璃月の魔神討伐から数ヶ月。璃月は前の光景を取り戻しつつあった。
冒険者協会へ向かうも依頼がなかったため露店を見て回っていた空。
そこで声をかけてきたのが目の前の少女、煙緋である。
「いいかい?空くん。」
「…何が?」
「よく聞くんだ。ここからは商談といこうじゃないか。」
「なんの?」
「勿論私たちの関係のことさ!」
煙緋との関係?と思い当たる節がないのか首を傾げる空。
「人間関係に商談ってあるの?」
「勿論だとも。しかしここではなんだ。少し私の部屋に来て貰えないかい?」
「…まあ、いいけど。」
特に用事がある訳でもないので、煙緋の後に続く空。前を歩いている煙緋はどこか楽しそうで、喜びに満ち溢れているような気さえしてくる。
しばらく歩いていると、煙緋が住んでいると思われる家に着いた。靴を脱いで家に上がると、煙緋が振り向き、空に向かって声を掛けた。
「お茶を淹れて来るから、この突き当たりの私の部屋で待っていてくれよ。」
そう言ってキッチンの方に向かう煙緋。それを見ながら煙緋の部屋に向かう空。
空は部屋に入ると棚に法律関係の書物がぎっしりと収納されているのが目に付いた。
他にも机の上にはペン等の筆記具と積まれた紙の束。1番上には契約書と書かれている物を見つける。
「…女性の部屋をジロジロと見回すのは法律違反ではないが、マナー違反だよ、空くん。」
お茶を持ってきた煙緋に声をかけられ、空は少しビクリと肩を震わせる。
「…ごめん。」
「まあ、自分でも色気のない部屋だなぁ、とは思うけどね。」
「…煙緋らしい部屋だな、とは思ったよ。」
「ふふっ…褒め言葉として受け取っておこう。」
きっちりと整理整頓されてる部屋を見ると実に煙緋らしいと言えるだろう。
「それで…と、そこに座ってくれ。では商談を始めよう。」
向かい合うようにして座る空と煙緋。煙緋はちらりと空を見ると視線が合い、照れくさそうに顔を俯かせてから手にしたお茶を空の前に起き、書類に目を落とした。
「空くん、その…け、けっ…」
書類に目を落としながらだとしてもなかなか言い出せない煙緋。綺麗な翡翠色の目はグルグル目と呼ばれる状態になる。それを見兼ねた空は書類を差し出すように言う。
「あ、あぁ…本当は自分で言いたかったんだが…その…」
そう言って書類を手渡す煙緋。少し手が当たり、顔を真っ赤にする。
初々しい反応を見せる煙緋に、空まで意識してしまったのか顔を赤らめる。
コホン、とわざとらしく咳払いをして書類を読み始める空。
空は書類を読んでいる自分の様子を眺めては視線を落とし、と正にチラチラという言葉が適している様子の煙緋には気付かないフリをしつつ、読んでいる内容に愕然とする。
同棲する家の決め方とか、喧嘩した時の仲直りの仕方とか。空はこれってもしや恋人になって欲しいと言う契約書…?と思ったまま読み進める。
しかし最後のページに添付されてたのは婚姻届。
窓から入った陽光に照らされ、もはや輝いてるようにすら見えた。
「ええっと…煙緋、これは…その、プロポーズ…でいいんだよね?」
「あ、ああ!勿論だとも!私は空くん、と…け、結婚したい!」
「えっと…その気持ちは嬉しいんだけど…」
「私、では駄目なのか…?」
先程の照れくさそうな様子とは一転、物凄く寂しそうに、今にも涙が零れそうなほどに潤んだ瞳。
「いや、嬉しいんだ。だけど、付き合う前に結婚って言うのは…その、合わなかった時に…」
「そ、そうか!なら、私と結婚を前提につ、付き合って欲しい!そ、それならいいだろう?」
「…勿論。お願いするよ。」
そう答えると、嬉しそうに目を輝かせる煙緋。バッと席を立つと空の上に座り、帽子を取った頭を胸板に擦り付ける。
甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐり、パイモンとは違った匂いにドギマギしてしまう空。
煙緋は「華奢でも男の子なんだなあ」とか「私は今好きな人に抱き着いてるんだ」とか「空もドキドキしてくれてるんだ」とか、色んな感情が混ざり合い、しかし最も強い感情は羞恥であり、もはや頭の上から煙が見えそうなほどである。
「とりあえず、今日から私たちは…恋、人なんだな…」
「そうだね。パイモンにも伝えとくよ。」
「そ、それは少し恥ずかしいな…」
煙緋は今まで色恋沙汰に触れたのは他人の、しかもほとんど離婚関係の民事裁判のみで、恋人が出来た、と報告するのは照れくさいのだ。
しかし空は真逆で、恋人が出来たということを自慢したいという典型的な男の子の反応だった。
魔神討伐後からはパイモンも何故か称えられるようになり、あらゆる屋台(ご飯限定)のお得意さんになったらしく最近は無料でご飯を貰ってるらしい。
パイモンはマスコット的な立ち位置であり、集客効果があるのでWin-Winであると店主達は言っていたが、パイモンはそれでいいのだろうか…
つまるところ、空はパイモンのご飯の心配はいらないということであり、それは煙緋の所に長く居れるというわけだ。
もう既に太陽は水平線の向こうに沈みかけており、璃月中を美味しそうな匂いで包み始めた頃である。
「…ご飯、作ろうか。」
空は煙緋との話をちょうどいい所で切り、そう提案した。
「…そうだね。しかし、空くんと一緒に過ごすと、いつもより仕事が捗ったし、凄く時間が短く感じたよ。」
「…短く感じたのは俺もかな。」
「…ふふっ。嬉しいことを言ってくれるね。それじゃあ、キッチンに行こうじゃないか。」
「うん。」
微笑みながらペンを置き、空の上から立ち上がる煙緋。
「さて、何を作ろうか…?」
廊下に出たあと、空に話題を振る煙緋。
「…俺は豆腐が食べたいな。」
少し考えた、というより思い出して言葉を発する空。
「君のそういう所、とても好きだよ。」
そう照れくさそうにはにかむ煙緋。その言葉を聞いた空も勿論顔を赤くして照れる。
キッチンに着いてからは、空がどこからともなく海老、上質な獣肉、これまた上質な魚肉、米、白滝、鍋に入れるような野菜等を出す。
「おお…君も私が法律に関する書物を出すようなことが出来るのか…便利なものだね。」
「まあね。それで、豆腐はあるの?」
「勿論さ。私が豆腐を切らすなんてあってはならない事だからね。」
「それじゃあ、初の愛の共同作業といこうか。」
愛の共同作業、という言葉に少し照れる空。
その後は空の料理の腕前に驚きつつも、煙緋も手際よくオリジナル料理である『法律ここにあり』を作る。
暫くして完成した『お食べくだ菜』と『法律ここにあり』を完璧に作り上げた二人はダイニングのテーブルに運んだ。
「ではいただこうか。空くん。」
「「いただきます。」」
「…さて、空くん。」
「…ん?」
空は煙緋に手伝ってもらった『お食べくだ菜』を頬張りながら返事をする。
「これを食べてみてくれないか?」
そう言って箸でつまんだ『法律ここにあり』一切れを空の目の前に差し出す煙緋。
「…えーっと。」
「あーん、と言うやつだ。小説で見てから私もやりたくなってね。」
そう言って悪戯っぽく笑う煙緋。空は煙緋の見せた表情や小説に影響される可愛さ、そして食べさせられる羞恥に頬を染めながらも言われた通りに口を開ける。
「…自分で作った物より美味しいよ、煙緋。ありがとう。」
そう言って微笑んだ空に見惚れる煙緋。褒められた嬉しさと相まって、とても幸せそうに笑った。
その後の二人は雑談しながら食事をした。
食事を終え、太陽の出番は終わり、月明かりと暖色系の電灯が街を照らす時間。
「そろそろ帰るよ。今日はありがとうね。」
そう言って玄関の方へ向かおうとする空だが、それを止める者がいた。
「その、今日は泊まってくれないだろうか…?」
空の腕をぎゅっと握り、少し上目遣い気味に問う煙緋。
「えっ…と、うん。分かった。」
パイモンも塵歌壺に帰るよう言ってあるため魔物に襲われる心配はないだろうと考え、残ることにした空。
「と、とりあえず私は風呂に入ってくるよ。」
寂しさから手を掴んだのが照れくさいのか、そそくさと風呂に向かう煙緋。
手持ち無沙汰になった空は少しぼーっと煙緋とのこれからについて考えていた。
「そうだ、空くんも入るかい?」
バスタオルを巻いた状態で出てきた煙緋。
「ちょ、ちょっと!」
「冗談さ。」
そう言ってまだ風呂場に体を引っ込める煙緋。
「まあ、冗談にしては顔真っ赤だったな…」
空は煩悩を退散し続けた。
「ふう…済まないね。時間がかかってしまったよ。」
勿論空がいることを意識して体の隅々まで洗い、湯船に浸かると妄想が止まらずに浮かんできたからである。
「俺も入っていいの?」
「勿論だとも。あ、それと私の残り湯は飲まないでくれよ。」
「飲まないよ!」
「あとバスタオルは脱衣所の上の棚にあるからね。」
返事を返さずに脱衣所に向かう空に少しからかい過ぎたか、と反省する煙緋。
「戻るまで酒でも飲もうか…」
「はぁ。」
今日できた彼女のことを考えながら、体を洗う。
浴槽に張られたお湯を見る度に悶々としてしまうが、それを抑えつけて無心になるように努める。
少し擦りすぎた足が痛い。
「あ、そるぁくぅ〜ん。」
髪を下ろした状態で風呂から上がり、リビングに戻った空を迎えたのは完全に出来上がった煙緋である。
「えっ…飲みすぎでは…?」
「うぅ〜…そらくぅん…そらくぅん…」
うわ言のように空を呼び続ける煙緋。
「私をベッドに運んでおくれ〜。」
そう言って「んっ」両腕を空に向かって差し出す煙緋。
可愛さやら照れくささやらにやられた空は、しぶしぶ煙緋を抱き抱えて運ぶ。
「おお〜力持ちだね〜。それにいい匂い…」
すんすんと鼻を鳴らし、匂いを嗅ぐ煙緋。
酔っ払った煙緋はどこか色っぽく、顔を赤くして密着してる状態が更にそれを強く感じさせる。
無事ベッドまで抱き合うようにして運んだ空は、優しく煙緋を下ろした。
その途端、ぐっと腕を引き寄せられ、空は煙緋のベッドに転がった。
「ふふっ…空くん、愛してるよ…」
そう言って煙緋は足を空の腰に絡ませ、顔に手を添えて目を合わせる。
空は何が起こったか理解出来ずに硬直している。
チュッと煙緋は空の唇に啄むようなキスを落とす。それを何度も繰り返した後、顔を少し傾けて舌を少しばかり伸ばして歯列をなぞる。
呆然とする空は口を開けてしまい、それを了承と取ったのか更に舌を捩じこませる煙緋。
瞼を閉じ、強弱をつけながら舌を絡ませたり、硬口蓋に舌を這わせたりする煙緋。
数十秒、もしくは数分。区別がつかない程に深く、甘いディープキスを交わした二人の唇の間に唾液の橋が架かる。
「ふふっ…」
未だに興奮は収まることはなく、甘く優しい快感に痺れた酸欠気味の脳に酸素を送る為に深く息を吸う二人。
「本当に、愛してるよ。空くん。」
そう言って足を絡ませたまま眠りについてしまう煙緋。
空も情報過多でショートしたのか、気絶したように眠った。
それから毎日、冒険者協会で依頼を受けて終わらせ、煙緋に会ってキスをしてから帰るという生活を続けた。
「そろそろ結婚しないかい?空くん。」
そう言って声をかけたのは煙緋。
「そっか、もう三年くらい経つのかな。」
「そうだとも。さて、当時は照れてしまってなかなか伝えられなかったが、今なら言えるだろう。私と結婚してくれないか?」
「…勿論、お願いするよ。」
三年前と同じシチュエーション、同じ言葉で返す空。
「…ああ、それと、私は民事裁判が苦手なんだ。」
「…分かってるよ。」
そして、陽光に照らされた少し古びた契約書に添付されていた婚姻届に、空は署名と印鑑を押した。
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胡桃とデート
空は、何度も困難な壁を乗り越えてきた。
どんな強敵でさえ冷静に対処出来た。
そんな空でさえ、今日は緊張していた。
「…よし。」
空の目の前の建物は往生堂。
死者を埋葬し、魂を黄泉へと送る儀式を担う場所。
空はそこに、もっと言えばそこの七十七代堂主の胡桃に用事があったのだ。
「こ、こんにちは〜…」
「ああ、旅人か。」
そう言って空を出迎えたのは鍾離。鍾離は凡人と言うにはあまりにも博識であるし、モラに関してかなりルーズではあるが、凡人である。
---
私は名乗る程の者ではありません。
本日の午前はいつもと変わらず胡堂主や鍾離先生と御一緒していましたが、午後には璃月を魔神オセルから救ってくださったモンドの栄誉騎士が往生堂を訪ねて来ました。
彼は何か堂主様に用事があるご様子。
確か今彼女は執務室で書類仕事をしているはずです。
その旨を彼に伝えると、ひとつお茶を用意して欲しいとのこと。
私としたことが完全に失念していました。
サッと公子様からいただいた茶葉を使い、お茶を煎れました。
彼は嬉しそうに笑顔を見せ、お茶を持ち執務室の方へと歩みを進めました。
「すまない、俺にも一杯貰えないだろうか。」
「承知しました。」
「しかし、旅人が彼女を訪ねて来るとは、珍しいものだな。」
「左様。」
---
名乗る程の者ではありませんさんから受け取ったお茶を零さないよう慎重に運ぶ空は、遂に執務室の扉の前に辿り着いた。
途中から徐々に歩みが遅くなり、それと反比例するかのように心臓の鼓動は早くなっていた。
軽いノックを4回。空はテイワットでノックのルールが通用するのか分からないため、かなり遠慮気味に叩き、弱々しいノック音が廊下の静寂に吸われた。
「はぁーい!」
扉の向こうから、胡桃の声がくぐもったように聞こえてきた。
空が扉の取っ手をガチャリと回すと、ギギ、と遠慮がちにドアが開かれた。
「鍾離せんせー、私、今はまだ仕事中だよ?」
振り返らずに手を振りながら声を出す胡桃。
ドアのマナーに関しては何も言われていないようだと少しだけ安堵した空。
ただ、それが胡桃と会う時の緊張を解してくれたわけでもなかった。
「先生じゃなくて俺だよ、胡桃。」
空は少し、ほんの少しだけ声を震わせながら呼びかける。
「うぅえっ!」
そして自分の想い人に声をかけられた胡桃は、突然のことに動揺して立ち上がり、椅子はガタッと音を立てて倒れる。
「あ…えっ、と。ごめん…」
「い、いやいやいやいやいや、大丈夫大丈夫!き、気にしないで〜…うん…」
「えっ…とね、とりあえず、これ、お茶を…」
「あ、うん!ありがとね!」
どこか気まずい空気が流れる中、空は意を決して胡桃に呼びかけた。
「えっ…と、胡桃…?」
「な、なにかな?」
「今月の15日、空いてるかな〜…と、その…」
「うぇ…う、うん。えーっと、空いてるけど…」
「朝から…デー…かけない?」
「も、もちろんだよ!あなたなら大歓迎だよ!」
「そ、そっか…じゃあ、15日の朝の八時半くらいに…往生堂の前で…大丈夫?」
「う、うん!大丈夫!」
「分かった。ありがとね。」
「し、しっかしねえーっ!つ、遂に私にも春が来ちゃったかー!てへへっ!」
「そ、そうだね…」
少し照れくさそうな胡桃と、それを見て苦笑いする空。
空は軽く胡桃と別れの挨拶を交わしたあと、部屋から出た。
ドアがパタンと閉じられた音が、彼がいなくなった静寂を引き立たせた。
(これって…デートのお誘いって…やつ、だよね…)
掌に収まったお茶は冷めきっていてたが、それとは対照的に、胡桃は抑えていた熱が自身の顔に帯びていくのを感じていた。
そのお茶を胡桃は嚥下する。
湯のみに触れていた彼の体温は既にないが、火照った顔は未だに熱い儘だ。
---
パタン、とドアが閉まる音が響く。
ふぅ、と無意識のうちに浅くなっていた呼吸を元に戻す。胸の当たりが緩むんだように感じられたが、未だに心臓は窮屈さを訴えるように強く脈打っている。
(…ひとまず、嫌がられてはなかった…かな?)
---
7月15日の朝八時。
空はもう既に往生堂の前まで来ていた。
どこかソワソワとしていて、編んできた髪をしょっちゅう手櫛で整えていた。
なお、パイモンは公子に押し付けてきた模様。
そしてそのソワソワとしている空を影から見つめるのが七十七代堂主の胡桃である。
(んふふ…緊張してくれてるのかな?)
少しの間眺めていた胡桃がそろりそろりと空の背後に迫った。
「おはよーっ!今日はよろしくね!」
ガシッと空の肩を掴む胡桃。
「おっ…はよう、胡桃。」
軽く飛び上がるように返事をする空。
「ふふ、驚いた?」
悪戯っぽく笑いながら言う胡桃。しかしそれになかなか返事を返さない空。
それを怪訝に思いつつ空の方へ目を合わせる胡桃は、
空の透き通る様な琥珀色の瞳が自身の服装を見ていることに気づいた。
「えっと…空?」
「あ、ああ…その、胡桃…似合ってるね、それ。」
「えっ…あ、ありがと!」
唐突に褒められた胡桃はしどろもどろといった様子で感謝の言葉を述べる。
「胡桃はどこか行きたいとこある?」
そう空はいいながら胡桃の手を指を絡めるように握り、軽く引っ張るように歩き出した。
「えっ…」
唐突に掌に与えられた熱と情報が、そのまま血液を辿って伝播するように体を循環した。
「おまかせで…おねがい。」
普段の様子とは打って変わって、胡桃はしおらしく返事をした。
胡桃が全身に感じている熱さが、夏の所為では無いことは確かだった。
---
璃月のとある雑貨屋。
女性用の化粧品から香水まで、男性用の身だしなみ用品や、子供でも買える値段の玩具などを取り扱っている、今の璃月では少し珍しい大衆向けの雑貨屋だった。
しかし、だからこそカップルや夫婦が多くいるこの店。
「うわ、カップルだらけだね…」
「そ、そうだね…うん。」
「これって、私達もそういう風に見られてるのかな?」
胡桃は言葉だけはいつも通りの揶揄うような言い方だが、頬には朱が差した儘だ。
「っ…まあ、そうなんじゃない?」
含羞む胡桃に見惚れていたこと、周りからカップルとして見られているという意識が、空を強ばらせた。
「と、とりあえず、なんか欲しいのあるか探す?」
少し恥ずかしい空気を吹き飛ばすように空は胡桃に提案した。
「そうするねっ!」
胡桃はあちらこちらへと歩き回り、寸刻も落ち着いた様子を見せなかった。
やがて胡桃は手毬の前で立ち止まった。
その様子を見た空は胡桃の目を忍んで店員から包みを受け取り、その包みを素早くバッグにしまったところで、胡桃から声がかかった。
「えーっと…この手毬を買いたいな〜なんて…」
先程よりも頬は紅潮し、耳まで真っ赤になっている胡桃。
「うん?別にいいけど…なんで?」
「と、とりあえず買いたい!」
「わ、分かったよ…買う、買うから…」
どこか強気の胡桃に押される空。
「え、買ってくれるの?」
「…だってまあ、誕生日だしね。」
「…覚えてて、くれたんだ。」
胡桃は嬉しさと恥ずかしさが半分ずつの様な靨笑を浮かべた。
どこか儚げなその笑顔に空は見惚れて、平衡感覚を失うような、夢を見ているような軽い浮遊感を覚えた。
「まあ、ね。じゃあ、買ってくるよ。」
「私はここで他のも見てるよ!」
「うん。」
(…来年には、手毬を私が投げてたらな、なんてね…。)
---
太陽の高さが本日最高高度を達成し、璃月中が食事のいい匂いで包まれ始めた頃。
胡桃達は万民堂へと歩を進めていた。
「鍾離先生ですら香菱がいる時は万民堂がいいと絶賛してたからね…」
「えーっ!あの人岩とか齧ってそうなのに!」
「流石に失礼だよ、胡桃。」
「そ、そうだったね…」
「あとで鍾離先生に謝っときなよ?」
「う、うん…」
暫く歩いていると、万民堂が見えてきた。
「香菱、こんにちは」
「おー!2人ともこんにちは!もしかしてそういう関係…?」
「ち、ちが」
「そうだよ!いいでしょー!」
空が否定しようとするも、ふんす、といった様子が似合う顔で胸を張る胡桃。
「あー、やっぱり!朝からずっと手を繋いでたもんね!」
「「えっ」」
「じゃ、注文は何にするか決まったら教えてね〜!」
「朝から…見られてたの?」
「そうかもしれない…」
そのままお互いは恥ずかしさでメニューも何を頼んだかもうろ覚えの状態でただ料理を待っていた。
「はいお待たせ!」
そう言って香菱が持ってきたのは四方平和を空の方に、と万民堂水煮魚にエビ蒸し餃子を胡桃の前に置いた。
胡桃が無意識でも自分の好物を頼んでいるのは、流石と言うべきか。
「「いただきます。」」
とりあえず気まずい雰囲気の儘に食べ始める2人。
「空?あーん!」
「えっ…」
「あーん。」
「ふーたもっ…」
胡桃は無理やりエビ蒸し餃子を空の口に突っ込んだ。
空はよく味わうように咀嚼したが、羞恥と歓喜の所為でどこか他人事になってしまった味覚は、仄かに効いている生姜とぷりぷりなエビの食感を捉えることが出来なかった。
「どう?美味しい?」
「お、美味しいよ。」
しっかりと喉に通してから返事をする空。
そのまま胡桃は食べ進めていたところ、空から声がかかった。
返事をしようと顔を上げると目の前には空の細い手と、差し出された蓮華。
「なぁむぐっ…」
なぁに、と言おうとするも、口を開けた瞬間に口に入れられたそれは、胡桃を動揺させるのに十分な刺激だった。
胡桃は急いで咀嚼し、嚥下する。抗議してやろうと空に目を向けるが、
「ふふっ…仕返しだよ。」
そう言ってにっこりと目を細める空に、胡桃は目を奪われてしまった。
まただ、と思っても無駄なこと。胡桃の心は張り裂けそうな程の温かさで満たされ、胸が苦しくなる。心臓を空に抱きしめられているような錯覚に陥る。
---
昼食を食べたあと、向かった場所は春香窯。
ここは香膏を取り扱っている店で、送仙儀式の時にで空は1度訪れている。
店主の鶯は胡桃を見つけたかと思うと、空には外で待っている様にいい、店の中へと胡桃を連れて行ってしまった。
「ふふ、あの子を落としたいんやろ?」
「え、えっと…は、はい…」
胡桃は恥ずかしがるも、鶯に全て見透かされているようで、認める以外の選択肢はなかった。
「なら、どの香膏がええ?」
「いや、そんな簡単に決められないって…」
「ふうん?じゃあ、これでも買っていき?」
そう言って鶯が差し出したのは金屋蔵嬌の香膏。
「えっ…と、それは…?」
そう胡桃が聞くと、鶯は囁くように胡桃に伝えた。
それを聞いた胡桃は、羞恥に締め上げられた。
---
胡桃が戻ってきた時には、既に15時を回っていた。
そこから2人は手を繋ぎながら、璃月に近い絶景スポットを数ヶ所巡った。
「…綺麗な景色だね、空。」
「…うん。」
「詩を作るのに、ピッタリな景色だよ!」
「…それと、今日はありがとうね。」
「…胡桃が楽しめたのなら良かったよ。」
日没前の霄灯の様な寂寥感のある橙色が2人の顔を照らし、影を伸ばす。
「…私、まだ帰りたくないよ。」
「…なら、塵歌壺に移動しよう。」
そう言って空はバッグから塵歌壺を取り出す。
2人は吸い込まれるように塵歌壺へと入っていった。
---
「こんばんは、旅人さん。申し訳ないんですが、今一部屋しか使えなくてですね…」
「えっと…それはどうして?」
「…その、クレーさんが…」
「な、なるほど…」
「ま、まあ仕方ないから!一緒の部屋で過ごそう!」
「胡桃、泊まる気?」
「も、もちろん!」
そう言って画閣朱楼へと入っていく2人。
中はかなり散乱している様子で、屏風が敗れていたり、机が壊れていたり、床に大きめの穴が空いていたりと、散々な様子だった。
それでも修復できるというのだから、マルの力は凄いと言うことが分かるだろう。
「…とりあえずお風呂とキッチン、寝室は無事だから、簡単なご飯作ってる間に風呂はいってきなよ。」
「でも服が…」
「俺ので良ければ貸すけど…」
「それ着る!」
「わ、分かった。じゃあ、行ってらっしゃい。」
「はーい!」
空は今更ながら拙いことをしたのでは、と感じる。好きな人を家に上げ、風呂にも入れる。そして自分の服を着せる。
もはや言い逃れできないほどだ。
ひたすら無心で料理を作り続ける空と、風呂場で悶々としている胡桃が、そこにあった。
---
あのあと、胡桃がのぼせてしまったり、何も考えずに料理を作りすぎたせいで困ったり、その料理を約1時間半かけて食べさせあったりと、なかなかに濃い時間を過ごした。
空もお風呂に入り、さっぱりした頃。
「…ああ、そうだ。これを渡さなきゃ。」
「ん?どしたの?」
「はい、これ。」
そう言って空が差し出したのは雑貨屋で受け取った小包。
「え、なんだろう?」
丁寧に胡桃は包装を開けると、枝の先に鮮やかな紅色の梅の花が咲いているようなデザインの簪が出てきた。
「えぇーっ!こ、これ!こんなのどこで買ったの!?」
「朝行った雑貨屋で、だいぶ前からオーダーメイドしてたんだ。」
「え…ありがとう!ありがとう!」
「気に入って貰えて嬉しいよ。それと、誕生日おめでとう、胡桃。」
「うぅ…大好きーっ!」
そう言って胡桃は空に抱きついた。その反動で空はベッドの方へと倒れる。
空は服を着たあとの少し汗ばむような、お互いからする石鹸とお湯の匂いが混じるじっとりとした空気を全身で感じていた。
胡桃の普段見れないような可愛らしい赤みがかった頬と、水気がまだ少し残った濡羽色の髪から漂う色気を感じて、余計に体温が上がるような錯覚に陥る。
「えーっと…そろそろ、寝ようか、胡桃。」
「そっそそ、そうだね!ご、ごめんね!押し倒しちゃって!」
「だ、大丈夫。じゃ、じゃあ俺はソファで寝るから…」
「いやいやいや!私が帰りたくないって言ったから!」
……
そのままお互いが譲らない不毛な争いが数分続いた。
「そこまで譲らないなら一緒に寝る!そしたらちゃんとベッドで寝る!」
「え…」
「それ以上は譲れない!」
「え、わ、分かったよ…とりあえず電気、もう消すよ?」
「う、うん…お、おやすみ…」
そう言ってもぞもぞと胡桃と空は同じベッドに入った。
胡桃からの甘い匂いを、打ち切るように空は背を向けて目を閉じた。
---
(そういえば、胡桃は簪をプレゼントすることの)
(そういえば、空は璃月での手毬に込められた)
((意味を知らないんだろうなぁ…))
『璃月風土誌』第1巻より
ーー手毬ーー
璃月では、婚儀の儀式の場で、花嫁は手鞠を賓客たちに投げる風習がある。その手鞠を受け取るものは向こう一年の幸運に恵まれるという。
ーー「金屋蔵嬌」香膏ーー
特殊な品種の霓裳花を使った手作り香膏。
甘くて夢にあふれた、若い女の子が好きそうな香り。
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