オフィエル・ハーバートの反省会 (緑川蓮)
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オフィエル・ハーバートの反省会

 アークスと八坂火継たちによるマザー・クラスタの撃破、アースガイドを隠れ蓑に暗躍していたアーデム・セークリッド、その野望の阻止。幻創戦艦・大和、エスカファルス・マザー、幻創造神デウス・エスカ。

 惑星・地球で起きた一連の大事件は、当事者たちによる百花繚乱のドラマを通して終息した。

 ひとつの大いなる存在との別れ、太古から歴史の陰に紛れた支配者の死去。

 そして今後も復活を繰り返すであろうデウス・エスカという残響を残して。

 

 全てが救えたというワケでもない。これから何事もないというワケでもない。

 しかし少なくとも八坂火継を中心とした人々、そして何も知らない大部分の地球人類にとってはハッピーエンドで終わった。

 

 ……――はず、だった。

 

 成層圏の間近、高度10,000メートル。有り体に言えば、旅客機が飛ぶ程度の高度である。人間が酸素呼吸にて生存できるボーダーラインと呼ばれるそこに、影がふたつ。

 本来ならば絶対にあり得ない。あり得てはいけない。しかし、それは間違いなく人影だ。

 生身の人間が空を飛んでいる。

 翼や、ましてや大仰な機械を持っている訳でもない、身ひとつの人間が、澄み渡る大晴天を滑空していた。

 重力をあざ笑うように涼しげな顔で、いっそ涼しげな風を……――この高度の気温は「涼しげ」どころでは済まないハズだが――……心地よく感じながら一直線に飛行する。

 

 黒い豪著なドレスに、ブロンドの髪を三つ編みで束ねた彼女の名はファレグ=アイヴズ。かつてのマザー・クラスタ「火の使徒」であった。並人より少し長く生き、並人より少し身体が頑丈で在ったため身体を鍛え続けた結果、ひとつの人類の極致へと到達した魔人。

 お嬢様然とした彼女が、何かの少年漫画ばりに空をゆく。それだけで充分に驚く光景であったが……さらにその手からは、もう1つの人影が連れられている。黒衣のファレグと対照的に、白いコートで身を包んだ彼は、その名は。

 

 

 

「オハムゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッ……」

 

 

 元マザー・クラスタ「水の使徒」にして、天才外科医オフィエル・ハーバート。世界的な著名人でもあるハズの彼は、無残な叫び声を上げながら、そりゃもう酷い表情で大空を連れられて行く。

 

 

 

 万里の長城、タージ・マハル、ノイシュヴァンシュタイン城、パルテノン神殿、聖ワシリー大聖堂、チチェン・イッツァ、マチュピチュ、ナスカの地上絵。

 

「やはり世界の名所と言われるだけあって、何度巡っても飽きないモノですわね。むしろ見る度に新たな発見と感動に出会えるよう……」

 

 頬に手を当てながら、陶酔と感嘆のため息をもらすファレグ。彼女のような、ほとんど人外にとっては生身でワールドツアーも容易いものらしい。

 もっともそれに付き合わせられる側はたまったものではないが。オフィエルはそう怒鳴りつける元気もなく、ただボロ雑巾のように呼吸も絶え絶えに死にかけていた。ファレグが死なない程度に加減しているとはいえ、あの高度を無理やり引き連れられての高速移動だ。身体への負担は察して余りある。ただでさえいい年のオッサンだというのに。

 

 そもそも、オフィエルがどうしてこんな目に遭わされているというのか。

 同胞「木の使徒」ベトール・ゼラズニィの殺害、マザーへの裏切り等、保身と自身の理想の為、数多く蛮行を繰り返したオフィエル。

 それらをこの魔人に見咎められた彼は、再教育と称し世界各地を連れ回され、時々はボランティア活動のようなモノを強制されていた。もちろん、見返りはほぼゼロで。

 ただの旅游ならまだしも、このザマじゃあ確かに「死んだ方がマシ」と思えるモノだ。しかしファレグはそれを許さない。具現武装を使って逃げようにも、ファレグから「自分の許可なしに使った場合はその場で殺す。世界の果てへ逃げようが、必ず見つけ出し追い詰めて殺す。殺して生き返らせてまた殺す」と言い含められていた。

 ちなみに、この魔人なら多分ガチでやる。

 

「貴様ッ、ハヒューッ……、ファレグッ、カハヒュ、何のッブフゥ、目的でハフゥーッ、こんなンンッヒィ……」

「まずは呼吸を整えてから喋られてはどうですか、ただでさえ耳障りな雑音が余計に聞き苦しいですわよ?」

 

 一切の容赦も手心もない。魔人、その渾名に噓偽りなし。

 肩で呼吸をしつつも、ようやく幾らかオフィエルの様子がマシになったタイミングで、今度はファレグから声を投げかける。

 

「再教育、と申し上げたハズですが? 勝手に人類に絶望したあなたに、人類の、世界の素晴らしさを改めて叩き込む、と」

「それとこれと、何の関係があるのかと問うている!」

「見て分からないのですか? 人類が築き上げてきた文明、それらを象徴する数々の遺産。その素晴らしさも分からないなら、本当にあなたは救いようがありませんわね」

 

 確かに今まで連れ回されたどれも、人類がその手で造り上げた、もしくは造り上げたと思われる観光名所ばかりであった。ファレグの思惑と言わんとしていることも分からないではない。しかし当のオフィエルからしてみれば、だから何だって話だ。

 確かに絶景は絶景だ。オフィエルだって人間だ、心動かされる部分はある。壮大な景色に思わないところがないワケじゃないが、少なくとも、ここまで死にかけてまで見るようなモノじゃない。

 

「ああ、素晴らしいさ、素晴らしいとも。だが知っているか。例えばナスカの地上絵は、乗用車の侵入などによって破壊され、消える危険にすら晒されているのだ」

 

 オフィエルはアーデム=セークリッドによる人類再編(パラダイムシフト)を支持した。それは現在の愚かな人間を文字通り造り変え、進化へと導き、新たな穢れ無き世界を創造するという計画。人類同士の争いを憂いた、偉大なる指導者アーデム。曲がりなりにも、その手で幾つもの命を救ってきた天才外科医オフィエル。

 2人が人類再編へと走ったのは、現在の人類に対する深い絶望からであった。

 

 人工物だけではない。人類は我欲のために、今も大いなる自然を侵し続けている。神聖な深山は木々を切り倒され、動植物は恋しき棲み処を追われて、豊穣な土は輝きを失う。凛と澄み渡る海川には汚水が流れ、悠然と泳ぐ魚たちも、鮮やかなサンゴ礁も死んでゆく。

 そして人間同士ですら争い、血を流し、憎しみの炎でお互いを焼くのだ。

 オフィエルが魂を削る思いで救った命を使って、新たな破壊と悲劇ばかりをもたらす。それでも、あくまで自分は救う側で在ろうと努めた。正しく在りたいと願った。だから、だからこそ人より絶望してしまった。

 

「ファレグ。お前が私に何を言ったところで、人類の醜さは変わらん。人類の醜さがある限り、死ぬまで私の考えも変わらん。全ては無駄だ、無駄なのだ」

「けれど、それを私に言っても無駄だということも分かっていらっしゃるのでは?」

 

 オフィエルは言い返せない。もとより、ハナからこの魔人に説得の類が通用するものか。

 

「もう好きにするといい」

「そうですか、では」

 

 再びファレグは、オフィエルの襟首をつかむ。オフィエルは条件反射的に「ヒッ」と、短い悲鳴を上げる。そこから上空1,000メートルへ到達するまで、約1秒。盛大に吐瀉物をブチ撒けなかったのは、そうしないようにファレグが思い切り首を絞めたからだろう。もちろんギリギリ死なない程度に。

 遥か上空から地上を見渡し、再びスカイダイビング……というか、スカイスイミング。本当に、素晴らしい景色なのに。こういう状況でもなければ。オフィエルは地上の景色に想いを馳せる。筆舌に尽くしがたい嘔吐感もあるが……それにしても複雑な表情は、何かを憂いているようでもあった。

 

 今度は、名の知れた名所ではなかった。とある森林地帯の奥地へ降り立ち、オフィエルは少々乱暴に投げ飛ばされる。

 

「オヤスムゥッ」

「あらまあ相変わらず無様な鳴き声ですこと。まだ食用豚の方が愛らしいですわ」

 

 私がいったい何をしたというのだ。オフィエルは涙目になりながら、ぐっと奥歯を噛み締める。さすがに良い大人がガチ泣きするのはどうかと思ったからだ。

 改めて周りを見れば、どうやらここはどこかの集落らしかった。情報素子・エーテルを介した通信技術が発達したとはいえ、技術までもが飛躍的な躍進を遂げたワケではない。未だ世界各地には、こういった僻地も息づいていた。

 

 どうやらファレグ自身は、ここへ来るのは初めてではないらしい。集落の家から子供が顔を出すと、ファレグの姿を見るなり、彼女に向かい笑顔でこちらへ走って来た。彼女も笑顔でひらひらと手を振りながらこれに応じる。

 意外な面もあるものだ、とオフィエルは思ったが、単に辛辣なのは自分に対してだけである可能性に思い当たり、ちょっと悲しくなった。

 

「それでこんな僻地の集落が、いったい何だというのだ?」

 

 半ば皮肉気味に、苛立ちを隠さずにオフィエルはファレグへ問い掛ける。

 

「ここの人たちは前時代的な狩りを営んでいるため、ケガ人も非常に多いのです」

「……ああ、なるほど」

 

 オフィエルは、ファレグの言わんとしていることが先に分かった。ファレグも察してか口角を上げる。つまりは、次はここでボランティア活動に精を出せと。

 オフィエルの本分は医者である。そのため連れ回され、世界各地の恵まれない人たちの命を救うため、尽力させられていた。何もそれはここが初めてではない。

 自らの本分である以上こればかりは嫌でも断わるわけにはいかない。マザー・クラスタの使徒として人命を、ベトール・ゼラズニィの命を奪った。人類をいびつな形に強制進化させようと目論んだ。しかしあくまでオフィエル本人にとっては、それはヒトの命を守り、そして救済するためであったと今でも信じている。

 

「では、まず機材を具現武装で運んで」

「それと今回は」

 

 振り向いたオフィエルに、ファレグが告げる。

 

「ボランティアのために必要であっても、具現武装の使用を禁止します。使えば殺します」

 

 

 

 

 地球人がエーテルを用いて行使する特殊能力、具現武装。それは想像の力の具現であり、個々人の性格や性質に応じた能力が反映される。たとえば八坂火継の場合は、エーテルによる悪影響や悪意を浄化し跳ね除ける「天叢雲」という神剣。

 オフィエルの具現武装は、ある一定の空間を支配下に置き、その空間における物質移動や座標置換を思うがままにするというモノであった。戦闘などにおいて比類なき利便性を発揮するのは無論だ。

 しかし本来は離れた場所から医療のための機材を調達したり、患者の身体を必要以上に傷付けず病巣を摘出するなど、医療行為に特化した能力なのだ。

 オフィエルにとっては最高の仕事道具であると言えたし、ファレグも医療行為に限っては能力の行使を許可した。

 ただ今回に限っては……人を助けるためであっても、使えば殺すと。

 

 それはあまりにも理不尽だろうと反論しても、しかし魔人は聞く耳を持たない。結局のところオフィエルは落胆のため息を吐きながら、自前の知識と集落に存在するモノだけでケガ人の応対に徹する羽目となった。

 オフィエルは人付き合いが上手い方ではない。高圧的で、どちらかと言えば不愛想だ。しかし医師としての腕の良さ、自身の医者としての本分にだけは誠実であること、何より集落の人たちが気のいい人たちばかりであった。

 そのため数週間が過ぎるころには、オフィエルはすっかり集落の人たちと馴染んでいた。

 

「先生! 頼まれていた雑草を取って来たよ!」

「雑草ではない。それらはれっきとした薬草なのだ」

 

 木の皮で編まれた籠を背負った少年が、診療所と呼ぶにはあまりにも粗末なつくりの、藁ぶき屋根の小屋へ飛び込む。オフィエルは半ば鬱陶しそうにため息をつきながら、少年が取って来た薬草を受け取った。

 最先端の医療機器に囲まれていた病院とは一変して、アナログと呼ぼうにもあまりにも原始的な環境。しかし世界的外科医の異名は伊達ではなく、無いなら無いでそれなり以上の成果を出すことは出来る。

 

 怪我の処置や病気の治療など、言葉以上に結果で語るオフィエルの姿は、むしろ村人にとって好感度の持てる在りようだった。

 そして誰しもが、慕われれば悪い気分はしない。不愛想な態度を取りながらも、彼自身決して悪い気分ではないのも、また事実らしい。

 

「村のみんなも、先生のことをすごい人だって言ってるぜ。無口だけど真面目で、しかも魔法みたいに何でも治しちまうってさ!」

「私は私がすべきことを成しているだけだ」

 

 オフィエルの成すべきこととは、即ちあらゆる病と怪我を治すことである。

 若き日のオフィエルは、この手、この指先、この身体、この魂、この存在で、目の前に映る何もかもを治すと決めた。そうするべくして自分は生まれてきたのだと悟った。

 それだけこの世は守るべき、素晴らしいものに満ちているのだと知っている。

 しかしどうだろうか。現実はその「素晴らしいもの」を容易く侵し壊すような、治す術も無いような、切除するしかないような人間たちが満ち溢れている。まるで病巣のような屑たちが、この世には溢れかえっている。

 違う。人間とは、このすばらしい世界を汚す病巣そのものだ。

 ゆえに除去せねばならないと誓った。そのためにマザーへ取り入って、それさえ裏切り、アーデム=セークリッドの腹心となった。全ては彼が成す人類再編へと賭け、そして尽力していた。

 それも今となっては絶たれた望みであるが。

 

 ――裏切り者よ蝙蝠よとなじられながらも、ただ世界を救う一心で歩いた。その果てに私は何をしているのだろう。

 母なる理解者とは自ら袂を分かった。偉大なる指導者は既にいない。果たすべき野望も潰え、生きる意味さえも失ったに等しい。

 

「先生、助かったよ。狩りが出来なきゃ、チビどもに飯を食わせられないからな」

 

 文字通り何もかも投げうって辿り着いた先で、私はここで何をしているのだろう。

 

「ありがとうね、先生。先生が来てから脚もだいぶ楽になったよ」

 

 まるで抜け殻のような私は、ここで何をしているのだろう。

 

「先生が居なかったらどうなっていたことか。森の呪いで、今頃みんな魂を食われていたかもしれない。本当にありがとう」

 

 意味のない私は、ここで何をしているのだろう。

 どうか、どうか礼など言わないで欲しい。ここに打ち捨てられているのは、生きる価値さえも失った亡霊に過ぎないのだから――。

 

 亡霊が生者の命を繋ぎ止めるなど、まるで狂言じみていたので、オフィエルは自嘲気味な笑みを零した。そして今日もまとわりついて離れない虚しさを抱きながら、わらぶきの小屋でひとり、静かに眠りへ落ちていく。

 

 

 

 

 命が最も尊い瞬間とはいつだろう?

 

 村にはヴィーテという、若い妊婦も居た。この村では3人兄弟や4人兄弟も珍しくない。その中で彼女にとっては初めて授かった子供であるらしい。

 お腹の膨れ具合から、オフィエルは自分の出番もそう遠くはないだろう、と考えていた。しかし彼女の様子がおかしいと報せを受けたとき、オフィエルは元から険しい表情に一層の緊迫感を走らせた。

 時刻は夜。大粒の雨が、鬱蒼と茂る葉を幾重も打ち付けている。

 

「ここ最近で股間からの出血などは?」

 

 ヴィーテと夫が住む小屋の中に、多くの村人が押しかけていた。真剣な面持ちが、静かに診察を続けるオフィエルと、苦悶の表情を浮かべるヴィーテに注がれている。

 

「……前は少し……はぁ、ここ数日は……頻度が多く……」

 

 やがてオフィエルはひとつ息を吐くと、ヴィーテの夫に向かって告げる。

 

「本格的な診察と処置の必要がある。人払いを頼みたい。まだ断定出来ないが、前置胎盤の可能性もあるだろう」

「ぜんち……?」

「胎盤で子宮が塞がれているということだ。その場合、まず帝王切開が必要になる」

 

 当然ながら村人たちは、医療の知識を持ち合わせていない。しかしオフィエルが言っていることは、なんとなく察しがついた。

 赤ちゃんが生まれて来るべき道が塞がれているということ、このまま放置しては母子共に危険だということ。そして、そのために処置が必要であるということ。

 

「……ヴィーテの腹を切り開いて、赤ん坊を取り上げるという事か?」

「そうだ」

 

 意外にも、この村では生者の身体を(あくまで治療のため)切り開くこと自体に禁止は無い。もっとも「病気は体内の血に悪い気が溜まり澱んでいるため」という迷信から来る瀉血(血を抜くこと)などが主だった。

 しかし子宮、すなわち生命が誕生する神聖な器官だけは、村の信仰から手を加えることが禁じられていた。瀉血のため子宮を切り開くのは無意味どころか危険なので、それ自体はある意味結果的に正しいのだが。

 ただし今回に限っては事情が別だ。

 

「先生はそれがタブーだと知っているハズだ」

「知っているとも。その上で言っている。それしか彼女たちを救う手段は無いぞ」

 

 オフィエルは眉ひとつ動かさずにヴィーテの夫を見据えた。咎める視線を受け止めて、それでもなお不愛想を徹底する。患者と家族の前で、医者は感情を露わにしてはならない。相手を不安にさせないためにも、常に冷静と平静を貫いていなければならない。

 

「村の掟だ。破れば先生も村には居られなくなってしまうぞ」

「私の知ったことではない」

 

 しかし互いに譲らない。オフィエルも表情こそ変えないものの、絶対にこの場を譲る気は無いという確固な意思を示していた。

 藁ぶき屋根に雨が落ちる音の中、ついにヴィーテの夫が視線を落とす。そして村人たちに、共に外へ出るよう促した。子供たちはワケも分からず不安げにヴィーテとオフィエルへ視線を送りながら、大人たちは沈黙を守ったまま出てゆく。

 そして誰も居なくなった小屋の中に、音もなく黒いドレスの女性が現れる。

 

「具現武装を使うつもりですか?」

「その通りだ、ファレグ=アイヴズ」

 

 オフィエルは振り向かず、背後のファレグに応答する。その姿が見えていないからこそ、放たれる途方もない威圧感を肌に感じた。心臓の裏へ刃先を添えられた気分だ。

 もし帝王切開をするとなれば、処置の程度によって輸血が必要だ。胎盤が癒着していた場合は大量出血の可能性もある。ヴィーテの血液型も分からないため、それを調べる環境と輸血用のパックも欲しい。

 羊水塞栓症(羊水が血管に入り込んで詰まること。呼吸器不全などを引き起こす)にも注意しなければならない。そのため最低限の設備を整えて執刀する必要がある。

 しかし。

 

「私は告げましたね。使えば殺すと」

「ああ」

 

 額に脂汗が一筋。

 自分へ向けられる明確な殺意を受け止めながら、しかしオフィエルはついに振り向いて告げる。心底では怯え、恐怖しながらも、それでもメスの刃先のように鋭い視線を差し向けた。

 

「だが私を殺すのは、術式の後にしろ。今は母子を救う方が先だ!」

 

 ファレグは依然として微笑んだままだった。

 そしてしばらく沈黙した後、音もなく文字通りに姿を消した。オフィエルの言葉を聞き入れたのか、いずれにせよこれ以上の介入は無いらしい。

 藁ぶき屋根の小屋の中に、ただ雨の打つ音と、ヴィーテの呼吸音だけが連続していた。

 これで村に居場所はなくなり、オフィエル自身も術式が終われば殺される。理不尽な話だと思わなくもないが、かつてベトールを手にかけた事を考えれば因果応報かもしれない。

 とりあえずは、そう自分を納得させて。

 

 必要なのは診察用の器材と、輸血用の器具と、手術用の道具が一式。

 レントゲンなどを持ってくるには無理があるし、移動時に母子へ負荷をかけるのは良くない。よって今回はヴィーテに具現武装を使ったりせず、ここで執刀をすると決めた。

 具現武装を使うのは、あくまで機材の調達だけ。

 

「――術式展開」

 

 脳裏に、まだ研修医だった頃の記憶が過った気がした。

 

 

 

 

 世界的な外科医の腕前は伊達じゃない。母子ともに術後の経過はひとまず良好。

 生まれてきた赤ん坊は男の子だった。少し体が大きく重かったが、標準を逸脱してはいなかった。

 母親はオフィエルが予想した通り全前置胎盤だったが、胎盤の摘出も無事に済み、今は容態も安定している。

 ひとまず落ち着いたころには、夜明けが近かった。雨は上がり東の空が白んでいる。

 

 オフィエルはヴィーテの夫や村人には声をかけず、産後は母子ともに身体を冷やしたりせず安静にすべし、など記したメモだけ残して村を出た。

 診療所にあった私物も、治療に使った機材も、既に全て具現武装で引き払った。

 そして集落がある森を抜けた荒野で、彼はファレグと向き合っている。

 

「母子の経過はよろしいのですか?」

「最低限の事は書き残してきた。後は村人たちだけでどうとでもなるだろう」

 

 やれることは全てやった、とでも言いたげだった。

 表情こそ変わらないがどこか吹っ切れたような、憑き物が落ちたような雰囲気である。

 追いかけて来るだろうが、具現武装を使えばファレグから逃げることは出来る。しかしそれでも敢えてファレグの前へ姿を現したのは、つまりそういう事なのだろう。

 

「では、覚悟はよろしいのですね?」

「ああ。好きにし」

 

 言い終わるより先に――。

 

「ぐっへぁ!!」

 

 ――神速の蹴りが刺さる。

 容赦なく横っ面から空を切って一閃。ゴキャンとよろしくない音を伴い、オフィエルの長身は一転二転三転、空を舞って四転五転六転、七転した辺りでやっと大樹の根本に激突してずり落ちる。

 仰向けに倒れたオフィエルは、力なく四肢を投げ出したまま微動だにしないまま。

 

「生きてる」

 

 首に激痛が走っている。しこたま打ち付けられたせいで全身が痛い。

 しかし呼吸をしていた。自分の脈を測ってみれば、確かに心臓は血液を送り続けている。

 そもそも首と胴体が繋がっている。魔人がその気になれば、大の男を文字通り八つ裂きにする程度は造作ないだろうに。

 

「いいえ、貴方は死にました」

 

 ファレグはオフィエルに歩み寄って、にこやかに見下ろしながら告げる。

 

「使命よ人類再編よと謳いながら、保身の為に裏切りを繰り返して、エゴイズムに人類を捧げようとした愚か者。マザークラスタ・水の使徒にして、アースガイドのオフィエル・ハーバートはここで死にました」

 

 具現武装を使えば、殺されると分かっていた。

 自分の命を秤にかけて、しかしそれでも医者としての本分を全うした。

 もうここに世界の未来を憂い、人類の再編を騙った身勝手な思想家は居ない。ただ無様に寝っ転がる、命がけで目の前の命を救った医者が1人居るだけだ。

 

「狂言だな」

「貴方に言われたくはありませんね。何れにせよ、一度死んだ貴方はこれで自由の身です」

 

 わざとらしく、ゆったりとした拍手を鳴らすファレグ。オフィエルは痛む上体を起こし、深く溜め息を吐きながら後頭部を掻く。

 

「自由の身と言われてもな。私にはもう目指すべきものも、帰るべき場所も……」

 

 言いかけて森の方からやって来た人影に気付く。肩で呼吸をしながら、やっと見つけたとでも言いたげにこちらを見ているのは、ヴィーテの夫だった。他に何人か集落の子供や若い衆も一緒に付いてきているようだ。

 いずれもオフィエルが集落に居た間、診察や治療をした面々である。

 

 オフィエルは驚いたように目を見開いてから、バツが悪そうに目を逸らす。オフィエルは村の掟とやらを破った。どんな罵声を浴びせられるかと思ったのだ。

 まだあちこちが痛む体で立ち上がりながら立ち去ろうとする、まさにその時だった。

 

 

「先生、ありがとう……!」

 

 オフィエルは、目頭が熱くなるのを感じた。

 

「あなたは村の、そして妻と息子の恩人だ。俺にとっては掟よりも家族の方がずっと大切だったようだ。まず謝らせてほしい、そして心から礼を言わせてほしい。本当に、本当にありがとう!」

 

 ヴィーテの夫が絞り出した声もまた、震えている。

 夜が明け始めていた。東の地平から真っ直ぐな曙光が差し込み、雲ひとつない澄んだ空を穏やかに照らし始めている。頬を伝う雫が、ほんのわずかに光を乱反射した。

 

「俺たちが他の連中を説得してみせるから、村に戻ってきてくれないか。これからも村の仲間たちを助けてほしいんだ。返しきれないけれど、恩返しもしたい。どうか俺たちと共に生きて欲しい!」

 

 決壊した涙を抑えることも拭うこともせず、オフィエルはヴィーテの夫たちに向き直る。

 

「こちらこそ、ありがとう」

 

 振り返れば、自分の支えた命たちが並んでいた。

 この世は守るべき、素晴らしいものに満ちているのだと知る。きっと今まで本当の意味でそれを知らなかった、いや忘れて居たのだと気付く。

 自分の掲げていた人類再編という理想が、間違っていたのだと気付く。再編すべきは、生まれ変わるべきはオフィエル自身だったのだ。たったそれだけ、自分が変わるだけで、世界はこんなにも変わって見える。

 

 集落には気の良い人たちがたくさん居た。狩りなどと営みながらも、自然が隣に在るという事を自覚しつつ、慎ましやかに暮らす人々。

 彼らに囲まれて暮らすのはとても居心地がよかった。

 

「だがすまない、私はもう行こうと思う。行かなければならない」

 

 現実はその「素晴らしいもの」を容易く侵し壊すような、治す術も無いような、切除するしかないような人間たちが満ち溢れている。まるで病巣のような屑たちが、この世には溢れかえっている。

 けれど同時に彼らのように素晴らしい人たちも居るのなら、それこそを守っていきたい。世界がどうあるべきか、などという大義も既に要らない。ただ自分の手でそれを成したいとオフィエルは思った。

 

「私はこれから世界を巡ろうと思う。そして行く先々で人々を治し、私が持ちうる限りの医療の知識を広めていきたい」

 

 目指すべきものは失ったけれど、やりたいことが出来た。

 帰る場所も失ったけれど、だからこそ何処へでも行ける。

 

「いつかまた会おう。私の方こそ、本当にありがとう!」

 

 ヴィーテの夫は何かを言いかけた。

 言葉を飲み込んで、右腕で涙を拭う。そして精一杯の笑顔を浮かべた。

 

「絶対に、またいつか俺たちの村に来てくれ。必ずまた会おう、オフィエル先生!」

 

 オフィエルは踵を返し、朝日が照らす荒野を歩き出した。

 ヴィーテの夫に付いて来た集落の人々も、名残惜しそうに、あるいは涙を流しながらも、オフィエルに向かって大きく手を振る。

 また会おうと自分の名前を呼ぶ声たちに、背中を押されながら進む。

 

「具現武装を使わないのですね」

 

 ぽつりと訊ねるファレグに、オフィエルは涙を拭いてからいつもの不愛想で答える。

 

「今は自分の足で歩きたい気分なんだ」

 

 まだ少し涙声の返事だった。

 ファレグの表情もいつもと同じように微笑んだままだが、今日は心なしか、嬉しさ故に口角が少しだけ上がっているようにも見える。

 

「何が言いたい?」

「いいえ。ただ私はやはり、人の可能性というものが好きなのだと再確認しまして」

 

 オフィエルは何か面白く無さげに、あるいは照れ隠しのように鼻を鳴らす。

 

「私の再教育もここで終わりですね」

「ああ。全く名残惜しくは無いが、これで最後だ」

「貴方が望むのなら、また何時でも世界一周旅行へ連れて行って差し上げますわよ?」

「それだけは勘弁してくれ」

 

 心の底から嫌そうな顔をするオフィエルに、ファレグは笑みをこぼす。それからドレスの裾を摘まみ一礼すると、辺りに残火を振りまいて一瞬で姿を消した。空を見ればもの凄い速度で小さな黒い影が遠くへ飛んでいき、そして見えなくなる。

 かれこれ長く歩いたので、集落がある森の姿も遠くなっていた。

 荒野の真ん中で高くなり始めた朝日に照らされながら、オフィエルは周りを見渡す。

 

「――さて、まずはどこに座標を定めようか」

 

 その後のオフィエル・ハーバートの足跡は曖昧である。

 

 

 

 

 日本へ移住した建築家アラトロン・トルストイによれば、ベトール・ゼラズニィの墓前に、誰によるものか分からない花が供えられていたという話だ。

 風の噂では、貧困地域や紛争地帯にふらりと現れてはタダ同然で人々を治療していく、めっぽう腕の立つ医師が居るようだ。

 どちらも、それがオフィエル・ハーバートであるという確証はない。

 ただその腕の立つ医師というのは、青く光る箱を使って突然現れたり消えたりするような、奇妙な手品を使っていたらしい。

 

 

 



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