「レカ」は、ちょうど今でいうところのフルシチョフカの一部屋と同じくらいの大きさで、入れて5、6人の、さびれて小さな酒場だった。アバーエフは、月に一度ここによることが何よりの楽しみだった。
その日、ひどく疲れたアバーエフがいつもの通り「レカ」に入ると、みなれぬ風体の、汚らしい格好の男がアバーエフの特等席に座っていた。アバーエフは、少し怪訝に思ったが、はやく飲みたかったので、何も言わずに席をひとつあけたところへ座った。
「なんにするんだい?」
いつものように、レスキンが注文を取りに来た。
「あぁ…いつものやつ。それとソーセージが食いたい。」
「あいよ。しかしおめぇも好きだなぁ、アレ。」
アレ―――スミルノフのことだ。アバーエフは、スミルノフなんてものは一生飲めないと思っていた。だが、「レカ」は秘密裏に手に入れ、毎月、一日限定で出す。アバーエフは、スミルノフの味を知ってから、どんなウォッカだって何か味気ない。大酒のみだったのに、それからは、この日、「レカ」でしか酒を飲まなくなった。(おかげで妻との仲も比較的良好である。)
アバーエフは鼻歌を自分に聞こえるだけのボリュームで歌いつつ、先に出されたソーセージをチビチビと喰いスミルノフを待った。
「あっ…いかん。」
レスキンが店の奥でつぶやいた。
やがでアバーエフのもとに、伏し目で来た。
「あー…言いにくいんだが、実はそこの客に出したやつで最後なんだ。」
アバーエフは硬直した。この店にスミルノフが置いてあることを知っているのは店長のレスキン、そしてほんの一握りの常連、アバーエフと、彼の友人であるミロフだけだ。
そんなばかな―――
「レスキン、あの男は常連なのか?俺は少なくとも、見たことがないが。」
「いや、違う。」
アバーエフの中に、男への理不尽な怒りと、ミロフへの疑惑が浮かんでいた。まさかミロフ、話したのか。むやみに話したらいかんと分かっているはず―――
アバーエフはソーセージを投げ出し、思わず「おいっ」と叫んだ。男はおもむろにこちらに顔を向ける。
「お前、ここいらではみねぇ顔だな。一体なにもんだ。俺のスミルノフを飲みやがって。ん?」
あまりにも理不尽とは分かっているが、この時のアバーエフにはその制御ができなかった。頬骨の見える顔に思いっきりしわをよせ、威圧感を出す。だが、男は動じない。こちらを黙ってじっと見つめていた。
アバーエフはとうとう頭に来て、つかみかかろうとした。その時、「ン、アバーエフじゃねぇか」と、気の抜けた声がしたのでそのほうを見ると、ミロフが立っていた。
「ミロフ、お前…」
何のことはない。ミロフもスミルノフを飲みに来たのである。アバーエフは一度力を入れた手をおろし、ミロフに詰め寄った。
「お前、あの男に『例のこと』喋ったのか。どうなんだ。」
「えぇ?……あぁ……あの男になら――」
すんなりと認めたミロフに、アバーエフは怒る気力すら奪われた。
「ミロフ……お前なァ…常連でもない、あんな貧乏くさい男になんでンなこと言っちまったんだ。最悪とっつかまるんだぞ、俺たち。」
「そりゃあ、あのあんちゃんの話聞きゃあわかるさ。」
ミロフは、男に駆け寄り、「さ、ヤツに話してくんなせぇ」と頼んだ。アバーエフは、イライラとしながらもその話を聞くことにした。
「年は21で、名前はアダム、今は姓をメレニャーミンと変えていますが、本当はロマノフといいます。」
「なんだって?」ロマノフ―――ロマノフと言えば、例のロマノフ家だろう。アバーエフは耳を疑った。
「父は―――ニコラエは私をこっそりと逃がしたのです。わずかに2歳だった私は、かごの中に入れられて、遠縁の家に“実子”として送られました。父が私のことをどうやってあの塀の中から出したのかわかりません。またどうして私だけを逃がしたのかも、わかりません。しかし、その理由が何であろうと、たとえ、あのボリシェヴィキを倒すことを目的としていたとしても、私はひっそりと生活することに決めました。父には感謝しています。しかし、父のようになりたくはないのです。それに、私が死ねば、ロマノフの血は、父の血は、永遠に失われてしまう。それが、嫌だったのです。」
「待ってくれ、いや待ってください、アダムさん。それじゃあなたはロマノフの生き残りだというんですか。」話をしばし聞いていたアバーエフは、眉を顰めながら聞きかえした。
「えぇ、そうなりますね。」
「なんてこった…」
アバーエフは顔を片手で覆った。
「それで、私は普通の労働者として生きていくことに決めたのですが、そのうち、私がロマノフ家の人間であることを忘れてしまうのでは、と恐ろしくなってきました。で、なんとなく寄った「レカ」に、スミルノフがあることを知ったのです。その時は、ミロフさんが飲んでいて、それは何かと尋ねたんです。酔っていたミロフさんはあっさり話してくれました。私には衝撃でした。ロマノフの愛したスミルノフ―――今では飲めなくなってしまったスミルノフがこんなところにあるなんて、と。私は、スミルノフを飲むことで、私が王族であったという確かなことを、脳裡に焼き付けることにしたのです。」
レスキンも、ミロフも、アバーエフも、みんな黙って聞いていた。アバーエフは両手で頭を抱えて、机に突っ伏し、こう言った。
「レスキン、次のスミルノフはいつ入るんだ?」
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