ある新人トレーナーは、三女神に囚われた。 (まやキチ)
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終わって始まって終わって始まって、また終わってまた始まる。
・“ステータス”という確固たる実力差で勝利しよう!(※それしかできません)
・“スキル”を使わない正々堂々とした立ち回りを心がけよう!(※そもそも使えません)
・“パラレル”を越えたトレーナーの全面的サポート!(※いなけりゃ話にもなりません)
――
目覚まし時計が鳴り響く。
心地の良い夢から引きずり出すような強引な響きは――“彼”の意識を一瞬で引き上げた。
「ん……ぅ」
ぱしんっ、と目覚まし時計を叩いて黙らせた“彼”はのそのそとベッドから這い出てると、覚束ない足取りで洗面所まで向かう。
鏡に映るのは、着慣れた寝間着に身を包む、見慣れた青年の顔だった。
「あー……」
手を洗い、顔を洗い、タオルで乱雑に拭う。
その間、ぼーっと考えていたのは――先ほど見ていた“夢”の事だった。
「なんか……すげぇいい夢見てた気がする……」
すっぽりきっかり忘れてしまったが――びっくりするほど喜ばしい夢だった。
“彼”はそんな気がしていた。
「まぁ、いいかぁ」
夢なんてそんなもの。
抜け落ちたものをあれこそ考えるのもあほらしくなり、すぐにその事を頭から追い出した。
彼はちゃっちゃと身だしなみを整えると、昨夜の内に用意していたスーツ一式を手に取った。
それはちょっと良い店で買った、新品のビジネススーツ。
その胸元には――傷の無い綺麗なバッジが輝いていた。
「今日から俺も、新人トレーナーかぁ」
それはトレーナーバッジ。
“彼”が自らの青春を捧げて手に入れたエリートの証。
中央トレセン学園のウマ娘たちを指導する事が出来る――輝き。
「――実感湧かないなぁ」
彼は溜息を吐くと、寝間着を脱ぎ始めた。
――――――――――――
――ウマ娘。
彼女たちは、走る為に生まれてきた。
ヒトとは違う、大きな耳や尻尾を持ち、その体躯からは考えられないほどの力を持つ。
彼女たちはときに数奇で、ときに輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。
それが、彼女たちの運命――――
――――――――――――
電車を乗り継いで幾星霜。
……ほどでもないが、慣れない人間にとって東京のコンクリートジャングルの中を突破するのはまさしくそれに等しかった。
着慣れない一張羅も、荒波に呑まれたおかげが若干こなれた印象になったのは不幸中の幸いでもないだろう。
「……はっ、はっ……!くそっ……!やっと着いたぞこの野郎……!」
春麗らかな陽気なのに大汗掻いて、校門の先に見える巨大な学舎に悪態を付く。かすかにあった緊張も、汗でへばりつくシャツの気持ち悪さがかき消してくれた。
故にか。
特に気負いもせず、フラットな気持ちで。
それこそ実家にでも向かうような気楽さで――校門を潜った。
この国で一番の大きさを誇る『中央・日本ウマ娘トレーニングセンター学園』
通称、“トレセン学園”に。
“彼”――を含めたトレーナーたちの将来を決める『重要な日程』はもう始まっている。
が。
もう頑張りたくない。もう時間に縛られたくない。
そもそも何かに従って生きるという意義とはいったいなんだヒトは産まれながらにして自由であるべきで強制される人生に果たして意――ともかく。
“彼”は、一息付きたいと自販機でジュースを買い、少し行った先の広場のベンチに腰掛けた。
片道一時間半の通勤は、新人に似つかわしくない余計な反骨心を芽生えさせていた。
「ふぅ~」
冷たさが喉奥へ突き抜けていく感覚。
暑苦しいネクタイを緩め、ジャケットを脱ぎ、裾を捲る。木で出来た心地いいベンチに全体重を預けた。
まるで一仕事終わった風だが――まだ何もしてない上にサボリであった。
ジュース缶を傾けながら寛いでいると、目の前の広場に興味が向く。
広場の中央。大きな噴水に座す、巨大な像に目が行った。
「ほぉー」
なんとなくギリシャ彫刻っぽい布をまとったウマ娘三人が各々ポーズを取っている。
特に芸術の造詣もない彼でさえ、荘厳さというのを感じ取れた。
記憶を辿ると、これはーー“
「………」
ふと、この像の説明が頭に浮かぶ。
『数多くのウマ娘が想いを託し、後進がそれを引き継ぐ……連綿と続く継承の場』
――それがこの広場。
歴史に名を刻んだウマ娘の大半は、ここで何やら力を得たような気がすると語る。
と、彼は聞いていた。
「ふぅむ」
“彼”はジュース缶を飲み干して適当なゴミ箱に投げ捨てると、像の前に立った。
しばらく見上げ――南無南無と手を合わせた。
なんとなく御利益があればいいなぁ、くらいの軽い気持ちだった。
「さて!……行くか」
願掛けのようなものを終えた“彼”はジャケットを引っ掴んで、像から踵を返す。
向かう先は、トレセン学園に数多くあるレース場の一つ。前もって指定されていた場所だ。
今日は選抜レースの日。
トレーナーはレースを見て、有望そうなウマ娘を探し――ウマ娘はレースを走って実力をみせ、良いトレーナーに見つけてもらう。
そういったスカウトの場だ。
『トゥインクル・シリーズ』というウマ娘たちが求める華々しいレースへと駆ける第一歩。
トレーナーにして見ても、実績を挙げる事が出来れば、公私ともに充実する事になる。
双方、これからの将来の向きを決める事になるのだ。
「どんなウマ娘と出会えるのかねぇ……」
のんきにつぶやく“彼”も見つけなくてはならない。
この“三年間”――共に駆け抜けるウマ娘を。
「まっ。大体の行程はもう終わっちまってるだろうし、有望そうな娘はもう取られて、後は残りも――って、流石にでりかしー、だな。新人君反省」
―――――――――
―――――
――
はっきり言おう。
――“選抜レース”など。
表立ったウマ娘共を除けば――
「はっ……!っ、はぁ、はぁ……!!」
レース場内――ターフの中で。
荒れた呼吸を落ち着かせようとするウマ娘が見える。
だけど、いつまで経っても落ち着かない。下手すれば涎がこぼれてきそうなくらい、いっぱいいっぱいの様子だった。
――全力を出したんだ。
彼女の事は知っている。
今まで以上のトレーニングメニューを工夫した事も。食事だって気にして、趣味も何もかんも投げ捨てて――今日この日の為だけに苦心して。
やったのだ。ちゃんとやったのだ。
なのに、なのに、なのに――レースの掲示板には彼女の名は乗らない。彼女の番号は点らない。
「今の子、よかったな」
「ああ。最後の末脚は良かった。要チェックだ」
「三着のあの子、いいわねぇ。食いつき具合が気に入ったわ」
近くにいる、観客席のトレーナー共の声が聞こえる。
彼らは――彼女に見向きもしない。
掲示板にないのなら、たとえ六着だろうが七着だろうがビリっけつだろうが興味ないのだ。
「…っ、っ…」
よく見る光景。でも、一向に慣れない光景。
わかってる。
誰だって将来が掛かっているのだから、望みがある方に向くのは当然だ。
――過程よりも結果。残酷だけど、それは真理なんだ。
ただ、見る度に酷く空しい。
何十時間と積み上げた過程が、数分の結果に吹き飛ばされる。努力に見合わない結果に寂寥感でつらかった。
レースの勝者や光るものを見出されたウマ娘たちが、トレーナーとどこかへ行く中――
「くそっ……」
見向きもされないような敗者は、そそくさとこの場から出て行く。
次のレースが控えているというのも勿論あるが、この場に残っていてもどうにもならないのに気づいているからだ。
……彼女を含めたあの中で、いったい何人が――挫けずに前向く事が出来ているのだろうか。
「……はぁーあ」
――
色々ボケボケ考えている私は――特に何もする訳でもなく、レース場の片隅でぼーっとしていた。
ちなみに私のレースは、さくっとビリっけつだ悪いかこのヤロウ。
トレーニングを何ヶ月も頑張ったが、たった数分でそれがおじゃんになり、自暴自棄になった私は――こうして、私と同じ境遇の娘を見て心の平穏を保つという最低な行為に耽っていた。
いや、最初の方は技術を盗もうと血眼になって見たりとか、レース場にさえいればトレーナーの誰かが話しかけてくれるんじゃないかとか、色々あったが。
今はもう、そんな熱はない。
私のような娘が何度も何度も負けて、最初から一歩抜きん出てる娘がひょいひょい勝ってるのを見ていると――「ああ、最初から無理だったんだな」って納得してしまった。
そうなるともうダメだった。
ああ、懐かしきは入学当時の自分。
あの何の根拠もなく「無敗の三冠ウマ娘に、私はなる!」と叫んでいた初々しい私よ。
安心しろ、一年もすれば――無勝の底辺ウマ娘になってるからな。安心して夢見ておけ。そこがお前の頂点だ。
『七番ーースペシャルウィーク!!』
そうやって適当に管巻いていると――聞き慣れた名前を叫ぶ実況の声が耳に入る。
レース場に目を向ける。
そこには、最近北海道からうちのクラスに転入してきたウマ娘――スペシャルウィークがいた。
時折話すが、良い娘だ。食い気がハンパないけど。
オグリパイセンと良い勝負って大概だぞ。
そして――強い。
今までのを見れば、このレースも楽勝だろう。
「っ?……っ!?…」
「ん。まぁた――
レース開始のゲート内。
スペシャルウィークは――なにかを探すように辺りをキョロキョロ見渡してる。その表情は困惑と焦りが滲んでいた。
……いったいなんなんだろう?
私が見る限り――
クラスメイトのグラスワンダーとかエルコンドルパサーとかウンスとか。それ以外にもやってたし、果ては生徒会長のシンボリルドルフでさえやってた。
なんだろう。あれが勝利の秘訣なのだろうか。
私もアレやれば一着になれるんだろうか。
だったら次の模擬レースで、引くぐらい周りキョロキョロしてみようかな。
恥ずかしいとは思わない。誉れはターフの浜で捨てました。
そんな、スペシャルウィークのレース相手は、私のような無名な頑張り屋さんたちだ。地方からの転入生って事で少し侮りと嘲りも見える。ああいうのが一番傷つくパターンだ。ああかわうそ。
いつか「天性の才能被害者の会」とか作ってみようかな。……空しそうだからやっぱいいや。
「あー、やっぱ大半終わってるか」
ふと、隣から声が聞こえた。
なんとなしに視線を向けるとーー見慣れない大人が立っていた。結構涼しい春の陽気なのに、真夏を越えたみたいな格好してる。
……抱えたジャケットの胸元にはトレーナーバッジが見えた。太陽でピカピカだから、きっと新人さんだろう。
だからなんだって感じだが。
すぐに興味も無くなって、スペシャルウィークが盛大に転びでもしないかと視線を戻す前に――その新人さんと目が合った。
「………」
「………」
えっ、なんだろうこのヒト。一向に視線を離してくれない。
品定めでもしてんのかとも思ったけどそうでもない。脚も躰も見ずに――ただ、私の目を見てきてる。
「………」
「………」
えっ、なに?
え、え、え、なんですこれ。
「あのさ」
「はっ、はい」
「――君のこと、スカウトしてもいい?」
「は?」
一瞬、思考停止してしまった。
すかうと?なにそれおいしいの?私の耳に一度も届いた事がない言葉だ。
冗談かと思えば――顔を見ればそうでもない。
「……や、やめておいた方がいいですよ」
「おん?」
辛うじてそう返した。
だって、レース場の端っこでぽつんと一人。近くにいるトレーナー共は見向きもしない。負のオーラだって出てただろうたぶん。
そんな――どこを見てもダメそうな私なんて、選ぶ理由がない。
「あの……お情けとかそういうんだったらいいですよ別に。あっ、なんだったら良い娘紹介できますよ。ほら、あそこのグラスワンダーとかどうです?絶対その方が……」
なんか急に居たたまれなくなって、視界の端で見つけた同級生に水を向ける。
ターフの側で沢山のトレーナーからアプローチを受けているあの――ー
なんか、やけに拒否ってるなあの娘。いつものお淑やかさもかなぐり捨てて押し返す勢いだ。
どこか行きたがってる。なんだろう、トイレかな?
「いや、そういうんじゃないよ」
「……でも、理由がないでしょう。こんな、その、私みたいな……」
「――ふむ」
新人さんは、腕を組んだ。
……正直、スカウト自体は嬉しい。かなり嬉しい。今すぐに手を取って、気が変わる前に手続きとかしたいくらい。
でも、今までの経験が邪魔をする。負け負け負けと打ちのめされたマイメンタルが「騙されるな、これは罠だ。孔明的なナニカだ」と叫ぶんだ。
「理由、か」
でも、でもでも。
意外と好青年な顔立ちだしおじさんなんかよりもいいかもしれないし私に話しかけてくれるくらいだからきっとやさしいだろうし顔は良いし新人さんだから一緒に頑張ってくれるだろうし顔は良いし顔は良いし。
新人さんは安心させてくれるように、ニカッと笑う。
あっ、これは墜ちましたよ私。これはもう受け――――
「――
――あっ、これ関わっちゃいけないヒトかもどうしよう。スカウトにかまかけた宗教勧誘かもしれない。
こっ、こういう時はフクキタルパイセン来て――いや、さらに酷い状況になりそうだからやっぱ来ないで。
私が引いた顔でもしたのか、新人さんは焦ったように「いっ、いや変な意味じゃない!」と弁解しながら、私の隣の席にさりげなく座った。
……妙に手慣れてない?これは都会系ボーイだ。減点ポイント。
「んにゃあ、今のは言葉の綾なんだよ。さっき三女神像にお祈りしてさ。んでこう……ビビッ!って来たからさぁ」
「……ビビッ?」
「そうそう、こう……なんだろう、直感ていうか天啓ていうか」
「……女神さまから怪電波でも受信したんですね。この話は無かった事に……」
「わわっ!ごめん!ごめんなさい!調子乗りました!こう言った方がかっこいいかな?勢いで頷いてくんないかな?って思ったんですごめんなさい!もう有望そうな子は取られてそうだから形振り構わない方がいいなこれとか思ってないんです!」
正直か。打算まみれやないかい。
……まあ、ちょっとグッと来る言葉ではあるかも。
この学校で三女神様って結構尊重されてるし。運命感じちゃうかも……マーベラスサンデー辺りは。
「うぅ……でもぉ、なんか来たのは本当なんだ。君を選びたいんだよ」
「……」
でも、いい機会かも。
このまま腐っててもいい事ないだろうし。一人でのトレーニングには限界があるってさっき思い知った。他のトレーナー共も見る目がない。
それなら、どんな理由でも……私を選んでくれたこの人に望みを掛けるのも。
……あと、さっきの懇願する感じの声色がだいぶグッッッと来ました。
「……わかりました」
「お」
「その、本当に……ほん、とに私で良けれーー」
「――君がいいんだ!!」
あっ、墜ちました。私二度墜ちました。
勝った事のないマケマケウマ娘にそれはくらっと効いちゃう。カエルパンチ。
新人さんは私の手を取ってきゃっきゃっと喜ぶ。
そっ、そんなに嬉しいのかな。
「ふぅ……。んで、君の名前は?」
「……えっ」
「だってさっき来たばっかだし……名簿も、遅刻してきたから貰ってないんだよね」
ほんとに直感で勧誘したんだなこの人は。
こ、後悔させちゃ――いいや、ダメだ私よ。前向き前向き。判押させればこっちのものだってママが言ってた!
でも、名前……名前か。
「………」
「えっ、あのその……?」
「……笑わないでくださいね」
私は、意を決して――名前を告げる。
「モブリトルです……」
「モブリトル………?」
うぅ……!ほらぁ!呆然としてる!
だから私この名前嫌いなのよ!そもそもまず弱そうだし!
なによ
もう最初っから負けてんじゃん!背景みたいなもんだよ!
ママとパパは「なんかコロコロとしてそうでかわいい」とか言うけど……うっ、嬉しいけどそうじゃない!
ウマ娘の名前は、天啓のように授かるって聞くけどこれはないよ!トウカイテイオーとかシンボリルドルフとかもっとかっこいいのが良かった!
ウマ娘は改名申請通らないし……!!
幻滅したかなぁ……「名前弱そうだから違うやつにするわ」って言われたら一生立ち直れない自信ある。
もうこの人殺して私も死―――
「よしっ――んじゃあ、モブ子だな!」
「もっ、モブ子!?」
どっ、どこから“子”が――って、リトルの方か!
どうしよう初めて呼ばれる名前でちょっとドキドキする。いつもは大体、生温かい目で「リトルちゃん」とか呼ばれるから。
こんな、こんな――まっすぐな目で言われると。
「行くぞ!目指せ、無敗の七冠ウマ娘だ!!」
えっ。
「………」
「………まっ、またスベちゃった!?あの、えっとこれはその願掛けっていうか冗談ていうか、その……あっ!もしかして渾名が気に入らない?気に入らない!?いやあの、ちょっとオンリーワンを狙っただけで別に変な意味は……や、やっぱリトルちゃんとかって呼んだ方がいい……?」
なんか、なんだろう。
すごい――気持ちが固まった。
「はい」
「うっ……だよなぁ。ごめんなぁ、そうだよなぁ」
「ん?……あっ、いえ。名前はモブ子でいいですよ。ちょっと気に入りました」
「……おっ?」
「さっきの“はい”はそうじゃなくて――」
私はおろおろしている新人さんの手を握る。
「これからよろしくお願いしますって事ですよ、
少しして。
――満面の笑みで頷いてくれた。
わかった事がある。
どうして勝ったウマ娘共が、あんな幸せそうな顔を見せつけながら去っていくのか。
――選んで貰えた。認めて貰えた。
……このトレーナーはちょっと違うかもだけど――それが、すごく嬉しいんだ。
「よし!さっそく申請だ!いっ、今更後悔しても遅いからな!」
「それはこちらの台詞です。度肝を抜きますよ私の実力」
「……どっちの意味?」
「ふふ、お好きなように」
「……ま、いっか。どっちでも」
いいんかい。
そうして連れ立ってレース場から出ようとする。
そこでふと、こんな清々しい気持ちでここから去るのは初めてだと思った。いつもは鬱屈としていたから。
生きてて良かった……とじんわり思いながら――振り向いた。
今までとは違う風景を楽しみたかったからだ。
――秒で後悔した。
だって――
――
えっ……な。こわっ。
―――――――
――――
――
駆ける。駆ける。駆ける。
何もかも振り絞って――駆ける。
これまでの全て、これまでの思い、これまでの“
全て全て全て、きっとこの時の為に――――!
そうして――駆け抜けた!!
『――――!』
『URAファイナルズ決勝を制しました!今ここに優駿たちの頂点が誕生です!』
――大喝采が響き渡る。
その全てが――この、私に注がれる。
笑顔でそれに手を振りながら、じわじわと実感が躰全体に広がっていった。
勝った……勝ったんだ。
ウマ娘たちの栄えある頂点に、私は立てたんだ。
「――――!!」
そんな大喝采の中。何万人の声に埋もれようとも――絶対に聞き逃すはずがない、愛しい人の声が聞こえてくる。
振り向くと観客席の中から飛び出して、転がるようにこちらに走り出してきていた。
あーもう。新調したっていう一張羅がもう台無しじゃないかまったくこの人は。
「よくやった!よくやった!ほっ、ほんとにぃ……!うぅ……よ゛く゛か゛ん゛は゛っ゛て゛も゛ぉ゛……!!!!」
勢い良く抱き締めてくる彼を受け止める。
顔が肩越しに隠れてもぐしゃぐしゃな泣き顔は容易に想像が出来た。
しょうがないな、と呆れながら抱き締め返すと――余計にスイッチが入ったのか泣きの勢いが増す。
うーん。この後の勝者インタビューで肩がぐっしょりなのはちょっと勘弁してほしいんだけどなぁ。
ぐしゅぐしゅと鼻を鳴らしながら、“彼”――
「お前はっ、お前は――俺の誇りだ!この日の事はずっと忘れないっ!たとえ何があろうとも、絶対……にぃ……!」
最後まで言う前にまたポロポロと涙を流し始めるこの人は――本当に、心の底から私の事を想って、勝利を信じてくれて。
喜んでくれて。
なんか――こう、気持ちが、溢れて。
「――えっへんっ!!」
急な咳払いに我に返る。
ふと――彼の顔が間近に迫っている事に気が付いた。
えっ、まさか、私。キスしようと………!
「無粋ッ!!……ではあるんだろうが、一応は先生と生徒の立場であるからな。まあ、なんだ。……二人きりのところでやるように」
咳払いをしたであろう理事長が苦笑いで窘めてくる。
ひゅーひゅーと煽ってくる観衆の声が耳に入ってきて――余計に羞恥極まってくる……!
ああもう!なんできょとんとしてんのこの人!
情緒、小学生か!こういう場面で顔を近づけたら“そういう事”だとわかるでしょう!わかれ!!
照れを隠すように、勝者インタビューだと急かすと――いつものように、まあいっかと納得したらしく、鷹揚に頷く。
「ああ!おら、野郎共!歓声が足らねぇぞもっと声あげろ!」
――ワァァアアアアアアアアアアア!!!
ビリビリと痺れるような感覚が全身に伝わる。
私も、感極まって泣きそうだった。
でも、我慢したい。
この涙も、この感動も――この想いも。
この人と二人きりの時に流したいし、吐き出したいと――伝えたいんだ。
「ほら、行こうぜ。―――」
勝者が立つウィナーズ・サークルに誘うトレーナーの手を握る。
ああ、もし“彼”が今も望んでくれるなら。
このままずっと……貴方と……
――バツンッ――
ふと、電源が落ちたテレビのように何も見えなくなった。
気が付けば、見慣れた天井が目に入る。
横を向けば――同室の子がスヤスヤと眠っていた。
窓から覗く朝日を見ながら、私は先ほどの事が夢であった事を悟った。
にしたって、変な夢を見たものだ。
それはトレーナーと“三年間”を過ごした自分の夢。びっくりするような偉業を成し遂げた、奇跡の日々。
でも、所詮――夢だ。
だって――そもそも
今日の選抜レースで見つけるのだ。
これから歩んでいく“三年間”を共にする人を。
そう、思っていたが。
段々と段々と段々と、違和感を覚えてきた。
全部全部――夢の通りだった。
もしかして、もしかして、もしかして!
辺りを何度も探していると――いた。
見間違えじゃない。間違いない。
あの夢に出てきた――
急いで駆け出した。
煩わしい邪魔を押し退けて駆け出した。
これはきっと三女神様が恵んでくれた奇跡だ!
もう一回巡り会えるようにってつなぎ合わせてくれたんだ!
だから、もう一度。
もう一度、私の――――!!
そう、思ったのに。
どうして?
どうして私を選んでくれなかったの?
その日。トレセン学園に前代未聞の事態が発生した。
それは、ウマ娘がトレーナーを拒否したという内容だった。
……これだけならさして大した事じゃない。トレーナーがウマ娘を選ぶように――ウマ娘もトレーナーを選べるのだから。
だが――
――
理事長は急遽、職員を集めた緊急会議を召集。
この案件に対して、なんとか対処しようと策を練り始めた。
――のは。
さっさと、トレーナー室で今後の事を話し始めた、一組のトレーナーとウマ娘は、まだ知らない。
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メビウスの糸は絡まりきっている
――こんなの、ただの妄想だ。そう吐き捨てたかった。
『トゥインクル・シリーズ』を歩む為の第一歩――選抜レースを控え、柄にも無く緊張した私が見た、下らない夢だと。鍛え上げた私の中に、未だ潜んでいた甘えた己の生み出した唾棄すべき戯れ言だと。
言えればよかった。言えずとも、思えばいいのだ。そう思って忘れ去り、現実に目を向ければいい。
なのに……どうしても。
脳裏に浮かぶ――“三年間”を拒否する事ができない。
「………っっ!!!!」
私は、居ても立ってもいらず。
着の身着のまま――トレーナー室へと走り出した。
あの愚か者の顔を見れば、きっと。
この胸に広がるわだかまりが、解消される事を願って。
―――――――
――――
――
「おおっ、意外と広い」
「そうですね。二人じゃちょっと持て余しちゃうかもです」
レース場を出た私とトレーナーはサクっと担当申請を終えると――受け取った鍵を使って、さっそく“トレーナー室”に足を踏み入れていた。
部屋自体はかなり広い。
そこにトレーナー用のビジネス机やホワイトボード、ソファや折り畳み式の机椅子もある。ふと、部屋の隅にあるダンボールを覗くとストップウォッチとかの備品が入れられていた。
別室もあり、キッチンもある。お茶っ葉もお菓子もインスタントも完備されている。
トレーナーとウマ娘、そのコンビの私室兼ミーティングルームとして最高の仕上がり。
新社会人向けのマンションよりも充実したラインナップだった。
「……俺が借りた賃貸より良いんだけど、ここ」
なんかむちゃくちゃ世知辛い事を言い始めたトレーナーは、意気消沈した様子で革張りの社長椅子に座り――左回りで、クルクルと回りながら落ち込み始めた。子供っぽくてちょっと面白い。
それを眺めながら、私はソファに座る。ふわりとした感覚が――じんわりと身体の疲れを癒してくれた。
…………。
担当トレーナーが、出来たんだよね。
どうしようもない底辺ウマ娘だけど、出来た。
私を見てくれる、指導してくれる――トレーナー。
「……あー、畜生。こんなんならトレーナー寮入っておけば……『これで俺も立派な社会人!寮?そんなおんぶにだっこはかっこわるいぜ!』……なんて考えなきゃ良かった……!トレーナー室でこれなら寮も絶対に最高だったに決まってる……!!」
「……んふふ」
……ちょっと頼りないし、今もクルクル回りながら、社会人デビューに失敗した事に後悔しているような人だけど――顔のニヤケが収まらなかった。
傍目から見れば、クルクル回り続けるトレーナーとニヤニヤ笑ってるウマ娘というヤベェ光景だと思う。
でも、それが――とても嬉しかった。……これが友達なら秒で他人の振りするけど。
「……ふぅ」
気が済んだのか回転を止めたトレーナーが息を吐く。私も上がる口角を無理矢理引っ張って元に戻した。
「ごめん、ちょっと鬱入ってた」
「いえいえ」
「んじゃ――トレーナーとしての仕事に入ろうかね」
そう言うと、トレーナーは一枚の書類を懐から出した。
……それは、鍵を受け取った時に貰った――私のレース実績に基づいた評価が書かれたものだ。
「モブ子。まずは君の事を教えてくれ」
「……書いてあるでしょう」
「へへ、まあな。だけどこれは、言っちまえば――モブ子を知らない奴が書いたモノなんだ。目安にはなるけど、一慨に正しい訳じゃない」
トレーナーは私と視線を交わす。
そこには失望も怒りもない。ちょっとの興味と強い真摯な何かがあった。
「だから、君自身がわかっている、
そんな言葉にポロリと言葉が零れた。
「――
「……んん?」
「その……自分の脚質とか、適性とか」
ウマ娘の実力を図る指標はざっくりと脚質・適性で示される。
脚質は“作戦の得意不得意”を示して――適性は“走るレース場、バ場の状態”と“一番早く走り抜けられる距離”を示す言葉だ。
ウマ娘はそれらを指標に、良くあるABC判定で評価が決まるのだ。
ウマによって得意不得意がかなり別れる。
――の、だけど。
「私の場合、全部が全部……遅すぎて分からないんです」
私がいつもビリっけつな理由は全てそれだ――遅い。
芝で走ろうがダートで走ろうが、どっちにしろ遅いから違いはない。短距離?中距離?長距離?マイル?どのみち遅いから意味がない。作戦も、突き放されるのだから関係ない。
「……ふむ。確かに書類もそんな感じだね。大体は最低のG判定。辛うじて、“芝”と“先行”の項目がF判定だけど……モブ子の言う通り、誤差の範囲」
「……ッッ!」
改めて突きつけられると重みが違った。
貫かれるような痛みが胸に沸き上がる。ああ、やっぱり私には才能がないんだなぁ、と酷く他人事のように呟く自分がいた。
トレーナーの顔を見る事が出来なくて俯いてしまう。
「失望……しましたか?」
「ん?別に……なんで?」
「だって、弱いにしても……」
「いやいや。言ったろ――こんなのは目安だよ。当てにならない」
あっけらかんと答えるトレーナーに、恐る恐る目を向ける。
書類で――紙飛行機を折っていた。いや、なにしてんのこのヒト。
出来上がったソレを、ひょいと軽く投げると――かなり遠くの方まで飛んでいき、壁に当たる。
「やべぇ。適当に折ったのにあの飛距離……紙飛行機の天才かも……」と至極下らない事を呟いていた。
「それに、モブ子だって原因が分かってるじゃないか。遅いからわからない――なら、速くなればまた違うだろ」
「そっ、そんなの最初からやって――――!!」
「――
遮ったその言葉は――軽い声色なのに押し黙るほどに強い何かがあった。
「トレーナーはウマ娘を手助けする為にあるんだ。君は自分の事をよくわかってる。そしてそれを乗り越えようと努力してるが実を結ばない。それで終わり?――いいや、違う」
私は顔を上げる。
そこには――真摯な目で私に訴えかけようとするトレーナーがいた。
……えっ、凛々しい……。
「君自身で解決出来ない事は、トレーナーである俺の領分だ。遅い?じゃあ、どんな事をしてでも君を速くしよう。それで万事解決だ」
トレーナーは立ち上がると、私の手を優しく握る。労るような温もりが手先から全体に伝わっていくのを感じる。
……えっ、さりげボデタチ……。
「俺は、新人だから――
…………かおがいい。
どうしよう。すごい励まされたり諭されたり誉められたのは分かるんだけど……走る事しかやんなかった乙女な私には、刺激が強すぎて半分くらいに耳から通り過ぎた気がする。
「ヨシッ!とりあえず、今の方針は“足を速くすること”に決定だ!ホワイトボードに書いておこうか。ええっと……蛍光ペンは、っとと。あったあった」
備品のダンボールから蛍光ペンを抜き取って、ホワイトボード全体に『足を速くしよう!!!!』とデカデカと書き始めるトレーナーを眺める。
………ほんと。
この人と出会えて良かったなぁ、顔が良いし。
私の運もうこれで全部使い切っちゃったんじゃないかと思うくらいの大当たりだ。
……頑張ろう。
語彙力無いけど――ただ、そう思った。
「これでよし、と。……ん?」
トレーナーは出来に満足したように頷いた。
そこでふと、ダンボールの中を覗くと――なにかを取り出した。
「なぁなぁ、モブ子モブ子!」
「はい?」
「――書き初めしない?」
手に持っていたのは、墨汁のボトルと筆と下敷きと硯。あとは半紙の束だった。備品なのそれ?
小学校以来の代物に目を白黒している中、トレーナーは手慣れた様子でセッティングを始める。
「まあ、細かいことはともかくだ。これから二人で“三年間”頑張っていく事になるでしょ?だから、決意表明というか、目標や抱負を書こうじゃまいか」
「なるほど……」
……ちょっと古臭くも感じるけど、そういう意味で気合いが入る事はいいかもしれない。
「さあ、モブ子。好きに書きねぇ」
「はい」
渡された筆にちょちょんと墨を付けて、真っ白な半紙に目を向けた。
さぁ!…………………何を書こうか。
えっ、いや改まって目標を書いてって言われると何を書いていいかわかんない。
『三冠ウマ娘』?いや、それは安直だしデカ過ぎる目標だ。
あっ!さっきの決めてくれたやつが……って『足を速くする』って書くの?ダサい気がする。
言い換えてカッコいい漢字とか……『しゅんそく』?あれ、しゅんそくってどう書くんだっけ!?
「…………」
「…………」
「……先に書いてくれません?」
「うむ」
神妙に頷かれちゃったよ。恥ずかしい。
筆を返すと、トレーナーは少し考えてから――筆を動かす。
「やっぱ突然、やれって言われると出てこないよなぁ。でも、こういうのはね。ポンッと浮かんだ字を適当に書くと意外といい感じに――と。じゃーん、完成」
さっくり書き終わったトレーナーは、筆を置くと見せてくる。
そこには達筆そうに見えるが普通に汚い字で、こう書かれていた。
「――『不退転』?」
「そ。俺にピッタリ。……特に満員電車の荒波に耐え抜いて来た猛者の俺にね……」
「でも結局、遅刻したんですよね?」
「うぐっ。……結果よりも過程に目を向けて欲しいと新人君思う」
一理ある無罪。
……ふむ、そんな感じで書けばいいのか。
私は改めて、紙と向き合う。
パッと思いつく……目標になりそうな、もの…………………あっ。
一つ思いついた私は、それをスルスルと書いていく。
「おっ、いったいどんなの、を………?」
――『無敗の七冠ウマ娘』。
半紙に収めるには文字が多いから、目測誤って、最後の方は豆粒みたいに小さくなってしまったが。
私がパッと思いついたのはこれだった。
トレーナーの何気ないウケ狙いのこの言葉は、存外に頭の中に残っていた。
クラシック三冠に、天皇賞、ジャパンカップ。そして有マ記念連覇――考える事すら烏滸がましいほど偉大なレースを無敗で勝ち続ける。
そんな荒唐無稽な“
ダメダメウマ娘の私が書くと良いウケ狙いになるだろう。
そうして――トレーナーに見せれば、
「――あっははは!」
思わずといった風に笑ってくれた。そんな風に笑ってくれれば、きっと幸いだ。
だけど、すぐに笑うのを止めたトレーナーは――しばらくそれを眺め、ニヤリと笑いかけてきた。
「よし、額縁にでも収めて飾るか――
いきなりとんでもない事を言い出した。
「えっ。ほっ、ほんとに目指すんですか!?」
「あたぼうよ!なあに、夢はでっかく!目指すだけならタダだよタダ!」
「えっ、えー……」
トレーナーは備品のダンボールを漁り、無いと見るや別室の方に消えていく。あの感じなら、そこにもなければ買いに行きそうな勢いだった。
私は――呆然としてしまう。
いやぁ、普通に無理でしょう。考える事すらしないよ。
こちとら無勝の底辺ウマ娘ですよ?最近一番傷ついたのは『ハルウララと全力で併走出来る女』な私ですよ?
クラシック三冠どころか――格のあるレースにすら出れる見込みはない。
でも、でも。
ふと、想像するのは。
胸元に七冠の証であるメダルを付けて、華々しい場所で観衆に手を振る私の姿。
誰もが私の名前を叫んで、惜しみない賞賛を浴びせてくる光景。
………いい…。
「……目指すのは、確かにタダよね。うん」
ただし、周りに言ったら嘲笑混じりに笑われる類のものだが。
私はそう決意し、紙を見つめた。
…………。
……。
「飾るならもっとちゃんときれいに書こうかな」
こんな『無敗の七冠ウマ娘』じゃ格好が付かない。
もうちょっとこう、うまい具合に収まる感じに――――
――
そこで、不意にドアをノックする音が聞こえた。
……なんだろう。
トレーナーは、別室で物ひっくり返すのに忙しくて聞いて無さそうなので、私が聞くか。
「はい?どなたです?」
『……す、まない。私だ――エアグルーヴだ。生徒会に関する用件で来た』
「……エアグルーヴ先輩?」
その振る舞いや溢れる才覚から“女帝”とかいうカッケーあだ名で呼ばれてる生徒会副会長で、ほとんどの後輩から好かれてる才媛だ。
……私?もちろん、一歩進むごとに足の小指強打して悶絶しろって思うくらいには好いている。私以上に強い奴ら全員そんな感じだ。
……何故に私達を訪ねてきたんだろう?
とはいえ、生徒会の話なら拒否しても面倒だし「どうぞ」と許可を出す。
「……失礼する」
入ってきたエアグルーヴパイセンはーー選抜レースでの格好そのままだった。どうやらその足でやってきたらしい。
とりあえず、ソファに誘導し、飲み物は……水でいいか。
「すまないな」
かーっっっ!!!すましてやがる!
……まあ、いい。さっさと終わらせてどっか行って貰おう。偏見だけど――うちのトレーナーは絶対、美人局に弱い。
「それでどういった用件です?」
「……トレーナーと専属契約を結んだウマ娘とは、一度、トレーナー共々面談するのが決まりでな」
「面談……」
……
いや、ほんの一時間前までトレーナーなんて出来る訳ねぇだろバァーカとしか思ってなかった私が知らないだけかも。そういった話題は辛くなって避けてたし。
「それで、お前のトレーナーは――」
「モブ子ー」
あっ、出てきた。
別室からのそのそと出てきたのは埃まみれのトレーナー。その手には、金の額縁が握られていた。マジか、あれも備品扱いなの?
「ちょっとデカいけどこれしかなかったからこれでぇ…………え?お客?」
トレーナーはエアグルーヴを見て、少し戸惑った様子を見せた。
……あっ、もしかして新人だから名前を知らないのかも。
教えてあげようと口を開く前に――すっ……と、エアグルーヴが彼の前に立った。
「…………」
「えー、っと?」
「……貴様は……」
エアグルーヴの表情は、私からは見えない。
だけど――どこか震えているように見えた。
「私の事を、覚えているか……?」
声だけ聞けば、それはエアグルーヴとは思えないくらいに小さくか細い言葉だった。ていうか、えっ?もしかして、うちのトレーナー。エアグルーヴと面識あるの?
……そういえば、レース場で睨んできた娘たちに混じってた気がする。えー、どゆこと?
「あー……えっと」
トレーナーはしばらく視線を右往左往させて記憶を探っていたようだけど……結局、ピンッとこなかったらしく、ポリポリと頬を掻いた。
「――
ピシリ、とエアグルーヴは固まった。
トレーナーが知らないんじゃしょうがないが――ちょっと、このウマが不憫になったので、横から教えてあげる。
「トレーナー、この人はエアグルーヴ先輩です」
「……エアグルーヴ、先輩……えっ、先輩?モブ子の?」
「ええ」
チラリとエアグルーヴを見ると――びっくりするほど青ざめた表情でトレーナーを見つめている。
……えっ、これがあの“女帝”?こんな迷子のような不安げな表情をしているのはほんとに“女帝”さんです?
トレーナーもあまりの顔に申し訳なさが出てきたようでこそっと耳打ちしてくる。
「……失礼しちゃった感じかこれ」
「……恐らく。きっと幼少の頃とかあった感じじゃないです?たぶん」
「……いや、でもガキの頃なんかウマ娘と関わりなかったしなぁ」
「……学生の頃は?たとえば、喧嘩から助けたとか」
「……俺の灰色の青春について聞きたいのか」
「……あっ、ごめんなさい」
あんまりにもあんまりで、メシウマとも思えなくてすげぇ居たたまれない。
どうしようかこれ、とお互い顔を見合わせていると――
「……そ、うか。すまない、勘違いしてたようだ」
エアグルーヴが俯きがちにそう言ってきた。
「その……俺と君はどっかで――」
「――
「あっ、あっ、そうですか」
「……これで失礼する」
ふとすれば聞こえないくらい小さな声で、フラフラとエアグルーヴは部屋を出て行った。
「……………」
「……………」
何ともいえない空気がトレーナー室を包む。
えっ、えっ、どうするのこれ。どうしたらいいのこれ。なにすればいいのこれ。
「……モブ子」
トレーナーが重々しく口を開いた。
「――俺、
「いっ、いやぁこれは……一慨にトレーナーのせいとはぁ……」
「社会人初日に遅刻で、女の子泣かせて、これからも毎日一時間半ムサいおっさん達と過ごして、家より豪勢な部屋で仕事して、ちゃっちいボロ屋に帰らなきゃいけないのか……」
この妙な空気が収まるまで。
取りあえず、トレーナーの背中をさすってあげた。
――――――
―――
――
――
「………」
これで。
この脳裏に浮かぶものは――くだらない私の妄想である事が証明された。
「………」
さぁ、戻ろう。
レース場に戻り、有望なトレーナーを探さねば。
“女帝”という名にふさわしく、華々しい結果を残し、後進に道を示すんだ。
「………」
さぁ、行け。
こんな廊下でうずくまっている時間はない。
「………」
動け。
「………」
動いてくれ、頼むから。
「………」
これ以上、私に無様を晒させないでくれ。
――『
声が聞こえる。
――『ルーヴルちゃん。今日のメニューの件なんだけど』
うるさい。そのバカな呼び方を止めろ。
――『えー、だって普通に呼ぶのはつまんないだろ。オンリーワンだよオンリーワン』
何がオンリーワンだ、たわけ。
――『ルーヴルちゃん……あのぉ、ですね?実はその、不可抗力と言いますかなんと言いますか。あの、たづなさんに提出する書類をすっぽり忘れていまして、そのぉ……生徒会権限でなんとか……?』
ながい。できん。謝りに行くなら一人で行け。たわけ、たわけ。
――『ルーヴルちゃっ……ルーヴルさま助けっ!ふっ、不良ウマ娘に襲わ――うぉおお!離せゴールドシップっ!なんで会う度に服剥こうとしてくんの!?しかもなんで無言で無表情なの!?どういう心境でこん――ああッ!?俺の一張羅がぁあああ!?』
またゴールドシップにスーツを引きちぎられたのか。あれほど近づくなって言っただろうまったく。
――『ルーヴルちゃん、いつもお掃除ごめんね。昼ご飯出来たけど、食べてく?』
貴様の為じゃないわ。たわけ。
――『ルーヴルちゃん、勝ってこいよ』
「……さい……」
――『――ルーヴルちゃん!!』
「うるさい……!このうそつきめっ……!」
――『お前はっ、お前は――俺の誇りだ!この日の事はずっと忘れないっ!たとえ何があろうとも、絶対……にぃ……!』
「
――『ルーヴルちゃん』
「そんな間抜けな名で私を……!……わた、しを……」
「――たいへんだよぉ~~~!!!!」
ふと――我に返った。
うずくまったまま、声の方に首を向ければ――ちっこいピンク色がこちらに走ってくるのが見える。
んぅ……滲んで良く見えん……。
鬱陶しい液体を拭ってからもう一度見ると――
「――たいへんたいへん~~~!!」
アレは……ハルウララか?
なにしてるのだあのバカは。
だが、いいタイミングだ。思考が逸れてくれる。
深く息を吐いてから、立ち上がり、彼女を待ち構えた。
「おい、止まれ。廊下を走るな、バカ者」
そこでようやく私の存在に気づいたらしい。立ち止まるや否や、わたわたと慌てだした。
「あっ!えっと、えっとねっ!たいへんなの!」
「知ってる。なにがだ」
「――キングちゃんが!」
……
…………ああ、同室のキングヘイローの事か。
そういえば、アイツ――今日の“選抜レース”で姿を見せなかったな。
「キングヘイローがどうした?」
「なんかねっ!すごいねっ、うなされてて!!あのっ、お熱もスゴくて、あのっ!あのっ、ねっ!」
「ああ、わかったわかった。一回落ち着け」
どうやら、体調を崩したようだ。
まったく体調管理がなってない奴め。
……丁度いいか。今はあのたわけ者の事など考えたくない。あまり接点はないが、偉大な母を持つ者同士と思えば違和感も無かろう。
「丁度、手が空いたところだ。確認しよう。保健室に連絡したか?」
「………あっ!」
「はぁ、じゃあ、してやる。お前は部屋に案内してくれ」
「はーいっ!ありがとう、ふくかいちょーっ!」
「ふん」
私はハルウララを連れ立って、寮へと歩いていく。足の遅い彼女を急かしながら。
此処は――下らない妄想が騒いでならない。
離れれば、収まるはずだ。
この胸の喪失感も、きっと。
「――
ふと、道すがら。
私はハルウララに尋ねた。
「どうして、お前は保健室や職員室に行かずにあそこで走っていたんだ?」
「えっ……?」
「だから。あそこは――
私の問いに、彼女はパチクリと瞳は瞬かせた。
「え、なんでだろ?だって……
「……ああ、わかった。もういい。何も考えるな」
「あ、うん……」
あの時、ハルウララは混乱した様子だった。
きっと友達が危険な状態で慌ててしまったんだろう。有事の際はこういう事があるから気をつけねばな。
……少し、気分転換をさせてやるか。
とはいえ、コイツの好みも知らんし……――そうだ。
「ハルウララ。お前はたしか、トレーナーはまだ居なかったな」
「うん」
「なら、朗報だ――トレーナー無しでも『トゥインクル・シリーズ』に出れるかもしれんぞ」
「えっ!?ほんとに!?」
「ああ。今、会長がその話を理事長にしているところだろう」
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“夢”にしては重いが、結局――“夢”である。
“選抜レース”の行程を終え、お昼が過ぎる頃。
本来なら、終わった時の慰労も兼ねて“お茶会”を予定していたが――キャンセルのメールを送る。ドタキャンになるが、今日はもうそんな気分じゃなかった。
――
レースの疲れからか――「そうしようとしていた」と言ってくれたのが救いだった。
「………」
わたくしは“夢”を頼りに、あるレース場を訪れた。
そこはトレセン学園の外れにある、設立当時からある古い場所。
所々、経年劣化している為、最低限使えるようには維持している程度の……人気もなく、静かな場所。
よく、トレーニングに使っていた……いえ、
わたくしとトレーナーさんが通うはずだった、そんな場所。
―ーレースの熱を冷ます為でしょう。
他にも何人かが静かに過ごしているので――邪魔にならないように、端の観客席に腰掛ける。
ターフを眺めていれば、出てくるのは“夢”の事。
あの素晴らしくて愛おしい、わたくしの運命を決めた特別な“三年間”。
――『ここならお嬢様然とした言葉を意識しなくても大丈夫だよ!さぁ、かっとばせー!ドナルド嬢!』
「……誰がハンバーガーチェーンのマスコットですの。……可愛くありませんし」
ここは“夢”が囁く、思い出の場所――激情を抑えるのには、一番丁度良かった。
あんな……あんな……!
わたくしがもっと早くに気づいていれば。
わたくしがもっと近くに居れば。
わたくしがもっと――貴方を、
あんな――泥棒ウマに付け込まれる事なんて無かったのに。
――――――
―――
―
――トレーナーの再起動は、結局お昼過ぎまでかかった。
何を言っても応答せず、床に倒れ込んで、死んだ魚のような目で縦横無尽に部屋を転がり始めた時はいったいどうしようかとも思ったが――丁度、お昼時になったので、引きずるようにカフェテリアに行って食事したら、案外ケロリと治った。
敬うべきは、B定食(ステーキもりもり)だ。
男の子は肉を食わせれば大人しくなるってママが言ってた。
やっとこさ会話が成立するようになったトレーナーは――私の走りを確認したいと言い出した。
やはり論より証拠。間近で見たいのだろう。
……トレーナーに私の激遅走りは正直見て欲しくないが――そんな事言っては本末転倒なので、頷いて。
さっそく、とばかりに必要な物を持ち出して、意気揚々と私のお気に入りのレース場に繰り出したん……だけど。
だけどもね。
「「「「「……………」」」」」
私たちは今――
「あの……トレーナー」
「うん」
「……率直に言っていいですか」
「うん」
「――こわいです」
「おれも」
あれー?おっかしいなー?
私がいつも使ってる、このレース場って、ちょっと古いから人気が無いはずなんだけどなー?居ても数人の名も無き頑張り屋さんしかいないのになぁー?
「いつも静かで、全然人がいないんですよー」「じゃあ、気にせず延び延びと走れるねー」なんて和気藹々だったんだけどなー?さっきまでなー?
いや、静かなんだよ?――誰一人として話してないからね?
人も居ないよ?――ターフの中にはな!
ただ私たちが来た時には、いやがったのだ。
なんだお前ら暇なのか。それも内外で名が上がる今年注目のエリィィィィィト共じゃねぇか。なにしてんだ、こんなとこいる暇があるならトレーナーんとこ行けよ行っていや行ってくださいお願いします!
「「「「「……………」」」」」
ひぅ。視線の圧やばぁ。
ていうか、この人ら――あの時に睨んできた連中じゃん……。
えー、エアグルーヴ先輩といい、いったい何なの……。
「と、とととトレーナーぁ……」
流石に無理だ。これは無理。
こんな場所で走るくらいなら、ハルウララと併走してた方がマシだ。
私が全速で頑張って走ってる時に「みんなはやいねー!すごいねー!」なんて、平気な顔で言ってくるのを、生暖かい眼差しに晒されながら聞く方が絶対っ、マシだ。
帰ろう。トレーナーを持てただけで今日はもう頑張ったよ……!
「いや、走るぞ?」
「えっ゛」
「まあ――違うとこはもう皆使ってて空きがないだろうし。普通のレースはこの何十倍もの輩に見られるからな。予習ってことで。やってれば帰るよきっと」
んんんん!!たしかに!
でも、でも……あのやべぇ面前で、私の……あんな、走りを……。
「
トレーナーは私を呼ぶ。
別に窘めてるでも、呆れてるでもない。ただ――私を呼んでくれた。
うぅ……!
そうだよね。せっかく私を選んでくれて、期待してくれて!
さっき、頑張ろうって思ったんだから……!!
「が、んばります」
……よし!やるぞ!
大丈夫、大丈夫よ!――笑われるのにはもう慣れてるからなガハハ!
……ハハハ。
「うん!頑張ろうな。大丈夫だよ。たぶんここ静かだからゆっくりしてるだけだろうしさ。もしそれでもアレなら――俺がうまぴょい伝説でも踊って注意引くから」
「ふふっ、そうならないようにがんばりまーす」
恐る恐る――ターフの中に入る。視線はさらに強くなった。
うぅ……!歴戦の猛者みたいな面しやがって……こちとらか弱い乙女だぞ!
でも、冗談を言って和ませてくれたトレーナーに背く訳には……!
あっ……。
そう言えば舞台に出る人って、確か観客を畑のカボチャだって思い込んで緊張を和らげたりするって聞いた。
私も、私も!
「「「「「……………」」」」」
う、うわぁーあのカボチャ、ティアラっぽいのつけてるーめずらしー。あれはヘッドギア?うわぁ、未来的だね!あとは向日葵と王冠と注連縄に薔薇にお面に羊にナリタにメジロにうおおおおおおお!
いや、思い込むにしても個性的過ぎて無理だこれ!
「うぅ……」
畜生ッ、足が震えて来やがった……!
こ、これはやはりトレーナーに撤退を――!
「ふふ~ん、ふ~んふ~ん」
くそっ!あっちはノリノリでストップウォッチとかセッティングしてやがる!アレ絶対、トレーナーっぽい事が出来て喜んでる顔だよ!
アレを曇らせるには私の根性が足りない!
「………」
前門の虎に、後門のイケメン……か。
このままでは埒が明かないので――意識して、深呼吸をした。
何度か繰り返す内に――なぜだか、妙に落ち着いてきた。
「――あ」
走る時――誰かに見られている感覚はいつもあった。
良いものじゃない。それは嘲笑と憐憫だ。
遅い私を嗤って、どんなに頑張っても変わらない私を気の毒に思う……そんな目だ。
いつもだ。
でも――今は違う。
まっさらで暖かい目が――私を見ているんだ。
それが、すごく心強い。
……あと、あの仕事が楽しい!と輝いてる目を裏切れないってのもちょっとある。
「………できます」
「よーし!じゃあ、中距離2000mで!全力じゃなくてもいい。とにかく、走り切る事を意識して!」
よし!
さっき学んだ必勝法、周りキョロキョロで少しでもマシなコンディションにするぞ!
「……ふんっ、ふんっ」
「………ん?」
「ふんっ、ふんっ、ふんっ」
「………」
「………」
「……もういい?」
「あっ、はーい。あざまる水産でーす」
――よーい、どんっ!と合図で、私は駆け出した。
「はっ……はっ……はっ……!!」
………くそっ!やっぱ実力がないと意味ないかキョロキョロは!
うーん。やっぱりトレーナーが付いただけで変わったりするかとも思ったけどだめかぁ。
走りながら思う――わたし、おっせぇ……。
いやね?真面目だよ?
速いって噂の走法を使ってるし、中距離での呼吸ペースとかそういうのも意識してやってるよ?
それでも、おそい。んー、トレーナーも残念が――――
「「「「「……………ッ」」」」」
おい誰だ――今、
観客席の方から聞こえたぞおい。
お前それアレだろ?「うわコイツマジおっせぇ!おっ、いかん……今笑ったら誰が笑ってるかわかっちゃうぅ……!まだだ……まだ耐えろ……ぷくく」とか思ってんだろ絶対。
上等だ――次、吹き出したヤツ覚えとけよ。
明日、目に物見せてやるからな。下駄箱の中に増えるワカメちゃんたんまり入れといてやるからなお前な。
精々、笑わないように腹筋を締めとくんだな!
「はっ……はっ……はっ……!!」
コーナーを曲がる。
チラッと横目を向ければ――トレーナーが真面目な顔で私を見つめていた。
あ……かおがいい……顎に指を添えてると大人な雰囲気が増して、特に……!
私の一挙手一挙動をちゃんと見てくれ――あっ、苦笑いで前見ろって指差された。
反省。ちょっと不真面目だった。
「はっ……はっ……――ふっ……!」
少しして、最終コーナー。
ラストスパートを掛けて――ゴールイン。
順当に変わらず、いつも通りの走りをする事が出来た。
いつも通り――特に感想もない。
“君の走りが確認したい”というトレーナーのオーダーを満たせたのだけが幸いの、遅い走りだ。
息を整える私にトレーナーが近づいてくる。
あらかじめ私が用意していたタオルとドリンクを持ってきてくれた。
「お疲れさま。ほい」
「あ、りがとうございます……ふぅー。それで、どうでしょう」
「んー。まあ――遅かった」
――内角深めストレートッッ!!
つい、グフっと呻きがこぼれる。
そっかぁ……なんのかんの優しそうなトレーナーから見てもそうかぁ……。ふふ、凹む。
「でも、ちゃんと光るとこはあった」
おっ……?
「途中……あー、前半かな?ちょっと足取りを強くしたとこがあったね。スパートをかけるには変なところだったけど――力強い踏み込みだった。適したとこでやれば良い“ペースアップ”に使える」
足取りを強く……?
あっ、もしかして増えるわかめちゃんの時?
怒りで無意識に踏み込んでたのかも。
「あと、コーナーを曲がった後、俺の方を見た。余所見はもちろんダメだけど――その間、ペースが乱れる事もなかったし、コース取りも安定してた。……ここが走り慣れたバ場ってのもあるんだろうけど、これを自在に使えるようにすればそれは君の武器になる。走りながら違うことを出来るって事だからね」
………。
まさかの余所見をめっちゃ拡大解釈してくれた。
……いや、でも確かにそうかも……?
「モブ子。今の君の実力は確かにダメダメのダメ子ちゃんでチョバリバのチョモランマかもしれない」
そこまでは思ってない。
「だけどね?――
がっしりと肩を掴まれる。無理くり合ったような視線。
トレーナーの目には、びっくりするくらい純粋な期待が寄せられていた。
「これは……あの、目標――行けるぞ」
えっ、えー……?
ほんとに?こんな、私が……?
「……すごい……すごいぞ――
トレーナーはブツブツと呟きながら、策を練っているようだったけど――半分も聞こえない。
すごい胸がドキドキする。
だって、だってこの人は――私のドンくさい無様な走りから、こんなにも可能性を見い出してくれて……認めてくれて……。
「………っ」
ふと、目頭が熱くなる。
生きてて良かったぁ……!これ帰ったら絶対に友達に自慢しよう……!
今日は記念日だ……!
私とトレーナーの記念日にしよう!
ふふっ、ふふふ!
あっ――そうだ。ついでに観客席にいる輩にも自慢しよう。
お前らのように才能に恵まれなかった底辺でも、良いトレーナーが付くんだぞってな!
ふーははは!見ろ上級ウマ民どもめっ!
――――。
あれ、誰もいねぇ。
あっ――もしやあまりの熱血ぶりにこうしちゃいられねぇってトレーニングに戻ったな?
くくく、今年のダークホースとして恐れ戦くがいいわ!
私……もう何も怖くない…!!
「――おっ、お待ちなさい!!」
ひぃ!?ごめんなさい!調子に乗りました……!?
ん……?いつのまに目の前に……って。
この人――観客席にいた、メジロカボチャだ。
「……ッ!……ッ!」
えーっと、メジロで紫っぽい髪の子はぁ……――マックイーン。
そう、
今年のエリート共の中でも――血統で約束された実力者。
勿論、バカみたいに鼻に付く。
けど、この人――お菓子食べるとすぐに体重変わっちゃうって聞いてから親近感沸いちゃってなぁ……。
トウカイテイオーに、減量中に目の前で菓子をそれは旨そうに食べるのを見せつけられる、ていう特大の煽りをされてて、本当に哀れに思った記憶がある。
アイツほんとクソガキだよな。そこだけは友達になれると思う。
そんな憎めない彼女は――めっちゃ憎しみの目で私を見てくる。
えっ?なにかした?
「……あ、あなっ……この、どろぼっ……!!」
もうなんか、言葉よりも先に怒りが先んじて何も発せられないって感じだ。
顔真っ赤に何か発しようと口をパクパクしてから――結んで。
ギンッッ!と鋭く睨みつけられた。
「わたくしは!絶対に――認めませんッ!!断じて!絶対に!許しはしませんから!」
心の底から吐き捨てるように叫ぶと――その視線は、トレーナーに向く。
「あっ、貴方も貴方です!まだ知り合って一日もしないような関係でありながらあのような距離感で掴んでまくし立てあろうことかあんな走りに可能性を見いだすなんてわたくしにはあんなことをしてく――――」
――あっ……。
あー、これはぁ……アレだ。
さっきのエアグルーヴと同じ臭いがするな?
チラッとトレーナーを見ると――めちゃくちゃ首振ってくる。
いやいや。いやいやいや。
絶対面識あるってこれ。幼少期とかになんか約束したでしょ。節操ねぇなこのトレーナー。
ほんと都会なボーイだ。そこだけは減点ポイント。
「絶対に……!」
メジロマックイーンは真っ赤な顔に涙を湛えながら――
「絶対に認めませんから!貴方様の浮気者―――!!!」
叫びながらものすごいスピードでレース場を飛び出して行った。
おお、アレが話題のマックイーンの“先行”走り。すっげぇ安定感だぁ。
にしても……。
「トレーナァー?」
「いっ、いや待って!ほんとにほんとに知らないんだけど!?」
「知らない人があんなに叫びますぅ?」
まったく……。
――待てよ?もしかしてあの時の睨みって……?
エアグルーヴもそうだし、マックイーンもそうで……まさか――
まさか――全員と面識があんの、このトレーナー!?
「ぷっ、プレイボーイ……!」
「なっ!心外ッ!心外で侵害ですよモブ子さん!こちとら女性経験も関係すらもなかったんですが!?」
「はい、うっそー!東京の男の子は皆、最初はそう言うってお母さんが言ってましたー!」
「偏見の固まりだなぁ君のお母さんは!?ちょっと問い質したい!」
「あっ、そうやって外堀を埋めていく手口ですねっ!?卑劣極まる……男ならまっすぐぶつかって来てください!」
「くそっ、これだから思春期のピンク脳はぁ……!」
――結果。
結論はまとまらず、不毛な水掛け論の繰り返しをしていたら――もう夕方になっていた。
なんかすごい無駄な時間を過ごした気がするけど、ちょっとトレーナーと仲良くなった気がする。
「だから、絶対に子供の時に結婚の約束とかしたんですってば」
「それは無いってばさ。モブ子、小説の読み過ぎー」
「でも、確信は?」
「……ないけど」
「なら、忘れてるだけでしたんですってー」
「もうこのやり取り十回くらい繰り返したよ」
連れ立って、校門まで歩いていく。
トレーナーはこれからまた地獄の一時間半を乗り越えていくので、今日はこれで解散だ。
「もー。女の子は約束に敏感なんですから、気をつけるんですよ?」
「はいはい。思い出せたらー―ちゃぁーんと謝りますよーだ」
「おっ、言いましたね。私のメモリーに録画しましたよ」
「へいへーい」
校門に着いた。
どっちからとも静かになる。騒がしさが無くなって、ちょっとドキドキする。
「モブ子」
「あっ……はい」
トレーナーは静かに手のひらを差し出した。
意図はすぐに分かって――私はそれを強く、握り締めた。
「――これから“三年間”、一緒に頑張って行こうな」
「はい!目標も、達成……できるといいな……?」
「ははは、弱気だなぁ」
笑い合って――手を離した。
「んじゃ、またな。明日から本格的にトレーニングするから、“寝不足”にはならないように!」
「はーい」
トレーナーはそう言って、校門を出て行く。
その背が見えなくなるまで見届けてから――私も踵を返した。
寮へと歩く道すがら。
――ふと、広場の“三女神像”に目が向く。
……そういえば、あの人――私を選んだのは、三女神のお導きとか言ってたな……。
………。
………。
「――こんな、素敵な出会いをありがとう。
―――――
――
―
――
どんな時もわたくしは、そうした感情を抱いた時は無かった。
今までも、あの“三年間”も。
この身を焦がすような激情は、決して。
「あの娘は、あの人の価値をわかってない……!」
あの人は間違いなく天才だ。
わたくし達、メジロ家の悲願を達成させてくれたのは勿論。目標になかったクラシック三冠・春シニア三冠・秋シニア三冠も成し遂げた――とんでもない人なのだ。
そんな人が、あんな、あんな――弱い、ウマ娘を担当するなんて!
わたくしが、一番ふさわしいというのにぃ……!
「うぅ……トレーナーさんのバカ……どうして、わたくしのことを覚えてなさらないの……」
自分でもバカなことを言っているとは思う。
全ての根拠は“夢”だ。突拍子もない――“三年間”。
言ってしまえば、妄想だ。
なのに――そう呼ぶにしては、
「はぁー……」
だが――もう遅いのだ。
あの人の頑固さは知っている。どんな目標を掲げているか知らないが――きっと成し遂げるだろう。その間、ずっと専任でつきっきりで。
この胸の痛みは――永遠に付きまとう。
「明日、隕石が落ちてこないでしょうか。――
そうすれば、後はきっと“一心同体”パワーでわたくしのことを思い出して、幸せハッピーエンドが……!
――コンッ、コンッ、コンッ。
ふと、ドアがノックされる。
トレセン学園内でメジロ家が用意した――サロンのドアが。
……誰だろう?
ライアンやパーマーには、今日は一人にしてほしいと伝えたはず。清掃員……にしては早すぎる時間帯だ。
「……どなたです。夜半であることはおわかりでして?」
『すまない。シンボリルドルフだ。火急の用があってね。時間は掛けないことを約束する』
……
……………。
まあ、このまま泥棒ウマの抹殺計画を練るよりかは不毛なことにはならないか。
「どうぞ」
「――失礼する」
そうして入ってきたのは、茶毛で白の前髪が特徴的な凛々しい女性。
――シンボリルドルフ。
“皇帝”の異名を持つ、今の段階では――
このトレセン学園での、絶対的な力の象徴。
……まっ?全盛期の七冠の時でも、よゆーで蹴散らせますけどね?あの人と一緒……い、うぅ……!あの泥棒ウマ……!
「お茶でもご用意しますか?」
「魅力的な提案だが、言った通り時間は掛けないよ」
早速だが、と。
強い視線がこちらに向く。
「君はまだトレーナーは居ないようだが――これから、見通しはあるかな」
思い出すのは、あの人の顔。
「……ありませんわ」
「ほう。この“中央”でも、メジロ家のご令嬢は満たせないか」
「ええ、ええ――
本当のことは言うつもりは欠片もない。
“夢”のことなど――他人から見れば、気狂いの類だろう。
「でも、いいのかい。このままでは
「ええ、別に」
ほんの今朝のわたくしなら違う答えを出しただろう。
でも、今のわたくしは――そんなのどうでもいい、ですわ。
トレーナーが居ないから『トゥインクル・シリーズ』に出られない?
ふん、あの人の下で走れないなら価値はない。
そもそも――
妥協して他のトレーナーを選ぶくらいなら、泥棒ウマ殺害計画でも練ってた方がまだ有益ですわ。
……家の力を使えば、完全犯罪というものが出来るかしら?あとでじいやに聞いてみよう。
「――そうか」
会長は、私の言葉に満足気に頷いた。
……?あら?てっきり、トレーナーを決めろと催促に来たとばかり。
「そんな君に朗報だ――今、私はトレーナー無しでの『トゥインクル・シリーズ』の特例出走について理事会に訴えていてね」
「概ね、認められた。条件はまあまあ厳しいが――そのぐらいは問題ない。あとは、まとまった数の署名が必要でね。もし、君が“ソレ”を望むなら、この書類を記入してほしい」
渡された書類には――まさしくその内容が記されていた。
公的判に、理事長の印がある。
「
そう言うだけ言うと――踵を返した。
言葉の通り、長居はしないのだろう。
「お待ちになって」
だが――疑問がある。
「……なにかな」
「申し出は助かりますわ。正直、渡りに船ですし」
「それはよかった。あっ、何なら今受け取るが――」
「――ですが」
なぜ、この人は――
「何故、貴女がこのような物を推進するので?だって、
「――言わないでくれ」
返されたのは食い気味の拒絶だった。
その言葉は、かすかに震えていた。
……なにか、トレーナーとトラブルにでもなったと考えるべきかしら?無敗でクラシック三冠を取れるくらいなのだから、相性は良いでしょうに。
まあ、特に個人的なことには興味はない。単なる疑問だったし。
「すみません。出過ぎたことを」
「……いや、いいんだ」
そう言うと、書類のことだけは考えてほしいとだけ言って出て行った。
「ふぅむ」
書類の記述を軽く流し読む。
条件については問題ない――考えるのは、先のこと。
これから、あの泥棒ウマは――『トゥインクル・シリーズ』に出るだろう。
仮にも、あの人が担当するのだ。
あの無様な走りも――化ける可能性がある。
「そういえば……貴方様とは一緒にいましたが――正面から戦ったことはありませんわねぇ……」
ふと――血が騒ぐ。
「ふふふ、
そうすれば、きっと貴方も思い出すはず。
わたくしを、この――メジロマックイーンを。
そうしたらまた、あの“三年間”の続きを、絶対に――――
「もし、勝てなくても。メジロパワーでなんとかしましょう。大丈夫、“名家は力、存分に振るうべし”ってあの人も言ってましたしね」
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その昔。ラップ越しに見える星には――三食煮物ブームがあった。
翌朝。
私は――“絶好調”であった。
「ふ~ん、ふんふ~ん♪」
寮を出てすぐ。
校舎に繋がるー――広場への道。級友達が入り乱れた道を行く。
いつもの見慣れた道なのに、とても新鮮な気持ちだった。
――全てが輝いて見える。
空気がおいしい。朝ご飯もおいしかった。茶柱は立ってなかったから自分で立てたし、制服はまるで新品を着ているかのように自己暗示した。
フジキセキ寮長のスカした言葉も、今の私にはピッタリ。私はポニー娘だ。
いつもは端の方でぼそぼそと歩いている道も――今は堂々と正面を歩けちゃう。
朝日が輝き、ピチパク鳴く小鳥のさえずり。
想像の縦ロールが揺らめく……おーほっほっほっほ!!!
「んー!いいお天気!小鳥さんもおはようっ!」
ずざーーーっっ!!と、周りの娘たちが距離を取ってきた。
あららぁ?どーしたのかなぁ?
あっ、真ん中が空いた。主人公ならちゃぁんと真ん中歩かなくちゃね。
ふふふのふ~。
「……えっ、どうしちゃったのリトルちゃん」
「昨日の夜からあんな感じよ。あんな感じで一人だけでブロードウェイしてんの」
「……なんでもトレーナーが出来たらしいわよ」
「えっ!?あの“たづなさんの婚期よりも遅い走り”と言われたあの子に!?」
「そうよ。“マルゼンスキー先輩が時代に追いつくよりも遅い走り”と言われたあの子によ」
おい待て、後者は初耳だぞ。
なんだその最大級の侮辱表現。あの現行ゲームハードをプレステ2だと思い込んでる絶妙に遅れてる人と比べるのやめて?
ウマ娘には言っちゃいけない言葉があるって理解しよう?しまいにゃ泣くぞ。
まったく……子ウマどもがさえずりよるわ。満足に我が世の春が楽しめないじゃないか。
縦ロールがいつものショートヘアに戻ってしまった。
まっ、いっけどねー?
陰口を叩くようなチョベリバな連中に幾ら言われようと、チョベリグな私に一切効かな――
「マルゼンスキー先輩よりも……」「時代……ぷくく」「もー、リトルちゃんが可哀想でしょ?……ちょっとおもしろいけど」「マルゼンスキー・リトルだね」「マルゼンスキー・リトル……」「マルゼンスキー・リトルちゃん……」
おいやめろ、誰がマルゼンスキー二世だ。それはグラスワンダーだ。
つか、言ったな。二回目言ったな。言ってはならない事言ったな?
よし、いいだろう。
これから心に残る悲惨な泣き方で泣き腫らしてやるからな。時々思い出しては、私はなんて事を……って後悔するレベルの奴で泣くからな。
こんなの無勝の底辺ウマ娘に掛かれば、お茶の子さいさいよ!
すぅー………――……ん?
なんか、前の方が騒がしい。
良く見れば、広場のところ――“三女神像”の前で人だかりが出来ている。
周りの娘らもなんだなんだと距離を戻してきた。うん、ありがとう。ほんとはちょっと悲しかった。
「なんだろアレ?」
「さぁ……?」
「なんだか分かる?マルゼンスキー・リトルちゃん」
「わかんない。……次それ言ったら、あなたの尻尾マリルリみたいにするからね」
「えっ、こわいごめん」
にしても、なんだろう?なんでもいいけどね。
今の私はトレーナーで心がいっぱ………
「………」
トレーナー、んん?……トレーナーが……――
えっ、トレーナー!?
なんで広場にいるの!?しかも、なんで正座なの!?
なんかプレート持って――
「このトレーナーさん。なんかしたの?」
「なんか持ってる。ええっと……“わたし は ちこく したあげく あやまりにもこず かってにたんとうをきめ かってにトレーニングをし かってにかえった ことを はんせい します”……?」
「ちょーかっけぇじゃん。マジ芝なんだけど」
あー……。えっ、どうしよう。
さっきまで誇れるトレーナーだったのに――今は身内面したくない。
あまりに清廉とした正座のせいで、妙な空気が出来上がって誰一人として話しかけられないあの空間に行きたくない……。
いやでも、その発端は私にもあるしぃ……えぇ……。
ここは……。
うん――他人の振りしよ。
主人公な私にも無理な事はあるのだ。
……あー、誰だろあの人知らないなぁ知んないなぁ……私ぃ、ただの一般通過底辺ウマ娘だからぁ。
すぃー。
「……ん?あっ、モブ子!」
ちぃぃぃ!!見つかった!!
仏様みたいにだんまりしてたトレーナーがいきなり声を上げたからか、その視線の先ーーつまり、私に人だかりも注目する。
くそぅ……私を見出してくれたその目が、今は恨めしい……!!
「…………おはようございます、トレーナー」
「うん、おはようさん。モブ子」
「……どうしちゃったんです?」
「いや――ちょっとチョベリバな事があってな……」
うん、それはわかってます。正座してるからね?
わかってるからその独特なソレ――今はやめてもらっていいですか。
ほら、周りの娘も「やっぱり……」みたいに私を見てますから。分かってない娘も教わって情報が伝播していっちゃってるから。
いいんですか?貴方のモブ子が、マルゼンスキー子になっちゃいますよ?
略して“まる子”ってかやかましいわ。
「まあ、持ってるコレが理由なんだけどね……駿川さんに怒られちゃって。理事長が準備できるまでそうしてなさい、って」
たづなさん……。
怒る理由は重々承知してますけど……せめて、理事長室前の廊下とかにしてくれません……?
こんなんでも、うちのトレーナーなんですよ?
だから、私の走りと婚期ぃ……――うん、この話は止めよう。悪寒がする。
「……ごめんなさい、私も気がつけばよかったんですが」
「いいさ。良く眠れた?」
「はい」
「それは何より。今日から本格的なトレーニングだからな。初回だからきっちりばしっと決めるぞ。厳しく!鋭く!……頑張ろうな」
「はい」
うん、正座してるから欠片も威厳がない……むしろ、見てて恥ずかしいです、トレーナー。
どういう人物か納得したようで――クスクス笑いながら人だかりは、校舎へと消えていく。他の人も“三女神像”より目立ってるトレーナーに注目しながら歩いているのが横目で見えていた。
うぅ……恥ずかしい……。
これは長く話題されそうだなぁ……マルゼンスキー・リトルよりは何倍もマシだけど……。
「そういえば、モブ子ってこれ好きーとか、これ嫌いーみたいなトレーニングある?」
この人はこの人で欠片も気にしてないし!
視線に鈍感過ぎるぞこの唐変木……!だから、あんなに幼い日の約束もどきが量産されるんだ絶対!
「……まあ、特には……」
「そっかそっか。んじゃあ、ちょっと奇抜な感じでも大丈夫?」
「別段構いませんが……
「いや、実はさ――」
「――反省中に暢気におしゃべりとは、随分と度胸がお有りのようですねぇ……新人トレーナーさん……?」
「「あっ……」」
背筋につららが突き刺さるようなひっくい声が聞こえてくる。
ややして、振り向くと、エレベーターレディを緑色にしたような制服を着ている――
見慣れた人好きのする笑顔に――わかりやすい青筋が立っている。
「はっ、駿川さん……あの、これはぁ……」
「――たづなで結構。それはそれは、長ぁいおつき合いになるでしょうから」
「は、ははは。お、おれ、わた、私もそう思いまする、はい……」
「ふふふ。私たち、ウマが合いそうですねぇ。どうですか?嬉しいですか?嬉しいですよね?」
「うっ、うれしぃーなぁー?」
ガチギレじゃん……。
いやまあ、やった事を鑑みれば納得だけども。
そう思ってると――たづなさんの視線がこっちを向く。
わっ、私も、もしかして説教……?
「モブリトルさん」
「ひゃいっ」
「ああ……貴女には怒っていませんよ。担当契約、おめでとうございます」
「あ、ありあす……」
「この人は――
「はい……」
うわー……薄々思ってたけど。
トレーナーって――
実績の無い新人さんだけど、試験結果が良かったりなんだりしたんだろうな。幼い日の思い出云々は置いといて、エリート共が誰も彼もがトレーナーを見ていた理由も分かる。
きっと、逆スカウトしたかったってとこか。
そう考えると、本当に私は運が良かったんだなぁ……嬉しいなぁ……。
「さぁ、行きますよ。理事長がお待ちです」
「いだっ、いだだだ……あの!歩けるので、耳を引っ張ら……いったい!です!耳がウマ娘みたいに延びたらどうしてくれるんですか!?」
「まぁっ。そしたらメイクデビューでもしてみます?皆さんにボコボコに叩きのめされたら、その遅刻癖が少しは矯正されるかもしれません」
「まだ一回しか、遅刻して、いっててって!」
「
――っと。
耳を引っ張られながら去っていくトレーナーから、目を反らした。
……そりゃあ、勤務時間丸ごとだもんね。それも初日だし。
―――――
特になんて事はない時間が過ぎる。
クラスメイトのキングヘイローが体調不良でお休みだったり、中庭でオグリパイセンがカビゴンみてぇな腹して寝転がってるのが見えたり、花壇の近くでトウカイテイオーが花占いしているという怪奇現象が噂されたり、廊下ですれ違ったメジロマックイーンが「お菓子あげますわ」とか言って渡してきたのがただのスティックシュガーでしたり顔されたりとか。
あるにはあったが。
特には特筆する事はなく――時間が過ぎていく。
―――――
キンコンカンコンと聞き慣れたチャイムと共にやってくる昼休み。
「リトルちゃーん、ごはん行こー」
「あっ、うん。行こっか。ジャラちゃん」
いつも一緒にご飯を食べるクラスメイトと、食堂――カフェテリアに向かう。
彼女はジャラジャラというウマ娘。私と一緒の無名の頑張り屋さん。同じクラスという事もあって、大抵この娘とつるんでいた。
いつも話す事は友達のように下らない内容だけど――今日に至っては、喜ばしい内容だった。
「それにしても、ジャラちゃんもトレーナーが出来て良かったねぇ」
「うん、ありがとう。リトルちゃんも良く出来たねぇ。中距離2000mレコード逆更新してた割に」
「おっ?褒めたらなんか煽られたぞ?ここでジャラちゃんがトレーナーを見つけられるようにって謎の壷詐欺られた話する必要ありそう?」
「………」
「………」
「「イエーイ!」」
そう!彼女にもトレーナーが出来たのだ!
私ほどではないがレース成績が悪いジャラちゃんが、だ!
聞けば、それなりに実績を上げた中堅トレーナー。頭がダートみてぇな事以外は良い人らしい。頭がダートみてぇな事を除けば。いや、ハゲなのは許してやれよそこは。
トレーナーが出来た事による優越感に浸るのもいいけど、同好の士と喜びを分かち合うのもいいに決まってる。
現に、私の知り合いの底辺ズの皆も何人かトレーナーが付いたという。
嬉しくない訳がない。
私達は笑い合い――やれ、私のトレーナーは新人だけどイケメンな上優しいとか。やれ、私のトレーナーさんは頭ダートだけどGⅢは取った事あるとか。
下らないマウント取りに終始していると――ほどなく、カフェテリアにつく。
「およっ?あー、リトルちゃんだー。さっきぶりですねー。良ければ、私もお供していいですか?」
――と。
同時に、突如視界に入る――薄緑のウマ娘。
………。
「……なんだ、ウンスか」
「ちょっとー!その変な名前はやめてほしいって言ってるじゃんかー!せめて、セイちゃんかスカイって呼んでくださいよ」
「なんかやだ」
「えー!」
私とジャラちゃんの麗しい青春を邪魔しやがったのは――クラスメイトの
どうして変な名前で呼んでるか?――簡単だ。
わたし、こいつ、すきじゃない。
スペシャルウィークとかは、見て分かる良い奴って感じだから憎みづらいんだけど――ウンスは別だ。
こいつは……のんべんだらりで飄々としているくせに、その実。常に有利になる情報を集めるキレ者だ。
――まず属性が気に入らない。
「んー。ジャラジャラちゃん。ちょーっと、リトルちゃんと二人きりにしてくれません?」
「えっ?えーっと……」
ジャラちゃんもその事を知っている。
そんな奴が、二人きりにしてほしいって言うなんて明らかに怪しいと分かっているんだろう。難色を示してくれていた。
ありがとう!私達ズッ友だょ……!
さぁ、こんな奴無視してカフェテリアに――
「あー……そういえば、ここに新しい映画のチケーー」「あっ、私。先約があるんだった。ごめんね、リトルちゃん」
おぃいいいい!せめて悩めよ!?ウンスの話全部聞いてからにしてよ!?ジャラちゃんは、ウンスからチケットを手に入れると颯爽と去って行った――笑顔で。
ヤロウ……寮帰ったら覚えとけよ……!
ニコニコしたり顔のウンスと二人きりにされた私は……諦めて、カフェテリアに入った。
こうなるともう抵抗するのも面倒になってくるのだ。お腹空いたし。
カフェテリアは今日も大盛況。
とはいえ、学園に所属しているウマ娘+αを賄える規模なので、そこまで待つ事はない。
私は受付の厨房までの列に並ぶと、ひょこひょこと後ろから付いてきたウンスを睨む。いちいちあざといぞこの緑。
「……てか、スペシャルウィークたちは?ご飯食べるならソイツらとしてよ」
「まぁまぁ。スペちゃんは書類不備で職員室。グラスちゃんもエルちゃんも先生に頼まれたお手伝い……何もないわたくしは、こうして一人寂しく、カフェテリアに行こうとしていたのですよ」
よよよ……と泣き真似すら様になっててムカつく。
「いやぁ、リトルちゃんは優しいなぁ。そんな私と一緒にごはん食べてくれるなんて」
「ペッ」
「あー、悪態吐かれましたー。セイちゃんかなしー」
欠片も悲しくないくせに良く言うわ。
どうせスペシャルウィークたちも、こうして私と二人きりになりたいからって適当に誘導したんだろう。
この知的策略感がほんと腹立つ……!
私もこんな感じにやってみたいのに……!
「で?何が聞きたいのよウンス。何も話さないけどねウンス。ウンスウンスウンス。やーい、おまえのかあちゃんのむすめはウーンス」
「……まずはそれ、一回やめましょうか――マルゼンスキー・リトルちゃん」
周りから吹き出す音が聞こえる。
どうやら噂は順調に広まりを見せているらしい。ちくしょう。
どうすんだよ。次、モノホンに会った時どんな面すりゃいいかわかんないじゃん。
……しゃあない。やめるか。
とはいえ、そのまま受け入れるのも――やだ。
なんか負けた気がする。レースはともかく、他の事には屈したくないというわがままガールな私を、私は肯定します。
んー……セイともスカイでもない、それでいてウンスでもない感じの……。
「――
とかぁ?こんな感じだろう。
私をモブ子なんて呼ぶし、こんなひねくれて呼びそ――って、うわっ!あんだこのウマ掴んできた……!?
「だっ、誰から聞いたの!?そんなオンリーワン狙った拗らせた呼び方する人なんてやっぱり……!
「ちょっ、ちょいちょい!落ち着いてよ。てきとーだよてきとー!」
「てき、とう?」
「そうそう。ウンスが駄目でも、セイとかスカイとか呼びたくないから適当に繋げただけだって。てか、ほら周り周り!」
ウンスは、そこでなんだなんだと好奇な目で見られている事に気づいたらしく、しばらく黙ると――
「そっ、そうですか」
困惑するように手を離した。
うん――まずは謝れこのヤロウ。私の身体を触っていいのはトレーナーだけ……きゃっ。
んん!と空気を変えるように、ウンスは咳払いをする。
「とりあえず、その名前は禁止です。……大切なものですから」
「じゃあウンスね」
「……それでいいよもう。話進まないし……」
――やったぜ。
「それでですね?リトルちゃんのトレーナーさんについて教えて欲しいんです」
「私のトレーナー?」
「ええ……はい」
……まあ、私にウンスが改めて聞きたい事なんてそれしかないよね。
んー、つってもなぁ……。
「“遅刻癖がありそうで、私生活ダメダメそうだけど、将来有望で優しくてイケメン”なトレーナー」
「………」
「えっ、まだ必要?正直、会ってまだ一日だし、良くわかってない事のほうが多いんだけど」
それでも、気に入っているし信じている。
会ってたった一日でも――私の事を見てくれた時点で、あの人は家族と同レベルに並ぶくらいには好感度が高いと自負していた。
ウンスは考え込むように黙り込む。
どうでもいいが、コイツなりに神算鬼謀が駆け巡っているんだろう。どうでもいいが!
列が進む。
メニュー表が見えてきたので、チラリと覗くと――もうA定食とB定食しか残っていなかった。やっぱゆっくり来ると基本しか残んないなぁ。
んー……どれにしよう?
「……決め手は」
「ん?」
「この人にしようとした決め手は、あった?」
「顔」
「……そうじゃなくて。こう、あるでしょう――口説き文句とか」
口説き文句ねぇ……。私は券売機を睨みながらぼんやり考える。
存在自体が私への口説き文句な人の口説き文句……。
あっ。
「――
「―――」
あの人が言った分かりやすい決め台詞。
ちょっとスベってる上、スピリチュアルな感じ過ぎるやつ。……言ってて自分でも恥ずかしくなってきたな。
列がさらに進み、私が受付の番だ。白衣を纏った食堂の人たちが忙しなく動くのを横目に映す。
うーむ。二択。
どれにしようかなーっと。指を彷徨わせている。
――
ふと、呻くような歯軋りが聞こえた、ような気がした。
辺りを見回しても――そんな事をしたようなウマは居ない。
「おっ、やっと出番が回ってきましたねー。リトルちゃんは何にします?最近はもっぱらB定食みたいですけど」
ウンスもニコニコ顔だ。
てか、なんでコイツ私がいつも食ってる奴知ってるんだこわっ。そういうの知っといてどう有利に働くんだろう?
……まあ、いいや。
今は――この腹を満たすのは、どれにするかだ。
A定食は、ヘルシー路線。
筋肉量を維持しながら減量出来るっていう代物だ。だが、いかんせん満足感が微妙。おかわりすれば意味が無くなるから我慢するしかない。
B定食は、昨日トレーナーが食べてたけど肉マシマシのガッツリ路線だ。
筋肉を付けたいやつ、スタミナを付けたいやつ、なんでもいいから腹を満たしたいやつはこれを選ぶ。
いつもは、癪だがウンスの言う通り――B定食を選んでいる。だって筋肉を付けなきゃ早く走れないだろうし。
今日は――
「B定食にしよ。今日からトレーニングだし」
ガッツリしっかり出来るように栄養を蓄えていた方がいいだろう。
そう考えて、受付の人に――B定食をお願いした。
「あー。ダメダメ。モブ子はA定食にしときぃ」
なんかダメ出しされた。
「えっ、何でです?」
「体力付けたいんだろうけどちょっと過剰かな。栄養価が高いおかげで筋肉付き過ぎ。そのせいで、バランスがちょっと歪んでる感じがする。だから一旦リセットする意味でもA定食の方がいいよ。あと、Aは俺が作ったからこっち食べてほしい」
「いや、それが理由八割でしょ」
「失敬な。六割ぐらいだよ」
「どっこいじゃないですか」
――てか。
「なんで食堂で働いてるんですか、トレーナー……」
A定食一丁ー!と厨房に激を飛ばす受付の人。白衣に隠れてはいるが――まぎれもなく、私のトレーナーだった。
手際良くお盆に食器を並べる様は、最早、歴戦の域に達していた。
「いやぁ、今朝の罰延長ってやつ?なんか誰かが休んじゃったらしくって代打としてね。一時間説教と訓辞が終わった後、今の今までお玉かき回してたよ、あははのはー」
おや?――と。
そこで、トレーナーは後ろの方に向く。
「お友達ちゃんもAかな?おっけおっけ、すぐ用意すんね」
「――お、ともだち……ちゃん」
振り向けば、ウンスが呆然としたような表情でやって来ていた。
……まあ、普通にトレーナーが食堂の手伝いしてたらそうなるよね。
「――ウンスは友達じゃないです」
「こら、モブ子。そんな事言わない。楽しそうな話し声が聞こえてたぞ?」
「違います、宿敵です」
「……なるほど。そういうこと」
「言っときますけど、“友”と書いてとかじゃないですよ?不倶戴天って付く宿敵ですからね?」
「あー、はいはい」
信じてないなこの人……!!
生暖かい目でキレそうなんですけど。
定食が渡された。
ほかほかご飯にお味噌汁。ちんまりとした漬け物と――
「……今日は、煮物定食?」
「そ。野菜マシマシ肉少な目。担当権限で大盛りにしといたよ」
大皿に盛られた大量の煮物。
コロコロと一口大に切られた野菜と鶏肉は、醤油で色濃く染まっていて――ふんわり香るダシの香りが食欲を掻き立てる。
特に、ニンジンがすごい良い色をしていた。
どうしよう。
――バリうまそう。
「切ったのはおばちゃん達だけど。味付けと煮込みは俺が担当してね。まあ、醤油とみりんと酒とその他諸々ぶち込んで、火にかけただけなんだけどねー。お墨付きは貰ったから安心して食いねぇ」
トレーナーはウンスにも定食を渡す。
「はい。お友達ちゃんも、大盛り。モブ子の友達だからね」
「あ、りがとう……ございます」
「うんうん!仲良くしてあげてね!」
だからちがうっての。
ごゆっくらー、という気の抜けた言葉に見送られた私とウンスは適当な席に腰掛ける。目の前にはほかほかの煮物定食。
うーん、普通に美味しそう。料亭とか、お高いお弁当に入ってそうな感じ。
「いただきます」
ふと静かになっていたウンスが手を合わせると――おそるおそるといった感じで、煮物に手を付けた。
煮物一口――じんわりと、感じ入るように味わうと。
「…っ」
泣き出した。
はっ……?
「えっ、ちょっ!あんたどうしたの!?」
「なんでもないぃ……」
「それにしては盛大に泣いてるんですけど!?」
「に、煮物が目に入っただけですし……!」
「誤魔化し下手か!」
――“
色濃く染まった、甘じょっぱく煮込まれたニンジン。
しばし見つめて――口に運ぶ。
ホロホロととろけて舌全体に広がるうま味。
自然と口角が緩む、じんわりとした柔らかさと暖かさ。
それをゆっくりと味わった“彼女”は――――
「チッ」
――心底、忌々しそうに舌打ちをした。
「
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“運命”は元より定められている。
中央・日本トレーニングセンター学園。
その理事長に就任した時、まあまあやっかみがあった。
当然だろう。
未熟な小娘を頭と仰ぐにはいささか以上に抵抗のあることだ。
しかもそれが、トレセン学園に大きく貢献した者の娘となれば尚更の事。
非難、やっかみは起こり得るに決まってる。
わかりきった事だった。
――それを理解していても、私はこの椅子に座る事を望んだのだ。
理想が私の胸にあった。
――ウマ娘たちをよりいっそう輝かせたい。
全ての、全員が、その実力を発揮し、ターフを駆け抜けて欲しい。
競争の世界だ。必ず敗者は存在してしまう。
だが、その敗者も最後は笑って勝者を祝福し、自らを誇れる世界を作りたい。
そう思い、そう願い。
私は、七光りと嘲られようともこの地位にかじり付いたのだ。
無論、最初は大変だった。
しかし、それでも諦める事は決してしなかった。
徐々に――私の理想を望んでくれる者達が増えた。
共に分かち合い、共に助け合い、努力する。そうした者達と共に働ける事に確かな喜びを見出した。
道のりは遙かに遠い。
だが、いつの日か果たされるのを
私はこの“三年間”に賭け、駆け抜けるのだ。
今日も今日とて、理事長として責務を果たす………ぅ……
「トゥインクルシリーズの特例出走の件について、委任状と署名を集めてまいりました。確認をお願いします、理事長」
………うん。
――現実逃避はそろそろ終いにするか!
ため息を堪え、こうありたいような清々しい青空から視線を切る。
理事長室。
私の机と、秘書のたづなの机、そうして――
あとは良くあるようなその他諸々が並び立つ広くとも簡素な部屋には、一人のウマ娘が書類を抱えて、立っている。
――シンボリルドルフ。
この学園の生徒会長にして“無敗のクラシック三冠”を達成したウマ娘。名実共にこの学園の最強の名をほしいままにしている。
まさしく!“皇帝”とも噂されるにふさわしく華々しい活躍が期待された……そんな、ウマ娘だったのに。
「………」
どうして、こうなったのだろうか。
何も映さないような目が、私を貫く。
「……拝見しよう」
渡されたソレらは、もう受け取るのも億劫になるほどの分厚さ。
――それだけのウマ娘たちが、トレーナーを求めていないという事実がひどく悲しかった。
名前は……想像した通り。
今年有望株として名高い皆……ああ、フジキセキ寮長にヒシアマゾン寮長、君達もか。
追従する子が出ないと良いんだがな……はははのはー……はぁぁぁぁ。
半ば諦観に浸りながら、記入漏れで少しでも弾けな――おっ、スペシャルウィークの記入欄が一つずつズレてるぞ!ヨシッ!一人減ったな!ガハハ!
……後でちゃんと伝えてやるか……。
そうこうしていると、たづなが視界の端に映り込んだ。
「……合計、何名ほどですか」
「六十名ほど」
……やよい、もーかくにんしたくなーい。
「……そんなに」
「中には、“今のところはそのつもりだが、トレーナーを捕まえれば取りやめる”という者もいます」
「……だからなんです?実数よりも少ないから安心しろとでも?」
「………」
……たづながキレた……。
口調こそ落ち着いているが、圧が……圧がヤバい。昨日と同じくらいじゃないのかこれ。
……しょうがない事か。
彼女は――
受け入れがたいのだろう。
「――たづな」
だが――約束は約束だ。
シンボリルドルフは選手生命をなげうってまでこの話を進め、理事会を説き伏せ、厳しい条件の中、こうして署名も集めた。
我々の感情はともかく――約束とは、果たすものだ。我々の感情はともかく、我々の感情はともかく。
うん、そうだ。我々の感情はともかく。
「例の会見と合わせて発表する。メディアへの根回しは?」
「……センセーショナルな話題なので、そこは滞りなく」
「僥倖ッ!ではさっそく纏めよう。理事会を召集し、ある程度すり合わせを行う。たづなはそれと合わせ――今から各バ場の確認に行ってくれるか」
「…………わかりました」
言外に少し落ち着いてこい、と伝える。
たづなは不承不承といった具合で、理事長室を出て行った。
うーむ、本当に苦労かける。一緒に頑張ってきた身としてはつらい事だ。
後で、めっっっちゃ高い料亭予約しとこ。理事長権限ッ、経費で。
またよくわからん昔話に付き合わされるんだろうが、これもまた上に立つ者の務めだろう。
「………」
「………」
たづなが出て行って、部屋は静まり返る。
シンボリルドルフはただ、静かな目でこちらを見つめていた。
「お手数をお掛けして申し訳ありません」
「無論ッ!……とは言い難いが、気にするな。君は約束を果たしたのだからな」
「……ありがとうございます」
それは本当の事だ。
私としてはアレな提案であることは認めるが、ちゃんとスジを通したのだから否はない。
……それより、この所――シンボリルドルフの元気がない事の方が気になる。
いつもの落ち着いた大樹のような姿は成りを潜め、強風で花を全て吹き飛ばされた桜のように。暗く、沈んでいる。
どうしてだろうか?この件でか?
いや、そもそもこの話は――彼女がメイクデビューする前、二年前より提言してきた内容だから違うか。
うむー、思春期かッ!
「……では、この件を宜しくお願い致します」
「承知ッ。あっ、この件の発表はどうする?一緒にこちらがやってもかまわんが」
「いえ、それは私がやりましょう」
「再度承知ッ」
彼女は、「失礼しました」とするりと踵を返した。
部屋を後にしようとするその背中を眺め――ふと、私は待ったをかけていた。
「どうしました?」
「行く先々で聞いた事だろう。だが、私も聞かねばならん事がある」
「……なんでしょう」
「――
「………」
「事実ッ。……確かに。君と彼女はウマが合っていなかったのは知っている。だが、そんな中でも“無敗の三冠”という偉業を成し遂げたではないか」
シンボリルドルフは応えない。
――静かに、こちらを見つめる目はかすかな悲しさを滲ませていた。
ふと、流れる沈黙。
何を考えているかは分からないが――酷な事を聞いたのは分かった。
なんでもない、と退室させようとする前に。
「理事長は……」
「……?」
ぽつりと囁くような呟き。
彼女にしてはやけに幼く、縋るような言葉。
「あなたは――“
私は少しだけ、言葉を探した。
一瞬吐き出そうとした言葉を飲み込み――私としてではなく、“理事長”としての言葉を紡ぐ。
「否定ッ。そういう類は自らの手で掴み取り、至ってから初めてそう呼ぶものだ」
そうでなくてはならない。
そうでなくては――生徒達全員が輝くという理想など、夢物語に消えてしまうのだから。
全ての生徒を支える“理事長”として、当然の事だ。
シンボリルドルフは静かに頷いた。
そうして――嘲るように笑った。自らを嘲るように。
「
彼女は今度こそ部屋を出て行った。
「……うーむ」
残ったのは、やけに重く感じる書類の束とこれから起こり得る様々な厄介事に関連する胃痛。
それと――寂しさ。
「……“運命”か」
不意に、横に視線を向ける。
それは私が
「ああ……信じているさ」
それは私が理想を夢に見た際に用意した、真新しい机。
未だ誰も座らず――
「信じて……いたんだがなぁ……」
あの日。あの夕日の中。
――
私の理想を果たしてくれた、あの“運命”は――
「喜ばしい事なのだがな……君に担当ができたことは」
結局はただの夢物語。
それが、ただただ――悲しかった。
…………
………
……
お昼ご飯。
ウンスが突然泣き出した事は、ただの地獄の始まりだった。
駄々っ子みてぇに泣くあん畜生。
目の前で泣かれるのは気分が悪いので、何とか泣き止まそうとする私の耳に入った――誰
頭をよぎるのは嫌な予感だった。
振り切るように勢い良く振り向けば――まーまー。
皆、泣いてる。
――なして!?なしてぇ!?!?
私の中のスペシャルウィークが迫真の叫び声を上げる。この時点で私のご飯の時間は取り上げられたのだ。
くそっ!どうなってる!?
おいスーパークリークパイセンは!?あの母性だけママのお腹から先祖と子孫の分まで根こそぎ奪って産まれたあのオギャリストはど――畜生!アイツも泣いてやがる!?
ねぇ、フジキセキ寮長とか呼んで来て誰か!えっ、さっきお蝶夫人みたいな驚愕顔してどっか行ったって!?使えないなリアル宝塚記念は!?
あっ、ゴールドシップさん!あんたまた何かしました!?えっ?「煮物と不可侵条約結んでる?」いや知らないですよ!何ともないなら手ぇ貸し……どっか行かないでぇ!
……あっ、メジロマックイーン。えっ、なに?大変そうねぇ?……あの、煽るか泣くかどっちかにしない……?
――現場はまさしく地獄。
とりあえずオロオロしている白衣姿のトレーナーに応援を呼べと蹴っ飛ばして、周りの皆となんとか宥めまくってまくってまくって。
一時間ほどで何とか場を収める事ができたのだ。奇跡と言っていい。あの時女神様は私だけにちゅうしたわ絶対。
しかし、そのせいで私はお昼は少ししか食べられないわいつの間にかウマ娘宥め隊の陣頭指揮を担っていたせいか教師に事情聴取に駆り出されるわで――
もう、もぉぉぉう、大変だったのだ。
「はぁぁぁぁぁぁ」
お昼過ぎ。
事情聴取から解放された私は、レース場まで足を進めていた。
午後はトレーニングの時間。トレーナーを持つウマ娘にとっては大切な時間。だからこそしっかりとお昼を取って頑張りたかったのに……!!
くそっ、元はと言えばウンスが泣き出したのが原因だよ絶対。きっとそれに誘発して皆泣いたんだよ良くわかんねぇけど!
ウンスめぇ……!!
………。
アイツ、大丈夫かな。
確かじいちゃんっ子だって聞いたし、煮物食って思い出とか出ちゃったんかな。おばあちゃんの味とかいうしアレ。
寮帰ったら一回様子見てくるか……――今度アイツがなんかした時は煮物投げつければいいって分かったし。少しは優しくしてやろう。
まあ、とにもかくにもあったが。
やっとこさ私のウマ娘人生のスタートだ!
一人だけで四苦八苦頑張ってきたのももうおしまい!張り切って行こう!
……正直、すごいドキドキしている。入学してからトレーナーの指導というものは受けたことなかったし。
――と。
前もって約束していた、昨日のレース場とは違う新しめの場所にやってきた――!
―――――
トレーニング場所には、誰もいなかった…………。
―――――
…………。
あれぇ?トレーナーが居ないんだが。おかしいな。ここであってるはずなんだけど。
レース場には、他にも何組かのトレーナーとウマ娘のコンビがいるが――どこを見ても私のトレーナーの姿は見当たらなかった。
「………」
道にでも迷ってるのかな。
……あり得る。あの人は結果的に丸一日遅刻するという猛者だし。
「………――」
周りの喧騒の中、ぽつんと一人佇む。
ふと、沸き上がる――
「いっ、いやいやいや。そんな訳ないでしょ。うん」
意識して深呼吸する。
大丈夫、大丈夫。卑屈は卒業!そもそもここまで来てそれだったらもう誰信じていいか分かんないレベルだし!あり得ない……あり得ないってばさ。
「……ふぅ。軽くウォーミングアップでもして待ってよ」
考えるのをやめる。
このままグチグチしてても埒が空かない。
私はそそくさと脇の方に外れて、おいっちーにーとストレッチを始めた。こういう一人でやる事は達人レベルと自負しているのでさくさくっと出来る。
「んぅ……!んぎぎ、よぉお……」
そうして身体を延ばしたり縮めたりしていると若干気が紛れたので――周りに視線を向ける。暇だったし。
見てみれば、皆、名も無き頑張り屋さん達だった。
これは珍しい。
このレース場、エリィィト共も結構使ってるのに、今日は居ないのか。
あっ、ジャラちゃんだ。あの子もここでトレーニングかぁ………ほんとに頭ダートみたいだなあのトレーナーさん。
目が合った――手を振ってきたので、間髪入れずに中指を立てた。
私、置き去りにされた事、忘れてませんよ。
苦笑を返したジャラちゃんはそのままトレーニングを始める。良くある走り込み。
いいなー。……そういえば、朝にトレーナーがちょっと奇抜でもいいか?みたいな事言ってたな……。
なにやるんだろう……当の本人は遅刻中ですけどね?
んー。
他に何か知り合いに居ないかなー……っと。
「………」
見覚えのある白毛がいる。
ぬぼーっとした顔で空を眺めている娘は、見るからに一人だった。近くに例のトレーナーがいない。あの人も遅刻なのかね。
ストレッチもあらかた終わって暇なので、するりと彼女に近づいた。
「よっす、ハッピーミーク。あなたも一人?」
「…………」
「………?」
「…………」
「……あ、あのぉ……?」
「…………よっす」
「おっ、おお」
一瞬、世界にラグが発生したんじゃねぇかと思うほど反応が遅かったこの娘は――
さっきの通り、少し不思議ちゃんが入った娘だ。たまに会話で引っかかるとこが少し面倒臭い。
とはいえ、そこも含めてノリが良いし、これを遙かに凌ぐ不思議ちゃんがゴロゴロいるこのトレセン学園では“普通”にカテゴライズされるので、普通に良い娘なのだ。
トレーナーが出来るまでは、この娘はレース実績はあまりパッとしなくて私が勝手に仲間認定してたんだけど――トレーナーが出来てから見る見る才覚を伸ばしちゃって。
それが妬ましくて、ちょっと距離取っちゃった事もあったんだけど――
「……元気そう」
「うい、まあ普通だね。トレーナーが遅刻してるせいでちょっと落ち込み気味だけど」
「……一緒だね」
「嬉しくない一致だねー、お互い」
こう、なんだ。
雲みたいにふわふわしてるせいでこっちも妬み甲斐が無かったと言いますか。
こういうとこが魅力で、結構友達多いんだよねぇ……この娘。
「……嬉しいよ?」
「なにが?」
「……トレーナーが遅刻して」
「なんで?」
「……リトルちゃんと、久しぶりに話せたから」
「………」
良い娘過ぎる……!
ウンスとは大違いだなぁ!友達とのお話って本来、こういうほんわかな感じが必要だと私は思うんですよはい!
「それに、他にも嬉しい事がある」
「おん?」
「あのね――」
「すっ、すいませんっ……!遅くなりましたっ、ミーク!」
ふと、焦った声が聞こえてくる。
振り向けば、藍色の髪をした美人さんがたったかと走ってくるのが見えた。
噂をすれば。
「あっ、すみません。お友達とお話中でしたか……?あっ、えっと、私は端に行っていた方が……?」
「いやいや!そんなのしなくていいですから」
「だって、お邪魔じゃあ……」
「トレーニングすんなら私の方が邪魔ですって」
なんか妙に卑屈になってくるこの美人さんはぁ――なんだっけ……名前は忘れた。でも、桐生院家というかなりの名家のご出身だ。
優秀なトレーナーを輩出している家なので、もちろん優秀で、パッとしなかったハッピーミークの才覚を高めたまさにエリートなトレーナーさん。
最初見た時は、いいなー、こんなスゴいトレーナーと契約したいなぁー、なんて思ってたけど……。
まあ、新人なイケメンかエリートな美人なら――断然、前者だよね。わかるとも!
それにあの人はあんな私を選んでくれた訳だし……うへへ……――遅刻してるけど。
「そっ、そうですか」
わたしの言葉にほっとした様子の桐生院トレーナーは、むんっ!と手を振るとハッピーミークに向き合った。なんか可愛いなこの人。
「さぁ、ミーク!遅れて申し訳ありませんでした!遅れた分を取り返せるようにバシッっと頑張りますね!」
「…………」
「………?」
「…………」
「あっ、あのぅ……ミーク?どうしました?もっ、もしかして怒ってます……?」
桐生院トレーナーの言葉を無視して、何故か周りをキョロつくハッピーミーク。おっ、どうしたどうした。ラグる事はあるけど、話を無視するような奴じゃないだろ君。
「ねぇ、トレーナー」
「あっ、はっ、はい!なんでしょう!……あの、もう遅刻しないので、怒らないでほし――」
「――さっき、
「えええ!?」
えっ、まぢ?
桐生院、そんな事するの……?
見た目大人しいくせに、中身はラノベの奴隷になりなさい系ヒロインなの……?
私の疑いの眼差しに、顔を真っ赤にわたわたと腕を振って否定し始める桐生院。思えば、モーションもヒロインくせー動きだぞこのアマ。
「そんな事やりません!突然何を言うんですかミーク!」
「ほんとに?ほんとにやってないの?じゃあ、なんで遅刻したの?」
「それはぁ……えっと、お昼ごはんが美味しかったなぁってぼぉーっとしてたら遅れたってだけで!」
「………じゃあ、ほんとに泣いてるイケメンを誘惑して連れ出したとかしてないの?」
「ちちちち、誓ってそんな事はやっていません!」
「…………――
ハッピーミークはぽつりと呟くと――すん、っと。いつもの能面顔に戻った。
よくわからんが満足したらしい。コイツ特有の憂さ晴らしみたいなもんなのかね。
「……じゃあ、行こう」
「えっ、ええ。はい、行きましょう……うぅ……」
あらぬ疑いを掛けられた桐生院トレーナーを連れて、ハッピーミークもレース場を出て行く。どうやらここは待ち合わせ場所ってだけで違うとこでトレーニングするらしい。
「……大変そうだぁ、あのトレーナーさん」
このトレセン学園でマシとはいえ、不思議ちゃん入っているからな。気苦労が多そうだ。いつか会ったら労ってあげよう。
……………。
………。
……――ふぅ。
ねぇ、私のトレーナーはぁ!?!?!?
ちょっと遅いとちゃいます!?
これだけで待ってるのに!えっ、遅刻にしても遅いよこれ。そりゃあ今日のたづなブチ切れるよそりゃあ!正座はやりすぎと思ってごめんなさい!
もぉぉぉ許さん!シリアスもくそもあるか!来たら、ハッピーミークみてぇに嘘八百並び立てて変な噂で――――
「ごめん!モブ子、遅くなった!」
あっ……やっと来てくれた。
トレーナーは結構おっきめのダンボールを乗せた台車を転がしながらこっちに近づいてくる。よく見れば大汗掻いていて慌ててたのが目に見えていた。
「ごめん!ほん……っとぉにごめん!地図見てもよく分かんなくてとりあえず左行けばいいだろって思ってたらよくわからんところに飛んでていきなり美人なウマ娘にスーツを引きちぎられそうになってそしたら違う子が助けてくれたんだけど手にガラガラ持ってるのが怖くて逃げたらまたよくわかんないとこに行っちゃって……えっと、えっと……!」
台車を適当に置き捨てると縋るように、まくし立てるように謝ってくるトレーナー。
しょっ、しょうがないなぁ……。
「わかりましたわかりました。許します」
「おお!さすが、モブ子優しい!」
「調子の良いこってまあ……次はこうならないように、三女神像の前にでも待ち合わせにしましょ。あそこなら大丈夫でしょ」
「もちっ!」
トレーナーは笑顔で頷いてくる。
うーん、なんか……いいなぁ、この感じ。やっぱトレーナーってだけで違うなぁ、うん。
「うしっ!じゃあ、遅くなったけど――トレーニング始めますか!」
トレーナーはそう言うとダンボールを開封し始める。
さっきとは違い、シャキッとした声色に少し気持ちに気合いが入った。
「では、モブ子くん。君自身――足りないものはなんだと思う?」
トレーナーの問いに、私は少し考えて。
「……“ステータス”?」
「うん。じゃあ、どのステータスが足りないと思う?」
「どの……うーん」
ウマ娘のステータスは基本的に五つに区分される。
――“スピード”・“スタミナ”・“パワー”・“根性”・“賢さ”。
ざっとこの五つで分けられ、そこからどういうトレーニングをしてきたか評価されるのだ。これは成長しづらい“適正”よりも加減が激しい。ある意味、努力の証明だからだ。
“適正”は才能、“ステータス”は努力――と、誰かが言っていたのを聞いた事がある。
そんな“ステータス”で私が足りないもの……。
「……全部?」
足が遅く、レースをまともに走れるかも怪しい。
そこから考えるとそうとしか考えられない。
トレーナーは不意に漁る手を止めると――ニカッ、と笑う。
「――正解!」
「蹴っていいですか」
「何故ぇ!?……った!」
いや、事実なんですけど……事実なんですけどぉ!
笑顔で弱ぇって言われるのはちょっとモヤるんですが!
「だっ、大丈夫だってモブ子。確かに現状はダメでも、ちゃんとその事を理解している事が大事なんだよ」
「それはぁ……そうですけど」
「それにね?下の方が気持ち楽だよ?あとは上がるだけ、前を見てればいい。下手に上の方にいると――
……トレーナーの言う事は一理、ある。
でもそれは――
「言うは易しってやつでしょう、それは」
「ふふんっ――それを本当にしちゃうのが、俺たちの仕事なんだよ。モブ子」
そう言って――またニカッと笑うトレーナーを今度は蹴ろうとする気持ちは起きなかった。
あっけらかんと。でも――大丈夫だ、と背中を押してくれる言葉。それがとても頼もしかった。
「さて、モブ子。そんな足りない尽くしのモブ子にピッタリな――全ての“ステータス”を同時に鍛えられるトレーニング法を用意したんだ!」
「――えっ」
そんなのがあるの!?
“ステータス”は一つ一つに時間を掛けないと上がらないのに、そんな事が出来れば効率がダンチじゃん!?
やべぇ!やっぱこの人、てんさっ――
「これをやれば二週間で腹筋もバキバキ、さらには過度な食事制限も必要ナシ!どんなウマでもやれば鍛えられる優れ物だぜ!」
「…………」
「あっ、あれ?なんでジト目で見られてるの俺?ここ盛り上がらない……?」
いや、そんな死ぬほど胡散臭い広告みたいな台詞並べられたらそれはねぇ。
ああいうのやめて欲しいんだよなぁ――買っちゃうから。
ああいう底辺心を擽るのほんと止めて欲しい――気づけば定期契約されててフジキセキ寮長に泣きつくの恥ずかしいから。
だから、最近こういう広告引っかかり仲間のタイシンと一緒に吟味しながら、こういうの買ってるんだよね。
ほぼ外れだけど。やめられん。
シラケた空気を一新するように咳払いしたトレーナーは、やけに仰々しい仕草でダンボールに手を入れた。
「そのトレーニング方法とは……これだぁ!」
そうして、出てきたのは――
「………」
「………」
「………」
「……ふぅ。よいっしょと――」
――カチッ。
てーててて、てれれてってって、うまだっち♪
「――まってまってまって!」
大音量で流され始めた音楽に、慌ててスイッチを切る。
はっ!?えっ、なんで!?なんで往年に渡るウマ娘史きっての電波曲の『うまぴょい伝説』流し始めたのこの人!?
「そう!――
「いや、踊りませんよ!?」
「えー」
えー、じゃねぇし!
てか、いきなり鳴り出したせいで他のコンビが注目してくる……あっ、おいジャラちゃん!隠れてスマホこっちに向けるな止めろ撮るなお前の部屋でメントスコーラすっぞおい!
「ていうか、どういう理屈です!?」
「んー、まずは振り付けの中で走ったりステップ踏むから“スピード”じゃん?長時間動くから“スタミナ”。メリハリを付けるとこは“パワー”、振り付けを覚えたりアドリブを付けるのは“賢さ”だよ」
「あー……」
言われて見れば、確かに。そう考えると効率、が……?
…………。
――ん?
「“根性”は?」
「公衆の面前で踊る勇気」
「最低じゃねーかこのトレーナー!?」
担当に妙な恥辱を与えようとするの止めてくれません!?
「なっ!最低とはしっけーなっ!こう見えて深遠な考えの下でね!?」
「じゃあ、うまぴょい伝説じゃなくてもいいでしょう!?Make debut!とか本能スピードならいいですよまだ!」
「………」
「………」
「――俺の趣味ですよ悪ぃか!!」
「開き直りやがった!」
――ぶぼっ!と吹き出す声が聞こえる。
ぴこんっ、という録画音。ジャァァァラ!それどっかに流しやがったら半年はお前のメシのおかず好物から奪うからなぁ!
「いいじゃぁーん。踊ってくれよー。俺――
「そりゃあ新人さんなんだからそうでしょう!まったく……なら、そっちが踊ればいいじゃないですか」
「俺が?」
「ええ、もし踊れるんなら、私だって踊ってやりますよ!」
「………」
まあ、無理でしょうけどね!
うまぴょい伝説はどんなに堅物でも笑顔で愛嬌を振りまかなくてはならない悪魔の曲。
それをヒトが、ましては大の大人の男の人が踊るなんて――
――カチッ。
てーてって、てれれれ♪うまぴょい♪うまぴ「ごめんなさい嘘ですナマ言ってすんませんでしたやめてください」
「えー」
くそっ、そうだ!
この人いろいろと計り知れないんだった!
「ていうか、なんで踊れるんですか!?」
「――それは君のトレーナーだからかな」
「訳わかんねーですよ!?」
ぶー垂れたトレーナーはやっと諦めたらしく、そそくさとラジカセをダンボールに仕舞った。
よかった……さすがにトレーナー初デビューが初うまぴょい伝説デビューはキツい。
……とりあえず、これが終わったらジャラちゃんのスマホ検閲しなきゃ。
「じゃあ、違うのにするか」
「ええ、お願いします。効率はもういいので、着実に行きましょう」
「まあ、そうだなー」
やはり近道を望んだのが間違いないのだ。
着実に一歩ずつ、それが正しい道なんだ。タイシンにも言おう――その胡散臭い広告雑誌捨てなって。
トレーナーがガラガラとダンボールを漁る。
今度はなんだろう?まあ、いうてダンベルとかだろう。ウマ娘のトレーニングでそう突飛なものは――
「よし、じゃあこれでいくか」
そう言って、取り出したのは――
「はっ?」
「よいしょ、よいしょ」
困惑する私の前に等間隔に並べられた煉瓦二枚、その上に積み上げられていく瓦十枚。
「これは“パワー”のトレーニングだよ。力を溜めて、一気に爆発させる。そのインパクトを鍛えるんだ。モブ子は“逃げ”は向きそうにないから必須だと思ってね」
「………」
「初めてだし、柔らか目のを選んで来たよ。ちゃんと湿布もあるし、思いっきりいこう!」
「………」
「――ゴー!」
「いや、ムリムリムリ!」
「えー」
そりゃあ鍛えてたは来ましたけど、じゃあ十枚行ってみようはさすがにムリですって!
「どうしていきなり瓦です!?」
「それが効率的にもいいんだってばさ」
「いや、だからってじゃあやって?って言われても出来ませんよ!トレーナーはそう言われてできる、ん…………」
すっ……と腰を落とした構え。
緩く、しかし確かに握られた拳に淀み無く――フッ!と小さな掛け声に合わせ――!
パリンッ!と雪崩のように割れていく瓦。
「………」
「ふぅ……意外にやれるもんだね……」
感慨の間もなく、よいしょよいしょとまた積み上げられる瓦。
そうして、ニコリとトレーナーは笑った。
「Do it!!」
「ムゥリィー!!どうして出来ちゃうんですかぁ!」
逃げ場を失った私がそう叫ぶと、トレーナーは静かに私の肩に手を置いた。
あっ……これ諭される感じだ……。
「いいか、モブ子」
真剣な瞳が私にぶつかる。
ごくり、と知らず生唾を飲んだ。
「――
「そんなトレーナー嫌ですよ!」
「がーんっ!」
そんなよくわかんねぇ理論で諭される訳ないだろ!
そんな人と会った事ないんですが!?寧ろ、会ってみたいわ!
「まったく……何を騒いでいるんですか、お二人とも」
声を掛けられる。
振り向くと、そこにはあきれ顔のたづなさんがこっちに歩いてきていた。
おお、良心!
たづなさんならきっと私の言う事を分かってくれるはず!
私がおかしいですよね、と伝える前に――その目が、積み上げられた瓦を捉えた。
「おや、瓦ですか。久しいですね」
「ぅえ?」
「ふむ。大体事情は把握しました。そこで体育座りをしている新人さんが、貴女に瓦割りを勧めて、貴女が無理とでも言ったのでしょう」
「そっ、そうです。あの、普通にムリ――」
「――それはともかく」
「ともかく!?」
「ちょっとやってもいいですかね。少し、むしゃくしゃしてまして……発散したい気分なんです」
言うやいなや、たづなさんは積み上げられた瓦に手を置いた。
そうして力を溜めるように身体を少し伸ばし――
「フンッ!」
そのまま手を瓦に押し込む。
パリンッ!と割れた瓦は――五枚ほど割れたあたりで止まった。
「……こんなものですか」
「出来ちゃうんですね……」
「ええ。まぁ――
たづなさんは少し手を見つめたかと思えば、すぐに私を見つめた。
「モブリトルさん。確かにこれは奇抜で突拍子も無く、この人いきなり何言ってるの?と思うかもしれません」
「ひっ、ひどい……」
「ですが――これが、
その言葉に、私はハッとした。
奇抜さとムリみに我を忘れてたけど、確かにトレーナーの私の適正を考えたと、ちゃんと……言っていた。
私はそれをただ否定したんだ。考えてくれた人の、思いを。
「うぅ……やっぱり水族館の年パスも持って………ん?何故、水――そういえばお腹空いたな、さんま定食食べたいなぁ……」
この人はちゃんと私の必要なものを考えてくれたんだ。ないない尽くしの私が、少しでも早く強くなれるようにって。
……うまぴょい伝説は確かにこの人の趣味だけど。
「酷な事を言いますが、貴女には“才能”が乏しいでしょう」
「ほんとに酷で重バ場」
「だからこそ、“努力”で補うしかありません」
ですが――とたづなさんにしては鋭い視線が私を貫く。
「ここ、トレセン学園は――“
たづなさんはそう言った。
厳しかったけど――私は、そこでやっと。
トレーナーに失礼な事をしていたのだと、ようやく気がついた。
「なら、“努力”しかない私は――」
「――よりいっそう、“努力”するのです」
私は残った五枚の瓦の前に立った。拳を握り、それを振り上げる。
……まだ少し怖い。こんなのそこらの壁を殴りつけるのと何ら変わらない。結果は目に見えている。
そのはず――だけど。
こんな私を見出してくれた。
こんな私をレースで勝てると言ってくれた。
こんな私を――効率よく強く出来る方法を考えてくれた。
そんな人を拒絶する。そんな事は間違いだ。
なら――今までの私の事も否定する事になってしまう。
「んっ!」
――拳を力いっぱい振り下ろす。
ガツッ!と響く鈍い音。……じんじんと沁みるような痛みと痺れ。
うぅ……やっぱりだめだっ――
「ぐっじょぶ、モブ子ぉ!」
痛む手を取られる。
ひんやりと冷たい氷袋を当てるトレーナーは嬉しそうに笑った。
なにわろてんねん。
ぶすくれる気持ちを抑えてトレーナーを睨むと――クスクス、とたづなさんも笑った。
「……なんなんです?」
「あら?ちゃんと見なさい――
「えっ?」
言われた通り、瓦を見ると――割れていた。表面の、一枚だけだけど。
それでも――確かに割れていた。
「で、きた」
「そう出来たよ!モブ子は出来るんだよ――
たった一枚割れただけなのに、まるで我が事のように喜んでくれるトレーナーに胸の奥から嬉しさのようなものがこみ上げてきた。
ああ、ああ。本当にこの人は―――
「よし、他にもやろう!色々考えてきたんだ!」
そう言ってトレーナーはまたダンボールを漁り始める。その様子をたづなさんはどこか苦笑気味に見ていた。
その背中を私は感慨深く見つめる。
私はトレーナーの担当ウマ娘としての一歩を踏み出した。そんな気がした。
頑張ろう。本当に、頑張ろう。
奇抜で、突拍子もないけど――私の事を考えてくれるこのトレーナーと一緒に。
「じゃあ、次は“ショットガンタッチ”を行ってみよう!それを三セットしたら“タイヤ引き”も!あっ、気分転換用に“将棋”もあるし、プールで“バタフライ”も予定してます!」
……ちょっと奇抜過ぎるのは考え物かも。やっぱり。
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『■望ッ!君■そが私■■■な■だ!!』
理解すれば、簡単な事だった。
そしてだからこそ。
どうしようもなく、悍ましい事だった。
――――――――――
思い出す……というのは語弊があるような気もする。
だが、言うなれば確かに――
――――――――――
――――――――――
私が“彼”を見出したのは四月の初旬。
日が沈み始める、青と橙が混じる――
“選抜レース”が終了して、程なく。
「むふふ、むふふふ……!」
私は浮かれていた。
“理事長”としての日課である学内巡回をしながらも――周囲を見回るよりも、手に持つ扇で緩む口元を隠すのが精一杯だった。
それほどまでに嬉しい事が起きていた。
「劇的ッ!まさか――
そう。それはまさしく快挙と言わざるを得ない事態だった。
数値にしておよそ90%は越すだろう。
契約していないウマ娘もそれぞれの事情により断っただけで、契約には前向きだと聞いた。
それはつまり、在校するウマ娘全員がトレーナーを持つ事が出来た……あるいは出来る環境である、という事。
実にすばらしい事だった。
トレーナーに巡り会えないという事は、スタートラインにすら立てないのだ。
取り残され、鬱屈に才能を費やす生徒が居ない。
実に、実にすばらしい!
「順調ッ!これで私の夢も実現出来るやもしれん!」
私の夢――全てのウマ娘が、各々のレースで輝く事が出来る世界。
その第一歩としてまさしく順調の一言。
これで“新レース”を声高に宣言すれば――大盛り上がり間違いなしだろう。
「喜悦ッ!歓喜ッ!……ぬふふ!」
舐められぬよう、封印していた子供のような笑いもついつい漏らしてしまう。
さて、これから忙しくなろう。大変な毎日が舞い込んでくる。
だが、それは喜びに満ちた忙しさ……厭うことがあろうものか。
そう。
これからの未来――これからの“三年間”の展望に浸りながら歩いていた。
その時だ。
――誰か、咽び泣くような声が聞こえてきたのは。
「むむっ!――何奴ッ!」
辿れば、それは近くの草むらから聞こえてくる。
私は、迷い無く声の主へと向かった。
どんな事であれ、この学園で悲しむ事があれば――それは私の管轄。
理事長としての責任感に燃え、颯爽と飛び出した私……だったが。
「うぇ……ひぐっ、うぇえええん……!!」
――子供のように泣く成人男性に、流石に二の足を踏んだ。
うん、誰だってビビるだろうアレは。
大人としての尊厳は当の昔にターフの向こう側へと走り去っていたようで、もうアレだ。まさしくアレだ。
滂沱ッ!
「ああああああっ!んくっ、ひぐぅ……!!」
――“彼”の事は知っていた。
試験成績は上位。私との面接でも語り上手で、熱意に満ちた好青年。
これは良きトレーナーになる!!
――と。
私は確信していたのだが。
「わぁああ――げほっ、んごぼぉあ!…………ふぅ。………。………。えぇぇぇん!」
まさかこうなるとは。
あんまりにあんまりな泣きように、知らず私は顔を覆ってしまっていた。
ここまで泣きわめくとはいったい何があったのか。
「注目ッ!どうしたのだ、新人トレーナーよ!」
「あっ……り。……り゛し゛ち゛ょ゛お゛おおお……」
「わわっ!……ちゅ、注意ッ!淑女にみだりに抱きつこうとするでない!」
ゾンビの如く迫ってきた彼に、扇で額をペチペチと諫めながら話を聞く。
聞けば、単純。
大抵は先にトレーナーと契約していて、そうでなくとも話している内に「あっ……持ち帰って検討しますぅ」という何とも遠回りな世知辛いお断りを入れられたらしい。
そうして時間だけが過ぎ。
気がつけば空に浮かぶ、夕暮れの橙。
――これからを絶望し、泣いてしまっていたのだ、と。
「……うむぅ……。事実ッ。実績のない新人トレーナーは上を目指すウマ娘たちにとっては賭けに等しかったりもするが……まさか全員とはな……」
「ぐすっ……口説き文句だって用意したのに……!」
「口説き文句?」
「君と出会えたのは、“三女神”のお導きかな――って……ロマンあっていいですよね……?」
「ま、まぁ……そうともいえなくもないのではないか?」
「ですよねぇ……」
――これ以上ダメージを与える必要はない。
私は言葉を濁し、慰めを込めて肩を撫でた。
……それが刺さるのはマーベラスサンデーかマチカネフクキタル辺りではないか?まぁ、刺さらなかったからこうしているのだろうが。
「理事長……俺は、どうすれば……クビ?」
「否定ッ!流石にそれは無いが……」
私は扇を口元に寄せる。うーむ。
トレーナーとして担当を持てなかった者は――また一年後の“選抜レース”まで待つか、日々の生活の中でウマ娘たちと交流していって見つけるしかない。
その間。職員と共に事務作業や、用務員として働く事になるが――正直、彼の才覚をこのまま沈めているのは惜しい、と“理事長”である私が囁いていた。
涙でぐちゃぐちゃになった彼を見つめる。
少し頼りない青年であるが――
ここで会ったのも何かの縁だろう、と私は考えていた。
「………むむ」
「……。……?」
例えば――
チームを持つトレーナーや、担当をより緊密にサポートしたいエリートトレーナーが求める役職だ。
筆記成績が優秀である事を示せば、数多く誘われるだろう。そこで経験を積み、それを実績として――己の担当をスカウトする。
少なくない者が通る道だ。
「………」
「あ、あの……?」
――
多少やっかみがあるだろうが、中央から来たともなればそれが箔となり、担当も付くだろう。数年、経験を積ませた後に戻せば、中央で立派なトレーナーとして手腕を振るってくれるはず。
急だし突然過ぎるが――
優秀な通訳も用意出来る事だし、海外のノウハウを持つ新人を有するというのもまた……――
「………うむー」
「り、理事長……?あの、真顔で見られるのは、ちょっと怖いんですけど……」
「――難儀ッ!」
「なにが!?」
しかし。
――私はそこでふと、たづなの顔が頭に浮かんだ。
私の秘書として十二分に働いてくれる彼女。
とても助かるが――いかんせん仕事量が多過ぎていた。
私の直属の部下が彼女一人というのも多分にあるだろうが、それでもだ。
残業はせぬよう、誰かに仕事を渡すように。
そう何度か言い募ってはいるが、「私がやった方が早いですから」と就業時間に詰め込むだけ詰め込んでしまう。
確かに“わかっている”彼女がやれば仕事は早いだろうが――そうではないだろう。
どこかで――
しかもこれから忙しくなるのは確定している。
トレーナー業とは些かに違うが、ウマ娘に関わる事が多いし――そこから担当の話に行く事もあろう。
知らず、口角が緩んだ。
「ふふふ……!」
「こ、こわい……きっと穀潰しをどう“処理”しようか悩んでいるんだ……トレセンの地下労働施設みたいなとこで地下帝国とかつくら――」
「疑問ッ!クビでなければなんでもよいか?トレーナーでなくとも?」
「えっ、アッハイ!なんでもやります!」
「――ヨシッ!」
「……あっ、なんかしくった気がする……」
バサッ!と扇を広げる。
何がなんだがわからぬ顔をした彼に――私は満面の笑みを見せつけた。
「任命ッ!――理事長補佐、“庶務”!」
最初はなにいってるのこのひと……のような顔をして。
段々と言葉の意味を飲み込み始めたのか目が大きく丸まっていく。
その瞳には、もう涙は無かった。
「えっ、ええええええ!?」
こうして。
“彼”はトレーナーとしてではなく。
たづなの下――ひいては、私の下で働く事になったのだ。
――――――――――
――――――――――
「挨拶ッ!おはようっ、たづな!」
「あら、理事長。おはようございます。今日もいい天気ですねぇ」
「同意ッ!各バ場も絶好の良バ場と聞いている!今日のレースが楽しみだ!」
「ふふ、そうですね」
“彼”が庶務として、私の下で働き出して一年が過ぎた。
諸々の雑務を要領良くこなしてくれる彼の存在は――私が思った以上に、たづなと……私の負担をも軽くしてくれた。
任せるところは任せ、やらねばならない事により集中する事が出来る環境によって、てんてこ舞いな忙しさは鳴りを潜めた。
仕事量自体、去年と変わりがないのに――こうしてのんびりと、共に生徒達と混じって学舎への道を歩く。
そんな優しげなゆとりが出るほどに。
「あっ、おはようございます!理事長!たづなさん!」
「うむっ!おはよう!今日も一日頑張るのだぞ!」
「怪我だけはしないように気をつけるんですよ」
「――はい!」
朝日に照らされる生徒たちは、今日も今日とて一段と輝いて見えた。
トレーナーの下、日夜トレーニングを重ねているからか――それとも“新レース”を走る事を夢見ていてくれているかはわからない。
だが、生徒達一人一人が各々の輝きを持って歩んでいるのがわかる。
まるで、夢のような光景だった。
学舎が間近に迫り、“三女神像”前の広場に着く。
「――おはよう!おはよう!」
――溌剌とした青年の声が辺りに響き渡る。それを耳にした私たちは顔を見合わせ、苦笑した。
また――彼が“ボランティア”をしているようだ。
見ると、Yシャツとスラックス――“庶務”の腕章を身に付けた彼が、通りがかる生徒達一人一人に朝の挨拶をしていた。
業務には無いのだが、いつからか“彼”はこうして挨拶運動をするようになっていた。
本来なら、業務に差し支える朝早くの活動は止めるべきだと思うが――
「あっ、庶務さん。っはよぉーす」
「おはよう、ナイスネイチャ!眠そうだね」
「そりゃ朝ですもん。寧ろ、ネイチャさん的になんでそんな元気なのー?って感じなんですけど」
「――そりゃあ毎日がマーベラスだからかな!」
「ちょい。そんな事言ってたら「マーベラース☆」ほら、本人出てきちゃったじゃん」
「マーベラス!」「マーベラス?」「マーベラス☆」「……っ!マーベラァース!!」
「あの……目の前で異次元の会話すんのやめてもらっていいです?」
「庶務さん!おはようございます!」
「おおっ!おはよう、スペシャルウィーク。今日も元気だな」
「ええ!今日もトレーニング頑張ります!」
「よきかなよきかな。あっ、そういえば君のお母様から荷物がまた届いてたぞ。中身はナマモノだったから、早めに取りにいきなさい」
「わかりました!」
「やぁ、モルモッ――庶務くん。今日もご苦労なことだねぇ」
「何も飲まないよアグネスタキオン」
「まぁまぁ。声を張って喉が乾いただろう?私の特製ドリンクはどうだい?トレーナーくんも大変気に入って――今、レース場を駆けずり回ってるところだよ」
「……後で見に行くかぁ。ていうか、あんまり苛めるなよな。だからあの人、頭がダートみたいになってるんだぞ」
「おいおい、冤罪はやめてくれ。アレは私が会う前からああだった」
――見ての通り、大変好評だった。
ああしてすれ違う生徒と話している光景は一種の恒例になってきていた。
アレが一年前、大半のウマ娘からスカウトを断られた新人だと誰が思うのだろうか。
そう思うほどの人気っぷりだった。
「庶務さぁーん!おっ、はよー!」
「おわっ!?こら、トウカイテイオー!あぶな――って、よじ登ろうとすんな!」
「にししっ!そーやってぼーっとしてるのがわるーい!テイオーさまに逆らっちゃだめだぞー!」
「ああくそっ、落ちてもしんないからな!」
「はーい!……にしし」
気が付けば、どこからか飛び出したトウカイテイオーが“彼”に飛びついていた。
少しもがくと――定位置となっている背中にしがみつく。たらんと垂れた尻尾はまるで彼から生えているように見えるくらいだ。
呆れたように笑う彼とご満悦な彼女の顔も近い。
…………。
「……ちょっと密着し過ぎではないか?」
「嫉妬ですか?理事長?」
「ちっ、ちがう!」
なっ、何を言うのかこの秘書は。
まるで意味がわからんぞ。私が言ったのはあくまで公然での男女の振る舞いとしてどうかというだけで理事長補佐としての自覚が足りないのではないかという話だそもそも彼は私に対して何故あんな風に笑ってくれないし構ってもくれ――――
アレは良くない。それは確かだ。
私は理事長として当然の注意をするべく彼に近づいていく。……誰かの呆れたため息など聞こえないったら聞こえない!!
――――――――――
――――――――――
「そういえば、どうしてです?」
「はい?」
「唐突ッ。どうした、たづな」
「いえ。単純に気になって……それで、どうしてです?」
「………」
「………」
「……あの、主語がナッシングなんですが」
「もう二年の付き合いですよ?無くてもわかるでしょう」
「いや、無理ですよ!?」
それは、理事長室での事。
“新レース”を一年後に控え、諸々の準備を整えていたある日。
三人でのんびりと事務作業をしていると――たづながいきなり無茶ぶりを始めた。
文字通り付き合いも長くなり、ある程度具合が分かってきたからか、時折こうして冗談を交わすくらいには仲が深まっていた。
「それで――どうしてです?」
「えぇ……なしてそこで押し通ろうとするんですか」
「ああ、函館ラーメン……いいですね。外れたら、今晩奢ってもらうって事にしましょうか」
「いや、ほんとになしてぇ!?」
とはいえだ。
たづなが、こう……甘えるような。幼げな絡みをするようになるとは思わなかった。コロコロ転がるような彼の反応に、悪戯な笑みを浮かべている。
それだけ心を許しているという事。二人の上司として喜ばしい事なのだろうが………ちょっと複雑。
むむむ、と真剣に悩み出す彼は見てて愉快だが――こそっと助け船を出す事にした。
「アレではないか?君とダイタクヘリオスがやった野外ステージでの……」
「あっ――なんでうまぴょい伝説を完コピで踊れるかって事っすか」
少し前。
どういう訳か、ダイタクヘリオスと彼が野外ステージで『皆テンションブチアゲライブ』なるものをやっていた時の事。
突如として、彼が余興として、うまぴょい伝説を踊り出したのだ。
これで例えば、ぎこちなさや恥じらいがあればウケた事だろう。
だが彼がやったのは――満面な笑みもキャピキャピ感も完備の、
その“ガチさ”にさしものダイタクヘリオスも引いていた。
アレを見てウケてたのはハルウララと――ゴールドシップくらいではないか?
「違います。あんなのに興味はありません」
「がーんっ!な、なんて事を言うんですか!?あの完成度に到達するまでにどれだけの鍛錬の日々を……!」
「知らないです。あの“ちゅう”のとこでアドリブを利かせた激寒ダンスの話はもうやめです」
「ひ、ひどい。流石の俺もアレは恥ずかしかったから変えただけなのに……!みんな、きゃぁぁぁ!って盛り上がってくれましたよ……?」
アレか。
“ちゅう”のとこを、フジキセキ寮長がやるような気取った感じにした奴。ウィンクもキマってた。
ちなみに彼の言う、きゃぁぁぁ!は黄色い声援だと思うのだが――真実は共感性羞恥である。
…………。
私はちょっとドキっとしたのだが………う、うむ。それは言わないでおこうかな。
「じゃあ、アレですか、俺が商店街に異様に顔が利く理由」
「違います。ハルウララさんと仲良しなだけでしょう」
「マーベラスサンデーと話が出来る理由?」
「お互いフィーリングでしょう」
」
「ぐっ……!俺が料理をするとどうあがいても炭になる理由!」
「そういう星の下で産まれただけ」
「ぐっ……ぐぬぬ……!ご、ゴールドシップと会う度にスーツを引き千切られる理由!」
「………それは確かに知りたいですね。どうしてです?」
「そんな事俺が知りたいですよお馬鹿ミドリ!このラーメン狂い!“太り気味”になっちゃえ!」
「――あっ?」
「ひぃ!」
……ゴールドシップか。
あの子もなぁ……前は注意していたのだが、「ああん?そもそもどの面下げてアタシに話しかけてんだって話なんだよ。ヘラヘラしやがって……なんかオラついて来たな……よし――」と高確率で引き千切りに行くからやめたんだよなぁ……。
特に彼との接点も無いはずなのにどうしてああなのか……。
まあ、いいんだけど――私好みのスーツに仕立てられるし。
その度に申し訳なさそうにしながらも嬉しそうにするから、貢ぐのがやめられん。
それにゴールドシップが“三女神像”にペンキをぶちまけた騒動と比べればなんでも―――
「はぁぁぁぁ。貴方にはガッカリです。こんな事もわからないとは……モテませんよそれでは」
「……こんなダル絡みをすんのが女性なら一生モテなくてい――いいててって!?」
「な・に・か・い・い・ま・し・た?」
「いいいいっててな――あのっ、ゆめ……じゃない!やよいさん!これ、パワハラ!パワハラです!」
むむっ。
気がつけば、彼が正座をしていて耳を引っ張られてるではないか。
……まあ、勢いで悪口でも言ったんだろうけど。彼も彼で、たづなに大抵気安いからな。仕方ない。
「――合法ッ!」
「ちくしょう訴えてやる!――やよいさんのお母様に!」
「ひっ、卑怯ッ!……たづな!」
「了解です――そんな気も起こさなくなるまでやります」
「ああああああ!」
許可の下、たづなは満足するまで彼の耳をこねくり回すと――ため息混じりに“正解”を告げた。
「はぁ、私が聞きたいのは――
おお、確かに。
それは私も気になるな。
彼女達の名前は大抵長い。その為、親交のある者同士は縮めて呼ぶ事が多い。
彼のキャラ的にそうだし、縮めて呼んだところで彼女達も拒否はしまい。
だが――彼は一貫してそう呼んでいる。
地味に私も気になっていた事柄だ。
耳を庇っていた彼が「ああ、それは」とつぶやく。
「ただ単に特別扱いしないことってのもありますよ?俺はトレーナーではなく――“庶務”ですし」
「おお、感心ですね」
「それに、そういうあだ名は――
うむ。
彼も彼なりにしっかりと考えていたんだな。まさしく、感心ッ。
謎も解けてすっきりしたところで、のそのそと――三人で事務作業に戻る。私も判子を死ぬほど押さねばな。
………。
………。
………。
「ちなみに」
「はい?」
「あだ名をつけるとしたらどういう風にするのです?」
「ああ……例えば?」
「背中ひっつき虫のトウカイテイオーさん」
「――イオちゃん」
「ナイスネイチャさんは?」
「――イスネさん」
「……ナリタタイシンさんとか」
「――リタたん」
「………」
「………」
「……独特ですねぇ」
「その方が絶対に忘れない感じがしていいでしょう?まっ、呼ぶことはないっすけど」
確かに独特だ。
現に私に対しても二人きりの時はよく分からない名前で………。
むっ……?
あだ名……?特別、贔屓……!?
!!
はわっ!
はわわわわわわわわわわわわわ
――――――――――
――――――――――
私の“彼”が庶務として私の下に来て三年目――“新レース”を今年に控えたある時。
各地で起きた大雨の影響で、新レース用に準備していた芝の多くが駄目になってしまったのだ。
駆けずり回るように各所に問い合わせても、期間までに芝の生育は間に合いそうにないと返ってくるだけ。
たづなや一部の理事会の面々は、今年は延期にするか、ダートのみでの開催するしかないという。
だがダメだ。それではダメなのだ!
三年前。“新レース”の開催を宣言した時の――生徒たちのあの輝くような目を。日に日に、期待と希望に満ちていったあの輝きを。裏切るような真似は決して許されない。
私は諦めきれず、自らが所有する農場で芝を生育し始めた。
居てもたってもいらずやった――無謀な事。
やらずともわかる。私一人で足掻き、幾らか形になったところで、そんなものはレース場の数%に満たない。
日夜努力し、睡眠を削り、命を削ろうとも。
私の目の前に広がるのは、小さな芝と――大きな絶望だけだった。
「…………」
その日。
私は満身創痍だった。疲れ切っていた。
このまま行けば、芝が足りず、レースが開催出来ない。
私は皆の失望に包まれるだろう。そんな未来は――現実になろうとしている。
業務もままならない。
私は気が付けば、学内を歩いていた。
すれ違う生徒たちはそんな私を痛ましそうに見つめてくる。
……ダメだとはわかっている。
庇護しなければならない彼女たちに心配をかけさせるなど“理事長”として言語道断だ。今すぐにでも、虚勢でも――いつもの姿を見せるべき。
だが、何故だがそういう事もしたくない。
「………」
ふと、私はどうして歩いてるのだろう?と疑問に思った。
心配されたい訳じゃない。歩きたい気持ちでもない。
今すぐにでもベッドに籠もって眠っていたいほどの疲労の中……どうして?
こうも――
「あっ……」
学内のある一画。
花壇が多くあるところで――私の“彼”の背中を見つけた。
それに途方もない安心感を覚える。私は吸い寄せられるように彼へと近づいていく。
私、がんばったよね?
親の七光りだとかなんとか言われながら必死になってがんばってがんばって……でも、もうどうしようも――――
「貴様何をやったか分かっているのか!?」
――急な怒鳴り声に我に返る。
身を窄めるように小さくなる……いやいや、なんで隠れてたのだ私は。……まるで母のような怒号だったから条件反射か?
しかし、改めて花壇の陰から覗き見れば。
彼を囲むように、怒り心頭のエアグルーヴに困り顔のシンボリルドルフ、我関せずのナリタブライアン、おろおろと彼にすがりつくトウカイテイオーがいた。
重要な、私の彼も――地べたに正座だ。
なっ、なんだ?
生徒会の面々(トウカイテイオーは違うが)が彼に何の……?
「だって……だって……!」
「ええい!駄々を捏ねるな!うっとおしい!」
「お、怒らないであげてエアグルーヴ!庶務さんだって必死で……!」
「何を部外者面をしているテイオー!貴様も共犯だって調べがついてるんだ!正座しろ!」
「ひぃ、ひぃいん!バレてたー!カイチョー助けてぇー!」
「う、うーん……出来れば助けてやりたいんだが……」
「……はぁ」
と、とりあえず。私の“彼”が不当に貶められている可能性もある。
彼はどんな時もウマ娘の事を第一に考えていた優しい人だ。そんな人がこう怒鳴られるのは間違っている!
私は力をフンッ!と入れ、抗議しようと立ち上が――
「よくも私の花壇にミントをぶちまけてくれたな貴様らぁ!!」
――る事はなく、座った。
……何をやっているのだ私の庶務は。
「いっ、いや!エアグルーヴの花壇にやるつもりは無かったんだ!」
「だが、現にそうなってるんだろうが!見ろ!この惨状を!」
エアグルーヴが示した先は、彼女が世話している花壇だ。
彼女は花の生育を趣味にしていてとても色鮮やかに咲かせてくれると学内で評判だ。
理事会も時折、その花をイベント事に使用したいと彼女に頼むほどだ。
そんな花壇は――
「……き、きれいじゃん!
等間隔に植えられた美しい花の隙間という隙間に、大量のミントが浸食していた。物によっては埋め尽くされて隠れているのもある。
トウカイテイオーのフォローも空しく、エアグルーヴの額に――もう一つ青筋が走った。
「くっ、くくくく……!」
「わっ、笑ってる……!笑ってるよ、庶務さん……!」「……し、知ってるかいトウカイテイオー」「な、なあに?」「笑みとは本来、威嚇だという事」「い、今知りたくなかった!」
「そこに直れ、このたわけどもがぁぁぁ!!!!」
エアグルーヴの怒号が突き刺さる。
半泣きの彼とトウカイテイオーの泣き声を聞きながら、ふと周りの花壇もミントが大量に生い茂っているのに気がついた。
他の区間は基本的に学園用……つまりは私たちの管轄なので一向に構わないが……どうしてここまで……?
「まぁまぁ、エアグルーヴ。彼らも反省しているんだ。今はそのくらいにしてあげよう」
説教の嵐が吹き荒れる中。
その隙間を狙って、シンボリルドルフが“差し”の一言をさらりと通した。さっ、さすがは“七冠ウマ娘”……!タイミングが絶妙だ!
私も半泣きの彼は可哀想で見てられなかったから助かる。
「ですが!」
「原因究明が第一だろう?それに、彼らだって君の花壇にやろうという意志は無かった。不慮の事故だろう?」
「うっ、うん……。きっと、ばらまいた種が、エアグルーヴの花壇に入り込んじゃって……」
「だ、そうだ。庶務くんもテイオーも花壇が元の姿になるまで尽力してくれるだろうし――私達、生徒会は“彼”に恩がある。君自身にもだ。……違うかな、エアグルーヴ」
「ぐっ、ぐぬぬ……」
恩?
私の彼が何かやったのだろうか?……まあ、日々尽力してくれてるし、その際に出来たものだろう。
「ほ、ほんとにごめん……エアグルーヴ。君のきれいな花たちを汚すつもりは本当に無かったんだ。あの時は……その、我を忘れてて……ああ、別に言い訳したい訳じゃなくて!あの、えっと……だから、俺を怒るのはいいけど――トウカイテイオー
「……庶務さん……」
私の彼の言葉は謝意が真摯に伝わってくるほど――強いもの。
半泣きの瞳に見上げられたエアグルーヴは、静かに目を閉じた。
「………。………。……まあ、確かに貴様には世話になった事も多いし、今回の件も予想を外れなければ同情に値する。元の美しさに戻るまで手伝おうという条件を守るのであればゆる………ゆる……――待て。さっき貴様、テイオー“たち”と言わなかったか」
「あっ……」「ちょっ、ちょっと庶務さん!なんで言っちゃうのさ!?」
「おい」
「はっ、はい!」
「――吐け」
「えっと……マヤノトップガンとニシノフラワーとダイタクヘリオス、ナイスネイチャとツインターボにマチカネタンホイザと、ライスシャワーにミホノブルボンとぉ……技術協力者としてアグネスタキオンと。あとは――」
「………はぁぁぁぁぁぁ」
出てくる出てくるミントバラマキの共犯者に怒る気力も失ったのか、深々とため息を吐くエアグルーヴに同情しかない。
私の彼の過失であるし、後でいくらか球根でも見繕う事にしようか。
シンボリルドルフはそんな彼女の肩を叩いて労ると、彼の方を向く。
「それで、どうしてこんな事を?」
改めてそう問いかける。
それは私も知りたい。私の彼はたまに突拍子もない事をやって周囲を驚かせる事はあったが――こういう実害が出るようなことは決してしなかった。確かにその一線は守っていたのだ。
なのに、どうして?
「……新レース用の芝が足りないってのは知ってる?」
囁くようなその言葉に、私は心臓を握られたような圧迫感を覚える。
「……ああ、知っているとも。我々もその件については萎靡沈滞の心地だ」
「………なんて?」
「哀れに思っているとのことだ、このたわけ。それがどうしてこの暴挙に繋がる?」
「ゆめみちゃんがね。頑張ってるんだ」
そりゃあそうだろう――アレが、私のあだ名だ。どこにも私の面影が無いから分かるまい。ていうか、二人だけの秘密にするって約束したのに……!
シンボリルドルフだけは、すぐに納得したように頷いた。
「たづなさんですら諦めるのも視野に入れてる中さ。一人で、たった一人で……芝を作っているんだ。一から」
「……理事長が。特に最近は疲労困憊だと思っていたが」
「理事長の事だったのか……流石、会長」「……どっから“夢見”なんて出てきたんだ?」「ぶーぶー……ボクもあだ名で呼ばれたいぃー……」
「あの背中を見てたらさ……居ても立っても居られなくて……!」
ぎゅう……と膝を握る、私の彼の背はかすかに震えていた。
見られていたのも驚きだったし――ああも感情を震わせてくれた事にも驚いた。
……嬉しさのようなものが溢れてくる。見ていてくれたんだ。
………。
――ん?
「だからそれがどうしてミントテロに通じる?」
「芝の生育が間に合わないなら他のなにかで代用できないかなって調べてたら、ビワハヤヒデから『発育スピードを考えるならミントが良い』って教わって……」
「……なにやってるんだ姉貴は……」
ナリタブライアンが頭を抱える。
暴挙の片棒を家族が担っていたのがショックだったのだろう。
そんな彼女に気づかず、私の彼は静かに周りを見渡した。
実に、決意に満ちた凛々しい表情で――
「新レースなんだから――
「「「「思わない」」」」
満場一致だった。
色々やって貰った私も含めて――満場一致だった。
私の彼は、いつもなんだかんだ同意してくれるトウカイテイオーですら「それはない」と首を振った事に狼狽したように立ち上がる。
「いや、いいじゃん別に!芝もダートもあるんだから――
「良い訳ないだろう!?」
「ああー!なんだこらミント差別かこらぁ!ミント2000m走ってみてから言えやこらぁ!」
「ミント2000m……」「呼び名からして違和感の塊だよ……」
錯乱する私の彼。困惑するウマ娘たち。
私としてもこうなる前に彼に相談していれば。
一人で抱え込まず協力していれば、彼がここまで思い詰める事は無かったのに……!
空気を一新するように、シンボリルドルフは咳払いをした。
「……まあ、理事長を思う気持ちはわかるが、それは流石に暴挙としか――」
「やってみんとわかんないでしょうが!」
「――ぶっ……!」
急に――シンボリルドルフが吹き出した。そのまま口を抑えてわなわなと震え始める。
えっ、なに?えっ、なんで笑い出したのあの子……?
しかしどうやら困惑しているのは私だけのようで――周りはすぐにうんざりしたような表情を浮かべた。
「ためしてみんと、やってみんとわかんないよね?シンボリルドルフ。ためして……みんと、やって……ミント」
「ぷっ、あははは!わかった!……わかったから、やめっ……!」
……成る程、ダジャレか。ゆっくり言われてやっとわかった。
どうやらシンボリルドルフはそういうのに耐性が無いらしい。なんだか意外だ。
イケる……!と私の彼の顔がしたりと笑っていた。このまま押し通すつもりのようだ。
……君も大概、たづなと似ているよな。
「おい、テイオー。そのたわけの口を抑えてろ。話が進まん」
「はーい。ほーら、庶務さん。お口チャックの時間だよー」
「――むぐぐぐ!」
トウカイテイオーは、ちゃっちゃと私の彼に覆い被さって口を塞いだ。
手際の良さから見て、ああいうのは日常茶飯事のようだった。
………。
ほんと思うんだが――近過ぎやしないか。これは理事長注意の必要があるぞ。
「……ふぅ。ありがとう、テイオー。やはり庶務くんはダジャレの才能があるな。いつか共に語り合いたいと心から思うよ」
「……心底やめて欲しいんですが」
「――ともかくだ」
仕切り直すようにシンボリルドルフは、私の彼と視線を合わせた。
「庶務くん。君の気持ちは私も分かるよ。もしエアグルーヴやブライアンが苦難に立ってしまったら、この私も平静ではいられないと思う」
「会長……」「……ふん」「えー、カイチョー、ボクはー?」
「ふふ、勿論君もさテイオー。だがな、庶務くん。厳しい事を言うようだが――
「むぐっ!」
一瞬、冷たいとも感じたその言葉。
だがそうではないとすぐにわかった。
彼女の表情は――とても優しげだったから。
「君は理事長のひたむきな姿に心を揺さぶられた。だから何とかしたかったのだろうが、そうじゃない。君は彼女の補佐だ。なら、彼女の“杖”として――支え、共に頑張るべきだったんじゃないか?」
「むっ!……むぐ、むぐぐ」
「無論、このままでは駄目かもしれない。しかしだからこそ、話し合うべく、彼女の側にあるべきだ。……違うかい?」
彼女の言葉に――私の彼は目を見開いた。
もう大丈夫そうだとトウカイテイオーが離れる。
「そうだ……俺はおたわけだ……ゆめみちゃんの為と思って――結局、やった事はゆめみちゃんの努力を否定する事じゃないか……!」
………。
そうじゃない。君も――たづなだって、理事会だってそうだ。
きっと皆も、苦渋の決断だったのだ。考えて考えて考えて――それでも駄目ならと、たとえ憎まれ役になろうとも、彼女達は私に代替案を提示したのだ。
私がやった事なんて、それをただ感情的に拒絶しただけ。
「俺は“庶務”だ。彼女をサポートするのが仕事!なら、最後まで彼女の意志のまま、支えてあげるべきだったんだ!」
ああ、でも。ああして。
私の彼が奮起した……あの姿を見れた。それだけで――今までの無為に思えた足掻きが報われたような。
そんな気がした。
「ミントぶちまけてる場合じゃねぇ!今すぐ、ゆめみちゃんの手伝いに行かなきゃ……!!」
「ああ、勿論私達も手伝おう。新レースの開催は――今や、我々生徒にとっても悲願なんだ」
「シンボリルドルフ……!」
彼女の言葉に、私の胸が熱くなる。
ウマ娘の為と頑張ってきた事に確かに意味があったとわかって。
「……しかし、会長。このまま我々が向かったところで焼け石に水でしょう。もっと人手を増やすべきかと」
「うむ。そうだな。有志を募ろう。商店街や生徒たちに書類を――」
「いや、一分一秒が惜しい。そんな暇はないよ」
バッサリとそれを否定した私の彼は凛々しく立ち上がる。その背にはトウカイテイオーがしがみついていた。ちゃっかり娘め……。
「じゃあ、どうするのだ貴様」
「――任せて」
そうして――校舎の方に体を向けて、すぅ……と息を吸った。
……?
なにをす――――
「ウイニングチケットォォォオオ!!」
きぃぃぃん!
と、一瞬耳鳴りが走るような大声が響き渡る。
呼んだ名はその大声がピタリと似合う元気娘、ウイニングチケットだ。
確かに在校生の全員と友達な彼女が呼びかければ生徒たちはすぐに集まるだろう。
……しかし、ここは校舎からそれなりに外れた場所だ。ウマ娘の耳がいいからって流石に――
「なああああああにぃいいいいいい!!」
いや、届くんかい。
「今すぐ皆を校舎裏に連れてきてぇぇえええ!!」
「わかったぁああああ!!タァイシィイイイイイイン!!!」
ついでとばかりに誘爆したナリタタイシンが哀れだ……。
しかし、これなら確かに……!!
「ヨシッ!これで一先ずは解決だな!他の人手は心当たりがある!任せろ!」
それだけ言うと私の彼は一目散にと駆け出した。
……急な大声を直に浴びて目を回しているトウカイテイオーをブラ下げて。
「……ふふ、どうやら発破をかけ過ぎたみたいだね」
「……我に返った事は嬉しい限りですが、やはり突拍子がないのは頂けません」
「それが庶務くんの魅力さ」
「……否定は、致しませんが」
耳を抑えながら苦笑を浮かべたシンボリルドルフとエアグルーヴは歩き出す。
だが、同じく耳を抑えているナリタブライアンはどういう訳か動かない。
「………」
「ん?おい、ブライアン。貴様も来い」
「ああ、少し待て」
そう返した彼女は――こちらの方を向いて……?
「(よかったな)」
パクパクと声を出さずに喋る彼女の口元はニヤニヤとからかっていた。
そしてそのまま彼女達の後を追っていった。
………。
~~~~~!!き、気づかれていたのか!
も、もしやシンボリルドルフたちも!?いや、そんな訳……!
……まあ、いいか。
――よかったのは事実だ。
「……よしっ」
私はすくりと立ち上がる。
こうしていられない。皆が立ち上がってくれるのであればしょぼくれている場合ではないのだ。
間髪入れずに私も彼の後を追いかける。
瑞々しいミントの香りが、いつのまにか先ほどまでの憂鬱感を吹き飛ばしていた。
その後、滞りなくウイニングチケットによって集められた生徒たちと、彼とハルウララが呼んだ商店街の人々。
さらには職員たちの家族や、どういう訳かメジロ家の面々まで出張って来て……芝は――瞬く間に規定の量に達した。
よかったですね!と嬉しそうに笑う、私の彼。
三年の間に実ってきた想いが、形になったのはその頃の話だ。
――――――――――
――――――――――
新レースは先の苦難が幻だったかのように――華々しく開催された。
レース場はどこもかしこも大盛況。テレビの話題も、視聴率でさえほぼ独占と言っていいほどだった。
繰り広げられるのは――切磋琢磨し合ったウマ娘たちのぶつかり合い。
共に命を燃やし尽くすような熱意と清廉さ。
見ているだけで呑み込まれるような――美しさ。
感動があった。涙があった。奇跡があった。
――誰もが勝者を礼賛し、誰もが敗者を労った。
私の夢が、綺羅星のように光り輝いて――目の前に広がっていた。
ああ……。
ああ……。
なのにどうして。
その光景を共に喜んだはずの君を、
――――――――――
………
……
…
――夢見がひっじょーに悪かった。
そうとしか表現できない。私の気分は最悪だ。
何の嫌がらせだ。
あの素晴らしく輝かしい夢をまた見るなど――どうしようもない現実がより際立って、気が滅入ってしまうではないか。
多くのウマ娘がトレーナーと契約した?
――寧ろ、トレーナーを拒否した者だらけなのだが?
それに――“彼”が私の側に居ないじゃないか。
その時点で、どうしようもないではないか。
早朝。
朝露が垂れる静かな時間――私は誰もいない“三女神像”前の広場に立っていた。
「……この夢は、いったいどうして」
ウマ娘たちに対して起こる不可思議な現象は、もっぱらこの“三女神”の御力と言われている。
つまり――
「………」
考えたところで答えが出る訳はない。
“三女神像”はそっぽを向いていて――
「……はぁ」
やめだやめ。このままでは本当に気が滅入る。
適当にコーヒーでもシバきながら書類と向き合うしかないのだ。夢のおかげでやった事のある書類が多いから捌く事に大した苦労はない。
そこだけは、感謝だ。
「……っよぉ!……」
「……ばっ……!」
そこでふと。
近くのレース場からどこかのトレーナーとウマ娘のかけ声が耳に入った。
こんな早くから朝練とは気合いが入っていて何よりだ。
……ふぅむ。
ここは、ひたむきに頑張っている者達に目を向けて気分転換でもするか……。
「よぉし!いい感じだぞモブ子!じゃあ、もう一本!」
「うぅ……!意外とスパルタぁ……!」
いや、それがまさに“彼”だとは思わなかったけど。
担当にしたというモブリトルとトレーニングをしていた。その顔は、実に生き生きとしている。
トレーナーとして働いている事が嬉しいと言わんばかりだ。あの輝きは見た事がない。
……私は、彼の道を途絶えさせてしまったのだろうか。
やっているトレーニングには見覚えがあった。
――“ショットガンタッチ”。
勢い良く投げたボールが地面に届く前に走ってキャッチするというものだ。それも自分で投げ、自分で取る。
瞬発力を鍛える、良い“スピード”のトレーニングになるだろう。……ちょっと突拍子もないが、それが彼らしくて。
なんだか、泣けてくる。
「――むっ?あれ、理事長」
ぼぉ……と見ていると彼に気づかれた。
ただ単に、当たり前にそう呼んでいるのに――どこか空虚に感じてしまう自分が気持ち悪かった。
彼はもう、“ゆめみちゃん”とも呼んでくれない。
記憶の中ではついぞ――由来を語ってはくれなかった、あの愛おしい名前を。
モブリトルも私に気づいたのだろう。慌てて頭を下げてくる。
私は、努めて、笑顔を浮かべた。
「感心ッ!こんな朝早くからトレーニングとは精が出るな!」
「あはは……恐縮です」
「……早朝なら誰も見てないぞ!ってうまぴょい伝説を踊らそうとする人ですけどね」
「モブ子……しぃぃ!」
担当してまだ半月程度だと言うのに――とても仲が良いようだった。
先のトレーニング風景もそうだったし。
まさしく――
「………これもまた、“運命”か」
今の現状。
悲しさしか待っていないように思える未来を打開出来るのは――
「奇遇ッ!君とはぜひ話しておきたかったのだ!」
無論、“秋川やよい”という私も。
「俺……ああいや、私と?」
「うむっ!というのもだな――その目、その輝き!その面構えからして、君は他の者と違うと感じていた!」
「……おっ、おお……」
「――流石ッ!私の見込んだ男だ!」
「……すっごい誉められる……まだ何もしてないのに……」
いいや。するさ。
君は必ず素晴らしい、輝かしい事をやってのける男だ。
「確信ッ!トレーナーとして――ウマ娘の夢を支える立派な杖となる者よ!」
「はっ、はい……!」
「是非、君に“新レース”の成功に協力してほしい!」
「「新レース?」」
むむっ。
そういえばまだ学園内に通知してなかったな。彼も彼女も知らないのは当然だろう。
私はなんだが――安堵した。
“彼”がいるなら大丈夫だと。
たとえ私の側を離れたとしても――彼は彼で何も変わりはしないのだ。
必ず、
そういう確信が――私にはあった。
「ふっふっふ!聞いて驚くがいい!今から三年後、私たちは新たなレースを作る予定なのだ!それは、全適正・全距離に対応した大規模レース――」
ああ、だから。
どうか貴方に“夢見”させてほしい。
この鬱屈感を吹き飛ばすような――輝かしい道筋を、見せて欲しい。
バサッ!と扇を広げる。
何がなんだがわからぬ顔をした彼に――私は満面の笑みを見せつけた。
「開催ッ!――URAファイナルズ!」
ぽかん、と口を開ける彼らの背、地平線からが日が登り始める。
その日を浴びながら、私は確かに――目覚めたのだ。
それに。
あの“三年間”の中で彼の好みは完璧に把握しているし、理事長として緊密にサポートすれば――すぐに仲が深まるだろう。
贔屓と言わば言うがいい――確かにその通りだしなっ!
なあに。
この“三年間”くらいは彼女に譲ってやろう。
その次の未来は――どうなるかわからないのだからな!
――――――――――
さぁ、もっと。さぁ、もっと。さぁ、もっと。
そこは、崩れ落ちた本の草原。
淀んだ物語の雲、蕩けた文字に染まる空。
――“彼女達”は恍惚に溺れる。
不意に覗いたあの輝き。
絶えないように。潰えないように――忘れないように。
さぁ、もっと。さぁ、もっと。さぁ、もっと。
祝福を貴方に。
与え、重ね、包み込む。
……それが、確かに祝福であったのは――。
さて……いつのことだったか。
――――――――――
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この世界にソクラテスは必要ない。
これは私の座右の銘に等しい。
持論だが――。
生物である私たちは、一様にその“限りの有る時間”に囚われており――その中でどうするか、どうなるかは各々の裁量に委ねられる、と考えている。
生かすも生かさぬも潰すも磨くも腐らせるも自由なのだ。
その自由の中で、私が重要視するのは――どう、成るかだ。
私には目標がある。
それは――どこぞより授かった“
誰よりも早く、速く、疾く。
ウマ娘という種族の限界を。誰もが到達し得ない果て、臨界点を超えたい、と。
走るという行為に特別な意味を抱くウマ娘にとってはある種普遍的な願いかもしれない。特筆する必要もない誰もが浮かぶ空想の類と感じるやも。
しかしそれでも――私にとって、それは途方もないほど大切な“夢”だった。
だからこそ。
私はそれを果たすべく、日々、研鑽と研究を重ねていた。
――“時間は有限”なのだから。
それなりに遊べるほどの余りはあるが、立ち止まれるほど有り余っている訳ではない。
時間が無限にあれば話は別だが――
――故に。
もう、こんな“夢”に囚われたくない。
というのは、私の紛れもない本音でもある。
「………」
目の前には小鍋が二つ。
これまた二つの小さいコンロの上、火に掛けられている。
その中は、様々な素材を煮込んだ液体に満ちている。それぞれ、紫と青の色。
コポコポと茹だった泡が弾ける度、粗悪な香水を雑多に混ぜ合わせたような甘ったるい匂いが広がっていく。
私は適度にかき混ぜながら、具合を確かめる。
――“夢”の通りであれば。
ほどよく粘り気があり、彼の頬程度であればいい。……証明しようもないのは止めてほしいんだが。
「ふむ……まぁ、こんなものか。トレーナーくん、どうか――してるね、まったく……」
確認して貰おうと振り向き――
まったくもって頭が痛かった
“夢”は私にとって有益なものを多数与えてくれたが――それよりも深く、重いモノも押し付けてきていた。
私という存在が、揺らいでしまうほどに。
「あと、は。冷ますだけか。トレーナーくん………じゃない。……はぁ、私がやるのか」
任せよう、と当然のように下がった足をひっぱたく。
コンロの火を止める。あと常温になるまで待てば、準備は完了だ。
「………ふぅ、疲れるな。トレーナーくん、紅茶ぁ―ー……」
一息入れようと振り向いた先には、埃が被ったティーセットが冷たく鎮座している。
「……もういい」
叩きつけるように椅子に腰掛ける。
やることもなく、煮沸しておいたフラスコを眺めた。
空洞なソレは、ぐにゃりと研究室を写している。
棚に清廉と並んだ文献。実験器具は、綺麗にメモリを宙に浮かせていて。
きっちり管理している薬材の数々は――まさしく“夢”のような色合いをしていた。
「……君のせいだよ、トレーナーくん。……なぁ、聞いている、の……かい……」
誰もいない。
――フラスコには、誰も写っていない。
私は、机に突っ伏した。
「……まったく。度し難いな、私は」
そう。本当に、まったくもって、度し難い。
度し難く――だからこそ、今すぐにでも、どうにかしないといけなかった。
全ての原因は“夢”だ。
突如として私の脳内を蹂躙した、美しい“三年間”の夢。
この狭すぎる研究室と広すぎた願望を持っていた私に訪れる、はずだった――蕩けるほど甘い蜜月。トレーナーである“彼”との日々。
鮮烈なまで見せつけられたソレに――私は、
情けない話だ。
“夢”があまりにも私好みで限りないぐらい理想的なせいで、私は今、この瞬間、この“現実”を認識出来なくなってきている。
映画に影響されてヒーローに興じる子供よりも数歩抜きん出た間抜けさだ。
「……んぅ、頭が痛い……」
今の状況は深刻だ。
“夢”と“現実”がひどく曖昧で、ふとすれば境界が狂って――
大抵はすぐに我に返る。
だが、特筆して最悪なのが、夢も現実も私は研究をしているものだから、特に違和感も無く二つが混じり合い……ああなる。
ふとした時に――“
「……っく」
起こる度に、私はありもしないはずの喪失感と駄々でしかない苛立ちに悶えるしかない。
不平をぶつける相手は側にいてくれない。私以外の女に忙しいのだ。
……。
……ていうかだ。
「……“夢”の私は、どれだけ彼の事を気に入っていたんだ……!!」
私はそれを痛感しっぱなしだった。
いや、気に入っていたなんていう虚飾はよそうか――依存していた。
なんだアレは?
一言二言話す度に“彼”を呼ぶのは本当にどうにかしているぞ。出会った当初はともかく、最後の方は大体の意志決定に彼の意見を求めてるじゃないか!どこまでお気に入りなんだ!?
君も君だぞ!
私がいつも研究室にいるからといって、「じゃあ一緒にいる方が色々効率がいいなー」と研究室の一角で業務を済ませないでくれないか!?
だからああなるんだぞ!
つまりは、一日の大半一緒にいるってことだろう?親密になるに決まってるだろう!?依存するに決まってるだろう!?!
しかもなんだ?
君は、とても従順な男で?
研究を好意的に理解し、少しでも補助できるようにと知識をつけ、どんな時でも円滑に実験が行えるよう、関係各所に根回しと挨拶回りするという至れり尽くせり?
さらにはマッサージやお茶汲み、食事だって作ってきてくれ、果ては家事すらも?
さらには一般的な美醜で捉えれば、悪くないと来ている!
つまりはだ。ああ、つまりだ。
“彼”は――
………。
………す。
ーー好きになるに決まってるじゃないか!ふざけるな!
「……うぅ……とれぇなぁくぅん……」
自分にこんなヘタれた声が出るのも驚きだ。
あまりの現実との乖離に気色悪さすら感じるが――納得しかない。
それはああなる。誰だってああなる。堅物の塊のエアグルーヴとか、どんな時でも綺麗な“体”を崩さないフジキセキくんとかでもぜぇったいにああなる。
出会って一週間で彼に依存し始めた私を賭けてもいい。
しかもそれだけではない。
私が探求していた――果てへの道のりを、彼は見させてくれた。
あのまま進んでいれば……私は、“アグネスタキオン”にふさわしい存在になっていたと確信している。
「………うぅ」
と、思ったところで――全ては寝物語。
幻想や妄想と嘲ってもいい。
あの日、あの“選抜レース”の日――
“彼”は、私を選ばなかった。明け方まで経っても姿を見せず、意気消沈した私の目の前で――誰とも知らないウマ娘と笑いあっていた。
なぁ、トレーナーくん。あれから私は一歩もこの研究室から離れられないんだ。腫れた目元が一向に治らないんだ。君が氷で冷やしてくれないからだよ。わかったら早く私の元においでよ。なんであんなウマ娘――――
「―――っっ!!」
私は自分の頬を叩き、思考を中断させる。何度も叩いていれば澱んでいた思考がはっきりしてきた。
「ダメだな。黙ってると思考がズレていく。トレーナーくん。なにか話を――ああもう!!」
反射的に叫んだ。
もう八方ふさがりだった。意識に逃げ場が無く、疲労だけが苛んでいく。
ともかく。ともかく!ともかくだ!!
このままでは生活もままならない。何しても辛いだけで正直しんどくてたまらないし、現実問題、誰かと話す最中ですらこうなりそうで肝が冷える。
なんとかせねば、と私は考え――打開策として思いついたのが、またしても“夢”の産物。
目の前にある二つの液体。
私の現状を打破し得る、まごうことなき救世主だ。
「……ふふふ、コレで苦しみながらもコレで救われるとはね。なんとも皮肉じゃあないか。なぁ、トレ――……誰か、ガムテープを持ってきてくれないか……この口を塞いでくれ……」
「――なにをしているんですか」
ふと――入り込んで来た、ぶっきらぼうな低い声。
聞き覚えのある、私の友人の声だった。
フラスコを覗き見る。
写っているのは――扉の前に立つ、真っ暗な夜とそれに浮かぶ月のような瞳を持つ彼女。
「……やぁ、カフェじゃないか」
――
私の友人で、実験にも快く参加……してくれないし、お茶は二回に三回は断られるし、話す時は大抵仏頂面のままだが――心の友。
だから、今は会いたくなかったんだが。
「……どうしたんだい?君が私を訪ねるなんて珍しい」
「………」
「……カフェ?」
声をかけるが反応はない。
フラスコに写る彼女も石像のように微動だにしない。
……どうしたのだろうか?
カフェが塩対応なのはいつものことだが、無視はよほどの事が無ければしないんだが……。
「……
彼女にしては呆然とした声が聞こえてきた。
聞き慣れないその声色には、困惑がありありと描かれている。ふらふらと月が部屋を見回すように揺れていた。
……ふぅン?
「見ての通り、研究さ」
なにをしているかと言われても――こうとしか言いようがない。
常と変わらぬ研究室。
そこに私がいる意味などそれしかないだろう。
そりゃあいつもとは違う試みだし、今作っているのはとんでもない悪臭だけれども。
「……そう、ですか」
「そうとも。ああ、立ち話も何だね。紅茶を淹れようか。トレ――……ト、ト、トレーを!用意するとしようか」
「……いえ、結構です」
カフェは部屋に足を踏み入れてきた。
「そんなに没頭するなんて、何を作っているんですか?」
「ああ、これかい?――
「……ほんとに、何を作ってるんですか」
「変な“悪夢”が続いてねぇ」
「………」
そう。
これは、“夢”の私が――寝ぼけて彼に対してとんでもなく恥ずかしい醜態を晒してしまった事を忘れさせる為の作った代物だ。
とはいえ、焦りながらと急ぎながらという、研究にとって相性最悪のコンディションが災いし、その記憶どころか一ヶ月分の記憶が消し飛んでしまって、我を忘れて泣きじゃくって謝るという――結局、とんでもなく恥ずかしい醜態を晒す事になったという、曰く付きでもある。
しかし、これが今の私には必要だった。
失敗は成功の母とはよく言ったものだ。びっくりするほど笑えんが。
カフェはじっとりと私を見つめていると――少しして首を振る。
「……?どうしたんだい」
「いえ。よくはわかりませんが、それ飲んだら休んだ方がいいですよ」
「あ、ああ。そうするよ」
彼女はそう言って机に何かを置くと――踵を返した。
……ふぅン?
何かとは袋だった。見れば、学園近くにあるコーヒーショップのロゴがある。
中にはサンドイッチとコーヒーが入っていた。
……か、カフェが私に……?
あの徹頭徹尾私をスルーするカフェが?私に?差し入れ?
……そういえば、さっきからちょっとやさしい気もするし……。どっ、どうしたんだいったい?
「………あの」
カフェの突然の優しさに困惑していると、件の彼女に声を掛けられた。
覗き見れば彼女の姿は、ドアに手を掛けた辺りで止まっている。
「おや。他になにか用でもあるのかい?ああ、この差し入れはありがたく頂くよ。流石親友だね」
「………。………」
「んぅ?カフェ?」
「――その薬、あとで私にも作ってくれませんか?飲みたいです」
カフェが言った事を、私は一瞬理解出来なかった。
理解出来たとて、冗談とも思ったが――彼女がそういう冗談を好んでないのも知っている。
だが、私の答えは決まっていた。
「すまないね。これはちょっとばかし劇薬が過ぎる。誰かに勧められるものじゃないんだよ」
まぁ、そんなものを彼に飲ませた私が言えることでもないかもしれんが。
「……そうですか」
「なにか忘れたいことでもあるのかい?」
「忘れたくはないんです」
「……?
「はい」
「……??わからないな」
「そうですね。私にもわからないです」
「???」
要領の得ないふわりとした会話をして、カフェはするりと去っていった。
んー、なんだか釈然としないな。
「まぁ、いいか」
私は差し入れを側に置いて、改めてテーブルに向き合う。
今の私は、彼の食事以外味を感じないという幻覚から来る味覚障害が出てるからあまり要らない。
これは次の私に下げ渡すとしよう。
フラスコを手に取る。
とはいえ、ここまでくれば工程は単純。
常温になった二つの液体をフラスコにそそぎ入れるだけ。すると化学反応を起こして、どろりとした液体になる。
これで完成。
怖気が走るような色合いの薬。
――私の“夢”を終わらせてくれる薬が出来上がった。
「………」
あとはこれを飲むだけ。それで全て終わる。
口を開く毎にかきむしりたいほど沸き上がる喪失感も、身体全体の水分を奪い尽くすような涙も。
全部が全部。
「……っ」
“夢”で有用な部分は全て抽出してノートに書き込んである。
事の顛末として、都合良く濁した手紙を――後の私へと遺した。賢明な私なら、知らない方がいい事だと察してくれるだろう。
ついでに小腹を満たす軽食まで追加されたと来た。
全て万全だ。
不測の事態でも益は決して逃さない。隙の無い立ち回りだろう。
――
何の実りもない分かり切ったものなど捨てて、次の研究に移るべきだ。
それが――――
――『
“夢”が声をあげた。
「………っ」
――『こぅら、ネスタちゃぁーん?さっき休むっつったでしょうが。はい、器具没収です。ごー、仮眠室、なう!……あー?紅茶ぁ?……ったく。しょうがな――あっ、お客様。肩揉みと膝枕のオプションは六時間ほど研究を行わないというのが条け――あっこら駄々こねないの!やめなさい、五歳児でもやらないよそんなすごいやつ!』
「……ぐ、ぅ……このっ……!どうしようもない、甘えた私めっ……!」
――『んー、ネスタちゃん。効率は分かるけどさ。トマトとチキンとその他諸々スムージーはない。食事じゃないよ。餌でもないよ。表現する言葉すらないよ。えっ?ーーなんだったら俺が料理?』
「わからないのか!?無駄なんだ!彼の一途さはこの無様な私が証明していることだろう!?」
――『ネスタちゃんの夢?そりゃあ実現できるよ。君がいっぱい頑張ってるのは俺が知ってるし、真摯に取り組んでるのだって“三女神様”だってわかってる。だから、大丈夫――
「彼の一番は私じゃない!あの日、あの場所でそれがもう確定しているんだ!私はもう終わっているんだよ!!」
――『ネスタちゃーん。レース準備で――なにその駄々っ子ポーズ。んあー?温泉旅行?……そういや福引きで当たってたっけ……?いやでもアレ確かペアの一部屋でしょ?流石にちょ――あー!わかった!わかったから!URA優勝すれば一緒に行ってあげるから!だからやめなさいって二歳児でもそんな激しいことしませんよ!?』
「こんなもの抱えてたって……苦しいだけだろう……!!」
それを表すなら、抵抗だった。
――
今の私があるように、“夢”の私のようになものがあるに違いない。
がなるように乱立するソレに、視界が何重にもブレて吐き気と頭痛がこみ上げてきた。
「……トレーナーくん……!トレーナーくん……たすけて……!」
零れた弱音は、誰にも届かず消えていく。
延々と襲ってくる痛みと苦しみにうずくまるしかなかった。
――コンッ、コンッ、コンッ。
ふと、ドアがノックされた。
重い頭を起こすと――ドアの向こうに誰かの気配がある。
『あのーごめん。だれかいますかー』
眩む脳内が拾ったのは、くぐもった男の声。きっと用務員とかトレーナーだろう。
……なんだ?
また、ノックの音が響く。
居留守でもしようかと思ったが、開けられても面倒だ。……適当に追い払おうと、血の味がする口を開いた。
「んぐっ……なん、だい?」
『ああ、よかった。いやあの……こっからカフェテリアに行く道を……その、教えてもらいたいんです。はい』
「……道?」
『迷っちゃって』
……
どういう思考回路してればそれで迷うんだ。
脳に認知障害でもあるのか?
私のトレーナーくんもたまに方向感覚が狂ってたが、それはもう痴呆の域だろう。
まぁ……なんでもいいか。
答えを窮する必要もないので――さっさと道を教えた。
『おお、わかった。ありがとね、これでまたモブ子の呆れ顔を見ずに済むよ』
「そうかい。なら、とっとと行くことだね」
『おう。あっ――お礼しなきゃね』
「……別に、いらないよ」
そんなもの渡されても邪魔だし。
しかし、男はそんなものお構いなしに――コトリ、とドアの前に何かを置いたようだった。
『まぁ、お礼というか……それにカマケたお願いなんだけど』
「……なんだい?」
『実は、俺が担当してる子がいるんだけど……あっ!モブ子って言うんだけどね?ほんと良い子で、へこたれない努力家でね?昨日なんか筋肉痛なのを隠して無理矢理やるもんだから――』
「そんな下らない話はどうでもいい。早くどこかに行ってくれないか」
『あー……ごめんね。じゃあ手短に。それでね。最近、食事も見直そうってなって――お弁当、作ってるんだ』
そういえば“彼”もよく作って、きて……くれて?
『でも、初めての試みで上手く行ってるか良く分かんなくてさぁ。誰かに味見して欲しかったんだ。これも縁ってことでお願いしていいかな。あっ、気持ち悪かったらそのまま捨てていいからね』
眩む脳内が起きあがる。
くぐもった男の――いや、“彼”の声。聞き間違えるはずがない!
『……なんかあったかは知んないけどさ。ご飯でも食べて少し落ち着けば解決策は見えてくるよ。んじゃ、道案内。ありがとね』
まって。
「待ってくれ――!」
沸き上がる衝動に任せ、勢い良く立ち上がる。
そのせいでめまいに眩んで、転ぶそうになるのを慌てて机に手を突いた。
それがフラスコを持つ手で反動で割れて薬が手元を濡らしたが――そんな事はどうでもよかった。
「トレーナーくん……!!」
ふらつく足を引っかけながらドアに駆け寄ったがもう誰もおらず。
見覚えのある風呂敷に包まれたお弁当だけがそこにあった。
――『ネスカフェちゃんたち!お弁当の時間だよ!今日は自信作!』
ふと、“
トレーナーとの二人三脚。
常に感じていたうきうきわくわくも――数ヶ月が過ぎれば、少しは落ち着いて。
私とジャラちゃん含めた底辺ズの“うちのトレーナーの方がすごいんだぞマウント”のネタもテンプレ化すれば、自ずと客観的にトレーナーのことを見れるようになっていった。
イケメンで、とても熱意がある人で、イケメンで、殆どの場合私を優先してくれる、イケメンで。
他には、トレーニング方法が奇抜で突拍子もない事ばかりだけど――私が今までやってきたものはお遊戯だったのでは?と思うくらい筋肉痛地獄から抜け出せないほど、トレーナーとして優秀とか。
話上手もさることながら聞き上手で、打てば響く会話にストレスはなく、方針の食い違いや不和が起きそうにもないとか。
たまに、私の気分を害したのではないかと極端に下手に出るとことか、ぞくぞ――んんっ!
愛嬌に思えて、余計魅力的に感じてしまう。
そんな超優良物件。
私の生涯分の運とかたぶん寿命も二十年くらい使ったと言っても過言ではない、最高のトレーナー。
だけど。
ちょっと悪いとこもある。
どこからともなく現れてくる“幼い頃に結婚の約束をした系”のウマ共も然る事ながら――
――
特に理由はないが、今日は紅茶の気分だった。
「すんませんおばさん。紅茶二つ」
「はーい。確かぁ……片方はすっごく熱くていいんだっけ?」
「あっ、はい。あの人は遅れて来ますから」
「……私も長年ここでお茶出してるけど、あそこまで地理を把握出来ないトレーナーさんって見たことないわぁ」
「でしょうね」
「あっ、紅茶はテーブルに運んであげるから早く座っちゃいなさいな。つらいでしょう?」
えっ、やった。
筋肉痛がひどすぎてリアルミホノブルボン歩行してた甲斐があっ……ったた!
時刻はお昼時。
裏切り者ジャラちゃん(あと半年は根に持とうと思う)と別れた私は、一人、カフェテリアの隅っこにある喫茶スペースでトレーナーを待っていた。
最近のルーティンだ。
この時間は皆メシをかっ食らっている為、人はまばら。
なのでゆっくりとくつろげる。筋肉痛のせいで、バキバキの実の全身バキバキウマ娘になっている私には、この待つ時間も意外と丁度よかった。
「……くぅ、治ったとこがまた痛い……なんであんなトレーニングがここまで効くの……?」
軽くマッサージしながらこの数ヶ月やってきたトレーニングを反芻する。
瓦割りもそうだが、ショットガンタッチ。果ては犬掻き。タイヤ引き(はたらくくるまver)。
やってることはめちゃくちゃなのに――
走りの速度はメキメキ……とは決して言えないが、少しずつ上がっていってるし――足以外にも身体全体にうっすらと筋肉がノるようになって、ちょっと鏡の前に立つのが楽しくなった。
成長を、実感できていた。
この実感があるからこそ、筋肉痛もさほど苦じゃない。モチベーションの維持の重要性がよくわかった数ヶ月だった。
「はい、お待たせ。……こっちの方が熱いからね」
「あざまるです」
おばさんが持ってきてくれた紅茶を受け取る。
シンプルなカップに淹れられたストレートティー。
私は善し悪しは分からないが、鼻を突き抜ける独特の風味は好きだった。
「……んー、さぁって。今日はどんぐらいで来るかなぁトレーナー」
最初こそ、来ない不安に怯えた事もあったが――今は慣れた。
本人が遅刻したくて遅刻している訳ではないのは知っている。体質のせいであれば……ちょっとやべぇ迷い方するけど。
ゆっくり紅茶でもシバいて待ってよう。
「………」
ふと。
ぼぉ……と、していると。
頭に浮かんでしまうのは――
正直言って、あんまり良くない。
どういう訳か、日に日に。どこか暗く重くなっているように感じていた。
そう分かってしまうほどには。
私は――イラつく才能の塊どもが跋扈する、あの一歩進むごとに唾吐きたくなるような学園生活を、それなりに気に入ってたらしい。
クラスメイトのキングヘイローは未だに教室に顔を見せないし。
ウンスも表面上は元に戻ったが、笑顔が今まで以上に辛気くさくてイライラするし、そのせいかスペシャルウィークたちも元気がない。
オペラオーパイセンサマのゲリラライブもないし、ダイタクヘリオスが大学デビュー失敗した陽キャみたいに塞ぎ込んでるし、アグネスタキオン博士もよからぬ実験を延々とやってるらしく異臭騒ぎであの辺出入り禁止になった。
タイシンも部屋から出てこないから一緒に通販も見れない。
とにもかくにも。
いろんなとこで暗い顔しか見ないのだ。
前はどいつもこいつも、人生バラ色~!みたいなムカつく面してやがったのにだ。これじゃあトレーナー自慢で見返してやることがロクに出来やしない。張り合いがねぇ。
さらにはなんだ?
生徒会長が“特例出走”――トレーナー無しでのトゥインクル・シリーズの出場権を作ったと来た。
……正直、今はトレーナーと一緒にいるのでそのことについてはどうでもいいが――もし居なかったら、底辺ズとデモでもやってただろう。
――そんな抜け道を用意するなら、
まぁ、私含めた底辺ズはトレーナーにありつけたので、ほーん、まっええんちゃう?程度で済むだろうが、一部で『ずるい』のなんの文句出るだろう。
もう……所々の空気が悪いこと悪いこと。
トレーナーとのあらゆることが上手く行ってるから――それが、よりいっそう目立っていた。
「………」
……なんとかしたい、なんて口が裂けても言えないけど。
別に連中とは友達でもなんでもないし、一番の友達のジャラちゃんは裏切り者だったし。
でも、まぁ……なに?
――
「……私だけ嬉しいとか、空気読めてないみたいじゃんか……」
つぶやいた言葉を飲み込むように、紅茶を一口飲む。
――びっくりするぐらい渋く感じた。
「砂糖……うげっ、空だ」
テーブル備え付けの砂糖壷に手を伸ばせば、空っぽ。
隣のテーブルとか、おばさんに頼めば一発だろうが――いい感じに座っちゃったせいで欠片も動きたくないのが本音だった。筋肉痛いたいし。
いいや、我慢しよ。
「……トレーナー、はやく来ないかな」
変に暗いこと考えちゃったせいか、ひどくもの悲しい。
こんな事なら、バケツかぶったまま廊下にぶっ倒れてたメイショウドトウでも連れてくんだった。……なにしてたんだろ、アイツ。
「……まぁ。まぁまぁ!実に寂しいティータイムですわねぇ、モブリトルさん?」
のぼー、としていた私の視界に突如として割り込んできたのは――
私は――顔を背けて渋い茶を啜った。
「………」
「あっ、あの……?モブリトルさん?」
「………」
「むっ、無視は卑怯ですわ!挨拶くらいきちんと返してくださいませ!」
「えー、煽ってきたのそっちでしょ」
「そうですけどっ!こういう場合、皮肉には皮肉で返すのが伝統でしょう!」
「どこの伝統よ。メジロライアンの愛読書?それともドーベルお嬢様の黒歴史ノート?」
「――っ!決闘ですわっ!メジロ家への侮辱を感じました!手袋を拾いなさい!」
「投げてから言え」
仕方なしに顔を向ければ、ぷんすこ怒るウマ娘。
彼女は、いつかのメジロカボチャ――メジロマックイーンだ。
どういう訳かこのお嬢様はあれ以降、私のことを目の敵にしているらしく、顔を合わせる度に突っかかってきていた。
まぁ、あれだけトレーナーとの関係を認めないと叫んでいたしな。なんかあるだろうとは思ってはいた。
でもなぁ、この子――
「んんっ。いいですわ。そんな事より、ほら――
気を取り直すように咳払いしたメジロマックイーンが、にんまりした顔で差し出したのは――スティックシュガーだった。
………なんかなぁ。
「あんがと」
とりあえず助かったのでありがたく受け取って、紅茶にぶちこんだ。
渋みがだいぶ収まって飲みやすい。
……こうなるとなんかお茶請けが欲しくなってきたな。
出来れば……クッキー、とか。
「まぁ!気丈ですわね。屈辱にいつまで耐えられるか見物ですわ」
「………んー」
「なっ、なんですの」
でも、出来ればカロリーを控えめにぃ……そうだ。
おからで出来たクッキーとかいいかも。低カロリーで甘さ控えめだし、お茶にピッタリ合う。
……そうだな。
「……いや、すっげぇこわいなーって思ってさ」
「っ!そうでしょうそうでしょう!わたくしが行ってきた数々の妨害にそろそろ精神が参ってきましたわね?ふふ、やめてほしいと思うのであれば、トレーナー契約を――」
「――うん、
「……えっ?」
「それもおからで作ったクッキーみたいに最悪。ほんと気が参るわーさいてー。もしこんな状態で本物が目の前にあったら命乞いしそー」
「………まぁ、そうなんですの」
私の言葉を聞いたメジロマックイーンは、気づかれないように……と思っているんだろう面で、チラチラと購買へと視線を向け始めた。
「……つかぬ事をお聞きしますが。あなた、トレーナーさんが来るまでここにいますわよね」
「いるね」
「――私用が出来たのでちょっと失礼しますわ」
「ごゆっくらー」
メジロマックイーンはダッシュで――購買に向かっていった。
後ろ姿を眺めていれば、脇目も振らずにおからクッキーの袋を握りしめ、列に並びだす。ふりふりと揺れる尻尾は随分とご機嫌だ。
嫌がるものを見つけられましたわ!しめしめですわ!と、背中に書いてあった。
………。
「チョロ過ぎんか、あのお嬢様」
しかも、嫌がらせも詰めがデロ甘だし。
私は最初、メジロ家の権力で妨害でもしてくんのかなぁとか思っていたのだ。
校舎裏に連れてかれるとか、教師を裏で操るとか、カッターキャーとか。
でも、やってくることと言えば、菓子と称して砂糖を手渡し、彼女曰く皮肉で突っかかってくるだけだった。びっくりするほど実害が無い。
……ああいや。
確か一回、私を待ち伏せて足を引っかけようしてきた事があったな。
でもその時――すごい辛そうな顔で葛藤してたけど。
どうやら、トレセン学園の生徒相手に足への攻撃は流石に可哀想なのではと思ったらしい。つうか普通に声に出してた。
そのせいでタイミングが遅れて、私が通り過ぎた後に、足を引っかけようとするという――どう反応すればわからない行為されたのだ。
その後明らかにほっとした顔で、覚えてなさい!と言い捨てた彼女は――後日、メジログループの高級クッキー缶を差し出してきた。
足をかけるのは道理に反しましたわ、としよしよと謝りの言葉も添えて。
……うん。
この子、ほんと
どうすればあんな嫌がらせ適正:Fのウマ娘に育つんだろう。
現に今も、誰も引っかからないような古典的な戯れ言にまんまとだまされているし。
……さて。
「……アイツの分の紅茶も貰ってくるか」
貰ってばかりじゃ悪いし。
メニューで一番高いロイヤルミルクティーにしといてあげよう。お嬢様にゃあ安物かもしれないけど。
よっこいしょ、と痛む身体で立ち上がって、おばさんに注文を頼む。ちこっと聞いてたのか苦笑いだった。
またテーブルに運んでくれるらしいので、ひょこひょこと戻ってると――込み合っている購買から、見慣れたピンク色のちっこいのが出てくるのが見えた。
「……
「あっ、リトルちゃん!」
私のぼそっとした呟きを拾ったらしく、いつものポカポカ笑顔で近寄ってくる。
手にはビニール袋を持っていて、見慣れたメーカーのスポーツドリンクとかゼリーが透けて見えていた。
「……なにそれ、あんたにしてはローカロリー過ぎない?」
「えっ?あっ……これはね!キングちゃんのお昼なの」
「キングヘイローの?」
……そういえば、この子。キングヘイローのルームメイトだったか。
つまりお見舞いって事か。
「あいつは元気?」
「んー。ずっと寝てるからわかんないの」
「――
「うん、ずぅーと。おそなえ物は減ってるからときどきは起きてるみたいだからね、いつでも食べられるように置いてるの!」
「ふーん……あと、お供えはやめような。あいつ死んでることになるから」
「あっ、そっか。ご、ごめんねキングちゃん……」
しょぼしょぼと落ち込んだハルウララ。
そこで、ピンク色の髪に枝毛を見つけた。良く見れば、尻尾も少し痛んでいるし、制服もどこかくしゃくしゃでぎこちない。
……そういえばキングヘイローのやつ、時々そういう世話してるって言ってたな。
アイツが出来ないから……。
………。
「およ?頭になにか付いてる?」
「……マリモみたいな埃ついてるから取ってるだけ。気にしないで」
「そうなの?ありがとう!……まりもってなぁに?」
「ハヤヒデ姐さんみたいなやつ」
「えっ!私の頭に羊さん乗っかってるの!?」
いや、羊て。どっちかって言うなら、アルパカかアルビノのムックじゃないかな。
「キングちゃん……今日も笑ってるかな」
「あいつが?」
「うん!すっごくニコニコしてる時があるの。良い夢見てるみたい」
「へぇ、良い夢ねぇ」
「私も良く見るんだ!見るとすっごく元気になるの!今日もがんばるぞー!って。……
「はは、あるある」
んー……。
まぁ、手櫛じゃあこのぐらいが限界か。
あとで夜に浴場でこいつ捕まえよう。化粧品はジャラちゃんの使お。
「ほい、取れたよ」
「ありがとー!じゃあ、キングちゃんのとこ行くねっ!」
「おう。……あっ、アイツ今どこにいんの?そっちの部屋?」
「ううん!――“
「うい、転ばないようにね」
ハルウララはたったかとカフェテリアから出て行った。……ぐしゃんぐしゃん揺れるビニール袋の中身は、着く頃には残骸になってそう。
……にしたって“保健室”か。
寝てるだけって言ってたけど、あそこにいるならまあまあ悪いのかね?いや、悪いなら実家帰ってるか?んでも、アイツ実家と折り合い悪ぃって言ってたし……。
……
友達、ってわけじゃあないけど。クラスメイトのよしみってやつ?
「さぁ!モブリトルさん!他意はありませんがこちらを差し上げますわ!ええ!他意はっ!ありませんがっ!」
ふと、横からドヤ声が掛けられる。購買から帰ってきたらしい。
チラリと見てみれば、得意げな顔をしたメジロマックイーンが――ある物を差し出してきた。
――綺麗な皿に盛られた、
……なんでおからクッキーだけじゃないの。なんで良さげな他のも買っちゃうの。
これアレだよね?並んでる最中に「……これだけじゃ可哀想ですわ」とか「彩りがありませんわね……」とか考えたでしょ絶対。
趣旨を意識しようよ。初志貫徹しようよ。なんで嫌がらせなのにアフターケアしようとするの。いや、これじゃあビフォーケアだわ。
やる前にケアしてるから嫌がらせでもなんでもないじゃんこれ……。
「……はぁぁ」
「ふふ、そう恐怖を押し殺さなくて結構ですわよ?とことん怯え――」
「ありがと、一つ貰うわ」
「えっ?どうぞ……あっ、モブリトルさん!いけません、それは貴女の嫌いなーー!」
「んー!……っぱ、トレセンのは美味いわ。他のとこだとモサモサパサパサで食えたもんじゃないのが多いからなー」
「……は?」
「ミルクティーここ置いとくわよー!」
「あっ、サンキュおばさん!」
「……は?」
「ほら、なにぼさっとしてんの。適当につまもうよ」
「………」
「おっ、バタークッキーもあんじゃーん。これが一番美味しいんだよねー。流石お嬢、お目が高い」
「……た……」
「ん?」
「――謀りましたわね!?」
「なんて、んぐっ、卑怯で、んぐっ、下劣な方で、んぐっ、しょう!人を騙し、んぐっ、陥れ、んぐっ、ようなんて……んくっんくっーーぷふぁ!信じられませんわ!!」
「信じらんねぇのはそのお嬢らしからぬ豪快な食い方ね。一瞬、枝豆とビールに見えたんだけど」
「こんな方が、あの人の担当だなんて……だなんて!道理に反します!世界の理に反しますわっ!たとえ三女神様が許そうともこのわたくしが許しませんっ!……おばさま!ミルクティーおかわりですわっ!」
「はーい、ミルクティー一丁まいどー」
「居酒屋かな?」
『小咄:クッキーこわい』に激怒したメジロマックイーンは、一通り怒鳴ったかと思うと、一緒の席で茶をしばき始めていた。
悪態の大嵐は、時間が経つ毎にクッキーと語彙力を見る見る内に減らしていく。
トレーナーを待っている間のBGMと考えれば、気にならない。そもそも怒り方が独特過ぎてイラつきもしないけど。
ふんだらかんだら、喚くお嬢様を眺める。
……なんか、思ってたキャラと違うよなぁ、この子。
そりゃあクソガキテイオーに煽り散らされてた時はこんなんだったけど、それ以外は如何にもな意識高い上流階級みたいな感じで、死ぬほど鼻に付いたのに。
「ほい、おかわりね。熱いから気をつけてね」
「感謝致しますわ!……それで聞い――……あちっ!」
おかわりのミルクティーで勢い良く、舌を火傷したヤケドマックイーン。
「……うぅ、いふぁいでふわ……」
……ほんと愉快な人種だったんだな。
見方って大切。ついでにこれで才能がなければ笑顔で握手してたんだけどなぁ……。
「さぁ!トレーナーさん!ここがカフェテリアですよっ!学級委員長たるもの!道案内はお手の物です!」
――元気溌剌な声が辺りに響き渡った。
犬みたいに舌をへっへとしているメジロマックイーンから目を外す。
見れば、七三ヘアに光るデコの、やかましい学級委員長(広義的概念)の
「……うん、ありがとう。サクラバクシンオー……」
ていうか――私のトレーナーだった。
ハリウッド版ピカチュウみてぇなシワシワ顔を晒しているあの人は、やっぱり迷子になっていたらしい。
「なんの!と、言いますか……私の事は桜子、と呼んで頂けると嬉しいのですが……」
「……ごめんね、俺担当の子しかあだ名で呼んじゃいけない天与呪縛にかかってるの……」
「そうだったんですか!」
んな訳あるかい。適当こき過ぎでしょ。
「では、トレーナーさんの担当にしてください!それで解決ですねっ!バクシン的です!」
「……ごめんね、宗教上の理由で担当は一人までって決まってるの……」
「ちょわっ!?宗教に入っておられたのですか!初耳です!」
「……うん、モブリトルスト教って言うの……」
語呂最悪。モブスト教でいいじゃんそこは。
「わかりました!では、今日は出直します!学級委員長たるもの――
「……うん、ごめんね……」
「いえ!では!日課の巡回に戻りますっ!今日こそテイオーさんの花占いを止めねばなりません!このままでは学園は花無き不毛の地になってしまいますので!」
バクシーーーンッッ!と颯爽と去っていくサクラバクシンオーは、先の通りバカであった。
……私のトレーナー人気すぎひん?
なにあの学級委員長()もねらってんの?どうしよ、名前とか書いといたほうがいいかな。私のものだって……冗談だけど。
シワシワ顔のトレーナーは少し辺りを見回して、こちらに気づくと――とぼとぼと近づいてきた。
すとん、と座ってしょぼしょぼするトレーナーを、お労しい……と、少し回復したメジロメックイーンが背中を撫でる。
「……また迷った。ここの校舎入り組み過ぎてない……?」
「まあ、大きい建物ですからねぇ」
軽い方向音痴なとこがあるトレーナーにとっては鬼門なのだろう。私も最初はよく移動教室で地獄を見ていた。
とはいえ、だ。ならずっと私が出迎えに行くって訳にもいかない。……いや、私としては一向に構いはしないけども――これから三年間。私のトレーナーとしてここに通うのだから、慣れた方がいいに決まっている。
だから、心を鬼にして――こうして待ち合わせにしていた。
尚、トレーニング前は時間の無駄なので、速攻で私が迎えに行っている。
「……次は地図でも用意しようかな――んんっ!さて、遅れてごめんねモブ子。はい、お弁当」
「ごちになりまーす」
落ち込んでいても仕方ないと切り替えたトレーナーは――綺麗な風呂敷に包まれたスタンダードなお弁当を手渡してきた。
布の隙間から覗く銀色の箱は、今日もズシリと重い。
「まぁ……お弁当?手作りのようですが、貴方様が作った……?」
「うん、そうなんだメジロマックイーン。モブ子の調子もいいから、食事管理もやってみたいと思ってさ」
「素晴らしい試みですわ、流石貴方様!……しくじりました、手作りのお弁当……その手がありましたのね……!!」
何やらぶつぶつと悔しげにしているメジロのお嬢様は置いといて――風呂敷を解いて、蓋を開ける。
ふわりと醤油のいい香りが鼻を撫でた。
「……おぉ、今日も美味しそう」
「そう言ってくれると作った甲斐があるよ」
大きめのおにぎりが二つと、ちょこちょこ楊枝が刺さっている鶏肉とお野菜の煮物。
カフェテリアに常備されているお弁当より大きさも品目も少ないが、シンプルと言い換えられる。
そして、シンプルだからこそ――その完成度は如実に伝わってくるのだ。
羨ましげで悔しげにお弁当を覗いたメジロマックイーンも目を見開いた。
「まぁ……まるで料亭のよう……」
お嬢様であるこの子が言う通り――
まるでピラミッドの黄金比のように計算され尽くした端正な形をしている三角おにぎり。一口大のゴロゴロとした煮物は醤油で黒く染まっているが、決して染まりきっておらず、綺麗な彩りを残したまま、しかし旨味が食べずとも伝わってくる。
つまりは――まるで、食品サンプルのような、“綺麗”な形。
……食べるのに結構躊躇するレベルなのだ。
「トレーナー……お弁当屋さんの才能ありますよ、ガチで」
「ですわ……メジロ家の専属お弁当係兼わたくしのトレーナーになりません?」
「はは、素人の頑張りをそこまで評価されるのは嬉しいよ」
本当に心の底からの賛辞なのだが――本人曰く、初めてやったことらしいので、まったく信じてくれない。
いやまあ、信じて「お弁当王に、俺はなるっ!」って言って、私のトレーナー止められたりしそうだからそれでもいいんだけど。
めっちゃくちゃ、分けてくれ、と目で訴えてくるお嬢様の手に煮物を二つほど乗せてやってから、さぁいただきますと手を合わせたとこで――トレーナーが自分の分を出していないことに気が付いた。
いつも、一緒に食べるのに。
「トレーナーの分はどうしたんです?」
「んー?……あー」
トレーナーは少し目を泳がせると、苦笑気味に紅茶を啜った。
「んにゃあ、
「そうですか」
「まぁ!でしたら、わたくしとラン――」
――ぴんぽんぱんぽーん。と、アナウンスが流れる。
『全校生徒、並びに全トレーナーに連絡致します』
聞こえてきたのはたづなさんの声で、どこか固い雰囲気があった。
『理事長より、新レース“URAファイナルズ”とトゥインクルシリーズの“特例出走”に関しての説明を行います。昼休憩が終わり次第、第一ホールへとお集まりください』
繰り返します、と続くアナウンスを聞いたメジロマックイーンは残念そうに耳を伏せた。
「……くぅ、なんてタイミングの悪いぃ……」
「私的には最高だったかな」
「むむむ!……こほんっ、お先に失礼しますわ。メジロ家の令嬢たるもの。誰よりも早く着いていなければ!」
チラチラとトレーナーになにかアピールしながら颯爽と去っていったお嬢様だが、トレーナーは「お嬢様って、大変だねぇ……」って違う心配をしていた。
周りの面々もゾロゾロとカフェテリアから出て行く。
なんだなんだと期待半分、なにがあるんだと不安半分と言ったとこだろうか。
トレーナーと目を合わせて頷きあう。
そして――私たちはぬぼーっと、集団を見送った。うん、今日もお弁当がうまい。
と、言うのも。
最近、トレーニングしているとどこからともなく出現する理事長から――もう全部聞いているんだよね。“特例出走”の件もそこ情報だ。
理事長からも、近々説明会をやるけど君たちは来なくてもよいぞ!と何故か笑顔でサボってもいいと言われていた。
いや、まあいいんですけどね。知っている内容の集会とか、こっちも嫌だし。
大変だなぁ、と。
ずる休みした家の中で登校する級友たちを眺める気持ちで、しみじみと弁当を味わっていると、トレーナーが窓の外を見て「んん?」と首を傾げた。
「あの子もサボりかな?」
「はい?……どの子です?」
「ほら、あのベンチで寝てる……」
トレーナーが指し示す方向には――“三女神像”前の広場。多くの人やウマ娘が第一ホールに向かう為に通っている中。
広場のベンチで、横になって目を閉じているウマ娘がいた。
遠目でも分かる。
均整の取れた長身に、綺麗な芦毛、特徴的なヘッドギア。そんなウマ娘は、この学園には一人しかいない。
「ああ――
「……だれ?」
「えっ、知んないです?結構有名ですけど」
「いや俺、モブ子以外あんまりと言いますか……」
「そ、そうですか。………ちなみにここの生徒会長の名前は?」
「えーっと……し、ションボリルドルフ!」
「誰ですかそのゆるキャラ」
……いや、まあ?
私だけを見ていてくれるのは?実際?嬉しい、みたいな?ですけど?
それでもある程度は覚えておいてほしいな――会長ガチ勢はけっこーいるから。
トレーナーは、彼女はじぃーっと見るが、やはりわかんないのか、こっちに視線を振ってきた。
「……どんな子なん?」
「そうですねぇ――」
私は周りと隔絶しているように微動だにしないあの人を見つめる。
「――
「不思議ちゃんな感じ?」
「不思議ちゃんてか、不可思議さんというか」
前なんか、あの広場の噴水の中にぷかぷか浮いてて、何してんすかと聞いたら「いや、ちけぇとこの方が良い感じに飛ぶんじゃねぇかと思ってよ」と意味不明な供述していた。
ちなみにどこに?と聞いたら――“エデン”だそうだ。……とりあえず、カウンセラーの人に一報入れた私は悪くない。
「……ふーん。強い子なの?」
「強いですよ。……面白い話ありますけど、聞きます?」
「どのくらい面白い?」
「近くの居酒屋でたづなさんが酔った勢いでうまぴょい伝説を熱唱した話くらい」
「――聞く。あとでその話も教えて」
「はーい」
アレは少し前のことだ。
ある、いけ好かない先輩グループがいた。
名前はもう覚えていないけど性格悪いが実力はそこそこ、GⅢレースくらいなら問題無く走れるくらいの実力者だった。
でも、この学園にはその上の上のGⅠを走れる連中もバンバンいるので、奴らはもっぱらその不満を――私たち底辺ズに向けていた。陰口とかで。
トレーナーもおらず、選抜レースも勝ち抜けない私たちを嗤うことで――中途半端の実力しかない自分たちのプライドを慰めていたのだろう。
まぁ、そのことについてはどうでもいい。
私たちも、アイツらの下駄箱に増えるわかめちゃんとかセミの抜け殻詰め込みまくったから。こっちも悪い。
本題は、そいつらの悪意が――
彼女は、変な人だった。
いつもは“三女神像”の広場のベンチで寝ているかそうでないか、みたいな人で――
だから、弱いと思ったのだろう。
そいつらは私たちにやったみたいに陰口を言いまくった。……欠片も効いてなくて涼しい顔で寝ていたけど。
それに痺れを切らして結構やべぇことも口走り始め、ある一人が――こう、言った。
――「
その嘲りが、どういう訳か――ゴールドシップさんは気に入らなかったらしく。急に起き上がると仕返しとばかりに連中を煽り出した。あっちが可哀想になるくらいには。
それから、あれよあれよと言う間に話が進んで――レースをして、負けたら退学するって話になった。
話を聞きつけて、たくさんの生徒が詰めかけた。
そして詰めかけた誰もが――ゴールドシップさんが負けると思った。
だって、あいつらは7人でゴールドシップさんは1人。つまりは、あいつらの内1人が一着を取れば勝ち。残りの6人が進路妨害すれば、その確率はより上がる。
絶対に無理だろう。そう、私も思った。
変に同情してたのもある。彼女も私たちと同じで恵まれない底辺だと。
――レースが始まった途端、その認識は変わったけど。
まさに――
最初から最後方。少しして、中盤のタイミングで一気にスパート。
まるで――
突然抜かれてビビった連中も追い縋ろうとするけど、そのまま大差でぶっちぎってゴール。
ペースをこれでもかって乱されて汗もだらだらで息切らしたヤツら。
それに向かって、ゴールドシップさんは、汗一つない涼しい顔で「もういいか?」って、まるで下らないママゴトに付き合わされたみたいな顔でそのまま去っていった。
もう度肝が抜かれるも何もだ。
あんな何もしないような彼女が――まるでシニア級も顔負け、ドリームトロフィリーグすらなぎ倒しそうな走りをしたんだから。
ちなみに。
それっきり連中のプライドやら何やらはバッキバキ。
進退を勝手に賭けた件と詰りやいじめの件で、理事長と生徒会長にこっぴどく叱られたこともあって、成績が落ちるとこまで落ちてそのまま退学していった。
……わたしたち底辺ズには、落ちぶれたウマ娘に対して――“歓迎しよう、盛大にな!”の仲間入り歓迎会という煽りをやるのが常だったが、流石にあいつらにはやらなかった。
つまり。
長々、話して何が言いたかったかと言うと――
「――つまりはですよ?あの人は強いんです。……この学園の最強って、名実共に生徒会長ですけど――
「へぇ」
「興味無しかい」
「だって、名実最強なのはうちのモブ子だしー」
「はいはい、千年後の話はまだ早いですよおじいちゃん」
と、いった感じで、この学園の最強談義は基本的には、生徒会長であるシンボリルドルフか、ゴールドシップさんの二強だ。いつか戦ってほしい。
裏切り者ジャラちゃんは会長信者なので――是非、ぼっこぼこのぼこにしてもらいたいものだ。
トレーナーは紅茶のカップを眺めならがら、唸る。
「にしても、そんな強いのかぁ。“追込”……モブ子の参考にしたいし、その子のトレーナーさんと話してみたいなぁ」
「でも、この学園には居ないみたいですよ。噂じゃあ、どっかの高名なトレーナーみたいです」
「ふーん、そっか」
「本人が言うには、『ファイナルファンタジータクティクス大全みたいなトレーナーならいるぜ』って」
「……それ
「そうなんですか?」
よく知んないけど。
トレーナーはするすると紅茶を飲むと、ふとニヤリと笑った。
「でもま。モブ子はその子も倒して、“無敗の七冠ウマ娘”になるんだから頑張ろうね?」
「いやいやいや。そりゃム――」
「はい、ムリって言わなーい。やるっと言ったらやるのです。DO it!」
ていうか、そのネタまだ引きずるんすか。
そりゃあなんのかんの目指す目標ではあるけど、ふつうにムリではあるでしょう。
今、ホールで話しているだろう“URAファイナルズ”だって、私には遠い雲のように思えるのに。
「わかんないぜ?」
私のネガティブを拾ったのか、ニヤリと不敵に笑い飛ばそうとするトレーナーには――謎の自信が漲っていた。
……“URAファイナルズ”は、今から三年後に開催される。
実力とファンを兼ね備えた選りすぐりのウマ娘、“スターウマ娘”だけが出走できるレースだ。
そもそも実力がペーペーである私には現実的じゃない。ハルウララが有マ記念を優勝するぐらいには現実的じゃない。
「期待しておくことだね。気が付けばあら不思議――七冠かぶってゲート前にいるってなるからさ」
「それ本人に言いますか……」
……まあ、言われた通り、期待しておこ。
期待して――これからも頑張りますーだ。
「まあ、そんな夢物語の前に“メイクデビュー”戦が先ですけどねぇ」
「そうだねぇ。まあ……鍛えたモブ子の敵ではないだろうけどね!」
「はいはい、この筋肉痛まみれのウマ娘には過言な誉め言葉ですよ」
あと、数ヶ月後。
――――デビュー戦がゆっくりと迫っていた。
――目の前に、お弁当がある。
「………」
これには見覚えがあった。
近くの商店街――そこで、私が“彼”に対して買い与えたものだった。風呂敷は同じ色、銀色の鉄で出来た古めかしい箱には――見覚えがある、製造番号が刻まれていた。
よく覚えている。
だって――私が初めて、
「トレーナーくん……」
あの声、扉越しでも忘れるはずがない。
どこぞ知らぬウマ娘の尻を追いかけた薄情者だが……それでも、私のところに来てくれた、人。
するり、と風呂敷を解く。
蓋を少し浮かせば、醤油の香りが鼻を撫でる。……部屋が臭いので、換気扇を回した。
……今は細かいことはどうでもよかった。
ただ、思い出に浸りたかった――私とトレーナーくんの絆の一端を。
蓋を取る。
「おお……」
そこにあったのは――均整のとれた三角おにぎりと楊枝の刺さった煮物だった。
「………」
んん?
「……――
待て。
いや、設計思想はそのままだ。米が多く、取り立てて箸などを使わない。品目だって同じだ。
だが。
こんな完成品じゃない。
だって、トレーナーくんは――
「……んむ。んまい……うますぎる……」
最初なんて炭だった。
栄養素だけがそこにあった物体だったんだ。
しかし、そこで諦めることなく――勉強し、料理が上手なクリークくんやアケボノくんたちに協力してもらって、少しずつ……少しずつ美味しくなった。
……君は知らないだろうね。
自分の為に、苦手なことを必死に努力してくれるのが――
「……違う。違う。トレーナーくんは稀に見る不器用でこんな三角には握れなくて諦めて丸型にしていた。煮物だって切り口が不揃いだったし味もしょっぱすぎることが多かった」
それでもそれでも。
私にとっては――
それなのに――
「……
完食し終わり、私の脳内を駆けめぐるのは疑問だった。
まるで――突き詰めていったような完成度だった。料亭に出せる……とはいえないシンプルさだが、それでも誰もが食べたがる暖かさのある一品だ。
……違う人物だった?いや、この私が錯乱していたとはいえトレーナーくんの声を聞き間違える訳がない。
「……ん?」
私は――ふと。
――
「そもそも――どうして、トレーナーくんの弁当がこんなにも上手になっている?」
“夢”の通りであれば――トレーナーくんは、まだ料理のりの字も知らないダメダメ社会人のはず。
……“夢”が間違っている?いや、そんなはず……
「待て、待て。この“夢”は、いったいなんだ?」
あまりにも鮮烈で現実に沿っているから自然に受け止めてしまったが――そもそもこんなものはあり得ないに決まっている。
普通、信じるはずがない。
なのに、信じた。
私の存在、私の魂、私というウマ娘が――
この、不可思議な現象を。
「……面白いじゃないか」
冷静に、客観的に捉えれば。
これは――得難い経験じゃないか。未来の予知だぞ?遙か過去の存在したのも怪しい存在の一員になったんだぞ?
こんなの――研究しないと、もったいない。
「……そうだ。そうだ。研究だ!この現象を理解し、突き詰める……そうすれば、トレーナーくんだって……!」
――目が覚めたような心地だった。
淀んだ視界が開け、栄養が注がれた脳味噌が動くのを感じる。
そうと決まれば、止まっている時間はない。
――
さっさとこの現象を物にして、トレーナーくんの目を覚ましてやる必要がある。
その為にもまずは――
「まずは同一人物であると確定するところから始めよう。さぁ!トレーナーくん、手を出したまえ!採血の時間だよ!君が注射がきらいであることは理解しているが、まず……は……」
――目の前には誰もいない。
無論。
「………はぁぁぁ。まずは口調の矯正からだな。トレーナーくんの前でトレーナーくんを呼ぶのはさすがに嫌だ」
まずは思考を落ち着けるか。
私は倒れた椅子を拾い上げようと一歩進む。
……。……?
足下を見れば――メモリの入ったガラス片がいくつか踏んでいた。
そこから辿れば、床に投げ出された本が目についた。
「――――」
――
表すならその程度。目を一回瞬きした。
一度、辺りを見回す。
「これは……ああ。カフェが珍しく、優しさを見せる訳だ。だいぶ、“夢”に引きずられていたようだね」
――
整然と並んでいたはずの本は辺りに散らばり、実験器具は棚の中で無残な姿で割れていて、薬ももう零れ溢れーー耐え難い悪臭が広がっていた。棚には生々しい足の跡が残っていた。
成る程。
私は自分が思っていた以上に――“
“夢”と“現実”を考えながら、そもそもずっと“夢”の中にいたなんて冗談にしてはタチが悪い。
ぽろぽろと記憶の隅には叫んで暴れている私が写った。
「掃除も追加か。……トレーナーくん、は、居ない。私かぁ……私がやるのかぁ……これをぉ……?」
夜通し掛かりそうだ、と私はため息を吐いた。
カフェが持ってきてくれた冷めた差し入れが、この“現実”を呆れたように見ているように感じた。
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『歪■金■■海図:う■ぴょ■■説■』
希望というペンをすり減らし、奇跡というページを傷つけて。
また一つ。
希望も無ければ、奇跡も無い。
――だが、確かに美しい“夢”が、また一つ
――――――――――
ただ、何かを残したかった。
全てが“夢”の彼方へ過ぎ去っても。
それでも、かすかでも残る何かを。
――――――――――
――――――――――
「なぁなぁ、トレーナー!うまぴょい伝説マスターしてみね?」
「してみません」
「えー!なんでだよー!やろうぜやろうぜやろうぜー」
「そんなことよりトレーニングね、トレーニング。かれこれ一年くらいまともにやってないトレーニングやろうね」
「いいんだよそんなのは!アタシのステータスはロスチャイルドもびっくりな永遠のストップ高なんだからよ!」
「たとえそうでもトレーニングやるんですー!最近君のトレーナーじゃなくて、ストッパーとしか思われてない俺の気持ちがわか――」
「マスターしてくれたらトレーニングやるぜたぶん」
「――なにしてんの早くうまぴょい伝説マスターするよ、
「へへ……!よーしっ!そうと決まりゃ出航じゃーい!」
――これは、いつの頃の話だったか。あるいは、何だったのか。
“彼女”にとっては酷く些末な事だった。
大事なのは“今”――。
泣きたくなるくらい楽しい今だけが、全て。
―――――――――――
―――――――――――
中央・トレセン学園には――“トレ学のヤベーヤツ”と言われているウマ娘がいる。
入学当時から物静かで大人しく、才覚に満ちていたが――授業に出ないしレースにも出走しないしの問題児。
日がな、“三女神像”のある中央広場。そのベンチで微睡んでいるようなウマ娘。
だが、ある時。
前もアレだったけど――今に比べれば百倍マシだったね……とトレセン関係者全員がため息を吐くほどの、よりやべぇ大問題児になってしまった。
まるでサナギから孵ったばかりのセミのように、校内のあらゆる所に己のトレーナーを引っ張り出しては騒ぎを起こし、縦横無尽に楽しげに暴れまくっていた。
トレセンにとって最大の不運は、鳴き声が一週間では決して収まらないところだろうか。
寧ろ、日が増す毎に。
――その騒がしさはどんどんと増していき、学内全体を笑顔に……すると同時に疲弊させることになる。
なんかよくわかんない理由で巻き込まれがちなメジロマックイーンはこう語った――
『あの二人は遠くで見る分には面白いんですの……そう、遠くで見るぶ――あっ!ちょっとトレーナーさん!わたくしを盾に使わな、ぎゃー!放しなさいゴールドシップっ!だれかー!お助けくださいましーっ!人浚いですわーっ!!』
――と。
そんなウマ娘の名は――
恵まれた長身の体躯。美しい芦毛。変なヘッドギアをいっつも付けている事を含めても大変な美人なウマ娘。
だがひどく気性難。それも大のお気に入りのトレーナーが近くに居ないと暴れ出すほどの癇癪持ち。
さらにはトレーナーが手を焼くほどのトレーニング嫌いで、常に強制的にトレーナーと“おでかけ”をしているウマ娘であり。
そして――。
そのくせ、
……次に出走すると公言した、
そんな、ゴールドシップとそのトレーナーは――
てーててて、てれれてってって、うまだっち♪
てーてって、てれれれ♪ うまぴょい♪うまぴょい♪
「う、うまだっち……!」
「おらおらどーしたどーした!茹で上がったスベスベマンジュウガニみてぇな顔してないでキビキビ踊りやがれー!」
――
場所は、トレセン学園。第一レース場の片隅。
大音量のラジカセが、怪電波を延々と垂れ流している中。
完璧に踊りながら叱咤するゴールドシップと、顔を真っ赤にして震えながら動いているトレーナーがそこにいた。
学園で一番綺麗な第一レース場。
故に、利用者が多いので人目も多く――ああ……またなんか巻き込まれてるんだな……みたいな、かなりの同情の目がトレーナーに降り注いでいた。
「う、うまっ!ぴょい……うま、ぴょい……!」
「聞こえねーぞ!もっと崖の上のビーバーみてぇに声出せぇ!」
「うぅ……――ちょっとタンマ!」
「しょーがねーなー。三回までだぜー?」
やかましく姦しい声が響きわたるラジカセが止まる。
トレーナーは持ち込んだドリンクで暑くなった頬を冷やしながら、己の担当に抗議の声をあげた。
「どうして公衆の面前で踊る必要が!?」
それな――と、眺めていた誰もが思った。
こんなのただの羞恥プレイじゃん。
一度は踊ったことがあるウマ娘は殊更頷いていた。自分の立場に置き換えたトレーナー達もまた頷いていた。ついでに、二人が何かやらかすかどうか監視する名目で隠れていた駿川たづなも感慨深く頷いていた。
――つまりは、その場にいた全員が頷いていた。
「わかってねーな。そりゃオメー、これがハートだからさ」
「……はい?」
「うまぴょい伝説はヤベー歌さ。どんな野郎でもニッコリ笑顔。ぴょんぴょこぴょんぴょこ跳ねさせては早口で訳わかんねー事言わせて、ちゅーさせんだ……そんな歌を素面で踊るなんてどーよ」
「そんなの恥ずか……――はっ!」
なにか気づいたトレーナーは弾かれるようにゴールドシップを見上げた。
「まさか、ルドシーちゃん……!」
「おうよ。一に羞恥、二に羞恥、三四に羞恥で五も羞恥――まずは羞恥を衆知に周知すっとこから始めてんだよ。マックちゃんだって通った道だぜ」
「そうか、そうだったのか……!」
愕然とした表情を浮かべたトレーナーを尻目に、ゴールドシップは彼の頬にくっついていたままのドリンクを、ストローで飲み始める。
トレーナーと担当にしても近い距離だったが、二人は気にした様子もない。そして慣れすぎて周りも気になってすらない。
「お、俺……ルドシーちゃんの事だから――『わざと皆の前で踊らせて恥ずかしがる姿を見て笑いたい』からこんなことしてるんじゃないかと疑って……!君は最初からちゃんと向き合っていたっていうのに俺は……!担当を疑って……!!」
「……。……。そ、そーんな訳ねぇじゃねぇか。あたしは品行方正であなたの愛しいルドシーちゃんだゾよ?」
「だよねぇ……!ごめんよ!」
嘘つけ、目反らしてんじゃねぇか――とは、周りは言わない。
言ったら最後……きっと、あの二人の隣でうまぴょい伝説を踊っている未来が目に見えていたからだ。誰だって、尊厳は惜しかった。
己の羞恥が衆知に周知されるくらいなら、悪魔の掌に転がされている哀れな犠牲者を見捨てるのに呵責は必要なかった。
「よしっ!ぼーっとしてらんないね!早くマスターして、ルドシーちゃんにトレーニングをやって貰わないと!“皐月賞”だって近いんだし!」
「あー?別に大丈夫だって、あたしは天下無双のルドシーちゃんだしよー。そんな事より、海でシーラカンスの踊り食いでもしよーぜー」
「……シーラカンスって美味いの?」
「知らね」
話があらぬ方向に飛び出して宙ぶらりんになるのも――周りは慣れたものだった。二人の弾むような会話を聞き流しながら、各々のトレーニングを続ける。
もう何も無さそう、と駿川たづなは昔を懐かしむようにその場を去っていった。
きょーのしょーりのめーがみはー♪わたしだけにちゅーうする♪
「ほーら、ちゅーう!ちゅーう!とれぴっぴのちゅーうがみたーい!」
「くっ……ぐぬぬぬ……!――ちゅっ」
「うひょおー!アメリカナマズ並みにさいこーだぜ!ほら、あたし!ルドシーちゃんにもやってみろよ!ちゅっ、ちゅっ、って!」
「いいいやいやいやむりむりむり!流石にそれは恥ずか死ぬ!それならまだメジロマックイーンになら――」
「――あ゛っ?なんでそこでマックイーンが出てくんだ?なんでだ?おい聞いてんのかおい。なんでルドシーちゃんには出来なくてマックイーンには出来んだ?あっ?浮気か?浮気だよなぁ?おいこっち見ろおい、おい」
「ひぇ……」
「ちっ、あの33ー4はいつのまに粉かけやがったんだ。そこ動くなよ。今マックイーン連れてくっから――ちゃんと説明しろよ」
「……あの、ほんの、冗談、なんだけど……」
――延々と積み重ねるしかない辛いトレーニング。
しかし、その清涼剤としてはあの二人の会話は良い感じでぶっ飛んでいた。だからこそ、ある種の名物として受け入れられている。
刺激的な話のタネとしてはこれ以上の物が無かった。
――ああ、メジロマックイーンの絶叫が聞こえてきた。
そう――己に被害が被りさえしなければ面白いのだ。被害が被りさえしなければ。
季節は新緑香る、卯月の頃。
ウマ娘が誰もが憧れる、クラシック三冠レースの一角。
――“皐月賞”が間近に迫った、ときの事。
――――――――――
――――――――――
破天荒でトレーニングをまったくしてくれない“彼女”。
二人三脚の“クラシック級”は、駆け抜けるように過ぎ去っていき。
残ったものは――
“皐月賞”では、トウカイテイオーを難なく置き去りにし。
ついでとばかりに出走した“日本ダービー”は、ウイニングチケットを追い縋らせる隙すら与えず大差で圧勝。
続く“菊花賞”、ゴールドシップへの対抗バと期待されたミホノブルボンとライスシャワーを、舌ペロダブルピースで余裕の勝利を果たした。
生徒会長シンボリルドルフ――“皇帝”に次ぐ、無敗でのクラシック三冠。
歴史に語り継がれて然るべき栄光を“彼女”は手に入れた。
だが。
――
普段の素行も然ることながら。
そのあまりに圧倒的で――暴虐とも言われるほどの“
観客たちは「どうせゴルシが勝つし」と彼女のレースは見に行かなくなった。記者達は普段の素行を元に「才能だけのウマ娘」と酷評し。
レースを共にした多くのウマ娘たちは――何もかもを叩きのめされ、学園から去っていった。
憂いた理事会――そして、URAは。
ゴールドシップの――今年度の“有マ記念”の出走を禁止し、今後出走する際にもURAが指定したレースのみという決定を下した。
これ以上のワンサイドゲームにも等しい状態は興行的にも宜しくないし、生徒であり、未来を担うウマ娘達が何人も潰されたという現状。
すまないが、納得してくれ――と理事長である秋川やよいが、涙ながらに謝罪してくるほどだった。
まあ――それはまた、さておき。
きみの愛バが!
ずきゅん♪どきゅん♪走り出し~♪
「ふっふ~!!」
「いいぜトレーナー!良い“ふっふ~!”だ!アツアツの味噌煮込みうどんも瞬間冷却だぜ!」
「そりゃあね!ここに来てね!ここだけでも30回目くらいのリトライだからね!そりゃぁああねぇ!?」
「元気いいな!いいぜぇ――後20回追加だ!地球丸ごとグリーンランドにしてやろうか!」
「うがあああああああ!!」
――
――
今朝方、学園に出勤した瞬間に拉致られて数時間。
気がつけば、雲一つ無い青空、白の砂浜。飛沫煌めく海に囲まれる無人島。
もうこの時点でヤケクソになったので――舞台に出ても遜色が無い完成度を誇るうまぴょい伝説をこれでもかと踊り、汗を流していた。
どうせ、学園に居ても“彼女”はトレーニングをしないのでトレーナーとしての仕事もないし、畏れと哀れみを向けられる学園に居続けるよりかは健全だと頭の端っこで考えてはいた。
砂浜をステージ、太陽をスポットライト。時折見える魚と訳わかめな合いの手を入れる“彼女”を観客に。
今の現実を忘れるように。
――担当が“強すぎる”というだけで出走禁止など到底認められない。
勿論抗議した。たづなさんや理事長だけではない。URAのお偉方にも直談判した。
そりゃあ、“トレーニングをしないでふざけてばっかなのに強い”というのは他の娘から見れば面白くないのは理解出来る。トレーナーとして、仕事が出来ないという意味でも面白くないのだから。
しかしだ。
この“三年間”は――
そのチャンスを、その意味を。たったそれだけの理由で不意にされるのも――欠片も面白くない。
だが。
訴えを聞いた彼ら彼女らの言葉は苦渋だったが――冷淡だった。
普段の奇行、所構わずのうまぴょい伝説による騒音被害、“三女神像”の噴水から油が出るように改造してのリアルキャンプファイヤーなどを挙げられれば、黙るしかなかった。
――そんな理由を出してまで。
ゴールドシップにレースを走らせたくないと誰もが思ったという現実に、押し黙るしかなかったのだ。
「いーか!今のおまえはトレーナーじゃねぇ……ウマ娘だっ!無敗三冠、宝塚も有マも連覇しまくった驚異のウマ娘だ!――そんなウマ娘はどうすんだ!」
「はい、コーチ!ファンの皆の為に笑顔で踊ります!」
「そうだ!万感の想いを以て踊れ!あそこにいるマックちゃんを五十万人のファンだと思って踊れぇ!」
「いえ、コーチ!ここにメジロマックイーンはいません!」
「そんなもん心から顕現させりゃあいいんだよ!」
「できません、コーチ!」
「……ったく、しょうがねぇな」
「………」
「――じゃあアタシがマックちゃんやってやんよ!」
「訳わかんねぇ!」
いつものヘッドギアを砂浜に投げ捨てて、じゃぶじゃぶと海に突っ込んだ“彼女”は――今までの事で堪えた様子は無い。
内の感情を隠しているという訳でもなさそうだ。
“有マ記念”が出走出来なくなったと言った時だって「ん?そうなん?じゃあ、他にやることが出来るなっ!」と特に何の感慨も無く、そのまま連れ立ってあっちゃらこっちゃら。
今だって――無人島にいる。なぜか。
「おーほっほっほ!あてくしはスゥィーツ大す――ごぼぉあ――お嬢様ですわ――ごぼぼっ――愚民共はメジロの威光にひれ伏――ごぼぼっぼぼあ!――」
波に揉まれながらクオリティ皆無のモノマネを披露する“彼女”は、ただただ楽しそうに見えた。
「うーし!そんじゃあちょっと休憩な!トレーナーも大分踊れるようになったじゃねぇか!」
「………」
「ん?どーしたとれぴっぴ。アジの開きみてぇにうつ伏せになっちまって。なんだぁ?砂焼きか?夏でもねぇからたぶん無理だぞ」
「……だれの、せいだと……いったい、何回踊ったと思ってんの……!」
「あー?通しで34回くらいだろ?」
「……くらいじゃないぃ……その回数はくらいじゃないぃ……」
あれからさらに数時間。
太陽は真上を通り過ぎ、地平線を目指す頃合いになっていた。
その間、ただただただただただただただただ。
踊っていた。
……ていうか、何の為にうまぴょい伝説を踊ることになったんだっけ。
「うぉ……頭の中がうまぴょいだ……夢にも出てきそう」
「おう、そこまで来たら上出来だな。もうちょいだ」
「その域まで踊れと?」
「いつか一緒にエデンで踊ろうな」
「やぁだぁ……」
じたばた砂でもがいて抗議するが、当の本人はニッコニコしていて――パチンと手を叩く。
「んじゃ、ご褒美にヤシの実でも持ってきてやんよ。それまで旨みを凝縮してろよな」
「……今、冬だけどあんの?」
「あるさ――無人島だぞ!」
そう、意気込んで森の奥に入っていくのを止めようかとも思ったが、数多のうまぴょいのダメージでまったく身体が動かなかった。
しかも、太陽の熱と冬の外気で良い感じの温度の砂が疲れた身体に心地よく……うつらうつらと次第に瞼が重くなっていった。
――――――――――
――――――――――
「んおっ、起きたか?」
トレーナーが目を開ければ――視界いっぱいにゴールドシップの顔が広がっていた。
変なヘッドギアがない彼女はどこか新鮮で、影が差した顔は楽しげで悪戯な笑みを浮かべている。
視界は夕に染まり、地平線の先には黒の空が橙に溶け込んでいた。
「……ルドシーちゃん?」
「せっかく見つけてきてやったってのに、ぐっすりすぬーぴーだもんなぁ。困ったもんだぜ」
ゴールドシップは乾ききった小さなヤシの実をトレーナーの額にぐりぐりと押しつける。
痛い痛いと抵抗している内に――彼は、頭の下にある、具合の良い柔らかで生暖かい感触に気がついた。
「……膝枕?」
「おう、流石に直砂もかわいそーだと思ってな!ルドシーちゃんのご温情に感謝しとけー?」
「はいはい……」
「後で財布出せよな」
「金取んのかよ」
「一秒で十くらいでいいよな?」
「良くないんですけど!?」
――一秒十万とかとんでもない暴利だ。
トレーナーはぐぅ、と身体を起こそうとするが――ぐいっ、とゴールドシップに押し戻された。
「………」
「………」
ぐぅ、ぐいっ。
「………」
「………」
ぐぅ、ぐいっ。ぐぅ、ぐいっ。ぐぅ、ぐいっ。
ぐぅぐいっ。ぐぅぐいっ。ぐぅぐいっぐぅぐいっぐいっぐいっぐいっぐいっ―――――
「うおおお!離せぇ!」
「おいおい。あたしのとれぴっぴなんだから、愛しのルドシーちゃんの小遣い稼ぎも手伝ってくれよー」
「悪魔!言ってることが悪魔のソレ!」
「なにー?小悪魔だってー?照れるぜ。まあ、わかるけどなー。このルドシーちゃんの魅力にやられちまうのはさ……自分で自分がこわいぜ」
「んな事言ってねぇし!てか小悪魔的なのは断然カレンチャ――」
「――あ゛?今、あたし以外のウマの話したか、おい」
「ぴぃ……!」
わちゃわちゃとトレーナーは抵抗を続けたが、結局ぴくりとせず。
ふと、両者に静けさが訪れた。
「………」
「………」
聞こえるのは波のさざめき、鳥の声。
トレーナーは、本当に楽しそうにニヤケけているゴールドシップと目が合っていた。
「……ごめんな」
ぼそりとトレーナーが呟く。
波でかき消えそうなほど小さな呟きは、ゴールドシップの耳に届いていた。
「なにが?」
「有マのやつ。あと、これからの事も。きっとまともに走らせてあげられない」
「あー……まっ。別に構いやしねぇよ。ルドシーちゃんにはよくある事だよねー」
「………」
「そりゃあ?レースを気持ちよく走れねーのは確かにアレだけどよ――」
ゴールドシップはトレーナーの頬をくにーっと引っ張る。
にゃにゅにょーーと、言葉のようなものを漏らす口を何度かもにゅもにゅさせた後。
「あたしは――“今”、
そう告げた時のゴールドシップの表情は、トレーナーだけが見ていた。
彼はただ――そっか、と。呟いた。
「ん、ま。それに、言いたい事もわかんだ」
ゴールドシップは話を変えるように明るい口調で切り返す。指先でトレーナーの鼻を弄びながら。
「えー、なにが。ルドシーちゃんが強すぎて皆ダメになるってひどいでしょ。才能も実力でしょーが」
「んー?ふふ、んにゃあそうでもねぇよ?」
「……?どゆこと?」
ゴールドシップは、考え込むようにトレーナーの額で指を歩かせる。
少しして。
何か思いついたようで、顔を近づける。
無造作に広がっていた芦毛の長髪がふわりと翻り――
「……な、なに?」
「ルドシーちゃんの秘密そのいーち」
「えっ、なっ、はい?」
「実は――強さの秘密はトレーナーとのトレーニングのおかげ」
「えっ……?でも、俺はな――んむっ!?」
トレーナーが何かを言い募ろうとする前にその口は何かに塞がれる。
ゴールドシップが顔を離すと――芦毛の中から、顔を赤らめたトレーナーが出てきた。
「なっ……なっ……!」
「――さぁて。迎えもそろそろくんだろ。それまでもうちょい寝ときな」
「こっ!」
「こ?」
「――この状況で寝れると!?」
「おいおい。ルドシーちゃんだぞ?あのいつかの時に“でちゅねの悪魔大神官”とも呼ばれたあのルドシーちゃんだぞよ?トレーナーぐれぇヨユーペガサスだぜ」
「んな訳――」
――数分後。
ヨダレを垂らすほどリラックスした表情で寝入っているトレーナーの頭をゴールドシップは優しく撫でていた。
彼女の口許は呆れたように緩んでいる。
「こんなんだからいっつもクリークに勝てねぇんだぜ、とれぴっぴ」
――ふと。
ゴールドシップは弾かれるように顔を上げた。
視線の先には――雲に巻かれる鮮やかな夕日と、その横にある煌びやかな星がある。
彼女は、しばらくそれを見つめていた。
「これで覚えているだけで738……ざっと246回払いかぁ……」
「いつになったら完済してくれんかねぇ……」
―――――――――――
―――――――――――
“
有マの一件以降――“彼女”は一度もレースに出走していなかった。
打診自体はあった。
どうやら“強すぎる”事を理由に出走を禁止し続ける事も外聞に宜しくなかったらしい。お偉方の悲しいサガなのだろう。ほとぼりが冷めたとも言う。
理事長の積極的な後押しもあり、春の天皇賞や宝塚記念。他にもGⅡレースをいくつか出てみないか、と言ってきた。
――断ったが。
無論、あの決断に関して腹を据えかねていたというのもあるし――世間で呼ばれる“彼女”の異名も気に入らないのもある。
だが、それ以上に。
“彼女”自身にレースへの意欲が無かった事が主な理由だ。
いつもと変わらずはっちゃかめっちゃかしているが――レースに関しては目に見えるほどにやる気がない。あれから今までレースのれの字も出てこなかった。トレーナーと担当の関係なのに。
こんな状態で無理矢理出したところで意味はないだろう。
そういう理由なのだが。
別の意味に受け取った理事長の涙目やたづなさんの暗い顔には胸が痛む思いだった。たぶん、孤高故の苦痛とか、理解されない孤独とかそんな邪推を感じた。
が――やる気がないのだからどうしようもない。
それが伝わって他のウマ娘……特にメジロマックイーンやシンボリルドルフが説得にやってくる事もあった。
が――やる気がないのだから本当にどうしようもない。
――そんなある時。
夏合宿も終わり、秋の天皇賞が迫る九月の頭の季節の事。
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。流石ルドシーちゃんのとれぴっぴ……よくここまで付いて来られたのぉ」
「………」
「……?ちょい、どーしたトレーナー。二週間目のセミみてぇじゃねぇか」
「……。……。……言わせたい?」
「言わせたい」
「――そりゃあ、早朝っから踊りっぱなしだったからねぇ!?」
「おー!そうやって突然騒ぎ出す感じはまさにそれだぜ!」
「みぃぃぃぃん!!!!」
――
場所は、学園の端っこにある空き地。
日が夏の暑さを残る中――全身から感じる倦怠感に身を任せ、地面に突っ伏していた。
“彼女”の望み通り、蠢きながらみぃんみぃん鳴いてやれば楽しそうな笑いが返ってくる。
今までの“シニア級”。振り返れば、地獄であった。
レースの意欲を無くしたせいなのかは不明だが。
“彼女”のうまぴょい伝説への意欲はとんでもなくいつも以上にスパルタになってしまったのだ。
朝にうまだっち、昼にうまぴょい、夕にちゅうして、夜にふっふ~。以下エンドレス。毎日36時間くらい踊っていたような気がする。
いつのまにか――無音の極地に到達しており、この地球上に何も存在しなくなってもライブ出来るように、という謎の特訓すら始まっていた。
……夏合宿の時を思い出す。
音楽も無いのに完璧に踊っているのをドン引きして見ているウマ娘たちの視線を思い出す。
なにがあっても忘れることはないだろうあの光景は軽いトラウマだ。
もう何の為に踊っていたのかも定かではない。
どこを目指しているのかもわからない。
ただ、一心不乱に踊り続けている。
「ルドシーちゃん」
「あん?」
「もう、よくない……?」
「………」
大半の関係者に「えっ。それ以上極める必要あるんです……?」って言われたし。それほどの完成度であると自負もしている。
正直――寝てても踊れそうなくらい身体に染み着いていた。
もう、うまぴょいステータスはカンストだろう。……うまぴょいステータスってなんだよ。
そんな問い……というか、懇願に――“彼女”にしては珍しく。
真面目な顔で口元に手を当てて、考え込み始めた。
「んー……しょーじき。不安なんだよなー」
「なにが?」
「……
「もう覚えがどうこうじゃないんですけど?身体に刻まれてるレベルなんですけど?俺=うまぴょい伝説の域ですよ?」
「………」
「無視ぃ!?」
倦怠感も忘れて叫ぶが、“彼女”の応答は無い。
「あのぉー?ルードシーちゃぁーん?」
「…………」
呼びかけても反応は無い。身体を起こして、しばらく視線を合わせても。
こちらを見ているようで――
最近、ふとすればそんな目をしている。
どう表現すればいいかわからない複雑な感情が渦巻いてる瞳。
寂しいような、悲しいような、怒ってるような。ともかくそんな感じの。
「………」
“彼女”自身、色々特殊なので何とも言えないが――“三年間”のつき合いだ。なんとなく、こう……じゃないかなぁ?みたいな推測はできた。
――惜しんでくれている、ように見える。
この関係を。
……正直、思い出と言ったら――うまぴょい伝説七割・周りへの謝罪二割・悪ノリ一割な三年間だけれども。どう考えてもトレーナーと担当としての健全な関係でも無かったけども。それでも喧嘩もせずにツルんできた。
そんな関係が、終わってほしくない。
――そう思ってくれている、ように見える。自信は無いが。
このうまぴょい地獄だって。
今までの“三年間”を忘れないで居てほしい、という彼女の不器用な想いだと考えれば……文句は言うが、受け入れられる。文句は言うが。
「ねぇねぇ、ルドシーちゃん」
“彼女”に声を掛ける。
反応は無かったが、足の臑をひっぱたいていたら――瞳の焦点がこっちに合った。
「――この“三年間”が終わったら何がしたい?」
“三年間”は区切りだ。トレーナーとウマ娘の。
契約更新や破棄なんて固苦しい呼び方だと少しおおげさな気がするが――要は、
心機一転。新たな季節の始まりが迫っている。
“彼女”は少しぱちくり目を瞬かせると――つい、と視線を俯かせた。
「なんも」
言葉は、消え入りそうで不安に揺れていた。
そんな姿を少し見つめて――ちょっと意識して、口を開いた。
「俺はねぇ――うまぴょい伝説のインストラクターかなぁ」
「ぶっ」
「いやいや、冗談じゃないよ?たづなさんからお願いされてるほんとのことだよ?」
「マジでぇ?」
思わずとばかりに吹き出した“彼女”に説明する。
そもそもだ。
この“三年間”――ほぼ全てをうまぴょい伝説に捧げたと言っていいこの数年。胸を張って成果と言えるのはそれしかない。
無敗の三冠は、そもそも“彼女”の資質だけで取ったようなもので……トレーナーとしての仕事は欠片もしてないし。
しかし、この成果は数年丸々捧げただけあってかなりのもの。
現に真顔で打診されたのだ。真顔で。
やらないって選択肢あるんですか?ないですよね?もったいないどころじゃありませんよね?――みたいな顔で。
どうやら、うまぴょい伝説はその計り知れない怪電波っぷりから率先して指導する“教師”が万年不足しているらしく、学園側から考えれば、喉から手が出てくるほど欲しいのだとか。そりゃそうよ。
提示された給料もいいし、特に教える事も苦ではない。
トレーナーとの兼業も可らしいので、一先ずはやろうかなと思っていた。
「……“次”」
ひとしきり、こちらの栄転予定を笑った“彼女”はぼそりと呟いた。
若いからあまり実感が無いのかもしれない。だが、やはり――出会いと別れは避けられない訳で。そこから目を反らす事は出来ない。
……まあ。
もし――“彼女”が望んでくれるなら。
こんな変な関係が続くのも悪くはない、とは……思ってるが。
言わないけど。言ったら最後――うまぴょい伝説で銀河系ツアーとかさせられそうだし。やぶ蛇やぶ蛇。
「なぁ――」
“彼女”の真面目な顔が視界に入った。
こちらと合わせるようにしゃがみこんだ“彼女”の瞳は少し潤んで――
「もし、“次”があったら。また、あたしの――」
――
ふと、胸元から聞き慣れた着信音。
たっ、タイミングぅ!?慌てて見てれば理事長からのメール通知。いや、メールならもっと後にして欲しかった!
や、やばい。流石の“彼女”でもこの間の悪さはキレる。
「っ、くくくくっ」
と、思ったが。
ポカンとした表情を浮かべた後、鳴らすような笑いをし始めた。
心底、面白いように。
「んーん!なぁーんでもねーよっ!」
そうして満面の笑みを見せると、大袈裟に抱きついてきた。
頬ずりもしてくる熱烈なスキンシップにこっちは戸惑いしかない。そ、そういう空気だった?
「いっ、いやでも――」
「いいって!あたしらしくもねぇ……大事なんは“今”楽しいかどうかだろ!」
そりゃあ確かに“彼女”らしいと言えばそれだが……。
「それに良く言うだろ?来年の話をすれば――女神様が嗤うってこった」
「……それ、笑うのは鬼じゃなかった?」
「あたしとしては似たようなもんだなー」
……まあ、“彼女”がそれでいいって言うならそれでいいのかもしれない。隠すように頬をすり合わせるのもきっと、“彼女”なりの照れ隠しのようなものだろう。
きっと。
「それより、何のメールなん?ルドシーちゃんとの逢瀬を邪魔すんだからそれ相応のもんじゃねぇとセミの抜け殻の刑だゾ」
「やめなさいって。一回それやって理事長泣かせたでしょうが」
「なんだ、やよいちゃんかよ。でー?なんだって?」
「まって」
じたばた暴れる“彼女”の背を撫でながら、携帯を覗く。
理事長にしては長いメールを紐解けば――
「ルドシーちゃん」
「んー?」
「――今年の“有マ記念”出てみないかってさ」
「あー」
「メジロマックイーンとか、シンボリルドルフも出るって」
「ふーん」
……なんか死ぬほどどうでも良さそう。
いつもツルんでるメジロマックイーンはともかく、“皇帝”さんはさっさと七冠取って“ドリームトロフィーリーグ”に行ってるはずだからこんなこと珍しいどころの騒ぎじゃないんだけど。
他にも、トウカイテイオーやウイニングチケット、ライスシャワーにミホノブルボン……“彼女”に難なく轢かれた面々に。
この数年の間に頭角を表したウマ娘たちがほぼ全員出走を予定している。
まるで――“彼女”の為だけのレースみたいな印象を受けた。
ここまでお膳立てされればねぇ……。
メールの末尾にはこう書かれている――『このまま行けば、ゴールドシップは孤独のままだ』と。
「出ない?」
孤独がどうこうは筋違いだ。
だが、この“三年間”最後のレース。担当の晴れ舞台は見たいという気持ちはあった。
――URAファイナルズは、
「んー」
「出て欲しいなぁ、とれぴっぴ的にはぁ」
「んんー」
「……勝てたらちゅうしてやるから」
「……しゃあねぇなぁ」
この“三年間”。
頑なに見せなかった秘密兵器をチラつかせれば、ようやっと重い腰をあげてくれた。見上げる表情は呆れ顔だ。
うしっ!と拳をぶつけ合わせた“彼女”はそれでも、にぃ――と笑った。
「“黄金の不沈艦”としてちゃぁんと出航してやんよ。とれぴっぴの為にな」
太陽を後ろに、そう笑う“彼女”の表情は。黒く陰ってあまり見る事が出来なかった。
残暑かすむ昼過ぎの頃。
“有マ記念”までの、残り三ヶ月――“三年間”が終わるまでの、残り三ヶ月。
そんなある日の出来事。
「俺、その名前あんまり好きじゃないんだけどなぁ……」
その呟きは、“彼女”には聞こえなかっただろうか。
―――――――――――
―――――――――――
――
ターフに立っていたのは、当然とばかりに涼しげに歩く“彼女”だけ。
“皇帝”も“帝王”も“名優”も。誰もかれも。その走りに――歯牙をかけることすら叶わなかった。
これほどまでなのか、と誰かが呟くのを誰もが聞いた。
“彼女”の名前は、ゴールドシップ。またの名を――“
そこに憧憬の念はなく、ただ畏怖を込められてそう囁かれる。
ああ。
夕暮れが降りてくる。
――――――――――
――――――――――
気が付けば――あたしはそこに立っていた。
「………あ」
眼前に映し出されるのは、草原。
だが、何よりも目に留まるのは――無限に拡がる空。
雲に巻かれる朝焼けの空。しかし、まだ地平線に夜が残っていて。
そんな黄昏色に染まりつつある夜空には星々の姿形もない。
ただ。朝と夜が溶け合う境目に。
我が物顔で座しているのが見える。
狂ったように明滅を繰り返す――煌々と輝く黄金の星が。
――その光は遠い。
「―――!」
ここだ。
間違いない。ここだ。ここだ!
ずっと探していた。諦めていた場所を――
『見つけた』
不意に誰かに手を掴まれる。
それに抵抗する前に。それが誰だか考える前に。
思いっきり引き上げられる感覚に襲われる。
『さぁ、起きて』
―――――――――
―――――――――
目が覚めると――死ぬほど嫌いな“三女神像”と目が合った。
クソみてぇな目覚めだった。
「………ん」
起き上がり、ベンチで固くなった身体をほぐす。
ぐらぐらに揺れる視界を合わせながら――さっきまでの“夢”を反芻した。
「……なぁんか、
……まぁ、いいか。
基本的に違和感だらけな中で新たな違和感が放り込まれたとこでどうしようもない。考える時間も意味はない。
視界がようやっと合ってくると――近くのベンチに、アイツが居た。
スマホを弄っているモブリトルに膝枕されて眠っている、アイツが。
瞬間――チラつく夕日。
「……ふぅ」
意識して――息を吐いて、また横になる。沸き上がったナニカを外に逃がすように。
そうしないとどーにかなっちまいそうだった。どうにもならないことだけど。
「リトルちゃん。おまたー」
「あっ、ジャラちゃん。おいーす」
チラリと視線を向ければ、ジャラジャラが近寄ってきていた。
「あら、そっちのトレーナーさんおねむじゃん」
「そーなの。急にこてーんって寝ちゃってさ。まあ、いい天気だしわかるけど。ほぅら、そろそろウェイクアップしてくださーい。皆で模擬レースやりますよー?」
「………」
「………」
「……マジか。ガチ寝だぞこの人」
「いや、普通膝枕なんてされたらそうならないかな?」
気にしなければいいのに。耳は自然とあっちに向いてしまう。
意味もない苛立ちと意味もない悔しさから目を反らすように目を閉じた。
「よいっしょ!ふぅ……まあ、レース場で起こせばいいでしょ」
「抱え方手慣れててウケる……。あっ、つかさ?カレンちゃんのウマスタが彼氏匂わせで大炎上しているやつ知ってる?」
「もち。クレアおばさんパイセンも炎上してるでしょそれで」
「……お願いだからゴールドシチー先輩の前でやめてね。蹴り殺されるから」
「ういうい。てかさ。波に乗りたかったのか、キャプテンファル子も同じことやってたみたいなんだけどさ」
「うん」
「なんか『嘘言わなくていいよ』『大丈夫わかってるから』『年頃だし憧れるよな』みたいな生温かいコメント欄になっててめっちゃウケるよ」
「芝、あの人変な信頼あるからなぁ。てか!そういえばウララちゃんに私の化粧水を勝手に――――」
声が離れていく。
知らず、目を開けると――背負われたアイツが遠くの方に行っていた。
それをしばらく眺めてから――目を閉じた。
簡単な話だ。
1095回寝てればいい。その間、“夢”に浸っていればいい。
――どうせ、
あのクソみたいな神様に、今日もあたしは祈るのだ。
――次こそは。
次こそは次こそは次こそは次こそは次こそは。
次こそは――
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『そ■だ、北■■に行■う』の断片(1)
“彼女達”は笑っている。
“彼女達”は笑い続けている。
か細く小さな輝きを、だからこそ特別で美しいのだと。
――微笑み合ったその顔で。
――
目の前に、故郷の北海道が広がっていた。
『………』
日が沈んでいく夕暮れ時。
実家から少し歩いた所にある、お気に入りの河川敷。
私はそこに座っていた。
『――
隣から声を掛けられる。
ゆるりと振り向くと――“あの人”と目が合った
見るだけで安心するような緩んだ笑顔は、淡く夕暮れに照らされている。
………。
ふと、その瞳に映っている自分が、少しだけ小さい事に気がついた。
『……?シャルウィちゃん?』
――これは夢だ。
とってもとっても大切な、前にあった……はずのこと。
ここで。
この夕暮れの河川敷の中で。
あの人と一緒に居たことがあるのは――たった、一度だけある。
私と、トレーナーさん。
あの輝かしい“三年間”のはじまりの……ほんの少し前の事。
あの時の夢の中に――私は、居た。
『……お兄さん』
『おや不満げ。どったのよ』
『……名前。スペって呼んで下さいって言ったじゃないですか』
『いやいや。命の恩人にゃあ、ちと味気ないじゃんか』
『味気あり過ぎるから言ってるんですぅ』
私の名前は、
そこから変なとこを切り取って――シャルウィちゃん。
知り合って間もなく、呼ばれるようになった変なあだ名。
いつの間にか、特別で大切な響きになっていたそれは――この時は、まだお母ちゃん達とは違う呼び方が耳慣れなくて。
でも、目一杯の親愛が込められているのは、何故だかわかりやすいほど伝わってきて。
表しづらい、擽ったい感情でぶすくれる私を、あの人は小さく笑っていた。
『……それで、なんですか』
『いやぁ、ここはほんと綺麗だねぇって。俺んとこはこんな場所ないから、余計にそう思ってさ』
『そうなんですか?』
小さな私は目を瞬かせる。
何故なら私にとって、ここは特別であったけれどありふれた場所であったから。
あの人はぼんやりと景色を眺める。
瞳の焦点はブレていて、私の知らないどこかと重ねているようにも見えた。
『都会だし?今住んでるのもよくある住宅街のボロアパートだし。実家は――……どうだったかな。まあ、俺的に新鮮だよ』
『でも、その代わりに他は充実しているんですよね?』
『そうだね。歩けばコンビニ走ればファミレス、ぐるりと回れば大抵揃って腹一杯の胸一杯で手一杯って感じかな』
『おぉ〜』
まだ見ぬ都会の響きに歓声を上げる。
ご飯も空気も美味しいし、自然豊かだけど――言ってしまえばそれ以外に乏しい田舎育ちな私には、実に刺激の強い話だった。
『………』
『………』
ふと、沈黙が広がる。
目の前には夕暮れに浮かぶ、大きなまん丸の夕日があった。その横には夕日よりも強く輝く金色の星も見える。
それしかない、見慣れた光景なのに――あの人と一緒なだけで、とても綺麗に見えたのを思い出した。
今でも思う。
どうしてか──いつもよりも光り輝いて見えた。
『明日かぁ……』
あの人はぼそりと呟いた。
その言葉に、小さな私はそうですね、と返した。
そう、私の中にある記憶が正しければ。
この小さな私は、明日――故郷の北海道を離れ、トレセン学園に向かう。大荷物を片手に“
本当ならドキドキな一人旅になる予定だった。
でも実際は――あの人と一緒の、ドキワクな二人旅で学園へと向かっていた。
あの人もトレセンに行かないといけなかったし、お母ちゃんも私の一人旅が心配だったんだろう。
特に示し合わせた訳でもなく、自然とそう決まった。
私自身、その事を殊更喜んだ記憶がある。仲良くなってきた“優しいお兄さん”と離れるのは正直寂しかったし。
そうと決まった日には、と。
お母ちゃんにこっそりトランプを買いに行って貰って。あとはミニ将棋にナゾナゾ集。シェア出来るお菓子もお願いして。
お気に入りのリュックにそれらをぎゅうぎゅうに詰め込んで、長い長い道行きも指折り数えて楽しみにしていた。
楽しかったなぁ……。
……結局見慣れない景色とあの人とのお喋りに夢中になってろくすっぽ使わなかったけど。
――でも。
『か、帰りたくねぇ……』
明日を楽しみにしている私とは違って、あの人はすごい憂鬱そうに項垂れていた。ため息は酷く重苦しくて、滲み出る負のオーラは――社会人前日とは到底思えない、数十年は働いたような貫禄を感じさせた。
『絶っ対、駿川さんに開口一番に正座させられる……正門で“貴公の首は柱に吊るされるのがお似合いだ”される……!』
『だっ、大丈夫ですって!確かに電話でもやけに声が低かったし――お会いできる日を心より楽しみにしてますねって言葉が耳から全然離れないですけど、大丈夫ですよ!』
『……入社直前、音信不通、捜索届一歩手前……』
『あっ、えーっとぉ。あ、あははー……』
『………』
『………』
かぁー、かぁー、とカラスの声。
『俺――お母ちゃんさんの子になる。一緒にニンジンとか育てるんだ』
『ダメですよ!?トレセンに行ったら、私のトレーナーさんになるって約束してくれたじゃないですか!』
『よろしくおねえちゃん』
『よりにもよって弟ポジです!?』
小さな私は、慌ててあの人の前にしゃがみ込んだ。
前髪の影、暗がりに同化するように死んでいる瞳と目が合った。
『私のトレーナーさんになってくれたら、いっっぱい恩返ししますから!だからここは頑張って怒られましょう?ね?私も付いて行ってあげますから。ね?』
『………』
『………』
――ついっ、と視線を反らされた。
『ちょっと』
『……とれぇなぁ?ばか言うでねぇ。おらぁチビん頃からここで畑やってるっぺよ。おっかぁの子だべ、シャルウィさ』
『急に訛らないでください!あとそれ秋田辺りでこっち関係ないです!』
『おらこんな村ぁいやだー、おらこんな村ぁいやだー』
『嫌なら一緒に行くんですよ!』
『なにやってんさ、あんた達……』
声を掛けられる。お母ちゃんだ。
顔を上げると、河川敷の上に見慣れた軽トラがあった。
帰り道に、ぎゃあぎゃあ騒ぐ私達を見つけたんだろう。のそのそとこちらに下ってきているお母ちゃんは呆れ顔だった。
小さな私は、調子外れに歌い続けるあの人を赤ベコみたいに揺らしながらお母ちゃんに助けを求めた。
『お兄さんが明日行きたくないって言うの』
『あー?まぁだそんな事言ってんの』
『なに言ってるだ、おっかぁ。おらぁ家業継いで立派な農家になるだぁ』
『はいはいそりゃありがたいねー。ほら立つ!』
『――むんっ!!』
『あっ、こら踏ん張るな!はぁ……スペ、手伝って』
『はーい』
もう帰る時間だ。
小さな私は、お母ちゃんと二人で、あの人を軽トラまで引き摺る。
少しだけむんむん抵抗していた偽物農家さんは、本物農家な私達には勝てないとわかったらしく――すぐにメソメソしだした。
『うぅ……帰りたくないぃ……駿川さんに会いたくないぃぃぃ……!』
『どんだけですか』
『俺、わかるんだ――あの手合いはガチで怒らせるとヤバいって。高級フレンチでもダメなのアレ。心こもってないとか言ってくるの』
『どんな偏見だよ……』
恐怖からか支離滅裂な事言いだしたあの人を宥めながら、車内に入れる。
観念したのか『くそぅ……俺は悪くない……世間が悪い世界が悪いついでに星の巡りも悪い……』とぶつぶつ現実逃避をし始めた。
そんなあの人に苦笑いを浮かべながら、私達も車に乗ると――お母ちゃんが静かに車を動かした。
夕暮れ色が写っている、山と畑と田んぼの中。
ぶるぶる震えるエンジンに揺られながら、見慣れた道がゆっくりと流れていく。
私達は色んな事を話した。
昨日の事、今日の事ーー明日の事。
これからの――私とあの人……トレーナーさんとの未来の事。
ウマ娘達の夢、トゥインクル・シリーズ、
そこへと手を引いてくれた、幸せの始まり。
――そう。
暖かな“夕暮れ”に見守られながら、あの人は……確か、こう聞いてきた。
『――
その問いかけに、小さな私は満面の笑みを浮かべて。
『日■一■■マ■になりたいです!』
………。
……あれ。
なんて、答えたんだっけ。私。
――『もしもし、スペ?ん?うん、お母ちゃんだけど』――
いつの間にか夕暮れはどこにも無くなって、見えるのは――見慣れた背中。
私じゃないウマ娘を連れて行く、“あの人”の背中だけ。
――『昼間っから電話なんてどうかした?そんな慌てて。なんか……あっ、そういえばそっちで“選抜レース”ってのをやるって。どう?良い結果は出せた?もしかしてもうトレーナーでも――』――
手の平に伝わる冷たい携帯の感覚。震える指で、すがるように電話した――お母ちゃん。
さっきまでと変わらない、
変わらないはずの、お母ちゃんの声。
なのに。
――『えっ?』――
――『何を言ってるの?こっちで会ったトレーナー?アンタと一緒にトレセンにって――そんな事ある訳ないじゃない。そんな怪しい奴はいなかったし、あの日は私が送って一人で……』――
ひどく、つめたい。
――『ちょっ、ちょっとどうしちゃったのスペ?ほんと大丈夫?そっちで嫌な事とかあった?もしそうならお母ちゃんに――』――
――
言葉にすれば短くて、口に出せばたった数秒なのに。
――私の何もかもが奪われたように感じて。
――『スペ?スペ聞いてるの?もしもし?もしも―――』
………
……
…
「……っ」
目を開ける。
見えるのは、薄暗がりの天井。無機質な灰色。
めくれた布団の隙間から入り込む冷たい空気を感じた。
……ああ。
「とれーなーさん」
――あの暖かな夕暮れはどこにもない。
目覚めは、とてつもないくらい最悪だった。
「………」
重い頭を支えながら身体を起こす。
するとすぐに視界に入るのは――足元に積み上がっている段ボールの山だ。
その中には、大好きなニンジンがいっぱい入ってる。お母ちゃんが定期的に送ってくれるものだ。
“いつか”は送られた端から無くなって困ったけど――“いま”は消費が追い付かなくて困っていた。
……処理、どうしようかな。
このままじゃあ部屋がニンジン倉庫になっちゃいそう。せめて腐っちゃう前になんとかしなきゃ。
皆に配るにしても限度があるし……。
「……あっ、食堂のおばちゃんに」
……いや、まだ初対面に近いから迷惑かな。
ほんとならたづなさんの罰で、食堂のお手伝いをトレーナーさんがやってたからすごく仲良かったんだけどなぁ……。
ああ、そうだ……お母ちゃんにもうあんまり送らなくてもいいよって言って。でも、電話の事があるしどうしよう。
――あの出来事以来、何度も電話してくれる。
心配してくれている自覚はあるけど、下手な事言ってそれこそ――
この学園にいられなくなっちゃったら。
そう思うと、毎度毎度誤魔化す事しか出来なかった。
「……ああ、もう」
ダメだな。ぼーっとしてると嫌な事ばっかり考えちゃう。
とりあえず顔でも洗おう。そう思って、ベッドに腰掛けると――隣にあるもう一つのベッドが目に入った。
少し開いたカーテンの隙間。
そこから覗く朝日に照らされたそこには、誰もいない。
日も昇っていない内に出たんだろう。
ベッドからは、肌に感じるほどの冷たさが伝わってくる。
丁寧に畳まれた布団と寝間着と制服だけがあって、ジャージとランニングシューズはどこにも見当たらなかった。
「スズカさん……は、また走りに行ってるのかな」
――
同室の憧れの人。
最近は――早朝に出かけに行ってふらりと学内に戻っているかと思えば、気がついたら居なくなってて夜には戻ってくる。
そんな、“いつか”の時よりも、ハードな毎日を送っている人だ。
心配ではあったけど、話す時は普段と変わった様子も無いし――『ちょっと遠出してるだけなの。気にしないで?』なんて、困った顔で言われてしまえば、こっちも困ってしまう。
まだ後輩で友達でしかない自分には出来る事はない。
――“いつか”の時のように半チームという間柄ではないし。
それにスズカさんの悪癖とも言えるランニング狂いは身に染みるほどわかっているつもりだった。
「……顔、洗お」
のそのそ洗面所まで歩いて、蛇口を捻る。
ジャバジャバ流れる水に、一瞬夕暮れ色が過って――すぐに手で汲んで顔に浴びせた。
濡れた顔をタオルで拭いていると、鏡に映る自分と目が合う。
「……ぁ」
寝癖まみれの髪。顔色の悪い表情。目元には隈があって、肌も微妙に荒れている。
口はまるで笑顔を忘れたように一直線。目も、最初から何もなかったように真っ暗で。
「ふふっ……似ても似つかないなぁ」
その顔がへらりと笑うのを見た後――私は、畳んでおいた制服を手に取った。
時期を思えば、ほんの数ヶ月前の事。
お母ちゃんとトレーナーさんの目の前でお披露目した“はず”の時と同じ物。
良くわかんない奇声をあげて、家に一つしかない一眼レフを奪い合いながら撮っている二人を見て笑っていた私は、いったいどこに行ってしまったんだろう。
――ドタバタと騒がしい寮の廊下、小鳥が鳴く朝の道。にぎやかな食堂、明るい学園。
教室に入ると挨拶してくれるクラスメイト。いつもの席、いつもの光景。
部屋から一歩出た日常は――“いつか”を綺麗になぞるように、暖かな雰囲気で。
一瞬、今の今までの全てが悪い“夢”だったんじゃないかと思っちゃうほど……いつも通り――――
「そーいえば。昨日さぁ、面白いのが見れたんだぁ」
「んー?なによ?」
「うちの栗東寮にスイープトウショウっていう中等の子がいんだけどぉ」
「ほん」
「その子が夜の学校に忍び込んでてさぁ。警備員さんに捕まって説教されてた」
「ヤンチャねぇ」
「だねぇ。『“理事長室にあるちょっとお高い焼酎”ってのが必要なの!アレが無いと……!』って泣きわめいてた」
「……なんで焼酎?」
「さぁ?魔法薬がどうこう言ってたけど、詳しくは知んない。私も逃げるのに必死で」
「……。そういえばなんでその事、あんた知ってんの」
「や。私も忍び込んでたからさぁ。ちょっちかっこいい気分になりたくて。月明かりの廊下とか、ばいぷすギャン上がりよ?」
「なにしてんのよ……」
「ねぇねぇ!聞いた聞いた?例の話!?」
「ああ、アレ?――学校中の花むしり取って不毛の地にした挙げ句それに飽き足らず近くの店の花買い占めて花占いしまくってるトウカイテイオーの話?ヤバいよね。私も見た時一瞬花むしりの妖怪かと思ったもん。いるか分からないけど」
「えっ、なにそれ知らない」
「ああ、違うか……。じゃあアレ?――最近、朝っぱらに駅前のそば屋に出没してるライスシャワーの事?あの子見たさに、って売れ行き上がってるらしいじゃん」
「それも知らない」
「えー?じゃあなによ。後は――近くの神社に自分の開運グッズを丸ごとお焚き上げに叩き込んで『抗議活動ですっ!』ってお天道様に騒ぎまくったフクキタル先輩しか知らないんだけど」
「…………」
「あっ……ごめん、当たった?」
「…………」
「あー……プリッツ食べる?」
「……ぐずっ。たべりゅ……」
耳に入ってくるクラスメイトの――何気ない話。
だけど――私にとっては何気ない話ではなかった。
こんな事、私が知る“三年間”には一度も無かった。それが耳に入る度に――やっぱり“いま”と“いつか”は違うんだって。
そう教えられている気分だった。胸の痛みとはすっかり友達だ。
席で荷物を纏めていると――友達のグラスちゃんとエルちゃんに声を掛けられる。その後ろでは、頬杖を突いて眠気眼なセイちゃんもひらひらと手を振っていた。
それを呆れ顔で眺めるキングちゃんは………まだ居ないけれど。
“いつか”も、“いま”も。ずっと側にいてくれる大好きな友達。
皆との――
それだけで、寂しい気持ちが少しだけ紛れるような気持ちだった。
でも。
――意識は、教室の隅に向けてしまっていた。
「ねぇー、リトルちゃん」
「なによ、ジャラちゃん」
どうしてもやめられなかった。
教室の隅っこ。
ぐでーんと机にもたれかかるジャラジャラさんと。
その横で――何故だか、寝ぼけてるウララちゃんの髪を整えている、“あの子”。
私のトレーナーさんの、“いま”の担当――モブリトルさん。
あの子を意識してしまうのは、苦しいだけだとわかっているのに。
自然と耳は、彼女達の方を向いてしまっていた。
「毎日ウララちゃんのお世話係えらいねー」
「……まぁ、私の?唯一?かろうじて?自尊心が傷つきづらい併走相手だったからね。いままでのお駄賃的な?キングヘイローが居ないのにほったらかすのもあれでしょ」
「ふんふん、いいこいいこ。リトルちゃんらしさが戻ってきたー」
「なんじゃそりゃ。……はい、おきゃくさまー。どんな髪型がよろしいですかー?」
「……んにゅ、とれーなーの、すきなやつ……」
「いや、居ないでしょあんた」
「無慈悲過ぎる」
リトルさんは、“いつか”の時は――距離が分からないヒトだった。
クラスメイトだし、仲良くしたかったけど――距離を取られてた。
たまに……特にレースの後とかに、背筋が凍るんじゃないかと思う勢いの視線を向けられた事がある。あの冷え冷えとした視線を思い出すに……たぶん、きっと、私の事はきらいだったと思う。
でも、たまに補習とかで一緒になると協力しあってさっさと終わらせようとしてくれた。
私が皆と喧嘩したりして、少し気まずくなったりしてたら――クシャクシャのスイーツ店のクーポン券を、机の中にどっさり詰め込んできたりとかしてくれた事もあった。
お礼を言うと『はぁー?私は気まずい空気でいられるのがムカつくだけなんですけど?アンタのためじゃねーし。札幌の時計台みたいな面しやがって、なめんなよばーか!』って威嚇された。……がっかり顔って言いたかったのかな?いや、がっかり顔がなんだかよくわかんないけど。
そんな感じで、仲良くしていたんだかなんだか。よくわかんなかった。
気難しいんだよー、って“いつか”のジャラジャラさんが言ってたっけ。
なんとなく、悪い子ではないのはわかっていた。
セイちゃんはよく絡んでたし、キングちゃんもたまに話していた。……私の比じゃないくらい尋常じゃないくらい威嚇されてたけど。前にマヤノちゃんが見てた外国の映画のチンピラみたいな難癖だったけど。
でも。不思議と、険悪……といった感じじゃなかったんだ。
グラスちゃんやエルちゃんと、それを見ながら話してたっけ。
――いつか、仲良くなれればいいね、って。友達としていつか遊びにとか行けたら、って。
いつも、教室の隅っこで。
ジャラジャラさんと話している以外は――かじりつくように教本やレース動画を見ていた……端から見てもとっても真面目な子。
友達になれれば、もっと楽しい毎日が送れるって。
そんなこんな思っている内に――
気がつけば。
――
「それにしても……最近、皆変だよねぇ。いつもと違うっていうかさ」
「まぁ、確かに。でもまあ、そんなもんでしょ。私だって、自分よりも成績が良い奴とすれ違う度に舌打ちしたくなる衝動が落ち着いてきたし」
「でもさぁ――ドトウちゃんもライスちゃんもずっと泣いてるし」
「……それはいつもの事じゃね?」
「……カフェさんは見えない誰かと話し込んでるし」
「いつもの事パート2」
「………デジタルちゃんはこそこそこっち見てる」
「オールウェイズそうじゃんアイツ」
「………」
「………」
「なんだ、トレセン学園は平常運転だったか」
「奇行種ばっか挙げてればそうなるわ」
……ともかく。
友達とは言えないけど、知り合いと言うには薄情に感じる。
――私や皆にとって、彼女はきっとそんなウマ娘。
あの子は私の事が嫌いだったかもしれないけど、私は決して嫌いじゃなかった。
でも。
――
あの日。行っちゃった二人の背中。
あの時の感情は――今もずっと、胸の中をかき乱している。
でも、問い詰める……のはなんか違うし。返して……と言うのも違う気がする。
全ては遠い“いつか”の夢のお話で。
こんなものを抱えている私がおかしくて。リトルさんが悪い訳じゃない。
あの子にトレーナーが出来たのは良い事で、トレーナーさんとも良いコンビになっていて――楽しげに活動している。“いつか”の時は、今みたいな笑顔なんて見た事が無かった。その事は嬉しい。
でも。
ああ……でも。
――
どうしても、嫌で。
私のやったトレーニング、私にかけてくれた言葉、私を撫でてくれた手の平、私が食べたトレーナーさんのご飯、私の笑顔私の部屋私の思い出私の全部私の私の私の私の私の私の――――――
私のトレーナーさんのはずなのに……!!
――そう、恨んでも。羨んでも。妬んでも。
結局――面と向かう、勇気は無くて。
あの人は一途だ。たった一人、担当しているウマ娘の為に全力を注いでくれる。だから、たとえ皆に平等に気安くても決して越えられない一線がある。
それが嬉しかったのに――今は、どうしようもなくこわい。
あの人の目に。
いつも緩んで優しかったお兄さんの瞳に。
――
この頭の中にある“夢”から、ほんとに覚めちゃう気がして。
……だから、こうして。
ひっそりとリトルさんの事を伺うことしか、私には出来なかった。
「変なの代表は会長でしょ。なんか能面みたいな顔してるし。……まぁ、下らないダジャレとかで悩んでそうだけど」
「はぁー????アレは私達が及びつかない苦悩をしてるだけだよ?会長がダジャレとか考える訳ないじゃん会長エアプか?」
「いやいやいや、いつも言ってるけど絶っ対ダジャレ好きだってばさ。頻度がおかしいよ頻度が」
「……ふぅ〜」
「なにそのしょうがねぇなぁ、みたいな溜め息」
「いーい?あれはね――『夫の浮気に気づいていながらも問い詰める事ができず自分に魅力が無かったせいじゃないかと思い悩み、ベッドを一緒にしているのにお互いに背を向けていて、もしこの背に抱きつけば気持ちが戻ってくれるんじゃないか、でももし拒絶されたらと思うと何も出来ず一人涙に濡れる人妻』のように繊細な――」
「長い長い長い。いや、そんなくっそめんどくさい昼ドラヒロインみた――」
――ぴこんっ。
聞き慣れた着信音が彼女の方から聞こえる。
UMAINEのメッセージ音。
「ん。トレーナーからだ」
その言葉に、反射的に振り向いてしまった。
視界に映る、何の気なしにスマホをいじるリトルさんが妬ましい。
……私が覚えているはずのIDは存在していなかったのを思い出して胸が苦しくなった。
トレセン学園への電車の中で、一緒にダウンロードして登録し合った記憶が確かにあるのに。
「なんてー?」
「んん?あー……『昼休みになったら迎えに来て』って。あの人今、トレーナー室でグロッキー状態なんだよね」
「なんでー?」
「曰く『メイクデビュー戦の為にレース場の下見に行ったら、湧いて出たたづなさんに誘拐されてお酒をたらふく飲む事になった辛い死ぬ吐く吐いた拭いた吐いた諦めた寝た』」
「えぇ……」
……そういえば、そんな事もあったなぁ。
メイクデビュー前。
出走者がまだだったけど、私が走るレース場は前もって発表されたからちょっと下見に行ってくるね、と出かけて行った――次の日に、たづなさんと朝帰りしたという、“いつか”の伝説だった。
……こういう話を聞く度に思ってしまう。
――やっぱりトレーナーさんなんだって。
リトルさんの話から聞こえてくる“トレーナーさん”は、ほんとに私のお兄さんとそっくりで。
それが嬉しくて……ひどく悲しい。
「というか、あの人一人で出歩けるんだ」
「まあ、通勤勢だし。後は地図とか分かりやすい目印があれば……って感じ。私も正直、良く今まで生活出来たなとは思うけど」
「トレセンでは未だに行方不明になるからねぇ」
「ゆうて、トレセンもでかいからしゃあない。個性個性」
「あれを個性と言える勇気。もうトレセン七不思議に登録されてるよあの人」
「芝」
――それはわかる。
トレーナーさんは「心配性だなぁ」と笑ってたけど、5分後に案の定消えて、しわしわピカチュウ顔でクリークさんに連行された時は、いっそ首輪でも付けようかと血迷った。
「でもあれだね」
「んー?」
「たづなさんって、リトルちゃんのトレーナーさんの事気に入ってるよね。良く話してるのを見かけるし」
「そう?」
「うん。私のトレーナーも言ってたよ。『いつもは一線は引いてるのに珍しい』って」
……言われてみれば。
“いつか”の時よりも距離が近い気もする。
擦れ違ったら挨拶はするし、トレーニング中に出会えば「お疲れ様です!」と労ってくれて、時間があるならウマ娘談義で盛り上がっていたし、ほんのちょっとならお目こぼしとかしてくれた。
――のは、“いつか”の事。
“いま”は、たづなさんからトレーナーさんに会いに行っているといえばそう見えるし、口調もどこか辛辣で声色も低いけど、でも機嫌が悪い感じじゃなくて、声を作ってないだけって印象にも映る。
……思えば、あの“伝説”もお酒は飲んでいなかったような……?
……どうなんだろう。
出会い方が違えば、そういう事があるのかな?私は最初からトレーナーさんとべったりだったから、“いつか”のたづなさんは遠慮していたとかかもしれない。
「初日に丸一日遅刻した大問題児だからってのもあるんだろうけど……確かに、トレーニングの補足とかよくしてくれるし、いつの間にかトレーナーさんの横にいたりする……」
「ほうほう」
「うーん……でもなぁ、指導はありがたいけど、トレーナーに色目使ってる気がすんだよなぁ。まぁ、婚期気にしてるヒトおばだからアレなのかもだけど」
「もー、聞かれたらたいへ―――」
―――悪寒が走った。
「「「「「……ッッ!?」」」」」
騒がしい空気が一転、教室中を包みこんだ冷たい戦慄。
全員の耳と尻尾が引き攣るように逆立った。
……振り向きたくない。
――教室の扉のところに誰かいる気配がする。
それでもこのままこうしている訳にもいかなくて、恐る恐る振り向くと―――
「………」
―――満面の笑みを浮かべるたづなさんがいた。
見たこともないような綺麗な微笑みを……完全にリトルさんの方に向けていた。
「あば、あばばばば」
リトルさんがよくわからない怯え方をしている中……たづなさんの手がゆっくりと上がると――ちょいちょい、と手招きをする
――クラスの総意は一致した。
「――ぐっ!?ちょっと、はなっ、離して!?」
「ごめんよリトル!でもごめん死にたくない!」「あんたが言った事だし、あんたが果たすべき責任でしょ!?」
近くの子達がリトルさんを羽交い締めにして扉の方へと引き摺って、私を含めた他の子は
最短距離を確保する為に机を引き摺った。
ごめんなさい、リトルさん。恨みじゃないよ。違うよ。他意はないんだよ。
「押さないでっ!あなた達にヒトの心はないの!?」
「いや、ウマ娘だし!」「そうだよ!ヒト娘じゃないもん私達!」
「求めてない!今、そういうの求めてないぃ!」
抵抗むなしく、びえびえ泣き出したリトルさんは、速攻で『無関係です』とウララちゃんと一緒にクラスに溶け込んだジャラジャラさんを見つけると声を上げた。
「ジャラちゃん!ジャラちゃんヘルプ!」
「ウララちゃん、別れの挨拶をしよ。次会う時は、あの子はヒト娘になるのよ……」「……うみゅ?」
「くっ……この卑怯者!増えるワカメちゃんの海で誓い合ったあの頃を忘れたというの!?」
「リトルちゃんだって私がそうなったらそうするでしょ」
「そうだけど!!」
――そうなんかい。とクラスの全員が思った気がした。
すぐにたづなさんの前に引っ立てられたリトルさんはブルブルと耳と尻尾を押さえた。
「ひっ、引き千切られる。耳と尻尾取られる!せっかくトレーナーが出来たのにジョブチェンジさせられるっ!」
「……あの人のウマ娘だからそんな事しませんよ」
たづなさんは笑顔のままで宥めるように、そっと肩に手を置いた。
その優しげな触れ方からは到底信じられないほどに――触れた箇所からしわくちゃになっていく。
「でも、そうですね。懲罰、という事で……付いてきて下さい。
「――ぴぃ!」
そのまま、リトルさんはずるずると引き摺られて行く。
廊下を歩いていた皆もそそくさと道を開ける中、リトルさんは、キッ!と――何故か、野次馬の中にいたマックイーンさんを睨みつけた。
「くそっ……!覚えてろよメジロマックイーン!」
「えっ……えっ!?私関係ありませんわよ!?」
「じゃがいもみてぇな名前しやがって!」
「やっぱり関係ないじゃありませんか!誰がメジロメイクイーンですかっ!」
なんかよくわかんない因縁をつけながらリトルさんは廊下の奥へと消えて行った。
嵐が過ぎ去ったクラスにはほっとした空気が流れる――きっと、今日は帰ってこないな、リトルさん。
リトルさん亡き後。
朝のホームルームもつつがなく終わり(連絡が行っていたようで、担任は気の毒そうにリトルさんの席を見つめていた)、一時限目が始まった。
数学。内容は、因数分解だ。
「………」
――すごい。
私、“三年間”の事は絶対に忘れる事はないと心の底から誓える。
だから――黒板に書かれている事に一切の見覚えがないのにびっくりした。
えっ、ほんとにすごい。何もわからない。
というか、“三年間”通じても一切残らなかったという事は、将来に必要ないのでは?ないでしょ。
「………」
とはいえ、板書は欠かさない。
“単独出走”に関しては、成績優良者という事も条件にある。少しでも頑張らないといけない。
「………」
そう、頑張らないと。
「………」
がんば……がんば……――
「……――ふぅ」
私はペンを置いた。
何気なく外を見ると――澄み渡るような青空に浮かぶキラキラと輝く太陽が見える。あの大きさを思えば、私がなんとちっぽけな事か。
「……うん」
――数学以外で差を付けよう。
そうしよう。現代文とかはまだ思い出せる箇所があったしうん。だいじょぶだいじょぶ。トレーナーさんも『シャルウィちゃんは最後で差せる子だから自信持って踏み込んで!』って言ってたもん。
自信持って踏み込みますトレーナーさん。
「………」
もはやお経のような授業の音を、聞いていると――段々と眠くなってくる。
……睡眠時間はむしろ“いつか”よりも長いけど、夢を良く見るせいかあまり眠ったように感じない事の方が多い。
そんな中で、暖かな太陽の日とお経が重なって……私の意識はどんどんと何処かへ進んでいく。
――不意に、花の香りがした。
――どんな花かは、思い出せないけど。
〜
〜〜
――思い出して。思い出して。
私達にしか出来ない。私達しか出来ないの。
忘れないで。忘れないで。
苦しいね。悲しいね。泣きたいね。
忘れたいね――でも、忘れないで。
それだけが―――私達のトレーナーを―――
〜〜
〜
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『そ■だ、北■■に行■う』の断片(2)
――――――――――――
――“夢”を見る。
何度も。何度も。何度でも。
それが泣きたくなるくらい、楽しい日々の一幕で。
それが嘆きたくなるくらい、愛しいあの人との思い出で。
だから目覚める度に苦しくて。
それでも、“夢”を見る。そう望んでいる。
まだそこにあるんだと。心の底からほっとするから。
――――――――――――
――――――――――――
私とお兄さん――トレーナーさんとの“三年間”は、往来激しい正門前でたづなさんに初手土下座謝罪というエキセントリックなイベントを挟んだものの、順調に始まった。
貰った“トレーナー室”は広くて快適だし、田舎には無かった本格的なトレーニング器具の数々は私の胸を高鳴らせた。
それにご飯がどれもすごい美味しいし、トレーナーさんが言っていた都会のあれこれも誇張でも何でもなく、どこもかしこも輝いて見えた。
――勿論。
生活の事もそうだけど、そもそもの目的――レースの事も重要だった。
ウマ娘としての夢、トゥインクル・シリーズ。
あの“夕暮れ”に告げた目標。
――『日本一のウマ娘になりたいです!!』
その為の話し合いをしている中で、私は――やはりここは、世代最強を決めるレースである“日本ダービー”を狙いたいと話した。
沢山あるレースの中で格式高いGIレース……その中でも、生涯一度だけ獲得できる“ダービーウマ娘”の栄光。
まさしく、日本一にふさわしいと思ったのだ。
……けど。
ここで、トレーナーさんが突拍子もない事を言い出した。
「……日本一のウマ娘。その為にダービーを獲る。なるほど、実にわかりやすい。だけど――足りないと思わない?」
「足りない?」
「そう、ダービーだけじゃない。他にも素晴らしいGIレースは沢山ある。それらを制して初めて、日本一のウマ娘と胸を張れるんじゃないかな」
「……は、はぁ」
「――という訳でシャルウィちゃん。君には“十二冠ウマ娘”になってもらいます」
「……?」
「つまり、
「――はぁ!?」
トレーナーさんは言う。
――“日本一のウマ娘”。
その目標には、“日本ダービー”や他のGIレース数種くらいでは足りない。
もっと、もっと高み。誰もが納得する称号にするにはこのくらいじゃなければ!と。
そうして――これからの“三年間”の流れを語り出した。
まずは
次に
そして
――計、十二レース。
つまりは、『クラシック三冠』『春秋シニア三冠』『天皇賞・春秋制覇』『ジャパンカップ二連覇』に『有マ記念二連覇』。
たった一つでも永遠に名前が残るような栄光を――総ナメにしてやろうという話だった。
……。
……いやいや。
「いやいやいや!無理!無理ですよ!?」
「無理ィ?そうかな?一応、体調面も考えてレースの間隔は十分取ったつもりだけど」
「いやそういうんではなく!だって、あのルドルフ会長でも“七冠”なんですよっ!?」
無敗の三冠ウマ娘。自他ともに認める現トレセン学園最強、生徒会長シンボリルドルフ。
そんな“皇帝”すら届かない、届かせない――高い高い、頂き。
「それなのに、田舎でトレーニングもどきをやってきただけの何の実績もない私なんか――」
「――シャルウィちゃん」
条件反射で無理だと叫んでいると、そこで強く――トレーナーさんに声を掛けられた。
いつものように優しげで、それでも真剣な瞳と目が合った。
「無理だと思うのはしょうがない。俺でもホラ吹き過ぎた感あるし。でも――自分を卑下しちゃいけないよ。君は……君達は“特別”なんだ。なんだって出来る」
「でも……」
「君が北海道から遥々ここまで来たのは理由がある。それに、お母ちゃんさんならこう言うと思うよ――
その言葉に、私はハッとした。
確かにお母ちゃんならそう言って、笑って私の背中を強く優しく押してくれる。
それに――ここに来た理由。
お母ちゃんと、もう一人。私を生んでくれて亡くなってしまった、もう一人のお母ちゃん。
そんな二人に誇れるウマ娘になる為に。
“日本一のウマ娘”になる為に。私は、ここに来たんだ。
「“十二冠”は遠すぎてありえなく見えるかもしれない。でも、君ならできる。そう思うから俺も提案してる。どうかな?――君の“目標”に」
私は一度、深呼吸をして。
「……私、できますか?」
「うん」
「日本一に……なれますか?」
「なるんだ。それに、させるさ――
「……がんばります」
――『日本一のウマ娘になりたいです!!』
「私、なります!――日本一のウマ娘に!!」
なりたい、じゃない――
そう叫ぶと、トレーナーさんは優しく微笑んでくれた。
こうして。
私はやっと、一人のウマ娘として、スタートラインに立った。
そんな気がした。
――の、だけれど。
この後。
“十二冠ウマ娘”の夢を掲げるようになった私が嬉しかったのか、自慢気に周りに広めまくったのはやめてほしかったかなぁ……って。
たづなさんを皮切りに、私とトレーナーさんの夢はあまりに大きすぎたせいかものすごい勢いで学園中を駆け巡り――そこから、どういう風にねじ曲がったのか、最終的には『中央トレセンなんかクソだっぺ!都会娘なんかなます切りにしてくれるわ!』みたいな、北海道トレセンからの刺客扱いされ―――
おかげで私の転入初日は――
『
『
『
『
――みたいな感じで始まる事になった。
……ほんとだもん。皆、目がそう言ってたもん。キングちゃんだけがあの時の心のオアシスだったんだもん。いやまあ、そのおかげで皆と仲良くなれるきっかけになったから結果的には良かったんだけど。
そんなこんなで。
“日本一のウマ娘”を目指す私、スペシャルウィークのトレセン生活が始まった。
毎日が輝いて見えた、奇跡のような“三年間”が。
―――――――――――――――
―――――――――――――――
――それは
最初の壁だった“ホープフル・ステークス”を経て。
年明けて、桜青めく“皐月賞”の熱もゆっくりと落ち着いて。
――世代最強を決めるGIレース、念願の“日本ダービー”が近づき始めた頃。
二人でホームセンターで買ってきた、組み立て式の棚。
ぶきっちょなせいでちょっと傾いているソレに――二つの真新しいGIカップが輝いている“トレーナー室”で。
「………」
私は窓際で、ぼんやりとトレーナーさんを待っていた。
『たづなさんに書類を提出してからそっちに行くよ』とちょっと前にメッセージが届いていたけど、やっぱり寂しい。授業時間とか寮にいる時間以外は、大体一緒にいる時間がかれこれ一年続いているからか、こういう待ち時間でも気になってしまう。
それに――あの人、すっごい方向音痴だし。不安だ。
「……トレーナーさん」
――ギラギラと輝く真昼の太陽は、少しだけの夏の温度を感じさせる。
……どこかで行き倒れでもしてたらどうしよう。やりそうなのが、私のトレーナーさんだった。
すぐに来る訳ない。でも、やっぱり気になる……。
そうやってそわそわと、窓からトレーナーさんの姿を探していると―――ふふっ、と小さな笑い声が聞こえてきた。
その声につられて、振り向くと――そこには上品にお茶を持っているグラスちゃんがなんだか微笑ましいものを見るような目でこちらを見ていた。
見れば、他の三人も。
雑誌を眺めていたキングちゃんも、ソファでゴロゴロしてるセイちゃんも。
そして、宿題を忘れた罰で宿題を増やされて必死に消費しているエルちゃんも――何だか呆れたようなニヤけてるような不思議な顔をしていた。
……あっ。
「――ッッ!」
み、皆がいる事忘れてた……!
これじゃあ私が、トレーナーさんが居なくて不安がってるさびしんぼみたいじゃん!
「あっ、あっ、ちっ、違くて!トレーナーさんが無事にここまでこれるか不安なだけで私が寂しいとかそういうんじゃあ……!」
「ふふふ〜、まだ何にも言ってませんよ〜」
「……でもまあ。実際、大丈夫かしらあの人」
「迎えに行きますー?あっ、セイちゃんはパスでー」
「ッ!それなら!このエルが華麗に――「エルは宿題をやりなさい」――……デース。怖い声出さないでくだサイ、グラァス……」
はっ、恥ずかし過ぎる……!
そしてそれをなんかいつもの事と受け止めてる皆の優しさがつらい……!
「流石にまだトレーナーさんは来ませんよ。スペちゃん、お茶でも飲んで落ち着きましょう」
「うっ、うん。そうする……」
「大丈夫よ、スペシャルウィークさん。あの人の
「そーそー。前なんかフラワーに連れられてたし」
「あの時ほど大人として敗北を感じた瞬間はないって泣いてましたケドネー」
お言葉に甘えて、私も椅子に座って。
グラスちゃんの淹れてくれたお茶で一息吐く。
……。
それにしても――この四人とは仲良くなったよなぁ。
グラスワンダー、エルコンドルパサー、セイウンスカイ、キングヘイロー。
この四人は転入初日に挨拶でひぇ〜となったのが今では笑える思い出になり、あだ名で呼び合えるようになっていた。今ではきっと親友と言って……いいのかな?
そんな私達は、予定が特に無い放課後とかはこうして、この“トレーナー室”に集まるのが習慣になっていた。
私達のトレーナー室は二人で使うにはやけに広かったから、皆と集まって何かするには丁度良く、トレーナーさんも好きにしていいよと許可してくれたので――時間が経つ内に、自然とそうなっていた。
「……それにしても。トレーナーさんの迷い癖にも困ったものですね。なんとか矯正できればいいのですが」
そう呟くグラスちゃんには申し訳ないけど無理だと思うなぁ。もうなんか体質云々とかそういう話じゃない気がする。
それに――
「私的には、そのおかげでトレーナーさんと会えた面もあるからあんまり強く言えないんだよね」
「そうなんですか?……そういえば、トレーナーさんとはどうやって……?」
「……?あれ、言ってなかったっけ?」
私が尋ねると、グラスちゃんは頷く。
気になって他の三人を見ると――宿題に呻いてるエルちゃん以外、興味津々って感じだった。
……確かに、トレーナーさんとの経緯なんてちゃんと話して無かった気がする。
「えっとね―――」
そう、アレは忘れられない瞬間だった。
「私の実家の近くに牧場があって、よく散歩でその横を通るんだけど……」
「「「うんうん」」」
「――牛さんと一緒になって仲良く寝てたんだ」
「「「えぇ……」」」
あの時はほんとにびっくりした。
一瞬、牛の花子が人間になっちゃったのかと思ったもん。すぐに知らないヒトだとわかってお母ちゃん呼びに行ったけど。
私は続ける。
――それで、すぐに起こして事情を聞くと。
社会人になる前、最後の自由時間で何かしたいと考えていた時に“テレビ”を見て、思いつきで北海道に来たそうだ。
「テレビ、ですか?」
「ほら、“ダーツの旅”って企画あるでしょ?地図に向かってダーツを投げて、当たった所に行くってやつ。それで北海道が当たったらしくて」
「す、すごい行き当たりばったりね……」
「家には世界地図しかなかったから『下手したら、アメリカとかフランスとか行ってたわっ!』って笑ってたよ」
「えぇ……」
まあ、その“
「それで何があって牧場で野宿を……?」
「居酒屋辺りで記憶が無かったみたいだから酔っ払ってたみたい。荷物もどっか行っちゃってたし」
「……よくそこから仲良くなったわね。一歩間違えなくても不審者よ」
「財布は無事だったから、中央のトレーナーライセンスがあったの」
「運が良いんだか、悪いんだか……」
そこから。
家の電話を貸してたづなさんに電話させたら――あっちは連絡が取れなくなって捜索届一歩手前の大騒ぎで、静かにキレてたり。
中央のトレーナーなら、と一宿一飯の恩でちょっとうちのスペを見てやってくれないかとお母ちゃんが言い出したり。
やからしはアレだったけど、私が懐いて“お兄さん”なんて呼ぶようになったり、お母ちゃんと意気投合して同じ一升瓶のお酒を吐き合った仲になったりしている内に。
私のトレーナーさんとして、一緒にいてくれる事になったのだ。
「……まあ、その破天荒な感じはまさしくトレーナーさんらしいですが」
「にゃははー、まあでもそういう出会いってよくなーい?なんか運命的な?」
「いや、酔っ払って牧場で爆睡してるとこに出会うのは嫌でしょ。私だったら即警察よ警察」
皆ちょっと引いてるけど――それで納得しちゃうのが、私のトレーナーさんって感じだ。
まあ、素面で“目指せ!十二冠ウマ娘”って言っちゃう人だからね、しょうがないね。
「―――ウガァァァアア!やぁーっと終わったデース!!」
エルちゃんが咆哮をあげた。
さっきまで静かだったのは宿題が最終局面に移っていたみたい。
机に突っ伏して達成感に浸っている様は気持ちよさそうだが――しなくても良かった苦労をしてるのでなんとも言えない。
「グラァス、私もお茶が飲みたいデース」
「……はぁ。まあ、いいでしょう。お二人も飲みます?」
「わーい」「ええ、頂くわ」
グラスちゃんは席を立って、お茶を淹れようとすると―――
「……あら?エルー?貴女のカップがありませんけど」
「んー?……ああ、新しいのに変えようと思って持って帰ったまま忘れてマシタ」
「あら、そうなんですね」
グラスちゃんはしばらく、辺りをキョロキョロと見回す。
「どうしましょう。予備なんてありませんし……」
「ふふん、そんな事をあろうと――今、エルに良い考えが閃きマシタ!スペちゃん!ちょっとお借りしマース!!」
「あっ、うん」
そう言って、エルちゃんは立ち上がったかと思うと――別室の方に消えて行った。
あっ、流れで返事しちゃったけどそっちに用があるんだ。
「……あれ?カップなんてあったっけあそこに」
「どうだったかしら……物がありすぎてあんまり覚えてないわ」
「まあ、あそこはお宝の山みたいなものだからねー。探せばなんかあるんじゃない?」
「あるといいんですが……」
――“別室”。
それは私達のトレーナー室に併設されてる、小さな部屋。
そこには雑多なものが溢れかえっている物置のような……場所ではない。
トレーナーさん曰く――『歴代のトレーナーが担当との思い出を隠して行った場所』との事で、どうやら昔からそういう風習になっているみたいだった。
中にあるのは、どれも古くて。
汚れてたりくすんでたりと劣化しているけど――トレーナーさんがたまに掃除しているようで、意外としっかりと形として残っているものが多い。
エルちゃんが探しに行ったカップとかの日用品もそうだし。
初心者用マジックセットやら、注釈が書かれすぎて最早何のレシピなのかさっぱりわからない料理ノートやら、書いたダジャレを延々と品評しているだけの破れかけのノートやら。
果ては、不思議な形のペンダントや何故か光ってる試験管の液体、首が無い赤チェック柄の服を着たウマ娘のぬいぐるみとか、ポーズを決めたウマ娘とトレーナーと思われる写真を収めた金の額縁とかもあった。
クローゼットもあって、中には色んな服がぎっちり詰まっている。なんかウェディングドレスみたいなのもあったけど……なんだろう、学生結婚したヒトとかいたのかな?
ともかく。
そういったような“残り物”が――過去にここにいた、ウマ娘達の“思い出”が眠っていた。
「色々あるよねー、セイちゃんもたまに借りてるもん、寝袋」
「そんなのもあるんだ……」
「うん。今はもう販売終了してるレア物の最高級シュラフだよー!アレはたまらないね!」
「貴女、勝手に……」
「許可は取ってるもーん。それにキングちゃんだってたまにブローチ出してるじゃん。なんかでっかいエメラルド付いてるやつ」
「エメッ――!?」
「な訳ないでしょ。ただの緑色のガラスよ。……なぁんか、見た事あるのよ。アレ」
「そうなの?お店とかで?」
「いえ、あの感じはたぶんオーダーメイドなのよね。……ほんと、どこだったかしら……実家……?いや、でもそれだけの為に戻るのは嫌だし……」
そんな感じで色んな物があるからか、覗いてみると――気になった物が出てくるので、私達はよく触ったり借りたりしていた。
トレーナーさんも自分の物ではないからか、壊さない事だけを約束に自由にしていいと言ってくれている。
私も――牛の形をした写真立てとか、よく眺めていた。
確かアレは実家の最寄り駅の近くにある、古めかしい雑貨店にあったものだ。あの辺の出身のウマ娘が昔にも居たと思うとちょっと嬉しくなる。
その中に収められてた写真は、汚れて殆どボケてしまってたが――沢山の重賞カップに囲まれて、トレーナーらしき大人とピースしているウマ娘が映っていた。
いつか……私達もああなりたいなぁ。
「グラスちゃんもなんかありますー?」
「気に入ったものですか?それだったら、アレです」
そう言ってグラスちゃんが指差したのは、いつの頃からか部屋の隅に置かれていた――歪んだ形の花瓶だった。たまに花を生けてるとこは見たけど、アレも別室の物だったんだ。
「わびさびを感じさせる素晴らしい花瓶です。どうしても目に入れておきたくて、あそこに」
「……その、ただ単に初心者が陶芸教室で少し失敗したヤツに見えるのだけど」
「ふふ、キングちゃん――審美眼が足りませんね」
近づいて見てみる。
わび、さび……?よくわからない。見れば見るだけ変な形の花瓶だ。
――あっ。側面に何か書いてある。
………『がんばり屋の白鳥へ』……かな?白鳥さんって人への贈り物だったのかな。
「――イイ物があるマシタァー!!」
――バタンッ!と別室から飛び出してきたエルちゃんは、やけに嬉しそうな顔だった。手には小さな箱を持っている。
「これデェス!」
そう言って箱から取り出したのは――木のマグカップだった。
「あら?エルにしては随分素朴ですね」
「チッチッ、甘いデスグラァス。ちゃんと側面を見るデース!絵が彫ってあるのデス!」
エルちゃんが自慢気に見せてくるマグカップには確かに幾つも線が彫られていて、それが絵のように見える。
……見えるんだけども。
「変顔をしたハト?」
「いいえ、スペちゃん。きっとこれはスズメが組体操している絵ですよ」
「えー、私にはフクロウが挨拶してるみたいに見えるけど」
「……キングギドラ?」
「――コンドル!コンドルですよ!コンドルが雄々しく空に向かって羽ばたいてる絵!!」
「「「「コン、ドル……?」」」」
「うわぁーん!皆の美的センスが壊滅的デース!!」
いや、どっちかって言うとそっちなんじゃ……と、思わなくも無かったが、まあエルちゃんがそう言うならそうなのだろう。
私達は生暖かい目をエルちゃんに向けた。
「うぅ……コンドル。これはコンドルデス。エルの為だけ作られたような素晴らしいマグカップなのデース……」とふてくされ始めたエルちゃんに、グラスちゃんは苦笑いを浮かべながらお茶を淹れてあげ、他の二人にも手渡した。
そうしてしばらく。
お茶を飲んでるだけの時間がゆっくりと流れると―――。
「――んんっ」
ふと、グラスちゃんが咳払いをしたかと思うと――他の三人に目配せを始めた。
それを受け取った三人は何故だか小さく頷き合っている、
……?なんだろ?
なんか妙な緊張感が……?
「トレーナーさんと言えば、私達のトレーナーのお話ですが―――」
グラスちゃんがそう切り出してきた。
……トレーナーの話?
確か……。
グラスちゃんとエルちゃんは、チームに所属していたはずだ。
チーム名は――“リギル”。
見るからに苦労人な仕事人って感じの―――“
その実績は折り紙付きで、ルドルフ会長だってリギルに所属していた。
「私とエルはチームトレーナーさんですから、やはりマンツーマンとはいかず……」
「それに見合ったアドはあるんですケドネ。先輩方と気軽に併走とか出来ますし?でも、最初は“曰く付きのチーム”ってことでちょっとドキドキしマシタ」
「“
聞き慣れない言葉に、首を傾げた。
そんな私に、キングちゃんは「あら?知らないの?」と教えてくれた。
「あのチーム――“リギル”はトレセン七不思議の一つなのよ」
「七不思議?……トレセンにもそんな怪談みたいのがあるんだ」
「そうだよー。なんなら、スペちゃんのトレーナーさんも七不思議に入ってるよ?」
「七不思議なのに!?そういうのって昔からのお話じゃないの!?」
「あんまりにもアレだから更新されたんだねー」
びっくりな私に、セイちゃんが“トレセン七不思議”を語る。
――― ―――
一つ、校内で写真を撮るとたまにダブルピースで映り込んでくる謎のウマ娘。
二つ、別館三階にあるエナドリだけがどうしても買えない自動販売機。
三つ、具合が悪い時に眠るとたまに“草原の夢”を見る保健室。
四つ飛ばして。
五つ、一人だけトレセン学園が不思議のダンジョンと化しているスペシャルウィークのトレーナー。
六つ、スペシャルウィークのトレーナーを見かける度に襲いかかるゴールドシップ。
そして七つ目が――運営実態の無い、書類上だけの“
――― ―――
………。
――私のトレーナーが二つも登録されてるんだけどぉ!?
いや、一つは巻き添えじゃん!ゴールドシップさんのせいじゃん!確かに理由は………わからないけども!
「三つのチーム――“リギル”“カノープス”、そして“スピカ”。この三つは書類上にしか存在しない、幽霊チームなんだよ」
「誰かがこっそり作ったって事?」
「と、いう説もあるね。評判が悪かった昔の理事の一人が、お金を横領する為に作ったペーパーカンパニー的な物が今の今まで残ってた……ていう説」
「まあ、たづなさんが言うには数年前の繁忙期に一人一人のミスが重なって――偶然出来た、というのが現在の運営では有力らしいわ。その時は本当に、目が回るほど忙しかったみたい」
「でもそれじゃあ、七不思議にはならないでしょ?そうなる、
――と。
そこでセイちゃんが、ニヤリと笑って一度言葉を区切った。
あっ、マズい。この時のセイちゃんは大抵、ロクでもない事しか話さ――
「――三女神に攫われて、世界から存在を消された……なんて噂があるんだよねー」
………。
いや、こわっ……。
「えっ、えっ……なにそれこわい」
「でしょー?こういうの定番だよねー」
ケラケラ笑うセイちゃんに、グラスちゃんは続ける。
「ですが、最近になって――そういう“曰く付き”のチームを放置しているのは風紀上良くない、という事で。理事長が当時のルドルフ会長のトレーナーだった、今のチームトレーナーに譲渡して運営して貰っているのですよ。怖い噂を払拭させる為に」
な、なるほど。
現にそれは成功してるわけだ。だって私はそんな事知らなかったわけだし。
「ですが、そこでルドルフ会長のトレーナーに任せたせいで――指導されたい生徒が殺到して……まあ、私達がそうですが」
「そうなのデース。たくさんのウマ娘を抱えているせいで、個々のケアがあまり上手くいっていないのが現状なのデース」
「ああ、どうしましょう。このままでは私達、きちんとしたトレーニングが出来ないまま埋もれてしまうかもしれません……」
「そうなのデース。埋もれてしまうデース……」
はぁ……とグラスちゃんは溜息を吐いた。
それに続くように、わざとらしくエルちゃんも溜息を吐いた。
………。
……ホープフルも皐月賞も万全の状態で出走してきたのはいったいどこの誰だったのかな?
「あー、何処かにいないものでしょうか。こんな哀れなウマ娘を引き取ってくれる心優しく精悍で大和男児なトレーナーさんはいないのでしょうかー……」
「デース……チームトレーナーも『引き取ってくれるなら申し訳ないが大歓迎だぞ!あの後輩なら文句はない!丁度、あと二つチームが空いてるから書類自体もスムーズだしな!』って言ってたデース……」
――チラッ?チラッ?
………。
なんだか、意図が読めてきたぞ。
「――そういえば、セイちゃんのトレーナーさんってどういうヒトなんだっけ?あんまり姿見ないけど」
「あー?話逸らしたなー?」
知らない。逸らしてない。そんなの知らない。
でも知ってるもん。確かに“リギル”はぎっちぎちにウマ娘を抱えてるけど、一人一人ちゃんと見合ったトレーニングを、チームトレーナーが寝不足ながらしっかり指導してるって。いいとこだって。
……そういえばトレーナーさんが、『あんまりにも増えすぎたから将来性のあるウマ娘は優秀なトレーナーに“特別移籍”するって話を聞いたよ』って言って―――ああ、知らない!そんなの知らない!
「セイちゃんのトレーナーは、大ベテランのおじいさんなんだよー」
「大ベテラン?」
「そ。勤続数十年、その間に獲った重賞カップは数知れず。知るヒトぞ知るトレーナー」
「へぇ~」
セイちゃんがたまにおじいさんと話してる所は見てたけど、あのヒトだったんだ。
「でも、殆ど名義貸しみたいなもんなんだよね」
「そうなの?」
「うん、私がそう頼んだの」
「……よくトレーナーを引き受けてくれたね?」
「いやぁ、共に渓流で魚を釣り合った仲はデカいってわけだねー。まあ、本人も定年間近で、あんまり本腰入れられないからって。利害の一致って感じ?」
セイちゃんはそして――ニヤリと笑った。
………。
――この子も敵だったか。
「でもぉ、体調的にね?やっぱり不安があるそうでね?任せられるなら任せたいって」
「………」
「『優秀な奴ならいいぞ。ホープフルと皐月を無敗で獲った奴なら特にいい。なんなら外野が騒がないようにチーム結成推薦状の一つや二つ書いちゃる。スカイが信頼できるってんなら、俺も信頼できるしな』って」
「………」
「――って!」
――チラッ?チララッ?
「……。……――き、キングちゃんの」「聞きたい???」「ああ、いえ……やっぱいいです……」「聞きなさい」「……はい」
くそぅ、やっぱりやぶ蛇だったか……!
後悔してももう遅く、キングちゃんの表情を見るに――かなり話したい内容があるらしい。
……でも、彼女は別にチームでも、大ベテランさんじゃなかった気がするけど。
「キングちゃんのトレーナーって、私の!トレーナーさんと同期のヒトだったよね?ちょっと気弱そうな感じの女のヒト」
「ええ。知識はあるけどちょっと腰が引けてるのよ。でも、変に頑固で時折押し通そうとする気概もある……まあ、へっぽこだけど良いトレーナーだわ」
そう言うけど、お茶で口を湿らせてる姿は不満気だった。
「……でも最近、“ホープフル・ステークス”と“皐月賞”で相対した何処かの新人トレーナーさんに感化されたみたいでねぇ……」
あっ……。
「もうやけに神聖視っていうか――神様とでも思ってるの?ってくらい意識しちゃって『あの人をチームトレーナーにして、私がサブトレーナーって感じはどうかな!?絶対上手く行くと思うんだけど!』なんて言うから、この私が選んだトレーナーがそんなナヨナヨした事言うものではないわこのへっぽこ!ってお尻に蹴り入れてあげたわ」
「あ、あはは……」
「はぁ……でもね?あのヒトったら諦めないのよ。……いっそ私共ども引き取ってくれる甲斐性が、その新人トレーナーさんにあれば全部解決するのになぁ、って思うのよね。どう思う?」
「……あ、諦めたらそこで試合終了……かな?えへへ……」
「そう?」
――じぃぃぃぃ。
ガン見だ。もうガン見だ。
他の三人みたいな建前かなぐり捨ててるよ相当本気だ……!
「「「「…………」」」」
「………」
「「「「…………」」」」
「………」
「「「「トレーナー、くれない?」」」」
「――あげませんっっ!!!」
私は立ち上がって声をあげた。
当然だった。残当だった。
「ふふふ!逃しはしないのデース!このエルコンドルパサー!狙った獲物はコンドルのように逃さないのデース!」
「全然カッコ良くない!それにやってる事、ハゲワシとどっこいだからね!?」
「ノン!コンドルデース!」
「いやー、二人の関係を見てると……なんか、良いなぁって思うのさ。最初はトレーナーなんていてもいなくても同じだーって思ってたんだけどさー……」
「セイちゃんと概ね同意見です。トレーナーとウマ娘は信頼すべきですが――それはあくまでビジネスライク。理論と技術、あとは好ましい信念があればそれでいい……そう思っていましたが……」
「「ねぇ?」」
「それでも親友のトレーナーを狙うのはどうかと私は思うんだけどな!?」
もう!もう!なんてこと!
まさか、トレーナーさんと皆が仲良くなっていた裏側でこんな事を画策していたなんて!
確かにトレーナーさんは――お兄さんは良い人だ。
誰に対しても優しいけど常に私を最優先に行動してくれるし、私がレースに出るなんて事になれば最前席で誰よりも大きな声で応援してくれる。他にも補習を手伝ってくれるし休日のお出かけだって付き合ってくれるし私がちょっと体調を崩したって聞いたら心配で寮に忍び込もうとして簀巻きになって転がされたりもする!
とってもとっても優しくて、だいすっ………お兄さんだけれども!!
そんなトレーナーさんを近くに見せられたからって外堀埋めてチームを作らせようとするなんて、そんな悪辣な行為に手を染めるほど欲しくなるなんて、そんな……そんな………。
……いや、皆の立場で考えればちょっとわかっ――ああいや、絆されない!親友だからって絆されない!
……っ!そうだ!
「ともかく!皆、ダメだからねっ!」
「エー」「スペちゃんばっかりズルいですー」「そーだそーだ、独占禁止法だー」
「だぁまらっしゃい!――スズカさんを見習って!あのヒトはそんな事しないんだから!」
同室の憧れの先輩――サイレンススズカ。
そのスズカさんも、皆と一緒に良くトレーナー室に集まったりもしているが、そんな素振りは一切感じられない。
それにあんな真っ直ぐなヒトがこんな姑息な事考えないと思うし!
私がそう豪語すると――何故か、四人ともお互いを顔を見合わせた。
そしてこっちを見る。
「……なに」
また顔を見合わせる。
そしてこっちを見ると――
「「「「いやいやいやいや」」」」
めちゃくちゃ手を振って、否定してきた。
「いや、スズカ先輩の方がとんでもないと思いますよ」
「あのヒトはちょっとヤバイデース」
「あれは自覚ない分、私達より質が悪いというか」
「気をつけなさい。ああいう手合いはほっとくと掠め取ってくるわよ」
「な、なにさ。皆して、そんな訳―――」
――ガチャンッ。
その時、ドアノブを回す音が聞こえた。
振り向くと――
「ごめんねシャルウィちゃん、待たせちゃって。でも、聞いて!今日は誰にも道を聞かずにここまで来れたんだぜ?いやぁ、やっぱり俺もまだまだ若いって事だよネー。有能トレーナーですまない!」
私の……そう、私の!トレーナーさんが機嫌良く入ってきた。
どうやら今日は一人で来れた事を喜んでいるよう……だ、けど……?
「「「「あー……」」」」
「あっ……あっ……!」
「……?皆どしたのさ、そんな顔をして」
「トレーナーさん、横……!」
「――横?」
トレーナーさんは私が指差す方向を辿る。
そこには――
「………?どうかしましたか?」
――トレーナーさんのスーツの裾をちんまり摘まんで隣にいる、スズカさんが居た。
「………」
「………」
「……居たのか、サイレンススズカ」
「……?ええ、いました」
「……もしかして、気がついたら俺が部屋の前にいたのは」
「ふふっ、はい。ちょっとだけ引っ張って案内させて頂きました。集中してましたので邪魔するのもどうかと思いまして」
トレーナーさんにひっそりと寄り添っている。
――ワンアウト。
「そっか……そっか。無能トレーナーですまない……」
「いいえ。スペちゃんのトレーニングメニューを考えていたんですよね?真面目な顔で……素敵でした」
そっと腕を撫でる。
――ツーアウト。
「そっ、そうかな?」
「はい。とってもとっても素敵で……私、ちょっとスペちゃんに――」
顔を寄せて、優しく囁く。
――スリーアウト。
ふぅ………――
「――スズカさんっ!!」
「きゃっ……もう、なあに?どうしたのスペちゃん」
「伏兵だったんですね!私がぼぉっとしている内にぱっくんちょするつもりだったんですね!そういえば“リギル”でしたねスズカさんも!信じてたのに!」
「えっ、ええっと?」
「ちょっ!ほらほら、どうしたのシャルウィちゃん。そんなかっかして」
スズカさんに詰め寄る私に、トレーナーさんはすっと間に入ってくる。
そして、その優しげな瞳と目が合う内に――
「うぅ……!お兄さぁん!皆がいじめるぅ……!!」
「おぉっと、と」
気がつけば、泣き言を吐きながらトレーナーさんの胸に抱きついていた。
困惑しながらも、すぐに優しく抱き留めてくれる。
そう!この匂い!この感触!――私の!私だけの!トレーナーさん!である!
トレーナーさんは少し私の頭を優しく撫でると。
「こらー?なんかしたなー?」
「「「「……ごめんなさい」」」」
「うちのシャルウィちゃんが打てば響くような可愛い性格してるのはわかるけど、あんまりからかい過ぎないように。いいね?」
「「「「……はーい」」」」
可愛い!トレーナーさんが私を可愛いって言ってくれた!
そうか!つまり私はこれから誰かに泣かされれば可愛いって………いや、泣かされるのは嫌だ。別の方法を考えよう。うん。
トレーナーさんのスーツのネクタイをグリグリしながら考えていると――ぽんぽんっ、と肩を叩かれた。
「ほら、皆が謝りたいって。許したげな?」
……まあ、確かに。
私もちょっと大げさだったのかもしれない。
皆もちょっとこうなりたいなぁ……みたいな願望を言っただけで本当にそうなりたいなんて思ってないだろう。チーム結成も“特別移籍”もそう簡単に出来る事じゃない。
なんだ。私がちょっとした世間話に反応し過ぎただけだったか。
それは流石にごめんなさいだ。私も皆に謝ろう。
そう思って、抱きついたまま顔だけ振り向くと―――
「
「
「
「
謝ってない!謝ってないよ皆!
目がそう言ってるもん!反省皆無じゃん!
やっぱりキングちゃんだけだよ、私の心のオアシスは……!!
「……シャルウィちゃん?」
ぐ、ぐぬぬぬぬっっ……!!
今だけは私以外には鈍感なお兄さんの瞳が憎らしい……!
「
――私達は笑い合った。
――私達はこの件に関してもライバルだと判明しただけだった。
ただそれだけの事だった。
「――よしっ!」
パンッ、とトレーナーさんが手を叩く。
「それじゃあ、作戦会議にしようかシャルウィちゃん。次は“日本ダービー”、世代最強を決める大一番だからね。しっかり根を詰めよう」
「……そうですね」
私が返事すると――皆もぞろぞろと移動を始める。部屋から出るんだろう。
――
この四人もまた“日本ダービー”に出走する。最強を決めるGIレース……そこでしのぎを削るのだ。
私達は、学園の中では一番の親友……しっ、うん……親友、のはずだ。親友でも分かり合えない事があるだけで親友だ。うん。
だけど、“ターフ”では――一番のライバルだ。
そこに友情も何もない、純粋な感情だけがある。
――勝ちたい。そんな剥き出しの感情が。
私の視線に気づいた皆は、静かにこちらを見つめ返してくれた。
さっきまでの「……スペちゃんずるいです」の視線から一転、強い戦意を感じる。
――“日本ダービー”。
きっと、今まで以上に大変で、自分の全てを注ぎ込んでもなお足りないかもしれない――キツイ勝負になると思う。
でも、だからこそ。
――とっても楽しみだった。
あの、大歓声。
夢にまで見た、あの栄光を獲るのは――私達だ。
「「「「………」」」」
「………」
「「「「………」」」」
「……あのぉ、皆?私達、作戦会議するから部屋の隅じゃなくて――」
「「「「――あっ、お構いなくー」」」」
「お構いするから言ってるんだけど!?なに堂々と聞き耳立てようとしてるの!?」
「あっ、サイレンススズカー。俺の椅子占領してないで、君も部屋出てねー」
「………えっ」
「だって君、世代は違うけど“リギル”じゃないか。情報漏洩情報漏洩」
「あっ……。……じゃあ……――“リギル”やめます」
「ワァツ――!?」
それから一時間ほど、出てく出てかない攻防があった。
あったものの。
――“いま”では、いい思い出だ。
――――――――――――
――身体の揺れを感じて目が覚める。
のっそりと顔を上げると――苦笑しているグラスちゃんと目が合った。どうやら私は授業中に爆睡決め込んでそのまま起きなかったらしい。
次の時間は移動教室だから、と起こしてくれたようだ。
私は慌ててお礼を言って、すぐに用意して廊下に飛び出すと――エルちゃんとセイちゃんも待っててくれていた。
二人にもお礼を言って、私達はたわいもない話をしながら、移動先の教室に向かう。
「――おーい!」
そこで声を掛けられた。
振り向くと――トレーナーさんが。
「あっ……」
こっちに向かって、手を振って近付いてくる。
その姿は私のトレーナーさん、そのままで―――
「トレッ――」
「――あーっ、よかった。ジャラジャラ、ちょっといいかな?」
そのまま、通り過ぎた。
私の口から飛び出したなにかなんて、気にも止めないで。
「あれ?トレーナー室でぶっ倒れてたんじゃ?」
「モブ子から聞いてた?恥ずかしい限りだぁ。寝てたらちょっちマシになってね。散歩ついでにうちのモブ子に朝の挨拶をって探してたんだけど……ここまで来るのに色んな子にお助けされるハメに……」
「あはは……リトルちゃんなら、朝のホームルーム前にたづなさんに拉致されてましたよ?連絡きてません?」
「連絡……あっ、来てた。……第三会議室?ってぇ、どこ?」
「この棟ではありませんね。一回、中庭に出た後に本館に入って右側の階段を上がった先の左から二番目の部屋です」
「……成る程、理解した」
「………」
「………」
「……案内しましょうか」
「はい、お願いします……」
トレーナーさんはそのまま、ジャラジャラさんと一緒に――私の前を通り過ぎた。
私は……私は、こわくて。目を伏せてしまった。
私は、さっきなんで声を掛けようとしたんだろう。
……そんな訳ないのにね。
ここが“夢”なんかじゃない――ここが“現実”なのに。
「……そういえば、今ここにいるって事は移動教室なんじゃ?」
「えっ?はい、そうですけど」
「じゃあ、俺を案内してたら……」
「まあ、遅刻ですね」
「……その、やっぱり謹んで辞退いたしますです。俺だけが見える謎のウマ娘ちゃんにお願いするじゃんね」
「いや、なんですかそのオカルトは。いいんですよ、このぐらい。そんくらい――トレーナーさんには恩があるんです」
「恩?……俺、ジャラジャラになんかしたっけ?」
「――
「そうなの?……ちなみに聞いても?」
「恥ずかしいから言いませーん」
私は、トレーナーさんの背中が見てられなくて。
――隣の皆に話しかけた。“いつか”ではない、“いま”の皆に。
たわいのない会話。
どこか、なぞるようなレールを進むような安心感。
私は――それにすがるしかなかった。
……いっその事。“夢”なんて無ければよかったのかな?
そうすれば――あの人は、ただの気の良いトレーナーさんで。
そうすれば――皆は、“いつか”も“いま”もない、心からの親友で。
もっと、もっと楽しく過ごせてたのかな。
――でも。
なのに。
どうして――それでも、忘れたくないなんて思っちゃうのかなトレーナーさん。
この気持ちにもっと向き合えば良かった。
また“先”があるって恥ずかしがらずにちゃんと、心の奥から溢れる感情に。
……貴女の言う通りでした、ゴールドシップさん。
珍しく話しかけてくれたのを、もっと気にすれば良かった。
――機会を逃せば、先なんてねぇぞ。なんて。
もう、ダメなのかな。
「―――ていう事で、バ場の読み合いに関しては分かりましたね?では、次にモブリトルさんが今回走るレース場についてですが―――」
「………」
「―――ここ一週間の天気予報を鑑みれば、良バ場。に、なると思います。ですが違うサイトでは雨予報もありました。そうなるとそれを踏まえた―――」
「……あの」
「―――このレース場は中山を―――」
「……あの、たづなさん」
「――はい?」
「いや、だからたづなさん」
「たづな……
「………。……たづな“
「――はいっ。なんですか、モブリトルさん」
「なんで、私は座学をやってるんでしょうか」
「それは貴女が、トレーナーさんのウマ娘だからですよ?」
「――理由になってないですよね!?」
たづなさんに拉致られて、一時間ちょい。
何故か私は、たづなさんからみっちり座学を仕込まれていた。
この会議室に連れてこられた時はガチで死ぬかと思った。
トレーナーにヘルプを送ったし、ジャラちゃんに遺書を送ったりもした。前者は未読でそもそも気づかれず、後者は既読無視されたけど。
だけど説教どころか、椅子に座らされたと思えば――ドンッ!と目の前の机に置かれたのは、レースに関する教材の数々。
そして、ふんすっふんすっ、と得意気にホワイトボードを引き摺ってくるたづなさん。
すぐに有無も言わせず始まったのが――これ。
挙げ句――先輩呼びと来たもんだ。どういうこっちゃねん。
「理由云々は今は関係ありません」
「いや、あるでしょう」
「ないんですっ。貴女はこれからメイクデビューなんですよ?最初の一歩が肝心と良く言ったものです。万全を期さないと……」
「いや……まあ、そうなんですが……その、たづなさん」
「………」
「たづな先輩……」
「はいっ」
「たづな先輩には、関係ないですよね?」
「……?」
何故、小首を傾げられねばならん?
えっ、私間違えた事言った?
「えっと、たづな先輩はその、理事長の秘書なんですよね?」
「……?はい。理事長のお仕事の補佐と、中央トレセンに所属しているトレーナーさん達のサポートをしてますね」
「んで、私は――
「ええ、そうですね。なら――
「………?」
「………?」
私が、間違えているの……?
なんか時空歪んだりしてる?いつの間にか異世界転移した?
「……まあ、冗談はさておき」
えっ、冗談だったの。
100パーガチ顔だったよね?むしろ、貴女が間違えてますよ?って伝えてる顔だったよね?
「モブリトルさんが困惑するのはわかります。でも、今は何も聞かずに受け入れてほしいんです。それに悪い話じゃないでしょう?」
「はい?」
「あの人の事です。まずは実感とばかりに、座学は後回しでトレーニングばかりやっているでしょう。モブリトルさんのような方には、まず自分に自信を持たせる事が大事ですから」
いや、まあ――確かに。
今の今まで、トレーニングに次ぐトレーニング。
座学は、筋肉痛で動けなかった時にさらっと触りを教えて貰った……というか、私が勉強してたのを復習した程度だった。
……言われてみれば、毎日鏡の前で自分の身体が締まって来てるのを見るのが嬉しかったし、徐々に走りも上手くなってるのも楽しかった。モチベにバリバリ繋がった。
「たぶんですが、メイクデビューを終えるまではこのままの方針でしょう。ですが、そのままではダメなんです。それは――強いウマ娘だからこその理論です」
「……つまりは、私はそれだけでは勝てない、と」
「はい」
「即答で芝」
……うん。まあ、その通りか。
私がどれだけ身体の調子を整えても、走りを上手にしても――他のエリートウマ娘共にとっては、とっくに通った道でしかない。
私がなんとか100に到達した所で、奴らは200、300。いや、もっと上にいるだろう。
「……それでも何とかしそうなのが、あの人ですが……」
「……?」
「――ともかく。そういう訳で、こうして私が知る限りの知識をお教えしています。疑問をいったん忘れて、受けてみる気になりませんか?」
……んー。
まあ、ありがたいはありがたい……か?
トレーナーに不利益が被る訳でも無し、むしろ私が賢くなる訳だし?
でもなぁ……。
「……なっ、なんです?」
「なんか、企んでますよね?」
「いっ、いえ!?べっ、別に!?」
「下手くそか」
「……だっ、だって。一定の成績を収めてくれないとチーム結成出来ないし、それじゃあ私がサブトレーナーを兼任してあの人の側にいる事が……しょっ、将来的にはそうなってたはずだし?せめてそのぐらいは……」
なんか、うだらこーだらブツブツと自分の世界に入り込むたづなさん。
――特に嫌な感じはしない。
私は底辺ズにいるからそういうのには詳しいんだ。
下に見られてたりナメられてるのって意外に気づくもんだよね。
……まあ、変なたづなさんだけど。助かるのは確かだ。
ここはしっかり学んで………――
――ん?
あれ。
そういえば、たづなさんって――ピンクの腕時計してたんだ。
全身緑のエレベーターガールみたいな格好してるから紛れて気づかなかった。意外とガーリィな趣味。アクセントになってて可愛い。
………。
……なんかアレ。私達の“トレーナー室”で似たようなの見たな?あの物置で。
――めっちゃボロボロだったけど。
あそこなぁ。
掃除したいんだけど――その気が失せるくらい陰な雰囲気であんまり触りたくないんだよなぁ。
日用品っぽいのは大抵壊れてるし、なんかの写真は紙切れで何だかわからんし。クローゼットの中に至っては虫食いだらけで服が哀れなもんだった。私の書き初めを飾ってる額縁だって、材質が金だったから生き残ってただけだろアレ。
つうか。
陰の雰囲気に拍車を掛けてるのは、そのゴミ山に埋まってた――一冊の“黒いアルバム”だよね。
表紙にトレセン学園の印章が刻まれてるアレが――なんか鎖でグルグル巻きで南京錠まで嵌めてあって。
呪われた魔法書かよ。マレフィセントぐらいだろアレ持ってるの。
なぁんか。元は良さげな感じなのがなぁ。
高く売れそうなのになぁ……残念。
「――んんっ!それで、いがかでしょう。モブリトルさん。私の話を聞くになりませんか?」
あっ、戻ってきた。
「……ちょっと怪しいですが――お願いします。その、私。トレーナーに報いたいとは……思ってるんで」
「――そうですか。ならば、厳しく行きますよ。後輩としてしっかり着いてくるように」
「はい!……って、結局なんで先輩呼びなんです?」
私がそう尋ねると――何故だか、たづなさんはちょっと恥ずかしげに。
「あー……その、先輩って親しげに呼ばれるの。ちょっと憧れだった……感じですかね?私、そういう意味では結構灰色の青春でして……」
「――頑張りましょう、たづな先輩っ!!」
「っっ!はいっ!」
……すんげぇ、嬉しそう。
どんだけ悲しい青春送ってたのこのヒト。めっちゃ人好きしそう、つうかしてるのに。学生の時なにやってたのさ。
たづなさ……先輩は、もうそれはそれはニコニコでホワイトボードに向き直ろうとすると――
――ぴろんっ。
携帯の着信音。
私かと思えば――そうではなく、たづな先輩のだった。
「うーん……?ああ、貴女のメイクデビューの出走者が決まったみたいですね」
「出走者?ああ、そういえば今日でしたね」
「………」
「なんですかその神妙な顔」
「……モブリトルさん。予定が変わりました。これからの座学を、ちょっと多めに開催しますよ」
「えっ、いいんですか?ありがたいですけど……だって、そっち普通に仕事が――」
「――理事長秘書特権でどうとでもします」
「しょっ、職権濫用……!」
「大人の処世術と言ってください」
――はい、と見せてくる携帯の画面。
その中には、私の名前と一緒にウマ娘の名前が連なっている。
ふむふむ。
出走者は、どれも無名の頑張り屋さ――
「――げっ……」
その最後。
表示されている名前に、私は声を出さずには居られなかった。
こりゃあ確かにたづな先輩も増やそうとか言うわ。
それは私の嫌いなエリートウマ娘共の一人。
その名前は――――――
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それは“11回目”のメイクデビュー
――いつものように、目が覚める。
身体を起こすと隣のベッドで寝ているスペちゃんが目に入った。今日もぐっすり。なんだか良い夢を見ているようだった。
……まだ早いから、起こさないようにしないと。
寝間着を脱いで、ジャージを着て。手早く身嗜みを整えて――シューズを手に、慎重に部屋を出る。
廊下には勿論誰も居ない。しん……と静まり返っていて、いつもの明るく騒がしい雰囲気ではなく、冷たい……それでいてゆったりするような時間が過ぎている。
「……フジ先輩はもう起きてるかしら……?」
――フジ先輩。
フジキセキ寮長は、私が所属している栗東寮の寮長さん。
あのヒトは早起きで、たまに玄関前で掃除していたり、トレーニングをしていたりする。
見つからないように、気をつけないと。
トレーナーさんが言うには、私のやっている事は公許良俗……?に反する事らしい。私としてはそんな怪しい事だとは思わないけれどあの人がそう言うならそうなのだろう。
見つかったら最後、トレーナー契約を破棄されてしまうかもと言っていた。
なら――こうしてこっそり行くしかない。
「……今日は、居ないみたいね」
ラッキーな日を引けたようだ。寮の出入り口には誰もいない。
私は寮を出て、しばらく歩く。
校舎の反対側へ、まだほの暗い道を進むと――閉じられている校門に辿り着く。
早朝だからまだ鍵が掛かっている。警備員さんが開けるのはあと一時間後ぐらいだろう。
「……――よっと」
――校門を登び越える。
一見、柵の隙間が多い割りに登りづらそうだけど、コツがいるのだ。最近気づいた。それに、隅の方は監視カメラの目から外れてるから問題ない。
トレセン学園を出た私は、軽くストレッチをしてから地平線にチラつく“朝日”を見る。
「………」
しばらくそれを眺めてから――駆け出す。身体を撫でる心地よい風は、今日も心地良い。
そのまま、一時間ちょっと走り続けると――目的の場所に着いた。
そこは閑静な住宅街の一角にある、少し年季の入ったアパート。
――トレーナーさんの自宅。
せっかくの一人暮らしなのだからとトレーナーさんが借りて――結局は利便性から、トレーナー寮の方が良かった……!!と日々後悔している家だ。
私としてもトレーナー寮に居てくれた方が気軽に遊びに行けるし便利だから、出来れば引っ越してほしい。
……ああいや、でもここまでのジョギングも結構気持ちいいし……あっ……いっそ、私がここに住めばいいのでは?
そうすれば、いつもトレーナーさんと一緒にいれるし、毎日登下校で丁度良いジョギングも出来る。
なんだ、良いことづくめか。
「……後で、トレーナーさんに提案してみましょ」
私は、紐で首から吊していた合鍵をシャツの中から取り出して――部屋の鍵を開ける。
ドアを開けて、まず目に入るのは――
それは日々のトレーニング記録の切れ端で、トレーナーさんが忘れないようにと貼っているものだった。その数は私との時間を表すように徐々に増えてきている。
「……ふふっ」
何故だかそれが嬉しくて、笑みが溢れる。
いつか壁全体が埋まるぐらいになるのかな。そうだったらぁ……。……。いや。ちょっと、怖いかも?
うん、あんまり根を詰めすぎないように言わないとダメだ。
私は靴を脱いで、部屋に入る。
『……ぐぅ、かぁ……ぐぅ』
すぐにトレーナーさんを見つけた。スーツのままベッドに倒れ込むように寝ている。近くには何枚かの書類と電源が付けっぱなしのノートPC。仕事をしながら力尽きたらしい。
……まったく、仕事熱心なのは素敵だが、だからといってしっかり休んでくれないのは困る。やっぱり、一緒に住んだ方がいいのかしら。
私はトレーナーさんの肩を揺らす。
出来るだけ優しく、でも気づいてくれるように。
「トレーナーさん、トレーナーさん」
『うぅん……?……――
「はい。
トレーナーさんはしばらくパチパチと目を瞬かせるとーー
『……また、来たの?』
「はい。また来ました」
『……昨日、エアグルーヴと“周りの噂になるとやべぇから休日以外きちゃダメ”って話ししなかったっけ?』
「はい。だから――噂にならないように、こっそり来ました」
『………』
「………」
『……そういう問題なの?』
「そういう問題ですよ」
『そっかぁ……』
「そうです」
実際にそういう問題だろう。
寧ろ、周りの噂になる事のどこがヤバイのだろうか?
――“担当ウマ娘がトレーナーの家を尋ねる”。
…………うん。
――仲が良くて宜しい!って、なるのでは?
心の中の理事長も満面の笑みで“天晴れ!”の扇子を振り回している。
「まあ、その事はどうでもいいです」
『どうでもいい事……エアグルーヴになんて言い訳すれば……』
「トレーナーさん?ちゃんと寝ないとダメじゃないですか。それもスーツを着たままなんて」
『えっ?……あー……はは、申し訳ねぇ』
「……なにか持ち帰らないほど大変なお仕事が?」
『いや、昨日の帰りにね。数駅行った所に新しく出来た公園の広告を見つけてさ。綺麗だし、遊歩道もウマ娘向けに舗装されてそうだから、それを含めてサイレンちゃんの新しいジョギングルートを考えて――』
「…………」
『あっ!いっ、いや良いとこみたいだよ!?最終決定は実際に行ってみてから考えるけど環境保護を第一にしてるから自然豊かで……ほっ、ほら!なんか鷹も住んでるんだってっ!』
私の無言を怒っていると理解したらしく、何も言ってないのにノートPCを片手に、公園のPRを始めた。画面には広々とした森林公園が映し出されている。
……別に、勝手にジョギングルートに新しい公園を加えようとしてるのが嫌な訳じゃあ……あっ、でも確かに雰囲気良い。ここで走るのは気持ちよ―――ああいや、違う違う違う。
「そうじゃありません!……トレーナーさん?私の事を想ってくれるのは嬉しいですけど、家に帰ってまで仕事をするなんて――」
『えっ?別にこれ仕事じゃないよ。トレーナーとしての……なんだろう、趣味?』
「趣味……?」
『うん。だから平気だよ、気にしないで大丈夫大丈夫』
「………」
『………』
「……そういう問題なんですか?」
『そういう問題だよ』
「そうですか……」
『そうそう』
――そういう問題らしい。
……私は溜息を吐いた。
「朝ご飯にしますね。トレーナーさんはシャワーに入っちゃってください」
『うーい。今日もありがとうね』
「いーえ。勝手にやってる事ですから」
『それでもだよ。やっぱり男な若者の一人暮らしだとこういうのは嬉し――』
「――じゃあこれからも来ますね?」
『あっ、選択肢ミスった……』
何故か、とぼとぼと浴室に向かうトレーナーさんを見送ってからキッチンに向かう。
……今日は何にしようか。
お米は、残ってる。お湯は電気ケトルで……あっ、シャケがある。なら、焼き魚だ。
私は着慣れたエプロンを身につける。
「………っと」
私がこうしてトレーナーさんの家にお邪魔するようになったのは二年目に入った辺りの頃だった。いち早くトレーナーさんに会いたい……というのもそうだが、こうした世話に憧れたというのもある。
やはり私も一人のウマ娘。
気になる異性にこういった世話を焼くというのも楽しいものだ。
とはいえ、料理は今のところ殆ど出来ない。
一通り試してみたが、満足出来る代物じゃないからだ。やはりトレーナーさんには美味しいものを食べて貰いたい。
今の私には精々、焼き魚と目玉焼きぐらいだ。
でも、焼き魚はお塩を振ってオーブンに入れるだけだから料理って感じがしないし、目玉焼きはトレーナーさんが嫌いだから除外だ。
……卵自体が嫌いなのではなく――“目玉焼き”が何かを連想するらしく、それが嫌みたい。
なので、最近は出汁巻き卵に挑戦していた。
巻くのが難しくて結局は煎り卵みたいになってしまうから要練習。
「……それと」
私は棚から――インスタント味噌汁の袋を取り出した。
味噌汁も課題の一つだ。やはり日本人としては避けては通れぬもの。最初は「味噌を溶かすだけでしょ?」と吹いていた自分を叩きたくなる。どうしても満足行くものにならない。アケボノさんやクリークさんに師事しているがどうにも……。
私は袋を破いて器に粉を入れ、お湯を注ぐ。
途端に広がる――良い香り。
「くっ……!」
私は“あさげ”の袋を睨み付けた。
恐るべき企業努力。私はその時が来るまでコレに頼る事にしていた。
だけど忘れないで……先頭に立つのは私よ……!!
――お米、お味噌汁、焼き魚。それに冷蔵庫にあったパックのお新香。
朝ご飯をテーブルに並べると、シャワーから上がったトレーナーさんが喜んだ顔を見せてくれ、美味しい美味しいと事ある毎に言ってくれる。
嬉しい。シンプルに嬉しいけれど……やはり自分の力で一から作ったものでその顔を見せて欲しい。
やはり、道は遠い。
けれど、大丈夫――
あっ、そうだ。忘れてた。
「トレーナーさん」
『むぐっ?……んぐっ、なんだい?』
「私が引っ越す日取りなんですけどーー」
『ーー初耳なんですけど!?てか、拒否りますが!?』
「……?それで
――ピリリリリリリリリリリリッッッ
…………。
……電話。
ボタンを押す。
「もしもし」
『――どこにいるんですかスズカさんんん!!』
「……フクキタル?」
電話してきた相手は――
ちょっとスピリチュアルな友人だ。珍しい、いったい何の用だろう。
――正直後にしてほしい。
「どうしたの」
『どーしたもこーしたもないですよ!今日はスズカさんのメイクデビューの日!“単独出走”なんですから諸々の準備は自分でやらないといけませんよ!』
「……ああ」
そういえば、今日だった。
興味がなかったからルドルフ会長が渡してきた書類にサインしただけだったけれど。
……今のあの人には特に何もないが、無断外泊とか早朝脱走の件で結構お目こぼしを頂いた恩があったから。
でも。
「興味ないから出走取り消しにしておいて。じゃあ――」
『いや、ちょちょちょまぁってくださーい!!』
走る気も特にないからそう告げて切ろうとすると、フクキタルが止めてくる。
『お願いですから出てください!お願いしまぁす!』
「……」
『今日はおかしいんですよ!本当は雨だったはずなのに急に晴天になったと思ったら、太陽と星辰の位置がめちゃくちゃで、何かが……やっぱりあの“夢”は―――!』
「……?」
なにかフクキタルは焦っているようだった。
いつもわたわたしている子だったが、その声はどことなく怖がっているように聞こえる。
『ともかく出てくださいぃ!神様仏様スズカ様ぁ!』
「……はぁ」
……思えば、フクキタルにはお出かけで着ていく服の色やら場所やらをよく占ってくれていた。恩返しと思おう。
それに確か、今日出走するのは………。
「今から行くわ」
私は電話を切る。
「………」
しばらく、私は目の前を見つめた。
「……行ってきます、トレーナーさん」
そうして、私は“
まるで世界から切り取られてしまったように何も無い、私の思い出から。
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縺セ縺阪b縺ゥ縺
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縺セ縺阪b縺ゥ縺
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縺セ縺阪b縺ゥ縺
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縺セ縺阪b縺ゥ縺
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縺セ縺阪b縺ゥ縺
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―――――――――――――――
「――メイクデビュー。それはウマ娘の始めの一歩。ここが“トゥインクル・シリーズ”への登竜門。勝利しないとその門は開かれない」
「どうしたんですか急に」
「ぷんすこ顔なのです」
メイクデビュー当日。
レース場に到着した私とトレーナーは、指定された控え室でレース開始時刻を待っていた。その間、体操服に着替えたり。レースに向けた作戦の打ち合わせをしてたのだが……。
「大事な、大事な一戦なんだ……。ウマ娘によってはここから勝利出来ずに“未勝利戦”に進むも、そのまま競技人生を終える子もいる。特にモブ子の“目標”を目指すには躓く訳にはいかない……!」
「いや、分かりますけど――どこ向いてるんです?」
「むむっ、悪戯し過ぎ警報……という事です?」
――どういう訳か急に熱血トレーナーにキャラ変したかと思うと虚空に語り出した。いったいどうしたんだほんとに。いや似合ってるけども。なに?漫画のご都合モノローグとかしてる?私ああいうの醒めちゃうからあんまり好きじゃないんだけど。
「………」
「大丈夫です私のトレーナーさん。マーチャンは貴方のオリコウマーチャンなのです。今日は普通に応援に来ただけなのです。ぶいっ」
トレーナーはしばらく黙ると――両手を前に出して上下に揺らし出す。変な動作だ……。
「あぶぶぶぶぶぶぶ」
「……あの、トレーナー」
「どうしたんだい?モブ子」
「緊張してます?」
「あー……。……うん。“はじめて”、だからかな」
トレーナーは謎の動作を止めると静かに手を見つめだす。
……やっぱりさっきの行動は緊張からだったようだ。
「今の今までのモブ子に向けたトレーニング。勿論、万全!しっかり準備完了!……ってぇ、胸張れるんだけどね――頭の中で囁くんだ。“もっとやれる事があったんじゃないか”って」
「……心配性ですね」
「ふふ、そうかもね。君はどう?緊張してる?」
「私は……」
ふと、トレーナーのように自分の手を見つめる。
それは――小刻みに揺れていた。
「……緊張、してますよ。そりゃあ」
「………」
トレーナーとのトレーニング。そして最近やっているたづな先輩との座学。
どれもが一人だった頃はありえないもので――どんどん、自分が変わっていくのを実感していた。
思えば、トレーナーと出会ったあの日の選抜レース。
ボロ負けで終わったアレの映像を少し前に見返したけどーーあの死んだ魚よりも死んだ目をしてる私は私じゃないと思えるくらいには、私は変わった。
……あの時の私はどんだけ思い詰めてたんだ。
そう。あの頃とは違う。
私は、私は……速くなった。強くなった。きっとおそらくエリートウマ娘共とも戦える。
でも、うん……トレーナーと一緒だ。
――
――『勝てる訳ないじゃん』――
「………」
「………」
ずっと負け続けてきた。最初から今の今まで。
どんなに頑張っても、どんなに色んなものを削っても、他の連中の何倍も練習しても――それでも私は負けてきた。
“たづなさんの婚期よりも遅い”と言われた私の走りは伊達ではない。
そう言われるほど。
そう、自分から笑ってしまうほど――私は負け続けてきたんだ。
それが?そんな私が?二人に教わっただけで変わるの?変わったの?――そんな訳ないじゃん。
変わったのは見た目と脳みそだけ。きっと、心は。私のアホみたいなこの性根は何も変わってない。
そんな私に出来るの?
あの頭からっぽのウマ娘ですら目指さないようなあの“目標”――無敗の七冠ウマ娘に。
「……そんな訳……」
「モブ子」
ふと、トレーナーに呼ばれた。
気がついたら俯いていた顔を上げると――トレーナーの手の平が私の真ん前にあった。
「………」
「………」
謎に押し黙ってしまう。
えっ、なに。なんなの?何なんですのんこの手は?なに、あっ、ハイタッチ?ハイタッチすればいいの?
そんな風に混乱していると、トレーナーは手の平を緩く握り、
――ポンッ。
小さな音と煙が起きる。
びっくりして声も出なかった私の目の前には、一輪の花が現れた。
見た事がある。
それは暖かくなればそこらの草むらで勝手に生えているような野花。無数の花弁が広がっているようにも見える不思議な形の花。
――“シロツメクサ”だった。
「どう?びっくりした?マァジックだぜぃ」
「……びっくりしました」
「そりゃよかった」
トレーナーと目が合った。
優しげに緩んでいる瞳には、ぽかんとしている間抜けな私が写っている。
「モブ子。君の悩んでいる事に、俺は何も言えない。だってトレーナーは“部外者”でしかないんだ」
「……部外者?」
「そう、部外者。トレーナーはね。どれだけ時間を費やして、何をしようさせようみせようとも、部外者でしかない。君たちには介入出来ない。出来るのは道を作って背中を押すだけ。君たちが齎す答え、結果、そして栄光は――全て君たち自身が決めるんだ」
でも、これだけは言える――とトレーナーは、優しく微笑んだ。
「どんな答えになっても、どんな結果になろうとも、どんな栄光が待っていようとも――
「―――」
「ぐあああああああ!」
それと同時に部屋のドアがノックされる。
くぐもった声で「時間になりました。パドック前で待機お願いします」とスタッフさんの声が聞こえてきた。
「さっ、行っておいで。最前列の席で見守っているから」
「これはいけません!リアルNTRなのです!脳がぁ!」
トレーナーに私の背中を優しく押される、釣られて進む私の足は――すごく軽い。
けど……その前に。
「あの……トレーナー」
「んん?」
「その花、貰っていいですか」
「えっ”」
……何故嫌そうな声を出す。
でも、花をよく見れば何となく理由はわかった。
花の端っこが黄ばんで、萎れている――それは“枯れかけの花”だった。
私は花を引っ込めようとするトレーナーの手を、両手で包む。
「ください」
「いやでもモブ子。こんな花なんかよりももっと素敵な……あっ、そうだ。これが終わったら記念におっきな花束を――」
「これがいいんです」
なんとなく。
なんとなくだが。
――これを持っていれば、私は走れる。そんな風に思えた。
しばらくトレーナーを見ていると、諦めたように花を渡してくれる。
花は私が思った以上に枯れていて、軽く摘まんだだけで、その部分はぷちっと潰れてしまう。ただそれでも――何よりも心強かった。
「……いってきます」
「うん、いってらっしゃい」
「もう無理です!限界マーチャンです!このヨメサンマーチャンの前でこれは許せません!再戦を要求するのです!私にも“前”と同じように……って、ここぞとばかりに観客席に移動しないでください!私をスルーするつもりですね!もっとマーチャンに構うので――あぶぶぶぶぶぶぶ」
………
……
…
「――こんなもんでいいか」
私の目の前には鏡がある。
それはレース前の身嗜み確認用に、通路に併設されているやつだ。
そこに映っているのは、『五番』のゼッケンを付けた体操服を着ている黒髪こけしヘアーのスレンダー美少女ウマ娘。
つまりは私な訳だが――その右耳には、先ほど貰った“シロツメクサ”が付いている。
ウマ娘にとって、耳飾りはポピュラーなオシャレだ。
それはキーホルダー状だったりブローチ状だったり、あるいは髪留めを使っている奴もいる。イヤーキャップだってその一つだ。
私は、今までそんなものを付けてはいなかった。
……いや、入学当時は付けてた気がするが――レースを走る上で邪魔だと思って外して以降、どっか行ってしまっていた。
それから気にもしなかったけど……。
「うん。悪くないかも」
そこらにある野花。うん、実に私らしいじゃないか。
しかも“枯れかけ”なのもいい。まさしく、腐っていた私そっくりだ。
それでも――確かにまだ、花なのには変わりないんだから。
「……って、ちょっとクサイか」
まあ、でもその方が緊張しないからいいかな。
私は、鏡から視線を外す。
近くには――今日走る面々が思い思いに構えていた。
わかりやすく緊張しているやつがいる。軽くストレッチしているやつがいる。ぶつぶつと何か言っているやつがいる。
皆、無名の頑張り屋さん。大体知り合い未満で世間話くらいはする程度だが――今日は目で挨拶交わしただけで、皆、自分の世界に入っている。それだけ緊張してるのだ。
無理はない。
皆も私と同じとは言わないが――遅い、遅かった子達だ。私を見て“マシ”だと慰めてきた薄情者共な子達だったのだ。
そんな皆が今こうして、立っている。
ウマ娘達の夢。“トゥインクル・シリーズ”への行く為の門の前に。
「………」
だが、そんな皆とは浮くように一人のウマ娘が、ぼんやりと出口付近に立っている。
――
名前を聞くだけで嫌になってくるエリートウマ娘共の一人だ。このレースでもっと危険なやつだ。
緊張なんてどこへやら。ただぼぉーっとどこかを見ている。
……いやほんとどこ見てんだアレ。目の焦点がどっか旅立ってんぞ。これはこれで緊張してるのか……?
私がそんな風に見ていると、気づいたのかふらりとこっちに瞳が向く。
「………」
「……うぇ」
――何もない。
そこには何の色もない。目が死んでいた少し前の私が我に返りそうなくらい、何もない。
まるで人形でも眺めているような気分だった。なんだなんだ。
「――」
だけど、そんな瞳にほんの少しの色が乗る。
それに、私は身に覚えがあった。
それは私という存在を認めないと伝えるような――わかりやすい、敵意。
「――開始時刻でーす!皆さん、パドックの方へ!!」
係員さんから声が掛かる。
その瞬間、またサイレンススズカの瞳から色が消えて、いの一番にパドックへ向かった。
私は他の連中とぞろぞろと進みながら、その背を見つめる。
……私、なんかしたっけ?
………
……
…
聞き慣れた実況の声が響き渡る。
――『大盛況頂いております第二レース場、芝・2000m!本日は予報とは打って変わって――からっとした晴天となりました!場も良バ場、青々と芝が巡っております!』
――『いやはや、一時は土砂降りになると言われてヒヤヒヤしていましたが、これも三女神様の思し召しでありますかねぇ』
――『まさしくそうでしょう!……さぁ!このレース!三女神様のキスを賜るのはいったい誰なのか!――選手入場です!!』
レース場は、実況放送が言ってたように大盛況……とはいかずとも、実際空いている席の方が少ない印象だった。
流石は“トゥインクル・シリーズ”の初戦といったところ。ここから大スターが出るかもしれないとなれば観客の期待は高いのだろう。
にしても――
―――ガヤガヤ、ガヤガヤ
「………」
聞き慣れたはずの観客席の喧噪。
だけどそれがパドックから――そしてターフから聞くと、全然違う。
何故か途方もない圧を感じる。一歩一歩進むごとに胸の動悸がおかしくなって、観客席が見れない。胸に手を当てたいのに腕が動かない。
ヤバイ……ヤバイぞ、思った以上に緊張する……!
観客席から聞こえる声が私を笑っ「モブ子-!」――はっ!トレーナー!
私の耳があの人の声を拾う。
弾けるようにそっちを向くと――
「あっ、こっち向いた。おーい!」
「……むむぅ、まだ立場的に表だって応援出来ないのが悲しい所ですね……」
「んん?たづなさん、何か言いました?」
「いいえなにも。皆さーん!頑張ってくださーい!」
観客席の最前列。
大きな身振りで手を振ってくれているトレーナーとその横にはたづな先輩がいた。
いつも通りな姿。それにほっとしていると――その近くにジャラちゃんと、たまに絡む底辺ズを見つけた。視線を合わすと気づいたのか、皆が手を振ってくれる。
応援に来てくれたんだ。……やっぱりこういうのは結構嬉し――
「リトルちゃーん!がんばえー!」
「リトル-!あんたが勝ったら駅前のクレープおごってねーっ!」
「負けたら新しく出来たモールのパフェねーっ!」
「かてー!」「まけてー!」「パフェくいて-!」「だからやせねぇんだよ」「正論やめろー!」「クレープ飽きたよ-!」
――……応、援……か?あれが?
半分くらいパフェ民が勝ってるんだが?あれ?喧嘩売られてる私?てか勝っても負けても私が奢るの不公平の極みなんだが???
あっ、側にいた自分のトレーナー達に窘められてやんのざまぁ!
………。
「―――ふふっ」
――パンッ!と自分の頬を叩く。
「よし、やったりますか」
パドックを通り過ぎ、そのままターフへ――“ゲート”に着く。
そのまま呼吸を整え、構える。
“ゲート”内は狭苦しいし、閉じられてる戸はどこか恐ろしい。戸の隙間から輝く――カンカン照りの“太陽”も、見慣れてるはずなのにやけに気になってくる。
レースは芝・2000m。
“第一コーナー”“第二コーナー”“最終コーナー”――そして“最終直線”の四つの山場で構成されたオーソドックスなコースだ。
私が一番走り慣れて――一番負け越した距離。
でも、行ける。絶対に行ける。
いや――行くんだ。今日で私の連敗記録を終わらせるんだ。
――『さぁ!どのウマ娘も気合い十分!出走準備が整いましたっ!』
――『緊張の一瞬ですね』
その実況の言葉を最後に、一瞬会場が静まり返って―――
―――“ゲート”が開かれた!!
「……っ!!」
肝心なのはスタートダッシュ。
今回の私の作戦は“先行”――前方を維持しながら走る戦い方。
その為には、最初の位置取りが大事だ。ここをミスる訳にはいかない。
思い切り足を踏み出す。
日の光で乾いた芝はシューズと上手く噛み合って――私を問題なく、前を進ませてくれた。
「しまっ……!」「くっ!」
視界の端に掠める出遅れたやつの声。
それに喜ぶ……なんて卑しい私の性根すらかき消えるほど――素早く、私達よりも前へ駆け出したウマ娘に意識を集中させる。
――『サイレンススズカ、前へ出ました!!』
――『これはペースが早いですね』
くそっ、やっぱ来たか!
理想的なスタートダッシュが決められたのに喜ぶのも束の間、警戒する相手もまた理想的なスタートダッシュを決められた事に頬を噛む。
悠々と進む背を睨みながら――私は、控え室でのトレーナーとの打ち合わせを思い出した。
―――
『モブ子。今回警戒するのは“サイレンススズカ”だ。言い方は悪いけど、他の子は無視していい』
『そんなにですか』
『うん。直近のあの子の模擬レースとか見たけれどアレはえぐいね――“
『………』
『特に彼女の走り方も問題だ。作戦が“逃げ”は“逃げ”でも、彼女の場合―――』
―――
――『これは……サイレンススズカ!後続との距離がどんどん離れて行きます!これは掛かっているのでしょうか?』
――『いえ、そうは思えません。これも作戦づくでしょう。後ろの子達が焦らないといいのですが』
“逃げ”は誰よりも最前列を走って後続とのキープを稼ぐ。そして、最後の最後までそのキープを維持させて勝つ作戦だ。
でも、サイレンススズカの場合――そのキープが果てしなく長い。最初っからかっ飛ばすのだ。
――“
トレーナーさんがそう言った、奴の作戦は後続に強い圧力を掛ける。
「……っ、っ……!」
私は勝手に進みそうになる足をセーブしながら、“第一コーナー”を通り過ぎる。その間に何人か後続が私の前を進んだ。キープの差を何とか埋めようとしているんだろう。
だが――
―――
『いい?モブ子。俺の想定通りにサイレンススズカがかっ飛ばし始めたら、まずは一回落ち着いて自分のペースを保つんだ』
『……ほんとに大丈夫ですか?そのままキープを保たれたままになっちゃうんじゃあ』
『いや、ここで君のペースを乱される方が負ける。ビビって追いつこうとすると逆にスタミナが削られちゃうんだ。……なくせ、本人は気持ちよく飛ばしてるだけなんだから末恐ろしいよねぇ』
『……わかりました。“自分のペースを保つ”ですね』
『うん。彼女の背を睨む構図でキツイかもだけど――決して、それに呑まれちゃダメだよ。君の足なら“第二コーナー”から追いつける。そこからスパートをかけるんだ』
―――
私はそのまま直線を走る。
踏み締める力を抑えながら、自分のペースを保ち続ける。それでも私の足の動きは気持ち早く感じた。
何故なら――
(アイツ、どこまで飛ばすつもり……!?)
――
サイレンススズカの足はまだ飛ばしている段階だ。全然安定しない。
このままだと追いつけるビジョンが見えない!
「くっ……ごめんなさい……トレーナー……!」
私は少しだけ足に力を込める。
そうすると――“第一コーナー”で前へ出ていた連中を抜かす形になっていく。そいつらを見ればどれもキツそうだ。
……トレーナーの言う通りか。もしかしたら、あと数秒後の私がこうなるかも。
でも――きっとダメだ。
少し無茶をしてでもキープを縮めないと逃げ切られる……!
――『サイレンススズカ、快調に飛ばしていきます!後ろの子たちは苦しいか!』
――『……ペースを乱されていますね。あっ、五番“モブリトル”――前に出始めました。果敢な攻めの姿勢です!』
――『レースは“第二コーナー”へ入ります。このまま行けば―――』
そして――“第二コーナー”。
サイレンススズカの背以外に、私の視界に入るものはない。喧噪に混じった他の足音は遠い。きっと端から見れば、私とアイツの一騎打ちに近いに形になっている。
背は――縮まってきている。
まだ開いているが、それでも追いつけると思えるくらいの距離だ。
(よしっ!よしっ行ける!行けるぞ!ここでペースを上げて行けば!)
そう思って、さらに足に力を入れる――その時。
「………」
サイレンススズカの頭が動き、後ろ目にこっちを見た。
その瞳には――何もない。私を映しているはずなのに、まるで無価値なものでも見ているように。
「――あ?」
「………」
視線を交わしたのは一瞬。
――
縮まっていく背。
近付いていく――初めての勝利。
自分が高揚していくのが分かる一方で……何故だろう。
どうしようもなく、嫌な予感がする。
そしてそれはすぐ――“最終コーナー”に入った瞬間に分かった。
「………は?」
背が。
届きそうだったサイレンススズカの背が――どんどん遠ざかっていく。
――『これは!?サイレンススズカ、あのハイペースでまだ余力を残していたのかー!』
――『追い縋るモブリトルにはこれは苦しい展開。このまま逃げ切られるのか、あるいは……!』
ばっ……!はぁ!?
まだ伸びるのかこいつ!?こっ、これだからエリートウマ娘共は!
何とか足を踏み出すが――ダメだ。差が、差が広がっていく……!
「くっ……くそぅ……!!」
どれだけ進んでも、その背に追いつくビジョンが思い浮かばない。
走っても走っても、背は遠ざかる一方だ。
「……っ!……っ!」
ふと――何かが、私の耳に囁いた。
――『もう無理だ、諦めよう』――
それはきっと、私の声だ。
ずっとずっと呟いて――聞いてきた、
――『今日は、もういい。昨日よりは上達したから今日はもうやめよう』――
苦しくて、ずっと一人で悩んでいた“あの時”。
どんなに頑張っても、どんなに色んなものを削っても、どんなに他の連中よりも努力しても――負け続けた、私の声。
――『ここまで頑張ったじゃん』――
あっ。
――『ここまで頑張れば、きっと』――
きっと――トレーナーも褒めてくれる。
……そうだよ。だってもう快挙じゃん。
万年最下位な私が、今は何位?二位だよ?十分大出世じゃん。平社員が十段飛ばしで部長になったようなものだよ。急に社長なんかに……――一位になれっこない。
身体の緊張が解けていくのを感じる。
そうだよ。もう、いいじゃん。頑張っ「モブ子ぉおお!!」
――差すような声が聞こえてきた。
「モブ子ぉおお!まだ行けるよ!がんばれぇ!!」
「頑張ってリトルさん!ラストスパートですよー!!」
横を見ると、トレーナーが大身振りでこちらに声を張り上げている。……やりすぎて周りの人がちょっと迷惑そうだ。たづな先輩も、大手を振って私を応援出来ないんじゃなかったのか。
「リトルー!差せ-!いやもう殴れー!!」
「泥かけろー!!いっそ傷跡のこせー!!」
「あのいけ好かない先輩をわかめまみれにしたあの執念深さはどこいったのー!!」「そーだそーだ!私の尻尾をマリルリみたいにしたあの粘りを出せ-!!」「クレープやだぁーー!!」
せめて応援してよ君ら。
「――リトルちゃぁああん!!!がんばれぇえええ!!」
……もう。
ああ、もう……!
「……―――ッッッ!!!」
――ドンッ!!
私は自分に気合いを入れ直すように足を強く踏み出した。
手を振って、上半身を前に出す。もうフォームだなんだもペースもスパートも知った事か!
前へ、ただ前へ走る!!
――『最終直線に入りました!!最初に飛び出していったのは――――
もう実況も、歓声も。遠い音になっていく。
サイレンススズカの背も――何も見えない。ただ、前へ!
「……っっ!!」
――『諦めよう』――
「……んぎぎ……!!」
――『もう無理だよ』――
「んぐっ、ああぁあああ……!!」
――『恥掻くだぁああああ!!もううるっさい!この私の甘えた性根めっ!ぴぃぴぃ泣くだけならどっか行け邪魔だッ!!
もう!もう、私は――!!
――
底辺だからって!才能ナシの無勝ウマ娘だからって!“マルゼンスキー先輩が時代に追いつくよりも遅い走り”と言われていたって!
――それが今、
まだ距離はある!まだゴール板まで距離がある!
まだ先があるなら――最後まで!
「さい、っごまでぇぇええええ!!!」
そしてゴールを………――駆け抜けた!
「うわっ……!――うべっ!」
ゴールに辿り着いたと思った途端、力が抜けて――私は、そのまま前のめりで倒れてしまった。随分飛ばしたからか顔面から行った。くそいてぇ。
「……ぐぐ、うぅ……締まらんなぁ……」
でも、なんだろう。
――すごく、きもちいい。
もう一歩も歩けないくらい震える足も、風が無くなって一気に火照りを感じ始めた身体も、転んで土に汚れてしまった服も。
――どれもこれも清々しい。
なんでだろう。こんなの負け越してた時からずっと嫌だったのに。
「モブ子―――!!」
あっ、トレーナー。
声に振り向くと、最前席から飛び出したんだろうトレーナーがこっちに走ってきていた。
いやぁ……こんなふがいない担当ウマ娘で申し訳ない。
……結局、二着になっちゃったろうしなぁ。
流石にあの差は巻き返せんわな。もう少しスパートを早くしとけば良かったか?それともトレーナーの言う通りにもっと溜めれば良かったか。
「はぁ……」
まっ、全部出し切ったんならそれ――「モブ子!電光板!電光板見て!!」――……?電光板?そんなのを見なくたって。
―――――――――
一着――五番 モブリトル
二着――二番 サイレンススズカ 『ハナ差』
―――――――――
――『五番、モブリトル!ハナ差で勝利!粘り強い追い上げが……最後まで諦めなかった心が彼女に勝利をもたらしました!!』
「えっ……」
――
ずっとずっとそうなってほしいと願い続けて、でももう無理だと諦めていた名前が――電光板に映されている。
弾けるように後ろを見ると、呆然とした顔をしているサイレンススズカが息を切らしながらこっちを見ていた。
「一着……?わっ、私が……?」
そんな私の困惑に答えたように電光板の横のスクリーンが点灯する。
それは最終局面。
涼しげな顔で綺麗なフォームで走るサイレンススズカの横から、それはもう無様でかっこ悪いフォームのウマ娘が這い出てくる。
そしてゴール板前。
びっくりしたようなサイレンススズカの顔より前に、ブッサイクなウマ娘の顔が――一線に触れた。
まさしく、『
ギリギリのギリッギリ。そんな差で――
――
「えっ……えっ……」
「モブ子!」
走ってきたトレーナーが私に駆け寄ってくる。
その顔は嬉しさと心配が出たり入ったりして訳わかんない表情をしていた。
「あぁ大丈夫か?怪我は?結構強く……ああでもその前におめでとう?いや、でもその前に怪我の確認だよな?立てるか?でもやっぱりおめでとう!」
「とっ、トレーナぁー……」
優しく立ち上がらせて貰いながら、私は思わず声をあげた。
「かっ、勝ちました……」
「ああ、勝ったな」
「ちょっとブサイクでかっこ悪かったけど……!」
「――そんな事ない!誰よりもカッコ良かったモブ子は!」
「判定ギリギリでかなり危なかったけど……!」
「――それでも勝ちは勝ちさ!それを疑うなんて三女神にさえさせないよ!」
「勝った……勝ったんです……ぐずっ、はじめてぇえ……!!」
――胸の内からこみ上げてくるものが隠し切れない。
ちゃんと……ちゃんとトレーナーに伝えたいのに、トレーナーの顔を見たいのに――涙が邪魔で何も見えない。
そんな不甲斐ない私の背中を、トレーナーは優しく撫でてくれる。
「ああ、ああ。ほら、モブ子。顔を上げて」
「ぐずっ……はい……?」
「さぁ、皆を見てあげて。応援してくれた、君を見ていてくれた皆に」
トレーナーに促されるように、観客席に振り向くと―――
―――ワァァアアアアアアア!!
聞いた事もない歓声が響く。私に向かって、声を上げてくれていた。
「モブリトルさん……本当に、頑張って……!」
たづな先輩……。
「リトルちゃん……ほんとに、ほんとにすごいよぉ……!」
ジャラちゃん……。
「おぉー!リトルがついにやったよ!」
「私はわかってたねっ!あの子は絶対やれるって最初見た時から気づいてたもん!」「そうだよね!私達が見守ってた結果だねっ!あっ、恩師としてサインの練習しとかなきゃ!」
「うわーっ!」「すごい嬉しいけど嬉しくない-!」「クレープいやぁああ!!」
あいつらは……まあ、いいや。
――皆が皆。
私をお祝いしてくれている。それが、たまらなく嬉しかった。
私は一度、観客席に向かって頭を下げる。
それに呼応したかのような拍手がなんだか照れ臭かった。
「―――」
――きっと。
きっと、私はこの景色を決して忘れないだろう。この先何があろうとも。
自分が考える答えがどうであれ、自分が成した結果がなんであれ、自分が作り上げる栄光がどんな物になろうとも。
――“この景色”だけは。
「さっ、行こっか――モブ子」
こうして、寄り添ってくれるトレーナーがいてくれれば。
「むぅ。思いの他、良い映像が撮れてしまったのです。流石は流離いの映画監督マーチャン……自分の才能が恐ろしい」
「………。そうだ。これをウマチューブに上げるのです。そうすればファンがズバーン!トレーナーさんのハートをドキューン!そしてマーチャンの唇にズキューン!……なんて素晴らしい未来予想図なのでしょう」
「ふふふのふ。これもそれも――私のお願いを叶えてくれた“満ち欠けの神様”に感謝感謝なのです」
ちなみに、“トゥインクル・シリーズ”のレースは、終了後。一着のウマ娘をセンターに――“ウイニングライブ”という歌って踊るイベントをやるのだが……。
レースに勝つ事ばかり集中していたので――心構えが出来ていなかった私は、ガッチガチに緊張してしまい、生暖かい視線の中、違う意味で半泣きになってこなしましたとさ。
ある意味で、私のメイクデビューはよりいっそう忘れる事は出来ない思い出になった。
――解せる。
レースはなんてことはなく終わった。
……いいや、嘘だ。負けるとは、思わなかった。
「………」
――“モブリトル”。
今の、あの人の担当ウマ娘。
最初はただの普通の子かと思ったけれど……まさか差し切られるとは思っても見なかった。
あんな風に自分をかなぐり捨ててまで勝利を求めるあの姿勢は――一人のウマ娘として好感を持てる姿だった。普通に知っていれば、ちょっとファンになったかもしれない。
でも、一人の異性としては――心底気にくわなかった。
「……はぁ」
とはいえ、発散する事はない。
何故なら……一緒に走ってみてわかったからだ。
あの子は――気持ちの良いぐらいまっすぐとした走りをしていた。
それだけでもう妬むとかそういう気持ちが薄れてしまった。
今は――いっそ清々しい気分だった。
「……私達の景色は、もうどこにもない……」
そう、認められるほどに。
……レースを走る中。私は本当はちょっと期待していたのだ。
――
だから全力で走った。今出来る最大限の力を振り絞って。
……で。
気づいて貰えないのは愚か、負けたのだから世話ないけれど。
「……はぁぁぁぁ」
……これから、どうしようかな。
いっそ“三年間”の内に計画していたアメリカにでも留学しに行こうかな。あの二人を視界に入れるのつらいし。アメリカ縦断の旅とかちょっと楽しそうよね。本場のホットドッグとか食べに行きたい。
私はそう考えながら、自分の控え室に入る。
そこには――思わぬ先客がいた。
「……フクキタル?」
「――待っていましたよ、スズカさん」
――マチカネフクキタル。
ちょっとスピリチュアルな私の友人。……それにしても見てない内に、随分さっぱりしたわね。いつもはよくわかんない開運グッズとかじゃらじゃら付けてるのに。
そんなフクキタルは、何かを確信したような瞳をしている。
「……スズカさん。今日の走り、見ていました」
「……?ええ。負けちゃったけれど」
「いいえ、素晴らしかったです。まるで――
まあ、シニア級でしたし。さもありなん。
「………」
「………」
……何なのかしら、この空気。
私早く着替えて、アメリカへの
「……これは自分で言ってても信じられません。でも――見てしまったんです。だから、信じるしかない……」
「……はぁ」
「――単刀直入に言います」
「……貴女は、三女神のご加護を信じますか?」
……うそでしょ。
「………」
「………」
「――宗教の勧誘?」
「いや、違いますよ!?」
「フクキタル。確かに私は今心に隙間がある状態よ。でもね?そこを突いて信者を増やそうとするのは友人としてどうかと思う……いや、思います。マチカネフクキタルさん」
「ちょっとぉ!私がそんな悪辣な事するはずないじゃないですか!速攻で心の距離を離さないで!」
「じゃあなによ?」
「ええっと、だからぁ……そう!」
「―――“夢”に!心当たりはありませんか!」
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