オウマイソン! (サイスー)
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原作13年前

「オイオイオイオイオイぃぃいぃぃ!!! いるのはわかってんだぜェ、オッサンよォォォォ!! さっさと400万きっちり揃えて返しなァ!!!」

 

 ドンドンガスガスゴンゴンガンガン……

(ここは工事現場かってんだ)

 荒れ果てた6畳1間のワンルーム汚部屋で片腕をついて寝そべった無精髭の男がくあぁと大きなあくびをする。いたるところに酒瓶やスナック菓子のゴミ、コンビニの袋や弁当の殻が散らばっている。手の届くところにはワンカップが開けられており、朝っぱらから酒を飲んでいることがわかる。

 どこからどう見ても立派なダメ人間であった。

 

「すみませ~ん、静かにしてもらえますぅ? 近所迷惑なんでぇ……ヒック」

 

 寝そべったまま気だるい声をあげる男に、扉の向こうの男達がさらにいきり立つ。

 

「居留守使ってんじゃねーぞ!! コラァ、出てきやがれ!!」

「居留守っつーか――動きたくないだけですぅ」

「鍵開けろやコラ!! ぶっ壊すぞ!! タマナシさんよォ!!」

「タマありますぅ。サオもついてますぅ」

「馬鹿にしてんじゃねえぞ!! 早く開けろやコラ!! マジでぶっ壊すかンな!!」

 

 割られた窓ガラス、一度ならず二度三度と潰された扉。その修理費はもちろん男――30歳無職多摩無アキラ持ちである。

 こう何度も扉を壊されると修理費が馬鹿にならない。

 

「はいはい、今開けるからおとなしくしててね、っと……あーだりぃ……」

 

 よっこらしょ、とオッサン臭い掛け声とともにようやく起き上がる。足の踏み場もないため、適当にごみを蹴りながら進んでカギを開ける。

 勢いよく開かれた扉はアキラの眼前でビュオンと風を起こす。黒服に身を包んだ没個性的な男達が3人。どいつもこいつも眉頭を立て、目を吊り上げて口をひん曲げアキラを睨みつけている。

 3種3用のそのファニーフェイスを見たアキラは腹を抱えて笑い出した。

 

「ひゃっひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!! こりゃァいい!! お前ら揃いも揃って福笑いに失敗したような顔面しやがって! 朝から最高に笑えるぜ!」

「うるせェ! ってゆーかクッセ!! てめェ、風呂にも入ってねえのか!!」

 

 アキラに近づいた男が鼻をつまみ、距離を取る。酒とオッサンと獣臭が入り混じりアキラの半径5mにはすさまじい異臭が漂う。

 

「借金してる分際で朝から酒たァいいご身分じゃねーか! 腐ったその性根、叩き潰してやンよ」

「やンよ? なにその語尾、かわいいネー。ひゃひゃひゃひゃひゃ」

 

 もともと酒気を帯びていたが、笑いすぎで顔面から耳まで真っ赤に紅潮させ、涙を浮かべてばしばしとひざを叩くアキラに、男たちは怒髪天を突く。

 びゅんっと素早い風切り音とともに繰り出された右ストレートが、酒でおぼつかない足取りでよろめいたアキラの顔の横を通り抜ける。パラパラと数本の髪の毛が散る。

 

「んー? おま、いきなりあぶねえだろぉ。ヤクザかよぉ。あ、ヤクザかぁ」

 

 当てるつもりの一撃を運よく躱され、よろめいた黒服の股間をアキラが偶然のようによろめいて、近くにあった木製バットに手をついた。もちろんそれは支えにはならず、壁に手をつき勢いで持ち上げたバッドが黒服の股間に直撃する。

 

「ぐぁぅおぉぉっっっっ!!!!!!」

 

 チンコを抑えて内股に震える黒服その1。見ていた黒服が仲間の復讐のために「このクソおやじがぁぁぁぁ!」威勢よくアキラに殴りかかる。玄関に落ちていたバナナの皮に気づかず。踏み込みをバナナの皮で思い切り滑らせた黒服その2は体勢を崩して起き上がろうとするアキラの足に引っ掛けられて、ずべしゃァと地面へと顔面から落ちた。

 

「て、てめぇ……!」

 

 その2が転がっているため、よっこいしょと跨ごうとしている間にアキラは、うーんと考えてから卑怯にもその2の股間を蹴り上げた。

 

「おっふぅぉぁぁぁぁぁぁっ……!」

「あーもう、こんなに散らかしちゃってもう。片付けといてよねぇ」

 

 腰に手をあてて、どこかのおかんのように起こっているが、部屋の惨状は黒服が来る前にアキラが着々と作り出したものである。

 全員をぽいぽいとゴミのように部屋の中へと放り込み、扉を閉める。近くに置いてあった段ボールやら消火器やら廃材やらでしっかりと扉を固定し、再び大あくびをしてから歩き出した。

 

「オイコラ開けろぉぉぉぉ!!! ざけんじゃねえぞ!! クソおやじ!!!!」

「近所迷惑だなぁ、もうー」

 

 耳糞を小指でほじりながら下駄でカンカンと音を立ててぼろいマンションの階段を下りる。

 ここのところ怪人の出現率が高まってきたこともあり、じわじわと住民たちは他の町へと移動を始めている。それなりに人口も多く、賑わっていた町だったのだが、最近では引っ越し業者のトラックがぶんぶんと行きかっている。おかげで家賃滞納していてもすぐには放り出されないのでありがたい。怪人サマサマである。

 

「あー……久しぶりに太陽なんて見たなぁ」

 

 分厚いカーテンで閉ざされた室内。電気は止められているので太陽が出ているあいだはうっすらと明るいが、夜になると街灯の明かりしか入らない。

 さんさんと降り注ぐ陽光に、鬱陶しそうに目を細めて気だるく足を引きずるように歩いている。

 

 毎日毎日酒を飲んでは寝る、飲んでは寝る、飲んでは寝る。駄目なおっさんの休日が永遠と続いている。

 アキラのここ数日は同じことの繰り返しであった。

 

「なんかおもしれぇことでも起きんかなぁ」

 

 若いアキラには夢があった。あの時は目標もあって、毎日が楽しかった。日々コツコツと努力をするだなんて今のアキラからは考えられないが、苦難を厭わない熱い青年時代を過ごしていた。

 それが今ではこのザマだ。

 無職で朝から晩まで酒を飲んで寝るだけの生活。ブラックリスト入りを果たしたアキラに金を貸してくれるのはヤのつく自由業の人たちだけ。借金は、今では400万にもなっているらしい。今朝知った。働こうにも派遣会社にすらアキラの名前はでまわっており、学のないアキラが正社員になれるはずもない。

 

「アディ〇レに相談だな。あ、んな金もねえやぁ」

 

 死んだ魚の目をした汚いオッサンに、すれ違う通行人があからさまに距離を置く。数日風呂にも入っておらず、ぼりぼりと頭を掻くと白いフケが肩に積もった。そんなことはまるで気にしないアキラは、ズボンのポケットでチャラチャラと音を立てる小銭を取り出す。

 10円玉が7枚に、5円玉が4枚、1円玉が3枚。

 

「ワンカップがぎりぎり買えねえ……」

 

 道行く自販機の小銭返却口をあさりながらぼんやりと歩いていた。

 清浄な光をこれでもかとアキラにまで差し伸べてくる太陽が鬱陶しくて、アキラは自然と路地裏へ足を向けていた。

 

(俺は綺麗な光なんか求めてないのぉ)

 

 腐り切った人間にとって、太陽すらも辛い。

 

(はぁ……なにか面白いことでも起きねえかなあ)

 

 ポケットに手を突っ込み当てもなくぶらぶらと歩いていたアキラに向かって、背後から猛然と突っ込んできたなにかが体当たりしようとする。

 

「100円みーっけ。らっきぃ~……ん?」

 

 気だるそうな動きからは想像も出来ない俊敏な動作で地面に落ちていた小銭を拾ったアキラは、愛らしい顔をしたドデカイ豚の貯金箱がいることに気づく。貯金箱にはオッサンのような手足が生えており、どうやら4足歩行するらしい。

 

「ん~? 変わった生き物だねぇ。最近じゃ猫みたいに当たり前にいんのかなぁ」

 

 いるはずがない。

 だがアキラにツッコミを入れる者はおらず、豚の貯金箱は足で立ち、大きな影を作り出す。大柄な体躯に見下され、影の差した明るいベビーフェイスはホラー映画のように不気味だ。

 

「小銭を出せ! 小銭! 小銭入れさせろ!」

「しゃべるんだ。小銭ぃ? 俺のもんだぁ」

「突進すれば小銭が落ちる! うおお小銭い!」

 

 ぼんやりとした顔のアキラが首が痛えなあ、なんて思いながら豚の貯金箱を見あげていると、その貯金箱の巨体へと向けて突進する小さな人影。

 学ランだ。中学生っぽい。だけど随分とボロッボロである。

 世紀末を意識したファッションでも流行っているのだろうか。たしかにここのところ怪人騒ぎが続いていて、世紀末みたいなものだし。

 

「最近の中学生はマセてんなぁ」

「オッサン!! 逃げろ!! ここは俺が食い止める!」

「え……」

 

 小さな背中に庇われる。肩でギザギザに斬られた袖口からは細っこい腕が伸びており、まだ身体の成長も完璧ではない。驚くほどに小さく、眩しいその背に護られてアキラはぽかんと口を開いた。

 

 その中学生は豚の貯金箱に突進され、あっけなく伸びた。

 壁には大きなクレーターができ、ずるずると地面へ滑り落ちた中学生の意識はすっかりない。目をつむって気絶する少年の表情に恐怖の色は感じられない。

 

「強いなぁ……あんた。

 おーい、大丈夫かぁ?」

 

(逃げろ、なんて立派な少年だなぁ。俺だったからこんな汚ねえオッサン無視して逃げるのになぁ)

 

 自分でも自覚はあったらしい。

 ぼりぼりと頬を掻いたアキラは、眩しい若者の姿に少しばかり恥じ入った。己のこの体たらくと比べて、なんて眩しいんだろうか。眩しすぎて苦しくなってしまう。

 

「小銭! 小銭!」

「なんも感じねえのぉ? この姿にぃ。

 ……駄目なオッサンでもちょぴっと心を動かされたぞぉ。柄じゃねえがぁ……お返しはさせてもらうぜぇ」

 

 先ほどの気だるそうな猫背から一転、体幹の通った鋭い構えへと体勢を変える。

 男の身体から立ち上る気は先ほどのダメダメなオッサンからは想像できないほどの強者である。

 怪人・豚の貯金バコンは野生の勘で怯えた。己では敵わない相手に恐喝しようとしていたと察知し、一目散に逃げようとする。

 

「……はぁ……こンの恐喝貯金箱がァ!!」

 

 一瞬にして目つきを鋭くしたアキラが目にもとまらぬ速さで貯金箱を蹴りつける。轟音を立てて足先は貯金箱のケツにぶち当たり、激しい音を立てて愛らしい貯金箱は割れた。中からじゃらじゃらと小銭があふれ出てくる。鋭い目つきは、潰れて動かない貯金箱を確認して、周囲を警戒する。汚らしさはまるで変わらないというのに、すっと背筋を伸ばしたアキラは先ほどとまるで別人であった。

 

 アキラは倒れた少年の前に屈み、首筋に手をあてて脈を確認した。

 

「お~い、大丈夫かぁ?」

 

 衣服はズタボロで打撲や多少の流血はあるが、脈も呼吸もしっかりしている。熱もない。

 でろんと表情筋を崩壊させたアキラがぺちぺちと少年の頬を叩くと、額から滴る血液で片方の目を塞がれつつも意識を取り戻した。

 

「おっ、よかったよかったぁ。歩けるかぁ?」

「あ……コイツは……え、お前が?」

「お前ってぇ」

 

 少年は中身を撒き散らかして死んだ怪人を眺めている。アキラは中学生にお前と言われて少し落ち込んでいる。

 まあ確かに、自分のようなダメ人間よりも、この少年の方がずっと立派な心意気をしている。アキラは敬わなければならない人間には到底見えないし、お前と言われるのも納得だと考え直す。

 

「オッサン……強いんだな……名前は?」

「つよかねえよぉ、ダメ人間代表だぁ。

 俺は多摩無アキラ。怪しいもんじゃねえよぉ。んで、歩けるかぁ? 無理なら背負ってくけどぉ」

「大丈夫だ……です。あ、俺はサイタマ、です」

「はは、別に俺なんかに無理して敬語なんざ使わなくていいよぉ。んじゃあな。病院行けよぉ」

 

 ひらひらと後ろ手に歩きだしたアキラは、大量に転がる小銭のなかから500円玉を選んで回収していく。後ろの中学生は「職員室行かなきゃ……」と小さくつぶやいて歩き出した。あの分なら大丈夫そうだ、と小さく笑みを浮かべる。普通これだけの大きな出来事があれば、警察に通報しそうなものだが、職員室とは。おかしな子どもだなあ。

 

「おぉ……札もあんじゃん。らっきぃ~」

 

 思わぬ臨時収入に、コンビニでしこたま酒を買い込むことを決めた。その金は人から強奪されたものに違いなかったが、アキラは退治報酬としてありがたくいただくことに決めた。

 

 家の近くのコンビニで100円のワンカップを棚からざらざらと買い物カゴのなかに入れて、袋一杯にぶら下げて歩く。

 るんるん気分で歩いていたが、家にはもしかするとまだ黒服が滞在しているかもしれないと気づく。助けを呼んで出ていっているとは思うが、報復も面倒くさい。働いて金を返すのはもっと面倒くさい。っていうか借金なんてそもそも返すつもりがない。返済できないのではなく、返済するつもりがないのだ。

 

 アキラがヤクザに追われているのは、友人の連帯保証人となってしまったが為であった。共に道場を経営しようと、彼の名義で金を借りたのだが、金をそのまま持って消えてしまったのだ。幼い頃からの友人で気の置けない仲であると思っていた。悩み事があればまず真っ先に彼に相談したし、彼もまたなにかあればすぐにアキラに話してくれた。友人から結婚する、と報告を受けたときは自分のことのように嬉しかった。めちゃくちゃ美人な彼女を紹介され、若干妬ましい気持ちはあったが、アキラはこの友情がきっと永遠に続くものだと信じていた。

 

 彼が消えたという話を聞かされたとき、信じられなかった。10年経った今でも彼がひょっこりと帰ってきて、冗談だったんだ、お前を裏切るはずがないだろう? なんて夢に見るほどだった。

 

 彼が消えると同時に、アキラの情熱もまた消えた。唯一無二の親友に騙され、一文無しどころか借金をこさえたアキラがまともに働こうにも職がない。

 怪人が次から次へと現れるせいで世の中はすさまじいまでの不景気であった。日雇いのバイトを幾つも掛け持ちして働き続け、なんとか捻出した金を借金返済にあてていたのだが、利子が膨れ上がったとさらに倍額を請求される。借りていた200万とその時にみた契約書どおりの利子をきっちりと返済してからは借金取りを相手にしなくなった。

 

 がれき撤去のバイトは1日中働いても5000円に届かない。嫌ならやめてもらっていいんだよ、と嫌味な社長に不満のはけ口にされながらなんとか毎日働き続けていたが、数日前に不当解雇された。

 休み時間もなく働いていたというのに、事務所に置いてあった金を盗ったと濡れ衣を着せられた。警察沙汰にしない代わりに辞めろと脅されて、なす術もなく職を失ったのだ。

 

 不景気だから仕方がない、なんてすべてを失ったアキラには思えなかった。生きていく気力さえなくし、自死を選ぶこともできずにだらだらと暮らしている。

 

 青春時代は夢に費やし、青年時代は借金返済に明け暮れた。そんなアキラに恋愛をする時間などまるでなく、30歳童貞の魔法使いになってしまった。

 今のアキラに彼女などできるはずもない。あーあ、彼女欲しいなぁなんてさほど本気度のないままに王子に焦がれる乙女の心境でぼんやりと考えるだけだ。30歳で魔法使い、40になれば賢者、50になったら……なんだろう、精霊かな。

 

 ワンカップをぐびぐびと飲みながら歩いていく。

 アキラが向かっているのは墓場であった。空はすっかり茜色に染まり、カラスが泣いている。

 

「カラスが泣いたら帰りましょお~♪」

 

 袋一杯に買い込んだワンカップを引っ提げて、ぼちぼちと歩いたアキラがたどり着いたのは墓場だ。共同墓地になっており、名前も知らない人たちが冥福を祈られている。

 ワンカップを墓石の前に供える。アキラなりの基準があるようで少し歩いてはまた墓石の前にワンカップを置き、とすべての墓石には置いていない。

 

「おすそ分けですよぉ……っとぉ。さーて帰るかぁ」

 

 夢だ。夢が必要だ。今更自分の道場が欲しいとは思わない。子どもたちに教えるには性格がひん曲がりすぎてしまったし、熱意もない。

 

 あ、そうだ。仕事仲間がこぞって通っていたソープに行ってみるのもいいかもしれない。目標は脱童貞だ。しかしながら最近朝勃ちすらしてくれない。アキラの息子は使われることなく没してしまったのかもしれない。ソープに行って勃たないなんて、めちゃくちゃ恥ずかしいじゃないか。

 

(ハ〇イアグラ買いに行こぉ)

 

 仕事仲間が、正規の店ではないが変わった薬が取り揃えられている露店が稀にこの辺りに現れると話していた。

 同僚は怪しい若返り薬なるものの試供品を飲み、次の日から出社しなくなった。社長に申し付けられて様子を見に行くと、家には小学生にまで縮んだ仕事仲間がいた。だぼだぼのシャツだけを身に着け「助けてくれ」と必死に泣きつかれて、仕方なしにその露店へ行って老け薬なるものを貰ってきた。

 その露店を探すのに随分と苦労したことを思い出す。仕事帰りでへとへとの状態で露店を探して歩き回った。別にその同僚に特別の恩を感じているわけでもなかったが、困った人を自分の力量内で助けられるのならば助けてやりたいと思ったのだ。

 正規品は20万もしたため、試供品を貰って仕事仲間の家まで届けてやった。

 

 その店主は黒いフードをすっぽりと被り、やたらと顔色の悪い顎先しか見えない、身体のラインもわからない真っ黒いマントのようなものを身体に巻き付けていた。

 ちょうど、あんな感じだ。

 

「あ」

 

 あれじゃん。

 

「おや、お兄さん。珍しいですねえ。このお店を2度も見つけるだなんて。老け薬はどうでしたか?」

 

 男か女かわからない中途半端な声色。抑揚がまるでなく、人間味が感じられない。

 

「同僚は元に戻ったよぉ。随分久しぶりだなぁ」

「そうですね。このお店を2度も見つけられるなんて、お兄さんは本当に運が良い」

 

 運が良いと思ったことは1度もないが、人からそう言われて悪い気はしない。

 

「せっかく出会えたのですから、今日はなにか買っていかれますか? そろそろ店じまいをして星へ帰ろうと思っているんですよ」

「んー? あんたは地球人じゃないのかぁ。

 俺なぁ、一度も付き合ったことがなくてなぁ。ちんこが勃つか心配でよぉ」

「なるほど。丁度良い薬がありますよ。正規品だと50万、試供品もございますが……まあ、効果は様々で自己責任となりますのでオススメはいたしませんが」

 

 若返り薬を飲んで小学生となってしまった同僚は老け薬を飲んで元に戻った。すこしばかり薬が効きすぎるきらいはあるようだが、特に問題はないだろう。

 

「試供品でいいやぁ」

「畏まりました。二度も出会えた奇跡に、とっておきの試供品をプレゼントいたします。若返りの効能もあるのですよ」

「俺そんな老けてるかぁ? ま、ありがとよぉ。これ、やるよぉ」

 

 なにもなしに貰うのもなんだとワンカップを手渡し、錠剤を貰う。

 

「お元気で。楽しい性生活をお過ごしください」

「ひゃははははは、なんだそりゃぁ」

 

 上機嫌のアキラは貰った錠剤をその場で含み、酒で流し込む。

 

「お酒で薬を飲むと危険ですよ……聞こえていませんか。あらまあ……」

 

 背後で異星人は忠告していたが、珍しくアキラは気分よく酔っており、囁くような忠告が聞こえていない。

 すぐにでも吐き出せば、きっとアキラの人生は変わっていただろう。

 

 アキラはスキップでもする勢いで家路へと歩いていたが、突如心臓が激しく痛み、胸を押さえて膝をついた。

 

「なんだ……?」

 

 視界が揺れて、景色が絵具が溶かされるようにぐるぐると入り混じっていく。拍動の度に頭までもが痛み、胸が割れそうに痛い。

 

(あー……死ぬ、のか)

 

 ほんと、つまんない人生だった。誰の役にも立たず、生きがいもないクソみたいな人生。

 

(おさらばえ~)

 

 なんの未練もないアキラは、苦しみのなかで意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、白い清潔な天井がぼやけて見えた。何度か瞬くと、視界が正常になる。

 白いカーテンに閉ざされているが、室内は明るい。顔を動かすと、点滴の管に繋がれているのがわかった。健康だけが取り柄で一度も病気をしたことなどなかったが、すぐにここが病院であると悟る。

 

(生きてたのかぁ……)

 

 不思議と残念なような、生きていてよかったような。複雑な気持ちで身体を起こす。

 シャァっとカーテンが開かれ、女性の看護師がアキラを見て目を見開いた。大きな瞳が零れ落ちそうなほどに見開かれて、わなわなと唇を震わせている。

 

「せ、せ、せ、先生!!! 起きました!! 運ばれてきた患者さんが!! せんせぇぇぇぇぇぇい!!」

 

(うっるせぇ……古典的な呼び方だなぁ)

 

 ナースコールを使えばいいのに。慌てふためく看護師はぱたぱたと走り去っていく。

 どうやら大部屋のようだが、アキラの他にもう一人誰かいる気配がする。開かれたカーテンの奥にはつけっぱなしの大きなテレビがあり、瓦礫を映し出している。

 テレビに映し出されているのはアキラの済むZ市だ。おそらくは怪人に破壊された場所の速報でもされているのだろう。最近のニュースはこんなのばっかりだ。テレビなんてものはアキラの部屋に置かれていないが、バイト先の事務所にあるテレビはいつもニュースが垂れ流しになっていた。

 

 早足に部屋へ歩いてきたのは先ほどの看護師と、綺麗な女医だ。きつめの顔立ちをしたエリートウーマンって感じか。

 

「お名前は?」

「多摩無アキラ」

「年齢はわかりますか?」

「30」

「30……? 冗談でなくおいくつですか?」

「だから、30だってぇ……」

「はあ。ここはZ市にあるクリニックです。あなたは道端で倒れているのを通報により運ばれたのですよ。お住まいは?」

「Z市〇〇13-41…………げ、病院代」

 

 保険に入っていないアキラにとって医療費はとんでもなく高額なものとなる。慌ててポケットに突っ込んでいるであろう札を探り出そうとしたが、身体を起こして視線を落とし、絶句した。

 

「で……でぶ……ってるぅ?」

 

 着せられた入院着からこぼれんばかりの乳が。

 そういえば、声も変だ。妙にいつもよりも高い。

 

「むしろ痩せ気味です。栄養失調のようでしたから、点滴をしています。服はそちらに。鞄は貴重品入れに。カギはこちらです」

 

 女医がそう言い、看護師がカギを渡してくれる。受け取る自分の腕が妙に白く細っこい。まるで女みたいに。

 

(ええええぇー……?)

 

「お金は心配なさらずとも、通りすがりの通報した方が全額お支払いくださいましたよ」

「な、なにその通りすがりぃ……」

「名刺を置いていかれました。お礼は必要ないと仰っていました」

「なにその通りすがりぃ……」

 

 差し出された名刺には、なにやらずらずらと様々な会社やら役職やらが書かれており、とりあえず偉いんだろうな、とはわかった。

 名前はアゴーニ。

 

 アゴーニ。

 

 すごい名前だ。アゴーニ、アゴーニ、アゴーニ……。

 

「誰ぇ……?」

 

 道端で倒れている人にぽんと金を差し出して消えていく人間なんてこの世に存在するのか。

 

「ご存じありませんか? 大富豪としてよくテレビにも出られている方ですよ」

「知らねぇ……なんでそんな大富豪がこの町にぃ? いやンなことより、俺、男だよねぇ?」

 

 あははは、と高らかに笑い声をあげたのは看護師だった。

 

「なにを仰っているんですか。お着換えをさせてもらいましたけど、上から下まで綺麗なプロポーションの女性ですよ」

「んな馬鹿なあ……」

 

 乳……でかい。チンコ……ない。……ない!!!!!!

 触って確かめ、アキラは頭を抱えて突っ伏した。

 

「なんでぇ……!」

 

 脱童貞するつもりだった。楽しい性生活どころか、大事な息子がいなくなってしまった。

 

(オウマイソン……どこへ行ったんだぁ。一度も使うことがなかったから、グレて家出しちまったのか。頼むから帰ってきてくれぇ)

 

 熟年離婚を回避するべく必死に妻を引き留める夫のごとく必死に内心で言い募るが、息子は消えたままだ。

 

(俺を捨てないでくれぇぇぇ)

 

 これから使うつもりだったんだ。本当に。

 ぼろぼろと大粒の涙をこぼすアキラにぎょっとした様子の女医。隣に置いてあった椅子に腰かけてアキラの背中を撫でつつ、優しく微笑んでいる。

 

「まだ起きたばかりで混乱されているんですね。それもそのはずです……あなたは1週間も寝たきりでしたから。親御さんに連絡したいんですが、電話番号はわかりますか?」

「とっくにいねぇよぉ……」

「それは……申し訳ありません」

「ひっく、息子もなくなるしぃ……」

「息子?! ず、随分お若く子どもを産んだんですね……。では旦那様の電話番号は」

「もともといねぇよぉ、んなもん! いてたまるか!」

「いてたまるか?! そんな酷い男の子どもを……お一人で産まれたんですか……! 御親戚は……?」

「借金の連帯保証人になってからすっかり縁を切られて連絡先なんて知らねえよぉ」

「なんて……なんて惨い……! すみません、取り乱しました。本当はお幾つなんですか? 見たところまだ10代のように見えますが」

 

 泣き止んだアキラの代わりに、女医の方が瞳を潤ませている。なんで泣きそうになってるんだ? この人は。

 

「ンなわけあるかぁ。更新切れの免許証なら家に帰ればあるかもぉ……」

 

 アキラの身分を保証するものなど、現時点ではなかった。

 

「世話になったぁ……」

 

 点滴を引き抜こうとするアキラに慌てた様子で女医と看護師が引き留める。

 

「たっぷり1カ月は入院できるだけのお金を頂戴していますから、安静になさってください」

「いや、でもぉ」

 

 アキラとしては1週間も放置しているらしい家が気になっていた。

 

「もうすぐこの病院も他の町に移転することになっています。今お二人入院されているのですが、御一方はもうすぐ退院されますので、あなたが最後の患者さんになるでしょうね」

 

 Z市の怪人出現率は他の町よりも随分と多いと聞く。大きな病院はすっかり移転しているから、このクリニックは長くとどまってくれていたほうであろう。怪我人が運ばれる先がなくなれば、いよいよZ市のゴーストタウン化は免れないだろう。賃貸料金も値下げされないかな、と淡い期待を抱く。

 

「あら、また怪人……本当に物騒な世の中になりましたね」

 

 小さな音量でつけっぱなしだったテレビにZ市の様子が映し出されている。真剣な顔をしたレポーターがぱくぱくと忙しなく口を動かして辺りを指し示している。

 

「あ、俺のマンション……」

 

 ぼろい鉄骨マンション2階建て。無残にも崩れ果てているが、見間違えるはずもない。

 

「……」

「……」

 

 女医と看護師が顔を見合わせている。

 

「お気を強く。人生底辺まで落ちてしまえば、あとは上がるだけですよ」

「誰が底辺だぁ。………………俺かぁ」

「ちょっ菅原さん! 落ち込ませてどうするんです!」

「じゃあ先生が声かけてくださいよぉ!」

「ま、まさか息子さんが亡くなったって……この1週間前の怪人の仕業で……?!」

 

 凄まじい勘違いをされているなか、アキラは1週間前のことを思い出していた。

 怪しい試供品を貰って、倒れた。まず間違いなくあの薬が原因で自分の身体がこうなってしまったのだろう。もう一度あの露店を探して、薬を貰わなければならない。

 しかしながら、故郷に帰るとかなんとか言っていたような。

 

 露店を探しつつ、息子(ナニ)を取り戻すために他の方法も考えていかなければならないということか。

 

 アキラは今まで当たり前のように男として生きてきた。夢をなくし、友をなくし、金をなくし、息子をなくした。それらはすべてなくなってしまってから、あったときの幸せを実感した。あるときにもっと感謝していれば、当たり前のようにその日々を享受していなければ、もっと幸せな記憶が多かっただろうか。幸せな人生だったろうか。

 

 今あるものはなんだ。五体満足の身体がある。そのことだけにでも感謝をして、生きねばならないのだ。

 

「ってンなことできるかぁ! 息子を返せぇぇぇぇ……!」

 

 聖人君子のような思考をうがぁぁあああ! と叫んで消し、再び女医と看護師に二人掛かりで抑えつけられる。

 

「落ち着いて! 落ち着きなさい!

 息子さんが亡くなったのは……本当に残念です。ですが、あなたはまだお若い。まだまだやりなおせるんです」

「息子が無くなった気持ちがわかるのかよぉ!」

「生憎と私に息子はいませんのでわかりませんが」

「そりゃいねぇだろうよぉ!!」

「ど、どういう意味です、タマナシさん」

「誰がタマ無しだ!! あ……タマもサオもないんだった。俺も息子と一緒にイきたかった……!!」

「い、いけません! 生きていれば、いいことはあるんです。生きていれば、道は見つかるんです。生きてさえいれば、あの時死ななくてよかったとそう思う日が必ず来るんです」

「……死なねえけどさぁ」

 

 しゅんとうなだれたアキラに、ようやく落ち着いたと拘束が緩められる。

 

「とりあえずはゆっくり休んでください。まずは身体を治すことに専念しましょう」

 

 ぽんと身体を押される。抵抗する気のないアキラはぽふりとベッドに埋もれた。布団がかけられる。女医と看護師は始終穏やかな笑顔を崩さないままに部屋を退出した。

 

 アキラはしばらく天井を眺めていたが、1週間も眠っていれば眠気など起きようはずもない。

 むくりと起き上がり、右隣りのカーテンをシュッと開いた。

 

 隣のベッドでは死人のような顔色の男が目をガン開きにして天井を見つめている。蝋人形みたいだ。目めっちゃ赤いし。え、こっわ。瞬きすればいいのに。

 割と精悍な顔立ちをしていた青年なのだが感情が一切読み取れない。もしかして死んでいる? 微動だにしないぞ。

 

「あんたは……なにぃ? プール入りすぎて低体温症で運ばれた人ぉ? めっちゃ顔色悪いよぉ」

「……」

「死人寸前……というか寸後っていうかぁ。え、大丈夫ぅ? 人呼ぶぅ?」

「……悪いが、静かにしてもらえないだろうか。禁煙症状でイライラしているんだ」

「え、煙草吸ってるの……その顔色でぇ? 余計血の気がなくなっちゃうよぉ」

 

 若干声のボリュームは抑えられたが、男にしてみれば黙ってくれ、と言ったつもりであった。大きさは問題ではない。

 だが医者との会話を聞いていると、邪険にしてやるのもかわいそうな気がして、男は天井を見つめたまま思案していた。

 

「……」

「貧血ぅ? ほんと顔色悪いね君ぃ」

「……いろいろあってな。そういう顔色になった」

「マジぃ? 気をつけた方がいいよぉ。貧血は癖になるからぁ。禁煙で入院ー? 大変だな、あんたもぉ」

「……心配痛み入る」

 

 男は禁煙目的で入院したのではもちろんなかったが、アキラの身の上に免じてなにも言わなかった。

 それからアキラはべらべらと楽しそうに話すのを静かに聞いてやり、しばらくしてアキラが再び眠りに就くまで辛抱強く耐えた。

 

 

 

 

 

 

 

 




とある雑貨店でのサイタマ少年
『あ、これあの時の豚の貯金箱そっくりだな……。多摩無アキラさん、か。格好よかったな。記念に買っとこ』


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原作3年前

 怪人の出現率はどこかしこでも上昇の一途をたどっている。友ナシ、金ナシ、玉ナシの多摩無アキラは孤独な(気軽な)独り身生活を送っていた。

 

 そんなある日、俺は黒づくめの男から貰った怪しい薬を自ら服用し、気がつくと――女に変わってしまっていた! 年齢も若返った。頭脳は変わらない。

 

 

 さて、光陰矢の如しというか、本当にあっという間に10年も過ぎてしまった。

 

 戸籍は一応あることにはあるのだが、免許更新は望めない。なんかいろいろ違うからだ。いや待てよ、どうせ怪人に手いっぱいで捕まらないんだからそもそも免許なんて取得している人の方が一部だったりして。

 

 女性の身体に不慣れだったのは最初の1年くらいだったと思う。1か月くらいで若干慣れ始めた。人間ってのは適合能力が高いものだ。

 未だにユニセックスの服が好みではあるが、女性もののシャツやら下着やらも照れなく買えるようになった。今では生理用品買っとかないと、なんて当たり前にストックを気にするレベルだ。もう女性生活何年になるっけ? たぶん10年くらいか。

 

 かつて親友だった男に言われたことがある。「アキラは悩みがなさそうで、羨ましい」影の差した笑顔でそう言われたものだから、否定するのもなんだかな、と思って「前向きだけが俺の取り柄だしな!」と返した。人が大人な対応をしてやったというのに「うらやましいよ」と気障なため息をつかれた。アキラとて言ってやりたかった。こっちはお前の方がうらやましよ、と。

 そうは見えなくたって悩んでる。ただ常に飄々とした表情が変わらないものだから、クラゲのように自由に生きているように見られるだけだ。

 誰にだって悩みごとはあるのだ。なにも悩んでいない人間なんて、きっと一人もいない。

 あの時彼に「何かあったのか」と訪ねてやってれば、なにか変わっていたのだろうか。閑話休題。

 

 崩れたマンションに住めるはずもなく、近くの安いマンションへと移り住んだ。地価が急激に下がっており、同じ値段でワンルームマンションから1Kバストイレ別の部屋があったのでそこにした。

 住居は変わったが、同じZ市だ。フードの怪人を探してふらふらと町を練り歩くのだが、全然見つからない。人口は年を経るごとに少なくなっている。

 

 ムスコを取り戻すべく10年ものあいだ情報収集をしていると、危ない組織と関わることも少なからずあった。借金取りに追われていた経験を活かして、あまり日の下に出たがらない奴らがよく出没する場所へも赴いた。そこで入院していたときに出会っためちゃくちゃ顔色の悪い男と再会し、甘いミルクセーキで乾杯した。なんでミルクセーキと思わないでもなかったが、彼があまりにも熱心にこれを頼んだらどうか、と勧めてきたので仕方なくだ。彼は自分だけコーヒーを頼んでいた。アキラは本当は酒を飲みたかった。人生最底辺だった頃とは違って金もあれば時間もある、余裕のある生活ができるようになったアキラには人を気遣う心の余裕ができはじめていた。

 仕事中の彼の前で自分だけ酒を飲むわけにもいかないな、と自然に思うくらいには。凄まじい成長である。

 

 喫茶店で話したところ、仕事内容は大っぴらに言えないらしいのだが、情報屋まがいのこともしているという。顔見知りのよしみで、彼からはカフェ代を奢ったり仕事を手伝ったりして情報を貰った。

 男は胸焼けするほどの甘党であった。貧血の症状だろうか。ブラックコーヒーにはどぼどぼと砂糖を入れるし(全然ブラックの意味がない)、照れた彼の代わりに何度も頼まされたミルクセーキは、舌がしびれるほどに甘い。甘い物が苦手なアキラにはただただ苦痛な代物で、最初に一口飲むふりをしてすぐに男のほうへとスライドするのが常だった。それからというもの、喫茶店で話すたびに彼はブラックコーヒー、アキラはミルクセーキを店員に頼んでは交換する、という謎の儀式が行われるようになった。

 彼は顔色こそ死人のように悪いし、とっつきづらい見た目をしているが実に親切な男であった。俺は表の世界では生きていけない、なんてシリアスに顔色の悪い顔で言う男だったが、アキラは純粋に不思議だった。「君みたいにいい人がねぇ」と。

 外では我が物顔でのさばる怪人がいて、なんの害もない青年がただ顔色が悪いというだけで出歩けないのはかわいそうだった。アキラとて変なフェロモンを出して周りに迷惑をかけながらも遠慮なく外に出ている。「もっと肩の力を抜いて、やりたいようにやればいいのにぃ」アキラは心の底からそう思って言った。何故だかありがとうと無表情で言われたが、困ったようにミルクセーキをぐいぐいと飲み干す姿は先ほどよりも雰囲気がやわらかく見えた。

 アキラは青年から様々な話を聞いた。

 趣味で人体実験をしている人間は少数ながらいて、人の倫理に外れた実験ではあるがアキラをもとに戻す方法を知っているかもしれない、と。一も二もなく果敢に突撃した。

 そのうちのひとつに、いかにも怪しい進化の家なるもがあった。とても危険な場所で、見つけるのは困難だと男からは聞いていたのだが、目立つ容姿のおかげで情報収集は難なく行えた。顔バレを一切気にしていないアキラは、男から紹介された裏家業の人間にもすっかり顔を覚えられている。アキラは覚えていないが、情報屋界隈ではすっかり金払いの良いカモとなっているらしく、情報を売りつけようと向こうから寄って来てくれる。

 

 進化の家を見つけ出し赴いたところ、なにがどう進化なのかわからなかったが、変な生き物はいっぱいいた。ゴリラが喋ったり、蚊がボインな娘になっていたり。きっと間違いなくここだと思う。進化といえば進化なのかもしれない。

 進化の家の主である自称天才博士は、堂々と訪問したアキラを快く出迎えてくれた。大抵は手荒い歓迎をされるので、非常に珍しい。

 実に統制の取れた組織となっているらしく、博士から来訪を認められたアキラは実験体から攻撃を加えられることはなかった。

 薬を飲んで身体が変わってしまったはなしをすると、体内で溶けて全身へと運ばれた薬剤の濃度をさげることができればもしかしたら、というような発言をしていた。根本から身体が作り替えられている可能性もゼロではないが、もしそうだとしたら戻るのは困難だとかなんとかかんとか。細胞がなんたらミトコンドリアがなんたら、なんか科学者っぽい答えがずらずらと述べられて呆気にとられたが、1ミリも具体的にどうすればいいのかわからない。で、俺はどうやって男に戻ればいいんだ?

 

 怪しい生物を大量に作り出していた博士であったが、結構親切だった。同じ顔の男もわらわらといて、何人同時に生まれたんだと男の母親を尊敬したが、クローン人間だと教えられた。

 自分のクローンを作り出すって、どんだけ自分が好きなんだ。

 人の形を保ったまま進化が叶った例は少数らしく、彼の実験のなかでそれは、「不死身シリーズ」の実験体サンプル66号だけだという。その実験体は唯一の成功例であったと熱く語られる。若返りだけならばテロメーゼがなんちゃらかんちゃらで博士にとって簡単なことらしい。「きっと君の力になれる」熱くそう言い、手を握られた。マウスでも見るような目で。ぜひとも研究させてくれと詰め寄られて、激しい身の危機を感じた。アキラは慌てて博士を振りほどいて逃げてきた。「気が向いたらいつでも来るといい」と後ろ背に言われたが、それきりそこには近づいていない。

 

 

 もしかして一生女のままなのだろうか、と暗い想いになりつつある。まだ男に戻ることは諦めていない。だが、見通しもなにも立たない状態で10年も女として暮らしていると、なんかこれでもいいかも、と慣れてきてしまった。慣れって怖い。

 

 Z市に現れる怪人を積極的に狩るようになったのは、フラストレーションの捌け口に最適だと気づいてしまったからだ。当初こそ辛勝だったり、逃げ帰ることもあったが、日々身体を鍛えては経験を積み重ねてゆきアキラは怪人バスターの称号を手に入れた、と思っている。

 

 もうすっかり慣れてしまったが、毎日困ることと言えば、アキラの女性化した見た目は途轍もなく男達を刺激するらしいということだ。

 酒を買いに行くたびに目をハート、下半身をテントにした男達がゾンビのようにゆらゆらと歩み寄ってくる。100発100中ではないが、人気のない場所でばったり遭遇した気持ち悪い男は大抵そうなる。これならまだ怪人のほうがマシだ。変な目で見てこないし、遠慮なくぶっ倒せるから。

 

 一見真面目そうな男でも頬を赤らめてテント状態でにじり寄ってくるのだから、変なフェロモンでもでているのかもしれない。ムッツリスケベ怪人ゾンビ、略してゾンビとアキラのなかで呼ばれる男たちは、ものの数秒でアキラに行動不能状態へと追い込まれる。実被害は今のところゼロだ。

 女性になってはじめて気づいたが、女性というのはほんとうに大変だ。女性がアキラほど強いことなど稀だし、集団で襲ってこられればゾンビ映画級のホラーだ。世の女性たちにもっと優しくしておくべきだったと心から悔いる。この謎のフェロモン作用も薬のせいだろうか。

 

 男だったら天国だったろうにな。そう考えてから慌てて首を振る。

 アキラが男のままだったとして、女がゾンビ状態になってにじにじと寄って来ても全然うれしくない。普通に怖い。どっちにしたっていいことなんてひとつもありやしないのだと結論づいた。

 

 対人格闘の経験値がますます高まっていくのは、ちょっと買い物に出かけただけでも男に襲われるからだ。手加減もばっちりである。

 アキラは常に実戦のなかに身を置いている。あ、めっちゃ格好いいこと言えた。

 

 昔のアキラとはすっかり様相が変わったおかげで、偽名を使わずとも日雇いのバイトができるようになったのは唯一の嬉しいことだ。

 以前辞めさせられたときに、多摩無アキラは社長によりブラックリスト入りさせられており、どこへ行っても職が見つからないありさまだったのだ。

 今では同姓同名の別人だと認識されているので、問題なく派遣登録ができる。性別と筋肉のつきづらい体格ゆえに事務職などを勧められることが多かったが、学のないアキラに事務職は難しい。携帯さえも持っていないしパソコンなど生涯で1、2回しか触ったことがない。文字を打ち込むだけで日が暮れる。

 肉体労働にしてくれ、と頼むと「水商売はご紹介しておりません」と笑顔で断られた。もちろんアキラにそんなつもりはなく、言い募ってようやく、渋々といった様子で日雇いの鳶職になった。

 

 働けるのが純粋にうれしくて熱心に働いていたところ、手渡しの給料を貰ってふと気づく。年金や保険金を払おうにも、戸籍があってないようなアキラはもしかして。生きていると知られれば面倒なことになるし、この際いっそのこと余計な問題を起こさないためにもアキラという男が死んだように見せかけるほうが都合がよさそうではなかろうか。

 銀行口座は一切使わず(どうせ金も入っていない)唯一国に納めるのは消費税くらいの生き方をしていると、借金返済もない御蔭でとんとん拍子に金が溜まっていく。手元に金があるというだけでアキラは幸せだった。

 

 肉体労働しかできないアキラが選んだ鳶職は、男社会で上下関係も厳しかった。

 女なんて使いもんにならねえ! と初日は冷遇された。口調も誰に対しても気だるいため口を崩さないところから、干されかけた。だが周りの動きを観察し、率先して誰よりも重い荷物を運び、ひょいひょいと高台を跳び、指示に的確に動くばかりか先読みした行動を見せる。真面目にテキパキと働く姿が認められて、今では男色の親方にもすっかり気に入られていた。10年も働いていれば、それなりの地位も得る。

 初めの数年は毎日休みなく働いていたが、金が溜まってきたこともあり、身体がナマらないようにと週に3日程度の働きとなったが、親方は今でも気に入ってアキラを雇ってくれている。

 

 

 

 そんなこんなで今日も現場に出ており、休憩のためにみんなして地面に座って弁当をかっくらう。身体を動かしたあとの飯はほんとうにうまい。

 じりじりと照り付ける日差しはきつく、現場で働く人間はこんがりときつね色に焼けていた。色白のアキラは日差しで肌が真っ赤に火傷しては皮がめくれて白くなる繰り返しで、他の人間よりもずっと白い。冬になればちょっと焼けた肌も真っ白に戻ってしまう。

 

 アキラは男色の親方の隣をいつも通りキープしている。汗に濡れた上着は皆天日干しをしている。アキラもまたタンクトップで休憩しており、その悩ましい身体のラインをちらちらと見る男は少なくない。ひょろく見える身体だが、実際には固く締まった実用的な筋肉がついている。アキラの密かな自慢である。

 

「おめぇが男だったらなァ! 中身は完璧に男だってのにもったいねえぜ! ガハハハハ!」

「切実にそれぇ……ガハハハハ」

「にしてもおめぇは全然老けねぇなァ! ド綺麗な顔してるし、整形かぁ?」

「自前ぇ」

「幾つになったんだ?」

「んー 今日で40だなぁ」

「ガハハハハハ、相変わらず冗談が好きな奴だ。若ぇのがおめぇを見てだいぶ盛り上がってるみたいだが、いいヤツはまだできねぇか?」

「そだね……男を好きになる趣味はないねぇ」

「苦労してるもんな、おめぇ。そういや今日は昼で上がりだったな。弁当食い終わったらすぐに上がっていいぞ」

「うん。ありがとぉ」

 

 親方はアキラを使って、新人がモノになるかどうかを判断する。

 アキラを一目見てチンコテントのゾンビ状態になれば、雇わない。ならなければ骨のあるやつだ。よし雇ってみよう、といったように。

 ここで働いている人間は皆アキラを見てゾンビになるタイプではない。現場に一般人が入ってくることはないので、安心して仕事ができる。

 

 普段は1日中現場にいるのだが、今日は契約更新のために派遣会社に寄ってくれと言われている。

 半日だと本来なら弁当は支給されないのだが、親方の好意で食べさせてもらえた。アキラが定職についていないこともあり、金欠で碌なものも食べていないのだろうと健康状態を密かに心配してくれているのだ。

 

 黙々と配給された弁当を食べていると、ふっと影が差した。

 

「あのっ、姐(あね)さん!」

「タマナシでいいよぉ。なにぃ?」

 

 何度やめろといっても、すっかり姐さんで定着してしまっている。仕方なしにアキラは一人一人に苗字で呼んでくれとその都度言いまわっている。

 

「その……タマナシさんが好きだ。もしよければ、結婚を前提にお付き合いしてくれないか」

 

 ぺこりと頭を下げられる。アッシュがかった髪色の青年に頭を下げられる。ガタイはよく、女に不自由もしていなさそうだ。真面目な働きぶりで親方が密かに狙っている子のはずだ。

 白いTシャツを着たその青年は期待するようにアキラを見つめている。周りはふぉぉぉ! と高らかに歓声を上げて様子を見ている。

 そもそもこの男前と会話をしたことがあっただろうか、と内心で首を傾げる。

 告白なんて人生で一度たりともされたことがない。40歳になって(かつ女性になって)初めてされた告白は、相手が男ということもあって普通にドキドキしなかった。

 

「ごめんねぇ。恋愛に興味もてないんだぁ」

 

 一刀両断すると、なおも青年は言い募ってきた。

 

「では、まずはお友達から」

「友達いないんだぁ」

「じゃあ最初のお友達に」

「俺イマジナリーフレンドはいっぱいいるからぁ。元気出シテ! アキラ! うん、ありがとぉ」

 

 軽く引いた様子だったが、まだまだ気色悪がられるのには足りなかったらしい。

 

「…………どうすればお友達になってもらえるんだ?」

「んー、もっとタンクトップが似合うようになったら考えるよぉ」

 

(似合う似合わないは俺の主観だからなぁ。

 童貞卒業してぇのに処女喪失しそうだなんて考えるだけだサブイボ立つわぁ。付き合う=セックスだろぉ?)

 

 彼女ができたことのないアキラは、交際とはそういうものだと思っていた。

 

 耳をそばだてて会話を聞いていた男たちは、きらりと目を光らせた。今タンクトップを着ている男はよっしゃ、とガッツポーズをし、Tシャツを着ている男は頭を抱えている。

 まるでまわりの様子を気にせずマイペースに弁当を食らうアキラを困ったように見て、親方はため息混じりに言った。

 

「罪づくりな奴だなぁ。明日から全員タンクトップになるぞ、こりゃあ。

 お前ら! 作業中はもちろん長袖だかんな!」

「はい、親方!」

 

 弁当を食べ終わったアキラは、親方の分のゴミも回収して立ち上がる。貰います! と若い男たちが詰め寄ってきたが「いいよぉ」と間延びした返事でゴミ袋へとシュートする。寸分たがわずホールインされたゴミを確認してアキラはプレハブへと向かう。

 

「タンクトップが似合う男……か。よし、もっと鍛えなければ」

 

 ぼそりと呟いて決意を固める男になどまるで気づいた様子もなく、アキラは声をあげた。

 

「んじゃ、お先に失礼しますぅ」

「さまっしたー!!」

「お疲れさん」

 

 ジーパンにタンクトップという簡単な服装に着替え、仕事着を丸めてリュックに突っ込む。

 

 現場には今のところアキラも含めて(含めたくはないのだが、見てくれが)女性が2人いるため、カーテンで仕切られた簡単な更衣室がある。唯一の女子だったころと比べて華々しい毎日になったかというと、全然そうでもない。照れたように視線を背けられ、ろくな会話をしたことがないのだ。アキラが話しかけても、すぐに逃げられる。耳が赤いし嫌われているのではなく、照れているのだと信じている。信じるを通り越してもはや願っている。一度勇気を出して友達になってくれないか、と恥を忍んで申し出たのだがマスターを差し置いてタマナシさんと友達になんてなれないとバッサリ振られた。誰だよマスターって。バーですか? バーのマスターを差し置くってなんですか? 友達ってマスターに認められないと作れないんですか?

 それからもちょくちょく接触は試みたが、最長二言。世知辛い世の中である。

 

 

 町中を歩いていると、さすがに真昼間に人ごみのなかで襲ってくる男はおらず、これからは昼のうちに買い出しに行こうと決める。

 

(あー酒飲みてぇ)

 

 収入はあるため、ビールも飲めてしまう。安くてすぐに酔えるワンカップ生活から一転、借金取りにも追われることがなくなったアキラはいろいろな酒を買えるようになっていた。といっても貧乏性であるため貯金残高はめきめきと右肩上がりだ。

 安い発泡酒を浴びるように飲んでいる。ワンカップよりも割高な発泡酒を飲んでいるだけでアキラは幸せだった。そのあとなにを飲もうか。

 うきうきと考えつつ、仕方なしに派遣会社へ向かう。とっとと用事を終わらせて家に帰ろう。そうしよう。

 

 とす、と肩があたり「っと……すまん」と頭を下げられる。死んだ魚の目のような男だった。きっちりとスーツを身に着けており、下半身テントにはなっていない。ついつい正気かどうかをチンコ確認する癖はどうにかしたほうがいいかもしれない。まともな人にあたることなど滅多にないが、反省する。

 

 うっかり当たってしまったていでよくよくナンパされていたアキラは、本当に純粋にぶつかられたのは初めてのことだったので、まじまじと男を眺めた。

 彼はまるでアキラには興味のない様子で歩き去っていく。

 

 ぼうっと眺めていると、彼の進む方向には、やたらと赤い大きな物体――おそらくはカニっぽい怪人。

 民家の立ち並ぶ平穏な町のなかで随分異質な雰囲気を漂わせている。

 

「わー!」

「きゃああああああ」

「なんかキモい変なのが出たぞ逃げろおおおお」

 

 普通そうなるわな。なんでこの男は普通に怪人へと歩み寄っていくのだろうか。

 

「ちょっと、そこの――」

 

 お兄さん、とか言ったらナンパだと思われないだろうか。思わず尻すぼみになった言葉尻。一般人は慌てた様子で逃げているというのに、男だけはカニ怪人へと近づいていく。

 

(危機感ゼロかよぉ)

 

「あれれ~? キミは逃げなくてもいいのかな~プクプクプク(笑)」

 

 上半身は確かにカニっぽい。だが左右から生えているはずの足はなく、もっさりブリーフとやたらと太いおっさんの足が甲羅からにょっりと生えている。

 

「プクプク……会社疲れの新人サラリーマンってところか。

 カニを食いすぎて突然変態を起こしたこの俺、カニランテ様を前にして逃げないとは……プクプク」

 

(逃げないねぇ)

 

 ようやくカニランテに気づいた男だったが、まったく逃げる様子がない。

 

「死にたいんだね。そうだろう?」

「一つ……違うな。俺はサラリーマンじゃなく無職。今就職活動中だ。今日も面接だったが見事に落とされたよ」

 

(つらいねぇ)

 

 過去の境遇を思い起こし、アキラは男に同情した。

 

「なんか全部どーでもよくなって。カニランテ様が出現したところで逃げる気分じゃねーや。

 で。逃げなきゃどうなんだ?」

 

(いいことあるよぉ、絶対)

 

「キミは俺様と同じく目が死んでいる。死んだ目のよしみだ。特別に見逃してあげましょう。

 ……それに今は別の獲物を探していてね。アゴの割れたガキを探しているのだよ。見つけたら八つ裂きの刑だ」

 

 カニランテは男を襲うことなく去っていった。おそらくはそのアゴの割れたガキとやらを探して。

 血生臭いことになりそうなら、男を引きずって逃げるつもりであった。大人しめの怪人だったようでよかった。いや、あの男の目が死んでいてよかったのか。

 

 ケツアゴのガキなんてたくさんいるだろうに、どうやって見つけ出すつもりだろうか。

 人の顔の区別がつかないアキラはそう思いつつ、見逃された男を眺める。怪人と出会ったことなどまるで気にした様子もなく歩いていく。神経太いな。

 

 様子を伺っていたアキラはこちらに怪人が近づいてくることに気づき、急いで回れ右をする。少し遠回りで派遣会社に行くことにしたのだ。

 特に時間は決められていないが、駆け足に会社へと向かう。ビルの一角を間借りした小さな事務所だが、受付がある。小さく古ぼけたエレベーターに乗って目的階へたどり着くと、擦りガラスの奥にはすぐ受付がある。

 

 木製の受付台に腰かけた受付嬢が綺麗な笑顔を浮かべ、さりげなくアキラの上から下までをチェックする。

 

「いらっしゃいませ。ご予約はお済ですか?」

「うん、契約更新にぃ」

「畏まりました。お席でお待ちください」

 

 奥のスペースには個別に仕切られた幾つもの席が並んでおり、案内された場所に座っていると茶が用意された。ありがたく飲み干し、少しすると担当のおばちゃんがやってきた。

 

「あらぁ、タマナシさん。相変わらずお若くてうらやましいですわぁ。

 現場からはとても良い評価をいただいていて、ぜひともタマナシさんに続けて欲しいということでした。タマナシさんのように素敵な方に登録していただけて、わが社も鼻高々です。

 契約は更新でよろしいのですね? 前回と同じで3カ月でよろしいですか?」

「うん」

 

 書類を用意するおばちゃんはにこにこと微笑みながら世間話をしだす。いつものことだ。

 

「そういえば先ほど近くにカニランテというカニの怪人が現れたとかニュース速報でやっていましたが、大丈夫でしたか?」

「うん」

「大規模な破壊行動はしていないようですが、この周辺にまだいるとのことなので気をつけてくださいね」

「うん」

「ご無事でよかったです。嫌ですねえ、ほんと。危ない世の中に」

「うん」

「なりま」

「うん」

「したね」

「うん」

「契約書を確認してサインと押印をお願いいたします」

「うん」

 

 小難しい文章はすべて読み飛ばし、サインと押印をする。おばちゃんがにこぉっといびつな笑みを浮かべる。

 

「これで契約更新は終了です。ご足労おかけいたしました」

「うん」

 

 ビルの近くにはそれなりに広い公園がある。子どもたちがよく遊んでおり、そこを突っ切って細道に入るのが家への近道になる。

 早足に道路を歩いていると、公園の奥に再び赤いなにかが見えた。

 

(ってまたカニぃ)

 

 公園には一人でサッカーボールを蹴る子どもがいる。

 怪人はガキを探していると言っていた。

 まさかカニが探している子どもがたまたま目の前にいる子どもだとは限らないだろう。そうは思いつつも、なんとはなしに心配になってその子どもへと近づいていく。

 

「あ!」

 

 声をあげたのはスーツの男だった。アキラと子どもを挟んで奥に位置する道路上にいる。

 心なしか先ほどぶつかった男に似ている気がする。スーツを着た黒髪の男なんて腐るほどにいるから、ただ似ているだけかもしれないが。

 

「ん? 何見てんだよ」

 

 アキラが子どもの顔を確認する前に、子どもはすっかり背を向けてスーツの男へと身体を向けている。生意気そうな口調だ。

 

「おいガキ。お前カニの怪物に何かしてないよな?」

「え? 公園で寝てたからマジックで乳首かいたよ」

 

 声なくアキラは噴出した。ひぃい、と苦しみつつ腹を抱える。

 涙をにじませて笑いを堪えるアキラは、カニランテが着々と近づいていることすら見落としている。

 

「み~っけたぁぁ!!」

 

 殺気にぴしゃんと背筋が伸びる。巨体から繰り出される一撃には手加減などありはしない。

 ハサミとなった腕は子どもに向かって容赦なく振り下ろされている。アキラは一瞬足に力を込めたが、すぐ近くにいる男が動き出したのを冷静に確認する。

 スーツの男は子どもを抱えて危ういながらも回避し、子どもを胸に庇った状態で背中から着地する。すぐに子どもを下ろし、しゃがんだ状態で子どもへ焦った顔を向けている。

 

 アキラはほっと一息つく。よかった、子どもも男も血糊をまき散らすことにならなくて。男が庇った子どもの顔を見て、見事なまでのケツアゴにこれは著しく目立ちすぎているし、見間違えようがないと納得した。

 

「ガキ!! 狙いはお前だ、逃げろ!」

「で……でも……」

「俺に構うな。早く行け!!」

「サッカーボールが……」

 

(ひゃははははははははは! 心配してンじゃなかったのか! やっべ、面白すぎてうごけねぇ……!)

 

「ボールかよ!! いいから早く行けって!! 殺すぞ!」

「キミ~、何のつもりだい。まさかその糞ガキをかばう気かい?」

 

 カニランテが不愉快そうに言う。赤い装甲にぎょろりとした目玉しかないため、その目玉と声色でしか判断できないのだが、たぶんめっちゃ不機嫌だ。

 

「おいまさかとは思うが子どものイタズラごときで殺意を起こしてるのか?」

「プク(笑) もう何人も切り裂いてきたよ。この姿を馬鹿にした奴はもれなくね

 そのガキャア! 俺様のボディに乳首を描きやがったんだ! しかも油性だぞ! この手ではタオルで吹くこともできん! 許すまじ!」

 

(ひっひひひひ、もっ、もうやめてぇ……!!)

 

「ひひっ……!」

 

 耐えきれずに噴出したアキラは、初めてその存在を認識された。

 

「おい、女。笑ったか今?」

「え? いやいや、わ、わらってなぃ……ひひひひひ、あっは、だめだ、ははははははは。本当に黒乳首描かれてんじゃん。あっはっはっはっは!! 腹がよじれる、こっち向くなぁ」

 

 アキラはなぜ男が笑わないのか不思議で仕方がなかったが、くく、と肩を震わせているのを確認した。

 アキラが大笑いしているせいで、すっかり紛れてしまったらしい。

 

「笑うなぁ!」

 

 カニが迫ってきて大ぶりにハサミを横薙ぎにする。ぴょんと後ろへ跳んだアキラのすぐ近くをハサミが通り、風で髪が舞い上がる。

 近くで見ると、黒乳首はぐるぐると適当に塗られているのが鮮明に確認できた。雑な描き方が逆に笑える。

 

「ひゃははははははは、まじ、背中向いてくれぇ……! こっちに乳首向けるなってぇ」

「この糞アマ……! 許すまじ!」

 

 あまりにも面白すぎて腹を抱えて大笑いしているところを、脳天向けてハサミが落ちてくる。笑いながらひょいと避けたアキラは、見ないでおこうと思っているのにデカい黒乳首を見てしまい、カニに似つかわしくない立派な乳首に笑いが止まらない。

 

「お、おいお前……! 笑ってないで逃げろ!!」

「い、いや、ちが、……笑って、逃げれね……」

 

 息も絶え絶えにげらげらと笑い続けるアキラに、男もつられて吹き出した。

 

「くっ……!」

「おい、お前も笑ったな?」

「くくくくく。はっはっはっはっ。あーだめだ、つられちまった。

 なんか思い出した。お前、昔見たアニメの悪役そっくりだわ」

「どいつもこいつも馬鹿にしやがってぇ!!」

 

 激高したカニランテがハサミを横薙ぎに振り回す。ぐるりと回転するような攻撃は単調で、アキラは危うげなく避けたが、男は吹っ飛ばされた。避けたアキラにカニランテが猛攻撃を仕掛けてくるが、男が投げた小石がカニランテの頭に直撃する。

 

 アキラの意識はすっかり笑いへとシフトしていたが、男が吹き飛ばされてようやく思考が切り替わる。

 

 額から血を流し、砂まみれになった男は吹き飛ばされてもなお、立ち上がっている。

 

「また……思い出した。俺、小さい頃ヒーローになりたかった。テメーみたいなあからさまな悪役を一撃でぶっ飛ばすヒーローになりたかったんだよ」

 

 男はしっかりとカニを見据えて挑発した。

 

「就活はやめだ。かかって来いコラ!」

 

 正義感にあふれたその男の姿は、不思議と昔見た少年を思い出させた。

 なんの力もないくせに、ダメなオッサンの自分を助けてくれたあの時の中学生を。

 

 男がカニランテに殴られる寸前でアキラは素早く間に割って入り、ハサミを蹴りでいなす。目では追いつかないスピードで移動したアキラに瞠目した男だったが、すぐに我に返る。

 アキラがカニランテの連続ハサミ攻撃をいなしている間に、ネクタイを引き抜いて跳躍する。男へも攻撃を食らわそうとしていたカニランテだがアキラに妨害されてハサミひとつ出せない状態だ。

 

 男の意図を悟ったアキラはカニの膝に軽く蹴りを食らわせた。がくんと膝を折って低くなったカニランテの目に男がネクタイを引っ掛けて、そのままぶち抜く。汚い叫び声をあげて呆気なくカニランテは撲滅された。

 見事なまでの息の合った連係プレイである。

 

「はっ……ははっ。やった……!」

「あんた、強いねぇ」

「お前の方がずっと強い。ほんとはあんなの一撃でぶっ飛ばせたんだろ?」

「まさかぁ」

 

 ばたりと地面に倒れ込んだ男は達成感に笑みを浮かべていた。ゆっくりと身体を起こした男が座ったままアキラに身体を向ける。

 

「なあ、弟子にしてくれないか?」

「ああ……ぁあ? いや、無理ぃ」

「お前……いや、師匠。お名前はなんていうんだ?」

「誰が師匠だっての。多摩無アキラだ。変な呼び方するなよぉ」

「多摩無アキラ……?」

 

 ぱちぱちと瞬いた男が考え込む。

 

「歩けるかぁ? 無理なら背負ってくけどぉ」

 

 サイタマは目を見開いた。それは奇しくも、苦汁をなめた中学生の頃に出会ったサイタマのヒーローがかけてくれた言葉とまったく同じであったからだ。

 

「……タマナシ……アキラ……! まさか……」

「おーい」

「昔、豚の貯金箱の怪人を倒さなかったか?」

「んー? ………………あぁ! 懐かしいなぁ。ありゃぁ良い臨時収入だったよぉ。あの日が、俺の人生の転機だったなぁ」

「やっぱりな。随分とイメチェンしているが、やっぱりタマナシさんか! 会えて嬉しい。実は、昔タマナシ師匠に救われたことがある。あの時俺は中学生で、豚の貯金バコンにやられて路地裏で倒れてた」

 

 死んだ魚の目だった男が、心なしかきらきらした目をしている。子どもがよく向けてくる視線にそっくりだ。

 いや待て、だから誰が師匠だって。

 いや待て、イメチェンって。

 いや待て、あの時の子か。あの時って、汚い格好はしていたが、まだ男だったような気がする。

 

 目まぐるしくアキラの思考は移り変わる。そうか、あの時の子か。

 人というのはそう簡単に芯というやつは変わらないのだ。

 この男サイタマは、昔からずっと誰よりも己に正直に生きているんだなあ。誰しも人は自分に素直になるよりも、人に魅せることを選んでしまう。自分の価値観ではなく人の価値観を気にして少しずつ芯が隠れていく。だというのに、この男は昔のままだ。

 

「あー……あの時のぉ。その節は世話になったねぇ。大きくなったなぁ」

「覚えていてくれたのか。なあ。タマナシ師匠はどうやって強くなったんだ? 俺は、本気でヒーローになりたい。頼む、弟子にしてくれ」

 

 近所のおばちゃんのように成長を喜んでいたアキラであったが、不穏な言葉を聞き取って我に返る。

 弟子ぃ? ごめんだ、ごめん。

 

「ごめんねぇ」

「頼む」

「君のこともよく知らないしぃ」

「タマガワだ」

「タマガワ……?」

「違う、サイタマだ」

「え、なんで嘘ついたのぉ」

「言い間違えた。タマガワとサイタマ、ぜひタマタマ師弟として」

「俺タマガワじゃねえしぃ」

「タマナシとサイタマか、ぜひタマタマ師弟として」

「なに何事もなかったかのように振る舞おうとしてんのぉ」

「なんかタマタマタマタマわっかりづらくてよ」

「名前も若干被ってるし、諦めてよぉ」

「諦めきれない」

「……諦めて欲しいなぁ」

「そこをなんとか」

「えぇー……そだなあ。腕立て伏せ100回、上体起こし100回、スクワット100回……んーあとはランニング10km!

 これを毎日やるんだ。1日でもサボったら終わりだぞぉ。一年続けれたら弟子にしてやるよぉ。くれぐれも言っておくが、1日でもサボったらナシだかんなぁ」

 

 台風が来ても、怪人が来ても走り続けるなど到底不可能である。最初からできないとわかっている条件を提示し、万が一1年後アキラのもとへと訪れたら「1日サボったろ」と言う。そして弟子入りの件はなくす。

 のんべんだらりと休日には一日中酒を飲んで暮らすアキラは、はなから無理だと決めつけた。すっかり自分の価値感で人を計ってしまうようになっていた。

 

「なんだ不満かぁ? じゃあ俺の弟子になるのは諦めるんだなぁ」

「いや、やる。必ずやる。タマナシ師匠、待っていてくれ」

「待ちゃあしねえがぁ……んで、歩けるのぉ?」

「ああ、問題ない」

 

 ふらふらと立ち上がった男――サイタマはえらく体育会系な90度のお辞儀をして去っていった。

 

「変なのぉ~。おっと、酒酒……っと」

 

 すっかり意識を切り替えたアキラはカニランテを見て、今日はカニ鍋にしようと決める。

 冷凍のカニとたんまり酒を買って。夏場の鍋ってのも結構乙なもんだ。冷房をガンガンに効かせて……と考えるだけであまりの贅沢ぶりに涎が出そうだ。

 

「あ、そういや俺今日誕生日ぃ……」

 

 よし、高級な日本酒でお祝いといこう。そだそだ。俺今日誕生日。祝、賢者!

 精霊になる前にぜひとも童貞を卒業したいものだ。

 アキラが脱童貞できる日は、果たしてくるのだろうか。

 男に戻れそうな見通しは、未だに立っていない。

 

 

 

 

 

 




タンクトップマスター
『タンクトップが似合う男になって、もう一度、タマナシさんに告白する……!』


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原作2年前

 怪人出現率の嫌に高いZ市は、建物の破壊率もまた同じく高い。

 アキラはぴとぴとと降り止まぬ水滴を眺め、腕組みしてう〜んと渋く唸る日々を送っていた。

 崩壊こそしなかったが、怪人の暴走の余波で天井が崩れ、雨漏りするようになったのだ。

 このマンションに愛着もあったし、色々と思うところはあったため多少の不便は気にせずに住んでいた。ぽたぽたと降る程度だったのが、雨の日には家のなかで傘が必要なレベルになってきて、あまりの鬱陶しさにとうとう引っ越しを決めた。

 それなりに金も溜まってきたし、地価は大暴落しているので、もう少し小マシな場所に住めそうだ。次は頑丈な作りのマンションにしよう。あとは管理人とすぐ連絡がついて修理してもらえるところがいい。

 

 口座を持たないアキラは現金を家に貯めておくことしかできなかった。引っ越し業者が入る前に、さすがに不用心か、と巻き散らかしていた金を一まとめに衣装ケースのなかへと収納した。

 無用心に変わりはない。

 

 部屋のなかに散らばっていた金を一まとめにしてみると、日々積み重なっていっていた金は、慣れ親しんだ節制生活のおかげで随分と増えていた。

 ケースのなかぎっしりと詰まる札束を見て、そろそろ収納場所にも困るレベルだ、と週に3日のバイトをさらに週1日に減らした。発泡酒何本買えるかな、としか考えていない。つくづく物欲のない男であった。

 

 さすがに週に1日だと鳶の仕事は貰えず、仕事場も変わったし丁度いい時期だ。

 

 新しい職場で出会った子たちが、妙に鼻の下を伸ばして「俺たちタダで運びますよ」なんて言ってきてくれたのだが、ちゃんとした引っ越し会社に頼んだ。なにせ金はあるのだ。

 

 

 鳶から離れるときには壮大に送別会まで開いてもらえて、初めてリア充気分を味わった。

 楽しい時間はあっという間であった。親方以外とはあまり関わりをもっていなかったのだが、タンクトップ集団(なぜかアキラと親方以外の全員タンクトップを着ている)はアキラのために宴会芸を準備してくれていた。酒に酔って笑いのツボが浅くなったアキラはまわりを憚ることなくゲラゲラと大笑いながらガバガバと酒を飲んだ。

 最後の挨拶なんて考えていなかったのに突然振られて「お世話になりましたぁ」とぺこりと頭を下げると、親方が滂沱の涙を流して「こちらこそ、ありがとな。お前がいてくれて本当に助かったぜ」としんみりしながらアキラの肩を叩くものだから、つられて泣きそうになった。

 随分と可愛がってもらったのでお礼に簡単な贈り物をして、親方のついでにタンクトップ集団にもプレゼントをしてまわった。やつらの中身はウニクロのタンクトップである。

 特になにをしたわけでもないのに、タンクトップ集団は大号泣していた。なんか関わりあったっけ? まあ、つられ泣きってやつだろう。夏でも冬でも変わらずタンクトップの変な奴らであったが、いいやつらだった。

 いつかタンクトップの似合う男になって迎えに来る、と言っていたが、なにを迎えるつもりだろうか。タンクトップ……似合う男……迎える? ウニクロの広告待ちか? よくわからないが、うん頑張れよと適当に返事をしておいた。アキラの行き当たりばったりな性格は変わらない。

 

 辞めてからしばらくはタンクトップ集団がアキラの小汚いワンルームマンションに何度も遊びに来てくれていた。筋肉隆々の男たちがみっちりと詰まったワンルームはめちゃくちゃ狭く思えた。タンクトップの女子も暑苦しそうにしていたが、迷惑そうにしながらいつも来てくれていた。

 2週に1度程度は食材や食器を持ち寄って遊びに来てくれていたのだが、ある時ぱったりとその来訪もなくなった。

 

 すこし寂しい気はしたが、なんの約束もしていなければ、連絡先の交換もしていない。向こうはアキラの家を知っているが、アキラは向こうの家も知らないし名前も知らない。

 職場が違えばそんなもんか。

 アキラも自分では気づいていなかったが、いつの間にかタンクトップ集団のことを待っていたらしく、彼らのためにたくさん買い込んでいた酒をすっかり飲み切ってから、そういえば最近来てないな、なんて気づいた。気づくまではなにも思っていなかったのに、胸にぽっかりと穴があいたような気分になった。

 

 そもそも、遊びに来てくれていたことだって今までのアキラの人生を想えばラッキーなことだった。なんか友達っぽくて嬉しかったなあ。いい思い出だ。

 

 来訪者もいないことだし。

 引っ越しを決意したのは、それもあってだ。

 

 小汚いワンルームマンションから、頑丈なマンションへ。

 

 

 今の職場は鳶よりも女子が多い。多いといっても事務職ほど多くはないのだろうが、タンクトップの女の子1人としか関わったことがなかったアキラにとっては十分多い。

 かわいい女子を見ているのは楽しい。41歳にもなれば年下のピチピチギャル(死語)に恋愛感情なんてまるで芽生えないが、女の子たちはアキラのなにを警戒しているのか毒蛇のように威嚇してくる。だがそれさえも可愛らしい。シャー! て感じがめちゃくちゃかわいい。仲良くなりたいのだが、未だに友達はいない。

 

 その頃くらいから、アキラはサングラスをかけることを覚えた。メドゥーサのごとく目から変なビームでも出ていたのか、サングラスをかければ、むやみやたらに襲い掛かってくる男はいなくなった。

 

 そうか俺はメドゥーサだったのか、と外出のおともには財布とサングラスを持ち歩くようになった。サングラスは安い300円、財布は100円均一で買ったものだが、アキラはしみじみと悦に浸っていた。

 サングラスなんて一生かけることがないと思っていた。財布なんて一生持つことがないと思っていた。ポケットに小銭を突っ込んでいた時代から考えると、めちゃくちゃ文明人だ。

 

 サングラスを手に入れたアキラは、外での活動が若干増えた。休日は引きこもっていたのが、3日に1回程度は外に出て情報収集をするようになったのだ。

 

 町はすっかり様変わりしており、仕事上必要なルートしか頭にいれていなかったアキラは町内散策を楽しんだ。

 人目を気にせず買い食いできるようになって、あまりにも嬉しすぎてシークくんにクレープを奢ってやった。嬉しさのおすそ分けだ。

 え、シークくんって誰って?

 

 仮面の青年――アキラは心のなかでシークレット仮面、略してシークくんと呼んでいた――は、誰かが心なくポイ捨てしたゴミを率先して拾ったり、重い荷物をもった老婆の代わりに荷物を持ってやったり、道に迷っているらしい人に声をかけたりと、朝から晩まで身を粉にして善行を尽くす若者だ。彼はアキラがよくいくスーパーの近くで活動していたものだから、その存在をなんとなく認識していた。感心な子だ、と常々思っていたのだ。

 だから、彼に自ら声をかけてクレープを奢った。

 僕のことを知っているんですか? と嬉しそうに尋ねられたので、ずっと見ていたとストーカーじみたことを言った。

 シークくんは、引くでもなく、むしろちょっと残念そうにしていた。

 なんでもヒーロー活動をしているらしくて、ファンかと思ったらしいのだ。ある意味ファンのようなものだというと、仮面で表情はわからないながらも嬉しそうにしていた。

 世のため人のため働く若者の姿は見ていて気持ちがいい。

 

 クレープの後からは会う度に会話くらいはするようになり、世間一般で言う知り合いくらいにはなれたと思う。

 品行方正を絵にかいたようなシークくんは、アキラが勝手に心のなかで名付けたシークくん、という呼びかけに普通に反応してくれるようになっていた。いつだったか彼の名前を聞いたことがあったのだが、その日のうちに忘れた。彼の性格や行動どおりの素敵な名前だった気がする。忘れたけど。アキラにとって彼はシークくんなのだ。

 

 ヒーロー協会という民営会社に勤めているらしく、シークくんは熱心にアキラを勧誘してくれた。せっかく勧誘してくれたが、アキラは崇高な目的もなければ、人一倍強い正義感もないダメ人間だ。前よりマシになっているかもしれないが、根っから面倒くさがり屋のため、俺には務まらないと断りを入れた。その後も何度か誘いをかけてくれた。

 

 アキラ的には友達になれるのではないかと思っていたのだが、1度食事をしに行った後からシークくんはアキラの前から姿を消した。

 サングラスを外したアキラを見て、シークくんはぴたっと黙りこくり、仮面も取らず、食事もしないままに解散することになった。なにやら気まずいまま別れることになってしまったが、アキラはなにをした覚えもなかった。強いていうならば、初めて一緒に食事しにいったくらいだ。中華嫌いだったのかな。なら、行く前に言ってくれればよかったのに。

 

 連絡先は交換していなかったが、道を歩いていればよく会っていた。きっとまた明日会えるだろう。そのときには元気になっていたらいいな。そう思っていたのだが、1日経っても2日経っても彼の姿はない。少し遠くまで彼の姿を探しにいったが、仮面の青年を見つけることは叶わなかった。知らぬ間に、彼を傷つけてしまっていたのかもしれない。愛想を尽かされてしまったのだろう。

 

 少しならず寂しかったが、アキラは男の身体を取り戻す、という本来の目的を思い出して町中を歩き回った。目では、いなくなってしまったシークくんを探しながら。

 

 それから1か月も経つと感傷的な気持ちはすっかり消えて、なにも言わずに去ったシークくんを一発殴ってやろうとすら思っていた。

 

 

 アキラはそろそろ、自分が男に戻れる日は来ないのではないかと思い始めていた。アキラと同じように男から女に変わった症例は、ないこともなかった。少数例であるが、怪人の情報として。

 物理的に性転換手術をすることはできるらしいが、薬1錠ではそうなれない。

 調べられることは10年のあいだにほぼ調べ尽くしていた。あとは進化の家の天才博士にこの身を委ねるくらいしか方法はない。まだその踏ん切りはつかない。なにせ彼の家にいるのは変な生物ばっかりだ。やっぱり面白い形にしよう、とアキラの身体が好き勝手に変な形態にかえられる可能性は大いにある。カニ怪人にもブタ怪人にもメデューサにもなりたくなかった。

 

 よくアキラに情報提供してくれていたミルクセーキの男は、拠点場所を変えたのか、めっきりと会うことがなくなった。Z市は人口が急激に減少しているし無理もない。

 

 もしかして自分は怪人になってしまったのだろうかとも考えた。だが怪人は破壊衝動やら欲望やらが顕著に目立つという。今のところそういった心の揺れは感じておらず、昔と変わらない。と自分では思っている。

 

 稀に見る鏡には、昔と変わらない気がする若い女性が映っている。鏡なんてまじまじとは見ないが、未だに皺ひとつない。

 それがなにやら空恐ろしい。

 

 

 

 

 

 

 

 朝から酒を飲み、ぐだぐだと過ごすいつも通りの日。

 

「タマナシ師匠~いるか?」

 

 今日も変わらずのんべんだらりとくつろいでいたアキラに、珍しくも来客があった。

 どうやら自分の名前を知っているようだが、部屋に訪れた人間でアキラの名前を知っているのは借金取りとセールスマンとタンクトップ集団くらいのものだった。家を訪ねてくる友達なんていないし(別に寂しくない)ご飯を作りに来てくれる幼馴染もいない。

 

 目が覚めてしまったので仕方なく、寝落ちして飲みかのまま放置されたぬるくなったビールを飲んでいると、ガチャリと扉が開かれた。

 ここ最近借金取りなど来なかったため、カギを閉める習慣がすっかりなくなっていたのだった。

 

「あ、師匠!」

 

 嬉しそうに部屋に入ってくるのは黒髪の青年だ。

 おいおい家間違えたのか、と危機感の欠片もない。

 白いパーカーにジーンズと普通の格好ではあるが、パーカーにはでかでかと"玉無し"と書かれている。アキラの気分は一気に下がった。なんっつーパーカーを着ているんだ。

 なんで俺のことを知ってるんだ。

 

「誰ぇ?」

「俺だ。俺、俺」

「詐欺ぃ?」

「違う。丁度1年前に約束した、サイタマだ」

「あー……?」

 

 寝起きなうえにアルコールに侵された頭でしばらく考る。

 誰だっけ。

 

「あぁー、カマタマくんね、あーあーいたいたぁ」

「サイタマだ」

「カニタマくんかぁ。ごめんごめん。で、どうしたのぉ?」

「サイタマだ。約束通り1年間修行を続けた。俺を弟子にしてくれ」

「弟子ぃ? ンな約束したっけかぁ……?」

 

 41歳の誕生日を迎えたアキラは物覚えが非常に悪かった。昔から悪かったが、ここのところさらに悪い。1年前に約束したなどといわれても、まったく思い出すことができない。

 見たことあるっけか。没個性的なよくある顔だ。会ったことはあるのかもしれない。

 週1のバイト先の人間さえ覚えられないアキラが、1年前に会った人間のことをすんなりと思い出せるはずもなく、うぅんと唸った。

 

「師匠のことを調べて、剣豪だということを知った。だからあれほどまでに身のこなしがスムーズだったんだな」

「調べたぁ? どやってぇ」

「普通にググったら出てきた」

「ググッタ? 新しいカップ麺~?」

「検索サイトで検索したってことだ」

 

 情報化社会ってやつは凄いものだ。そんな簡単に個人情報がでてくるのかとおののく。

 若干おでこの広めなこの青年はまだまだ若そうに見えるが、若禿のきらいがある。デブにデブと言ってはいけないように、ハゲにハゲと言ってはならない。そう思ったアキラは、寂しくなりつつある彼の頭をちらりと盗み見ただけでなにも言わなかった。

 で、誰だ。

 

「約束通り、1日も休まずに修行した」

「んん~……ん~?」

「怠けたい心に負けそうになる日もあったが、1日も絶やさず修行した」

「そりゃ凄いねえ」

 

 素直に感嘆して間をつなぎながら、アキラは必死に彼のことを思い出そうとしていた。

 

 黒髪、若禿……いや、だめだ。全然思い出せない。絶望的なまでに思い出せない。なんか見たことはあるんだけど。

 

 魚の骨が喉に刺さって取れないときくらい気持ち悪い。

 

「で、そのカキタマくんは……えぇとなんで俺なんかに弟子入りしようと思ったのぉ?」

「サイタマだ。わかっててやってるだろ。

 言わなかったっけか。俺が中学生の頃に師匠に助けてもらったんだ」

 

(すっかり師匠呼びだしぃ……)

 

 中学生、学ラン――――世紀末!

 はっとアキラは、世紀末ファッションの学ランを思い出し、続けて1年前の出来事もようやく思い出した。

 

「ああ、ああ、サイタマくんねぇ! 覚えてる覚えてるぅ」

「やっと思い出したか」

 

 じぃっと見つめる死んだ魚の目……の奥にある謎の煌めき。なんだこのむずかゆくなる視線は。ぞわぞわと身体中にウジ虫が這いまわるような気色悪さにアキラは身じろぎした。

 ようやく身体を起こし、座って向かい合う。

 

「ま、立ってるのもなんだしぃ。座ればぁ?」

 

(約束したなぁ……しちゃったなぁ……今更ナシとか言えない雰囲気だよこれぇ)

 

 しゅたっと座ったサイタマは真っすぐにアキラを見ている。

 期待するようなサイタマの目にアキラは頬をぽりぽりと掻く。驚きと焦りですっかり酒精は抜け、酒を飲む気にもならずため息を吐く。

 

「師匠、俺は何をすればいい?」

 

(帰ればいいと思うよぉ)

 

「あー……うん……そだねぇ……えとねぇ……てゆかほんとに毎日やったの? マジで?」

 

 若干焦り気味に話を蒸し返したアキラに、サイタマは気を悪くした様子もなく頷く。

 

「マジだ」

「そかそかぁ、うん。1年間で君の情熱を確かめたかったんだけど、しっかり伝わったよぉ。

 けどやり方はどうかな?」

「やり方……?」

 

 突然立ち上がったアキラは無駄に拳を突き上げつつ早口でまくし立てた。

 

「そりゃそうさ! 大原則として、型が大事だ。ぐちゃぐちゃの型で回数を稼いだところで意味はない。

 腕立て伏せであれば頭から足先まで一直線に体幹をブラさないようにして、肘を伸ばしきってはならない。同じようにスクワットは膝を伸ばしきってはならない。

 100回をいかに早く終わらせるかと速さを求める練成もあれば、ゆっくりとスロートレーニングでの100回の日も。10kmだってだらだらと健康ジョギングをしてちゃあ意味がない。キロ3分どころかキロ1分、もっというとキロ30秒くらいのタイムは叩きださないとね」

 

(言うに事欠いて1キロ30秒て……ンな人間いねえよなぁ。いや、時速になおされない限りバレないはずだぁ)

 

 最低限の息継ぎで早口に言い募り、だらだらと汗をかくアキラだったが、サイタマは表情の読めない顔で真剣に頷いている。

 よし、これは聞いてない顔だ。

 

「スロートレーニングも、タイム計測もしたことがなかった……。さすがは師匠だ」

 

(ちゃんと聞いてたぁ……!)

 

「わかった。明日からのトレーニングでは師匠の助言を取り入れてみる。きちんとタイムも計って報告しにくる。

 やはり弟子たるもの、まずは片付けからか」

「えぇ……いいよぉ」

「俺も一人暮らしで慣れてるし、この部屋より酷くはならないだろ」

 

 座ったばかりだというのにすぐに立ち上がり、サイタマは足の踏み場もないゴミだらけの部屋を嫌な顔ひとつせずに片付けだす。

 道場掃除じゃあるまいし、師匠の部屋の片づけなんて。今の子どもたちにやらせたらパワハラで訴えられるだろうな。

 

 せっかく片付けてくれているのでありがたく邪魔にならない壁際へと寄ったアキラだったが(押しに弱い)、内心では滝のような汗をかいてどうしようかと悩んでいた。

 え、明日も来るつもりなのかな。引っ越ししたばっかなのに、どうやって家知ったんだ? などと疑問はむくむくと湧き出ていたが、どれもこれも言葉にはならない。

 

 師匠らしいことなんてできようはずもない。

 アキラはここ十数年で身についた独り身エンジョイだらだら生活を手放す気はなかった。アキラは格闘家ではなく剣術家である。

 彼の身体の筋肉のつき方からして、剣術家ではなさそうだ。手にタコはできていないし、手の皮も厚くない。なにか得物を手にしての戦闘タイプではないだろう。

 アキラとて軽く体術もかじってはいるが、人に教えられるほどのものではない。

 

(なんで安請け合いしたのぉ……俺ぇ……! バカバカバカバカすかぽんたん!!! まっじダメ人間! 俺の駄目さ加減が全世界の人間に通じるわけねぇだろぉぉぉぉ)

 

 過去の自分を激しく詰る。

 ぷすん、と煙をあげたアキラは突如として、左手で皿を作り、右手をグーにしてぐりぐりと擦るゴマすり体勢に入った。

 

「あー……とぉ。鍋はお好きぃ?」

「大好物だ」

「そ。ちょと具材買ってくるねぇ~」

 

 逃げた、ともいう。財布をズボンにツッコミ、サングラスを引っ付かんで外へと飛び出た。

 

 

 無駄にタクシーに乗って遠くまで買い物に来てしまったのは、現実逃避の表れである。適当に車を走らせてくれと疲れた表情でタクシーに乗り込んだアキラが言うと、気のよさそうなおっちゃんは「姉さんなんかあったのか?」と心配そうに声をかけてくれる。おっと、サングラスをかけるのを忘れていた。おっちゃんを見る前にアキラは慌ててサングラスをかける。

 近くの住人らしき男がゾンビ化してよたよたとタクシーへ歩み寄っている。一見して不気味なその男に、一も二もなく扉は閉められた。

 

「ストーカーでもされてるのかい? おっちゃんに任せておきな」

 

 ギュオン! とタイヤがから滑りするほどのスタートダッシュ。なんちゃらの法則で後部座席に身体が押しつけられる。ミラーに映った男がみるみるうちに小さくなっていく。

 タクシーにあるまじき凄まじいスピードで車を走らせてくれた。時速120kmこれって、キロなん分なんだろう。学生時代にキロ3分でへいへいぜいぜい言いながら走っていた体感速度を考えると、それよりは早いのだろうとはわかるのだが。

 

(キロ30秒て……どんくらい?)

 

 額に手を当て物憂げなため息を吐くアキラは、どこからどう見ても迷える美女であった。ストーカーに悩まされていると思い込んでいるタクシーの運転手はかわいそうにな、と心から同情してアクセルべた踏みで走り続けた。

 実際は簡単な算数ができずに頭を悩ませているだけだ。

 

 景色がびゅんびゅんと過ぎ去っていく。信号無視など当たり前だ。近頃の警察は信号無視なんてちいさなことでは逮捕しない。それよりももっと凶悪な怪人たちに追われて手がいっぱいなのだ。公務員っていいよなぁ、なんて思っていた時期もあったが、今となってはフリーター生活万歳である。

 

「この町はヒーロー協会の本部ビルもあるから、安全だよ。なんならQ市に行ってもいいが、どうする?」

「あ、ここで」

 

 タクシーのメーターは8350円となっていた。なにこれスピード加算とかされるのか? タクシーなど滅多に乗らないためいまいち仕組みがわからないが、財布のなかから1万円札をとりだして渡すと5000円が返された。

 

「姉ちゃん、応援してるぜ。気を強く持てよ。高速も使ってないし、これはおっちゃんからの激励だ」

「マジ? ありがとぉ」

「おっちゃんにも姉ちゃんくらいの娘がいるからどうにも他人事に思えなくてよ。美人さんは大変だな」

 

 アキラの年齢は娘さんよりもおっちゃんと近い。

 

 微妙な顔をしたアキラは、ぱかっと扉が開かれてタクシーから降りる。気のいいおっちゃんはぐっと親指を突き上げて、爽やかに去っていった。

 

 

 ここは何市だろうか。ヒーロー協会ってなんだっけ。聞いたことあるな。

 高層ビルが立ち並び、店も多い。土地勘はまるでなかったが、適当に歩いていればなんとかなるだろう精神でぷらぷらと歩く。照り付ける日光は眩しく、露出の多いタンクトップでは肌が痛いくらいだ。

 なんとなく、であれば家の方向もわかるので、運動がてら町を散策する。

 

「あの人貧血かなぁ?」

「しっ、大きな声でそんなこと言わないの!」

「……あ」

 

 トレンチコートに身を包む、やたらめったら顔色の悪い青年。子どもに指をさされながらも特に気にした風もなく歩く彼は随分と久しぶりに見る。

 

(普通に歩いてるぅ)

 

 人目につかないように歩いていた彼は、アキラが喫茶店に誘ったときくらいしか一般人の前に顔をだそうとしていなかった。堂々と日中も歩くようになったらしい。こそこそする必要なんてなかろうに、と口惜しく思いながら見守っていたアキラは、数年ぶりに見た彼の元気そうな姿に満足した。

 そういえば彼もまた、アキラに負けず劣らず顔が変わっていない。サイタマ少年はすっかり大人になっていたけれど、アキラもミルクセーキの人も全然見た目が変わらない。

 

(……元気そう? だなぁ)

 

 相変わらず顔色は悪い。

 ミルクセーキはアキラに気づいた様子もなく、さりげなくあたりを警戒しつつ、しゅたっと路地裏へと身を翻して進んでいく。きっと仕事中なのだろう。

 この辺りに仕事場を移したのかもしれない。なにはともあれ元気そうでなによりだった。

 声をかけるのもなんだし、アキラはミルクセーキの無事を確認するだけに留めた。

 

 だらだらと歩いているとすっかり見慣れた街並みに戻ってきており、結局スーパーはいつものところになった。

 若者はたくさん食べるだろうと大量の具材を買う。カートに乗せたカゴが2つ分埋まるくらいの大量買いである。我ながらレジの時に引いた。愛想のいい店員が「パーティーですか?」なんて声をかけてくれたが、アキラは「うん」と答えてすんなりと会話を終了させてしまった。コミュ障か。それからは、ピ、ピ、ピとレジを通す音だけが響いた。

 いやだって、2人でパーティーってのも変な話だしなぁ。内心で言い訳をしているが、その表情は気だるそうなままである。

 

 袋にして4枚分にもなり、酒類も入ったずっしりと重いそれらを軽々と運ぶアキラに、店員は唖然とした表情を向けていた。

 

 

「ただ~いまぁ~」

 

 買いたいものを好きなだけ詰め込んで、少し幸せな気分になっていたアキラは見違えるほどに綺麗になった部屋に瞠目した。

 

「おぉ……すげぇ……」

「お帰り。遅かったな、師匠」

 

(師匠……! 忘れてた!)

 

 すっかり現実逃避で終わってしまっていた。どうやって弟子入りを断るかを考えようと思っていたんだった。愕然とするアキラの手から袋を取り上げて「おーすげぇあるなぁ」と嬉し気に笑う。

 

「あ、俺海藻類も好きなんだ」

 

 だろうな。寂しくなりつつある頭髪を眺めて間髪入れずにそう返しかけたが「そうなんだぁ~遠慮せず食べてねぇ。余ったら持って帰っていいしぃ」と視線を逸らす。

 

 師匠などになる気はさらさらなかったのだが、師匠と言われているのだからきちんとしないといけないような気もして、そういえばすっかりサイタマにはダメダメなところを見られていたことを思い出す。

 

 あ、なんだ今更じゃん。

 

 そう気づいてからは、ぐでぇっと綺麗になった床に寝転んだ。背筋をなくした動物のごとくぬるりと床に倒れ込んだアキラをサイタマはまるで気にした様子はない。

 アキラもまた、まるで料理を手伝うつもりはない。

 

「お酒飲むぅ?」

「いや」

「下戸?」

「いいや。酒を飲むと判断が鈍るからな。俺は師匠みたいに強くないから、なにかあったときに万全の状態でいたいんだ」

 

 すでにプシュッとやっていたアキラは「おほぉ~意識高すぎぃ~」と気持ち悪い声で思わず本音をぶちまけたが「そうでもない」とサイタマは気にした様子もない。

 

 意外と料理はするようで、手際よく鍋の具材を切っている。アキラが2本目を飲み終わる頃にはぐつぐつと煮込みが始まっていた。部屋のなかに文明的な香りがする。部屋を新しく借りてから初めて使われた調理器具が喜んでいる気がする。料理をしないのに鍋やら皿やらが揃っているのはすべてタンクトップ集団の置き土産をそのまま新居に持ち込んだからだ。調味料もそうである。

 

 折り畳みのテーブルをどこからか出してきた(そういやこんなの見たことあるな)サイタマは鍋敷きのうえにぐつぐつと煮えた鍋を乗せた。

 

「ふわぁぁぁああああ、すげぇ。うっまそぉ」

「誰でもできる。師匠が良い素材買ってきてくれたし。肉めっちゃ高いやつだな」

「値段見てないやぁ。いっただっきま~す」

 

 しゅたりと椅子に座ったアキラは器に具材を盛った。鍋はセルフサービスで、なんて言わなくてもサイタマも自分でよそっており、もりもりと平らげていく。猫舌のアキラが1杯食べ終わる頃には5杯ほど食べていた。酒が生活動力となっているアキラにとっては多すぎる量だ。まだ食べれるのか。やっぱり若者はよく食べるなあ。おいちゃんは見てるだけで腹が苦しくなるよ。

 

「師匠、全然食ってないが」

「俺はこれがあるからぁ~。食って食ってぇ」

 

 5本目の缶ビールに直接口をつけるアキラに、サイタマは素直に頷いた。

 これが師弟関係じゃなくて友達だったらよかったのに。胡坐をかいて頬杖を突きながら思う。まあ、友達みたいなもんか。ちょっと呼び方が特殊なだけで。そういうことにしておこう。

 

「一つ気になっていたことがあるんだ」

「ん~?」

「師匠は、男? それとも女か?」

「どっちに見えるぅ?」

 

 むむむと極限まで首を傾げたサイタマは、いやらしさの全く感じさせない目つきで胸を見て「女?」と答えた。

 

「乳で判断すなぁ」

「しかし師匠はかなりわかり辛い。中身は完璧に男だし、初めて見た時は男だったと思ってたけど、なにせ昔のことだからな」

「え、俺男に見えるぅ?」

「見えない。中身だ」

「そんな男らしいかぁ~そっかそっかぁ」

「男らしいというかオッサン」

 

 手際よく締めのうどんを作っていたサイタマが器によそいでずぞぞぞぞと麺をすする。彼に悪気は一切なく、思ったことをそのまま口にしている様子だ。

 

「そりゃぁ41歳だものぉ~」

「にしちゃあ若い見た目だな」

「いろいろあるのよぉ」

「なにかあったのか?」

「うん~。俺昔借金取りに追われる日々で毎日金欠でさぁ、夢も希望もなく生きてたからとりあえず童貞卒業しようと思ってさぁ。

 ソープ行く前にムスコが心配になって露店でハ〇イアグラもどきの試供品を貰ったわけぇ。その薬飲んだらぶっ倒れて、起きたらこの姿になってたんだよねぇ」

「ぶはッ、ソープは童貞卒業にはならねえだろ」

「そこ? てゆか、そなのぉ?」

「シロート童貞だ」

 

 けらけらと笑うサイタマにそうなのね、と頷く。

 童貞卒業ではなく、別種類の童貞にランクアップだったのか。

 

「だからやけに見た目が変わったんだな。整形でもしたのかと思ってた」

「まさかぁ」

 

 ぐいっとビールを最後まで飲み切り、アキラは立ち上がって冷蔵庫で冷やしていた秘蔵の日本酒を取り出した。誕生日にはこの酒を飲むと決めているのだ。

 

「サイタマくん! 君が俺の弟子になった記念だぁ! 1杯でいいから飲め飲めぇ」

「祝い酒か。ありがたくいただく」

 

 麦茶が空になったグラスに日本酒をなみなみ注ぐ。

 サイタマは特に表情を変えることなく、いただきますと淡々と日本酒を飲む。

 

「お、なんだこれ。めちゃくちゃ美味ぇ!」

「だろだろぉ? ふつーにゃ売ってないんだが、めちゃくちゃ美味ぇだろ! ほら、怪人が出たら俺が出てやるし、遠慮せず飲め飲めぇ」

 

 ほぼ強制的に酒を飲ませたが、サイタマは最高級日本酒ににんまりと笑っている。うまい酒を飲めばみんなハッピーになれる。

 アキラのマンションは、越してきてから初めて楽し気な笑い声が始終響き渡ることとなった。

 

 




タンクトップ集団はヒーロー活動が忙しくなって家に来なくなった。落ち着いて遊びに行ったら、マンションにはどの階にも誰も住んでおらず、絶望。

タンクトップマスター『待たせすぎてしまっただろうか……。いや、いつかきっと会える。タンクトップの絆がある!』


ミルクセーキの男は闇稼業からは足を洗い、アキラの後押しもあって民間企業ヒーロー協会に登録した。時折アキラを探しによくいっていた喫茶店へ赴くのだが、そもそもアキラは喫茶店には滅多にいかないため会えずじまい。

ゾンビマン『いつか会って礼を言いたい……』


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原作1年前

 ある冬のことだった。アキラの住む町に凄まじい寒波が訪れて、普段雪の降らないZ市にも牡丹雪が降り注いだ。雪とともに吹きすさぶ風は冷たい。往来を歩く人はほとんどおらず、建物の屋根や地面は雪化粧が施されている。

 

『緊急避難警報! ただいまZ市に怪人が出現しました。災害レベルは「鬼」です。付近の住民は直ちに屋内に避難し、絶対に外に――ピー……』

 

 町中で鳴り響く緊急警報がぷつりと途切れる。

 

 マンションから転がるように飛び出てきたのは、華奢な若い女性だ。恵まれた体型に控えめにいっても整った顔立ちをしたその女性は、ロングダウンを慌てて羽織ながら切羽詰まった形相で一目散に走りだす。おおよそ常人では考えられない短距離走の選手のような速度で走っていたが、その異様な光景はただ一人にしか見られていなかった。

 

「師匠。どこ行くんだ?」

 

 背後で聞こえる声を置き去りにして、アキラは走っていた。店は軒並みシャッターが降りている。雪だからだろうか。

 

 

(昨日までは、あった)

 

 それは、突然のことであった。

 サイタマの髪が、綺麗になくなった。毛根すらも死滅したつるつるの頭でいつも通り部屋を訪れたサイタマにアキラは絶句した。

 

「起きたら枕にどっさり髪の毛が散らばっててさ。

 なんかハゲた。

 どうしようかと思ったぜ」

 

(な ん か ハ ゲ た ぁ ? !)

 

 軽い調子でサイタマは言っていたが、同じ男だ。彼の隠した涙は痛いほどよくわかった。顔は笑っているし声の調子も軽いものだが、心のなかで大号泣しているに違いなかった。

 

 責任を感じたアキラは吹きすさぶ暴風に逆らってドラッグストアを目指していた。毛生え薬でどうにかなるものでもないかもしれないが、何事も試してみなければ。金に糸目を付けずに毛生え薬を揃えようと決意していた。

 はげる前にもっと注意喚起をすればよかったろうか。否、うっすらと彼の髪が減りつつあるのを悟ってどうして声をかけられようか。

 アキラはハゲにハゲという勇気は持ち合わせていなかった。

 

「なぁ師匠」

「なんだぁ」

「どこ行くんだ?」

「ドラッグストアだ……ってサイタマくぅん?! ちょ、なんでついてきたのぉ! ンな寒そうな格好でよく出てきたなぁ!」

 

 長袖のTシャツにズボン。ただそれだけだ。彼の表情から寒さは読み取れない。吹きすさぶ風にもなんのその、間の抜けた表情をしている。ぴったりとアキラの横を走っている。気配も足音もありはしなかった。アキラは必死な形相で走っていたのだが、サイタマは常と変わらない無表情で息も乱していない。

 

「別についてこなくていいし!」

「いや、突然出ていくから。師匠寒いの嫌いだから全然外に出ないのに。

 俺は1年中冷暖房はつけないようにしてるから、別にそこまで寒くないぞ」

「普通は寒いんだってぇ!」

「ふぅん。じゃあ、コタツのなかから滅多にでない師匠よりは寒くない」

「それは間違いない」

 

 アキラは暑さにはそこそこ強いのだが、寒さにめっきり弱かった。

 冬に差し掛かってきた頃、毎日していた修行は3日に1回まで落ちて、最近では全くしていない。

 

 サイタマは半年前から毎日アキラの家に通っていた。毎日会っていれば変化に気づかないというが、明らかに気づくレベルでサイタマは人間を辞めていく。

 

 アキラの教えを忠実に守って日々のトレーニングを欠かさないうえに、サイタマは自主的に怪人退治をも行っていたと聞く。怪人と戦い怪我をしてアキラの家に転がり込むこともざらにあったが、その後始末をすることはそういえば彼が毎日アキラの家を訪れるようになって1か月もしないうちになくなっていた。日に日にサイタマが怪我をする頻度は落ちていき、最近は飯を食いに来ていただけだ。

 

 人としての成長曲線などまるで無視した力の上がり具合であった。アキラは命の危機を感じて、サイタマの師匠面をするべく身体を動かすようになった。なにせ彼の作る飯はうまい。家事全般を当たり前のようにこなしてくれるサイタマはアキラにとって欠かせない人物になっていた。よい舎弟をなくしたくないがゆえに仕方なく本格的に身体を鍛え始めたのだ。サイタマによりもたらされた快適な生活をなくすことはできなくなっていた。

 だが人外のスピードで成長していくサイタマには敵わない。

 

 アキラが師匠面して教えたのは簡単なパンチとキック、あとは関節技や投げ技くらいのものであった。サイタマほどの身体能力であればすぐにものになるだろうと楽観視していたが、パンチとキックと足払いくらいしかものにならなかった。彼は壊滅的なまでに覚えが悪かった。

 

 いつからか純粋にサイタマの攻撃力を、特別製のパンチミット越しにも受け止めきれなくなってきた。どこぞの博士が発明してくれた凄いやつのはずなのだが。クーリングオフしたい。

 アキラは途轍もないパンチを受けるふりして力を逃がすことが得意になり、ついつい攻撃を避ける(というか避けないと死ぬ)ことに躍起になっていると、アキラは攻撃をいなす達人レベルにまでなっていた。「なんかあんまり手応えないんだよな」と首を傾げるサイタマに、アキラは冷や汗をかきながら「そ、そうぅ?」なんて震えた声で答えた。アキラの修行みたいになっている。

 隙を見て攻撃すると、フェイントすら使っていないのにボコスカとサイタマは殴られる。あれこれと攻撃を読むことはどうやら苦手らしいので、せめてもの攻撃を逃がす技術面を教えようとした。懇切丁寧に説明し、やってみせ、やらせてみたのだがサイタマはまるで理解ができない様子であった。山本五十六に文句を言いたい。

 防御は稀にしか成功せず、基本やられ散らかしている。ハゲ散らかしてはいなかった。まだこの時は髪の毛があった。

 

 いつになっても防御がものにならないものだから可哀そうになって「打たれ強けりゃなんとかなるさぁ」とアキラは言った。サイタマは適当な慰めを本気でとられて、殴られても、蹴られても、打たれ強けりゃなんとかなると自ら車にひかれにいくくらいになっていた。ひいた人間が可哀そうだとアキラが引きながら訴えると、じゃあ師匠が殴ってくれと爽やかに言われて「絶対に反撃しない」と言質を取って、泣く泣くサイタマをぼこぼこにした。

 報復されたら死ぬぞ、これ。そんな危機感を常に抱きながら涙を堪えつつサイタマを殴っていた。

 

 サイタマの攻撃力に申し分はない。だが死にたくないアキラは必死になってサイタマの攻撃をいなす。「なかなか師匠に一発をいれられない」と落ち込むサイタマに、そりゃいれられたら死ぬからなと思いつつもアキラは愚直に努力を続ける青年が可哀そうになった。努力は人一倍しているのだが物にならないのが哀れで「しょっぱな一撃素早く相手に叩きこんでKOすりゃ、なんの問題もねぇさぁ」と適当な慰めを言った。それを本気にしたサイタマはストレートを極めるようになった。今じゃあ壁に穴をあけるなんて当たり前だ。風圧で人を殺せるレベルだ。

 

 アキラの動体視力は40を過ぎてめきめきと上がっていたのだが、それでも見えない拳が飛んでくるのが多くなって、第六感が凄まじい勢いで磨かれた。見えないところから飛んでくる攻撃には人一倍敏感といっても過言ではない。人間死と隣り合わせだとめきめきと上達するもんだ。

 

 いつからかサイタマは車よりも早く、呼吸すら乱さずに走れるようになっていた。

 アキラが言ったキロ30秒を達成したとにこやかに報告されたときは、ショックでアルコールを飲む気さえ失せた。

 適当な発言を真摯に受け止めていたサイタマはアキラの言葉を信じて自分を追い込み続けたのだ。キロ30秒は時速にして200kmほどだという。サイタマはスポーツカーばりの走りを軽々とするようになってしまったのだ。

 

 災害レベル鬼の怪人をワンパンで倒したと聞いた時には、とうとうこいつも人間やめたなと、ミットうちの稽古は禁止にした。アキラの身体と心がもたないので、謹んでやめさせていただいたとも言う。

 

 災害レベル竜の怪人を倒したと聞いた時、アキラは珍しくもキリッとした本気の表情で、正座して言った。「もう免許皆伝だ。お前は俺より強い。マジで」と。

 これ以上練習につき合わされるのも、きらきらとした目で師匠凄い! と訴えられるのも辛くなっていたのだ。語尾も伸ばさない本気の物言いだったのだが「まだ師匠から1本も取れてない。まだ弟子として学ばせてくれ」といやに謙虚な姿勢でサイタマはアキラの家へと通い続けた。もうやめてくれ、とアキラは泣きたい思いであった。

 

 あのな……一本取られたら、俺は死ぬんだぁ。

 

 

 

 アキラはサイタマに勝てやしない。なにがどう転んでも絶対無理だ。人外を極めたサイタマと違ってアキラは人間であった。己の限界を超えて磨かれたのはシックスセンスくらいのものだ。

 

 手合わせは本気で拒否するし、殴ってくれと言われてももう絶対に殴らない。「頼む、反撃しないから」と言い募られても断固として拒否だ。

 

 つまらなそうに口を尖らせるサイタマに、俺のパンチなんか痛くもかゆくもないだろうと落ち込みながら「これが本当に俺の本気なんだ」と足腰を使って全身を鞭のようにしならせた強烈なビンタを食らわせる。正真正銘の本気を出すことで、サイタマにもわかってもらおうと思ったのだ。ビュォンと飛んでいったサイタマが瓦礫のなかへと突っ込んでいく。

 やつはあれでもケガひとつないのだ。なにせ災害レベル竜の怪人にしこたまやられても怪我はないし、ワンパンで倒す男なのだから。

 そう悟りつつサイタマが戻ってくるのを待つと、右頬からでろでろと血を流しているのにも関わらず、にこにこと笑いながら「やっぱ師匠は強ぇなぁ」と砂まみれで近づいてくる。

 重ねて言う。アキラはサイタマに傷をつけることはできない。

 よく見ると、ビンタをしたのに若干切り傷のようになっている。アキラの顔を立てるために自分で自分に爪を立てた違いなかった。どんだけリスペクトされてんだ。なんで顔を立てようとしてくるんだ。怖い。まじで怖いわ。

 奇声を挙げて救急箱を取りに行ったアキラは、慌ててサイタマの怪我の治療をした。「すまん、ごめんなさい、本当に申し訳ございません。自虐行為はだめだよ? マジで」とぺこぺこと頭を下げながら。

 自虐事件が昨日のことだ。

 

 

 そして今日、サイタマの髪の毛が消えた。

 人外の強さを得た引き換えに、サイタマは若くして髪を失ってしまったのだ。そうなった一端はアキラにないでもない。

 人っ子一人歩いていない道路で、寒さに凍えながらアキラはサイタマを見あげた。すっかり立ち止まり、サイタマのつるりとした頭に雪が積もっている。間抜けた表情も相まって実にコミカルであった。

 ぬぺんとした間抜けな顔を見ていると、なんだかどうでもよくなってくる。

 

「うーん……あのさ、慰めじゃなくてさぁ、いいと思うよ、その頭ぁ。俺は全然嫌いじゃないよぉ。嫌いっつか結構好きだぞぉ」

「そうか?」

 

 どことなく嬉しそうにつるつると頭を撫でるサイタマに涙が禁じえない。

 

「……帰ろっかぁ」

「おう」

 

 アキラのなかでは既にどうすれば男に戻れるかというよりも、どうすればサイタマの師匠を辞められるかのほうが問題となっていた。

 こんな人間核爆弾にふとした拍子に殴られたら、木っ端みじんに身体が吹き飛んでしまう。

 なにも言わずに消えるのは、自分がされて辛かったからしない。

 だが彼への良い別れの言葉を考えているうちに、なにも言わずに消えていった彼らの気持ちを理解した。

 だって相手が納得できる言葉が思いつかない。でも逃げたい、消えたい。

 そんな気持ちが積もり積もって、たくさんの言葉は彼らの心のなかに降り積もっていったのだろうが言葉にならずに終わったに違いない。

 

 シークくんは一発殴ってやろうと思っていたが、彼も彼なりに悩んでいたのだ。責めてやったらかわいそうだ。

 そう思えるようになったアキラは少しだけ大人になった。

 

「あーサイタマくん? 言い辛いんだけどぉ、もう免許皆伝もとっくにしたわけだしぃ、もう修行はつけられないからぁ、そう毎日通わなくていいんだぞぉ?」

「でももう日課になってる」

「日課なんてのは、3日継続すりゃあ日課だぁ。俺の家に3日通わなければ、そりゃもう立派な日課になるんだぁ」

「俺が来るのが迷惑か?」

「めめめめめめ迷惑なわけがあるかぁ!!」

 

 はい、迷惑です。

 ……とはどうしても言えなかった。

 

「迷惑とかじゃなくて、ほらぁ。大変だろぉ?」

「全然。俺、このマンションに住んでるからそう手間でもないぞ」

「え? いつから?」

「半年前」

 

(知らなかったぁぁぁぁぁあ! だからやけに遭遇率が高かったのか! スーパーでもなんか見るなぁとは思ってたんだよぉ)

 

 週1ペースのバイトの日には、サイタマは飯を作って待ってくれていた。それ以外は毎日飯時に現れてはアキラの家で自炊し、タダ飯を食っていた。金はたんまりとため込んでいたため、未だ引き出しに詰め込まれているので問題ないどころか、いつも家事をこなしてくれるていてありがたい。

 サイタマはアキラの金の収納場所ももちろん知っており、食事代はそこから取ってくれと言っている。

 飯の時間には必ずいるため、半分同居みたいなものだ。日に2回も通うの面倒じゃないのかな、などと思いつつも特に気にしたことはなかったが、そういうことだったのか。

 

「師匠ん家ってテレビ置いてないから、怪人のことわからないし、ずっと居座れないんだよな」

 

(絶対テレビは置かないでおこぉ……)

 

「なんでテレビ置かないんだ?」

「ああ……ちょっとねぇ……なんつーか電磁波アレルギーみたいなぁ?」

「そうだったのか。だから携帯も持ってないんだな。大変だなー」

 

 電磁波アレルギーってなんだ。あったらとっくに死んでるだろう。

 アキラは心のなかで自分に突っ込んだが、サイタマは素直に受け取った。サイタマはアキラが師匠というだけでなにやらめっちゃ凄い人のように思っている節がある。なにを言っても素直に受け取ってくれるのはありがたくもあり心苦しくもある。

 

「そういや、鍋に火かけっぱなしだ。先戻ってるな」

 

 バビュンと走っていくサイタマをアキラは力の抜けた笑みで見送った。

 夜逃げしようかな、と本気で思った。

 引っ越してすぐにアキラの場所を突き止めたサイタマのことだ。きっと地の果てでも追いかけてくるに違いない。地球にアキラの逃げ場所なんてない。

 絶望した。

 帰りたいけど帰りたくない。だけど帰るところは1つしかない。とぼとぼと歩くアキラは珍しくもすさまじい落ち込みっぷりであった。

 徐々に身体が冷えてきてはやく帰りたかったのだが、足先が冷たくなってもなおアキラはぼんやりとゆっくり歩いていた。

 帰りたい。帰りたいのに帰れない~。虫コ〇ーズでも置かれているようなものだった。

 

 

 

「あらぁ、綺麗な人ね」

 

 上から声が降ってくる。ちらつく雪から手で目を護りながら見あげると、上空に女性がホバリングしていた。どうやって飛んでるんだろう。

 

 すっとアキラの隣に下りて来たのは、白い着物に白い髪をした綺麗な女性である。目尻は吊り上がり、赤いアイラインと口紅以外に色はない。

 

「私は雪女のユキオナ」

「どうもご丁寧にぃ。俺はタマナシと申しますぅ」

 

 ぺこりと頭を下げて家へ向かう。

 

「なに家に帰ろうとしているのよ! 帰さない! 私より綺麗な女は全員凍らせてやるわ……!」

 

 近所のご近所さん風に挨拶を交わして去る作戦は通用しなかった。

 

「ちょっさむさむさむさむさむっ!!!! やめろってぇ! なんの嫌がらせぇ?!」

 

 局所的に吹雪く。ユキオナの仕業に違いなかろう。慌ててダウンのボタンを閉じようとするが、指がかじかんで動かない。

 あばばばばばばと身体を震わせるアキラは、クマに遭遇したときのようにユキオナから目を離さぬままじりじりと後退していく。

 

「あら、まだ動けるのね。あなたのまわりの温度は、普通の人間なら動けなくなるはずだけれど」

「いや、も……まじ、げんかぃ」

 

 口すら寒さに凍えて動かなくなってきた。身体の熱はすっかり奪われてがちがちと歯の根が音を立てる。アキラのまわりだけすさまじい勢いで吹雪いているらしい。その証拠に雪の飛礫の隙間から見えるユキオナは風にあおられていない。

 

「俺はC級ヒーローミズデッポウ! 食らえ! ミズデッポウぅぉぁぁぁぁ! 凍って出ねぇぇぇ!!!」

「そこまでだ怪人! 俺はC級ヒーロークロコダイルン! ワニの噛む力を知ってるか? ワニはなぁっ……(凍)」

 

 ミズデッポウは凍り付き、クロコダイルンはユキオナに近づく前に氷漬けにされていた。

 ワニはなんだ。なんなんだ。

 

「おっほっほっほっほ! 弱いヒーローなんて敵ではないわ!」

 

 艶やかな笑みを浮かべる雪女が、突如として飛んできたなにかにぶつかって近くの家の塀へと突っ込んでいった。ドガシャァンと塀は潰れて吹雪がわずかにおさまる。

 

「大丈夫か!」

 

 冷たい風がなにかに遮られる。

 

(サイタマ……? じゃ、ない)

 

 氷漬けの男が2名いるのだが、真っすぐにアキラへと駆け寄ってきたのは、紺のタンクトップをぴっちりと着こなした筋肉隆々の男だ。その巨体で風を遮ってくれているらしかった。上半身も下半身も凄い筋肉に覆われているのだが随分と寒そうな格好をしている。アキラよりも俄然寒そうである。見た目が寒い。見てるだけで寒い。

 しかし壁のように大きな男のおかげで、風が遮られて驚くほどに暖かい。いや、寒いんだけど、めちゃくちゃマシだ。

 

「タマナシさん……?」

「ん……?」

 

 なぜ名前を知っているのか。そう一瞬思ったが、身体の危機のほうが先立つ。風向きが変わり、思考が寒さに染められていく。

 

「やはり、タマナシさんか! タンクトップを着ていなくてもすぐにわかった。

 そんなに震えて……よほど怖かったんだな。安心しろ。俺が来たからには、もう大丈夫だ」

 

 アキラと男の隙間は、静かに詰められた。アキラと男はほぼ密着するほどに近づいている。アキラは全然気付いていない。

 下を向いて自分の身体を抱きしめながらガチガチと震えるアキラを、筋骨隆々の丸太のような腕がぎこちなくも、そっと包み込む。

 

(……あれぇ? なんかめちゃくちゃあったかいぃ……)

 

 あまりの寒さに、アキラは男に抱きしめられている状況を露とも気にしていなかった。男の身長があまりにもデカすぎて、アキラの頭は男の胸にも届かない。吹雪のなかで女を抱きしめる男の図は絵になった。

 

 傷まみれになりながら瓦礫から飛び出てきた雪女は瞳を悪魔のように吊り上げて「イチャイチャしてんじゃないわよ!」と再び暴風まじりの雪をお見舞いしてくる。

 

「これを着ておくといい。すこし、離れるぞ」

 

 名残惜しそうに身体が離され、手渡されたのはタンクトップ。

 

(アホかぁぁぁ!!! こんなんで寒さしのげるわけがねぇだろぉ!)

 

 妙に柔軟剤のいい香りがするそれを文句を言いながらかじかむ指先でぎこちなく首に巻き付けた。なにせ寒かったのだ。

 

「タンクトップパンチ!」

 

 巨体に似合わぬ俊敏さでタンクトップがユキオナを殴りつける。避けることもできずに吹き飛んだユキオナは、再び塀へと突っ込んだ。傷だらけで蛇行しながら、よろよろと上空へと飛び上がってユキオナが両腕を掲げる。小林〇子ばりのド派手さでぱたぱたと着物の袖をはためかせつつ、ますます吹雪を強める。

 

「ハートにタンクトップを着込んだ俺にはこのような吹雪通用せん!」

「おほほほほほ! 貴方は大丈夫かもしれないけれど、そこの女はどうかしら?

 人間は飛べなくて不便ねぇ。さあ、どうするのかしら」

 

(さ、ささささささささみぃぃぃぃぃぃぃいいいいい!! おこたに入って鍋くいてぇぇぇぇぇぇ!!!!)

 

 自分の身を護るべく、アキラは三角ずわりのような体勢で地面で丸まった。足先は凍えて、もう満足に動かない。走って家まで帰ろうと思っていたのだが、アキラだけを狙った吹雪の体感温度は-50℃にも達していた。走ったら死ぬ。

 

「舐めるな!」

 

 上半身裸の男は地面がめり込むほどの跳躍をし、一瞬にしてユキオナのもとまでたどり着き、くるりと空中で身体を捻ってユキオナを蹴り落とす。すさまじい勢いで地面へ吸い込まれるように飛んでいくユキオナ。

 

「ぎぃやぁぁぁぁぁぁぁ、おのれっ、おのれぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 凄まじいクレーターを作って地面に打ち付けられたユキオナは、それでもまだ息がある。再び飛び上がろうとしたところを、落ちてきた男が「タンクトップパンチ!」と顔面に拳が打ち付ける。

 唐突に吹雪が止んだ。

 アキラは意識もうろうとしながらも、その様子をぼんやりと眺めていた。

 

「タマナシさん! 無事か!」

 

 駆け寄ってきた男が地面に座り込んだアキラの前に片膝をつく。それでもなお大きい。ぎこちない動作で背とひざ裏に腕が差し込まれ、ひょいっと抱きかかえた。軽々と持ち上げられ、俗にいうお姫様抱っこの状態になっていたのだが、アキラはなんの反応もしない。あまりの寒さに意識が飛びかけていたのだ。

 

 普段のアキラならば絶対に許さない行動であった。腕の位置を変え、片手で楽々とアキラを抱きかかえたまま男はどこかに電話をし始めた。

 

「ああ、俺だ。Z市の怪人は倒した。死体の回収を頼む。巻き込まれたヒーローと一般人がいる。救急車の手配も頼んだ」

 

 病院。

 その単語を聞いてアキラは慌ててもがいた。

 

「動くな。落としてしまうだろう」

「病院は、ダメだぁ……」

 

 もぞもぞと身動きすると、両腕でがっちりと抱きかかえられる。凄まじいホールド力に全然動けない。アキラは厚い筋肉に身体を押し付けられ、唯一自由な片腕を動かす。もぞもぞと動いていると、人肌に温められ、寒さが和らいだこともあって徐々に身体に力が入るようになってくる。

 

「病院が嫌いなのか。可愛らしい一面もあるんだな。……なら、俺の家に来るか?」

 

 アキラに自分が女だと思われている意識は低い。なにせよくつるむのがサイタマだ。腹を出して寝ていても、なんなら全裸で寝ていてもなにも気にしない男と半ば同棲生活をしていれば危機感は薄れていく一方である。そういった情緒を培ってこなかったアキラは、なにも思わず言った。

 

「いや、俺の家のほうが近いしぃ」

「まだZ市に住んでいたんだな。家はどこだ? 送って行こう」

 

 しっかりとアキラを抱きかかえたまま男が言う。今更ながらに男にぴったりと密着している状態に気づいたアキラは、げぇっと顔を歪ませた。いつからこんな体勢になってたんだ? びっくりしたわ。

 

「おろせぇ。もう歩けるぅ」

「無理はするな」

「無理じゃないぃ、マジ下ろしてぇ。頼むからぁ」

 

 若干半泣きで懇願され、名残惜しそうにそっとアキラを下ろした男は、改めて見てもめちゃくちゃデカい。

 ところで何故この男は自分の名前を知っていたのだろうと内心で首を傾げる。

 

「ずっと会いたかった。タマナシさんに似合うタンクトップマスターになれただろうか」

 

(なに言ってんだ、こいつぅ?)

 

 助けられたためにアキラは暴言を控えたが、内心では疑問符の嵐だ。

 

「タンクトップマスター……?」

「ああ」

「さぁ、なったんじゃないぃ?」

「そうか! ならば、俺と友達になってくれるか!」

 

(接続詞おかしくないぃ?)

 

 タンクトップが似合う → 友達

 繋がりがよくわからない。

 

 アキラは自分が告白されたことなどすっかり記憶から消していた。

 告白をすげなく断り、それならまずはお友達からと言われて、タンクトップが似合う男になったらと言ったこともすっかり忘れていた。

 そんな奇天烈な発言を自分がしていたなど露とも思わず、なにが"ならば"なのだろうと疑問を覚えていた。

 

 アキラは友達に飢えていた。あの時はすげなく断ったが、今はすっかり告白されたことを忘れていたため、友達欲しいなぁと普通に頷いた。

 

「うん」

「そうか!」

 

 喜ぶ半裸の男の背後に「おー、生きてたか」と凄まじいスピードで走ってくるハゲ頭。差し込む陽光が反射してめちゃくちゃ眩しい。

 

「あんまり遅いから寒さで動けなくなってんのかと思った」

「迎えに来てくれたのぉ?」

「師匠寒いの苦手だろ? 歩くの諦めてんのかと思ってな。……知り合いか?」

 

 半裸の男へ目を向けるサイタマ。

 

「うん。さっき友達になったぁ」

「なんで裸なんだ?」

 

 心底不思議そうサイタマが言い、アキラは借りパクしかけていたタンクトップの存在を思い出した。

 

「ああ、忘れてたぁ。返すねぇ。寒かったから借りてたんだったぁ」

「タンクトップ一枚の友達から服をはぎ取ったのか。鬼か」

 

 いや、有無を言わさず貸してくれたし。そう思いつつ、アキラは首に巻き付けていたタンクトップを返した。

 男はアキラから渡されたタンクトップを手に取り、なんとも表情の読めない顔で見つめている。

 

「温かい……」

「悪かったねぇ」

 

 タンクトップ1枚でそんなに変わるものだろうか。そんなに温かくもなかったが。

 

「いや、謝罪など--」

 

 ピリリリリリリと電子音が響く。タンクトップがポケットから携帯を取り出す。

 彼はなにやら真剣な顔をして淡々と返事している。

 

「近くでまた怪人が現れたようだ。後ろ髪引かれる思いだが、行かねばならん」

「大変だねぇ。いってらぁ~」

「ああ、行ってくる」

「あ、助けてくれてありがとねぇ」

「礼を言われることではない。急がねばならん。……また会おう」

 

 タンクトップもまた、サイタマを彷彿させる人外のスピードで走って消えていく。

 

「なあ。助けられたって、師匠が?」

「うん~死ぬかと思ったぁ~」

「師匠が死にかける? 寒くてか」

「それもあるけど、普通に怪人にやられそうになってたぁ」

「え、師匠が? ……ねぇわ」

 

 嘘つけ、みたいな感じで言われたが生死の境をさまよっていたアキラとしては納得がいかない。

 

「認めろぉ、サイタマくん。俺は一般人だぁ。ワンパンで敵は倒せないし、防御力も弱いぃ」

 

 スパンと見えないところから飛んできた拳をかわす。風切り音が遅れて聞こえてくる。

 

「ほら、嘘だ。これで大抵の怪人は死んでるぞ」

「ちょっおまっまっまっ……なにするのぉ!!!」

「師匠なら避けると思って。避けたし」

「っっっざけんなよぉ!!」

 

 足払いをかけ、サイタマを蹴飛ばしたアキラは恐怖と怒りと今生きていることへの感謝でぐちゃぐちゃになりながら家へ向かった。

 

 分厚い曇天の切れ間からはすっかり太陽が顔を覗かせ、凍った世界をじんわりと温めだした。

 

 




誰得タンクトップマスタータイム

タンクトップマスター
『ようやく友達になれた。次会う時には恋人か。結納はいつにするべきだろうか……』

その時のアキラ
「あれ? なんかめっちゃ悪寒がする」
サイタマ
「風邪の引き始めじゃねえか? 普段しないことするからだろ。ほら、葛根湯」


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