BLACK/MATRIX REACT (suiru)
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序章

「この世界が創造されて間もない頃。偽善者の大悪神ゴッドは、天界の黒き羽の者達を欺瞞していました。愛などという彼らの妄言によって、黒き羽の者達は耐え難い苦しみを受け続けていたのです」

 壇場に立つ神官が厳かに両腕を天に掲げ、講説を始めた。その神官は、両側頭部には闘牛が持つものに似た巻き角を、背中にはコウモリのような黒い羽を生やした初老の男である。

「その惨状に胸を痛めていたのが、世界の救世主、偉大なる大天使メフィスト様でいらっしゃいます。ある時メフィスト様は、父なる大神サタン様の旗の下、大悪神ゴッドとその配下である白き羽の邪神達の虐政に決起し、勇敢に戦いを挑まれました。創世記戦争の開戦です」

 神官が立つのは、大聖堂の中。ドーム状の天井は高く、陽が落ちきった今、燭台の薄暗い灯りだけでは最上部分は闇に包まれている。

 その天井を支える無数の柱には、神官と同じく二本の角と黒い羽を生やした、異形の獣達の彫像が飾られている。三叉槍を構え、下卑た笑いを浮かべながら地上にひしめく信者の群れを見下ろしていた。

「天界を二分し、六百六十六日間にも渡り続いた激しい戦は、ゴッドの戦死により遂に幕を閉じました。そしてメフィスト様達は、残りの邪神達をこの魔法都市リニアの地下深くの地獄に封じ込めることに成功したのです。世界の秩序はあるべき姿に書き換えられ、黒き羽の者達は愛や平等などという詭弁に踊らされる恐怖から解放されました」

 同一のローブをまとった黒い羽の信者達は息を凝らして神官の口から紡がれる言葉に聴き入っている。中には感極まってむせび泣く者もいる。

「我々には、他者の幸不幸や生き死にのために余計な体力や気力を消耗する必要は一切ありません。ただ己の欲望を満たすために、ありとあらゆる手段を用いて邁進することこそが、尊い生き方なのです。我々がこうして健やかな日々を送ることができるのは全て、完全無欠の大天使メフィスト様の御力によるものです」

 神官の教えに疑問を持つ者はいなかった。それこそが、現在の満たされた自らの境遇を担保する真理であった。

「我々がこの背中に持つ高貴な黒き羽は、我々が救世主メフィスト・フェレス様の直系の子孫であることを示しています! そしてここにいるあなた方は、己の野心のために他者を蹴落とし、あるいは利用しながら激しい闘争を勝ち残った選ばれし強者なのです!」

 淀みなく泰然としていた神官の調子が、激情を帯びたものへと変わった。紅潮し、掲げた両腕を震わせる。

 そして彼が振り向き視線を移した先の祭壇には、『生け贄』が横たわっていた。

「一方で、白き羽を持つ者達は、世界を混沌に陥れていた邪神の末裔です。白き羽の者達は未来永劫、我々に隷属し、その罪を償い続けなければなりません」

 いつの間にか神官の右手には抜き身の短剣が握られていた。ちょうど狩猟で仕留めた鹿や猪を解体するのに手頃の大きさである。

 神官は重々しい足取りで祭壇の側まで近づき、『生け贄』を眼前にして逆手に持ち直した短剣を振り上げた。そして身のうちに秘めた凶悪性を凝縮したような笑顔で信者達を見渡す。

「だからこそ白き羽の者共は、我々黒き羽の繁栄を存続させるための生け贄として、その身を捧げる必要があるのだ!!」

 『生け贄』の処刑という至高の娯楽の開幕に、信者達の気の高ぶりは最高潮となった。神官の邪念と信者達の欲望が一体となり、大聖堂は異様な熱気に包まれた。

 その時だった。大聖堂の正面扉が勢いよく開け放たれ、一人の男が飛び込んで来た。

「やめろ! 今すぐ儀式をやめさせろ――!!」

 男の絶叫と同時に、『生け贄』の心臓へ短剣が突き立てられた。



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第一章 パンドラの箱庭

 

 

 その人物が闇の中で最初に感じたものは、激しい痛みと閉塞感だった。痛みが身体のどこからくるか探ってみれば、身体中からだった。全身のいたる所の骨が軋んでいる。棺桶に閉じ込められ、そのまま押し潰されていくように感じた。

 そして苦痛を伴う暗黒は恐怖を生み出した。自分は永遠にこのままなのではないかと。逃れる術を思案しても、何も思い浮かばない。果てしない不安に駆られ、息が詰まりだす。

 すると、闇の中に何者かの声が響き始めた。聞き取ることはできなかったが、その声が現実と悪夢の境をさまよう自分へ覚醒を促す呼び声だということはわかった。無我夢中で全神経を呼び声へと傾ける。

 重い瞼がゆっくりと開いた。

「ディーナ! 目が覚めたんだな! 本当によかった!」

 責苦のような夢から解放されたその人物の顔を、男が覗きこんでいる。呼び声の主だ。

「お前、十ヶ月以上も眠ったままだったんだぜ! 心配させやがって…!」

 暗く渋い紫色の髪が後頭部に丸みを帯びながら首元まで伸びており、整った輪郭を形作っている。切れ長な深紅の瞳の中には安堵の光が輝いていた。

 ディーナと呼ばれた人物は、口を開かずただ呆けた様子で彼を見つめ返している。

「まだ意識がはっきりしてないな…。水と、何か食えるもんを持ってくるから、ちょっと待ってな」

 男はディーナが横になっている寝台の側から軽快に立ち上がり、家の外へ出て行った。男がこちらに背を向けた時、ディーナは彼の背中にコウモリのような黒い羽が生えていることに気づいた。男が出て行った後は、寝台から視線だけを動かし家の中をぼんやりと眺め始めた。

 簡素な木造の平屋である。目についた家具は、男が使っていると思われる寝台と、石造りの暖炉と、本が数冊仕舞われている書棚、そして丸太脚のテーブルと椅子くらいだ。

 部屋の景色が見慣れてくると今度は、自分の身体をどうにか動かしたいと考えた。長きにわたる眠りは驚くほど身体から筋力を奪っており、思うように力が入らない。慎重に右向きに寝返りを打ち、左手に力を入れて起きあがろうとする。すると左手が柔らかい羽毛に触れた。白い鳥類の翼である。しばらく呆然とその翼を触っていたが、それが先程の男と同じように自らの背中に生えている羽だということに気づいた。

 それから小さな呻き声をあげて、やっとの思いで上体を起こした。正面を向くと、白い羽の生えた一人の女と目が合った。瞳を凝らすと、そこに立っていたのは人ではなく姿見だった。

 鏡の中の女は、腰まで真っ直ぐに伸びた栗色の髪と新緑の様な鮮やかな瞳を持っている。実年齢よりもあどけなさを感じさせる風貌だ。

 昏睡状態から目覚めたばかりの彼女の佇まいはひどく弱々しく、顔面からは血の気が失われている。そしてディーナは鏡に映るものが自分自身だと確信することができなかった。単に、長い間臥せっていたため変わり果てた自らの容姿に落胆したからではない。自分の顔を覚えていないからだった。顔だけではなく、自らに関する全ての記憶が彼女から欠如していた。

 

 

 

 

「おい、勝手に動いて大丈夫なのか? 無理するなよ」

 黒い羽を持つ男が水飲みと食事の皿を両手に持ちディーナの側へ舞い戻った。ディーナは男から水飲みを手渡され、喉を潤した。そして男の顔色を窺いながら消え入るような声で尋ねた。

「ディーナというのは…私の名前なの? あなたは……誰?」

 予想どおり男の顔が凍りつく。

「まさか自分のことまで…。本当に俺の名前すら言えないのか……!?」

 男の問いにディーナは頷くことしかできなかった。男と自分の過去の関係は把握できないが、自分を悪夢から呼び起こし、懸命に世話をしてくれる彼を傷つけたことを心苦しく思った。

 男はうなだれ歯を食いしばったように見えたが、すぐに顔を上げた。

「とりあえず、食え!」

 男は匙で食事をすくい、ディーナの眼前へ突き出した。ディーナは言われるがままに食事を口に含む。茹でた芋を潰して調味料を加え作られた料理は、彼女の身体に染み渡った。久方ぶりの食の喜びにディーナの顔が綻びると、男も微笑んだ。

 食事が終わると、男は話し始めた。

「お前はディーナで、俺はゼロ。ここはお前と俺が二人で暮らしてる家。そう、ここは…俺達だけの箱庭だ」

「箱庭…」

「俺達はまぁ…兄妹みたいなやつだな! 事故で大怪我をして眠ったままのお前を、俺が今日まで甲斐甲斐しーく看病してたって訳」

 空になった食器を片しながら、ゼロは努めて明るく当時を振り返った。

 ディーナは失った記憶を取り戻す手がかりを少しでも掴もうとゼロに問いを投げかけた。

「私はどうして事故に遭ってしまったの…?」

「ある日、俺は高熱を出して寝込んでしまったんだ。俺の様子を見兼ねたお前は山へ薬草を取りに行くと言って家を出て行った。その日は酷い嵐で…雷も鳴っていた。お前は山の中で落雷に巻き込まれたんだと思う」

「病気のあなたを一人残して山へ薬草を取りに行ったなんて…お医者様を呼べなかったの?」

 ゼロは決まりが悪そうに笑った。

「それは…見てのとおり俺達は慎ましい暮らしをしてたから…つまり、医者にかかる金がなかったんだ。そして、嵐が去って、俺が山の中へ入って行くと、お前が血まみれで倒れているのが見つかった」

 ゼロの瞳の奥に虚ろな陰が浮かんだ。事故現場の様子を思い返して、その凄惨さがもたらした衝撃が蘇ったのだろうとディーナは思った。

「まあいいさ。とにかくこうしてお前が目を覚ましてくれたんだからな! そのうち俺達のことも思い出せるだろ」

 ゼロの表情に明るさが戻る。

「今日はもう休め。ずっと眠ったままだったんだ、あんまり長く話してるとくたびれちまうぜ」

「あの…ゼロ、さん? もう一つ聞きたいことが―――」

「ゼロでいい。俺達は兄妹みたいなもんだって言ったろ。どうした?」

 ディーナはゼロに残っていた疑問を問うた。

「俺達の背中の羽? 本当に綺麗さっぱり忘れちまったんだな…」

 ディーナを寝台に寝かせ、毛布をかけ直してやりながら、ゼロは苦笑した。

「この世界の人間には誰にでも生えているものだ。飛ぶことはできないから、ただの飾りだと思っていればいい」

 寝台の縁に腰掛けながら、ゼロはそっとディーナの頬を撫でた。一通りの謎が解け、食欲が満たされた彼女の元に心地よい疲労感と眠気が訪れた。ゼロに見守られる中、再び瞼を閉じると、あっという間に眠りの中へ落ちていった。闇の中で恐怖と苦痛を受ける夢を見ることのない、回復に向かうための安らかな眠りだった。

 

 

 

 

 ディーナが意識を取り戻してから一週間が経過した。彼女は寝台から足を降ろし、約十ヶ月ぶりに地面に立つ感触を味わった。初めは視界の高さが大きく変わった上に平衡感覚が保てず目眩がしたが、壁に手を突きながら呼吸を整え、着実に歩みを進めた。そして玄関先までたどり着き、水汲みから帰ってきたゼロを出迎えることができた。

「ゼロ、おかえりなさい」

「お前、もう歩けるのか…!?」

 ゼロは慌てて水の入った桶を地面に置いた後、彼女の華奢な両肩を抱き抱え、椅子に座らせた。

「うん、自分でもびっくりするくらい気分もよくなってきたの。ゼロのおかげだね」

 嬉々として自分の身体の状態を話すディーナの顔色は血色がよく、一週間前に比べ強い生命力を感じさせた。そして表情が非常に豊かになった。ディーナを包み始めた柔和な雰囲気は、生来彼女が持ち合わせていたものだと窺い知れる。

「頼むから、無理はするなよ」

 ゼロは安心してため息を吐き、もう一方の椅子へ座った。

「それと…お前が歩けるようになったら伝えようと思っていたことがある」

 ゼロは今までになく深刻な面持ちでディーナを見据えながら口を開いた。

「記憶喪失になっているお前は、この世界のことも何もわからないままだろう? だから、お前の体力が完全に回復して、この世界の常識に慣れるまで、勝手に家の外には、出ないで欲しいんだ」

 彼のただならぬ様子に押され、ディーナは思わず居住まいを正した。

「俺達の家があるこの丘の下には、街がある。街にいる連中の中で、羽の色が黒い人間には乱暴な奴が多いんだ。事情を知らないお前が街に出ると…危険な目にあうかもしれない」

 目の前にいる黒い羽の青年は、自分の健康の回復を願って尽くしてくれているというのに、自分に危害を加える黒い羽の者もいるという話がディーナには想像がつかなかった。ただ、ゼロが自分を欺くための嘘を話している様子も感じられなかった。

「しばらくの間、街への買い出しなんかは俺が一人で行ってくる。だから、約束してくれ。俺がいいと言うまで、絶対に外に出ないと…!」

 緊張で強張ったゼロの表情を少しでも和らげようと、ディーナは精一杯の笑顔で彼の懇願に答えた。

「わかった、絶対に外に出ない。だから、そんなに心配そうな顔をしないで…」

 張り詰めていた空気が和み、ゼロはふっと笑みを溢した。

「よっし、それじゃあこれからこの家でちゃんとリハビリしなくっちゃな!」

 ディーナは力強く頷いた。

「はやく私の記憶が戻って、一緒に街へ出かけられるようになるといいな」

 ゼロは微笑みを湛えるだけであった。

 

 

 

 

 箱庭での生活は穏やかに過ぎていった。ディーナの体力はみるみる回復していき、いつしか家の仕事もこなせるようになった。二人で薪を割り、ささやかな畑から野菜を収穫し、近くの川で魚を釣り、隙間風や雨漏りが起こる家の中を修繕したりした。

 ディーナは無断で家の外へ出ないというゼロとの約束を従順に守った。そもそも、彼との生活が愉快でしょうがなかったため、外の世界には大して興味がわかなかったというのが実情である。決して余裕のある生活ではなかったが、ディーナにとって箱庭での日々は満ち足りたものであった。ただ一つ、失われた自身の記憶が彼女を苦しめていた。

 そのうち、二人が暮らす家に冬が訪れた。家の周りの木立は葉を落とし、街から離れたわびしい場所も相まって物悲しい眺めを生み出していた。そしてある日、家の周囲が冬化粧に染まった。

 雪の降りしきる夜、ディーナが身を屈めて暖炉に薪をくべていると、ゼロが隣に座り、ディーナの肩に毛布をかけた。ディーナもゼロの肩へと毛布を回し、二人は一枚の毛布にくるまりながら、暖炉の火にあたった。暖炉の火が爆ぜる音以外、二人の世界に音は無かった。

 二人はしばらく暖炉の火を眺めていたが、やがてディーナが囁くようにゼロに語りかけた。

「私ね、あなたがいなければ今頃こうして生きていなかったと思ってる。あなたは私の命の恩人で、きっと記憶を無くす前の私にとってもかけがえのない人だったと思う」

 ゼロは沈黙したまま炎の揺れを見つめている。

「だから、一日でもはやくあなたとの思い出を取り戻したいの。それなのに…どうしても思い出せない。事故にあったという時のこと、思い出そうとすると、頭が割れそうになって、酷い吐き気に襲われて…息ができなくなってしまう…。本当に……ごめんなさい」

 感情が堰を切ったように溢れ出し、ディーナの声を震わせた。ゼロは首を横に振った。

「無理に思い出そうとしなくていいんだ。謝る必要もない。それに俺はむしろ…このままでもいいと思ってる」

「…どうして?」

「お前が事故にあう前もさ、俺達にはいろいろ…思い出したくもないようなしんどいことがあったんだ。その時俺はお前に一番伝えたかったことを伝えきれなくて…そしたらお前は事故にあって、大怪我を負ってしまった。お前が眠り続けている間、ずっと後悔してたよ。どうしてもっとお前を大切にできなかったんだろう、お前が側にいてくれれば、他には何もいらないのに…って」

 懺悔のようなゼロの言葉に、ディーナは互いが相手のために苦しみを背負っていたのだと知った。

「だからお前が目を覚ましてくれた時、俺は誓ったんだ。たとえお前の記憶が戻らなくても、俺はお前とのこれからの生活を守り抜こうって。もう迷ったりしない。お前のためならどんなことでもできる。例え、それがどんな罪に問われようとも」

 そして、ディーナへはにかんでみせた。

「悪りぃ、結局俺の独り善がりだな! でもよ、記憶を取り戻すことが辛いなら、俺のために無理して思い出そうとしなくていいんだ。俺は今のお前とこの暮らしが続けばそれでいいと本気で思ってる。お前にどんなに嫌われようと、この気持ちだけは変わらない」

 今、ディーナに向けられているゼロの眼差しや言動の一つ一つに、嘘偽りが無いことが彼女には分かった。暖炉のせいばかりでなく、身体の奥がじんじんと温まっていくのを感じた。

「嫌いになんて…なるわけない」

 ディーナは潤んだ両目尻を人差し指で拭い、ゼロへ微笑みかけた。そしてゼロは胸の中にディーナを抱き留めた。乾いた音を立てて毛布が床に落ちる。

「ずっと…ずっと一緒にいような…」

 ゼロの心臓の鼓動を聞きながら、ディーナは瞼を閉じた。暖炉の炎が二人の翼を照らし、背後の床に巨大な影を映し出していた。

 

 

 

 

 ディーナが意識を取り戻してから、一年余りが経とうとしていた。水を汲みに来た川のほとりに咲き始めた花が、ディーナが目覚めたばかりの頃ゼロが枕元に飾ってくれたものと同じであった。薫風に吹かれ、ディーナは肺の中いっぱいに外気を吸い込み、水桶を持って家路を急いだ。丘の下の街へ買い出しに出かけているゼロが間もなく帰宅するため、食事の準備を済ませる必要があった。

 ディーナが家に着いて間もなく、突然玄関の戸が荒々しく叩かれた。ディーナは身を竦めて玄関を見やった。

「我々は異端審問官です! ゼロ殿、中にいらっしゃいますか? 扉を開けてください!」

 威圧的な男の声が、ゼロの名を連呼している。ディーナはゼロの不在を説明し早々に立ち去ってもらおうと、玄関に近づき鍵を開けた。すると、大きな音を立てて扉が開かれ、男が二人どかどかとディーナに一瞥もくれず部屋に踏み込んで来た。

 漆黒の法衣と帽子に身を包み、背中に黒い羽を生やした壮年と中年の男達である。意識を取り戻してからゼロ以外の人間を見たことがなかったディーナは、男達の姿と異様な雰囲気に動揺を隠せなかった。

「家主は不在のようだ。戻るまでここで待機するとしよう」

「あの、家に何の御用で―――」

 ディーナが口を開くや否や、壮年の男が彼女の右頬に強烈な平手打ちを食らわせた。ディーナはよろめきその場に倒れ込む。口の中が切れて、血の味が広がった。

「家畜の分際で、気安く話しかけるな!」

「まったく、奴隷に服まで着せるなんて…ここに住むのがオカルトマニアの変人だという噂は本当だったのか」

 中年の男が嘆息した。ディーナは右頬を押さえたまま起き上がることができず放心状態になっている。

「どうせこの奴隷もそのうち殺されるんだ、主人が帰ってくるまでの暇つぶしに痛め付けてやろうか! 白い羽にしては上玉だ」

 壮年の男がディーナの身体になめるような視線を投げ、いやらしく笑いながら彼女の髪を乱暴につかみその顔を自らの顔に引き寄せた。

「お前の勤勉ぶりには頭が下がるよ」

 ディーナは男達の話を微塵も理解できなかったが、このままだと自分は殺されるかそれに類することをされるという推測をした。だが、恐怖で身体が凍りつき、悲鳴を上げることもできなかった。

「彼女を離せ!!」

 聞き慣れた声の方を向くと、ゼロが玄関口に立っていた。その表情は怒りで鬼神のように変貌している。

「ゼロ……!」

 ディーナは持てる力の限りゼロを呼んだ。中年の男が仰々しくゼロを迎え入れる。

「おっと、問題の飼い主様のお帰りですね?」

「貴様ら、人の家に押し入って何をしているんだ!」

「暴れるなよ! こいつの首が折れちまうぞ?」

 ゼロが壮年の男に掴みかかろうとすると、男はディーナの髪を掴んでいた右腕を離し、今度はその腕で彼女の首を締め上げた。気道が圧迫され、ディーナが顔を歪める。

「やめろ!」

 ゼロがその場に静止し、悲痛な叫び声をあげる。

「我々とて同じ黒い羽のあなたに手荒な真似などしたくはないのですよ。ただ、あなたに異端の疑いがかけられた以上、我々も動かないわけにはいかなくてね」

 中年の男のゼロに対する態度は正に慇懃無礼を体現したようなものだった。ゼロが吐き捨てるように答える。

「異端だと? 俺達二人はこの家で静かに暮らしているだけだ…! 貴様らの世話になるいわれはない!」

「ところがその暮らしぶりとやらが問題なのです。随分前から街の住民から通報がありましてね。黒い羽の男が白い羽の奴隷も連れずに自ら買い物をして、果ては自分で釣った魚やつくった野菜を売ってあくせく働いていると! まぁ、その程度なら物好きの道楽程度で済んだのでしょうが――」

 中年の男は挑発的な口調でとうとうと話し続ける。

「ある善良な市民が、いつもどおり街にやって来て買い物を済ませたあなたを尾行したのです。すると、あなたは奴隷を首輪もつけず放し飼いにし、あろうことか同じテーブルで食事をとったり、一緒に畑仕事をしていたというではないですか。しかも、いくら奴隷を愛玩動物として可愛がるにしても、服まで着せるのはいかがなものでしょう? そういう訳で、あなたの奴隷への接し方に異端の疑いがかけられたのです」

 ゼロは身をわなわなと震わせ、異端審問官達を睨みつけている。

「奴隷? 愛玩動物? ふざけた言い方をするな!」

「おいおい、どうして奴隷一匹にそこまで怒ることができるんだ?」

 壮年の男がディーナの首に腕をかけたままひやかしを入れる。ディーナは酸素が薄れているせいで、段々と意識が遠のき始めていた。自分はここで死ぬかもしれないという諦めはあった。しかし、理屈は未だにわからないがゼロが異端として捕まることは許せない。彼が異端審問官達の追及から逃げ切れることだけを願った。

「ちがう! 俺は…こいつのことを一人の人間として、ずっと…あ、愛…」

「お、お前!? 何を!?」

 ゼロが言い淀んだ言葉に、壮年の男の顔が引きつった。

「ゼロ殿、落ち着いてください! それは恋と呼ばれる、単なる人間の発情期の勘違いです! あなたのように若く、活力がみなぎっている年頃の人間は陥りやすいものなのですよ」

 中年の男は訳知り顔でゼロを諭そうとする。

「あなたはこの奴隷に欲情していただけです。なに、恥ずかしがることはありません。欲情とは、この世界の美徳の一つであり、高貴なる黒い羽の子孫を繁栄させるために必要不可欠な原動力なのですから!」

 ゼロは拳を握りしめ、俯いている。

「愛などという人心を惑わすまやかしを口にすることが、自らの身を滅ぼすということくらい、あなたも御存知でしょう? さあ、自分の行いを認めなさい!」

 中年の男は自らの教えを一息にまくしたて、ゼロの反応を窺っている。

 ディーナも薄れ行く意識の中、ゼロを見守っていた。自分のことなどどう貶めた言い方をしてもいいから、とにかくこの場を言い逃れて欲しかった。

 ゼロが俯きながら口を開き、沈黙を破った。

「貴様達の言うように俺の想いは…一方的なものかもしれない……」

 顔を上げたゼロの瞳には、怯まぬ決意の色が刻まれていた。そして、ディーナから最後まで目を逸らさずその言葉を口にした。

「だが、それがどんなに罪深い行為でも、俺はこいつのことを愛しているんだ」

 音も無く静かにゼロの頬を雫が伝い、細い顎から滴り落ちる。その涙には一点の後悔もない。込められたものは、ディーナに捧げられた痛々しいまでにひたむきな真心だけだった。

「な、なんと邪悪な…! ゼロ、貴様を連行する――!」

 異端審問官達の慌てふためく声を最後に、ディーナの意識は闇に溶けていった。

 箱庭は蹂躙され、跡形も無く崩れ去った。



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第二章 ゴルゴダの牢獄

 

 

 ディーナは一人、闇の中にいる。それは紛れも無い現実の中であった。目隠しと猿ぐつわを着けられ、囚人護送用の馬車に押し込められたのだ。馬車は不規則なリズムで揺れ続け、彼女を何処とも知らぬ場所へと運んで行く。

 異端審問官によって意識を奪われた後、目を覚ますと、ディーナは手足を縛られた状態で家の床に倒れていた。ゼロの姿は何処にも無い。しばらくすると異端審問官達が再びディーナの前に現れた。彼らはディーナの足の拘束だけを解き、護送の馬車を停めている、丘の下の街まで彼女を歩かせた。街への道中、ゼロの行方を問うディーナの声に異端審問官達は誰も耳を貸さなかった。

 街へ着くと、そこに住む人間達にディーナは目を疑った。街には黒い羽の人間も白い羽の人間もいた。だが、彼らの立場にはあまりにも大きな隔たりがあった。白い羽の者達には首輪がはめられていた。首輪は鎖に繋がれ、黒い羽の者達がその鎖を握り彼らを犬のように連れ回している。そして白い羽達は男も女も関係無く一糸纏わぬ姿であった。対照的に黒い羽達は、目がチカチカするような色の布や宝石で自らを着飾り、街を闊歩していた。中には黒い羽の物理的な束縛から離れ、街の清掃や物売りに従事している白い羽もいたが、彼らは皆何かに怯えるように周りを気にしながら常に落ち着かない様子だった。

 ディーナが馬車に乗る寸前、目の前を白い羽の男を連れた黒い羽の男が通りかかった。その黒い羽は、四足歩行の白い羽をうすのろと罵り、彼の腹を蹴り飛ばした。白い羽が仰向けに倒れ込み、その視線が瞠目しているディーナと合わさった。白い羽の瞳からは何の感情も読み取ることができず、ただ奈落の底のような虚無が広がっていた。

 その瞳を思い出し、ディーナは馬車の中で身震いした。相次いで起こる惨事に混乱し、身体を馬車の揺れに預けるばかりだった。異端審問官に打たれた右頬の痛みだけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。

 

 

 

 

 馬車が停止し、ディーナは外に引きずり出された。平地をしばらく歩き、地下へ続く階段を降りたかと思うと、拘束具が外され、背中を突き飛ばされた。ディーナは冷たい石の床の牢屋の中へ膝をついた。

 看守が牢に鍵をかけ、その足音が遠ざかっていくと、獄舎内は静けさに浸った。ディーナは床にへたり込んだまま俯き、動くことができない。

「ゼロ……」

 呟きが虚しく石の壁に反射し、消えた。

「こいつは驚いた! 新入りは女だと聞いてたもんだから、どんないかつい化け物がやって来るかと思っていたが…」

 背後で男の声が響いた。驚いて振り向くと、ディーナがいる部屋から廊下を挟んだ真正面の牢屋の中で、白い羽の男が寝台に腰掛け、物珍しげに彼女を眺めている。たくましい身体付きの大男だ。剥き出しの上半身の筋肉が力強く隆起している。金髪を赤いバンダナで無造作に束ね、右目を黒の眼帯が覆っており、残された左目は鋭い光を放っていた。

 大男は威勢よくディーナに話し掛ける。

「よぉ、ねーちゃん。お前は何をしでかしたんだ? ここに連れて来られたってことはお前も俺と同じ、七つの大罪を犯した死刑囚なんだろう?」

「死刑囚!? 私達が!?」

 ディーナは飛び上がり、両手で鉄格子を掴んだ。

「なんだ、知らなかったのか?」

 ディーナは何も知らない。彼女は箱庭の中でゼロに庇護され、自分にとって綺麗なものにだけ囲まれて生きていた。そして自分の世界そのものであったゼロは、背中の羽の真実を告げないまま彼女の前から消え去った。彼が異端審問官達に連れ去られた理由すらも定かではない。

 自分を打った異端審問官の笑みが、ゼロの涙が、腹を蹴られて倒れた白い羽の男の瞳が、ディーナの脳裏をよぎる。

「教えてください、私は記憶を失っていてこの世界のことを何も知らないんです」

 真実を知りたいという衝動が、彼女の口から溢れ出した。

「私は黒い羽の男性と二人で暮らしていました。そこへ異端審問官と呼ばれる人達が現れて、彼と私が同じように服を着て、一緒に畑を耕して、食事をしていたことが、異端だと言いました。そして彼が私を愛していると言った途端、彼は連れ去られたんです。どうしてゼロは、捕まらなければならなかったのですか…!? お願いです、教えて―――」

 鉄格子を握る手に力を込め、ディーナは大男に答えを請うた。

「お前の主人は随分と…邪悪な奴だな…!」

 大男はディーナの身の上に愕然としながら、異端審問官も発していた邪悪という単語を口にした。

「俺の名はレブロブス。…殺される理由もわからないまま死ぬお前があまりにも無様だから教えてやる。俺達白い羽を持つ人間は皆、黒い羽の奴らの奴隷として支配されているんだ。生まれてから死ぬまで牛馬のようにこき使われ、死ねば道端に打ち捨てられる! 街によって白い羽の扱いに多少の差はあるみたいだが、連中は俺達が同じ人間だとは思ってねえ」

 レブロブスが苦々しく世界の理を語り始めた。

「それからもう一つ、この世には七つの大罪ってもんがある。自由、偽善、人権、弱者、友情、愛、平等。これに関わる罪を犯した奴は羽の色を問わず裁かれるって訳だ。一方で七つの大罪と真逆のことをすりゃ、周りからは立派な奴だと持て囃されるのさ。詐欺師も盗賊も人殺しも英雄だ。ま、白い羽が黒い羽に逆らおうとすりゃ、即刻殺されるがな」

「それじゃあ…私の御主人様にあたる人は、奴隷として接しなければならない私に愛を告げたことで七つの大罪を犯してしまった…?」

「そういうことだ! 当の本人が何処に連れて行かれたかは知らねぇが、大罪人が所有していた反抗奴隷としてお前も同罪になったんだろう。ここはゴルゴダの牢獄の、生け贄の待合室と呼ばれる死刑囚の吹き溜まりだ」

 レブロブスの話は、ディーナが世界に抱いていた疑念を振り払った。しかしそれは、彼女の中に新たな苦悶を生んだ。

「…愛なんてのは大昔の暇人どもが退屈しのぎに編み出した空想だ。主人の空想のせいで死ぬことになるとは、お前は気の毒な奴だな」

「空想…ゼロの言葉が……?」

 ディーナの視界が狭まり、レブロブスの姿が遠ざかる。そして、ゼロの言葉が頭の中で蘇った。

『お前のためならどんなことでもできる。例え、それがどんな罪に問われようとも』

『それがどんなに罪深い行為でも、俺はこいつのことを愛しているんだ』

 ゼロは知っていたのだ。愛を口にすれば自分の身がどうなるのかを。ディーナを見捨て、異端審問官達に従えば助かる道はあった。けれども彼はそれをしなかった。誰もが妄想、空想と口を揃えて嘲るもののために、自らの命を投げ打つ価値はあったのか。

 耳元で金属音が響き、ディーナは我に返った。床を転がって来た赤い球が彼女の部屋の鉄格子に当たったのだ。よく見るとそれは赤く熟れた林檎の実だった。

「俺もお前に同情するぜ。隣にいる、事情通を気取ったデカブツのせいで、知らなくてもいい真実を聞かされる羽目になったんだからな」

 ディーナが林檎を拾い上げると同時に、彼女から向かってレブロブスの部屋の右隣にある牢屋の奥で男の声がした。

「知らぬが仏、見ぬが秘事、ってな…」

 林檎を右手に持った若い白い羽の男が、牢の薄暗がりから現れた。艶のある黒髪を肩まで伸ばし、調和のとれた目鼻立ちをしている。体格はレブロブスと比べれば格段痩躯に見えてしまうが、彼の瞳にはこの場の誰よりも剛直さと自尊心の色が籠っていた。自負に満ちた表情は彼から形容しがたい気品を漂わせ、身に付けている粗末な麻の囚人服と不釣り合いであった。

「あなたは…?」

 ディーナが鉄格子の向こうにいるもう一人の男が何者か問うた。

「俺の名はガイウス。白き羽の義賊」

 ガイウスと名乗ったその男は壁に背をもたれさせ、手にしていた林檎に齧りつく。レブロブスは隻眼を見開いた。

「ほお! 金持ちの黒い羽の家ばかり襲っていた盗賊、疾風のガイ様か! 大層な二つ名が付いたもんだぜ。実のところは、そいつらを殺して奪った金を貧乏人共に配って悦に入っていただけの、偽善者だってのによ!」

「今し方、お前も話していただろう。本来、窃盗も殺人も黒き羽の連中が礼賛している偉業さ。俺が牢に入れられた理由は、羽の色という先天的事象によるものだ。俺は生まれてから一度も自分の行いを恥じたことはねぇ」

 ガイウスは眉一つ動かさず、芯だけになった林檎を床に放りながら言葉を続けた。

「そういえば、俺も聞いたことがあるぜ。パンデモニウムの闘技場で、最強の白き羽なんてのを自称し天狗になった剣闘士が、この世には初めからありもしない自由とか言うものを追い求めて闘技場を脱走し、あっけなく捕まったという話を。その世間知らずの名前は、筋肉馬鹿のレブロブス、とかいったな」

「てめぇ、もういっぺん言ってみろ!」

 寝台から立ち上がったレブロブスが威嚇するように拳で鉄格子を殴打すると、けたたましい反響音が獄舎内に広がった。

 二人の死刑囚の気迫にのまれ、ディーナは林檎を両手で抱えたまま呆然と彼らを眺めていた。

 

 

 

 

「貴様ら、何を騒いでいやがるんだ!」

 レブロブスとガイウスの間に不穏な空気が流れ始めると、騒ぎを聞きつけた黒い羽の三人の看守達が現れた。ディーナ達の牢屋の前で立ち止まると、一人の看守が辺りを見回した。

「見張りのピリポはどこにいる!」

「ぼ、僕は…ここにいます!」

 頓狂な声と共に、ディーナ達の眼前の、藁の筵が被せてあった小山が動き出し、その中で身体を丸めていた黒い羽の少年が身を起こした。今まで気配を殺し微動だにしていなかった少年の隠密のような業にディーナは呆気にとられ、ピリポと呼ばれたその少年を凝視した。

 年の頃はディーナと同じか、わずかに下である。小柄な体躯と、奔放に跳ねた黄土色の髪と、困り果てたように下がった眉尻が、母親とはぐれて孤独に震える子犬を彷彿とさせた。風貌に悲哀を感じさせる理由はそれだけでなく、彼の服がつぎはぎだらけのボロであり、黒い羽の者であるにも関わらず奴隷と見紛うような姿であったからだ。

 ピリポは他の看守達の前に直立し、遥かに体格のいい彼らをおずおずと見上げている。

「ピリポ! てめぇはまた毛虫みたいに丸まって隠れてやがったのか! 警備も満足にできない木偶の坊が!」

 看守の一人が怒号を飛ばし、鉄拳がピリポの顔面を歪ませた。それが合図であったかのように、他の看守達も次々とピリポを痛めつけ始めた。看守達は加減と言うものを知らない。ピリポはその場に蹲り、急所である頭に両腕を回した。彼は看守達の怒気が治まるのをひたすら黙って耐えている。

「や、やめて…!」

 突如始まったリンチを目の当たりにして、ディーナは悲鳴を漏らした。自身が異端審問官に悪意を剥き出しにされ、暴力を振るわれた時の光景がまざまざと頭の中に浮かび、身体が強張った。

「まーた始まったか。このもやし野郎はよ、監獄一の臆病な看守で、他の看守共から毎日焼きを入れられてんだ。さんざ殴られても一言も言い返さねえでいやがる腰抜けだ!」

 レブロブスがピリポを見下ろしながら忌々しそうに舌打ちをした。

「黒い羽の社会の中で、罪深い弱者が淘汰されるのは自然の摂理。こんな惨めな姿を晒し続けるくらいなら、俺だったらとっくに首を吊ってるがな」

 ガイウスは冷ややかな嘲笑を浮かべている。

「待合室の居心地はどうかね? 諸君!」

 すると、老獪さの滲む笑い声と共に一人の黒い羽の男がディーナ達の牢屋の前へやって来た。身の丈はディーナとさほど変わらない小男だが、見事な口髭がこの牢獄での彼の威光を示すかのようであり、顔に刻まれた皺の中で獲物を狙う猛禽類のような目がぎょろぎょろと動いていた。

 ピリポを取り囲み暴行していた看守達は機敏な動きでその男の前に整列した。

「てめぇが獄長のカロンか。こんな辛気くせぇ所に押し込めやがって…殺すならさっさと殺せ!」

 レブロブスが怒りを露にして場の空気を震わせたが、カロンと呼ばれた男はそれを一笑に付した。

「笑止! 七つの大罪を犯しておいて、簡単に死ねると思っているとは! 諸君らには、大悪神を封じ込める生け贄という身に余る大役を用意してある!」

「大悪神の生け贄? 俺達をどうするつもりだ」

 今度はガイウスが顔をしかめると、カロンは自慢の口髭を弄びながら牢の死刑囚達をせせら笑う。

「焦らずとも、もうじき身を以って知ることになる。愛や自由などと戯言を語る愚かな罪人共! これから始まる無限地獄に、心を入れ替え我に泣いて感謝するがいい!」

 豪快な高笑いを残し、カロンは待合室を後にした。三人の看守達もそれに続く。最後の一人が置き土産とばかりに倒れているピリポを蹴飛ばし、ディーナ達を睨み付けた。

「生け贄共、よく聞け! この牢の奥には、お前達では到底謁見することが適わない、やんごとなき身分のお方がいらっしゃるのだ! これ以上その方の御気分を害さないよう、大人しくしていろ!」

 

 

 

 

 カロン達が立ち去った後、ディーナは横向きに倒れたままのピリポが死んでしまったのではないかと息を止めて見守っていた。彼の背中が微かに動いているのを確かめ、僅かながら気が休まった。

「やんごとなきお方だぁ? どうしてそんな奴がとっ捕まってるんだよ」

 レブロブスが看守の言葉を怪しんでいると、ガイウスが記憶を呼び起こしながら口を開いた。

「そういやぁ…宗教都市リベイラを治めていた大神官が、権力争いに敗れて数年前に投獄されたって話を聞いたことがある。そいつもここの牢の中にいるんだな」

「神官は街の支配者になれる程強い権力を持っているの?」

 世界の常識を得ることに貪欲になっているディーナは必死にガイウスの言葉に耳を澄ましている。

「黒き羽の奴らは、白き羽達を支配する大義名分として、自分達が創世記戦争という御伽噺の中に出てくる偉大な神の子孫だと信じ込んでやがる。その中でも大神官と呼ばれる黒き羽は、神に匹敵する力を持つ者として畏れ敬われてるのさ」

 レブロブスは怪訝な表情を隠さずガイウスの話を聞いている。

「大神官は、頭に牛みてぇな角が生えている上に、海を真っ二つに割ったりする魔導の力が使えるって話だ」

「お前、正気か? すかした調子でよくそんな与太話ができるな」

 一通りの説明をガイウスが終えると、レブロブスは大きく鼻を鳴らした。

「そんなにすげぇ力を持ってる奴が、ここから逃げ出さずに何年も牢屋の中で縮こまってる訳あるか! 自分が牢獄で過ごしやすくなるために看守共を騙してる、ただの悪賢いじじいに決まってら!」

 その時、聞き慣れない老人の笑い声が獄舎内にこだました。それはカロンのものに比べ、落ち着きと寛容さを含んでいた。

「お褒めいただき、光栄じゃよ」

「なっ! どこから話してやがる!?」

 レブロブスは鉄格子越しに廊下を見渡した。謎の声は再び彼らに語り掛ける。

「こんな牢屋など、出たければいつでも出られるんじゃが…。時々ここにやって来る、お主達のような活きのよい生け贄を観察するのが興味深くての、つい腰を据えてしまったわい」

「頭の中に声が直接響いてくるみたい…」

 出くわした怪異に、ディーナは知らず知らず心中を呟いた。彼女達の牢から声の主の居場所を見つけることはできなかったが、牢の者達を諭すその声は明瞭に伝わっていた。

「へぇ、噂をすれば影ってやつか。やんごとなき大神官様よ! その有り難い力で俺達を助けてはくれないか?」

 ガイウスが皮肉めいた口調で声に問い掛けると、声は屈託の無い笑い声と共に答えた。

「力には力の使いどころというものがある。悪いが、今はその時では無いのじゃ。それに今日のところは、お主達もそろそろ床に就いた方がよいのではないか? これ以上騒げば…そこで半死半生になっている哀れな看守が、いよいよ殺されそうで見るに耐えん。それともお主達は、弱い者虐めをいつまでも見物し続けるという高尚な趣味を持ち合わせておるのかね?」

 年の功だけあり、話術では声の主が一枚上手のようだった。

「嫌味しか言わねぇ偽善者にも、手品師のじじいにもうんざりだ。俺はもう寝る!」

 レブロブスは悪態をつくと早々に寝台へと身体を預け、腕を枕に瞼を閉じた。

 

 

 

 

 獄舎内に再び静寂が訪れた。夜が更けてもディーナは眠ることができず、寝台の上で膝を抱えていた。

 つい数日前まで、ディーナは側にいるゼロの安らかな寝顔を眺めながら、平穏な眠りに就いていたのだ。たとえ世界の仕組みが彼女の中で明らかになったと言っても、気持ちの整理ができるはずはなかった。

 獄舎の廊下で物音が聞こえたため、ディーナは寝台から降りて鉄格子から外の様子を窺った。すると、見張りをしていたピリポが先程受けた怪我の痛みに耐えかねてよろめき、片膝を立ててしゃがんでいる姿が見えた。

「大丈夫……?」

 恐る恐るディーナが声を掛けると、ピリポはぎょっとして顔を上げ、ディーナを見つめた。殴られた彼の右目は大きく腫れ上がり、まともにものが見えていないようだった。口元や頬には治りかけている古い痣があり、彼がこの牢獄で日常的に暴力を受けていることを物語っていた。

「私はディーナ。あっ、えっと…この林檎、食べる? さっきガイウスさんがくれたの。食べたらきっと元気が出るよ」

 ディーナは鉄格子の間から林檎を持った右腕を伸ばした。痛ましいピリポの姿を見ていると、彼のために何かをしたいという感情が湧いた。

「君は…変わった奴だね」

 ピリポは目の前に差し出された赤い実を眺めながら、ぽつりと言葉をこぼした。

「さっき、僕がみんなに虐められていたとき…君だけが僕を馬鹿にしなかった。それに今だってこんな…偽善と疑われてもおかしくない行為を平気でやってのける」

「虐められている人を見て、馬鹿にすることなんてできないよ! 殴られるのも、酷い言葉を浴びせられるのも、辛いもの…」

 ディーナは、虐げられた経験がある者だけが知る痛みを既にわかっていた。その痛みを知ることが、他者への共感となるか、更に弱い者を隷属させることへの野心になるかは、それを知る人間の意志次第であり、彼女は前者であった。

「それに今はね、あなたが悲しそうな顔をしているから、少しでも楽しいことを考えて欲しいって、ただ、そう思っただけ」

「…そんなこと言われたの、初めてだ」

 ピリポは、自らへ真っ直ぐに向けられた誠意に面食らっていたが、痛みに歪んでいた表情は幾らか和やかになっていた。そして身体を引き摺るようにしてディーナの牢屋の前へ向き直った。

「僕は、君とレブさんの会話を隠れながらずっと聞いていたんだ。君の御主人様は大罪人かもしれないけれど…物凄く勇気のある人だね。鬼みたいに恐い異端審問官の前で愛を口にしちゃうなんて…僕は考えただけで気が遠くなるよ…」

 ピリポは虚空を見つめながら俯いている。

「愛って本当にこの世にあるのかな? それって、発情期の思い違いや、相手を自分の言うとおりにさせたいって思う気持ちとは別の感情なのかな?」

「それは…」

 ディーナは、異端審問官達がゼロへの説得を試みた際に使っていた野卑な愛の言い換えを思い出し、口籠もった。

「親が子供を外敵から守ったりすることがそれに似た感情から来るものらしいんだけど、それだって、子供が死ねば自分の血を絶やしてしまうから、種の保存のため本能的に身体が動いてるだけなんだって。それに、僕の家族の場合は……ごめん、こんな話、つまらないよね」

「ううん。あなたのお話、聞かせて欲しい」

 ピリポは一瞬口をつぐんだが、彼の話を聴き漏らすまいとしているディーナの健気な瞳に触発され、胸のうちに抑圧されていた真情を吐露した。

「僕は生まれつき、身体が弱いんだ。だから本当なら弱者の罪に問われて捕まるところだったんだけど、僕の家は比較的裕福だったから、両親は周りの人達に賄賂を渡して、僕のことを異端審問会へ通報しないように取り計らってた。…七つの大罪を犯した人間が一族から出れば、その家は没落するから」

 ピリポの声は儚く、牢獄の暗闇の中へ吸い込まれていきそうだった。

「でも、僕が成長して、両親は僕の存在を隠し通すことができなくなったんだと思う。それで両親は、僕を世間から遠ざけるために、僕をこの地下牢の看守にしたんだ。仕方のないことだって納得したつもりだったけど…やっぱり何だか…悲しかった」

 もちろん今のディーナに、自分の家族についての記憶は微塵も残されていない。それでも、両親から見放されたと思っているピリポが、計り知れない絶望を抱えて生きていたと想像することは容易だった。

「だから、僕みたいに血を分けた親からも疎まれて迫害される人間だっているのに…白き羽に愛を口にする黒き羽がいるなんて、本当に驚いたんだ」

 そしてピリポは不均衡な両目でディーナを見据えた。

「ねぇ、ディーナ。一つだけ僕に教えて欲しい。君の御主人様は君に愛を告げた。レブさんはその愛を妄想だって言ってた。君は? 君は御主人様のことを、どう思っているの…?」

 その質問に、ディーナは自らの鼓動が速まることを感じた。それは、ゼロがディーナに愛を口にした瞬間から今に至るまで彼女の頭の中を巡り続けていた問いかけだった。

 ディーナはピリポからの問い、つまり自分の心に向き合うため呼吸を整え、言葉を紡ぎ始めた。

「ずっと考えてた。私がゼロに抱いてる感情はなんだろうって。あの人は記憶を失った私が目を覚ましてから、ずっと側にいてくれた。もしかしたら私は、卵から孵った雛が親鳥の跡をついて回るみたいに…保護されることを求めて彼に依存していただけなのかもしれない。記憶の無い私には生きていく術が無かったから、彼を利用していただけかもしれない…」

 ディーナは言葉に詰まり、俯いた。ピリポは静かにディーナを見守っている。

「でも、幸せだった。あの人は、私一人では一生得られなかった喜びを、たった一年間の中でくれたの……!」

 顔を上げたディーナの瞳から熱い涙が溢れた。

「どんな苦しい思いもして欲しくないの。私は側にいなくてもいいから、生きていて欲しい。ゼロの無事が確認できたら、私はどうなってもいい! だからもう一度だけ、会いたい……!」

 それがディーナの答えだった。彼女はその場に膝をつき、嗚咽した。

 ピリポはしばらくディーナを見つめていたが、おもむろに立ち上がったかと思うと、懐から鍵の束を取り出した。

 そしてディーナの牢の扉を開け、小声で彼女に呼び掛けた。

「早く、ここから出なよ!」

 ディーナは両頬に光の筋を残したまま、ピリポを唖然と見上げている。

「僕が君を牢獄の外まで連れて行くよ。この牢獄の看守は怠惰な人が多いから…こっそり行けば逃げ切れるはず」

「そんな…そんなことしたらあなたが殺されてしまう!」

 ディーナは立ち上がりピリポを制止したが、彼の決意は揺るがない。

「僕のことはいいんだ。僕は何の力も無い臆病者だから、皆になぶり殺されるのもきっと時間の問題だし…。この牢獄でも誰も僕のことを相手にしなかったのに、君だけが僕を元気づけようとしてくれて、そして、真剣に僕の話を聞いてくれた。君が生け贄になってしまったら僕は…後悔し続けると思うから」

 ピリポは自らの末路を憂えい、一瞬苦渋の色を浮かべたが、すぐにディーナに笑い掛けた。彼女と出会ってから、初めて見せる笑顔だった。

「僕にはまだ愛ってものがよくわからないけど…君の話を聞いて、羨ましいって思った。もしも僕がここで死んでしまったら…次は、君みたいな白き羽に生まれ変わりたい。健康な身体があって、それで、大好きな御主人様が現れて、その人も僕のことを大好きだって言ってくれたら、きっとそれは…泣いちゃうくらい幸せなんだろうな」

 ピリポは微笑んだまま、か細い手をディーナへ差し伸べる。

「君は…御主人様に会いに行かなくちゃ駄目だ。さぁ、行こう…!」

 その腕にも多くの傷跡があった。痣だけではなく、中には刃物による切り傷や火傷によるものもあった。

 ディーナの頬を再び涙が伝った。自らに羨望の眼差しを向けるこの少年は、傷だらけの小さな身体から無謀とも言える勇気を奮い起こし、身を挺して自分を救おうとしている。

「こんなに…ぼろぼろになって…。ひどい……!」

 ディーナが思わずピリポの手を取った途端のことだった。陽光や月明かりや、燭台の炎とも異質の眩い白い光がディーナから解き放され、二人を包み込んだ。同時に、何処からともなく突風が巻き起こり、二人の羽を吹き飛ばさんばかりの勢いで揺らした。開いていた牢屋の扉が石の壁に当たり、激しい音を立てる。光輝は衰える気配を見せず、目を灼かれそうになったディーナは瞼を閉じ、両手で目を覆った。そして光はディーナ達がいる地下内部に満ちていった。

 時を同じくして、ある独房内でローブに身を包んだ老人が立ち尽くしていた。

「まさか…! このような地の果てで、救世主の復活の瞬間に立ち会うことになろうとは……!」

 彼は神光に照らされながら、感嘆の声を上げた。

 

 

 

 

「おい、どうなってやがる! 爆薬でも落とされたのか!?」

 焦燥するレブロブスの声がディーナの耳に届いた。すると、光と突風は掻き消え、獄舎内には元の薄闇が戻った。

「何が起こったの…? ピリポ君、大丈夫!?」

 ディーナは瞼を開け、目の前で両手と両膝をつき倒れているピリポの側にしゃがみ込む。

「僕にもわからない…突然、君が光だして…」

 顔を上げたピリポを見て、ディーナは息を呑んだ。

「ピリポ君…顔の怪我が……!」

 ピリポの視野を狭めていた右目の腫れは完全に引いており、人懐こい犬のような二つの瞳がディーナの姿を捉えていた。口元や頬にあった痣も、影も形もない。

「ど、どうして…!? 身体がどこも痛くない…怪我が全部治ってる!」

 ピリポは無数の傷が刻まれていたはずの両腕を、自分のものではないかのように驚異の目で見つめている。

 彼に舞い降りた奇跡はそれだけでは無かった。

「ピ、ピリポ…お前! 気づいていないのか…!?」

 今まで感情の起伏を表に出していなかったガイウスが、余りの動揺に絶句していた。

「背中の羽の色が真っ白になっちまってるぞ!」

 ピリポの背中には、今にも空へ飛び上がれそうな程大きく広がった純白の鳥類の翼が生えていた。その白さは、ピリポの無垢な心をそのまま映し出しているかのようだった。

「ぼ、僕…本当に一度死んで、白き羽に生まれ変わっちゃったのかな…?」

 ピリポの周囲にいる者達は皆状況が飲み込めず呆然としている。

「何をしておるのじゃ! 早く逃げ出さんと、今の騒ぎを聞いて集まってくる看守共に捕まってしまうぞ!」

 ディーナ達の頭の中へ再び謎の声が語りかけ、脱出を急き立てた。ピリポは困惑したまま立ち上がる。

「訳がわからないよ…僕はどうすればいいの?」

「そんなこと決まってんだろが」

 牢の中のレブロブスは落ち着きを取り戻し、大胆にピリポへ言い放った。

「お前はこれから俺達と一緒に脱獄すんだよ! 理由もわからず白い羽に変わっちまったお前が、このままただで済むと思ってんのか! いいから早く、俺と偽善野郎の牢も開けろ! 騒ぎが知られた以上、お前とこの女だけじゃ逃げ切れねぇ!!」

「だけど…僕には……!」

 ディーナの脱獄のために命を賭すことができたピリポであったが、自分自身が犯罪者となり世界を敵に回すことについては戸惑いが残るようであった。

「…お前も俺と一緒にこいつの御主人様とやらの、邪悪な顔を拝みに行きたいとは思わねぇのか?」

 レブロブスはピリポに不敵な笑みを投げ掛けた。彼の思いもよらない発言にディーナとピリポは目を見開いた。

「お前、ディーナとか言ったな。俺は今も愛なんてこの世にはねぇと思ってる。だがお前は、黒い羽と暮らした時間を幸せだったと断言し、挙げ句にそいつのためなら自分はどうなっても構わないと泣きやがる。俺は…不思議とお前の気が狂ってるだけだとも思えねぇ。お前をそこまでさせるものが何なのか、知りたくなったんだよ」

 レブロブスの言葉に、ピリポの表情から迷いの色が消えた。

「気をつけよ! 看守共がやって来るぞ!」

 謎の声が警鐘を鳴らすと同時に、見覚えのある黒い羽の看守達がディーナ達の牢まで向かって来るのが見えた。ピリポを痛め付けていた三人の看守である。

 ピリポがレブロブスの牢を開けると、レブロブスは廊下へ躍り出て、獣のような雄叫びを上げた。彼の闘志に怯んだ一番手前の看守のみぞおちに巨大な拳を打ち込み、その顔面を石の柱に叩きつけた。地面に倒れ痙攣していた看守はすぐに動かなくなった。

「ピリポ、その剣をよこせ!」

 牢から解放されたガイウスはピリポが携えていた細身の剣を受け取ると、二つ名に恥じぬ敏捷な身のこなしで廊下を駆け抜けた。矢を番えようとしていた看守との間合いを一気に詰めたかと思うと、一太刀のもとに斬り伏せる。そのまま足を止めること無く、増援を呼ぼうと退却しかけた看守の喉元へ剣先を突き刺した。

「レブロブス。お前、さすがに脳味噌まで筋肉にはなってねぇようだな」

 ガイウスが剣の血を払いながらレブロブスを見遣った。

「わかりゃいいんだ! わかりゃあって…何だと、てめぇ!!」

「すごいなぁ…レブさんもガイさんも、人を殺すことを全く躊躇してないやぁ…」

 軽口を叩き合う二人を眺めながら、ピリポが間の抜けた声で彼らを称えている。

 ピリポの隣にいるディーナは黙ったまま、レブロブスが仕留めた看守の死体から広がる血溜まりを見つめていた。戦いの間、彼女は身動き一つ取ることができなかった。余りにも呆気なく命が奪われる瞬間が目に焼き付いた。

 しかし、これがディーナの選んだ道だった。ゼロに再会するために辿る道には、これから夥しい量の血が流れるという予感がした。

 彼女には覚悟と犠牲が必要だった。

「ピリポ! ぼーっとしてねぇでさっさと俺達を出口まで案内しやがれ!」

 レブロブスがピリポを呼びつける。

「う、うん! ディーナ、僕達も行こう」

 ピリポがレブロブス達の元へ駆け出し、ディーナもそれに続く。ピリポが弓使いの看守の死体を通り過ぎようとした時、彼は立ち止まり、死体の側に落ちていた弓を拾った。

「お前、弓なんか使えるのか?」

 ガイウスが意外そうに問い掛けると、ピリポは遠慮がちに答えた。

「ここに来る前、弟と一緒によく狩りに行ってたんだ。だから…」

「おいおい、兎や鹿を獲るのとは訳が違うんだぜ。本当に大丈夫かよ?」

 レブロブスが呆れ返り、ピリポはますます萎縮した。

「役に立つかわからないけど…僕、剣術とかはからきし駄目だから…丸腰でいるよりましだと思う…」

 そう言うと哀愁に満ちた表情で矢筒を背負った。

 

 

 

 

 ディーナ達が地下牢から地上へ続く階段を登ろうとした時、彼女達を呼び止める声があった。

「おーい、ついでにわしの牢も開けてもらえんか!」

「この声は…大神官さんの…」

 ディーナが立ち止まり辺りを見回した。

「こっちじゃ、こっち」

 その声の調子は、脱獄犯達の足止めをするにしては随分と呑気だった。

 ピリポがその声を頼りに該当する部屋を探し当て鍵を開けると、全身を漆黒のローブに包んだ人物が廊下へ姿を見せた。背中にはそのローブと同じ色の羽が生えている。

「すまんな、手間をかけた」

 顔を隠していたフードが脱がされると、澄み渡った湖面のように穏やかな瞳を持ち、口元に悠然と笑みを湛えた好々爺が現れた。そして何よりディーナ達の目を引いたのは、ガイウスの話にもあった、彼の両側頭部に生える二本の巻き角であった。

「わしの名はヨハネ。黒き羽の神官にして、ネクロマンサーの魔道士である」

「本物の魔導士だってんなら、お前の力の使いどころとやらはいつなんだ?」

 ガイウスが鋭い目つきでヨハネを問いただすと、彼は闊達な笑い声を上げた。

「いやはや、当然の疑問じゃな! 実はの、魔術を使うには触媒として生け贄の血液、つまり死体が必要なのじゃ。先刻は見栄を張ってはみたものの、文字どおり手も足も出ない状態じゃった! お主達が通り掛かってくれて幸運だったわい」

「こいつ、やっぱりただのボケじじいじゃねぇのか?」

 レブロブスが腕を組みながらいぶかしがった。

「細かいことを気にしてはいかん。今は脱出が先決じゃ!」

 ヨハネの鷹揚さにガイウスは小さく嘆息した。

「筋肉馬鹿とじいさんとガキ二人か…錚々たる顔触れだな」

 レブロブス、ガイウス、ピリポが階段を登り始め、ディーナも段差に足をかけようとすると、ヨハネの視線を強く感じ、思わず彼の方を振り向いた。

「あの、どうかしましたか?」

 ヨハネは無邪気ないたずらを考えた子どものように笑った。

「やはり…かなり邪悪な面構えをしておる」

 ディーナはきょとんとして目を瞬かせた。

 

 

 

 

 一行が牢獄内を進むと、警備をしていた数人の看守達の襲撃に遭ったが、先陣を切るレブロブスとガイウスによって皆悉く返り討ちとなった。看守達の中に戦い慣れている者は少ないようだった。

 ピリポ曰く、ゴルゴダの牢獄の看守は、財力のある身内がカロンに袖の下を握らせたことによって就任した者ばかりであり、世界の美徳の一つである怠惰を極めている彼らの士気は押し並べて低いという。

「この先が外に続く玄関ホールだよ。多分、そこにも看守達がいると思うけど…」

 ピリポの誘導に従い、ディーナ達は薄暗い通路を駆ける。すると彼女達の視界が開け、目の前に広間が出現した。壁に施された得体の知れない生物のレリーフと、地面の至る所に空いた窪みの中で燃え盛る業火がおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。窪みの真上には手枷の付いた鎖が伸び、地上には巻き上げ機が設置されている。炎は囚人を火責めにするためのもののようであった。

「ヨハネ様! お供を連れてお出かけですか!」

 広間にある巨大な扉を背に、槍を手にしたカロンと武装した二十人近くの看守がディーナ達を待ち構えていた。

 カロンは変わらず不気味な笑みを浮かべている。

「後生ですから、牢に戻ってはいただけませんか? あなた様を力尽くで従わせるようなことはしたくないのです」

「カロンよ、世話になった。牢獄暮らしは十分満喫したのでな。所用もできたので、ちょいと外出させてもらうよ」

 カロンの要求をヨハネは飄々とかわした。

「まぁ、出世欲の権化のようなお主が、金の生る木であるわしを簡単に見逃してくれるとは思わんが」

「よぉくわかってるじゃねぇか!」

 カロンの語調が突如として粗野になり、張り付いていた笑顔は憤怒の形相へと変わった。

「てめぇが牢屋にいるだけで、教皇庁から世話代として莫大な予算がもらえるんだ! むざむざ逃がしてたまるものか!」

 カロンは槍を掲げ、看守達に指示を出す。

「看守兵、ヨハネは生け捕りにしろ! 他の奴らは殺して構わん!」

 武器を構えた看守達が一斉にディーナ達に向かって走り出した。

「レブロブスにガイウスよ。わしが魔術を使うためには血の生け贄が必要だということはもう知っておるな? そうじゃな…あと五、六人ばかり殺してくれれば残りはわしが引き受けよう」

「あぁっ!? じじいの指図なんか聞いてられっか!」

「お前らはすっこんでろ!」

 二人はヨハネの話を歯牙にもかけず、看守達を迎え撃つために前進する。

「やれやれ、最近の若者は血気にはやるばかりでいかん」

「ヨハネさん…ぼ、僕はどうすればいいのかな…?」

 大仰に落胆した素振りを見せるヨハネに、ピリポが恐怖で顔を青ざめさせながら尋ねた。

「遠方から敵の意表を突き、仲間を助け勝利をもたらすのが射手の役目じゃ。そこの鎖を伝って高所に移れんか? あやつらを援護してやってくれ」

 ヨハネは壁の側にある巻き上げ機から天井に伸びている鎖を指した。巨大なレリーフの上縁は塀のような足場になっており、鎖を登れば乗り移ることができた。ピリポは不安げに鎖を見上げ、弱々しく頷いた。

「う、うん…やってみるよ…」

「無理、しないでね…」

 ディーナが鎖に手をかけたピリポの背を見守っていると、ヨハネがディーナへ避難を促した。

「ディーナ、お主は事が済むまで元来た通路で隠れておるのじゃ。術の詠唱中は無防備になるので、わしもお主を守れぬのでな」

「はい…ヨハネさんも気をつけて」

 ディーナは自らの歯痒さに顔をしかめたが、今の彼女はヨハネの言うとおり身を隠すことしかできなかった。

 レブロブス達と看守達の戦いは既に始まっている。看守の一人が棍棒を振りかざし、レブロブスを殴りつけた。

「効かねえなぁ…!」

 レブロブスは前腕で棍棒を受け止めながら、冷ややかに笑った。

「強さこそがこの世で唯一の真理だ。俺は強い奴しか生き残れない世界で、誰よりも力を求めて戦ってきた…! 囚人を痛め付けてふんぞり返ってるだけのお前らが、俺に敵う訳ねぇだろうが!!」

 もう一方の腕で看守を炎の中に殴り飛ばし、奪い取った棍棒で側にいた看守の頭部を粉砕した。

「いちいち吠えねぇと戦えねぇのか、この筋肉馬鹿は…」

 ガイウスは看守の斬撃を軽々と避けながら相手の背後を取り、その背中を斬り裂いた。そのまま身を屈め、後方から別の看守が水平に繰り出した凶刃を躱す。そして地面に突いた片腕を軸に身体を反転させ、その勢いで看守の足首を斬り落とした。看守は鼓膜を突き刺すような悲惨な叫び声を上げて倒れる。

「そうか…そこまでして邪神の生け贄となるよりも我が手にかかって死にたいか!」

 業を煮やしたカロンが槍を構えると、善戦している二人の元へ猛烈に突進した。二人はカロンの一撃を避けたが、その隙に看守達に取り囲まれ退路を断たれている。

「…さぁ、退くのじゃ、ディーナよ」

 ヨハネに急かされ、ディーナはレブロブスとガイウスを心配そうに見遣りながら後退した。

 すると、ディーナ達が通って来た通路の奥から広間に向かって来る人影が見えた。頭から血を流した看守である。レブロブス達が討ち取った者の中に、まだ息がある者がいたのだ。

 広間に足を踏み入れたその看守は怪我のせいで意識が朦朧としているのか、茫然と辺りを見回していた。しかし眼前にいるヨハネの姿を視野に入れた途端、瞳の中に憎悪を宿らせた。

「囚人ごときが…逆らいやがって……!」

 看守は剣を片手にヨハネに向かって突き進んだ。

「ヨハネさん!!」

 魔術の詠唱を始め、精神を統一しているヨハネにディーナの声は届かない。考える間もなくディーナはヨハネと看守の間に割り入り、ヨハネの背を守るように両手を広げ立ち塞がった。

 看守の剣がまさにディーナへ振り下ろされようとした時。

 風を切る音と共に一本の矢が看守の首を貫通した。看守は剣を取り落とし、そのまま床に倒れ伏した。

 ディーナは矢が飛んで来た方向を仰ぎ見た。

「あ、当たった…!?」

 矢の命中に誰よりも驚いていたのはその矢を放ったピリポ自身であった。

 鎖を登りきり高所に立ったピリポは、見事に気配を悟られぬまま敵を討った。彼は敵を撃破した感動の余韻に浸ることなくすかさず二の矢を番え、レブロブス達を取り囲んでいた看守の一人の背を射抜いた。

「やるじゃねぇか、ピリポ!」

 態勢を崩された看守達の隙を突いたガイウスが斬り込みをかけ、レブロブスと共に包囲を脱した。

「みなの者、よくやってくれた!」

 その時、詠唱を終えたヨハネの声が広間中に凛と響いた。

「血は満ちた…! 古より伝わる聖なる力をその身に受け、土へと還るがよい!」

 ヨハネの頭上に光輪が浮かび上がった。その形が球となって凝縮されると、白かった球の色が紫紺に濁り、数多の光弾となって看守達の身体に降り注ぎ爆発した。

 光弾は爆発だけではなく毒気にもよって彼らの身体を害した。生き残っていた看守達の皮膚は瞬く間にただれ、その肉は腐敗し、崩れ落ちた。

 獄長のカロンもその例外では無かった。

「ここから…逃げおおせたところで……貴様らに安住の地など…無い……!!」

 呪詛のような断末魔の叫びを上げて、カロンの身体は朽ち果てた。

「す、すげぇ…」

 レブロブスは目の前の汚泥の海を眺めて息を呑んだ。

 ヨハネは笑みを浮かべ泰然と佇んでいる。

「年寄りの話には耳を貸すものじゃ」

 

 

 

 

 牢獄の外に出て、ディーナは初めてゴルゴダの牢獄が山岳地帯に位置しており、社会から隔絶されたように薄寂しく建てられていたことを知った。脱獄に成功した一行は牢獄から十分に離れた崖の上で小休止することとし、そこで夜明けを迎えた。

 朝日が残雪のある山肌を輝かせ、眼前に限りなく広がる山稜には清涼な空気が流れ込んでいる。

「お主には悪いことをした」

 ヨハネがピリポに憐憫の情を以って語り掛けた。

「不測の事態だったとは言え、脱獄の手引きをさせた上に、かつての同僚を手にかけさせってしまったからのぅ」

 崖の上に立ち尽くし俯くピリポの頬は濡れていた。

「違うんだ」

 ピリポは瞳を潤ませたまま、手の甲で頬を拭った。

「健康な身体でいられることって…こんなに凄いことなんだね。それに僕は…弱虫なのにあんな風に戦うことができて…まだ、信じられなくて!」

「俺達の中に弱虫なんていねぇんじゃないか?」

 ピリポの言葉を、レブロブスがあっさりと打ち消した。

「そうだよ、ピリポ君は弱虫じゃない」

 ディーナがピリポに笑い掛ける。

「あなたは自分のことを顧みずに私を牢屋から逃そうとしてくれた。それから、私の命を救ってくれた。ピリポ君の勇気が、私をあの牢獄から脱出させてくれたんだよ。本当に、ありがとう!」

 ピリポはレブロブスとディーナを見つめながら、再び瞳から大粒の涙を溢した。

「義を見てせざるは勇無きなりってな。自分の中で正しいことだとわかっていながら、それを実践できない奴を弱虫と言うんだ」

 岩に腰掛けているガイウスは、見繕ったばかりの武器の手入れをしながら口を開いた。それはカロンから無断で頂戴した槍である。

「こんな言葉もあるぜ。恐れを知って―――」

「恐れを知って、しかもそれを恐れざる者こそ、真の勇者なり! 古くから伝わる邪教の教えではないか! わしも気に入っておるぞ」

 ガイウスの言葉にヨハネの朗らかな声が重なった。

 泣き止んだピリポは頬を濡らしたままヨハネの話に聴き入っており、セリフを奪われたガイウスは不服な顔でヨハネを睨み付けた。

「ガイの言うとおり、お主は既に勇気とは何かを知っておったから、それを実行することができたのじゃ。その勇気こそが、お主の中に眠っていた力を引き出したのかもしれん。自分に自信を持つことじゃ」

 レブロブスが愉快そうに隻眼を光らせた。

「おもしろくなってきたな! 脱走犯の俺達には、その内追っ手が差し向けられるはずだ。バラバラに逃げても戦力が分散して、何の得にもならねぇ。しばらくは一蓮托生と行こうじゃねぇか!」

「筋肉馬鹿の割に難しい言葉を知ってるな」

「ガイ、そろそろてめぇの舌を引っこ抜くぞ!」

 レブロブスとガイウスの間を流れる空気が牢獄内で出会った頃よりも柔らかくなっていることに気付き、ディーナは微笑ましさを感じた。異端審問官達が現れた時からずっと張り詰めていた緊張の糸が、初めて緩んだ瞬間だった。

「しっかし、これからどうするよ? お前の主人を探すと言っても、何の手がかりもねぇんだろう?」

「うん、ゼロが連れ去られている間、私は気を失ってしまっていたから…」

 当惑する様子のレブロブスの言葉にディーナは目を伏した。

「探す当てが無いと言うならば、お主達を案内したい場所がある」

 ヨハネがディーナを見つめながらある発案をした。

「わしが昔、統治していたリベイラの街じゃ。そこには古い知人もおるので、何かしらの力になってくれるかもしれん。幸い、ここから距離もそう遠くない」

「少なくともここに長居するよりはましじゃないか? そうと決まりゃあ、さっさと出発しようぜ」

 ガイウスが槍を仕舞い、岩から立ち上がった。

 男達は崖から背を向けて歩き始める。

 ディーナは出立の前に、崖の上から広がる壮観な光景を眺めていた。吹き抜ける風が彼女の髪と背中の白い羽を揺らす。

 この果てしない世界の何処かにいるゼロと再会すること。それは途方も無い願いであり、ゴルゴダの牢獄で囚われの身のままの彼女であれば、成し遂げることは不可能だった。

 しかし、牢獄で出会った者達の導きにより、彼女の可能性は切り開かれた。

 その可能性に賭けてディーナは旅立つ。ゼロにもう一度会い、伝えなければならない言葉があった。

「ディーナ!」

 先行するピリポがディーナを呼ぶ声がする。

 ディーナは仲間たちの方へ振り返り、歩き出した。




 主要登場人物が揃いだす章だったので、大変楽しく創作する事ができました。
 第三章以降は構想を練っている段階なので、更新頻度はかなり低くなると思いますが、お付き合いいただける場合は長い目で見ていただければ幸いです。
 第二章までお読みいただき、ありがとうございました。


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第三章 太陽の神殿

 

 

「やっぱり、ピリポ君はそういう服が似合ってる! 名家の御子息って感じだね」

「か、からかわないで欲しいな…」

 ディーナの心からの称賛の言葉に、着替えを終えたピリポは微かに顔を赤らめた。

 辿り着いた聖地リベイラの宿の一室で、脱獄したばかりのディーナ達は貧相な身なりを整えていた。

「ヨハネさんに出会えて、運がよかったよ。あの人がいなかったら、僕達は街に入ることすらできなかったよね」

 ディーナ達白き羽の者達は、ヨハネが使役している奴隷ということで示し合わせ、街へと入った。白き羽の者は、例外なく黒き羽の者に仕えることを義務付けられている。単身で活動している白き羽の者は、見つかれば直ぐ様逃亡奴隷として捕らえられ、牢獄か競売場へ送られてしまうのだった。

 宿の主人はディーナ達のみすぼらしい姿を見るなり彼女達を追い返そうとしたが、ヨハネが金貨の詰まった小袋をちらつかせると、態度を豹変させ、特上の部屋を貸し与えた。

 囚人の身であったヨハネが潤沢な路銀を持っている理由は謎のままである。

「こうやって、綺麗な服にも着替えることができたし…。でも、レブさんは上着を着ないままで大丈夫なのかな?」

 ピリポは寝台で気持ちよさそうにいびきをかいているレブロブスを見つめた。

「見せびらかしたいんだろ、無駄についてる筋肉を」

 装いを正したガイウスがディーナ達の部屋に入るなり、レブロブスへ皮肉を浴びせた。皺一つ無い、下ろしたての服が彼の精悍さを引き立てている。

「おい、何か言ったか?」

 レブロブスは瞬時に目を開きガイウスを睨み付けると、上半身を起こし、二階の窓から気怠げに街の様子を眺めた。

「それにしてもよぉ、牢獄から出られたかと思えば、また随分と息苦しい所に着いたもんだな! そこら中から神官共の説法が聞こえるぜ」

 宗教都市の名に相応しく、リベイラには至る所に教会が建てられており、早朝から信者達が引っ切り無しに中を出入りしている。

 そして数々の宗教的建造物の中でも一際存在感と厳粛さを放っているのが、街の中央に位置するゴシック様式の大聖堂だった。かつてヨハネが街に君臨していた際に居を構えていたという、太陽の神殿である。

 宿に入る前、太陽の神殿の入り口付近を通り掛けた時、ディーナは敬虔な信徒達が全身を地面に投げ伏すようにして祈りを捧げる姿を目にしていた。

「ここはいつもいろんな国の信者や神官達が行き交っているから、私達が追っ手から身を紛らすには打って付けだってヨハネさんは話していたけれど…。人通りは激しいのに、活気を感じさせない街だね」

 ディーナは窓辺に立ち、殺伐とした街並みを眼下に見ていた。

「わしの次にこの街を支配することとなった大神官のユダは、その嫉妬深さで有名での。下手に注目を集めれば奴に難癖を付けられて殺されてしまうので、街にいる者達は目立たぬよう、つづまやかにしておるようじゃ」

 街での聞き込みから戻ったヨハネがディーナ達の前に現れ、身に付けていた仮面を外した。リベイラの住人に素顔を知られているヨハネは、街に滞在する間その正体を隠す必要があった。

「皆、旅の疲れは癒せたか? 街の庶民達からは有益な情報を得られなかった。身支度が済んだら、太陽の神殿へ赴くとしよう」

「容易く話してるが、物見遊山で讃美歌を聴きに行く訳でもあるめぇし…。じいさんに縁のある神殿なら、神殿の奴らも今頃俺達の脱走の知らせを聞いて、警備を厳重にしてるんじゃないか?」

 神殿で待ち受ける危機を察知し、ガイウスがヨハネに猜疑の眼差しを向けた。脱走犯が助けを求めて自らの出自に関する場所へ逃げ込もうとする心理を推察し、追っ手がその場で待ち伏せをしていることは想像するに難くない。

「神殿の内部には、上層部の限られた者しか知らない緊急避難用の隠し通路があり、街の外れへ続いておる。その通路を逆に辿り、神殿へ潜入するのじゃ」

 ヨハネは落ち着き払って言葉を続ける。

「多少の小競り合いが生じたところで、我々の戦力なら神官兵ごとき十分に打ち負かすことができよう。まずはそこで、我々の協力者となり得る知人と合流せねばならん」

「じゃあ、危ないからディーナはここで待っていた方がいいよね」

 ディーナの身を気遣うピリポを、ヨハネは物腰は柔らかいままに毅然と戒める。

「それはいかん! このリベイラの街は、別名背徳の街と呼ばれる程、凶事と陰謀の渦巻く街じゃ。宿の中とはいえ、ディーナのようなうら若い娘が一人でおっては、その身に何が降り懸かるかわからん。我々と行動を共にした方が安全じゃろう」

「そ、そうなの? 本当に大丈夫かなぁ?」

 困惑するピリポを安心させるように、ディーナは語り掛ける。

「ピリポ君、心配してくれてありがとう。でも私、皆に付いて行きたい。ゼロを見つけるための手がかりがあるのかどうか、自分の目で確かめたいの…!」

 ディーナの必死の形相に、ピリポはそれ以上何も言わなかった。

「戦えねぇ奴を連れて行くのは俺も反対だが、この際しょうがねぇ。とっとと用事を片付けちまおうぜ」

 首の関節を鳴らしながらレブロブスが寝台から降り、部屋から出て行った。皆もそれに続く。

「ディーナ」

 部屋から最後に退出したディーナを、廊下に一人立ち止まっていたガイウスが呼び止めた。

「お前は人を疑うこととは無縁そうな愚鈍な奴だから、言っておく」

 ガイウスの眼光に射竦められ、ディーナはその場に立ったまま石のように固まった。

「ヨハネのじいさんに気をつけろ。あのじじいは恐らく神殿で何かしようと企んでやがる。それも、お前を利用してな」

「ヨハネさんが?」

 思わぬ人物について注意を喚起され、ディーナは耳を疑った。

「ガイウスさん達と違って私には戦う力も無いし、利用する価値なんて何も思い付かないけど…。ヨハネさん、何を考えているの?」

 ガイウスは片手を挙げ、肩を竦めてみせた。

「さぁな、そこまでは俺にもわからねぇ。ただ…あいつは気立てのよさそうなじじいを装ってはいるが、今まで俺が殺してきた傲慢な野心家共と同じ目をする時がある。とんだ狸かもしれないぜ」

 

 

 

 

 街中の石畳の上をディーナ達は進む。寒々しい灰色を単色で使い、画一的に建てられた民家や教会、伏し目がちに粛々と道を歩く人々の間を通り過ぎて行く。

 歩を進めながら、ディーナは空を仰ぐ。淀んだ雲に覆われた空には、巨大な鎖が浮かんでいた。その鎖はリベイラの地を起点とし、はるか上空へと連なっている。

 頭上に迫る鎖の超常的な重厚感には、畏怖の念を抱かざるを得ない。鎖が街に落とす影が、リベイラの陰々たる空気を形作っているかのようだった。

 雲の上にある鎖の終着点に何があるのかは、ディーナには計り知れない。

「ヨハネさん、この街にいる白い羽の人達は、皆服を着ることを許されているんですね」

 ディーナは視線を空の鎖から先頭を歩くヨハネへと移し、その背中へ話し掛けた。

「わしの治世に、黒き羽達へ、奴隷として飼っている白き羽に服を着せ、四足歩行をさせないように命じたのじゃ。白き羽の者達には、少しでも人間らしい生き方をして欲しくてな…」

「そんな邪悪極まりない優しさを振り撒いてたから、競争相手に足を掬われちまったんじゃないか?」

 ガイウスがヨハネをからかうと、彼は自嘲めいた笑い声を上げた。

「保身のために他者の尊厳を踏み躙ることができる程、わしは有能な為政者ではなかったかもしれん。だが、後悔はしとらんよ」

 今に至るまで、ヨハネの言動の節々には弱者への惜しみない労りが感じられた。彼が奸計を巡らしているなど、ディーナは未だに信じることができなかった。

 やがて一行は市街地を抜けて、リベイラの外れへと行き着いた。人の往来は嘘のように途絶え、舗装されていない地面から砂塵が舞っている。

 ある橋の袂に差し掛かると、ヨハネは川に向かって土手を降った。土手の斜面には水路の引かれた空洞があり、入り口部分が数枚の木片で粗雑に塞がれている。レブロブスがリベイラの武器屋で調達した戦斧で木片を打ち砕くと、ヨハネは用意した角灯に火を灯し、空洞の中へとディーナ達を誘った。

「わしの牢獄送りが決定的となったのは、禁忌とされていたある研究を続けていたことをユダに密告されたからじゃ」

 水流とディーナ達の足音だけが聞こえる薄暗い空洞内部を進みながら、ヨハネが沈黙を破った。

「太陽の神殿の宝物庫には、世界中から集められた希少価値の高い武具が保管されておる。その中に大邪神の鎧を見つけたわしは、その鎧の研究に没頭しておった」

「だいじゃしんの…鎧? 鎧の研究をすることの、何がいけなかったの?」

 ピリポが首を傾げた。

「大邪神の鎧は、ただの防具ではない。偉大な力を秘めた伝説の鎧なのじゃ。人の手の及ぶところではないと、その鎧に関わることは神殿内で禁じられていた。話せば長くなるが…」

 迷宮のように入り組んでいる通路をヨハネは一度も立ち止まることなく歩き続ける。ディーナ達は耳を澄ましてヨハネの言葉を待っていた。

「黒き羽の者達の伝承によれば、かつて世界は愛や自由を信奉する大悪神ゴッドとその下部である白き羽の悪魔達の支配を受けていた。彼らに反旗をひるがえし、父なる大神サタン様の御加護のもと聖戦を始めたのが、黒き羽達の救世主である大天使、メフィスト様じゃ。黒き羽達を従えたメフィスト様は、ゴッド達との永きに渡る戦いの末、勝利を収めた」

「その聖戦というのが、ゴルゴダの牢獄でガイウスさんが話していた創世記戦争のことなんですね」

 ディーナはガイウスとヨハネの話を結び付け、この世界についての理解をまた一つ深めていた。

「創世記戦争で命を落とした白き羽の悪魔達の中には、格別に強大な力を振るった、七大邪神と呼ばれる者達がいた。その者達は、それぞれ万物の根源と、今の世界で言うところの七つの大罪を象徴する力を有していた。大地と正義を司る大邪神、ミカエル。生命と愛を司る大邪神、ガブリエル。太陽と人権を司る大邪神、ラファエル。炎と自由を司る大邪神、ウリエル。水と弱者への慈悲を司る大邪神、サリエル。大気と友情を司る大邪神、ラグエル。そして、謎多き大邪神、メタトロン。残された平等を司る大邪神だと言われておるが、その全貌は明らかにされていないままじゃ」

 ディーナは心なしかヨハネの話し振りに熱がこもるのを感じた。

「大邪神達は戦の中で命尽きる寸前、自らの力を絶やさぬよう、その力を身に付けていた鎧に注ぎ込んだと言われておる。太陽の神殿には、大邪神メタトロンが創世記戦争で着用していたという鎧が封印されておるのだ!」

「じいさんよ、熱くなってるところ水を差すが…まさかそんな昔話を信じて、危険を冒してまで鎧のために神殿に忍び込むってぇ訳じゃねぇよな?」

 レブロブスが苛立ちを隠さぬまま声を荒げると、ヨハネはつと立ち止まり、後ろを歩いていた彼らへ振り返った。角灯に照らされるその表情は、無機質な仮面に隠され、窺い知ることはできない。

「お主達も実物の大邪神の鎧を見れば、その人智を越えた絶対的な力に慄くはずじゃ。鎧の力を手にすれば、追っ手の影に脅えることも無くなる。ディーナよ、お主の主人を救い出すという難関の多い目的を達するためには、必要不可欠なものだと思わんか?」

 ヨハネの口調は穏やかだが、有無を言わせぬ気迫があった。

 彼が立つ位置は行き止まりかと思いきや、目の前の壁には梯子が埋め込まれ、彼の頭上はるかに続いている。神殿内部への潜入の嚆矢だった。

 

 

 

 

 梯子を登り切り、天井の板に力を籠めると、板が外れ光が差し込んだ。梯子の上に身を乗り出し地面に足を着けると、そこは神殿内の祭事を執り行うような広間であった。殺風景な部屋だが、磨かれた大理石の床や敷き詰められた赤い絨毯が静かに神殿の資力を称えていた。

「ここはまだ神殿の中程じゃ。宝物庫は神殿の最深部にある。わしは捕まる直前、鎧の研究を共に行っていた弟子に宝物庫の鍵を預けてきた。ひとまずその弟子と落ち合いたいのじゃが…」

「残念だったな、じいさん。やはりそう簡単に宝探しはできないみたいだぜ」

 思案するヨハネを尻目に見ながら、ガイウスが槍を取り出し肩に担いだ。

 一行の前に、法衣を纏い、巻き角を生やした黒い羽の神官達が二人立ちはだかった。神官達は神殿の巡回中、突如現れたディーナ達に狼狽している様子だった。

 神官達の背後には、全身を濃紫の甲冑に身を包んだ騎士が控えている。顔の表面も兜に覆われ、禍々しい威圧感を周囲に与えていた。

「おい、あいつが着てるのが大邪神の鎧って奴か!?」

 レブロブスがヨハネに問い掛ける。

「いや、違う! あれは、創世記戦争で名を残すことなく散った下級の白き悪魔達が使用していた鎧を身に付けた、邪道騎士と呼ばれる者。悪魔の鎧の潜在能力は、大邪神の鎧に比べればはるかに劣ると言われておるが、手強い相手であることは確かじゃ。かような所で、邪道騎士と相見えるとは…!」

 普段から冷静さを失わないヨハネが、少なからず動揺しながら騎士の正体を答えた。

「あんなもん、ただの鉄の固まりじゃねぇか! 他の奴らと一緒に叩っ斬ってやる!」

 戦斧を構えたレブロブスの瞳に鋭さが増した。

「邪道騎士って、見るからに強そうだなぁ…。ディーナは後ろの方に下がっててね…」

 ディーナの前に立つピリポはか細い声を上げて、弓に矢をあてがった。

 神官の一人が法衣の袖口から硝子の小瓶を抜き出し、中に入っていた紅血を床に滴らせた。そして錫杖をかざし呪文を唱えると、床に溢れた血は浮かび上がり弾丸の雨となって、彼に接近し槍を振るおうとしていたガイウスを襲った。

「こいつらも魔法を使うのか!」

 ガイウスは辛うじて攻撃を避け、代わりに緋色の弾丸は大理石の床にいくつもの穿孔を作り出した。

 ピリポは邪道騎士に狙いをつけて弓を引き絞り、渾身の一撃を放った。しかし邪道騎士の鉄壁の鎧は矢を跳ね返し、矢は虚しく床に落ちた。

「駄目だ…! 僕の矢なんかじゃ歯が立たないよ…!」

「情けねぇ声を出すんじゃねぇ!」

 打ちひしがれるピリポを叱咤しながら、レブロブスがもう一人の神官へ斬撃を繰り出した。神官はその一振りを躱したが、レブロブスはすかさず斧の石突で神官の後頭部を殴打し卒倒させた。

 その場に倒れた神官に止めを刺すためレブロブスが斧を振り上げると、颯爽と剣を抜いた邪道騎士が彼に斬りかかった。

 迎え撃つレブロブスの戦斧と邪道騎士の剣が、激しい音を立てて衝突する。

「く、くそっ…!」

 レブロブスと邪道騎士の力は拮抗していた。邪道騎士の予想外の膂力に、レブロブスは焦慮の声を漏らした。

 一方、ガイウスが神官の執拗な攻撃魔術の標的となっている間に、神官の背後に回り込んだピリポが彼の肩に矢を命中させた。攻撃の手が止んだ瞬間を見逃さず、神官との距離を詰めたガイウスは、突き出した槍で相手の腹部を貫いた。

「じいさん、こっちは片付いた! 早くレブの野郎を援護しろ!」

「わかっておる!」

 ガイウスが息の根を止めた神官の血液を触媒とし、ヨハネが魔術の詠唱を始めた。ヨハネが出現させた光弾は、レブロブスと武器を交えていた邪道騎士に直撃した。

 爆風に煽られ、膠着状態から解放されたレブロブスは斧を手にしたまま後ずさった。

「こいつ…! なんてぇ馬鹿力だっ!」

 ヨハネの魔術をその身に受けた邪道騎士は大きくよろめいたが、鎧の守護の力のためか、ゴルゴダの牢獄の看守達のように身体を溶解させることはなかった。

 そして、邪道騎士は侵入者達の前で初めて言葉を発した。

「…さすがは、大善神サタン様をも恐れぬ邪教徒達ですね」

 邪道騎士の声を耳にして、ディーナは驚愕した。

「女の人の声! レブロブスさんと互角に戦っていた人が…!?」

「ここまで追い詰められてしまえば、仕方ありません。相討ち覚悟でいかせてもらいます!」

 邪道騎士は両手を掲げ、精神を集中し始めた。すると、彼女の頭上に燦然と輝く光の球が現れた。光球はさながら小太陽のように広間一帯を照らし出し、ただならぬ気配を生じさせた。

「その声、ルピルピであるな! 攻撃を止めるのだ!」

 ヨハネは邪道騎士に向かって叫ぶと、仮面とフードを外し、自らの姿をさらけ出した。

「う、嘘…!? お師匠様!?」

 邪道騎士は即座に魔法の詠唱を中止した。そして凄まじい速さでヨハネの元へ駆け寄った。

「私ったら、お師匠様と気付けず何たる御無礼を! お許しください…!」

 ディーナは、ヨハネと邪道騎士が師弟関係にあると悟った。

 先刻まで敵対心に満ちていた邪道騎士の語調からは、すっかり警戒心が解かれていた。その声は澄み切って、聞く者の耳に心地よく届いた。

 ヨハネは申し訳なさそうに邪道騎士を見つめ、首を横に振った。

「わしの方こそ、すまぬ。故意で無いとは言え、お主を傷付けてしまった…。しかしルピルピよ。お主が何故、神官兵達とこのような場所におったのじゃ?」

「ユダに命令されたのです。ゴルゴダの脱獄囚達が、宝物庫を狙ってこの神殿内に侵入するはずだから、見つけ次第殲滅するように、と…」

 邪道騎士は、自らが師と仰ぐヨハネを失脚させた人物の名を恨めしそうに告げ、うなだれた。

「そうか…お主は既にユダの配下の神官となってしまったか。我々は進む道を違えてしまったのじゃな」

 ヨハネが錫杖を握る手に力を込めると、邪道騎士は慌てて顔を上げた。

「ス、ストッープ! お師匠様って、本当に私の弟子心をわかってくれないんだから! 私にはもうあなた方と戦う気は毛頭ありません! わざわざここまで来られたということは、何か理由があるのでしょう? 私も協力いたします!」

「ル、ルピルピ殿…! どういうおつもりですかっ!」

 意識を取り戻した神官が上体を起こし、血相を変えて邪道騎士を問いただした。

 邪道騎士はけろりとした様子で神官へ答える。

「どうもこうも、お師匠様が帰参されたので、私も弟子として御一緒させていただくだけです」

「ユダ様を裏切るのだな! 許さん!」

 神官は呪文を唱えて血の弾丸を飛ばしたが、邪道騎士は難無くその弾を剣で弾き返した。そして瞬く間に神官の側まで近寄り、彼の喉元を掻き切った。

「私が生涯お仕えすることを心から決めた方は、お師匠様ただ一人。ユダなんかの手下になった覚えはありません」

 剣を鞘に納めると、邪道騎士は兜を脱いだ。現れた薔薇色の美しい巻き毛を手櫛で整え、ディーナ達に向き直る。

「さぁ、お師匠様。私に何なりとお申し付けください!」

 邪道騎士はつぶらな瞳を輝かせ、笑顔を見せた。ルピルピと呼ばれているその邪道騎士の実態は、ディーナと同年程の、愛らしい姿容の女であった。

 

 

 

 

「こうして、生きて再びお師匠様と巡り会える日がやって来るなんて…夢のよう! この感動を何時でも思い起こせるように、日記に書いておかなくちゃ!」

 戦闘が行われた広間で一同は話を続けている。

 ルピルピは満面の笑みを湛えながら手帳を取り出し、忙しそうに筆を走らせていた。

「ルピルピ、わしはもうお主に師匠と呼ばれたり、お主の前に姿を見せたりするような資格も無いただのお尋ね者じゃ。だが、恥を忍んでわしはここに戻って来た。我々はこれから大邪神の鎧の封印を解放するため、宝物庫へ向かおうと思っておる。どうかお主の力を貸して欲しい」

 ヨハネの言葉にルピルピは手を止め、手帳に落としていた視線をヨハネに戻した。

「ということは、大邪神の鎧の適合者が見つかったのですか!? もしや、この中に……?」

 ルピルピはヨハネ以外の男達の顔を順繰りに刮目していった。

「うーん? やっぱり本命はこの筋肉ダルマかしら? でも、こっちのキザ男もなかなかいい動きをしていたわ。あっ、この男の子も射撃のセンスがあったわ、磨けば光る原石だと思う!」

「筋肉ダルマか! そいつはいいな!」

 ガイウスが堪え切れずに笑い出すと、レブロブスは顔を引きつらせた。

「じいさん、この女、一発ぶん殴っていいか?」

「冗談はさておき、じいさん! 今の話でようやくお前さんの魂胆が読めてきたぜ」

 気の済むまで笑い終えたガイウスは、ヨハネを見ながら表情を引き締めた。

「じいさんが執着してる大邪神の鎧とやらは、何かしらの素質がある奴しか着られないんじゃないか? そしてじいさんは、俺達の中に鎧の装備者の当たりを付けている。他の奴らはその大事な装備者を鎧の所まで送り届けるための、護衛役って訳だ」

「ガイの勘の鋭さには恐れ入るのぅ…」

 ヨハネは観念したと言わんばかりに苦笑し、話し始めた。

「大邪神の鎧は、創世記戦争で戦死した大邪神達の力だけではなくその魂をも封じ込められた、生きた鎧。大邪神の鎧が着用者を認めなければ、その者は鎧に食い殺される…。わしは、鎧の適合者がいなくとも鎧の力を使いこなす術がないか、このルピルピと研究を続けておった。しかし、研究の成果は実らぬまま、わしは捕らわれてしまった」

 ルピルピは苦難に満ちた日々を思い出したのか、ヨハネの話を聞きながら悲しそうに目を伏せた。

「だが、獄中で死を待つばかりの身であったわしに、僥倖が訪れた。ディーナ、お主に出会えたことじゃ。わしは、お主が大邪神メタトロンの力を受け継ぐ者だと確信している」

 ヨハネは陰りの無い真っ直ぐな瞳でディーナを見据えた。

「わ、私が…ですか……?」

 突然話題の中心に引き出され、ヨハネから衝撃的な告白を受けたディーナはうろたえた。

「よりによって、こいつがかっ!?」

「そ、そうよ! だってこの子は、私みたいに可憐な、ただの女の子じゃない!」

 レブロブスとルピルピが口を揃えてヨハネの主張に異を唱えた。

「でも…僕はディーナに特別な力があるっていうの、わかる気がするなぁ。僕は目の前でディーナが光り輝くのを見たから。凄く眩しかったけど…優しい光だった。その直後に僕の怪我は治って、健康な身体になったんだ」

 ピリポがディーナを見つめながら口を開くと、ヨハネは力強く頷いた。

「さよう! ディーナが牢獄で放った白き光は、大悪神ゴッドの再来を告げる、邪悪なる強者の証! お主なら、命を奪われずにメタトロンの鎧を着こなすことができるはずじゃ。忌み嫌われる大邪神の力といえども、強い力を御する資格があるというならば、使わなければそれはこの世界を生き抜くうえで、大きな損失だと思わんか…!」

 ヨハネの語り口には、鬼気迫るものがあった。

 次々とヨハネの思惑が明かされ、戸惑うディーナはしばらく俯いていたが、落ち着いた様子で話し始めた。

「ヨハネさん、ちょっと意地悪です…」

 そして、ゆっくりと顔を上げてヨハネを見つめ返した。

「ゼロの手がかりが掴めるかもしれないと私達をこの街に導いてくれたけれど、それは、大邪神の鎧の封印を解きたいという、ヨハネさん自身の願いのためでもあったんですね」

「真実を隠してお主を鎧の元まで連れて行こうとしたことは謝る。無論、鎧を着ることも強制はしない」

 ヨハネもディーナから瞳を逸らさず、真摯に謝罪の言葉を返した。

「だが、よく考えて欲しい。お主が大切な主人を屈強な敵の手から救いたいと思うのならば、メタトロンの鎧の力を得ることこそが、最善の手段なのではないか?」

「私にそんなことができるなんて…思えないけれど…」

 ディーナは拳を胸の前で握り締め、悲痛な面持ちで言葉を続ける。

 彼女の脳裏には、今まで仲間達が繰り広げた戦いと、戦った相手の息絶える瞬間の姿が蘇っていた。

「牢獄やこの神殿の中で、思い知らされました。ゼロと再会するためには、必ず誰かの血が流れる。戦う力が無いと、前に進めないって…。私には何の力も無いから、皆がいなければここまで生きて来れませんでした。こんな私にでも、強くなれるきっかけが貰えるなら…試してみたいです」

 ヨハネは真剣な表情を崩さないまま、ゆっくりと頷いた。

「よくぞ言ってくれた。さぁ、それでは新手がやって来る前に宝物庫へ急ごうではないか!」

「こいつが鎧を着られるかどうかはともかく、鎧の力が本物だってのはわかった。鎧さえありゃあ、こんな小娘でも俺と同じくらいの腕っ節が身に付くんだからな。俄然興味が湧いた! 俺も付いて行くぜ」

 レブロブスがルピルピの鎧を眺めながら腕を組む。

「あのぅ、お師匠様、申し上げにくいのですけど…」

 ルピルピがためらいながらヨハネに語り掛けた。

「ついこの間、メタトロンの鎧はユダによって宝物庫から持ち出されてしまいました。鎧は今、ユダの執務室にあります…」

「なにっ!? ユダの奴、何を目論んでそんなことを…」

 ヨハネが目を見開くと、ルピルピは頬を膨らませユダへの恨み節を炸裂させた。

「あんな奴の頭の中なんて、到底理解できません! ユダの執務室だって、元々はお師匠様が使っていた神聖な場所だったのに、あいつはお師匠様が集めた貴重な書物を全部捨てさせちゃったんです! おまけに部屋全体を、悪趣味な乱痴気騒ぎをするための宴会場みたいに改装してしまって! あいつが冒した暴挙の記録だけで、私の日記の大半は埋め尽くされています!」

「お前の日記って、復讐日記なのかよ!?」

 手帳のページを一心不乱にめくるルピルピに、ガイウスは呆気に取られていた。

「そうなると、鎧を手にするためにはユダとの衝突は免れんな。まぁよい、街の支配者となって権力を手にした現在のユダなら、ディーナの主人を連れ去った異端審問官達についても何か知っているかもしれん。むしろ好都合だと捉えよう」

「悪いが、俺は先に宝物庫へ寄らせてもらう。俺にとっては、そんな物騒な鎧よりも、宝物庫にある他の武器の方が魅力的なんでね」

 ユダの元に向かうため広間を出ようとしたヨハネの背中へ、ガイウスが言い放った。

 レブロブスがガイウスに悪態をつく。

「盗賊の血が騒ぐってか? がめつい奴だな、お前は!」

「強い武器が手に入れば手に入るだけ、俺達の戦いが有利になるってこった。単細胞のお前と違って、俺は常に物事の先を見通してるのさ」

「わかった。神殿内は迷いやすい。ルピルピ、ガイを宝物庫まで案内して鍵を開けてあげなさい」

 ヨハネは振り返り、ルピルピへ指示した。

「えぇーっ!? せっかくお師匠様と再会できたのに、別行動をしなきゃなんて…。しかも、こんな皮肉屋のキザ男と…」

「俺もお前みたいな跳ねっ返りと連れ立つなんて御免だね。一人で十分だ。鍵だけよこしな」

 不満の声を上げるルピルピを睨み付けながら、ガイウスは彼女に片手を差し出した。

「えっと、夫婦喧嘩は犬も食わないって言うから、止めなくていいのかな?」

 場の空気を取り持とうとしたピリポは、喧嘩の当事者達から敵意の籠った目を向けられると、身を竦ませてディーナの羽根の後ろへ隠れた。

 最終的にガイウスとルピルピはヨハネになだめられ、共に宝物庫へ赴くことになった。

 二人と別れた残りの者達は、ヨハネの先導に従い、ユダの執務室へ向かうため神殿内を進み始めた。

「無理しなくて…いいんだからね? 鎧が無くたってきっと、強いレブさん達が君の御主人様を見つけてくれるよ」

 神殿の廊下を歩きながら、ピリポが心配そうにディーナの顔を覗き込んだ。

「ありがとう。それに、ピリポ君だっていてくれるもんね」

 ディーナは自分の身を案じるピリポに顔の強張りを悟られないよう、精一杯笑って見せた。

 

 

 

 

 ユダの執務室に到着するまで、ディーナ達が他の神官兵達に遭遇することはなく、神殿内は異様な静けさに包まれていた。

 ヨハネが荘厳な両開きの扉の前に立ち止まり、扉の持ち手に手をかけようとすると、扉は彼らを招き入れるかの如くひとりでに開いた。

 中に足を踏み入れたディーナ達の目に飛び込んできた部屋は、執務室というよりも舞踏会場とでも呼ぶ方が相応しい、絢爛豪華な大広間だった。そして、開かれた扉の目前には、きらびやかな衣装を身に纏った見目麗しいユダの部下達が、ディーナ達を出迎えるように左右に分かれて整然と居並んでいた。

 広間の奥には中二階へと続く階段が線対称に二箇所建てられており、階段を上がった先はバルコニーとなっていた。そこには贅を尽くして作られたソファとローテーブルが置かれており、ソファには部下達と同じく自らを盛装し、奇抜な化粧を施した人物が悠々と足を組んで腰掛けていた。ヨハネと同じく、黒い羽と巻き角を生やしている。

 その人物はワイングラスを片手に、ディーナ達をあざ笑いながら見下ろしている。そして、紫の紅を厚く塗った唇を開き、話し始めた。

「おかえりなさい、ヨハネ♡ 久しぶりの故郷は楽しめていますか? 脱獄だなんて…死に損ないのじじいが、随分と思い切ったじゃないですか!」

 一度耳にすれば忘れられない、特徴的な男の声だった。

 その男が放つ独特のオーラに圧倒されることなく、ヨハネも彼に再会の挨拶を返した。

「久しいの、ユダよ。どうやら、お前の底なしの嫉妬深さも、その稀有な嗜好も健在のようじゃ」

「ちゃらちゃら女を侍らせやがって、いーい御身分だぜ」

 レブロブスが周りを見渡しながら、吐き捨てるように嫌味を放った。

「ここにいるユダの部下達は全員、男じゃ。その身なりに反してかなりの手練れである。油断をするでないぞ」

 ヨハネに耳打ちされたレブロブスは、驚きの余り言葉を失っていた。

「あなたの脱獄の一報を聞いて、私は直感しましたよ。あなたは必ず、この大邪神の鎧の元へ戻って来るとね。だってあなたは、この街の支配者だった時から、片時も鎧の側を離れなかったんですもの」

 そう話すと、ユダはグラスを持つ手を真横に伸ばした。その先には台座があり、台座の上には鎖が巻き付けられている一領の鎧が載っていた。

「あれが…大邪神の鎧……?」

 バルコニーに置かれた鎧を見上げながら、ディーナは目を見張った。

 ディーナの位置から細部を確認することはできないが、それは、不思議な雰囲気を持つ白銀の鎧だった。天井に吊り下がっているシャンデリアの明かりを反射して輝いているのではなく、鎧そのものが淡く白い光を放っている。その光には、大邪神の名とは不釣り合いの気高さがあった。

「鎧への執念を捨て切れず、のこのこと神殿へ戻ったあなたを私が捕まえて牢獄へ送り返せば…人々は、私の判断力と実行力を妬み、私の優れた能力を認めざるを得なくなる!」

 ユダは高らかに笑い声を響かせた。

「だから、私の手柄のためにここまで来てくれたあなたには、褒美としてとっておきの話をしてあげますよ。あなたが御執心の、大邪神の鎧に纏わる話をね」

 ユダは空になったグラスをテーブルに置き、傍らの部下に追加の酒を注がせた。そして酒の満ちたグラスを回しながら、楽しげに口を開いた。

「私が調べ上げたところによると、この世界には既に大邪神の鎧の封印を解いた者がいるんですって! その鎧の装備者は、青臭い坊やだそうですよ。その坊やは鎧を着てから一年以上経った今も、心身に変調をきたさずにいるそうです。つまり、大邪神の鎧の適合者ならば、鎧に食い殺されずその力を思いのままにできる。あなたが立てた仮説は、検証されつつあるのです。よかったですねぇ」

 ヨハネは押し黙ったまま、ユダの話を聞いている。

 続けてユダは態とらしく眉尻を下げ、悲しそうな顔を作った。

「ところが、特定の主人を選ばない、低俗な悪魔の鎧はどうでしょう!? その鎧は、身に付けた者の生き血を見境なく奪い続ける呪われた鎧。悪魔の鎧を着た者が、半年以上生きられたという前例は今までありません! この神殿にも一人、悪魔の鎧の犠牲者となりつつある哀れな女がいるんですよ」

「それって、ルピルピさんのこと!? あんなに元気そうなのに…! ヨハネさん、本当なの…!?」

 動揺するピリポはヨハネにユダの話の真偽を確かめるが、ヨハネは尚も沈黙を貫いている。

「哀れで、愚かな女ですよ。彼女はあなたが牢獄に囚われた後も孤独に研究を続け、とうとう自分の身を実験材料として、悪魔の鎧に捧げてしまったのですから! 彼女は元々、あなたが大邪神の鎧の研究を始めることに反対していた。彼女の言うとおりにしていれば、あなた方二人の未来は変わっていたのにねぇ! ま、あなたを陥れるために鎧の研究を持ち掛けた私が言えたことではないですが」

「言わせておけば…ユダよ。愚か者はお主の方だ」

 ユダの長口上に一区切りがつくと、ヨハネはようやく口を開いた。

「お主は昔から、周りが下す評価の中でしか自分の価値を見出せぬ、虚しい奴じゃった。だから他者に下される評価が気になって仕方がなく、その評価の些細な違いが激しい嫉妬の炎となるのだろう」

 ヨハネの言葉に、ユダの表情が初めて険しくなった。

「邪道騎士の正体がルピルピだとわかった時…わしの心は乱れた。わしの行いが、ルピルピの運命を狂わせてしまったことは紛れもない事実」

 ヨハネは瞳の中に強い意志を籠めたまま、ユダに話し続ける。

「だが同時に、わしは自分が恵まれていると思ったよ。ルピルピはわしのためにその命を懸けて、わし自身ですら諦めかけていた宿願を叶えようとしてくれたのじゃ。わしには、ルピルピが悪魔の鎧を身に付けた覚悟を、共に背負う責任がある! そのためにも、大邪神の鎧は取り返させてもらうぞ」

 ディーナは、ヨハネとルピルピの間にある、単なる師と弟子という立場を超えた特別な絆の存在を感じ取っていた。

「ユダよ、お主は見栄えがよくて腕も立つ兵士を数多く従えている。だがこの者達は、お主が窮地に追い込まれた時、命を賭してお主のために戦うだろうか? 中身は空っぽで、さしたる信念も持ち合わせていないお主に、付いて行こうとするだろうか?」

 ユダは湧き上がる怒りで顔を醜く歪ませ、グラスを持つ手をわなわなと震わせた。

「相変わらず口が減らないじじいですね! じっ、自分のために命を懸ける女が一人いるからって、何だっていうんですか! あなたは地位も名声も失って、代わりに私がこの街の支配者となった! この結果こそが、私があなたより優れていることを証明してるんですよ! さぁ、観念してください。いくら大魔導士のヨハネといっても、この人数には――」

「観念するのはあんたよ! このっ、オカマ野郎!!」

 凛々しい女の声がユダの背後で響いた。

 虚を突かれたユダは、身体を竦み上がらせ、手にしていたグラスを床へ取り落とした。

 ユダがいるバルコニーの奥側には通路があり、バルコニーと通路を区切っていた帳の中から、ルピルピが飛び出した。その表情からは、ユダへの断固とした敵愾心が見受けられた。

「お前、あほか! 攻撃する前に気付かれるようなことをしたら、奇襲にならねぇだろがっ!」

 ユダへ勢いよく啖呵を切ったルピルピに続いて、ガイウスがバルコニーへ姿を現した。予測不可能なルピルピの動きに、ユダと同じく度肝を抜かれたようだった。

 ルピルピはユダを睨み付けながら、腰に手を当てて憤りの声を上げる。

「こんな好き放題言われて、黙ってなんかいられないわ! しかもこいつは私を騙して、私にお師匠様を殺させようとした! 絶対許さないんだから!」

 ユダは慌てふためきながらソファから立ち上がり、ルピルピ達の方を振り返った。

「ルピルピ!? あ、あなたまさか、ヨハネ側に寝返ったというのっ!?」

「私があんたの仲間だったみたいな言い方、しないでよね! お師匠様、こんな奴けちょんけちょんにして、さくっと大邪神の鎧を奪還しちゃいましょう!」

 ルピルピが階下にいるヨハネに向かって勇ましく鼓舞の言葉を贈ると、ユダは取り乱し、座っていたソファを蹴り倒した。

「信っじられないわ! 雑魚のくせに大神官である私に歯向かうなんて! 私の、美しい愛人達! やっておしまいなさい!!」

 ユダが号令をかけると同時に、彼の部下達は武器を構えた。

「ピリポよ、ディーナを頼むぞ!」

「わ、わかった! ディーナ、こっち…!」

 ヨハネに言い付けられ、ピリポはディーナを広間にある柱の陰へと退避させた。ディーナ達が部屋に入るために使用した扉は既に閉ざされ、外に出ることは不可能だった。

「ヨハネは死なない程度に痛め付けてから、もう一度牢獄送りにしてやるのよ! 他の男共は…そうね、半殺しにして反抗心を失わせてから、私好みの奴隷に調教してあげるわ!」

 憤怒と憎悪の染み付いたユダの蛮声が、広間に鳴り渡った。

 

 

 

 

 ユダ一味との乱戦は、戦闘員の圧倒的な人数差でヨハネ達が劣勢に立たされていた。

 ユダの部下達は複数の武器を駆使してヨハネ達を撹乱している。近接武器を使う部下を相手にしている最中でも、別の部下達が放つ弓矢や投擲用の短剣が急所を狙って的確に撃ち込まれてくる。一瞬たりとも気が抜けない状態だった。

「こいつら、ふざけた仮装集団かと思ったら、けっこう戦い慣れてやがる!」

 バルコニーでルピルピと共に部下達と交戦しているガイウスの表情には、いつもの余裕が無い。

 ユダは堅固な部下達の壁によって護られ、二人は近づくことすらできなかった。

 ユダ本人は戦いに参加しておらず、毒々しく彩られている自らの爪を眺めながら、勝利が確定しているとでも言わんばかりの笑みを湛えている。

「そうそう、ヨハネに詠唱の隙を与えるんじゃないわよ。魔法が使えなければ、あいつはただのくそじじいなんだからね!」

 ヨハネの戦闘手法を熟知しているユダの指示によって、ヨハネは部下達からの猛攻に遭っていた。ヨハネは老身とは思えない身ごなしでその攻撃を受け流していたが、反撃に転じる機会を逸していた。

「ピリポ君、私のことはいいから、ヨハネさん達に加勢してあげて!」

 戦場の様子に心を痛めているディーナは、自分の周囲を警戒しているピリポの背中に向かって懇願した。

「でも…君に何かあったら…!」

 ピリポは振り向き、逡巡していた。

「ユダの奴がいない…? あいつ、どこに行ったの!?」

 部下の一人を斬り倒したルピルピが、バルコニーにいたはずのユダの姿を見失い、慌てて辺りを見回した。

「こ・こ・よ!」

 耳を這うようなユダの声が、ディーナとピリポのすぐ側で聞こえた。

 魔術を用いて二人の目の前に瞬時に移動したユダは、ピリポを突き飛ばし、彼の身体を強かに床に打ち付けさせた。

 ユダはそのまま立ち竦むディーナの首に手をかけ、彼女の身体を近くの柱に手荒く押し当てた。

「ヨハネもそうだけど…私はあなたのことも最初から気に食わなかったのよ!」

「ディーナ!」

 ピリポは痛みを堪えながら身を起こし、ディーナの側に駆け付けようとしたが、ユダの部下達がその行く手を阻んだ。

「私はね、美しさしか取り柄のない女がだぁっい嫌いなの! 特にあなたみたいな、男達の庇護欲を掻き立てて、如何にもか弱そうにしてる女がね!」

 首にかけられた手に力が入り、ユダの長い爪が肉に食い込む。ディーナは音にならない呻きを上げ、苦悶の表情を浮かべる。

「い、いかん! このままでは鎧の適合者が!」

「戦えねぇ奴を先に狙いやがって…! てめぇ! そいつを殺るのは俺達と正々堂々戦ってからにしやがれ!」

 取り巻くユダの部下達と戦いながら、ヨハネは焦燥し、レブロブスはユダの卑劣な行いに激怒した。

 ユダはディーナの苦しみが長く続くように、絶妙な力加減で彼女の首を締め上げている。

「あなたは強い者を誘惑して、そいつらの陰に隠れているだけの、本当にずるい女! 一人では何もできない弱者のくせに、誰かがどうにかしてくれるって、思い上がってるのよ!」

 ユダに攻められながらも、彼の言葉は核心を突いているとディーナは納得していた。

 瀕死の重傷を負って記憶までも失ったディーナの心身を癒し、箱庭での安穏な日々を保ったのは、ゼロの弛まぬ努力だった。ゴルゴダの牢獄での苦境を乗り越えたのは、それに挑んだ仲間達の健闘だった。

 そして今は、ヨハネに導かれるまま太陽の神殿へ足を運び、またも仲間達の力に頼り切っている。知らず知らずのうちに自分は、誰かが作り出した流れに身を任す楽な生き方しかしてこなかった。ディーナはそう思った。

 自分には、この世界に立ち向かうための力も、そのための意志すらもない。

「白い羽の分際で、このユダ様の嫉妬を受けながら死ねることを誇りに思うのね!」

 ユダは自らのセリフに酔いしれるかのように笑っている。

 ゼロとの再会を果たせないまま、死に至ること。無力で、意志薄弱な自分。あらゆる負の感情が善とされ、大切なものが踏み躙られる、冷酷な世界。

 ディーナの中の未練や後悔、悲憤が一つに混ざり合い、雫となって両頬を流れた。

 その時だった。輝かしい白き光がディーナを光源として放たれ、彼女を庇うように巻き起こった突風がユダを吹き飛ばした。光を直視したユダは目が眩んでおり、両手で目を覆ったまま倒れ込んでいる。

「僕が牢獄で見たのと、同じ光だ!」

 ピリポは弓を構えたまま、驚異の目を見張った。

 ユダの拘束を逃れたディーナは、激しく咳き込む。その全身からは白き光華が放出され続けている。

 彼女達の元には、神話の時代から語り継がれる、大いなる力を巡る物語の幕開けが押し迫っていた。

「鎧の鎖が…!」

 ガイウスは、台座に置かれている大邪神の鎧に巻き付いていた鎖の輪が砕け、床に飛散する瞬間を目にした。

 鎧から放たれていた光は強さを増し、まるでその存在を主張しているかのようだった。

「鎧がディーナに反応し、封印が解けかけておる! やはりわしの予想は間違っていなかった!」

 ユダの部下達の攻撃を躱しながら、ヨハネが声を振り絞った。

「お主が鎧を着るという意思を見せれば、鎧は力を与えるはずじゃ!」

「ディーナ! よく聞いてっ!」

 ルピルピが相手と剣を交えながら、沈痛な面持ちでディーナに向けて声を張り上げた。

「この鎧を着るためには、背中の羽を自分の手で…むしり取らなければいけないの! あなたに、それだけの覚悟がある!?」

 ヨハネと同じく頭に角を生やしているルピルピが、本来背中にあるはずの黒い羽を失っている理由が明らかになった。

 ディーナが鎧を見上げると、彼女の周りから、戦場の喧騒や仲間達の声が遠ざかっていった。剣戟を振るう者達の動きが異様なまでにゆっくりになったかと思うと、その姿は霞んでいった。

 彼女の視界に鮮明に入っているものは、自分と同じ白き光を放っている大邪神の鎧のみ。

 鎧は自分に問い掛けてくるようだとディーナは思った。鎧を着て為すべきことがあるのか、それを為すための意志はあるのか、と。

 ディーナは自らの片翼を掴み、羽を抜こうと力を込めた。言いようのない激痛と不快感が身体に走り、顔を歪めて瞼を閉じる。羽を握る手が震えた。

『お前のためならどんなことでもできる。例え、それがどんな罪に問われようとも』

 ゼロが自分に紡いだ言葉を反芻する。

 ディーナの震えは収まった。そして彼女は瞳を開き、微笑んだ。

 自分の選択が、完全な自分の意志によるものだとは言い切れなかった。その要因は、ヨハネの野心でもあり、後に引けなくなった現在の状況でもあると言える。

 ただ、ゼロのためならば、自分が何もかも失うことすら厭わない。それだけは誰にも否定されたくない、本当の思いだった。

 箱庭でゼロと過ごした一年間の中で、二人は様々な経験を分かち合った。お互いの心の奥底を見せ合い、お互いのありのままを認め合い、理解し合えることが一つでも増えたことに涙した。

 己の一部を与えることで満たされる喜びを教えてくれたゼロのために、今更自分が何を失うことを惜しむだろうか。

 悲壮の決意と共に、白い羽がディーナの背中から引き離された。

 そして、広間に居る者全ての視界が、真っ白に輝く光に染まった。

 

 

 

 

 居合わせた者達の視界を支配していた光が収まった直後、広間には白銀の鎧を身に纏った戦姫の姿があった。

「あいつ…本当に鎧を着やがった…!」

 その場の誰もが言葉を失っていた光景を前にして、初めに開口したのはガイウスだった。

「ディーナ、綺麗だなぁ…!」

 ピリポは戦いの最中であることも忘れ、戦場に佇むディーナを夢心地で見つめている。

 落ち着いた光沢を放つ籠手に覆われた自らの両手を、ディーナは呆然と眺めていた。

 台座に置かれていた大邪神の鎧はまるでディーナのために誂えたかのように彼女の身体にぴったりと添っており、胸元の白銀の金板が美しい曲線を描いている。頭以外を隙間なく包み込む厳かな装甲は、彼女の持つ純然たる清らかさを守っているかに見えた。

 かつてディーナの背中にあった無数の白き羽根が、別れを惜しみながら彼女の周りを舞っている。翼を捨て、終わりの見えない戦いの日々に身を投じることとなった彼女への、手向けのように。

「何だ? 俺はあの鎧を着たあいつを何処かで見た気がする…。いや、そんな訳ねぇ」

 ディーナの姿に目を凝らし、奇妙な既視感を覚えたレブロブスは、考えを振り払うように首を横に振った。

 そして解放された大邪神の鎧の目撃者達の中に一人、喜びに打ち震える者がいた。

「我が積年の願いは……遂に成し遂げられた! 創世記戦争の終結から、永久の眠りに就いていたメタトロンの魂が、今、ここに蘇ったのだっ!」

 歓喜はヨハネの理性を押し流すかの如く沸き起こり、法悦に浸る哄笑となって、広間に居る者達の鼓膜を揺らした。

「目に焼き付けるのだな、ユダよ! 天界で他の悪魔達の追随を許さぬ力を持っていた大邪神の、その威を代わる者の降臨であるぞ!」

 視力を取り戻したユダは覚束ない様子で立ち上がり、ディーナを凝視しながら唇を震わせ、驚倒した。

「いったい何なの!? まさかこの非力な女が…邪神の再来とでもいうのか!?」

 頭髪を両手で鷲掴み、頭を抱えているユダはひどく混乱しているようだった。そして彼が抱えている未知の力への畏れと不寛容は、排他的な攻撃性を伴って、ディーナ達への言動に表れる。

「身も心も邪教に染まり切った異端者共! 脱獄の罪だけでは飽き足らず、禁断の大邪神の力まで手中に収めようとするとは…! お前達のような異常者を野放しにはできん! 生け捕りなど生ぬるい、皆殺しだ!」

 ユダは目を血走らせながら鋼鉄製の錫杖を手にし、呪文を詠唱した。彼の周囲で身を裂くような獰猛な冷気が発生し、白い霧が渦巻いたかと思うと、その中から人の頭程の大きさがある氷塊が数限りなく浮かび上がった。氷塊の一つ一つの先端は刃物のように鋭くなっており、その先端がユダからディーナへ水平方向に目にも留まらぬ速さで撃ち込まれた。射程は長く、また、ディーナが左右の方向に跳び退いても回避は不可能だった。

 だが、先程までディーナの中に入り乱れていたはずの、死の予感や憤りの心は嘘のように消え失せてしまっていた。研ぎ澄まされた感覚が、危機を脱する手段を既に導き出していた。

 彼女は放たれた氷塊の届かぬ上空へ、助走もなく跳んだ。そのまま身を丸めてユダのはるか頭上を旋回し、彼の背後へ舞い散る羽根の一枚のように軽やかに降り立った。着地の衝撃を受け、純白のマントが優雅に波打っている。

 人間業とは思えない華麗な跳躍を見せたディーナの姿に、敵味方問わず誰もが目を奪われていた。彼女自身、翼を失ったにも関わらず、飛翔できるかのように身軽になった自らの身体の扱い方に戸惑っていた。

「絶対に認めない…お前のような女が、こんなに美しい力を手にするなんて…! さっさとくたばってちょうだい!!」

 ディーナに向き直ったユダは、錫杖を振りかざし彼女の側へ迫り寄る。その様相は、神官が悪を断罪するため立ち向かう勇姿ではなく、嫉妬に狂った一人の男が私怨を晴らそうと足掻く姿だった。

「何でもよい、ディーナに武器を渡すのじゃ!」

「こいつを使え!」

 ヨハネの呼び掛けに応じ、バルコニーに居るガイウスが階下に向かって一本の剣を投げ入れた。剣はディーナの足元へ突き刺さる。それはガイウスが神殿の宝物庫で入手したと思われる、柄頭に紅玉が施された両刃の長剣だった。

 ディーナはその剣を即座に地面から引き抜き、彼女を打ちのめすために振り下ろされたユダの錫杖を刃で受け止めた。柄を握る両手に力を込め、剣を大きく撥ね上げる。錫杖はユダの手を離れ、空中で弧を描き、拾い上げるには彼から程遠い場所へ落下した。

「ばっ、馬鹿な! どこにそんな怪力が!?」

 ディーナの想定外の力に驚愕し、その場で硬直している無防備なユダの胴体へ、彼女は無我夢中で剣を振り下ろした。鋭刃はユダの左肩先から入り、右脇腹までを斜めに斬り裂いた。初めて剣を取る者が放ったとは思えない、鮮やかな一撃であった。

 人の肉と骨が凶器によって断ち切られる感触に、ディーナは猛烈な恐怖と嫌悪感に襲われ、総毛立った。鎧を身に付けてからの一連の自分の行いが非現実的過ぎて、夢の中の出来事のように感じられた。しかし、血に濡れた自らの剣と、目の前で膝を突き、倒れ伏したユダの身体から流れ出る鮮血が、全てが幻想ではなく事実であると無情にも彼女に告げていた。

「雌雄は決した! この場に大邪神の力を凌ぐ者はおるまい! 命が惜しくば、ここから立ち去るがよい!」

 ヨハネが殺気立ちながら、ユダの部下達へ鋭い眼差しを向ける。司令塔であったユダが撃退され、統制を失った彼の部下達は、たちまち武器を投げ捨て、散り散りになって広間の外へ敗走を始めた。

「じいさんの言ったとおりになったな。大将の弔い合戦をおっ始めるような、忠義に厚い手下はあいつにはいなかったってことか」

 レブロブスが呆れ顔でユダの部下達を見送った。

 

 

 

 

「終わったの……?」

 戦場の狂騒が過ぎ去った広間の中で、立ち尽くしていたディーナの手から剣が滑り落ちた。

 これ以上、この場で誰かの命を奪わなくて済むという安堵感が胸の内に広がり、身体中から力が抜けていくようだった。

「ディーナ、大丈夫? 僕、何もできなくて…ごめんね…」

 いつの間にか、ピリポがディーナの傍らに寄り添うように立っており、続いて他の仲間達も彼女の元へ集結した。

「そんなことないよ…! 皆が無事で、本当によかった…」

 一人も欠けていない仲間達の顔を確認し、いよいよディーナの緊張状態が弛緩しきると、彼女が身に纏っている大邪神の鎧が再び白い光を放ち始めた。光が粒子となって辺りに雲散すると、ディーナの姿は鎧を着る前の平服姿に戻っていた。

「あ、鎧が消えちゃった…」

 ディーナが自らの身体を見回しながらうろたえていると、ルピルピが彼女の前へ一歩進み出て、片目をつむった。

「心配しなくて平気! 私達の鎧はね、持ち主の戦意に反応して実体化するの。必要な時が来れば、また力を貸してくれるわ。便利な鎧でよかったわよ、鎧を着たままじゃお風呂にも入れないし、ゆっくり眠ることもできないでしょ?」

 ルピルピは自らも武装を解いた。厳めしい悪魔の鎧は、年頃の娘らしい出で立ちへと変貌し、彼女の柔肌が露わになった。

 そしてルピルピは瞳を潤ませながら笑みを浮かべ、ディーナを見つめた。

「大邪神の鎧の解放の場に立ち会えたなんて…お師匠様と私の苦労が報われたわ。ありがとう、ディーナ。今日のことは、後世にまで残せるように気合を入れて日記に書いておくから!」

「うむ、過酷な決断を迫られたにも関わらず、よくぞ成し遂げてくれた。これで、偉大なるメタトロンの力はお主のものとなった!」

 悲願の達成に昂ぶりを抑えられない様子のヨハネとルピルピに向かって、ディーナは弱々しく頭を振り、表情を曇らせた。

「全然、実感が湧かないです。今の戦いも、私は生き残ることだけに夢中になってしまっていたから…。私にこの鎧の力を使いこなせるのか、わからない…」

「生き残ることだけ考えてりゃいいんだよ! 初陣にしちゃ上出来だったぜ。せっかく強い力が手に入ったんだ、ごちゃごちゃ言ってねぇで有り難くもらっとけ!」

 翼の無くなったディーナの背中を、レブロブスがぴしゃりと叩き、彼女は目を丸くして前のめりに姿勢を崩す。彼の頼もしい豪胆さによって、ディーナは自分の不安が何処か瑣末なことのようにも思え、沈み切っていた気持ちが幾分上向いた。

 一同が戦勝の高揚感に浸っている中、地面にうつ伏せで倒れているユダを見下ろしていたガイウスが口を開いた。

「しぶてぇ奴だな。こいつ、まだ息があるぜ」

 ガイウスはユダを仰向けに横たえさせると、赤く染まっている彼の胸倉を片手で掴み、上体を起こさせた。もう一方の手には、ユダの部下が落としていった短剣が握られている。

「おい、お前に聞きたいことがある。早く楽になりたかったら、正直に答えろよ」

 白粉が塗られているユダの顔面は戦いの時よりも更に蒼白になっている。呼吸は弱り果て、彼の命の灯火は今にも絶えそうだった。

 ガイウスはディーナに目配せをし、その目は尋問を始めろと語っていた。ディーナはユダの側へしゃがみ込み、彼に問い掛けた。

「…私は自分の主人である、ゼロという名の黒い羽の青年を探しています。彼は愛を口にした罪で、異端審問官達に捕まってしまいました。ゼロが何処に連れ去られたのか、あなたは何か知っていませんか…?」

 ユダはディーナを憎々しい目つきで見ていたが、浅い呼吸を何度か繰り返した後、痛みに悶えながら返答した。

「お前の主人のことなんて、私が知る訳ないでしょ…。ただ、異端審問会と言えば、この世界最大の宗教結社、アンゲルス教団が誇る精鋭部隊。その教団の直接の管理下にある部隊なんだから、そいつは教団の総本山にでも連れて行かれたんじゃないの…? 悪いけど、総本山が何処にあるかまでは…知らないわよ……」

「俺達は異端審問官の裁きでゴルゴダの牢獄に収監された。そのアンゲルス教団ってのは、俺達を捕らえていた大元ってことか。それで、総本山ってのはそもそも何なんだ?」

「アンゲルス教を布教している世界中の教会を統べる、教皇庁を指す」

 ガイウスの疑問に、ユダに代わってヨハネが説明を始めた。

「教団の最高指導者である教皇を頂点に置いた組織であり、教会での説教がアンゲルス教の教義に反していないか監視するなどして、この世界の秩序を保つために活躍していると噂に聞いたことがある。神官として恥ずかしいが、わしは鎧の研究にかかりきりだったもので、宗教組織の話にはとんと疎くての。総本山の場所を突き止めるとなると、骨が折れそうじゃ」

 ヨハネは途方に暮れた様子で嘆息したが、すぐに気を取り直してユダへ視線を向けた。

「ユダよ、もう一つ教えてもらおう。お主は先程、大邪神の鎧について調べ上げたと話していたな。詰まるところ、お主も鎧の力に魅入られていたのじゃ」

 大邪神の鎧の名に、レブロブスが身を乗り出す。

「お主の話が本当ならば、封印が解かれた大邪神の鎧は、メタトロンの鎧を含め、二つ。七大邪神の神話に従い、あと五つの鎧がこの世界に封印されているはずじゃ。残りの大邪神の鎧は、何処にある?」

「残念ながら…全ての大邪神の鎧の在り処を掴めた訳ではありません。御期待に沿えなくて、すみませんねぇ…!」

 ユダは力無く笑い声を上げる。口元から流れている一筋の血が、不気味な程に青白くなった彼の肌に映えていた。

「カナンとパンデモニウムの領主が、教団からの命を受け、自らの屋敷内で鎧を管理しているそうです。私が知る鎧の情報は、これで全部ですよ…」

 髭を貯えた顎に手を置きながら、ヨハネが旅の進路について思い巡らしていた。

「ふむ…こやつの話を勘案すると、次に目指すはその二つの街に居る領主達じゃな。鎧の警護を任される程の領主ならば、教団と密接な繋がりがあるはず。総本山の場所を知っている可能性が高い」

「ここから近いのは、パンデモニウムの街の方ですわ。お師匠様はこの者達と旅立たれるのですね? それなら、私もお供いたします!」

 無邪気に師を慕うルピルピに対して、ヨハネは慌てた様子で口早に話し始めた。

「何を言っておる! 悪魔の鎧に生き血を吸われ続けているお主を、連れ回す訳にはいかん! お主はここに残って身体を休めることに専念するのじゃ…!」

「何処で何をなさっているのかわからないお師匠様の身を案じている方が、よっぽど身体に悪いです! 私が今まで知識を身に付けてきたのは、お師匠様の前途を照らす光となるため。もう何があっても、お側を離れませんから!」

 ルピルピは頑として自分を曲げなかった。その熱誠に根負けし、ヨハネは肩を落とした。

「…そこまで言うのなら、わしも止めはせん。好きにするがよい」

「僕も皆に付いて行って、いいかな? 僕なんか大して役に立たないと思うけど…ディーナの御主人様を助けてあげたい。レブさんも一緒に来てくれるよね?」

「あ? あぁ…そうだな……」

 ピリポに名を呼ばれ、レブロブスは急に我に返ったようだった。その返事にはいつも彼が見せる覇気が無く、何か別の事柄に気を取られているような素振りだった。

「俺もしばらくお前に付き合うことにした。大邪神様の御威光にあやかっていた方が、道中何かと楽ができそうだからな」

 そう言うと、ガイウスは握っていた短剣の刃先をユダの喉元に突き付けた。

「御苦労さん。もう死んでいいぜ」

「待つのじゃ、ガイ!」

 ユダを手にかけようとしたガイウスを制したのは、ヨハネだった。

「わしに叛意を抱いていたとはいえ、このユダはかつて共に大邪神の鎧を研究していた弟子の一人。成し得る限り、再起の機会を与えてやりたい。こやつの生死は、こやつ自身の生命力と運に委ねてはくれぬか…」

「どうせこの傷じゃ助からねぇよ。このまま放っておいても、苦しむ時間が長引くだけだ。ま、じいさんがそれでもいいって言うなら構わねぇが」

 ガイウスはヨハネに振り向き眉をひそめたが、そのままユダを掴んでいた手を離した。

「ユダ、もし生き延びることができたのならば、我執を捨て、真の街の指導者としてリベイラの民に尽くすのじゃ。わしの二の舞を演じるでないぞ…」

 祈りを捧げるように厳然とした面持ちでユダに語り掛けるヨハネの姿には、図らずも平伏してしまうような威厳があった。

 再び地面に倒れたユダは、微かに唇を動かしてヨハネに何か伝えようとした。だが、その言葉が音を発する前に、彼の瞼は閉ざされた。

 

 

 

 

 太陽の神殿を後にした一行は、パンデモニウムの街へと続く街道を歩き始めた。

 明け方に神殿へ潜入してから、果てしない時間が経過したようにディーナは感じていたが、陽は僅かに西に傾いているだけだった。

 背負っている剣の重さが、ディーナの戦士としての旅立ちを示していた。待ち受けているであろう、まだ見ぬ闘争の数々に思いを馳せ、小さく吐息を漏らす。すると、地図を広げながらヨハネと前を歩いていたルピルピが振り返り、彼女の真横へ並んだ。

「鎧を着ている女の子同士、頑張りましょ」

 ルピルピは親しみ深い笑顔を浮かべ、自らの肩でディーナの肩を軽く小突いた。

「うん! これからよろしくね、ルピルピさん」

「そんな他人行儀な呼び方は駄目! 私達、年も近いじゃない!」

「じゃあ…ルピルピちゃん!」

 ころころと朗らかに笑っているルピルピを見つめ、ディーナもつられて目を細めた。彼女の笑顔は温かく、見る人の心の痞えを溶かすようだとディーナは思った。

「ねっ、ディーナ! 宝物庫からユダの所へ向かっている間にガイから聞いたんだけど…」

 ルピルピはディーナの耳元に口を近づけ、囁いた。

「あなたも愛が本当にあるって信じてるんでしょう? あなたが愛している、ゼロっていうのはどんな人? この話、すっごく気になるから、今度二人だけでゆっくり話しましょ!」

「あなたもってことは…ルピルピちゃんは愛を信じているんだね! あなたにも、愛する人が…?」

 ディーナが顔を輝かせると、ルピルピは、はにかみながら微笑んだ。

 華やかな話題で盛り上がるディーナ達の背中をぼんやりと眺めながら、レブロブスが最後尾を歩いていた。彼の足取りは遅く、その表情はそこはかとない陰りを帯びている。

「パンデモニウム…二度と戻ることはねぇと思っていたが……」

 彼の呟きは、吹き付ける乾いた風の中に搔き消された。




ここまで読んでくださった方がいらっしゃれば…ありがとうございました。
次のお話は、レブロブスルート(闘技場の戦い)を書くか、割愛してパンデモニウムの街の話に進むか迷っています。ピリポルート(爆老決死隊)は…現代日本の縮図のようなあの強烈な村を描き切れる自信が無いです汗。
気ままに書いていきたいと思います。


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第四章 襲いくる郷愁

 

 

 黄昏の陽光が荒野を照らしていた。物寂しい光景が広がる荒野に、剣を構え対峙している二つの人影がある。その内の一つはディーナだった。

 剣を持つ彼女の手付きはたどたどしく、相手方から次々と繰り出される打撃を受けるだけで全神経を使い果たしていた。相手の勢いに呑まれじりじりと後ずさっていると、背後に流れている小川に足を取られた。小さな悲鳴と共に、浅瀬へ盛大に尻餅をつく。

「あいたた…」

「ディーナ、大丈夫?」

 二人の様子を眺めていたピリポが川辺へ駆けて行き、ディーナに手を差し伸べた。

「ありがとう、ピリポ君」

 ディーナは自らの醜態に苦笑しながらピリポの手を取り、立ち上がる。そして今まで剣を交えていた相手へ視線を移した。

「レブロブスさんも、稽古をつけてくれてありがとう」

「…ったく、調子が狂うぜ。素人の女に剣を教えたことなんざねぇからな。加減が難しいんだよ」

 レブロブスはげんなりした様子で、手にしている剣で肩を叩いている。二人が用いていたのは、稽古の為に拵えた木剣だった。

 次の目的地であるパンデモニウムの街を目指し旅を続けている一行は、その日の旅程を終えて野宿の支度をしていた。その合間を縫って、ディーナはレブロブスに剣術の指南を請うた。

「そんな俄稽古、やったって意味無いだろ」

 焚き火にくべる薪を割っているガイウスが口を挟む。

「鎧を着ちまえば、お前はまともに戦えるんだ。一から腕を磨く真似をしなくてもいいじゃねぇか」

「うん…そうかもしれないけど……」

 ディーナは小川から陸に上がり、濡れた上衣の裾を絞った。そして俯きながら神妙な顔つきで言葉を続ける。

「鎧の力は私の努力で手に入った訳じゃないから、その、何だかずるしてるみたいで…。一朝一夕にいかないのは分かってるけど、少しでもこの力に見合った強い戦士に近付きたいの」

「それはそれは、御立派なことで」

 ガイウスはからかい甲斐があると言いたげに、皮肉めいた笑みを浮かべている。

「まずはその及び腰をどうにかしないとな」

「は、はいっ!」

 ディーナは背筋を伸ばし、意気盛んに顔を上げた。

「殊勝な心掛けじゃよ。鎧の力を過信していては、鎧を着る者自身の成長には繋がらん」

 焚き火の側の岩に腰掛け、ディーナ達を見守っていたヨハネの声音は柔らかい。

「強さというものは、腕節の強さに限ったものではない。強靭な精神力を備えていることも、その者の優れた能力である。現に、お主は意志の力によって鎧の封印を解き放ったのじゃからな。その意気込みを忘れなければ、己の戦う力も自然と身に付くであろう」

「さぁさぁ、ルピルピちゃん特製シチューができあがりましたよーっ!」

 ルピルピが得意気に火にかけた鍋を掻き混ぜ、夕餉の時間を知らせる。鼻腔をくすぐる香りが鍋の周りへ広がった。

 

 

 

 

「あの、一つ気になってることがあるんだけど……」

 皆が焚き火を囲みながら食事を取っていると、ピリポが口を開いた。

「ディーナは今でも、白き羽なの?」

「私? えっと…」

 彼の隣に座っているディーナは椀から匙を動かしていた手を止め、返答に窮していた。

 羽を失った自分が世の中でどのように位置付けられるのかなど、想像だにしていなかった。

「今のお主は、白き羽でも黒き羽でも無い」

 事実を解き明かしたのはヨハネだった。

「言ってしまえばルピルピと同じ、邪道騎士と呼ばれる身分にあたる。白き羽と黒き羽の二項対立的な種族関係からは除外されたと考えればよい」

「じゃあ、奴隷階級じゃなくなったディーナなら、奴隷を連れていてもおかしくないよね?」

「別段、問題は無いと思うが…」

 ピリポの質問の意図を掴めず、ヨハネは小首を傾げる。

「ねぇ、僕をディーナの奴隷にしてくれないかな?」

 ピリポはディーナに向き直り、のどかな調子で願い求めた。

「えぇっ!?」

 ディーナは仰天し、椀を口につけていたレブロブスとガイウスは中身を吹き出した。

「何寝ぼけたことを吐かしてやがる!?」

 レブロブスはむせ返りながらピリポを凝視した。

「そんなことできないよ! ピリポ君と支配したりされたりする関係になんて、なりたくない!」

 ディーナが勢いよく首を横に振ると、ピリポは叱られた子犬のようにしゅんと俯く。

「そっかぁ…君が僕の御主人様になってくれたら、愛が本当にあるのかどうか、僕にもわかる気がしたんだけどな…」

 ピリポがディーナへの隷属を切望する動機は、自らの保護を求めて力のある他者へ頼ろうとする、悲観的な強迫観念によるものでは無いようだった。ディーナとゼロの間に培われた絆に憧憬し、それを得るための道を彼が考え得る限り自発的に模索した結果だった。

 だが、ピリポと自分が主従関係を結ぶこと自体が理不尽だとディーナは感じた。

「羽が無くなっただけで、ピリポ君と私が同じ人間であることに変わりは無いよ。あなたは私の大切な友達なの。だから、私達の立場に距離を置いたりしないでね…」

「友達…友達かぁ……!」

 ピリポは名付けられた称号の響きを不思議そうに口にしていたが、腑に落ちたのかその表情は晴れやかになった。

「さすがは大邪神の鎧の適合者ね! 愛だけじゃなく、他の七つの大罪である平等や友情までも軽々しく口にできちゃうんだから!」

「うむ、実に興味深い見解じゃ…」

 ディーナの弁がルピルピとヨハネを唸らせていた。

「ところで、ルピルピよ。お主がくれたこの地図なのだが」

 食事を済ませたヨハネは、大陸全土を網羅しているという羊皮紙の地図を広げた。

「どうやら粗悪品のようじゃ。魔法都市リニアの所在地が抜け落ちておる」

「そうでした。お師匠様は牢獄にいらっしゃった時間が長いから、ご存じないのですね…」

 ルピルピが浮かない顔つきで地図を覗き込み、言葉を続ける。

「リニアは、消滅したそうです。今から二年程前のことですわ」

「なっ、何じゃと!? 都市が丸ごと消え失せたとは、一体何があったと言うのじゃ!」

 ヨハネはひどく動揺している。

「その話なら聞いたことがある。火砕流のせいだとか、新型兵器の実験に失敗して大爆発が起こったせいだとか、いろんな憶測が飛び交ってたな」

 ガイウスが当時を振り返ると、ルピルピは頷いた。

「リニアが滅亡した原因はわからずじまい。都市の領域には今も有毒ガスが発生してるとかで、立ち入ることができないの。あの時は世界中大騒ぎだったわ…どこの街も壊滅したリニアの救援を行う程の余裕が無かったから、アンゲルス教団が早々に先遣隊を結成して対処したのよ。結局、生存者は見つからなかったみたいだけど…」

「なんと嘆かわしい…リニアは高名な学者達が集う、叡智の園であったというのに」

 うなだれるヨハネの姿は憂色に包まれていた。

 ヨハネ達の会話を虚心に聞いていると、ディーナの中にある感情が沸き起こった。初めにそれは、渚に佇む者の足首だけを濡らす波のように、穏やかに彼女の胸へと打ち寄せていた。意識を傾けると、その波は即座に荒々しくなり彼女を飲み込もうとした。この激情のうねりが何であるのか探り当てようとしても、言い表す言葉が見つからない。

「ディーナ? 僕が変なことを言ったせいで、気を悪くさせちゃった、かな…」

 溺れる意識を掬い上げたのは、ピリポの声だった。

「ううん! ご飯が美味しくて食べすぎちゃったから、眠くなっただけだよ。お皿、洗ってくるね」

 正気付いたディーナはピリポに微笑むと、身の回りの食器を手早く重ね、立ち上がった。

 

 

 

 

 荒野で過ごす夜の眠りから、ディーナは目覚めた。

 身を起こし、辺りを見回す。満月が空高く浮かんでいるため、夜明けは遠いようだった。

 枯れ草が時折風にそよぎ、焚き火が燃える音だけが聞こえる、静謐な夜だ。しかし、寝付こうとする気がすぐには起きなかった。夕餉の時間に感じたどよめきが、今も胸の中で残響を続けているようで、すっかり目が冴えてしまっていた。

「交代の時間には、まだ早いぜ」

 張り番のガイウスが、退屈そうに欠伸をしながら膝に頬杖を突いて座っている。

「あれ? レブロブスさんは?」

「見張りを代わってやったのに、風に当たるとか言ってふらふら何処かに消えやがった。筋肉馬鹿にも、物思いにふけりたい時があるらしい」

 ディーナの問い掛けに、ガイウスは火に薪をくべながら淡々と答えた。

 周囲に広がる夜陰の中へ目を凝らすと、程近い岩の上に黒い人影が見える。

「私、様子を見てくる」

 ディーナは角灯を手にして立ち上がり、他の仲間達の眠りを妨げないように抜き足で焚き火の側を離れようとした。

「得物は必ず持って行け」

 ガイウスに睨まれ、慌てて剣を背負った。

 荒野を進み、人影がレブロブスであると確信できる距離まで近付いた所で、ディーナは立ち止まった。

 レブロブスは岩の上に胡座を組み、黙想していた。角灯の仄かな灯りを受けただけでも、彼の豊麗な肉体から溢れ出る生命力を感知できる。だが彼の眉間には微かに皺が寄り、深い苦渋の色が浮かんでいるように見えた。その逞しさと懊悩は釣り合いが取れないまま彼に内在し、ある種の芸術的な魅力を醸し出している。

 ディーナが声を掛けることを忘れて立ち尽くしていると、彼女の存在に気付いたレブロブスは表情を和らげ、彼女を見た。

「眠れねぇのか?」

 ディーナは頷く。

「しばらく隣にいてもいい?」

「好きにしろ」

 レブロブスの返事には愛想が無かったが、彼女を煩わしがっているようでも無かった。

 ディーナがレブロブスの側にある岩に座ると早々に、彼はディーナに話し掛けた。

「お前、どういう気の変わりようだ? リベイラの神殿じゃ弱音を吐いてたくせに、随分と戦うことに前向きになったじゃねぇか」

「あの時、レブロブスさんが励ましてくれたお陰だよ。それとね…」

 ディーナは微笑を返し、間を置いてから言葉を続けた。

「私なりに考えたんだ。ユダさんを…初めて人を斬り付けたのは、凄く嫌な感触だった。できるなら、もう二度とあんなことしたくない」

 ディーナは渋面を作り、岩に立て掛けている自らの剣を見つめた。

「でも、私達はお尋ね者だし…それに、ゼロを助けるために対立する人達と、話し合いで解決できない場は起こると思う。そんな時、戦う力があっても皆の後ろに隠れたままなんて、もっと嫌。だから、今自分が持っている力を最大限に活かせるようにしたい」

 レブロブスは大口を開き、豪快な笑い声を上げた。

「お前にそう決意させたもんが、主人への愛ってか! 愛のためなら、自分の羽をむしり取ることも、殺し合いだってできるって訳だ! 見上げた根性じゃねぇか。この世にそんなもんが無かったとしても、お前は大した奴だよ!」

 些細な悩みなど吹き飛ばしてしまうような彼の気強い笑顔は、見ていて爽快だった。

「馬鹿真面目に愛の存在を信じ続けるお前が、正直、羨ましくなってきたぜ。俺は…未だに自由ってもんが、ちっともわからねぇままだ。なぁ、お前は自由って一体何だと思う?」

「自由…。うーん…ゴルゴダの牢獄にいた私達の逆で、牢屋に入れられずに身体を動かせること? それだと捕まっていない人は皆、自由の大罪を犯していることになっちゃうし…何だか頭がこんがらがってきたよ……」

 レブロブスとの問答に、ディーナは苦心しながら考えを巡らせる。

「自分のやりたいことが、誰にも邪魔されずにできることかな。だけど、それって…」

 ディーナが自らの答えに違和感を持つと、途端にレブロブスの表情が険しくなった。

「お前の言うことが本当なら、真っ先に裁かれるべきは、好き放題やってる黒い羽の奴らじゃねぇか! 白い羽をさんざこき使い、享楽三昧してるあいつらの、どこが自由じゃねぇって言うんだ!? 罪に値する自由って、何なんだよ…!?」

 レブロブスは苦しそうに俯いた。

「一瞬でもいいんだ…真の自由を手にすることができるなら、俺は死んだって構わない!」

 レブロブスの剣幕にディーナが圧倒されていると、彼は決まりが悪そうに薄く笑いを浮かべた。

「すまねぇ。因縁深い土地に戻ってきちまったせいで、ついカッとなっちまった」

「そっか、ガイウスさんが、レブロブスさんはパンデモニウムの剣闘士だったって話してたね。だから街の名前に聞き覚えがあったんだ…」

 命懸けの旅路を共にしている仲間達の過去を、ディーナは熟知していない。過去を失っている自分が、他人の過去を無理に詮索することについて気が咎めたからだ。

 レブロブスが自由を追い求める理由の中に、彼が負った痛みが潜んでいる気がした。それを癒そうなどとは甚だおこがましいが、何か自分にできることはないかと思った。

「レブロブスさんはどうして――」

「おい、お前ら」

 会話を遮られたディーナが振り向くと、ガイウスが腕を組みながら立っていた。冷然とした眼差しを二人に向けている。

「お喋りに夢中で気が付かなかったか? 隠れて俺達の様子を窺ってる奴らがいる」

 ディーナは緊張で身を竦ませたが、レブロブスは苦々しげにガイウスを睨み返した。

「わーってるよ! 二人だろ? 気配を隠し切れてねぇ。身構える程の奴らじゃねぇよ!」

「全然、気付けなかった……」

 ディーナは自らの危機意識の足りなさを恥じた。

「そこにいるのはわかってる! こそこそしてねぇで、出て来やがれ!」

 レブロブスは前方の岩に向かって怒声を浴びせた。ディーナは手にした剣の柄に手をかけ、彼の視線の先を注視する。

 岩陰から現れたのは、二人の白い羽の男達だった。するとその内の一人がレブロブスの元へと引き寄せられるかのようにふらふらと前へ進み出た。頭髪に白色が混じるその初老の男は、頬が痩け、憔悴しているようだった。

「レブ…! 本当に、レブなんだな……!」

 男の叫びには、欣喜の響きがあった。

 レブロブスの隻眼が見開かれる。

「お、お前っ! ダロムじゃねぇか!?」

 ダロムという男は糸が切れた傀儡のように、その場に膝を突いた。

 レブロブスはダロムの元へ駆け寄り、その肩に手を回し彼の身体を支えた。がっしりとしたレブロブスの腕の中で、ダロムの体躯はより一層貧弱に見える。

「知ってる奴なのか!?」

 ガイウスが不審がると、レブロブスはダロムを見つめたまま声を発した。

「こいつは…俺の古巣の闘技場で雑役夫として働いていた男だ。俺がガキの頃から、親代わりになって何かと面倒を見てくれていた」

 レブロブスの瞳には、旧知との再会の喜びと、その者が変わり果てた姿で目の前に現れたことへの当惑がある。

「ダロム、どうしてお前がこんな所にいるんだ!?」

「俺達は身体一つでパンデモニウムの街から逃げ出して来た。何日も碌に食べてなくて、行き倒れそうなんだ…。頼む、食料を分けてくれないか…?」

 ダロムは縋るような目つきでレブロブスに哀願した。

「わかった、とにかくこっちに来い!」

 そう言うと、レブロブスはためらわずに二人の放浪者を焚き火の側へと導いた。

 

 

 

 

「こんな所でレブに助けられるとはなぁ。お前はてっきり、ゴルゴダの牢獄で処刑されちまったもんだと思っていたよ」

 食事を与えられ飢餓状態を脱したダロムの顔つきには、理性が戻りつつあった。

 他の仲間達も目を覚まし、焚き火の近くに腰を下ろしているレブロブスとダロムの会話に耳を傾けている。

「ちょいといろいろあったのさ。俺達は脱獄して、パンデモニウムの街に向かっているところだ。それよりダロム、パンデモニウムで何があったんだ?」

 ダロムは意気消沈とした様子で視線を落としながら話し始めた。

「パンデモニウムに、マモンという高利貸しの男がいてな。荒稼ぎをしていたそいつはとうとう、金に物をいわせてこさえた傭兵団を使って街の領主を殺し、新しい領主になった。お前が捕まる少し前の話さ。領主にのし上がる程の才覚とその強欲さに、街の住民達は心酔しているんだが…」

 深い溜め息を吐いたダロムからは、この世の終わりでも告げるような悲愴感が漂っている。

「取り立てられる税の額が跳ね上がってなぁ。しかも、マモンに破格のみかじめ料を支払える店しか商売ができなくなって、物価も滅茶苦茶に上がった。街でまともに暮らしていけるのは、一部の金持ち連中だけになっちまったのさ! 俺達の主も、マモンに借りた金が返せなくて首を括っちまった。それで俺達は借金の形に剣奴の競り市にかけられそうになって、命辛辛街を飛び出して来たんだ。笑っちまうだろ、こんな老いぼれにまで剣闘士をやらせようなんて!」

「そんな領主、俺がぶっ殺してやる! ダロム、お前達も一緒に来いよ!」

 レブロブスは領主への憤りのために顔をしかめ、気炎を揚げた。しかし、ダロムは彼の誘いに対して諦観を持ちながら首を横に振った。

「いや…遠慮しておく。何だか、お前達は訳有りの一団みたいだな。俺達のような弱い奴らは、きっと邪魔になるだけだ。このままリベイラまで逃げ延びることができたら、どうにかして新しい主を見つけようと思う」

 俯いていたダロムは顔を上げ、レブロブスを気遣うような眼差しを向けた。

「気を付けろ。今のパンデモニウムには、金のためなら何でもやる暴徒とゴロツキ共しかいねぇ。それと…闘技場にあいつが戻って来たぞ……」

 ダロムの言葉に、レブロブスは一瞬、色を失った。

「あの野郎、生きていやがったのか……!」

 見る間に、レブロブスの形相が夜叉に取り憑かれたか如く変貌する瞬間をディーナは目にした。

「闘技場には近付くな。それじゃ世話になった、俺達はそろそろ行くよ」

 ダロムが立ち上がると、ヨハネは手頃な大きさの皮袋に食料を詰めて彼に手渡した。

「旅の無事を祈っておるよ」

「あんた、黒い羽のくせに風変わりな奴だなぁ! 有り難く貰っとくぜ」

 皮袋をしっかりと背に括り付け、ダロムはレブロブスに向き直った。

「レブ、最後にお前の顔を見られてよかった。競り市にかけられそうになった時、俺はつくづく生きてることに嫌気が差して、いっそ死んで楽になろうかと思った。だが、お前のことを思い出して、街を逃げ出す決心がついたんだ」

「俺のことを?」

「あの生き地獄のような闘技場の中で、お前には何が何でも生き抜いてやろうという気概があった。お前を見ていると、いつも胸がすく思いだったよ。こいつはいつか、どえらいことをやってのけると予感していた。だからお前が闘技場を脱走した時、やりやがった! と俺はほくそ笑んでいたのさ。お前はついに、自由ってもんを選び取ったんだ」

 レブロブスは苦笑いをしながら立ち上がった。

「何言ってんだよ。俺の脱走劇があっという間に終わったのはよく知ってるだろ。自由なんて、雲の上だぜ!」

 ダロムはそれ以上多くを語ろうとはせず、柔らかい微笑みを浮かべるだけだった。今の彼には、一度は死の誘いに身を委ねかけた者だとは微塵も感じさせない清々しさがあった。

「達者でな…レブ」

 ダロム達が消えて行った薄闇の奥を、レブロブスはしばらく名残惜しそうに眺めていた。

「お前らとの旅はここまでだ。俺には寄る所ができちまった」

 レブロブスの表情には確固たる決意が漲っている。

 ディーナは彼の側へ歩み寄り、じっとその巨体を見上げた。

「さっき話していた闘技場に向かうつもりなんだよね? 私も一緒に行く」

「馬鹿野郎! お前はマモンとかいうふざけた領主を問い詰めに行くんだろ!? 俺の用事に構ってる暇はねぇはずだ!」

 凄味を利かせるレブロブスに怯むこと無く、ディーナは凛と食い下がる。

「だってレブロブスさん、すごく思い詰めた顔してる…! 心配なの! それに闘技場に行くってことは、危険な戦いをするかもしれないんでしょう!?」

 二人が互いに譲らず睨み合っていると、ヨハネが一つ大きな咳払いをした。

「レブよ、お主がダロムと話している間に、もう一人の白い羽の男からこんな話を聞いた。パンデモニウムの住民は、週末に闘技場で開かれる賭事に必ず参加し、稼いだ金を領主に納めなければならない。領主は視察と称して度々闘技場を訪れ、一緒になって博打に興じているそうじゃ」

「今日はちょうど週末! 闘技場に行けば、守りが堅い領主の館に攻め込むよりも、簡単に領主に会えるかもしれない、というお考えなのですね!」

 ルピルピが嬉しそうに手を打った。

「目的地が同じなら、問題無いよね」

 レブロブスをまっすぐに見つめるディーナの顔を、光が輝かす。乳白色の空を鮮麗な黄金色に染め上げる、朝焼けの光だった。

 レブロブスは眩しげに目を細め、嘆息を漏らした。

「お前みたいな底抜けのお人好し、長生きできねぇぞ。もういい…付いて来るなら勝手にしやがれ」

 

 

 

 

 パンデモニウムの市街地と件の闘技場は、間に丘を一つ隔てた位置関係にある。一行の進行方向からは、市街地より手前に闘技場はあった。

 闘技場に辿り着き、ディーナは仰け反るような姿勢でその巨大な建造物を仰ぎ見た。堅固な石造りの壁が、城塞のように広大な敷地を円形に取り囲んでいる。壁の中では、観客達の喚声とおぼしき轟音が反響していた。

 ディーナ達が立っているのは、博打の参加者達が受付を済ませるための広場である。賭けで所持金を使い果たしたと地団駄を踏んで悔しがる者、試合の勝者となる剣闘士の予想紙を巧みな宣伝文句で売り込む者。広場には闘技場へ賑わいをもたらす人々が溢れている。

「僕、博打なんてやったことが無いけど…お祭りみたいで楽しそうだね」

 ピリポは広場の雰囲気に些か浮かれ、珍しそうに辺りを見回している。すると彼は、受付カウンターの隣に立てられている表示板に目を留めた。そこには試合に出場する剣闘士の名と、その者の勝利を当てた際に得られる配当金の倍率が書かれている。

「ピリポ、間違っても勝者投票券を買うなよ。ここの博打は、配当金からとんでもねぇ額の寺銭が差し引かれる。客は勝とうが負けようが大損する仕組みなんだ。特にお前なんか、いいカモにされるのが目に見えるぜ」

 レブロブスに釘を刺され、ピリポは肩を窄めた。

「そうなんだ…ちょっとだけ、やってみたかったなぁ…」

「てめぇら、客じゃねぇのか!? 冷やかしならとっとと失せろ、この貧乏人共!」

 カウンターにいる受付係の男が、レブロブス達の会話を聞き付けて罵り声を上げた。

「そうだ、俺達は客じゃねぇ! こんなくだらねぇことに、びた一文だって賭けられるか!」

 レブロブスは片手でカウンター机を強く叩き、受付係へ詰め寄った。

「俺は次の試合の出場選手としてここへ来た! こいつらは俺の介添えだ! さぁ、俺を選手控室に案内しろ!!」

 受付係はレブロブスを見るや否や、平静を失った。

「レ、レブロブス!? ど、どうしててめぇが生きてここにいやがる!? それに今日の大会はさっき予選が終わって出場選手は決まった――」

「特別枠で出場させるんだよ、この俺を! 最強の白き羽が舞い戻ったんだ…客寄せにゃあ十分だろうが! 早くしねぇとここでひと暴れして大会を中止させるぞ! 手始めにお前から締め殺してやろうか!?」

 レブロブスから放たれるのは、視線だけで相手を死なせることができるような禍々しい殺意だった。

 怯え切った受付係は、レブロブスの出場について闘技場支配人の了承を得る必要があると、その場から矢のような速さで支配人の元へ飛び出して行った。

「待って、一人で戦うつもりなの!?」

 ディーナがレブロブスの独断に非難の意を込めて問い掛けると、彼はきっぱりと言い放った。

「闘技場のルールは、一対一の個人戦だ。お前達の出る幕はねぇ。客席に紛れて、領主探しに集中してろ」

「言われなくてもそうするさ。こんな目立つ所で、脱獄囚の俺達が仲良く揃って戦うなんざ、愚の骨頂だ」

 ガイウスの口調には日頃と変わらぬ刺があった。

「死んだら墓石くらい建ててやる。気兼ね無く行ってこい」

「もー、素直に頑張れって言ってあげればいいじゃない!」

 ルピルピがガイウスに唇を尖らせていると、受付係がカウンターへ駆け戻った。

「レブロブス、出場の許可が下りたぞ! すぐに本選が始まるから、選手のお前は控室に急げ! わかってるだろうが、大会へのエントリーはもう取り消せねぇぞ。大会を制覇するか、ぶっ殺されるかのどっちかだ!」

「へいへい。そんじゃ、行ってくるわ」

 レブロブスは気晴らしの散歩にでも赴くような悠長な歩みで、受付係と共に闘技場内部へ進み始めた。

「私、いつでも戦えるようにしておく! だから絶対、無茶なことはしないで!」

 ディーナの必死の呼び掛けに、彼は背を向けたまま開いた片手を上げて、薄暗い通路の先へ姿を消した。

 

 

 

 

「御来場の皆様、お待たせいたしました! 闘技大会本選、第一回戦を開催いたします! 熾烈な予選を勝ち抜いた八名の中から、第二回戦へ進出する四名が決まりますが、ここで急遽、八人目の出場選手が交代の運びとなりました!」

 闘技場内の階段状になった観客席の最前列で、司会の男が拡声器を手に名調子を響かせる。

「飛び入り参加となったその選手の名は、ゴルゴダの煉獄から奇跡の生還を果たした最強の白き羽、レブロブス!!」

 観客達は予期せぬ展開に色めき立ち、沸き起こる喚声は大地を揺らすようだった。柄の悪い観客が、聞くに堪えない下品な言葉遣いで、レブロブスに声援を送っている。

 渦巻く熱気を気にも留めず、アリーナに立つレブロブスは空を見上げた。そびえ立つ闘技場の壁が、視界の中で紺碧の空を楕円形に縁取っている。囲われた空の中を、鷹か鷲か、大型の鳥が滑空していた。その鳥は闘技場の上空を一回、二回と旋回し、悠々と羽ばたきながら彼方へ飛び去った。

「そうだ…俺はいつもこの空を見ていた……」

 ゆっくりと頭を下げ、対戦相手を見据える。目の前に立ちはだかるのは、双剣を携える、線の細い若い白羽の男であった。

「この闘技場の戦士に、脱獄囚も異端者も関係無い! ただ我々を滾らせ、めくるめく死闘を見せてくれれば何でもいい! さぁ、決勝戦へ駒を進め、今大会王者、不発弾のゼファルへの挑戦権を獲得するのは誰なのか!?」

 司会が高らかに試合の開始を告げた。

 試合が始まってすぐ、レブロブスは相手の戦意が挫けそうになっていることに感付いた。我武者羅に振り回される二刀は空を切るばかりで、レブロブスに命中する気配は無い。剣を構える姿も隙だらけだった。

「てめぇっ、びびってんのか!? そんな弱腰でよくここまで来れたな! つまらねぇ戦いをしてると、客席から野次と一緒に矢でも飛んで来るぞ!」

 相手と距離を空けながら、レブロブスは声を荒げた。

「…お前のせいで、俺の計画は台無しだ……」

 獣が威嚇するような低い声が、双剣使いの男の口から漏れた。

「予選を通過した時、優勝の最有力候補は俺だった。闘技場の支配人達は、この大会に優勝すれば俺を剣闘士の身分から解放すると約束していたんだ! それなのに…お前が出場したせいで、支配人達の関心はお前に移った! お前とゼファルをぶつけた方が客が入ると…俺との約束は反故にされた!!」

 双剣使いは目を剥いて怒りを露にする。

「そんな約束、端からあいつらは守る気なんて無かったんだ! お前に発破をかけるための甘言だったんだよ! 少し考えりゃわかるだろう!?」

 レブロブスは双剣使いを弄んだ者達へ溢れ出る憤怒を、歯を食いしばって抑え込んだ。そして戦斧を振りかざし、彼との距離を一気に詰める。

 レブロブスが振り下ろした一撃を、双剣使いは恐れ慄きながら刃で受け止めた。レブロブスは斧の柄を握る両腕の力を加減している。

「おい、よく聞け!」

 声を潜めて双剣使いに鋭い眼差しを向ける。

「客席に俺の連れが紛れ込んでる。そいつらと騒ぎを起こしてこの場を混乱させれば、逃げ出せるはずだ。お前も力を貸せ!」

 そう言い終えた後、レブロブスは自分自身の言葉に耳を疑った。

 眼前にいる哀れな剣闘士を、自分が救いたいと思ったことに驚愕した。そして、知らぬ間に自分がディーナ達の力を心頼みにしていたという深意に気付かされた。弱肉強食という世界の原理の縮図であるこの闘技場で、自分は孤高に戦い抜いていた。そんな自分が他人の命を気に掛け、他人の力を頼る行為に及ぶなど、信じられなかった。

「……ふざけるな」

 双剣使いの瞳に希望の光が灯ることは無く、彼は忌々しげにレブロブスを睨み付けた。そして、渾身の力で彼の斧を撥ね除けた。

「ただの奴隷が束になったところで、何ができるってんだ! 金も権力も持ち合わせていない俺達がここから逃げ出したって、そこからどうやって生きていきゃいいんだ!?」

「逃げた後にいくらでも考えりゃいいじゃねぇか! 自由さえ手に入れれば、どうとでもなる!」

「自由だと!? そんな世迷い言じゃ、腹は膨れねぇ! 支配人達は、一生遊んで暮らせるだけの金も、女も、俺が望むものを全て与えてくれるはずだった! お前だって結局、食い扶持に困ってここに戻ったんだろう!?」

「違う! 俺は…ゼファルの野郎を殺すため、立ち寄っただけだ!」

 レブロブスは悲痛な面持ちで叫んだ。

「思い出せ! 調教師に死ぬ程殴られた夜を、憎くもねぇ相手をたたっ殺す試合を、お前だって今まで耐えてきたはずだ!! その辛抱強さを何故、ここを出て生きるために使おうとしない!? 助かる道があってもなお、お前は黒い羽共へ服従すると言うのか!?」

「うるせえぇっ! 俺を助けたいなら、黙って死にやがれっ!!」

 双剣使いは奇声を発し、レブロブスに斬り掛かる。

 説得を諦めたレブロブスは斧を振るい、彼を剣ごと叩き伏せた。双剣使いの身体と剣は両断され、地面に転がった。白い羽根が辺りに舞い上がり、地面に落ちて血を吸っている。

「畜生!!」

 顔を歪め、レブロブスは咆哮した。

「白い羽はどこまでも虐げられ、利用される…! 俺達が自由になるには…死ぬしかねぇってことなのかよ……!?」

「牢獄にいた間のブランクを感じさせない強力無比の一撃が、相手を屠りました! レブロブス、二回戦進出です!!」

 司会の熱烈なアナウンスに、レブロブスを囲む喚声の輪が一層激しくなる。

 レブロブスが双剣使いの死体を見下ろしながら立ち尽くしていると、数人の白い羽達がアリーナに姿を現した。彼らは慣れた手つきで地面の肉塊を回収し、その場を掃いている。

『お前はついに、自由ってもんを選び取ったんだ』

 ふと、ダロムの微笑みが蘇った。

「ダロムの奴、好い加減なことを言いやがって…。俺がいつ、自由を手にしたってんだ……」

 レブロブスは眉を顰めながら呟き、振り返ると、アリーナから選手控室に続く通路に向かって歩き始めた。

 

 

 

 

 ディーナはレブロブスを探して、闘技場内の通路を急ぎ足でさ迷っている。

 レブロブスは怒涛の勢いで闘技大会本選の二回戦と三回戦を勝ち進み、大会王者との決勝試合を残すばかりとなった。試合までの待機時間が始まってしばらく経っても、レブロブスはディーナ達が待つ選手控室へ戻ってこなかった。ディーナは控室に止まっていても気持ちが落ち着かず、彼と入れ違いになることも承知で部屋を出た。

 アリーナで戦うレブロブスの姿は、雄々しく、軍神のような高潔さがあった。しかし、戦斧を打ち振るう毎に彼の中には迷いが生じ、それに心を擦り減らしているかのように、ディーナには見えた。このままでは、この大会が終わった時、彼に息衝く尊さが失われてしまいそうな気がした。

 通路を闇雲に歩き回っていると、視界が開け、広間に辿り着いた。その広間は部屋の中央部が柵で囲まれており、さらにその柵の全周を取り囲むように長椅子が置かれている。

 広間にはただ一人、レブロブスが佇んでいた。戦いに赴く時とは打って変わった空虚な瞳で、柵の中を見つめている。

「レブロブスさん、ここは…?」

 ディーナはレブロブスの隣に立ち、広間の正体を問うた。

「ここは剣闘士となるべく連れてこられた奴隷達の競売場だ。俺も赤ん坊の頃にここで競りにかけられたと、ダロムに聞かされた」

 ディーナは顔を引きつらせ、広間を見渡した。

 レブロブスは吐き捨てるように言葉を続ける。

「白い羽だったお前にとっても、胸糞悪い場所だろう? 俺は何度もここを燃やしちまいたいと思った。だがそんなことをしたって、何も変わりゃしねぇ。競売場の位置が変わるだけで、剣闘奴隷がいなくなる訳じゃねぇんだ」

 そして彼は表情を曇らせ、か細い声を発する。

「生きてる間、俺達が自由になることも、無いのかもな……」

「やぁっとわかったか! 俺達剣闘士は見せ物として死ぬまで戦い続ける定めなんだよ!!」

 蔑みを含んだ男の声が広間に響いた。二人の背後に、薄笑いを浮かべた白い羽の男が立っていた。神経を逆撫でするその笑みが、首筋から頬にかけて刻まれた刺青の形を歪めている。

「しっかしよぉ、お前も本当に懲りない奴だよなぁ…!」

 男は込み上げる嘲笑を堪えることに苦労しているようだった。

「今はその女に慰めてもらってるのか? そこまでして自分の子孫を残したいのかよ!?」

「ゼファル!!」

 レブロブスの怒気が烈風の如く男に向かって猛り狂う。

「その減らず口、二度と叩けねぇようにしてやる!!」

「レブロブスさん、駄目!!」

 ゼファルと呼ばれた男に組み付こうとしたレブロブスの前に立ち、ディーナは彼を押し止めた。

「闘技場では、試合以外での暴力行為は禁止されてるんだよね? 発覚したら、処刑されるって聞いたよ…挑発に乗らないで!」

 レブロブスは立ち止まり、射るような視線をゼファルに飛ばしている。

「そうだぜぇ、俺達の決着は決勝戦の場で華々しくつけようや! 俺は今、その決勝戦のことで大事な話があって来たんだ」

 ゼファルはレブロブスの殺気に毛ほども動じること無く話し続ける。

「レブロブス! 噂によれば、お前の付き添いでここに来てる奴らは、腕に覚えがあるらしいな。闘技場の運営本部はド派手な殺し合いを御所望だ。そこでだ、決勝戦は五対五のチーム戦になった! お前を入れて五人、出場選手を決めろ! 俺も選りすぐりの猛者を揃えてお出迎えしてやるよ!」

「ふざけるのも大概にしろ! 他の奴らは関係ねぇ! そんな要求、呑めるか!!」

 目の色を変えて抗議するレブロブスに向かい、ゼファルは舌を出しておどけて見せた。

「ばーか! 要求じゃねぇ、主催者が下した決定事項なんだよ! 従わなければ、全員、問答無用で処刑されるだけだ! 安心しろ、乱戦の中だろうと、お前は俺がきっちり殺してやるからよぉ!!」

 ゼファルは卑しい笑い声を上げながら、競売場を立ち去った。残されたディーナとレブロブスを緊迫した沈黙が包む。

「あの野郎…許せねぇ……!」

 怒りに身を震わせるレブロブスを宥めるようにディーナは話し掛ける。

「私も一緒に戦うよ。いったん、控室に戻ろう?」

 レブロブスは拳を握りながら僅かに首を縦に振った。

 

 

 

 

「…すまんな。とんだ厄介事にお前達を巻き込んじまった」

 選手控室の椅子に腰掛けるレブロブスは、ゼファルとの応酬を経て、気力を消耗しているようだった。

「まったくだ。何が楽しくて、俺達がお前の喧嘩に肩入れしなきゃいけねぇんだ」

 部屋の壁に背を持たせ掛け、ガイウスが顔を顰めながら腕を組んでいる。

「試合に必要な人数は五人だ…。お前は出なくていい…」

 いつものように彼の嫌みへ嚙み付く素振りも見せず、レブロブスはうなだれた。

 ガイウスが腹立たしげに舌打ちをする。

「それができねぇから俺は機嫌が悪いんだ! そこの馬鹿女が、勝手に俺を選手としてエントリーしちまったんだよ!」

「酷いよルピルピさん…どうして僕をエントリーしちゃったの? 僕なんかより、ヨハネさんの方が絶対戦力になるのに……」

 ピリポは瞳を潤ませながらルピルピに抗しているが、当の本人はあっけらかんとしている。

「何言ってるのよ。こんなことくらいでお師匠様のお手を煩わせる訳にいかないでしょ! 心配しなくても、鎧を着た私とディーナがいればお茶の子さいさいよ! それに、致命傷以外の怪我なら私が魔法で回復してあげるから!」

「僕…あんなに強そうな人達と戦って致命傷を負わない自信が無いよ……」

「落ち着くのじゃ、ピリポ。いざとなれば、わしが客席から魔術を使って助太刀しよう」

 哀感を漂わせるピリポを励ますようにヨハネが声を掛けた。そして、彼の視線はピリポからレブロブスへと移される。

「して、レブよ。どうやらお主と闘技大会の王者ゼファルとの間には、浅からぬ縁があるようじゃな。無理にでも話してくれとは言わんが――」

 控室にいる者達の注目がレブロブスに集まる。レブロブスは俯いたまま、静かに口を開いた。

「あいつは俺の右目の光を奪い……俺の妻にあたる女を殺した」

 ディーナは息を呑んでレブロブスを見つめる。

「俺達剣闘士は、競走馬と同じだ。剣闘奴隷の飼い主である黒い羽共にとって、試合に勝ち続ける強い剣闘士を所有することが、権力の誇示を意味する。さらに奴らは、剣闘士の能力に生まれが影響すると、俺達の血統に甚くこだわってるのさ。種馬の務めとして、俺にも女があてがわれた。そして女は俺の子どもを身籠った」

 自らの過去を、レブロブスはまるで他人事のように抑揚なく話している。

「生まれてくる子どもが、俺と同じように虐待まがいの調教を受け、金持ちの道楽のためだけに殺し合いをさせられ、この闘技場の塀の中でのた打ち回りながら一生を終えるのかと思うと…憐れでしょうがなかった。それで俺は女を連れ、闘技場を脱走した。…結果はお前達の知るとおりだ」

 彼の話を聞きながらピリポは再び涙ぐんでおり、ガイウスは腕を組んだまま無表情に天井を見上げている。

「俺達が脱走したのは、俺がゼファルとの試合を目前に控えている時だった。戦闘狂の奴は、試合を放棄した俺が気に食わなかったらしい。奴は俺達の捜索隊に加わり、異様な執念で俺達を追い詰めやがった。女は奴に殺され、自由を口にした俺はゴルゴダの牢獄にしょっぴかれた」

 レブロブスがしばし口を閉ざし、控室は沈黙に浸った。そして彼は気を整えるように息を吐き、言葉を続ける。

「不運な女だったんだ…。よく知りもしねぇ男の子どもを孕まされた挙句、その男のせいで、自分の死期が早まっちまったんだからな。ゼファルに斬り裂かれ、事切れる寸前に俺を睨んでいたあいつの目が…忘れられねぇ。さぞかし俺が憎かっただろう……」

 遠い目をしているレブロブスの声が、微かにだが震えていた。

「牢獄で死ぬのは当然の報いだと思った。だがそこで…腹の底から愛なんかを信じている馬鹿に、俺は出会った」

 レブロブスは顔を上げ、その隻眼にディーナの姿を映した。ディーナは驚き、ただ呆然と視線を交わしている。

「お前を見てると、何だかな…俺ももう一回、馬鹿をやってもいいんじゃねぇかと思ったんだ。あの女と俺の子どもが終ぞ得ることができなかった自由ってやつをもう一度、追い求めてみようってな」

「がたいに似合わず、しおらしいことを言うじゃねぇか」

 ガイウスが堪え切れずにくっくっと笑い出した。

「お前の間抜けっぷりがよくわかって、面白かったぜ。その礼だ。次の試合、勝たせてやる」

「…頼むぜ、相棒」

 レブロブスが弱々しく皮肉混じりの笑みを湛えると、闘技場の衛兵が控室に現れ、ディーナ達にアリーナへの移動を命じた。

 

 

 

 

「今まで運がよくて生き残ってこれたけど…今日こそ死んじゃうかもしれないなぁ……」

 アリーナと繋がっている扉の前の通路で、矢筒を背負った暗い表情のピリポがしみじみと独り言ちた。

「運だけじゃなくて、ピリポ君自身が強いからここまで来れたんだよ。頑張ろう。レブロブスさんの力になって、生きてここを出よう」

 ピリポを力付けながら、ディーナは自らの戦う勇気も奮い起こした。そして身体の奥底から不思議な温もりの漲溢を感じたかと思うと、太陽の神殿で見たものと同じ白い光が全身から放たれた。光が収まると、ディーナは白銀の鎧に身を包んでいた。

「本当に、鎧が現れた…」

 ディーナは唖然としながら鎧を眺めたが、すぐに表情を引き締め、麻の紐を取り出し髪を後頭部で一つに結い上げた。

 扉が開かれ、通路に光が差し込む。アリーナに足を踏み入れたディーナ達を、ゼファルを含めた五人の白い羽の男達と、場内に割れんばかりに轟く観客達の喚声が待ち受けていた。

 司会は観客達の興奮を代弁するかのように声を弾ませている。

「ついにこの時がやってまいりました! 今回の試合は闘技大会史上初のチーム戦です! 王者のゼファル率いる歴戦の勇士達に、最強の白き羽であるレブロブス率いる挑戦者チームが挑みます! 相手チームの最後の一人の息の根を止めるまで、この試合は終わりません! それでは、驚天動地の闘技大会決勝戦、開始!!」

 ディーナは向かい合う剣闘士達の一人から、悪寒が走るような怪しい視線を感じた。

「女だ…いい女が、二人もいる……」

 その男は濁った沼のような虚ろな瞳で、舌なめずりをしながらディーナを見ている。

「あぁ、早く…! 斬り刻んで、色っぽい声で鳴かせてやりてぇ……!!」

 そう叫ぶと、男は剣を片手に、ディーナを目掛けて走り寄った。

 ディーナが剣を抜いて男を迎え撃とうとすると、目の前で強固な拳が男の顔にめり込んだ。男の身体は吹き飛び、アリーナに平然と佇んでいるゼファルの足元に倒れた。

「部下の躾がなってねぇぞ、ゼファル! 何が選りすぐりの猛者だ!」

 男を撃退したのは、レブロブスの握拳だった。燃え盛る闘魂をこめてゼファルを睨み付けている。

「どこがおかしい? 己の欲望に忠実な、最高のクズ共じゃねぇか!」

 ゼファルは足元で痙攣している男に一瞥もせず、競売場でも見せた挑発的な笑みを返している。

「俺はゼファルをぶちのめす…! 残りの奴らはお前達に任せた」

 レブロブスは戦斧を肩に担ぎ、ディーナ達の側を離れ単身ゼファルへ迫った。入れ替わるように、大金槌を持った巨漢がルピルピの方へ突進してくる。鎧の力の存在を知らない相手チームは、女であるディーナとルピルピを弱者と判断し、真っ先に標的にしているようだった。

「おいデブ。てめぇの相手は俺だ」

 大金槌の男の行く手をガイウスが遮る。男は攻撃目標を変えて、槌をガイウスへ撃ち下ろした。その一撃は彼を仕留めること無く、土煙を上げただけだった。

「遅い…剣奴のくせに肥え過ぎだな」

 身を躱したガイウスは、男に再び槌を振り被らせる隙も与えず、無防備な背中を槍で貫いた。

「なーんか、拍子抜け! レブがゼファルって人を倒しちゃったら、勝負ありじゃない!」

 ルピルピが物足りなさそうに小首を傾げ、鎬を削っているレブロブスとゼファルを見遣っている。

 壮絶な斬り合いだった。レブロブスの戦斧が、鍛え抜かれた筋肉によって目にも留まらぬ速さでゼファルへ打ち込まれている。ゼファルが使用している槍の柄はいくつもの棍棒の中に鎖を仕込んだ多節棍のようになっており、棍棒の一本一本が生きているかのように空中を這い回って、斧の斬撃を跳ね返していた。レブロブスの攻撃の僅かな隙を狙い、ゼファルがヌンチャクの要領で柄の部分を振るう。遠心力によって破壊力が増しているその打撃は、一度でも当たれば勝敗の決め手になることが明白だった。レブロブスは驚くべき反射神経で上体を後屈させ、凶器の猛撃を避ける。

「素晴らしいぞ、レブロブス! やはりお前の肉体は、戦い続けるためだけに創られた、至高のものだ! あの時は女房を庇いながらだったから、全力が出せなかったんだろう!?」

 攻撃の手を緩めること無く、ゼファルが喜色を浮かべている。

「この闘技場にいればお前の剣闘士としての名誉は揺るがないものになったというのに、なぜだ? なぜお前は、足手まといにしかならない女を連れて脱走するなんて馬鹿げた真似をしたんだ? 自分の優秀な遺伝子を引き継いだ子を、独り占めしたかったのかぁっ!?」

「俺は…否応なしに俺と関わらされたあの憐れな女と、生まれる前から碌でもねぇ生き方を課せられていた俺の子どもに……自由を、やりたかったんだ!!」

 レブロブスが真横に振り抜いた斧の斬撃を、ゼファルは空中で身体を回転させ躱し、彼との距離を取った。

「そうだった、そうだった! 血塗れの女房を抱きながら、お前は同じように喚いていたなぁ!」

 痛ましいレブロブスの叫びを、ゼファルは嘲笑う。

「だが、お前の望みは叶えられたじゃねぇか。死が俺達に自由をもたらす。奴隷である俺達が自由を手にするのは…道具としての役割を終えて、壊れる瞬間だけなんだよ!」

 歯を剥き出し、その目を爛々とさせ、ゼファルはレブロブスに相対している。

「お優しい俺が、お前にもとびきりの自由を与えてやる」

 ゼファルが片手を上げ、指を鳴らした。すると、レブロブスの側に倒れていた、彼に顔を潰された男が突如として起き上がり、彼を羽交い締めにした。

 レブロブスが男を振り解こうとした途端、爆音と爆煙が彼を覆い尽くした。

「レブロブスさん!?」

 ディーナが悲鳴を上げるように彼の名を呼ぶ。

 煙が風に飛ばされ様子が分かるようになると、レブロブスに絡み付いた男は影も形も無く、無数の肉片が地面に散らばっているだけだった。レブロブスは己と飛散した男の血に全身が染まり、その場に膝を突いて倒れた。

「あ、あんまりだ…! 仲間を爆弾にして、自爆させたんだ!」

 青ざめた顔のピリポを、ゼファルが鼻で笑う。

「仲間だぁっ!? こいつらは決勝を盛り上げるための、ただの癇癪玉みてぇなもんだ! 気をつけた方がいいぜぇ、俺が仕掛けた不発弾が、いつどこで爆発するかわからねぇからなぁ!!」

 ルピルピがレブロブスの元へと駆け寄り、戸惑いながら怪我の具合を確認する。

「助かるかわからないけど、治療するわ! 時間稼ぎ、お願い!」

 レブロブスの傍らに膝を折り、ルピルピは精神を統一して、魔術の詠唱を始めた。

「おい、泡を食ってないで戦え」

 動揺しているディーナの心を見透かし、ガイウスが戒める。

「この呪符が爆風で飛ばされて来た。恐らくさっき爆発した男に取り付けられていたものだ…。俺が殺したデブにも、針金で直接背中に縫い付けられていたのを見たから、これが起爆装置だろうな。残りの手下にも十中八九、付いてるだろう」

 血の付着した一枚の札をディーナに見せながら、ガイウスは隙を見せぬようにゼファルへ鋭い眼差しを向けている。

「見たところ、爆発の威力は、他の味方を巻き添えにしないためか、俺達を苦しませるためかは知らんが、多少抑えてある。相手に掴み掛かられないようにしながら、背後を狙って殺るぞ」

 ゼファルの策略にはまったレブロブスの姿に動揺すること無く、彼は冷徹に戦況を分析していた。

 ディーナは目を見開き、声を震わせる。

「それじゃあ、あの人達は…命を握られて、無理矢理戦わされているのかもしれない…!」

「舐めたこと言ってんじゃねぇ! 躊躇してたら俺達がお陀仏だぞ!」

 試合が始まってから今まで冷静だったガイウスの口振りに、苛立ちが籠もる。そのまま彼は、襲い掛かってきた剣闘士に応戦するため、ディーナの側を離れた。

 もう一人の剣闘士が、詠唱中のため身動きが取れないルピルピと瀕死のレブロブスを狙い、走り来るのが見える。ピリポが放った矢が、その剣闘士の片肺を確かに潰した。にも拘らず、その勢いは衰えない。

『戦う力があっても皆の後ろに隠れたままなんて、もっと嫌』

 敵への憐れみのために屈服し殺されるのか、仲間のために憐れむ敵へ死神の鎌を振るうのか。酷薄の選択が、ディーナの決意を試している。

「私は……!」

 己の剣が死を振り撒くようになることが恐ろしかった。だが、それよりも。

『この世にそんなもんが無かったとしても、お前は大した奴だよ』

 レブロブスの頼もしい笑顔が永遠に失われることの方が、怖かった。

 剣を強く握り直し、アリーナを疾走する。剣闘士はルピルピに向かって斬り掛かろうとしていた。

 彼が味わう苦痛を最小限に止めたい。そう祈りを込めてディーナが剣闘士の背後を通り過ぎると、剣闘士の首が胴体から離れ宙に舞っていた。

「なんて速さだ…!」

 自らの対戦相手を打ち破ったガイウスが、閃くような太刀筋で剣闘士の命を刈り取ったディーナの姿に目を見張っている。

 ルピルピとレブロブスを背にしながら、ディーナは剣を構え、ゼファルと対峙した。

「お前か…マモン様が言っていた、妙な力を持つ騎士というのは!」

 ゼファルは値踏みをするかのように念入りにディーナを見つめている。

「お前のように力を持つ者が、なぜわざわざ徒党を組んでいるんだ? そこに横たわっている無様な男を庇い立てして、何の益があるってんだよ!?」

「無様なんかじゃない!!」

 ディーナはゼファルを睨め上げ、叫んだ。

「レブロブスさんは黒い羽の人達の支配に屈しないで、奥さんとお子さんのために闘技場を脱出する選択をした! 二人が亡くなったのはレブロブスさんのせいじゃないのに…それを自分の責任として受け止めて、現実に立ち向かってる! あなたにこの人の生き方を笑う資格なんて、無い!!」

 その時、意識を失っていたレブロブスの隻眼がうっすらと開かれた。

「…選択…責任……?」

 始めは焦点が定まっていなかった彼の瞳にたちまち生気が蘇り、それは極限まで見開かれた。

「ちょっと! まだ動いちゃ駄目! あなた、死にかけてたのよ!?」

 治療を終え、うろたえるルピルピの制止を振り切り、レブロブスは力強く地面を踏み固めて立ち上がる。

 再起したレブロブスの表情には、何か重要なことを悟ったためか、高邁な重々しさがあった。

「ここを出ると決めた時…俺の中にあったもんは、自由を求める意志、それだけだった…。なんてこった…俺は既に自由だったんだ……!!」

 レブロブスはディーナの側へ近付き、労うように彼女の肩へ手を置いた。

「俺がヘマしたせいで面倒を掛けたな。もう、大丈夫だ」

 彼は端然とディーナの前へ進み出て、再びゼファルと向き合った。

 ゼファルはレブロブスの強靭さを迎え入れ、喜んでいるようだった。

「やけにすっきりした顔してるな。一度あの世で神のお恵みでも施されてきたか?」

「この闘技場じゃ、毎日多くの剣闘士が死んでいく…。神って奴は、俺みたいな極悪人まで救ってくれる程暇じゃねぇだろう。俺は自力で立ち直ったんだ…!」

 ゼファルが嘲笑を浮かべたまま槍を構え、レブロブスへ肉薄する。

「お前の言うとおり、俺は死ぬまで戦い続ける! だがそれは俺の自由のためだ! 闘技場の奴らとじゃねぇ…この糞ったれな世の中と、俺は戦い続けてやる!!」

 ゼファルが放った電光石火の棍を、レブロブスは避けること無く片手で掴み取り、彼の動きを一瞬封じた。その一瞬、ゼファルは硬直せざるを得なかった。爆発が起こる前のレブロブスには宿っていなかった胆力と威厳が、ゼファルへ本能的に危険を察知させた。それは恐らく、彼が生まれて初めて感じる恐怖であった。

 その気骨から繰り出される会心の刃が、ゼファルの胸に直撃する。彼は血しぶきを上げながら、乱れ散る棍と共に地面に倒れた。

 

 

 

 

「あーあ、終わっちまった……」

 アリーナに広がる血溜まりの中で仰向けになりながら、ゼファルは闘技場の空を眺めている。先程まで彼の中に巣食っていた狂気は消え失せ、穏やかな表情を見せていた。

 レブロブスは死にゆくゼファルを見送るかのように、沈んだ顔で彼の傍らに立っている。

「俺はいつも…このアリーナで勝ち続けるお前を見て、惚れ惚れしてたんだぜ。お前が持つ力への追求心は天賦の才だ。もっとお前と…お互い本気でやり合いたかったなぁ……!」

「きたねぇ手でこいつをはめた奴が、よく言うぜ」

 レブロブスの隣に立つガイウスが、冷ややかな眼差しをゼファルに向けた。

「レブロブス…俺には思うとおりにいかなかったことが二つある。一つはお前の女房のことだ。俺が捜索隊に加わって脱走したお前達を探していた時、俺は先にお前の女房を見つけた。俺は、この試合で使ったものと同じ呪符をその女に取り付けて、いったんお前の所に戻したんだよ」

「なんだと!? 貴様…!」

 激昂するレブロブスの反応を楽しむかのように薄笑いをしながら、ゼファルは話し続ける。

「呪符を取り付けた者は、取り付けられた者を意のままに操ることができる。守ろうとしていた自分の女に煮え湯を飲まされるという絶好のシチュエーションで、お前が死ぬのを見物してやろうと思ってなぁ…! だが、呪符の力を発動させても、お前の女房はお前を襲わなかった。それどころか、俺を巻き込んで自爆しようとしやがった! 慌てて殺しちまったから、あの時何が起こったのかはわからないままだ…」

 ゼファルから明かされた妻の死の真相によって、レブロブスは困惑している様子だった。

「そしてもう一つは…俺の人生、そのものさ。五体満足でいたけりゃ、俺の側からもうちっと離れな……!」

 ゼファルが胸をはだけると、彼の胸に血で汚れた札が縫い付けられているのが見えた。

「お前ら、下がれっ!!」

 レブロブスの咄嗟の掛け声に応じてディーナ達がその場から退いた直後、爆音と共にゼファルの身体が四散した。

「そんな…この人自身も誰かに操られていたの!?」

 爆発がもたらした煙に咳き込みながら、ルピルピが動揺している。

「ゼファル!! お前はいつから、誰に、操られていたんだ!?」

 レブロブスは顔を引きつらせ、ゼファルが倒れていた血の海に向かって叫んだが、それに答える者はもういなかった。

 大会王者が敗北したアリーナでディーナ達を包み込むのは、観客からの称賛の嵐ではなく、凶暴な不満と非難の声だった。ゼファルの勝利に賭け金を投じていた者達が逆上し、今にも客席を飛び出してアリーナで乱闘を始めそうな勢いだった。

「これって…かなりまずいんじゃないかな……!?」

 ピリポが怯えながら観客席を見渡している。

 すると、客席の至る所で見覚えのある光弾が炸裂し、観客達を襲った。客達は喚き叫びながら逃げ惑い、闘技場の様相は混沌一色となった。

「お主達、何をぼーっとしておる! ほれ、試合は終わったのじゃから撤退じゃよ!」

 ヨハネが猫のようにしなやかに身を翻し、客席とアリーナを隔てる柵を越えてディーナ達の元へ駆け寄った。客席に放たれた光弾は、闘技場からの突破口を開くためのヨハネの計らいだった。

 一行は闘技場の出口を目指してアリーナを走り出す。

「大会王者より、あのじいさんのやることの方がえげつねぇな…」

 アリーナを駆けながら、ガイウスが苦笑を漏らした。

 

 

十一

 

 

 混乱に乗じて闘技場を首尾よく脱出した一行は、その足でパンデモニウムの街へ続く丘を登り、頂上で小憩することとなった。

「レブロブスさん…身体の方は大丈夫?」

 力無くうなだれながら立ち尽くしているレブロブスに、ディーナが声を掛ける。彼は頷き、顔を上げた。

「お前と自由について話したよな。俺は…自由ってのは、人間をあらゆる柵から解放する翼のようなもんだと思っていた」

 レブロブスの尊厳を脅かしていた迷いは消えていた。

「そんな好都合な代物じゃねぇんだ。自由ってのは、重てぇな。だが…いいもんじゃねぇか……」

 彼は長きに渡る苦悩の末に見出した答えを噛み締める。

「お主は予てより、自由と放縦が同義では無いことを知っておった」

 ヨハネは満足気に微笑を湛えていた。

「そしてお主は自らの思考と経験から、一つの結論に行き着いた。即ち自由とは、外的要因に左右されず、自分自身の意志に基づいて生き方を決断し、その選択と行為から生じる重荷に耐えながら生きていく…この一連の主体性であると言うことじゃな。例えその考えがこの世界では罪深いと呼ばれようと…お主の精神は気高いものだと、わしは思うよ」

「それとね、私…ゼファルさんの話を聞いて、思ったの」

 ディーナがレブロブスを見据えて訴え掛ける。

「レブロブスさんの奥さんは呪符に意識を乗っ取られていたはずなのに、その力に抗いながらレブロブスさんを守ろうとしていたってことだよね。亡くなる直前、奥さんはレブロブスさんを恨んで睨み付けていたんじゃなくて…あなたに生きて欲しいって、必死に願いを…込めてたんじゃないかな……」

 束の間、レブロブスの瞳が揺れた。彼は丘の上から景色を眺めるかのように、ディーナ達に背を向ける。

「そんなこと…今となっちゃ知る由もねぇよ……」

 彼が立つ場所からは、激戦を繰り広げた闘技場の全容を眼下に望むことができた。

「懐かしむ思い出なんざ、一つもねぇ所だったが…お前達のおかげで、けじめを付けられた。ありがとよ」

「さぁ、そろそろ出発するとしよう。あいにく、闘技場では領主と思しき者は見つけられなかったからの。気を引き締めて、パンデモニウムの街へ参るぞ」

 しめやかな空気へ厚く別れを告げ、ヨハネが旅の再開を説き勧める。

 仲間達が丘を下り始めてからしばらく、ディーナは一人頂上に立ち止まっていた。

「懐かしむ…思い出……」

 レブロブスが発した言葉を繰り返し呟きながら、記憶をまさぐる。そして彼女は、ヨハネ達が魔法都市リニアについて話していた時に自分が感じた強い気持ちの正体を突き止めた。

 ディーナを襲った感情は、狂おしい程の郷愁だった。

 その都市の名になぜ惹かれるのか、自分とどのような関わりがあるのか、そこまでは思い出せない。途方も無い喪失感と遣る瀬無さだけが胸の内に広がっていく。

『記憶を取り戻すことが辛いなら、俺のために無理して思い出そうとしなくていいんだ。俺は今のお前とこの暮らしが続けばそれでいいと本気で思ってる』

 過去を取り戻せない不安に押し潰されそうになったディーナの心を、記憶に残るゼロの笑顔が支えた。光明を盛り返したディーナは、自らに言い聞かせる。

 今の自分にとって、帰るべき故郷はゼロと二人で暮らしたあの箱庭なのだ。今はただ、ゼロを見つける糸口を掴むため邁進するしかない。現在の自分の力ではどうしようもできない過去の記憶に囚われていては、ゼロに再会する道は切り拓けないのだ、と。

 ディーナは身に迫るその郷愁から逃れるように、仲間達の跡を追って急いで走り出した。




ここまでお読みいただきありがとうございました。
レブロブスへの愛ゆえに思っていたより時間と文字数がかかりました汗。「レブロブスが追い求めていた自由とは何だったのか」を書いてみたくて、自由について書かれている文献を読んでみたりと、この章の執筆は私自身の良い勉強の機会となりました…!
文章を書くスキルだけでなくて、生きてるうちに知識をもっといっぱい吸収せねば…日々精進ですね。


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第五章 強欲の街

 

 

 

 

「父さんがまた、怒ってる……。母さんは…泣いてる……」

 窓の無い牢屋のような仄暗い部屋の隅に、ピリポは蹲っている。階下から聞こえてくる両親の口論の声に背筋を凍らせ、思わず膝の中に顔を埋めた。

 ピリポは既に、自分が夢の中にいることを知っていた。ゴルゴダの牢獄の看守になる前、実家で過ごしていた時の記憶を呼び起こす悪夢だった。今までに何度もうなされ、今回も最後まで同じ思いを味わわなければ目覚めることはできないだろうと諦めが付いていた。

 夢の中の両親の諍いの原因が自身にあることもわかっていた。弱者の罪を背負う自分の存在を隠しながら暮らしている両親の元へ、近隣の住民が異端審問官への口止め料をせびりにやって来たのだ。

 家の外壁に打ち付ける雨音が妙に生々しかった。その雨音に紛れ、誰かが階段を上る音がする。足音の大きさから、父親のものだと察知した。

 足音はピリポの部屋の隣にある父親の書斎の前で止まり、間を置かずに部屋の扉が開く音がした。書斎には、両親が蓄えた全財産を保管している金庫がある。

 父親が金庫を開けるためにダイヤルを回す音が響く度に、ピリポの胸は軋んだ。

「悔しいだろうな…一生懸命稼いだお金が、僕のせいで、どんどん減っていくんだから……」

 膝を抱えている両腕に力が籠もる。

「僕が生きてても…父さんと母さんを苦しめるだけだ……」

 足音はピリポの部屋の前を通過し、階下へと遠ざかっていった。

「でもまだ、決め付けたくない…僕が生きてる意味を……」

 ピリポは顔を上げ、目の前の壁に立て掛けている一張の弓と矢筒を視界に入れる。それは弟から貰い受けたものだった。

 ピリポの弟は両親の目を盗んでは、狩猟をするためにしばしば彼を近くの森へ連れ出した。弟から弓の手解きを受け、狩猟を続けていたある日、ピリポは見事な牡鹿を仕留めた。ピリポが無断で家を抜け出したことが発覚しないよう、その獲物は弟が一人で狩ったものとして両親に引き渡された。しかし、喜ぶ両親の姿を見た後、ピリポは初めて自らの行いが家族の笑顔へ繋がったと、自室で密かに感泣していたのだった。

「僕にはまだ…誰かのためにできることがあるって、信じたいんだ……!」

 

 

 夢の中で自らが発した声により、ピリポは目を覚ました。頭を預けている枕が湿っている。寝台から上体を起こし、濡れた目元を拭うと、意識がはっきりとしてきた。

 現在ピリポ達が休息している場所は、パンデモニウムの街の宿である。

 上階にある部屋の窓に目を遣ると、空が白んでいた。ベランダへと続く扉を開けて外に出て、そこにいる先客と挨拶を交わす。

「おはよう、ピリポ君」

 風になびく髪を片手で抑え、ディーナがにこやかにピリポへ振り返る。

「気持ちのいい朝だね」

 ディーナは目を閉じ、大きく伸びをした。ピリポは頷き、朝日に照らし出されたパンデモニウムの街並みを彼女の隣でしばらく眺めていた。

 ヨハネがディーナを鎧の適合者として選ばれた人間だと話していたように、ピリポにとっても彼女は何にも代え難い存在となっていた。ゴルゴダの牢獄で出会った時、ディーナの分け隔てない真心が、ピリポの中に眠っていた勇気を揺り起した。そして彼女がもたらした奇跡によって、彼は健全な肉体を持つ白き羽へと生まれ変わった。

 ディーナへ溢れ出る敬意と感謝を、どうにか言葉にして伝えたかった。

「ディーナ、僕は――」

 ピリポは不意に改まった表情でディーナに向き直った。

「君に出会えたお陰で、本当に…幸せだった……」

 ピリポを見つめるディーナから笑みが消える。

「突然どうしたの……?」

「僕は皆の中で一番弱いし、この旅でいつ死んじゃってもおかしくないから…言いたいことは、言える時に言っておこうと思って……」

 慌てて陽気な声を上げて、ピリポは自らの感傷を取り繕った。

「闘技場でも僕は何もできなかったし…死んじゃう前に、役立たずって捨てられちゃう方が早いかな……」

 ディーナは沈み込んだ表情のまま俯いている。

「悲しくなるようなことを言わないで…。それに、必要以上に自分を貶めちゃうの、ピリポ君の悪い癖だよ……」

 彼女につられ、ピリポも気を落とした。

 よかれと思った言動が悉く裏目に出る自分の要領の悪さを恨む。両親に続いて、ディーナからも見限られたのではないかと、目の前が暗くなった。

「そんなピリポ君には……」

 ディーナは顔を上げてキッとピリポを見た。なぜか両方の掌を彼に向け、全ての指を繰り返し曲げたり広げたりしている。

「お仕置き、だよ!!」

「わあわわわぁわ!?」

 身体をくすぐられたピリポの絶叫が宿中に響き渡る。彼から手を離したディーナには、再び笑顔が弾けた。

「あのね…記憶を取り戻せなくて苦しんでいた時に、ゼロが『ありのままの自分でいい』って私に言ってくれたの。私の気持ちを楽にしてくれた、大事な言葉。この言葉を、ピリポ君にもあげる」

 身をよじって息を切らしていたピリポは、食い入るようにディーナを見つめる。

「卑下する必要なんか無いよ。今の自分を大切にした上で、足りないと思うところを見つけたら…自分のためになる努力を続けて、自分らしく成長していけばいいんじゃないかな」

 街を包む曙光と同じ、柔らかく何か希望を感じさせるディーナの微笑が、ピリポへ差し込んだ。

「ピリポ君は自分で思っている以上に素敵な人なんだよ。あなたの勇気にはたくさん助けられてきたし、私はピリポ君と一緒にいるだけでほんわかできるの。これって凄い才能だよ!」

「…ありがとう……」

 この上ない喜びと面映ゆさが入り交じり、瞳から零れそうになるのを必死に堪える。ディーナに何度も濡れそぼった顔を見られるのはみっともないと思った。

「お前ら、朝っぱらからうるせぇぞ…。じゃれ合うなら余所でやれ……」

 寝起きのガイウスが眠たげな目を浮かべてベランダへ顔を出した。

 

 

 

 

「ディーナ、聞いて聞いて! 完璧な作戦が閃いたわ!!」

 起床したルピルピが溌剌とした様子で、宿の部屋で身支度をしているディーナへ声を掛けた。

「ルピルピちゃん、おはよう。作戦って…一体、何の?」

「領主のマモンから、教皇庁の場所について引き出す作戦に決まってるじゃない!」

 ルピルピは不敵に笑っている。

「旅の興行者に成り済まして、マモンの屋敷に潜り込むの! そして宴の席を設けさせて、踊り子に変装した私とディーナがマモンに酌をする訳。お酒と私達の色気に酔い痴れたマモンは、口を滑らせるはず!」

「大胆過ぎじゃないかな…!?」

 ディーナが困惑していると、レブロブスがからからと笑い声を上げた。

「大体よ、ディーナはともかく、お前の薄っぺらい胸と尻じゃ色気も何も――いってぇ! 何しやがる!? ぐっ!」

 彼は顔を真っ赤にしたルピルピから、怒りの往復びんたに見舞われている。

「闘技場の一件もあって、我々は街の住民達に面が割れておる。身分を偽ってマモンに近付くのは無理があるのぅ」

 ヨハネが苦笑しながら口を開いた。

 そもそも、ディーナは脱獄犯である自分達が闘技場で多くの人に顔を見られているにも関わらず、辺りを憚らずに街を出歩いたり宿を利用したりしていいものかと気を揉んでいた。

 だが、ディーナ達が闘技大会を制覇したことが、街の住民達へディーナ達の強さを見せ付ける結果になったというのがヨハネの持論である。力こそが全てであるこの世界において、追っ手も下手に手出しができないと悟っただろうから、臆せず堂々としていればよいと彼は豪語している。

「やはり、闇夜に乗じてマモンの館を襲撃するのが定石であろう。今宵にでも仕掛けるとするか…。このままこの街でのんびりしていては、宿賃だけで路銀が底を突いてしまうわい! まさか物価の上昇がここまで凄まじいとは」

「薄気味悪い街だ。ここの黒き羽共は、白き羽の俺達にまで媚びへつらって商いをしてやがる。プライドよりも金儲けが優先されてるんだな。法外な値段で物を売り付けてくるから、奴らの横暴に変わりはねぇが」

「スリや強盗も多発してるそうです。街の皆がお金を得ることに躍起になってる。お金は人の生活を潤すためにあるはずなのに…この街では人がお金のためにいるみたい……」

 肩を落とすヨハネを見ながら、ガイウスとディーナが言った。

「パンデモニウムに限った話ではないかもしれん。黒き羽達は幾つもの社会階層に分かれて暮らしておる。そして各々が富と物質的成功を獲得するため、他者との競争に常に身を置いているのじゃ。栄華も零落も自分次第…己の手腕と立ち回りが全てを決める、この孤独な戦いから落伍した者は、野垂れ死ぬしかない。富を蓄積したり、物質的成功を収めたりすることが、自らの幸福という目的のためではなく、目的そのものになっておる。これが今の黒き羽達の社会なのじゃよ」

「この街にいた、レブさんの知り合いの御主人様も、借金のせいで自殺しちゃったんだよね。お金って…命よりも大事なのかな……?」

 ヨハネの話を聞きながら目を伏せているピリポを、ディーナは気遣わしげに見ていた。

「…今夜動き出すなら、今のうちに買い出しを済ませておくね。ピリポ君と私で行ってくるよ」

「お前らだけで平気か? 美徳商人共に、有り金巻き上げられんなよ」

「大丈夫。任せて!」

 ディーナは腫れた頬をさすっているレブロブスに向かって力強く頷き、ピリポを伴って宿の部屋を出た。

 

 

 

 

「とは言ってみたものの…」

 パンデモニウムの一角にある商店の中で、ディーナとピリポは食料品の陳列棚を前に頭を抱えている。

 ディーナは財布の中身と食料品の値札を何度も見直した後、嘆息を漏らした。

「どうしよう、これじゃあ全然足りない……」

「ヨハネさんならお店の人とうまく値下げ交渉をしてくれるかな。呼んでくる?」

 二人が考えあぐねていたその時だった。

「あら、可愛らしいお客さん達だこと。お使いかしら?」

 店の奥から、黒い羽の妙齢の女が現れた。頭にターバンを巻き、美々しい首飾りや指輪を身に付け、商人然とした当たりのいい笑みを湛えている。

 その宝飾品の輝きを霞ませる程、女には華がある。自らの美貌を誇ってはいるが、それに嫌らしさはなく、品格のある自信が悠然と備わっている。

 非の打ち所がない麗しさに魅せられ、ディーナはすっかり彼女に見惚れていた。

「いらっしゃい。何が必要なの?」

「わ、私達、旅をしていて、食料の補給のためにここへ来たんです。でも、持ち合わせが足りなくて……」

 我に返ったディーナが申し訳なさそうに話を切り出すと、左右対称に上がっていた女の口角が下がり、今度はその艶っぽい唇が輪を描いた。

「まぁ、旅人さん? あなた達、若いのに苦労してるのねぇ。私にその旅の手助けをさせてちょうだい」

 つかつかとディーナ達の元へ歩み寄った女は、棚にある食料品を次々と紙袋へ詰め込んでいく。

「今日はね、お客様感謝祭をやってるからお店の品物が全部半額なの。あなた達には大負けに負けて、更に値引きしちゃう! はい、どうぞ。お代はこれでいいわ」

 女ははち切れんばかりに膨れた紙袋を二人の胸元にそれぞれ押し当てた。

 ディーナは渡された勘定書を見て驚愕する。

「こんなただ同然の代金じゃ、大損しちゃうんじゃないですか!?」

「そんなこと、気にしないで! お客様は大善神様、よ。あなたが笑顔になってくれさえすれば、それが私の心の糧になるの」

 思いも寄らぬ他人からの厚意に、ディーナは顔を綻ばせ、女に品物代を支払う。

「本当にありがとうございます。これで旅を続けられます…!」

「こんなに邪悪な黒き羽が、この街にいるなんて……」

 ピリポは紙袋を抱えたまま、呆気に取られている。

「それじゃあ、帰り道に気を付けてね。あなた達が余りにも可愛いからって、誘拐されたりしませんように」

 温かい眼差しを向けている女へ深々と頭を下げ、ディーナは踵を返した。そして先に店を出たピリポに続こうと、玄関扉の持ち手に手を掛けた。

「素敵な鎧ね」

 女は確かにそう言った。

 心臓が跳ね上がり、ディーナは即座に振り返ったが、女の姿は幻であったかのように忽然と消え失せていた。

 

 

 

 

 ディーナ達を接客していた女は、店の勝手口から狭隘な路地裏へ移動していた。

 女は微笑しながら、鼻唄交じりに頭のターバンを掴んだ。巻き付けられていた布が解かれ、頭頂部に生えている野性的な角が露わになる。

「お前の挙動は、一々理解に苦しむ……」

 路地の薄暗がりの中で、男の低い声が響いた。そして女の前に現れたのは、黒曜石を磨き上げたような鎧を全身に纏う、背中に羽を持たない剣士だった。

「ルカ。なぜ商人の姿を装ってまで、奴らに近付いた? 顔を覚えられては、こちらの不利になるだけだろう」

 顔面を覆い隠す兜から漏れ出る声によって、僅かに呆れている様子が窺える。

「なぜって? それはもちろん――」

 ルカと呼ばれた女は相好を崩したまま、男を見遣る。

「あのキュートな鎧ちゃんを、じっくり眺めるためよ! あーん、もう! 近くで見たらますます震い付きたくなる可愛さだったわ!! 教皇庁にお持ち帰りしたいくらい!!」

「飯事遊びをしているだけで務まるとは、異端審問十字軍隊長はお気楽なものだな」

 品を作り上機嫌なルカを、黒の剣士は冷淡にあしらった。その途端にルカの眼光は鋭くなり、常人には耐え難い威圧感が場を支配した。

「ファウスト…自分が教皇様のお気に入りだからって、あんまり図に乗るんじゃないわよ。立場上、私はあんたの上官なんだからね」

 ファウストという剣士はルカの重圧に臆する色もなく、影のように佇んでいる。

「今私達に与えられている任務は、大邪神の鎧の適合者の監視とその戦闘能力の調査。私はね、自分の手駒の消費を最小限に抑えて任務を遂行する方法をちゃんと考えてるの」

「そのためにお前が闘技場で利用した拝金領主の奴隷共は、大した働きも見せぬまま奴らに返り討ちにされたようだが?」

「あれは戦力を出し惜しみしたマモンが悪いのよ! ほんっと、借金を取り立てることしか能がない男なんだから」

 気色ばんだルカはファウストから視線を逸らす。

「彼、名誉挽回するって息巻いてたから、もう一度チャンスをあげようと思ってね。手柄を立てたいばかりに、今度は大邪神の鎧を着せた邪道騎士を切り札として投入するはず。鎧を着た者同士の戦いとなれば…貴重なデータが取れるでしょ」

「くだらん。資質を持たぬ者に大邪神の鎧を着せたところで、鎧に命を食われる激痛ですぐに使い物にならなくなる。俺はお前達に与する気はない。好きなようにあの女の力を測らせてもらう」

 そう言い置いて、ファウストは薄暗がりの中へ同化するように消え去った。

「下等なおサルの分際で、偉そうに」

 ルカは忌々しそうにファウストが消えた方向を睨んだ後、恍惚として笑顔を浮かべた。

「それにしても、鎧ちゃんのあの困った顔…そそられたわ…。もしマモン達に殺されちゃったら、首だけでも持って帰らなきゃ……」

 

 

 

 

「じゃあ、あの万屋のお姉さんは、ディーナが大邪神の鎧の持ち主だって知ってたの!?」

「うん…多分、聞き間違いじゃない」

 商店から宿屋への帰路に就いたディーナとピリポの表情は険しい。

 ディーナは商店の女に対して不思議な印象を抱いている。彼女が自分達に差し向けられた追っ手だとすれば、警戒心を持たれないように接近し瞬時に姿を消した彼女は相当の実力者なのだろうと思った。だが、自惚れではなく、彼女は自分と出会ったことを心から喜んでいたようにディーナは感じた。そしてディーナ自身も、彼女の美しい笑顔を見て安心感と懐かしさを得ていた。紅血の沼のように深い彼女の瞳が、少しだけゼロと似ている気がしたのだ。

「いつどこで敵が現れるのか、わからないね。注意しておかないと…」

「あとね、今の話とは別に気になってることがあって――」

 隣を歩くピリポの横顔をディーナが見つめた。

「ピリポ君、パンデモニウムに着いてから元気がないように見えるの。今朝も様子がいつもと違ってたし、何か悩んでるんじゃないかな?」

 ピリポは視線を落としてしばらく黙っていたが、やがて抑え気味の声で口を開いた。

「僕の実家がある村が、この街の近くなんだ。街がこんな風に変わってしまって、僕の家族の生活も苦しくなってるんじゃないかと思ったら、心配で……」

 街中を進む二人の視界が急に暗くなる。リベイラの街でも目にした巨大な鎖が地上から空へと連なっており、街を見下ろしながら影を落としていた。

「それなら、この街を出た後にピリポ君の村に寄ろうよ。御家族に会いに行こう」

「…健康になった僕の身体を、父さんと母さんに見てほしい。だけど……」

 再び日の当たる歩道を歩き出しても、彼は晴れない面持ちのままだった。

「実家にいる間、僕はずっと家族に迷惑を掛けていたんだ。父さんと母さんは払いたくもない口止め料を近所の人達に取られ続けて、弟のパルタは…弱者がいる家の子供だって、いじめられたこともあった」

「そんなの…! ピリポ君は悪くないよ!」

「やっと厄介払いができたって喜んでいるのに、僕が姿を見せたら、父さんと母さんはがっかりするよ。僕の家は、パルタが継ぐはずなんだ。僕なんかよりもっと頭がよくて、運動も得意なパルタがいれば、父さん達が困ることはないんだ」

「跡継ぎの子供がいれば、他の子供はどうなってもいいと思う親なんて…いちゃ駄目だよ。ピリポ君の御両親がそんな考え方をする人達だとは思えない」

 ゴルゴダの牢獄で初めてピリポの境遇を聞いた時から、ディーナは違和感を覚えていた。本当にピリポの両親は体面を保つために金を使ったり、彼をゴルゴダの牢獄に送り出したりしたのだろうか、と。

 ディーナは立ち止まりピリポに向かい合った。彼女を見つめ返すピリポの顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。

「私は記憶を失っていて、両親がどこにいるのか、生きているのかもわからないから…。会いたい人がいて、その人に会えるチャンスがあるなら、自分の気持ちを伝えに行こうよ。そうした方が、きっと後悔しないと思う」

 ピリポは口を引き結んだまま俯いている。

「だっ、誰かっ! そいつを捕まえてくれ! 財布をすられた!!」

 二人の沈黙を、切羽詰まった男の声が破った。すると、目の前を若い黒羽の男が脱兎の勢いで通り過ぎ、細い路地裏へと姿を消した。若い男を追うように、息を切らしながら初老の黒羽の男がやって来て、精魂尽きた様子で地面に倒れ込んだ。

 白昼堂々、公衆の面前で窃盗が行われたようだった。通行人達は足を止めて遠巻きに初老の男を眺めるだけで、彼を手助けしようとする者はいない。皆、盗まれる方が悪いと言わんばかりに嘲笑を浮かべている。

「私、さっきの人を追いかける! すぐ戻るね!」

 ピリポが声を掛ける間もなくディーナの後姿は遠ざかり、若い男が消えた路地裏に吸い込まれていった。大邪神の鎧の力を持つディーナならば、鈍臭い自分がわざわざ助力しなくても、盗人の一人程度あっさり撃退できるとピリポは見込んでいた。ピリポは初老の男を助け起こそうと彼の側にしゃがんだ。

「おじさん、大丈夫?」

「ありがとな、坊主。助かるよ」

 初老の男はピリポの片腕を手荒く掴み、薄気味悪い笑顔を見せた。

「お前らが噂どおりの大とんちき野郎で、本当に助かる」

 男を傍観していた通行人達がピリポを取り囲み、その内の一人が手にした木の棒でピリポの頭を強く殴った。

 

 

 

 

「ピリポが攫われただぁっ!? あの間抜け、何やってんだか…」

 レブロブスは宿屋の食堂で骨付き肉を豪快に頬張りながら、血相を変えて戻ったディーナの話を聞いている。

 ディーナが盗人から財布を取り戻しピリポと別れた場所に戻ると、そこには買物をした商品が詰まった紙袋が転がっているだけだった。付近にピリポらしい人影は見当たらず、もしかしたら彼は先に宿屋に戻ったのではないかと一縷の望みに賭けて宿屋の部屋に踊り込んだが、そこにもピリポの姿はなかった。

「鎧のことを知ってたってんなら、店にいた女はアンゲルス教団の関係者に違いない。大方、後を尾けられたんだろう。お前らの隙だらけでおめでたい頭は、度を越えてるな」

 レブロブスと同じ食卓に着いているガイウスの冷ややかな視線を受けながら、ディーナが苦悶に満ちた表情で頷く。

「私のせいだ。自分達の立場を、わきまえてなかった…。ただでさえ、白い羽が街の中で一人になることは危険だって、知っていたはずなのに…! ヨハネさん、ピリポ君が連れ去られた場所に心当たりはありませんか!?」

「ピリポ一人を狙ってかどわかしたということは、教団の者があやつを人質に取り、わしらを誘い出して一網打尽にしようと企んでいる、と考えるのが妥当かの。そのうち奴らの方から取引の場を提示してくるのではないか?」

「大変! 大変よ!! これを見て!!」

 食堂に駆け込んだルピルピが、食卓の上に一枚の広報物を広げた。

「外でこれがばら撒かれてたんだけど…ほら! 『七つの大罪を犯した死刑囚達の脱獄を手引きし、逃亡中だった元看守を捕縛。領主マモンの屋敷内庭園にて、本日正午公開処刑を執行』ですって!」

「鎧の警護を任されてる領主にも当然、教団の息が掛かってるだろうな。俺達がピリポを助けに現れると踏んでる訳だ。放っておけ。自分の身も守れなかったあいつが悪いんだ」

 容赦なく言い放つガイウスの話は、ディーナの耳に届いていなかった。紙面に刷られた処刑の二文字が浮かび上がり、彼女の気持ちを乱している。

『君に出会えたお陰で、本当に…幸せだった……』

 今朝、聞いたばかりのピリポの声が蘇る。その言葉が今では、彼との永遠の別れを暗示していたかの如く、ディーナの胸を締め付けていた。

 血なまぐさい旅を続ける中でディーナに一時の安らぎを与えているのは、無邪気に、それでいてどこか謙虚に微笑むピリポの姿だった。彼の存在に温められていた心が、自らの罪の意識と焦燥感で急速に冷たくなっていくのがわかった。

「正午まで、もう時間がない…。行かなきゃ。領主の館って、この街にあるお城みたいな建物のことだよね…!」

「待ちやがれ!!」

 宿屋を飛び出そうとしたディーナを、レブロブスが呼び止めた。食卓に置かれた、中身を平らげた大量の皿の前に座ったまま、真顔で彼女を見据えている。

「食後の運動がてら、付き合ってやるよ。お前達には闘技場での借りがある。このままあいつを見殺しにしたら、さすがに後味が悪りぃからな」

 すると、ヨハネが落ち着いた様子でゆっくりとディーナの元へ歩み寄った。

「わしも同行しよう。ひ弱で甘ったれな子犬のように見えて、思わぬところで勇ましさを発揮するあの若人を、わしは気に入っておる。ここで死なせるには、ちと惜しいと思うのじゃ」

「お師匠様が向かわれるのであればもちろん、私も参りますわ!」

「レブロブスさん、ヨハネさん、ルピルピちゃん…。ありがとう…!」

 レブロブス達の言葉に深く感じ入り、ディーナは目頭が熱くなった。そしてヨハネは怪訝そうに顔を顰めているガイウスへ微笑む。

「さて、ガイよ。お主はどうする? お互い、戦力の分断は避けたいところじゃが」

「ここには後先考えない馬鹿しかいねぇのか…」

 ガイウスは物憂げに嘆息した後、吐き捨てるように言葉を続けた。

「わかったよ! 付いてきゃいいんだろ!?」

 苛つくガイウスを少しも意に介さず、ヨハネは朗らかな笑い声を上げた。

「結構、結構! 二百人斬りの大義賊殿に力を貸していただけるとは、頼もしい限りじゃ! どのみちマモンの屋敷には出向くつもりだったのじゃから、闇討ちを掛ける手間が省けたと、肯定的に捉えようではないか」

 

 

 

 

 その屋敷を取り囲む物々しい鉄柵は、屋敷の主の用心深さと猜疑心の強さを体現しているかのようだった。堅牢な仕上げの門扉は、現在開け放されている。そこから領主の住まう豪邸へ続く広々とした庭園は整然と舗装された石畳に覆われ、異形の動物や黒い羽を持つ聖人達の石像が至る所で台座の上に鎮座している。

 庭園にはパンデモニウムの住民達がひしめき合っている。彼らの好奇の目は、庭園の中央に組み立てられた処刑台に注がれていた。十数段の階段を上った先には木の杭が打ち込まれており、そこへ後ろ手に縛られたピリポが膝を突いている。

「ドブネズミ一匹の駆除のために、ここまで見物客が集まるとは! 金を持たない奴らは碌な娯楽を知らんからな。これしきのことで大喜びしてやがる」

 ピリポの隣で居丈高に立つ、頭に巻き角を生やした恰幅のいい黒羽の中年男が、眼下の群衆を嘲笑っている。パンデモニウムの領主、マモンであった。

「なんだ、その反抗的な目つきは!? お前の最期の役目はなぁ、みっともなく大声で命乞いをして、残りの大罪人共をここにおびき寄せることなんだよ! だんまりを決め込んでちゃ、客も興ざめしちまうだろう?」

 マモンは身を屈め、自らを睨めるピリポの顔をまじまじと見た。

「女みてぇな面をしやがって。お前が本当に女だったら、死ぬ前にいい思いをさせてやったんだが…生憎、俺に男色の気はないんでな。薄汚い白き羽の奴隷風情が俺達黒き羽に逆らうとどうなるか、これから思い知らせてやる」

「そんなに白き羽が憎いのなら、僕を好きにしなよ。殴られるのも蹴られるのも、僕は慣れてるから…!」

 そしてピリポはマモンに訴え掛けるような目を向ける。

「でも、お願いだから僕の仲間には手を出さないで! あの人達は皆…僕の大切な恩人なんだ!」

「うるせぇっ! 邪教徒に洗脳されたクソガキが! 粋がるんじゃねぇ!!」

 マモンが怒声を放ちながらピリポの頬を叩き打った。ピリポは歯を食いしばって痛みに耐えている。

「仲間だの恩義だの、非生産的で荒唐な概念が人を破滅させるんだ。そのお前の仲間とやらが情にほだされてここに現れりゃ、俺に殺されちまうんだからな! 人間を人間たらしめるのは、金! 金だけだ!! そこのお前! このガキを適当に痛め付けろ。こいつの悶え苦しむ声が、街に潜んでいる罰当たり共に聞こえるようにな!」

 マモンは背後に控えている兵士に命令を下した。屋敷の庭園内に配置されている他の兵士達とは一線を画する色彩と装飾の鎧で全身を武装した、羽を持たない兵士である。兵士は無言のままピリポの前に進み出ると、鞘から剣を引き抜いた。

 ピリポは自らの運命を受け入れたかの如く、静かに目を閉じて俯いた。しばらくしても何も起こらず、ピリポが目を開けて兵士を見上げると、彼の剣を持つ手が震えているのが見えた。素顔を隠す兜の隙間からは、荒い息遣いが聞こえてくる。

「貴様! 何ぼさっとしてるんだ! お前には特別に、大枚をはたいて手に入れた大邪神の鎧を着せてやってるんだぞ!?」

「この人も、ディーナと同じ…!?」

 兵士を叱責するマモンの言葉にピリポは驚愕している。

「それだけじゃねぇ、お前自身も本来なら生涯有り付けないような額の報酬を受け取っているだろう! 払った金に見合った働きを――」

「取り込み中みたいだが、邪魔するぜ! 業突く張りのマモンさんよ!!」

 威勢のいい男の声が、処刑台に群がる人々の喧騒すら突き抜けるように響いた。

「レ、レブさん! 助けに来て、くれたの…!?」

 ピリポは身を乗り出し、声がした正面の人込みに目を凝らす。その中の一人が身に付けていたローブを脱ぎ捨てると、処刑台のマモンを射すくめているレブロブスが現れた。

 彼の周囲にいる見物人達は、慌て慄きながら後ずさった。

「連れが世話になったな。とろくてお前の手に余るような奴だろう? 大人しく返してくれや」

「闘技場の覇者、レブロブスか! 貴様の悪名は聞き及んでいるぞ!」

 マモンが不気味な笑みを浮かべながら声を張り上げる。

「剣奴の分際で、自分がやりたいことだけをやって生きていこうとするとは笑止千万よ! 貴様の首には、教皇庁により巨額の懸賞金が掛けられている! 害悪でしかない貴様の命を札束に変えて、俺がこの世の中のために役立ててやろう!!」

「おもしれぇ、やれるもんならやってみな!!」

 戦斧を構えたレブロブスがそう言い終わらぬうちに、彼に斬り掛かった兵士が打ち倒されていた。

「じいさんとルピルピが有り難そうに話してた大邪神の鎧は、素質のある人間しか装備できないんだよな? こうもあっさり鎧を着てる奴に出くわすもんなのか?」

 レブロブスから離れた人込みに紛れてマモンの話を聞いていたガイウスが頭を捻っている。

 囮を買って出たレブロブスが兵士達を引き付けて場を攪乱させている間、他の者達がピリポを救出する手筈になっていた。

「私はリベイラでずっと鎧の研究をしてたわ。そこから比較的近いパンデモニウムでそんな人が現れたら、見逃すはずないと思うんだけど…」

 落ち着かない様子のルピルピの隣で、ヨハネが哀れむような目で処刑台に立つ兵士を見据えている。

「あの者からは、ディーナが鎧を身に付けた時の邪悪な力を感じられん。真の鎧の主ではないのだろう。ああしている今も、鎧によって命を削られているはずじゃ」

「ま、そんなことはどうでもいいがな。思っていたより兵士の数が多い。俺は筋肉馬鹿に加勢する。無敵のディーナ様がいりゃ、こっちは平気だろ?」

「わ、私、頑張るね。ガイウスさんも気を付けて!」

 ディーナの返事を待たず、ガイウスは器用に人込みを押し分けてその場を離れた。

 ヨハネが錫杖を取り出し、表情を引き締める。

「あの邪道騎士の力がまがい物だとしても、気を抜いてはいかん。どれ、わしが処刑台までの道を拓こうではないか。とっておきの呪文を一発、唱えてやるかの」

「ありがとうございます。でも、なるべくヨハネさんの魔法に頼らないようにピリポ君を助け出します。ここにいる街の人達を、できる限り巻き込みたくないから…」

「大邪神の力を継ぐ者としての模範解答じゃのう! しかし、それはわしが魔術を控えるだけで済む話ではないようじゃ」

 ヨハネの視線の先に広がる光景を前に、ディーナは愕然とする。

「そんな…! 兵士達が、街の人達まで襲い始めてる!?」

 

 

 

 

 マモン邸の庭園内で、突如として殺戮は始まった。マモンに雇われた兵士達の野蛮な叫び声と、パンデモニウムの住民達の悲鳴が混ざり合う。屋敷の外へ避難するために門を目指して駆ける住民達の足元には、惨たらしく頭を真っ二つに割られ、肢体の一部を切断された遺体が既に幾つも倒れている。

 幼い黒羽の男児とその母親が、兵士の一人に追われている。やがて男児の足がもつれ、地面に突っ伏した。兵士の凶刃が迫る中、母親が男児に駆け寄り、兵士に背を向けて男児を抱き起こした。

 男児にとって、それが母親に触れた最初の体験だった。黒い羽達の世界では、彼らが美徳としている欲情に関する行為以外で人間が身体を触れ合わせる行為は禁じられている。必要以上の肉体的接触は、そこから生じる帰属意識や一体感が、七つの大罪である愛という錯覚に繋がる恐れがあると言われていた。震えている母親の腕に強く抱きすくめられ、男児は母親の体温を生まれて初めて感じていた。

 振り下ろされた剣と母子の間に素早く入り込み、その刃を武器で食い止める者がいた。

「何してる!? 早く行け!!」

 自分達を庇っているレブロブスを呆然と眺めていた母親は、一目散に逃げ出した。

 母親に手を引かれながら振り向いた男児の瞳には、レブロブスの広く逞しい背中と、そこに生える純白の羽が映っていた。

「てめぇら、気が触れたのか!?」

 猛々しく戦斧を振るい、目の前の兵士を斬り伏せたレブロブスは、自らを取り巻いている数人の兵士達に向かって叫んだ。

「民間人を守るのがお前らの仕事だろうが!! なぜ女子供まで好き好んで襲うんだ!?」

「おかしいのはてめぇの方だろう、邪教を信じ込んだ狂犬が」

 兵士がレブロブスを蔑むような目つきで口を開いた。

「俺達はな、この街の利益にならない人間を排除しろとマモン様に命じられているんだ! 金を持ってなさそうな、みすぼらしい身なりの奴らは幾らでも殺していいと言われてるんだよ!」

「殺した貧乏人の数だけ俺達の給金が上がるのさ! マモン様に言われたとおり暴れるだけで金がもらえるんだ、こんなぼろい商売他にねぇぜ!」

「貴様ら…! 自分がどれだけ恐ろしいことをしでかしているか、気付かないのか!?」

 次々と兵士達から飛び出した言い分に、レブロブスは絶句していた。

「てめぇらは、俺達白い羽のように生まれながらの奴隷なんかじゃねぇし…誰かに操られてる訳でもねぇ……。それなのにてめぇらは、金のために自ら意志も責任も捨て、権力者の言われるがままになって喜んでいる! なぜだ!? なぜお前達は自由に背を向けて、へらへら笑っていられるんだ!?」

 吠えたけるレブロブスを小馬鹿にするように見ながら、兵士達は腹を抱えて笑っている。

 その時、レブロブスの背後で兵士の断末魔の叫びが聞こえた。

「自分の頭じゃ何も考えられない盆暗共に…御高説を垂れるだけ時間の無駄さ」

 レブロブスの背後から彼に斬りかかろうとした叫び声の主は血を吐きながら倒れ、その傍に立つ槍を手にしたガイウスが兵士達に冷たい目で微笑んでいる。

「こういう手合いは、四の五の言わずに斬り捨てるのが一番だ」

「珍しく気が合うじゃねぇか…! こいつらまとめて根性叩き直してやる!!」

 並び立つレブロブスとガイウスはそれぞれ武器を持ち直し、眦を決して兵士達に相対する。

 

 

「早く! 逃げてください!!」

 ディーナとヨハネ、ルピルピも、レブロブス達と同じく街の住民達を守りながらマモンの兵士達と戦っていた。

「どうしてこんなことを…!? 守るべきはずの街の人達を、なぜ領主のあなたが傷付けるの!?」

「そんなこともわからねぇのか! この社会を維持するためにはなぁ、人間をふるいに掛けて生きる価値のある奴をはっきりさせる必要があるんだよ!」

 兵士と剣を交え憤るディーナを、マモンが処刑台から見下ろしながらせせら笑っている。

「人間、何をするにも金が要る。俺様のように金を稼ぐことができる奴ってのは、能力がある強者ってことだ。一方で、金を稼ぐ能力がない、七つの大罪である弱者を野放しにしておけばどうなる? そいつらを養うためのしわ寄せが、金持ち達に来ちまうだろう!? 税金を払わない無能共のために、なぜ俺の大事な金を使って街を整備し、奴らの暮らしを支えなければならない!? 働かざる者食うべからずとはよく言ったもんだ。金を稼げない奴は死ぬしかない。惰眠を貪っている弱者共に、俺は社会の厳しさを教えてやってるのさ!!」

「税金を払えない人が増えたのは、あなたが私腹を肥やすために街の人達へ重税を掛けるようになったからではないの!? それに、働きたくても思うようにできない事情を抱えた人達だっているはずなのに…そんな人達を問答無用で殺そうとするなんて、許せない!」

「知ったふうな口を利くなよ、小娘! 貴様には俺のような上に立つ者の労苦など、見当も付かんのだ! さぁて、ここにはレブロブスに加え、疾風のガイに、大魔導士のヨハネ…札付きの大悪党が雁首揃えてる訳だ。こいつらを全員殺せば、金がたんまり俺の懐に入る…笑いが止まらんなっ!! おっと、兵士達よ! 鎧を付けた女は二人とも生け捕りにしろ! 殺すよりも、鎧を引っぺがして客を取らせ続けた方が金になるからな!」

「あったま来ちゃう! 私達の美貌を売り物にしようだなんて!!」

 剣を振るう手を休めることなく、ルピルピがマモンを見上げる。

「ピリポを助けるついでにあいつを張り倒してやりたいけど、兵士の数が多すぎて処刑台に近付けないわ…!」

「そろそろ、わしの出番じゃな」

 兵士達から間合いを取って呪文を唱えていたヨハネが言った。

「領主マモンよ! 街の支配者の座に就いてもなお富を欲するお主の強欲さには敬服するが、ここまで人命を軽んじるのは見過ごせん! 無念を宿した亡者達の慟哭を聞くがよい!」

 ヨハネの掛け声を合図に、倒れている死体が一斉に上体を起こした。そして死人達は身の毛もよだつような呻き声を上げ、両手を前に差し出しながら立ち上がった。

 死人達は、恐怖に立ち竦んでいるマモンの兵士達へその両手を絡ませ、彼らの喉笛を嚙み千切り始めた。庭園内を満たしていた街の住民達の悲鳴が、兵士達のものへと塗り替えられていく。

 兵士達に斬り付けられ、身体に弓矢が突き刺さっても、死人達は痛みを感じないのか、少しも怯むことはない。中には割れた頭から脳髄を垂れ流したまま、噛み付いた兵士の死肉を貪っている者もいた。

「これこそが、当代随一のネクロマンサーと名高いお師匠様の死霊魔術! 流石ですわ!!」

 ルピルピが惚れ惚れとヨハネを見つめている。

「お、お前達! これしきのことで怖気付くなぁっ! おめおめと逃げ出そうものなら、俺がお前達を殺してやる! 死にたくなければ、化け物ごとあいつらを八つ裂きにしろ!!」

 戦意をくじかれ、動きが鈍くなった兵士達に激怒しているマモン自身も、眼下に広がる蘇った死者の群れに恐れをなしているようだった。

「この機を逃すでないぞ、ディーナ!!」

 気迫がこもったヨハネの声を耳にし、目の前で彷徨と捕食を繰り返す死人達に驚き立ち尽くしていたディーナは我に返った。その場から弾かれたように駆け出し、死人達に襲われている兵士達の間を掻い潜り一直線に処刑台を目指す。

「げぇっ!? もうここまで来やがった! おいっ、はやくあの小娘をぶっ殺せ!!」

 処刑台の階段を駆け上がりピリポ達の元へ辿り着いたディーナを見たマモンは、邪道騎士を盾にするかのように後ろへ下がった。

 ディーナは剣を構え、マモンと邪道騎士に対峙する。

「ピリポ君を、返して!!」

 邪道騎士は弓に矢を番え、死人達を操っているヨハネを狙い撃とうとしていたが、即座に弓を剣に持ち替えディーナへと斬り掛かった。刃の速度と切れは凄まじいものであったが、ディーナは冷静にそれを刃で受け対抗した。大邪神の鎧によって強化された動体視力と膂力が、邪道騎士が振るう剣の軌道を読み、猛攻をしのぎ切っている。

 二人が繰り広げる人間業とは思えない剣戟に気圧され、マモンは呆けたように口を開けて棒立ちになっている。

 邪道騎士がディーナを斬り払おうと、大きく剣を振り抜いた際に生じた隙を彼女は見逃さなかった。

「ごめんなさい!」

 邪道騎士の背後へ回り込んだディーナは、剣の柄頭で相手の後頭部をありったけの力で殴った。

 体勢を崩した邪道騎士はそのまま床に倒れ、気を失ったようだった。仲間達からは甘いと非難されるとわかっていても、ピリポを傷付けることを躊躇していたように見えた邪道騎士の命を、ディーナは奪いたくなかった。

「俺が苦労して手に入れた大邪神の鎧が、こんな小娘に劣るというのかっ!?」

 狼狽するマモンを余所目に、ディーナはピリポを拘束している縄を解こうとした。

「ディーナ、後ろ!!」

 ピリポが叫ぶと同時に突き刺さるような悪寒が背筋を走り、ディーナはその場から飛び退いた。刃が一閃し、あわや彼女の身体を斬り裂くところだった。

「メタトロンの鎧に選ばれし者よ。ここにいる雑輩共が相手では、物足りないんじゃないか?」

「お前はルカ様が連れていた邪道騎士…確かファウストとかいったな! 何しに来やがった!? こいつらは俺の獲物だ、首を突っ込むな!!」

「無能な上司の世話ばかり焼いていてな。俺も退屈してたところだ。一つ、手合せ願おう」

 さかんに怒鳴り声を上げるマモンには取り合いもせず、漆黒の剣士はディーナと向き合い、剣に付いた血を払っている。

 その直後、兵士達を襲っていた死人達の足が止まり、折り重なって再び地面へ倒れていった。

「あやつまさか…! わしが動かしていた亡者達を全て破壊してからディーナの元へ行き着いたのか!」

 ヨハネが動揺しながら庭園を一望している。死人達は一人残らず首を刎ねられ、断面から流れ出る血が石畳の目地を伝い赤い河となっていた。

 ファウストを見据えながら、ディーナは纏わり付くような不快な汗が額から滲み出ていることを感じていた。一分の隙もない構えを取るファウストの強さからだけではなく、何か判然としない恐怖が頭をもたげた。

 驚異的な瞬発力でディーナとの距離を詰めたファウストの一太刀をディーナは剣で受け止めたが、その重みに顔を歪める。間髪を容れずに叩き込まれる剣技は入神の域に達しており、先程戦っていた邪道騎士の比ではなかった。

 剣と剣が火花を散らす度、ディーナの中で得体の知れない恐怖が増大していった。身体中を駆け巡る混沌とした感情が破裂し、叫び出しそうになる。

「拍子抜けだ。お前の剣は軽すぎる!」

 剛力と神速を兼ね備えたファウストの一撃を受け、処刑台から弾き飛ばされたディーナの身体は庭園の石畳の上を転がった。

 

 

「あの剣士、何者だ!?」

 完膚なきまでにディーナを叩きのめしたファウストを見ていたガイウスが険しい表情で叫ぶ。

「まずい、ディーナがやられる! さっさとこいつらを片付けるぞ!!」

 戦斧を掲げ、行く手を阻む兵士達を威嚇しているレブロブス。彼らは死人の襲撃から生き延びたマモンの兵士達との戦いを続けていた。

 二人がファウストの存在に気を取られた一瞬の間のことだった。目にも留まらぬ速さで飛来した黒い影がガイウスに直撃した。その影が振るった剣に吹き飛ばされたガイウスは受け身を取ったものの、巨大な石像の台座に背中を激しく打ち付けた。

 ひび割れた台座に背を預け座り込んだまま、ガイウスは自らを窮地に追い込んだ影の正体を睨め上げている。

「大邪神の鎧を着た奴が…まだいやがったのか……!!」

 そこに立つのは、処刑台の邪道騎士と配色は違えど、よく似た装飾や模様が施された鎧に身を包んだ兵士だった。とどめを刺すため、邪道騎士は深手を負い動けずにいるガイウスへ迫る。

「ガイ!!」

 背中を見せている邪道騎士にレブロブスが戦斧を振り下ろす。並みの武装をした兵士相手ならば、身に付けた鎧ごと粉砕する程の威力を持った一撃を、大邪神の鎧は傷一つ刻まれることなく跳ね返した。反撃に出た邪道騎士が斬り掛かり、レブロブスは苦戦を強いられている。

「おのれぇっ! 秘蔵していたサリエルとウリエルの鎧を、貴様らごときに二つとも使うことになるとは! この鎧を譲り受けるために、俺がどれだけ教皇庁に金をつぎ込んだと思ってるんだ!!」

 処刑台の上でマモンが怒り狂っている。

「まぁいい…中身をすげ替えれば、鎧は何度でも使える! 使い切りの呪符に比べりゃよっぽど経済的だ。おいっ、お前はいつまで寝てるんだこの役立たず!!」

 邪道騎士と戦いながらマモンの話を聞いたレブロブスの顔色が瞬く間に驚きと怒りへ変わる。

「呪符だと!? 闘技場でゼファルを操っていたのは貴様なのか!? 答えろっ、マモン!!」

「捨て駒の名前なんか、一々覚えてる訳ねぇだろう!!」

 足元で気を失っている邪道騎士を踏み付けながら、マモンがレブロブスへ当たり散らす。

「待てよ、そういえばお前が闘技場から脱走した時、俺は呪符を取り付けた剣奴を一人、お前の捜索隊に潜り込ませた…。そうだ! そいつの働きでお前は捕まり、手柄を立てた俺はこの街の前の領主に気に入られたんだった! おかげで俺は出世の道を突き進み、領主にまでのし上がることができたのさ! そのことに関しちゃ、お前に感謝しねぇとなぁ!!」

「よくわかった…。ゼファルを利用し、俺の妻と子を死に追いやったのは…貴様だったんだな……!!」

 声を震わせたレブロブスは、優勢だった邪道騎士の剣を恐るべき力で押し返した。邪道騎士は宙に投げ出され、勢いよく地面に倒れた。

「貴様をそこから引きずり下ろす! 金で飾り立てた領主の椅子に座る貴様自身にどれだけの力があるのか…俺が見極めてやる!!」

 周囲を圧倒する鋭い眼光を処刑台へ飛ばすレブロブスに、高笑いを響かせていたマモンは縮み上がった。

 後ろに跳ね飛ばされた邪道騎士が上体を起こすと、レブロブスは再び視線を邪道騎士へと戻し身構えた。しかし、邪道騎士は取り落とした剣を掴もうとすらせず、うなだれたままその場に止まっている。

「…俺を…殺してくれ……」

「なっ、何!?」

 邪道騎士が絞り出すような声を上げ、レブロブスは目を見開いた。

 

 

 石畳の上にうつ伏せになっていたディーナは苦しそうに息を吐きながら身を起こした。処刑台から転落した際の損傷は大邪神の鎧が軽減していたが、ファウストと剣を交えた両腕は痺れ、心身共に困憊しきっている。

「純粋に強さがあった分、以前のお前の方がまだ好感が持てた。ここにいるのは、ただの抜け殻だな」

 ファウストが処刑台の階段を静かに降り、ディーナへ近付く。

「やっぱり…! あなたは記憶を失う前の私を知っている!」

 くずおれているディーナは顔を上げ、ファウストを凝視する。そしてファウストを見た時から感じていた恐怖が、失われた自らの記憶から来るものだと確信した。

「私もあなたに出会った気がする。でも、いつ、どこでなのかが思い出せない…。教えて! 私は一体、誰なの!?」

「本当に、知りたいのか?」

 ディーナの叫びを、感情があるとは思えない程冷たいファウストの声が掻き消した。

「口先だけだ。お前は真実を知ることを恐れている。何も知らない者は何もできない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない……」

 蒼白になっているディーナの顔を見下ろしながら、ファウストが剣の切っ先を彼女に向けた。

「力を持つ者の責務を果たさぬのならば、ここで死ね」

 

 

 

 

「みんな…! 僕が捕まったばっかりに……!」

 死力を尽くして戦っている仲間達の姿を、ピリポは処刑台から暗澹とした表情で見ている。そして戦場と化した庭園内に積み重なっていく死体の山を目にし、胸が詰まるような悲しみに襲われた。

「くそったれ! こんなに兵士を失うことになるとはとんだ誤算だ! これじゃあ懸賞金が手に入っても大赤字じゃねぇか!!」

 怒りにわなないているマモンは、処刑台の下でディーナと対峙しているファウストを苦々しげに睨みつけた。

「それだけじゃねぇ、このままだとあのファウストに手柄を横取りされちまう! あいつが邪教徒共を始末したところを見計らって、俺があいつを直々に葬ってやる!! そうすりゃ、金はみんな俺のものだ!!」

「ひど過ぎるよ! 街の人も、あなたの部下も、たくさん死んでしまった! それなのにあなたはお金のことしか気にしてない!!」

 ピリポが悲痛な面持ちでマモンを見上げながら叫ぶ。

「当たり前だろう!? 俺が支配している街の住民と俺の金で雇われた兵士がどうなろうと、俺の勝手だ! 金のある奴が、全てを手にするんだよ!!」

「違う! 自分の命は、他の誰のものでもないよ…! 人の命を売り買いして、自分のことしか考えないあなたは…偉くも強くもない!!」

「このガキ…言わせておけば……!」

 額に青筋を立ててマモンがピリポへ向き直った。

「ちょうどいい。ファウストを殺す前に、魔法の試し撃ちをしてくれるわ!」

 マモンが片手を差し出すと、その掌の上に火の玉が現れた。

「貴様の邪な思想ごと、焼き払ってやる! 灰燼に帰せ!!」

 灼熱の火の玉は一回り二回りと巨大化し、逃げ場のないピリポの身体を煌々と照らした。やがて火の玉は角を生やした鬼の生首のような形へと変形し、大きく開かれた口がピリポに食らいつこうと猛進した。

 熱風が顔に打ち付け、息苦しさにピリポは少しの間顔を歪めたが、猛火が彼の身を焼くことはなかった。一人の兵士がピリポの目の前に立ち、背中でマモンの魔法を代わりに受け止めていた。それはディーナに敗れ、気を失っていた邪道騎士だった。

 炎を凌いだ後、邪道騎士は床に捨て置かれていた弓と矢を拾い上げ、振り向きざまにその矢を放った。予想だにしない事態に面食らっていたマモンの頭を矢はかすめ、彼は足を滑らせ処刑台の下へ転落した。

 邪道騎士はよろめきながら剣を手にすると、ピリポを杭に繋いでいた縄を断ち切った。そして邪道騎士は崩れ落ちるように座り込んで首を前に垂れると、そのまま動かなくなった。

 マモンが放った火炎魔法の力が加わっても、大邪神の鎧には焦げ目の一つも見受けられなかった。しかし、鎧を着ている兵士の肉体は致命的な怪我を負ったようだった。座り込む邪道騎士の周りに血だまりが広がっていく。

「どうして…僕を庇ったりなんか……」

 拘束を解かれたピリポは放心して立ち尽くし、邪道騎士を見つめている。

「…助けるのが遅くなって…ごめん……。兄ちゃん……」

 消え入るような邪道騎士の声に、ピリポは耳を疑った。邪道騎士の傍らにしゃがみ込み、恐る恐る両手でその兜を取り外す。

「パルタ!? なんでお前がこんなところで…大邪神の鎧を着てるの!?」

 兜の下から現れたのは、ピリポに似た少年の面差しだった。

 

 

「俺はもともとこの街の警備兵だった…」

 レブロブスと刃を交えた邪道騎士は、戦う気力を完全に失った様子で彼に視線を向けた。

「病気にかかった女房のために薬代が必要になったが、俺の稼ぎではとても手の届かない額だった。借金の相談をしようにも、俺のような貧乏人の話を聞いてくれる奴なんかこの街にいない。それに借金が女房のためだとばれれば、俺は偽善者として異端審問会に通報されちまう。困り果てていた時、俺がこの鎧を着ることと引き換えに薬代を肩代わりしてやると、マモンが取引にやって来たんだ…」

 邪道騎士から自嘲するような乾いた笑いが漏れる。

「取引に飛びついた俺はまんまと騙された。この鎧が装備した者に地獄の苦しみを与え、死ぬまで脱ぐことが許されない呪われた鎧だと気づいた時には後の祭りだ。マモンは…俺がろくな戦果を挙げず、痛みに耐えかねて自殺しようものなら、女房を売春宿に売り飛ばすと俺を脅した……!」

 眉を顰めて邪道騎士の話を聞いているレブロブスに向かって、彼は救いを求めるように手を伸ばした。

「なぁ、俺は強かっただろう!? もう、十分戦っただろう!? 頼む、俺をこの苦しみから解放してくれ! 身体中の皮を剥ぎ取られ、火に炙られるように痛いんだ! 殺してくれ……!!」

 その場からふらふらと歩き始めた邪道騎士はレブロブスの目の前で立ち止まると、兜を脱いだ。

 レブロブスは戦斧の柄を強く握り直し、厳かな表情で邪道騎士の顔を見据える。

「ああ。お前は強かった。そして孤独な戦いの中で…お前は女房を守り抜いた」

 苦痛に取り憑かれ青ざめている若い男の顔が和らぎ、レブロブスへ微笑んでいた。

 レブロブスが戦斧を水平に振るうと、男の首が胴体から離れ地面に落下した。途端に胴体の切断面から赤い煙が立ち上ったかと思うと、男の遺体は白骨と化し、鎧と共に音を立てて石畳の上に転がった。まるで大邪神の鎧が血の一滴も残さず男を食らい尽くしたかのようだった。

「黒い羽共が欲望のために弱者を食い物にし…生き方を選ぶ意志すら奪うことが…善行だってのか……?」

 散らばっている鎧と白骨に呆然と目を遣りながら、レブロブスが呟く。やがて彼の隻眼には、胸中渦巻く憤激が収斂した強い光が灯った。

「おかしいだろう!? 何もかもが狂ってやがる!!」

 怒声を吐き歯噛みするレブロブスへ、マモンの兵士達が迫り来る。

「俺には、まだ足りねぇ…! このふざけた世界に喧嘩を吹っ掛けるだけの力が! 何者にも支配されない、強い力が!!」

 

 

「パルタ、待ってて! 傷を治せる仲間を連れて来るから…!」

 立ち上がろうとしたピリポを、弟のパルタは弱々しく首を横に振って留めた。

「兄ちゃんに伝えなきゃいけないことがあるんだ。僕の話を聞いてほしい…」

 ピリポは息を殺してパルタの言葉の続きを待った。

「父さんと母さんは…本当は兄ちゃんを手放したくなかったんだ。兄ちゃんをゴルゴダに送ったことを、今も後悔してる……」

「そんな!? 父さん達は、賄賂を支払わなくても済むようにしたくて、僕をゴルゴタの牢獄の看守にしたはずじゃ…!?」

「村の奴らが要求してくる金額がどんどん上がっていって、父さん達は金を使い果たしたんだ。それで仕方なく兄ちゃんをゴルゴダに送るのを決めたんだよ。金でしか兄ちゃんを守ることができなかったのに、それすらもできなくなって情けないって…父さん達は毎日泣いてた。それを見ているのが嫌で…僕は家を飛び出した……」

 夥しい血を流しながらもパルタが真相を語ることができるのは、大邪神の鎧に込められた魔力のためか、肉体の限界を凌駕した彼の精神力によるものかはわからない。

「僕は兄ちゃんとは違う、一人でもなんでもできる人間なんだ。そう思ってパンデモニウムに来た。でも違った。僕は両親に保護されて思い上がっていただけの、子供だった。仕事が見つからなくて街をさまよっていた時、僕はマモン様に拾われ傭兵になったんだ」

 血を吐き赤く染まったパルタの唇が震えている。

「マモン様の権力を笠に着て…僕は自分が偉くなったつもりでいた。マモン様の言い付けで税金を取り立てる相手に暴力を振るったり、他の傭兵達と一緒になってやりたい放題だった。おだてられていい気になって…利用されてることに気付かなかった。そして、命を捨てる覚悟で大邪神の鎧を着て邪教徒達と戦えば英雄になれるとマモン様に言われ…僕は何の疑いもせずにこの鎧を着てしまったんだ……」

「こんな物を着なくたって、お前は頭もよくて運動もできて…僕よりずっとずっと強かったのに……!」

「僕は…周りから弱者と呼ばれていた兄ちゃんが嫌いだったよ……。実家にいた頃、僕がどうして兄ちゃんを狩りに連れ出していたのかわかる? 僕は狩りの腕に自信があったから、兄ちゃんに見せつけてみじめな気持ちにさせてやろうと思ったんだ。身体の弱い兄ちゃんには、何もできないだろうと思って……」

 俯くパルタの表情には、深い悔恨の念が刻まれていた。

「でも、兄ちゃんは逃げ出さなかった。下手くそでも弓を引き続けて、いつの間にか僕が仕留めたこともない大きな獲物を狩るようになった。そして…ここでマモン様に立ち向かった兄ちゃんを見てやっとわかったんだ。本当の強さを持っていたのは…兄ちゃんだったんだ……!」

 ピリポの双眸から、小さな真珠のような涙がとめどなく転がり落ちる。

「僕は家の外に出ることを禁止されてた。だからお前が僕をこっそり森に連れて行ってくれたこと…本当に嬉しかったんだよ…! 弓を引き絞るお前はかっこよくて…僕はお前の兄ちゃんでいることが誇らしくて……! お前がどう思っていたとしても、一緒に森で過ごした時間は、僕の生きがいだった!!」

 涙するピリポを鏡に写したかのように、顔を上げたパルタも頬を濡らす。

「やり直すことが…できたらな……。そしたら、誰かに言われたからとか、みんながそうしてるからとかじゃなくて…自分が信じた道を行くんだ……。兄ちゃん、一緒にケデロンの村に帰ろう……。もう誰も兄ちゃんのことを…弱者だなんて言わないよ……。だから…父さんと母さんと…みんなで…………」

「うん、一緒に帰ろう! だから、パルタ! 死んじゃ駄目だ!!」

 鎧の継ぎ目から漏れ出した赤い煙が、ピリポの視界からパルタの全身を覆い隠した。そして煙が消え去ると、鎧と白骨を残してパルタは消滅していた。

「パルターーーーーーーッ!!」

 泣き叫ぶピリポは鎧に埋もれている骨からパルタの頭骨を見つけ出し、震えながら胸の中にそっと包み込んだ。

「…命の価値を決めるのがお金だけだなんて……そんなの嘘だ!! だって命は…生きようとしていたパルタの命は、こんなに綺麗だったのに!!」

 現実は、ピリポに弟の死を悼む時を満足に与えてはくれない。雇い主のマモンが倒れた今も、生き残った傭兵達は仲間達を攻め立てている。そしてファウストとの鍔迫り合いの末、ディーナは剣を弾き飛ばされ危機に瀕していた。

「パルタ、僕は強くなんかないよ。僕が本当に強ければ、お前は死ななかった」

 泣くことを止め、目の前の鎧を見据えるピリポの瞳にも、レブロブスと同じ決意の光が満ちている。

「もう二度と、こんな思いはしたくないんだ! 強くなりたい! 大切な人を守れる力が欲しい!!」

 

 

 ヨハネは兵士達と戦いながらも、レブロブスとピリポのただならぬ気配を感じ取った。

「レブ、ピリポ! 何をするつもりじゃ!?」

 二人は背中に手を回し、自らの白き羽を握りしめている。

「羽を剥ぎ取り鎧を着るつもりか!? 早まるでない! お前達では無駄に命を散らすだけ――」

 焦るヨハネが叫ぶ声を、二人が発する鮮烈な光が遮った。その光が収まった後、虚空に乱れ散る無数の白き羽根の中に、大邪神の鎧を身に付けた二人の姿があった。

 驚きのあまり、ルピルピとヨハネは我を忘れている。

「さっきの光、太陽の神殿でディーナが鎧を着た時と同じだわ! それに、なんて禍々しい力なの!?」

「新たなる救世主の降臨…! よもや…あの二人までもが大邪神の鎧の適合者だったとは……!!」

 高貴と威厳を帯びる黒の装甲に身を包み、紅蓮の炎を宿したような赤いマントをたなびかせ、雄叫びと共にレブロブスが戦斧を振るう。その勢いから生じた突風と業火が、レブロブスを取り囲んでいた兵士達を立ち所に飲み込み、骨すら残さず焼き尽くした。

 すかさずヨハネの魔術によって追い討ちを掛けられ、総崩れとなるマモンの兵士達。

 ピリポはパルタが使っていた弓と矢を手にして立ち上がり、勇ましくそれを引き絞った。放たれた矢は光を纏いながら放物線を描き、ディーナに斬り掛かろうとしたファウストを阻んだ。矢は流星が落下した跡のように石畳と地面を抉り、ファウストの眼前の地中に深々と突き刺さっている。

「それ以上ディーナに近付いたら、次は絶対に当てる!!」

 涙に濡れた目をすがめ、ピリポは既に二の矢の狙いをファウストに定めている。黄褐色がかった落ち着きのあるオリーブ色の装甲と清々しい萌葱色のマントに身を固め威容を示すピリポに、かつてゴルゴダの牢獄で虐げられていた頃の惨めな面影は片鱗もない。

「時代が移り変わっても…お前達は何も変わらないな……」

 自らに矢を向けているピリポを見上げながら、ファウストは平然と呟きをこぼした。

「いいだろう。お前達の信念とやらがどこまでこの世界に通用するか、せいぜい這いつくばって確かめてみるんだな。お前はもう少しまともに鎧の力を使えるようにしろ。このまま持ち腐れにする気ならば、必ず殺す」

 ディーナに向き直ったファウストは捨て台詞を残してマントを翻すと、瞬時に姿を消し去った。

 ピリポは安堵の溜め息を漏らし、構えていた弓をおろす。

 敵兵を殲滅し、焦土と化した庭園一帯を眺めた後、振り向いたレブロブスが気前のいい笑顔をガイウスに見せた。

「どんなもんよ! 俺の強さに驚いて腰が抜けちまったか?」

 石像の台座にもたれ掛かりぐったりと座り込んでいるガイウスは、悔しそうにレブロブスを睨みつけている。

「屈辱だ…お前に助けられるなんて! おまけに、お前とピリポの奴も伝説の勇者の仲間入りだって? 冗談きついぜ……」

「それだけ舌が回りゃあ、大丈夫そうだな。ほら、早くルピルピに治療してもらえ」

 レブロブスに肩を借り、ガイウスはどうにか立ち上がった。

 

 

 

 

「ピリポ君!!」

「ディーナ!! 怪我はない!?」

 処刑台の階段を降りたピリポの元へディーナは駆け寄り、涙を滲ませながら彼に向かい合った。

「ごめんなさい。私のせいで、あなたを危険な目に遭わせて…!」

「ディーナは少しも悪くないよ。油断してた僕がいけなかったんだ。助けに来てくれて、ありがとう」

 ピリポは泣き腫らした目を落とし、顔を曇らせた。

「僕はこの鎧を…弟のパルタから受け継いだんだ。そしてパルタは本当のことを打ち明けてくれた。君の言うとおりだった。父さんも母さんも、僕のことをどうでもいいなんて、思ってなかった……」

「ゴルゴダでお前の身の上話が聞こえてきた時、妙だと思った」

 ルピルピの回復魔法をその身に受けながら、ガイウスが言った。

「お前の両親が面子しか気にしていなかったのなら、お前を隠しながら育てるなんて回りくどいことはせずに、殺しちまえばよかったんだ。親の生殖能力が失われない限り、子はいくらでも代えが効くってのが黒き羽共の考えだからな。それをしなかったってことは、お前の両親も相当邪悪な奴らだったってことだ」

「ガイさんも僕の話を聞いて、いろいろ考えてくれてたんだね。僕は…自分が弱者だという不運に囚われて、周りのことが何も見えてなかったんだ……」

「…お前が惨めったらしい声で話してたのが嫌でも耳にこびり付いてただけだ。それよりディーナ、まだマモンの野郎に用があるだろ? 早くしねぇとレブがあいつをミンチにしちまうぜ。あいつはレブの嫁と子供の仇だったらしい」

 ガイウスの言葉にディーナはハッとしてレブロブスを見遣った。

「さぁ、お前が自慢の金で揃えた兵士共はいなくなった!! どうするつもりだ!!」

 処刑台の近くに倒れていたマモンの胸倉を掴み上げ、レブロブスが般若の形相で怒鳴り付けている。

「わ、わかった! お前達は強い! 自分の力量を顧みずお前達に戦いを挑んだ俺が馬鹿だった!」

 マモンは脂汗を流しながら態度を一変させていた。

「お前達の強さを見込んでだ、俺の傭兵にならないか!? 一生遊んで暮らせるだけの金をやるぞ! 裏金を動かして、教団からもうまく匿ってやる! どうだ、悪い話じゃあないだろう!?」

「その金は、お前が街の人間の生活を踏み躙って得た金だろう!! そんなあぶく銭に俺達の目が眩むと思ったか!? どこまでも性根の腐った奴だ……今までの報いを受けやがれ!!」

「レブよ! 気持ちはわかるが、一旦抑えてくれ! こやつに教皇庁の場所を知っているか問わねばならん」

 猛烈な殺意を込めて拳を振り上げたレブロブスをヨハネが制した。

「教皇庁? し、知っているぞ! 話すから、命だけは助けてくれ!! 教皇庁は…かっ……!!」

 息を詰まらせたマモンの口がそれ以上話をすることはなかった。空を切った一本の短剣が彼の首を突き抜いたのだった。

 口から血の泡を飛ばしもがき苦しんでいるマモンを前に、一同はただ当惑している。

「おしゃべりな男って、嫌いなのよねぇ。自分のことしか話さないから、うんざりしちゃう。そう思わない? ディーナちゃん」

 短剣が飛んで来た方向から一個分隊程の神官兵達を引き連れて現れた女の姿に、ディーナとピリポは目を見張った。

「あなたは…!」

「万屋のお姉さん!? やっぱり、僕達の敵なの…?」

 そこにいたのは商店で出会った例の赤い瞳を持つ女だった。今は商人の出で立ちではなく、胸元や太腿を露出した扇情的な衣装を身に纏っている。

「私の部下があなたに意地悪しちゃったみたいね。後でよく叱っておくわ」

 女は小首を傾げ、艶めかしい笑みを浮かべてディーナを見つめている。

「でも、しょうがないわね。あなた達はとっても悪い子だから…ここで死んでもらわなきゃいけないの」

 女のたおやかな人差し指が、ディーナ達に突き付けられた。

「私は異端審問十字軍隊長のルカ。邪教の信奉のみならず、大邪神の力を使って世界の崩壊を企てるあなた達には、アンゲルス教団総本山から直接の抹殺命令が下されたわ。教皇様の名において、我ら異端審問十字軍があなた達を処刑する」

「黙って聞いてりゃ、勝手なことばかり言いやがって…!」

 身体の傷が癒えたガイウスが槍を構え、臨戦態勢に入る。

「ルカとやら、お主は何か誤解をしておるようじゃ。わしらは世界の崩壊など望んではおらぬ。話し合う場を設けてはもらえぬか?」

 思い煩っている様子のヨハネの提案を、ルカは一笑に付す。

「問答無用よ、おじさま。それじゃ、あなた達が奪った大邪神の鎧もまとめて返してもらうわ!」

 ルカの手振りに従い、神官兵達はディーナ達へと襲い掛かった。

 

 

十一

 

 

「なぁるほど…。これはちょっと面倒なことになったわ」

 ディーナ達と異端審問十字軍との戦局を静観しながら、陣形の最奥に立つルカは独り言ちていた。

 異端審問十字軍。世界の覇権を握るアンゲルス教団が誇る異端審問会の中で、類い稀なる武芸を有する神官兵を結集させた武力組織である。

 盤石の強さを持つ神官兵達に、数で明らかに劣っているディーナ達は互角に渡り合っている。彼女達の動きは戦の素人集団とは思えない程統制が取れていた。

 ルカの視点から、不利な戦況を打開する策を反射的に編み出し仲間達へ的確な指示を出しているヨハネの戦略家としての役割が大きいように思えた。更に彼自身も強力な魔術を用いて大砲の弾を飛ばすように神官兵達を蹴散らしている。

 そして新たに大邪神の鎧を装備した二人のいずれも、闘技場での戦いの時と比べて格段に戦力が向上している。

 極め付きの脅威は剣を手にしたディーナだ。繰り出される妙技は、先程まで彼女自身を追い詰めていたファウストのものと寸分違わなかった。僅かに剣を交えただけで、ディーナはアンゲルス教団一剣術の腕が立つファウストの技を写し取っていた。彼女に対峙した神官兵達は為す術もなく倒れていく。

「大邪神の鎧の力がここまでとは…。決着が付くのも時間の問題ね。直ちに総本山へ帰還し、より優れた抹殺部隊を編成しなければ」

 転移の魔術を詠唱しその場から姿を消すまでの間、ルカは自らを囲う神官兵達の先で剣を振るっているディーナに熱い視線を送っていた。

「不思議ね。私好みの顔だから、首だけでも持って帰りたいとさっきまでは思っていたけれど…。それだけじゃあ満足できなさそうだわ。生きたままあなたを独り占めして、いじめ抜いてあげたくなってきちゃった。こんな気持ち、初めて……」

 甘美な吐息のような呟きは、戦場の喧騒の中へ溶けていった。

 

 

「教皇って奴は随分と手荒な挨拶をしてくれるじゃねぇか! こうなりゃ何が何でも教皇庁の場所を突き止めて、こっちも相応の礼をしねぇとな」

「僕…鎧の力がなかったら…百回くらい死んでたと…思う……」

 ディーナ達が異端審問十字軍との戦いに勝利を収めた後、マモン邸の庭園内。レブロブスは血気盛んに闘志をたぎらせ、ピリポは両手を膝に突いて息を切らしている。

「頭の女は戦いもしねぇで逃げやがった。…お前も毎日飽きねぇな……」

 日記帳に噛り付いて執筆にいそしむルピルピを、ガイウスが憮然たる面持ちで眺めている。

「あの女、やーな感じ! ちょっと顔とスタイルがよくて胸が大きいからって、調子に乗ってるんだから! 今度会った時こそあの女に私達の強さを教え込んで、総本山の人達にも私達が正しいってことをわかってもらわなきゃ!」

 仲間達の輪から外れ、むせ返るような血の匂いに包まれ変わり果てた庭園をディーナは見渡している。酸鼻を極める屍の中に、目を見開いたまま絶命しているマモンがいた。

「あとどれくらい、血を流せば……」

 掴みかけたゼロ救出の糸口は脆くも潰え、ディーナの中には鬼胎だけが残った。ディーナの過去を知るファウストの言葉と失われた記憶が、得も言われぬ重圧となって伸し掛かる。

「ディーナ。僕はまだ実家には戻らないよ。早く君の御主人様を探しに行こう」

 俯くディーナの背中をさするかのように、ピリポが声を掛けた。

「でも…ピリポ君の御両親は、きっとあなたに会いたいはずだよ」

 不安そうにディーナが振り返ると、澄み切った瞳を彼女に向けて微笑むピリポがいた。

「僕は…父さんと母さんと…パルタが守ってくれたこの命に、胸を張って生きたいんだ。自分が決めたことを、逃げ出さずにやり遂げたい。父さんと母さんの所に帰るのは、この旅が終わってからじゃないといけないんだと思う」

 日溜まりのような温もりを持つピリポの笑顔が、強張っているディーナの心を解きほぐしていった。

「ディーナにとって大切な人は、僕にとっても大切な人なんだ。だから早く、君に会わせてあげたい」

 心に沁み渡るこの温かさは、ピリポの限りない勇気と慈悲なのだとディーナは気付く。

 二人の会話を聞いていたレブロブスが冷やかしの口笛を吹いた。

「なーにいっちょ前に色気付いてやがるんだ? けどよ、何だか昨日よりお前の男っぷりが上がったみてぇだな…これも大邪神の鎧の力なのか?」

「お前の場合は鎧を着ててもそこらのヒキガエルに劣るがな」

「ガイ、てめぇはやっぱりいっぺんぶっ殺す!!」

 レブロブスとガイウスの言い争いに束の間の安息を見出した一行は口元を綻ばせる。

「みんな、ありがとう…」

 仲間達の顔を見つめながら、微笑を湛えたピリポは囁く。

「僕にも愛ってものが何なのか、少しだけ…わかったような気がするんだ……」




お読みいただきありがとうございます。久しぶりの更新です。
ルカが京都弁じゃない…(すっとぼけ)?私は1999年に発行された祭紀りゅーじさん著の『ブラックマトリクス』の世界観をとても参考にしております。巻末のプロデューサーとの対談でも「ゲーム中のルカのセリフを小説に反映させると恐ろしく読みづらくなりそう」というお話があったように、京都弁を知らない私は不自然な表現をしてしまうだろうと思って京都弁ルカは採用しませんでした。
次の章は暴食の街、カナンが舞台。ガイウス様メイン、正義がテーマの章です…わくわく。私なりに「正義とは悪とは」を解釈してから執筆を始めるので投稿はいつになるやら。のんびり楽しくやっていきたいです。


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第六章 暴食の街カナン

 

 

 森の奥でルピルピが苦しそうに咳き込んでいる。木の幹に片手を突いて背中を丸め、肺の底で蠢く病魔を必死に抑え込もうとする。足元に生える草を濡らしているのは夜露ではなく、口を覆った指の隙間から滴る血だった。

 悪魔の鎧は着実にルピルピの生命力を蝕んでいる。衰弱していく自分の姿を、彼女は仲間達に決して見られたくなかった。だからこの日も発作が起こることを悟るとすぐ、眠りに落ちた仲間達がいる野営地から離れて孤独な戦いに身を置いていた。

 猛り狂っていた魔物はやがて鳴りを潜め、体内に仮初めの平穏が訪れる。呼吸を整えたルピルピは、俯いたまま小さな吐息を漏らした。

「発作の頻度が高くなってるな」

 強い風が吹いた。不意を突かれて早鐘を打ち始めたルピルピの鼓動に同調するかのように、木々がざわめく。月を隠していた厚い雲が動き、その光が木立の間から現れた男の姿を照らし出した。

「女の子の秘密を覗き見するなんて、ガイはむっつりスケベだったのね。日記に書いとかなくっちゃ!」

 口元に付いた血を拭い、ルピルピは努めて悠然と背後に立つガイウスへ言った。

「もう平気。ほら、早く戻りましょ」

「なぜお前はそこまでしてあのじいさんに尽くそうとするんだ」

 鋭い眼差しと言葉がルピルピの背中に投げ掛けられる。

「お前の身体がそうなったのも、元はと言えばじいさんの野心のせいだ。お前はあいつにとって駒の一つに過ぎない。それでもお前は残りの時間をあいつのために費やすのか?」

「時間がないから…だからなおさらよ! 私の命を私が好きに使って何が悪いの!? 誰にも迷惑だって掛けてないわ!!」

 振り返ったルピルピの瞳は悲しみと怒りに濁っていた。

「お師匠様は、初めて私の研究を認めてくれた人。私の知識は唯一無二だって…自分の悲願を達成するためには、私の力が欠かせないって…私を必要としてくれた。だから私はお師匠様に弟子入りして、この人の役に立つためだけに生きようって決めたわ。お師匠様が喜んでくれさえすれば、私は幸せなのよ! 私の身体なんて、もうどうでもいいの!!」

「なるほど、じいさんはそうやってお前の孤独に付け込んで懐柔したって訳か。さすがは徳のある大神官をやってただけあるな」

「ガイは黒き羽達の社会の中で、聖人として崇められるくらいモラルが高いわ。他人をこき下ろして、気に入らなければ殺して、自分だけがいつも正しいって顔してる」

 ルピルピは声を震わせ、大理石の彫刻のようにつややかで表情の変化のないガイウスの顔を睨み付けた。

「でも私は…あなたが嫌い。あなたは血だらけだわ。死に一番近い臭いが染み付いてる……!」

 そして足早にガイウスの側を通り過ぎた所で立ち止まった。

「あなたなんかに…私の気持ちがわかるはずないのよ……」

 彼女は野営地の方向にある茂みへ消えた。

 月の光は再び雲によって陰り、ガイウスは一人闇の中に取り残された。

 

 

 

 

「次の街は、まだかな? お腹が空いたよ…」

「締まりのねぇ奴だ。この間の威勢のよさはどこ行ったよ?」

 森の中をとぼとぼと歩くピリポの隣で、レブロブスが呆れ返っている。

「だって…昨日の夜もレブさんが僕の分のおかずを食べちゃうんだもん……」

 ピリポの恨み言をレブロブスは笑い飛ばす。

「ちんたら食ってるのが悪いんだよ! この世は素早い判断と行動ができる人間しか生き残れねぇからな」

「お前は飯を食う早さよりその鈍足をどうにかしろ。図体ばかりでかくて、戦う時も目障りだ」

「うっせぇ! ちょこまか動き回るだけが取り柄のお前と俺じゃ、格が違うんだっつーの!!」

 睨み合うレブロブスとガイウスを見てやれやれと力なく笑った後、ヨハネがピリポへ言った。

「もう少しの辛抱じゃよ。この森を抜ければじきにカナンの街へ着く。聞くところによると、カナンは美食の都と評される程出される料理が美味であるそうじゃ」

 期せずして新たな大邪神の鎧を手に入れ、パンデモニウムで異端審問十字軍との激闘を制した一行は、次の目的地であるカナンの街を目指して旅を続けていた。

「ルピルピちゃん」

 仲間達の他愛ない会話を聞きながら、ディーナは下を向いて黙々と歩いているルピルピに声を掛けた。

「顔色が悪いよ。休憩しよう?」

「レブのいびきがうるさくってよく眠れなかっただけだから気にしないで。困っちゃうわ、睡眠不足は美容の天敵なのに」

 顔を上げたルピルピにはいつもの明るさが戻っていたが、ディーナが感じた不安は消えなかった。

 しばらく二人が黙って歩いていると、ルピルピが声を潜めて言った。

「ディーナは怖くなったりしない? 信じている愛が、やっぱりただの幻想かもしれないって…」

 その目は必死に答えを求めている。

「一人が寂しいからとか、自分の地位を高めたいからとか、勝手な理由で誰かを求めている人ばっかり。お金を稼いだり外見を磨いたりしながら、お互いがお互いにとって都合のいい掘り出し物を探し合ってるだけ…。こんな虚しい世界で、本当の愛なんて見つけられる?」

「愛っていうのは…どこかで見つけ出すものじゃなくて、その人に備わってる力みたいなものだと思う」

「愛するためには能力が必要だって言うの?」

「うまく言えないんだけど…自分の中に愛が生まれるのかも、相手の心の中に愛が生まれるのかも、最初は何もわからない。何の確証もないのにそれを信じ続けることは、すごく大変で勇気がいる。それでも諦めないで不確かな未来に踏み込んで行く人に、愛する力が芽生えるんじゃないかな」

 頭上から降り注ぐ柔らかい木漏れ日が、ディーナがゼロと過ごした日々を思い出させていた。

 彼女が意識を取り戻してから初めて家の外をゼロと共に歩いた日。散策を始めて近くの森に差し掛かった時、木の根につまずいて転びかけたディーナをゼロが受け止めた。顔を見合わせ微笑んだ二人は、重なった手を繋いだまま森の中を進んだ。

 その情景はただ眩しく、温かい。

「怪我を負っていつ目を覚ますかわからない状態だった私の看病を、ゼロはしてくれた。誰かを助けることが罪になるこの世界でずっと、たった一人で。ゼロがくれたものを疑ってしまったら…私は大切なことを失ってしまう気がする。だからゼロが信じているものを、私も信じてる」

「あなたの御主人様はあなたが必要だから愛を口にしたんじゃなくて…愛することができる人だからあなたを必要としたのね……」

「ルピルピちゃんが愛する人の心にも、愛が生まれてるといいな。ルピルピちゃんも愛することができる人だから」

 何かに怯えているような表情をしていたルピルピは、その恐怖から解放されて穏やかな笑顔を浮かべた。

「やっぱりあなたは、大邪神の鎧を着るにふさわしい人なんだわ」

「見えたぞ。カナンの街じゃ」

 森の出口へ辿り着き、ヨハネが仲間達へ声を掛けた。

 視界を遮っていた木々がなくなると、リベイラとパンデモニウムの街にも存在していた、地上から天空へと斜めに伸びる巨大な鎖が一行の目に飛び込んだ。その鎖に縛り付けられているかのように、鎖の根元に街が広がっている。

 

 

 

 

「な、なんなんだよ、この街は!?」

 街の様子を目にしたレブロブスは唖然としている。他の者達もその胸中は同じであった。

 軒を並べているのは飲食店ばかり。店先から漂う珍しい調味料や香草の匂いに当てられ、ディーナは嗅覚だけでなく意識まで混濁しそうになる。

 街のあちこちを見回すと、屋外に備え付けられたテーブルに寄り掛かっている肌色の小山がひしめき合っている。小山は肥え太った人間達だった。彼らは手掴みで料理を口に運び、皿に顔を突っ込んでなめ回し、最後の一瞬まで食事を堪能し尽くしている。知性や情緒、あらゆる人間性が食事をするためのエネルギーに変換されていた。そして彼らは満腹になると階段のように突き出た腹を揺すりながら所構わず寝転がり、安穏に満ちたいびきを響き渡らせている。

「街の人達は食べるのに夢中で私達に見向きもしないね。ああやってずっと食べることとと寝ることを繰り返してるのかな」

「どうやらこの街では、聖書の教えとして貴ばれている怠惰と暴食が厳格に遵守されておるようじゃ」

「みんな幸せそうな顔をしてるなぁ。お腹がいっぱいになってうとうとしてる時間は、僕も大好きだよ」

 街の住民達に驚愕するディーナと感心しているヨハネの隣で、物欲しげに立つピリポが控えめに腹を鳴らした。

「要するにこの街の連中は悩まぬ豚だ」

 ガイウスは心底から嫌悪感をあらわにし、黒い羽を生やした住民達を睨んでいる。

「目先の欲望を満たすだけで、自分を取り巻く社会や自身の生き方に何の疑問も持たない。こんな奴らに俺が劣っているだと…?」

「わぁっ、びっくりした! 私以外の白い羽の人を久しぶりに見たよー」

 一行が声のした方を向くと、大きな籠を両手に提げている白い羽の少女が立っていた。

 少女は人懐こい笑顔でガイウスに問い掛ける。

「こんにちは! あなたもバアル様に雇ってもらうためにここまで来たの?」

「バアル? 誰だそいつは」

「あれ? 知らないんだ。バアル様はこの街の領主様だよ! この街の人達はね、バアル様から毎日欠かさず私達の所に届けられる飛び切りの食事のお陰で幸福に暮らしてるの。食べ過ぎで太って自力で動けない人ばかりだから、私がこうやってみんなの所へ出前に行ってるんだ」

「ねぇ、どうしてあなた以外の白き羽の姿が見当たらないの?」

 ルピルピが少女に尋ねると、少女は誇らしげに答えた。

「私以外の白い羽の人達はバアル様のお屋敷で働いてるからだよ。バアル様から食料を買うお金がなくなった黒き羽は自分の奴隷を差し出すの。それから、他の街から来た逃亡奴隷なんかもバアル様は受け入れて仕事を与えてあげてるんだって。お屋敷ではすごくいい待遇で働けるみたいで、誰もお屋敷から出たがらないんだ。お屋敷から帰ってきた人を見たことないもん」

「逃亡奴隷を匿う!? それが本当なら、その領主はとんだ偽善者だな!!」

 レブロブスは疑わしげに少女の話を聞いている。

「でもバアル様は奴隷の私にも労いの言葉を掛けてくださるし、街のみんなに慕われてるよ! 私もバアル様のお屋敷で働きたいんだけど、私の御主人様は身の回りのことが何もできない人だから私を手放してくれないんだよねぇ。いっけない! 出前に遅れちゃう!!」

 忙しなくその場から走り去る少女を見送ると、ヨハネが口を開いた。

「あの娘の話を信用するなら、バアルはユダやマモンとは一風変わった領主のようじゃ。あわよくば穏便にディーナの主人の情報を得られるかもしれん。わしらが教団と対立する中で、バアルが有力な後ろ盾となる望みすらある」

「けどよぉ、じいさん! 黒い羽共は何よりも保身に走る奴らだぜ? ましてや領主の座に就く権力者が進んで七つの大罪を犯すような真似をすると思うか?」

 レブロブスの言葉にヨハネは考え込んでいる。

「お主の言い分も尤もじゃ。真偽の程はバアルと直接会って話をしてみなければわからんの」

「僕はさっきの人が言ってた飛び切りの食事っていうのが気になるよ。どんな御馳走なんだろう?」

 ピリポが瞳を輝かせながら言った。

「それはもう、一度舌にのせれば人であることも忘れ食悦の虜となる絶品でございますよ」

「そうなんだ、食べてみたいなぁ……」

 彼はその目をしばらく瞬かせた後、飛び上がった。

「おじさん、誰!?」

 いつの間にか一同に紛れて黒羽の初老の男が佇んでいる。上品なスーツを着こなしている彼は、細いヒダの付いた白手袋をはめた左手を胸に当てて恭しく頭を下げた。

「申し遅れました。私めはこの街の領主であらせられるバアル様に仕える執事でございます。失礼とは存じますが、大魔道士ヨハネ様と大邪神の鎧を手にしたお連れの方々とお見受けいたします」

 執事は頭を上げて優雅に微笑んだ。

「バアル様はあなた方とお目にかかりたいと申しております。食事の席を設けましたので、どうか屋敷までお越しいただけないでしょうか」

「早速仕掛けてきやがったな。どうする? 十中八九、罠だぜ」

 顔を顰めているガイウスを見ながらヨハネが頷く。

「いずれにせよ領主には会わねばなるまい。多少の危険は承知のうえで参るとしよう。虎穴に入らずんば、じゃよ」

 

 

 

 

「いらっしゃいませ、どうぞごゆっくり」

 執事に案内されバアルの屋敷に辿り着いたディーナ達を出迎えたのは、十数名の白い羽のメイド達だった。一行が通された広間の席に座ると、メイド達は湯気が立つ料理の皿や酒瓶を次々と食卓に置いていき、手際よく給仕をしている。

「白い羽の人達がここで働いてるのは本当なんだね。でも、みんなどことなくピリピリしてるような気がする…」

 ディーナがメイド達を心配そうに見ているとルピルピが言った。

「緊張してるんじゃない? こんなに立派なお屋敷のメイドになれるなんて、白き羽にとっては普通じゃ考えられないことだもの!」

「おい、ここで働くことに何も不満はないのか?」

 ガイウスが近くを通りかかったメイドの一人に声を掛けると、メイドはぴたりと立ち止まり硬い表情を崩した。

「もちろんございません。バアル様は卑しい私をこの屋敷に取り立ててくださった素晴らしいお方です。バアル様のおかげで私達は、食べられるのです」

「これ、ピリポ。むやみに料理に手を付けるでない。毒が盛られているやもしれん。美食を味わうのは、バアルにわしらへの害意がないとわかってからじゃ」

 ヨハネに念を押されたピリポはしょんぼりと手に持っていた匙を食卓に戻し、お預けになった目の前の料理を見つめている。

 ディーナも食卓に所狭しと並べられた皿の中身に目を移す。どれも箱庭での質素な生活や旅を続けている中では一度も見たことがない豪華な料理ばかりであったが、不思議と食欲が湧いてこなかった。

「ようこそお越しくださいました! 私がこの街を治めているバアル・ゼブルです」

 広間の奥にある扉が開き、頭に巻き角を生やした黒羽の男が現れた。

「今日はコック長が腕に縒りを掛けて皆様への食事を用意しました。心行くまでお召し上がりください」

「この街の領主にしちゃあ中々の男前じゃねぇか! てっきり歩くチャーシューみたいな奴かと思ってたぜ」

 紳士の出立ちに整った口髭を貯えているバアルの長身痩躯を見ながら、レブロブスが驚きの声を上げた。

「お招きいただき感謝するよ、バアル殿。せっかくじゃが、食事の前に尋ねたいことがある」

 バアルが落ち着いた所作でディーナ達と同じ食卓に着くと、ヨハネが言った。

「アンゲルス教団に追われる身であるわしらを自らの屋敷に招き入れるとは、どういうつもりじゃな?」

「そう、大罪を犯しているあなた方は更に脱獄という罪を重ねた。そして教団に対抗する力を求め、リベイラとパンデモニウムの領主から大邪神の鎧を強奪したのです。そして今度は私が所持しているミカエルの鎧を狙い、この街を訪れた」

 バアルの物言いに一同の顔は険しくなる。

 すると、バアルの眼差しがディーナへ向けられた。

「しかしながら、大邪神の力を得た娘よ。それらが全てあなたが愛する主人に再会するためだと知った時、私は…胸を打たれました」

「えっ…!?」

 ディーナはバアルの口から出た言葉に目を見張った。

「私も愛の存在を信じる者、教団からすればあなた方と同じ異端なのです。そして私は考えていました。これ以上血を流すことなく、あなた方と教団の確執を解くことはできないか、と。対話と強調により困難を乗り越える道を模索していたのです」

「既に教団とは対話を試みておる。じゃが、教団側は聞く耳を持たず、わしらは異端審問十字軍と戦うことになった」

 ヨハネがもどかしそうに眉根を寄せた。

「当事者同士ではどうにもならない程、あなた方と教団の遺恨は深い。そこで私が調停者として名乗りを上げて会談を開くのです。政を司る立場上、私は各界の有力者と繋がりがあります。教団の上層部も例外ではありません。彼らを会談の場に招集し、条件付きですがあなた方を赦免することもできるでしょう」

「随分と大きく出たもんだ。で、その条件ってのは何なんだよ?」

 レブロブスが隻眼を光らせバアルに問い掛ける。

「一つは、殺戮行為をただちに止めること」

「僕達だって好きで人を殺してた訳じゃないよ。街の領主や教団の人達が襲ってこなければ、あんなにたくさん死ななかった…」

 ピリポは暗い面持ちで目を伏せた。

「そしてもう一つ、大邪神の鎧を保有している方が今後その力を世界平和のためだけに使用すると誓い、教団の管理下に置かれること。管理下と言いましても人身の自由や尊厳は保障されるよう先方に掛け合いますので、御安心ください」

 バアルは力強くこんこんとディーナ達に言い聞かせ続ける。

「もちろん、教団側にはあなたの主人を解放することを約束させましょう。いかがですか、皆様。あなた方は確かにお強い。暴力で教団を屈服させることはできるかもしれない。しかし相手と完全に理解し合うことは絶対にできません。納得させるためには、言論の力が不可欠なのですよ!」

 拳を掲げたバアルは仰々しく一同を見渡した。

「私は常に、正義と理性の執行者でありたい。本来対立する立場であるあなた方と私は、こうして一つのテーブルを囲んでいる。教団ともわかり合えるはずです。さぁ、共に人間の可能性に賭けてみようではありませんか!!」

「しかし、バアル殿。お主にそれだけの権限があるという確証を、わしらはまだ得ていない」

「それは私のことを信じていただくより他ありませんね」

 ヨハネに疑いの目を向けられても、バアルは臆することなく毅然としている。

「私はなんとしてもこの大事を成し遂げたいのです。そしてゆくゆくは、争いと差別のない社会を打ち立てたい。黒き羽と白き羽が手を取り合って平等に暮らしていける社会です。手始めに私は、街の人々が私に差し出した白き羽の奴隷達を解放奴隷とし、実家に帰らせました。今この屋敷にいる者達にも、いずれ相応の報酬を持たせて暇を出そうと思っています」

「あ、愛や平等を口にするだけでなく、そこまで偽善を実行しているの!? 黒き羽がそんな大罪に手を染めるなんて!!」

「それはお互い様でしょう。あなた方もパンデモニウムの街で、兵士の襲撃から住民を守って戦っていたと伺っていますよ。やはり私達は志を共にする仲間なのです」

 仰天しているルピルピへ向かってバアルはにこやかに語り掛けた。

「いいぜ、こいつの話に乗るかはお前が決めろよ」

 ディーナを見ながら鋭い目つきのままでレブロブスが言った。

「仮にこいつが俺達の寝首を掻こうとしたなら、その時は教団共々蹴散らしちまえばいい」

「僕のことも気にしないで。僕の旅の目的は、君の御主人様を助け出すことだから。これ以上戦わずに君が御主人様に会える方法があるなら、それが一番だよ」

 ピリポはディーナに向かって微笑む。

「お優しいあなたは今まで苦しんできたことでしょう。もうあなたの主人や仲間の命を危険に晒し、尊い人命を奪わなくともよいのですよ」

 教え諭す伝道師の風格で構えるバアルを前にして、ディーナの脳裏に刻まれた数々の死が蘇った。

 ヨハネの魔法を受け、泥のように身体が崩れていったゴルゴダの牢獄の看守達。自分が初めて振るった剣に切り裂かれたユダ。闘技場でその生首を宙に躍らせた剣闘士。マモン邸の庭園で積み上げられた死体の山と、とめどなく石畳を流れた血の河。

 戦うことから逃げたくないと誓った。だが、敵と剣を交えその命を奪い取るたび、気持ちは底知れぬ淵へ傾いでいった。

「…会談を実現させたいです。あなたと協力して、アンゲルス教団と和平を結びたい」

 ディーナはバアルを見据え、答えを出した。

「よかろう。黒き羽と白き羽が平等に暮らす社会…。そのような奇論を持ち出す黒き羽を、わしは初めて見た。バアル殿よ。わしも会談の場に赴き、お主のお手並み拝見といくぞ」

「それならば私も御一緒しますわ。この身が果てる日まで、私はお師匠様と共にいます」

「よくぞ御決断いただきました!!」

 ヨハネとルピルピがディーナに追従し、バアルが喜色を浮かべたその時。

「お前は腹を据えたんじゃない。こいつに言いくるめられて楽な方に流れただけだ」

 ガイウスの一言に、ディーナは胸を刺された。

 彼女を睨むガイウスの瞳には明らかな侮蔑の念が宿り、更にその奥に微かな失望が潜んでいるようだった。

「お前ら揃いも揃って頭が腐ってやがる。こんな胡散臭い奴の話を真に受けるなんてな。正義なんて言葉を簡単に振りかざすような奴を、俺は信じない」

 悪罵を吐き捨てガイウスは椅子から立ち上がった。

「どう転んでも、鎧を着てねぇ俺は部外者だろ? 俺は抜けるぜ。お前らは聡明な領主閣下と、好きなだけ馴れ合うがいいさ」

「ガイさん!!」

「よせ、ピリポ!!」

 広間を出ていくガイウスを追い掛けようとしたピリポを、レブロブスが制した。

「ガイの言うことも間違っちゃいねぇ。俺達の勝手にあいつを付き合わせる謂れはねぇんだ」

「でも、ここまでずっと一緒に戦ってきたのに…。こんな形でお別れだなんて、何だか寂しいよ……」

 俯くピリポの言葉と共に広間の扉が音を立てて閉まった。

「彼が私の理想について賛同していただけないのも、仕方がありませんね。彼は法に基づかず私的制裁によって、二百人もの黒き羽を殺害したというではありませんか。所詮は野蛮な快楽殺人者。血に飢えた獣と、会話が成立するはずないのです」

「ガイウスさんは、黒い羽の人達から奪った金品を貧しい人達へ分け与えていたと聞いています。人を殺すことを楽しんでいた訳ではありません」

 ディーナはガイウスを貶された怒りに表情を強張らせてバアルへ言った。同時に、その冷笑的な発言から彼の一貫性が失われたような違和感を覚えた。

「まぁ、去った者のことをとやかく言うのは止めましょう。それでは皆様。準備が整うまでどうぞゆっくりおくつろぎください」

 ディーナが見ていたバアルの笑顔が突如として二重になり、霞んでいった。すぐに部屋の景色全体が霧のようなものに覆われ、猛烈な目眩に襲われた。他の仲間達も同じようで、椅子に座ったまま不自然に身体を揺らしている。

 しまった、と思った時には身体の自由が利かなくなり、食卓に突っ伏すと意識を失った。

 

 

 

 

 屋敷の玄関ホールへ向かうためガイウスが廊下を歩いている。

「くそっ、どいつもこいつも……」

 彼はいつになく冷静さを欠いていた。込み上げる苛立ちは、バアルの提案を無計画に受け入れたディーナ達の迂闊さからくるものであるはずだった。

 しかしガイウスは抱えている怒りに本当の理由があることを本心では知っていた。その理由が結局は欠陥だらけの独善であるため、彼の尊大なプライドがそれを表に出すことを許さなかった。

 ふと立ち止まると、屋敷の奥に迷い込んでいることに気が付いた。どんなに入り組んだ道であっても、一度歩けば普段の彼ならば間違えることはない。

 注意が散漫になっている今の自分に余計腹が立ち、舌打ちをしながら来た道を引き返そうとした。

「人殺し!! 娘を返せ!!」

 静まり返っていた廊下に、耳を覆いたくなる程悲痛な男の叫びが響いた。その叫びはガイウスを少なからず動揺させたのに留まらず、彼が記憶の奥底に仕舞い込んでいた忌まわしい一場面を揺り起こした。

「聞き捨てなりませんなぁ。我が主バアル様は、他の街から脱走してきたあなた方親子を、寛大な心でこの館に雇い入れたのですよ?」

 叫んだ男に対して突き放した様子で取り合っている別の男の声が聞こえてきた。ガイウスは居ても立っても居られず、声のする方へ歩き出す。

「む、娘があんな殺され方をすると知っていたら、あの領主を頼ろうとはしなかった!! 見知らぬ土地にでも売り飛ばされた方がまだマシだったんだ!! 生きて…生き延びてさえくれれば、どこかに救いがあったかもしれないのにっ!!」

「救い? そんなものあるはずないでしょう。創世記戦争以前、我々黒き羽を誑かしていた汚らわしい白き羽の悪魔共は、我々に生涯その身を捧げることで罪を償い続ける定めを背負っている。その中でも、あなたの娘はバアル様の血肉となる最高の栄誉を授けられたというのに。その不遜な態度、目に余る!!」

 ぎゃっ、という男の短い叫び声と物音がした後、廊下には再び静寂が訪れた。

 男達の声を頼りに着いた突き当たりに、戸が半開きになっている部屋があった。室内の明かりが漏れて、薄暗い廊下を照らしている。

 ガイウスは足音を立てずにその部屋へ近づき、戸の隙間から中を覗いた。部屋の光景に彼は目を見開き、思わず後ずさった。

 そこでは彼が知る限り最悪の狂気と残酷が大鍋の中で煮込まれ、まな板の上で細切れにされ、それらがかつて味わったであろう恨みと苦痛がおぞましい悪臭となって部屋に充満している。

 そして部屋の床に仰向けで倒れている白き羽の男と目が合った。男は殺気立った形相でガイウスに自らの無念と絶望を訴えている。胸には包丁が深々と突き刺さり、既に息絶えていた。

「あああぁぁぁッ!! なんっということでしょう!!」

 死体の側に立っている黒い羽を生やした小太りの男が絶叫した。白いコックコートとコック帽子を血で汚しているその男は死体から包丁を引き抜き、部屋の外に立つガイウスに向き直った。

「私としたことが、生ごみの処理に手間取って客人を空腹のまま待たせてしまった!! コック長失格だ!! さぞ不愉快な思いをされたでしょう!? 堪りかねて厨房まで足をお運びになる程なのですから!!」

「厨房…!? 厨房だと!? この人間の解体現場のことを言ってるのか!?」

「大丈夫、すぐ食べられますよ!! どんな料理がお好みですかぁっ!?」

 コック長は鋭い牛刀包丁を逆手持ちした腕を振り上げてガイウスに突進した。

 ガイウスはその片腕を掴みコック長の関節を極めると、彼をうつ伏せの状態で床に叩き付けた。

「これがお前達が裏で重ねていた所業か!! 今までに何人殺りやがった!?」

 コック長を拘束しながらガイウスが声を荒げる。

 動きを封じられてもなお、コック長は活力に溢れた奇妙な笑顔を浮かべていた。

「今日は新鮮なレタスがたくさん入ったんですよ!! よく塩で揉んで置いたので、取り合わせてサラダにいたしますか!? それともフライにして差し上げましょうか!?」

「貴様、いい加減にしろ!!」

 人の気配を感じたガイウスが顔を上げると、気付けば数名の黒羽のコック達が彼を取り囲んでいる。

 ナイフを手にしている彼らは一斉にガイウスへ襲い掛かった。

 

 

 コック長とコック達の屍の上に、ガイウスは息を切らして立っていた。その手には血に塗れた包丁が握られている。佩帯している槍だけでは狭い廊下での接近戦は不利だと判断し、コック長から奪った牛刀包丁一本で彼らを殲滅したのだった。

「くそぉ、くそっ、くそっ!!」

 投げ捨てた包丁は壁にぶつかった後行く当てもなく床を滑り、血溜まりの中で止まった。

「どいつもこいつも俺の期待を裏切りやがって!!」

 吐き出された強い感情は過去にもガイウスを打ちのめしたものだった。均衡を保てなくなった心に、幼き日々の幻影が忍び寄る。

 

 

 

 

 白い羽の少年は毎日決まった時刻に母親の墓前を訪れる。水汲み、洗濯と家畜の世話、夕餉の材料の下ごしらえと、日課を済ませてから父親が仕事から帰ってくるまでの間である。

 小高い丘に建てられた木の十字架の下に母親は眠っていた。少年が丘に辿り着いた時、太陽はちょうど墓の真後ろの地平線へと沈みかけており、十字架を中心に黄金の光が放射状に延びていた。実年齢にそぐわない凛々しさを備えているその少年は死者の魂や神について既に懐疑的であったが、その厳かな景色を眺めている時だけは母親の存在を近くに感じた。

 少年は墓前に跪くと、摘んだばかりの花を供えてから瞳を閉じて祈りを捧げ始めた。

 その日少年は家畜小屋からいなくなった一匹の豚を朝から探し回って疲れ果てていた。挙げ句豚は見つからなかった。父親は豚がいなくなったことについて自分を責めるだろうと思ったが、捜索を諦めて母親の許へと向かった。

 物心が付く前に病死した母親との思い出はないに等しい。だが、その姿を頭の中で思い描こうとするだけで少年は満ち足りた気持ちになった。墓前での祈りの時間は、少年にとって唯一安らぎを得られる時間だった。

 その平穏は突然頭上から身体に降りかかった生臭い液体によって破られた。

 目を開けると全身を赤い粘液が伝っており、それは母親の墓にも跳ね返っていた。液体から放たれる錆のような臭いが吐き気を催す。

「よぉ、ガイ! お前も親父と一緒で血が大好物なんだろ? だから御馳走してやったんだぜ、残さず綺麗に舐めろ!!」

「豚には豚の血がお似合いだ!!」

 血だらけのガイウスは立ち上がり、振り返った。

 そこには彼と同じ年頃の白い羽の少年が二人立っている。その二人はガイウス一家の近所に住む黒き羽に仕える奴隷の兄弟だ。兄弟はヒステリックな笑い声を上げており、兄の方が手に持っていた空の桶を放り投げた。

 ガイウスは家畜小屋からいなくなった豚の哀れな末路を悟った。

 赤に染まった顔の中で見開かれた白い目だけが浮かび上がり、兄弟を睨み付けている。

「特権階級の奴らはいいよなぁ。死んだらこんな立派な墓まで建ててもらえてよ! 俺達の両親はお前のクソ親父に首を刎ねられて野晒しにされたまま、野犬と烏の餌になったんだ!!」

 そう言って兄が墓前の花を踏み潰したのと、ガイウスの拳骨が兄の頬に命中したのはほとんど同時だった。

「父さんを愚弄するな!! 父さんは掟に従って公平に罪人を裁いてるんだ!!」

 憤りに震える声は思春期の変化を迎えておらず高く澄んでいた。

「デタラメ言いやがって!!」

 すかさず弟がガイウスに掴み掛かる。

「お前の親父が斬り落としてるのは白き羽の首だけだ!! お前の親父は黒き羽と取り引きして、罪を犯した白き羽を惨たらしく処刑する見返りに、自分達一家を奴隷の身分から解放させたんだ!! 裏切り者!!」

「違う、父さんは剣の腕を買われてこの国の秩序を守る執行官に選ばれたんだ!! そんな卑怯なことはしてない!!」

「縛られてる死刑囚を殺すのに、強さなんか関係あるもんかっ!!」

 怯んでいた兄も取っ組み合いに加わり、ガイウスと兄弟は泥臭い喧嘩になった。

「俺達の両親は…大人が働く時間を増やす代わりに俺達の負担を減らしてくれと主人に願い出た…! それが偽善の罪になったんだ。畜生…同じ七つの大罪なら子供の俺を…弱者の俺を殺せばよかったじゃねぇか……!!」

 拳を振り上げる兄は涙を滲ませている。

「父ちゃんと母ちゃんを返せ!! 返せよ!!」

 血を吸ったような夕暮れの空に兄弟の号哭が虚しく響いていた。

 

 

 

 

 厨房と呼ばれていた場所を後にしたガイウスは屋敷の広間へ再び乗り込んだ。

 食卓にはバアルだけが座っており、執事に酒を注がせている。

「おやおや! 今頃戻っても、あなたにふるまう食事は残っていませんよ」

 バアルは何食わぬ様子で酒の入ったグラスを口に運ぶ。

「他の奴らをどこにやった!?」

「皆様はお腹がいっぱいになったようなので、別室でお休みになられています。彼らの眠りを妨げないよう、どうか御静粛に」

 ガイウスは顔色を変えながら槍を構え、バアルに対峙した。

「何が正義だ…何が理性だ…! イカれた人食い野郎!! お前が解放したと言っていた奴隷達も全員、料理の材料にしちまってるんだろう!?」

「何をそんなに御立腹なさっているのです? あなたの真の仲間である私の、何がお気に召さないのですか?」

 立ち上がったバアルは愉快げに目を細めてガイウスに近づく。

「この世界には二種類の人間しかいない。強い力を持つ者と持たない者。殺す者と殺される者。命を支配し破壊する力を得ることで、人は圧倒的な高みに立てる。多くの黒き羽を望んで抹殺したあなたは、私と同じ全能者ではないですか! あぁ、なんと芳しい血の匂い!!」

「貴様と俺を一緒にするな!!」

 憤怒の直中にあっても、ガイウスは背後に回り込んだ執事の不審な動きを見逃さなかった。

 執事が懐から彼に向かって投げた数本のナイフを薙ぎ払うと、手斧を取り出し斬り掛かってきたバアルを間合いに入られる前に槍で突き通す。崩れ落ちるバアルから奪った斧を即座に振りかぶり力を込めて投擲すると、放たれた高速回転の斧は執事の脳天を直撃し薪の如く割った。

 ガイウスは足元に倒れているバアルへ視線を戻す。彼を突いた時の感触が、羽毛の枕を突き刺したかのようで余りにも手応えがなく不可解だった。

「あの奸賊共は皆…バアル様の養分となる……」

 ガイウスを見上げるバアルの口から弱々しい笑い声が漏れた。

「そして更なる力を得たバアル様は…より多くの弱者や白き羽の悪魔共を殺し、浄化された世界をお造りになられるのだ! 私の命も、その輝かしき楽園のための礎…。偉大なる死よ、万歳……!!」

 事切れたバアルの全身が黒く変色すると、拳大程の塊になって分裂した。その一つ一つの正体は黒い羽を生やした生物の死骸だった。

(コウモリ!? こいつは替え玉だったのか…本物のバアルはどこにいやがる!?)

 ガイウスは屋敷内を歩いていた時の周囲の様子を思い浮かべる。重厚な紫檀の床材やシルクの絨毯が一面に広がる洋館の片隅に、地下へと続く石造りの階段があった。

 秘匿された凶悪を見抜く野生的な勘だけが、彼の足を動かした。

 

 

 

 

「もうこれ以上俺達の犠牲にならなくていいんだ! こんな所、抜け出そう…!」

 暗闇の中で耳にした声を、ディーナが聞き間違えるはずはなかった。

「俺達のことを誰も知らない土地で、二人だけで暮らすのもそう悪くはない。俺は見てのとおりの世間知らずだから、楽させてやれる自信はねぇけど…。お前に教わりながら少しずつ覚えていくよ。俺達なら何とかできそうな気がしないか?」

 懐かしいゼロの声に心が震えたが、その言葉は聞き覚えのないものだった。

「あなたのお陰で一瞬でも…美しい夢を見ることができました」

 それに答えるディーナ自身の声はゼロへの感謝と敬意を含んだ前向きな感情が変わらずあるものの、他人行儀でどこか厭世的ですらある。

「ですが、あなたと私を繋ぎ止めていたのはこの首輪だけ。主人と奴隷の関係を越えて私達が生きていける場所など、どこにもないのです。どうか私のことは忘れてください」

「ディーナ!!」

「私は…を……捨てることが……」

 二人の会話はどんどん遠ざかる。状況は理解できぬまま、胸にどうにもならない悲しみが広がっていく。

 

 

 目を覚ましたディーナが跳ね起きると、彼女の顔を覗き込んでいたピリポと頭同士が衝突した。

「ピリポ君!? 大丈夫!?」

 ディーナの石頭をぶつけられたピリポはしばらく身悶えした後、目に涙を浮かべながら彼女に向き直った。

「元気そうでよかった…。君だけ目を覚まさないでひどくうなされてたから、心配してたんだ」

「ここは…?」

 辺りを見回すと、他の仲間達の姿と自分達を捕らえている鉄格子が目に入った。

「ざまぁねぇな…また牢屋にぶち込まれるとはよ!」

 石の床に座り込むレブロブスが歯がみしている。

 ヨハネは大きな溜め息を吐いた。

「してやられたわい。恐らく会食の場に催眠効果のあるガスでも撒かれたのであろう」

「私達を眠らせてわざわざ牢屋に運んだりしてるんだから、あの嘘吐き領主はすぐに私達を殺すつもりじゃないみたいね。隙を見て脱出しなくっちゃ!」

 ルピルピの言葉に頷き、ディーナが立ち上がる。

「鎧の力で鉄格子が壊せないか、やってみる」

「それならとっくに試してるぜ」

 レブロブスが冷めた目で言った後、ディーナは意識を集中させても大邪神の鎧が出現しないことに困惑した。

「理由はわからないけど、ここでは鎧の力もヨハネさんの魔法も使えないんだ。眠ってる間に、武器も取り上げられちゃったし…」

 ピリポが落胆しながら言った。

「そんな…!」

 ディーナは鉄格子の側まで近付き、牢屋の外の様子を見た。

 先程までバアルと話していた煌びやかな広間とかけ離れた、日の光の届かない寒々しい洞穴のような地下空間である。

 床に散在する血の染みは古いものもまだ新しいものもある。さらにはおどろおどろしい突起の付いた棍棒や槍等の武器が転がり、磔台や拘束具付きの針だらけの椅子、ギロチンがいくつも置かれていた。

「ここは、拷問部屋? あそこにあるのは…大邪神の鎧…!?」

 拷問部屋が醸す邪気を払うかのような清浄な白い光が部屋の中央に浮かんでいる。光を放つのは、台座に設置されている一領の鎧だった。太陽の神殿でも目にしたように、頑丈に鎖が巻き付けられている。

「いい眺めでしょう? ここは自慢のコレクションルームですよ!」

 地上へと繋がる扉が開き、黒い羽の男が白い羽のメイドを引き連れ現れた。男は牢屋に向かう階段を降りながら眼下のディーナ達を嘲笑う。

「やってくれるじゃねぇか!! って、誰だお前? …その声、まさか…バアルの野郎なのか!?」

 レブロブスは口を開けたまま唖然としている。

 牢屋の前に立つのは、声こそ同じであるものの、広間にいた細身のバアルとは似ても似つかない肥満の大男であった。

「食堂であなた方の相手をしていたのは、私が作った只の影ですよ。私は大事なお昼休み中だったのでね」

 すると、階段の上にいたメイドがよろめき階段を転がり落ちた。

 バアルの足元で止まり倒れたまま微動だにしないメイドを見たルピルピが悲鳴を上げる。

「どうなってるの!? あのメイド…干からびたミイラみたいだわ!!」

 土気色になっているメイドの全身は萎び、歯や爪は剥がれ落ち、眼窩から今にも目玉が飛び出しそうになっていた。

「面倒な奴に捕まった。バアルの正体は、人間を餌とするヴャンパイヤじゃ」

 ヨハネが渋面を浮かべる。

「生き血を啜った人間を同じ吸血鬼へと変貌させ、面妖な術を操ると言われておる。わしらの力が封じられたのも奴の術のせいであろう」

「御賢察のとおり。皆様には特別に、偉大な私の力の一端を教えて差し上げましょう」

 バアルは勝ち誇った顔で話し続ける。

「私は創世記戦争で神々が使用していたという兵器に興味を持っていました。そして苦心の末、その技術の一つを復活させることに成功したのです!」

 そして興奮状態のまま視線を上に向けた。

「これは私の魔力と生贄達の血によって作り上げた結晶! 結晶が生み出す結界はあなた方がいる牢屋を囲んでおり、その中ではいかなる呪力も無効化される! これで私は安心してあなた方をじっくり料理することができるのですよ!!」

 高い天井から真紅の結晶体が照明のように鎖によって吊り下げられ、妖しい光を放っている。

 締まりのない肥大した腹を揺すりながら、バアルがげらげらと笑った。

「あなた方ごと大邪神の鎧を取り込めば、私の魔力はさらに強大なものとなる…アンゲルス教団の教皇すら及ばなくなるだろう! 私は不死者の王としてこの世界に君臨するのだ!!」

「そ、それって僕達を食べちゃうってこと? 僕は痩せっぽちだから食べてもそんなに美味しくないよ…」

 ピリポが恐ろしさに震え上がっていたその時。

「そうはさせるか!!」

 義憤に駆られた男の叫びがバアルの高笑いを遮った。

 ディーナは驚き、階段の上に現れた男を鉄格子の間から見上げる。

「ガイウスさん……!」

「バアル!! 貴様は…貴様だけは、刺し違えてでもこの手で殺す!!」

「あなたも愚かな人ですねぇ。あのままこの屋敷を出て行けばよかったものを」

 振り向いたバアルは憫笑しながらガイウスを見ていた。

「ここに来るまで見張りの兵士達を全て倒した向こう見ずな勢いには、敬意を表しますがね。なんとまぁ、お可哀想に! そんなボロ雑巾のようになってしまっては、せっかくの色男が台無しじゃないですか!!」

 ガイウスの頬や腕には切り傷と裂傷が走り、切れ目の入った服の端々は赤く染まっている。

 しかし彼の瞳の光は薄らぐことなく、バアルを討ち果たすという使命に燃えていた。

「私と戦いたいと言うならば受けて立ちましょう。ですがその前に、忠実で勇敢な私の下部達があなたに挑むようですよ!!」

 バアルがそう言った後に部屋の暗がりから現れガイウスを取り囲んだのは、兵士ではなく食堂で接客をしていた数人のメイド達である。

 怯えた様子で鞭を握りしめている彼女達を前に、ガイウスは狼狽した。

「許して! あなたを殺さないと、私の子供が…バアル様に食べられてしまう……!!」

 最初に口を開いたのは、屋敷で働くことに何の不満もないと笑顔でガイウスに答えたメイドだった。

「私も家族を人質にとられているんです! お願いです、私のために死んでください!!」

「まだ死にたくない…。離れ離れにされたお父さんに会いたい…!!」

 他のメイド達も挙って胸の内を吐露する。

 鞭を手にしてガイウスに立ち向かうメイド達に、彼は父親の姿を見た。処刑台で剣を振り上げていた父親の姿を。

 彼の中で燃え上がっていた憎しみと怒りが、静かな悲しみへと翻った。

 ガイウスは槍を構えていた手を下ろし、俯く。

 メイドの一人がガイウスに鞭を打った。素人の鞭を避けられないはずはないが、彼はそれをしなかった。

 間髪を入れずに何本もの鞭がガイウスを襲う。それでも彼はその場から動かずに歯を食いしばってただ、耐えていた。

「何してんだ、ガイ!! 戦わねぇならとっとと逃げろ!! こんな所で無駄死にする気か!?」

「そうよ!! こんなの…見てられないわ……!!」

 レブロブスとルピルピが叫ぶ。

「どうしたんです? 急に大人しくなってしまいましたね。そんな小娘共を捻り潰すことなど、あなたなら造作もないでしょう? いつものように殺しの支配を楽しめばいいじゃないですか!!」

 メイド達の血が流れることを待ち望んでいるかのように、バアルは歓喜の表情を漲らせていた。

「認めよう、バアル。俺は貴様と同じ、薄汚れた人殺しだ…!」

 痛みに顔を歪めてガイウスは膝を突いた。

 彼の無残な姿を目にして非情になりきれないメイド達は、鞭を打つ手を止めて立ち竦んでいる。

「白き羽を虫ケラのように扱っていた、傲慢な黒き羽を殺し続けたのは…単なる復讐だった。奪われたものを奪い返そうと…奴らをいくら殺しても、俺が望んだものは決して手に入らなかった」

 やり場のない思いを抱えながら、ガイウスは小さく息を吐いた。

「そしてこれは…俺のくだらない自己満足さ。大切な者のために命を懸けるお前達を、俺は傷付けたくない」

 メイド達を見つめるガイウスの言葉に偽りはなかった。

「殺すなら殺せ。お前達が一日でも長く生きられるならば、それでいい」

 その眼差しは彼女達の命を慈しみ、強く抱擁していた。

「できない……」

 そう呟く母親のメイドの頬を涙が伝う。

「私達は間違ってるわ! この人を殺しては駄目!!」

 鞭を投げ捨て、メイドはガイウスを庇うように他のメイド達の前に立ち塞がった。

「こんなにむごい仕打ちを受けてもこの人は…私達の身を案じている。この人は私達をバアル様から解放してくれる、唯一の希望よ!!」

 ガイウスは呆然と彼女の背中を見上げている。

 やがて他のメイド達も握っていた鞭を落とし、さめざめと泣き始めた。

「見苦しい傷の舐め合いは、そこまでにしていただきましょう」

 興醒めと言わんばかりに、バアルが鼻を鳴らす。

「過ちを犯すはずもない。お前達は既に、意志など失った私の人形なのだから!!」

 そして彼は瞳を閉じて詠唱を始めた。

「美しき恐怖を伴い、冥界の血河を渡りて、大神サタンに捧げし暗黒のその命、真紅の死者となりて今こそ、その黄泉の力を示せ!!」

 メイド達は金切り声を上げて苦しみ出す。

「どうした!?」

 ガイウスは足に力を込めやっとの思いで立ち上がった。

 目の前に立つメイドの背中からめきめきと骨が軋むような音が聞こえると、白い鳥類の羽が瞬時に黒いコウモリの羽へと生え変わった。

 ゆっくりと振り返ったメイドの顔は土のように変色し、白目を剥いて、開かれた口からは鋭い歯が覗いている。

「やはりあの娘達もバアルに血を吸われ、吸血鬼と化しておったか…」

 ヨハネがメイド達を見ながら口惜しそうに言った。

「聞くのだ、ガイよ! 彼女らは二度と元の人間には戻れん! 憐れと思うならば、今すぐに殺してやるのじゃ!!」

「そうだ、殺せ。私は若い女が臓物をぶち撒けて死ぬのを見るのが大好きなんだ! もっと私を楽しませろ!!」

 バアルは腹を揺すりながら大笑いしている。

 変わり果てた姿のメイド達は、呻き声を上げながらガイウスに迫る。

「…やめろ……」

 声を震わせ、ガイウスは爪が食い込む程拳を握った。

「やめろ……!」

 燻っていた信念の火種は熱情の風に煽られ、自らをも破滅させかねない火炎となって爆ぜた。

「こいつらの命を、弄ぶな!!」

 地下空間内の最奥から巻き起こった突風が、メイド達を薙ぎ倒していく。

 ガイウスが風が吹いた方向を階段の上から覗き込むと、大邪神の鎧が放っていた光が輝きを増し、地下全体を照らしていた。

「大邪神の鎧がガイの思いに呼応しておる…! あやつも鎧の適合者なのか!?」

 鎧の光に目を眩ませながらヨハネが叫ぶ。

 ガイウスだけがまじろぎもせず鎧を凝視していた。その表情には一切の迷いも恐怖もない。

「彼女らを救うことができるなら…呪われた鎧だろうが何だろうが着てやる……!!」

 ガイウスは背中の羽を力強く掴む。

「だから早く、俺に力をよこせ!!」

 白い羽が背中から引き剥がされると同時に、鎧を封印していた鎖がひとりでに千切れた。

 そして光が収まると、台座に置かれていた鎧は余すところなくガイウスの身に装着されていた。

 見る者の心を吸い込むような深い夜空を思わせる濃紺の装甲とマントに、白銀の肩当や鉄靴を格調高くかつ機能的に設えているその鎧を纏った彼の姿は崇高そのものだった。それは峻烈と美を併せ持つ戦士だった。

 ガイウスは立っていた階段の最上段から天馬の如く飛躍する。彼が目指した先は、常人では届くはずがない高さに吊るされている真紅の結晶体である。天井と結晶体を繋いでいた鎖を槍の一振りで断ち切り、そのままディーナ達がいる牢屋の前へ苦もなく静かに着地した。

 結晶体が地面へ落下し粉々に砕け散ると牢屋内で爆発が起こり、鉄格子が吹き飛んだ。

「よっしゃあ! こっから巻き返すぜ!! 料理されるのはてめぇだ、バアル!!」

「すごいよ、ガイさん! 助けてくれてありがとう!!」

 土煙の中から、鎧に身を包んだレブロブスとピリポが現れる。結界の力が失われ、ヨハネの魔法によって鉄格子を破壊した彼らは無事に牢屋から脱出できたのだった。

「私の!! 私の魔力結晶がっ!! あ、ありえない……!! なぜ貴様がミカエルの鎧を着ているのだ!?」

 取り乱しているバアルはすぐに彼らに背を向けて逃げるように走り出した。

「あいつらを生きたまま食ってやりたかったが、仕方ない…! お前達、出てこい!! あの邪教徒共を片付けろ!!」

 地下室の暗闇に潜んでいた黒い羽の兵士と魔術師達が、バアルと入れ替わりに一行の前に立ちはだかる。

「くっ…!」

 ガイウスは先程までの傷が癒えておらず体勢を崩した。その隙を突いて兵士が斬り掛かる。

 だが、刃が届く前に鎧を着たディーナが兵士を殴り飛ばした。手には拷問用の棍棒が握られている。

「余計な真似を……」

 ディーナを睨み、ガイウスが呻くように言った。

「助けはいらねぇ。お前らが捕まったままだとやりにくいから結界を壊したんだ。腰抜け共は引っ込んでろ」

「引っ込まない」

 ガイウスをまっすぐに見つめ、ディーナが首を横に振る。

 彼女の顔と純白の鎧には、返り血が薔薇の花弁のように広がっていた。

「私は大切な選択を間違えた。失敗した分を取り返さなきゃいけない。だから、これ以上みんなに怪我をさせずにあの人を倒す。ゼロの居場所も聞き出す」

 ガイウスはしばらく彼女と視線を交わした後、敵兵達の後ろに身を隠しながら立っているバアルを見据えた。

「…俺の邪魔だけはするな」

 彼の瞳に再び戦意が満ちる。

 戦う力を取り戻した一行の快進撃は目覚ましかった。

 倒した敵から奪った剣を手に、ディーナとレブロブスが次々と兵士達を斬り伏せる。

 ヨハネが呼び寄せた毒の霧に退路を断たれた魔術師達は、ピリポが放つ矢の格好の的となった。

「こんなはずでは……!!」

 自軍の敗色が濃くなると、バアルは出口の扉に向かって階段を駆け上がった。

 跳躍したガイウスは戦場の兵士達の頭上を飛び越え、扉の前へと降り立つ。

「自分の言葉には責任を持った方がいいぜ、バアルさんよ。俺との勝負を受けて立ってもらおうか」

「黙れぇっ!! 低劣な白き羽が、私を見下ろすな!!」

 階段の途中で立ち往生しているバアルは、怒りに身体を震わせ、顔を火照らせながら怒鳴った。

「お前達は世の中の道理というものをまるで理解していない!! 詰まるところ正しさとは、世論なのだ!! この街の住民は皆、私が与える食事に満足しながら生活している。私を受け入れ、私を賞賛している!! その私を倒せばこの街がどれだけ大きな損害を被ることになるか、なぜわからない!?」

「真実を隠され、判断力を奪われた民の声に正しさなどない!! お前が死ねばこの街の奴らも少しは目が覚めるだろう!!」

 バアルが放つ魔法の光弾を躱しながら、ガイウスは彼との距離を詰めていく。

「お前には本当に生きている人間に向き合うだけの器量がないのさ!! 批難されることを恐れているから、力と恐怖で他人を押さえ付けようとする!! お前が築いた街は虚栄心とナルシシズムの塊だ!!」

「ごちゃごちゃと口先だけの正義を並べ立ておって!! 大邪神の鎧を着て、自ら神にでもなったつもりか!?」

「正義を語るつもりも、神になったつもりもない。白き羽を虐げ殺すことが優越性の証明だと考えているお前のやり方が気に入らねぇ…! それだけだ!!」

 バアルの手前でガイウスの槍の穂先が雷光のように閃いたかと思うと、次の瞬間にバアルは胸を貫かれていた。

 槍を胸に受けたまま巨体は宙を舞い、階段の下へ転落した。

「またもや奇跡が起こりおった…。わしらの旅路は、大邪神達の魂に導かれておるかのようじゃ……」

 バアルを討ったガイウスの姿を見上げ、ヨハネがしんみりと呟いた。

 

 

 

 

「おい、しっかりしろ!!」

 残りの兵士達を掃討した後、ガイウスは倒れているメイドの一人を抱き抱えた。

 ガイウスが大邪神の鎧を着た後、光を浴びたメイド達の背中の羽は再び白い鳥類のものへと変化し、肌は血色のよさを取り戻し、顔貌もすっかり元通りになっている。

「大丈夫、気を失ってるだけよ」

 二人の側に駆け寄り、身を屈めたルピルピがメイドの様子を見て言った。

「ガイ…この前はひどいことを言ってごめんなさい」

 俯くルピルピは表情を曇らせ言葉を続ける。

「私だって、あなたのことを何もわかってなかった。あなたがこんな…温かい心を持ってるなんて気付かなかった」

「俺も言い過ぎた。だからチャラでいいだろ」

「私ね、日記に毎日みんなのことを書いてるの。ガイのこともいっぱい書いてるわ」

「何が書かれてるか堪ったもんじゃねぇな」

 ガイウスは苦笑し、ルピルピも微笑む。

「でも、今まで書いてたことは自分の思い込みばっかりだったってわかった。私、もっともっとみんなのことを知りたい」

 顔を上げたルピルピは、ガイウスを包み込むような柔らかい笑顔を見せた。

「残された時間を、あなたのためにも使いたい」

 彼は何も言わずその命の輝きを見つめていた。

「私が…負ける……? この野蛮な邪教徒共に……!?」

 地面に横たわるバアルはうわ言のように自問を繰り返している。

「バアルよ。お主は不確実で未知の可能性を秘めている人間の生に恐怖しているのであろう。だから生を破壊する力を渇望し、死という確実性に心を奪われた。その結果、街の住民達をゾンビのように、屋敷のメイド達を吸血鬼に変えて支配した」

 バアルの傍らに立つヨハネが厳かな表情で言った。

「ガイは違う。こやつは血を流し続けた腕でそれでも弱者を抱き締めることができたのだ。見返りを求めぬガイの信念には生命への讃歌があった。お主はその光に敗れたのじゃ」

「信念? そんなものは…お為ごかしだ! 殺戮を続けるために、自分達を正当化しているだけだ……!!」

 血を吐くバアルの不気味な笑い声が地下空間内に響く。

「しかし、見れば見る程哀れだ…大邪神の鎧を着る娘よ……。お前がどんなに命懸けで教団と戦おうとも、愛する御主人様とやらに会うことは…できないのだからな……!!」

「それはどういうこと!?」

 ディーナが顔を引き攣らせて叫んだ。

「お前達が探し求めている我らが総本山は、この地上のどこにも存在しない! 絶望の中でもがき苦しみ、死ぬがいい……!!」

 一行を嘲笑う声は尻窄まりになり、バアルは息絶えた。

「元気を出して。今のは、僕達を困らせるための嘘かもしれないから……」

 バアルの死体の横で立ち尽くすディーナに、ピリポがそっと声を掛けた。

 彼女は弱々しく頷く。

「主人探しの方は振り出しに戻ってしまった。気を取り直して次の街に行くしかあるまい。ここからとなると…べギルドじゃな。そこでも領主に当たれば、何かしら情報を得られるはずじゃ」

 ヨハネの提案に反対する者はいなかった。

「それならさっさとここを出よう。俺は一秒でも長くこの街の空気を吸いたくねぇんだ」

「なぁ、ガイ! さっき言ってた、お前が望んだものってのはよ―――」

 レブロブスが言い終わらぬうちにガイウスは地下室を出ていた。

 

 

 

 

 ディーナ達がカナンの街を出立したその日の夜。

 ガイウスは野営地から離れた平原にある切り株に一人腰掛け、夜風に当たっていた。

 背中の羽を失った身体は軽く感じられる。だが、胸の中には未だに整理できない感情が重く沈んでいた。

「得意のお人好しを発揮しに来たのか?」

 ガイウスは振り向かずに背後に立つ人物へ言った。それは紙袋を抱えたディーナだった。

 ディーナはガイウスの隣まで歩き、恐る恐る口を開いた。

「カナンの街では結局何も食べられなかったから、お腹が空いてるんじゃないかと思って…。ガイウスさんが加工されたものは食べちゃ駄目だって言ってたから、出発する前にこれを買ったの」

 そして紙袋の中身を取り出し、ガイウスに差し出した。

「ゴルゴダの牢獄で初めて会った時、林檎をくれたよね。そんなに昔のことじゃないのに、何だか懐かしくなっちゃった」

 受け取った林檎をしばらく黙って見ていると、ガイウスは唐突に言った。

「力なき正義は無効であり、正義なき力は圧制である」

「え?」

「俺の親父が死ぬ直前に言い残した言葉だ。死刑執行人の親父は何人も罪人を殺したが、その全てが白き羽だった」

 ガイウスが浮かべる切なさに引き寄せられるように、ディーナは彼の隣にある切り株に座った。

「親父が白き羽の処刑を任されていたのは、支配される者同士の結束を防ぎ、矛先が支配者に向かないようにするための黒き羽の巧妙なやり口だったのさ。子供の頃の俺は気付けなかった。周りの白き羽が俺達家族を裏切り者と罵っても、親父は何も言い返さなかった。俺はそれが悔しくてしょうがなかった」

「お父さんは正しいことをしていると、信じてたんだよね」

「親父は処刑する相手が死ぬべき人間ではないとわかっていた。それでも処刑を続けたのは、断れば自分だけでなく俺の命が危うくなったからだろう。正義なき刃を振い続けた親父は苦しんでいた。そして、死んで楽になることを選んじまった」

 手にした林檎を上に放りながら、ガイウスはいつもと同じ冷静さで話し続ける。

「ある朝、親父はおふくろの墓前で死んでいた。顔もわからなくなるくらいメチャクチャに殴られてな。墓参りに来たところを、処刑した白き羽の遺族に襲われたんだ。剣の達人だった親父がそいつらを退けられない訳なかったが、剣を抜いた形跡はなかった。親父は抵抗せず、遺族の憎しみを受け止めて死んだ。親父の亡骸を埋めながらその時の俺は誓った。自分の正しさを主張することから逃げ出した親父の代わりに、俺が絶対の正義を見つけてやると」

 高く放った林檎を掴んだ手に力がこもる。

「太陽の神殿で大邪神の鎧を着たお前の姿は、俺にとって完璧だった。悪を断罪する力を持った穢れなき正義…。お前に付いて行けば俺の望みも叶う気がしたんだ。だからバアルのような奴の申し出を飲んだお前を許せなかった」

「私は、そんなすごいものじゃないよ。間違えてばかり…今日だって、ガイウスさんが助けに来てくれなかったら取り返しのつかないことになってた」

「そう、お前も俺と同じ人間だ。俺が勝手に理想を押し付けて、勝手に幻滅したんだ。いい迷惑だよな」

 自嘲するように薄く笑った後、ガイウスは表情を引き締めた。

「絶対的正義、生まれつきの悪…そんなもんはねぇ。俺達の前には岐路が続くだけだ。それは常に、俺達の行動が理性や尊厳に反してはいないかと問い掛けてくる。過ちに気付き自分の力で流れを変えることができる奴もいる。だが、誤った選択を続ければ大抵そいつの心は頑なになる。そこに至るまで費やしたエネルギーと時間を無駄にした事実を認められなくなる。そしてより正しい選択をする力を失っていく」

「じゃあ、白い羽を支配している黒い羽の人達は、分かれ道を間違え続けた結果なのかな」

「奴らは既に行動を選ぶ努力も自由も手放してる。真偽の定かでない神話によってこの現実が裏打ちされていると思い込み、客観性と合理的判断が欠如した不当な力を行使してるのさ」

「でも…絶対の悪もないならば、私達はやり直すことができるはずだよね。白い羽と黒い羽も共存できるって信じたい。ゼロやヨハネさんのように、白い羽を差別しないで手を差し伸べてくれる黒い羽の人もいるから」

「あのじいさんは本心じゃ何を考えてるか全くわからんがな」

 ガイウスの瞳の中には新たな決意が生まれていた。

「決めたぜ。俺は教皇にこの歪んだ世界を善しとしている真意を問いに行く。それまで生き延びるために、これからもお前達の力を利用させてもらう」

「よかった。ガイウスさんと旅を続けることができて嬉しい」

 安心して微笑むディーナを一瞥し、ガイウスは呆れたように言った。

「やっぱりお前は気に障る奴だな」

「えっ」

「どこまでも甘くて、愚直で、口を開けば虫唾が走る綺麗事ばかりだ」

 手厳しい言葉の弾雨にディーナは身を縮める。

「だが―――」

 わずかの間彼女が目にしたのは、今までの何よりも気さくで魅力的なガイウスの笑みだった。

「お前の誠意は俺の信頼に値する」

 ディーナが驚嘆を隠せず瞬きをしていた頃には、ガイウスは元の調子で林檎を齧っていた。

 こそばゆい気持ちと共に紙袋から取り出した林檎を思い切り頬張ったディーナは、夜空に散りばめられている星々の光を見上げた。




 作品の執筆を始めて第四章に差し掛かった頃から大事な参考文献となったのは、ドイツの精神分析家・社会心理学者エーリッヒ・フロムの著書です。『愛するということ』、『自由からの逃走』、『悪について』を読みました。第六章のガイウスは『悪について』でフロムが取り上げた『聖ジュリアン伝』のジュリアンがモデルです。
 偉大なフロムの思想・フロムが伝えたいことを私が完璧に理解できるはずもないのですが、「人間ってどうしようもない時はほんとどうしようもないけど、自分の経験や思考や感情を大切にしていけば、愛や平等(理にかなった信念)に基づいた社会をちゃんと打ち立てられるんだよ」という、フロムが抱く人間への可能性と希望を強く感じました。その理にかなった信念のために戦ったのが、ブラックマトリクスの主人公達なのではないか、そして世界が敵になっても自分の愛を貫いた御主人様はフロムが言う「愛するということは、何の保証もないのに行動を起こすこと。こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分を委ねること。愛とは信念の行為。愛は能動」を体現していたのではないかと思い、「ブラックマトリクス、奥が深い!!」と一人でテンション爆上がりでした笑。
 いきなり自分語りをしたのは、今回の更新が最後の投稿になる可能性もあり、ブラマトの魅力を熱く語れる機会がもうないかもと思ったからです。でもブラマト熱は全然冷めてませんし、こんな話を書きたいという意欲もまだまだあります。次の章はやっとマルコ君の登場ですし…!エーリッヒ・フロムの数々の歴史的名著に出会うきっかけもくれたブラックマトリクスというゲームには感謝しかないです。フライトプランさん、ありがとうございます。
 ここまで作品をお読みいただいた方には心より感謝申し上げます。オレは、数少ない読者様のことを・・くっ!愛しているんだぁつ!!(ゼロ様張りの公開告白)
 またお会いできる日を願っております。


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