英雄に憧れる少年の英雄譚 (葉振藩)
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序章
弟子入り


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 少年は息を切らせながら、切迫した表情で街中を走っていた。

 

 季節は冬。雲もなくすっきり晴れ渡った空でも、衣を厚く着込んでいなければ肌を刺すほどに寒い。

 

 けれど少年は二分ほど前から必死に走り続けているため、薄着でも体が湯立ちそうなほど暖かかった。

 

 硫黄の匂いがほのかに混じった街の空気を高速で吸って吐く。

 

 胸から喉へ持ち上がってくるような息苦しさに耐えながら、雑踏をかき分けて進んでいく。

 

 少年は途中で振り返り、そしてバクバクと早鐘を打つ心臓をさらに飛び跳ねさせた。

 

「待て、貴様ぁ!」

「よくもやってくれたなぁ!?」

「ただでは返さんぞっ!」

 

 ——さっきよりも近づいてるっ!?

 

 各々怒鳴り散らしながら追いかけてくる大人達が、少年の遠く後方に見えた。

 

 見なきゃ良かった。

 

 最初に追いかけっこを始めた時は、もっと間が遠かった。

 

 それが今や服のシワが目視できるほどにまで接近を許してしまっている。

 

 【武法(ぶほう)】の鍛錬によって肉体を強化しているあの連中ならば、本気を出せばもっと早く少年を捕まえることができただろう。

 

 十歳の、しかも何の鍛錬もしていない普通の少年が今なお逃げ続けていられるのは、ひとえに、この温泉街を往来する無数の人混みが障害物の役割をはたしているからである。少年は体が小さい分すり抜けやすいが、あの大人達はさぞ通りにくいだろう。

 

 が、それでも着実に距離は縮まりつつある。

 

 ——なぜ大の大人が、徒党を組んで十歳児を追いかけ回すという大人気ない事をやっているのか?

 

 その理由はひとえに、

 

「よくも我々の鍛錬を覗いてくれたなぁ!? 子供とて、ただでは済まさんぞっ!」

 

 少年が、彼らの【武法】の稽古を覗いてしまったからであった。

 

 この国【煌国(こうこく)】が版図としている大陸。

 

 その大陸に伝わる土着の武術——【武法】。

 

 特殊な鍛錬で人体の潜在能力を解放し、超人的な技を使う体術。

 

 星の数ほどの流派が存在し、それぞれが違う特徴を持つ。

 

 武法を学ぶ者——武法士は、自分の流派の技を大切にし、それを次世代に伝承し繋いでいくことを尊ぶ。

 

 その分、自分の流派や伝承に泥を塗られることを極端に嫌う。

 

 少年がした行為……他流派の伝承を盗み見るという行為は【盗武(とうぶ)】と呼ばれている。

 

 それは、武法の世界における禁忌(タブー)の一つ。

 

 武法士ではない普通の人でさえも知っているそんな禁忌を、少年は犯してしまったのだ。

 

 その理由は、言い訳を抜きにしても「魔が差した」としか言いようがなかった。

 

 だが、どういう理由であれ、捕まったら私刑(リンチ)確定だ。下手をすると技が使えぬよう腕チョンパにされるという結末が約束されるだろう。伝承を踏みにじる行為を、武法士は許さない。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ…………ちくしょう、ボクのばかやろうっ……!」

 

 少年は幼い両脚にさらなる無理を強いつつ、自身の「憧れ」がもたらしたこの現状を悔いた。

 

 鍛え抜かれた武法を用いて、弱きを助け強きを挫く、仁義と武勇に富んだ侠客——武法士の中には、そんな【英雄】の存在も少なくなかった。

 

 彼らの生き様に憧れ、武法の門戸を叩く者もいる。

 

 少年も、そんな男の一人だった。

 

 美人と評判だった母親に似て、女と見紛う可憐な顔立ちであった少年は、そのことでよく子供達にからかわれた。

 

 母はせめて性格だけは男らしくしようと、よく英雄達の武勇伝を語って聞かせ、男気を育てた。

 

 結果、少年は花のごとく可憐な容姿に不釣り合いな、勇ましい性格に育った。

 

 同時に少年は、武法を学びたいと思うようになった。

 

 聞かされた武勇伝に出てくるような、格好の良い男になりたいと思うようになった。

 

 しかし現実はなかなか厳しい。

 

 武法を学ぶのにまず必要なモノは稽古代、すなわち金である。

 

 少年の家は小さな安料理屋だった。五歳の頃に亡くなった父に代わり、母が女手一つで店を切り盛りし、少年とその妹を育てた。家計は常に火の車。武法を学ぶための金など望めなかった。

 

 自分でお金を稼ぐという手ももちろん考えた。だが「あんたはまだ子供なんだから、そんなことしなくていいんだよ」と母が許してくれなかった。こっそり働きに出ることも考えたが、父を亡くして以来心労の絶えない母に、余計な心配はかけられなかった。

 

 だから、少年は「武法を学びたい」という気持ちを押し殺して生きてきた。

 

 そんなある日、母が久しく「金に余裕ができた」と言い、少年と妹の二人を連れてこの温泉街まで遊びに来た。

 

 温泉でぬくぬくしている母と妹より早く風呂を出た少年は、温泉街を散歩していた。

 

 その途中、たまたま通りがかった塀の向こうから、武を練る踏み込みと掛け声が聞こえてきた。——そこは、武法の道場であった。

 

 そんな武の音は、少年の内に秘められていた欲求を強くかき立てた。

 

 吸い寄せられるように塀に近づき、よじ登り、その中を覗いていた。

 

 鋭く洗練された武の動きに見惚れているうちに、その中の一人と目が合った。

 

 少年が我に返ったのと、その武法士達の怒気が爆発したのは同時だった。

 

 それから少年は逃げ出し、武法士達はそれを追いかけ始め——現在に至る。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ……!」

 

 呼吸の乱れが悪化する。心臓が胸郭を突き破りそうなくらい痛い。足が疲労で棒のようだ。

 

「いい加減観念しろっ! 大人しく捕まれ!」

 

 一方、追手は少しも疲労の様子を見せなかった。

 

 鍛えている彼らと自分とでは、大小の差を引き算しても体力には雲泥の差があった。

 

 このままでは、追いつかれるのも時間の問題だ。

 

 どこかに隠れるか。

 どこに? 

 隠れたとして、見つからない方法はあるのか? 

 隠れるってことは、同じ場所にとどまるってことだ。

 うまく隠れられればいいが、見つかったら終わりだ。抵抗もできずに自分は……

 

 比較的有効な策は見つかりつつも、それを行うにおいての失敗の可能性が怖くて、二の足を踏んでいた。

 

 心中に迷いを抱きながら、少年は脇道へと入った。

 

「逃すなっ!」

 

 それを追いかけてくる大人達。

 

 どうする? 隠れるなら自分の姿が見えていない今しかない。でもどこへ隠れればいい?

 

 走ろうか隠れようか迷い、疲労も込みで足が鈍くなっていく少年。

 

 ——損害を怖がるというのは、そのまま大損を呼び込む行為となり得る。

 

 迷っているうちに、どんどん相手の声が近づいてきた。

 

 これからの自分の末路を想像し、走行で火照った体が一気に冷めていく。

 

 そんな時だった。

 

「わ……!」

 

 腕を突然掴まれた。

 

 かと思えば力一杯引き寄せられ、その引き寄せた「誰か」の体にぶつかった。

 

 ふにゅっ、と、とても柔らかいものに顔がぶつかった。

 

 二つの大きな球状の綿の間に顔が挟まったような感触。

 

 ——女性の豊かな胸部の間に、自分の頭は挟まっていた。

 

 甘香ばしい女体の香りと、ほのかに香る果実酒の匂いが混ざった蠱惑的な香り。少年の心をくすぐってくる。

 

「動くんじゃないぞ」

 

 そう囁くような一言とともに、自分の体が大きな布——外套に包まれた。

 

 外の様子が見えなくなり、また外からもこちらの存在が見えなくなる。

 

 数秒後、

 

「どこだ、小僧っ!?」

 

 追手の一人が発した怒鳴り声が、少年が今いる通りに響き渡った。

 

 その声にビクッと身を震わせると同時に、確信する。

 

 この女は、自分を追手から庇おうとしているのだと。

 

 心中で感謝するが、次の問題が少年を襲う。

 

 散々走り続けていたために、呼吸が荒くなっていた。心音もばくばくと高鳴ってた。

 

 これはマズいと思った。

 

 武法には【(ちょう)】という基本技術が存在する。周囲の振動を骨格で感じ取ることのできる技術だ。

 

 練度にもよるが、これがあれば目に頼らずとも周囲の情報を集められる。

 

 温泉で疲れを癒したのであろう人々がゆったりと往来しているこの温泉街の一角で、一人だけ息切れを起こしているのは明らかに不自然だ。

 

 呼吸は振動を起こす。【聴】はそれを敏感に嗅ぎ取るだろう。

 

 ……バレる。隠れていても見つかる。

 

 これまでかと思った瞬間、少年の顔が胸の谷間のさらに奥まで押しつけられた。

 

 少年の額が、その女の胸骨と接する。

 

 さらに片手を握り合わされる。なめらかで肌触りの良い指だった。

 

 少年は羞恥でさらに心音を高め、顔を真っ赤にした。

 

 女の胸骨と接した額越しに、鼓動を感じる。それが余計に恥ずかしかった。

 

 だが、その女の鼓動が、だんだんと早まってくる。

 

 鼓動の間隔がどんどん狭まっていき、やがて少年の心音と同調する。

 

 女の呼吸も、少年と同じ拍子(リズム)になる。

 

(まさか……)

 

 少年は女の狙いに気付いた。

 

 互いの骨をくっつけた上で鼓動と呼吸を同調させ、それによって相手の【聴】の感知を誤魔化そうとしているのだ。

 

 二人の鼓動と呼吸が一致すれば、その場を動かない限り、【聴】によって感知できる存在は「一人」になる。 

 

(まさかこの人、武法士なのか……?)

 

 それをやってのける所を見て、彼女には武法の造詣があるのだと確信する。

 

 だが、それでも息を荒げていると、怪しまれるものだ。

 

「おい、女。なんでそんなに息を荒げている?」

 

 少年を追っていた武法士の一人が、訝しむような声でそう訊いてきた。

 

 女は心をくすぐるような艶のある声で言った。

 

「いや……さっき裏通りで一緒に楽しんだ(・・・・)男が存外激しくてね、いまだに足腰がふらついているのさ。聞きたいかい? それはもう猛牛並みの腰使いと精力だったよ」

 

 まだ幼い少年はその言葉の意味を分かりかねたが、意味を察した男は苦々しく呻き、そして舌打ちをして去っていった。

 

 激しい足音が、徐々に遠ざかっていく。

 

 聞こえなくなってから、しばらくして、

 

「——もう出てきていいぞ」

 

 そう優しい声音が頭上から聞こえてきた。心音と呼吸の調子も普通に戻っている。

 

 少年は恐る恐る外套から出て、恩人であるその女の全体像を見上げる。

 

 息を呑む。

 

 真っ黒な、とても美しい女性だった。

 

 二十を少し過ぎた程度に見える若々しい外見。

 

 顔の造作はやや鋭めに整っているも、緩んだ目尻からはどことなく憂いと柔らかさが感じられ、疲れたような色気を醸し出している。強い光沢を持った長い黒髪が、腰まで絹帯のように柔らかく垂れていた。

 

 手首足首までを覆う黒い衣服は、理想的な曲線美を輪郭として描き出していた。特に少年が先ほどまで顔を埋めていた双丘は、服の下から豊満に形良く自己主張していた。

 

 目玉が凍ったように視線が動かせない。完全に釘付けとなっていた。

 

 そんな少年の様子に黒い女は小首をかしげるも、やがて何かに勘づいたように目を見開き、にんまぁ、という擬音が聞こえてきそうな意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「ふふふ、もしかして、私に惚れたかい?」

 

「へっ!? な、ち、ちが……」

 

「あはははは! 冗談だよ。そんなに顔を赤くして、可愛い子だなぁ」

 

 可笑しそうに笑う黒い女。少年は真っ赤な頬を膨らませながら上目遣いで睨む。

 

 お礼を言おうと思っていたのに、茶化されたせいで一気にその気が失せた。

 

「それで、どうして武法士なんかに追いかけられてたんだ、君は? 君、見たところ素人だろう」

 

「……わかるのか?」

 

「おうとも。歩き方や重心の動かし方を見れば分かるさ。で、何で追いかけられてた?」

 

 少年は事情を説明した。

 

 途端、黒い女はでっかいため息を吐き、世間知らずの子供をたしなめるような口調で、

 

「あのなぁ、それは君が悪いぞ? 武法の練習を覗いちゃいけないことは知っているだろう?」

 

「……うん」

 

 返す言葉がない。少年は頷くことしかできなかった。

 

 そんな少年を、美女は呆れ笑いで撫でた。

 

「別に覗かなくても、親に通わせて貰えばいいじゃないか、道場に」

 

「そんなお金あったら、とっくに通ってる」

 

「それもそうか」

 

 美女は苦笑を浮かべ、少し間を置いてから訊いてきた。

 

「どうして……君は練習を覗いてまで、武法がやりたいんだい?」

 

 そんな問いに対し、少年はバツが悪そうな顔をした。

 

「……笑わない?」

 

「おうとも。笑ったりしないよ」

 

「……………英雄」

 

「ん?」

 

「英雄に、なりたいから」

 

「英雄、かい?」

 

「うん……武法を習って強くなって、いろんな強敵と戦ったり、誰かを助けたりする……そんな男に、ボクはなりたい。だから、武法を習いたい。いや、いつか必ず習ってみせる」

 

 思いの丈を包み隠さず口にした。

 

 それを耳にした黒い美女は、目を丸くしていた。

 

 黒曜石のようなその瞳には、驚きと、そして思わぬ拾い物を見つけたような感情がこもっていた。

 

 憧れ。

 

 自分に無いモノを持つ人間に対して向けるような、羨望にも似た眼差し。

 

 黒い女はしばらく無言で間を作ってから、やがて意を決したように少年へ話しかけた。

 

「……少年。綺麗なお姉さんから一つ提案があるんだが……聞いてみないか?」

 

 改まったその物言いにきょとんとしつつも、少年はとりあえず頷いた。

 

 

 

「——私の弟子になる気はないかい?」

 

 

 

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 

「え? 弟子? ボクが、お姉さんの?」

 

「ああ」

 

「さっきも言ったけど……ボク、お金持ってないぞ」

 

「分かっているさ。対価は金でなくとも構わない。炊事なり掃除なり、そういったものを稽古代として支払ってくれてもいいんだ。あるいは、私と一緒にいてくれるだけでもいい」

 

 少年は押し黙った。

 

 かねてよりの目標であった武法の学習が、まさかこんな所で叶うとは思わなかった。

 

 嬉しさよりも、戸惑いの方が大きかった。

 

「お姉さんも、やっぱり武法士なのか」

 

「武法士だった、という方が適切かもね。昔はそれなりに武法が使えたけど、今は技を全て失ってしまった。今の私は不朽の美貌だけが取り柄の、ただの女さ」

 

「どういうこと?」

 

「君は【殲招鍼(せんしょうしん)】という施術を知っているかい?」

 

 少年がふるふるとかぶりを振るのを見て、黒い女は説明を始めた。

 

「決められた材質の針で、決められた箇所の経穴(けいけつ)を、決められた順番で、決められた時間帯に突くんだ。そうすると、刺された人間が今まで身につけた武法の技がすべて使えなくなってしまうんだ。私の知り合いにその秘術を使える者がいてね、そいつに施してもらったのさ」

 

「……どうして、そんなことを。せっかく覚えた技なのに」

 

「贖罪のためだよ。私はかつて、取り返しがつかないほどの大罪を犯した。その罪をもたらしたのは、かつて私のこの身に宿っていた技の数々。その技で、私は大勢の人間を手にかけた。その罪の重さにようやく気がついたのは、手遅れになった後だった。……だから私は、その技を捨て、さらに医術を学び、多くの人々を治すことで罪を贖おうとしたが……その程度では贖いきれる罪ではなかった。つまるところ、私はとんでもないロクデナシなのだ」

 

 黒い女は握った自分の右拳を、光の乏しい眼で見下ろした。

 

 しばらくそうしてから、再び少年をまっすぐ見つめ、告げた。

 

「……この事実を明かした上で、再度提案する。少年、こんなロクでもない女で良ければ、君の師にしてもらえないだろうか。私にはもう武法は使えないが、それでも何とかして教えてみせる。君に、私が知る限りの全ての技を授けよう。君が武法士として大成するまでの間、私の残った命数をすべて君に捧げよう」

 

 少年はきょとんと目を丸くしてから、小さく笑った。

 

「……変なの。ボクが弟子入りする話なのに、まるでお姉さんが弟子になるように頼んでるみたいだ」

 

「そう思ってくれて構わない。私は君を育ててみたい。——英雄を強く夢見る君の未来に水をあげて、どんな花が咲くのか見てみたい。そうすることで君の助けになれるし、何より……私の「償い」の一つになる。だからこそ、「頼んで」いるのだ」

 

 それをすることで、自分の中で何かが救われる……そう信じ、それを実行しようとしているように感じられた。

 

 ——彼女の過去に何があったのか、まだ詳しくは分からない。

 

 けれど、目の前の美女の表情はひたすら誠実で、企みの匂いは感じなかった。

 

 それに彼女は、見ず知らずの自分を率先して助けてくれた。

 

 その事実だけは、会ったばかりの自分にも分かる。

 

「分かったよ、それじゃあ——よろしくお願いします」

 

 少年は一歩後に退がり、頭を垂れてそう言った。

 

 美女はやや驚きつつも、口元をほころばせて訊いてきた。

 

「そういえば、君の名前は?」 

 

「……汪璘虎(ワン・リンフー)

 

「私は黎惺火(リー・シンフォ)。これからよろしく頼むよ。我が弟子リンフー」

 

 この瞬間、二人は師弟となった。

 



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四年後

 ——そんな四年前の出会いの記憶を、汪璘虎(ワン・リンフー)は夢として見ていた。

 

 顔は小さく、なおかつ造作も少女のように端正。白い寝衣をまとう体つきは十四歳の男にしては肉付きに乏しく、華奢な短躯であった。

 

 一見すると少女にしか見えないその美少年は、すうすうと小さく息を立てながら眠り姫のごとく熟睡していた。

 

 けれど時間が経ち、日が昇り、窓から入った朝日に目元を射られたリンフーは、否応なしに覚醒させられた。

 

「んぅ……」

 

 重いまぶたを持ち上げる。

 

 この四年間ですっかり見慣れた天井が視界に入った。

 

 すすけた木の天井にはうっすらとカビが浮かんでおり、天井の四隅の一箇所では住人を失った蜘蛛の巣が残っていた。

 

 鼻につくのは、つんとする甘い香り……果実酒の匂い。

 

 上半身を起こして、四年間見慣れた寝室を見る。

 

 狭い正方形の部屋の中には、二つの寝台が少し距離を開いて設置してある。床の角には、大量の酒甕(さかがめ)金字塔(ピラミッド)のごとく積み上げられていた。酒甕はすべて空っぽであることをリンフーは知っている。

 

 リンフーは下戸(げこ)である。

 

 この酒甕の山を形成したのは、もう一つの寝台でいびきをかいている同居人だった。

 

 絶世の美女という言葉は、まさしく彼女のためにあるのかもしれない。

 

 真珠のような肌、絹束のような長い黒髪、鋭めでいてどこか哀愁の色気を感じさせる美貌、寝巻きの輪郭が描き出す理想的な曲線美、豊満で張りのある胸。

 

 すでに共同生活を始めてすでに四年。

 

 そんな今でも、彼女の美貌はジッと見ているとそのまま見惚れてしまいそうになる。

 

「くかー……くかー…………んにゅぅ」

 

 しかしどれだけ美人でも、その長い美脚をおおっ広げて掛け物を蹴飛ばし、とても上品とはいえない酒臭い寝息を立てていては台無しである。

 

「んぐぅ、五十杯目ぇ……かんぱぁい……」

 

「飲み過ぎだろ」

 

 夢の中でも酒をかっくらっているのだろう。無茶苦茶な杯数を寝言で口走った我が師に、リンフーは思わず突っ込みを入れる。けれど酒精のきつい雪国の酒ですら水のように飲み干してのける彼女の肝臓ならば、不可能ではないかもしれなかった。

 

「ていうかほら、起きてくれよ惺火(シンフォ)さん」

 

 リンフーは呼びかけながらその美女——黎惺火(リー・シンフォ)の肩をさする。

 

 しかし、よほど深い眠りについているのか、まったく起きる気配がなかった。

 

 毎度のことながら、手が掛かる師匠であった。

 

 「にゅー」と唸りながら、シンフォが寝返りを打った。

 

 その際、彼女の特徴の一つともいえる豊かで形の良い双丘が寝衣からこぼれ落ちる。

 

 その尖端部があらわになるよりも早く、リンフーは高速で顔をそらした。

 

「あーもー! 早く起きろったらっ!」

 

 照れで冷静さを失い、いささか乱暴にシンフォを揺すった。

 

 何度か唸った後、シンフォはようやく体を起こした。

 

 焦点の合わない寝ぼけ眼で寝室を見回し、リンフーを見つけると、へにゃり、と笑った。

 

「おはよう、りんふー。いい朝だねぇ……」

 

「……おはよう。早速なんだけど、その……胸元を隠してくれないか」

 

 シンフォは赤く染まった顔を横へそらしている愛弟子の言葉に従い、我が胸元へ視線を移す。

 

 「あぁ」と納得した声を出すと、おおっ広げられた胸元を閉じてから「もういいぞ」と告げた。

 

 リンフーが向き直ると、シンフォはその美貌にいたずら小僧のような笑みを浮かべていた。

 

 ……いけない。これは自分をからかう時の顔だ。

 

「見たか?」

 

「み、見てないっ」

 

「本当かなぁー? 顔が真っ赤だが、なぜ真っ赤なんだぁ? 赤くなったということは、赤くなるような「何か」を見たということになるんだがなぁ? さて、何を見たからそんなに赤くなっているのやら」

 

「……た、確かに少しは見たけど、全部は見てないからっ」

 

「おやおやぁ? 見ていないのではなかったのかなぁ? ふふふふ、このむっつりめ」

 

「いや、違っ……違わないけどっ、見てないというのは「全体像を見てない」ということであってっ」

 

「ふふ、恥じるな恥じるな。君ももう十四、成人まであと一年だ。そろそろ女体への関心が生まれていてもおかしくはあるまい。ましてこんな美女が相手なんだ、大なり小なりそういう感情を抱くだろう。ふふふふ……女の子のように可愛らしい顔して、君もだんだん雄になってきているんだなぁ。感慨深いような、寂しいような……」

 

「んぐぐぐぐ…………うーーーーっ! うーーーーっ!」

 

 反論を許さぬからかいの連続に、リンフーはとうとう真っ赤になって地団駄を踏みだした。言い返せなくなると決まって見せる反応。負けの証だった。

 

 シンフォはというと、弟子をからかうのはもうおしまい、とばかりに表情を引き締めた。

 

 冗談好きで陽気なお姉さんの顔はなりを潜め、「師」としての顔を見せた。

 

 リンフーもまた拗ねた表情を元に戻し、「弟子」の表情となった。

 

「君が私を叩き起こした理由は分かっているよ、リンフー。今日は半年に一度の「試験」の日だからね」

 

「はい」

 

「着替えなさい。それから庭に出て、これまでの「成果」を見せてもらおうか」

 



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武法

 リンフー達が住んでいるのは、森の中に建つ小さな一軒家だ。

 

 深緑の巨壁のような森の一部を円形にくり抜いたような庭の中、ポツンと座っている。

 

 四年前にシンフォとともに初めて訪れた時はまさしく廃屋状態で、ここに人など住めるのかと渋面を浮かべたものだ。格安の家賃で借りたのだから文句は言えないが。

 

 だが、荒れているなら直せばいい。師弟は力を合わせて建物の内装をきれいに掃除し、密林のごとく繁茂していた雑草も抜き尽くした。

 

 小屋が荒れ放題であることに目をつぶれば、結構良い場所だった。

 

 それなりに広い庭と、いろんな薬草が採れる森がある。おまけに、森の少し奥にはきれいな湧水もこんこんと湧いている。……夜、庭を猛獣が通過することもあるが。

 

 そんな円形の庭の中央で、少年と美女は向かい合って立っていた。

 

「では、これから「試験」を始める。半年間の君の上達ぶりを見せてもらうぞ」

 

「はいっ!」

 

 厳粛な響きを持つシンフォの言葉に、リンフーは威勢よくうなずいた。

 

 すでに両者とも寝衣から着替えていた。

 

 リンフーはその華奢な短躯に、愛用の稽古着を通していた。上下ともに朱色を基調とした身軽な装い。針仕事が得意なリンフーが自分で作ったもので、生地は安いがそれを補うほどの出来であると自画自賛している。これと同じ衣服があと何着か作ってある。

 

 シンフォはというと、その漆黒の髪と瞳と同じ、真っ黒な婦人服に身を包んでいた。

 

 長袖と長裙(ロングスカート)が一体となった作り。手首足首までをすっぽり覆ったその作りは一見慎みがあるように見えるが、その服が描き出す理想的曲線美と豊満な胸囲は、肌を晒さずとも色気を濃く見せつけていた。

 

 リンフーはシンフォよりも頭ひとつ分くらい背が低い。なので師の胸部で盛り上がる双丘がちょうど目の前に来てしまう。

 

 けれどそれを努めて見ないようにし、視線をひたすら師の美貌へ向ける習慣もまた身につけていた。

 

 シンフォは懐かしむような口調でしみじみ語った。

 

「早いものだね……私が君に武法を教え始めてもう四年か。あの温泉街で君の御母堂を説得し、君をお預かりして以来、一緒に住みながら君に技を教えてきた…………今だから言うが、武法が使えなくなっている今の私に、武法の伝承などできるのかどうか不安もあった。けれど、君は努力を惜しまず、その熱意でもって私の武法【天鼓拳(てんこけん)】を習得していった。私はひとまずホッとしているよ」

 

「シンフォさんの教え方がよかったからだよ」

 

 ——四年前。

 

 シンフォに弟子入りを志願した後、すぐにリンフーは母と妹のもとへと戻った。

 

 そのまま、シンフォに弟子入りすることを許して欲しいと訴えた。

 

 何度か反対された。けれど最終的に折れてくれた母は「やるからには半端は許さないよ。天下に名だたる達人になって、堂々とうちに帰ってきなさい。その覚悟はあるかい?」と問いかけてきた。

 

 リンフーは力強くうなずいた。

 

 それからすぐにシンフォと街を出た。

 

 以来、この黒い美女と一つ屋根の下で暮らしながら、武法の修行に全力で打ち込んでいた。

 

 確かにシンフォは武法が使えなかった。

 

 けれど【殲招鍼(せんしょうしん)】によって抜け落ちたのは、あくまで体の記憶である。心の中の記憶としては、技の内容をしっかりと覚えていた。

 

 その記憶の中にある武法を、徹底的に叩き込んでくれた。

 

 シンフォの教え方は上手だった。

 

 どういう意識をもって動けば威力が出るのか、どうすれば敵に上手く攻撃を当てられるのか……彼女は口伝、絵、図などを巧みに織り交ぜて、分かりやすく教えてくれた。

 

 おかげで、リンフーは武法を習得できた。

 

 シンフォは口元を綻ばせた。

 

「ありがとう。けれど、ただ身につけるだけでは心許ない。中途半端に身につけた技ほど危ういものはない。それなりの練度をつけるまでの間、私は君に実戦を許可しない。……まあ、耳にタコかもしれないが、一応言っておく」

 

 そう、それこそが今回の「試験」の目的だった。

 

 技を習得するだけでなく、それをさらに深く練り上げることをシンフォは要求した。

 

 その方が安全に勝ちやすく、なおかつ生き残りやすいからだ。

 

 そのための練度を確かめるのが——この半年に一回の「試験」というわけだ。

 

 毎年の「陽の六月(六月)」と「陰の六月(一二月)」にて行われるこの「試験」に、リンフーは一度も合格したことがない。

 

 今度こそ受かってみせる。そう思いながら、今日この「陽の六月(六月)」を待ったのだ。

 

 リンフーはニッと微笑み、力強くうなずいてみせた。

 

「よし。では始めるぞ」

 

 シンフォも微笑を返すと、表情を引き締め、口調も真剣なものに変えた。

 

「君ももう知っていると思うが——武法というのは、人間にとって理想的な形の骨格【基骨(きこつ)】を作り出すことで、人体の潜在能力を解放し、その肉体で高度な武技を使って戦う武術だ」

 

 すでにリンフーの中で常識となっていることを、師は改めて口にした。

 

 ——生物の体の動きは、骨格の形によって決められている。

 

 いかに筋肉を鍛えようとも、骨格という人体の「芯」に沿わない動きはできない。つまり肉体の全ての動きの法則は、骨の形が決めている。

 

 虎や猫は、後脚の力を滞りなく背骨に伝え、それをさらに背骨のうねりで発条(バネ)のごとく弾けさせることのできる骨格構造をしている。あの驚異的な速度と跳躍力は、そんな骨格的な「前提」があるからこそ実現可能なのである。

 

 人間にも、人間本来の力を解放できる「理想的な骨格」が存在する。

 

 それこそが【基骨】。

 

 人間は生まれたばかりの頃の骨格は【基骨】に整っている。けれど、あらゆる知恵をつけ、あらゆる習慣を身につけていく過程でどんどん骨格が歪んでいき、やがては肉体本来の能力の一割ほどしか発揮できない状態になってしまう。

 

 武法の修行では、まずその【基骨】になるよう骨格の配置を整えることから始めなければならない。

 

 武法を木で例えるならば、【基骨】は根にあたる。根が駄目ならば、その木が育つことはあり得ない。

 

「「高度な武技」というのは、「高度な力」が用いられた技、という意味だ。……では、その「高度な力」とは何か? それは【基骨】になった肉体でしか生み出せない力——【術力(じゅつりき)】に他ならない。この【術力】こそが、武法の戦闘術としての根幹である」

 

 【基骨】になった時、人体に秘められていた潜在能力が解放され、今までできなかったようなあらゆる体の動かし方……すなわち体術ができるようになる。

 

 そんな「自由度の高い肉体」によってのみ行える体術。

 

 それによって生み出される「高度な力」。

 

 それが【術力】である。

 

 【術力】を生み出す体術は、一つや二つではない。それこそ無限に近いほどの体術があり、流派によって術力生成の方法が異なる。

 

 術力は単なる「力」の枠組みに収まらない。その技によって、様々な効力を発揮する。

 

 人間の手で岩石の衝突に匹敵する力を打ち出したり、触った相手を痺れて動けなくしたり、体の表面を傷付けず内部だけ破壊したり……妖術の類としか思えないような能力を、人の身で用いることができる。

 

「ではまず初めに、【(こう)】だ。やってみなさい」

 

「はい」

 

 リンフーは返事をしてから、深呼吸して気持ちを落ち着ける。……「試験」だからって、自分をすごく見せようとするな。今の自分のありのままを表現するんだ。そうした方が技の精度も高いっていうのは半年前の失敗で学習済みだろう。

 

 教わった通りに呼吸を行い、教わった通りに筋骨を動かし、教わった通りの意念(イメージ)を強く思い浮かべる——肉体を効率良く使って生まれた術力の全てを、右手に集中させた。

 

 すると、右手首から先が、分厚い鋼鉄の衣に包まれたような感覚がやってきた。だが同時に、右手が石に埋まったみたいに全く動かせなくなる。

 

 今のその右手ならば、刃も矛先も損傷なく受け止めることができるだろう。

 

 【鋼】。

 

 肉体の一部に術力をまとわせて鋼のように硬化させ、外部の衝撃から身を守る。

 

 どの流派であっても必ず学ぶ、武法の基本技術の一つである。

 

 これさえあれば素手でも刀や剣に立ち向かえるが、硬化している部位は【鋼】をかけている限り少しも動かせなくなってしまう。心強い技だが、使う時はこの欠点(デメリット)と向き合わなければならない。

 

 シンフォは近寄ると、硬化したリンフーの右手を触ったり、撫でたり、小突いたり、叩いたりする。どれだけの練度にまで仕上がっているのかを確かめているのだ。

 

 しばらくすると、

 

「【鋼】を解け。次は【(ちょう)】だ」

 

 顔色ひとつ変えぬまま、次の基本技術の発動を命じてきた。

 

 「試験」の時、シンフォは合否を出すまで顔色を一切変えない。表情で結果の先読みをさせないためだ。

 

 もし途中で不満げな表情を浮かべたら「不合格」という答えを予想し、その後の「試験」をおざなりにやってしまうからだ。

 

 それでは修行の成果を確認するための「試験」の意味がない。

 

 リンフーは瞑目。肉体の芯である【基骨】に意識を集中させる。

 

 【基骨】は優れた衝撃吸収能力を持っている。

 

 そのため、外界から伝わってくる微弱な波を受け取ることができる。

 

 その【基骨】に意識を集中させることで、伝搬してくる波の情報をもとに、目を使わずに世界を知覚する。

 

 骨で世界(・・・・)を観る(・・・)——それが二つ目の基本技術【聴】だ。

 

 外部からの振動や波。それらの大きさ、強さ、位置などの情報から、今自分が立っているのが森に円く空いた自宅の庭だということを知覚する。

 

 自分の他にもう一人、つまりシンフォが立っている。

 

 ……波で覆われた周囲一帯の世界が、輪郭と姿を持った風景として脳裏で補正されていく。

 

 シンフォが、おもむろに手を持ち上げ、指を二本、いや、三本立てた。

 

「今、私は何本の指を立てた?」

 

「三本……あ、いや違う、今また二本に戻った。あ、今度は五本全部」

 

 リンフーは己の成長を実感していた。去年までは、指という細かい部位の動きをうまく感知できなかったのだ。

 

 一人で何度も【聴】の練習をしていた甲斐があった。

 

 しばらく指の本数を当てるやり取りを続けると、「やめ」というシンフォの声が聞こえた。閉じていた目を開く。

 

「では最後に、【(かた)】を見せてもらおう」

 

 シンフォはそう命じた。

 

 リンフーは「はい!」と返事をした。

 

 この四年間で、シンフォから教わった【型】は一つしかない。

 

 自分の学ぶ流派名と同じ名を持つ型にして、その流派唯一の型。

 

 名を【天鼓拳(てんこけん)】。

 

 リンフーはシンフォから距離をとる。呼吸を整え、心身を整えてから、その唯一の型を演じ始めた。

 

 それは、言葉で言い表すなら——雷雲と稲妻を肉体で表現したような、そんな緩急と柔剛が相まった拳法であった。

 

 風で流れる雲のように緩く、柔らかく立ち位置を移動する足さばき。

 

 そんな穏やかな流れの随所に、突然稲妻が光るような鋭い打撃が含まれている。

 

 華奢で小柄なリンフーの体から次々と発せられる強大な術力。その一撃一撃が、巨木を大きく揺るがしかねないほどの重さを内包していた。

 

 【天鼓拳】の「天鼓」とは、天で鳴る(つづみ)……すなわち「雷鳴」を意味する。

 

 地を這う有象無象がどれだけ騒ぎ立てようとも、雷鳴はそのあまねく音を一撃で塗りつぶす。

 

 それと同じように、あらゆる敵を一撃のもとに打倒することを目的とした武法である。

 

 しばらくして、その【天鼓拳】の型を全て演じ終えた。

 

 呼吸を整え、心身を正してから、改めてシンフォの方を見る。 

 

 リンフーの心臓はバクバク鳴っていた。型による疲労ではなく、緊張のため。

 

 シンフォは病的な大酒飲みの駄目人間だが、武法に関しては一切の妥協を許さないほど厳格であった。妥協はそのまま弱点に繋がり、命を奪われる死角となるからだ。

 

 ゆえにリンフーは、四年間も合格を勝ち取れなかった。

 

 さて、今年はどうであろうか。

 

 師のみずみずしい唇が動くのをひたすら待つ。

 

 一秒を一分と錯覚しそうになるほど、時間の流れが遅く感じられた。

 

 シンフォの口がゆっくりと開き、声を発した。

 

 

 

「——合格だ」

 

 

 

 厳粛な「師」としての顔は、まるで春の訪れをようやく迎えた(つぼみ)のように綻び、やがて柔らかな笑みが浮かんだ。

 

 一瞬、思考が止まる。

 

 だが再び動き出した頭で師の言葉の意味を受け入れると、リンフーは徐々に破顔していき、やがて満面の笑みとなった。

 

「ぃよっしゃあああぁぁぁぁぁっ!」

 

 はしたないと思いつつも我慢できず、両拳を握りしめて歓喜した。

 

 長かった。ここまで来るのにどれくらいかかったことだろう。それがようやく報われた。

 

「シンフォさん、これでっ!」

 

「おうとも。約束通り——君の実戦を許可しよう。君はもうそれなりに練度は積んだ。あとは訓練を怠らずに実戦経験を積めばいい。そうすれば、君はさらに成長するだろう」

 

「よしっ! じゃあ早速誰か武法士探してこよう!」

 

「待つんだ」

 

 庭を飛び出そうとしたリンフーの襟首を掴むシンフォ。

 

 ぐえっ、とカエルみたいな呻きを漏らすリンフー。

 

「山賊じゃないんだぞ? そんな誰彼構わず襲おうとするんじゃない」

 

「けほっ、けほっ……なら、どうすれば」

 

 咳き込むリンフー。

 

 対してシンフォはふっふっふっ、というわざとらしい笑声を漏らしてから、

 

「君が実戦経験を積むのに、おあつらえ向きの場所がある。そこへ引っ越そう」

 

「それは?」

 

「ふふふ、君も一度は聞いたことのある、有名な都市さ。——【槍海商都(そうかいしょうと)】」

 

「っ!」

 

 リンフーは目を見開き、喉をごくりと鳴らした。

 

 シンフォはニヤリと口角を吊り上げ、

 

「知っているだろう? この煌国有数の交易都市で、大陸中の食い物や雑貨はもちろんのこと、異国の物品も出回っている馬鹿でかい街だ。だが【槍海商都】にはもう一つの顔がある。それは——都市人口の約七割が武法士である「武の都」という顔だ。さまざまな武法流派が乱立しており、武法士同士の試合が起こる頻度も他の街の比ではない。どうだ? 武法修行にこれほど適した環境はあるまい?」

 

 是非を聞くだけ野暮だった。リンフーの頭の中ではすでに、武法士達が街のあちこちで試合を繰り広げている光景が作り出されていた。

 

 さらにその中で自分が勝ち抜き、誰もが称賛を送る豪傑になる光景も。

 

「行きましょう! 是非! 今すぐ! さぁ!」

 

「まあまあ、慌てるんじゃない。行くにしても、まずは準備が色々と必要だ。ここを出ていく前に家主の爺さんに一言言わねばなるまいしな」

 

 シンフォは苦笑混じりにそう言うと、咳払いをし、話題の矛先をキラキラした表情で変えた。

 

「よし、今日の試験はこれまで! これから合格祝いに、酒でもパァッとやろうじゃないか!」

 

「いや、シンフォさんはいつも酒をパァッとやってるだろ。そのせいで、ボクの寝台まで酒臭くなってるんだけど」

 

 じとっとした視線を送ってそう突っ込むリンフー。

 

 「試験」の時は慇懃だった態度と口調が、すっかり普段通りに戻っていた。

 

 武法の稽古の時だけは、リンフーはシンフォに「師」として接している。

 

 それが武法を学ぶ者としての最低限の礼儀だと思うからだ。

 

「……なぁ、シンフォさん。やっぱりシンフォさんの事、「師匠」って呼んじゃダメなのか?」

 

 思わずそう尋ねていた。

 

 リンフーを弟子として迎える際、シンフォは一つのお願いをしてきた。

 

 それは、「自分を師匠と呼ばないこと」だった。

 

 今この時を含め、過去にその理由を尋ねたことが何度かあった。

 

 そのたびに、

 

「私は、師を名乗れるような人間ではない」

 

 シンフォは、負い目と虚しさに押し潰されそうな表情でそう言うのだ。

 

「私はかつて、決して許されない、決して償いきれない大いなる罪を犯した。かつてこの身に宿っていた武法を、私は下らない自己満足のために血で汚した。その事を、今なお私はたまに夢に見るんだ。そのたびに思う、私は人に道を説く資格がないロクデナシであると」

 

 そんなことない、と否定したくてもできなかった。

 

 だって自分は、シンフォの過去を何も知らないのだから。

 

 訊こうと思ったことは何度もあった。けれど過去に言及するたびにシンフォが浮かべる物憂げな表情が脳裏にチラつき、好奇心はそのたびに相殺された。

 

 それに、気になる一方で、聞くのが怖い自分もいた。

 

 もしそれを聞いてしまったら、シンフォのことを今までと同じ、愉快な大酒飲みとして見れなくなってしまうかもしれない。

 

 そう思うと、知らないままの方が幸せなのではと考えてしまうのだ。

 

「うわもふっ……」

 

 そんな風に思い悩んでいたリンフーを、シンフォはそっと抱き寄せた。

 

 四年前より少しは背が伸びたものの、いまだに頭の高さは彼女の大きな胸と同じ位置にあり、抱きしめられると否応なしにその双丘にふんわりと挟まれてしまう。

 

 信じられぬほど柔らかな感触、女と酒の匂いが混ざった蠱惑的な香ばしさ。

 

 恥ずかしさで急激に全身が熱せられるが、次に聞こえてきたシンフォの言葉に、その熱の高まりが止まる。

 

「……だが、そんな私でも、君という素晴らしい弟子を育てることができた。君は少し短気で直情的だが、その心根はどこまでも一途で、義気を忘れていない。そんな君が、私の血塗られた技を正しい事のために使おうとしている。これほど嬉しい事はない。君という存在に、私の血塗られた過去が償われている……そんな気がしてしまうほどだ」

 

「シンフォさん……」

 

「感謝している……私の弟子になってくれて、ありがとう」

 

 そう囁くと、抱きしめる力をいっそう強めた。リンフーの顔が柔らかな双丘のさらに奥へ埋没する。

 

 リンフーは恥ずかしさを上回るほどの安らぎを覚え、無言のままジッとしていた。

 

 しばらくそのままの状態が続き、

 

「ほらっ、いつまで人の乳に顔を埋めてるつもりだ? このむっつりめっ」

 

 やがて表情をことさらに明るくしたシンフォが、我が胸からリンフーの顔を引き離した。

 

「ふはっ……う、埋めたのはシンフォさんだろっ?」

 

「そう言って、しばらく顔埋めてたくせにぃ。ふふふ、興味ないフリして、本当は気持ち良かったんだろう? 私のおっぱいは」

 

「ち、違うっ! 気持ちよくなかった……訳じゃないけどっ! でも自発的に埋めたわけじゃ……!」

 

「ほら、気持ち良かったんじゃないか。ふふふ、すけべー。ほらほら、おっぱい飲むかぁー?」

 

「ううううっ……うーーーーっ! うーーーーっ!」

 

 豊満な膨らみを強調して意地悪な笑みで煽ってくる師に対し、リンフーは泣きそうな顔を真っ赤にしながら地団駄を踏む。

 

 あっという間にからかいからかわれの関係に戻ってしまった二人。

 

 けれど、楽しそうに笑みをこぼすシンフォの顔を見て、リンフーもすぐに口元を弧にした。

 

 ひとしきり笑うと、シンフォはリンフーの頭にポンと手を置いた。

 

「さあ、これで準備は整った。次は他門の武法士との手合わせや交流を通じ、実戦的な技術をさらに高める段階だ。【槍海商都】に移住し、それをやるんだ。だけど人間、一つの事だけに執着していては大成しないものだ。武法だけじゃなく、いろんな物や人、考え方に触れ、自分の中の世界をどんどん広げていくことだ。そして、いつかなってみせろ。……君が昔から憧れている、武法の英傑に」

 

「……はいっ! これからもよろしくお願いします、シンフォさん!」

 

 リンフーは満面の笑みで頷いた。

 

 

 

 ……英雄に憧れる少年の英雄譚は、今、この瞬間から始まった。

 

 



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第一章 武の都
武の都


槍海商都(そうかいしょうと)】は、この煌国の東端に位置する大都市だ。

 

 今や煌国有数の交易都市であるこの都は、かつては【槍海村(そうかいそん)】という小さな村に過ぎなかった。

 

 二〇〇年以上前の群雄割拠の戦乱期、その村は煌国の国境にあった。

 

 国境というのは、隣国からの侵略の際に真っ先に被害を受ける地域だ。

 

 だからこそ、そんな厄介な土地にあったその村では、自衛の手段が切望された。

 

 村人は武法士を招き入れ、彼らから武法を学んだ。

 

 やがて、恐れていた事態が現実となった。隣国の軍勢が攻め入ってきたのだ。

 

 だがその頃すでに大半の村人が武法を学んでいた。軍勢は村人の技と戦術に散々悩まされた。その頃の村人達の勇猛さは、今なお大陸各地で語り継がれている。 

 

 煌国が大陸全土を統一し、戦乱の時代が終わりを迎えた後も、【槍海村】では尚武の気風は廃れず、武法が根強く伝承されていた。

 

 しかしながら、大陸統一を果たして平和になった後、武に長じた集団である【槍海村】は「不穏分子」とみなされた。

 

 むべなるかな。王朝をひっくり返した武装勢力は、いつの時代も武術家の集団が中心だったからだ。

 

 【槍海村】が何かのキッカケで逆賊になる可能性を、朝廷側は無視できなかった。

 

 けれど、一方的に力で滅ぼそうとしていては、それがそのまま火種になりかねない。

 

 ゆえに朝廷は、【槍海村】を煌国有数の交易都市として発展させようと考えた。

 

 【槍海村】の住人を飢えさせないことで、反乱の火種を作らせないため。

 

 さらに、朝廷と縁が深い貴族にそこを管理させ、住人の行動を監視しておくため。

 

 何より【槍海村】は幸運にも、交易都市を築くのにおあつらえ向きの位置にあった。

 

 大陸には、各地へ血管のように分岐した【奐絡江(かんらくこう)】という大河がある。

 

 煌国を含む歴代の王朝の首都は、その【奐絡江】へ運河を引くことで、各地と水路で繋がり、物流と経済を円滑化してきた。

 

 【槍海村】のすぐ南西にはその大河の支流が流れており、なおかつ東の海ともほど近い。

 

 もしも【奐絡江】と【槍海村】を運河で繋ぎ、さらにそこから海へと繋いだならば、大陸内での交易だけでなく、海外との交易の拠点にもなり得る——

 

 朝廷は【槍海村】の大改造に着手。

 

 辺境の小さな村が、大勢の人やモノが行き交う巨大市場へと大変身を遂げた。

 

 そうして仕事が増え、生活も豊かになる。

 

 朝廷としては、金と豊かさを使って住民の尚武の気風を薄れさせることも狙いの一つだった。

 

 けれどそんな思惑とは裏腹に、武法の伝承はほとんど途絶えることなく続いていた。

 

 武法を禁止する事は簡単だ。だがそれをすれば武法士達の反感を生み、火種を生み出してしまいかねない。強権を振り回しただけで御せるほど、武法という雑草は弱くはないのだ。

 

 なので国は仕方なく、都の至るところに闘技場を作った。もし武法士の間で争い事が生まれたら、街角ではなくその中で争ってもらう。そうすることで街が荒れるのを避けた。

 

 その程度のことしか出来なかった。

 

 武法士という難儀な人種に振り回された末に生まれた、歴史の皮肉を象徴する城郭都市。

 

 それが、「商業都市」と「武の都」の二つの顔を持つ【槍海商都】なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初にリンフーとシンフォを出迎えたのは、視界に納まりきらないほどの巨大な城郭だった。

 

 端が全く見えないほど長い。

 

 上の輪郭も首を上に向けないと見えない。本当に巨大な壁だ。

 

 現在東に傾いている太陽の半分がその壁の輪郭に呑まれていて、壁から遠く離れた場所にまで影が差していた。

 

「この城郭は【龍鱗壁(りゅうりんへき)】だ。【槍海商都】をぐるりと一周して囲っているんだよ」

 

 その威容に空いた口が塞がらない愛弟子に対し、シンフォは苦笑混じりにそう説明した。

 

 時に馬車で、時に歩きで、あらゆる交通手段を使ってとうとう目的地へたどり着いた師弟は、【龍鱗壁】の南門の隣にある検問で通行税を払い、念願の都の中へと足を踏み入れた。

 

 果たして、リンフーの目に飛び込んできたのは、これまで見た事のないような人の営みと景観だった。

 

 両腕を広げた人間が二十人ほど横並びで歩けるほどの大通りが、遠く真っ直ぐへ敷かれていた。そこには、密度の濃い往来が絶え間なく流れていた。

 

 その大通りの端にびっしり軒を連ねているのは店と思われる建物。いずれも、貧乏な田舎者のリンフーでは入ったところで何も出来ないような高級感を匂わせていた。

 

 地面はほぼ全てが石畳に覆われている。

 

 あまりの繁栄ぶりに、リンフーは早くもめまいを覚えた。

 

 自分がこの膨大な人混みのうちの一粒だと強く意識させられ、己のちっぽけさを思い知らされる感覚。

 

「おいおい、今からそんなでどうするんだ? 私達はこれからここに住むんだからな」

 

 対照的に、全く感慨を見せていない様子のシンフォ。濃密な年の功を感じさせた。

 

 動けない弟子の手を握ると、師はそのまま歩き出した。リンフーはまるで小さな子供のように引き連れられていく。

 

 引っ張られながら、ぼんやりと街並みと人混みを眺める。

 

 よく目を凝らすと、明らかに異国人らしき人もちらほら見られる。この都市には異国の人やモノも流入しているらしいので、珍しい光景ではないのだろう。

 

 シンフォが最初に立ち寄ったのは情報屋だった。この【槍海商都】にまつわる色々な情報を売って金を稼いでいる店だという。右往左往しないための時間短縮だろう。

 

「この都で一番安くて広い貸家はどこかな?」

 

 入って早々、シンフォは勘定台の向こうに座る店主らしき男に尋ねた。

 

 年齢はおそらく三十を超えて間もないほどだろう。狐みたいな面長の顔は、軽薄そうでいてどこか海千山千の狡猾さを感じさせる面構えをしていた。

 

 その男はニヤニヤしながら言った。

 

「ふぅん? いくら出してくれるんだい?」

 

 シンフォは即座に銭貨を勘定台に積んだ。

 

 男は狐みたいな顔をニヤつかせたまま、シンフォの胸部に実る豊かな果実へわざとらしく視線を向けた。

 

「ふぅん? これくらいでも構わないけどさ……その大きな胸を少しつつかせてくれるなら、この金の半分以上まけてあげてもいいよぉ?」

 

「おい、ふざけんなよ」

 

 リンフーが凄むと、狐男は「ははっ、冗談だよ冗談」と軽く笑う。

 

 一方、シンフォは嫌な顔をするどころか、挑戦的な笑みを浮かべて狐男を見据えた。

 

「ほう、私に興味があるのか? なら、私の実年齢を教えてやろうか? ちなみに私は【亜仙(あせん)】だぞ?」

 

「……ふぅん?」

 

 狐男は一瞬その細い目を見開くが、すぐに元の調子に戻ると、勘定台の上の金を腕でかっさらってから、

 

「——この都の中心には【尚武環(しょうぶかん)】っていう大きな円形の闘技場と、それを中心にした広場がある。そこから北西方向の大通りをしばらく真っ直ぐ進むと、右側に「(ソン)六合刮脚(りくごうかっきゃく)」って扁額(へんがく)がかかった大きな門がある。そこを尋ねて「夫婦が死んだ家が見たい」って言えば、何か分かると思うよ?」

 

「上手いこと交渉すれば、端た金でそれなりに広い家が借りれると?」

 

「さぁ? それはそちら次第じゃないかい、「お婆ちゃん」。この金で俺がしてやれるのはここまで。交渉方法を知りたいなら、いよいよそのでかい乳を揉ませてもらうしかないかもねぇ。女郎屋にも滅多にいないよ、そんな良い乳した女の子」

 

「無用だよ。誰彼構わず揉ませるほど尻軽ではないものでね。それと今度から「お姉さん」と呼べ、小僧」

 

 シンフォは不敵にそう言い捨て、リンフーを引き連れて店を去った。

 

 

 

 

 

 

 

 狐男の言われた通りに進むと、言われた通りの場所にソレは鎮座していた。

 

 黒い木の門扉はそれなりに年季が入ってはいるが、硬く分厚い。

 

 焦げ茶色の瓦が張られた軒のすぐ下には、情報屋の言った通り、竜跳虎臥(りゅうちょうこが)たる書体で「宋氏六合刮脚」と彫られた扁額がはめ込まれていた。

 

 派手に飾らないが、決して地味ではなく、質実剛健たる気風を門構えから感じた。

 

 さらにその門扉の左右からは、瓦屋根が被さった背の高い土塀が広がっていた。この都で見てきた高級店舗にも負けないくらいの広さがあり、この道場の勢力の大きさが一目で分かる。

 

 そう。ここは道場、つまり武法を教えて飯を食っている場所である。

 

 【六合刮脚(りくごうかっきゃく)】という流派は有名だ。変幻自在で多彩な蹴り技を得意とする武法である。蹴りに関しては、この大陸で随一の強みを誇る。

 

 扁額にある「(ソン)氏」という文字は、この道場の主人の姓だ。

 

 つまり「(ソン)さん」が武法を教えているのだ。

 

(……ん? 【六合刮脚】に「(ソン)」? なんか聞いたことがあるような……)

 

 自身の記憶に引っかかりを覚えたリンフーは、その正体を探るべく記憶の海に潜ろうとした。

 

 だがシンフォはそんな弟子の様子に構わず門扉を叩く。

 

 十秒ほどで門は開き、その音によって思考が現実に引き戻された。

 

「なんだ、入門か?」

 

 中から出てきた男が、やや面倒そうにそう切り出した。

 

 白を基調とし、手首足首までを覆ったその身軽そうな装いは稽古着だろう。

 

 門扉の隙間からうかがえる修行者達の服装も、すべてその白い服に統一されていた。

 

 シンフォは友好的な笑みを浮かべながら言った。

 

「入門ではないよ。ちょっとここの家主に話を伺いたい。あ、別に決闘を申し込みに来たわけでもないから警戒しないように頼むよ」

 

 その門下生の男は訝しみながらも「……少し待ってろ」と言い残し、一度門を閉じた。

 

 しばらくして、再び門が開けられ、中から一人の偉丈夫が出てきた。

 

「……待たせた。俺がこの道場の師範だ。して、何用だ?」

 

 まるでヤクザ者のような中年の男だった。厳しい顔立ちは左頬の大きな切り傷を中心にして様々な細かい傷跡が刻まれている。

 

 胴体と四肢も骨太で大樹のような頑健さが感じられ、リンフー程度なら簡単に締め殺せそうだった。

 

 まさしく歴戦の戦士といった出で立ちの偉丈夫は、リンフーとシンフォをその鋭い眼差しで見下ろした。

 

 リンフーは思わずビクッと身を震わせるが、それをおくびにも出さないように努めた。

 

 一方、シンフォは物怖じ一つせず、用件を簡潔に述べた。

 

「「夫婦が死んだ家」が見てみたくて来た。なんなら、そこを借りて住みたいとも思っている」

 

 偉丈夫の鋭い眼差しが少し開かれた。リンフーの心臓が跳ねる。少しまぶたを開いただけなのに凄い迫力だ。

 

「……分かった。ついて来い」

 

 かと思えば、偉丈夫は門下生らに「各自好きに練習しろ」と簡潔に言い残し、門を出た。

 

 二人はそれについて行く。

 

 北西の大通りから狭い脇道へ入る。日当たりがあまり良くなく、ややジメッとしている。

 

 そんな狭い道をしばらく歩くと、一件の家屋に到着した。

 

「……ここだ」

 

 偉丈夫によって示された一軒家を見たリンフーは眉をひそめた。

 

 ひっそりとした細道沿いにあることを踏まえても、明らかに他の建物とは空気の濁り具合が違った。

 

 確かに、それなりに大きな一階建ての建物だ。その隣にある、塀に囲われた庭も結構広い。

 

 しかし、外壁の所々にツタが侵食しており、塀の上の輪郭からも草の先端がチラついていた。

 

 結構立派な家だ。しかしこれに住みたいかと問われると……少々難色を示さざるを得ない。

 

「……ここは昔、俺の両親が住んでいた家だ。両親が永眠してからは空き家になったため金を取って人に貸していたんだが、そこに住んでいた夫婦の夫の方が浮気をしてな、妻が夫を刺し殺して自分も自刃した。そうしてまたこの家は空き家になったが、空いた経緯が経緯なだけに誰もこの家に寄り付かない」

 

「うわぁ」

 

 偉丈夫の淡々とした説明に、リンフーは思わず嫌そうな声を漏らした。

 

 一方、シンフォは微笑んで、

 

「ほう? なかなか良い家じゃないか」

 

「シンフォさん、それマジで言ってるのか?」

 

「大マジだとも。雑草なんか引っこ抜けばいいし、埃も掃除して取り払えばいい。大事なのは「ガワ」の有無だ」

 

 シンフォは偉丈夫の方を向き、改まった口調で言った。

 

「すまない、自己紹介がまだだったな。私は黎惺火(リー・シンフォ)。そしてこの子が弟子の汪璘虎(ワン・リンフー)、こんな可愛い顔だが股間には立派なアレがぶら下がっている」

 

「な、なんて紹介するんだよ!」

 

 股を隠して赤面したリンフーの抗議ののち、偉丈夫も自己紹介を返した。

 

「……俺は宋淵輝(ソン・ユァンフイ)

 

 その簡潔な名乗りを耳にした瞬間、リンフーは驚愕した。

 

「えっ………………ま、まさか【無影脚(むえいきゃく)】の宋淵輝(ソン・ユァンフイ)っ!? 【求真門(きゅうしんもん)】の襲撃から【玉芝郷(ぎょくしごう)】をたった一人で守ったっていう、大陸最強の脚法使い! その蹴りは始めから終わりの過程が全く見えず、蹴られて初めて蹴りの存在に気づくほどの神速の蹴り技! 【六合刮脚】といえば武法の中でも数少ない蹴り技主体の流派で、しかもその中では最高峰と言われる流派の一つ! しかも【無影脚】の使うソレは分派が増えた【六合刮脚】の中で、最も古い源流! その蹴りは他の分派と違って突筆した個性は無いものの、あらゆる状況に対応できる技の数々がふんだんに詰まっている、まさしく武法における蹴り技の大図鑑とも言える武法で痛っ!?」

 

「こら、暴走するんじゃない。このオタクめ」

 

 口から濁流のごとく知識を放出させていたリンフーを、シンフォの手刀がビシッと黙らせた。

 

 それから偉丈夫——宋淵輝(ソン・ユァンフイ)へ向き直り、

 

「すまないね。この子は武法の英傑の話が大好きなんだ。だから時々暴走して、その知識を大量にお漏らしする悪癖がある。まぁ、そこが可愛いんだが」

 

「……構わない。それに、俺は英傑などではない。【求真門】による理不尽な暴虐が行われていた場にいて、それを止める力があったから振るっただけのこと。力さえあれば、誰でも同じことをするだろう」

 

「そんなことないです! それをやろうとする人間はなかなか居るものじゃない! あなたには力だけでなく、仁と義があった! だからあなたは武法の世界で一目置かれ、尊敬されるようになったんだ!」

 

 そのようにまくし立てたリンフーに、ユァンフイは少し驚いたように目を見張ってから、すぐに穏やかに目元を緩め「……ありがとう」と小さく言った。

 

「そ、それでその、えっと、あの………………ボ、ボクと握手してはもらえませんかっ!?」

 

 リンフーは恥ずかしさを覚えつつも、思い切った態度で手を差し出した。

 

 伝説の脚法使いは細く鋭い目を何度かぱちぱちさせてから、そっとリンフーの手を握る。リンフーもまたその大きく無骨な手を握り返し、握手を交わした。

 

 手を離した後、リンフーは感激した顔でシンフォに振り向き、

 

「シンフォさんどうしよう! ボク、もう一生手洗えないかもしれない!」

 

「はいはい、よかったね。でも、手はちゃんと洗うんだぞ」

 

 呆れ笑いを浮かべながら、愛弟子の頭を撫でるシンフォ。それから再び偉丈夫に向き直る。

 

「だいぶ話が横道に逸れてしまったが、本題に入ろう。——この家を私達に貸して欲しい。家賃はひと月に二〇〇綺鉄(きてつ)でどうかな?」

 

 【綺鉄】とは、この国における通貨の単位だ。

 

 ひと月に一万綺鉄稼げれば立派な高級取りであると言われている。

 

 家をひと月借りる家賃は、低くても五〇〇綺鉄が下限であるのが一般的だ。

 

 当然ながらユァンフイは「……安すぎる」と却下した。

 

「では、幾らを希望する?」

 

 シンフォの問いに対し、ユァンフイは「……七〇〇綺鉄」と告げる。

 

「それでは少々高いな。ここは人死にが起きた事故物件だ。こんな怨念が宿っていそうな所を欲しがる者はそういまい。我々もそこを我慢して住もうというのだ。しかも草取りと掃除もやってやる。それに我々もいつまでもここに住むことはないだろうから、いつかまたこの家は空き家に戻るだろう。そうして「我々が長年住んでいた」という前例が生まれれば、将来的にこの家に寄り付く者も少しは増えるのではないかな? というわけで三〇〇綺鉄を希望する」

 

「……六〇〇綺鉄だ」

 

「三五〇綺鉄」

 

「……五〇〇綺鉄だ。これ以上は値切りしかねる」

 

「四〇〇綺鉄。私もこれ以上払う気はない。だがそれはあくまで金の話。それ以外の物なら支払っても構わない」

 

「……何を払う?」

 

「医術だ。私はこう見えて医者で飯を食っていてね、腕もそれなりにあると自負している。武法を教える立場に立つ者は、基本的な医術知識の心得を身につけるのが常識だ。怪我した弟子を治せない師匠はお笑い種だからね。だが私はその基本の範囲を超えた高度な医術を習得している。もしも君の家族や弟子が何らかの病にかかった場合、私はそれを無償で診ようじゃないか。どのような病であっても、だ。その「無償」を残りの一〇〇綺鉄分として扱ってもらいたい。どうだ?」

 

「……悪い話ではない。だが、最終的な決定権はあくまでこちらにあることを忘れてもらっては困る」

 

「つまり、事と次第では呑んでくれると? 何を望む?」

 

「……その前に、一つ聞きたい。お前達は、何のためにこの都へ来た? 単なる引越しのためとは思いにくい。もしかして、武法関連の事情か?」

 

「鋭いな。そうさ、全てはこの子……リンフーの修行の一環さ。【槍海商都】は「武の都」と呼ばれるほど武法が盛んな土地だ。ここから出た達人や英傑は数知れない。武法の修行にはうってつけだと思ってね」

 

 シンフォの弁舌を聞き、ユァンフイはしばし瞑目してから、やがて重い口調で言った。

 

「……ならば、その子の気持ちがどれほどのものであるのか、一度確かめさせてもらう。お前の提案に乗るかを考えるのはそれからだ」

 

「つまり、手合わせをしろと? 少し大人気なくはないかい? はっきり言って今のこの子と君とじゃ、実力に大きな差がある。五才児と大人を戦わせるようなものだ」

 

 シンフォの言葉に対し、ユァンフイは一息置いてから言った。

 

「……案ずるな。戦う相手は俺ではない」

 



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はじめてのたたかい

 【槍海商都(そうかいしょうと)】のあちこちには、「闘技場」が存在する。

 

 武法士であれば、何かのキッカケで揉め事となり、それを解決すべく闘うことが必ずある。

 

 しかしこんなに栄えた都の中で争っていては他の人々に迷惑がかかってしまう。

 

 だからこそ、闘うならその闘技場の中で決着をつけることが決まりとなっている。

 

 ……決まりと言っても不文律だが。

 

 闘技場とは言っても、大掛かりなものはこの都の中央にある巨大闘技場【尚武環(しょうぶかん)】のみで、それ以外の闘技場は円い土晒しの地面の周囲に石の囲いを施した程度の簡素な作りである。

 

 中天に差しかかりつつある太陽が見守る下、街のいたるところにある小さな闘技場のうちの一ヶ所。

 

 その中では、一組の少年少女が向かい合っていた。

 

 リンフーの目の前には同い年か、あるいは一、二歳ほど上くらいの少女が立っていた。

 

 華やかながらも愛嬌のある顔立ちに、右側頭部で結んで垂らされた薄茶の髪。

 

 シンフォほどではないが結構な膨らみを見せる上衣は、道場の白い稽古着。その裾から下は、健康的な素肌をさらした美しい足が伸びていた。

 

 まさか何も穿いてないのかと一瞬焦った。だが稽古着の裾の下にあるとても短い穿き物がチラリと見え、リンフーはひとまずホッとした。

 

「わたし、宋璆星(ソン・チウシン)っていうの! あなたは?」

 

「ボ、ボクは汪璘虎(ワン・リンフー)……よろしく頼む」

 

「リンフー……良い名前だね! よろしくっ!」

 

 ニコニコと元気よく自己紹介を済ませた少女——チウシンは、手を差し出してきた。

 

「よ、よろしく……」

 

 リンフーは緊張を残しながらおずおず頷き返す。

 

 この都に来た以上覚悟はしていたが、やはり初めての実戦なので、緊張もする。

 

 少年少女が握手を交わす闘技場の外周部では、比武の匂いにつられてやってきた人集りと、そしてシンフォとユァンフイが見守っていた。片や面白そうに笑みを浮かべ、片や厳粛な顔つきで。

 

「……チウシン、普段より少し本気を出すんだ。そうでなくては、試す意味がない」

 

「はい、お父さん!」

 

 チウシンは元気よく返事した。

 

 そう、目の前にいるこの元気少女は、【無影脚(むえいきゃく)】ユァンフイの一人娘なのだ。

 

 どうやったらあの厳つい父からあんな綺麗な娘が出来上がるんだ、という疑問はとりあえず置いておき、気を引き締めるリンフー。

 

 彼女は、リンフーの力を試すために用意された相手だ。

 

 年が近いと思って安心したのはほんの一瞬。

 

 チウシンを一目見た瞬間、リンフーの胸の内に二つの問題が生じてしまった。

 

 一つは、何度も言うが、その名高き【無影脚】の娘であるという事実。

 

 凄腕の達人が親にいるという、リンフーからすれば大変羨ましい生まれ育ちだ。しかも一人っ子。

 

 であれば、いずれ流派を背負って立つ後継者として、小さい頃から特別な教育を受けている可能性が高い。

 

 つまり、めちゃくちゃ強いかもしれないということだ。

 

 もう一つは、相手が「女の子」だという事実。

 

 男勝りな母親から「男とはかくあるべき」という趣旨の教育の一つとして、「女は守るものである」というものがあった。

 

 今の状況は、そんな母の教えを踏みにじることに繋がるのではないだろうか。

 

「どうしよう……」

 

 リンフーは一人呟く。だが、嘆いていても時間は容赦無く進む。

 

「それじゃあ、始めようか。では両者、名乗りを上げて!」

 

 シンフォの張り上げられた言葉に従い、二人は右拳左掌の抱拳をしながら互いに名乗りを上げた。

 

「【六合刮脚(りくごうかっきゃく)】、宋璆星(ソン・チウシン)!」

 

「て、【天鼓拳(てんこけん)】、汪璘虎(ワン・リンフー)……」

 

 試合が始まる。

 

 次の瞬間、遠くにあったチウシンの姿が、視界の八割を埋め尽くした。

 

「うおぁ!?」

 

 刀の一薙ぎのごとき鋭い回し蹴りを、リンフーは体を仰け反らせて避けた。

 

 しかし、それは【天鼓拳】における「正しい動き」ではなかった。不正な動きをした代償に、重心の安定を崩して尻餅を突く。

 

 蹴りを外してもなお、チウシンは止まらない。

 

 迅速に軸足を踏み換え、素早い回転力を維持したまま振り向きざまに踵を叩き込んだ。

 

 かろうじて反応が間に合い、両掌で踵を受け止めたリンフーだが、

 

「っ痛ぅっ……!」

 

 その細足から、まるで巨人の振るう鉄槌に殴られたような衝撃が全身を突き抜ける。

 

 骨が軋み、体が吹っ飛び、壁に肩口からぶつかる。

 

 瞬く間に受けた二種類の痛みで体が強張る。

 

 蹴っ飛ばされるのがこんなに痛いなんて。

 

 リンフーは初めてやる対人戦の苛烈さを早速思い知っていた。

 

 しかし、すでに始まってしまった試合だ。

 

 リンフーは渾身の気合いで痛覚を誤魔化し、素早く立ち上がる。

 

 前を見る。すでにチウシンが目前まで近づいていた。

 

 チウシンの大きな胸がリンフーから見て左へ揺れたと思った瞬間には、すでに踵が矢の如く突き進んでいた。

 

 当たれば腹から背中へ突き抜けそうなほどの圧力が感じられた。おまけに、蹴り伸ばす過程がほとんど見えないくらいに速い。

 

 ——けれど、「知覚」は出来ている。

 

 美脚の形をした剛槍が、リンフーの腹から背中へ貫通した。

 

 だが、それは霞のごとく残った残像だった。

 

 蹴りがその残像に触れた時には、すでにリンフーはチウシンの横合いを取っていた。

 

 【游雲踪(ゆううんそう)】——「最速の一歩」を踏み出す、【天鼓拳】の基本歩法。

 

 人間は一歩前へ足を踏み出す時、足しか動いていないように見えて、実は体の内側でたくさんの「無駄な動き」を行なっている。

 

 そのため、たった一歩進む動作のために、実際は何拍子もの無駄な時間を費やしている。

 

 その「無駄な動き」を極限まで減らし、発生する拍子を大幅に短縮させることで「最速の一歩」を踏み出す歩法。それが【游雲踪】。

 

 「知覚」さえ出来ていれば、たとえ薄皮一枚の距離まで迫っている矢でさえも「最速の一歩」で回避が間に合う。

 

 さらにそのまま相手の死角に入り込み、【天鼓拳】の持ち味である強大な術力を叩き込む一瞬の好機を得る。……今、この瞬間のように。

 

 しかし、リンフーはその「一瞬」を、躊躇に費やしてしまった。

 

 女だから。

 

 女を殴ろうとしているのだと考えた瞬間、体が固まってしまった。

 

 たった「一瞬」だが、それは限りなく致命的な「一瞬」であった。

 

「ぐはっ!?」

 

 一瞬息が止まるほどの重々しい衝撃を腹に受ける。チウシンに蹴られたのだ。

 

 今度はまともに食らってしまい、リンフーの体が紙屑同然に飛ぶ。壁に背中からぶつかる。

 

「けほっ、かはっ、ごほっごほっ……!」

 

 遅れて痛みがやってくる。喘息のように何度も咳き込んだ。

 

 そんなリンフーに、チウシンは歩み寄った。

 

 加速ではなく、悠然な歩調で。

 

「「優しい人」だね、あなたは」

 

 少し怒った顔をしていた。

 

「人間的には、とても好ましく思う。でもね、武法士としては、ちょっとどうかと思う。……女の子だから、わたしを殴れない? もしわたしに殺意があっても、あなたはそうやって攻撃しないつもりなの? わたしが真剣にあなたと手合わせしたいって思っていても、あなたはその思いに応えてくれないの?」

 

 リンフーはハッとした。咳もピタリと止まる。

 

 ——自分は、何と無礼な真似をしていたのだろう。

 

 武法の英傑の中には、女性も少なくない。

 

 だが彼女達は、周りの男性武法士から手加減されていたから英傑になれたのか? ……否だ。

 

 武法は筋力ではなく、【術力(じゅつりき)】で戦う武術。

 

 筋力は男女差があるが、術力にはその差が無い。努力次第で誰でも強くなれる。

 

 男女の違いは勝敗の理由にならない。

 

 今、女の子だからといって手心を加えるのは、真摯に武を高めてきた彼女と、その武への、この上なき「侮辱」。

 

 リンフーは自分の両頬を両手で張り、ゆっくりと立ち上がった。

 

 呼吸を整え、真っ直ぐにチウシンを見据えた。

 

「……すまん、ボクが間違ってた」

 

 チウシンは、元の愛嬌のある笑みを浮かべてくれた。

 

「これからはマジだからな」

 

 笑みのまま頷き、再び臨戦態勢を取る蹴り使いの少女。

 

 リンフーは相手の出方を待つ。

 

 試合に対する心構えは、これで整った。

 

 あとは、自分が四年間愚直に鍛え続けてきた武法を信じて戦うのみ。

 

 確かに彼女は、優れた師匠から、優れた教育を受けたのかも知れない。

 

 けれど、自分も四年間、懸命に修行したのだ。

 

 【天鼓拳】の戦い方を思い出せ。自分は一体、何を教わった? その教えを信じろ。信じて戦え。負ける想像をするな。

 

 やがてチウシンが、豪然と回し蹴りを繰り出す。

 

 その蹴りが首を刈り取るまさにその刹那、リンフーの姿が消失した。大刀の一振りのごとき回し蹴りは、代わりに煙のような残像を斬ることになった。【游雲踪】である。

 

 チウシンは即座に背後に「存在」を察知するや、

 

「そこっ!」

 

 蹴り足を踏み換え、迷わずそこへ突き刺すように靴裏で蹴り込んだ。

 

 しかし、またもリンフーには当たらなかった。煙のような残像の腹を穿ったと思った瞬間には、女顔の美少年の立ち位置が懐深くまで潜り込んでいた。

 

 衝突。

 

「はぐっ——————!」

 

 それはまるで、城郭が猛烈な勢いで滑り込んできたかのような圧力だった。

 

 軸足を柔らかくしならせて衝撃を大地へ逃す脚法【黐脚(ちきゃく)】を使わなければ、その圧力で勝敗は決していたかも知れない。

 

 されども勢いを殺しきることは叶わず、チウシンの体が大きく弾き飛ばされた。

 

 土晒しの地面を靴で削って勢いをねじ伏せたチウシンは、リンフーを見た。右肩を先んじて深く踏み込んだその体勢は、明らかに体当たりだった。

 

 【天鼓拳】の技法……【硬貼(こうてん)】。

 

 小さな少年が肩を突き出すその姿は一見頼りなさげに思えるが、そこに込められた術力が重々しいことは先ほど身をもって体験した。

 

「……すごいね。こんなすごい術力、かなり久しぶりかも。おまけに避けるのも死角を取るのも上手」

 

「そりゃどうも」

 

 互いに不敵に笑い合う。

 

 【天鼓拳】の技術的特徴は二つ。

 

 「強大な術力」と「攻撃を必ず当てるための歩法」。

 

 あらゆる攻撃を【游雲踪】で避けつつ、自分が最も攻撃を当てやすい位置へ移動し、重い術力を叩き込んで打倒する。

 

 それこそが【天鼓拳】の基本戦術だ。

 

 チウシンが再び肉薄する。

 

 そのまま真っ直ぐ攻めると見て、リンフーは矢のごとく身を進めての正拳突き【頂陽針(ちょうようしん)】で迎え撃とうとするが、直撃寸前でチウシンが急旋回。

 

 重厚な術力のこもったリンフーの拳は空気を穿ち、チウシンは踊るようにして背後へ回り込んだ。

 

 リンフーは迅速に【鋼】を背中に施した。

 

 次の瞬間にやってきた回し蹴りを、不可視の鎧に守られた背中で受け止めた。痛みは無いが、ビリビリとした衝撃は全身で感じる。

 

 鋭く背後を向くが、そこにチウシンの姿は無い。

 

 また背後へ回り込んだのだと分かったのとほぼ同時に、撞木で衝かれたような衝突感が背中に浴びせられた。

 

「ぐっっ!?」

 

 【鋼】を解いていたので当然めちゃくちゃ痛い。

 

 痛みを無視してまた振り向くが、またもチウシンの姿がない——と思った瞬間に背中へ衝撃と痛覚。

 

 チウシンは今、死角に回り込んで蹴りを入れるという戦術を取っていた。

 

 【游雲踪】の弱点、それは……目で知覚出来なければいつ当たるか分からないこと。

 

 見えない位置に相手がいると、いつ、どの時機(タイミング)で蹴りが来るのか、見て判断できない。

 

 いかに「最速の一歩」を持っていても、見えて知覚できていない攻撃は避けようがない。熟練の武法士ならば正確な先読みも可能だろうが、今のリンフーにそこまでの技量はなかった。

 

 【聴】ならば目を使わずとも攻撃軌道を知覚できるだろうが、あれは使用するために高い集中力を要する。この猛攻の中で集中なんて無理だ。

 

 チウシンは戦いの中で、そんな現在のリンフーの欠点をなんとなく察していた。だからこそ、その弱点を積極的に狙いにかかっている。

 

 ここに来て、戦闘経験の差が出てしまっていた。

 

 これを覆すには、自分の持っている技を上手に使うしかない。

 

 リンフーは四年に及ぶシンフォとの共同生活の中で、技の特性を良く活かした戦い方を教わっていた。

 

 周囲にまとわりつかれるなら、弾きとばせばいい。

 

 一瞬の静寂を挟んでから、リンフーは足先から手先までを一気に捻り込んだ。

 

「はぁっ!!」

 

 五体で螺旋を描きながらの正拳突き。

 

 鋭く突き出された拳は虚空を突くのみであったが、全身を猛烈な螺旋の力場が包み込んだ。

 

 その力場にシンフォの蹴りが触れた途端、さながら回転する独楽にぶつかった小石のごとく弾かれた。

 

 【纏渦(てんか)】。強力な渦状の術力を身にまといながら敵を打つ、攻防一体の技。

 

「っ……!」

 

 蹴り足を弾かれた勢いでチウシンは重心を崩す。両足が浮き上がった「死に体」と化した。

 

 リンフーは即座に振り向いて攻撃しようとするが、宙に浮いた状態のチウシンはそれをさせまいと苦し紛れの前蹴りを振ってリンフーの接近を妨害。それによって一瞬できた猶予を使って後退。彼我の距離を広げようとこころみる。

 

 だがリンフーはなおも食らいつく。相手との距離を再び潰し、【頂陽針】で追い討ちを狙う。

 

「なんのっ!」

 

 着地したチウシンも、拳を先にして急迫してきたリンフーへ負けじと回し蹴りで迎え撃ちにかかった。

 

 拳と脚がそれぞれの目標へとぶつかるまで、薄皮一枚の距離へと達した瞬間、

 

 

 

「——それまでっっ!!」

 

 

 

 地をビリッと震わせるほどの一声。

 

 ピタリと止まる拳と脚。

 

 声の主は、ユァンフイだった。

 

「……二人とも、よく戦った。もうそこまででいい」

 

 先ほどより穏やかなその声を聞いて、両名はともに拳脚を納めた。

 

 ユァンフイは歩み寄り、その大きな両手で二人の肩をそっと叩いた。融和を無言で促していた。

 

 リンフーはおずおずと言った。

 

「あ、ありがとうございます」

 

「こちらこそ! すごいねリンフー、今日が初めての実戦とは思えないよ! 才能あるんじゃないかなっ?」

 

「へっ? いや、そうかな……」

 

 ずいっと顔を近づけて称賛を送るチウシンに、リンフーはほんのり顔を赤くして目を逸らした。

 

 シンフォは意地悪そうなニヤニヤ顔で寄ってきた。

 

「どうしたどうしたぁ? もしかして惚れちゃったかぁ?」

 

「惚れっ……な、何言ってんだよっ!? 違うからなっ!? ただ単に褒められたことが照れくさかっただけだからなっ!? ていうか酒臭っ! いつの間に酒買ってんだよっ!?」

 

 さらに真っ赤な顔で抗議するリンフーを、シンフォは笑いながら受け流す。その手にはいつの間に買ったのか、酒瓶が握られていた。

 

 それからシンフォはすぐにユァンフイへと向き、挑むような微笑を見せた。

 

「で? 【無影脚】殿のお眼鏡に叶う試合だったかな? 私は身贔屓を抜きにしても、なかなか良い試合だと思ったけどなぁ」

 

「……そうだな。俺も良き試合だと思った。娘も言っていたが、初めての実戦でここまで戦えるのは、なかなかに見込みがある。道筋を間違えずに精進し続ければ、立派な武法士になれると思う」

 

 有名な豪傑に褒め言葉を頂き、リンフーの頬がまたも赤く熱を持つ。

 

「……分かった。お前達の条件を呑もう。家賃は四〇〇綺鉄、及び我々への無償治療。これで良かったのだな?」

 

「おうとも! 気前が良くて助かるよ。さすがは【無影脚】と呼ばれた英雄好漢だ」

 

 シンフォは親指を立ててにぱっと笑った。

 

 住まいが決まって師弟揃って笑顔を交わしていると、不意にユァンフイが歩み寄ってきた。

 

 その大柄な体をかがませ、小柄なリンフーと同じ目線に合わせた。

 

 リンフーは何事かと目を見張った。

 

 ユァンフイはそんな少年の目を真っ直ぐ見つめていた。そこら辺のゴロツキが裸足で逃げ出しそうなほど鋭い彼の眼差しの隙間から、おもんばかるような光を垣間見た。

 

「……坊や。君は、英雄になりたいのか」

 

 脈絡のない問いにきょとんとしてから、リンフーは強く笑い、強く首肯した。

 

「はい! なりたいです! 大陸の誰もが知っているような、強く、勇ましい武法士に!」

 

「……そうか」

 

 ユァンフイは瞑目してから言った。

 

「……ならば、これだけは忘れてはならない。本物の英雄がいるのだとすれば、それは強い者でもなければ、多くから称賛された者でもない。……「守りたいものを守り抜いた者」だ。どれだけ傷つこうと、どれだけ恥辱にまみれようと、どれだけ孤独になろうと、守りたいものや守るべきものを守り抜いた者こそが、最後には「英雄」と呼ばれるのだ。それに比べれば、強さや称賛などゴミのようなものだ」

 

 聞き入っているリンフーに対し、ユァンフイは最後に次のように訴えた。

 

「……君は実戦経験こそ乏しいが、まだまだ伸び代がある。だが力に驕り、溺れ、守るべきものを見失わないように、気をつけるんだ」

 

 そんな彼の饒舌さに呆気にとられつつも、リンフーは「はい……」と頷いた。

 

 

 

 ——そんな中、シンフォが先ほどとは違う、浮かない顔をしていることに、リンフーは気づいていなかった。

 



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閑話:渇望

 ——力が欲しかった。

 

 誰にも奪われない力が欲しかった。

 誰にも侮られない力が欲しかった。

 誰にも害されない力が欲しかった。

 誰にも犯されない力が欲しかった。 

 誰にも殺されない力が欲しかった。

 

 「彼女」は、ただひたすらに力を欲していた。

 

 

 

 

 口減らしのために親に売られ、奴隷同然の身の上となってしまった「彼女」は、世界という地獄の上で踊らされる道化だった。

 

 家で役に立たなくて、見た目が良い。それだけの理由で親子関係を否定されたのだ。

 

 最初で最後の買い手は、南方に住む貴族だった。幼女ばかりを好んで食う変態性欲者で、よく貧乏な家の女児を買っては壊れるまで楽しむ下衆野郎だった。

 

 そいつの餌食になりそうになった「彼女」は、恐怖のあまり近くにあった花瓶でそいつの頭を殴り、意識を失った隙に屋敷から逃げ出した。

 

 逃げて、逃げて、逃げて……山奥まで来た。

 

 下には川が見える。

 

 そこには一匹の熊がいた。

 

 熊はその鋭い爪と豪腕で魚を取り、それを豪快に食していた。

 

 熊の前では魚に抵抗の術はない。逃げ切るか、食われるかの二通りしか運命がない。

 

 ……あの魚は、自分だと思った。

 

 逃げ切った果てに死ぬか、食われて死ぬか。その二つしか運命を与えられていない「弱者」。

 

 それを悟った瞬間、燃えるような怒りの熱が心に宿った。

 

 ——冗談じゃない。

 

 ——私は、魚なんかじゃない。

 

 ——幸せを阻むのなら、熊だって殺してやる。

 

 「彼女」の生き方の方向性が定まった瞬間だった。

 

 生きる道標。それは「力」。

 

 「力」があれば、何もかも解決する。

 

 自分を傷つけようとする奴も、自分を騙そうとする奴も、自分を犯そうとする奴も、自分を殺そうとする奴も……「力」さえあれば、黙らせることができる。

 

 「力」さえあれば、自分は絶対に幸せになれる!

 

 世界に踊らされるだけだった「彼女」に、初めて生きる指針ができた。

 

 「力」を手に入れるために目をつけたのは【武法】だった。

 

 習う金がない? だからどうした。なら流派の練習をこっそり覗いて武法を覚えればいい。「彼女」はいろんな流派から【盗武】で技を盗んだ。

 

 あらゆる罪に手を染めた。人の財布をかすめ取り、その金でその日その日の糊口をしのぎながら、「彼女」は武法を熱心に練習した。

 

 たまに危険な組織と揉め事を起こした事もあったが、鍛え抜いた武法で返り討ちにしつつ逃げた。

 

 そうして野良犬同然の暮らしを十四歳までしていた「彼女」に、さらなる力を手に入れる転機が訪れた。

 

 それは、本当に偶然みたいなものだった。

 

 たまたま歩いていた川に、一冊の本が流れ着いていた。

 

 表紙は水による墨汁の脱色で文字が読めない状態だったが、それが武法に関する書物である事は数頁読んだだけで分かった。

 

 そこに書かれた「名もなき武法」を覚えようとしだしたのは、本当に単なる気まぐれだった。

 

 その気まぐれが、「彼女」に強大な力をもたらした。

 

 身につけた「名もなき武法」の技で人を打つと、どんな達人だろうと、どれだけ【鋼】に長けていようと、簡単に砕けて死ぬようになった。

 

 「彼女」は、これまでにないほどの強大な「力」を手に入れた。

 

 だが、自分がどれだけ強いのかを証明するには、主観だけでは足りない。客観的な裏付けが必要だった。

 

 そこで「彼女」は、名高い武法士に決闘を申し込み、それを殺す事で己の「力」を確かめたいと思った。

 

 「彼女」の目標は、すでに「力の獲得」から、「最強の追求」へと変わっていた。

 

 「最強」になれば、何もかもがうまくいく。

 

 奪われることも、侮られることも、害されることも、犯されることも、殺されることもない。確固たる幸せが約束されている。

 

 すでに手足が伸び切った歳になっていた「彼女」は、「最強への道」を歩み始めた。

 

 

 

 ——それが、地獄への道であるとも気づかぬまま。



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最初の朝、少女の奇行

 リンフーは【槍海商都(そうかいしょうと)】における最初の朝を迎えた。

 

 ユァンフイから借りた一軒家は、前に住んでいた借家よりも広く、部屋数も上だった。厨房、食堂、寝室がちゃんと分かれている。特に寝室として使える部屋が二つあったのには助かった。これでシンフォの扇情的な寝姿を見てしまい、それをネタにからかい倒されることも減るだろう。

 

 不満を挙げるなら……食堂に流血の黒い痕跡がいまだに残っているところだろうか。以前住んでいた夫婦の修羅場が否応なく想像され、作っている飯が不味くなりそうだった。慣れるのを待つしかない。

 

 昨日——月四〇〇綺鉄(きてつ)での賃貸が決まった後、師弟は早速部屋の掃除と庭の草抜きをした。なので室内外ともにそこそこ綺麗になったはず……なのだが、早速食堂にシンフォが飲み干した酒甕が転がっていた。しかもいつもより一日あたりの数が多い。引越しで浮かれているのか。

 

 リンフーは早速酒臭くなり始めた部屋の空気を嗅ぎとりながら、散乱した酒甕を集めて厨房の隅っこにまとめた。飲み過ぎないよう今度注意しようと思った。

 

 この新居は食堂を中心にしてその他の部屋へ分岐している。厠は衛生の都合上、それらの部屋から通路を伸ばしたところにあるが。

 

 お手製の朱色の稽古着に着替える。シンフォの寝室から微かに聞こえる、くかー、くかー、という寝息を聴いて苦笑しながら、リンフーは庭へと出た。

 

 家の横に広がる庭は、三方を木塀に、一方を家に隔てられた正方形をしていた。武法の修練にちょうど良い広さだ。初夏の早朝の涼しい空気と、夜明け前の空がリンフーを出迎える。

 

 軽く準備運動を行って体をほぐしてから、朝の鍛錬を開始した。

 

 呼吸を整え、心身を整えてから、まるで波紋一つ立たない湖のように静止する。

 

 数秒間その不動状態を続けてから、突発的に動いた。

 

 拳、肘、掌、脚——雲のように緩やかな動きの随所で、突如として発せられる爆発的な術力。一撃発するたびに、空気が強く押されて微風が吹く。

 

 「緩」と「急」が明確に分かたれたその型の流れは、まさしく天を漂いながら地に雷を落とす雷雲のようであった。

 

 【天鼓拳(てんこけん)】……それはリンフーが学んだ流派名であると同時に、その流派に唯一伝わる型の名でもある。

 

 武法の型は、川と同じだ。

 

 型という一本の「流れ」の中に、膨大な情報が凝縮されている。小川の底に散らばる無数の石のように。

 

 その無数の石の意味を一つ一つ振り返りながら、リンフーはその川を下っていき、やがて終点へと行き着く。

 

 呼吸を整えて小休止。額に少し汗が浮かんでいるが、呼吸の乱れはさほどでもない。型を一回やっただけで息も絶え絶えだった一年目に比べれば、大変な進歩だとしみじみ思う。

 

 しばらく型を反復練習し、朝日が顔を見せる頃には、心地よい疲労と発汗が全身を覆っていた。汗が顔の輪郭を伝って下り、顎先から落ちる。

 

 疲れた体を木塀にもたれかからせ、青空をぼんやり見つめる。

 

 ……本当に、こんな凄い体術を思いついた人物には、頭が下がる。

 

 武法の歴史は悠久だ。その起源は、千年前までさかのぼる。

 

 ——かつて、ダーマという青年がいた。

 

 ダーマは貧しくも、とても穏やかで争いを好まない青年だった。

 

 そんな彼は、精霊たちからも愛されていた。

 

 当時、大陸を支配していた王朝は、腐敗と退廃に彩られた末期に突入していた。

 

 一掴みの穀物すら流血の種になる当時の世の中に、心優しいダーマは心を痛めた。

 

 武の精霊は、そんな善良さに心を打たれ、ダーマに「精霊の武術」を授けた。

 

 ダーマは数年の修行で、その「精霊の武術」を極めた。武の精霊は「その武術は、お前の好きに使いなさい」と言い、ダーマの前から消えた。

 

 その「精霊の武術」を、ダーマは世のため人のために使う道を選んだ。

 

 多くの人々がダーマの神武に救われ、心惹かれ、やがて彼の元へ多くの人々が集まった。ダーマは集まった人々に、自分の持つ「精霊の武術」を伝えた。

 

 弟子達はダーマを強く慕った。彼らにとってダーマは偉大なる師であり、そして神にも等しき存在だった。国が腐敗し、貧しさから抜け出せず、救いも希望もなかった人民にとって、ダーマはまさしく一筋の希望の光であった。

 

 だが、君主たる自分を差し置いて人心を掴むダーマの存在を面白く思わなかった暗君が、ダーマを強引に捕まえて極刑に処そうとした。ダーマは抵抗しなかった。「もし抵抗したら、お前の弟子も皆殺しだ」と、脅されていたからである。

 

 ダーマは首を断たれ、絶命した。暗君はその師の首を弟子達のもとへ送り届け、希望を削ぎ、叛意が死ぬことを期待した。

 

 だがそれが逆に弟子たちの憤怒を買った。弟子達は当時朝廷に反乱を起こしていた勢力に加わり、腐った王朝を打倒せんと蜂起した。

 

 ダーマの残した「精霊の武術」は、朝廷軍を猛烈な勢いで屠っていき、やがて首都をも陥落させ、暗君の首をダーマと同じように刎ねた。

 

 こうして、新しい時代が始まり、人々に希望が戻った。

 

 平和な世になってもなお、ダーマへの信仰は廃れることなく続いた。

 

 やがてダーマは【武神ダーマ】として扱われ、【黄林寺(こうりんじ)】という寺院で祀られることになる。「精霊の武術」も【黄林寺拳法(こうりんじけんぽう)】という名前に変わり、千年経った今なお脈々と伝えられている。

 

 さらにその【黄林寺拳法】は、様々な分派を生み出した。

 

 それらは星の数に匹敵するほどに増え、やがて【武法】と総称されるようになった。

 

 ——以上が、武法の歴史のあらましである。

 

 どこまでが事実で、どこまでが【黄林寺】の権威付けのための作り話であるのか、リンフーには分からない。

 

 けれど、武法を生み出してくれた人物がいるお陰で、自分はこうして楽しい日々を過ごせている。

 

 そのことに関しては【武神ダーマ】とやらに感謝したいと思った。

 

 リンフーはそんな物思いにふけった小休止の後、再び修練に励んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 食事を作るのはいつもリンフーだ。小さな定食屋だったが、それを切り盛りする母の料理の腕前は本物だった。店の手伝いがてら、母から料理の手ほどきを受けていたのである。

 

 それだけでなく、家事全般がリンフーの仕事となっている。

 

 タダで稽古させてもらっていることへの恩返しということもあるが、それ以上にシンフォの生活力の無さを見かねてのことであった。油断すると部屋がすぐに散らかるし、食事が酒とツマミばかりになりかねなかった。

 

 一方で、生活資金を稼ぐのはシンフォである。彼女の本業は医者だ。おまけに腕も良い方。なのでそれなりに稼げるが、その稼ぎの大半は酒代に消える。あの新居が酒瓶酒甕蒐集場(しゅうしゅうじょう)になる日はそう遠くはないだろう。

 

 ちなみに新居を医院とはせず、外で売り込みをかけるそうだ。シンフォ曰く「人死にが出た建物で医院なんか構えても、縁起が悪すぎて誰も来ないだろう」とのこと。

 

 朝食をすませたシンフォが稼ぎに出ていくのを見送る。リンフーはしばらく部屋を掃除してから、暇になったので外へ出ようと思った。せっかく【槍海商都】まで来たのだ、物見遊山に行きたかった。

 

 食卓の上に外出する旨の書き置きを残してから、リンフーは外へ出た。

 

 現在は「陽の六月(六月)」の上旬で、季節は初夏。今はまだそれほど暑くはないが、空気は日に日に熱を持ち始めていた。

 

 これからは体を冷やす食材を使おうかなと考えながら、リンフーは石畳で舗装された街路を歩いた。

 

 まず最初に、この都の中央にある広場へと来た。

 

 この巨大な【槍海商都】の中心には中央広場があり、そのさらに中心には【尚武環(しょうぶかん)】という大きな円形闘技場がある。離れた場所から見ると、巨大な冠に見える建物。東西南北の入り口から中に入ることができるようで、一部の部屋を除いて出入りは自由だった。

 

 さらにその【尚武環】の隣には、頂点の屋根が尖った巨大な四角柱の建物が建っていた。頂点付近の壁面には大きな時計が取り付けられていて、針が現在の時刻を指していた。正午まであと二時間ほど。

 

 そう、時計塔である。名は【霹靂塔(へきれきとう)】。外国の技術を使って作られたのだという。

 

「でっけぇー……」

 

 これぞ都と言わんばかりの、高度な設備と豪壮な景観。お上りさんなリンフーの視線はあちこちを滑り回っていた。

 

 残念ながら、【霹靂塔】には関係者以外入れないのだそう。そこで働いている技師のおじさんにそう言われた。

 

 とぼとぼと時計塔から去ろうとする寸前、その外壁に紙が一枚貼り付いているのが目に入った。近寄って確かめる。

 

「えっと、なになに……【槍海大擂台(そうかいだいらいたい)】?」

 

 それは、近々行われる予定の、武闘大会の貼り紙だった。リンフーも聞き覚えがあった。

 

 一年に一度【槍海商都】で催される大会。

 

 「試験」を経た十六名の武法士が、勝ち抜き形式で試合をする。

 

 最後まで勝ち抜いて優勝すると【槍海覇王(そうかいはおう)】の称号が与えられ、武法士としての名誉と、一部の店で一年間の大幅値引きの権利が与えられる。

 

「これは……!」

 

 一武法士として、気持ちがたぎるのを実感する。

 

 だが、参加者選出期間を見たリンフーは、一気に気分を消沈させる。

 

 今日までだったのだ。

 

「ていうか、参加者ってどうやって選ぶんだ……って、字が読めないぞこれっ」

 

 肝心の参加資格取得方法の欄の文字が、消えていて読めなくなっていた。おそらく雨に当たって墨が落ちてしまったのだ。

 

 でっかい溜息とともに、リンフーはとうとう諦めた。

 

 今日で期日って時点でかなり厳しいのに、今から参加資格取得条件を探す気分にもなれない。……来年は絶対出よう、リンフーは誓った。

 

 【槍海大擂台】のことは忘れることにし、気を取り直して街の散策を続けることにした。

 

 リンフーはシンフォから「小遣い」と称して少ないながらお金を毎月もらっている。自分は武法を修行しに来たのだから金なんかいらない、と最初は拒否したが「子供のくせに何言ってる? いいからもらっておけ」と半ば強引にシンフォに渡された。しかし、あまり使っていないため、現在リンフーは結構な額の小遣いを貯めこんでいた。

 

 どこかで何か食べようと思い、リンフーは周囲を見回していると、見知った横顔を見つけた。

 

「あれって……」

 

 チウシンだった。広場の端にある腰掛けに座っていた。

 

 上は胸部を大きく盛り上がらせている長袖の稽古着だが、下は裾が極々短い穿き物であるため、陽光を反射するほど艶やかな美脚が大胆に露出している。しかしチウシンは恥じることなく、右脚をおおっ広げていた。

 

「お、おいおい、なんてはしたな——んっっ?」

 

 慌てて目を逸らそうとしたが、視線を再びチウシンの美脚に戻す。別に見たくなったからではない。気になるモノを見つけたからだ。

 

 左足は靴を履いているのに、右足は靴を履いていなかった。太腿を開いて上に持ち上げられたチウシンの右足の指先は、串焼きの棒の末端をしっかり握っていた。串焼きはそのまま右脚で口元まで運ばれ、それをはむっと頬張るチウシン。

 

 チウシンは串焼きを食っていた——足で。

 

「な、何してんだ、あいつ……」

 

 リンフーは唖然としながら、その珍奇な食事風景を見守っていた。

 

 けれど、足で串を持って食べるチウシンの動きと姿勢は、非常に慣れている感じがした。まるで日常生活で当たり前にこなしているかのように。特にその足の柔軟性と器用さには、目を見張るものがあった。

 

 あっという間に全部食べきると、チウシンは串を近くの屋台の親父さんに返し、その場を立ち去ろうとして、

 

 目が合った。

 

 リンフーはギョッとするが、無視するのも気が引けたため、バツが悪い表情のままチウシンに近づいて、

 

「よ、よう、チウシン……」

 

「こんにちは、リンフー! こんなところで会えるなんて偶然だね!」

 

「お、おう。あのさ……その、さっき足で串焼き食ってるの、見ちゃったんだけど、あれ、どうしてなんだ?」

 

 リンフーが恐る恐るそう尋ねると、チウシンは少しも恥じらう様子もなく、あっさりと答えを明かした。

 

「ん? 修行だよ? 【六合刮脚(りくごうかっきゃく)】の」

 

「えっ、マジで? もしかして……ユァンフイさんも、その、足で飯を食ってたりするのか」

 

「うふふふ、違う違う。これはわたしが自分で考えた修行なの。【六合刮脚】は蹴りの武法。足を手と同じくらい器用に使うべきなの。だから、本当に足を手の代わりにしてるんだ」

 

「へ、へぇ……」

 

 若干やり過ぎな気がしないでもないが、リンフーは苦笑いを浮かべて相槌を打った。

 

 リンフーより若干背が高いチウシンは、リンフーの顔を覗き込み、

 

「ところで、リンフーはどうしたの? 散歩?」

 

「ああ、うん。暇だったから、都を見て回ろうかなって」

 

「そうなんだ。あ、じゃあさ、わたしが都を案内してあげるよ! 今道場休みで、わたしも暇だからさ!」

 

「いいのか?」

 

 チウシンは「もち!」と元気よく肯定した。

 

「それじゃあ、頼めるか? ボク、どこに行こうか迷ってたからさ」

 

 再び、チウシンは強く頷いた。

 



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出会って早々口喧嘩

 チウシンに連れられるまま、リンフーは【槍海商都(そうかいしょうと)】の物見遊山を楽しんだ。

 

 色々な店や名所へと案内してくれた。今まで食べたことのない、異国の珍妙な菓子なんかも食べた。

 

 田舎者であったリンフーにとってはどれも新鮮で、足を進めるたびに感動を新たな感動で塗り替えた。

 

 途中で中央広場の方角から、ごぉぉん、ごぉぉん、という重々しくも甲高い音色が微かに聞こえてきた。

 

「【霹靂塔(へきれきとう)】の鐘の音だよ。正午になると鳴るんだよ」

 

 そのチウシンの説明に、リンフーは「へぇー」とさらなる感動を抱いた。

 

 時計塔の鐘が鳴った現在、二人はこれまで以上に人の多い場所に立っていた。

 

 そこは大規模な船着き場だった。

 

 多くの船が停泊しており、船と陸の間を絶え間なく船乗り達が出入りしている。人間と一緒に船から出入りしているのは、大小さまざまな荷物。

 

 船着き場から後方へ離れた場所では天幕がたくさん並んでおり、あらゆる物品が売られていた。明らかに異国のものと思われる品が多い。中には高い酒精を誇る北国の酒や、極東の島国原産の濁り酒なんかもある。シンフォさんが来たら大喜びしそうだな、とリンフーは思った。

 

 ガヤガヤと人の営みの音が絶えないその場所は、【槍海商都】の交易場である。

 

 広大な円形の【槍海商都】。その南東へ虫瘤みたいに出っ張ったその交易場は、南西を流れる【奐絡江(かんらくこう)】の支流と東の海を結ぶ運河に沿って存在している。この運河によって、【槍海商都】は【奐絡江】を介して大陸中と繋がっているだけでなく、海外の港とも繋がっているのだ。ゆえに、国内外のモノやヒトが入り乱れている。

 

 そんな力強い人の営みを、使われていない木箱に座ったリンフーは惚けた顔で眺めていた。

 

「……すごいなぁ」

 

「リンフーもそのうち慣れるよ。昨日から、ここで暮らし始めたんだよね?」

 

「そんなもんかな」

 

 隣に座るチウシンは頷くと、足に持った串料理をひと齧りした。丸っこい馬鈴薯(ジャガイモ)を揚げて串刺しにしたものだ。

 

 よく咀嚼してから、こくん、と飲み込むと、チウシンは唐突に話の進路を変更した。

 

「そういえばリンフーって、あの綺麗なお姉さんに武法を習ってるの?」

 

「シンフォさんのことか? ああ、そうだよ。習い始めて四年になるかな」

 

「そうなんだ。あの人、リンフーのお姉さんとか?」

 

「違うよ。ボクの保護者みたいなものだけど、血の繋がりはない。あと、シンフォさんは【亜仙(あせん)】だから、お姉さんって呼び方は必ずしも適切じゃないかも」

 

「嘘っ? すごいなぁ。あんなに綺麗なまま何十歳も歳取っちゃうなんて、やっぱり羨ましいなぁ」

 

 羨望するように目を輝かせるチウシン。

 

 やはり女性は誰であっても、「不朽の若さ」に憧れを抱いてしまうのだろう。

 

 ——【亜仙】とは、武法の修行者が稀に獲得する後天的体質である。

 

 武法は人体の潜在能力を解放する武術だ。熟練すると肉体が活性化し、常人よりも老化が遅くなったりする。そのため武法士には、見た目と実年齢が若干噛み合わない人が少なくない。

 

 だが、稀に修行の過程で肉体が大きく変質し、外見的な老化が完全に止まってしまう人間も現れる。……それこそが【亜仙】。

 

 その【亜仙】であるシンフォは非常に見目麗しい外見をしているが、実はリンフーの何倍も年上なのである。

 

 だが、あくまで外見の老化が止まるだけだ。寿命は普通の人より多少長くなるものの、やはり寿命はあるのだ。「不老長寿」ではあっても「不老不死」ではない。

 

 ……伝説では、外見の不老だけでなく、寿命そのものも克服した完全なる不老不死【真仙(しんせん)】なるものが存在するが、あくまで伝説である。

 

「そういえばね、この都にも【亜仙】の武法士が一人いるよ。范慧明(ファン・フイミン)っていう凄い人なんだけど」

 

 チウシンの発言に、リンフーはビクッと反応。

 

范慧明(ファン・フイミン)って……まさか【白幻頑童(はくげんがんどう)】のことか!? 変幻自在の歩法を得意とする【奇踪拳(きそうけん)】の達人で、武法の世界における生ける伝説! まるで瞬間移動みたいに一瞬で遠くまで移動できる不思議な技の持ち主で、殴ったと思ったら背中にいて、遠くにいたと思ったら間近まで近づかれて蹴られてるっていう……理屈はよく分からないけどとんでもない技と強さを持った女傑! 見た目は幼女だけど、その実年齢は百を超えてて、いくつもの武勇伝を抱えてて——」

 

「てい」

 

「はむぐっ……美味いなこれ」

 

 うるさい口を、チウシンの馬鈴薯(ジャガイモ)揚げが塞いだ。

 

 もふもふとリスのように咀嚼するリンフーに、チウシンはクスクスと笑声をこぼした。

 

「リンフーって、本当に武法の英雄豪傑が大好きなんだね」

 

「おうとも。大好きだぞ。【一打震遥(いちだしんよう)】、【一指通天(いっしつうてん)】、【拳林衝雨(けんりんしょうう)】……いろんな英雄好漢の伝説を知ってるぞ。特に【一打震遥】はボクのお気に入りだ。あまねく戦いを一撃で終わらせてきた……まさしく男の戦いって感じだ。一日中だってその武勇伝を話せるぞ」

 

「へぇー。でも一日中話すのは嫌かなぁ」

 

 チウシンのもっともな意見に、リンフーは相好を崩した。

 

「リンフーはさ、どうしてそんなに武法の英雄が好きなの?」

 

 その何気ない質問に、リンフーは遠き日を懐かしむように空を見上げながら、しみじみ答えた。

 

「……昔、助けてもらったんだ。英雄に」

 

「英雄?」

 

「うん。ボクの実家、小さい定食屋をやってるんだけどさ、四つの頃、強盗が来たんだ。……金目当てじゃなくて、母さんが目当てだった。母さんは身贔屓を抜きにしても、とても美人だった。だからそいつらは母さんを誘拐して売ろうと考えてたんだ。ボクは母さんを助けようとしたけど、ボクは当時四歳だった上に、そいつは武法士だった。あっさり半殺しにされて、母さんは連れて行かれそうになった。そこで……」

 

「英雄が来た?」

 

「うん……偶然店で飯を食ってた武法士が助けてくれたんだ。恐ろしいその悪漢どもを、あっさりと倒しちゃったんだ。連中はそのまま死んじゃったけど、結果的にボクと母さんは助かった。ボク達がお礼を言うと、その武法士は頷いただけで、勘定を払って無言で出て行っちゃったんだ」

 

 当時のことを思い出し、リンフーは嬉しそうに微笑した。

 

「めちゃくちゃカッコ良かった。四人をあっさり殺してのける強さにじゃない、人を助けることを当然のようにこなし、それに対する見返りを求めないで黙って去っていく……あれこそ、男の中の男だと思った。ボクは、あんな男になりたいって心から思った。……ちなみに後々分かったんだけど、その武法士こそが【一打震遥】だったんだ」

 

「だから、【一打震遥】のことがそんなに好きなんだね」

 

 リンフーはニコニコしながら頷いた。

 

 チウシンもつられてニコニコしそうになったが、何か思い出したようにハッとすると、少し表情を曇らせた。

 

「でも【一打震遥】って、もう……」

 

「知ってる。ナントカって言う武法士と決闘をして、死んでるんだろ? 確かに悲しいけど……でも仕方ないさ。互いに合意の上の決闘だったらしいから、そうである以上罪にはならない。【一打震遥】だって、それを承知で戦ったんだ。彼は不当に殺されたわけじゃない、自分の意思で戦って、命を落としたんだ」

 

 リンフーは努めて明るく笑う。

 

 チウシンも曇った表情を引っ込め、微笑を返す。それから足で持った串揚げを差し出した。

 

「はいリンフー! これでも食べて元気出して!」 

 

「え、いやあの、足で渡されるのはちょっと」

 

「いいからいいから! はい、あーん」

 

 足で食べさせようとする姿勢を頑として崩さない、蹴り使いの美少女。

 

 美脚というのはこういう脚のことを言うのだろう。蹴りを多用する武法を習熟しているはずなのに、その脚には歪みの一つもない。程よく細く、されとて瑞々しい肉の凝縮が見てとれる健康的な全体像。リンフーの顔が映りそうなほどの艶やかさを誇る下腿の肌は、まるで磨きあげられた銀のよう。五指は完璧な長さの配分で、爪も綺麗に整っている。……そのふっくらとした指が、串揚げの棒を摘んで、リンフーの顔の前まで突き出されていた。

 

「う……」

 

 なんだかとてもイケナイ事をしているような感じがして、リンフーの頬が熱を持った。

 

 食べようかどうか迷っていると、

 

 

 

「——チウシン? 何をしているんだ、こんなところで」

 

 

 

 知らない声が、チウシンの名を読んだ。

 

 若い男の声だ。そう思いながら、リンフーは音源を振り向いた。

 

 船乗りの往来を背景にして、一人の青年が立っていた。

 

 歳はリンフーと同じくらいか、あるいは少し上。

 

 うっすら赤みがかった黒髪。それなりに端正だが気の強そうな面構えで、瞳にはみなぎる生気が光っている。細身だがどことなく鍛えられていることが分かる体軀。左腰には細身の直剣が帯びられていた。

 

 燃えくすぶっている熾火を連想させる青年だった。

 

 そんな青年に対し、チウシンは慣れた口調で話しかけた。

 

「あ、励峰(リーフォン)。こんちわっ」

 

「ああ。ところで、こんなところで何をしているんだ?」

 

 気の強そうな顔立ちだが、チウシンと話し始めると、少しばかりその表情が和らいだ。微笑さえ見える。

 

 チウシンは、にはっと笑いながら答えた。

 

「ちょっと、昨日この都に越してきた人を案内してたんだ! 良かったら、リーフォンも一緒にどうかなっ?」

 

「その娘をか?」

 

 その青年——リーフォンは、リンフーの顔へ目を向けてそう訊いた。チウシンは首肯を返す。

 

 娘。

 

 今、チウシンと一緒にいる人間は、リンフーしかいない。

 

 つまり、リンフーを女だと勘違いしている。

 

 女の子みたいな顔と、華奢で小柄な体つきだ。間違えられることもある。だが、それでもリンフーはちょっとムッとした。

 

「誰が娘だ。ボクは男だぞ」

 

 抗議の口調でそう言葉を投げた。

 

 途端、リーフォンは信じられぬとばかりに目を見開く。だがしばらくすると驚愕の表情は、警戒と疑念、そして微かな不快感を混ぜたような表情へと変じた。

 

「男、だと……? おい小僧、チウシンに妙な狼藉を働いてはいないだろうなっ?」

 

 ツカツカと詰め寄りながら、火の粉を吐くようにそう尋ねてきた。

 

 その物言いに、リンフーは本格的にカチンときた。

 

「小僧じゃない、リンフーだ! それに妙な狼藉って何だ!? 何でポッと出のお前なんかにそんな下衆の勘ぐりをされなきゃならないんだ!?」 

 

「ポッと出だとっ!? 俺はチウシンの幼馴染なんだ! 貴様の方がポッと出だろう!」

 

「やかましい! 今いきなり現れた時点でボクにとっちゃポッと出だ、このポッと出野郎!」

 

「貴様言うに事欠いて! 俺を侮辱する気か!? 覚悟は——いてっ?」

 

 燃え上がりそうになっていたリーフォンの頭を、チウシンの踵がぽくっと軽く叩いた。

 

「もう! 失礼だよリーフォン! この都に来たばっかりなんだから、歓迎しないとっ」

 

 ぷりぷり怒るチウシンに、幼馴染の青年は悪戯を咎められた子供のような顔で、

 

「俺はただ……その、お前が心配だっただけであって」

 

「心配してくれるのはありがたいけど、それで誰彼構わず突っかかるのは違うよね? さぁ、リンフーに謝って?」

 

「えっ……な、何で俺が」

 

「リーフォンが先に怒らせたんだから、謝るのもリーフォンが先! さ、早く!」

 

 そう強く促されると、リーフォンは苦虫を噛み潰したような顔をしながら、リンフーへ言った。

 

「す……すまなかった」

 

 リンフーは頷くだけで、「こちらこそ」とは言わなかった。謝りたくないけど渋々、という気持ちが見え見えだったからだ。

 

「よしっ、よくできたね! 偉い!」

 

 リーフォンの頭をさすさす撫でるチウシン。……足で。

 

 さっきまで血気にはやっていた青年が、借りてきた猫のように大人しくなる。それどころか、頬にほんのり朱が浮かんでいた。

 

 ……それは、チウシンに対する「ある気持ち」を示唆する反応に他ならなかった。もっとも、チウシンは全く気づいてはいないが。

 

「リンフー、紹介するね! 彼は高励峰(ガオ・リーフォン)。【吉剣鏢局(きっけんひょうきょく)】のお頭の次男坊で、わたしの小さい頃からの幼馴染だよ!」

 



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売り言葉に買い言葉

 現在の煌国(こうこく)は、大まかな情勢的には平和ではあるものの、犯罪が一つもないわけではない。

 

 金品を持ちながら道を歩いていれば、山賊などの餌食になることだってある。

 

 だからこそ、陸路を通って街から街へ荷を運ぶときは、必ず用心棒が必要となる。

 

 そこで生まれたのが【鏢局(ひょうきょく)】という業種だ。

 

 【鏢局】とは、運送業と護衛業が一体化した組織である。

 

 荷物を陸路で輸送する時は、必ずと言って良いほど【鏢局】の出番となる。

 

 鏢士(ひょうし)——【鏢局】に所属する護衛の武法士——に守られながら、荷車は街から街へと移動する。

 

 【鏢局】はもはや、この大陸になくてはならない存在だ。有名な【鏢局】だと、諸侯から皇帝への献上品を送るという大役を任されることもある。

 

「——【吉剣鏢局】って言ったら……有名所の一つじゃないか! 確か以前、諸侯から皇帝への献上品を帝都まで運んだって! しかも、その途中で襲ってきた盗賊を返り討ちにしたって話だよな!?」

 

 リンフーの興奮気味な声が、茶葉の香りの宿った空気を揺さぶった。

 

 リンフー、チウシン、リーフォンの三人は、【清香堂(せいこうどう)】という小さな茶館で一休みしていた。四角い机一つを、隣り合わせに座ったチウシンとリーフォン、その向かい側に座るリンフーが挟んでいた。

 

 チウシンは、ほぇー、と感心したような声を漏らしながら、

 

「凄いね、やっぱりリンフー知ってたんだ」

 

「そりゃ当然! 【鏢局】って言ったら、武法士が伝説を残す舞台の一つじゃないか! ——莫大な財宝の詰まった荷車! それを舌舐めずりしてつけ狙う悪逆非道の賊徒ども! されど宝には精強な番人がつきもの! 金銀財宝へ伸ばされる悪どい手の数々を拳で砕き、刃で断ち、槍で貫き荷を守る! しかしてその荷は都へ達し、帝の微笑み、人々への恵みをもたらさん! 【鏢局】、それは人々の笑顔の運び手、命の運び手、そして勇しき伝説の運び手! 今日も荷を持ち誇りを帯び、東へ西へ南へ北へ……」

 

 昔読んだ鏢士の物語の中の一文を、リンフーは芝居がかった口調でそらんずる。

 

 チウシンがクスクス笑うのとは正反対に、リーフォンは不快げに鼻を鳴らす。

 

「ふん、夢見がちなガキめ。【鏢局】の仕事を英雄ゴッコだと思っているのか?」

 

 あからさまな悪態にリンフーは眉をひそめ、チウシンは「こらっ」と幼馴染を注意する。

 

 リンフーとリーフォン。互いの第一印象は最悪と言ってよかった。

 

「しかし、こいつが【吉剣鏢局】の次男坊、ねぇ……」

 

 細めた目をリーフォンへ向け、意味深な口調でそうこぼした。

 

 リーフォンも眉間のシワを数本増やし、

 

「何か言いたそうだな。吐かしてみろ、小僧」

 

「言ってもいいけど、余計な争いが起こるから言わない。お前と違って、誰彼構わず噛みつく野良犬じゃないからな、ボクは」

 

「……喧嘩を売ってるのか、貴様」

 

「先に突っかかってきたのはお前だろ?」

 

 再び一触即発の空気を作り出した二人を、チウシンが「こーらっ!」と叱りつける。

 

「ほら、言い争いはやめてお茶でも飲もうよ! せっかく来たんだから!」

 

 そう言って、チウシンは茶杯を両足で挟むように持ち、口元まで持ってきてすする。……何回見ても珍奇な光景だ。他の客も奇異の目で彼女を見ていた。

 

 隣で白い素足がおおっ広げられている様子に、リーフォンは少し顔を赤くしながら、

 

「チウシン……何度も言うが、女がそういうはしたない格好をするものじゃないぞ」

 

「えー、いいじゃない。これも修行の一貫だよ?」

 

「しかし、人の目というものが……」

 

 口を挟まず、黙って茶をすするリンフー。リーフォンの意見には若干同意するが、困った顔をもっと見たいので傍観を決め込む。もっと困れ。

 

「もう、リーフォンったら。リンフーは別に何も言わなかったよ? ねーリンフー?」

 

 突然自分にお鉢が回ってきて、傍観者リンフーはビクッとなる。

 

「いや、まぁ……それも一種の修行なんじゃないか?」

 

 若干やりすぎかもだけど、という言葉をすっぱ抜き、リンフーは一応肯定を示す。

 

 それに、普通はしないような奇妙な訓練は、自分も経験があった。

 

「ボクだって、歩法の練習の一貫として、足を使ってひたすら字を書く練習をさせられてたんだ。いろいろな動きを足にさせることになるから、足の器用さを養う訓練になるって、シンフォさんが言ってたから。最初はこんなんで強くなれるのかなと多少は思ったけど、今となってはやっておいて良かったと思ってるよ。この修行をしばらく続けた後に型を練習したら、足さばきのぎこちなさがだいぶ無くなってたし」

 

「【天鼓拳(てんこけん)】だっけ? あれ本当に凄い武法だよね! 煙みたいに姿が消えたと思ったら、とんでもなく重たい技を打ってくるんだもん! 四年の修行であんなに強い威力の技を育てられるなんて、今まで見たことないよ!」

 

「ありがとう。……というより、ボクの【天鼓拳】には、型が一つしかないんだ。ほとんどの武法にはそれぞれの目的を持った多くの型があるらしいけど、【天鼓拳】はたった一つの型を通して、打撃や歩法、その他いろいろな技術を一度に覚えられるんだ。だから効率が良いんだ。……あ、これはシンフォさんの受け売り」

 

「そうなんだ! 確かに効率が良いね! 【六合刮脚(りくごうかっきゃく)】も型が七つくらいあるから、わたしはあらかじめ練習目標を一つ決めて、それに応じて練習内容を決めてるんだ! でも、全部蹴り技だから、足の器用さの訓練は全部の型の大きな基礎になるんだ! だからこうやって日常生活の中で足をたくさん使ってるの! 良い考えでしょ!」

 

「あははは……でも、チウシンの【六合刮脚】は凄かったなぁ。いろんな所にグルグル回って蹴られまくって、負けるかと思ったよ」

 

「わたしだって、最後リンフーの突きが当たるかもしれないと思ったもん。一度も実戦経験ないままあれだけ戦えたんだから、リンフー、これから絶対もっと伸びるよ」

 

 ニコニコと笑いかけてくるチウシンに、リンフーは少し赤くなって唇を尖らせた。

 

 リンフーは昔から褒められるのに弱かった。称賛に慣れていないというのもあるが、何となく恥ずかしくなってしまうのだ。

 

 和やかな気配を生み出す二人。

 

 ……リーフォンはそんな二人を、ひどくつまらなそうに見つめていた。

 

 最初はそれだけだったが、幼馴染の満面の笑みがリンフーという別の男に向けられていると感じた瞬間、そのつまらなさは苛立ちへと変じた。

 

「【天鼓拳】、だと? ふん、聞いたことがない流派だな。実力はいかほどのものか、語っただけでは分からん。それとも【天鼓拳】とは口で戦う武法なのか? 天鼓、天鼓と、口で雷が落ちる音でも再現して相手を驚かすのか? 怖がりな子供には効くかもしれんな」

 

 相手の流派を不用意に貶すことは、武法士にとって忌むべき行いだ。けれど苛立っていた今のリーフォンの頭からはそんな常識が吹き飛び、気が付くとそんな悪態をついていた。

 

 案の定、リンフーは机を叩いて勢いよく立ち上がる。中性的な美少年の顔を静かに怒らせながらリーフォンを睨み、凄んだ。

 

「おい、今なんて言った? もう一回言ってみろ」

 

 リーフォンは言ってから失言を自覚した。だが、一度吐いてしまった唾は飲めない。

 

 何より、自分が昔から憧れている幼馴染と、たった一日でこれだけ意気投合しているこの少年に対する嫉妬心が、前言撤回して謝罪するという選択肢を選ばせてくれなかった。

 

「【天鼓拳】などという田舎拳法のことなど存ぜぬ。実力が分からんうちはな」

 

「シンフォさんの【天鼓拳】を舐めるなよ。お前のウンタラっていう武法なんか、一撃で瞬殺だよ」

 

 売り言葉に買い言葉。リンフーもまた、まだ見ぬリーフォンの武法を侮る言葉を文脈に混ぜた。

 

 リーフォンも勢いよく立ち上がった。机越しにリンフーの胸ぐらを掴む。

 

「——試してみるか? 我が一族に伝わる【箭走炮捶(せんそうほうすい)】の力の程を。実戦でな」

 

「——上等だ。あと引っ張んな。服が破れる」

 

「ちょっと二人ともっ! 落ち着いてよ、喧嘩はダメだよ、ね?」

 

 本格的な対立へと向かっていく二人に、チウシンは静止を訴えかける。

 

 だが男二人に、その言葉は聞こえていなかった。

 



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経験差に立ち向かえ!

 その茶館【清香堂(せいこうどう)】の近くに小さな闘技場があったことは、二人の戦意の鮮度を保ったまま試合に持っていく要因になった。

 

 闘技場が遠くにあれば、ある程度歩いているうちに気の昂りが多少落ち着き、話せる予知が生まれるのではと思っていたので、チウシンは頭を抱えたくなった。

 

 闘技場で睨み合う二人の武法士を、もう誰も止めることは叶わなかった。

 

「リンフーとか言ったか。俺は手加減せんぞ。腹をくくってかかるんだな」

 

「それはこっちのセリフだよ馬鹿。後悔して泣き出しても知らないからな」

 

「……その生意気な口がいつまで利けるのか、見ものだな」

 

 静かな怒気を孕んだ声でそう言うと、リーフォンはおもむろに左腰の剣を抜き放った。

 

 細い両刃の直剣が外界に晒された。冷たい金属の塊が、昼の陽光を控えめに反射する。まごうことなき刃の輝きだ。

 

 その輝きに当てられ、リンフーは否応なしに緊張感を強いられた。

 

 ——武法同士の戦いにおいて、剣や刀、槍などは一撃必殺の武器にはなり得ない。

 

 【(こう)】という、己の肉体の硬度を一時的に鋼鉄並みに高める技術が存在するからだ。【鋼】を使えば刀剣や矛先は防げる。だからこそ、武器が無かったから勝てなかった、などという言い訳は通用しないのである。

 

 武法は素手の拳法を基盤として体系化されており、武器はその拳法の術力で操ることができるように作られている。武器の役割は、間合いの延長、または戦術の拡張という程度である。

 

 リンフーは刃物への恐怖心を少しでも薄くするため、シンフォからいろいろな訓練を施された。その甲斐あって今ではかなり恐怖が薄れたが、戦意をもって刃を握る敵とこうして実際に相対してみると、否応なしに刃を気にしてしまう。

 

 だが、引き下がることはあり得ない。

 

 こいつはシンフォが授けてくれた【天鼓拳(てんこけん)】を侮辱したのだ。一発入れてやらないと気が済まない。どでかい一発を。

 

 二人は互いに右掌左拳の抱拳を行い、名乗りを上げた。

 

「——【天鼓拳】、汪璘虎(ワン・リンフー)

「——【箭走炮捶(せんそうほうすい)】、高励峰(ガオ・リーフォン)

 

 それを境に、戦いが始まった。

 

 次の瞬間、剣尖がリンフーの右胸へと急迫した。

 

「うおっ!?」

 

 無論、当たる前に知覚できたので回避は間に合った。【游雲踪(ゆううんそう)】による「最速の一歩」で剣尖の延長線上から瞬時に身を外し、剣尖は霞のごとき残像を穿つ。

 

 リーフォンは目を見張るが、それは一瞬のことで、すぐに右の爪先で蹴ってきた。

 

 これもまた【游雲踪】で回避しつつ、リーフォンの右を取る。突き出されたリーフォンの蹴り足の真上を滑らせるように左肘を走らせた。狙いは【移山肘(いざんちゅう)】という肘打ち。【天鼓拳】の例に漏れず術力はそうとうに重い。

 

 しかし肘が当たる直前に、リーフォンの体が急激に遠ざかった。目標を遠くへ逃し、踏み込みに合わせた左肘が虚空を貫く。

 

 かと思えば、その遠間からまた急激に距離を縮め、剣で突いてきた。まるで()が往復したような驚くべき速度だった。

 

「くっ!」

 

 リンフーは前に出ていた左前腕に【鋼】を施した。一時的に鋼鉄並みの硬さを得た前腕部で剣尖を受け、外側へ滑らせ、後ろへ流す。

 

 やりすごしたと思った瞬間、すかさず次が来た。刺突の失敗からほとんど間を置かずに、靴裏で踏み押すような蹴りがリンフーの胴体にぶち当てられた。

 

「ぐっ……!」

 

 刺突に気を取られていて、蹴りに対する知覚がおろそかになってしまっていた。撞木で打たれたかのごとき衝突力に弾き飛ばされる。

 

 勢いよく流されるリンフーを、それ以上の速度でリーフォンが追い縋ってきた。放たれた刺突を、【鋼】をかけた左掌でガキンッ! と受け止めた。

 

「こん、のっ!」

 

 リンフーは攻められてばかりで頭にきていた。なので、蹴りを放った。

 

 それは考え無しに振り放たれた苦し紛れのひと蹴りで、戦術性は無いに等しかった。……それが偶然リーフォンの手元に直撃し、そこに持っていた剣を真上へ蹴り跳ばせたのは、まさしく幸運と言わざるを得なかった。

 

 回転しながら宙を舞う細身の直剣。

 

 二人は同時にそれへ近づく。虚空を垂直に落ちる剣を挟んで、間近で向かい合う。

 

 リーフォンは当然、剣を取ろうとする。

 

 だがリンフーはそれに対し、【頂陽針(ちょうようしん)】を繰り出した。

 

 猛烈な術力を宿して直進する拳の延長線上には、剣と、その向こう側のリーフォン。

 

 剣に向かって技を打ったのは、リンフーなりの駆け引きだった。

 

 相手が剣を拾いに来るとしたら、その剣はそのまま(リーフォン)を引き寄せるための餌になる。どこに来るのかが分かっていれば、技は格段に当てやすくなる。

 

 だがリーフォンはその手に乗らなかった。腕を伸ばすのを途中でやめ、風のように後方へ退いた。

 

 リンフーの拳の間合いから、敵の姿が遠ざかる。考えていた作戦は失敗に終わったが、計らずも成果はあった。

 

 虚空を舞っていた剣の腹に【頂陽針】の拳が突き刺さり——粉々に砕け散った。

 

 武器破壊。

 

(やった!)

 

 リーフォンの戦術の一つを潰した。リンフーは嬉しい誤算に歓喜を覚える。

 

 しかし、リーフォンは少しも表情を変えない。再びリンフーへ突風のごとく近づき、その過程で宙から掴み取った「ソレ」をリンフーの顔面へ投げつけてきた。

 

「わ!?」

 

 思わず顔を両腕で覆う。投げられたのは剣身を失った柄だった。

 

 反射的に腕で防いだが、それと拍子を重ね合わせる形で、強い衝撃が土手っ腹に衝突してきた。正拳だ。

 

「ぐぁっ……!」

 

 突き抜けるような鋭い衝撃と痛覚に、視界が明滅する。

 

 反応を逆手に取られた。リーフォンは、モノを投げたら両腕で顔を防御するという反応を利用し、敵に目隠しをさせたのだ。

 

 歴然であろう実戦経験の差に、リンフーはまんまとしてやられた。

 

 衝撃の余波で後ろへ押し流されるリンフー。そこへリーフォンは瞬時に追いつき、直線状に蹴りを叩き込んだ。リンフーはさらに弾かれて加速し、壁に背中から衝突。

 

「けほっ、こほっこほっ……!」

 

 咳き込みながらも、リンフーは敵を睨み続ける。

 

 リーフォンは蔑むような眼差しを向ける。

 

「どうした、田舎拳法? これでおしまいか?」

 

「……言わせておけばっ!」

 

 リンフーは怒りを気力に変換し、立ち上がる。

 

 一気に駆け寄り、【頂陽針】。剛槍の刺突のごとき右拳が、風圧の帳をまといながらリーフォンへと爆進する。

 

 リーフォンは左腕を突き出すと、その側面にリンフーの右拳を滑らせた。進行方向を外側へズラし、後方へ流しながら懐へ入る。そのまま左掌でリンフーの胸を衝いた。

 

「ぐはっ!?」

 

 平べったい衝撃に息が一瞬詰まる。後ろへ流される。倒れないよう足で均衡を保つ。

 

 リンフーは反省した。下手な攻めは逆効果だ。怒りに身を任せるな。相手を良く見ろ。いつだったか、シンフォさんにも教わっただろう。

 

 呼吸を整えながらリーフォンを見据え、今までの戦いの記憶を振り返る。

 

(思い出せ、あいつは今まで、どんな動きを多く使ってた……?)

 

 すぐに思い浮かんだ。

 

 真っ直ぐな動き。

 

 刺突、蹴り、掌底、全て直線の軌道を描く攻撃ばかりだ。回し蹴りの類のような円弧軌道の攻撃は今のところ一度も使っていない。

 

 さらに、移動が速い。大きく離れた距離も、一瞬で詰めてくる。

 

 それがリンフーの、これまでの経過を分析した上での見解だった。

 

 ——同時に、リーフォンの使う武法【箭走炮捶】の特徴でもあった。

 

 創始者は、宮廷を守護する宮廷護衛官。

 

 主君や皇族、もしくは高級官僚が予期せぬ凶刃に襲われた際、護衛官は一刻も速くその賊に近づき制圧・打倒する必要がある。

 

 ある宮廷護衛官が、その任務を完遂するのにもっとも適した武法として【箭走炮捶】を作り上げた。

 

 追い求めたのは、「()のような速さ」。

 

 特殊な歩法によって生まれる術力を用いて突風のごとく加速し、瞬時に敵に近づき打倒する。

 

 攻撃の軌道も直線が大半を占める。腕を振ったり回し蹴りをしたりなどという遠回しな攻撃は、【箭走炮捶】の売りである「速さ」を阻害するからだ。

 

 己自身を「箭」に変え、警護にも打倒にも優れた性能を発揮する武法である。

 

「そろそろ倒れて楽になるといいっ!」

 

 再びリーフォンが一気に押し迫る。やはり速い。

 

「舐めるなよ!」

 

 けれど、打とうとしている右拳の動きが見えた。「知覚」出来ている。

 

 リンフーは【游雲踪】でそれを紙一重で回避しつつ、リーフォンの横合いを取った。間を取らずに真っ直ぐな蹴りが迫ってくるが、それも回避した。

 

「ちょこまかと……!」

 

 リーフォンは苛立たしげに毒づいた。

 

 鋭い攻撃が幾度もリンフーを襲う。しかし、いずれも霞のような残像を貫くばかり。

 

(よく見て対応するんだ……相手に圧倒されて持ち味を失うな)

 

 相手が自分の持ち味で攻めてくるのなら、自分もまた持ち味で対処すればいい。自分に無いモノを相手は持っているが、自分もまた相手に無いモノを持っているのだから。

 

 リーフォンの動きをよく見て攻撃の予兆を観察し、少しでも攻める挙動を見せたのなら【游雲踪】で安全地帯へ身を滑らせる。その膠着状態を保ったまま、相手の付け入る隙を探る……【天鼓拳】の基本的な戦術をそのまま踏襲していた。

 

 だが、やはりリンフーには、まだ経験が足りなかった。

 

 もう何度目か分からない正拳の回避。しかしその拳は、リンフーのすぐ横を紙一重で通過したかと思ったら、そのままリンフーの二の腕を掴み取った。リーフォンはそのまま、勢いよく後退した。

 

「わっ……!」

 

 その勢いに引っ張られ、リンフーの両足が地から浮き上がった。

 

 驚きと同時にリーフォンの企みに感づき、背筋が寒くなる。

 

 確かに【游雲踪】は回避に優れた歩法だが、「歩法」である以上、地に足がついて(・・・・・・・)いなければ(・・・・・)使えない(・・・・)。……今、足は地から浮いてしまっていた。

 

 空中では身動きが取れない。格好の的。

 

 ここでまた、踏んだ場数の差が出た。

 

 まもなく、リーフォンは攻撃をしかけてくるだろう。今の自分にそれを回避する手立てはない。

 

 だがリンフーは食い下がった。

 

 避けられない? だったら——避けなければいい(・・・・・・・・)

 

「こん、のっ!」

 

 ぱしんっ! 

 

 リーフォンの右正拳が放たれるよりも一瞬速く、リンフーはリーフォンの左頬を右掌で引っ叩いた。

 

 無論、術力など宿っておらず、威力は皆無に等しい。

 

 けれどその右掌の一撃は、リーフォンの頭部の位置を傾けることができた。

 

 頭という重い部位が予期せぬ外力によって傾けられたことで、リーフォンの姿勢は大きく崩れ、その結果——技が不発に終わった。

 

(シンフォさんに教わった通りだ……!)

 

 術力というのは、威力を生み出す体術だけでなく、それを支える「形」も重要である。

 

 どれほど高火力の大砲でも、それを支える土台が貧弱では思い通りに飛ばない。

 

 武法の技もまたしかり。どれだけ術力を引き出そうとも、それを支えて打ち出すための「形」が歪んでいれば、術力は分散し、技は力を失くし、体勢は崩れる。

 

 手に入れた一瞬の猶予を使い、リンフーは地を手を付いて受け身を取った。

 

 しかし立ち上がろうとした時には、すでにリーフォンが得意の高速移動で彼我の距離を潰していた。しゃがんで無防備な状態のリンフーのすぐそこまで、蹴りが迫っていた。

 

 このしゃがんだ状態で使える技など——たった一つしか無かった。

 

 リンフーは跳ね上がった。真上へ弾けるような術力によって急激に腰と右脚を持ち上げ、リーフォンの胴体に右の踵を衝突させた。

 

「ぉあっ——!?」

 

 ずんっ、と、空気と大地が震える。同時に、リーフォンの呻き。

 

 【升閃脚(しょうせんきゃく)】。地に足が付いている状態であれば、どのような体勢からでも発動できる強力な垂直蹴り。

 

 リンフーの両足は、まるで天地に楔を打ち込んだように上下へ伸ばされていた。左足は根を張るがごとく大地を踏みしめ、右足は真上にいるリーフォンの胴体を垂直に踏み抜いていた。

 

 柱に腹を乗せて垂れ下がったような有様となっているリーフォンは、完全に気を失っていた。

 

 

 

 

 

 

「————はっ!?」

 

 それから約一分後、リーフォンは自力で覚醒した。

 

「目が覚めた?」

 

 見ると、やや雲が増え始めた青空と、それを背景にしたチウシンの微笑みがあった。

 

 リーフォンは今、闘技場のど真ん中で大の字になっていた。それを、チウシンがしゃがんで見下ろしていた。

 

 しばらくぼんやりとした顔で幼馴染と視線を交え、やがて気恥ずかしくなって、上半身を勢いよく起こした。

 

「痛っ……」

 

 だが、途中で胴体に残る鈍痛を自覚し、顔をしかめる。

 

 同時に思い出す。気を失う直前までの記憶を。リンフーに敗北したという記憶を。

 

 距離を置いて立っているリンフーと目が合う。女顔の美少年は何度かまばたきをしてから、プイッと不機嫌そうに顔を背けた。

 

 その態度が癇に障った。リーフォンはガバッと立ち上がり、リンフーに気炎を吹いた。

 

「おい! もう一度俺と勝負しろ! さっきは油断していただけだ! 次は絶対に負けん! さぁ、来い!」

 

「やなこった。それより、【天鼓拳】を馬鹿にした件を謝れよ」

 

「そんなこと後回しだ! まずはもう一度俺と戦え!」

 

「そんなこと、だと?…………ふん、お前なんかとは死んでもヤだね。とっとと【吉剣鏢局(きっけんひょうきょく)】に帰れ。それで道徳から勉強し直してこい」

 

「貴様ぁっ!」

 

 リーフォンは本格的に燃え上がり、リンフーへ突き進もうとした。

 

 だがそれよりも早く、チウシンの非難がましい声が飛んだ。

 

「リンフー! 今のはいくらなんでも言い過ぎだよ!」

 

 たしかにそうかもしれない。リンフーはそう思い、苛立ちに任せての失言を後悔した。けれど、そもそもこの一件において失礼なことを先に言ったのはリーフォンだ。だからリンフーは謝らず、黙るだけにした。

 

「リーフォンも、落ち着いて。大丈夫だから。リーフォンが本当はもっと強いってこと、幼馴染のわたしが良く知ってるから」

 

 チウシンは優しい微笑を浮かべ、そうリーフォンを慰めてきた。

 

 それを受け、リーフォンは気分を落ち着かせるどころか、さらに屈辱感が増した。

 

 惚れた女の前で無様に負けを晒し、さらにはその女に憐憫されている。

 

 男として、これ以上の屈辱があろうか。

 

「……畜生っ!!」

 

 リーフォンは屈辱で身を任せ、その場を走り去った。

 

「あ、待ってっ!」

 

 チウシンは追いかけようとするも、リーフォンの歩法に追いつくことは叶わなかった。

 



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恥の上塗りを繰り返す

 ——リーフォン、お前を一緒には連れて行けん。

 

 ——確かにお前は腕が立つ。だがあまりに血の気が多い。

 

 ——それでは鏢士(ひょうし)として、いつか取り返しのつかぬ間違いを犯すことだろう。

 

 以前、【吉剣鏢局(きっけんひょうきょく)】の頭である父から言われた言葉だ。

 

 リーフォンは昔から血気が盛んで、よくケンカをした。

 

 挑発されればすぐに乗って、そいつを叩きのめして後悔させてやった。

 

 戦っている時は、楽しかった。

 

 リーフォンは生来の戦士だった。戦国の世であったなら数々の軍功を挙げ、勇猛な将に成り上がれたであろう気質の持ち主だった。

 

 ……だが、鏢士の世界に「勇猛な戦士」はお呼びではない。

 

 鏢士の活躍を語った数多くの武勇伝が存在するものの、そんな風に大立ち回りを演じる鏢士はほんの一部だけだ。

 

 そもそも忘れてはならないのは、鏢局の仕事が「荷物の運搬」であるということ。鏢士はあくまで荷を守る盾と剣に過ぎないということ。

 

 ゆえに、賊と戦うよりも、穏便に物事を解決して、争い無く道中を進むことが求められる。そのために、その土地を縄張りにしている勢力の頭目に金を握らせて大人しくさせたり、武器や威力を見せつけて賊たちに示威をしたりなど、そういった強かさや世渡りの巧さが強く求められるのである。

 

 むしろ、リーフォンのような血気と勇猛さは、余計ないさかいを生み、任務に大きな支障をきたしかねない。容赦の無い言い方をするなら「邪魔」なのである。

 

 リーフォンは鏢士である父に憧れ、己もまた鏢士として活躍したいと願って武を練っていた。けれど、その夢を否定された。

 

 それが悔しくて仕方がなかった。

 

「くそっ、くそっ、くそっ! ちくしょうっ!」

 

 今その苦い思い出が蘇り、ただでさえ惨めったらしい気分がさらに重々しく、恥ずかしいものになる。

 

 ひたすら走っていた。都の中を。

 

 目的地などない。ただただ走り続けるだけ。

 

 空の上では、先ほどまでの青空が、濃厚な鈍色の雲に覆われていた。まるで自分の心中を表しているかのようだった。

 

「くそっ! くそがっ! なんで俺ばかりがこんな思いをするんだっ!?」

 

 しきりに毒づくリーフォンの脳裏には、先ほどのチウシンの微笑みが浮かんでいた。

 

 いつもなら胸が高鳴り、幸せな気分になれるはずの幼馴染の微笑は、今ではただただ辛かった。

 

 自分は昔から、チウシンが好きだった。幼馴染としてでは無く、女として。

 

 そんな女の前で、二重の恥を見せてしまったのだ。思わず剣を喉元に突き刺してしまいたくなる。……その剣は砕かれてしまったが。

 

 自分にこんな屈辱を与えた人物の姿が脳裏に蘇り、思わず切歯する。

 

 ——汪璘虎(ワン・リンフー)

 

 女物の服を着せても違和感が全くなさそうなほど、華奢でチビで優しい顔立ちをした少年。

 

 そんな小さな少年が放った、桁外れの術力。

 

 食らった瞬間、まるで全身を巡る血が一気に沸騰して体の外へ飛び出しそうな感じがした。痛いを通り越して気持ちが悪いといえる一撃。今なお蹴られた箇所がジンと重く痛む。

 

 今まで多くの武法士と交流、もしくは喧嘩をしてきたが、あんな力が出せる武法は知らない。少なくとも、十を過ぎて半ばほどの少年が出していい威力ではなかった。

 

 リンフーのことは今なお憎たらしい。

 

 だがそれと同時に……あの少年の放つ技に対して恐怖を抱いていた。

 

 その事実が、なおも自分を惨めにする。

 

 空が一瞬光る。数秒遅れで、遠雷が轟いた。空気をビリビリと揺らす。

 

 リーフォンは構わず、走り続けた。

 

 だが、途中で人とぶつかり、転びそうになった。

 

「おいお前、ちゃんと前を見て歩け!」

 

 ぶつかった男が、そう悪態をついてくる。

 

 普段なら謝罪の一つもできたのだろうが、今のリーフォンはひどく機嫌が悪かった。触ってくるもの全てに噛み付かんばかりに。

 

「貴様がそんなデカイ図体をしているのが悪いのだろう?」

 

 そう言い返してしまった。

 

 すると、男と、その連れ四人が顔に険を浮かべた。

 

「……なんだと? 小僧、もう一度言ってみろ」

 

「貴様が図体のデカさが悪い、と言ったはずだが? その若さで耳まで悪いときたか」

 

「俺を侮辱するか! 痛い目を見せてやろうか!?」

 

「なんだ? お前も武法士なのか? なら見せてみろ、お前の垢抜けない田舎拳法を」

 

「貴様ぁっ!!」

 

 ぶつかった男は激昂し、腰の剣を抜こうとした。

 

 だがそれよりも速く、リーフォンが蹴りを叩き込んで吹っ飛ばした。

 

「おのれっ! よくもやってくれたなぁ! 思い知らせてやる!」

 

 残り四人も激昂し、拳法の構えを取った。

 

 群青色の長袖、白一色の長褲(長ズボン)——彼ら計五人は、みな同じ衣装を身につけていた。

 

 この【槍海商都(そうかいしょうと)】で最大級の規模を誇る流派の一つ、【奇踪拳(きそうけん)】の稽古着だった。

 

 そのことに配慮する余裕も冷静さも、今のリーフォンにはなかった。

 



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あなたみたいになってみたい

「いててて!」

 

「ほーら、動くんじゃない。手当がうまくできないだろう?」

 

 リンフーは上半身裸になって座りながら、シンフォから手当てを受けていた。

 

 ここは借り始めてまだ一日目である自宅。リーフォン戦での怪我の手当てを受けたいと思い、師であると同時に医師でもあるシンフォを待つために帰った。運が良いことに、帰ってくるとシンフォはすでに家にいた。事情を説明すると、呆れ笑いを浮かべながら手当てを始めてくれた。

 

 付き添いとして、チウシンも来ていた。彼女は一度リーフォンを追おうとしたが、すぐにやめた。かつて父親から「負けた男に優しくすると、かえって惨めになる」と言われたことを思い出したからだ。……慰めてしまったので、少し遅かったかもしれなかったが。

 

 椅子にちょこんと座るチウシンの見守る中、手当てはさくさくと進んでいく。

 

「ほいっ、これで終わりだ」

 

 ぺちん、とリンフーの背中を叩くシンフォ。

 

 大した怪我ではないものの、後で響かないためにと打ち身の膏薬を塗られ、なおかつシンフォ特製の丸薬を飲まされて処置を完了させた。

 

「あ、ありがとうシンフォさん」

 

「いいさ。弟子を手当てするのは当然のことだろう? それより……四年も鍛えたはずなのに、君の体は今なお肉付きが薄いなぁ」

 

 リンフーは頬をほんのり染めて我が身をかき抱いた。

 

「あ、あんまり見るなよ」

 

「ふふ、照れるな照れるな。私は君のちんちんも見ているんだぞ? 今更すぎるじゃないか」

 

「はぁ!? 何言って——は、はわわわっ!? な、何すんだよっ!?」

 

「背筋をなぞっただけだが? ふふふ、君は相変わらず肌が白くてすべすべだなぁ。そぉーれ」

 

「や、やめろってっ……うわわっ!」

 

 つつー、と背筋を指先でなぞってくるシンフォに、リンフーは顔を真っ赤にしながら身をぞわぞわ震わせた。

 

 チウシンは目元を両手で覆い、しかしその指の隙間からしっかりと二人のじゃれあいを凝視していた。ほんのり朱に染まった顔に好奇の笑みを浮かべながら、

 

「わ、わぁ……リンフー、まだ成人前なのに、成人してるわたしより進んでる……」

 

「違うからな!?」

 

 妙な勘違いをしているチウシンに突っ込みを入れてから、リンフーは朱色の上着を着直し、開いた窓の向こうに広がる空を見る。

 

 鉛のような曇天。

 

 時折、眩い光の明滅が起こり、ゴロゴロという遠雷の轟音が鳴り響く。

 

 リンフーは、曇天を見つめる瞳をさらに強めた。

 

 時折光を放つ雷。落ちている場所は遠いものの、音と光はそれでも聞こえてくる。

 

 リンフーはただただ、稲妻の輝きを見つめていた。

 

 チウシンが掛けていた席を立った。

 

「それじゃあリンフー、わたしそろそろお暇するね。シンフォさん、お邪魔しました」

 

「気にしなくていいさ。ここは元を正せば君達の家なんだから」

 

 シンフォは気さくな笑みを浮かべてそう言った。

 

 玄関の戸口を開け、外へ出ようとするチウシンを見送ろうとした、その時だった。

 

「おい、ケンカだぞ! あっちでケンカだ!」

 

 シンフォの借家が建っている通路から、慌ただしい声と足音が聞こえてきた。

 

 数人がまとまって、同じ方向へ走っているのが見えた。

 

 彼らは、口々に何かを話している。

 

「一対多数のケンカだよ! 南西の街道で、派手にやってるみたいだぜ?」

 

「それケンカっていうのか? やりあってるのはどの流派の奴らだよ」

 

「【奇踪拳(きそうけん)】の連中が、一人の武法士とケンカしてんだ! 理由は、その武法士が【奇踪拳】の門人にケンカ売ったかららしい」

 

「その武法士アホだろ? 【奇踪拳】って言ったら、この都有数の大流派だろうが。揉め事とか面倒臭いわ。で、どんな奴だ? そのアホは」

 

「なんでも、【吉剣鏢局(きっけんひょうきょく)】の次男坊らしいぞ」

 

「あいつか……前からやたら血の気が多い奴だと思ってたが、分別もなくすとはな。兄貴の方は優秀なのに、弟は狂犬ってか」

 

「それマズくないか? 下手すると、【吉剣鏢局】と【奇踪拳】、二勢力の争いになりかねんぞ」

 

「まぁとにかく、行って見てみようぜ」

 

 その会話の内容を聞いたチウシンは、顔を青くしていた。

 

 リンフーが恐る恐る尋ねてみる。

 

「なぁ、【吉剣鏢局】の次男坊って、まさか……」

 

「……うん。リーフォンのことだよ」

 

「なにやってんだあいつ……」

 

 リンフーは嘆息するように言った。

 

 だがチウシンは、唇を震わせながら押し黙っていた。

 

 かと思えば、必死の形相を浮かべ、走り出そうとした。

 

「どこへ行く気だい?」

 

 だがシンフォに呼び止められ、一度足を止め、振り返って言った。

 

「決まってます! リーフォンを助けに行かないと!」

 

「やめておきたまえ」

 

 強い語気でそう断ずるシンフォ。

 

 チウシンは耳を疑うように目を見開いた。それから、怒り半分焦り半分といった様子でまくし立てた。

 

「そんなっ! 放っておけないです! このままだと——」

 

「そのリーフォン君とやらが所属している鏢局と、【奇踪拳】一門との間で抗争が起きるかもしれない? ああ、そうかもしれないね。両者合意の上での私闘なら問題ないが、今回はそのリーフォン君が先に手を出してしまっているし、言い逃れのしようがない。……だが、それを分かっているのなら、君は尚更行くべきじゃない」

 

「どうしてっ!?」

 

「訊かずとも分かるだろう? 君がもしリーフォン君の味方をすれば、君の所属する【六合刮脚(りくごうかっきゃく)】まで敵視される可能性が高い。敵の味方は敵だからね。君一人の感情で、君の御父上と師兄弟を犠牲にする覚悟があるかな?」

 

 有無を言わさぬシンフォの言葉。

 

 チウシンは何か言い返したくても、その材料が思い浮かばず、返答に窮していた。

 

「武法の世界は、自己責任と連帯責任が混ざり合った混沌の世界だ。自分だけの力で道を切り開かなければならない時もあれば、自分の一存だけで動いてはいけない時もある。武法士には、それらを区別する能力が求められている。そのリーフォン君は、その区別を誤った。……それだけのことだ」

 

 冷厳な口調で言葉を並べるシンフォの顔は、目を閉じて何かに耐えているかのようだった。

 

 ——武法流派は、「同じ伝承」という名の鍋を囲った、一つの家族のようなものだ。

 

 片方の流派の人間が、もう片方の流派の人間に何かしらの危害を加えたとする。流派が家族とするなら、それは許されないことであるし、メンツを傷つける行為だ。争いの火種となるのは必定。

 

 だからこそ武法士は、師や師兄弟に迷惑がかからぬ範囲で、自分の意思で行動しなければならないのだ。

 

 リーフォンは、その判断を誤ったのだ。

 

 それを分かっているからこそ、チウシンは唇を噛み締めてうつむいた。

 

 リンフーは、そんな様子を端から見ていた。

 

(ふん、知るもんかあんな奴。自業自得だ)

 

 そう心中で吐き捨てる一方で、こうも思っていた。

 

 あいつは今、誰にも助けてもらえない。孤立無援だ。

 

 ——温泉街で追いかけられていた四年前の(・・・・)ボクと同じだ(・・・・・・)

 

 あの時、シンフォさんが助けに来てくれなかったら、ボクは一体どうなっていただろう?

 

 シンフォさんは間違いなくボクの英雄だった。あの時の恩は、今でも忘れない。

 

 ——武法の練習を覗くなんて馬鹿な真似をした馬鹿なボクを、シンフォさんは助けてくれたんだ。

 

 リーフォンも同じだ。魔が指して馬鹿なことをしでかして、それによって危機に瀕している。

 

 あいつには、英雄は現れないのか?

 

 自業自得なんて結末は、本当に正しいのか?

 

 ……そう思った途端、リーフォンに対して同情のようなものが生まれた。

 

 奇跡はそう何度も起こらない。何度も起こるほど奇跡は安くない。

 

 きっと、あいつを助けてくれる英雄は現れない。

 

 ——ボクが動か(・・・・・)ない限りは(・・・・・)

 

「……シンフォさんは、武法を使えないんだったよな?」

 

 不意に、リンフーはそんな質問をシンフォに投げかけた。

 

「そうだが。それがどうかしたのか?」

 

 いきなり何だ、と言いたげな顔で肯定したシンフォ。

 

 表情に驚きを表すチウシンを尻目に、リンフーはさらに言った。

 

「なら、こうしよう。——ボクは昔、通りすがりの謎の老人から【天鼓拳】を学んだ。老人はボクに【天鼓拳】の全伝を授けると、途端に姿を消した。つまりこの都に、【天鼓拳】の使用・伝承ができるのはボク一人である」

 

 それを聞いて、シンフォは目を見開いた。リンフーの真意に気づいたからだ。

 

「リンフー、君はまさか……」

 

「うん。——リーフォンの馬鹿野郎は、ボクが助けに行く」

 

 【天鼓拳】を使えるのはリンフーだけ。シンフォは武法が使えない。

 

 つまり実質、【天鼓拳】という流派の門人はリンフーだけということ。

 

 門人は一人しかいないため、リンフー以外の人間に迷惑は一切かからないということ。

 

 そういう「嘘」をつけば、リンフー以外傷付かずに済むということ。

 

 自分の身だけを白刃に晒すようなその決断に、保護者であり師でもあるシンフォは当然反対した。

 

「駄目だ! 私は許可しないぞ!」

 

「なら、あの馬鹿がどうなってもいいっていうのか?」

 

「そういうわけではない……だがっ、だからと言って君が犠牲になるというのも違うはずだ!」

 

「なら四年前、どうしてシンフォさんはボクを助けてくれたんだ?」

 

 シンフォは目を見開いた。

 

「……シンフォさんはあの日、自業自得で私刑にあいそうになっていたボクを助けてくれた。匿っていることがバレたら、自分も被害を受けるかもしれないのに。——シンフォさん、ボクは多くの武法の英雄を知ってるけど、その中には(・・・・・)あなたも(・・・・)入ってるんだ(・・・・・・)。あなたは、馬鹿なことをしたボクに救いの手を差し伸べてくれた英雄だ。だから、ボクもあなたみたいになってみたい。自業自得の馬鹿野郎でも、憐れんで助けてやれる英雄に」

 

 シンフォは目を見開いたまま動かない。

 

 驚いているのか、呆れ果てているのか、リンフーには分からない。

 

 だが、言いたいこと、言うべきことは全て言った。

 

 あとは、走るだけだ。

 

「それじゃ、行ってくるから。シンフォさん、【奇踪拳】の連中が来たらすっとぼけてくれよ。あと、チウシンはついて来るなよ!」

 

 そう押し付けるように言ってから、リンフーはその場を走り去った。

 



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銀白の魔女

 いつの間にか、敵の数は増していた。

 

(くそっ! こいつらめ、仲間を呼びやがったか!)

 

 リーフォンは状況の悪化に心中で毒づいた。

 

 最初は五人ほどになった【奇踪拳(きそうけん)】の門人たちが、いつの間にか二十人ほどに増えていた。通りがかった門人が、他の門人を呼び寄せ、こうして増えたわけである。

 

 勢いで初めてしまったリーフォンの喧嘩は、今や終わりの見えぬ苦行となっていた。

 

「せいやぁ!」

 

「がっ!?」

 

 門人の一人に脇腹を蹴られる。その蹴り足に込められた術力の勢いで、旋回しながら後退させられた。

 

 さらに後退した位置に待ち構えていた他の門人の回し蹴り。またも弾き飛ばされた。

 

 さらに飛ばされた位置にいた別の門人が突きを放つ準備を見せていたが、そう何度もやられてなるものかと気概を発揮したリーフォンは全力で体勢を持ち直す。眼前の門人が放った正拳突きが当たる前に、それ以上の長さ(リーチ)を持った蹴りで真っ直ぐ迎え撃った。

 

 さらに背後から攻撃の気配。リーフォンは蹴り伸ばした足へ重心を移して位置を一歩移動し、背後からの蹴りを回避。再び鋭く歩を戻し、術力を込めた掌打を放った。

 

 だが、掌打が当たる直前、その門人の姿が消えた。

 

 どこへ——と考える前に、背中に丸太で殴られたような衝撃が叩き込まれた。

 

「がはっ……!?」

 

 痛みつつも、後ろを見る。そこには消えたはずの門人の姿。回避と同時に背後へ回り込み、術力を込めた蹴りを加えてきたのだ。

 

「くそぉっ!」

 

 吐き捨てつつ、振り返りざまに蹴りを放つ。しかし苦し紛れの攻撃にキレは無く、難なく躱されて掌底を食らう。

 

 吹っ飛ぶが、受け身をかろうじて取る。もし倒れた状態を一秒でも長く続けたら終わりだ。袋叩きにされ、そこから抜け出せなくなる。

 

 立ち上がって早々、後ろから蹴りが真っ直ぐやってくる。リーフォンはそれを腕の摩擦で受け流しつつ、踏み込んで正拳を走らせた。

 

 だが、その門人は蹴り足を伸ばしたまま、腰を急激に沈下させた。励峰の拳が頭上を通過してから、間髪入れずに蹴り足へ重心を移動させ、豹が飛び込むような双掌を打ち込んできた。

 

 予想だにしない変則的な身のこなしで反撃を喰らい、リーフォンは驚愕と術力を同時に味わいながら吹っ飛んだ。

 

 ……【奇踪拳】には、今のような変則的かつ予測困難な身のこなしが多い。先制攻撃より、後手でこそ真価を発揮する武法。

 

 しかし、数は連中の方が圧倒的に上だ。機先を制することも、後手に回ることも、作戦の上ではほとんど障害にならない。数という要素が味方をし、ほぼ全ての行動が利となる。

 

 どう対処すべきか、考える余裕すら与えられない。

 

「ごはっ!? がっ!? ぶっ!? づぁっ!?」

 

 とうとうリーフォンの攻勢が崩れた。

 

 周囲を囲む門人たちから、次から次へと術力をぶち当てられる。

 

 打たれて跳ね返り、打たれて跳ね返り、打たれて跳ね返り、打たれて跳ね返り——

 

 やがて、最後の正拳突きを喰らい、地に倒れた。

 

「うぅっ……くそっ……」

 

 意識はある。戦意もある。しかし体力はもうほとんど無い。

 

 勝敗はすでに決した。

 

 けれど、メンツを潰された側としては、なおも治まりがつかない。

 

「ほら、何寝ているんだ? とっとと立て」

 

 リーフォンの髪と両腕を掴み、強引に体を上げさせる門人達。

 

 さらけ出されたリーフォンの胴体に、術力を込めた拳が叩き込まれた。

 

「ぐふっ! がはっ、ごほっ! ぅほっっ……!」

 

 胃の中がでんぐり返るような衝撃に、吐き気を催す。

 

 殴った奴を睨む。……リーフォンが最初に蹴り飛ばした男だった。静かだが剣呑な怒気をその厳つい顔に浮かべている。

 

「おい、まだ気ぃ失うんじゃねぇぞ。まだこっちは殴り足りねぇんだから——なっ!」

 

「がほっ!」

 

 再び拳が突き刺さる。吐き気の混じった鈍痛。

 

 武法は肉体の潜在能力を解放する武術だ。それなりに鍛錬を積んだ武法士の各種器官は、普通の人間より遥かに頑丈である。よほど危険な技でない限り、そう簡単に死んだりはしない。

 

 だが、苦痛は感じる。

 

 何度も何度も浴びせられる術力には、リーフォンが意識を失うギリギリのところで加減がされていた。いたぶろうという意思が嫌でも感じられた。

 

「ち……ちく、しょ…………」

 

 悪態すら満足につけない。

 

 情けない話だった。

 

 好きな女の前で醜態を晒し、苛立ちに振り回されて大流派に喧嘩を売り、果てにこのザマである。

 

 自分は恥を何重に塗り重ねれば気が済むのだろう。

 

 意識が朦朧としてくる。痛みさえ感じなくなってくる。

 

 武法士として、男として、気持ちが死にかけた、まさにその時。

 

「うわっ、なんだこの小娘っ!? いきなり何をっ!」

 

「うるさい! 誰が小娘だ!? ボクは男だぁっ!」

 

「どほぉっ————!?」「ぐおぉぁ————!?」「うわぁぁっ————!?」

 

 聞き覚えのある声とともに、三人の叫びが一度に轟いた。

 

 リーフォンは自分を囲っている門人達の隙間から、声のした方向を覗いた。

 

「のぉぉ————」「ほぎゃぁ————」「ぎゃぁす————」

 

 さらなる三重の叫喚。それとともに、三人の門人が一気に左右に弾き飛ばされる。

 

 その三人が弾かれ、明らかになったその人物の姿を見て、薄目になっていたリーフォンの双眸が一気に見開かれた。

 

汪璘虎(ワン・リンフー)……!?」

 

 誰あろう、それは自分に大恥をかかせてくれた、憎き小柄の美少年だった。

 

 門人達の隙間越しに、二人の視線がぶつかる。

 

「おい! リーフォン、無事かっ!?」

 

 リンフーのその叫びを聞き、リーフォンは一瞬その意味を分かりかねた。

 

 無事か、だと? なんだその助けに来たかのような口の利き方は? なぜ助けに来た? 呼んでもいないのに。お前だって俺が大層ムカつくはずだろう? 何故?

 

 言いたいことがたくさんあり過ぎて、かえって口から何も出てこなかった。

 

 そうしている間にも、女顔の美少年は門人達の人だかりを着実に掘り進んでいき、やがてリーフォンのいる場所へとたどり着いた。

 

 リーフォンを掴んでいた連中が警戒して拘束を解き、リンフーと距離を取った。

 

 支えるものを無くし、倒れようとした満身創痍のリーフォンを、リンフーが受け止めた。

 

 すぐ近くに、あの女々しい顔立ちがあった。間近から見るとさらにその顔の整い具合が分かる。石膏のようにきめ細かな肌。大きな瞳の上を縁取る長い睫毛は、弓形に反って一律に整っている。鼻筋もほどよく通っており、桜の花弁のような薄い唇。そこらへんの女よりよほど麗しい造作をしていた。

 

 その端麗なかんばせに必死の形相を浮かべながら、そいつは言った。

 

「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!」

 

 リーフォンはかすれた声で尋ねた。

 

「貴様……何の、つもりだ。俺に、貸しでも……作りたいのか」

 

「うっさいこの馬鹿阿呆間抜けすっとこどっこい! お前のためじゃないぞ! 誰がお前のためなんかに率先して動くもんか、ばーか!」

 

 子供のような罵倒をまくし立てるリンフー。

 

 言い返せなかった。あまりに予想外すぎる返し方に、リーフォンは呆気にとられていた。

 

「おい小僧っ! 貴様何のつもりだぁ!? 俺達【奇踪拳】の邪魔をするのかぁ!?」

 

 その叫びを皮切りに、周囲の【奇踪拳】の門人達が、口々に罵声を投げてきた。

 

 リンフーはそれらに対し、喝破した。

 

「やかましいっ! 一人相手に雁首(がんくび)揃えてみっともない! それが英雄豪傑と言えるのか!? 全員【無影脚(むえいきゃく)】の爪の垢を飲めこの野郎! 何ならボクが本人から貰ってきてやろうか!? お前ら全員分の爪の垢をっ!」

 

 周囲の怒号の勢いがさらに増した。

 

「おい女顔の小僧! 我々【奇踪拳】と敵対する気か!? そのボロ雑巾の味方をするということは、そういうことだぞ!」

 

「ああ、するさ! 見て見ぬ振りをするくらいなら、お前ら全員と喧嘩してやる! さぁ、派手にぶっ飛びたい奴からかかって来いっ! お前らまとめてボクの武勇伝に加えてやる!」

 

 拳を握りしめ、戦意をみなぎらせたリンフーがそう叫ぶ。

 

 この大集団を前にして、少しも怯みを見せていない。

 

 リーフォンを道の端に運んでから、再び【奇踪拳】の門人たちと相対したリンフー。

 

 その後ろ姿に、かすれた声で呼び掛けた。

 

「やめろ、馬鹿者……死ぬ気か……!」

 

「うっさい。死にかけの奴に言われたくない。黙って休んで見てろ」

 

「ふざ、けるな……誰が貴様に、借りなど作るか……!」

 

「うっさいっての!」

 

 リンフーはぴしゃりと断じた。

 

「借りなんか気にするな。お前のためにやるわけじゃないんだ」

 

 語り口が、悠然と、堂々と、はっきりとした響きを持つ。

 

「ボクがここに来た理由は、たった一つだ。——英雄の真似事(・・・・・・)をしたいからだ(・・・・・・・)

 

 その声は、偽りのない強い意思の響きを持っていた。

 

 リーフォンは、自然と傾聴していた。

 

「ボクも、お前と同じなんだ。こうやって馬鹿なことやって、こうやって人に助けられてる。ボクも、その人みたいになりたい。武法の世界の英雄の真似事をたくさんして、本当に英雄になるための最初の一歩を踏み出すために、お前を助けてやる」

 

 心の奥底で、熱が生まれるのを感じた。

 

「お前はそこで、黙って見てろ」

 

 そう言って、小さな英雄は悠然と歩き出し、止まった。

 

 己を取り囲む多勢。

 

 ——リンフーはそれに臆していないように見えて、内心では緊張を抱いていた。

 

 一人で多勢と戦った経験が無いからだ。

 

 さっきまでは不意を突いたから大勢を一気に蹴散らせたが、明確に「敵」と認識されてしまった今、どれだけ戦えるか分からない。

 

 しかし、もう退くつもりはなかった。

 

 四肢の震えを、語気を強めた名乗りでねじ伏せた。

 

「そういえば、名乗ってなかったな。——ボクは【天鼓拳(てんこけん)】の唯一の使い手にして門人、汪璘虎(ワン・リンフー)。【奇踪拳】よ、尋常に勝負といこうじゃないか」

 

 じゃりっ。全員が靴を鳴らし、臨戦態勢をとる。

 

 張り詰めた場の空気。

 

 それが、一気に弾ける——

 

 

 

「待たれぃ」

 

 

 

 ——寸前に、幼い少女の声によって静止させられた。

 

 声の主の姿は見えない。

 

 だが、従わざるを得ないと思わせる「何か」が、その声には含有されていた。

 

 全員が固まり、沈黙していると、

 

「——この勝負、一時中断するのじゃ」

 

 リンフーの隣に、白銀の幼女の姿が生じた(・・・)

 

「っ——!?」

 

 心臓が胸郭を突き破らんばかりに跳ね上がった。

 

(何だこのチビっ子!? いつからここにいたんだ!?)

 

 リンフーのその恐慌はもっともであった。

 

 先ほどまで、リンフーの隣には誰もいなかったのだ。

 

 そこへ、まるで過程を省いて(・・・・・・)現れた(・・・)という結果だけを(・・・・・・・・)表現した(・・・・)かのように(・・・・・)、幼女の姿が前触れなく「パッ」と現れたのだ。

 

 今なおバクバクとうるさく鳴る心臓の音を実感しながら、リンフーはその幼女の全体像を確認した。

 

 全体的にほぼ真っ白な幼女だった。

 

 肩の位置で切り揃えられた銀髪と、鏡面のような銀眼。幼さあふれる顔貌に浮かぶのは、愛嬌がありつつもどこか油断のならないしたたかさを秘めた微笑み。

 

 衣装は白と青を基調とした配色で、ゆったりとした袖と裾は二の腕と太腿の中間で途切れていた。そこから伸びる細い手足もまた、発光せんばかりに真っ白な肌をしていた。

 

 こうしてまじまじと見ると、やはり幼い。軽く目算しても、年齢は十二歳ほどだろう。

 

 だがその真っ白幼女からは、幼さを超越した、神々しさのようなものを感じた。

 

 白い幼女がリンフーを見上げる。戸惑いの表情を浮かべる美少年の顔を鏡面じみた瞳がくっきりと映し、その小さい口元に猫のような笑みが浮かんだ。

 

「きゅっふふふふふ。しかと聞いたぞ、おぬしの啖呵。きゅふふふ、まだ成人もしていないであろう小童のくせに、勇ましい限りじゃ。あと百歳ほど若かったら惚れておったわい」

 

 その声は幼いが、舌足らずではない。明確な発音と、泰然自若とした意志の強さがあった。

 

 リンフーが今なお当惑から抜け出せずにいると、【奇踪拳】の門人の一人から、かしこまったような声が投げかけられた。

 

「……師範(・・)、お久しゅうございます」

 

「よさぬか。もうわしは師範の座を返上して隠居の身。今は范慧明(ファン・フイミン)というただのババアじゃわい。今の師範を敬ってやれい」

 

 白い幼女は悠々と言った。

 

 ——范慧明(ファン・フイミン)

 

 【白幻頑童(はくげんがんどう)】と呼ばれる、【奇踪拳】の達人。

 

 その歩法の精妙さは大陸随一とされ、数々の武勇伝を轟かせた、生ける伝説。

 

 さらに、惺火と同じ【亜仙(あせん)】。

 

 そんな伝説の武法士が、今まさに目の前にいる。

 

 普段なら、今すぐにでも握手を求めたい所だった。

 

 だが、今まさに自分が戦おうとしていた連中が「師範」と敬う存在なのだ。であれば、この白い幼女が味方である可能性は低いといえよう。緊張せずにはいられなかった。握った拳の中が否応なしに汗ばむ。

 

 そんなリンフーの緊張とは対照的に、フイミンは再びリンフーへ視線を映し、婉然と微笑んだ。

 

「大体の事情は野次馬どもから聞いておる。そこの【吉剣鏢局(きっけんひょうきょく)】の馬鹿息子が、我が門の者へ不当に手を出したそうじゃな? はっきり言おう——我々【奇踪拳】一門には、武法士として【吉剣鏢局】に宣戦布告する権利がある」

 

 リーフォンは顔を青ざめさせた。

 

 もうだめだ。自分の愚行のせいで、父や兄、所属する鏢士たちに多大な迷惑がかかる。

 

 ああ、いっそのこと、もうここで自刃してしまおうか。リーフォンは今度こそ本気でそう思った。

 

「——じゃが、その馬鹿息子はまだケツの青い若造じゃ。若者に過ちは付き物。それにいちいちマジギレして罰しておったら、世の中つまらなくなるわい。わし個人としては、今回の一件は超強烈なゲンコツ一発でチャラにして良いと思っておる」

 

 リンフーとリーフォンは希望を見出すが、それに冷や水をかけるようにフイミンは二の句を継いだ。

 

「とはいえ、それでは我が弟子どもが浮かばれぬのもまた事実。武法士として、落とし所というものが必要じゃ。何より、それもまたつまらぬ」

 

 愛らしくも老獪さを感じさせる微笑を浮かべ、フイミンは次のように持ちかけた。

 

「【吉剣鏢局】のセガレよ——わしと立ち合うが良い。ただしわしはめちゃくちゃ手加減してやろう。基本的に回避のみで攻撃は時々する程度、さらにその攻撃も手加減してやろう。もしわしの体もしくは衣装に傷一つでも付けることができたのなら、今回の件を不問にしてやろうではないか。どうじゃ? 悪い話ではあるまい?」

 

 フイミンの突きつけた要求に対し、リンフーは横槍を入れた。

 

「ま、待ってくれ! 見れば分かるだろ!? リーフォンはもうボロ雑巾なんだ! 手加減するって言っても、あんたみたいな伝説の達人に勝てるはず——」

 

「——口を閉じろ門外漢。もし次さえずったら半分殺すぞ」

 

 その銀眼から刃の光沢のような冷たい光が発せられ、絶対零度の声音が響く。

 

 視線が質量を持って心臓に突き刺さるのを錯覚し、リンフーは背筋を凍てつかせた。

 

 動けない。嫌な汗が肌に浮き上がってくる。横隔膜が固まって息ができない。肉体がこの銀色の【亜仙】に歯向かう事を全力で拒否している。

 

 だが、リンフーの気は、抗う意思を捨てなかった。

 

 落ち着け。何をビビってるんだ。ボクは何のためにここまで来た。リーフォンを助けるためだろうが。

 

 考えろ。リーフォンを助ける最善の方法を。

 

 リーフォンはもう戦える状態じゃない。

 

 なら——

 

ボクが戦う(・・・・・)

 

「ぬ?」

 

「こいつはもう戦えない。だから代わりに…………ボクがあんたと戦う。それじゃダメか?」

 

 フイミンはうつむいた。

 

「きゅふっ……きゅふふふっ、きゅっふふふふふふふふふふっ」

 

 笑声をこぼす。銀の前髪の下に隠れた顔は、愉快そうな笑みを浮かべていた。

 

 狙い通りの展開(・・・・・・・)だったからだ(・・・・・・)

 

 フイミンの本当の目的は、リンフーを自分との立ち合いの場に引きずり込む事だった。

 

 この場に現れた時、最初にリンフーへ投げかけた称賛は、世辞ではなく本心だったのだ。

 

 面白い子供だと思った。

 

 「雷鳴騒々しく雨は静か」。この大陸に伝わる(ことわざ)である。口先は勇ましくとも、実際の行動がその大言壮語に伴っていない人物に送る皮肉の言葉。武法の世界に長いフイミンは、そんな諺のような「偽英雄」をたくさん見てきた。

 

 だが、この子供は違う。実際に行動に移してから、大言壮語を述べてみせた。

 

 子供のくせに面白い。この子供は、いつか素晴らしい英雄になるかもしれない。

 

 だからこそ、若い芽のうちからちょっかいをかけておきたいと思った。

 

「構わぬぞ、それでも。健闘して見せておくれ、小さな英雄くんよ」

 

 真っ白な幼女の姿をした【亜仙】は鷹揚に両手を広げ、猫めいた微笑で言った。

 



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身の丈に合った勝利

 理性なき喧嘩ではなく、理性ある立ち合いである以上、きちんとした場所で一戦交えるに限る。

 

 そういうわけでリンフーとフイミンは、一番近くにあった小さな円形闘技場に移動した。

 

 遠雷轟く鈍色の空。闘技場の周囲に集まる膨大な人だかり。

 

 人だかりの中には【奇踪拳(きそうけん)】の門人だけでなく、無関係な野次馬も集まっていた。当然である。あの【白幻頑童(はくげんがんどう)】が試合をするというのだから。

 

 果たしてその試合は、観衆全員の予想通りの展開になっていた。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 リンフーの荒い息遣い。

 

「きゅっふふふふふっ。ほらほらどうした? もうへばったかぇ?」

 

 余裕綽綽なフイミンの、幼い笑い声。

 

 その余裕の笑みを見てカチンときたリンフーは気力を再燃させ、白い幼女めがけて疾駆。一矢のごとく間を潰し、【頂陽針(ちょうようしん)】で打ちかかった。

 

 巨岩の高速移動のごとき術力を秘めたリンフーの正拳。それがフイミンの胴体に突き刺さるギリギリの距離まで迫った瞬間——白い幼女の姿が拳の延長線上から「消失」した。

 

「ほれほれぇ! ここじゃここじゃあ!」 

 

 拳が無を貫くのと、遠く後方からフイミンの声が聞こえてきたのは、同時だった。

 

 鋭く振り向き、再び果敢に突っ込みつつも、心中ではとてつもない焦りと困惑が渦巻いていた。

 

(何なんだ、アレ(・・)はっ!? 意味が分からない!)

 

 【頂陽針】を衝突寸前で回避した。それだけならまだ良かった。

 

 だが、回避の過程が(・・・・・・)全く見えない(・・・・・・)のだ。

 

 まるで「始まり」と「終わり」しか存在していないかのごとき無茶苦茶な移動速度。

 

 それはまるで、御伽噺などでよく見る「瞬間移動」によく似ていた。

 

(違う、そんなわけがない!)

 

 武法は妖術でも何でもない。歴とした「技術」だ。あの移動速度に何らかのカラクリがなければおかしいのだ。

 

 だが、カラクリとやらが分からない以上、結局は妖術と同じ摩訶不思議な現象と変わらない。

 

 そんな決着のつかない思考を打ち切り、リンフーは攻撃を続行した。それしかなかった。

 

「はっ!!」

 

 鋭く深く歩を進め、【頂陽針】。小さな剛拳が風を貫いてフイミンへと肉薄。

 

 だが、またしても直撃寸前でフイミンの姿が消えた。今度はリンフーの真横にいた。当然ながらその過程は見えなかった。

 

 リンフーはめげずに攻め手を継続させた。

 

 知っている技を、知っているやり方で幾度も発し、猛烈に攻め立てる。

 

 しかし、いくら発しても、空気を打つだけに終わる。瞬間移動じみた動きによって全て回避されてしまう。

 

「攻撃するぞ、ほれ」

 

 フイミンはそんな気の抜けた声とともに、白いもみじのような平手でリンフーの胴体を張った。

 

 ばんっ!!

 

「ごはっ————!?」

 

 その張り手に込められた術力によって、フイミンより頭ひとつ分大きいリンフーの体が嘘のように弾き飛ばされた。まるで巨大な爆竹が腹で弾けたような衝撃だった。

 

(ふざけろっ……これで「手加減」だって……!?)

 

 これで手加減だというのなら、本気の術力で自分は簡単に死ぬかもしれない。

 

 リンフーはゴロゴロ転がって後退し、やがて壁付近で止まる。

 

 痛みはある。だがその痛みをこらえて立ち上がった。

 

「ほうほう、頑張るのぉ。さすが若人じゃな」

 

 遠くにいた白い幼女が、一瞬で間近へと移動してくる。もちろん到達までの過程など一切見えない。

 

「しかし、所々に拙さが見えるのう」

 

 【頂陽針】を打ち込んでやろうと考えたのと同時に、斜め前の位置へ瞬間移動された。

 

「それでいて、術力はかなり鋭く、強く練りこまれておる」

 

 今度は背後。

 

「もしや、練度はたくさん積んでおるが、経験は乏しい感じかのう?」

 

 今度は右隣。

 

「ならば、もっとたくさんの経験を積めば、光り輝くやものう」

 

 今度は左隣。

 

「それにしても、おぬしの技、初めて見た気がせんのう」「どこかで見たことがあるような」「しかし、記憶を辿っても、ぴったりとは一致せぬ」「知っているようで、知らぬ体術、術力じゃ」「まるで別れている最中に欠けてしまった割符(わりふ)の片割れのようじゃ」

 

 あらゆる場所に瞬間移動しながら、いろいろとしゃべってくる銀色の【亜仙(あせん)】。

 

 その内容について問う余裕は、今のリンフーにはなかった。

 

 ……噂には聞いていたが、いざ目にすると、その怪物ぶりが嫌でも分かった。

 

 今の自分では絶対に勝てない、そう思った。

 

 武法士としてのケタが違う。

 

 手加減されてなお、届かない。

 

 天と地ほどの実力差に、心が折れそうになる。

 

 周囲の観衆の目もすでに諦めに染まっている。勝敗は決したとばかりに。

 

 しとしとと、雨が土晒しの大地に落ち始める。

 

(……ん?)

 

 地面を見て、リンフーは「ある事」に気づく。

 

 リンフーが今いる立ち位置を中心にして、足跡の群れ(・・・・・)ができていた。

 

 どれも足の大きさが小さい。リンフーの足跡ではない。では誰か? ……フイミンしかいない。

 

 フイミンは今どこだろう? いた。右斜め前の少し遠い位置に立っていた。

 

「ほれ小僧、雨が降ってきたぞ? 早うケリをつけようではないか」

 

 次の瞬間、フイミンがリンフーの目の前まで瞬間移動してきた。

 

 璘虎は、目を見張って驚いた。

 

 瞬間移動されたことにではない。

 

 フイミンの二つの立ち位置……「直前までの位置」から「今の位置」までの間に、直前までには無かった「足跡」が刻まれていたのだ。

 

 リンフーはようやく確信した。やはり立ち位置だけを移動させる「瞬間移動」なんかじゃない。ちゃんと「過程」が存在する。それを見せないための技術的カラクリが存在するのだ。

 

「——ようやく気づいてくれたようじゃのう」

 

 そんな心中を見透かしたように、フイミンは口で弧を描いた。

 

 技術の片鱗を見られたというのに、彼女の余裕は崩れていなかった。おそらく、わざと自分に気づかせるようにあちこち動き回り、足跡を残したのだ。リンフーはそう確信する。

 

 さらに言えば、どういう技術であるのかがバレても問題がないということ。

 

「そうじゃ。わしのこの歩法【閃爍歩(せんしゃくほ)】は、瞬間移動などでは断じてない。——人の意識の【空隙(くうげき)】に分け入る歩法じゃ」

 

「【空隙】……?」

 

「そう。人の意識は、川のごとく絶えず流れているわけではない。意識にはところどころに断絶、すなわち【空隙】が存在するのじゃ。その【空隙】は知覚できぬほどの短い時間、それこそ一瞬や刹那よりもずっとずっと少ない時間しかない。そのほんの微かな【空隙】にある間、人はあらゆる知覚が機能しなくなる。言うなれば「意識が静止する極小な時間」じゃ。——わしは特殊な歩法によって生まれる術力を用い、その【空隙】に入り込むことができる。……分かるかのう? おぬしを含めこの世の人間全員の知覚が停止した時間の中、わしだけが好き放題に動けるのじゃ。【空隙】を歩める時間はわしの感覚からして五秒程度(・・・・)じゃが、その間わしはおぬしの体を好きに攻撃できるのじゃ」

 

 話が違う次元に行き過ぎて、全て理解しきれていなかった。

 

 だが、これだけは分かる。

 

 フイミンは、誰もが動けぬ時間(・・・・・・・・)の中を自由に(・・・・・・)動き回れる(・・・・・)ということだけは。

 

 わざわざ【閃爍歩】という技の事を明かしたのは、手加減の一貫ではない。——ネタが分かっても、対処のしようがないからだ。

 

 目の前の白い幼女は、意地悪な笑みを浮かべて煽るように言った。

 

「ほれほれ、わしの顔はここじゃぞぉ。今が好機じゃぞぉ? 殴らんで良いのかぇ?」

 

「このっ——!」

 

 混乱が収まらない中で煽られ、神経を逆撫でされたリンフーは、その苛立ちのまま地を蹴った。

 

 【頂陽針】を放つも、またしても目の前からフイミンの姿が消失。

 

「ごはっ!?」

 

 だが今度は避けられただけではない。左頬、右上腕、左脇腹、右太腿、臀部の計五箇所に、衝撃が同時に叩き込まれたのだ。まるで五方向から同(・・・・・・)時に攻撃された(・・・・・・・)かのごとく、それらの衝撃の来た時機(タイミング)は一致していた。

 

「——このように、【空隙】の中で加えた攻撃は、その衝撃がいっぺんに襲ってくるのじゃよ」

 

 真後ろで説明するフイミンの顔を見ながら、リンフーは倒れそうになった。

 

 ダメだ、格が違うなんてもんじゃない。もはや自分と同じ人間なのか疑いたくなるほどの強さだ。

 

 こんな相手に、どうやって勝てば

 

 

 

 ——いや、待て。

 

 

 

 ボクは今まで、どういう気持ちでこの戦いに臨んでいた?

 

 無論、勝つためだ。勝負する以上、勝ちを目指すのが当たり前だろう。

 

 ……馬鹿を言うな。

 

 ボク自身聞いたことがあるはずだ。【白幻頑童】の数々の武勇伝を。

 

 武法の世界における生ける伝説とうたわれるほど強く、そして武法に長い達人だ。そんな相手に、たった四年鍛えた程度のボクが勝つ? 甘えるな。武法の世界はそんなに甘くない。

 

 そうだ、ボクごときが目指すなど、おこがましいことなんだ。——完全勝利(・・・・)なんて。

 

 ボクは知らぬ間に思いあがっていたんだ。もう少し謙虚になるべきだったんだ。

 

 思い出せ。ボクの勝利条件は何だ? 

 

 少しでも、フイミンさんに傷をつけることだろう。

 

 なら、身の丈に合わない高望みなどせずに、その勝利条件を目指せ。それが今のボクにできる最善の勝ち方だ。

 

 リンフーは己の為すべき事を見つけた。

 

 心の迷いが消え、四肢が為すべき事を成すために気力を充実させた。倒れず、足で踏ん張って、また体勢を取り戻す。構える。

 

「……ほう? 何やら変わったのう? さっきまでは迷子のようだったのに、今ではしっかりと目的地を見据えたような目をしておるわい。きゅふふ、さっきより少しは楽しめそうじゃのう」

 

 フイミンは猫のような微笑みを浮かべる。幼い顔立ちなのに、どこか色っぽさを感じた。

 

 ——落ち着け。なにも必ず当てる必要はないんだ。あの体に、いや、布一枚にさえ傷を付けられればいいんだ。そのことにのみ意識を集中させろ。どれだけカッコ悪くても、身の丈に合った最善の勝利を目指すんだ。

 

「……いくぞっ!」

 

 リンフーは最後の力を振り絞り、飛ぶような勢いで走り出した。

 

 鋭く身を進め【頂陽針】を放った。強烈な術力を込めた拳が突き進むが、またも軽い挙動で回避される。そこからまた【閃爍歩】で一瞬で背後に回り込むフイミン。

 

「はっ!」

 

 リンフーは後方へ退きながら【移山肘(いざんちゅう)】へと転じたが、その肘打も体を捻って避けられた。そのまま背後を取られ、術力を込めた掌底を打たれて吹っ飛んだ。

 

「ぐあっ……!」

 

 横向けに寝た体勢のまま地面を滑るリンフー。しかしすぐに受け身をとって立ち上がり、もう一度フイミンへと肉薄した。

 

 【頂陽針】——と見せかけて、術力を込めた蹴りを真上へ爆発的に持ち上げた。【升閃脚(しょうせんきゃく)】である。

 

 しかし、後ろへ下がって回避された。かすりもしていない。

 

「まだまだぁ!」

 

 リンフーはめげずに続けた。垂直に蹴り伸ばした蹴り足の踵へ術力を込め、真下のフイミンめがけて思いきり振り下ろした。巨人の斧のごとき重厚な術力を内包したその踵落としの名は【天王劈山(てんのうへきざん)】。【升閃脚】が避けられた後に繋げる技である。

 

 だがそれも、横へ滑るような足さばきで回避された。

 

 標的を失ったリンフーの踵落としが地面に落下。

 

 激震、そして爆砕。

 

「むっ……?」

 

 巻き上がる大量の土砂。その砂がフイミンの顔に襲い掛かった。

 

 狙い通りだ。目を一時的に潰して視界を奪い、その隙を狙う。たとえ目以外の感知方法があったとしても、目に砂が入ったというだけで痛いはず。そこが一瞬だが隙になるだろう。

 

 足先から手先までに強い捻りを加える。その捻りの軌道に沿った螺旋状の術力がリンフーの全身に巻きつき、突き出した正拳に力を与えた。【纏渦(てんか)】だ。

 

 台風のごとき術力をまとった拳が疾る。

 

 フイミンの胴体に突き刺さる僅差(きんさ)

 

「——なんてのぅ」

 

 悪戯っ子のようにチロリと舌を見せ、その姿を消失させたフイミン。同時に、離れた位置にパッと出現した。立ち位置だけを入れ替えたような【閃爍歩】の移動。

 

「今一歩じゃったな。地形を利用するのも大事じゃが、相手が逆にそれを利用して欺いてくることもある程度警戒せねばならんぞ? きゅふふふ。何にせよ、惜しかったのう」

 

 フイミンの言うとおり、確かに攻撃は当たらなかった。

 

 けれど——

 

「惜しい? なに言ってる? この試合、ボクの勝ちだぞ」

 

「ぬ?」

 

 何を言っているんだと言いたげなフイミン。

 

 リンフーは、手中に握っ(・・・・・)ていたモノ(・・・・・)を露わにした。

 

 一枚の、白い布切れだった。

 

「右足の裾、見てみなよ」

 

 リンフーに言われた通りの箇所を見て、フイミンの顔にほんの微かな驚きが浮かんだ。

 

 右足の裾となっている布の一部が——破れていた(・・・・・)

 

 フイミンはすぐにその理由に気付き、その猫のような銀眼をかすかに鋭くした。

 

「……あの渦上の術力かのう?」

 

「そうだ。ボクの目的は最初から、あんたの服を少しでいいから千切ることだったんだ。ボクの【纏渦】はあんたには当たらなかったけど、あんたの服の裾はその螺旋の術力が巻き取り、引きちぎった。——少しでもあんたを傷つけたら勝ち、って条件だったよな? お婆ちゃん(・・・・・)

 

 最後にほのかな煽りも交え、タネを明かすリンフー。

 

「…………きゅふふっ……きゅっふふふふふふっ……!」

 

 フイミンはうつむき、肩を小刻みに揺らしながら笑い声をこぼす。

 

「きゅっふふふふふふははははははははははははははっ!!」

 

 やがて大笑したかと思うと、瞬時にリンフーとの距離を詰め、頭へ平手を叩き下ろした。

 

「ほぶっ!?」

 

 術力が込められた強烈な張り手に、リンフーの顔面が地面に叩きつけられた。

 

「きゅっふふふ、生意気な小僧じゃわい。だが……気に入ったぞい。小僧、名乗るがよい」

 

 口に入った砂を吐き出し、上目遣いで白い幼女を睨みながら「……汪璘虎(ワン・リンフー)」と名乗った。

 

汪璘虎(ワン・リンフー)、か。覚えておくぞ、その名前。よくぞわしを出し抜いてみせたのう、褒めてやろう。そして——「おめでとう」と言おうではないか」

 

「はっ?」

 

 何がめでたいのか、とリンフーは思った。

 

 フイミンがねぎらうような微笑みをたたえ、次のように言った。

 

「おめでとう。おぬしが十六人目(・・・・)——今年の【槍海大擂台(そうかいだいらいたい)】の最後の参加者(・・・・・・)に決定じゃ!」

 

 ………………え? なんで?

 

 




 この銀色のロリババアが使う【閃爍歩(せんしゃくほ)】は、ざっくり簡単に言うと「時を止めないザ・ワールド」です。

 ……いや、分かりにくいかも。


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閑話:親友

「彼女」は何人も殺した。

 

 武法の世界で名を轟かせている武法士を探し、尋ね、勝負を挑み、そして殺した。

 

 「彼女」が謎の書物から得た「名もなき武法」は、凄まじい強さを誇った。

 

 一度でも術力を込めて相手に触れれば、あっという間に死する。どれほどの達人であろうと、「彼女」に触れられただけでバラバラに吹き飛んで死んだ。大陸一の術力の重さを誇るといわれる一撃必倒の達人【一打震遥(いちだしんよう)】ですらも例外ではなかった。

 

 「彼女」は何人もの達人を手にかけた。

 

 ただ一人、【白幻頑童(はくげんがんどう)】とだけは引き分けてしまったが、それ以外の全ては殺した。

 

 名のある達人を打ち殺すたび、「彼女」は自分の強さが増していると感じていた。

 

 武法士同士の決闘は、両者合意の上でならば罪には問われない。されど人の感情が、法と同じ合理性を示すとは限らない。倒した達人と縁の深い団体や勢力が、たびたび「彼女」を狙った。その度に「彼女」は己の名を変え、雲隠れした。……そのためか、散々暴れたはずなのに、「彼女」の悪名はほとんど大陸に知れ渡ることはなかった。

 

 何回もそんな事をしていたせいで、自分が親からもらった最初の名前をいつの間にか忘れてしまっていた。

 

 いや、忘れてしまって良かったのだ。腹を痛めて産んだ子供を売って飯の種にするような親だ。今すぐに忘却してしかるべきである。

 

 自分は「力」を手に入れ、それをどこまでも伸ばし続ける。もう二度と失わないために、この大陸の、否、この世の誰よりも強くなる。自分に理不尽な運命を強いた天上の神ですら殺せるほどに、強くなってみせる。

 

 ——しかし、未来しか見つめていなかった「彼女」にも、過去の「心残り」が一つだけあった。

 

 「彼女」には、一人の親友がいた。

 

 多くの売られ子が乗った荷車の中で出会った少女。悲惨な運命を辿ろうとしているのに、笑顔を絶やさず、明るい未来を信じる女の子だった。

 

 「彼女」は、その子の笑顔に何度も励まされた。もしその子がいなかったら、辛い、悲しいとさえ感じられなくなっていただろう。心が壊れていただろう。

 

 「彼女」の方が先に買い手が見つかったため、そこで別れてしまったが。

 

 だけど別れる前に、「彼女」は髪飾りを作ってあげた。自分のしていた髪留めに下手くそな勿忘草(わすれなぐさ)の布細工を取り付け、別れ際に親友へ渡した。

 

 私に会いたいって気持ちがある限り、それを外さないで。外さない限り、私はあなたを絶対見つけてみせるから——別れ際の「彼女」の言葉に、親友は笑って頷いてくれた。

 

 

 

 それから、何十年という長い月日を経て。

 

 

 

 数多の武法士を手にかけ、いつの間にか老いを知らぬ怪物と化していた「彼女」は、親友との再会を果たした。

 

 

 

 

 奇跡的な、しかしあまりにも残酷な再会を。

 



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第二章 槍海大擂台
リンフー、弟ができる


 【槍海商都(そうかいしょうと)】という巨大な商業都市を統括管理しているのは、【(シア)一族】という貴族である。

 

 (シア)一族は、【槍海商都】がある地方を治めている諸侯と近縁であり、繋がりが強い。(シア)は諸侯と情報や知恵を交換し合いながら、【槍海商都】を厳重に管理している。

 

 武法を身につけると、その腕を確かめたくなるものだ。けれど街のあちこちで喧嘩などされては治安の悪化に繋がりかねない。だからこそ都のあちこちに闘技場という試合の場を作り、街への被害を最小限に治めると同時に、武法士達の闘争心のはけ口を作った。……それでも、時折街中で争う武法士は出るわけだが。

 

 【槍海大擂台(そうかいだいらいたい)】も、その「闘争心のはけ口」の一つであった。

 

 年に一度、都の中央広場にある巨大闘技場【尚武環(しょうぶかん)】で行われる武闘大会。十六名の武法士達が武を競い、勝ち抜いて頂点を目指す。【槍海商都】の武法士達の憧れの舞台であり、また都の興行でもあった。

 

 そこで優勝した者は、次の年の【槍海大擂台】までの間【槍海覇王(そうかいはおう)】の称号を得る。それを得ると、その流派は武法の世界において一目置かれるようになり、また一部店舗での支払いの何割かが免除されるという特典がつく。

 

 ——では、その【槍海大擂台】の参加者の選別方法は?

 

 それはその年によって違う。だが、武法の実力で掴み取るという点と、容易ではないという点では毎年共通している。

 

 今年の選手選別方法は——【白幻頑童(はくげんがんどう)范慧明(ファン・フイミン)に傷をつけること。

 

 肌でもいいし、服でもいい。とにかくどんな傷でもいいからフイミンにつけること。時間は問わない。寝込みや湯浴みや花摘みのところを襲っても構わない。とにかく定められた一定期間内にフイミンに傷を一つでもいいからつけること。それが今年の【槍海大擂台】の参加資格を得る方法であった。

 

 「なんだそれだけか」と思うのは、武法の世界に明るくない一般人だけである。武法士の割合が大多数を占めるこの都に住み、尚且つ【白幻頑童】の武名と実力を知る人々は、その条件を大変厳しいものだと受け止めていた。

 

 それでも、その厳しい条件をくぐり抜けた十六名の武法士は、ちゃんと現れた。

 

「その最後の一人が、まさかボクになるなんてなぁ……全くもって予想外だった」

 

 【尚武環】と【霹靂塔(へきれきとう)】を中心に置いて広がる中央広場。その端にしつらえられた石の腰掛けに座り、雲がまばらに散った空で輝く朝日をぼんやり眺めながら、汪璘虎(ワン・リンフー)は呟いた。

 

 現在の(こよみ)は「陽の六月(六月)」の上旬。初夏の季節だ。大陸南方はすでに猛暑だろうが、大陸中心からやや北寄りの位置にある【槍海商都】ではまだ暑気よりも涼風が勝っていた。されど陽光に宿る熱は、日を経るほどに着実に増してきている。

 

 隣に座る宋璆星(ソン・チウシン)が、空に光る朝日と同じような眩しい笑みを浮かべて言った。

 

「リンフーってば凄いよね! まさか【槍海大擂台】参加者選別期間の最終日に、参加資格をもぎ取っちゃうだなんてっ」

 

「狙ってやったわけじゃないだけに、まだ実感沸かないや」

 

 リンフーはそう返し、再び空を見上げた。

 

 本当に——昨日のフイミンとの戦いの勝利条件が、そのまま【槍海大擂台】参加条件であると昨日知った時、不意打ちを食らった気分だった。

 

 棚から牡丹餅、と言うには、あまりにその牡丹餅にあたる物が予想の斜め上すぎる。お陰で今なおありがたみやら達成感やらの実感がなかった。

 

 けれどあの後、【奇踪拳(きそうけん)】の門人一同は、リーフォンの蛮行を今回限りは不問にすると言った。今は教練職を辞しているものの、流派内では今なお強い権限を持つフイミンの言いつけに、全員は複雑な気持ちを見せつつも取り敢えず従ったのだ。

 

 リーフォンを家に連れ帰って手当てしてやろうかと一瞬思ったが、普通に立って動けるほどの体力はあったみたいだし、何よりこれ以上自分に助けられると屈辱だろう。リンフーはそう思い、あえてリーフォンを放置して帰った。男としての気遣いだ。

 

 チウシンが嬉々として尋ねてきた。

 

「シンフォさんは何て言ってたの? 嬉しがってたんじゃないかなっ?」

 

「いや、シンフォさんにはまだ言ってない。家に帰ってきたら、あの人もう酔っ払ってかーかー爆睡してたんだよ。お陰で寝床に運んだり、散らばった酒瓶片付けたりとかしてさ。……ったく、日に日に飲む量が増してきてるんだよ。ふんっ、体壊しても知らないんだからなっ。おまけに部屋の空気がだんだん酒臭くなってきてるし……」

 

 ぐちぐちと愚痴をこぼすリンフーに、チウシンは苦笑してから、自分を指差しながら言った。

 

「あ、ちなみにわたしも参加するから!」

 

「えっ、マジか?」

 

「まじまじ。もし戦うことになったら、手加減しないから、そのつもりでね?」

 

 微笑むチウシン。その笑みにはいつも通りの友好の感情の他に、強い戦意も浮かんでいた。

 

 リンフーもそれにつられて、口端を吊り上げた。

 

 だがそんな戦意に満ちた空気もすぐに和らいだ。

 

「ところで、ボクをここに来させたのはどうしてだ?」

 

 この中央広場にリンフーを連れてきたのはチウシンだった。朝早い時間に家を尋ねてきて、なるべく早くここへ来るように言ったのだ。リンフーは深く眠っているシンフォに朝食を作り置いてからこの中央広場へとやってきた。

 

 対し、チウシンは不自然なほどニコニコしながら、

 

「もうすぐ分かるよっ」

 

「はぁ……」 

 

 一体何がしたいのやら。

 

 しばらく待つと、リンフー達の所へ真っ直ぐ近づいてくる人影が見えた。

 

 それは見間違えようもなく、高励峰(ガオ・リーフォン)だった。

 

「うげっ……」

 

 リンフーはあからさまに嫌そうな顔をした。

 

 なるほど、チウシンの用事はこれだったのか。ここで二人に和解させようという腹だろう。

 

 けれど、リーフォンの苛烈で自尊心の強い性格からして、望み薄に思えた。

 

「用事を思い出した。シンフォさんが飲み過ぎないように見張らないと」

 

 腰掛けを立って去ろうとしたリンフーだが、服の裾をチウシンの足指にしっかりと捕まれ、その場から動けなくなる。

 

「ちょ、おい! 離せっての!?」

 

「だーめ♪」

 

 チウシンがにっこり顔のまま答える。なんだか地味にムカつく笑顔だと思った。

 

 そうしているうちにリーフォンはさらに近づき、やがてリンフーの目の前までやってきて、立ち止まる。

 

 うつむいて垂らされている赤黒い前髪の下にある表情は、窺い知ることができない。けれどその頬には、殴られた痣がまだうっすら残っていた。

 

 朝ののどかな空気が、一気に緊張したものに変わる。

 

「…………なんだよ?」

 

 リンフーは悪態をつくように用件を問う。

 

 なんか負け惜しみみたいな事を言うのかもしれない。こいつはそういう奴だ。ふん、やっぱり放置した方が良かったかも。ていうか、なんで助けたんだよボクは。

 

 これからの未来を妄想し、気分が悪くなってくるリンフー。

 

 リーフォンの口が、ゆっくりと開き、

 

 

 

「——その節は申し訳ありませんでした、兄者(・・)っっ!!」

 

 

 

 額を地に叩きつける勢いで平伏し、えらくかしこまった口調でそう謝罪してきた。

 

「…………………………は?」

 

 ちょっと何言ってるか分からない。

 

 ていうか、何だ? 謝罪? 

 

 いや、それはいい。予想外だが、それは人として正しい行いだろう。そういうことなら今までの事は水に流す気であった。

 

 それよりも、今、こいつはボクを何て呼んだ?

 

「それと同時に、助けていただいてありがとうございました、兄者(・・)っ!!」

 

 そうだ、兄者だ。兄者って何だ。ボクはいつからお前の兄貴になったんだ。

 

「兄者の御助力のお陰で、【吉剣鏢局(きっけんひょうきょく)】は危機を脱することができました! こんな短気で愚かな俺を、兄者は助けて下さった! 自業自得と吐き捨てられるはずだった俺に、救いの手を差し伸べ、身を挺して守ってくださった! 兄者がいてくださらなかったら、俺は父や仲間達に多大な迷惑をかけていたでしょう! 兄者は紛れもなく、俺の、我々の英雄ですっ!」

 

「お、おい、ちょっと待った。その……「兄者」ってのは誰だ?」

 

「あなたです兄者!」

 

「いや、お前……何歳なんだ?」

 

「十六です兄者!」

 

「ボクは十四なんだけど……それで兄者って、変じゃないか?」

 

「何をおっしゃる兄者! 歳の差など些事です! 兄者はそんな些事など乗り越えて、俺が尊敬すべき素晴らしい(おとこ)です! ああ兄者、これからはどうか、兄者と呼ばせてください!」

 

 再び、ドスン! と石畳が揺れるほど額を地に付けるリーフォン。

 

 あまりの態度の変わりように混乱しまくっていると、チウシンはこみ上げてくる笑いを堪えるような声をクスクスとこぼし、

 

「リンフー、どうやら気に入られちゃったみたいだよ」

 

「気に入られたぁ?」

 

「うん。昨日、結局わたしも心配でこっそりリーフォンの様子を見に行ったの。街の人から闘技場の場所を聞いて駆けつけたんだけど、そこにはもうボロボロのリーフォン以外誰もいなくて。尋ねてみたら、リーフォン、すっごく嬉しそうに笑ってたんだ。「英雄だ、あれこそ本物の英雄だ。あの人はいつか大物になる。俺はあの人に一生ついて行きたい」って、そればっかり言ってたんだよ? うふふふ」

 

 微笑ましそうにするチウシンだが、リンフーの混乱は説明を受けた今なお治らなかった。

 

 そりゃ当然だろう。昨日までいがみ合い殴り合ってた奴が、次の日には打って変わって兄者兄者ときたもんだ。見ろ、あいつのキラキラした笑顔を。まるで懐きまくったわんこだ。

 

「兄者、どうかお願いいたします! 俺を、こんな俺で良ければ、兄者の弟分にしてください! 何卒、何卒っ!」

 

 だが、憎まれているわけではない。むしろ、これ以上ないくらい好意的だ。だからこそ邪険にできず、扱いがたい。

 

 リンフーはぎこちない笑みを浮かべ、

 

「……その、兄貴とかは勘弁して欲しいけど、友達(ダチ)になら、なってもいいぞ」

 

「ありがとうございます兄者!!」

 

「人の話聞いてた?」

 

 呆れたような顔をするリンフー。嬉しそうに笑みを輝かせるリーフォン。

 

 チウシンが少し熱っぽい溜息を漏らしながら、うっとりした笑みを浮かべて呟いた。

 

「なんだろう……男の子同士の友情って、素敵だよねぇ。見てて気持ちが潤うっていうか」

 

 ちょっと何言ってるか分からない。

 



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柔らかいご褒美

 それから三人で【槍海商都(そうかいしょうと)】を巡った。この都はとても広く、昨日リンフーが巡った場所はほんの一握りの場所である。他にもっと良い所がたくさんあるからと、チウシンとリーフォンに案内された。

 

 リンフーは田舎者根性を再び発揮させ、二人が見せる場所やモノに新たな感動と興奮を抱いた。

 

 正午に昼食をとり、休憩してから昼過ぎに再び都の散策と意気込んだリンフーだが、それに文字通りの意味で水を差すものが現れた。いつの間にか天を覆い尽くしていた暗雲から、叩くような雨が降り始めたのだ。雷というおまけ付きで。

 

 当分止む見込みがない雨と断定した三人は、解散して各々の家まで一直線に帰った。

 

 幸い、リンフーの家は休憩していた場所から距離が近かったため、さほど濡れることなくリンフーは家にたどり着けた。

 

「シンフォさーん、帰ったぞー」

 

 戸を開けて呼びかけるが、返事はない。どうやらシンフォはまだ帰宅していないようだ。

 

 まだ正午を少し過ぎた程度の時間だ。夕食を作るには早すぎる。なので自分の寝室へ行き、寝台で寝転がりながら、窓の向こうの景色を眺める事にした。

 

 リンフーは窓を開き、外の景色をあらわにする。

 

 桶をひっくり返したような雨が絶えず降り続けている。時折、閃光が瞬間的にまたたき、ギザギザの光芒が空を駆けた。数秒遅れで、耳をつんざくような轟音が響く。

 

 重厚な雷鳴が、リンフーの【基骨(きこつ)】をビリビリと揺さぶる。

 

 それ以降も、空に幾度も稲妻が走り、雷鳴が轟く。

 

 リンフーは、そんな空から目を離さず、見つめ続けていた。

 

 正確には、空を幾度も走る「雷」を見ていた。

 

 暇つぶしではない。

 

 これもまた、リンフーにとっての修行の一貫だった。

 

 ——武法の技には、体術だけでなく「意念(イメージ)」も必要とされる。

 

 意識は心の中だけで完結しない。必ず肉体に何らかの影響を与える。

 

 たとえば、凶暴で危険な猛獣がいきなり目の前に現れたとしよう。その時、よほど肝が据わっている人でない限り、必ず恐怖や警戒心を抱くはずだ。その時、そんな心理状態によって、肉体が強張ったり、背筋に寒いものが走ったりする。

 

 つまり、意識は肉体に影響を及ぼす。

 

 意識の力は、術力の生成にも利用される。体術や呼吸法だけでなく、意念の力を用いる事によって、その術力をより洗練させたり、術力の性質を変化させたりすることができる。

 

 だがそのためには、その意念の元となる光景を実際に見て、その光景を記憶に入れなければならない。人は、見たことのないものを正確に思い浮かべることができないからだ。……例を挙げる。蛇の動きを元にして作られた【蛇鞭掌(じゃべんしょう)】という流派。その流派では、蛇が地を這ったり獲物に食らいついたりする姿を自分の目で観察することで、術力を作るための意念を養う。

 

 【天鼓拳(てんこけん)】もまた、そういった意念を得る訓練をする。

 

 それが、今リンフーが行なっている「雷の観察」である。

 

 だが、ただ雷を見るだけではダメだ。普通の雷を思い浮かべても、【天鼓拳】の技には何ら変化はない。

 

 【天鼓拳】が、その真なる力を発揮できる意念とは——【逆さに昇る雷】。

 

 上から下へ落ちるのではなく、下から上へ昇る(・・・・・・・)雷である。

 

 この大陸で数年に一度見れるかどうかの、非常に稀な雷。リンフーは四年間、ずっとその雷を探していた。

 

 もしも【逆さに昇る雷】を目にし、その意念を獲得できれば、【天鼓拳】の術力は絶大な破壊力を得るのだという。

 

 だが、絶大すぎるがゆえに、実戦で使うには残虐すぎる。少し触っただけで簡単に命を奪ってしまうからだそうだ。触っただけで人を死なしめる、最凶の武法が誕生する。

 

 リンフーはそれを聞いた途端、【天鼓拳】を習うのが急に怖くなった。

 

 そんなリンフーをシンフォは優しく抱きしめ、言ってくれた。

 

『大丈夫。その「怖い」っていう気持ちを忘れない限り、君は絶対に悪用しない。私は君を信じているから』

 

 【逆さに昇る雷】の意念のことを教えてくれたのは、その後だった。もしリンフーが【天鼓拳】の真の力を聞いて喜んでいたら、一生教えてくれなかったかもしれない。

 

 ——おそらく、シンフォはその凶悪な技で、何か一生悔いるようなことをしでかしたのかもしれない。

 

 そう考えた瞬間、まるで図ったように玄関から開閉音がした。

 

 念のため【(ちょう)】を使い、その人物の足が発する波を感知する。……歩調からして、間違いなくシンフォだった。

 

「おかえり、シンフォさん。雨、大丈夫だったか?」

 

 リンフーは自室から出て、師の帰宅を迎え入れた。思えば昨日の昼ごろ以来、ずっと言葉を交わしていなかった。

 

「ただいま。ははは、見ての通りだ」

 

 シンフォはその美貌に苦笑を浮かべて答えた。どうやら雨に降られてしまったようで、真っ黒な長い髪が濡れそぼっていた。

 

 手に大振りな酒甕が一つぶら下がっているのを見て、リンフーはため息をつきたくなった。また買ってきたのだろう。

 

「ちょっと待っててくれ。今、手拭いを持ってくるから」

 

 リンフーはそう言って、箪笥(たんす)から大きな手拭いを引っ張り出してきた。

 

 それでシンフォの髪やら体やらを拭こうとして、硬直。それから頬をほんのり赤く染めた。

 

 雨に濡れたシンフォの黒い婦人服は、その下にある素肌にぺったり張り付いていた。それによって彼女の魅惑の曲線美がいつもより明確に浮かび上がっていた。胸部に大きく形良く実った二房の肉果も例外ではなく、くっきりと谷間まで描き出されていた。彼女が少し動くだけで、その二房もふるんと微動する。

 

 濡れて乱れた長い黒髪がその大きな胸に気怠げに垂れ下がり、退廃的な色気を放つ。雨の匂いとシンフォの匂いが混ざって鼻腔をくすぐり、さらにリンフーの気持ちを騒がせた。

 

「いや、あの……やっぱり自分で拭いてくれ」

 

 赤い顔でそっぽを向きながら突き出されたリンフーの手拭い。

 

 シンフォは数秒きょとんとしていたが、やがてその理由に感付き、にんまぁ、っと意地悪そうな笑みを浮かべた。

 

「んっふふふふー。なんだぁ? もしかして私に欲情しちゃったのかぁ? このむっつりめ。やっぱり可愛い顔して男だなぁ、君は」

 

「ち、違うっ! そんなんじゃない!」

 

「そうかぁ? なら、君に拭いて欲しいなぁ。ほらほら、欲情してないのなら拭けるだろぉ? ほらほらぁ」

 

 シンフォは両腕を胸の前で組み、わざとらしくその柔和な双丘を強調してくる。口元には艶美な微笑みと、熱っぽい息遣い。

 

「うっ…………うーーーーっ!! うーーーーっ!!」

 

 リンフーは真っ赤になり、涙目で唸りながら地団駄を踏んだ。

 

 シンフォはからからと笑いながら、

 

「すまないすまない。ちゃんと自分の部屋で服を脱いで体を拭くよ。……覗いちゃ駄目だぞっ?」

 

「さっさと行けーーーーっ!」

 

 リンフーは手拭いをぽふっとシンフォに投げつけ、真っ赤な顔で自室に逃げてしまった。

 

 もう知るもんかっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあそんなことがあったわけだが、すぐにリンフーの気持ちは落ち着いたし、何より、リンフーが食事を準備しなければシンフォの夕食は酒だけになってしまう。料理係として、彼女に不健康な生活はさせたくない。……酒を飲みまくっている時点で健康も何もないけれど。

 

 やがて夜になった。

 

 出来上がった夕食を師弟二人で囲い、完食した。

 

 リンフーが厨房で皿を洗っている間、シンフォは晩酌を楽しんでいた。新しく持ち帰ってきた酒甕から杯に注ぎ、何杯も呑みまくっていた。

 

「いやー、儲けた儲けた! 腰を悪くしてた酒屋の婆さまを治した後「お金以外の報酬でもいいか」と言われたから頷いたら、高い果実酒を貰ってしまってなぁ! あー、務めの後の一杯は格別だなぁ!」

 

 一杯どころじゃないだろ、とリンフーは心中で突っ込んだ。

 

「君も飲まないかー? 美味いぞ、これー!」

 

「無理だよっ」

 

 リンフーはとてつもない下戸だ。一杯飲んだだけで吐き気を催し、厠へ駆け込むほどである。

 

「勿体ない、勿体ない! この至上の甘露を味わえぬなど、君は人生の大半を損しているぞ! あっははははははは!」

 

「はいはい」

 

 酔っ払いの戯言を軽く受け流す。

 

 皿を洗い終え、片付けた後、リンフーは【槍海大擂台(そうかいだいらいたい)】参加について説明し忘れていたのを思い出し、シンフォに説明した。 

 

 するとシンフォは酒杯を勢いよく卓に置き、酒気で真っ赤な顔を嬉しそうに綻ばせながら言った。

 

「よくやった! さすが私の弟子だっ! 【槍海大擂台】は武法士にとって誉れと言える大舞台だ! そこへ参加できただけでも私は誇らしく思うっ! いやー、今日は吉報ばかりだなぁ! めでたい! さぁ乾杯しよう!」

 

「だから飲まないっての」

 

 リンフーの拒否を聞いて「ぶー」と残念そうに唇を尖らせるシンフォ。

 

 もう何杯目か分からない一杯をぐいっと飲み干すと、シンフォは急に手招きしてきた。

 

「リンフー、リンフー、ちょっとこっちへおいでおいで」

 

「ん? なんだよ? 改まって」

 

「いいからいいから」

 

 リンフーは座っていた席を立ち、シンフォの席へと歩み寄る。

 

「そこにしゃがんでおくれ」

 

「はぁ。一体何を——ふもっ」

 

 しゃがみ込んだリンフーの顔を、恐ろしく柔和な感触が左右から挟み込んだ。シンフォの胸部から豊かに盛り上がる二山の谷間に、リンフーの頭が深々と埋没していた。

 

 さらに、頭部をゆっくり撫で回される。

 

「よーし、よーし、よく頑張ったなぁ。えらいぞー。うふふふ」

 

「ちょっ、シンフォさん、何やってんだよっ!?」

 

 真っ赤な顔で抗議するリンフー。果実酒の匂いとシンフォの匂いが混ざった蠱惑的な香りが、リンフーの鼓動を爆発的に早めた。

 

「えー? 何って、決まってるだろぉ? 良い子にご褒美をあげてるんだ」

 

「いいってば! は、離してくれって!」

 

「えー? 嫌かぁ? 私のおっぱい、気持ちいいだろぉ? ほらほら、もっと堪能しとけー」

 

「ああもぉ、完全に酔っ払ってるなっ!?」

 

「酔っ払ってませぇん」

 

「酔っ払いほどそう言うんだよっ」

 

「でもー、ねぎらいたいという気持ちに嘘はないぞぉ? いつも美味しいご飯を作ってくれて、いつも家事を率先してやってくれて、いつも酔い潰れた私を寝床まで運んでくれて、おまけに武法士としても着実に立派になってる。…………私みたいなロクデナシが育てたにしては出来すぎた弟子だぁ。おーよしよし、私の可愛いリンフーや」

 

 また頭を撫で回される。宝物を愛でるように。

 

 リンフーは暴れなかった。褒められているのは本当であるみたいだし。

 

 それに、自分を卑下する発言をするシンフォに、なんだか胸が痛んだからだ。

 

 拗ねたような、少し怒ったような口調でリンフーは言った。

 

「……シンフォさんは、ロクデナシなんかじゃない。ボクにとって、かけがえのない大事な人だ。もしあなたをロクデナシなんて言う奴がいたら、ボクが許さない。……たとえそれが、あなた自身でもだ(・・・・・・・・)

 

 撫でる手が止まる。

 

 細い両腕がリンフーの後頭部にするりと回され、優しい力で深く抱き寄せた。

 

「私の罪の意識は、君のその優しい言葉だけでは到底薄れるものではない。でも、そう言ってくれるだけでも私は嬉しいよ。ありがとう、リンフー……優しい弟子を持てて、私は幸せだよ」

 

「……ん」

 

 今なおシンフォの胸に顔を埋めたままのリンフーは、大人しくそう頷いた。

 

 先ほどまでの羞恥の気持ちは、不思議と失せていた。代わりに胸中を満たしているのは、安心感。

 

 穏やかな口調、優しい手つき、顔を柔和に挟む柔らかさ、それらの要素がリンフーの心を大人しくさせていた。小さい頃、母親に抱きしめられていた感覚に似ていた。

 

 昔ある人が言っていた。男はいくつになっても母親を求めるものだと。男らしさ、勇ましさに強いこだわりを持っていた幼い自分はそれを「軟弱だ」と否定したが、こうして大人しくさせられていることを考えると、あの言葉はあながち嘘でもないと思った。

 

 けれど——この苦しくも甘酸っぱい胸の高鳴りだけは、母に対して抱くソレではなかった。

 

「そういえばリンフー、その【槍海大擂台】とやらには、どうやって選ばれたんだい? 何か抽選でもあったのか?」

 

 さらさらとリンフーの髪を撫でながら、シンフォが穏やかに訊いてきた。

 

「フイミンさん……【白幻頑童(はくげんがんどう)】に少しでもいいから傷をつけること、だったらしい」

 

 リンフーがその言葉を口にしたのを最後に、シンフォからの返答が一切なくなった。

 

「シンフォさん? ……って、うおぁっ?」

 

 かと思えば、シンフォの重みが急に手前へ傾いてきた。リンフーは抱くように支えた。

 

 シンフォの頭が左肩に乗っかり、

 

「すぅ……すぅ……」

 

 規則正しい寝息で左耳をくすぐってきた。

 

 散々飲みまくっていたから、一気に睡魔が襲ってきたのだろう。

 

 リンフーは苦笑した。

 

「本当に、仕方がない人だ」

 

 爆睡した師を寝室まで抱えて行った後、リンフーは後片付けを始めたのだった。

 



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不老不死の探究者

 翌日の正午。

 

「おや? 誰かと思えば小僧ではないか」

 

 食材の買い出しを終えて家に帰っている最中、聞き覚えのある声が耳に届いた。幼くも威厳のある女の声。

 

「あ、フイミンさん……あれ?」

 

 リンフーはその声の主——范慧明(ファン・フイミン)の方へと振り向いたが、そこに真っ白な幼女の姿はなかった。

 

「ここにおるぞ」

 

「うわぁ!?」

 

 まるでポッと火がつくように、懐深くに突然フイミンの姿が生じた。

 

 リンフーは驚きのあまり飛び上がって、後退りした。

 

「わ、わざわざ【閃爍歩(せんしゃくほ)】使って驚かすなよっ! 心臓止まったらどうしてくれるんだ!?」

 

「すまぬすまぬ。少々悪戯心が湧いてきたのでなぁ。きゅふふふっ、おぬしはなんだか悪戯してやりたくなるような感じがするのぅ」

 

「どういう意味だよっ!?」

 

 圧倒的目上であることも忘れて強めに言い返す。ああもう、どうしてボクはこうも年上の女性にばかりからかわれるんだ。

 

「して、おぬしは何をしておったのじゃ? その抱えられた布袋の中の冷野菜や香辛料から察するに……飯の買い出しかのう」

 

「あ、はい。そんなところです」

 

 リンフーは買った物の入った布袋を掲げて肯定した。

 

 フイミンは納得したように頷いてから、話の方向を変えた。

 

「【槍海大擂台(そうかいだいらいたい)】は、あと一週間後じゃったな。どうじゃ? 鍛錬ははかどっておるかのう?」

 

「ボチボチです」

 

「頑張るのじゃぞ。武法の世界において、鍛錬はし過ぎるということがない。まして、【槍海大擂台】はなかなかの強豪揃いじゃ。優勝できずとも、おぬしの武法士としての成長の糧にはなる。じゃが自分のできる全てを尽くして臨まねば大した成長はできぬ。全力を尽くして挑むがよいぞ」

 

「あ、はいっ」

 

「きゅふふ、精進するがよいぞ、若人。若い頃の無謀は金塊を積んででもせよ、とのう」

 

 冗談か本気か分からない物騒なことを言う白い幼女に、リンフーは笑みを引きつらせる。

 

「まあ何にせよ、良い試合を見せてくれることを期待しておるよ。ここを発つ前の良い祭りになるであろうからな」

 

「え? ここを発つ、って? フイミンさん、いなくなってしまうんですか?」

 

「うむ。わしは基本的にこの煌国(こうこく)中を旅していて、何年かに一度【槍海商都(そうかいしょうと)】に戻ってくるのじゃ。【亜仙(あせん)】ゆえにこんなナリをしているが、わしはもういつくたばってもおかしくはない歳じゃ。その少ない余生の間、いろいろなもの見聞きしておきたいのじゃ」

 

「その、途中で死んじゃったりしたらどうするんですか?」

 

「それはそれで構わぬ。死ぬ場所にこだわりはないからのう。……おっと、若造にこんなしおれた話はするものではなかったのう。おぬしが考えるにはあまりにも早過ぎることじゃ」

 

 この話はこれにて終い、とばかりにフイミンは話題を変えた。

 

「ところで小僧、おぬしは【求真門(きゅうしんもん)】についてどこまで知っておる?」

 

「脈絡ないですね……」

 

「そんなことはないぞ? 最近、巷で勢力を拡大させつつある【求真門】という連中、ちょうど今言及していた【亜仙】とも多少関係がある組織なのじゃからのう」

 

 きゅっふっふっ、と笑声をこぼすフイミンは微笑こそ浮かべているが、なぜかその銀色の瞳が刃のように冷たく光っていた。

 

 【求真門】——この大陸で最大規模を誇る武法(ぶほう)結社(けっしゃ)

 

 とある武法の一派が前身となって結成された組織で、二〇〇年前の戦乱期から少しずつ勢力を伸ばしていき、今では数ある結社の中でも一、二を争う規模となった。

 

 目的は、本物の不老不死……すなわち【真仙(しんせん)】の探究。

 

 その理由はいまだに分からない。ただ一つだけ分かるのは、【真仙】などという神話の域を出ないようなシロモノを、【求真門】は本気で追い求めているということである。

 

 普通ではないのは、目的だけでなく、それを達成するための手段もであった。

 

 【求真門】は、【真仙】の研究材料を手に入れるために、数々の非道な行いに手を染めている。街や村に攻め入って財産や貴重な薬や植物を略奪したり、武法流派を襲ってその秘伝書を強奪したり、実験台を手に入れるための人間狩りを行ったり……積み重ねてきた悪行は数知れず。

 

 特に力を入れているのが、武法の略奪と研究だった。武法には【亜仙】という不老長寿を生み出した実例が存在するからだ。そこに【真仙】の鍵があると【求真門】は考えているのである。

 

 それゆえ、武法士はみな【求真門】を不倶(ふぐ)戴天(たいてん)の敵とみなし、その活動を注視している。

 

「奴らは実に大胆不敵じゃ。もう何十年も前の話じゃが……奴らめ、天下の【黄林寺(こうりんじ)】にまで殴り込んで、秘伝書をまとめて掻っ攫おうとしたのじゃ」

 

「秘伝書、ですか?」

 

「うむ。しかも、記されているのはいずれもヤバすぎる秘法ばかりだそうじゃ。一つでも身につければひ弱な小童でも化け物並みに強くなれるほどの、のう。まぁ【黄林寺】の連中が許すはずもなく、盗っ人は討伐され、秘伝書はすぐに奪還できたそうじゃ。——一冊を除いて、のう」

 

「一冊?」

 

 そうじゃ、とフイミンが頷いた。

 

「【黄林寺】が【求真門】の者どもと戦っている最中、その場所の下で流れていた濁流の中にその一冊を落としてしまったようでのう。【黄林寺】の連中は血眼になって探したらしいが、結局見つからなんだそうじゃ。……【黄林寺】最高師範のクソジジイめ、技の詳細こそ教えてくれなんだが、【御雷拳籍(ごらいけんせき)】という題名だけは教えてくれたよ」

 

「【御雷拳籍】……」

 

 リンフーはその単語を呟いた。

 

 不思議だった。その単語は初めて聞くはずなのに、妙に心に馴染む感じがした。

 

 だがその感覚を上から塗りつぶすかのように、リンフーの脳裏にある疑問が蘇った。

 

「脈絡がないことを聞きますけど、いいですか?」

 

「ん? なんぞや? 言うてみよ」

 

「フイミンさん……前に言ってましたよね? ボクの技に見覚えがあるって。ボクの【天鼓拳】について、何かご存知なんですか?」

 

 フイミンは記憶を辿る仕草を一瞬見せてから、思い出したように頷きながら答えた。

 

「ああ、そのことか。そうじゃのう……最初は、かつてわしと決闘して引き分けたある武法士と同じ技に見えたのじゃが、よく見ると随分と違っておったわい。体捌きもそうじゃが、術力の質がその武法士のソレよりも随分優しかった。おぬしの術力は確かに他の流派に比べて強大だが、そやつの術力は強いとか弱いとかそのような次元ではなかった。ただただ禍々しく……そして凶悪じゃった。もう二十年以上も前のことじゃが、わしは今でもよく覚えておるよ」

 

 フイミンをしてそこまで言わしめる人物に、リンフーは興味が湧いた。

 

 だが同時に、不安にもなった。

 

 【天鼓拳(てんこけん)】がその人物の技に似ている——その言葉から、その人物とはシンフォのことではないかと思ったからだ。

 

「その武法士って、なんて名前だったんですか?」

 

 リンフーは緊張を隠しながら訊く。

 

 シンフォの名前が出てきたら大変だ。二人が鉢合わせた場合、また決闘などという話になるかもしれない。今のシンフォは武法を使えないのだ。

 

 フイミンの小さな唇が動き出す。リンフーはそれを固唾を飲んで見守る。

 

田麗洌(ティエン・リーリエ)——あやつはそう名乗っておったわい」

 

 リンフーの緊張が一気に消えた。氷が溶けるように脱力した。

 

「決闘が引き分けに終わった後、あやつはわしの前から姿をくらましおった。わしはもう一度やり合いたいと思って大陸中を探してみたのじゃが、誰もリーリエなどという名前を聞いたことがないそうなのじゃ。あれほどの使い手が、知られておらぬのじゃぞ? 面白いものじゃなぁ。もし生きていたらまた会いたいのぅ。……ん? どうしたリンフーよ? 気の抜けた顔をして」

 

「いえ……別に」

 

 よかった。本当に良かった。

 

 シンフォとフイミンの間には、何も繋がりも因縁も存在しないのだ。

 

 これで枕を高くして眠れそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから一週間、リンフーは特訓に精を出した。

 

 一人で稽古するのはもちろんのこと、暇があればチウシンやリーフォンの手を借りて対人練習も積んだ。シンフォは武法が使えないので、対人練習ができない。喜んで練習に付き合ってくれた二人には感謝の言葉もない、

 

 リンフーにはすでに四年間鍛錬を積み重ねてきた技がある。あと足りないのは実戦経験のみだ。なので、それを補う訓練に力を入れた。

 

 あっという間に準備期間は過ぎていき、やがて、「その時」が訪れた。

 



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