Girls Code×Boys Tone (瀬田)
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第1章
#prelude:僕にできること


こんにちは、瀬田です。今回からバンドリの連載を始めます。
オリジナルキャラクターのみの出演なので今回は0話的なポジションとして投稿してます。

2021/07/25:一部修正。
2022/02/20:タイトル修正。


 律夏(りっか)は、無心でミニトマトを袋詰めしていく。

 一言も発さないのは、傍に話し相手が誰もいないとか、そんな絶妙に寂しい理由からではない。集中しているのだ。今使っているのは、二百グラム用の防曇袋で、その小さな口にこれまた小ぶりなミニトマト(こう言うと社員には白い目で見られる)を素早く、丁寧に詰め込んでいくことは意外に苦労するものだ。

 年季の入った計量器の表示板が二百四の数字を映して、それを確認した律夏は緑の結束テープで袋の口を閉じた。

 

 「ふう…」

 

 思わず細い息が漏れる。いや、これくらいで疲れたりするはずはないのだが、計量器の反対側に置いてあるミニトマトの箱には、目がちかちかするくらいの赤色が広がっていたのだ。

 律夏は、その中の一つを親指と人差し指で摘まんで背後のゴミ箱に投げ捨てる。トラックか何かの運搬時に、衝撃で果実同士がぶつかって割れてしまったのだろう、ほのかな紅の雫が垂れていた。

 それを目にした瞬間、どくん、と鼓動が鳴った気がした。同時に、ぞわりと背中に悪寒のようなものが走る。

 

 ――嫌なこと、思い出したな。

 

 その鼓動を皮切りに、心臓の刻む律動はだんだんと速度を増していく。一拍、また一拍が鳴るたびに、脳裏に()()瞬間を焼き付けていく。律夏にとって、それは悲劇――極度の緊張と不快感をもたらすものに違いなかった。

 襲いくる精神的動揺を表に出すことなく、両眉に皺を寄せ、薄目を開いたままで作業を続けた。

 

 

     ♬

 

 

 ふいに訪れた出来事が、思わぬ形でこれからの道を左右してしまうことは、往々にしてある。例えばそれが後の大切な人との出会いであれば、道は明るくなるだろう。そして、それが大切な人との別れなら、その人とのこれからはきっと、簡単に搔き消されてしまうのだろう。

 半年前、若葉家に届いた凶報は、律夏と彼の家族の未来を、大きく変えた。

 

 アルバイト終わりの律夏が歩く先を、明滅する道灯りが照らしている。

 午後十時、膨大な量の赤い小悪魔(ミニトマト)梱包やそのほかの仕事を終えて、律夏はすっかりくたびれていた。前の高校の水泳部を辞めた後は、新しい町での新しい高校生活に向け、母と妹に先んじてこちらへ移り、準備を進めていた。練習もしなければあの頃の体力は戻ってこないのだ。

 あのとき、一番ショックを受けたのは母に違いない。それを知らせる電話を受けて、暫く呆然自失としていた彼女は、それでもやるべきことをすべて終え、そして倒れてしまった。今は、自律神経系の失調に陥って床に臥せっている。

 もうすぐ同居することになるだろう妹は、花咲川高校への受験に無事合格して、病床の母によく付き添ってくれている。かつての町を離れるのだから、大切な友人たちとの別れもままならないはずなのに、だ。

 

――このままじゃ、ダメだ。

 

 律夏の掌が固く握られて拳をつくると、小さく震えた。

 家族がバラバラになっているという焦燥感は、それこそ半年前からあったものだ。

 心労に日々やつれていく母親を見るのは辛かった。心配させないように無理をして、痛みを隠すように振舞う彼女をどのように救えばいいのか、それをずっと考え続けてきた。

 これからどうなってしまうのか、その不安を抱えながら受験期を過ごす妹を支えてやれなかったことが悔しかった。実力のあるあの子のことだから、もっと上の進学先を目指せたかもしれないのに。

 

――これ以上、大切な人を傷つけないままでいたい。

――これ以上、後悔したくない。

 

 その願いが日に日に大きくなっていることを律夏は自覚していた。だから、持っているものを捨ててまで、家族を守ろうと決めたのだ。

 胸中で渦を巻く情熱の激しさに助けられて、忘れかけていた決意を思い出すことができた。

 家路の方から、春の強い向かい風がびゅうう、と通り過ぎていった。

 

 

     ♬

 

 

「ようこそ、新若葉邸へ」

「お、お邪魔します。――っていうか、急に話ってなに?」

 

 三月二十七日の昼、旧若葉邸の残りの荷物を引き払ってやってきた妹の凪紗(なぎさ)に、律夏は「少し、これからの話がしたい」と持ちかけていた。

 兄妹の再会に僅かながらも顔を綻ばせた(実際は、律夏は旧宅にもほとんど毎日出入りしては家事をこなしていたのだが)凪紗は、着いて早々情緒の欠片もない様子で出迎えられたことに、どこか胡散臭そうなものを見る表情を向けた。途端に律夏が怯む。

 

「ああ、すまん。とりあえずあれだな、手洗いして、部屋を案内しよう」

 

 身内ながら、機嫌を損ねたときの彼女の目線の冷たさといったら手厳しいというほかない。転がしてきたキャリーケースを預かって洗面所の方を指さす。一部は革張りのレトロなもので、彼女はいたく気に入っている。粗末に扱ったりすれば氷漬けにされてしまうだろうから、十分に注意してリビングの奥へ運んで行った。

 

「結構広いね。部屋もちゃんとしてるし」

 

 自分の後を追いかけて、脱いだ上着をハンガーに掛けながら凪紗が予想外といった表情を浮かべながら呟く。サイドテールを解いてから耳にかかる髪を捩じって、バレッタで軽く留めていた。

 

「曲がりなりにも有名企業だし、これくらいどうってことないんだろ」

 

 新たな住居は、父親の勤めていた会社の同僚が、律夏たちの暮らしを心配して用意してくれたらしかった。マンションではあるが、家賃の心配がなくなったことは大きい。

 

「もしかして、それ関連だったりする?話って」

「そう」

 

 短く答えると、凪紗の表情が硬くなることが分かった。花咲川高校への入学を目指して勉強していた受験期は、必然的に律夏はそのサポートと、新たな暮らしの準備を整える方へ回らなければならなかったけれど、無事に合格を果たした後は、そうも言っていられない。否、()()()()()と、凪紗は息巻いてすらいたようだった。

 今まで先送りにしてきた問題を解決するときが来たのだと、少なくとも(律夏)は実感していた。

 

「取り敢えず、着替えたらどうだ。何か淹れておくから」

「……分かった」

 

 感情を読み取られないように、凪紗にあえて明るく提案をする。

 開け放していた窓から、緩やかで冷たい風が吹き込んできた。

 

 

     ♬

 

 

「改めて、花咲川への合格おめでとう」

「……ありがと」

 

 あまりにも質素だった新居では、凪紗の持ってきた音楽プレイヤーですらインテリアとして映るくらいだった。

 流行りの音楽の中でも、落ち着いた曲調を選んでいるのは彼女(持ち主)のセンスだろう。

 初めはそんなふうな、なんでもない話からだったと思う。片手で持ったマグカップを傾ける凪紗は、両目でしっかりとこちらを見つめる――半ば睨んでいるように見えるくらいだった。

 それでも、臆さず伝えたい。

 

「お前は頭良いからな。学力的には余裕があったと思う。それでも、毎日そっちの家に帰れなくてすまん」

「大丈夫。もう高校生だし、寂しいとかないよ」

「ホントか? 一人で眠れたのか?」

「馬鹿にしてる?」

 

 ジト目の圧力がさらに強くなるような気がして、「してない」と返した律夏は、これ以上の()()()から手を引いた。

 

「……まあ、とりあえずその手の心配はなくなった。だから、新しいことに目を向けなくちゃいけない」

 

 砂糖も何も入れない紅茶に口をつける。湯気が立ち上り、ちょうど向かいに座る凪紗の表情を分かりにくくした。

 

「凪紗、高校では何をするんだ?合唱部は…」

「まだよく考えてないから、詳しくは見てからにするつもり。来週の入学式のあとに部活紹介あるし」

「そうか」

 

 また一口。香りと温もりだけが、口腔に広がっていく。

 そして、こちらが口を開く前に、「それに」と、凪紗が零した。

 

「兄さん一人だけに、(うち)のこと押し付けられないじゃん」

「……」

 

 沈黙がリビングを支配する。きっと、お互いに話の中身が予想できているからだろう。

 母がいなくなったこの家を守り、支えるには兄妹二人の協力が必要なのだ――たとえそれが、互いの高校生活の青春とかけがえのない時間を棒に振ってしまうものだとしても。

 凪紗が言いたいことは、暗に伝わっていた。

 でも。

 

 ――本当にそれでいいのか?

 

 そうだ。

 黙ってそれを受け入れるわけにはいかないのだ。

 そうでなければ、あの凪紗がこんな諦めたような笑顔を浮かべる筈がない。だから――

 

「家のことは、心配するな。()()俺に任せろ」

「え…?」

「全部、俺がやる。だから、お前は高校で、本気でやりたいと思えることを見つけろ」

「いや、だから」

「まあ、これを見てくれ」

 

 そう言って、傍の戸棚からチャック付きのクリアファイルを取り出す。中には、いくつかの銀行の預金通帳が入っている。

 

「これ…えっ、何」

「こっちに来てから毎日、バイトしてきた。部活辞めたこと、知ってるだろ」

「え、でも、それは新しい家の準備のためじゃ」

「それもある。でも、後のことを考えると、それだけじゃダメだと思ったんだ」

 

 自分なりの、これからに向けた覚悟の証明だった。

 現実的な話をすれば、この家を含めて、受けることのできる補償が、母親の入院費や凪紗の将来を完全に賄うものではないとも考えられる。

 満ち足りた生活を支えるための苦労が身に沁みて理解した。それでも諦められなかった。

 

「我慢しながら高校時代を過ごさないでほしいんだよ。たくさん学ぶこともあるけど、その分、たくさん遊んで、たくさんの経験をしてほしい」

「……っ」

 

 凪紗の瞳が、途端に潤んでいくのが見てとれる。お金を――つまるところ自分の生活を保障されて安心したからではなく、それよりもむしろ、肩を震わせて自分を見上げるその様は、どこかこちらを咎めるようなものを感じさせた。

 マグカップを置いてから席を立って、こちらに近づくと、無言で顔を律夏の胸に埋めた。

 

「……バカ。本当に、バカっ」

「馬鹿とはなんだ。そりゃあお前と比べたら頭の出来は多少は悪い自覚はあるけど」

「違うよ。……兄さんが、水泳を辞めてまで辛い思いをする価値なんて、私にない」

「そんな訳ないだろ。……妹なんだから、お前は」

 

 律夏は、あの夏の日からそれまでの律夏でいることを捨て去った。期待されていた水泳部のエースの座を降り、転校で人間関係をリセットし、余った時間を全て、アルバイトに費やすようになった。

 失ったものは大きい。けれど、経験に学んだことも、確かにある。――現に、こうして静かに涙を流す妹の未来に少しでも貢献できたのなら、それだけで満足できた。

 

「この現実は苦しいけど、だからこそよい将来を迎えるために努力しなきゃならない。勉強だけをしていればいい今までとは違って、自分で考えて、やりたいことを見つけるんだ」

「うん」

 

 涙滴を拭って、深く頷く凪紗。強い子だな、と彼女の頭を繰り返し撫でながら思った。

 スピーカーから流れる優しいピアノの音に乗せた歌声が、小さいけれど確かに、二人を包み込んでいたのだった。

 

 

     ♬

 

 

「……さて」

 

 胸元の彼女の嗚咽はしばらく続いたが、次第にその状況に恥ずかしさを覚えたのだろうか、「もう大丈夫だから」と温もりとともに離れゆく頬に赤みが差していたことを、律夏は触れないでおいた。

 

「まだ言ってないこと、あるの?」

 

 妹の双眸が、不安げに瞳を揺らしながらこちらを見据える。律夏は、それが杞憂であることを伝えて打ち消そうとした。

 

「いや、これはまあ、雑談みたいなものだ」

「ふうん…なら、いいけどさ」

「さっき言ったことに関連して……高校でしたいことを見つける、っていう話題なんだけど」

「ああ、それね。考えるのはとりあえず見てから、って言ったんだっけ」

「そう。高校に一年間通って、俺なりに気付いたことがあるんだよ」

「気付いたこと?」

 

 無自覚なのだろうが、凪紗が首を傾けると、一緒に髪が揺れ動くのが可愛らしい。

 それはともかく、その疑問に答えるようと、律夏は口を開いた。

 

「俺たちは、高校でも勉強を続けないといけないだろ?」

「あー、まあそうだろうね」

 

 凪紗は天才肌だ。

 昔から、目につくものに触れては、そのすべてでいい成績を残してきた。

 勉強はその最たるもので、一つ上の律夏が試験勉強で悩んでいた問題を一目で解いてしまったこともある。だから、それに対しては歯牙にもかけないといった反応を、凪紗は見せたのである。

 

「じゃあ、その理由は?」

「え、そりゃあ大学入試とか就職とか…」

「その後、勉強が役に立つ機会はあるか?」

「……もしかして、だから勉強とかやる必要ないって言いたいわけ?」

 

 質問に質問で返した凪紗は、そんなものは詭弁であることを既に知っている。だからこそ、論理を先取りして、結論の行き着く先を予測する。

 駄々っ子を相手にするような面倒くささが伝わってくるが、生憎律夏が主張したいものはそうではなかった。

 

「違う。勉強は必要だ。ただ、それが人生における一過程にすぎない大学入試に、というだけで」

「……つまり?」

「勉強は必要だから、俺たちは毎日机に向かって授業を受ける。だけど、そこで得られる知識は役に立たないかもしれないだろ? 本当に大事なことは、勉強を通して、勉強の仕方を掴むことなんだ」

「なんか哲学っぽいこと言ってるけど……」

 

 律夏は、なかなかに面倒な物言いを自覚しながら苦笑した。

 

 学校の設置する目標を、人生に必要な知識や技術の取得とするなら、勉強以外で得ることのできる経験もまた、学校の勉強と同じように重要なのではないか、という思いを、律夏は抱え続けてきた。

 学生の本分は勉強、という言葉は至言かもしれない、しかしことこの天才少女にとってはそぐわない。

 ならばその枷を外し、たくさんの経験を与えてくれるものを自分自身の感性でもって探し当てる、という新たな課題を与えてやるのが兄の役目ではないだろうか。

 

「言いたいことは理解できたけど……まさか兄さん、学校でもそんな哲学者(めんどくさい)口調じゃないよね?」

「こんな訳の分からない話に付き合ってくれるのはお前くらいしかいないよ」

「まったく……」

 

 至極真面目な表情をした律夏を、凪紗はやれやれといった呆れ顔で眺めていた。それでも、伝えたい気持ちは伝わったらしい。

 彼女は、小さく笑っていた。

 

「分かった、見つけてやりますよ。ここでしかできないこと」

「本当か」

「何で兄さんが疑問形なの……まあ、私も最近は持て余し気味だったし」

 

 そう言って、そっぽを向いてから考え込む仕草をした凪紗。しばらくして、不安げな呟きが漏れた。

 

「……見つかるかな、やりたいこと」

「急ぐ必要はないだろ。まずは部活紹介を見て、目についたものを片っ端から見ていけばいいんだから」

「……うん」

 

 彼女は天才肌である。だから、彼女が辿る思考をなぞるだけでは意味がない。何かを彼女に与えようと思うなら、現状の視点を変えて話す必要があるのだろう。

 

「案外、近くにいる人が見つけてくれるかもしれないぞ」

「それって……誰?」

 

 何か、含んだような律夏の言葉に、凪紗は答を求めようと問いかけた。

 けれど、それが誰であるのか、すでに出会っている人間なのか、実際は分からないままだ。言えることとすれば――

 

「お前の隣に立てるような人間だよ」

 

律夏は、努めて平然とそう告げるのだった。

 

 



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#1:ワンダーステラ(前/ガールズサイド)

物語はガールズサイド、ボーイズサイドそれぞれで進んでいきます。
ガールズサイドでは主に凪紗(妹)視点。ボーイズサイドでは律夏(兄)視点で描いていきます。


 命短し、恋せよ乙女というフレーズは、いつから存在しているのだろうか。

 入学式が行われる花咲川高校への通学路、凪紗はそんなことを考えていた。

 時代遅れの路面電車の車窓からは、まるでこの町へ脚を踏み入れた(自分たち)を歓迎するような、川沿いの満開の桜並木が視界を埋め尽くした。

  

 ――見つけられるかな…

 

 一週間前、兄は高校でたくさんの経験をもたらす何かを、そして心からやってみたいと思うものを見つけてこい、と言った。しかも、それを応援するために、バイトをしてお金を貯めてきて、さらにはこれからの家のことは全て自分に任せろと言うではないか。

 凪紗は、これまでにないプレッシャーを感じた。それは、兄が自分のためにしてくれたことに等しい価値をもつ『何か』を、果たして本当に見つけ出せるのか、という不安に直結していた。

 凪紗は天才肌である。それだけに、何かに全身全霊をもって打ち込める、と感じたことがない。勉強は必要なものなので続けてはいるが、とっくに高校生の範囲など学び終えて興味は尽きている。たまに数学に苦戦している律夏()をからかいにいく程度なのだ。

 反対側の車窓をなんとなく眺めながら、あのフレーズを思い出す。花咲川は女子高だから、まさか恋愛でもあるまい。そもそも興味を感じない。

 

『…案外、近くにいる人が見つけてくれるかもしれないぞ』

 

 律夏はこうも言った。つまるところ、興味を向ける範囲は「人」でもいいらしい。

 自分にない何かを、そこから学び取れる何かを持ち併せている人が、その感性でもって見つけ出してくれるかもしれない。

 

「…はぁ」

 

 自然とため息が漏れる。

 そんな衝撃的な体験や出会いが、花女にあるのだろうか。あったとしても、それを見つけられるのだろうか。

 やけに抽象的な物言いをした兄が含ませていたことは、このことなのだろう。つまり、すべては自分で見つけなければいけないということ――

 

「…はぁ」

 

 繰り返し、ため息。

 兄は自分のような万能型の才能を持っているとはいえない。勉強なら、はっきり言って自分の方がよくできる。なのに、そんな相手に()()()ことを言ってのけてしまえる胆力にはいつも驚かされる。しかも、それが往々にして正しいのだから、つくづく人間は勉強だけでないと思い知らされるのだ。

 

 ――兄さんって、そういうところ、すごい。

 

 直感なのか、それともしっかりとした考えがあるのか。はたまたその両方か。

 何もかもを分かったような、すっかり大人びた目線で語る一つ上の兄に、凪紗は呆れていた。それでも口角が上がっていたが、それを自覚していない。

 

「「…」」

「はっ…!」

 

 周囲の目線――しかも一部は制服の同じ女の子たち――に気付いて、急いで頬を両手で挟んでほぐすようにぐりぐりと、零れるものを抑え込んだのだった。

 

 

     ♬

 

 

 光溢れるソメイヨシノのアーチを潜り抜けると、花咲川女子学園、その高等部の校舎が見えてくる。近くには中等部の校舎もあり、姉妹で仲良く通っている生徒たちもいるとかいないとか。

 その中で一際目立つ場所――人だかりができている西側玄関では、きっとクラス分けの発表が行われているのだろう。

 

「うへぇ…すっごい」

 

 凪紗は、苦手な人混みに鈍る歩みで、そこへ近づいていく。

 始めは、A組から。

 ”若葉”の苗字は大体最後を飾ることが多い。だから、二列に表示されている名前欄の右下だろう。

 

「えっ、と…」

 

 右列を、ご近所さん(になるであろう人々)を覚えるためにも上から辿っていく。指差すポイントが、自然にそれをなぞるように目線とともに低くなっていく。

 戸山…早すぎる。花園…このあたりか。山吹…そろそろ。

 

「「……あった!」」

「むぎゅっ」

 

 若葉凪紗の名を見つけて、思わず声を上げかけたその瞬間だった。

 両隣の少女たちの肩に挟まれるようにして、間抜けな声が出てしまったのだ。

 

「わっ!」

「あ、ごめん……大丈夫?」

「う、うん」

 

 名も知らない彼女たちよりも一回り背の低かった凪紗は、故意でないとはいえその衝撃によろける。

 かたや驚き、かたや心配を表情に出してこちらを見つめた二人に、凪紗はなんとか立ち直って答えるのだった。

 

「……あっ、ご、ごめんね!掲示板ばっかり見てて……」

「私もそうだったし、気にしないで……ってか、猫耳?」

「へ?」

 

 ワンテンポ遅れて謝ってきた彼女に気にしていない旨を伝えつつ、凪紗の視線は彼女の髪に釘付けになった。

 ひょこっ、と左右に突き出すような髪型は、まるで猫の耳のよう。

 

 ――こんな髪型、見たことない。

 

「……その髪型のことじゃない?」

「ああ、これ?これは星!星型だよっ」

「星型……なるほど?」

 

 どう見ても初見で()()が星型だと気付ける者はいないだろう。というか、星型の髪型ってなんなんだ。

 異質すぎる、この子…

 

「ふふっ…絶対納得してないよね、それ」

 

 そんな二人の様子に笑いを堪え切れなかったのだろうか、もう一人の少女がそう言った。

 

「えーっ。可愛くないかなぁ?」

「まあ、可愛いならいいのか」

「いいのだっ」

「ふふふっ……」

 

 髪型は可愛さやおしゃれのためにあるのだから、彼女からすれば似合っていればなんでもいいらしい。

 なんだか本質的だな、と思って適当に返事をすると、星型ヘアーの彼女はにっと笑った。

 そんな会話に、もう一人の彼女がまた笑う。

 

「ねねっ、何組だった?」

「ああ、A組だよ」

「私も」

「ほんと!?どこどこ!?」

「山吹沙綾、ほら、あそこだよ」

「私はその下、若葉凪紗」

「やまぶき……わかば……あった!私はね―、戸山香澄!」

 

 偶然にも、自分の名を見つけるための目印にしていたのが彼女たちということらしい。

 なにか大切なものを取りこぼすまいとするように、自分の名を繰り返す戸山香澄という少女に、凪紗はどこか新鮮さを感じていた。

 

「若葉さんに、戸山さんか…二人とも、中学で見たことないし外部生だよね?どうしてうちに来たの?」

「えっとね、妹がここの中学に通ってて、楽しそうだなーって!」

「そうなんだ。若葉さんは?」

「うーん、楽しそうっていうのは、私も戸山さんと同じ感じかな…あと、制服かわいいし」

「そうそう!それで花女に決めたんだ!」

「あはは。大事だよね、制服」

 

 一方、山吹沙綾という少女は、花女の制服の裾を摘まんで、少し不満げに呟く。

 

「私、内部生だからさ…半分はそこの中学から持ち上がりで、制服もそのままだから、なにも変わらないっていうか…」

 

 変化がない環境では、やはりいつか飽きがくる。そう言っているのだろうか。

 凪紗がこの少女について得ることのできる情報源は、せいぜいその表情くらいだ。しかしながら、彼女の言葉の意味するところは、他にもあるような気がした。

 遠くにある、手の届かない何かに憧れて、それでも手を伸ばせずにいるような――

 

「でもっ」

 

 そんなとき、星型ヘアーの少女が切り出した。

 

「高校生だし、何か始まる感じしない?」

「え?何かって…」

 

 不意を突かれて、沙綾が疑問を隠すことなく、首を傾げる。

 

「だって、新しい友達が()()()できちゃったし!」

「お……おおう」

 

 なんの恥ずかしげもなく、なんの断りもなく……たぶん、なんの考えもなく。

 彼女はそう言ってのけたのだ。

 ある意味(嫌な意味だ)女子らしくない、飾り気のない笑顔に凪紗がたじろいでいると、沙綾がまた吹き出す。

 

「ふふっ……戸山さん、やっぱり面白いなぁ」

「えっ、そう?」

「面白いよ。あと、友達認定が早い」

「え!早すぎた!?」

「あははっ……ううん、そんなことないよ。ねっ」

「うん。戸山さんが眩しくてびっくりした。……よろしくね」

「!」

 

 凪紗は、香澄に向けて手を差し出した。それを見て、一気に輝きを増した瞳がこちらを見つめる。

 どこまでも純粋な光。まるで星のようだった。

 

「うんっ、よろしく!香澄でいいよ!」

「そっか。じゃあ私も、凪紗でいいよ」

「私も、よろしくしていいかな。沙綾って呼んでね」

「もちろん!やったぁ!」

 

 よろしくね、凪紗、沙綾!と底抜けに明るい声で返される。

 握られた掌から、熱量の高まりが伝わってきた。凪紗は、それが何か、強い力を孕んだもののように感じられてならなかった。

 桜の花弁を巻き上げながら、春風が三人の横を通り過ぎていく。

 

 

  ♬

 

 

  三人で一緒に、高等部の校舎も知っている沙綾に導かれる形で一年A組の教室へ。

 道中で隣を歩く沙綾の纏っていたパンの匂いに香澄が反応すると、彼女は自分の家がパン屋を経営していることを明かした。

 商店街にあるらしく、後で行ってみようかと話をしながら教室へ赴く。

 

「そっか、()()()()()()()だから席がすぐそこなんだ」

「あ、そうだね」

「むう、私だけかぁ」

「あはは。まあ、知らない子たちとお話するのもいいんじゃない?」

「ホームルーム終わったら忘れてないよね!?」

「あー、私忘れっぽいからなぁ、どうだろなぁ」

「えええ!?」

「あはは」

 

 冗談冗談、と香澄を宥めると、頬を膨らませながらも「また後でね」と自分の席を探しに行った。

 そんな彼女を見送って、「それじゃ、私たちも行こうか」と沙綾の声に従って歩く。

 

「えっと、この辺かな…あっ、やっぱりお隣だったね」

 

 沙綾の指し示した座席の右上には、入学に関するお祝いメッセージとともに、自分の名前が書いてあった。

 厳しい入試を乗り越え、自分の意志で入学を果たした生徒にとっては、こういう些細なことが嬉しかったりするのだろうかと、他人事のように凪紗は考えていた。

 

「…うん」

「改めてよろしくね。凪紗」

「こちらこそ、沙綾」

 

 多分、自分が外部生であることを慮ってくれているのだろう。努めて明るく振舞っているということを、凪紗は感じ取った。さりげなく相手の表情や仕草に目を向け、その裏に隠された心の動きを読み取るということに慣れているのだろう。不自然さを感じることはなく、高校生らしからぬ落ち着きと思いやりに溢れていたのだった。

 沙綾について知っていることはまだまだ多くはない。それでも、少なくとも彼女は、山吹沙綾という人間は、凪紗にとって価値のあるものを持っているような気がした。

 だから、彼女を知ってみようと思えた。

 

 ――まずは、第一歩。

 

 出会いは何の偶然か分からないけれど、香澄も含めて、もしかしたらこの二人が、二人が持っているものが、自分を変えてくれるかもしれない。

 そう考えて、彼女の微笑みに微笑みで応える。透き通った瞳に映った自分は、自然と笑えていたと思う。

 教室の引き戸がからからと音を立てて開かれると、そこからグレーのスーツ姿をした教師(おそらく担任なのだろう)が教卓へと足を踏み入れた。

 生徒たちはそれに合わせるように、会話を打ち切ったり、読んでいた本を閉じたりして彼女へと意識を傾ける。

 静かになるまで何分かかりました、というテンプレを口にするまでもなく、すぐに教室が静寂に包まれる。

 中学校ではなかなかにやんちゃな少年少女たちが揃っていたので、やはり高校生、それも女子校となると落ち着きのある子が増えるのだろうか、となんだか年長者の気分だった。

 

 ――まあ、年相応の対極みたいな精神年齢のがうちにはいるけど。

 

「こんにちは。皆さん、入学おめでとうございます。今日からA組の担任になります、中井です。入学式はこのあと十時からホールで行われる予定ですが、その前に自己紹介をしましょう」

 

 女子校だからだろうか、先生も女性だった。年も近そうで、優しそうな雰囲気が伝わってきて凪紗は安心していた。

 

「名前の早い人から、順番ですね。皆さん、もう高校生ですから自己PRであることを意識してくださいね」

 

 彼女の言葉に、十人十色の反応を示すクラスメイトたち。

 

「もうみんな知ってるしなぁ」と言わんばかりの表情を浮かべた隣の内部生が、「外部の子もいるんだから」と前の席の沙綾に(たしな)められている。

 きめ細かな対応が素でできてしまうのは、凪紗にはない能力だ。天才肌だからといって、そういうものを持ち併せているわけではない。

 沙綾の見守るような視線を、律夏()のものと重ねてみる。

 凪紗は律夏になる必要がない。それは才能の多寡という意味ではなく、自分を支えてくれる存在として彼をみているからだ。年も違うし、性別も違う。比べたことも比べられたこともなく、自然と今の関係に収まっている。

 今の暮らしになってからもそうだ。自分を活躍させてあげられるように努力してくれたのは他でもなく律夏である。

 まるで、それが当たり前だというように。

 

 ――だから、尊敬できるんだよね。

 

 ならば沙綾はどうだろうか。彼女が自分を気遣って、ときに支えてくれたとしても、それだけの理由――つまり堅牢な関係性を、自分たちが持っているとはいえない。よしんばこれからそんな関係を築くことができたとしても、彼女は自分の姉にはなれない。一人のクラスメイトなのだ。

 比較されることもあるだろうし、知らないから、信頼しようと手探りでその距離を埋め合う――よく言えば対等でフェア(公平)な関係、悪く言えば他人である。

 彼女を尊敬するには、まだ時間が浅すぎる。それに、()()()()()を同級生の彼女だけに背負わせてしまうわけにもいかない。

 

 ――やっぱり、知りたいな。

 

 気付けば自己紹介の時間が始まっている。

 気弱なトップバッターのそれを聞きながら、真摯な目線を送る沙綾の横顔を、少しの間だけ見つめていたのだった。



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#2:ワンダーステラ(後/ガールズサイド)

「――では、戸山さん」

「はい!」

 

 ふと、先程まで聞いていた声――元気のよい返事が思考を途切れさせる。これは香澄のものだろう。

 

「戸山香澄です!私がこの学校に来たのは楽しそうだったからです!中学は地元の学校だったんですけど、妹がここに通ってて、文化祭に来てみたら、みんな楽しそうでキラキラしてて、ここしかないって決めました!」

「――だから今、すっごくドキドキしてます!」

 

 純粋にそう思っているということが伝わってくる。その瞳、仕草すべてに期待――彼女風に言えば、ワクワクが詰まっていて、見ているこちらまでつい頬が緩んでしまいそうになった。

 女子の関係がすべて、暗くてどろどろしているとは言わないけれど、そういった人間関係の煩わしさがばかばかしくなるような眩しさがきれいで、凪紗はそれを羨ましく思った。

 

 ――みんなが、こうなってくれたらいいのに。

 

 ところが、現実はそう上手くいかない。例えば、自分に憧れたのか、告白してくる男子を下手に断ってしまえば、その後のクラスの女子との関係は冷え切ったものになる。

 凪紗はあまり思い出したくなかった。膨れ上がる嫉妬を目の当たりにしているから。劣等感が人間を醜く変えてしまうことを知っているから。

 凪紗は少し、臆病になっていることを自覚した。

 だから、香澄が羨ましくなったのかも知れない。

 輝きをたたえた彼女の瞳を、凪紗は目を細めて見つめていた。

 

「私、小さいころ『星の鼓動』を聞いたことがあって……キラキラ、ドキドキって、そういうのを見つけたいです!」

 

 瞬間、驚きが凪紗を襲う。吹き込む冷風に靡いた髪も、気にならなくなるくらいの衝撃。

 この子も、なにかを探しにきている――私と、おんなじ。

 

「星の鼓動って?」

「えっと、星がキラキラってして…ドキドキってする感じ?」

「ふふっ、かわいい」

「戸山さんって面白いね」

 

 彼女の感性は独特なものなのだろう。クラスメイトの多くはそれを幼さとして捉えていたようだ。

 凪紗は笑いと拍手に包まれるその中で、照れたようにはにかんだ香澄から目線が外せなくなった。

 実際、その気持ちを言語化するということに失敗しているのだから、語彙という意味では彼女の発言は高校生にとっては()()()()()()ものだったのかもしれない。

 それでも、もしかしたら――。

 彼女にしか見えない何かが、体験できない感情があるのだとしたら――。

 

 香澄の目には、世界がどう映っているのだろうか。 凪紗は、どうしてもそれを知りたくなった。

 

 

     ♬

 

 

「それにしても、まさか凪紗が学年主席だったなんて」

 

 入学式の終わった帰路で、沙綾はそうやって回想していた。

 香澄は、「新入生代表のあいさつ、かっこよかったなぁ」と夢見心地だ。

 

「いやぁ、照れるなあ」

「すっごい真顔だけど……」

 

 まだ寒さの残滓が居座る廊下は、それでも人の往来が多いせいかそれを気にさせなかった。

 ツッコミを入れた沙綾に、凪紗は冷静に答える。

 

「本当は内部生で去年の成績上位者がやる予定だったんだけど、休みだったんだって」

「へぇ……あっ、それって市ヶ谷さんかな」

「うーん、名前は聞かなかったけど」

 

 あまり良い話でもないので入試の経緯は話さないことに決めた凪紗は、話題を少しだけ逸らす。

 

「……ま、勉強は得意だよ。二人は?」

「うーん、悪いってことはないと思うんだけど……中の上くらい?」

「私は苦手っ!特に数学っ」

「正直でよろしい」

 

 謙遜する沙綾と対照的に、自らの弱点を前面に押し出してくる香澄。

 凪紗はその星型ヘアーを撫でつつ、「そういえば、部活見学ってどうする?」とさらなる話題転換を試みた。

 

「明日からだったよね?みんなで一緒に行かない!?」

「おー、それいいね。沙綾はどう?」

「あー、ごめん。部活は……放課後はうちの手伝いがあるから」

 

 凪紗は香澄の観察も踏まえて快諾したが、沙綾までついてくる訳ではないようだ。

 クラス発表の後で話していた内容から推察すれば、手伝いというのはきっとベーカリーのことだろう。

 眉尻を下げて申し訳なさそうにする沙綾。気遣いの鬼なので誘いを受けられないことに申し訳なく思っているのだろうが、それにしては少々落ち込みすぎではないだろうか。

 

「そっかあ……」

 

 肩を落とす香澄。相変わらず反応が実直である。

 凪紗はそんな雰囲気を、あえて意に介さないように、努めて明るく振舞う――沙綾へ、先程のお礼とばかりに。

 

「まあしょうがないよ。その代わり、体験入部で運動したらパン買いに行こっ」

「!それいいかもっ」

「うん。ぜひとも寄ってってよ。いっぱいパン用意しておくから」

「やったー!」

 

 一転して上機嫌になった香澄。彼女の顔色を窺っている訳ではないが、やっぱりこうしている方が彼女は可愛いし、一緒にいて楽しい。

 ついつい頬を緩めてぴこぴこ揺れる星耳を眺めていると、沙綾の視線に気付く。

 

『ありがとね』

 

 言外に、そう伝えているようだった。

 

『いいってことよ』

 

 凪紗は、そんなふうにウインクを返す。

 少しだけ、沙綾に近づけた気がした。

 

 

     ♬

 

 

「……ってわけ。結構いい滑り出しじゃない?」

「おお、うまくいってるようでよかった。その調子でな。……で、これは?」

 

 迷うことなく帰路に就いた凪紗は、帰宅と同時に学校であったことを律夏()にぺらぺらと喋り出した。彼は昼食の準備をしながらも、凪紗の話を聞くと嬉しそうに返事をしたが、同時に差し出された小麦色のレジ袋を見て、首を傾げながらそれは何かと問うた。

 

「結局、帰り際に通ったから香澄と寄ってきちゃったんだけど……やまぶきベーカリーのパン。明日、朝ごはんにでもしようかと思って」

「おっ、それは助かる」

 

 普段は家での食事は律夏が作る。天才肌の凪紗はそれを真似て一通りのものを作ることはできるが、不慣れなのと、どうしても律夏にしか出せない味があるらしく、仕方なくキッチンを明け渡したのだった。

 

「ねえ。やっぱり、大丈夫?」

「家事のことなら任せろ、バイトも頻度はかなり減ってるし、今のままなら全く問題ないよ」

「そっか。……無理しないでよ」

「おう。ありがとな」

 

 大きい掌で頭を緩く撫でられる。髪型が崩れるけど、気にならないくらいに安心できた。

 昔からの癖というか、多分そんなものが、自分たちの間にはあるのだろうと思っている。そうでなければ恥ずかしさが勝ってしまうのに、律夏はタイミングを間違えなかったからだ。

 

「……よし、できた。昼飯にしよう」

「ん」

 

 タイマーが時間を知らせ、それと同時に彼の手指が離れていく。

 

 ――本当はもう少し、なんて思っていたのは内緒だ。

 

 凪紗が食器を並べて、律夏が素早く盛り付けていく。

 クリームパスタのいい匂いが空腹を刺激するもので、少しの間視線が固定されてしまった。

 律夏は、そんな自分の様子を見て苦笑し、「多めに入れとくぞ」とトングを大きく広げたのだった。

 

 

 

 二人の「いただきます」で食事が始まってしばらくした頃、律夏が凪紗に訊く。

 

「それで、当分は友達の体験入部についていくんだよな?」

「香澄ね。多分そうなるかな。すぐに授業始まるから、お昼は購買かお弁当になるかも」

「弁当なら問題ないけど、購買も気になるところだな。友達はどうするんだ?」

「あの二人と食べたいんだけど……あっ、そういや沙綾は自分の家のパンを持ってきてるって言ってた」

「そうなったらどこでも食べられるしな。とりあえず明日は弁当にしておくか」

「お願い。それにしても、パンばっかりになると栄養とか偏らないのかな」

「種類は多そうだけどな。その子の分、作っておくか?」

「いや、友達のお兄さんに弁当作ってもらうってどんな状況なのそれ」

 

 思わず吹き出した凪紗がツッコミを入れながら笑う。至って真面目な律夏の様子を見て、しばしの間笑いが治まることはないと悟った。

 

「それにしても、中学のときはあんなに他人に無関心だったのにな。すごい成長じゃないか」

「成長っていうか、あれは向こう側に問題があっただけ。つまんないっていうか、人間性が浅いっていうか…」

「その子たちは浅くないのか」

「少なくとも興味が湧いた。だから知りたいって」

「……なんにしても、そう思えたのなら良いことだな」

「うむ。兄さんも頑張ってよ。ぼっち回避」

「いつもぼっちみたいに言わんでくれ。俺は先にこっちに居たし、必要最低限は用意できる」

「友達は備品か何かなの?」

 

 相変わらず呆れさせられる物言いの律夏は、昨年の二学期頃から転入試験に合格し、すでに人間関係が確立しているようだった。

 凪紗は、この兄にどんな友人がいるのか、加えてどんな会話を繰り広げているのか、せめて哲学者と呼ばれていないように祈るばかりなのであった。

 温かいトマトスープを飲み干して、ほっと一息をつく。わずかに、白い空気塊が溶け出ていった。

 

 

     ♬

 

 

「うーん…」

「やっぱ決まんない?」

「なんか…キラキラドキドキしないっていうか…」

 

 入学式から数日、凪紗は、放課後の部活体験を香澄とともに回っていた。どの活動にも目を輝かせながら取り組む香澄を、凪紗は好奇心と行動力の化身だと驚きをもって観察していた。

 その凪紗は凪紗で、卓越した運動能力や芸術センスを発揮して、ほぼ全ての部活で熱烈な歓迎を受けており、しかしながら強く興味を惹かれるということはなかった。

 

「妹さん、水泳部だったんだね」

「あっちゃん?」

「そうそう。可愛かったなぁ」

「でしょー?あっちゃんはねー……」

 

 まるで自分のことのように誇らしげに語る香澄に苦笑する。

 今日の最後に行った水泳部の体験では、中高一貫校らしく合同練習が行われていた。

 あっちゃん、というのはそこで出会った、中等部三年生の戸山明日香――香澄の妹のことだった。

 

「あれじゃどっちが姉なのかわかんないなぁ」

「どういう意味!?」

「だって、キラキラドキドキって言われたらそりゃあみんな小学生のセリフかよ、ってツッコミ入れちゃうもん」

「うっ……でも、他になんて言ったらいいか分かんなくて」

 

 落ち込むふりをする香澄は、その発言が幼さの原因になっていることを指摘されて、言葉に詰まっているようだった。

 

 ――でも、多分……考えていることは、同じなんだろうな。

 

 凪紗はなにかを見つけようとする思いに共感した。だから、彼女のワードセンスも理解できた。

 だから、気になる。特段秀でた才能の見えない彼女が、どうしてその目的を手にしたのか。

 思い当る節が、一つだけあった。

 

「……自己紹介のときにさ、『星の鼓動』の話をしてたけど……あれが、『キラキラ』と『ドキドキ』の原点なの?」

「そう!子どもの頃、『星見の丘』っていうところにキャンプに行ったんだけど――」

 

 凪紗の問いかけに、香澄は躊躇いなく頷いて、語り始める。

 明日香とテントを抜け出して、森の中を探検したこと。

 それを抜けた先に広がった星空が、宝石のようにきらきらと輝いていて、星がどきどきしていたこと――

 

「星が、ドキドキ?自分の心臓じゃないの?」

「そうかもしれないけど、星もドキドキしてたのっ」

 

 すっかりエキサイトしてしまっている香澄。その光景を見たことがない凪紗は、しかし彼女の思い出が思い込みであるとは到底思えない。

 彼女には才能がないなんてのは、大きな間違いだった。

 十年以上もの間、香澄はその純粋な憧れと希望を抱き続けてきたということに、やはり彼女には予想もつかないような、なにか特別な感性があると結論付けざるをえなかった。

 

「どきどき、ってどんな気持ち?緊張した『ドキドキ』?」

「ううん。なんだろう…あっ、そうだ。凪紗と、それから沙綾に初めて会った時の、あの感じ!」

「初めて会った時……」

 

 気付けば行動をずっとともにしてきたが、出会ったのはわずかに一週間ほど前。

 あのとき、香澄はどんな感情を抱いていたのか。

 

「なにかが起こりそうな……始まりそうな予感?」

「星のときも?」

「うん。知らない世界の端っこを知った、みたいな」

「ふうん……」

 

 水泳部での練習の疲れなどもろともせず、凪紗の頭脳がフル回転する。入試を終えた後でも、それが錆びつくことなく、彼女の経験と感情を言語化し、因果を孕んだ理論へと落とし込もうとする。

 

 鼓動って、なんだろう?

 ときめきとは違う――星が瞬くあの感じ?

 新しい世界との出会い?それならどうして体験入部ではそう思わなかったの?

 

「うーん……だめだ。やっぱり、私も体験してみないと分からないかな」

「そっかあ」

「でも、それが感じられることを、香澄は高校でやってみたいんだよね?」

「うん!」

「気になるなぁ。香澄がキラキラドキドキすることって、何なんだろう」

 

 解を見つけられない問いなどないと、かつての凪紗はそう信じた。だけど、それは今、簡単に打ち破られようとしている。

 だから、凪紗は決意するのだ。

 

「……決めた」

「?なにを?」

「香澄がやりたいって思うこと、一緒に探そうよ。見つけられたら、私もやる」

「えっ、ほんと!?」

 

 ぱっ、と光が灯るように、香澄が笑顔を作る。きらきら、というのはこういう状態なのかな、と凪紗は思った。

 

「うん。一緒に探しに行こう」

「やったぁ!」

 

 弾かれたように飛び上がって大はしゃぎする香澄。確かに高校生にしては子どもっぽいかも知れない。

 

「よーし!それじゃあまた明日から頑張るぞーっ!」

「おーっ」

 

 夕日に向かって吼える香澄。それに凪紗も続く。

 振り上げた拳が二つ、その輝きに照らされるのだった。

 

 



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#3:ささえる人たちの歌(ボーイズサイド)

 平日の午前、律夏(りっか)は商店街を歩いていた。

 先日、凪紗の友達の家が経営しているというやまぶきベーカリーのパンを食べたところ、律夏の味蕾(みらい)に電流が走った。

 

 ――なんだこれ。美味すぎるっ…!

 

 デニッシュの層状に重ねられた生地は、しっかりとマーガリンが練り込まれているのが分かる。それでいてしつこくないというのだから、これは魔法かなにかだろうか。

 柔らかい触感は、生地に使う乳製品にもこだわった結果だろう。触れていて、食べていて上品さが伝わってくるのだ。

 家族経営だからといってもパンの製作には手を抜かないという覚悟があるのだろう。間違いなく名店である。

 

 律夏は、美味しい料理に出会うとテンションが上がる。やまぶきベーカリーへの期待は、そんな経緯もあってか彼の中でうなぎのぼりになっていたのだ。

 

「えっと…地図だとこの辺りだな」

 

 花咲川を横切るように進んで、商店街のアーケードをくぐっていく。この商店街を抜ければ凪紗の通う高校がある。

 今日は志哲(してつ)高校の創立記念日であり、新学期早々ではあるが律夏たち生徒は休みだった。午後に出て行ってうっかり凪紗たちに鉢合わせても気まずいだろうから、という彼なりの配慮で、パンを買いに行くのは午前中にした。

 

 歩みを進めていくうちに、ベーカリーの看板が目に入る。イーゼルには焼きたてのパンの種類が書かれており、これは愛されるべき名店であると律夏は得心したのだった。

 

 ふと、商店街の向こう側からエンジン音がする。赤い車体は郵政カブだ。

 忙しいのだろうか、速度を上げながら、まだ人の少ない通りをこちら側に走っている。時を同じくして、ベーカリーの中から子どもたちの元気な騒ぎ声を、硝子越しに耳にした。

 

「はやく!はやく!」

「まってー!」

 

 小さい男の子と女の子、一人ずつだった。少し歩調を早め、扉が開かれる前に、飛び出した彼らの行く手を塞ぐ。

 

「危ないよ」

 

 横をすり抜けようとした男の子の手を引いて、自分の方へ引き寄せた。

 大きな音を立てて、カブがその前を通り過ぎていく。

 

「大丈夫?」

「う、うん」

「もー。だからあぶないっていったのに」

「う、うっせ」

 

 後からついてきた女の子は、男の子の妹だろうか。妹に注意されたとあっては、彼も立つ瀬がないだろう。

 天才肌の妹をもつ兄からすれば、それは大いに理解できるところである。

 

「あ、あのっ」

「…?」

 

 そんな二人の様子を微笑ましく思っていると、慌てた様子でレジから店員らしき女性が出てきた。

 

「どうもすみません……!危ないところを、ありがとうございました」

「ああ、いえいえ。向こうも気付いていたみたいですし」

 

 恐らくこの人が二人の母親なのだろうと思った。しかし若い。

 というより、そうであれば凪紗から聞いた同級生の友達というのは、この家の長姉ということだろうか。

 抵抗する男の子の頭を思いっきり押し付けながら謝る彼女を制しつつ、そんな考察を胸の内に抱いていたのであった。

 

 

     ♬

 

 

「本当にいいんでしょうか」

「ええ。凪紗ちゃんにも沙綾がお世話になっているみたいだし、気にしないでね」

 

 店内へ入って、パンを選んでレジまで持っていった際に、凪紗()のことを話した。どうやら沙綾という子との仲は良好なようで、何回か店にやってきているらしい。

 越してきたばかりのことを告げると、彼女は色々とこの商店街のことを律夏に教え込んだ。どうやら、花女やその近くの高校である羽丘、そして少し離れるが志哲といった高校の生徒たちが多く住んでいて、同級生もいるかもしれない、ということだった。

 律夏がそこで改めて凪紗の礼を言うと、こちらこそと彼女が返して、ついでに試作品のパンを彼に持たせたのだった。

 

「それでは、お言葉に甘えて。……美味しそうですね、やっぱり」

「ふふ。ありがとう。ちゃんと凪紗ちゃんの分も残しておいてね」

「全部食べてしまったら、また来ますね」

「あらあら、お上手ね……そうだ、純、紗南もお兄ちゃんにお礼言って」

「さっきはありがとう……ございました」

「じゅんをたすけてくれて、ありがとう!」

「うん。純くん、今度は沙南(さな)ちゃんをしっかり守ってあげてな」

「……分かった」

 

 しゃがみこんで、兄の方――純に目線を合わせる。その髪をひと撫でして笑みを向けると、純はこくりと頷いたのだった。

 少し、かつての自分を重ねていたことは言わないでおく。

 

「それじゃあ、また来ます。沙綾さんに、凪紗とこれからも仲良くしてもらえると嬉しい、と伝えてもらえますか」

「もちろん。こちらこそ、あの子をよろしくね」

「ええ。凪紗にそう伝えておきます」

 

 手を振ってくる沙南にこちらも振り返して店を出る。なんだか晴れやかな気分だった。

 小麦のいい香りに名残惜しさを感じながら帰路へ就こうと思ったが、斜め向かいの店に目を奪われる。

 

「……コロッケか」

 

 『揚げたてです!』の大きな文字がニクい。精肉店らしいが、近くに高校がいくつかあることを考えると、丁度自分のように商店街を歩きながら食べたいと思う高校生も多いのだろう。

 そういえば、と今日の夕飯を何にするかまだ決めていないことを思い出し、どうせならそこで見繕っていこうとこじつけることにした。

 

――コロッケの買い食いは凪紗には黙っておこう。

 

 内心でほくそ笑んで悪だくみをする。

 先程の純のような少年心で歩いていくと、北沢精肉店の文字が目に入った。店番だろうか、夕焼け色をした髪の男の子が紺色の三角巾を巻きながら立っているのに気が付いた。

 

「……あれ?」

 

 律夏は、その彼に見覚えがあった。

 

「もしかして、北沢って、あの北沢か」

「ん……お、若葉じゃん」

 

 よっ、と小さく手を上げて応じたのは、志哲高校での同級生――北沢(めぐみ)だった。

 端正で中性的な顔立ちに、中性的な名前をしているが、れっきとした男子である。そういう事情もあり、クラスでは人気者の部類に入る。

 

「まさかここで会うとはね。結構高校から遠いだろ」

「家がこの辺なんだよ。確かに偶然だな」

 

 新学期が始まっても、彼とはまた同じクラスとなった。転校という事情柄、旧同級生で割とよく話す彼を新クラスに入れてくれたのはありがたかった。

 

「もうこっちには慣れた?」

「まあ、そんなに遠くから越してきた訳でもないし」

 

 そっけなく、律夏の言葉に「そっか」とだけ返した恵。大きく伸びをするが、その体躯は律夏ほどもない。

 

「んで、今日はどうしたの?」

「ああ、そうだった。夕食の材料を見繕っておこうと思って」

「え、自分で作ってんの?すげぇ」

「慣れだな。中学のときはやってなかったから、毎日作って覚えた」

「へえー。親のひとは?共働き?」

「あー…まあ、そんなところだ」

 

 実に答えづらい質問をしてくれるが、実情を話しているのは担任の教師くらいなもので、それを知らない恵にとっては何も不自然な話題ではないだろう。

 ()()()()()()()()()()()ということだけ伝わっていれば、会話は成立している。

 

 ――いつか、話す日が来るのだろうか。

 

 律夏はその瞬間を想像する。彼の反応はわからない。

 聞いてはいけないことを聞いたような、申し訳なさそうな表情かもしれない。あるいは、それをはっきりと謝罪で伝えてくるかもしれない。

 確実に言えることは、彼にとってこの話題は益のあるものではないということだ。

 

「なるほどね。んじゃあゆっくり見ていってよ」

「……ああ」

 とりもなおさず、会話を打ち切って陳列ケースに目を向けることにした。

 

 

 

「…はい、確かに。じゃあこれ、豚ロースとコロッケね」

「ありがとう」

 

 夕飯は生姜焼きにすることにした。きっと凪紗も歓迎するだろう。

 付け合わせのキャベツや諸々が冷蔵庫にあるもので用意できるかを考えていたところ、恵に声を掛けられた。

 

「偉いよね。自分でしっかり生活できる人って」

「俺の場合はたまたまそうしないといけない環境にあっただけで……北沢だって、店のこと色々あるんだろ?」

「環境、ね。確かにそうか」

 

 顎を人差し指で支えるように、考え込む仕草をした恵が首肯した。細身の身体が相まって男であることを忘れそうになる。

 

「あと、うちには妹がいるから、手伝ってくれるときもある」

「そうなん?うちも妹、いるよ」

「へぇ。花女?」

「そうそう。今年入ったんだ」

「……一緒だな、それ」

 

 話が進んでいくうちに、恵の妹が凪紗の同級生であることが分かった。

 山吹家母に教えられたことが早速活きたので、世界は狭いものだと、律夏は一抹の驚きをもってその事実を受け止めた。

 

「にーちゃーん!店番代わるよぉ」

「おっ、そっか。それじゃあ、またね」

「ああ。凪紗のこと、妹さんによろしく」

「こちらこそ。はぐみをよろしくって伝えておいて」

 

 去り際、恵の目線が店奥からやってくるであろう妹――はぐみに向けられる一瞬を、律夏は見逃さなかった。

 ふわっと、弛緩するように優しい目つきに変わる。おそらく、家庭内での素なのだろう。

 

 ――もしかしたら、俺もああいう目をしているのかもな。

 

 アーケードを抜けて、川辺を歩く。コロッケを齧りながら満開の桜並木を見られるのはなかなかに贅沢だが、もうじきに散ってしまうだろうから、目に焼き付けておこうと思った。

 季節が着実に移ろいでいる。

 凪紗は、これからあの少女たちと何を見つけ、どんな時間を共有するのだろうか。

 高校生活は一度きり、なんてありきたりな言葉も、今はその通りだと頷くしかない。だから、彼女の思うように生きて欲しい。その過程を、少しでも支えてあげられたら。

 

 商店街の方から追いかけてくる風は暖かい。律夏は、天に上っていくような桜の花弁を、眩しそうに見つめていた。

 

 



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#4:Just One(ガールズサイド)

「両手を挙げろぉ!」

「えっ?きゃー!はさみ!ひ、人に向けたら危ないよぉ!」

「逃走経路を確保しておかないなんて、とんだ素人だな!初犯!?」

「あ、あの、私、凪紗と星を見つけて……!」

「両手!」

「はいぃ!」

 

 凪紗の眼前では、漫才が繰り広げられている。ボケはもちろん、我らが星耳少女の香澄なのだが、相方のツッコミ少女は誰なのだろうか。

 随分と勢いもよく、決して自分にはあのエネルギー出力で会話を続けることができないだろう。先に燃料(興味)が尽きてしまう。

 

「名前!」

「戸山香澄です!」

「それ本名?責任逃れで偽名使ってんならすぐバレるし……止めるよ」

「……お泊まり?」

「違う!あんたを捕まえるって言ってんの!」

「ぶふっ」

 

 矢継ぎ早のボケ&ツッコミに、思わず吹き出してしまう。

 これが出会って三十秒の会話だと、一体誰が言えるだろうか。香澄の天然っぷりは1-Aの誰もが保証するだろうが、即座にツッコミを入れるこの金髪ツインテールもなかなかだ。

 

「!?」

「あっ、凪紗!」

 

 自分の存在に気付いたのか、ツインテール少女が驚きから振り向く。

 香澄は香澄で、誤解され、追い詰められている現状を理解していないのか、合流した凪紗にやたらとのんきにぱっと喜びの花を咲かせた。

 

「ごめんね、うちの香澄が……高校からの帰り道、星のシールが貼ってあって、それを辿っていったら止まらなくて」

「えっ。高校って、その制服、花女……!うちの生徒かー……」

 

 凪紗の冷静な状況説明に我に返った少女は、夕日を背にする凪紗の着ていた制服にようやく気付き、植木用(?)の鋏を下ろす。その呟きによれば、彼女も花女生ということらしい。

 

「同じ学校!?何年生?私、高1!」

「ちょっ…!違うから!もー出てって!質屋はあっち!こっちは全部ゴミ!」

「ゴミ?あれも?あの星の……」

 

 遠慮の言葉を知らない香澄は初対面の少女にも臆さず迫っている。

 凪紗としては、自分にないものだとはいえ、これは見習うべきか怪しいところだと苦笑するのだった。

 

「質流れのギターかなんかでしょ……」

「見ていい?触っていい?」

「はぁ?お前なぁ!」

「ちょっとだけ!ちょっとだけ~!」

 

 そう言って蔵らしき建築物の中へ入って行ってしまう香澄。

 彼女を追おうとする少女に、凪紗はすかさず近づいた。

 

「ごめん、香澄にはすぐに済ませるように言っておくから、説明だけさせてもらってもいい?」

「……すぐ、済ませてよ」

「うん。ありがと」

 

 

     ♬

 

 

「ああ、そういえば市ヶ谷さんってあの中等部主席の子かぁ」

 

 お互いに自己紹介をして、凪紗は世間は狭いねえと、そんな感想を呟いた。

 凪紗の簡潔な説明は、流石に蔵へ不法侵入するわけにはいかなかったので、暴走していった香澄の代わりに、家主――この少女、市ヶ谷有咲の祖母である――に許可を得るため、自分が別行動していたということを伝えるものだった。

 表札を確認していた凪紗は、先程有咲が口を滑らせた花女についての発言と、入学式での沙綾の言葉から、有咲が中等部での主席をマークした少女であることを推察したのだった。

 

「そっちこそ、若葉ってことは入試成績一位の生徒だろ」

「おっ、ご存じだったの?光栄だねぇ」

 

 不敵な笑み、というのが正しいだろうか、凪紗はそんな表情で短めのサイドテールを揺らして有咲に向き合った。

 むっ、とした目線でもって対抗した有咲。こちらはツインテールが揺れる。

 

「…まずは中間試験だね。楽しみだなぁ」

「ふん、言ってろ」

「というか、なんで入学式には来てなかったの?おかげで新入生挨拶することになっちゃったんだけど」

「ん…まあ、入学式くらい行かなくても単位数は足りるしな」

「ええ…」

 

 衝撃発言だった。どうやらこの少女は学校を単位取得のためだけの場だと思っているらしい。

 凪紗の呆れた表情にもどこ吹く風というように、有咲はお目当てのものを発掘している香澄を監視している。

 

「…なんだよ」

「せっかく高校生になったんだから、何かしないの?もったいないよ」

「省エネだっつーの。その何かを探すなんて効率悪りィよ」

「ふーん。そんなものかなぁ」

「そっちこそ、見た感じ何にでも要領よさそうじゃん。()()()()()に付き合うようなタイプじゃないだろ」

「うーん……そう見えるのかなぁ」

 

 なんでもできる、というのは間違ってないけど、と返すと、有咲は胡乱なものを見る目でを向けてきた。

 しかしながら、かつて受け慣れてきた嫉妬の籠ったそれとはかけ離れていて、凪紗は特段気分の悪いものではなかった。

 

「なんか理由でもあんの?」

「うーん、アドバイスもらったんだよね、兄さんに」

「兄さん?」

「うん」

 

 兄妹事情を(つぶさ)に語ろうとも思っていなかったので、簡潔に、目の前の無気力少女に伝えたいことだけを口にしてみる。

 今まで、そんなことを思ったこともなかった。

 周りの人間に興味もなかったし、話が通じるなんて考えたこともなかった。

 けれど、有咲は、香澄とも沙綾とも違う何かがある。それはシンパシーのような、たぶん人間性というか、そのあたりの考え方が似ていると思ったのだ。

 

「私、何でも()()()()()からさ。なんにも考えてなくても、たぶんクラスに溶け込めて、割と充実した生活が送れると思うんだよね」

「嫌味かよっ。ま、それがセイシュンとかいうやつじゃねーの……興味ねーけど」

「ほんと?」

「……ほんとだよ」

 

 そっぽを向く有咲。たぶん嘘で、内心ではそれに憧れている節があるのかもしれない。

 

「まあいいや……それでもさ、そういうのって、どこか嘘くさいというか……満たされない感じがするんだよね」

 

 有咲の目が見開かれるのが分かる。

 

 ――やっぱりだ。

 

 彼女は棒読みで青春の二字を口にした。その理由はきっと、思考停止への侮蔑と、青春そのものへの諦め。

 そして、僅かな期待――、丁度、凪紗が何かを見つけようとして、その何かが存在していると信じる気持ちと似ている。

 

「私、大抵のことはできるよ。だけど……私ができることって、他の子がちょっと頑張ればできることなんだよね」

「……」

 

 有咲は沈黙を貫いたままだ。

 だけど、自分の言葉が彼女の核心を突き刺し続けていることを、凪紗は確信していた。

 

「私は、ひとつだけ欲しい。私にしかできない何かを――」

 

 凪紗は、視線を有咲から、もう一人の少女に向ける。

 

「それを持ってるのが、あいつってわけ?」

「市ヶ谷さんも思わない?」

「ちっとも。まあ、とびきり変なやつってのは認めるけど」

「あはは。私がいなかったら不法侵入だもんね」

「私からすれば、あんたらまとめて不審者なんだけど」

「まあまあ。おばあちゃんからも『有咲をよろしく』って言われたし」

「なにしてんだばあちゃん……」

 

 頭を抱える有咲に苦笑して、それから香澄を一瞥する。

 星のギターがどうのこうの言っていた。星つながりで興味を惹かれているだけなのかもしれないが、その瞳の輝きは、凪紗に見つけられないものを照らし出してくれるのかも知れない。

 

「あっ!」

 

 ついに、香澄は質流れのガラクタの山からそれを取り出すことに成功した。

 赤い、星型のギター。

 まるで、彼女の星耳に導かれるように、夕日を弾き返したそれは、煌々と光り輝いていたのだった。

 

「見て見て!凪紗、これっ!」

「おー。すごいじゃん。……弾きにくそう」

「冷静だ!?」

 

 素人目にもかなり癖のあるフォルムをしている。凪紗が触ったことのあるギターはオーソドックスなアコースティックギターであり、おそらくエレキであろう星型ギターの使用感など分かるはずもなかった。

 

「弾いてみてよ」

「うんっ!じゃーん!」

 

 不協和音もいいところである。

 ずっこけたふりをして、「あ、弾けないのね」とこぼす凪紗。

 二人に近づいた有咲も、ため息をついている。

 

「お前ら、もう終わりな。とっとと帰った」

「待って!もうちょっと~!」

「終わりっつったろ~!そんな弾きたいなら楽器屋さんとかライブハウス行けよ」

 

 縋る香澄にめんどくさそうに対応する有咲。しかしながら、これは墓穴を掘ってしまったようだ。

 彼女の応答を聞いた途端、香澄の目が光る。

 

「!ライブハウス!?どこにあるの!?」

「知らねーよ!」

「わかった!探してくる!」

「「えっ?」」

 

 脱兎。

 その言葉が似合うくらいに――いや、実際には逃げているという認識は彼女にはないのだが――とてつもない瞬発力で駆けだしていく香澄。

 残された二人は、呆然と遠くなる彼女の背を眺めることしかできないのだった。

 

 

     ♬

 

 

「ねえねえ、何見てるの?」

 

 ()()のざわめきの中、香澄はスマホでなにか調べている有咲に、そんなことを訊いた。

 

「"すぺーす"だったか……この店の情報。……え、ガールズバンドの聖地?なんでこの店が?」

 

 有咲はうさんくさそうな目をステージへ向ける。

 

 「どろぼー!」と叫びながら香澄を追いかけた有咲についていき、へばりそうになる彼女をときに励ましながら凪紗は、とあるライブハウス――”SPACE”にやってきた。

 愚痴をこぼしながらもここまで案内してくれた有咲はきっとちょろ――もとい、心根の優しい子なのだなと結論付けながらも、成り行きで間もなく始まるライブを見ていくことになった。

 

「お客さん、すごいね!みんな、ライブを見に来た人かなー?」

()()()()()()()に合格したバンドってことだから、ファンも多いんじゃない?」

「ほとんど知らねーけど……」

 

 有咲のうさんくさそうオーラが強まっていく。

 ステージ上の楽器や音響器材は本格的だった。著名なバンドではないかもしれないが、これだけの装備が整う環境なら、界隈では人気があるのだろうか。

 その理由として、凪紗は、オーナーのお墨付きを与えられていることが実力の証となっているのだろうと推察した。

 

「あ、始まるみたいだよ!」

 

 そんな思考の外で、スタジオが暗転する。香澄が言う通り、ライブが始まるのだろう。同時に、観客の少女たちの声が静まる。

 ――ぽっ、と、火のつくようにステージの照明が光を浴びせた。その途端に、割れるような歓声が周囲を包み込む。

 袖から出てきた少女たちは自分と年が離れているようには見えなかったが、どこか余裕がある。

 

「可愛い!」

「ぐりったー、ぐりーん……」

「そういうバンドなんだ!」

 

 相変わらずの歓声が響く傍ら、二人の会話が耳に届いた。こう言っては何だが、バンド名も本格的――つまり、軽い趣味程度のものではないことを感じさせる。熱狂の渦中、それが納得できてしまう。

 

「SPACE!遊ぶ準備はできてますかー!?」

 

 マイクをとった黒髪の少女――たぶんボーカルだ――がそう呼びかけると、それに答えてスタジオは一際盛り上がる。

 

「オッケー、いくよ!」

 

 彼女がメンバーへ目配せして、ギターのネックに左手を添える。刹那、すっと小さく息を吸うのが見えた。

 光るペンライトは、まるで無数の星の光が散りばめられた夜空。

 

 ――はじまるっ。

 

 ステージから発せられた緊張が、凪紗たち観客まで伝わってくる。一瞬にして、この場の主導権を握られるのが分かった。

 期待感も、それに伴う興奮も、すべて彼女たちに操られているようだった。

 ギターボーカルのあの子が、ピックを抓む右手を振り下ろす。

 飛んできた轟音の中、凪紗たちは、空気のびりびりとした振動を全身で受け止める。

 

「……っ!」

 

 震える。

 

 もしかしたら、揺さぶられているのかもしれない。スタジオ全体の熱の波に呑み込まれているのかもしれない。

 いや、違う。

 

 ――心が、魂が震えているんだ。

 

 いつだって、どこか諦めたように達観したふりをして。

 正直に言えば、欲しかった。夢中になれるもの、自分の全てを注げるものが。

 でも、怖くなってしまった。すぐに手が届くことが嫌になった。

 

 ――だけど。

 

 本当に怖かったのは、一人になることなんだ。

 

 いまは、この熱狂を共有するひとたちが、ここにはいる。

 凪紗は、ある種の緊張をもって、赤くなった頬を隣へ向ける。そこには、まるで鏡合わせのようにまったく同じ表情をした、香澄がいた。

 

「……ねえ、香澄」

「うんっ」

 

 わかる。

 この子は、きっと私と同じ願いをもっているんだ。

 

「私、見つかったよ。高校でやりたいこと」

「うん。私も……!キラキラドキドキできるもの、見つけた!!」

 

 ――ああ、通じ合うっていうのは、こういうことをいうのかな。

 

 ”Don’t be afraid(こわがらないで)”――その歌声が、背中を押した。

 そして、凪紗の直感は告げるのだ。

 ずっと、私は香澄を待っていたのだ。声に出した答が、通じ合った思いが、その証だと――。

 

 

 



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#5:ともに(ボーイズサイド)

忘れていたのですが、サブタイトルは個人的にバンドリに追加してほしい曲から考えています。思いついたらその名前をつける感じ。


「――兄さん、私、バンドやりたい。いや、やる」

 

 帰宅してすぐに、凪紗からそう宣言された。その目は、今まで見たこともないような、情熱に溢れた本気の目。

 

「見つけたのか、やりたいこと」

「うんっ」

 

 それからというもの、簡潔にものをまとめて話す凪紗にしては珍しく、長々と経緯――つまるところ香澄という星耳少女とのあれこれを教えてもらった。

 彼女には、自分にないものを見る目、要は感性というものがあるらしく、凪紗は彼女の瞳に映る景色を見たがっていた。

 そして、運命のライブハウス、なにか信じられないような気持ちに出会ったことを告げたのだ。

 

「香澄と、一瞬だけ繋がったような気がしたんだ。なんていうか……あっ、あの子、『キラキラドキドキ』って口癖があって……」

 

 ライブの衝撃は、二人の感情を共有させたようだった。それが直接の引き金になったと、彼女は自信満々に語る。

 ――きらきらどきどき、なるものは分からない。が、それも文字面でなく共有した感覚で体験することになった凪紗は、心が震えるようなものだと短くまとめた。

 

「……なるほどな。いいじゃないか」

 

 今まで、何をするにも一人でこなしてきた凪紗。中学の卒業式では伴奏と指揮の両方を任されそうになっていたくらいである。

 そんな彼女が、あまつさえ他人と思いを共にして、なおかつメンバーを必要とするバンドを始めるというのだから、律夏は驚きと喜びを半々にした面持ちで、彼女を眺めていたのであった。

 

「だとしても、楽器はどうするんだ?」

「うーん、今のところギターボーカルがいいかなって。ライブのあの人もかっこよかったし」

「変わることもあるのか」

「そうだなぁ……メンバーがどうしても足りなくて、ってことになれば……って、兄さんは私がバンドやってもいいと思ってるの?」

「もちろん。お前が答を見つけたなら、それを応援するよ」

 

 多少の費用は掛かるだろうが、それも今までの稼ぎで賄えないようならまた働けばいい。

 恐らくそのあたりの心配をしているのだろう。「大丈夫だって」と、凪紗の髪を荒めに撫でつけた。

 

「うん……ありがと」

「おう。あ、もしギターやるんだったら、物置にエレキがあるぞ」

「えっ……ほんと?」

「ああ。一式あるはずだ。父さんが使ってたからな」

「っ……」

 

 凪紗はほんの少しだけ言葉を失って、そしてこちらに目を合わせてきた。

 律夏はそれに頷きで返して、「きっと、役に立ってくれる」と加えた。

 

「……決めた。私、絶対にギターボーカルやる」

「そっか」

 

 彼女は肝心なところで嘘はつかない。そう決意したならば、兄としてはそれを支えてやるだけなのである。

 たくさん悩んで、時に涙を流す思いもするかも知れない。それでも、自分で考え、自分で信じた道へ進もうとしている彼女の背中を押すことができれば、それでよい。

 

「やるならとことんやれ。今日の情熱に嘘をつかないようにな」

「分かってる。なんかそれ、格言みたいでおじさんって感じする」

「カッコいいって言え。……よし、それじゃ夕飯にしよう。今日は唐揚げ」

「いいね~、ライブでいっぱいサイリウム振ったからお腹すいちゃった」

 

 日は暮れ、町を夜の帳が覆うけれど、輝きは失われない。一番星が瞬き、そして照らしてくれるのだから。

 

 

     ♬

 

 

「ごめんなさいね。純たちの世話まで任せてしまって」

「いえ。大変ですよね、家事も一緒にするのは」

 

 翌日、志哲高校は一部の私鉄での人身事故に伴う運行停止を受けて、午後からの登校となっていた。……自称進学校のスマートなダジャレではない。

 ともかく、これ幸いと新作を追い求め、やまぶきベーカリーを覗きに行ってみれば、店先で自分の姿を見つけた純が走り寄ってくるではないか。

 話を聞いてみれば、体調不良によって山吹母――千紘(ちひろ)さんというらしい――が、眩暈を起こして倒れてしまったとのことだった。

 父親はパンの宅配に外出しているそうで、ともかく彼が戻ってくるまでできることをしようと、急ぎ店内へ向かったのだった。

 

「でも、純くんのお陰で助かりましたよ。色々手伝ってくれてたんです」

「そうなの?……ありがとう、偉いわね」

「べ、べつに、なにもしてねーし……」

 

 実際、午前中は客入りもそこそこで済んでいるとはいえ、レジ打ちやショーケース整理など、諸々を一人で、それも勝手を知らない店内で行うのは無理があった。

 不安そうな紗南を励まし、そして律夏のサポートを行った純に、母親らしい、優しい視線が送られた。恥ずかしさもあるのだろう、彼のむくれた表情に苦笑した。

 律夏はそんな家族らしいやりとりに頬が緩むのを感じながらも、教えられた通りの薬を取り出して寝かせた千紘の前へ差し出した。

 

「これですかね」

「ええ。ありがとう……重ね重ね、ごめんなさいね」

「謝らないでください。いつも美味しいパンを作って頂いているお礼になれば」

 

 そう言うと、小さく微笑んだ千紘の表情には、やはり疲労が見て取れる。

 それが、自分の母親のそれと重なった。

 

「……純くん、紗南ちゃん。ちゃんと、お母さんのそばにいてあげてな」

「「うんっ」」

 

 後悔が、胸の中で大きな渦を作って、波が立つ。

 もし、()()()()()しまったら。考えたくもない、甚だ失礼で不謹慎な仮定の話。

 止まらない想像の世界が、律夏を覆う。純は、紗南は、そして、沙綾という少女は、何を思うのか、それだけが気になって、不安だった。

 

「……律夏くん?」

「す、すみません。お店の方、見てきますね」

 

 不思議そうにこちらを見つめてくる、その視線を振り切るように向かっていく。

 

 

 

 当たり前の、いつもの笑顔だと思っていた。

 だけど、そんな訳がなかった。大切なもの、いつも隣にあったものを失う辛さを、まだ自分は本当の意味で分かっていなかった。

 病床でみる彼女も、当時とそう変わらないように見える。けれどその実、心の奥で溢れる悲しみと涙をこらえて笑うのだ――まるで、これが母親としてやるべきことというように。

 一刻も早く、自分たちの待つ家庭へ帰るために。

 

 ――そんなのは、違う。

 

 律夏はそれを嫌った。この意志を貫き通すため、自分を捨ててでも家族を支え抜くと決意を固めたのだった。

 新しく、けれど変わらない想いを抱えて進む。すると、なにやら忙しなくバタバタと駆け込んでくる人と目が合った。

 うぐいす色のエプロンは、その端々に小麦粉の白で染められていて、きっと彼がベーカリーの店主だろう――

 

「千紘ッ!!」

「うお」

 

 そんな考察が頭の中を巡るより前、一瞬で距離を詰められたと思えば、肩を強く掴まれた。

 訊かれているのだ、とその鬼気迫る表情を理解した律夏は、努めて平静を保って答える。

 

「……えっと、千紘さんは、奥の部屋に。貧血と眩暈の症状があったので、布団で休まれています」

「ありがとう!」

「ぐえっ」

 

 その言葉とともに、もはやラグビーボールか何かを扱うように、律夏は真横へ押し飛ばされた。

 

「……だいじょーぶ?」

「んぐ、あ、ありがとう紗南ちゃん……」

 

 差し伸べられた小さな手は不安そうにこちらを見つめる紗南のものだった。ひっくり返ったまま、律夏は何とか返事するので精いっぱいであった。

 

 

     ♬

 

 

「申し訳ない……!」

「あ、いえ。そんな、やめてください」

 

 謝られるのは慣れない。それも大人と幼い子どもたちに揃って。

 沙綾(凪紗の友達)にこの現場を目撃されでもしたら、借金取りかなにかに勘違いされてどんな噂を流されるか分かったものではない。特に凪紗に最悪の影響を与えてしまうと恐れた律夏は、慌ただしく手を振ってそれを制した。

 千紘に睨まれるようにして頭を下げるのは、彼女の夫の亘史(こうし)であった。

 

「この人、せっかちだから慌てるとどうもダメで。本当にごめんなさい、怪我はない?」

「あ、はい。紗南ちゃんに起こしてもらいました。ありがとうね」

「んーん、けがしなくてよかったね」

 

 凪紗にするように、ほんの少しだけ頭を撫でると、二つ結びを揺らしながら、紗南は嬉しそうにそれを受け入れてくれた。

「ともかく、これでお店の方は大丈夫でしょうか。午後から学校が始まるので、十二時頃までならお手伝いできますよ」

「いやいや。もう十分手伝ってもらったよ。本当に助かった……そうだ、パンを持って行ってくれ」

「お金は払わせてください。そういうつもりで来たわけではないですから」

 

 こちらは一人の客、という立場は今も変わっていない。そうである以上、たとえどんなことがあろうと商品を頂いていくわけにはいかないと、律夏は説得した。

 商品を作り、売るために試行錯誤する――アルバイトとはいえ、その苦労を知っているからこそ、お金という対価が必要になることが理解できる。

 

「善意は対価になりません」

「……そうか。君は立派だね」

「いえ、そんなことは。その代わり、これからも来ていいでしょうか」

「もちろん。純たちも待ってるから」

「またきてね」

「……まってる」

「ありがとうございます。……もう一つ、いいでしょうか」

「なんだい?」

 

 お節介に聞こえるかも知れないですが、と律夏は一つの条件を付け加えた。

 

「ふふふ。そんなに遠慮することないのに」

「俺自身のためですから。わがままみたいなものです」

 

 そう言いながら、ベーカリーの扉を開く。からんころんと、取り付けられたベルが柔らかく鳴った。

 外の空気が、身体を包む。陽光は暖かく、風はまだ冷たい。

 

 

     ♬

 

 

「おーい、若葉ぁ」

「ん……」

 

 帰り際、なんとなく寄った商店街、自分を呼び止める声に律夏は振り向いた。

 鮮やか橙の髪色は恵のものだった。

 

「おう、北沢」

「そっけないな。まあいいや、そろそろ学校だよね?何してんの?」

「パン買った帰り。家に戻ってそのまま行くよ」

「なるほど……んじゃあ、ついてってもいい?」

「遠回りになるけど……?」

「折角家近いんだからさ、遊びにいくこともあるかなって」

 

 眩しい笑顔を振りまきながら彼は言う。天真爛漫というか、そういうところがクラス内でも人気の秘訣なのだろうと、律夏は察するのだった。

 

 

 

 笑顔は確かに眩しく思えたのだが、それは悪魔の笑みだったのかもしれない。

 やまぶきベーカリーを出たころは冷たかった空気も、昼間は暖かいおかげで、通学路は快適だった。

 

「いやあ、楽ちんだなぁ。帰りもタクシーだし」

「タクシーって、結局帰りも乗るってことだろ」 

「ご名答~」

 

 厚かましくものんきに言ってのけるのは、自転車の荷台に乗って律夏の肩を掴んだ恵である。

 二人乗りは法律違反であることを盾に抵抗したものの、これで置いて行けば自分は遅刻してしまうと泣き落としに遭い、面倒見のよい律夏は仕方なく彼を乗せる決心をしたのだった。

 彼が比較的華奢な体躯をしていなかったらこのペダルがもっと重かったかもしれないと思えば、少しは慰めになるだろうか。

 

「まあまあ、帰りにコロッケ奢ってあげるからさ」

「奢る……?」

 

 自分の家の売り物は奢りになるのだろうか、などと特段意味のない思考を繰り広げながら、自転車を漕ぐ。

 散り際の桜の桃色が混じりながら移り変わっていく町並みは、志哲に通い始めて半年が経ってもまだ新鮮に感じられていた。

 

「学校も休みにしてくれたらいいのになぁ。行ってもどうせ寝るだけだし」

「休養取ってるならタクシーいらないだろ、授業はちゃんと受けろ」

「タクシーになることはもう抵抗しないのかぁ」

 

 けらけら笑う恵に、律夏は学校で見る彼のイメージと、少し違和感を覚える。

 彼にも裏と表があるのだろうか。だとすれば、これはどちらなのだろうか。

 そんなことを考えていると、ふと彼が呟く。

 

「……ねえ、若葉ってさ」

「なんだよ」

「いや、なんでもない」

「……?」

 

 先程の笑みとも違う、なにか含んだような笑顔。

 真意を汲み取れぬまま、自転車は住宅街を走り抜けていくのだった。

 

 



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#6:虹(前/ガールズサイド)

 あのライブで受けたあの熱が、未だに胸を高鳴らせるエネルギーになっていることを、凪紗は自覚していた。

 

『……バンド!』

 

 サイリウムの光の海で、それに負けないくらい瞳を輝かせた香澄が、凪紗と有咲の手を取って言う。

 ぎょっとした表情の有咲とは対照的に、凪紗はほとんど香澄と同じような興奮混じりの昂揚を前面に押し出していた。

 

『すごいキラキラ!バンドバンド、バンドやろう!』

 

 そのとき、香澄の言う『キラキラ』の意味が、少しだけ分かった気がしたのだ。

 それはきっと、心の中のきらめきが、あの光景と融け合った瞬間――自分の手に、世界のすべてに輝きが溢れて見えた瞬間。

 期待と、そしてちょっぴりの不安が脈を打って、それでも待ちきれなくなってしまう。居てもたってもいられなくなってしまう――『ドキドキ』も、きっとこんな風なんだと思う。

 まだ、夢を見ているみたいだった。

 これからも、その続きを見ていたい。

 経験したこともない感情がせり上がってくる。律夏が、そして香澄が導いてくれたこの虹色の景色を、ずっと追いかけてみたいと心の中で叫ぶ。

 

 ――私は、たぶん今日のこと、ずっと覚えているんだろうな。

 

 そんな風に思えたのは、いつぶりだったのだろうか。

 

 

     ♬

 

 

「バンドやるんだ、牛込さん」

 

 昼間にもなると、春を過ぎた日差しは少しずつ強くなってくる。

 香澄と沙綾、それに凪紗は昼休みの時間を中庭で過ごすことがお決まりとなっていたが、香澄に連れられて木陰のベンチの特等席にやってきたのが、もう一人――

 

「りみりんすごいんだよ!……なんだっけ?」

「ベース?」

「ベースができる!」

 

 香澄のオウム返しに、ついつい苦笑してしまう。大方、バンドメンバーを探しているうちに発見したのだろう。

 一方、牛込りみ――ライブの終わり際、帰ろうとした有咲とぶつかった同じクラスの少女だ――が、「ちょっとだけだよ~……」と恥ずかしそうに謙遜した。

 「ちょっとでもすごいよ!」と香澄。実際、香澄の素人っぷりに比べれば少しでも弾けるだけありがたい。

 凪紗もそのバンド計画に参加するつもりではあったが、まだ楽器すらも手にしていない香澄の胆力に脱帽していた。

 

「ま、座ったら?」

「う、うん」

 

 自分の隣を指さして、座るように促す。香澄の隣にしてしまうと強引な勧誘が待ち受けているだろうから、しっかり守ってあげなければ。

 

「……牛込さん、嫌なら断っていいんだよ?」

「ひどい~!りみりん……!」

 

 どうやら沙綾も同じ考えらしい。ちらり、彼女を窺うと困ったような笑顔が迎えた。

 

「というか、香澄は香澄で、どうせ説明もろくにしてないんじゃないの?」

「うっ……」

「そりゃあ牛込さんも困るでしょうが」

 

 ぎくりとした表情を浮かべる香澄に凪紗がため息をつくと、沙綾が「あはは。いいストッパー役だ」と笑う。

 入学式の日以来、沙綾との交流は専ら香澄の保護者役を通して深まっていくのを感じていた凪紗だったが、相変わらずの良妻賢母ぶりで、とても自分や香澄と同い年だとは思えない。やはり律夏()に近いものがある。

 そのため、今のように沙綾の反応を見ながらフォローに入るということが多かった。

 とりあえずは、これで一安心――そう考えていると、りみが口を開く。

 

「嫌や、嫌じゃないよ。戸山さんが誘ってくれて、私……」

「りみり~ん!香澄でいいよぉ~!」

 

 ――あながち強引な勧誘も、常に悪手である訳ではないらしい。なかなか計算高い部分もあるではないか……と感心したが、「で、ベースって?」という彼女の一言でそれも二度目のため息とともに崩れ去っていった。

 顔を上げれば、同じような顔をした沙綾がいて、思わず笑いあってしまった。

 

「ふふっ……そういえば、さっき教えてくれた星のギター……だっけ?スマホで調べてみたけど、この中にある?」

「ああ、これでしょ?香澄」

 

 有咲の家の蔵で見つけたギターは赤い色をした星型のものだった。沙綾の携帯端末の画面に表示されているもののうち、近いものを指さして香澄に確認する。

 

「そうそう!ランダムスター……っていうんだ」

「へえ、刺さりそう」

「確かに。私の第一印象は持ちにくそう、だったな」

 

 こういう形のギターを総称して変形ギターとも呼ぶらしいが、それは『変な形の』と略されているのではないだろうか。凪紗はそんな邪推をしてしまった。

 

 ――そういえば、父さんのギターって、どんなのだろう。

 

 律夏は言った。きっと役に立つと。

 しかしながら、凪紗は父が楽器を演奏しているところなど見たこともない。ならば、彼は知っていたということだろうか。帰ったら聞かなければならない。

 

「あ、あの……若葉さん」

「ん?どしたの」

「若葉さんも、バンド、やるの?」

 

 りみは控えめな目線で、そう質問してきた。その意図は汲み取れなかったが、昨日のライブで香澄と一緒にいるところを見ているからだろう。

 

「そのつもり。まあ、私も少し触ったことがあるくらいだからさ。最初は気楽にいこうよ」

「う、うん……」

 

 了承は得られたものの、どこか曇ったような表情をしている。

 凪紗は、りみの内側を知らない。

 それでも、香澄が集めたメンバーなのは確かだ。きっと、なにかを持っている。

 だから、知りたいと思うのだ。

 

 

     ♬

 

 

「あ、有咲いたぁ」

「不法侵入だっつってんだろ!」

 

 放課後、なんと朝から市ヶ谷家にお邪魔していたという香澄が、気付かぬうちに早退していた有咲のもとへ行くというので、凪紗も同行していた。

 この間と同じように当然のように蔵へ一直線の香澄に、急ぎ凪紗が玄関に行って有咲の祖母へ確認を取りに行くと、彼女は「あら、あなたも香澄ちゃんのお友達だったのね」と歓迎するものだから、香澄の攻略速度に思わず驚いてしまった。

 

「いやあ、びっくりした。おばあさんに聞いたら香澄、市ヶ谷さんちで朝ごはんご馳走になったらしいから」

「すっごい美味しかった!」

「美味しかった、じゃねーよ!勝手に入ってきてご飯食べてくってどういうことなんだよ!」

 

 恐らくそのやり取りは、一通り通学路で繰り広げたはずなのだが、有咲は律儀にツッコミを入れてきている。なかなかの実力だ。

 

「んで、今日はなんだよ……」

「そうだ、ランダムスター!ね、また見せてもらっても……」

「ああ、それか……ふふん、商品に触らないでくださーい」

「へ?」

 

 得意げな顔でこちらに歩み寄った有咲が、ポケットからスマートフォンを取り出す。「三十万……もう超えたかな?」と呟きながら見せてきた画面を、香澄と見つめると、そこには紛れもないランダムスターと、その値段――”300,000円”の金額表示があった。

 

「これ……オークション?」

「そ。欲しいなら買えば?」

「うう、そんなの無理だよ……!」

「買うだけなら、私にできるけど」

「えっ、凪紗買えるのっ!?」

「でも、それは香澄が欲しいんでしょ?私、ギターなら家にあるし」

「買えるとこにはツッコまないのか……」

 

 兄が自分のために用意してくれたあのお金は、出来れば兄自身のために使って欲しい。

 そんな考えとは裏腹に、彼は『必要になったら、自分の判断で使え』と通帳を手渡した。だから、もしその判断を下せば、ギターそのものは手に入るだろう。

 だけど、あのギターは香澄の手の中で輝くものだ。彼女が見つけ出したのだから。

 お金を後で返してもらうことも出来るが、そんな金額ではない。高校生には大金すぎる。

 

「……まあいいや。そんなわけだから、もう帰るんだな」 

 

 声とともに、戸が閉め切られる。

 

「どうしよ……凪紗ぁ」

「大丈夫だよ。別にもう来るなって言われたわけじゃないし」

「うん……」

 

 俯く香澄は、これまでみたこともないような萎れ具合だった。

 凪紗はその肩を叩いて、彼女の頬を両手で挟んだ。

 

「香澄らしくないなあ。どうしたの」

「んむ…だってっ」

「……きっと、市ヶ谷さんは、香澄とすっごく違うんだよ。考え方も、やりたいと思うことも。だから、思いが伝わるには時間が掛かっちゃう」

 

 凪紗は、掌の中の香澄の目を見ながら語りかける。

 いつもなら、すれ違いを気に留めることもなく、ただ波風を立たせないようにと努める友人関係。それが普通だった。

 しかし、凪紗は知った。彼女のように、感じたものを共有しようとまっすぐにぶつけてくる人間もいるのだと。

 

「大丈夫だよ。市ヶ谷さんは、たぶん香澄みたいな子に会うのが初めてなんだろうね。……だけど、必ず待っててくれてる」

 

 初めて彼女と会話した時の、あの目――友情とか、青春とか、バカらしいと思っていても、本当は諦めきれない。その瞳に燻ぶった火種を、凪紗は印象深く感じたのだ。

 

「……うん」

 

 髪を撫でられて、香澄は少し落ち着きを取り戻したようだった。

 

「香澄の思うように伝えてみなよ。すぐには無理でも、いつかきっと……大丈夫だから」

「うんっ」

 

 今度は迷いなく、そう口にした。

 

 

 

 それから数日、香澄は朝から有咲を学校に迎えに行き、そして夕方には一緒に下校して、蔵の整理を手伝うことを繰り返した。

 時折、凪紗はその様子を見に行くのだが、日に日に有咲の表情が、面倒がっているものの生き生きとしたものに変わっていく。そして、そのたびに通学路での距離が縮まっていくのだ。

 

「……なんで?」

「?」

「バンドやりたいんでしょ。ギターならなんでもよくね?」

 

 雨の日も、香澄はやってくる。休憩中、紅茶の入った二つのマグカップを置いて有咲が尋ねた。

 香澄は、スマートフォンのカバーに貼ってある星のシールを見せながら、それに答える。

 

「……星のシールがね、壁とか電柱とか、色んなところに貼ってあって。それを追いかけて出会ったギターだから、なんていうか、運命って気がしてるんだ」

 

 対して、有咲が浮かべたのは複雑そうな表情だった。答えるか迷って、結局口にする。

 

「……貼ったの、私」

「えっ、そうなの!?有咲が呼んでくれたの!?」

「そういう話じゃねーよ……昔、小学生の時にピアノ習ってて、ひとつ曲が弾けたらもらえたの」

 

 それから、有咲はその帰り道にシールを貼っていたことを明かした。意図があったわけではもちろんないが、香澄は、一度は有咲が否定したことが、まさに運命と感じられてならなかった。

 凪紗たちとの出会いと、同じように――

 

「ピアノ、やめちゃったの?」

「中学受験。そういう子、けっこういるし」

 

 懐かしむ表情。その先にあるピアノの側面には、汚れにくすんでも未だ輝きを失っていない星が一つ。

 

「――ね、ピアノやってた時、キラキラドキドキしてた?」

「なんだよ、それ……まあ、発表会とかは緊張……うっ」

 

 言い淀む有咲。そう、彼女も『ドキドキ』の体験を持っている。

 

「私も見つけたんだ。キラキラドキドキすること。できるかどうか分かんないけど、凪紗と、一緒にやってみたい」

「……」

 

 有咲の心底にあるものは、かつてのきらめきを取り戻そうとする情熱なのだろうか。

 そうあってくれればよいと、香澄も感じているのだった。

 ――夢の続きを、香澄は有咲と見たい。そのことを、言外に伝えようとしているはず。

 

「有咲っ」

 

 そう言って立ち上がった香澄は、有咲の手を取った。

 

「バンドやろう!」

「はぁ?」

「バンドって、ギターとベースと……えっと、キーボードもあるんだって!」

「もう弾けないし」

「大丈夫!だって、有咲もドキドキしたんでしょ?この前のライブも!」

「っ…してない!」

「ええー?」

「……あんましつこいと、もうギター見せねぇぞ」

「わー!ダメ―!」

 

 

 

「……ふふっ」

 

 蔵の壁に背を預けて傘を差しながら、そんな掛け合いの一部始終を耳にしていた凪紗。

 ――彼女はギターのために有咲に近づいているんじゃない。

 そのことが、彼女の純粋で、喜怒哀楽に富んだ表情を通して有咲に伝わっていくのだろう。

 それを感じるたびに、凪紗は僅かな微笑みを浮かべながら彼女たちの会話を見守っていたのだった。

 

 

     ♬

 

 

「終わったぁ!」

 

 香澄が歓喜の声を上げる。

 市ヶ谷家の蔵の中は、幾日も訪れ続けた香澄と凪紗の手伝いの甲斐あってか、そのほとんどが片付いていたのだった。

 

「お疲れ」

「うん、ちょっと疲れちゃった」

「正直かよ」

 

 凪紗がはっきりと感想を述べると、有咲がそれにツッコむ。彼女からしてみれば、勝手に手伝ってきたのはそっちだろ、と言いたいのだろう。

 

「私、ちょっとおばあちゃんに飲み物もらってくるねー」

「くつろいでんじゃねーよ!」

「そのあとで、またギター見せてね!」

「お、おい!……行っちまった」

 

 ダッシュで出ていく香澄を留める間もなく、有咲は項垂れる。凪紗はそれに苦笑した。

 

「すっかり居着いちゃってるね」

「お前もな」

「ふふ、確かに……ね、結局香澄の勧誘はどうしてるの?」

 

 凪紗がそれを訊くと、有咲はむくれたように答える。

 

「……別に、私が居なくてもいいだろ。お前いるんだし、なんでもできるだろ」

「え、もしかして有咲、それで……まさか、拗ねてるの?」

「う、うっせー!そんなんじゃねー!」

 

 入りたくない、彼女はそう言わなかった。

 原因は自分にあるものの、もうこれは半分()()()いるのも同然である。

 流石、香澄の人心掌握術……と驚きながらも、まずは有咲に意味深な笑みを向けることが先決である。猛抗議する有咲を見ると、それに構わず爆笑してしまっていた。

 

「……それに関しては大丈夫だよ。私、ギターやろうと思ってるから」

「はあ?」

「香澄と同じだね。二人で歌うのもいいでしょ?」

「なんか、そうしなきゃいけない理由でもあんのかよ?お前なら担当が被るのは非効率とか言いそうじゃん」

 

 意地悪そうな笑みを浮かべる有咲。間違いなく、普段の自分ならそう言うので、そこは肯定しておく。

 

「そうかもね。でも、私、弾いてみたいんだ。お父さんのギター」

「お父さん?」

「そう」

「……なんか、訳アリって感じだな」

「訊いちゃう?」

 

 挑戦的な笑みに、しかし自分でも無理にそれを作っているのだろうなと、凪紗は自覚していた。

 有咲もそれを感じ取ったのだろう、その話を訊くことは、凪紗に深く踏み込むことになると予感できた。言葉の上ではそれを拒んでいたはずなので、返事に戸惑いを隠せない。

 

「……やめとく」

「ふふっ、そっか」

 

 むすっとして目を逸らした有咲。

 まだ、誰にも話すわけにはいかないかな。そんなふうに、凪紗は思いをひた隠しにするのだった。

 

「――たっだいまー!有咲ギター見たいっ!」

 

 香澄が戻ってきた。

 雨の降る中傘も差さず来たので髪が濡れていたが、星耳は崩れていない。不思議である。

 

「別にいいけど」

「やったあ!それじゃ早速……」

 

 歓喜とともに、香澄は星のマークの描かれた黒いギターケースの取っ手を持ち上げようとする。

 その瞬間、その留め金が外れ、ケースが大きな音を立てて床に激突した。

 

「あっ!?」

 

 音からして、かなりの衝撃が伝わったのだろうか、その中身を晒したギターケースの金具は真っ二つに割れていた。

 

「か、香澄、大丈夫?」

「怪我はねーか……うわっ、こりゃ相当ボロかったんだな」

 

 凪紗は、座り込んだ香澄に向き合うように屈む。ふと、彼女の目から、大粒の涙が溢れているのが分かった。

 

「ごめん、ちゃんと持ってなかったから……!どうしよう、ごめん……!」 

「……」

 

 凪紗は、香澄のギターに対する思いの大きさを、このような形で知ることになるとは思わなかった。

 有咲へ視線を向ければ、恐らく自分と同じように、それに呆気にとられているようだった。

 

「香澄、ケースはともかく、中身にはそれほど衝撃が伝わってないみたいだよ」

 

 慰めの言葉を掛けてみる。事実、ギターの弦が数本切れているだけで、見た目は大きな損傷はない。

 けれど、香澄には届かない。

 そうだ。彼女には、上辺だけの言葉は響かない。

 

「戸山さん」

 

 同じように、有咲が声を掛ける。端末で何か調べているようだった。

 雨粒の弾ける音だけが聞こえる。香澄からの反応はない。じっと、ただギターを見つめている。

 

「……戸山香澄っ!」

「……っ!?」

 

 有咲が叫んだ。今度は届いたようだ。

 

「行くよ」

「行くって、どこに?」

 

 赤くなった目を、疑問符とともに向ける香澄。その視線の先には、有咲の端末画面が向けられていた。

 凪紗はそれを見て、彼女の思いが揺れ動いていることを確信する。それとともに、言葉足らずな有咲に代わって、香澄に答えるのだ。

 

「――ギターのこと、本当に大切に思ってるんだよね。それなら、行動しなくちゃ」

 

 香澄の疑問符たっぷりな泣き顔が、一瞬にして真剣なものに変わる。

 彼女もその行先について理解したのだ。

 

「……うんっ」

 

 走ることを覚悟しているのだろう、有咲はスニーカーの靴紐を結び直している。

 

 雨はまだ止む気配を見せない。

 それでも、彼方にある虹を目指して、走り出さずにはいられなかった。

 

 



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#7:虹(後/ガールズサイド)

 降りしきる雨の中を、凪紗たちはひたすらに駆けてゆく。

 道行く人々の、色とりどりの傘の色合いがまるで虹のように見えて、それが綺麗だと思った。だけど、本当の虹はもっと先――この空の、向こう側にある。

 そう信じて疑わなかった。

 

「すみません!」

「リィちゃん暇なんじゃー……あ、いらっしゃー……おろ?」

 

 江戸川楽器店――有咲の蔵から住宅街を抜け、川に架かる橋を超えた先にある店だ。雨だからか店内の客はおらず、レジ横の椅子に座る店員からはそんな声が漏れ聞こえた。

 

「はあっ、はぁっ……落としちゃって、修理お願いできますか!?」

 

 店員の女の子――エプロンの下に着ているのは花女の制服である――は、初めはずぶ濡れの三人組にしばし瞠目していたものの、香澄のそんな悲痛な叫びを聞くと、

 

「まっかせて!てんちょーっ」

 

 と、自信を感じさせる語気でそう答えたのだった。

 

 

 

 雨は上がった。

 

 店員の女の子は、鵜沢リィというらしかった。花女の三年生で、りみの姉であるゆりと同じバンド――『Glitter*Green』のベースを担当している。

 香澄は、まるで手術中の家族を待つときのように祈りながら、ときおり「ごめん……」と口にしてばかりで、流石の有咲も端末を見ているふりをするくらいには、深刻そうな表情を続けていた。

 ――それだけに、変わらず自信満々で出てきたリィを見た時の、香澄の喜びようといったら。

 

「うう、直ってよかった~!ごめんね、ごめんね……!」

「はぁ……弦切れただけなんだろ?落したくらいで大げさなんだよ」

「まあまあ。それくらい、大切だったんだよね?」

「うん……」

 

 香澄が有咲に近づいたきっかけは、ランダムスターだったわけではない。確かに、惹き付けられたことは間違いないが、それを通して有咲という人間に出会って、香澄は彼女に歩み寄ろうとした。

 ギターが出品に出されても、『いい人にもらわれるといいね』とも言った。

 有咲は気付き始めているのだろう。香澄の真っ直ぐな純情に。

 

「……それ、持って帰れば。オークションの出品取り下げたから」

「えっ?な、なんで……?」

 

 有咲はそれに答えなかった。ただ、一言だけ、

 

「大事にする?」

 

 それだけで、香澄は全て察することができた。そして目を輝かせて叫ぶように答える。 

 

「するっ!」

「よし。じゃあ、五百四十円」

「えっ?」

「オ、オクの取り下げ手数料。三十万はおまけしてあげる」

 

 目線を外し、背中を向けてそう言った有咲。凪紗の見間違いでなければ、その頬に差した赤みは夕日のせいではあるまい。

 ツンデレ少女はきっと、香澄のような純情を向けられることに慣れていない。その根底はかつて何かがきっかけで手放した憧れなのだろう。

 

「うん!ありがとう!……あっ、お財布にあと三百円しかない……」

「やっぱ売る!」

「ダメ~~~!!」

 

 学割の効いた修理代でも、三千円は高校生の財布には厳しかったようだ。やり取りに苦笑して、凪紗がそれに助け舟を出した。

 

「香澄、三十万円は貸せないけど、それくらいなら貸せるよ」

「な、凪紗ぁ~~!」

「それ意味あんのかよ……」

 

 五枚の硬貨を財布から取り出して、有咲に手渡す。

 夕焼けの中、二人の視線がぶつかるとき、凪紗は優しい微笑みを彼女に向けるのだった。

 

「……ありがとね、()()

「うっ……感謝されるようなことはなにもしてねー」

「素直じゃないんだから」

 

 茜色に染まる雲間から、虹が飛び出している。それはまるで、二つの空を繋ぎとめるように――

 泣きつく香澄を抱き留めながら、凪紗は深い感慨に包み込まれていたのだった。

 

 

     ♬

 

 

「ただいま……あ、ばあちゃん」

 

 そこそこの水たまりを避けながら、夕暮れの住宅街をまっすぐに進んで蔵へ戻ってくると、そこには有咲の祖母がいた。

 有咲の声に気付いた彼女は、ゆっくりと三人の方を向いて微笑んだ。

 

「おかえり、有咲。蔵の中、キレイになったねぇ。約束通り、有咲の部屋にして。はい」

 

 そう言いながら、ゆっくり近づいて有咲に渡したものは、鍵らしきものだった。それも、二つ。 

 

「二個あるの?」

「一個は地下室のだ」

「地下室?」

 

 何のことだか分からない香澄は首を傾げる。その傍で、なにやら有咲が床をいじっている。

 

「これ、入口なんだよ」

 

 その呟きとともに、床の一部が開けられる。覗いてみれば階段の先の暗闇が見えて、躊躇なく有咲が進み始めるので、凪紗と香澄は顔を見合わせて、それについていく。

 有咲が先に降り切って、電灯のスイッチを入れた。

 

「わあ……!」

 

 香澄は一人、静かな歓喜の声を上げる。

 そこには古いレコードの詰まった棚、そして大きなスピーカーにアンプが置かれ、まるで音楽を嗜む者のための空間が広がっていたのだった。

 勝手知ったように引き出しからシールドを取り出した有咲が、香澄のギターへ向けて片方の端子を突き出す。

 

「ほら、ギターに挿してみて」

「う、うん……」

 

 なぜか緊張したように、香澄が接続したギターを見つめて、それに頷いて有咲がアンプの電源を入れた。

 

「……はぁ」

 

 小さく息を吐く香澄。まるで、ライブが始まる前のような雰囲気を醸している。とは言っても。彼女は素人なので、コードも何も知らないだろう。 

 だから、凪紗は彼女の左指に触れた。

 

「うひゃぁ!?」

「驚きすぎでしょ。あと、緊張しすぎだって。運指?教えてあげるからさ、ちょっと力抜いて」

「わ、わかった」

 

 三本、指を貸してもらう。教えるといっても、少しかじった程度の凪紗は、とりあえずできるだけ簡単なコード――

2フレットの1・3弦と、3フレットの2弦に香澄の指を配置する。

 

「よしっ。これを保ったまま、この弦から弾いてみて!」

「うん。……えいっ」

 

 4弦から指が滑り落ちていく。増幅された弦の振動が、アンプから鳴り響く――いわゆるDコードというやつだ。

「……!!」

 

 偶然とはいえ、見事に和音が奏でられた。香澄は、目を見開いて驚きの表情を浮かべていた。

 

「すごい……すごいすごいすごい!鳴ったよ!」

「やるじゃん。これは才能アリかもね?」

 

 にわかに沸き立つ香澄に、凪紗はウインクで応じる。「もっかい!」とせがまれるが、何やら言いたげな顔をした者がいるようで――

 

「あ、あのさ」

「うん?」

「こ、ここで練習すれば?」

「え!?いいの!?」

「ただし!昼休み……一緒にご飯食べて」

「へ?」

「嫌ならいいけど!」 

 

 香澄のまっすぐな気持ちは、どうやら伝わったらしい。有咲も、そんな彼女を信じることを決めたのだろう。

 顔を赤くして、どんどん語気の弱くなっていった有咲とは対照的に、みるみるうちに香澄の瞳が輝きを増していく。

 

「……!有咲~!!」

「うわあ!?」

 

 飛びつかれて驚いているのだろうが、にやつきが隠せていないあたり、有咲も有咲である。

 凪紗は推察する。彼女も、きっと欲しかったものがあったのだ。理由をつけて、目を瞑って諦めたものが――

 

「ふふっ。じゃあ来週からは皆勤賞目指さなきゃね」

「い、いやもう手遅れなんだけど」

「私、毎日有咲の家行く!もーにんぐこーる!」

「行くよ!行くから毎日はやめろぉ!あと離れろ!」

 

 香澄を引っぺがすには相当の腕力が必要なので、()ひきこもり少女の膂力では厳しいだろう。

 一通り頬ずりも終わったあと、疲労困憊で座り込んでいる有咲に手を差し伸べるようにして言った。

 

「これからよろしく、有咲」

「うっ……よ、よろしく……な、なぎさ

「なに照れてんだよー。憧れの名前呼びじゃん」

「う、うっせー!」

「あーっ、凪紗ずるい!ね、有咲、私も香澄って呼んでー」

「わ、分かったって!だから引っ付くなーっ!」

 

 同じ立場になければ見えないものもある。だけど、違うからこそ気付けるものもまた、同様に存在する。

 人との関わり合いを諦めなくてもよい、今までなら信じられなかったものを、香澄と有咲が、信じさせてくれた気がしていた。 

 

 

     ♬

 

 

「おお、もう四人目まで」

「うん。凄いでしょ」

 

 翌日は休日だった。

 寝ぼけ眼で起きてきた凪紗は、朝食がてら律夏()に昨日加入した新規メンバーについて報告することにしたのだ。

 ちなみにもう十時である。完全無欠と謳われる彼女の唯一の弱点であった。

 

「その感じだと、その有咲って子は昼飯を一緒に食べるだけに聞こえるけど」

「だいじょーぶ。あれは香澄がぐいぐい行けば絶対落ちる」

「意志は関係ないのか……あ、コーヒーか紅茶、どっちにする?」

「そういうこと。今日はコーヒーかな」

「了解」

 

 手早くペーパードリップの準備をしていく律夏。相変わらずの手際であり、出る幕もないだろうと凪紗は冷蔵庫から牛乳を取り出していた。

 

「ミルク、入れるでしょ?」

「ああ、サンキュ」 

 

 それを手渡しながら、ふと思いついたことがあった。

 

「そういえば、お父さんのギターなんだけど」

「ああ。今朝、物置から出しておいたぞ。……これだ」

 

 キッチンから離れ、すぐ裏の玄関に置いていたギターを慎重に運んできた律夏。その手には、香澄の変形ギターと対になる色のギターがあった。

 思わず、「うわぁ……!」と声が漏れるのが分かった。

 海を感じさせるようなボディの蒼のグラデーションが美しい。板目の杢が波のように感じられた。

 

「すっごい綺麗……そういえば、お父さん海が好きだったもんね」

「そう。ウチの家系の青髪は、先祖代々海好きが多いからじゃないかってずっと言ってた」

 

 懐かしむように言った律夏と笑い合う。

 父――夏樹(なつき)は、本当に海が好きだった。瀬戸内で生まれ、ずっと海を見て育ってきたからだろうか、毎年、夏は家族を連れて海水浴へ出かけたものだった。

 

「ふふ……でも、お父さんは本当にギターやってたの?私知らなかったよ」

「実は俺もほとんど見たことはない。……まあ。座るか」

 

 彼の言葉に従って、マグカップを持って食卓に移動する彼の背についていき、椅子に腰を下ろした。

 

 一口啜って「まだ苦いな」と大量の牛乳を投入し、律夏は話を始めた。

 

「昔、偶然見たことがあるんだ。その時には『秘密な』って」

 

 続いていく説明によれば、家での練習はせずに、休日にライブハウスなどで演奏していたらしい。

 バンドを組んでいたらしく、しかしそのメンバーは会社の同僚などではないとのこと。

 

「そうなんだ。恥ずかしかったのかな?」

「分からん。ただ、楽しそうだったことはよく分かった」

 

 懐かしむように、律夏は私室でこっそりとギターを弾く彼の表情について語った。

 実直さを絵にかいたような人間で、特に息子の律夏には誠実であれと何度も諭していたことを覚えている。だから、ギターへ向けた情熱、そして律夏が見たという笑顔も本物なのだろう。

 

「……私も、頑張らなきゃ」

「ああ。父さんの分まで、な」

 

 マグカップを持つ手に力が入る。その熱が身体の奥へと伝わっていくようだった。

 

「それで、残りのメンバーはどうするんだ?」

 

 父についての話はこれで終わりらしい。律夏はギターをスタンドに掛けて、まだ見ぬ五人目以降のメンバーについて触れた。

 

「うーん、ギターはもう二人揃ってるんだけど、私も香澄も素人だし、上手い人がいたらなあ」

「文字通りリードギターってことか。後は?」

「欠かせないのはドラムだよね。誰かいるかなぁ」

 

 首を捻って考える。外部生の凪紗に心当たりのある者はいない。それならば、問題はそれをどうやって見つけるか、ということに帰着する。

 

「志哲にはいないの?先輩でもいいからさ」

「うーん……二年になると、もうバンドを組んでいる人がほとんどだからな」

「それもそっか」

 

 よく考えれば、志哲高校は共学校である。単純に生徒数が花女と同じだとするならば、その半数の女子生徒から探し当てなければならない。

 

「志哲から探すのは最終手段だな。そうすると――あっ、そういや花女のほかに、もう一校女子高がなかったか?」

 

 律夏が思い出したように口にしたその続きは、凪紗にも心当たりのあるものだった。

 

「ああ、羽丘ね。あそこと迷ったんだったっけ」

 

 羽丘女子学園は、花女と同じように中等部を設けている一貫の女子高である。

 凪紗は以前通っていた中学からの進学に際し、進学校だからという教師の勧めを一蹴していたのだった。

 

「その割には即決だった気がするが」

「うーん、花女の方が制服可愛いしねー」

「まあ、大学進学に関しては心配無用か」

「そーそー。第一、進学校っていったら志哲もそうでしょ?」

「ちなみに、なんで志哲には来なかったんだ?」

「……もう、男子絡みで要らぬ嫉妬を買うのは私も疲れたよ」

「あっ……」

 

 我ながらとんだ思い上がりだと非難されてもおかしくはないと思う。だが、それで散々苦しんだ経験を持っている凪紗は、こと進学先に関しては誰の介入も受けまいと息巻いていたのであった。

 

「って、違う違う。私の黒歴史の話じゃなくて、バンドメンバーの話をしてたんだった」

「そうだったな。そういや、四人って、そのキーボードとギターボーカルの子の他に、誰かが入ったのか?」

「あ、そっか。有咲の話が急浮上したから触れてなかったんだよね。りみっていう、ベースの子を香澄が見つけてきて――」

 

 律夏の疑問に対して、凪紗が答えようとしたまさにその時、携帯がけたたましく着信音を鳴らせた。

 

「ん?香澄か……ごめん、ちょっと出るね」

「ああ」

「もしもし?香澄?どうしたのこんな朝かr……もう朝じゃないか、すみません」

『?なんか謝られたけど気にしないで!っていうか、そうじゃなくて、大変だよ凪紗!』

「なに?また有咲の家に突撃したの?」

『今日は行ってない!違くて!りみりんが逃げちゃったの!』

「……逃げちゃった?どういうこと?」

 

 自分の言葉(ボケ)を零さず拾ってくれるあたり、今ではすっかり受け流される目の前の兄よりも香澄は優しくてツッコミ向きかも知れない。

 それよりも、彼女の言葉――先程話題に出た、りみが()()()との情報の方が懸案事項である。

 事態が掴めず、凪紗はそれを追及した。

 

『りみりん、バンドやらないって……』

 

 有咲を加入させ、バンド結成に王手を掛けた、と思っていた。だけど、それはあくまで序章のこと。

 

 ――どうやら、私たちの道は険しいらしい。

 

 がっくりと項垂れて、凪紗は深く悟りの境地に至るのであった。

 



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#8:才悩人応援歌(前/ボーイズサイド)

 屋上というのは、高校生をはじめ多くの若者が憧れを抱く場所ではないだろうか。

 授業中、あるいは放課後――誰もいないその空間にひとり佇んでいる、そんな風景を空想しては、まるで世界が自分を気にも留めないような寂寥交じりの解放感に浸ってみたいと思うのが性だ。

 一人くらい、そこで寝ていたって世界は知らんぷりで回り続けるだろう――少し後ろ向きな、消極的でアンニュイな特有の思想がカッコいい……恐らく、そう考えていたいつかの黒歴史。

 

「なあ、北沢」

「んー?」

 

 

 そんな思考を止めて、昼休みの心地よい涼風の吹き抜けるなか、律夏は恵にそう問いかけた。

 紙パックのコーヒー牛乳にストローを挿して吸っていた恵が返事をして振り向くと、長めの髪が風に揺れる。

 

 

()()()症って、治せると思うか?」

「あがり症――緊張しちゃうってこと?」

「そうだ」

 

 一昨日、凪紗の元に掛かってきた電話は、彼女のバンドメンバーになるという同級生からのものだった。

とにかく超ポジティブなのは分かったが、星耳やらきらきらどきどきやら、彼女にまつわる逸話はあまり言葉を通して理解できるものではなく、律夏は冗談かなにかの類いだと思っていたのだった。

 

「妹がバンドメンバーを探してるんだけどさ。そのうちの一人から、人前で演奏するのが苦手だって断られたらしい」

「そりゃー致命傷だね」

「まあ、色々あるんだろうけど……」

 

 恵の指摘ももっともであるが、もしかするとその辺りをよく確認せずに誘ってしまったのかもしれない。

 後で凪紗に聞かなければ、と考えていると、恵からの意味ありげな視線を感じた。

 

 

「……何だ」

「いや。妹思いなんだなって」

「そうでもない。それこそ北沢だって、店番をよく代わってあげてるって言ってただろ」

 

 

 恵にははぐみという妹がいる。凪紗と同じクラスに所属しているらしい。

 彼は兄として、元気いっぱいな妹に振り回されながらも、それを微笑ましく思いながら見守っているのであった。

 

 

「あいつはエネルギーに満ち溢れてるからね。店先に閉じ込めておくといつ暴走するか分からないから」

「心配してるんだろ?」

「……まあ、兄として、ね」

 

 ここで「妹さんをください」と懇願すれば、もれなく渾身の一撃をもらうだろう。それくらいの(シスコン)が彼の言葉に表れていたのだった。

 

「まあ、そうだな」

「うん。それで、緊張しちゃう、って話だけどさ。その子は人前で演奏したことあるの?」

「……それが出来ない、って話じゃないのか?」

「まだしたことがないんだとしたら、本当に緊張するのかはやってみないと分からないんじゃない?」

 

 食わず嫌い、みたいな?と付け加えた恵に、律夏は「なるほど」と頷き返した。

 強い思い込みか、はたまた他に理由があるのか。単にあがり症では済まないことが確かだが、どうやら、これ以上は想像力を要することになりそうだった。

 

「完璧主義で、こんなの人様に見せられるレベルじゃない!って考えてるとか」

「ありがちだな。自分に課したハードルが高いってことか」

「そうなると、どうしてそんなに高くなっちゃったのってことになるけど」

 

 この問題の根源はそこにありそうだ。それを絶つか、解決してあげられれば、律夏の知らないその子は凪紗たちのバンドに加入してくれるかもしれない。

 実際に動くのは凪紗たちだが、少なくともヒントを与えてあげるくらいのことはしたい。

 

「完璧主義って、要は理想を追い求めすぎるってことだよな」

「うん。悪いことではないと思うけど、どうしても無理をしてるって印象が先に出てくるんだよね」

 

 無理をしてまで追いかけたい理想が彼女にはあるのだろうか。

 彼女が完璧主義であるというのはあくまでも仮定にすぎず、したがってこの思考が実際に意味を成すとは考えにくい。だけど、彼女の背後にあるものが心理的な足枷となっているのなら、それを取り除く方法くらいは見つけておいてもいいだろうと思っていた。

 

「理想、ね。北沢の理想像ってなんだ?」

「あはは、何それ」

「いや、個人的な興味で」

「うーん……それってどんな意味の理想?」

「なんだっていい。人間として、男として、高校生として、目標みたいな」

「そうだなあ……あ、兄として、なら若葉かな。ザ・お兄ちゃんって感じで」

「俺が?もっと他にいないのかよ」

「意外とこういうのって、身近な人になりやすいよ。周りで下の子がいる子ってあんまり知らないし」

「それは、つまり他に宛がないってことかよ」

「いやいや、尊敬してますよ?」

「胡散臭いなぁ」

 

 嬉しくない尊敬というのも珍しい。

 それはともかくとして、理想像というものは近しい存在をモデルとして抱きやすいのは事実だろう。

 律夏は、そこに答を見出せることが可能であることを確信したのだった。

 

 

   ♬

 

 

「若葉、少しいいか?」

 

 放課後、いつもは帰路を共にしている恵が、店で急ぎの用があると言ってすぐに帰ってしまったので、律夏は図書室で数学の復習をすることにした。ベクトル、数列と苦手な単元が続いていたので、凪紗にからかわれる事態は避けたいのである。

 教科書を開いて、苦虫を噛み潰す思いで演習問題と格闘すること小一時間。休憩を挟もうと自販機コーナーへ歩みを進める道すがら、担任の教師である左門(さもん)に声を掛けられた。

 

「はい。何か?」

「こないだの生徒会選挙は知ってるよな。アレなんだが、どうも役員が集まらなくてな。教員推薦枠が設けられた」

「……それで、なぜ俺にその話を?」

「分かってるだろ、図書室に残って復習をするくらいには真面目で努力家な生徒をみすみす野放しにする教師はいない」

 

 正直にいえば、生徒会選挙の最中はずっと居眠りをかましていたのであまり覚えていない。

 ずん、と体育教師特有の力で肩に掌を乗せられる。顔には暑苦しい笑顔が貼り付けてあり、サムアップが非常に鬱陶しかった。

 

「すみません、俺、家のことが」

「それは分かってる。お前も大変だろう。お母様のご様子は?」

「お陰様で、少しずつではありますが改善しています」

「よかった」

 

 今度は腕組をして頷く左門。ジャージの上からでも分かるが、なかなかの筋骨隆々っぷりである。一年前の自分なら張り合いに行っていただろう。

 

「今回の話は、そういった事情を踏まえてのことだ。公立の当校は指定校推薦枠が非常に少ない。だからこそ、生徒会に所属してくれれば教師陣もお前を指名しやすくなる」

「……!」

 

 彼の表情が途端に真面目になっていたことに、律夏は今になって気が付いた。

 ひょっとしたら上手く乗せられている線も捨てきれないが、それを見る限り、彼なりに自分と家のことに最大限配慮しての発言だったと思えるくらいには、真摯さが伝わっていたのだ。

 経済的な制約が大きい状況下で、私立大学に行くぐらいであれば高卒で働きに出る道を模索する気でいた律夏は、その提案を受け入れないわけにはいかない。

 むしろ、彼に感謝する気持ちが生まれてきたのだった。

 

「お前が色々と考えて動いていたことを、転校前にお母様から電話越しで聞いた。お節介かもしれないが、俺にできることなら協力させてくれ。教師としてな」

「……すみません。少し誤解してました。ありがとうございます」

「まあその方が都合いいと思ったのは事実だからな」

「事実なのかよ……」

 

 がはは、と豪快に笑い飛ばす担任の姿は、僅かな安堵を含んでいるように見えた。無遠慮に見えて、実のところはデリケートな問題に対して注意深く配慮していたのかもしれないと思うと、何だか似つかわしくない。

 

「それで、役職とかって決まっているんですか?参加するとは言ってもあまり忙しいと」

「ああ、それについては不足分を補うだけだから安心しろ。今のところ会長と副会長以外なら空いているぞ。選び放題だな」

「それって要職が誰も揃ってないってことじゃないですか」

「まあ、年にもよるが基本定員割れを起こすポストだな。今年は特に少ない」

「そうすると、何をするんですか?」

「役職に就く生徒が少なくなると、書記や会計といった仕事は副会長に回ってくる。そうなれば、お前の仕事は庶務、会長たちの補佐と、校内の取り締まり――風紀委員みたいなものになる」

「その風紀委員はいないんですか?」

「彼らはあくまで学級内の仕事に留まる。まあ、自称進学校たる当校には問題を起こすほどの度胸の持ち主はいない」

「腑抜けと言われているようで素直に喜べませんね……」

「健全であることに越したことはない。何、それともお前には()()()()相手でもいるのか?」

「いたら一人寂しく図書室で自習なんてしません」

「そうだったな」

「納得しないでくれ……」

 

 日の落ちかかっている廊下を担任に従うように歩く。こうしていれば身辺警護のように見えるのだろうか。

 

「さっきは選び放題と言ったが、結局は()()なってしまうことになりそうだ。どうだ、時間があれば今日から始めてみないか?」

「今日からですか?」

「というのも、今日は地域各校の生徒会交流会でな。具体的な仕事についても昨年度から続けている生徒に聞くことができる」

「なるほど」

 

 続く説明によれば、本格的な始動は先のことになるらしい。交流会は役職を初めて経験する低学年の生徒に対する、事前のアドバイスも兼ねているという。

 

「地域各校というのは?」

「羽丘と花咲川だ。どっちも女子校だ、よかったな」

「妹が花咲川なので……滅多なことはできません」

 

 やたらとその手の話を推してくる担任にため息で返す。思春期真っ盛りの高校生にとっては魅力的な話なのかもしれないが、残念ながらそんな暇もなければ心意気もないというのが、自分の枯れっぷりの深刻さを実感させて悲しくなってしまった。

 

 

     ♬

 

 

「いやあ、若葉くんが入ってくれてよかったよー」

「まあ、内申目的なのであまり偉そうなことは言えませんが」

 

 自分を超える筋肉質な彼に連れられて生徒会室に入ってみれば、一人の女生徒――志哲高校の生徒会長である上原ひかりが歓喜の表情で律夏を出迎えた。

 その髪色は、すっかり散ってしまった桜の色を想起させ、それを左右に留めたヘアピンの間の額が眩しい。

 歓迎の熱烈ぶりに面食らった律夏は、激しく上下に振られる腕をそのままに、しばらく呆気にとられていたが、もはや恐怖とまで言えるにやつきを残して教室から出ていった左門への怒りに、自我を取り戻したのだった。

 

「それで、副会長は?」

「それがねー、今日はお店の手伝いがどうのって、先に帰っちゃって」

「店?」

「あれ、聞いてない?北沢恵くん、確か同じ二年生だったよね?」

「……同級生です」

「それはよかった!」

 

 天真爛漫な笑顔を見せるひかりとは対照的に、衝撃のあまり表情が神妙なものになってしまった律夏。生徒会選挙を眠って過ごすと知るべきことを知ることができないのだと悟った。

 ふと、眼前にあったそれまでの笑顔が、真剣なものへと変化していることに気付く。

 

「……あと、左門先生からご家庭の事情を聞いたんだけど」

「そうなんですか」

 

 控えめな口調が、努めてこちらに気を遣っていることを伝えていた。

 正直に言えば、この人に務まるのかと一瞬でも疑ってしまうくらいには、纏っている雰囲気が女子高生らしく(失礼なのだが)、律夏が少しだけ驚いたのはそれが理由だった。

 

「その感じだと、先生はそのことを言ってなかったんだね。……まったく」

「いえ、気にしていないので大丈夫です。……ただ、その都合で」

「仕事のことならそれこそ気にしないで!基本は私と副会長がいるから」

 

 総てを、というわけではないだろうが、左門が若葉家の事情を伝えていることは予想ができていた。仕事によっては積極的に参加することが厳しい場合もあるだろう。説明や誤魔化しの手間を省くためでもあるのだろう。

 

「妹さんがいるんだよね。この辺りの学校に通ってるの?」

「ええ。花咲川です。今年から」

「そうなんだ!私にも一年生の妹がいるよ。羽丘に行ってるんだ」

「羽丘……やっぱり受験は難しいんですか?」

「そうだね、でも、できる姉がいますから!」

 

 胸を張って威張るふりをするひかり。この学校に入学しただけの学力のこともあるが、しっかり者の姉らしい。どうやら最初の印象とは違っていたらしいと認識を改める。

 ――なんだか慎ましいな、と思ってしまったことは口が裂けても言えまい。

 

「若葉くんだってそうでしょ?」

「いえ。それが妹の方が勉強はできるんですよ。もう高校範囲も終えてしまったくらいで」

「……マジ?」

「マジです。だから勉強には手を抜けなくて」

「できる妹ってのも大変だねえ……」

「先輩の妹さんはどうですか?」

「うーん、まあすっごい可愛いのは言うまでもないんだけどね。ちょっとおっちょこちょいで空回りしちゃうところもあるかな。あっ、でもそれも可愛いっていうか」

 

 ――これは重度のシスコンだな。

 これでは我らが志哲のツートップがシスコンになってしまう。その上、庶務兼風紀委員長までもが妹もちとなると、あらぬ噂を流されることになって困るのは自分だ。

 律夏は最大限の警戒をもって答えるのであった。

 

「溺愛ぶりがすごいですね」

「妹なんてみんなそんなものでしょー?若葉くんだって、そういう思いがあるからこそ、家の仕事を買って出たんじゃない?」

「……否定はしませんが」

「ふふ。ツンデレでおまけにシスコンだ」

「あなたに言われたくないんですけど……」

 

 兄弟事情にはそれぞれに差があるとはいえ、どの家庭でも兄や姉の気持ちはそう大きく変わらないようであった。

 

 



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#9:才悩人応援歌(後/ボーイズサイド)

※8/16修正


「風紀委員の職務は、基本的な学校生活での風紀維持、そして特別行事などが行われる場合の違反行為の取り締まりに大別されます。どちらにしても、この学校では校内の巡回が専らになるでしょうね」

「なるほど」

 

  律夏は、メモ帳に『特にやることはなし』と記入する。

 

「……それ以外の仕事が全くもってないわけではありません。現に花女では制服チェックや持ち物検査を行っています」

「あ、はい。……見ました?」

「見ました。すみません。だからといって見過ごせるわけではないので」

「手厳しい……」

 

 一睨みされるので、その冷たさに凪紗のそれを感じ取ってすぐさま訂正線を引く。

 

 成り行きに任せていたとはいえ、ひかりとの話は存外に盛り上がった。お互いに同じ年の妹――ひまりといい、羽丘に通っているそうだ――がおり、さらにバンド活動まで行っている(実際には、凪紗はそれに至っているわけではないが)と分かったからだ。

 そうしている間に各校の代表者が到着したので、未だに人員確保のおぼつかない志哲高校代表の二名は、副会長が担当することになるであろう財務を除き、ひとまず最優先で確認すべき職務について、先駆者の師事を仰ぐこととなった。

 

「まったく……真面目な人だと伺っていたので安心していたのに」

「ちなみに、それは誰から?」

「そちらの生活指導の先生です。確か、左門先生という方だったと」

「すでにロックオンされてるし……というかあの人、生活指導なのか……」

 

 今までは部活動に精力を注いでいた律夏にとって、生徒会や校内での活動に割く関心などはある筈もなかった。

 最も、現在ではそうもいかなくなった事情が加わって、学校という場が生活の外側として扱われている節さえあった。

 したがって、「それくらい知っていて下さい……」とこめかみに手を当てて呆れる彼女に弁明の余地はあるはずであると、律夏は密かに主張したがっていたのだった。

 

「氷川さんは真面目、というよりも厳格な人なんですね」

「風紀委員なら当然です。若葉さんもその自覚を持ってください」

「善処します」

「努力をすることは前提条件です。結果を伴ってもらわなければ意味がありません」

 

 参考人・花女の風紀委員長代理である氷川紗夜の眼光は、その肩書きに十分に見合うものであった。

努めて平静を保ちながら、その激烈な視線に対抗する。果たして風紀委員に必須のものなのだろうか、そんな馬鹿げた考えはその眼圧によって霧散した。

 

 ――どうすればこんな女子高校生にそぐわない目付きができるのだろう。

 

 彼女のもつ鋭利さを通じてその背後にあるものを考える。凪紗のバンドメンバー(仮)と同じように。

 彼女の厳しさは、周り(律夏)を巻き込んでいるから、一見外向的に見える。けれど、その実は内向的なのかもしれない。

目的は分からないが、彼女からは自らを律し、高めることに余念がないといった印象が見受けられる。

 

「……なるべく強く、と睨んだ筈なのですが」

「手を加えないで下さい。というか恐いので睨まないで下さい」

「それはあなた次第です。この学校は進学校とはいえ共学ですし、女子高の花女や羽丘よりも異性間のトラブルなど問題が起きやすいのですから、しっかりしてもらわないと」

「そ、そこまで起こるもんなんですか」

「予測できないからこそ、問題なのです。訳の分からない髪型をして、訳の分からない変形ギターを掻き鳴らす問題児も、残念ながら当校にいるのですから」

 

 どこかで聞いたような話である。

 ともかく、凪紗がその中に入っていないことを祈りながら、「そ、そうなんですか」と返すのが、律夏にとっての精一杯だった。

 

「ずいぶん盛り上がってるね~、順調に進んでる?」

「会長」

「盛り上がってはいません。志哲高校内の風紀がこの人に任せられていると思うと不安なので、指導しているだけです」

 

 一通りの協議を終えたひかりがやってきた。どうやら紗夜とは面識があるらしく、それなりの間柄であることを感じさせる。

 

「初対面の人にこれだけ紗夜ちゃんがしゃべってるところなんて見たことないよ」

「しゃべっている、というより猛烈な追及という方が適切ですけど」

「ええ。これは事務的な会話であって、何らこの人への個人的興味を示すものではありませんから」

「ちょっと?わざわざめった刺しにすることはないでしょ」

 

 こちらを()す、紗夜の指がしなやかに伸びてくる。いわゆる白魚のような、と形容される類のものだろうと、何となく律夏はそのような感想を抱いたが、それでこの氷の棘が丸くなるはずもなく、そっと胸の内に留めておくことにした。

 

「ふふっ……ほら、息ぴったりじゃん。やっぱり、天才の妹を持つ者同士の苦労が共有できたのかな?」

「「え?」」

 

 間抜けにも聞こえる反応は、二人同時に発されたものでもあった。それを見てひかりが笑い転げる傍ら、紗夜と律夏は目を丸くして互いに視線を交わしていたのだった。

 

 

     ♬

 

 

 夕暮れ時の長い影が二筋、誰もいない舗道を暗く染める。

 交流会の後片付けを終えて、各校生徒会の面々はそれぞれに帰路に就いたが、偶然にも紗夜の自宅への道のりがほとんど同じだったということで、ひかりに紗夜を家まで送り届けるよう命じられた。

 渋い表情をされるかと思っていた律夏は、それを大した抵抗もなく受け入れた紗夜に意想外の念を覚えたのだった。

 

「なるほど、それでは妹さん――凪紗さんは、若葉さんの妹さんだったのですね」

「そうです。というか、凪紗を知っているんですか?」

「ついこの間、花女では一年生の実力試験がありました。成績上位者は獲得点数が名前とともに掲示されるのですが……その、全教科で満点を取った生徒が一年生にいる、という話を聞いて、見に行ったのです」

「あー……」

 

 規格外、という言葉が凪紗にはよく似合っているということを、律夏は常々感じている。偏差値で学校を測るということをしたくはないが、これが花女に比べて偏差値が五は高い志哲、そして羽丘でも彼女は満点を取ってしまうだろう。

 彼女が花女を志望したのは、ただ『制服が可愛かった』から。女子にとって死活問題であることは重々承知の上だが、全国の受験生がこの事情を知れば憤死しそうなくらいには、凪紗は他の追随を許さないほどの実力を誇り、それ故に興味を失ってしまっている。

 

 「私も勉学を疎かにしたことはありませんが、それでも焦りを覚えました」と紗夜は口にした。彼女は、凪紗の示した結果について、かなりの評価を下しているらしい。

 そうだとしたら、その根底にある感情はなんだろうか。

 

「まあ、あれは色々とイレギュラーなもので……でも、問題児というわけではないと思いますよ」

「別に目をつけているとか、そういう訳ではないのです。……むしろ、私はあなたの方が気になっています」

「えっ」

 

 急にそんなことを言われるものだから、立ち止まって吃驚を滲ませると、紗夜は自らの失言に気付いたようで、それまでの冷静さが霞んでいくほどに慌てていた。

 夕日に顔が赤く染まるというのは、小説特有の表現ではないだろうか。実際にそれを注意深く観察しようとした経験がないので分からない――そんな風に考えていたら、矢継ぎ早に訂正の言が飛来した。

 

「ちっ、違います。()()()()意味はありませんっ」

「ああ、いや、なにも言ってないんですけど。まあ、それは分かってますから」

 

 そういう意味、とはどんな意味ですか――もしそんなことを(多少のゲス顔で)聞こうものなら、射殺すような目で返されて失禁してしまうだろう。律夏はそう予感して口を固く閉じた。

 それでは、彼女が気になったのはどんな意味の上でなのだろうか。

 一つだけ、心当たりがあった。

 

「氷川さんにも妹さんがいるんでしたよね。それ関係で、ってことでしょうか」

「……察しがいいですね」

「実力は遠く及びませんが、凪紗(あいつ)の兄なので」

 

 苦笑混じりに自分の頭を撫でつけた。紗夜はそんな律夏に対して、不思議そうな、ともすれば怒気の見え隠れする表情で相対した。

 

「私は、知りたいのです。……なぜ、笑っていられるのですか。妹さんに、悔しさを感じないのですか」

「……氷川さんが、そう感じていると捉えてもいいですか」

「っ……」

 

 悪手なのは分かっているが、質問に質問で返すと、紗夜はまるで西日の眩しさから目を隠すように俯いた。

 それに対する回答はなかった。それでも、それが肯定を暗示していることなど、すぐに分かった。

 そして、もう一つ――凪紗のバンドを巡る問題、そして氷川紗夜の厳格な性格についてのひとつの解に、律夏は辿り着いたのだ。

 

「さっき初めて話したときから、氷川さんは自分に厳しい人だ、と思っていました。それはきっと、妹さんがウチの妹と同じように、生まれながらに色んな才能を持っていて、それに追い抜かれないようするからでしょう」

「自分に厳しい、ですか。私が言うのも何ですが、周り(あなた)に厳しいとは思わなかったのですか?」

「結果としてそうなっているだけ、という風に解釈しました。……まあ、睨まれると怖いですが」

「……」

「そう、それです、すげえ怖いんで。いや、すいません。勘弁してください」

 

 土下座も厭っていられないほどの猛吹雪が律夏を襲う。紗夜は冗談を言っているのかと思っているのかもしれないが、これは比喩ではなくまさに凍てつく冷たさだ。

 「ところで、俺の予想は当たっていますか」とそれを敢えて流して、ひとまず凍死を免れる。

 

「……外れているわけではありません、事実、日菜――妹に対する競争心というものが私の中にありますから」

「その日菜さんってもしかして、氷川さんと双子だったりしますか?」

「え、ええ……そうですが、どうして?」

「それなら確かに、姉妹間で比べられる場面が増えると思ったからです。うちは兄妹だから、家族内の役割やそれぞれに掛けられる期待が違ってくる」

「しかし、すべてがそのように違うわけではないでしょう。はじめに私があなたに詰問――いえ、質問したことは、そういうことです」

 

 なにやら怪しい単語が聞こえたような気もするが、今は彼女に対して出来るだけ正確な回答をすることが先決だと、律夏は考え直した。

 いわゆるアイデンティティに関する問題に、律夏自身も悩むことがあった。だから、似たような懊悩を抱える彼女に対して誠実に向き合いたいと思ったのだ。

 

「これが氷川さんにとって役に立つ回答になるかは分かりませんが」

「もとより期待していません。解答は自分で探すものですから」

 

 氷川紗夜は、自分に対してどこまでも清廉であろうとしているように思える。苦しみはそれ故に生じるものである。

 努力して、走り続けて――その過程にある意味を、彼女は忘れている。結果を追い求めすぎている。

 声援、脚光、それらが与えられる妹の影で、孤独感に苛まれて、それ故に、自分のために自己を高めることを狂ったように信じ、必要とし続けている。

 だから、彼女の返答が自分の立てた理論のうちに収まるものと知って、律夏はその確信を深めるのであった。

 

 

 

 凪紗は俺の一つ下の妹です。

 幼少期から今に至るまで、そこまで大きな喧嘩や仲違いをすることなく、仲良くやってこれたと、自分では思います。

 だけど、言い換えればそこにはあるべきコミュニケーションがなかった。思いをぶつけることをしてこなかったんだ。

 どれだけ努力を重ねても、凪紗は軽々とそれを飛び越えていく。そんな日々を続けていくうちに自分に失望して、いつしか

劣等感に溺れて、自分を忘れようとしていたんです。一番の間違いは、そういう思いを、凪紗に伝えていなかったことです。

 

 ――今は、そうではないと?

 

 少なくとも、かつてのように自分を責めて、勝てない相手(凪紗)に追いつこうとすることはなくなりました。

 俺はあいつの兄で、あいつに代わるものではない――そんな風に、考えるようになったから。

 

 ――そのきっかけは、何なのですか?

 

 そう訊かれたときに、律夏は今になって気が付いた。

 この話を進める以上は、若葉家の事情について紗夜を踏み込ませることになる。そうなれば、自らが求めていた答を知って、紗夜は後悔してしまうかもしれない。

 完全な日没が近づいている。もう三十分もすれば、互いの表情が読み取れなくなるくらいの宵闇が辺りを覆うだろう。

 逡巡の間、言葉は出ない。紗夜は訝しげにこちらを見据えていた。

 

 今は、まだ。

 

 その気持ちが確かにあった。けれど、役立つか分からぬ配慮に言葉を濁してしまえば、紗夜(たいていの人)はすぐに気が付くだろう。

 配慮とは何だ。

 彼女は知りたいと言った。それなら、余計なものはいらない――虚飾に逃げてしまうことは、不誠実そのものではないのか。

 

 そうだ。

 

 思えば、今までは家族のことをひた隠しにしてきた。恵にも、山吹家のひとたちにも、きっと知られてしまったら、関係が変わっていくような気がして。

 だからこそ、出会って一日と経っていない紗夜は、一度も明かしたことのない秘密を曝け出すのに、心理的な障壁の生じない存在だった。

 

 建前も本音も、同じ方向を向いている。

 

 自分の発言には責任を持ちたい。だから、後悔はしない。

 夕景が失われ、道の向こうから列を成した街路灯に光が与えられていく。その前に、律夏は多少の戸惑いこそあれど、強い意志とともに語り始めたのだった。

 

 




修正前に読まれた方々は、ひまりの姉の名前を考えるのに最後まで葛藤した爪痕に困惑されたかも知れません。申し訳ない……。


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#10:1・2・3(前/ガールズサイド)

「前に言ってた、ベースの子の話なんだけど」

「あー、牛込さんのことね。香澄と少し話をしてたんだけど、やっぱり理由は分からなくて」

 

 帰宅後、それぞれの洗濯物を畳んでいると、律夏がそう切り出した。話題は専ら花女での自分のバンドの話だけあって、自然と身体が律夏の方を向く。

 

「少し考えてみたんだ。なんだかうちの学校にはバンド関係者の兄弟姉妹が多い気がして、前に言った北沢とかと話をしてみた」

「ああ、恵さんだっけ?初めて写真見た時は女の子かと思ったよ」

「その他にもな。羽丘にベースをやっている妹がいる生徒会長とか、あと風紀委員の関係で氷川さんっていう花女の人と会ったんだ」

「氷川……あっ、そういえば香澄がギター没収されたときの!」

「やっぱりその子だったのか……」

 

 これは次の定例会議で謝っておかないと、と律夏が呟く。妹としては、思わぬ形で自分の交友関係と接点を持ち始めるきっかけとなったその偶然にただ驚きが残るばかりだが、生憎今はそれを深堀りしている暇はない。

 もはや気恥ずかしさなど欠片も持たず、兄と自分の下着を畳みながら、凪紗は「それで、なにか分かったの?」と訊いた。

 

「ああ。まず、その牛込さんにも兄弟姉妹がいるのか?」

「えーっと、確かグリグリ……私たちが前に見に行ったライブハウスで演奏してるバンドにお姉さんがいるって聞いたよ」

「なるほどな」

 

 りみの姉であるゆりがGlitter*Green、通称グリグリのメンバーであったことは、いつもの昼休みに集まったときにりみ本人が口にしたものだ。

 それを伝えると、律夏は腕を組んで深く頷く。どうやら、彼の中で納得したことがあるようだった。

 

「でも、それと今回の件は、なにか関係あるの?」

「まあ、兄弟姉妹には色々とあるんだよ」

 

 彼はそう前置きして話し始める。

 推測できる限りでは、りみがステージに立つにあたってその障害となる極度の緊張は、ゆりの、さらにいえばグリグリの演奏レベルの高さが原因である――りみにとって、すべてのライブの基準はゆり()にあるということらしい。

 

「生活を共にして、血が繋がっているからこその劣等感が根本にあるんだろうな。姉を理想であり、目標にするからこそ」

「そんなものかなあ。私は思わないけど」

「お前はイレギュラーなんだって。あと、異性なりに比較されにくいっていう点もある」

「確かに……なるほどなぁ」

 

 そうは言ったものの、発言通りに納得がいく訳でもない。

 劣等感とはなんなのだろうか、具体的に経験の少ない凪紗は、それを説明するだけの文章力があっても、そこに想像に足りるリアリティを描くことはできなかった。

 

「逆に、兄さんは感じたことあるの?ほら、私なんでもできるし」

「少しは自重を覚えろ。――さっき話した氷川さんとその辺りの事情が重なってくるんだが、まあ今より精神的に幼かったころはそう思うこともないことはなかった」

「いやあ、照れるなぁ。って、氷川先輩もなんだ」

「褒めてないぞ。そのことで一つ言っておきたいんだが、()()()()()、氷川さんに伝えたんだ」

「えっ……」

 

 多少はからかい半分で話をした自覚があった凪紗は、兄の発言を聞いて、冷や水を浴びせられた気分になった。

 今まで禁句となっていた()()()()について、兄が敢えて口にしたというのだ。

 浮かんでくるのは、疑問ばかり。

 

「な、なんで」

「俺な、指定校推薦を狙うために生徒会に入ったんだ。それで氷川さんとも仕事上のやり取りをしたんだが……どうしても、家の事情で参加できない活動が出てくると説明がつかなくなってくるから」

「っ、それって――」

 

 自分のせいではないか。

 その言葉が出る前に、律夏は静かに、しかし力強い語気で否定した。

 

「違う。大学に行くための手段について選択をしたのは俺だ。だから、その責任はすべて俺にある」

「でも、家事だって、私がやれば」

「今でも十分手伝ってもらってるだろ。これ以上やってバンドにも影響が出てきたら、折角出会えた友達と練習する時間が少なくなる」

「それくらい――!」

「それくらい?」

 

 声に疑念を滲ませた律夏の視線が鋭くなる。それに射竦められるように、凪紗は二の句を継げなくなった。

 もう何年も見ていない、厳しい表情だった。

 

「それくらいで済ませられるのか?ライブを見に行った日に感じたものは」

「た、確かにそうだけど……それじゃあ、兄さんはっ!」

 

 なんで、私だけ。

 ずっと思っていた。なぜ、凪紗(自分)だけが好きなことに挑戦できるのか――入学するまでは碌に夢を見ることすらできなかった自分が、家族のために水泳()を捨てることすら厭わなかった律夏を差し置いて。

 それを伝えると、律夏は瞑目して、わずかな沈黙ののち、ゆっくりと語りだした。

 

「……それは、お前が妹だからだよ」

「妹、だから?」

「俺が、一度は溺れかけていた劣等感から抜け出して、そして、今こうして行動している理由……全部、そうだ。お前が妹であり、守らないといけない大切な家族の一人だから。それを、()()()()()()()()()()――」

 

 ――父さんと、約束?

 

 最後に明かされたものに絶句する凪紗。それを尻目に、律夏はこのことを誰にも口外しないという条件で、氷川紗夜にも語ったとも言って加えた。

 夏樹()との約束を、律夏は今も忠実に守ろうとしている。彼の望みはただ一つ、その約束を結んだ時から変わらないということなのだろうか。

 

「言っとくが、そのせいで俺が好きなことも出来ずにいるなんて、それ、俺を見くびり過ぎだから。全部叶えてこそのお前の兄だろ?」

 

 そう言ってのけた律夏は不敵にも笑うのだ。そこに嘘はない――否、そう信じたいだけなのかもしれない――それでも、凪紗の心にひとつの疑いも残さないくらいに、はっきりと応えたのだ。 

 それに相対して、凪紗はつられるように吹き出してしまう。

 

「ふふ……それもそっか。私の()()()()()だもんね」

「おう。てか、お兄ちゃん呼びされたの久しぶりだな。もっかい頼む」

「……シスコン」

「ちょっと?その顔しまってもらえる?ほんとに怖いんだよ氷川さんといい」

 

 凪紗の豹変に慌てふためく律夏。余裕そうな笑みが頼もしくもあり、なんだか腹立たしくもあったので、それを見てざまーみろと内心で舌を出す。

 それでも。

 

 ――ありがとね。

 

 バンドを結成した時、この温かな感謝の気持ちを初めての音にのせて、律夏に届くように響かせたい。凪紗はそう決意したのだった。

 

 

     ♬

 

 

「それでね、二人でね、英語しゃべってね!」

「へえー……」

 

 昨日、丁度凪紗が兄と会話をしていたとき、夕暮れの公園でりみと話をしたことについて、香澄はランダムスターを弄りながらも、楽し気に話している。

 一方、それに対して有咲は例の鋏を片手に盆栽を弄りながら――トネガワといったか――興味なさげに()()()()()()()、無機質な返答で対応していた。

 

「バンドができないのも、ちゃんと分かって」

「あ、それ。牛込さんから聞いたんだ」

「うん。ステージでみんなに見られると緊張しちゃって、お姉ちゃん――ゆりさんみたいにカッコよくできないって言ってた」

「やっぱり……」

「やっぱり?」

 

 りみと直接の会話をしたのは、この蔵の中に集結したバンドメンバー(仮)の中ではほとんど香澄だけである。既にそのことを知っていたというような反応を見せた凪紗に、香澄は首を傾げて疑問を示した。

 

「兄さんに相談してみたんだけど、牛込さんのあがり症って、元はお姉さんと比べてしまう気持ちが原因なんじゃないかって」

「んー……どゆこと?」

「せめてお姉さんと同じくらいになるまでは、ステージなんか無理だって思っちゃうってこと」

「それ、お姉さんも同じだけ練習してんだから実質不可能じゃね?」

 

 鋭い一石を投じたのは有咲である。しかしながら、その手を止めてやはり話をしっかり聞いているあたり、彼女もひねくれていながらいじらしい。

 生温かい目線を差し向けると、「……なんだよ」と、僅かに紅潮した頬と睥睨で返された。

 

「有咲の言う通り、このままだと結局はバンドなんてやるつもりはない、ってことになっちゃうんだよね」

「でもでも!りみりん誘ってくれて嬉しかったって言ってた!」

「社交辞令なんじゃねーの?」

「シャコ―ジレー?」

「マジかよ……」

 

 たまに不安になるくらいの香澄の語彙力に、はじめは意地悪そうな笑みを浮かべた有咲もたちまちたじろいでしまう。

 そんなやりとりに苦笑しながら、凪紗は「まあ本当だとして、それならやりたいとは思ってるんじゃない?」と口を挟んだ。

 

「脈ありってこと?」

「説得は必要だろうけどね。でも、そのためには会って話をしないと」

「あっ、それなら日曜にグリグリのライブあるってりみりん言ってた!」

「ナイス香澄!それじゃあ、二人とも何時集合にする?」

「私も行く前提かよ!」

「えー、有咲行かないのー?」

「……行かないとは言ってない」

「有咲難しい!」

「有咲……」

 

 相変わらずの天邪鬼ぶりは有咲らしいといえばそれまでだが、もはや会話が成立しないくらいには否定から入るスタイルが板についているものだから、改善の兆しが見えないのである。

 それでも、確かに香澄によって変わったものはある。半ば不法侵入だったとはいえ、そのきっかけが有咲をどんな風に変えていくのか、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる名コンビを凪紗はほっこりとした気分で眺めていたのだった。

 

 

     ♬

 

 

 SPACEには、雨脚が強まってくる前に到着することが出来た。天気予報の言った通り、九州地方から東へ長い長い停滞前線――梅雨のような降雨帯ができあがっており、交通機関にも影響が出ているほどであった。

 有咲の家に前乗りして、数時間程早く来た甲斐があったものだ。

 

「沙綾ダメだって」

 

 香澄はスマートフォンの端末に視線を落とすと、ライブに誘っていた沙綾からの断りの通知を見てそう呟いた。

 

「休日は普通店忙しいでしょ」

「だよね~……」

 

 存外落ち込んでもいなかったのは、有咲の助言の通りであったからだ。雨とはいえ客足の増える土日にライブになど行っていられないというのが普通である。

 それも仕方ない、といったふうに頷いた凪紗は、ぽつ、ぽつと音を立てる傘の方を向いた。

 

「それにしても、この暗さ、なんか怖くなるくらいだね」 

 

 雨粒を落とす曇天は陽光を遮り、なんだか不吉なものを予感させるようだった。

 

 

 

 そして、ライブは始まった。

 サイリウムをぶんぶんと振り回す香澄は、相変わらずステージ上で繰り広げられるキラキラした演奏に目を輝かせながら、ときに有咲と凪紗を巻き込んで大はしゃぎだった。

 ため息をつく有咲に苦笑しながら、凪紗はきょろきょろと辺りを見渡す。光源(ステージ)から離れているので見えにくいが、まだあの子が来ていないのだ。

 

「牛込さんはどうしたんだろ?次、グリグリだよね」

「姉ちゃんのとこにでもいんじゃねーの?」

「うーん……」

 

 背伸びをして会場のあちこちを探る香澄だが、それでも見つからないらしい。

 余談だが、少しばかり身長の低い凪紗にはそれができないので、羨ましいと思っていたのは内緒である。

 さて、楽屋で姉のサポートをしているのならば、見つけられないのも当たり前かと思った矢先、大きな歓声が上がった――次のバンドが登場したのだ。

 

「あれ……」

 

 香澄が首を傾げる。ステージ上で勢いよく声を張り上げるのはボーカルの茶髪の女子、つまりゆりではなかったのだ。

 

「グリグリのメンバーじゃないね」

 

 疑問に気付いたのは香澄や凪紗だけではない。有咲、そして一部の聴衆も同様だ。そして、

 

「ね、ちょっと!グリグリが……!」

「マジで!?わかった、すぐ準備しよ!」

 

 ステージの進行を見に来ていた他のバンドのメンバーまでが、なにやら騒然として慌ただしく動き始めている。

 

「? なんかあったのか?」

「わ、わかんないけど……行ってみよう」

 

 香澄の提案に従うように、出口、そして楽屋へと走って向かう。

 窓には、灰色の空が大粒の水滴を叩き付け、雷鳴を轟かせているのだった。

 

 



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#11:1・2・3(後/ガールズサイド)

「えっ!?」

 

 短く、驚愕の声音が凪紗たち三人から漏れた。

 りみによって明かされた騒動の理由――それは、ゆりたちグリグリのメンバーが、未だSPACEへ到着する気配を見せていないことだった。

 

「台風で飛行機が遅れちゃって……まだ修学旅行から戻ってないの」

「で、でも、向かってるんだよね!それなら、来るまで待てば……」

「ダメだね」

 

 香澄の提案は、鋭く冷たい言葉で否定された。主はオーナーのものだった。

 

「客を待たせるなんて許さないよ。何があろうとステージに立つ……客の期待を裏切るようなバンドはダメだ」

「もし、このまま間に合わなかったらどうなるんですか」

「二度とうちの敷居を跨がせない」

「っ…」

 

 強い語調は頑なな意志とともに、夢見る少女たちに現実の厳しさを知らしめるのに十分なものだった。

 しかしながら、それは音楽を提供する者としての常識、そして矜持でもあるのだなと、凪紗は苦もなく推察し、筋の通った発言だと理解することができた。

 周りの少女たちも彼女と同じように、悔しさを滲ませながらもオーナーの命令を受け入れることができる――反論一つ出なかったり、諦めに眉尻を下げて嘆息していた――一人を除いては。

 

「りみちゃん、できるだけ、時間延ばしてみるから」

「は、はい!」

 

 りみの肩に掌を添えて、一人のバンドメンバーが言う。

 今はそれに頼るしかないと、りみは祈るように返事をした。

 

 

 

 残された時間は、まるで真夏の炎天下に置かれた氷菓のように溶けていった。

 MC、そして予定外の曲目の演奏を加えてライブ時間は大きく引き延ばされたが、それでも、ゆりたちを空港から待つだけの時間を賄いきれるものではなかった。

 

「オーナー!最後のバンドのステージが……!」

「……間に合わなかったようだね」

 

 オーナーは仕方なしといったように瞑目し、そして楽屋を出ていく。既にステージでは照明が落とされようとしており、それを悟った観客たちが、グリグリの不在に僅かなどよめきを漏らしていた。

 

「お姉ちゃん……」

「な、なんとかしなくちゃ……!」

 

 りみの悲痛にも聞こえる呟きが、香澄の使命感を滾らせる。

 そのまま、つかつかとステージに続く舞台袖へと歩き出した――その右腕を、凪紗が取った。

 

「ちょっと待って。牛込さん、少し、聞いてくれる?」

「う、うん」

 

 非常口の緑灯が灯る。ライブの終わり――ラストを飾るはずだったバンドは、もうそのステージに立つことはないと、喧騒が一段と大きくなってゆく。

 広がる焦燥感に駆られ、駆け出そうとした香澄を制して、目を向けた。

 

「香澄、このままステージで歌うつもりだったでしょ」

「え!なんで分かったの!?」

「はあ!?」

 

 理由はそれぞれに、表情を驚きに染めた香澄と有咲。

 

「だいたい分かっちゃうんだよね」と得意気な笑みで返したら、その笑みのまま、りみに告げてみる。

「だから、私たちもそうするつもり。グリグリのライブ、見られないのは嫌だから。……そこに、牛込さんが居てくれたらいいなって、思うんだ」

「わ、私っ!?」

「そう。香澄よりは弾けるだろうから、ギターが私、有咲がキーボード、それで、牛込さんがベース」

「おいっ!私もう弾けねーっての!」

「大丈夫でしょ。香澄お得意の曲くらいなら」

「それって……なんだよ?」

 

 心当たりがない有咲が、未だに演奏が割り当てられていない香澄へ向き直る。

 はじめはぽかんとした表情を浮かべていた香澄だったが、「ほら、好きな曲、なんかない?」と言うと、

 

「きらきら星!」

 

と即答した。

 

 彼女が『きらきら星』の歌を好んでいることは、凪紗自身も初めて耳にしたことだ。

 だが、そんな気はしていた――香澄の、透き通るような感性に合う曲は、きっと単純だけど、どこまでも美しいのだろうと。

 

「ほら、これなら簡単でしょ?有咲も主旋律くらいならなんとかなるよね?」

「はあ!?ステージだぞ?そんな粗末なもの見ほはせられねーって!」

「粗末でも弾けるんだ?」

「うぐっ……」

「ね、私はどうすればいいの?」

「香澄はおっきな声で歌って。音が分からなくなったら、有咲の伴奏をよく聞いてね」

「おっけー!有咲、お願いねっ!」

「くそ……覚えてろよ」

「ふっふーん、そんな可愛いツインテで睨まれても可愛いだけだよ」

 

 ウインクを見せつけて、それからりみに視線を送る。悪く言えば同調圧力、しかし、りみがそれに従わなくてもステージには出るつもりだった。

 

「……私。できないよ……」

 

 りみは俯いて、そう答える。多分、それが彼女なりの精いっぱいの勇気――バンドを組む以上、その調和を乱したくないというのは、恐らく正しい。

 だけど、それ以上に、この子と バンドをやってみたい。

 音合わせもしたことがない、何なら楽器に触れるのがこれで数回目だったとしても。

 今、この四人で一つの音を奏でてみたいのだ。

 

「でも、何もしなかったら、グリグリが終わっちゃうんだよ!?そんなの、絶対ヤだよ!」

 

 香澄がそう言って加わる。相変わらず、星空を映したような輝きに溢れている。

 りみは、香澄の()()()()()()()に惹かれているのだろう――だから、彼女を拒めず、そして隣に立つことを拒んでいるのだと、凪紗は理解した。

 

「ね、牛込さん」

 

 声を掛けると、小さくりみの肩が震えた。揺れ動く心、その緊張に葛藤しているのだと思った。 

 

「多分、牛込さんにとってのゆりさんって、すっごく尊敬できる、かっこいいお姉さんなんだろうね」

「う、うん。いつも私に、ベースを教えてくれて……バンドでは、完璧にこなしちゃうの。私とは、大違いで」

「バンドを組むんだったら、お姉さんと同じくらいに演奏できるようにならないといけない――そう思ったんだよね」

「えっ――」

 

 意想外に染まったりみの顔が上がった。どうやら律夏()の言っていたことは正しかったらしい。元々消極的な一面があるとはいえ、バンド経験のないりみがバンドを組むこと自体を拒否することには、何か他の理由があったのだ。

 それならば、凪紗の取るべき方法は――

 

「それなら、私たちと練習しようよ。今日はその一日目――お姉さんを助けるためにもなれば、一石二鳥じゃない?」

 

 そう言って、手を差し出した。

 はっきり言えば、凪紗自身も緊張感に靡いている節はある。実際、ステージに立ってギターを持てば膝が笑ってしまうのは目に見えているのだ。

 だから、隣に立っている人がいるとしたら、多い方がいい。

 

「失敗して当たり前。ダメで元々かもしれないけど、何かが変わるかもしれないでしょ?」

「っ……」

 

 尚も、答えはなかった。

 凪紗はただ、言葉を、思いを継いでいくだけ――それがりみの心に届くと信じて。

 

「お願い、私たちに力を貸してっ!」

「私たちは、ゆりさんじゃなくて、()()がいいな」

 

 何度転んでも、歩き出すその隣はキミがいい。

 

 香澄と凪紗の掌にもう一つ、小さな指が添えられた。

 

 

     ♬

 

 

「待ってくださいっ!」

 

 香澄の叫びが、ステージ全体に広がった。

 それとともに、凪紗たちは「やってしまった」と、いよいよ決意を固める。

 

「ひっ……」

 

 微かな悲鳴はステージ袖から出てきたばかりのりみのものだった。それも当たり前で、フロアに残った――それでも数の多い人々の双眸を向けられるのは、流石の凪紗も、そして香澄も、慣れているとは言い難い。

 だけど、想い、そして決意が、退くことを許さない――香澄が言葉を続ける間に、勝手を知ったりみに演奏前の準備を進めていく。

 

「私、戸山香澄っていいます!……私たちはまだ、バンドを組んだわけじゃないんですけど、グリグリが――ゆりさんたちが来るまで、演奏を聞いて欲しいんですっ」

「えっ、誰?」

「ていうか、ゆりまだ来てないの?」

 

 反応は様々だが、明らかにこの闖入者に対して疑いと興味の目が向いている。

 備品のギターのチューニングをし、そして有咲に主旋律を確認していた凪紗にも、同様の視線が突き刺さる。

 うまくいく保証なんてない。そもそも、弾き終わってもゆりたちが来なければ意味がないのだ。

 

 ――でもっ!

 

「こ、これで大丈夫だよ。市ヶ谷さんは?」

「っ……よし、覚えた。一通り弾けるはず」

「オッケー。ありがと、りみ。後は、()るだけ――」

 

 りみからギターを受け取って、ストラップを肩口に掛けて持ち上げる。

 どのみちここまできたら、もう引き返すことなんてできないのだから、あとは精いっぱい弾くだけなのだ。

 半ば投げやりに、香澄の握るマイクスタンドの隣へ歩み寄った。

 

「同じく、若葉凪紗です。聞いてください、私たちの『きらきら星』」

 

 ――行くよ。

 

 示し合わせるように、四つの視線がぶつかった。

 わん、つー、すりー、ふぉーと小声でカウントを交わし、凪紗は最初のコード――Dコードを慎重に鳴らし、続いてAコード、そしてGコード……というように指を運んでいく。

 意識はすべて目の前のギターに割かれている。けれど、その外で響き渡る和音に、支えるようなベースの低音、彩るようなキーボードの旋律、そして香澄の歌声が組み合わさっていくのが、なんとなく感じられた。

 

「きーらーきーらーひーかーるー、おーそーらーのーほーしーよー♪」

「っ……」

 

 一つのフレーズ、たったそれだけで凪紗の心が揺れた。

 これを『ヤバい』なんて平易な言葉で表現していい筈がない。だけど、ヤバい。

 演奏を通して、心に溢れた感情が、この場の四人に繋がっているのだ。

 

「まばたきしてはー、みんなをみてるー♪」

 

 一フレーズ、また一フレーズと奏でるうちに、その運指に慣れてきて、顔を上げることが出来るようになる。

 りみは集中しつつも笑顔で、有咲はたまにとちって焦りながらも香澄の歌声に追いついて、そして香澄は、向けられる視線を一身に集めながら、その全てに答えているようだった。

 

「――みんなのうたがー、とどくといいなー♪ きらきらひかるー、おそらのほしよー!」

 

 集められたものを、何倍のエネルギーと光に変えて放つように、香澄の歌が終幕を迎える。四人は息を切らしながら、舞台袖を窺っていたのだった。

 

「まだ来てない!?」

「う、うん。もうすぐそこなんだけど、まだ走ってるって――!」

「ど、どうするんだよ!」

 

 三人の問うような表情に、凪紗は焦燥を抑えながらも思考する。

 できる曲はこれだけ。それならば歌詞を変える?いや、咄嗟にできる芸当じゃない。なら音色は?それだともはや別の曲になってしまう――

 

「っ、そうだ!ハモる、私ハモるから、もっかいやろう!」

「えええ!?」

「ちょ、おまどんだけ……っ」

「できる!なんたって学年一位だからねっ」

「すっごーい!」

 

 マイクを切っていないので、四人のやりとりは聴衆に筒抜けであり、どっと笑い声が返された。

 その中には確かに失笑もあったけれど、

 

「いいよーっ!がんばれーっ!」

 

 そんな、まるでお遊戯会を応援する父母のような声援も含まれていたのである。

 

「よし、もっかいこう!……せーのっ」

「「きーらーきーらーひーかーるー♪ おーそーらーのーほーしーよー♪」」

 

 主旋律の進む方向へ、その周りを飛び回るように音を紡いでいく。

 もちろん、ギターも忘れてはいけない。その構成音をヒントにしながら、時に香澄と重なるように歌声を響かせる。

 ふと、昔、小学校で受けた音楽の授業を思い返した。あの頃感じていたような、成長の名で誤魔化して忘れてきたような思い出とその感覚が、オーディエンスの振るサイリウムの光で蘇ってくる。

 

 ――キラキラって、こんな風な感覚なのかな。

 

 それはまさしく、香澄の口にした『キラキラ』だと確信した。ちらり、隣を眺めれば、心の底から喜びを湛えた瞳で、香澄がこちらに目を合わせてきた。

 

「「――みんなのうたがー、とどくといいなー♪」」

 

 再び、重なっていた歌声は離れゆく。真っすぐで綺麗な情念に光を与えるように、凪紗は香澄との調和を保っていた。

 気付けば、みんなが口ずさんでいた。りみや有咲、そしてオーディエンスまでも一体になっていた気がした。

 

「「きらきらひかるー、おそらのほしよー♪」」

 

 ゆっくりと着地するように、その旋律を締めくくる。Dコードが一弦、一弦と鳴らされた。

 沈黙が、再び舞い戻る。

 しかし、先程のような焦燥はもうなかった。

 

「……ありがとう、ございましたっ!」

 

 息を切らした香澄がそう告げたその瞬間、割れんばかりの拍手がステージの面々を迎えた。

 

「よかったよー!」

「ギターの子、ハモりすっごい上手だった!」

 

 演奏技術が甘いのはもちろん、ろくに合わせたこともない中で、出来る限りのことが出来た。

 拍手と、現実離れした充足感の中で呆然と揺蕩いながら、冷静にも凪紗はそう結論付ける。

 後は、その時が来るのを祈るだけ――

 

「おまたせーっ!」

「っ……!?」

 

 その声に振り向かないうちに、黄色い叫び声が上がる。ステージ袖、大きく手を振るのは、江戸川楽器店で会ったそのバンドのベース担当だった。

 

「わぁ……!リィ先輩っ!」

 

 香澄が歓喜を露わにして、彼女の名を呼ぶ。そして、マイクは無事に掉尾を飾るバンドへと手渡されたのである。

 

 



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#12:絵空事(ボーイズサイド)

「いらっしゃいませ」

 

 律夏は歓迎の声を張り上げながら、商品棚を野菜の青色に埋めていく。

 平日の夕方、つまり奥様方の戦場にあって、つい十分前に陳列した野菜――今日は春キャベツが安い――が次々に消えていく。この分では、あながち社員の発注ミスも怪我の功名となるくらいの勢いだ。

 残された外葉を素早く片付けながら、次のものを用意しようと段ボールに手を掛けたとき、視界の端に眩しい橙色を見つけた。

 

「あれ、若葉。バイト中?」

「ん……お、北沢。そうそう」

 

 真向いの入り口近くの扉から入ってきた客の一人が恵だった。

 思えば、距離があるとはいえ商店街に位置しているこの青果店で彼に会わないというのも不思議な話だった。

 

「へえ、ここだったんだね。いつも人多いから見つからなかったのかな」

「そうだろうな。俺も半年くらい前からいるけど、一度も会ったことなかったな」

 

 カッターで薄く段ボールに切り込みを入れ、バーコード付の紫の結束テープで葉を固定しながら、恵にそう返した。

 

 今では手慣れたもので、バックヤードで一箱ごとに作業するよりも効率が良い。

 

「おおー!すっごーい!」

「……?」

 

 ふと、そんな仕事風景を興味津々の表情で見つめていた恵の隣の女の子に、律夏は気が付いた。

 

「ねーねー店員さん、これはぐみもやっていい!?」

「え、えーと……北沢、どういうことか説明してくれ」

「あはは。はぐみ、若葉の仕事の邪魔しちゃだめだよ」

 

 ぽん、と少女の頭に手を置いて恵が制すると、「むー……わかった」と不満げに引き下がる。

 よく見てみれば、二人の髪色や髪質がそっくりだった。それならば、一つだけ心当たりがある。

 

「ああ、もしかして妹さんか」

「そう。はぐみ、こっちは友達の若葉だよ」

「にーちゃんの友達!やっほー!!!はぐみだよっ」

「こら、一つ上の先輩なんだから敬語使いな」

「別に気にしないって。……よろしく、若葉律夏です。凪紗と同じクラスだよね?」

「! なぎのこと知ってるの?」

「凪紗は妹なんだ」

「えーっ!」

 

 目を丸くしたはぐみからは、分かりやすく驚きの意が伝わってくる。表裏のない、天真爛漫な印象を律夏は抱いた。

 

「意外かな」

「うん!だってなぎ、なんでもできるし、すっごいお姉さんっぽいんだもん、さーやみたいに!」

「さーや……ああ、山吹さんちの」

「若葉、知ってるの?」

「ああ、時々凪紗の話に出てくるよ。よく一緒にいるらしい」

「香澄ちゃんもだよ!すっごい楽しそうなの」

 

 クラスでの凪紗の立ち振る舞いを聞けば聞くほど、今度こそは中学時代の轍を踏まないようにと意気込んでいる様子が想像できてしまった。

 しかしながら、最近の様子を見ている限りではバンドを始め、夢中になって楽しむことのできる環境にあるように思えて、律夏は内心で胸を撫で下ろしたのだった。

 

「っと、そろそろお客さんも増えてきたね。じゃあこの辺で、頑張ってね」

「ああ。はぐみちゃん、凪紗のことよろしくな」

「うんっ!じゃーね、()()兄ちゃん」

「こらこら……」

 

 再び恵に諫められる彼女は人との距離が近いのだろう。だけど、それも裏を返せば誰とでも仲良くなれるということだ。

 凪紗にとってはまったく新しいタイプの人種だろう――そう考えると、歴戦の()()()()を繰り返した彼女の戸惑う姿が目に浮かんで、ついつい苦笑が浮かんでしまう。

 

「――よし」

 

 輝く笑顔が遠ざかって、手を振るのを止めた律夏は、三角巾を強く結びなおすのだった。

 

 

     ♬

 

 

「文化祭……ですか」

「そう!この辺りの高校の中では、花女が六月の頭、一週間遅れで羽丘、そして志哲(うち)が二学期にやることになってるんだ」

 

 週一回の生徒会活動日の放課後、執行部の特別教室ではそんな議題が浮上した。

 軽い説明を挟んだひかりの傍ら、真新しいホワイトボードに恵が地図らしきものを貼り付け、隣にこれからの予定らしきものを書き込んでいく。

 

「準備にまだまだ余裕のある志哲は、この二校への応援に行くのが恒例なんだよね」

「応援ってのは?」

「まあ、基本は見回りだよね。――風紀委員長お得意の」

「それは俺だけ駆り出されるっていう認識でいいのか?」

 

 思わずはああ、という歎声が漏れ出てしまうことに気付いていたが、今更訂正する気にもなれない。

 結局生徒会の定員は埋まることなく、三人――実務レベルでは二人と半人で仕事が回っている。

 

「もちろん私たちも行くよ~。ただ、見回りまで参加するとなると厳しいかな」

「向こうの生徒会メンバーが抜けた穴の補填もあるしね」

「それはキツそ……充実してそうですね」

 

 もちろんこの訂正は嫌味が半分、もう半分は諦念である。

 将来はきっと、インターンをしてから入社しよう――そう決意して、律夏は「それで、当日はどういう感じで動けばいいんですか」とホワイトボードへ目を向けた。

 

「話が早くて助かるよ」

「えっとねー、この間の定例報告会のときの紗夜ちゃん覚えてる?この後、花女の生徒会の子たちと一緒に来るから、あの子と予定の擦り合わせをして欲しいんだよね」

「二人は?」

「私たちも向こうの生徒会長さんと話すつもり。その後で微調整しようかなって」

「なるほど」

 

 となれば、氷川紗夜と仕事の打ち合わせをするのはこれで二回目となる。ひかりや恵の手助けを受けられないため、些細な失言が命取りになると、武者震いが身体を駆ける。

 しかしながら、律夏はそれとは別に一つの気構えを固めていた。

 

「っと、そんな話してたら早速メッセージ……あっ、花女、もう着いたって。少し迎えに行ってくるね。北沢くん、一緒にいい?」

「ええ」

 

 白塗りの引き戸から二人が部屋を出ると、少しだけ温度が下がった気がしたが、それに構わず窓を開ける。

 風が吹き込んで、机に用意していた資料が捲れる音が聞こえていた。

 

 

 

『父を、亡くしたんです』

『……ッ』

 

 律夏は、眼前の少女へそう告げた。

 

 薄暮がもたらす妖しい暗闇は、まさに誰そ彼――紗夜の表情を分からなくさせていた。それでも、その息遣いから予想できるくらいには、それなりの衝撃を与えているように思われた。

 

『母はその騒動で心を病んでしまって――残された俺たちは、皮肉にもお互いの役割というものを明確にすることができたんです。家族を守ることが俺の役割だと、そう父に誓ったから』

 

 零した言辞に対して声は返らない。いかなる衝迫が彼女の心に渦巻いているのか、もしかすれば気を遣わせてしまっているかもしれない。

 だけど、これが彼女の問いに対する答えだった。

 

『氷川さん。あなたの言った通り、これは俺個人の事情であって、何ら氷川さんに生き方を強制するものではありません。でも』

 

 妹と比較され続け、それが招いた嫉妬は、程度はどうあれ律夏と紗夜が共有していたものなのだろう。

 

 紗夜は今も、どこまでも自己に正善であろうとするがゆえに苦しみ続けている。父の死によって、比較されるという状況そのものを失っている自分が、その曲がって錆びついた心で彼女の心を――その奥深くに隠れた影から逃れようとする気持ちを捉えることなんてできない。

 

 それでも、律夏にとって紗夜はあったかもしれない自分の未来であり、だからこそ伝えたい想いがあった。

 

『劣等感から始まってもいいんです。努力を続けたことそのものが、意味を成すときがきっとくる――だから、自分を認めてあげてくれませんか』

 

 出過ぎたことを言ってしまってすみません、と付け加えた。同い年の高校生に、それもこんな易い言葉で十年来の苦悩が納得できるものではないと分かっていた。

 彼女が自分を愛していられるように、などと願うのは、ひどく傲慢で自分勝手な絵空事だろう。

 

 遂に、街路灯が二人を眩く照らす。浮かび上がった紗夜の表情に、光る滴を見た。

 

『……っ、ごめん、なさい』

『いえ。こちらこそ、分かったような口を』

 

 ポケットからハンカチを取り出して、一回り背の低い紗夜へ差し出す。きっとそんなものでは、罪悪感は拭えないのだろう。

 はらはらと流れ落ちる涙と、少し枯れた声に、律夏は後悔しそうになった。けれど、するわけにもいかず、願わくば、彼女に負わせてしまった傷が浅いことを祈って、星のない夜空を見上げるばかりだった。

 

 

 

「失礼します」

「っ……どうぞ」

 

 意識の外から響いてきた声に、辛うじて反応する。扉の方に視線を移せば、擦りガラスの向こう側でアイスグリーンの髪らしき色が見えた。

 律夏はそれが氷川紗夜であることをすぐに悟って、ごくりと生唾を呑んだ。

 

「失礼します」

 

 からら、という音とともに凛とした表情が覗く。それは、初対面のときとそう変わらなくて、律夏はもう忘れてしまったのではないか、とそれを疑うほどであった。

 

「会長と一緒じゃなかったんですか?」

「ええ。文化祭で使用する音響機材をお借りしたく、体育館の方へ」

「そうですか。……これ、よかったら飲んでください」

 

 事情を背に聞きながら、ポットから注いだ紅茶を差し出すと、「ありがとうございます」と紗夜は流麗な仕草で受け取った。この間初めて会ったばかりでこういった感想を抱くのもおかしいが、彼女らしい、涼しげな所作だった。

 その裏に秘めた感情が、律夏は予想できない。理解に苦しんでいるというよりは、もはやその範疇の外、といったところだ。

 だからだろうか。ふと向き合ってぶつかった視線に、先日のものとは違う恐怖――不気味さといったほうがよいのかもしれない――を覚えた。

 

「それで、文化祭での見回りの件ですよね。俺の担当はどんな感じで――」

「その前に、お話したいことがあります。この間の、帰り道のことで」

 

 やはり、彼女は覚えていた。浅慮の後悔と憂いが、下がった眉尻から伝わってくる。

 

「あなたの事情も知らずに、安易な考えで訊いてしまったこと――本当にすみませんでした」

 

 責められるべきは自分だというように、詫びとともに頭を下げるので、慌ててそれを制する。

 

「やめてください……俺の方こそ、聞かれればなんでも答えていいわけではないのに、つい」

「いえ、若葉さんは悪くはありません。悪いのは私で」

「いや、俺です」

 

 お互いがお互いを庇っては、自分の非を主張する。

 「私が」、「俺が」と言葉が被って、そこで初めて、律夏はなんとも間抜けな問答を繰り返していることに気が付いた。どうやら眼前の彼女も同じようで、おそらく自分と同じだろう丸くなった目をしていて、思わず吹き出してしまう。

 

「……すみません、なんだか可笑しくて」

「いえ。俺も、気を遣いすぎていたというか、つい必死になってしまって」

 

 一通り笑い終わると、紗夜は「許して頂けるのですか」と訊いてきた。やはり、その気持ちは変わらないらしかった。

 

「こちらこそ。氷川さんの私情に踏み入ったのは俺ですから。初めて会った日にする話ではなかったですね」

「それもそうかもしれません。思えば、初対面で妹についての話をしたのは、あなたくらいなものです」

「共通点とはいえ、まさか妹さんとの間にそんな事情があったとは知らなくて……その点に関しては、俺も浅慮でした」

「あ、あなたまで頭を下げないでください!……それなら、お互いさまということで、この話は終わりにしましょう」

 

 内心で一息吐いて、「分かりました」と返す。

 少し吹っ切れたような紗夜の表情は、あの日の苦い表情とは対照的に見えた。

 

「……しかし、あなたが指摘したことはほとんど事実のようなものでした。だから、あなたが最後に言ってくれたことについて、少し考えたのです」

「えっと……あれはその、同じ境遇だからこそ分かることがあるというか……すみません、死ぬほど生意気でした」

「……そうですね。何を分かったような口を、とは思いました」

「思ったんすね」

「それでも」

 

 不意に、紗夜の言葉がそこで途切れる。気になって、律夏が彼女の方を向くと、それを待っていたかのように、

 

「あなたが言ったように――自分を認められるようになるときを、待ってみようとも思えました」

 

 と、彼女はふっと小さく笑みを浮かべるのだった。

 

「……事情が似ているというだけで、氷川さんがそうなれるという保証はありませんが」

「その辺りは、あなたの振る舞いを参考にさせてもらいます」

「解答は自分で探すものではなかったんですか?」

「私の解答ではなく、あなたの考え方を知りたいのです。それを直接的に活かす、という訳ではなく、似た境遇をもつ方が周りにいるというだけで、少なくとも興味が湧くのは、至極当然のことですから」

「……」

 

 そんな結論を突き付けた佇まいは至って敢然としており、律夏は呆気にとられてしまった。

 つい先日は個人的興味などないとひかりに言い放っていた姿が懐かしい。どうやら妹との確執は深刻な問題を抱えているらしく、それだけに自分への追究は必要なものなのだと考えているのだろう。

 しかしながら、予想外の宣言は続く。

 

「……どんな形であれ、あなたの事情を知ってしまいました。もちろん秘密は守りますし、その責任についても負うつもりです。非はあなたにあると言うのなら、あなたも同じように、抱えているものを私に話してもらえないでしょうか」

「えっ?」

「同じような境遇の、同じ風紀委員のよしみですから」

「……よしみで家庭事情を暴露していくのはちょっと」

「今更ですよ」

「……それもそうですね」

 

 思えば、このことを打ち明けた後のことを考えていなかった。つまり、無意識のうちに自分は誰かに知って、聞いてほしかったのだろう。凪紗にも話すことのできない隠れた思いを――

 紗夜はそれを見抜いていたのだろうか。それを承諾すると、包容力のある微笑みを口元に漂わせるのだった。

 

「さて、先に打ち合わせを済ませてしまいましょう。まずは当日のスケジュールから――」

 

 強い人だと、律夏はそう思った。そして同時に、自分の感情を受け入れてくれる人の存在を、なによりも得難く感じられたのだった。

 窓辺に吹き込む風が冷たくなって、思いのほか時間が経っていたことに気付く。

 紗夜の言葉に耳を傾けながら、今はその涼しさと心地よさに身を任せていよう――そう思っていた。

 

 



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#13:(ガールズサイド)

評価頂いた方、ありがとうございます。

サブタイトルなんですが、曲が決まらなくて空白になってます。また今後の修正で加えていくので気にしないでください…。


「私、変態なのかなあ」

 

 いつもの昼休み、香澄は弁当箱を膝に置いてそう零した。

 新たにりみをバンドメンバー(仮)として加えたため、現在はこの集会も四人と大所帯となっているが、そんな面々は、口々に香澄の言葉に反応する。

 

「じゃん」

「えっ」

「変ではある」

「ええっ!?」

「え、えーと……」

 

 次々に変態疑惑への同意が入って、同調しなかったりみもどうフォローしていいものか迷っている様子であることが分かり、凪紗の方へ、縋るような目線が送られた。

 それに気づいた凪紗は、ウインクをして香澄を安心させる。空気読みの達人は、フォローまで完璧なのである。

 

「香澄は感性が普通の人と違いすぎるだけで、別に変態じゃないと思うな」

「やっぱり変態なんだぁぁぁ!」

 

 想定外にも、香澄は泣き叫んでしまった。折角のファインプレーが台無しである。 

 

「ちょっと変だけど全然変じゃないよ!」

「いや、なんか良いこと言ったのに、みたいな顔してるけどフォローになってねえから。あと、りみも」

「えー、そうかな? なかなか正確な考察じゃない?」

「フォローする気はなかったってことか……」

 

 魔法瓶の焙じ茶に口をつけながら、有咲はそう結論付けた。一方の香澄は、りみに泣きつきながら反撃に出た。

 

「有咲のほうが変だよ!」

「はぁ?」

「この前、盆栽に『トネガワかわいいね~、お水あげるね~』って」

「へえ……」

 

 沙綾のにんまりした目つきに、有咲がぼっと紅潮する。どうやら香澄は見てはいけないものを見てしまったらしい。

 

「言ってねぇ!」

「言ってた!」

「そんな言い方はしてねぇ!」

 

 凪紗は、あまりの慌てように、少し可哀想に思って有咲の肩に手を置いた。

 

「有咲、ネーミングセンスは人それぞれだよ。事実、利根川から名前を取った軍艦の名前もあるわけだし」

「え、そういう話?」

「え?」

 

 思わず首を傾げる。てっきり有咲のセンスのユニークさの話をしているつもりだったのだが、どうやらすれ違いが起きているらしい。

 

「……凪紗ちゃんも、ちょっと変わってるよね……」

「え?」

「確かに!」

「ええ?」

 

 やはり香澄にそう言われるのは心外である。同じ立場に立って、有咲の気持ちがよく理解できる。

 

「冷静すぎるんじゃねーの? JK(女子高生)らしくないっていうか」

「そ、そうかな」

「時々びっくりしちゃうくらいだよ。やっぱり、頭いいからかな」

 

 周りからは沙綾のいうように見えているのだろか。頭がいい、というのは言われ慣れているとしても、有咲から見ても同年代らしくないというのは捨て置けない。

 

「あっ、でもでも」

 ふと、香澄が思いついたように言い出した。

「お兄さんの話するときはすっごい嬉しそう!」

「え゛」

「へえ……」

 

 途端に、沙綾の表情が先程の有咲を見る目に変わっていく。いたずらっ子のそれだ。

 

「そういえばこの間のライブのときも、お兄さんに相談したって言ってたよね。……ええっと、バンドの話」

「うちの蔵に来た時も、『兄さんにアドバイス貰った』って言ってたよな」

「う゛っ」

「凪紗って、お兄さんのこと大好きなんだね!」

「ぐわーっ!」

 

 香澄の豪速球は凪紗の正鵠を射抜いた。否、吹き飛ばした。あまりの恥ずかしさにどうしようもなくなって、胸を押さえながら後ろに倒れ込む。 

 

「ふふっ……でも、兄妹で仲がいいのはいいことだよね。うちは下の子だけど、お兄さんは一つ上なんだっけ?」

「はい、そうです……」

「じゃあ、うちのお姉ちゃんと一緒だね。学校はどこに行ってるの?」

「志哲……」

「うわあ、進学校だぁ。兄妹そろって凄いねぇ」

「そうでもないです……」

「なんか尋問みたいになってるけど」

 

 観念したのか、訊けば何でも答えるとばかりに質問を続けられる様子に、有咲は同情の目を向けるのだった。

 

 

 ♬

 

「「よし、完成っと」」

 

 しばらく同じネタ(ブラコン)を擦り続けられて体力ゲージが赤色まで落ち込んでいたものの、授業にはしっかり取り組んでいる。

 自分は決してブラコンなどではないと訂正を試みたものの、生温かい目で「そうだね」と返されてしまった。

 

 ──絶対に許さん……

 

 午後は家政の授業であり、好きな生地を使ってナップザックを製作していた。いち早く仕上げに入った凪紗の声が、沙綾と被る。

 

「わあ、沙綾ちゃんも凪紗ちゃんも上手だね」

「袋物はよく作るから、けっこう得意なんだ。っていうか、凪紗も凄いね」

「そう? 沙綾の方が手慣れてる感じするなぁ……で、香澄は?」

 

 りみの尊敬の籠った視線は、今まで受け慣れてきた嫉妬や憎悪を感じさせるものとはまったく違う類のものであり、彼女の純真無垢な一面に癒されていた。

 新鮮な気持ちで謙遜をして、話題を香澄へすり替える。

 

「うう、全然終わんないよ~!」

 

 そう半泣きで嘆く香澄の手元には、ギターケースのサイズに合わせるように採寸された布地が置かれていた。

 

「な、なんだか香澄ちゃんのナップザック、おっきいね?」

「うん! なんたって、ギターケースを入れる袋だからね!」

 

 高らかにそう宣言する香澄だが、どう考えても時間が足りないのは自明である。そもそも、授業で取り組むのは小物用のサイズであるのだから。

 

「ギターケースケースか……なんか香澄の感性らしいよね、やっぱり」

「でも凪紗ちゃん、あれ……」

「ん?」

 

 りみの指し示す先を振り向くと、別の作業台で製作する班の中に、香澄と同じような大きさの生地にギターケースを置いているクラスメイトがいた。

 

「あれは……花園さん?」

「あ、あはは……香澄とおんなじことしてる」

 

 花園たえ──沙綾と同じように中等部からの持ちあがりの内部生である。凪紗は授業での作業や休み時間に少し話をした程度だが、かなりの天然であることと、持ち前の長い黒髪が目を奪うほどに綺麗だということが印象に残っていた。

 

「ギター持ってるってことは、花園さんも弾くのかな?」

「香澄はなんか知ってる?」

「……」

「……香澄?」

 

 ふと、そんな風に香澄に尋ねると、何かに驚いたような表情を彼女が浮かべていることに気が付くのだった。

 

 

 ♬

 

 

「香澄ちゃん、遅いね……」

 

 結局、広大な布面積を存分に使って作ろうとしたギターケースケース製作は終わるはずもなく、香澄は居残りとなり、ベーカリー()の手伝いがある沙綾と分かれた後、凪紗たちは市ヶ谷家の蔵へ向かったのだった。

 香澄は、同じものを作ろうとしていた花園たえという少女にギターの師事を仰いでいると言う。

 今日もその状況は変わらず、居残りの香澄を待つばかりの中、りみがそう呟いた。

 

「あいつ、今日も来ないつもりかよ」

 

 有咲が不満げに口にする。その辺りの事情がよく伝わっていないのかも知れないので、ここは一度宥めておいたほうがいいだろう。

 考えていることはりみも同じなようで、そんな有咲にフォローを入れるのだった。

 

「だ、大丈夫だよ。今日で課題終わらせるって言ってたし」

「どうだか。花園って子とお喋りして、手が止まってるんじゃねーの」

「そ、そんなことないよぉ」

 

 ちらり、りみの救援要請がその視線に乗せられて届いた。個性派の例の面々の中で、気を使いがちなりみには普段から苦労を掛けているので、ここは全力でそれに応えよう。

 

「ギター教えてもらってるらしいけど、それなら我ら香澄のバンドメンバーにとっては好都合なんじゃない?」

「バンドメンバーなら練習に参加するべきだろ」

「香澄は初心者だしさ、花園さんがいい先生になるなら丁度いいかなって。まあ、香澄がいなくて淋しいのは分かるけどね?」

「なっ……! ち、ちげーよ! 私はただ、契約したから見過ごせねーってだけだ!」

「淋しいなら私とりみがいるじゃん? ねえ?」

「う、うん。有咲ちゃん、もしかして私じゃ嫌……?」

「そ、そうは言ってねーだろ! わ、私はみんなでやりたいっていうか……その

「……可愛いなあ有咲は」

「はあ!? お、おい急に近づくな! 抱き着くなぁ~!」

 

 どうやら有咲は初めて体験するバンド活動(青春)に色々と夢見ていた節があったらしい。

 

 ただ、凪紗としてはそれに同調できる部分もある。有咲の言う契約も、言い換えれば約束──お昼ご飯や、蔵での練習のことも、その大切さについて、有咲よりもきっと友達の多い香澄とでは大きな差があるのだろう。

 目の前のことに真っすぐで全力な香澄は、きっと裁縫も、たえとの練習も全力なのだ。

 

「──よし、分かった」

 

 だから、そんな彼女に対しても真っすぐに向き合う必要がある。

 そう考えた凪紗は、胸の中にもがき苦しむ有咲をかき抱きながら、一つの提案をしてみる。

 

「明日、香澄に話をしてみよう!」

「……は?」

 

 有咲の間抜けな声が、蔵に響くのだった。

 

 

 ♬

 

 

「おたえがアンプ持ってきてくれてね、ちっちゃくてかわいいの! おたえは音あんまりよくないって言ってたけど、ちゃんと音出るし、おたえのギターかっこいいんだ!」

「そ、そうなんだぁ……」

「……」

 

 翌日になってもたえの話題は尽きないようで、香澄は作業中の休憩時間に行ったギターの練習の話を続けていた。

 

「課題終わらせる気ないな」

「あるよー」

 

 白々しく受け答えをする香澄。しっかりとストラップを肩掛けしてDコードを押さえているあたり、たえとの練習に夢中である。

 思った通り、りみは心配そうにこちらを窺っており、有咲はむすっとした表情で卵焼きを口に運んでいる──これは急いで()()を発動しなければなるまい。

 

「香澄」

「うん? なあに凪紗──」

「かくほーっ!」

 

 呼びかけて、振り向いたその瞬間に大声で号令を掛け、作戦が発動する。

 りみと有咲も同時に動く。凪紗はりみとともに香澄の背後に回り込み、有咲と向き合うようにその両腕をがっちりと固定した。

 

「え!? なに、なに!?」

「ごめんね、香澄ちゃん……でも、大切なことなのっ」

「えええ!?」

 

 戸惑う香澄をよそに、舞台は整った。凪紗は「ほら、有咲」ともう一人の役者に呼びかける。

 

「……契約違反」

「へ?」

「一緒にお昼食べるって言ったのにどっか行く! うちで練習するって言ったのに来ない……!」

「! ご、ごめん……!」

 

 きっと有咲は、思いを伝える経験が浅い。だから、言葉は短く、絞りだすような語調になってしまう。

 今自分のなすべきことは、そんな彼女の手助けをすることだ──中庭に走ったかつてない緊張の中、凪紗はそう考え、口を挟むように声を上げた。

 

「香澄」

「な、凪紗」

「有咲も、香澄と同じようにバンドのことを大切に思ってるんだよ。だから、練習にはみんながいて欲しいんだ」

「ねっ?」と有咲に訊くと、小さくも珍しく素直に頷いた有咲。申し訳なさそうな表情の香澄を見る限り、気持ちは伝わっているようだ。

「香澄も、きっとバンドのことを忘れてたわけじゃないと思うんだ。この間は私がギターを弾いたし、それで練習しなきゃって思ったんでしょ?」

「う、うん……」

「なら、私も焦らせちゃったみたいでごめん。……許して、もらえるかな」

 

 頭を下げて、伏し目がちにそう尋ねると、有咲は慌てていたものの、香澄は大粒の涙を堪えていたので面食らっ

 てしまう。

 

「う、うう、ごめん……ごめぇぇん……!!」

「おっと……」

 

 急に抱きついてこられるとバランスを崩してしまいそうになるのでやめて頂きたい。けれど、こと今回に関しては、それも見逃してやろう。

 そんな風に考えて、凪紗は香澄を受け止めたまま、その背をぽんぽんと叩く。

 

「ほら、私は大丈夫だからさ、謝らなきゃいけないのは有咲でしょ」

「有咲……」

 

 香澄の両肩を掴んで、くるりと有咲の方へ向ける。浮かべた涙を目にした有咲は終始気まずそうにしていたが、

 

「……今回だけだからな」

 

 とツンデレを披露した。許しが得られたことをそれで理解した香澄の顔が途端に明るくなる。言うまでもなく、有咲に飛びつくのだった。

 

「有咲~~!!」

「うわあ!!」

「ごめん! ごめんねぇ~~!!」

「分かった! 分かったから離れろ!」

 

 どうやら一件落着らしい。深まるりみからの尊敬の視線に苦笑していると、困ったような顔の紗綾が袖を引いているのに気付く。

 

「……ごめん、話が見えないんだけど」

「あ、そうか。紗綾は今のやりとり意味わかんないよね。実は……」

 

 

 ♬

 

 

「あっはは!」

 

 休み時間の残りももう少ない。手早く細かな経緯を説明すると、沙綾は腹を抱えて笑い出した。

 

「い、市ヶ谷さん、可愛い……っ!」

「お、おい何喋ってんだよ! そ、そんなことないですからっ」

 

 一応、沙綾は中等部時代の知己ということもあって()()向けの口調で訂正を試みた有咲だったが、あまり意味のないものだったようだ。

 

「まあまあ。有咲の気持ちは分かるよ。だっていっつも引っ付いてくる子が突然他の子のところに行っちゃったら、寂しくなっちゃうのが性だよね?」

「な、凪紗ちゃんもそうなの?」

「うん。だからりみも離れないでねっ」

 

 おどけたふりをしてりみにハグをしてみる。実際、凪紗からしてみればバンドメンバーとしての必要性、そして何よりも()()()()()に振り回されずに自分を真っすぐに理解しようとしてくれる(もっとも、それを友達と呼ぶのだが)存在としての希少性は言うまでもなく、離れないでいて、なんていうのもあながち冗談ではなかった。

 

 ──意外と私、独占欲が強いのかな……

 

「ひゃああ!?」と慌てふためくりみに頬ずりをしながら、そんな風に顧みていると、香澄が小さく俯いて話し出した。

「みんな、改めてごめんね。……私、もっとギターがうまくなろうと思って、そればっかりで……だから、おたえのギターを聴いて、おたえに教えてもらえたらみんなに追いつけるかなって」

 

 どうやら、凪紗の推測は当たっていたらしい。「どうよ」とばかりに有咲に目を向けると、少しばつが悪そうにしながら指に髪を巻きつけていた。

 

「……私だって、もう昔みたいには弾けねーんだし……だから、みんなで一緒に練習すればいいんじゃねーの」

「有咲……! うんっ! やろう! 今日から」

「お前、まだ家政科の課題終わってねーんだろ」

「うぐぅ……でもっ! もうちょっとだから! ……待っててくれる?」

「……今日だけな」

「やったあ!」

 

 やはりチョロい。今、凪紗はここに確信した。二人に芽生えつつある友情を微笑ましく眺めているりみは別としても、沙綾は同意見でありそうだ。

 もしまた同じようにすっぽかされても困る──今度は有咲が泣いてしまうかもしれない──ので、ここは共謀して対策を張ることにする。

 

「それじゃあ、凪紗たちの帰り際にうちに寄ってってよ。一緒に帰れるし」

「そうだね。一時間遅れるごとに香澄のパンが一個、また一個……って食べられちゃうってことにして」

「えっ!?」

「もちろんお題は香澄持ちで」

「うち、ツケはやってないんだけど……今日くらいは建て替えといてあげるよ」

「えええっ!? い、急いで帰らなきゃ! っていうか、信頼されてない!?」

「ふふ、香澄ちゃん、前科持ちだから」

「牛込さんの口から前科持ちって言葉が出てくるとは……」

「うわーん!! 早く終わらせなきゃー!!」

 

 香澄の絶叫に周囲が苦笑していると、予鈴が鳴り響いた。

 

「お願いだから食べないでー!!」という懇願に縋りつかれながら、凪紗はひとまずの難局を乗り越えたことに大きな安堵を覚えるのだった。

 

 




基本はメインストーリーに沿いながら進行しているわけですが、一段落ついたらオリジナルストーリーも書いてみようと思います。既に一部は出来上がっているので、このペースのまま投稿できたらという感じ。


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#14:(ボーイズサイド)

「兄さん、クライブに来ない?」

「は?」

 

 渾身のシーフードピラフについての感想がなく、少し落ち込んでいると、唐突にそんな質問が凪紗()から飛んできた。

 くらいぶ、とは果たしてどんな意味を示す単語なのだろうか。単語同士の繋がりを解析すれば、『来る』が語尾に接続されるので、場所、または行為を指すと考えられる。

 音から語義を判断してみようか。ライブ、という言葉に接頭辞の『く』が附属したものなのだろうか。そうすれば『く』は何かしらの意味を持つことになる。九、駆、苦……あまり想像のつくものではない。

 それならば、単語同士の発音が融合していると考えることは出来ないか。例えば、『くら』と『ライブ』のように──

 

「あ、有咲の家の蔵でライブをやるんだけどさ」

「……結構考えたんだぞ」

 

 バイト終わり、そこそこに身体を使役したので疲れが溜まっているなかではよく考えた方だと思う。それだけに、解答を導き出す前に答えられてしまったのは何故だか悔しい。

 スプーンに掬ったピラフを口に入れると、ニンニクがよく利いていて空きっ腹に染みるようだった。

 

「ごめんごめん。んで、そのクライブには色んな人を呼ぼうってことになって……香澄は妹の明日香(あすか)ちゃんでしょ、有咲はおばあちゃん、りみはお姉ちゃんのゆり先輩……あっ、あと沙綾が来るんだ」

「へえ。かなりの大所帯だな……待て、そこに(男一人)が行くのか?」

「なに? もしかして気にしてんの? 言っとくけど、ほとんど全員私の同級生でありクラスメイトなんだから、手を出したら──」

「気まずいって話だ。そんなつもりは断じてない」

 

 何が悲しくて妹の同級生に手を出さなければならないのか。第一、その方が気まずいことになってしまう。

 妹の警戒感マックスの目線を、「ライブするってことは、残りのメンバーが集まったのか?」と切り返すことでなんとか往なした。

 

「それがね、香澄と初めて行ったライブハウス(SPACE)で演奏するためにはオーディションが必要みたいで……そこでバイトしてるたえって子に審査してもらおうってことになって」

 まあ、正確には向こうからの挑戦状って感じなんだけど、と凪紗が付け加えて、一口食べた。

 

『SPACEは甘くない』──彼女はそう言い放ったらしい。

 

 聞いた話からまとめれば、動き始めたバンド活動での最初の関門、というところだろうか。件のライブハウスで働いているという子ならば、オーディションの厳しさをよく知っているのだから、まだまだ未熟な凪紗たちに試練を課した、と捉えられる。

 

「クライブの目的はむしろそこにあるってことか」

「そうそう。文化祭の予行演習にもなるし、折角だから、お客さんは多い方がいいかなって」

「なるほど……」

 

 一連の経緯は理解できる。まあ、この都内で蔵のある家に住むバンドメンバーの存在など気になる点は多々あるが、それはこの際些細なものであった。

 

「それじゃあ、蔵をお借りしてる以上なにかお礼のものを持っていくかな」

「あっ、だったら、ライブのあとに食べられるものでもいい? お昼ご飯食べに行こうって話してたんだけど、有咲のおばあちゃんが作ってくれるって聞いて、ちょっと申し訳なくなっちゃって」

「そうするか」

 

 バンド演奏ではエネルギーも使うだろうし、なにより凪紗たちは高校生の食べ盛りである。肉っ気の多いものの方が喜ばれそうだと思った。ついでになにか小洒落た一品でも加えておけば女子ウケもばっちりだろう。

 付け合わせのポテトサラダを頬張りながら考えていると、ふと、凪紗のスプーンがこちらの皿へそろり、そろりと近づいていることに気付く。

 その上に乗せられているものは、ピラフの具のマッシュルーム──

 

「こら、ちゃんと食え」

「いっ、いやあ、いつもバイトでお腹空いてるだろうから、いっぱい食べてもらおうと思って」

「マッシュルームだけプレゼントするな。ほれ」

 

 箸で一つずつ、既に運ばれていた贈り物を返却していく。ついでに大皿からマッシュルームをたっぷり乗せてさらなるピラフをお届けする。

 

「いやあああぁ! だからキノコは苦手なんだって言ってるでしょ!!」

「キノコじゃない、マッシュルームだ」

「同じじゃん!!」

 

 半狂乱の抗議を無視し、凪紗の取り皿にマッシュの大群が主菜のピラフを覆うように乗せていくのだった。

 

 

 ♬

 

 

「若葉くんってさ」

 

 執行部の部室へ向かう廊下、隣のひかりが不意に口を開いた。

 

「こっちに引っ越す前は何かやってたの?」

 

 引っ越しの原因──つまり父親を亡くしたという事実をひかりは知っている。だから、敢えてそちらに触れることを避けたのだろう。彼女の配慮が窺えた。

 

「水泳部でした。夏場は海で遠泳をしたり、結構活動の幅が広かったんです」

「へえー……それでこの筋肉ってわけだね?」

 

 名探偵風の口ぶりで、おそらく自身のそれと比べて二倍近くの太さはありそうな律夏の右腕を指さす。全盛期よりは衰えてしまってはいるが、それでも運動部所属としてのがっしりとした体格である。

 

「練習はハードでしたね。でも、長い距離を泳ぐには不向きだそうです」

 

 力こぶを作るように右腕を持ち上げると、学ランの上からでも分かるくらいに筋肉が隆起した。担任の左門ほどではないが、それでもひかりを驚かせるのには十分だった。

 

「すごいね~。私、筋肉フェチだからそういうの憧れちゃう。あ、でも自分の腕には要らないかな」

「まあそうでしょうね……でも、健康を保つために必要な運動量は守らないと」

「そうそう。もー二の腕なんかぷよぷよで……って、なに言わせんねん!」

 

 素人目にも下手糞な関西弁のツッコミが腹部に刺さる。今日も生徒会長はご機嫌で何よりだ。

 

「って、若葉くん、お腹も凄いじゃん! ちょっと力入れてみて!」

「早く教室行きませんか」

 

 躊躇なく腹回りを触られるのは、(色恋に枯れていても)思春期の男子ならではの羞恥心を煽ってくるのでご勘弁頂きたい。

 

「ちょっとだけ! 指先だけだから!」などと生徒会長としては不穏でしかない発言を受け流しながら進んでいくのだった。

 

 

 

「会長、そろそろ始めましょうよ」

 

 恵がそう促すも、ひかりは律夏の剛腕に興味津々であった。

 

「も、もうちょっと……うわ、マジですげえ……」

「口調が崩れていらっしゃる……そんなに距離が近いと、若葉が勘違いしちゃいますよ」

「え、そうなの?」

「ないです。が、離れて頂けると幸いです」

「ほら、若葉くんは大丈夫だって」

「離れて貰えます?」

 

 この距離の近さはどこかで経験したな、と思えば恵の妹であるはぐみのそれと似ている。

 三年男子の先輩方も、彼女とのコミュニケーションには悶々としたものを抱えているのだろうか。それにしても、一刻も早く離れて頂きたい。時折触れる肩越しに伝わってくるほのかな温もりや、特有の甘い香りは律夏の経験の外にあるもので、端的に言えばそれなりに恥ずかしいのだ。

 

「会長、彼氏さんとかいないんですか?」

「いないよー。だってひまりと会える時間が減るじゃん」

「あ、シスコンだ」

「シスコン副会長にだけは言われたくありませーん」

 

 んべっ、と舌を出すひかり。こんな話をできるあたり、生徒会内の雰囲気は悪くないのだろうが、生徒会長、および副会長揃ってシスコンとなれば、志哲高校の権威は地に堕ちるだろう。

 前にも考えたことがあるが、想像するだけで鳥肌が立つ。

 

「というか、若葉くんも妹ちゃんいるじゃん。どう? うちのひまりより可愛い?」

 

 ポケットからスマートフォンを取り出し、待ち受けにでかでかと表示される少女はひかりとよく似ている。髪型や(どこかとは言わないが)体格の違いからして、恐らくこの子が(ひまり)なのだろう。

 写真の中のひまりはギターらしき楽器を抱えており、もしかすれば凪紗と同じくバンドを組んでいるのかも知れないと思い至った。

 

「可愛い、とは思いますけど、妹さん、バンドやってるんですか?」

「そうそう! 幼馴染の子と一緒に組んでさ、時々ライブもやってるから見に行くんだけど、もーみんな可愛くて……!」

 

 恍惚の表情で滔々とその魅力を語り始めるひかり。おかげで離れてはもらえたが、別世界に行かれたのかもはやこちらに意識が戻ってくることはなかった。

 

「あれは当分帰ってこないよ。どうすんのさ若葉」

「まあ、会長はいつも議題整理が専らだし、俺たちだけでも話すか」

 

 くねくねと珍妙な動きをするひかりを冷めた目で見つめる恵。これに比べれば彼の妹愛など微笑ましいの範疇に収まるのだが、シスコンはシスコンである。

 今年度の花女文化祭に関する書類をファイルから取り出しながら、至って平静に会議を進めていくのであった。

 

 

 ♬

 

 

「シスコン……姉妹への偏愛、ということでしょうか」

「ええ。どうも志哲(うち)の生徒会にはその手の者が多くて」

 

 花女の文化祭まで一か月を切った。志哲高校では生徒会や一部役職に就く生徒を動員し、そのサポートにあたる。

 その筆頭である律夏は、会場巡回のための段取りの最終調整を紗夜と行っていた。

 

「そういえば、三人とも妹さんがいらっしゃいますね」

「まあ、俺はそういうのはないですけど」

「……」

「何か?」

 

 呆れた表情で見返されるので、思わず疑問が湧いてくる。妹との仲は悪くない。が、()()()()()()はない、というのが律夏の主張であった。

 それはともかくとして、聞いておきたい話が一つ。

 

「そういえば、妹さんとはどうですか」

「あなた方のように親密とまではいきませんが、それでも会話の機会が増えた気がします。……もっとも、今までは私が日菜を避けていたようなものなので」

 

 紗夜の自嘲は笑みをもたらすことなく、むしろ自責といったほうが適当であった。

 日菜──凪紗のように、多くの分野で才能を発揮し、紗夜の努力を軽々と飛び越えていく存在は、それに近く親しい関係にあるものを苦しめてきた。しかしながら、紗夜は自己に清廉であろうとするために、嫉妬や劣等を抱く自分を憎んでいる。

 

「話を聞く限りは無理もないと思いますが」

 

 実際、若葉家の兄妹事情も、何かのきっかけで()()なっていたのかも知れないと思うと、律夏自身も紗夜と似たような悩みを抱いていたのだろう。

 同性、同い年、そして双子──紗夜の境遇と心中を思うと胸が痛む。

 

「あなたは、劣等感から始まる努力があっても良いと言いました。たとえその言葉を私が受け入れたとしても、今の私が日菜に対して向けるべき感情ではない──そう思うのです。もっと努力を続けて、あの子と対等にならなければ」

 

 紗夜は、日菜に対して自分が対等ですらないと感じているらしい。そこまでの才能を持つ者が恐ろしいと思った。

 同時に、紗夜が何において日菜と比較されているのかが気にかかった。

 

「そういえば聞いてなかったんですが、対等、というのは何においてなんですか?」

「……すべて、というのが正直なところですが、敢えて挙げるならば、学業、そしてギター、です」

「ギター?」

 

 前者は措くとしても、後者の話は興味のある話である。ここ最近はギターやらライブやらという単語を耳にする機会が多いな、と思いながら訊いた。

 

「中学生時代や、高校の進学にあたって日菜とは常に成績で比較されてきました。両親も日菜の才能についてはよく理解しているので、引き合いに出すようなことはなかったのですが──」

「その配慮がむしろ苦しさを助長してしまった、というわけですか」

 

 紗夜は短く首肯し、それに代わるものとして、日菜と比較されないギター、ひいてはバンド活動を選択した、とも言った。

 

「諦めた訳ではありません。勉学も両立してこその活動ですから」

「なるほど」

 

 書類作成にはお決まりのブラックコーヒーを一口啜ると、苦味ばかりが残った。

 双子は生まれてからずっと比べられ続ける存在なのかもしれない。何かが違えば、それはどちらかが劣っているということなのだから。

 それは紗夜にとっていくら目を背けても変わらない残酷な真実であり、立ち向かい続ける強さを持ち併せる紗夜だからこそ、その苦しみが長く尾を引くのだろう。

 理由はあれど、その環境を途中で脱してしまった律夏には真の意味で彼女を理解することはできない。どんな慰めや同情も意味を成さないものだと悟って、せめてそれを見守るしかないのかも知れない。

 

「……俺にできることはないかもしれませんが、たまには休んでください。文化祭本番で倒れられたらきついですから」

「体調管理も風紀委員の職務の内ですから、心配いりません」

「仕事広いなぁ……」

 

 凛とした表情は彼女の魅力の一つなのだろう。だが、その裏側にある苦悩を、律夏は知っている。

 ならばそれを共有しておくくらいが、自分にできる精いっぱいなのではないかと、そんなふうに考えていた。

 

「……それでも、こうして話を聞いてくれる方がいるだけで、私は助けられていますよ」

「……そうですか」

 

 どうやら、考えていることを読まれてしまったらしい。いつになく柔和な笑みを向けられるのには慣れておらず、律夏はそう答えて仕事に移るのだった。

 

 



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#15:(ガールズサイド)

(うち)でやるのは、まあいいとして……それで、いったいなんの曲やるんだよ?」

 

 放課後、いつもの蔵練を始める前に、有咲がそう切り出した。

 たえの言った『私を震えさせて』という挑戦状に立ち向かうため、香澄と凪紗率いるバンドメンバーの四人はクライブでの演奏をすることに決めた。

 とはいえ、まだ結成して日も浅いバンドが披露する曲目を決めかねていたのだった。

 

「きらきら星は? ほら、この間みたいに」

「地味じゃね?」

「まあ、この間はすぐに弾けそうだから、ってことでやったんだし、時間があるならもっと豪快に行きたいよねぇ」

 

 たえほどの演奏レベルを持つ者にとっても、SPACEの要求するレベルは高いらしい。そうなれば、ここはもう少し派手で難易度の高い曲に挑むべきだと、凪紗は考えていた。

 

「あ、あの、よかったらこの曲はどうかな……?」

 

 思い当る曲を音楽プレーヤーの中から探していると、りみがおずおずと手を挙げて、スマートフォンを差し出した。

 

「りみりんオススメの曲? タイトルは『私の心はチョココロネ』……?」

 

 独特のタイトルセンスはりみのものだろう。そうなれば、必然とこの曲は彼女によって作られたものになる。

 有咲もそれに気付いたようで、りみを見つめる目を大きく開いた。

 

「えっ、もしかして牛込さんが作った曲!?」

「う、うん……昔、お姉ちゃんと作った曲なんだけど、あんまり難しくないかなって……」

 

 りみは、お姉ちゃん──つまりゆりとの共同制作を明かした。グリグリのギターボーカルを担当するだけあって、その辺りの技術はやはり卓越していると言っていいだろう。

 

「すごいよ、りみりん! 聴かせて聴かせて!」

 

 香澄がそうせがむと、りみは少し恥ずかしそうにしながら、通学鞄からイヤホンを取り出す。しかしながら、耳は二つしかないため、三人では聴けないことに気付いた。

 

「あ、じゃあそのまま流そうか」

「ふぇっ!?」

 

 凪紗が再生ボタンを押すと、ギターパートと一緒にりみの歌声が響いてくる。

 

「おー……りみの声と相まって、すっごい可愛い」

「うん、悪くないじゃん」

「ひゃああ! 音出さないで~っ!」

 

 一説には、録音した自分の声は普段と違って聞こえるらしい。りみも御多分に漏れず、林檎の色をした頬で再生を止めようとしている。

 香澄は香澄でそんなりみへ「この歌すっごい可愛いよりみりん! と」興奮気味に話しかけていて、その混沌ぶりにため息をつく有咲に苦笑するのだった。

 

 

 

 翌日は朝から練習である。

 りみに用意してもらった楽譜が、香澄と凪紗、有咲にそれぞれ手渡される。

「これ……コードの音階だけ書いてあるってことは、覚えなきゃだね」

「TAB譜の方が良かったかな?」

「TAB譜?」

 

 首を傾げる香澄。凪紗も聞きかじった程度の知識なので、りみに師事を仰ぐ。

 

「押さえる弦とフレットが書いてある譜面なんだ。このコードだと、4弦の5フレットを押さえて……」

「「4弦の5フレット……」」

 

 赤のランダムスターと、翡翠のグラデーションがそれぞれに音を立てる。

 香澄と凪紗の間ではそれほど腕前に差があるわけではなかった。音楽の知識は中学時代に合唱部で活動していた凪紗の方が上回るが、お互いにギターはお互いに初心者の域を脱していない。

 

「次は1弦の7フレットかな……? あれ、違うかも?」

 

 りみはベーシストとしてのそれなりの経験があるようだが、ギターとは勝手が違う。

 

「おい、いつになったら練習始められるんだよ?」

 

 しびれを切らした有咲がそう訊いてきた。

 それもそうだ。楽譜をいちいち見て、どこを押さえるのかを確認しながらではとてもではないが合わせて練習することなどできない。

 一同にはギターの演奏技術が高い人間が必要だった。

 

「香澄」

 

 示し合わせたかのように、香澄がこちらを向くのと目が合った。どうやら、考えていることは同じらしい。

 

「うん! 呼ぼう、ギター上手な人!」

 

 

 ♬

 

 

「こんにちはー」

 

 まとわりつく香澄に構わず、背負っていたギターを下ろしたのはたえだった。

 

「……何で挑戦状を叩き付けてきた張本人を呼ぶんだよ?」

「まあ、花園さんをドキドキさせられればいい、ってことだからね」

 

 胡乱な目線を敢えて気にしないことにする。

 実際、ド素人そのものだった香澄を、補習期間中にあれだけ上達させたのは、香澄自身のやる気だけでなくたえの技術に依った側面もあるのだろう。つまりは、それほどの実力を彼女が持っているということだ。

 たえは、りみから楽譜を受け取ると、それにざっと目を通してから、

 

「有咲、アンプ借りるね」

 

 とだけ言って準備を始めた。

 

「えっ、う、うん……」

 

 有咲は名前呼びされた経験が少ないのだろう。ぽっと朱に染まった頬を見逃さなかった。

 そんな彼女を差し置いて、話題の渦中であるたえは、おもむろにピックを使って弦を弾いていく。少しの淀みもなく、完成されたイントロが奏でられていく。

 凪紗たちは、目線が引き付けられるような、驚嘆ともいえる面持ちでそれを聴いていた。

 

「おたえ最高!」

「うん、すごい!」

「すげー……」

 

 三者三様の反応に、たえは少し照れたような表情を見せる。

 凪紗も香澄たちに続いて、「もう一回いいかな? お手本にしたいから、()らせてもらっていい?」と訊いたのだった。

 

 

 

「あ~、また間違えた」

「でも、押さえ方良くなったよ。ギター弾いてる人の手になってた」

「ホント!? えへへ、だって!」

 

 そう言いながら自分の手指を見せてくる香澄。「わかんねーよ……」と半目で呆れる有咲の言うように、女の子らしい細い手指が見えるだけだった。

 

「……もっとギタリストらしいのは、凪紗だけど」

「えっ?」

 

 香澄に注目していたら、たえが音もなく目の前に移動していたことに気が付かなかった。

 たじろいだ隙にぎゅっと指を握られて、じっと眺められる。たえの高めな身長も相まって、気圧されているような感覚に陥った。

 

「……本当に初心者?」

「う、うん。合唱部に入ってて、音楽はやってたけど。ギターはコードを少し知ってるくらいかな」

「ピッキングが安定しててすっごい聴きやすいよ」

「ほんと? 嬉しいな」

 

 とはいえ、そのような威圧の意図はなかったようで、指をふにふにとされながらお褒めの言葉を頂いた。

 たえの手は、自分のものより少し大きくて長い。体格差も多少はあるだろうが、やはりギターに向いている手なのだろうなと思った。

 

「それにしても、おたえちゃんギターすっごい上手だね……!」

「ありがとう。小学校の頃からやってたからかな」

 

 そう言いながら自分のギターに触れるたえ。お小遣いを貯めて買ったと言っていたそのギターは、凪紗のものとは違って、一面が艶のある群青色に彩られていた。

 その言葉通りに捉えれば、長い時間をギターに注いできたのだから、その実力も十分なものだと考えられる。

 それだけに、彼女が未だにバンドを組んでいないというのが不思議だった。

 

「花園さんって、バンドは組んでないの?」

「うーん、あんまり考えたことなかったな。ずっと一人で弾いてたし」

「SPACEでバイトしてたら、そういう話って出てくるもんじゃねーの? それだけ上手だったら」

 

 有咲の言葉に、たえは目を伏せて答える。

 

「……バイトしてるからこそ見えるものってある、と思う」

「? どゆこと?」

 

 香澄はそれが何を示しているか分からずに、首だけでなく身体ごと傾けて疑義を表したようだが、凪紗は何となく、理解できたような気がした。

 つまりは、りみのときと内情は似ているのだ。

 

「それ、ちょっと分かるかも……」

 

 凪紗の予想通り、りみが言った。

 

「近くで見てるからこそ、レベルの高さとか、バンドを組んでる子たちがどれくらい本気なのか、全部分かって……それでも、オーディションに受からないバンドもあるんだよね」

 

 たえは頷く。

 彼女が数々のバンドを通して見ているのは、現実の冷たい側面だった。それはどんな努力や希望も打ち砕いてしまうくらいに峻烈なのだ。

 バンドを組むというのは、()()()()覚悟をして臨むもの──言い方に些細な違いはあっても、彼女の中には、そんな考え方がきっと根付いている。

 

 ──香澄とは真逆だなぁ。

 

 いつだったか、有咲は『香澄が二人いる』と言った。普段の突拍子のない言動を見ていれば、それは間違いでもないのだろうが、バンドやライブを見て抱いたのは、真逆の感情だったといえるだろう。

 片や、シビアな現実をじっと見据えているたえ。

 片や、きらめく夢のステージを追いかける香澄。

 理想と現実、静と動、そしてギターの赤と青……ただの邪推だろうけれど、なにもかもが対照的だと思わずにはいられなかった。

 

「……ね、花園さん」

 

 だからこそ、凪紗は願った。彼女を知りたいと。

 

「たえでいいよ」

「分かった。じゃあたえ、私たちと、バンドやろうよ」

「「「……え?」」」

 

 疑問符が周囲の頭上に浮かぶ。

 ただ一人、香澄だけが目を輝かせているのだった。

 

 

 ♬

 

 

「へえ、結局サンドイッチにしたんだね」

 

 数日後、最後の合わせ練習から戻ると、律夏が台所で明日のクライブの差し入れを作っていた。卵やハムの定番ものから、ブラウン食パンを使ったサーモンサンド、いちごサンドまで色とりどりである。

 

「明日の朝、クラブサンドなんかも作って持っていくから。市ヶ谷さんには連絡したか?」

「もちろん。おばあちゃんも楽しみにしてるって」

「楽しみなのはライブの方だろ?」

 

 一通り作り終えたのだろうか、律夏はそう言うと小さくカットしたサンドイッチを丁寧に冷蔵用のタッパーに詰めて、エプロンを外していく。

 

「俺も楽しみだな。どんな所なんだろう」

「場所を楽しみにしてるの?」

「まあ、この都内一等地で蔵なんてそうそうないだろうしな。もちろんライブも期待してる」

 

 悪戯っぽくはにかんで、「緊張して本番でとちるなよ?」とからかう律夏に、「緊張なんてしないよ」と言い返す。

 実のところ、人前で演奏する機会は滅多にないので少しだけ緊張しているのは内緒だ。

 でも、ここで緊張なんてしていては、文化祭はおろかオーディションすらも危うくなってしまう。ここは慣れのためにもクライブをしっかり成功させたいと、凪紗は密かに決意していたのだった。

 

「……楽しめてるみたいだな、バンド」

 

 ふと、律夏は麦茶のピッチャーを取り出しては、そんなことを訊いてきた。声のトーンは低いけれど、それは安堵の表れだと、凪紗は経験則として理解していた。

 

「うん。兄さんのお陰で……だから」

 

 足元を見る目線を上げて、自分よりもずっと背の高い律夏の瞳を射貫くほど見つめて、言葉を紡ぐ。

 それは宣言にも近いような、強い感情の発露だった。

 

「私、きっとみんなをドキドキさせてみせる。思いを乗せた音を届けて、私が見ている世界を伝えたい」

 

 律夏は、目をぱちくりとさせていたかと思えば、ふふっ、と小さく笑って、

 

「その意気だ」

 

 と返したのだった。

 

「む、何その反応」

「いや、昔の凪紗が聞いたらひっくり返りそうだなと思って」

「うぐ……」

 

 普段は言いくるめられることなどないのだが、こればかりは彼の言うことが正しい。

 有咲やりみ、たえをバンドに引き入れる中で、香澄の考え方が伝染したのだろうか、キラキラや、ドキドキという言葉を知らず知らずのうちに多用していることに気付いて押し黙った。

 

「し、仕方ないじゃん。花女のみんなは魅力があるっていうか……知りたい、って思える子が多くて。中学の時みたいに、周りと競う必要がないっていうか」

 

 そんな風に言い訳がましく弁明してみる。

 実際、凪紗からすれば、嫉妬も、虚飾も必要とせず、自分に誠実に向き合うことのできる人種が花女には多いように感じていた。そんな環境が、自分は好きだとも思った。それは紛れもない事実なのだ。

 

「それも本当のことだろうな。でも、一番の理由は違う」

「一番の理由?」

「それは、凪紗が成長していること──変われたんだろう。みんなとの出会いを通して」

「成長……できたのかな」

 

 コップを傾け、律夏はそれに力強く首肯する。

 

「自分では気付かないのも当たり前だろうな」

「そんなもの?」

「ああ。毎日、夕飯を一緒に食べているときの話題を聞いて、リビングでギターの練習をする表情を見ている側からすればよく分かるよ」

「そ、そんなに分かりやすいかな……」

 

 言われてみれば思い当る節しかない。

 凪紗は、律夏の言葉に反射的に灯った心の火の熱を制御しようとしながら、またもや頷く彼にとぼけるふりだけをしておいた。

 

「……なんか恥ずかしい」

「当事者からすればそうなんだろうけど、見ている方はその成長を喜ばしく思うものだよ。──勉強以外にも、大切なことがあっただろ?」

 

 ふと、妙に聞き覚えのある単語が耳に入った──入学前、初めて訪れた新居で彼が口にしたことだ。

 恐るべき予測能力に驚愕の色を浮かべて彼を窺ってみれば、「俺は予言したんじゃなくて、信じただけだよ」と返されるので、凪紗は、自分の反応が分かりやすいというのはどうやら本当のことらしいと悟った。

 

「……明日、楽しみにしてる」

 

 ぽす、という音を立てるように、律夏の掌が少しの間髪に触れた。父が亡くなってからというもの、()()が多くなった気がする。

 二人の間には言葉がなかったけれど、凪紗は、それが彼なりの激励であることを何となく理解していた。

 

「おう」

 

 拳を掲げて、男らしい言葉で応えてみると、律夏はそれを微笑みとともに一瞥して、掌を離し風呂場の方へ歩いて行った。

 五月にはまだ早い、確かな熱の余韻が残っていた。

 



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#16:(前/ボーイズサイド)

『私、きっとみんなをドキドキさせてみせる』

 

昨日、凪紗ははっきりそう言った。宣戦布告というか、選手宣誓というか――ともかく、強い意志の籠った語気であったことは間違いない。

花咲川での新たな出会いによって、凪紗の考え方は変化したようだ。

他者との関わり合いの中で期待することを捨てた過去のことを思うと、その変化は律夏にとって喜ばしいものであった。だからこそ、そのように彼女を変えた少女たちが気になったのだ。

 

「――はぁっ、はぁっ……!」

「大丈夫か」

都電早稲田駅を降りて神田川方面に向かった兄妹は、クライブの開催場所である市ヶ谷家へと歩みを進めていた。

五月の日差しは暖かいが、大きな歩幅でずんずんと進んでいく兄を追いかける凪紗にとっては、突き刺さるようなそれが不快な熱を運んでくるようだった。

「速過ぎ……もうちょっとゆっくり歩いてよね」

「ああ、すまん」

凪紗も一通り以上の運動が出来るとはいえ、無尽蔵の体力を誇る律夏についていける訳ではない。ギターを背負って歩いていては尚更だ。

恨みがましい視線が注がれるとともに、持っていたペットボトルの水を奪い取られた。

「俺の水……」

「っぷは……!ふう、生き返った」

そもそもの原因は自分が凪紗のことを考えずに早い歩調で歩いてしまったことなので、別に憎たらしいだとか、なんて勝手な奴なんだ、などとは思ってもいない。

口元を拭って、「さ、行くよ」と急かす凪紗を一睨みすると、お返しだと言わんばかりの得意げな笑みが返ってきたのだった。

 

 

     ♬

 

 

「……おっ、もうみんな着いてるみたいだね」

市ヶ谷家に続く胸突坂は急勾配の階段が続き、早々に凪紗の体力が尽きた。

一時は彼女をおぶって行くことも考えたが、もう高校生の彼女にとってはこれ以上にない屈辱だろうと思い、ペースを落として向かうのだった。

大きな敷地には力強い瓦屋根と白壁が続き、その入り口では三人の女の子――恐らく凪紗のバンドメンバーなのだろう――がこちらに手を振っていた。

「凪紗ちゃん、おはよっ」

「おはよう、りみ。有咲と紗綾も」

「おはよー」

「おー」

三者三様の挨拶を交わす彼女たちは仲が良いのだろう、淀みなく会話が弾んでいく。

それを一人外れた所から眺めていると、思い出したように凪紗が「そうだ」と言ってこちらを向いた。

「紹介忘れてた。こちら、うちの兄です」

「おい……」

正直な話、放っておかれるにしてもこれはないだろう、と思っていたところなので、凪紗に非難めいた目線を送ると、「ごめんごめん」とおどけた調子で返される。

「あはは、凪紗ってば」

そう言って笑うポニーテールの彼女は、例の友達のうちの誰なのだろうか。まだ顔と名前が判別しきれていない。

ひとまず自己紹介をしておくことにした。

「どうも、若葉律夏です。妹が随分お世話になってるみたいで」

「いえいえ。いつも凪紗には助けられていますよ。うちのパンの売上とか?」

「パンの売上……ひょっとして、やまぶきベーカリーの」

「あっ、そうです!私、山吹沙綾っていいます」

どうやら件の山吹家長女が彼女らしい。面倒見のよさそうな、どこか大人びた落ち着きが印象的だった。

「よく来て下さっているんですか?」

「うん。初めは商店街の買い物ついでだったんだけど、すっごい美味しくて。デニッシュもいいけど、最近はチョココロネとか菓子パンも――」

「そうですよねっ!!」

「うおっ」

突然、自分と沙綾の間に割り込むように聞こえてきた声に驚きが漏れる。思わず隣を窺えば、なにやら黒髪の少女が興奮冷めやらぬ様子でこちらを見つめている。

「沙綾ちゃんちのチョココロネ、すっごく美味しいですよね!この間も、ココアパウダーの比率を変えてもっと美味しくなってて――!」

「そ、そうなんだ」

どうやらチョココロネの話題が琴線に触れたらしく、彼女の口からは次々にやまぶきベーカリー秘伝のレシピについての考察が述べられていく。

凄まじい観察眼とその勢いに呆然と舌を巻いていると、見かねた凪紗から助け舟が出される。

「りみ、その辺で。兄さん固まってるから」

「あっ……ご、ごめんなさいっ」

我に返った彼女――バンドの加入の件で、凪紗に相談を受けた子だ――りみは、先程の勢いをそのまま謝罪に変えて頭を下げてくる。

つまりは、チョココロネに懸ける熱意は本物だということだろう。やまぶきベーカリーはきっとこの先も安泰だ。

「ま、まあ美味しいのは本当だから」とフォローを入れて、持ってきた紙袋を彼女に広げて見せた。

「パンが好きなんだったら、これ、丁度良かったかも」

「このカゴ……サンドイッチですか?」

「うん。チョコはバナナサンドに塗ってあるんだけど、数が少なかったかな」

「い、いえ!めっちゃ嬉しいですっ」

「ライブ終わったら、沢山食べてね」

テンションが上がっているのがすぐに分かるくらいに、りみはチョコバナナサンドに期待してくれているらしい。それなりの時間を掛けて作った甲斐があるというものだ。

「すっごい……律夏さん、料理も出来るんですね」

「まあ、成り行きで覚えたというか……そうだ、具材に生ものを使っているから、早めに冷やしておきたいんだけど……」

「そっか。有咲、お願いできる?」

そう言いながら、凪紗は家主(代理)である三人目の少女、有咲の姿を探した。しかしながら、例の金髪ツインテールが見つからない。

「あれ?」とキョロキョロ視線を彷徨わせていると、苦笑いした沙綾が「あっち」と指を差して教えてくれたようだ。

「……なんで隠れてんの?」

「いや……その」

当の彼女は門の柱に身を潜め、そこからひょっこりと少しだけ顔を出してこちらを覗いていた。

律夏と目が合うと、飛び上がったように驚いて身を隠す。

「……なあ、もしかしなくても俺のせいか」

「あ、あはは……ちょっと人見知りなだけですよ」

凪紗に問うたつもりが、沙綾にフォローされてしまった。その凪紗はといえば「まあ、そのガタイに怯えてるんじゃない?」と底意地の悪い笑みを浮かべているばかりだ。

「私、有咲にこれを渡してくるよ。香澄とたえを待ってて」

「りょーかい」

「……市ヶ谷さんによろしく」

「まあ、危害は加えないよって言っとく」

「俺はクマかなんかか」

ため息交じりのツッコミにうざったいウインクを一つ残して、凪紗は有咲の方へ向かっていく。

「ふふふ……凪紗ちゃんと律夏さん、すっごい仲がいいんですね」

「そう見える?」

「はい。凪紗って、クラスではこんな感じじゃなくて、もっと大人っぽいっていうか……学級代表なのもあるけど、みんなのまとめ役だから」

「へぇ……」

りみと沙綾の言葉は意外なものだった。

中学時代も同様に、凪紗が学級委員に推薦されることは多々あった。しかしながら、周りとの精神的な年齢差を苦に思っていた彼女がそれを受け入れることはなかったのだ。

同級生の目にも大人に映る彼女は花咲川でも変わらない。それならば、変わったのは彼女の方なのだろう。

目を細め、頬が僅かに緩むのを自覚しながら、律夏は有咲の手を引いて駆けていくその後ろ姿を見守っていたのだった。

「おーい!」

「お、来たな」

そして、ふと聞こえてきた声の方を向いてみれば、りみや沙綾に手を振りながら駆けてくる女の子の姿があった。

何かを背負っているようだが、もしかしなくてもギターだろうか。

「もしかして、あの子が……」

「はいっ、香澄ちゃんです」

りみの言葉に、その彼女が例のバンドを始動させた本人だと知って、律夏はなるほどと改めて近づいてくる彼女を眺めていた。

「さーやー!」

「わ、分かった分かった……」

出会いがしら沙綾に飛びつく彼女にはエネルギーが溢れているようだ。恵の妹や、妹の話をするときの生徒会長に似ている節がある。

それに驚いていると、苦笑したりみが自分を紹介してくれた。

「えっと、香澄ちゃん、こちら凪紗ちゃんのお兄さんだよ」

「えっ、本当!?」

「本当本当。若葉律夏です。妹がいつもお世話になってます」

「いえ!戸山香澄です!今日はライブ楽しんでいってください!」

香澄の弾けるような笑顔は、裏を感じさせない。やはり凪紗には新鮮に映るのだろうが、()()()()()()()()()()()理由は何なのだろうか。

律夏は、その答えをライブで確かめることにしたのだった。

 

 

     ♬

 

 

その後、ウサギ(オッちゃん)同伴の花園たえという最後の一人のメンバーを加えて、ライブの準備は進められていった。

音響機器を経験のあるりみが担当し、有咲は自分のキーボード、そして凪紗と香澄は先輩ギタリストたるたえの確認を受けている。

蔵とはいえライブはライブだ。五人にはただならぬ緊張感が流れているように思えたが、翻って、それを見守る律夏たちは和気藹々とした歓談に興じていたのだった。

「もしかして、律夏くんって水泳やってたりする?」

「ええ。こっちに転入するまで続けていました」

「やっぱり!私、去年の都大会に出たんだけど、そのときに泳いでる君を見たと思うんだよね」

「本当ですか」

「うん。戸山さんもその時にいなかった?」

「あ、はい。1500mでしたよね?中等部は先輩の応援と見学だったんですけど。あんなに長い距離、きれいなフォームを崩さずに泳ぎ続けているのがすっごく印象に残って…… 」

ゆりが話題を振った少女を戸山さんと呼んだのは、彼女が香澄の妹であるかららしい。

ついでに部活も同じ水泳部だということで、特に律夏のフォームに感激したという彼女――戸山明日香を加えて話は盛り上がった。

「――それで、律夏くんはもう水泳はやらないの?」

「……そうですね。少し事情もあるんですが、家事やバイトのことを考えると」

わずかに回答に詰まった律夏に「なるほどね」とだけゆりが返す。彼女がどこまで察したのかは分からないが、ともかくありがたい配慮だと割り切っておくことにした。

「家事……そういえば、お姉ちゃんから聞いたんですけど、ライブ終わりのお昼ご飯のためにサンドイッチ作ってきてもらったって、もしかして律夏さんのですか?」

「一応ね。具材が皆さんの好みに合うか分からないんだけど」

「凪紗ちゃんが運んでるところに偶然会ったんだけど、すっごい美味しそうだった。ライブの終わった後も楽しみ」

「すごい……お姉ちゃんの対極みたいな人だ……」

「あまり期待しすぎないでくださいね」と返しつつも、姉に失礼な感想をこぼす明日香に苦笑する。

考えてみれば、隣に座る二人を含め誰かしら姉妹がいる。そのあたりの事情がこの和やかな雰囲気に繋がっているのかもしれない、などと思っていた。

「でも、結構人数がいるよね。サンドイッチ、足りるかな?」

「大丈夫ですよ」

その声に振り向けば、ゆりの発言に答えるように、沙綾が後ろの階段から降りてくる。有咲の祖母もその後をついてきていた。

「紗綾ちゃん、椅子、ありがとうね」

「いえ。こちらこそ大人数で押しかけてしまってすみません」

ベーカリーでの接客などで慣れているのだろうか、彼女はそんな会話を済ませると、持っていた椅子(スツール)を律夏たちの座っているソファの横に並べた。

「よ、いしょ。サンドイッチが足りなかったら、私の家から持ってきたパンも食べてください」

見れば、背負っていたバッグの中からパンの入った紙袋が取り出される。好物のデニッシュもあったので、残ったらありがたく頂こうと画策した。

「うわあ、美味しそう……!」

「律夏くんのと食べ比べできるね」

「流石に本職には太刀打ちできません」

両手を挙げて降参の意を示すと、「あははっ」と三人の笑い声が返ってくる。凪紗から話を聞かされたときはどうなることやらと不安だったが、存外に彼女らとの会話は滑らかに続きそうだった。

律夏のそんな安堵をよそに、紗綾が何か思い至った表情で、バッグからさらにもう一つ、大きな風呂敷の包みを取り出した。

「そういえば、市ヶ谷さんのおばあさんもお弁当を作ってくれたんですよ」

小花柄の風呂敷は年季を感じさせる色合いである。古臭さを感じないのは、この家や蔵が立派な屋敷であるからだろう。

市ヶ谷家は、少なくとも遡れば相当な名家であることに間違いはないだろうと身震いする心持であった。

「若い子向きの味付けじゃなかったかもしれないけれど……大丈夫かしら」

「いえ。凪紗も、以前頂いたときはとても美味しかったと言っていたので」

「あら、そう?それならよかったわ」

有咲の祖母である万実が、律夏ににこりと微笑む。その明るさに、場の雰囲気がさらに和んでいくのを感じた。

彼女とは、先日アルバイト先で知り合っている。勤務中、効率化のために導入されているセルフレジで困っているところを目撃したのだった。

「今日はお店、大丈夫なの?」

「ええ。シフトが入るのは大体平日なので」

そんなやり取りの傍ら、「どこのお店なんですか?」と挟み込まれた沙綾の質問に答える。

恵の実家たる北沢精肉店、そしてその斜め向かいのやまぶきベーカリーを通るように、都電方面へ商店街を数ブロック歩いた青果店だと告げた。

()()からすぐそこじゃないですか!全然気が付きませんでした……」

「軽作業はバックヤードで済ませることが多いからね」

大きな驚きを隠さない沙綾に苦笑をもってそう返す。

彼女との会話は、どこか彼女自身の気遣いが見え隠れしている。少し大げさな反応も、打てば響くようなやりとりも、決して嫌味に受け取られないようにと()()()()()いるような気がしてならなかった。

それはなぜだろうか。

「沙綾ちゃん、その椅子で大丈夫かい?」

「はい。気を遣って頂いて、ありがとうございます」

万実にそう言って、沙綾は、律夏たちの座る四人掛けのソファの隣に置いたスツールに腰を降ろし、そこから準備の整いつつあった凪紗たちを眺めていた。

眩しいものを見つめるように細めた目が、律夏の心に残り続けるのだった。



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#17:(後/ボーイズサイド)

評価ありがとうございます。


「──こんにちは!」

 

 歓談から一転、静まり返った地下室に、香澄の弾けるような声が響いた。わずかに震えをはらんだ、しかし力強い声だった。

 

「戸山香澄です! クライブに来てくださって、ありがとうございます!」

 

 彼女と凪紗に引っ張られるように、三人が頭を下げると、「有咲ーっ!」と万実の声援が掛かって、鍵盤に手を置いて運指を確認していた有咲が慌てた。

 くすっと小さく声が漏れた観客席とは裏腹に、バンドメンバーの一同はやはり緊張の面持ちだった。律夏にとって、凪紗のそれ自体が物珍しく、笑いをさらに助長してしまった。

 

「今日はおたえと……さーや、あっちゃん、ゆりさん、律夏さん、おばあちゃんをドキドキさせます! してくださったら嬉しいです!」

 

 一通りの前口上に、律夏たちは拍手で迎えた。

 香澄は、右隣のりみと顔を見合わせ、そして頷くと、りみの操作したドラム代わりの打ち込み音源が流れ出す。メンバー全員の表情がさらに引き締まり、それがライブの始まりを意味していた。

 

「──いきます! 『私の心はチョココロネ』!」

 

 

 

 彼女らにとっては、きっとそれは一瞬だったのだろう。何よりも密度の濃い時間の流れが、そこにあるように感じられてならなかった。

 万実やゆり、明日香は体を揺らし、旋律の流れに身を委ねるように聞いていた。

 律夏は、弦を(はじ)き、あるいは鍵盤を叩いて歌う彼女らの表情を見ていた。もちろんライブ自体の完成度が気になるところでもあったが、それ以上に、彼女らがどれほどに入れ込んでいるのかが気になったからだ。

 きっと、観衆(オーディエンス)の態度としては失格もいいところなのだろうなと苦笑が浮かびかけて、口を真一文字に結んだ。

 

 しかし、ふと、横目に見た沙綾の表情が目に入って、それもすぐに元に戻った。

 

「──やった! 最後までできた!」

「まじヤバかった! ほんとヤバかったって!」

「でも、楽しかった!」

「うん。頑張って練習してきて、よかったって思えたよ」

 

 どんなこと対しても、無気力でろくな練習すら必要としなかった彼女とは思えない言葉が並ぶことに、つくづく驚かされる。

 

「でも、勝負じゃなかったんですか?」

「そうみたいだね」

 

 たえをバンドのメンバーに引き込んでいたことに気付いた明日香に、沙綾が笑う。

 

「だって一緒に弾いた方がドキドキするから! ねっ、おたえ?」

 

 きらめく瞳でそう答えた香澄。仲間との協調、そして奥深い音楽の世界が彼女たちを夢中にさせているのだと思い知った。

 それは、香澄に問いかけられたたえも同じようで──

 

「香澄、凪紗、りみ、有咲っ」

「わ、お、おい──うわああああ~っ!」

 

 あまりの勢いで駆け寄ったたえに、有咲が悲鳴を上げる。それも気に留めないくらいの興奮を溢れさせるようだった。

 

「自分の音に、きらきら輝いたみんなの音が重なって……バンドに本気で向き合う気持ちが伝わってきて、すっごいドキドキした」

「おたえ……! おたえもキラキラしてたよ!」

 

 どうやら、()()の方も良い結果に繋がったらしい。メンバーは喜色をはっきり滲ませた。

 しかし、やはりキラキラドキドキなるものはよく分からなかったようで。

 

「出た、香澄語」

「完璧に言語化できるようになったら、香澄マイスターになれるよ」

「私ワイン扱い!?」

 

 香澄の反応に周囲がどっと笑い出す。

 笑顔の中心にいる凪紗の表情と、その外側にいる沙綾のそれとを見比べるように、律夏は注意深く見つめていた。

 

 

 ♬

 

 

 

「んー! ライブのあとのサンドイッチおいしー!」

「いっぱい種類あるね……あっ、これチョココロネ!」

「おばあちゃんのたらこおにぎりもおいしいよ」

 

 ライブ演奏というのは意外にも食欲を誘うらしい。それが女子高生特有のカロリー無視理論だとしても、あれだけ力のこもった演奏のあとでは、彼女らを止める者はいない。

 周囲の目を気にすることなく大騒ぎをする香澄たちにゆりは苦笑し、そして明日香は「律夏さんとゆりさんを見習ってほしい……」とため息をついた。

「まあ、兄弟姉妹は家それぞれだからね」とゆり。本人はもちろん、りみを見ていれば姉妹仲が悪くなるとは到底思えないので、これについては彼女の言う通りだと頷く他ない。

 

「ゆりさんや律夏さんみたいなお兄さんお姉さんがいて、りみさんと凪紗さんが羨ましいです」

「そうかな? 別に牛込家(うち)は普通だよ?」

若葉家(うち)もかな。戸山さんの(うち)も、明るくて楽しそうだと思うけど」

 

 彼女の明るさは、凪紗にとってはある意味道しるべとなってくれた部分はあったのだろうが、あまりの光度に妹はうんざりしているらしい。

 苦笑いでそこまで言って、明日香も香澄も同じ()()()()であることに気付く。

 

「あっ、私は明日香で大丈夫ですよ」

「私もゆりで大丈夫。兄弟姉妹がいると、苗字で呼ばれてもどっちか分からないよね」

「……分かりました」

 

 慣れない。

 思い返せば、恵とも名前呼びでやり取りをしたことがない。生徒会ではひかりがいるが、彼女へは役職(会長)呼びである。

 えも言われぬむず痒さに襲われながら二人の名を呼ぶ。その度に底意地の悪い凪紗の笑顔がこちらを覗いていたのは言うまでもない話であった。

 

 

 

「これ」

「えっ?」

 

 バンド少女たちの容赦ない略奪によって、律夏のお手製サンドイッチはすぐになくなってしまった。

 香澄垂涎のBLTサンドをあっさり譲ってしまった沙綾へ、律夏は自分のイチゴサンドを手渡した。

 

「折角だから、ベーカリー側から見た感想を聞きたくて」

「ふふっ……厳しいですよ?」

 

 律夏の手からそれを受け取ると、沙綾はおもむろにぱくついた。

 

「んんっ! 美味しい……!」

「よかった」

 

 反応は良好。無事に女子高校生の味覚感性について行けているらしいと安堵する。

 

「食べておいて何ですけど、律夏さんは大丈夫ですか?」

「食べたくなったら自分で作るから」

 

 そう言って、遠慮の欠片もなく食べつくしてしまった凪紗(たち)の非礼を詫びた。

 

「だ、大丈夫ですよ! みんなそれだけライブでお腹空いてたってことだし……!」

 

 両手を振って否定する彼女は、誰よりも人の気持ちを考えることに長けているのだろう。それは容易なことではないはずだ。

 ──それだけ他人を慮れる人間が、なぜ()()()表情をするのだろうか。

 彼女の座るスツールの隣に腰掛ける。凪紗たちの笑い声に満ちた喧噪を背に、律夏は訊いた。

 

「……山吹さんは」

「沙綾でいいですよ。うちにも弟と妹がいるので」

 

 どうやら先ほどの会話を聞かれていたらしい。多少の気恥ずかしさを押し殺して「……沙綾ちゃんは」と言い直した。

 

「凪紗たちのこと、よく見てくれているみたいだね」

「いえ! こちらこそ、凪紗にはいつも助けられてばかりなんですよ! さっきはパンの売り上げなんて言いましたけど、香澄にしっかりブレーキを掛けたりして、みんなのまとめ役になってくれるっていうか」

「牛込さん……りみちゃんからも聞いた。本当に、前の凪紗を考えれば信じられないよ」

「そうなんですか?」

「ああ。中学生の頃のあの子は、今よりもっと口数も少なくて、家で友達の話をしたことなんて一回もなかったくらいで」

「全然想像できない……」

 

 驚きを深める沙綾に頷いて、「それだけ、沙綾ちゃんたちに出会って変われたってことだと思う」と続けた。

 

「……ふふ」

「?」

「律夏さん、すっごいお兄ちゃんしてるな~、って思いまして」

「……そうかな」

「とっても」

 

 そう言われてしまうと、客観性に文句をつけることはできないので、「そっか」とただ受け入れるしかない。

 自分で思うくらいにもやたらと神妙な反応になってしまったので、沙綾は「そうですよ」と笑っていた。

 

「沙綾ちゃんも()()なんじゃないのか? 二人も下の子がいたら」

「あはは。そうかもですね」

 

 千紘(母親)によく似た端正な顔が、その笑みを深める。律夏は、そこにある翳りを見ぬふりはできなかった。

 

「……何か、わけがありそうだね」

「分かりますか?」

 

 沙綾は何も言わなかった。

 多分、当たり前のことで、それなりの事情があって、初対面の人間に語ることではないと判断したのだろう。──ちょうど、律夏にとってのそれと同じように。

 それが悩みであるならば、可能な限り力になりたいと思った。解決することが、結果的に凪紗のためになるのなら、猶更のことだ。

 

「”お姉ちゃん”であることが嫌になったとか?」

「……嫌、だからどうなるわけでもないんですけどね。でも、そういう感じではないですよ」

「そっか」

 

 独り言のような返事ののち、思考の海に潜る。言葉通りに捉えるなら、彼女個人の心の揺れ動きが、直接の原因になっているわけでないということだ。つまりは、沙綾ひとりでは()()()()()()()事情があると予想できる。

 一つだけあった心当たりが脳裏をよぎった。しかし、きっと沙綾は口外していないだろうから、それが本当の理由であるならば、この場でそれを無闇に言い当てることは、大きな不信感を与えかねない。

 そうであるならば、為すべきことは何か。

 

「……少し、分かった気がする。もし考えた通りなら、それはずっと、これからも抱え続けていく問題だ」

「……そう、かもですね」

 

 予想は的中しただろうか。それは措くとして、この状態の彼女を放っておけない。

 

「これが事実かはともかく、悩みは誰かに相談してほしいって思うよ」

「……ありがとうございます」

 

 視線を僅かに落とした沙綾を見て、律夏は後悔した。

 あまりにありきたりな言葉──頑張れ、応援しているから、などというのは使い古された常套句で、しかし意味ばかりが肥大化しているような感がある。

 

 常に頑張っている人が今以上に頑張ることなんてできない。

 誰かに相談できるような悩みなら、もうとっくに解決している。

 

 沙綾の表情は、それを伝える疲れ切った笑顔そのものだった。律夏は、自分のいかなる言葉も気休めにしかならないことを悟った。

 姉として、兄として、近い境遇に置かれているのにも関わらず、手を差し伸べられないことをもどかしく思う。けれど、自分はどれほど彼女のことを理解しているのだろうか。

 氷川紗夜の問題に触れたときと、何が違ったのだろうか。

 

「……沙綾ちゃんは、その悩みを解決したいと思ってる?」

「どう、なんでしょうね。()()()()からずっとそばにあって、だから……」

 

 彼女は解決を望まなかった。

 大きな停滞の渦にあって、いつしか歩むことを諦めてしまったなら、凪紗たちの演奏を聴いたあの表情に説明がつく。

 身動きの取れない事情があって、そのために自分の求めるものから手を放した。結果、周りは良い状況になったが、空っぽな心が満たされないままだった。

 そんな自分が許せなくて、必死に抑え込んで、あるべき姿を貫いているのが、今の沙綾なのだろう。

 それでも、渇きが潤いを求めるような本音を押し殺してなどいられないのだろう。そうでなければ()()()目をするはずがない。

 そんなものを見せられたら、何もせずにはいられないのだ。

 

「……もし、誰かに打ち明けるとするなら」

 

 事実、沙綾と自分の距離はまだまだ遠い。それはつまり、分厚い心理的な隔壁の存在を意味しているし、そうかからどんな金言至言を叫んでも彼女の心に響くことはないだろう。

 氷川紗夜は、同じ境遇にある人間に救いを求め、自分の糧にしようとした。だから、そのような距離のことを考える必要がなかった。

 翻って、山吹沙綾は救済を必要としない。そこに敢えて踏み込むためには、その主体が自分のような人間ではならないと結論付ける。

 

「凪紗を()()()()()()くれないかな」

「え……?」

 

 律夏の不自然な言い様に戸惑う顔色が返ってくる。

 

「た、”頼ってやって”って……どういうことですか?」

「あいつは中学で友達付き合いがうまく行かなくてね。誰かに頼ることも、頼られることもなかったから」

 

 一つ、沙綾について思うことがあった。

 配慮、遠慮、気配り──どれも沙綾が見せたことだ。それはいつも誰かのために行われている節がある。だから、彼女を動かすためにはこうすればよい。

 

「言葉の通りだよ。俺は妹に、大切な経験をさせてやりたいと思っている。それが沙綾ちゃんの助けになるなら尚更」

「でも、凪紗に迷惑じゃ……」

「悩みを相談してもらうなんて経験、あいつはないと思うから。多分喜ぶと思うけど」

「そ、そうなんですか……」

 

 若干妹の名誉に傷をつけているような気もするが、この際なりふり構っていられない。必要ならあとでご機嫌取り(アイス)でもなんでも用意しよう。

 

「まあ、それは冗談だとしても、凪紗は迷惑だなんて思わないよ。家で話をよく聞くけど、いつもバンドか沙綾ちゃんの話ばかりだから」

「本当ですか?」

「ああ。それに、身内贔屓に聞こえるかも知れないけど、凪紗は相談相手になれる以上の器量があると思ってる」

 

 思考と、沙綾の反応を覗うことに集中していた意識を外へ向ける。

 気が早く、次回のライブ──おそらく文化祭だろう──のことについて楽し気に語らう五人の中で、香澄とともに話題を引っ張る凪紗が目につく。変化の中途にある彼女にとって、沙綾の問題に踏み込むことはさらなる成長の起爆剤となることを信じて疑わなかった。

 ならば、自分のなすべきことはただ一つとばかりに、律夏はその事実の一端を告げるのだった。

 

()()()()を抱える者同士、きっと通じるものがあるはずだよ」

 



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#18:心に穴が空いた(ガールズサイド)

「ふっふーん……」

 

 クライブから数日明けて、花咲川学園の一年教室。黒板にでかでかと書かれた『文化祭実行委員』の横に名前を書かれている少女が、たっぷりの自信を表情に滲ませる。

 

「実行委員になりました、戸山香澄です!文化祭いぇーい!」

「「いぇーい!!!」」

 

 クラスの盛り上がりようを抑えるふりをして、しかし一番の期待感を隠しきれないところが彼女らしい。隣でそんな彼女に苦笑を浮かべる学級委員の凪紗である。

 

「出し物は……キラッとしてて、シュッとしてて、可愛いのがいい!」

「何だそれは……」

 

 ある意味予想通りの言動に、凪紗が額に手をやると、クラスメイトから笑い声が上がる。

 独自の世界観(カスミワールド)を持つ彼女を御すことは、自分だけでは手がかかりそうだ。

 

「……とりあえず、出し物の前に副委員長を決めようよ」

「え?あ、そっか。凪紗は?」

「私はもう学級委員だからね。……というより、香澄の手綱を一人で握り続けるのはちょっと」

「私、もしかしてウマに見えてる!?」

 

 即席コントに教室は爆笑の渦……とまではいかないが、そこそこの盛り上がりを見せている。バンドではなくお笑い芸人の方が向いているかもしれない。

 

「――まあ、それは冗談として。副委員長を指名しようよ」

「えーっとお……」

 

 ぐるり、クラスの端々まで見渡す香澄の視線の後を追いかけて、やはり彼女の方を向いて止まった。

 

「あっ、さーや!」

「へ?」

「やっぱりそうだよね」

 

 圧倒的な母性――もとい包容力は、クラスの中でも沙綾が抜きんでていることは、皆が納得するところである。

「い、いや、私は……」と微妙な反応を示す彼女の周りで、「まあ沙綾だよね」だとか、「香澄をなんとかできるのは、沙綾しかいない!」と賛成の声が上がる。

 そんな雰囲気に押されて、これ以上の抵抗は無駄だと悟ったのか、「わかった、いいよ」と香澄の指名を受け入れたのだった。

 

 凪紗は、その表情が含むものを読み取ることができなかった。

 

 

     ♬

 

 

「はあ?香澄が実行委員!?」

 

 木漏れ日の眩しいいつもの昼休み、六人から話を聞いた有咲の表情はすこぶる訝しげだった。

 

「……大丈夫か?」

「ええっ、なんで!?大丈夫だよ!学級委員は凪紗だし、副委員はさーやだし!」

「なんだ、凪紗と山吹さんがいるのか。なら安心だな」

「ええっ!私と二人で反応違う!」

 

 香澄と有咲の間で繰り広げられるこんなやり取りも、もはや日常茶飯事だ。その一方で、りみが「最初のクラスのみんなと同じ反応してる……」と複雑な笑顔で呟いた。

 

「それで、A組はなにやんの?」

「うちのクラスは喫茶店だよ。()()のお店のパンを出すことになったんだ。と言っても、パンを押してくれたのは牛込さんだけど」

 

 「へえ」と興味深そうな有咲の視線が注がれる。りみは「沙綾ちゃんちのパン美味しいから~」と満足げだ。

 それよりも、凪紗はそんな提案が他ならぬりみからなされたことを、意外かつ好ましく思っていた。これもバンド活動を通した成長ということだろうか。彼女も着実に変わっているということだ。

 

「ナイス発案、りみ」

 

 そう言って彼女にサムアップを贈ると、照れたような笑みで「ありがとう」と返ってくる。小動物的雰囲気と相まって非常に可愛らしい。

 

「……」

 

 ――ふと、その隣の沙綾から向けられている視線に気付く。

 

「?沙綾?」

「い、いや、なんでもないよ」

「そう?」

 

 首を傾げる。向けられていたのはほんの一瞬で、そこに込められている意味に心当たりもなく、凪紗はそれ以上の追及をやめた。

 代わりに、とばかりにツッコミの我慢ができなさそうな()()に許可を出すとする。

 

「……有咲、ツッコんでいいよ」

「許可されなくてもツッコむけど……鳥がいるんですけど、おい」

 

 理解不能とばかりに、有咲がこらえきれず指を向けたその先には、新メンバーたるたえの姿があった。なにやら鳩を集めている事実だけは見て取れる。

 

「沙綾ちゃんちのパン美味しいから~」

「有咲も食べる?」

「落ちてんじゃねーかそれ!」

 

 目ざとくやまぶきベーカリーのパンを発見したりみはきっと素でこれを繰り返している。可愛いと思った。

 一方で、有咲の代名詞とも言える鋭いツッコミを誘ったたえは末恐ろしい逸材である。これが素なら天才と言ってもいい。

 

「――ね、みんな、ちょっといい?」

 

 ふと、そんな彼女が愛用のギターを持ち上げて、五人の視線を集めた。

 

「どうしたの、おたえちゃん?」

「みんなに聞いてほしい曲あるんだ」

「曲?おたえ、弾いてくれるの?」

 

 目を輝かせた香澄が身を乗り出す。ギタリストとしては見逃せず、そんな彼女に続くように、肩越しから顔を出してたえの指遣いに注目した。

 

「……」

 

 弦だけを(はじ)く、純粋な音色が響いた。これなら凪紗や香澄でも問題なく弾けるだろう。

 だけど、凪紗にとってはどこかそれが特別なものに感じられてならなかった。

 

「何の曲?」

「朝、お風呂で思いついたの」

「おたえが作ったの!?」

 

 おたえは朝シャン派なのか……などと思う暇もなく、りみや有咲から感嘆の声が聞こえてくる。それは凪紗も同じだった。

 作曲センスのあるメンバーがいるだけで、急に活動がバンドっぽく見えてくる。となれば、これを活かさない手はないだろう。

 

「……そうだ!」

 

 香澄も同じことを考えたのだろうか、頭上の電球が光を灯したのが見える。

 

「あ、もしかして香澄も思いついた?」

「え、凪紗も!?」

「な、なんだなんだお前ら」

 

訝しむ有咲に、凪紗は「じゃあ言ってよ」と香澄にサインを出す。なんだかしたり顔で了承した香澄はそれを口にした。

 

「この曲、文化祭でやろうよ!」

 

 

     ♬

 

 

「――では、一回目の会議を終了します」

 

生徒会長の言により、実行委の最初の集会が終幕を迎えたのを、凪紗は教室の窓越しに確認した。夕影を背中に受けて、多くの委員たちが扉から流れ出した。

 

「……あら、あなたは」

「?」

 

ふと、凛とした声が自分を呼び止めたのに気付く。目を向ければ、それは生徒会長に同行していた風紀委員長のものであった。

 

「あっ、氷川先輩」

 

アイスグリーンの涼し気な髪色は、まさに怜悧な彼女のイメージにふさわしい。

 

「こんにちは。もう委員会は終わってしまったけど……」

「あ、はい。香澄と沙綾を待っていたので」

「その二人……ああ、同じくクラスだったわね」

 

振り返ったその先には、完全燃焼とばかりに黒煙を上げながら突っ伏す香澄に、苦笑する沙綾の姿があった。

 

「……すみません、また香澄がご迷惑を」

「実行委のルールがあると思うので、私は構いませんが……それとは別に、風紀委員として必要であれば指導するつもりです」

 

溜息をつく紗夜。自分はともかく、この間のギター事件ではこっぴどく叱られたので心象は悪いだろう。早期に挽回を図らなければ指導の対象となってしまう。

 

「そういえば、兄が文化祭の件でお世話になっているんですよね。それこそ、ご迷惑をおかけしていませんか?」

「いえ。そもそも、当校の文化祭を手伝いに来てもらっているので……まあ、一つあるとするなら、あのやけに達観したところでしょうか」

「あー……なんというか、あれは生まれつきっていうか……」

 

思った通り、律夏は生徒会でもその哲学者(口達者)ぶりを発揮しているらしい。頭の痛いところである。

 

「語彙力が豊富、という意味では、若葉さん――凪紗さんに通じるものがあるのかしら」

「そうですか?」

「この間の中間試験での成績のこともあるけれど、話していて淀みがないと言えばいいのかしら。お二人とも、伝えたいことが正確に伝わってくるように言葉を選んでいるわ」

「あ、ありがとうございます……」

 

ふっ、と緩められた紗夜の目線は、力強く鋭い彼女の印象とかけ離れて柔らかく、凪紗は思わず目を引き付けられてしまった。

それは、どこか律夏が自分を見守るときのそれに似ていたのだった。

 

「……凪紗さん」

「は、はい」

「あなたはお兄さんを尊敬していますか?」

 

凪紗は、紗夜の問いに意図を見出すことができなかった。それでも、答えを明確に口にすることはできる。

 

「……はい」

「そうですか」

 

一抹の気恥ずかしさを感じながら小さく頷いた。それに対して、紗夜は薄く瞑目するのだった。

 

「あっ、凪紗ーっ!」

 

活力溢れる声が自分を呼ぶ声が聞こえた。立ち直った香澄がこちらに気付いたのだろう。

 

「呼び止めてしまってすみません。それでは、私は行きますね」

「い、いえ。お疲れ様です」

「お疲れ様。今日は文化祭の準備でお兄さんや志哲の方の応援に来てもらいますので、少し帰りが遅くなると思います」

「分かりました」

 

そう言って、礼儀正しくも会釈をして去っていく紗夜。こちらもそれに返して、彼女を見送る。

飛び込んでくる夕焼けの中で、その背が儚いほどに小さく見えた。

 

「……あれ、氷川先輩?」

 

教室から出てきた沙綾が訊く。

 

「そう。ちょっとお話してて」

「凪紗、知り合いだったっけ?」

「香澄が星形ギター学校に持ってったときに一緒に怒られたでしょ?」

「うぐ……そうだった」

「そんなことがあったんだ……何の話してたの?」

「えーと……兄さんが生徒会に入っててさ。花女にも手伝いに来るらしいから、その打ち合わせのことを伝えておいてほしいって」

「えー!?律夏さん生徒会だったの!?」

「諸事情でね。さ、早く帰ろ?」

 

あの質問のことで口を滑らせたくもないので、驚く香澄に荷物をまとめるように促して話を逸らす。

 

「……沙綾は荷物、大丈夫?」

「――あっ、そうだった。忘れてた」

 

ぽかんとしている彼女の表情が、やたらと不自然に見える。昼休みのあの視線とそれが重なって、教室に戻っていった沙綾を眺める凪紗は、その思いを強めたのだった。

 

 

     ♬

 

 

「企画書は香澄がなんとかするとして……沙綾のおうちは大丈夫そう?」

 

 校門前、今日は用事があるという香澄との分かれ道で、凪紗は訊いた。

 

「うん。家の手伝いもあるから、遅くまではできないけど……私も頑張るよ」

「さーや……! ありがとぉ~」

「うわぁ!? ちょ……!」

 

 飛びつくいつもの癖に苦笑する。実際のところ、学級委員の仕事で香澄の面倒を見られないこともある以上、沙綾(副委員)の存在は凪紗にとっても頼もしいものであった。

 

「私も手が空いたら行くよ。一人にさせておいてたら書類が香澄語だらけになっちゃうからね」

「ひどーい! でもありがと凪紗!」

「どうどう」

 

 抱擁の矛先が向いてきたので宥めて往なす。胸元に擦りつけられる額と、左右に揺れる星耳がくすぐったかった。

 

「香澄、もう時間じゃないの?」

「え? ……あっ、そうだった、急がなきゃ! 凪紗は?」

「やまぶきベーカリーに寄っていくよ。兄さんから明日の分買っておくように言われてるから」

「そっか! じゃあ、律夏さんにもよろしくね! 私、ぜひ来てくださいって連絡してるから!」

「いつの間に兄さんの連絡先を……」

 

 クライブの後、イチゴサンドのクリームを頬につけたまま宣伝活動に励んでいた香澄の姿が思い起こされる。彼女は行動力の塊だ。

 

「じゃあ、また明日! ばいばーい!」

「「じゃーね……」」

 

二人がそう言い終わらないうちに、香澄は都電方面に駆け出していく。猪突猛進とはこのことだろう。

 

「あ、あはは……もう見えなくなっちゃった」

「学校終わりにこの体力、流石としか言いようがないね」

 

 エネルギーの擬人化のような存在がこの場を去って、凪紗と沙綾はどっと疲れが出たように肩を落とす。思わず目が合うと、笑いがこみあげてきた。

 

「……私たちも行こっか」

「そうだね」

 

 

 

 花女の前の通りにしたがって北へ歩くと、やまぶきベーカリーのある商店街へ続く。

 香澄や凪紗は都電沿線の住まいなので、徒歩で帰宅する沙綾たちに合わせて帰路を歩くことが多かった。

 

「……ふふっ」

「どうしたの?」

「ううん。喫茶店のこと、お父さんに言ったらすっごく張り切ってて」

「……あはは。でもオッケー出してくれてよかったよ」

 

 不意の話題に、凪紗は自分の体が固くなる感覚があったが、それを表に零さないように努めてそう返した。

 彼女は事情を知らないのだから。

 

「いつもお店の手伝いを頑張ってるから、こういうときは全力で協力してくれるんじゃないかな」

「そうかな? もう慣れてるから、そんなに大変だって思ったことはないけど……」

「パン屋さんって、朝早いんだよね。何時くらいに起きるの?」

「私は焼成の手伝いと品出しだけだから、大体五時くらいかなぁ」

「それでも早いよ……私朝弱いから、絶対起きられない」

「あはは。なんか意外かも」

 

 沙綾から見た私は、やはりそういう風に見えているのだろうか──笑みを零す彼女を眺めて、そんなことを思う。

 彼女と出会った、入学式の光景を思い出す。

 

「沙綾はしっかり者のお姉ちゃんだね」

 

 天真爛漫な香澄と接するときも、クラスの皆をまとめるときもそうだ。

 いつだって、彼女は見守るような、温かくて優しい目つきをする。

 

「……そんなことないんだけどね」

 

 だけど、今だけは、その温度が感じられなかった。

 季節に似合わない冷温が、心臓の鼓動を早めるのが分かった。

 

「……今日、もしかして体調悪い? なんか、いつもの沙綾と違うような気がする」

 

 そう感じたのは、これが初めてではない。

 昼間に感じたあの目線と同じだ。こちらを窺うような、どこか透明で無機質なあの目線。力が篭っていないような、ともかく、普段の沙綾にないものであったことには間違いない。

 一抹の不安が脳裏をよぎり、凪紗は沙綾の表情を覗き込むようにして訊いた。

 

「ううん、大丈夫だよ。……でも、確かに()()()()私じゃなかったかも」

「それは……どうして?」

「気になることが、あったから」

 

 凪紗の問いかけに対して、沙綾は間をおかずに受け応えた。

 予想に反して、気丈な振る舞いを見せる沙綾に安堵したものの、その表情はひどく固く、凍りつくようだった。

「凪紗」

 

 立ち止まって、今度は沙綾が問いかける。燃えるような夕陽の熱量を厭わないくらいの冷や汗が、ゆっくりと背筋を下る心持ちだった。

 

「凪紗のお母さんに、何かあったの?」

「……っ!」

 

突如として持ち出されたソレに、凪紗は散瞳を隠すことすら出来なかった。

ーーなぜ、彼女がそれを知っているんだ。

 

「誰に、聞いたの?」

「……律夏さんから」

 

彼女の解答は、考えてみれば当たり前の話ではあった。若葉家の事情を知る者で、沙綾にソレを教えられる者は兄しかいない。

 

「クライブの後にね、言われたんだ。『同じ事情を抱える者同士』だ、って」

「……?」

 

恐らく、母のことが律夏を通じて沙綾に知られている、もしくはその一端に彼女がたどり着いていることは確からしく、凪紗はなぜそのような()()()をしたのか、兄に対する疑念を拭えないまま、衝撃の余韻を一身に受け入れようとしていた。

 

――その一方で、沙綾の言葉が解釈できない。

 

「え、っと。兄さんがそう言ったの? 沙綾に?」

「うん。律夏さんは、もう分かったみたいで――凪紗に相談してみたら、って」

 

()()()ですらも噛み砕いて教えてくれるはずの沙綾からは、まるでこちらのことを意に介さないかのような独白が続く。

彼女の示すことはなんだ。律夏は何を把握しているのだ――

 

「同じ事情、ってことは……沙綾」

「うん。私も、なんとなくわかるんだ」

 

病床にある母の事実を沙綾が知っていて、それが凪紗《自分》と同じだと分かっているのなら。

 

――兄さんも、とんでもないことを考えるな。

 

凪紗は密かに舌を巻きつつも、帰り次第彼を問い詰めようと画策するのであった。

 

 

 

「……それで、兄さんが家事を引き受けてくれたんだ」

「…… 」

 

()()を打ち明けていくにつれ、沙綾の目が見開かれていくのが分かった。これだけの内容なのだから、無理もない。

これを口にするべきなのか、という逡巡は確かにあった。しかし、小癪な兄の裏工作によって、我が家の事情のほとんどを沙綾に知られている以上、彼女側の事情と引き換えにしてしまうのが正解だろう、とどこか冷静さが勝った。

母の病状を話す以上、父のことも隠してはおけなかった。

 

「そ、んな……」

「お父さんのことは、私もまだ折り合いをつけられていないけど……まずは、お母さんが元気になってからだと思って」

 

悲しむ暇もなく、受験勉強やその後の高校生活がやってきたという理由もある。だが最も大きいのは、母親の入院を機に変わってしまった兄の存在だろう。

 

「だから、律夏さんはバイトをしてるってこと?料理が上手なのだって……」

「まあ、お金の面は私もよく分かってないけど……余裕はある、と思う。だから、自分の進学とか、自立のためなんじゃないかな。……あと、私のため」

「凪紗の?」

 

首肯して、入学前の話を思い出しながら一つ一つを語っていく。

沙綾は神妙に聞き入っていた。

 

「香澄と出会って、バンドに出会って……私がやりたいことを決めたら、兄さんは全力で応援してくれた。自分で考えて、最後までやり抜くために私を助けてくれた」

 

歩んだ道の途中、振り返ることはあっても、積み上げた全てを投げ出して行き戻ることはない。

ましてや、やり直しなど効かない青春時代だ。どれだけ強がっても失ったものは確実に存在する。

 

「ただ一年、早く生まれただけで――」

 

言葉に溢れるほどの激情を、握る拳を震わせて顕示した。存外の痛みに思いの深さを改めて自覚していた。

 

「律夏さんには……お兄さんには、好きなことをしてほしい、って思う?」

「うん。でも、そのためには私の好きなことを犠牲にしなくちゃいけないから」

 

律夏はそれを嫌った。たぶん、世界で一番嫌った――だからこそ、言える決意があった。

 

「その分、私がやりたいことを、夢を叶えるんだ」

「……」

 

沙綾との間を、温度を取り戻した風が吹き抜けていく。

 

「教えて。今度は沙綾の番」

 

今にも吹かれ飛ばされそうな脆さをさらけ出した彼女の手を、しっかりと掴んでそう言った。

じっ、とその瞳を見詰める。凪紗の髪色とよく似た、海色のそれに輝きはなく、深い水底が見通せないように、複雑な感情がせめぎあっていることを感じさせた。

 

「……っ」

 

視線は交差しない。したがって、熱が伝わることもない。想いを分かち合うこともない。

 

沙綾の瞳は冷めきっていた。

 

凪紗は、最後まで彼女の言葉を信じて縋るように待ち続けた。彼女や香澄たちと出会えたことで、それまでの自分では得難い感情――数少ない本物の思いを手にすることができたのだから。

それでも、無情にも、沙綾に受け止められなかったように見えて、拒絶されたように見えて、揺らぐ心を抑えきれなくなっていた。

 

「……ごめん」

 

確かに繋いだ手が離れる。いつの間にか、そこにあった温もりが消えている。

凪紗は、心の中に風穴が空くような気持ちで、力なくその腕を垂らし、冷たい陽を見上げることしかできなかった。

 

 

 



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#19:アンサイズニア(前/ボーイズサイド)

「若葉さん、これを」

「えっと……?」

 

 紗夜から手渡されたものは、赤色のネックストラップが付いた名札だった。ホルダーの中には自分の名と写真が入っている。

 

()()用の来校許可証です。今は風紀委員の私の許可の下で校内へ入れますが、当日の朝は先ほど通った事務室でこれを提示してください」

「なるほど……」

 

 当日、とは文化祭のことだろう。

 先日、学生証の控えを求められていたことの辻褄が合って、律夏は短く得心の呟きを漏らした。

 

 花女文化祭を間近に控えて、ひかりを筆頭とする志哲生徒会執行部も花咲川へ出頭する日が増え始めていた。両校の風紀委員である律夏と紗夜は、全体会議を早々に済ませると、廊下や体育館などの巡回ルートを確認しているのだった。

 

「これを周りに見える形で携行しない外部者は不法侵入、ということになります。風紀委員の仕事の一つは、巡回中にそうした者を発見した場合、責任者である私に連絡することです」

「了解です」

 

 花咲川学園は女子校であるので、そういったセキュリティの部分は抜かりなく対策をしている。それでもこうした形で生徒を派遣するのは、監視の目の網を広げるという目的があるのだろう。傍目では制服を着た一般の高校生に見えるので、警戒されにくいというわけだ。

 

「一方で、来校証を持っていても不審な行為、また当校生徒への悪質行為に及ぶ者への対処も同様です」

「事態に緊急性を伴う場合はどうですか?」

「よほどの緊急時でない限り通報を優先してください。危険性が高い場合も、身の安全を第一に」

 

 まるでそのような事態が起こる前提で話を進めているが、紗夜の危機意識が高すぎるので律夏が合わせているだけである。

 事実、その質問を待っていたと言わんばかりに紗夜が補足を次々と解説していくので、律夏はどこかほっとしているのだった。

 

「――地震等の災害が起こった場合のマニュアルも作成しています。読み込んでおいてください」

「……なるほど」

 

 

     ♬

 

 

「若葉さんの巡回ルートはここからです」

「確か地図がありましたよね……ええと」

 

 鞄から紗夜の作ったマニュアルが入っているファイルを取り出す。先ほどの細やかな対応についての表記に加え、校内の巡回ルートに関する地図まで完備している。

 読み進めていけば、律夏の巡回路は校舎東側――それぞれの階を下から昇っていき、そのまま渡り廊下を伝って北側の体育館上部の作業用通路へと延ばされていた。

 

「東側の校舎は高等部生徒のホームルームがあります。それぞれ一階が三年、二階が二年、三階が一年です。妹さん――凪紗さんの所属するクラスも通ることになりますね」

「そのあたりの配慮もあるんですか?」

「いえ、職務上の観点から。来年もこのように巡視の仕事をお願いすることもあると思うので、校内を覚えて頂こうかと」

「……なるほど」

 

 温情を期待していたわけではないが、存外に冷たい目線で返されたので肩を落として言った。

 実際のところ、凪紗のクラスへは巡回中でなく休憩時間に少しだけお邪魔すると、凪紗を通して香澄の熱烈な呼び込みに返答しているので、そのルート自体にあまり関係はない。

 そう結論付ける間にも、ずんずん進んでいくマイペースな上司(紗夜)を小走りで追うのだった。

 

「ここが三階です。奥に進むと渡り廊下が体育館に接続しています」

「体育館では何を?」

「主に発表系の催しですね。凪紗さんたちのバンドも、そこでの発表だったはずですよ」

「……配慮して頂いたんですか」

「違います」

 

 やはり手厳しい返答である。ともかく、これで彼女らの演奏を見逃すことはなさそうなので、()()に感謝しなければなるまい。

 

「第一、まだこちらのシフトが決まりきっていません。もし希望があるならそこで申し出てください」

「結局配慮して頂けるんですね」

「……勤務態度次第ではいくらでも調整できます。良くも悪くも」

「が、頑張ります」

 

 思わず敬礼をしてしまいそうになるくらいには、彼女の眼光は鋭かった。そんな自分の反応(怯え)を見て、紗夜がため息をつくまでが一通りの会話のルーティンである。

 

「まったく……その調子で()()妹さんとうまくやっていける若葉さんが羨ましく思います」

「羨ましがるなんて、氷川さんにしては珍しいですね」

「そうでしょうか」

「勝手な印象ですみません」

「……周りからは、そう見えているのでしょうか」

 

 今の季節が冬だったら、彼女の吐く息の広がりがよく分かっただろう。それくらい大きな嘆息は、彼女が直面し続ける問題に対しての懊悩を如実に示すものだった。

 

「例の問題ですか?」

「ええ、まあ。……この仕事が終わったら、少しお話してもいいでしょうか」

「大丈夫ですよ」

 

 苦笑する口元を隠してそれに応じると、紗夜にもそれが伝わっていたことに気が付いた。

 

 まったく同じ問題を共有しているというわけではない。事情が違えば、分かり合えないことも往々にしてある。それでも、わずかな繋がりがあれば、ともに進んでいくことはできる。

 

「助かります。……それでは、行きましょうか」

「ええ」

 

 先を歩く紗夜の揺れる翡翠色の髪が、落陽を弾くように輝く。

 その眩しさから目を離したとき、ふと壁に張られていたものに気付いた。

 

「これ……」

 

 鮮やかな配色で彩られた()()はおそらくフライヤーであろう、文化祭でのライブを告知するものだった。

 それが凪紗たちのものであることが分かったのは、でかでかと配置されている星に載せられたメンバーの名前――中心の香澄、そして鋭角の頂点にある凪紗、りみ、たえ、有咲、そして沙綾を見たからである。

 

「――ん?」

「どうかしましたか?」

 

 前を歩いていた紗夜が自分の声に振り向いて、不審な目をして問いかける。しかし、答えられなかった。なぜ、()()の名前が載っているのか、目の前の事実を現実と認められなかったからだ。

凪紗からは何も聞いていないのはともかく、()()()()がそんな簡単に解決できるとは思えない。

 

「……どうやら、問題があるのは若葉さんも同じようですね」

 

 すべてを察したような紗夜の表情に、律夏は小さく頷くしかないのであった。

 

 

     ♬

 

 

 紗夜にファーストフード店へ誘われるとは、思ってもみなかった。

 彼女や凪紗たちの行きつけとは違うようだが、家の方角にある都電駅近くのハンバーガーショップに入ると、いつも張り詰めた印象を与える彼女の表情がほのかに緩んだ気がした。

 

「……それで、何から話しましょうか」

 

 窓側の席に腰を下した紗夜はそう言った。トレーはコーラとフライドポテトを載せていて、彼女にはなんだかひどく不釣り合いに見えた。

 人の印象はなんとも主観的で身勝手なものだと、律夏は自分事ながら辟易していたのだった。

 ともかく、彼女の言葉に答えなければ。

 

「とりあえず、氷川さんのお話を伺いますよ」

「そうですか。……それでは」

 

 紗夜はポテトを一口齧ると、「厚切りというのもあるのね……これもなかなか」と零してから語り始める。

 

()()お話以来、悩みについて深く考えることが多くなりました。努力を欠いたつもりはありませんが、日菜はいつも、私の努力を軽々と飛び越していく」

「妹さんもギターを?」

「はい。最近はどうしてか受けることになったアイドルの選抜オーディションに合格して、そこでガールズバンドとしての活動を始めたらしく」

「……なんというか、規格外なんですね」

「あなたの妹さんもでしょう?」

 

お互いに嘆くように息を衝く。眉尻の下がった表情は、日頃強気な彼女にしては珍しく思われた。

 

「私もちょうど、バンドを組み始めたところなので、どうも比べられている気がして……」

「そうなんですね」

 

これには少し驚いた。初めて触れる話題だったことに加え、紗夜はソロギターだと思い込んでいたからだ。

 

「意外、でしょうか」

「顔に出てましたか」

 

苦笑しながら、ストローに口をつけてアイスコーヒーを吸い上げながらも考える。初めて会った紗夜に抱いた心象は、自己を高めるのに余念のない、孤高のギタリスト。

ひたむきといえば聞こえはいいが、きっとその演奏は、痛みを孕んでいる。

そんな風に、思っている。

 

「……まあいいでしょう」

 

仕方なしと紗夜はコーラを飲もうと、グラスを傾ける。

氷に炭酸の気泡がぶつかって、弾けるような音がする。それが大人びた紗夜の風格を大きく揺らがせてしまう。

きっとまだ、理解なんてできていないのだろう。等身大の彼女は、自分の思うよりもずっと遠くにいて、その大きさを見誤っていたのだ。

 

「私には、ギターしかなかった。それに気付いて、焦って――同じような境遇にある若葉さんの考えを知りたくなったんだと思い至ったんです」

 

紗夜はそう言った。それでも、彼女の期待するものに応えられる自信はなかった。

 

「……俺は氷川さんの演奏を何一つ知らないんです。なんなら、ギターのことだって 何一つ分からない」

 

紗夜と、その妹の距離を音楽で計るのなら、彼女らのバンドもまた、同様である。だからこそ、彼女の至る立場に踏み入れることができないのだ。

 

「似たような境遇にあるとはいえ、私たちは随分違っていたということです……だからこそ」

「?」

 

紗夜は言葉の続きを口にする代わりに、自らの携帯端末の画面を見せてきた。

画面には、紗夜を含めた五人の少女が、それぞれの楽器の前に立ち、カウントを合わせていた。

 

「――聞いて、知ってほしいのです。私たちの音を」

 

 

     ♬

 

 

演奏は圧巻の一言に尽きる。

まだオリジナル曲はないが、どのパートも個性を失うことなく、鮮烈な色彩を放ち続けていた。

素人目にもレベルの高い演奏のなかで、スポットライトに照らし出される紗夜のギターがひとり妖しげに光り、叫ぶ――

 

「……すげぇ」

 

紗夜の前では抑えていた高校生(年相応)の口調が漏れ出すのを自覚して、しかしそれでも直そうとも思えないほどに、律夏はその世界に引き込まれた。

中央でマイクを握る灰色の髪をした少女が、こちらに訴えかけるような強い情動を歌声に乗せて手を伸ばす。

その姿、その音楽はまさに艶麗と呼ぶ類のものだった。

 

「先日のライブの録画なのですが……どうでしょうか」

「高校生のレベルを超えてますよ。完成度が()()()と違いすぎる」

「ありがとうございます。……ただ、最後はある意味当然ではないでしょうか。経歴も違うのですし」

 

頷く。紗夜の言葉は律夏としても理解できるもので、比較対象として凪紗たちの演奏は相応しくないということ

だろう。

 

「完成度でいえば、もちろん。ただ――」

 

それなら、何故比べてしまったのだろうか。どこに差異を見出したのか。

紗夜の端末が映すライブの中で、その答えを探そうと、視線を左右に動かし続けて、気が付いた。

それはある意味、予想した通りのものだった。

 

「あの子たちと、表情が違うような気がして」

「表情?」

「ええ」

 

コーヒーの肴《あて》にポテトは合わない。

思わず顔をしかめた律夏に、ますます不思議そうな様相を深めた紗夜だった。

 

「……なんというか、演奏のハイレベルさに追われているような、そんな感じがします」

 

サビの盛り上がり、演奏が一気に加熱、加速するその瞬間を止めて彼女に傾ける。

ドラム、キーボード、そしてベースの三人を中心に、ある種の苦痛すらをも思わせる面持ちが見てとれた。

 

「ここは何度も練習を積んだフレーズです。本番の緊張もあったのではないでしょうか」

「ええ。だから個人のミスが許されない。そのあまり、誰もが他のメンバーの音を聞く余裕がなくなっているんじゃないでしょうか」

 

改めて、その数秒前から再生してみる。

やはりメロディ自体の完成度は高い。練習の賜物なのだろうが、そこに凪紗たちのような表情はなかった。

 

「凪紗さんたちには、それがないと?」

「さっきも言った通り、演奏自体を比較することは難しいと思います。……だからこそ、難度の高い演奏での違いが目立つように感じる」

 

ポテトを摘む手を止めていた紗夜の反問に頷きつつ、そう答える。

 

「あの子たちはまだ、個人的な技術に関して氷川さんたちに遠く及ばないでしょう。それでも、なにか音楽に対する信念のようなものを、ひとつに共有している気がするんです」

「信念の共有……」

 

混じりけのない赤銅色の液体に目を落とすと、透き通った光が乱反射していた。

一直線を描く光の軌跡は、それぞれが交じり合うことなく、大きな氷塊にぶつかって、その(ことごと)くが砕けていく。

それをじっと見つめていた。

 

「……少し、心当たりがあります。全員の演奏がひとつの音楽に集約されていく感覚――見えない力に引っ張られるみたいに」

「バンドとしての完成は、その延長上にあるものではないでしょうか?」

 

氷が溶けていき、からんと音を立ててその形を崩す。

 

知識も根拠もない律夏の仮説を、しかしながら、紗夜は神妙な面持ちを隠さず露わにしながら聞き入っていた。感覚的な問題なので、言語化して理解するのは難しいのだろう。

 

「他人の音を聞く、というのは演奏の一環として行う目的以上に、音を通して他人(メンバー)を知ることができる、という意義が大きいと思うんです」

「他人を知る、ですか?」

「ええ。バンドとしての目標は別にして、個人が音楽に向ける思いはそれぞれ違うものでしょう。思いの方向といい、熱量といい」

「バンド活動に私情を持ち込むということですか?」

「それはバンドの方針によって違って良いのではないでしょうか。凪紗()たちは、学校生活を共にしているので、そもそも結成理由が私情でしょうけど」

 

つい先ほどといい、自分の言葉に眉を顰めているこの瞬間といい、紗夜は心の揺れ動きが顔に出やすいのだろうか。

彼女の所属するバンドには、こうしたスタイルは馴染まないらしい。

 

「バンドごとの考えには否定しません。ですが、私たちの――Roseliaの活動に、私情は要らないと考えています」

「では、バンドの目的は?」

「頂点に立つこと――妥協のない、完璧なバンドを組んでこそ、達成できる目標です」

「なるほど」

 

力強い紗夜の言説を、律夏は否定することはなかった。むしろ共感さえしていたのだ。純度の高い、固い意志を秘める彼女の瞳に。

だからこそ、その弱さを知っていた。

 

「それなら、氷川さん個人の考えはどうでしょうか。音楽を続ける私情と言い換えてもいいかもしれません」

「それは……っ」

 

紗夜のことをずっとソロだと思っていたその根拠は、先ほど垣間見た演奏技量よりも、彼女を構成する精神的な側面の方が大きい。

一つの技術や分野を極められる人間はそう多くない。大抵は社交性や人間関係の構築と引き換えに、妥協のもとにその個性を失っていくことがほとんどだろう。

そういう人々には、あどけなさ、幼さとして映ることもある。子供らしいと切り捨てられることもあるかもしれない。

それでも諦めきれない気持ちを、その純情を律夏は知っている。

 

「……私が、音楽を続ける動機には、必ず日菜の問題がついて回る……そういうことでしょうか」

「ええ」

 

紗夜はバンド活動に私情を持ち込むことを非効率、不純なものと捉えているようだが、これに些か疑念を抱く。

どんなギタリストもバンドのためだけに生まれたわけではないだろう。音楽に触れる理由だって、それに限った話ではない――律夏は言外にそれを伝えようと、ゆっくりと噛み締めるように首肯した。

 

「演奏者は単なるバンドの部品ではない、と言えばいいでしょうか。それぞれの事情がパフォーマンスに影響することもあるだろうし、考え方が対立することもある」

()()()()()とは、ある意味メンバーの私情を知って、音楽に対する姿勢を理解する――結果的に、それがバンドの目的を達成することに繋がるということですね」

「その通りです」

 

相変わらず飲み込みが早い紗夜は、一を聞いて十を知る理解力が備わっている。日菜という彼女の妹はこれ以上だと考えると末恐ろしくなった。

 

「私情を持ち込むとそうしないのとにかかわらず、他人の音を聞くことで、その人を理解できるかもしれない――他人に自分を理解してもらえるかもしれないのではないでしょうか」

「……私は、別に理解してもらおうと思っているわけでは」

「もちろん、氷川さん個人にとってそれが必要かどうかは別の問題です。けれど、バンドが頂点に立つためには必要なことです、きっと」

「そう……ですね」

 

一先ず彼女の理解を得た、ということだろうか。ガーリックの香るフライドポテトに再び指を伸ばしたのを一瞥して、律夏は内心で胸を撫でおろしたのだった。

 

「それにしても、ここのポテト旨いですね。味の種類も多いし」

「! そ、そうですね。系列店の中では珍しいメニュー展開を行っているようで、特にサイドメニューのバリエーションに力を入れているらしいです」

「へえ……」

 

いつになく饒舌になった紗夜に目を見開く。

恐らく好物なのだろう。機嫌を損ねたときは供物として献上しようと心に決めて、続く話に耳を傾けるのであった。

 

 



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#20:アンサイズニア(後/ボーイズサイド)

「……って、今日話したいのはこんなことではありません!」

「あ、そうですね。結構フレーバーの話盛り上がってしまったので、つい」

「そ、それに関してはきっかけを作った私にも責任がありますが……」

 

糾弾するつもりが、次第に声のトーンが控えめになった紗夜に苦笑する。

どうやら彼女はバジルの香りとフレーバーが好みらしく、漏れなく律夏の脳内レシピ帳に記載されていった。

 

「もう外も暗くなってきましたし、残りは帰りながらか、また今度にしましょう」

「私からは、もうありません。興味深い意見を聞けたので。……今度は、若葉さんのお話を聞く番です」

「それなら、帰り道にしましょう。送っていきますよ」

「そうですか」

 

てきぱきと片付けを進める手際に風紀委員の片鱗を見出しつつも、従うようにその背を追っていく。

今日はギターを持っていないようだが、凪紗といい、どう見ても華奢なその体躯にあのサイズの楽器が背負えるというのも、少し驚きであった。

 

街灯の火が煌々と二人の行く先を照らしている。

自転車を押して歩きながら、昼間に劣らない喧噪の商店街へと向かう途中、紗夜が口を開いた。

 

「それで、さっきの校内では何を見つけたんですか?」

「ああ、それが――」

 

自分の反応が完全に悟られていることに苦みの混じった笑みを浮かべつつも、律夏は詳らかに語りだす。

花女の文化祭ライブのこと、それを喧伝する凪紗や香澄たちのバンドのこと、そして沙綾の名を載せたフライヤーのこと――

恐らく、自分と同じように家庭を支えるべく奮闘しているのだろう彼女のもつ悩みについて触れると、紗夜にもその深刻さが伝わったようだった。

 

「なるほど、本来ならば予定にない――メンバーにすら加わっていない山吹さんの名が書き込まれているというわけですか」

「言っておいて何ですが、これは沙綾ちゃんや凪紗たちには秘密で」

「まあ、風紀委員としては適さない行動かもしれませんが……聞いたからには、できる限りの協力をしますよ」

「ありがとうございます」

 

軽く頭を下げて、律夏は近づいてくる商店街のアーケードに目を向ける。あの数区画向こうでは、きっと今も沙綾がその仕事に励んでいるに違いない。

 

「それにしても、戸山さんの行動力にはいつも驚かされます。今回に関しては少々身勝手な気もしますが」

「沙綾ちゃんと、何かしらの会話があったのではと思うんですが……」

 

香澄とはクライブ後に連絡先を交換しているが、むやみにこちらから連絡するというのは、妹の交友関係に干渉しているようで気が引けるので、それを確認する手段は凪紗から聞き取りを行うしかない。

クライブといえば、ライブ終わりのランチタイムに沙綾と交わした会話を思い出した。

 

「そもそも、若葉さんはなぜ山吹さんの事情を知ったのですか?」

「凪紗たちがバンドの結成をきっかけに、ライブの予行演習のようなものをしたんです。それに呼ばれた時に、同じく誘われていた紗綾ちゃんと話を」

「随分と仲が良いのですね」

「い、いや、そんなことは……」

 

まさか「貴方のところに比べれば」などと言えるはずもない。

思わず狼狽すると、紗夜は「……すみません、これでは嫌味に聞こえますね」と嘆息する。

そんな彼女の懊悩を見ていると、凪紗とは険悪な兄妹関係に陥ることもなくここまでやってこれていることには感謝しなければならないのかもしれない――そんな風に律夏は思った。

 

「まあ、()()な事情もあることは確かです。だからこそ、そうやって兄妹間の距離が近い分、悩み事に対する責任感が残り続けるというわけです」

「……そういうものでしょうか」

 

凪紗と、彼女の友人たちに関わる機会が増えたことで、抱えるものが()()()()()()ことが多くなった。

香澄と有咲、りみ、たえ――そして沙綾というように、凪紗を通して律夏は彼女らを知り、時に悩みを解決してきた。

そうしたことに対して、最後まで責任を持ちたいのだ。

 

「あくまで俺個人の考え方ですよ」

「人のことを言う資格はないのですが……背負い込むものが大きすぎるのでは?」

「背負い込むのに十分な背中の広さを、持ち合わせているつもりです」

 

同級生と比べてそこそこ背の高い紗夜でも、律夏の冗談めかした表情を見上げなければならない。恰幅や体躯ならば言わずもがなである。

 

「比喩の話でしょう。……と言っても、なぜか納得できてしまう自分がいます」

「光栄です」

「褒めていません」

 

鋭い指摘を、忘れることなく一刺ししていく紗夜はどこかくたびれているようでもあった。

五月も末に差し掛かり、次第に強まってきた陽光とその熱に精気を奪われているのだろうかと、律夏は見当違いな心証を残していた。

 

「……それを信じるとして、若葉さんは凪紗さんのために、山吹さんの問題を解決したいと考えているのですね」

「そうですね。できる限り、沙綾ちゃんの意思に沿う形で」

「意思に沿う、ですか。山吹さんは、お母さまの体調を心配されて、ベーカリーを手伝っているんでしたよね。もし凪紗さんが山吹さんをバンドに勧誘することを望むとするなら、その両立は不可能だと思いますが」

「もっともだと思います。おそらくですが、凪紗はそれを願うでしょう」

 

口にしつつ、帰宅後のことを考える。

凪紗たちの間では、何かしらの動きがあるに違いない。沙綾が何らかの行動を起こす可能性もある。

彼女にヒントにもなる情報を()()()のは、これを予期してのことだ。凪紗に接触すれば、詳しいことを聞き出せるようになるかもしれない。

 

そうなれば、きっと凪紗は沙綾を求めるだろう――自分の隣に並び立つ存在を、彼女は欲していたから。

 

「なら――」

 

紗夜は鋭い視線をもって問い質す。

凪紗の願いと、沙綾の置かれている状況の打破の両方を叶える方法を。

それを実現するだけの覚悟を。

 

「……一つ、氷川さんにお聞きしたいことがあります」

「えっ?」

 

どれだけの煩悶に苛まれてもなお、立ち上がろうとする彼女に訊きたいことがある。

救いを求めるその手を伸ばしてくれた彼女にふ問いかけたい思いがある。

 

「――俺は、少しでも氷川さんの力になれたでしょうか」

 

 

     ♬

 

 

「ただいま」

 

商店街を抜けた先の江戸川橋駅で紗夜を見送ると、律夏は自転車を北の家路へと走らせた。

新居といいながら、最初に自分が引っ越して半年以上が経っていることをなんとなく実感しながら、玄関のドアを引いた。

 

「……っ、おかえり」

 

暗い部屋の奥から、細く掠れた声が流れ聞こえた。凪紗のものだろう。

律夏は咄嗟に、彼女たちの間に何かがあったことを悟った。

 

「電気、つけるぞ」

「……ん」

 

ばち、と音を立てて、電球色の温もりが部屋を包み照らした。それに晒されて、制服のままの凪紗の赤く腫れた涙目が視界に映る。

それに対して、何も言えることはなかった。

 

「風呂、予約してるはずだから。先に入ってこいよ。その間に晩飯の準備しとく」

「わかった」

 

何でもないように振舞って、しかし鼻をすする声を漏らしながら、寝間着を取りに部屋へ戻っていった凪紗。

その背を見送りながら、手早く食事の準備に取り掛かる。

作り置きしておいた鶏肉の炒め物を温めつつ、余った野菜とコンソメを鍋に放り込んでいく。もはや慣れてしまったレシピの一つだ。

しかしながら、どうしても律夏はその手際が粗雑になりつつあるのを無視できなかった。

 

「くそ……」

 

ざくざくと音を立てて野菜を切っていく包丁の手が止まる。切れ味が悪いわけではないけれど、切りにくい。

 

『同じ事情を抱える者同士、きっと通じるものがあるはずだよ』

 

沙綾にその言葉を投げかけた時点で、覚悟はしていたはずなのだ――山吹家の内情に踏み込み、関わる覚悟を。

そもそも、体調を崩した沙綾の母親(千紘)の姿を目の当たりにして、助けを求める純と沙南に応じた時点で、こうなることは避けられなかった。

 

それなら、何を間違えたからこの現状(いま)があるのか。

凪紗はなぜ泣いていたのか。

 

短い息を吐いて、宙を仰ぐ。

照明の暖色はどこか血の通っていない無機質さで、否応なく現実を突き付けるように眩く尖っていた。

 

 

 

「上がったよ」

 

一通りの料理を作り終わり、それらを盛り付けた皿や食器を並べようとしていたとき、凪紗が扉から姿を覗かせた。

まだ目の腫れが治まっていないところを見ると、しばらく泣いていたのかもしれない。

 

「おう。それじゃ座っててくれ」

 

手前側のいつもの席に促すと、凪紗はこくりと頷いてダイニングチェアに腰掛けた。

彼女の体格もあるが、大きめで暗い色の椅子に体を収めるその姿が、いつもより小さく見える。

 

「お茶、あったかいのと冷たいのと」

「あったかいの」

「了解」

 

ここのところ暖かな日が続くが、ひょっとしたらと思って訊けば、その通りの答えが返ってきた。

気持ちが落ち着くのならば、それもよい。

電気ケトルのスイッチを入れて、こぽ、こぽと音を立てる様子に無言で目を向けていたら、凪紗の方から口を開いた。

 

「……沙綾から聞いた。兄さんのやろうとしてたこと、大体分かったよ」

「そう、か」

 

当初律夏が考えていた通りに事は運んだようだ。

一か月ほど前の出来事で、律夏は山吹家の内情を知った。おそらくそれが外に漏らしてよい情報でないことも理解していた。

その対象に凪紗をも含んでいる以上は、一切の解決を彼女に委ねることが唯一の方法であり、結果的にそれが凪紗の成長にも繋がると考えていた。

 

クライブでの会話で確信を得た律夏は、そのきっかけとして、()()()()言い方をしてしまえば、沙綾が凪紗に対して何かしら働きかけを起こすだろうと予想したのだ。事実、その通りのことを凪紗が今口にした。

 

「でも、ダメだった」

「……そうか」

 

凪紗は、自分の動きを沙綾との会話で読み取って、問い――考えるまでもなく、若葉家(我が家)の事情についてだろう――に応えた。

そして、沙綾に迫ったのだろう。

 

それでも、ダメだった。

 

「打ち明けてくれるかなって、たとえ虚勢でも『大丈夫だよ』って言ってくれるかなって、思ってた。沙綾の思いが分かるだけで十分だったのに」

 

掴んだはずの手が離れていったことを、凪紗は克明に語った――二人の間にあった温もりが霧消する瞬間を、その恐怖と戦いながら――。

思いが通じ合うということを、皮肉にもあのライブで信じることができた凪紗は、それが単なる夢だったのではないかと恐怖し始めているのだろう。

 

スープから立つ湯気は、しかし凪紗の表情を隠すのに至らなかった。

 

「……すまん、勝手に動いた俺のせいだった」

「謝らないでよ。私もそれに乗っかったのは事実だし」

 

気丈にもこちらを気遣う姿勢を見せた凪紗。普段を含めて珍しいといえばそうだった。

 

「だけど、それでも気になるの。……なんで、言ってくれなかったんだろうって」

「……」

 

これには二の句が継げなかった。その通りだったからだ。

不信感を与えないために、あの時点で初対面だった沙綾の家庭事情を言い当てることをしなかったのは彼女にも理解してもらえるだろう。

しかし、凪紗に対してはどうか。

 

「沙綾のお母さんがうちと()()()()だっていうのは分かったよ。でも、私が知りたいのはそうじゃない。兄さんが、どう考えているのか」

「……その通りだな」

 

――思い返せ。先に動いたのは俺の方だろう。

 

律夏はそう応えると、内心で反射的にそう叱咤した。

山吹家のことを知って、千紘のことを知って、沙綾の表情を目の当たりにして会話を交わして、それでも凪紗にその事実や自分の考えを伝えることはしなかった。

 

それはなぜか。

 

時を同じくして、凪紗も視線でそう問いかけている。

 

「俺の覚悟が足りなかったからだ。踏み込んだときに覚悟していたはずなのに――妹の交友関係に干渉するとか、自立のためだとか理由をつけて、本当は俺が一番恐れていた」

 

一息にそう言って、律夏は瞑目した。

 

自分でもここまで拗れて、捻くれていると呆れてしまう。あれだけ方策を練り、思考を積み重ねた末にこのザマである。

結局、紡いだ言葉は虚栄の塊であった。上辺だけを衒って、臆病な本心を取り繕って覆い隠すだけに過ぎなかったのだ。

 

「恐れていたって……何を?」

「俺じゃ役不足かもしれないって……凪紗の思う通りに動いたほうが、結果的にうまくいくと思ってた」

 

たくましく、諦めることなく努力を重ねる紗夜を見て、自分の対照的な立場を、律夏は理解していた。

否、理解したかったのかもしれない。紗夜のように強くなく、また特殊な立場にある自分が、今のままで許される理由が欲しかったから。

 

努力したことが意味を成すなんて、大概は幻想だろう。それでも、紗夜になら可能かもしれない。そうあってほしい。

自分では叶わなかった夢の続きを、紗夜や凪紗が見せてくれるかもしれない。そう信じていたのだろう。

 

「傍で見ているだけに慣れてしまってたんだな」

 

導出した結論を噛み締めて、律夏は苦々しさをその表情に浮かべた。

改めて謝ろうと、凪紗の座るダイニングの方を振り返ると、その先に彼女の姿はなかった。

 

「凪紗? ――っ」

 

 咄嗟に湧き出した奇妙さに反応する間もなく、凪紗はいつの間にか至近距離まで身を移し、律夏の想像とはまったくかけ離れた色を顔に浮かべていた。

 

「そんなこと、ないよ」

「え……」

「そんなこと、ない。私だけじゃ、香澄たちと――沙綾と出会えなかった! お父さんのギターにも、SPACEにも!」

 

答えを失った律夏に、凪紗は思いを溢れさせていく。

 

「ここに初めて引っ越してきたときに言ってくれたこと、覚えてる。勉強だけじゃない、嫌われないようにただ過ごしているだけじゃない――私が本当にしたいことを見つけるために、兄さんはたくさん手助けしてくれた。支えてくれた――っ!」

 

ああ、情けない。

ここまで妹に言わせてしまっている――どこかに置き忘れてきた自信と、代わりに拾ってきた臆病さのせいで。

決めたはずなのだ。彼女が夢を見つけ、それを叶えられるようにすることを。

 

「私を、救ってくれた!」

 

その言葉、その威力は、律夏の錆びついた心を再び動かすのに十分な熱量を持っていた。灼かれるような思いは気恥ずかしさを含んでいたかもしれないが、それよりも、かつて手にしていた熱情を確かに呼び起こした。

ここまで来て、中途半端ではいられないのだ。

 

覚悟を決めろ。

そう、心に強く命じた。

 

「ありがとう」

 

そう言って、凪紗の頭に掌を遣った。

 

「……うん」

 

右に束ねた彼女の深く青い髪が揺れる。どこか満足げに律夏の手の動きを受け入れつつ、恩愛に満ちる微笑が浮かべていた。

 

「……改めて、悪かった。今度からは、考えていることを全部言うようにするよ」

「うん、許す。……っていうか、私もごめん。いろいろと考えてくれてたの、気付けなかったよ」

「いや……」

 

凪紗の願いを果たすことは、巡って自分のためでもある。だから、謝らなくていい。

それを伝えようとして、しかし凪紗は全て分かったような表情で、「それでも」と付け加えた。

 

「敵わんな」

「言わなくてもわかるって、これくらい。……さ、ご飯にしよう? 泣いてお腹空いちゃった」

 

――本当に敵わないのは、その優しさと温かさだよ。

 

律夏は彼女に応じつつも、内心でしみじみとその想いを深めていた。

 

 



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#21:カワルミライ(ガールズサイド)

「……それで、ここからどうしようかな」

 

 凪紗は独り言のように零して、向かいに座っていた兄へ目を向けた。

 

 沙綾についてたくさんのことが分かったものの、そのほとんどは律夏の考えによって得られた情報だ。

 彼なりに考え、できるだけ介入しない形に──自分が行動を起こしやすいようにと仕組まれた枠組みを作り上げていたことが分かって、凪紗はその驚きを深めていたものの、同時に何も言わずに悩み続けていた彼に対して寂しさを覚えていたのだった。

 

 だから、彼の考えや思いを引き出すように言葉を紡いだのだ。

 

「まずは俺が知っていることを整理するよ」

「うん。教えて欲しい」

 

 約束通り、律夏は茶碗を置いてそう言ってくれた。言葉を耳が捉えて、湧いて出た安堵の気持ちが心を弛緩させるのが分かった。

 

「実は、入学式から少し経ったときにベーカリーに行ったんだけど。ちょうどその時に千紘(ちひろ)さん──沙綾ちゃんたちのお母さんが倒れこんでたのを見たんだ」

「えっ……大丈夫なの!?」

「もともと貧血気味らしい。病気か体質かは分からないが、一刻を争うような深刻な状態ではないって聞いた」

 

 その後、ベーカリーの臨時店員として一通りの仕事を純や沙南とこなしたことも含め、凪紗にとっては衝撃だった。

 

「それ、沙綾には?」

「口止めしてある。それが伝わると、凪紗に対する負い目みたいに感じると思って」

「確かに……沙綾なら、もしかしたら」

 

 献身的に家族を支え、ときに香澄たちの相談役となる彼女にとって、そのようなことは友人の兄に迷惑をかけたと映るかもしれない。

 多くの友達に頼られる沙綾であるからこそ、誰かを頼りすぎたり誰かに負担をかけることを嫌うように思える。

 自分と同じく、家族の事情を知られることを考えれば尚更だ。

 

「沙綾ちゃんがベーカリーや家のことを積極的に手伝うのは、ただ長姉として面倒見がいいだけじゃない。そのあたりの事情があるからじゃないか」

「クライブの後に話してたのは、こういうことだったんだ?」

 

 律夏は首肯して、湯呑を傾ける。

 彼が沙綾に言った『同じ事情』というのは、このことだろう。とすれば、ベーカリーでの出来事と、あの会話で沙綾の考えの大枠を掴んだということになる。

 

 推理力とでもいうべきか、何らかの勘が冴え過ぎているという他ない。それだけに、抱える思いもあった。

 

「……今度からは、絶対教えてよね」

「ああ。……すまん」

「ご、ごめん。私も言い方悪かったかも」

 

 存外に落ち込んでいる律夏が珍しいので慌てる。

 実際のところは、彼も十分に考えたうえで、敢えて()()()()ことを決めたのだろうと思う。理由はどうあれ、なんでも教え込んでしまうことは自立性の面でも危うさを感じずにはいられない。

 それくらいのことは凪紗も気付いていた。

 

 滞留した気まずさを振り払うように、白米を掻き込んで嚥下する。勢いがよすぎてむせてしまったが、気にしない。

 

「けほっ.まあ、それは置いておいて……他に知ってることはある?」

「ああ。一つ確認しておきたいんだが……今組んでいるバンドには、沙綾ちゃんを引き入れるつもりなのか?」

「えっ?」

 

 唐突に話を切り出した律夏の言ったことを理解するのに、少し時間がかかった。

 バンドではそのような話は出ていないとなんとか返すと、彼がそばに置いてあった携帯から何やら探して、その画面を見せてきた。

 

「今日の放課後、花女で文化祭の打ち合わせをしていて、これを見つけたんだ」

「なに、これ?」

 

 鮮やかな配色で彩られ、その中央でとてつもない存在感を放つ星が位置する紙が壁際に貼られている。窓から見えている日暮れ際の景色は確かに花女のものだ。

 律夏がそれを拡大していくとともに、そこに書かれた文字が見えてくる。

 

「『初ライブ頑張ります!! ぜひ観に来てね』……って、しかも私たちの名前まで?」

「知らないのか?」

「うん」

 

 思わず大きく頷いてしまうが、よく考えなくともそれが自分たちのライブを知らせるチラシだと分かる。

 そして、律夏がスワイプした先──星の頂点と中心に書かれたメンバーの名前に、沙綾のものがあったことに気が付いた。

 

「さっき聞いたのはこれを見て、ってことかー……」

「凪紗が知らないということは、これを貼ったのは他のメンバーってことで、しかもそれは……」

「うん。間違いなくヤツだ」

 

 律夏にもヤツ、というのが誰を指しているのかがなんとなく伝わったようだ。企画書そっちのけで、まず手につくことから仕上げてしまったあの子(香澄)のことだろう。

 

「相変わらずすごい行動力だな……それにしても、なんで他のメンバーは気付かなかったんだ?」

「たぶん、今日家に戻って貼ったんだと思う。何か用事があるって言って、先に帰っちゃったから」

「なるほど……」

 

 ううむ、と絵に描いたように唸る律夏。

 連絡先を聞いてはライブのことを喧伝して回っていることも含め、そのエネルギーはどこからやってくるのだろう。

 

「ともかく、香澄ちゃんは沙綾ちゃんをバンドに引き入れたいと思ってるってことだよな。凪紗はどうなんだ?」

「私? うーん……すぐには分からないけど……」

 

 りみといい、有咲といい、たえといい、偶然に出会ってから次々にバンドに加入したのは、香澄とともにあの()()()()を経験したSPACEのライブ以来だ。

 沙綾と初めて出会ったのは、香澄と出会ったのと同じタイミングだから、すっかり忘れていたのだろう。

 もしかしたら、沙綾が自然にそういう流れにしようとしていたのかもしれない。

 

「……でも、入学してからずっと一緒にいて、相談に乗ってもらっているうちに、沙綾がいるのが当たり前になっていたのは確かなんだ」

 

 今ではそれを疑いもしないほどに、沙綾と仲良くなれたと思っている。あの頃と比べて、知っていることはたくさん増えた。

 ──それでも、知らないこともあった。

 

「……そうだね」

 

 凪紗は小さく呟いて、その思いを再度、噛み締めた。不思議そうな顔をした律夏にその瞳を向けて、口を開く。

 

「私、ずっと本当の友達が欲しかった。誰にでも裏表があるのは分かってる。それでも、大好きなところも嫌なところも隠さないで、思ってることも全部伝えられるような、そんな友達が」

「……」

「もし、バンドをやることで、香澄やみんなみたいに──音楽のキラキラとドキドキを通して、もっとお互いを知って、仲良くなれるなら、私は沙綾がバンドに入ってほしい!」

 

 心から、絞り出すように──叫ぶような物言いは、たとえ情けなく求めるだけの所信表明だったとしても、律夏はそれを黙って聞いてくれていた。

 背筋が伸びるくらいの真摯な眼差しが嬉しくて、頼もしくて、誇らしくて思わず泣きそうになった。

 

「……よし、それなら、やろう。今度こそ、間違えないように」

「うんっ」

 

 ──ありがとう、兄さん。

 

 言葉を届けるのは、全てが終わってからにしようと思った。今は言う必要もないくらい、きっとこの気持ちが伝わっていることを確信していたから。

 未来が変わっていくその瞬間を、鼓動が教えてくれていた。

 

 

     ♬

 

 

『本格的に行動を起こすとして──凪紗、一つだけ、絶対にしないといけないことがある』

『? ──あっ』

 

 沙綾との間に残した(わだかま)りを解消し、彼女をバンドに加入させる。そのための協力を律夏と確かめ合って、一通りの家事を済ませた後、再び彼は言った。

 素朴な疑問から首を傾げかけて、それが凪紗にはすぐに判った。

 

『……もしかしなくても、お父さんとお母さんのこと、だよね』

『ああ。沙綾ちゃんがその事情を知っている以上は、確実に』

 

 元々、その情報を引き換えに沙綾を動かしたのだから、当然だ。事情を知る彼女をバンドメンバーとして迎える以上、香澄や有咲たちにもこのことを告白しなければなるまい。

 

『俺が勝手に動いてこうなっていることは理解しているつもりだ。すまん』

『ううん。どっちにしたって、いつかは言わないといけないことだったから』

 

 いつか、まだ、と散々引き延ばして、今まで誰にも言ったことはなかった。

 自分の中ですら整理がついていない父の死、そして今も心を引き摺っている母の病状について打ち明けることは、凪紗をひるませ、その決意を揺るがせるのに十分だった。

 

 香澄は、みんなは、どう思うだろうか。驚きや悲しみにその表情を歪めるかもしれない。ひとたび泣いてしまえば、同じように泣かせてしまうかもしれない。

 心配や迷惑を掛けたくない──同じ立場に立って、沙綾の気持ちが痛いほどに理解できる──だけど、それでも、と思う気持ちもある。

 

『.厳しいようなら、俺が』

『ううん。言うよ。私が言わなきゃ、意味がないんだ』

 

 震える掌をもう片方で押さえる。沙綾もこの苦しみに耐えてきたのだから、自分が乗り越えられなくてどうする。

 律夏はそんな自分をじっと見つめていた。この葛藤が、きっと彼には伝わっている。

 

『──それなら、こういうのはどうだ』

 

 顔を上げると、彼は一つの提案をした。

 それを聞いて、思わず笑みが零れてしまう。

 

『ふふっ……過保護すぎるよ』

『でも、それなら言えるだろ』

 

 本当にずるいなぁ、と思いつつ、凪紗は頷いた。

 

     ☆

 

 文化祭は梅雨入り前の六月初週の土曜に行われる、というのが伝統らしい。それに続いて羽丘、学期明けに志哲の順に行われるという話を、学級委員の集会で生徒会長の鰐部七菜から聞いたことを思い出す。

 

 夏の到来を感じさせる日差しが、厚手の制服に籠る熱を増幅して不快になることが多いこの季節だが、今日はどこかうすら寒さを感じさせるくらいだった。

 

 ──緊張しているんだな、私.

 

 一年前までと比べれば信じられない心の変化だ。友達のことで一喜一憂して、挙句の果てには(心配性の)兄を巻き込んでしまうなんて、想像もしていなかった。

 それほどまでに、自分にとって()()()()の存在が大きくなっていたことを、凪紗は感慨深くも認めていたのだった。

 

「あっ、凪紗ーっ!」

 

 すっかり葉の緑に染まってしまった桜並木を抜けるころ、歩いてきた坂道の入口から自分の名を呼ぶ声が聞こえて振り向く。

 視界に入ったときには、すでに彼女は空中に。

 

「おっはよーっ!」

「うわあぁあぁ!?」

 

 身長差というのは理不尽なもので、どう動いたところで自分を影で覆った彼女を回避することはできそうにない。

 ゆえに抱きとめるときには腰を入れて──

 

「ぐぉおお……」

「? すっごい声出してるけど.どうしたの?」

「体重掛けすぎだ、バカ!」

 

 突進によって勢いづいた彼女を抱えて後ろに倒れないようにすることは、つまり不可能なのだ。

 それでもアスファルトに後頭部をぶつけることがなかったのは、必死の抵抗と言わんばかりの踏ん張りと、追いついてきた有咲が香澄の後ろ襟を引っ張ってくれたからである。

 

「し、死ぬかと」

「あはは、ごめんごめん」

「はあっ、はあっ……ったく、朝っぱらから殺人現場に遭遇したくねえっての。しかも母校で」

 

 命の恩人は息を切らしながらも自分を救ってくれたらしい。

 実際のところ、香澄との身長差はさほどあるわけでもなく、もちろん体重差もほとんどない(おかしいことに)ので、ただ凪紗は朝から猛烈な抱擁と温もりを得ただけだった。

 

「今朝も有咲と一緒だったんだね?」

「うんっ。聞いてよー、有咲が今朝『文化祭の準備は出席単位とは関係ないから』とか言って休もうとしててさー」

「ええ……」

 

 微妙な目線を向けた先で、有咲はそっぽを向いている。

 

「練習には行くって言ってるだろ。私いなくてもクラスの出し物とかできるし。そもそも何やるか知らないし」

「文化祭興味ないの!? 信じらんない!」

「う、うるせー! 大体、準備とかめんどくせーだろ」

 

 有咲が視線を向ける先では、多くの生徒が入場門のアーチの製作に取り掛かっている。確かに地道な仕事であるし、少し前の自分なら主に関わる人間という点で面倒に感じていたことの一つだ。

 

「まあ、分からなくはないけど……」

「ええっ!? 凪紗も!?」

 

 驚愕する香澄に「ほれ見ろ」と返す有咲だが、一緒にされたくはない。

 

「そんなことより、香澄に確認しておきたいことがあるの。準備が始まる前に」

「えっ?」

 

 きょとんとして頭上の疑問符を浮かべる香澄と有咲に、凪紗は似つかわしくないくらいの真面目な目で問いかけた。

 

 

     ♬

 

 

「これのことなんだけど」

 

 一年生廊下に貼られた一枚のチラシを指さして、凪紗は訊いた。

 

 鞄を置きに先に教室に入ると、未だに沙綾の姿はなく、少しだけほっとしてしまった。しかしながら、今日には話をしなければならないから、その覚悟に力が入るのが分かった。

 ついでに引き連れて廊下に出たりみとたえは、有咲と同じようにぽかんとそれを見上げていた。

 

「りみりんの描いた絵、可愛いでしょ〜? あっ、あとバンド名は有咲が考えたんだよ!」

「あっ、ほんとだ。可愛い……って、そうじゃなくて」

 

 彼女の言う通り、上部の香澄の絵を始めとして、デザインを手掛けたであろうりみが紙で口元を隠して照れている。有咲も同様に、赤ら顔で視線を逸らしていた。

 Poppin' Partyというバンド名はなかなかにセンスを感じるし、自分も好むところなのだが、まず確認したいのはそこではない。

 

「ここだよ。この名前のとこ」

 

 凪紗が背伸びをして指をさした名前──沙綾の名に、全員の耳目が集まった。

 

「沙綾? 沙綾もバンドメンバーに誘ったの?」

「おい、それ聞いてねーぞ」

 

 事情を知らないたえのぽかんとした表情と、じとっとした有紗の目線が突き刺さって、しかし香澄はきょとんとした顔を保っていた。

 

「あれ、言ってなかったっけ?」

「少なくとも私には言ってねーし、この感じだと凪紗も花園さんも知らないみたいだぞ」

「か、香澄ちゃん、私も知らない.かも」

「りみ、これ()いたんじゃなかったの?」

「えっと.私が()いてた時にはまだ名前を載せてなくて」

 

 たえの鋭い質問によれば、りみはメンバーの名前を書き入れたわけではないらしい。となれば、星形の頂点に沙綾の名前を書き加えた犯人はもちろん彼女だろう。

 ぐるり、四人からの訝しげな視線が再度香澄へと向けられる。

 

「……えへへ」

「なに照れてんだよ!」

 

 後ろ髪に手を当ててはにかむ香澄は、まるで舌でも出して「てへっ」とやりそうな勢いだった。

 即刻、猛烈なツッコミをかます有咲と凪紗は同意見だったが、それではこの場の収拾がつけられないと考え直し、「こほん」と一つ、咳払いをして全員の注意を引き付けた。

 

「香澄、ひとつ確認したいんだけど、それって沙綾に確認したことなの?」

「え? まだだけど.沙綾なら、入ってくれるかなって」

「悪びれもせずによく言えるな……」

 

 長い溜息をつく有咲は朝から疲労が積み重なっているようだ。彼女への労いはひとまず措くとして、凪紗は、昨晩律夏と話したことを思い返す。

 この際沙綾をメンバーに加えることについての賛否は問わなくてもよい。というより、自分自身彼女にバンド(Poppin’ Party)へ入ってほしいと思っているのだ。

 

 それよりも、今優先すべきはそのための方策──要は沙綾への対応だろう。

 

「沙綾はまだ来てないよね?」

「え? う、うん。沙綾ちゃんの席、何もなかったから」

「そっか。それなら一旦このポスターを剥がそう」

「ええ!? せっかく作ったのに!?」

「メンバーに沙綾の名前を入れている以上はね。先に沙綾に確認を取らないといけないし、もしだめだったら嘘を書いてることになっちゃうから」

「沙綾、入ってくれないのかなぁ」

 

 先ほどから核心を突いた言葉の多いたえだが、凪紗にとっては好都合だった──言わずもがな、彼女の抱えている事情を説明できるチャンスだからだ。

 

「そのことなんだけど──」

「あ、あの!」

 

 言いだそうとして横槍が入る。何事かと話しかけられた方へ視線を向けると、そこには一人の少女が立っていた。その表情は何を伝えているのだろうか──、期待からくる高揚感と、不安の色を織り交ぜたような、とにかく印象的なものだった。

 

 

     ♬

 

 

 前髪をアップさせて額の上でまとめた髪型は、確かポンパドールと言ったか。何にせよ、明るい性格が伝わってくる彼女は、海野夏希というらしい。

 ライブを告知するポスターを見て話しかけたということで、これが沙綾でなくてよかったと、凪紗はひとり安堵していた。

 

「って、市ヶ谷さん?」

「え……!?」

「ちょっと意外。市ヶ谷さん、バンドやるんだ?」

「え、いや、その……成り行きで」

 

 キョドりがちな有咲に苦笑する。おそらくクラスメイトなのだろうが、彼女がB組でうまくやっているのか、個人的にはとても気になるところだ──不安、という意味で。

 

「私もバンドやるんだ。だから、このポスターを見て気になっちゃって。みんな、どの楽器(パート)なの?」

「はいっ! 私──あっ、戸山香澄はギター!」

「なぜに三人称……私も。若葉凪紗です」

「花園たえ。二人と違ってボーカルじゃないけど、私もギター」

「え、えっと。牛込りみ、ベース担当ですっ」

「……市ヶ谷です。楽器はキーボード」

「なるほど。だから、沙綾を選んだんだね」

「え?」

 

 五人そろって呆けた表情を向けると、夏希にもそれが伝わるようだった。彼女が言ったことが一瞬理解できず、凪紗は問い直す。

 

「沙綾を選んだって……えっと、沙綾のことを知ってるの?」

「え? あ、うん。……中学の時に、一緒にバンドを組んでたんだ。私がギターボーカルで、沙綾がドラム。──だから、てっきりそれであの子をバンドに誘ったんだと思ったんだけど」

「.っ」

 

 凪紗の背に、冷たいものが流れ落ちるようだった。

 

「さーやがドラム?」

「.やっぱり戸山さんたちには話してなかったんだね」

 

 凪紗を除いたバンドメンバーの困惑は深まるばかりだったが、それを説明するだけの心の余裕がなかった。

 過去にバンドを組んでいた、ということは、今は組んでいないということでもある。疑うまでもなく理由があって、それは律夏が語ったものと一致している。

 

 だとすれば、沙綾をバンドへ加入させるのは至難の業だ。

 

「……凪紗?」

 

 今、この思考は香澄たちのものよりも先へと進んでいる。それだけに、たえがひとり深刻な表情を浮かべる自分へ不思議そうに訊いてきたのも無理もない。

 考えなければならない。するべきことはなにか、伝えるべきことはなにか──

 

「昨日.沙綾と少し話をしたんだ。海野さんが考えていること、多分分かる」

「ほ、本当!?」

 

 思いのほか、強い反応を見せる夏希にりみが飛び上がるように驚いた。

 

「あ、ご、ごめん。……昔のこと、沙綾が他の人に話しているところを見たことなくて」

「……? 昔のこと?」

 

 お互いに主要な言葉を口にすることを避けているので、首を傾げる香澄の困惑はもっともだ。凪紗としては、そのあたりの事情を話すのは一度夏希の許可を得てからの方がいいだろうと考えられたが、それを視線で伝えると、彼女は何も言わずに頷くだけだった。

 

「…….全部、分かりやすく説明するよ。沙綾の話も、私の話も」

「?」

 

 きっと、これから口にすることを予想できる者はいないのだろう──だからこそ怖い。どれだけの戸惑いを与えてしまうか、どれだけの哀情に心を染めてしまうかが分からないからだ。

 不器用に紡いだ言葉が、正しく交わし合えるとは限らない。間違うことへの怯えが、沙綾のあの瞳を見て生まれてしまった。

 

 ──だけど、今は一人じゃない。

 

 祈るような思念はただ、あの子の手を取るためにあった。歩き始めた自分たちの隣に、あの子がいてくれたら──そう祈っていたのだ。

 勇気をくれる人がいる。隣に立ってくれる人がいる。それが支柱となり、凪紗の決意を揺るぎないものにした。

 



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#22:colorless wind(ボーイズサイド)

評価ありがとうございます。


「……と、いうわけで」

 

 花女文化祭の最終確認を含め、生徒会の仕事を終えてもまだ日は高かった。印刷した教師用の日程表を数部、ホチキス留めし終えた律夏は、こぢんまりとした窓辺からそれを認めたのだった。

 

 風には確かな温度が宿っていて、季節が動き出すその瞬間を教えるようだった。

 

「これでひと段落かぁ。……めっちゃ疲れた」

「まあまあ。志哲(ウチ)だって、秋にはたくさんお世話になるんだし……ねえ、紗夜ちゃん?」

「そうですね。今回は特に大規模になりましたから──改めて、いろいろと助けて頂き、ありがとうございました」

「ふふっ、お互い様だし、まだ本番も始まってないよ~」

 

 生徒会にはいつも以上に和やかな雰囲気が漂っていた。その原因の一端を、律夏は知っている。

 

「氷川さん、少し丸くなったというか、優しくなったよね」

「そうか?」

 

 机上でくたびれていたはずの恵が、気付けば背後に回って声を忍ばせて尋ねてきた。

 彼女が変わったのは間違いない。それが生徒会室の平均気温を上昇させるように作用していることにも疑いようがないが、()()()()()()というのには些か同意しかねていた。

 

「そうだよ。……まあ、仕事では厳しいのかもしれないけど」

「ああ。だからそれが信じられなかった」

 

 ひそひそと話を続けていると、何やらもの言いたげな目を向けられていることに気付く。

 

「何を話していているのですか」

「ヒェッ……何もないでしゅよ.ねえ、若葉?」

「……そうだな」

「あやしー」

 

 言い逃れのための弁明を行おうとも考えたが、この際それは恵に任せるべきだろう。律夏はおもむろに、通学鞄とその隣の紙袋をまとめて立ち上がった。

 

「って、もう帰るの?」

「ええ。少し、やらないといけないことが」

 

 ひかりの双眸を捉えて短く答える。何が伝わったのか、それともこちらが分かりやすいのか、彼女は「なるほどね」と訳知り顔を浮かべていた。

 

「なるほど、ってどういうことですか?」

「分かんないのー? 若葉くんがこの真剣な顔するときは、大体妹ちゃんが絡んでるに決まってるでしょ」

 

 にやにや、というよりはニタニタが正しいかもしれない。そんな表情を自分に向けていたひかりの弁は、悔しいながらも当たっているので言い返せない。

 うぐ、と声が漏れそうになるのをすんでのところで堪えて、しかし何と答えればよいか、思考を彷徨わせている自分を彼女は例の意地悪い瞳に映していた。

 

「え、そうなの若葉?」

「はぁ……上原さん、その辺りにしてください。あまりプライベートを詮索するような会話は不適切です」

「えー。紗夜ちゃんも気にならない?」

「それを聞き出したとして、得られるものなどないでしょう」

「若葉くんの面白胸キュンエピソード」

「……まだこちらの生徒会長との確認事項が残っています。行きますよ」

「わ、分かった! 分かりましたから引きずらないで!」

 

 断じて面白胸キュンエピソードなどを持ち合わせていないし、作る予定もない。紗夜はそれを聞いて若干硬直していたようだが、まさか興味があるとでもいうのか。

 ともあれ、厄介な追及をかけたひかりを追い出すことに一役買った紗夜は、喚くひかりの襟首を勢いよく引っ張り上げながら生徒会室を出ていくようだ。

 

「……結果、後で聞かせてください」

 

 すれ違いざま、二人だけにしか聞こえない声が、律夏の耳に残っていた。

 

「えーっと、若葉」

「まあそういうわけだから、戸締りは頼む」

「どういうわけなのかさっぱりだけど……今度、僕にも聞かせてよ」

「ああ、全部終わったら話すよ」

 

 恵に頷いたところで、ポケットの震えに気付く──アンロックしたところ、それは凪紗からの連絡を知らせるものだった。

 その内容を頭に入れ、今後のことを組み立てながら紗夜たちの去った戸へと手を掛ける。

 

「──頑張って」

「おう」

 

 言葉を背に受け、それにしっかりと応じると、何故か勇気をもらった気がした。

 

 

      ♬

 

 

「こんにちは」

「おお、若葉くんか。いらっしゃい」

 

 うぐいす色のエプロンは、日々の業務に鍛えられた亘史──沙綾たちの父親だ──の恰幅の良さを際立たせていた。

 商店街の賑わいに反して、ベーカリーに入ると客の姿はなく、彼だけが出迎える。きょろきょろと店内を見渡すと、その理由の一端が分かった気がした。

 

「ごめんな。ついさっき常連さんの女の子が大量にパンを買って行ってしまったものだから」

「いえ。確かに頂こうかなとは思っていたんですが、今日はそれ以外にも少しお話したいことがありまして」

「話……かい?」

 

 亘史が不思議そうに首を傾げたのも、無理はないと頬が緩んだ。

 

「今日、凪紗たちがこちらに伺うかと思います。そのことで」

「ああ、文化祭のことだね。小さいパンとか、新しい種類のパンの試作と、エプロンの採寸をする予定だよ」

「はい。どうも妹が無理なお願いをしたようで、すみません」

 

 軽く頭を下げると、亘史は笑い出した。

 

「いやいや、全く問題ないよ。近隣の学校に協力するのも商店街じゃ珍しくないからね。斜め向かいの北沢さんのところもそうだったから」

「そうなんですね」

 

 これには少し驚いた。恵の実家──北沢精肉店の協力も得られるというのは、秋に文化祭を控える志哲高校としても心強い。昨年の文化祭の出展情報をあとで確認しておこうと心に留める。──自分もすっかり社畜根性が根付いてしまったものだ。

 

 とはいえ、本題はそこではない。律夏は努めて姿勢を正して、亘史へと向き直った。

 

「……どうしたんだい? そんな改まった顔をして」

「もう一つ、大切なお話をさせて頂きたいんです。凪紗と、沙綾ちゃんに関わることで」

「沙綾に?」

「ええ」

 

 小さな頷きの間、頭の中で、これまでの凪紗との対話が逡巡していく。

 凪紗の思い、凪紗たちの夢を、絆を──それを受け止めた自分が、どこまで支えてやれるのか。憂いに反して、胸中には確かな焔が宿っているようだった。

 

 すべては、約束を守るために。

 

「──沙綾ちゃんは、過去に音楽をやっていたんですか?」

 

 

 ♬

 

 

 

 僅かな沈黙が支配した二人の空間で、亘史の眼が鋭く細められるのが判った。

 

『どうして、その話を?』

 

 そう訊いてきた彼の視線は、射竦めるような、と形容して申し分ないほどのものだった。──まあ、当然だろうな、とも心中で呟く。

 

 きっと沙綾はこの話を外で──それも、自身の心の外で──漏らすことを望まないどころか、忌避するだろう。

 市ヶ谷家での一件は、ほとんど同じ立場にある自分にしか感じ取れないような形で、そのような沙綾の煩悶が零れ出たものだったと考えてよい。

 

 それだけに、自分が沙綾の──拡大解釈すれば山吹家の──事情について、何か不当な方法で知り得たと亘史には捉えられているのだろう。

 

『それについてもお話しさせて頂きたいです。ただ、話が長くなりそうなので』

『……分かった。店はもう閉めてしまうから、奥で話そう』

 

 疑いの色を残したまま瞑目して、亘史はリビングの方を指差した。

 それがようやく訪れた最後のチャンスだと悟って、握る掌に力を籠めていた。

 

     ☆

 

「それで、聞かせてもらおうか」

 

 コーヒーを淹れたマグカップを自分に手渡した亘史は、どかっと椅子に腰掛けた。

 

「ありがとうございます」

 

 一口啜ると、舌下に深いコクを刻む。律夏はそれが、ベーカリー特製のものなのか、自分に対する不信故のものなのかが気にかかったが、最早些細なことと隅に追いやった。

 

「……沙綾ちゃんと初めて会ったのが、先日凪紗たちがお友だちのお宅をお借りして開いた演奏会だったんです。そのときに見せた表情が、どうも気になって。少し話をさせてもらいました」

「まさか、あの子が話したっていうのか?」

「いえ……」

 

 驚嘆ぶりは、やはり沙綾の秘める思いの強さを感じさせる。亘史はもう、触れられないのだ。

 そして、彼は歯切れの悪い言葉に訝しんだようだった。大方、具体的な会話もなしにどのように聞き出したのかを問うている。

 

 やはり、ここで話しておかなければならないようだ。

 

「沙綾ちゃんが見せた表情、というのが、自分にも理解できたんです。誰かの大切なものを守ろうとするあまり、自分の心の中にある想いが、色褪せていくことに気がつかない」

 

 やや婉曲的な表現は、きっと他人に届けるには向かない。──だが、こちらに惹き付けられることを、律夏は知っていた。

 

「千紘さん──沙綾ちゃんたちのお母さんのご病気のことは知っています。だから、沙綾ちゃんのあの表情は、お母さんを──家族を支えたくて、そのために自分の気持ちに目を瞑って、それでも音楽を諦めきれない、辛さの表れだったんじゃないかと、そう推測しました」

 

 凪紗たちの見せた演奏──その背後にあった夢と絆の眩しさ、そしてそのステージに立てるはずだった自分を隔絶させる大きな距離。

 まさに、沙綾にとってそれは遠い音楽だったのだろう。

 

 脈打つ鼓動を鎮めることの難しさも、切なさも、律夏の同感できるところであった。

 

「ずっと知らないふりをして、だけど内心では押さえつけてきたのではないでしょうか」

「……」

 

 沈黙の肯定ののち、亘史は俯いた。顔は見えないが、やるせなさを湛えていることなど、言うまでもなかった。

 しかし、一旦それを受け止めきると、今度は反対に、彼から尋ねてきた。

 

「だが、それは推測でなく想像に過ぎないだろう。そう考えた根拠は何故だい?」

「俺も──俺と凪紗も、同じような境遇にあるからです」

「同じような?」

「ええ。一年前に父を亡くし、それからずっと、母が入院をしているんです」

 

 亘史の双眸が、次第に見開かれていく。それが不信の誤解を氷解させるものと信じ、矢継ぎ早に語っていく。

 

「俺は転居に際して、志哲へ転入しました。大学進学を見据えた学費と、家計のために部活を辞めて、今はアルバイトをしているんです」

 

 そのことに後悔などはしていない、と付け加える。

 

「妹はこの春から花咲川へ通うことになっていましたから──それを保証するための、出来る限りの選択だったと思っています」

 

 事実、危機的ともいえる状況下で動けるのは自分しかないという自負があった。既に進路を決めていた凪紗に合わせる形で可能な生活を実現する──それが、兄としてできる最良の決断だった。

 

「それでも──好きだったのものを断ち切るときの痛みは、残り続けるものですから。沙綾ちゃんの心情は、理解できる」

 

 情けないことに、未練がましい自分がいる。

 夢の中であの水中の世界に体を潜らせる感覚に溺れることもあれば、ふと目にした浜辺の風景画に心が躍ることもある。

 

 つまりは諦めきれないのだ。覆りようのない結論が、どこかで覆ることを祈ってしまう。

 

 蔵で、そんな想いを湛えた瞳を見た瞬間、渦巻く情熱との葛藤を汲み取った瞬間、苟も、沙綾の代弁者たる資格を持ち合わせていると思ってしまった。

 このような表情をさせてはならないと決意してしまった。

 

「ここまでのお話は、すべて一つのお願いをするためです。──沙綾ちゃんを、凪紗たちのバンド活動に加えさせて欲しい。そのためのお手伝いを、させて頂けないでしょうか」

 

 溢れる感情の発露として、勢いよく、律夏は平伏するように頭を下げたのだった。

 

「君は……」

 

 呆然を精悍な顔立ちに留めた亘史の目線が固定されていた。

 律夏はゆっくりと顔を上げて、そこに先程のような疑念が認められないと結論づけた──正確には、その残滓のようなものがわずかに滞留していたのだが。

 

 その解消は、彼女たちに任せるとしよう。

 

「──こんにちは!」

 

 覚悟や決意の裏返しともとれるような、潑剌とした声が、凛と響いた。

 

 

     ♬

 

 

「……あ、兄さん」

「おう」

 

 買い物帰りだったのだろうか、短い応答とともに一瞥した凪紗の隣には千紘、つまり沙綾の母親の姿もあった。

「あら、いらっしゃい律夏くん」と自分に向けられた声色とその目元には、仄暗い翳りを感じさせたことが、凪紗の行動による結果だということは、そのさらに後ろから店内へと足を踏み入れた香澄たち他メンバーからも分かる自明の事実だった。

 

「お邪魔しています。凪紗からお話をさせてもらった通り、亘史さんにも同じ話を」

 

 わずかな会釈をして、凪紗の言が真実であることを示し、彼女と出した結論であることを強調する。

 それが伝わったのか、「用意周到だね」とでも言いたげな亘史を除いて、全員の表情は俯きに影を帯びざるを得なかった。

 

 もたらされる沈黙は発言に枷をかけるようだったが、裏を返せばこちらに注目が集まりやすいという意味でもある。

 当事者はあくまで凪紗だ。律夏は彼女へ続き──決着をつけるべき本題へ踏み込むことを促した。

 

「兄が沙綾のお父さんにお話したのと同じように、私も香澄たちにウチの事情を教えました。沙綾をバンドに迎え入れる以上、その難しさも知っていないといけない。沙綾の抱えている苦しみを知ろうとしなければいけないからです」

「ああ。律夏君からは、まさにそのとおり」

「私たちの話は、まずこの問題を解決してから詳しくお話しようと思いのですが……お父さんも、香澄たちも、それでいいでしょうか」

「ああ、大丈夫だよ」

「私は──」

 

 香澄がそこで初めて口を開こうとして、しかし言葉が見当たらないことに気づいたのだろうか、そこで止まってしまった。

 

「……優先順位、ってのがあるからな。文化祭、そっちのクラスは山吹さんがいないと始まらないんだろ」

「そうだね」 

 

 有咲の助言は実に冷静で、話の淀みを解消した。しかしながら、その表情は複雑なままだった。

 

 色々な感情が綯い交ぜになっているのだろう、と律夏は推測した。出会ってまだ二ヶ月しか経っていない友人ではあるが、その胸に秘めていた壮絶とも言える体験を、なんともないように差し出されて、はいそうですかと納得できる訳もない。

 

 どこかでこの解れを繕う機会が必要だろうが、それは今ではない──やらなければならないことが、今はある。

 

「目下の問題は、沙綾を引き入れるという方針についてのご両親の了承と、その手段についてです。ひとつ目について、お父さんは──」

 

 ちらり、凪紗が彼を伺った。

 

「まだお返事いただいていませんでしたね」

「そう、だね……」

 

 亘史は、千紘に何かを目線で伝えていたようだった。それが確認の意であることは見て取れたが、同意や肯定ととれるかといえば、難しそうだ。

 

「了承を頂くとすれば、その手段について理解してもらう必要があるんじゃないか」

 

 割り込むようではあるが、そのように告げると、凪紗は「それもそっか」と納得顔であった。沙綾の両親も、「それを聞けるならば」という表情だ。

 凪紗も決意の強さのあまりその辺りを忘れていたのだろうか。こう言っては何だが、ここ数日、彼女の人間らしい部分を覗くことが多くなった気がする。

 

「沙綾がメンバーになるとして、その障害はおそらく、ベーカリーや家事の負担がお母さんに向くことだと思うんです。人手が足りないだけで、何をするにしてもすごく大変ですよね」

「そうね.私も、できる限り沙綾には沙綾が楽しいと思うことをしてほしいのだけど、私が無理していては、沙綾も納得できないだろうし」

 

 情けないのだけどね、と呟く千紘。その眼には少なからず痛みが浮かんでいる──親としての悔しさや、自分を責める思いがあるのだろう。

 

 実際、律夏自身も母親が入院を避けられなくなったときに覚悟した以上の負担を背負うことになった。一般的な家事や、アルバイトなど当面の生活資金繰りのこともあるが、とにかく時間がないのだ。

 準備がほぼ必要なかったとはいえ、受験期間の凪紗に手伝ってもらったことも珍しくなかった事実を、律夏は不本意ながら認めざるを得なかった。

 

「沙綾の気持ち、とてもよくわかるんです。私は、受験期から兄に家のことを任せっきりにしてしまっているから」

 

 花女での高校生活へ、彼女の背を押し出したのは他ならぬ律夏自身だ。だから、その憂いは無用のものだといえる。親としての立場で沙綾を送り出した亘史たちも同じ思いを抱えているのだろう。

 それでも、彼女たちからすればやすやすと割り切れるものではないのだ。

 

「兄だから、ただそれだけの理由で、私は支えてもらっています。そのことに情けなくなって、兄がすべてを投げうってまで支えるに値するものなのか、今だって、自分を疑っています。でも、そのおかげで、私は何にも変えられない経験と出会いを手に入れることができたんです」

 

 凪紗は振り返って、香澄たちを強く見つめた。俯いた面々の視線が持ち上げられるようだった。

 

「凪紗……!」

「入学式の日、香澄と出会えたのも、きっと偶然じゃなかったんだと思う。兄さんが言ったこと、今なら分かる」

 

 それから、彼女はあの日自分が伝えた言葉を繰り返した。隣に立てる存在を、そしてそれが導くものを、しっかりと見つけたらしかった。

 

「私は決めました。兄さんの覚悟に応えることを。そのためには、沙綾にこのバンドに──Poppin Partyに入ってほしい。私たちにはあの子が必要だって、心の底から誓えます」

 

 亘史の躰がわずかに震え、千紘の瞳が潤んだように見えた。沙綾に対する思いが生半可なものではないと証明できただろうか。

 

 思いをさらけ出し、覚悟をぶつけた。後は、それを可能にする方法だけだった。

 

「だから──兄さん、お願い。私たちに力を貸して」

「ああ」

 

 右手が凪紗の両掌に包まれる。それを握り返すように、思いの熱量を伝えて、頷いた。

 そして、決意の眼差しを振り向けるのだ。

 

「亘史さん、千紘さん。俺を雇ってもらえませんか」

 

 あとになって顧みれば、それはきっと溢れる激情に駆られて、などと苦笑するのだろう。

 それでも、このとき律夏は努めて平然とそう告げるのだった。

 

 その瞬間に吹いた風は、わずかな色を帯びていたのかもしれない。

 



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#23:キミシダイ列車(ガールズサイド)

定刻から過ぎてしまって申し訳ないです。すっかり寝落ちしてしまった……


「それはダメ!」

 

 叫びとともに、入口の扉が開く。その場のほとんどが視線を奪われるなかで、兄だけは、()()を待ち受けていたように背中で受け止めたのだった。

 

「さ、さーや!」

「沙綾……」

 

《Poppin’ Party》の面々は一様にその名を零して、見たこともない表情を浮かべた沙綾に驚きを滲ませていた。

 あの沙綾が、肩で息をするように焦るところを見たことがない。──言われてみれば、それも不思議な話だ。

 いつだって、見守るようでいた彼女は、おそらく一歩退いていたのだろう。夏希が教えてくれた、過去への恐怖や後悔が、彼女をきっとそうさせていた。

 

 一度はすれ違ってしまった彼女の抱えるものは、あのときの自分には大きすぎた。それは覚悟に足りるものではなかった、という意味で。

 それでも、もう一度チャンスを掴んだ今なら──。凪紗の胸中には、確信が生まれていた。

 

「沙綾、この間は、何も知らないくせに訊いちゃってごめん。沙綾の気持ち、今では理解してるつもり。……それでも、これが私の答えだよ。私は、他の誰でもない、最後のメンバーに沙綾を迎えたい」

「っ……! だからって……!」

 

 沙綾の言いたいことは、自分がよく分かっている。

 

 ──こんな身勝手が許されていいはずがないんだ。

 

「うん。でもそう思うんだ。だから、二人できちんと話をしたい。今度はちゃんと、分かり合いたいから」

 

 沙綾に向けた返答は、同時に香澄たちメンバーをわずかに動揺させてしまったらしい。「お、おい」と有咲が口を挟んでいた。

 

「大丈夫、四人にもきちんと説明する。兄さん、お願いできる?」

「ああ」

 

 至って短く応える律夏は頼もしい兄貴だった。お互いの意志とそれに対する信頼が融け合って、繋がっている気がした。

 それを証明するように、凪紗が視線を送ると、それに彼が頷いて、おもむろに紙袋を開いていた。

 

「もちろん、考えもなく無理にお願いしているわけでないんです。お手伝いだからと言って実力や経験のない以上、足手まといになってはいけませんから」

 

 中から取り出したのはパンだった。

 クライブのときに用意していたサンドイッチや、新たにレシピから学びなおしたバターロールが、亘史や千紘の前に並べられていく。

 

「実際に仕事を始めてみないと分からないことも、当然あるかと思います。その分の学習は欠かさないつもりです」

 

 焼き具合から成形まで、素人の凪紗からすれば完璧だといえるレベルだった。もしかすれば、兄はその方面の才能があるかもしれない。

 絶句する面々を眺めながら、凪紗はそんな思いを抱えていた。

 

「わっ、すごい! この前よりお店のパンみたいになってる!」

「チョココロネもあるよ!」

「見て、うさぎのしっぽパン。お兄さん、食べてもいいですか?」

「いいよ。全部食べちゃうと、これから見てもらう分がなくなっちゃうけど」

 

 沸き立つメンバーのおかげで、少しは場が明るくなったのかもしれない。事実、完成度としてはそれに足るものだろう。

 苦笑していた律夏が、ふいにこちらを一瞥した。きっと、「行ってこい」の合図だろうと思った。

 

「沙綾。部屋に行ってもいいかな。そこで」

「……分かった」

 

 勢いに呑まれたのか、渋々ながら了承した彼女のあとに従っていく。流し目で、送られる視線に応えながら歩く──香澄たちには「任せて」を、律夏には「行ってくる」をそれぞれに伝えるのだった。

 

 

 ♬

 

 

 案内されて入った沙綾の部屋は、彼女の性格をよく表すような落ち着きに溢れていた。

 夕焼けの眩しい西側の間取りにもかかわらず、凪紗にはそれが、どこか色褪せて見えたのだった。

 

「広い……というかおしゃれ」

「……」

 

 実のところ、新居たるマンションにあてがわれた自分の部屋は少しだけ狭いと感じるときがある。贅沢の言えない状況だとはいえ、羨ましいと思ってしまった。

 そんなことを口にしてみるも、沙綾からの応答はない。無視というよりも、言葉を考えているようだった。

 

「……凪紗は、怖くないの?」

「怖い?」

「誰かに頼って、全部任せっきりにして……もし、無理していたらって」

 

 それが誰のことを想像してのことか、すぐに見当がつく。過去の千紘であり、未来の律夏なのだろう。

 

「あのときの私、母さんが倒れるまで気づかなかった.自分のことばっかりで、周りが見えてなかったんだ」

「ぞれくらいに熱中してたってことじゃないかな。《CHiSPA》にいたときの沙綾、すごく楽しそうにしてたって夏希ちゃんも言ってた」

「っ……! だからだよ!」

 

 叫ぶように絞り出された声の大きさに、身体がわずかに跳ねたのを自覚する。凪紗は未だ彼女とは遠い距離にあることを悟った。

 

「凪紗には分かるでしょ! 私、みんなに迷惑かけてまでバンドできない!」

 

 激情に触れ、根底にある想いの深さを感じる──いつだって思いやりに溢れていた彼女は、誰かを傷つけることに、誰よりも恐れていたのだろう。

 夢を見る香澄を、凪紗()たちを見守り続けていれば、傷つくことはない。自分が夢を諦めれば、誰の夢も壊さないでいられるから。

 

「私の代わりに誰かが損して──そんなの……っ」

「できるよ」

「できない!」

「できる!」

 

 水かけ論といえば聞こえは多少はいいだろうか。傍から見れば子供の言い合いにしか聞こえないだろう。それでも、沙綾がずっと隠していた思いを伝えてくれたことに、凪紗は場違いなくらいに昂っていた。

 

 沈黙に平静を取り戻して、もう一度語りかける。

 

「沙綾は優しいね。自分のことより家族を大事にしてる。──私なんかよりずっと優しい」

「.さっきも言ったじゃん。怖いだけなんだよ。家族に、律夏さんに迷惑をかけてまでバンドなんてできない。それに、今さらやるって言ったって、《CHiSPA》のみんなに何て言えばいいのか、分からないよ」

 

 溢れる涙を隠すこともなくなって、沙綾は首を横に振った。

 

 光から目を逸らして、憧れに惑うまぶたを閉じたまま自分を責め続けていれば、それでいいと彼女は言う。それが贖いだとばかりに叫ぶのだ。

 

「兄さんはバイトとして雇ってもらおうとしてるんだから、迷惑なんてことないよ。それに、そう決めたのは兄さんで、頼んだのは私なんだから」

「同じことだよ。それだって、凪紗のためにしていることでしょ。凪紗はそれでいいの?」

「それでいい……っていうより、そうしたい。兄さんが支えてくれる気持ちを信じて、それに応えたいって思う」

「っ.」

 

 千紘や亘史の前で言ったように、沙綾の気持ちは正直に言って理解できる。つい弱気になってしまう自分がいることも事実だ。

 だけどこの場では、沙綾の前では、共感しない。したくない。

 

 ──あの日香澄と感じた情熱に、嘘をつきたくないから。

 

「沙綾と二人で帰ったあのとき、訊いたよね。『兄さんには好きなことをして欲しいって思うか』って。

 その通りだよ。もしお父さんの事故が起きていなかったら、私が夢を諦めて、二人でぜんぶ半分こにしてたら、兄さんにはきっと、たくさんの素敵な友達と思い出ができていたんだろうなって、今でも思う。でもね──」

 

 視線を上げ、沙綾を見つめる。潤んだ瞳が、はっきりとこちらを捉えていることを確認しながら、凪紗は続けた。

 

「私が、夢とそれを叶える仲間を見つけられることの方が、大事だったみたい」

 

 律夏()が今までやってきたことのすべては、結局いつだってそんな理由だった。

 バカなんじゃないかと思った。お人よしに過ぎるんじゃないかと──自分が、妹というだけで、そこまでできるものなのかと疑った。

 でも、それはまぎれもない真実だった。まるで父と母が与えてくれるように、律夏はそれくらい自然なことのように、夢に続く未来をくれた。

 

「それに甘えてしまうなんて、情けないかもね。でも、そのおかげで決心できたんだ。今まで諦めていたことも、いっぱい挑戦できるようになった。……それに、香澄と、りみと有咲、おたえ、沙綾に出会うことができた」

 

 花女になら、何かがあるかもしれないと思った。その予感は当たっていた。そして、兄はそれを叶えてくれた。

 こうして真っすぐに思いをぶつけることができる本物の友達がいるのだから。

 

「ねえ、沙綾。私は叶えたいんだ。兄さんが託してくれたものに見合うだけの夢を。その隣に、沙綾がいて欲しいって思う」

 

 気が付けば自身の頬にも熱いものが流れている。

 必死に頭の中で組んでいた論理が融解してぐちゃぐちゃになっていく。所詮は感情が優先される生き物だなと、客観的に見つめる自分がいることに笑えてきて、沙綾からすればかなり奇怪な表情だったと思う。

 

「なんで凪紗が泣くの……」

「だって.! 苦しいって、知ってるから! たくさんの気持ち、堪えてきたんだよね。ずっと蓋をして、知らないふりをして──」

 

 ついさっき、共感はしないなんて言ったのがもう嘘になってしまった。

 夢の与える苦痛や恐怖を、この短い間に経験してきた凪紗でも分かってしまう。共感できてしまう。

 

「私は沙綾と一緒に居たい! 痛みを分かち合えるだけじゃない。いつか夢を叶えて、お父さんやお母さん、兄さんに返せるようになりたいから!」

「……っ」

 

 そこからはもう、憚ることもなく泣いた。泣き腫らした。というのも、笑おうとしたり、気持ちを鎮めようとしても、流れ出てしまうのだ。

 本能が抑えきれなくなって、どうしようもなかった。目の前の沙綾に縋ることもなく、ただ子供のように一人で泣いていた。

 

 次第に沙綾が折れて、「わ、分かったから……!」とハンカチを差し出したのは、その少し後のことだった。

 

 

 ♬

 

 

「……それで、解決したのか」

「……」

「凪紗?」

「ああいや、その.」

 

 答えのない自分に少し焦っている様子が、背に受け止める律夏の声色で分かる。普段から達観してばかりの彼にしては珍しい一面を見てやったと、実際に見たわけでもなく凪紗は一人そう思っていた。

 自分の代わりに答えた沙綾の目元も少し赤くなっているが、この夕暮れ時には気づかれないくらいだろう。

 

「凪紗、お兄さんだったら大丈夫でしょ?」

「いや、というか誰に見られるのもちょっと」

「私は見ちゃったんだけどな……」

 

 凪紗は泣きすぎていた。そのせいで瞼は沙綾以上に赤く腫れて、香澄をはじめ下の階にいた友人たちや沙綾の父母には見せられなくなっていたのだった。

 

「まあ、それならそのままでいいとして。……沙綾ちゃん、こっちは俺が雇ってもらうことについては、了解を貰ったよ。後は沙綾ちゃんがどうしたいか、になる」

「それは……」

 

 沙綾は未だ迷っているようだった。説得には全力を尽くしたつもりだが、それも当然かと思う。それだけ、彼女にとっては重要な決断なのだ。

 

「さ、沙綾!」

 

 そんなとき、香澄が声を上げた。

 

「私、沙綾とバンドしたいよ。一緒にキラキラドキドキしたいって、沙綾とならそう思うから!」

 

 真っすぐな本音に、りみと有咲が続いていく。

 

「……私も。新しいメンバーが入るなら、知らない人より山吹さんの方が気が楽だし」

「私も! 沙綾ちゃんとできたら、すっごく嬉しい」

「みんな……」

 

 その場の誰も嘘をついていなかった。──それは正確に言うなら、建前や耳障りのよい体裁だけの言葉ではなかった。それが分かって、やはり凪紗は、この出会いが導いてくれた道を進んできたのは間違いでないと思えた。

 

「沙綾」

「おたえ?」

「はい、これ」

 

 呼びかけたたえの両手にはさきほどのうさぎのしっぽパンがあって、彼女はそれをおもむろに沙綾と自分へ差し出した。

 

「え、ええっと……?」

「沙綾も凪紗もきっとお腹空いてると思って」

「この流れは何か一言言うところだっただろ……」

 

 言葉よりも行動で自分たちを元気づけようとしたのだろうか。それが律夏の作ったパンであったことは措くとして、凪紗と沙綾は苦笑交じりに受け取るのだった。

 

「んんっ、すごくもちもちで美味しい.!」

「そうよね。律夏くん、これも独学なの?」

「ええ。レシピ本を何冊か、学校の図書室で借りたんです」

 

 答える律夏の隣では、それってすげえ絵面だな、なんてツッコミを構えそうになっただろう有咲がいた。見た目と異性なのが相まってか、クライブでは極度の人見知りを発揮していた有咲だったが、少しは慣れただろうか。

 衝動と戦う有咲を見ていると、手元にマグカップが差し出される。

 

「……この通り、律夏君の腕前は確かだ。もし沙綾が心配しているのなら、今まで沙綾に任せていた仕事は律夏くんに頼むことにするよ。そのうえで、好きなことに挑戦してみたらどうだ」

「父さん……」

「今まで、沙綾はお父さんとお母さん、純と沙南のためにすっごく頑張ってくれた。その優しさを、もっと自分に向けて」

 

 千紘が言う。

 沙綾の憂いの直接の原因になっていた事実に対して、彼女は悩んでいたのだろう。凪紗にとっての問題──母親の事情にも重なることだった。

 

「沙綾はひとりじゃないよ。香澄ちゃんたちも、律夏くんもいる。純も沙南も、沙綾に守ってもらってばっかりじゃないよ」

 

 その言葉に、いつの間にか沙綾のもとへやってきていた二人が頷く。

 

「おれ、もう泣かないから。手伝いだってもっとやる」

「さーなも!」

「……!」

 

 遊びたい盛りの純たちが迷わず放った言葉が、今まで、二人がどれだけ沙綾に支えられてきたかを示していることを理解して、凪紗は彼女の献身の深さに心を震わせた。

 彼らと同じように、私も支えられていたのだと思った。

 

 そして、その言葉は、沙綾の怯えを取り除くに充分であるようだった。

 

「……なんか私、全然だめだね」

 

 目尻を拭う仕草の裏側には、先ほどとは違って笑顔があった。

 二、三度小さく頷いた彼女は、それを隠すことなく、

 

「ありがとう。……私、またやってみる」

 

 と、確かに言ったのだ。

 

     ☆

 

 そこからは早かった。

 

「ほんと!? ……やったあああ~!」

 

 そんな香澄の叫びをきっかけに、《Poppin' Party》の面々はとりどりの喜色満面を浮かべて跳ね回った。

 その中の例外──有咲は安堵からか長い溜め息をつき、それは凪紗も内心では同意できるところだった。

 

「それなら、文化祭を見に行く準備をしなくちゃ。みんなのバンド演奏はいつからなの?」

「えっと、何時だっけ?」

 

 実のところ、まだ詳しいプログラムについては決まっていなかった。知っていると言えば、その決定に携わっている委員の香澄くらいで──。

 

「香澄?」

「え、ええーっと……いつだったかなあ……?」

 

 メンバーがジトっとした視線をを向けられ、分かりやすく目を泳がせる彼女に、思いついたように律夏が鞄のなかを探り始めた。

 

「確か……あった。これ、当日の予定表だから確認してみよう」

「え、なんで持ってるの──ああ、生徒会か」

 

 口をついて出た言葉の通り、きっと兄は生徒会の準備で手に入れたのだろう、香澄が失くしたものと同じプリントがその手にあった。

 

「香澄ちゃんから聞きましたけど、律夏さん、生徒会に入っているんですね」

「うん。下世話だけど、内申目的もあるからね」

 

 りみの言葉に苦笑交じりに答える、その裏側にいろいろな苦労や悩みがあったことは、凪紗も知るところだ。自分がこの道を選ばなかったなら、それも無用のものだっただろう。

 良くも悪くも、自分の選択が律夏に大きな影響を与えてしまうかもしれない──そう考えた凪紗は、文化祭にかける思いを新たにしたのだった。

 

 

 ♬

 

 

「……まさか、あんなに上手く行くなんて思わなかった」

「そうだな。まあ、()()()()の必死の説得があったからじゃないか?」

「あれだけ、って……もしかして、聞いてた?」

「……」

「ちょっと! 聞いてたの!? 答えてよ!」

 

 暮れなずむ町の中、自転車を押して帰路を歩く律夏の背を必死に追いかける。全部聞こえていた、なんて言われてしまえば、夕日のせいにできなくなるくらいの赤面ものだ。

 

「それはそれとして、文化祭の準備はあれで済んだのか?」

 

 あからさまな話題転換で誤魔化される。それには騙されまいとする自分もいるが、そこはメンバーに確認して、あとでたっぷり問い詰めればいい。──嘆息して、そう考え直すことにした。

 

「……ひとまずクラスの方でやれることはやった、って感じかな。バンドの方は香澄が曲を作ってるから、それを待つって感じ」

「曲を作る? ──初心者って言ってたのにすごいな」

「いやまあ、正確には作詞だけどね。曲はおたえがイメージしたのを私と形にしてる」

 

 沙綾を新たに加えた《Poppin’ Party》のメンバーは、文化祭の企画書作りの一環で、当日にクラスへ配るエプロンやパンのメニューの調整を行った。これでクラスの出し物は問題ないとして、目下の課題はバンド発表の方である。

 

 それを言うと、「お前も初心者だろ」という目を向けられて、それから遠いどこかを見つめる目で「そういえばお前だったな」と、意味深に告げられる。

 

「どういう意味か分からないけど……お前なら何でもこなせる、みたいな意味だったら違うからね。結構苦戦してるし」

「へえ。そんなものなのか」

 

 律夏は意外そうな声色を背中越しに向ける。久々に眺める彼の背が大きく見えて、ふと足が止まる。

 それを訝しんでか、律夏も同じように動きを止め、身体をこちらへ翻した。

 

「……でも、()()()()()()

「どういうことだ?」

「兄さんが、あの決断をしてくれなかったらこの時間はない……あの提案をしてくれたから、この時間があるんだよ」

 

 入学前、変わり行く生活のなか、守りたい自分を守ろうと決断をした。

 沙綾と距離が遠くなりかけたとき、手を離すまいと、必死に考えてくれた。

 

 ──それだけの想いに、報いたかった。

 

「ありがとう」

 

 言葉で全てが伝わるとは思っていないけれど、だからこそ、流れる涙にも意味がある──震えながら握る手も、温もりを求めようとするこの気持ちも。

 咄嗟に背に腕を回した律夏に引き寄せられて、押しとどめていたものが決壊したように溢れだした。

 

「それを言うのは、全部終わった後じゃないか」

「だって……っ!」

 

 言い返そうにも、嗚咽ばかりで言葉が上手く纏まらない。それに、こんな泣き顔を衆目に晒すわけにいかないという心もあった。

「……ちょっと意地悪すぎたな」と言った律夏は、留めていた自転車の荷台へ乗るように促した。

 

「掴まってるついでに顔、隠せるだろ」

 

 言葉通りにして、日の落ちる住宅街を走る自転車の揺れに身を任せる。心地よい風の中、真っ黒の学ランに顔を埋めていると、周りが見えなくなった分、素直になれる気がした。

 

 それが彼なりの詫びであることに気付くのは、もっと後になってからのことだった。

 

 




あと3話くらいで1章が完結します。
続章はもうちょいシリアス度を下げていきたかったりするけど、無理だろうなぁ......


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#24:宿命(ボーイズサイド)

遅れてすまねえ……


「――私は、他の誰でもない、最後のメンバーに沙綾を迎えたい」

 

 凪紗がそう言い放って、沙綾を見つめた。その気迫は見る者みなを気圧すようで、彼女の視線の先にいた沙綾が少したじろいでいたようだった。

 

 きっと、彼女も思いは沙綾と同じなのだろうと、律夏は薄々感付いてはいた──それを自身の覚悟に資した凪紗と、夢を見ることを諦める理由にした沙綾で、選んだ道が変わってしまっただけで。

 それでも、沙綾の選択を責める権利などどこにもなかった。それは、家族を支えることの重大さと使命感を抱え続ける律夏としても共感できたからだ。

 

 ──それでも、本当はどこかで納得できていない思いもまた、共感できてしまう。

 

「──二人できちんと話をしたい。今度はちゃんと、分かり合いたいから」

 

()()()()()()()、沙綾の説得には凪紗一人であたる。今後彼女とバンド活動を続けることを考えると、その結成のきっかけが律夏()の呼びかけではいけないと考えたからだ。

 それも当然と言えば当然で、そこまで干渉しようとしていた自分の浅薄さ──凪紗に言わせれば「お節介焼きで心配性」らしいが──を一人苦味ある笑みで圧し潰していたところで、凪紗が振り向いた。

 

「大丈夫、四人にもきちんと説明する。兄さん、お願いできる?」

 

 組み立てられた流れに沿って、()()通りのセリフで演じていく凪紗の目にはどこか笑みまで浮かんでおり、しかしそれは余裕と結びつかないことを律夏は知っていた。

 彼女もきっと、緊張している。

 

 だから、精一杯に応えよう──こちらは任せておけと。

 律夏は短く、そして深く頷くのだった。

 

 

 ♬

 

 

「……ええっと」

 

 凪紗たちが沙綾の自室へと向かっていくのを見届けると、呆然とする面々──沙綾の父母、そして香澄たちバンドメンバーの困惑が一気に広がっていく。

 その中の一人、りみがおずおずと声を上げた。

 

「凪紗ちゃんの言ってた説明って、もしかして……」

 

 その言葉の先をりみは遠慮したようだったが、律夏としてはしっかりと触れておく必要があると感じた──そこに踏み込んでこそ、これからのバンドが成り立つのだから。

 

「ああ。ここに来る途中、凪紗からも説明があったと思うけど.うちの事情について、凪紗は改めて皆に知ってほしいと思っているから」

 

 凪紗ではなく、律夏(自分)が語ることに意味がある。それはつまり、凪紗を含めた五人──そして沙綾を加えた六人がバンドとして活動する以上は、自分の動き方も決まってくる。

 そこに律夏自身の意志がなければならないと考えたのだ。

 

「凪紗から聞いたんですけど.その、お父さんが事故で亡くなって、お母さんが入院をして──そのあとのお家のことを、律夏さんに任せているって、本当なんですか」

 

 それを訊く香澄の表情は曇っていた。若葉家や先のことを考えたうえでの不安や、このことを出会ってから黙っていた凪紗に対する不信も、僅かながら汲み取れた。

 

「それは本当のことだよ。今回、沙綾ちゃんをバンドに引き入れるにあたって俺がその代わりになろうとしていることも、その一環──みたいなものだと思ってくれればいいかな」

「でも、それって──」

 

 それは、ただの自己犠牲ではないのか。

 

 言葉に差異があっても、香澄は、本当はそれを問うていたことに気が付いた。自己犠牲よりも、自傷に近い何かではないのかと。

 有咲や、その後ろで話の推移を見守る千紘と亘史も、それが分かっているようだった。

 

 自分の置かれている状況が、周囲から見てどう受け取られているかは認識しづらい。主観と客観の大きな乖離を埋める方法を考えなければならなかった。

 

「……皆が高校に入学したときは何を考えてた?」

「えっ?」

 

 きょとんとした表情に変わりゆくのを確認してから、言葉を続ける。

 

「色々あるとは思うけど──入学式の日に考えたり、感じていたこと。市ヶ谷さんはどう?」

「わ、私!? そ、そうですね……」

「有咲ちゃんって、確か入学式の日はお休みだったんじゃ……」

「わあぁ! そ、それ言うなって!」

「そうだ、あの日、有咲って新入生代表の挨拶だったじゃん!」

「な、なんで知ってんだよ……」

 

 部屋の隅で存在感を消そうとしていた彼女を狙撃すれば、とんでもないストーリーが飛び出した。

 騒ぐ彼女らに苦笑し、その理由を促す。

 

「まあ、事情は色々あるんだと思うよ。なんで休もうと思ったの?」

「そ、それは……新学期だし、また人間関係やり直しだし.面倒だったので」

「えー!? 新しい友達できるし楽しいじゃん!」

「皆が皆お前みたいにコミュ力あると思うなよ!」

「有咲、それなんか悲しいね」

 

 たえの感想が有咲を冷静に捌く。もっとも、それを聞いていたりみも「少し分かるかも」といった表情だ。

 

「人によって感じ方は分かれるけど、入学式は新しい環境への入口なのは間違いないと思うんだ。高校生活をどう始めるか、それを決めることが一番大事だと、俺は考えてる」

 

 一同がはっとしたように律夏の方を向く。

 

「経緯はどうあれ、凪紗は香澄ちゃんたちとの出会いでそれをバンド活動という形にした。そこで感じたものが、何よりも代えがたい体験だったから」

 

 ライブハウスからの帰りに見せた凪紗の表情を、今でも克明に覚えている。しばらく見ていなかった、期待の輝きに満ち溢れた瞳を、律夏は忘れない。

 それを零れ落ちてしまわないようにすることが自分の役目だと、そう決めたことも。

 

「凪紗にとって、この三年間はかけがえのないものになると思う。それは皆との出会いがあってこそで、俺はそれを──自分の残りの時間と引き換えにしても、支えたいと思ったんだ」

 

 やり方はきっと他にもある。家事を分担し、お互いがお互いを支えながら生活を送ることもできる。

 だけど、そこにあの瞳の光輝はないのだろうと、律夏は直感した。

 

「俺のやっていることが正しいかどうかは分からないけど.少なくとも、後悔はしていないよ。俺自身、この選択をした以上は、未来に向けてできることを積み重ねて──凪紗が負い目を感じなくて済むようになりたいと思ってる」

「律夏さん……」

 

 律夏の独白を、いつの間にか皆が聞き入っていた。ふと、わずかな沈黙の中から有咲が声を上げた。

 

「……私には、よく分からないです。なんで、そこまでできるのかって──」

 

 その場の対応を見る限り、きっと彼女は聡明なのだろうと思った。その率直な感想ももっともだと思う。

 瞑目し、努めて柔らかに答える。

 

「それは、きっと俺が凪紗(あいつ)の兄で、家族だから」

 

 どこまで突き詰めても、結局はそこに行き着く。誰にでもこうするわけでもなければ、仕事を肩代わりするのだって厳密に言えば沙綾の為ではない。

 妹であり家族である凪紗のため──ひいては、役割を果たすべき兄としての自分のため。

 

 迷いなく、今はそう言える──どこまでも真っすぐに響いたその覚悟に、香澄たちは頷く。

 ひとまずは納得してもらえたらしいと、律夏は内心で安堵を滲ませるのだった。

 

 

 ♬

 

 

 ベーカリーの朝が早いことは、よく知られているのではないか。

 そもそも、パンの製造自体が長い時間を要するのだから、八時には開店するやまぶきベーカリーへは夜明け前への出勤となることは予想がついていた。

 

「おはようございます」

「ああ、おはよう!」

 

 遠くの空に朝日が昇りきらず、ようやく動き出そうとしている店内はまだ少し暗かったが、亘史の元気な声が飛んできた。

 事前に受け取っていたエプロンを身に着けると、律夏は彼の作業する厨房の隣に立った。

 

「今日は初めてだからね。捏ねから焼成までは一通り僕がやっているものを見ていてくれ。状況に応じて、手伝ってほしいことを指示するよ」

「はい」

 

 ミキサーで生地を捏ね、それを成形し、オーブンで焼き上げる工程は律夏自身も体験して身についているとはいえ、流石に本職の腕と手つきには敵わない。

 前日に決めたメニュー通りに休むことなく作業を進めていく亘史に必死に食らいつきながら、その手順や気付いたことを記憶していく。

 

「……いやあ、バイトの子を雇うのは初めてなんだけど、作業しているところをみられるのは落ち着かないね」

「す、すみません。集中していたものですから」

「ああ、いや。それは気にしなくていいんだけどね」

 

 手を大きく振って、こちらの詫びは要らないと伝える亘史は、浮かべていた苦笑を改まった表情へと切り替えて捏ね続ける。

 

「実のところ、僕も悩んでいたんだ。妻も体調が不安定なのは確かなんだけれど、沙綾に頼り続けることは──あの子の自由を奪ってしまうことは、本当は避けたかった」

 

 生地を薄く延ばしながら、誰にも聞こえない呟きを零すようだった。律夏もそれに答えることはない。

 

「沙綾が音楽を辞めてから、店や家事を手伝うようになって、妻も僕も、とても楽をさせてもらってきた。だけど、沙綾が心から楽しそうに笑う姿を見なくなったんだ。店に友達を連れてくることも減った」

 

 彼は「情けないことだね」と言いながら、生地の形を整え、素早くベーグルの形に巻く。手さばきとは対照的に、重苦しげな表情が浮かんでいる。

 

「沙綾ちゃんはきっと、家族のために正しい選択をしました。それが自分の夢に目を瞑ってのことだったとしても、それ以上にご家族のことが大切だったんだと思います」

「そう思ってくれていると信じているよ。それでも、だからこそ後悔してしまうよ。もっと早くに手を打っておくべきだったとね」

 

 凪紗の話からすると、沙綾がバンド活動を辞めたのは中学生の頃だ。それが何年前なのかは分からないが、亘史からすれば、失わせてしまった時間は大きいのだろう。

 

 父が亡くなって、まだ一年が経っていない。この時間をどう捉えるかは自分次第であるように、亘史や千紘にとっての沙綾の時間に対する感覚もまた、その喪失を大きく映すのだろうか。

 

「ご両親の立場からすれば、後悔は大きいものになるのかもしれません。ただ──」

 

 ただ、これだけは言える。

 

「俺が感じるように、家族のために、父と母のために使う時間を無駄だとは思わないと──沙綾ちゃんは感じているはずです」

 

 大切な人を、その人との生活を失うことは誰でも恐れるものだ。

 それと引き換えにする何かがあったところで、構うことではない──沙綾はそう思うことのできる人間だっただけだ。

 

 それの何が悪いというのか。

 

「……本当に、家族思いの子ですね」

「ああ。自慢の娘だよ」

 

 そう返した亘史の表情は、少しだけ軽くなっていた。

 

 

 ♬

 

 

「──それでは、若葉さんがアルバイトとして雇われることで、山吹さんの問題を解消したのですか?」

「まあ、端的に言えばそういうことですね」

 

 文化祭前、最後の打ち合わせ。

 スケジュールの読み合わせ中、ふと紗夜にこの件のことを報告すると、自分の態度が平静すぎたらしく、しばらく目を丸くしていた紗夜が我に返って、大きな溜息をついた。

 

「はぁ.正攻法で解決できると思っていた私が甘かったのでしょうか」

「正攻法って.」

 

 この問題の正攻法があるならば是非ともご教授頂きたいところなのだが、ともかく自分の取った手段は搦手のようなものだったらしい。

「あなたとの会話は、スムーズですが疲れるときがあります」と零した紗夜は、当日用の対応マニュアルを一ページ進めた。

 

「一応、アルバイトの許可は取ってあります。左門先生に」

「ああ、あの」

「呼んだか?」

「うわっ」

 

 ぬっと現れた彼はいつのまにか生徒会室へと侵入していたらしい。忍者も驚きの潜伏力だった。

 

「急に話しかけないでください」

「氷川、それはいくらなんでも言葉の暴力ってやつが過ぎるぞ」

「まあ、不躾かもしれないですが妥当ですね」

 

 これに対して本当に理解できないといった表情を浮かべるので、ますます紗夜の溜息が深まる。──否、()()と一緒にされるというのも考え物であるが。

 

「少し話が聞こえてな。アルバイトの件なら了解したぞ。あの通りはよく通るが、求人なんか募集してたか?」

「妹の伝手で少し」

「成程.ま、色々と入用なんだな」

 

 それから横目でちらりと紗夜と自分を眺め見て、はたと納得したように意味深な表情だった。

 

「なにか勘違いされてませんか?」

「違うのか?」

「ありえません」

「おい若葉、お前こんなこと言わせておいていいのか」

「勘弁してくれ……」

 

 望んだ未来だとはいえ、こうなるとは想像していないものだ。

 凍えるような気迫の持ち主と、それを意に介さない鈍感教師に挟まれて、律夏は思わずとほほと息を吐くのであった。

 

 



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#25:ヒカレ(ガールズサイド)

3ヶ月投稿サボってました。本当に申し訳ない……。
私生活も来年からは落ち着いてくる見込みですので、今回のように大規模に空くことはないかと思われます。

あと、定期投稿ですが月曜0:00に固定したいと思います。紹介欄のメッセージも変更しておきますね。


 日が暮れ、涙も枯れて、星々が瞬いて、今度は朝がやってきた。

 

「ふあ……あ」

 

 凪紗は朝に弱かった。欠伸をして大開きになった口の形そのままに、ふと家の静寂に気が付く。

 

「そうだ、兄さんはもう出ちゃってるんだった」

 

 律夏《兄》は既に起きたあと、一通りのことを済ませて家を出ている──やまぶきベーカリーでのアルバイトのためだ。

 

 “先に出てます。朝ごはん、しっかり食べていくように”

 

 筆圧の濃い字でそう書いてある。それが声になって、心の奥で鳴り響く。

 隣には弁当と朝食の食器が並べられていて、触れると少し温くなっていた──握る拳に、きゅっと力が入るのが分かった。

 

     ☆

 

「おはよー」

「あっ、凪紗!」

 

 クラスの面々と挨拶を交わす。今日は文化祭の準備を行う日なので、それぞれが独特の期待感というか、これから始まる「祭」特有の高揚感が教室に満ち溢れていた。

 その中で一際の輝きを放っていた香澄の呼びかけに振り向くと、彼女の膝の上で抱き留められる()()()がいた。

 

「……何してるの?」

「えっと.」

 

 香澄の満足そうな笑みとは対照的に、気まずく言葉を途切れさせるのはやはり沙綾だった。

 

「だって、ほっといたらさーや、どこかに行っちゃいそうなんだもん」

「い、行かないって……」

 

 頬を擦りつける香澄を受け入れつつも身体を引き離そうとする彼女は、傍にいたりみやたえ、有咲の視線に晒されて顔を朱に染めながら身じろぎする。

 ──その光景に、凪紗は笑みを零すのを堪えきれなかった。

 

「……んふっ、ふふふっ……!」

「な、なに?」

「ううん、何でもない──」

 

 心の底から、嬉しいって思ってね。

 

 なんだかそれを伝えるのにとんでもなく恥ずかしくなって、照れ笑いが止まらない。

 顔を上げると、そこには五人の女の子がいる──五人とも、かけがえのない、大切なメンバーたち。凪紗にとって、それはもう二度と巡り合えないような、そんな奇跡だった。

 

 彼女らと目を合わせ、心を通わせる。りみが微笑み、たえが頷き、有咲がそっぽを向いて髪をいじる。そして、沙綾を抱きしめる手を解いた香澄が立ち上がる。

 

「はじめよう。私たちのバンド活動」

「うん! 私たち──《Poppin’ Party》の音楽を!」

 

 凪紗たちの紡ぐ物語が、いま、ここにはじまった。

 六人の掌とその声が重なって、その思いが弾ける──ドキドキと、キラキラがその瞬間に溢れていた。

 

 

 ♬

 

 

「ライブまであと一週間! いえーい!」

 

 体育館の舞台の上で、香澄はそう叫んだ。相棒のランダムスターも一緒に、その叫びを弦の震えに乗せる。

 

 香澄のいう通り、文化祭の本番はわずかに一週間──十日を切って、学校のいたるところで飾り付けや備品の配置が行われていた。

 体育館もそのうちの一カ所で、香澄の背後にはスピーカーやドラムが置かれている。《Poppin’ Party》だけでなく、他のバンド演奏にも使用するのだろう。

 

「やべー、どうしよう」

「緊張してきちゃった.」

「人、人、人.飲む?」

「あはは、おたえってば」

 

 相変わらずのマイペースぶりを見せるたえを除いて、やはりメンバーは緊張しているようだった。沙綾も経験者とはいえブランクがあるので、リズムを引っ張るキーマンとしての役割には不安があるらしい。

 それでも、そんな心配は練習で解消しようと香澄は言う。

 

「練習は確かに大事だけど、歌う曲が完成してないだろ」

「うぐっ……うわーん!! 凪紗、有咲がいじめるよぉー!」

「残念ながら擁護できないんだよねぇ」

 

 夏の足音の聞こえる6月の昼間、抱きついてくる香澄の熱が苦しい。

 それもあって、肩を掴んで彼女を引き離すと、「見放されたぁー!」と大泣きする。

 

「見放すっていうか、このままだとまずくない?」

()はできてるから、練習はできるよ」

 

 そう言って、たえは同じく担いできていたギターを掻き鳴らす──中庭で見せた、あの旋律を曲の形にしたのだ。

「わあ……!」と表情に輝きが宿ったりみは、いつも通り可愛らしくてこちらも笑顔になってしまうが。

 

「ほら、香澄も急がないと。今、どこまでできてるの?」

「え、えっとお……」

 

 差し出したノートを、有咲とともに覗き込む。

 

「なんだ、けっこーできてるじゃん。これなら……」

「ち、違うよ有咲。これ、全部の行にキラキラとドキドキが入ってる」

 

 忘れていた。香澄の語彙力は壊滅的──もとい純粋だった。だから、言葉に困ったら例のワードセンスが復活する。

 

「……」

「有咲でもツッコミを放棄するときがあるんだね」

 

 怒りを通り越して虚無に陥った有咲──いわゆるキャパオーバーというやつだろうか。

 正気へ戻すのは後にするとして、この歌詞には修正が必要だろう。

 彼女の気持ちをしっかり言語化する──その役割にうってつけなメンバーが、ここには揃っている。

 

「よし、今日はお泊まりしよう」

「!? 急すぎだろ!」

「有咲が復活した」

 

 そういうたえも、凪紗の発言には少し驚いたようだった。ぽかんとしたりみや沙綾、目を光らせる香澄に、凪紗は続ける。

 

「練習と、香澄語の翻訳作業が必要だからね」

 

 

     ♬

 

 

 

「ただいまー」

 

 そう言いながら裏の玄関を通っていく沙綾のあとについていく。もちろん、「お邪魔します」は忘れない。

 

 凪紗の提案は突飛なものであったので、アルバイトのあるたえや、姉のゆりと約束事があるりみ、そして謎の貞操を主張した有咲は来ていない。それでも、香澄はその提案に全力で乗ってくれたし、沙綾は快く「ウチでやろうよ」と言ってくれた。

 彼女なりに、思うことがあったのかもしれない──それにしても、ここのところ連日山吹家を訪れているが、裏手から上がるのは初めてだ。

 

「あっ、おねえちゃん! おかえり」

「ただいま、沙南」

「さーなんただいまー!」

 

 玄関へ迎えたのは沙南だった。凪紗は、香澄に続いて彼女にただいまを言うと、少しびっくりした様子であることが見て取れた。

 

「どしたの? さーなん」

「ただいまとか言うからびっくりしたんだよ。ごめんね、沙南ちゃん」

 

 香澄のキラキラにあてられたことを反省しながらしゃがんで言うと、しかし沙南はそんなことを気にしているわけではなかった。

 

「おにーちゃんもいるし、おねーちゃんたちもきちゃった」

「?」

「ああー……凪紗、もしかして律夏さんのことじゃない?」

 

 珍しく回転を止めた脳が、沙綾の助けによって再び動き出す。

 兄のシフトは通学前の朝か、学校終わりの夕方なので、今はベーカリーで作業をしているはずだ。アルバイトの件は沙南にも伝えているから、その流れで凪紗や香澄も同じくアルバイトとしてやってきたと思ったのだろう。

 

「なるほどね」

「ごめんねさーなん、私たちはバイトじゃないんだ」

「そうなの?」

「うん。今日は沙南ちゃんのおうちにお邪魔して、お泊まりさせてもらおうと思ってるんだ」

「ほんと!?」

 

 つまりは家に誰かが訪れるのが沙南にとっては嬉しいようだ。香澄に負けない笑顔が光って、凪紗まで嬉しくなってしまう。

「うん、ほんとだよ」と頷くと、膨れ上がった期待が爆発するように、彼女はぴょんぴょんと飛び跳ねるのだった。

 

     ☆

 

「うーむ……とても初心者とは思えないな」

 

 普段の若葉家ではありえない人数が囲む食卓では、色とりどりのご馳走が並べられている。

 垂涎の香澄に苦笑しつつ、沙綾の父を唸らせる理由について、凪紗は大方の予想がついていた。

 

「あら、あなたバゲットなんて作ってたの?」

「いや……これ、律夏くんが作ってくれたんだ。料理を含めてね」

「まあ……!」

 

 驚きに口元を手のひらで覆った千紘。香澄と沙綾も、「まさかここまでとは」という表情だ。

 それにしても、これは気合が入り過ぎではないだろうかと思わず苦笑が漏れる。

 

「凪紗がお世話になるということで、そのお礼になればいいんですが」

 

 そう言いながら、キッチンから出てきた彼がミトン越しに運んでいたものはグラタンだった。そのあとをついてくる純は瞳を輝かせており、すっかり彼に懐いてしまっているようである。

 

「お礼なんていいのよ。それこそ、純たちも沙綾もお世話になっているわけだし……ねえ、お父さん?」

「ああ。それに、店の方も。まだ一日目だっていうのに、ここまで店の仕事を任せられるなんて思っていなかった。本当に助かっているよ」

「お役に立てたようでよかったです」

 

 安心からか、僅かに微笑んだ律夏は、普段の無表情からすれば珍しいといえた。

 凪紗としても、それに喜ばしさと誇らしさを覚えるのと同時に、新しい生活が始まることに対する覚悟が生まれていた──それは、彼の時間を自分の時間に投資している事実に強く結びついている。

 

 ふと、隣を覗き見る。そこには、多分似たような表情をしている沙綾の姿があって、互いの瞳の中に映る自分の姿に頷きあうのだった。

 

「あの、律夏さん。少しだけいいですか」

 

 彼女はそう声を上げた。視線をこちらに向けた律夏は、その先を知ってか知らずか、「話なら、食事しながらどうかな」とだけ返したのだった。

 

 

 

 

 

 沙綾が決意を秘めた面持ちで告げたことは、おおむね先日の凪紗の思いと同じだった。

 

 もともと、この春から始まった凪紗(たち)の高校生活を支えるべく、律夏は行動している。それまでの生活があっけなく崩れ去って、追い続けていた夢が儚く消えていく瞬間がどれだけ恐ろしいものか、夢の大きさと尊さを知った今では分かるから、彼の苦しみが、沙綾にも、そして香澄にも伝わっているようだった。

 

 どれだけの痛みを伴うか、凪紗は、たぶん香澄も知らない。だから、沙綾にしか言えない「ありがとう」だった。

 

「本当に、ありがとうございます」

「気にしないで──っていうのも無理があるかな」

 

 苦笑した律夏は、敢えて頭を下げる沙綾を止めはしなかった。その代わりに、言葉を続ける。

 

「正直、この提案をするとき、不安だったんだ。実現するかという可能性以上に、家族を守る選択をした沙綾ちゃんの思いを無視してしまうんじゃないか」

 

 沙綾の思いは、まさに律夏の思いでもあった。

 やりたいことや、憧れた世界がある──それとは裏腹に、守りたいものがあった。だから、思いに目を瞑ってでも、変わらなければならなかった。

 

「それでもこうすることを決めたのは、兄として凪紗を支えてやらないといけないと思ったことが大きい。ただ、それは凪紗が沙綾ちゃんや香澄ちゃんたちをバンドメンバーとして選んだからだ。隣に立ってくれる友達を凪紗はずっと探していて──そういう意味では、俺の方こそ、二人にありがとうって言わないといけないよ」

 

「顔を上げて」と、料理をよそった皿を渡しながら律夏は微笑みかける。自然と、沙綾の眦がわずかに潤んだ。

 それはかつての彼女から見ることができなかった、色づいた感情そのものであることを思って、

 

 ──ああ、やっぱりこうしてよかった。

 

 凪紗は、その決意が意味を成したことを確信したのだった。

 

「……さあ、お話もこれくらいにして、頂きましょう?」

「そうだな。いただきます」

「「いただきまーす!!」」

 

 手を合わせた父親(亘史)に続くように、純と沙南が食事に向かっていく。

 湿っぽい話題とは真逆の明るさがなんだか可笑しくて、お互いを見つめた凪紗たちは笑ってしまった。

 

「ね、私たちも」

「うんっ!」

「「「いただきます!」」」

 

 料理はもちろん美味しくて、それでもこれから始まっていくバンド活動と、隣に立つ彼女たちの姿が現実になったことに胸が高鳴ってしまう。

 期待と希望、ついでに涙──これでは味が分かったものではないと、凪紗は心のなかで少しだけ兄に謝った。

 

 

     ♬

 

 

「ねー、凪紗」

「ん?」

 

 食事が終わると、千紘から言われて一同は順番に入浴を済ませた。

 沙南は香澄と一緒に、体格の小さい凪紗も沙綾と入って、髪を乾かしているときだった。

 

 ちなみに、肩身の狭そうにしていた純は律夏に泊まっていって欲しいとすがっていたが、凪紗たちのことや、風紀委員の準備が残っているとやんわり断られてしまっていた。

 

「歌詞のことなんだけど」

「おっ、なんとなく決まってきた?」

「うん……」

 

 喜ばしい話題のはずなのに、香澄はどこか神妙な面持ちだった。

 いつもの星耳スタイルはどうやっているの、なんて茶化した言葉が喉まで出かかっていた凪紗は、慌ててそれを引っ込めたのだった。

 

「……もしかして、“キラキラドキドキ”の話?」

「えっ、なんでわかったの!?」

「いや、なんとなく」

 

 苦笑交じりに答える。香澄が()()を言い出すときは、たいてい瞳がキラキラしている──良くも悪くも、感情が表に出やすい子なんだということを、凪紗はようやく実感しはじめていた。

 

「私ね、今すっごいドキドキしてる。みんなで歌って演奏したら、絶対キラキラすると思う。全部が楽しくて──それで」

 

 その瞬間、凪紗は目を疑った。それまでの彼女が、まるで別人に映ったからだ。

 瞳は銀河のような無限の輝きを湛えたまま、こちらをゆっくりと見据えてくる──ともすれば、圧倒されそうだった。

 

「私、いろんな人に支えてもらってるんだって気づいたの」

「! ……うん。そうだね」

 

 いろんな人。それは誰のことだろうか。

 凪紗にとっての律夏や、沙綾にとっての山吹家のひとたち、ゆりや万美、明日香かもしれないし、そして──

 

「最初は一人でワ―ってなってたけど、今はみんないるから。……有咲とりみりんがいて、おたえも凪紗も一緒で」

 

 不意に言葉を途切れさせた香澄が振り向く先は、まさに今、部屋の扉を開けたばかりの沙綾だった。

 

「さーやも、ここにいるから」

「うん」

 

 頷き合って、笑みがこぼれる。心臓の刻む確かな律動が、二人にも響き渡って一つになるようだった。

 

「私、この気持ちを歌詞にしてみたい。もう離さない、離したくないっていうくらい、ドキドキする気持ち」

「手伝うよ。私たちの気持ち、私たちの言葉で伝えたいから」

 

 あと一週間で、今日立った壇上がステージに変わる。

 SPACEでグリグリが立ったものとは違うかもしれないけれど、それでも、たくさんの人が聴きにくる、光溢れるステージになる。

 

 沙綾がベランダの窓を開け、夜闇に足を踏み入れる。

 

「……私、星みたいに輝く香澄たちを見て、思わず目を逸らしてたんだ。もう届かないものだって決めつけて––一人で辛くなって」

 

 言葉とは裏腹に、バルコニーの縁に手をついて星空を真っ直ぐ見つめた彼女。後を追った香澄と一緒に手を包むと、その震えの大きさが伝わった。

 

「もう叶わないって、どこかで言い聞かせてた。家族のことを支えることの方が大切だからって……それは本当のことかもしれないけど、夢を見ることが怖くなってたんだ」

 

 今となっては過去の自分の想いを反芻しているのか、苦々しさを噛み締めながら言った。

 そんな彼女を、凪紗はどうしようもなく抱きしめたくなって──

 

「さーやっ」

「沙綾!」

 

 気付けば、手のひらを重ねるに留まらなくなって、夢中でそうしていた。それは香澄も同じだった。

 とくん、と、一つになった鼓動がたまらなく心を穏やかにしていく。溢れる温もりに浸りながら、沙綾の頬に流れた光芒が、夜空の星を映し出す姿を見た。

 

「星……きれいだね」

「うんっ。キラキラしてて、ドキドキする!」

「ふふっ、香澄はそればっかりじゃん」

 

 くっつきあって、手を重ね合って笑い合う。その瞬間が愛おしく、尊いと感じられた。これから続く時間を、可能な限りこの気持ちで満たしていきたい──そう願った。

 

「……香澄、凪紗、ありがとう。二人が背中を押してくれたから、また前を向くことができたよ」

「ううん。説得してくれたのは凪紗だよ」

「私も、兄さんに協力してもらっているから」

「うん。確かにそうかも知れないけど、私にとっては入学式の日、クラス発表のときに出会ってくれたことに、“ありがとう”って言いたいの」

 

 凪紗は思わず、はっとさせられた。

 沙綾の言葉は、自分がずっと思い続けていたこととまったく同じだったからだ。それがたまらなく嬉しいものだったことは、言うまでもない。

 

「うわぁ!? ちょ、ちょっと凪紗……!?」

 

 正面から抱きつく凪紗にうろたえる沙綾。それを見て、「あーっ! 私も私も!」と続く香澄。

 湿気を帯び始めた夜風では、その熱を冷ますことはできなくて、三人はシャワーを浴び直す羽目になるのだった。

 




一章が終わったら、サブタイトルの元ネタ公開しようかなと思ってます。
みなさんがおすすめの曲があったら教えて下さい(露骨)


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#26:キミのそばで(前/ガールズサイド)

お待たせしました。26話です。


 夢を見ていた。

 確か昨日は六人とも寝付けなくて、明日のステージのことや文化祭後の期末テストのこと、そのほかにもとりとめのない話をしていたはずだ。

 そのうちに寝落ちしちゃったんだなぁ……と思い返す、その意識が揺蕩う空間はどこなのだろう、という疑問が降って湧いたことに凪紗は気がついた。

 

(あれ……?)

 

 ☆

 

「うわあぁーっ!」

 

 その悲鳴で、微睡みの中にあった意識は急浮上した。

 

「!?」

 

 咄嗟に目を開けて、悲鳴を上げた有咲の方へ向こうとするも、身体が起き上がらない。それどころか、腕すら持ち上がらない有様だった。

 これが噂の金縛り、というやつだろうか。

 

「ううん……どしたの、オッちゃん……」

「誰がおっちゃんだ! つか離せええ!」

「ふふっ、楽しそう」

 

 今も寝ぼけているたえが、一番窓際で眠っていた有咲を抱きしめるのが見なくても分かる。とはいえ、超天然な感想をこぼすりみも加わった意味不明なやり取りは是非とも見てみたいと、視線を左右に動かす。

 

「あ、おはよう凪紗」

「おはよ……う?」

 

 壁側に目を向けると、隣にいた沙綾を見上げる形になる。彼女に限った話ではないが、寝間着姿で普段は結んでいる髪を解いている姿が見慣れない。

 そんな印象を浮かべながら、昨日の記憶が途絶える前を思い出す。沙綾は自分の左隣にいたはずだから、まるでぬいぐるみのように()()()()()()()()腕は、もちろん彼女のものだろう──

 

「昨日は遅くまで話してたから、熟睡だね」

「そんな他人事みたいに……」

 

 熱烈な抱擁をもたらした香澄には悪いのだが、梅雨間近のこの頃では少し暑苦しいので解放して頂きたい。とはいえ、「むにゃむにゃ」「もう食べられないよぉ……」などと漫画みたいな寝言を零している彼女の眠りは深そうだった。

 視線で沙綾に助けを求めるも、そんな口ぶりとともに面白がるような目で返されてしまう。

 

「ふふっ、なんだか姉妹みたい」

「香澄には明日香ちゃんがいるでしょ……ちょっと、香澄! 寝ぼけてないで起きて!」

「むにゃ……あっちゃんあったかーい……」

「あったかいじゃなくて暑いんだってば!!」

 

 結局、香澄とたえが目をこすりながら起きてくるのはその十分後で、《Poppin’ Party》の面々は大慌てで朝食をかき込み、未だ寝ぼけ眼の二人の手を引くように学校へ向かうのだった。

 

 

 ♬

 

 

「まったく……香澄とおたえのせいで氷川先輩に怒られちゃったよ」

「ごめ〜ん……」

「でも、ちゃんと間に合ったし大丈夫だよ」

「そういうことじゃないと思うんだけど……」

 

 お騒がせな六人組が手をつないで登校してきた様子は、もれなくクラスメイトに見られてしまっていた。

 B組の有咲と別れたあと、息を切らして副委員と学級教室に飛び込むと、実行委員の香澄だけでなく副委員と学級委員の不在に何事かと戸惑っていた彼女らは、事情を伝えると「なんだ」と苦笑いで出迎えた。

 

「でも、ちょっと緊張ほぐれたかも」

「確かに。どたばたしてたけど、今日ライブなんだよね私たち」

「それはちょっと緊張感なさすぎじゃない?」

 

 実際、りみの言うことはもっともなのだが、だからといって沙綾のように脱力しすぎてしまうのもそれはそれで不安だった。

 しかしながら、今日はライブだけのための文化祭ではない。クラスの出店のためにも準備はたくさんある。

 

「まあ、がちがちになるよりはいいか。それじゃ、急いで準備しよう! 香澄」

「うんっ! みんな、最高の文化祭にしよう! 絶対絶対、大成功させよう! えいえいおーっ!」

「「おーっ!!」」

 

 香澄の号令に続いて、沙綾がそれぞれの仕事を割り振っていく。

 

「あっ、ちょうどお父さんから連絡があったよ。今校舎前についたって。凪紗、頼める?」

「うん。パンの量を考えたら、ちょっとついてきてもらう子が必要かな。誰か、一緒に行ってくれる?」

「はーい!」

 

 呼びかけに、ちょうど手が空いている二人が応えてくれた。

 

「はぐみ、空いてるよ!」

「ワタシもです!」

「ありがとう、はぐみにイヴちゃん」

 

 お互いに同級生の兄を持つはぐみと、最近アイドルバンドに参加したというイヴを連れて、正門で待つベーカリーの車に向かうことにした。

 聞けばはぐみもバンドを組んでいるらしく、この学校どころかこの地区を超えて全国でガールズバンドが流行しているらしい。しかも、アイドルとして事務所に所属するイヴをはじめ美少女ばかりなのだから、驚くばかりだ。

 

「ナギサさんもとても美人ですよ!」とのお言葉を頂戴しながら、凪紗はバンドとして求められる実力がビジュアルの分野にまで広がることを予感して身震いするのだった。

 

 ☆

 

「おはようございます!」

「ああ、おはよう」

 

 軽自動車のバックドアを開けて待っていた亘史──沙綾の父親だ──は、こちらに気づくと手を振って応じた。

 

「凪紗ちゃん。受け取りのサイン、もらえるかな?」

「はい」

 

 注文書に名前を書き入れて、はぐみたちにパンを運んでもらうように頼む。今日一日に売る量なので重さがあるだろうが、元気なはぐみとアイドル活動のレッスンを受けているイヴにとっては些細なことであったようだ。

 

「おお、はぐみちゃんも同じクラスだったね。凪紗ちゃんと一緒に、沙綾をよろしく頼むよ」

「うんっ! はぐみもがんばるよ!」

 

 やまぶきベーカリーのある商店街の斜め向かいには、はぐみの実家である北沢精肉店もあったことを思い出す。

 それはそうと、頼もしい彼女らに運搬を頼んだのは、聞きたいことがあったからだ。

 

「あの……兄は、ちゃんとお手伝いできているでしょうか」

「ああ、やっぱり律夏くんの話か」

 

 考えが顔に出ていたのだろうか、亘史は凪紗の質問に淀みなく言葉を返していく。

 

「本当によく働いてくれているよ。仕事上、どうしても朝は早くなってしまうから心配だったんだが、寝坊や遅刻はないし、接客も含めてテキパキ動いてくれて。沙綾もはじめは不安で起きてきていたけど、あまりに仕事を覚えるのが早いものだから、安心するどころか驚いていたよ」

 

 それを聞いてほっとする。考えてみれば、去年までは部活の朝練で夜明け前に家を出ていくことも珍しくなかったし、接客は別のバイト先で培ったものがあるのだろう。

 律夏自身が提案したこととはいえ、結果的は自分が認め、頼ったのだ。もし何か問題があれば、バンド活動にも関わるし、その責任を取らなければならない──凪紗はその覚悟を決めていた。

 

「よかったです。──あの、もし兄だけでは大変だったら、私も手伝いますから」

 

 それを口にすると、亘史は目を丸くしていたが、やがてそれが笑顔に変わった。

 

「凪紗ちゃんたちにまで心配させてしまっているようで申し訳ない。幸い、律夏くんだけで十分に助かっているよ」

「そ、それでも、沙綾をバンドに引き入れたのは私なので」

 

 律夏が沙綾の代わりになって、それで問題が解決するわけではないということは、兄妹の間で考えていたことである。

 労働力としての代わりでも、それは家族としての役割の代わりにはならない──全くの他人が沙綾と入れ替わることで生まれる戸惑い、仕事を覚える期間のコストを、二人は憂慮してきた。

 もしそれが山吹家のひとたちにとって負担と映るなら、この提案はなかったことになるかもしれない。だからこその責任だった。

 

「いいや、これはお世辞ではないよ。それに、僕も千紘も、ずっと思っていたことなんだ。大切な時期に、沙綾(あの子)に無理をさせてしまっているとね」

 

 だから、律夏がその支えとなり、凪紗たちが沙綾を再び大好きな音楽の世界へ迎えてくれたことに、本当に感謝していると亘史は言う。

 

「……沙綾が音楽を続けることを選ぶ、その背中を押してくれたのは、ご家族の皆さんです。そういう意味では、私こそ感謝しています。──本当に、ありがとうございます」

「……そうか。それなら、良かった」

 

 短く呟いた亘史の眼は、父親としての愛情に溢れた、娘を思いやる眼だった。

 凪紗より一回りも二回りも、それ以上に大きな体躯はちょうど亡き父親の面影に似ていて、凪紗はふと、自分にもそのように思ってくれていたのだろうか──おそらくそうだったのだろうと、寂しさを感じずにはいられなかった。

 

 

 ♬

 

 

「いらっしゃいませ! 1-Aカフェ、オープンです!」

 

 香澄の元気のいい挨拶から、その日の営業が始まった。

 開店前から溢れていた焼き立てのパンと、練習で淹れていたコーヒーの香りが多くの客を集め、用意した席はほとんど埋まってしまいそうだった。

 

「わあ、このパンおいしー!」

「やまぶきベーカリーのパンです! 何個でも食べられちゃいますよ!」

「おすすめはどれ!」

「ん〜、メロンパン、クリームパン、チョココロネ、あんパン、ミルクデニッシュ……」

「あはは。それって全部?」

「えへへ! 全部です!」

 

 愛嬌のある香澄の接客は、(おそらく、アルバイトには向いていないだろうけど)来客の人々に人気だった。「香澄ってば」と笑いながら、それを傍目で見ていた沙綾と手分けして注文を届けていく。

 ちなみに、エプロンを着た沙綾の仕事ぶりは凄まじいもので、なにかスイッチのようなものがあるのかもしれない。

 

「いらっしゃいませ、ご注文は……って、あれ?」

 

 席に座っていたのは、どこかはぐみと似た髪色をした男子生徒──よく見れば兄と同じ制服を着ていて、向かいには女子生徒がいた。

 

「あっ、もしかして若葉の妹──凪紗さんかな」

「えっ、この子が!?」

「あ、はい。私が若葉ですけど……兄をご存知ということは」

 

 そこまで言いかけると、カーテンで仕切られたバックヤードから「にーちゃん!」と声が聞こえた。

 

「はぐみも同じクラスだったね。頑張ってる?」

「うんっ! はぐみはね、らてあーと? 作ってるよ!」

 

 ほら、と見せてきたコーヒーカップには、謎のクマのような動物の模様が浮かぶ。なんだか憎めない可愛らしさがある。

 

「おっ、ミッシェルだ……って、そうじゃなくて。ごめん、若葉さん。僕、北沢恵です。今日は志哲高校の生徒会役員として、花女の文化祭の手伝いに来ているんだ」

「そうだったんですね」

 

 いつも兄がお世話になっていますと返すと、少し驚いたような表情を浮かべた恵は、「さすが若葉の妹さんだ」と苦笑する。なんだか兄の同類と思われているようで、凪紗としては不服であった。

 

「ねえねえ、私も紹介してよ」

「ああ、そうでした──こちら、僕や若葉と同じ生徒会で会長をしている、上原先輩だよ」

「どうもー! 上原ひかりです! ひかり先輩って呼んでね!」

「うんっ! ひかり先輩、よろしくねー!」

「は、はい。よろしくお願いします、ひかり先輩」

「……」

「どうしたんですか?」

 

 突然言葉を失ったひかりを不思議がる恵。事実、なんだか外見からにぎやかな人なのだろうと(事実そうだった)思っていたが、それにしては不審なくらいに、急に押し黙った。

 そうかと思えば、

 

「……今日から私の妹ってことで、いい?」

「いや、良くないですけど……」

 

 そんな会話が繰り広げられるので、やはり律夏(変わり者)の周りには変わり者が集まるのだろうなぁ、と凪紗はひとり感想を抱いているのであった。

 

 ☆

 

 その後、ゆりやひなこなどの来客を捌き切ってシフトを終えた凪紗たちは、文化祭を楽しむべく校舎中を巡ってゆく。

 有咲主演の舞台劇(金のがちょう)や、三年生のお化け屋敷、他の出店での体験は、凪紗にとって久しく忘れていたものを呼び起こした。

 

 六人が揃うと、こんなにも見える世界が違うんだ──

 

 高鳴る鼓動は、ステージを控えている以上に、この瞬間に対して自分の心が躍っている証明だと、そう思うことができた。

 

「……ああっ!」

 

 ふと、香澄が声を上げる。

 

「なんでお姉ちゃんに()会うかなぁ……」

「あっちゃん可愛い〜!」

 

 視線の先には、メイド喫茶の看板を片手に、給仕服に身を包んだ明日香がいた。

「よかったね、あっちゃん」と隣の女の子(クラスメイトだろう)に茶化されて、「よくない!」と照れ隠しをする様子が可愛らしい。

 初めて会ったときは春の部活体験中で、香澄と一緒だとどちらが姉だかわからないくらい大人びていたが、中学生らしい一面も持っているようだ。

 

「写真、撮るよ」

 

 たえがカメラを構える。「はい、いらっしゃいませー」と謎の合図でタイミングを掴みかねていると、先程の明日香の言葉の端に妙な部分があることに気がついた。

 

「明日香ちゃん、香澄に()って、他に誰か来てたの?」

「そうなんです……ついさっき、このカッコで宣伝に出たばかりのタイミングで、律夏さんに」

「……なるほど」

 

 忸怩たる様子で明日香が零す──身内、というか知人に見られるのが一番恥ずかしい格好で──ように、おそらく風紀委員の見回り中に遭遇してしまったのだろう。

 兄も悪気はない──強いて悪いとすれば明日香の運が悪かったとしか言いようがないが、思わず申し訳ない気持ちになった。

 

「なんだ。明日香の彼氏かもってクラス中大騒ぎだったのに」

「そんなに騒いでないでしょ! だいたい、彼氏とかいないし」

「あはは……」

 

 ひとつ下とはいえ、まだ中学生の明日香とあの見た目の律夏が()()()()ことになったら、取れる限りの手段を講じなければならなくなる。

 凪紗は密かに覚悟を決めた。

 

「そっか、律夏さん、朝から来てるんだよね?」

「そうそう。仕事でね」

「なんか大変そうだな……」

 

 有咲が言う通り、やることは多く大変な仕事であるようだが、こなさなければならない理由がある。

 それこそが自分たちなのだと改めて心に刻むと、沙綾と目があった。

 

「──だからこそ、私たちも頑張らないと」

「うん。ライブ、絶対成功させよう」

「うんっ!」

 

 再び決意を心に宿し、全員でそれを分かち合っていると、ステージの集合時間が迫っていることを告げる携帯のアラームが鳴った。

 楽しい時間が緊張を打ち消してくれていたが、一同はそれを思い出す。

 

「よし、行こう。きっとみんな、見に来てくれるよ」

 

 凪紗の言葉に、頼もしい仲間たちの笑顔が応えた。

 

 

 ♬

 

 

「うひゃー……結構来てんじゃん……」

「どうしよう……」

 

 舞台袖からライブステージを覗いた有咲が、額に汗を浮かべるように言った。

 出番は、今演奏を行っているバンド、《CHiSPA》のすぐ後である。

 

「夏希たちの演奏、すっごく上手……」

 

《CHiSPA》は沙綾が以前に所属していたバンドだ。音楽歴も中学からで、《Poppin’ Party》より長い。

 それだけに、この後の演奏に対する期待が上がってしまうのではないかと、有咲やりみは不安顔だった。

 

「大丈夫! 今日のためにいっぱい練習してきたんだし」

「そうそう! ……って、沙綾?」

 

 対照的に元気な香澄とたえが、しかし沙綾の表情を見て首を傾げる。沙綾は今もステージで輝く夏希たちを見つめていた。

 

「っ、あー、ごめんごめん」

「沙綾……」

 

 その場の誰もがわかっていたことだが、一度はかつての仲間たちから離れた経験がある彼女にとって、演奏後の彼女たちと対面することは、やはり心の重荷となるだろう。

 取り繕っても、その不安は消し切ることができない。

 

「やっぱり、ちょっと考えちゃうんだ。負い目っていうか……勝手な行動で、迷惑かけちゃったから」

 

 当時を思い返しているのだろうか、心苦しさが滲み出る表情がそこにあった。家族のためだとはいえ、事実が変わることはないと、責め立てているように見えた。

 

「……大丈夫」

 

 ふと、香澄が沙綾の手を取った。

 

「なっちゃんたち、きっと分かってる。家族のことを大切にする沙綾も、音楽が大好きな沙綾も」

 

 ライブは最高の盛り上がりを見せたのち、ドラムのかき回しで終わりを告げる──瞬間、静まり返った場内にオーディエンスの叫び声が充満した。

 次は、《Poppin’ Party》の出番だった。

 

「次のバンドも楽しんでってー!」

 

 大歓声に答えるように声を張り上げた夏希が、メンバーと一緒に舞台を去る。向かう先はもちろんここだった。

 

「……沙綾」

「ナツ……フミカとマユも……っ!」

 

 目を見開いた夏希たちに、沙綾は振り乱れる髪も厭わず頭を下げた。それは贖罪なのかもしれない──もう一度、この道を歩んでいくことを決意した、彼女なりの──

 

「ごめん……! 私……っ!」

「……顔、上げて」

 

 静かにそう言った夏希は、沙綾へ近づいた。

 

「楽しかったよ」

「え……?」

「沙綾とのバンド、楽しかった。沙綾とバンドができて、すっごく楽しかったよ。……沙綾は?」

 

 思わず視線を吊り上げた言葉は、沙綾にとって、大きな意味を持っていたようだった。

 身を震わせて、沙綾は一人静かに涙を流した。

 

「っく……楽しかった! 大好きだったよ……!」

「うん。そう思ってくれてると信じてた」

 

 かつての仲間は、笑顔で言った。そして、フミカが後で控えていたショートカットの女の子を呼ぶ。

 

「この子、新メンバーのサトちゃん。恥ずかしがり屋だけど、演奏は派手」

「そ、そうかな……?」

 

 沙綾が抜け、《CHiSPA》は変わっていく。それでも──

 

「私たちは大丈夫。だから沙綾、自分を許してあげて。──ほら、みんなが待ってるから」

 

 促されて沙綾が振り返ると、そこには新しい仲間がいた。それぞれの楽器や楽譜を背負って、沙綾を迎えている。

 

「うん……! ありがとう!」

 

 その光景を、ずっと凪紗は覚えているかもしれない。沙綾を見送った夏希が、走り出す背中を見つめる表情を。

 一抹の寂しさ、そして何かを願う気持ち──”まかせたよ”と、言われた気がした。

 

「……さあ、行こう! 私たちのライブに」

「うんっ」

 

 頷き合って足を踏み出す、まさにその瞬間だった。

 

「……おい、凪紗、携帯鳴ってね―か?」

「うわっと、本当だ」

「こんなときに……?」

 

 有咲の言う通り、僅かな振動がポケット越しに伝わってくる。

 友達はこの時間にライブに出ることを知っているはずなので、直前に掛けたりしないはずだ。画面が通知する兄も同じくで、まさか通話で激励でもあるまい。

 タイミングが悪いのはともあれ、「ごめん」と頷いた全員に許可を取ってコールに出る。

 

「はい。私だけど」

『凪紗』

「って、兄さん?」

 

 凪紗の言葉に、メンバーのみんなが驚きの目を向けた。

 

『今、ステージの進行はどうなってる?』

「もう次が私たちだけど……兄さん、いないよね?」

 

 不思議に思っていたのだ。風紀委員の仕事でホール上部の監視周回のついでに見に来ると聞いていたのに、彼の姿は見当たらない。

 それを問う凪紗の言葉に、何やら息を切らして律夏が答える。

 

『ああ……すまん、少しイベント中の事故があって──今向かってるんだが、その感じだと始まってすぐには間に合わないかも知れない』

「っ……」

 

 言葉を失ってしまう。

 まさかとは思っていたが、それが現実に起きたことだとは思えなかった。兄なら、絶対に来てくれると思っていたから。

 

『本当にすまん。だけど、行くよ──絶対に、歌を聞きにいくから。間に合わせてみせる』

 

 凪紗の落胆はメンバーにも伝わっており、不安げな視線へと変化していた。

 それは電話越しの律夏も同じようで、だから、あえて強い意志を向けたのだと分かった。

 

 そうだ。

 

 たかが妹のライブ──だけど、今回だけはそうもいかない。彼が見つけてくれた夢と向き合った成果を、絶対に見せたいのだ。

 そのために、今彼は走り続けている。どんなことが起きても、それを乗り越えようとしている。

 私にできることは、ただ弾くことだけ──奏でる音に、祈りを込めるだけ。

 

「分かった。……私、待ってるから、絶対に来て」

『おう』

 

 その言葉とともに、通話は途切れた。だけど、託した思いが繋がっている気がした。

 

「……凪紗ちゃん」

 

 おろおろと呼び掛けたりみと、他の四人に確信をもって応える。

 

「行こう。届けたい人は、ずっと待ってるから」

「!」

 

 彼女たちは自分を見て、はっとしたように目を見開いた。しかし、しばらくするとそれも微笑みに変わっていく。

 なんだか視線が生暖かい。

 

「……え、なに?」

「ふふっ、何でもないよ!」

「そうだね。行こうか」

「ちょ、なになに!? 気になるんだけど!!」

 

 そう言って、先を歩いていく香澄と沙綾。

「凪紗ちゃんのおかげで緊張とれちゃった」と言いながら、横で笑うりみ。

「心配させんなよな……」と呆れ顔の有咲。

「やっぱり、大好きなんだね」と何かに納得しているたえ。

 

 六人がその賑わいのまま、光溢れるステージの上へ吸い込まれていった。




今更なんですが、作者は割とバンドリやってます。リリース初日からやってるくせにランク低いけど……


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#27:キミのそばで(後/ボーイズサイド)

物語もいよいよフィナーレへ。


「おはようございます! ご入場の際は入校証を確認しますので、事前にご準備ください」

 

 律夏が呼びかけるのは、花咲川女子学園の校門へ続く坂道である。

 

 艶やかな葉の緑に彩られる桜のトンネルには、開場早々から参加客が列をなしており、律夏たち応援の学生を含めてその対応に追われていた。

 

「説明会へ参加される方は、こちらの列です。入校時にパンフレットをお受け取りください」

 

 その隣の列には、学校説明会への参加を希望した中学生たちを導く紗夜の姿があった。

 呼び掛けと中学生たちの案内をこなしながら、素早く資料を配っていく様は仕事人のそれであり、自分が周りの人間や凪紗から言われるのとは違う意味で、高校生らしからぬ側面を感じていたのだった。

 

「あ、あのっ」

 

 背中越しにかけられた声──風に吹かれてしまいそうな小さな揺らぎを帯びる、()()()にしては高い声だった。振り向くと、想像にそう違わぬ彼の姿が映る。

 小さな体格の彼は、律夏と並ぶと親子ほどの身長差があった。日の向きも相まって、体躯の形影にすっぽり覆われてしまっていた。

 

「え、えと、その……」

 

 律夏は言葉に詰まる彼の言葉をじっと待っていたが、かえってそれが彼を威圧してしまっていたことに気づいた。

 天敵に迫られた小動物よろしく、彼は淡い空色の髪の先までぶるぶると震わせていたが、それでも拳をきゅっと握って、何かを言おうとして──

 

「若葉さん」

「……?」

 

 それを紗夜に遮られた。

 彼女に目を向けた律夏は、呆れた表情でこちらを見つめていることに気づく。

 

「どうかしましたか」

「どうもこうも、今の貴方がそこの彼を()()()()()ように見えたと、生徒から通報があったので」

「え」

 

 ふと周りに意識を遣ると、ひそひそと口を隠しながらこちらを伺う生徒の集まりがあった。

 

「ご、誤解です」

「分かっています。……が、それは私が、貴方が風紀委員であることを知っているからです。一言も発さず、明らかに怯える彼を()()()()()いれば、脅していると感じられても仕方ないでしょう」

 

 睨みつけていたわけでは──そう言おうとしたが、彼女の凍てつく視線を身に受けてしまえば、もはや言い訳はできまい。

 紗夜の言葉に、心なしか後ろの女子生徒もうんうんと頷いていたが、律夏に視線を向けられて退散していった。

 ため息をついた彼女は、「ご迷惑をおかけしてすみません。ご用件を伺います」と彼に意識を切り替えた。

 

「め、迷惑なんてことはないです。……え、えっとその、僕、松原楓夏(ふうか)といいます。姉の忘れものを、説明会に参加する友達と届けに来たんですけど、途中で道に迷ってしまって」

 

 口ごもりながらも彼が言った内容は、姉を追って友達と来たはいいものの、電車の乗り降りを繰り返しているうちに、人混みに流されてしまったとのことだった。

 なんとか花女に辿り着いたはいいものの、女子高ということで肩身の狭さを感じながらなかなか尋ねることができず、律夏に意を決して話しかけたという。

 

「せっかく話しかけてくれたのに、威圧する真似をして申し訳ない」

「い、いえ! 僕こそ、初対面の人にびくびくして……失礼でしたよね」

「そんなことはありません。誰だって()()容姿には一歩置いてしまいますから」

「せめて俺に言わせてほしいんですが」

 

 フォローにならない紗夜の言葉に、しかし彼の気も緩んだようで小さく笑っていた。

 怖がられる自分の容姿が事実だとして、それは紗夜の眼力も同じようなものではないか──心を読まれているのか、恐ろしい形相に怯んだ律夏は思考を中断した。

 

「と、とりあえず今の話だと、友達との合流を優先したほうが良いか」

「はい。今会場に入ったと連絡があったので、そこで……でも、僕は入学希望生じゃないので」

「それなら、ご家族や同行者用の名簿に名前を記入してもらえれば説明会に参加できますよ」

「本当ですか! よかった……」

 

 そこからは、紗夜の話ですぐに話が進んでいった。説明会参加者ということで、彼──楓夏という少年は紗夜に任せることにして、律夏は持ち場に戻ろうとする。

 

「あ、あの」

「?」

 

 呼び止める彼の表情は、なにか切実なものを感じさせた。

 

「その制服……志哲高校ですよね」

「ああ。今日は生徒会の応援でね」

「やっぱり……あのときの人だ

「え?」

「い、いえ! 僕、今中学3年生で、志哲高校志望なんです。だから……頑張ります!」

 

 突然の決意表明に少し驚いたが、その純粋さにすぐ笑顔に変わる。

 二年前、受験生であった自分も、合格を目指して努力を重ねてきたはずだから、その想いはよく分かった。

 

「おう。待ってるよ」

 

 手を振ってそれに応える。背中越しにも、彼の視線は届いていたのだった。

 

 

 ♬

 

 

「松原……ああ、それって《ハロハピ》の花音ちゃんのことだよ、きっと」

 

 仕事も一段落した昼休憩、律夏たちは花女の生徒会室に集まっていた。

 結局、楓夏少年は紗夜の案内のもと、無事に友達と合流できたようで、その話を紗夜が持ち出すと、心当たりがあるらしい恵がそう言った。

 

「ハロ……ハピ?」

「あ、ごめん。《ハロー、ハッピーワールド!》っていう、はぐみたちが組んでいるバンドのことなんだけどね」

 

 新手の流行り言葉か何かか、という戸惑いを顔に浮かべた律夏に、苦笑した恵が紅茶につけた口を離して解説を挟んだ。

 生徒会室にマグカップやら紅茶のパックがあるのはどこも同じなのだろうか──口うるさそうな紗夜が言及しないあたり、特段問題はないのだろう。

 

「やっぱり、どこでもガールズバンドが流行ってるんだね。うちのひまり()も、《Afterglow》っていうバンドを組んでいるんだけど」

「……」

「……」

「ま、まさか」

 

 恵やひかりの予感する通り、律夏は凪紗()、紗夜に至っては日菜()に加えて自分自身もバンド活動を始めているのだから、それを彼らに白状すると、もはや驚きを通り越してしまったようだった。

 

「《Poppin’ Party》に《Roselia》、《Pastel*Palettes》……生徒会の身内だけでも、五つのバンドが」

「これって多分、偶然じゃないよね。大流行じゃん」

「今、校内でシフトに入っている三年の鰐部先輩も、たしかバンドをやっていたと思います」

 

 おそらく、それはりみの姉であるゆりが所属する《Glitter*Green》であると律夏は見当がついた。興奮交じりにその魅力を語る凪紗の表情が思い浮かぶ。

 

「それだけバンドがあれば、対バンなんかもできちゃうかもね。……あっ、そうだ!」

 

 思いついたように机を叩いたひかり。一同は何事かと視線を向けると、彼女は得意げに語り始める。

 

志哲(うち)の文化祭でやろうよ! 絶対盛り上がるって!」

「な、なるほど……」

 

 律夏が一言も返さなかったのは、その思いつきの実現にどれだけの労力がかかるのか、しかも教師が基本放任の志哲に限ってはその想像を遥かに超えてくると予見したからである。

 かろうじて受け止めた──あるいは現実逃避したのか──恵も、大方同じような心境だろう。

 

「あー! さては乗り気じゃないでしょ!」

「お二人の気持ちは理解できます。今日の花女の文化祭ですら他校の方々の力をお借りしている以上、文化祭にライブパフォーマンスを加えるということになると、どれだけの応援が必要になるか……」

「むー……紗夜ちゃんもなの?」

 

 むくれる彼女は一応、この中では最年長のはずなのだが──というか、三年ならば受験もあるのではないだろうか──律夏は疑問に思っていたので、それをぶつけてみる。

 

「ああ、それなら私、推薦受験だから」

「なるほど」

 

 それならば納得である。合格の見通しも立っているということで、それならば企画だけして逃亡される心配もない。

 

「……もしかして、みんな私が企画して実行は丸投げなんて思ってた?」

「……会長なら、正直やりかねないかと」

「そうですね」

「ちょっとお! そんなに無責任に見えてるの私!?」

 

 涼し気な紗夜と、気が咎める様子の恵に即答され、猛抗議するひかり。救いを求めて振り返られるも、律夏は瞑目してゆっくりと頷いた。

「うわーん! みんながいじめてくるー!」と大騒ぎの彼女だったが、ふと、響いたノックの音に小首を傾げる。

 先程の涙は幻だったのか、そう思わせるくらいに引っ込んで、やはり女子は恐ろしいものだと律夏はしみじみ思った。

 

「お、お待たせしました〜。ご注文の品をお届けにまいりました……」

「あっ、きたきた」

「……何がですか?」

「お昼ごはん! 出張サービスをやってくれるっていうから、みんなの分も頼んじゃった」

 

 目を丸くする恵に構わず、「今開けまーす!」と駆け寄っていくひかり。

「そういうところですよ」──律夏は苦笑しながらも、それを視線に籠めて見送った。

 

「わ〜! めっちゃ可愛いんだけど! ねえねえ君、ちょっとお姉さんとここでお茶していかない!?」

「え、ええっ!? け、結構です……!」

 

 ドア越しに響いてくるやり取りののち、手を引くひかりの後にやってきたのはとある女の子──何故か給仕(メイド)服を身につけているが。

 

「ん……?」

 

 律夏はそれが、少し前に会った少女だということに気づくのに、そう時間が掛からなかった。

 

 

 ♬

 

 

「まさか、あの子が戸山さんの妹さんだなんて」

「はは……」

 

 ひかりたちと別れ、校舎内の見回りをひとしきり終えた道すがら、合流した紗夜はそう零した。

 乾いた笑いで返した律夏は、改めて()()の様子を振り返る。

 

「それにしても、なぜ戸山さん──明日香さんはあんなに慌てていたのですか?」

「まあ、知り合いにあの格好を見られるとなると……」

「──すみません、愚問でした」

 

 仕事人の紗夜も、あの格好には流石に抵抗があるらしい。しかも、自分を知らない他人ではなく、かといって同級生や友達のように親しくもない異性に見られるとなると、()()狼狽ぶりに合点がいったようだ。

 

「一日中あの服装なのでしょうか」

「まあ、シフトを外れるとなると着替えもできるでしょうけど、あの様子だと、他の教室へ移動も多いでしょうし、そんな暇もないかもしれませんね」

 

 律夏としては、恥ずかしがるほど不格好ではない──むしろよく似合っていると感じていたが、それを口にするのは火に油を注ぐようなのでやめておいた。

 幸い、この巡回を終えた後は凪紗たちが演奏を行うホール上階からの警備なので、偶然の邂逅は避けられるだろうと思っていた。

 

 ──そんなときだった。

 

「──きゃあああ!!!」

「っ!?」

 

 開放された廊下の窓から、女子生徒の悲鳴が聞こえてくる。それを受け取った周囲にざわめきが伝播していった。

 

「な、何が……」

「氷川さん、あそこです!」

 

 すぐさま窓に駆け寄って、悲鳴が上がった現場を探ると、校庭の隅──出店を通り抜けた休憩スペースの奥で騒ぎが起こっていることを確認した。

 紗夜と目を見合わせて頷くと、「ついてきてください」と手前の階段を駆け下りた彼女を追う形で走り出した。

 

 ☆

 

「風紀委員です! 今すぐ道を開けてください!」

 

 紗夜の一喝によって、出店から騒ぎを聞きつけた花女生はまるで神話のように現場へ続く空間()を作った。

 彼女の風紀委員としての存在感がよく表れていると、律夏は緊急事態ながら見当外れのことを考えていた。

 

「あれは……子供ですか」

「いえ、その上の彼女です!」

 

 走りながら、現場で起こっていることを確認する二人。近づくにつれて鮮明になっていく光景に合わせて、危機感も大きくなっていく。

 騒ぎの大きさに泣いてしまったのだろうか、幼稚園か小学生くらいの女の子──ちょうど沙南と同じくらいだろう──が目を腫らして叫んでいる。

 彼女の声が向く先──校庭を囲む立木の高枝に掴まっている、花女のフレアスカートを着た女子生徒がいた。

 笑顔を崩さずに女の子へ語りかけてはいるが、桃色の髪に覗く汗が滲んでいる。

 

「一体何が……」

「おそらく、あれでしょう」

 

 そう言って、紗夜は女子生徒の掴まる枝の近くに絡まっている風船を指さした。

 真っ赤な色地に、女児向けキャラクターの印刷が施されているから、きっと女の子のものであるのだろうと、紗夜は目線で語る。

 そして、それは根本に横たわる梯子──金具が壊れている──に向けられる。

 

「あの高さ……2メートル以上はあるでしょう。梯子を使って取ろうとして、なにかの拍子で倒れ、壊れてしまった、ということですか」

 

 彼女の推理は、律夏自身考えていたこととまったく同じだった。

 あの高さから落ちてしまえば、どんな怪我になるかわからない。また、梯子が壊れているからといって運んでくる時間はそうないはずだ。

 事態は緊迫している。

 

「先生や周りの大人を呼ぶ時間は」

「……いつ、彼女が限界を迎えてしまうかわかりません。周りの生徒の制止も考えると、私たちは離れられないと思います」

「……」

 

 拭えない焦燥感に、必死に思考を巡らせる。

 彼女が自力で降りることはほとんど不可能に近い。梯子を使っていたくらいだから、まさか木登りに慣れていることはないだろうし、あの様子だと移動することも困難だ。

 かといって梯子の代わりとなるものも見当たらないとなると、やれることは限られる。

 

「──若葉さん」

「……はい」

 

 やはり考えを同じくして、紗夜は問いかけた。それが自分にしかできないことだと、律夏は決意する。

 どれだけ華奢といっても、女子生徒は高校生だ。その高さから落ちる瞬間の衝撃力は相当なものだろう。

 

「……風紀委員として、生徒を守る役割があることは分かっています。しかし──情けないことですが、今は、自校でもない若葉さんの力を、怪我を負う覚悟をさせてまで、頼らなければなりません」

「俺だって、風紀委員で、実行委員の一員です。その目的は同じはずですよ」

 

 失意をその怜悧な表情に刻み込んだ紗夜に、律夏は励ますように言った。

 数学や物理の知識も、今は必要ない。咄嗟の判断力と、それを支える覚悟だけでいい。

 

「──絶対に、助けてみせます」

「っ……! 頼みます」

 

 そう言って、一歩を踏み出した瞬間だった。

 

「────あ」

 

 誰かが、短く零した──それは紗夜か、周りの生徒たちか、もしくは今、その自由落下に身を任せた女子生徒本人だったかもしれない。

 全力を込めて地面を蹴り出す。埃が立ち、陥凹ができる。

 

 一歩、跳躍のように飛び出した。髪が揺れ、汗が流れ出す。

 

 二歩、着地を片足で支えて、目でしっかりと彼女を捉える。光を失い、恐怖を超越した空白のような無表情が、焦りを増幅させていく。

 

 三歩、手を伸ばす。その距離では届かない──未だ冷静な自我がそう告げていて、跳ね上がる心拍とともに加速する。

 

 四歩、宙にあった彼女の身体は、重力に導かれてその全衝撃を受け止めようとしていた。視界に映し出される現実が、信じられない──決して信じたくなかった。

 

 五歩、諦められないと心が叫ぶ。風を切り、地維に押し出された身体が、頭脳()の指示するままに動く感覚があった。

 このままでは間に合わない。それなら──

 

「……っ、うおおおっ!」

 

 絶叫のまま、片足を前に突き出して滑り込む。まさに、彼女とその身体を待ち受けた地表の間隙を縫ったのだ。

 抱きとめる瞬間に、衝撃が全身に広がり、圧迫で肺の空気が瞬時に押し出される。それでも、力の一部が地面に逃れたおかげか、痛みはわずかなものだった。

 

「ひゅ……ぐ、はあ、はあっ……!」

 

 全力疾走で使い切った体中の酸素がさらに押し出されて欠乏していた。半ば過呼吸のように息を吸う。

 

「若葉さん!」

 

 ぼやける視界でも、ライトグリーンの髪を振り乱して紗夜がこちらへ駆け寄ったことが分かる。

 弛緩する身体、その強烈な脱力感の中で、律夏はなんとか腕を挙げて応じるのだった。

 

 ☆

 

 必死で抱き留めた女子生徒は、律夏の胸元で静謐を保っており──それはつまり、気を失っているのだろうと、紗夜は結論づけた。

 目立った外傷もないということで、とりあえず落ち着いてほっと息を吐くことができる。

 

「それより、問題は貴方の方です。怪我は?」

「少し擦ったのと、土で汚れたくらいです」

「よかった……」

 

 自分以上に、紗夜は明確な安堵を示した。それはきっと、自らの風紀委員としての立場もあるのだろうとぼんやり思っていると、続く言葉に否定される。

 

「本当によかった……もし、怪我があったらと思うと」

「大げさですよ」

「大げさなどではありません。私にとって重要な人が傷つくかもしれなかったのですから、当然です」

「っ……」

 

 真面目くさった表情でそんな発言をされるのだから、律夏は面食らった。幸い、周囲は惨劇が避けられたことで盛り上がっており、注目はされていたものの、話までは聞かれていないだろう。

 ふと、紗夜が顔色を変える。

 

「ど、どうかしましたか」

「時間がありません。凪紗さんたちのステージまで、あと五分」

 

 緊急事態で、意識の範疇にそのことが抜け落ちていた律夏に、冷たい汗が流れる。

 今から向かっても、その五分で足りるかはわからない。さらに胸元の彼女を抱えている現状、何らかの処置は必要だろうから、間に合わなくなってしまう。

 

 それでも、職務は全うすべきだという考えが律夏のなかにあった。

 

「さすがに氷川さんでもこの子を抱えたままだと厳しいでしょう。この緊急時ですから、それは俺が引き受けます」

「しかし……!」

 

 なおも食い下がる紗夜に、律夏は諭すように続ける。

 

「氷川さん。俺が凪紗たちのライブを見に行けるように言ってくれていること、本当にありがたいです。──それでも、これは俺にしかできない仕事です。風紀委員として、自分が必要とされているときには、他のことを投げ打ってでもその仕事をこなすべきではないですか」

 

 将来の展望を考えるに、律夏にとって最も最適な選択肢──国立大学への推薦受験を叶えるために、風紀委員への就任は不可欠なものだった。とはいえ、そこで職務をおざなりにしていては、決断の意味を薄れさせてしまう。

 自らの責任の下に選んだ環境は、自らの行動と努力で保ち続けなければいけない──それが律夏の信念だった。

 

 言外にそのことを伝えつつ、視界に紗夜を映り込ませる。誠実で責任感のある彼女だからこそ、これを否定することはできない──握りこぶしが震える理由は、きっとそれでも自分を凪紗のもとへ向かわせてたいと思ってくれていて、その葛藤からだろう。

 

 彼女の思いを、律夏はとても嬉しく思った。同時に、それを叶えられない自分に不甲斐なさを覚えた。

 ──そのときだった。

 

「若葉!」

 

 声が聞こえた。

 風に吹かれるような、儚い声だった。それでも、その主がしっかりと自分の名を呼ぶのが聞こえた。

 

 引きつけられた視線の先、必死に駆け寄る姿が次第に大きくなってくる。そして、すぐそばで()が手を差し伸べたのだ。

 

「──さあ、行って。君を待っている子がいるから」

 




SSを書くにあたって、ゲーム本編のイベストを繰り返し見てるんですが、どう考えても最初の花見イベは説明つかないんですよね……。
二年目の方に回せたらそうしようかなと考えているんですが、やっぱ花咲川は時空歪んでるんですよね()


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#28:届け、ホシノコドウ

一章最終回です。


 この音を届けたい。

 

 凪紗がそう願ったのは、至極自然のことだった。考えることになんの疑問もない、というように。

 だけど、つい小半年前までの灰色の中学校の記憶を振り返ると、自分でも心境の変化に驚いて──もはやそれを通り越して、苦笑すら浮かべてしまうかもしれなかった。

 

 ステージから俯瞰する客席には、大勢の人々が詰めかけていた。

 

 見れば、先程のメイドコスプレに身を包んだ明日香が(恥ずかしそうに)こちらを覗いていて、一方では沙綾の家族──純と沙南を連れた千紘が、ビデオカメラを構えながら片手を振っている。

 有咲が勝手に慌てているところを見ると、万美(おばあちゃん)も来ているのだろう。

 期待に満ち溢れた笑顔が、自分たちを出迎えている。そして、自分たちが奏でる音を待ち望んでいる。

 

 ──そう、彼も、きっと。

 

「ちょっと、音出します」

 

 たえが言いながら、みんなが続いてチューニングや楽器の調整を済ませていく。

 ひとりそれらを早く済ませた凪紗は、彼が来るはずのギャラリーを眺めみるも、そこには気配のない空所が広がるだけだった。

 不安そうに見つめるメンバーの視線に虚勢で『大丈夫だから』と応えて、集中力を研ぎ澄ませる。

《Poppin’ Party》が演奏する一曲目は、クライブで披露した曲だった。それを告げるべく、前に進み出てマイクを掴んだ。

 

「自己紹介は、一曲目のあとで。聞いてください」

 

 絶対に、兄さんは来る。

 祈るように、言い聞かせるようにピックを振りおろした。

 

 

 ♬

 

 

「北沢、お前……!」

 

 律夏は、差し伸べられた掌が恵のものであったことに、驚きを隠せないでいた。

 

「大騒ぎになってて、僕たちの方にも連絡が来たんだよ。上原先輩も一緒」

 

 ほら、と彼が指差す方向を紗夜と一緒になって向くと、息を切らして走ってくるひかりの姿が見えた。

 

「はあっ、はあ……! 置いてかないで、速すぎだよ……!」

「……」

 

 息も絶え絶えの状態でひかりは言うが、ぜえはあ、となんだかコミカルさが先に浮かんできてしまう。

 一気に緊張感のなくなった現場に、紗夜は嘆息した──それは、同時に腕の中に抱える女の子の規則正しい息遣いが聞こえてきたことも幸いしたのかもしれない。

 

 すでに彼女の回復は近いということが分かり、周囲へも危機は去ったことが伝えられていく。

 

「若葉」

 

 移り変わっていく状況に対応しきれないでいると、恵が声を掛けた。

 

「ほら、もう行かなきゃ。凪紗ちゃん、待ってるから」

「あ、ああ……」

 

 紗夜が手配していたのだろうか、同じ風紀委員の生徒によって担架が運ばれてくる。受け入れの準備を指示していたようだ。

 女子生徒をそれに乗せたところで、三人が自分を捉える視線に気付く。

 

「──改めて、ありがとうございました。一大事にならなかったのも、若葉さんのおかげです」

「そうそう。若葉くん、すっごくかっこよかったよ!」

「いえ……」

 

 誰かがやらなければならないことだ。それが、偶然自分だったというだけで。

 今はそれよりも、急がなくてはならないことがある。

 

「風紀委員ですが、今は貴方の行動を止めません。ただし、安全には気をつけてください」

「はい」

「そうだね。妹ちゃんのことになると前が見えなくなっちゃうから」

 

 苦笑するひかりの言葉に「それはお互い様でしょう」と返す。

 

「……さあ、急いで!」

 

 恵に頷いて、土埃のついた制服を手で払ってから駆け出していく。

 凪紗の番号に発信した携帯を耳に当てて、体育館までの長い道のりを、律夏は風のように走り抜けていった。

 

 

 ♬

 

 

「──ありがとうございました!」

 

『私の心はチョココロネ』を()り切って、壇上の《Poppin’ Party》を大きな拍手が出迎えた。

 クライブとは比にならない、圧倒的な臨場感に、普段は感じない腕や足の震えを押し殺しながらの演奏だったが、そんなプレッシャーも、今だけは凪紗を揺るがせない。

 

「文化祭、盛り上がってますかー!」

 

 隣の香澄はオーディエンスにそう呼びかけて、さらなる熱狂を生み出していく。

 視線がぶつかると、彼女は熱に浮かされたような、どこか夢見心地の表情で──それでも、笑顔を向けてきた。その瞳は、出会ったときよりもっと輝いていて──煌めいていた、と言い換えてもいいくらいのものだった。

 

「自己紹介、させてください! ギターボーカルは私たち、戸山香澄と──」

「若葉凪紗です」

 

 言葉に合わせて、たえが用意したフレーズを弾いてくれる。やっぱり腕前は自分たちよりも頭一つ抜けていて、観客がどよめいた。

 

「次はベースとリードギター!」

「え、えっと、牛込りみです!」

「花園たえです」

 

 今度は沙綾がドラムを叩いて盛り上げる。経験者だからか、ここ二週間くらいでの音合わせにもばっちりついてきた。

 

「最後はキーボードとドラムっ」

「市ヶ谷有咲……です」

「山吹沙綾です!」

 

 凪紗も負けじと練習したフレーズをかき鳴らす。まだ上手くはないかも知れないが、ステージは十分に温まった。

 後は、()を待つだけ。

 香澄もそれを知っていて、マイクを持つ手を離し、立っていた場所を凪紗へ空けた。

 

 きっとみんなが緊張しているのだろう。気がかりというか、こちらに配る気遣いが手に取るように分かる。

 それをあえて無視して、この言葉で応えよう。

 

「──私たちは、この春からライブ活動を始めました。最初はこの二人だけで……いろんなことがあって、ようやく始まったんです」

 

 演奏中は六人に分散していた視線がその言葉に引きつけられて、凪紗一人に突き刺さったのが分かる。

 緊張するのは当たり前だ。だけど、まっすぐ話すことはできる。ここに来るのを待っている人がいるから。

 

 思い返すのは、入学式の日の桜と、土砂降りの中で抱えたギター、蔵で奏でた音楽、冷たい夕焼け、そして星空。

 どの光景も、凪紗にとってかけがえのないものであり、初めて自分から見てみたいと望んだものだった。

 そう思えるようになったのは、香澄と見つけた夢のおかげ──それを叶えてくれた人たちと、ここに集まってくれたすべての人に届けたい気持ちがあった。

 

「この六人で、私たちの音楽が始まっていきます。そのことへの決意と、支えてくれた人へたくさんの感謝を込めて歌いたいって思います」

 

 振り返ると、メンバーの準備は終わっていた。舞台右上側、目を配る──そこに彼の姿はない。

 ステージへ集まる期待は最高潮を迎えていて、これ以上引き伸ばすことはできない。凪紗も、もはや伝える言葉が残っていなかった。

 失意に震える指先。しかし、ふとそれを包みこむ感触があった。

 

「私たちには、どうしても届けたい人がいます」

 

 それは、温かく、力強く握られた手のひらだった。

 

「私たちを導いてくれた人」

「私たちを繋いでくれた人」

 

 香澄が紡いだ言葉に、沙綾までもが続いた。見開いた目に微笑みかけるような、何かを想うような表情で。

 彼女たちもまた、彼を待ち続けていた。

 瞳で伝え合い、視線を交わし合い、頷き合って前を向く。言葉は一つだった。

 

「心をこめて、歌います──」

「「聞いてくださいっ!」」

 

 そう叫んだとき、強く扉が開かれたような、もの凄い音とともに衝撃がホール全体にこだました。

 聴衆みんなが騒然とお互いを見合うなかで、凪紗たちは音のありかに目を向ける。

 

「あ……!」

 

 人一倍目がいいたえが指をさす──目を凝らしてその先を見つめると、待ち望んだ人がそこにはいた。

 あの音は扉を開けた途端、盛大に転んだせいなのだろうか、這いつくばりながらもこちらに手を振っている。

 どれだけ急いできたのだろうかと、苦笑が漏れてしまう。それでも、嬉しさは隠しきれないのだろう。

 

「凪紗」

「うん」

 

 隣の香澄が、「一緒に歌おう?」とスタンドマイクを握る。

 凪紗は反対側から手を重ねて、戸惑う聴衆を言葉で引きつけるべく、下腹部に力を集中させて声を響かせた。

 

「みんなで作った歌です。星の鼓動──スタービート」

 

 

 ♬

 

 

 全力疾走の律夏に、困惑の色を向ける周囲の目線が刺さる。

 それもそうだろう。右腕には『実行委/警備』の黄色い腕章が留められていて、そんな男が屋外とはいえ校内を走り回っていたら奇怪にも思うはずだ。

 しかしながら、もはや律夏には弁明する余裕などありはしない。

 

「約束……したからな」

 

 思わず呟きが漏れる。

 そう、約束があった。凪紗()と交わした、今は何よりも大切な約束。そして──

 

「うお……っと!」

 

 前ばかり向いて走っていると、ついつい足元が見えずに躓きそうになってしまう。

 間一髪、木の根を飛び越えて、それに苦笑した律夏は、グラウンドから校舎を抜けた先の、凪紗が待つ場所を見据えるのだった。風に流されて聞こえてくるのは、いつか聞いた音楽──もう時間は残されていない。

 

 誰もいない通路をひた走る。

 仕事にあたって、紗夜が用意した避難経路のプリントが役に立つなんて思ってもいなかった。考えてみれば、急病者救護の方法や準備物についても、指示してすぐに動けるものではない。しっかりと予行練習と点検を行っていた成果が発揮されているのだから、彼女には未来が見えているのではないか。

 

 ふと、冷徹にも苛烈にも思えるあの視線、そしてあの夕焼けの中で見せた涙滴の輝きを思い出す。

 理想の崇高さと、現実の残酷さの間で藻掻き苦しんだ彼女は、しかし足掻いてみせた──それすらしなかった自分よりも、ずっと気高く、果敢に。

 彼女は変わっている。この短い間柄でもそれは確かに言える。周囲に目を向け、理解するために思考を続けてきた。

 

 先を見据えているふりをして、周囲に期待するばかりでずっと動けなくなっていた自分が情けなくて、懐かしい。

 

 二つ飛ばしで階段を昇っていく。

 今を生きるのに必死で、その先が見えなくなることは確かに不安である。それでも、たとえ刹那的だと揶揄されても、懸命に日々を生きる彼女たちは輝いていた。

 自分には到底たどり着くことのできない光輝だと思った。

 

 専用通路に入って、息が切れていることを自覚する。随分と身体が鈍ったものだ。けれども、ここで諦めるわけにはいかない。

 敗北と停滞の沼の中で、忘れていた記憶──そう、確かにそれを手にしたことがあったはずだ。彼女たちが立つ場所にいたはずだ。

 体育館ホールはその空間のほとんどを暗闇が覆っていたが、そんな確信とともに迷いなく進んでいく。

 

「……導いてくれた人」

 

 ふと、女の子の声が微かに聞こえてくる。

 それは天真爛漫で、どこまでも輝いていた少女──凪紗を、まだ知らない世界へ連れて行ってくれた少女。

 

「私たちを繋いでくれた人」

 

 その声は、誰よりも優しく、誰よりも他人の痛みを嫌った少女──凪紗に、手を差し伸べる覚悟と強さをくれた少女。

 

「心をこめて、歌います──」

 

 勘違いも甚だしいかもしれないけれど。

 もし、二人が言う人が自分なのだとしたら──自分が誰かを救えていたのだとしたら、まだ、立ち上がれる。

 

「──あった!」

 

 事前準備で何度も確認した扉。その先に彼女たちがいると思うと、前のめりが止められない。

 もう、形振り構っていられないというように、律夏はそこへ飛び込んだ。

 

「「聞いてくださいっ!」」

「──うおおっ!?」

 

 そういえば、扉の先が一段低くなっていたな──転がりながら、律夏は紗夜の注意事項を思い出していた。

 柵にぶつかった衝撃を振り払って目を凝らすと、その先には小さな舞台と楽器の群れ、それと彼女たちの姿。

 

「──っ!」

 

 その中の一人、凪紗は驚愕の表情で──それも苦笑に変わったが──自分のどこまでも滑稽な姿を見据えるのだった。

 

 ☆

 

 脈動が心を突くその感覚を、律夏は感慨深く、胸中で噛み締めていた。走り続けてきたせいか、刻みこまれた律動は一拍、また一拍とその速度を増していくが、不思議と不快感はない。

 ふと、頬に伝う温かさに気付く。はじめはそれに驚いたものの、ステージ上の彼女たちを見ているうちに得心した。

 

 マイクを掴んだその手が重ねられている。並び立って、微笑みを交わし合うことができる。

 それを眺めているだけで、これまでの努力が報われる気がした。

 

「──ありがとうございました!」

 

 演奏を終えた彼女たちに割れんばかりの拍手と声援が包み込んで、ライブは最高の終幕を迎える。

 あっという間のステージだったが、それだけ濃密な時間が流れていたと言えるだろう。しばらく放心したように、肩で息をしながら客席を見つめていた彼女たちだったが、いち早くそれから脱した有咲に呼びかけられて、香澄が慌ててマイクを取った。

 

「改めて、自己紹介……私たち」

「「Poppin’ Partyです!」」

 

 バンドとして名乗りを上げた彼女たちに、再び大きな拍手が返される。

 

「さっきも言ったんですけど……この春から始まって、ようやくこうして演奏することができました。まだまだ未熟だけど、たくさん練習して、もっとたくさんのキラキラドキドキを届けられるようになりたいです!」

「今日は本当にありがとう──ございました!」

 

 一瞬の静寂の中、時が止まったような感覚があった。それはつまり、壇上の香澄の言葉にそれだけたくさんの会場の人々が惹きつけられていたということだろう。

 自分もそのうちの一人であったことを自覚した律夏は、ある種のカリスマのようなものがあるのだろうか、と思った。

 バンドとしての実力はまだまだ、なんて評論家めいたことを言う気もないが、練習が必要なことは彼女たちが一番よく知っているだろう。

 それでも、律夏は期待せずにはいられなかった──奥深い輝きを湛えた瞳と、思わず引き込まれるようなステージを見て。

 

 ──この子たちなら、本当に叶えてしまうかもしれない。

 

 守り抜かなければならない家族と約束。

 一人ではできないことが、彼女たちにならできるかもしれない。ならば、それを支えるのが役目だろう。

 

 彼女たちが放った銀河のような煌めきは、一筋の希望を与えてくれる。それに助けられて、律夏は決意を改めることができた。

 盛り上がったステージ雰囲気が伝播して、それにあてられた心が熱くなっていた。

 

 

 ♬

 

 

「──って感じで。ライブも成功したよ」

「それはよかったわね」

 

 一連のことすべてが終わった夜、凪紗は母に電話を掛けようと思い立った。

 病床の彼女はもちろん文化祭を見に来ることなどできないから、事後報告になってしまうものの、それでも伝えたいと思ったからだ。

 

「最近はバンドのお友達と仲良くやってるみたいだけど……もう中学校の頃のような思いはしていない?」

「うん。みんな優しいし、一緒にいて楽しいよ。……それに、私も少し変われた気がするから」

 

 人のことよりまず自分の体調を心配してほしいお節介焼きの性格は、しっかりと律夏()に引き継がれていて、そのことを考えると僅かな苦笑が浮かんでくる。

 しかし、その気遣いに対して自信を持って返事ができることを、凪紗は自分のことながら嬉しく思っていた。

 

「あら、そうなの? ……それくらい、いいお友達ができたってことね。後で、お友達の写真を送って欲しいわ」

「うん、いいよ。あ、どうせならライブの映像も見て。兄さんに撮ってもらったから」

 

 そう言うと、母は「それは楽しみね」と返事をした。心なしか声の調子が普段より高く聞こえて、喜んでくれていたらいいな、と素直に思った。

 少し天然なところがある母は、凪紗にとって大切な存在だった。喧嘩もなく、これからも大好きで居続けるのだろう。

 だからこそ、同じくらい大切だった父が死んだ時、悲しみに暮れるばかりで彼女に気を配ってこれなかったことを悔やむ。

 

 あの時、ほんの少しでも良いから手伝っていれば。受験生だとはいえ、実力としては余裕があったはずだから。

 

 そんな無念さが、確かに胸中にあった。

 

「母さん」

「うん?」

「体調、どう?」

「……」

 

 僅かな沈黙が続いた。それが何を意味しているのか、凪紗にはわからなかった。

 物語文を読み、文章全体を俯瞰して捉える現代文の授業とは違う。他人事なんて言えない、まるで主人公の気分。

 それでも、携帯電話越しの彼女は言葉を選んでいるように感じられた。

 

「すぐに退院することは、なかなか厳しそうね。……それでも、お母さん、頑張るわ」

「……うん、待ってる」

 

 その苦しみから立ち直ることが、どれだけ難しいか──そのことも、わからなかった。

 自分自身、立ち直れたわけではない。それでも、香澄たちがいてくれるから。

 それなら、彼女はどうだろうか。自分は、兄は支えになれているだろうか。

 

 兄は、その現実にたった一人でどう立ち向かっているのか。

 

 ふと、疑問が湧いた。それと時を同じくして、母が彼のことを口にした。

 

「そういえば、律夏は大丈夫かしら。あの子、また色々抱え込んで……お金のこと、心配ないって言っているのに」

「うん……」

 

 沙綾のことは、まだ母に伝えていなかった。もちろん、彼女を引き入れるために律夏がしたことも。

 母の心配は、凪紗にとっての心配でもあった。これ以上負担を掛けることがあってはならないし、そのせいで彼のたくさんのことを制約してきた自責があったからだ。

 

「私たちのバンドメンバーがさ、家のお店の手伝いをするために音楽を諦めた子だったんだけど……私の話を聞いて、兄さん、その子の代わりにお店を手伝ってくれたんだ」

「そうなの?」

「うん。だから、私、兄さんに迷惑かけてまで……もちろん、ずっと甘えっぱなしになるなんて思っていないけど、それでも、兄さんの時間を奪った責任は取らないとって思ってる」

 

 痛みを堪らえようとするように、凪紗は途切れ途切れになりながら言った。瞑目して、ただ母の言葉を受け入れようとしていた。

 もし認めてもらえなかったら、そのときは潔く諦めるつもりだった。

 

「……あの子が、そう決めたのよね」

「うん……でも、最後にお願いしたのは私」

「……」

 

 再びの沈黙が訪れる。それは長い時間のように思えて、しかしいつの間にか笑っていた彼女の声で気が付いた。

 

「ふふっ……やっぱり兄妹ね。よく似てるわ」

「え?」

「『責任取る』なんて、そっくりよ。()()()()()()()()()、同じように言っていたから」

「……え?」

 

 見開いた目を数回瞬きさせて、凪紗は続く言葉を待っていた。

 

 ☆

 

 どうやら、色々な意味で先を越されていたらしい。

 心配した彼女に対し、律夏は「兄としての責任を果たさないと」と言って憚らなかった。

 それどころか、凪紗がどこか後ろめたい気持ちを抱くことを予想して、凪紗と家庭を支えつつも、志望していた大学とその後の進路へ問題なく進めるようにしたと聞いて、開いた口が塞がらないとはこのことだと思った。

 

「兄妹でお互いを想って、仲がいいのも嬉しいけれど、ちょっと行きすぎかしらね?」

「い、いやそんなことはないと思うけど……はぁ」

 

 つくづくため息が出るほど考えこまれた彼の未来予想図は、今のところ揺らぐ気配はないという。

 

「うふふ。家族のために色々と動いてくれるところ、お父さんそっくりよ」

「うん。私もそう思う」

 

 思い出す、いつだって活力に満ち溢れていた父の笑顔。たくさんの場所に連れて行ってくれた思い出と、背中や腕の中で感じた温かさ。

 あの時まで、四人は家族だった。時間と空間、感情などいろんなものを共有していた。

 兄は、それらを取り戻そうと努力している。あの時まであったものを再び手にして、みんなで笑えるように。

 

「……凪紗」

「?」

「あなたが感じている気持ち……私にもよく分かる。母として、あなた達のそばにいてあげられなくて、本当にごめんなさいね」

「それは仕方ないことだよ。それに、私だってあの時、少しもお母さんの助けになれなくてごめん」

「ううん、いいのよ。……だからね、凪紗。あなたは、あなたが望むように高校生活を楽しんでほしい。それを今は律夏が支えてくれるし、私も早くこの病気を直して、律夏とあなたを支えられるように頑張るから」

「……うん、分かった」

 

 母の言葉に、少しだけ兄のしようとしていることと、その意図が分かってきた気がした。

 彼は多分、居なくなった父の代わりになろうとしている──いや、その役目を果たそうとしている。きっと、その責任と一緒に。

 母が戻ったとして、もしかしたらその後も──欠けた部分を埋めるように、それが当然だというように振る舞うのかもしれない。

 

「……あ、そろそろ診察が始まるみたい。凪紗、頑張ってね」

「うん。お母さんも」

 

 そう言って途切れた会話の向こう、玄関の物音に彼が帰ってきたことを悟る。

 

「ただいま」

 

 リビングの扉を開けたその声に、僅かな疲れが滲み出ているのが分かる。

 今日は色んなことがあったはずだ。風紀委員の仕事も、その後の体育館での様子からしても、ステージからでも分かるくらいに急いで走ってきたことが分かった。そして、僅かに漂った小麦──パンの匂いに、先程までベーカリーの手伝いをしていたことに気付く。

 

「おかえり」

「……どうした?」

 

 自分でもよくわからないけれど、右手の指が律夏の制服の袖を摘んでいる。

 戸惑う彼の表情を見て、凪紗も同じように戸惑っていた。それでも、やがてその意味を理解する。

 

「……何でもない。今日は、ありがとうって……言いたかっただけだよ」

「……そうか」

 

 凪紗よりずっと大きい律夏の身体から伸びた腕が、そっと碧い髪の上へ置かれる。その温もりを受けて、凪紗は彼の背へ手を回し、ぎゅっと引き寄せた。

 言い表せないような感情が綯い交ぜになっていた。感謝、決意、痛み──それらを含んでいるような、どれでもないような感情。

 ただ一つ言えることは、彼が家族を守るように、自分も彼を守れたらと願う気持ちがあったということだけ。

 

 彼は隣に立つ仲間との出会いと、彼女たちと一つの思いを共有することの喜びをくれた。それに対して、私は何を返せるだろうか。答えはまだ見つからない。

 それでも、もし彼が迷いと困難に悩んだ時、それを乗り越える力と勇気を与えられたらいいなと思う。

 

 融け合うように律動を一つにした鼓動は、まるで晩夏の凪のように静かだった。




この後に補足を兼ねたエピローグを書いてますので、ぜひご覧ください。

ちなみに凪紗のイメージですが、こんな感じになってます。使用サイトはこちら(https://waifulabs.com/)。

【挿絵表示】


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#interlude:meaning of myself

interlude:間奏、幕間ですので、次章に繋がるエピローグだと考えていただけると幸いです。


 彼女たちは、まるで綺羅星のような煌めきを纏っていた。

 それぞれが放つ輝きが集まって放たれた光芒が、再び散り散りになって、ステージと観客席を余すところなく照らし続けていた。

 

 世界の外側で、土埃まみれになった俺でさえも、その光は呑み込んだ──まるで、握った手を離さないというように。

 俺はその景色と感動を、ずっと覚えていられる自信があった。

 

 

 ♬

 

 

「……ば、わかば」

 

「若葉」

「んが……」

 

 深層に埋まり込んでいた意識が、揺さぶられた身体の異変を感じ取ってゆっくりと浮上する。

 不完全な覚醒がぼやかした濃霧のような視界でも、柑子色の鮮やかさがくっきり映った。

 

「珍しいね。いつもは真面目にやってるのに」

「まあ、あれだけ仕事すればな……」

 

 四限は自習だった。数学教師はそれを告げて早々に職員室へ舞い戻ったため、質問もすることができず、手持ち無沙汰となった俺を眠気が襲ったのだ。

 

 花咲川高校の文化祭が明けて翌週、そんなことには些かも目をくれず我が校は試験期間に突入していた。

 相変わらず理数系に余裕のない俺だったが、今日は体力に余裕がなかった。

 

「お前だって()()()大変だっただろ」

「まあ、仕事だからしょうがないよ」

 

 大きく伸びをしてから、ベーカリーで亘史さんが持たせてくれたパンを片手に「よっこらせ」と立ち上がる。老人のような挙動だと自覚しているが、北沢は苦笑いしていた。

 疲れが取れないのは仕方のないことだ。風紀委員の風上にもおけない廊下の全力疾走もさることながら、事故寸前の現場に遭遇したのだから。

 ふと、その瞬間の光景を思い出した。

 

「……あの子、大丈夫だったか」

 

 屋上へ続く階段に足を踏み出しながらそう訊くと、北沢は何やらにやけ顔で振り返る。顔が整っているので許される表情だ。

 

「何だよ」

「いや、何でも……保健室の先生に引き継いで、目を覚ました後に報告したよ。怪我もなくて体調もしっかりしていたから、その場で氷川さんが少し注意してクラスに戻らせたんだ」

「そうか、なら良かった」

 

 当時の氷川さんの様子からして、少しの注意では済まされないだろうという予感があった。普通に睨んでくるのが恐すぎるんだよなあの人。

 関わり方次第で、周囲の人々すべてにあの冷気が及んでいるとなると、つい交友関係を心配してしまう──いや、流石にこのお節介は気持ち悪いか。

 唯一救いがあるとすれば、きっとあの子は善意から動いただけなのだろうということだ。氷川さんも、その辺りは考慮してくれるはず。

 

「でもさ、本当によかったの? あの子に名前教えなくて」

 

 侵入防止の鎖がついた扉に手を掛けて、北沢が言う。おそらく、そこに先程のにやけ顔の理由があるのだろう。

 

「まあ、むやみに恩を売るような真似をするのもな」

「そんな卑屈にならなくても……」

 

 あの場から抜け出すとき、氷川さんが助けたことにしてほしいと願い出たのだが、「嘘をつくわけにもいきません」と一蹴されてしまった。公明正大というか、バカ正直を絵に描いたような人だなと思った──もちろんいい意味で。

 実際、嘘をつくのは後々で面倒なことになる。ただ、そういう文脈で考えても放った言葉の通りで、気を遣わせるのも本意ではなかった。

 

「あの子、可愛い子だったじゃん。僕ならもったいないなぁって思っちゃうかも」

「まあ、それはそうかも知れないけど……」

 

 大人しそうな見た目に反して、恵はこういうところがある。普段から端正な顔立ちと流れるような髪のおかげで女子どころか男子からも人気が高いやつだったが、そういう仲まで至ったことはないそうだ。

 かく言う俺はコイツと比べるまでもないと思っているので、その点では諦めというか、欲が薄くなってしまう。というよりは──

 

「仕事に私情を挟むべきじゃない」

「ほんと、そういうところは氷川さんとお似合いだよ……」

 

 北沢の向ける呆れ顔の向こう側に、綿雲混じりの群青が見える。

 不穏な言葉を聞き流して踏み出した足の先、俺は颯々と吹いた夏風に身を委ねたのだった。

 

 ☆

 

 屋上は一般生徒の立ち入り禁止区域である。そこで過ごすことが想定されていない以上、ベンチなどあるはずもないのだが、天文部の活動が行われることがあるので、彼らが持ち込んだ椅子を拝借している。

 そこに腰掛けて一息ついていると、紙パックにストローを刺しながら恵が問いかけてきた。

 

「そういえばさ、バイトの方はどうなの?」

「割とうまくいってる。朝は早いけど、そこまでキツくないし」

「へえ、何時くらい?」

「四……いや、五時くらいか」

「いやいやいや」

 

 俺の言葉に被せるようにして、神妙な表情の前で手を折り曲げる。

 

「朝のシフトは毎日ってわけじゃないぞ」

「それでもだよ。何それ、四時とかもはや夜でしょ」

 

 季節によっては四時台で日の出を迎えるので、北沢の言葉がそのまま正しいとは限らない──なんて意味で言ってるわけではないだろうな。

 高一のころに染み付いた部畜根性は、俺の性格形成に少なからず(悪)影響を及ぼしていて、しかしそれがこうして役に立っているのでなんとも言えない。

 

「元はといえば俺が強引にお願いしてることだからな、これくらいは」

「いや……うん、まあ、若葉が良いなら良いのかな」

 

 おっと、北沢が引いている……ドン引きしている。

 自分の経験をただ口伝えするだけでは共感は得られない。ここは彼にもバイトに参加してもらうべきだろうか。

 そんな見当違いなことを考えていると、ふと恵が真面目な顔つきになっていたことに、不思議に思った。

 

「……どうしたんだ」

「いや、ね。それもこれも、凪紗ちゃんのためなんだなって思って」

 

 突然なんだと思っていると、立ち上がって見せる優しげな表情は、彼が妹を思うときのそれだということに気が付いた。

 俺の行動が凪紗のためだと口にして、それを自分に置き換えて考えているのだろうか。

 

「今のところ、それしか俺にはできないから。お前も聞いたと思うけど、うちにも事情があってな」

「うん。春頃、進級してすぐに左門先生から聞いたよ」

「そのときから工作は始まってたんだな……」

 

 用意周到すぎて頭を抱える。なに、俺はその頃から目をつけられたってことか? 

 

「あはは。……でも、ごめん。聞いておきながら、そのことについて律夏と話せなくって」

 

 目を伏せ、視界から俺の表情を取り除いた北沢。どこかに後ろめたさが見て取れた。

 

「生徒会に入って仕事をする以上、結局は俺が話すことになったと思う。こんな話聞かされても、誰だって困るよな」

 

 俺は、特段この件に対して不満があることはなかった。恵が一人で思い悩んでいるのなら、それは俺の行動による責任だ。

 決めてきた道で、俺は何をしてきたのだろうか。

 鬱屈とした心の靄が、言葉を鈍らせるようだった。

 

「そうだね。でも……」

 

 どう言えばいいものか、その淀みは北沢が浮かべた決意の表情によって霧消した。

 

「僕も、若葉の隣に立ちたいんだよ」

「は……?」

 

 隣に立つ、とはどういう意味だろうか。

 それがわからない俺は、魚のように口を開いたまま、ただ恵の言葉を待つしかなかった。

 

「僕は、なりたいんだ──周りの人を救えるような人に」

「……それが、俺ってことか?」

 

 至って真剣な面持ちで、奴は首肯する。

 

 分からない。

 

 北沢にとって、俺がその言葉の通りの人間なのかどうか。俺に、果たしてそれだけの価値があるかどうか。

 さっきとは違う意味で、言葉が見つからない。

 

「きっとキミは謙遜しちゃうだろうけど──少なくとも、僕にはそう映ってるよ」

「そうは思えない。だいいち、俺が誰を救ったんだ?」

「そうだね……凪紗ちゃんはもちろんだけど、氷川さん、山吹さんちのみんな、そして文化祭のあの子」

「救ったって──凪紗はともかく、そんな大げさな」

「そして、キミのお母さんだよ」

「っ……」

 

 至って強く、恵は言外にそう伝えていた。

 俺にはそう言い切る自信がどこにあるのか、とても見当がつくものではなかった。

 

「若葉って、家族が大好きでしょ」

「……」

「ふふっ、沈黙は肯定と捉えるよ。……それで、お父さんのことがあってから、キミは凪紗ちゃんとお母さんのことを絶対に守ろうとしたんだと思う。それを実現するうえで、たくさんの人に出会って──自分のような思いをしないようにって、手を差し伸べてきた」

 

 恵はなおも続ける。

 

「転校してきた理由を知って驚いたけど……黙々と何かに取り組む姿とか、誰に対しても言葉を選んでいるところを見て、納得だなって思ったんだ」

「いや……」

 

 俺は、そんな尊大な人間じゃない。

 

 そう言いたかった。

 決意は確かにあったけれど、絶対に成し遂げられるなんて自信もなかった。今だって、そんなものはない。憂いに震える矮小な自分を覆い隠そうと必死なのだ。

 

「そりゃあ、歴史に名を残すような偉人みたいに、ってわけじゃないけど──僕は尊敬しているよ。『意外とこういうのって、身近な人になりやすい』んだから」

「っ、それって──」

 

 その言葉は、いつかの再現だった。驚きに心を染める俺を弄ぶような悪戯めいた微笑みに、つい気を取られてしまう。

 

「黙っててごめんね?」

「別に気にしないけど……まさか、もうその頃から」

「事情を聞いたのは春のことだったけど、僕たちが出会ったのって去年からでしょ? その時から、僕はキミを知ってる。誰かのために頑張り続けてきたことを、知ってる」

 

 北沢は、何かを大事そうに抱えるように目を瞑っていた。

 胸中にあるそれが、俺に関わるモノ──記憶の断片や思い出のようなものであるのだろうか。彼がそう思ってくれるほどのことを、俺はできていただろうか、つい疑ってしまう。

 

「俺は、そんな」

「僕には真似できないなぁ。だって、誰かを助けるときのキミは、すごく必死で──痛みをこらえるような表情(かお)、してるから」

 

 心の深奥まで突き刺さるような真摯な視線を受けて、二の句を継げなくなった。

 さっきから驚かされっぱなしだ。出会って半年の間、北沢は俺の言動から多くを感じ取っていたらしい。

 それならば、俺が今までひた隠しにしてきたこの努力も、すべては見透かされてきたということになる。

 

「ねえ、()()。僕は、キミの悩みを──ううん、そんな大げさなことじゃなくていい。愚痴でも、新作パンの感想でもいいから……キミの思っていることを伝えてほしい。もっと、知りたいんだ。本当の友だちとして、ね」

 

 その言葉を聞いた途端、俺は言い表しようのない情動を味わうことになった──ついこの間経験したような、錆びついたものが無理やり動き出したような痛みと温かさ。

 あの日、凪紗が俺に告げたこと──俺があいつを救ったことを否応なしに認めさせたそれを、また繰り返していたのだ。

 

 俺を理解してくれる存在は、凪紗だけで良いと思っていた。たとえ周りが俺を認めないとしても、彼女が認められていればよいと。

 凪紗は許さなかったが、俺はそれでも良かった。それ以上を求めることは傲慢だと割り切っていた。

 

 俺はもう、一人の兄としてはいられないから。

 

 そんな俺の一大決心だったが、北沢にそんなことを言われてしまえば、早速揺らいでしまっていた──誰だって、こんなに真っ直ぐな感情をぶつけられてしまえばそうなるだろ? 

 

「……っ」

「ちょ、な、泣いてる?」

「泣いてない」

「ふふ……まあ、いいけどさ。で、どう?」

「ああ……」

 

 早咲きの向日葵のように眩しく、北沢は──恵は、そう言って掌を差し出した。俺はそれを掴んで、引力に従うようにゆっくりと立ち上がる。

 

「これからも、よろしくね」

「こちらこそ」

 

 よく見れば耳朶に赤みが差している。よくもまああれだけ真っ直ぐ(恥ずかしい)な台詞を、とも思ったが、それも覚悟の上だったらしい。

 とはいえ、その気持ちは俺も同じなようで、吹き抜ける空気がやたらと涼しく感じる。

 

 これも青春、と呼ぶのだろうか。

 

 

 ♬

 

 

 思い出しても赤面モノの屋上での一件を終えて、放課後を迎えた俺は、駅近くの店へ寄った。

 競合他店よりもちょっと高級だが、その分味は保証されているし、なによりポテトが()()()()らしい。

 

「こんにちは」

 

 注文を済ませてから二階席へ上がってすぐに、明るい翡翠色が目についた。

 どこかソワソワしたような様子がなんだか微笑ましいが、それは俺を待っているからではなく(実際にはそうなのだが)、運ばれてくる品を待っているというのだから俺の存在意義を疑ってしまう。

 

 ともかく、背中越しの俺の挨拶に対して、彼女は振り返った。少し慌てたように見える。

 

「こ、こんにちは、若葉さん」

「すみません、少し遅れましたか」

「いえ……空いた時間はスコアを見ているので、構いません」

 

 そう言って、何ともないように鞄からクリアファイルを取り出す。いやいや、めちゃくちゃ待ち遠しそうにしてただろ。

 しかしそれを口にすると身の安全が脅かされるので、心に押し留めておく。

 

「ライブでもあるんですか?」

「ええ。直近だと、今月末ですね」

 

 すっかり済ました表情で、氷川さんはこの頃のバンド──確か、Roseliaと言ったか──その近況を口にした。

 

「結構忙しいんですね」

「それほど苦にはなりません。現状、個々の演奏レベルではそこそこのものに仕上がっていますが、それをバンドとして合わせる練習はまだまだですから」

 

 地道な努力の積み重ねであるから、練習というと苦い顔をするのはどこの高校生も同じだが、その点氷川さんはストイックなのだろう。少し行き過ぎなくらいには。

 それを危なっかしく感じていたときとはまた違った表情で、彼女は情熱溢れる言葉を語るのだった。

 

「……恵が──生徒会の北沢が言ってたんですが、少し変わりましたよね」

「私が、ですか?」

「ええ」

 

 すまん、恵。お前を売ってしまった。

 とはいえそのことは俺も同意できるところだ。彼女は、氷川さんは少しずつ変わり始めているような気がする。

 

 それを言うと、考え込む仕草が鮮やかな翡翠を揺らした。

 

「……そう見えるのなら、やはりそうなのでしょうか」

「心境の変化、のような何かが?」

「そうですね──」

 

 氷川さんが口を開いたその時ちょうど、「お待たせしました」と店員がやってきた。

 

「こちら、チーズバーガーとポテトのセットと、チキンバーガーとオニオンフライのセットになります!」

「ああ、どうも……」

 

 折り悪く遮るような形になってしまったが、それは気にしていない氷川さん──っていうか、目が釘付けになってるんだよなぁ。

 しばらく続きの言葉を失った彼女がはっと我に返ったのに苦笑して、俺は「先に食べてしまいましょうか」と言うしかなかった。

 

 ☆

 

「オニオンフライも、意外と美味しいですね」

「でしょう?」

 

 サイドメニューが充実しているとどれも魅力的に映って迷うが、俺はこれが好きだ。氷川さんにも布教すると案の定ハマっていた。

 真面目くさった表情でジャンクフード食べてるの、すごいギャップを感じる。

 

「こういう店、結構来るんですか?」

「い、いえ……時々、です」

 

 十中八九、時々ではないだろうが「そうなんですね」と返しておく。まあ、妹さんの話など聞く限りストレスも溜まるだろう。

 そういえば、その件はどうなっているのだろうか。

 

「話が戻りますけど、妹さんとのことも関わっているんですか?」

「……」

 

 一気に能面みたいな表情へと変わる。分かりやすい……。

 

「……日菜とのことは、私が変わることで解決すると思っていたのですが」

「まだ、その変化が足りないということですか」

 

 氷川さんは小さく頷いた。

 

 日菜という妹さんとの確執は、どうやら長い根を抱える問題であるらしい。少しの意識の変化では解決できないほどに。

 だからこそ、同じような立場にある俺を頼った──とまでは行かないが、どこまでも公正・清廉をゆく唯我独尊の彼女にとっても参考になるかもしれない、と映ったのだろう、

 

「それなら、やっぱり最近の変化も本当のことだったんですね」

「ええ。……分かるものなんでしょうか」

「まあ、少なくとも恵には」

「若葉さんには、どう映っているのですか?」

 

 そう問われると、流石に彼を隠れ蓑にしておくのも限界を迎えてしまった。だから、自分の言葉で応えなければならない。彼女はどのように変わったかを。

 ふと、それを考えようとして気付く。

 

「……変わること、って何でしょうか……?」

「は?」

 

 怖い。

 

 思うに、変化とは、必ず始点──従来の状態と、終点、つまり変化後の状態を観測してこそのものだ。だから現文の試験ではそれを書かないと減点されるし、それを怠った前回の中間試験では成績がイマイチだった。勉強しなければ……。

 脳内の御託を片付けて、眼前の彼女について思い起こしてみる。初めて会ったのはいつだったか。──ああ、そうか、新生徒会が発足した頃だ。

 

「春、氷川さんに会ったときに感じたのは、すごい努力家なんだろうっていう印象でした。あんなに細かく生徒会のルールと仕事を教えるのって、ただ調べて暗記、みたいに簡単にできることではないですし」

「……それは、今はそうではないということですか」

 

 まだ発言途中だったので、そういう意味に取られてしまったらしい。周りのものを凍てつかせるような睨みは未だ健在である。

 

「違います。そこは変わらないままで、変わったのはそういう努力のあり方、みたいなものだと思うんです」

「努力のあり方、ですか?」

 

 俺の抽象的な物言いに首を傾げる氷川さん。そういうところは純粋というか、素が出るのだろうか。

 

「あくまでも、俺から見てそう感じただけですけど」

 

 念の為、保険を掛けておこうとしたが、彼女はそんなことはもはやどうでもいいように頷く。冷たいコーヒーで唇を湿らせていた俺は吹き出しそうになった。

 

 そう、あくまで人の感想なのである。ただの主観なのだから、間違っていれば糺せばいいし、放っておいてもいい。

 大事なことは、他人が見た自分を意識の中に置くことだ。

 

「妹さんとのことがあって、氷川さんはずっとそれに悩んできて……追い抜かされないように努力を続けてきたんですよね。それは俺にも当てはまるところがあって、悩みながら努力することの辛さを、少しかも知れませんが理解できるつもりです」

 

 氷川さんは何も言わなかった。俺だって、その複雑な心情を完璧に把握できる自信はない。多分、誰だってそうだ。

 それでも、俺がかつて眺めていた景色と重なるところがあるはずだと思っている。

 

「その努力は、きっと孤独な努力です。誰にも言えなくて、誰にも褒めてもらえない努力──」

 

 ガラスのような氷は、未だその冷気を内側に閉じ込めていた。梅雨時の温い空気を撥ねつけ拒絶するような、ひどく鋭利な輝きだった。

 

 姉だから、兄だから、妹よりできていて当然——俺たちにとってなによりも残酷といえることが、言葉には出さなくても、期待となって苛み続ける。

 誰も自分を見てくれない、理解してくれないという絶望の淵から見えるのは、ただ暗闇ばかり——俺はその気持ちを知っている。

 

「そういう気持ちのときって、周りが見えなくなってしまいます。周りの目を気にしなくていいこともあるけれど、手を差し伸べてくれる人や、支えてくれる人のことが見えなくなってしまう」

 

 氷川さんの怜悧な瞳に、わずかな驚きが滲む。

 

「もちろん、苦しいのは自分です。——だけど、自分をよく知っている人ほど、苦しむもがく自分を見て心を痛めてしまう」

 

 ずっと一人だと思っていた。でもきっとそうじゃない。そう言えるのは、温かくも鈍い痛みを知っているから。

 

「それを理解したのは、俺も最近になってからのことです。そのきっかけを、氷川さんは掴んでいる——俺が思う変化というのは、そのことだと考えています」

「……」

 

 氷川さんは、やはり何も言わず、沈黙を貫いていた——そうかと思っていたら、ドリンクに口をつけると、止まっていたロボットが動き出したようにぽつりぽつりと語りだした。

 

「……まだ、私には分かりません。この息苦しさを本当にあの子と共有しているのか——そこまで周囲に意識を振り向ける余裕がない、と言えばいいのでしょうか」

 

 俺は頷いて、「それでも」と応える。

 

「それに近づいているのは確かだと思います。生徒会のこと、バンドのことがあって、周りの人と話すことが増えたんじゃないですか」

「それだと、なんだか私が人嫌いのように聞こえるのですが……まあ、確かにそうかもしれません」

 

 えっ、そうじゃないんですか。

 こうやって話せていること自体が当時からしたら驚きだ。もしあの頃のままだったら、路傍の石かなにかのような粗雑な扱いを受けていたかもしれない。

 バレたら氷漬けにされそうな考えを浮かべていると、氷川さんは呟く。

 

「……あの日、若葉さんと凪紗さんのことを聞いていなかったら、私は誤解したままでした。結果的に言えばそれがきっかけになったんだと思います——本当に、ありがとうございます」

「いえ……」

 

 俺と出会っていなくても、それこそバンド活動で出逢った仲間が解決へ導いただろう。しかも俺は、直接的に何も彼女にできていない。かつて自分がいた状況とは違うのだと言い訳をして。

 それでも、彼女は言ったのだ。

 

「私自身の変化に、貴方の言葉が活きていることは確かです。貴方は、それを否定するかもしれませんが——」

 

「文化祭の前、この店からの帰り道で貴方が聞いたことがありましたね。あの答えが、他ならない私の本心です」

 

 まさか、一日で二回もこの温かさを感じることになるとは思わなかった。

 また首を傾げる彼女に「なんでもない」と答えて、窓の外の夕日へと視線を逸らす。

 

 何のために生きているのか——それが分からなくなった夜もあった。それでも、考えて、考え抜いてもがき続けてきたことが、確かに意味を成す瞬間が訪れる。

 俺は誰かを救い、同時に救われてきたのだと、そのことを認めるのに、もう躊躇は要らなかった。




これにて第一章完結です。ほぼ一年(失踪期間含む)にわたって拙作を見ていただいて本当にありがとうございます。
一章の主役は沙綾であり、彼女と関わってきた兄妹の変化・成長がお話の根幹にあります。そして、凪紗と律夏の関係を間近にすることによって、紗夜が自分と日菜との関係を見つめ直すきっかけを得ました。

二章以降はさらに多くのキャラクターと触れ合うことによって、二人を中心とする人物の成長をもっと描いていきたいと思います。



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第2章
#29:God Save The Girls(綺羅星編①)


新章スタートです。時系列的に同じポピパとロゼリアについて複数視点で進めていきます。
投稿時は一つの章にまとめていますが、バンドごとの方が見やすい場合は後で分けておきますね。


「……」

 

 神妙な目つきで、声も出さずに沙綾が何かを見つめている。

 それがお目当ての()()であるということが、何となくだけれど分かった。

 

「電子ドラム!? かっこいい~!」

「へえ、こんなドラムあんだ……」

 

 私と近くの棚を物色していた香澄が目を輝かせる。有咲もローテンションながら、興味があるようだ。

 

 メンバーが集まり、完全体になった我らが《Poppin’ Party》は、早速六人での蔵練に入ろうとしていたけど、先にやらなければならないことがあって——それが、沙綾のドラムの確保だった。

 文化祭は急ぎの用だったので、主に学校で練習を繰り返していた。先生の特別許可も降りたことに加えて、有咲の家に寄っていたのでは時間が惜しかったからだ。

 

 ひとまず大きな山場を乗り越えた私たち。だから、これからずっと一緒にやっていく楽器(相棒)は、慎重かつできるだけ良いものを選びたい。

 そういう意味で、沙綾のお眼鏡に適うこのドラムがよさそうだ。安心安全の国産だし、どれどれ、値段は——

 

「「高っ!?」」

 

 しまった、値札に驚きすぎて、香澄と声が被ってしまった。

 ギターとは訳が違うんだな……そもそも私のは父さんのを使わせてもらっている訳だし。

 

「沙綾、すごい高いよ!」

「さすがに六ケタはね……」

「うーん、これは無理だけど、こっちなら——」

 

 立ち上がった沙綾が目を向けたのは、初心者用のスターターセット。

 仕上がりはさっきのに劣る部分はあるかもしれないが、一通りの機能は揃ってるっぽいし、何よりお値段もお手頃。

 

「……安い?」

「安くねーし!」

 

 有咲のツッコミが入る。……そうだよね、冷静に考えて五万円は安くない。さっきのと比べてっていうだけで、つまりは相対評価ということ。

 もし買えなさそうとなるとバンド存続の危機だ。不安になってきて、沙綾を伺う。

 

「沙綾、大丈夫そうなの?」

「うん。貯金と、あと足りない分は母さんたちが出してくれるって」

 

 なるほど、と私。「よかったね」とりみ。

 ライブを見に来てくれた沙綾のご両親は、彼女の演奏を見てなんだか安心していたようだった。

 それが本来の娘の表情だと、好きなこと(バンド)に打ち込むことが大事だと、そう考えて応援してくれているのかは、私には分からない。

 だけど、沙綾自身の選択がこうして形を成していることが、私には価値あるものだと思えた。

 そして、その決断に()()()が関わることができて、本当によかったと思ったんだ。

 

「沙綾」

 

 これにしようかな、と話しているところに、おたえの呼ぶ声が聞こえる。

 

「これ面白いよ!」

 

 そう言いながら叩く音は、スティックの一振りごとに変化している——って、すごい、毎回音が違うんだ。

 

「あー、いいね! かっこいい」

 

 スローンに腰掛けて微調整した沙綾は、おもむろにリズムフレーズを刻んでいく。

 ハイハットの音に、ぱっと明るい笑顔が浮かんだ。

 

「どう?」

「すごくいい! これ、いいかもっ」

 

 その笑顔のままに、早速ご購入の検討をされるご様子。ウキウキだなぁ。

「でも、お高いんでしょう?」と有咲がおどけて値札を覗き込むと、十一万の文字……。

 

「高えーっ!」

「うーん……まあ、やっぱりこうなるよねぇ」

 

 十万円は、一般高校生向きのお金じゃない。

 バンド、っていうか楽器ってなんでこんなにお金がかかるんだろう。有咲のキーボードも一級品の盆栽を売って何とか買えたくらいだから、相当するだろうし。

 

 ふと、兄さんが預けてくれた通帳のことを思い出す。今は厳重に保管していて、滅多なことがない限り使うことはないし、バンド関係で使ったとしてもしっかり使い道を記録している。

 労働は自分の労働力と時間をお金に代えることだ。つまり、あれは兄さんが私のために費やした時間に等しい。

 あれを使うにはそれなりの理由がいるし、つい躊躇ってしまうことも事実。——それでも、それくらいの価値が私にあるって考えてくれていたんだよね。

 

「ローン地獄?」

「さすがに……」

 

 不穏な単語に、緩んだ頬が元に戻る。

 とにかく、この値段はなかなか手が出る金額ではなさそう。そう結論付けようとしていたところ、沙綾の背後からぬっとぬいぐるみが現れて、

 

「あなたは欲しくな~る……どんどん欲しくな~る.」

「ううっ……」

 

 おどろおどろしい声で催眠術を試みていた——リィ先輩だった。

 

 ☆

 

 学割効きすぎじゃないかな。誘惑効果って意味でも、割引って意味でも、両方。

 そんなことを思いながら、部品の入った紙袋を持って歩く。

 

「ぶつけんなよー?」

「そーっと、そーっと.」

 

()()())背の低い私とりみの分を少なくしてくれたのは、嬉しくもあり複雑な気持ち。

 結局、ドラムは組み立てて蔵に置くことになっている。沙綾は「本当にずっと、いいの?」と聞いたけれど、

 

「全然。どうせ毎日くるっしょ」

 

 と有咲は快諾だった。

 

(毎日、か……)

 

 梅雨の晴れ間に、水玉模様のような青空が覗いている。

 それを見上げながら、そんな会話が、なんだか現実味を帯びていないように聞こえてしまう。

 横断歩道を踏む足が揃って、私たち六人はここにいて、同じ道を歩いていることを自覚させる。

 

「狭いところですが」

「お前が言うなぁ!」

 

 ここまで色んなことがあった。

 たえの言葉に笑い合う沙綾の表情に、もうほの暗い影が差すことはなくなっている。そのことが、なんだかほっとしたというか、胸の中が温かくなるというか。

 もしかしたら、ご両親はそんな気持ちなのかもしれない、なんて思っていると、いつの間にか香澄が隣にいた。

 

「どした?」

「……ポピパ、集まったなぁって」

 

 滲み出る感情をそのままにして、香澄はそう言った。私も、同じ気持ちだった。

 

「もしかして、それ《Poppin’ Party》の略?」

「はぁ? なんつったか分かんなかったんだけど」

「コピペだよ。コピペ」

「それは言ってねーだろ!」

 

 本当の意味で、私たちは——()()()は、ここから始まるんだ。

 共有したこの思いが、これからどんな形を作っていくんだろう。そのことが、とても楽しみに思える。

 不器用に、たくさんの遠回りをしてやってきたのかもしれないけれど——ここから始まる毎日に『ありがとう』を言えるくらいには、今、私はこの日々を楽しんでいるのだ。

 

 

 ♬

 

 

「ねえねえ、新曲作ろうよ!」

 

 一通りの音を合わせてみて休憩していると、香澄がそんな提案をしたので、みんなが反応を向ける。

 

「また?」

「うん! 六人でライブ! って感じの」

「ライブするの?」

「SPACE?」

「SPACE!」

 

 綺麗なオウム返しが決まった……。

「突っ走りすぎ」との有咲の言葉通り、後先考えていない感じはあるけれど、正直魅力的な提案だった。

 

「でも、バンドやるからにはいろんな人に聞いてもらいたいよね?」

「う……」

 

 私たちは小さくともバンドだ。

 バンドを組む以上、引っ込み思案とか蔵弁慶とか言ってられないわけで、やっぱり目標はライブだ。

 そのためには、新しい曲を作ってライブハウスに持っていくことがよい方法になるはず。その舞台がSPACEっていうわけだ。

 

「そこ、そんなにいいの?」

 

 ふと、気になった沙綾が訊いてきた。そういえば、沙綾はまだ行ったことなかったっけ。

 

「うん! みんなで一緒にわーってなってサイコー! 行く?」

「今から?」

「あっ、今日グリグリ出るよ」

「ほんと!?」

 

 相変わらず擬音たっぷりな香澄。それと、りみによればゆりさんたちのライブがあるらしい。でも、今から行って予約とか間に合うのかな? 

 一人で考え込んでいると、スマホのバイブレーションが聞こえてきた。

 

「? おたえ、携帯鳴ってるよ?」

 

 香澄が指を差す通り、おたえの携帯の画面が光って誰かの名前を通知している。

 それを取って見つめたおたえは、「SPACEからだ」とタイムリーな名前を告げた。

 

「今日ってバイトの日じゃないよね? 何かあったの?」

「呼んでる……」

「は?」

 

 戸惑いを隠さない私たちに、おたえは言うのだった。

 

「スタッフが、全員インフルエンザで倒れたって」

 

 ☆

 

 いつか見た、色とりどりの輝きが溢れるサイリウムの光の海を、私たちは舞台の後ろから眺めている。

 

 香澄と私たちの熱意が伝わったのか、オーナーはスタッフのいないSPACEの開店準備を任せてくれた。

 有咲と香澄、沙綾は接客を担当していて、残った私たちは会場の音響と照明が仕事だ。

 

「うう……」

 

 不安げな声を漏らすのはりみ。さっき、照明の操作を間違えてたからだろう。頑張って……! 

 一方で、ステージにはゆりさんたちが進み出てきた。彼女たちの姿を視界に捉えて、オーディエンスの盛り上がりは最高潮に達したようだ。……あっ、まずい、りみの背中がますます丸くなってる。

 

「力抜きな」

 

 オーナーがりみの肩に手を置いた。

 準備中は結構厳しい言葉を投げかけられて萎縮しきっていたりみも、この土壇場で強く励まされると安心したのだろうか、力のこもった表情を見せた。

 何度も注意を受けた私たちだったけど、裏を返せばしっかり仕事を教えてもらったってこと。分からないところはやって見せてもらったし、実践練習を何度もさせてもらえた。

 親切というよりも、人の動かし方がうまいなあ、なんて感想を抱いていた私だった。

 

「さあ、やろう」

 

 頷き合って、ステージ上の状況へ集中を注ぐ。

 マイクスタンドの前に立つゆりさんは、スタジオの熱視線を一身に集めながらも、目のあった私たちへウインクを送る余裕があるらしい。

 演奏技術でもライブパフォーマンスでも、私たちとは雲泥の差がある──それは、きっと豊富な経験に裏打ちされていて、オーディションを受けてもいない私たちとの間には、まだまだ遠い距離が横たわっていることを実感させた。

 

 それでも、いつか追いつきたい。

 

 その思いが、胸の奥でメラメラと闘志の炎を燃やし続けていた。

 

 

 ♬

 

 

「……」

 

 ライブが終わり、私たちはすっかり放心してしまっていた。

 

「す、すごかった.」

「うん。ゆりさんたちもすごかったけど、《Roselia》も、すっごい迫力だった」

 

 経験者であるたえですら、聞きながら言葉を失うくらいのレベルの高さ。

 特に氷川先輩とボーカルの湊さんは別格だ。演奏の正確さだけじゃない、勢いというか、聞き手に訴えかけてくる、嵐のように凄まじい熱量。

 ライブ中に目が合ったときは驚いていたようだったが、それに構うことなく質の高い演奏を続けていた。

 

 大歓声のうちに帰途についた観客の中には、どう見ても高校生じゃない——ビジネススーツに身を包んだ音楽業界の人もいた。

 ——あ、頭がくらくらしてきた。というか、りみはもうショートしちゃってるし。

 

「さあ、引き上げるよ」

「は、はい」

 

 微動だにしない(できない)私たちに、オーナーは声を掛ける。それに従って踵を返そうとしたとき、視界の端にはステージから出ていく《Roselia》の姿があった。

 俯くベースのメンバーが、栗色の髪から覗かせる表情に、私たち三人は顔を見合わせた。

 

 ☆

 

「香澄、気をつけてね」

「うんっ。だいじょぶだいじょぶ!」

「本当かよ……」

 

 エントランスへ戻って受付のみんなと合流してから、今日の売上をまとめたキャッシュボックスを届ける香澄と有咲に合流した。

 心配性な有咲だけど、スキップしそうなくらいに明るい(ちょっと猪突猛進気味な)香澄の背中を見ていると、逆に不安になってしまうのは分かる。

 

 オーナーはRoseliaの控室にいるよ、とゆりさんたちに教えてもらった通り、彼女の姿が開いた扉の隙間から見えてきた。

 その様子を目にした瞬間、私は部屋に飛び込みそうになった香澄の口を塞いだ。

 

「オーナ……んぶっ」

「しっ、今話し中かも」

 

 そーっと扉から顔だけ出して覗き込む。予想通りの姿を確認して振り返ると、私たちは顔を見合わせて事態を盗み見る——もとい、見守ることに決めた。

 

「——っ、ぐすっ」

 

 まず聞こえてきたのは誰かの泣き声。あれだけの演奏をした後なのに、なぜ? 

 ともかく、その主は氷川先輩ではないだろうな。

 

「オーナーの背中で見えないけど……泣いてる、のか?」

「うん……」

 

 ただならぬ雰囲気に、香澄は眉尻を下げて有咲の言葉に応じた。それはRoseliaのメンバーも同じようで、どんな言葉を掛けたらよいか、迷っているように思われた。

 ただ、氷川さんの真剣な眼差しが気にかかった。——メンバーを、じっと窺うような眼差し。

 

「おい、凪紗。演奏してる様子、見てたんだろ?」

「え? うん」

「それなら消去法で分かるんじゃねーか? ほら、ちょうど4人は見えてるわけだし」

「なるほど。確かにそうだね」

「有咲、天才!」

 

「ばか、バレるから静かにしろ!」と有咲。いつもの照れ隠しだ。

 そんな彼女の言葉通り、周りに集まった氷川さんたちメンバーを記憶と照らし合わせていくと、残りの一人がベースの人だということに気付いた。

 

「あっ、もしかしてあの人——」

 

 思い出される光景。ステージを去るときの表情を思い起こすと、その意味が分かってくる。

 彼女はきっと、涙をこらえていたのだろう。

 

「なんかあったのか?」

「私には分からなかったけど、多分演奏中に失敗しちゃったんだと思う。終わった後、すごい辛そうにしてたから」

「凪紗にも分からなかった、って……ライブ盛り上がってたし、そんなに大きいミスじゃなかったんでしょ?」

「うん。それでも、ミスはミスだよ。そのことは、あの人が一番分かってるんじゃないかな」

「「……」」

 

 軽々と口にしたけれど、色々な意味で私たちとは違う世界の話で——言った私でさえ、二の句を継げなくなっている。

 零した音にすら、責任を感じて涙を流す彼女と、文化祭の私たちには、とんでもない差があるのだ。

 

 部屋の中では、オーナーの力強い口調。

 

「今この瞬間、目の前のアンタたちがどんなステージを()りきってくれるか——それを楽しみにしてるんだ。

 ——演りきったんだろ?」

 

 それは落ち込むメンバーに対しての激励だったのかもしれない。だけど……

 

「求めるレベルが違いすぎる……香澄、うちら、本当にオーディション出るのかよ」

 

 有咲が香澄の本心を問う。

 私たちはまだ一年生だ。オーディションを見送ったって、それでバンドが解散になってしまうわけじゃない。たくさん経験を積んでからでも間に合うだろう。

 それもまた一つの選択肢なのだと、私も思う。それでも——

 

「……私は、やりたい」

 

 香澄は言った。

 

「オーナーの言葉を聞いて、私、どうしてもここで、すぐにライブやりたいって思った。確かにRoseliaの演奏、すっごい上手いけど.!」

 

 言葉に詰まる彼女の気持ちに沿って、できるだけ言語化してみる。

 

「オーナーがバンドに懸ける熱い思いに応えたい。ここでライブするってことは、そういうことだよね」

「うん! それが一番、キラキラドキドキするから!」

「……っ、はあ、またそれかよ.」

 

 いつもの言葉を聞くだけで、なんだか大丈夫って思えるっていうか——本当なんなんだろ、この自信。

 謎の気持ちがおかしくて笑ってしまう。

 

 嘆息する有咲だったけど、それ以上に反論することはなかった。多分、賛成してくれたんだと思う。

 後は、残りのみんなの意見だけど——

 

「うん、私も賛成」

「え……あっ、おたえ!」

「私も。香澄たちの気持ち、分かった気がするから」

「沙綾……」

「私も、今度は勝手にじゃなくて……ちゃんと認められて立ちたい」

「りみ」

 

 いつの間にか三人が傍にいた。その最後にいたりみの言葉が、心に強く響いてきた。

 ポピパの中では、りみが一番SPACEを長く知っている。だからレベルの高さも、ステージに立つときの緊張感も、オーナーの思いも、全部分かっているのだろう。

 同じ経験をしている私たちよりも、その理解はずっと深いはずだから。

 

「みんな……! うん! ここでライブしよう!」

 

 この気持ちが連れて行ってくれる場所を私たちはまだ知らなくて——だから、言ってみたいと思う。いつだってそれを導いてくれた香澄の言葉に、みんなが頷いて決意を固めた。

 

 そんなときちょうど、控室の扉が開かれた。

 

「あら……」

「わっ、お、お疲れ様です。氷川先輩」

「ええ。凪紗さんこそ、お疲れ様です。今日は、スタッフの代理だそうですね。機材担当、ありがとうございました」

「いえ。私たちも、先輩方の演奏を見て、大きな学びになりました。これからも頑張ってください」

「ええ、お互いに頑張りましょう。……お兄さんにもよろしく」

「はい」

 

 短い会話を交わして頭を下げると、Roseliaの皆さんが帰っていく。氷川さん、すごい注目されてる。バンドメンバーの交友関係には興味あるか。

 涙の跡が残るベースの人に、ボーカルの人。バンドの中だと年少なのか、背の低い同級生くらいの子、そして——

 

「あれ……」

 

 顔が見えなかったが、頭を上げて気付いたのは、澄んだ長い黒髪の女の人。先輩かな。

 後ろ姿でも分かるくらいおどおどしている——なんというか、腰の低そうな様子である彼女に、どこか目に覚えがあった。

 私はそれを、ぼーっと眺めていたのだった。

 

 




というわけで二章一話でした。
正直ペースが続かない気がしてます。投稿が途切れたら申し訳ないです。
基本これまで通り月曜0:00に投稿予定ですので、更新してみてなかったらそういうこと、ということで……


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#30:The Beginning(青薔薇編①)

ロゼリア編一話です。



 私には、双子の妹がいる。名前を日菜といって、夜の字をもらった私と対になっている。

 そう、本当に、あらゆる意味で私と日菜は対の関係──。性格、生き方のすべてがそうだ。

 冗談でも、思い上がりでもなく、私は果たすべき目標に向ける努力を惜しんだつもりはない。全力でそれと向き合っている自信があった。

 そうして築き上げたもの──ここに至るまでの階段を、日菜はいつだって、私の後を笑顔で追いかけてきた。それも、数段飛ばしで。

 追い抜かれて、差が広がって、それでもあの子は笑いかけてくる。その瞳は憧れと期待の輝きに満ち溢れていて、そのことがたまらなく嫌で、私は真似されたものを手放していった。

 

「…………」

 

 そして残ったものが、ギターだけだった。

 それは、唯一、私が日菜の代用品でないことを確かめられる根拠のようなもの。だから私は、それを奪われないように、あの子に知られないようにと、技術を高めるべく、ひたすらに──文字通り、命を削るように──研鑽を積んでいった。

 

 バンドに入って、奏でる音楽で頂点を目指したい。

 

 そう考えて行動していた私にとって、近い価値観を持つ(みなと)さんとの出会いは必然だったのかもしれない。それに比べると、若葉さんとの対面はまさに邂逅──偶然と言い換えられるような出来事だった。

 

『できる妹を持つ者同士の苦労が共有できたのかな?』

 

 それを導いた上原さんが口にした言葉で、私は一年生の定期テストで全教科満点を取った生徒の名を思い出した。若葉凪紗さん──彼女はきっと、彼の妹さんだろうと推察した。その通り、あの夕暮れの帰り道で、彼はそれを認めた。

 堅物というか、真面目そうな顔をして確実に手を抜くという彼の生き方に不満を持っていた私は、しかし自分と近しい境遇にある人物に興味を抱いていた。

 

 だから、問いかけたのだ。

 

『私は、知りたいのです。……なぜ、笑っていられるのですか。妹さんに、悔しさを感じないのですか』

 

 あの時、穏やかとも無愛想とも取れる色のない表情に、わずかな揺らぎを見出したことを覚えている。しかし、当時の(今もだけれど)日菜との関係に対する苦悩が、どうしてそう平然といられるのか、諦めて逃げ出したのではないかという怒りにも似た詰問を噴き出させたのだった。

 

 そして、私は安易な発言を強く後悔することになる。

 

『父を、亡くしたんです』

 

 わずかに視線を伏せて彼が語ったことは、私に大きな衝撃を与えるのに十分すぎた。

 父を亡くし、母が病床に臥したことで、瓦解しつつあった家族の関係を繋ぎ止めたのが彼──そこに付いて回る色々な問題と向き合いながら。

 そのことはつまり、妹である若葉さんと競い合うような関係ではいられないことを意味する。

 

 後から知ったことだが、彼女のバンド活動を支えるため、そしてそのための決断によって、彼女を心配させないようにするために生徒会に入ったというのだから、その覚悟は本物だったといえる。

 

『っ──』

 

 私は二の句が継げなかった。

 それは彼への同情などではない。同情など、できやしない。彼を見て、勝手に諦めたと決めつけて、見下して、安心していたのだ。

 心が弱っていたことは間違いないけれど、それを理由にしてしまうくらいには、その時の私はあまりにも情けなく、哀れだったのだろう。

 

 惨めさに襲われて流した私の涙を、若葉さんは口を固く結んで見つめていた。

 あのとき、彼は何を考えていたのだろうか──

 

 ☆

 

「氷川さん」

「っ、は、はい」

 

 記憶の淵にあった意識が、名前を呼ぶ声に引きずられる。わずかに遅れて視線が追いついた。

 こちらを案じて覗き込んでいたのは、花咲川の生徒会長——鰐部さんだった。

 

「少し、ぼうっとしていたみたいだけど……大丈夫?」

「す、すみません」

「いいのよ。週末のこともあったし、疲れているわよね」

 

 気にしないで、と手を振って、淹れていた紅茶を差し出してくる。受け取ると、心地よいベルガモットが香った。

 

「問題ありません。考え事をしていたただけですので」

「あら、そうなの。もしかして、文化祭でのことかしら。何かあった?」

「いえ、大したことでは……。志哲高校の生徒会の方に、とても手伝っていただいたので」

 

「そういえば、お礼をしていないわね」と、彼女は口元に手を寄せる——嘘は言っていない。

 私の内情へ向けられた意識を逸らすことに成功したようで、それに安堵した。

 

「まあ、そもそも秋には向こうの学校の手伝いをするわけだし、次に集まったときにお話の中でいいわよね」

「はい。私もそれを考えていました」

 

 言いながら頷く。

 来週には羽丘への応援を控えていることもあり、それは案外すぐのことになりそうだった。

 

「あっ、そうだ。その文化祭のことだけど。ひかりちゃんが確か、何か言っていたわよね」

「はい。校内外からガールズバンドを集めて、対バンライブのようなものがやりたいと仰っていました」

 

 生徒会室での一幕のことを話すと、鰐部さんは顎を指で支えるようにしながら「なるほど」と思案に耽っていた。その催しに実現性があるのかは、私には見当がつかなかった。

 

「何か、その提案に問題があるのですか?」

「ううん。問題、というよりも事情……と言えばいいのかしら。志哲高校ならではというか」

 

 こぼれた言葉に、思わず興味が向かう。聞き入る私に、彼女は続けた。

 

「志哲高校は都立高校の中でも屈指の進学校でしょう? だから、日頃から家で勉強したり、塾に通う生徒が多いのよ。そのせいで、どうも文化祭だとか、学校行事が盛り上がらないって、ひかりちゃんが呟いていたから」

「なるほど……」

 

 長い思案をもたらした理由は、よく納得できるものだった。

 よく考えてみれば、志哲高校の執行部はわずか三人の構成になっている。それは、普段の仕事を回すのに精一杯の人数なはずだ。

 その仕事も、盛り上がらない行事のために淡々とやっていたのではやりがいがない。若葉さんのように推薦に必要なものと捉えている生徒もいるかもしれないが、それも日頃の成績があってこそのもので、必要のない労力をかけるくらいならば、と役員にはなりたがらないのだろう。

 

 そんな中で生徒会長になるくらいなのだから、きっと上原さんには学校に対して描いているものがあるに違いない──その手段としての対バンライブなのだと、鰐部さんは言った。

 

「だから、ライブをすることに問題はないし、むしろ積極的にお手伝いするべきだと思うの。ただ、その頃には三年生も受験に本腰を入れる時期だし、対バン先を見つけることも含めて、羽丘とも協力して残りの人員でどれだけ仕事を進めていけるか──この辺りが懸念すべきポイントかな、って思ったのよ」

 

 眼鏡を正す仕草が、言葉から滲む聡慧さを後押しするようだった。

 しかし、それとは別に、私にはまだ、その話がどうにも現実味を帯びたものであることを感じ取れないでいた。

 私たちが──花咲川の生徒会がそこに参加する理由はなんだろうか。

 

「……他校へも、私たちは力を注ぐべき、ということですか」

「そう、ね。もちろん、生徒会は自校の生徒のための存在であることは否定しないけれど……」

 

 どこか嬉しそうな表情で鰐部さんは言う。

 

「生徒や学校のことを第一に考えて働いたり、努力するのを支えることで、私たちも頑張ろうって思えるのよ。この間のお手伝いだって、伝統だから、ってだけじゃない。全部自分たちのことに置き換えて、仕事にやりがいを見つけたり、自信を持つことができる──ひかりちゃんたちも、そう考えているはずよ」

「……!」

 

 全部、自分たちのことに置き換える。

 

 その言葉が含むものは、どこか聞き覚えがあって──私は、ひゅ、と吸った息の行き場を失くしていた。

 

「文化祭のお礼も兼ねて、私は応援しようと思うけれど──氷川さん、風紀委員としても賛同してもらえないかしら」

「……そうですね。私は異存ありません」

「そっか。ありがとう」

 

 そんなことを言われてしまえば、私が取れる選択肢はただ頷くことだけだ。

 他人を知り、理解することがバンドとしての成長につながるのなら。

 絶望、憎悪、嫉妬──どす黒い感情の沼に浸された心が、そこから抜け出すことができるのなら。

 私はその答えを若葉さんに求め、そして一つの答えになりうるものを得た。それと同じことを、おそらく目の前の彼女は言っているのだと思う。

 

 私の疑問が晴れたことに安堵してだろうか、彼女は一筋の微笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 ♬

 

 

『他人の音を聞くことで、その人を理解できるかもしれない──他人に自分を理解してもらえるかもしれないのではないでしょうか』

 

 いつかの言葉が思い返される。

 控室に満ちた静寂の中で、私はギターに手を置いて残りのメンバーを待っていた。

 あの三人——白金さんを除いても、二人は約束の時間を守らないところがある。というよりも、遅刻の認識が甘いと言えばいいか。

 バンド活動に妥協は必要ない。だから、今までしてきたように、彼女らとの繋がりを断ち切ってもよいはずなのに、それができないでいる。

 

()()()()と、若葉さんの言葉が残り続けているから。

 

「……1分35秒の遅刻よ」

 

 息を切らして飛び込んできた今井さんたちを、できるだけ強く咎める。

 

「ご、ごめんごめん! おーっ! って気合い入れてたからさ☆

 2人とも一緒にやりたかったな~」

 

 鬨の声、ということだろうか。そうだとしても、そんなもので演奏の質が向上するなら苦労はない。

 第一、それをするならもっと早くに集まればいいだけのことだ。

 同じことを考えていたのかは分からないが、近くの椅子に腰掛けていた湊さんが厳しい目つきで立ち上がる。

 

「馴れ合いはやめて。気持ちの整理は個人で済ませてきてもらわないと困るわ」

「……っ! う、うんっ。大丈夫だって。それくらいちゃんとできてるよ~」

 

 やはり、湊さんの考えは私のそれに近いものがある。けれど、完全に同一、というわけにはいかないらしい——『変わった』私とは。

 周りにとっての私を意識するようになってから、気が付くこと、納得できることが増えた気がする。だから、気になってしまう——今井さんが言葉に詰まる様子が見えたことに。

 

「わ、わ……たし……も。みなさんと……演奏するって……決めたから……

 ——が、がんばり……ます……」

 

 震える声で、白金さんはそう言う。その調子で本当に頑張れるのか問い質したいところだが、今は時間がない。彼女なりの決意が、私とは違う形で言葉に表れているのだろうと考えておく。

 ——もっとも、それを確認するためにはもっと効果的な方法がある。

 

「口ではなく、音での証明をお願いね」

 

 私が本当に確かめたいのは——あの音、あの感覚。

 今まで、一人だけで追い求めてきたものがこのバンドにあるとしたら——私は、変われる気がする。

 

 

 ☆

 

 

 結果から言えば、私が願ったものはそこにあった——メンバー全体が一つの『音』に引き寄せられる感覚、そして音を創り上げているという充実感と、一つの弦を弾くたびに、一つの音が重なるたびに胸に湧き上がってくる狂おしいほどの刹那的高揚感。

 若葉さん——凪紗さんのバンドが共有している信念とは、感情とはこのことなのだろうか。そうであったらいいと思えた。

 

 しかし、そこに冷や水を浴びせたのは、重なり合った一つの視線と、わずかな音のズレ。

 音響と照明を操作するステージの後方、まさに思い浮かべた直後の彼女の姿があって、目を大きく見開いたその瞬間、隣の今井さんが弾くベースから不協和音が飛び出て——色が失われゆくその表情が、焼き付くように心に残るのだった。

 

「……」

「いつまでも泣いてんじゃないよ」

 

 ステージがすべて終わった後、私たちは控室に戻ってきた。

 今井さんは塞ぎ込むように座って、途切れ途切れ「ごめん……っ」と漏らすだけで、次第に流していた涙を嗚咽へと変えた。

 

「……ライブってのは、完璧な演奏が百点ってわけじゃない」

 

 続いたオーナーの言葉に、今井さんも私たちも、顔を上げる。

 

「客は、どうしてライブハウスに歌を聞きにくると思う?」

「それは……」

「今この瞬間、目の前のアンタたちがどんなステージを()りきってくれるか——それを楽しみにしてるんだ。

 ——演りきったんだろ?」

「……っ! はい……」

 

 言葉は確かに弱弱しいものだったけれど、頷く勢いには確かに自信と力があった。

 演奏を傍で聞いていた私も、その反応に嘘はないことが分かる——一つのミスに対して、涙を流すくらいの悔しさに頬を濡らすほどに、彼女はこのバンドに懸けているのだから。

 

 それは、宇田川さんにも、白金さんにも言えることだ。

 誰一人、ミスに対して妥協するような温い言葉を掛けることはない——人としての配慮は措くとして、心地よさすら覚えるくらいの冷たさがあった。

 

 だから、言えることがある。

 

「——落ち込んだところで解決はしません。演奏でのミスは、地道な練習で改善すべきです。……音合わせ、付き合いますから」

 

 その場の全員が私に振り返る。……湊さんが瞳に滲ませた吃驚が目立ったのは、気のせいか。しかし、私には似合わない台詞だったのだろう。

 気に食わないが、バンドとしての頂点を目指す以上、奏でる音を聞く経験を増やすことで、今井さんという人間を——ベースとしての能力や性格を理解することが、必要となるのだから、仕方がない。

 

 そのためには、私も変わらなければならないから。

 それが、心の深奥に留めおく()()のためでもある。

 

「っ、ええ。紗夜の言う通りよ。終わったことを悔やんでも意味はないわ」

「みんな……」

 

 僅かな動揺から立ち直った湊さんの言葉に、今井さんは一先ずの落ち着きを取り戻したらしい。

 私たちはオーナーにお礼を言って、SPACEを後にすることにした。

 部屋を出るとき、なぜか戸口に控えていた凪紗さん——とバンドの皆さんと目が合った。

 

「お、お疲れ様です。氷川先輩」

「ええ。凪紗さんこそ、お疲れ様です。今日は、スタッフの代理だそうですね。機材担当、ありがとうございました」

「いえ。私たちも、先輩方の演奏を見て、大きな学びになりました。これからも頑張ってください」

「ええ、お互いに頑張りましょう。……お兄さんにもよろしく」

「はい」

 

「「……」」

 

 とりとめのない後輩との会話は、しかしメンバーにとってはそうでもないらしい。何かしらの説明を求める目線には、できれば答えたくなかった。

 

 ☆

 

「それで、なんでこんなところにいるのかしら」

「まあまあ、せっかくライブ終わったんだし、おつかれ会ってことで☆」

 

 不機嫌な湊さんを宥める今井さんは、すっかり調子を取り戻していて、彼女の言葉に宇田川さんと白金さんは至極楽しそうに頷いた。

 

 ライブ後に襲い来る疲労感を引きずりながら、私たちは駅前のファミリーレストランへ足を運んだ。

 提案した宇田川さんや今井さんに対して、不要な関わり合いを避ける湊さんだったが、一番近い考えを持つだろう私が口出しをしなかったので、あの表情というわけだった。

 

「そうですよ! 今日のライブ、今までで一番ばばーんって感じでしたし!」

「あ.た、多分、皆さんと音を.合わせることができた、ということ、だと思います」

「そうそれっ!」

 

 語彙の欠如は本当に中学三年生かが怪しいが、それにしても腕前は本物だったといえる——白金さんも同じように。

 そして、興奮交じりに語ったことも、その注釈を聞いている限り、私の感じたものと大きな乖離はないように思われた。

 しぶしぶそれに頷いていると、今井さんがおもむろに口を開いた。

 

「……みんな。改めて、ごめん。せっかくグリグリとのライブだったのに」

「さっきも言ったでしょう。それはもう——」

「うん。でも、ちゃんと言葉にしておきたくて」

 

 湊さんに重ねるように、力の籠った眼で告げ、頭を下げた。

 

「ミスは、ミスだから。それを認めて、次につなげなきゃ」

 

 私の感じられる限り、そこに不誠実な態度の要素は一つも存在しなかった。湊さんにもそう思えたのだろうか、しばらく瞑目してからこちらに視線を寄せた。

 その合図は、おそらく彼女なりの決意であることが伺えて、私はそれに首肯くことにした。

 

「今井さん、顔を上げてください」

 

 向かいに座った今井さんの揺れる瞳が私を映す。そして、湊さんが続けた。

 

「……この短期間で、Roseliaのレベルは確実に上がった。それは私と紗夜の求めるレベルにはないけれど——あこと燐子だけじゃない、リサ、あなたも含んでのことよ」

「え……」

「今井さん、あなた、ずっと上手くなったと思う」

 

 その言葉に、今井さんは仰天する——誇張な表現が適切に思うくらいに驚いていた。

 つくづく日常的な自分の態度を考えさせられる。

 

「はっきり言って、最初の頃はあなたを誤解していたわ。だけど、今日の涙を見て気付いた」

「ど、どう思われてたのかめっちゃ気になる……! ってか、そのことはもう忘れて! いや、忘れて欲しいわけじゃないんだけど……!」

 

 今井さんの慌てように、宇田川さんは笑い出す。思わず空気を緩めてしまったが、湊さんはこほん、とそれを打ち切った。

 

「ともかく、本格的に5人での活動を始めるなら、あなたたちにも、そろそろ目標を教える」

「! 友希那……」

 

 それは、意思確認の問いかけ。

 これからの長く峻険な道のりに、自分たちの未来を懸けることができるか——湊さんは、それを迫った。

 

「《FUTURE WORLD FES.》の出場権を掴むために、次のコンテストで上位3位以内に入ること。その為にバンドには、極限までレベルを上げてもらう」

 

「練習メニューはあとでメールするわ。音楽以外のことをする時間はないと思って。ついてこれなくなった人には、その時点で抜けてもらう」

「……」

 

 FWFのことを未だ知らない宇田川さんと白金さんは戸惑っているようだが、今井さんは彼女に目を向けると、ごくりと生唾を呑み込んだのが分かった。

 彼女の背後に何があるのかは分からない。けれど、湊さんの堅固な意志に触れて、それが生半可なものではないことを理解して、前に進む覚悟を決めている。

 

「あなた達、Roseliaにすべてを懸ける覚悟はある?」

 

 激しい情熱を胸に訴えかける。それに動かされ、あるいは同調して、私たちは頷く。

 それぞれに理由はあるのかもしれない。しかし少なくとも私は思うのだ。

 結末など分からなくとも、私の醜さが、奏でる音を汚してしまっているこの現状と痛みの中で進んでいきたい。

 

 逃げるわけじゃない。私は戦いたいのだ。他ならぬ私自身と。

 そのためなら、何もかもを危険にさらす覚悟がある。

 

 後から顧みてみれば、このとき私たちが——《Roselia》が始動した瞬間だったのかもしれない。

 




バンドストーリーの時系列が正直めちゃくちゃなので、私なりの解釈で進めています。
多少の齟齬は見逃していただけると幸いです。


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#31:アカシア(綺羅星編②)

「「——向かいながら……っ!」」

 

 私たちの演奏が、そのフレーズで終わりを告げた。

 

「はあっ、はあっ.」

 

 ボーカルとギター、喉と腕に全ての集中力を注いで、すっかり私は肩で息をするくらいには体力が枯れ切っていた。たぶん、あまりにも必死すぎる形相がライブでは()()ないと思うんだけど、譜面に忠実に、一通りの演奏ができたように思う。

 隣の香澄はすこぶる笑顔だ。歌っている横顔が目に入ったとき、すっごく楽しそうだったのが印象的だった。

 

「……」

 

 振り返って他のみんなの様子を窺うと、どうにも顔色というか、雰囲気がよろしくない。……私には分からなかったけど、もしかしてトチっちゃったかな。

 そんな私たちの表情を見つつ、瞑っていた目を開いてオーナーは、

 

「やりきったと思うものは?」

 

 とだけ言った。

 ——”やりきった”って何だろ。Roseliaのライブが終わった後、控室でも言っていた気がするけど。

 文字面だけを追うなら、演奏が最後まで正しくできたってことかな。

 

 その言葉の真意が汲み取れないままでいると、ステージの上で、ただ香澄だけが勢いよく「はいっ!」と手を挙げていた。

 元気がいいなぁ.っていうか、みんなは手を挙げないんだな。

 

「ふん、ダメだ。うちのステージに立たせるわけにはいかないね」

 

 冷たく言い放つオーナー。あらら、ダメだったか。まだ演奏技術のレベルが足りないかな。

 

「あの……私たちの演奏が、ダメだったんでしょうか」

「まあ、Glitter*Green(牛込)たちと比べればね。ミスがあった、だけじゃない。ドラムのリズム管理が甘いし、キーボードは走りすぎてる。リードギターやベースはそれに引きずられてる」

「「……」」

 

 指摘を受けた私と香澄以外の誰も、何も言い返せなかった。

 

「……その点、()()()()目立ったミスはなかったね」

 

 突然、オーナーは私に矢のような鋭い目線を向けてきた。——この距離でその目は恐い。怒られてるわけじゃないのに恐ろしい……。

 

「それは褒められている……わけじゃないですよね」

「なんだ、分かってるじゃないか。その意味をよく考えてみな」

 

 口角を上げた彼女の言葉に、私は何度頭を捻っても満足のいく解釈を与えることができなかった。だから、黙ったまま頷いた。

 

「また受けます! いっぱい練習して、何回でも挑戦します!」

「何回でもね.がんばりな」

「はい!」

 

 香澄の熱意とは対照的に、オーナーが応える声のトーンは少し低めだ。その理由──SPACE閉店の事実を知ったのは、このすぐ後の出来事だった。

 

 

 ♬

 

 

「SPACEが閉店?」

「そうなんだって。オーナーが言うには、『私はもうやりきったから』って」

 

 久々にアルバイトや生徒会のない兄さんと夕食を取っているとき、思い切って相談してみた。

 相変わらず忙しい兄さんは疲れているかな、と心配だったけれど、昨日は沙綾の家でお母さんの代わりに家事をこなしたらしくて、そこまでのお節介が焼けるのなら大丈夫か、なんて変な安心感を抱いてしまっていた。

 

「やりきった……って何だ?」

「それ、私も思った。オーディション、不合格だったんだけど……その理由が、私たちが『やりきったか』って聞かれたときに手を挙げられなかったから」

「流石にそれだけで判断してるわけじゃないだろうな。演奏とか表情を見て、色々な部分から決めているんだろう」

「演奏レベルだけじゃないの?」

 

 そう言うと、兄さんは困ったような笑みを浮かべて、「まあ、その場にいないから詳しいことは分からないけどな」と前置きした。

 

「基準が演奏だけなら、わざわざそんなことを訊く必要もないだろ? 『やりきった』っていうのがなにかは分からないけど、音に表れない部分なことは間違いないと思ってさ」

「それもそっか.」

 

 まあ、仮にその言葉が形式的なものだとしたら、演奏レベルが足りているだけで合格してしまうものなのかもしれないけれど。

 私には、あの厳しくも情熱的な節のあるオーナーが、そんな無意味なことをするようには思えなかった。

 

「すまんが、それ以上は分からないな。よく考えてみれば、お前たちの演奏を聞いたのは市ヶ谷さんのお宅の蔵と、文化祭だけだから」

「まあそりゃそうでしょ。あとお前たち、じゃなくてポピパね。《Poppin’ Party》」

「ああ、そうだった」

 

 そう言って笑うばかりの兄さん。本当に分かってるのかな。

 私は、身体の火照りを冷ますようにコップの麦茶を一気に飲み干した。

 

「結構、楽しんでるみたいだな」

「楽しんでるっていうか、むしろ苦戦してるんですけど。こんなに困ったことってないくらい」

 

 空になったコップへピッチャーを傾けて、兄さんは言う。

 

()()()()()()って前に言ってただろ。たくさん悩む経験も、時には必要なんだ」

「ぐむむ.」

 

 そういえば、そんなことも言った気がする。反論ができなくて黙り込んだ私に苦笑しながら、兄さんは続けた。

 

「悩んで、答えを見つけ、行動する。そんな挑戦の繰り返しが人を成長させるんだ」

「.なんか、お父さんっぽいんだけど、その台詞」

「老けてるって意味なら違うからな。俺はまっとうな高校生活を送る中で学んだんだ」

「まっとう、って.第一、兄さんは何に挑戦してるの?」

「最近ならこれだな。ほら」

 

 即答しながら彼が通学鞄から取り出したのは、分厚い本——『学科試験教本』って書いてある。

 描かれているのは、車やバイクのイラスト。

 

「これ.免許?」

「そうそう。二輪なら高2でも取れるらしいからな。来年は技能教習だけやって4輪も取るよ」

 

 最近は少なくなってきているけれど、免許を取る人はどこの高校にもいるらしく、図書館で借りてきたんだと付け加えた。

 

「でも、何のために?」

「ああ。実は、ベーカリーで配達をする頻度が増えたらしくてな。人気が出たみたいで、亘史(こうし)さんだけじゃ大変になってしまったらしくて」

 

 亘史さん、つまり沙綾たちのお父さんはパンを作るだけじゃなくて、配達の仕事も担当しているらしい。

 近くの地域限定だけど、今流行りの配送サービスを行うスマホアプリと連携したことで、それがぐんと忙しくなったとのこと。

 

「……今までよく家族でやってたよね」

「そりゃあ沙綾ちゃんも手伝いをやめられない訳だ。……まあ、売上とか家計とか、そのあたりの話が関わってくるんだろうけどな。俺たちにはまだ分からん」

 

 そういう意味で兄さんがお店の手伝いに入ったことは、ベーカリーにとっても山吹家にとっても役立っているらしく、やりがいをもって働けていると兄さんは言った。

 

「確かに毎日忙しいけれど、そこには新しい発見があって——俺はそういう『挑戦』を楽しめているよ。凪紗はどうだ?」

「私は……」

 

 兄さんは限られた環境と時間の中で、精一杯に頑張っている。自分のこと、家族のこと、周りのこと——今まで経験したことのないこと全てを自分の挑戦と捉えて、頑張ってる。

 分からないことだらけなのは、私だけじゃない。

 

 だから、私も頑張れるはず。

 

「バンドを──ポピパの活動を続けていくためにも、オーディションが一番の挑戦なんだと思う。だから、私たちの力で考えて、悩んで……超えてみせるよ」

「うん、その意気だ」

 

 兄さんはにっと微笑んだ。

 それに応えるように、私は突き刺したフォークの先にあるキノコを、ぱくっと口に放り込むのだった。

 

 

 ♬

 

 

 翌日から、私たちの練習はいっそう濃くて激しいものになった。

 閉店の話にショックを受けて、理想の花園ランドが見えてしまっていたおたえも、香澄の熱意にすっかり影響されて、こちら側の世界に帰ってきた。

 

「休憩中なんだし、ちょっと休めば?」

 

 香澄の音合わせに付き合っていると、有咲が声をかけてきた。

 

「ううん、大丈夫!」

「一緒にやってて何だけど、気合入ってるよね。指、切っちゃったんでしょ? もう痛くない?」

 

 そう言って指を差した先には、絆創膏に包まれた香澄の手指。

 昼休みも、蔵でも家でも練習しているせいで、すっかりぼろぼろになってしまっている。もっとも、それはおたえも私も、他のみんなの入れ込み具合と同じだった。

 

「うん、平気……《CHiSPA》のなっちゃんたちも合格したみたいだし、私ももっと頑張らなきゃって思って」

 

 沙綾がもといたバンド、《CHiSPA》の面々とは、よく連絡を取り合っていた。結果的には沙綾というメンバーを引っ張ってきたような形になっちゃったから、そのあたりは引け目に感じていたけれど、リーダー(なっちゃん)をはじめ、彼女の選択を応援してくれていたようだった。

 

「海野さんのところか……まあ、経歴はあっちの方が長いけど、クラスメイトのバンドが合格したって聞くと、な」

 

 腕を組んだ有咲。なっちゃんとは同じクラスだから、バンドの話をするのかもしれない。

 っていうか、あの子から聞くクラスでの有咲の様子って、本当に同一人物ですかって感じなんだよね。お嬢様扱いされてる? 

 

「……」

「香澄?」

 

 視界の端、じっと指先を見つめる香澄。その様子が彼女らしくない神妙さで、思わず呼びかけた。

 

「ううん……大丈夫」

 

 まったく同じ言葉、同じ反応のはずなのに、何かが違う気がしてしまう。

 ふと、香澄を挟んで向かい側の有咲と目が合う──彼女は視線に乗せて、何かを伝えようとしているようだった。

 

 ☆

 

 練習後、私は「質屋に気になるものがある」というギリギリの嘘をついて、有咲と一緒に蔵に残った。

 まだまだ練習し足りない様子のみんなは、しかし時間も時間なので、個々での自主練を頑張ろうと意気込んだ様子で家路に就くのだった。

 ──ただ、香澄の見せた表情の翳りだけは、拭い去ることができないでいた。

 

 

「……ったく、あいつら、食うだけ食っていきやがって」

「まあまあ、練習に熱も入ってたしね」

 

 広げ散らかしたお菓子を片付けながら、愚痴をこぼす有咲をなだめる。それから、黙々と掃除をしつつ、少しの沈黙が続いた。

 それを打ち破ったのは有咲だった。

 

「……あいつ、大丈夫かな」

「あいつって、香澄?」

「うん」

 

 だいたいの片付けが終わって、ソファに腰かけながら、彼女は小さく頷いた。少しずつ、彼女の考えが分かってくる。

 

「あいつにさ、『がんばるのってしんどくないか』って聞いたんだよ。完璧な演奏ができたら、SPACEでライブができたら、それがゴールなのかって……」

「香澄は、どんな反応だった?」

「まあ、私も試すつもりはなかったんだけど……『楽しい』って」

「そっか」

 

 香澄は、どんなことでも楽しんでみせるくらいの気持ちで、バンド活動に挑んでいるようだった。

 そこにゴールとか、満足とかはなくて──ただ、楽しいだけがそこにあるのだと、そんな風に香澄は()()()()()

 

「……あいつは、本当にそう思ってんのかな」

「有咲は、バンドやるの楽しくない?」

「……それ、香澄にも言われたよ。あの時は香澄に『楽しくないの!?』ってマジで迫られたから、咄嗟に違うって言ったけど」

「うん。わざと訊いた」

「お前なぁ……」

 

 へへ、と笑みを傾けて、呆れた有咲の膝に飛び込んだ。

 

「ちょ、ちょおまっ」

「……『楽しい』だけ、感じられてたらいいんだけどね」

 

 有咲は私を引き剥がそうとする手を止めた。

 そりゃ、みんなで演奏してるのはめっちゃ楽しい。メンバーそれぞれの役割があって、お互いがお互いを想いあって、音を重ねる時の気持ちを、私は忘れられない──香澄に言わせれば、『キラキラ』と『ドキドキ』がそこにはあるから。

 だけど、そればかりがバンドではないということを、私たちはよく知っている。

 

「沙綾のときのこと、一つとっても、すっごく切なくて、苦しくて……地道な練習に疲れ果てることだってあるんだよね」

「私は、ずっと一人だったから……今こうしてバンドを組んで練習することに、まだ戸惑うときがあるよ。楽しくないって言うと、香澄みたいな反応をされるかもだけど……まだ、完全には馴染みきってないんだ」

「ええ? それはなんか寂しいなあ」

「お前や香澄みたいに、みんながコミュ力あるわけじゃねーからな……ってか、いつもそう思ってるわけじゃなくて、自分の中で、整理をつける時間がまだ必要ってだけだ」

 

 頭の上に、控えめに有咲の手が置かれた。

 こうやって簡単に距離を詰める私や香澄に対して、有咲が慣れることに未だに時間を必要としているように、香澄には香澄の、超えていかなければならない壁がある。

 バンドを通して、私たちは一つになった。だけど、私たちそれぞれが抱えるものが無くなったわけじゃない。

 

「誰かに悩み事ができたとき、それがみんなに伝わっていけばいいのにね」

「開けっ広げすぎだろ……プライバシーどこ行った」

「ふふっ」

 

 楽しいだけじゃない、悩みもある、私たちのバンド活動。

 私たち六人が、自分の気持ちをぶつけ合って、演奏を重ねあって、それだけじゃ届かないものもある。抱え込んでしまうモノに、手を差し伸べられるように、想いを寄せ続けないといけないんだ。

 

「……香澄、何してるかな」

「自主練してるんじゃないかな。……いろんなバンドのこととか、オーナーの言葉とか、『楽しい』の裏にあるものと、たぶん戦ってる」

 

 有咲の手を、両手できゅっと握って、私は目を閉じた。

 ──たった一人で努力を続ける、あの子のことを想って。

 

 

 ♬

 

 

 二回目のオーディションを数時間後に控えて、私たちはいつものように蔵の前で集合した。だけど、いつもと様子が違う──一番乗りの彼女は、十分経っても二十分経っても、姿を見せないのだ。

 

「香澄ちゃん、どうしたのかな……」

「来る途中で、電車が止まっちゃったとか、かな?」

 

 それぞれの心配をよそに、ふと、ポケットの中のスマホが振動を伝えてくる。明日香ちゃん──香澄の妹さんだった。

 

「あっ、明日香ちゃん? もしかして、香澄のことかな。何かあった?」

『突然連絡してすみません。それが──』

 

 

 

 




長い間空けてしまいました(といかほぼ一年経ってる)
6周年に向けて執筆のモチベーションを取り戻しています。頑張って仕上げたい。


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#32:(青薔薇編②)

6周年おめでとう!ってことで連日投稿。


「ねえねえ、紗夜」

「何ですか」

 

《Roselia》の決起を誓った直後のファミリーレストランで、今井さんは私に好奇の視線を向けてきた。

 心当りがすれば、今日のライブ後、控室を出てからのことだ──

 

「さっきの後輩ちゃんとはどんな関係なの? たしか、『お兄さん』がどうとか言ってたけど」

「ああ、そのことですか……」

 

 輝きを湛えた瞳は、しかし私にとっては少し鬱陶しいと感じられる。

「特に面白い話でもありません」と但し置いて、私と凪紗さん、そしてお兄さんの関係を、所属する風紀委員会での仕事上の付き合いと、簡潔に説明した。

 

「へえ、風紀委員……志哲高校との付き合いって、どういう感じなの?」

「それなりの大きさのイベントになると、近くの高校同士で役員を派遣するんです。以前は花女での文化祭で助力いただきました」

「そうなんだ! ……生徒会って聞くと、なんかお堅いイメージがあったけど、結構つながりができて楽しそうだねっ」

 

 おそらく、私の簡素な返答は今井さんにとって面白みもなく映ったに違いないが、彼女はそのような素振りを見せなかった。

 少し大げさにも思える彼女の反応は、しかしコミュニケーション相手への気遣いが滲んで見えるようだった。

 

「あ、あの」

「……?」

 

 ふと、今井さんの隣で小さく手を挙げたのは、ドラムを担当する宇田川さんだった。

 

「そ、それってもしかして、来週の羽丘の文化祭にも参加するってこと? ……ですか?」

 

 敬語は苦手なのだろう、最初の語尾を隣の白金さん──キーボード担当だ──に諫められて取り繕っている。

 

「ええ、その予定です──そういえば、あなたのその制服」

「はいっ! あこ、羽丘生なんです。まだ中等部だけど……」

「私たち、ダンス部で一緒なんだ。今度の文化祭で、チームを組んでるの!」

 

「ねー?」と両手を重ね合わせる二人の仲は睦まじいようである。──まあ、険悪なムードを練習に持ち込まれるよりはマシだろうか。

 すでに羽丘での文化祭実行委員会は数度開催されており、私も参画しているのだが、花咲川よりも多くの団体が出店し、またステージへの出演を予定しているようだ。

 

「貴女たち……」

 

 意識の外から声が掛けられる。

 テーブルの側に立っていたのは、ドリンクを持った湊さんだった。短い言葉にも僅かな苛立ちが見え隠れしている。

 

「ゆ、友希那」

「言ったでしょう。『ついてこられなくなった人には、その時点で抜けてもらう』と。……リサ、貴女はそれを理解していると思っていたのだけれど」

「ご、ごめんごめん! 確かに部活との両立は難しいの分かってるよ。……バンドメンバーとして出遅れてる分、しっかりやらなきゃってことも」

「……」

 

 気まずさからか、わずかに顔を伏せた今井さん。

 湊さんの指摘はもっともであり、私たちは遊びで音楽をするわけではない。今日のライブの結果を踏まえるならば、部活に関わる事情は、今井さんの練習をよりハードにする要素にしかならない。

 彼女もそれを分かっているのだろう。だから、私が言えることがあるとするなら──

 

「バンドと部活、どちらも必要であるというのが、今井さんの私情なのでしょう」

「……! 紗夜」

 

 私の物言いに、湊さんの喫驚は繰り返される。それが戸惑いとなって、憤りと変わったのだろうか、彼女は少し睨めつけるように続ける。

 

「『バンドに私情を持ち込まない』……これは、貴女も同意したことだったはずよ」

「ええ。しかしその私情を知らなければ、メンバーも、メンバーが奏でる音も理解できません。演奏に向ける意識の乖離の先に、《Roselia》が追求するものはないと考えます」

「だからって」

「もちろん、ステージに立つための練習が必要な点では、ダンスもバンドも同じです。そのどちらにも努力を振り分け、なおかつレベルを上げるということは、簡単にできることではないわ」

 

 そう言いながら、今井さんへ視線を向ける。少し、居心地の悪い表情が浮かぶ。

 

「それでも──今井さんは決断した」

「っ」

 

 誰のものとも分からない、息をのむ音が聞こえる。

 今日、ステージで得た直感、そして控室で流した涙が、彼女の決断の背後にあるのだろう。私は、それをもっと深く知りたいと思った。

 

「納得できないわ。貴女にも、音楽を始めた私情があるというの?」

「……ええ。今はまだ、話せませんが」

 

 信じられないものを見るような──、否、裏切られたような反応を見せる湊さん。以前との矛盾を孕む私の論理は、理解を求めるのに苦しかったのかもしれない。

 

「ただし、演奏に私情は不要です。ライブハウスのステージの上では、私たちはRoselia(演奏者)でなければならないのだから──」

 

 オーディエンスは、生み出される音だけを求めに来る。そこに、余計な演出も感情も必要ない。

 ──ゆえに、失敗が許されないのだということを言外に伝え、私は湊さんの視線を受け止めた。

 

 

     ♬

 

 

「へえ、七菜っちがそんなことをねぇ」

 

 翌日、授業を終えた私は、羽丘学園へと足を運んだ。花咲川、志哲両校の生徒会役員がちらほらと姿を見せ始める会議室で、上原さんにこの間のことを訊いたのだった。

 

「鰐部さんは、上原さんがそのように考えているはずだと」

「確かに、対バンはちょっとやってみたかったんだよね。演者としてというより、企画して学校を盛り上げたい……みたいな?」

 

 音楽の経験を問うと、「紗夜ちゃんみたいにバンド組んで、とは行かないけどね」と苦笑した。

 私は、これまで上原さんの計画が彼女のやりたいことを盛り込んだものであると思っていた。だから、自分の音楽経験に関係なく、ましてや舞台に立つことなく文化祭を企画する(ある意味)謙虚な姿勢を意外に感じたのだ。

 

「対バンは、目的のための手段にすぎないということなのですか?」

「正直、出てみたいっていう気持ちもあるよ。でもね、それよりも大切な信念、っていうのかな。それが私の中にあるんだ」

「信念、ですか」

 

 上原さんは照れくさそうに頷く。

 

「『自分の行動ひとつで、世界は変えられる』……私は、そう信じてるんだ。世界っていうとすごく大きく聞こえるけど……周りの環境に息苦しく思ったり、少しでも良いものに変えていきたいって思ったとき、声を上げて行動することが大切だって思う」

 

 その瞳は、慌ただしく会議室の準備を行っている羽丘の生徒会役員に向けられている。

 

「私の行動が誰かに響いて、その中の一人がまた行動を起こしてくれたら、変化の波は続いていく。こうやって、他の高校の文化祭を手伝うのだって、『仲間探し』でもあるんだよ。共感してくれる人を探したり、自分の行動がたくさんの人の役に立つことで、自信になっていくしね」

「なるほど……」

 

 上原さんの信念は、とても壮大なものだった。それでも、その考えの下で、彼女は着実に力をつけているのだということが分かる。

 多数の生徒の信任を受け、生徒会長になった事実がそれを物語っているからだ。

 

「お、お待たせしました! 会議室の設営が終わりましたので、これから打合せを行いたいと思います!」

 

 どうやら、準備が整ったらしい。高等部の生徒だろうか、グレーのブレザーを着た女子が、呼びかけとともに声を響かせる。

 花咲川の役員の待つ長机に移動しようと上原さんに目を向けると、「だからさ」と言葉が続いた。

 

「紗夜ちゃんも、『仲間』になってくれないかな」

「……私は、もうその一員のつもりですよ」

 

 私の言葉を、彼女は花の咲くような笑みで受け入れたのだった。

 

     ☆

 

 打ち合わせは予定時刻をしっかりと守る形で進められていった。

 花女での文化祭の形式を踏襲し、風紀委員は三校を跨る合同警備の体制を組むことになっている。取りまとめを行った私は、警備ルートを当日の進行に合わせて調整しつつ、注意事項の共有を行った。

 

「……すでに知っている方もいらっしゃるかと思いますが、花女では未然に防がれたものの、生徒の転落事故が起こっています。危険な行為や不審な点がある場合は即座に報告を行い、怪我人が出た場合、緊急の対応が取れるよう、これまで以上に警戒態勢を整える必要があります」

 

 特に人手の多い文化祭では、避難、搬送、連絡を行う「道」が最重要となる。そのためにも対策は必至だ。

 若葉さんの報告に続く形で、羽丘の校舎地図をもとに当日の役割分担を進め、一時間もかからず会議は終幕を迎えた。

 

「──それでは、これで風紀委員の話し合いを終了します」

 

 解散となって、多くの生徒は帰り支度を始めているなかで、若葉さんは参加団体の確認が行われている教室の前方を見つめていた。

 

「どうかしましたか?」

「はい、なんだか不穏な空気が」

 

 彼の指差す先には、志哲の二人と話し合う二つの団体がいて、何やら重い空気が漂っているようだった。

 近づいていくうちに、片方に見知った顔を見つける。

 

「今井さん、宇田川さん」

「えっ、あ、紗夜!」

「紗夜さん!」

「ああ、青葉さん」

「お〜、律夏さんじゃないですか〜」

「「……」」

 

 若葉さんと顔を見合わせる。

 

「……知り合いが多いみたいだね?」

「ちょっと混乱しちゃうから、自己紹介を先に済ませようか」

 

 私達は、上原さんと北沢さんの提案を、ひとまずは受け入れるしかないと頷いた。

 

     ☆

 

「えっと、じゃあまとめると……」

私の愛すべき妹(マイスイートシスター)、ひまりがリーダーのバンド、《Afterglow》のメンバーがこの子たち」

「ちょっと、もう! お姉ちゃんは余計なこと言わないで!」

 

 耳が痛い姉妹愛に溢れた会話を繰り広げる上原さん姉妹。それに苦笑して並んでいるメンバーに視線を移す。

 

「精肉店の僕とベーカリーの律夏、羽沢珈琲店のつぐみちゃんと、常連のモカちゃんは、商店街のつながりが強いかな」

「練習終わりとかにも、よく寄ってるので知ってますよ~」

 

 ゆっくりとした独特のペースで青葉さんが応える。若葉さんが声を掛けていたのはそういう事情があったからなのだろう。

 

「まあ、つぐちゃんのとこでよくお茶してるから、商店街に関わりはあると思うんだけど、こっちの二人は美竹蘭ちゃんと宇田川巴ちゃん」

 

 上原さん──ひかりさんの紹介に、美竹さんは短く、宇田川さんは大きく応える。ふと、その苗字に心当りがあった。

 

「宇田川さん、というと……」

「あこのお姉ちゃんなんです!」

 

 自信満々、どこか誇らしげな様子で宇田川さん──あこさんが言う。兄妹、姉妹関係が複雑に絡み合うので少々ややこしい。

 

「そちらはダンス部の代表さんって聞いてるんだけど、紗夜ちゃんの知り合い?」

「ええ、紹介してくださった皆さんと同じく、バンドを組んでいるんです」

 

 一同の関心が私たちに移ってきたので、少しだけ《Roselia》の説明をする。

 

「先ほどの宇田川あこさんがドラム、私、氷川紗夜がギター、そしてこちらの今井リサさんが」

「ベース担当だよー☆ モカとはバイト仲間だから、《Afterglow》のみんなの話は聞いてるんだ~」

「いえ~い」

 

 意外な形で今井さんの交友関係が垣間見えることになったが、それよりも聞き捨てならないのは彼女がバイトをしているという事実である。

 ──昨日の言葉、嘘とは言わせないわ。

 

「か、隠してたわけじゃないって! しっかり約束は守るってばぁ!」

 

 本当は詰問しなければならないのだが、今はそのような場面ではないだろう。一通りの紹介が済んだところで、事情聴取を始めたいところだ。

 ため息を一つ吐いて、若葉さんへと視線を送った。意図が伝わったのか、彼が話題を切り替える。

 

「まあ、意外な遭遇だったようなのでバンド内でのお話もあるでしょうが……ひとまず自己紹介を頂いたので、トラブルの原因になっていることを教えてもらえますか」

「えっとね……簡単に言えば、出演時間の確保を間違っちゃって、このままだと文化祭ステージに用意した時間通りの進行ができないから、どちらかの出演を取り消しにしろって言われてるみたいで」

「本当ですか」

 

 流石の若葉さんも、鉄仮面が剥がれた様子だった。指示の通りなら、二つの団体同士で話し合いを行わなければならないというわけで、必ず揉め事となってしまう。

 

「出演を取りやめるなんて……そんなの、ありえません」

「蘭ちゃん」

 

 美竹さんが静かに声を上げる。寡黙ながら言葉には気迫が籠っていて、それだけバンド活動にかける思いが強いのだろうと推察した。

 ただ、それは今井さんたちにも言えることだ。

 

「私たちもさ、部員みんなで出られる機会って選抜のない文化祭くらいだから、大切にしたいんだよね」

 

 真っ向から対立することはきっと彼女たちも望んでいない。控え目な口調ではあったが、部員や部活動全体を背負った発言だった。

 

「ごめんなさい……生徒会も、実行委員会とよく確認を取っていたつもりだったんですが」

 

 羽沢さんが心苦しそうに零す。

 よく見れば、ホワイトボードの前で呼びかけを行っていた生徒であることに気が付いた。生徒会役員であれば、その責任を感じているということだろうか。

 励ますように肩を抱いたひかりさんに続いて、志哲高校の面々が話し合う。

 

「つぐちゃんはまだ一年生だし、気負うことないよ。それより、これからどうするかを考えよ?」

「は、はい」

「そうですね。今のところ起こっている問題は、ステージ時間が足りないせいでどちらかの団体が出演できないってことだけど」

「対応できるとしたら、二択……ステージの時間を調整するか、団体数を減らすか」

「やはり団体数を削るのは揉め事の種となるでしょう。となると可能性があるとすれば、ステージ時間の調整しか残りません」

 

 これまでの話をまとめると、その結論へと落ち着く。しかしながら、それを実現できるかどうかについてはまだ分かっていない。

 可能な限り二つの団体の意志を尊重したいところではあるが、理想や愚痴だけを口にするだけでは解決しない。

 

「となると、他の団体も含めて、ステージの予定時間を切り詰めるためにも、当日の進行を一度把握しておきたいですね」

 

 北沢さんの言葉に反論はなかったが、窓からはすっかり西に傾いた陽光が差し込んでおり、完全下校時刻を目前に控えていた。

 

「まだまだ話し合いをしたいところなんだけど……今日は解散にしようか。まずは《Afterglow》とダンス部からステージ調整をするとして、次に集まる時までに、出演スケジュールをまとめておこう!」

 

 ひかりさんがうまく総括し、ひとまず当面の方針が決まった。

 一息つきたいところだが、文化祭まで時間がない。次回の招集まで待つ余裕ももちろんなく、私たちは大きな課題に直面することになった。

 

 

     ♬

 

 

「リモート会議、ですか?」

「ええ」

 

 何度目かの帰り道、若葉さんの提案に訊き返すと、彼はスマホの画面を見せながら首肯した。

 

「連絡の取りやすいメンバーを団体の担当にするということでしたが……俺はダンス部や《Roselia》の皆さんと初対面で、連絡先も分からないので」

 

 私たちは毎週の定例会議を中断し、その代わりに緊急で今回の問題について話し合う場を設けることにした。

 それまで、二つの団体に連絡の取りやすい役員──《Afterglow》であれば姉のひかりさん、ダンス部もとい《Roselia》に対してはメンバーの私、という形でスケジュールの聞き取りを分担することになった。

 北沢さんと若葉さんはその補佐ということで、彼らも二手に分かれている。

 

 彼の手元の画面には、私も使用している通話・チャット用アプリの連絡先が映し出されていた。

 

「……」

「沈黙は怖いんですけど……嫌なら、そう言ってください」

「あ、いえ……」

 

 そういえば、ここまで彼と連絡先を交換していなかったことに気付く。──というよりも、彼からそれを提案されたことに、少し驚いて硬直してしまっていた。

 彼の手のひらに重ねるように、カメラ機能でコードを読み取った。

 

「まだ、連絡先も知らなかったんですね、私たちは」

「まあ、顔を合わせるのが仕事……というか生徒会の会議ばかりなので。()()も、その一環になりますね」

 

 表示された連絡先の『追加』ボタンをタップすると、若葉さんの名前とアイコンがポップアップされる。

 

「氷川さんにアプリで会議用コードを発行してもらって、それを送信してもらえれば、みんなが参加できます」

「なるほど……」

 

 確かに、この短期間で予定を合わせるのは無理がある。通話や会議なら、そもそも外出する必要がない。

 しかし、会議にメンバーを招待するためには、今井さんや宇田川さんの連絡先を知らなければならないわけで──

 

「……まさか、バンドメンバーの連絡先」

「交換する必要もないと思っていました」

「……」

 

 若葉さんは苦笑を漏らした。

 

「バンドなら、生徒会以上に必要になりますよ、きっと」

「個人間のやりとりは不要だと思っていたんです。『私情は持ち込まない』というのが原則ですから」

 

 リーダーの湊さんが予定を決め、それを伝達する。それだけで、バンドとしては十分機能していた。

 しかし、今となってはどうだろうか。

 

「あえて『私情』に踏み込むことも必要だと……今は理解できるようになったと思います。今日だって、バンドメンバーが抱えていた問題に気付くことができた」

 

 特に今井さんは、技量の問題もあって、このままでは課題を抱えすぎてしまう。このメンバーで《Roselia》を結成した以上、その解消は早いほうがいい。

 FWFを超えたその先──高みへの道のりは遠いが、成すべきことは目の前にあると分かっている。

 

「今回は、個人間の課題だけじゃなく、バンドや生徒会、文化祭全体の課題でもあります。やるべきことを、できるだけ早くやっていきましょう」

 

 決意を秘めた言葉に、私は小さく頷いた。

 



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#33:モラトリアム(綺羅星編③)

筆がまだ続いている……もう少し頑張りたい。


「……」

 

 梅雨時の曇天が、肩に重く圧し掛かる。

 花女の廊下で、私たちは沈黙を続けていた。

 

「香澄ちゃん、大丈夫かな……」

「病院行ったから大丈夫だよ」

「無理しちゃったのかな……」

 

 憂いの色を濃くするりみに寄り添いながら、沙綾は気丈に声をかける。

 私はまだ、押し黙っていた。

 

『お姉ちゃん、声が出なくなっちゃったんです』

 

 昨日の練習前、電話越しの明日香ちゃんに告げられた一言を、私は思い返していた。

 心配をかけさせまいと、努めてなんでもないことのように振る舞う明日香ちゃんの配慮を感じて、しかし正反対に私はその重さを推し量ろうとしていた。

 

 ──声が出ない、ってどういうこと……? 

 

 声を文字に換えて、それでも頭で理解することができない。正確には、どうしてそうなってしまったのか、考えることができなくなってしまっていた。

 りみが言うように、無理が祟ってしまったのだろうか。それとも──

 

「あ……」

 

 その声に意識を引き戻される。ちょうど、階段から香澄が上ってくるところだった。

 目が合って、小さく手を振った彼女に、いつもの明朗な声はない。すぐさま有咲が詰め寄った。

 

「バカ! 身体壊すまで練習すんなよ! 声出なくなったら意味ねーだろ!」

「有咲、やめなって」

「……ごめん」

 

 有咲を制して、沙綾は「どうだった?」と訊く。

 今までに比べると数段声の小さくなった香澄の口元に集まって、身体には問題のないこと、しばらくの休養が必要なことが分かった。そして、

 

「ごめんね。オーディション」

 

 と、呟きの中に漏れた苦しさも、伝わってきた。

 

「まだ、チャンスはあるでしょ」

「またがんばろ」

「身体壊さない程度に」

 

 前を歩く沙綾たちが振り返って、そう励ます。それでも香澄の表情は変わらなかった。

 

「……今日の練習、みんな来られる?」

「は? なしに決まってんじゃん」

 

 これ以上は流石に無理をさせるわけにはいかず、沙綾たちも有咲の言葉に同調した。

 練習するとしたら、残った私たちだけなんだけど──

 

「うん。一度、私たちも休みにしよう」

「え?」

 

 訊き返してきたたえに、私はそれが聞き間違いじゃないと頷く。

 

「もちろん、自主練するってときは蔵に行くだろうから……今日は自由参加。私は委員会もあるし、一度ギターから離れて考えたいことがあるんだ」

 

 もちろん、楽器って継続が大事だし、最低限指を動かすことはするつもりだけど。

 私には、先に向き合わないといけないことがある。──そして。

 

「香澄が戻ってくるのを、待ちたい」

「凪紗……」

 

 この六人が揃ってなきゃ意味がない。みんなでしか奏でられない音がある。それまで、私がやるべきことをやらないといけないんだ。

 暗雲からは、細糸のような雨粒が伸びてきていた。

 

 

 ♬

 

 

 長雨はとどまることを知らず、放課後になった。しとしとと、その勢いを変えないまま、只々降り続けている。

 春には都電の車窓から見えた桜も散り、景色の暗さと合わさって、どこかしんみりとした空気が車内には漂っていた。

 

 ──香澄。

 

 心の中で名前を呼ぶけれど、あの子にはもちろん、誰にも聞こえるはずがなく。

 

 練習を頑張っていることは知っていた。バンドとしての完成を目指すだけじゃない、有咲の言うように、自分が抱えるものと向き合いながら、みんな、頑張ってた。

 どこで間違ってしまったんだろう。渦を巻く思考の迷路の中で、私は一人、香澄の心を見失ってしまっている。

 速度を緩めた電車は、一つの駅で停まった。

 

「……あれ、凪紗ちゃん?」

「え……あっ、こんにちは」

 

 乗客の中に、手を振って近づいてくる人──ゆり先輩を見つけた。彼女は折りたたみ傘を鞄にしまいながら隣に座った。

 

「なかなか止んでくれないね」

「はい……ゆり先輩、電車通学なんですか? りみは使ってなかったと思うんですけど」

「雨のときは使ってるよ。あと、今日は大学のことで先輩と相談するから」

 

 ゆり先輩は三年生で、もちろん来年受験があるから、志望校の研究は必要なんだろう。

「凪紗ちゃんにはちょっと早いよね」と言いながらも、見せてもらったとある大学のパンフレットには、『留学制度について』と書かれているのを見た。

 

「留学されるんですか」

「うん、どんな形になるかは分からないけど、今は海外で勉強することを考えてるんだ……あっ、りみにはまだ内緒ね?」

 

「しーっ」と、口元で指を立てる。美人だからすっごい似合うな……。

 

「じゃあ、バンド(グリグリ)の活動は……」

「うん、そうなるとお預けかな」

 

 目を伏せてそう言ったゆり先輩の表情には、しかし憂いや気まずさが見られなかった。

 だとしたら、バンドメンバーと揉めることはなかったのかな。

 顔に出ていたのか、ゆり先輩は笑って、

 

「心配してくれてありがとう。みんな、納得して応援してくれてるよ」

 

 と言ったのだった。

 

「そうなんですか……」

「そういう凪紗ちゃんの方が、悩んでるみたいだね」

「えっ」

 

 私、さすがに顔に出すぎじゃない? 

 そんなバレバレの表情に、ゆり先輩はさらに笑みを深めるのだった。

 

 ☆

 

 

「そっか、香澄ちゃんが……」

 

 正直にバンドのことを白状すると、その深刻さの一端でも伝わったのだろうか、ゆり先輩は相談に乗ってくれた。

 考えようによってはたった二学年の先輩だけど、とても大人びて見えて、こんなに心強いことはなかった。

 

「声が出なくなるなんて、普段の香澄からは考えられなくて……私は、練習で無理をしたってだけが原因だとは、思えなくて」

「そうだね」

 

 ゆりさんはそう答えて頷く。

 

「緊張でそうなっちゃうこともあるけど……じゃなければストレスかな。それでうまく行かなくて、なおさら無理をしちゃう」

「ストレス……」

 

 ストレスというのは、たぶん身体の問題ではなくて、心にかかる重圧のことを言っているんだろう。

 それが原因だとしたら、香澄は一体、何を思ったんだろうか。それを知るためには──

 

「私たちができること、って何だろう……」

「……」

「……あっ、す、すみません! すっごいため口になっちゃって」

 

 ゆり先輩に訊いたわけではなく、自問自答していた。……思ったことがすぐに口に出ちゃうの、まずいなぁ。

 必死の弁明に彼女は「別に気にしないよ」と笑い、そして続けた。

 

「同じ楽器と、ボーカルの担当として、私は自分で乗り越える問題だと思うんだ。特に、香澄ちゃんはバンドのリーダーで、みんなを引っ張っていく立場だしね」

 

 言っていることは、私も理解できる。練習の中でずっと考えていたことだから。

 

「でもね、香澄ちゃんはずっと思い悩んでいる中で、見えなくなっているものがあるのかもしれない」

「見えなくなっているもの……」

 

 香澄が見えなくなっているもの──そう簡単に見つかりそうにない。

 

 ──もし、心に触れられたら。

 

 そう考え込む私を、ゆり先輩はじっと見守っていた。

 

「それを教えられるのは、バンドの中でも凪紗ちゃんだけだと思う。──もしそれが分かったら、香澄ちゃんを支えてあげてね」

「……はい」

 

 答えの出ないまま、電車は飛鳥山駅に停車した。

 

「……相談にのっていただいて、ありがとうございました。必ず、答えを見つけます」

「うん。頑張ってね」

 

 ゆり先輩にお礼を言うと、私は電車を降りて歩き出した。

 小雨は確かに降っている。だけど、雲の晴れ間を映すように風が吹いていた。

 

 

 ♬

 

 

 住宅街へ続く道を行く人も傘をたたみ始めていて、その中に明日香ちゃんの背中を見つけた。

 名前を呼ぶと、こちらに手を上げてくれる。

 

「あっ、凪紗さん」

「ごめん、急に連絡したりして」

「いえ。こちらこそ、お姉ちゃんが心配かけてすみません」

 

 つくづくどっちが姉か分からないと思う。

 

 部活の終わった帰り道だという明日香ちゃんと合流する形で、私は少しの相談を持ちかけていた。

 内容はもちろん香澄のこと。──本人は今日も病院に行く予定だったから、お家にお邪魔するのは避けて、近くの喫茶店に立ち寄った。

 

「こ、こういうお洒落なところ、よく来るんですか?」

「ううん、私も初めてだけど」

「すごいです……近所だけど、緊張しちゃって私はとても入れないので」

 

 謎の尊敬をもらっているけど、まあ中学生だし、気持ちも分かる。

 それに後輩を連れているので、中途半端なお店には入れないというこちらの見栄も分かってほしい。バレたくはないけど。

 

 この前のSPACEのバイトでもらったお給料を解放して、明日香ちゃんには好きなものを頼んでもらった結果、りんごのタルトと紅茶のセットを注文していた。ちなみに私はレアチーズケーキ。

 さっきゆり先輩に会ったことを思い出して、話題は水泳部のことになった。

 

「そういえば、明日香ちゃんも来年受験だよね。高校、どうするの?」

「私は羽丘に進学しようと思ってます。大学進学のことも考えて」

「よく考えてるんだね。私なんか制服で選んじゃったよ。あと同じ中学の人がいないところ」

「凪紗さん、すっごい勉強ができるってお姉ちゃんが言ってましたよ。どうしてですか?」

 

 明日香ちゃんの問いかけに苦笑する。

 香澄と同じ理由の制服に関しては、正直後の理由のおまけみたいなものなのだ。むしろ、そっちが本題であり、こんな話でもなければ、あんまり話したくない内容なわけで──

 

「中学のころ、私は合唱部に入ってたんだよね。昔習ってたピアノつながりで、みんなが歌って、それを演奏で支えるのが好きだったから」

「そうだったんですね。じゃあバンド活動も、それと同じ理由なんですか?」

 

 緩く、首を横に振る。

 

「そこそこ音楽をやってた経験もあって、私、歌う方がいいって顧問の先生に言われて……二年生の時のコンクールで、ソロを務めるはずだった同級生の子と代わることになっちゃったんだ」

 

 それはつまり、ソロ担当の子が続けてきた努力を否定することにつながる。

 先生は、試験的な意味合いと期待を兼ねて、私にソロを任せたようだった。私たちにはまだ来年もあるのだから、と説明もしていた。

 

「結局、私たちはコンクールで金賞をもらえたんだけど……部員の子の多くは、飛び入りした私に納得してなかったんだよね」

 

 それもそうだ。他の子にとってみれば、私は努力とは無関係にソロの座を奪った、先生のお気に入り。

 それからは、今まであった友情にひびが入って──って、そんな生易しいもんじゃない。……あ、ヤバい。思い出して震えが止まらない。

 そんな黒歴史(思い出)もあって、私は逃げるように花女を志望したというわけだ。

 しかし、明日香ちゃんは抗議してくれるようで。

 

「でも、それってある意味実力を重視した結果なんじゃないですか。凪紗さんのレベルが高かったり、偶然ソロの子がスランプだったりしたとか。私には、凪紗さんのことがただ気に入らなかったようにしか見えません!」

 

 ぷんぷんと音が聞こえてきそうな、可愛らしい様子で怒ってくれる明日香ちゃん、女神様かな。

 でも、私にはそれで思い知ったことがある。

 

「そう言ってくれてうれしいよ。……それでもね、もしあの時私が、ソロにかける思いとか、積み重ねた努力を奪われてしまう怖さを理解できていたら、あんな風にはならなかったんじゃないかって、思うんだ」

 

 あの時から私は、人の本音がどこにあるのかを気にして、本音で話すことができなくなった。比べられることが怖くなった。

 

「……でも、香澄は違ったんだ。誰かと比べるんじゃなくて、自分のやりたいことに真っすぐに向かっていって……『キラキラ』とか、『ドキドキ』とか、あの子だけにしか見つけられないものを、私に見せてくれた」

 

 カウンター近くのアクアリウムの中には、色とりどりの熱帯魚が、精彩に満ちた輝きをまとっている。

 

 香澄が導いてくれた出会いは、どれも私の人生を鮮やかにしてくれた。有咲、りみ、たえ、沙綾──もう二度と会うことができないってくらいに、素敵で貴重な思い出になった。

 

「だから、もし私が、あの子に──香澄にとって、ストレスになっているんだとしたら」

 

 私は、もうバンドにはいられない──

 そう言おうとした瞬間、明日香ちゃんに両手を包まれる。びっくりして、反射的に顔を上げた。

 

「そんなことありません!」

「えっ──」

 

 店内に人は少なかったから、全員の視線が集まるくらいの注目を浴びてしまった。

 明日香ちゃんはそれに気付いて顔を真っ赤にして、「すすすすみません……!」と謝り倒している。

 

「ふふっ……」

「ご、ごめんなさい。それでも、お姉ちゃんは凪紗さんのこと、ストレスだとは思ってないと思います。だって、あのお姉ちゃんだし」

「そうかな……」

 

 変な励まし方だと思う──それにしても、信頼ないなぁ。ある意味ではあるといえるのか。

 

「私は、スランプなんじゃないかなと思ってます。水泳やってて、同じ経験があるので」

「スランプ……それは、どうやって乗り越えたの?」

「そうですね……あんまり意識したことはなくて、時間が経てば、勝手に……って感じですかね」

 

 私は小さく唸った。

 日にち薬、ということだろうか。それでも、今はオーディションまで時間があるわけではない。

 ゆり先輩が言っていた『見えなくなったもの』──それを見つけないと、現状からは抜け出せない。

 

「声が出なくなる前に、香澄の様子がおかしかった日はある?」

「いつも変なこと言ってますけど」

「じゃあ、やたら静かだったり、真面目に考え込んでるとか」

「そうですね……」

 

 腕を組んでいた明日香ちゃんは、しかしすぐに何かを思いついたようだった。

 

「あっ、そうだ。一度目のオーディションの日、あの日の夜にもう一度、ライブハウスに出掛けてました」

 

 私は、答えに向かう確かな一歩を踏み出した。

 



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#34:ひとつだけ(青薔薇編③)

「……なんというか、質素なお部屋ですね」

「まあ、趣味も少ないものですから」

 

 画面越しに見える若葉さんの背景に対して、私は素直極まりない感想を零してしまった。

 

 先日決まったリモート会議は、今井さんや宇田川さんたち羽丘のダンス部が行う文化祭ステージのスケジュール調整を目的としたものだった。

 若葉さんの提案には少し驚かされたけれど、おおむね合理的なものだということにしておく。

 件の会議用アプリはパソコンでもチャットとの同時利用が可能だ。ふと、画面に通知が音を立てて表示された。

 

「……すみません、今井さんから『部屋、めっちゃごちゃごちゃしてるから待って! 確か若葉くんいるんだよね!?』と……」

「それは濁した方がよかったんじゃ……それと、背景は変更できるので、そっちでも対応できると伝えてもらえますか」

「なるほど。時間も惜しいので、そうしましょう」

 

 今井さんへの返信を打ちながら、背景設定のバリエーションを眺めてみる。カフェ、屋上、自然の風景に果てには宇宙空間まで用意されているようだ。

 そもそも、見せられないような部屋の管理をしていることが悪いので、私たちには必要のないというものだが。

 ──それにしても、若葉さんの部屋は物がなさすぎるのではないかしら。

 

 物どころか模様もない純白の壁面を背後にして、若葉さんはいつもの鉄仮面を纏っていたのだった。

 

 ☆

 

「もおー! なんで部屋のこと言っちゃうのさ!」

「言うな、とは書かれていなかったので。 だとしても、部屋の整理は日頃から行っておくべきです」

「うぐぐ……」

 

 五分後、二人がチャットルームへと参加してきた。猛抗議をあしらいながら、話を進めることにする。

 

「それでは、先日の会議の続きを始めます。基本的には私がお二人にスケジュールなどの必要事項を確認していく形になります。答えられる範囲で構いません」

 

 若葉さんには書記や補佐をお願いすることにして、彼は頷いた。

 事前に準備した質問事項をメモした紙に目を通しながら、二人に確認していく。

 

「まずは参加人数ですが、これは部員全員ということですか?」

「はいっ! 中学生も高校生も20人ずつです!」

 

 宇田川さんが溌溂とした声を響かせる。

 ステージとなる体育館ホールはそれなりの広さを誇るものの、合計40人となるとステージを複数に分けざるを得ないということだった。

 

「では、そのダンス演技を行うステージの数ですが……三チームに分かれる、ということですね?」

「そうだね。中高生の混成チームで、みんなが出るってことになると、最低でもそれくらい用意しないといけないんだよね」

 

 選曲はチームそれぞれになるとのことだったが、長くても三分とのこと。これにステージの準備時間、チームごとの入れ替え時間が加わり、全体で15分の構成になる。

 

「この中で、削ることができる時間があるとすれば、どういった部分になりますか?」

「うーん……ダンスそのものの時間は曲の時間と同じだし、カットは難しいよね。チームの入れ替えはどれだけ急いでも限界があるから、残ってるのは……」

「ステージの準備時間、ってこと?」

「そうなるかなぁ……」

 

 腕を組んで唸る今井さん。

 これまでの議論に指摘すべき点は残らないように思う。それでも、可能な限りの対策を考えてみる。

 

「ステージの準備、というと何をするのですか?」

「えっと、照明は体育館のものを使うから、音響がメインかな。スピーカーの配置変えとか、位置取りのマークを貼ったりする仕込みっていう作業をするんだ」

「これも短くするのは難しいんじゃ……」

「……」

 

 いよいよ打つ手も少なくなり、電子の会議室に沈黙が訪れる。

 そんな時に、部屋の扉を叩く音が聞こえた。

 

「おねえちゃーん、いるー?」

「……っ」

 

 声から、訪れたのは日菜だと分かる。会議に乱入されては困るし、何よりも、家での自分の様子を見せたくない。

 

「すみません。……少し、離席します」

「あはは、大丈夫だよー。私たち、他にできることがないか考えてみるね」

 

 無表情を崩し、「置いていくのか」と言わんばかりに表情筋を引き攣らせた若葉さんを、瞑目の中で弔う。

 それよりも、日菜との会話に意識を割かなければ──私には、それくらい余裕が残っていなかった。

 自宅にもかかわらず、ある種の緊張を催しながら扉を開いた。

 

「……なに」

「あ、えっと……今、テレビで子犬の特集やってて。お姉ちゃん好きだし、一緒に見ようかなって……」

 

 視線を彷徨わせながら、どこか気まずさを滲ませて日菜は言う。悲しいかな、私たち姉妹にとっては日常のことだった。

 

 どこにいようと、日菜は私を追いかけてくる。彼女の期待から逃げるように屈折した私の側にいようとする。

 ──私には、もう応えられないというのに。

 

「……ごめんなさい、生徒会の人と会議があるから。()()()、一緒に見られないわ」

「……!」

 

 撥ねつけず、拒否せず、先送りにすること──これが私の限界だった。

 耳聡く、その言葉に反応した日菜の瞳が瞬時に輝きを帯び始める。

 

「じゃ、じゃあさ! ……来月、商店街で七夕祭りがあるんだけど、一緒に行こうよ!」

「え……っ、わ、私より、同級生やバンドの人の方が──」

「ううん、お姉ちゃんと行きたい! 今度、詳しいこと教えるから!」

 

 ──しまった。この子は一度言い出すと止まらなかった。

「時間取っちゃって、ごめん!」と言うと、手を振りながら自分の部屋に戻っていく日菜。

 私は痛恨の思いでそれを眺めることしかできなかった。

 

 ☆

 

「ふふっ……」

 

 会議より集中力を消費して、疲労感を覚えながら席に戻ると、今井さんの口からわずかな笑みが漏れていた。

 

「すみません。戻りました……どうしたのですか?」

「氷川さん、ミュートボタン押さずに離席されたので……えー、話し声が、その」

「ちょ、それ言わないでって!」

「……」

 

 忸怩たる思いで今井さんを睨む。

 その機能があることは知っていたが、不本意ながら慌てていたので、非は私にある。しかしながら、それを黙っていた今井さんには腹が立つ。

 

「ごめんごめん。でも、さっき部屋のことばらされちゃったし、おあいこってことで☆……はい、すみません……」

「まあ、いいです。……お二人も、見苦しいところを見せてしまい、すみません」

「いえ」

「ぜ、ぜ全然大丈夫ですっ! あこもお姉ちゃんいるから、ちょっと分かるかもっていうか……?」

 

 見え見えのフォローが苦しい。先日の会議の様子からして、宇田川さんのお姉さんとの関係は、とても私と日菜のそれと比べるまでもないのだから。

 

「……宇田川さんにとって、お姉さんはどのような存在なのですか」

「えっ!? おねーちゃんは……えっと、カッコいい! です!」

「巴は男前だもんね~。確か、ドラムも巴に憧れて始めたんだっけ?」

「うん! おねーちゃんのドラムはこう、ど──ーんって! ば────ーん!!」

「……」

「あはは、いっつもその説明だよね~」

 

 今井さんは受け入れているが、それで伝わっているのだろうか。若葉さんはいまいち理解しきれていないようだ。──私も同じく。

 ともかく、宇田川さんにとってお姉さんが憧れと映ることだけは、確かなようで。

 

「……っ!!」

 

 聞いておきながら、私はその答えに感情を抑えられなくなった。

 彼女は、追いかけられ、勝手に期待され、そしていつか追い抜かれていくことへの憂いを知らないのだろうか。

 なんでも真似をして、意思なく、無邪気に──けれど残酷に、()を自分の代用品にしてしまう。

 私が私である意味がなくなっていく──その恐怖を。

 

 ──いけない。これ以上は、まずい。

 いつのまにか握られていた手が震えを帯び始める、その時だった。

 

「それだと少し緊張するな。なんか見定められてる感じがして」

「えっ?」

 

 その言葉は、若葉さんによるものだった。彼は、宇田川さんたちの注目を集めたまま続ける。

 

「『カッコいい』って思ってもらえるように、いつも頑張ってないとって……俺も、妹がいるから」

「あっ、それってライブの後に紗夜と話してた子のことだよね?」

「会ったのがSPACEってとこだったらそうだと思う。知ってたんだな」

「うんっ、紗夜から聞いたよ~。──でも、確かにそうなっちゃうかもね。私は一人っ子だから全部分かるわけじゃないけど、お姉ちゃんだと、いつでも先にいなくちゃって思っちゃうかも」

 

 頷いた今井さんがそれに同調すると、途端に宇田川さんの表情が曇る。すかさず、二人がフォローに入るのが分かった。

 

「そ、そうなのかな? あこ、お姉ちゃんに迷惑かけてたり……」

「いや、お姉さんが頑張ってるってことには変わりないだろうけど、負担には感じてないじゃないかな。だから、俺はそれがすごいことだって思うし、『カッコいい』って思う」

「うんうん。巴、もう雰囲気がお姉ちゃんって感じだし、きっと自然にカッコよくなっちゃうんだよ!」

「……そっか。そうだよね!」

 

 すっかり元の明るさを取り戻した宇田川さんは、天真爛漫の笑顔を振りまく。

 リモート会議だから、視線が重なったことは分からない。それでも、若葉さんは私に向けて苦笑を浮かべていたような──そんな気がした。

 

 

 ♬

 

 

「うーん……これは厳しいねぇ」

「元々持ち時間が少ない中で時間をやり繰りしているから、どっちの団体もこれ以上削れる時間がないってことになるね」

 

 志哲高校の生徒会室、定例会議を取りやめて集まった私たちは、聞き取り調査の結果に頭を悩ませていた。

 どうやら、上原さんたちが《Afterglow》に行ったスケジュール調整もうまくいかなかったようで、北沢さんは、先ほどの言葉に続いて「どうしようもなくなったら……ってことになるのかな」と、結論を濁しながら言辞を漏らした。

 

「今回参加できなかった団体には、別の発表機会を用意する、という方法もありますか」

「うーん、それだと団体だけじゃなくて見に来るお客さんの側にも通知して、都合を合わせてそれなりの数を集めなきゃってなるし、そんな義務っぽいステージもお互い辛くなっちゃうよねぇ」

 

 ステージは、『今年の羽丘の文化祭』で披露されなければ意味がない、ということだろう。私もそれに同意する。

 しかし、この現状ではどちらの団体も参加できるように、というのは玉虫色の結論となってしまうだろう。

 言いようのない閉塞感に、私たちはそれ以上の議論を進めることができなかった。

 

「……ダメだ! 一旦別の議題にしよ! 絶対今日中になんとかするから!」

「ですね、できることをやりましょう」

 

 長い髪を振り乱して、一度この問題を保留にすることが決まった。

 北沢さんに促され、若葉さんがメモを取り出して残りの議題をホワイトボードに書き出した。

 

「風紀委員管轄の準備は予定通り進行中で、かなり早い段階で終わる見込みです。残った期間は警戒態勢の強化に充てたいと、今のところでは」

「おっ、流石だね。紗夜ちゃんと若葉くんも、名コンビになってきた感じ」

「……意味によっては心外ですね」

「ちょっと? ……え、どういう意味で心外なんです?」

「別にそのままの意味だって。 あ、それが心外ってことか」

「やめてください……」

 

 口をついて、そんな言葉が出てしまった。

 嘆息した若葉さんは、抗議を諦めて続きを読み上げていくようだ。

 

「各クラスの出し物に関しては承認が終わって、当日の営業態勢と、売上計上の監査なんかに対する諸注意と指導が、今羽丘で行われているようです。学園内部のことなので、この辺りは羽丘の生徒会がきっちりとやってくれているようで」

「おっけー。じゃあ、もうほとんどやることは残ってないのかな?」

「体育館ホールを除けば、ですね。ああ、あとは外部参加団体で……えー、商店街の出店店舗に関して、『売上が多くなる方法はないか』と、相談のメールが来てるようで」

「店舗から相談? どこの?」

「……やまぶきベーカリー(当店)と」

北沢精肉店(当店)です……」

 

 手を挙げ、どこか後ろめたい様子だと思えば、二人がアルバイトや手伝いをしている商店街の店舗が、文化祭をターゲットにした販売戦略を考えているとのことだ。

 それを聞くと、上原さんは「身内じゃねーか!」と指摘した。

 

「えー……何、結構ちゃっかりしてるんだね?」

「まあ、この間の花女の文化祭でかなりの量のパンが売れたということで、経営者としての判断だそうです」

「母さんが井戸端会議でこの話を聞いたらしくて……『ウチもやるよ!』って聞かなくて」

 

『たはは』、だとか『えへへ』という薄ら笑いがなんとも気味の悪い雰囲気を醸し出す。少し睨みつけた。

 

「ひっ!? ……で、でも、それで一つアイデアを考えたので、二人には感想をもらいたいと思いまして」

「アイデア?」

 

 北沢さんにそう返すと、「ちょっと待ってね」と、手提げ型の紙袋からいくつかの包みを取り出したのだった。

 中身は──パンと、何かの揚げ物だろうか。

 

「ベーカリーのパンと、精肉店のコロッケをかけ合わせて作ったコロッケパンです。食パン型、サンド型、ハンバーガー型、埋め込み型があって、味付けも少し変えています」

「休憩ついでにこれを食べて感想がほしいなって」

 

 

 呆気に取られる私たち。

 宣伝や販売戦略を考えるのだから、その対価がなければいけない──そういうことだろうか。

 そういうことなら──

 

「なぁんだ、それなら早く言ってよー!」

 

 上原さんは鮮やかに手のひらを返した。

 

 ☆

 

「美味しー!」

 

 バンズを使ったハンバーガー型のコロッケパンを片手に、上原さんは簡潔かつ率直な感想を述べた。

 出来立てを運んできてもらったとのことで、どれもパンは温かく、コロッケは衣がさくさくとしていた。

 馴染んだウスターソースの酸味に加え、辛子にマヨネーズのアクセントがキャベツと絡まって、味わいを引き立たせている。

 

「そりゃあもちろん。まだありますから、他の型と食べやすさとか食感の感想もお願いしますね」

 

 そう言った北沢さんは、すでに二つ目のコッペパン型を手にしながら若葉さんと感想を言い合っている。

 上原さんは「おっけーおっけー!」と応えながら、満足げにパンを口に運んでいた。

 

「紗夜ちゃんの、サンドの方はどう?」

「こちらも美味しいですよ。コロッケを挟むパンの面がしっかりくっつくので、そこに塗られたソースがよく利いていると感じます」

「おお、なんか食レポみたいだね。そういう意味ではバンズはピッタリくっつくわけじゃないから、味わいにくいのかな。……でも、見た目のインパクトはすごくない?」

「見た目……それも重要ですか」

「うん! SNSなんかに投稿する子もいるだろうし、反響よかったら買いに来る人増えるかも!」

「なるほど……」

 

 見た目、つまり視覚からのアプローチも必要だということだろうか。

 最近、白金さんにバンド衣装の制作を任せたいと宇田川さんから提案があった。

 その時は、私や湊さんは統一した衣装が何でもよい、という反応だったが、演奏との相乗効果を考え、よりオーディエンスに衝撃と圧力を与えるライブパフォーマンスができるようにも思う。

 ──ただ、『高貴なる闇の騎士団』というコンセプトは不要な気がする。

 

 若葉さんが淹れた紅茶を一口、私はそんなことを考えていた。

 ふと、上原さんが隣で呟く。

 

「……なんか、こういうのいいなあって思うんだ」

「……?」

「この間言ったでしょ? 『仲間探し』のこと」

「ああ──」

「目的は違うかもしれないけど、文化祭っていう同じステージを盛り上げようとして、お互いがお互いを巻きこんで、巻き込まれて、みんなで試行錯誤するっていうのかなあ」

 

 上原さんは、食欲旺盛な二人を眺めながらそう言う。この状況を楽しんでいるようだった。

 ──しかし、それでも。

 

「……まだ、解決していない問題があります。難しい課題も、残っています」

「うん。それでもね──めっっっちゃ、楽しい」

 

 敢えて、彼女はそう言い放つ──とびきりの煌めきを秘めた笑顔で。

 

「私たち、高校生にしては奇麗すぎるっていうか……幼すぎること、言うけどさ。それぞれの事情を抱えたみんなが同じ方向に向かっているとき、『何でもできるんじゃないか』って思うんだ。どんな苦しい時でもね」

「それぞれの事情──」

 

 私が音楽を始めた事情、それは日菜と比べてしまう自分に悩み、私が私でいられるものを探した結果だった。

 誰もが、私とは違う「事情」を抱えながら、音を奏で、あるいは文化祭を作り上げようとしている。けれど、一つの目的に向かって歩むとき、私たちは同じ方向を向くことができる──かも知れない。

 

 歩みが止まりそうになったとき、もし、「事情」を知る誰かが、手を差し伸べてくれたら。

 誰かが、手を引いてくれたら──

 若葉さんや鰐部さんが言っていたことは、このことなのだろうと思い至る。

 

 上原さんはすこぶる楽し気に、なおも続けた。

 

「きっと、その人にしかできないこととか、できないアプローチ? みたいのがあって──そういう考えとかアイデアが積み重なって問題を突破していくの、すっごい面白いんだよねぇ」

「それは……今回でいうお二人のような、ということですか?」

「そうそう。二つの商品が一つになって……って」

 

「ああーっ!!」

 

 突然の叫び声に、その場にいた誰もが動きを止める。もちろん、私自身もであり、コロッケパンを取り落としそうになった。

 

「ど、どうしたんですか!?」

「分かったんだよ! ライブステージをスケジュールに間に合わせる方法!」

「本当ですか」

 

 思わず身を乗り出した北沢さんに上原さんは、

 

「任せなさい!」

 

 と宣言するのだった。

 



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#35:ハロハワユ(綺羅星編④)

WBCを見ていたら遅れたなんて言えない。


 一寸先も見通せない闇の中を、あの子は進んでいた。

 胸の中に抱いていた輝きはいつしか掻き消えて、(しるべ)のない迷路を、あてもなく進んでいる。

 

『香澄……香澄!!』

 

 私はその後を追いかけ、追い縋る。それでも、伸ばした手が背中に触れることはなく。

 吸い込まれるような闇の中に、あの子は立ち消えていくのだった。

 

「……っ!!」

 

 朝が来た。

()()()夢を見たせいか、息を吸いすぎて苦しい。寝汗も結構かいてるな……。

 薄暗い部屋で一人、ゆっくりと息を吐く。窓の向こうは相変わらずの土砂降りで、気分を落としてしまう。

 

「あんま、寝れなかったな……」

 

 独り言を漏らして、壁の時計を見やる。六時半──いつもよりちょっぴり早い時間だけど、二度寝はできそうになかった。

 ──明日香ちゃんにオーディションの日の香澄の行動を教えてもらって、なんとなくだけど見当がついた。それでも、まだあの子の不調の理由に私が関わっているのではないか、という疑いは、心のどこかで巣くっていて。

 

「……支度しなくちゃ」

 

 それを振り払って、私は部屋の明かりを点けた。

 

 ☆

 

「おはよ」

「おう、おはよう」

 

 リビングでは、すでに起きていた兄さんが朝食の準備を進めていた。献立は……えっと、小さいおにぎりにスナップエンドウと一緒に炒めたポークソテー、トマトスープにベリーのヨーグルト、飲み物はハーブティ……めっちゃ気合入ってるな。

 

「顔洗ってきな」

「うん。……なんか今日、特別なことあったっけ?」

「バイトないから、たまには米と触れあいたくて。……ちょっとやりすぎた」

 

 お昼ごはんのお弁当にも同じものを入れてるって言ってたけど、それにしたってすごい。

 最近は氷川先輩たち生徒会の活動で、夜もパソコンで作業をしたりと忙しいようだ。今日はないらしいけど、バイトだってちゃんとある。

 

 ──それに比べて、私は……。

 

 眠気で朦朧と──それは言い過ぎかもしれないけど、ぼんやりした頭で考え事をしようとすると、どうにも支度が進まない。

 顔を洗ってもそれは変わらなくて、漠然とした憂鬱だけが残ったまま、テーブルに着いた。

 

「今日はいつもより早いな。急ぎなのか?」

「……んーん」

 

 返事が上手にできない。香澄みたいになったわけじゃないけど、声に力が入らない。

 そんな私の様子を眺めていた兄さんは、「まあ、とにかく食べろよ」と促した。

 小さく頷いて、ゆるゆる、もそもそと朝ごはんに手を付ける。

 

「あー……なんでこんなに美味しいんだろ……」

 

 スープはあったかくて、おにぎりの大きさがちょうどよくて、ソテーはたくさんの野菜と一緒に、落ち込んだ気分を彩ってくれる。

 どれも、私のために作ってくれたんだと──たとえ偶然でも、そう思えてきちゃって。

 

「いつも美味しいだろ? ……って、お前」

 

 感情の抑えが効かなくなってしまったのか、熱いものがこみあげて、流れおちる感触があった。

 兄さんから見ればそうとう奇怪だろう。「ごめ、いや、あの」とかしどろもどろになってる様子もあわせると、相当。

 それにもかかわらず、兄さんは何かを察したのか、

 

「……まあ、そう思ってくれてるならいいか」

 

 それだけを言って、タオルを差し出したのだった。

 

 

 ♬

 

 

「そんなことが……」

 

 香澄と私たちの話を聞いて、兄さんは傘ごしに深刻さを滲ませながら呟いた。

 流石の兄さんも雨の日は電車通いだから、通学路の途中まで付き合ってもらって、どうしても話を聞いてほしかった。

 けっこう変な乗り継ぎになっちゃうだろうけど、それも承知で──思い切って頼んだら二つ返事でOKしてくれたのは頼もしかったし、やっぱり嬉しかった。

 

「私、やっぱり香澄にとって──」

「中学時代の心配があるのは分かるけど、それは違うだろ。バンドにとって演奏能力の高いメンバーがいるのは悪いことじゃないし、なにより練習しなきゃならないのは凪紗とは関係ない課題のはずだ」

 

「……そうだよね」

「何より、香澄ちゃんは楽器経験者じゃないから、そのことは分かってると思うぞ」

 

 兄さんは、過去に香澄以外のメンバーが楽器に触れたことがある、ということを知っていた。そして、それを言われて、はじめて安心できた。私、香澄にとって負担じゃなかったんだ……。

 それなら、私がやらなきゃいけないことは──

 

「香澄が『見えなくなったもの』、ってなんなんだろ」

「?」

「あっ、ゆり先輩にも相談したんだけどね。香澄が歌えなくなった原因は、何かが見えなくなったから、なんじゃないかって。それで、上手くいかなくなって……って、そんな感じ」

「そういうことか。それなら、香澄ちゃんの()()について、よく思い出してみるといいんじゃないか?」

「変化?」

 

 雨粒の跳ねる音の中、その言葉が印象深く聞こえてきた。

 もう少し詳しく尋ねてみると、声が出なくなる前後で、香澄の様子がどのように変わっていたか──それを理解する必要があるという。

 

「そりゃあ、出なくなったあとの方は、すっかり大人しくなっちゃったからびっくりしたよ。明日香ちゃんは、スランプになったと思うって言ってたけど」

「声が出なくなった原因がスランプだとするなら、そのきっかけをつくった出来事があるはずだ。凪紗たちメンバーが思い至らないなら、一人でいるときになにかあったんじゃないか」

「香澄一人──あっ」

 

 それは、私が目をつけていたことと同じ。彼女が一人、夜のSPACEに行っていたという証言を思い出す。

 なんだか、探偵みたいな兄さんは質問を続けた。

 

「そこで何かに影響を受けたとするんだったら、何になる?」

「……香澄がああなっちゃうくらい、強くて、芯のある言葉を向けられる人──たぶん、オーナーだと思う」

「オーディションの審査をしていた人か。その時に言われたことよりも、ずっと本人に刺さることだったんじゃないか。心当りはあるか?」

「……」

 

 オーディションの後の練習を思い出す。

 有咲が心配していたように、『楽しさ』の裏側にあるものと、香澄は戦っていて。指を切っても、痛みに怯むことなく──どこか、思いつめた様子だったことを思い出した。

 

「香澄はバンド活動の全部が『楽しい』って思えていたのかな。もしかしたら、少し前から迷いはじめてて……」

「ゆり先輩の言う『見えなくなっていた』ってことだな」

「オーナーにも、同じことを指摘されたんだと思う」

 

 その()()と、香澄の見せたスランプの予兆がつながっていたら、どうだろう──ちょうど、私たちが一度目のオーディションを終えて、練習の回数や日数を増やし始めたタイミング。

 その中で見えなくなったものってなんだろう。

 

「香澄ちゃんの立場になって考えればいい。得意な部分も苦手な部分も、みんなと違うのはどんなところだと思う?」

「うーん、香澄といえば明るくて元気で、めっちゃポジティブなところだけど、やっぱりメンバーのみんなを集めてくれて、引っ張ってくれるところがいいところかな。逆に、突っ走るときもあるっていうか──」

 

 自分でそれを言いながら、一つ気付いたことがあってハッとした。

 オーディションの結果を踏まえて、演奏のレベルを高めようとしたのが練習のはじまりだったはず。

 香澄は楽器未経験だったのもあって、きっと焦りがあったと思う。しかも、《Poppin’ Party》を作って、みんなを集めたんだから、その分上手くやらなきゃってプレッシャーもあるだろう。

 

 香澄は確かに、一度決めたらどんどん先を行ってしまうところがあるかもしれない──それでも、バンドのことだったら、自分のためじゃなくても、どんなことだって全力で取り組んでる。

 だからこそ、練習の中で『自分が出遅れてる』って気付いたら、『とにかく全力で演らなきゃ』って思うし、自分の演奏ばっかり気になってしまう。バンドとして演奏を重ねてるはずなのに、一人で演奏をしている気分──見えている世界が、どんどん狭くなって、周りが見えなくなっていく。

 感じられていた『楽しい』が、信じられなっていく。

 

「……香澄が見えなくなったものは、バンドのことだったのかも。グリグリとか、Roseliaのライブを見たり、CHiSPAがオーディションに合格したって聞いて、ずっと個人の演奏を気にしてたから」

 

 もっとも、これは私たちも同じことだ。

 オーディションで、私たちは本当に納得いく演奏ができたか。ミスがあったとか、その回数も、本質的には関係ない。譜面通りには弾けた私に対するオーナーの態度がそれを示していた。

 兄さんも同じことを考えていたようで──

 

「オーナーが一番課題だと思ったのは、そうやって意識が個人のレベルに落ちてしまったことなんじゃないか。それが演奏とか、ステージの上での態度に表れた、とか」

「確かにそうかも」

 

 あのとき、私たちは前を向いて演奏できていただろうか。不安のあまり、手元から目が離せなくなって演奏がブレるなんてよくある話だ。

 Roseliaのライブで、演奏ミスのあったベースの人を思い返す。涙を流す彼女に対して、オーナーは『演りきった』ことを認めた。

 安くはないお金を払ってライブに来るお客さんに、少しでも楽しんで欲しい。演奏を聞いてほしい。その気持ちがあるから、それぞれの演奏が一つになっていくし、失敗したら悔しさでいっぱいになる。

 それがRoseliaや経歴が先輩のバンドと私たちの間にある一番大きな差だ。

 

「……じゃあ、私たちは」

「今は演奏から離れて、香澄ちゃんを支えてあげるしかない、と思う。その行動を起こせるのは」

「私だけ……なんだよね」

 

 兄さんは頷いた。

 それはゆり先輩とも同じ結論で──たぶん、ギターボーカルとして香澄の隣に立ってきたことと、香澄に導かれながらも、二人でポピパを作ってきたことが理由にあるんだと思う。

 だから私は、それを使命に代える。私だけにしかできない。私がやらなければならないこと──

 

 傘を上げ、高架の首都高に沿う道路に出たことに気付く。

 右に行けば東池袋駅の入口、左へ歩けば都電の駅と分かれ道だった。

 

「っと、もう着いちゃった。……あの、相談のってくれて、ありがと」

「おう。また、何かあったら聞かせてくれ。……頑張って、『やりきって』こい」

「うん。『やりきって』くる」

 

 今なら言葉の意味が分かる。……その重みも。

 少し笑いあって、私たちは、お互いに背を向けて歩き出した。

 

 

 ♬

 

 

「香澄が、来てない?」

「ええ。今日はお休みさせてもらうと、お昼ごろに戸山さん本人から連絡をもらいましたよ」

 

 担任の中井先生はそう言うと、「何かあったんですか?」と訝しむ。……いや、あったはあったけどバンドのことだから説明しにくい。

 たぶん、それくらいの顔に出ちゃってるんだと思う。私の表情筋はゆるゆるだ。

 

「いえ。今日は病院に行ってから登校するって聞いていたので」

「まあ、若葉さんはバンド仲間ですし、心配ですよね」

「そうですね。……教えていただき、ありがとうございました」

 

 一礼して職員室を出たとき、ちょうど扉に手をかけていたりみ、そして有咲にかち合った。

 

「お……っと」

「あっ、ごめんね凪紗ちゃん! もしかして香澄ちゃん──」

「うん。五限からも来ないって」

「マジか……」

 

 表情を曇らせる二人。香澄がいないままでは、メンバーにも大きな影響が出るのだ。六人の誰が欠けたってそうなるだろうけど、いつも中心にいるあの子だからこそ、その不在が結束を揺らがせてしまうのだとつくづく思う。

 

「おたえと沙綾は?」

「今日、日直だから。二人とも心配してたし、早く伝えてあげないと……」

 

 ほどなくして、グループチャットアプリの通知音が鳴り、香澄を気遣うメッセージが送られてくる。

 可愛らしいウサギのキャラクターが壁から片目をのぞかせていた。

 

「それも心配だし、次のオーディションのことを考えると、早く香澄に会わないと」

「でもさ、学校に来れないんじゃどうしようもなくないか?」

 

 ぶっきらぼうな言い方をする有咲ではあるが、これはこれで体調を心配している……めっちゃしてる。

 普段よりそわそわと髪をいじる回数が増えて、なにより不機嫌に見える。いつもは香澄が近くにいるから、調子狂うんだろうな。

 とはいえバンドより体調第一なのは変わりない。それを確認するためにはどうすればいいだろうか。

 

「香澄、まだメッセージは見てないかな?」

「うん。診察中なのかな」

「そしたら、明日香ちゃんに聞いてみるよ。昼休みだから出てくれるはず」

 

 最近はよく電話しているので、通話履歴のトップに位置する明日香ちゃんのアイコンをタップする。

 数回のコールのうち、彼女は出てくれたようだ。

 

『もしもし、凪紗さんですか?』

「昼休み中にごめんね。今大丈夫?」

『全然大丈夫ですよ! どうかしましたか?』

 

 口調はとても明るい。声からもう可愛い──って、そうじゃなくて。

 ちょっと不自然かもしれない。だいたい明日香ちゃんと話すのは香澄のことだから、明るい話題じゃないかもしれないし、香澄が休むのであれば話の内容もわかっているはずで。

 わずかな戸惑いを胸に、少し訊いてみる。

 

「香澄のことなんだけど……今日は休むって聞いて、体調大丈夫かな?」

『え? お姉ちゃん、お昼過ぎには家を出てますよ?』

 

 その言葉に、さっと青ざめる。

 

「……ど、どういうこと?」

『今日は午前中診察があって、特に問題はなかったって、家族から連絡があって……もしかして、お姉ちゃん学校に来てないんですか?』

 

 顔を覗き込む二人に、気丈に言葉を返してあげられる余裕は、もはや私にはなかった。

 

     ☆

 

「はっ、はっ……!」

 

 土砂降りの中、息を切らして走る。傘も差さない私の奇行に周囲の視線が刺さるけれど、厭っている場合じゃない。

 

 あの後、香澄のお母さんへ確認を取ってくれた明日香ちゃんによれば、確かに香澄は家を出ていたようだった。

 電車に乗っていれば学校周辺だろうか。あてもなく、私は授業の終わった学校を飛び出した。

 

 駅へ向かう道をくまなく探すが見つからない。そりゃあ当たり前か──

 

「っ!」

 

 電話が鳴った。たえと一緒にいる有咲からだ。

 

「見つかった!?」

『いや。でも、蔵には来てたみたいなんだよ。ばあちゃんが会ったって……でも、しばらくして出ていったみたいで』

「そっか……」

『私たちも、家の近くから香澄が通りそうなところを探してみるよ』

「うん。見つかったら、グループチャットに連絡してね」

 

 通話を切ると、そのチャットではベーカリーの近くでも見つからなかったと、沙綾とりみからの連絡があった。

 

「どこにいるの、香澄……!」

 

 焦る気持ちを抑えながら、マップアプリを開く。

 学校から都電の最寄り駅までの範囲で、花咲川より北を有咲たち、南の商店街を沙綾たちが探している。この範囲は私たちが使う通学路より東側になっている。探すとしたら西側になるか。

 明日香ちゃんからの連絡がないあたり、家には帰ってないと仮定して、そっちに懸けるしかない。

 

 学校まで逆戻りして、東西線の地下入口がある道路をひた走る。雨脚はさらに強まっていた。

 

 辛い気持ちを、弱い自分を、どうして人は隠してしまうのだろう。口を開かなければ分からないし、ただ思うだけじゃ伝わらないというのに──

 そんな問いがあるのなら、香澄の気持ちに近づけた今なら分かる。伝えたくても、伝えられないんだ。

 手探りのバンド活動で分からないことだらけなのは私だけじゃない。香澄が迷っていたときに、一緒に悩んで、想いを寄せているんだってことを、私は伝えるべきだった──だから、香澄の気持ちを見失ってしまったんだ。

 

 ──私……香澄のことを信じているつもりで、支えられてはいなかったんだ。

 

『──もしそれが分かったら、香澄ちゃんを支えてあげてね』

 

 ゆり先輩の言葉が思い返される。そして今朝、兄さんも同じ結論に辿り着いた。

 容赦なく身体に叩きつけられる雨粒は、髪を伝い落ちて、視界をぐしゃぐしゃに歪める。冷たいはずなのに、何故か温かくて──分からなくなって、それでもただがむしゃらに走っていた。

 

 大通りを左に逸れる。袖で目元を拭って見えてきたのは、大きな公園だった。

 引き寄せられるように入口をくぐり、森が作る暗闇を抜けたころ、東屋に用意されたベンチに一人、少女が座っていた。

 木々の隙間からわずかな光が差し込んで、俯いた彼女の表情を照らすようだった。

 

「……香澄」

 

 その名を呼ぶ。

 彼女は逃げも隠れもせず、ただ、こちらに向けた瞳をわずかに揺らして、ひどく疲れ果てたような、ぎこちない笑みを浮かべるだけだった。

 



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#36:(青薔薇編④)

少し空いてしまいました。すみません…


「お疲れですか」

「ええ、まあ……」

 

 羽丘での文化祭準備作業も佳境、休憩時間に話かけた私に対して、どこかぐったりとした様子の若葉さんが応じた。

 手元にはブラックコーヒーが握られている。

 

「試験勉強なら、時期が少し早い気がするのですが」

「それもそれで必要なんですが、昨日、突然の来客があって。残り物を出すわけにも行かないので、急いで料理をしたり、布団を出したりで忙しかったんです。おまけに今朝はバイトで」

「そうだったんですね。……来客、ですか」

「ええ、妹のバンド仲間で」

「なるほど」

 

 若葉さんのご家庭では、家事を若葉さん──お兄さんが担当している。来客があったら対応の中心になるのは彼、ということだろうか。

 加えて早朝からベーカリーのアルバイトとなると、使える時間も少なくなるわけで、この様子に合点がいった。

 

 ちなみに、今日は校門前の服装検査兼遅刻生徒の指導にあたっていたが、予鈴後、凪紗さんたちバンドメンバーの皆さんが息を切らせてやってきた。我ながららしくないことをしたが、日菜との件で相談に乗ってもらっていることを思い、「お兄さんに免じます」と言って不問にしている。

 

 ただ、それとは別に気になることがあって──

 

「凪紗さんにしては、連絡もなく友人を連れてくるのは珍しいように思います」

「そうですね。しかもあの雨の中傘持ってないなんて、俺もびっくりして」

 

 子供みたいに喧嘩でもしたのかと思いましたよ、と苦笑交じりに当時の混乱具合を表す。

 聞くところによれば、友人というのはバンドメンバーの戸山さんで、バンドのことで揉め事が起きたのではないかと考えた、とのことだった。

 

「実際、仲違いはせずとも少しあったみたいで。

 よく、『方向性の違い』なんて言葉を耳にしますけど……やっぱりバンドをやってると、そういうことってあるんですか」

「否定はしません」

 

 言葉に肯定の色を滲ませて、私自身の経験を思い返す。

 揉め事、つまりメンバーの決裂といえば、《Roselia》の結成当初は、それに近い状態だっただろう。私はもはやそれに目を向ける余裕などなかったし、私情なく音を重ね合わせ続けることだけが演奏のレベルを上げるものだと確信していた。

 

 ──しかし、若葉さんや今井さんたちとの交流を深め、互いを知る中でそれも変わっていった。

 

「若葉さんにとって、今井さんや宇田川さんはどう映りましたか?」

「どう、とは?」

「二人が、バンドメンバーとしてこの先も続けていけるか、ということです」

 

 より詳しく言えば、それだけの熱意があるか、ということだ。

 ダンス部やアルバイトなど、さまざまな活動に身を投じる中で、バンドへの情熱が薄れていく、というのは私も抱いていた懸念だった。

 

「答えていいのかは分かりませんが……あれも一つのスタイル、ってことなんだと思います。やりたいことをやる、というのは自分の自由ですから。もちろん、氷川さんの言うように中途半端にならない、というのが条件であり、責任だと思いますけどね」

 

 考えを整え、並べるような言葉に、私は首肯した。

 おそらく、若葉さん自身はそのような()()()が苦手な性分なのだろう。何か、俯瞰するような物言いだった。

 そして、彼はこうも付け加えた。

 

「ただ、それもダンス部としての話し合いを見ている限り、安心できると思いました。後輩や選抜されなかった人のことを考えて、その気持ちを尊重するって、熱意がないとできないですよね」

「……そうですね」

 

 三年の生徒とともに先頭に立ち、一度はトラブルに迷った部員を牽引する姿を眺めて、そう思う。

 そういう気持ちでどんな活動にも挑んでいるというのなら、それを信じる他ない。

 生き方、考え方の違う人種というのは存外に多くて、おそらく私のような人間にとって、往々にして理解し難い存在なのだろうと思った。

 

「俺はそういう、あらゆることに挑戦して、というのが苦手で。上辺で他人を理解したつもりになってこんなこと言うのは、なんというか恐縮ですが」

「私も同じ感想です。それに、傷つけるようなものでなければ、その考えも人それぞれなのでは」

 

 私の言葉に、彼は少し表情を軽くした。そして、先程の発言を思い出す。

 

「……そもそも、若葉さんはアルバイトを掛け持ちして、生徒会も家事もこなしているのですから、理解できるのでは?」

「まあ、それは家の事情に合わせてしていることですから。……それを言うなら、氷川さんこそ」

 

 視線から逃げるように、目を逸らす。

 

「……もしや、部活とかやってたり」

「……弓道部を、少し」

「やってるのか……」

 

 相好を崩した若葉さんの苦笑が止むことはなかった。

 弓道は、精神統一の一環で取り組んでいることでもあるので、バンドと無関係というわけではない。けれど、結局、私もバンドとは違った私情を根拠にして、音を奏でている。それを隠していただけだった。

 

「そういうことも知っていく中で、メンバーの人となりや音楽に対する姿勢も分かってくるんだと、俺は考えてますよ」

「はい」

 

 その言葉はいつかの焼き直しだが、私にとっては再確認の意義が大きかった。

 上原さんの文化祭にかける思いに触れ、今井さんや宇田川さんとの出会いを通し、彼の言葉が本当に意味していたことが分かってきたのだ。

 

 そして、私がこれまで素通りしてきた出会いの中の落とし物を、一つずつ拾い上げている──例えばそれが、休憩時間の談笑であり、連絡先の交換であり、知らない一面の発見だった。

 

 上原さんはああ見えてはっきりした意思があり、実現のための行動力がある。

 北沢さんは誰とでも打ち解けられる一方で、発言を注意深く選んでいる。

 若葉さんは感情の揺れ動きが小さいように見せているが、多くのことを他人から鋭敏に感じ取っている。

 

 それならば、《Roselia》のメンバーはどうだろうか。

 日菜は、どうだろうか。

 

 私が今まで見て、描いてきた彼女らへの心象は一面的でしかなく、理解しきれていないところがある。

 音楽で頂点を目指す以上、私は踏み出していかなければならないのだろうと思う。

 

「──おーい! とりあえずこっちはまとまったから集合しよう!」

 

 上原さんの呼ぶ声がする。生徒会室の前方では、件の問題に関係する面々が、どこか納得した表情を浮かべている。

 

「ひとまず決着、ということですかね」

「ええ。交渉決裂という形を回避できて、何よりです」

 

 若葉さんは缶を置いてのそりと立ち上がる。

 まだ眠気を引きずっている彼が、なんというか冬眠明けの熊のようで、思わず笑いが漏れてしまった。

 

「……なにか」

「いえ、なんでも。行きましょう」

 

 頭上に疑問符を浮かべる彼を背に、私は歩き出した。 

 

 

 ♬

 

 

「……ってわけ。とりあえずはこれでお互い合意だね」

「ああ、良かった」

 

 北沢の説明に、若葉さんが胸を撫で下ろす。表情が変わらないので、不思議がる周囲の人々の視線を集めている。 

 

「いやー、それにしても、バンド演奏とダンスを同時にしちゃうっていうのは名案ですな〜」

「でしょー? もっと褒めていいんだよ?」

「えらいえらい〜」

「うへへへ……」

 

 青葉さんに頭を撫でられて恍惚感に浸るひかりさんは、もはや年長者としての威厳も、発案者としての尊厳も備えていなかった。

 冷たい目線を浴びせられる姉を見ていられず、羽沢さんがフォローを入れる。

 

「と、ところでそのアイデアって、何がきっかけで思いついたんですか?」

「あ、それはね、僕たちのお店のコラボ商品がきっかけなんだけど、今日も持ってきてるんだ」

 

 そう言って、先日のコロッケパンに加えてホットドッグを取り出した北沢さん。「ご試食どうぞ!」の声に、一同が沸く。

 一つ、懸念を抱いていた私は、今井さんたちが座る机に近づいた。

 

「あっ、紗夜!」

「お疲れ様です」

 

 近くに腰掛ける。隣の宇田川さんは姉妹で味の感想を言い合い、二人の共演を楽しみにする掛け合いが聞こえてきた。

 

「今回はありがとね。一時はどうなるかほんとに不安だったし」

「発案者は上原さんですから。……それに、いくら合同ステージとはいえ、バンドの演奏する曲に合わせて振り付けを変えるのは、文化祭までのスケジュールを考えると難しいのでは」

「そうだね……」

 

 私の問いに、今井さんは否定で返さなかった。

 もちろん、全面的にダンス部が不利な条件ではなく、バンド発表──《Afterglow》も一曲を削り、盛り上がりに欠けてしまうのではないか、という不安を抱えたままステージに臨むことになっている。

 しかし、部員を率いる立場の今井さんは、その数だけの不安や不満と向き合うことになっているはずだ。

 

 少し考えて──言葉を吟味して、だろうか──今井さんは私に向き直った。

 

「難しい状況だからこそ、私たち上級生が頑張らないと、って思うんだ。一年生たちはこれが初めての発表の子も多いし、今まで選抜の機会がなかった子も、ここまで練習を頑張ってきたから」

 

 事情が分かってから、今井さんは変更された選曲に、自ら挑むことを宣言したという。

 それに共感した同級生、そして宇田川さんと、その同級生……というように協力が伝播し、提案は実現したのだ。

 

「反対していた部員はいなかったのですか?」

「もちろん、最後まで反対した子もいたし、その気持ちも分かるんだ。でも、やっぱりさ……って話をして、精一杯、真剣な気持ちが伝わるようにしたつもり」

「……」

 

 ひかりさんを中心とした賑わいが遠く聞こえてくる。その距離を感じさせたのは、今井さんの瞳が決然とした意思を秘めていたように見えたからだろうか。

 その瞳の輝きには既視感があって──ライブ後の反省会で見せたそれと同じものだった。

 

「……やはり、人の印象とは勝手なものですね」

「え、今、何か言った?」

「いえ。文化祭、成功を祈っています。……頑張って下さい」

 

 ぽかんとした彼女の表情は愉快だった。

 

 さて、そろそろ完全下校の時刻が近づいている。声を掛けようとしたところで、

 

「あ、あの!」

 

 と呼ぶ声がした。宇田川さんのものだった。

 

「はい?」

「あ、えと……ちょっと、相談したいことがあるんです」

 

 背後で首を傾げる今井さんと、私の心境は同じだった。

 

 

 ♬

 

 

「友希那さんが……

 スーツの女の人と、ホテルで……話してて……」

 

 以前訪れたファミリーレストランで、宇田川さんは唐突にもそんな風に切り出した。

 これだけでは内容が伝わらないが、合流してきた白金さんの面持ちを見る限り、深刻な状況のように思える。その中心が湊さんであるのならば猶更、バンドの今後のことを考えると看過できなかった。

 

 私は、話の中核につながるように言葉を選ぶ。

 

「湊さんにだってプライベートはあるでしょう。別に、不可解な行動ではありません」

「……もしかして、そこで何か聞いたの?」

 

 今井さんの言葉に宇田川さんたちは、揃って頷いた。

 盗み聞きということなら褒められた行為ではないが、その内容が重大ということだろうか。

 

「は、はい……。そ、その、スーツの女の人、というのは……音楽業界の方、らしくて……。み、湊さんをスカウトしたいと、その条件として……『()()()()()()()()()()()()で、FWFのメインステージに立つこと』だと、言っていました」

「……!」

「そ、それって……」

 

 今井さんの言葉に被せるように、宇田川さんが言う。

 

「あこ、よく分かんなかったんですけど、それって、あこたちが《Roselia》としてステージに出られなくなっちゃうってことなんですよね? だから、気になってて……」

 

 その発言──残酷で不都合な事実を突きつけている──に対して、私たちは言葉を失ってしまった。

 私自身、文字上をなぞって滑り落ちるような理解力でしかそれを捉えられなかった。

 

 湊さんがスカウトに乗ることになれば、《Roselia》ではなく、彼女一人がステージに立つことになる──そうなれば、私たちはどうなるのか。

 会話の内容が事実だとすれば、湊さんの行動は整合的とはいえない。

 

『私達なら、音楽の頂点を目指せる』

『自分たちの音楽を』

 

 それなら、なぜあんなことを言ったのか。あれは、FWFに出場するための嘘で、そうするためには何をしたっていい──私たちはその道具に過ぎない──ということなのだろうか。

 分からない。理解できない。理解したくない──またも私は、時間を無駄にしたのかもしれないということを。

 思考の中にある論理の道筋が悉くかき消されると、代わりにどろりと苛立ちが溜まっていく。

 いけない。そうなっては──私がここで怒りのままに振る舞っても、何も解決しない。それどころか、メンバーの不和を強めるだけだ。今だって宇田川さんは、不安を滲ませながらこちらを見つめているのだから。

 

 感情の発露を限界まで抑えつけているとき、今井さんは言った。

 

「ちょっと待って。友希那の意見も……」

 

 その言葉にハッとする──そうだ。肝心の湊さんの答えを聞いていない。

 これはあくまで勧誘(スカウト)の話であり、湊さんは、それを受けたとは誰も言っていないのだから、《Roselia》が今後の活動を続けられなくなったと決まったわけではないはずだ。

 

 裏を返せば、私たちの今後は、彼女の行動に握られている。ならば、私は──

 

「……今井さんの言う通り、湊さんの意見を聞いていません。この話が本当のものになるかどうか、それが分からない限りは」

「で、でも、友希那さん、すぐには答えられなかったから──」

「言ったでしょう。音楽には、必ず()()がついて回ると。湊さんはそれを練習に持ち込むことを認めていなかったとはいえ、そういう部分があったはずです。……彼女の迷いには、それが関係しているのではないかと、私は思います」

 

 そう言いながら、私は今井さんに目を向ける。彼女はぎょっとしたような反応を見せた。

 

「わ、私?」

「今井さんは、湊さんの幼馴染なのでしょう。何か、知っていることがあるのではないかしら」

「え、えーっと……」

「具体的な内容は、本人から聞きます」

「……そうだね。たぶん、っていうか絶対、あるはず」

 

 湊さんが私に近い考えを持っている──かつて私情を隠そうとした私のように。

《Roselia》の、バンドとしての結束と完成には、それを知る必要がある。そのために、この問題は必ず解決しなければならない。

 まず、私が成すべきことは──

 

「はじめに確認させてください。私たちは《Roselia》として、五人で音楽の頂点に到達することを目標とする……これに間違いはないですね?」

 

 三人は頷く。

 

「ならば、文化祭後の練習でそれを湊さんに問いましょう。……そのために、今井さん。あなたには、必要なことを湊さんに伝えてもらいたい」

「必要なこと?」

「幼馴染として、あなたの思いつく言葉で、湊さんを《Roselia》に引き留めてほしい──中身は問いません」

「! うん、分かった!」

 

 不安はなくなったわけではないが、ひとまずそれを口にする者はいない。

 まずは文化祭をやり切る。そのことだけを、今は使命とおいて私は掌を握りなおしたのだった。

 



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#37:星座になれたら(綺羅星編⑤)

「……ただいま」

「おう、おかえり、遅かったな……ってうおっ!?」

 

 家路をひた走り、ようやく辿り着いたのは、もうすぐ時計は八時を指し示そうとしたころだった。

 香澄の件もあり、バンド練習はなしで帰ってくると連絡していたから、そんな風に言って玄関で()()()を出迎えた兄さんは、ずぶ濡れの姿にひっくり返りそうなほどに驚いていた。

 

「傘、差さなかったのか? というか、後ろは香澄ちゃんか?」

「あ、えっと、お邪魔します……?」

「うん、今日、泊まってもらおうかと思って。ごめん、急いでていろいろ連絡するの忘れてた」

「それはいいけど……とにかく、風呂入ってこい、二人で」

 

 多少狭いけど、待ってたら風邪ひくだろ、と兄さん。ついでに着替えを持ってきてやれ、とタオルを渡された。

 流石、というしかない対応力の高さが今は頼もしかった。

 

「あの、本当にいいんですか?」

 

 おずおずと(らしくない)訊いた香澄。控え目な様子を励ますように兄さんは、「大丈夫」と返す。そして、

 

「その分、二人でちゃんと話してきてくれたら」

 

 と笑うのだった。

 

 ☆

 

「はー……生き返ったぁ」

 

 シャワーを浴びて、浴槽に身を埋めながら、私は長い息を吐き出した。雨に濡れて冷えた身体の強張りが、じわじわと熱で溶かされていくようだった。

 液状化寸前の私を、向かい合う香澄はどこか神妙な目で眺めている。

 

「……どうしたの? やっぱり狭い?」

「ううん、それは大丈夫。……今日、休んだことも、泊ってくるってことも言ってなくて」

 

 香澄は、どうやらお家の人に連絡を入れてないことを心配しているらしい。

 ──でも、そのあたりは対策万全。胸を張ってそのことを伝えてみる。

 

「大丈夫。明日香ちゃんに口止めしておいたから」

「えっ、そうなの?」

 

 香澄を見つけたタイミングで、明日香ちゃんには連絡を入れている。今日、学校を休んだことをお母さんは知らないから、彼女だけ口止めしておけば、学校終わりに友達の家に遊びに行って、そのままお泊りになったことになる。

 だからその心配はいらないけど、あるとすれば──

 

「その代わり、香澄からちゃんと連絡入れときなよ? 明日香ちゃん、結構心配してたから」

「えっ」

「……なんだったら、ちょっと怒ってるかも」

「えええ!?」

 

 慌てる香澄の声は少しずつ普段の調子を取り戻していて、こっちの心配もいらないらしいとほっとする。けれど──

 

「でも、気持ち分かるんだ。私たちも、そうだったから」

「あ……」

 

 香澄の表情が曇る。俯いて、濡れた髪が額に張り付いた。

 メンバーのみんなにも、あの公園でチャットを送ったけど、香澄本人の声を待つ返事ばかりだった──つまりそれだけ、香澄のことを気にかけていたってことで、それは私も同じ。

 

「見つかって、ほんとによかった」

「……!」

 

 微笑みかけた私に、顔を上げた香澄の眦には、光る雫が溜まっていた。それに気付いたときにはもう、私は抱きしめられていて。

 得も言われぬ温もりに、私自身も泣かされてしまっていた。

 

「ごめん」

「……うん」

「ごめんね……!」

 

 声と身体を震わせる香澄の背中をさすり、言葉を受け止め、受け入れる。そうしているうちに、すっかり今までの冷たさはなくなっていて。

 代わりにやってきた()()()()に、私たちは胸をいっぱいにすることになった。

 

 

 ♬

 

 

「……どうした?」

「な、何でもないよ」

「そうか? 香澄ちゃんも様子が変だけど……もしかして不味かったかな」

「そ、そんなことないです! おいしいですよ!」

 

 挙動不審の私たちを、兄さんは訝しげに眺めながら料理を運んできてくれた。

 朝もあれだけのメニューだったけれど、晩ごはんは香澄という来客があったからか、より気合の入った献立でびっくり──っていうか、この春から進化してるような。

 環境が人を成長させるのだろうか。

 

 ともかく、私たちの様子がおかしいのは自覚があって、その理由は食事にあるのではない。

 勢いあまって香澄を抱きとめていたわけだけど、さっきまでいたのはお風呂なわけで──まあ、そりゃあ恥ずかしいよね、気付いてみれば。

 

 そんな感じで、お風呂から上がって、お互い言葉もなく服を着てリビングに戻ったところで、唐突に正気に戻った私たちは、とたんに気まずくなってしまったというわけだ。もちろん兄さんには言えるはずもない。

 

「ならいいんだけど……ああ、そうだ。凪紗、食べ終わったら食器の片付け頼めるか?」

「うん、いいけど。兄さん、食べないの?」

 

 兄さんの座る席には皿が置かれていないことに気付く。それを訊くと、兄さんはエプロンを外しながら「もう食べたんだ」と答えて続ける。

 

「学校の授業課題と、生徒会で作ってる文化祭の資料がまだ終わってなくて。明日朝からベーカリーだから、終わったら俺も風呂に入って早めに休むよ」

「え、大丈夫なの?」

「ああ。弁当はいつも通り作っとくよ。香澄ちゃんも食べる?」

「い、いいんですか……?」

「一人も二人も変わらないから。このテーブルの上に置いておくね」

 

 そう言いながら、手を振って部屋に引っ込んでしまった。もう片方の手に持っていたスマホの画面には通話アプリが開かれていたから、また会議なのかな。

 とにかく、今月はとても忙しそうにしていることは間違いない事実だ。

 兄さんの分だけ静かになったテーブルで、呆気に取られていた香澄は、

 

「大丈夫かな……。私、迷惑かけちゃったかも」

 

 と気弱な様子だった。やっぱり、本調子とはいかないのかな。

 

「大丈夫だよ。それを言うなら、私だってこんな感じで、いつも迷惑かけっぱなしだし」

「そうなの?」

「そりゃもう。その分、私もやることやってかないとって思う」

「……うん」

 

 兄さんは『二人でちゃんと話してきて』と言った。

 残りの高校生活を捧げて──私と《Poppin’ Party》が進んでいく未来に懸けてくれたことを噛みしめて、私たちは前に進まなきゃいけない。

 香澄たちがそうしなきゃってわけじゃない。今は香澄の代わりに、私がポピパを前に進めないと。

 

「だから、香澄の気持ち……悩んでることを教えてほしいんだ。メンバーとして、友だちとして、一緒に悩みたい。不安なことがあったら、二人で、みんなで抱えたいって思うから」

「……っ」

 

 まっすぐな気持ちをこめて香澄を見つめる。でも、やっぱり戸惑いはあるみたいで、瞳に映る私の姿が揺れていた。

 

「でも、私、ボーカルなのに歌えないんだよ? バンドも、みんなを集めるときだって、言い出したのに、凪紗に助けられてばっかりで……楽器だって、一番下手で」

「練習は必要だけど、演奏だけがバンドじゃないよ。それに。バンドメンバーを集めることって、香澄が思っているよりもすごいことなんだから」

 

 私は香澄の手助けをしたかもしれないけど、《Poppin’ Party》っていうバンドを作ろうとしたのは、間違いなく香澄だった。

 中学校の良くない思い出もあるけれど、つねに受け身でいた私にそんなことはできないし、自分の思いに正直に、やろうと思ったことを行動でかなえられる香澄をすごいと思っている。

 

 私の過去と一緒にそのことを伝えると、香澄はどこか意外な表情を浮かべた。

 

「そうだったんだ……凪紗、なんでもできるし、みんなに優しいから」

「優しい、っていうのは違うよ。人の気持ちを裏切ることが怖くて動けなかっただけなんだ」

 

 でも、香澄は違った。こっちが眩しいくらいに輝いて、私を導きながらどこまでも進んでいってくれる。

 私の知らない世界を、私の隣で見せてくれるんだ。──だから。

 

「今度は私が香澄の手を引くよ。見えなくなったって、迷ったって、私が支える」

「凪紗……」

「ちょっと偉そうな言い方になっちゃったけど」

 

 苦笑しながらそうこぼす。

 そうやってカッコつけるけど、私にやれることなんて少ないかもしれない。私から手を離してしまったり、二人して迷子……なんてこともあるかもしれない。

 だからこそのバンドメンバーというわけで。

 

「バンドメンバーが……みんながいるから、迷っても戻ってこれるんだ。私が迷ったときも、手を引いてほしい」

「! ……うん!」

 

 言いながら伸ばした手を、香澄は掴んでくれた。もう離さないってくらいに、精一杯の力で。

 ──ちょうどいいや。

 

「ちょっと外に出ない?」

 

 私の提案を、香澄は不思議そうな顔をしながらも受け入れてくれたのだった。

 

 

 ♬

 

 

 香澄を引き連れて歩くこと五分。辿り着いたのは住宅街の中にある公園のベンチだった。自販機でお互いの飲み物を買ってから、私たちはそこに腰かける。

 ちなみに、私はギター持ってきちゃった。

 

「香澄、炭酸好きなの?」

「お風呂であったまったから、なんシュワ―ってしてるもの飲みたくて!」

「なるほど……」

 

 あ、お風呂の話はやめよう。雨はやんでちょっと肌寒いけど、また暑くなりそうだし。

 

「凪紗は?」

「うーん……普通に飲むんだけど、炭酸が弾ける感じが落ち着かないっていうか」

 

 世間では爽快感っていうのだろうか。私はその刺激にびっくりしてしまう。

 ふと、香澄がそれを求めていたことに気付く。『シュワ―ってしてる』ってそういうことかな? 

 

「なんか、私たちって好みとか性格とか、結構違うよね」

「それ、私も言おうとしてた! 有咲が『全然タイプ違うのに、いっつも同じこと言ってるよな』って!」

 

 蔵で初めて会った時もそんなこと言ってたような気がする。ただ、それは当たっていると思うんだよね。

 

「香澄って、感性がすごいと思うんだよね。普段のなにげない感情の揺れ動きも、歌にできちゃうっていうか」

「凪紗も、すっごい説明が上手だと思う! 勉強で分かんないとこ教えてもらうときも、歌詞で困ってるときも助けてもらってるから」

 

 香澄がアイデアを見つけ、私が言葉にする──そんな風にして曲ができているいつもの流れに説明がついた。

 それってバンドメンバーを集めるときと同じだと気付くと、私たちの出会いは、もうずっと前から決まっていたように思えてきた。

 

「……お互いに足りないところを補いあうって、こんな感じなのかな。ポピパのみんなが集まったのも、同じみたいにさ」

「うん! 私、みんなでいるときが一番キラキラドキドキするから!」

「それなら間違いないね」

「自信あるっ」

 

 そんな話をしながら笑い合う私たち。この話も続けたいところだけど、そろそろ本題に入ろう。

 

「明日、みんなと練習できる?」

「……う、ん」

「即答してよ」

 

 目を逸らして、カクカクとした仕草で頷く香澄に苦笑する。分かりやすいなぁ……。

 まあ、精神的な負担は軽くなっても身体とか声が元に戻るのは時間が掛かるかな。

 

「……今日、学校行く前に、蔵に行ったの。練習あるから、その前に歌えるかな、って……。そしたら、やっぱり声が出なくて」

「そっか……曲はオーディションの曲?」

「うん」

「じゃあ、別の曲やってみる?」

「えっ?」

 

 きょとんとする香澄の傍ら、私はさっとギターを取り出す。……ちょっとレベルが高すぎるから、簡単なコードで許して。

 

「私が歌ってるからさ、いつでも入ってきてよ」

 

 最も難しいイントロに集中して、ボーカルパートが始まったら歌に力を入れる。

 一番、二番と進んでいって、香澄はまだ私の演奏を黙って聞いていた。……様子が見えないけど、やっぱりだめなのかな。

 

「──っ」

 

 二番の終わり、簡単なギターソロを弾いていく。少し余裕が出てきたころに香澄の表情を伺うと、どこか緊張した面持ちで。

 だから私は、言ってやったんだ。

 

「歌って、香澄。私が、いつでも支えるから!」

「!」

 

  “遥か彼方 僕らは出会ってしまった

  カルマだから 何度も出会ってしまうよ

  雲の隙間で”

 

 今になって言うのも何だけど、弾きながら歌うことって難しい。でも、奏でる歌やリズムと、そこに乗せる言葉が一体となって、思いを込めれば込めるほど、メロディーと歌詞が自分の中で一つの音楽になっていく。

 私たちはギターの演奏を見てもらうためにライブをしてるんじゃない。歌と演奏で、気持ちを伝えたいんだ。

 

 これがライブだったら、気持ちを伝えたいお客さんは香澄。

 ギターを抱える手元からできる限り視線を外して、顔を上げて香澄の瞳を捉える。

 

  “君と集まって星座になれたら

  夜広げて 描こう絵空事

  暗闇を 照らすような 満月じゃなくても”

 

「星座」という言葉が、私はとても好きだ──バンドとしての私たちの関係や結びつきを、よく表していると思うから。

 伝われ、伝われと念じながら、すぐそこに迫ったラスサビに向けて、気持ちと演奏を盛り上げていく。

 

「“だから”──」

 

 瞳の映す景色が重なって、香澄の唇が動く。瞬間、私たちの奏でる音楽が、動き始めた──

 

  “集まって星座になりたい

  色とりどりの光 放つような

  つないだ線 解かないよ

  君がどんなに眩しくても”

 

 終わりに向けて、私は最後のメロディーを弾き重ねる。正直、レベルにあってないからミスも多い。

 だけど、最後の音を鳴らし切ったときには、そんなことなど、どうでもよくなっていて。

 熱っぽい呼吸で、香澄の方に目を向けると、(たぶん)同じような表情が私を見つめていた。

 

 ☆

 

「ねえ、凪紗」

「……?」

 

 公園で一緒に歌ったあと、私の部屋に戻って、明日も早いことだし、と二人で眠りについた。

 肩に触れる手指に気付いて目を覚ますと、香澄の顔が近くにあった。

 

「どうしたの?」

「起こしちゃってごめん。ちょっと寒くて……布団とかあるかなって」

「……んー……」

「凪紗?」

 

 ちょっと寒いらしい。梅雨で蒸し暑いかと思ってたら……ってこと、よくあるよね。

 でも布団しまっちゃったし、眠いし──そうだ。

 ぼやけた意識に任せて、私は香澄の手を引いた。

 

「わわっ!?」

「こうすればいーんじゃない……?」

 

 ぽふっ、と倒れこんだ香澄を隣に引き込んで、布団に二人してくるまる。

 ついでに抱き枕になってもらおう。

 

「な、凪紗?」

「あったかいし、これでいいや。おやすみ……」

 

 それだけ言って、また意識を暗闇に沈めていく。

 胸の中でわいわい言ってる声がしているけど、それも気にならなかった。

 

 ──私たち、星座になれるかな。

 

 そう問われたら、今は自信をもってなれると言える。

 明日の練習で、それを証明したい。同じ気持ちを、みんなと共有していたい。

 そんな願いを抱えながら、私は眠りについたのだった。

 



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#38:That Is How I Roll!(青薔薇編⑤)

「あ、あのっ、氷川さん……」

「……」

 

 帰りのHRが終わった教室で、()()()()()()()私を呼ぶ声がする。

 無言で振り返ると、そこにはいつもの様子で私を捉える目があった。

 

「……またですか」

「だ、だって、教えてくれないから!」

「本人の許可がない、と説明したはずです。気持ちは分かりますが」

「そんな~!」

 

()()の頼みを断る、というのは一度や二度の経験ではない。その度に、頭を抱え、髪を揺らしてこういう反応をする。

 私はうんざりしながら、「後生だから!」と縋る腕を押しのけるのだった。

 

「大体、私を通して感謝の言葉は伝えたはずでしょう。手紙だって渡しました」

「だけど! ほ、ほら! そういうのってやっぱり面と向かって言ったほうが」

「それはお互いが一般人だった場合です。あなたは仮にも有名人なのでしょう」

「え!? えへへ、まあ『アイドル』やってるけど……って! それはそうなんだけど~! 待ってよ~!」

 

 彼女は乗せられやすい節がある。それを利用して、今回も退散する。

 泣きわめく声を背にして、私は一つ溜息をついたのだった。

 

 ☆

 

「若葉さん……もう限界が近いです」

「……ええ?」

 

 さきほどの疲れを報告に乗せて言うと、渦中の人──しかしそれに自覚はないようで──はきょとんとした顔を向けてきた。

 

「ですから、先日から言っている通り、咲祭の事故の彼女……丸山さんが、あなたのことをしきりに私に聞いてきているんです」

「ああ……」

 

 そっけない、と言うより気にかける様子のない返答に私の苛立ちが募る。……少し、感情を目つきに出してみると、若葉さんはやおら姿勢を正して向き直った。

 

「す、すみません。ですが、このままなんとか押し通せませんかね。夏休みまで持ち越せば、ほとぼりも冷めるというか」

「なんか悪いことしたみたいだね」

 

 傍らで聞いていた北沢さんが指摘する。彼の言葉の通り、それでは若葉さんの()()()が悪行のように聞こえてしまう。

 

 咲祭で発生した転落事故──未然に防がれているが──の当事者である丸山さんは、転落間際に意識を失ったことから、若葉さんが自分を助けた事実を知らない。そのため、自分を助けてくれた人が誰なのか、以来探し続けているというわけだった。

 

「……でも、可愛い子だと思ったらアイドルだったなんて。律夏、やっぱり打ち明けた方がいいんじゃない?」

「……しない」

「えー」

 

 丸山さんは私のクラスメイトだったが、彼女がアイドルだと気付いたのは、同じグループに所属している日菜の紹介だった。

 元々、自分が助けたことを言わないでほしい、と若葉さんには頼まれていたが、アイドルの事実を知ってからは、尚更彼の希望が強くなっていた。

 

「別に俺自身は怪我したわけじゃない。しかも、アイドル──有名人ってことだろ? 同性ならともかく、異性との関わりがあるなんて知れたら厄介なことになる」

「僕は自意識過剰だと思うけどなぁ」

「それならそれでいい。……ともかく、お互いにとって最善なはずだ」

 

 忘れていたが、彼自身面倒ごとを徹底的に避ける性格で、生真面目に見せかけて手間を省いたり、横着をすることがある。ひょっとしたら、お礼を言われることや会う機会そのものを面倒だと思っているのかもしれない。そうだとしたら丸山さんも不憫に思えてくる。

 

 ──また、それだけに、ご家族や周りの人に対する献身の裏側にある思いが計り知れなくもあった。

 

「……と、いうわけなんですが。氷川さん、やっぱりこのまま何とか」

「そうするしかない、ということでしょうか」

 

 何度目かの溜息の裏で、今後のことを考えてみる。

 仮に夏休みまで待てば──ということであったとしても、今日が六月の三週目の金曜日であり、明日はいよいよ羽丘での文化祭が控えている。その後には《Roselia》の練習を予定していて、その時にはメンバー全員の話し合いがあって、七月に入れば期末試験、風紀委員の会議──

 

 私は頭の痛くなる思いでこめかみを押さえた。

 

「ほら、氷川さん弱ってるよ。もう言っちゃってもいいんじゃない?」

「って言ってもなぁ……」

 

 考え込む仕草をした若葉さんは、しばらく沈黙して、おもむろにペンを取り出してから「恵、生徒会室に便箋あったよな?」と訊いていた。

 北沢さんがその意図を問う。

 

「咲祭でお世話になった商店街の人に手紙書いたんだよね。でも、それがどうしたの?」

「丸山さんって子に、お礼は不要だってこと書こうと思って。俺が考えてることを伝えられるのが氷川さんしかいないから、その子は詰め寄ってくるわけで」

 

 そう言いながら、若葉さんはこちらに目線を寄せた。──どうやら、彼なりの配慮というか解決策らしい。

 

「そうして頂けるのなら、お願いします」

「こちらこそ、お手数おかけします」

「……高校生同士のやり取りとは思えないなぁ」

 

 一礼を交わした私たちを、北沢さんは苦笑とともに眺めるのだった。

 

 

 ♬

 

 

 翌日、私はステージの行われている羽丘の体育館ホールにいた。

 普段は用務員の方が通るような、建物上部の連絡通路──咲祭では、ちょうど若葉さんの担当だった箇所──で、ステージに詰めかけた観衆を見下ろす形になる。

 

 見回りを主な役割とする風紀委員の中には、観劇を希望する団体のある方も多く、そういう方に対しては休憩を兼ねてこの仕事を用意した。

 かくいう私も休憩なしで午後の部を半分過ぎ、一抹の疲労感がよぎるところだったので、適した時間だと言えた。

 

 ダンスステージとバンド演奏を組み合わせた混合ライブは、無事成功裏に終わった、との報告を受けている。

 私はその後の、バンド単体での演奏が始まるタイミングでここに辿り着いたというわけだった。

 今井さんたちのパフォーマンスが見られないのは少し惜しいが、《Afterglow》のバンドとしての実力もまた、私を確かに惹きつけていた。

 

「お手並み、拝見ね──」

 

 思えば、他のバンドのことが気になった、というのは初めての経験だった。これも、私自身の変化による影響だと思える。

 バンドによって事情は違うことは承知の上だが、メンバーそれぞれの演奏をステージ上で結びつける行為は、私たちのそれと変わりなく行われる。

 そういう意味で、彼女らのパフォーマンスの奥深くに、どんな信念が秘められているのかが気になっている、というのが正しいか。

 

 ステージに意識を傾けていると、肩に触れる手に気付く。

 

「紗夜!」

「今井さん。……いくらなんでも、早すぎませんか?」

 振り向いてそれを言うと、彼女は「いやー、巴たちのライブ、早く見たくなっちゃって」と訳を話す。

 ダンスの直後に走って階段を上り、ここに来たとすれば驚異的な体力だ。

 

「でも、紗夜には私たちのステージ見てほしかったな~」

「スケジュール上、仕方のないことです。また、機会があれば」

「! ……うん!」

 

 私の言葉に、今井さんは輝く笑顔でそう返す。そこまでの期待を向けられるのは、こそばゆい気持ちになる。

 その表情から逃れるようにしてステージを見やると、一度下ろされた舞台の幕が上がってくるとこだった。

 

「あっ、始まる!」

「そのようですね」

 

 ライブ専用の機材がセットアップされ、ステージは本来のライブの形を取り戻している。

 照明が舞台の輪郭を映し出し、その中で、美竹さんを中心としたメンバーの、どこか不敵な笑みが浮かび上がった。

 瞬間、観衆が波を打つように沸いた。

 

「Afterglow、ボーカルの美竹蘭。──私たちの歌を聞いて。『That Is How I Roll!』」

 

 言葉とともに、四人の視線が、スティックを掲げた宇田川さんに集まる。カウントののち、淀みない演奏が始まった。

 

()()じゃなくて、文化祭でやるときってオリジナルじゃきついかもって思ってたけど……結構盛り上がるんだね」

「そうですね。……それほど、校内でも注目を集めているということかも知れません」

 

 なるほど、と興味深くステージを見つめた今井さんを横目に、再び意識を演奏へ戻していく。

 観衆の盛り上がりに応え、さらに煽るように──力強く、体育館全体を牽引するようだった。

 

 

  “なんでも言うこと聞くイイ子ちゃんはいらない 従う必要ないから”

 

  “猫なで声 蹴散らせ マネなんかしなくていい”

 

  “そんな世の中捨てちゃって“僕”を生きる”

 

 

 どこまでも、自分たちらしくありたい──そんな主張めいた叫びが、歌詞には込められていると感じる。

 刻まれるリズムに身を委ねる観衆たちにもそれが伝わっているのか、日常を忘れ、ライブの中の一刹那を全力で楽しんでいるようだった。

 

「……なんか、かっこいいよね。こういうの」

 

 今井さんが言外に滲ませたものと、私は同じものを感じているのだろうか。それを確かめたくて、言葉の続きを待った。

 

「Afterglowは幼馴染五人のバンドらしいんだけどね、みんなが思いをぶつけ合って生まれた音楽だからこそ、自分たちらしさが表現できると思うんだ」

 

 幼馴染──ともに過ごした時間が長い関係だからこそ生まれる演奏だ、ということか。なるほど、バンドの背景を踏まえた考察だった。

 同時に、似た関係の湊さんとの間にある溝や、存続の岐路に立たされているRoselia(私たち)の事情との比較も想起される──そう考えると、今井さんの言葉も表情も、どこか複雑なものに思えてきた。

 

 

  “Cry, cry out

   不器用でも 足掻いて進んで

   一ミリも無駄なんてない 足跡残すから”

 

  “Cry, cry out

   とにかくこの先を信じて 僕は僕 君は君

   生きよう Say "that is how I roll"”

 

 

 熱気の波は最高潮を迎えたステージを包み込むようにうねり、後奏が響き渡っていく。それが終わる前に、言葉を探す。

 

「……Afterglowの音楽は、五人の深い関係性に支えられていることは事実です。互いを理解し、信頼するからこそ奏でられる歌がある」

 

 ライブは終わりを迎え、観衆は熱狂の渦をつくる。止まない歓声を遠くに、私は言葉の続きを紡いだ。

 

「しかし、それが私たちの道を阻むものではない。練習で技術を磨き、その音で個性を結集し、私たちだけの、一つの音楽を奏でられる──《Roselia》になることができる」

「……!」

「この演奏を通して、Afterglowの皆さんからはそれを学びました」

 

 湊さんが掲げた目標の下に、私たちが集まった。それは、《Roselia》の信念に少なくとも共感し、共有を望んだことの証左だ──たとえ湊さんがそれを忘れようと、私たちが引き戻すことはできるはず。

 

「失う前に取り戻すことはできる。そのために、成すべきことを成しましょう」

「紗夜……」

 

 弱弱しい視線を支えるように見つめ、私は頷く。

 いつかの仮説は確信となり、私を支えてくれたように、今は目の前の彼女を激励する。

 夕暮れの文化祭は、ついに終わりを迎えようとしていた。

 

 

 ♬

 

 

「……これは、どういうことかしら?」

 

 文化祭を終え、早々に羽丘から移動した私たちは、いつも練習に使用しているライブハウスのスタジオで湊さんを待った。

 時刻通りにやってきた彼女は、しかし演奏の準備をほとんど行っていない私たちを訝しみ、責めるような視線を向けてそう言うのだった。

 

「練習に入る前に、少しお話したいことが」

「……紗夜、貴女──」

「場合によっては、今日の練習を取り消してでも必要なものだと考えています」

 

 言葉を遮ってこう重ねる。わずかにたじろぐ表情が見て取れた。

 

「……分かった、聞くわ」

「ありがとうございます」

 

 一礼し、再び湊さんと向き合う直前、一瞬だけ周囲のメンバーを横目に見た。

 不安そうな面持ち、緊張に身体を固める様子、強い決意に身を震わせる仕草──そのどれもが、私と湊さんを意識したものだったことは、言うまでもない。

 私の胸中にも、ある種の緊迫感はあった──彼女の返答次第では、Roseliaとしての活動を続けられなくなる恐れに対して。

 だけど、かつて抱いた尊敬と、秘めた確信がそれを打ち消してくれていたのだった。

 

「──音楽業界からスカウトの話があった、と聞きました」

「ッ!」

 

 場の雰囲気が一変し、途端に室温が下がるような心地だった。

 眼前の湊さんは、知らないはずの事実を口にした私に、明確な驚愕をもって反応し、そして鋭利な視線で返した。

 

「……宇田川さんと白金さんが、その現場を目にして、話を聞いたそうです。褒められたことではありませんが」

「ご、ごめんなさい……でも! あこ、Roseliaが──みんながバラバラになっちゃうかもって……怖くて」

「……」

 

 宇田川さんの率直な感情の吐露に、湊さんの返答はなかった。まだ、それを受け止められないということだろうか。

 畳みかけるように言葉を加える。

 

「宇田川さんの言うように、もし湊さんがこの話を受け入れ、FWFのステージに立つというのなら、今後のRoseliaの活動は立ち消えることになります。……今までの活動の意味も、なくなる」

「さ、紗夜!」

 

 些か糾弾めいた言い方になってしまった。制止しようとする今井さんの言葉に頷いて、しかし言葉を途切れさせない。

 

「──そのような不安を抱えたまま演奏することは、かえって非効率でしょう。だから、私たちはあなたの答えを聞きたい。今、この場で」

 

 そう言い放って、湊さんを待った。

 

「私は……っ、フェスに──FWFに出る! 昔から、ただそれだけを目標に──」

「ええ。『音楽で頂点に立つ』──あなたの、そしてRoseliaの目標でもあります。あなたがそこへ到達したとき、その隣に、私たちはいられるのですか?」

「──!」

 

 声にならない叫びが、そこにはあった。

 夢に最も近づくことのできる道がそこにはあって──しかし、Roseliaとしての活動では、それを辿っていくことはできない。未完成の私たちが行く道は、先の見えない道でもある。

 しかし、それでも湊さんは、肯定も否定もしなかった。まだ迷っているのだろう。

 

 ──だとしたら、まだ、私たちには可能性が残されている。

 

「それなら」

 

 おもむろに、背負っていたケースからギターを取り出し、準備を進める。呆気に取られた表情が私を追っているのが分かった。

 

「ひ、氷川さん……?」

 

 白金さんに答えるように、私はギターを構える。

 

「決めてもらいましょう──私たちの音で。私たちが奏でる決意で」

 

 そう言う私に、今井さんも、宇田川さんも白金さんも、弾かれたように準備へ取り掛かっていく。

 言葉なく眺めていた湊さんを一瞥し、想いを込めてぶつける。

 

「あなたにとって、Roseliaの……私たちの可能性を判断してください。その目で見て、耳で聴いて、心で決める。簡単なことでしょう?」

 

 実に簡単なことだった。

 自分らしく──私たちらしく、ありのままの音楽を届けるのがバンドの本分であり、存在意義なのだから。

 




以降、投稿頻度が下がると思います。ただプロットは結構前にできてるので、何とか続けられる…はずです。


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#39:前へススメ!(綺羅星編⑥)

 

「「……」」

 

 登校前、朝早くに蔵で集まった私たちは、二人と四人に分かれて向かい合っていた。

 心配そうな目線、戸惑いの目線、どこかむすっとした目線、うさぎのことを考えていそうで何を考えているか分からない目線を浴びた私はたじろいだ……けど、すぐにそれらが私に向けられたものではないということに気が付いた。

 

 冷静に考えれば私なわけがない。私のTシャツの裾を摘まんで背中に隠れる香澄は昨日と同じでらしくなかった。

 

「ほら、香澄。出てきなって」

「えっ、あっ、うん……!」

 

 そういう割には出てこないじゃん。

 先が思いやられるなぁ、とも呟いたけど、声もしっかり出てるし、顔つきは確かに明るくなったと思う。そういう意味では昨日とは違って──夜、一緒に歌ったことがその助けになっていたらいいな、なんて思った。

 

 そのことにいち早く気付いたりみが声を上げる。

 

「香澄ちゃん、声出るようになってる!」

「本当だね」

「ったく、心配させんなよ……」

「有咲、昨日は雨の中、すごい顔して香澄のこと探してた」

 

「うるせー!」といつもの照れ隠しに、私含めて蔵の雰囲気は幾分か和やかになったと思う。それを察してか、意を決したように、香澄が進み出てくる。

 

「みんな、昨日はごめん。……私──」

 

 そして、向き直ったみんなの前で香澄が語ったのは、文化祭を終えて、オーディションに取り組むようになってからのこと。

 練習の中で、見えなくなっていく楽しさ──バンドの発起人として、音楽の経験が足りていないことに感じていた焦りが、《Glitter*Green》や《CHiSPA》、《Roselia》の演奏を間近にする度に深まっていったこと。

 ある日の夜、オーナーに言われたこと──

 

「『周りも自分も、何も見えてない』って──私自身のことだけじゃなくて、とにかく練習しなくちゃってみんなを巻き込んで、本当にバンドがやらなきゃいけないこと、分かってなかったんだ」

「「……」」

 

 どうやら、自分に足りないものが何か気付いたみたいだった。うなだれる様子を見て、有咲は溜息をついて言う。

 

「……お前、いっつもやるって決めたらこっちの言い分聞かずに突っ走るだろ。

 巻き込まれてケガすんのもこっち」

「うっ……」

「有咲、そんな追撃しなくても」

「凪紗ちゃん、それもフォローになってないかも……」

 

 りみに言われてハッと気付く。しまった、私としたことが。

 香澄は「うううっ……」と呻きながらこちらを覗いていた。

 ──でも、ツンデレのこの子が言いたいのはそれだけじゃないはずだよね。

 

「……でも、悪くなかった」

「へ?」

 

 顔を上げた香澄の目を視界の外に置いて、有咲は続ける。

 

「迷惑っちゃ迷惑だけど、香澄に引っ張りこまれたから、またがんばってみようかなって思えたし」

「有咲……」

 

 またこの子はほんと……素直じゃないなあ、と、朱に染まった頬の端を眺めながら思う。蔵で会った時からその感想は変わってなくて──だけど、香澄の一方通行だったころと違って、今の有咲の思いは、しっかり香澄に向けられている。

 言いたいことは同じようで、たえもそれに続いた。

 

「最初、香澄がSPACEのオーディション受けるって言ったとき、びっくりしたな。でもあの時、香澄がまぶしかった。どれだけ難しくても、やりたい、やってみせるって言える香澄、いいなって思った」

 

 突き動かされて、バンドを組む決心がついたということを、たえは微笑みとともに語った。

 たえをポピパに引き込んだのは、単純にクライブでの演奏が楽しかった思い出だけじゃない。香澄は、言葉と行動を通して、確かにたえの心を動かしたんだ。

 

「私も香澄ちゃんが何も持たないでステージに出て行っちゃった時、まぶしかった! 

 凪紗ちゃんも有咲ちゃんもいたけど、一番前でステージに立った香澄ちゃんがお客さんに呼びかけて──すごいなぁって……だから、踏み出せたんだよ。私も香澄ちゃんみたいにキラキラドキドキしたいなぁって」

「私……みたいに?」

 

 首を傾げた香澄に、沙綾が分かりやすい説明を加えてくれる。

 

「何か追っかけてる香澄、すごい輝いてるんだよ。そんな香澄を見てて、ずっとうらやましかったんだ。私はずっと立ち止まったままだったから」

 

 出会ったときは知りもしなかった、沙綾の過去。

 それでも私は踏み入れたけれど、それだって、香澄の思いに続くように手を伸ばし続けたからこそだ。

 私を一瞥して、沙綾は言う。

 

「でも、凪紗が引っ張ってくれて──香澄が、私となら、キラキラドキドキするんだって言ってくれて──みんなと一緒に……バンドやろうって、何度も踏み込んでくれた」

「うー、だって一緒にバンドやりたかったから……!」

 

 そうやって香澄が絞りだす言葉が、純度の高い思いそのものだと気付く。

 そうだ。バンドやりたい、それだけで私たちは集まれる。隣に並び立って、音を奏でることができるんだ──

 

「香澄」

「……?」

 

 振り向いた香澄に、私もできる限りの想いをもって応えよう。

 

「入学式の日から、私はずっと香澄の輝きに導かれてきたって思うんだ。私には見えなかったものを──キラキラドキドキを追いかける香澄が見せてくれたもの、出会いくれた人のおかげで、今の私がいるって」

 

 香澄の信念はいつしかみんなに伝播して、今はそのすべてじゃなくても、たった一筋の光を分け合うだけで、同じ方向を向くことができる。

 私たちには、ポピパには、香澄が必要なんだ。

 

「昨日も言ったけどさ、悩んだとき、一緒に考えるのがバンドメンバーだよ。香澄がくれる輝きだけじゃない。悩みだって、みんなで分け合おう」

「……っ!」

 

 瞑った目から光るものを滲ませながら、香澄は頷く。

 残りの私たちは視線を交わしながら笑いあい、その背中をさすったり、頭を撫でた。

 涙が乾くころには遅刻もぎりぎりの時間だったけれど、今はこの時間を共有していたかった。

 蔵の外を出ると、雨の降り止んだ空の青さが私たちを出迎える。

 

「──ほら、香澄」

 

 差し伸べたその手が、再び握られる。この温もりは、一生忘れられないんだろうなと思った。

 

 

 ♬

 

 

「はー、たくさん走ったらお腹すいた……!」

 

 昼休みにも集まった私たちは、たまにはということで春には常連だった中にはに足を運んだ。

 ここのところ雨続きだったし、しかも蒸し暑かったけれど、今日は長雨が気温を下げてくれたのか過ごしやすかった。

 

「なんとか間に合ったね」

「いや、ほとんど遅刻(アウト)だっただろ」

 

 沙綾の苦笑に、疲れた顔の有咲が返す。実際のところ、校門の手前で予鈴が鳴ったのでルール上はアウトだったのだろうけど、待ち受けていた風紀委員(氷川先輩)は事情を知っていたのか、「お兄さんに免じましょう」と通してくれた。

 

 感謝はしてるけど、兄さん、もしかして氷川先輩にポピパの話してるのかな……。というか、それで通してくれる氷川先輩も優しすぎる。言っちゃなんだけど、そういうのは絶対許しません、って感じの厳格さがある人だと思ってる。今でも。

 

「律夏さんに『ありがとうございます』って言わなくちゃ」

「りみ、別にいいよ。勝手に妹のバンドのこと話してたとしたら、結構ヤバいし」

「確かに。氷川先輩とよく話すのかな?」

「いやぁ、二人ともよくしゃべるタイプじゃない、っていうか兄さんがそもそも氷川さんに釣り合うような人じゃないし」

 

 たえにそう返す。もちろん、兄さんが天秤の軽い方だ。

 未だ苦味の混ざった笑みを浮かべる沙綾は、「仮の話でそんなに言わなくても……」と宥めてくれる。

「でも、お弁当のお礼しなくちゃ!」と、香澄。

 

「あー、昨日凪紗の家で泊ったんだよな」

「うん! 律夏さん、早起きしてベーカリーに行っちゃったけど、これ用意してくれてて」

「すごいよね。今日、私が起きてくるより早くから仕込みしてたんだよ」

 

 おまけにお母さんの代わりに朝ごはんも、なんて沙綾が言う。一体私の兄はどの方向へ進んでいくのだろうか……。

 

「で、でもそれじゃ律夏さんが……」

「まあ、本人が望んでることならいいって思うんだけど、ちょっと複雑なのは確かかな」

 

 りみが心配してるようなことはないけれど、負担という意味以外でも私の心境は言葉の通りだ。

 少しはやりたいことをしてほしいって思うけれど、今はそれを探しながら、できることをやっているのが今の兄さんだった。

 

「中学のとき、父さんのことだけじゃなくて、友だち付き合いでいろいろあったんだ。それを心配してたのかも」

 

 見上げる空に、湯気のような薄い雲が流れて、青さを濁していく。

 注意深く私を見守る視線は、どこか気遣いを感じさせて心苦しかったけど、構わず続ける。

 

「……でも今はそんな心配ないって、兄さんにも言ったよ。これまでの分、絶対返したいって思うから──この()()でね」

 

 それが何を指しているのか、分からないっていう人はここにいない。もちろん、そんな心配は杞憂だって理由なんてなおさら。

 

「うん。……私も、絶対返したい」

 

 香澄の意気込みには、強い想いが込められているような気がした。それはきっと、次回のオーディションに向けられているような気がして、私はその強張った両肩をゆるゆると撫でおろした。

 

「力入りすぎだよ。大丈夫、落ち着いて練習すれば歌えるから」

「あ、そうだった……」

 

 そう、先のことを考えすぎて力んでしまうのもよくないということを、今回で学んでいる。

 だけど、香澄が感じていることも分かる。何とかして、歌えるようになる方法を見つけなきゃ。

 

「夜、私がギターを弾きながら一緒に歌ったんだよね。その曲なら、声は出せてた」

「ってことは、オーディション用のオリジナルじゃないってこと?」

 

 たえの指摘に頷く。

 つまり、香澄があの時語ったように、ポピパの巣窟と化している蔵で歌う曲はオーディションを思い起こすから、プレッシャーを感じてしまう。

 

「……私、やっぱりそっちは歌えなくて。──オーディションまでに、歌えるようになるかな」

 

 目を伏せる香澄の一方で、今朝と同じように、私たちは視線を交わす。それに気付いた香澄が不思議そうな表情を向けてきた。

 

「……?」

「さっきも言ったじゃん。『分け合おう』って」

 

 有咲の言葉に、やっぱりきょとんとしたままの香澄は、ちょっと可愛かった。

 笑いあって、私たちは一つの提案をしたんだ。

 

 

 ♬

 

 

「……」

「緊張してる?」

「ば、ばっか、そんなわけねーだろ」

 

 敢えて有咲に訊いてみた。香澄が()()なのは想定通りっていうか、蔵練は久しぶりなのだからしょうがないことだ。

 むしろ、有咲はそんな香澄の様子をずっと眺めていて、子に向ける親のハラハラとした目線が感じられてちょっと面白かった。

 

「あはは、でもちょっと分かるかも。みんなで()()()()の、あんまりないもんね」

 

 沙綾の言うことに、マイペースなたえまでもが同意している。確かに、私たちが担当している楽器以外で、ソロパートの()()を割り振ったことはほぼない。

 ──そう、私たちが出した結論は、それぞれで歌を分け合って、香澄につなぐこと。

 

 楽器の準備を済ませ、カウントタイミングを合わせる。

 こんなに胸が高鳴るのはいつぶりだろう。緊張でも、ライブ前のいい緊張っていうか──オーディションとはまた違って、早く歌いたい、音を奏でたいっていうような、少し前のめりな気持ち。

 

 そわそわしているのは、私だけじゃなかった。有咲に沙綾、たえの言葉、そしてりみの表情からそれが伝わってくる。

 香澄は一呼吸置いて、重なった私たちの視線に追いつくように目を見開いた。

 

「……行こう!」

 

 私がそう言って、みんなが頷く。演奏と、その原動力になる思いが一つになったまさにその瞬間、私は息を吸い込んだ。

 

 “たとえ”──

 

 直後、たえと有咲の音色が背中を支えるように響いてきた。

 

 “どんなに夢が遠くたって あきらめないとキミは言った

 輝く朝日に誓ってる 「前へススメ」

 キミらしく 駆け抜けて”

 

 その言葉は、まさしく香澄(キミ)へのメッセージ。

 勢いよく飛び出した有咲の伴奏が、沙綾のドラムを伴ってリズムを作り、次のメロディを導いた。

 

 “好きで好きでたまらないよ 今すぐ扉あけたいよ

 でも踏み出せないのはなぜ……”

 

 “だけど三つのコードから キミと一つになれたよね

 もう 夢はみんなのもの この心ふるわせたい”

 

 りみとたえの歌声に乗せて、一つ一つの言葉が紡がれて、届けられていく。

 

 “星に願いをかけてはしゃいだ あの夜空は続いていく”

 

 “正直になれそうな自分に キミが微笑んだ”

 

 思い出話をするように、語りかけるように、有咲と沙綾が続ける。もう、気付いたときにはサビ前で、解けない緊張を抱いた香澄が視界に映る。

 その途端、走馬灯のように、なんて言い方をするとあれだけど、脳裏に焼き付いた今までの記憶が一コマ一コマ流れていく。

 

 その全部が、香澄との出会いに結びついていたんだって思ったとき、自然と口が動いて──

 

「「“そうだ”──」」

 

 その瞬間、私たち六人の音が重なった。

 パートは香澄のものだったけど、私と同じく、それを支えたいってみんなの思いが集まったんだ。

 背中を押せば、後は駆け抜けていける。

 その直感通り、いつの間にか輝きを取り戻した香澄が、力強く歌う──

 

 “どんなに今がつらくたって 何もうまくいかなくたって

 積み重ねたもの忘れない 「前へススメ」

 全身全霊ただ前進! 一心不乱に精一杯! 

 果てしなくても 遠くても!”

 

 それは香澄の復活宣言であり、これからの決意でもあったと思う。

 音が、視線が、思いが重なって、私たちは最後の詞を歌った。

 

 “見渡す限りに揺れる輝きが 待っている場所を

 夢見ている 夢見ている”

 

 私たちの目指す場所、それは煌めきに満ち溢れた場所。そこに連れて行ってくれるのは、きっと香澄なんだ。

 確信を込めて、ギターをかき鳴らす。

 

 後奏が収束し、静けさの中で、肩で息をした私たちが感情を爆発させたのは、それからしばらくしてからのことで、同時に言うまでもないことだった。

 



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#40:BLACK SHOUT(青薔薇編⑥)

一カ月が過ぎゆくのが早い…


『──私たちの可能性を判断してください。その目で見て、耳で聴いて、心で決める。簡単なことでしょう?』

 

 セッティングを終え、私たちは湊さんと対峙する──言い放った通り、彼女の残留を懸けて、その見極めを受けるためだ。

 

「……」

 

 言葉はなく、しかし複数の視線が私を捉えていることを肌で感じる。

 そう、湊さんが先頭に立って歌い続けるかどうかは、ボーカルのない、インストバンドとしての演奏によって決まるということ。

 今、その最前線に立っているのは私なのだ。

 

 改めて、その責任の大きさを思い知る。

 

「曲は、どうするつもり?」

「練習中のあの曲にします。他のメンバーも、そのつもりです」

 

 羽丘の文化祭直前、宇田川さんの報告を耳にしてから、遅かれ早かれこのような瞬間が訪れることは予想していた。それは端的に、バンドの岐路と言って差し支えなかった。

 だから、彼女を引き留めるにあたっては相応の実力をもって示す必要があると判断した。

 

「……そう。いつでもいいわ」

「ええ。……皆さん」

 

 頷きを交わし合い、呼吸とリズムを揃えていく。波の重なり合ったタイミングで、演奏を開始した。

 途端に、「あの」感覚──演奏が一点に集約されていく感覚が駆け巡る。それは電流にも似ていて、規律の取れたリズムに乗った一音一音が心を震わせた。

 

 これまで、その場所にいたのは湊さんであり、私たちは演奏の支柱として──旧い感覚で言えば『歯車』として──それぞれの音を集めていたけれど、今はそれが、私の手の中にある。

 

 強烈なプレッシャーが我が身を襲う一方で、痺れにも似た、鮮烈な感情の奔流を無視することはできなかった。

 

 これが、湊さんの抱えていたモノということかしら。

 

 似た立場に立って、彼女の歌声の裏側にあるものを考える。オーディエンスに届けられる激情は、それだけの思いの強さと深さを覗わせていた。

 ならば、そんな思いの向く先──FWFと『音楽の頂点』への強いこだわりをどう説明すればよいのだろうか。

 

 音楽をめぐる私情、これに対するかつての疑いは消え去っていた。

 私にとっての日菜のような、身近な存在との関わりから生まれた劣等感、そして逃避。あるいは若葉さんのような家庭の問題で、できなくなること、義務に縛り付けられることだってある。

 そして、上原さんのように抱えた信念に従って、自分の実現したいものの手段として音楽を捉える人もいる。

 

 皆、生きる限り附いて回る事情に左右される──そうだとしたら、私たちが挑むことはあまりにも私的(プライベート)すぎる。

 

 ──だからといって、諦める理由にはならないわね。

 

 ボーカルの不在という大穴を、あえて際立たせて奏でるギターは、それを埋める湊さんの存在そのものを求めるように唸る。

 感情も立場も無視してがむしゃらに手を差し伸べる私たちの演奏は、醜くも純度の高い、漆黒の叫びだ。

 

 湊さんに視線を投げかける。とらえた瞳には、迷いがまだ見えた。

 

 “揺らぐ視線 守るように

 固く結び 勇気で繋ぐから”

 

 湊さんの背後にあるものは分からない。しかし、先の見えない不安に五人で立ち向かうことはできる。

 

 “例え明日が 行き止まりでも

 自分の手で 切り開くんだ”

 

 かつて紡いだ詞が、直線的なメッセージとなって、湊さんの心を穿つだろう。

 私たちは確かにその信念に共感し、あるいは憧れを抱き、この場に立っている。

 だからこそ、貴女にはRoselia(ここ)にいて欲しい。私たちを音楽の頂点へ導いて欲しい。

 

 “すくむ身体 強く抱いて

 覚悟で踏み出し 

 叶えたい夢 勝ち取れ今すぐに! ”

 

 演奏の幕引きと共に、私たちの意識は湊さんの反応に向けられていった。強い思いを差し向けられた彼女は、それから逃げるようにわずかに俯くのだった。

 

 

 ♬

 

 

「ごめんなさい」

 

 まず零れ落ちたその言葉が、私たちの動揺を呼び起こした。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ友希那! 突然そんな」

「……何よりも、謝罪が先に必要だと思った。──自分の気持ちを、自分で理解しきれていなかった。あなた達との関係性を認識しきれていなかった。そのことに対して」

 

 演奏を終えて、少なからず高揚と興奮のさなかにあった私の頭脳では、彼女の真意を図りかねていた。じれったくなる衝動を抑えつつ、その一言一言を紐解いていく。

 

「と、いうと、今までの貴女の言動の中に、過ちを認めるということですか?」

「ええ」

 

 少し物言いが冷徹すぎただろうか。今井さんの視線が刺さるが、構わず湊さんは頷いた。

 

「私が音楽の世界に足を踏み入れた理由は、FWFの出場のため。音楽の頂点を目指すためだった。……それができればなんだっていい、そう思っていたわ」

「それって……!」

 

 宇田川さんのまとう悲壮感の通り、Roseliaの結成にあたっては、FWFの出場のためだけに、私たちは集められたということになる。

 確かにその事実が暗示するものは、純粋な無情さだった。

 

「だ、だったら私にも責任があるよ! アタシは……紗夜に言われるまで、ずっと友希那をただ……見てるだけだったんだから……!」

「リサ……いえ、私は──っ」

 

 どこまでも、寄り添おうとする今井さんの存在は、湊さんにとって幸運だっただろう。だからこそ、それに頼らないで、目を背けてきたことを悔いているのかもしれない。

 

 ──だけど、それは過去の話だ。

 

「やり直せばいいでしょう」

 

 弾かれたように、数ある視線が私の言葉に追随する。それに向けて、私は率直な思いを言語化していく。

 

「間違ったのなら、それを認めて次につなげていく、それがバンドとしてのあるべき姿でしょう。迷いがあったのなら、伝えればいい。それだけのことです」

 

 他者を慮ることは人間の能力の一つだが、背景も内心も分からないままでは、知りたい思いは隠れたままだ。

 立場に立って、意思疎通を通して初めてその人が理解できる──このことは、私の学びの一つの成果だろう。

 

 湊さんの立ち振る舞いには迷いがあった。私はその訳を知りたいと思い、尋ねることにした。

 

「貴女の『私情』──FWFに、『頂点』に固執する理由を聞かせてください」

「……」

 

 しばらくの沈黙のうち、彼女が語りだしたのは、バンドマンとして活動を行っていた父親の話。

 

 かつてのプロミュージシャンは志半ばでのバンド解散とともに音楽の道を閉ざした。その無念を受け継ぎ、『FWF』での優勝によって、音楽を極めることによって復讐を果たしたいという。

 

「そ、そんなことが、あったんですね……」

 

 想像をはるかに超えた事情の大きさに、白金さんは吃驚を隠さずに反応した。

 私も似たような心地だった。同じ立場にあって、私がそのような決意にたどり着けるかは分からない──それだけ父親のバンドが好きで、音楽に深い思い入れがあるということだろうか。

 

「結果的に、私はあなたたちバンドメンバーをFWF出場のために利用した、その事実は変わらないわ。だから──」

「だから、Roseliaからは抜ける、と言いたいのですか?」

「そ、そんな!」

 

 力なく頷く湊さん。

 責任を受け入れ、それを果たそうとする彼女の意図は十分に理解できる。潔さも、嫌いではない。

 ──けれど、それは本意ではないでしょう。

 

 まさにそう思った瞬間、彼女は絞り出すように言った。

 

「──でもっ!!!! でも私は……こんな自分勝手で、理想も信念も元を正せばただの『私情』だけど……っ、この5人で音楽がしたい……! この5人じゃなきゃだめなの!」

「「……」」

 

 誰も、何も言わなかった。

 それは驚きからでも、ましてや呆れからでもなく、一つの期待があったから。

 その感情を隠すこともなく、おずおずと宇田川さんが手を挙げて、

 

「じゃ、じゃあ、友希那さん、Roseliaに戻ってきてくれるんですか……?」

 

 と、言う。湊さんはおそらく、「それが許されるのなら」と言いたげだ。

 普段の様子とは結びつかないしおらしい態度が何だかおかしくて、しばらくその様子を眺めていたかったが、いい加減決着をつけたい。助け船を出そうと、わざとらくため息をついて注目を集める。

 

「戻るも何も、元から湊さんはRoseliaのボーカルです。……これからも、何も変わりはしない。そうでしょう?」

「……! そうだよ! ね、燐子?」

「は、はい……!」

 

 確固たる事実を認め合い、頷きを交わす私たちを、湊さんたちはきょろきょろと見回す。

 そうしているうちに、宇田川さんがそれに気付いてはしゃぐのは、不思議なことではなかった。

 

 

 ♬

 

 

「あー、明日から試験期間かぁ」

 

 羽丘での文化祭報告を兼ねた集会後、上原さんが退屈そうな声を伸ばした。

 聞くところによれば、志哲では7月を待たずに期末試験が行われるという。

 

「他校に比べて早いのですね」

「紗夜ちゃんとこと羽丘は7月に入ってからだよね。なんでウチだけー?」

「この間、『面倒ごとは早く終わらせて、とっとと夏休みにさせろ』って左門先生が言ってましたよ。ホントかどうかは分からないですけど」

「もー、勝手だなぁ」

 

 頬を膨らませた上原さん。しかし、別の話題を見つけたのだろうか、「そうだ!」と手を叩いた。

 

「対バンのことだけどさ、そろそろ計画を進めたいんだよね」

「というと……参加バンドを決める、みたいなことですか」

「まあ、例年のスケジュールから予定の見積もりをするくらいならできるかな。でも、多分やり方とか機材とかが揃ってないから、まずは設営とかのノウハウ? をまとめとかなきゃ」

「悲しいかな、うちはイベントごとには興味なしですからね……」

 

 進学率や実績を最大の価値とおく教育方針には少なからず合理的な側面を感じる部分もある。

 しかしながら、上原さんの主義主張とは相容れないようで。

 

「ただ勉強するだけだと塾とか予備校でいいじゃんってなっちゃうよねぇ。だって、高校生活って一度っきりだよ!? 楽しみたいじゃんっ」

「それもそうか……」

 

 意外なことで、若葉さんもそれに納得した様子だ。……いや、単に授業を面倒だと思っているだけなのかも知れない。

 

「ま、バンドなら実際に入ってる人もいますし、きっと力になってもらえますよ。……だよね?」

「必要なお手伝いはします」

「おー、それは心強いよ!」

 

 ありがたやありがたや、なんて手を合わせる仕草をする上原さん。些かオーバーな表現だ。

 

「といっても、他校の私や鰐部さんが主導となるのも気が引けますし、何より許可が下りないのではないですか?」

「あー、そうだね」

 

 専門性の高いこととなると、結果的には他校の生徒が中心となった運営形態となる不安もある。あくまでも会長の上原さんを主軸とした会場展開を行うためには、必要な知識を身につけておかなければならない。

 会話の淀みに、すかさず若葉さんが提案を差し込んだ。

 

「この際、細かい要望がある場合は参加バンドに用意してもらうとして、大まかな会場設営に留めておくのはどうですか。幸い、まだ時間はあるので」

「そうだね。とにかく、ライブってどんな感じ? ってのが分からないと用意もできないわけだし」

 

 ハコである会場や舞台の整備に徹し、残りの部分はリハーサル段階でできる限りの要望を叶えていく方針ということか。前例のない催しに対する試みとしてはそれで十分なのだろう。

 

 時間軸を今に引き戻して、しておくべきことはライブの概観をつかんでおくこと、ということだ。

 それならば、と考える。

 

「……あの、提案なのですが」

「うん?」

 

 ふいに立ち止まって呟いた言葉は、思っていたよりもか細く漏れた。多分聞き取れなかったのだろう、上原さんたちが首を傾げる。

 ──このところ、本当にらしくないわね。

 

 そんな思いを抱えながら、私は切り出した。

 

 

 ♬

 

 

「ねえ」

「……?」

 

 練習の合間、私にそう声を掛けたのは湊さんだった。

 今日はダンス部の練習で今井さんと宇田川さんが不在、参加していた白金さんも次回以降のスタジオ予約で離席している状況だ。

 もの静かないつもの光景──最も、私的な会話を禁じていた張本人の私たちにとっては当たり前だった光景──で、湊さんの行動は珍しく映った。

 

「別に、些細なことなのだけど、貴女のことよ」

「私、ですか?」

「ええ」

 

 訝しげな思いが表情に出ていたのだろうか、気まずそうな様子にそう思う。しかし、話の中身が私自身だと聞いて尚更疑念が深まる。

 

「貴女に聞いておきたいの。……最近、何かあったのかって。心境の変化、とでも言うのかしら」

 

 その言葉に、ピンときた。

 

「それは、『私情』のことですか?」

 

 湊さんは首肯した。

 

「レストランで、貴女は音楽を始める私情を認めたわ。それをバンド活動に持ち込むことも同じく。今日のリサやあこのように」

「それが、心境の変化に関係している──そう考えたのですね」

「出会った時の貴女なら、そんなことは認めるはずもないわ。それが正しかったか、間違っていたかは別として」

 

 湊さんの推察は否定しようもない事実だ。私は頷いたが、それを確認したかったわけではあるまい。

 

「そうですね。あなたの言う通り、音楽に関する私の考えは変わりました」

「私が聞きたいのは、そこにどんなきっかけがあったか。貴女の信念を揺るがすほどのものが何かを知りたいのよ」

 

 交差する視線の中、聞かせて頂戴、そう瞳が訴えかけているのが分かる。

 

「……信念、そのような大仰なものではありませんよ」

「それでもいいわ」

 

 

 それならば、語るしかないと思った。

 

 ☆

 

 私のこれまでの人生は、ずっと競争でした。それも、心の中で、勝手に競ったつもりでいるだけの孤独な闘いでした。

 

 私には双子の妹がいます。彼女は私よりもずっと要領が良く、天賦のセンスがあった。

 認められ、愛されるあの子がただ羨ましくて──そんな嫉妬もあったかもしれない。けれど、両親はこんな凹凸のある私たちを平等に扱ってくれたのです。

 

 ──だからこそ、それに甘えている自分が許せなかった。

 

「貴女が音楽を始めたのは、その競争のせい、ということ?」

「正確には、私は逃げたのです。比べられる関係から」

 

 違う高校に通っているのもそう。悪意なく追いかけてくるあの子を振り切りたくて、ただ逃げたかっただけだ。

 

「最も、今では日菜もバンド活動を始めることで元通りになりましたが」

「そうなれば、貴女の音楽に対する態度は、なお熱を帯びていくことになる」

「ええ。どんな練習だって苦にならなかった」 

「……貴女の演奏は、そんな過去を経て生まれたものなのね」

 

 負けたくない。私が代用品に成り下がらなくて済むのなら、なんだってする。

 そんな負の感情の発露がエネルギーとなって、今の自分があるのだとしたら、皮肉なことだ。

 そう思いつつ、かつての自分の姿に苦笑を漂わせた。

 

「今も、この考え方に大きな変化はありません。ただ、私が私でいられるものを見つけようともがく醜さも、私にしかないものだと思えるようになった──それが、私の『変化』なのでしょう」

 

 瞑目し、思い浮かべるのはあの日のこと。

 夕景に溶けゆくような儚さで彼が口にしたこと。

 

 それを伝えるには、すべてを理解したとは言えなかった。だからせめて、出会いの顛末くらいは説明しようと、彼のように、言葉を選んでいく。

 

「風紀委員の活動で、他校との交流の中でよく話をする方と出会ったんです。かつては私と同じような悩みを抱えていて──色々な事情があって、夢を諦めたこともあったと、伺いました」

「その人が、乗り越える方法を教えてくれたということなの?」

「ええ。……ただ、正確には、乗り越えてはいないのです。日菜との問題も解決していません。それでも、向き合い続けようとする決心がつきました」

「そうだったのね」

 

 明かしたことに、神妙な反応が返ってくる。

 しばらく考えたのち、彼女はぽつりと零した。

 

「……貴女がそこまで影響を受けた人間なら、会ってみたいわね」

「……は?」

 

 



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#41:シグナル(綺羅星編⑦)

後で少し修正を掛けるかもしれません。
暫定版ということで。


 蔵練を終えた次の日の学校。

 

 香澄が本調子を取り戻し、その過程で、私たちも一つ成長したと思う。

 後は、オーディションでこれまでの成果を見せるだけ──

 

「うへぇ~……」

 

 ──あれ、私、何してるんだっけ? 

 

 眼前で机にとろけきった様子で突っ伏す香澄、それにはぐみを見ながら、そんな疑問を抱えていた。

 

「むずかしいよー!」

「私も! むずかしー! わかんない!」

 

 わめく二人の手元には数学の問題集。

 つまりそういうことだ。……まだ一学期なのに、先が思いやられるなぁ。

 

「子供か」

「幼児退行?」

 

 相変わらず有咲は淡々とした反応で、たえは妙な語彙を持ち合わせている。

 その後ろで沙綾とりみが苦笑する。ここ二、三週間で見慣れた光景だった。

 

()()()()()()()も勉強が得意だよね」

「まあ苦手じゃないけど、中学の範囲の続きみたいなものだし」

 

 ここ間違ってるよ、とたすき掛けに指を差す。

 勉強会中のポピパに混ざるように、はぐみが教科書片手にやってきたのはもうすぐ訪れる定期試験の対策というわけだ。

 私たちは香澄、たえに加えて彼女を受講生に迎え、指導にあたっていた。

 

「あーちゃん……」

「いいじゃん、あーちゃんって可愛い」

「は!? か、可愛くねーし!」

 

 顔を赤くする有咲もいつものこと。ついでに可愛いのは本当だ。

 そんな意味でも、すっかり元通りの私たちの日常というわけだったけれど──

 

「練習もしたいけど、この分じゃ勉強優先かな?」

「えー!? やだーっ!」

「補習にでもなったらどうすんだよ」

「オーディション受けられなくなっちゃうから……」

 

 講師陣の心配するようなことは起こらないと思っているけど、万が一を考えると対策するに越したことはない。

 はぐみにもそうはなって欲しくはないし、ここはしっかりやっておこう。

 

「「できた!」」

「お、はぐみもたえも正解。どれどれ、香澄は……」

「……」

「……お前、居残りな」

「うわーん!!」

 

 教室には、香澄の情けない声がこだました。

 

 

 ♬

 

 

 放課後の教室に、ぐうう、と音がする。

 

「お腹空いた……」

「お前なぁ」

「あはは。まあ、いい休憩にはなるんじゃない?」

 

 助け舟に、「沙綾……!」と目を潤ませる香澄。授業中の自習を合わせると結構な時間になるので、私たちもその提案に賛成した。

 

「じゃあ、つぐのお家に行こーよ!」

「つぐ……ってつぐみちゃんだっけ。確か、Afterglowの」

「そうだね。はぐみとウチのご近所さんで、羽沢珈琲店っていうカフェをやってるんだ」

「カフェで勉強って、なんか高校生っぽい!」

「なんだよそれ……」

 

 盛り上がる香澄に有咲が呆れる。

 

 実家がカフェってなんかすごい。商店街にもいろんな子がいるんだな。

 私たちの他にもバンド活動をしている高校生は多くて、同じクラスならはぐみやイヴ、上級生にも氷川先輩にゆり先輩たちというように、ポピパの活動を進めているうちに関わりも増えた。

 Afterglowのみんなとは学校が違うけれど、商店街でたまたま顔を合わせたことがあるというわけだった。

 

「私、ホットドッグ食べたい」

「喫茶店にあるのかな……」

「ていうか、この人数で押しかけて大丈夫か?」

「つぐみには私から連絡を入れてみるよ」

「それなら、ひとまず行ってみようか」

 

 もうすっかり日が長くなったとはいえ、高校生の放課後は短い。

 おしゃべりもそこそこにして、荷物をまとめるのだった。

 

 ☆

 

「……なんで?」

「それはこっちの台詞だ」

 

 羽沢珈琲店のおしゃれな扉を開いてまず目が合ったのは兄さんだった……なんで? 

 同じテーブルには咲祭で挨拶した先輩方……はぐみのお兄さん、上原さんのお姉さん──ひかり先輩、そして生徒会のつながりだろうか、氷川さんの姿も見つけた。

 その誰もがげっそりした様子であることも、異常な雰囲気の一因となっているようだ。

 

「あー! にーちゃん!」

「あ……はぐみ、お疲れ様……」

「なんか……皆さんやつれてないですか?」

 

 駆け出していったはぐみの後に着いていくと、お兄さん……恵さんが震える手でノートを取っているようだ。……これ、問題を解いているのかな? 

 

「試験前課題でね……やっとかないと成績がつかなくなっちゃうから」

「課題って……わっ、これ全部ですか!?」

 

 机に広げられていたテキストだけではなく、通学鞄に詰め込まれたものも含めて課題ということらしい。

 チャックを閉めたらもはや持ち手のついたレンガだ。圧巻の光景に香澄やりみが怯えている。

 

「志哲高校ってレベルが高いって聞いてたけど、その分勉強量も多いってことなんだな」

「だね……」

「だからげっそりしてたってことなのかな?」

 

 どうやらたえの言葉通りらしく、恵さんはしおれた花のようにぐたりと頷いた。

 

「にーちゃん死なないでーっ!」

「大丈夫……僕ははぐみがお嫁に行くまで死ねないよ……」

「あ、はは……」

 

 自分でも笑顔が引き攣るのが分かる。この人、まともに見えてるけどそうでもないな──

 視界の端ではひかり先輩が梅干しのような顔でペンを握っており、もはや収拾のつけられない店内だった。

 

「まったく、仮にも生徒会役員なのですから、生徒の範たる自覚を持ってください」

「あ、氷川先輩!」

 

 凛とした響きに惹きつけられ、その主の名前を香澄が呼ぶ。

 美人と相まって、まさに救世主といったところだ。

 

「だって急に出してくるんだもん……」

「その顔、元に戻してください。

 若葉さんに聞けば、一週間ほど前から予告があったそうですよ。ちゃんと聞いていないからこうなるんです」

「まあ、それでもギリギリでしたけどね」

 

 コーヒーを一口すすって兄さんが言う。

 もしかして、香澄をウチに連れ帰ってきたときの『課題』ってそのことなのかな。

 推薦のこともあって、兄さんは成績維持のために勉強を頑張っているみたいだ。

 

「それで、なんでここにいるの?」

「別にいたっていいだろ。試験前だし、この課題もあって生徒会室で勉強会をしてたんだが──」

「上原さんが『気分が乗らないから』と、ここに」

「だって……『映える』じゃん?」

 

 梅干し顔を決め顔に変えたひかり先輩は、氷川先輩の強烈で冷淡な視線を浴びて縮こまっていく。

 ほんと、変人しかいない生徒会のお守りを任せてしまってすみません……。

 

「あはは……わ、私たちも勉強会をしにきたんですよ」

「あ、そうなんだ?」

「うんっ! にーちゃん、教えて教えて!」

「僕はまだ()()があるからなぁ……そうだ、律夏に教えてもらいな」

「律にーちゃん!?」

 

 瞳の輝きが兄さんを襲う……眩しすぎて光で灰になるんじゃないかな。

 

「うおっ……それにしても俺か? 凪紗たちじゃだめなのか?」

「生徒が多すぎて面倒見れないって」

「なるほどな……」

 

 香澄、たえ、はぐみの三人衆はとても一人じゃ教えきれない。というか一対一でも苦労した。

 遠い目に兄さんも察したようである。

 

「じゃあ、若葉くんと紗夜ちゃんも先生やってあげなよ。凪紗ちゃんと合わせたら3人でしょ?」

「……どうしますか?」

「当校の生徒ですし、これも勉強の一環と考えることにします」

 

 氷川先輩の溜息で、思わぬ講師陣が顔をそろえた放課後講座が幕を開けたのだった。

 

 

 ♬

 

 

「……うん、だいぶ解けるようになってきたね」

「ハンバーグのこと考えたら、できるようになってきたよ」

「それって集中できなくなって逆効果なんじゃ……」

 

 と言いつつも、着実にできてきている。飄々とした様子のたえはまた一問、因数分解を捌いていく。

 その様子に満足しながら、ふと、隣の卓にいる兄さんたちを覗いてみる。

 

「できました!」

「えっと……分数?」

「……違いますか?」

「違いますね」

 

 兄さんの無慈悲な宣告に、「うわーん!」とまたしても打ちひしがれる香澄がいた。

 

「はー……なんで数学とかやらなきゃいけないんだろう……」

「そのものを否定すんなよ」

 

 冷静にツッコむ有咲。だけど腕を組んで頷く兄さんに「え?」といった表情を向ける。

 

「正直、分かるな」

「ですよね!」

「ハシゴ外された……」

「まあ、だからこそやる意味を考えるのも面白いところだけど」

「「え?」」

 

 出た、また意味の分かんないことを言ってる……。

 香澄と有咲はぽかんとした表情で、謎の発言をする兄さんを眺めていた。

 身内の恥に斬りかかりたいところではあるけれど、生徒(たえ)もいることだし、何を言い出すか見守ることにしよう。

 

「勉強からは逃げられないからね。せっかくだから、やったことで何か得ができるって考えた方がいいよ」

「得って……何ですか?」

「同じ数学ならこの後に学ぶ二次関数で使うから、その問題を解くのに役立つね。

 あとは、物事をパターン化して考える力がつく」

「ぱたーん……?」

 

 首を傾げる香澄に、兄さんは問題集のとあるページを指さす。

 

「これ、解ける?」

「『中学の復習問題』……これなら解けます!」

「自信満々にするとこじゃねーぞ」

 

 胸を張る香澄と半目の有咲。名漫才コンビに兄さんが苦笑する。

 

「じゃあ、これはどうかな」

「う……なんか並び方が変……」

「こんなの、降べきの順にするだけだろ。()()()()順に並び変えてみろよ」

「あ、そっか!」

「そうそう。これも中学の考え方で解けるよ」

「えっ、こんなに文字があるのに?」

「因数、みてみろよ。全部にかかってる文字は?」

「あ……これ、『くくりだす』ってやつ?」

 

 一度解いてしまったら話は早い。あくまでも基礎の範囲だけど、いろんな解法が求められる総合問題を、香澄はほとんど解いてしまった。

「できちゃった……」ときょとんとする二人。いや、香澄も驚いてるし。

 

「あ、でもここ間違ってた……」

「たすき掛けだね。逆に、それ以外は解けているよ」

 

 星々の瞬く表紙のノートは、中身が分からないけれど解けなかった部分は少なくなっているようだ。

 つまり、兄さんが言いたいことは──

 

「問題ごとに解くパターンが識別できれば、あとはそのやり方に沿って解くだけだよ。知らないパターンがあったら、それを覚えていけばいい」

「なるほど!」

 

 早速たすき掛けのページを開いて解説を読みはじめる香澄。

 一方で、有咲の疑問はまだ解けていないようで。

 

「……でも、これが数学以外のことに役立つんですか?」

「俺はそう考えているよ。例えば、音楽だって……楽器なら、どうしても弾けないフレーズがあるんじゃないかな」

「確かに、ありますけど」

「ただ間違えたところを練習するだけじゃなくて、どうして間違えてしまうか、他にも似た間違いがないかパターンを探すことで、本当に自分が苦手なところを見つけることができる」

「あ……! だから、練習の効率が上がる、ってことですか?」

 

 兄さんは「その通り」と頷く。

 よく考えれば当たり前のことだ。でも、意識してやっている人は案外少ないものなのかもしれない。

 さらに続けて言う。

 

「あと、『自分ができること』が分かるのも一つのポイントだね。目標に対して、今どこにいるのかが分かれば、やみくもに練習することも少なくなる」

「確かに……『とりあえずやろう』って時、多いかも……」

 

 思い立ったらやってみること、それはそれで大事だ。

 だけど、本当に必要なことを考える、このことは私たちにとって大きな学びの一つだったのだ。

 

「目標が分かれば、それに向かって自分がしなければならないことを考えているうちに、答えが分かってくる。それの繰り返しだ。大切な時間を考え抜いて使えば、きっと自信もついてくる。振り返って後悔のない選択をすることが大事だよ」

「後悔のない……」

 

 兄さんの言葉に感じるものがあったのか、りみがそう口にする。

 バンドとしての未来は、どこまで続くかは分からない。だけど、高校生でいられる時間は等しくたった3年しかない。

 その時間をどう使うかは私たち次第で、選択について回る決断には、それだけの熟慮が必要だということを、兄さんはひそかに示している。

 

 私たちは、私たち(バンド)のことですら分かっていなかった。

 今までの私たちは、お互いを想って、何をすればいいかを考えて、大切な言葉を選び取れてきただろうか。

 少なくとも、今からはそうやっていかなければならないって思う。

 

『悩んで、答えを見つけ、行動する。そんな挑戦の繰り返しが人を成長させるんだ』

 

 かつての兄さんはそう言った。

 私たちが立っているのは、勉強と違って答えがたくさんある世界だ。決断に足るだけの、自分なりの答えを見つけて行動に移すことで、私たちははじめて前に進むこと(挑戦)ができる。

 

 ──今なら、分かる気がするよ。

 

 視線を逸らす。そうして気付けば、沙綾もりみも、たえですら、問題を解いていた手を止めて、その言葉を静かに聞き入っていたのだった。

 私たちにとって、挑戦とはなんだろう。今やるべきことはなんだろう。

 

 兄さんが飲んでいた真っ黒のコーヒーを口につける──苦い。でも頭は冴えていく。

 私にできることは、せめてその頭で分かりやすい説明役に徹することだった。

 

 

 ♬

 

 

「ふう……」

 

 紅茶のカップを傾け、細い息を吐いたたえ。

 あれから結局、すごい集中力で問題集を解ききってしまっていた。やるじゃん。

 

 香澄たちはどうかな。

 

「……っていう考えでいいんじゃないかな」

「ありがとうございます! じゃあ、試しに一問出して有咲!」

「えーっと……じゃあこれ」

「ちょっと待ってね……」

 

 例題を解く香澄を、有咲と兄さんが固唾を飲んで見守っている。お遊戯会の親みたいだ。

 

「よしっ、できた!」

「……正解!」

「やったあ!」

 

 諸手を挙げてはしゃぐ香澄に、思わず笑みが溢れる。

 相変わらず全身で喜びを表現する純粋さはやっぱりこの子の大きな魅力だった。

 

「香澄、よかったね」

「香澄ちゃん、すごい!」

 

 氷川先輩たちと同じ卓だった沙綾やりみが拍手でお祝いをする。 

 大げさに見えるけれど、それくらい、香澄の集中具合はすごかった。

 

「結構解いてたもんね。……って、もうこんな時間!?」

「本当だ」

「やべ、ばあちゃんに連絡しなきゃ……」

 

 普段ならとっくに練習を終えている時間。

 お店に長居していることもあるし、そろそろお暇しないといけないかも。

 

「僕たちは近いけど、律夏たちはそろそろ……」

「ああ、そうだな」

 

 そう言いながら、コーヒーを飲み干した兄さんは荷物をまとめ始める。

 恵さんも課題があらかた済んだようで、ぐったりしているはぐみに声を掛けている。……あれ、氷川先輩の方が疲れてない? 

 

 手早く荷物をまとめたところで、香澄と目が合う。

 

「……あの、さ」

「うん?」

 

 まだ荷物を片づけていないのかと思ったら、その手元にはさっきの問題集があって。

 解けていないたすき掛けがマークされ、存在感を放っている。

 ──まだ、やりたい。やれるはず。

 

 そんな気持ちが伝わってきた。そしてそれは、()()の共通認識だったみたいで。

 

「ねえ、お泊まり会しない?」

 

 誰かが言った。そして、皆が頷いた。

 一番星の光る夜空を見上げる帰り道、別れるにはまだまだ話したいことが多すぎたみたいだった。

 

 



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#42:往け(青薔薇編⑦)

お待たせしました。



「……あの、提案なのですが」

 

 私の言辞は、夕日のもたらす閃光の中に消えゆくようだった。

 けれど、息衝くような苦しさが、その()()を厭う気持ちの表れだったわけではない。

 ──なのに、なぜ? 

 

「うん?」

 

 橙色の空を背に、振り返って訊き返した上原さんを前にして言葉に詰まる。

 

「……」

 

 会話の途切れ目に首を傾げる様子が見えて、焦りが深まってしまった。

 

「──コンテストに、来てください」

「……コンテスト?」

 

 意を決して発した言葉には脈絡がなく、これでは伝わらないのも当然だった。

 私としたことが、思い切って口を動かしたはいいものの、何を言うべきかを考えていなかったのだ。

 

「あ、す、すみません。……来週末、コンテストがあって──《FUTURE WORLD FES》という、次世代音楽フェスの選考会を行います」

「もしかして、それに紗夜ちゃんたちが参加するの!?」

 

 頷くと、上原さんは途端に目を輝かせはじめた。まるで、黄昏ゆく空の光を受け継いだように。

 騒ぎ出した彼女が気になって戻ってきた若葉さんたちにも、ことの経緯を話していく。

 

「私たちのバンドは──RoseliaはFWFへの出場を一つの目標にしています。もちろん演奏を行うわけなので、ライブの雰囲気を掴んでもらうにはちょうどよい機会だと考えたので」

「うんうん! 行くよそれ!」

「なるほど。 あ、ごめん、さっき言ってたかもだけど、それっていつ?」

「来週末──土曜日の15時からです」

 

 私たちの演奏予定は、全体でも後の番──いわゆるトリに位置している。

 それを告げると、彼らはどこか気まずそうな表情を浮かべた。

 

「……どうかしましたか?」

「え、えーっと……」

「ちょうど、試験がその後の月曜日なんです」

 

 若葉さんが苦々しげに述べる。失念していたが、志哲高校の期末試験は7月を待たずに行われる。

 6月末のライブは、花咲川や羽丘の面々からすれば合わせられる予定だったが、彼らにとっては難題と映るのだろう。

 学業に専念する──音楽活動を行っていない皆さんにとっては、至極当然のことだった。

 なのに、なぜこんな気持ちになるのだろうか。

 

「そう、ですか……」

 

()()()垂れる腕の重みに気付いて混乱する頭脳。

 それでも、気付いたことがあった。

 

 ──私は、皆さんにRoseliaの演奏を聞いてほしい。

 

 ずっと精神的な孤独を貫いてきた私にとって、音楽は、ギターは、他ならぬ『私自身』を表現できる唯一のもので。

 奏でる音でメンバーと心を近づけたように、ライブを通して、私自身を理解してほしいという思いがあった。

 

 ──だったら、この感情は落胆、なのでしょうね。

 

 提案は期待であり、それが叶わないと知っての思いだった。

 その心根に気付いて、町を覆いつくそうとする夕闇が一段と暗く見える。

 そんなときだった。

 

「──いや、それでも行こう!」

「え?」

 

 それまでの文脈を撥ね飛ばすような、突如とした上原さんの宣言に、私たち三人は目を丸くした。

 

「……試験二日前ですが」

「正気ですか!?」

「いけるいける! 何より文化祭のためだし!」

 

 若葉さんたちの驚きには、その宣言が本当なのか──つまり、心からのものであるのかという疑いが含まれている。

 私にもそれが分かって、

 

「もし無理をしているようなら、勉強を優先してください」

 

 と慌てて付け加えたが、

 

「大丈夫だって! それに私、紗夜ちゃんたちのライブ見たいもん!」

 

 と言われてしまっては、できる限りの演奏で応えたい気持ちが勝ってしまう。

 

「ね、二人もそうでしょ?」

「そ、それはそうですけど……」

 

 ちら、と北沢さんが若葉さんを一瞥する。考え込んだ様子の彼は、しばらくしてから瞑っていた両目を開いた。

 

「要は、それまでに勉強を終わらせられればいいってことだ。15時からなら、そこまで長くならないだろうし」

「ほ、ほんとかな……?」

「おー! 若葉くんノリがいいー!」

 

 ばしばし肩を叩く上原さんに「痛いです」と返して、彼はこちらに続きの言葉を差し向けた。

 

「文化祭の参考にするため、という目的も確かにあります。でも、それだけじゃない。

 氷川さんたちの演奏をこの目で見たいと思っています。……だから、それを実現できる方法を考えます」

「……!」

 

 まっすぐで、揺らぎのない瞳。

 同じ夕景の中にあって、いつかの彼とは正反対の姿が眼前にはあって──私はそれに、ひどく背中のこわばりが解れていくのを感じていた。

 

「うんうん! 北沢くんも、それでいいでしょ?」

「はあ……うん、でも、ライブを一度見てみたいっていうのは本当ですしね。

 あ、それなら明日、うちの近くのカフェで勉強会をしませんか?」

「お、それ採用ー!」

 

 そんな会話を皮切りに、あれよあれよと言う間に予定が立てられていく。私も参加必須ということらしいが、事実、志哲高校のレベルの高さを間近で見られるよい機会でもある。

 私は眩しさを遮った掌の裏で、緩む頬を隠すのだった。

 

 ──本当に、らしくないわね。

 

 

 ♬

 

 

「出場者のみなさん。出番の5分前にはステージ袖で待機をお願いします!」

 

 楽屋の中で、そんなアナウンスに耳を傾ける。

 

 羽沢珈琲店での勉強会から一週間と一日──約束と運命の日はすぐにやってきた。

 この部屋を出てステージに向かえば、生徒会の人たちは私たちの演奏を待っている。

 

「ああっ、やばっ!!」

 

 そんな声が聞こえて振り返ると、今井さんが鞄をひっくり返す勢いで中身を探っている。

「メンテ用のスプレー……!」との声に、大方忘れ物だろうと察した。

 

「忘れ物には注意って、連絡したじゃない。──はい」

「わっ、ありがと!」

 

 しかし、よく考えてみれば準備のよい今井さんが忘れ物をするのは意外に思われる。

 スプレーのボトルを受け取る手がわずかに揺らいだのを、私は見逃さなかった。

 

「……緊張、しているんでしょう」

「あ、はは……バレた?」

 

 作業をする横顔からは不安の色が滲み出ている。私でなくとも──それこそ、審査員やオーディエンスには簡単に伝わってしまうだろう。

 

「ネガティブな感情は演奏にも響きます」

「そうだよね。……他のバンドの子とか、紗夜たちがすごい落ち着いてて、逆に焦っちゃってるっていうか」

 

 目を向けてみれば、湊さんや宇田川さんはともかく、白金さんもどこか覚悟を決めた様子で出番を待っている。

 そして──

 

「あ。Pastel*Palettes。まだ正式デビュー前なのにプッシュされまくりだよねー。

 ギターとドラムの子は上手そうだけどさー」

「……」

「ほら、全然気にしてないじゃん?」

「そうですね」

 

 他のバンドの会話にも、不思議と、心中にさざ波が立つことはなかった。

 その理由を考えたときに、ふと、私にとっての数少ない居場所のことを思い出す。

 

「だって、志哲高校の人も見にくるんでしょ? 私だったらオーディションより、みんながどこから見てるのか気になっちゃうかも」

「皆さんは審査員ではありませんから」

「いや、演奏を見られるっていうか、いつもの自分じゃないところを見られるってことが気になるっていうか」

「……? いつも、私は私ですが」

「まあ、そこが紗夜のすごいとこだよねぇ」

 

 とぼけたふりをしたが、嘘だ。本当は今井さんの言うことも理解できる。

 それでも、私は私に二面性を作りたくない。このギターも、歌も、すべて私として理解されたいのだ。

 

「やっぱり、紗夜ってちょっと変わったよね」

「湊さんにも同じことを言われました」

 

 今井さんと湊さんの発見は、それぞれが私の違う部分を指しているのだと思う。それでも、元を正せば同じ経験からくる変化だ。

 

「……そんなにも、『彼ら』との出会いが貴女を変えたというの?」

「わっ、友希那」

 

 気付けば隣に立っていた湊さんが、会話の中へ言葉を投げかけてきた。

 瞳に映るのは純粋な疑問で、何かの答えを探そうとしているように見えた。

 

「私は、変わるきっかけを得ただけです」

「直接影響を受けたというわけではない、ということかしら」

 

 首肯する。

 

「生徒会が始まったのって、今年の4月からだよね。3カ月の中で、いろんなことがあったんだね」

「そうですね……」

 

 思えば、忙しい──言い換えれば密度の濃い期間だったと思う。そしてそれは、当分続いていくのだとも思う。

 どこかで、それを日常として、Roseliaの活動と並べられるくらいに当たり前のものとして受け止めている自分がいた。

 

「じゃあ、みんなにはめいっぱいの演奏を届けなきゃ!」

「これまの努力を出し切るだけです」

「ええ。練習は裏切らない。どんな結果が出ても、それがすべてよ」

 

 確認し合うように、3人で頷く。

 

 予定進行に大きな狂いはなく、出場時刻はすぐそこに迫っている。

 分針の揺れ動く音が、私を一段と奮い立たせた。

 

 ☆

 

「Roseliaさん、お願いします!」

「「はい」」

 

 その時が、来た。

 楽屋を出て廊下を歩き、ステージ袖へとつながる通路をひた進む。

 

「……」

 

 前を歩く今井さんは、ライブを迎える心構えができているようにはとても見えなかった。

 

「背中が丸まっていますよ」

「ひゃえッ!?」

 

 これから弦を爪弾くとは思えないほどの固い肩を叩く。

 素っ頓狂な声を上げた今井さんの様子は、日常とはかけ離れていた。

 

「リサ姉、やっぱり緊張してるよね」

「うえっ? し、してな──」

「してない、と言うには無理があるわ」

「うう……」

 

 白金さんは苦笑しつつも不安げな目を向ける。

 これまで、ある意味で精神的な支柱となっていた彼女が、本番を前にして自信のない表情を浮かべるているのだから、当然ではあった。

 ──逆を言えば、それくらい、今井さんに助けられてきたということかしらね。

 

 彼女の背景にあるもの──『私情』を考えれば分かる。

 経験と練習量が物を言う世界に、彼女はあえて飛び込んでいるのだ。

 SPACEでのミスもあった。これまでしてきたことに自信が持てなくなっているのも、今であれば理解できる。

 それでも──

 

「前を、向きましょう」

「……!」

 

 今井さんと、メンバーの注意を集める。

 それを確認するのに一呼吸おいて、私は至って簡潔に、事実だけを告げる。

 

「このライブに向き合うだけです。……あとは、これまで積み重ねたものが応えてくれる」

 

 湊さんに視線を送る。

 私のそれを受け止めた湊さんは、静かに言葉を紡いだ。

 

「オーディエンスは今、このときの私たちを見ている。

 過去の努力も、失敗も知らない彼らが求めるのは今の私たちよ。だから……

 私についてきて」

 

 その言葉は過去の否定のように聞こえて、しかし、この場に立っている全員の努力と実力を認め、求める者がいることを意味しているようにも思えた。

 きっと、彼女なりの励ましなのだろうと──私はそう考えた。

 

「友希那……!」

 

 先頭を切って出ていく彼女が靡かせる銀灰は、ステージライトに照らされて輝きを纏う。

 後に続き、衆目に晒された私たちだったが、圧倒的な存在感がオーディエンスを惹きつけて止まない。

 音を束ね、歌に乗せて放つ──まさに歌姫(ディーヴァ)たる風格を備えていた。

 

「──私たちの歌を聴いて」

 

 

 ♬

 

 

 湊さんのわずかな言葉から始まった演奏の中で、私の意識は何かに吸い込まれるように消えていった。

 考える余裕もない──それが実際なのだろうが、余計な雑念も消えたことが奏効してか、練習で何度も繰り返したストロークそのままで演奏できている。

 

 後から分かったことだが、無意識に、私はあの人たちを探していたそうだ。

 それが私にとって心の平穏を保つための方法だったと気付いたのは、もっと後になってからのことだ。

 

「……」

「……」

「ちょっと、何かしゃべってもらえませんか」

「あ、あはは~☆」

 

 ──なぜ? 

 

 若葉さんの焦ったような問いかけと、今井さんの空々しい笑いをよそに、私はその疑問を脳内に駆け巡らせていた。

 店員が、注文をかけた『スーパーやけ食いセット』とやらを運んでくる。やけ食いとは関係のない若葉さんの分を合わせて、四人の卓には所狭しと皿が並んでいく。

 

『──あなた達には、このコンテストで()()してフェスに出るのではなく、()()して、メインステージに立ってほしいの』

 

 その言葉を──講評を聴いたのだから、疑問の答えは分かっている。その発言に込められた期待の大きさも。

 それでも、手が届いたステージだからこそ、悔しさは拭えないのだった。

 

「落選したけど、すっごく認めて貰えたし──アタシはそんなに悪くないんじゃないかって……」

「私は認めないわ」

 

 言いながら、一切れのハンバーグを口に放り込む。何か食べていないと落ち着けない。

 同調した様子の湊さんが続く。

 

「そうよ。このジャンルを育てていきたいのなら、私たちを優勝させて、もっと大きな活動を……」

 

 料理のボリュームに負けない食べっぷりを披露する──それは私もだが──彼女を横目に、重量ある相槌を打つ。

 もぐ、むぐと音を響かせるような咀嚼に今井さんが苦笑している。

 

「ご、ごめんね? 友希那たちなんていうか(たぎ)ってて」

「いや……気持ちは、確かに分かると思う」

 

 若葉さんの反応として、その言葉はやけに迂闊に聞こえる。普段の彼なら易しい共感を求めたり、示したりしない──と言えばいいだろうか。

 

 私の予想通り、湊さんのぎらりとした眼が彼を捉えだした。

 

「貴方には、どう見えたのかしら」

「どう見えた、か……何に対して?」

「私たちの演奏、審査員の言葉……なんだって良いわ」

 

 軽い自己紹介しか済ませていない二人の関係では、おおよそ不相応なほどに重苦しく剣呑な空気のなかで、彼は眉一つ動かさない。

 思案に耽っているのか、それとも凄まれて固まっているのか──彼をここに呼んだ私としては前者であってほしいものだ。

 内心でそんな風に呟いていると、問いかけの答えが返ってきた。

 

()()見たときよりも、はっきりとした意志や信念が見える……そんな演奏だったと思う」

「以前?」

 

 今井さんが復唱する言葉には思い当たるところがあった。

 ちょうど日菜との問題に悩んでいた時期──今もだが──咲祭前の放課後、若葉さんに相談をもちかけたのだ。

 私は他人の意見が欲しく、彼にスマホでライブ映像を見せたことを、経緯を端折って伝えた。

 

「……紗夜が、ねえ」

「何ですかその感想は」

「い、いや何でもない! ……それより友希那、話の続き」

「ええ。貴方の言い方だと、以前の演奏には今回のライブで見えたものがなかった、というように聞こえるけれど」

 

 意味深な呟きを聞き逃す私ではないが、はぐらかされてしまった。仕方なく意識を会話に戻す。

 

「一意見に留めておいて欲しいけど、俺はそう感じた」

「なら、演奏のどんなところにそれを感じたの?」

「氷川さんにも話したポイントだけど……練習を積んだ難所での表情とか音そのものだな。余裕があるというか、いい意味で楽譜通りの演奏じゃないっていうか。音楽や楽器を()()の道具にしていると思った」

 

 湊さんは少し考えて、

 

「より具体的なポイントを教えて」

 

 と、取り出したスコアを開いて見せた。

 しかし、素人に対して聴いたばかりの演奏箇所を指定しろというのは、あまりにも唐突ではないだろうか。

 スコアには歌詞を載せているページもあるが、このポイントは──

 

「……ここだな」

 

 思わず目を見開いた。

 私の予想に反して、若葉さんは淀みなくその小節を指さすのだった。

 

 ☆

 

 ほどなくして、反省会はお開きとなった。

 若葉さんが急遽バイト先からヘルプの要請を受けただけでなく、元々試験日の近い生徒会の皆さんには無理なお願いをしていたのだ。

 私たちもライブ後の疲れがある。体調管理は風紀委員としても、バンドとしても重要な課題だということで、解散して帰途に就いた。

 

「若葉君、だったかしら」

「ええ、そうです。……何か、話の中で気付いたことはありましたか?」

 

 先ほど同じ卓に座っていたメンバーが同じ帰り道だったこともあり、湊さんはそう切り出した。

 会話の雰囲気をみる限りでは、わずかな重々しさを除いて、特段相性が悪いだとか、険悪さを感じ取ることはなかったが、彼女はどう考えているのだろうか。

 

「人をよく見ているし、何よりも相手の言葉を覚えている、と感じたわ。

 口数の少ないところもあるけれど、そういうことを考慮に入れて、発言を選んでいるのではないかしら」

「あー、確かにそんなところあるかもねぇ。なんていうか、めっちゃしっかり会話してる? っていうか」

「そういうあなたは曖昧な言葉遣いね……」

 

 今井さんの物言いでは伝わるものも伝わらないが、同じ場にいた私には分かる。

 自らの持ち合わせる語彙から発言を選び、文脈を正すといった心がけが、円滑な会話につながっている。──今井さんのいう、『しっかりとした会話』だ。

 

「貴方が『私情』の相談役として彼を選んだことも頷けるわ。ライブ映像を見せ、受け取ったアドバイスが今日の演奏につながっている部分もあると思う。……けれど」

 

 どうやら湊さんのお眼鏡にはかなったようだ、と胸を撫でおろしていた私に、次の言葉は大きな疑問を残すことになった。

 

 ──それが、いつか彼の深奥に迫るものだということを、私はまだ知らない。

 

()()アドバイスには、それ相応の音楽経験が必要になるはずよ。

 過去に彼は、音楽をやっていたの?」

 

 



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#43:ノクティルーカ(綺羅星編⑧)

「でっかい……」

 

 お風呂場で、私はそう呟いた。

 シャワーの湯気の中でも見える圧倒的存在感に、()()()と比べてしまって虚しさがこみあげてきてしまう。

 

「……何だよ?」

「んーん。何でもない」

 

 そう言いながら、そろりと浴槽に身を沈めた有咲は、「ふいー……」と息を漏らした。

 

「たえのお家、やっぱ広いね」

「そうだなー……」

「うさぎ、可愛かったし」

「そうだなー……」

 

 ダメだ、こっちに視線が帰ってこない。

 

 オーディション前の最後の練習を終えて、私たちは抜け出せない緊張感から、いっそのことみんなで分け合うことを選んだ。

 要はたえのお家でお泊り会ってことで、今、有咲とお風呂で向かい合ってるのもそういうことだ。

 

 納得できるまで練習をやったこともあって、有咲はすっかりくたびれたのだろう。

 二人ずつ入るなんて言ったら絶対恥ずかしがると思ってたけど、疲れのあまり流されるままだった。

 

「聞いてないでしょ」

「そうだなー……」

 

 むう、と思わず頬を膨らませる。

 

「やっぱり()()()と、肩が凝って疲れるんだ?」

「そうだなー……」

 

 そう答えた有咲が、ほどなくしてみるみる顔を赤くしてまくしたてはじめるのがいい気味だった。

 

 ☆

 

「いやあ、あれはすごかったなぁ」

「へえ~……」

「余計なこと言うな!」

 

 お風呂から上がって今度はお布団の上、香澄とたえの番を待つ間、私たちは歓談(?)に興じていた。

 

「やっぱりおばあちゃんのごはんが栄養たっぷりだからかな?」

「さ、沙綾ちゃん……」

「うっせー!」

 

 うむ、やはり有咲をいじると楽しい。

 とはいえやりすぎもいけないので、これくらいにしてやるか……って、あれ? 

 目を三角にして、有咲が仁王立ちしている。

 

「聞いたことあるか? ()()と大きくなるって」

「え……ちょ、やめ、うひゃははは!」

 

 油断した隙に、脇に手を突っ込まれてしまった! 

 ていうかそれ揉むっていうかくすぐってるって! 

 

「よくも散々いじってくれたな!?」

「す、すみましぇん! 思ったことを言ったまで──」

「問答無用!」

「うひえぇぇぇ!」

 

 布団に押し倒されると、小柄な私に抗うすべはない。

 沙綾もりみも見守るばかりで助けに来てくれる様子もなく、香澄とたえが戻ってくるまで、この地獄は続くのだった……。

 

 

 ♬

 

 

「ぜえっ、はあっ……」

「ただいまー! あれ、凪紗なんかあった?」

「聞かないであげて……」

 

 息も絶え絶えで布団に横たわる私、腕を組んで鼻を鳴らす有咲、苦笑する沙綾という謎の光景を目にして、香澄たちは首を傾げるばかりだった。それもそうだよね……。

 

「ともかく、早いとこ寝ようか」

「えっ、枕投げは?」

「しねーだろ……おやすみ」

「おやすみ~」

 

 残念そうなたえには悪いけれど、明日に控えていることの重大さを考えると、ここは大人しく眠りについたほうがよさそうだ。さっきの()()でめっちゃ疲れたし。

 沙綾が電灯を消して、それぞれが布団に潜り込んでいく。

 ……だけど。

 

「……寝れないね」

「寝れないねぇ」

「すごい、心臓の音が聞こえる」

 

 ごろん、とうつ伏せになったたえがそんなことを言った。

 意識を向けてみると、彼女の言う通り、秒針が時を刻む音と、鼓動の高鳴りが重なっていくのが分かった。

 

「緊張、してる?」

「うん……でも、楽しみっていうか、テストが始まる前の気持ちとはちょっと違うかも」

「あっ、私も! ドキドキだけどキラキラしてる」

 

 目が合ったりみに問いかけてみると、そんな答えが返ってきた。どうやら、香澄も同じ見たい。

 

「いつもの『キラキラドキドキ』だな」

「あはは、そうだね。……でも、私も同じかもしれない」

「まあ、遠からず、だな」

 

 沙綾も、有咲も同じ気持ちらしい。

 それはまるで、同じリズムをみんなの胸の中で分け合って──どこか音楽みたいだった。

 ふと思い出したように、香澄が起き上がって部屋のカーテンを開く。

 

「星、見える?」

「うーん、見えない……」

 

 目を凝らして夜空を見上げる香澄。そりゃあ煌々と灯る都会の町明かりの中で、天の川が見られるはずもなく。

「心の目で見れば見えるかも」、なんてたえの声に、有咲は呆れた様子だった。

 

「あっ!」

「お? 見えた?」

「うん! 目、瞑って瞑って!」

「はあ?」

 

 言われるがまま目を閉じる私たち。

 瞼の裏には満点の星空が……ということはもちろんなく、みんなの反応に香澄はしょんぼりしていた。

 というか、声が返ってこないと思ったらたえは寝ちゃったのか。私も人のこと言えないけど、入眠速度が赤ちゃんだ。

 

「星、ステージの上からなら見えるかもね」

「ステージの上から……? 

 あっ! キラキラのペンライト!」

「ステージから見るペンライトの光、きれいだよね、きっと」

 

 沙綾の言葉に、4月の初めて見に行ったライブを思い出す。

 虹色の光の海の中で、それに負けない輝きを秘めた香澄。

 震わせた心を通わせて、あの場に立つことを決意したときの情熱が、今でも忘れられずにいる。

 

 ──忘れられるわけ、ないよ。

 

「……見よう、絶対」

 

 呟いた言葉は、夜闇に溶けていく。それでも、きっとみんなには伝わっている気がして。

 それが満足で、安心してか、私はゆっくりと意識を手放していった。

 

 

 ♬

 

 

 ずっと前、私が『キラキラ』と『ドキドキ』の気持ちを手にした瞬間があった。

 東京に引っ越してくる前──おじいちゃん、おばあちゃんの家にいた時期だ。

 

 真っ黒な海と夜空に、数えきれないくらいの星が放った輝きをつないで、星座になっていく。

 そんな光景が私は大好きになって、焼き付いて離れなくなったはずだった。

 

 ──なのに、どうして今まで忘れていたんだろう? 

 

 浮かび上がった景色には、砂浜で膝を抱えて座り込む私がいた。

 誰かが隣にいたはずだった。兄さんか、それともその時の友だちか。けれどそこには、誰もいなかった。

 

 いつの間にか星々の輝きは失われていた。

 暗い、暗い闇の中だった。何のために生きているのかが分からなくて、他人から向けられる感情が怖かった。

 ──そしていつの日か、香澄と出会った。

 

 香澄が見せてくれる輝きが、私の心の中までを照らしてくれた。

 香澄が導いてくれた出会い(音楽)が、私にとってかけがえのない思い出になっていった。

 言葉を交わして、音を重ねて、たまにぶつかって折れそうになってを繰り返していくうちに、もう二度と手放せないような大切なものができた。

 そうして、今がある。

 

 そうだ、私は願っていたんだ。

 それとなくこなす日々から抜け出したかった。期待をしないように生きて、黒く染まりそうな心が嫌になっていた。

 ──誰かが、手を差し伸べてくれないかって。

 

 ☆

 

「三者面談のスケジュールを皆さんにお配りしたので、忘れずにお家の方に渡して、確認をしてくださいね」

「「はーい」」

 

 教室で、先生の案内もそこそこに聞き流していた私の手元にはスコアがあって、正直オーディションのことしか目に入っていなかった。でもまあ、一応聞いてはいるか。

 都合上、事情を知っていても周知はしないといけない中井先生が私に申し訳なさそうな目を向ける。それはしょうがないですよ。

 

 事情が事情の若葉家では、とりあえず兄さんが代理で出ることにはなっている。どっちかっていうと、兄さんの方が面談が必要だろうけどね。

 

 私の場合、成績にはまったくもって心配がないので、普段の生活に問題がないかとか、それこそ兄さんの進路を含めた今後について話すつもりだった。

 中井先生はとても親身になってくれていて、向こう(志哲)の先生とも連絡を取ってくれているそうだ。

 

「あと、テストは終わりましたが、まだ夏休みまでは期間があります。気を緩めて夜遅くまで出歩かないように。それと……」

 

 ずっと、繰り返し思っていることだけど、バンド活動を続ける裏で、いろんな人に支えてもらって、迷惑をかけてきている。はじめて、それに報いることができるのが今日なんだ。

 その思いに、スコアを握りしめる手に力がこもった。

 

 いつの間にか帰りのHRが終わって、いつの間にか集まった私たちは、電車に乗り込んだ。

 オーナーの待つSPACEで、オーディションを行うために。

 一言もなく、ただ橙に染まった西日を睨みつけ、隊列を組むようにして進んでいく。

 

 着いちゃった。

 いつもの入口が、少し行かなかっただけで今日は物々しく見えてしまう。

 怯む気持ちを抑えつけて、「行こう」と口にすると、みんなは頷いた。

 

「……来たね」

 

 扉を開けたところで、オーナーは待ち構えていたように、ただそれだけを言った。

 

「はいっ」

 

 秘めた決意を滲ませるように、香澄は凛々しくもそう答えて見せる。私たちもそれに倣った。

 見ると、エントランスのテーブルではゆり先輩たちがこちらに手を振っている。今日の演奏を見に来てくれたみたいだ。

 心強いけど、緊張は少し増したような気がした。

 

 オーナーの案内で、この間と同じようにオーディション用のルームに通される。

 荷物を置いたら、もう本番のセッティングをしなくちゃ。

 その前に、飲み物飲んでおこう。

 

「あれ……」

「どした?」

 

 鞄を開けると、なんか知らないものが入ってる。……保冷バッグ? 

 さらに中を見てみると、そこには小さめの水筒が入っていた。

 

「すんすん……いいにおいするね」

「ハーブティ?」

「そうみたい。──あっ」

 

 いつかの朝ごはんを思い出した。気合の入った献立の隣で、この香りが立ち上っていたはず。

 兄さん、これを見越して買ってくれてきたのかな。

 

「……いいお兄さんだね」

「うん」

 

 沙綾の言葉に、思わず頬が緩んだ。

 

「コップあるから、みんなで回し飲みできるよ。いる人っ」

「「はいっ!」」

「……私も」

 

 元気よく手を挙げたみんなと、ちょっと恥ずかしそうな有咲。

 ほっとする味が取り戻してくれたいつもの空気が、今はとてもありがたかった。

 

 

 ♬

 

 

「みんな、円陣やろ!」

 

 演奏の準備は整った。

 香澄の提案に乗って、みんなが手を重ねて触れるのは、固くなった手指と五つの温もり。

 

「やっぱ緊張すんな……」

「甘いもん食べたい~」

「食べよ、いっぱい」

 

 すっかり地元が出ちゃっているりみの口ぶりに、みんなが声を揃えて笑う。

 有咲が「全部終わったらな」と言うように、オーディションの後の楽しみになった。

 そして、沙綾が私たちを見上げるように視線を送ってきた。

 

「香澄、凪紗」

「「……うん」」

 

「行くよ!」

「ポピパ~~~~!!!」

「「お──────────!!!!」」

 

 一度、舞台の照明がすべて落とされ、スポットライトへ切り替わる。

 光を浴びながら、その熱を興奮と活力に変え、私たちはオーナーと対峙した。

 突き刺すような眼に、今はちゃんと向き合えている。

 クライブや、咲祭のときと届けたい思いは同じ。それでも、私たちは成長している。

 一つの()()()になれている。

 

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

 

 沙綾のカウントが響く。

 鋭い視線の切っ先を目掛けて、真っ向からぶつけるように、私は感情を向けた。

 

 ☆

 

 歌声を繋いて続く演奏の中で、私たちは確かに、一つの感情を共有していたと思う。

 いつしか、オーナーや周りは見えなくなっていて、私たちだけの世界が広がっていて、遠く、遥か彼方の観測者へメロディーを放つ。

 

 演奏のさなか、視界が潤んでいたことに気付く。

 額の汗が目に入ったのかと思ったけれど、違った。

 夢見たものが形になることを、激情の奔流がめぐる心が予言していて──それはゴール直前のランナーのような思いで──思いが溢れて止まらなかった。

 

 酸素切れの頭で飛び出したい気持ちを必死で抑えて、演奏を終えた残響の中、熱っぽい思いを彷徨わせていた。

 そんな時、嗚咽を漏らした有咲がしゃがみこんだ。

 

「有咲?」

「……ミスった。あんなに練習したのに、ちゃんとできたはずなのに……!」

 

 流すものは同じでも、重く苦しい思いが涙滴となって零れ落ちている。

 

「ごめん! ごめ……」

「私もっ、指、震えちゃって──でも、最後まで弾いたよ! 

 有咲ちゃんも!」

 

 肩を震わせて、りみはそう力強く口にする──それが有咲の視線を持ち上げた。

 

「りみ……うん……!」

 

 沙綾もたえも、やっぱり同じ気持ちだった。

 

「そっちの4人は聞くまでもなさそうだね」

 

 質量あるオーナーの声が耳に届いて、私たちはその方を向く。

 

「あんたたちは?」

 

 問われている。枯れ切らない涙の中身を、心の深奥にある真の思いを。

 それは、香澄と同じだった。

 だから、私たちは答えた。

 

「「……やりきりました!」」

 

「……」

 

 ふう、と息を衝いて立ち上がったオーナーが、ゆっくりと口にする。

 

「音楽なんてやりたいやつが好きにやる。

 がんばったかどうかなんて自分にしかわからない」

 

 そうだろうか。私にはみんながいて、少なくとも、ライブの中では一つになれる自信があるけれど。

 疑わしい心音がバレたのだろうか、オーナーは双眸で私を捉えた。

 

「アンタは違うのかい?」

「ライブを聴きにくるお客さんにとって、今がすべてだっていうのは、事実だと思います。

 けど、私に──私たちは、今までにやってきたことを、全部伝えたい。

 そんな風に、これからも()()()()()つもりです」

「そうかい」

 

 返答はなかった。

 所詮は夢物語だと思わたのかもしれないけど、私には、それがどうもただの幻には見えなかった。

 こちらに近づいてくるオーナーを見つめながら、オーディションの答えを待った。

 そして、暗がりから出てきた彼女の揺れる眼が見えた。

 

「いいライブだった──合格」

 

 綻んだ表情から零れた言葉の意味を、その瞬間は掴めないでいた。ただ、とめどなく流れるものがあるだけだった。

 

「凪紗っ!」

 

 振り向いて、駆け寄る香澄の表情ですべてが分かって──

 迎えられた熱量の中、私はもみくちゃになりながら、呆れながらも眩しいものを見る目を心に残していた。

 

 

 




口答えする凪紗。生意気なやつだなぁと思いつつも、個人的に描きたかったんです。


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#44:芽ぐみの雨(青薔薇編⑧)

 気が付けば羽丘での文化祭も終わり、湊さんとの対峙を乗り越え、練習にライブ、そして期末試験と風紀委員の会議も済んでしまった。

 

 後は、今週末の7月7日だけ。

 日菜との約束を取り付けてしまったのは私が原因だが、それでも気が重い。気まずいのだ。

 帰りのHRでは急遽テストが返却されはじめ、名前を呼ばれて受け取った回答用紙の点数をチェックする。悪くはない──というより明らかに良い点数だ。

 

 志哲高校の皆さんはやはり実力が高い。あれだけの課題をこなすスピードもさることながら、特に理解が確実だと感じている。

 本質を分かっているからこそ、人に教えられるのだし、そこから自己の再理解へと繋がっていくのだろう。

 

「うわーん、回答欄一個ずつずれてたよ~……」

「そ、それは大変ですね……」

 

 フォローのしようがない泣き顔に白金さんは言葉を掛けかねている。

 近くを通ると、「助けてほしい」と言わんばかりの視線が向いてきてしまうのは当然だった。

 

「ひ、氷川さん」

「……ケアレスミスは普段の集中力から生まれるものです。

 まだ巻き返せる時期なのですから、これに凝りて次は気をつけるしかないでしょう」

「冷たいよぉ~」

 

 精一杯のフォローをしたつもりなのだけれど。

 コミュニケーションの向く先が私に移ったからか、白金さんはどこかほっとした様子だった。

 そこまで自信がないのかしら……。

 この際なので丁度いいと思い、白金さんに7日のことを話しておくことにした。

 

「白金さん、湊さんには伝えているけれど、7日の練習は延長せず上がらせてもらいます。

 皆さんにもよろしく」

「は、はい」

「7日……それってもしかして、商店街のお祭りのこと!?」

 

 耳聡く、丸山さんは業務連絡に過ぎなかったその話題に食いついてきた。

 肯定の瞑目をもって反応すると、途端に目を輝かせる。

 

「日菜ちゃんから聞いたよ~。紗夜ちゃんと二人で七夕祭りに行くって」

「ええ、誘われたので」

「ふふっ、仲良いんだね。私にも妹がいるんだけど、最近は受験勉強で忙しくて遊んでくれなくなっちゃって」

「あなたが遊んでもらう側なのね……というか、私たちもそこまで仲が良いわけではありません」

 

 アイドルとして、忙しいのはあなたの方ではないのか、とも思いつつ、ため息交じりに言葉を残す。

 彼女と会話していると、どうにも突っ込みどころというか、そんなものが気になって仕方がない。

 

「またまた~、一緒にお祭りに行くような仲がそこまで良くないなんてことないよお」

 

 まあ、傍から見ればそうでしょうね。

 それでも、私たちが抱えている事情のことを逐一話すわけにもいかず、茶化されるのを黙って受け入れるしかなかった。

 ……気楽でいいわね、彼女も。

 

 

 ♬

 

 

「凪紗さんがライブ、ですか」

「みんな誘われてるんだ。たぶん氷川さんにも連絡が入ってると思うけど……一緒にどう?」

 

 会話に盛り上がっている生徒会室に入ったところで、北沢さんからそんな提案があった。

 言われて端末を確認してみれば、凪紗さんや戸山さんからのメッセージがあった。

 

『よかったらライブに来てください。先輩のご意見をお聞きしたいです』

『ライブやります! 一緒に楽しみましょう!』

 

 こうして文字に起こされたものを眺めると、何というか、性格に表れるものがある。

 それは措くとして、日時や場所の情報を探ろうと指を進めた。

 

「日時はいつですか?」

「ええと、次の日曜日18時だって。他にも出演バンドがあるけど、香澄ちゃんたちは結構前の方……三番手みたい」

 

 上原さんが言うように、メッセージとともに送られてきていたフライヤーの中に、出演バンドリストのトップに位置した”Poppin’ Party”の名前を見つけた。

 

 次の日曜日、というと七夕の次の日になる。私のスケジュールと重ね合わせてみると、その日は午前中から弓道部の合宿についてのミーティングがあるくらいで、余裕があった。

 

「……分かりました。私も参加させてもらいます」

「オッケー、参加チケットは凪紗ちゃんからもらえるみたいだから、聞いてみて」

 

「はい」と答えて連絡を試みていると、上原さんの生暖かい笑みがこちらに向いていることに気付く。

 

「……なんでしょう」

「7日に被らなくてよかったよ。なんせ、愛しの妹ちゃんが待ってるからね」

「……」

「ごめんなさい」

 

 何と返そうか迷っていただけなのに、上原さんは若葉さんの背に隠れて怯えている。

 失礼とかいう話をする前に、それなら口に出さなければ良いのに、と思う。

 それに、これは私にとって一大事──とても茶化せるような案件ではない。

 

 収拾をつけようとしたのか、上原さんを一瞥した若葉さんは溜息を一つ吐いた。

 

「まあ、”本番”に備えて気を紛らわせるという意味でも参加してもらえれば良いんじゃないでしょうか。凪紗も楽しみにしてました」

「ええ。文化祭に向けて、他のバンドの演奏も、会場設営の上で参考になりますし、出演するバンド探しもできます」

「確かに!」

 

 一転、上原さんは北沢さんを巻き込んで、文化祭で実現しようとしている対バンライブの皮算用を始める。

 事実として、今この時点ではステージの何一つも決まっておらず、本音を言えば焦りを感じてほしいところではあるが。

 

 しかしながら、三人を見ていると何故かやり遂げてしまう気がする──それが決して何となくの印象でないと言い切れるのは、これまで見てきた人となりが根拠となっているからこそだ。

 これを贔屓目だと言われてしまえばそれまでだが、逆説的には、私にとって彼らが贔屓目で見る存在に位置づけられたことに、自分ごとながら意想外の念を抱いてしまっていた。

 

 ふと、向けられる眼差しに気付く。その意図が何となく分かって、言葉を待った。

 

「妹さんからのお誘いだったとはいえ、それを受けるのは覚悟が要る決断があったんだと思います。 ……だからこそ、それを尊重しますし、力になれるかは分かりませんが、応援します」

「ありがとう、ございます」

 

 欲しいと思っていた言葉をくれるこの人は、しかし考えに考えて、言葉を選んでくれたという事実を知っている。

 だから、それに報いたいと思う。──できるなら、良い報告ができるように。

 

 来るべき日と、梅雨の出口がやってきたのは、そんな決意を抱いてからすぐのことだった。

 

 

 ♬

 

 

 節句である七夕は梅雨の出口、そんな言説を信じていた私だったが、抗議すらも溶かしてしまうくらいに降り注ぐ雨を前に立ち尽くしていた。

 そういえば、七夕は旧暦で換算すると現在の8月に行われていて、梅雨明けからは時期をおいていると、どこかで聞いたような気がする。

 

「天気予報は晴れって言ってたのにね……」

 

 恨めしいくらいの鉛色を眺めながら言う今井さんは、ひどく残念そうな表情をこちらに向けるのだった。

 ──しかし、私はそれで諦めるつもりもなかった。

 

「そうね。じゃあ、私は行くわ」

「え……ちょっと紗夜、ホントに行くの!?」

「ええ。集合時刻も決めているもの」

「この雨だったら、日菜に連絡して中止にしてもらえば?」

「あの子はもう家を出ているわ」

 

 今井さんの言うことももっともだが、今日ばかりは行かなければならない。

 あの子はきっと待っているだろうし、何より、決断した責任が私にはある。決意を揺らがせたくなかったのだ。

 

「雨、結構強いよ? その折りたたみで足りる?」

「ええ。多少濡れたって平気よ」

「分かった。……せめてタオルでも持ってって!」

 

 感謝の念を伝えると、仕方なく笑う今井さん。

 タオルを受け取って、商店街を目指しライブハウスを出る。その途端、雨風が横から吹き付けてきた。

 

「ふふ……」

 

 いつもそう、私が何かのために外に出れば雨が降るし、風が足元を掬っていく。

 こんな性分を恨んだこともあったけれど、今だけは笑みが零れてしまう。

 いつまで経っても私は私のままで──だけどそれが心地よくて──そうやって進んでいく道の入口を、私は見つけられつつある。

 いつか、その道の向こうで素直な気持ちになることができたら。

 

 あの子の隣に並び、手を取り合うことができたら。

 

 満開の向日葵をあの子に例えたら、もっともよく言って、私は雨中の紫陽花になれるだろうか。

 肩を濡らすこの雨も、そんな花々の恵みとなっていればいい──そう思えた。

 

 ☆

 

 到着するころには、両肩と足元はすっかり濡れてしまっていた。

 息を切らし、集合場所に来ているはずの日菜を見つけようとする私の様子は、周囲からすれば奇怪だろう。

 

 日菜は──

 

 雨天のせいか会場に人は少なかったが、見回す景色の中に探すあの子の姿はなかった。

 

「……」

 

 動きを止めた途端に、頭がすうっと冷えていく。

 考えてみれば、この雨だ。流石の日菜もどこかで雨宿りしているだろう。そう思ってメッセージアプリを起動してみるも、連絡はなかった。

 提灯の橙光も心なしか色褪せて見えはじめたとき、遠くで声がした。

 

「おねーちゃん!」

「日菜」

 

 彼女を呼ぶ私の声は、震えていなかっただろうか。

 そんな憂いなどつゆ知らず、二本の傘を持った彼女は曇天にも負けぬ輝きを秘めた笑顔をこちらへ向けた。

 

「遅れてごめんねー……あ、折りたたみ持ってきてたんだ。

 おねーちゃんの傘、玄関にあったから忘れたのかと思って持ってきちゃった」

「少しくらい、いいわよ。……ありがとう、これじゃあ小さいから使わせて」

「……! うん!」

 

 ただ傘を受け取るだけなのに、この子は全力で嬉しそうな表情をする。

 やっぱり、向日葵が相応しいわね──そう考えて、この曇天が再び恨めしく思えてくる。

 

「この傘、色違いのお揃いなんだ! おねーちゃんと同じのが欲しかったんだけど、こっちもいいよね」

「……そうね」

 

 どうしてだろう。

 私は、陽の下では影に紛れてしまうというのに、この子はどうして、どんな雨空でも輝いていられるのだろう。

 どうして、私なんかを慕うのだろう。

 

「あ! 向こうで屋台やってるよ! 行こう、おねーちゃん」

「え……ちょっと、日菜!」

 

 私の手を取った日菜──彼女の背を追うような形になって走り出す。

 雨粒に溶けてぼやけるような町や屋台の灯りと相まって、いつもは追い越されて見えなくなった背が、とても不思議な気分にさせていた。

 

「かき氷、チョコバナナに焼きそばもあるよ!」

「そんなに食べると夕飯が入らないわよ。……一つだけにしておきなさい」

「はーい。あっ、じゃあさ、半分こにしない!? あの屋台のたこ焼きとか!」

 

 頷くと、日菜は「買ってくる!」と勢いよく向かっていって──店員らしき男性と何かの会話をしたかと思えば、目を輝かせて帰ってきた。

 

「ねえ見て! これスイーツたこ焼きなんだって! 

 ベビーカステラにカラメルソースと抹茶パウダーがかかってる!」

「珍しいのを買ってきたわね……というか、数が多くないかしら?」

「おねーちゃんと半分こにするって言ったら、おまけしてくれた!」

「……ちゃんとお礼はしたのよね」

「もちろん!」

 

 そう言って胸を張ったかと思えば、たこ焼きを口に放り込んだ日菜。

 傘もあって食べにくそうにしているので、トレーを持ってあげようとしたときに見慣れたベーカリーのロゴが目に入った。

 

「……」

 

 無言で屋台に目を向ける──さっき日菜と話していた店員は、やはり直感の通りだった。

 

(偶然です)

 

 読唇術、というわけではないがそんな風に聞こえてしまう。

 

「おいひー! おねーちゃんもどう?」

「……いただくわ」

 

 一粒食べてみれば、甘ったるく濃い味が口の中を満たしていった。

 

 

 ♬

 

 

 雨のおかげと言うべきか、見物客もまばらで座ってパレードを見ることができた。

 和傘を持った小さな織姫彦星たちが、淡い光に包まれた商店街を進んでいく。

 

「雨が降ってよかったかも」

「……そうかしら?」

「うん。 お揃いの傘も使えたし、こうやって座ってパレードを見られるし! 

 あと、たこ焼きおいしい」

「最後のは関係ないでしょう」

 

 実際、この雨でお客さんも少ないと、多めに入れてくれたことも理由がつく──とは考えすぎか。

 ともかく、日菜は至って上機嫌な様子だった。

 

「あっ、あの手を繋いでる織姫ちゃんたち、姉妹なのかな?」

「……確かにそうね。同じ髪型をしているし背丈も似ているから、もしかしたら双子かもしれないわね」

 

 笑顔を振りまく先頭の女の子に対して、注目されていることや、商店街の賑わいにどこか不慣れな様子でついていく女の子。

 なぜかさきほどの私たちと重なってしまった。

 

「可愛いね~……って、あっ!」

 

 声を上げた日菜の視線を追うと、どうやら先頭の女の子が転んでしまったようだった。

 

「大丈夫かしら……」

 

 最前列を歩いていただけに、観衆にもざわめきが広がっていく。

 心配に、思わず駆け寄ろうとする人もいるくらいだったが、すぐにそれが必要ないと気付いたようだった。なぜなら──

 

「後ろの子が手を引いて、起こしてあげたみたいだね」

「衣装も汚れていなさそうね。良かった」

 

 泣きそうになっていた顔が、すぐの元通りの笑顔に戻っていく。その様子にこちらまで安心するくらいだ。

 そうしているうちに、行進のリズムを取り戻した祭りの主人公たちは、光あふれる商店街の先へと歩いていくのだった。

 

「……なんか、あの子たち見てると子供のときを思い出したよ。

 道に迷ったときはおねーちゃんが手を引いてくれたときとか、分からないことがあったらおねーちゃんがすごく考えてくれて、何度も教えてくれたときとか」

「そんなときもあったかしら……」

 

 お互い、覚えている記憶には違いがあるのかもしれない。

 日菜は私との思い出を昨日のことのように語っていく。かたや、くだらない──おそらく、客観的にはだが──劣等感を抱えながらこれまでを生きてきた私の彼女との思い出はどうだろうか。

 

「あの頃は、おねーちゃんと一緒に遊べて毎日すっごく楽しかったよ。

 ──今は、なかなか一緒にいられなくなっちゃったけど……」

 

 Pastel * Palette、つまりアイドルとしての活動が始まったこと、私はRoseliaのそれ──理由を付けようと思えば、いくらでも付けられる。

 しかし、きっと真実は違う──本当は、全部知っている。

 今の距離を作ったのは、私だ。私から日菜と距離を置いたから。

 日菜もそれを知っている。だけど、私の心根までを察せるわけではないから、こんな表情をする。

 

「まー、しょうがないよね」なんて、納得したふりをする。

 それがやるせなくて、でもこんな気持ちを口に出すなんてことは、私にはできそうになかった。

 雨は降り続け、空が重たくなったような気がした。

 そんなとき、日菜は言った。

 

「でも、今日はすっごく楽しかった!」

「え……?」

「だって、久しぶりにこんなにお話できたんだもん! おねーちゃんが笑ってくれたところだって、見れたし」

 

 私、笑っていたのかしら──

 自覚なくそんなことを思っていると、日菜は立ち上がる。

 

「お願いごと──ここに来るまでは、おねーちゃんと仲良く過ごせますようにって書こうと思ってたんだ。

 だけど……今日叶っちゃった」

「!」

 

 いつか、日菜の隣に立って手を取ることができたら──言葉を変えれば、日菜の願いは私の願いでもあった。

 目を見開いた私に、彼女は手を差し出す。

 

「あたし、欲張りだから──新しいお願いができちゃったんだ。……短冊、飾りに行こうよ」

 

 

 ♬

 

 

「ねえねえ、教えてよ~!」

「……それは、どっち?」

「短冊の中身もだけど、こっち家の方向じゃないよね? どこに向かっているの?」

「着いてくれば分かるわ」

 

 もう大分、日菜との会話の調子を取り戻すことができたと思う。

 短冊を飾り終わった後の帰り道、私の肩越しに疑問符を飛ばしてくる彼女。

 気にしているのは、私の願い事と、提案した寄り道で向かう先だ。

 

「……何か、おねーちゃんってちょっと変わったよね」

「それは、どういうことかしら」

「いや、最近話さなくなったことじゃないよ。

 なんか、おしゃべりになったっていうか……ちょっと不思議な感じ?」

「あなたに言われるのだけは心外だわ」

 

 そう言いながら、自覚はある── 影響を受けていそうな人たちの顔が脳裏をよぎった。

 

「まあでもいっか! もっとお話できるってことだし!」

「……どうかしらね」

「ええー!? お話しようよー! 短冊のこともまだ聞いてないし~!」

 

 聞き流しながら、考えるのはこれまでのことと、これからのこと。そして、抱えるものの正体を知り、支えようとしてくれる人のこと。

 過去が変わるわけじゃない。どれだけあがこうと、私が避けてきた日菜との時間は返ってこない。

 

 だけど、新しい出会いもあった──ならば、得た経験を糧にして、未来に向き合うことはできるはず。

 

「……それなら、あなたは願い事に何を書いたの?」

「あたしはねー、おねーちゃんとショッピングして、一緒に映画見て、わんにゃんショーに行って……いろんなこと、おねーちゃんとしたいなって!」

「……そう」

「あれ!? 次はおねーちゃんが教えてくれる流れじゃん!」

 

 少しだけ緩んだ頬を隠して、先を進んでいく。

 

『日菜とまっすぐ話せますように』

 

 その願いと決意は変わらない。けれど、それを叶えるのは、変わるべきは自分だ。

 いつか、この雨とともに、自分も好きになることができたら──その時は、きっと私が私として、初めて日菜と向き合える日なんだと思う。

 物語のプロローグのような気持ちで、未だ知らぬエンドロールに向かって足を踏み出した。

 



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#45:夢みるSunflower(綺羅星編⑨)

2章最終話です。
なんか終わり方がアレかもしれませんが、個人的には納得いってます。


「──それでは、今日はよろしくね」

「「よろしくお願いします」」

 

 ついに来た、ライブ本番……の前に、やることが一つ──それは三者面談だった。

 本当は、というか()()の家庭の子に対しては夏休み中の登校日なんかがそれに充てられているんだけど、ウチみたいなのは別らしくて。

 

 つまるところ、早めにヒアリングを行って問題が見つかればしっかりケアすることが目的だと、中井先生は教えてくれた。

 隣の兄さんが頷く。

 

「早速本題に入らせてもらいます。まずは凪紗さんの学校での様子についてですが、何事にも真面目に取り組んでくれています。成績も申し分ないどころか学年でずば抜けているし、クラス内でも学級委員を務めてくれていて、リーダーとして引っ張る役割も果たしてくれているわ」

「そうですか……」

 

 えっへん、ってなんだその目は。

 成績のことはおいておくとしても、中学までのやさぐれモードの私を知っている兄さんは、クラスでの私の様子について、どこか胡散臭そうな視線を向けてくる。ポピパを結成する前の有咲と同じ感じ。

 

「そういえば、文化祭にも出ていたけれど、学外ではバンド活動をしているそうね。

 お兄さんにはそのことを伝えてあるの?」

「はい。結成前から相談していました」

「そう。兄妹でしっかりコミュニケーションが取れていることはとても良いことだわ。

 受験勉強のことも考えると、学びとの両立は他の活動をしている子にとって問題となりやすいけれど、その点凪紗さんたちなら大丈夫ね。

 市ヶ谷さんともよく一緒にいるようだし」

 

 有咲は外面をよくしようとするので、こういうところでも名前が出るくらい先生ウケはいい。

 いやでも、あれじゃあ真の有咲のよさが伝わらない気がするけどなぁ。

 ともかく、そんな言葉とともに微笑んだ中井先生は、「これからも両立のバランスを崩さないようにね」と、私への評価を締めくくった。

 

「……それでは、律夏くんを含め、ご家庭のお話をさせてもらいます」

 

 少し、兄さんの表情が固くなった気がした。……たぶん、私も同じ。

 

「まずは、お母さまのご様子はどうですか?」

「おかげ様で、去年からはかなり快復しています。まだ調子の波が大きいみたいで、家に帰るのは難しいんですけど」

「そうなのね……それは何よりです。やっぱり一番は、お母さまが家庭にいることだと思うから」

 

 その通りだと思う。

 兄さんもいてくれるし、今では慣れた……ように感じているけど、ふとした瞬間に空しさっていうか──そういうマイナスの感情を抱えることだってある。

 それに、理由はそれだけじゃない。

 

「そのことと、さっきのバンドのお話を含めて、なんだけどね。

 凪紗さんがそれをする以上、家事やいろんなことを律夏くん一人でしなければならない、ということにならないかしら。

 もちろん、凪紗さんにとって音楽活動が大切な経験になることも、遊びでやっているわけではないことも分かっているつもりよ。……だけど、それではあまりにも」

 

 責めているわけではないのは見ていれば分かるけれど、何よりも、兄さんのことを思う先生の悲痛な表情が心に突き刺さる。

 もちろん私だって、それを分かって決断した以上は、兄さんの負担ができる限り小さくなるように努めてきた──いや、そんなのは言い訳どころか、自分の気持ちへの誤魔化しにしかならないか。

 

 何を言えばいいか迷っていると、兄さんが口を開いた。

 

「……お気遣いいただいて、ありがとうございます。

 しかし、今後のことを考えたうえで、悔いのない判断をしたつもりなので。……進学や健康に関わる負担の話で言えば、全く問題はありません」

 

 低く響き渡るような声が空気を揺らした。

 私はそれを、心の芯からの言葉と感じていいのか、まだ分からなかったけれど。

 

「何より、()()()()だからこそ、凪紗が打ち込めることを見つけて、それに専念できる環境を整えることは、今の家庭にとっても大切だと考えています」

「その分、あなたの時間を削ることになったとしても?」

「削るものではなく、元々そのためにありますから」

「「……」」

 

 先生だけではない。私もその言葉を聞いて、目をパチクリさせてしまった。

 ……かっこつけやがって。

 

 でも、そう言い切ってしまうのはやっぱり頼もしくて、かっこいいと思ってしまったんだ。

 

 

 ♬

 

 

「ねえ」

「ん?」

 

 ライブの日、それは夏休み前に先生が言っていた三者面談の日だった。

 空っぽになってしまった校舎を後にして、SPACEへの道すがら、鳴き始めの蝉に負けそうな声で、私は兄さんの背中を呼び止める。

 

「私、もう止まれないし、止まらないよ。

 ここまで背中を押してもらって──香澄たちの隣に立って、手をつないだら、もう戻れない」

「……ああ」

「本当に、いいのかな?」

 

 言葉の後、私たちの間には沈黙が生まれた。その一瞬に、兄さんは何を考えていたのだろう。

 それは分からなかったけれど、少しだけ眩しそうに目を細めてから、兄さんは言った。

 

「どうせなら、思いっきり飛び出してこい。いつかきっと、追いつくから」

 

 それは、夏の日差しのせいだったのだろうか。

 とにかく、私はこれまでと同じように、これからも兄さんを信じ続けるんだと決めた。

 

「うん。……きっと」

 

 もう、SPACEはすぐそこだった。

 少し時間は早いけれど、香澄たちはライブの準備をしているだろう。兄さんたちお客さんには悪いけど、待ってもらわないといけないかな。

 

「あれ、オーナー?」

 

 陽炎の向こうで佇むオーナーを見つけ、声を掛ける。

 彼女は振り返るというよりは、ゆっくりと視線だけをこちらに向けてきた。

 

「若葉かい。戸山たちなら、もう入ってるよ」

「はい、ありがとうございます。──あの、今日はよろしくお願いします」

「ああ、頼むよ。そっちは?」

「今日のライブに来るとお話していた、兄です」

「ああ……」

 

 オーナーの視線が鋭くなる。見た目がライブハウスに悪影響と思われたらまずいので、ぽかんとしてる兄さんを「ほら、挨拶」と肘で突くと、たどたどしくも名乗りだした。

 

「わ、若葉律夏です。いつも、凪紗がお世話になっています」

「都築詩船という。──そうか、若葉、か……」

 

 な、なんだろう。凄い睨まれてる気がするんだけど。

 見た目はともかく悪いことはしないので、ここは通してほしいところだ──っていうか、鉄面皮の兄さんが珍しく固まっている。

 オーナーは、言葉を失った私たちへさらに言葉を掛けた。

 

「妹の方は、早いところ準備してきな。まだ時間はあるから、兄貴を借りるよ」

「え? は、はい」

 

 突然、他人に兄を借りられてく妹は広い世界を探しても私くらいじゃないかな。

 っていうか、一番驚いてるのは兄さんだと思ってたけど、気が付けば元の無表情に戻ってるし。

 

「凪紗、何かあったら呼んでくれ。──ライブ、期待してる」

「うん。楽しみにしてて」

 

 言いながら扉を開けば、冷房の効いた風が私を出迎える。

 かたや炎天下、オーナーに向き合った兄さんは、どこか懐かしい思い出に浸るような表情だったことが印象に残っていた。

 

 ☆

 

「凪紗~! 待ってたよ!」

「うわっとと、香澄、抱きつくのはいいけど勢いを加減して」

 

 

 

 お客さんが待つエントランスから出演者用の通路を抜けた先、控室の前で香澄に捕まった。

 というか、準備してたんじゃないんだっけ? 

 それを訊くと、みんなは顔を強張らせながら視線を()へ向けた。

 

「楽屋……だよねそこ。入らないの?」

「で、出る側で入るの、初めて……」

「震える」

 

 言葉から、りみや、ちょっと意外なことにたえもたじろいでいる様子が伝わってくる。

 その中で一人、「これぐらいで緊張しすぎ」と虚勢を張った有咲も、中の賑わいを覗くとすっかり及び腰になって、扉をそっ閉じしていた。

 

「百人くらいいた……」

「「ええ!?」」

「いやそんなには……」

「じゃあ沙綾行けよぉ!」

「ええ?」

 

 ポピパ特有のわちゃわちゃが始まった。

「パン屋さんでいっぱい人と会ってるし」というりみの声には納得だが、「百人斬り」だの「道場破り」だのというのは意味がよく分からない。

 

「はいはい、いつもの漫才やってないで行くよ」

「な、凪紗は緊張しないの?」

「怖いもの知らずだね」

 

 ふふ、よく言われる。あと兄さんには大胆不敵とか、図太いとか……それは余計だ。

 けれど、別に大したことじゃない。今日のために積んできた練習のことを思えば──緊張せず冷静に演奏しさえすれば、ミスなんて起こりっこない。

 合理的に考えて自信を持つのが私なのだ。

 

 ──あと、個人的な思いもあるしね。

 

「私たちなら大丈夫。いつだってできることをやるだけだよ」

「凪紗……」

 

 一応、香澄と一緒にバンドを作ってきた副キャプテンの自負もおまけにしてみんなを励ますと、心なしか、下がった眉が元に戻ってきたような気がする。

 よし、行こう。

 

 手を掛けたドアノブを押すと、扉の向こうの景色が視界に入ってくる。

 

「……あら?」

 

 聞いたことある声に、私はひっくり返りそうになった。

 

 

 ♬

 

 

「ライブ前の緊張、ですか」

「それもあるんですけど、なんか、フワフワしてるっていうか」

「……本番のイメージがつかない、ってこと?」

「そうそれ!」

 

 両人差し指を私に向ける香澄。なんか昔の芸人がやってたかも、そのポーズ。

「語彙力なんとかしろよ……」と有咲が額に手をやった。

 

「私は全く見当がつかなかったのですが、皆さんは」

「いや、私たちもちょっと慣れてきたかな、くらいで」

「有咲ひどーい! 私、外国人じゃないもん」

「外国人ならまだいい方だよ……」

「エイリアン?」

 

 珍しい有咲とたえのコンビネーションに、流石の氷川先輩も戸惑いの表情を浮かべているようだ。

 

「……それなら、この()()()は兄妹の得技、ということになりますね」

「あー、確かに律夏さんもそういうイメージあります。教え上手っていうか」

「この間の勉強会も、すっごい分かりやすかったです!」

 

 そうかな。なんか変なスイッチ入ってた気がするけど……。

 訝しむ私の様子を勘違いしたのか、りみが「凪紗ちゃんも、すっごく分かりやすかったよ!」とフォローを入れてくれる。天使かな。

 

「勉強会では違う組み合わせでしたが、バンドの中心にいる戸山さんと、戸山さんの思いをより分かりやすく、言語化して伝えられる凪紗さんの組み合わせは、ある意味バンドらしいと言えるのではないでしょうか」

「バンドらしい……ですか?」

 

『バンドらしいとは何か』っていう問いを前にして、首を傾げる沙綾と同じように、みんなが頭上に疑問符を浮かべていることが分かる。

 それでも、私たちが今まで経験したことが、そのヒントをくれているような気がしていて。

 

「補完関係、と言えばいいのでしょうか。個人の特長を、集団の強みに変えられるような」

「???」

 

 まずい、香澄が目を回してる。

 実際、氷川先輩には言葉遣いが難しいところがある──誰かさんの影響を受けてなきゃいいけど。

 ともかく、伝わっていない様子に戸惑う先輩の助け舟となるべく、みんなの疑問を代弁してみようと思う。

 

「えっと、補完っていうのは、一人じゃ足りないところを、他の誰かの持ち味で補い合う……っていうことですよね」

「ええ。バンドで演奏する楽器にも、その表現で得意と不得意があるように」

 

 ここまで言えば、察しのいいメンバーは分かってきたようで。

 

「あー、香澄の足りてない語彙力を、凪紗が補ってるってことですね……」

 

 有咲の言葉に、先輩は容赦なく頷く。──たぶん()()()()タイプに苦労してきたんだろうな……。

 

「ええー? 私、足りてないのかな?」

「ま、まあそれは置いといて……。曲作りのときはいつも香澄に助けられてきたし、それをみんなに共感してもらえるようにしてくれるのが、凪紗の大きな役割ってことだよね?」

 

 露骨な話題転換。

 しかし、香澄はずいぶん嬉しかったようで、「沙綾ぁ~!」と感動を滲ませながらいつものように抱きついている。

 先輩は嘆息交じりにその光景を眺めていた。

 

「……皆さんは、仲違いや衝突には無縁なのでしょうか」

 

 たぶん(ていうか絶対)、こんなやりとりが交わされることのないRoseliaとの温度差に、先輩は辟易としているんだろうな、と思う。

 それでも、これまでのことを思えば──

 

「メンバー集めはなんというか、結構な修羅場だったっていうか……」

「……えっと、その」

 

 唐突に気まずさに襲われる──主に沙綾を中心として。

 そんな空気を察した先輩は、ちょっと意外そうにしていた。もしかしたら、私たちはRoseliaとは違うっていうイメージがあったのかもしれない。

 

「Roseliaの皆さんも、やっぱり音楽のことでぶつかったりすることがあるんですか?」

「そうですね。今思えば私も未熟だったもので、それぞれの感性の違いを個性と受け止めきれず、衝突することもあったのかもしれません。

 ……だからこそ、お互いを支え合うような皆さんのバンドと、その演奏に興味を持ちました」

「え……!?」

 

 はっきり言ってしまえば、Roseliaは私たちとはレベルが違う。まさに格上だった。

 そんなバンドのメンバーさんが興味を持って聴きに来てくれているってことは、私たちにとって大きな驚きで、同時にすごく嬉しかった。

 

「興味、っていうのは……?」

 

 おそるおそる、有咲がそう問いかける。対峙する先輩は、少し考える仕草をして言った。

 

「皆さん、そしてバンド活動だけではなく、誰しも何かを始めるのには理由や背景があるのだと考えています。

()()()は、このバンドで音楽をするということに、どんな意義を求めているのですか?」

 

 問いかけられた『あなた』は私だった。

 なぜ私なのだろう、という疑問が生じる前に、ここまでの会話で言語化能力を持て囃されていたことを思い出す。──というか、みんなからの期待が籠った視線がその裏付けになっている。

 

 私がバンドを始めた理由──そして、それがポピパでなきゃダメな理由。

 みんなと目を合わせて、そして今までを思い返して──少し恥ずかしい台詞の中に込めて、私なりの答えを出してみることにした。

 

「最初はただ、音楽をするためだけに集まったのかも知れないですけど……。

 このメンバーで一緒にやりたいって思ったのは、香澄の感性に惹かれてっていうところが大きかったと思うんです。

 だから、香澄の隣に立ちたいって思うし、香澄が見て、感じているものを知りたくて。そうやって集まったみんなだから、手放したくないって思う──どんなに自分が不甲斐なくても、諦めたくないって思うんです」

「「……」」

「……あれ?」

 

 返事がない。

 不思議に思って見回せば、考え込む先輩と、顔を真っ赤にする香澄、「わーお」といった表情の沙綾とりみ、あんぐりとしたたえと有咲がいた。

 

「い、いやー……なんか、すごいの聞いちゃったね」

「な、凪紗ちゃん、大胆……」

「おま、オブラートにするとかなんかねーのかよ!」

 

 何か変なこと言ったかな。

 香澄に至っては、トマトかゆでだこのような顔をそのままに「あ、あはは」だとか「えへっ」とか、ニマニマとしながら狼狽えている──なんか新鮮かも。

 一方で、何らかの考察を終えたらしい先輩は、

 

「なるほど……よく理解できました」

 

 と得心して満足そうだった。……反応が十人十色すぎてカオスだ。

 そんな混乱も収まりきらないうちに、四方八方の雑談が急速に萎んでいく──部屋にいた出演者の視線が、入ってきたオーナーへと一斉に向かったのだ。

 

「あ、もう始まるかな」

「そのようですね。……では、私はこれで。

 皆さんのステージ、楽しみにしています」

 

 あ、先輩が行ってしまう──この変な雰囲気なんとかしてください。

 

「は、はい。ありがとうございました」

「頑張ります!」

 

 ざわつきが完全に収まってオーナーの話が始まるまで、目配せが香澄の視線と重なり合うことはなかった。

 

 

 ♬

 

 

「──最後のライブだ」

 

 そう言ったオーナーの表情を覗き見る。強い意志を秘めた瞳が物語るのは、一体なんだろうか。

 

「でも、いつも通り全力でやる。それがSPACEのライブだ」

 

 この場所のライブが最初で最後になる私たちには、その言葉の重みを完全に理解することができない。

 ゆり先輩たちの抱える思いと比べれば、ずっと軽い決意なのかもしれない。

 それでも──

 

「私から言えるのは、一つだけだ。──思いっきり、”演って”きな!」

「「はいっ!」」

 

 オーナーの言葉に、叫びにそれぞれの感情を込めていく。ステージの上で、力の限りそれを表現することなら、私たちにもできるんだ。

 

「がんばろーね」

 

 ふと、隣に立っていた他のバンドの子が手の平をかざしてくる。私たちも、この《SPACE》の一員なんだってことを認めてくれたような気がした。

 

「うん!」

「がんばろーっ!」

 

 後ろに立っていた香澄も、私たちの手に重ねるようにハイタッチ。……よかった、元に戻ってるみたい。

 そして、ステージに向かっていくゆり先輩と、袖で待機する夏希を見送る。

 二つのバンドの演奏が終わったら、私たちの出番がやってくる。

 

 

 

 グリグリのステージは大盛り上がりで、最後のライブにふさわしい幕開けになった。

 さすがゆり先輩。MC完璧だし、誰よりとびきり輝いて注目を独り占めしていた。

 だから、私たちもそれに続いていきたい。

 

 ステージからは、夏希たち新生《CHiSPA》が紡ぐメロディが流れてくる。その爽やかさを耳にしつつ、ふと、隣のりみの思いつめたような表情に気付く。

 ──そうだよね。ここにいる誰だって、本当は緊張しているんだ。

 

 思いをぶつけ、壁にぶつかっても前に進んでこれたのは、このステージに立つんだっていう思いがあったから。

 今日のライブだけは、絶対成功させたい──心から「やりきった」って言いたい。

 見に来てくれているすべての人に、私たちの思い(オト)を聞いてほしい。

 

 気が付いたら、震えるりみの手を取っていて──それは、香澄へ、たえへ、沙綾へ、そして有咲へとつながっていった。

 

「……!」

 

 咲祭のときと同じように、夏希たちは会場の熱狂をそのままにステージ袖へ戻ってきた。

 

「あっためといたから、次もよろしく!」

「うん!」

 

 ぱしん、と手の平を鳴らし、みんなが去った後、香澄は私たちを振り返って手を差し出した。

 

「円陣やろ!」

「忘れてんのかと思った」

 

 えへへ、とはにかむ香澄の手に、有咲の手が添えられる。

 

「がんばろうね!」

「もうやるしかない!」

 

 そして、りみと沙綾の手が重なる。

 

「ポピパパピポパ~」

「え?」

 

 なんだか不思議な掛け声(呪文?)に、みんなの注目を集めたたえは、「思いついちゃった」と満足げだ。

 

「今かよ!?」

「なんか面白いじゃん。やろうよ」

 

 そう言って、一番上に手の平を置く。

 私たちの円陣はちょっと不思議かもしれないけれど、思いは確かに一つになったみたいだった。

 

 ☆

 

 ステージの上から見たペンライトの光は、夜空に瞬く星みたいだった。

 光の中には沙綾や有咲の家族がいて、そして兄さんや氷川先輩にひかり先輩、恵さんの姿も見える。

 みんなが、今は私たちの音を待ち望んでいるように感じられた。

 

「「Poppin’ Partyです!」」

 

 息を合わせて声に出すと、オーディエンスはそれに応えてくれる。

 そのまま自己紹介をして、ちょっと深く息を衝いた香澄が語りかけるように続ける。

 

「私たち、SPACE(ここ)でライブするのは初めてで……

 ずっと叶えたかった、その夢が叶いました!」

 

 盛り上がった歓声の中に、夏希やひかり先輩の声が聞こえる。

 

「おめでとーっ!」

「さすが私の妹ーっ!」

 

 先輩の妹になった覚えはないけど……。

 それでも、みんなが見てくれていて、ペンライトを振って応援してくれていることが、とても嬉しくて──

 大口を叩いていた私でもたじろいでしまうくらいの熱量が、私たちに向けられていた。

 

 ペンライトの虹色の光に囲まれていると、香澄や有咲と、はじめてライブに行ったときのことを思い出す。

 ゆり先輩たちが立ったステージに、私たちがいる。

 心を揺さぶったあの演奏が、私たちにできるだろうか。

 

「──じゃあ、副リーダーからも一言!」

「え?」

 

 そんな風に思い出していると、沙綾の声がして、次に香澄のマイクが手渡される。

 期待の表情を向けられてるけど、そんなの台本になかったよね? 

 

「え、っと──」

 

 余計な抵抗は諦めてステージの最前面に立つと、光の海が目の前に広がっている。

 こうやって大勢の前で話すのは、たぶん入学式のとき以来。舞台は変わらないのかもしれないけれど、変わったものがあるとすれば、それは私。

 ここにいるのも、変われたおかげだとするなら──思い切って、そのことを言葉にしてみようと考えた。

 

「……今、初めてSPACEに来たときのことを思い出していました。

 ステージの演奏を、会場全体で楽しむこの空間にとても興奮して、輝いているように見えて──

 だからこそ、それが眩しすぎる、遠すぎるようにも感じてしまったんです」

 

 気付けば、誰の声も聞こえなかった。

 

「それでも、出会ったメンバーが着いてきてくれた──連れてきてくれた。

 大変なことも確かにあったけれど、みんなで手を取り合ってここまでこれた。──そして」

 

 ここまで、一息に吐き出した空気をもう一度吸い込む。

 お腹に力を入れて、叫ぶように私は言った。

 

「兄が、一歩を踏み出す勇気をくれたんです」

 

 ばっ、と生徒会の人や知っている人が兄さんの方を向くので、どよどよとするお客さんたちも、次第にそれが伝わっていく。

 言っちゃった──そんな羞恥が顔を染めてしまう前に、私は言葉を重ねる。

 

「──っ、だから、このライブで感謝を伝えたいんです! 

 もちろん、今見に来てくれている皆さんにも!」

 

 だけど、もう遅かったみたい。

 にやにやというか、生暖かいみんなの目線が私たちを襲う。

 

「凪紗……やっぱり大胆だね」

「公開告白」

 

 誰が公開告白だ。

 どっと笑いが巻き起こって、私も照れ笑いが隠せなくって──それでも、ちょっと重苦しかった心が晴れたような気がしていた。

 

「……それじゃ、行こうか」

「うん」

 

 ステージだけに聞こえる声に、誰からともなく()()の目を取り戻していく。

 私たちの様子が伝わったのか、ざわつきはある意味張り詰めたような息遣いに変わり、鋭い注目を向けてきた。

 

 みんなの視線を重ね、タイミングを合わせる。

 

 押し殺した呼吸、熱を帯びた光、額に浮かぶ汗──止まっていたように思えた時間が、カウントとともに動き出す。

 振り下ろしたピックで、私たちの音楽と輝きが弾けだした。

 




というわけで、長々とお待たせしておりました。
幕間を投稿しつつ、メインストーリーの3章を次話以降はじめていければと思いますので、気長にお待ち頂けれは…


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#interlude:小さな海

執筆に難航しております…。
お待たせし続けるのもアレなので、休憩がてら書き溜めていたお話を閑話としてどうぞ。


「よ、っと……ふう」

 

 両手で抱えていたコンテナを、商品棚の前で降ろす。

 蓋を開けると、所狭しと詰めこまれた夏野菜が顔を覗かせた。

 

「これだけ並べていくか」

 

 明日は試験に向けた最後の追い込みもあり、ベーカリーを含めてシフトは入れないことにしていた。

 というか、本当は今日もその予定だったのだが。

 

「後はやっとくから、はよ帰りな」

 

 そんな言葉を投げかけられて振り返れば、店長が小袋片手に歩いてくる姿が見えた。

 

「明日朝の分だけ準備していきますよ。シフト、足りてないっておっしゃってましたよね」

「いいや。兄貴んとこが応援に来てくれるって言うんでね」

「お兄さん、ですか?」

「言ってなかったっけ?」

 

 初耳です、と答えると、彼と同じく八百屋を経営している兄のことを教えてもらえた。

 こういう店は、兄弟や家族で力を合わせて経営するものだと思うのだが。

 

「俺と兄とは性格がまったく違うんでね。とにかく寡黙なんだよ」

「信じられないです」

 

 常連のマダムたちの井戸端会議に首を突っ込めるのはこの人くらいしかいない。

 もっとも、話が長引きすぎてパートさんに耳を引っ張られてはバックヤードに戻っていくのが日常だった。

 

「ま、そんなんで経営スタイルも違うってわけ。あっちはオーソドックスな八百屋だよ」

「確かに、ウチはちょっと変わり種も取り揃えてますからね」

 

 最近は需要のある有機野菜や、珍しい果物を取り揃えるだけではなく、旬の作物を中心にしているので売っていないモノもある。

 そういうところに興味をもったことがバイトの応募の動機ともなっていて、俺と同じようなファンが根付いて固定客が増えつつある。

 

 

「でも、応援に来てくれるなんて、優しいお兄さんですね」

「元々仲は悪くないよ。性格が違っても、それをお互いが認め合ってるから」

「……素晴らしいお兄さんですね」

「どういう意味かなそれは?」

 

 素で感嘆しているうちに、無意識で無礼をはたらいていたらしい。頬が引き攣っている。

「あーあ、せっかくヘルプのお礼用意したのになー」と、色々入った袋を目の前にちらつかせられたので、ここは素直に平謝りしておくことにした。

 

 

 ♬

 

 

 夏目前ですっかり日が長くなったとはいえ、バイトが終われば22時も近く辺りは暗い。

 Roseliaの反省会が18時ごろだったから、もう3、4時間は経ったことになる。

 夕暮れの空は真っ黒に染まり、今日が終わっていくことを示していた。

 

 商店街の店舗はシャッターを下ろしていて、やまぶきベーカリーも北沢精肉店も同じように静けさを保っていた。

 恵はテスト勉強に追われているだろうし、沙綾ちゃんは明日のオーディションに備えて心を落ち着かせているかもしれない──そうか、今日は凪紗たちは集まって泊りだったっけ。

 

 香澄ちゃんを家に連れてきたときから、少しずつ凪紗の調子は戻っていったような気がする。

 相談に乗った時、アドバイスはしたけれど、それは一般的なものに過ぎなかった。

 凪紗が自分の経験から答えを見つけ出して、自分の行動で周りを動かしたことに、成長を感じるのは兄心だろうか。

 

「もう俺もお役御免か」

 

 ふと、そんなふうに一人ごちる。

 元々俺の役目は不要なものだったのかもしれない。これは前にも考えたような気がする。

 それは置いておくとしても、そうなれば今度は──凪紗が凪紗だけの道を歩きだして、その後は多分、俺の番なんだと思う。

 

 咲祭で見た輝きの溢れる世界に、俺は足を踏み出せないでいる。

 次の順番が分かっていても、まだ進めないと理性が告げる。まだ何も変えられていないだろうと嘲笑っていた。

 

「……」

 

 商店街の入口に立つアーチを見上げて足を止める。空に輝く一等星が、やけに遠くに見えた。

 その遠さに諦めようとする心がいて、手を伸ばすことすら億劫になる。

 それでも、諦めたくないと駄々をこねる本能が、性懲りもなく憧れを運んでくる。

 

 どうせ無理なら、やってみてもいいだろうか。

 枯れた海に飛び込もうとする背中を押してくれる人たちが、幸運なことに、俺の周りにはいたことに気が付いたのだから。

 

「……あら?」

 

 俺は間違っていなかった、そう確信した。

 

 

 ♬

 

 

「まさか、こんなところで会うとは」

「ええ、まったく同感です……バイト終わりですか?」

「はい」

 

 俺とは正反対の方向──商店街の入口へ足を踏み入れようとしていた氷川さんと目が合って、正直な感想が漏れた。

 さっき顔を合わせて食事をしていたばかりだが、気分としては久しぶりな感覚があった。

 

「氷川さんこそどうして商店街に? しかも、コンクールの後のこんな時間に」

「……」

 

 さっき考えていたように、やけ食いの反省会を終えてから数時間経って、なぜ今ここにいるのだろう──疑問を素直に口に出すと、彼女はばつの悪そうな顔で押し黙ってしまった。

 聞いちゃ不味かったか。

 

「すみません、困らせるつもりはなかったんですが……無理して答えなくても」

「い、いえ。

 その、言いにくいのですが……下見、とするのがいいのでしょうか」

「下見?」

 

 単語を復唱し、反芻する──これから先、何かイベントでもあるのだろうかと考えたとき、心当りが一つだけあった。

 7月第1週の週末のことだ。

 

「もしかして、七夕祭りのことですか」

「! は、はい」

 

 どうやら言い当てられたらしい。ぎくり、というような表情の氷川さんは、どこか、悪さしているところを見咎められた少年のようにも見えた。

 

「羽丘の文化祭前のミーティングをリモートでやったとき、聞こえてしまったんですけど」

「それなら、日菜が関わっていることも、既に」

 

 苦笑して小さく頷く。氷川さんはますます苦々しさを露わにしていった。

 

 彼女にとってのいくつかの問題や悩みのきっかけとなっているのは、日菜さんという妹ととの関係だった。

 最近は少しマシになったとはいうものの、どう接していいか分からない氷川さん──姉である紗夜さんにとって、日菜さんが持ちかけた七夕のお誘いが更なる悩みのタネのなっていたのだった。

 

 そういえば、この人の名前をよく覚えてたな。

 

「下見はそのお祭りのことだったんですね。……でも、そこまで準備するようなことでは」

「当日は人も多いですし、練習後の集合になりますから。

 人がいない時に集合場所や避難経路を確認しておくことは大事です」

 

 文化祭での風紀委員の活動と同じく、こういう事前準備は抜かりないらしい。

 まあ、これはこれで前向きになっているということなんだろうか。

 とはいえ、街中の暗がりを一人で歩き回るというのも危険だと思う。

 

「……なら、俺も行きますよ。会場は多分、広場だと思うので」

 

 それを言うと、意外そうな反応が返ってくる。

 自分が行けば危なくないと思っているのか、こういうところは抜けているような気がしてならない。

 

「いえ、疲れているでしょうし、着いてきてもらう必要は」

「ありますよ。……心配ですし、普通に」

「……分かり、ました」

 

 嫌がられてないだろうな。

 本当にそう思われていたら申し訳ないけれど、危なっかしく思う気持ちがあったのは本当のことだ。

 ──だけど、素直にそれを口にしたことが、後になってらしくないとも思えてしまった。

 

 ☆

 

「ここ、ですか」

 

 連れてきた広場は、やはり昼間の賑わいなど忘れたように閑散としている。少し薄気味悪いくらいだ。

 氷川さんはきょろきょろと辺りを見回したかと思うと、仄かな一本の街路灯の足元へ近づいていった。

 

「もう笹が用意されているのですね」

「ええ。地域の幼稚園や、小学校に通う子が書いた短冊を吊るすということで」

 

 ベーカリーでのバイト中に、純くんや沙南ちゃんから聞いたことを話す。

 街路沿いに植えられる笹は立派なものだが、お祭りにはかなりの人が訪れるらしく、その人たちの分を含めるととても数本では足りないらしい。

 

「……子供の頃、若葉さんはどんな願い事をしましたか」

 

 意図は分からないが、そんな問いが向けられた。

 七夕の願い事……何を書いたのか、短冊を笹の葉に結んだ記憶すらも思い出せなかった。

 

「あまり記憶がないですね……」

「凪紗さんは?」

「凪紗、ですか?」

 

 突然の凪紗のご指名に戸惑う。また何か、失礼なことをしたのだろうか。

 ただ、不思議なことにあいつの話となると思い出せることがあった。

 

「そういえば、何か先頭に立って目立っていたような──あっ、そうだ。

 地域の代表に選ばれたとかで、織姫の仮装をして歩き回っていたような」

「パレードでしょうか。今回のお祭りでもあるそうですよ。

 ……それにしても、自分の意思とは無関係に選ばれるところが凪紗さんらしいです」

「そうですね。俺はそれを遠くでぼーっと眺めていたような気がします」

「それもどこか、あなたらしいと思います」

 

 どういう意味だそれは。

 揶揄うような笑みを目にしたとき、彼女の考えていることが分かったような気がした。

 

「氷川さんにも、妹さんとの思い出があったんですね」

「はい。……正確には、七夕ではなく、少し歩いたところにある公園なのですが」

 

 あちらの方角です、と指し示したのは北側にある住宅街だろう。近くまで来て、思い出したことがあるのかもしれない。

 

「日菜と二人で、よくブランコに乗っていました。

 どっちが高くこげるか競争だ、なんて言って……、いつもあの子の方が高くこいでいたから、その羨ましさが記憶として、焼き付いているのだと思います」

「ちょっと分かってしまうのが悔しいですね」

 

 走るのが速いとか、体力任せじゃない、身体の使い方でちょっとしたコツがいるような──それこそブランコだとか、雲梯や上り棒とか、あと鉄棒──俺は中学に入るまで逆上がりができなかった。

 それを話にすると、近くのベンチに腰を下ろした氷川さんは、静かに、けれど深く頷いてくれた。

 

「まさか今、それを悔しがることも、羨ましがることもありませんが──かつてあった私と日菜との差が、縮んだようには思えません。

 音楽だけではない、もっと広い意味の感性と感覚で、あの子は私よりずっと秀でている」

「違いない」

 

 俺だって凪紗に対しては同感だ。

 何だったら今は憧れさえある。

 

「それが分かっていても──私だけの何かかあるはずだと、諦められない私がいます」

「ええ」

 

 憧れてしまったら終わり、そんな言葉を聞いた気がする。

 けれどそれはアスリートの世界──全く同じ、たったひとつの尺度が物を言う世界の中だけの規則にすぎない。

 憧れを抱いたとしても、俺たちなりの方法でこの広い世界を生き抜く方法があるはずだ。

 諦めを諦めた先にあるものが、俺と、もしかしたら彼女の願い事なのかもしれないと思った。

 




このお話は2章完結後、幕間として並び替えます。


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#interlude:ソーダ(ガールズサイド)

お久しぶりです…
時間が空いてしまい、また閑話の投稿となりすみません。
3章については鋭意制作中ですが、その前に投稿しておきたいお話が少し。


 SPACEでのライブが終わり、幕を開けた夏休みが本格的にはじまった。

 あの時のことは、今でも夢だったんじゃないかって錯覚するくらい、香澄の言う『キラキラ』と『ドキドキ』が詰まった思い出になった。

 

 それに比べれば、今日なんてこの味のしない炭酸水くらいのもので──

 

「ちぇ、みんな予定あるんだって」

「君ら、毎日会って遊んでいて飽きないのか?」

 

 飽きるわけがない。それが悪いことだとしたら、みんなが面白すぎて興味が尽きないのが悪い。

「もちろん」と兄さんに返しつつ、コップを傾け飲み干してソファに寝そべった。

 ひっくり返って逆さになった青空も、今日はなんだか色あせて見える気分だった。

 

「なーんか、暇つぶしになるようなことないかなぁ……」

 

 スワイプするスマホの画面には、この夏を満喫するSNSの住人達の自慢話が溢れている。

 少しひねくれた思いでそれらを眺めていると、ふと、琴線に触れる一枚を見つけたのだった。

 

「兄さん、行こう」

「どこにだよ」

「行きたいとこできた」

「答えになってないぞ」

 

 そう言いつつも、ボディバッグを取り出そうとしている兄さん。

 唐突な無茶ぶりに応えてくれるところは魅力の一つだと思うんだよね。

 

 ☆

 

「あっつい……」

 

 目指す場所までは歩いて15分くらいだけど、この季節はそれが一番辛い距離。

 東京特有の不快な熱にうだりながら進んでいく。

 

「それで、結局どこに行くんだ」

 

 先を行く兄さんが振り返ってそう訊いてくる。白Tから筋肉がこぼれていて、見るだけでも暑苦しい。

 

「場所はいつものショッピングモールなんだけど……ほら、水族館あったでしょ。

 そこのカフェでアイスクリームフェアやってるんだって」

 

 のろりと追いついて、先ほど見ていた画面を差し出す。

 そこには海に合わせた青色が爽やかなデザートたちがきらりと輝いていて、炎天下の私たちは思わず喉を鳴らした。

 

「アイスクリームとは言いつつ、かき氷もあるな」

「全部ひっくるめて氷菓子フェアだね。そのかき氷が一番人気らしくて……ほら、この()()()()の」

「ペンギン……ああ、確か先月生まれたとかって」

「それそれ!」

 

 ビシッと人差し指を向ける──ヤバい、ちょっと暑すぎてテンションがハイになってきた。

 そんな私に胡乱な目を向ける兄さんは、「それで、なんで今さらフェアなんてやってるんだ」とスルーしていく。

 

「名前が決まったんだよね。お兄ちゃんがパンくんで、妹ちゃんがポンちゃん」

「公募らしくひねりのない名前だな。というかパンはどっちかというとチンパンジーだし、ポンはタヌキだろ」

「まあまあ、野暮ったいことはよせやい」

「変なテンションだな」

 

 ついに指摘されてしまったが、兄さんの口を塞ぐためにもスマホの画面をスワイプして、とあるお知らせを表示した。

 

「これ見てよ、『きょうだい割』だって!」

「……ほう」

 

 趣旨を理解した兄さんの目が光る。

 

「”きょうだい”なら割引き、”兄妹”ならもっと割引き──これ、まさに私たちにピッタリでしょ」

「よく見つけたもんだ」

 

 こういうところの特別メニューはだいたい高いのが定石。いくら映えスイーツだからといって、千円、二千円をぽんと出せるほどお財布のひもは緩くない。

 その点兄さんも同じなようで、心なしか乗り気なように見えてきた。

 

「ほら、早く行こ! 売り切れちゃうから」

「ああ」

 

 二人そろって踏み出す足音も、どこか炭酸の弾けるような軽やかさだった。

 

 

 ♬

 

 

「ふいー……生き返ったぁ」

「結構混んでるな」

 

 辺りを見回した兄さんが零すように、夏休みに入った水族館の人出はすごい。

 同年代の学生から子供連れまで、たくさんの人がゲートに吸い込まれていく。

 

「みんなパンくんとポンちゃんを見に来たんじゃない? ほら、カフェに入ってる人はそこまで多くないし」

「水族館には行かないのか?」

「ペンギンはどの水族館にもいるけど、アイスはここでしか食べられないから」

「夢もなければ、血も涙もないな」

 

 何だか失礼なことを言う兄さんはさておき、お待ちかねのものを探してお店に入る。

 どうやら注文したものを受け取って席に持っていくセルフサービスみたいで、お客さんたちはパンくんやポンちゃんをイメージしたアイスを大事そうに抱えていた。

 

「頼んでくるよ。凪紗、席を取っててくれ」

「りょーかい。私ポンちゃんね」

「分かった」

 

 兄さんを見送って、隅の席に座った私の頭の中はアイスのことでいっぱいになる。

 

 メニューの中でひときわ輝く『ポンちゃんアイス』の写真では、真ん中に大きく映ったブルーハワイのかき氷とソーダ味のアイスクリームに、髪飾り? のさくらんぼと、特製炭酸ドリンクに浮かぶための浮き輪──に似せたいちごが散りばめられている。

 パンくんの方は代わりにレモンの麦わら帽子とマンゴーの浮き輪みたい。うーん、こっちも捨てがたかったなぁ。

 

「うへへ……おっとよだれが」

 

 眺めれば眺めるほど楽しみになっていく。

 と、どこからか向けられた視線に気づいた。

 

「あれ、凪紗ちゃん?」

「?」

 

 振りかかってきた声の方へ意識を向けると、そこには明るい桃色の髪を揺らした先輩が立っていた。

 

「彩先輩!」

「こんなところで会うなんて、偶然だねっ」

 

 眩しすぎる完璧なアイドルスマイルを振りまくこの先輩とは、最近できたライブハウスで出会ったばかり。

 聞くところによれば、氷川先輩の妹の日菜先輩やイヴと同じアイドルグループを組んでいるらしく、同じ学校っていうことも相まってとても話しやすい先輩だった。

 

「そうですね……でも、このお店に来てるってことは」

「うん! 今日はこれがお目当て!」

 

 そう言って向けてくれたトレーにはこれまた眩しいポンちゃんアイス。彩先輩が持ってるってだけで価値が倍増しそう。

 

「おお……! すっごい美味しそう」

「そうだよねー。私もすっごい楽しみ。しかも、きょうだいだとお得なんだよね」

「彩先輩、ご兄弟がいるんですか」

「うん。妹がいて、今日も一緒に来てるんだ。 凪紗ちゃんも?」

「ええ、兄が。 今買ってきてくれてます」

「ふふ、仲いいんだね。凪紗ちゃんのお兄さん、どんな人なんだろう」

 

 すっごい興味を寄せてくれるのは嬉しいけど、別に見せられるようなものでもないですよ。

 素直さをそのまま映したような、きらきらした瞳に後ろめたい思いでいると、彩先輩の背中の向こうから兄さんが歩いてくるのが見えた。

 

「あ、ちょうど来たみたいです」

「ほんと?」

 

 広い手の平に比べるとどうしてもアイスが小さく見えてしまって、零さないように慎重に運ぶ姿が、なんだかおとぎ話に出てくる優しい巨人(モンスター)のように感じられてしまう。

 近づいてきた兄さんは、振り向けていた注意を私たちに向けると、言葉を失ったかのように固まった。

 どうかしたのかな。

 

「……っ」

「あっ、凪紗ちゃんのお兄さんですか? 私、丸山彩っていいます! 

 私も音楽をやっているので、凪紗ちゃんとはライブハウスとか学校で仲良くさせてもらってます!」

「兄も高二なので、敬語じゃなくて大丈夫ですよ」

「えっ、本当!? 全然同い年に見えない!」

 

 彩先輩の様子から、言動をみるまでもないというのが証明されてしまった。

 しかし、兄さんからは反応の言葉も行動も返ってこない──そこには何かしらの狼狽というか、兄さんには珍しい感情が表出していたとしか思えなかった。

 

「……兄さん?」

 

 私の呼びかけに、ようやく硬直から脱した兄さん。

 

「えっと……なんか、変なこと言っちゃったかな?」

「い、いや。兄の律夏です、凪紗がいつもお世話になってます」

 

 元通りかは分からないけど、ひとまず言葉は出てきたみたい。

 まあ彩先輩が可愛くて……っていう線もなくはないけど、氷川先輩みたいな人と仕事してる時点で見慣れてるだろう。

 それならそれで、理由は気になるところだ。

 

「さっきも話してたんだけど、兄妹で一緒にカフェにくるくらい仲がいいんだね?」

「急に連れ出されたんだけどな」

「えっ、凪紗ちゃんが連れ出したの!?」

 

 うっ、なんか普段見せてないところを暴露されてるみたいな気分になってきたぞ。

 意外そうな(そして楽しそうな)彩先輩の視線を受け流して、話題の転換を試みる私。

 

「そ、それは彩先輩のところもじゃないですか?」

「まあ、うちは姉妹だから……しかも、たくさんお願いしてやっと来てもらったんだよ~」

「そうなんですね。そういえば、妹さんはどちらに?」

「あっ、そうだった、今席を探してもらってて……やば、連絡来てた!」

 

 スマホを取り出して気が付いたのか、慌てた様子で誰かを探しはじめる先輩。

 たぶん妹さんだろうな……と思っていたら、テラス席の方で手を振る女の子が一人いて、先輩も見つけられたみたいだ。

 

「ごめん、またゆっくりお話しよ! お兄さんも邪魔しちゃってごめんね」

「いえ。またライブハウスで」

 

 兄さんも軽い会釈を挟み、彩先輩がそれに応えるように手を振って歩き出した。

 その瞬間だった。

 

「あっ」

 

 誰が発したか、そんな声が引き延ばされ、時間の流れがスローモーションに切り替わる。

 踏み出した一歩目の足がつるっと滑って、先輩が後ろにひっくり返ってこちらに倒れてくる。

 幸い、背中は私に任せてほしいんだけど、問題なのはその勢いでトレーからテイクオフされてしまったポンちゃんの方で──

 

 端的に言えば、ポンちゃんのチョコでできたくちばしは完全に兄さんの顔を捉えていたということだった。

 

 ☆

 

「ほんっっとーにごめんなさい!」

「あ、あはは。大丈夫ですよ……たぶん」

 

 平謝りする彩先輩、確信をもって保証ができない私。

 

 結局、ポンちゃんは兄さんの顔面にダイナミックに飛び掛かり、ついでに純白なTシャツを空色に染めてしまった。

 急いで掃除をした後で、兄さんはシャツの汚れを落としに向かっていったのだった。

 

「シャツを汚しただけじゃなくて、アイスももらってしまって……本当に、姉がとんでもないご迷惑を」

「ま、まあ溶けちゃうからね。今はとりあえず食べようよ」

 

 顔にダイブしてきたポンちゃんの半分くらいはそのまま食べられたらしく、「代わりになれば」と去り際に自分のアイスを置いていった。

 幸か不幸か、兄さんも味わえたってことだね。……不幸か。

 

「お代はすべて、姉が払いますから」

「え!?」

「当たり前でしょ! せっかく兄妹で来てたんだから!」

「だ、大丈夫だよ! 私たちも、彩先輩との時間を邪魔しちゃったし」

「いえ……」

 

 

 彩先輩の妹さん──詩乃(しの)ちゃんというらしい──は、少し憮然とした表情でアイスを食べ進めている。

 ちょっと微妙な空気になってしまったので、二人の話を振ってみようかな。

 

「詩乃ちゃんは今何年生なんだっけ?」

「中3です」

「あー、それだと勉強で忙しくて、二人で遊べなくなっちゃうね」

「そうなんだよー、しかも花女じゃなくて別のところに行っちゃうし~」

「暑苦しい……」

 

 腕にしがみつく彩先輩にすこぶる面倒くさそうな詩乃ちゃん。そっか、二人だとこんな感じなんだ。

 

「花女じゃないってことは、羽丘? それとも……」

「はい、志哲です。友だちが目指してて、それで私も」

「そうなんだ。ちょうど兄さんが志哲に行ってるから、今度受験のコツとか聞いておくよ」

「本当!?」

 

 ここで反応したのは意外なことに彩先輩だった。乗り出すような恰好にびっくりしてしまう。

 

「……お姉ちゃん、行儀悪い」

「あ、えへへ、ごめん……で、お兄さんが志哲なんだよね?」

「は、はい。何か気になることがあるんですか?」

「うん、実は──」

 

 ペンギンの身体を支えるアイスが、しゅわりと空虚な音を立てて溶けていく。

 その傍らで、彩先輩は話の続きを語りはじめたのだった。

 

 

 ♬

 

 

「──それで、落ちてきた私をぎりぎりのところで受け止めてくれたの!」

「そ、そうだったんですか……」

 

 いつになく真剣な表情の(失礼か)彩先輩の話を、私たちは戸惑いながらも受け止めた。

 途中で兄さんが戻ってきて、詩乃ちゃんが土下座しようとして慌てて止めたりだとかいろんなことがあったけど、それよりも衝撃的だったのはその話の中身。

 

「咲祭で、私たちがライブしている間にそんなことがあったんですね」

「私も、友だちと学校説明会を受けている最中だったので……ここまで大事(おおごと)になっているなんて知らなくて」

 

 詩乃ちゃんの頭の痛そうな仕草に、もはやどっちが姉か分からなくなってきた。

 しかし、それを意に介さない様子の彩先輩は、畳みかけるように語っているようだ。

 

「それでね、その人が来ていた制服が()()()だったっていうから、この辺りだと志哲高校の人なのかなって考えてたんだ」

「なるほど……」

 

 言うまでもないが、学ランを着ていたということは男子生徒、というところまで、彩先輩の尋ね人は絞られているらしい。

 そこまで分かっていれば、しらみつぶしに関係者に聞いていけばいつかは見つかるような気もする。

 というか、咲祭は生徒の家族と、商店街や地域の人くらいしか参加できないんだから、あの時会場にいた志哲高校の男子生徒って、基本的には──

 

「……」

 

 ──めちゃくちゃ目が泳いでるよ、兄さん。

 

 思わず溜息をついてしまいそうになるくらいには挙動不審の彼に対して、追い詰められたときの分かりやすさは間違いなく遺伝だと思い知る私。

 生徒会、という括りでいけば恵さんという可能性もなくはないけど、どんなに彩先輩が減量中であったとしても、あの華奢な感じではとても無傷ではいられないだろう。

 しかも、話を聞く限りでは一定の高さから落ちてきた先輩の身体を、滑り込みながら受け止めるなんて、相当な膂力が必要なはずだ。

 ──ここまで、そう難しい推理ではない。

 

 見るからに焦っている兄さんに対し、彩先輩はぐいぐいとにじり寄るように距離を詰めていく。

 

「若葉くん! 高校の中で、咲祭の話とか出たりしてない!? 

 あのときのことを見てた人とか!」

「そ、そうだな……」

 

 考えるふりをする兄さん。……腕組めてないぞ。

 しかしながら、それがいつも通りの反応ではないということを知るのは、初対面の人には難しいらしく。

 

「お姉ちゃん、あんまり困らせちゃだめだよ」

「ご、ごめん!」

 

 思わぬ詩乃ちゃんの助け舟に、兄さんは少しずつ元の調子を取り戻していったようだった。

 

「しかも、同級生の人を通して手紙も送ったんでしょ? 

 確かに私もお礼くらいはしなきゃって思うけど、それで気持ちも伝わってるんだし」

「同級生?」

「うん、風紀委員で咲祭に参加してた紗夜ちゃんに。

 あの時、ちょうどその人と一緒にいたらしいんだけど、その人が名乗る気はないからーって、会わせてくれないんだよぉ」

 

 ああ、もう完全に特定できちゃうなこれ。

 けれど、幸いなことに二人は兄さんが生徒会に入っていることはおろか、そもそもあの場にいたことになんて気が付かないだろう。

 頭を悩ませる彩先輩には悪いけれど、なんとかこの場は乗り切れそうだ。

 

 ──そんなとき、兄さんが訊いた。

 

「……どうしてそんなに、直接会いたいって思うんだ?」

「?」

 

 視線を吊り上げた彩先輩が、首を傾げる。その仕草までアイドルらしく可愛い。

 

「妹さんも言っているように、手紙を通してコミュニケーションはできていると思うけど」

 

 詩乃ちゃんも頷いているように、その言葉には私自身も納得できる。

 けれど、再び視線を手元に戻した先輩は、どうやら違うようで。

 

「うーん……言葉にするのは難しいんだけどね。

 文字の上だけじゃなくて、その人の前に立って、お礼だけじゃなくて、お話をして……その人がどんな人か、確かめたいって思うんだ」

 

 まあ、目の前にいるんですけど。

 だけど、そこまで強い意思があるのには、きっと理由があるはずだ。直感的に会いたいと思ったきっかけと言ってもいい。

 

 それを質問してみると、彩先輩はなおも続けた。

 

「私、手が離れたときに、落ちていく感覚が怖くて気を失ったらしいんだけど……

 まだ記憶がある一瞬だけ、その人のことが見えていた気がするんだ」

 

 まさか思い出せそうなのかと不安にはなったけど、その後の「もうおぼろげになっちゃって、ちゃんと覚えていないんだけどね」という言葉に安堵した。

 

「そこで、何を感じた?」

「表情の中から、絶対諦めない、っていう思いが伝わってきた、って言えばいいのかな。

 それだけが残ってるっていうことは、逆に言えば、それだけ強い思いだったんだなって。

 だからこそ、助けてくれたことに対して、ただ手紙でお礼を言うだけじゃいけないって思うのかも」

 

 大切な思い出に浸るように、薄く目を開いて語る彩先輩を見て、思わずドキッとしてしまった。

 それくらいの思いの深さが感じられて、同時に、私の中で一つの疑問が沸いたのだ。

 

 どうして兄さんは、自分が助けたことを黙っていたいんだろう? 

 

 

 



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#interlude:あの夏のいつかは(ボーイズサイド)

投稿ペース遅くすみません…


 ペンギンも斜陽にその身を溶かし切った頃、丸山さん(姉)がメンバーとの約束が迫っているとのことから、一大推理大会は答えを見いだせないままの時間切れとなった。

 ──その結果に安堵してしまったことは口が裂けても言えまい。

 

「……で、何で言わなかったわけ?」

「何を」

「あんまりとぼけてると()()()よ」

「……」

 

 はて、バラされるような隠し事はないはずだが──そんな悪あがきも凪紗の一睨みで霧散する。

 動揺が気取られていたのは薄々分かっていたことだが、それ以前に丸山さん側の持っていた情報が想像よりも核心に近かったようだ。

 

 食卓上の視線を逸らしても、煌々とした西日の光線に退路を絶たれた俺は、取り調べよろしく経緯を供述するしかなかったのである。

 

「タイミング的には《Poppin’ Party》のライブが始まる直前だ。

 氷川さんと見回りをしていた時に、叫び声が聞こえて向かってみれば現場に遭遇した」

「一曲目に遅れたのはそういうことだったんだね……。でも、それは答えになってないでしょ」

 

 経緯(それ)は今求めていない──それを容赦なく突きつけてくる冷ややかな半眼に、曖昧な回答はもとより誤魔化そうとすれば刑執行は免れないものと悟るのだった。

 仕方なく、いつか恵にしたように理由を説明していくにつれて、凪紗の視線は胡乱なものになっていくのが分かった。

 

「……何それ、自意識過剰でしょ」

「恵と同じことを……。それでも、変な噂を立てられるよりはお互いのためになるだろ」

 

 はああ、と長い嘆息に思わずたじろいでしまう。

 

「大体、噂が立つにしても助けたことは事実なんだから、堂々としてればいいじゃん。

 私が言ってるのは、お礼をちゃんと受け取ってあげなよってこと」

「……」

 

 反応として想定していた通りのことを凪紗は言う。それはそれで正しくて口出しできない。

 

「丸山さんは事の顛末を知らないんだ。それなら、話が立ち消えるのを待つのも一つの手じゃないか」

「.……それ、さっきの彩先輩の言葉を聞いても言える?」

 

 再び、言葉に詰まってしまった。

 

『──文字の上だけじゃなくて、その人の前に立って、お礼だけじゃなくて、お話をして……その人がどんな人か、確かめたいって思うんだ』

 

 丸山さんはそう言った。

 名前も、姿すらも知らない人間のことを健気にも追い続けている──その純粋な善意を、俺は無情にも遠ざけているというのが、凪紗の睥睨の背後にある思いなのだろう。それはスープの湯気を貫通してくるほどの鋭利さだった。

 

 実際、心苦しい思いはある。ただそれ以上に俺は──

 

 答えられずにいると、凪紗は「あー、やめやめ。なんか尋問みたいだし」と肩を竦めながら言った。

 どうやら、これ以上の追及は諦めたようだ。

 

「……すまん」

「いいよ、だって兄さんの決めることだし。……でも、悩むことがあるんだったら、せめて私には言ってよね」

「ああ」

 

 ご飯が冷めちゃう、と茶碗を持ち上げる妹はそれ以上の関心を寄せないようでいて、どこかに微かな引っ掛かりを残したようだった。

 これに気付いたのは、多分俺たちが兄妹だからなのだろう。

 

 ☆

 

「それでさ、夏休みの予定だけど」

「ああ、確かバンドの皆と海に行くんだったよな」

 

 話題が移り変わった食卓は、主に凪紗によって一気に色めき立ったようだった。

 この春からはお互いに用事も増えてきたので、この機会に整理しておこうと、先の予定に思考を巡らせる。

 

「そうそう、有咲が海水浴場を調べてくれてるんだけど、確か館山の方だったかな」

「そうなると……移動は電車か、高速バスとかか?」

「予定はまだ決まってないみたいだからその辺は分からないけど、泊まりになるようなことはないと思う」

 

 なるほど、そうなれば普段の練習日とそう変わらないだろう。少し朝早く出て、帰りは皆で食べて帰ってくるかも知れない。

 

「何か用意するものはあるか?」

「準備は自分でやっとくよ。学校もないから、お弁当とかも作れるし。

 兄さんだってこの夏は忙しいでしょ?」

 

 そもそも朝起きられるのだろうか。不安なのはきっと兄の性だ。

 まあ、要領のよい妹のことなので、そのあたりは杞憂となるだろう。

 むしろ、彼女の言うように心配されるのは俺の去就とスケジュールなようで。

 

「そうだな……。学校は受験の対策講座があるからそれに参加するのと、生徒会で朝のボランティア清掃、あと文化祭の準備を兼ねた会議。

 バイトはそれに合わせて出られるところに出ていくって感じだな」

「めちゃくちゃ忙しいじゃん……学校は行かなきゃとしても、バイトは余裕あるんだったら無理しないでよ? 

 まあ、私が言うのも何なんだけど……」

 

 どうも心配をお掛けしているらしい。ついでに引け目も感じさせているかも。

 

「バイト先の人にも、学業優先でって言われてるから問題ないよ。お盆もあるから休みもそこそこ──」

 

 そこまで言って、一つのことに気付く。

 はっとした表情の凪紗も、おそらく同じことを思っているのだろう。

 

「そうか、もう()()()……」

「そう、だね……」

 

 思わず、声の調子が落ちたことを自覚する。

 あの夏からもう一年が経とうとしていることが、どこか信じられないでいるのかもしれない。

 きっと、それは凪紗も同じだ。

 

「──会いに、行かないとね」

 

 食卓は打って変わって重苦しい空気が漂い始める。彷徨わせる視線も沈痛そのものだった。

 

「ああ。……母さんにも、体調のことを含めて予定を確認しておく」

 

 そうは言ったものの、俺も凪紗も、箸が進まなくなってしまった。

 

 割り切れたと思っていたことは、所詮思い込みに過ぎないのだろう。向き合い続けることは、とても疲れるものだから。

 だからこそ、こうして過去に触れて、思いを馳せる日を作るのだ。

 だけど。

 まだ俺たちにとっては、それを受け入れられない幼さがささくれのように痛みを残すのだった。

 

 

 ♬

 

 

「うあ゛あぁ……」

 

 ゾンビみたいな声に問題集から視線を上げてみれば、突っ伏して()()()様子の恵が。

 アイスコーヒーを傾けながら、弱る虫を見る目でそれを眺める。

 

「……めちゃくちゃ冷たい目だけを残すのやめてよ」

「声の掛けようもないだろ。なんだその情けない声」

 

 そう返すと、嘆息しながら起き上がった彼はペンを投げ出しつつ言った。

 

「だって、そんな声も出るでしょ。朝から花咲川の掃除、立て続けに会議、そんでもって課題に勉強──

 ここのとこそればっかりだったし」

「まあ、この学校の生徒会に入った以上はこうなる運命だったんだろ。受験生の勉強もあるから、一旦明日からは休みだしな」

「なぜそんなに受け入れられるのだ……」

 

 仕方ない、すべては運命の赴くまま。

 人生は決断の連続というけれど、その実、自分の想定していないことばかりが起こるものなのだろう。──出会いも、別れも、幸も不幸も。

 諸行無常の人生観を心の中で唱えていると、飲み干したグラスに手が伸びてきた。

 

「忙しいみたいですね?」

「あ、つぐみちゃん」

「おかわりはいかがですか?」

 

 ご提案の言葉のままに従っておくと、この店の看板娘──羽沢さんが『ご注文、ありがとうございます』と眩しい笑顔を見せた。

 羽丘の生徒会メンバーで、文化祭の企画に参加して以来、この店にはたまにお世話になっている。

 

「文化祭の会議、結構盛り上がってましたよね」

「盛り上がった、っていうか……」

「あれは紛糾かもな」

 

 彼女のいう文化祭というのは、もちろん秋口に控えた志哲高校の文化祭だ。

 総司令官(上原さん)より調査・交渉の大役を拝命したのはいいものの、何せこういった企画は俺どころか学校自体が初の試みというのだから手の付け方が分からない。

 案の定、第一回の企画会議では先達である花咲川・羽丘両校から数多くの指摘を受けた。

 

「僕たちも頑張って計画したつもりだったけど、流石に実戦経験のある人からするとね」

「まあ、批判があるということは改善の余地を残しているということでもある。

 素早く吸収して早くから実行に移していくしかない」

「私もお手伝いします!」

 

 幸い、こちらには優秀な外部人材を豊富に用意できる。意気込む羽沢さんはその先鋒たる実力者であり、1年生ながら調整力に長けている。

 バンドでの活動経験を持つというのもポイントだ──この点では、凪紗や恵の妹にも助力を依頼することができるかもしれない。

 

「音楽をやってる人にしかない人脈もあるからね。

 つぐみちゃんやはぐみにも、お願いすることが出てくると思うんだ。凪紗ちゃんや沙綾ちゃん、氷川さんだって」

 

 積極的な肯定はしないが、可能性としてはあるのだろうか。

 恐ろしいくらいに揃っている人材──マンパワーと専門性を両立する心強さがあるものの、問題は推進役の我々の実力不足にあるのかもしれない。

 情けないことではあるが。

 

「凪紗ちゃんで思い出したんですけど、今日はPoppin’ Partyのみんなで海に行くって沙綾ちゃんから聞きましたよ」

「ああ。昨日までひどい雨だったから心配していたけど、今日は朝から晴れたから、大喜びで向かっていったよ」

「ふふっ、凪紗ちゃん、お家だといつもより可愛いんですね。

 そういえばあこちゃんも、Roseliaのメンバーで海のそばで泊まり込みの練習があるって、巴ちゃんが」

「鉢合わせてたりしてね」

 

 氷川さんの性格を考えると、海で遊ぶというのは考えにくい。その他のメンバーの意向にもよるが、中心にいる湊さんもあの感じでは練習そっちのけで海水浴やビーチバレーなんてのはないだろう。

 ふと、遊びに熱中するRoselia一同が浮かびかけて──いや、ないな。

 

 と、手元にあった携帯が振動を始めた。画面に表示されていた名前は──

 

「……母さん?」

 

 

 ♬

 

 

「ごめんね。今忙しかったかしら」

「いや……」

 

 少し席を外すと伝え、店の外に出る。強い日差しが出迎えて億劫だったが、今は右手の中にある声の方が気がかりだった。

 

「この間、メッセージをくれたでしょう? 体調のことについて、今日お医者さんからお話があってね」

「っ、どうだって?」

「──もうすぐ、退院できそうだって」

 

 電話口の声色は穏やかでありつつも、そこには喜色が滲んでいた。──もっとも、それは俺も同じなのかもしれなかったが。

 

「ほ、本当に?」

「ええ。この間、凪紗と話をしたときにはまだ不安定だったんだけど、その後から落ち着いてきて……。

 長い間、無理をさせたわね」

「そんなことない。……良かった」

 

 話を続けていくと、家に戻るのは夏休み明けのタイミングであることが分かった。その後すぐではないが、在宅勤務を中心としつつ仕事を始めるとのこと。

 

「──それでね、昔の資料が必要になったりして……もし時間があれば、顔を見せるのを兼ねて、おじいちゃんの家に置いてあるものを持ってきて欲しいのよ」

「なるほど」

 

 であるなら、スケジュ―ルを考えると早めが良いかもしれない。

 気付けばもう8月で、お盆時期に入れば帰省客でごった返してしまうし、終われば本格的な文化祭準備が始まってしまう。

 泊まりとなれば最短でも2日、その前の週で空いている日を探すとなれば……

 

「じゃあ、早速明日にでも行ってくるよ」

「きゅ、急じゃないかしら……? 都合がつかなければ、無理しなくていいのよ」

「いや、ちょうど用もあるから。連絡も入れておくし」

 

 せっかくの遠出なので、バイクの練習をしておきたいのだ。学生は夏休みとはいえ平日だし、そこまで混雑はないだろう。

 そんな考えをよそに、母さんは通話越しに苦笑をこぼした。

 

「ふふ……」

「何?」

「ううん。律夏、ありがとうね。

 早く戻れるように私も頑張るから……あなたがやりたいと思うことを、楽しんでほしいの」

「俺は今も、楽しめているよ」

「……そう」

 

 心からの言葉のはずだったけれど、母さんにはそうも聞こえていないのかもしれない。

 負担ではないにしろ、家のために費やす時間のせいで失うものが出てくる、だとか。

 

 確かに、生徒会やバイト先での新たな出会いを考えても、元を辿れば家の都合での出会いだったり、凪紗の交友関係に入りこんでいるだけ、とも言える。

 ──俺自身の思いは、どこにあるのだろうか。

 

 そんな疑問が、途端に降って湧いた。

 

 

 ♬

 

 

 快走を続ける単車上にあって、俺は凪いだ夏の空気の中を泳ぐような心地だった。

 それに加えて、水平線に融け込む夕陽の大きさに呑み込まれる感覚が、今よりずっと幼い頃の思い出を想起させた。

 熱に茹だりながら、潮の音と香りの中を歩いた日々を確かに覚えている。

 

 あれから何回目の夏になっただろうか。沈むオレンジの光が刻んだ日の数を思うと、奇妙な焦燥に駆り立てられた。

 

『あなたがやりたいと思うことを、楽しんでほしいの』

 

 母さんの言葉に、遠くなる記憶の中で、きっと俺は俺の道を歩めていたのだろう。

 ──それなら、今はどうだろうか? 

 

 見えているものや知っていることが増え、昔より多くのものを簡単に手に入れられるようになった。

 それでも、見失ったこともあるのだろう。

 ずっと、心のどこかで分かっていたのだ。いつの間にか歩みを止めていたということを。

 踏み出し方を忘れているということを。

 

 眩しさの向こう側にあるものを追い求め、景色を後ろに吹き飛ばすように、俺はひた走った。

 

 

 




これで幕間最終話、次回から3章となります。


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