『絶望すら果てる場所で』【完結】 (OKAMEPON)
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『もう夜明けは訪れない』
『もう夜明けは訪れない』


◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 これは自分への罰なのだろうか、と。

 終わりのない絶望の中、二度と明けぬ悔悟の闇の中で、ルキナは独り何もかもを喪った心を抱えて、そう考える。

 

 かつて……仲間達と共に『絶望の未来』で終わりの見えない戦いに身を投じていた時にすら存在した、心を支える為の縁はもう既に無く……。

『絶望の未来』を変える為に、神の力を借りて過去へと跳躍したその時に、罪悪感と無力感と使命感の他に確かに存在した、淡い淡い『希望』ですら……最早この心には残されていない。

 

 この心に残っているのは、何処までも続く絶望と後悔だけ。

 そして、自分の全てを……文字通り、身も心もそして自分に繋がる全てを、奪い汚し貶めた、この世の何よりも憎い存在への、深く昏い憎悪と怒りだけであった。

 

 邪竜に囚われたルキナは、純潔も愛する人との思い出も、その何もかもを汚された。

 邪竜は、ルキナが守らねばならなかった筈のこの世界の『希望』たる父クロムを殺したばかりか。

 ……この世界にとっては『異物』でしかない筈のルキナが、それを想う罪を知りながらも……それでも惹かれ、心から互いに愛し合った、唯一の愛しい人の全てを喰らった。

 そして、ルキナが愛した男の顔で、最早別の存在がそれを模倣しているだけと知りながらも愛しいと感じてしまう声で。

 ルキナを捕らえその居城に幽閉した邪竜は、その日からルキナを幾度となく犯し続けていた。

 

 心から憎悪し、何があっても赦す事の出来ぬ怨敵である邪竜に身を弄ばれるなど……愛しい人にすらまだ捧げられていなかった純潔を汚されるなど。

 ルキナにとっては到底耐え難い屈辱と暴虐であり、この世の全てに絶望するに値する地獄であり……。

 汚されたこの身もそして汚した邪竜も、等しく地獄の業火の中で骨すら遺さずに焼き滅ぼしてしまいたい程の苦痛であった。

 ……だが、何れ程ルキナが憎悪しても、決して身を赦してなるものかと全力で抵抗しても、それが叶う事は無かった。

 

 かつて『絶望の未来』では『最後の希望』だなんだと人々から担ぎ上げられていたにせよ、所詮ルキナは神剣を振るう事の出来る「人間」でしかなく。その神剣すら奪われ、逃げ出せぬ様にと縛められた今はただの無力な小娘に過ぎぬルキナと。

 かつてルキナ達が居た「未来」で暴虐の限りを尽くし命ある者全てを等しく滅ぼし世界を平らかにし、そして時を渡ってやって来たこの世界に居た自分自身を呑み込む事で更なる力を得た強大無比なる邪竜とでは、そもそも勝負にすらならない。

 邪竜の溜息一つで人間など跡形も無く消し飛ばされてしまうし、その指先一つで街が根刮ぎ消えるのだ。

 小さな一匹の蟻が靴に咬み付いてきたところで人間はそれを気に留める事などしないし、そもそも何十匹もの蟻を踏み潰していようと気付かぬ事が殆どであろう。

 ……邪竜とルキナの間に在る、存在の……その力の格差とは、それ程までに絶望的なものであった。

 

 ルキナが何を考えていようが、どれ程抵抗しようが。

 邪竜は指先一つでその意志も抵抗も何もかも磨り潰してしまえる、それどころか人間の心を操る事すら邪竜には容易い。

 その気になれば、邪竜はルキナを従順な性奴隷に変え自ら悦んで股を開く様な淫らなケダモノに堕としてしまえる。

 だが、少なくとも邪竜は、ルキナの純潔を奪いその身も心も蹂躙しながらも、そうやってルキナの心をその力で無理矢理に造り変えて壊そうとはするつもりはなさそうであった。

 だがそれは、邪竜に慈悲の心が在ると言う訳ではない。

 そんなモノが、邪竜の心に在る筈は無い。

 あれは、命を憎悪し、繋がりを唾棄し、愛や絆と言った人間のそれを貶め辱める事を悦び、人々が絶望の中で死に行く姿だけを望み続ける……存在そのものが『命』在るモノとしては破綻しきった、狂い果てたケダモノだ。

 ルキナの心をそう言った方法で壊さないのは、ルキナが全てに絶望しながらも無意味と知りつつも足掻くその姿を嗤う為だ。

 ルキナの事は、何時でも壊せる玩具としか見ていない。

 ルキナがそうして抗う事こそが、邪竜にとっては最高の娯楽なのだろう……。その為に、邪竜はルキナを『飼って』いた。

 この無限に続く地獄に、果たして終わりは来るのだろうか、終わらせられる者はこの世に存在しているのだろうか。

 いっそ死んでしまいたいと、何度思った事だろう。

 自ら命を絶つと言う事は酷く恐ろしい事ではあるのだけれど、だがこの状況では余りにも甘美な「救い」に思える。

 しかし……ルキナは自害する事すら最早叶わなかった。

 邪竜は、ルキナ自身を傷付けるありとあらゆる手段を、ルキナから奪い去った。舌を咬んで自害しようとしても直ぐ様何事も無かったかの様に治療されてしまう。

 死ぬ事も出来ず、だが唯一残された『矜持』の為に自ら狂い果て壊れてしまう事も出来ず……。

 故に、ルキナのこの生き地獄に終わりは無い。

 

 死ねず、かと言って今の状態を「生きている」と呼べるのかは分からない……生ける屍の様な日々。

 何の『希望』も無い、心の支えすらも無い、そんな時間の中がこの先永遠に……ルキナが死ぬまで続くのだろうか。

 そもそも、今の自分は、その時が来たとしても、果たして邪竜に「死なせて」貰えるのだろうか……? 

 それは想像するだけでも恐ろしいが……邪竜によって生きながらに『屍兵』に変えられて、永遠に呪われたままこの世にその魂を縛り付けられ続けるのではないかとすら考えてしまう。

 ……少なくとも、その考えを否定出来ない程の恐ろしい執着を、邪竜はルキナに向けていた。

 そんな中で、ただ耐えると言う事は何にも勝る拷問であった。

 耐えた所で、この日々に終わりなんて何処にも見えないのに。

「父」も……そして最愛の人であるルフレすら喪ったこの世界に、ルキナを助けに来てくれる者など誰も居やしないのに、

 この世界の何処にも『希望』なんて在りはしないのに。

 それなのに、何故。ルキナは耐えようとしてしまうのだろう。

 それは、ルキナの……かつては『最後の希望』として邪竜を討つべく対峙したものとしての『矜持』故なのか、或いはこの胸に今も尚忘れる事も出来ず刻まれている『使命』故なのか。

 ……だが、それが果たして一体何になると言うのだろうか。

 

 ……ルキナには『使命』があり、それを果たす為に時を越えて迄この世界に存在しているのだけれども……それが果たされる可能性は、既に無い。この世界は、もう誰にも救えない。

 邪竜を討てる者が、最早誰も居ないのだ。

「クロム」は既に殺され、こうしてルキナは邪竜の虜囚の身となり……この世界の本来の「ルキナ」はまだ乳飲み子で。

「彼女」が剣を手にそれを振るえる年頃になるまでに少なくとも十数年は掛かるが、それ程の時間の猶予は最早この世界に残されてはいない。

 かつての、あの『絶望の未来』ですら、邪竜が復活してからはほんの数年程度しか人々の世は持ちこたえられなかったのだ。

 それが……かつてよりも更に強大になった邪竜を相手にどうなるのかなど、最早一々考えるまでも無い。

 もう間もなく、この世界は終わる。それが二年後三年後の事になろうとも、間違いなく十年など持ちはしない。

 この世界を救う術など何処にも無い。

 救える者も、もう存在しないに等しい。

 全ての運命の歯車が狂った未来へと噛み合ってしまった「あの日」、仲間達は全員邪竜に殺されてしまっただろう。

 あの混乱と破壊の中で生き延びられた者が居るとは思えない。

 ならば、この邪竜の居城にルキナを救いに来る者など存在しないし、それどころかこうしてルキナが邪竜に囚われている事すら知る人など居はしないのだろう……。

 

 それでも、存在する筈も無い『もしも』の為に。

 或いは世界を救えるかもしれない、有りもしない可能性の為。

 こうして、正気を保ち続けてしまっているのだろうか。

 

 だとすれば、それは。

 そして。そうしてルキナが独り苦しみ続けるその様は。

 邪竜にとっては何よりも愉しい娯楽なのだろう。

 今の自分は邪竜を喜ばせる糧でしかない。

 身を弄ばれ心をも犯されて。それでも壊れまいと足掻く玩具。

 ……それが分かっていても、ルキナに出来る事は何もない。

 

 ルキナは絶望の中で静かに涙を流しながら、邪竜に犯され弄ばれた己の身体を抱き締める様にして、眠りに就く。

 どうせ目覚めた所で『希望』なんて無いのだから、このまま永遠に眠れればと思うけれど、それも叶わないのだろう。

 だからこそせめて。愛しい人の姿を夢に描き眠るのだった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 ルキナは夢を見る。

 何度も何度も同じ夢を、グルリグルリと壊れた糸車を回す様に、繰り返し繰り返し……変えられない夢を見続ける。

 目覚めた所でそこに在るのは、僅かな希望の光すらない絶望の暗闇の中だけなのだけれども。

 しかし、こうして見る夢もまた、ルキナを永遠に閉じ込める牢獄の様ですらあった。

 

 夢は、何時もあの『絶望の未来』から始まる。

 

 滅びゆく世界、死と恐怖と絶望だけが蔓延る世界……。

 そんな世界で、自分達を守り命を落としていった大人達の意志を継いで、世界を救おうと……邪竜を討ち滅ぼそうと、先なんて見えないまま……それでも淡い『希望』を信じて、ひたすらに戦って戦って戦って……そうして戦う事以外の全てを忘れそうになる程に戦い続けて。……それでも世界は救えなかった。

 終ぞどうしても揃える事の叶わなかった宝玉を嵌めた『炎の紋章』を……『黒炎』だけが欠けた不完全なそれを手に、滅びを最早どうやっても回避出来ない世界に、犠牲になっていった無数の人々へと懺悔し泣き崩れた日を思い出す、夢に見る。

 そして、神竜の導きの下「過去」へ渡る事を決意したのだ。

 守るべき世界を救えなかった罪から、背を向ける様にして。

 だがしかし。そうして一つの世界を……例えもう滅びが不可避であるのだとしてもまだ僅かには生きていた命があった世界を見捨てる様にして、見殺しにする様にしてやって来た「過去」の世界ですら、ルキナは救えなかった、失敗した。

 かつての世界よりも尚深い絶望にこの世界を突き落としたのは、ある意味ではルキナ達自身であった。

 その事は、今も絶える事無くルキナの心を苛み続けている。

 

 ……一つの世界を見捨てて、そうして本来は在ってはならない筈の「やり直し」に手を掛けて。そうやって辿り着いたこの「過去」で、ルキナは彼に出逢ったのだ。

 かつてのあの『絶望の未来』に至った、ルキナ達が生きるべきだった世界に於いても、父の『半身』とすら呼ばれ常に父を陰に日向に支え続けていた救国の軍師。

 父と共に命を落とした彼……の、その過去の姿に。

 

「過去」への干渉は必要最小限にしようと、そう思っていたのだけれども。止むを得ぬ事情から「父」に正体を明かし共に行動する事になった。

 そして、そんなルキナを何かと気遣って力になってくれたのが、彼だったのだ。

 本来は「過去」であるこの世界に存在してはならぬ『異物』であるが故に、基本的にこの世界の人々と深く関わるには障りがあるルキナには、その事情を理解してその上で何かと気遣ってくれた彼の優しさが、心に沁みる程に嬉しくて……。

 そうして、少しずつ少しずつ……ルキナは彼に惹かれていき、彼もまたルキナに想いを寄せて行ってくれた。

 ……とても緩やかで穏やかな……そんな優しい『恋』だった。

 世界の情勢は戦乱の最中であって……更には邪竜の復活も近付きつつある状況で。決して平穏では無かったのだけれど。

 それでも、彼とルキナの間に流れるその時間は、とても穏やかで温かなものだった。

 何か凄く特別な事をしていたと言う訳では無くて。

 ただ同じ時を過ごして、そして二人で色々な事を語り合ったりしてばかりだったのだけれども。

 ただそれだけなのに、その時間はとても心が満たされていて。

『絶望の未来』での終わりの見えない戦いによって心が摩耗していたルキナにとっては、何にも代えがたい温かな『光』その物の様な時間であった。

 そして、互いにその胸秘めた思いを伝え合って、想い結ばれて……ゆっくりゆっくりと、その『恋』は進んでいた。

 二人で手を取り合って共に出掛けたり、そうやって時間を過ごしたり……。そんな風にゆっくりとした『恋』だった。

 ルキナには『使命』があったし、彼もそれの重荷になる訳にはいかないからと……。結ばれた恋人たちが、その想いを確かめ合う為の性交の類は、全く行っていなかった。

 僅かに、幾度か口付けをしただけの、そんなまるで甘酸っぱい子供の恋の様な……そう言う関係性だった。

 世界を救えたその先で、平和な未来が訪れたその後で、ルキナがその『使命』を果たした後で、と。そう二人で夢見ていた。

 ……だけれども、今になって思うのだ。

 こんな形で、その想いが、細やかな夢が、その全てが、何もかも滅茶苦茶に踏み躙られて汚されてしまう位ならば。

 彼に。紛う事無い、ルキナが愛した彼その人に。自分の全てを捧げたかったと、身も心も彼のモノにして欲しかったと。

 ……今となってはどうあっても叶わない事を、願うのだ。

 そして、彼との優しく幸せだった日々の事も夢に見てしまうからこそ、ルキナにとって夢の世界は、永遠に回帰する牢獄であると同時に、唯一彼の事だけを想える場所であった。

 だけれども、夢は何時も惨劇と絶望で終わる。

 そこまでの彼との日々の思い出が『幸せ』その物であるからこそ……夢は、耐え難い絶望と地獄で終わってしまうのだ。

 

 

 ……ルキナ達は、「あの日」、運命を変えた筈だった。

 彼が「父」を殺す運命は回避されて、そしてこの世界の戦乱を陰で操っていた怨敵の首魁を討ち果たして。

 やっと、これで世界は救われるのだと、そうルキナ達が歓喜に沸いたその時に。あの邪竜は、姿を現した。

 

 世界を滅ぼした後で、ルキナ達を追ってこの「過去」にやって来たと言う邪竜はその時その瞬間まで、静かにその時を……かつての自分の様に、操られた彼が「父」を殺しその絶望の中で邪竜として目覚める瞬間を、ただただ待っていた。

 そして、運命が変わったその時に、漸く姿を現したのだ。

 邪竜の出現を前に、誰も何も出来なかった。

 彼も、ルキナも、そして「父」も。……誰も。

 邪竜はルキナ達の目の前で「父」を殺し、そして突然の事に呆然となっていた彼にその邪悪なる力を向けた。

 

 ……ルキナは。愛した彼を助ける事が、出来なかった。

 人ならざる者へと、邪竜へとその身体を造り変えられて、その魂ごと邪竜に喰われていくその一部始終を。

 ……ルキナは、見ている事しか、出来なかった……。

 彼は、最後まで「父」とルキナの名前を呼んでいたのに。

 ルキナに、救いを求める様にその手を伸ばしていたのに。

 ルキナは、何も出来なかった。

 邪竜のモノへと化していくその手を取る事も。

 次第に怪物の咆哮に変わっていく愛しい人のその声に、彼の名を呼び返す事ですら。

 何も……何一つとして。ルキナは、出来なかったのだ。

 心から愛していたのに。そして今も、ずっと愛しているのに。

 それなのに、ルキナは彼に何もしてあげられなかった。

 それは、きっと永遠にルキナの心を縛り苛み続ける咎だ。

 ……夢の中ですら、ルキナは彼を助けられない。

 彼に何もしてあげられない。

 

 そして夢の最後。目覚めるその直前には。

 お前の所為だ。と責め立てる数多の声が聞こえる。

 それは全て誰かの声であり、自分自身の声だ。

 ルキナが、「過去」に来なければ。

 少なくとも彼があんな惨い最期を迎える事は無かっただろう。

 ルキナが自分を追い掛けて来ていた邪竜の存在に気付いていれば……少なくともその可能性に思い至っていれば。

 未来は、そして今は。もっと違う物になっていた筈だ。

 

 だけれども。ルキナには何も出来なかった。

 故に、自分を責め苛み続けるその声が止む事は無い。

 そしてその声が、何れ程凄惨で地獄の様な現実であっても、自ら狂い心を壊して現実から逃げる事をルキナに赦さない。

 

 彼等はお前の現実よりも悲惨な絶望の中で死んだのだと。

『絶望の未来』で戦い続けた「自分」は糾弾する。

 

 彼はお前の所為であんな惨い最期を迎えたのだと。

 彼を愛していた……愛し続けている「自分」は弾劾する。

 

 無数の「自分」が、永遠にルキナ自身を責め苛み続ける。

 それはまさに、終わらない悪夢、終わらない地獄だ。

 全てが過去の出来事であるが故に何一つとして変える事の出来ない、永劫回帰の牢獄だった。

 

 それでもルキナは夢を見る。

 もう夢でしか彼に出逢えないから。

 彼の事を思い描く為に、ルキナは夢を見続けるのだ。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 誰かが自分の頬に触れているその感触で、ルキナはゆるりと目を覚ました。

 まだぼんやりとしているその視界の中。

 自分を見下ろす様に覗き込んでいるその無感情な紅い瞳に、ルキナは静かに絶望する。

 

 邪竜に囚われたルキナは一日の大半を眠る様に過ごしていた。

 邪竜の玩具として、最低限度の衣食住の保障はされているし、寧ろルキナに与えられているそれは粗末な者などでは無く確かな質のモノで……まさに愛玩動物の様な扱いだった。

 ある程度のモノは、自由以外は望めば与えられる状況で。

 しかし、邪竜に望むモノなど有りはしない……ルキナが本当に望むモノを邪竜が与える事は決して無いので、ルキナは何かを望んだ事など一度も無かった。

 ほぼ毎夜の如く犯されるだけの日々の中では、心の慰めになるモノなど何も無くて。

 邪竜に犯されている時以外には何の刺激も無い生活だった。

 そんな中では、ただ眠る事だけが唯一ルキナに赦された事で。

 だからこそ、ルキナは眠り続ける。

 そして、その眠りが途切れてしまうのは、往々にして邪竜が訪れた時であり、その意味はただ一つであった。

 ああ、またなのか、と。ルキナは静かに絶望する。

 ルキナは何時もと同じ様に抵抗するが。……その抵抗は無理矢理に押さえつけられて、無慈悲に蹂躙される。

 生理的な反応で嬌声染みた声が出てしまう事はあるが、そこにあるのは快楽などでは断じてなく、憎悪と絶望だけだ。

 どんな行為に及ぼうとも、ルキナには全て苦痛でしかなく。

 そこにあるものは絶望と怒りでしか無い。

 

 欠片も愛せない……この世の何よりも憎悪している化け物に。

 愛した人の皮を被っているだけの、愛している彼の紛い物に。

 身を汚されていく。彼に捧げたかったモノを全て奪われる。

 それでも絶対に、この心だけは屈してなるものかと、ルキナはそう抵抗し続けるのだけれども。

 しかし、時折。

 邪竜の仕草に、ふとした表情に、ルキナに触れたその指先に、ルキナの口を口付けで塞ぐ時のその柔らかさに。

 彼の姿を、彼の面影を、彼の幻影を、見付けてしまう。

 誰よりも愛している彼の姿を、ルキナは未だに諦める事が出来ず、邪竜のそこに求めてしまう。

 それはなんと、絶望的な望みだろうか……。

 

 

「ルフレさん……」

 

 

 愛するその名を呼ぶルキナの呟きは、何処にも届かない。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『それが絶望の胎動であるのだとしても』
『邪竜の娘』


◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 例えば、もしも。

 私達が『あの日』、運命を変える事が出来ていたのならば。

 この手の中にある命は、その生を、その未来を、祝福されるべき存在であったのだろうか──

 

 何度も何度も、最早今となっては詮無い事を、それでも考えてしまう。

 それは決して消す事の叶わぬ未練であり後悔であり、そしてどうする事も出来ぬ現実に対する絶望でもあった。

 

 逃避する様に思いを巡らせている間に、無意識の内に抱き抱えるその手に力が入ってしまっていたのだろう。

 腕に抱き抱えた漸く乳離れが済んだばかりの幼子が、ぐずる様に泣き始めてしまった。

 

 

「ああ、ごめんなさい、マーク。

 ほら、大丈夫。大丈夫ですよ……」

 

 

 優しく言葉をかけてあやしながら、腕の中の幼児──自身の娘であるマークを、ルキナは優しく抱き締め直し、一時の間休憩する為に腰掛けていた半ば崩れ落ちた煉瓦造りの塀から立ち上がり再び行く宛も無く歩き出す。

 ルキナの目に映る世界は、かつての輝きを喪い荒廃し、何処もかしこも打ち捨てられた様な廃墟となった街ばかりで。

 そんな世界はとても人が生きていける環境では無く、人々はただその日その日を凌ぐ事が精一杯で、他者を顧みる心の余裕などとうに誰もが喪ってしまっていた。

 明日を生きる為の希望など、もう何処にも無くて。

 人々はただ、死への恐怖とそれから逃れる為だけにただただその日を生きている。

 邪竜ギムレーが復活して急速に世界が滅びへと向かう中で、幼児を抱えて女手一つで生きていくのは、苦労なんて言葉では到底言い表せられない程に困難である事は、ルキナにも十分以上に分かっていた。

 実際、自身と娘がその日を凌ぐ為の食料を手に入れる事すら、こんな世界では並大抵の労力では叶わない。

 それでも人目を忍ぶ様にして、腕の中の存在を片時も離さぬ様に、ルキナは独り宛もなく世界を彷徨っている。

 この子を守らなければならないと言う一心でルキナは邪竜の虜囚の身から命懸けで脱し、我が子を抱えて逃走したのだ。

 

 マークが、娘だけが。

 今のルキナにとっての『生きる理由』であった。

 

 この子を、守らなければならない。

 邪竜の手からも、そして、人々の手からも。

 その思いだけで、ルキナはマークを守り抜いてきた。

 マークは……ルキナの愛しい我が娘は。

 ルキナの最愛の人であったルフレとの子でもあり、同時に。

 世界を絶望に引き摺り落とした邪竜の娘でもあった。

 

 母親であるルキナ譲りの深い蒼の髪に、父親であるルフレ譲りの人を惹き付ける顔立ち。

 右手には聖王家の血筋である事を示す聖痕が刻まれ、そして左手には邪竜の血筋である事を示す邪痕が刻まれていて。

 そして、邪竜の娘である事を雄弁に語る様に、マークの身体には所々邪竜の鱗が生え、頭には髪に隠れてしまう程度の小さな角が在り、背中には小さな翼がある。

 

 人と竜の間に産まれた我が子は、ヒトであっても『人』には在らず、恐らくは人の世には居場所など何処にも無いであろう。

 既に文明が崩壊を始めているとは言え、それでもまだこの世界には人が溢れていて。

 それ故に、邪竜の血を色濃く引くマークが生きていける場所など、無いに等しいのだ。

 聖王家の血も継いではいるが同時に邪竜の娘であるマークが、イーリスやナーガ教の影響下にある場所では生きてはいけない。

 見付かったら最後、邪竜の眷族として嬲り殺しにされる。

 例え邪竜の血を継いではいても、マークはまだほんの幼児で。

 抵抗など出来ぬままに殺されてしまうであろう。

 だからこそ……ルキナは縁者が多く居る、愛しき『故郷』でもあるイーリスを頼る事は出来なかった。

 …………無論世界にとっては、邪竜の血を継ぐ子供など居ない方が良いのは、ルキナとて分かっている。

 ルキナが抱えていた使命に殉じるならば、この手で我が子をファルシオンで斬り捨てるべきなのだと言う事も……。

 だが理解して尚、ルキナはそれを実行出来なかった。

 腹を痛めて産み落とした我が子を、邪竜へと堕ちてしまっていてもそれでも愛しい人であったその人との娘を。

 ルキナには、……どうしても、殺せなかったのだ。

 

 世界は絶望に突き進み、恐らくそう遠くは無い内に、ルキナが見てきたあの絶望の未来へと辿り着くのであろう。

 全ての時の針がルキナがかつて居た時間のそれよりも早く進んでしまった事により、神剣を受け継ぐべきこの時間の本来の『ルキナ』は未だ幼く。

 なれば、在り得うべからざるもう一つの神剣の担い手であるルキナが、邪竜を討つ役目を果たすべきなのだろう。

 だが──

 

 そうまで理解していながらも、ルキナには出来なかった。

 ルキナが、『世界』よりも我が子を選んでしまったが故に。

 

 それは、全てを懸けてでも未来を変えようとしていた過去の自分への裏切りで、世界を守る為に殉じようとしていた愛しい人への不義で、この世に生きる全ての命への背徳でもあった。

 それは余りにも罪深く、ルキナの心を罪悪感で千々に乱す。

 この手には世界を救う為に必要な力があり、世界を救うために成すべき事も分かっているのに。

 それこそが、己が唯一の……全てを賭けてでも叶えなければならない『使命』であり宿願でああるのに。

 ……それでも。

 

 邪竜を討った後の『人』の世界で、後顧の憂いを絶つ為にこの手の中に懐いた我が子が殺されるのならば。

 世界を救う道を、今のルキナは選べなくなってしまった。

 それは今までのルキナ自身の生き方の否定であり、終わりがない絶望であった。

 今もこうして『使命』を放棄して逃げる事で、更なる罪を重ね続けるこの身は救い難い程に罪深く、いっそ罰して欲しいとすら思うのに、これ以上の罰は思い付かない。

 愛する人の全てを奪い壊し凌辱しそしてルキナの守りたかったもの全てを嗤いながら壊していったあの邪竜の……、そしてそんな悍ましく憎い邪竜に自分の意志も何もかもを貶められ辱められ犯されて孕まされた命。

 その為に、自身の全てを捨てて、何もかもを裏切るなど……。

 それはまさに絶望以外の何物でも無かった。

 

 

 ……それでも、この手の中の命だけは、守り通したいのだ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 運命の『あの日』。

 確かにルキナ達は、クロムとルフレは運命を変えた筈だった。

 ルフレがファウダーに操られクロムを殺す事は無く、故にルフレが邪竜へと堕ちる事も無く。

 未来は……変わった筈だったのだ。

 だが、ルキナ達は気付いていなかった。

 

 ルキナ達が未来からこの時間へとやって来たのならば、あの邪竜もまた、過去へとやって来ている可能性もある事を。

 

 未来が確かに変わった事を確信して喜びに皆が打ち震える中、あの邪竜は現れた。

 そして抵抗すらさせぬままにクロムを殺し、クロムの死に茫然自失となったルフレにギムレーの覚醒の儀を行い、融合した。

 二つの時間のギムレーの力が合わさる事でより強大な存在として蘇ったギムレーは、その場に居た者達の多くを一掃し、そしてルキナを捕らえたのだった。

 

 抵抗も虚しくギムレーに囚われたルキナは、彼に幾度と無く犯される事になった。

 愛した人と同じ顔同じ声をした……だが最早彼ではないその邪竜は、何故か虜囚の身となったルキナを存外丁重に扱った。

 世界を滅ぼす傍らで、ルキナを愛玩する様に扱い、そう言う行為以外ではその身体には傷一つ付けなかったのだ。

 父を殺し愛した人を喰らった、誰よりも憎いその邪竜にルキナが心を堕とされる事は無かったが。

 その表情に、その仕草に。

 誰よりも愛した彼の姿を見付けてしまう度に、心が乱されてしまったのも確かであった。

 

 そうこうしている内に、ルキナは子を宿してしまった。

 邪竜の子供を身籠ってしまった事を知ったルキナは絶望したし狂いそうにもなった。

 誰よりも憎悪している存在との子供など、と日々膨らんでいく腹を見て其処に在る命を憎んだ。

 邪竜の子供など産んで堪るかと、態と流そうとした事もあったが、そうしようとした度に邪竜に阻まれた。

 ルキナが子供を身籠った事を知ったギムレーは、ルキナが腹の子を害そうとしたり、万が一にも自害したりしない様にと、より監視の目を光らせる様になっていたのだ。

 腹の中の子供を殺す事も出来ず、死ぬ事も出来ぬままに日々は過ぎて行き、そして──

 

 

 ルキナは、娘を産み落としたのだった。

 

 

 母親となったからであろうか。

 あれ程憎悪していたにも関わらず、産まれた我が子をその手で抱いたその時に、そしてまだ名前すら無いその子が産声を上げながらルキナの指先を一生懸命に握ったその時に。

 言葉では到底表現しきれない程の愛しさと、そしてその手の中にある儚い命への想いが込み上げてきた。

 誇張なしに、世界が変わったのだ。

 

 意外な事にギムレーは産まれた子供に自分が名前を付けた。

 そして、『マーク』と名付けた娘を、ギムレーは決して無下には扱わなかった。

 娘が産まれてからは世話役のギムレー教団の女性を数名寄越しただけで、あまりルキナ達に干渉はしなくなったが、それでも時折二人の元を訪れてはマークの様子を確認していた。

 人間など地を這う蟻程度にしか感じていないであろうギムレーの冷え冷えとした目が、ほんの僅かながらもマークを見ている時だけは柔らかくなっていた様な気がしたのは、ルキナの気の所為なのだろうか。

 何にせよ、ギムレーがマークを害する事は無かったのだけは事実である。

 

 乳飲み子であるマークとの二人だけの日々は、かなり大変であったがそれでも決して嫌なだけでは無かった。

 忙しくマークの世話をしている内は、一時であっても絶望を忘れていられたのだ。

 だが、そんな日々を過ごしている内にふと、ルキナはギムレーの監視の目が幾許か緩くなっている事を……今ならば隙を突いてギムレーの元から逃げ出せるかも知れないと言う事に、気付いてしまった。

 そしてそれと同時に、ルキナは焦燥感と葛藤に苛まれる様になってしまった。

 

 今は虜囚の身に甘んじていても、それでもルキナは『使命』を背に戦う必要がある存在だ。

 クロム亡き今、その双肩に世界の命運が懸かっていると言っても過言ではない。

 滅びへと突き進む世界を、救う術が在るのならば。

 ルキナは、それを果たさなければならない。

 その為にはここを逃げ出し、イーリスへと向かうべきだ。

 だが──

 

 ルキナはもう、独りの身では無い。

 その手には、何を引き換えにしてでも守りたい命がある。

 愛しい愛しい、我が子。

 その身に流れる邪竜の血以上に、愛した人との繋がりを確かに感じられる娘。

 しかし、この子は邪竜の娘でもある。

 もし、ルキナが世界を救う事が出来たとして、果たしてその世界にマークが生きられる場所は在るのだろうか……? 

 

 邪悪の娘と言う事実は、例えどんなに無害な存在であったとしても問答無用に殺されるに足る事実であろう……。

 ならば、世界は救ってはならないのだろうか? 

 

 今までの自身の全てであった『世界を救う』と言う『使命』と、我が子の命。

 世界を救えと自身を突き動かす衝動と相反する様に、我が子を世界の全てを敵に回してでも守らねばならないとする母親としての情。

 その二つがお互いにぶつかり合い、悩み続けた。

 そしてその果てにルキナを突き動かしたのは、結局の所は我が子への情であった。

 世界を選ぼうと我が子を選ぼうと何にせよ、このままギムレーの元に居続けてはマークには『邪竜』になる未来しかない。

 マークは確かに邪竜の娘ではあるが、同時にルキナの娘だ。

 未だ無垢なるこの娘は、邪竜ではなく、『人』でなくともヒトとして在れる筈だと、ルキナは信じていた。

 それはいっそ傲慢な思い違いであるのかもしれない。

 その選択は何時か、他ならぬ我が子を苦しめる事になるのかもしれない。

 ……それでも、新たなる『邪竜』となるよりは、と。

 そうルキナは思ったのだ。

 

 だからこそ、ルキナはマークを連れてギムレーの元から逃げ出したのだった。

 だが、ギムレーの元から逃げ出したルキナに突き付けられた現実は非情であった。

 人々は日々屍兵やギムレーに怯え、人心は荒れ果てていた。

 もしマークの正体が彼らに露見すれば、たちまち集団ヒステリーを引き起こしマークを殺そうとしてくるだろうと、瞬間的にルキナに悟らせてしまう程に、既に世界は荒廃していたのだ。

 それで一度かなり危ない目に遭った事もある。

 食料を求めて立ち寄った街で、本当に偶々マークの頭にある角を見られてしまったのだ。

 たちまち大騒ぎになり、ルキナはマーク諸共殺そうとしてくる街の人々に追い回された。

 その場は、偶々そのタイミングで大量の屍兵が街を襲ってきた為に有耶無耶にはなったのだが、その出来事はルキナに危機感を抱かせるには充分過ぎるだった。

 それ故に、ルキナにとっては世界の全てが敵であるも同然になってしまったのだ。

 

 イーリスにも帰れず、一所に留まる事も出来ず。

 世界が滅びへと向かっていくのをその目で確と見ながらも。

 

 

 それでもルキナは、マークの手を絶対に離すつもりなど無い。

 世界が終わるその日まで、この子を守り続けよう、と。

 荒れ果てた大地を踏みしめながら、ルキナはマークを抱いて歩いて行くのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 自分以外に命在る者無き城の玉座で、ギムレーは閉じていた目をゆるりと開いた。

 自身の妻と娘の無事を、ギムレーは遠くの景色を見る術で確認していたのだ。

 

 ギムレーは、ルキナがマークを連れて自分の元から逃げ出したのを、態と見逃した。

 何処に逃げようとも直ぐ様見つけ出せるのだし、そして何よりも、ルキナには『現実』と言うモノを理解し実感させてやるべきだと考えたからだ。

 

 邪竜の娘であるマークは勿論の事ながら、邪竜の妻となったルキナも、最早ヒトの輪の中では生きられない存在である。

 本人に自覚はまだ無いであろうが……嫌でも思い知るだろう。

 そもそも、幾度と無く邪竜と契って、邪竜の子供を身籠った存在が、どうして『ヒト』のままであると言えるのであろうか。

 確かにルキナは忌々しき聖王の血を継いではいるが、そんなものは蘇ったギムレーの力の前には無いも同然であり、事実あっさりとルキナはヒトの枠組みから外れてしまっている。

 マークに邪痕のみならず聖痕も現れた事に関してはギムレーとて流石に少々驚いたが、それは邪竜の娘たるマークに何ら害を及ぼすモノでは無い。

 そもそもの話、『ギムレー』と言う存在の始まりには神竜が深く関わっているだけに、血の相性だけで言うならば、邪竜と神竜の血は相反するモノでは無いのだ。

 ギムレーが聖王の血筋や神竜族を忌々しく感じるのは、単純に千年前に奴等にこの身を封じられたその怨みからでしかない。

 

 そして……ルキナとマークの脱走を見逃した処で、ギムレーにとっては何の脅威にも成り得ない。

 万が一にも神竜の覚醒の儀を行おうとした所で、今のルキナにナーガが応える事は無いからだ。

 本人の認識がどうであれ、今のルキナはギムレーの妻でありその力の影響を濃く受けた眷族であるのだから。

 いっそ、邪竜としての『覚醒の儀』を受けた方が力を得られるだろう。……尤も、ルキナがそれを望む事は無いだろうが。

 

 ルキナが出奔したのは大方マークの未来を想っての事なのだろうが、最早この世界に二人が共に在れる居場所など、ギムレーの元にしかないのだ。

 遅かれ早かれ、嫌でもそれを理解する事になるだろう。

『ヒト』の悪意とその醜悪さに満ち溢れたこの世界で、彼女達を守るモノは何も無く、それに直面せざるを得ないのだから。

 

 ……まあ、二人に危害を加えようとする虫ケラが居れば、速やかにその害虫はギムレー自身が排除するつもりであるが。

 

 歪んだ笑みを浮かべながらも、ギムレーは妻として選んだ女の事を想った。

 

 あの娘が過去を変える為に跳んだ先で、そこに居た『二周目』のルフレ……ギムレーとしては目覚めていない自身と恋に落ちた事は流石に想定外であったのだが、今となっては些末な事だ。

『一周目』のルフレと『二周目』のルフレに《ギムレーの意識》が混ざり合った状態の今のギムレーにとっては、ルキナに執着していたのが、恋仲であった『二周目』だろうと忌々しい聖王家に執着していた《ギムレーの意識》であろうと、最早別段気にする事でもないのである。

 ルキナを妻とした事実には些かの変わりもなく、今のギムレーが彼女に執着しているのは事実なのだから。

 

『ヒト』はギムレーに、邪悪であれと望み続けてきた。

 成る程、確かにこの身は悪であり、世界を滅ぼす存在だ。

 その望み通り、虫ケラ共を全て平等に絶望の水底へと叩き落とし擦り潰してやろう。

 だがそう在る事に何ら痛痒は覚えないとは言え、虫ケラ如きに一方的に『邪悪な竜』・『絶対的な悪』とやらの役割を押し付けられ続けるのも癪に障る。

 なれば『絶対悪』らしくなく、「妻」とやらを得てみるのも悪くはないだろう。

 そう思ったから、『二周目』が執着していた女を選び捕らえたのだが、存外それが悪くはなかった。

 絶対に邪竜になど屈するかと睨み付けてくるその目も、『二周目』の面影をギムレーに見出しては動揺するその様も、その細やかな抵抗を蹂躙する様に無理矢理抱いたその時の感覚も。

 忌々しい聖王の末を屈伏させ様としている事へ悦びや、何時かその身が既に邪竜の眷族と化している事に気付いた時の彼女の絶望など、ルキナを特別視するに足るモノは確かにあって。

 虫ケラ共が戯言の様に口にする『愛』とやらをギムレーが解する事は無く、故にそれは『愛』などでは無いのだけれども。

 少なくともルキナをギムレーの「妻」として手元に置いておく事に不快感は欠片も無かった。

 

 子供を身籠ったと知った時は、自身の血を直接的な意味で継いだ存在を得る事など、ギムレーとしての長い生の中でも初めての事であり、流石に驚いた。

 邪竜の子供を身籠ったと知ったルキナが、絶望したり憎悪したりと忙しなく感情を揺らすのを見るのは愉しかったが、それで腹の子ごと死なれでもしたら意味がないので、監視の目を強めたりもして、何かと気を配っていた。

 そんなギムレーの努力の甲斐もあり、幾度か危うい時はあったが何とかそれを乗り切って、ルキナは娘を産み落としたのだ。

 

 娘の見た目が『竜』としての要素こそ持てどもどちらかと言えば人間に寄っているのは、母親が既に眷族であるとは言え元は人間なのだし、ギムレーの身体も竜として覚醒しているとは言え人間だった時の要素も多く残っているからだろう。

 その身には確かにギムレーの子である事を示す様に溢れんばかりの竜の力が眠っているし、ある程度大きくなったら竜の姿も取れる様になるだろうと、ギムレーは理解した。

 

 娘に『マーク』と名付けた後は、あまり干渉しない様にギムレーは二人から少し距離を置いた。

 子を産んで暫くの間は、精神的に不安定になりやすいらしい。

 娘は愛しいと思っている様だが、相変わらずギムレーには憎悪を向けているルキナを下手に刺激するのはルキナの精神には良くないだろうと思っての行動だった。

 実際にそれは奏効した様で、マークを産む前は酷く不安定だったルキナが目に見えて精神的に安定していったのだ。

 少なくとも、マークを殺そうとしたり、マークを残して自害しようとしたりはしなくなった。

 

 が、その内に今度はルキナがやたらとギムレーの元から逃げ出したがる様になっていた。

 一見すると監視の目が緩んでいた様に見えていたからだろう。

 実際は見えてないだけでより一層強く二人を監視していたのだけれども。

 

 ルキナもマークも、手離すなんて選択肢はギムレーには無い。

 自らが望み選んだ「妻」と、そしてその「妻」との間に生まれた真の邪竜の血族とも言える「娘」。

 どちらもがギムレーにとってすら『価値』のあるものである。

 それに、既に眷族であるとは言えファルシオンを扱えるルキナは虫ケラ共にとってはギムレーに抗する為の力として利用価値があるし、ギムレーの娘であるマークも虫ケラ共に何らかの利用価値を見出だされる可能性がある。

 既に後が無い程に追い詰められつつある虫ケラ共は、自らの存続の為ならば何でもするし、何でも利用しようとする。

 浅ましい虫ケラ共に二人が害される可能性がある以上、ギムレーの手元に置いておく以外の選択肢は無かった。

 

 だが、ここでルキナに『現実』を理解させるのもそれはそれで妙案なのではないかとも、ギムレーは考えた。

 眷族であるルキナの居場所と、ギムレーの血を継ぐ娘であるマークの居場所など、二人が何れ程離れた場所に居ようともギムレーには手に取る様に直ぐに分かる。

 浅ましく悍ましい『ヒト』共の姿を見せ付けさせ、『ヒト』と言う存在そのものに絶望させるも良し。

 そうでなくとも、二人の居場所など『ヒト』の世界には何処にも無い事など直ぐに理解出来るだろう。

 ルキナの心が折れた所で迎えに行ってやれば良いのだ。

 そして、その時は甘く耳元で『愛』を囁いてやろう。

 そうすれば今度こそ、その心もギムレーのモノになるだろう。

 

 だからこそ、ギムレーは一時とは言えルキナがその手元から離れるのを許したのだ。

 

 

 

「早く帰っておいで、ルキナ。

 君の居場所は、僕の傍だけなんだから。

 帰ってきたら、うんと君を甘やかしてあげるよ。

 あぁ……、実に楽しみだね」

 

 

 

『ヒト』と言う存在そのものに絶望した彼女は、どんな表情を浮かべるのだろう。

 自身が依るべきものすら喪った彼女は、最後に縋る先としてギムレーを見るのだろうか。

 それとも、何もかもに絶望してすらも最後までその矜持を捨てる事なくギムレーを拒絶しようとするのだろうか。

 

 

 ルキナが心折れるその日を心待ちにしながら、ギムレーは妖しくも心からの笑みを浮かべるのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 そして、竜にとっては瞬きよりも短く、『人』の身には決して短くはない月日が過ぎた。 

 

 時は止まる事も戻る事も無く、滅びへと向かう世界でその針を唯々静かに刻むばかり。

 希望は無く、救いは無く。

 祈りも、怨嗟も、悲嘆も、全てを等しく絶望の果ての虚無へと呑み込んでいく。

 それでも、世界は終わる事なく。

 未だこの世は『ヒト』の世界であった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『滅びゆく世界の片隅で』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 荒涼たる大地を抜けて歩き続け漸く……いや、とうとう。

 次なる目的地への目印が見えてくる。

 それを目にしたルキナは、無意識の内にも身を強張らせつつ、背負われたまま眠るマークのマントのフードを深く被せ直した。

 

 

 随分と人の手が入っていない事を訴えるかの様に劣化が激しいのが遠目にも分かる程の、いっそ倒壊していない事の方が不思議な程に至る所が崩落しているその廃墟は、かつて……と言ってもほんの数年前までは、ペレジアとイーリスの国境に設けられた関所として機能していた。

 が、邪竜ギムレーが復活し、地に溢れ返った屍兵で各地が分断され孤立し急速に人々が滅びに瀕する中では国境など最早深い意味は持たず。

 関所の跡地である廃墟は、ただ単にかつてはここに国境が引かれていた事を示す記念碑程度の役割しかないだろう。

 ちょっとした切っ掛けで崩壊して瓦礫の山へと変わりそうなその廃墟に態々足を踏み入れる人は無く。

 関所に残されていた物資の類いはとうの昔に根刮ぎ奪われている為に、野盗の類いが狙うモノも既に無いだろう。

 人が居ないが故に廃墟が屍兵に襲われる様な事は無く、だからこそこれ以上破壊される様な事もない。

 自然のままに何時か完全に崩壊するその日まで、人間が確かに文明を築いていた名残の様に……命有るモノが悉く絶えた世界に、この廃墟は取り残されるのかも知れない。

 だからだろうか? 

 物言わぬ筈の見上げた先に在る廃墟が何処か物悲しさを漂わせている様に、ルキナには感じてしまうのは。

 

 ここを越えれば、イーリス聖王国である。

 邪竜が復活し、人々の生存圏が日に日に減っていく中では、幾ら神竜ナーガの加護があるイーリス聖王国であっても、王都や聖地である『虹の降る山』から外れた……特にペレジアに隣接したかつての国境沿いの地域などは最早『死』の世界と化したペレジア国内の状況と大差無いのかも知れないが。

 だがそれならば、『故郷』に対して薄情な事かも知れなくとも、却って今のルキナにとっては都合が良かった。

 イーリス王家やナーガ教の影響力が薄ければ薄い程、今のルキナ達にとっては安全な土地と言えるのだから。

 

 イーリスには二度と戻る事は無いと心に決めていた筈のルキナがこうして辺境の地とは言えイーリスの国土に足を踏み入れようとしているのには、止むに止まれぬ事情があった。

 ルキナがギムレーの虜囚の身から逃れて凡そ一年が経った今となっては、最早人が住む事が出来る土地はこの大陸の中ではイーリスにしか残されていないからである。

 ペレジア国内にはギムレーに隷属するのと引き換えに荒れ果てた土地で細々と生きる事を彼の邪竜から赦されたほんの僅かな人々しか残されておらず、雪と氷に閉ざされたフェリアは東西の王都などの極限られた街にしか最早人々は残されておらずその僅かな人々も溶ける事の無い雪と氷に閉じ込められ孤立したまま次々と死に絶えていっているらしい。

 ギムレーの息がかかった者達の街に足を踏み入れる訳にはいかず、雪と氷に閉ざされたフェリアへは立ち入る術が無い。

 この大陸の外へと思った処で、外洋に出る為の大型船が尽く破壊され、港も既に維持出来ない状態になっているが故にヴァルム大陸などの他の大陸へと渡る事も出来ない。

 ……尤も、今のヴァルム大陸の状況がこの大陸よりマシなのかどうかは、ルキナには分からない事ではあるが。

 何にせよ、最早イーリスに向かうしかルキナ達には残された道は無いのだ。

 苦渋の決断ではあったが、このままマーク共々飢え死にする訳にもいかない。

 人目を極力避けつつ辺境を転々とするならばまだマークが危険な目に遭う事も無いだろう、とルキナはイーリスへと足を踏み入れたのだった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 ギムレーの元からマークを連れて逃げ出したルキナは、流れの用心棒としてその日その日の糧を得ていた。

 逃げ出す際に奇跡的に持ち出す事に成功したファルシオンを手に、鍛え上げられた剣技で屍兵や盗賊の類いを斬り伏せるルキナは腕の立つ用心棒として立ち寄った村や街でそれなりに歓迎されていた。

 幾度かはその腕を買われて定住しないかと誘われた事もある。

 が、誘いの全てを尽くルキナは断っていた。

 一所に長く居着くと、マークの正体が人々に露見する危険が高まってしまうからだ。

 マークの容姿が誰の目にも触れぬ様に、ルキナは常に気を張っているのだが、滞在する日数が多ければ多い程に危うい場面が度々訪れていた。

 

 ルキナにとっては愛らしい娘であるのだが、背の小さな翼や頭の小さな角など、『人』ではない事を示す特徴も持つマークは、一度その姿が露見すれば人々から吊し上げられて嬲り殺されかねない存在である。

 かつてのルキナの仲間にはマムクートであるンンやタグエルのシャンブレーと言った、所謂『人間』とは異なる種族である者達も居たが、彼等が人々から忌避されてはいなかったのは、傍に居た人々が彼等の事情を知っていたからであって。

 彼等とは置かれた事情が全く異なるマークの存在は、例えマムクートやタグエルを忌憚無く受け入れていたかつての仲間達であってすら、忌避されないとは言い切れなかった。

「『人』ならざる者」を拒む者は決して少なくは無く、マムクートもタグエルもその所為で酷い迫害を受けてきた歴史があり、タグエルに至っては純粋なタグエルと言う意味ではシャンブレーの母親であるベルベットの代で絶えている。

 況や、『邪竜ギムレー』の娘など……それを知った『人々』からどの様な扱いを受けるか……想像するだけで恐ろしい。

『人』ではない、マムクートやタグエルと言った既知の『ヒト』の種族でもない、『邪竜』と『人』のそのどちらでもない……まさに『邪竜の娘』としか定義しようのないけれども。

 どの様な存在であったとしても、マークがルキナにとって大切な愛娘であると言う事は揺らぎ様も無い確たる事実であった。

 ……例え、マークの姿形が人に似た姿ではなく、邪竜のそれそのものであったとしても、或いはヒトならざる怪物の姿であっても、ルキナはマークを愛していたであろう。

『人』であるルキナと、そして『ヒト』ならざる邪竜ギムレーとの間に産まれた我が子が、今後どの様な成長をするのかはルキナには分かりようも無い事で。

 このまま『ヒト』に近い姿で成長するのか、或いは成長するに従って邪竜に近しい姿へと変化していくのかは未知数である。

 だが、例えどんな姿になるのだとしても、ルキナはマークを愛し守り続けるであろう。

 我が子であると言うだけでこの世の何より愛おしいのだから。

 ルキナは、自身の肩に頭を預けて安心した様に安らかな寝息を立てているマークのフードから零れ出ているその髪を、起こさぬ様にそっと優しく指先で撫でた。

 こうして触れるだけで、何時だって既に溢れそうな程にこの胸を満たしている愛しさが更に込み上げてくる。

 ……そして、それと同時に。

 どうしようも無い程の、後悔の様な……そんな申し訳無さも湧き上がってしまうのだ。

『人』の世界には居場所が無いと、そう知りながらマークを外の世界に連れ出したその代償は、決して軽くは無かった。

 

 髪で隠された頭の角には更にその上に包帯が巻かれ、その包帯すらも見せない様にマークは何時もフードを被っている。

 産まれた頃よりは大きくなった髪の色と揃いの色の翼も、何時もしっかりと服の下に隠しているし、驚いてうっかり翼を広げてしまうなんて事も無い。

 忙しなく歩いたり走ったりと誰に似たのか何にでも好奇心旺盛なマークはとても活発的であるのだけれども、ルキナの言い付けはいつもしっかりと守っていた。

 が、それでも不慮の事態と言うのは何時でも想定しておくべきであるし、マークの姿を見られた事が切っ掛けで村や街の人々から追われる事になったのも一度や二度ではない。

 自身を殺そうと追い回してくる人々が容赦なくぶつけてくる悪意のその恐ろしさに泣きじゃくるマークを抱き抱えながら、命からがら逃げ出した事だってある。

 ルフレに似たのか幼いながらも聡明なマークは、『人』からの害意に晒される内に自身が『人』にとって歓迎されない存在である事を、こんなにも幼いと言うのに悟ってしまっていた。

 それ故にか、母親であるルキナ以外の人間には次第に心を開こうとはしなくなっていったのだ。

 そしてそれに相反するかの様にマークは母親であるルキナに対しては、とても素直で甘えん坊な娘であった。

 マークの世界は、自身とルキナだけで完結してしまっていた。

 その事を心苦しく思う一方で。

 まだ舌足らずではあるものの一生懸命に「おかーさん、おかーさん」とルキナを呼び甘えてくるマークが、ルキナには愛しくて愛しくて仕方がなかった。

 言葉を覚えたての時は「ママ」と呼んでいたのに、気付けば「おかーさん」呼びである。

 子供の成長とは斯くも目覚ましい。

 マークの成長を日々見守りながら、ルキナはマークと共に今も宛の無い旅を続けていた。

 

 …………もしも、マークが居なければ。

 迷う事無く、躊躇う事も無く、ルキナは己に課せられた『使命』に殉じる事が出来ていたのだろう。

 愛した人の面影を持った邪竜のその胸にファルシオンを突き立てる事だって、迷いはしてもきっと出来ていた筈だ。

 それはそれで幸せだったのだろうし、その道を選べていた自分も無限にある可能性の世界の何処かには居たのかもしれない。

 だけれども、その世界にはマークが……。

 ルキナにとって、己が命よりも、背負った『希望』よりも、課せられた『使命』よりも、自らを形作っていたその全てとですら比べ物にならない程に、大切で愛しいたった一つの一番の宝物が……存在しない。

 ならば。

 少なくとも、マークの母親である今のルキナにとっては。

 そんな可能性の世界は、もう『意味』も『価値』も無いのだ。

 

 それでもやはり時々は考えてしまう。

 もしマークが、邪竜と化した彼との娘ではなく、正真正銘ルキナが愛していたルフレとの娘であったのならば。

 ルキナが滅びの運命を変える事が出来ていたのならば。

 マークに、こんな人目を忍ばなくてはならない様な生き方を強いなくても良かったのではないかと、もっと幸せな生き方をさせてやれていたのではないかと。

 幾らそう考えた所で、マークがあの邪竜の血を引いている事実は変えられないのだが、そう思わずにはいられない。

 

 ………………。

 マークを連れてギムレーのもとから逃げ出したのは、マークの未来を想っての事だった。

 例え『人』の世界の環の中に自身の居場所が無いのだとしても、『邪竜』として生きるよりは『ヒト』として生きた方が『幸せ』であろう、とそう想って。

 でもそれは結局の所、ルキナのエゴでしかないのだ。

 その環には決して入れないのに、それでも『ヒト』である事を強要される生き方が……本当の意味でマークの為になるのか、……ルキナにはもうその答えが分からなくなっていた。

 ギムレーの元に囚われていた時やそこから逃げ出した時ならば、『ヒト』として生きるべきだと迷い無く即答出来たであろう。

 けれど、外の世界でマークと共に一年間を何とか過ごしてきた今となっては、「マークにとっての『本当の幸い』」とは一体何であるのか、ルキナには……もう分からなくなってしまった。

 

 マークには、生きていて欲しい、『幸せ』になって欲しい。

 その想いはずっと変わらない。

 邪竜の血を継いでいようと『人』ではなかろうと、マークが『幸せ』になってはいけないなんて事は無いだろう。

 例え世界の全てがマークの存在を否定しその生を言祝ぐ事が無いのだとしても、世界でたった一人ルキナだけは、マークの存在を肯定しその生を……その未来を祝福し続ける。

 

 だからこそ。

 人々にその正体を悟られぬ様に息を潜める様に忍び、一所に留まる事も出来ず各地を転々とし、ルキナ以外には誰も信頼出来る存在が居ない様な……そんな今のマークの生き方が。

 それが『幸せ』であるとは、今のルキナには到底言えない。

『人』の中で生きようとする限り、今後もマークは今の生き方を続けざるを得ない。

 だが果たして、そんな生き方の中に、マークの『幸せ』はあるのだろうか……? 

 

 どんな生き方が『幸せ』であるのかなんて結局の所は当人が決めるしかなく、例え血を分けた親であろうとも『幸せ』を押し付ける事など出来やしないのは分かっている。

 自身のエゴでマークをギムレーから引き離して『ヒト』として育ててきた様に、今もまた自分のエゴからマークの『幸せ』を決めようとしてしまっている事も。

 ギムレーのもとで育つ事が『不幸』であったとは限らないのと同様に、『ヒト』として生きている今の生活がマークにとって全くの不幸であるとは限らない事も、ルキナは理解している。

 

 だからこそ、何れ程悩み考え続けても、ルキナの苦悩に『答え』は出ないままだった。

 

 ……結局の所、今の自分は中途半端なのだろう、とルキナは時々そう感じている。

 

 世界よりも大切なモノを見付けてしまったルキナには、かつての自分の様に、『人』やその営みが溢れる世界を何の躊躇いもなく全面的に肯定する事は出来なくなってしまっていたのだ。

 

 外の世界に出たルキナとマークを脅かしてきたのは、何時だって『人』だった。

 自身の欲望のままに、或いは自分達とは『異なるモノ』を排除しようとする集団心理のままに。

 彼等に何ら害を成した訳でもないマークを、悪魔だ怪物だと謗りながら殺そうとしてきたのは、何時だって『人』だった。

 

 この荒廃しきった世界では、ほんの細やかな切っ掛けで、いとも容易く殺し合いが起きる。

 ほんの僅かな差違がまるで絶対悪であるかの様に詰られ、抵抗すら赦さず集団に嬲り殺しにされる。

 

 ルキナは、旅をする中でギムレーや屍兵の襲撃に因ってではなく、『人』同士の殺し合いで滅びた村などを見てきた。

 それも、一つや二つなどではきかない程の数を。

 

 屍兵が蔓延り人々の生存圏が日々喪われていく中では、本来の理屈で言うのであれば『人』同士でいがみ合い殺し合っている余裕なんて無い筈である。

 生き残った人々が共に協力して屍兵へと対処しなければ、容易く屍兵の群れは人々を蹂躙してゆくのだから。

 だが、現実はそうはならなかった。

 日々困窮してゆく食料事情。

 終わりの見えぬ屍兵との戦い。

 何時自分達の生活が終わるとも知れぬ恐怖。

 それらは人々の心を削り取り摩耗させ、その心の内に潜めてきた『人』の本性を暴き立ててゆく。

 理性の仮面を剥ぎ取られた後に残ったものなんて、どれもこれも醜悪なものでしかない。

 ……そうやって、『人』が持つ浅ましさや悍ましさを、ルキナはこの一年で嫌と言う程に見せ付けられてきたのだ。

 残念ながら、今のルキナには、『人』と言う存在を、かつての様に盲目的に全肯定する事は出来ない。

 あの絶望の未来でも世界は似た様な状況ではあったけれど、あの時と今ではルキナの立場は全く違う。

 あの絶望の未来では、ルキナは人々の『希望』であった。

 人々から願いや祈りや希望を押し付けられ、ギムレーと戦う事を強いられていたのだとしても、ルキナに人々が持つ悍ましい側面がぶつけられる事は無かったのだ。

 しかし、今のルキナは幼い子供を連れた流れの旅人。

 端的に言えば、集団にとっての『異物』だ。

 人々に心の余裕がある時ならば『稀人』として歓迎されていたのかもしれないが、日々の生活すら困窮しつつある状況では『異物』は「悪」である。

 故に、『人』が持つ負の面を、嫌と言う程目にしてきた。

 

 が、かと言って『人』と言う存在その物に絶望する程に心が折れた訳でもなく、世界を滅ぼさんとする『邪竜』の存在は肯定出来ない。

 マークが『邪竜』になる事は、ルキナには許容出来ないのだ。

 

 

『邪竜』の血を引けども、マークは『邪竜』ではない。

 だが、『人』でも無い。

 人と邪竜の狭間に在るマークは、どう生きるべきなのか……。

 ルキナには未だにその『答え』は出ないままだった。

 

 

 

 一向に答えが出ないのだとしても餓えて死んでしまっては意味がなく、今日を生き抜く為の糧が必要だ。

 故に、イーリスへと足を踏み入れたルキナは、取り敢えず最も近くにあった筈の村へと向かう。

 山間部にあるその村は、周囲の山から採れる食料もあってか、あの絶望の未来でもかなり長い事生き延びていた筈だ。

 恐らく、この世界でもまだあの村はあるのだろう。

 かつての記憶を頼りにルキナはその村を目指した。

 

 山道を歩き続けて見えてきたその村は、人々の営みがまだ保たれているのが遠目にも見えた。

 山間の村と言う孤立気味の環境にしては、困窮している様には見えず、畑はこのご時世に関わらず青々と生い茂っている。

 辺境の村である事を考えれば、こんな時代であるにも関わらず非常に潤っているとも言えるだろう。

 あの様子だと今日の分の食料は何とか手に入るだろうと、安堵に胸を撫で下ろしながらルキナは村へと足を踏み入れる。

 

 一見して旅人と分かるルキナにあちらこちらから視線が無遠慮に突き刺さる中、それには構わずルキナは村長を探した。

 屍兵や盗賊を退治する事と引き換えに、村への暫しの逗留の許可とその間の食料を提供してもらう事を交渉する為だ。

 手近な所に居た村人に声を掛け、村長の家を教えてもらう。

 質素な建物ばかりの村の中でもやや見目が整った村長の家を見付けたルキナは、迷わずにその扉を叩く。

 少ししてから出てきたのは、初老の男性だ。

 

 

「すみません、貴方がここの村長でしょうか?」

 

「ええ、そうですとも。

 あなたは……旅人の方でしょうか……? 

 一体この村に何の用件で?」

 

 

 ルキナが用心棒として雇い入れて欲しい旨を伝えると、村長は早速交渉に入る。

 常に屍兵の脅威に晒されるこの世界では、屍兵に対抗する為に傭兵の類いは村や街が生き延びる為に必要不可欠の存在だ。

 軍の守りが厚い王都とは違い、辺境の村や街や規模の小さな村などは自衛するしか屍兵に対抗する術はない。

 何らかの要因で守り手を喪えば、一気に村が壊滅する事もそう珍しくはないのである。

 が、傭兵の類の中には破落戸や賊と大差ない様な者も多く、住人とトラブルを起こしては追い出される事も少なくない。

 この規模の村で防衛用の傭兵を雇っていないのは些か腑に落ちないが、前に居た傭兵達と交渉が決裂したのかもしれない。

 何にせよ、ルキナを雇い入れてくれる余裕があるならばそれに越した事は無いのだし、余計な詮索はするべきものでもない。

 ルキナが基本的には自身とマークの食い扶持以上を求めない事もあって、概ね交渉は問題なく進んだ。

 交渉が成立し握手を交わしたルキナは、早速村に逗留する間の仮の住まいとなる村外れの空き家へと村長に案内される。

 うとうとと目を擦るマークの手を引きながら、ルキナがその案内に従っていると、空き家への道を歩きながら、ふと思い出した様に村長がルキナへと振り返った。

 

 

「そうそう、そう言えば。

 今、村には王都から剣士様が居らしているのですよ。

 何でも、この山の向こうにあった村を襲った屍兵の討伐に、この地を訪れたそうで。

 そのついでに、剣士様は念の為この村の安否を確認なさりに来られたとか。

 この様な辺境の村を気遣って下さり、有難い事ですな。

 丁度、使って貰う予定の空き家の横の家に今夜は泊まっていかれるそうです」

 

 

 村長としては、何て事は無い世間話のつもりだったのだろう。

 だが、ルキナは『王都から来た剣士』と言う言葉に僅かに肩を跳ねさせる。

 ……王都から来たからと言って、その者がかつての仲間達やイーリス軍で共に戦った人達の誰かであるとは限らない。

 寧ろそうではない可能性の方が遥かに高いであろう。

 それでも……ルキナは顔を隠す様にフードを深く被り、腰に佩剣しているファルシオンをマントで隠す。

 王都から来たその何某は一泊したらまた王都へと発つらしい。

 今日一日を乗り切れれば、問題はない筈だ。

 大丈夫、とそう自身に言い聞かせるも、嫌な予感に対する冷や汗が止まらない。

 ルキナがそんな不安に苛まれているとは露とも知らず、村の中心から外れた古びた家が隣り合う様に二軒立ち並んだ一画へとやって来た村長は、「あちらです」とその内の一軒を指差した。

 案内してくれた事に礼を言って、さっさとその家の中に入ろうとした丁度その瞬間。

 隣の家の扉が、開いた。

 

 

「あ、こんな立派な家を使わせて貰って、有り難うございます」

 

「いえいえ、王都から来てまでこの村の安否を気遣って下さったのですから当然の事です」

 

 

 村長に礼を言う剰りにも聞き覚えがあるその声に、無意識のもルキナの肩が跳ねる。

 

 何で、何でこんなタイミングでこの村に──

 

 

「あれ、そっちの人は……」

 

「この方は暫くこの村で用心棒をなさって下さる方ですよ」

 

 

 この状況で二人を無視して家に入ると言うのも些か不自然で、不信感を抱かせてしまうかもしれない。

 だからルキナは顔が絶対に見えない様に深く深くフードを被り、横を向いてそこに居る人物へと軽く頭を下げた。

 そしてそのまま家へと入ろうとしたその時。

 

 

「待て、待ってくれ!」

 

 

 急に慌てた様に、『王都から来た剣士』はルキナを呼び止めた。

 

 最悪だ……、と心の中であらゆる物事のタイミングの悪さを呪いながらも、彼の声を無視する訳にもいかず、ルキナは戸口に手を掛けたまま動きを止める。

 

 

「もしかして、いや、ルキナなんだろ……? 

 俺だ、ウードだ……!」

 

 

 必死に自分を呼ぶウードに、最早白を切る事も隠し通す事も出来ぬと悟ったルキナは、一つ溜め息を吐いた。

 ここまで来てしまっては、もう知らぬ存ぜぬでは通せない。

 観念してフードを取り払い、ルキナはウードへと向き直る。

 

 

 

「……ええそうですよ、ウード。

 久し振り、と言った方が良いのでしょうか」

 

 

 

 凡そ数年ぶりに出会ったかつての仲間へと、望まぬ再会を果たしたルキナは、そう答えるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 薄暗がりに覆われた玉座に座したギムレーは、不快さを隠す事も無くに眉根を寄せて舌打ちをする。

 何時もの様に遠視の術でルキナ達の様子を見ていたのだが、どうにもあまり良くない方向へと事態が動いてしまったのだ。

 

 ルキナがギムレーの傍から逃げ出して既に一年が経っている。

 荒れ果てた外界の現実を目の当たりにすればそう時を置かずして心折れるだろうと踏んでいたのだが……思いの外ルキナは気丈にも耐えていた。

 手のかかる盛りの幼い娘を抱えながら、人々の悍ましい程の悪意に晒されながら、それでも立派にマークを育てながら生き抜いていたのだ。

 一年と言う期間は、竜にとっては瞬きの様なモノではあるが、未だ自身が『ヒト』である意識が抜けないルキナにとっては、決して短い時間ではない。

 故に、これにはギムレーも素直に感服した。

 子を想う母親の強さと言うものは、時にギムレーの予想も遥かに上回るものだと実感したのである。

 

 が、心が折れてはいないとは言えども、『現実』を目の当たりにしたが故にか、頑なに『邪竜』を悪とし『ヒト』を肯定していたその心境にはかなり変化が生まれた様だ。

 マークに対しても、このまま『ヒト』として育て続けるべきなのかとルキナが迷っているのも、ギムレーには手に取る様に理解出来た。

 後一押し、何かの切っ掛けがあれば、ルキナの心はギムレーの方へと傾くだろうと、ギムレーは感じていた。

『その時』を心待ちにしながら、ギムレーは二人を見守っていたのだが……。

 

 

「ナーガの手の者に見付かった、か……」

 

 

 ルキナとウードの出逢いによって起こり得る様々な可能性を瞬時に弾き出しては、その殆どが『望ましくない』結果に行き着く事にギムレーは再度舌打ちする。

 

 

「……潮時、だな」

 

 

 出来るならば、心折れる瞬間を見届けたくはあったのだが。

 戯れを続ける事に拘って二人を喪っては、何の意味も無い。

 何を優先させるべきか、ギムレーが迷う事はない。

 

 ── 「もう二度と」……大切な人を喪いたくはない

 

 そう感じたのは、ギムレーなのかそれとも『二周目』のルフレの心だったのか……。

 それは、ギムレー自身にすらも分からない事だった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『選んだもの』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 その再会を望んではいなかったとは言え、大切な仲間であるウードが息災であった事にルキナが安堵したのは確かだ。

 思わぬ場所でルキナと再会を果たしたウードは、驚きながらも話をしようと、自らに貸し出された家へとルキナを招いた。

 正直な所あまり気は進まないが、ルキナとてかつての仲間たちへの未練は今もある。

 だからうつらうつらと舟を漕いでいたマークをベッドに寝かせてから、ウードに促されて席に着いた。

 

 

「聞きたい事や話したい事も色々とあるけど、何よりも。

 ……お前が無事で良かったよ、ルキナ」

 

「……私も、あなたが無事で安心しました」

 

 

 ギムレーに囚われ、そして犯され孕まされ……そうした自分の状況を「無事」と表現するべきかは分からないが。

 五体満足である事は事実であったから否定はしない。

 それより、ウードが大きな傷も無い姿であった事に驚いた。

 ギムレーに囚われたあの日、ルキナが最後に見たのはギムレーに一掃されてイーリス軍が散り散りになる光景だけであった。

 あの場に居た仲間達が無事だったのかを確かめる術は、ギムレーに囚われたルキナには無く……いや、それは違うか。

 確かにギムレーに囚われている間は、仲間達の安否を知る術は無かっただろう。

 しかし、ギムレーのもとから逃れてからは……知ろうと思えば知る事だって出来た筈だった。

 例え意図的では無かろうとそうしなかったのは、世界よりもマークを選んだ負い目が有ったからなのかも知れないし、或いは無意味な未練を生みたくは無かったからなのかもしれない。

 現に、ウードが生きていた事自体は嬉しいがこうして再会してしまった事はルキナとしては決して喜ばしい事ではなかった。

 

 ベッドで静かに眠っているマークをチラチラと気にしながらも、ウードはルキナがギムレーに囚われて消息不明になってからの間に何が起きたのかを説明してくれる。

 

 ギムレーが甦ったあの日、イーリス軍の被害は甚大なモノであり死傷者も多数出たが、ルキナのかつての仲間達を含めイーリス軍の中核を担っていた者達は、クロムと……そしてルフレ以外は大怪我をしつつも何とか生きていたそうだ。

 この世界での、何れは産まれてきていたのであろう仲間達の存在が「無かった事」にならなくて良かったと、そこだけはルキナも心から安堵し、そしてその身勝手な感情を嫌悪する。

 

 ……しかし、将と軍師を喪った事の損害は途方もなく甚大で、命からがら敗走したイーリス軍の者達には、屍兵が跋扈し滅びへの下り坂を急速に転がり始めた世界の様相が突き付けられた。

 何とか軍を再編して各地の屍兵討伐の任に就いたのだが、日に日に被害は拡大する一方であり、イーリス国内でも滅びた村や街はもう数え切れない程だと言う。

 

 ……ギムレーに対抗する唯一の術であるファルシオンの、クロム亡き今その唯一の担い手たるルキナは、片やまだ剣を振る事すら覚束ぬ幼子であり、片やギムレーが復活したその日から消息不明とされていて。

 ファルシオンにナーガの力を甦らせる為の『覚醒の儀』を行う為に必要な『炎の紋章』すら無い事も相俟って、民達は一縷の希望すら無くただただ滅びる日を怯えながら待つばかりであり、ルキナ達がやって来たあの「絶望の未来」よりもより一層悲惨な状況になっているらしい。

 

 

「でも、本当に良かった……。

 こうして、ルキナが見付かったんだ。

 今まで、諦めずに探し続けていて……本当に、良かった……。

 俺達の『希望』は、まだ残されていたんだ……!」

 

「…………」

 

 

 ギムレーが甦ったあの日、崩れ落ちた神殿の跡地からルキナの遺体が見付からなかった事を微かな希望として、かつての仲間たちはルキナの生存を信じて探し続けていてくれたらしい。

 

 その努力が漸く実った事に歓喜の涙を溢して鼻をすするウードに対し……ルキナは掛けるべき言葉を喪った。

 

 探し続けていてくれていた事は、素直に嬉しい。

「あの日」からもう五年近く経っているのに、それでも尚諦めずにこうして生存を信じていてくれた事は、例えそこに『世界を救う為』と言う目的があったにしろ、有難い事であった。

 ……『世界を救いたい』と言う想いも、己の成すべき『使命』も……ルキナは忘れてはいない。

 片時も、忘れられる筈も無かった。

 ……だけれども。

 

 机の下で、ルキナはきつく拳を握る。

 

 ルキナがギムレーを討ち、この世界を救えたとしても。

 そこにマークが生きられる場所は、無い。

 

 ……この『人』の世に、『ヒト』ならざる者を受け入れられる場所など無い。

 こうして滅びに瀕し、人心も荒廃しきった世界では、例え邪竜を討って滅びを回避し世界が救われたのだとしても、荒れ果てた人心が豊かさを取り戻すには気の遠くなる時間がかかる。

 かつての豊かだった筈の時代ですら、『異物』への拒絶と隔意はあらゆる場所に存在していたのだ。

 況や、今のこの世界ではどうなるのかなど分かり切っている。

 ましてやマークは、ただの『人』ならざる者ではない。

 世界を滅ぼす邪竜の血を引く娘なのだ。

 例え母親たるルキナが世界を救った英雄なのだとしても、いやそうならば尚の事、マークの存在がこの世界の人々に受け入れられる訳は無かった。

 救世の英雄の子が、世界の怨敵である邪竜の血を継ぐ存在であっては……ならないのだから。

 ルキナが世界を救えた処でマークに待つ未来は、問答無用で殺されるか、良くて一生日の当たらぬ牢獄に幽閉されるかだ。

 例えそこでは世界が救われているのだとしても、誰よりも大切な娘が犠牲になる『未来』を……許容する訳にはいかない。

 

 今のルキナにとって、マーク以上に大切な存在など、この世の何処にも在りはしないのだ……。

 それだけは変わらないし、だからこそ、何が起きようとも何を天秤に載せても、ルキナはマークだけを優先させる。

 

 だが、それでも……。

 こうやってルキナが生きていた事をこんなにも喜んでくれるウードを、裏切る事になる言葉は……返せなかった。

 

 

「なあルキナ、明日俺と一緒に王都へ帰ろうぜ! 

 みんな、ルキナが生きてると知ったら喜んでくれるからさ!」

 

「ウード、私は……」

 

 

 王都へは行けないのだと……そう返そうとしたその時。

 

 

 

「おかーさん……?」

 

 

 

 眠りから目覚めたマークがしょぼしょぼする目を擦りながらベッドから起き上がり、とてとてとルキナの方へと歩いてきた。

 

 

「どうかしましたか? マーク……」

 

 

 見知らぬ人が居る事に警戒してルキナの服の裾を掴むマークを、ルキナは抱き上げて膝の上に乗せる。

 そしてフード越しにその頭を撫でていると、ウードの視線がマークに向けられている事に気が付いた。

 

 

「このおじさん、だぁれ?」

 

「おじっ……!?」

 

 

 ウードを見上げてコテンと首を傾げつつ、マークは無邪気にルキナへとそう訊ねてくる。

 幼いマークに何の躊躇いも無く『おじさん』呼びをされてショックを受けるウードを見て少し微笑みながら、マークを安心させる様に柔らかな声でルキナは答えてやる。

 

 

「この人はウード。

 お母さんの、大切なお友達です。

『おじさん』と呼ぶのは、出来れば止めてあげて下さいね?」

 

 

 正確には従兄弟なのだけれども、マークには従兄弟と言う概念がまだ分からないだろう。

 だから、『お友達』だと説明した。

 ……『友達』と言う言葉はマークにとっては縁遠いものであるからか、『友達』の意味はあまり分からなかったのだろう。

 首を傾げたマークであったが、ルキナの態度を見てウードへの警戒を解き、初めて見た『お友達』に興味津々の様だ。

 

 

「おかーさんの、『おともだち』……!」

 

「おっ、おう……。

 あー、えっと、ルキナ……? 

 この子は一体……」

 

 

 キラキラとした目で自分を見上げてくるマークの視線に照れた様に戸惑い狼狽えながらも、ウードは気遣わし気にルキナに尋ねてくる。

 そんなウードに「私の、娘です」とだけルキナは答えた。

 

 

「一体誰との……? 

 もしかして、ルフレさんとの子なのか……?」

 

 

 ルフレ。

 ウードの口から出てきたその名にルキナの肩が僅かに跳ねる。

 

 …………ああ、そうならば。

 そうならば、何れだけ良かっただろうか。

 

 だが、ルフレがまだ『ルフレ』として居られたその時には、まだルキナと彼は、肌を重ねた事すら無かったのだ。

 思いを伝え合って結ばれて、時々キスを交わして。

 そんな細やかでゆっくりとした恋だった。

 何れは肌を重ねて愛し合う事もあるだろうが、それはまだ先の事だろうと、……そう思っていた。

 だが、「あの日」、全てが壊れてしまった。

 愛した男が『ヒト』としての存在の枠組みから外されてしまった瞬間を、ルキナはこの目で見てしまった。

 何も出来なかった、何もしてやれなかった。

 助けを求める様に、何かを求める様に伸ばされたその手に、ルキナの手は届かなかった。

 それは、「あの日」から絶える事なく抱き続けている後悔だ。

 

 あの日あの手を取る事が出来ていたならば、何かが変わっていたのかもしれない。

 今更どうする事も出来ないと理解してしても、そう想う事は止められなかった。

 

 愛した男を食らった邪竜に犯されて、産まれた子供。

 誰よりも憎い存在の血を引く娘。

 だけれども、誰よりも愛しく大切な……我が子だ。

 

 

「…………いいえ、違います……」

 

 

 マークを抱き抱える手が、少し震えてしまう。

 

 そんなルキナの様子には気が付かなかったのだろうが、明らかに狼狽した様子でウードは慌てて言った。

 

 

「あ、いや、その……ゴメンな、ルキナ。

 何て言うのかその、その子の顔立ちとかがルフレさんに似ている様な気がしたから、つい……。

 無理に聞き出そうとかって訳じゃないんだ、言いたくなければそれで良いから……」

 

「そう、ですか……。

 気遣い、感謝します……」

 

 

 これでもう、ウードがマークの父親についてこれ以上訊ねてくる可能性はかなり減ったであろう。

 それと同時に、マークがルフレに似ていると……あの邪竜ではなくルキナが心から愛した男に似ていると言われた事が、堪らなく嬉しかった。

 思わず、ウードへと答える声が震えてしまう。

 

 色々と訳ありなのだと察したのだろう。

 きっとウードは消息不明であった期間に何があったのかなど、そう言った諸々を尋ねたかったのであろうが、それらを語りたくはないと言うルキナの意思を汲んだウードがそれ以上その事について触れる事は無かった。

 

 

「どんな事情があるにしろ、こんな所に居るよりは、ルキナの為にもその子の為にも王都に来た方が良い。

 食べ物も、軍が頑張って国内の穀倉地帯を守っているから、贅沢とかは無理だけど親子が食っていくには十分な量がまだちゃんと手に入る。

 これからその子も育ち盛りだろ? 

 ちゃんと食わせてやれなきゃその子にとっても辛いだろうよ」

 

 

 そう言って、ウードはマークを安心させる様に優しく微笑みかけてくれた。

 ……ウードが完全に善意でそう言ってるのは分かっている。

 ウードの誠実さも優しさも、ルキナはよく知っている。

 こんな人心も荒廃しきった世界でも、その優しさを喪わずにいてくれた事が嬉しくて、変わらずにいてくれた事が、哀しい。

 

 マークの事情が無ければ、ウードに言われる迄もなくギムレーのもとから脱出するなりルキナは王都に向かっていただろう。

 だが、ダメだ。

 マークを連れて、王都なんて場所に行く訳にはいかない。

 今この世界で最も危険な場所はギムレーの領域ではなく、神竜ナーガの領域である王都なのだから。

 

 

「ウード、その気持ちは有り難いのですが……」

 

「おいおい、一体どうしちまったんだよルキナ……。

 何処かに頭でもぶつけて、記憶をなくしちまったのか? 

『世界を救うんだ』って、それが『使命』だからって……散々そう言ってたじゃないか」

 

 

 マークの事情を知らぬウードにとって、ルキナが王都へ戻る事を拒否するのは極め付きの想定外だったのだろう。

 狼狽えながらそう言うウードに、ルキナは首を振る。

 

 記憶を喪った訳でも、『使命』を忘れた訳でもない。

 それでも。

 その『使命』よりも大切なモノが、ルキナにはあるのだ。

 

 ルキナが王都に戻りギムレーを討つ為の旗頭となったとして、人々にマークの正体を隠し通す事は不可能だ。

 ルキナが多くの人々と密に接する時間が増えれば増えるだけ、マークの正体が露見するリスクは高まる。

 

 いっそ信頼出来る誰かに明かす事が出来るのならば、まだ気持ちは楽になるのかも知れないが……。

 しかし、邪竜の血を色濃く継ぐ子供を受け入れられる様な人など、ルキナには皆目見当も付かない。

 今こうしてここでマークに笑いかけてやっているウードだって、マークに流れるもう一つの血の事を知れば嫌悪に顔を歪め、……そして殺そうとするであろう。

 もし、自分の子供でないのだとしたら、憐れには思ったとしても、恐らくルキナだって迷わず邪竜の子供を殺していた。

 神竜ナーガに縋ったとしても無駄であろう。

 彼の神竜は、例えマークの身に邪竜のものではなく自らの力の欠片も流れているのだとしても、世界への脅威に成り得る存在を赦さないだろうから。

 いっそ、マークと共に邪竜も神竜も関係無い様な何処かの異界へと渡ってしまいたくなる。

 ……尤も、世界を渡る様な奇跡は、それこそナーガやギムレーの力を以てしないと不可能であるのだが。

 ……何にせよ、マークの身の安全を保障出来ない以上は、ルキナが王都へ戻る事は有り得ないのだ。

 

 

「その子が、何か関係しているのか? 

 ……その子にどんな事情があるのか、ルキナに何があったのか、俺からは訊かない。

 でもさ、皆……ルキナの事を待っているんだよ……。

 それでも、ダメなのか?」

 

 

 ルキナの膝上で大人しくしているマークを見ながら、ウードは何とかルキナを翻意させようと言葉を探し説得してくる。

 …………ここで力尽くで無理矢理ルキナを連れ帰ろうとはしない辺り、ウードはやはりとても優しいのだ。

 王族として判断するならば、幾らルキナ当人が拒否していようと、ルキナにギムレーを討たせるのが最善なのならば、首に縄を掛けてでも連れ戻すべきなのだから。

 それでもルキナ自身の意思を捩じ伏せようとは出来ないのは、美徳とも言える優しさでもあり非情に徹する事が出来ない甘さなのだろう。

 だからこそ、そんなウードの優しさを裏切る事になるのは、酷く心苦しい。

 ……それでも、共に苦境を幾度も乗り越えてきた仲間よりも、ルキナはマークを選んだのだ。

 

 

「ごめんなさい、ウード……。

 それでも私は行けません。

 皆が生きていて、本当に良かったとは思っています。

 でも、会えません……」

 

 

 何かの歯車が違っていれば、マークの見た目がヒトのそれそのままであったのならば、或いはギムレーの元から逃げ出して直ぐの時にウードと出逢っていたのならば。

 ルキナはウードの手を取っていたのかもしれない。

 迷わず王都へと向かっていたのかもしれない。

 そして、共にギムレーを討たんとしていたのかもしれない。

 ……でも、もう無理だ。

 

 この一年で、マークが決して人々に受け入れられる存在では無いと言う事を、存在する事自体が悪であるかの様に排斥される事を、嫌と言う程に知ってしまった、理解してしまった。

『人』と言う存在その物に絶望している訳ではまだない。

 だが、『ヒト』が持つ「善性」を信じる事は、もう出来ない。

 

 

「……………………そう、か……。

 …………明日の朝、ここを発つ前に、もう一度だけ訊ねる。

 出来れば、その時には……」

 

 

 これ以上何を話しても堂々巡りになると、理解したのだろう。

 取り敢えず時間を置こうと、ウードは説得を一旦諦める。

 ウードとしても混乱しているし、頭を整理したいのだろう。

 ……何れだけ時間を置こうとも、ルキナの『答え』が変わる事は無いのだが。

 

 山間部の村であるだけに、日の入りはとても早く、気付けばもう辺りは薄暗くなっていた。

 厚い雲に覆われた空には、星も月も無い。

 

 せめて今晩は何事も無い様に祈りながら、ルキナは貸し与えられた空き家へと戻ったのだった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『温かな絶望を抱き締めて』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 貸し与えられた家は、古ぼけてはいたものの存外造りはしっかりとしていて、小さいながらも湯槽を備えた風呂場までもが用意されていた。

 長旅ですっかり汚れていただけに、風呂があるのは有り難い。

 空き家とは言っていたが、恐らくは今までも雇入れた傭兵などの住まいとして提供されていたのだろう。

 それなりに最近に人の手が入っていた跡もあって、掃除などは最低限で済んだ。

 

 

「おかーさん、あたまながしてー!」

 

「はいはい、マーク。

 ちゃんと目は閉じていて下さいね」

 

 

 はしゃいだ声を上げるマークの泡だらけの頭を、手桶に汲んだ水で洗い流してやる。

 身体を洗うのに使っているのは粗末な石鹸だが、無いよりはずっとマシだ。

 汚れを落としてスッキリしたのか、マークはパタパタと小さな翼を動かした。

 もう慣れたとは言え、外に居る時は服の下に隠した窮屈な状態のまま翼を全く動かせないのは中々ストレスになるのだろう。

 こうやって二人きりの時には、気兼ねなく翼を晒せるのがマークは嬉しいらしい。

 ルキナの髪色と同じ色の羽に覆われた翼を優しく撫でてやると、マークは擽ったそうに愛らしい笑い声を上げる。

 マークが『人』ではない事を雄弁に示す翼ではあるけれど、ルキナとしては可愛い娘の身体の一部である事には変わらない。

 濡れた髪の間から覗く小さな角も、背中に数枚生えた鱗も。

 どれもが、愛しく思えるものだ。

 

 ……もしそれらが無かったら、と思ってしまった事はある。

 そうならば、例え邪竜の血を引く事に変わりが無いのだとしても、マークも『人』の中で生きやすかっただろうに、と。

 でもだからと言って、マークの角や翼を切り落としたりしてまで『人』に似せようと思った事は一度たりとも無かった。

 娘の身体と心を傷付けてまで、『人』と言う形に固執するべきだとは到底思えなかったのだ。

 

 …………結局の所、マークが何の気兼ねも無しに思うがままに生きられる場所は、この世界にはギムレーのもとにしか無いのだろう……とは、ルキナももう気が付いていた。

 

 だがそれでも、ルキナにとってギムレーは憎悪すべき存在だ。

 両親を奪い、未来を奪い、そしてルキナから愛していた人を奪い……ルキナの愛するものを、ルキナの全てを奪っていった。

 

 ギムレーが居なければ、取るに足らぬ小娘だとルキナを嘲笑っていたあの邪竜が、態々未来からその取るに足らぬ筈のルキナを追い掛けて来ていなければ、と。

「あの日」ギムレーがあの場に居なければ、もしくはルキナ自身がその存在の可能性に気が付いていれば。

 ……一体幾度そう思ったのだろう、自分を責めただろう。

 もう一度時を巻き戻せるのなら、あの日ギムレーの魔の手からクロムとルフレを守れるのにと、幾度考えたのだろう。

 

 憎くて、許せなくて、殺してやりたくて。

 それなのに、ルキナの意志も抵抗も踏み躙られ、邪竜と肌を幾度となく重ねさせられた事が、耐えようも無く辛かった。

 ルフレと同じ顔なのに、ルフレと同じ声なのに、それでも決定的に中身が違う存在。

 ルキナにとっては、愛した男の『紛い物』の様なモノ。

 

 だけれども──

 

 せめてもの矜持としてその首元を噛み千切ろうと全力で抵抗して暴れるルキナの口許を、少し強引ながらも優しく塞いだあの邪竜が、優しい蜂蜜色だったルフレの瞳とは似ても似つかぬ紅い瞳を、何故か哀し気に揺らす度に。

 どうして? と叫びたかった。

 どうしてそんな目をするのだ、どうしてルキナを気遣う様な優しさを垣間見せるのだ、と。

 邪竜からすれば、ファルシオンを持たぬルキナなど何の力も無い小娘であろうに。

 ルキナのその身を蹂躙する事など容易く、そして人の心を顧みる事などある筈も無いだろうに。

 お前は、私の愛した人ではないのに……愛する『ルフレ』を食い潰した只の怪物でしかないのに、どうして、と。

 

 ギムレーは悪だ。

 ルキナから全てを奪った、赦す事など不可能な怨敵だ。

 それなのに、どうして、何故。

『ルフレ』の面影が、そこに重なってしまうのだろう。

 まだ、居るのだろうか? 

 あの邪竜に喰われても尚、その心の何処かに、『彼』の心が……今も消える事なく幽かにでも残されているのだろうか……? 

 何度そう問い掛けそうになった事だろう。

 結局その疑問の答えは、分からないままだった。

 

 ルキナがギムレーを赦す事はないだろう。

 それでも、愛した男の面影を求めて、ほんの僅かな未練とも期待とも付かない感情を、あの邪竜に抱いてしまっている。

 そして……『人』の醜悪さに触れる中で、ルキナが抱いてしまったその感情は少しずつ少しずつ別の『何か』へと芽吹こうとしていて……。

 その『何か』が《何》であるのかを知るのが恐くて、ルキナは己の目をその感情から反らし続けている。

 ギムレーは、憎い仇、憎悪すべき存在。

 自分があの邪竜にそれ以外の感情を抱くなど、有り得ない筈なのだから。

 

 ……しかし、何時までもこうして放浪し続けるのも限界があるのにもルキナは気付いている。

 ウードに見付かってしまった以上、かつての仲間たちにもルキナの生存は直ぐ様伝わってしまうだろう。

 そうなれば、彼等は必ずルキナを探す。

 この世界には最早、ギムレーを討つ術はルキナの手の中にしか無いのだから。

 そうなれば、何時までも逃げ隠れする事は不可能だ。

 早晩、ルキナは仲間達に捕まり王都へと連れ戻されるだろう。

 ルキナを捜そうとする仲間達に悪意は欠片も無く、ただただ人の世を救う為で……《大義》は彼等の側にある。

 しかしその《善意》と《大義》がマークを殺すのならば、ルキナはそれを受け入れる訳にはいかない。

 

 どうするべきなのか、どうしたら良いのか。

 八方塞がりのこの状況を打開する術も策も、ルキナには何一つとして思い付けない。

 ルキナはただこの手の中の命を守りたいだけなのに──

 

「おかーさん……」

 

 濡れた身体を拭いて乾かし寝間着代わりの質素な服を纏ったマークが、ルキナの寝間着の裾を引っ張りながらルキナを見上げてくる。

 その表情は、何処か浮かない。

 

 

「どうかしましたか、マーク?」

 

「あの、ね……おかーさんが、おともだちとケンカしちゃったの、マークのせい……?」

 

 

 そう問うマークはうるうるとその目に涙を浮かべ、背の翼も力無く萎れている。

 そんな様子が痛ましくて、そんな事は無いのだとルキナはマークを抱き締めた。

 

 

「いいえ、マークの所為なんかじゃありません……。

 それに、ウードと私はケンカした訳ではないですよ」

 

「でも、おかーさん、おともだちとおはなししているとき、かなしそうだった……。

 ……いっつも、そう。

 マークがはねとかつのとかみつかっちゃうたびに、おかーさんもひどいめにあう……。

 マークにはねやつのがあるのが、ダメなの? 

 マークは、『いきていてはいけないじゃあくなもの』なの?」

 

 

 ボロボロと涙を溢しながら、マークはルキナへと縋り付いてしゃくり上げる。

 少し前までは優しく接してくれていた人達が恐ろしい何かに刷り変わった様な形相でマークの存在自体を責め立ててくるその光景は、既にマークにとっての根深いトラウマになっていた。

『生きていてはいけない邪悪なモノ』。

 幾度となくそう言った類いの言葉を、マークは容赦なくぶつけられてきた。

 その度にそんな事は無いのだと、そうマークを諭してきたのだけれども……。

 

 

「そんな事は……! 

 そんな事は、有り得ませんっ。

 マークは、私の大切な娘です。

 大事な大事な宝物なんです。

 だから、そんな事は言わないでください……」

 

「でもっ、でも……。

 みんなそういうよ? 

『かいぶつ』だって、『あくま』だって……。

 マークのせいで、おかーさんがせめられるの、やだよ……。

 おかーさんはなにもわるくないのに……。

 わるいのは、マークなのに……」

 

 

 違うのだと、ルキナは叫びたくなった。

 マークがそんな目に遭っているのは、そんな思いをさせられているのは、結局の所ルキナの所為だ。

 ルキナが自分のエゴでマークを連れ出したから……だからこそマークにその様な苦痛を強いてしまった。

 人々の悪意の棘が、幼い心に消えぬ傷痕を付けてしまった。

 

 悪くない、絶対にマークは悪くないのだ。

 

 マークは誓って誰かを傷付けた事は無い、人々の悪意に晒されてはその恐ろしさに縮こまるしか出来ない幼い子供なのだ。

 それなのに、自分の存在を『悪』なのだと、涙ながらにマークは言う。

 その心に刻まれた目に見えぬ傷痕から血を流しながら、自分の所為だと責め立てる。

 その悲痛な姿に、ルキナはもう言葉もなく涙を流すしかない。

 

 一体、何が『悪』だと言うのだろう。

 そもそも、『絶対的な悪』など、何処に存在すると言うのだ。

 ルキナにとっては、こんな子供にすら容赦なく悪意をぶつけ排斥しようとする人々こそが、『怪物』や『悪魔』だった。

 自らの悪性をさも善であるかの如く嘯く彼等の方が、邪悪なモノではないのだろうか? 

 

 

「ごめん、ごめんなさい……マーク……」

 

 

 温かなその身体を抱き締めて、ルキナはマークに謝罪する。

 どうしてあげれば良かったのだろう、どうしてあげれば良いのだろう。

 何処に行けば、マークを『幸せ』にしてやれるのだろう……。

 誰か教えてくれ、とルキナは声無き悲鳴をあげる。

 

 その時だった。

 少々乱暴に家の戸口が叩かれる音がした。

 

 空かさずルキナはマークから手を離し、何があっても良い様に壁に掛けてあったマントを羽織り、腰にファルシオンを佩く。

 そしてマークにもマントを羽織ってフードを被る様に素早く指示を出した。

 泣き腫らした顔でも確りと頷いたマークは、言われた通りにマントを身に付けて顔を隠す。

 それを確認してから、ルキナは慎重に戸を開けた。

 

 

「ああ、夜分遅くにすみませんね。

 少し、お尋ねしたい事がありまして」

 

 

 やって来たのは村長であった。

 だが、何か様子がおかしい。

 相手に気取らぬ様に警戒しつつ、ルキナは決して中には立ち入らせない様にしてその用件を聞く。

 

 

「剣士様のご友人であったのですね。

 もしやとは思いますが、剣士様と一緒に村を離れるおつもりですかな?」

 

「いいえ。彼とは行きません。

 暫くの間は、この村で用心棒をさせて頂きます」

 

 どうやら、折角雇った用心棒が逃げてしまわないかを警戒していたらしい。

 ウードと共に王都へ行くつもりは一切無いので、そう長い間でも無いが暫くはこの村で日々の糧を得るつもりであった。

 

 そう答えると、村長はニッコリと微笑む。

 

 

「成る程、それは重畳。

 ところで、この村はかつてのペレジアとの国境の近くにありましてな、世の中がこの様に変わり果ててからと言うもの、ペレジアの方から流れてくる人も居る訳です。

 特に、この一年程の間でペレジア内の状況は極めて悪化したらしいですからなぁ……。

 かなりの数の人々が、ここに流れて来ました」

 

 

 村長の言いたい事が読めず、ルキナは思わず訝し気に眉を寄せてしまう。

 ペレジアから人々が逃げてくる事自体はそう可笑しくはない事だが、イーリスの村や街に流れ者に食わせてやれる様な余剰分の食料はそう残されてはいない。

 それは特に王都から離れた辺境だと特にそれは顕著だろう。

 用心棒などの様に『有益』と判断された者達ならばともかく、そうで無い限り村や街が流れてきた人々を受け入れる事は無い。

 結局、住んでいた村や街を追われた時点で、その人々が生き抜ける可能性は限り無く低くなるのだ。

 ……そんな人々が流れてきたから、どうだと言うのだろう? 

 ……いや、何かが引っ掛かる。

 だが、その僅かな「引っ掛かり」が何なのかを考えるよりも先に村長が言葉を続け、それに気を取られてしまった。

 

 

「流れてきた人々の中に、奇妙な事を言う者が居ましてな。

 曰く、その者は子連れの女であり、流れの用心棒をしている。

 曰く、女が連れているのは『悪魔』の子である。

 曰く、その『悪魔』の子が、村に屍兵を呼んだのだと──」

 

 

 ゾワリと背筋が粟立った。

 不味い、と反射的にマークを抱き抱えて逃げようとする。

 が、それは戸口や窓を乱暴に蹴破って中に雪崩れ込んできた村の男連中によって阻まれた。

 

 

「おかーさんっ!!」

「マークっ!」

 

 

 男達に乱暴に取り押さえられたマークが、悲鳴を上げて小さな手を精一杯に伸ばしてルキナに助けを求める。

 何とか男達の手からマークを取り返そうとルキナも足掻くが、如何せん多勢に無勢であり、自身も取り押さえられない様にするのが精一杯だった。

 ファルシオンを抜いて斬り捨ててしまえば良いのだろうが、人を相手に剣を向ける事はどうしても僅かに躊躇してしまう。

 そしてその躊躇いを嘲笑うかの様に、男達の無遠慮な手がマークが纏うマントを剥ぎ取り、乱暴に服を引き裂いた。

 途端に顕になるマークの小さな翼と角に、男達の間にどよめきが広がり、そしてそれは直ぐ様凶悪な敵意となる。

 我が子への狼藉に対する剰りの怒りに、ルキナは視界が真っ赤に染まった様にすら感じた。

 

 

「悪魔だ」「化け物だ」

 

 

 そう口々にマークを罵る男共のその口を、ファルシオンで斬り裂いてやりたい衝動にかられる。

 

 

 

「マークを、私の娘からっ! 

 その薄汚い手を離せっ!!」

 

 

 躊躇いをかなぐり捨ててファルシオンを抜き放ってそう吼えたルキナに、村長は悍ましいモノを見る様な目を向けてきた。

 

 

「この様な穢らわしい『化け物』を、この村に居着かせる訳にはいかないのですよ。

 子供の姿だからと言って、『化け物』である以上は油断なりませんからね。

 少々予定よりも早いですが、あなた方には消えて頂いた方が良さそうですね。

 あの王都から来た剣士様と繋がりがあったのは想定外でしたが、何やら訳ありの様子。

 現に、その様な『化け物』を連れ歩いていたのは事実なのですし、問い質された処で幾らでも誤魔化せるでしょう」

 

 

「この村を滅ぼそうとしていたに違いない」「化け物め」

「こんな化け物、処刑するしか無い」 「火炙りだ」

「女も殺せ」「何時もの様に潰して使っちまえ」

 

 

 熱気に浮かされた様にそう口にする男達の姿は、ルキナにとっては理解し難い程に醜悪なモノに見えた。

 いや、真実彼等の方こそ、『化け物』なのだろう。

 その心に、醜悪極まりない『化け物』を飼っているのだ。

 

 ルキナの中で、何かの枷が外れた音がした。

 ああ、一体自分は何を躊躇っていたのだろう。

 今自分の目の前に居るのが、『ヒト』だと言うのだろうか? 

 悍ましく醜悪な心を隠そうともしない汚物が、『ヒト』だと? 

 否、断じて否だ。

 

 視界が切り換わったかの様に、晴れ渡る。

 ルキナには、最早この目の前の存在を、『ヒト』としての『同朋』とはもう認識出来なかった。

 ただただ醜悪なだけの、害虫と同程度にしか思えない。

 だからこそ、今から自らが行う事に何の躊躇いも無かった。

 

 一呼吸で一気に距離を詰め、マークの頭を取り押さえている男の手首を断ち切る。

 そのままの勢いを保ったまま、今度はマークの右肩を押さえる手を肩から切り裂き、マークの左腕を押さえている男の首を刎ねる。

 そして近くに居た男を蹴り倒して、ルキナは漸くマークをその手の中に取り戻した。

 飛び散った鮮血に身体が赤く汚れてしまったマークは、ルキナの腕の中でふるふるとその身体を恐怖で震わせて、必死にルキナの服にしがみついている。

 

 

 ああ、こんなにもマークを怯えさせて──

 

 頭が冴え渡っていく様にすら、ルキナは感じた。

 怒りとも憎悪とも取れぬ感情は止め処無く沸き上がっているのだが、それと同時に目の前の害虫達をどう殺してやれば良いのかが手に取る様に思い浮かぶ。

 元々、歴戦の戦士であるルキナと、戦う力などロクに無い辺境の村人では、そもそも殺し合いにすらならない。

 マークを人質にしてルキナを嬲ろうとしていたのかもしれないが……こうしてマークを取り戻した以上それは不可能だ。

 そして、ルキナには最早この場の村人達を誰一人として生かしておくつもりは欠片も無い。

 村人達に待つのは、逃れる事の出来ぬ一方的な虐殺だ。

 何れ程理不尽な目に遭ってきても、決して力無き人々には剣を向けようとはしなかったルキナの心理的な枷が外れてしまった時点で、最早村人達の未来は決したのだ。

 

 

「ひっ、ヒィィィッ」

「痛いッ、イタイイタイイタイ」

「止めてくれ、助けてくれ!」

 

 

 害虫達が聞くに耐えない雑音を上げて逃げ惑う。

 それらを丁寧に一人一人斬り捨てながら、ルキナは腰を抜かして地面にへたりこんだ村長へとファルシオンを向けた。

 

 

「あっ、あっ」

 

 

 最早命乞いの言葉すら出てこないのだろう。

 村長は意味の無い言葉を漏らしながら、後ろ向きに這う様にしてルキナから逃げ出そうとする。

 その左足を、ファルシオンで地面に縫い止めた。

 

 

「ギャァァァァァァァッッ!!」

 

 

 激痛に絶叫しながら、村長はのたうち回る。

 耳が腐り落ちそうになる程に汚い絶叫だ。

 首を刎ねれば、静かになるだろうか。

 

 そう思ってファルシオンを振りかざす。

 が──

 

 

 

「何をしているんだ、止めろルキナッ!!」

 

 

 男達が虐殺されその絶叫が響き始めてから、漸く隣で起きている異常を認識したのだろう。

 武器を手にしたウードが隣家から飛び出てきて、村長を殺そうとしているルキナを止める。

 ……いや、ウード程の戦士がそんな腑抜けている筈も無い。

 ああ……ウードに一服盛るか何かしたのか、と。

 ルキナは熱を喪った眼差しを、その足元で這うしか出来ない害虫に向けた。

 そして返り血を全身に浴びて紅く染まった凄惨なルキナの姿に、絶句しているウードに、ルキナは首を傾げる。

 

 

「止める? 

 ウード、この男達は、マークを殺そうとしたのですよ? 

 無抵抗のマークを、何もしていないマークを。

 無理矢理に押さえ付けて、乱暴に扱って。

『化け物』だと『怪物』だと『悪魔』だと罵って。

 火炙りにしようと処刑してやろうと……。

 止めると言うのならば、……貴方であっても斬り捨てます。

 それでも、止めますか?」

 

 

 そう訊ねてみると、ウードは言葉を喪ったまま固まる。

 そんなウードに一つルキナは笑いかける。

 

 

「それに……。

 私の勘が外れていないのならば、この村は相当醜悪な方法で存続してきたみたいですよ。

 流れ着いてきたぺレジアの人々をどうしました? 

 以前にこの村に居た傭兵は? 

 身ぐるみを剥いで捨てましたか? 

 それとも殺してその肉を食べましたか? 

 この大地の実りの乏しい時代に村の畑は十分な収穫を得られている様ですが……死体の欠片でも肥しにしましたか? 

 人の骨も細かく砕けば良い肥料になりますしね」

 

 

 どうなのですか? と足元に這う害虫に微笑みながら訪ねる。

 害虫は何も答えなかったが……蒼褪めたその顔が答えだろう。

 

 ……別に、今の滅び行く世界では、食人も村ぐるみの追剥も、多くは無いが決して無い訳ではない。

 この一年程の放浪の中でも、死体を貪り食って命を繋いでいる者達の姿を見た事はあったし、その死体を肥料などに利用している所も見た事はあった。

 だから、別にその事に関して義憤に駆られたり、人倫に悖る行為を糾弾したいと言う訳でもない。

 そもそも、『この世界の未来』よりもたった一人の愛娘を選んでしまっているルキナには、その様な事に憤る資格すらない。

 だから、この村の人々を殺した理由は、マークを傷付けられたからに他ならない。

 そして、今のルキナにとってはただそれだけで十分なのだ。

 

 何も知らずにこの村の畑で獲れたものを口にしていたのか、言葉を喪い口元を覆って吐く様に嘔吐いたウードには、もうルキナを止める意志は無いのだろう。

 ルキナは喚き続けている害虫の首を一刀の下に刎ねた。

 地に落ちた首は、血の糸を引きながら転々と転がって行く。

 最後の害虫の身体が力を喪って地に倒れ伏したのを見届けて、漸くルキナは肩の力を抜いた。

 一先ず襲ってきた村の男達はこれで全員殺したが、まだ他にも居ないとも限らない。

 そうでなくとも、この血生臭い異変には直ぐ様他の村人も気が付くであろう。

 何人何十人と押し寄せてこようがルキナの手に掛かれば鏖殺出来るだろうが、その様なものをマークに見せる趣味は無い。

 早急にこの村を離れる必要があった。

 

 血糊を振り払って落としてからファルシオンを納刀し、ルキナはまだ自分にしがみついているマークの頭を優しく撫でた。

 血が付いた手で撫でてしまったが、取り押さえていた男達の血で既に全身が汚れていたから些末な事であろう。

 村を発つ前に取り敢えず血の汚れは落としておきたいものだ。

 

 

 

「あ……、その……」

 

 

 結局何も吐きはしなかったが、一頻り嘔吐いた為気持ちの整理の様なものは着いたのだろう。

 ルキナを呼び止めようとしたのだろうウードは、しどろもどろになりながら、マークを見詰めていた。

 正確には、無惨に引き裂かれた衣服の背中から飛び出た翼を吸い寄せられる様に見ている。

 

 

「何か?」

 

 

 努めて微笑みを浮かべて、ルキナはウードに訊ねる。

 ウードに何を言われようともどうでも良いが、もしウードがマークを害そうとするならば、例えかつての仲間であるウードであっても一切容赦するつもりは無かった。

 

 マークの姿に、そしてルキナの凶行に、何かしらの事情を悟ったウードは……何かを言おうとして、それを呑み込んだ。

 それでも、ルキナへと手を伸ばそうとする。

 

 

 だが、その手がルキナに触れるよりも先に、ルキナを背後から抱き寄せる手がルキナの身体を拐った。

 

 

 

「虫ケラ如きが、誰の赦しを得て我が妻に触れようとしている」

 

 

 

 静かな怒気を孕んだ声が、周囲を支配する。

 反射的にルキナから距離を取ったウードは、何時でも抜き放てる様に鯉口を切った。

 

 

「貴様は、邪竜ギムレー……! 何故ここにっ!」

 

「何故? 

 我が妻と娘を迎えに来たに決まっているだろう。

 ああ……取るに足らぬ貴様如きを態々始末しに来たとでも? 

 自惚れるなよ、虫ケラ。

 お前達にその様な価値は無い」

 

 

 不愉快そうにウードへと見下した眼差しを向けたギムレーは、そんなウードへの態度とは打って変わってルキナをそっと……いっそ優しさを感じさせる程に柔らかく抱き締める。

 その手付きに優しさに似た『何か』を感じるのは、きっとルキナの気の所為では無いのだろう。

 

 

「……君自身が『僕』を選んでくれる時を待っていたけれど、……もっと早くに君を迎えに行くべきだった。

 今はそう後悔をしている。すまない」

 

 

 そう言いながら、ギムレーは優しくルキナを抱き締めて、血に濡れた額を拭ってそこに口付けを落とした。

 

 ギムレーの出現に何時でも戦える様に警戒していたウードは、そのギムレーの行動に唖然とし、そして混乱した様に呟く。

 

 

「妻? 娘? 

 ……まさか……!?」

 

「ああ、何だ、まだ居たのか。

 折角見逃してやっているんだから、さっさと消えてくれ。

 それとも、ここで無意味に無様に死にたいのかい? 

 別にそれでも良いけど」

 

 

 嘲笑う様にギムレーがその口の端を歪めると、ウードは僅かに逡巡したが、この場は逃げる事にしたのだろう。

 悔しそうに顔を歪め、ルキナへと言葉を投げ掛ける。

 

 

「ルキナっ!!  絶対に、俺達が助け出す! 

 だからっ──」

 

 

 ウードのその先の言葉を聞き届けるよりも前に、ルキナの視界が一変した。

 気が付けば、ギムレーに抱き抱えられたままかつてルキナが囚われていたあの城へと転移していたのだ。

 かつては悍ましさしか感じなかったこの城だが、本当に悍ましいモノを知った今となっては、最早特には何も感じない。

 

 マークを抱き締めたままのルキナを、マークごと抱き締めて。

 ギムレーはルキナの耳元に優しさすら感じる声音で囁く。

 

 

「ルキナ。

 君とマークが僕のもとから去って一年。

 僕はずっと君達を見守っていた。

 君達二人が生きられる場所は、もう僕の傍にしか無いんだと……何時かそう気付くだろうと思っていたから……。

 だけど、君はこの僕の想像を遥かに越えて、この一年間、傷付きながらもずっとマークを守り育ててきた。

 そしてそんな君の姿を見る度に、どうして僕は君の傍に居ないのかと……そう思っていた」

 

 

 そして、とギムレーは言葉を切った。

 真っ直ぐにルキナを見詰めるその眼差しには、あの酷薄な邪竜のモノとは思えない……まるでヒトが持つ感情の様な『何か』が浮かんでいる。

 幾ら姿がそのままであろうとも、ルキナをその手に抱くギムレーは最早『ルフレ』ではない筈なのに。

 それでも、その目が、その眼差しが、ルキナが愛した彼の姿をそこに描き出した。

 

 

「君が、あのナーガの手の者に見付かってしまった時に。

 ……君達を喪ってしまうんじゃないかと、そう恐くなった。

 でも、『今度こそ』、僕は……大切な者を喪わずに済んだ……」

 

 

 良かった、と泣き笑いの様にギムレーは微笑む。

 その表情は、まるで『ルフレ』のそれの様で。

 ギムレーは、ルキナの頬へと手を伸ばした。

 そして、その頬に着いていた血で自身の手が汚れるのも構わずに、そっと壊れ物を扱うように優しく触れる。

 

 ギムレーの中に確かに『ルフレ』が居るのか、それともそれはルキナの願望が見せている錯覚なのか。

 それはもうルキナには分からない。

 だけれども……今ここでルキナを愛しそうに見詰めるこの存在に、憎悪の感情以外も抱いてしまっている事に、ルキナはもう気が付いてしまった。

 

 ルキナから大切なモノを奪っていったギムレーのその所業を、ルキナが赦す事は今後も決してないだろう。

 それでも──

 

 

 

「ルキナ、もう絶対に君を離したりしない。

 絶対に君を逃がさない。

 僕の大切な妻は、君だけだ。

 マークも君も、僕の大切な宝物なんだ。

 愛している、ずっと、今までも、これからも──」

 

 

 

 愛を囁き続ける邪竜の胸にその身を委ね、ルキナはそっと目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 その後彼らがどうなったのかは語る迄も無いが。

 邪竜がその妻と娘を、その永い生涯に渡って愛し続けたのは確かな事である様だ。

 

 今も尚、邪竜に囚われたかつての王女は、永劫に晴れぬ深い深い絶望の闇の中で、我が子を抱き締めているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『愛を知らぬ怪物なれど』
『愛を知らぬ怪物なれど』


◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 かつて囚われ続けていた邪竜の居城に、ルキナは一年と少しの時間の後に、再び戻って来ていた。

 ギムレーに再び囚われた……とも言えなくも無いが。

 だが、再びルキナの前に現れたギムレーのその手を、掴みこそはしなかったが拒まなかったのもルキナ自身である。

 

 ……ルキナにとって。この城はかつて囚われていたその時と何一つとして変わらぬ物ではあるけれど、この世で唯一我が子が息を殺す様にして隠れて生きる必要のない場所でもあった。

 ルキナにとってはただその事実だけが大切な事であり、心無いケダモノの如き人間達に娘が害される恐れが無いのであれば、それはまさに安息の地とも言える場所である。

 ……例え、今も尚消える事のない憎悪を向け続けている怨敵の領域であるのだとしても。

 その庇護下でしか我が子が生きられないのであれば。

 邪竜の翼の下に戻り、そこで生きていく事に否は無かった。

 

 邪竜に隷属する事を誓い身も心も魂までもを縛られている人々にとって、マークは彼等の神の御子であり、ルキナはその神妻と言う扱いになる訳で、この居城に居る限り、マークに危害が加えられる可能性は僅か程も無い。

 万が一にもマークに害意を懐いた瞬間、その者はその瞬間に絶命し、屍兵として永遠の隷属を強いられる事になる。

 ……一年以上の放浪の末に得た結論が、再び此処に戻って来ると言うのは、何とも皮肉なもので無意味なものだけれど。

 少なくとも。ルキナが外の世界に……『人間』達の世界に何一つとして『希望』を抱かなくなり、期待すらしなくなった事は、一つ大きな変化なのだろう。それの善し悪しは別にして。

 

『世界』を救う『使命』よりも、ルキナはマークの母親である事を既に選んでいる。

 万が一にも、かつての仲間達がこの城にまでやって来て、そしてルキナを邪竜の手から救おうとするのだとしても。

 彼等にとっての救わねばならぬ対象はルキナだけであって。

 そこにマークが入る事は無いのだろう。

 寧ろギムレー共々『討伐』の対象になっているかもしれない。

 そうであるならば……恐らく、その時には。

 ルキナは、ギムレーの側に立ち、躊躇う事無くファルシオンをかつての仲間達に向けるだろう。

 悔悟に胸を千々に切り裂かれながらでも、その心が絶望と苦しみに泣き叫ぶのだとしても。

 マークを守る事こそが、我が子の存在だけが。

 何もかもを奪い去られたルキナにたった一つ残された、暖かな絶望なのだから。

 例えそれが誰であっても、ルキナからマークを奪おうとするのであれば、ルキナは剣を向ける。

 有り得ない事ではあるが……もし父が目の前に現れたとしても、ルキナはマークを守る事を選ぶであろう。

 

 ……マークは。まだこの城での生活に慣れぬ様であった。

 だが、それも無理も無い話であろう。

 この城の中で生まれたとは言え、この城を脱け出し逃亡した時点ではまだ乳離れが済んだ直後だったマークが、かつて自分が城に居た間の事を覚えている筈も無い。

 マークにとって此処は、見知らぬ場所でしかないのだろう。

 それでも僅かながら記憶の片隅に残るモノはあるのか、何処となく懐かしさの様なモノは感じている様であるのだが……。

 何にせよ、これまで姿を隠し域を潜める様にしながらの旅から旅への根無し草の生活だったのが、これまでの生活からは考えられない様な立派な城を「今日からここがお前の住む場所だ」と言われた様なものなのだ。

 今までの生活とは全く違うそれに、戸惑いが先に立つのも仕方が無いし、更に言えば母親以外の存在が自分と同じ生活空間に居ると言うのも落ち着かないのだろう。

 だからなのか。

 ここでは誰に脅かされると言う事も無いのだけれども。

 マークは外の世界を放浪していた時以上に、四六時中と言っても良い程にルキナの傍に居た。

 城の使用人として使われている人々にも怯えているが。

 マークが何よりも距離を置いているのは、彼女にとって実の父親に当たる筈の邪竜に対してであった。

 母親と恐ろしい『人間達』しか存在しなかったマークの世界に、突然現れた自身の同族であり父親であると言うギムレーは、まさに未知の存在であり、警戒するべき対象なのだろう。

 ……それには、マークにそれとは悟られぬ様に隠してはいるとは言え、それでもルキナがギムレーに対し向けてしまう憎悪や殺意と言った負の感情を、それの感情の中身を詳しくは理解出来なくても、マークが無意識の内にでも敏感に感じ取ってしまっているからなのだろうか。

 

 ……邪竜、ギムレー。

 ルキナにとっては自分から全てを奪い去ったこの世の何よりも憎い仇であると同時に。

 マークにとっては間違いなく『父親』であるその存在を、どう扱えば良いのか……どう接すれば良いのか。

 ルキナには、未だその答えを出せないでいる。

 

 ルキナにとって、ギムレーが自身の愛していたモノ全てに対しての仇である事は、例え今彼の庇護下でルキナ達親子が生きているのだとしても絶対に変わらないし、この先どれ程の時間が過ぎ去ろうとも何が起きようとも、ルキナがギムレーのその所業を赦す事は未来永劫無いであろう。

 この憎悪と悲嘆は、永遠に消せはしない。

 ギムレーがルフレの姿で人を殺戮している事を、世界を滅ぼしていく事を、ルキナは何があっても赦さない。

 愛している者の全てを奪い、全てを貶めている邪竜のその存在全てを、叶うのならば永劫の時の彼方まで魂の欠片まで消し去ってしまいたいし、邪竜がルキナ達にして来た事をそっくりそのまま同じ目に遭わせた上で辿り着く彼岸すら無い無限の虚無の中に突き落としてしまいたい。

 ルキナは、人間が持つ悪性の中でも過剰な程の悪意と害意の全てを邪竜に向けているし、そんな醜さを自覚した上でも清廉潔白さを装う事など考えたくも無い程に邪竜を憎悪している。

 

 しかし、それ程の強過ぎる憎悪や憤怒を向けている一方で。

 それだけではない感情も、僅かだがギムレーに向けていた。

 それは、決して愛慕の様なモノなどではなく……深い深い哀しみとそこを源とする諦念とある種の虚無感……。

 そう言ったモノが綯い交ぜになったそれを、どう扱えば良いのかルキナ自身が持て余していた。

 自身の憎悪や憤怒と矛盾こそしないものの、甘い砂糖菓子の中に僅かに混じった苦みの様に、確かにそこにある感情。

 それは。どれ程憎かろうとも、ギムレーがマークの『父親』に他ならないからであろうか。

 それとも、邪竜の娘であるマークにとっては、この世で唯一の『同朋』とも言える相手であるからだろうか。

 

 …………例え何れ程憎くても、マークから『父親』を奪う事は、許されて良い事では無いのだろう。

 マーク自身がギムレーを『父親』として認識するかどうかはともかく、少なくともギムレーの側にはマークが我が子であり自身が『父親』である認識はあるらしい。

 母親であるルキナでは与えてやれぬものも、マークにとって必要なモノであるかもしれないのだ。

 それを得る機会を奪う事は。マークを心から愛し想うからこそ、ルキナに出来る筈も無かった。

 それに、『人間』でしかないルキナには、『竜』としてのマークの全てを理解してはやれない時が来てしまうかもしれない。

 無論、何が起きても、ルキナはマークの全てを受け入れて抱き締めるだろうけれども……それと何もかもを『理解出来る』のかと言う問題は、また別の話である。

 

『人間』と『邪竜』の間に産まれたマークが、今後どのように成長していくのかなんてルキナには分からないし、何がマークにとって危険な事で何はそうでないのかすらも分からない。

 ……かつて、仲間であったシャンブレーは、彼自身がタグエルの血を引く者の最後の生き残りである事を、誇りに思うと同時に……間違いなく恐れていた。

 自身が死ねばタグエルと言う存在の系譜が絶えてしまう事もその恐怖の一つではあったけれど、正真正銘最後の純粋なタグエルであった彼の母が亡くなった後は、タグエルとしての彼を導いてくれる者が居なかったと言うのもまた、傷付く事を厭い戦いから逃げる彼の臆病な性格に拍車を掛けていたのだろう。

『人間』である仲間達や周囲の者達では気付かない理解出来ない対処出来ない問題が起きた時に、タグエルとしてその対処法を教えてくれる者はもう居なかったのだから。

 ……それはきっと、とても恐ろしい事だと、そう思うのだ。

 ……だからこそ、マークにとっては、『竜』としての『同胞』はきっと必要なモノなのだ。

 ……例えそれが、世界を滅ぼす邪竜であるのだとしても。

 ギムレーとて、マークに『竜』としての助けが必要になった時、それを無碍にする事もあるまい。

 そして。ルキナがギムレーへの接し方について迷っている原因はそれだけではなかった。

 

 時折。……そう、本当に時折ではあるのだけれども。

 ギムレーの中に、確かにルフレの存在を感じるのだ。

 その仕草の中に、その表情の中に、その声の中に、その言葉の中に、その気配の中に……ルキナは『ルフレ』を感じる。

 

 ギムレーの演技……と言う訳では無いのだろう。

 ルキナがその存在をより強く感じるのは、何時もギムレーがそれと意識していない時の事が殆どであったから。

 ……ルフレを求める余り、存在しないモノの影をルキナが其処に見てしまっている可能性は否定しきれないのだけれど。

 それでも……邪竜の内に、そこに囚われた最愛の人の姿を見付けてしまうのだ。

 

 喰われても尚、そこに彼は居るのだろうか。

 滅び行く世界を、魂の牢獄の中で見詰めているのだろうか。

 

 もしそうならば、彼の魂に安息が訪れる事は無いのだろう。

 ルキナ以外は誰も、そこに囚われた彼の魂の事を知らない。

 ルキナ以外の誰も、彼の救いを願わない。

 それは……とても哀しい事だと、寂しい事だと、そう思う。

 

 ルキナは邪竜に全てを奪われ踏み躙られた。

 だけれども今は、マークが居てくれる。

 邪竜の娘であるけれど、それ以上に愛おしい我が子が。

 ルキナだけの優しく暖かな絶望が、そこに在る。

 

 だけれども、もしルフレが邪竜の内に囚われているのならば。

 ルフレには文字通り、「何一つとして」救いは無い。

 ……そんな事を、今も尚彼を愛し続けているルキナが許容できる筈も無かった。

 それもあって、ルキナは邪竜に……より正確にはその中に居るルフレに、寄り添う事を選んでしまったのだろう。

 

 どうせルキナはもう、命の尽き果てる場所に辿り着いたとしても、父たちの様な安息の彼岸には辿り着けまい。

 良くて、行く先は地獄である。

 ならば、邪竜に囚われた彼と共に何処までも地獄を堕ちていく事も、また一つの道だ。

 少なくともルキナにとって、今尚最愛の人である彼を、独り地獄の釜底に置き去りにする位ならば。共にその業火に焼かれる方が自分自身にとっても『救い』になるのだ。

 

 孤独である事以上に、恐ろしく苦しく寂しい事は無い。

 何もかもを奪われて邪竜に囚われたルキナはその恐ろしさをよく知っている。

 叶うのならば、ルフレをギムレーから解放してあげたいが、それはもうこの世界で叶う事では無いだろう。

 

 だからこそ、それがルキナの欺瞞でしか無いのだとしても。

 せめて、共に死が訪れるその日まで、彼の傍に居るのだ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 一年以上の放浪の果てに、再びこの手の中に戻って来た妻と娘の存在は、ギムレーにとって多くの戸惑いを齎していた。

 

 自分の血を引く……『邪竜』の娘たるマークと、そして今や邪竜の眷属となったルキナと。

 かつてはギムレーの下からマークを連れて逃げ出したルキナであったが、再びその身を捕らえたその時には、彼女はギムレーの手を自ら掴みこそしなかったものの、かつての様に必死に抵抗すると言う事も無く受け入れて再びこの城に戻った。

 

 ……それは、ルキナがマークと共に生きられる場所が此処にしかないからと言う理由が大きいのだろう。

 何故なら、ルキナはギムレーを恐れると同時に憎悪している。

 邪竜であるギムレーには、そう言った人の悪性など例え隠していたとしても手に取る様に分かるのだから。

 だがそれは当然の事であろうし、憎悪されたからと言ってルキナにギムレーが害せる筈も無く、ギムレーにとってその憎悪は寧ろ心地い程に『愛』の媚薬の様なモノであった。

 

 ギムレーには、『人間』達の言う『愛』と言うモノは理解出来ないが、何かに強く執着する感情は分かる。

 独占欲の様なその執着心の向かう先、誰にも奪わせたくない『特別』な何か。それがギムレーにとってのルキナ達であった。

 それを『愛』と呼ぶのかは、ギムレーは知らない。

 

 知らないし、理解し得ないもの、そしてギムレー自身には必要のないモノ。それが『愛』だ。

 

 しかし、『人間』の番は往々にして相手に『愛』を求め、そして相手にそれを与えるのだとも「知っている」。

 その認識が、理解が、何処から生まれたものなのか、「誰」が持っていたモノなのかはギムレーにも分からないが。

 とにかく、そう言うものであるらしいと言う事は知っている。

 だからこそ、ギムレーは自らの妻として選んだ彼女に、『人間』達の流儀に則って、自分では理解出来ない『愛』なるモノを与えようと思ったのだ。

 その為にも、ギムレーは捕らえた彼女に、自由以外の全てを満たし、彼女を毎夜の如く抱いた。

 そう言う「行為」を行う事が、『人間』達にとって『愛』の証明であり『愛』その物なのだろうと、そうギムレーは解釈していたからだった。しかし、それが本当に『愛』なのかはギムレー本人にも理解出来ない事だった。

 

 そもそも、この世に『同族』など存在しない、己の存在ただ一つで「生命」として完結してしまっているギムレーにとって、他の種族が自らの因子を継ぐ子孫を残す為に行う行為に価値を見出す筈も無く。だからこそ、自身にとって「無価値」な繁殖の為の行為に何かと意味を見出そうとし、その為に感じる一連の情動に『愛』だのと名付けて執着するのは、ギムレーにとって未知の価値観であり、本当に理解出来ない事であったのだ。

 それは、正直今も何一つとして変わらない。

 行為を行っている最中の彼女は、まさに絶望と憎悪だけにその心を燃やしていて。それでも生理的な「ただの反応」で零れ出てしまうものを、より憎んでいるようであった。

 ルキナを絶望させる、と言う意味でならそれは間違いなく良い手段だったのかもしれないが……少なくともギムレーの行為に彼女が『愛』なるものを感じている様には見えなかった。

 まあ事実、ギムレーが『愛』を理解出来ない以上、そこに『愛』などと言うモノは無かっただろうとは自分でも思うが……。

 

 ギムレーとしても、ルキナが絶望しつつもまだ心だけは屈しないとばかりにその意志だけは抗おうと、無意味ながらも見ていて飽きない足掻きを続けていたのを見れた事は愉しかったが。

 そもそもの行為自体には、あまり感じるモノは無かった。

 嫌では無いが、それだけで愉しくなれたのかと言うとまあ間違いなく違うだろうとは思う。

 

 しかし。ギムレーに囚われてからはずっと、行為の時以外は人形よりも生気の無い顔で何処かをぼんやり見ているか、或いは夢の中に逃げるかの様に眠るしかしてこなかったルキナが。

 行為の時だけは例え負の感情にであってもその表情や心を動かし反応してくれていた事に、ギムレーは価値を見出していた。

 

 絶望するのは良い、憎悪するのも良い、怒りから破滅的な願いを抱くのも構わない。

 だが、ルキナが虚無に心を喰われる事だけは承服しかねた。

 

 ギムレーは、ルキナを妻としたからには少なくとも、その形式的には番として大切にしようとは思ったし、況してや心を完全に消し去って人形にしたかった訳では無い。

 そして、この世の破滅と絶望を望むギムレーであるからこそ、破壊する事の容易さと……そしてその容易さに相反するかの様な、『治す』事の難しさもよく知っていた。

 一度跡形もなく壊してしまえば、もうそれは元には戻らない。

 完全に虚無の中へと消えてしまったのなら、ギムレーの力を以てしてもそれを完全に元の状態に戻す事は出来ない。

 最初から壊してしまうつもりで、弄んだ後はそのまま捨てるか壊したまま遊ぶのならそれで良いのだろうけども。

 少なくともギムレーは、ルキナにそんな事をするつもりは無かったし、もし彼女にとっては自身はギムレーの玩具でしかないように感じられたのだとしても、それは人間風に例えるならば『代替不可能なお気に入りの玩具』に対するものであり、寧ろ丁重な扱いをしていたとはギムレー自身は思っていた。

 

 ……ただ、ギムレーと『人間』の価値観の違いや視点の違いと言うものは、例え互いにそれを理解していても尚埋める事など出来ぬものであり、況してやルキナとギムレーの間のそれは深まるばかりのものなのだろう。

 ギムレーは、例え彼女を己の眷属にしようとも、自分がルキナのその心や価値観を真に理解出来る事などありはしないだろうと考えているし、それで構わないとも思っている。

 ルキナの場合は、ギムレーの心や価値観などそもそも最初から理解しようとすらしないだろう。

 故に、二人の間に、『愛』と解釈出来る行為があった所で、それを二人が『愛』だと感じる事は、互いに無い。

 

 それでも、ギムレー自らの妻にルキナを選んだのだ。

 それ故に、ギムレーは自身の価値観と行動で、自分なりにルキナの事を気遣っていた。

 その結果、例え憎しみと絶望を抱える方向性であってもルキナは心を喪わずに済んだ。そして、その行為の果てで。

 ギムレーの予想すら超えたのが、マークの存在であった。

 

「完全なる生命」として生まれたが故に、ギムレーは唯一個体だけで完結している筈であったのに。

 生まれてはただ死んでいく不完全な生命の様に、自らの因子を本当の意味で最初から生まれ持った「子供」が生まれるとは、ギムレー自身にも想定外の事だったのだ。

『ルフレ』の様に、自分自身と言う訳ではない。

 自分とは異なる個体であり当然ながら異なる魂を持つ……しかし紛れもなく『同族』である存在。

 それはギムレーにとっては間違いなく、未知なる者であった。

 この世に存在して幾千年経った果てで初めて得る『同族』に、ギムレーですら平静ではいられなかったのだ。

 

 ……それが胎に宿ったと知った直後のルキナは、それはもう酷い有様ではあったのだが。

 しかし、それを産み落とした後の彼女の変貌の仕方と言ったら、もしかして別人がすり替わったのではないかと一瞬ギムレーの脳裏にすら過る程であった。

 それまでの不安定さなど見る影もなく。

 ギムレーの前では決して見せる事の無い様な表情を、ルキナはマークにだけ向けていた。

 ……いや、……正確には。

『二周目』の記憶を探っていると、ルキナは『二周目』に対してはその様な表情をよく浮かべていた。

 恐らく、ギムレーでは何をしても見る事が出来ない様な、穏やかな顔を……安心しきった顔を……何かを慈しむ様なその微笑みを……かつてのルキナはよく浮かべていた様だ。

 ……娘であるマークに感じている感情と、『二周目』に向けていたそれは同じものではないだろうけれども……。

 しかしそこに彼女が感じていた『安らぎ』は、似ているモノなのだろう。それを考えると、僅かにではあるが心に靄が掛かったかの様に、名状し難い何かを感じる。

 

 ……まあ何にせよ。マークの存在はルキナにとっては「良い」方向に働いた様だ。

 生まれ落ちた直後のマークの姿が、かなり人間に寄っていたのもその心の安定に一役買っていたのかもしれない。

 もし、かつてのギムレーの様な姿でマークがこの世に生まれ落ちていたのだとしたら、ルキナはどう反応していたのだろう。

 マークが胎の中に居た頃の様に、マークを殺そうとしたのだろうか、或いは拒絶したのだろうか、……かつてギムレーを造り出したあの狂った醜悪な錬金術師の様に、失望と恐怖の眼差しを向けていたのだろうか……。

 今となってはそれは確かめようが無いし、そんな詰まらない仮定と推測にも意味は無い。

 ルキナはマークを愛したと言う現実だけが、全てである。

 

 今にも吹き消えてしまいそうな程の小さな小さな命。

 だが、確かにギムレーと同じ力と血を継ぐ『同族』。

 その「素材」を考えてみれば、ギムレーとマークにそう大きな違いは無いのだろうけれども。

 少なくとも、この世に生まれた後に辿った道は異なり。

 そして自分とは異なる心の在り方と価値観を獲得している。

 少なくともギムレーがマーク位の年頃の時には、既に創造主を殺していたし破壊と殺戮を求める衝動のままにそれを成していたのだが……マークにはその様な衝動の片鱗も無い様だ。

 外の世界で散々『人間』の悪意に晒されていても、マークは『人間』に対し恐怖心や怯えは懐いてはいても、『人間』を殺戮しようなどとは欠片も考えた事すらなかった。

 その違いは、その容姿によるものなのだろうか。

 或いは、眷属ではあるが『人間』としての要素が強かったルキナの血も濃く混ざったからなのか。

 もしかすると、生まれ落ちたその直後から、ルキナと言う『母』が居たからこそなのかもしれない。

 何にせよ、同じ血を持つ『同族』でありながらも、既に随分とギムレーとマークには違いがある様だ。

 その内には完全に『竜』の姿を取れる様になるとは思うが、そうなった時もやはり違いは生まれるのだろうか。

 そう考えると、マークへの疑問は尽きない。

 そして、そう言った事について考えを巡らせると言う事はギムレーにとっては決して不愉快なモノでは無かった。

 不思議な事に、寧ろ楽しみさえそこに見出していた。

 これが、『親』と言うモノなのだろうか? 

 ギムレーにとってはこの世で最も縁の無いモノだとすら思っていたが、存外悪くは無いモノだ。

 

 そう考えると、益々ルキナを妻とした自分の判断は間違ってはいなかったと思うのだ。

 二つの時間のギムレーが融け合って手に入れた強大に過ぎる力の前には、最早神竜ですら相手にならず。

 全ての滅びは予定調和と化したが故に、その先に待っているのは『退屈』に心を蝕まれた生だろうかと思ってはいたが、ルキナを妻にした事で何かと興味と愉しみは尽きない。

 そう、興味は尽きないのだけれども。

 

 ふと、最近のルキナの視線を思い起こし、ギムレーは僅かにその眉を顰めた。

 ルキナは近頃、ギムレーへとかつて程の強い拒絶を向けなくなった……がそれと同時にどうにも不思議な目をギムレーへと向けてくる事があるのだ。

 ギムレーを通して、別の誰かを見ているかの様な……。

 ……まあ恐らくは、『二周目』の存在をギムレーの内に見ているのだろう。そもそも同じ存在ではあるのだが。

 

 同じ存在である『二周目』の事を想っていると言うのは、即ちギムレーを見ている事と何も変わらないが。

 しかし、大海に堕とした一滴のインクの様に、何故だかは分からないが、ギムレーの心は僅かに曇るのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 突然村人達に襲われて、恐ろしくて震える内に何時の間にか眠ってしまっていたマークが目覚めた時には。

 気が付けば今まで見た事も無い様な、物凄く立派な『お城』にマーク達は居て。今日からここがマーク達の家だと言われ。

 更には、覚えも無い『おとうさん』が現れたマークは、酷く混乱したし、恐ろしくてずっとルキナにしがみついていた。

 そして、周囲を警戒するあまり、マークは唯一信頼出来る最愛の『おかあさん』であるルキナの傍から片時も離れなかった。

 それには、城に来る直前の恐ろしい出来事も大いに関係しているし、そしてそれ以上に。この城に来た時から『おかあさん』の表情が暗く何かを強く思い詰めたモノになっていて。

 そしてそれはこの城の主であると言う『おとうさん』の前で特に顕著になっていたからである。

 

 マークは年の頃を考えると他の子供達よりも遥かに聡明で、そして子供特有の洞察力もあった。

 だからこそ、『おかあさん』にとってこの『おとうさん』は歓迎出来ない存在なのだろうと無意識ながらに見抜いていた。

 しかし、四六時中ルキナの傍を離れない、と言う訳にもいかなくて。時折マークはルキナの傍を離れて城を見て回っていた。

 万が一この城から逃げ出さなくてはならなくなった時に、その逃げ出す為のルートを把握しておく為である。

『人間』から隠れての放浪生活の中で身に付いた習慣だった。

 

 そして今日も、うたた寝している『おかあさん』の傍を離れたマークは、独り冒険に出かけた。

 この城の中では、マークの姿を隠す必要は無いらしく、角も翼も出したままである。

 時折遠目に姿が見える人々も、マークの姿を見ても何も言わない。彼等は『おとうさん』の「しようにん」であるらしい。

 その意味は幼いマークには良くは分からなかったが、どうやらマーク達に悪意は無い事だけは確かなのだろう。

 だけれども、大好きな『おかあさん』を悩ませる『おとうさん』の関係者である以上マークが彼等に気を許す事は無かった。

 

 マークは、とことこと歩いて城のあちこちを探検し、そして初めて見かける大きな扉の付いた部屋に辿り着き、慎重にそこをそっと扉を押し開いてみようとすると、重い扉はゆっくりと開いていく。どうやら鍵は掛かっていなかったらしい。

 一体何の部屋なのだろうと、中を覗くと。

 そこにはマークには数えきれない程の本が所狭しと沢山の棚に並べられている場所だった。

 本なんて高価なモノ、マークは今まで数回しか見た事が無かったしそれもかなり粗末なモノで。此処に在る様な「立派な」本は、まさに生まれて初めて見るモノであった。

 それがこんなにも大量に存在するなんて、マークにとってはまさに理解を越えた場所である。

 

 城に元々在った図書室に、部屋の用途は知らぬままに本に誘われる様に入り込んだマークはきょろきょろと辺りを見回す。

 どうにも、マークにはまだ読めぬ字で何やら難しそうな事が沢山書いてある本ばかりである。

 試しに近くにあった本を手に取って見ても、何が書いてあるのか全く分からずちんぷんかんぷんになった。

 何か自分が見ても面白そうなものはないかとよく見回していると、マークの背ではどう頑張っても届かない位置に、可愛らしい絵が表紙に付いた本があるのを見付けた。

 あれならもしかして読めるのではないかと思って一生懸命背伸びしながら手を伸ばしてみるが、全く届かなくて。

 もしかしたらちょっと浮けないだろうかと思って翼をパタパタと羽ばたかせるも、マークの足は床から少しも離れなかった。

 

 

「うぅ……もうちょっと……」

 

 

「……何だ、これが読みたいのか?」

 

 

 諦め悪くマークが本を手に取ろうと、手を伸ばしていると。

 マークの後ろから伸びてきた手が、あっさり本を手に取った。

 驚いて後ろに振り返ると。そこに居たのは。

 あの、マークの『おとうさん』であった。

 気配も無く背後に居た事に驚いたマークが固まっていると。

 

 

「さっきのは……飛ぼうとしていたのか? その翼で」

 

 

 と、『おとうさん』は不思議そうな顔をする。

 かつての苦い経験から、この城が姿を隠さなくても良い場所であった事も忘れて、反射的に翼を手で隠そうとしたマークに。

『おとうさん』は小さく溜息を吐いて。

 その次の瞬間にはその背中にはマークと同じ様な……だけれどもそれ以上にもっと大きくて立派な翼が広がっていて。

 そしてその頭にはマークと同じく角が現れていた。

 尤も、こちらもマークのそれとは比べ物にならない程大きく立派なモノであるのだけれども。

 

 

「一々隠さなくていい。僕は君と同じだ。

 僕は君の父親なんだからね」

 

 

 嘘だと思うのなら、とそう言った『おとうさん』はその翼をふわりと動かして浮いた。

 飛ぶと言う感じよりは浮いているの方が近いけれども、確かにその身体は床から大分離れている。

 驚いたマークは、思わず目の前に居るのが大好きな『おかあさん』を苦しめているのだろう『おとうさん』である事も忘れて、思わず身を乗り出した。

 

 

「すごい! とんでる! マークも! マークもとべる?」

 

 

 翼をパタパタと羽ばたかせながらマークがそう言うと。

 

 

「飛べるだろうね。少し練習は必要だろうけど」

 

「ほんと!? マークもとびたい!」

 

 

 空をこの翼で飛べるかもしれない、と言うその衝撃は、用心深いマークの心から『おとうさん』への警戒心を吹き飛ばしてしまう程のものであった。

 もし自由に空を飛べたら、『おかあさん』が恐い『人間』達に酷い事をされそうになった時は一緒に空に逃げられるのに、と何度も考えてきたし、そんな事も出来ないのに厄介事のタネにはなる翼を、マーク自身時折疎ましく思っていたのだ。

 だが、この翼に空を飛ぶ力があるのなら話は別である。

 

 

「とびかた、マークにおしえて!」

 

「教える? この僕が……? 

 ……まあ良いだろう、確かにそれを教えてあげられるのは僕だけだろうからね……。

 なら、ここは手狭だし少し場所を移そうか……。

 あと、この本はどうするんだい?」

 

「あとでおかーさんによんでもらうから、ちょうだい!」

 

 

 マークが差し出した手に、『おとうさん』は少しだけその表情を柔らかくして、手にしていた本を渡す。

 そして、『おとうさん』は、優しくマークの手を引いて図書室を後にしたのであった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルキナは物思いに沈む内に、ふとうたた寝をしてしまっていた様で、気が付けばマークの姿が近くになかった。

 この城の中に、マークを傷付けようとする者は居ない事は知っているけれども。

 それでも、『もしも』と言う不安は尽きない。

 ……外の世界での経験は、ルキナから安易な信頼と言うものを根刮ぎ奪い取り、そして根深い不安を植え付けていた。

 だから、ルキナはマークの姿を探して城の中を彷徨う。

 

 すると程無くして、城の中庭にマークの姿と、そしてその傍に居るギムレーの姿を見付けた。

 思わず、一瞬最悪の想像に胸が押し潰されかけたけれども、よくよく見てみればギムレーがマークを傷付けようとしている訳ではなさそうで。

 二人の声は聞こえぬ程の遠目から見ても、決して緊迫した雰囲気の様なものは無さそうであった。

 

 故に、少しだけ何をしているのか観察していると。

 どうやらマークはパタパタとその翼を必死に動かしている。

 だが、ギムレーはそれに首を横に振って、何事かを言った。

 そして、お手本を見せるかの様に。

 その翼をゆるりと動かしてふわりと浮いた。

 すると、それを見たマークは益々必死になって翼を動かしているが、その身体は微動だにしなくて。

 終には疲れたのか、マークはその場にへたりこんだ。

 そんなマークの頭を、ギムレーは優しく撫でていた。

 ルキナの位置では何と言っているのかは分からないが。

 

 マークを見る、ギムレーのその表情は。

 世界を滅ぼす邪竜のモノとは思えない程に穏やかなもので。

 優しく、柔らかなものであった。

 ……そこにルフレの欠片を見たルキナは、息を詰まらせる様にして静かに涙を零した。

 

 ギムレーに元より『愛』なんて無く、そしてまたルキナも『愛』を向ける事は無い。

 ギムレーとルキナは、互いに『愛』なんて最初から存在しない関係性ではあるけれども。それでも。

 ギムレーがマークに向けるその眼差しを、そこに宿る想いを、親から子への『愛』と呼ばずに何と呼べばいいのだろう。

 ルキナもまた、ギムレーが見せたそれ以上の『愛』を持った眼差しでマークを見詰めている自覚はあるのだ。

 そしてルキナのそこには我が子への『愛』が確実にある。

 ならばギムレーもまた、と思う。

 

 ……だが、そんな感情をギムレーが持っていたからと言って、最早どうにもならない。

 万が一ギムレーが『愛を知る怪物』であるのだとしても。

『マーク』と過ごす中で、ギムレーが少しずつでも『愛』を獲得していていようとも。

 ギムレーが世界を滅ぼす事には、何一つ変わらないのだ。

 邪竜が『愛』を知ろうが、この世界には何の意味も無い。

 そして、邪竜からルキナが受けた仕打ちも変わらない。

 今更『愛』なんて囁かれたとしても、もうルキナの心には『ルフレ』ではない邪竜の言葉など響きもしない。

『愛』が有ろうと無かろうと、変えられないものなのだ。

 

 ……ただそれでも、マークにとっては、母親であるルキナからの『愛』ではなく、『父親』であるギムレーからも『愛』を与えられ、それを感じられる事には、きっと意味はある筈だ。

 この絶望すら果て行く世界でも、ただマークが『幸い』で在るのならばもうそれ以上は何も望まない。

 ルキナの、暖かな絶望の闇が、『愛』を知らぬ怪物に成り果てない事だけを、今のルキナは願っていた。

 

 ……故に。この歪な『家族』の在り方が、マークにとって少しでも『幸い』なものであれば良いと。

 ルキナはそう思って、その場を静かに離れたのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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