだ。いまからオレとこい」

 

そのまま頭を持ち上げ、半強制的に真琴を立たせる。股間の痛みは相変わらずひどいが、どうにか我慢できるくらいにはなってきた。

 

「まだ痛むか?」

 

真琴は痛み故に声を出せず、だが怒りを込めた目を湛えて頷いた。するとおもむろに鳴海は真琴の頬を平手で叩いた。

 

「ンなにしやがっ・・・」

 

「今のとどっちが痛い?」

 

抗議する前に訊かれた。

 

「・・・今、の」

 

ジンジンと痛む頬を押さえ、真琴は答えた。

 

「なら大丈夫だ。少なくとも骨折はしてないだろ」

 

ついてこい、と鳴海は真琴を促した。

 

「女は男と違って股についてるものがないからな。下手をすればそこの骨が折れてた。知らずにすまなかったが・・・お前、女じゃないのか?」

 

あまりにも無神経な問いかけだった。真琴は歯を食いしばり、鳴海を睨みつけた。

 

「・・・怒るこたぁないだろ。まあ、いい。おい男おんな、オレは鳴海だ。いまからメーサー攻撃機ってヤツの操縦を教える。気は乗らんが、クソッタレの石倉教官の命令だ。せいぜい足をひっぱらずつきあってもらおう」

 

男おんな・・・その単語が頭の大部分を支配された真琴は、他の言葉が耳に入らなかった。

 

 

 

 

 

支社長室へ向かった石倉だったが、村岡は英語で誰かと電話していた。無論石倉は英語を解するため、どういう内容か窺い知れた。

 

「参った。成果主義もここまで極端だと、組織も腐るよ」

 

入ってきた石倉にそう愚痴をこぼす村岡。

 

「なんとなく、聞こえてたでしょ」

 

「はい。しかし訓練とはいえ実際にメーサーの放射というのは、訓練箇所の選定などで早くても来月にはなります」

 

困ったように苦笑いする村岡に、石倉はそう答えた。

 

「そう。まあ、買い手が早いところ実戦データを欲してるっていう事情があるのは理解できるんだけれどね」

 

勤務中にも関わらず、村岡はバーボンの瓶を開けてコップになみなみ注ぐと、氷を入れず口に入れた。

 

「クライアントが騒いでるんだろうなあ。切羽詰まった日本政府か、米国や日本の二の舞三の舞はごめんだと震えるNATO諸国か、はたまた・・・」

 

そこでふと、村岡の表情が変わったのを石倉は見逃すことはなかった。

 

「メーサー砲放射訓練の場所は簡単に決まらないって言ったよね?」

 

「はい」

 

「・・・急ぐんなら、手立てはあるかな」

 

村岡はどこかへ電話をかけようとしていた。

 

「支社長・・・」

 

「仕方ないでしょ。ああ言ってくるってことは、暗にこうしろと言ってるようなものだもの。それにねえ、考えてみれば貴重な実戦訓練のデータを戦車のAIに学習させられる絶好の機会だもの。無理難題どころか一石二鳥の状況だよ」

 

石倉は何も言わなかった。やがて話をまとめた村岡が電話を切ると、いつものように下卑た笑みを浮かべた。

 

「話はまとまったよ。ちょうど良い在庫処分になるのと、良い実験機会ってことで先方も乗り気だ。これで思ったより早くAI学習進められて自動操縦のメーサー戦車開発につなげられそうだ」

 

喜び顔でまたどこかへ電話をかけようとする村岡。

 

「それにね、まだ表には出ていない様子だけれど、どうも中国南部でキナ臭い事案が発生してるらしいよ。いやああいう国だから情報は遮断されてしまってるけれどね。まあ、本当に現れたら我々の兵器実演会とでもシャレ込んでいこうじゃないの」

 

「・・・支社長、計画より早く戦車の無人化が達成された場合、いまの訓練生たちは如何に処遇をつけましょうか?」

 

「そんなのね、決まってるでしょ?企業というものは組織や仕組みを改編させるときに不要な資源をカットさせるの。まあ、リストラされても日本政府が人手不足顕著な自衛隊にでも組み込んでくれるでしょう。それか、我々の手で日本版民間軍事企業作って会社ごとさっさと売り払うか。ビジネス展開考えるだけで背筋がゾクゾクしてくるよ」

 

大いにバーボンをあおいで、村岡はさらに通話を始めた。石倉は鉄面皮のまま、部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 



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