そのウマ娘の名は (ニモ船長)
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本編
そのウマ娘の名は


 

※キングヘイローさんが高松宮記念に挑むそうです。

 


 

 

 シニア級、3月下旬。

 彼女にとっては正しく運命の分かれ道となる一世一代の大舞台が、この日開かれようとしていた。

 

 

 「ついに、この日が来たのね」

 

 

 そう零すのは、今日のG1レース、「高松宮記念」に出走する俺の担当のウマ娘だ。

 整った顔立ちに、焦げ茶色の如何にもなお嬢様ヘアー。緑のドレス風の勝負服を纏って腕を組みながら、控室の椅子に座っていた彼女は、しかし一応の心の準備が出来たのか、刮目してトレーナーである俺に話しかけてきた。

 

 

 「……本来、三冠路線を狙ったウマ娘は、中長距離を狙うのが定石。しかし私はここに来たわ。短距離の王を決める、『高松宮記念』へ。

 ――私らしい一流の道を、歩むために」

 

 

 ウマ娘のデビューからの三年間は非常に大切な時期だ。

 そして二年目であるクラシック級にて、彼女は一生に一度しか出場する事の叶わない三つのレース、「皐月賞」、「日本ダービー」、「菊花賞」に出走した。自分こそが一流のウマ娘であると、世間に知らしめるために。

 

 

 「たとえこの道すらも誤りだったとしても……私は後悔しない」

 

 

 それら全てにおいて、彼女は敗北した。

 「皐月賞」は二着、「日本ダービー」は大敗して十四着。「菊花賞」も振るわず五着に甘んじ、世間の関心は彼女と同期である「黄金世代」、スペシャルウィークやセイウンスカイ、グラスワンダーにエルコンドルパサーへと向かってしまっていた。

 「偉大なウマ娘であった母親を持つご令嬢」。彼女を名前ですら認識しなかった当時の評価すら、今は消え去ろうとしていたのだ。

 

 

 「もし、そうだとしても――」

 

 「その時は」

 

 

 だが。そのクラシック三冠と呼ばれる三大レースの終着点、「菊花賞」のレースの後、彼女と俺は決めたのだ。

 世間を、彼女の出走に反対する母親を、振り向かせる事は止めようと。誰にも囚われない、彼女だけの道を歩もうと。

 

 

 「その時は、また一から頑張ろう」

 

 

 そんな俺の一言に、彼女は一瞬目を見開いた様子だったが、直ぐにニヤリと口角を上げて応じる。

 

 

 「……ふふっ」

 

 

 俺には、彼女の気持ちが少しだけ分かる。

 重賞、と呼ばれるウマ娘が走るレースのうち規模の大きいものの中で、更にその頂点に位置するG1レース。それを何度も勝ち、アメリカG1では驚異の七勝を達成して惜しまれつつ引退したのが彼女の母親だ。その娘として生を受けた彼女は、周囲からは過度な期待を掛けられ、当の優秀過ぎる母親からは適性がないと烙印を押され、今までそのプレッシャーと常に戦ってきたのだ。

 ――どんなウマ娘をも重賞で活躍させる、変幻自在の一流トレーナー。九年連続で専属ウマ娘最多勝率を誇った顕彰トレーナー、それが俺の父親だった。

 そんな彼が数年前にトレーニング中の不慮の事故で引退を余儀なくされ、それまで親父のチームのサブトレーナーとして研修していた俺が突然、代わりにメイントレーナーを任されて……そして、そんな時に出会った、実質初めて全面的に受け持ったウマ娘こそが、彼女だったのだ。

 

 

 「あなたも覚悟済みってワケね」

 

 

 彼女の戦績の低迷と同時に、トレーナーである俺も責任を幾度となく追及された。

 伝説のウマ娘の御令嬢と伝説のトレーナーの息子の二人三脚でありながら、目覚ましい結果が出せない現状は多くのファンを失望させたことだろう。俺達を書いたバッシング記事なんて、調べればキリがない程に出てくるのだ。

 ……だけど。今回のレースは、誰かに認めてもらう為の勝負ではない。

 自分の道を行く為の勝負。彼女が彼女らしい、彼女だけの一流の道を歩むための、第一歩なのだ。そしてそれは多分、俺にとっても。

 そう思い、彼女をパドックへと送り出すべく、最後の励ましの言葉を考えていた、その時。

 

 

 「……あら、お母さまね」

 

 

 それは彼女のデビュー戦や「日本ダービー」のレース後にも掛かってきた、彼女の母親からの電話だ。

 「ほかの道の方が幸せになれる」そして彼女がそれに応じるたびに、母親は迫ってきた。「あなたに走りの才能はない、諦めなさい」……。

 

 

 「ふふん、ちょうどいい機会だわ。

 あなた、私の代わりにこの携帯を持って」

 

 「……えっ?」

 

 

 だけど。今の彼女は、もうあの頃とは違う。

 

 

 「え、じゃないの。ほら、手を貸しなさい」

 

 

 ――取り繕った励ましの言葉なんて、不要だったようだ。

 彼女は電話を掛けてきた母親に、堂々と宣言したのだ。自分はプロだと。数々のレースを走った、一流のウマ娘としてこのレースを選んだのだと。

 

 

 

 

 「誰にどんなことを言われようとも、私には勝機も自信もある。

 誰でもない、――――としてのレースを、見せてあげるから!」

 

 

 

 

 

 

 

 「わあっ、人がたくさんだー! みんな、いらっしゃーい!」

 

 「ウララはさー、今日はキングのレースだからね?」

 

 

 耳をぴょこぴょこさせながら笑顔で辺りを見回す一人のウマ娘と、その隣で彼女にツッコむ、これもまた一人のウマ娘。

 

 

 「ま、元気なのは良い事だよなぁ……あれ、スカイも来てたのか?」

 

 「あっ、トレーナー! こっちこっちー!」

 

 「おっ、キングのトレーナーじゃん。

 にゃはは、そんなんじゃないよー。ちょっと暇つぶしに来ただけー」

 

 

 ハルウララと、セイウンスカイ。

 「彼女」のルームメイトであり、ほぼ同時期にうちのチームに加入したウララは、是非「彼女」の応援に行きたいとついて来てくれたから当然なんだけど、セイウンスカイ……先程も名前を挙げた三冠のうち、「皐月賞」と「菊花賞」にて一着を勝ち取った黄金世代の一角である彼女が来るとは、同じチームメイトでもないのに意外だ。

 

 

 「……まあでも、ちょっと心配にはなっちゃったかなー。

 あれだけ一流一流って言ってたキングがさー。こう、路線を変えられるとね……気になるじゃーん」

 

 「意外とスカイって、お人好しだよな」

 

 「そうだよー! セイちゃんね、いっつもウララに色んな事教えてくれるんだよー! 忍法とうめいの術とか!!

 

 「よーしスカイあとで話そうか」

 

 「おっけー、いちぬーけたっ!!」

 

 

 ……とはいえ、大事なレースの前なので実際に追いかけっこなんてする筈もない。だいたいスカイはウマ娘だし、追いかけたって追いつきやしないんだけど。

 ただ、スカイも今は俺がそういう気分じゃないってことを理解してくれていた様で、変に逃げるそぶりを見せていないというのがちょっと癪だ。

 

 

 「っていうかさ、チームの他のみんなはどこにいるのかなー? まさか、ウララと二人でやって来たわけじゃないでしょうにー」

 

 「ああ、今はパドック前で声を掛けてると思うぞ。ウララと俺は一足先に話は付けたから、先にこっちに帰ってきたんだよ。

 ウマ娘同士でしか語れない事も、あるのかも分からんなと思ってさ」

 

 「そうですね。トレーナーさんのそういう優しいところ、素敵だなって思いますよー?」

 

 

 おや、どうやら噂をすれば影だったようだ。後ろを振り返れば、いつの間にかチームのみんながずらりと並んでいた。

 

 

 「スーパークリーク先輩、ご無沙汰してます」

 

 「あら、スカイちゃん。いつもうちのキングちゃんの事を気に掛けてくれて、ありがとうね~」

 

 

 ――流石にスーパークリークは世代の都合もあって、俺の担当ではなかった。厳密には親父がトレーナーとして受け持ったウマ娘だ。

 だが実際はどういう訳か、当時新米も良いところだったサブトレーナーの俺を彼女がよく甘やかした面倒を見てくれた事もあって、チーム内でも実質的には俺が担当しているかのような雰囲気が出来上がってしまっていたのだ。勿論、トレーニングの作成とかは殆ど親父が組んでたし、やっぱり一から全責任を負って鍛え上げた「彼女」とは色々と違うものがあるのも事実なのだが。

 とはいえ、彼女とオグリキャップ、タマモクロス達との数々の勝負を経て、俺もトレーナーとしての心得を彼女から学び取っていたのは間違いない。

 

 

 「スカイは優しいからなぁ。キングが負けるたびに、大丈夫そうですかってうちにこっそり聞きに来てたよね。

 素直にキングに言ってあげれば、喜ぶと思うけど」

 

 

 ――そしてこっちがメジロライアン。

 ウマ娘の一族として名家であるメジロ家の出身で、今年の夏にはデビュー戦が控えている。実は高等部で、親父の一件のせいでデビューが少々遅れてしまったのが悔やまれるし本当に申し訳ないが、そんな彼女もウマ娘としてはメンバーの中でも熟練の風格の持ち主で、既に重賞で走っている娘と併走させても引けを取らない実力を秘めている。今では同時期にデビューする、同じメジロ家のメジロマックイーンとの駆け引きが気になるところだ。

 

 

 「にゃはは、メジロライアン先輩も手厳しいですねー。

 ……でも、それを求めてないのは多分、キングの方だと思いますよ」

 

 

 「皐月賞」ではセイウンスカイに勝ちを譲り、二着で終わった。

 そして「菊花賞」を制したのもまた、彼女だ。

 一流として手に入れるべきだった栄冠を二度も奪われた、その相手との間に、「彼女」が何も感じていない筈がない。結果として、クラシック三冠を戦っていくにつれてその確執は深くなっていった……残念ながら、それは間違いないのかもしれない。

 だというのに、それでもキングを見限らなかったスカイには、感謝の言葉もない。 

 

 

 「……それは、どうだろうな」

 

 

 だから、そんな彼女に、朗報だ。

 

 

 「どうだろうって、どういう事かなー?」

 

 「そうだな……ま、今日のレースを見れば分かるかもしれないぜ」

 

 

 順位は抜きにしても、今のキングは……今までとは全く違う走りを見せてくれるはずだ。

 そんな俺の意図を知ってか知らずか、スカイはふーん、と相槌を返すのみで。

 

 

 「そうだよー! キングちゃんはぜったいに勝つよ!

 わたしは知ってるもん! ずっと、ずーっと頑張ってたんだもん!」

 

 

 ……そして直後に飛び出たウララのその無邪気な言葉に、彼女も俺達と一緒に小さく笑う事となった。

 

 

 「そうね、ウララちゃん。キングちゃんはもう立派な、うちのエースですものね~」

 

 「信じましょう! 大丈夫、困った時は筋肉が何とかしてくれます!」

 

 「……相変わらずですねー、ライアン先輩」

 

 「おかげでこっちは筋肉痛が……って、もう始まるぞ」

 

 

 ――高松宮記念のファンファーレが鳴ったのは、まさにその時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高松宮記念。芝1200ⅿ。

 今までは中距離主体の走り方を身体に叩きこんでいた私にとっては、その距離は予想以上に短かった。

 トレーナー曰く、私の脚は中長距離で力を残し続けるよりも、一瞬のうちに爆発的に駆けて出し切る能力に優れているのだそうだ。だからこそ今回の作戦は「差し」。ぎりぎりまで脚をためて、最後の直線で一気に……。

 

 

 (……ふん。そんな事、あなたに言われなくても……本当は分かっていたのよ)

 

 

 分かっていた。

 自分には適性がない事を。お母様どころか、スペシャルウィークさん達に並ぶほどの才能すら、自分にはないという事を、去年私は嫌と言うほどに思い知らされていたのだ。

 でも、それでも私は勝ちたかった。才能という言葉が、結果の後に付いてくるものだとしたら……私はそれを創り出したかった。

 勝って、証明したかったのだ。自分が一流だと。お母様の娘としてではなくて、ただ一人の一流のウマ娘として。

 ……そうでなければ。

 

 

 (そうでなければ、私を応援してくれているファンも、チームの皆さんも……トレーナーも。

 全員の『一流』を、裏切ってしまうじゃない)

 

 

 私は一流のウマ娘だ。だから、今となっては少数派であるかもしれないけれど、それでも私を応援してくれる人は一人残らず、見る目のある「一流」だ。

 だからこそ、私は……私は、まず自分自身で自分が一流である事を証明しなければならなかった。それが出来ないという事は、単に皆の期待を裏切るだけに留まらずに、皆の私を見出した才能までも否定してしまうから。

 ……才能が、素質が否定される。それがどれだけ辛いかを、私はよく知っているから。

 

 

 「だから、今度こそ……っ……!?」

 

 

 しかし。繰り返しになるけれど、距離が短い。

 気付けば私の周りで走っているウマ娘達はもう、スパートをかけている。中距離ではあり得ない早さだ。トレーニングでも幾度となく確認してはいたけれど、こんなにもレースの流れが速いなんて。

 ――気付けば私は、一瞬で纏まったバ群の中から弾き出されて、最終コーナーの外を大きく回されていたのだ。

 

 

 (そんな……っ!?)

 

 

 最後の直線が見える。外を回された分、他の選手たちは前に進んでいってしまっている。

 そして、今までのレースで分かってしまっていた。この段階でこの順位。差し切るには……厳しい。

 

 

 (また……私は、負けるの)

 

 

 皐月賞で、日本ダービーで、菊花賞で。

 いや、実はそれだけではない。その三つはあくまで大きなレースに出場した回数でしかない。

 私は合わせて十度、敗北を味わっているのだ。

 

 

 (……勝つって、どんな感覚だったかしら)

 

 

 負け慣れたつもりはない。その都度立ち上がってきた。

 だけど……それと同時に、デビュー戦で味わったような勝利の記憶は確実に薄れていく。

 だから、私が知っているのは、負けるとは何を意味するのか、それだけだ。

 

 

 (誰も、私の名前を呼ばない)

 

 

 ただでさえ伝説の母親の娘だ。結果を出せなければ存在すら忘れ去られてしまう。

 

 

 (誰も、私を誇ることが出来ない)

 

 

 「菊花賞」の時は、誰も私を見てくれていないと思っていた。実際は違った。見てくれる人はいた。

 ……その人達の名誉まで、私は汚してしまう。

 

 

 「…………嫌よ」

 

 

 脚を強く芝に踏み締めて、いよいよ最後の直線を駆ける。飛躍的に上昇した速度が、バ群後方の選手を追い抜いていく。

 駄目だ、届かない。入賞に届くかどうかがやっとだ。

 

 

 「…………嫌よっ…………!」

 

 

 頭がごうごう鳴り響く。まるで身体の速さに、心がついて行っていない様だ。

 辛い、辛い、つらい。走るのが辛い。努力が実らないのが辛い。誰かの期待を裏切るのがつらい。

 ……そして、何よりも。

 

 

 

 

 

 「呼んでよ」

 

 

 

 

 

 ――誰かの中で、自分が忘れ去られてしまう事が、一番つらい。

 

 

 

 

 

 

 

 私の名前を、呼んでよ(Call me KING)……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「「「「「キング!!」」」」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その瞬間。

 重なった声が、届くはずもない声が、確かに私の耳を突き抜けていった。

 

 

 

 「キングちゃーん!! 負けちゃダメーっ!!」

 

 

 

 ――ウララさん。

 どんなに負けても、笑顔で楽しそうだったウララさん。私が苦しい戦いにもがいている事を知ってか知らずか、寮でもいつも変わらず、明るく接してくれたウララさん。……本当はあなた、私が負けた日を見計らって私の布団に入って来てたんじゃないかしら。

 

 

 

 「頑張れキングーっ!! 筋肉を信じろーっ!!」

 

 

 

 ――メジロライアンさん。

 呆れるほどの筋肉おばかでしたけど、マックイーンさんに引け目を感じて、筋トレをしないとやって居られなかったって聞いた時、実はちょっとだけ親近感を抱いてしまったわ。

 でも知っているんですからね。あなた無自覚の内に、ちゃんと一流を目指している事を。

 

 

 

 「キングちゃん! 誰よりも頑張っていた事、私は知っていますよ~!!」

 

 

 

 ――スーパークリーク先輩。

 チームのお母様、というか。他のウマ娘にならともかく、先輩が直ぐにトレーナーを甘やかすのを見るたびに、どういう訳かモヤモヤした気持ちが頭から離れませんでしたわ。

 でも、誰よりも裏方に徹して、最後までメンバーのケアを欠かさないあなたの事は、ちゃんと尊敬しているんですよ。先輩がいなければ、私はとっくに潰れてしまっていたでしょう。

 

 

 

 「キング!!」

 

 

 

 ――す、スカイさん!?

 あなたがどうしてここに……あなたはもっと、スペシャルウィークさん達と同じ舞台に立つべきウマ娘でしょう?

 

 

 

 「負けるな!! キングの、思うように走れ!!」

 

 

 

 ……そう叫ぶスカイさんの目は涙を湛えていて、表情は未だかつて見たことがない程に真剣で、痛切で。

 そして、彼女の次の言葉を聞いた時。

 

 

 

 

 

 

 

 「――キングも、黄金世代でしょ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 ああ。

 そうなのね。

 

 

 

 

 (……礼を言うわ、皆さん)

 

 

 

 

 踏み込む足は、まるで羽根を得て浮いているかのように軽かった。

 残り200m。よく見れば外を走らされた分、前には誰もいない。

 

 

 

 (ここからは、私だけの道)

 

 

 

 勝てるかは分からない。

 負けるかもしれない。

 忘れ去られてしまうかもしれない。

 

 

 

 

 だけど。それでいい。

 

 

 

 

 「……いけ、キング」

 

 

 

 

 良いわよね、トレーナー?

 だって。

 

 

 

 

 

 

 

 キングの誇り(Pride of KING)は、その程度では砕けない!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――黄金世代の死闘から一年後、高松宮記念。

 

 

 

 

 『さあ、大外から……大外から、やはり――――飛んできた!! ――――飛んできた!!』

 

 

 

 

 ――そのウマ娘は十度の敗北を超えて、才能を証明した。

 

 

 

 

 「行け、キング!!

 俺は知ってる! 俺は見てきた! 俺は分かってる!!

 お前が、お前こそが、(キング)なんだ!!!」

 

 

 

 

 ――敗れても、

 

 

 

 

 『……トレーナー、一周だけ走り込みに付き合う権利をあげるわ』

 

 

 

 

 ――敗れても、

 

 

 

 

 『私は認められるべきウマ娘なんだから……っ!』

 

 

 

 

 ――敗れても、

 

 

 

 

 『本当に……全然……。かっこつかないんだから……っ。

 ……なんで、こんなにへっぽこなのかしら……っ! 私たちはぁ……っ!』

 

 

 

 

 ――絶対に首を下げなかった。

 

 

 

 

 「「「「「行けえぇぇっっ!! キング!!!」」」」」

 

 

 

 

 緑のドレス、不屈の塊。

 

 

 

 

 

 

 「だ……ああああああああっっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのウマ娘の名は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『キングヘイロー、差しきってゴール!!

 キングヘイローがまとめて撫で切った! 恐ろしい末脚! ついにG1に手が届きました!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……ごきげんよう、皆さん」

 

 

 

 割れんばかりの歓声の中、キングは立ち上がった。そして、観客席へと向き直る。

 見れば、最前列まで駆け寄って、仲間たちが狂喜乱舞していた。メジロライアンとハルウララは抱き合って、それをスーパークリークが赤く染まった目で見つめている。セイウンスカイは目尻を強引に服で拭うと、にゃは、とこちらに気持ちよく笑って見せる。

 そして、トレーナーは。

 

 

 

 「あら。『菊花賞』の時も泣かなかったあなたが、随分涙もろくなったものね」

 

 「……ちくしょう、流石にやられたよ」

 

 

 

 ボロボロと涙を流す自分のトレーナーに、キングはクスリと笑った。

 不思議と、涙は溢れなかった。

 

 

 

 「……ちょっと。まだそんなに泣くのは早いんじゃないの?

 私達の覇道は、まだ始まったばかりよ?」

 

 

 

 その代わりに、溜まった涙は陽の光を宿して、その瞳をきらつかせていた。

 ――そしてその不屈の王、キングヘイローは、自分のトレーナーに手を差し伸べるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「さあ、行きましょう。私達だけの一流を」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「キングちゃん、すごかったよ! ウララもじーんってなっちゃった!」

 

 

 

 「トレーナー、わたしも一着取りたいな! キングちゃんみたいに諦めなければ、いつかは取れるかな!?」

 

 

 

 

 

 

 

 了



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「一流」を継ぐ

 

※キングヘイローさんが史実を捻じ曲げて有馬記念に挑むそうです。

 


 

 

 「すみません。待たせてしまいましたか」

 

 

 ――年末。

 年の終わりに相応しい冷え込んだ風が辺りを舞う中で、俺は足早にここ、中山レース場のセンタープラザを訪れていた。

 そして、そこに佇む待ち人を見つけると、目立たないように手で合図を送りながら駆け寄り、開口一番に謝罪の言葉を申し上げる。

 

 

 「……遅いですこと。今を何時だと思っていますの?」

 

 「え、えーと、九時ごろにこちらに到着されると伺っていたんですが……」

 

 「私が九時と言ったら八時の事だと思って頂けるかしら。一時間も待たせるなんて、随分いい度胸をしていらっしゃるのね」

 

 

 ……いつだったかあいつも貴女と同じ様な事を言ってましたよ、という一言をすんでの所で呑み込む。

 無論、かつてそれを言った「あいつ」とは目の前の女性ではない。その娘だ。

 

 

 「まったく、この私が観客席の最後列だなんて、一生の汚点だわ」

 

 「まあまあ。今日は抜かりなくVIPルームを確保しているんで、お許し頂けませんか?」

 

 「……そう。でしたら、それで手を打ちましょう」

 

 

 こんな事もあろうかと自腹を切っておいて正解だった。チームの方も気にはなるが、そこは事前にクリークに事情を伝えてあるので恐らく任せて問題はないだろう。

 それよりも今はこっちだ。何せ未だかつてない未曽有の事態だ、娘のデビュー三年目の終わり……ウマ娘にとって最も大事な時期と目される三年間の大詰めであるこのレースにて、初めてこの母親は娘のレースを、その目で観戦しに来たというのだから。

 

 

 「それで? あなたは本当にあの子が、この有馬記念で一着を取れるとお考えになって?」

 

 

 ――そう。

 二大スプリント戦覇者であり、俺の目の前にいる女性の娘であるキングヘイローは今日、シニア級最後のレースである有馬記念に出走したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キングヘイローとその母親の確執。この三年間を振り返るにあたり、欠かせない要素の一つだ。

 一流のウマ娘を目指しトレセン学園を訪ねたキングは、しかし以前から母親にその進路を反対されていたのだ。曰く彼女には才能がないので、レース以外の人生を歩むべきだと。

 

 

 「いいでしょう、今日は無礼講でお話して頂戴。

 率直に聞きます。あなたはあの子の事を、元々どういうウマ娘だと思っていたのかしら?」

 

 

 キングがメイクデビューを果たした翌年のクラシック級時代、俺達はいわゆるクラシック三冠と呼ばれる三大大会を制覇すべくトレーニングに励んでいた。恐らくはその時の俺の本音を聞いているのだろうと察し、俺はやや言葉を選びながら応じる。

 

 

 「間違いなく抜きんでた存在でしたよ。精神的な面でやや安定性には欠けましたが、どのレースで勝利したとしてもおかしくなかったと……今でも思っています」

 

 

 ……実際は、シニア級以前はどのレースたりとも一着を取れなかったのだが。

 三冠路線の初めの勝負である「皐月賞」の前に計測したキングのデータでは、何と彼女は短距離からマイル、中長距離まで全てのレースにおいて一定以上の適性があったのだ。脚質としては爆発的なスパートが特徴で、しかし長く保つことの出来ないスプリント向きであったのは事実だが、彼女はそのペース配分を自前の頭の良さで徹底的に管理し距離の長さに対応する能力に優れていた。

 もし競走するウマ娘がかの「黄金世代」でなければ、キングは間違いなく世を席巻する常勝ウマ娘として君臨していただろう。

 

 

 「賢くても気性難。対応力はあれど器用貧乏。

 ダービーで負けて、あなたもあの子の問題に気が付いたのではないかしら?」

 

 

 日本ダービー。前もって伝えた作戦とは違いキングは殆ど試した事のない逃げ策で挑み、見事にバ群に呑まれてまさかの十四着という大敗を喫した。

 周囲のプレッシャーや彼女自身の性格に起因する、メンタルの不安定さが露呈した瞬間だった。そして、どの距離でも適性があったとしても、どの距離でも勝てる身体に仕上げる事は、不可能に近いという現実も。

 

 

 「あの時、まだあの子の脚質が見定まっていなかったんでしょう。逃げるか、差すか、どちらが得意かでさえ、なまじ一通りこなせてしまう為に区別が付き辛かった。

 ……そしてあの子は恐らく、私に倣って逃げを打ってしまった」

 

 

 VIPルームのデッキに出て紅茶の入ったカップを手にしてそう告げる目の前でキングの母親は、現役時代はどちらかと言えば逃げや先行策に適性のあるウマ娘だったようだ。確かにそれは当時のキングの乱心の原因になりえたかもしれない……つまり一番忌み嫌っていた筈の母親の戦法を、しかし同じ血統の一流ウマ娘の上策として無意識に取り入れてしまったかもしれないという意味で。

 

 

 「ばかな子だわ。『私の真似はしなくていい』って、あれだけ何度も言い聞かせたのに。

 誰よりも一流ウマ娘の令嬢としてあの子を見なしていたのは、世間ではなく、あの子自身だったのではなくて?」

 

 

 ――流石の慧眼だ。そしてそこを見抜いていたからこそ、この人は娘をトレセン学園から連れ戻そうとしていたのだ。そんな状態であの「黄金世代」のメンバーを出し抜くことなど、出来る筈がなかったのである。

 だがそんな母親の突き放しは、キングに取っては耐え難い苦難の権化でしかなかった。一時期は三強とさえ称えられていた同期のスペシャルウィークやセイウンスカイに幾度となく勝利を奪われた彼女は遂に、三冠最後のレースである「菊花賞」にて壊れかけてしまい。

 

 

 「……だからこそ、俺は何とかしてあいつを助けてやりたくてですね。

 キングの事を、キングヘイローとしてみんなに知ってもらいたかった」

 

 「それであの暴挙を? 全く、若気の至りも程々になさいな。見ているこちらは見苦しくて仕方がなかったわ」

 

 「それは手厳しい」

 

 

 今でも苦い記憶だ、あのレースが終わった後の彼女の……実力を出し切った筈でも五着に終わった彼女の、あの絶望に染まり切って打ちひしがれた瞳を目の当たりにした時、俺は思わず近くの観客たちに向けて叫んでしまったのだ。もっとキングを見ろ。なぜキングヘイローを忘れるんだ、と。

 結果としてはそれを見事にパパラッチにすっぽ抜かれてしまい、キングに対するバッシングの一部が代わりに俺に寄せられることになったのだが、そこは彼女の負担を少しでも受け持つ事が出来たと肯定的に思うようにしている。

 

 

 「ですが、暴挙って言ったら、ここ一年のキングの路線の方がよっぽどだと思いますけどね。

 そしてあいつはその中で、目覚ましい戦果を挙げ始めている。手前味噌ですけど」

 

 

 茶化す様に言ってみれば、キングの母はフン、と鼻を鳴らして紅茶を啜る。

 その後話し合って母親を振り向かせる事を辞め、自分が戦いたいレースで勝つように信念を切り替えてからの彼女は強かった。シニア級最初のレースである高松宮記念ではG1初の一着に輝き、続けての安田記念とスプリンターステークスも差し切って勝利を掴み取っている……天皇賞(秋)では七着に甘んじたが。

 ――そして、来たる有馬記念のファンファーレが今、鳴り響いていた。

 

 

 「……本題に戻りましょうか。

 スペシャルウィークさんに休養後のセイウンスカイさん、グラスワンダーさんにエルコンドルパサーさん。『黄金世代』が揃い踏みしているこのレースで、一度も彼女等との競走で勝った事のないあの子が勝てるとお思いになって?」

 

 「見込みは十分にあります。勝てますとも」

 

 

 だが、その母親の言葉がなにもかも正しい事を認めた上でも、俺は今のキングなら、彼女達に勝てると思っている。

 そんな様子の俺を一瞥したキングの母親は、小さくため息をつきながら今しがたゲートから飛び出して、遂に年末の大舞台を走り出した自分の娘を見守るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「はっ、はあっ……流石にっ、2500mは、長いわねっ……!!」

 

 

 久しぶりの長距離レースだった。

 以前の「菊花賞」では今回よりも更に長い3000mに挑戦したものだったけれど、今考えればやはりあれは早計だったとしか言いようがない。幾ら距離適性にムラがないとはいえ、脚質としては明らかに得意分野ではない事がこの一年でよく分かったような気がする。

 ――高松宮記念で念願の勝利を手に入れた私達は、その後もスプリンターとしての自身の才覚を確かめるために短距離やマイルのレースを主軸に勝ち星を挙げていった。今年の成績だけを見ればまるで去年の迷走が嘘のようで、数日前に私は自分の競走成績表をトレーナー室で彼と共に眺めて、少しの間お互いに目をぱちくりする事しか出来なかったほどだ。

 それくらいには、私の道は明確に示されていたのだ。私の脚が目指す一流が、どこにあるのかを。

 

 

 (……だっていうのに。「キングヘイロー、再び中長距離路線に復帰か」ですって。おばかはやっぱりいつまで経っても、へっぽこのままの様ね)

 

 

 別にこだわりはないのだ。短距離レースの方が私の脚に合っている事はもう否定のしようもない事実だが、だからと言って他のレースを捨てたわけではない。

 私は私の道を行く。目指したいレースがスプリントだろうがマラソンだろうが関係ない、私がそこに出走する意義を見出したのならそこに全力で傾倒する。それだけの事なのだ。

 そして私は前回、天皇賞(秋)にて久しぶりに入賞を逃しながらも、今回の有馬記念も含めて再びこの距離のレースへと舞い戻って来ていた。

 ……それには、訳があった。

 

 

 『わたしたちはさ、同期なんだよ?

 これで終わるわけないじゃん。次も勝負しようよ』

 

 

 天皇賞(秋)のレース後。私はスペシャルウィークさんやセイウンスカイさんに、自分の気持ちを吐露した。

 初めは私から栄冠を奪っていくあなた達が憎かったと。だけど、今は感謝していると。あなた達がいなければ、私は自分の道を歩めなかったと。

 それに同意してくれたのがスペシャルウィークさんで、一方で当時療養からの実質的な復帰戦となっていたセイウンスカイさんは、このように言ったのだ。

 また、戦う機会はあると。ずっと、一緒にターフを走ろうと。

 

 

 

 (……その約束、守れるか……見定めないと)

 

 

 

 結論から言う。

 私はこのレースで、自身の進退を見極めるつもりなのだ。生涯現役を貫き、顕彰ウマ娘を目指すか、あるいは競走ウマ娘としての人生から一区切りつけて、いわば引退するか。

 

 

 (あなたが今の私の気持ちを知ったら、やっぱり怒ってしまうのかしらね。スカイさん)

 

 

 私は我が道を行くと言った。

 それはレースだけの問題ではない。お母様の影を意識しながら生きる事を辞めるという意味では、私のこれからの全てに関わる問題であって。

 ……だとしたら、私の目指す一流の中には、競走ウマ娘以外の道もあるのではないかしら。敢えてお母様が歩んできたターフの道を目指す必要は、もうなくなったのではないかしら。

 それをトレーナーに伝えたのは、天皇賞が終わって数日たった後の事だった。その時の彼の顔ったら、驚いたようで、一瞬は悲しそうにして……でも、私の顔が予想以上に晴れやかだったからか、直ぐに口元に笑みが浮かんで。

 

 

 『有馬記念、出てみるか?』

 

 

 そして、彼は随分と調子の良いにやけ顔で、私に提案してきたのだった。

 

 

 『君の同期、みんな出るぜ。ここで勝負をしてみて、それでじっくり考えてみたら良いんじゃないか?』

 

 

 ――もし辞めるのなら、今しかない。

 四年目を迎えたウマ娘は、引き続きトウィンクル・シリーズに挑むか、もしくはドリームトロフィーリーグに移籍するかの選択を迫られる。そしていずれにしてもそれを私が決めた時点で、応援してくれるファンは私を「引退まで競走するウマ娘」と認識する事になるだろう。

 だから引退を決意するのは今、そしてこのレース後にはその発表をしなければいけない。

 

 

 (……あなた達に私が本当に見合わないのなら、そういう選択肢を取っても良いわよね?)

 

 

 悲観的な思いではない。純粋な分析としてだ。

 私が同期の皆さんと比較して、やはり明らかに凡才である事は紛れもない事実だ。それを私は努力と諦めの悪さで凌いで今、ここにいる。

 ――いい加減、それが限界に近づき始めているという予感を私は覚えていた。もちろんそれを強く感じたのはあのクラシック三冠があったからで、シニア級に入ってからは天皇賞でしか彼女達とは競り合っていないのだけど、今後競走を続けるとして、彼女達が認めるキングであり続けられるかどうか、私も自信を持って肯定する事が出来ないでいるのだ。

 

 

 (今までは、負けても首を下げなければ良いと思っていた。でもスカイさんは言ったじゃない。「次も勝負しよう」って。

 ごめんなさいね。私は、あなた達と互角に戦えるほど……強くはないかもしれない)

 

 

 それを決めるのが、この有馬記念だ。

 ただしぶとく勝利を狙うだけでなく、ライバルとして、あの「黄金世代」の一角として戦うだけの実力が、気概が、素質があるのか。

 私は競走を続ける事で、一流であり続けられるのか。

 

 

 

 「諦めないわ……絶対に……!!」

 

 

 

 レースは、既に最終コーナーへと差し掛かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あの順位……実質的に追い込みじゃない。ここから巻き返せる訳がないわ」

 

 

 最終コーナーを回る娘を見下ろしながら、母親は冷淡に宣告する。

 実際かなり苦しい展開だ。シニア級になって差し戦法を得手にしたキングだったが、その性質上バ群に呑まれてしまったり、レース全体のペースに押されて順位を必要以上に下げてしまうと、最後の直線にて差し切れないケースがままある事が……トレーニングや秋天での展開から浮き彫りになっているのだ。

 そして、中山の直線は短かった。

 

 

 「まあそう言わずに。娘さんの最後のレースになるかもしれないんだから、今日くらいは見守ってあげませんか?」

 

 

 だが、俺がそう頼んだ瞬間に、彼女はカチャリとカップを皿に落とし、一瞬の硬直の後にこちらを見上げて口を開いた。

 

 

 「……何ですって?」

 

 「キングから聞いていませんでしたか。あいつ、今日で今後の事を決めるつもりなんですよ。

 私が貴女に連絡を取って彼女のレースを見に来てもらったのは、それが理由です」

 

 

 それを聞くが否や、その母親は再びターフ上の娘へと目をやった。そう言われれば、似ている。引退する直前の私自身の走りとそっくり。

 どうして、どうして気が付いてあげられなかったのか。

 

 

 「実はですね。貴女の戦績、ちょっとだけ調べさせてもらいました。あのキングも一応は一流と認める貴女の事だ、どんなレースを走ったのかなと気になりまして」

 

 「……私のこと? 世間が知っているでしょう。数々の重賞レースを勝ち取り、引退を惜しまれた一流ウマ娘、それが」

 

 

 

 

 「それ、本心ですか」

 

 

 

 

 そう俺が投げかけてみれば、かつての一流ウマ娘はその口に湛えていた余裕を完全に失っていた。

 

 

 「確かに貴女は国内で目覚ましい成績を残して、アメリカのG1を七勝もした伝説のウマ娘だ。その字面だけ見れば、世間が貴女を賞賛する理由も分かる。

 格好の、餌だ」

 

 

 ……キングの母親は、黙って耳を傾けるだけだった。

 

 

 「突然の路線変更ながら北米最大のレースを勝った娘や、生涯全勝のパーフェクトウマ娘。貴女の競争ウマ娘としての晩年に幾度となく勝ちを譲った、アルゼンチン出身のあのウマ娘。そういった同期や先輩がいる中で、貴女はアメリカで人気はあっても、決してトップにはなれなかった。

 ――貴女にもいたんですね。キングの様な『黄金世代』が」

 

 

 世間の評判とは逆に、俺は敢えてこの母親の成績の中に存在する汚点を探してみた。

 目覚ましい戦果である事は間違いない。だが、彼女と同等かそれ以上の凄まじい記録を残すような、いわばレジェンドの様なウマ娘は彼女の同世代に意外にも多く存在していた。彼女でさえ、魔境同然の当時のアメリカでは成績は上の下といった程度だったのだ。

 ……それを、国内のメディアは世界で筆頭のウマ娘として、彼女のイメージ像を勝手に作り上げた。身に覚えのない実績を多く積み重ねられて、彼女自身が何を言っても変わらない程のブランドイメージが、既に出来上がってしまっていた。

 ――それが、彼女の「一流」の正体だ。

 

 

 「貴女は如何にも常勝であるかのように伝えられているけど、そうじゃなかった。負ける時もあれば、泥水をすする事もある。普通のウマ娘と何も変わらない、そういう存在だった。

 それでも才能と努力で国内を制し、アメリカに渡って……そして現実を思い知ったんですね。失礼ながら貴女の引退、本当に惜しまれていたんですか」

 

 「本当に失礼なお方ね」

 

 

 そう悪態をつく彼女の表情は、しかし思ったよりあっさりしたものだった。

 

 

 「でも、それに気が付いてしまうなんて、負け続きだったあの子のトレーナーらしいこと。

 そうね、確かに引退を惜しまれていたのは事実よ。でもそれは成績が良かったからではなくて、単に人気があっただけ。外国出身でそれなりに戦っていた私の事が物珍しく思えたのでしょう」

 

 

 当時を思い出す彼女の瞳は、言い知れぬような深い哀しみが広がっていた。

 

 

 「そこまでお分かりになっているのなら、察しが付くのではないですか。私は一流であろうとした。一流のウマ娘としてたゆまぬ努力を重ね、数々のG1を制し、アメリカに渡り引き続き戦った。

 ……ですがそこには、私がどんなに追い求めても届かないような、途方もない才能を持って血の滲むような努力を重ねる娘達が大勢いらっしゃったわ。私は、彼女達こそ一流と呼ばれるべきだと思ったものよ。

 でもね、トレーナーさん。結局、一流の名を手に入れたのは私なんですよ。彼女達から劣り、少なくとも私自身は自分の結果を一流とは呼べないと思っていたのに、私は『一流』にさせられた」

 

 「本当は、自分は一流ではないと?

 自分でさえなれなかった一流に、自分より素質がないキングがなれる筈がないと?」

 

 「……いいえ、違うわ」

 

 

 レースから一瞬だけ目を離し、かつての「一流」ウマ娘は俺をじっと見つめてくる。

 ――その口が告げた言葉は、そこを目指すキングや俺にとっては……死刑宣告の様な言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「一流なんてものは、ないの。

 誰かが誰かを祀り上げたい時に拵えるもの、それが一流よ。嘘も事実も全て混ぜこぜにした、他のどんな呼び名よりも胡乱な称号、それが……一流の正体なのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あの子は、そんな捉えどころのない、紛い物であっても通じるような程度の低いものを目指している……まるで、かつての私自身の写し鏡の様に。

 一流ウマ娘なんて存在しない。ウマ娘の競走にはレースと、喜びと、悔し涙があるだけなのよ」

 

 

 再び目線を落としてキングを見やる母親に、俺は倣ってレースの様子を眺めた。

 最終コーナーを曲がり切ったキングはやはりまだ後方だ。レース開始当初は最後方にいた筈のスペシャルウィークは既にスパートをかけてキングを追い越しているし、逃げていたセイウンスカイと先行策から駆け出してきたグラスワンダーが先頭で競り合いを続ける中で、エルコンドルパサーも大外からまくって上がって虎視眈々と先頭に近づいている。

 

 

 「……これでもあなたは、あの子が勝つというの?」

 

 「ええ」

 

 

 その状況に、遂に母である彼女もキングの着順にハラハラし出したようである。ここでいい成績を出すことが出来ればキングは続投するだろうが、逆に大敗してしまえば彼女は引退を決意するだろう。

 ――あの日。進退の相談をキングが持ちかけてきた日、俺が有馬記念を勧めた直後に彼女は泣き崩れてしまった。そして次に出てきた言葉は、とめどない程の俺に対する謝罪だった。

 皐月賞で負けてしまってごめんなさい。ダービーで作戦を無視してごめんなさい。菊花賞であなたにまでバッシングが及ぶようなことになってごめんなさい。本当は私でもっと夢を見たかっただろうに、私の進む道に付き合わせてしまってごめんなさい。

 そして、最後に絞り出すように、彼女は言ったのだ。もっと勝ちたかった、と。

 

 

 「ここで辞めたって良い。キングはもう十分頑張ったんだ、あとはあいつの自由だ。

 でも、この有馬記念で勝てるだけの実力は、間違いなく備わっている。これで勝てなきゃ、貴女の言う通り一流なんて存在しない」

 

 

 そんな俺の思わず出た言葉を、しかし彼女は一蹴する。

 

 

 「あなたがあの子に入れ込んでいる事はよく分かったわ、トレーナーさん。

 でも、現実はそう上手くはいかないものよ。熱意だけでは、一着は取れない」

 

 「違う」

 

 

 ……だから。

 そんな彼女を、さらに俺は一蹴した。

 

 

 「熱意じゃない。客観的事実だ。……見て下さい」

 

 

 不審げに俺を見た彼女は、しかし応じるように中山の直線に目を移した。

 ――そして、息を呑んだ。

 

 

 「キング……!?」

 

 

 キングは、五着にまでのし上がっていた。

 つまりその前には、彼女の同期である黄金世代の四人がいるのみだ。つい数秒前まで二桁順位だった筈の彼女は、しかしこの一瞬でバ群を撫で切って大きく前に飛び出していた。

 

 

 「あいつは多くを目指して、多くを失いました。

 でも、そのどれ一つとして、無駄にはなっていないんですよ」

 

 

 皐月賞では真剣勝負での駆け引きを知り。

 ダービーでは逃げ策が適正でない事を知り。

 菊花賞に向けたトレーニングで、中距離程度では衰えることの無いスタミナを身につけて。

 そしてその他の大会で、泥沼とも言える程に敗北を味わって。

 

 

 「あいつは、多くを持ってはいたけど、それを使いこなすだけの力量がなかった。

 でも、今までの敗北が、あいつに全部使えるように鍛え上げてくれた」

 

 

 恐らくそれはキング自身も気が付いていないだろう。

 今までの過程で、スタミナと、爆発力と、そして何より勝利への手応えを学んだ彼女は、去年の彼女と見違える程にデータを伸ばしている事を。

 スカイの様な伸びのある持久力、エルやグラスに匹敵する突破力と状況判断能力、そしてスペを凌ぐ、脅威的な末脚。

 かつては扱いきれなかったそれらの素質が、この瞬間完成されようとしている事を。

 

 

 「……どうして……?

 短距離で、あなたは結果を出したじゃない。どうして、ここに来てまで、実力を求めるの。

 何が、あなたを奮い立たせているの、キング……?」

 

 

 引退レースで、一着を取れずに終わるウマ娘は数多い。実力の衰えの場合もあれば、純粋にレースに負けると言ったパターンも存在するだろう。

 だが今のキングは引退を賭けた試合であっても、明らかに一着を目指している。それはつまり、彼女は本能的に、まだターフを駆けていたいと思っているという心の現れだ。

 どうして。引退を視野に入れる程に、自身の才能に対して達観しているというのに、どうしてそこまでするのか。

 その先には何もないというのに。どれだけ結果を出したとしても……あなたの望む「一流」は、手に入らないというのに。

 

 

 

 「決まってますよ」

 

 

 

 ――そう、答えは、決まっていた。

 

 

 

 

 

 

 「あなたは、一流を『貰い受けた』ウマ娘だ。

 でもキングは、一流を『名乗り続ける』ウマ娘なんですよ」

 

 

 

 

 

 ……母親の頬に、一筋の涙が伝った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「来ましたね」

 

 

 グラスワンダーは嗤った。

 

 

 「来ましたネー!」

 

 

 エルコンドルパサーはニヤリとした。

 

 

 「……来たねぇ……!」

 

 

 セイウンスカイは燃えた。そして。

 

 

 「……来た!!」

 

 

 スペシャルウィークが、笑った。

 

 

 

 

「「「「世代のキングが、来た!」」」」

 

 

 

 

 ――四人の直ぐ後ろまで、私は何とか詰め寄る事が出来た。

 前から順にグラスさん、スペシャルウィークさん、そしてエルコンドルパサーさんとセイウンスカイさんが拮抗状態と言ったところに、そこからギリギリ一バ身差ない位置まで私は追い上げてこられたのだ。

 

 

 「ぜえっ、ぜえっ……!! もう、少し……!!」

 

 

 正直、もうこの時点で私の脚は殆ど残っていなかった。

 同時に、ここまで巻き返せるとは思わなかったのも事実だった。去年ならもうキレを失っている筈の私の末脚は、だけど今は未だに力強くターフを踏みしめていた。

 ……だけど、それも限界が近づいている。ここからは私達、黄金世代同士の競り合いという事になるけれど、果たして後2、300m前後でまともな勝負が出来るかどうか。

 

 

 (ここまで、来たんだもの……! 負けて、やるものですかっ!)

 

 

 まずはエルコンドルパサーさんとスカイさんだ。

 スパートを掛けている現状、お互いをブロックする程の余裕はない。ならば純粋なスピード勝負だ、今までバ群を突破しただけの推力がある内に……二人の前に、突っ込む……!

 ――その時、観客席の最前列から私を呼ぶ声が聞こえて。

 

 

 「キングちゃーん!! 頑張ってー!!」

 

 

 ――ええ、そうでしたわね。

 ウララさんをはじめとして、かつては私の取り巻きだった後輩達やカワカミプリンセスさんまで……チームの皆さんの声援が、いつもへっぽこな私の背中を押してくれていた。

 あなた方は、私が面倒を見てくれたって言いますけれど……本当に、本当に助かっていたの。私の方こそ、嬉しかったのよ。今まで。本当に。

 

 

 「くっ……そぉぉっ!!」

 

 「やりますねェ……キングちゃん!!」

 

 

 何とか、何とか二人をかわして、僅かに先んじる。これで三着、後は先頭でほぼ並列で凌ぎを削っているスペシャルウィークさんとグラスさんが相手だ。

 ……だけどこの時私は思わず、スカイさん達を出し抜いた反動で、勢いよく胸の空気を吐き出してしまった。一気に乱れる呼吸に意識を持っていかれて、ペースを保つのがやっとだ。

 もう少しなのに。一着まで、あとほんの一息だっていうのに。

 

 

 「負けたく、ないっ……!!」

 

 

 思わず出た、息も絶え絶えの一言に、隣のスカイさんとエルコンドルパサーさんが息を呑むのが分かった。

 だけど構っていられない。シニア級最後にして、初めて「黄金世代」との戦いに勝ち筋が見えてきたのだから。

 「一流」の名に懸けて、負けられない。ここまで来れば尚更だ。今は私に期待してくれている人が大勢いる。私が黄金世代として輝く瞬間を、待ち望みにしてくれている人がいる。

 ファンの方々、チームの皆さん。そして、私をずっと見てくれていたトレーナーに、そして。

 

 

 

 

 

 ……あら?

 そして?

 

 

 

 

 

 

 「勝ちなさい、キング」

 

 

 

 

 

 

 

 あり得ない。

 そんなわけない。その声が、ここで聴こえる筈がない。

 

 

 (ああ……あああ……!!)

 

 

 だけど。頭の中で木霊するその声は、確かにあの人の声で。

 いや、気の所為に決まっている。あの人が、今まで頑張っての一言も言ってくれなかったあの人が、私を応援なんて――。

 

 

 

 

 

 「一流になるんでしょう!

 私の娘なら勝ちなさい、キングヘイロー!!」

 

 

 

 

 

 ああ、どうしてなのかしら。あの人からだけは、もう応援を求めないと決めていた筈なのに。

 ――こんなにも身体が、嘘みたいに軽くなるなんて。

 

 

 

 「……お母、様」

 

 

 

 溢れる涙が更なる身体の加速で、まるで電撃が煌めく様に私の背後に尾を引いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『キングヘイロー、一着でゴールイン!!

 キングヘイローが三年の時を経て遂に、黄金世代の王としてこの中山に君臨しました!!』

 

 

 ……負ける、とは思っていなかったが。

 それにしてもとんでもない快挙だ。この一大グランプリで、しかも同期揃い踏みのとんでもないカードの中で、堂々の一着を勝ち取ったのだから。

 ――そしてその勝因の中の一つには、先程の隣の女性の、叫びに近い声援があった事は間違いないだろう……最もキング当人はそれに気付くはずもないのだが。

 

 

 「これ、使って下さい」

 

 

 感極まったのか、テラスの端に顔を突っ伏してしまった目の前の彼女に、俺はそっとハンカチを差し出す。

 

 

 「……用意がよろしいこと」

 

 「貴女の娘の、トレーナーですから」

 

 

 ――そして貴女の娘は今日、有馬記念を制し、黄金世代の頂点に立ったんですよ。

 そう告げるのでさえ野暮に感じる程に、場内はキングコールをする人々で埋め尽くされていたのだ。そしてそれは確かに、この母親の耳にも届いていた。

 

 

 「……お母さん。俺、思うんです」

 

 

 だから、そんな彼女に、どうしても伝えたい事があった。

 「一流」を見失ってしまったかつての一流ウマ娘に、「一流」を追い求めるウマ娘のトレーナーとして。

 

 

 「確かに、『一流』っていうものは漠然とし過ぎているのかもしれない。

 少しでも気をゆるすと、勝手に他の人によって作り上げられてしまうものなのかもしれない。

 一流なんて、存在しないのかもしれない」

 

 

 ……さっき俺は、その事実はキングと俺にとっては死刑宣告に等しいものだと言った。

 厳密には嘘だ。少なくともこのレースを制した彼女にとっては、それは決して死刑宣告などではない。

 

 ――なぜなら。

 

 

 

 

 「でも、だからこそ……誰に呼ばれるでもなく、自分で一流であろうとするキングは、紛れもなく本物なんじゃないですかね。

 一流とは、得るものじゃない。自ら名乗るものだ」

 

 

 

 

 ――ターフを走り切ったキングは、一度肩を震わせて、ぎゅっ両手の拳を握りしめたかと思うと……直ぐに観客へと向き直り、右手を口に添えていつもの高笑いをする。

 

 

 

 「……キング」

 

 

 

 ――その一流ウマ娘の有様を、かつての一流ウマ娘は涙して……されど微笑みを浮かべたまま、静かに見守るのだった。

 

 

 

 

 

 「あなたの道、見せてごらんなさい」

 

 

 

 

 

 



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ハルウララ編
冬:ワクワクよーいドン!


 

 

 「うう……ん」

 

 

 揺れるカーテンから覗く陽の光が眩しい。

 見慣れた天井を少しの間ぼんやりと眺めた後、頭を目覚まし時計へと向けようとして……自分の身体がびくとも動かない事に気が付いた。

 

 

 「ああ、もう」

 

 

 この状況、一体何度目かしら。

 少なくともこの三年間でとうに百回は超えているわね。そう、寝起きにしては妙に頭の回転の速い思考を巡らせながら、私は胸の少し上で布団からはみ出ている桜色の髪を見下ろして、そっとため息をつく。

 

 

 「ちょっと、ウララさん。起きて、朝よ」

 

 

 んー、と髪をゴソゴソと動かしながら、私の布団の中に潜っていた彼女……ウララさんがこちらに顔を向けた。普段はぱっちりと開かれている瞳も、今はやはり眠たげに閉じられている。

 その幸せそうな顔ときたら、思わず私ももう一寝入りしてしまおうかと思うほどで……。

 

 

 「……ぅウララ、もうキングちゃん食べられないよー……」

 

 

 ……布団を思いっきり取り払って、無理やりウララさんを叩き起こした。

 

 

 「このおばか! キングを! 食べるって! あろうことかこの私を! 食べるって!!」

 

 「わ、わあ、キングちゃん!? いきなりどうしたの!? あ、でもなんだか楽しいー!」

 

 

 ウララさんの肩や背中を、それでも一流のウマ娘としてちゃんと加減しながら叩く私の気持ちなんてつゆ知れず。きもちいーなんて言いながら笑い転げる彼女に毒気を抜かれて、何となくベッドに隣接する置き机の上の携帯端末を手に取って。

 ……そして、既に時刻が始業時刻の十五分前である事に気が付いたのだった。

 

 

 「なっ!? この私が、寝坊するなんて……!?」

 

 

 目覚ましは……いつも朝練の時間に起きる為にセットしていた、目覚ましは鳴らなかったの!?

 思わずベッドのヘッドボードに目を向ける。そこに有る筈の目覚まし時計は、しかし今朝はどういうわけか、ない。

 

 

 「目覚ましー? キングちゃん、昨日わたしに貸してくれたよね? 一個で起きないなら二個同時に鳴らせばいいって

 

 「あああそうだったわね!!」

 

 

 よく耳を澄ませば、隣のウララさんのベッドの布団の中から微かにジリジリと音が鳴っている。

 すかさず布団をめくってみれば、毛布でものの見事に防音されていた私達の目覚ましが、ずっと鳴りっぱなしで電池切れになったのかか細い音を立てていた。……いや、そもそもどうして布団の中に目覚ましがあるのかしら?

 ウララさん、昨日まさかこっちに潜り込む前に、二つとも寝ぼけて抱き込んで……?

 

 

 「ウララさんのへっぽこ! 全く、この子ったらどうすればちゃんと起きられるようになるのかしら!!」

 

 「キングちゃん焦りすぎー! 慌てたって食べちゃったりしないよー!」

 

 「まだ寝ぼけてるのね、このおばか!!」

 

 

 私は一流のウマ娘。支度をするにしても、学園に通うにしても全てにおいて一流であるように心掛けている。

 ――今日も一流の身のこなしてウララさんの服を取り出して、一流の速さでウララさんの口に歯ブラシを突っ込んで、一流の器用さでウララさんのパジャマを引っ剥がす。

 

 

 「おかしい……こんなの、絶対に……」

 

 「わぁっ、よいではないかーよいではないかー!」

 

 

 ……服を脱がす度に妙に俗っぽい言葉を、恐らく正しい意味を知らずに使っているのだろうウララさんに、一刻の猶予もないこの状況の中でもついつい気が緩みそうになってしまう。幾ら何でももう少ししっかりして欲しいとは思うのだが、なにせ彼女と私の間にはもう三年もの間同じ寮のルームメイトとしての付き合いがある。

 本当に、同室が私じゃなければどうなっていたことか。

 

 

 「はい! これで良し! 早く顔を洗ってらっしゃい! 済んだら直ぐに出て学園まで走るわよ!」

 

 「オッケー! でも廊下はバタバタ走っちゃダメなんだよー!」

 

 「当然よ! 忙しなく学園内を駆け回るなんて、一流のウマ娘のする事じゃないわ! もう、今日朝練があったらどうなっていた事か……!」

 

 

 ウララさんが洗面台に向かったのを見計らって、私も雷光の速さで制服に着替える。直ぐに彼女を追って鏡の前に立つと、髪を最低限纏め上げて……ついでにウララさんの髪も梳かして、仕上げに鉢巻を巻いてあげた。

 

 

 「さあ、早く行くわよ! 鞄を持って!

 いい? 外に出たら、皆さんにばたついた事を一切悟られない様にしゃんとするのよ! この私が寝過ごしたなんて知られたら、一流としての名が折れてしまうわ!」

 

 「はーい! あ、ちょっと待って! あのね?」

 

 

 一気に捲し立てながら二人揃って部屋の扉の前に立つ。直ぐに外に出ようとしたところで、ウララさんが呼びかけて来た。

 ――そして私が振り返ると、いつもの元気な彼女が、くしゃりと満面の笑みを浮かべて言ったのだ。

 

 

 

 「いつもありがとね、キングちゃん大好き!」

 

 

 

 ……そんな一言で、それまでの苦労が報われた様な気持ちになってしまうのだから、私も随分と絆されてしまったのだと思う。

 そして、それを心地よく思う自分がいる事も、分かっていた。

 

 

 (本当に、仕方のない娘ね。……でも、このウララさんが)

 

 

 常に天真爛漫。レースでは未だに一着を取れた事がなく、デビューから今に至るまで未勝利レースに出場し続けている一方で、その勝ち負けに関係なく元気一杯走る彼女のひたむきさが一定の人気を呼び寄せている。

 ――まさか、そんなウララさんが。

 

 

 

 『――わたしっ、「有馬記念」でっ! 一着を取る~っっ!!』

 

 

 

 そんなウララさんが、まさかあんな事を言う日が来るとは……一流の私でさえも全く、見当が付かなかったのだった。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「失礼します」

 

 

 メイントレーナーになって初めて育成したウマ娘、キングヘイローが有馬で一着を取った数日後のこと。

 今日は去年の疲れを癒す名目のもと朝練を中止にしており、トレーナー室に籠りっきりだった俺は……しかし何の前触れもなく理事長室へと呼び出されていた。

 トレセン学園のトレーナーに年末休みは存在しない。いや、仕事形態上はそれなりに休暇をとれる仕様になってはいるのだが、育てているウマ娘の方が一年中学園の寮で暮らしている都合上、彼女達が一斉に里帰りでもしない限りは面倒を見なければならず、結果として休日を返上して学園内で待機する場合が殆どなのだ。

 そしてチームなんて抱えるトレーナーは尚更な訳で、俺は新年が開けてからの数日間は……とある一つの課題に関して分析を進めていた。

 

 

 「ご苦労ッ、ひとまずは座ってくれたまえ」

 

 

 ……おや?

 そんな理事長の言葉に俺は若干の違和感を覚えた。

 秋川やよい。子供ながらトレセン学園こと「日本ウマ娘トレーニングセンター学園」の理事長であり、やや先走る節がありながらも、現状として海外へ移った母親を継いで国内のウマ娘界を一人で支えていると称されるほどの大物である。

 そんな彼女は普段、随分と豪快な口調で喋る事で有名なのだが……どうにも、今の言葉に覇気が感じられなかった。

 

 

 「……俺、何かしたんでしょうか」

 

 

 いやな予感を感じながらも、取り敢えず彼女の勧め通りに横に並ぶソファーに腰掛ける。続いてそう問いかけた俺の言葉に答えたのは理事長ではなく、その横に控える彼女の秘書さんだった。

 

 

 「いえ……その、トレーナーさんに落ち度があった訳ではありませんので、安心してください」

 

 

 駿川たづなさん。

 理事長秘書として彼女の右腕を務めながらも、トレセン学園の生徒たちの指導にも関わる多忙な方だ。それでも普段は一切その大変さを表情に出さず生徒を優しく見守っている彼女が、しかし今は明らかに顔を曇らせていた。

 直ぐに理事長も自分のデスクから立ち上がり、たづなさんと一緒に向かいのソファーに座った。彼女達にはキングがクラシック級時代に苦しんでいた際も色々とお世話になったものだったが、こんな雰囲気で話をするのは初めてだった。

 

 

 「……ッ、実は」

 

 

 我ながらだが、まさか俺をクビにするという話じゃあるまい。もしそうなら「安心して」なんて言わない筈だ。

 だとすれば、この二人がここまで懸念すべき事態と言うと、幾つかに限られてくる。

 

 

 「うちのチームメイトに、何か問題がありましたか」

 

 

 ――やっぱりか。

 一斉に目を見開く二人を見て、どうやら原因は彼女達にあるようだと確信する。

 ……だとすれば誰の事だ。キングはあり得ないだろう、最後の一年で今まででは一番成果を出しているのだから。クリークも既に初めの三年間が終わっている以上、今名前が挙がるには違和感がある。

 だとすれば、あり得るのはライアンか。彼女は今年からクラシック級だ、再び三冠の季節がやって来る事を踏まえて……いや。

 

 

 「もしかして、ウララですか」

 

 「……肯定ッ。彼女の今年のスケジュールについて、伝えねばならない事がある」

 

 

 俺は一瞬目を瞑って、覚悟を決める事にする。

 

 

 「拝聴ッ。彼女が……有馬記念を目指し始めたと、聞いた」

 

 

 先程この数日間で分析をしていたと言ったが、中身はまさにそれに関する事柄だった。……あの場には俺達以外の観客も大勢いて、彼女のあの宣言が外部に漏れる可能性はゼロではなかったとは思うのだが、だがまさかこんなに早く出回ってしまうなんて。

 ――即ち、未だにレースで勝利した事のないうちのハルウララが、年末の有馬記念にて、一着を目指そうとしているという事を。

 

 

 「他ならない本人の希望です。トレーナーとしては、なるべく可能性を模索してやりたいと考えています」

 

 

 しかし。現実はそう簡単ではない。何故なら有馬記念は、出走するウマ娘が人気投票で決められるレースだからである。

 人気とは言っても、今のウララの様にただファンがいるというだけでは駄目だ。数々の重賞レースにて実績を積んで名実ともに一人前にウマ娘にならねば、勝負如何の問題以前に出走すら叶わないのだ。

 そして、まだ今年が始まったばかりとは言え、ウララはまだ未勝利レースにしか挑めない立場なのだ。

 

 

 「それで、良い方法は見つかりそうですか?」

 

 「……兎にも角にも、まずは一勝です。タイム自体は少しずつ上がっているので、今月中旬の未勝利レースに出してみるつもりです」

 

 

 たづなさんの問いに、俺は後頭部を掻きながら答えた。

 なんにせよ、まずはそこからだった。有馬を目指すのであれば、いずれはあのキングですら苦戦したG1レースでも結果を残さねばならない。その為の計画を現在必死に練っているところだが、どういう路線を歩むにしろここを乗り越えないうちは何も始まらない。

 キングより一年遅くデビューした彼女も、今年でもうシニア級だ。そろそろあいつにもレースで勝つ喜びを教えてやりたかった。

 

 

 「……同意ッ! 我々も彼女の勝利の為なら、協力を……惜しまない……」

 

 

 ……しかし。そこまで言ったところで、やはり理事長は言葉尻をすぼめてしまう。

 ここまで来ると話が読めない。てっきり有馬記念を目指すのは現実的でないと指摘されるものだと思ったのだが、それ自体にはそこまで否定的ではなさそうであり。

 俺もこの場でどうすれば良いのかが分からず、困ったようにたづなさんの方を向いてしまう。すると彼女は隣で俯いてしまった理事長の肩にそっと手を置きながら……やがて、口を開いたのだった。

 

 

 「――実はですね、トレーナーさん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あっ! キングちゃん、トレーナー!」

 

 

 一月の中旬。ウララさんが寝坊しててんてこ舞いになったあの日から既に二週間近くが経過し、ついに彼女は今年初めての未勝利戦に挑むことになった。

 そしてつい先程パドックに姿を現したウララさんが観客席の最前列にいる私達を見つけて、笑顔で駆け寄って来た。

 

 

 「二人とも、いらっしゃーい! わたし、今日は頑張って一着を取るから、応援してね!」

 

 「おう。あれだけ練習したんだから、自信持って走ってこい!」

 

 「りょうかい! よーし、頑張るぞー!!」

 

 

 そんな彼女に檄を飛ばすのは、ちょうど私の隣にいるトレーナーだ。去年までの三年間はほぼ私に付きっきりだったこの人は、今はウララさんのトレーニングにも積極的に参加する様になっていた。

 ――嫉妬ではなく、純粋に不審に思うくらいに。

 

 

 「ウララちゃん、応援に来たよ!」

 

 「あっ、スぺちゃんにみんな! 見に来てくれたんだ!」

 

 

 そして、私達の横にはずらりと……スペシャルウィークさんを始め、去年の有馬では全員揃い踏みでしのぎを削った同期が並んでいた。

 実はチームメイトであるライアンさんは数日後にジュニアカップでの出走を控えていて、今も学園のターフで最終調整をしているのだ。そして彼女のサポートの為にクリーク先輩もいない中で、少しでも応援を増やそうと思った私が連れてきたのだった。

 

 

 「ウララ、がんばー!」

 

 「ウララちゃん、頑張ってくださいね?」

 

 「大丈夫デース! エルがついてマース!」

 

 

 そんなスカイさんやグラスワンダーさん、エルコンドルパサーさんの声を聞いたウララさんは目を輝かせて、勢い良く拳を上に振り上げた。

 

 

 

 「みんな……うん、任せて! 一着になってみせるから!!」

 

 

 

 

 

 

 それから少しして、ゲートインの合図を告げるアナウンスが場内に響き渡った。

 

 

 「それにしても、うちのキングがごめんな。みんなそれぞれ予定とかあっただろうに」

 

 「いえいえ。大事なお友達の大一番ですから~」

 

 「んま、暇つぶしには丁度いいよねー」

 

 「ウララちゃん、今度こそ勝って欲しいなぁ……」

 

 「デビューしたての頃と比べたらびっくりするくらい速くなってマース!

 ウララちゃんは必ず! 今日のレースで! 勝利を掴む! これは決まりきった未来なのデス!」

 

 

 皆さんがそれぞれ話している間、私はただ一人沈黙を貫いていた。

 ……いや、本当はトレーナーの言い様に文句の一つでも返してやりたかった。ちょっと、「うちのキングが」って、いつからあなたの所有物になったのよ、と。

 だけど。今の私は、そんな冗談にかまけている余裕はなくて。

 

 

 「ねえ、トレーナー」

 

 「え? ……あ、いや、そういう意味で言ったんじゃなくてな、その」

 

 

 

 

 

 「何か、ウララさんの事で隠しているわよね?」

 

 

 

 

 

 トレーナーの表情が、凍り付く。

 ――同時に、今年初のウララさんの未勝利戦のゲートが、乾いた音と共に開かれた。

 

 

 「あなたも付き合いが長いんだから、知っているでしょう。私、不完全燃焼は嫌いなの」

 

 

 そう。

 私は気が付いていた。この二週間の間、トレーナーのウララさんに対する姿勢が、明らかに変わっていた事を。

 それまでは単調ながらも、決して無理をさせずに地道に重ねていた筈のトレーニング内容が、最近はどういう訳かややオーバーワーク気味になり、あろうことかトレーナー本人もその変化に対応し切れずに焦りを見せていた事を。

 

 

 「そう言えば最近ウララちゃん、ご飯の時にんじんハンバーグの量が前に比べて増えた様な……」

 

 「……そこで気がつく辺り本当にすごいよね〜」

 

 

 ……スペシャルウィークさんは放っておいて。

 でも、それだけ食べないと体力が持たない程には、トレーニングはやはりキツくなっていたという事だ。

 

 

 「……最近、ウララの練習量を増やしたのは認めるよ。当初の予定にはない変更だったからな、ちょっと手間取ったけど。

 でも、あいつの身体に関しては無理がない様に、万全を期しているつもりだ」

 

 「うんうん、今日のウララちゃん、いつもよりも調子が良いみたいデスね!」

 

 

 エルコンドルパサーさんの指摘に、皆さんが一斉にレース場のウララさんを見る。

 ダート1400mの初めのスタートをそつなくこなしたウララさんは、それでも最後方のバ群にて八番目の位置で踏ん張っている。

 これまでなら既に、ポツンと一人置き去りにされていただろう。

 

 

 「十分フォームも出来上がっているし、基礎は積んである。もうウララは、実践的なトレーニングに移っても問題ないレベルに達している筈なんだよ。

 だから、今日、ここで」

 

 「……あら」

 

 

 確かに、そのトレーナーの言葉が嘘だとは、私も思っていなかった。

 ウララさんも今年で三年目だ。通常なら二年目の秋までに勝利を掴めなければ、学園側から何かしらの措置が取られるとされる中で……されど元々身体能力ではなく面接を評価されて入学した彼女は、特例として今までの現状維持が認められていたのだとか。

 そんなウララさんを、本当の意味で他の生徒から取り残されない様に、ここで勝たせたい。それはトレーナーとして真っ当な考えだとは私も思う。

 ……でも。

 

 

 「本当に、それだけかしら?」

 

 

 ――それが全てだとは、どうしても思えなかった。

 

 

 「あの子、この前寝る時に言っていたのよ。

 最近のトレーナーはちょっとだけ怖いって。でもそれだけウララの事を考えてくれてるんだから、わたしも頑張らないとって」

 

 

 あり得なかった。

 今隣で目を見開いているこのへっぽこトレーナーに限って、あり得ない話だった。伝説の顕彰トレーナーの子だとかそんな事を言っている訳ではない、この人は、頼りなかったり、無精だったり、レディの気持ちが理解出来ないズボラだったりはするけれど。

 ……でも、方針の変更や目標を私に相談せずに、無理やりトレーニングを強要する様な人では、決してなかった筈なのだ。何よりもまず、担当ウマ娘である私の事を考えてくれる、そんな優しいトレーナーだった筈なのだ。

 

 

 「無様なものね。担当の娘の気持ちにも気付いてあげられないで、一人で勝手に焦って。一流のトレーナーの名が泣くわ」

 

 「ちょっと、キングちゃん……?」

 

 

 グラスさんが困ったようにこちらを嗜めてくるけど、構うものですか。

 この人がウララさんを今日ここで勝たせたいというなら、私はこの人の真意を今日、ここで、突き止めなければならないのだから。

 

 

 「……キング、俺は」

 

 「言い訳はよして頂戴。今のあなたはウララさんの事を間違いなく見失っている。

 そんな様子じゃ、今日を勝ち抜いたとしてもいずれダメになるわ。いつか、そう遠くないうちに、あなたはウララさんを」

 

 

 ――壊してしまう。

 私がそう言い募る、その時だった。

 

 

 「違う、それは、断じて違う!」

 

 

 トレーナーは、ようやく彼自身の言葉で……叫ぶように言ったのだった。

 

 

 「俺は……俺は、ウララを決してそんな風にしたい訳じゃない、あいつは」

 

 

 やがて最終コーナーへと差し掛かった先頭集団に、なんと後方のバ群から大きく飛び出して迫っていくウララさんを見つめながら、トレーナーは。

 

 

 

 

 

 「あいつは、俺が守ってやらなきゃ、ダメなんだ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「何言ってるんですか、理事長」

 

 

 あの日。

 俺は理事長とたづなさんから聞かされたその話に、ただ愕然とした。

 

 

 「ウララを……年間で二十走以上、走らせる気なんですか!?」

 

 

 思わずつんのめる様にしてそう問い詰める俺の前のテーブルには、URA……このトレセン学園の運営母体であるURAから送られてきたとされる、ハルウララの今年の年間スケジュール表があった。

 未だレースでは未勝利の、評判でいえば弱小ウマ娘にあたるハルウララ。そんな彼女があの有馬記念を目指すという一報は、どうやら俺の予想を遥かに上回る速さで同業者たちの間で知れ渡ってしまっていたようなのである。

 ……それも、最悪の形で。

 

 

 「勝ちなしのウマ娘、ハルウララさんが有馬を目指す一年……これを大々的にクローズアップしてメディアに売り込めば、必ずや今後のウマ娘界の躍進に繋がると、多くのURA関係者の方々が共同署名に参加して理事長に送り付けてきたんです」

 

 

 年相応に言葉もなく俯いてしまった理事長に代わって、顔を蒼白にしながらもたづなさんは状況を詳しく説明してくれた。

 

 

 「ですが見た通り、彼等が提案されたスケジュールは……余りにも乱暴で。

 理事長も私も抗議させて頂いたのですが、有馬記念に出るにはこれでも足りない位だ、と一点張りで」

 

 

 何度も繰り返すが、有馬記念に出走する為には、重賞、欲を言えばG1でトップクラスの成績を誇るウマ娘にならねばならず、またそれに裏打ちされる確固たる人気が必要不可欠だ。

 ――その「人気」の側面を、強引に引き上げようとしているのがこのスケジュールだ。とにかく出走させる、なるべく観客の目に留まるようにする……そうすることで、ウララの影響力を無視できないほどに強めようという魂胆に違いなかった。

 ……結果として、当初の「ウララをメディアに露出させてウマ娘界を活性化させる」という目標も叶って一石二鳥とでも考えているのだろう。

 

 

 「……こんなの、普通のウマ娘だって体調を崩しますよ。少しでもケガをしたら破綻する上に、更に走らせるとなれば無理がたたって下手したら引退ものだ。

 それに……ウララはこんなの無理だ、あいつは」

 

 「裂脚症、でしたね」

 

 

 ――裂脚症。

 ウララは元気な娘だ。子供の頃から走ることが大好きだったらしい彼女は、トレセン学園にやってきてからも変わらずエネルギッシュで前向きな姿勢を貫いており、ケガや体調不良なんて縁遠いウマ娘だと認知されることが多い。

 だが実際は違う。身体そのものの頑強性は高くとも、空気の乾燥等の様々な要因で脚の節々が裂けてしまい、彼女はその傷口に常に絆創膏を貼り付けて走っている。快活な彼女は殆ど顔には出さないが、悪い時は走るのもままならない状況に陥ることもあるのだ。

 そんな彼女がこんなバカみたいにレースに出たらどうなる。脚への負担は普通のウマ娘の比ではなくなる。日々の疲労と裂脚症によるコンディションの悪化が重なって、いずれは。

 

 

 

 「――こんな事をしたら、ウララは二度と走れなくなっちまう!!」

 

 

 

 理事長室に、未だかつてない重苦しい沈黙が帳をおろした。

 

 

 「……理解ッ、分かっているのだッ」

 

 

 明らかに、目の前の二人はこの提案に対して不本意だろう。理事長もたづなさんも、ウマ娘を蔑ろにする様な状況を望むような人ではない。

 ……既に理事長は両膝の上で拳を握りしめて、涙を瞳に湛えていた。

 

 

 「悔恨ッ! 私にもっと力が在れば! 彼等を退けられるだけの強権があれば!」

 

 「……URAも一枚岩ではありません。理事長がお一人で多くのウマ娘界の団体組織を繋げている現状、URAに投資して頂いている方や、提携を結んで頂いている方を……無視できないんです」

 

 

 理事長側としては、何としてもこのスケジュールだけは回避するように妥協案を練りたいとの事で、その為にトレーナーである俺を呼んだのだとか。

 ……確かに、ウララを有馬に出してやりたいとは心から思う。彼女が初めて自分から出走したいと言った大会だ、できることならそれを憧れのままにさせたくない。

 だが、こんな事になるならごめんだ。有馬記念はクラシック三冠と違って、今年ぽっきりではないのだ。

 

 

 「……有馬を回避は、難しそうですか」

 

 「困難。これだけ話が広がってしまっているとなると、むしろ我々や、何より彼女に圧力が掛けられかねないのだッ」

 

 

 こうしている間も、向こうは外堀を埋めるために策を練っているかもしれない。マスコミやパパラッチに情報を流してしまっているかもわからない。

 八方塞がりだった。有馬には出ねばならず、有馬に出るためにはこのスケジュールをこなさねばならない。どう立ち回ったとしても、ウララにとって良い結果になる筈が……。

 

 

 

 

 

 「……いや」

 

 

 

 

 

 そうじゃない。

 まだ道は残っている。かなり厳しい道だが、ウララの負担を減らしつつ有馬を現実的にする道が。

 

 

 「理事長、たづなさん。

 このスケジュールのレース、全部G3以下の規模の小さいレースですよね」

 

 

 二人とも俺と頭を合わせて表を覗き込み、揃ってうなずく。

 ウララの負担に関しては憎いほどに無理解なこのスケジュールも、しかし彼女のスペックと照らし合わせば妥当な選定だ。キングじゃないが二流、三流のウマ娘なら入着出来る程度のレースばかり採用されている。

 ――ここから出走回数を減らしつつ、知名度を上げるならば、必然的にレースの格を上げねばならない。

 

 

 「……まさか、トレーナーさん」

 

 

 たづなさんは俺の言わんとすることを察したようだ。理事長も一瞬首を傾げていたが、やがて結論に至ったのか、大きく目を開いて俺を見つめる。

 

 

 「驚愕ッ、本気で挑む気なのか、トレーナー」

 

 「ええ」

 

 

 挑むしかないのだ。年初めからとんでもない結論だが。

 だが、ウララを競走ウマ娘として引退させないまま、有馬記念に出走させるには……これしかない。

 

 

 

 

 「……出走レースを重賞クラスにのみ最大限絞って、ウララを勝たせます」

 

 

 

 

 ――未勝利のままでいいなんて、悠長なことはもう、言っていられないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「おばか」

 

 

 ――そんな事だろうと、私はとっくに見抜いていたんだから。

 

 

 「……は、え? キング?」

 

 「私を誰だと思っているのかしらね。あなたがペースを崩すなんてよっぽどの事よ、何か圧力が掛かったって考える方が順当でしょう?」

 

 

 学園の人間に、彼やウララさんを苦しませる様な人は居ない筈。そう考えれば、学外で何かがあったと考えるべき。

 ……そう考えて、意を決してお母様に連絡を取ってみればずばりだった。URA関係者及びウマ娘界に影響力のある人間に、ウララさんを有馬記念に出す要望書への署名申請が回っているのだそうだ。

 

 

 「全く、あなたはそうやって、隠し事が出来る様なまめな人間じゃないでしょうに。

 分不相応な事はおやめなさい。取れる手段を最大限こなす事が、目標達成への一番の近道よ」

 

 

 そう言って、私は最終コーナーを曲がり切ったウララさんを見つめた。

 ウララさんは懸命に走っている。一心不乱で、顔を歪めながらも決して辛そうではなく……走る事の楽しさや、純粋にゴールや一着を目指す前向きさに溢れる、眩しさを瞳に灯している。

 ――そんなウララさんは今、後ろと三バ身近くの差を付けて……先頭を突っ走っていたのだ。

 

 

 『ハルウララがんばれ! ハルウララがんばれ!

 ハルウララの初めての勝利が見えてきた!!』

 

 

 実況も熱くなる。観客もこうなると一心不乱に彼女を応援する。

 これがウララさんの最大の魅力なのだ。結果がどうあれ、その走りで誰もを夢中にする。G1出走者でも備えるウマ娘は少ない、そんな彼女だけの才能。

 ……それを彼女から、大切な友達であるウララさんから奪う様な真似を、私が見逃す訳がないじゃない。

 

 

 「トレーナー。私をあなたの計画に組み込む権利をあげるわ」

 

 

 スペシャルウィークさん達がウララさんに声援を送っていた。

 だけど私はトレーナーを見据えていた。私は信じていた。ウララさんは、間違いなく一着を取ると。

 私とトレーナーの見るべき場所は、このレースより先にある筈だから。

 

 

 「そうは言ってもだな……キングにだって自分のレースがあるんだ。

 迷惑をかける訳にもいかないだろ」

 

 「私は、あなたを信じて良かったと思っているわ。

 そう思えたのは、あなたと目指す場所が一緒だったから」

 

 

 三年間。

 苦い思いを沢山した。悲しい思いも、苦しい思いも、嫌と言うほど味わった。

 ――トレーナーと一緒に、味わった。

 

 

 「ウララさんもそうよ。あの娘もこれからレースに出るのなら、色んな苦労を、同じ志を持つ人と一緒に味わう事になるわ。

 あなたや、私の様なね」

 

 

 私は決して無関係ではない。ウララさんに取っても、私自身に取っても。

 この困難もまた、私だけの道に繋がっている。その途中で、たまたまウララさんと交わったというだけなのだ。

 

 

 

 「だからトレーナー。一流のあなたと私で、一緒に考えましょう。

 ウララさんを強くする方法を。彼女に無理をさせずに、有馬記念に出走させる方法を」

 

 

 

 あなたなら私の気持ちが理解できる筈よ。私と一緒に道を歩んだトレーナーなら。

 すると彼は少しだけ悩ましげに瞳を揺らしながら、やがて諦めた様に頭を振って。

 

 

 

 「ああ。分かった」

 

 

 

 思った通り、私の期待通りに……トレーナーは頷いてくれた。

 

 

 

 「一流のプランニングを頼むぞ、キング」

 

 

 

 ――ここから、新たな物語が始まる。

 そんな一年の、やがて訪れる春を告げるかの様に……瞬間、ウララさんは一着でゴールを決めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 ……そして。

 ウララさんを迎えに、トレーナーがその場を離れた後の事。

 

 

 「はわわわわ……!! やったぁ!!

 すごいすごーいっ! わたし、一着だよーっ!!」

 

 「ウララちゃん……おめでどおぉぉ……!!」

 

 「もー、スペちゃん泣きすぎー……でもウララも、やるじゃん」

 

 

 沸き立つ歓声の中で満面の笑顔を振りまくウララさんに、万感の意を持って手を振る四人の横に……私は並んだ。

 

 

 「これでウララちゃんも、立派な競走ウマ娘ですね。

 ……話、聞いてました。有馬記念、目指すんでしょう?」

 

 

 グラスさんの言葉に、他の三人も一斉にこちらに振り返った。彼女達のその表情は少しだけ硬くて、それだけウララさんの目指す目標が厳しい事を物語っている。

 

 

 「ええ。その通りよ。かなり厳しい道になると思うわ」

 

 「……キングちゃん」

 

 

 エルコンドルパサーさんの珍しい気遣う様な声に、そういえば私らしくはないわね、と心の中で零した。普段なら「キングはそんな事でへこたれたりはしないわ!」と大見栄を切るところだ。

 ……だけど。

 

 

 「正直に言って、私だけのサポートじゃ、厳しいかもしれない。

 私は……誰かに教えられる程、結果を出せていないから」

 

 

 だけど、見栄を張っている場合じゃない。

 さっきあれだけトレーナーに強気で捲し立てた身としては少し情けないけれど、でも皆さんになら素直に伝えられる。

 ……だって、同期なんだものね。

 

 

 

 「だから、皆さん。お願いよ」

 

 

 

 ……難しい道なのは分かっていた。

 泥水を濯ぐだろう事も、分かっていた。

 

 

 だから、私は四人に、頭を下げた。

 

 

 

 

 「どうか、私に、協力してくださらないかしら。

 ウララさんの為に、力を貸して頂けないかしら……!」

 

 

 

 

 

 ――ウララさんは変わらずに、レース場で笑っていた。

 

 




 
※ハルウララさんが有馬記念を目指し始める様です。
※この時点では、まだ主役はキングの様です。この時点では。
※前書きが日常編、本文がウララ編のつもりの様です。←割とそんな事はなかった様です。
※ウララ編は全四話となる予定です。


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夏:はじめて

 

※ハルウララさんがエルムステークスに挑むそうです。


 


 

 

 「あらあら、トレーナーさん。こんな夜遅くまでお疲れ様です〜」

 

 「……ん、ああ、クリーク。そっちこそ、もう寮の門限近いだろ?

 後は俺がやっておくから、もう切り上げよっか」

 

 「そんな訳にはいきません。寮長のフジキセキさんには遅くなりますって、伝えてありますから〜」

 

 

 既に時刻は、午後八時半を回っている。

 だというのに、今俺の目の前にいるウマ娘ことスーパークリークはここ数日の間、門限ギリギリまで俺の手伝いをしてくれていた。

 しかも今日はまだ居残るつもりらしい。チーム内では最年長ながら、彼女はまだトゥインクル・シリーズに残っており、自分のトレーニングもあると言うのに……俺が親父の後を継いでからは実質的なサブトレーナーとしての仕事を引き受けてくれているのだ。

 昔から彼女には、全く頭が上がらないというか。

 

 

 「そんな事、全然気にしなくて良いんですよ。トレーナーさんは、私に一杯甘えてくれれば良いんです♫」

 

 「そうは言ってもなぁ、苦労かけてごめんな。

 最近ちょっと根詰めてるし、明日はオフにしよっか。ウララとライアンは俺が纏めて面倒見るからさ」

 

 「……そうですね。それなら、お言葉に甘えさせていただきます〜」

 

 

 俺が初めて全面的に担当したウマ娘がキングヘイローなら、俺が初めてトレーナーとして関わりを持ったウマ娘がスーパークリークだ。彼女は無意識に多くを抱え込み過ぎてしまう性分の持ち主なので、こっち側でしっかりとガス抜きをしてあげる必要がある事を、俺は彼女のクラシック時代に学んでいた。

 なので、俺は自分のノートパソコンを閉じて席を立つと、今居るトレーナー室の端にある休憩所の椅子にどっかりと座り込んだ。

 こうすれば、ひとまずは彼女も俺と話をする為に仕事を止めてくれる筈……。

 

 

 「はい、冷たい飲み物を飲んで、リラックスしてくださいね♫」

 

 

 ……余計な気を遣わせてしまった。俺もまだまだらしい。

 

 

 「私がしてあげたいと思っているだけなので、気にしなくて良いんですよ〜。

 ――もうすぐでしょう? ウララちゃんのレース」

 

 

 さて。

 そろそろ本題に入るとしよう。

 

 

 「……ああ」

 

 

 今年の初めに見事、ウララは未勝利戦を突破した。

 そうなると、一応の最終目標である有馬記念に出走する為に、俺達は今後のレーススケジュールを練り直す必要があった。

 「出走レースを重賞クラスにのみ最大限絞って、ウララを勝たせる」。俺はあの時理事長やたづなさんにそう啖呵を切ったのだが、やはり年内で実績を出すとなると道は依然として厳しさを極めていた。

 

 

 「フェブラリーS、マーチS、プロキオンSと来て、次はエルムS……デビューしたばっかりなのに、半年で四つも出走させるなんてな」

 

 

 そして、残念ながら、今のところどれ一つとして勝利を収めてはいなかった。

 フェブラリーは八着で惨敗、マーチは五着でギリギリ入着したが、プロキオンでは再び六着に逆戻り。まあ、フェブラリーはG1なので初っ端からどうしようもなかったとは思うのだが。

 だが、マーチもプロキオンもG3だ。例のURAの提示したスケジュール表にも名前が載っていたこの二つのレースにおいて今一つ結果が出ず、且つ成績が下がっているとなると……次の順位次第ではやはり実力不足と見なされて、出走レースを増やす流れをこれ以上止められなくなるかもしれない。

 

 

 「だから、次こそ取らないとダメだ。……もう少しこれからのスケジュールを練るべきだよな、クリークはやっぱりもう帰って」

 

 「めっ!」

 

 

 次第に焦りが止まらなくなってしまう。クリークの為と思ってデスクを離れたが、やはり呑気にくつろいでいる暇はない、ウララのこれからが掛かっているのだと立ち上がったところに……その実質サブトレーナーが膨れっ面を寄せてきた。

 

 

 「慌てる気持ちは分かりますけど、ウララちゃんの事を心配しているのはトレーナーさんだけじゃないんですよ?

 キングちゃんも、スペちゃん達も、みんなで一生懸命考えてきたじゃないですか。トレーナーさんだけ頑張っても、足並みが揃わなくなってしまいますよ?」

 

 

 ぐうの音も出ない。俺はすごすごと座り直す。

 あの未勝利戦の後、ウララの方針を正式に理事長に所信表明をした時。それから暫くの間は抗議の電話が彼女に殺到していたらしく、フェブラリーでの大敗もあり流石に無理があるかと頭を抱えていた俺達を救ったのは何と……あのキングだったのだ。

 

 

 『ウララさんを有名にしたいのなら、そんな見境のないスケジュールなんて捨ててしまいなさい!

 そんなものより、もっと価値のある一年をあげるわ! この一流の私と、一流の私の同期の皆さんが……ウララさんを有馬に連れて行くんだから!』

 

 

 ――「最強」の黄金世代が、「最弱」のハルウララを有馬記念へ出走させる。

 ウララの選手生命の問題だけでなく、話題性も十分な大看板を彼女が引っ提げてきた事で、この押し問答は漸くひとまずの落ち着きを見せたのだった。

 そしてその宣言は決してブラフではなかった。あれだけダートを嫌っていた筈のキングは毎日ウララさんとダートコースを併走し、また彼女が連れてきた「黄金世代」……それもスカイを始めスぺやグラス、エルまで全員でいずれかの練習で必ず合流しては、走るコツやアドバイスをウララに教えてくれているのだ。

 ……俺一人であたふたしても、どうにかなる問題ではない、か。

 

 

 「大丈夫です。ウララちゃんはこの半年……いいえ、この二年半の間、ずっと頑張ってきました。

 実力は十分にある筈です。あとは、ウララちゃん自身の……」

 

 

 クリークはそこまで言って、目を細めた。

 彼女の言うとおり去年の時点でウララは、実は未勝利ウマ娘としてはあり得ない程の能力を手に入れていた。恐らくそれを知っているのはサポートしていたクリークと俺、そして親友であり、前述のようにURA関係者と互角に渡り合うほどの聡明さを持つキングくらいだろうけど。

 けれど、仮に裂脚症を度外視したとして、それでもウララには勝てない決定的な理由がひとつ……存在していたのだ。

 

 

 「クリークはさ」

 

 

 それは彼女の最も秀でた長所でありながら、致命的な短所でもあることだ。

 有馬を目指すのなら障害となり得るものでありながら、されど心のどこかで……いつまでもあいつには持っていて欲しいと思ってしまうもの。

 

 

 

 「ウララに、全てを話すべきだと思う?」

 

 

 

 全てを話す。

 つまり、自分は客寄せパンダの様に扱われかけていて、それを止めるためにチームが必死に動いていたのだと、ウララに悟らせる。

 ――何も知らずに、ただレースを楽しんでいただけの自分のために。

 

 

 「……あの菊花賞のこと、覚えていますか?

 私が調子を崩してしまって、最後のクラシック三冠前になって漸く元気になって……それで挑んだ、あの」

 

 

 忘れたことはない。

 クラシック級になってすぐの頃に突然体調を悪化させたクリークに、俺は血眼になってその原因を探そうと悪戦苦闘した。ある日、見てしまったのだ。俺の為に「三つ絶対あげる」……つまり三冠をとる筈だったのにと、夜の学園の中庭でひとり泣きじゃくっていた彼女を。

 そんな時を乗り越えて、何とか持ち直したクリークが挑んだ最後のクラシック三冠。それが彼女の菊花賞だ。

 

 

 「あの時私が考えていたのは、ゴールラインを一着で切るための作戦ではありませんでした。

 私のために復帰メニューを考えてくれた先代のトレーナーさんに……ずっと私に付き添ってくれたトレーナーさん、あなたに、何をお返ししてあげられるか。それだけでした」

 

 

 

 そして彼女は、二番手と圧倒的な大差をつけて、堂々の一着に輝いた。

 

 

 

 「誰よりも速く走って、絶対に一着を奪い取る。

 ……そう思うことだけが、速くなるための秘訣なのでしょうか」

 

 

 

 ……今、ウララに全てを伝えてしまったら、あいつはレースを楽しむのをやめるだろう。誰かを犠牲にしてまで自分のスタイルを貫くには、あいつは優しすぎる。

 それは一見近道ではある。一着への憧れを無理やり執着に変えて、他の誰を押し退けてでも前に出る貪欲さを身に着ければ、ウララのポテンシャルなら今以上の成績を出せる筈だ。

 それは、本当に彼女にとって正しいことか。そうした時、俺はあの無謀なスケジュール表を突き付けてきた人間たちと、何も変わらなくなってしまうのではないか。

 

 

 

 「……俺も、今日は帰ろうかな。クリークも戻ろう」

 

 

 

 ――クリークが入れてくれた飲み物に浮かぶ氷は、いつの間にか溶けてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「わぁいっ、レースだ! 今日もいっしょうけんめい走るぞー!」

 

 

 一ヶ月ぶりのレースだった!

 なんだか落ち着かないな。パドックに行くための道を歩いてるだけなんだけど、なんだかいつもよりもワクワクしちゃって、今すぐにレースがはじまらないかなって思っちゃう。

 

 

 「んぅ~~! ウズウズする~! 早く走りたいなぁ!」

 

 

 だって今日は、すっごい結果出せそうなの!

 朝ごはん、にんじんごはんだったし! 夢でにんじん姫も『勝てる』って言ってたし!

 それに――。

 

 

 「みんなに負けないくらい、トレーナーとチームのみんなと……あと、キングちゃんとがんばってきたもんっ!」

 

 

 最近、練習にキングちゃんがよく付き合ってくれるようになったんだ!

 キングちゃんだけじゃないよ? スぺちゃんにグラスちゃん達もみーんな、わたしといっしょに走ってくれるようになったの!

 やっぱりみんなでがんばるのって楽しいな。みんなで一着をめざすのってすごくワクワクすることなんだって、わたし気付いちゃったんだ!

 だから、今日も!

 

 

 (みんな、いっしょにがんばろうね!)

 

 

 今日のレースにでるみんなで、いっしょに一着を目指せたらいいな!

 そう思ってパドックに出て、おもいっきり着ていたジャージをばーって脱ぎ捨てたわたしが、みたのは――。

 

 

 

 「……あれ?」

 

 

 

 ウララーって呼んでくれる、みんなの声がきこえた。

 いつもと、何もかわらないはずなのに……なんで?

 

 

 (……ふいんきが、なんかへん?)

 

 

 まるで、みんなの声のどこかに、ぽっかりとあなが開いちゃったみたいな。ちょっとだけ、きこえなくなった?

 それだけじゃないみたい。なんとなく、先にゲートの前にきていたみんなが……なんだろ、びりびりってかんじでわたしをみてる?

 

 

 「あれ? みんな、どうしたの? なにかあったの?」

 

 

 なんだかへんな気持ちになって、わたしはパドックを降りて、そんなみんなのところに行ってみたんだ。

 だけど、すぐにみんな、わたしから目をそらしちゃって、ばらばらに歩いていっちゃって。

 

 

 「……ウララちゃん」

 

 

 ――だけど、たったひとりだけ。いかないで、わたしに近づいてくれて。

 それで、それでね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「何であんたが、ここにいるのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 どういうこと?

 よく、わからなかったんだ。わたしがここにいるのは、今日レースで走るからで、だけどここにいちゃダメなの?

 ……そうやって、うんうんうなってるわたしをじろってみて、すぐに行っちゃって。だから、なんでわたしにそんなこと言ったのか、やっぱりよくわからなくて。

 でもやっぱりゲートにはいって、レースがはじまるっておもうとワクワクして。

 

 

 

 (……あとでトレーナーに、きいてみよっと!)

 

 

 

 そう決めたら、あんまり気にならなくなって。

 ――すぐにゲートがひらいて、もうぜんぶすっかりわすれちゃった。

 

 

 『さあ、一斉にスタートです!

 快晴のもと砂塵の舞うここ札幌レース場にて、エルムステークスの火ぶたが切って落とされました!』

 

 

 わぁい、はじまった!

 ……って、いつもだったらなにもかんがえないで走っちゃうんだけど、今日のウララはちがうんだよ!

 

 

 『ウララちゃん、そんながむしゃらに飛び出しちゃダメです。

 レースが始まったら、すぐに周りの皆さんの様子を伺うんです。そうして、常に自分が全体のどの位置にいるかを把握するんですよ?』

 

 

 ――だって、グラスちゃんがそう言ってたんだもん!

 だから、わたしは全力で走らないで、ちょっとだけ力を抜いて、しばらく走ったんだ。

 知ってた? 前のレースでも気がついたんだけどね、いちばん前と、そのちょっと後ろと、さらにその後ろに……まとまりみたいなものがあるんだよ。わたしはその、いちばんうしろのまとまりのちょっと前で走ってるんだけど、この間セイちゃんにきいてみたら、バグン? っていうんだって。

 

 

 『バ群は怖いぞー。ウララみたいな可愛い女の子がうかつに入ったら、ぎゃおーって食べられちゃうんだぞー?

 ……だから、食べられないようにルートを考えて走るといいよー。ま、逃げるわたしには関係ない事だけどねー』

 

 

 よく見るとね、走るみんなの間が、ぽっかり空くときがあるんだ。セイちゃんの言ってたルートって、このことなのかな?

 ……だったら、チャンスだよね!

 

 

 『レースの後半になったら、どのタイミングで抜け出すかがとっても大事デス!

 ボーっとしていると、勝利へのグローリーロードは閉ざされてしまいマース!』

 

 

 ――エルちゃんも、そう言ってたもんね!

 

 

 

 「よーし! ウララ、ゴー!」

 

 

 

 後ろのバグンからちょっとだけとびだして、三つ目のまがり道でギューンってはしる!

 たったひとりで走るのはとくいなんだよ、いつもそうやって走ってたんだもん! だけどね、今は……わたし、いちばん後ろじゃないんだ!

 

 

 「いっくよー!」

 

 

 そこからさらに、さいごのまがりみち!

 ここからが本番なんだよ! いっしょうけんめいワクワクをがまんして走ってたけど、ここからはぜんりょくで走るべし!

 

 

 『ウララちゃん、スパートを掛けるときはムキになっちゃダメだよ!

 ちゃんと正しいフォームで、正しいペース配分で冷静に速度を上げるといいよ! こうやって……』

 

 

 スぺちゃんが教えてくれた、スパートのやり方! ウララはもうかんぺきにおぼえちゃったもんね!

 りょうてはまっすぐ、うでをカクカクってまげて、それで、あしをじめんに……!

 

 

 

 

 

 「あんたなんか」

 

 

 

 

 

  ――そのときね、とつぜん。

 

 

 「あんたなんか、引っ込んでなよ」

 

 

 とつぜん、前を走ってた、バグンのいちばんうしろのこが、すごく小さなこえで、言ったんだ。

 

 

 

 「――あんたなんかに一着が、取れてたまるか!」

 

 

 

 ……それでね、わたしのかおに向かって、すなをバーッてけとばしてきたの。

 めにすなが入っちゃって、びっくりして。目をあけられなくて、うまく走れなくなって。

 

 

 (……なんで?)

 

 

 思いだしたんだ。レースがはじまるまえに、みんながちょっとびりびりしてたこと。

 みんな、わたしにそう思ってたってことなのかな。

 

 

 (……なんで?)

 

 

 わたしは、みんなと一着をめざしてがんばろうって、思ってただけなんだよ?

 みんなでたのしく、いっしょにワクワクできたらいいなって、そう思ってたんだよ?

 

 

 (……わからないよ)

 

 

 わたしね、ずーっと負けちゃってたんだよ?

 でね、ことしになって、やっと一回だけ勝てたんだよ?

 だから、一着をとるってすごくむずかしいって、ウララも分かってるんだよ?

 ずっと、ずーっと、次は負けないぞーって、思ってたんだよ?

 

 

 

 『少し離れて五番が走る、後方二番手で八番が様子を窺っている。

 ――最後方、ぽつんとひとり、ハルウララ……どうしたのでしょう、突然順位を下げてしまいました!』

 

 

 

 ……だけどね。

 

 

 

 (わたし、一着をとっちゃ、ダメなの?)

 

 

 

 一番をめざしちゃ、ダメなのかな?

 みんなでがんばっちゃ、ダメなのかな?

 みんなでワクワクしちゃ、ダメなのかな?

 そうおもったら、なんだろ。なんだか、ざわっとして、じーんってかんじでなにかがぐぐーってなって。

 とにかく、レースがんばらないとって、めをあけようとして、いたくて、そしたらわたし……泣いちゃってた。

 でも泣いちゃったからかな、すなが流れてくれたみたいで、ちょっとだけ前がみえたんだ。

 ――なんでだろう。わたし、いっつもこうやって、ひとりでいちばん後ろを走ってたはずなのに。

 

 

 

 「……あれ?」

 

 

 

 楽しくない。ぜんぜん、ワクワクしない。

 なんで? どうして? うぅ〜……ウララにはわかんないよ。

 きょうのレースは、わかんないことばっかり。なんでウララは一着をめざしちゃいけないの? なんでみんな、あんなにびりびりしてるの? なんで、レースなのに、楽しくないの?

 ……だけどね、思い出したんだ。

 

 

 

 『天才が相手だろうが、伝説が相手だろうが関係ないの。

 あなたはあなたらしく、あなたの道を走り続けなさい、ウララさん!』

 

 

 

 (キングちゃん……っ!!)

 

 

 ちょっと見にくいけど、でも前がみえないわけじゃないもん!

 なんにもわかんないけど、それでも一着、取りたいんだもん!!

 

 

 

 「う……らら~~~っ!!」

 

 

 

 

 いっしょうけんめい走った。めいいっぱい、あしを動かしたよ。

 ……でも。

 

 

 

 『ここでハルウララ、ゴールイン! 終盤の失速が響きました、追い上げも空しく十三着!』

 

 

 

 

 ――また、負けちゃった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十四人中、十三着。

 かなり厳しい結果だ。レース後半で、ウララに何かしらのトラブルが発生して失速したのが原因だろうことは明らかで、観客や例の一派にこの順位が実力だと認識されるかは分からないが。

 ……それ以前にウララの様子が気が気でない。俺達はレースが終わるや否や、控室までの地下連絡路に彼女と合流するために急いでいた。

 

 

 「……ん……?」

 

 

 広々としたトンネルの中で、出走したウマ娘たちとすれ違っていく。レースで入着した選手たちはそれなりに晴れやかな表情を浮かべ、それ以下だった少女たちは肩を落として歩いていく。

 ……だが、俺は少しだけ感じ取っていた。そんな彼女達の一部が、こちらを疎まし気に見つめている事を。

 

 

 (妬み、か)

 

 

 キングの宣言以来、ウララがスぺ達の力を借りてトレーニングに励んでいることは周知の事実となっている。

 ウマ娘とは本来、自分自身とトレーナーとで二人三脚で実力をつけていくものだ。仲間の助けがあってはならないということはないが、誰かが誰かにあたかも専属であるかのように肩入れをしてしまえば、それは羨望や嫉妬の対象となりかねない。

 ――それがキングやスぺ達のような「黄金世代」なら、ひとしおだろう。

 

 

 (……まさか、ウララ)

 

 

 あいつが被った、何かしらのトラブル。俺はそれを、ダートコースでの砂塵の巻き起こりによって起きた視界狭窄だろうと踏んでいる。

 それがわざと為されていたのだとしたら、全くもって許し難い行為なのだが……だが、ダートコースにおいてそういうアクシデントは、故意によるもので無くても起き得るのだ。

 ウララはダートを主戦場としている以上、今回のような事は今後もないとは言えない。次はきっちりと対処するだけの技術と、根性を備える必要があるのだろう。

 いずれにしても、今はウララのケアが必要だ。まああいつの事だから、あまり気にしていないのかもしれないが……。

 

 

 

 「あら、まだそんなところにいたのね。ほら、早くこっちにいらっしゃい……って、ウララさん!?」

 

 

 

 ――なんて、心のどこかで少しでも思った数秒前の自分を、俺は本気で張り倒してやりたくなった。

 

 

 「ちょっとウララさん、大丈夫かしら!?」

 

 

 ウララの姿が見えると、人間である俺より足の速いキングやスペ達が彼女に駆け寄っていく。

 ……そして、彼女がほろり、ほろりと涙を溢していることに、気が付いたのだ。

 

 

 「ウララちゃん!? 何があったの!?」

 

 「まさか、どこかケガをしたんデスか!? 目が真っ赤デスよ!?」

 

 「トレーナーさん、とにかくウララちゃんに目薬を!」

 

 

 スペ、エル、そしてグラスの声が飛び交う中、俺も血の気が引く思いでウララのそばまでやってくると、彼女の顎を上に向かせて、目薬を打ってやった。ダート選手は砂が舞う中で走る都合上、こうして目のケアや身体の洗浄等はレース後には欠かせないのだが……それにしても、今日の彼女は全身砂だらけだ。

 ……やはり身体に何か異変が起きた訳ではないようだ。後で軽く検査を受けさせるつもりだが、それでも見たところ外傷もなく、どこかを庇うような立ち方もしていない。

 

 

 「あのね、トレーナー?」

 

 

 すると。

 俺の垂らした目薬に、しばらく目をしょぼしょぼさせていたウララが突然、キング達の手を振り切り俺の前まで詰め寄って、じーっとこちらを見つめてきた。

 ……何か、嫌な予感がした。

 

 

 「レース、お疲れ様。今日は残念だったけど、また次……」

 

 「なんかね」

 

 

 涙の跡がついたその表情は、思ったより悲しげではなかった。

 というより、困惑しているような。起きた出来事に、どう反応して良いのか、自分でも分からないというような。

 

 

 

 「今日のレースね、楽しくなかったんだ」

 

 

 

 ――誰かの、息を呑む音がした。

 

 

 「ウララは、一着を取っちゃいけないの?」

 

 「……何言ってるんだ、そんな」

 

 「ウララはね、今日がんばって一着になろうとしたんだ。でも、そしたらみんな、びりびりってわたしを見るんだよ?」

 

 

 ――それは。

 言うまでもないだろう、それは闘争心だ。ウララを押し退けて、自らが一着を取ろうとする執念の現れだ。

 ……でもそれは、ウララにはまだ。

 

 

 「ねぇ、トレーナー? ウララが一着をめざすと、みんなびりびりしちゃうの? ウララががんばったから、みんないやな気持ちになっちゃったの?」

 

 「……ウララ」

 

 

 いつか、こんな日が来る事は分かっていたじゃないか。

 一着とは、それ以外の多くの犠牲の上に成り立つもの。競走とはそういうものだ。

 だけど、ウララの本質はレースを楽しむこと。そして、そんな自分を見る人々をワクワクさせること。

 ……そこには、絶望的なほどに矛盾があった。

 

 

 

 「わかんない、ウララわかんないよ! トレーナー、なんで今日はワクワクしなかったんだろ?

 ねぇ、キングちゃん? スペちゃんにセイちゃん? エルちゃんもグラスちゃんも、ウララにおしえてよ?」

 

 

 

  ――誰よりも速く走って、絶対に一着を奪い取る。そう思うことだけが、速くなるための秘訣なのでしょうか。

 あの日、クリークの言葉に答えを見出せていたならば……俺はこの時、ウララに納得のいく答えを返してやれたんだろうか。

 

 

 

 「あれ? みんな、どうしたの? ……もしかして、みんなもがっかりしちゃったの?」

 

 

 

 ……そんなどん底のような沈黙は、やがてウイニングライブの準備を催促するスタッフがそこに現れるまで続いていた。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「……もう、限界じゃないかな」

 

 

 ――ウララさんがウイニングライブの準備に向かって、すぐの事。

 そう口にしたのは、今まで一言も話さずに、何かを考え込むような表情をしていたスカイさんだった。

 

 

 「……スカイ」

 

 「ウララをPR目的で無茶苦茶に走らせようとする人がいるって、この際本当のこと言ったほうがいいと思うなー。このままじゃほんとに取り返しがつかなくなっちゃうよ?」

 

 

 トレーナーは思わず目を伏せてしまう。

 ウララさんにあの事を黙っていようと、皆さんに提案したのは私だった。ある程度の結果を出せるようになってからならともかく、初めから後がないことを聞かされてしまったら、ウララさんは突然の事態に混乱してしまうだろうし、何よりも私達が干渉する事を重圧に感じてしまうと思ったから。

 

 

 「……ウララさんは私達と違って、見る人誰もが応援したくなるような、そんな走り方が出来る数少ないウマ娘だわ。なのに、彼女から楽しさを奪ってしまったら」

 

 「ウララに最近アンチがつき始めてること、キングは知ってる?」

 

 

 思わず目を見開いてしまう。

 普段の穏やかな口調のまま、されど少しだけ険しい顔で、スカイさんは自身の端末の画面をこちらに見せてくる。

 ……ネットの掲示板だ。そこには確かに、ウララさんを非難する文章が少なからず書き込まれていた。

 

 

 「『実力がないのに話題だけ巻き起こす』、『走りに真剣さが感じられない』。……ウララにそんな力があるって言うのは、今までだけの話だと思うけどな。

 それに、今日分かったでしょ。ウララ自身がレースを楽しめなくなってきてる。そんな状態で、周りをだなんて」

 

 

 ……普段は温厚、実は策士と呼ばれるだけのことはある。スカイさんのその指摘は、一つとして違わず正論だった。

 ウララさんが今まで走ってきたレースは、所詮は未勝利戦や学園内の模擬レースがほとんどだ。そう言った小規模な舞台において、彼女の魅力は十分発揮されるだろうけど……重賞レースはそもそも規模が違い過ぎるのだ。

 

 

 「……確かに私も、誰しもが一度は経験する事だと思います。

 レースはただ楽しいだけのものではありません。時には不退転の覚悟が求められる事もあります。

 そうしなければ……真剣にレースに打ち込んでいる他の選手に、失礼ですから」

 

 

 グラスさんもそれに加わった。

 彼女らしい考え方だわ。淑やかで優しそうに見えて、実は誰よりも勝利への執着が強い彼女らしい。

 そして、我が身を振り返れば、やはり彼女の言う通り……私にもそういった時期はあったように思う。お母様の走る姿を見て、自分もと楽しく走ってみた子供の頃……それが、いつの間にか結果を出すためのレースとなった、そんな時期が。

 

 

 「キングちゃん。ここは勇気を出して、ウララちゃんに言ってみない?

 私達、絶対そばに居るから。絶対ウララちゃんのこと、見捨てたりしないから! ね、みんな!」

 

 

 そして、スペシャルウィークさんの言葉に、皆さんが一斉に頷く。

 

 

 「任せてくだサーイ! ここからが踏ん張りどころデース!

 最強無敵のエルが、実は人に教えるのも上手ってところを見せてあげマース!」

 

 

 エルコンドルパサーさんまで。

 ウララさんにバッシングが向かっているとなると、その彼女を実質的にサポートしている彼女達にも何かしらの非難が既に寄せられているかもしれない。

 その可能性がある、という事はあの日――私が皆さんに頭を下げたあの日に既に伝えておいたけれど、その上でこんなに眩しい笑顔を向けてくれるのなら……あなた達は本当にお人好しさんなのね。

 

 

 でも。

 

 

 「ごめんなさい。少しだけ、時間を頂戴」

 

 「……キング、君は」

 

 

 だとしても、もう少しじっくりと考えたい。ここで洗いざらい話してしまう事が、本当にウララさんに取って良い事なのかを。あの娘の尊厳を、壊してしまわないかどうかを。

 ――こう考えてしまっている時点で、私はあの娘の友達失格なのでしょうね。

 

 

 (……ごめんなさい)

 

 

 

 

 だけど。この時。

 この時、私達のいる地下通路の曲がり角からはみ出ていた、桜色の尻尾に気が付いていれば、もう少し――上手く全てを彼女に伝えられたのかもしれなかった……。

 



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秋:わたし、本気でがんばる

 

※ハルウララさんがJBCスプリントに挑むようです。

 


 

 

 その日のウララは珍しく、悩んでいた。

 理由ははっきりしていた。数日前のレースが終わった後、彼女が去った後に自身のトレーナー、そして友達のキングヘイロー達が、自分の事を話していたのを聞いてしまったからである。

 

 

 「ぴーあーる、って……なんだろ?」

 

 

 ウララをPR目的で無茶苦茶に走らせようとする人がいる。

 あの時そう口にしたのは、これもまたウララの友達の一人であるセイウンスカイだ。解けかかっていた頭の鉢巻を結び直そうと通路の角で止まったところに、唐突に響き渡った声だった。

 とはいえ、ただでさえ状況が把握できていないウララにとってその言葉が何を意味するのか、自分とどう関係しているのかはさっぱりわかっていなかった。むしろレースで走るのが楽しみである彼女にとって、誰かが自分をレースに出させてくれるのなら、それはいいことなのかな? とすら思っていた。

 気になるのは、それがどんな問題だったにせよ……友達のセイちゃんやキングちゃん達は、それを自分だけに隠しているということ。

 それを隠して、みんな自分に接しているのだと気が付いてしまった。

 

 

 「……なんか、すっごくもやもやする」

 

 

 もやもやして、ウララは悩んでいた。

 朝食を食べる間、ずっとうんうんと唸っていた。

 気が付いたら、トレーニングの集合時間なんてあっという間に過ぎてしまい……ウララは久しぶりに練習をサボってしまったのだった。

 ただ、サボったと言っても今日は休日で午前練習に参加していないだけなので、まだ一日は始まったばかりだ。そんな朝の燦々とした日光の光る川の流れをボーッと見つめながら、ウララは学園のそばにある河川敷で座り込んでいた。

 

 

 

 「……チクショウ、見つからねぇ! ゴルシちゃんレーダーが示してるのは、間違いなくここのはずなのに……ッ!」

 

 

 

 そんな時のことだった。

 気が付けば、ウララの前で川にくるぶしまで浸かりながら、ボソボソと呟くウマ娘がひとり。

 

 

 「こうなったら、もう一度送信だぜ! 運が良ければ、また向こうと交信が出来るかもしれねぇ!

 ……レーダー反応ナシ、レーダー反応ナシ。ゴルゴル星ニ電波ガ届キマセン」

 

 「あれ? ゴルシちゃん?」

 

 「ん? おーう、ウララじゃねーか! 最後に会ったのはいつだったっけな? 四十六億年前か?」

 

 「ええ、よんじゅうろくおく!? じゃあ、昨日ってよんじゅうろくおくねんまえなんだー!」

 

 

 大柄な体躯、芦毛の長髪を背中になびかせて、ガニ股で「でもやせたーい!」のポーズと表情をかますウマ娘。

 名前を、ゴールドシップといった。

 

 

 「ゴルシちゃん、こんなところで何してるのー?」

 

 「おう聞いてくれるか……オメーがいて助かったぜ」

 

 

 ウララは話を聞いた。

 なんでもこの目の前にいるゴールドシップというウマ娘は地球生まれではなく、元はゴルゴル星なる惑星で生まれたのだとか。だがここ最近、故郷であるそのゴルゴル星との連絡が途絶えてしまっているらしい。

 

 

 「こりゃ大問題だぜ……もしかしたら隣のウマミラス星からの侵略を受けちまってんのかもしれねぇ……!

 早く事情を把握して救援に向かわねぇと、ゴルゴル星の住民は全員スルメイカの煮干しにされちまう……!!」

 

 「ええー!? たいへんだー! ウララはどうすればいいの!?」

 

 

 ……かなり、いや確実にマユツバ話だが、ウララは一切の疑いなく信じてしまった。

 そしてゴールドシップもまるで嘘をついている素振りなど見せずに、頬に冷や汗を流しながら天を仰ぐ。

 

 

 「チキショー、ここよりも水が多くて人のいない静かなところがあれば、通信が繋がりやすくなって連絡が取れるかもわからねえぜ……おいウララ、良さそうな場所知ってっか!?」

 

 

 ウララは考えた。そして思いついた。

 ハルウララは元々はここ「中央」のトレセン学園ではなく、高知のトレセン学園に在籍していた身である。だから、当時彼女が走っていた高知レース場から少しの距離にあった海岸のことを思い出したのだ。

 海が広がる、水が多い場所。海水浴場として公開されていない場所なら、人も少ない静かな場所……ゴールドシップの条件にピッタリだった。

 

 

 「……おおお!? でかしたウララ!!

 おーし、そんじゃ、ちょーっとばかし大冒険に出るとすっか! ウララ、案内役頼むぜ!」

 

 「え? ……え、ええ~~っ!?」

 

 

 ――今度のウララは考えられなかった。

 なぜなら、彼女が驚いて声を上げた直後に……ゴールドシップが麻袋を被せてきたからである。

 

 

 

 

 こうして、ウララとゴルシの、奇妙な大冒険が始まった。

 その芦毛のトンデモウマ娘はいつのまにか二人分の航空券を用意しており、ウララは彼女と共に空港まで連れられると、そのまま高知空港まで空の便で向かうこととなった。

 ……と言ってしまうと、あたかもゴルシが無理やりウララを誘拐しているかのような図なのだが……実際はというと、意外とウララも楽しんでいた。

 

 

 「じゃあいっくよー! 『ウララ』~~♪」

 

 「よーし、じゃあここはシブめに『落語』じゃな、ウム」

 

 「ご……ご……『ゴルシちゃん』!」

 

 「ちょ、オメーそれアタシが言わなきゃダメな奴じゃねーか! しかも終わってるし!!」

 

 「はっ! 負けちゃった……!」

 

 

 確かにトレーナー達への申し訳なさもあったのだが、それ以上にウララは故郷である高知に久しぶりに帰るのが楽しみだったのだ。

 それに、こうやって練習から離れることで……さっきまで感じていた悩みが吹き飛ぶような、そんな気がしていたのだった。

 

 

 「みんなーっ! たっだいまーっ!!」

 

 

 ――というわけで、現地に着くや否や、ウララは元気よく高知トレセン学園の前で声を張り上げる。

 すると彼女を見た現地のウマ娘達が一斉に歓声を上げて、彼女のもとにやって来るのだった。

 

 

 「あー、ウララちゃん!」

 

 「おかえりー! いきなりびっくりしたー!」

 

 「最近頑張ってるじゃない。来るんなら連絡してよね?」

 

 「えへへっ! ウララ、ゆうめいじんだー!」

 

 

 彼女が自分で言う通り、ウララは高知でも人気者だった。

 当初は勝てない彼女をやる気のないウマ娘と煙たがる選手やトレーナーもいたのだが……結果として、ウララの一生懸命で真摯なレースでの走りがそんな人々を一人残らずファンに染め上げてしまったのだ。

 ……そこには間違いなく、ウララの走りの原点があった。

 

 

 「……へへっ、アイツ、楽しそうじゃん」

 

 

 かつて彼女に夢中になった人々が、今度はウララを笑顔にさせている。

 その様子を見て、ゴルシは妙に格好付けて校門にもたれかかっていた。

 

 

 「ったく、しょうがねーな。……あ、はい、ゴールゴルゴル、突然じゃが、ウララはこっちで預かったでゴル。明日くれーにはそっちに帰してやるから、涙を呑んで大人しく待ってるゴル。ゴールゴルゴル」

 

 

 そして、中央トレセン学園に電話を掛けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 「……レーダー受信、レーダー受信。ゴルゴル星ト回線ガ接続」

 

 

 ――あっという間に、時は過ぎた。

 夕方の海岸にポツンと一人立って、再び「でもやせたーい!」ポーズをかますゴルシを、ウララは後ろからぼんやりと眺めていた。

 

 

 「ゴルシちゃん、どう? れんらくできたー?」

 

 「おう! 完璧パーペキよ! 蓋を開けりゃなんてこたねぇ、向こうでぱかチューブが大流行して回線が混んでただけだったぜ!」

 

 

 ウララが声をかけると、我に返ったゴルシはそう言って、彼女のもとへ駆け寄ってくる。

 どすん、どすん。大きな歩幅に力強い踏み込みだ、ウララは驚いた。

 

 

 「うわぁ、ゴルシちゃんすっごーい! どっかーんって走るね! クリークおねえちゃんみたい!」

 

 「おっ、ウララもアタシの走りの魅力に気が付いちまったかー! そりゃま、連戦連勝のこの黄金不沈艦様にかかりゃこんなもんよ!」

 

 

 ……とはいっても、ゴルシの場合はその体格の良さがあるからこそ出来る走法だ。比較的小柄なウララには合わないので、あまり参考になるとは思えない。

 だが、それでも純粋にすごーいと唸ってしまうウララを見て、ゴルシは思わず乾いた笑いを零してしまう。

 

 

 「やっぱオメー、おもしれーヤツだな! そんなにアタシが走ってるとこがおかしかったか?」

 

 「ううん、そうじゃなくてね! ゴルシちゃん、走るのが楽しそうだなーって!」

 

 

 ウララのその返答に、ゴルシはフフン、と鼻を鳴らして海を眺めた。

 

 

 「走るのもそうだけど、やっぱレースが好きだなんだよなぁ。

 レースはなぁ、スゲーんだぜ。思いのままにいった試しがねぇ! 同じレースだって、一つもねぇ!」

 

 

 ――今度はウララが、ゴルシを見つめる番になった。

 そこには、彼女がもともと悩んでいた問題の、答えがあるような気がして……。

 

 

 

 「それはなぁ……どいつもこいつも、本気中の本気で走ってるからなんだ」

 

 

 

 本気で。

 ウララの頭に思い起こされたのは、エルムステークスでの周りの選手たちの雰囲気と視線だった。張り詰めていて、怖くて……そして、実際にウララを撃墜すべく、心無い言葉や妨害行為を仕掛けた一人のウマ娘。

 

 

 

 「本気って、なんだろう?

 ただ楽しく走るだけじゃ、ダメなのかな?」

 

 

 

 だから、そんな言葉が、自然とウララの口からは零れていて。

 ――それにゴルシは、きょとんとした顔で返したのだった。

 

 

 

 「んあ? ……何言ってんだ?

 ウララはいつだって、本気だろ?」

 

 

 

 乾いた息が、ひゅうとウララの喉を通り抜けていった。

 どこまでも続く夕空と海の下で、故郷の穏やかな風が流れていた。

 

 

 

 「ここの学園のみんなも、オメーの走りを見て応援してくれてんだろ?

 それって、ウララが今まで、ずっと本気で走ってきたからなんじゃねーのか?」

 

 

 

 ウララは笑っていた。キングが彼女のために同期に頭を下げた時も、彼女を見殺しにしまいとトレーナーやスぺ達が必死にトレーニングをサポートしていた時も、何も知らずに、変わらず笑っていた。

 ――一生懸命、全力で笑っていたのだ。彼女の笑顔こそが、彼女を支える人々にとっての、支え。

 

 

 「……あっ」

 

 

 あの時、一着を目指しちゃいけないと言われた気がして、ウララは戸惑ってしまった。

 自分が走るとみんなが応援してくれるのが当たり前になっていて、どうしてみんなが応援してくれるのかを……見失っていたのだ。

 

 

 

 「なあ、ウララ」

 

 

 

 だとすれば、ウララが考えるべきことは一つ。

 これからも多くのレースで、自信をもってダートやターフを踏むために必要なものは、ひとつ。

 

 

 

 

 

 「……ウララは、なんで走ってるんだ?」

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 十一月前半。

 秋の涼しさが冬の寒さに変わる境目のようなこの日に、ウララさんの有馬前の最後のレース……JBCスプリントが開催される。

 大井レース場、ダート1200m。去年の私自身を思い出すような短距離レースだった。

 

 

 「……ここまで、長かったな」

 

 

 トレーナーの複雑な思いの籠った言葉に、微かに頷いて応じる。

 思い返せば、ここまで何とか持ち込んだこと自体が奇跡だった。あのエルムステークスの後、やはり成績が振るわないウララさんに業を煮やした一部のURA関係者が、今回の私達の強行(一体どっちが強行的だったんでしょうね)を取り仕切った理事長やトレーナーの責任追及まで迫ったのだ。

 ……だけど実際、ウララさんの有馬出走はこの時点では絶望的だった。何せシニア級の後半に差し掛かっても、一度も重賞で勝利を飾れていなかったのだ。話題性と実力が嚙み合っていない現状、むしろ私の時のような露骨な批判やバッシング記事が出回っていないだけまだましなのだろうと思う。

 そんな現状を打開するような方法を思いつかずに焦る日々が続いて……ある日、ついに理事長室にまで乗り込んできた彼等に、事情聴取という形で私達は呼び出されて。

 

 

 『こら~~っ!! みんな、ケンカしちゃダメ~~っ!!』

 

 

 そんな時だった。

 勝負服姿で、理事長室のドアを思い切り開けて入ってきたのは……なんと、いつの間にかゴルシさんと高知から帰ってきていたウララさん本人で。

 

 

 『みんな、わたしのことでいっぱいかんがえてくれて、ありがとう!

 でももう大丈夫だよ! なーんにも心配なし! だってね!』

 

 

 そして、私達だけではなくて、そのウマ娘界隈の重鎮達をも前にして、彼女は堂々と宣言したのだ。

 

 

 

 『だって、わたし……次のレースで、ぜったいに一着、取るんだもん!!』

 

 

 

 ――その次のレースが、このG1レース、JBCスプリント。

 文字通り、本当にこれが最後のチャンスだ。ここで勝てなければ、ウララさんの有馬への夢が潰えるどころではなく、そのURA関係者それぞれの面子を汚したとされて、彼女自身の今後の可能性を大きく損なってしまう可能性がある。

 ……私の時でさえ、自分の道を自分で決める権利はあったというのに。ウララさんの置かれた境遇は、あまりに理不尽だった。

 

 

 「でも、大丈夫よ」

 

 「ああ。もちろんだ」

 

 

 でも。

 それでも、私もトレーナーも信じていた。今度のレースでこそ、ウララさんは一着を勝ち取ると、確信していた。

 一年前の高松宮記念。負け続きだった私が初めてG1で勝ちを手にしたあの時……私は自分の事で精一杯だったけれど、きっとトレーナーはこういう気持ちだったのでしょうね。

 

 

 「あっ、キングちゃーん! いまそっちいくねー!」

 

 「もうすぐ出走だねぇ。みんな、スイーツ買ってきたー?」

 

 「もう、スカイさん……こんな時まで吞気なことを言って」

 

 「いいじゃないデスか! 大一番だからこそ、景気よくパーってやるもんデース!」

 

 

 そして、それは、ここにいる皆さんも一緒。

 正直、ここまで誰も脱落せずにやってこれるとは思っていなかった。元々彼女達の時間を割いて貰っているんだから、もし誰かが自分の時間を優先したいと言っても、それは当たり前の理屈。

 ――だというのに、今日まで誰も嫌な顔一つせずにやって来れたのは、決して私の度量によるものではない。もちろん、私は私で器の大きさも一流でしょうけど……でも今回のこれは間違いなく、ウララさん自身のおかげ。

 あの子が笑い続けてくれたから、私達も頑張ってこれたのだ。負けても、負けても、変わらず笑顔でいる、私とは違う意味での不屈さが、ウララさんを彼女たらしめていた。

 ……そして、そんな彼女だけの魅力に、今日ついに――中身が伴おうとしていた。

 色が彩られようとしていた。

 私はそう、信じていた。

 

 

 「さあ。見届けましょう。ウララさんが起こす革命の、目撃者になるのよ!」

 

 

 

 

 「ほう! 革命の目撃者か! 実に甘美な響きじゃないか!」

 

 

 

 

 その時。

 私とトレーナーの背後にいた、スペシャルウィークさん達よりさらに後ろから、そんな飄々とした声が飛んできたのだ。

 

 

 「……驚いたな」

 

 

 そう呟いたのはトレーナーだ。彼は振り返るでもなく、それが誰によるものかを察したようだった。

 慌ててそそくさと道を開けるスペシャルウィークさんとグラスさん……「黄金世代」の真ん中を臆さず突っ切るようにしてこちらへ歩み寄り、目の前に広がるダートコースを睥睨するそのウマ娘は、映える橙色の髪を持つ凛々しい美貌の持ち主だった。

 

 

 「いやはや、このボクに比肩する時代の旋風を巻き起こしているウララ君の姿を、一目垣間見ようと思ったのさ!」

 

 

 いつだったかしら、前に一緒にラーメン屋で早食い勝負をした、共に「王」の名を冠するウマ娘。

 ――今年に入ってからは驚異の重賞六連勝無敗。最強と謳われる「黄金世代」……つまり私達を下し、世代交代を目指すと公言するスターウマ娘。

 

 

 「……いつかぶりね。オペラオーさん」

 

 「おや。久しぶりだね、キング君」

 

 

 

 テイエムオペラオー。

 ウララさんが目指す今年の有馬記念の、優勝候補筆頭だった。

 

 

 

 

 

 

 (わあっ、なんだかゾワゾワしてきた~! あと、ムズムズもだ……)

 

 

 二ヶ月ぶりのレースだった!

 なんだか落ち着かないな。パドックに行くための道を歩いてるだけなんだけど、なんだかいつもよりもワクワクしちゃって、今すぐにレースがはじまらないかなって思っちゃう。

 

 

 「ふう~……。うんっ!」

 

 

 でも、がまん、がまん!

 あんまりワクワクしないようにしないと。すぐはしゃいじゃうから!

 もちろん、レースに出るのは楽しみだよ! 今すぐにワーって走っちゃいたいくらいだもん!

 

 

 (……だって)

 

 

 じっと歩いて、パドックにゆっくり出て、さっとジャージを脱ぎ捨てるとね、みんなうわーって言ってくれたんだ……やっぱりあの時みたいに、ちょっとだけぽっかりあなが開いちゃってるかんじがするけど。

 でも、みんな見てくれてる。ウララの走りを、見てくれてるんだ。

 

 

 「わぁ……みんな、ありがとー!!」

 

 

 だから、いつもより大きな声で、そういって手をふったんだ。みんなに応えるんじゃなくて、わたしから呼びかけるみたいに。

 そんなウララのこと、おとなりさんで走るみんなが、やっぱりびりびりって見てきたよ。でもね、なんだか、ちょっとだけびっくりもしてるみたい。

 もしかして、もう気付いちゃったのかな? 今日のわたしは、ひとあじちがうよーってこと。

 

 

 (あっ! ダメダメ! がまんがまん!)

 

 

 ワクワクしたいのもがまん、話しかけちゃいたいのもがまん、がまん!

 ……ウララ、むりしてるなっておもう?

 

 

 『各ウマ娘、ゲートに入って体勢整いました』

 

 

 ――ううん、そうじゃないんだよ!

 これはググーって力をためてるの! ワクワクも、楽しさも……みーんな、レースでどーんってできるように!

 だって、だってね!

 

 

 

 「……勝ちたいなあ!」

 

 

 

 そのときね、かんきゃくせきの一番前にトレーナー達がいるの、見つけたんだ。

 みんな、笑顔で見てくれてる。トレーナーも、スぺちゃん達も、あと……あれ! オペちゃんもいる!

 それにね、それにね。

 

 

 (……キングちゃん)

 

 

 キングちゃんと目があった、ような気がして。

 すぐにゲートがあいて、レースが始まったんだ!

 

 

 

 『さあスタートです! ここ、大井レース場に砂の旋風が巻き起こる!

 おっと、ハルウララ、少し出遅れたか!? いきなり最後方からのスタートです!』

 

 

 

 ――ドドドーって、みんなすごい勢いでコースを走ってるんだ。

 みんな、ちょっと怖いかおで、いっしょうけんめいがんばってる。

 

 

 (みんな、一着をめざしてるんだよね)

 

 

 みんなで一着をめざせたら、すごくワクワクするなっておもってたんだ。

 みんなでがんばって、みんなでがんばったねーって笑って、それってすっごく楽しいことだっておもったんだ。

 でもね、さいきん気付いたの。勝ちたいってなったら、なんだかギューってなって、楽しくても……たのしくなくなっちゃうんだよね。

 ウララもこのまえのときは、たぶんそうだったのかな?

 

 

 (だから、分かったんだよ。

 わたし、勝ちたかったんだ。きっと、みんなとおんなじ……ううん、ほんとはもっと勝ちたかったんだ!)

 

 

 なんども負けたよ。

 今みたいに、いっつも、みんなの後ろを走ってた。それも楽しかったけど……ほんとは、わたしは、ずっと、ずーっと、一着になりたかった!

 ――でもね?

 

 

 (ウララが一着になったら……みんなは、一着になれないんだよね)

 

 

 わたしがいちばんになったら、みんなワクワクできない。

 でも、みんながいちばんになっても……わたしはワクワクできるんだもん。

 だからきっと、わたし、本気だったけど、本気にならないほうがいいのかなって……いちばんになりたいけど、ならなくてもいいのかなって、あの時のレースのあと、思っちゃったんだ。だから。

 だから、あの日……キングちゃんからおはなしを聞いたときね、すっごくびっくりした。

 

 

 

 『ごめんなさい、もっと……もっと早く、あなたに伝えるべきだったわ』

 

 

 

 ゴルシちゃんといっしょに学園にかえってきたあの日の夜にね。いつものりょうの部屋で、キングちゃんが、ぜんぶ話してくれたの。

 ウララが有馬記念に出たいって言ったから、出してあげようって言ってくれたひとがいるってこと。

 でもそれはすごくつらいやり方で、わたしがやったらからだをこわしちゃうかもしれなくて。

 だから、そうさせないように、今までキングちゃんやトレーナー、スぺちゃん達も必死になってわたしを勝たせようとしてくれたんだって。

 

 

 

 『あなたから……あなたから、その笑顔を奪いたくなくて、私……っ』

 

 

 

 キングちゃん、そう言って……すごくつらそうで、でもぜったいに泣くもんかって、ぶるぶるしてて。

 スぺちゃん達を責めないでって。トレーナーにおこらないでって。かくそうって言ったのは私だから、私におこってって。

 ……ずっと、わたしを守ってきてくれてたキングちゃんが、そんなこと言ったんだよ。

 

 

 

 ――なあ、ウララ。

 

 

 

 だから、だからね?

 わたし、さがしたんだ。キングちゃんもトレーナーもスぺちゃん達も、みんな泣かなくていいほうほう。

 わたしもワクワクして、いっしょにレースで走るみんなもワクワクするほうほう。

 ……わたしは本気になって、どうすればいいんだろう~って。

 

 

 

 

 

 ――……ウララは、なんで走ってるんだ?

 

 

 

 

 

 見つけたよ。

 わたしだけの、本気。

 

 

 

 

 『キングちゃん。わたし、ぜったいに勝つよ』

 

 

 

 

 だから、あの夜も。キングちゃんをぎゅっと抱きしめて、ゆびきりげんまんしながら、そういったんだ。

 

 

 

 『やくそくするよ。次は、ぜったいに……絶対に、一着になる』

 

 

 

 ……ううん。

 そのゆびきりは、やくそくなんてものじゃない。

 

 

 

 『……ウララ、さん?』

 

 

 

 ――それは、約束の、進化系。

 

 

 

 『わたしね、気付いたんだ。

 わたし、誰よりもワクワクしながら走る。誰よりも、全力で、必死に、本気になって走るんだ。そうすればきっと――みんなも、おきゃくさんも、いっしょに走るみんなも、みんなわたしを見て、ワクワクする!

 ワクワクい~っぱい、届けるよ! それがわたしの、走る理由なんだ!!』

 

 

 

 一着になったわたしを見て、みんなも負けないぞって思う。

 次もいっしょに走って、わたしに勝つぞって、思ってくれる。

 おきゃくさんも、わたしみたいにがんばろうって思ってくれる!

 

 

 ――だからね、わたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「わたし、本気でがんばる!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ほう……これは、ウララ君には厳しい展開になりそうだね」

 

 

 スタートして、始めの直線が終わって最初のコーナーに差し掛かるころ。

 今回は逃げや先行策の選手達の仕掛けが遅いのか、大きなバ群が一つだけあるようなレース展開だった。

 ……そして、その後ろでたった一人で走る、ウララさん。

 

 

 「1200mの短距離レースだ、早めに前につけなければ勝機はない。……ウララ君が、なるべく早く巻き返せれば良いのだけれどね」

 

 

 レースでは中長距離を走るオペラオーさんも、決して短距離走の経験がないわけではない。もちろん、そのほとんどが学園内の模擬レースでしょうけど……実際、現役で一流スプリンターとして活躍しているこの私でさえ、その見解には頷けた。

 コーナーを曲がる時は遠心力が掛かるため、他の選手を出し抜きにくい。結局仕掛けるタイミングは最終コーナーからゴールまでの直線に限られるけど、その場合はそこに至るまでの間にある程度順位を上げておかなければ、差し切れずに一着を逃してしまう。

 ……でもそれは、ここにいる誰もが、そしてウララさん本人も分かっていて。

 

 

 「……なあ、オペラオー」

 

 

 そして、その上で、ウララさんはあの位置に控えているのだから。

 

 

 

 「ウララの、最大の長所って何だと思う?」

 

 

 

 そんなトレーナーの呟きにオペラオーさんは眉を上げると、ふむ、と軽く唸ってから答える。

 

 

 「それは、ウララ君の走りにある魅力、という意味かな? 彼女のひたむきな姿勢が誰もを魅了するという、そういう意味での」

 

 「違う。純粋に……ウララの、競走ウマ娘としての特長っていう意味で、さ」

 

 

 それに気が付くのに、私もトレーナーも、チームの皆さんも、スペシャルウィークさん達も……全員で必死に考えたっていうのに、結局半年以上の時間を費やしてしまったわ。

 ――だけど。文字通り、ウララさんが本気で練習に参加するようになると、ほんのひと時でそれは明らかになったのだから、悔しいというか。

 

 

 「ウララちゃん、すっごく頑張り屋さんなんですよ。ちょっとだけ気分屋さんですけど、コースを決めたり併走するってなると、いつだって真剣に走るんです」

 

 

 とは、スペシャルウィークさんの言葉だ。私に次いでウララさんとダートコースでの併走相手になってくれた彼女は、たまにその泥だらけの地面に足を取られて、顔から突っ込んで……見ていられないったらなかったけど、それは一生懸命、ウララさんの事を考えてくれた証なのよね。

 

 

 「わたしじゃ、ああはできないよねー。どっかで手を抜いちゃうよ、ここ一番ってときは別だけどさ~」

 

 

 スカイさんが続く。如何にもらしいというかなんというか、あなたの場合は手の抜き方が上手いという話だと思うけれど。

 でも、それでも実力者の彼女をそこまで唸らせるだけのものを、ウララさんは持っていた。

 

 

 「私も経験があるから分かります。ケガをするかもしれないという恐怖のもと、いつも欠かさずあれだけ走るには、人並み以上の勇気と気概が必要なんですよ?」

 

 

 グラスさんはクラシック級時代、怪我に見舞われ活躍の機会を失ってしまった過去がある。その上で慢性的な裂脚症に悩まされるウララさんの、それでも晴れやかな姿勢には思うところがあるのかしら。

 

 

 「その上、いつだって必ず一着を目指してるんデス!

 本当の強者とはかくあるべきだと、エルはウララちゃんを見ていつも思ってましたよ!」

 

 

 いつも一番後ろ、順位は最下位。

 それでもウララさんはいつも、必ず一着を目指していた。入着すればいいなんて、レース中にそんな妥協を絶対にしない娘なのだ。それはエルコンドルパサーさんが言う通り、決して弱者の心構えではなかった。

 

 

 「……ほう、なるほど。確かにウララ君には、そういった力はあるみたいだね。

 しかし、それは重賞で走るウマ娘なら、誰もが持っているものなのではないかな?」

 

 

 「そうね。普通に考えれば、その通りだわ。オペラオーさん」

 

 

 その通りだ。

 私だってそうやって、絶対に勝利を諦めずに戦ってきたのだ。そういう苦難の道の先に、栄光とはあるものだから。

 だけど、ウララさんは。

 

 

 

 「絶対に諦めない心をもって、いつだって真剣に、ケガを顧みないほどに全力で走る。

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 オペラオーさんの瞳が、大きく見開かれた。

 模擬レース、未勝利戦。例のスケジュールではなくとも、規模は小さけれど、ウララさんは普通のウマ娘がこなすレース数の軽く数倍は、この三年間で走ってきた。

 その全てを、一切の妥協なく、ペース配分や体力温存を考えずに、全力で走り抜いたのだ。正しいフォームを知らずとも、勝てなくとも……絶対に気を緩める事無く、がむしゃらに走り切ったのだ。

 ――そんなウララさんの走りに、彼女を知る誰もが魅せられてきたのだ。

 

 

 

 「ウララさんの武器、それは――」

 

 

 

 

 

 『さあ、第一コーナーに差し掛かっ……おっと、ハルウララだ! ハルウララが一気に迫ってきた!!

 何てことだ、ハルウララが……バ群ごとかわして、一気に前に出た!!』

 

 

 

 

 

 観客の視線が、一斉にウララさんに降り注いだことでしょう。

 ウララさんはまだ第一コーナーに入ったばかりだというのに、もう最下位から一位にまで飛び出していた。そしてそれに甘んじず、あれよあれよという間に加速して、二番手の選手と三バ身、四バ身……と差をつけていく!

 

 

 「……なっ……!?」

 

 

 ――そう、微かな声をオペラオーさんが漏らしたの、私は聞き逃さなかったんですからね。

 ウララさんの武器とは、1000m近く続いても尽きないスパートの持続時間。今回でいえば、コースの三分の二を駆け抜ける、空前絶後のロングスパート。

 

 

 

 『何が起きている、何が起きている――バ群と既に十バ身以上の差がついています! ハルウララ、ぽつんと一人……ひとりだけ、最終コーナーを抜け出した!!

 まるであの、「異次元の逃亡者」を見ているかのようです!!』

 

 

 

 ……言ったはずよ。

 私達は確信していた。ウララさんが、今日のレースで……絶対に一着を取ることを。

 数々のレースを言わばスパートのみで走っていたウララさんにとって、たかが一度のレースを通して全力で駆け抜けることなんて容易かった。そんな驚異のド根性に加えて、この三年間で付けた基礎体力と正しい走法、そして技術が加われば……そこには誰も追随出来ない、唯一無二で圧倒的な末脚が完成する。

 だから、始めからウララさんには、最序盤だけは他の選手から敢えて離れて後方待機しておくように指示を送っていた。バ群に呑まれて、折角のスパートが不発に終わることを防ぐためだ。

 

 

 

 「どうだい。君はあいつに、有馬で勝てそうかい」

 

 

 

 そして。

 彼女以外が漸く最終コーナーに突入する一方で、たった一人で最後の直線を、しかも更に加速しながら突っ込んでくるウララさんを見ながら……トレーナーはオペラオーさんに、声を掛ける。

 

 

 

 「覚えておくといい、あれがハルウララだ」

 

 

 

 その瞬間。ウララさんが、私達の目の前を走り抜けた。

 その瞳は、信念に燃え滾っていた。絶対に勝つ。そして、私達を、共に走るウマ娘達を……そしてこのレースを見る全ての人々に、溢れんばかりのワクワクを、夢を与えると。

 既にその顔つきは、スターウマ娘のそれだった。

 

 

 

 「スぺが、グラスが、エルが、スカイが、うちのチームのみんなが……そしてキングが育て上げた、『黄金世代の最終兵器』。

 それが君が有馬で戦う、最強の刺客の名前だ」

 

 

 

 ――そして、そして……ついに。

 

 

 

 

 『ご……ゴールイン!!

 誰が予想したでしょう、誰が思い描いたでしょう!! ハルウララ、二番手と大差をつけての大勝利です!!

 勝ちなしのウマ娘が……ついに、G1を制しました!!』

 

 

 

 

 この瞬間……ウララさんは。

 ハルウララは、正真正銘のG1ウマ娘となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『さて、着順が決まりました、一位はもちろんハルウララ!

 そして……なんと、ハルウララ、今回の走りでコースレコードを更新しました!』

 

 

 ウララさんがゴールラインを走り抜けてから、ここに走り寄るまでの間には、わずかな時間があった。

 彼女の遥か後方から追いかけるほかの選手たちが、まだコースを疾走していたからだ。

 

 

 「トレーナーっ! みんな~~っ!!

 わたし、やったよ! 一着になったよーっ!!」

 

 

 そういって眩しいほどの笑顔で駆け寄ってくるウララさんは、さっきまでの絶対的なオーラがが噓のようで、少しだけ苦笑いを浮かべてしまう。

 ……もう、私が世話を焼いてあげる必要はなくなったかと、安心していたのに。

 

 

 「みんな、ありがとう! 今まで、わたしといっしょにがんばってくれて、ありがとね!!

 ――キングちゃん!」

 

 

 だけど。

 今まで、必死に視線を少し上に向けて……こみ上げて溢れそうになる涙を堪えていたというのに、このへっぽこウララさんは構わずに声を掛けてきて。

 

 

 

 「わたし、いつかきっとキングちゃんに勝ってみせるよ! がんばって、キングちゃんに勝っちゃうからね!

 それが、わたしからの、せいいっぱいのおんがえしだから!」

 

 

 

 ……そんなことを言われてしまったら、私も、応じざるを得なくなるじゃない。

 

 

 

 「……ええ、ウララさん。――負けないから」

 

 

 

 この瞬間、私とウララさんは、真に対等な関係になったのだろう。

 守ってあげる存在ではなく、お互いに競い合う、ライバルとして。

 

 

 

 「それと、オペちゃん!!」

 

 

 

 ――そして。

 このG1レースで勝利したということは、まだウララさんには可能性がある。

 有馬出走。そして……そして、その頂点に立つ可能性が。

 

 

 

 「わたし、オペちゃんにも負けないから!

 ぜったいに、ぜ~ったいに……ウララが、有馬で、一着になるから!」

 

 

 

 ぐぐっと身体を屈めて、一気に伸びながら右腕を振り上げる。

 その開かれた手が、ぎゅっと握られて……人差し指だけが天を衝く。

 

 

 

 

 「勝負だ! オペちゃん!!」

 

 

 

 

 ――オペラオーさんはその様子を、少しの間驚いたように見つめると……やがてフフッと口元に笑みを浮かべて、くるりと踵を返す。

 

 

 

 「そうか。……世紀末覇王の時代に、新たな役者が芽を出したようだね」

 

 

 

 そのまま、観客席を後にしながら……その常勝スターウマ娘は、一勝を挙げたばかりのスターウマ娘に檄を飛ばすのだった。

 

 

 

 

 「来るがいい……時代の頂点を決める、最高の舞台へ!!」

 

 

 

 

 




 
※この後チャンピオンズカップでも圧勝して、晴れて有馬記念に出走するようです。
※長文になってしまい申し訳なく思っているようです。
※ウララの有馬での雄姿をご期待頂ければ幸いです。





※ちなみにキングヘイローさんも有馬に出走するそうです。


 


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春:ワクワククライマックス!

 

 

 「それじゃ皆サーン! ウララちゃんの、有馬記念出走を祝して!」

 

 

 エルの掛け声に合わせて、みんなが手にしたコップを掲げる。

 

 

 「かんぱ〜い!」

 

 

 ――十二月、半ば。

 JBCスプリントにて見事レコード勝ちを決めた後、更に今月の初めに開催されたチャンピオンズカップでも二位と大差をつけて圧勝。

 先月の終わり頃に発表された人気投票の中間発表では圏外だったウララも、この二つのG1タイトルを掴み取った為か、つい先程の最終発表では何とかギリギリ有馬の出走権を手に入れるに至っていた。

 というわけで、今夜はその祝賀パーティーだ。俺としては身内であるチームメンバーとスペ達とだけでさくっと行おうとしていたのだが……。

 

 

 「ほら、タマちゃんの分ですよ〜。こっちはオグリちゃんです、お腹いっぱいどうぞ〜♫」

 

 「あーもう! 自分で取れるさかいに、子供扱いせんといてや!」

 

 「助かる。もぐもぐ。うまい。おいしい」

 

 

 ……いつの間にか厨房を牛耳っていたクリークがカレーを作り過ぎてしまったと、戦友であるタマモクロスやオグリキャップを連れてきてしまったものだから、一気に規模は膨れ上がった。

 何せ、あの「葦毛の怪物」が襲来したのだ。学園の料理主任も頭を抱える暴食ぶりで有名な彼女が、夜の食堂でドカ食いしているのである。練習終わりにここを利用する生徒も多い中で、そんなバカ騒ぎを目にしたもの好きが一人、また一人と……指数関数的に増えていく。

 気が付けば食堂はほぼ満席。しれっとたづなさんと理事長までお越しになって、一種の忘年会じみた様相を呈していた。

 

 

 「こうなると収まりがつかねぇ……っていうか他のトレーナー何してんだよ……。

 ほーらそこ、勝手に占いコーナー始めんなフクキタル! ファルコンライブ始めんな、デジタル鼻血出すな!!

 ってスペ、頼むからオグリの後を追わないでくれ、食費俺持ちなんだよ」

 

 「あはは。もしかしてマックイーンがやろうとしているスイーツ大食い大会やめさせた方が良いですか?」

 

 「是非ともお願いしますライアンさん」

 

 

 しれっとキングまでスイーツ食いに混じってんじゃねーか。俺の懇願を受けて苦笑しながらライアンが彼女達二人に腕でバツ印を送ると、「どうしてですの!?」「やっぱりへっぽこね!!」と、うら若き少女達のドスの効いた激昂を浴びせかけられる。

 

 

 「すみません、マックイーンが。あの子、あれで結構糖質制限してるんですよ。ちょっと鬱憤溜まってるみたいで。

 トレーナーさんも、大変ですよね。キングも相変わらずだなぁ」

 

 

 他人事っぽい響きだけども、そこはライアンも純粋な娘だ。真面目にこちらを気遣ってくれているのが分かる。

 ――うちでは年長組ながら、キングやウララよりもデビューが遅れてしまったメジロライアン。

 今年はウララの有馬挑戦の年であると同時に、彼女の一生に一度のクラシックレースの年でもあった。だからこそウララの練習をサポートするのと同時並行で、俺は欠かさずライアンのトレーニングにも力を入れていた。

 

 

 「ライアンも、今年はお疲れ様。

 加えて、いつもごめんな。親父の事故の時も今年も、負担かけた」

 

 「いえいえ、そんな風には全然思ってないですから!

 むしろ、ウララちゃんへの熱がそのままこっちに来てたっていうか、むしろすっごく濃い一年だったって言うか」

 

 

 弁解のつもりは全くないが、ウララの事があったからといってライアンのトレーニングを蔑ろにしたことは一度たりともない。

 むしろ彼女の言う通り、ウララの件のおかげでチーム全体の結束力は更に強くなり、トレーニングに対するおのおのの情熱や、俺自身のトレーナーとしての技量も去年に比べれば格段に向上したと思う。

 

 

 「……ただ、アイネスやマックイーンの方が、あたしより強かったってだけですから」

 

 

 だが、現実は厳しい。

 皐月賞は三着、ダービーは彼女の親友であるアイネスフウジンが獅子奮迅の逃げ切りを見せて二着。そして菊花賞は……満を辞して始動したメジロ家の筆頭令嬢、メジロマックイーンの圧倒的な先行走の前に再び三着の惜敗を喫し、ついに無冠のままこの一年は終わってしまったのだ。

 

 

 「こんなんじゃ、まだまだオグリさんには程遠いなぁ……」

 

 

 少しだけ力なく笑うと、ライアンは視線の先にいる憧れの先輩……頬をリスの様にしてクリークのカレーを食べるオグリキャップをぼんやりと見つめた。

 やるべき事はすべてこなしたつもりだ。ウララに割いた時間を回せば、と言ってしまえばそれまでだが……それを押し退けるくらいに、並の重賞ウマ娘では及ばないほどにハードな練習量を彼女はやり切っていたのだ。

 それでも栄冠に届かなかった原因があるとすれば、やはり俺が至らなかったせいだ。キングにとってのスペ達の様に、ライアンの周囲にもアイネスやマックイーンのような思わず腰が引けてしまいそうな強敵が揃っており、そんなスターウマ娘達を押し退けて勝利をもぎ取るだけの決定力の欠如が、俺含むうちのチーム全体に潜む切っても切れない因縁であり、今後の課題なのだろう。

 

 

 「でもあたし、後悔とかは全然ないんです。それよりも今は、ウララちゃんの有馬記念が楽しみなんですよ。

 見てみたいんです。未勝利戦から初めて、才能とか、遺伝とか、全然関係ないけど頑張ってここまで来たあの娘が、有馬記念でどう走るのかなって」

 

 

 メジロライアンというからには、彼女はウマ娘の名家、メジロ家の令嬢の一人である。

 だが現在メジロ家で最も有名な令嬢と言ったらメジロマックイーンであり、ライアンは語弊を恐れず言ってしまうなら二番手だ。今だからこそあのマックイーンも実は大の野球ファンでスイーツ(笑)な等身大の女の子である事を知っているが、表向きの彼女はほぼ理想的なメジロ家の代表的存在であり、そしてライアンはそんなメジロの名に恥じないマックイーンに複雑な感情を抱いていた。

 

 

 「模擬レースでも、今年のレースでも、何度もマックイーンと戦ったのに、結局一度も勝てませんでした。

 悔しくて、でも勝てなくて、やっぱりあたしは、あの子には届かないって……多分心が、いや身体がそう考えちゃってるんだと思います」

 

 

 今のライアンはジャージ姿だが、ボディラインがそこまで出ていないそんな服装でも、彼女の身体がいかに鍛え上げられているかは一目瞭然だ。

 ……その筋肉の分、彼女は劣等感を背負っている。メジロ家令嬢になれなかった彼女が、あたしはただ身体を動かすことが好きなだけだからと、長いことそう自分に言い聞かせて、ひたすら追い込んで作り上げた諦観の結晶。それが皮肉にも、今のライアンの走りの原動力となっていた。

 

 

 「でもやっぱり、このままじゃダメなんです。こんなんじゃ、ちゃんと全力で勝ちたいって思ってレースをしてるなんて、言えない。

 こんなんじゃ……マックイーンに、失礼だ」

 

 

 だけど、やっぱりライアンは純粋な娘だ。自分の気持ちや、ライバルであるマックイーンの事まで考えて、しっかりと前向きな結論を出す事が出来る。

 そして、何度栄冠を逃したって立ち上がろうとする彼女の姿は、まるでかつてのキングを見ているかの様で。

 ――なあライアン。多分君がなりたいものって言うのは、マックイーンよりももっと……。

 

 

 「だから、知りたいなって!

 ウララちゃん、なんで有馬記念を目指したんだろうって。あたしだったら腰が引けちゃうのに、あの娘は全然気にしないで、一から積み上げてここまで来て。

 あの娘の走りを見て、それが分かったら、きっとあたし……なんて、やっぱり誰かに自分を重ね合わせるなんて他力本願ですよねっ、あはは」

 

 「そうでもないさ」

 

 

 それが、チームである事の利点だ。お互いを見て、お互いに成長できるチームの存在理由なんだ。

 確かに、今年は辛い一年だったかもしれない。今はまだマックイーンにも、そして彼女が憧れの対象としているオグリキャップにも程遠いかもしれない。

 ――だけどさ。

 

 

 「きっかけを得られても、そこから頑張れない奴だって多いんだ。

 でも、君にはその力がある。ちゃんと努力して、まっすぐに勝ちを目指す力があるだろ。

 それを、その全身の筋肉が証明してるじゃないか。そんな君がウララの走りに何か感じるなら……それはちゃんと掴むべきだ」

 

 

 キングの挫けない一流の魂は、形は変われども確かにウララの本気に受け継がれている。

 次は君の番だ、ライアン。ウララから、彼女達なりの信念を受け取ってこい。それがきっと、現状を変える原動力になる。それが、君がうちのチームの一員でいる意味なんだ。

 来年の主役は君だ、ライアン。

 

 

 「はい! 頑張って応援しますね!」

 

 

 ――そろそろ寮の就寝時間が迫ってきている。だというのに、食堂はまだお祭り騒ぎだ。

 その中心にウララはいた。とは言っても当の本人はもう眠いらしく、スカイやグラスの肩に寄りかかってうつらうつら船を漕ぎ始めており、それをクリークが見つけて背負い、キングと一緒に寮部屋に戻って寝かしつけようとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……やっぱり、入着すら厳しそうなんですか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ライアンのその一言を、俺は否定できなかった。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 ――年末。

 ついにやってきてしまった。彼女にとっての今年はまさに、今日のためにあったと言っても良いだろう。

 

 

 『さあ、年末の中山で争われる花のグランプリ、有馬記念!

 あなたの夢、私の夢は叶うのか!』

 

 「ゴルシちゃん特製焼きそばー、いらんかねー」

 

 

 有馬記念。観客動員数は毎年十万人以上にものぼる、名実ともに国内最高峰のG1レースだ。

 ……そしてそんな日本ダービーに匹敵する一大レースのパドックに、一年前までは未勝利ウマ娘だったハルウララが立っているのだから、何とも言い知れないものが込み上げてくる。

 

 

 「トレーナー、わたし変になっちゃったみたい!

 なんだかね、胸がボワーってするの! あつくって、燃えてるみたい! グツグツで、ゾワゾワなんだよー!」

 

 

 そして。ゲートに入る前の時間に、観客席の最前列に待機していた俺達……チームメンバー全員にスペ達四人組の前まで駆け寄ってきたウララは、開口一番にそんな事を口にしていて。

 ――その顔つきは、声音に反して引き締まっていて。

 

 

 「そっか。……ウララもすっかり、本気になったんだな」

 

 

 だから俺はそう返してやった。きっとそれこそが、ウララが言って欲しかった言葉だと思った。

 ちゃんと本気になれている事。それが他の人にも伝わっている事。それは間違いなく、今日のウララの心の支えとなってくれるはずだ。

 

 

 「ウララ。ここまで来たら、言えることは一つだけだ。

 ……本気で楽しんでこい。君の走りで、俺達をワクワクさせてくれ!」

 

 

 すると、ウララはパアッと更に顔を輝かせて、大きく頷いて。ゲート前まで駆け出しながら……こちらに振り返って。

 

 

 「うん……うんっ! トレーナー! わたし、一着とってくるからね!

 『約束のプレゼント』、ぜったいにあげるからねっ!」

 

 

 ――先日のパーティーが始まる、ほんの少し前のこと。

 有馬出走者の最終発表を見て、ついに出走が叶った事を知ったウララは、一緒に喜んでくれた仲間達に眩しい笑顔を振りまいた後に、俺のところへと駆け寄ってきた。

 そして、言ったのだ。クリスマスだから、有馬記念の一着を俺にプレゼントすると。

 

 

 『すっごく大変かもしれないけど、わたし、トレーナーにあげたいの! だから、もうちょっとだけ待っててくれる?

 すっごく特別で、とっておきのプレゼント! トレーナーもきっと、やったーって思ってくれるよね?』

 

 

 ……その時のウララの笑顔が、未だに脳裏に焼き付いている。

 あれはガラスの笑顔だ。自信や期待に裏打ちされたものではなく、不安や緊張の中で、それでも叶いたい願いを胸に秘めた、そんな脆い笑顔だった。

 

 

 

 「……最後まで言わなかったのね。

 ()()()()()()()()から、頑張って走り抜いてこいって」

 

 

 

 ――その聞き慣れた声は、今日は隣からではなく……ウララとすれ違い様に軽くハイタッチをしてこちらに寄ってくる、緑のドレスに身を包んだ一人のウマ娘から発せられていた。

 

 

 「先に言っておくわ。ウララさんがどんな走りをしたとしても、私は構わずに一着を目指す。

 ……それが、本気で勝負をするって事。そうでしょう?」

 

 「ああ。君らしい考え方だな……キング」

 

 

 そう。

 今年の有馬の出走ウマ娘の中には、ハルウララの他にうちのチームからもう一人……つまりは前回覇者であるキングヘイローが選出されている。

 いつかキングちゃんに勝ってみせる。そう宣言したウララとの直接対決は、案外早く訪れたのだった。

 

 

 

 「……もう少し上手く出来ていたらって、思わない訳じゃないの。もっとしっかりウララさんを導いてあげられれば……こうはならなかったかもしれない」

 

 

 

 正直に白状する。冷静に分析すれば、今回の有馬記念でウララが一着になる可能性は、ゼロに等しかった。

 というか入着はおろか、二桁順位ならまだマシな方かもしれない。最悪の結果を想定すれば……またウララは最後方に取り残されて、十万人以上の観客の中をぽつんと一人走るなんて事になりかねないのだ。

 

 

 「キングはよくやったよ。そもそもここまで来れた事自体がすごい事なんだからさ」

 

 

 ウララの主戦場はダート。適正距離は短距離からマイル。

 対して有馬記念は芝2500m、つまり長距離だ。残念ながら有馬記念は彼女の脚質や適正、その全てに相反している。

 

 

 「ただ……ただウララは、純粋に早すぎただけなんだ」

 

 

 ――それらを克服するには膨大な経験が必須となる。

 あのサクラバクシンオーでさえ本人はステイヤーを希望しているというのに、適正がないからと彼女のトレーナーは初めの三年間、ひたすら彼女を短距離やマイルで走らせ続けていたそうだ。

 そうして少しずつ距離を増やして、年月をかけてゆっくりと適正距離を伸ばしていく。そんな数年先を見据えた展望が、オールラウンダーを目指すウマ娘には要求される。

 ……だから、ウララには早すぎたのだ。彼女の準備期間はたった一年間、一応は春の時点から芝長距離用のトレーニングを少しずつこなしていたとはいえ、目の前のレースで勝利を掴むのに精一杯だった彼女はその分更に練習不足だ。

 今まで中長距離をずっと走り続けてきた歴戦の選手達と、付け焼刃の特訓で成り上がったウララ。勝負は既に決していたと言っても……過言ではなかった。

 

 

 「でも、それを一番分かってるのは多分、あいつ自身なんだ。

 あいつはそんな絶望的な状況でも一着を取るって、あれだけ堂々と宣言したんだ」

 

 「……そうね」

 

 

 エルムステークスが終わって数日後からのウララは、今まで以上に真剣に練習に取り組むようになっていた。それまでは俺達に言われるがままにこなしていたメニューも、最近では自分の頭で考えてここをこうしてほしい、と提案するようになっているのだ。

 だから、彼女はもう自分で気が付いている筈だ。圧倒的に経験値が足りないことも、今日のレースにて勝ち目がないことも。そして、それでも……あいつはまだ、諦めていないのだ。

 だったらトレーナーである俺は、やれるだけやったウララを最後まで信じてやるべきだ。

 

 

 「ふふっ。

 あの時もそうだったけれど、あなたってこういう時に妙に覚悟が決まっているのね」

 

 「吞気なのが取り柄なもんでね……でも、だからさ」

 

 

 そしてもう一つだけ、俺にはしなければならない事がある。

 

 

 「万に一つでもウララが負けたとして、その時は……君が一着であって欲しい!

 だからキング。頑張れ、勝ってこい!」

 

 

 ――トレーナーとして俺が一番望むのは、単に名誉だけではなく……担当ウマ娘達の、幸福。

 勝ちを望まれているのはウララだけじゃない。その思いが伝わったのかキングは一瞬だけ目を細めると、すぐに顔を上げて、いつもの高笑いをし始めるのだった。

 

 

 「……当然よ! キングの二連覇を目の当たりにするのを、楽しみに待っていなさい! おーっほっほっほ!」

 

 

 そうしてキングも向かっていく。今年最後にして、最大の大舞台に。

 見れば先にゲート前でウォームアップをしているウララが、そしてあのJBCスプリントで彼女が宣戦布告をしたウマ娘……今日も堂々の一番人気に推された常勝の覇王、オペラオーがいる。先日のパーティーでお互いに意気込みを語っていた二人も、今日は何を言うでもなくそれぞれの準備に徹していた。

 

 

 

 

 

 「……ん……?」

 

 

 

 

 だが、その時。

 

 

 「トレーナーさん……これって」

 

 

 そう呟いたのは、この一年間ウララを支え続けてくれた黄金世代の一人、グラスだ。

 彼女の言葉に、そこに横並びになっていたチームメンバーやスぺ達全員が何か違和感を覚えて、一斉に押し黙った。

 

 

 

 「……オペラオー」

 

 

 

 ――ウララやキングは気が付いているだろうか。ゲート前に並ぶ他の選手たちの間に、どこか異質な空気が流れていることを。

 

 

 そして……恐らくそのすべてが、オペラオーに向けられていることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「みんな、つよいねー! でも……負けないぞーっ!!」

 

 

 レースが始まって、わたしはすぐにおいて行かれちゃった。

 なんかね、いつもより脚が前にうごかないんだ。ゲートがひらいてバーって走って行こうとしたら、ギュッてじめんに掴まれちゃったみたいになって……気が付いたらみんなどんどん先に行っちゃったんだ。

 あともうちょっと、わたしの脚が長かったら、きっと追い抜いてたのかなぁ?

 

 

 

 (……ううん。

 ほんとはきづいてるよ。わたし、まだまだなんだよね?)

 

 

 

 勝ちたいってなるとね、どうすれば勝てるのかなって思うようになるんだ。

 そしたら、わたしのダメなところがどんどん分かってね。でも、ぜんぶだいじょうぶ! ってならなかったから……やっぱり、ダメなんだよね?

 

 

 (でもでも、だからって……諦めたくない!)

 

 

 だってみんな……みんな、ウララを応援してくれてるんだもん! そんなみんなをワクワクさせるって、わたし決めたんだもん!

 ――ぜったいに、キングちゃんに勝つんだもん! トレーナーに……ありがとうのプレゼント、あげるんだもん!

 

 

 『さあ、第二コーナーを抜けて、向正面の直線に入りました!

 全体としてまとまった展開が続いております、ハルウララどうした、一人最後方を走る! 芝のコースは苦手か!?』

 

 

 前の子を追い抜こう、追い抜こうって、すごくがんばってるよ。でも、みんなすっごくはやくて、追いつけないんだ。

 すっごく楽しいのに、ちょっとだけ……なんだろう。まえの時とはちょっと違って、楽しいのに、つらい。

 

 

 (まだ……まだまだーっ!)

 

 

 わたし、知ってるよ。そう思うのは、わたしがちゃんと本気だからなんだって。

 だから、最後まで、ウララはがんばるよ!!

 

 

 「ウララ、ゴー!!」

 

 

 みんなが言ってくれた! わたしの武器は、バビューンって走りつづけるすえあしの長さなんだ!

 まだまだ、ここからが勝負だーっ!!

 

 

 『――おおっと! ここでハルウララが早くもスパートを掛けたか!? バ群との差が少しづつ縮まっていきます!!』

 

 

 もっとはやく、もっとはやく!!

 有馬記念は、今までわたしが走ってきたどのレースよりもきょりが長いんだ! だから、コースの真ん中よりちょっと後の、このタイミングで……いっきに!

 少しずつ、少しずつ追いついていく。バ群の一番後ろがちょっとずつ近づいてきて、だんだん誰がどこにいるのかがはっきりしてきた。

 びっくり! いちばん後ろにいるの、キングちゃんだ! 少しだけバ群からはなれたところを、コースの内側にピッタリ沿って走ってる!

 

 

 (でも……全然あせってない?)

 

 

 きっとキングちゃんは、脚をためてるんだ。スペちゃんが言ってたんだ、疲れないようにギリギリまで全力を出さない事を、脚をためるって言うんだって。

 やっぱりキングちゃんはすごい。どんなレースでも、ちゃんと本気で走ってるんだ。ウララとも、本気で勝負してくれてるんだ……。

 

 

 

 (あれ? でも、なんかちょっとだけ、変?)

 

 

 

 だけどね? 

 よく見たらキングちゃん、ちょっと変な顔してる。疲れてるとか、あわててるとかじゃなくて……悩んでる? まよってる?

 それがちょっと不思議でね、ついキングちゃんが見てる、まえの方の子たちを見ちゃったんだ。

 

 

 

 

 

 

 ――え……っ?

 

 

 

 

 

 

 『さあ、先頭が第三コーナーに入りました! ここから勝負どころ……ああっと、これは……これは何という事でしょう!?

 オペラオーが、オペラオーが完全に包囲されている!!』

 

 

 

 ……オペ、ちゃん?

 何が起きてるのか、すぐには分からなかったんだ。オペちゃんが一気に駆け出そうとした時ね、まるでそれをつつんで、ふさいじゃうみたいに……周りの子達がオペちゃんをかこんだんだよ?

 それで、それを見てたキングちゃんがね、いっしゅん、すごくくやしそうな顔をしたんだ。なんだか、こうなる事が分かってたみたいに。

 

 

 「……なんで?」

 

 

 なんで、そんなことするの?

 そんなことしたら、オペちゃんが……オペちゃんが、ちゃんと走れないよ?

 

 

 『オペラオー、完全にバ群に埋もれている! オペラオー包囲網だ! オペラオーを他の選手たちが完全に封じてしまっている!!』

 

 

 ――みんなの顔、見たよ。

 みんな、すっごくつらそうだった。オペちゃんを囲んでるみんなが、オペちゃんの方をみて、すごくかなしそうに、ごめんねって思ってるみたいな顔してる。

 それを、キングちゃんは外からつらそうに見つめてる。

 

 

 

 (……誰も、ワクワクしてないの?)

 

 

 

 うそだ。そんなの、おかしいよ。

 だって、キングちゃんが一着になった去年は、みんなすごく真剣で、本気で走ってたよ? それを見てウララも、ゾワゾワって不思議な気持ちになったんだ。

 ……だからわたし、有馬記念に出たいって思ったんだよ?

 

 

 (あのときと、同じ?)

 

 

 エルムステークスに出たときのこと、思い出したんだ。ウララを勝たせたくなくて、砂をバーってかけたあの子のこと。

 あのときは何でそんなことするのって思ったけど……今はちょっとわかるんだ。すごく、すっごく勝ちたいって思ったら、きっとどこかで思っちゃうんだ。他の子たちの、邪魔をすればいいんだって。

 

 

 (……でも)

 

 

 でもね? 

 それで勝って、ワクワクするの? それで一着になって、うれしいのかな?

 それじゃ、負けるほうも、勝ったほうも、なんにもワクワクしないんじゃないのかな?

 

 

 「……いやだ」

 

 

 そんなの、いやだ。

 このままじゃ、みんなつらいままでレースが終わっちゃう。

 

 

 「そんなの、いやだ」

 

 

 止めなきゃ。わたしが、なんとかしなきゃ。なんとか、あそこまで追いついて……オペちゃんを、みんなを、助けてあげなきゃ!

 でも、ずっと本気で走ってるのに、ほんのちょっとずつしか近づけないんだ。これじゃ、ゴールするまでに追いつけない。

 なにかないかな。ウララ、何とかしてはやくなりたいな。今だけでも、はやく走れるようになりたい……。

 

 

 

 

 

 

 

 『うわぁ、ゴルシちゃんすっごーい! どっかーんって走るね! クリークおねえちゃんみたい!』

 

 『おっ、ウララもアタシの走りの魅力に気が付いちまったかー! そりゃま、連戦連勝のこの黄金不沈艦様にかかりゃこんなもんよ!』

 

 

 

 

 

 

 ――あった。

 まだいっかいも試してないけど、もしかしたらはやくなるかもしれないほうほう。

 ……だけど、これをやっちゃったら、わたし。

 

 

 

 (……トレーナー)

 

 

 

 でもね。ウララは、諦めないよ。

 だってわたしは、みんなをワクワクさせる為に走ってるんだよ。応援してくれるみんなも、いっしょに走ってるみんなも……キングちゃんも、オペちゃんも、ほかのみんなも、みーんな、ワクワクさせる為に走ってるんだ。

 

 

 

 「待っててね、オペちゃん」

 

 

 

 ――なのに、みんなが、キングちゃんが……オペちゃんが、あんなに泣いちゃいそうな顔をしてる。

 わたしがやらなきゃいけないんだ。ただ勝ちたいってだけじゃないんだよ。勝って、みんなが笑ってくれなきゃ、わたしはいやだ。

 

 

 

 

 (だからね、トレーナー。ごめんなさい。

 プレゼント……ちゃんとあげられなくなっちゃった)

 

 

 

 

 ――わたしは、やるんだ。

 ぜんぶ、ぶつけるんだ。ウララのいままでも、()()()()()

 だから、みんな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 (わたしを、みろぉぉっ!!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その瞬間。

 突然、中山レース場全体を揺るがすような、凄まじい轟音が響き渡った。

 

 

 「うわ……っ!?」

 

 

 そして、その突然の衝撃に驚いたのか、観客席が一瞬、静まり返った。

 

 

 「今のは、なんだ……!?」

 

 

 思わず周りを振り返って、チームのみんなやスペ達を確認する。だが誰も心当たりがないのか、俺を見て戸惑うのみだった。

 ……だが。やがて俺達を含めた観客がレースに関心を戻し始めた時、再びその怪獣の進撃のような音が鳴り響いて。

 

 

 「……っ!? トレーナー、あれ!!」

 

 

 やがて何かに気付いたらしいスカイが、慌てて俺の袖を引いて、レース場の一点を指差した。

 

 

 

 「……ウララ……!?」

 

 

 

 そこに、ウララはいた。

 オペラオーを封じる大きなバ群の遥か後方で、彼女はその脚で地面を思い切り踏みしめ、そして蹴り上げていた。

 その瞬間、また先程の轟音が鳴り響いて、ターフの芝があり得ないほどに捲れ上がる。

 

 

 

 ――それは、色さえ変わればまるで……桜吹雪のようで。

 

 

 

 『お……おおっ!? ここでハルウララが動き出した! 場内に凄まじい音を立てながら、突然すごい速度で捲って上がってくる!!』

 

 

 「なんだ、あの走り方は……!?」

 

 

 あんな走法を、ウララに教えた事は一度もない。

 ウララは小柄な分、ピッチ走法さながらに小刻みに脚を捌く事で速度を上げる走り方を得意としていた。そして何故か一般的なセオリーに反して芝の方が走りにくいとされるウララは、その走法も相まって細かく足を地につける分減速してしまうようなのだ。

 ――だが、今のウララは歩幅がかなり大きい。仮に彼女がストライド走法で走るとしてもあそこまで広げはしないだろう。そうして減速を最小限に止めながら、まるで交互に繰り出される脚一本で身体を支え蹴り飛ばして、倒れ込みそうになりながら加速するかのような走り方だ。

 

 

 

 『すごい、すごいぞハルウララ! 大差の付いていた間隔があっという間に埋まっていく!!

 まるで……まるで嵐の様な、()()()の様な怒涛の追い上げだ!!』

 

 

 

 そう。まさに春一番。

 この寒空の下に開かれた有馬記念に、オペラオーを封じる殺伐としたレース展開に……一足早く春を、暖の到来を告げる嵐の様な。

 そんな圧倒的な走りを見せるウララは遂にバ群の尾に追いつくと、何とキングをあっという間にかわして、オペラオーの包囲網に向かって全身全霊で迫ろうとしていたのだ。

 

 

 「すごい……すごいよ、ウララちゃん!」

 

 「このまま加速できれば、もしかしたら……!」

 

 「頑張れーっ!! ウララちゃーん!!」

 

 

 スペが、グラスが、エルが……続いてスカイも、ライアンも、クリークも、みんながウララに歓声を送る。

 この時、間違いなく会場の誰もがハルウララに目を奪われただろう。一年前に突如として有馬記念を目指し始めて、それから多くの重賞レースに出走して、勝ち切れない日々が続いて……でも最後には結果を出して、このターフに立った彼女を。

 そして今、このレースを無情の争いから本気のぶつかり合う真のレースに変えるかの如く駆け出したウララに、誰もが仰天した事だろう。かくいう俺も、周囲に芝をダートの砂塵の如く撒き散らしながら爆走するウララから視線を離せなかった。

 

 

 

 ――だが。

 

 

 

 「おい! ウララのトレーナー!! オメーだよオメー!!」

 

 

 

 だが、突如としてその場にやって来た一人のウマ娘――数ヶ月前にウララと学園を抜け出して勝手に高知まで連れて行った、あのゴールドシップが次に息巻いた内容とまるで同じ考えを……俺は抱いていたのだ。

 

 

 

 

 

 「オメー、あの走り方をウララに教えたのか!?

 バカ野郎、あれはアタシみたいに体格が良くないとダメなんだ!! ウララみたいなちっこくて細いやつがあんな走り方をしたら……脚にとんでもねぇ負担が掛かって、身体がぶっ壊れちまうだろ!!」

 

 

 

 

 

 ――違う。俺じゃない。

 売り子姿のゴルシに胸ぐらを掴まれたまま、俺は震える様に首を横に振る。教えたのは俺じゃない、と伝える様に。

 すると彼女も察したのか、俺を離すと、のろりとレース場に目を移した。

 

 

 

 「……バカ野郎ッ……!!

 あいつ、ここで……ここで、()()()()()()()()()()ぞ!!」

 

 

 

 その叫びに、スペ達全員が、そして周囲の観客が言葉を失い、顔面を蒼白にした。

 間違いない。あいつは、自身の選手生命を懸けて……いや、そんな陳腐な言葉じゃ済まされないか。

 あいつは今、命まるごと懸けて走っている。憧れの舞台で、苦しんでいるみんなを救う為に、魂そのものを燃やして走っている。

 

 

 「ウララ……ウララぁぁぁっ!!」

 

 

 ――そして、俺が堪えきれずに、そう叫んだ瞬間。

 ウララの脚の絆創膏が弾け飛んで……真っ赤な鮮血が、辺りに飛び散ったのだ。

 

 

 

 『な……何という事でしょう!! ハルウララ、裂脚症か!? 脚から血を流している!!

 血を流しながら……しかし止まらない!! 構わずに……さらに速度が上がっていく!!』

 

 

 

 想像出来るだろうか。

 芝と、血と、チップと、砂と。その全てが舞いに舞って、その中で鉢巻の取れた桜色の髪を燃えるように靡かせて、轟然とした気迫を発しながら駆ける、そんなウマ娘の姿を。

 

 

 

 

 

 ――その走りに、俺は夢を見た。

 

 

 

 

 

 「ウララちゃん……っ」

 

 

 

 

 

 ――その走りに、皆は夢を見た。

 

 

 

 

 

 「ウララ……!!」

 

 「ウララー!! 頑張れー!!」

 

 「一着を取って!! あなたなら、勝てるわーっ!!」

 

 

 

 

 

 

 ――その戦いに、人は夢を見る。

 

 

 

 

 

 『ハルウララがんばれ! ハルウララがんばれ!!

 ……誰もが、君の勝利を望んでいる!!』

 

 

 

 

 ――勝ち続けると、勝ちを望むと、全てのウマ娘が敵になる。

 

 

 

 

 「……ウララ君、君は……っ!!」

 

 

 

 

 ――そのウマ娘は完全に包囲された。

 そのウマ娘は、完全に取り残されていた。

 

 

 

 

 

 『そしてっ、ここで何と、オペラオーだ!!

 オペラオーが、ハルウララの走りに応えるかの様に、包囲網から抜け出した!!』

 

 

 

 

 

 ――道は、消えた筈だった。

 

 

 

 

 「ちくしょぉぉっ!! ウララぁぁっ!!

 勝ってくれ……俺に、プレゼントを、くれぇぇっ!!」

 

 

 

 

 

 ――テイエムオペラオー。

 そして……ハルウララ。

 

 

 

 

 

 『バ群を追い抜いて……残り100m、テイエムオペラオーとハルウララの一騎討ちだ!!

 わずかにテイエムオペラオー有利か、わずかに有利か、ハルウララ追い上げる!! 速度はハルウララが上だ!!

 ――今ゴールイン!! オペラオー逃げ切った!! ハルウララ圧巻の追い上げも、二着だ……っ!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――お前はなぜ、走れたのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ああっと、問題発生だ!!

 ハルウララ、止まれない!! ゴールラインを越しても減速しないぞ!!』

 

 

 ……ウララの気迫に完全に呑まれて、我に帰った時には時すでに遅し。

 ウララは止まらない。ただでさえ制御不能な走り方をしていたのだ。腕はだらんと垂れて、頭もぐるりと揺らしながら……されど限界以上の加速をしてしまった脚が止まらない!!

 

 

 「ウララ……ウララっ!!」

 

 

 どこかで、誰かの悲鳴が上がる。

 俺は思わずレース場に降りて、ウララを受け止めに行こうとした。誰かが止めてやらないと、ウララはそのままスタンドの塀に、時速60キロ前後の速度で激突する事になる。

 そうなったら……もう、助からない。

 

 

 「駄目です、トレーナーさん!! ウララちゃんを受け止めたら、トレーナーさんが死んじゃう!!」

 

 「離せライアン、俺なんか構うか!! ウララは……ウララだけは……!!」

 

 

 こんなのって、あるか。

 俺は何してたんだ。あいつの走りに気を取られて、ボケッと突っ立って。あいつの走りを一番そばで見てただろ、俺だけは……俺だけは、呑まれちゃいけなかったんだ。

 俺のせいで、俺のせいで、ウララは……!!

 

 

 

 

 

 『大変なことになりました! 救護班が向かっていますが、前例のないアクシデント、対応に困って……!?

 いや! あれは……あれは! 一人だけ! 一人だけ、ウマ娘がまだ加速している!!

 レースを終えて、ただ一人だけ……暴走するハルウララを追う様に走り続けている!!』

 

 

 

 

 俺は、ハッとウララの走る方角を見た。

 オペラオーを始め、選手のほぼ全員がレースの終わりと同時に減速し、全力を出し切ってその場で荒く息をついている。だから、止まらずに走って行ってしまったウララに追い縋る事は不可能な筈だった。

 ……しかし、たった一人だけ。まるでウララがこうなる事を全て見越していたかの様に速度を下げずに走り続けて、ウララに迫っていく影があった。

 

 

 

 

 

 ――それは緑のドレス。不屈の塊。

 

 

 

 

 

 「……キング……!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時、私は誰よりも先に、ウララさんを見た。

 元々パドックにいた頃から、オペラオーさんに対する皆さんの雰囲気がおかしい事には気が付いていた。だから私は敢えてバ群の下に控えて、様子を見守っていたのだ。

 そして……案の定、オペラオーさんが集団マークされている事実を知って、複雑な気持ちを持て余していた。される側も、する側も……どちらも心苦しい、そんな様子に歯痒さを覚えていた。

 

 

 ――そんな迷いを、ウララさんのあの轟音が吹き飛ばしてしまった。

 

 

 「ウララさん……っ!?」

 

 

 誰よりも近い位置で、ウララさんを見た。

 それは普段のあの娘からはかけ離れた、一人では担いきれない覚悟を背負ってしまったかのような、そんな表情だった。加速した思考の中で、まるで雪片の様に飛び散る芝の中で……ウララさんの瞳は、かつてない程に輝きを灯し始めていた。

 

 

 「う……ららああああああっっっっ!!!」

 

 

 すごく動揺したわ。もちろん彼女が逆転する可能性を考えていない訳ではなかったけれど、でもウララさんは今まで見たことのない走り方で、今までにない加速度であっという間に私との距離を詰めてきたのだから。

 ……私だけじゃない。バ群を構成する皆さんも、そして他ならないオペラオーさんの意識すらも、ウララさんは完全にもぎ取っていってしまったのだから。

 

 

 ――そして。いよいよウララさんが私を追い越そうとする時。

 一瞬だけ、ウララさんがこちらを見た。その瞬間だけ、ウララさんの瞳は元の彼女のものに戻っていた。

 まるで謝っている様だった。ごめんなさいと。今までありがとうと。

 

 

 

 (ウララさん)

 

 

 

 私は気付いてしまった。

 毎日ウララさんの服を着替えさせて、ウララさんと一緒に練習して、たまにウララさんと一緒に寝て。そうして、今までずっと彼女の側にいた私だけは、気が付いてしまったのだ。

 ――ウララさんが、全てを投げ打って走っていることに。

 

 

 

 (本当に、あなたって娘は)

 

 

 

 

 そして。そう思った瞬間……私も、全てを捨てていた。

 一流としての矜持も。有馬記念二連覇の名誉も。失礼極まりないですけれど……私を応援してくれる、ファンのことも。

 残ったのは、ただのキングヘイロー。ただのお節介な、ウララさんの友達。

 誰よりもウララさんを心配している、一人のウマ娘。

 

 

 

 (冗談も程々になさい……っ!!)

 

 

 

 だから私は、最後の直線に踏み入れても、敢えてスパートの脚を振り抜かなかった。

 ウララさんが飛び込んで、四散したバ群やそこから抜け出したオペラオーさんにぐんぐんと離されて……残り300mの位置で、漸く末脚を爆発させる。

 それだけの距離で、最下位から四着まで一気に大外に切り替えて駆け上がる。けどそれはゴールではない。有馬記念のゴールラインは、今の私に意味を成さない。

 

 

 

 (あなたは、私が守る!!

 あなたは誰よりも大切な私のライバルで、大事な友達なのよ!!)

 

 

 

 

 ゴールラインを踏み越えて、更に加速する。本来の私のスパートのスピードに乗って、随分前へ行ってしまったウララさんを懸命に追いかける。

 絶対に、絶対に、守ってみせる。あなたが皆さんに見せたワクワクを、悲劇に終わらせたりはしない。

 

 

 

 「ウララ……さあぁぁんっっ!!」

 

 

 

 ――そして、漸く。

 なんとか、私はウララさんに追いついた。前を見ればもう距離がない、減速は無理だ。

 こうなったら、一か八か。私は隣で抜け殻の様になってしまっているウララさんに両腕を回すと……その場で全力で斜めに軌道を逸らしながら、ターフに横倒しで倒れ込んだのだ。

 

 

 

 『キングヘイロー、なんとハルウララに追いついた!!

 そして……ああっ、地面に転がった!! 激突は避けましたが……すごい勢いです……!!』

 

 

 

 何度も、何度も衝撃が身体を貫いた。

 意識が薄れる。肺から空気が溢れ出る。それでもウララさんだけは守る為に、思い切り彼女を抱え込んで、跳ねる様に転がって、そして。

 数十秒ほど経ったのち、私達は漸く勢いを失い……それぞれごろりとターフに投げ出されたのだった。

 

 

 

 「……キング、ちゃん……?」

 

 

 

 だけど、そんな痛みは、彼女の声の前では何でもない。

 私は全身に鞭を打って、目の前で転がるウララさんの元まで這って行った。そして着くや否や、その身体をひしと抱きしめた。

 ウララさんは満身創痍だった。脚からは無数に開いた傷口から血が流れており、先程の爆走で全身に負荷をかけ過ぎた影響なのか、腕や上半身がビクビクと痙攣してしまっている。

 

 

 「このおばか。なんて……なんて事をするのよ」

 

 

 ――人々にワクワクを、夢を、暖かさを与えて、自分は落花となって散っていく。

 そんな筋書きを、私は絶対に認めない。私達はいつまでもターフに立っているからこそ、誰かの希望となるのだ。

 

 

 「えへへ……ごめんね、キングちゃん」

 

 

 ……でもそれは、ウララさんもきっと解っていて。

 それ以上は何も言えなかった。私は力なく横たわるウララさんを抱きしめたまま、解けて広がっている桜色の髪を撫でさすることしか出来なかった。

 これ以上何かを言ったら、その場で泣き崩れてしまいそうだった。

 

 

 

 『――ここに宣言する!

 この勝利により、テイエムオペラオーは世紀末覇王となった!!』

 

 

 

 その時。

 ウイナーズ・サークルに立ったらしいオペラオーさんの声が、マイクを通してレース場全体に伝わって。

 

 

 

 『だが! 今日の勝利は、決してボク一人で得たものではない!

 絶対の王座を決める熾烈な戦いの中で、誰よりも聴衆を惹きつけ、誰よりも魅了したのは……ボクではない! ウララ君だ!!』

 

 

 

 ……オペラオーさんにしては、随分と湿っぽい声音だった。

 

 

 

 『みんな、彼女に拍手を!! 主役であるはずのボクに真っ向から張り合ってみせた、今日のもう一人の主役に……どうか、万雷の拍手を!!』

 

 

 

 ウララさんの容態が分からない、というより良い筈がない現状、素直に彼女を賛辞して良いのか誰しも分からなかったのだろう。そんなオペラオーさんの懇願に応えた拍手は……決して華やかなものではなかった。

 

 

 

 「……ねぇ、キングちゃん」

 

 

 

 華やかではなくとも、穏やかだった。

 中山レース場に駆けつけた十万人以上の観客が、総出で……ウララさんに相応しい、暖かな拍手を彼女に捧げていた。

 

 

 

 

 「わたし、いっちゃくになれたかな?」

 

 

 

 

 ――救護班が駆け付けて、ウララさんと私を担架に乗せる。

 そうして横並びになって運ばれる私達を待っていたのは……冬のからっとした青空と、溢れんばかりの、うららかな声援。

 

 

 

 

 「……ええ。ウララさん」

 

 

 

 

 

 

 ――それは、まるで春のようだった。

 

 

 

 

 

 

 「あなたが、いちばん輝いていたわ」

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 ――月日は、流れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「わあっ! いよいよレースだー!

 楽しみだな〜! ワクワクだな〜!!」

 

 「ちょっと、あんまりはしゃぐと転ぶわよ?」

 

 

 パドックへと進む道。

 他の選手達はもう外に出てしまっていて、残すところは私とウララさんだけだった。それでも、私達を待ち望みにする観客の皆さんの声がここまで聞こえてくる。

 

 

 「だって〜、すっごく久しぶりのレースなんだもん!

 うっらら〜♫ いっぱい走れるといいなぁ!」

 

 「それはそうね。……本当にね」

 

 

 ――病院にて精密検査を受けた結果、ウララさんは裂脚症の悪化はもちろんのこと、全身の内出血に加えて、更に両足とも骨折する大怪我を負ってしまった事が判明した。なので結果として、その治療及びリハビリの為に二年近くもの間、彼女はレースから離れざるを得なくなっていたのだった。

 ……ちなみに私は軽い打ち身と擦り傷で済んだので、お構いなく。

 

 

 「リハビリ、けっこうたいへんだったなぁ。でもね、またレースしたいから、ウララがんばったんだよ!」

 

 「ええ。ずっと見てたわ」

 

 

 病院でも相部屋になった私達にトレーナーはすぐに駆け付けて、情けない泣き顔でひたすらに謝っていた。ウララの事、止められなくてすまない。キングに無理をさせてしまってすまない、と。

 全く、無様なものだったわ。あなたがどうこうしたところで、ウララさんはああするしかなかったでしょうに。

 

 

 「でも、レースに出られるようになって、すぐにキングちゃんといっしょに出走できるなんて、うれしいな!

 久しぶりだよね! キングちゃんと一緒に走るの!」

 

 「全く、感謝なさいな。この私があなたの為に、わざわざダートレースを走ってあげるんだから。

 ああもう、想像するだけでも憂鬱だわ。砂、舞いすぎなのよ……」

 

 

 私は軽症だったので数日で退院したけれど、その後もウララさんの様子は毎日見に行っていた。

 だけど、ウララさんの病室には、いつも必ず誰かがいた。スペシャルウィークさん達だったり、オペラオーさんだったり、クリーク先輩だったり……ライアンさんだったり。

 

 

 『ウララちゃん! あたし、頑張ってみるね!

 君みたいにどんなに厳しくても堂々と、夢を駆けてみるよ! 絶対に……絶対に、一着になってみせる!!』

 

 

 なんて、妙に熱く語っていたライアンさんが懐かしい。

 そんな入院生活と苦しいリハビリを乗り越えて……晴れてウララさんは今日ここ、地元の高知レース場での復帰戦へと出向いていたのだった。

 

 

 「ほら、そろそろ行きましょう。 準備はいい?」

 

 「うん! ……あ、待って!」

 

 

 だけど。いよいよパドックに出ようとした私を、ウララさんは引き留めて。

 

 

 「キングちゃん」

 

 

 ――そして、振り向いた私の胸の中に、ぽすっと飛び込んできたのだった。

 

 

 

 

 「いつも、ありがとね。

 ……キングちゃん、大好き」

 

 

 

 

 ……いつかの朝にも、言われた言葉。

 あの頃とは、状況も、重みも、違うけど。

 

 

 

 「……ええ。

 ずっと、一緒にレース場に立つ権利をあげるわ」

 

 

 

 これからも、きっと乗り越えていける。

 私が一流である限り。ウララさんが、本気で走る限り。

 

 

 

 「さあ、今度こそ行くわよ!

 勝負よ、ウララさん。一流の走り、見せてあげる!」

 

 「うん、行こう!

 キングちゃんも、みーんな、ワクワクさせちゃうよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 高知レース場はその日、歴代最多動員数を更新したそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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番外編:最強のダービー逃げウマ娘

 

 「たのもーっ!!」

 「きゃっ!? ちょ、ちょっと、いきなり何なの!?」

 「お前がキングヘイローだな!? 話は聞いてるぞ! 有馬記念、流石だな!!」

 「え……ええ? あ、ありがとう……でいいのかしら?」

 「おうっ、そんなお前にっ、挑戦状だーっ!!」

 「ちょ、挑戦状……妥当って、漢字違うじゃない……明日の午後に共用コースで……って、はぁっ!?」

 「お、なんだ! どうした! もう怖気づいたのか!?
 ターボは強いぞ! あのテイオーにだって絶対勝つんだ! だから、ここでお前に負けるわけにはいかないんだっ!!」

 「そ、そういう問題じゃないわよ! だって、これ……この距離と、それに……っ!
 って、ここの筆跡、まさか」

 「ええい、つべこべ言うなーっ!




 ターボは、ツインターボは、キングヘイローを倒して……最強の逃げウマ娘になるんだーっ!!」


 


 

 

 部屋の窓から覗く、カラッとした青空。

 その日は練習が休みで、チームのみんなはそれぞれ思い思いに休みを楽しんでいるはずだった。

 ウララのJBCスプリントに向けて、本格的にトレーニングを始める前日。そんな秋の真っ盛りの、快晴が続く穏やかな日々だった。

 ……そのはずだった。

 

 

 「と、トレーナーさ~ん!!」

 

 「大変です、キングが、キングが~~!!」

 

 

 ――なんて叫びながらトレーナー室に押しかけてきたのは、うちのチームのメンバーであるウマ娘二人。普段からキングの傍に控えていて、呼び出しを受けると登場してキングコールをする、一人はネコ目、一人はボブヘアーの、あの通称「取り巻きーズ」の二人だった。

 何事かと落ち着いてもらおうとした俺の事なんて構わずに、すかさず二人は俺の腕を引っ張って学園の廊下を走っていく。廊下は静かに走りなさいだとか、とりあえず事情を話してくれよとかいろいろ言いたかったのだが……人間の何倍にも筋力のあるウマ娘二人が相手では抵抗のしようもない。

 かくして俺が連れていかれたのは校舎の外、普段のチームの練習場から少しだけ離れた、模擬レース等で使われるトレセン生共用の芝コースのスタンド席だった。

 

 

 「お、おま……殺す気か……?」

 

 「ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃ!」

 

 「でもでも、あれ、見て!!」

 

 

 漸く止まってくれた二人から離れて息も絶え絶え悪態をつく。とはいえ、二人とも意味もなく誰かを振り回すような娘じゃない事は分かっているので、軽くジト目を向けた後に俺は二人が揃って指さす方向を見て。

 

 

 

 「……ん?」

 

 

 

 ――いや、まあキングがいるんだけれども。

 問題は彼女が今現在、その共用コースのゲート前で例によっておーっほっほと笑っており、そしてその傍らには今回の対戦相手らしきウマ娘が……。

 

 

 

 「……んん!?」

 

 

 

 醒めるような青い髪の端が、水色に薄く澄んでいる。赤と青の瞳を併せ持ち、キングに負けず劣らずその小さな背をふんぞり返らせているあの娘は、間違いなく。

 

 

 「つ……ツインターボじゃねーか。接点あったっけ、あの二人……?」

 

 

 大逃げウマ娘、ツインターボ。

 かの有名な「異次元の逃亡者」ことサイレンススズカよろしく、レース序盤から全力でバ群を突き放してリードする逃げ策を講じるが、如何せんスタミナが足りないせいか、二つのターボが逆に付いてるのか、終盤になるとバテて失速してしまうその無謀なスタイルが有名なウマ娘だ。

 だが、それでも模擬レース等ではどんなウマ娘が相手でも大差をつけて逃げようとする姿勢や、減速はすれど決して勝ちを諦めないその根性が、ウララの様に一定数のファンを呼び寄せているとかなんとか。

 

 

 「い、いやいやそうじゃない。

 まあ休みだし勝手だけどさ、キングが誰とレースをしようが……それにしても」

 

 

 それにしても、だ。

 妙に観客が入っている。無論そのほとんどがトレセン学園の生徒と、あとはちらほらとトレーナーの姿が見える程度なのだが、それでもなんだかんだでトレーナースカウトの時と同じくらいの規模の人だかりが出来上がってしまっている。

 そもそも差し戦法のキングと大逃げ策のターボでは、ダメとは言わなくともトレーニングとしては相性が悪い。真剣勝負だったとしても……こう言っちゃなんだが、まだデビューすら果たしていないターボとG1で戦っているキングでは、格の差があると思わざるを得ない。

 なんか腑に落ちない。どうしてレースを行うのか、そしてなぜこれだけ観客が入っているのか。

 だがそれは、直後に聞こえてきたメガホンの声によって……ある程度の予測がついてしまったのだった。

 

 

 

 『さーあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 最強の逃げウマ娘は誰か!

 今ここにあの時の雪辱を晴らしたい一人のウマ娘が! 頂点を決めるべくやって来ました!

 最強のダービー逃げウマ娘決定レース、ここに開幕だよ~!』

 

 

 

 「ちょっとあいつ取っちめるから二人とも協力して」

 

 「え、あ、はい……?」

 

 「い、痛いことはダメですよトレーナーさん!?」

 

 

 すぐに席を立って横の階段を駆け上がる。トレーニングに励むグラウンド上のウマ娘全員に宣伝するかの如く、席の外周に沿って歩きながらメガホンで歌うように語りかけているそのウマ娘の背後を捉えると、取り巻きーズの二人にコッソリ挟み撃ちを指示して。

 ――そして、満を持してそのぴょこぴょこ左右に揺れている空色の尻尾の端を、ムンズと掴んでやった。

 

 

 「随分好き勝手やってくれたじゃねーかスカイ」

 

 「ぎゃああああ!? って、トレーナーさん!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「さあて」

 

 

 再びスタンド席。

 変わったのは、俺と取り巻きーズに囲まれて、一人のウマ娘が肩身狭そうにしながら薄ら笑いを浮かべていること。

 

 

 「主犯は君だな、スカイ」

 

 「あー……何のことでしょう? セイちゃんにはさっぱりですよー」

 

 「よし。取り巻きーズ。やれ」

 

 「え、なんですか、ちょっ……や、やめてください、横暴だー! 熱いコーヒー飲ませるなんてひどいー!!

 わかった、分かりましたから! そうです、わたしですよ! わたしの仕業ですから〜!!」

 

 

 ――言っておくが、全然熱くないんだぞ。日光に当たって、ちょっと常温位にぬるくなっただけのアイスコーヒーだぞ。君の猫舌がヤバすぎるだけだぞ。

 なんて救いの言葉は言ってやらない。だけど自白は取れたので、とりあえず合図を送って、缶コーヒーを持った取り巻きーズを下がらせる。ちなみに二人ともこっちを見てドン引きしている。なんでだ。

 

 

 「ううっ……ひどい、もうお嫁にいけないじゃないですか」

 

 「何を言うか。コーヒーは人生の友だぞ、夜更かし上等なトレーナーにとっては至福の一杯だぞ」

 

 「セイちゃんは早寝遅起きで健康的な、か弱いウマ娘なんですけどー! ぶーぶー」

 

 

 そうして文句を言う目の前のウマ娘の名はセイウンスカイ。キングの同期で、「黄金世代」の一人だ。

 こう見えても彼女、レースでは数々の作戦を練って競走相手をねじ伏せる策士であり、結果としてあのキングが最後まで苦戦し切ったクラシック三冠のうちの「皐月賞」と「菊花賞」の二冠を手にしているのだ。そしてその頭のキレ具合は、出走時に限らず多少は普段からも発揮されている様で。

 

 

 「さしずめ君がターボを煽ったんじゃないかい。最強の逃げウマ娘になりたいなら、トウカイテイオーより先に倒すべき敵がいるとか何とか言って」

 

 「ほ〜、そこまで分かっちゃうなんて、トレーナーもウンスちゃんの扱いが上手になってきましたねぇ」

 

 「取り敢えず一人称を統一しようぜ」

 

 

 ……一人称がぶれるくらいには、彼女も捉えどころのない性格の持ち主なのである。

 それはともかく。ツインターボだが、同じくまだデビュー前の同期の期待の星、トウカイテイオーに対して一方的にライバル宣言をしていることはそれなりに有名な話だった。

 そんなムラッ気というか、喧嘩っ早い彼女はスカイにとっては格好の標的だっただろう。上手いこと言ってキングと戦うように口車に乗せて、かつ二人の対決をそれとなく周りに宣伝して……といったところか。

 その結果がこれだ。まんまとターボはキングに挑戦し、ウマ娘の間で地味に広がっていたその噂に少なからずの観客がやってきたんじゃなかろうか。

 ――しかし、だ。

 

 

 「……いや、意図が全く読めないんだけど」

 

 

 うん、何でこんな事をしたのか、さっぱり分からない。

 さっきスカイは何つった。「最強のダービー逃げウマ娘決定レース」って、ツッコミどころが多すぎてどこから言及すればいいのか分からん。なんで最強逃げウマ娘の決定戦にキングが出るんだ。さっきも言ったけどあいつの基本戦法は差しだぞ。

 もちろん、差し以外にも追い込みも得意だし、それなりに先行策も出来るしで器用なやつだけど。

 だけど、逃げだけは。逃げだけは、あいつにとって大きなトラウマが……。

 

 

 (……あれ?)

 

 

 日本ダービー。

 キングが逃げて、十四着の大敗を喫した、日本ダービー。

 そして、今行われようとしている模擬レースの名前は……「最強のダービー逃げウマ娘決定レース」。

 

 

 「……おやおやー? 気付いちゃったかな〜?」

 

 

 スカイがしたり顔でそう尋ねてくる。

 だが彼女にも伝わっている筈だ。改めて向き直った俺の顔に、隠しきれない緊張が滲み出ている事を。

 

 

 「どういうことなんだ。スカイ」

 

 

 キングに「逃げ」を強要し、「ダービー」の名を語る。

 それは確実にあいつの心を抉った事だろう。皐月賞の段階ではまだ安定していた筈の彼女のメンタルは、しかしダービーのあの日から確実に崩れ出して、そして、菊花賞で。

 

 

 「……もし冗談なんだとしたら、幾ら何でもタチが悪すぎるんじゃないのか」

 

 

 ……とは言っても、俺もスカイがそんな性格だとは思っていない。

 彼女達「黄金世代」の同期は、それぞれが競い合うライバルながら驚くほどに仲がいい事で有名だ。もちろんそれぞれにある程度の挫折期間があって、例えばキングの場合はクラシック三冠の終わり頃からシニア級で結果を出すまでの間、他のみんなとは事実上の絶縁状態にまで陥ってしまっていたが。

 それでも最後には持ち直して、これからもずっと共に走ろうとお互いに誓い合う程の絆を手に入れているのだ。

 

 

 「トレーナーさんったら〜。

 ……冗談でこんな事、すると思います?」

 

 「……だろうなぁ」

 

 

 そして何より、このセイウンスカイというウマ娘に限って、そんな陰湿な事を考えているとは思えない。

 かつてキングと特に仲が良かった為に、その分確執も深まってしまったというのに、あいつの初G1勝利となった高松宮記念にただ一人で出向いて、涙を湛えながら彼女を応援する程には……この娘は情に厚い、優しいウマ娘なのだ。

 

 

 「まあまあ。一旦落ち着いてくださいよ〜。

 ……ほら、もうレースが始まっちゃう」

 

 

 促されて、ちらりとレースを見やる。

 ターボとキングが二人ともゲートに入る。気づけば周りも静かになっており、直ぐにレースが始まると言った様相を呈している。

 

 

 「ちゃんと、説明しますから。とりあえずトレーナーさんは、キングの事、ちゃんと見ててあげて下さいな」

 

 

 ――かなり遠目だったが、キングの横顔を見る。その表情は、思ったよりは落ち着いていた。そういやさっきも高笑いはしていたが……あれはキングならどんなに辛くてもやるからノーカンだ。

 そういえば。いくらスカイが画策したとは言っても、キングが首を縦に振らない限りこのレースは実現しなかった筈だ。つまりあいつは……「逃げ」と「ダービー」というウィークポイントを彼女に突かれながらも、最終的には自らレースに参加したということになる。

 ……こっちにも、スカイの手が回ってるんだろうか。

 

 

 「キングには、なんて言ったんだよ」

 

 「えー? それ、聞いちゃいますー?」

 

 

 取り巻きーズの二人も気まずいだろうと思い、ひとまずはと強張らせていた表情を両手でぐりぐりとほぐす。そんな俺の気も知らずに、スカイはただ口元に笑みを浮かべていて。

 

 

 

 

 

 

 

 「セイちゃんはこう言っただけですよ。

 『ダービーを、もう一度やり直さない?』って」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――キングヘイローの、二度目のダービーが幕を開ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『……来たわね、ダービー』

 

 

 今思えば、パドックに出る前の時点で……明らかにキングの様子はおかしかったのだろう。

 

 

 『は、はぁ!? 緊張!? そ、そんなわけないでしょう!

 キングは、い、いい……いつも通りだわ!』

 

 

 緊張、しているのはもう明白で。

 「皐月賞」であともう少しのところで勝ちきれなかった事が、キングの心に大きな焦りを生んでいた。クラシック三冠は後の大会になればなるほど距離も伸びるけれど、聡明な彼女は恐らくこの時にはもう、気が付いていたんじゃないか……自分の脚が、持久向きではない事に。

 

 

 『ぜんっぜん余裕なんだから!

 あなたは「皐月賞」での私を見てるでしょうっ?』

 

 

 ……キングは、それを俺に言わなかった。

 当時あいつは作戦、適正距離ともに万能とされていたばかりに、なおさら言えなかったのだ。言ってしまったら、失望された上にそのままスプリンターへの転向を要求されてしまうかもしれない。

 だけど、彼女の望みは誰もが唸る実績を作って、母親に実力を認めさせて……そして、ファンの心にキングヘイローの名を刻み込む事だった。その為には、生涯に一度の大舞台であるクラシック三冠で結果を残す必要があると思っていたのだろう。

 

 

 『何も案ずることはないわ!

 今日は私が勝つ、それだけよ!』

 

 

 あの日。あの前日。最後のトレーニングの時。俺は何回、あいつを励ましただろう。

 キングなら勝てる。スペにも、スカイにも届く。みんなが、君の走りに驚く筈だ。

 ……そんな俺の言葉は、だけど全部……キングには一つのフィルター越しに届けられていたのだ。

 「実は距離が合っていない事に、トレーナーは気付いていない」というフィルターに。トレーナーは私の脚の限界を知らないまま、私の勝利を確信している、という憶測越しに。

 そうして変質した声は、どれだけキングの心を切り刻み付けたのだろう。

 

 

 『たとえ、ダービーのレースであっても!

 いいえ、これがダービーだからこそ……!』

 

 

 それだけじゃない。

 キングは、俺の事すら納得させなければいけないと思っていた筈だ。トレーナーである俺に、私はこれからも中長距離で走れるウマ娘だと証明しなければならないと。

 ……その為には、普段以上のパフォーマンスが必要だと。

 

 

 

 『私は絶対にレースに勝って……必ず、お母さまに、……ナーに認められるんだから……っ!』

 

 

 

 ――そうして、完全に追い詰められたキングが真っ白な頭の中で思い付いた作戦が、かつて彼女が幼い頃に録画で見た、母親の逃げ策だったというのだから……なんで皮肉で、悲劇的だったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「日本ダービーってさ、私たちウマ娘からしたら、それなりに大事なレースなんですよ」

 

 

 

 芝2400m。最強のダービー逃げ何とかというこの競走も、日本ダービーと同じ距離を走る様だった。

 

 

 「人生でたった一度きりの大舞台だ。出場出来るだけでも凄い事だけど……出られるのなら、みんながみんな、誰よりも一着になりたいって思ってる」

 

 

 既にレースは後半戦。まるであの時の様にスタートからぶっ続けでスパートをかけ続けたキングは、まだ最終コーナーに突入すらしていないにも関わらず目に見えて減速してしまっている。

 

 

 「だからさ、みんな、全力を出し切るんだよね。他のどんなレースよりも、この瞬間に自分がどうなってもいいからって……誰もが、そういう気迫で走るんだ。

 私もあの時は頑張ったなぁ。どこかの誰かさんに釣られてちょっとペース配分間違えちゃったけど……でも、それでもちゃんと一着を目指して最後まで走ることが出来たんだ。まあ、結局スペちゃんの末脚にやられちゃいましたけど! てへっ☆

 

 

 

 

 

 でも、キングだけは……違ったでしょ」

 

 

 

 

 

 失速、失速。

 目に見えて走りにキレが無くなっていき、コーナリングすらままならない程に疲弊したキングが、目の前のコーナーを情けないくらいにとぼとぼと通過していく。

 

 

 

 

 「キングは、初めから冷静じゃなかった。

 びっくりするくらいに動転してて、ただがむしゃらに走る事しか考えてなかった。

 ……一人だけ、ちゃんと走れなかったんだ。一生で、たった一度だけの、大切なレースなのに」

 

 

 

 

 

 俺は一瞬、スカイを見た。

 キングを見る彼女の眼差しの暖かさに、思わず息が詰まった。あの時と何も変わらない様な、バテて苦しげに走るキングの、それでもゴールを諦めないその姿を眩しく思うような、そんな。

 

 

 「スカイ、君は――」

 

 

 その時。

 わぁっと、観客から歓声が上がった。レースを見れば、キングの少し前を走っていた筈のターボがやはり失速しており、なんと二人揃って最終直線に差し掛かったのだ。

 その脚は驚く程に遅い。俺ですら走り抜いてしまいそうなくらいだ。それ程にボロボロで、疲れ果てたとしても、二人は絶対に走りを止めなかった。

 ……なぜスカイが逃げキングの相手にターボを選んだのか、分かった様な気がした。

 

 

 

 「トレーナーさん。応援してあげて下さい。

 これが、キングのダービーなんです。キングが自分の意思で、全力を出し切って走り抜けた、本当のダービーなんだ」

 

 

 

 起きてしまった事は仕方がない。あの日結局キングは最終コーナー付近まで先頭で暴走し続けて、ラストスパートを掛ける段階では既にバ群に呑まれてしまい、十四着の大敗を喫する事となった。

 それを塗り替える事は出来ない。事実は事実として受け止めるしかない。だから今日のキングにも敢えて逃げ策を強いて、そんな適正ゼロの作戦で、でも根性で並み以上に走るだろう彼女といい勝負が出来るターボを見計らって。

 そして、スカイは開いたのだ。所詮内輪で小規模かもしれないけど……それでも、キングが満足のいくような、二度目のダービーを。

 

 

 「二人とも、頑張ってー!!」

 

 「いけーっ! ターボー!!」

 

 「キングも負けるなーっ!! あともう少しでゴールだよーっ!!」

 

 

 残り一ハロン。ささやかな観客の応援を受けて、二人とも必死に脚を動かしている。

 

 

 

 

 「これがぁぁっ……!!」

 

 

 

 

 ――その瞬間。

 それまで荒くぜえぜえと息を吐いていた筈のターボが、絞り出すように叫んだのだ。

 

 

 

 「これがぁっ!! 諦めないって!! ことだあぁっっ!!」

 

 

 

 それは、隣のキングにもしっかりと届いていた。

 ターボが僅かに先んじる。もうあとコンマ数秒でゴールをよぎる。

 

 

 

 

 「……なら」

 

 

 

 

 ああ。そうだよな。

 なにせ、諦めないなんてのは……むしろ、あいつの領分だ。

 

 

 

 

 「なら、これが」

 

 

 

 

 取り巻きーズ達が、お互いを抱き合って見守る。

 スカイの瞳孔が、きゅっとすぼむ。

 そして、俺が拳を振り上げ、声を張り上げたその時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「これが!!

 諦めないで、勝つってことよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本当の強者は、ハナ差を恐れない。エルの言葉だったか。

 裁決委員もいない。実況もいなければ、アナウンスすらない。そんな学園の一角で執り行われた、キングだけのダービー。

 ……二度目のダービーを、キングヘイローは見事に制したのだった。

 

 

 

 「キング、おめでとおおおっ!!」

 

 「トレーナー、私達も行っていいですか……?」

 

 

 

 首肯すると、彼女の後輩二人は嬉々として、スタンド席からコースへと飛んでいく。

 見れば二人だけじゃない。いつの間にか見に来ていたスぺ達にウララに、キングを慕うカワカミプリンセス、そしてターボ陣営側のウマ娘達も、みんながその場でぶっ倒れてしまったキングとターボに向かって駆け寄ろうとしていた。

 君を認めない人ばかりじゃない。ダービーの頃から始まった、あの永遠とも思えた負け地獄を経て……あの時の俺の不確かな言葉が、やはり間違っていなかったと再認識させられる。

 それはきっと、とても、とても幸福なことじゃないだろうか。

 

 

 

 

 「……さて!

 レースも終わったことだし、ウンスちゃんはここらで退散ってことで――」

 

 

 

 

 

 「まあ待てって、スカイ」

 

 

 

 

 ――で、だ。

 絶対に忘れてはいけないことが、一つだけあった。キングのトレーナーとして、そしてかつて()()()と共に、日本ダービーの舞台に立った人間として。

 

 

 

 「まずはありがとう。君も、本当にいい娘だよな」

 

 

 

 だってそうだろ?

 ダービー()()ウマ娘。あの日あの時、誰よりも一番その栄光を手にしたかったのは、掛かったキングでも、勝ったスぺでもない。

 君だろ、セイウンスカイ。

 

 

 

 「スカイは過去を振り返らない主義よー? ……あれ、キングに似てなかったです?」

 

 「いや、意外と似てて驚いた……流石っていうか、いやちょっと違うか」

 

 「ふふーん、そう思うんなら、いいこのセイちゃんにジュースの一杯でも奢って」

 

 「だからさっき奢ってやっただろ、コーヒー」

 

 「そうじゃないですよー! いじめ断固反対だー!」

 

 

 

 ……そんな風にスカイは飄々(?)としているけど、実際今回のレースを企てるのは、一生徒としては相当に負担だったのではないだろうか。

 コースの使用許可、ターボの所属チームとの打ち合わせ、そしてその後のさりげない学園での宣伝。そういった、彼女の外面とは似ても似つかぬ地道な労力が必要だったはずだ。

 

 

 「こう見えてセイちゃん、結構ツテが広いんですよー? その気になったら、この学園全体を乗っ取れちゃうかも?」

 

 「……そうなんだろうなぁ。なにせ」

 

 

 

 そう。そこが、問題だった。

 

 

 

 

 「君ほどトレーナーを代えたウマ娘は、他にいないだろうからな」

 

 

 

 

 ――青雲の空を、駆け抜けた稲妻よ、永遠なれ。

 どこぞの特集記事の見出し文句だったそれは、良くも悪くも彼女のやり方を表現していた。

 「三強」の一人として讃えられながらも、スペシャルウィークやキングヘイローの様な突出したアピールポイントを持っていなかったセイウンスカイは、デビュー前に不運にもトレーナースカウトから漏れてしまったのだと聞く。或いは、いるにはいたが……スカイの奔放なスタイルとは合わなかったのか。

 だが、血統と才能の観点から二人に先んじられても、スカイは強かだった。スカウトとは別のチーム入団テストにて適当なチームに所属、さらに定期的に何度も移籍を重ねながら、トレーナーの指示を受けずにたった一人で練習を重ねて、レース本番での策を練って実績を積んで。

 ついに彼女は、当時の人気を占めていたスぺやキングを差し置いて、二冠を達成したのだ。その裏には、彼女を溺愛していた祖父への想いがあったと聞いたが……真相は定かではない。

 

 

 

 「……ほんと、トレーナーさんはずけずけと。それ以上は、然るべき機関に申請お願いしまーす」

 

 「とっくに色々聞いたさ。……脚、大丈夫なのか?」

 

 

 

 そして、ついに彼女は斃れた。

 昨年の札幌記念の後に怪我に見舞われてしまった為に、彼女は静養に入ることを余儀なくされた。その時はすぐに秋天にて堂々の復帰を遂げて、年末の有馬であの黄金世代揃い踏みの激闘を繰り広げたが。

 ……しかし今度は今年の春天で屈腱症と呼ばれる病気を発症させてしまい、今も彼女のジャージに隠れた脚からはサポーターを覗かせている。ただでさえ再起が困難とされる症状だが、トレーナーの適切なサポートの中でリハビリを続ければ、二度目の復活もあり得なくはない。

 

 

 

 「……君を、助けてくれる人は、ちゃんといるのか?」

 

 

 

 ――それは、トレーナーがいたらの話。

 ツテがあるとは言っていたけど、根無し草として多くのチームを練り歩き、どこにも腰を下ろさなかったスカイに、手を差し伸べてくれるトレーナーはいるのか。そんな状況でも彼女は一度は自力で戻っているのだ、なんと凄まじいレースへの執念だろう。

 だけど、そんな無手勝流に次はない。今度こそ、誰の助けも得られなければ……彼女は。

 

 

 

 「……セイちゃんはもう十分、結果を残しました。そもそもこんな貧弱な私が、ここまで出来たのも奇跡だし。

 だから……こうなったのは自業自得なんですよ。お手上げ、降参、白旗! …………なぁんて」

 

 

 「でもまだ、レースに出たいんだろ。勝ちたいんだろ」

 

 「……」

 

 

 

 俺はスカイのトレーナーじゃない。だから、彼女の歩んできた全てを知っているわけじゃない。

 でも、彼女のレースは見てきた。キングの半身として、彼女に負け続けてきた。その度に、どう勝てばいいか必死に考えて、何度も何度も彼女の走りを分析した。

 自業自得だと。誰かがそう罵りでもしたのか。そうとしか歩めなかった道を必死に走ってきた君が、キングをこうして救ってくれた君が、誰にも気付かれずに潰えるようなことが、あってなるものか。

 

 

 

 

 「だから……スカイ。

 ひとりで、どこかに行こうとするな」

 

 

 

 

 青雲の空を、駆け抜けた稲妻よ。

 気ままにどこかへ流れていって、寂しく涙の雨を降らせて消えてしまおうとなんて、しないでくれ。

 

 

 

 

 「君は誰かに救われていいんだ。それだけの実績が、実力が……価値が、君にはある」

 

 

 

 

 一緒にターフに戻らないか。そう言うのはとても簡単なことだった。

 だけど、今まで必死に一人で考えを凝らしてやってきた彼女に、一気に心を開けというのは無理がある。同期の持つアドバンテージや周囲の過小評価の中で、軋みそうになりながら耐え抜いてきた彼女だけの、確立した生き様が出来上がってしまっているはずだ。

 

 

 

 

 

 『……お疲れ、キング』

 

 『……っ、トレーナー……』

 

 

 

 

 

 まるで……あのダービーの時の、全てを背負い込んだキングの様に。

 

 

 

 

 

 「……ほうほう? このセイちゃんに、ついにチームへの勧誘ですか?」

 

 「いーや、それは君が決めればいいさ。だけど」

 

 

 

 

 

 だけど。本当に()()を思うなら。

 

 

 

 

 

 『あ、安心なさい……ダービーの王座は、落としてしまったけど』

 

 『キング』

 

 

 

 

 

 彼女を思うなら、言うべきことがある。あのときはうまく伝わらなかったけれど、それでも。

 トレーナーとして。彼女の片腕として。そして何より……誰よりも信頼する、相棒として。

 

 

 

 

 

 

 『君の夢に、俺も参加する権利をくれよ』

 

 

 

 「うちのソファーで昼寝する権利くらいは、やってもいいんだぜ?」

 

 

 

 

 

 

 策士、セイウンスカイ。

 今日もターボを唆して、キングのダービーに対する無念を晴らすべく、一肌脱いだ。

 

 

 

 

 

 

 「……じゃあ、ちゃんと言っておいてくださいよ?

 キングに、私が寝てても起こさないようにって」

 

 

 

 

 

 

 ――そんな彼女は、今日初めて……他の何も気にせずに、心から自分を想って笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  




 
※この後、取り巻きーズ+カワカミプリンセスの集団に、たまにツインターボが仲間入りするそうです。キングコールがさらに騒がしくなるようです。
※セイウンスカイが加入するかは特に決めていません。彼女にアプリ版トレーナーが現れなかった状況を想定してプロットを組みました。
※最近某動画サイトにてキングの非公式キャラソンを聞いて、衝動で書いた筈が、気づけばスカイの話になっていた様です。

※ちなみにこの後しばらく、キングは吹っ切れて自身を「逃げダービーウマ娘」と自称する様になったそうです。





 「ダービーウマ娘としての栄誉?」








 「あ゛け゛ま゛せ゛ん゛!!」

 


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メジロライアン・スーパークリーク編
もう一人のメジロ


 

※メジロライアンさんが天皇賞(春)に挑むそうです。




 


 

 

 四月末。

 芝の状態は良好だ。頭上には、春真っ盛りの穏やかな快晴が広がっている。

 

 

 

 『唯一無二、一帖の盾をかけた熱き戦い! 最長距離G1、天皇賞(春)!

 去年の菊花賞で激突した「三強」が、今再び淀のターフで火花を散らします!』

 

 

 

 この日。とあるウマ娘の悲願をかけた戦いが、幕を開けようとしていた。

 

 

 

 『今日の一番人気はもちろんこの菊花賞ウマ娘、メジロマックイーンです。

 母と祖母がかつて手にした栄光を勝ち取れるか、気合いは充分です』

 

 

 

 ――メジロマックイーン。

 メジロ家の念願、天皇賞勝利に向けてクラシック級の数々の重賞レースすら度外視して、デビューから二年もの間一点集中でトレーニングを積み重ねてきた彼女は、しかし昨年の「菊花賞」にてついにターフの上に立ち、その圧倒的なステイヤーとしての実力で勝利をもぎ取っていた。

 メジロ家筆頭のウマ娘。今では誰もが、それがマックイーンを指し示す事を知っている。そんな御令嬢のかねてよりの目標だった天皇賞勝利の瞬間を目にしようと、ここ京都レース場には有馬やダービーに迫る十万人近くの観客が押し寄せていた。

 

 

 

 「――マックイーン」

 

 

 

 しかし。これは彼女の物語ではない。

 

 

 

 「――ごきげんよう」

 

 

 

 これは、もう一人の「メジロ」の話。

 マックイーンの背中に目を眩ませて、憧れて、挫けて、そして彼女の影に隠れてしまっていた、もう一人の御令嬢の物語。

 

 

 

 「今日はよろしくお願いします。正々堂々と走ろう」

 

 「……私にとっては悲願達成が第一ですわ。でも」

 

 

 

 その劣等感を全て自身の肉体に注ぎ込み、誰よりも鍛え上げた筋肉を手にするに至った、ひとりのウマ娘の物語だ。

 

 

 

 

 「でも、私も勝ちたいですわ。尊敬する、貴方に」

 

 

 

 

 ――そのウマ娘の名は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「さぁて。……キング、どう思う?」

 

 

 一瞬の静けさの後に、ゲートが開く。

 すぐにメジロパーマーが前に出てハナを進み、その後ろにマックイーンを始めとした先行策のウマ娘がバ群を形成し始めている。

 ……「彼女」は、その群れの後方に位置取っていた。

 

 

 「3200mの長距離レースで先輩のスパートを活かすには、ああして脚を溜めておくことが大事……でも少し埋もれ気味かしら。冷静にコース取りが出来ればいいけれど」

 

 

 隣で振り向かずともそう応じてくれたキングの声音からは、やや含みの様なものが感じられた。

 理由は何となく分かる。キングが走った3000m以上の長距離レースと言えば、ひとつしかない。

 

 

 「……あのさ」

 

 「大丈夫よ、もう……何度も言っているじゃない、あの時はああなるしかなかったんだから。

 それよりも、今は先輩の事に集中して頂戴」

 

 

 ――まあ、そういう答えが返ってくることは察してたけどさ。一応君、あの時本当に壊れかけてたんだぞ。

 その、かつての「菊花賞」にてキングが勝利できなかった理由の一つが、距離適性だ。あの時はスカイの大逃げが規格外過ぎたという側面もあったのだが……とにかく当時の彼女は長距離レースに対して同期ほどの適性を持っていなかった為に、好走はしたものの五着に終わっている。

 そして、当の「彼女」の方は2500m以下の中距離レースが主戦場だ。G1の中では最も距離の長いレースとして知られるこの春天においては、つまりキングと同じハンデを背負っている事になり、対してマックイーンはその生粋のステイヤーとしての実力を昨年見せつけたばかりである。

 

 

 「適性と素質のマックイーンさん、経験と基礎体力の先輩……っていうところかしら。客観的に見れば、前評判ほど実力に差は感じられないと思うわ」

 

 「ああ……そうだな」

 

 

 キングが言うように、だからといって「彼女」に分がない訳ではない。

 マックイーンが本格的に重賞レースに出走しだしたのは昨年の十一月から、つまりは二年目の後半からだ。だが「彼女」はデビュー前での模擬レースからジュニア級にかけて積極的に実戦経験を積んで、クラシック級では三冠レースを全て走り切っている。

 そこには決して無視できない程の経験値の差がある筈だ。マックイーンも相当に勝負強い、まさにスターウマ娘としての器を持つ強敵ではあるが……そんな最速ステイヤーに付け入る隙があるとすれば間違いなく、そこだ。

 

 

 『さあ、ヴァイスストーンはウマ込みの内に入れている! その外を行ったのがマックイーンだ!

 そして「三強」最後の一人はマックイーンから二バ身から三バ身後方、ぴったりインコースを回っています!』

 

 

 1000m地点を通過して、ホームストレッチを駆け抜ける選手達。

 まだまだレースは中序盤といったところだが、既に「彼女」はマックイーンに迫っている。キングやウララと違ってバ群を苦手としないところは大きな長所である一方、そのコース取りが結果的にはこんなにも早く二人の激突を生み出してしまっている。

 ――本来ならば、あまり好手ではない。言った通りまだレースは後半に差し掛かったばかりであり、この段階でライバルの走りを必要以上に意識してしまえば、精神的な負担がかかってペースを乱してしまう可能性があるからだ。

 

 

 

 「……よし」

 

 

 

 しかし。

 今日はこれでいい。

 

 

 

 「踏ん張るのよ。ここで挫けたら……取り返しがつかなくなるわ」

 

 

 

 キングも前に身を乗り出して、眉を顰めながらそう呟いた。

 無論、出走するからには何としてもレースに勝って欲しい。その為の準備を欠かすことなく行って、そのステータスを限界ぎりぎりのところまで引き上げてきたつもりだ。結果として去年の菊花賞でマックイーンに敗れた時とは比べ物にならないほどのスタミナと末脚を、「彼女」は身に着けていた。

 しかし。それ以上に、もう一つ。「彼女」自身がどうしてもこのレースに出走したいと願う理由が、あったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「目を背けるなよ。

 しっかりと目に焼き付けるんだ。ずっと眩しかったんだろ……マックイーンのことが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう――あたしは、いつだって。

 

 

 

 『ゴォオオオオオオオーーーーール!!

 手に汗握る接戦に、大歓声が上がっています! 一着は僅差でメジロマックイーン!!』

 

 

 

 ……いつだって見ていた。あの子のことを。

 

 

 

 『マックイーンだマックイーンだ! メジロでも、マックイーンの方だ!!

 一着はメジロマックイーン!!』

 

 

 

 ――いつも見ていた。あの子の勝利を。

 

 

 

 『私は、メジロのウマ娘なのですから……!』

 

 

 

 

 

 ――ずっと憧れてた。

 憧れの中で……あたしは、きっと諦めてたんだ。あの子に勝てるようなウマ娘になることを。

 

 

 

 

 

 

 『さあ、向正面の直線コース! メジロマックイーンは四番手から五番手――』

 

 

 

 レースは既に後半戦だ。ライバル達がまとまって大きなバ群を作る中でも、マックイーンは危なげなく先行策として最適なポジションを保っている。

 本当にすごい、二度目の重賞とは思えないほどだ。あたしの二度目の重賞レース……皐月賞の時なんか、後ろに位置取り過ぎちゃって最後にスパートしきれなかったっていうのに。

 

 

 (あはは、君はやっぱりすごいなぁ、マックイーン。全然敵わないや。

 ……これでもあたし、君が来るまではメジロの大本命だったんだけどなぁ)

 

 

 もちろんレースとか関係なく、メジロ家で一番の御令嬢って言ったらみんなマックイーンの事を考えてた。それくらいにマックイーンは見た目もかわいくて、服装もめちゃくちゃモテコーデで、そのうえ他の誰よりもメジロの名を汚さないようにって頑張ってたから。

 でも、それでも重賞に先に出走して世間から注目を浴びたのは、あたしの方だったから……だから弥生賞で勝った時、みんながあたしを応援してくれて。

 ――結局、それも全部……君に持っていかれちゃったね。

 

 

 (別に、恨んだりはしてないよ。だって、そうなるのはすごく自然なことだから。

 あたしは昔からこんなだし、蓋を開けてみれば君の方が……なんて、一番あたし自身が分かってたことなんだ)

 

 

 皐月賞では人気に応えられなかった。

 ダービーではアイネスにねじ伏せられた。

 菊花賞では、君に負けた。

 おばあ様も何も言わなかったし、チームのみんなはそんなあたしにも暖かく接してくれた。特にキングは思うところがあったんだろうな、毎日すごく親身に寄り添ってくれて、次のレースで挽回すればいいって併走もよく一緒にしてくれた。

 ……だけど、何となくあたしは察しちゃってたんだ。きっと、あたしにはもう、次なんて。

 

 

 (ダービーで燃え尽きたとさえ言われる根性の逃げを見せたアイネスと、メジロ筆頭としての矜持で一着をもぎ取ったマックイーン。すごい、本当に君たちは……眩しかった)

 

 

 あの時の君とアイネスは、本当に心を燃やすように走っていたよね。まるで絶対に勝つっていう凄まじい執念で、力ずくでゴールを掴み寄せるような、そんな気迫だった。

 

 

 (……あたしには出来ない。

 どれだけ筋トレして逞しくなったとしても、そんなこと出来ない)

 

 

 だって、あたしは……ただ体を鍛えたり、走ったりするのが好きなだけなんだから。

 アイネスの様に全てを懸けなければいけない理由もない。マックイーンみたいに、使命のために気を失うまで自分を追い込む程の根性があるわけでもない。

 あたしは、君たちほど……強くないんだ。

 

 

 

 ――あの。

 

 

 

 顔を上げる。

 見えるのは当然、あたしの前で走るマックイーンの姿だ。黒の勝負服を風に靡かせながらも、まだスパートを掛けていない為にその髪も尻尾も必要以上に揺らいでいない。だけどその視線だけはバ群の先のパーマーをさらに越して……その先にあるゴールを見据えている。

 

 

 

 ――貴方は……なぜ、トレセン学園へいらしたのですか?

 

 

 

 (君に言われると堪えるね、マックイーン)

 

 

 トレセン学園に来た理由は、もちろんレースで勝ちたかったから。

 ……想像してなかったんだ。君っていう存在が、これほど遠かったなんて。知ってたらあたしは、きっとここには……来なかったかもしれない。

 でも来たからには、頑張りたかったんだ。境遇を恨んだり、素質を妬んだりはしたくなかった。まあ、結局あたしは君に劣等感を感じちゃっているけど……でもそれと同じくらい、君が大好きだから。

 それにね。今日このレースに出た理由は、ちゃんとあるんだ。

 

 

 

 『ウララちゃん! あたし、頑張ってみるね!

 君みたいにどんなに厳しくても堂々と、夢を駆けてみるよ! 絶対に……絶対に、一着になってみせる!!』

 

 

 

 ――去年の年末。年初めにはまだ勝ちなしだった筈の一人のウマ娘が、多くの助けを借りて勝利を掴んで、有馬記念の出走権を獲得した。

 ウララちゃんはあたしみたいに名家生まれな訳じゃない。それに面接で試験を合格して入ってきていて、走りも元から得意だった訳でもない。

 でもそんな彼女が見せた本気の走りは、当時それを目撃した人々を圧倒して魅了して、今でも去年の有馬記念は一昨年と併せて歴史的なレースだったと語られるほどの影響を及ぼしていた。

 ……あたしも同じだったんだ。「本気でがんばる」事にこだわっていたウララちゃんのその走りにはただただ唖然とさせられて、でも確かにあたしにはない何かが備わっている様な気がして。

 

 

 (それを見つけないと……あたしは、前には進めないんだ。

 それを見つけるために、あたしなりの全力で……マックイーン、君にぶつかってみるんだ!)

 

 

 きっかけを得られても、そこから頑張れない奴だって多いんだ。

 でも、君にはその力がある。ちゃんと努力して、まっすぐに勝ちを目指す力があるだろ。

 ――トレーナーさんはそう言ってくれた。こんなダメダメなあたしに、そんな褒め言葉をくれた。実際はそんなに大したものじゃないんですよ。だってここで腐っちゃったらなんだか、競り合って負けたみたいでかっこ悪いじゃないですか。

 そんな、よく分からないプライドと、勝手に感じてた引け目で作り上げた、筋肉っていう負の記憶が、ずっと……ずっとあたしを縛り付けている。

 

 

 

 

 『さあ、これから第三コーナー、再び坂に向かいます! 十八人が一団となって進む展開、誰が最初に仕掛けるのでしょうか!』

 

 

 

 

 そう。京都レース場には坂がある。

 ちゃんと気が付いていたし、一度はもう走った場所だ。ただ、そうしてちょっとナイーブになっていたのと、マックイーンに気を取られすぎたからかな……突然脚に伝わった地面の感触の違いにほんの一瞬だけペースが落ちて、視界がガクンと下を向き、そして反動で今度は大きく上を向いて。

 

 

 

 

 

 ――上を、向いて。

 

 

 

 

 

 『はぁっ、はぁっ……またまだ! マックイーン、きみにはまけないよー!』

 

 『こちらこそっ……あなたにはまけませんわよっ!』

 

 

 

 

 

 

 ああ。懐かしいなぁ。

 少し赤みのかかった空。こうして上だけを見て、隣のあの子と一緒によく登った、あのメジロ家の側の高台。

 あの頃は、君もあたしもまだ子供で、まだあたしは筋トレもしてなくて、君もメジロがどうとかよく分かってなくて、何も懸けることなくがむしゃらに走っていて。

 

 

 

 

 

 

 『はぁっ、はぁっ、はぁ……!』

 

 

 

 

 

 

 あはは。

 本当に、懐かしい。

 ――どうして、こんなにも差がついちゃったんだろう。

 

 

 『先頭が第三コーナーを回り切る!

 ここでメジロマックイーン! 一気にスパートをかけたーっ!!』

 

 

 遠ざかっていく。君の背中が、途方もない程に急に離れていく。

 あっという間にパーマーを抜き去って、一人で最終直線の先頭を突き抜けていく。

 

 

 そう――あたしは、いつだって――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『やったぁーっ! あたしがいちばんだー!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「違う」

 

 

 

 

 ――違う。それは、違う。

 あの頃、確かにマックイーンはあたしの後ろにいたんだ。それがいつの間にか追い抜かされて、そんな君のことをこんなにも眩しく思うのは……そこが眩しい場所だって事を、自分でちゃんと知っているから。

 

 

 

 ――そこに、あたしは立ったことがあるからだ。

 あの高台からのいちばんの景色が……忘れられなかったから。

 

 

 

 

 「――――――っ」

 

 

 脚に、力が宿る。

 全身が、沸騰する様に沸き立つ。

 劣等感の重い塊だった筈の筋肉が、ありったけの力をあたしに注ぎ込む。

 

 

 

 

 『おおっ、しかしここでもう一人のメジロが!!

 痺れる様な豪脚で、坂を下っていく!!』

 

 

 

 

 

 ――そう。

 あたしは、いつだって。

 

 

 

 

 

 『さぁ、トレーナーさん、今日も楽しく筋トレですよ!!』

 

 

 

 

 いつだって見ていた。あの子のことを。

 

 

 

 

 『……ごくごく、ぷはぁ!』

 

 

 

 

 いつも見ていた。あの子の勝利を。

 

 

 

 

 『いや〜、気持ちよく走った後のスポーツドリンクは最高ですね!!』

 

 

 

 

 ずっと憧れてた、憧れの中に……。

 本当の気持ちを、いつも隠していたんだ。

 

 

 

 

 『あたしは、ただ体を動かすのが好きなだけです。

 本当に……それだけなんですよ』

 

 

 

 

 

 

 

 本当は。

 ――本当は。

 

 

 

 

 

 

 

 (――勝ちたい)

 

 

 大腿四頭筋があたしを叱咤する。

 走れ。負けるな。負けてもいいなんて、思ったことは一度もないだろ。

 

 

 (――勝ちたい)

 

 

 ヒラメ筋が、まるで迫り立てる様にあたしを前に押し出していく。

 ……その推力の分、あたしは飢えていたんだ。心の底で、あたしの先を行く眩しい光を、この脚で踏み越えて行きたかったんだ。

 

 

 (――勝ちたい)

 

 

 ハムストリングスが、まるで空を飛ぶ様に脚を前に運び、地を揺らす様にターフを蹴り上げていく。

 確かに君はすごい。メジロの使命は、あたしには荷が重い。大勢の期待を一身に背負って、かつ力に換えるなんてこと、出来ない。

 

 

 

 ――だから、なんだっていうんだ。

 メジロも周りも関係ない。あたしはただ、ひたすらに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――君に、勝ちたい!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『メジロマックイーン優勝! メジロマックイーン勝ちましたっ!!

 メジロ家が三代に渡って、天皇賞の盾を勝ち取りました!!』

 

 

 

 ――絶対の強さは、時に人を退屈させる。

 後にそう謳われる、メジロマックイーンの()()()()春天制覇の瞬間だった。

 

 

 「……くっ」

 

 

 隣のキングが声を殺しながらも、悔しさに表情を歪めるのが分かる。

 自身と同じ様に周囲から期待をされながらクラシックレースを無冠に終えた「彼女」に対して、キングは並々ならぬ思いを寄せていた様だった。そんな彼女と思いを合わせてチームで切磋琢磨して、そして臨んだ初めての天皇賞は……しかし残念ながら、四着という結果に終わった。

 

 

 「成し遂げることができたんですのね……本当に……私が……!」

 

 

 沸き立つ歓声、とはまさにこの事だ。

 親子三代、天皇賞制覇。極めて理想的な走りでメジロの悲願を見事に勝ち取ったメジロマックイーン。その姿は、立場として敵であった筈の俺達でさえ感銘を受ける程に凛としていて。

 ……だけど、ほんの少しだけ。ほんの一瞬だけその瞳が翳ったのを、俺は偶然見てしまった。

 

 

 「…………っ!」

 

 

 ――その理由は、きっと、本来自分と同じ目標を目指す筈だった「彼女」が。

 最後の最後で追い上げて自分と戦ってくれる筈と信じていたライバルが、やって来なかったから。

 

 

 

 (……ごめんな。マックイーン)

 

 

 

 確かに、「彼女」は再び負けた。

 君と張り合うだけの覚悟が、自信が、まだ備わっていなかった。

 ……君を、孤高の存在にしてしまった。

 

 

 だけどさ。

 

 

 

 「……う――」

 

 

 

 だけど。

 そんな君の走りを見て、あいつはようやく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――うわああああああああーーーーーっっっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 京都レース場が、水を打った様に静まり返る。

 その全ての視線が、一人のウマ娘に向けられていた。

 

 

 

 「もう、迷わないぞ――――これからは」

 

 

 

 そこにいるのはもう、メジロの威光とライバルの眩しさに呑まれて、輝くことを諦めたウマ娘ではない。

 

 

 

 「あたしは、もう、挫けない」

 

 

 

 その声は小さくとも、その想いが、その姿が、十万人もの観客の喉を渇かせ、物音すら立てるのを憚らせる。

 ――その中を、一切の物怖じをせずに堂々と「彼女」に歩み寄る、メジロ家筆頭のウマ娘。

 その姿はまさに、名優そのものだった。

 

 

 

 「……あの」

 

 「マックイーン、おめでとう。

 君は強かった。君は立派に、メジロと人々の期待に応えた。あたしの完敗だ」

 

 

 

 「彼女」は振り返る。

 二人のメジロが、ホームストレッチのど真ん中で相対する。

 

 

 

 

 「でも……もう二度と、負けない」

 

 

 

 

 ――臥龍鳳雛、という言葉がある。

 将来が有望な若者に対して使われる熟語であり、その原義は古の中国の故事に由来する。

 

 

 

 「漸く、ようやく……この時が、やってきたんですのね」

 

 

 

 鳳雛とは、すなわち鳳凰の雛のこと。

 一年後の春天にて「天まで昇る」と称され、見事に二連覇を飾る事になるマックイーンに最も相応しい言葉だ。

 

 

 

 しかし。これは彼女の物語ではない。

 

 

 

 「ありがとう、マックイーン。君が強かったから尊敬できた。追いかけられた。

 ……勝てないものに勝ちたいって、本気で思えた!」

 

 

 

 ――臥龍とは、未だ眠れる龍のこと。

 一度目覚めればたちまち空を舞い、天のその先へと迫る昇り龍。

 

 

 

 「次は出してみせるよ。あたしの、本当の強さを!」

 

 

 

 これは、もう一人の「メジロ」の話。

 マックイーンの背中に目を眩ませて、憧れて、挫けて、しかし心の底の情熱を再び燃え上がらせた、もう一人の御令嬢の物語。

 

 

 

 

 

 

 ――そのウマ娘の名は。

 

 

 

 

 

 

 「……ええ。

 望むところですわ――メジロライアン

 

 

 

 

 彼女の一年は、まだ始まったばかりである。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「……あら、そういえばクリーク先輩は?」

 

 「ああ、彼女は今ちょっと別のところにいるよ。

 何でも友達と、一緒にレースを見たいんだってさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――「三強」。

 この世代に於いてはマックイーンとライアン、そしてヴァイスストーンがそれとされて、かつて黄金世代が戦った三冠レースにおいてはスペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイローが該当した。

 

 

 「……みなさん、いかがでしたか〜?

 これからのレースが、とても楽しみだなーって、私は思うんです〜」

 

 

 そして。

 その中で一番原初の、三竦みの構図をはじめに作り上げた「永世三強」と呼ばれるウマ娘達がいる。

 

 

 「いやぁ、やっぱりマックイーンは強ぇな! 周りと比べても一人だけ強さが段違いじゃねぇか!」

 

 

 ――イナリワン。

 地方レースから中央にのし上がり、天皇賞で重賞初勝利を飾った彼女は、そのままG1三勝のうち二つでコースレコードを叩き出すという、徹頭徹尾破天荒な経歴の持ち主であった。

 

 

 「……確かに、マックイーンは強い。

 だがクリーク。君が見せたかったものは、それだけじゃないんだろう?」

 

 

 ――スーパークリーク。

 クラシック級の二冠を体調不良にて欠場した後に才能を開花させ、最後の一冠こと菊花賞を、さらにその後なんと史上初の天皇賞春秋連覇を達成した脅威のスターウマ娘である。

 

 

 「……うふふ。どうでしょう〜」

 

 

 そして。

 

 

 

 

 「――メジロマックイーン。

 そしてメジロライアン、か」

 

 

 

 

 地方カサマツからやって来た、灰被り娘(シンデレラグレイ)

 人気と栄光を兼ね備えた、伝説的なウマ娘。

 

 

 

 

 

 「君たち二人とは、良い勝負が出来そうだな……()()()()()()の相手として、不足はない」

 

 

 

 

 

 ――「芦毛の怪物」、オグリキャップ。

 その薄水色の瞳は静かに、ターフの上で握手を交わす二人のメジロへと見据えられていた……。

 

 

 

 

 

 

 「……ところで、お腹が減ったな」

 

 



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本当の強さ

 

※メジロライアンさんが宝塚記念に挑むそうです。


 


 

 

 

 『次は貴方の得意な中距離で戦ってさしあげます。

 教えてさしあげましょう。完成されたメジロには――距離の壁などないことを』

 

 

 

 ……あれから一か月と数日。

 場所は同じく、京都レース場。今日私はあの日に交わした約束を果たすべく、再びここへとやってまいりましたわ。

 

 

 

 「春の天皇賞と、同じ状況ですわね」

 

 

 

 そう。

 ようやく目覚めたもう一人のメジロと、今度こそ決着を付けるために。

 

 

 

 「……マックイーン」

 

 

 

 背後から聞こえたその声を、私は平常心を心がけて迎える筈でした。

 

 

 

 「舞台は京都。先頭を駆けるのは私と貴方――メジロの主賓二人」

 

 

 

 ……ですが内心、肝が冷えましたわ。

 彼女が、あのライアンだと言うのかしら。あの自己評価の低い、カリスマにはなれないといつも嘆いていた、あのライアンだと。

 

 

 

 「ただ一つだけ、あの時とは大きな違いがありますわ。

 あなたは自らの星を知り、そしてそれに恥じないトレーニングをしてきましたのね?」

 

 

 

 ――ライアンは、体つきから変わっていましたのよ。

 かつてのがむしゃらに鍛え上げただけの、ひたすらに逞しい輪郭から……レースに徹底的に特化した、すらりとした体軀に。もっとも、いつも彼女を見ていなければ分からないほどの微々たる差ではありますけれど。

 ……その差が、レースの勝敗に大きく関わってくるのですわ。好走をするためではない、ただ一つの栄冠を掴むための、限界の努力。

 

 

 

 「うん。あたしはまだ君に勝っていない。勝ってないから、自分を信じられない。

 ……だから、信じられるまでトレーニングしてきたんだ」

 

 

 

 そうですわね。あなたは、そういうウマ娘ですわ。

 少し卑屈ですけど、単純で――そして誰よりも純粋で。

 

 

 

 「正しい努力は、必ず実を結ぶ。

 それを証明したい! パッとしない誰かでも、頑張れば花開くって示したい!」

 

 

 

 ――その純朴さは、常に名誉と使命を心がけて、自らを飾り上げる私には備わっていないもの。

 私にとって最も驚異的で……最も戦いがいのあるライバル。

  

 

 

 「……だから、今日は勝ちにいくよ! 君にも、このレースにも!!」

 

 

 「あら」

 

 

 

 もし、ライアン。

 私が今日ここのターフを踏んでいる最たる理由は、メジロとしての矜持ではありませんのよ?

 

 

 

 

 「こちらこそ、負けませんわよ」

 

 

 

 

 ……メジロ家の令嬢としてではなく。

 

 

 

 

 「――最強のライバルとして、本当の貴方に勝ってみせますわ」

 

 

 

 

 ただのマックイーンとして、貴方に勝つために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「それじゃあ、いよいよ本題に入るぞ。

 宝塚記念。場所は春天と同じ京都レース場、距離は京都新聞杯以来の芝2200mだ。マックイーンとの三度目の勝負にして、初めて君の適正距離での戦いになるぞ、ライアン」

 

 

 春の天皇賞が終わって、数日後のことだ。

 レース後の休息をも惜しんでトレーニングに打ち込んでいたライアンに、一つの吉報が舞い込んできた。

 一ヶ月後に開催される「宝塚記念」。その出走ウマ娘は有馬と同じように人気投票で決まるのだが、ライアンはそこに一位のマックイーンに次いで三位でランクインしていたのだ。

 

 

 「はい。……正直、今でも信じられないんですけどねっ。

 あたしが――あたしが、ベスト3に入るなんて。人気なんて、マックイーンに引っ張られてるだけだと思ってました……」

 

 

 あのマックイーンが偉業を達成した直後のライアンの咆哮は、結果的には良い意味で世間の注目を集めていた様だった。

 ついに目覚めた元祖メジロの一番槍。そんな風に世間が解釈した結果、次のマックイーンとの激突に大きな期待が寄せられたのである。

 

 

 「こんな、でも、あたし全然女の子らしくなくて、結果だって出せてないのに……なんか、ちょっと出来すぎてませんか?」

 

 「少なくとも女の子らしいかどうかは、結果を出す事とは関係ないと思うけどなぁ……?」

 

 「へっぽこ。全然フォローになってないじゃない」

 

 

 ライアンと俺の作戦会議を端で聞いていたキングが冷ややかな目でこちらを見てくる。ううん、失言だったか? 別にライアンが女性らしくないとは言ってないんだけども。

 

 

 「それだけライアン先輩には、誰かを惹きつける力があるってことじゃないかしら」

 

 

 なるほど、それが正解か。彼女と同じ道を歩んできた立場の俺が言うのも変かもしれないが、キングが言うと重みが違うというか。

 

 

 「どんなどん底でも、希望を疑わない。そういう姿勢って案外ファンの方には届いてるものよ……私の時も、そうだったから」

 

 

 羨望と諦観の中で、それでもまっすぐ走り抜いてきたライアン。

 勝てなくても、周りが眩しくても、自分に自信が持てなくても……それでも拗らせる事無く、きちんと努力を積み重ねることが出来る。それは誰にでも出来る事ではない彼女ならではの強みであり、その熱意はレースの戦績を超えて彼女の走りを見る人々にも伝わっていたのだろう。

 実際にライアンの人気は予想以上に根強いものがあるらしいのだ。かつて同じ様にクラシック級を無冠に終えた三年前のキングと比較しても、バッシングの程度がまるで違う。それどころか、デビュー以前から変わらずライアンを応援し続けてくれている人もいるらしい事が、先日のファン感謝祭で判明したばかりだったりする。

 

 

 「今まで頑張った結果が、人気につながったってことですか……? 一生懸命走ったら、それが人気に……」

 

 

 信じられない、といった様子なライアン……を目を細めて見守るキングにタオルを投げてやりながら、俺はパンパンと手を叩いて注意を引く。

 

 

 

 「もう、マックイーンとの格の差はなくなったって事だな。あとは君次第だ、ライアン。

 ――君はこの一年、何を目指して走るんだ?」

 

 「……目標、ですか」

 

 

 

 もちろん、今ライアンの頭にはマックイーンが浮かんでいるはずだ。それは分かっていた。

 だけど。俺の考えが、彼女のデビュー前から俺が感じ取っていた推測が正しかったとすれば……それはきっと、それだけに留まらないはずで。

 

 

 「う~ん、今はマックイーンに勝つことしか考えられないです……。

 でも、もし次の宝塚記念で勝つことが出来たら、その時は……きっと」

 

 

 その言葉に、ひとまずキングと俺は頷きあって、覚悟を決め直すことにした。

 あの春天で、ライアンはようやく心の底から叫ぶことが出来た。そんな彼女が夢を抱くチャンスがあるとしたら、まさに今この瞬間以外にあり得ないだろう。そしてそれを彼女が次のマックイーンとの戦いで見定めるつもりなのだとしたら……トレーナーとして、やるべきことは一つ。

 限界を超えた実力を引き出すこと。これ以上は無理だとライアンが心から思えるほど、彼女の全てを目覚めさせること。

 そしてライバルとの戦いのその先に見える筈の景色を、彼女に見せてあげること。

 

 

 「……わかった」

 

 

 ――そして。

 奇しくも今回、俺はライアンを勝たせる為の一つの作戦を控えていたのだ。これまでの彼女の走りを大きく変える形になりながらも、上手くいけば今まで以上の可能性を手に入れられるかもしれない、そんな奇策を。

 

 

 

 

 「正直、初めて()()から提案された時はちょっと迷ったんだけどな。

 これから話すことは、今のライアンにかなりの負担をかけることになると思うけど……君の、マックイーンへの想いを買うことにする。

 ――――覚悟はいいな?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゲートが開いて、あたしは六番手の位置で最初の直線を駆け抜けていた。

 トレーナーさんも言っていたけど、今日は2200mの中距離レースだ。あの春天からもう一か月以上が経っているっていうのに、まるで時が戻ったみたいに景色が視界になじんで、思わずあと3000m近くは残っているんじゃないかと錯覚してしまう。

 ――景色って言っても、もちろん同じレース場だからっていう意味じゃない。あの時よりも出走している選手の数は少ないけど、それでもヴァイスは春天と同じように先頭でハナを争っているし、それに。

 ……それに、マックイーンは変わらず、あたしの少し前でお手本みたいな位置取りで走りに徹している。

 

 

 (やっぱり君はすごい……って、あの時も思ったっけ)

 

 

 分かっていたことだけど、こうして間近で見るとどうしてもマックイーンを眩しく感じてしまう。

 それは別にいけない事じゃないんだ、って、あの後トレーナーさんは言ってくれた。だけど、それに比べて自分は、って思うことが良くないんだって。

 その通りだと思う。よく考えたらマックイーンがすごいことと、あたしが自分はダメだなって思うことは何の関係もないんだ。

 

 

 (決めたんだ。もう諦めないって。君の……ライバルになるって)

 

 

 あの日レースが終わった後にあたしが思わず叫んじゃって、負けない宣言しちゃって、その後……ああ、なんてミーハーな、って恥ずかしすぎて思わず控室でゴロゴロ転げまわったなぁ。

 ……トレーナーさん、実はあたしもあの時からずっと、考えていたんですよ。あたしが目指すものって、なんなのかを。

 

 

 (あたしは、君みたいに色んなものを背負えるわけじゃない。

 っていうより、背負ったことがなくて、それがどういうことなのか分からないんだ。だから君みたいに上手く振るまったりは出来ない。

 ……なのに、あたしは人気投票で三位になって、ここにいる)

 

 

 それは、すっごく嬉しいことで。

 でもほんのちょっとだけ、怖くもあることで。

 あたしの時代だーって、懲りずに身の程知らずな事も考えちゃったけど、それ以上に、そんな沢山の期待があたしに向けられてるって事が、すごくおかしな、不安な事だとも感じて。

 ……やっぱり、君みたいにはなれないなって、せっかく決心した筈の心が、また萎みそうになって。

 

 

 

 

 

 

 『次は貴方の得意な中距離で戦ってさしあげます。

 教えてさしあげましょう。完成されたメジロには――距離の壁などないことを』

 

 

 

 

 

 

 でもね、マックイーン。

 あたし、ちゃんと気付いたよ。君があの時、何を言おうとしていたのかを。

 

 

 (君は、分かってたんだね。

 あたしが、ここに来ることを。あたしが自力で、宝塚記念の選手としてファンに選ばれることを)

 

 

 春天のあとの中距離レース。そして菊花賞と春天を制した君が、次走るのに最も妥当なレース。そんなの、この宝塚記念しかない。

 ……そこに、あたしも出走する資格があるって、確信してたんだ。

 

 

 

 (――みんなの為に戦うっていうのは、まだ出来ないかもしれない。

 でもあたしは、君のためになら走れるかもしれない。こんなあたしを信じてくれた、マックイーンのためになら)

 

 

 

 君は……ずっと、あたしを待っててくれたんだ。

 

 

 

 『ゴォオオオオオオオーーーーール!!

 手に汗握る接戦に、大歓声が上がっています! 一着は僅差でメジロマックイーン!!』

 

 

 

 あの時も、

 

 

 

 『マックイーンだマックイーンだ! メジロでも、マックイーンの方だ!!

 一着はメジロマックイーン!!』

 

 

 

 あの時も、

 

 

 

 『メジロマックイーン優勝! メジロマックイーン勝ちましたっ!!

 メジロ家が三代に渡って、天皇賞の盾を勝ち取りました!!』

 

 

 

 ……あの時も。

 何度もあたしを置き去りにして、何度も一人でゴールラインを走り抜けたっていうのに……君は、いつかあたしが隣に来ることを、信じて疑わなかった。

 

 

 

 (これが、ライバルになるってことなのかな。

 君に勝ちたくて、君のために走りたくて。君みたいになれなくても、でもあたしはずっと、ずっと……!)

 

 

 

 

 

 

 ――メジロライアン。

 

 

 

 

 

 

 (……あたしはいつだって、君に憧れてたんだ!

 だって君は、いつもキレイだった! どんな場所でも、清楚で凛としていて!)

 

 

 

 

 

 

 ――底知れぬ強さを予感させた、未完の大器。

 

 

 

 

 

 

 (いるだけで、場の空気が変わった!

 まるで別世界になったみたいに……みんなの視線が! 関心が! 君に釘付けになった!!)

 

 

 

 

 

 

 ――記録よりも、記憶に残るウマ娘。

 

 

 

 

 

 

 (そして……いつも、いつもたくさんの人に囲まれてた! 家族からも、家族以外からも愛されてっ……!!

 ……あたしは!! あたしはっ!!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その本当の強さは、誰も知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……だったら見せてやろうぜ、ライアン。

 ――君の、本当の強さを!!」

 

 

 

 (あたしは――!!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あたしはそんな風な――スターになりたかったんだ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その時、私は競走の場において初めて、自分の耳を疑いましたわ。

 レースは残り1400m地点を過ぎたばかり、まだ勝負を仕掛けるには早過ぎる筈のタイミングですのに……背後から一人だけ、迫る足音を聞き取ったのですから。

 

 

 「……っ!?」

 

 

 そして。

 その音が横に並んで、私より先んじて……そしてようやくそれを立てた張本人が、ライアンだったことに気が付いて。

 

 

 (……ライアン……!?)

 

 

 あれは、本当に、ウマ娘の姿だというのですか。

 僧帽筋が、背筋が、腸腰筋が、大腿四頭筋が、ハムストリングスが、下腿三頭筋が。全身そのものが沸き立ち、一体化して、その全てが力を与えて……それを側からみる私でさえ圧倒されてしまうほどの、ダイナミックな走り。

 ――まさに、筋肉の躍動(アナボリック)

 

 

 

 『さあ、各ウマ娘、第一コーナーのカーブに入ります!

 ここでメジロライアンが! なんとメジロライアン、ここで一気に三番手まで上がっていきました!!』

 

 

 

 ライアンは、一切私に目を向けませんでしたわ。

 レース中ですから当然と言えばその通りですが……でも、その闘志が、走りが、ひしひしと私に語りかけてくるのです。私が長いこと目にしていなかった、あなたの背中が。

 

 

 

 ――負けない! 負けないよ、マックイーン!!

 

 

 

 (ええ、受けて立ちますわ、ライアン……!!)

 

 

 『そして、なんとマックイーンも速度を上げる!! 先頭はまだ残り1200m地点を通過、少し早めの勝負になるか!?』

 

 

 

 ――理想的だった筈の私のペースは、これで崩れてしまいましたわね。

 ライアンの基本戦法は後方待機からの差し。ゴール前に必ず追い込んでくる豪脚が持ち味だった筈でしたのに……今日の彼女はやや早めのスパートによって、()()()()()()()()()()()()()()()()()様な積極策を取って。

 ……今までの消極的なライアンでは、決して行われることのなかった戦法ですわ。

 

 

 (やりますわね、ライアン……っ!!)

 

 

 やがて第三コーナー、淀の坂に差し掛かって、全体のペースが僅かに落ちて……本来ならこの坂があるから、登り切った後にスパートを掛けたかったのですけれど。

 ――ですが、そこでも私は、さらなる彼女の可能性を目の当たりにする事になりましたの。

 

 

 

 「う……おおおおおっっっ!!!」

 

 

 「な……なぁっ……!?」

 

 

 

 ――ライアンの走りは、頑としてブレることなく、坂の中を更に加速していましたのよ。

 他の誰もがピッチ走法に切り替えて急勾配を凌ぐ中で、彼女だけがものともせずにそのままの走りで坂を蹴り上げて。

 

 

 

 『メジロライアン、驚きの力強さだ!! 遂に先団を突破してハナを進む、淀の坂を軽々と……まるで天突く()()()の様に飛び越えていく!!』

 

 

 

 ……昇り龍とは、まさに言い得て妙ですわ。

 ライアン、伝わりますわよ。あなたが、今までずっと想いを溜め込んできたあなたが、このレースにどれだけのものを懸けているのか。そして私を……私との勝負を、どれだけ真剣に受け止めてくれているのか。

 

 

 

 ――ようやく、一緒に走れますのね。

 

 

 

 (なら私も、全霊で以てお返しして差し上げます。

 ……最強の、名を懸けて!!)

 

 

 

 

 『マックイーンも負けていない!! 下り坂を滑る様に降ってハナを切るライアンに迫っていきます!!

 最終直線は二人のメジロの一騎討ちだ――っ!!』

 

 

 

 

 優雅さか、素朴さか。

 玉座の防衛か、無冠の挑戦か。

 私とライアンはそうして、いつだって対局の位置に置かれていましたわね。メジロ家に於いても、世間に於いても。

 メジロの誇りを継ぐ私と、メジロに囚われずに人々を惹きつけるライアン。それはどちらが間違っているというものではなく、だからこそ多くの人々が私たちの対決を心待ちにしてくださって……そして私達は今ここで戦う事になりましたわ。

 

 

 

 ――ですが。

 そんな私達だって、元は何も変わりませんのよ。

 

 

 

 ((――勝ちたい))

 

 

 

 ――そう。

 幼い頃から、メジロの名を背負う前から、ライアンとマックイーンは……ライバルだった。

 

 

 

 ((――勝ちたい))

 

 

 

 それが、成長して、トレセン学園へと入学して、メイクデビューして、それぞれの道を歩み始めて。

 ――だからといって、私達は何も変わってはいない。

 

 

 

 

 

 ((――勝ちたい))

 

 

 

 

 

 そう。

 私達は、ただのスターウマ娘。

 

 

 

 

 

 「……あたしはっ!!」

 

 「私は……っ!!」

 

 

 

 

 

 期待を背負う、覚悟の裏で。

 その想いは……変わらず、ただ一つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「「――君に、勝ちたい!!」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ゴォォールっ!! ライアンだライアンだ!! ライアン一着、そしてマックイーンです!!

 京都新聞杯レコードホルダー、レコードホルダー2200m! この距離では負けられない――!!』

 

 

 

 

 

 「……勝った……?」

 

 

 

 

 

 ゴールラインを駆け抜けて、更に走って、ようやくホームストレッチの端近くまで来たところで脚が止まってくれた。

 そのままがくりと膝をついて……それも叶わなくて、結局あたしはごろりとその場で大の字になって空を見上げる。

 青空。でもほんの少しだけその端が黄色くなり始めていて、もう少し経ったらきっと夕焼け空に染まっていくんだろうなと、ぼんやり考えて。

 

 

 

 

 

 ああ。これって。

 これって、あの時の空だ。小さい頃に、いちばんで登り切った高台から見た、あの。

 

 

 

 

 

 「あたし、勝ったんだ……!!」

 

 

 音が戻ってくる。風が薙ぐ音と、他の選手達の足音と、そして……そして、あたしの名前を呼ぶ、地面ごと揺らす様な歓声。

 ――もしかしてこれが、スターになるって事なのかな、マックイーン?

 

 

 

 「ええ。その通りですわ」

 

 

 

 聞こえて来た声に、あたしは起き上がろうとして……マックイーンに制止される。彼女にはわかっていたのかもしれない、脚だけじゃなくて全身で限界まで力を使い果たしたあたしが、今まったく動けない程にクタクタだって事が。

 

 

 

 「優れた才能に心が宿り、さらに覚悟が定まれば――それはもう、堂々たるスターウマ娘。

 ライアン、あなたはもう立派な星を持っているんですわ。最初から輝いていた星とは違う、人気と共に輝きだした、そんな星を」

 

 

 

 ……あたしが、もうスターウマ娘に。

 実感はまだ沸かない。あたしはただ、マックイーンに勝ちたかっただけ――いや。

 走り切った今ならわかる。あたしには、それだけじゃなかった。

 

 

 「……マックイーン。あたし、もう終わりにするよ。

 あきらめたフリをするのも。自分にウソつくのも。それから……ミーハーで、子どもみたいな夢を恥ずかしがるのも。

 まだ、期待に応えるっていうのは、よく分からないけど、でも」

 

 

 差し伸べてくれた手に応じて、ゆっくりと腰を上げる。そしてマックイーンの肩を借りて、何とか立ち上がって。

 

 

 

 「あたしは……君と同じ、スターウマ娘になる」

 

 

 

 メジロライアンとして。

 マックイーンに肩を並べる、もう一人のメジロとして。

 

 

 

 「……ええ。今以上のスターになることを楽しみにしてますわ。

 ステイヤーである私と、中距離の優駿たる貴方。次は、二人共の実力を発揮できるレースで会いましょう」

 

 「お互いが……力を? それって、どのくらい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――いい表情をしている。メジロライアン。

 マックイーンも、今日は惜しかったな。二人とも良いライバルだ」

 

 

 

 

 

 

 その時。

 色めき立っていた人々の声が、次第に動揺へと変わっていった。

 

 

 

 

 「今の世代の先頭に立つのはまさしく君達だ。そんな二人に……私は最後の挑戦状を、送りたいと思っている」

 

 

 

 

 スタンド席の、最前列。

 いつの間にかそこに立っていた一人のウマ娘に、驚いた観客が一斉に場所を開けて、固唾を飲んで見守る。

 

 

 

 

 「……オグリキャップさん……!」

 

 

 

 

 あのマックイーンが、呆気に取られたようにその名を呼ぶ。

 そこに居たのは、あの伝説のウマ娘。地方から実力のみで中央までのし上がり、走らないとされていた芦毛のウマ娘への常識を覆し、重賞を総なめにして、ウマ娘といえばその人とさえ謳われる絶大な人気を手にした、「怪物」と呼ばれるウマ娘。

 ――あたし達の世代においてはスターの象徴とすら見なされるオグリ先輩が、あたしとマックイーンへと語りかけていた。

 

 

 

 

 

 「……君達も、お互いの実力を出せるレースでの再戦を望んでいるんだろう? なら、暮れの中山に来るといい。

 

 

 

 

 そこで私は、新世代の実力を確かめてから――トゥインクル・シリーズを引退しようと思っている」

 

 

 

 

 

 

 

 そして。

 その宣戦布告と引退宣言はこの後まさに、国内全土を震わせるような衝撃を持って、宝塚記念の結果と共に世間に伝わっていったのだった――。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「あらあら、皆さん、おかえりなさい〜。

 シャワーにしますか? ご飯にしますか〜?」

 

 

 

 ――ライアンが念願の一着を勝ち取り、その後オグリキャップの驚愕の宣言を受けた後に、俺達は一切の寄り道せずに京都からここトレセン学園まで帰路についていた。

 そうして、チーム部屋を叩いてみれば、迎えてくれたのはエプロン姿のクリークである。彼女には今回ついて来たキングとは別に、遠征しないチームメンバーの面倒を見てもらっていたのだ。

 

 

 「あら? マックイーンちゃんまで、いらっしゃい。

 ライアンちゃん、やっと一着になったんですものね〜。もしかして、今日はパーティーですか〜? どうしましょう、お料理が足りると良いんですけど……」

 

 「あー、いや、違うんだ、クリーク」

 

 

 クリークの言う通り、今俺達と一緒に、マックイーンも同行してもらっている。

 普段ならここでクリークの料理を頬張り、続けて食卓に並ぶスイーツを嬉々として平らげるマックイーンではあるのだが……今日は、今日だけは違った。

 

 

 「……クリーク先輩」

 

 

 前に立ったのはライアンである。

 さらに、続けてマックイーンが。

 

 

 「あたし達、有馬に出走します。

 そこで、オグリ先輩と戦うんです。今のままじゃ多分、勝てない……だから」

 

 

 そして、マックイーンの背中を押しながら、自分も深く頭を下げて。

 ――その呼び名を、口にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あたし達を鍛え上げてください!! ただの先輩としてじゃなくて!!

 ――『魔王』として!!」

 

 

 

 

 

 

 

 「……あらあら〜。

 ――そんな呼ばれ方、いつぶりかしら〜」

 

 

 

 

 

 

 ――かつて。

 ウマ娘界を席巻したオグリキャップに立ちはだかった、「永世三強」の一角。

 

 

 

 

 

 

 「でも、ライアンちゃんにそこまでお願いされちゃったら……お応えしないわけにはいきませんね?」

 

 

 

 

 

 

 

 ――世間からの逆境の矢面に立ちながら、その抜きん出た実力で一度はオグリキャップを打倒した、史上最強の悪役。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……それでは、ジャージに着替えて来ますので、ちょっとだけ待っていて下さいね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――「魔王」スーパークリーク。

 そのおっとりした瞳の端に秘める、魂のせせらぎを聴いた者は……少ない。

 

 

 



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あなたの笑顔のために 前

 

 

 

 「……はぁっ、はぁっ……!!」

 

 

 

 ライアンとマックイーンが宝塚記念で戦った、その日の夜のことだ。

 二人はトレセン学園に帰るや否や練習用コースへと出向いて、ナイター環境のなか模擬レースを行っていた。

 

 

 

 「な……何てこと……私が、こんな……っ!」

 

 

 

 ――そして、二人とも思わず膝をつく事になった。

 追いつけないのだ。彼女達が京都レース場で宣戦布告を受けた、オグリキャップの最大のライバルである、彼女に。

 

 

 

 「こんなに、こんなに強いなんてっ……!!」

 

 

 

 既に二人とも疲労困憊だ。まあ、つい数時間前までレースをしていた身体では当たり前なのだが、それでも移動時間中に本人達はある程度体力を回復させていた自信があったようだった。

 ……それを、悉く打ち砕かれた形になる。

 

 

 「……き、聞いてないわよ……」

 

 

 唖然しているのは隣の、ついさっきまで「この私と同じ『王』の異名を持つ先輩の実力が、ようやくお披露目って訳ね!」とか何とか息巻いていたキングだ。そしてその後ろで、取り巻きーズはじめチームメンバー全員が同じように表情を驚愕に染めていた。

 とは言え、今となっては本気の彼女を見たことのあるチームメイトも少ないので、当然の反応ではあるのだが……この様子では誰も動けそうにないので、俺は立ち上がり、タオルと水筒を持って彼女の元に駆け寄る。

 

 

 「ご苦労さん。全力で走ったの、久しぶりじゃないか? どこか異常は?」

 

 「あら、トレーナーさん。いえいえ〜、特に問題はありませんよ〜。

 基礎トレーニングだけじゃなくて、たまに走ると気持ちいいですね〜」

 

 

 そう、まるで疲れていない。

 それはそうだ、彼女の強みはその膨大なスタミナ。鋭い脚のキレはなくとも、序盤に巧みに好位置を抑えた上で後半から大逃げの如く息の長いスパートを掛ける、その粘り強さにある。

 

 

 

 「これがっ、『永世三強』……!」

 

 

 

 併走中において、その末脚を使ってもまるで差し切れなかったライアンが、絞り出す様に呟いた。

 そうだ、これがかつて空前絶後の競走ウマ娘ブームを創り出した、「永世三強」の水準だ。

 

 

 

 「これが、『魔王』スーパークリーク……!」

 

 

 

 続けて、同じ先行策での走りにおいて、位置取りからスパートまで全ての観点から敗北したマックイーンが震えた声でそう呻く。

 その通り、これが当時ステイヤーとしては並ぶ者のなかった彼女、スーパークリークの実力。

 ――そして、その彼女ですらクビ差まで追い詰められた、オグリキャップの指標だ。

 

 

 

 

 

 「うふふっ。二人ともこの私に逆らうなんて、ダメな子ねぇ〜♫

 ……年末までに、私に追いつけるかしら?」

 

 

 

 

 

 ……悪役ロールまで、当時のまま堂に入ってるのには驚いたが。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 ――それから、数ヶ月が過ぎて。

 

 

 「さぁさぁ、皆さん、お夕食の時間ですよ〜。

 今日は野菜のお肉炒めです♫」

 

 

 どんがらがっしゃーん! と、待っていた俺達は一斉に椅子から転げ落ちる。

 ……お約束だ、わざとらしくても許して欲しい。

 

 

 「ね、ねぇトレーナー? 前にもこんな事あったわよね……?」

 

 「言うなキング。悪気は無いんだ」

 

 

 因みに前とは、一昨年の黄金世代が集結したあの有馬記念の直前に行ったチーム内のクリスマス会のことだ。「腕によりをかけますね〜」と意気込んだクリークが作る料理をチームのみんなで予想して、フライドチキンか、七面鳥か、ミートローフか……なんて言っていたらまさかのおでんが出てきたのである。

 そして現在は栗ご飯が美味しい秋真っ盛りだ。例のおでんはよく実家の託児所で出していたからだと聞いてはいたが……いずれにしてもどこかズレているクリークだった。

 

 

 「なんか……調子狂っちゃうというか……やっぱりクリーク先輩はクリーク先輩だなって」

 

 

 すごすごと椅子に座り直してそう言うのはライアンである。

 あれから彼女はレースでの出走を控えつつ、クリークと本格的なトレーニングに励んでいた。元々去年もウララの事で俺の手が回らなかったときはクリークに面倒を見てもらっていたので、どうもお互いにお互いの事がよく分かっているらしいのだ……実のところ、宝塚でのライアンの「積極策」、つまり中盤まで後ろに控えていて後半から先行位置に躍り出るという戦法を始めに提案したのも彼女である。

 ――ただし一つ違うのは、クリークがただの先輩ウマ娘としてではなく、「魔王」と呼ばれていたころの本気の走りでコースに赴き、ライアンを鍛えているという事。

 

 

 「あらあら~。私はただ、みんなよりちょっとだけ前から走っていただけですよ~? さあ、どうぞ召し上がれ~♫」

 

 

 実際、その彼女の言い分は正しい。

 ただでさえ強かった「永世三強」が三年目のシニア級でしのぎを削ってから、もうかれこれ五年以上が経っているのだ。それから親父の引退を始めキングの三年間やウララの有馬といった色んな出来事があって、そんな中でもひたすらに経験値を積み上げてきたのがクリークである。

 純粋な実力でいえばチーム最強であることは間違いないし、そもそも彼女やオグリ、そしてイナリの三人は現トゥインクル・シリーズの水準を圧倒的に超えている為に、その上位に位置するドリームトロフィーリーグへの移籍をかねてより打診されている身である。

 

 

 「はーい、じゃあ、トレーナーさん、お願いします!」

 

 「あー、それじゃみんな、手を合わせて。……頂きます!」

 

 「いただきま〜す!」

 

 

 ライアンに促されて号令をかける。……こうしてみると、うちのチームも人数が増えたもんだなあと思う。

 親父の代から残ってくれたのはクリークとライアン、そこにキングとウララが入ってきて、二人に取り巻きーズとカワカミがついてきてくれて。以前はたまに様子見……という名の偵察に来ていたスカイも最近は怪我のリハビリの為によく顔を出してくれるようになって。

 ……情けない話だが、クリークが実質サブトレーナーとしての補助をしてくれていなかったら、とっくに定員オーバーだっただろうなぁ。

 

 

 「んん~っ、美味しい! いつもながら流石の味ですね! 全身の筋肉が喜んでいます!」

 

 「これで明日も元気よく気高きプリンセスへの道を邁進できるというものですわ! そう思いませんこと、キングさん!」

 

 「当然よ! 一流ウマ娘の食べる料理は、いつだって一流でなくてはならないんだから!」

 

 「キング、ほんと素直じゃないよね~」

 

 「ごめんなさい、クリーク先輩。キング、あれで美味しいって言っているつもりなんですよ~」

 

 「なっ……あなたたち」

 

 

 言いたいことを言っているだけなヤツもちらほらいるが、まぁなんだかんだみんな仲良しなのは良いことだ。それもこれもこうしたチームみんなでの団欒を大切にしてきた結果ではあるのだけども……それも結局はクリークが毎日夕ご飯を作ってくれるからで。

 ――ぶっちゃけ、俺達全員、というより俺は彼女に頼りっきりなのである。

 

 

 「……ねぇ、そういうのを担当のウマ娘に押し付けるのってやっぱり一流じゃないと思うの」

 

 「……まあ、うん、それはそうだ」

 

 「そうですよ、最近トレーナーさん筋トレもしてませんよね? ワンフォーマッスル、オールフォーマッスルですよ!」

 

 「相変わらず何言ってんのか分からんぞライアン」

 

 

 ……そういう君たちの服の洗濯とスポーツ用具の手入れをしているのもクリークなんだけどな、と言わなかった自分を褒めてやりたい。

 一応、彼女本人がどうしてもやりたいというからやらせている体なのだが、俺も事務仕事とレースの研究で手一杯になってあまりサポート出来ていない。もう少し環境の改善が必要だろうか……。

 

 

 

 「ですがびっくりしましたわ! いつもお淑やかなあのクリークさんが、いざ走るとなるとあれだけ屈強な走りを見せるなんて!」

 

 

 

 と、ここで。

 そのカワカミの一声に、改めて皆の関心はたった今エプロンを外して食卓にやってきたクリークへと向けられたようだった。

 

 

 「確かに、今まであんまり先輩がちゃんと走っているところ、ほとんど見たことないかも……全くないってわけじゃないですけど」

 

 「でもでも、あっても軽いジョギングとか、基礎トレーニングのマラソンとか、そんな感じ?」

 

 「うーん……実はあたしも、チームに入ったときはもうクリーク先輩は今のスタンスで、マックイーンも合わせた三人でのあの日の模擬レースが初めてだったんだよね」

 

 

 取り巻きーズとライアンが同調する。恐らくそれは、クリークが本腰を入れてトレーニングをするのがチーム練習後の夕飯の後、皆が寮に帰ってから消灯時間になるまでの一時間前後の間だけだからであり、これも「あまり後輩にプレッシャーを与えたくない」という彼女きっての要望である。

 チームメイトの事を誰よりも考え、それを纏める俺を推し量って、最適なサポートに徹する。その積み重ねこそがまさにこのチームを機能させる動力源であり、それどころかむしろそんな激務に純粋なやりがいと喜びを感じるところが、クリークが如何に出来たウマ娘であるかを象徴しているのだった。

 

 

 

 「ぜひ! ぜひお聞かせ願えませんこと!? クリークさんの、かつての栄華を!!」

 

 

 

 ――しかし。クリークもまた、競走ウマ娘の一人だ。

 愛すべきチームのお母さんとしての役どころが板についたのも、チームトレーナーを俺が引き継いだ前後の話。それ以前は彼女もれっきとした重賞ウマ娘としてレースに出走していた訳で、当然当時はキングやライアン達のようにまだ彼女も、そしてサブトレーナーだった俺も未熟な半端者だったのである。

 

 

 「あらあら〜。どうしましょうか、トレーナーさん?」

 

 

 俺に聞くのか、と向かいに座るクリークに目を向けてみれば、なるほど満更でもなさそうである。確かにここらでかつての俺たちの事を話してしまった方が、今後余計な噂や勘繰りをされる事も無くなるだろうし、もしかしたらモチベーションに繋がるかもしれない。

 ……何より、本人が意外にもその気らしいんだから、俺がどうこう言う話じゃあないか。

 

 

 

 「じゃあ、時期も時期だし、オグリに勝った時の話でもしようかな。

 ……クリークが『魔王』って呼ばれるきっかけになった、あの秋天のことを――」

 

 

 

 ――奇しくも今日は、秋天の一日後であった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蛍光灯がちらつく関係者専用通路を、駆ける。

 横をすれ違うスタッフや他の出走するウマ娘のトレーナーらしき人間が不思議そうに見つめて来ても、俺は荒い息を正そうともせずに突っ走っていた。

 ――そして、目的の部屋を見つけるや否や、蹴破る様にその中へ飛び込んで。

 

 

 「クリーク、親父っ……!!」

 

 

 ……その掠れた声に、呼ばれた二人は一斉に驚いた顔で立ち上がった。

 

 

 「さ、()()()()()()()()()!?」

 

 「なっ、どうしてここに!!」

 

 

 両手を口に当てるクリークを横に俺は親父に……うちのチームのリーダーであり、世間では多くのスターウマ娘を輩出した名トレーナーとして知られるその男に、啖呵を切った。

 

 

 

 「どういうことだよ、俺は言った筈だ。

 クリークは、この秋天には……出るべきじゃ無いって」

 

 

 

 ――今日この日、ここ東京レース場では記念すべき第百回目の、秋の天皇賞が開催される。

 本来なら、そこにスーパークリークが出走する事にはなんの問題もない。むしろステイヤーでありながら中距離も並以上に戦うことのできる彼女にはぴったりのレースである。

 だが。今回は、それどころではない事情があった。

 

 

 

 「分かってんのか……つい一昨日に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なんだぞ!?」

 

 

 

 地方出身のウマ娘は走らない。芦毛のウマ娘は活躍できない。

 そんなジンクスはしかし、地方カサマツから飛び出して来た一人の芦毛のウマ娘が立て続けに中央の重賞を六連勝し、その後の有馬記念でついにG1を制覇した事で破られる事になった。

 ――そして、そのウマ娘ことオグリキャップは文字通りの「英雄」となった。絶大な人気を恣にして、世間に十年に一度とされるウマ娘ブームを作り出した事で、URAからは当時の最優秀ウマ娘として表彰されるまでに至っていた。

 

 

 「お前っ、学園のチームはどうしたんだ! ほっぽり出してここに来たのか!?」

 

 「たづなさんに頼んだんだよ、話を逸らそうったって無駄だぞ……!

 親父知らないのかよ、クリークが今、世間でどう見られてんのか!」

 

 

 ……そのオグリキャップの栄光に水を差すべく、立ちはだかるアンチヒーロー。それが今のスーパークリークの置かれた状況だ。

 確かに初めはクリークも「みんながそれを求めているのなら」と悪役を楽しんでいた時期もあった。だけどそれもいよいよ直接対決の日が近づいていくにつれ……周囲からの風当たりは次第に強くなって。

 ――駅のクリークのポスターは、油性ペンで真っ黒に塗りつぶされていた。レース場のエントランスロビーでは、オグリを応援する人々が「負けろクリーク」と書かれた横断幕を持っていた。そして二日前……トレセン学園に、オグリを勝たせなければ、と言った差出人不明の脅迫レターが突きつけられて。

 

 

 「もう悪役って度合いを超えてんだよ! これ以上悪目立ちしたら、マジで事件にだってなりかねないって何度も言ったじゃないか!」

 

 

 出走を取り消すべきだと抗議したつい先日の俺を、この分からず屋は鼻であしらってチームの他のウマ娘のオープン戦に同行させた。

 そして、函館まで遠征してその娘の体調を鑑みて一泊し、当日である今日の昼過ぎに学園まで帰ってみれば……既に親父とクリークは出ていて、その足でレースに向かって行ったと言うではないか。

 

 

 「……本人の希望だ。トレーナーに出走辞退を強制する権利はない」

 

 「んな事言ってる場合かよ!

 あんたの腹積りは分かってるぞ、史上初の春秋天皇賞制覇を達成したウマ娘のトレーナーとして、自分が目立ちたいだけの癖に!!」

 

 「――お前!!」

 

 

 食ってかかった俺の胸ぐらを、親父が掴み上げる。今までにもこうして喧嘩をした事は度々あったが、それでもこんな、担当ウマ娘の前でこっ酷くってのは初めてのことだ。

 ……だと言うのに。クリークは取り乱す事もなく、落ち着いた様子で俺たちをそっと引き離すと、親父の方に一度目を向けたのちに、俺へと振り返った。

 

 

 「サブトレーナーさん、心配してくれて、本当にありがとうございます〜。

 でもトレーナーさんの仰った事は本当なんですよ。私が、自分で今日のレースに出たいって言ったんです」

 

 

 そうだな。君ならそう言うだろうさ、クリーク。君はいつだって、自分以外の誰かの為に動いている。

 だとしても。いや、そりゃ無理にって話じゃないけど……これはクリークのこれからに関わることだ。

 

 

 「……オグリに勝ったら、君はいよいよ悪役としてのイメージが固まる。負けたら、アイドルウマ娘に逆らった身の程知らずとして世間の笑い物になるかもしれない。

 終わってみなきゃ分からないって言えばそうかもしれないけど! それでも、今回は君の背負うリスクが高すぎる!」

 

 「……そうですね〜。そうなのかも、しれません」

 

 

 クリークはただ困ったように微笑むだけだった。

 ……ダメだ、彼女は既に心を決めてしまっている。そして一度こうと決めたクリークは意外にも頑としてぶれないという事を、俺はよく知っていたのだ。

 

 

 「それでも、私は……この天皇賞には、出ないといけないの」

 

 

 どうしてだ。どうしてそこまでして、このレースに出走したいのか。

 

 

 

 「だって、皆さんが待ってるんです。みんな、私が負けるところが見たいのかもしれないけど……それでも、オグリちゃんと私が勝負するところを、見たいって言ってくれているんです」

 

 

 

 オグリを勝たせるな。クリークは負けろ。そう言った心ない言葉は散々目の当たりにした。

 ……だけど彼女の言う通り、()()()()()()という趣旨の指摘には、俺は一度も出くわしたことが無かった。

 

 

 

 「だから、私は走って、皆さんのご期待に応えないといけないんです。

 ――私は、スターウマ娘だから。トレーナーさんと、あなたが、私をそう育ててくれたから」

 

 

 

 ――スターウマ娘。

 菊花賞と春の天皇賞を制した彼女は確かに、そう呼ぶに相応しい存在なのかもしれない。

 だけど、それは永遠じゃない。いつかは新しい世代の期待の新星が現れて、そうしたら世間の関心はそちらに奪われてしまうかもしれない。

 そんな不確かな称号のために、こんな綱渡りをする必要は本当にあるのか。君のキャリアそのものを棒に振るかもしれないような、そんな博打を。

 

 

 「うふふっ、サブトレーナーさんはやっぱり優しい人ですね〜、いいこいいこ♫」

 

 

 ……スーパークリークは、どういうわけか俺を甘やかすのが好きなウマ娘だった。

 チームに加入したのも、新米で右も左も分からなくて学園内を駆け回っていた俺を気に入ってくれたかららしい。元来誰彼構わず世話を焼きたがるとはタマモクロスからの評価だったが、その中でも特に俺は彼女にウマ娘の何たるかを手取り足取り教えてもらっていた。

 そして、俺を安心させたい時、彼女は決まってその「いいこいいこ」をする。

 

 

 「大丈夫ですよ、大丈夫ですから……私のこと、ちゃんと見ていてくださいね?」

 

 

 しかし。いつも包容力に溢れている彼女のその手は、僅かに震えていた。

 明らかに、俺を甘やかす為のものではなかった。俺に、力を分けてくれと懇願するかのような、そんな。

 

 

 「クリーク」

 

 

 思わず声を上げようとした俺の横を、しかし彼女は通り過ぎる。振り返ってみれば、もうその手は通路への扉のノブに掛けられていて。

 こんなクリークの背中を、俺は既に知っている。クラシック三冠直前に責任を一人で抱え込んで体調を崩した、あの時と同じだ。

 

 

 

 「……俺は、ついてるから」

 

 

 

 ――そんな当たり障りのない掠れた言葉に、そのまま扉を開けてパドックへ向かったクリークが何を思ったかは、ついに分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 「……トレーナーとして、担当ウマ娘の出走と勝利を願う事も出来ない。かと言って、何かあった時にお前は何の責任も負わない。被害が及ぶことがあっても、矢面に立つのはいつでも彼女達の方だ」

 

 

 ……静かになった控え室に、彼女が話す間沈黙を貫いていた、親父の言葉が響き渡る。

 

 

 「立たされた苦境の中で、それを跳ね除けて勝利と人気を掴む。スターになるならば絶対に越えなければならない壁だ。

 その機会を、お前は一時の憐憫で彼女から奪うつもりか」

 

 「……でも、クリークは」

 

 「クリークだから何だ、それを誰が知りたがる。そんなものを、世間が認識すると思うか。

 ウマ娘の競走に物語などない。そこにはレースと、喜びと、悔し涙があるだけだ。それ以外は、後からそれを目撃した人々が勝手に創り上げたものだ。彼女本人が本当はどう思ったかなんて、誰も気にはしない」

 

 

 クリークに続いて、親父も俺を横切って控え室の扉を開ける。

 ……その声音は、俺の想像よりも遥かに複雑で、遥かに透き通っていた。

 

 

 

 

 

 

 「いい加減に聞き分けろ。トレーナーになるということが、どういう事か。

 ――だからお前は、半端者なんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 あの言葉はその後、俺の頭の中に刻み付いて未だに自分を縛り付けてくる。

 キングの三年間、ウララの連続出走騒動、それらを経て少しは分かってきたつもりだ……ウマ娘が人々の思いを背負うということが、何を意味するのかを。その彼女達を助けるトレーナーになるというのは、どういうことかを。

 ――だがあの時の自分は、とにかく若かった。親父の様になる事だけが正解だとは今でも特に思わないが、それでもスターウマ娘の相棒として彼女を支えるには、当時の俺はあまりにも考えが甘過ぎたのだ。

 

 

 

 「……すまない、聞こえているか、サブトレーナー?」

 

 

 

 そして。そんなだったから。

 俺は、いつの間にか彼女の対抗バであるオグリキャップが、その自分しかいない控え室の扉をノックしていた事に暫く気が付かなかった……。

 

 

 




 
※ 長文になってしまいそうなので一旦区切る事を申し訳なく思っているようです。
※父親は逃げウマ娘から追い込みウマ娘まで、脚質と適正を問わず大成させる数十年に一人級の天才トレーナーだったそうです。
※ライアン編が終わった訳ではないようです。


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あなたの笑顔のために 後

 

※かつてスーパークリークさんは天皇賞(秋)に挑んだそうです。

 

 


 

 

 私がメイクデビューを果たしてから、二年と半年が過ぎました。

 クラシック級では体調を崩してしまって、三冠のうち皐月賞と日本ダービーへの出走が叶いませんでしたが、その後トレーナーさんとサブトレーナーさんのおかげで何とかターフに戻ることが出来て、最後の一冠の菊花賞と、今年の春の天皇賞で一着を取ることが出来たんです。

 そして迎えたのが、この秋の天皇賞。ここで勝ったら私、なんと史上初めて春と秋の天皇賞を連覇したウマ娘になるみたいですよ。

 

 

 『さて、好スタートを見せたのは内の二人、メジロアルダンも負けていません!

 スーパークリークは外からすかさず、三番手に付けています!』

 

 

 今日のレースは、実は同級生のみんなが勢揃いしてくれているんです!

 私が出場できなかった皐月賞で勝ったヤエノムテキちゃんに、去年のクラシック時代から活躍して、高松宮杯で優勝して勢いがあるメジロアルダンちゃん、去年の春の天皇賞と宝塚記念で一着になったイナリワンちゃん。

 ……そして。

 

 

 

 

 『……そして一番人気オグリキャップ、中段の内側で控えています!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『オグリちゃん! レース、テレビで見ましたよ~!

 中央初勝利、おめでとうございます~』

 

 

 あなたは知っていましたか? 地方のウマ娘が中央に移籍して初戦で勝つ確率が、どれだけ低いかを。

 ――ヤエノちゃんが言うには、たったの9%、それが重賞ともなると……もう絶望的だったそうです。

 

 

 『ん、ありがとう。スーパークリーク……で合っているか?』

 

 

 それを、オグリちゃんは何度も覆しましたね。

 ペガサスステークスに、毎日杯に、京都特別、高松宮杯、さらにNZTも……スーパーG2と呼ばれた毎日王冠まで。

 うふふっ。実は私、菊花賞に出るまでオグリちゃんにはちょっとだけ親近感があったんです。だって、私も同じように、皐月賞にもダービーにも出走できなかったから……だから、それでも挫けないで重賞で頑張っている姿を見て、すごく頑張り屋さんだな~って思ってたんです。

 そんなオグリちゃんがどんどん人気になって、私も菊花賞で何とか一着になれて、あの年の最後の有馬であなたが優勝した時……その一方で間違えて進路妨害してしまって失格になったのに、私はすごく嬉しかった。

 辛いことがあっても、自分自身の脚で立って走り続ければきっと良いことがあるって、そう証明してくれた気がして、私も前向きに頑張れるような気がして。

 

 

 

 ――だから、いつかこういうことになるだろうなとは、思っていたんです。

 

 

 

 『さあ、第二コーナーを抜けて向正面の……っと、これは、これはすごい歓声だ!!

 観客席が一斉に、オグリキャップの名を呼んで沸き立っています!!』

 

 

 

 良バ場だったはずのターフが、あり得ない程に走り辛く感じました。

 観客の皆さんの声が、そのまま地面を揺らして細かな地響きとなって、まるでオグリちゃん以外の私達の脚を掴もうとしているかのような、そんな。

 ……そして、そのレース場を満たす声援の中に紛れた一握りの言葉を、ウマ娘の優れた聴力を持つ私の耳は聴き取ってしまうんです。

 

 

 ――今日はオグリのレースなんだよ。クリークは出しゃばんじゃねぇよ。

 

 ――オグリちゃんが勝つところが見たくてわざわざ遠くからやってきたのよ。クリークさんが勝ったって、誰も喜ぶわけないじゃない。

 

 ――なんでオグリのほうがクリークよりうしろにいるの! オグリまけてるの? そんなのやだよ!

 

 

 「……っッ……!」

 

 

 分かっていたんです。

 分かっていた、つもりだったんです。オグリちゃんも私も、何度も記者会見に出て、何度もお互いに敵同士っていう演技をしてたんですから。

 でもそれは、トレーナーさんがそばにいて、チームの皆さんがそばにいて、サブトレーナーさんがいつも一緒にいてくれたから。そうやって皆さんが私を喜ばせてくれるように……私も悪役になることで、みんなを楽しませてあげたかったから。

 全部、自分で蒔いた種なんです。全部私が望んで、望みどおりになって、それで、みんなが……私を嫌っている。

 

 

 (……なのに、どうして)

 

 

 ――どうして。

 クラシックの時とは違って、すべて満たされて、余裕もあって、やりきれると思ったのに。

 どうして、こんなに身体が、重いの?

 

 

 『ま、悪役悪役って、あんまり気負いやしねぇでいこうじゃねぇか!

 そのうちこのイナリさんがオグリも併せて二人とも、ぶち抜いてやるってもんだ!』

 

 

 ゲートに入る前に、イナリちゃんはそう声を掛けてくれました。サブトレーナーさんも、帰ってきたばっかりだった筈なのに、必死で駆けつけてきてくれました。

 でもそれでも、走らないといけないんです。

 

 

 (みんなが、オグリちゃんと私の勝負を楽しみにしてくれている)

 

 

 私には、その義務があって。

 そう……思わないと、脚が前に進まないの。

 

 

 

 (私が走ることで……みんなが笑顔になるのなら)

 

 

 

 

 

 

 ――本当に?

 

 

 

 

 

 (――ダメ……っ!!)

 

 

 

 ストライド走法気味に広げていた歩幅が、無意識に小さくなって。

 いつも息一つ乱れないはずの私の額を、何度も冷や汗が伝って。

 

 

 

 (私は、このレースに、勝って……みんなを)

 

 

 

 ――本当に?

 みんなが望んでいるのは、オグリちゃんの勝利。

 みんなの笑顔のために走るというのなら、私は。

 

 

 

 

 

 (……私は、何を目指して走っているの?)

 

 

 

 

 

 負けるつもりでレースに出走するなんて、私には出来ません。

 でも私が勝ってしまえば、みんなの笑顔を奪ってしまう。

 分かっていた、分かっていたんです、それがそもそもちぐはぐで、それでも結局どちらかを選んで目指す事しか出来ないことを、それを選ぶだけの冷たい覚悟が必要なことを……分かっていた、つもりだったんです。

 でもそれが、こんなに苦しいなんて。

 

 

 

 『……俺は、ついてるから』

 

 

 

 そう言ってくれたサブトレーナーさんの手を、私は振り切ってしまいました。

 ――少しは頼らせてよ。本物のコンビになろう。そう、クラシック級の合宿で、二人で約束した筈なのに、私はそれを破ってしまったんです。

 だから、今更、あの人との思い出に頼るなんて、そんな卑怯なことも出来なくて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ああ、今の私は……本当に、ひとりぼっちなんだわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 (……もう)

 

 

 胸がきゅっと締め付けられるような、克服したと思っていたおかしな重みが、私の脚を全て刈り取ってしまいそう。

 

 

 (もう、限界かしら)

 

 

 何となく、予感がするんです。きっとここで挫けたら、私はもう二度と立ち直れない。運命に抗えなかったトラウマを抱えてこの胸の重みをいつまでも引きずって、そのうち重賞にも出られなくなって……最後には。

 それがスターウマ娘になることの代償。それが期待も信頼も失ってしまった、私の末路。

 

 

 

 

 (オグリちゃん、サブトレーナーさん……ごめんなさい)

 

 

 

 

 ……そんな意識も、朦朧とした頭の中に沈んでいってしまいそうになって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「クリークーーーーーーっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 眩しい程にまっすぐな、そのお声。

 レースはもう終盤です。残り600mを切って、第四コーナーに突入して、辛うじてスタンド席の人影が見えるくらいのその位置で。

 私は、それを見たんです。

 

 

 

 

 

 「……えっ?」

 

 

 

 

 

 お日さまの光を宿して燦々と輝く、暗闇を照らす灯火。

 見間違えるはずもありません、あれは季節外れの、真っ白なすみれの花束。

 それをサブトレーナーさんが、観客席の最前列で、オグリちゃんを応援する人の間に割って入って、必死に空高く掲げていたんです。

 

 

 

 

 ――だって~、名前がかわいいじゃないですか。「すみれステークス」だなんて。

 

 

 

 ――ごめんなさい……私が体調を崩してしまったばっかりに。

 すみれの花、サブトレーナーさんと一緒に見られなかったのは残念ですけれど……。

 

 

 

 ――レースでは小さな花、咲かせますね。私、頑張りますから。

 

 

 

 

 「ぁあ……あああっ……!!」

 

 

 

 あの後調子が悪くなってしまって、サブトレーナーさんに「三つあげる」事が出来なくなって。

 リハビリ中は申し訳なくて言えなかったけれど、いつか、いつかまた私がレースに復帰出来たら、その時はきっと一緒に見に行きたいなって、こっそり思っていて……それからはずっと忙しくて、まだ叶っていないけれど。

 でも、それはまさに今の私が、一番見たかったもの。

 

 

 

 「クリーク!! 勝っちゃいけないなんて、思わなくていいんだ!!」

 

 

 

 両隣の観客の方に押しのけられそうななりながら、必死にサブトレーナーさんはそう叫んでいたんです。

 それは、一見力強いように見えて、まだ自分でも正解を探しているようなそんな響きを持っていました。まだ一人前のトレーナーとしてお父さんに認められていないながらも、それでも自分の思うままに、一心に私を救おうとして、花束を用意して、そして。

 ……そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「君がっ!! 英雄になればいいんだ!!

 オグリキャップすら超える、スターウマ娘に!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は、誰かのために走るのが好きなウマ娘でした。

 というより、誰かのために何かをしたいって気持ちが強くて、普段からいつも誰かを甘やかしちゃうんです。レースの時だっていつでもトレーナーさんやサブトレーナーさん、それに私を応援してくれるファンの皆さんの為にって想って走っていました。

 

 

 

 

 ……()()()の笑顔のために、走っていたんです。

 

 

 

 

 (そうだったんですね、サブトレーナーさん)

 

 

 

 でも。

 それだけが、スターウマ娘の義務という訳では、ないのかもしれません。

 私の走る理由は……それに縛られなくていいのかもしれない。

 

 

 

 

 (誰からも期待されていなくても。勝利を望まれていなくても。

 ……それでも私は、()()のために走ることが出来るのかもしれない)

 

 

 

 今日のレースでオグリちゃんが負けちゃったら、みんな悲しんでしまうかもしれない。

 ――本当に? 私が全力を出し切って、誰もが息を呑んで、つい私達二人ともを応援してしまうようなレースをして……その上でオグリちゃんに勝てたとしたら?

 

 

 

 

 (……そんなレースを、みんなの笑顔を……()()()()()()()()

 

 

 

 

 オグリちゃんを応援する皆さん、私を応援してくれている皆さん、それからイナリちゃん、ヤエノちゃんやアルダンちゃん……みんなを応援してくれる皆さん。私を今日ここに連れてくるべきかを、昨日の夜から眠らずに考え抜いてくれたトレーナーさんに。

 そして、私が不安で押しつぶされそうな時……いつも一緒にいてくれて、いつだって私が本当に欲しいものをくれる、サブトレーナーさん。

 

 

 

 

 

 

 

 ――今日のレースを見てくれているたくさんの、あなた(誰か)の笑顔のために。

 その為なら……私は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(私は魔王にだって――なってみせる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「全くお前は……いい加減大人らしく振る舞ったらどうだ」

 

 

 周囲からの視線がなかなかに痛い。親父に首根っこを掴まれてる事もあって、マジで気まずい雰囲気である。

 それは勿論、先程までの俺の行動がちょっとヤバかったからではあるのだが、それと同時にこのオグリブームの中でたった一人クリークの名を叫んだからでもあって。

 だから、れっきとしたクリークのサブトレーナーである俺は、そんな中でも堂々と胸を張ることにしたのだった……首根っこを掴まれてはいるけれど。

 

 

 

 『……すまない、聞こえているか、サブトレーナー?』

 

 

 

 ――レース前に、クリークと親父が控室から去った後のことだ。

 彼女のライバルであり、この一大ブームを巻き起こしたオグリキャップ本人が俺に尋ねてきたのである。

 

 

 

 『今日のレース、なんとかしてクリークを元気付けてやれないだろうか。

 彼女はきっと今、とても抱えきれないほどの重圧を感じている。……ヒールとヒーローでは立場が違うとはいえ、世間からの目を背負うことがどれだけ負担になるかは、私も分かっているつもりだ』

 

 

 

 ――英雄としての栄誉を賜っているオグリキャップも、決して楽な立場ではないのである。

 普段のトレーニングから私生活にまで、執拗なほどに世間の目に晒され、調子を安定させることに精一杯なのだとか。……酷い時は、夜中に寮室の中に記者が不法侵入してきたことまであったのだそうだ。

 

 

 

 『今のクリークを救えるのはあなたしかいない。

 トレーナーでもなく、サブトレーナーのあなただ。誰よりもクリークと共にいたあなただからこそ、出来ることはないだろうか?』

 

 

 

 ……それからはかなり忙しかった。レースに向かっていったオグリとは対照的にレース場を飛び出して、幸い目の鼻の先にあったショッピングモールへと急行したのだ。

 クリークを元気付けられるもの。それは難しいようで、意外にも限られていた。

 

 

 ――もしレース場の広場にすみれが咲いていたら、二人でお弁当しましょう。ふふ♫

 

 

 なぜなら、基本的に甘やかしたがりのクリークから欲しいものをねだられる事なんて……滅多にないのだから。

 

 

 「どこにもいないと思えば、そんな事をしていたのか。担当のウマ娘が出走する直前に、レース場を出るなんて言語道断だな」

 

 「……なんとでも言えよ。そうするしかなかったんだ」

 

 

 そこで秋すみれの花束を買って、大急ぎで戻って、スタンド席をびっしり詰める観客の間を割って入って、押し退けられそうになりながら……最終コーナーに差し掛かったクリークにそれを掲げたのがついさっきのこと。

 

 

 「ったく、……見てみろ」

 

 

 すると親父は乱暴に腕をふるって俺を前に押し出す。相変わらず禄でもねぇ、と思いながらも呑み込んで、目下最優先のクリークのレースに注目しようとして。

 

 

 

 

 『さぁ、府中の直線500mに入ってきました!! オグリキャップは出て来られるのか……!?

 おっと、ここで内からメジロアルダンがやってきた!! ヤエノムテキもいるぞ!! ヤエノムテキもアガってきた!! イナリワンも、イナリワンも負けていない!!

 ()()()()()()()()()()()()()()()()!! 同期のウマ娘達が大奮闘だ!!』

 

 

 

 

 なんと。

 凄まじい加速度と共に追い上げてくるオグリキャップ……しかしその前に、彼女の同期であるメジロアルダンやヤエノムテキ、そしてイナリワンが怒涛のスパートをかけて立ちはだかっているのだ。

 

 

 

 「分かるか。あれが、ウマ娘だ」

 

 

 

 後ろから、親父の声が降りかかる。

 

 

 

 「自分を証明したい。誰かに恩返しをしたい。彼女達が走る理由は千差万別、その頭数(あたまかず)だけ存在する」

 

 

 

 前に、タマモクロスがクリークに問いかけた事がある。

 アンタらは最高のコンビで、出会った時にもう終わってるやないか。満ち足りてるアンタらに、手に入れたいもんがあるウチらと同じ走りが出来るっちゅーんか?

 

 

 

 

 「……でもな、走っている時に感じることはただ一つ。

 勝ちたい。絶対に一着になりたい。ヒーローもヒールもない、境遇も格の違いも関係なく、その衝動の元に栄光を掴み取りにいく。それが、競走ウマ娘なんだ」

 

 

 

 

 スタンド席はどよめきの渦の中にあった。

 当然だ、オグリキャップの圧勝かクリークとの戦いだと思われていたこのレースが、蓋を開けてみれば同期全員のデッドヒートとなったのだから。

 ……しかしそれは決して、失意によるものではなかった。

 

 

 

 「……ヤエノちゃん、頑張ってね? 皐月賞以来調子悪かったからなぁ……行けるなら頑張ってほしいなぁ……!」

 

 「アルダンちゃんも怪我の時期長かったからな、上手い事軌道に乗ってほしくはある……」

 

 「ちきしょーっ! おらぁ元はといえば江戸っ子だー!! 頑張れイナリーーっ!!」

 

 

 

 場の空気が、彼女達によって書き換えられていく。

 彼女達の走りに、観客が呼応する。オグリ一辺倒だと思われていた人々が、次第に彼女達全員をそれぞれ応援するようになっていく。

 

 

 

 「分かるか。これが、スターウマ娘の力だ。

 スターウマ娘になるとは……こういうことなんだ」

 

 

 

 そして。

 そんな大激戦を繰り広げる彼女達を率いる様に最前線に立つ、未だ尽きる素振りもないスパートを更に伸ばしていくウマ娘。

 

 

 

 

 

 『オグリキャップだ!! オグリキャップがやってきた!!

 オグリキャップがやってきた――』

 

 

 

 

 

 

 一万人もの観客の心を捉える同期のスターウマ娘達の、その信念の激流の先頭に立つ、大いなるせせらぎ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『――――しかし届かない!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――そのウマ娘の名は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『オグリキャップは届かない!!

 オグリキャップの前に立ちはだかったスーパークリークが、史上初の天皇賞春秋連覇だ――――!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時。オグリキャップは見た。

 2000mを全身全霊で走り切ったウマ娘達が精魂尽き果てて、誰もがその場で座り込んだと言うのに……たった一人だけ、疲れた様子すら見せる事なく、その場に敢然と立つウマ娘がいた。

 

 

 

 「……っ」

 

 

 

 「彼女」は振り返り、そして睥睨した。

 ホームストレッチにいたウマ娘だけでなく、それを目撃した観客も一人残らず、本能的に畏れを抱いたという。夕陽の逆光によって浮かんだシルエットの中で唯一ぎらついた、瞳の中に灯る魂の奔流に。

 

 

 

 「……これがッ……!!」

 

 

 

 膝をつく「怪物」が思わず睨みつけた、その「彼女」の姿は。

 

 

 

 

 

 「これが、スーパー……クリーク……!!」

 

 

 

 

 

 

 ――それはまさに、「魔王」だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……とまあ、その後の有馬でイナリが優勝した辺りからかな、クリーク達は『永世三強』って言われる様になって、人気が高すぎて未だにトゥインクル・シリーズでの出走を期待されてるんだよなぁ」

 

 

 我ながら中々の長話だった。

 しかしキングを始めとしたチームメンバー全員が、その話に思いの外聞き入ってくれたみたいで。

 

 

 「す……すごいです……たくさんの観客を前にして、堂々とヒールを演じるだなんて……」

 

 「でもでも、キングもそういう規模のG1レースをずっと走ってたんだよね。一流ウマ娘って大変だなあ」

 

 「なるほど! そういった苦境を乗り越えてこそ、今の屈強なクリーク先輩がいらっしゃいますのね!!」

 

 「カワカミさん……あんまり先輩を『屈強』呼ばわりするのはどうかと思うわよ……?」

 

 

 改めて思い起こしてみると、当時の俺はなんというか若すぎてちょっと小っ恥ずかしい。いやキングの時もそんなに落ち着いていたとは言えない振る舞いが多かった自覚はあるのだけれど、今ではああいう無茶な行動を懐かしく思うだけの余裕の様なものがある。

 見てみればクリークも、うふふっ、と微笑みながらもどこかくすぐったそうだ。

 

 

 

 「……そっか、スターウマ娘って、そんなに大変な事なんですね。

 そんなのをずっと背負ってるマックイーンって、やっぱりすごかったんだなぁ……」

 

 

 

 一方で、どうやらそのクリークの話を聞いて、ライアンは少し落ち込んでしまった様だ。

 無理もない、と思わなくもない。彼女はあの宝塚記念でマックイーンと肩を並べる存在になる事を宣言しており、さらに年末はスターウマ娘の頂点とも言えるオグリとの対戦を控えているのだ。

 

 

 

 「……ライアンちゃん?」

 

 

 

 でもな、ライアン。

 俺がクリークの話で言いたかったのは、そういうことじゃないんだ。

 

 

 

 「確かにスターになることってすっごく大変です。私みたいに悪者扱いされちゃうこともありますし、オグリちゃんだって当時はみんなの期待を背負って辛いこともありました」

 

 

 

 実際、オグリキャップはあれから長期のスランプに陥ってしまった。

 それがキング達黄金世代との直接対決が実現しなかった理由だ。しばらくはクリークやイナリと三強対決を繰り広げていた彼女だったが、その後数年レベルでの体調不良を抱えてしまい、周囲の期待に応えられない歯痒さに随分悩んだ事もあったそうだ。

 

 

 

 「でも、ライアンちゃん。

 みんなの期待にお応えする。それだけが、私たちが出来る事じゃないんです」

 

 「……えっ?」

 

 

 

 期待に応じる。それだけだと、あの時の彼女の様に、何かしらの理由で誰からも期待されなくなってしまった時に……潰れてしまう。

 そうだよな、クリーク? 「魔王」の裏にあるのはいつだって、誰かの為に走りたい、そんな誰よりも優しいクリークの純真無垢な心(ピュリティオブハート)だった。

 そんな献身的な想いが、勝ちたいって言う根源的な欲求と結びつく。そんな「答え」を、あの時彼女は見出していた。

 まさにあの瞬間に、スーパークリークというウマ娘は完成を迎えていたのだ。

 

 

 

 「スターウマ娘に出来ること、それは――」

 

 

 

 

 

 

 「こんばんはー! セイちゃんのご登場でーす!」

 

 

 

 その時。

 突然チーム部屋のドアを開けたのは、ここ最近脚のリハビリの為にうちに通ってもらっているスカイだった。

 

 

 

 「んもう、スカイさん!

 せっかく良いところだったのに、邪魔しないでくれるかしら!?」

 

 「そう言わないでよキングー、除け者にされちゃったら悲しいなぁ、グスン。

 セイちゃんはただ、ちょっと気になることがあって報告しに来ただけですよー?」

 

 「……報告? 何のことだ?」

 

 

 

 なんだか含みのある言い方だ。気になって俺はスカイに問いただしてみる。

 ……すると。

 

 

 

 「いや、なんかマックイーンさん、もうトレーニング終了時刻ギリギリなのに、ずっと通しで走ってるみたいだから。

 ……あれ多分、無理しちゃってると思うんだよねー」

 

 

 

 ガタン、と椅子から立ち上がる音。

 振り返るまでもない、ライアンだ。

 

 

 

 「マックイーン、まさかあのこと気にして……!!」

 

 

 

 ……理由は、なんとなく察することが出来た。

 一日前の、今年の秋天。かつてクリークがオグリに勝ったそのレースに出走したマックイーンは。

 

 

 (期待を背負う、か)

 

 

 先程も話題に上がった通り、マックイーンはその為に走るウマ娘だ。

 メジロの筆頭として、メジロの悲願を達成する為、それを待ち望むファンの人々の期待に応える為。

 その為の努力を、今の今まで絶やさずに積み上げてきた。

 

 

 

 「ごめんなさいっ! あたし、ちょっと見てきますね!

 教えてくれてありがとう、スカイ!」

 

 

 

 ……そんなライアンを、クリークは目を細めて見つめていた。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「……!! ……!!」

 

 

 ――夕食もそこそこに、俺は駆けだしていったライアンの様子をこっそりと見守っていた。

 既に日は沈み、グラウンドはナイター環境である。その誰もいない学園のコースの真ん中で、制服姿のライアンとジャージのマックイーンが何かを話し込んでいる。

 

 

 

 「――あらあら~。トレーナーさん、こんなところに~」

 

 「……あれ、君も来たのか?」

 

 

 すると、背後からそんな声が掛けられる。振り返ればやはりそこにいるのは、食事の後片付けの為に再びエプロンを着たクリークだった。

 

 

 「何言ってるか、分かる?」

 

 「女の子の秘密は、探っちゃめっ、ですよ?」

 

 

 ……そういうのとはまた違う気がするのだが、恐らく二人の会話が聞こえてるクリークが言うのだから、余計な詮索はよすとしよう。

 いずれにしても、俺にはどうしようもない問題ではあるのだ。

 

 

 「うふふっ、二人とも、とってもいい子です♫

 トレーナーさんは安心して、サポートしてあげてくださいね?」

 

 「……君がするように、かい?」

 

 「そんな~、私はお世話してあげるのが好きなだけですから~」

 

 

 そうは言うが、ライアン達を見つめるクリークの視線は、年頃の少女のものとは思えないほどに慈愛に満ち溢れている。

 オグリとの対決を控える二人、という特殊な状況ではあるが、それ以前にクリークはチームメイトに対して並々ならぬ愛着を持っているのが手に取るように分かる。

 

 

 

 「……トレーナーさん」

 

 

 

 ――しかし。

 そうして今まで若い新星ウマ娘達を見守ってきた彼女は今、ようやく自分自身の道を歩みだそうとしていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 「私、今年いっぱいでトゥインクル・シリーズを引退しようと思っています」

 

 

 

 

 

 「……うん。そうだと思ってたよ」

 

 

 オグリの電撃引退に、イナリも今年一杯と決めていたようだ。

 クリークのその申し出は、まさにあってしかるべきものであった。

 

 

 「ドリームトロフィーリーグには移籍する?」

 

 「はい~。暫くはそちらで走って、自分の中で一区切りついたら……競走ウマ娘を引退しようと思います」

 

 「……そっか」

 

 

 「永世三強」の三人は、通常の競走ウマ娘と比較して明らかに移籍のタイミングが遅すぎる。

 ――それはつまり、そのまま彼女達の選手生命の短さにも直結する。数年ですぐに時間切れということはないが、それでも長く走っていれば衰えは生じるものだ。その後の将来を視野に入れるのは、彼女達に限っては至極妥当なことだった。

 ……だから、俺が掛けてあげるべき言葉は、きっと。

 

 

 

 

 

 

 「今までお疲れ様。頑張ったな、クリーク。

 出会ってくれて、本当にありがとう。君は、俺にとって最初で最後の……特別なウマ娘だった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――もしもそのウマ娘が、その男に出会わなかったら。

 

 

 

 

 

 「トレーナーさん。

 もしあの時、体調を崩すことがなかったら。……私はあなたに、『三つあげる』こと、出来たと思いますか?」

 

 

 

 

 

 ――もしもその男が、そのウマ娘に出会わなかったら。

 

 

 

 

 

 「……ああ。きっと……きっと、取れていたさ。

 俺が今の俺だったら、必ず君に三つあげられたはずだ」

 

 

 

 

 

 ――天才を、天才にしたウマ娘。

 

 

 

 

 

 「あらあら、すっかり逞しくなって~。

 でも……私はもう十分、い~っぱいトレーナーさんから、大事なものを頂いたんですよ?」

 

 

 

 

 

 ――スーパークリーク。

 

 

 

 

 

 「……私はそんな、あなたみたいな――素敵なトレーナーに、なってみたい」

 

 

 

 

 

 ――本当の出会いなど、一生に何度あるだろう。

 

 

 

 

 

 「……君にはいっつも、苦労を掛けてばっかりだったな。

 それでも、そう言ってくれるなら……俺は保証する。

 

 

 

 

 

 

 ――それはきっと、君にとって黄金の道だ」

 

 

 

 

 

 



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メジロを創る者 前

 

 

 「……よし。体調は大丈夫そうだな」

 

 

 控室から連絡通路を経て、地下バ道に出て。

 そこで俺達チーム全員が、今日のレースに出走する勝負服姿のライアンを見送っていた。

 

 

 「あとは、気持ちの方だけど……どう、やれそう?」

 

 「ぉぇ……いやもうホント……メリー有馬記念……death……」

 

 

 ――全然ダメだった。

 予想以上に気負ってしまっているようだ。それこそクリスマスのあたりからそわそわしているとは思っていたが、元々がガラスのハートを持つライアンである。

 

 

 「だってあのオグリさんのラストランですよ? そうでなくてもスター勢揃いの大変なレースなのに。

 その上、日本中のウマ娘ファンがみんなオグリさんの勝利を望んでて……それを叩き潰して勝たなきゃいけなくて。

 心臓に、ちっちゃいダンプを乗せてる感じです……ぉぇぇ……」

 

 

 これはちょっとマズいかもしれないな。どうにか持ち直さないと勝負どころじゃなくなってしまう。

 これまでの大舞台で彼女もプレッシャーには慣れてきたように思っていたが、確かに言う通り今回の有馬記念は、ただのG1レースとはまるで訳が違う側面がある。

 なにせキングやウララの時のおよそ1.5倍強、十七万人以上の観客が今日、この中山レース場に押しかけているのだ。

 

 

 

 「……でも」

 

 

 

 そう思って、トレーナーとして何か言ってやろうとしたその時。

 

 

 

 「でも、あたしは勝ちたくて、ここに来たんだ」

 

 

 

 俯いていたライアンが、顔を上げた。

 額には既に汗が浮かんでいて、目をそわそわと泳がせながらも……それでも唇を噛み締めて、彼女は顔を上げていたのだ。

 

 

 

 「あたしには、()()()()()()()()()()()があるんだ。

 オグリさんがほんとうに伝説になる前に、あたしは証明しないといけないんだ――努力で、伝説は超えられるって」

 

 

 

 まるで生まれたての小鹿のように震えながら、その瞳に光を灯して。

 いつの間にか、ライアンは自力で持ち直していたのである。数年前まではスターの眩しさにいつも目を眩ませていた、あのライアンが。

 

 

 「……強くなったな。ライアン」

 

 

 ……情けないことに、結局俺の口からはそんな何の考えもない感嘆の言葉が漏れるのみだった。

 しかしそれは、今の彼女がもっと自覚するべき事なのだろうとも思う。

 

 

 

 「ライアン。君は十分立派になった。

 メジロライアンというウマ娘は、もうスターなんだ。こんなレースでだって、君に夢を見て応援する人が絶対にいる」

 

 

 「――だから、絶対に最後まで諦めちゃダメよ。ライアン先輩」

 

 

 

 そんな俺の台詞を継いで、キングが不敵に笑った。

 

 

 

 「私は知っているんだから……あなたが、本当は心の中でずっと、誰よりも一流を目指していたことを」

 

 

 

 スターウマ娘になりたい。そんな本心に彼女自身が気付いたのは今年になってからだ。

 だがその前から、劣等感に苛まれながらも彼女は決して、ターフを走る事を辞めようとはしなかった。何度挫折を味わっても、絶対に競走ウマ娘の道を諦めなかったのだ。

 ……それは心の奥底ではずっと、変わらずに一番星を目指していたから。

 

 

 

 

 「キングちゃんのいう通りだよ! わたし、ずっとライアンちゃんを見てきたんだもん!」

 

 

 

 

 続けて。

 キングと俺の間にいる桜色の髪の「彼女」が、車椅子に腰かけたままえっへんとふんぞり返りながら、満開の花びらのような笑顔をライアンに向けた。

 

 

 

 「……ウララちゃん」

 

 「リハビリがすっごくたいへんなとき、いっつもライアンちゃんのこと思い出してがんばってたんだ!

 ライアンちゃんの走ってるところみるとね、すっごくワクワクするの!」

 

 

 

 前回の有馬記念で大怪我を負ってしまったウララは、この一年の間病院にて過酷なリハビリ生活を送っていた。

 はじめの頃はあまりの苦しさに泣きだしてしまうことも多かった。キングも随分と苦心していたようだったが、そんな時ウララが心の拠り所にしていたのが同僚の出るレースの鑑賞……つまりはライアンのレースだったというのだ。

 それから何か月もかけて、漸く数日前に退院かつ学園でのリハビリ継続が認められて、車椅子から数分間程度なら立ち歩くことが出来るようになって……その間、彼女はクラシック三冠から春天や宝塚記念までのライアンのレースを何度も見返していた。

 ――ライアンの走りは間違いなく、ウララに夢と希望を与えていたのだ。

 

 

 

 「……うふふっ。ライアンちゃんは本当に、とってもいいこですね♫」

 

 「ちょ、わわっ、クリークさん!?」

 

 

 

 最後に。

 この三年間、誰よりもライアンと共に走り、誰よりもライアンを案じ続けたクリークが前に出て、突然彼女の身体をひしと抱きしめた。

 

 

 

 「不安ですよね。脚が、とっても重いですよね。

 自分が本当にひとりぼっちになったみたいで、寒くて怖くなっちゃいますよね」

 

 

 

 ――後に聞くところによると、この時クリークは既にライアンの()()について気が付いていたそうだ。

 単に自分のスター性の証明や、オグリキャップという伝説と戦う重圧に留まらない……そんな、メジロライアンというウマ娘が背負う物語について。

 

 

 

 「でも大丈夫。ライアンちゃんにはちゃんと……一人で立ちあがるだけの力があります」

 

 

 

 だから、彼女は「私達がついている」とは決して言わなかった。

 俺達っていう、応援して当たり前な存在にライアンが頼ってしまわないように。応援する誰かがいなければ走れない……そんな風になってしまわないように。

 期待に応えるだけでない、もう一つのスターウマ娘の力を教えるために。

 

 

 (……ほんと、あの時の俺ときたら)

 

 

 俺は、ついてるから。かつてそうクリークに言ってしまった自分の未熟さに恥じ入るばかりだ。

 

 

 

 

 

 「みんな、ありがとう。ありがとうございました」

 

 

 

 

 

 ――クリークから離れたライアンは、一度ぐぐっと両手の拳を握りしめると、ぶるぶるっとその場で全身を震わせる。

 されどキングも、ウララも、クリークも、きっと察しただろう。それが恐怖からくるものではない事に。

 

 

 

 「あたしは、あたしを信じます。

 あたしを信じてくれる、全てが全部詰まった、この身体を!」

 

 

 

 それは、武者震いだった。

 この後のレースを待ち望む、ウマ娘の闘争本能を全面に押し出した、魂の発現だった。

 

 

 

 

 「……マッスル! ハッスル!! 行ってきます!!」

 

 

 

 

 ……最後がそれなのはちょっとどうかと思うけど。

 けどまあ、そう気合いを入れてその両脚で歩んでいくライアンには、もう迷いは微塵も感じられなかった。

 

 

 

 

 「はろはろーっ! ライアンちゃーんっ!!

 今日は頑張ってなのーーっ!!」

 

 

 

 

 レース場から聞こえるアイネスの声にはにかみながら応じて、その先に立つ不安そうなマックイーンに力強く頷いて。

 そして、さらにその先で佇む、葦毛の怪物の眼光を堂々と受け止めながら……彼女は、十七万の観客に向けて頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……今日は、よろしくお願いしまぁぁす!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――人はそれを、スターの風格と呼ぶ。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「クリーク、どこ行ってたんや! もうレース始まっとるで!」

 

 「バカだなぁタマ公、クリークはライアンとこのチームなんだから、そっちに行ってたに決まってんだろ?」

 

 「なんやて~っ!? バカ言う方がアホやちゅうねん、ベロベロバァァ!!」

 

 

 ライアンを送り出して、その後チームメンバーと別れたクリークは、その足で観客席の一角へと足を運んだ。

 

 

 「あ……あの、みんなが見てますから、やめてくださいよ~。

 それにしてもタマちゃんもイナリちゃんも、昔から全然変わりませんね~」

 

 

 ――イナリワン。そしてタマモクロス。

 あの秋天の前年の春天と宝塚記念を勝利したイナリワンはその後、クリークを二着に抑えて有馬記念をレコード勝ちして、その潜在能力たるやオグリやクリークを凌ぐとされる破天荒ウマ娘としての人気を得るに至っていた。

 ……そして、そんな永世三強の壁として当時立ちはだかっていたのが、「白い稲妻」ことタマモクロスだ。トゥインクル・シリーズでのキャリアの後半において怒涛の八連勝を飾ったその強さたるや、有馬でオグリが優勝し二着に甘んじるまで、その同じ葦毛の怪物を二度も下したほどである。

 

 

 

 「それにしても、今日のオグリは大丈夫なのか? ここんとこスランプ続きだったじゃねぇか?」

 

 

 

 輝きを失ったヒーロー。落ちた偶像。かつての怪物は今、そう呼ばれることもあった。

 最後に出走した秋天では六着、ジャパンカップではまさかの十一着。それから数年の間さらに出走そのものすら厳しい程の体調不振に陥ってしまったオグリを、最盛期を過ぎたと評する声も少なくないのである。

 日本中を虜にした多大な功績を持ちながら、しかしその状態でドリームトロフィーリーグに移籍しても復帰は絶望的……そんな状況の中で、オグリと彼女のトレーナーは時間をかけてコンディションを整え、トゥインクル・シリーズにて最後に華を飾ったうえでリーグを移ることを決めていた。

 そんな彼女のこの有馬記念での引退宣言が、どれほどの重みを持ったものであるか。

 

 

 

  「どうでしょうか~。オグリちゃん、今日の為にすごく頑張っていたみたいですから……」

 

 

 

 ――そんなオグリをクリークは、好敵手としてイナリと共に誰よりも近い場所で見続けていた。

 きっかけは過激なファンやメディアによる過剰なプライバシーへの干渉だったという。朝から夜まで眠る間もなく新聞記者や撮影スタッフの密着取材が介入し、もともとマイペースだった筈の彼女の心はいつの間にかカメラを向けられるだけで気分が悪くなる程に蝕まれてしまった。

 ……しまいには、食堂の食材を食べ尽くすことで有名だった彼女が、食事が一切喉を通らずに栄養失調寸前になるまで衰弱してしまったのを、クリークは何度も何度も介抱して、少しずつ健康状態や精神の安定を取り戻していったのだという。それが功を奏してここ二、三年は、また普段通りの大食漢に戻ってきたのだとか。

 

 

 「それでも、オグリちゃんはオグリキャップなんです。

 あんな事があっても、決して諦めないで、復帰を期待してくれているみんなに応えたいって……とっても、いいこなんです」

 

 「そやな。ウチもそう思うで。――けどな」

 

 

 二人の合間に入って、ターフに目を向けたクリークに問いかけたのは、タマだ。

 

 

 

 

 「それにしては、アンタは随分とライアンの方に入れ込んどるみたいやないか?」

 

 

 

 

 口元に薄ら笑いを浮かべながらそう指摘する彼女には、もう先程までのじゃりン子の面影はない。

 そんなタマの静電気のように鋭い視線を、クリークは柔らかい笑みを浮かべたまま受け止めていた。

 

 

 

 「てっきりクリークはライバルのオグリの方を応援する思うとったわ。ライアンも同じチームメイトやさかい、とても放っとけへんかったんやろうけど」

 

 「……だってよ? クリーク?」

 

 

 

 イナリは何かを知っているように、にやりと笑う。

 とはいえ彼女も、初めにクリークから()()()()()()()()()()()()と頼まれた時は驚いたものだった。少なくともオグリの苦難の時を理解しているクリークなら、てっきり「ぜひ最後に三人でまたレースをしよう」と考えていると疑わなかったのだ。

 ――この数年間、一年の半分ほどを地元の大井トレセン学園にて過ごしているイナリは知らなかったのである。長いこと同期や後輩たちに見せていなかった本気の走りを、今年のクリークは堂々と解禁し、ライアンと合同でトレーニングに励んでいたことを。

 ……しかも自分が出走する為ではない。ライアンの練習相手となる為だけに、である。

 

 

 

 「うふふっ。ちょっと違いますよ~。

 私はただ、オグリちゃんにも、ライアンちゃんにも、最高のレースをして欲しかっただけなんです」

 

 

 

 「永世三強」が、未だにトゥインクル・シリーズに留まっている理由。

 一般的にはそれは、オグリの復帰に合わせた三強の「最後の対決」が望まれていたからであった。現時点でこの三人が一つのレースに集結した事例は、あのクリークが勝った秋天以外に存在しないのである。

 ……しかし。彼女たち自身の問題としてそれを解釈するならば、それは純粋な友情の問題だった。大事な友達であるオグリを残して自分達だけ一つ上の舞台に立つという選択肢が、二人にはなかったのだ。

 そんな中で、イナリワンは前述した地元の大井レース場に出向いて、精力的にイベントやレースに参加して地域を大いに盛り上げていた。その間も欠かさずトレーニングを積んで、いつオグリが戻ってきても全力で戦えるようにコンディションを整えていたのだ。

 一方でクリークは中央トレセン学園に残り、自己鍛錬と並行してチームメイトのサポートに徹してきた。競走ウマ娘として経験豊富な彼女は後進にとって頼れる存在になることは確実であり、実際に世代の中心を担ったキングやウララ、そしてライアンの成長に多大な貢献をもたらしていた。

 

 

 

 

 「……それはもしかしたら、今日の為のものだったのかもしれません」

 

 

 

 

 タマは眉を上げて、かつてのオグリの戦友二人を見やった。

 イナリは少しだけ悔しそうだった。当然だ、彼女の数年間のトレーニングはまさに今日の為にある筈のものだったのであり、オグリの引退レースに自分がいないという事実はとてもじれったいに違いなかった。

 しかし。そんな表情の中にも、どこか納得したような色がある。その緑色の瞳にオグリキャップを始めとした選手達を映しながらも、それを良しとしないような感情はどこにも見当たらなかったのだ。

 ――そして、クリークは。

 

 

 

 「……今のオグリちゃんに必要なことって、私達とのレースじゃないと思うんです。

 私達は、ドリームトロフィーリーグに移籍しても、いつでも勝負をすることができます。でも」

 

 

 

 クリークは、その目を眩し気に細めていた。

 オグリキャップを、メジロライアンを、その他のメジロマックイーンを始め出走している全てのウマ娘を、まるで大きな愛で包み込んでしまうかのような、そんな。

 

 

 

 「でも、オグリちゃんには教えてあげたかったんです。

 あなたは孤独な怪物なんかじゃない。ただ一人のヒーローでもない。だってほら……こんなに、素敵なスターウマ娘ちゃん達が、私達の後輩にはい~っぱいいるんです」

 

 

 

 後輩の成長を見守ってきたクリークは気付いていた。

 キングが、ウララが、そして彼女達を取り巻く多くのウマ娘が。程度の差はあっても、そうして多くのウマ娘が、自分たちに引けを取らない位のドラマを生み出して、素敵な歴史を刻んていることに。

 ……自分達だけが、世間の期待を背負う存在ではなくなっていることに。

 

 

 

 「オグリちゃんはずっと頑張ってきました。カサマツにみんなに良い知らせを伝えたいって、日本中のファンの期待に応えたいって、プレッシャーを一身に背負って。

 ……でも、それがいつの間にかオグリちゃんを縛り付けちゃっているんじゃないでしょうか。自分がいつも頂点に立っていなければいけなくて、後を追ってくるウマ娘さんから王さまの立場を防衛しなきゃダメ……そんな風に」

 

 

 

 

 

 だからクリークは、オグリに対しての最後で最高の刺客を、自らの手で育て上げることに決めたのだ。

 ――メジロライアンという、純朴な心を持つ未完の大器を。

 

 

 

 

 

 「デビューしたばかりの娘から、スターウマ娘まで……私達はいつだって、挑戦者。

 それをオグリちゃんに思い出して欲しいんです。私が昔あこがれた、地方からやってきて重賞を総なめにした、あの頃の真っ直ぐなオグリちゃんを」

 

 

 

 それに必要なのは、オグリ自身が自らに匹敵すると認めるほどに強いスターウマ娘だった。

 自分がいなくても、トゥインクル・シリーズは廻っていく。それを証明出来なければ、一度は伝説となってしまったオグリの抱える呪いを解くことは不可能だ。

 ……かつて頂点を極めながらそれに憑りつかれるオグリキャップと、マックイーンを超えて頂点を目指すメジロライアン。

 

 

 

 「だから、私はどちらを応援したいという訳ではなくて。

 ――みんなに、笑顔になって欲しかっただけなんです」

 

 

 

 

 

 今、ここに舞台は全て、クリークの導きのもとに整っていたのだ。

 

 

 

 

 

 「大した奴やな、アンタは」

 

 

 

 タマモクロスは口角を吊り上げる。

 

 

 

 「……ほんと、レースはともかく、こういうとこは敵やしねぇよ」

 

 

 

 イナリワンも何度も首を縦に振る。

 その三人の周りだけ、時が止まったようだった。まるで彼女達が第一線で活躍をしていた、あの頃に戻ったかのような。

 ……かつて、運命の渦の中でもがいて勝利を掴んだ、あの頃のような。

 

 

 

 (ライアンちゃん……あなたなら、大丈夫)

 

 

 

 しかし。バトンは既に、彼女たちの手から離れている。

 そして今それを持っているのは……目の前のターフを走るウマ娘達だ。

 

 

 

 

 

 

 (あなたならきっと……伝説を、超えられるわ)

 

 

 




 
※再び前後編に分けてしまうことを申し訳なく思っているようです。
※ライアンのメジロとしての勇姿を楽しみにして頂ければ幸いです。

 


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メジロを創る者 後

 

※メジロライアンさんまで有馬記念に挑むとのことです。


 


 

 

 「マックイーン!!」

 

 

 夜の練習用コースは、怖いくらいに静かだった。

 その中を、マックイーンの駆ける音だけが鈍く鳴り響いている。

 

 

 「マックイーン!! 無理しちゃ駄目だよ!!

 そんな無茶に走りこんだら、怪我しちゃうよ!!」

 

 

 あたしの記憶では、マックイーンは今日の午後練習の初め……つまり午後四時前からこのコースを使っていた筈だ。

 もしそのままなのだとしたら、かれこれ五時間近くぶっ続けで走り込んでいたことになる。

 

 

 「……ライアン」

 

 「ほら、もう今日はお終いにしよう? イクノさんも心配してるよ、まずはこれ飲んで……」

 

 

 ――マックイーンは汗だくで、普段の優雅さがまるで引っ込んでしまっていた。解けた髪の毛が顔の半分を隠してしまっていて、限界寸前だったのかその場にじっと立っていることもままならない程にふらついていた。

 ……だけど。慌ててドリンクを手渡して、その髪の毛をタオルで拭いてあげようとした私の手を見るや否や、彼女は。

 

 

 

 「……放っておいて、下さいまし!!」

 

 

 

 水筒がターフの上に落ちて、ゴトリと鈍い音が響き渡る。

 マックイーンは癇癪を起こしたみたいに、あたしを思い切り振り払っていた。

 

 

 

 「私は、こんなところで立ち止まっては居られないのです!!

 私が、私が未熟であったばかりに、あんなっ……!!」

 

 

 

 ……一日前の、秋天で。

 かつてクリーク先輩がオグリ先輩を破ったそのレースで、マックイーンは……他の娘の進路妨害をしてしまったために、十八着への降着処分を受けてしまった。

 一番人気だったマックイーンが起こしてしまったまさかの事態は、一日経った今も世間を揺るがしてしまっているらしい。わざとでない事は明らかで批判するような声が少ないのは確かでも、メジロ家の評判や自分の経歴に明らかなひびを入れてしまったと、マックイーンなら考えてもおかしくはない。

 

 

 「……マックイーン」

 

 「多くの方の期待に応えられず、一緒に出走した方々を危険に晒してしまった。次は必ず、必ず勝って、何としてでも信頼を取り戻さなければいけないのです。

 問題ありません、走る準備は整っています、だから」

 

 「駄目だよ、絶対にダメだ、そんな状態でまともにトレーニングが出来るわけない!

 やめないなら、あたしは君のトレーナーに言わなきゃいけなくなる……!」

 

 

 だからと言って、今のマックイーンを見逃して良い理由になんか、なる訳ない。

 過剰な身体への負荷は、トレーニングにおいては逆効果。競走以前に筋トレでも常識だ。でも今のマックイーンがやっている事は大局的なプランもなければ効率の良いメソッドもない。ただ身体を痛めつけて気を紛らわすだけの、らしくもない暴挙なんだ。

 

 

 

 「……貴方とは」

 

 

 

 ――だけど。

 その時、まるで発作のようにマックイーンから飛び出した言葉が、あたしの心に深々と突き刺さるのを感じた。

 

 

 

 

 「貴方とは違うんです、ライアン……!!

 メジロの名に懸けて……私は最強のウマ娘の座に……居続けなくてはならないのです……!!」

 

 

 

 

 ……刺さった言葉の棘が、胸の奥でじんわりと溶ける。

 そうだよね、マックイーン。君はずっと、その重圧を一人で抱えてきたんだ。

 

 

 

 「私は、貴方のように真っ白では居られない!!

 貴方のように、自分を簡単にさらけ出す事なんて出来なかった! みんなが私に、それぞれの理想を重ねて、そんな中で自分の心配なんてしていられなかった!!

 ……私は……そういう生き方しか……選べなかったのよ……!」

 

 

 

 その両目からは、見たことがない程に涙が溢れていて。

 分かってるよ。優しい君にあたしを責めるつもりなんて、本当は全くないことを。ただ君は……実はずっと苦しくて、辛いんだって、誰かに分かって欲しかっただけだ。

 ――でもその椅子は本来、君よりちょっとお姉さんのあたしが座る筈だったものだ。あたしがこんなじゃなければ、君はメジロの因縁を背負わなくていい運命だった。

 

 

 

 「……ごめんなさい。こんな事を言うつもりは」

 

 「あははっ。そういうこと、もっと言ってくれてもいいと思うけどな」

 

 

 

 我に返ったマックイーンが、俯いて謝った。そんな彼女に今度こそ頭からタオルを掛けて、肩を貸して震える脚を支えてあげる。

 ……まるでこの世界にマックイーンとあたししかいないような、そんな夜だった。だからきっと、マックイーンもうっかり口を滑らせちゃったんだね。

 

 

 

 「……ねぇ、マックイーン」

 

 

 

 だから、あたしも思い切って、言ってみることにするよ。

 普段みんなの前じゃ、恥ずかしくて言えないけど……それでもこれからのあたしには、必要なこと。

 

 

 

 「クリーク先輩が言ってたんだ。

 スターウマ娘の持つ役割って、期待に応える事だけじゃないんだって」

 

 「……ええ?」

 

 

 

 すっかりしおらしくなってしまったマックイーンが、呆気にとられたみたいに尋ね返す。

 

 

 

 「みんなの期待に応えなきゃって、それだけだと、何か失敗したり悪役になっちゃったりした時にそれが全部負担に変わっちゃう。それじゃ、本来の力を出すことは出来ない。

 ――今マックイーンは、そうなりかけてるよね?」

 

 

 

 かつてのクリーク先輩は、それに押しつぶされかけていた。

 ……それを跳ね退けられたのは、多分その()()()()()()()()()()()()()に気付くことが出来たからだ。

 

 

 

 「あたし、今やっと分かった気がするんだ。もしかしたら、それを君に見せることが出来るかもしれない」

 

 

 

 今まで逃げてきたものに、立ち向かう時が来たんだ。

 燻っていたあたしが立ち直るのを信じて待っていてくれたマックイーンに、今度はあたしが、道を示してあげるべきなんだ。

 

 

 

 「……だから、今年の有馬記念、一緒に走ろう。

 それで、あたしを見てて欲しい。きっと、君に夢を届けてあげるから」

 

 

 

 泣き腫らしたマックイーンの顔は、まるであどけない少女の様で。

 そう、そのままで。プレッシャーやメジロの仮面の剥がれたその顔に、新たな色を与えるのはきっと、あたしの役目。

 有馬記念で、あたしはオグリ先輩を超えるウマ娘になる……それまでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それまでは、あたしが――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『さあ、あと800m、いよいよ勝負所に差し掛かった!!

 互いに牽制し合っている状況、抜け出すのはどの娘か!?』

 

 

 

 ――伝説のスターウマ娘とのレース進行は、思ったよりもスローペースだった。

 逆に言えば全員が一つに纏まっているので、もし宝塚記念の前までのように後方待機をしていたらかなり危なかったかもしれない。クリーク先輩が提案してくれた「積極策」のおかげで今、あたしは先頭から四番目の位置を抑えられている。

 ……でも、マックイーンは今日はあたしの前にはいなかった。多分初めの位置取りに失敗しちゃったんだろうな、あの夜のあと彼女はジャパンカップでも四着に留まって、未だに調子を戻せていないみたいだから。

 

 

 (そんなマックイーンに、あたしが背中を見せる番なんだ。……クリーク先輩も、多分分かってたんだろうな)

 

 

 あたしはマックイーンを超えるスターウマ娘になりたくて、そんな中オグリ先輩の引退レースであるこの有馬記念に出走する決意をして。

 でもクリーク先輩は、それ以上の、メジロを背負っている今のあたしの事になぜか気が付いていたみたいで……それでも何も言わずに、チームのみんなと一緒にひとりのスターウマ娘として送り出してくれた。

 

 

 (その理由はきっと、あたしに気付いてほしいから。

 マックイーンや今のオグリ先輩とは違う、かつてのクリーク先輩が見出した「答え」を、あたしにも知って欲しかったから……ですよね?)

 

 

 ――だったら、ここからは答え合わせの時間ですね、先輩……!

 

 

 

 

 『ここで若干メジロライアンが動いた!! 持ち味のスパートが炸裂するか――!?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時。

 あたしには聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 ――ドクン。

 

 

 

 

 

 

 『さあ、澄み切った師走の空気を切り裂いて、最後の力比べが始まり……っ!?』

 

 

 

 

 

 

 ――ドクン。

 

 

 

 

 

 (これは……っ!?)

 

 

 

 

 場の空気が、一変した。

 まるで獰猛な猛獣が、自分を追いかけているような、そんな……殺気にも近い、勝利の鼓動。

 ……続いて、思わず脚を躓かせてしまいそうになる程に大地を揺るがす、爆撃の様な踏み込み。

 

 

 

 

 

 

 『なんと、ここでオグリが!! オグリキャップが上がっていった!!

 不調続きだったオグリキャップの末脚が冴え渡ります!!』

 

 

 

 

 

 

 ――これが……オグリキャップ……!!

 五感が、あたしに危険信号を送っている。その足音に、風切る圧に、まるで命を刈り取られてしまうと訴えるかのように全身が助けを呼んでいる。

 これが、葦毛の怪物の威圧。スターウマ娘の頂点に君臨する、伝説の走り。

 

 

 (クリーク先輩は……こんなのと、やりあってたなんて……っ!!)

 

 

 一人だけ、圧倒的に格が違う。

 見なくても分かる。あたしの背後の選手達は一人、また一人と……怪物に喰われ始めている。

 

 

 

 

 『さあ第四コーナー!! オグリだ!! オグリが行った!!

 さあ頑張るぞオグリキャップ!! オグリ先頭に立つか!!』

 

 

 

 こんなのに、勝てるわけがない。

 心の片隅で、弱い自分がそう音を上げる。……正直に言うと、そんなあたしの事も嫌いじゃないんだ。素直に弱音を吐いてくれるおかげで、少しは冷静になれる。

 確かに、あまりにもレベルが違うかもしれない。経験も、実績もまるで届かない。スランプだって言われていた筈がここまで調子を戻す、そんな覚悟の強さをあたしは知らない。

 

 

 

 「――――っ!!」

 

 

 

 ……聞こえた。声にもならない、微かな悲鳴。マックイーンが、オグリ先輩に差されたんだ。

 あれだけ高い壁だったマックイーンが、ものの数秒でやり込められちゃったんだ。あたしとは、バリキが違いすぎる。

 

 

 

 「……だから」

 

 

 

 十七万人の大歓声。

 その中で……競り合うのが、「本物」と戦うのが、どうしようもなく怖い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――オグリキャップ復活、ラストラン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ……だけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――神はいる。そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「神様が、なんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 ……だけど。

 これは神様への叛逆。伝説に抗う、あたしの物語。

 ――それが、クリーク先輩が教えてくれた、スターウマ娘のもう一つの力。

 

 

 (マックイーン。見てて……これが)

 

 

 誰に期待されていなくても、道を切り拓いてみせる。

 それが、あたしっていうスターウマ娘の――!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――期待を、()()力だ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――期待に応える力とは、十を百にする力だ。

 メジロの令嬢として期待されていたメジロマックイーンがレースで勝って更に注目を集めるように、元々あった人気をそれ以上に拡大していく力。

 

 

 

 『お……おおっ、なんと!?

 ここでメジロライアンだ!! メジロライアンが……オグリキャップの末脚から逃げるように、二人揃ってバ群から飛び出した――――っ!!』

 

 

 

 ――期待を創る力とは、零から一を生み出す力のこと。

 かつて地方から中央に移籍し、怒涛の重賞連覇を飾ってドラマを作り上げたオグリキャップのように、人々の予想を大きく超えることで新たな可能性を築き上げる力。

 ……或いは、ヒールとして顰蹙を買っていた、それすらを力に変えて「魔王」としての不動の人気を掴み取ったスーパークリークのような。

 

 

 

 

 「……なに……っ!?」

 

 

 

 

 ――その時。オグリキャップは見たという。

 あと少しで捉えられる筈だったメジロライアンが突然加速しスパートを掛けるその姿に……かつての。

 かつての、彼女が追い越せなかった、あの背中の影を。

 

 

 

 

 (そうか……君か、クリーク……!!)

 

 

 

 

 ――ドクン。

 その時、オグリキャップは気が付いたという。

 動きはすれど永い間冷え切っていたその心臓に、その瞬間に再び温かな血が流れ始めたのを。

 

 

 

 (……懐かしい、いい気分だ……!!)

 

 

 

 怪物は、嗤った。

 長い苦難の時の中で忘れていた。レースとは、こんなに楽しかったのか。

 ライバルがいるということは、これほど血沸き肉躍るものだったのか。

 プレッシャーと戦うためではない、純粋なレースが、これ程にまで……喜びに満ち溢れたものだったのか。

 

 

 

 「……メジロ、ライアン――――!!」

 

 

 

 『怪物か、昇り龍か!? 英雄か、新星か!? 先頭二人の熾烈なデッドヒートだ!!

 ……いや、ここで更にオグリキャップが、オグリキャップが全盛期を彷彿とさせる二段スパートだーーっっ!!』

 

 

 

 

 「っっがあああああーーーーっっ!!」

 

 

 

 ――メジロライアンは、吼えた。

 あり得ない。あってたまるか。レースの最終盤に、しかもあれだけの速度のスパートを、更に吹かしてくるなんて。

 それでも、それでも、負けられない。負けられない! 負けるわけには、いかない!!

 

 

 

 (あたしが伝説を創るのを、楽しみにしてくれる人がいる!!)

 

 

 

 キング。ウララちゃん。カワカミとキングの取り巻きーズのみんな。

 そして、あたしがどんなに挫けても辛抱強く支えてくれたトレーナーさん。

 

 

 

 (あたしが伝説を創ることで、また立ち上がってくれるかもしれない、大事な人がいる!!)

 

 

 

 期待という名の重圧をずっと背負い続けて、文句の一つも言わずにメジロ筆頭の座を守り続けてきてくれた、あたしの一番の親友。

 ……親友にして、あたしの大切なライバル。

 

 

 

 (こんなに頼りなかったあたしを、本気で育て上げてくれた人がいる!!)

 

 

 ――初めはただマックイーンに憧れるだけだったあたしをスターウマ娘にしてくれた、チームの誰もが慕う、あたしの大好きな先輩。

 

 

 

 (その、全ての想いが……あたしの筋肉を動かす、原動力なんだ!!)

 

 

 

 『まだ……まだメジロライアンは諦めていない!!

 伸びのあるスパートを更に引き伸ばして、怪物の末脚に堂々と渡り合っている!!』

 

 

 

 燃えている。

 全身が、燃えている。

 無限の活力が湧いてくる。プロテインなんかより遥かに純粋で、鮮烈で、だけど暖かいエネルギーが、あたしの全身を駆け巡って、暴れ回って、筋肉と一体化して、疲労を全て焼き払っていく。

 ――純然たる筋合成(ピュリティ・アナボリック)が、あたしを更なるステージへと引き上げていく……!!

 

 

 

 (期待を創って、その期待に応えて。

 それを繰り返す事で、あたし達は強くなっていく!!)

 

 

 

 その円環の中で、辛い状況に立たされる事はあっても……あたし達は決して、本当に孤独になってしまうことなんてあり得ないんだ。

 

 

 

 

 

 

 「ライアン!! ライアン……!!」

 

 

 

 

 

 

 ――だって、ほら。

 どんな苦難が待ち受けていても、あたしを想う人は必ずいる。

 その声が聞こえなくたって、その姿が見えなくたって、それを信じて疑わない。

 信じて、また新たな物語を創る。それがスターウマ娘なんだ。

 

 

 

 

 

 

 ……もう、迷わない。

 荷が重いなんて、言わない。だから、今のあたしは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あたしは……あたしが、メジロなんだぁぁぁぁっっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「はぁっ……はあっ……!!」

 

 

 ――追いつけない。

 これだけ必死に走っているのに、足が前に進まない。

 いえ……違いますわね。あっという間に遠ざかってしまったあの二人に追い縋るほどの脚が、もう残っていないのです。

 

 

 

 

 

 ……。

 貴方は、きっと知らないのでしょうね、ライアン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――やったぁーっ! あたしがいちばんだー!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの日、あの夕方、あの高台で、あなたの背中を見た時からずっと。

 私の人生でたった一つの一番星は、いつだって――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『オグリ一着!! ライアンも一着!!

 引退の花道に相応しい大接戦のレース!! スーパーウマ娘オグリキャップに、メジロライアン驚異の大健闘でした!!

 なんと今年の有馬は、写真判定です!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ライアン、ライアン!?」

 

 

 ……ゴールラインを駆け抜けて、そのまま沈み込むように倒れたあたしを、マックイーンが抱き起こしてくれた。

 

 

 「あ……はは、ごめん、また立ち上がれそうにないや……」

 

 「ライアン、貴方は、貴方って人は……!!」

 

 

 ――また泣いてるよ、マックイーン。

 なんだかそう指摘するのも野暮な気がしちゃって、あたしはしばらく彼女の暖かさに身を任せていた。

 

 

 「ねぇ、マックイーン」

 

 

 そしてそのまま、思うがままに言葉を紡いでみる。

 

 

 「もっと、君らしく走ってみれば良いんじゃないかな。

 そうやって君が始めた物語に、きっとメジロはついてきてくれるよ。うちって周りから思われてるほど、了見の狭い家じゃないでしょ?」

 

 

 最後のは冗談半分だったんだけど、マックイーンは只々頷くばっかりで。

 本当にこの娘が今年の春まで、あたしを追い詰め続けた強敵だったのか……なんて思ってしまうほど、その中身は無垢で純真な女の子なんだ。

 でも、だからって甘やかしたりはしないよ、マックイーン。

 

 

 「大丈夫、君ならできる。君なら、君が一番なりたい君のまま、メジロの誇りを継ぐことが出来るはずだよ。

 だって……みんな、マックイーンの事が大好きなんだから」

 

 

 甘やかさないけど、励ましてはあげようと思った。それが、どれだけマックイーンに響くかは分からないけど……それでもあたし達は親友で、ライバルだから。

 ――だけどこの数ヶ月後、メジロマックイーンは二度目の春天を制覇して、晴れて最強ウマ娘の座に再び舞い戻ることになる。

 

 

 

 

 

 『さぁ、今判定が下されました!!

 一着はオグリキャップです!! 僅か1.5cmの差でオグリキャップの勝利です!!』

 

 

 

 

 ああ。負けちゃったか。

 良いところまで行ったと思ったんだけどな。でも、やっぱり土壇場での勝負強さはベテランのオグリ先輩の方が上手だったのかな。

 場内は大歓声に包まれている。オグリ先輩を呼ぶ声で染まりきっている。

 

 

 「……ごめん、マックイーン。勝てなかった」

 

 「いえ、あの、ライアン」

 

 「君にあんなこと言っておいて勝てないなんて、あたしもまだまだだよね……次は頑張らなくちゃ」

 

 「――ライアン!!」

 

 

 マックイーンのその呼び声に違和感を覚えて、あたしは上体を起こしてみる。

 

 

 

 「……メジロライアン」

 

 

 

 ――目の前に、憧れが立っていた。

 オグリ先輩がマックイーンとあたしの前まで歩いて来て、その右手をこちらに伸ばしている。

 

 

 「……え? えっと? あの?」

 

 「立つんだ、メジロライアン」

 

 

 混乱した思考を正す間もなく、あたしはオグリ先輩の手を握る。

 すると先輩はあたしを引き立たせてくれて、改めて真正面に向き直ると……ふふっと、微笑んだのだ。

 

 

 

 「君には礼を言わないといけないな、メジロライアン。

 君の走りを見て思い出したんだ。私がかつて、どんな思いでターフを駆けていたか。

 純粋にレースが好きで、勝ち続けて勝利のその先を見ようと頑張っていた、あの頃のことを。

 

 

 

 

 ――ありがとう。君はもう立派な、メジロを創るウマ娘だ」

 

 

 

 

 そして、もう片方の左手で繋がれたあたしの右手を持つと、観客席に向けて大きく振り上げたのだ。

 

 

 

 

 

 

 『右手を上げるオグリキャップ、左手を上げるメジロライアン!!

 世代交代が、魂の継承が行われた、歴史的瞬間です!!』

 

 

 

 

 

 

 ――あたしは何が起きたのか、理解できなかった。

 オグリ先輩はそれ以上は何も言わなかったし、ただあたしの腕を上に持ち上げただけだ。

 ……なのに、場内のオグリコールが途端に、あたしの名前までを呼ぶようになった。まるでオグリ先輩が観客に向けて、テレパシーか無言の号令でも送ったかのように。

 二十万人近くの観客を、仕草だけで統率し、指揮する。それはきっと……オグリ先輩しか辿り着けなかった境地で。

 

 

 

 「また会おう。どこかの場所、いつかの時間に。

 ……キミの成長を、楽しみにしている」

 

 

 

 そして。オグリ先輩は、去っていく。

 現役最後のレースを終えた「怪物」は、最後まで胸を張り、観客の想いを零すことなく受け止めて、ターフを後にする。

 ――それは確かに、あたしの目標だった。今年の春まではあまりに眩しかったけれど、今ならはっきりと見つめる事ができる。

 

 

 

 

 「――オグリ先輩!!」

 

 

 

 

 だから。きっと、これは言わなきゃいけないことだ。

 あたしはただ憧れていただけで、直接は何の関係もないかも知れないけれど。

 それでも……オグリ先輩を、誰の手も届かない存在にしない為に。彼女もまた、このトゥインクル・シリーズを駆け抜けた、一人の競走ウマ娘である事を知らしめる為に。

 あなたから夢を貰い続けて来たあたしが、言うべきことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 「……今まで、本当にありがとうございました!!」

 

 

 

 

 

 

 

 輝き出したスターウマ娘の声に、静まった中山レース場の中で。

 かつて伝説だったウマ娘は背中を向けたまま……片手をひらつかせるのみだった。

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 ――ターフから地下通路へと戻ったオグリキャップを迎えたのは、かつての彼女のライバル二人だった。

 

 

 「イナリ……」

 

 「よっ、お疲れさん。ラストランで一着たぁ、やっぱオグリはすげぇな!」

 

 

 ――毎日王冠で鎬を削ったあの日が、懐かしい。

 

 

 「……クリーク」

 

 「うふふっ、頑張りましたね、オグリちゃん。

 いいこいいこ〜♫ ライアンちゃんとの勝負、楽しかったですか?」

 

 

 ――秋天での戦いが、昨日のことのようだ。

 

 

 「……ああ。すごく楽しかった。

 ライアンは凄いな。あと10mでもあったら、私は確実に負けていた」

 

 

 オグリが僅かに先んじたのは、最後の二段目のスパートで稼いだコンマ数ミリのアドバンテージがあったおかげだった。

 しかし初めから差し切るつもりだったオグリキャップと違って、先行策から逃げ切ろうとしていた筈のライアンはその後、何とその少し前を行くオグリキャップを追い抜かそうと、最後の最後まで加速度を上げていたのである。

 ……先行抜け出しから、更に差しウマ娘を差し返すだけの末脚を発揮する。そんな芸当を見せたウマ娘が、未だかつて居ただろうか。

 

 

 

 「少し、気持ちが軽くなった。トゥインクル・シリーズはもう、私が居なくても大丈夫だ。

 ……だが、うかうかはしていられないな。私も、もっと先を目指したい」

 

 

 

 その表情には、もう王者としての重々しい風格はない。それらをオグリは全て、あのターフの上に置き捨ててきた。

 代わりにそこにあるのは、挑戦者の意志だった。栄誉の座に甘んじることのない、競走ウマ娘としての更なる成長を望むような、そんな強く真っ直ぐな決意。

 

 

 

 「その通りやで。全く、いつまでウチを待たせんねんな」

 

 

 

 そして。気付けば三人のその奥に、タマモクロスが超然と立ちはだかっていた。

 

 

 

 「やっとアンタらと真っ向から勝負ができる。

 言うとくが、ウチは強いで。覚悟しろや?」

 

 

 

 その瞳から、白い稲妻がちらついて。

 

 

 

 「……望むところだ、タマ」

 

 

 

 それを、「怪物」が。

 

 

 

 「おうおうおう、ちょうどタマ公とはやり合いたいと思ってたところよ!」

 

 

 

 それを、「破天荒」が。

 

 

 

 「あらあら〜。みんな、仲良くしてくださいね〜?

 ……でもその時は、お手柔らかに♫」

 

 

 

 そして、「魔王」が迎え撃つ。

 

 

 

 「さあ、オグリちゃん、行きましょうか?」

 

 

 

 ――「永世三強」の物語は、まだまだ終わらない。

 そんなクリークの呼び声に、オグリは頷くと……最後にもう一度、振り返って。

 

 

 

 

 

 

 

 「ライアン、そしてマックイーン。

 思い出をありがとう。どうか君達の道にも……沢山の祝福を」

 

 

 

 

 

 

 

 ――メジロを創る者の物語は、まだ始まったばかりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……さて」

 

 

 

 「ウララさんも、ライアンさんも、すっかり誰もが認めるスターウマ娘になったみたいね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……そろそろ私の、出番かしら。

 貴方にはこのキングのさらなる栄光を目撃する、権利をあげるわ」

 

 

 

 

 

 



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真・キングヘイロー編
ザ・ビギニング


※注意
これ以降のエピソードは史実と一切の関係のない、いわば完全オリジナルの展開を予定しております。
苦手な方がいらっしゃいましたら、大変恐縮ですがブラウザバックを推奨させて頂きます。

 


 

 

 

 

 

 「……くっ……」

 

 

 

 ――がらんどうの地下バ道に、彼女の悔しげな声が響き渡る。

 

 

 「お疲れ。今日は残念だったな」

 

 「今日も、でしょ」

 

 

 スプリンターズステークス。

 三年前に一着を掴み取った筈のそのG1レースで、しかし今の彼女、キングヘイローは七着に沈んでいた。

 

 

 「……っ、トレーナー! 今回の結果になった理由を、一秒以内で述べなさい!!」

 

 「実力」

 

 「なっ……!? くっ、く……くぅ〜〜っ!!」

 

 

 ――まあ、今更オブラートに包み隠すような仲じゃないからなぁ。

 この1200mの短距離レースにおいて、苦手な内枠二番から最終コーナーまでに大外に切り替えられたのは流石の大局観だったが……そこにエネルギーを注ぎ過ぎて最後のスパートを掛けるタイミングが遅れてしまったのが敗因だ。

 そして、こういった敗北はそう珍しい事でもない。数ヶ月前の安田記念では三着、去年のマイルチャンピオンシップでは今回と同じ七着と、電撃戦とも言われる短距離及びマイルでの差し追い込み戦法の難しさが、今のキングの前には立ちはだかっていた。

 二月の東京新聞杯で一矢報いたとはいえ、シニア級一年目に見せたG1四勝の栄光も今の彼女からは失われつつあるのだった。

 

 

 「し、仕方……ないわ、すっごいイヤだけど、本当にイヤだけど、今だけは認めてあげる」

 

 

 しかしだ。

 そんなあからさまな指摘にだって、真っ直ぐに向き合えるだけの強さを、キングは持っている。

 

 

 「逆に言えば、しっかりと実力をつければさらに上に行けるってことなんだもの。

 なぜならば、私には翼があるから……生まれ持った才能という翼が!」

 

 

 ――キングは、二度と自分を疑わない。

 十度の敗北を越えてあの高松宮記念で勝利を飾ってから、彼女はどんな結果になろうとも決して曲げずに、冷静に自分を分析して少しずつ実力を磨き上げて来た。

 

 

 「……屈服させられた数が違う。笑われた数が違う。バカにされてきた数が違う!」

 

 

 一流であると謳ったがゆえに、誰よりも地を舐め、その度に自分を変えて立ち上がってきた。

 それが、このキングヘイローというウマ娘の真髄だ。

 

 

 「出遅れようが、つまずこうが取り戻せないものなんてない!

 どんなどん底でも、希望を疑わない!! それこそが、このキングが永遠の一流である証明よ!!」

 

 

 今日はまた随分と張り切っているなぁ。なんて能天気に考えられるくらいには、俺も……肚が座っている。

 だって、知っているから。キングには才能があることを。それも、ただ実力があるという話ではなくて。

 どんなに惨めでも、震える脚で立ち上がる。キングはそんな、不屈の天才であるということを、誰よりも理解しているから。

 

 

 「……じゃあ帰ったら早速、今日のレース分析だな。

 っと、その前に腹拵えでもするか。牛丼でも食ってこうか?」

 

 「おーっほっほっほ、当然だわ! 一日の最後まで努力する、それが一流と二流の差よ!

 ……私は王者盛り!! あなたもよ、トレーナー!

 

 

 

 

 

 ――こうして彼女と二人で和気藹々とするのも久し振りだ。

 去年まではウララの有馬挑戦からライアンのサポートまで忙しくて、チームとは別に純粋なキングのトレーナーとして振る舞う暇がなかったからであり。

 ……それはまるで、あの受難のクラシック級が始まる前の、キングも俺もまだ何も知らなかったあの頃のようで。

 

 

 

 (……あれから、全てが始まったんだよな)

 

 

 

 ――俺は思い出していた。

 トレセン学園に入って間もない駆け出しのキングと、唐突にチームのメイントレーナーを任されたばかりの俺が出会った、あの頃のことを……。

 

 

 

 

 ※※※ 

 

 

 

 

 ――親父は、最後まで俺のことを認めなかった。

 

 

 

 

 分かりきっていた。

 俺がこの中央トレセン学園の土を踏んで、クリークの三年間を始めとして親父の元で研修を積んで。その年月の中で、どこか察してしまっていたのだ……俺は、親父には到底及ばない事を。

 だけど、今はそれでも良いと思っていた。だって俺が出しゃばる必要なんてない、客観的に考えても親父が全面的に前に出た方がよっぽど担当のウマ娘達の幸福にも繋がる筈なのだ。

 そんな日々の中で、ほんの少しずつでも親父から何かを盗んで、そうしていつかは一人前のトレーナーと呼べる程に技量を積む事が出来れば。それが優秀すぎる父親を持った俺に残されたただ一つの道だと……本気で思っていた。

 

 

 『……お前では、駄目だ』

 

 

 ――しかし、親父はトレーニング中の事故で引退を余儀なくされ、俺はたった一人で取り残された。

 残念ながらサブトレーナーとしての研修期間も、メイントレーナーへの昇進に要求される年月をとっくに超えていたのだ。そんな俺がチームを引率するに値すると、理事長始めURAの人事は判断を下したのである。

 ……それでも、父親は息子に激励の言葉を一言もくれてやらなかった。

 

 

 

 『お前がトレーナーでは、担当のウマ娘が可哀想だ。

 あまりに未熟で、何も分かっていない。あのチームは……お前が潰すことになるだろうな』

 

 

 

 だから何だって言うんだ。あんたみたいに上手くいかないだろう事は、俺自身が一番分かっていると言うのに。

 励ましてくれ、なんて言うつもりはなかった。そんなものはつまるところ中身のない薄っぺらい応援でしかない事は分かっていた。だから……せめて、何も言わずに黙って引き下がっていて欲しかった。

 結果、親父は俺を呪った。そしてそれに俺は心の中で諦めを覚えながらも……クリークやライアンが俺を慕ってくれる手前、空元気を振り絞って反発してチームトレーナーを引き受けることしか出来なかったのだ。

 その、なんと虚しく、惨めなことか。

 

 

 

 『悪いことは言わん。クリーク達も別のチームに移籍させて、チームを解散しろ』

 

 

 

 「……だから、言って……!!」

 

 

 

 

 

 

 「――だから、言ってるじゃない!!」

 

 

 

 

 

 

 小声で溢した筈が、何故か随分と高い声になって辺りに響いて。

 そんな訳あるか、今のは俺の声じゃない。反射的に振り返った先に居たのは、一人のこげ茶色の髪を持つウマ娘だった。

 

 

 

 「私にはちゃんと才能があるのっ! 今度の選抜レースで必ず実力を見せつけて、一流のトレーナーを見つけるんだから……っ!?」

 

 

 

 トレセン学園の制服を着用している以上、生徒なのだろう。

 校舎の裏でこそこそと電話で話し込んでいると言うのに背筋はぴんと伸びていて、整った髪型も相まってその育ちの良さが伺える。やや赤みがかった茶色の瞳は、顰めていなければきっと吸い込まれる様な透明度を誇っていただろう。

 明らかに、普通のウマ娘とは一線を画していた。その風格はやや幼さを含みながらも数々の重賞ウマ娘に引けを取らず、その体格はやや細身ながらトレーナー試験の参考書で見るような、まるで教科書的かつ理想的なバランスを保っていた。

 

 

 「なっ……ちょっ、あっ、……っこれ以上話す事はないわ! さようならっ!!」

 

 

 目が合ったその娘は、ぎょっとあからさまに動揺の色を見せると、慌てて端末にそう息巻いて、電話を切ってしまう。

 ……切るや否やキッ、と俺を睨みつけながら、つかつかと歩み寄ってきたのだ。

 

 

 「ちょっと……! あなたのせいで、大事な電話で調子が狂っちゃったじゃない!

 って、その前にっ、あなた、不審者!?」

 

 「い、いや違う、ちゃんとここのトレーナーだけど」

 

 「ふぅん、どうだか。……こんなところまで来て電話の盗み聞きなんて、疑われても仕方ないんじゃないかしら?」

 

 

 むかっ、と少し心がざわついた。

 いや、なんていうか、大人気ないとは思ったんだけど、この時俺はかなり気持ちが荒んでいたのだ。親父の事で傷心な事もあったが、それ以上に突然トレーナーとして放り出された為にチームの運営管理の負担が全てのしかかって来たのである。

 クリークとライアン、たった二人しか在籍していないのに毎日てんてこ舞いで、徹夜明けなのもあって既に俺のキャパはぶっ壊れる寸前だったのだ。

 

 

 

 「盗み聞きって……君が誰かも知らないのにそんなことするかよ」

 

 

 

 ――ムキーッ、と効果音が出そうな勢いで、相手がこちらに詰め寄ってくる。

 

 

 「な、なっ、なぁぁんてこと! 屈辱だわ、幾ら何でも失礼じゃない! 電話を勝手に聞かれた上に名前すら覚えてもらえていないなんて!!」

 

 「こ……こっちだってやっと仕事がひと段落ついたから、休憩しようと思ってここに来たんだよ! 大体初対面だろ、名前なんて知ってる訳ないじゃないか!!」

 

 「む……ムキィイイーッ!!」

 

 

 

 ……効果音を、本当に口にするやつがあるか。

 暫くは額同士がくっ付きそうになる程にバチバチと火花を垂らしていたが、やがて向こうがフン! と鼻を鳴らして距離を置くと、両手を腰に当てて仁王立ちになり、顎でしゃくり上げながら名乗ったのである。

 

 

 

 「いい!? 私の名前はキングヘイロー!

 輝かしく、誰もが憧れる勝者になるべくして生まれた、一流のウマ娘よ!!」

 

 

 

 ……キングヘイロー。

 実を言うと、最近はろくに有力なウマ娘のチェックもしていなかった事もあって、残念ながら名前に心当たりはなかった。

 だか、どこかで聞いたことのある様にも思う。というのも、彼女本人ではなく、もっと別のどこかで似たような名前を――。

 

 

 「まあいっか、取り敢えずよろしく」

 

 「なぁんでよ!! この私が自ら懇切丁寧に教えてあげたのに、なんでそんなに驚かないのよ! このへっぽこ!!」

 

 

 ――へっぽこって何だよ。

 そのキングヘイロー……自称キングと名乗る彼女の本気な表情を見ると、そうとはとても言えず。

 俺は何とも言えない、生暖かい笑みを浮かべることしか出来なかった。

 

 

 「……まあいいわ。それで?

 あなたもトレーナーなんでしょう? この将来有望なウマ娘に対して、何か言うことは無いのかしら?」

 

 

 おや、と気分を改める。

 黙っていれば美人、と称するのは流石に失礼か。それにしてもその競走ウマ娘としてのオーラ自体が既にレースで走っていそうな程だったので、気付かなかったが……このキングというウマ娘は自分のことを「将来有望なウマ娘」と言った。

 そうか、今の時期を考えるに、この娘はデビュー前か。

 

 

 

 「そうだな……良いトレーナーが見つかると良いな。割と雰囲気は出てると思うから、色んな人に声掛けられると思うけど……ちゃんとトレーナーは選んだ方がいいよ、じゃ」

 

 

 

 一応、少ないトレーナー歴の中から振り絞った最適な答えを口にしたつもりだった。

 しかしそこで立ち去ろうとした俺の右腕が、何故かうんともすんとも動かない。

 

 

 「え? ……ええ? あら、もしかして、ちゃんと伝わっていなかったかしら……?」

 

 

 振り返れば、そのキングヘイローという娘は分かりやすく動揺の色を表情に浮かべたまま、俺の二の腕をがっちり掴んでこちらを覗き込んでいた。

 

 

 「お、おかしいわ……この一流のキングがデビュー前でフリーなのよ、トレーナーなら我先にってスカウトしてくるに決まっているわ……まさか、このありがたみがわからない?

 さてはあなた、やっぱり不審者ね!?」

 

 「どーしてそうなるよ。勘弁してくれ」

 

 

 随分と自分に自信があるようだ。そんな台詞の中に一切の作為が感じられない。

 おい、指差すな。大声上げようとすな。アホなのか。

 

 

 「いや……俺もメイントレーナーになりたてで、今チームの業務の方ですっごく忙しいからさ。

 悪いけど君の担当になれる程、暇じゃないっていうか」

 

 

 ――それが、俺がここ最近新たなウマ娘のリストアップすら行えていない理由である。

 正直、今の状況で新メンバーを加入させる事なんてとても不可能なのだ。親父が引退してうちからも随分と多くの娘が他に移っていってしまったが、それでもサブトレーナー時代なんてメじゃない位にはしんどい日々が続いていた。

 そういう状況下においては一応すぐにチーム解散とはならない事をたづなさんから聞き及んでいたので、仕事に慣れてから満を辞して担当を募集しようと考えていたのだ。

 

 

 「私に構っていられるほど、暇じゃない……ですって……!?」

 

 「あ、いや違っ……!」

 

 

 しかしまた。またここに来て、俺は完全に言葉選びを間違えていた。

 

 

 

 「い、いいわ! そこまで言うのなら、見てもらおうじゃない!

 今日の模擬レースを観戦する権利をあげる!! そこで私の圧倒的な勝利を見て、せいぜいスカウトすらしなかった自分の愚かさを後悔するといいわ! おーっほっほっほっ!!」

 

 

 

 ……まあ、漸く時間が空いたばかりで、多少の余裕はあるんだけれども。

 されどいちトレーナーとして、やはり少しは興味がある。それだけ可能性を秘めた身体を持つウマ娘が、実際のレースでどのような走りを見せるのかを。

 

 

 

 「……じゃあ、早くグラウンドに急ごうぜ。

 模擬レースまで、あと十分もないぞ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「それで、結果はどうだったんですか〜?」

 

 

 ――数時間後のこと。

 時刻は午後三時を過ぎている。午前の模擬レースが終わった後にチーム部屋に戻った俺は、クリークと共に再び書類の山に埋もれる苦行に苛まれていた。

 

 

 「うん……まあ、頑張ったんだけどなぁ」

 

 

 結果は、二着。

 決して悪い結果ではない。個人的な意見を言わせて貰えば、正直一着の娘よりも凄まじい素質を感じたのは確かだ。

 ……しかし、気になる点があったのも事実だった。

 

 

 「何だか、上手くいってない感じだった。もし全力を出せてたら……ぶっちぎりで圧勝だったんじゃないかな」

 

 

 あの高飛車ウマ娘、キングヘイローの今回の敗因は明らかである。

 何故か掛かり気味で不安定だったせいで、レース序盤での位置取りが壊滅的だったのだ。どうやら纏まったバ群の中に入るのが苦手なのか直ぐにズルズルと後退してしまい、先頭のペースが読めずにスパートを掛けるタイミングを掴めなかったのである。

 ……だが一人だけ遅れた末脚で二位まで差し切ったのだから、とんでもない実力を持っている事に間違いはないのだ。さらにバ群からスパートを掛けて分散した他のウマ娘達の合間を上手く縫った、初めの失態が嘘のような華麗なコース取りまで披露したのである。

 

 

 「でも……あれは何というか……ちょっとウケない走りかもしれないなぁ……」

 

 「ウケない走り……ですか?」

 

 「うーん、ただの観客として見るなら見栄えはするけど。

 トレーナーとして一番気にするのはやっぱり安定性だからさ。スピードやパワーは今後の本格的なトレーニングで磨くことが出来るかもしれないけど、本人の調子が一定でないとなると……」

 

 

 トレーニングによる安定した成果を得られない可能性、充分に鍛え上げたとしてもレースで調子を落として勝てない可能性。そういう余計な懸念事項が増える事は、トレーナーにとっては厄介極まりないのである。

 実際にその走りを見たその場のトレーナー達の反応は殆どが難色を示していた。「プライドが走りを邪魔している」、「典型的な井の中の蛙」と、割と散々な言われようで。

 結局、その後キングヘイローのもとには誰一人として、スカウトしたいと集わなかったのである。どうやら彼女が模擬レースで走ったのは今日が初めてではないらしく、曰く「初めは多かったが皆断られて、次第に白けてしまった」のだとか。

 

 

 「……うふふっ♫」

 

 「……何だよクリーク」

 

 「いえ〜。……トレーナーさんは、そうじゃないって考えているんですよね?」

 

 

 ――流石に鋭い。

 かくいう俺は、少し違う印象を受けたのだ。結果として不安定な走りであった事は事実だが……それよりも特筆するべきは、最後までスパートを掛け切った根性にあると思う。

 差しや追い込み戦法において、最終直線での出遅れは致命的だ。それても多少レース経験を積めば最後まで諦めないガッツが備わっていくものだが、それをあのデビュー前の段階で既に獲得しているウマ娘はそういない。

 それに初めの散漫も、気性の問題というよりもどこか焦っているような印象を受けた。結果を出す事に拘った為に視野が狭くなったような……裏を返せば、結果を出さなばならない何かしらの事情があって、それがキングヘイローを苦しめているように見えたのだ。

 

 

 「あらあら〜。キングヘイローさんのこと、気になるんですね〜?」

 

 「いや、そうじゃないんだけどさ」

 

 

 悪戯っぽい顔でそう微笑むクリークに被りを振ってみるが、実のところ心当たりがない訳ではない。

 どこか、後ろ髪を引かれるというか。話した時はあれだけ自信満々に見えた彼女が、しかしレースで見せたのは苦しみながらもめげずに勝利を目指す姿だった。

 そんな、激情に駆られるほどとは言わずとも、絶えず蝕んでくるような苦しみに囚われる気持ちは……俺にも分かる。

 

 

 

 「でもそう言われれば、キングヘイローさんとトレーナーさんは似ているかもしれませんね?」

 

 「……と、いうと?」

 

 

 

 だって〜、とクリークは語尾を伸ばしながら端末を取り出して、一つの画面をこちらに見せてくる。

 そこにいたのは、伝説のウマ娘。国内の重賞を総なめにして、アメリカG1で七勝を飾った、知らぬ人などいないウマ娘。その名前はまさに、キングヘイローの名を聞いた時に俺が引っかかっていたもの、そのもので。

 ――ずっと、気になっていた。選抜レースを見に来たトレーナー達が何故か、彼女のことを「ご令嬢」と呼んでいたことが。

 

 

 

 

 

 「……まさか、キングヘイローは……?」

 

 

 

 

 

 「こんにちはーっ! トレーナーさん、今日もお仕事お疲れ様です!

 ってあれ、もしかして何か取り込み中でしたか……?」

 

 

 

 クリークが頷くのと同時に現れたのは、現状俺のもう一人の担当であるライアンだった。

 どうやら目の前に聳え立つ書類と俺たち二人が話し込んでいる様子から、何かあったのかと懸念してくれている様だ。余計な心配を掛けたくはなかったので、俺はありのままにそのご令嬢ウマ娘の話をしたのだが――。

 

 

 

 「え? ああ、キングヘイローさん、ですか?

 さっきちょっと話題になってましたよ。午前中にレースをしたばかりなのに、今度は午後にチーム入団試験を受けに行くって。

 すごいパッションですよね、あたしももっとレッツ・マッスルしないと……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……あら。またあなたなの?」

 

 

 チーム部屋を飛び出して、入団試験の受付前まで向かってみれば、その尻尾まで優雅に振る後ろ姿を簡単に見つけることが出来た。

 

 

 「もしかして、ようやく私をスカウトする気になったのかしら?

 でもごめんなさいね。残念だけど今から、ここのチームの入団テストを受ける予定なの」

 

 「……本気かよ」

 

 

 俺は、今度は真剣に彼女を見つめていた。下手にからかうようなそぶりもなく、威圧とまではいわなくても険しい表情を浮かべていた筈だ。

 ……それを、キングヘイローは一分の動揺も見せず、堂々と受け止めている。

 

 

 

 「分かってるのか。選抜レースがどうして、一日に一度しか出られないのか」

 

 

 

 それはひとえに、走るウマ娘の肉体的負担を考慮しての事だ。

 まだ共用の練習メニューしか手渡されていない、場合によっては「本格化」を迎え切っていないウマ娘達が、一日に二度もレースで全力で走ったらどうなるか。その未熟な身体に極度の負荷がかかって、今後の競走ウマ娘としての人生を左右しかねない様な故障を招く可能性があるのだ。

 

 

 

 「これでもトレーナーの端くれだからな。無茶な真似をするウマ娘を見過ごせない」

 

 「あら、ご忠告感謝するわ。

 でも、残念だけど私を止める権利を、あなたにはあげられないの。今度こそ一着になって、一流の走りをその目に焼き付けてあげるんだから!」

 

 

 ……ダメだ、何も分かっていない。

 思わず息巻きそうになったが、ここは人の目も多い。この娘のスタイルを考えるにあまり悪目立ちは得策じゃないだろう、とりあえず合図を送って、二人で端まで移動する。

 

 

 「……本当に何を考えてんだよ! 午前で模擬レースに出て、午後に入団テストなんて前代未聞だぞ!?」

 

 「何よ、前代未聞だから良いんじゃない! 朝から夕方まで、何度でもキングの勇姿を見せつけてやるまでよ!」

 

 「そもそも今回の入団テスト、定員一名じゃないかよ! 明らかに欠員補充でこの倍率、そんな中を朝走って消耗している君が本気で勝てると思ってんのか!?」

 

 「~~っっ! あなた性懲りもなく何度もこのキングを……!!

 いいわ、今度こそ!! 今度こそ絶対に勝って、あなたにも思い知らせてあげる!!」

 

 「だから、そうじゃないんだって!!」

 

 

 ――埒が明かん!

 もうダメだ、ここまで頑固なんじゃ取り付く島がない。一度ガツンと言ってやんなきゃ、お互い頭も冷えないってもんだ。

 

 

 

 「あのなぁ! 確かに君の才能は認めるさ、ああ認めるとも!! 数年に一度、いやもしかしたらそれ以上の逸材だよ、でもそれは磨けばの話だ! 今の君はただのデビュー前の原石なんだぞ!?

 そんなときにやたら場をかき回して無茶したら周りはどう見る、プライドだけやたら高い、そのくせまだ実力が追いついていない、扱い辛い訳アリウマ娘って……そう思われたっていいのか!?」

 

 

 

 ようやく、キングヘイローの瞳に戸惑いが映りだした。

 この時点でもうかなり取り返しがつかない事になっている予感はしたが、構うか。ずっと気付かないで一人ピエロになってるより、遥かにマシだろ。

 

 

 「……それでも、私は一流にならないといけないの! 出来るだけ早く勝って、誰もに認めてもらって、キングヘイローっていう一流のウマ娘にならないとダメなのよ!!」

 

 「それだよ、それ!! 今日の朝からずっと言ってるけどさ……!!」

 

 

 沸騰しかけた頭は、しかし今までにあり得なかった程に彼女の言葉の細部までを記憶していた。

 私は一流のウマ娘。一流のトレーナーを見つける。その為に、一流の走りをその目に焼き付けてあげる。

 

 

 

 

 

 

 

 「――君の言う『一流』って、なんなんだよ!

 何が出来たら一流なんだ、レースに勝てば一流なのか!? バカの一つ覚えみたいに無理やり自分のやり方を押し通して!

 周りを見てみろよ! 誰が君を認めてる!? それのどこが『一流』なんだよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 ……やっちまった。

 いくら何でもそれを言うのは間違っていた。流石に越えてはいけない一線だったと……それに俺が気が付いたのは、しかし目の前の彼女の瞳に、みるみる涙が溜まり出した事に気づいたからだった。

 トレーナーがウマ娘を純粋な罵倒で泣かせる。前代未聞だ、図に乗ってみればまるで他人のことを言えた義理じゃない。

 

 

 「……あなたにっ、何が分かるのよ」

 

 

 その震える声からはもう、今までの上品な色は消え去っていた。

 

 

 

 「私はっ、ただ走るだけじゃ誰にも見てもらえないの……!

 勝って、目立って、見てもらって、そうしないと私は自分で居られないのよっ……だって」

 

 

 

 だって。その後に出てきた言葉を聞いて、俺はようやくこのキングヘイローというウマ娘のことが分かってきた。

 ……ああ。自分に過信している訳でも、周りが見えてない訳でもないのか。むしろ、全て把握した上で。

 それでも構わないから、多くを犠牲にしても構わないから……叶えたい願いがあったのかと。

 

 

 

 

 

 「だって……私は、伝説のウマ娘の、ご令嬢だから……!!」

 

 

 

 

 

 

 「おお~、盛り上がってますねー。

 あれ、ウララも出走するんだ、ファイト〜っ!」

 

 

 キングヘイローを止めに行ったその足で、俺はそのまま入団テストを見に来ていた。

 ……そしてなぜか俺の隣にいる、妙に人懐っこい一人の葦毛のウマ娘。

 

 

 「おやおや~? そんなに怪しまなくたって、ウンスちゃんは何も取って食ったりしませんよ~?」

 

 

 ――あの後キングヘイローは顔を歪めたまま……しかし決して涙をこぼすことなく、その場を走り去ってしまった。

 その直後に物陰からひょっこりと顔を出したのがその、自称ウンスちゃん……セイウンスカイというウマ娘だったのだ。

 

 

 

 「……いや、悪いことをしたとは、思ってるんだけどさ」

 

 

 

 言い過ぎた。ヒートアップしたあまりに彼女の尊厳まで傷つけかけた。それは認める。

 だが、主張そのものを撤回するつもりは毛頭ない。今だって何だかんだでレースを見に来ているのは、キングヘイローが過労によって体調を崩してしまうのではないかと気が気でならなかったからだ。

 どんな事情があっても、自分の将来を脅かす行為をして良い理由にはならない。それはあの時のクリークのように……一生の心残りになるような、そんな深い挫折の根源になりかねないんだ。

 

 

 「いやー、お嬢様は相変わらずですからねー。

 いつだって全速前進! 優秀な私をご覧あれ~って、ずっとそんな感じですから」

 

 「……知り合い?」

 

 「知り合いって、同期ですよー?

 もしかしてわたし達の世代の事、知らなかったりします~?」

 

 

 ……トレーナーとしては失格ものではあるが、折角なのでご高説をお願いしよう。

 恥を忍んで頷いてみれば、にゃはっ、と朗らかに笑いながら、セイウンスカイはゲートに入るウマ娘達を指さし始めたのである。

 

 

 

 「あそこにいるのがエル、エルコンドルパサーです。今回のテストの最有力選手ですねー。で、まーた高笑いしてるキングはいいとして……あれがスぺちゃん、スペシャルウィークっていうんですけど。

 それと、この入団テストを開いているチームにグラスちゃん、グラスワンダーっていう娘がいて、みーんな足が速いので『黄金世代』なーんて言われちゃってるんですよ~。スぺちゃんは転入して来たばっかりだから、まだ何とも言えませんけどっ」

 

 

 

 ――黄金世代。

 そんな娘が、既に()()もクローズアップされているのか。朝から気になってはいたのだが、それこそまるであのオグリやクリークがクラシック級で走っている時のような活気があるのは……そういう訳だったのか。

 

 

 

 「そんな皆をまとめて撫で切って、世代の頂点に立って見せるわーって、キングったら張り切ってて。

 ……だから、さっきみたいな意見は、今のキングには必要だとは思いますよ。ちょっと、やる気がありすぎてがんじがらめになってるみたいだし」

 

 

 

 ……意外だな。ウマ娘の立場としては、否定的に感じられてもおかしくないと思ったんだけども。

 そう、セイウンスカイに改めて向き直ろうとしたその時……ゲートが開く音が辺りに鳴り響いて。

 

 

 

 「……お~、キングにしては珍しい展開だね。選抜レースの時、集団に埋もれちゃったのがなんだかんだで応えたのかな~?」

 

 

 

 ――驚きで、処理が追い付かない。

 一つずつ順を追って話そう。まずは、選抜レースの時は差しにいったキングヘイローが、今度は先行気味に前に位置取りをしていたこと。

 先行策というのは、差し戦法よりも大量のスタミナを消耗する。常にレースの先頭集団に喰らいつくだけのスピードを維持しなければならない上に、最終コーナーから最後の直線までの間にそこから抜け出すだけの脚を残さなければならないからだ。

 それを、あのキングヘイローは躊躇うことなく採用し、しっかりとやってのけている。午前のレースの疲労がまだ残っているはずの身体で。

 

 

 「……けど、ちょっとフォームが崩れてるなぁ。力みすぎってやつだね」

 

 

 ……それはトレーナー目線でようやく見て取れるというレベルでの僅かな乱れだ。やはり本調子でないハンデが響いているらしい、それにしてもそれに気付くなんてこのセイウンスカイというウマ娘、ただものではないぞ。

 それはそうと次に驚いたのは、そんなキングヘイローと鎬を削っている、「黄金世代」の他のウマ娘達の能力だ。

 エルコンドルパサー。これはもう……デビュー前であることが信じ難いスペックの持ち主だ。既に場を支配するような存在感と、レース展開を楽しむ程の強者の余裕が出来上がっている。キングヘイローが絶好調ならイーブンだったかもしれないが、そうでない今回は彼女の一人芝居になってしまうかもしれない。

 次に、スペシャルウィーク。転入したばかりと言っていたがなるほど、大きくスタートから出遅れてしまっていた。しかしその後ものすごい勢いでまくって上がってきており、何とか上位に縋りつくキングヘイローに追いつきそうな程の凄まじい末脚を発揮している。

 ……そして、何よりもその表情が、走ることが楽しくてたまらないというほどに、弾けていて。

 

 

 「……正反対に、なっちゃってるな」

 

 

 それは何よりの武器である一方、恐らくエルコンドルパサーもスペシャルウィークも、まだ「勝負」という概念を理解できていない。

 というよりデビュー前かつトレーナースカウト第一波のこの時期に、それを呑み込んでいるウマ娘なんてほぼ皆無で、現実に直面する前の純粋な娘の方がまだ大多数な筈だ。

 

 

 

 「はあ……はあ……!

 私は、一流として……結果を残すのっ……!!」

 

 

 

 ――キングヘイローだけが、それを既に掴みかけている。

 誰よりも先頭に立って、結果を出さねば、誰も自分を認めてくれないということを。それを前にしては走る楽しさも、日々の努力も、全てが無駄になってしまう可能性があることを。

 だから、常に「一流」でなければならない。自分を見てもらうためには、いつだって、どんな瞬間でだって優秀でなければならない。毎日がすべて勝負であり、それに全部勝ち続けなければならない。

 

 

 

 『……お前では、駄目だ』

 

 

 

 ……俺は、勝てなかった。

 大きすぎる親父と張り合うことを諦めて、着実に力をつければいいなんて宣って尻込んで、そうしてその背中の後ろに隠れてしまった。

 

 

 

 「……キングのお母さんがすごい人なのは、知ってますか~?」

 

 

 

 セイウンスカイの言葉に、キングヘイローを見つめながら頷く。

 国内筆頭、アメリカでもレジェンド級のスターウマ娘だ。さらに引退後も勝負服のデザイナーとして世界中の注目を集める、まさに現在のウマ娘界隈を牽引する一人である。

 

 

 「キング、ずっとレースに出るの、ずっとお母さんに止められてるみたいなんですよね。

 才能がないから、諦めて帰ってきなさいって。……キングが才能がないんだったら、わたしなんかどうなっちゃうんでしょうねー。てへっ☆」

 

 

 ――私にはちゃんと才能があるのっ。今度の選抜レースで必ず実力を見せつけて、一流のトレーナーを見つけるんだから。

 あれは恐らく母親からの電話だったのだろう。そしてそんな母親の娘としてキングヘイローは、「伝説のウマ娘のご令嬢」としてしか認識されていない。

 

 

 

 「……にゃはっ。

 気になってきちゃいましたか? キングのこと」

 

 

 

 ――キングヘイローは、諦めていない。

 偉大過ぎる母親と張り合うことを諦めず、勝って自分こそ一流になると、そうしてその背中の後ろから、自らの意志で飛び出そうとしている。

 

 

 

 (……ちくしょう)

 

 

 

 無茶だとか、誰も認めていないだとか。

 違う。俺はつまるところ、その道の末路を知る人間として彼女の事が目も当てられなくて、それと同じくらい……眩しかったんだ。

 そんな彼女ならもしかすれば、もしかするかもしれない。俺が、同じような境遇の人間が、そして現実の前でうなだれる多くの人々が超えられなかった壁を、彼女なら。

 

 

 

 「……ちくしょう……!!」

 

 

 

 明らかにガス欠気味のキングヘイローを、スペシャルウィークが追い越そうとする。

 再び、彼女に敗北が圧し掛かろうとしている。

 

 

 

 

 

 

 「――――()()()

 

 

 

 

 

 

 ――だけど、彼女なら。

 彼女なら「一流」になれるかもしれない。

 その予感は、衝動は、俺の全身を勝手に動かして。

 

 

 

 

 

 

 

 「――諦めるなあぁっっ、キング!!」

 

 

 

 

 

 

 ――ぬらりと、夕闇が動く。

 その光に照らされたキングの雰囲気が、ぞわりと変わる。

 

 

 「……キング……!?」

 

 

 セイウンスカイが、その余裕げな声音を失ったまま、呟く。

 歪ませていた顔が、一瞬色を失って……そして次の瞬間、怒涛の形相に変わる。

 そして、何が起こったか分からずに困惑するスペシャルウィークの横で、彼女は。

 

 

 

 

 

 

 

 「――っだあああああっっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 そうだ。それでいい。

 その走りは、今は君にしか出来ないものだ。勝負の厳しさと、自分の抱える運命に誰よりも向き合っている君だからこそ出来る、泥臭い走り。

 

 

 「……なっ、ななっ、キング!? ええ、あんな……!!」

 

 

 ――爆発したキングヘイローの脚はそのままグンと加速して、先頭を走るエルコンドルパサーのもとへと突き進んでいく。

 セオリーならあり得ない走り。とっくに限界を超えて、身体への負担の許容量を超えて、なのに指数関数的に伸びていく末脚。

 それは本来、シニア級レベルのウマ娘がようやく会得する業だ。数々のレースを経て自分に出来る事と出来ない事を理解したうえで、限界を超えたいと渇望するウマ娘が切り拓く境地。

 

 

 「……っやあああぁぁっ!!」

 

 「ケ!? ……まだまだあああっっ!!」

 

 

 しかし。ここでスペシャルウィークだ。

 キングと違ってスタミナの残っている彼女も、その差し切りに喰らい付いていた。さらにエルコンドルパサーも焦った様子を見せながらも、ぶれずに先頭を守り続けている。

 こんな……こんな世代があるのか。キングがあれだけやっても勝ち切れない、そんなに才能に溢れたウマ娘が存在するのか。

 

 

 

 

 

 「諦めない……絶対に諦めないわ……!!」

 

 

 

 

 

 それでも。

 それでも、キングは、首を下げずに――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……あなた、また来たのね」

 

 

 ――ゴールラインを三着で駆け抜け、その後もふらふらと覚束ない足取りのキングを、待ち構えていた俺はスタンド席を乗り越えてタオルで受け止めた。

 

 

 「バカ野郎、って言ってやりたいけど……今となっては同罪だからさ」

 

 

 そのままざっと汗を拭くと、傍に待機してくれていたセイウンスカイからジャージの上部分を受け取り着せてあげる。少し不服そうではあったが、どうやら自分の状態を客観的に把握できていたらしい。特に抵抗もせずに、その場でゆっくりと腰を降ろすのだった。

 

 

 

 「……キングヘイロー」

 

 

 

 声が掛かる。

 見上げてみれば、そこにいるのはその入団テストを開催していたチームのメイントレーナーだ。灰色のスーツに銀縁の眼鏡を夕日に光らせるその女性は、トレーナーの中では言わずと知れたベテランだった。

 

 

 「ご苦労だった。……しかし、結果は見ての通りだ。

 私はやれることを全て行った。テスト直前になって飛び込みで登録申請をしたお前に、機会は与えた」

 

 「……飛び込みだったのかよ」

 

 「し、しょうがないじゃない」

 

 

 公共の面前だし、場を少しは和ませようとちゃちを入れてみれば、眼鏡の内から凄い形相で睨まれる。

 

 

 

 「これ以上、してやれることはない。

 キングヘイロー、もっと冷静になれ。今のままでは、お前は一流からは程遠いぞ」

 

 

 

 「……そんなことは、ない」

 

 

 

 だけど。

 そう言われてしまっては、俺も真剣にならざるを得なかった。……よく考えれば数十分前に、まさに同じことを俺自身が言っていたというのに。

 

 

 

 「今、この娘のやってることは無茶苦茶だ。それはもう否定のしようがない。

 でも、本筋を失っているわけじゃない。貴女もプロなら分かるでしょう……キングヘイローは」

 

 

 

 ……この時、俺達を見守る多くのトレーナーが何を思ったかは分からない。

 でもそんなことは心からどうでもいい。キングが示したように、俺も俺が思ったことを口にするまでだ。

 

 

 

 

 「誰よりも一流から遠くても、誰よりもずっと、一流に近い。

 キングヘイローは……そんなウマ娘なんだ」

 

 

 

 

 隣で荒くついていた息が、一瞬止まる。

 そして、目の前のベテラントレーナーは少しの間俺を凝視し、そしてキングに目を移すと、フッと不敵に嗤ってその場で踵を返すのだった。

 

 

 

 

 「……それが分かるのは、あと数年も後の事だ。

 だがいいだろう、確かにお前達は……敵に回した方が、倒しがいがありそうだからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……おばかね」

 

 

 日が沈んで。

 すっかり人気のなくなった学園内の舗道を、俺はキングを背負ってとぼとぼと歩いていた。

 

 

 「……どっちに言ってる?」

 

 「どっちもよ。あなたは何度も私をコケにしたと思ったら、諦めるなとか、あんなこと言って。

 ……私は、こんな……無様な……っ」

 

 

 ――気落ちした言葉を聞いたのは、これが初めてだ。

 事実、歩けない程には疲労困憊なので、精神もかなり衰弱しているのだろう。背負う時だって一発くらい蹴られる覚悟をした筈が、言ってみればすんなりである。

 

 

 「……別に、無様じゃない」

 

 「……やめて、ちゃんと、現実を見てよ……!」

 

 「こら騒ぐな、落ちるぞ……いいんだよ、俺が無様じゃないって思ったんだから、それで」

 

 

 そんなことで言い争いなんて、したくなかった。

 でも実際は、今日の二度出走からの二度の敗北をもって、今度こそ殆どのトレーナーはキングに見切りをつけてしまった可能性が高い。エルコンドルパサーはあのままチームに入団したが、それでも彼らの注目がスペシャルウィークへと移ったのは火を見るより明らかだった。

 まさに今のように、周りに誰もいなくなって。いつの間にか、目の前は真っ暗で。

 

 

 

 「……なあキング。俺のチームはさ、たった二人しかいないんだ」

 

 

 

 ――真っ暗な中でも、見上げれば満天の星空があった。

 

 

 

 「元々はもっと多くの娘がいたんだけどさ。みんな親父に教わりたくてチームに入ってたんだよな。

 ……親父が引退していなくなって、気付いたらこんな有様だった」

 

 

 

 何度も、何度も迷った。

 ライアンも、クリークも、本当に俺と共にいて良いのか。俺しかいない今、親父のいう通り二人とも移籍させた方がいいのではないか。

 ……俺はもう、諦めた方がいいのではないか。

 

 

 

 「――そんな終わり方なんて、やっぱりおかしいよな?」

 

 「――ええ。絶対におかしいわ」

 

 

 

 二人揃って、小さな笑みが溢れる。

 

 

 「うちの名前はチーム『ポラリス』。まだ無名だった親父が、いつか頂点を取りたいって名付けた名前だ」

 

 

 しかし、ポラリス……つまり北極星は、二等星。その輝きは決して、スピカやシリウスの光には及ばない。

 

 

 「――及ばなくたって、知ったことじゃない。

 どんなに厳しくたって、辛くたって、泥臭く上を目指す。そうしていつかは世界の真上に立って、誰もが見上げる指標になる……それが、うちのチームコンセプトだ」

 

 

 かつての親父は見事にそれを達成して。

 そして彼が引退したことで、再びチームは地に墜ちた。

 

 

 

 「……君に取っても、俺にとってもかなり険しい道だ、特に同期があんなんじゃなぁ」

 

 

 

 ――だとしても。

 諦めなければ、いつかは掴めるはずだ。キングも俺も、二人で笑顔になれる、勝利を。

 

 

 

 

 

 「誰もが憧れる、一流の星ってやつを。

 ……一緒に、目指してみないか?」

 

 

 

 

 「それって、とっても――面白そうじゃない」

 

 

 

 

 ――数多の星々の上で、北極星は静かに光を湛えている。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 そうして、キングがチームにやって来て。

 そして、その彼女にチームに入る条件として、スカウトから漏れてしまったウララも一緒に入れて欲しいと要望されて。

 そんな彼女達を追う様に取り巻きーズとカワカミが入ってきて。

 ……あまりに忙しくなったチーム業務に、土下座してクリークにも本格的に手伝ってもらって。

 

 

 「……ぶふっ」

 

 

 ――あれから、もう六年が経とうとしている。

 当時は俺もかなりやさぐれていたし、今と比較するとキングも少し落ち着きがなかった様に思う。あの後もなんだかんだ結構言い争いになることは多かったが、どうやらキングとしても俺相手には忌憚なく色々ぶっちゃけられるということなので、特に改善しようともせずにここまでやってきていた。

 

 

 「……うっぷ」

 

 

 結果的にはそれが、パートナーとしては気持ちの良い関係になれた一番の秘訣だ。それでも現在、比較的丸い間柄に収まったのは幾度の挫折の中で色々と洗練されていったからだといえば聞こえはいいけど……それでも俺は確信を持って、言える。

 キングが居なければ、俺は、ここまで来れなかったと。どこかでトレーナーとしての自分に見切りをつけて、トレセン学園を去っていただろうと。

 

 

 「き、今日もやってやったわ、トレーナー……」

 

 「……明日から減量な」

 

 

 ……数時間前に牛丼王者盛りを完食して未だに腹を出している、真横のキングが居なければ、だ。

 

 

 「……あなたも出てるじゃないの……おなか」

 

 

 おばかみたいにいうな。

 ともかく、思い出話もそこそこに。帰りのバスもそろそろトレセン学園へと到着する。あらかじめ荷物を取ろうと椅子の下からバックを取り出し、ふと何気なく前に取り付けられたテレビを見て。

 

 

 

 

 『――ここで速報です! 驚きのニュースが飛び込んできました!!』

 

 

 

 

 ……テレビを、見て。

 

 

 

 

 

 『何と、今年の凱旋門賞を制したのはあのブロワイエです!! かつてジャパンカップでスペシャルウィークと大接戦を繰り広げたブロワイエが、二度目の凱旋門賞を制覇しました!!』

 

 

 

 

 ――それは、明らかに異形の走りだった。

 パワーアップというレベルではない……まさにウマ娘そのものが入れ替わったかの様な、あり得ない走りの変化だった。

 

 

 

 『いやぁ……最終直線、後方十二番手からの豪快な差し切り! ラスト一ハロンなんて10秒8ですよ!? おまけにコースレコードまで叩き出して……ブロワイエ選手、()()()()()()()()()()は、とんでもない快進撃を続けております!!』

 

 

 

 ――気が付けば、横からキングが顔を寄せてニュースに噛り付いている。

 その目線を辿って、俺も言葉を失った。インタビューを受けるそのフランスのウマ娘の、身に着けている勝負服の裾の、あのロゴは。

 ……度々キングと共に見に行くファッションショーのトリを飾る、あのブランドそのもので。

 

 

 

 『さらになんと! ブロワイエ選手、なんと二度目の……二度目のジャパンカップ出走予定です!!

 今生放送でインタビューをお伝えします!!』

 

 

 

 

 

 

 その、文字通り世界最強の走りを見せたブロワイエは、今も現地でこう呼ばれ始めているという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――踊る、勇者と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 
※チーム名は、実は一話時点から定まっていた様です。
※踊るは英語でdancing、勇者はbraveと表記するようです。
※この「真キングヘイロー編」が、今作のメインストーリーにおける最終章となる予定です。 
※ご要望を多く頂きました日常編を書かないとは言っていないようです。
 


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限界の先の先

 

 

 

 「それにしても随分お久しぶりね、サブ君♪」

 

 「……いい加減その呼び方はちょっと」

 

 「めんごめんご〜♪ でもお姉さんにとっては、キミはいつまでもポラリスのお坊っちゃんなのよ〜?」

 

 

 ――キングのスプリンターズステークスから、三日後の午後。

 俺達は、窓から雨模様の暗い空を眺めながら、とうとうと言葉を交わしていた。

 

 

 

 「全くさぁ……ホントに変わらないよな、マルゼン」

 

 

 

 マルゼンスキー。

 無論俺ではなく、親父の担当だったウマ娘だ。当時のチームポラリスの最盛期を支えた功労者の一人であり、サブトレーナーとして俺が途中加入した頃には既にトゥインクル・シリーズから移籍済み、言わばOG的な立場としてクリークの様に後輩を見守っていたのだ。今はチームを勇退してトレセン学園の生徒会に所属しており、学園の運営やURAとの連携に尽力しているとか。

 ……そのナウなヤングにバカウケな言動は、年配者の多い上役との会話で地味に好評とか、そうでないとか。

 

 

 「モチのロンよ! あたしとしてはサブ君のほうがチョベリグになっちゃって、おったまげ~って感じ?」

 

 

 何て返すのが正解なんだそれ。

 しかしそんな彼女はこれでもトレセン学園歴代最強の呼び声高い、「スーパーカー」の異名を持つウマ娘である。その戦績はまさかの無敗、キャリアにおいて二着になったウマ娘との合計着差は空前絶後の六十一バ身という天文学的な実力を持ち、そうしたあまりの強さに彼女の出るレースでの出走を回避するウマ娘が後を絶たなかったという。

 

 

 

 「……あたしはただ、風を思いっきり浴びて、気持ちよく走りたいだけだったんだけどな」

 

 

 

 こんな娘もいるのか、と思ったのをよく覚えている。

 天才という言葉だけでは表現できないような、超常的な才能を持っているにも関わらず……マルゼンスキーは、勝利への執着が極めて薄いウマ娘だったのだ。

 かといって、自分の限界を突き詰めたいような求道者でもない。純粋にハナを進むのが気持ちよくて、レースを楽しみたいという、本当にそれだけの心の持ち主だった。

 

 

 

 「でも、見つけたんだよな。大舞台で走る、君だけの理由」

 

 

 

 その楽しさを、他のウマ娘達にも分け与えたい。

 その後ろ姿で、レースの楽しさを多くの人に教えてあげたい。

 そんな願いが、彼女をただ速いだけのウマ娘から、一人前のスターウマ娘へと変えたのだった。今でも彼女はふらりと学園のグラウンドに姿を現したかと思えば、後輩ウマ娘達と共に走ってその憧れの背中を見せつけている様だ。

 

 

 

 「ええ。……だけど、あの子はあたしとは、真逆よね?」

 

 

 

 マルゼンスキーは現役時代に楽しそうな走りによって、人々に夢を与えて。

 ――そしてキングヘイローは苦しくとも挫けない走りで、人々に驚きを与える。

 

 

 

 「あの子――走ることを、ちゃんと楽しめてるかしら?」

 

 

 

 それは、なかなか難しい問題だ。

 断言できることとしては、彼女はクラシック級で一度走る楽しさを捨てかけたということ。レースを周囲を見返す手段としか考えられなくなり、プレッシャーや焦り、そしてやり場のない怒りのままにターフを走っていた時期があったということ。

 それから状況は大分改善して、今では調子そのものが大きく乱高下することはなくなった。ただ、だからといって全てを気にせずに自由に走っているかは別問題だ。

 ……なぜなら。

 

 

 

 「……あいつにとって、走ることはライフワークなんだよ。

 走ることで、あいつは『一流』を証明したいんだ。才能も、品格も、個性も、あいつは走ることで自分を表現する。

 天性の才能とか探求心とか、そういうんじゃなくて……肚を括ったんだよな。このレースの世界で、最後まで生き抜いてやるって」

 

 

 

 ――キングが最後に引退という言葉を口にしたのは、あの有馬記念の時。

 別の道を一から歩み直す選択をせずに、顕彰ウマ娘を目指して生涯走り続ける決意をしたあの時から、キングにとってはレースが全てとなったのだ。そこに楽しさがあれど苦しさがあれど、全部受け入れて自分の道を突き進むと、そう決めたのである。

 

 

 「あらら~……すごい覚悟なのね」

 

 

 驚いた声を上げるマルゼンスキーだったが、すぐにふーん……と意味ありげに呟くと、再び目線を曇り空に向けて。

 

 

 

 

 

 「――キミは、そんなあの子の助手席に……ずっと乗っていられる?」

 

 

 

 

 

 俺達の前の扉……生徒会室の扉が開いたのは、その直後だった。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「まあ、座ってくれ。……訪ねてくるかもしれないとは思っていたよ」

 

 

 

 マルゼンと別れて、俺は出迎えてくれた一人のウマ娘と共に足を踏み入れる。

 扉の重々しく閉じる音と窓からの光の昏さが、数百年もの歴史を誇る学園の中枢こと、生徒会室の厳かさを讃えているようだ。

 

 

 「コーヒーか紅茶、どちらが好み……いや、君は確かコーヒーが好きだったな」

 

 「覚えてくれていて、どうも」

 

 

 歴代四人目のクラシック三冠ウマ娘。

 二千人ものトレセン学園生徒の頂点に立つ、史上初の七冠ウマ娘。

 ――皇帝、シンボリルドルフ。その生徒会長の差し出したブラックコーヒーを受け取りながら、俺は改めて彼女と相対していた。

 

 

 「……こうして悠々閑々と話すのは何時ぶりかな。あれから副会長にエアグルーヴとナリタブライアンが入ってくれて、共に多事多端な日々を楽しませてもらっているよ」

 

 

 俺がサブトレーナーになった直後は、生徒会はほぼ実権が彼女一人に集中したワンマン体制であり、そんなルドルフを補佐していた数少ないメンバーがマルゼンスキーだったのだ。

 なので頻繁という訳ではなかったが……マルゼンと親父を介して何度か俺もルドルフと会話を重ねたことがあった。今回はそのつてを辿ってここにやってきたという訳だ。

 

 

 「悪かったな、ここ数年はチームの方が忙しくてさ」

 

 「君のところの活躍は聞いているよ。今となっては立派なトゥインクル・シリーズを牽引する上位チームの一つだ、さぞかし焦心苦慮したことだろうと推察するよ。

 ……しかし」

 

 

 ルドルフが向かいのソファーに腰かけたまま、瞳を僅かに細めながら続ける。

 

 

 

 

 

 「……しかし、まさかこのような事態になるとは、君もまさに青天霹靂だったのではないかな?」

 

 

 

 

 

 『ブロワイエ選手、あなたは既に一度ジャパンカップに出走し、「日本総大将」ことスペシャルウィーク選手と白熱のレースを繰り広げています。

 その上での再出走となると、彼女へのリベンジマッチを望んでいる、という認識で宜しいでしょうか?』

 

 

 

 

 ――あの日、バスの中で隣のキングと見た生放送インタビューの中で、「踊る勇者」ブロワイエが宣言した事実はまさに……俺達の歩んできた六年間の中でも最大規模の、とてつもない衝撃をもたらしたのだった。

 

 

 

 『……いいえ。それは違う。

 この新たな勝負服を着用し、レースに臨むにあたり、私はその作り主と一つの盟約を結んだのだ』

 

 

 『……作り主といいますと、勝負服のデザイナーの方、ということでしょうか?』

 

 

 『その通りだ。その女性が、今後の私の第一トレーナーを担当することになるだろう。

 

 

 

 

 

 ――そして、その盟約とは。

 日本のG1レースを走る、一流を名乗るウマ娘……キングヘイローを、完膚無きまでに叩きのめすというものだ』

 

 

 

 

 

 

 「……まったく、あの方は。

 近年は主に海外で活動をされていたと聞き及んではいたが……まさかあのブロワイエと親交を深めていたとは」

 

 

 ルドルフがため息をついて、自身の紅茶を啜る。

 あの方、が誰かは言うまでも無い。ブロワイエ程のウマ娘を勝負服と引き換えにけしかけて、わざわざキング単体に差し向けるワールドクラスの傑人なんて、彼女しか有り得ない。

 ――あの有馬記念にてキングの「一流」の道を祝福した筈の、彼女の母親である。

 

 

 「世界最強のウマ娘と、世界が認める一流デザイナーのタッグ。

 まさに誰もが待ち望んだ、僅有絶無の組み合わせという訳だ。そのドリームコンビが今……君の担当ウマ娘を標的としている」

 

 

 しかもデザイナーとしての立場に留まらずにトレーナーとして就任すると言うのだから、本当にとんでもない人だ。

 ただ、出任せあるいは所詮は付け焼き刃だと高を括るのは余りに危険だ。何故なら彼女はキングを産んだ後もなお現役選手として君臨し続けた程には、競走ウマ娘としての膨大な経験値を持っているのだから。

 実際にそのインタビューの続きでは、ブロワイエがここ数年は彼女の助言を受けてレースを走っていた事が明かされている。

 

 

 

 「しかし、だからといって君も引き下がるつもりではあるまい。

 嘔心瀝血して取り組む覚悟を持つことだ。そうでもしなければ、今のブロワイエに対して勝算など――」

 

 

 

 

 

 「――ないんだ」

 

 

 

 

 

 「……は?」

 

 「ないんだよ。一切の勝算が……キングには、ない」

 

 

 

 ――三日三晩、眠らずにデータを洗いざらい調べて、考え抜いた。

 「踊る勇者」として変貌したブロワイエのレース、キングの今までのレース、それぞれの特徴、脚質、タイム。

 ……全てを考慮して、確信を持って言えてしまうのだ。キングが勝てる確率は……確実に、ゼロであると。

 

 

 

 「……聞こうじゃないか」

 

 「何より、()()()()()()()。……これが致命的過ぎる」

 

 

 

 ブロワイエとしてフランスの、「踊る勇者」としてイギリスのG1を一網打尽にしている化物を相手にしては、純粋な格の違いがある……それは承知の上だ、それで諦めるようなことは決してない。

 しかし――それで諦めない、活路を今まで見いだせていたのは、キングだけの絶対的なラストスパートがあったからだ。あのウララが二着になった有馬記念で、ウララが命を賭して走り、オペラオーがそれから全力で逃げて、一方でキングはウララを助けるために仕掛けを遅らせたというのに……実は上がり、つまりゴール前三ハロンのタイムはキングが最速なのである。その数字は、三十六秒ジャスト。

 

 

 

 「……だけど、あの凱旋門賞での『踊る勇者』の上がりタイムは……三十一秒台だ」

 

 

 

 最終兵器であるはずの末脚で、約五秒差の絶望。

 しかも日本の芝とは比べ物にならない、重く速度の出にくいヨーロッパのターフで、である。

 

 

 「末脚を封じられたキングはかなり苦しい。

 距離適性としてスプリンターかマイラー向きなけらいもあって、スタミナ勝負は向いてない。その上集団に紛れるのは苦手だから、積極的な駆け引きも難しい。

 元々あいつは自分の能力を最大限出せるかどうかってレースをするウマ娘なんだ。それが()()()()()()()()()()()()()()となると……もう打つ手がない。

 ――少なくとも、今のままならだ」

 

 

 ……今のまま、では。

 その言葉に、七冠の栄光を恣にしたルドルフの目が光る。

 

 

 

 「それを超えるために、今日俺はここに来た。

 知りたいんだ、君やマルゼンを始めとした……歴代の最強ウマ娘が見出した、境地のこと。

 ――『領域』とは、何なのかを」

 

 

 

 「……ほう」

 

 

 ウマ娘の身体学には、まだ未知の分野がある。

 かつてクリークが体調を崩した際も、具体的に彼女の身体の中で何が起きていたかは遂に分からなかった。結局はトレーナー側が背負うべき覚悟すら抱えてしまっていた彼女のメンタルを軽減してあげたことで回復はしたが、その間クリークの肉体に何の負荷がかかり、そして何が変質したことで調子が戻ったのかは未だに謎なのである。

 ……そして、G1の様な、才能と努力がコンマ数程度の度合いでぶつかり合うレースにおいては、そのウマ娘の知られざる力のせめぎあいによって勝敗が決まることがある。

 

 

 

 「俺がその存在を始めて知ったのは、秋天でのタマの走りを見た時だ。

 調べてみればマルゼンは府中ウマ娘ステークス、そして……君はダービー辺りから、明らかに走り方に劇的な進化があった」

 

 

 

 彼女達に限った話ではない。かく言うクリークも、あの秋天で「魔王」として目醒めた時から、さらにライアンも宝塚記念から有馬にかけて、自分の走りが一段上へと上がった感触があったのだという。

 ――もしやと思い聞いてみれば、黄金世代それぞれを担当するトレーナーは口を揃えて言及したのだ。彼女達の正念場となるレース……そこで、全員がある種のブレイクスルーを迎えた瞬間を経験しているのだと。

 曰く、スぺは流れ星の輝き。

 グラスは不死鳥の、刹那の精神一到。

 エルは、空高く翔ぶコンドルが持つ、勝者の矜持。

 そしてスカイは……本人の弁で釣りにも通じる、乾坤一擲の閃き。

 

 

 「トレーナーってのは基本的に理詰めで物事を考える。

 だけど、これだけのウマ娘がそんな、非理論的なイメージや成長を体験しているとなると……それはもう、体系化されていなくても一つの現象として捉えるしかない。

 ――そして、ロジックじゃ勝ち目のないキングが、あの『踊る勇者』と渡り合う突破口があるとしたら……それはもう、ここしか考えられないんだ」

 

 

 当然、あのオグリキャップやイナリワン、メジロマックイーンにテイエムオペラオーなんかもその「領域」に至っていると、実際の彼女等のレース動画を振り返って、俺は確信していた。

 そして、相手のブロワイエもそれ然り……というより今回の異形の変質は正に、それによるところが大きいと仮説立てるのが妥当ではないか。

 

 

 

 「ふむ。……しかし、君のその口ぶりでは、まるで。

 まるで――キングヘイローは未だ、その域に至っていないとでも言う様ではないかな?」

 

 「……その通りなんだよ」

 

 

 

 ――キングヘイローは、「領域」に至っていない。本人に尋ねてみてもその自覚がないようだから、間違いはない。

 いや、正確には一度だけ、その片鱗を感じたことがある。しかしそれはあの十度の敗北の後の高松宮記念でもなければ、母親の魂の叫びに後押されて黄金世代を破ったあの有馬記念でもなく……キングと俺が出会った原点、あの入団テストでの、ぞわりと変わった彼女のオーラに、それが覗いたように思うのだ。

 それ以降のキングは基本的に、限界を超えた走りを見せたことはあっても、それまでとは一線を画すような異次元のレベルに達するなんてことはなかったのである。

 

 

 

 「だけど、こうも考えられるだろ。

 キングは今まで『領域』なしで、『領域』を持ったウマ娘達と互角にやり合ってたんだ。実際の勝ちレース数は、スペ達には劣るけどさ。

 ――知ってるか? あいつ……短距離から長距離まで、全距離のG1レースで入着してるんだぜ?」

 

 

 

 意外と知られていないが、これはかなり珍しい成績だ。しかも中距離を除けばそれぞれG1で勝ちレースを持っているのである。但し芝に限ってであり、ダートは苦手も苦手なのでどうしようもなかったのだが。

 とにかく、俺は胸を張って言える。キングは、あの母親の血を継ぐだけあって、潜在能力で言えばまさに唯一無二の存在なのだ。問題はそれが……未だに、全て出し尽くされていないこと。

 それを全て総動員してようやく、「踊る勇者」と勝負になるかならないかなのだ。

 

 

 

 「だから、ルドルフ。教えて欲しいんだ。

 『領域』へ辿り着く方法を。キングはどうして……未だにそこに至っていないのかを」

 

 

 

 

 

 

 

 「――笑止千万」

 

 

 

 

 

 

 

 暖かさが、死んだ。

 代わりに俺に突き付けられるのは、数え切れないほどの無念の屍の上に立ち続けた、生粋の強者のみが宿す威厳だ。

 

 

 

 「『領域』とは、それ即ち限界の先()()

 そこを自然発生的にではなく、意図的に目指すということが、何を意味するか……本当に理解出来ていると?」

 

 

 

 ――「異次元の逃亡者」、サイレンススズカ。

 キング達の一つ上の世代に当たり、スペが兼ねてより憧れていた彼女は、ある時期を起点に「逃げて差す」と呼ばれる脅威の大逃げを会得し、毎日王冠ではグラスとエルを完封する凄まじい実力を世間に知らしめた。

 そんな当人はひたすらにトレーニングに打ち込むストイックさを持つ探求者であり、レースにおいて先頭の景色を見続けるために必要な疾さを……スピードの向こう側をどこまでも追求し続けていたのだという。

 

 

 

 「――そうして後先を考えずに突き詰められた限界の先の先に、何が待っているか」

 

 

 

 その果てに、サイレンススズカの左足首は秋天にて、砕けた。

 今ではその後の治療の末に奇跡の復活を遂げ、次のステージとしてアメリカに遠征しているが……彼女が全盛期の頃の走りを取り戻せているかと聞かれれば、俺は安易に頷くことは出来ない。

 

 

 

 「知らないとは言わせないぞ。君は既に……経験しているだろう」

 

 

 

 ――何故なら、俺はもう一つ似た事例を知っているからだ。

 どうしても叶えたい願いのために命そのものを投げ打ち、能力の前借りを行なって実力以上の追い上げを見せて、その代償として大怪我を負い全てを一からやり直せざるを得なくなった、一人のウマ娘のことを。

 ……ウララがあの有馬で繰り広げた顛末はまさに、強引に「領域」をこじ開けた末路を物語っているのだ。

 

 

 

 「『領域』とは、即ち目指すべきでない禁断の閾値。

 競走ウマ娘の健康と実績の両立をコーチングする役目を持つトレーナーが、事もあろうにそれを担当に強いると……?

 

 

 

 

 ――ウマ娘を無礼るなよ」

 

 

 

 

 稲光が、走る。

 それはまさに、皇帝の神威が呼び寄せた裁きの雷鳴だった。

 

 

 

 「……君がすべき事はそのような軽慮浅謀な空論ではなく、地に足ついた理論的な作戦を更に練り上げることにあるのではないかな?」

 

 

 

 ルドルフは、再び紅茶を手にする。それを境に、再び穏やかな静寂が生徒会室に広がった。

 俺も、倣ってコーヒーを口にする。普段の愛用品と種類は違うが、その特有の苦さが硬くなった脳に刺激を与え、解していく。

 ……一息付けた。これで、覚悟が決まった。

 

 

 

 

 「――それは、どうかな」

 

 

 

 

 大きく目を見開くルドルフに、俺は駆け引きなしに言葉をぶつける。

 

 

 

 「それは、サイレンススズカにしても、ハルウララであっても、その時点で『領域』を制御出来なかった結果に過ぎないだろ」

 

 

 

 ……こう見えて、ルドルフも俺もお互いをある程度分かっている。

 それぞれが、それぞれに最低限の倫理を持ち合わせている。それを前提とした上で、俺は敢えてあまりに傲慢な台詞を紡いでいた。

 

 

 

 「……もし、キングヘイローが、『領域』すら自ら切り拓く事ができるだけの器だとしたら?」

 

 

 「バカな」

 

 

 

 認める筈が、ないよな。

 だってそれはつまり、ダービーで無我のうちに発現させた君では辿り着けなかった、「代償のない自発的な『領域』への覚醒」という可能性をキングが持っていると言うようなものであり。

 ……キングが、君やマルゼン、その他歴代数百年を生きたウマ娘全てを超えた存在だと宣っているようなものなのだから。

 

 

 「……神にでもなったつもりか。今の君は傲岸不遜、少し目に余るぞ。

 悪く言うつもりはないが、クラシック三冠を無冠に終わり、その後にG1を四度勝っただけのキングヘイローにその域の力があるとは、客観的に見積もっても到底考えられないな」

 

 「……それでも、俺はあいつのトレーナーなんだ」

 

 

 確かに彼女は才能はあれど、決して天才肌じゃない。今回のレースで負けたとしても、あいつはきっと立ち上がってくれるだろう。

 だが、それで良いのか。負けても立ち上がる――それだけでは、レースに出る意味とは何なのか。それがライフワークだからといって、勝つことを諦めて良い理由にはならないし、何より彼女にそのつもりはない筈だ。

 だから、何もかもが足りなくとも、俺はキングと勝つ為にレースに臨む。負ける美学なんてのは結果論であり、日々の鍛錬の先に目指すのはいつだって、一着による一流の証明でなくてはならない。

 

 

 

 「――トレーナーとは、常に担当の勝利の為にあるべき存在だ。

 そして、例え無謀な賭けだったとしても、本人の希望があるならば、その全ての責任を一生負うことになったとしても強行しなければならない時がある」

 

 

 

 稲光が、走る。

 これはウマ娘とトレーナーの、究極の命題だ。持ちつ持たれつで過ごしてきた二つの存在が、絶妙な均衡のもとに保ってきた境界。

 

 

 「――君に、その覚悟があるというのか。

 全てを目先の為に賭ける覚悟が。『領域』に自ら踏み込めば……もう、戻れなくなるぞ。使おうが、使うまいが、失敗すれば彼女は絶望に囚われ、君は生涯の後悔に溺れることになる」

 

 

 ……やはり、そこまでのものなのか。

 その代償をこのルドルフを始め時代を牽引したウマ娘達が被らなかったのは、競走の中で極めて自然にその壁を飛び越えたからであり、かつてウララが行ったような強引な発現は、まさに絶対禁忌。

 そして、いずれにしてもその存在をトレーナーである俺が明確に知ってしまうことが、恐らく俺の今後のウマ娘に対する価値観を大きく変えてしまうのだろう。

 

 

 

 「……繰り返すぞ。

 俺は、キングの、トレーナーだ」

 

 

 

 ――「顕彰ウマ娘」を目指して、生涯現役を決め込むキングヘイローの、一生のトレーナーだ。

 それを決めた時から、有馬で優勝したあの日から、キングの夢は俺の夢になった。

 チームポラリスの不動のエースの座は、永久にキングだけのものとなったのだ。

 

 

 

 

 「キングの勝利の為なら、俺は人生全てだって賭けてやる。

 その危うさを知る、君の助けが必要なんだ――皇帝、シンボリルドルフ」

 

 

 

 

 

 

 

 「……脚下照顧。

 ナメていたのは、私の方だったな。あの青二才が、そこまで言うとは」

 

 

 気の遠くなるような静寂の後。

 シンボリルドルフは、立ち上がった。

 

 

 

 「夢亡き者に理想なし。……しかし今の君からは、強い夢を感じる」

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 『……久しぶりね』

 

 

 誰もいない教室。

 その中で雨音に重なって響き渡るのは、私が人生で誰のものよりも聞いた、母親の声。

 

 

 『あら、一年振りの会話だというのに、随分と酷い顔なのね』

 

 「前置きは結構よ」

 

 

 ――相変わらずの、素っ気なさ。

 あの頃から、何も変わっていない。私がレースに出るのを頭ごなしに反対し続けていた、あの頃のお母様と。

 あれからも定期的に連絡を取り続けて、だけどお母様は昔ほど私のレースに文句を言わないようになって。

 

 

 

 「……なんでよ! どうして今更、私にこんな……っ!」

 

 

 

 私には作ってくれなかった勝負服を、ブロワイエさんには提供して。

 その「踊る勇者」を従えて、お母様は私を潰そうとしている。

 

 

 「そこまでして、私にターフから去ってほしいって言うの!? それだけの準備をして、これだけの人々の注目を集めて、その上で私を負かしたいって言うの!?」

 

 『……あなたがそう捉えるのなら、別にそれで構わないわ』

 

 

 ぎり、と無意識に食いしばった歯が、口の中を切って血を流す。

 お母様の言葉は、いつだって冷たい。それがもしかすると持ち前の不器用さのせいなのかしらと、この数年の間に会話を交わして、ようやく少しずつ分かってきたと思ったのに。

 なのに、今のお母様の言葉は、とても……冷たくて鋭い、ナイフのよう。

 

 

 

 『もしかして、弱音を吐く為にこのビデオ通話を掛けてきたの?

 なら、もう良いかしら――こっちも忙しいのよ』

 

 「……なん、ですって?」

 

 

 

 一人では、あまりに広すぎる部屋。

 真っ暗な夜も、雷雨の日だって、いつも隣には誰も居なかった。

 いつだって、誰も……私の名前を呼ばない、そんな毎日だった。

 

 

 「お母様に、私の気持ちを知る権利なんてない……!

 信じてたのに……いつも寂しくても、あなたはちゃんと私の母親だって、信じていたのに!!」

 

 『いつまで昔の話を引きずるのよ。もう沢山だわ。

 それとも何? あなたは今回のカードに不服があるようだけど……もう既に、ブロワイエと私に負けるつもりなの?』

 

 

 ぐちゃぐちゃになった頭に、一筋の冷や水が伝う。

 こんな風になりたくなかった。ちゃんと話をして、ちゃんと分かり合いたかったけど、それをするには私達には溝が深過ぎて。

 だけど確かに相手がお母様だからって心が折れるようでは、一流を語るウマ娘としては失格なのかもしれない。勝負はあくまでターフの上でのこと、そこを妥協するのは……キングの流儀ではない。

 

 

 

 「……本気なんだったら、私は容赦はしない。

 例え相手がお母様でも、全力で一着を目指すわ。世界最強も、お母様の栄光も超えた走りを見せてあげる」

 

 

 

 すると、そこに来て初めて、お母様は私を正面から見据えた。

 珍しい、未だかつて無いと言っても良いかもしれない。今まであれだけつれなかったお母様が、今はしっかりと私と向き合っていて。

 

 

 

 『――出来るかしら、あなたに?』

 

 

 

 ――感じたことのない、悪寒。

 お母様からは一度だって感じたことのない、凄まじい脅威が、端末の画面越しの筈なのに私の身体を捉えて、締め上げる。

 

 

 『G1四勝……? それが何だっていうの?

 あなたまさか、その程度で一流を自負するに値すると思っていないわよね?』

 

 「……な」

 

 

 気にするのを、辞めた現実。

 今の私は、お母様には敵わない。その成績を比較してしまえば、私はお母様の足元にも、及ばない。

 

 

 

 『おまけに、最近の体たらくはなんなの? あれ以来、たかが日本のG1で一度も勝利を掴めないなんて。

 長いこと強者の心構えを忘れているあなたに、「一流」を名乗り、私達と戦うだけの気概が……あるのかしら?』

 

 

 

 重賞で一勝するだけでも決死の思いなのに、あまりに傍若無人だわ。

 でも、それ以上に、このオーラは恐らく……お母様の、かつての競走ウマ娘として持ち得ていた風格で。

 ――本当に、本気なのね。お母様ほどの実力者が、本気で、全力で、私を粉砕しようとしている。

 それは遂に私達がもはや家族ではなく、本当の敵同士になってしまったかのようで。

 

 

 

 『もう一度、尋ねるわよ。

 あなたは自分が私達を超えるだけの実力を持っていると……本気で思っているの?』

 

 

 

 何よ。私はそんな事で気圧されたりは、しない。

 だって、私こそがキングヘイローだから。誰もがその姿に憧れる、一流のウマ娘だから。

 

 

 

 「……っ」

 

 

 

 ――なのに、どうして。

 どうして、足が竦んじゃっているのよっ……!!

 

 

 『……そう。やっぱり、あなたはその程度の器だったようね。

 一流の名が、聞いて呆れるわ』

 

 「ま、待っ……!!」

 

 

 

 心底失望したような声音で、お母様はそのまま電話を切ろうとする。

 ダメよ、そんなのずるいわ。これじゃ、あの頃と何も変わらないじゃない。

 何か、何か言わないと。お母様の言葉に張り合えるだけの、そんな……。

 

 

 

 

 

 

 (そんなもの……私に、あるの?)

 

 

 

 

 

 

 

 「わたし、知ってるよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 ――その時。

 突然教室の後ろから、ガタッと大きな音がして。

 

 

 

 「キングちゃんは、ずっとわたしを守ってくれたの!

 わたしがからだをこわさないようにって、いつも一緒に走ってくれて、だからわたし、本気でがんばろうって思えたんだ!」

 

 「え、ウララ……さん?」

 

 

 

 どうだ〜! なんて言って自慢げに話しているのは、今年の三月末には一緒に高知レース場で復帰レースを走った、ウララさんだった。

 ……待って、いつから聞いていたの?

 

 

 

 「ちょ、ちょっとウララちゃん、まだ出てきちゃ……ええい、こうなったらあたしも!

 ――キングは、あたしを信じてくれてたんです! ずっとマックイーンにもオグリ先輩にも敵わないって、ずっと挫けてたのに……キングだけは、あたしが本当はスターになりたいんだって信じてくれてた!!」

 

 

 

 ――ガラガラガラッと、まるでドミノ倒しの様に後ろの扉から人影が飛び込んでくる。

 ライアンさんに、クリーク先輩。それに、今となっては一人一人が伝説級のスターウマ娘になった……黄金世代の同期の皆さん。

 

 

 「ちょ、……なっ? ちょっと、何これ、どういう」

 

 「キングちゃんはそんな、その程度なんて言われちゃうウマ娘じゃないんです!

 私も、セイちゃんも、グラスちゃんも、エルちゃんだって! ……みんな、キングちゃんに憧れてた!!」

 

 「……えっ……?」

 

 

 ……何を言っているの、スペシャルウィークさん。そんな訳はないわ、だって、私は一人だけ、あなた達に見合わないほどに勝ちきれていないのに。

 

 

 

 「キングは自分を過小評価し過ぎデース!

 誰よりも自分の弱い部分と苦しい現実に立ち向かっていたアナタは、アタシ達にとっての、何よりの心の支えでした!」

 

 「忘れたとは言わせません、あなたは私達全員を、有馬記念で追い越しているんですよ?

 あれから、私達はずっと……あなたの背中を追い続けているんです」

 

 

 

 グッとプロレスの様な構えを取るエルさんと、一周回って私をそうだと決めて聞かないような、グラスさんの圧。

 

 

 

 「……ほんと、自己評価が高いんだか低いんだか。しょーがないよね、キングは」

 

 

 

 ――そして、スカイさんが。頭に両手を組みながら、未だサポーターの取れない左脚をぶらつかせながら。

 

 

 

 

 

 「言ったでしょ。キングも、黄金世代だって。

 ――言ってやりなよ。何があったとしても……私は、一流だって」

 

 

 

 

 

 「お母様」

 

 

 

 

 私は、ただ自分の証明の為に、そして私を一流と認めてくれる人の為に走ってきただけだった。

 ……それが、いつの間にか、こんなにも。

 

 

 

 

 「――私は、絶対に負けない。

 ここにいる誰よりも一流の私が断言してあげる。それでもう、充分な筈よ」

 

 

 

 

 

 実績も、実力差も、関係ない。

 私は、私の道を行く。それを私は、命ある限り。

 

 

 

 

 

 

 『……その言葉を、待っていたわ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……それでか」

 

 

 雨が止み、すっかり静まった夜に。

 チーム部屋の中で、キングと俺はそれぞれの用事を済ませて合流していた。

 

 

 「……それで、こんな大所帯なのかー……」

 

 

 ――キングの背後には、チームメンバー全員とスペ達四人が勢揃いしていた。

 てっきり二人で秘密の作戦会議かと思ったらこれである。しかもよく見ればマルゼンまでちゃっかりついてくる始末で。

 

 

 「ほんっと、人気者は大変だわ。このキングを心配して、こんなにも沢山の……っ」

 

 

 ……流石に色々とバレバレだぞ。予めティッシュを用意しておいて正解だった。

 それにしても、実際にキングを案ずる友達がこれだけいるという事実は、間違いなく彼女にとって財産であり、大きな力だ。これまでだって、彼女がただの高飛車な扱いにくいウマ娘でなくなった大きな要因として、そういう仲間の存在が欠かさず響いていた。

 

 

 「トレーナーさん、私達もキングちゃんの為に出来ること、ありませんか〜?

 きっとこれは、キングちゃんにとってすごく大切な、大事なレースになると思うんです」

 

 

 クリークの言うそれは、キング個人にとっても、あるいはウマ娘の歴史としても意味を持っている。

 キングにとってそれが、彼女の母親との決着に繋がることは間違いない。真意は今一つよく分からないが、今回のブロワイエ参戦は間違いなくあの人が数年規模で拵えた、最初で最後の親子の直接対決になるだろうからだ。

 そして、日本の競走ウマ娘の歴史的にも一つの転換点を成している。かつてスペが「日本総大将」としてブロワイエを破った時に引けを取らない、シニア級を超えたベテランウマ娘同士による世界を相手取った戦いなのだ。当然世間の注目は数ある重賞の中でも今年一番のものとなるだろうし、その勝敗は今後長きに渡って語り継がれるものとなる。

 

 

 

 「……絶対に、勝つわよ」

 

 

 

 皆への感謝や、不安を乗り越えた決意。それらを一つに凝縮して、キングが宣言する。

 そうだろうな。君はどんな苦難に直面しても、必ず乗り越えようとする。……これだけの仲間に恵まれ、その期待を背負うなら、尚更だ。

 

 

 

 「トレーナー、これからのスケジュールを発表する権利をあげるわ!

 キングの為だけの、最高の時間をプロデュースなさい……!」

 

 

 

 

 

 

 「……ちょっと、トレーナー? 聞いてるの?」

 

 

 

 

 ――俺は、頷けない。

 

 

 「キング。落ち着いて、よく聞いて欲しい」

 

 

 何故なら、今から俺が話すことは、君を間違いなく大きく変えてしまう。

 ……それも、確実に悪い方向に。

 

 

 

 「君の同意がないなら、俺はこれからのトレーニングをする事が出来ない。

 する訳には、いかない……本来は、あってはならないんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『……キングヘイローが「領域」に達しない理由。まずはそこから説明しよう』

 

 

 数時間前。

 立ち上がったルドルフは、厳かな様子で……しかし僅かにその表情に愛しさを宿しながら、切り出した。

 

 

 

 『今回の件を受けて、私も彼女の走りを確認した。

 結論から言えば……彼女は、()()()()()()()()()

 

 

 

 先程ルドルフは、「領域」とは限界の先の、さらに先だと言った。

 キングヘイローはその不屈の心で、どんなレースでだって全力で「限界の先」の走りを見せつけてきた。そういう意味では、誰よりもステータス以上の実力を引き出し続けたウマ娘であると言える。

 

 

 

 『……だが逆に言えば、なまじ有り余る根性がある分、彼女は本当の意味で心も身体も精魂尽き果てた事がないのではないかな。

 ――なるほど、確かにあれは大器だとも。あれだけのレースをこなして怪我の一つも負わない。入着率も高く距離適性に囚われない走りを持つ、国内最高峰のポテンシャルの持ち主の一人と言って良い。

 しかし、だからこそ……「限界の先」には到達できても、そこから本当の限界までの持続性が高すぎて「その先」には届かないんだ』

 

 

 

 今までG1で走り続けてきたにも関わらずそこに辿り着かないのだから、恐らく国内のレース水準では、どうあっても彼女は「領域」に至ることが出来ない。

 ……或いは、ガッツはあってもまだ心体共に未熟で脆かった、あのデビュー前の入団テストの時期なら。

 

 

 

 『君には分かるかな。それが、何を意味するかを。

 本来これはいかなる理由があろうと、絶対に実施してはならない禁則事項であり。

 そして……ウマ娘らの幸福を追求するべき、生徒会長の私が言っては、ならない事だ』

 

 

 

 ――皇帝シンボリルドルフは今、恐らく長いキャリアの中で初めて、明確に禁忌を犯そうとしていた。

 その揺れる瞳の中に、キングに対する慈愛と罪悪感をかわるがわる映しながら。

 

 

 

 

 

 

 『……キングヘイローに「領域」を見せたいなら、彼女を限界の先の先へ連れて行くしかない。

 疲弊させろ。ひたすらに走らせ、その身体を徹底的に壊せ。立つことはおろか、意識すら保てず、その命のひと欠片をも奪い取る程に痛めつけろ。

 そんな、虐待にも近い地獄の先にしか――彼女の「領域」は、存在しないだろう』

 

 

 

 

 

 ――稲光が、走った。

 

 

 

 




 
※この作品においては、「Pride of KING」は領域ではなく、ド根性による純粋なスパートであるという認識のようです。

 


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空と泥

 

 

 

 「もう、無理デース……」

 

 

 エルコンドルパサーが崩れ落ちる。

 その前では、グラスワンダーが何とか立ち上がろうとターフのラチに手を掛けていた。

 

 

 「……少々、身体は重いですが……大丈夫、いけますから……っ!」

 

 「グラスちゃん、ダメだよ! 一旦休まないと……!」

 

 

 ……そう、彼女を諭すスペシャルウィークも、既に肩で息をついて座り込んでいる。

 ここは人里離れた山奥の療養所。「世間から、そしてトレセン学園からも干渉されない練習場所が欲しい」という俺の要望を、ライアンが実家のメジロ家に掛け合って提供してくれたのだ。

 あの雨の日の後、生徒会の都合で遅れて合流するというマルゼンを除いて……スペ達を入れたチームポラリスがここを訪れてから今日でちょうど三週間が経過して、もう十月の末に差し掛かろうとしていた。

 

 

 「……二人で、エルとグラスを休憩室まで連れて行ってくれるか。後はクリークがケアしてくれるから」

 

 「は……はいっ!」

 

 「分かりました! エルさん、グラスさ〜ん……!」

 

 

 取り巻きーズが駆け出していき、既に体力が限界を迎えていた二人を支えながらグラウンドの外へと歩み去っていく。

 それを見送った後に……スペは振り返って、エルとグラスがいた場所の、その先にいる戦友を呆然と見つめていた。

 

 

 

 「……キングちゃん……」

 

 

 

 それは最早、疲労困憊というレベルを完全に超えていた。

 着ている勝負服はほぼ土色に染まり、その四肢は酷使の余り細かく震えてしまっている。朝には完璧にセットされていた筈の優雅な髪型は最早見る影もなく、右耳のカバーもターフのどこかで剥がれ落ちてしまった様だった。

 ――当然の結果だ。交代でレース相手として立つスペ達を全て引き受けて、朝からぶっ続けで全力勝負をし続けているのだから。

 それを、今日まで三週間もの間、ずっと。

 

 

 

 「キングちゃんの『限界の先』が、こんなに……こんなに、長いなんて」

 

 

 

 それを目の当たりにしていたスペは、うわごとの様に呟く。

 当然、張り合う相手が居なければ意味はないので、スペ達はクリークや取り巻きーズ達に念入りにサポートさせて、万全の状態をキープしてもらっている。

 だが、キングには敢えてコンディション調整を行なっていなかった。最低限の身体管理をフィットネスに詳しいライアンにやってもらってはいるが、毎日のあまりの負荷に過労は日を重ねるごとに蓄積している筈であり、今の彼女が体調を崩さないのは彼女自身のウララを凌ぐ頑強さと、俺の半ば賭け同然の切り上げのタイミングが幸い間違えていないことに依るものでしかない。

 全てはキングを「限界の先の先」まで追い込む為の、学園内で行えば確実に虐待とされ糾弾されてしまうような……ルドルフよろしく地獄の特訓の一貫だった。

 

 

 

 「…………ふ、ふふ……っ」

 

 

 

 ――しかし。キングの不屈の根性は、俺達全員の想定を遥かに上回っていたのだ。

 朝から晩まで、スプリントからマラソンまで距離を問わず、ほぼ休憩なしの全力疾走、それを三週間。勝率自体は相変わらずで十回に一度僅差で三人の誰かに勝つ程度だが……その代わりにキングは一度も、首を下げていない。

 既に対戦相手であるスペも、グラスも、エルも、うちのチームメンバーによる手厚いフォローを受けてなお、限界が近いというのに。

 

 

 

 「…………さあ、もう一本……ッ!!」

 

 

 

 キングヘイローは、まだ大地を踏み締めている。

 死屍累々の黄金世代を前に、ただの一度も膝を付かずに更なるレースを求めている。

 だが、ここに来てついに……彼女と万全に走ることの出来る相手が、居なくなってしまった。

 

 

 「なんてことっ……こうなったらわたくしが、ぶち上げてまいりますわっ!!」

 

 「やめろカワカミ、君にはそれより大事な役目があるだろ!」

 

 

 ――万が一キングが耐えきれずに斃れた時、その自慢のパワーで誰より速く彼女を救助するっていう、極めて大事な役割が。

 横を見ればライアンが、飛び跳ねて身体を動かし始めている。確かに現時点で一番適任なのは彼女だ、スペ達が復帰するまで何とか持ち堪えてくれると良いが……果たして。

 

 

 

 

 

 「……いいよ、キング。わたしが走る」

 

 

 

 

 

 全く予想だにしない方角から、その声は聞こえてきて。

 そして……それを聞いたキングの目が、大きく見開かれた。

 

 

 

 「スカイ、さん」

 

 

 

 ――座り込むスペを背に、乱れたキングを前にターフに立ったのは……同期の中で唯一キングと今まで走っていなかった、セイウンスカイだった。

 

 

 「……待てスカイ、君の脚はまだ」

 

 「へーきへーき、大丈夫ですよ。長距離は無理でも、短めの中距離くらいなら何とかなります」

 

 

 ……バカな。

 君らしくないぞ、スカイ。屈腱症はそんなに軽い病気じゃない事は、君が一番知っている筈だろ。ようやく持ち直してきたとは言っても、これまでもずっとリハビリに苦しんできたじゃないか。

 

 

 「駄目だ、そんなの許すわけにはいかない。いいから一旦コースの外に……」

 

 

 

 

 

 「――わたしに、走らせろ!!」

 

 

 

 

 

 聞いたこともないスカイの怒号が、辺り一帯に木霊する。

 

 

 

 「一度でいいんだ、一度でいいから――キング」

 

 

 

 ――キングは、眉を寄せて彼女を見つめていた。まるでその真意を、下手に言葉にせずに探しているかのようで。

 

 

 

 「いいわ。受けて立とうじゃない」

 

 

 

 その返答を境に、二人は合図もなく並び、構える。

 その時。今まで背中側にいて伺えなかったスカイの表情が、スタンディングスタートの姿勢を取る横顔として覗いて。

 

 

 

 

 「スカイ、君は――――」

 

 

 

 

 その感情の色を、俺は一度だけ見たことがある。

 忘れもしない、あの因縁の日。キングの絶望が極まって、彼女が壊れる寸前までいった、あの日のことを。

 

 

 

 

 

 

 ……あの、「菊花賞」の日のことを。

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 ――あの伝説のウマ娘の、ご令嬢。

 それまでのキングの行動原理はまさに、これを覆して世間にただの「キングヘイロー」として認めさせる事にあった。

 その為に彼女はジュニア級からおおよそ並みのウマ娘がこなせない様なメニューをこなして、かの「三強」を除けば比類のない絶対的な力を手に入れるに至っていたのだ。

 

 

 『今はトレーニングは後回し! まずはキングの存在をアピールするのよ!

 ここには観光客がいっぱいだもの。少しでも多くの方に名前を覚えていただくわ!』

 

 

 だから、これもきっといつもの彼女の、かねてよりの願いによるものだろうと、初めはそう思っていた。

 だが、しかし。その後、彼女を「金持ちはやりたい放題」だとか、「親の七光り」だとか評する観光客を見て……キングはぼそりと零したのだ。

 

 

 

 『……いいのよ、今はこれで。

 だって、私はまだ――――』

 

 

 

 ――この時点で、つまりクラシック級、大敗したダービーの後の夏合宿の辺りから……やはりキングヘイローは穏やかに壊れ始めていたのだと、俺は思ってやまない。

 だってそうだろ。自分を認めさせる為なら独断で学園の中に記者を呼び込んでトレーニングを見せようとするほどに、彼女は「キングヘイロー」である事に拘っていた。その為にならどんな鍛錬も厭わず、その代わりに自分が名前で呼ばれないことがどうあっても我慢ならないという凄まじい執着と覚悟を持っていた筈なのだ。

 

 

 「はあ……はあっ……トレーナー、どうだった? 今日の走りは……!」

 

 

 ……それがあれから、角が取れ始めた。

 人々の評価を甘んじて受けた上で、柔軟にひっくり返そうとシフトし始めていた。それは側からみれば一皮剥けた良い兆しだと見て取るだろうけど。

 ――とんでもない。この時点で、彼女はもう自分の本筋を見失っていたのだ。結果が振るわないという現実が何を意味するかをよく理解していた彼女は、「あの伝説のウマ娘のご令嬢」と呼ばれても良いから、それでも自分を覚えていて欲しいと……人々に忘れ去られてしまう可能性を考えて、怖くなってしまった。

 自分が「キングヘイロー」でいる事を、無自覚のうちに諦めてしまっていたのだ。

 

 

 「あのさ、キング」

 

 

 だけど、それは今だからこそ、冷静に分析できる事で。

 表面上はいつもの様子を変えず、トレーニングをする時はやはり誰よりもひたむきだった彼女の、そのほんの僅かな変化にやっと気が付いた時には……既に「菊花賞」本番の十日ほど前になってしまっていたのである。

 

 

 

 「……本当に『菊花賞』で良いのか?」

 

 

 

 尻尾に感情を出さなかった辺り、流石だった。

 しかしその反動で身体はがくりと硬直して、直前まで浮かべていた笑みの表情は、走り慣れた練習用のターフを舞う風に吹かれて飛んで行ってしまったかの様に蒼白になっていた。

 

 

 「……どういう、意味かしら」

 

 「すこし、様子がおかしくないか。今の状態でレースに出て……」

 

 

 ――そこまで言っておいて、言葉を失ってしまった。

 初めてだったのだ。キングの瞳に、明確に怯えが現れたのが。

 

 

 「……いいのよ。だって三冠路線こそ王道なんだから」

 

 

 言っている事とその素振りが示す反応が、真逆だ。王道を堂々と突き詰めようとする姿勢と、そこでスペ達と戦う事に対する、躊躇いがかち合っている。

 

 

 「私には、クラシックで活躍できる才能があって、当然なの。

 中距離でも、長距離でも何でも走れる……三冠路線で最も輝けるウマ娘でなきゃ、ダメなの!」

 

 

 自分を認めさせるには、菊花賞に出て一着を勝ち取らないといけない。

 だけど、そこでもし負けてしまい、クラシック三冠を一度も勝てずに終わったら……その時こそいよいよ、自分は見込みのないウマ娘だと切り捨てられてしまうかもしれない。

 怖いけど、そう言ってはいられない。だけど、怖い。そんな負のスパイラルが着実に、キングの心を蝕んでいたのだ。

 

 

 「……もしかしてさ、キング」

 

 

 俺の反応一つ一つに、キングの耳がびくついている。

 いつの間に、俺達はこんな関係になっちまったんだ。二人で一流を目指そうって決めたあの頃は、たかが俺なんかの言葉に君はびびる事すらなかったじゃないか。

 

 

 

 「君の脚は……スプリント向きの、脚なんじゃないか?」

 

 

 

 今の今まで、気が付かなかった訳じゃない。

 彼女の一番の武器は爆発させることの出来る末脚だ。持続性や安定性はスペに劣るが、瞬間的な速度はキングの方に分がある。

 だけどそれは、単純に短距離やマイルの方が本領を発揮できるという意味でしかなく、皐月賞の時の様に中距離でも十分に先頭争いに加われるだけの実力は持っていると、俺はそう考えていた。

 だけど、もしかすると……その事をキングは自分でとっくに気が付いていて、俺とは違う考えを持っていたのか?

 

 

 

 「君はもしかして、自分の脚に限界を感じてて、だけどそれを言い出せなくて……ずっと隠していたんじゃないか?」

 

 

 

 ――大きく目を瞬かせた彼女を見て、俺は確信してしまった。

 いつからだ? 合宿前か? ダービーで大負けしたからか? だけどあれはレース以前の問題で負けたのであって。

 

 

 

 「――や、違うの、そんな、隠してたわけじゃ」

 

 

 

 ……もしかして、ダービーの時点で既に抱え込んでいたのか。

 

 

 

 「まさか……ダービーは、それで」

 

 「……っ」

 

 

 

 なんて、ことだ。

 まるで何にも気付いていなかったのだ。俺は彼女のトレーナーとしてできるだけのサポートと、揺るがない彼女への信頼を捧げてきたつもりだった。

 ……それは一方的な押し付けだったのだ。お転婆のように見えて実は他人の感情の変化に敏感なキングにとって、()()()()()周囲からの視線とは常に重圧でしかなかったのだ。彼女の隣に立っていると思っていた俺は……しかし彼女にとっては、やはり向こう側にいる人々と同じ、自分が結果を出す事で見返さないといけない存在となってしまっていた。

 

 

 「ごめん、キング……そんな、つもりじゃ」

 

 

 何て言えばいいのか、分からなかった。何を言ったとしても、それが彼女の負担になってしまいそうだった。

 

 

 「俺は君の味方でいたい。母親を見返したいっていう、君の気持ちを応援してあげたい。

 だけど……今の君の事、見てらんなくてさ」

 

 

 ……とことん地雷を踏みぬきまくっていることに、のちの俺は気付いて鬱々としたものだ。

 なんで見てられないか、そんなの決まってる。今のキングの姿が、親父を超えることを諦めてしまった時の俺自身と重なってしまうからだ。

 キングなら、その壁を越えられるかもしれない。そんな夢を彼女に見て……この期に及んで俺は、彼女に重荷を投げつけていた。本当の意味で同じ道を歩もうとしていなかったのは、俺の方だったのだ。

 ――俺は、キングのトレーナーになり切れていなかった。彼女の事を誰よりも知る、一人目のファンにしかなれていなかったのだ。

 

 

 「……最低だ、俺……くそっ……」

 

 

 優しすぎる。優しいから、そんな俺の内心を受け容れて、プレッシャーと共に俺の夢をずっと背負ってしまった。だからこそ、キングが最後に頼るべきだった俺の言葉でさえも、今は世間の心ない声と同化してしまっている。

 だけど一つだけ、不幸中の幸いがあったとしたら……それは、レース本番の前にそのことに気が付けたということだ。既に遅すぎるけらいがあるのは事実だが、それでも最悪の事態は避けられるかもしれない。

 ――即ち、ダービーの様な暴走、そしてそれによって起こり得る、致命的な事故の回避を。

 

 

 

 「……キング。一旦、休まないか。

 一度も君を、勝てる見込みのないレースに出した事はなかった。いつだって君に勝ち筋があると思ってたから、自信を持って送り出してきた。

 でも……それが、俺が駄目なせいで君がたった一人で踏ん張ってた結果に過ぎないんだったら、それは十分な見込みとは言えない。

 今の君がスぺやスカイに勝てるって……もう、断言できないんだ」

 

 

 

 ――トレーナーとして、担当ウマ娘の出走と勝利を願う事も出来ない。かと言って、何かあった時にお前は何の責任も負わない。被害が及ぶことがあっても、矢面に立つのはいつでも彼女達の方だ。

 親父の言葉が、呪詛のように頭に鳴り響く。その言葉一つ一つが、俺が招く失敗を的確に貫いている。

 だとしても。だとしても……今俺がやるべきことは、キングの幸せを考える事。それこそキングがこれ以上沈んでしまわないように、俺が守ってやること。

 

 

 

 

 「だから、さ。

 もう一回、ちゃんと考えてみないか。『菊花賞』に出るかどうか――――」

 

 

 

 

 風が、止まった。

 いや、そう感じただけだ。

 なぜなら、俺がそれを言い終わる前に……キングは、俺の上着の胸の辺りをひしと掴んでいたから。

 

 

 

 「……お願いよ、トレーナー」

 

 

 

 ……そんな声を、俺は聞いたことがなかった。

 哀願だった。あのキングが、プライドも体裁も投げ捨てて、今までトレーナーでいる権利をあげていた筈の俺に……乞い願っていた。

 

 

 「キング」

 

 「お願い、どうか、どうか私を『菊花賞』で走らせて」

 

 

 間近で見下ろしたキングの瞳は、涙を一杯に溜めて震えていた。

 ――それはもう……一流ウマ娘の顔では、なくなっていた。今のキングはただの、凍える少女だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お願い……私を……見捨てないで……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――最低なのは私のほうよ、トレーナー。皐月賞で負けて、ダービーでは作戦を無視して、信頼を失って当然のことをしたのに……また私は、あなたの温情に付け入ったんだから。

 

 

 

 『さあ、レースはやや縦長の展開となっております!

 セイウンスカイ、リードを広げる! キングヘイローが五番手で先行しております、スペシャルウィークは後方で控えている!』

 

 

 

 とうとう、出走してしまった。

 レース場について、控室からゲートまで……自分がどうしていたのか、殆ど記憶がなかった。きっとトレーナーはあれで暖かい人だから、ずっと私の事を心配してくれていたのだろうけど……それももう、一言も覚えていない。

 だって、これは完全に私のわがままだから。3000mの長距離走、今まで以上に厳しいレースになることは目に見えていた。トレーナーもそれに気が付いて、一緒にどうすべきかを考えようと言ってくれたのに……私はそれを拒んで、訳も分からないままに走り込んで今日を迎えてしまった。

 ――もう、負けられない。誰も頼れない、少しの気の緩みも許されない。最初から最後まで、完璧な走りを見せつけないといけない。

 

 

 (ラスト一冠。何が何でも、取らなくちゃいけないんだから……っ!)

 

 

 ……もう、お母様なんて、とても届かない。

 レースを見に来た観客にすら実力を認めさせられないような敗北者が、世界で戦ったお母様を見返す事なんて、とても出来るわけがない。既にこれまで負けすぎていて、この菊の冠を取ったところで……きっとあの人は、納得しない。

 これを取らないと、私は土俵にも立てない。ここで結果を出さないと……きっともう、私はまともに走ることも出来なくなる。

 

 

 

 『絶対スペシャルウィークだって! あの子が勝つに決まってる!』

 

 『え~? そうかな~? あたしはセイウンスカイにこそ期待だな~』

 

 『あ~……でもどっちが勝つんだろ! うぅ~ん、距離的には……』

 

 

 

 スカイさんは皐月賞。スペシャルウィークさんは日本ダービー。

 負けるとは、こういうこと。レースに勝てるからこそ次が期待されるのであって……一度も勝てていない私に、夢を乗せる人はいない。

 ――トレーナーだけが、無条件に私に夢を抱いてくれた。実はあのクリーク先輩やマルゼンスキーさんを輩出した天才の息子だったトレーナーだけが、偉大な親を超えようとする私の背中をいつでも押してくれた。

 だから、私は勝ちたかった。お母様を納得させて、人々を納得させて、そうしていつか、私を支え続けてくれたトレーナーに、胸を張って言いたかった……あなたのおかげだって。

 

 

 

 『はぁ~あ。モブAには過ぎた舞台なのかもしれません。くすん』

 

 

 

 ……なのに。

 

 

 

 『私、このレース絶対に負けません! みんなの応援を力にして走ります!

 このダービーに勝って、私は……日本一のウマ娘になりたいですっ!』

 

 

 

 ……なのに。

 どうして、邪魔をするの。

 

 

 

 『一番人気スペシャルウィーク、ダービーは二着から五バ身差での快勝でした! その自慢の末脚で二つ目の冠を手にすることが出来るか!?』

 

 

 

 ――スペシャルウィークさん。

 どうして、そんなに楽しそうに走るの。これだけの観客の前で、あれだけの重圧を背負って……どうして、そんなに自然と輝いていられるの。

 

 

 

 『しかし二番人気セイウンスカイ、早くも現在八バ身差のリードです!! 菊花賞での逃げ切り勝ちは実に三十九年前にまで遡ります!! もし一着ならこれは大変な記録を残しますよ!!』

 

 

 

 ――スカイさん。

 なんで、あなたはそんなに、上手く走れるの。自分で才能も血統もないって言いながら、どうしてそれだけ強く、堂々と走れるの。

 

 

 

 『……そして一バ身差でキングヘイロー、その内からは……』

 

 

 

 ……どうして。

 どうして私だけ、あなた達に勝てないの……?

 

 

 

 

 『第四コーナーカーブ、スペシャルウィークが詰めてきました……!』

 

 

 

 ――レースはもう、最終局面。

 目の前を他の選手達に覆われて、先頭がどうなっているのかが分からない。こうなったら最後のスパートに入る前に、なんとか強引にでも内から抜け出すしかない。

 

 

 「――ぜえっ……はあ……ひゅっ……!!」

 

 

 脚が、殆ど残っていない。

 それでも、やるしかない。バ群もインコースも得意じゃないけれど、今は、今だけは、何とか乗り越えないといけない。

 コースの端が一気に開ける。京都レース場は最終コーナーから最終直線にかけてラチがない……ここにしか、もう勝機はない。

 

 

 

 (ダメ……ここで脚を止めては、ダメ……ッ!!)

 

 

 

 一度も勝てなかった。

 お母様に張り合うだけの人気を、失ってしまった。

 トレーナーの信頼を、裏切ってしまった。

 それでも。いつか、遠い未来に、「一流」に手が届くことを信じて。

 ……奇跡的に、息も絶え絶えにバ群を内から抜き去って、そこで私が見た光景は。

 

 

 

 

 「だって私は……一流の――――!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まっさおなおそらが、まっくらになって。

 ずっとはしってて、つかれたから、ひとりでおふろをわかして、はいって。

 れいぞうこの、つくりおきのごはんを、ひとりでたべて。

 かいがいにいるおかあさまのれーすを、てれびでおうえんして。

 

 

 

 ……あかりをけして、まっくろなおへやのなかで。

 ベッドのおふとんのなかで、めをぎゅってとじて。

 

 

 

 

 

 

 「……やだよぉ……」

 

 

 

 

 

 

 ――ひとりでずっと、ないていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……ひとりぼっちは、やだよぉ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『セイウンスカイ独走だ!! なんとあれだけの大逃げの中で、まだ脚を残していた!!

 まだリードが四バ身から五バ身ある、スペシャルウィークも突っ込んでくるが、これは間に合わないか――!!』

 

 

 

 

 「……いや」

 

 

 

 

 もう、いやなのに。

 誰もいない、ひとりぼっちは、もう。

 

 

 

 

 「……いやよ」

 

 

 

 

 もう、ダメなのに。

 ここで負けたら、私は、もう。

 

 

 

 

 「……取っちゃ、いやよ」

 

 

 

 

 もう、これ以上、私から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 (私から「私」を奪わないでよ……!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『セイウンスカイが逃げ切った! まさに今日の京都レース場の上空とおんなじ! 京都レース場の今日は青空だ……っ!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ああ……ダメでした……」

 

 

 隣のクリークが、悲しそうに呟き、それに他のみんなも残念そうに反応する。

 圧倒的だった、もはや事故だったと言っても良い。それほどに今回のセイウンスカイは期待以上の、策と実力を合わせた芸術的な逃亡劇を見せていた。

 ……もはやキングの距離適性が、問題でないのではと思ってしまうほどに。

 

 

 「キングちゃん、すごく辛そうでした……。帰ったらいーっぱい、ご飯を食べさせてあげましょうね……?」

 

 

 辛そうであり、しかし皮肉なことに……今日のキングは、今までのレースで一番安定していたのだ。

 ――決して良い意味ではない。普段の彼女の、冴えたコース選びと怒涛の末脚が炸裂しない、まさにがんじがらめで武器を失った……そんな走りだった。

 

 

 

 「ああ……もちろん。今日は体重制限も関係なし、たらふく食べようか。キングもそれで少しは……」

 

 

 

 

 

 その時。

 俺は、その声を聞いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 「ぅ……うふひひ、ひぁっ、は」

 

 

 

 

 

 

 ――無意識に持ち上げたのだろう左手は、顔まで届いておらず首の辺りで萎えてしまっている。

 

 

 

 

 

 

 「は、はへっ、へほ……ほふ、あはっ」

 

 

 

 

 

 

 ――引き攣った唇の端が、歯で噛みちぎられて血を流している。

 それが顎から首にかけての泥と混じり合って、ターフにぼとぼとと垂れている。

 

 

 

 

 

 

 「お、ほぁ、あは……はっ、ふ」

 

 

 

 

 

 

 ――そして。

 瞳孔も、目尻も裂けるほどに見開かれた瞳からは、もはや涙すら枯れ果てていて。

 明らかに、普通ではなかった。いつも通りの高笑いをしようとして、それも出来ないほどに異常を来しているキングを……()()()()()()()

 

 

 

 「……なんでだ」

 

 

 

 思わず、俺は口走っていた。

 慌てて止めようとするクリークやライアン達を振り切って、俺は目の前の二人の観客の肩を掴み寄せていた。

 

 

 

 「なんで、キングを見てくれないんだ……あんなに、あんなになるまで、頑張ってるのに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 「はぁ? キング……って、何のこと?」

 

 「ああ、あのお嬢様だろ? キングって……変な呼び方すんなよ、分かりにくいだろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――気が付くと俺は後ろに引き寄せられて、ものすごい勢いで席に叩きつけられていた。

 我に帰って見上げると、そこにはクリークがいた。彼女が俺の服の袖を持って、初めて見る様な険しい目つきでこちらを覗いていた。

 そして、前を見ると……そこにいた多くの人々が、面食らった様にこちらを見つめていた。

 

 

 「クリーク、俺……今、何を」

 

 「行きましょう。ここにいちゃ、ダメです」

 

 

 そのまま、彼女に腕を引かれて、俺はその場を後にする。チームメンバーも戸惑いながら後に着いてきてくれた。だけど俺達を見る人達の中に、フラッシュを焚く連中がいるのが、見えて。

 

 

 

 「今はキングちゃんのことが最優先です。ですよね、トレーナーさん?」

 

 

 

 ……振り返るもキングは、もうその場を去ってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 地下バ道に出た辺りで、俺は取り憑かれたかの様に全力で駆け出していた。

 後ろからライアンやウララの呼ぶ声がしても、今は一切気にならない。

 

 

 (キング……今、いくから)

 

 

 今までの彼女が、フラッシュバックする。

 自信満々に自己紹介をするキング。取り巻きーズを従えて、「メディア用あいさつ」を何度も練習するキング。いつも気高く高飛車のようで、ウララやカワカミに対しては母親のように粘り強くものを教えようと唸るキング。

 そして……スペやスカイの背中を追いかけながら、厳しくも凛々しい表情で最後まで駆け抜ける、一流のウマ娘。

 

 

 (君をここで終わらせたくない、君は、俺にとって、たった一人の……!)

 

 

 ――やがて見えてきたシルエットに鼓動が早くなるのを感じたけれど……近づくにつれて、それが彼女の焦げ茶色の髪の毛ではなく、空色の芦毛であるのが見てとれて。

 

 

 

 「……ああ、トレーナーさん」

 

 「スカイ、か」

 

 

 

 にへら、と笑ったスカイの目は、しかし笑っていなかった。

 

 

 「……参ったよ。大した大逃げだった。コースレコードまで出して」

 

 「いえいえ〜。ちょっと調子が良かった、それだけですよ」

 

 

 ……声音も、抑揚がなかった。

 

 

 「……スカイ?」

 

 

 トコトコと歩く彼女の横顔は、何か言い知れない感情を灯していた。

 そして、俺の横を通り過ぎて、少ししたところで……立ち止まって。

 

 

 

 「……キングも喜んでくれたよ。

 おめでとう、完全に私の負けだわ、すごいのねって」

 

 

 

 ――息が、詰まった。

 そんなことを、普段のキングなら絶対に言わない。……いや、彼女は結果に対しては真摯だから言うかもしれないけど、それでも最後は必ず「次は必ずこのキングが」と続くはずなのだ。

 

 

 

 

 「……キングを戻してよ、トレーナーさん。

 わたしは、キングをあんな風にするために走って、勝ったんじゃない……!」

 

 

 

 

 スカイは、そのまま去っていってしまう。彼女なりに冷静に話していたのが伝わるけど……それでも、その語尾は震えてしまっていた。

 ずきりと心が痛む。彼女にとっては、今日は一着を掴み取った栄光の日でなければならないのに。

 

 

 「ごめん……スカイ」

 

 

 だが、今はやるべき事がある。俺はスカイに構わずに、そのまま駆けて、曲がり角から奥を覗いた。

 

 

 

 

 「……キング……」

 

 

 

 

 ――出口からの光を浴びたまま、立ち尽くす後ろ姿があった。

 その勝負服には不得手なバ群での悪戦苦闘によってついた泥があちこちにこびり付いていて、それが服を伝って両手と脚に垂れ下がっている。だけどそれにまるで意も介せずに、微動だにせずただターフを見つめる彼女のその有様は、さながら中身の失われた抜け殻のようで。

 

 

 

 「走ることが、好きだったの」

 

 

 

 掠れた声で、キングは零す。

 

 

 

 「子どもの頃、お母様のレースを応援するのが、すごく楽しかった……いつも家には誰もいなかったけど、その時だけは私も一緒になって、走っているみたいだった」

 

 

 

 初めて聞いた話だった。

 それは恐らく、キングの走りの原点。

 

 

 

 「だから、覚悟を決めて、来たの。

 私は、一流のウマ娘になるって。私も……お母様のような、みんなを惹きつけるウマ娘になるって」

 

 

 

 そこにあったのは、母親への確執ではない。

 憧れ、そして尊敬。どんなに寂しくても無条件に親を求めてしまう、幼い子供の無垢な想い。

 

 

 

 

 

 

 「――全部、無駄だったのね」

 

 

 

 

 

 

 ……それは今、全てどす黒く塗り潰されていた。

 

 

 

 

 「挑戦なんて――しなければ良かった」

 

 

 

 

 彼女のクラシック級は、無冠に終わった。

 

 

 

 

 「レースになんて、出なければよかった」

 

 

 

 

 デビュー時にそれなりに集めた筈の注目は、今や見る影もない。

 

 

 

 

 「……お母様の娘になんて、生まれなければ良かった」

 

 

 

 

 母親の背はもう、見えない程に遠い。

 結果とは、そういうものだ。度重なる挫折の履歴は、最終的には自分の存在価値をも薄めてしまう。

 ……でも、本当はそんな、大袈裟な話じゃない。

 

 

 

 

 「頑張ったんだな、キング……」

 

 

 

 

 ――ただ、愛して欲しかっただけだ。

 自分が愛する人に、自分のことを愛してると、ただ一言言って欲しかっただけなんだ。

 それは母親であり、同期であり、チームメイトであり、観客であり……そして、俺のことだ。

 その全てから、キングは見捨てられてしまった。少なくとも彼女自身はそう思っている。

 

 

 

 

 「……ふ、ふふふふ、無様ね。

 もう、誰も……見てないじゃない……」

 

 

 

 

 その肩を抱き締めてあげたり、彼女の為に泣いてやったりするのは容易い事だ。

 だけど、それでは彼女はもう二度と立ち上がれない。一度敗北の味を受け入れてしまえば、項垂れかけている首は二度と上がることはないだろう。

 俺が、俺だからこそ、言えることがある。これまでの、ただ彼女を応援するファンでしかなかったバカ野郎としてではなく。

 ……それを超えた、彼女の本当のトレーナーとして。そして彼女と同じように希望を諦めかけてしまった人間として、言えることがあるとしたら、それはきっと。

 ――俺は意を決して、大きく息を吸うと。

 

 

 

 

 

 「――君の名前は!」

 

 

 

 

 

 ぴくりと、尻尾が動く。

 

 

 

 「……知らないとは言わせない。君が、君自身が何よりも他人に言わせたかった名前じゃないか」

 

 

 

 彼女は、無言のままだ。

 いいさ、そっちがだんまりなら、俺はとことん付き合ってやる。

 

 

 「何度でも聞くぞ……君の、名前は!!」

 

 「……もう、いいわよ、そんなの……」

 

 「やめない! 君が言うまでは、絶対にやめてやるか!!」

 

 「やめてよッ!! 言うだけ……惨めじゃない……!!」

 

 

 「惨めなんかじゃ……断じてない!!」

 

 

 お互いの怒号が、ぐわんぐわんと地下バ道に木霊する。

 

 

 

 「君が、君の名前を呼ばなくてどうするんだよ!!

 いいか、確かに今の君はどん底だ。俺は君のことを分かってやれてなくて、君は結果的にレースを勝ちきれなくて! それで、今俺達は二人してここにいる!!

 

 

 

 

 ……でもな、キング!!

 どんな人にだって、君が誰かにあげなくたって、自分のことを自分で認めて、肯定する権利があるんだ!! どんなに周りからバカにされて、上から認められなくたって、だからって、俺達は俺たち自身のことを嫌いにならなくて良いんだよ!!

 その権利は……君自身にだってあるんだぞ!!」

 

 

 

 

 俺は今、チームポラリスのトレーナーだ。

 元々このチームは親父から受け継いだものだ。そして世間で俺は、父親ほどの才能はない、期待外れのトレーナーとしてしか認識されていない筈だ。

 ――そんな俺のことを、君は一流のトレーナーだって、無条件に認めてくれたじゃないか。そうして全幅の信頼を寄せてくれるから、俺はそれに応えたくて……これでも本気で「一流」を目指そうと思ってたんだ。結果は情けないくらいに散々だったけどさ。

 

 

 

 「……だから俺は自分がどんなにどうしようもなくたって、そんな俺自身を否定しない!! その権利を君がくれたんじゃないか、君が信じてくれた俺のことを、絶対に捨ててなんてやるもんか!!

 ――君はそうじゃないのか!? 俺が『一流』だって信じてた君の名前を……君はもう忘れちまったのかよ!!」

 

 

 「わ……忘れてなんて」

 

 

 

 ……声が、震えている。

 よし、良い傾向だ。感情が心に戻りつつある。

 

 

 

 「だったら、言ってみろよ!!

 ずっと呼ばれたかったんだろ!! 観客にも、君のお母さんにも、その名を呼んで、応援して欲しかったんだろ!!

 君が!! 君自身を忘れてないなら!! 絶対に忘れない筈だ!!」

 

 

 

 ……鼻を啜る音が聞こえる。

 そうだ、戻ってこい。手遅れになる前に、もう一度やり直すんだ。

 

 

 

 

 「君だけの権利を行使するんだ(Exercise the Right)!! 名乗りを上げろよ、俺が今でも誰よりも信じてる、君が誰なのかを!!

 ――君の名前は、なんだ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 「キングヘイロー……っ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……やっと、振り向いてくれた。

 途端に込み上げてくる感情を飲み込んで、さらにまくし立てる。

 

 

 

 「――誰よりも強い!?」

 

 

 「勝者だよ〜っ!!」

 

 

 

 横から、声がした。

 思わず見てみれば、そこにいたのは……ようやく俺に追いついてきた、ウララだった。

 

 

 「その、未来は!?」

 

 

 合わせて、反対側でライアンが合いの手を入れてくれて。

 

 

 「輝かしく、誰もが憧れる、ウマ娘〜……ですよね?」

 

 

 そして最後に、クリークが微笑みながら答えてくれる。

 取り巻きーズとカワカミも、その後ろまでついて来てくれていた。

 

 

 

 「……あ」

 

 「一緒にやり直そうよ、キング。俺も一から、始めてみるから。

 君が好きな君の、君だけの道を行くんだ。そうすればきっと……君を認めない人ばかりじゃない」

 

 

 

 これは、決して絶望の物語なんかでなければ、逆襲の物語でもない。

 ここから、始まるんだ。偉大な母親もこれまでの挫折も全て越えた先の、君だけの物語が。

 

 

 

 「だって、一流のウマ娘といえば――君しかいない!」

 

 

 

 ……これは、その(はなむけ)のコール。

 その結び文句を、クリーク達と合わせて……俺は彼女に贈ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 「「「「そのウマ娘の名は……キングヘイロー!!」」」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――おばか。

 

 

 

 ――本当にあなたってへっぽこだわ。

 こんな時になって、いきなりらしくないこと言って。

 

 

 

 ――そのくせに頑固でしつこくて、融通も利かないで、不器用で……。

 諦めが悪すぎる、私のトレーナーだわ……っ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「本当に……全然……。かっこつかないんだから……っ。

 ……なんで、こんなにへっぽこなのかしら……っ! 私たちはぁ……っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「……つまんない、なぁ」

 

 

 スカイが、キングの腕の中でぼそりと呟いた。

 決着は、ほんの一瞬だった。二人がスタートして十秒も経たないうちに、スカイはもう体勢を崩してしまい……それを見越していたキングが抱き止めたのだった。

 

 

 「……どういうこと?」

 

 「だって……キングがそんなになってるのに。

 ――わたしが」

 

 

 スカイは、キングの胸に顔を埋めていた。

 ……声がうわずっていて、何で顔を上げないかは明白だった。

 

 

 

 「わたしが、勝っちゃったから……わたしが、キングの夢を奪ったんだ」

 

 

 

 ――やっぱり、そういうことだったか。

 それはほんの少しだけの心の棘だったのだろう。勝負の世界においては避けて通れないものごとで、グラスに匹敵する勝負師であるスカイ自身もそのことは理解していた筈だ。

 ……でもきっと、あの菊花賞でのキングを見てしまったせいで……あれから四年経ってもその傷跡が消えなかったのか。

 

 

 「ずっと……ずっと、何かを返したかったのに、わたしは、怪我しちゃって、まともに走れなくなって」

 

 「……スカイさん」

 

 「高松宮記念で応援して一つ、二度目のダービーで二つ。

 ……最後に一つ、返したかったんだ。『菊花賞』の分」

 

 

 ――キングのデビュー前から知り合って、それ以降も頻繁にチーム部屋に遊びにきては、キングの様子を探っていたスカイ。

 クラシック三冠が終わってからの彼女は、まさに……キングを救う為に、うちに顔を出していたのだろうか。今回も初めから、怪我をも構わずに走ってキングの助けになる為に。

 

 

 「スペちゃんも、エルもグラスちゃんも、みんなギリギリまで頑張ってる。

 ……わたしだけ、キングから一番奪ったわたしだけが、何も出来ていないなんて、そんなの、虫が良すぎるじゃん」

 

 

 そう、この娘たちは、勝負者である以前に、年頃の少女なのだ。

 普通なら怖気付いて、逃げ出して、頭を抱え込んでしまうような、そんな恐怖や苦難を必死に押し殺して、歴代のウマ娘達はレース場でその脚を使って物語を紡いできた。

 だけど、その中身が傷つき、傷つけたことに敏感で、それを引き摺り続けるような脆さを持ったものだとしても……誰が彼女達を責めることが出来るだろう。

 

 

 

 「ふーん……。

 スカイさんって、思った以上におばかだったのね」

 

 

 

 それでも責めることができるとしたら、それは当人の間でだけ。

 キングはそう言いながらも、自分の元に倒れ込むスカイの頭にそっと、手を当てて撫でさすっていた。

 

 

 

 

 「なら、スカイさん。私から、あなたに欲しいものをあらかじめ言っておくわ。

 ――ちゃんと怪我を治して、また私と一緒にターフに立って。それでちゃんと私ともう一度、勝負してちょうだい。それでまた私が負けたら、もう一回。さらに負けたら、さらにもう一度……何度だって、このキングと勝負しなさい。

 だって……あなたは、言ってくれたじゃない」

 

 

 

 

 

 ――わたしたちはさ、同期なんだよ?

 これで終わるわけないじゃん。次も勝負しようよ。

 

 

 

 

 

 「一緒にやり直しましょう、スカイさん。

 私の大好きなあなたの、あなただけの道を行けばいいの。それが、きっと……私たちの夢に、繋がっている筈なんだから」

 

 

 

 

 

 見上げれば、澱んだ曇空。見下ろせば、ぬかるんだ泥。

 だけど、キングは信じている。いつかその悪天候が終わって……またあの京都レース場で見たような、青空が覗くことを。

 

 

 

 

 

 

 「菊花賞、一着おめでとう、スカイさん。

 ――でも次こそは、トップを譲らないんだから」

 

 

 

 

 

 

 それを、今度こそ……心から祝福できることを。

 

 

 

 



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最後のひとかけら

 

 

 「毎度ごめんな、ライアン。何か出来ることはあるかい?」

 

 「これくらいは全然大丈夫ですよ。あたしもちゃんと得意なことで力になれて嬉しいくらいです」

 

 

 スカイの一件から、さらに二週間。

 ジャパンカップまでもう残り時間が少ない。それに少し焦燥感を抱き始めた、そんな日の夜のことだった。

 

 

 「それで……キングは」

 

 「はい、今日はなるべく寝るようにって言っておきました。あの子びっくりするくらい回復が早いから、多分明日はまた走ることが出来ると思います」

 

 

 ここ数日になってようやく、キングは極限に到達する兆しを見せ始めた。

 ……なんて言えば聞こえのいい話だが、実際は目も当てられないほどに痛ましい事態だ。特に今日の午後下がりの彼女はもう直立も危うく目の焦点すら合わなくなって来ており、流石にこれ以上はまずいと最低限の体力の回復のために早めにトレーニングを切り上げたのである。

 

 

 「……でも、トレーナーさん」

 

 

 ――そして、そんな彼女の姿を見ると、誰もが一度は立ち止まって考えざるを得なくなる。キングの体調管理をサポートしているライアンなら、尚更。

 

 

 

 「その、筋トレとか走り込みとか、あたしも色々エクササイズをして来たつもりです。

 その経験で言うなら……今のあたし達のやってることって……本当に意味があるんでしょうか……?」

 

 

 

 浮かんで、当然の疑問だ。

 かく言う俺だって、絶対の自信があって行なっている訳じゃない。むしろ毎日どこで練習を終わりにするかのタイミングを見極めるのは、かなり精神的に応えて堪らない。

 だが、この数週間の地獄を行っている目的は、キングの「領域」への覚醒であり……それ自体が既に、現在の体系化されたあらゆる身体科学の守備範囲を上回ってしまっている。なので当然、そんな従来のセオリー通りでは上手くいく訳がないのもまた事実なのである。

 

 

 「一度踏み込めば、もう戻れない、か……ルドルフもかなり鋭いこと言ってたんだな……」

 

 

 ――使おうが、使うまいが、失敗すれば彼女は絶望に囚われ、君は生涯の後悔に溺れることになる。

 それはこういうことだったのだ。つまり失敗するとはキングの身体が持たずに、今後の彼女の可能性を大きく損なう故障を引き起こすという事で、実際極限まで衰弱した今の状態で怪我を負えばその確率は非常に高い。

 それは間違いなく彼女の「生涯現役」の信念を根本からへし折って絶望に叩き落とすだろうし、そして俺も彼女を壊した重すぎる十字架を一生引き摺ることになる。

 

 

 「ごめんな。ライアン達ももう、かなり疲れてるだろ」

 

 

 あの時も、スカイを引き上げさせたはいいが、その後に結局キングと走る相手が見つからず、結局ライアンがその後スペ達が回復するまでの間一身に引き受けることとなってしまった。

 それからもたまにクリークにもコースまで来てもらって、なんとか今日まで持たせては来たが……そろそろいい加減に、全員の体力が底を尽きかけ始めていた。

 

 

 

 「それでも……それでも、やめられないんだ」

 

 

 

 何もわからない。

 チームメンバーを、スペ達を、全員をボロボロになるまで苦しめて。

 そして何よりキングを、あんな無惨になるほどに傷付けて。

 それでも……「踊る勇者」に勝てる方法をちらつかされてしまった今、俺には中止することがどうしても、最適解だとは思えない。キングのとって一生に一度かもしれない母親や世界を見返す可能性を、俺は潰してしまっていいのか、分からない。

 だがそれ以上に、今やっていることは明らかに、冷静に考えれば傷害行為同然のあり得ないトレーニングだ。身体強化にも精神鍛錬にもろくに繋がっていない、百人トレーナーがいたら百人が間違っていると断言するメニューだ。

 

 

 

 「俺は……俺は、何をやってるんだろうな」

 

 「トレーナーさん……?」

 

 

 

 ――それをここまでやってしまった俺は、トレーナー失格同然なのではないだろうか。

 成果を確約できない時点で、俺はやはりルドルフが止めたように次善の、戦略や走法を駆使した地道な作戦を選ぶべきだったのではないか。少なくとも俺以外のどんなトレーナーだって同じ立場だったら、そうするのではないか。

 

 

 「……いや、何でもない。

 とにかく、明日からも気が抜けないから、今日のうちにライアンも休んでくれ」

 

 

 駄目だ、それを彼女達に悟られてはいけない。

 彼女達の前では、常に俺は勝利を確信しているように、ドンと構えてないといけない。こんな無茶苦茶をやってるんだから尚更だ、今この特訓の船頭を取っているのは間違いなく、トレーナーである俺なのだから。

 なんとか笑顔を作って、促して部屋から見送る。ライアンはもう少し何かを言いたそうだったが……そこは彼女も素直でいてくれた。その純粋さに付け入るようで、更に気が滅入ってくる。

 

 

 

 「あら、どんな時も眠そうな顔はダメよ?」

 

 

 

 その時だった。

 突然横からよく知った声が聞こえて、振り向いてみれば。

 

 

 

 「ねぇ……髪、梳かしてもらえるかしら?」

 

 

 

 ――そこにいたのは、風呂から出た直後らしい、髪の湿ったキングだったのである。

 

 

 

 

 ※※※※

 

 

 

 

 「あっ、ちょっと!? いきなり引っ張らないでよ、痛いじゃない!」

 

 「わ、悪い指に絡まって……あれっ、取れない、どんだけ長いんだよ……」

 

 「短髪のあなたと一緒にしないでよ! ああもう……手際が悪いわね……」

 

 

 

 ……だったらなんで俺に頼んだんだよ、という疑問は呑み込んでおくことにする。

 鏡の前で悪戦苦闘し出してからまだ一分と経っていないのにもう喧嘩腰で、契約を結んだばかりの頃のようだ。当時は主に俺がやたらクリークに甘えていたのが「一流じゃない」と我慢ならなかったらしく、顔を合わせればしょうもない喧嘩をしまくったものだった。

 ……だって仕方ないじゃん。君達がどんどん入って来たせいで、事務処理がマジでとんでもなかったんだぞ。

 

 

 「だからって、ちょっと隙を見せたらすぐに膝枕してもらうのはおかしいでしょ、どう考えても……!」

 

 「……いや俺もおかしいとは思うけど、あれはあれでクリークを甘やかすことにもなってるんだよ。おかしいとは思うけど」

 

 「未だにその理屈よく分からないわよ……」

 

 

 因みにその件はキングがうちのチームで過ごすうちに、どうやら俺ではなくクリークの方が甘やかしたい人である事を察し始めて、すごく納得のいかない顔で黙認せざるを得なくなったという顛末を迎えている。

 とにかく。そんな感じでキングと言い合いなんて、随分と久しぶりで。

 

 

 

 (……久しぶり、か)

 

 

 

 ――この特訓が始まって、ここ数週間……俺は、あまりキングと会話をしていなかった。

 始めの頃は、いつも通り共に頑張ろうと連帯意識を持っていた筈だ。俺も、キングが更なる可能性を切り拓く事を信じて、苦しくとも役目を全うしなければいけないと思っていた。

 だけど……その後に何度もキングの酷い状態を見て、この特訓自体が「領域」なんて摩訶不思議なものの為の何の根拠もない代物である事を再認識してからというものの、心の中に芽生えてしまった罪悪感を、いよいよ無視できなくなって来てしまったのだ。

 すなわち、俺はただキングを虐げているだけなのではないかと。そんな俺のことを、キングは恨めしく思っているのではないかと。

 

 

 「……一流の私の髪に見とれるのは結構だけど、あまり強く掴まないでくれるかしら」

 

 「え? ……あ、ごめん」

 

 

 ……鏡越しに伺ってみればすまし顔だ。見逃してくれているうちに手を動かさないと。

 ただまあ、実際にキングの髪は驚くほどに滑らかだった。トレーナーとして視る彼女のコンディションは日に日に悪くなっているが、それでもこうして掬ってみると俺のごわついた髪とは全然違う、うっとりするような艶やかな手触りだった。きっと毎日ケアを欠かさない成果なのだろう、流石に一流ウマ娘を名乗るだけはある。

 

 

 「んもう、担当ウマ娘の髪のケアもままならないなんて。こんなことなら、もっと早くから教え込んでおくんだったわ」

 

 「悪いけど俺、かなり不器用だからその分君が苦労することになると思うんだけども……」

 

 

 そもそもそれって、トレーナーの役目なのか? という疑問も呑み込んでおこう。

 正直、今のキングの気持ちが読めないのだ。現状、キングにとっては俺は自分を徹底的に追い詰めている元凶の筈だ。いくら後に控えるレースの為とはいえ、メニューに客観的な根拠がない以上彼女は感覚としてそれをやり抜く意味も掴めていないだろうし、あるいはただひたすらに自分を消耗させようとする俺のことを、暴走していてまともに判断出来ていないと推測してもおかしくないと思う。

 だけどそんな男のもとに自分から出向いて、女性にとって命ともされる髪を扱わせるものだろうか。そもそもこんな事今までになかったので、その価値がどれほどなのかもよく分からない。

 ……あの三年間の後でキングをここまで理解出来なくなったのは、初めてだった。

 

 

 

 「……そうね。あなたってば、本当に不器用なんだから」

 

 

 

 だけど。その時キングはそうため息をつくと。ふと思い出したかのように、話し始めたのだった。

 

 

 

 「ねぇ、覚えてる?

 私、一度だけ……別のトレーナーの元へ、移籍しかけたことがあったわよね?」

 

 

 

 ……そんなこともあったな。

 あのどん底の菊花賞を抜けて、その次の年の春前に、一週間足らずで起きたひと騒動だった。

 

 

 

 「あの頃は、ほんと先が見えなかったからな……懐かしいけど、あんま良い思い出はないよなぁ」

 

 

 

 クラシック三冠を終えたキングは、かなり無気力な状態に陥っていた。

 燃え尽き症候群というよりは、次の目標を見失ったというべきか。あの地下バ道で再起を誓ったとはいえ、人気も実力も落ち込んでいた彼女のこれからの進路に関してはしばらく見当がつかず……それまでは自ら次に出走したいレースを申告していたキングも、それ以降年末までは俺の提案したG2以下のレースに出走しつつも静かに基礎トレーニングに励んで、自分をゆっくりと見つめ直していた。

 ……その間でさえも、キングは負け続けていた。

 

 

 「……そうね、あれは大失敗だったわ……認めたくないけど」

 

 

 そんなキングが年明けに出走したいと自ら申し出たレースが、ダートG1の「フェブラリーステークス」。

 元々ダートは苦手と豪語していたのにどうしてまた、と理由を尋ねみれば、一度好き嫌いを問わずに自分の才能を見直してみたいとのことで……彼女と共に今後を悩んでいた俺としては、それならば応援したいと出走登録を引き受けたものだった。

 ――結果は十三着。ダービーに次いで二度目の、二桁順位の大敗を喫してしまったのだ。

 

 

 「……でも俺、あの挑戦は間違ってなかったと思うよ。結果的にダートが向かないってはっきり分かったのは収穫だったんだし」

 

 

 キング復活の、一度目の失敗。とはいえ母親からの電話も不思議と来ず、彼女も俺もこの時は完全に試行錯誤をしている状況だったので、かなりショックではあったが次に活かそうという前向きな意識があった。

 ……しかし。それを許さない障害がその敗走を起爆剤として膨れ上がり、俺達を待ち受けていたのである。

 

 

 

 「一流ウマ娘のご令嬢の筈の私が結果を出せない不始末は、トレーナーの責任。

 ……そう考えた一部の人々が、新人トレーナーだったあなたからベテランのトレーナーの元へ私を移籍させるように、URAに嘆願書を提出したのよね?」

 

 

 

 いわゆる、解任要求。

 あの菊花賞で騒いでしまったことが更に俺の心象を下げていた。そもそもキングはジュニア級時点での純粋なステータスとしては三強の中で最有力候補であり、そんな彼女が振るわないなんて妙だと、原因があるとすれば指導する人間が彼女を活かしきれていないのだと、そう判断されてしまったのだ。

 

 

 「元々天才の息子が凡才ってだけでも十分アレだからな。

 俺達のバッシングも多かったし、格好の的になっちまってたよなぁ……」

 

 

 ――俺はそれを、すぐにキングには言わなかった。

 だって彼女は、優しすぎるから。もしそれを知ってしまったら酷く自分を責めてしまい、せっかく浮き上がってきたモチベーションをまた下げてしまうに違いなかった。

 俺さえ、いなくなれば。俺より腕のある熟練のトレーナーが、キングの才能を引き立たせる事が出来るのなら……その方がいいのかもしれないと、真剣に考えつつあったのだ。

 

 

 「……ほんっと、ばっかみたい。どのみち隠しきれない事なのに、柄でもないことして。……大体」

 

 

 しかし。そうして咎めつつも、キングの表情は穏やかで。

 ――そして、初めて耳にする、俺にとって驚くべきエピソードを語り出したのである。

 

 

 

 

 「あの時、私はとっくにそれに気付いていたんだから。

 なのにあなたは何も言ってくれなくて、どうしてか考えてたら……クリーク先輩が、話してくれたのよ――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――チーム部屋の扉を、開ける。

 ライアンさんもまだ来ていないみたいで、中は真っ暗だった。いつもは中にいる筈のトレーナーは、今日はいない。

 ……それが何故かを、私は知っていた。

 

 

 (これで、最後なのかしら)

 

 

 ベテラントレーナーによる、私のヘッドハント。既にそれは、学園中で噂になっていた。

 トレーナーは、一言も言ってくれなかった。あの日、模擬レースと入団テストを同時に受けたあの日に……私と一緒に、「一流」を背負ってくれると約束してくれた筈のあの人は、何も。

 何も言わないと言うことは、つまり拒否もしないということ。それがとても悲しくて。でも、私にはそれに反論できるほどの結果もなくて。

 

 

 (今日が、私がこのチームにいる、最後の日なのかしら)

 

 

 歩いて、自分のロッカーの前に立つ。ネームプレートに書かれた「キングちゃん」の文字は、ウララさんが書いてくれたもの。

 ……後輩の二人と、カワカミさんと、ウララさんと。みんなが集まった時に、これから一緒に頑張ろうって言い合って、その拍子にウララさんが書いてくれたもの。

 

 

 

 「――っ、なんでよっ」

 

 

 

 ずっと、泣くものかと思ってきた。

 あの菊花賞の後にあえなく流した後、もう勝つまでは泣かないと決めた筈だった。

 だけど、あの時私を支えてくれた、あなた達がいなくなったら……私にはこれ以上、我慢する理由がなくなっちゃうじゃない。

 

 

 

 「もう……涙が、零れちゃうじゃない……!」

 

 

 

 

 

 

 「……良かった、キングちゃん」

 

 

 

 

 ――ハッと、振り返る。

 そこにいたのは、奥の部屋からトレーナーの愛飲するコーヒーを淹れてこちらに微笑む、クリーク先輩だった。

 

 

 「もう、来てくれないかと思っちゃいました。トレーナーさん、隠すのがちょっと苦手ですから」

 

 

 コトリ、とロッカー前のテーブルに二人分のコーヒーを置いて、クリーク先輩は向こう側の席に座る。

 

 

 

 「……トレーナーさんのこと、分からなくなっちゃったんですよね?」

 

 

 

 ……どうしてそこまで。

 驚きで涙も引っ込んでいた私は、そのまま先輩の反対側の椅子に腰を下ろした。

 

 

 

 「……違うんです。私は……勝てないから」

 

 

 

 真っ暗な部屋に、窓から日光がゆらゆらと差している。そんな中、私は上手く整理のできない頭で、なんとか言葉を選んでいた。

 

 

 「本当は、私がもっと活躍出来ていたら、こんな事にはならなかったかもしれない……だから」

 

 

 我慢しなきゃダメよ、私。

 トレーナーが酷いとか、見限らないで欲しいとか、そんなものは私の勝手な想い。実際は何も成すことが出来なかったんだから、これは自業自得なのよ。

 そう、言い聞かせていないと。こんな醜い私のことなんて、とても他人には、見せられない。

 

 

 

 「キングちゃん。……強がりはめっ、ですよ?」

 

 

 

 ――一瞬で、見透かされてしまう。

 コーヒーの表面に合わせていた視線を見上げてみれば、クリーク先輩は身を乗り出して、手を伸ばしていた。

 そのまま私の頭を、すごく優しい手つきで撫でてくれて。

 

 

 「トレーナーさんに代わって、ごめんなさい。何も言わなかったせいで、キングちゃんを悲しませてしまいました。

 ……でも」

 

 

 でも。

 その瞬間、クリーク先輩の雰囲気が変わった。ただの甘やかしてくれる先輩から、同じ競走ウマ娘としてのものに。

 

 

 

 「でも、トレーナーさんは決して、キングちゃんのことがどうでも良くなった訳じゃないんです。

 分かるんです、キングちゃんの気持ちも、トレーナーさんの気持ちも。私も……同じような事が、ありましたから」

 

 「……同じような事、ですか?」

 

 

 

 懐かしそうに、どこか遠くを見るような目つきで、クリーク先輩は続ける。

 

 

 

 「昔、私がクラシック級で、体調を崩しちゃったことはもう聞いていますよね?

 皐月賞も、日本ダービーも、私はテレビで見ることしか出来ませんでした。なんとか挽回しないとって、必死に頑張ろうとして……その時、たまたま見たんです。

 ――サブトレーナーさんのノートの中に、私がレースを引退した際のプランが細かく書かれてたのを、見ちゃったんです」

 

 

 

 ……それは、致命的ね。

 ウマ娘がターフに戻るために必死に頑張っているのに、トレーナー……いや、サブトレーナーの方が既に復帰を諦めてしまうなんて、そんなの。

 

 

 「私、すごくびっくりして。私はサブトレーナーさんにもうダメだって思われているのかしらって、とっても悲しくて。

 ――堪らなくなって、ある日()()()()()()()に相談してみました」

 

 

 トレーナーさん。

 つまり、今のトレーナーの事ではない、伝説のトレーナーとして名高い、あの人の父親のこと。

 

 

 

 「私はもう、ダメなんでしょうかって。サブトレーナーさんはもう、私を諦めてしまっているのでしょうかって、辛い気持ちを全部吐き出してしまって……そうしたら、突然トレーナーさんは言ったんです。

 『俺がどうしてあいつを認めないか、分かるか』って」

 

 

 

 トレーナーが前に、話してくれた事がある。

 君と同じで、俺の父親も天才だったと。そんな彼からしたら俺は本当にどうしようもない人間だったらしく、引退した後も未だに、俺はまともなトレーナーとして認められてない、と。

 

 

 

 「私には、よく分かりませんでした。

 サブトレーナーさんはいつも私の為を考えてくれて、私を喜ばせようっていつも張り切っていて。そんな人がどうして突然私を見捨てるのかも、どうしてトレーナーさんからは認めてもらえないのかも……全然、思い当たる節がなかったんです。

 

 

 

 

 ――そうしたら、トレーナーさんは言いました。

 『あいつは、トレーナーになりたくて、トレーナーになったんじゃない。

 

 

 

 

 

 ――ただ、ウマ娘が好きなだけなんだ』」

 

 

 

 

 

 私は思わず、大きく目を見開いた。

 思い当たる節はある。ウララさんが二年目までにどれだけ模擬レースや併走でへっぽこな成績だったとしても、トレーナーは一度も焦れたり、不機嫌になったりした事はなかった。

 それどころか一緒になってダートのコースを泥まみれになりながら走ったり、商店街でウララさんと一緒ににんじんを売ってみたり。ライアンさんやクリーク先輩の時もそう、彼はいつだって……担当のウマ娘と一緒に笑っていた。

 

 

 「『あいつは誰よりもウマ娘の事を考えている。だから君が今まで感じてきたように、どんなトレーナーよりも担当のウマ娘の気持ちに寄り添うことは出来る。

 ……だけどな、それは()()()()()()()()()ではないんだ。トレーナーに求められている事とは……レースで勝てる身体を、担当のウマ娘に与える事。

 時にはウマ娘側の都合を無視してでも、彼女達をレースで勝たせて、勝利の手応えを味わせて、一人前の競走ウマ娘として育て上げる。それが本来のトレーナーの役割なんだ』」

 

 

 トレセン学園で、契約を結ぶ事によって、ウマ娘をトゥインクル・シリーズに出走させる存在。それが「トレーナー」。

 そういう意味では、その先代トレーナーの指摘は……まさに的を得た、本質的なものだった。

 

 

 

 「『あいつには、それがない。レースで一着を掴み取らせる為に、必要とあらば自分が悪役となるのも厭わずにウマ娘を叱咤するだけの貪欲さや競争心がない。

 ――その引退プランは恐らく、万が一体調が治らずに、競走ウマ娘としての人生が閉ざされ多くを失う事になるかもしれない君が不自由しないように……そういう親切心で書かれたものだろう。

 だがそれはもう、トレーナーとしてやるべき事を明らかに逸脱している。そしてその結果がこれだ、かえって君という担当ウマ娘から、諦められてるのかと信頼を失いかけている。

 レースの勝敗に拘ることなく、その人生そのものを良くしようとしているんだ。担当する全てのウマ娘の一生を背負う事など、出来る訳がないというのに。たかがトレーナーの分際でおこがましいとは……君は思わないか?』――って」

 

 

 

 ……言葉全てをまるで心に刻み込んでいるかのように、クリーク先輩はそれをすらすらと空で口ずさんで。

 何よりも担当ウマ娘の事を考える優しいトレーナー。そのやり方の限界を先代トレーナーは既に見抜いていたからこそ、最後まであの人の事を頑として認めなかった。

 

 

 

 「それを克服するには、とにかく色々な境遇のウマ娘と出会うしかないって、トレーナーさんは言っていました。

 そのうち、いずれ出会う事になるって。サブトレーナーさんのそのやり方では、どうしても力を出しきれない、そんなウマ娘さんと。

 

 

 

 

 ――勝つことでしか幸福になれない、勝つことでしか自分を証明する事が出来ない……そんなウマ娘と

 

 

 

 「……え?」

 

 

 

 情けない声が、私の口から漏れる。

 だって。それは、そのいずれ出会うウマ娘って、まるで。

 

 

 

 「――その時、先代のトレーナーさんに頼まれたんです。君の体調は絶対に戻してみせるから、そんなウマ娘さんと出会うまでどうか、君があいつを見てやって欲しいって。

 だから、私は決めました。私が走るうちは……いいえ、例え私が第一線を退いたとしても……()()()まではずっと、トレーナーさんを助け続けようって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私から始まって、多くのウマ娘さんを見てきたトレーナーさんの、最後のひとかけら。

 それはきっと……あなたの事だと思うんです。――キングちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひゅう、と喉が鳴った。

 そうして言葉もない私を、クリーク先輩は万感の想いのこもった瞳で、見つめていた。

 

 

 「……キングちゃん。トレーナーさんは誰よりも、あなたのことを大事に想っているんです。

 だからあなたを移籍させたがっているとしたら、それは本気で自分よりも適任者がいるって……思い込んでしまっているから」

 

 

 心に、熱が戻ってくる。

 私は決して、見放された訳じゃない。彼の方が自分を犠牲にしてまで、私を。

 

 

 「でも、私は思います。

 キングちゃんとトレーナーさん程の、素敵な運命のコンビはいないわ。だって二人で、本当の意味で足並みを揃えて……強くなっていける」

 

 

 私は母親、トレーナーは父親。

 私達は鏡合わせの存在だった。超えるべき壁があって、活躍を期待されていて、そして全てを失った。

 

 

 

 「キングちゃん。彼の最初のパートナーとして、お願いします。どうか、トレーナーさんともう一度、頑張ってみてくれませんか。

 寂しい決断を下そうとしている、今のトレーナーさんを止められるのは……あなただけなんです、キングちゃん……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「クリークが、そんなことを」

 

 

 ……先程注意されたばかりだと言うのに、その衝撃の事実に俺はキングの髪を掬い取ったまま固まってしまっていた。

 

 

 

 「親父は、そんなこと……思ってたのか」

 

 

 

 つくづく、同じだ。

 決して俺は、才能がないから親父にとって駄目だった訳ではなかったのか。キングの精神面での未熟さを心配してレース出走を反対し続けた、彼女の母親と同じ。

 

 

 

 「ほんとにもう……あの時私がああしなかったら、どうなっていたことか」

 

 

 

 ――移籍の正式な決定のために俺が呼び出された理事長室に、キングは全力疾走で飛び込んできた。

 さらにその場にいた理事長とたづなさん、移籍先のベテラントレーナー、そして俺の前で……深々と、頭を下げたのである。

 私のトレーナーは、後にも先にもこの人一人だけだと。誰が非難しようと、どんなにバカにされようと……絶対に、譲れないのだと。だから、もう一度私達に、チャンスを下さい、と。

 

 

 「気が付いたら向こうもその方がいいなんて言い出すし、俺は一体何と戦ってたんだか。

 ……あの時は本当に嬉しかったよ、キング」

 

 

 ――ほら、シャンとして。共に「一流」を背負うんでしょ。

 それから半ば引き摺られるようにキングに連れられて、チーム部屋に戻って。その入り口の前で、せめて謝ろうとした俺を遮って。

 彼女は、言ったものだ。

 

 

 

 『さあ――……。

 ――すべてを捨てる覚悟はあるかしら?』

 

 

 

 ……これが、キングが短距離路線、つまりは「高松宮記念」に駒を進めた所以である。

 

 

 

 「本当に不器用よね、あなたも……私も。

 でも、あなたはそれから――そんな自分の主義を少しずつ変えて、私を勝たせる為にレースに挑んできた」

 

 

 その後、キングは怒涛の快進撃を重ねる。

 高松宮記念に、安田記念、スプリンターズステークスと、G1を立て続けに三勝する。

 ……決してまぐれなんかじゃない。キングは自分の走りを短距離にフィットさせる事に全力で傾倒して、俺も一からレース理論を学び直して彼女をレースで勝てるウマ娘にすべく今まで以上に鍛え上げた。

 

 

 

 「それを、私はちゃんと知っているわ。あなたは未熟だったかもしれないけれど、それでも挫けずに努力できる、誰よりも私の求める『一流』のトレーナーだった。

 

 

 ――今でも変わっていない。そうよね?」

 

 

 「……え?」

 

 

 

 今でも。

 待て、懐かしい思い出話だとつい浸っていたが、考えてみれば……キングは、何の話をしているんだ?

 そもそも、彼女はどうして今夜、ここに?

 

 

 

 

 

 

 

 「トレーナー。私はいつだって、あなたのことを一番に信じてるわ。

 だからあなたも、私をちゃんと信じなさいな。どんなに辛くたって、きっと……どこまでも、自分の隣についてきてくれるって」

 

 

 

 

 

 

 

 「――キング?」

 

 

 フッと、糸が切れたように、キングは丸椅子に座ったまま背中からこちらに上半身を投げ出して。

 ぽすっと俺の胸に、その綺麗なこげ茶色の髪が広がっていく。

 

 

 「お、おい、キング」

 

 

 ……しかしやがて、その口から規則正しい、すぅ、という寝息が漏れ始めて。

 こいつ、寝やがった。人が髪を梳かしてる最中に、そのまま俺にもたれかかって。

 

 

 

 「おい、嘘だろ……いや、疲れてたんだろうから、しょうが……な……」

 

 

 

 ――そう。

 キングは疲れている。未だかつてない俺の暴虐的な指導によって、その身体をズタボロに痛めつけられている。

 その事に、俺自身ずっと自責の念と葛藤の中で、この一か月近くを過ごしてきた。

 

 

 

 「……なんで」

 

 

 

 なのに。だというのに、キングは。

 

 

 

 

 「なんでそんなに、幸せそうなんだよ……!」

 

 

 

 

 ――キングは、眠っている。

 それだけのことをした俺の胸の中で、どうしようもないほど遠慮なく、微笑みを浮かべて眠っている。

 ……本当に信じているのだ。こんな状況でも、あの辛い時を共に越えた俺の事を、無条件に信じて疑っていない。

 

 

 

 「なんでだよ……バカ野郎……!!」

 

 

 

 気が付けば、頬に涙が伝っていた。

 やっと分かった。今夜ここにキングがやってきたのは、決して理不尽な俺の真意を探りに来たわけではなく。

 ――俺をどん底から、救うためにやってきたのだ。あの「菊花賞」の時に、俺がそうしたように。

 

 

 

 「……ちくしょう」

 

 

 

 心の中でいつしか剥がれかかっていた、最後のひとかけら。それがこの瞬間、パチリと嵌まったような気がして。

 俺はしばらくの間、キングが起きてしまわないように声を殺して、ひとりで泣いた――。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「あれっ、キングちゃん!? 大丈夫なの!?」

 

 「しーっ。大丈夫、寝てるだけだから……ウララ、キングのこと任せてもいいか?」

 

 「うん、わたしがちゃんと、キングちゃんのこと寝かしつけてあげるねっ!」

 

 

 ――起きる様子のない彼女を抱えて寝室まで運んでいけば、出迎えてくれたのはここでもルームメイトのウララだった。

 残念ながら彼女は、直接的にキングのトレーニングには関われない。そもそも芝が苦手なうえ、もうすぐ復帰を控える彼女に無理をさせることなんてとても出来ないからだ。

 事実今のウララの身体は、あの有馬を目指した時に開花したダートでの圧倒的な走りを再現するのがとても不可能なほどに、リハビリ生活の間に衰えてしまっているのである。全盛期のステータスを取り戻すのには、まだまだ時間がかかりそうなのだ。

 

 

 

 「……なあ、ウララ。

 出来たらこの特訓が続く間は、なるべくキングの傍にいてやって欲しいんだ。君がいるだけで、きっとキングにとっては力になるから」

 

 「ほんと~!? ウララ、もしかしてすっごいパワーを手に入れちゃったのかなぁ!?」

 

 

 

 何言ってるんだ。元々持ってただろう。

 そう、だからといって希望が潰えた訳じゃない。ウララは一番彼女にとって大事な……レースを楽しんで、ワクワクをみんなに届けたい本気の心を失っていないのだから。

 

 

 

 「ちゃんと、見ててくれ。今は苦しい時間が続くけど、キングは、絶対に……這い上がってくるから」

 

 

 

 ――もう、躊躇うのはやめよう。

 あり得ないだとか、誰もが間違っていると断言するだとか、そんな迷いは今全力を出しているキングに失礼だ。

 俺はどこまでもキングを信じる。この地獄の先に彼女は必ず「領域」を見出して、「踊る勇者」に勝って、母親との因縁に決着を付ける。

 

 

 「……うん! 知ってるよ! だってキングちゃんは、わたしの……いちばんのワクワクだから!」

 

 

 ウララに強く頷いて、俺は二人の部屋を後にする。

 そうと決まれば明日からのメニューを考えねばならない。既にタイムリミットが迫っている、そんな状況で、しかしキング以外のみんなもかなり危うい状況で……。

 

 

 

 

 「――ふーん。あのサブ君がねぇ」

 

 

 

 

 ――マルゼンの声だ。途中参加と聞いていたが、ここにきてようやくのお出ましか。

 

 

 「……なんだよ。俺だって今は、れっきとしたメイントレーナーだからな?」

 

 「それは分かってるけど、ちゃんとみんなに慕われてるんだなって、お姉さんびっくりしちゃった♪」

 

 

 ……振り返ってみれば、通路の曲がり角でにやにや笑う彼女は、しかしどこか暖かい表情を浮かべている。

 

 

 

 「レースを、走ることを楽しんで、ウマ娘達と同じ目線で頑張る……あたしは、勝つだけじゃないそんなサブ君の考え方、嫌いじゃないな」

 

 

 

 勝ち負けに執着しないマルゼンらしい評価だ。実際彼女の扱いに関しては、親父も初めは大分手を焼いたと聞いている。

 しまいには彼女を比較的自由に走らせ、たまに二人でドライブをしに行くほどの仲になったようだったが……それでもきっと親父の中では、どうすれば彼女の心に火を付けられるかという考えが消えなかったのではないだろうか。

 

 

 

 「だから、きっとサブ君は……()()()()()()のさらにその先に、いけると思うわ」

 

 

 

 ウマ娘に寄り添いながら、レースでの勝利を目指す。その両立はきっと、俺の宿命。

 とはいえ……いくら何でもそれは買いかぶりすぎだ。俺が鼻で笑えば、マルゼンはがびーん! なんて相変わらずの反応で。

 

 

 

 「さっ、湿っぽい話はおしまいっ!

 さっきクリークちゃんから状況は聞いたわ、みんな、げろげろーって感じだと思うけど、問題ナッシングよ!

 だって――!」

 

 

 

 

 

 ……しかし。

 あまりに手前味噌ながら、そんなマルゼンの褒めちぎりがあながち間違っていないのかもしれないと、我ながら思ってしまうほどの光景が……次の瞬間、飛び込んできたのだ。

 

 

 

 

 

 

 「はっはっはっはっ!! 苦労をしているようだね、だが安心したまえ!

 このボクがやってきたからには、どんなに辛い特訓もバラ色に染まるだろうとも!」

 

 

 

 

 ――一人目は、かつてウララと鎬を削った、年間無敗の世紀末覇王。

 

 

 

 

 「あら。お久しぶりですわね。

 残念ながら怪我故にともに走ることは出来ませんが……この療養所は私にとって庭の様なものですわ。精一杯サポートさせて頂きます」

 

 

 

 

 ――二人目は、ライアンの終生のライバルにして、春天二連覇を飾る名優。

 

 

 

 

 「お邪魔する。……世話になった同期の後輩が、助けを求めていると聞いてな」

 

 

 

 

 ――そして三人目は、魔王たるクリークと対を為す英雄にして、葦毛の怪物。

 

 

 

 

 「……君が連れてきてくれたのか、マルゼン」

 

 

 「あたしだって、おったまげ~って感じよ?

 これだけのスターウマ娘ちゃん達が――キングちゃんの為に集まってくれるなんて」

 

 

 

 テイエムオペラオー。

 メジロマックイーン。

 そしてオグリキャップ。

 これまでうちのチームに立ちはだかってきた強敵たちが……曲がり角から姿を現して、そこに勢揃いしていた。

 

 

 

 「でももう、認めざるを得ないんじゃないかしら?

 これが君のチームの、人を惹きつける力。クリークちゃん、ライアンちゃん、ウララちゃんに……そしてキングちゃんが君から受け継いだ、かけがえのない力。

 ――違うかしら?」

 

 

 

 かつての名声を失い、地に墜ちたチームポラリス。

 そこからキングとウララが、そしてライアンがクリークと共に時代を創り出して。

 ……見やがれ、親父。ついにうちは、ここまで来たぞ。

 

 

 

 「……はは、そっか。

 ――じゃああとは、勝つしかないよな……!」

 

 

 

 そんな俺の掛け声に、その場の全員が頷いてくれる。

 舞台は揃った。あいつを頂点(ポラリス)に連れて行くだけの準備が、整った。

 

 

 

 (キング。絶対に……世界が見上げる「一流」になろう)

 

 

 

 ――運命のレースは、すぐそこまで来ていた。

 

 

 





※ここでトレーナーを替えるかどうかが、キングヘイローにとっての運命の分かれ目だったようです。


※次回から、最終レースが始まるようです。

 


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栄光に別れを告げる者

 

 

 十一月末、東京レース場。

 彼女にとっては正しく運命の分かれ道となる一世一代の大舞台が、この日開かれようとしていた。

 

 

 

 「ねぇ、トレーナー」

 

 

 

 控室にいるのは、キングとトレーナーの俺だけ。

 ここから一歩踏み出れば、そこからはもう最終決戦の舞台へと続く地下バ道しかない。そんな、嵐の前の最後のひとときだった。

 

 

 

 「正直に答えてちょうだい。……今の私が、『踊る勇者』に勝つ確率は、どれくらいあると思う?」

 

 

 

 ……それを答えてしまっていいのか、俺は少しだけ迷う。

 だけどまあ、前も言ったけど今更オブラートに包み隠すような仲じゃあない。そもそも俺がキングを前にして隠し事を抱えていられたことなんて、ただの一度もなかったんだから、しょうがないよな。

 

 

 

 

 「――――ゼロだ」

 

 

 

 

 ――キングヘイローは遂に、「領域」へと覚醒するには至らなかった。

 あの後にオペラオーやオグリ、そしてマルゼンまで参戦して行われた熾烈なトレーニングを経ても、とうとうその知られざる力を手に入れることはなかったのだ。

 ……あの場にいる全てのウマ娘が力尽きるまで走り続け、その全てに喰らいついたというのに、である。

 

 

 

 「君の能力は、データ的にはあのスプリンターズステークスの頃からほとんど変わっていない。

 そして、仮に君が全盛期の頃……あのシニア級を四勝した頃のコンディションまで持って行けたとしても、多分勝ち目はなかった」

 

 

 

 だというのに、今のキングの状態は……先日の永遠にも思われた地獄の特訓のせいで、最悪と言っていいレベルに落ち込んでいるのだ。それであの、伝説の一流ウマ娘がサポートする世界最強のウマ娘を相手にまともに戦えると考える方がおかしいのである。

 ――普通に、考えればの話。

 

 

 

 「いいか、残された勝ち筋はひとつだ。

 ――このレースの中で、限界の先の先に到達する事。ぶっつけ本番でその走りを、別次元に引き上げること……それしかない」

 

 

 

 ……我ながらあり得ない位にふわふわとした指示で、情けなくなる。

 だけどこうとしか言いようがない。その「領域」に至ったキングがどんな走りを見せるのかも、どれ程の変化を引き起こすのかも見当もつかないのだ。他のウマ娘の映像を研究するところでは、飛躍的な豪脚が発揮されることに間違いはないと思うのだけど。

 

 

 

 「……ええ。そのつもりよ、トレーナー。

 私はこのレースで必ず殻を破って、勝利を勝ち取るの。あれだけ走ってきたんだもの、絶対に……ものにしてみせるわ」

 

 

 

 悪魔の宣告を受けたというのに、キングはしたたかだ。

 まったく意に介さないように力強く頷き、すっくと座っていた椅子から立ち上がった。

 

 

 

 「……待ってくれ、キング!」

 

 

 

 ――しかし。

 そうして、言葉はいらないとばかりにドアの元へ歩いて行こうとするキングを、俺は思わずその左腕を取って引き留めずにはいられなかったのだ。

 

 

 

 「な、なによいきなり。

 心配しなくても大丈夫よ、私の心は……もう決まってるんだから」

 

 「そうじゃない、そうじゃないんだ」

 

 

 

 あの夜に心を通わせてから、俺達は二度と立ち止まらないという覚悟で頑張ってきた。その間ずっと、キングが抱いた苦しみも、それを耐え抜く決意も俺の心には伝わってきていた。

 だから、それを今さら言うこともない。こういう時に何か上手いこと言うのは定番だが、私達にはそんなものすら要らないでしょう……と、そう思うのはもっともだった。

 それはそれとして。それを以てしてでも、俺には絶対に言わなきゃいけない事があるとしか思えなかったのだ。

 ――それは同時に、もしかすると絶対に言ってはならないことでもあったのだけど……それでも、俺はキングを真っ直ぐに見据えて。

 

 

 

 

 「――絶対に、無事に帰ってこい。もし、万が一、君が限界の先を超えられなかったとして……その時は絶対に無理をせずに、勝負を()()()()()

 俺は……君を、失いたくないんだ」

 

 

 

 

 「……へっぽこ」

 

 

 

 ――おもむろに、キングは俺の左頬を右手で包んでいた。

 

 

 「感情を抑えてでも、ウマ娘の勝利のために徹する……そんなお父様の教えを、あなたは今日までずっと守り続けてきたのに。

 最後の最後になって、耐えられないなんて」

 

 「茶化すなよ。親父のことなんて知ったことか。

 俺は今、トレーナーとしてじゃなくて……君の、ひとりの親友として話をしてるんだ」

 

 

 今までのキングは、俺や多くのウマ娘達が見ている中で「領域」に挑戦していた。

 だけど今日のキングは違う。誰も助けてくれない状況の中で、大勢の観客の感情をモロに受けながらその高すぎる壁に挑まなければならないのだ。

 それは成功する確率が低ければ、リスクもかなり大きい。常に全力以上を求められるレースではわずかな確率での成功か、殆どのケースで大失敗するかのどちらかしかあり得ないのだから。

 自然でない、意図的な「領域」へのアプローチの先には破滅しかない……それを象徴してしまったあの時のウララのようには、何があってもさせる訳にはいかないんだ。

 

 

 「分かってるよな。

 君は、君が名乗って、そうあろうとしているうちはいつだって『一流』なんだ。それは今日のレースの勝敗とか、その程度でブレるものじゃない」

 

 

 その上で俺達は、あの母親が率いる『踊る勇者』に勝つことでそれを証明したいと思ったからこそ……今日まで頑張ってきた。

 でもだからと言って、これで終わりじゃないんだ。今日が終わればまた次のレースに向けたトレーニングが始まって、そうやって君はこの先何十年とターフを踏む事になる。

 

 

 

 「君はもう、決してひとりぼっちなんかじゃない。だから目先の名誉よりも、自分の将来のことを一番大事にしてくれ」

 

 

 

 大きく目を開くキングのもう片方の腕を、遠慮がちに取ってみる。

 せめて、俺の言うことを少しでも、具体的に思ってくれるように。少しでも俺の持つ温度を、彼女に分け与えられるように。

 

 

 

 

 「――例え君がまたどん底に落ちて、さらにその奥にまで沈み込んだとしても。

 誰もが君を見放したとしても……俺はいつまでも、君のトレーナーで居続けるからさ」

 

 

 

 

 

 

 「……言ったわね」

 

 

 

 

 

 くしゃりと歪めた顔を隠すように、キングは俺の胸に額と耳を当てて。

 そして両腕を俺の腰に回して、ひしと抱き締めた。

 

 

 

 「それが何を背負うことになるか、分かってるわよね? 今まで私と一緒に、大口を叩いたおばかだって、後ろ指さされて、笑われて」

 

 

 

 ――キングの、生涯のトレーナーになる。

 今まで何度もそう見据えて、その度に思いを新たにして来てはいたが……実は彼女の前で面と向かって口に出したのは、これが初めてだった。

 

 

 

 「……でも、一度口にしたことは、もう取り消せないんだから」

 

 「……ん」

 

 「言ったんだから……取り消す権利はもう、あげられないんだから」

 

 「分かってる。とっくに覚悟してる」

 

 「分かってない。『生涯現役』……つまりあなたは、私が年老いて、本当に走れなくなるまでトレーナーでいるってことなのよ?」

 

 「だからこそ、死に急ぐなって言ったんじゃないか」

 

 

 

 ぶるぶるとキングは寒そうに肩を震わせる。それを見て思わず、俺はその頭と背中にそっと手を当てた。

 蛍光灯だけがちらつく中で、お互いの温もりの中で……しかし俺ははっきりと感じていた。

 ああ、これがトレーナーになるってことなのか。彼女の人生に寄り添いながら、レースでも勝たせる。そんな、俺だけしか出来ないやり方。

 キングと俺にしか出来ない、ウマ娘とトレーナーの究極の在り方なんだ。

 

 

 

 「キング。これまでを、全てぶつけてこい。だけど、決して()()()()をぶつけようとはするな。

 大丈夫、確率がゼロだとしても……キングの辞書には」

 

 「諦めは、ない」

 

 

 

 ただでは勝てない。だから限界の先を、超える。

 ――今までを全てぶつければ、未来を犠牲にしなくても絶対に超えられる。それだけの苦難を、逆境を、俺達は乗り越えてきたんだ。

 それがキングと俺の、「一流」の根源であり、自負なんだから。

 

 

 「……あなたがそう言うなら、仕方ないわね」

 

 

 ……顔を上げたキングは、くしゃりと無邪気に笑っていた。

 この一瞬だけは、彼女はただの少女だった。「一流」の内側にいる、俺だけに見せる表情。

 その笑顔を守る為に、俺はここにいる。……これからもだ。

 

 

 

 「さてと。そろそろ時間だぞ。

 ……それじゃあ、相棒」

 

 

 

 抱擁を解いて、俺はドアに寄って手を掛ける。

 ……再び視線を交えた時、既にキングは戻っていた。これから世界最強と戦うに値する、世代最強の王者の顔に。

 

 

 

 「ええ。今度は――」

 

 

 

 その先の言葉はもう、言わずともわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 ――ウィナーズ・サークルで会いましょう。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「ねぇ、キングちゃん。ちょっと髪の毛が変だよ?」

 

 

 ――ドアを開ければ、そこには私の特訓に付き合ってくれた皆さんが駆けつけてくれていた。

 そんな一人一人の励ましの言葉を全て受け取って、トレーナーと一緒に今までのお礼を述べたのが少し前のこと。

 それから私達()()はコースに向けて、並んで歩いていた。

 

 

 「え、あら? ……ああ」

 

 

 手を翳してみれば、後頭部の髪が少しだけ跳ね返ってしまっている。……さっきトレーナーが抱き締めてくれた時に、乱れたものかしら。

 

 

 「……ふふっ。これはいいのよ、このままで」

 

 「あれっ、そうなんだ……珍しい、のかなぁ?」

 

 

 そんな私の返答に、隣で分かりやすく驚かれてしまう。

 ――「踊る勇者」になる前のブロワイエさんを一度破ったスペシャルウィークさんは、今回もリベンジマッチとしての期待を寄せられて、それに応える形で共に出走する事になった。

 「日本総大将」とそれを従える「世代のキング」。外国のウマ娘が数多く出走する中で黄金世代三強のうちの二人が迎え撃つと、日本中の人々が私達二人に大きな期待を寄せてくれていた……実際は、スペシャルウィークさんの方が有力視されているそうですけど。

 それにしても、私の特訓にあれだけ付き合ってくれたのに、一週間早く離脱しただけでこんなに調子を取り戻すなんて。

 

 

 「……ねぇ、キングちゃん?」

 

 

 そんな時。突然、隣の足音が止まって。

 見れば、スペシャルウィークさんは真剣な目つきで私を見つめていた。

 

 

 

 「転入したばかりの頃にね、クラスメイトに言われたことがあったんだ。何で一着を譲ってくれないの、友達なのにって。

 それからしばらく、走ってる間になんだか冷たい感じがするようになって……グラスちゃんとエルちゃんが励ましてくれるまで、勝つことが怖くなっちゃったことがあったの」

 

 

 

 ……ぶるっと、彼女は震える。

 まだその、冷たい感じは抜けきれていないのかしら。これだけのレースを、これだけの年月走ってきたというのに。

 

 

 「走ることがすっごく楽しくて。みんなと一緒に頑張ったりするの、初めてで。嬉しくてたまらなくって。……でも、レースで私が勝っちゃうことで、悲しんじゃう人がいるのかなって。

 ――だから、キングちゃんのこと、いつも憧れてた」

 

 

 知らなかった。

 あのスペシャルウィークさんが、そんなことを考えていたなんて。いつでも楽しそうに、輝くように走るこの娘が……そんな迷いを抱えていたなんて。

 

 

 「キングちゃんはいつでも堂々としてて、勝っても負けても、辛いところを誰にも見せずにおほほーって笑ってて。

 私が言うのはおかしいかもしれないけど、三冠の時もずっとすごいなって思ってたんだ。もし私がダービーで負けちゃったら……きっと我慢できなくて、その場で大泣きしちゃってたと思う」

 

 

 ごめんなさい、お母ちゃん……私、日本一になれなかった……っ。私、私……っ!!

 ――なんて涙する姿が目に浮かぶわね。あのダービーで私が全力を出せていて、スカイさんも合わせて三人でちゃんと勝負が出来ていたら……そんな未来もあったのかも知れない。

 

 

 「だからね? あれからキングちゃんとあまり話さなくなっちゃって、私……なんとかしたいってずっと思ってた。

 合宿の時も、何か言わないとって思って、でも何を言えばいいのか分からなくて……!」

 

 「……あなたまでスカイさんみたいなことを言うのね」

 

 

 ……まったく、もう。

 私は何をしていたのかしら。お母様のことだとか、期待を失ってしまったことだとか。そうやってくよくよしている横で、スカイさんも、スペシャルウィークさんも、私を想って悩んでくれていたのね。

 

 

 「――でもね、だからこそ……私、言っておきたいの」

 

 

 だけど。今の彼女の瞳には、全く躊躇いは感じられなくて。

 

 

 

 「キングちゃん。それでも私は今日、勝ちにいきます。

 だって、私達は友達で、ライバルだから。お互いに全力を出し合って、一緒に強くなっていける……私はそう、信じてるから!

 あの時、ずっと言えなかったから、いつか……それを、ちゃんと伝えたかったんだ」

 

 

 

 思えばあの有馬以降、短距離に主戦場を移した私はスペシャルウィークさんとは戦っていない。

 あれからひたすら、私を待っていてくれたというの。そんなに優しくて明るい言葉を、今まで忘れずに。

 

 

 

 「……ありがとう。()()()()

 

 「――っ!」

 

 

 

 憑き物が落ちたような、そんな感覚。

 あのクラシックの年は、私にとって苦難の思い出でしかなかった。全てが噛み合わずに、私に関わった全てを不幸にしてしまったかのような、そんなトラウマでしかなかった。

 ……それがこんなにも、暖かく感じられるなんて。

 

 

 

 「ねぇ、知ってる?

 ライバルが強いほど……私も強くなるのよ」

 

 

 

 ――スぺさんの表情が、花のように満開になっていく。

 そう、あなたはその表情が一番似合っているわ。走ることとライバルを持つことを、誰よりも素直に喜ぶことのできる、あなただけの笑顔。

 これで、後腐れは一切なくなったわよね?

 

 

 

 「――さあ、行きましょう! このキングの後に続きなさい!」

 

 「うん――行こう!」

 

 

 

 宿命のライバルにして、共に世界と戦う同志。

 そんなスぺさんと一緒に、地下バ道を抜けた先には――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「…… 来たか(Enfin.)

 

 

 

 

 

 

 

 

 轟いている。

 空は翳り、まるで日蝕のように雲の合間から昏い光が漏れるのみ。

 普段はわれんばかりの歓声が響くターフの上は、今は水を打ったように静かだった。

 

 

 

 「スペシャルウィーク。

 そして……キングヘイロー」

 

 

 

 ――なぜなら、二十万人の観客と走る私達、その誰一人として……身動きもままならないからだ。

 ターフの上に屹立するその異形の影の轟圧が、音を立てることすら許さないから。

 

 

 

 「ようこそ、我が舞台へ。この瞬間を永く、待ち侘びていた」

 

 

 

 そして、その「踊る勇者」は、こちらに歩み寄ってくる。

 その脚で地を踏む瞬間に、芝が粉を踏んだように巻き上がり、宙を舞い踊る。それが退けられて昇る風に煽られて、まるで翠の炎のようにその身体を燃やしている。

 いくら日本より重い芝を踏んできたからと言って、とてもああはならない。あまりに現実離れした、まさに唯一無二の絶対覇者。

 ――いや、そもそも。

 

 

 

 (あれが本当に、ウマ娘だというの……!?)

 

 

 

 そして、私達の前に聳え立つ。

 青緑を基調に、金色の修飾と桜色のラインが走る勝負服は、まさにその節々にあの人のデザインであることを示す特徴に溢れている。

 そしてその上から紺青色のマントを羽織り、靡かせながら……「踊る勇者」こと、ブロワイエさんは口を開いた。

 

 

 

 「今回は、上辺だけの挨拶は抜きでいこう。

 地を越え、海を越え、空まで超えた。今から君達が目の当たりにするのは、世界の壁などではない――終焉の壁だ」

 

 

 

 ……一流として外国語には堪能でなければと多少嗜みはしたけれど、今日ほどフランス語を覚えるべきではなかったと後悔した事はない。かつてのブロワイエさんよりも口数が増えて、本当に別人になってしまったみたい。

 終焉の壁。つまり私達という個体では決して辿り着けない、ただのウマ娘が辿り着ける最終的な境地の、その先。

 ――ならあなたは、何者なの。ひとりのウマ娘としての能力を飛び越えた、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()かのような、そんな人智を超えた存在だとでも言うの。

 

 

 

 

 「改めて、名乗りを挙げようではないか。

 私は打ち砕く人(ブロワイエ)。『踊る勇者』の名を受けた、過ぎ去りし()()()()()()()()()()だ」

 

 

 

 

 私は、その名を誰よりも知っている。

 それは私が在りし日に憧れ、そうなろうと恋焦がれた名前。

 一ヶ月前の暗がりの教室で私が思わず竦んだ、お母様の競走ウマ娘時代の風格が……余すことなく、目の前のブロワイエさんに受け継がれている。

 

 

 

 (……見てるのよね、私達を)

 

 

 

 それはつまり、彼女のトレーナーとしてあの人も、このレース場にやって来ているということ。

 あれから連絡も通じず、私もメジロの療養所に篭っていて音沙汰なかったお母様が、ブロワイエさんと私の対決を観に来ているということ。

 ……それならば、遅れを取るわけにはいかない。私は一流のウマ娘として、彼女を凌駕する存在でないと。

 

 

 「……ご機嫌いかがかしら? 私は(Comment allez-vous? je suis)――」

 

 

 

 「――あのっ!」

 

 

 

 ……その時。

 なんとか応えようと、重い口を上げて名乗り返そうとした私の前に、スペさんが躍り出て。

 

 

 

 

 

 「――調子に乗んな(La victoire est moi)……っ!!」

 

 

 

 

 

 ――スペさんは、フランス語を話せない。

 当然、聞き取ることも出来ないそうで、だから今までのブロワイエさんの言葉も理解できていない筈。

 

 

 『……ええ〜っ!? 「調子に乗んな」なんて、なんでそんな言葉教えたの、エルちゃ〜ん!!』

 

 『なーっはっはっは! その方が面白いじゃないデスか! アタシはブロワイエにお返しが、スペちゃんはアツい勝負が出来る! 一石二鳥、ウィンウィンってことデース!』

 

 

 でも、その言葉の意味だけは、もう知っている。

 この覇気と緊張の中で、スペさんは敢えてそれを、口にしたのだ。

 

 

 

 「……ほう」

 

 

 

 ――僅かに、ブロワイエさんの気配が揺らぐ。スペさんも冷や汗をかきながらも、真っ直ぐに彼女を見返していた。

 

 

 「スペさん」

 

 

 ……私、そういう姿勢は嫌いじゃないわ。

 才能に相応しい、真っ直ぐな根性の持ち主。そんなあなたの姿はライバルとして誇りよ、スペさん。

 なんだか、負けていられないじゃない。そっと彼女の肩に手を置いて、前を開けてもらって。

 

 

 

 「……その通りね。(C'est exact.)

  過去の栄光なんて、どうでもいいわ(La gloire du passé n'a pas d'importance)

 

 

 

 ――そう、私も、栄光に別れを告げる者。

 クラシック級からの十度の敗北も、シニア級のG1四勝も、私の糧ではあっても決して……もうそこに固執する事はない。

 知ってる? キングは過去を振り返らない主義なのよ?

 

 

 

 

 私は天才が相手だろうが、(Peu importe que vous)

 伝説が相手だろうが関係ないの。(soyez un génie ou une légende.」)

 ――一流の走りを、見せてあげる(Je vais vous montrer une course de première classe)

 

 

 

 

 ――「踊る勇者」は、嗤った。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 「……とうとう達しなかったか。キングヘイロー」

 

 

 

 アナウンスだけが鳴り響く、異様な雰囲気の観客席の一角に立つのは、数週間前にかのトレーナーに禁忌を授けた、皇帝シンボリルドルフである。

 そしてその隣に、マルゼンスキーが並んでいた。

 

 

 「ご苦労だったな、マルゼン。内部スパイなんて……君も心中穏やかではなかっただろう」

 

 「いえいえ。別にサブ君のことを裏切ったわけでもないんだから、気にしなくて良いわ♪」

 

 

 ――マルゼンがあのメジロの療養所に途中合流した真の理由は、そこにあった。

 つまり、世間から隔絶された閉鎖空間内で行われていたその特訓が……双方の合意のない残虐なものでないかの、生徒会による調査のためだったのである。

 

 

 「……まあ、あの男に限ってそのようなことはないとは思っていたのだが、それでも熱が入りすぎてといった不注意はあり得るからな。

 結果、君の報告によれば、担当ウマ娘であるキングヘイローとの関係は極めて良好。しかし見込まれていた成果を得ることは出来ず……といったところだったか」

 

 

 ……残念だが妥当なところだろう、とルドルフは思っていた。

 そもそもトレーニングによって「領域」を取得したなどという事例自体、いくら記録を遡ったところで見つかった試しがない。その長い競走ウマ娘の歴史の中で数々の奇跡の逆転劇が産み出されながらも、その全てがレース中での爆発的なパフォーマンスの向上によって成り立っている。

 

 

 「うーん、残念ねぇ……キングちゃん、ものすごく頑張ってたんだけど」

 

 

 ――しかしそこはそこで、気になる点ではあった。

 荒唐無稽とは言ったが、通常のトレーニングの何十倍もの負荷をかけた時、単純な程度を考えるだけならばそれはレースで走る以上のものとなってもおかしくはないのだ。

 無論そのような簡単な話でないのは明らかだがその上で、もし仮にあのトレーナーが行っていることが実現可能だとして……それでもまだキングヘイローが覚醒しないというのは、そもそも彼女に時代を牽引するほどの素質がないということなのか。

 

 

 

 ――あるいはそれですらもこじ開けることが叶わない、現在のウマ娘の常識では測れないほどの……世界最高水準の潜在能力の持ち主なのか。

 

 

 

 

 『各ウマ娘、ゲートに入りました。

 世界の頂点を目指して、ジャパンカップ――いよいよスタートです』

 

 

 

 

 さあ、見せてもらおうじゃないか。

 頂点か、どん底か……君がどちらに転ぶのかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 五枠八番のゲートで息を潜めていたキングヘイローの瞳が、ぎらついて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『な……何ということでしょう……!?』

 

 

 

 

 ――ファンファーレによってようやく活気を取り戻した観客席が、再び凍り付く。

 

 

 

 

 『か、各ウマ娘、揃って綺麗なスタートを切りました――()()()()()()!!』

 

 

 

 

 ――駆ける脚の周りの芝が、電撃が煌めくように迸る。

 

 

 

 

 『さ……三番人気キングヘイロー、ひとり飛び出していく!!

 ぐんぐんと伸びてバ群を置き去りに……ラストスパート同然のスタートダッシュを行っている!!』

 

 

 

 

 「――――ち」

 

 

 

 

 あのダービーを彷彿とさせる、明らかに暴走したターフの上のキングヘイローを、見て。

 ――シンボリルドルフは、吼えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「血迷ったか、キングヘイロー――!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 
※栄光は英語でHalo、別れを告げることはGoodbyeと表記するようです。
※キングヘイローとスペシャルウィークは共に、キャリアの中で一度も故障を起こしていない事から、「無事之名ウマ娘」と称されているそうです。


 


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踊る勇者

 

 

 

 『キングヘイロー、果敢にハナを切っている、切ってしまった!

 ダービーの大敗が蘇ってしまうのか、掛かり気味に先頭を爆走しています!!』

 

 

 

 ――ターフの上を、私の娘が走っている。

 そんな彼女を見た観客たちのどよめきが、このVIPルームを僅かに揺るがしている。

 

 

 

 「ばかね、あの子」

 

 

 

 そっと、そんな一言が口から洩れた。

 母親として、軌跡を見守ってきた。私の影と強力なライバルに苦しみ、次第に心が軋んでいくあの子のことが見ていられなくて、幾度となくターフに立つのをやめるよう言いつけた。

 ……あの「菊花賞」でのあなたの狂笑を、私がどんな気持ちで見つめたことか。

 

 

 

 (それが、まさか有馬記念まで勝つなんて)

 

 

 

 年間G1四勝。

 目覚ましい成果だわ。あの年のスペシャルウィークさんは年間G1三勝。重賞を一度制するだけでも大変なことだというのに、あの子は最後の最後になって、あれだけ立ちはだかっていた同期全員の一番上まで這い上がったのだから。

 その後は再び成績不振に落ち込んで、あれから一度もG1を獲れなくなってしまったけど……それでもあの子はきっと、決して調子を崩している訳でも、レースに対する情熱を失った訳でもない。

 

 

 

 (走りが、そう語っているわ。私が一番よく知っている、その脚が)

 

 

 

 ――キングヘイローは、この大舞台で序盤から仕掛けている。

 誰もがそれをお嬢様のご乱心と捉えるだろうけど、私には分かる。ダービーの頃とは違うあの子に限って、そんな勝負を投げるような真似をするはずがない。

 

 

 

 「……あなたも()()()()()()()()じゃない、キング」

 

 

 

 そう。あなたならそうするに違いないと、信じていたのよ。

 こんな絶望的な戦いでも決して勝利を諦めない、一流のウマ娘なら、絶対に。

 

 

 

 

 

 

 「私達に本気で逆らうなんて、本当に……本当にばかな子。

 

 

 

 

 

 

 

 ――そう来なくっちゃ、面白くはないわ」

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 「……始まったな」

 

 

 ざわつきの絶えない観客席の中で、しかし俺たち全員は揃って、静かに状況を見守っていた。

 

 

 

 「スペちゃんはいつも通り、後ろに控えていますね。そしてブロワイエさんは……」

 

 

 グラスが囁くように分析しながら、その最後で言葉をつぐんでしまう。

 理由は明白だった。スペのいる後方集団の、さらにその後ろ……いわばぽつんと一人な最後方を、「踊る勇者」は泰然と走っているのだから。

 

 

 

 「……あんなの、ブロワイエの走りじゃありません」

 

 

 

 そう呟くのは、本当は誰よりも彼女とのリベンジマッチに臨みたかったエルだ。実は今回キング以上にブロワイエとの再戦を望まれていた彼女だったのだが、その一報が来てからほぼ即決で出走回避を表明していたりする。

 曰く、決着はここじゃなくて、凱旋門賞で付けたいのデース! とのことだ。

 

 

 「アタシには分かります。ブロワイエは余裕はありましたけど……あんな風に、のんきに構えるようなスタイルじゃなかった」

 

 

 普段の話し方も控えめに、エルは食い入るようにその異形の姿を睨んでいた。

 以前のブロワイエは後方待機からの追い上げを得手としながらも、決してレースの流れからその身を離すようなことはなかった。あくまで堅実に展開を読み、エルやスぺの様な有力な標的を確実に差しにいく隙のない走りを得意としていた筈だ。

 ……余裕はありつつも、今のようにあれだけ位置を下げるほどだった訳じゃない。それでもレースに勝つつもりなのだとすれば、意味するものは一つだ。

 

 

 「でも、事実だ」

 

 

 ――じっとレース展開を見つめていたスカイが、おもむろに呟いた。

 

 

 

 「射程圏内なんだ。今のブロワイエには、あの距離でも全員差し切って勝つだけの脚があるよ」

 

 

 

 一斉に、視線がスカイに集まっていく。

 グラスもエルも、現時点で展開されている状況を読んだだけだ。だがスカイだけは違う、まだレースが始まったばかりだというのに……既に「踊る勇者」の持つ底力を把握しているかのような口ぶりだった。

 

 

 「スカイ……? どうして、そんなこと……」

 

 「すごーい! セイちゃん、そんなことまでわかるの!?」

 

 

 ライアンとウララが驚きの声を上げる。クリークは何も言わないが少し不思議そうだ、隣に並ぶオペラオー達もまた然り。

 

 

 

 

 「……私も興味があるな。是非とも聞かせてもらおうか」

 

 

 

 振り返る。

 観客が驚きと共に道を開ける。その真ん中を堂々と歩むのはトレセン学園を統べる者にして、あの雷雨の日に俺が「領域」のありかを探すために対峙した、皇帝と呼ばれるウマ娘だ。

 その表情は、抑えきれない沸々とした憤怒が漏れ出していた。

 

 

 

 「ルドルフ、どうしてここに」

 

 「知れたことだ、あの有様を見ては……その真意を問いたださずにはいられまい。

 あれは暴走か、それとも君の入れ知恵か。キングヘイローはどうして……逃げを打っている」

 

 

 

 ――敢えて今まで話題にしていなかったが、このレースを観戦する者なら誰でも真っ先にそう思ったことだろう。

 キングは逃げている。スタートの時点から持ち味の末脚を全力で解放して、今も二位の選手と十バ身近く離れる程のリードを奪っている。

 

 

 

 「納得のいく理由はあるのだろうな。もしないのであれば……私は君を少々、買い被り過ぎていたと思わざるを得ないぞ」

 

 

 

 ……皇帝様にしては、らしくなく感情的だ。普段の彼女ならこうして、人目を引く場所で俺の責任能力を追求するような無配慮なことはしない。

 だけど、そうもなるよな。もしあれがキングの過失であるならば俺のメンタルケア不足、そして故意であったならば……それはあのダービーと同じ轍を踏んだ、トレーナー失格レベルの下策を俺が彼女に吹き込んだという事を意味するのだ。

 それを生徒会長として誰よりも生徒達を大切に想う君が、看過できるはずがない。

 

 

 

 「……トレーナーさん」

 

 

 

 スカイがこちらを見つめてきた。

 もういいんじゃないですか。キングはもう走ってるし、隠す必要はないでしょ。そう、彼女の藍色の瞳が問いかけている。

 まあ、それはそうだ。今の今まで黙ってたのは、スペも出走する手前、万が一にでも()()がどこかから漏れて世間の知るところになってしまわないようにする為だったのだから。

 しかし、俺がそう思ったその時……彼女の背後に見覚えのある影が。

 

 

 

 「あ、こんなところに! んもう、ルドルフったら、いきなり駆けだしたと思ったら~……。

 って、あら? サブ君じゃない!」

 

 

 

 ――良いところに来てくれたな。

 そう、これはマルゼンと、スカイと、キングと、そして俺だけが把握していた、常識外れな秘策なのだ。どうせマルゼンが生徒会からの差し金だったのだろうことは察しがついてはいたが、彼女はあれでしっかり口が堅い、どうやらルドルフには何も伝えていなかったようだ。

 そういうわけで、俺はマルゼンとスカイに目で合図を送って、コホンと咳ばらいをすると。

 

 

 

 「……とりあえず落ち着こうぜ、ルドルフ。

 俺達は決して、安易なミスを犯したわけじゃない。それどころか……キングは自分の意志で、あの大博打に乗り出したんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「よし。集まったな」

 

 

 

 マルゼン達が応援にやってきてくれた、次の日の夕方の事。

 練習が終わり、おのおのがお風呂や夕食を済ませて部屋に戻り身体を休ませる一方で、俺達はナイター環境のターフの上で、四人で集まっていた。

 

 

 

 「君たちをここに呼んだ理由は、そろそろ考え始めないといけないからだ。

 ……『踊る勇者』に勝つための、レース本番での作戦を」

 

 

 

 三者三様の反応だ。マルゼンはふーん、と愉しげに応じて、スカイは珍しく神妙に頷いている。

 その一方で、しかしキングは面食らったかのように目をぱちくりさせていた。

 

 

 「作戦……普段通りには走らないってこと?」

 

 「冷静に聞いて欲しいんだけどさ、キング」

 

 

 対処したのはスカイだ。そして彼女がいつになく真剣な表情である理由は、そこにあった。

 

 

 

 「残念だけどさ、今のままじゃどう頑張っても勝てないんだ。

 今のブロワイエはほんと強いよ。キングだけじゃなくて、わたしも、エルもグラスちゃんも……多分、全く歯が立たないと思う」

 

 

 

 ……わたしだけ、キングから一番奪ったわたしだけが、何も出来ていないなんて、そんなの、虫が良すぎるじゃん。

 そう思い詰めていたスカイに、俺はあれから一つの役目を与えていた。つまり、走れなくとも冴え渡るその観察眼を利用して、連日「踊る勇者」のデータを一緒に分析してもらっていたのだ。

 そして、二人揃って出した結論がそれだ。「踊る勇者」があまりに強すぎて、そもそも国内外問わずまともに勝負できるウマ娘はいない、という。

 

 

 「……そう。分かったわ。それで?

 そこまで言うなら、ちゃんと一流のプランを考えているんでしょうね?」

 

 

 そこで腐らずにすんなりと受け止められるのはいつもながら流石というか。

 まだ目に光を失っていないキングに、スカイは頷いて続けた。

 

 

 

 「キングはさ、よく気性難だとか、プライドがって言われるけど……本当はそうじゃないよね。

 それどころか、誰よりも考えて走ってる。考えてる分……()()()()()()()()()んでしょ」

 

 

 

 ――セイウンスカイ。君は一体、どこまで見抜いてるんだ。

 キングヘイローはバ群が苦手だ。加えて明らかな不利な状況になってしまうと武器の末脚の出ない、言わば「やる気のない走り」を見せてしまうことがある。

 だがそれは断じて怠慢ではない。スカイのいう通り、短距離から長距離まであらゆる距離に適応するだけのペース配分、そしてその中で自分がどうすればベストを尽くせるかのシミュレーションまで、彼女はその聡明な頭で考え抜いているのだ。

 

 

 

 「考え抜いて、レースをよく分かってる分、いざ本番で不利になると……他の娘以上に、勝てないっていう予感が頭に思い浮かんじゃうんだ。

 分かるよ、わたしだって同じだから。『まあいいや』とか、『今はだめでもなんとかなるでしょ』とか、そうやって楽観的に構えられるタイプじゃないよね。だから、どんどん悪いイメージが心に蓄積して、身体が重くなってまともに走れなくなってきちゃうんだよね」

 

 「……そこまで気付かれてるなんてね」

 

 

 

 ここで抜け出せなきゃ勝てない。このまま内に入れてたら負けてしまう。

 なまじ頭がキレる分、そういう不安を人一倍抱え込んでしまう。それはスぺやエルの様な天性の嗅覚か、あるいはグラスみたく強靭な精神力でしか完全に払拭することは難しいが、残念ながらキングは俺達トレーナーと同じで、理詰めで物事を考えるタチだ。

 

 

 

 「……さっきも言ったように、普通に走ってるだけじゃ『踊る勇者』には勝てない。それはキング、君の末脚を全力で解放できたとしてもって話なんだ。

 なのに、位置取りとか垂れてきた他の選手とか、そんなことに一々気を取られてたら全く話にならない。あくまで実力を出し切ることを前提で、そこから更に限界を超えて……それでやっと勝負になるかもってところなんだ」

 

 

 

 スカイと交代して、俺の発言だ。

 だからこそ、常にコース取りの懸念が付きまとう差し戦法は、今回は使うべきではない。キングはクラシック三冠の頃は先行策も多用していたが、これももっての他だ。抜け出すだけのスパートでは、たとえ好位置であったとしても本来のキングの末脚とは比較にすらならない。

 

 

 

 「え……じゃあ、どうするのよ。

 差しが駄目なら追い込みだってダメじゃない、他にどんな……方法……が」

 

 

 

 ……察しの良い君の事だから、もう気が付いただろう。

 なんで俺が、スカイと、マルゼンを呼んだのか。

 

 

 

 「キング」

 

 

 

 キングは大きく息を呑む。次に彼女を襲うだろう感情がどんなものか、よく知っている。

 だからこそ。俺はまっすぐ向かい合って、目を逸らすことなく、ゆっくりと……それを提案した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「辛いと思うけど、今こそダービーを乗り越えてみないか。

 ――逃げるんだ。初めから全力で飛ばして、ブロワイエも、スぺも他の選手も、誰も干渉できないところまでリードを広げるんだ。

 そうすれば駆け引きも位置取りも関係ない、あとは……君が最後までに『領域』に至れるか、それだけの話になる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「それが、君達の作戦なのか」

 

 

 瞑目していたルドルフは、そう口にしつつ瞼を上げてこちらを見やった。そこにはもう、先程までの理不尽な采配に対する怒りはない。

 

 

 「……よく、頷いてくれたと思うよ。あいつにとって、一番のトラウマだっただろうにさ」

 

 

 クラシック三冠で彼女の心がガタガタになった一番のきっかけこそが、あのダービーでの暴走だった。そこから崩れに崩れた菊花賞は、あまり言いたくはないがフェブラリーSと合わせて負けるべくして負けたレースだったのだろう。

 スカイが前に二度目のダービーを開いてくれて、それで多少心持ちは軽くなったようだったが……いざこんな一大舞台で再び逃げるなんて考えたら、脚が竦んで動けなくなってもおかしくはないというのに。

 

 

 

 「とはいえ、こんな短期間じゃ出来る事はたかが知れてる。だから本来最終直線で出す末脚を、スタートの直後にぶっ放そうって事になった」

 

 

 

 熟練の逃げウマ娘になると、ゲートが開くコンマ数秒の差を詰めた凄まじい集中力によるスタートダッシュが可能だとの事だが、幾ら何でもそれは付け焼き刃のキングには無理だ。なので、ゲートが開いた直後に言わばラストスパートを掛けることでそれを疑似的に再現する。

 スカイの様な坂やレース全体の流れを利用した策を講じるのも無謀なので、これが今のキングに出来る限りなはずだ。

 

 

 

 「だが、これからどうする。そもそも芝2500mを逃げ切れるほどの技術とスタミナは、キングヘイローにはないだろう。

 このままでは、彼女は……大敗するぞ」

 

 「分かってるんだろ、ルドルフ」

 

 

 

 ――そういう覚悟は、もうとっくに出来てるんだよ。

 その通り、今のままじゃキングはボロ負けする。ダービーと同じ過ちを犯す形で、終いには走る誰もに追い抜かれて最悪の負け方をする可能性はかなり高い。

 ……だからこそ、超えるんじゃないか。限界の、その先を。

 

 

 

 「レースを走り切るって意味では、逃げだろうが先行だろうが差しだろうが追い込みだろうが、同じ距離を走るんだから辛さはそこまで変わらないかもしれない。

 ……でも最終直線前までならどうだ? 最後にスパートを使いたい差しや追い込みはまだ脚を溜める段階だ。先行は体力は使うけど、レース進行によってスタミナを温存することも出来る」

 

 「しかし逃げ策だけは、そもそもレース全体のペースメーカーとして必ず膨大なスタミナが要求される。周りに合わせて適度にスピードを落とす事も、あるいは体力を温存する事も許されない。

 ……彼女は」

 

 

 

 それこそ「菊花賞」でのスカイみたいな、特大リードから息を入れるやり方もあるだろうけど、キングには到底不可能な芸当だ。

 とにかく、レースの終盤、最後の底力を出す直前までにおいては……一番体力を消耗するのはほぼ確実に逃げウマ娘であると言っていい。そのことをルドルフもよく分かっていたようだ。

 

 

 

 「……彼女はまだ、諦めていないというのか。

 このレースにおいて、自らが『領域』に至ることを。そのために、ギリギリまで自分を追い詰めるために、敢えて逃げたのか」

 

 

 

 普段は最後に使う末脚をはじめに使い、その後はマルゼンとスカイに習った逃げの走法でかっ飛ばしまくる。さらにこの世界水準の至高のレースで二十万人の観客の視線を浴びることで、精神的にも肉体的にも重圧をかける。

 そうして最終直線前までにキングのスタミナを完全に枯渇させるのだ。

 こんなに負荷の掛かる状況は、もう二度とあり得ない。キングを限界の先の先に押し込む為の最大限の環境は、今をなくして二度と整わない。

 

 

 「――棄灰之刑。君は本気で彼女を勝たせる為に……鬼になったというのか」

 

 

 ……結局最後の最後で、俺はそうなりきれなかったんだけどさ。

 だけどだからといって、「いざとなったら諦めてくれ」といったところで、キングは決して無意識にも手を抜くような事はしないはずだ。俺が無事に帰ってきて欲しい思うのと同じくらいに……勝って欲しいと願っていることを、あいつは知っている。

 

 

 「……君達も、キングヘイローの作戦について、聞き及んでいたのか?」

 

 

 かぶりを振ったルドルフの視線の先にいるのは、グラスとエルだ。スカイは事前から知っていたからともかく、それ以外のこの場にいるみんなは突然のキングの暴走に驚いて然るべきだろう。

 

 

 

 「……キングちゃんを、信じてますから。

 諦めないあの姿勢にずっと惹きつけられてきた私達が、あの程度のことで動じたりするものですか」

 

 

 「最初はアタシもびっくりしたんデスよ!

 でも……陽は落ちれどもまた昇る! それを教えてくれたのは、キングちゃんですから!」

 

 

 

 グラスもエルも、言い切っている。まるで迷いはない様子だ。

 でも当然といえば当然か。二人ともこの一か月、キングの執念をいやというほど味わったはずだ。そしてそれは、二人以外のみんなも同じこと。

 

 

 

 「ルドルフ」

 

 

 

 そこで彼女に話しかけてきたのは……マルゼンと共に特訓の後半から合流した、オグリキャップだ。

 

 

 

 

 「……今の私にはわかる。

 かつて君が、私に抱いていたもの……それと同じものを、私は彼女に感じるんだ」

 

 

 

 

 ――中央を無礼るなよ。

 ――ならば実力で覆す。常識もルールも、この脚で。

 未だに語り継がれる、ルドルフとオグリの伝説的な問答だ。この後にオグリキャップは怒涛の重賞三連勝を飾り、それをもってシンボリルドルフはURAの中央諮問委員会に彼女のダービー出走を掛け合った。

 ウマ娘の筆頭として永らく追い求めていた、ウマ娘の枠を超えた不世出の大スター。それをルドルフがオグリに見出した瞬間だった。

 

 

 

 「あの有馬記念の日。私はそれをメジロライアンに感じた。

 そして今日この日、そこに一番近いウマ娘がいるとしたら。

 それはきっと……彼女じゃないだろうか」

 

 

 

 ドリームトロフィーリーグに移籍した魔王、そしてオグリ自身も認めた時代を創るメジロの双塔、そして世紀末覇王とその王座に最も近づいた、春の刺客。

 その面々が異論を唱えずに同意する。現時点では、少なくともこのレースでは……キングが最も頂点に、到達しうる可能性が高いと。

 

 

 

 「ねぇ、ルドルフ。あなたのキングちゃんの事を心配する気持ちは、分かるわ。

 でも……信じてみてもいいんじゃない?」

 

 

 

 「…………ふむ」

 

 

 

 マルゼンの言葉に、皇帝はそう一言だけ零して、暫く押し黙ってしまう。

 ――だがそれは決して、失意によるものではなく。

 

 

 

 

 「……それならば、最後まで見届けようではないか。

 まさに一世一代。彼女が自らの意志で始めた、新たな伝説を……!」

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 『さあ、やや縦長の展開で坂を上っていきます、1200mを今切りました!』

 

 

 

 ――まだだ。

 目の前を覆う他のみなさんの背中の後ろで、私は抜け出す機会を伺っていた。

 

 

 

 (まだ待たなきゃ。もう少しして、みんながスパートを掛ける直前が勝負だ!)

 

 

 

 キングちゃんはスタートと同時にバーッて走っていっちゃって、今も私達の前を必死に走ってる。

 ブロワイエさんは前みたいにプレッシャーをかけたりもしないで、なんだかのんびりと一番後ろに控えてる。

 ……こんな怖いレース、走ったことがない。まるで何が起こるかもわからない、不気味な感じ。

 

 

 

 (でもね、キングちゃん)

 

 

 

 言ったよね。私はただ全力で、勝ちに行くって。

 

 

 

 『おーっほっほっほ! 今日の真打、キングヘイローの登場よ!』

 

 

 

 ……ねえ、キングちゃん。覚えてる?

 シニア級のあのファン感謝祭で、パン食い競争で一緒のグループになったよね。

 

 

 『キィイイイイーーッ! 情けはいらないわ! こんなパンくらいすぐに取ってみせるわよ!』

 

 

 あの時、一番最初に飛び出したキングちゃんがパンを取れない中で、グラスちゃんとエルちゃん、あと私がどんどん追い抜かしちゃって、最後に取り残されちゃったよね。

 

 

 『みんな、見てなさいっ! これがキングの圧倒的飛翔力なんだからーっっ!!』

 

 

 菊花賞のあと、セイちゃんと一緒にずっと心配してたのに……キングちゃんったら、変わらずいつも通りだった。

 泥んこになりながら何度も何度も飛んで、パンを取ろうとして、絶対あきらめなくて。それで、気が付いたら私達のこと以上に、みんながキングちゃんを応援してて。

 

 

 (ずっと、すごいって思ってた。でもそれをダービーで勝っちゃった私が言っちゃって本当にいいのか、分からなくて)

 

 

 ――私に勝ちを譲ってくれても、いいじゃない……!

 あの時、あの子に言われて。キングちゃんももしかしたら、本当はそう思ってるんじゃないかって。怖くなった。

 その後キングちゃんは短距離路線に切り替えちゃったから、もうレースでも一緒に走れなくなって……私達、もうライバルでも、友達でもなくなっちゃったのかなって、すごく寂しかった。

 

 

 

 (……でも。キングちゃんは、言ってくれた)

 

 

 

 『私、この世代でよかった。

 あなたたちがいたから、負けたくないって思えた。その度、悔しくて堪らなかったけど』

 

 

 

 あの時から、私達は本当の友達になれた。

 あれがあったから、私達は今日までずっと一緒に走り続けてこられた。

 

 

 

 『あなたたちがいたから……っ、私は、私だけの道を歩んでて……!

 だから、私と競ってくれて、私のライバルでいてくれて……ありがとう……!』

 

 

 

 それが私達、「黄金世代」なんだ。

 だから、私達は……一流のライバルで、いられるんだ。

 

 

 

 (だから、勝たなきゃ……っっ!!)

 

 

 

 『さあ、もうすぐ先頭のキングヘイローは第三コーナーに差し掛かる! 大ケヤキを過ぎて、ここから勝負どころです! 誰が仕掛けてくるか!?』

 

 

 

 ――ここだ。

 脚を踏み込む。ターフが衝撃を跳ね返して、辺りにドカンって大きな音を立てる。

 信じてる。キングちゃんは絶対に、ここから何か仕掛けてくる。先頭にいるのも、何か作戦があっての事に決まってる。

 だから、心配はしないよ。私は私の全力を、キングちゃんに見せてあげる――!!

 

 

 

 「は……ああああああっっっ!!」

 

 

 

 『おっと、ここでスペシャルウィークだ!! バ群の一瞬の隙を突いて、後方から大きく前へ飛び出したーっ!!』

 

 

 

 いつも通り。まっすぐ。

 それが私の全身全霊なんだ。それが日本ダービーでも、天皇賞でも、ジャパンカップでも何も変わらない。

 ――お母ちゃんと一緒にいたころは、ターフがまるで夢の舞台だった。それがどんなレースでも、夜に星を見上げるみたいに綺麗で、素敵な光景だった。

 ターフっていう夜空を駆ける、たくさんのウマ娘達はまるで。

 

 

 

 

 (まるで……ながれ星(シューティングスター)のように!!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あれ……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 火照った身体が、一瞬で冷めた。

 全力で走った先に見えた流星の煌めきが、蜘蛛の子を散らすようになくなっていく。

 

 

 

 「な……なに、これ」

 

 

 

 ――驚く暇もなかった。

 歓声が、聞こえなくなった。気が付けば周りが暗くなって、空気が海の中みたいに重い。

 

 

 

 『これは、これはどうしたことでしょう! スペシャルウィークの末脚が続かない!!

 いや、彼女だけではない!! ターフを走る全員が、どこか落ち着かない様子だ……!?』

 

 

 

 ……なんで?

 経験したことのない事態に、頭が混乱する。脚は前に進んでる? 今全体の、どの位置にいる?

 一瞬の中で、とにかく前を向かなきゃって、思わず……思わず先頭のキングちゃんを見ようとして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「が」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――弾かれた。

 まるで自分よりも大きな板で、横から叩かれたみたいに、凄まじい衝撃が身体を襲った。

 

 

 

 「うわぁああぁっ……っっ!!」

 

 

 

 走ることも、ままならない。

 右肩ががくりと下がって、上半身のフォームが横転して前に倒れ込みそうになったのを、なんとか踏ん張って持ちこたえる。

 スパートを掛けるどころじゃない。無理をしたら、そのまま転倒して大事故を起こしちゃう。

 

 

 

 「な……何、いまの……わあっ!?」

 

 

 

 直後に、ものすごい風圧がコースの外側から掛かって、耳がぴーんって鳴って何も聞こえなくなる。思わず顔を背けて、後ろを振り返る。

 ――みんな、崩れていた。態勢を大きく崩して、バ群の中でお互いに衝突しないように必死に位置をキープするのに精一杯で、もうレースの駆け引きをする余裕なんてなくなっている。

 

 

 

 (なにが……何が、起きたら、こんな……っ!?)

 

 

 

 その時。

 隣に気配を感じて、背けていた顔を直して、右を向いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「…… La victoire est moi(調子に乗るな)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――――ッッ!!」

 

 

 

 ――怖くて……怖くて。

 圧倒的だった。巨人みたいな威圧感で、ブロワイエさんが私の横を駆ける瞬間だった。

 差し殺す。まるでそう言っているかのような、獲物を仕留める冷酷さと、いわゆる「雑魚」を相手にする退屈さが混じったような、そんな青い目の奥に光る、血のように紅い眼光。

 

 

 

 

 『こ……ここでついに、「踊る勇者」が動いたぁぁーーっっ!!

 なんてことだ、世界から集まった優駿、スターウマ娘達が、まるで赤子の手をひねるように潰されていく!!

 その轟気だけで、他の選手達の走りを半壊させた――!!』

 

 

 

 

 ブロワイエさんはさらに加速する。まるで本当の、流れ星のような速さでターフを駆け、私を差し切っていく。

 ――そして、また爆発的な威圧と風圧が、とどめを刺すように私達を切り刻んでいく。

 

 

 

 「き……キングちゃぁぁぁん!!」

 

 

 

 無茶苦茶にぶれて、霞んで、ぐらつく視界の中で、私はその名前を呼んだ。

 先頭を何とかキープし続けているキングちゃんはまだ、あのブロワイエさんの走りに噛み付かれていない。でももしキングちゃんになんの計画もなくて、ただ思い付きで逃げているだけだとしたら……もうかなりペースも落ちてるのに、最後まで逃げ切れるわけがない。

 

 

 

 

 

 

 「……それでも、それでもっ……!!」

 

 

 

 

 

 それでも、キングちゃんなんだ。

 私が、私達が、いつも憧れてきた、黄金世代の王様。

 「日本総大将」なんて呼ばれてる私を従える、「世代のキング」。

 

 

 

 

 (逃げて……キングちゃん…………!!)

 

 

 

 

 ――私は、ただ祈っていた。

 

 



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栄光の王者

 


※そして、キングヘイローさんが新たな伝説を創るようです。


 


 

 

 

 

 「がはあっ、はあっ……っぐ……っ!!」

 

 

 

 ――辛い。

 辛すぎる。いつもなら最後まで残し続けていた脚をもう使い切って、そこからあと2000m近く走り続けなければいけないなんて。

 息が乱れて、整わない。足先が上手く、ターフを踏み込めない。集中線のように狭まった視界が、少し前のコース以外を映してくれない。

 

 

 

 (ダービーの時も……こんなになって、走ってた……?)

 

 

 

 芝2400m、東京レース場。

 あの時と条件は殆ど同じ。今日の方が悪天候、芝状態は前と比べて良好らしいけど、それでも当時の感覚を思い出せないのはきっと、私自身が我を失っていたのと、出走しているウマ娘達のレベルが違いすぎるから。

 日本ダービーは規模と品格はあっても走る選手はみんなクラシック級。対して今日のジャパンカップは全員がシニア級以上、それに半分以上が世界から招待されたベテランだ。だからレース進行はダービーと比べて高度でハイペースであって当たり前で。

 それはつまり、私がこのレースで……あのダービーの時よりもさらに無茶な賭けに乗り出してしまったことを意味している。

 

 

 

 (後ろは? どこまで詰められてる? 最後まで走り切るスタミナは、残ってる?)

 

 

 

 毎分毎秒、頭の中を何度も何度もそういう類の思考がよぎっていく。そして私はそれらに全て、やむなくバツ印を付けざるを得ない。

 その度に、胸の中がどんどん重くなっていく。スカイさんがまさに言っていた通り、勝てないイメージがどんどん具体的になってきて、身体が凍り付くように動かなくなっていく。

 そんなささくれ立った心が、二十万人の観客の私に対する失望と軽蔑を感じ取ってしまう。

 

 

 

 (……いえ、違うわね。私が考えるべきは……そこじゃない)

 

 

 

 ――だから、考えない。

 そうよね、トレーナー。これは考えるのをやめるための作戦。そんなことを考えない為に初めから全力疾走して、スぺさん達を突き放して、余計な要因を全て排除した。

 ……それなら、今私がやるべきことは一つ。ただひたすらに、全霊に走るだけ。

 

 

 

 「ぎっ……あ、あああっ……!!」

 

 

 

 全身が軋んで音を上げる。どこか筋肉が切れてしまったのか、痺れるような感覚が脳まで這い上がってくる。

 とっくの昔に、スカイさんが手取り足取りレクチャーしてくれた逃げの走法は崩れてしまった。今の私は技術も何もない、ただのでたらめな走りしかできない。

 それでも、止めたらダメ。そう言い聞かせて、上半身を投げ出すように前に傾けて脚を強制的に前へ運ぶ。さっきからそんな条件反射すら鈍くなり始めていて、歯を口の中の肉ごと食いしばってなんとか意識を保って絞り出す。

 ……首だけは決して下げず、霞む前を見据える。

 

 

 

 (どうやって……ここからどうやって突破したっていうの……ウララさん)

 

 

 

 『う……ららああああああっっっっ!!!』

 

 

 

 あの時のウララさんの咆哮が忘れられない。まるで全てを捨て去ったような、これからの可能性を全て前借りしたかのような、あの超然とした走りが。

 ――トレーナーは、あれだけはするなと言った。これまでを懸けるだけで、これからは決して賭けようとはするなと。ウララさんはそれを何も知らずに、ただひたすらにオペラオーさんや走る誰もを救いたいと純粋に願ってしまっただけで、その危うさを知った以上、君にそれをさせるわけにはいかない、と。

 

 

 

 (だけど、出来ないのよ……! これだけ、走ってるのに……っっ!!)

 

 

 

 これまでを、懸ける。

 ……懸けられるだけのものが、私にはある? 一流としてのプライド? 敗北からのし上がった不屈の精神?

 でも、他のみんなだって、私のそれに匹敵するものを持っているでしょう? それぞれのどうしても譲れない、勝たなければならない理由を。

 そうでなければ、この舞台には立てない。重賞で戦い続ける事なんてとてもできない。

 

 

 

 (ずっと……捧げてきたじゃないっ……! 一流になりたいっていう、私の信念を……!!)

 

 

 

 なのに。スぺさんも、スカイさんも、グラスさんも、エルさんも。

 ウララさんも、ライアンさんも、クリーク先輩も。

 みんな、そこに辿り着いたというのに。

 

 

 

 (なのに……なのに、どうしてよっ……!!)

 

 

 

 ああ。またね。

 どうして私だけ、並べないの?

 

 

 

 

 「…………つらい」

 

 

 

 

 辛い。どうしようもないほどに、辛い。

 身体が痛い。息が苦しい。今すぐに走るのをやめて、その場で眠り込んでしまいたい。

 ダメよ、()()()()()()。この逆境を乗り越えないと、「一流」はもう名乗れない。

 そうじゃないと…………私は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……ッな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は――間に合わなかった。

 

 

 

 

 「うわぁああぁっ……っっ!!」

 

 

 

 

 天変地異が起きたかのような、異質すぎる空気の変化。

 続いて耳を劈いた、スぺさんの悲鳴。

 

 

 

 (じ……時間切れ――!?)

 

 

 

 確認するまでもない。むしろその余裕はない。

 「踊る勇者」が、ついに始動したのだ。私が限界の先を、超える前に。

 

 

 

 『こ……ここでついに、「踊る勇者」が動いたぁぁーーっっ!!

 なんてことだ、世界から集まった優駿、スターウマ娘達が、まるで赤子の手をひねるように潰されていく!!

 その轟気だけで、他の選手達の走りを半壊させた――!!』

 

 

 

 なにかが、くる。

 絶命を連想させるような、終末的な虫の知らせ。それが背後から次々に上がる、選手達の悲鳴でどんどん胸の中で増幅する。

 

 

 

 「き……キングちゃぁぁぁん!!」

 

 

 

 ――逃げて……キングちゃん…………!!

 そんな意志が、私を呼ぶスぺさんの声に乗って伝わってくる。

 あの子に、そんなことを言わせるなんて。もう勝負にならないような、誰かに望みを託すような、そんな。

 

 

 

 (動いてよ……動きなさいよっ!!

 私には! 才能が、あるんでしょう……!?)

 

 

 

 ずっと、そう信じてきた。

 クラシックの苦難を越えて、生まれ持った才能という翼が、私にはあるって……ずっと信じてきたのに。

 でも脚はもはや、うんともすんとも言うことを聞いてくれない。今の速度を保つのに精一杯で、これ以上の粘りは出来そうにない。

 

 

 

 「く……ぅううぅぅっっ!!」

 

 

 

 それでも、諦めたくなくて。

 ここで諦めてしまったら、もう自分を信じられなくなってしまいそうで。

 そうして、腕を無理矢理振って、脚を踏み込もうとして。

 

 

 

 

 

 「愚かな」

 

 

 

 

 

 ――耳元で囁かれる、敗北の宣告。

 

 

 

 「弱い。弱すぎる」

 

 

 

 息が、止まった。

 完全に硬直した身体の中、目だけで声の主を辿れば……私を内から抜くように並ぶ、異形の影。

 

 

 

 「脆く、醜く、足りなすぎる。君に『一流』は……相応しくない」

 

 

 

 ――心を鷲掴みにされ、握り潰され、踏みつぶされるような、そんな響き。

 反駁するにも、緊張と疲労で口から声が、出ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……別れも告げるまい、裸の王様よ。せめて慎ましく、眠れ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぐしゃり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――――――」

 

 

 

 蹴り飛ばされた泥が、私の頬を穿った。

 鉛の様なその衝撃が、頭部を反響し、脳を揺らし、細動させる。

 

 

 

 『つ……ついに「踊る勇者」、先頭を捉えた!! さらに速度を上げて、これはもう独壇場か!?

 ――そしてなんと、キングヘイローどうした!! 大外まで弾き飛ばされて一気に失速、どんどん他の選手にも追い越されていく!! 状態が心配です、大丈夫でしょうか!?』

 

 

 

 

 

 そして。

 私の意識が、飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 「はっ、はっ、はあっ……」

 

 

 

 私はまだ、あのメジロの療養所にいた。

 ――なによ、今のは全部……夢だったのかしら。

 

 

 

 「ほら、キング! コーナーではちゃんと内に沿って走らなきゃ! そうじゃないと余計に体力使っちゃうよ!」

 

 

 

 私はまだ、走っていた。見ればスカイさんがそう、遠くから指示を飛ばしてくれている。

 ――走っているのに、夢?

 

 

 

 「ほらほら、キングちゃん! あと少しよ、がんばルンバ~!!」

 

 

 

 もう少しでゴールの筈だった。そこでマルゼンスキー先輩が檄を飛ばしてくれていた。

 ……なのに私の身体は、どんどん速度を失っていく。

 

 

 

 (あれだけ走ったのに、負けた)

 

 

 

 気が付けば、コースのど真ん中で立ち尽くしてしまっていた。スカイさんが私の名前を呼んで、その不自由な脚でこちらに向かおうとしているのが見える。

 

 

 

 「あらら~? どうしちゃったの、キングちゃん?」

 

 

 

 声を掛けてくれたのは、近くにいたマルゼンスキー先輩だ。慌てて私はそれに返答する。

 

 

 

 「え、ええと、失礼しました、まだ逃げに慣れていなくて、スタミナが足りないせいです。もっと、もっと走り込んで必ず克服しますから……」

 

 

 

 

 (やっぱり才能なんて、なかったのよ)

 

 

 

 

 「……ねぇ、キングちゃん」

 

 

 

 

 ――気が付けば、スカイさんの声が聞こえなくなっていた。

 

 

 

 

 

 「キングちゃんは、どうして走っているの?」

 

 

 

 

 (辛くてたまらないの。もう、苦しみたくない)

 

 

 

 

 ……どうして?

 そんなの、決まっています。以前の私は、お母様の娘としてではなく、キングヘイローとして世間に認めさせたくて。

 でもそれをやめて、今の私は……私が走りたいレースで走ることで、それを証明しようって思うようになって。

 

 

 

 

 

 「……ええ。それはとっても素敵なことね。

 でもあたしが聞いているのは、そういうことじゃないの」

 

 

 

 

 

 ……え?

 私は、自分が走る理由を話したつもりです。このトゥインクル・シリーズの中で、どう走るかを。

 

 

 

 

 

 (……もう、疲れたわ)

 

 

 

 

 

 ――あら?

 どうして、脚が……前に、一歩も踏み出せないのかしら?

 

 

 

 

 

 「そう。それは、あなたがどういう道を歩みたいかっていう話でしょ?

 あたしが言いたいのは、もっとかんたんで、シンプルなことよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あなたは、どうして走りたいって思ったの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は、勝手知ったるベッドの上に横たわっていた。

 立ち上がろうとすると、足の先が地面にとどかない。

 

 

 

 「……おみず」

 

 

 

 寝ぼけた頭でそう呟きながら床に飛び降りて、部屋のドアを開けた。その隣で前日に一人で飾り付けた、クリスマスツリーが夜風でゆらゆら揺れている。

 ……そこで気が付いた。リビングがぼんやりと明るい。変に思って、私はこっそりと覗いてみた。

 

 

 

 

 「……おかあさま?」

 

 

 

 

 ――ハッと、お母様が食卓から立ち上がる。その後ろにあるのは……さっき私が食べた店売りのクリスマスケーキとは違う、不格好な形のケーキ。

 

 

 

 「あー、だめよ、へっぽこおかあさま。よるにつまみぐいしたら、わるいこだってサンタさんがおこっちゃうわよ?」

 

 

 

 ちょっと、得意だった。

 お母様はいつだってテキパキしていて、隙なんて一切作らなかった。……いや、本当は隙だらけなことを知っていたけど、それを娘の私には決して見せまいとしていたから、偶然お母様のそんな一面が見られたことがすごく新鮮で。

 ……それと同時に、料理の苦手なお母様が、私の為にケーキを作ってくれていたことが、すごく嬉しかった。

 

 

 

 「……いっしょにたべましょう? ふたりでごめんなさいってあやまれば、サンタさんもゆるしてくれるわ」

 

 

 

 だから、私も隣に座って、おすそ分けしてもらおうと思った。

 それがどんなに美味しくないものだったとしても、食べてあげようと思った。

 

 

 

 

 「……キング」

 

 

 

 

 だけど。

 お母様はなぜか自分の肩を抱いて震えると、今度は私を思い切り引き寄せて。

 

 

 

 

 「……おかあさま?」

 

 「ごめんね、ごめんなさい、キング……ずっと、ずっとひとりにして」

 

 

 

 

 とても静かだった。

 お母様のすすり泣きだけが響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「それでも……それでも私は、捨てられないの……!

 バカな親を呪って頂戴。あなたがこんなにいじらしいのに……走るのを、捨てられないのよ……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――お母様が、霧散していく。

 リビングに残ったのはおぼろげな光と、私だけ。

 

 

 

 「……なによ」

 

 

 

 あの日。お母様はクリスマス当日だけ帰ってきて、次の日起きたらもう家を出てしまっていた。

 それから一人でクリスマスツリーとリースを片付けて、年を越して。お母様は今夜のレースに出走するせいで、ずっと帰ってこない。

 

 

 

 「……なによっ……!」

 

 

 

 涙が滲むのを、ふるふる頭を振って堪える。その時、今まで淡く光っていた光がちらついて。

 

 

 

 『さあ、始まりました! 新年早々のアメリカG1、五人とも綺麗なスタートを決めております!!』

 

 

 

 テレビが、付いていた。無意識に私はその前に座る。

 ――そこに映っていたのは、お母様の走る姿。集団の中で落ち着いて機会を伺う、他の四人の暗い髪とは違う明るい鹿毛のウマ娘。

 

 

 

 『さあ、向正面に入りました! 先頭二人、後方に二人! その間に、我らがウマ娘が挟まる形となっております!!』

 

 

 

 他の選手は、みんなお母様より明らかに年下だった。

 当然よね、あの年齢になってまだターフを踏む人なんて、めったにいるものですか。普通なら誰もがどこかで自分の潮時を悟って、これ以上負け越さないうちにって引退する道を選ぶのだから。

 

 

 

 『ここで仕掛けましたっ!! 第三コーナーに入る直前、後方二人がスパートを掛けきる前の絶好のタイミングで進出を始めた――っ!!』

 

 

 

 ――でもお母様は、首を下げなかった。

 自分だけ老いた身体で、ダートの砂を被るだけ被って、それでも……優雅さのかけらもない執念の表情で、まずは一人追い抜かしていく。

 

 

 

 『最終コーナー、先頭にプレッシャーをかける! まだ出ないか、外からまくってあがって……おおっ、ついに……ついに先頭に立った!!』

 

 

 

 ――私は、知らなかった。

 あとでトレーナーから聞いた。この時お母様は、身体の衰えと同期の凄まじい戦績に挟まれて、勝ちきれず上手くいかない日々を送っていたのだという。

 だけど、それを知らなかったのに……私はその走りに、なにか突き動かされるようなものを感じて。

 

 

 

 「……いけ」

 

 

 

 気が付けば、拳を振り上げていた。

 

 

 

 「いけっ……がんばれ、おかあさまっ……!!」

 

 

 

 ――ずっと、悔しかった。

 どうしてお母様が、走りを捨てられないのか。どうして私じゃなくて、そっちを選んでしまったのか。どうして私の事を一番に、見てくれないのか。

 だけどあの、必死ながら、心を燃やして、決して妥協しないで走る姿を見た時……それがどうしてか、なんとなく私にはわかってしまった。

 心のどこかで……お母様を、赦せてしまった。

 

 

 

 

 

 「――はしりたいよ」

 

 

 

 

 

 私も。

 あなたのように、走って、頑張って、諦めないで、その姿で私みたいな孤独な人に、希望を与えたい。

 そうしていつか、あなたと――並んで、走ってみたい。あなたに私に構う暇がないというなら。

 ……私が、あなたのもとに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「それが……私の、さいしょのきもち」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう。

 あの頃から、あの夜から、私の道は決まっていた。それがお母様その人に反対されたり、自分を見てもらいたくて悪戦苦闘したり、それから自分で決めた道を行こうって決めたり、いろいろあって……もうそこまで単純なものじゃなくなっているけれど。

 

 

 

 

 

 『ゴールっ!! 一着です!! その走りは、栄光すら置き去りにした――――!!』

 

 

 

 

 

 ……でも、それをいつも支えていたのは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「私にとって走ることは、それ自体が――栄光(Halo)だから……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「うん……バッチグーよ♪」

 

 

 

 ――視界が、開ける。

 

 

 

 「それが聞きたかったわ。ちゃんとあるじゃない。あなたの……走ることが、好きな理由が」

 

 

 

 ……マルゼンスキー先輩。

 もしかして、先輩がこの特訓に参加した理由って。

 

 

 

 「キングヘイロー、臆することはない。

 ただ逆境を耐え抜くだけじゃない、本当の心に気が付いた今の君なら、きっと勝てる」

 

 

 

 オグリキャップ先輩。私と正反対の境遇なのに、少し親近感があって。

 今ならわかる。地方、葦毛の逆境を乗り越えて、伝説になった先輩は……お母様に、ちょっと似ている。憧れて、いつか並びたいって素直に思える、そんな。

 

 

 

 「こんなところで潰えるようでは困るよ、共に『王』の名を冠する者よ!

 ボクはまだ、君とウララ君への正式なリベンジマッチを行っていない!!」

 

 

 

 オペラオーさん。どんなにつらくても、特訓がしんどくても、あなたは絶対に笑うことを止めなかったわね。

 よく分かるわ、私だって同じ……王様はいつだって、どんと構えているものなのだから。

 

 

 

 「ライアンに不屈を教えた貴方のことですわ。我が道を歩み、多くの人々の期待に応える……そんなキングさんの姿勢は私にとっても、今後の指標なんですのよ」

 

 

 

 マックイーンさん。私だってあなたの、あの凛とした姿には目が眩む思いだったわ。

 でも、そんなマックイーンさんの目標の一つになれるのなら……私も今まで走ってきた甲斐があったというもの。あの夜のお母様の走る姿に、少しでも近づけた証なのね。

 

 

 

 

 

 「……でも」

 

 

 

 

 

 ――もう、隠せない。

 裸の王様、言い得て妙じゃない。必死に張り続けてきた虚勢は、あの泥を受けて無残に崩れ去っていて。

 

 

 

 

 「……でも、怖いのよ……!

 これだけやって、これだけ迷惑かけて……負けるのが嫌なの……!」

 

 

 

 

 才能がないと、思い知るのも。

 負け続けて、なのに首を下げず堂々としているのも。

 そうして「一流」を名乗る裏で、陰口をたたかれるのも。

 ずっと、怖くて、寂しくて、しんどくて苦しかった。全てを投げ出して、逃げてしまいたかった。

 ……もう、隠せない。

 

 

 

 

 

 

 「……ずっと、ずーっと、走るのが、辛くてたまらなかったのよぉ……!!」

 

 

 

 

 

 

 「泣かないで、キングちゃん」

 

 

 

 ――ぼろぼろと零れる涙の奥に、みんながいた。

 

 

 

 「それでも、思い出したんですよね?

 キングちゃんの、最初の気持ち」

 

 

 

 クリーク先輩が、困ったように私の頭を撫でる。

 

 

 

 「大丈夫ですよ。それを忘れなければ……キングちゃんはいつだって、一からやり直せるんです」

 

 

 

 レースは、私の「一流」を証明する手段。

 ……その前にあるべきだった、本当の走る理由を思い出した。

 

 

 

 「自分を信じてみようよ、キング。あたしはそれを君から教わったんだ」

 

 

 

 ライアンさんは力瘤をつくって、こちらに向かってウインクをする。

 

 

 

 「あたしは信じてるよ。君なら、みんなを笑顔にするようなすごい伝説を創ることができるって!」

 

 

 

 自分の証明のためだけの苦しい走りは、このひと月の特訓と今日のこれまでのコースで全て出し切ってしまった。

 きっとここが最後の選択だ。ついにスタミナも根性も底をついて、ズタズタに心を引き裂かれて、それでも私は、走るのか。

 ……走るに値する、想いがあるか。

 

 

 

 「キングちゃん!」

 

 

 

 振り返ってすぐに、ウララさんは私に飛びついてきた。

 

 

 

 「わたしは、キングちゃんも、キングちゃんが走ってるところも、キングちゃんの頑張るところも、ぜんぶ大好き!

 きっと、みんなもわかってくれるとおもうな! キングちゃんがまたがんばるぞーって、がんばれば!」

 

 

 

 またがんばるぞーって、がんばる。それは、どうしようもなく重たい。

 いつまで続くかもわからない。あと何度負けることになるのかも、どれだけバカにされて、笑われるのかも。生涯現役を貫くなら、それは今までとは比較にならないはずよね。

 

 

 

 

 

 

 「なぁ。君の名前は、なんだ?」

 

 

 

 

 

 ――笑みが、零れていた。

 だって全部、揃っているじゃない。想いも、プライドも、支えも。

 私はもう、才能を疑わない。負けを恐れない。どんなに邪険に扱われても、屈したりはしない。

 だけどそれ以上に……もう、「私」を失わない。

 

 

 

 

 「……知りたい?」

 

 

 

 

 差し伸べられた手を取って、トレーナーの隣に立つ。

 目の前に、光が見える。まるで私を待っているかのような、四つの光。

 ……その黄金を前にして、私自身も、一際眩しい光を放っていることに気が付く。

 

 

 

 

 「さあ、行ってこい。

 そして、教えてくれよ。君の名前を、その脚で」

 

 

 

 

 ……これは全て、夢。

 私の心の中の幻想に過ぎない。

 でも私は知っている。その全てが、本当にみんなが想ってくれている事だってことを。

 

 

 

 「「キングーっ!! 頑張れーーっ!!」」

 

 「キングさん、キングさーーーーんっ!!

 やっておしまい、ですわ〜〜っ!!」

 

 

 

 ――みんなが、私の名前を聞きたがっていることを。

 

 

 

 

 

 

 

 「じゃあ、行ってくるわね」

 

 

 

 

 

 

 

 何もかもが、溶けて混ざる。

 その中で、五つの光が一つになって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ありがとう、私の大切な――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 どこまでも続く雲の切れ目から、一条の光が差した。

 

 

 

 

 「……キング……?」

 

 

 

 

 偶然か、必然か。

 その神秘的な景色の中で光が照らし出したのは、今まさに俺と救護班が助けに向かおうとしていた……最終直線前の最大外をふらつきながら走る、危ういキングの姿だった。

 

 

 

 「キングちゃん……?」

 

 「キング……!?」

 

 「キング君……!」

 

 「キングヘイロー……!!」

 

 

 

 偶然か、必然か。

 ルドルフが、マルゼンが、オグリが、マックイーンが、オペラオーが、クリークが、ライアンが、ウララが、グラスが、エルが、スカイが。

 それだけではない。それをみた観客が口々に、その名前を呼んだのだ。

 

 

 

 

 

 ――んもう、そんなに呼ばなくたって……ちゃんと聞こえてるわよ。

 

 

 

 

 

 気が付けば。

 キングのふらつきが、いつの間にか止まっていた。

 

 

 

 

 

 ――さて……みんな、待たせたわね。

 

 

 

 

 

 その時、俺は見た。

 眩しいほどの光を浴びて、黄金に光輝くキングの瞳に、魂が戻ったのを。

 

 

 

 

 「――っ」

 

 

 

 

 ……そして。

 ほんの一瞬、キングはこちらを見たのだ。まるでようやく、用意が整ったとでも言うように。

 

 

 

 

 

 ――トレーナー? 準備は、いいかしら?

 

 

 

 

 

 ……頷くと、キングは満足そうに口元を緩め、腰を低く落とした。

 その様子に、二十万人の観客が、何かを予感して息を潜めている。

 

 

 

 

 

 (……でも、聞こえるよな?)

 

 

 

 

 

 そう。言わずとも、誰もが思っていた。

 

 

 

 

 

 

 ――征け。

 

 ――征け!

 

 ――征けっ!!

 

 ――征けぇっ!!!

 

 

 

 

 

 「征けぇぇっっ!!

 キングヘイロー――っ!!!」

 

 

 

 「はあああぁぁぁーーーーっっっ!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――神々しい。

 そんな表現しか似合わない走りを、俺は他に知らない。

 

 

 

 『な……なんと!!

 キングヘイローだ!! 黄金世代の王!! やはりキングヘイローが、最大外から飛んできたぁぁぁっっ!!』

 

 

 

 ――それは誰よりも、真なる王者の走りだった。

 その脚は大地を震わせ、芝を割り、跳ね上がった泥が陽に照らされて、辺りを輝きに満たしていた。

 

 

 

 「キングちゃん、キングちゃん、踏ん張って、不退転の覚悟で……っ!!」

 

 

 

 ――右肩に、不死鳥の翅を。

 

 

 

 「ファイトーッ!! キングちゃーーんっ!!

 アナタは誰よりも……高く飛べる――!!」

 

 

 

 ――左肩に、コンドルの翼を翻して。

 

 

 

 「いっ……けぇぇぇぇぇ!! キングちゃぁぁん!!」

 

 

 

 ――叫ぶスペの真横を、流れ星のように駆け抜けて。

 

 

 

 

 「キング……頑張れ……頑張れぇぇぇっ!!」

 

 

 

 

 ――青雲を駆ける、稲妻のように突き進む。

 

 

 

 

 「……面白い……!!」

 

 

 

 

 『さぁ、我らがキングヘイロー、ついに二着にまで躍り出たっ!!

 残り300メートル、差は五バ身ほど!! 三着と大差をつけた勝負、「踊る勇者」が栄光に別れを告げるのか、それとも世代のキングが撫で切るのか――!?』

 

 

 

 ――「踊る勇者」は更に、速度を上げる。

 途端にこの観客席にまで舞い踊るような、凄まじい豪風が立って、巻き上がった芝が嵐のように吹き荒れる。

 ……明らかにウマ娘という種族が可能な走りを超えている。百獣にも勝る獰猛さと禍々しさの溢れる、まさに誰も追い縋ることの叶わない史上最強の走り。

 

 

 

 「だ……ああああああああっっ!!」

 

 

 「……な、何……っ!?」

 

 

 

 初めて、その異形の表情に、焦りが見えた。

 当然だ。そんな瘴気とも言える豪圧の中にキングは突っ込んで、貫いて、打ち払っているのだから。

 それはまさに、彼女の中に眠る伝説の血脈が、その潜在能力が遺憾なく解放された……まるで別次元の、金剛の走り。

 

 

 

 「なぁ、ルドルフ」

 

 「……ああ」

 

 

 

 その一言で、俺は全てを悟った。

 疑いようがない。あれがキングの「領域」。限界の先を超えた、彼女の本当の絶脚。

 ――それが今、史上最強の豪脚を……差し切ろうとしている。

 

 

 

 「な……舐めるなぁぁっっ――!!」

 

 

 

 更に、「踊る勇者」の走りが凄みを増す。ここまでに彼女は一体何段のスパートを掛けたんだ、どんなウマ娘だって、そんな敵を前にしては戦意を失って当然だ。

 

 

 

 「まだ……まだまだぁぁぁっっっ!!」

 

 

 

 ――だけど、今回だけは、相手が悪かったな。

 だって相手は、あのキングだぜ。誰よりも、他のどんな誰よりも、絶対に、決して最後まで諦めない、あのキングなんだ。

 

 

 

 「グッ……グアァァァァッッ!!!」

 

 

 

 離せない。それどころか、着実に追い詰められている。

 そして、遂に隣に並んだ、その日光を受けて光煌めく黄金の王者の姿を、「踊る勇者」は凝視して。

 

 

 

 「――っな……!?」

 

 

 

 ……驚きのあまり、目を剥いた。

 キングは笑みを浮かべていたのだ。いつもはスパートの苦しさに怒涛と苦悶の表情を浮かべるキングが、この瞬間は泥と芝に塗れながらも……不敵に、笑っている。

 

 

 

 

 「負けられない、なんて、もう言わない。

 ――勝ちたい。あなたっていう絶望に打ち勝って……その名誉の、さらに先を駆けたい」

 

 

 

 

 ――自分を証明するだけに、留まらない。

 今までのキングの在り方を更に飛び越えた……彼女の新しい可能性の、誕生の瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 「困難を越えて、ただ先に行きたい。そんな姿に誰もが夢を見るような、栄光の王者(KING of Halo)になりたい。

 やっと見つけたの。それが私の――私だけの、『一流』だから」

 

 

 

 

 

 

 ――だから、ありがとう。お母様。

 あなたがいたから、私はここまで走れたの。どうしようもなくなって、最後の最後に私を救ったのは……自分の走りと私との間でずっと傷ついて、悩んで、苦しみ続けてくれた、あなたの不器用で、不完全で、不恰好な、私への深い愛情だった。

 

 

 

 

 「……キング」

 

 

 

 

 ――ええ。聞こえてるわ。

 有馬記念の時も、聞こえてた。……本当は、ずっと見守ってくれている、そんな気がしてた。

 でも。もう、私は大丈夫よ。

 

 

 

 

 「キング……あなたって娘は……っ」

 

 

 

 

 だから。お母様。

 ――これまでの栄光に、さようなら。(Goodbye to past halo.)

 ここからは、真なるキングヘイローの物語。あなたから完全に巣立ったひとりのウマ娘の、新たな伝説の始まり。

 

 

 

 

 「……それが、君の選択なのか」

 

 

 

 

 ……「踊る勇者」の声は、どこか穏やかだった。

 

 

 

 「茨の道だぞ。無限とも言える挫折を味わうかもしれない。レースによって……不治の苦難に冒されることも、ないとは言えない」

 

 

 

 ……それはまるで、子を案じて、やんわりと諭そうとする父親のような声で。

 

 

 

 「それでも……君は、走り続けるのだな」

 

 

 

 ゴールまで、あと10mもない位置。その一瞬が、永遠のように感じる。

 極限まで鎬を削り切った者同士の、魂の交信だった。あるいは、長い闘いの末に巡り合った、家族の邂逅のような。

 

 

 

 「……やっぱり、ばかな子ね」

 

 「ああ。……誰に似たんだかな」

 

 

 

 ……私には、何の話をしているのかは分からなかった。

 でもそれはとても、とても暖かくて。

 

 

 

 

 「私、やっぱり……走って、良かった」

 

 

 

 

 ――思わず出たその言葉を、最後に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴールラインを走り抜ける。

 血戦を戦い抜いた両雄が、そのままホームストレッチの端までかけていき、それぞれコーナーを少し曲がったところで……ドサリと倒れ込んで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……静寂。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「キング」

 

 

 

 

 

 

 ――むくり。

 まるで俺の呟きに反応したかのように、キングは起き上がる。

 圧倒の沈黙に包まれている中で、膝を付けども起き上がれないブロワイエを背に、キングは震える脚を踏み締める。

 

 

 

 

 

 『……ぁ、い、今、ゴールイン! じゅ、順位は……!!』

 

 

 

 

 

 実況すら雰囲気に呑まれる中で、ラチに寄りかかりもせず、遂に自分の力で立ち上がる。そしてゆっくりと、悠然と観客席に向き直ると。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……その左手を口元で、ぴんと翳して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――おーっほっほっほ!!

 さすがキング、でしょ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『き、キングヘイローが撫で切ったーーっ!!

 やはり恐ろしかった!! 史上最強と呼ばれた「踊る勇者」の空前の末脚に、キングヘイローが届きました――!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――空はいつの間にか、晴れ渡っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 「……お疲れ様。良い勝負だったわ(Bon travail. Ce fut un bon match.)

 

 

 

 差し出した私の手を、ブロワイエさんはそっと掴んで、身体を起こした。その口元には、柔らかな微笑みが浮かんでいる。

 ――「踊る勇者」は、どこかに去ってしまっていた。

 

 

 

 「……こちらこそありがとう。(Merci à toi aussi.)

 失礼な事を言って、済まなかったね(Je suis désolé de dire des choses grossières)

 

 

 

 首を振って、気にしていない意を伝える。

 ブロワイエさんだってメインターゲットが私だった以上、私を打倒するためのトレーニングを積んできたんでしょうから、多少は仕方がないというものよね。

 

 

 

 「……構わないなら、この場を借りて君を祝福したい。

 おめでとう、キングヘイロー。君は今……世界の頂点に立った」

 

 

 

 ――改めて握手を交わした途端に、歓声がどっと湧き上がる。

 振り返ってみれば、特訓に付き合ってくれた皆さんが、最前列まで押し寄せて手を振ってくれていた。

 ……もう、何でそんなに泣いているのよ。

 

 

 「キングーーっ!!」

 

 

 なっ、え、トレーナー!?

 柵を乗り越えてこっちまで駆け寄ってくるなんて、一体どういうつもりよ!

 

 

 「おまっ、この野郎、無理すんなって、あれだけ言っただろ!!」

 

 「ちょっ、ちょっと! いきなり怒鳴らない……で……」

 

 

 ……言葉は、最後まで続かなかった。

 事もあろうに、トレーナーは私をその場で抱き締めて、そのまま泣き出してしまったのだから。

 

 

 

 「バカ野郎……最高だったけど……もう二度と、使わせてたまるかよ、あんなの……!」

 

 「……あなたこそおばかね、自分で送り出しておいて。

 でも……ありがとう。私とここまで、来てくれて」

 

 

 

 トレーナーは、震えていた。大の大人が、人目も憚らずに大粒の涙を零していた。

 嬉しいような、恥ずかしいような、複雑な気持ちだったけれど……でもどこか、すごく心地がいい。

 

 

 「……オグリ先輩、マックイーンさん、オペラオーさん。

 本当にありがとうございました。あなた達がいなければ、私は今日勝つことができなかった」

 

 

 チームポラリスに立ちはだかった、強敵たち。そんな三人も今は、ただひたすらに私のことで歓喜してくれていた。

 

 

 「……マルゼンスキー先輩。

 私に、走る楽しさを思い出させてくれて、ありがとうございました。あなたがいたから……私はまた、立ち上がれました」

 

 

 目元をハンカチで抑えるマルゼンスキー先輩は、それでも笑顔で頷いてくれた。

 

 

 

 「……クリーク先輩。ライアンさん、そして……ウララさん。

 カワカミさんも、二人も。このチームが大好きよ。みんなのことも、ずっと……心から、大好き」

 

 

 

 拳を振り上げて喜ぶライアンさんの横で、ウララさんとカワカミさんが手を取り合ってはしゃいでいる。そしてボロボロと泣きじゃくっている後輩二人の肩をそっと引き寄せながら、クリーク先輩が微笑んでくれた。

 ……あの時の高松宮記念を、思い出すわね。

 

 

 

 「グラスさん、エルさん、……スカイさん。それと、スペさん?」

 

 

 

 トレーナーをそっと押し留めて振り返ると、スペさんは少し疲れた様子で歩み寄ってくれた。一瞬だけブロワイエさんを見てびくっとしていたけれど……でもすぐに表情を改めて、握手をする。

 ……改めて流石ね。どこまでも真っ直ぐなんだから。

 

 

 

 「みんな……私の友達で、ライバルでいてくれて……本当にありがとう。

 何度でも言うわ……私、この世代で、良かった……!!」

 

 

 

 意外にも、一番ぼろぼろと泣いていたのはスカイさんで。

 相変わらずスペさんとエルさんは大泣きしてて、グラスさんはそれを嗜めながらも、目を赤くしていて。

 

 

 

 

 「……好かれているんだな。キングヘイロー」

 

 

 

 

 ――それらを見守っていたブロワイエさんが、そう私に話しかけた。

 

 

 

 「ええ。だって私こそ……一流ウマ娘だもの」

 

 

 

 だから、そう言い切ってみせる。

 すると彼女は一瞬だけ面食らったような表情を見せた。

 

 

 

 

 「……なるほど。

 あの人が言っていた通りの娘だな、君は」

 

 

 

 

 そう。

 忘れていたわけじゃない。ブロワイエさんとの戦いは、世界を相手にしたことだけを意味していた訳ではない。

 ――これは、私とお母様の戦いでもあったのだから。

 

 

 

 「君は、あの人がなぜこの勝負を仕掛けたのか、その本心を知らないだろう」

 

 「……本心……?」

 

 

 

 そういえば。

 初めはお母様の気持ちが分からなくて困惑していたのに、私ったら特訓の中でいつの間にか忘れてたわ。

 

 

 

 「そう、本心だ。なぜ今になって、あの人が私を君に差し向けたか。

 そして……なぜ、私に専用の勝負服を提供したのか」

 

 

 

 ……何かが、翻った。

 ブロワイエさんが、包むように私の背中に手を回して、そして……私の勝負服の、オフショルダーの部分と重ねるようにして、()()をパチパチと音を立てて固定していく。

 

 

 

 「……この勝負服は、あの人の作品ではないそうだね。

 それでも、今となっては君の宝物だろうと考えて、一から作り直すことなくそのデザイナーの元まで出向いて……これを付ける許可を頂いたそうだ」

 

 

 

 そして。ブロワイエさんは、驚きに固まる私の元を、離れた。

 ……その肩には、先程まで羽織っていたそれは、もうない。

 

 

 

 

 

 「君は、『王』なのだろう?

 ならば、勝利の栄冠と()()()は……必要だとは思わないか?」

 

 

 

 

 

 

 ――それは、よく見れば私の耳カバーと同じ色の……紺青色のマントだった。

 悔しい程に私の勝負服とマッチした、ブロワイエさんが「踊る勇者」として纏っていたそれが、オフショルダーの下から膝上までを包むように取り付けられている。

 

 

 

 「……まさか、これを私に渡すために、こんな……?」

 

 

 

 ――店売りのを私に食べさせて、失敗した自作のケーキを一人で食べる、不器用なお母様。

 あれから色々あって、取り返しのつかないほどに確執が深まって。レースに出ると聞かなかった私に、絶対に勝負服を作ってくれなかった。

 ……だから、もし改めて私の為に勝負服を作りたいと思い直してくれたとしても、今更そのまま手渡す訳にもいかなくて。

 

 

 

 「いや……不器用すぎるだろ……娘にプレゼント一つ渡すのに、こんな命懸けの勝負まで用意して……」

 

 

 

 呆れ果てたトレーナーの声が耳に痛い。

 でもそれは、まさにお母様らしい……世界を股にかける、あの人ならではの。

 

 

 

 「あっ……キングちゃん!?」

 

 

 

 どこに、そんな力があったのか。

 スぺさんの声にも応じずに、私は駆けだしていた。ターフの外に出て、記者の方々をかき分けて、レース前にトレーナーと立つことを約束した、ウィナーズ・サークルのマイクを掴んで。

 

 

 

 

 

 「――っお母様ぁっ!!」

 

 

 

 

 

 逃げようとしたって、無駄よ。たとえ今、私を無視してどこかへ去ったとしても。

 ……二十万人もの観客が、これから私の宣言を目撃するのだから。

 

 

 

 

 

 

 「『踊る勇者』は倒したわ。次は……あなたの番よ!

 勝って、勝って、勝ちまくって、負けまくって! その先で、最期のレースで……私と一緒に、対等に走る権利をあげるんだから!!」

 

 

 

 

 

 

 ……それがいつになるかは、私にも分からない。

 私が走って、走って、あの人はデザイナーとして活躍して。そうして……いつか、二人ともしわくちゃになって。

 その時に、血を吐いてでも走りましょう。それが、お母様と私の、最初で最後のレース。

 

 

 

 

 

 

 

 「――勝負よ、お母様!!

 私は諦めないわ!! あなたからもらった、この命の限り!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――どこかで笑みの零れる、音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 




 
・「KING of Halo」(☆3キングヘイロー「エース・オブ・ポラリス」)

「絶不調」かつレース終盤前まで先頭をキープしつつ力が尽きかけると、最終直線で立ち回りが上手くなり、限界を超えてすごく力強く踏み込んでいく

※「力が尽きかける」……持久力10%以下
※「限界を超えて」……持久力補正が消える


 


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そのウマ娘の名は

 

※一流ウマ娘のクラシック時代から、二十年が経ったようです。


 


 

 

 

 『残り600m、第四コーナーを切って、最後の直線コースに入ります!!

 先頭はやはり十二番、皐月賞ウマ娘! 後続も続く坂の上りの攻防です!!』

 

 

 

 ――それは、呪いと呼ばれていた。

 

 

 

 『内から、背後から、外から、凄まじい競り合いが続いております! 誰が一着になってもおかしくない総力戦だ!!』

 

 

 

 二十年余りの、歳月の中で。

 そのチームは一度も、ダービーの栄光を手にすることはなかった。

 

 

 

 『逃げ切るか、逃げ切るか皐月賞ウマ娘、二冠を掴み取るか……いや!!』

 

 

 

 敗れて、敗れて、敗れ去った。

 二度の二着には漕ぎつけても、決して頂点を取ることが出来なかった。

 

 

 

 『ここで、十七番が来たっ!!

 かの大敗北から、十八年のダービー無冠!! その呪いを打ち破るべく、まくって上がってきた――!!』

 

 

 

 それでも、決して挫けなかった。

 七転八起の血脈が、チームメンバーには流れ続けていた。そんな連綿とした負けの歴史に、多くのウマ娘が抗い、戦い……そして、夢破れていった。

 

 

 

 『突っ込んでくる、先頭に立つか、先頭に立つか! 念願のダービー制覇なるか……!!』

 

 

 

 

 

 ――そう。

 そのウマ娘は、十八度の敗北の後に……不屈の血統を証明する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ゴーーール!! ついに……ついにやりましたっ!!

 チームポラリス、十九年の時を経て……先代からの悲願達成、東京優駿の栄冠に輝きました……!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……ふふっ」

 

 

 

 ――控室に取り付けられた液晶テレビの中で、()()の「ワグ」は満面の笑みを浮かべている。

 それを見つめる彼女の瞳は……眩しい程の慈愛を湛えていた。

 

 

 

 「世間じゃ君が掛けた呪いだって、散々噂されてたよな」

 

 「心外も良いところだわ。私だってあの時は……精一杯だったのよ」

 

 「うん。知ってる」

 

 

 

 身長は、少し伸びただろうか。

 当時もかなりモデル体型というか、すらりとした体格の持ち主だったが……こうして見ればあれでもまだ、彼女の成長の途中だったのだと思い知らされる。ぴんと立った耳に、優雅に背中まで伸びる髪。玉のように澄んだ色の腕と脚を、肩下に纏うマントの中に隠すその姿は、まさに誰もが振り返る絶世の美女のようで。

 ……まるで当時の、彼女の母親そっくりだ。

 

 

 

 「……とっても、美人さんになりましたね~♫」

 

 

 

 そして。

 隣でそう感慨深げに言うのは、対照的にあの頃と殆ど変わらない……強いて言うならほんの少しだけ、声音に年季が入った栗毛のウマ娘だった。

 ――スーパークリーク。ドリームトロフィーリーグで「永世三強」と思う存分戦ったのちに競走ウマ娘を引退して、その後に中央トレーナー資格を取得。晴れてうちに舞い戻ってきて、今では欠かせない往年のサブトレーナーとして右腕を担ってくれている。

 

 

 

 「もう……クリークさんったら。それはレースの勝敗には関係ないでしょう?」

 

 

 

 ――当然よ! 私こそ、一流の……。

 そう威勢良く言わなくなった辺りに、やはり月日の流れを感じざるを得ないなと……ひとり思う。

 あのジャパンカップで彼女が頂点に立った後も、しかしうちは何度も挫折を味わうことになった。取り巻きーズの二人はなまじスターウマ娘ばかり目にしてきてしまったせいで自分の不甲斐なさに長いこと悩み続け、カワカミはエリザベス女王杯の降着処分を受けてから成績が落ち込んでしまい、その後に加入してきた多くの娘もそれぞれの苦悩を抱えていた。

 決して一等星の、それこそ親父の頃みたいな絶対的な強者を輩出するトップチームにはなれなかったのだ。

 

 

 

 「そうでもないぞ。今でも君はうちのエースなんだからさ。

 誰もが憧れる姿でいてくれて……本当に助かってたよ」

 

 

 

 それを支え続けていたのは間違いなく、生ける伝説としていつまでもレースに出走し続ける、彼女の走りだった。

 ジンクスとしてクラシック級で成果が出ないと噂されるうちのみんながそれでも、自らの意志でその運命に立ち向かって、そこで敗れてもシニア級で花開くことが出来たのは……今や誰よりも敗北の味を知る彼女がいたからだ。

 その振る舞いと、言葉と、レースでの走りが、チームの誰もの希望に……栄光になっていたのだ。

 

 

 

 「……あら。

 助かってた、って。まだ過去形にするのは早いわよ?」

 

 

 

 ――そうだな。これは今も続く物語なのだから。

 彼女は今日、トゥインクル・シリーズ最後のレースに臨む。二十年余りのキャリアに区切りを付けて、しかし次はドリームトロフィーリーグにて、その人生の残りの全てを競走に捧げる予定なのだ。

 

 

 

 

 「まったく、いつまでもばかな人なんだから。

 ……そろそろ時間ね」

 

 

 

 

 そうして、俺の愛バは立ち上がる。

 あの頃から修繕を重ねて、未だに着用し続けている緑の勝負服と……母から授かった、王者のマントを纏って。

 

 

 

 

 「誇りをもって。あなたはもう、誰もが認める一流ウマ娘なんですよ。

 ……ね? トレーナーさん?」

 

 

 

 

 ――ドアを開けて、地下バ道に出た先には……馴染みの仲間が勢揃いしていた。

 かつて制服姿だった彼女達は、しかし今はそれぞれの私服を着こなしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ああ……見せつけてやろうぜ。

 君の、『一流』の物語を」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『さあ、オオカン桜が見守るもとでの、電撃六ハロンの熱き戦い!

 今日はなんとあのウマ娘の、重賞最後の引退レースです!!』

 

 

 

 

 

 ――かつての勝利から十九年後、高松宮記念。

 

 

 

 

 

 「わあっ、人がたくさんだー! みんな、いらっしゃーい!」

 

 「ウララはさー……ほんっと、変わらないよねー」

 

 「だって、すっごくワクワクするんだもん! セイちゃんだって、嬉しそうだよ?」

 

 「え~? そう見える~? ……にゃはっ」

 

 

 

 

 

 ――そのウマ娘は数多の敗北を超えて、一流を証明した。

 

 

 

 

 

 「あははっ、変わらないのはあたしだって同じだよ。マックイーンには控えてって言われてるけど……まだ筋トレやってるし」

 

 「流石ライアン先輩ですわっ!! 今度ぜひわたくしと共に、心のゆくまで身体を鍛えてまいりませんこと!? エルさんも、グラスさんも、ぜひぜひっ!!」

 

 「い、いえ~……私はちょっと……」

 

 「ど……同感デース……」

 

 

 

 

 

 ――敗れても、

 

 

 

 

 

 「はあぁ……なんだか緊張するべー……! 大丈夫かなぁ……?」

 

 「うふふっ、スぺちゃん、心配してくれて、いいこいいこ~♫」

 

 「わわっ……クリークさんっ!?」

 

 

 

 

 

 ――敗れても、

 

 

 

 

 

 「だって……ずっと私の、大好きな……!」

 

 「スぺちゃん……?」

 

 「もう私は引退しちゃったけどっ、それでも、私達の王様は、いつだって……」

 

 「あの子ったら、愛されてるのね~♪」

 

 「ままっ……マルゼンさんまでっ!?」

 

 

 

 

 

 ――敗れても、

 

 

 

 

 

 「でも、ね。きっと大丈夫よ。

 だって……あたしが焦がれても焦がれても手に入らなかったものを、あの子はたっっっくさん持ってるんだから!」

 

 

 

 

 

 ――絶対に首を下げなかった。

 

 

 

 

 

 「「誰よりも強いーー!?」」

 

 

 「勝者~!」

 

 

 「ほらほら、みんな、声もっと出して〜!」

 

 「そのうち楽しくなってくるよ〜! 取り巻き歴二十年のわたし達が言うんだから、間違いないよ〜っ!」

 

 

 

 

 

 緑のドレス。不屈の塊。

 

 

 

 

 

 『さあ、ついにパドックに、あの不屈の王者が姿を現します!!

 今年の夏にはサマードリームトロフィーへの出走を予定!! 一流の走りは……まだまだ終わらない!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――さあ。行ってこい、相棒。

 

 

 

 

 

 

 

 「……ええ。トレーナー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのウマ娘の名は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 完

 

 

 

 

 

 




 
※https://youtu.be/vJDgKm-ci44
……在りし日の、キング達のwinnin'5です。

※ご愛読、ありがとうございました。

 


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ウマ娘名鑑(後書き、雑記)

 
※内容として、いわゆる自己満足的な要素がかなり含まれております。苦手な方がいらっしゃいましたら、大変恐縮ですがブラウザバックを推奨させて頂きます。

 


 

・キングヘイロー

 

 

 チームポラリスのエースにして、トレーナーの「最後」のパートナー。

 デビューから最終話まで二十年もの間トゥインクル・シリーズを走り続けており、この世界においてはオグリキャップやハルウララと並ぶ知名度を誇るに至っている。

 ただし決して勝率は高くなかったようだ。ジャパンカップにて「領域」に覚醒しながらも、以降のレースではそこまでの極限状態には中々至れず、今まで通り根性の差し戦法を武器にしながらも悪戦苦闘し続けた。

 

 黄金世代としての一般的な評価ではエルとグラスが二大強者、クラシック級ではスカイ、安定性のスペと評される中で……迷走時期が長かったキングはやはり下めの格付けに甘んじる事が多い。

 しかしそれでも一度は適性外の有馬にて他の四人に勝利した結果を評価する声も少なくなく、また後に台頭してきた数々の最強ウマ娘との世代交代を懸けた対決やブロワイエの様な屈強な外国ウマ娘の来日等、ここ一番という勝負の際には打って変わって「キングヘイローなら何とかしてくれる」と彼女の出走を期待する声が後を絶たなかったとか。

 ――「絶対」がなくとも、「絶対」を覆す。そんなルドルフやマルゼンとは正反対のド根性一流ウマ娘として、今も根強い人気を誇っている。

 

 

 

 元々この作品は例のCMをオマージュしたキングヘイローの短編として執筆したものでした。

 結局は当時遊び心で登場させたチームのメンバー全員の物語を書くに至りましたが、それでもあくまでキングの物語として、ウララにもライアンにも彼女の不屈の精神を受け継がせたつもりです。

 

 そして、そんな彼女の相棒としてトレーナーを登場させましたが、言わずもがな彼のモチーフは史実の上のお方です。

 キングヘイロー号の両親が凄まじい実績の持ち主であることはアプリ版キングからも伺えますが、その上のお方もまた偉大な父親を持っているという背景はとても運命的だと感じました。それによって「伝説のトレーナーの息子と伝説のウマ娘のご令嬢」というタッグを思いついた次第です。

 また、そんな彼にとって似た境遇のキングはトレーナーと担当という関係性に留まらない、特別な存在であるに違いないと思いました。なのでウララやライアンに対してはいかにも年配者として接する一方で、彼女にだけは良くも悪くも等身大の、感情的な面を隠さない幼い態度で接している様な描写にしております。

 アプリ版では滅多に起きないキングとトレーナーの喧嘩がこれまで度々起きていたという設定は、そこから派生したものでした。ですが勿論仲が悪い訳では決してなく、結果として二人は一生の運命を共にするパートナーへと昇華していくことになりました。

 

 そんな彼女はクラシック級の挫折を経て、高松宮記念で漸くG1の栄光に輝くのですが……実は今作の彼女はその後に続けて安田記念とスプリンターズSを制覇してしまいます。

 これに関して違和感を抱いた方も多いかもしれません。釈明する機会を頂けるのでしたら、アプリ版にて彼女が自身の最終目標として「生涯現役」かつ「顕彰ウマ娘を目指す」事を掲げた理由が、せっかく私は()()()()()()()()()()()()()S()()()()()()()のにまだ人気が足りない!と不満に思ったからであること……というのは苦しいでしょうか。

 また安田記念に関しては、高松宮記念を制した後の次のレースであるここで勝てなければ、「なんだ、まぐれだったのか」と、やはり史実通りの再びの迷走に逆戻りしてしまうのではないかと考えたからでした。

 そしてこれらの勝利が、あの移籍騒動の際にトレーナーを替えなかった結果、つまり「一番いて欲しくないウマ娘が前にいた」という歴史を辿らなかった彼女達のあり得た可能性であると考えて頂ければ、それはとても素敵な事ではないかと思うのですが……如何でしょうか。

 

 

 

※固有スキル

 

「Call me KING」(高松宮記念以前)

「Pride of KING」(本編)

「KING of Halo」(真キング編)

 

「絶不調」かつレース終盤前まで先頭をキープしつつ力が尽きかけると、最終直線で立ち回りが上手くなり、限界を超えてすごく力強く踏み込んでいく

 

(・「力が尽きかける」……持久力10%以下

 ・「限界を超えて」……持久力補正が消える)

 

……言わば「二の矢」の最終形。発動すればスタミナ減少量に関係なく最高速度以上の速さで走り出すので、ほぼ確実に勝てる。しかし発動確率は絶望的。

アプリでなら逃げの適性をある程度上げたうえで「先手必勝」「脱出術」等のスキルが必須だが、絶不調ゆえにその発動が不安定であり、先頭のキープはかなり厳しい。

かつ短距離やマイルでは終盤までにスタミナを消費しきれずほぼ発動しないので、中長距離での運用が大前提。こちらも適性を上げる必要があるが、今度は不発だった際にスタミナ不足となってダービーさながらの大敗を喫する可能性が高い。

よほどの愛がなければとても使えない究極のロマン砲である。

 

 

 

 

 

 

 

・ハルウララ

 

 

 チームポラリスの妹的存在。ちょっとマイペースだけどいつでも元気いっぱい、何かあった時は彼女と話せばだいたい心が軽くなる癒しアイドル要員。

 そんな彼女はシニア級後半に今までの集大成の如く怒涛の実績を積み上げつつも、最後の有馬記念で大怪我を負ってしまう。そこから一年間の入院生活の後に更なるリハビリを経て高知レース場で復活を果たすが、しかしそのステータスは全盛期のものとはかけ離れたもので、地方レースですらまともに掲示板争いに加われないほどにまで落ち込んでしまっていた。

 しかしハルウララは決してめげなかった。その後も高知レース場を拠点に人一倍レースに出走して、いつか再び中央の重賞レースに復帰し、「オペちゃんとキングちゃんとまたいっしょに走る!」ために少しずつ実力と勘を取り戻していった。

 ――そのひたむきで眩しい程に本気な走りは再始動以降も多くの人々をワクワクさせ、いつか完全復活するその日を誰もが心待ちにしていたという。

 

 

 

 前述の通り元々はキングの作品として執筆させて頂いたこの作品ですが、ウララ編は思い付きで行ったアンケートの思い付きの一項目から始まりました。

 それにしても、その人気の高いこと。アンケートではほぼ圧倒的な支持を頂き、最終話のベストレースアンケートでもウララ有馬に多くご評価を頂きまして、改めてハルウララという史実とウマ娘合わせての存在がいかに大きいのかを思い知るばかりです。

 

 このウララ編を制作していた当時の記憶として、まだセイウンスカイがアプリで実装されておらず、キングとの関係性はそこまではっきりと描かれていなかった頃のように思います。

 そんな中でキングとの関わりが最も色濃く描写されていたのがウララだったのではないでしょうか。同室であり、ウララのストーリーやサポートカード等多くの場面でキングが彼女を支える展開がございました。

 なのでそれをアニメの一期の黄金世代との関係性も合わせて、「『最弱』のハルウララが『最強』の黄金世代の力を借りて、有馬記念で世代交代を目論む世紀末覇王と戦う」という構図を思いついた次第です。

 

 そして何より一番全体として考えたことは、「レースを楽しむ気持ち」と「他者を蹴落としてでも勝利を掴む貪欲さ」はどうすれば両立できるのか……ということでした。

 アプリ版のウララはそれに関して、本気で臨んだ有馬にて大敗することで悔しさを覚えるという展開でしたが、純粋にレースを楽しみ、周りをワクワクさせることの出来る彼女ならではの、「レースに勝ちながら、他の選手をも笑顔にする」方法を探すような、一歩突っ込んだ内容にしようと苦心する日々でした。

 その完成形があの有馬記念であり、オペラオーも、オペラオーを封じるその他のウマ娘達をも救おうとする彼女のピュアで一途な心の象徴として、そして後のライアンの物語の橋渡しとなるウララの「夢を創る力」の体現として、あのラストスパートを書き上げたつもりです。

 

 

 

※固有スキル

 

「ワクワクよーいドン」(未勝利レース時点)

「ワクワククライマックス」(JBCスプリント以降)

「わたしを、みろ」(有馬記念限定)

 

レース中盤からロングスパートをかけて、速度と加速力が少しずつ上がるが……。

 

……固有スキルというよりはウララの全てを懸けた走りであって、アプリ版でどうという話ではない。ただ説明文を見ていただければわかるように、あの走りのモチーフはゴルシの「不沈艦、抜錨ォッ!」である。

そもそもハルウララにとっての有馬記念は負けイベントであり、何もかもが相性の悪い彼女がこのレースで一着になる確率がほぼないことは周知の事実だが、そんな状況で爪痕を残すには実力以上の走りが必要不可欠であり、それが苦しいレース展開と相まって彼女からそれを引き出した。

芝を踏むことによって減速するウララが敢えてストライドを広げることでそれを最小限にとどめているというのが一応の理屈だが、結局のところは彼女が全員の幸福を願って生み出した奇跡の走りとしか言いようがない。

 

 

 

 

 

 

 

・メジロライアン

 

 

 チームポラリスのお姉さんポジションではあるが、デビュー順でいえばキングやウララより後輩という特殊な立ち位置。裏設定としては、トレーナー引継ぎ等は実は関係なく、自己肯定感の薄いライアンはマックイーンと勝負をさせて乗り越えるべきという先代トレーナーの計らいによって敢えてデビューを遅らせていただけなのだが、そんな事はトレーナーもライアンも知らず、クリークだけが把握していた。

 宝塚記念でマックイーンに勝利し、有馬記念でオグリキャップに認められた彼女はその後も中長距離でその開花した才能を遺憾なく発揮し続けた。ドリームトロフィーリーグに移籍した後はそのオグリとのリベンジマッチを繰り広げる等数々のドラマを生み出したのちに引退し、最終話時点ではマックイーンと並んでかつて二人で最盛させたメジロ家の筆頭として、衰退させることなく盛り上げている。

 そしてチームポラリスに身内の伸び悩むウマ娘を推薦したり、必要に応じてメジロ家の施設を一部トレーニング環境として提供したりとかつての恩師であるトレーナーやクリークをサポートする立場に回っているそうだ。

 ――その最終的な評価はキングよりも格上の、「本当に強いウマ娘」としていつまでも語り継がれることとなる。

 

 

 

 実はウララ編を執筆させて頂いていた時点で既にライアン編の展開は考えてあり、いわゆるスぺとテイオーの世代逆転に乗じて、オペラオー時代からマックイーン・ライアン時代に遡ることに決めたのですが、それによってぎりぎりでオグリキャップはじめ「平成三強」世代に手が届いたのは僥倖でした。

 それによってマックイーンやオグリの様な、眩しい程のスターウマ娘に囲まれたライアンだけの走りを生み出すことが出来たと思っております。

 

 このライアン編のプロットの基盤の一つになったものとして、彼女のキャラソンがございます。

 「希望ディスカバリー」という曲なのですが、これは是非聞いて頂きたい。身も心も筋肉に染まり切っているという一般的な彼女の印象とは大きく異なった、驚くほどに透き通った清涼感のある名曲です。

 そしてそれこそが、このメジロライアンというキャラクターの最大の魅力なのだろうと考えました。ボーイッシュな言動や筋肉発言に気を取られがちな彼女ですが、その心根は恐らく誰よりも素直で、純粋で、静かな強さを湛えたものなのではないでしょうか。それを劣等感の中でも決して腐らせずに守り続けることのできる強さこそが彼女の「本当の強さ」なのだろうと思い、マックイーンとの戦いやオグリキャップへの挑戦を描いたつもりです。

 

 また、クリークのエピソードをも巻き込んだ彼女の「スターウマ娘」を巡る物語ですが、これはある意味アプリ版メインストーリーの第一章、つまり期待に応えようとするマックイーンへのカウンターパンチ的な意味合いで考え出したものでした。

 史実においてはメジロの一番人気は元々ライアン号であり、マックイーン号の方は文字通りのダークホースであったという事実もあったそうでございますが、それから上手く勝ちきれずにマックイーンに先を越されてしまう構図は、どこかキングと通じるものを感じました。

 ですがそんな二人に違いがあるとすれば、それは「一流」としての自分のスタイルをキングが持つ一方で、当時のライアンはまだ自分の在り方というのが分かっていなかったところにあるのではないでしょうか。そんな彼女がマックイーンやオグリと走る事で、ただ憧れていただけの「スターウマ娘」というものがどういう事かを少しずつ学び、自分もそこを目指す様になる……といった、今までと少しベクトルの違う再起の物語であればいいなと考えた所存です。

 

 

 

※固有スキル

 

「燃えろ筋肉!」(天皇賞(春)時点)

「レッツ・アナボリック!」(宝塚記念以降)

「ピュリティ・アナボリック」(有馬記念以降)

 

レース終盤のコーナーで好位置にいると持久力が回復し、加速力を上げる

(好位置……二位~40%の位置)

 

……有馬記念最終盤においてクリークの魂を受け継いだライアンが発動した、積極策からの末脚。最後の最後にオグリが差し返されかかったのは加速度が上がっていた為。

好位置にさえいれば確定で発動するので、かなり使いやすいかと。しかし先行であることが前提となるため、対応するスキル等も変化するので注意。

 史実では宝塚記念以降再び見る事の叶わなかった、そして上の方が最後まで最強と信じ続けたライアン号の「本当の強さ」をイメージした、敢えて強めに設定した固有スキルである。

 

 

 

 

 

 

 

・スーパークリーク

 

 チームポラリスの母親的存在にして、トレーナーの「最初」のパートナー。チーム内では比類なき実力を持った「魔王」でもある。

 現役時代はオグリキャップの最大のライバルであり、第一線を退いた後はキングやウララ、そしてライアンの成長をトレーナーと共にサポートし続けた。ドリームトロフィーリーグ以降も「永世三強」やタマモクロスと互角以上の戦いを繰り広げ、最終的には移籍してきたライアンとの師弟対決まで実現した。

 引退後はトレーナー養成学校へと進学。見事中央トレセン学園でのトレーナー資格を取得し、サブトレーナーとしてチームポラリスに舞い戻ることとなった。最終話時点ではトレーナーと共に新たに加入するウマ娘達を支え続ける日々を送っている。

 ――ウマ娘は、与えるもの。そう諭し志す彼女の姿は、不屈さを教えるキングと同じようにチームメンバーの希望となり続けている。

 

 

 

 スーパークリークというと、皆さんどんなイメージをお持ちでしょうか。何となくですが、多くの方はいわゆる甘やかしすぎなママ、もっと砕けた表現をすればトレーナーやタマをオギャーバブー化させるウマ娘という印象が出来上がっているのではないかと思います。

 ……ですので、今作のクリークは敢えて硬派の、シンデレラグレイでの彼女の要素も合わせた真面目な一人の競走ウマ娘として描こうと考えておりました。アプリでの育成ストーリーをご存じでしたら理解していただけるかと思いますが、彼女はトレーナーに三つあげるためなら誰よりもひたむきに、ひたむき過ぎるほどに努力を積み重ねられる素敵なキャラクターなのです。だと思っていたらハロウィンイベントで本当にバブらせやがりましたね

 

 また、実は彼女とキングは、この作品においては対比付けることを意識しておりました。

 それはキングが走る理由が「自分」の証明の為な一方、クリークは「誰か」の為に走るウマ娘である……といったもので、例えばウララはクリーク寄りのタイプでありながら、キングの様に本気で頑張る事を学んでいき、対してライアンは初めはキング寄りで、そこから人々の期待の為に走るクリーク側に向かっていくような構図を考えていたという事になります。

 これは結局、真キング編まで連綿と横たわっていたように自己分析しております。自分が勝ち上がりたいという貪欲な競争心と、ファンやトレーナーを喜ばせる為に尽くす献身的な心という二つの一件対極に位置する信念は、どこで混じり、どこで一つに集約していくのか――という命題は、ワクワクさせる為に本気で走るウララから始まり、誰かの期待を信じて伝説を創り続けるライアン、そして結局あのジャパンカップでのキングが「困難を超えて一流を証明し続けることで、かつての自分の様な孤独な誰かにとっての栄光になりたい」という答えを見出すまで……最後まで付きまとい続けることになりました。

 

 そのような意味で、彼女は直接的には秋天のみの出番でしたが、その魅力はレースでの強さのみに留まらず、確実にチームに影響を与え、トレーナーを一人前に育て上げ、キング達をスターへと導いた功労者であることを察して頂ければ幸いです。そしてそんな本人もまた、体調不良とヒールの逆境に悩まされながらも、最後まで純粋な心を失わなかった素敵なウマ娘であることをご理解頂ければと思います……いや、申し上げずとも既にご存じでしたか。

 

 

 

※固有スキル

 

「ピュリティオブハート」

 

レース中盤で好位置にいる時に持久力が回復する

 

……彼女は唯一の固有スキル据え置き。とはいえ彼女の武器はスキル云々でなく純粋に圧倒的なステータスにあり、その状態でもライアン編やそれ以降においても、実際にキング達を併走や模擬レースで度々下すことになる。

そもそもジャパンカップ直後の時点でクリークに確実に勝てるのは真キング(ジャパンカップ限定)と有馬ウララくらいのもので、あとはライアンが有馬でのパフォーマンスを引き出せればもしかすればといったところだが、それも結局は憶測でしかなく、それぞれノーマル状態では彼女にはとても敵わない。

チーム最年長にして「永世三強」の一角の風格は伊達ではない。

 

 

 

 

 

 チーム「ポラリス」。

 それは敗北と挫折を超えて、頂点に立たんとする優駿の集まりである。

 

 

 

 

 




 

※最後に、ここまでお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
 ここまで書き切る事が出来ましたのは、ひたむきで魅力的なキング達と、そしてこれまでお読み下さった皆様のご応援のおかげです。
 物語に一区切りがつき、それぞれの道を歩む彼女達を応援して頂ければ幸いです。そしてウマ娘プリティダービーと、そこに生きるウマ娘達をこれからも愛して頂ければ、これ以上の喜びはございません。



 ……とはいえ、前に書きました通り日常編はいくつか書いてみようかなとも考えております。
 ただ、メインストーリーが終わりましたので更新はとても遅くなると思われます、ご了承ください。



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