たまに、夢を見る。
繰り返される彼方からの夢だ。
「ケヒッ──聞き違いか? お前のような小僧が、この俺に挑むだと?」
そこにあるのは酷く歪んだ鬼の顔。憎悪とも恐怖とも言えぬ負の面貌。
――鬼はその名を両面宿儺と言った。呪術全盛呪いの時代。平安を地獄に変えた悪鬼こそ、ソレだった。
……あぁそうだ。これは夢じゃない。
きっと記憶だ。
「既に人の域を逸し、悪鬼となり果てた貴様はもはや人に見えぬ」
悪鬼と対するのは薄氷の上を揺蕩う陽炎のような男。
鳥帽子を被り、僧侶を思わせる和の礼服を纏っている。
顔の形はどの角度からも影になって伺い見ることは出来ないが――何故だか、酷く自分と似ているような気がした。
その声から、佇まいから、気配から、嫌なくらいに僧侶は俺を連想させる。
「人ならざる邪悪よ。私は貴様の生存を決して許さない」
それはもう何度聞かされたかも覚えていない死刑宣告。
そして、もう何度殺されたかも覚えていない悪鬼は、これまでの夢と同様、傲岸不遜に吐き捨てた。
「ハ、己惚れも大概にしろ! 俺は平安の呪いそのものだぞ! それをお前は――」
「――知らん。黙れ」
この先起こることは、俺は知っている。
そうだ、何度も視た。
この先数百年は消えないのではないかという程の、悍ましい絶叫を知っている。
「貴様は殺し過ぎたのだ」
両面宿儺が、男に蹂躙されるのを知っている。
腕を捥がれ、足を落とされ、眼球を抉られ、臓腑を潰され、肉を裂かれ、骨を砕かれ――最後に残ったのは二十の指。
夢はいつも変わらない。
「馬鹿、な……っ! 俺が、お前なんぞに……!」
呪いの言葉を吐きながら宿儺は死ぬ。
「呪って、やる……! 呪って、やるぞ……
鏑木を――俺と同じ苗字の男を呪いながら死んでいくのだ。
「……またこの夢か」
まだ焦点の定まらない目を擦りながら、腰を上げる。
今のような白昼夢は小さい頃から稀にあった。この頃は特に頻度が高い。こうも同じ夢が繰り返されると、宿命めいた何かを感じざるを得ない。
ご先祖様の記憶、的な何かなのだと思う。
だから俺にどう関係するのかという話だが。
「あほらし」
くしゃり、と髪をたくし上げて起き上がる。
髪は少し汗で湿っていた。
「パパ~朝だよ起きて~!」
騒がしい足取りで、朝を知らせる女神が来訪する。
子供の朝は早い。少し前まで手のかかる夜泣き魔だったかと思いきや、今では父親の起床を手伝うような健康優良児。まだ21の俺も、彼女の前では老人の気分である。
「今日は起きてるよ」
「パパ起きてた~!!」
やばい。超愛らしい。明日から一緒に寝ることにしよう。
「ごはんごはん!!」
「はいはい。今作りますよ」
時計を見るとまだ朝の六時。こんな時間から活動する子供の胃袋って魔境だと思う。自分にもこんな時代があったんだと考えると戦慄する毎日ですマジで。
星華に引っ張られるようにキッチンに移動する。
育ち盛りの子供の食事だ。メニューには気を配らなければ。でも面倒くさいので晩飯の残り物にしたいと思います。
冷蔵庫には昨晩残しておいた豚キムチが鎮座していた。もちろんニンニクマシマシのね。でも女の子に朝からこんなもの食べさせたら、口が臭いって幼稚園で虐められないかしら。
「今日はこれで良いか?」
「うん! 豚キムチ好き!」
決定である。
そうそう、子供には肉だけ食わせとけばいいんだよ。野菜なんか食わせたら肌がナメック星人みたくなる。って幼児虐待でパクられた俺の父さんが言ってました。大丈夫、俺は愛の鞭だったと思ってるよ。父さん愛してる。
簡単な味噌汁と白米を添えて、朝食の完成である。
「さぁお食べ。お行儀よく、溢さずにね」
「おいしそう! いただきま~す!」
俺はコーヒー片手に星華の正面に座り、テレビで今朝のニュースを確認する。といっても、見たいのは天気予報と星座占いくらいだが。
ん~何々、今日の俺の運勢は……『最悪の日。嫌な出会いがあるでしょう』ってマジか、すごい具体的だな。俺、在宅ワーカーなんだけどね。
「そういえばパパ」
「ん~?」
「私にはどうしてママがいないの?」
「ブファッ!」
口に含んでたコーヒーが零れてしまった。
子供の会話は話題が唐突だ。こっちが説明しにくいことにも容赦なく踏み入ってくる。しかし情けないことに、俺はそれに対して用意してある答えしか返せない。
「ま、ママはね……いない訳じゃないよ。君はママのお腹から産まれてるから。ただ、今は遠いところに旅に出てるんだ」
「いつ帰ってくるの?」
「いや~~~、いつだろうな。すぐかもしれないし、まだかかるかもしれないし……」
本当は帰ってなど来ない事実を、俺はまだ娘に伝えられずにいる。
星華と出会えたことに関しては、後悔などない。それどころかこの世界の全てに感謝している。ただ、まだ高校生だった身の上で子供を持ったことは早計だったと断言できる。
普通は母親の方が子供に執着するものだと思うが、俺たちの場合は逆だ。妻は美容師になるという自分の夢を追っていつの間にか蒸発した。風の噂で新しい男が出来たと聞いたが、何にせよ、妻は俺たちとの縁を望んで断ったのだ。
薄情とは思わない。むしろ、どこぞで幸せに暮らしていて欲しいとすら願う。
学生でありながら無計画に子供を産ませてしまったのは、俺の責任だ。
責められるべきなのは俺で、人生を犠牲にするべきなのは俺なのだ。
ただ、そのことで娘の幸を欠くのは、極力避けたい。
「どうして、突然そんなことを?」
「保育園でね。サキちゃんがね。セイカちゃんちはママがいないからカワイソウ、って言うの!」
「っ」
サキちゃんとは保育園で星華と仲良くしてくれている友人の一人の名だ。俺はそう聞いている。
しかし、やっぱり、家の事情が特殊だと何処かで仲間外れにされるものなんだろうか。
「……嫌な思い、させられたのか?」
「ううん! 私はカワイソウじゃないよ! だからサキちゃんのことぶん殴ったよ!!」
「ありゃりゃ。ちょっと駄目だよソレ」
どうやらうちの娘が虐められる心配はなさそうだが、虐めっこに転じる心配をするべきなのかもしれない。むしろ更に憂慮すべき事態になっている気がする。
こういう男勝りな所は母親似だろう。俺は体質の関係で他人と喧嘩が出来ないのだから。
「殴ったことは今度一緒に謝ろうな」
「え~どうして? だってサキちゃん、パパしかいないからカワイソウって言ったんだよ! 私はカワイソウじゃないもん!!」
「……じゃあ幸せか?」
「うん!!」
――ママがいなくても、幸せか?
そう聞こうとして、言葉に詰まった。
否定されたら、今まで俺が尽くしてきた全てが無駄になる気がする。そうなれば、きっとどちらかが泣くのだろう。
朝はこのまま、笑顔の絶えない家庭で始めたかった。
◇◆◇
保育園は車で十分の距離にある。送迎バスを使っても良かったが、さほど距離もないことと、親子での時間を大事にしたいことから送迎は俺の仕事だ。
幼稚園に着くや否や、既に社交性に目覚めつつある星華は、同級生の輪の中に入っていった。
「いつも送り迎えご苦労様です。鏑木さん」
声を掛けてくれたのは保育園で星華の学年を担当している、中岡とか中山……? 何だっけ、確か中なんとかっていう苗字だか名前の女の先生である。結構美人なので、俺は心の中で美人先生と呼んでいる。
「先生。いえ、こちらこそお世話になっています」
あまり人付き合いは得意じゃないのだが、こうした子供を取り巻く大人の環境も、星華のためには大切だ。クラナドを見て学んだことである。
しかし、美人先生とは比較的気の合う仲だ。年が近いことも関係しているのかもしれない。まぁ名前は覚えてないんだけどね。だって最初に名乗ったきりだし。
「しかし凄いですね。男手一つで子供育てるなんて」
「そんなに珍しいですかね」
「そうですよ。最近は両親共働きばかりですし、時間的にも経済的にも……鏑木さんって、よっぽどデキる人なんでしょうね」
「はぁ」
「本当に凄いなぁ。私には真似できない……へへっ」
何だろう、今日の美人先生ちょっと気持ち悪くない? 雰囲気的に。
ほら、今のへへっ、て笑い方。キモ可愛いよね。頼んだらもう一回してくれるかな。
「先生こそ、俺と年もそんなに変わらないってのに、立派に手に職付けて尊敬しますよ」
「ほ、本当ですか!? いやぁ嬉しいです! 仕事を褒められたことなんて、実は一度もなくて!」
「へぇ、保育士って永久に需要ありそうな職ですけどね」
AIが仕事を奪うだのと言われる時代だが、保育士に限らず資格を要する仕事の需要は無くならないだろう。俺も夢を持って、勉強して、それなりの仕事に就きたかったと思う瞬間はある。そういう意味では、美人先生を尊敬しているのは本当だ。
「あーら夢宮先生。朝から鏑木さんと仲睦まじげですわねぇ」
「そ、そんなことは……!」
俺たちの背後からの声に狼狽えだす美人先生。
てか、夢宮? 美人先生の苗字、中岡でも中山でもなく夢宮? かすりもしてないんだけど。でも美人ではあるから僕の記憶も半分正解だと思います。
「えっと、確か貴方は……」
「お宅の星華ちゃんとよろしくしてます。瓜生佐紀の母です。どうやら昨日は色々とあったみたいで」
「瓜生……さん……ですか」
その名前を噛み砕きながら、俺の視線は目の前の中年女性の肩に釘付けにされていた。より正確には、その肩に居座る毛玉のような幽霊に。
ぎょろりと蠢く一つ目が俺を直視する。視線が交錯して――分かった。コレは5つ分の命を喰っている。要するに、五人死んでいるのだ。
【 二ギギ 】
少しだけ。
………。
………。
思考が止まる。
――代わりに、少し昔話をしようか。
とある少年の話である。
鏑木肆星という男児は、特殊な瞳を産まれ持った。一つの眼球に、二つの虹彩。俗に言う複眼――節足動物などによくみられる特徴――である。
これにより、肆星は360度の視覚を持ち、遮蔽物の先すら見通すようになった。
また、彼は他人には見えない異形が見えるようになった。幽霊が見えていた、と表現するのが最も適当だろうか。
両親曰く、複眼と幽霊が見えることは別種の才能らしい。
そして重要なのは、その幽霊とやらが見えてしまうという事実だ、とも言っていた。
ある日、両親を介して肆星の才能を知った母方の祖父が少年の元へと訪れる。
皴だらけの死にぞこないに過ぎないその爺は、しかし厳格かつ心底深刻そうな面持ちで、こう告げた。
『良いか、肆星』『今から言うことを生涯忘れるな』
『もしもお前に特別な力が宿るとすれば』『例えば、手を使わずに物を動かしたり』『マッチを使わず火を起こせたりするだろう』
『幽霊――正しくは呪霊と呼ぶそれも』『お前の敵ではなくなるだろう』『そうとも、平安の鬼神すらそうだった』
『その代わりに、人と戦う手段を失うのだ』
『お前の腕は誰も殴れない優しい腕になる』
『大丈夫。家族を抱きしめることくらいは出来るだろうさ』
『ただし』『お前のために』『忠告しよう』
『その力を』『誰にも見せるな』『特に』『同じような才能を持つ連中には』
『見られれば』『死ぬと思え』『知られれば』『死ぬと思え』『アレらは』『鏑木を不幸にする』
『他人のために』『戦わなくていい』『義務ではない』『鏑木一族は』『力の示威により滅んだ』
『〇〇〇を信用するな』
それはおよそ、小学生にも満たない童子に語り掛ける和やかさではなく、むしろ、本当に死を宣告するような迫真さがあった。
記憶から消したくても消せない迫力の老人。
今から約十八年前。
鏑木肆星が、つまり俺が三歳の頃の話だ。
「聞いていますか、鏑木さん?」
「え、ええ。すみません瓜生さん……えっと、昨日うちの娘が佐紀ちゃんと少し揉めたそうで」
「そうです! そうなんですよ分かりますか!?」
きっとこの人は放っておけば死ぬんだろう。
肩で佇む幽霊に……爺さんによれば、正しくは呪霊と呼ぶらしきソレに喰い殺されるのだろう。
だからこその逡巡。自分なら容易く助けられる。
「殴られたんです! それも一方的に! どういう教育をなさっているんですか!?」
「……申し訳ありません。星華にも注意しておきます」
「その程度で済むもんですか!! おかげで佐紀はもう幼稚園に行きたくないって!」
深々と下がった俺の頭の上で、容赦のない怒号が飛ぶ。
「今日はそれを言いに来たんです! このまま佐紀が幼稚園に行けなくなったら、裁判も視野に入れますからね!! 言っておきますけど、うちの旦那は都内でも有名な敏腕弁護士ですから!!」
「どうかご勘弁を。本当に、きつく言っておきますから」
「そんな覇気のない謝罪が、佐紀の慰めになるんですか!?」
言われながら、心が冷めていくのを感じる。
おかしいな。ムカついて仕方がないって場面の筈なのに、腹の底で溜まっていた嫌な空気が抜けていくようだ。
さっきまでは、祖父からの言葉を遵守することと、目の前の人を救う良心で揺れていたというのに、今はどうでもいい。
いっそ喚き散らす女が哀れですらある。
アンタ、死ぬんだぞ。
「鏑木さん、早くに奥さんとも別れてロクな家庭じゃないそうですね!」
「お恥ずかしい」
放っとけよ。アンタが決めるな。
「お父上も前科持ちのようで!!」
「全く返す言葉も」
それはそう。言い訳できませんね。父さんが普通にクソなのは事実だし。
「今の態度を見る限り、貴方自身、まともな人間かも怪しいくらいです!!」
「お母さん!! 言い過ぎです……!」
意外なことに、美人先生からの援護によって瓜生さんはしばし押し黙った。
周囲からの注目を集めすぎていることにようやく気が付いたのだろう。
調子を整えるように咳払いをすると、
「とにかく! それ相応の手段に出ますからね! 覚悟しといてくださいね!!」
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
しおらしく繕って再度頭を下げる。
瓜生お母さんが立ち去ろうとした所で、顔を上げてそれを呼び止めた。
「――所で、奥さん。肩に虫が」
「えっ」
なんてことはない、手首を捻って虫を払うような自然な動作。
そこから生じた優しく頬を撫でる程度の風圧に触れると、呪霊は割れた風船のように消えていった。
とりあえずこれで、呪霊による死はなくなるだろう。
正直な所、この女が明日事故で死のうと、隕石に衝突して死のうと、俺にはどうでもいい。哀しくも嬉しくもない。
ただ、ひとまず俺の手でお前は死を免れたんぞと、そう自分に言い聞かせることの方が、心の保養になると思っただけ。この女が呪いで死んでも、俺の心がちっとも晴れることはないだろうと思っただけ。
人助けって結局、そういうことだろ?
「あぁ、今飛んでいきました。キアゲハかな」
「……どうも」
何とも微妙な感謝の言葉を残して、女は去った。
「災難でしたね」
「別に、よくあることです」
柄の悪い奴に絡まれても、最悪の状況になるなんて極稀だ。
そのたびに平謝りして、服従して、実に情けない生き方だが、何事も意地を諦めて他人に媚びれば丸く収まるものだ。
「それはともかく、さっきは助けてくれてありがとうございます。岡田……小山田……いや、宮原先生」
「……夢宮です」
「あっ」
◇◆◇
保育園を後にして、俺が向かった先はある一軒家である。
土地面積は五十坪。地下付きの二階建てで、庭園まであるまさに豪邸。その名に相応しい亡者の邸宅。中古住宅として売り出されていたそこは、ちょうど今日、俺が購入予定の幽霊屋敷だった。
「ここは二十年前に一家が強盗に殺害された屋敷です。犯人は獄中で首を吊って死亡。同年、建築に関わった土木業者が次々と謎の不審死を遂げています。以後、幽霊屋敷として知られるようになりますが、三年前にオカルト好きの富豪がこの住宅を購入しました。しかし――」
「――例に漏れず不審死、と。こっちは安ければ何でもいいんですけどね」
確かに見ただけで分かる。霊気というか瘴気というか、とにかく怨霊じみた空気が滲んでいる。踏み込めば命すら危ぶまれるような直感がある。
「どんなに小さく見積もっても相場は五千万……ってとこですが。本当に良いんですか、土地代込みでたったの一千万なんて」
「とにかく、こちらとしては早く手放したいんです。何だか、所有してるだけでも死にそうなんで……」
「確かにありそう」
それを聞き、俺は内心ほくそ笑む。
神様が普段から頑張っている俺のために用意したような提案だ。
見たところ、曰く付きの話は全て真実だ。真実たりうる怨霊が存在している。ただし、見る者が見れば払うことも出来るだろう。俺はそれを自力で出来る。
仮に家を手放すことになっても、土地代だけで元は取り返せるはずだ。こんなに幸運な話は今までの人生で一度もなかった。逃す手はない。
「一千万ならギリ一括ってとこか。買います」
「そ、それはありがたい!!」
「改めて中を見ても?」
「ええ、ええ、勿論!」
鍵を借りて中に入る。
全国のパパさんの念願。俺の持ち家になる豪邸を勝手知ったる足取りで進み、リビングの吹き抜けの階段付近に来た所で空気が張り詰める。
「やっぱり。購入することが確定すれば、すぐ出てくると思ったよ」
固形と液体の狭間で反復横跳びしているかのような、足に無数の目玉がついた大蜘蛛。というかカオナシのパチモンみたいな化物。
正面の顔から吐き出される薄い霧は、吸っただけで寿命を腐らせるだろう。
【 オデ オデ オデデデデ フユ フユカアアアア 】
「ここ、住んでも構わないか?」
一応形式上は申し出てみるものの、当然、許さないって感じだ。
【 チフチフ チチチ シンダ コロサレ チフユ ユルサンンンンンンン 】
ちぐはぐで支離滅裂な言葉の羅列でも、元が人間の感情だからだろうか。何となく、言いたいことは伝わった。
不動産業者は二十年前に殺人事件があったと言っていた。コレはその象徴なんだろう。
地獄の埋火すら霞む怨恨と、魂を何度引きちぎっても足りないくらいの慚愧と、太陽すら隠れてしまうような哀惜が、すべてそこにある。
「分かるよ。人生の主役を譲ったパパの執念。よく分かる。可哀想にな」
可哀想だ。そう思えるくらいには可哀想だ。ただし、共に嘆く程の憐れみはない。
【 デテケ…… 】
「それがさ、ちょっと前に俺も娘に言われちまって。どうしてパパのおうちはこんなに小さいの、ってさ。だからこの家、哀れな賃貸ファミリーに譲ってくれよ」
【 オデ イエ デテイケ! 】
「怒鳴るなよ負け犬。俺はお前に同情しない」
思い浮かべるのは、ただ、殴りつけるようなイメージ。
血を巡らせるような戦略も、ご大層な戦術も何もいらない。いや、もしくは俺には拳すらいらないんだろう。指を鳴らすだけで、瞬きをするだけで、望みを言うだけで、というか思い浮かべるだけでそれが可能だ。
ただ今回は、相手を殴ってぶっ飛ばす程度の力を込めて、拳を振るう。
「アンタの不幸は今日、俺の幸せになった。ありがとうな」
呪霊は粉微塵になって消し飛んだ。
◇◆◇
夕方、星華は愕然としていた。
幼稚園からの帰路で寄り道と銘打ち、訪れた先に待っていたものに絶句していた。
ふふ、いやしかし、驚いてもらわないと困る。有り金叩いて買った夢のビッグマイホームなのだから。
「星華ちゃん、お誕生日おめでとうございま~す! これはパパから君へのプレゼントだよ!!」
そう。勇み足で住居購入に踏み切ったのは、今日が娘のバースデーだったからだ。もちろん、この屋敷をプレゼントという訳じゃなく、これから一緒に住むという意味でのプレゼントである。
「す、すごーい!! すごーくすげ~~~!!」
六畳一間の砂上の楼閣から、ドラマや映画でしか見たことのない大屋敷への引っ越しだ。星華は飛び跳ねるように喜んだ。
「買ったの!? ねぇ何円したの!?」
「いいや、パパが作ったんだよ。土地を耕して、木を削って、柱を立てて、漆喰で塗り固め、そしてパパが建てたんだよ」
星華は賢しい娘だ。俺が高い金を使うと途端に家計を気にしだす。日頃から不安をかけてゴメンなぁ星華(涙)。
だからこういう時はあくまでパパが作ったんだよアピールを行います。大抵騙せます。実際建築学べば作れなくもないし。
「パパは何でもできるの!?」
「そうだよ。昨年は車を作ったように、今年は家を建てたんだ。来年は船を作ろうかな!」
八割くらい本気だ。船が無理なら安い山を買って別荘を建てよう。何ならそっちの方が安上がりかもしれない。
「すご~~い!! パパは最強なんだね!!」
「そうだよ~~! 小学校に入ったら夏休みの自由研究でこう発表するんだ! 恐竜を滅ぼしたのはパパです!」
「お!」
「電気を発明したのはパパです!!」
「おお!!」
「パパはアメリカ初の黒人大統領です!!」
「すご~い!」
最高に気持ち良い。父親冥利に尽きるぜ全く……。
娘が中学生くらいになってから、こんなバカなこともあったなと思い出弄りされたいものだ。
「で、でもねパパ」
父が愚かな妄想を広げていると、星華は神妙な面持ちでこう切り出した。
「私、怒られないの……?」
「怒られるって、俺に? どうしてだ、君は何も悪いことしてないじゃないか」
「でも、私のせいでパパ、サキちゃんのおばさんに怒られたでしょ……?」
もしや、今朝の幼稚園でのことを言っているのだろうか。
てっきり見られてないと思っていたが、そうか、見られてたか。
「パパの情けないところ見せちゃったな。他人の親にヘコへコして、カッコ悪かったよな」
「ううん、そんなことない! パパをカッコ悪いって言う奴は私がぶっ飛ばすもん!!」
「佐紀ちゃんのお母さんをか? 星華は強いなぁ。でもな、謝ることって本当はカッコイイんだぞ。だって、誰にでも出来る訳じゃない。きっと佐紀ちゃんのお母さんには出来ない」
自分で言ってて、本当にこれは俺かと思ってしまう。
でも、娘の前で口をついた言葉は無意識に正しいものを選択している気がする。子供の前で格好つける度に、俺が青春を犠牲に拾い損ねてきたものが補完されていく。
我が子を導くことが人生の快感だ。だから父親は間違えないし、正しく在ろうと模索することに恥じらいがないんだ。
「パパは悪いことしてないよ」
「いいや、大人は見えない形で気付かない間に悪いことしちゃうもんなんだよ」
本音を言えば、俺が悪人なら世界中の政治家は大悪党だと思ってるが一応秘密である。
「じゃあ、私がサキちゃんにごめんなさいしたら、パパは誰にも怒られない?」
「あ~、そうだな。うん、その時はパパは誰にも怒られない。怒られる必要がない」
「だったらサキちゃんち行って、ごめんなさいする」
「おっ、そうか。立派だぞ。流石俺とママの子だ」
ま、ママはいないんだけどね。いつか分かる日が来るさ。恨まないでくれるといいな。
星華の総身を両腕で抱き上げる。ちゃんと正しい決断をしたからには、親としてちゃんと褒めてやらないと。
「今日は君の大好きなコロッケカレーを食べよう」
「うん!」
21歳と5歳。年の離れた兄妹と言われても仕方のない年齢だ。
あまりに異質で奇異な存在なんだろう。それでも頑張れば人並に幸せだ。母親の分も父親が人生削れば、普通の家族みたいに暮らせるんだ。
こんな平凡で平坦で平均な毎日が続けばよかった。
俺はそれだけで良かったのに。
◇◆◇
日が落ち、闇夜が来る。
各家庭には夕食の光が灯りだす。
昨年三十路の仲間入りを果たした庵歌姫は少し虚しい気分になりましたとさ。……というのは半分冗談で。
黙過、監視下にあった呪霊を払いに来た筈の彼女を待っていたのは、想像と大分違う光景だった。
「ちょっとちょっと、何があったのよ……、もう人が住んじゃってるじゃない」
彼女はついさっき、少女と青年が幽霊屋敷に入っていくのを目撃していた。
普通なら止める。鮫の群れの中に出血多量の子供を放り込むようなものだ。だが、どうも屋敷から呪霊の気配を感じない。
「呪霊、明らかにいなくなってるわよね」
緊急性はなくとも、深刻な危険性を孕む案件だったはずだ。土地に根差す呪霊はその場を決して動かない。
(払ったのをたまたま報告し忘れている術師がいて、その直後にたまたま居住者が? いや、スパンが短すぎて不自然ね。つい一週間前にはまだ呪いが在ったもの)
此処へは定期的に高専関係者が巡回に来ていた。そこで突然消えた呪霊と、その合間を縫うように突然住み着いた住人。住人に疑念が向くのは当然の帰結である。
(やっぱり、居住者が自力で払ったと考えるべきよね。でも準二級相当のが住み着いていたし……やっぱり呪詛師なのかしら)
さっきはその可能性を踏まえて安易に接近できなかったとも言える。
何にせよ、歌姫はこれを放置しておくほど多忙を極めてはいない。調査しても損はないだろう。
「名前は……っと」
表札を確認して、そこで心臓が凍り付く。
「か、ぶ、らぎッ……?」
まさか、ありえない。
偶然だ。確率的に珍しくもない偶然に過ぎない。
しかし、歌姫は一瞬息をするのを忘れた。
何だ、この字は。
何だ、この姓は。
それは呪術界において最も重大と言える意味を持つ言葉だった。
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