機甲少女の想いは一途 (hekusokazura)
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1-1. それを世界の終わりと呼ぶのならば
(1)


 

 

 

 

「第一接続確認できました。モニターに出します」

 

「内部に熱、電子、電磁波、ほか化学エネルギー反応、全て確認できません」

 

「対象は完全に機能停止しているようです」

 

「プラグ内センサーとの回線も回復。生命反応、……ありません」

 

「内部カメラの回線と接続確認。主モニターに回します」

 

 

 その場に居た全員の視線が、コンソールの前方に鎮座する大型モニターへと集まった。

 

 映像を見た全員が、絶句を余儀なくされる。

 

 

 そこはかつて科学の英知が結集する場として最先端の機器が並び、気鋭の科学者たちが大勢詰めては、毎晩のように新技術を駆使した実験を繰り広げていた場所。しかし今は、僅かな液晶画面の光が薄暗い室内を照らし出すだけで、そこに居る人物もたったの4人しかいない。

 その内の一人。コンソールの中央に座る女性はモニターを見つめたまま両手で口を覆い。

 その隣に座る長髪の男性は、口を半開きにさせたまま眉間に皺を寄せ。

 その2人の背後に立つ白衣を着た女性は、映像を見た瞬間止めてしまった呼吸を2秒後には再開させ、盛大に溜息を吐いた。そして白衣のポケットから煙草を取り出し、一本を咥えてライターで火を点けると、何日も洗っていない髪を掻き上げ、鼻から紫煙を吐き出しながら呟く。

 

「これが人の理から外れた者の末路…か…」

 

 皆の視線を集める大型モニター。

 その画面に映し出される、黄色い半透明の液体の中を漂う、白のワイシャツ。黒のズボン。

 

「何を呆けているのかね。君の予測していた通りではないかな?」

 背中に声を掛けられた白衣の女性は、一応の礼儀として煙草を摘まんで口から離し、背後を振り返る。

 女性の前に、両手を腰の後ろに組んだ白髪の男性が立っていた。

「ええ…。そうですわね」

 白衣の女性は気を取り直したように背筋を伸ばし、白髪の男性に向けて進言する。

「このままサルベージ実験に移行することもできます。準備は出来ていますが」

 白髪の男性はかぶりを振り、よく響く声で女性に告げた。 

「いや。それは碇の計画にはない」

「なぜです」

 白髪の男性のその言葉に、白衣の女性は眉根を寄せた。

「碇司令はお子さんを初号機から救い出したくは…」

 白衣の女性は言い掛けて、この場で一般的な親子観に基づいた意見を口にすることの愚かさを思い出し、言葉を途中で切ってしまう。白衣の女性の心中を察した白髪の男性は小さな溜息を吐きつつ、自身の腕時計に視線を落とす。

「それにあと2時間で連中が通達してきた時間だ」

 それを聴き、白衣の女性は煙草を咥え直し、ニコチンとタールを肺に入れながら苦々しく表情を顰めた。女性の口から遠慮なしに吐き出された煙に、禁煙を成功させてから四半世紀の時が経つ白髪の男性は軽く咳き込んだ。

「残念です…。「あの日」から1カ月。ようやく対象との回線が回復したというのに…」

「むしろ老人たちはよく1月も待ってくれたと思うべきだ。あるいは君であれば途絶した対象とのコンタクトに掛かる時間を1月と踏んでいたのやもしれんな」

 白髪の男性のその言葉に、鼻から細い紫煙をくゆらせる白衣の女性は、自嘲めいた笑みを零す。

「私たちは会ったこともない連中の思惑通りに動かされていた、ということでしょうか」

「君以外では対象とのコンタクトを成功させることはできなかったろうよ。あの老人たちにその才能を認められたのだ。誇ってよいだろう」

「喜ぶ気にはなれません」

 白衣の女性の素っ気ない返事に、白髪の男性は切れ長の目をより細めた。 

「いずれにしろ我々が去った後も、君は老人たちから厚遇を受けることができるだろう」

 白衣の女性はコンソールの端に置かれた吸い殻が山盛りの灰皿に、咥えていた煙草を押し付けた。白髪の男性の顔を、正面から見据える。

「…副司令はやはり司令と…?」

 自分の身を案じてくれているらしい白衣の女性の言葉に、白髪の男性は少しだけ表情を崩した。

「ここに留まっていては十中八九、首が飛ぶからな」

 平然とした顔で言う白髪の男性は、言葉の最後にこう付け加える。

「これは比喩ではない」

 

 

『第2発令所より。外部との全ネット、情報回線が遮断されました』

 

 

 天井にぶら下げられたスピーカーを睨む白髪の男性。

「やれやれ。初号機が完全に沈黙していると分かった途端これか。これでは事前通達の意味がないな」

 肩を竦めながら、視線を白衣の女性に戻す。

「投降者は地底湖のドッグに集まっている。君たちもすぐに行きたまえ」

「…先輩」

 コンソールの中央に座る女性が、不安を色濃く浮かべた表情で白衣の女性を見つめている。そんな年齢の割に顔に幼さが残る同僚に対して、隣に座る長髪の男性が声を掛けた。

「連中の主戦力は自衛隊らしいぞ。かつては轡を並べて戦った仲じゃないか。素直に降参する者の命までは奪わんだろうさ」

 女性はいつでも脱出できるように準備していた手提げ鞄を胸に抱き締めながら、「本当に?」と今にも泣きそうな顔で長髪の男性を見つめている。

 

 白衣の女性も脱出用のアタッシュケースを持った。

「副司令。くれぐれもお体に気を付けて」

「君たちもな…」

 白衣の女性は白髪の男性と握手を交わすと、部下たちを連れて足早に扉から出ていった。

 

 

 

 薄暗い部屋の中に一人残った白髪の男性。暫くエントリープラグ内を映し出したモニターを見つめた後、モニター室の前面にある窓ガラスへと近づき、視線をガラスの外へと向けた。ガラスの外には、六面体の大きな空間が広がっている。

 白髪の男性が居るモニター室と同様、必要最低限の灯りしかない薄暗い空間。

 空間の中央にあるのは、観察対象を拘束した巨大な檻。

 檻の上では、紫色の甲冑を纏った巨人が顔を覗かせている。

 

 その巨人の前に、痩躯の男性が立っていた。白髪の男性はその男の背中を見下ろす。

「初号機の中を目視で確認したぞ。全てはお前の計画通りだ」

 この声が届くはずもないのに、まるで檻の前の男に語り掛けるように呟く。

「お前の息子は初号機に取り込まれ、コアと一体化している」

 そして再び視線を大型モニターへと向けた。

 半透明の黄色い液体の中の学生服。その学生服に寄り添うように漂う、白のプラグスーツ。

「第1の少女と一緒にな」

 

 白髪の男性はコンソールの一部を操作し、サブモニター上に檻の中の監視カメラの映像を表示させる。モニター上に映し出されたのは、巨人の前に立つ痩躯の男性をほぼ正面から

捉えた姿。映像を拡大させる。モニター上を、顎髭を蓄えた男の顔が占拠する。男の口は微かに開閉しており、男が巨人に対して何かしら語り掛けていることが分かるが、音声までは拾えない。

「誰と話している…、碇…」

 サブモニター上の痩躯の男を睨む白髪の男性。

「ユイくんか…」

 サブモニターから、液体の中を漂う学生服を映し出す大型モニターへと視線を移す。

「お前の息子か…」

 そして最後にガラス窓の外に見える巨人の顔を視線を移した。

「それとも…」

 

 

 

 

 色付きの丸渕眼鏡を掛けた痩躯の男性、碇ゲンドウは巨人の顔を見上げていた。

 何年も前からこうして巨人の顔を見上げることを日々のルーティンの中に組み込んでいたゲンドウ。この顔を見上げる時は決まって、彼の隣に立つべき人の名前で呼び掛けていたが、この日、彼の口から放たれた名前は、別の者の名前だった。

 

「レイ…」

 

 ゲンドウの口から低い声で囁かれた名前。

 

「聴こえているか…。レイ…」

 

 呼びかけを続ける。巨人は沈黙を保ったまま、何も語らない。

 ゲンドウは構わず語り掛ける。

 

「よくやった、レイ。私たちの計画は順調に進んでいる。多少の誤差はあれど、全て修正可能範囲内だ」

 彼にしては珍しい柔らかい声。労わりの言葉。

 

「レイ。お前は引き続きそこに居なさい」

 

 右手の人差し指と中指で、眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。

 

「私以外の者の手から、初号機を守るのだ」

 

 巨人は何も語らない。

 耳鳴りがするほどの静寂に包まれる檻の中。

 

 

 空間の天井の方から、くぐもった低い爆発音が轟いた。

 続けて、檻の中にスピーカー越しの音声が響き渡る。

 

『碇。敵の動きは物理的手段に移りつつある。これ以上お喋りを続ける猶予はないぞ』

 

 ゲンドウは振り向き、巨大な檻の中を見渡せる位置にあるモニター室に視線を向けた。そのモニター室の窓ガラスからこちらを見下ろす人物、冬月コウゾウに対して深く頷き、そして視線をもとの位置に戻す。

 視線の先には、一本角の鬼を模したような鎧兜を纏う巨人の顔。そんな巨人の顔を、愛しい我が子へ向けるような眼差しで見つめる。

 

「レイ。初号機を任せたぞ…」

 

 巨人は何も語らない。

 

 天井から次々と轟く爆発音。

 ゲンドウは今一度眼鏡のブリッジを指で押し上げると、白い手袋をした両手をズボンのポケットに入れ、巨人に背を向ける。そして檻の出口へと向かって歩き始めた。

 

 コツコツと、革靴の底でコンクリート製の床を叩く音が数回ほど響き。

 ゲンドウはふと、歩みを止める。

 巨人に背を向けたまま、ボソッと低い声で呟いた。

 

「シンジのことも、頼む…」

 

 出口への歩みを再開する。

 

 

 ゲンドウの背後では、やはり沈黙を守ったままの巨人。

 

 その鎧兜の眼孔の奥に潜む目が、微かに光を宿した瞬間を見た者は、誰も居なかった。

 

 

 

 巨大な檻から廊下へと出たゲンドウは手に持っていた小型の通信端末機に話し掛ける。

「冬月。やれ」

  

 ゲンドウが通信端末機に話し掛けてから1分後。ゲンドウの背後で巨大な爆発音が鳴り響き、廊下の床が大きく揺れた。ゲンドウは衝撃で波打つ廊下を、背筋を伸ばしたまま悠然と歩いていく。

 

 

 

 

 モニター室の窓ガラスから巨大な檻を見下ろす冬月。その手には手の平サイズのリモートコントローラーが握られており、彼の親指はコントローラーの真ん中にある赤いボタンを押し込んでいる。

 檻の中のそこかしこで爆発が起き、天井や壁から落下する瓦礫が、檻の中央に鎮座する巨人の体を覆っていく。

「せめてもの、時間稼ぎか…」

 冬月はコントローラーを床に投げ捨てると、椅子の上に置いてあった鞄を持ち、モニター室から出ていく。その直後、モニター室の天井も崩落し、全ての機器が瓦礫の下敷きとなった。

 

 

 

 



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(2)

 

 

 

 

 空間を支配する暗闇を切り裂くように、スポットライトの強烈な光が上から下へと真っすぐに差し込んだ。複数の光源から放たれるそれらの光は、半分は闇の中に直立する1体の巨人を、そしてもう半分は、巨人の前に立つちっぽけなヒトを照らし出している。

 巨人の前に立つ一人の少年。幾ばかりかの幼さをその顔に残しながらも立派な士官服に身を包んだ少年は、見る者を圧倒する巨体を誇る巨人の顔を、首を窮屈そうに曲げながらも涼やかな顔で見上げていた。

 

「やあ。ようやく会えたね。碇シンジくん」

 

 少年のやや大きめな口から放たれる朗らかな声が、地下深くにある広大な六面体の空間の中に響き渡った。

 人為的に引き起こされた落盤によって長期に渡って崩落した岩盤と流れ込んできた土砂で埋め尽くされていた空間は、連日連夜の掘削作業によりようやく全ての瓦礫が取り除かれ、その下から掘り起こされた巨人は再び人々の目に触れることになった。掘削作業が終わった直後とあって内部は土埃が充満しており、今も方々に設置された巨大な換気扇がフル稼働し、低い駆動音を空間の中に響かせている。

 

「「初めまして」…はこれで何度目かな」

 

 挨拶代わりの握手を交わしたいところだが、握手をするには相手が大き過ぎるため、手の平から伝える温もりの代わりに、満面の笑みを相手に送った。その満面の笑みに、ほんの少しだけ困惑の色が浮かぶ。

「色々な形で君とは出会ってきたけれど、まさかこんな姿の君と初対面を迎える日がくるとは思わなかったよ」

 埃塗れの厳つい巨人の顔を、愛おし気に見つめていた少年。その視線を巨人の顔よりさらに上の、突貫工事で修繕された継ぎ接ぎだらけの天井へと向ける。そこには少年が立つ場所へ眩い光を放つ巨大な照明がぶら下がっており、光を正面から受け止める少年は眩しそうに目を細めた。

「この「世界」は今までの「世界」と少し違うようだね。てっきりあの現象で、…リリンは「ニア・サードインパクト」と呼んでいるようだ。あの現象が起きた時点でこの「世界」は閉じられるものとばかり思っていたけれど、どうやら君はまだこの「世界」に絶望していないらしい」

 再び視線を巨人の顔へ戻す。

「なるほど。君がその中に閉じ込められていては、君は外の惨状を知りえないだろうから。知らなければ、絶望することもないだろうし、選択を迫られることもないだろうからね…」

 巨人の顔を見つめていた少年は何かに気付いたように目を瞬かせ、そして表情を少しだけ険しくさせ、視線を巨人の足もとまで落とす。

「あるいは彼は…、これを見越して君をその檻に繋いだのだろうか…。いや、まさか…ね」

 自分の中で生まれた疑念を心の隅に追いやり、再び窮屈そうに首を曲げて巨人の顔を見上げる。

 

「それにしても、ちょっと過保護に過ぎるんじゃないかな。そうやって彼の目と耳を塞ぎ続けたところで、それが彼のためになるとは限らないのに」

 視線は巨人の顔に向けられたまま。しかしそれまでの柔らかい声音とは明らかに違う、少し低く、厳しい少年の声音。

 巨人は何も語らない。

「沈黙を守る…か。あの男の命令には常に忠実。君も相変わらずだね」

 表情を崩し、困ったような笑顔を浮かべながら巨人の顔を見上げる。その笑顔は、やがて自嘲的な笑みへと変化する。

「かく言う僕も、今はあのおじいちゃんたちの命令に従うしかない」

 少年の白い右手が、少年の白い首にはめられた金属製の首輪に触れた。

 

 

 ずっと見上げていた所為で、首が痛くなってしまった。少年は両腕を大きく天に向けて突き上げ、伸びをする。

「あ~あ、それにしてもつまらないな」

 伸びをすることで気に緩みが出たのか。少年の口から、ついつい本音が漏れてしまった。

「これまでの物語りとは少し違う、新しい役柄を与えられたと期待していたんだけどな。まさか大人たちのしでかしたことに対する後始末の責任者とはね。おまけに君ともまともに会えないままだし…」

 

 

「物言わぬ人外相手に一人語り掛けるのは、ネルフ総司令官の嗜みなんですかね?」

 

 空間の中を、少年の朗らかな声とはまた別の、低いがよく通る声が響いた。

 コツコツと革靴の足音がする方へ視線を向ける少年。その視線の先には、首まで伸びた髪を後ろ頭でまとめた男性が立っている。

 

「前任者もこんなことしてたのかい?」

「ええ。まるで恋人と逢引きでもするかのように、毎晩、熱心にね」

 若干猫背気味の男性は少年の前に立つと、背筋をぴんと伸ばした。

「初めまして、渚司令。私は…」

「加地リョウジ、だね」

 少年は男性が自己紹介を終える前に相手の名前を呼び、空っぽの右手を差し出す。

「おや。ご存知でしたか?」

 男性は少しだけ驚いた表情を浮かべつつも、少年が差し出した手には全く警戒せずに握った。

「こうして直接言葉を交わすのは初めてだね。まったく…、この「世界」は色々と初めてのことだらけだ」

「はぁ…。私はゼーレの命により、ネルフの副司令を務めさせていただくことになりました。何なりとご命令を、渚司令」

 少年は肩を竦めた。

「僕はゼーレの名代とは名ばかりのただのお飾りの総司令さ。実務については全て君に任せるよ」

 少年のその言葉に、今度は男性が肩を竦めることになる。

「あらゆるメンドー事を全て私に押し付けるおつもりですか?」

 少年はわざとらしくきょとんとした顔をしてみせる。

「この国のお偉いさんは提出された書類にハンコとやらを押していればいいんじゃないのかい?」

「我が国について多分に誤解と偏見をお持ちのようだ。あなたの前任者は寝る間を惜しんで職務に勤しんでいらっしゃったというのに」

「彼は彼。僕は僕だよ。でもまあいいじゃないか。この組織を君の好きなように使っていいと言ってるんだ。悪い話しじゃないだろう?」

 相手にYES以外の返事を許さないような、蠱惑的な笑みを浮かべる少年。そんな少年に見つめられ、男性は苦笑いしながら逃げるように視線を床に投げる。

「怖い怖い。悪魔の囁きというやつですか?」

「僕が悪魔に見えるかい?」

 少年の声が、半オクターブほど低くなる。

「時に悪魔とは、最も魅惑的な姿で人間の前に現れるものですよ。ところで渚司令」

「カヲルでいいよ」

 男性が話題を変えると、少年の声は普段通りの朗らかなものに戻っていた。

「渚司令。初号機の現状についてですか」

「うん。それは聴いておきたいね」

「数十万トンもの土砂と岩石の下に埋まっていた割には綺麗なものですよ。さっそくリッちゃん、…じゃなかった、赤木技術課長が全身のスキャンを行いましたが、装甲に30%程度の損傷がみられるだけで、素体は無傷です」

 

 

『司令。副司令』

 

 天井から降ってくる、スピーカー越しの女性の声。

「噂をすれば。彼女が赤木技術課長です」

 

『ダメです。初号機に対し、予備、疑似含めて外部からあらゆる回線を通じてコンタクトを試みましたが、初号機はこちらからの全ての信号を拒否しました』

 

 男性は持っていた手のひらサイズの通信端末機に話しかける。

「拒否? 無応答ではないのか?」

 

『ええ。初号機側からの一方的な拒否です。これでは内部の状況をモニタすることすらできません』

 

「まるで籠城だね」

 少年は巨人の顔を見上げながら呆れたように呟く隣で、男性は通信端末機に向かって問い掛ける。

「今後、初号機との接触を果たす上で考えうる方法は?」

 

『物理的手段によるエントリープラグの強制排除。電子回路を介さない生体部への強制アクセスなど、幾つか方法はありますが』

 

 男性と通信機越しの女性との会話に、少年が割って入る。

「野蛮なことはやめておくれよ。相手は女の子だよ?」

「女の子…ですか?」

 男性はやや呆れ気味に少年の頭越しに巨人の顔を見上げる。一本角を生やした鬼のような巨人の顔を。この組織のトップの座に収まった者は皆この巨人に執着を見せるようだが、あの厳つい顔が愛らしい女の子の顔にでも見えるのだろうか。

 ぽかんとしている男性の顔に少年は苦笑しつつ続ける。

「それにどんな刺激を加えたところで、彼女は閉ざした扉を開いてはくれないだろうさ。あの男の命令でもない限りね」

「はぁ…」

 あくまで「あれ」を「彼女」呼ばわりするのかと、男性はやや呆れ気味に少年の顔を見下ろす。

「いずれにしろ、おじいちゃんたちからの指示は初号機の凍結維持だ。下手に刺激して、予期しないインパクトの発生なんて事態は避けようじゃないか」

「仰せのままに。では初号機は渚司令の指示があるまで封印ということでよろしいですか?」

 少年は頭を横に振る。

「言ったじゃないか。君に全て任せると。それと僕のことはカヲルと呼んでおくれよ」

「分かりました。渚司令。ああ、それと、そのおじいちゃ…ゼーレについてですが」

「彼らが何か言ってきたかい?」

「いいえ。彼らから贈り物が届きました」

「贈り物?」

「ええ。現状、対使徒戦における全ての戦力を失っている我々ネルフへの贈り物です。こちらが受領書になります」

 男性は少年の前にバインダーに挟まれた書類を差し出す。

「おやっ。早速ハンコが必要かな?」

 この国特有の押印文化に興味があるらしい少年。実は事前に作っておいた、自分の名前が刻まれた特大の判子をいそいそとポケットから取り出したが。

「ああ、いいえ。こちらは司令の署名だけで結構です」

「え? そうなの?」

 少年は残念そうに眉尻を下げてしまう。

「ちなみに私が実務の全てと取り仕切るからには、判子などという業務の遅滞と形骸化を招くような悪習は即刻廃止しますので、そのつもりで」

「ええええ?」

 少年は頬を膨らませ、あからさまに不満を顔にする。頬を窄ませると今度は唇を尖がらせながらバインダーを受け取り、胸ポケットに収めていた万年筆で書類に署名を綴った。そんな年相応?の表情を浮かべる少年と、その気品のある立ち振る舞いとは懸け離れたミミズが這ったような字で綴られる少年の署名に、男性は思わず吹き出しそうになってしまい、慌てて口を覆った。

 少年は彼にしては珍しく顔から笑みを消して男性を横目で睨みつつ、苦労して署名欄に名前を綴っていく。

「下手っぴな字で悪かったね。字を書く習慣は殆ど無いものだから」

 まだ初対面から5分と経たないが、何だか掴みどころのない人だと心の中で少年を評していた男性は、少年の意外な一面を見れたような気がして少し嬉しくなった。

「ふふっ。分かりました。渚司令の決済が必要な書類だけは、判子欄を残しておきましょう」

「君は人の心に取り入るのがうまいね」

 少年はニッコリと笑いつつ、書類にある項目に目を通す。

 

「ゼーレ印のマーク7に、ユーロネルフから接収した8号機のエヴァ計2体。さらに予備を含めてパイロット4人か…。おじいちゃんたちも随分と大盤振る舞いをしてくれるんだね」

「あなたの就任祝いじゃないですか? 新しい機体はすでに5番ケージに搬入済みです。パイロットも到着しておりますが」

「パイロット…か」

「ええ。お会いになりますか?」

 少年は書類から目を離し、背後に聳え立つ巨人の顔を見上げる。

「…うん。そうだね」

 男性に向き直り、バインダーを返した。

「ここに連れてきてくれるかな」

 穏やかだった男性の顔に、微かに影が差し込む。

「反吐が出ますよ?」

「みんな、同じ顔をしてるからかい?」

「ご存知でしたか。ええ、それもありますが、4人のうち3人は第3の少年たちよりもさらに幼い正真正銘の子供、ちびっ子たちだ」

 

 男性は通信端末機に話しかけ、通信相手にパイロットたちをこの場に呼ぶよう指示を出す。

 その隣では少年がズボンの両ポケットに手を突っ込みながら、革靴の踵でコツコツと床を叩いていた。

「組織のトップが子供ならば、そのパイロットは幼子か…」

 踵で床を叩くのを止め、男性の顔を見る。

「これってもう末期じゃない?」

 少年のズバリな指摘に、男性は困ったように頭を掻く。

「末期だろうが何だろうが、人類の存続のためにはこの組織が必要なんです」

「人類社会の継続。それが君の願いかい?」

 男性は笑いながら首を横に振った。

「人類とか社会だとか、そんな大それた願いなど持っちゃいません。私の願いなんて、ささやかな、極ありふれたものですよ」

「ふーん」

「でもその願いを叶えるためならば、何だって利用してやろうと思ってます」

「僕も、かい?」

 そう問う少年は、ニヤリと笑う。

「ええ、あなたも」

 そう答える男性は、にっこりと笑い返す。

 

 間違いなく、この男性には腹に一物も二物も抱えた人物だろうが、何故かその口から出る言葉は表裏を感じさせない。少年も、にっこりと笑いながら問い掛けた。

 

「君は、何を願うんだい?」

 

 少年の静かな問い掛けに対し、男性は少年と顔を合わせてから初めて真面目な表情を浮かべながら、かつ明朗に答えた。

 

「子供たちが笑って暮らせる、明るい未来」

 

 そして男性は表情を崩し、少し照れたように言う。

 

 

「俺、父親になるんです」

 

 

 

 



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(3)

 

 

 

 

 薄暗い六面体の空間の奥にある出入り口の扉が開いた。

 空間の中央に鎮座する巨人の前に立っていた少年と男性は、床に薄い光の筋を走らせる出入り口へと視線を向ける。

 出入り口には、細い影が4つ。

 

「ああ、来たようだ。彼女たちです。こっちにおいで」

 男性に手招きされ、4つの影は1つにぎゅっと纏まって、2人のもとに歩み寄ってくる。

 その様を見て、少年は思わず笑ってしまった。

 

 4つの影の中央に立つのは、少年と同じ10代半ばくらいに見える、山吹色のベストに白のブラウス、膝丈のスカートを纏った、空色髪の少女。彼女の両手にはそれぞれに、10歳にも満たないような2人の女の子の手が繋がれ、そして最後の1人、それこそ5歳にも満たない幼女が中央の彼女の腰にしがみ付き、他の3人に比べて明らかに短い足を一生懸命動かして、時々躓きそうになりながらも必死に3人の足取りに付いていっている。

 

「あれが人類存続のための尖兵…かい?」

 少年は皮肉交じりに男性に問うてみた。

「第一の少女は第10の使徒戦で死亡、第二の少女は第9の使徒の浸食を受け隔離中、第三の少年は第10の使徒戦後消息不明。現状、エヴァを動かすことができるのは彼女たちだけです」

「その報告は欺瞞に満ち満ちているようだけど、彼らがエヴァのパイロットとして機能していないのは事実だからね。まあいいとうしようか。ユーロ支部のコが一人居なかったかな?」

「彼女は無断で弐号機を動かした咎で登録抹消中です」

「この状況下でかい。本当に末期だね…」

 少年がそう呟きながら肩を竦めている内に、4人の少女たちは2人の前に辿り着いた。少年は幼い妹たちに引っ付かれながら長い距離を歩いてきた中央の少女に、そしてその姉の足取りに必死に付いてきた3人の妹たちに、その苦労を労うような柔和な笑みを送る。

「やあ。僕は渚カヲルだ。司令官とは名ばかりの、ただの穀潰しさ。指示が必要だったら彼に仰ぐように。ああ、それと僕のことはカヲルと呼んでくれて構わないよ」

 挨拶をする組織のトップの顔を、感情というものが欠落したかのような8つの赤い瞳が見つめる。

「ほら。司令に挨拶を」

 無言で佇む少女たちは、男性に促され、ようやく中央に立つ少女が口を開いた。

 

「綾波タイプ…、ナンバー3です」

 

 特大換気扇が響かせる音に負けてしまいそうなか細い声での自己紹介。

 続けて右隣に立つ女の子。年齢こそ違えど、顔の造りは中央に立つ少女とそっくりそのままの女の子もまた、か細い声でぼそりと呟く。

 

「ナンバー4…」

「ナンバー5です…」

 

 さらに左隣に立つ、やはり先の2人とは顔の造りが全く一緒の女の子が、必要最低限の言葉数で自己紹介を済ませる。

 

 少年と男性の視線が、まだ自己紹介を済ませていない最後の人物に集まる。2人分の視線を一身に受けてしまった幼女は、少女の腰に抱き着いたまま怯えたように少女の背後に隠れてしまった。中央の少女は右隣の女の子と繋いでいた手を離し、自分の背後に隠れる幼女の頭を撫でると、その手を幼女の背中に回しそっと押す。

「ほら。挨拶なさい」

 少女からの平坦ながらもどこか優し気な声に、しかし幼女は腰にしがみついたままぐずついている。

 

 そんな様子の幼女に「まいったな」と頭を抱えている男性。

 一方の少年は少女たちのすぐ側まで歩み寄ると、その場に膝を折って幼女の視線に顔を合わせた。あらゆる障壁を素通りしてしまうような笑顔を、幼女に送る。

「君のこと、教えてくれるかな?」

 永久凍土も溶かしてしまいそうな、温かさに満ちた少年の声。少女の背中から少しだけ顔を覗かせる幼女は、少年の柔らかな笑顔と温かな声を受け、噤んでいた口をようやく開く。

 

「……ナンバー…6…」

 

 耳を澄まさなければ拾えない程の小さな声での自己紹介に、少年は満足げに頷いた。

「そっか。よろしくね。ナンバー6」

 少年が幼女に向かって手を差し伸べると、幼女は少女の腰に抱き着いたまま、おずおずと自身の小さなもみじのような手を少年に差し出す。少年は幼女の手と握手を交わすと、

「あうっ」

 少年が握った幼女の手をやや強引に引っ張ったため、幼女は短い悲鳴を上げてしまう。少年は構わず幼女の体を手繰り寄せると、空いた左手を幼女のお尻に回し、その小さな体をひょいっと抱え上げてしまった。

 

 少年に抱きかかえられてしまい、最初は目を白黒させていた幼女だったが、少年から間近で向けられる穏やかな笑顔を受け、やがて安心したように少年の首へ自身の幼い腕を回した。

 その様子を見ていた男性は、今度は声に出して「まいったな」と呟いた。少年は「何がだい?」と男性を見る。少年に視線で問われた男性は、思ったことをそのまま口にする。

「父親役が板についてらっしゃる」

 少年は「心外な」とでも言いたげな顔で言う。

「何を言ってるんだい。今度父親になるのは君だろ? 今のうちに練習してみたらどうかな」

 そう言いながら、少年は腕の中の幼女を男性へと差し出そうとするが、幼女は「いやいや」と少年の首に回していた腕に力を籠めたため、少年は仕方なく幼女を抱っこし直した。幼女に抱っこされることを拒否されてしまった男性は、どこか安心したような顔をしている。

「ええ、まあそうなんですけど…」

 ポリポリと頬を掻く男性。

 子供が出来ることは至上の喜びではあるが、同時に自分なんぞに父親が務まるのだろうかという典型的なパタニティブルー真っ最中の男性であった。

 

 少年は幼女を抱っこしながら、同じ顔をした3人を見つめ、溜息を吐いた。

「それにしても彼女たちには固有の名前はないのかな? これじゃまるで家畜だ」

「一応、ゼーレ内では識別子としてナンバー3から順に、トロワ、キャトル、サンク、シスと呼ばれていたそうです」

「それって数字を別の国の言語に置き換えただけじゃないか。テキトーだな、まったく」

 呆れ気味に肩を竦ませていたら、

「なまえって…」

 腕の中から小さな声が飛んできた。

「ん?」

 抱っこしている幼女が、つぶらな瞳で少年の顔を見上げている。

「なまえって…なに?」

 突然の質問に少年は2秒ほど考え。

「名前というのは、対象の概念を明確化し、それ以外の事象と区別するための記号のことだよ」

 幼女は「よく分からない」と首を傾げている。そんな幼女の仕草に、少年はふふっと笑った。もう3秒ほど考えて。

「そうだな。名前っていうのはね、この世界でたった一つしかない魂を体に吹き込むための、大切なおまじないのことさ」

「おまじない?」

「そう。ちなみに君たちの前任者は、「アヤナミレイ」というおまじないだったみたいだよ」

「アヤ…ナミ…、レイ…」

 たどたどしい口調でその6文字を呟いてみる幼女。くりくりとした赤い瞳を、自分を抱っこする少年の赤い瞳に向けると、突拍子もないことを呟いた。

 

「わたしにもなまえ、ちょーだい」

 

 幼女の小さな口から放たれた意外な言葉に少年は「えっ?」と固まってしまい、隣に立つ男性は吹き出してしまう。

「ナンバー6…」

 彼女らの長姉は、窘めるように彼女らの上官に抱っこされる幼女を呼んだ。少年は困ったように眉尻を下げながらも、長姉にひらひらと手を振る。

「いや、いいんだ。でもすまないね」

 今度は申し訳なさそうに眉尻を下げ、腕の中の幼女を見つめる。

「僕には誰かの体に魂を吹き込むなんて、そんな大それたことなんて出来やしないよ」

「うぅ…」

 幼女はがっかりしたように、口をへの字に曲げている。そんな幼女のまだ一度も日光を浴びたことがないような真っ白な頬に、少年は自身の真っ白な頬をそっと寄せた。

「いつか君にも、素敵なおまじないを掛けてくれる人が現れるといいね」

 幼女はこくりと頷きながら、少年の白い首にひしと抱き着いている。

 

 

「では4人とも。着任早々悪いが支給されたエヴァ各機との接続テストを開始する。5番ケージへ向かってくれ」

「随分早急なんだね」

 少年は幼女の頭を撫でながら男性に言った。

「神さまが残したシナリオによれば、使徒との戦いはまだ終わっていないようですから。我々人類は自らの生存のために、己の牙を研ぎ続けることを怠ってはならないのです」

「まあいいさ。何度も言うように、ネルフは君の好きなように運用したらいいよ」

 

 少女が両手を差し出してきたため、少年は抱っこしていた幼女を少女の腕へを渡した。今まで少年の首に抱き着いていた幼女は、今度は少女の首に抱き着く。

「君に懐いているようだね」

「ええ」

 短く答える少女は「甘えん坊で困ってます」と言いたげに眉毛をハの字にしている。幼女だけでなく、両隣の妹2人も少女に甘えるように寄り添っているため、少女は窮屈そうに身を縮ませている。

 

「じゃあ、失礼」

 少年に向かって頭を下げる男性に倣って、幼女を抱いた少女も、その両隣りに立つ女の子2人も、少年に向かって頭を下げる。少女の腕に抱かれた幼女だけは目上に頭を下げる行為というものが良く理解できていないらしく、自分以外の4人の行動を不思議そうにきょろきょろと見渡した後、少年に向かって小さな手をひらひらと振った。少年は笑いながら、ひらひらと手を振り返す。

 

 

 離れていく4人で一つの彼女たちの背中。

「トロワ…」

 少年に呼ばれ、少女は足を止めて振り返った。

 少女の赤い瞳に見つめられ、少年は言う。

「妹たちのこと。よろしくね」

 少女は小さく頷く。

「ええ。時間の許す限りは…」

 その返答に、少年は目を細めた。

 

「綾波タイプ・トロワ…」

 

 もう一度、少女を呼んだ。

 

「はい…」

 

 少女はか細い声で返事する。

 少年はやや大き目の口を開いて言った。

 

 

「君は僕と、同じだね」

 

 

 

 

 男性と少女たちが去り、再び一人切りとなった少年。

 

「碇ゲンドウが去り、冬月コウゾウが去り、運命を仕組まれた少年少女たちも皆姿を消してしまった。それでもこの組織が歩みを止めることはないようだね」

 5人が出て行った扉を見つめながらそう独り言ちた少年はくるりと踵を返し、背後に聳え立つ巨人の顔を見上げた。少女たちに向けていた以上の柔和な笑みを巨人の顔に送る。

「じゃあね。碇シンジくん。あるいは次に会える時は、別の「世界」の君かも知れないけれど。それまでは「彼女」の腕の中で、ゆっくりと休んでいたらいいよ」

 少年が巨人に向けていた眼差しの温もりが、3度ほど低くなった。

「じゃあね。綾波レイ」

 そしてやや大き目な口から紡がれる柔ら中な声も、少しだけ硬くなる。

「シンジくんのこと、頼んだよ」

 

 背を向け、コツコツと靴音を響かせて出口へと向かった。

 

 少年が去り、檻の中は深い暗闇に閉ざされる。

 

 

 

 



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(4)

 

 

 

 

 この広い六面体の空間は、本来はここの主を整備・格納する場所として用意されたものだが、今はその主を封印・凍結する場所として用いられている。

 対象を封じ、凍結するための場所であるため入り口には立ち入り禁止の札が掲げれており、また立ち入る者が居なければ照明で照らす必要もない。

 にも関わらずこの空間から照明が消える時間は稀であり、またこの場所から人影が消えるのもまた稀である。

 

「まったく…。司令官室の表札はこちらに付けた方がいいんじゃないですかね?」

 背後から近寄るコツコツと床を踏む革靴の足音に、床に腰を下ろしていた少年は振り返る。そこには彼の部下の呆れたような顔があり、少年は苦笑いしながら収まりの悪い銀髪の髪を掻いた。

「ここが一番落ち着くんだ」

 そう呟きながら、視線を宙へと放り投げる。

「リョウちゃんに言われた通りになってしまったようだね」

「私が何か言いましたかね?」

「ここの総司令はこの場所に入り浸るようになるって言わなかったかな?」

「ははっ。私の本業は予言者なんですよ。それにても…」

 少年と一緒に宙を見上げていた男性は、その視線を少年へと落とす。

「随分と懐かれてしまいましたな」

 少年を取り巻く状況に、呆れたような声を出した。

 

 胡坐を掻いて床に座る少年の組んだ足の上にちょこんと身を乗せているのは、少年の体に抱き着きながらすやすやと寝息を立てている幼女。

 幼女だけではない。

 幼女の姉2人。四姉妹(男性はそう認識している)である彼女らの二女と三女も床に直に横になって、それぞれの頭を少年の腿や膝に乗せてすやすや寝息を立てている。

 

「彼女たちの兄になったつもりはないんだけどな。ねえ、リョウちゃん」

「なんです? 渚司令」

「身動き取れなくて正直困ってるんだ」

 3人の眠り姫の枕代わりにされて固まってしまっている少年に、男性ははははと笑いながら、膝を付いて女の子たちの肩を揺さぶった。

「ほら。キャトル、サンク、シス。起きなさい」

 3人の眠り姫たちは目を擦りながら、睡眠を妨害した男性を寝ぼけまなこで見上げる。その顔は明らかに不満顔。「初登場時のあの鉄仮面ぶりは何処に行ったんだ」と心の中で毒付きながら、3人娘たちに告げる。

「一四〇〇時より接続テストだ。第5ケージに向かいなさい。君たちのお姉さんも先に行って待ってるよ」

 3人のうち2人は「ふあい」と舌足らずな返事をしながらのそのそと立ち上がる。そして少年の胸に抱き着き、ぐずついている幼女を引っ張って無理やり立たせ、ずるずると引き摺りながら出口へと歩いていった。

 

「接続テストなんて、今日の予定にあったっけ?」

 3人の後ろ姿を見送りながら少年は言う。

「ええ。臨時ですることになりまして。ここ、いいですか?」

 男性は上官の返事を聞く前に、少年から3歩ほど離れた場所で腰を下ろし、胡坐を掻いた。

「いててて…」

 床に腰を下ろすと同時に表情を歪め、腰を擦る男性。3人の後ろ姿が出口へと吸い込まれていったことを確認した少年は、近くに座った男性へと視線を向ける。

「痛むのかい?」

 男性は「情けない」とでも言いたげに苦笑いしている。

「いやぁ、一昨日の頑張りが今頃来ましてね。渚司令はどうですか?」

「僕?」

 男性に訊ねられ、腰や肩を擦って痛みがないかを確認する少年。

「今のところは大丈夫かな」

「お若いですね」

「君たちよりも少しだけ自分の体の使い方を心得ているだけさ」

「それにしても暫くほったらかしにしてしまっていたので、渚司令が手伝ってくれて助かりましたよ。申し訳なかったですね。せっかくの休みの日に、あんな土仕事に付き合わせてしまって」

「僕が勝手に付いていったんじゃないか。いい暇つぶしになったよ。ここでの生活は退屈で何もすることがないからね」

 少年のその発言に、男性は不満そうに目を細めた。

「…お暇ならしっかり仕事して下さいよ」

「ふふっ。リョウちゃんが何もかもやってくれるから、僕はずいぶんと楽をさせてもらっているよ」

 ニッコリと笑う少年に、男性はやはり不満げに鼻を鳴らす。

「まったく。あなたの下で働く身にもなって下さい。私は本来、ぐーたら人間なのですから」

「その割には君の仕事ぶりは実に楽しそうじゃないか」

「ええ。まあ確かにここでの3カ月は毎日が充実してましたよ」

「公私ともに…だろ?」

 少年からの指摘に、男性は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべた。そして「敵わないな」とばかりに頭を掻く。

「渚司令には感謝してもし切れません。こんな状況下でも妻が子供を産む決意をしてくれたのは、司令が色々と便宜を図ってくれたおかげですから」

「君たちの結婚の保証人になったんだから、それくらいはさせておくれよ。奥方さんも元気そうで、何よりだったね」

「ええ。ようやく安定期に入ったのは良かったんですがね。食欲が回復すると同時にアルコールに対する執着も蘇ってしまったようで、酒から遠ざけるのに四苦八苦してるところです」

「ふふっ。楽しそうな新婚生活だ」

「ああそうだ。妻がこれを持たせてくれたんだった」

 男性は肩に下げていた鞄から魔法瓶とプラスチック製のコップを取り出す。魔法瓶の蓋を開け、中身を2つのコップに注ぐと、片方を少年に差し出した。

 コップを受け取った少年は中身を見つめ、そして男性を見つめる。

「なんだい? これ」

 少年の眉根に、皺が寄っている。

「加持家特製のベジタブルスムージーです」

「すんごい色してるよ…」

「まあ色んなものをぶち込んでますので…」

「これは君の奥方が作ったのかい?」

「ええ」

「確か君の奥方の料理の腕って…」

 少年にしては珍しく、その顔に一抹の不安を湛えている。

「ええ。だからこれは家内がよそ様に出せる唯一の料理です」

「スムージーって、料理って言えるのかな?」

「先日司令が採ってくださったほうれん草や人参も入れてるそうですよ?」

「え? あれも?」

「はい。このご時世、生野菜なんて貴重ですよ。おまけに自分で大地から直に採ったものを召し上がる。これ以上の贅沢はありません」

「ふーん」

 コップの中の、ドギツイ色の液体を見つめる少年。5秒ほど逡巡した上で、意を決してコップに口を付ける。

 一口だけ口に含み、喉仏を上下に動かして口に含んだものを胃の中へと落とした。

 

「まずっ…」

 

 少年が微かに呟いたその言葉を、男性は聞き逃さなかった。

 

「今不味いっておっしゃいましたね! 今不味いっておっしゃった! 人の妻が作ったものを不味いっておっしゃいましたよね!」

「し、しかたがないじゃないか! そう思ってしまったのだから! 僕はこの国の大人たちみたいに本音と建て前を器用に使い分ける事なんてできやしないよ!」

 男性の厳しい追及に、慌てふためきながら釈明に追われる少年である。男性は震える手でコップの中身を睨んだ。

「私はコレを…。妻の愛情たっぷりのこのスムージーを毎朝血の涙を流しながら飲んでいるというのに…」

 少年は心底申し訳なさそうな顔で男性の横顔を見つめた。

「す、すまなかった。初めて口にする刺激に満ち満ちた味に、ついつい口が滑ってしまったんだよ…」

「本当にすまなかったと思ってます?」

 険しい顔だった男性の顔が、急にニヤリと笑う。その顔を見て少年は「謀られた」と悟った。

「じゃあ私の願いを、一つだけ叶えてくれますかね?」

 顔をぐぐっと寄せてくる男性に対し、思わず身を引いてしまう少年である。

「悪魔に対して交渉を仕掛ける君は魔王かな?」

 珍しく不機嫌顔の少年。

「ははっ。別に世界を手に入れたいとか、汚染された大地を浄化してほしいとか、妻の料理の腕を何とかしてほしいとか、そんな大それたことをお願いしたいわけじゃないんです。前にも言ったでしょ。私が抱く願いなんて、ささやかなものですよ」

 少年は「本当に?」と、男性を見つめる目を細めつつ、口を開く。

「2つめの願いは、君自身の手で叶えられそうじゃないか」

「汚染された大地の浄化…、ですか?」

「うん。リョウちゃんが持ち込んでたアレ。ゼーレの技術者たちも驚いてるよ。コア化した大地を人工的に復元する技術をすでに確立させていたなんてね」

「まだ試作段階ですが、海洋研究機構の連中が海水の浄化目的で開発した装置を陸上用に転用させたものです。おかげで、私のスイカ畑もあの通り」

「ふふっ。今からスイカの収穫が楽しみだ」

「ぜひ、また手伝って下さいね」

「それがリョウちゃんの言うお願いかな?」

「あなたに貸しを作るという100年に一度あるかないかの幸運を、そんなことで使うはずありませんよ」

 再びニヤリと笑う男性に、少年は「まいったな」と頭を掻いた。

 

 

 少年はまだ一口しか口を付けていないコップを、男性から見えない位置にそっと置く。

「そう言えば、その海洋研究なんたら?」

「正式名称は海洋生態系保存研究機構です」

「その研究機構とネルフの技術開発部門との研究交流会は今日じゃなかったかな?」

 男性はまるで劇薬でも服用しているかのように、コップの中身を一口一口慎重に慎重に含みながら答える。

「おや。よくご存じで」

「一応、君たちから提出される書類は全て目を通してるんだよ。ただハンコを押してるだけじゃないんだ」

「これはこれは。失礼致しました」

 男性はおどけた態度で謝りながらコップを床に置き、ズボンの後ろポケットから2枚の布を取り出した。

「もちろん、予算書や決算書にも全て目を通してある。随分と矢継ぎ早に補正予算を組んでくれたものだね。おまけに建造中の1番艦なんて、当初の予定とは全く別物の仕様になっているようだし」

「仕様の変更なんてこの世界にはよくあることです」

 2枚の布のうち1枚をパンパンと払って広げる。

「この組織を好きに使っていいとは言ったけど、本当に好きに使ってくれてるようだね」

「ええ。おかげで今日、この日に向けて、周到に事を進めることができました」

 その一枚を折り畳んでひも状にし、自身の右腕に縛り付けようとしたが、片手で腕に布を巻き付け、結び目を作るのは容易ではない。

「むっ…、渚司令。恐れ入りますが、ちょっと手をお借りしてもいいですか?」

「これを結べばいいのかい?」

「ええ、お願いします」

 少年は男性の手に代わって、男性の右の二の腕に青い布切れを縛り付けてやった。 

「なんだい? これ」

「我々の絆の証です。ちなみにほら、渚司令用にも一枚用意してあるんです」

 床に置いていたもう一枚を手に取って、少年に見せた。

「どうですか?」

「うーん…」

 差し出された青い布を、じっと見つめる少年。

「私と同じように」

 そして男性の右腕に縛られた青い布をじっと見つめる。

「いや、やめておくよ」

 少年はゆっくりと頭を横に振った。

「僕が必要としている絆は一つしかないからね」

「そうですか。そりゃ残念だな」

 男性は無理強いすることなく、手に残った青い布を素直にポケットの中に収めた。

 

 少年は男性から目を離し、高い高い天井の隅を見上げる。

「それにしても研究交流会とやらはずいぶん賑やかなんだね。ここまで音が聴こえてくるよ」

「ふむ。あまり騒がしくしないようにとは言ったんだがな」

 厚い岩盤やコンクリートの壁を通り抜けて、ここまで聴こえてくるどこか物騒な物音。

 少年が天井の隅を見上げている間に、男性は鞄の中から取り出したものを2人の間にそっと置いた。少年は横目でちらりと床の上に置かれたものを見たが、すぐに視線を天井の隅へと戻す。

 男性は続けてズボンの後ろポケットから取り出した煙草の箱から一本を取り出し、口に咥えた。ライターに火を点け、咥えた煙草の先端に近付けようとして。

「あっ。いいですか?」

 上官に喫煙の許可を請う。

 少年は再び横目でちらりと男性が咥えている煙草を一瞥。無言で頷いた後、やはり視線を天井の隅へと戻す。

 男性の鼻から盛大に吐き出された紫煙が、2人の間をゆらゆらと揺蕩う。

 

 少年は無言で天井の隅を見つめ。

 そして男性は煙草を摘まんだ右手で膝に頬杖を付きながら、床と、そして左手首の腕時計とを交互に見つめる。頬杖を付く男性の右手の人差し指が、男性の無精髭が浮く頬を忙しなくコツコツと叩いており、上下に揺れる人差し指と中指に挟まれた煙草の先端からはらはらと灰が零れ落ちた。

 

「…落ち着かない様子だね」

 少年は天井の隅を見つめながら言う。

「ええ。待つのは苦手なんです」

 少年の口角が、少しばかり上がった。

「ただひたすら待つ、というのも悪くないものだよ。僕なんて、いつも待ってばかりだ」

 男性は表情を崩さずに言う。

「待ってばかりでは得られないものもありますから…」

「ふふっ。そうだね…」

 少年の小さな笑い声を最後に、2人の口は噤まれた。

 

 しばしの間、宙を揺蕩う紫煙と静寂とが、2人だけの空間を包み込む。

 

 

 

 



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(5)

 

 

 

 

 何処からか轟く物騒な物音に耳を傾け、漂う煙草の煙に鼻を擽られながら、無言で床に座っている少年と男性。少年は物騒な物音がする天上を見上げ、男性は床と腕時計を交互に見つめている。

 

 2人の間の静寂を破ったもの。

 それは2人の間に置かれた、小さな通信端末機だった。

 通信機から、ノイズ交じりに漏れる音声。

 

『…こちらチームアルファ』

 

 床と腕時計を行き来していた男性の視線が、通信機へと向けられる。

 

『こちらチームアルファ。第2発令所制圧に成功。繰り返す。チームアルファは第2発令所を制圧した』

 

 男性は静かに目を閉じた。

 通信機からの音声が途切れるまで止めていた呼吸を再開させ、盛大に鼻から紫煙を吐き出した。強張っていた両肩から力を抜いた。左手を、密かに強く握り締した。

 通信機には、最初の音声を皮切りに次々と別の音声が流れ込んできていた。

 

『こちらチームチャーリー。第5ケージを確保。ただちに硬化ベークライト注入開始します』

 

『本部中枢コントロール室、占拠完了』

 

『エヴァ・パイロットを拘束しました』

 

 

 

 男性は煙草を口に咥えると、両手を組み、天に突き上げて大きく伸びをする。首をコキコキと鳴らし、腕を下ろすと、煙草の灰がズボンの上に落ちるのも構わず一度くてんと顎を下げた。

 ゆっくりと顔を上げ、天井の隅を見つめ続ける少年に、静かに声を掛けた。

「渚司令…」

 少年は目を閉じ、小さくため息を吐いた。

「僕のことはカヲルと呼んでって、言ってるよね?」

 咎めるよな少年の声を無視して、男性は続ける。

「私のささやかな願いを、一つだけ叶えていただけますか?」

「僕にできることなら…」

 男性は先ほどポケットにしまったばかりの青い布を取り出し、少年に差し出す。

「これを、あなたの腕に巻かせて下さい」

 少年は閉じていた瞼を開くと、顔は天井に向けたまま赤い瞳だけを動かして、男性の手の上にある青い布をじっと見つめた。

「それだけです。それが今、私があなたに叶えてほしい、唯一の願いです」

 少年は無言で青い布を見つめている。

「…渚司令…」

 名前を呼ばれ、少年は視線を青い布から男性の顔へと移す。

 男性は、瞬きもせずに少年の顔を見つめている。

 少年の返事を、息もせずに待っている。

 

 

 たっぷりとした沈黙の間の後。少年は天井に向けたままだった顔をようやく下ろし、前髪を掻き上げつつ男性を正面から見つめる。

「リョウちゃん…」

「はい。渚司令…」

「一つだけ聞いておきたいことがある」

「はい。なんなりと」

「エヴァはどうするつもりだい?」

「ゼーレから支給されたエヴァは全て凍結した後、処分します」

「そっか。でもいいかのかい? 使徒との戦いは、まだ終わってはいないのではなかったかな?」

「ええ。ですからユーロネルフ純正の弐号機だけは維持し、対使徒戦に備えようと思います」

「パイロットは?」

「あのユーロネルフの子を充てようと思います。これで少なくとも、あのちびっ子たちを戦場に駆り立てなくて済む」

「ふふっ。思いやりだね。でも弐号機だけで十分なのかな?」

「ご心配なく。我々人類は日々、己が存在を担保するための研究には余念がないのです」

「そうなんだ…」

 少年は男性から視線を離し、虚空へと向ける。

「初号機は…、どうするつもりだい?」

 

 少年が見つめる、暗闇の虚空。

 しかし、よく目を凝らしてみれば、そこには聳えるように立つ巨人の巨大な顔が浮かび上がってくる。

 

 男性も少年と同じように薄闇に浮かぶ巨人の顔を見つめた。咥えていた煙草を右手で摘まみ、まるで巨人の顔に吹き掛けるように口の先から細い紫煙を吐き出す。

 

「…破壊します」

 

 男性がぼそりと呟いたその一言に重ねる様に、少年は深くため息を吐く。

「それは…、君の意思かな?」

「我々の…、ヴィレの総意です」

「その総意とやらには、君の奥方の意思も含まれているのかな?」

「妻はまだ我が組織に参加していません。ですから、妻の意思は関係ありません」

「初号機には君の奥方の被保護者が居る。それでも関係ないと言えるのかな?」

「はい…」

 少年は目を閉じ、やれやれとばかりに収まりの悪い髪をワシワシと掻いた。

「せっかく穏やかな新婚生活を送ってるというのに。わざわざ自ら波風起こさなくてもいいんじゃないかな?」

「妻は我々の決断を分かってくれるでしょう。許してはくれないでしょうが…」

「…その総意を君の一存で覆すわけにはいかないのかな?」

「できません。ニアサードを引き起こしたという事実に、我々は目を瞑るわけにはいかないのです」

 一歩たりとも譲歩の姿勢を見せようとしない男性。

「そっか…」

 まるで溜息を吐くように、短く呟く少年。かくんと首を垂れ、足の間の床を見つめる。

「……そっか」

 膝の上に組んでいた両の手に、わずかばかり力がこもった。

 

「…もしかしたらシンジ君」

 薄闇の中の巨人の顔を見上げる。

「君のお父さんが君を初号機に残したのは、この時のためだったのかもしれないね…」

 

 

 少年は側に置いていたコップを手に取り、中身をぐいっと一気に飲み干す。

 一口目と変化なく、この世のものとは思えない、刺激に満ち満ちた味。

 しかし常に柔和な笑みを浮かべている少年の表情が苦々しく歪んでいるのは、決して口に含んだ液体の味の所為だけではないだろう。

 

 少年は手の中のコップをくしゃりと潰すと、ぽいっと遠くに投げた。床の上をカラカラと、プラスチック製のコップの転がる音が響く。

 少年は床に手を付き、ゆっくりと腰を上げる。膝を伸ばし、床から手を離し、腰も伸ばす。

 こちらを見下ろすように聳え立つ巨人。その巨人の顔を、微笑みながら見つめ、そして振り返る。

 

 

 床から立ち上がった少年。

 男性の方に振り返った少年。

 男性と、背後の暗闇の中に聳え立つ巨人との間に立つ少年。

 

 いや。

 立ちはだかる少年。

 

 士官服のズボンの両ポケットに、無造作に両手を突っ込んで立っている少年。

 まだ顔にあどけなさを残す、男性の肩ほどの背丈しかない少年。

 そして背後に聳える巨人に比べれば、遥かに小さい少年。

 

 しかし少年から男性に向けられる眼差し、そして彼が纏う空気は雄弁に物語っている。

 

 この場における、絶対的な強者は誰であるか、を。

 

 

 男性の頬を、一筋の汗が伝う。

 発達した喉仏が大きく上下に動き、咽頭の中を生唾が通り抜ける。

 男性は逃げるように少年から視線を逸らして床に落とした。意識的に、大きく深呼吸する。1度。2度目は目を閉じて。高鳴る心臓が落ち着いたこと確認すると、最後にもう一度タバコを咥え、深く息を吸った。息を止め、吸い掛けのタバコを遠くへ放り投げると、鼻から紫煙を少しずつ漏らしながらゆっくりと立ち上がる。

 2回ほど両頬をパンパンと叩いた後、右手をベルトの腰の辺りに忍ばせた。羽織っていたジャケットの裏に隠していたものを握り、引き抜く。

 

 少年は男性が握ったものを見て冷笑する。

「そんなものを持ち出してどうするつもりだい? 僕の正体は君も薄々気付いているのだろう?」

 紫煙を周囲に纏わせる男性は握った自動拳銃のスライドを引くと、一旦右腕をだらんと下げて銃口を床へと向け、ジャケットのポケットに左手を突っ込む。

「言ったでしょう。我々人類は日々、己が存在を担保するための研究には余念がない、と。ましてや使徒という人類の天敵を駆逐するという喫緊の課題に対する研究には、労力を惜しみません」

「ここに君らが頼れるエヴァは存在しないよ?」

「確かに使徒を倒してきたのはエヴァです。ですが我々人類がいつまでもエヴァという得体の知れないものに頼るか弱い存在だとは考えない方が身のためですよ」

 男性はポケットから取り出したものを床に投げた。

 2人の間の床に転がる小さな黒い立方体。ピピっと小さな電子音が響き、上面がうっすらと淡い光を灯す。

 

 立方体が淡い光を灯し始めた途端、肌に微かな痺れのようなものを感じた少年。立方体を見つめる少年の目が僅かに細まった。

「アンチATシステム。こんなものまで造っていたんだね」

「ゼーレとネルフと海洋研究機構の技術を集めれば、案外簡単に作ることができましてね」

 

 男性は、ぶらんと下げていた右腕をすっと水平に伸ばした。

 

 右手に握られた拳銃の銃口が、まっすぐに少年の顔へと向けられた。

 

 男性の顔が、苦々しく歪む。

「こんなもの…。あなたには向けたくなかった…」

 少年の顔からは、笑みが消えることはない。

「仕方がないことだね。この世界で一番大切にしたいもの。決して譲れないもの。それが君と僕とでは違っただけだ」

「たった一つの違いだけで、血を流し合う必要はないでしょう。…渚司令」

 男性は改めて青い布を少年へと差し出す。

「これをあなたの腕に巻いてください」

「僅かな違いが生む破局を、君たち人類は何度も目の当たりにしてきたはずじゃなかったのかな?」

「私たちなら先人が犯した愚を回避することができるはずです。あなたと過ごしたこの3カ月で、私はそう確信しています。ですから渚司令」

 右手には拳銃を持って。左手には青い布を持って。

「これを巻いてください」

 少年は静かに頭を横に振る。

「…君には悪いけど、僕はその愚を犯し続けている先人とやらさ」

 自嘲気味に、そして諦念さえ漂わせる少年の笑み。

 

「渚司令…」

 男性は人差し指を拳銃の引き金に掛けた。

 

「すまないね…。リョウちゃん…」

 少年は終始笑みを絶やすことはなかったが、そのやや大き目の口から放たれた声は、今にも泣いてしまいそうだった。

 

 

 

 



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(6)

 

 

 

 

 対峙する少年と男性。

 少年よりも一回り以上大きい体躯を誇り、なおかつその右手で構えているのは自動拳銃。しかしその銃口の射線を正面から受け止める少年は、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、平然と立っている。

 

 少年はただ立ったまま。

 男性は右手に握った拳銃を少年に向けて構えたまま。左手に持った青い布は床に向けて。

 2人とも石化の呪文でも掛けられてしまったかのように身じろぎ一つせず、同じ姿勢のままで長い時間が過ぎた。

 

 

 2人の間の静寂を破ったもの。それは今回も2人の間に置かれた小型の通信端末機から流れる音声だった。

 

『第5ケージに硬化ベークライト注入完了。エヴァ2機、無力化に成功しました』

 

 柔和な笑みを湛える少年の目を、じっと見つめていた男性。

 数分ぶりに、瞬きをした。

 その視線を、一瞬だけ床の上の通信端末機に投げる。

 すぐに視線を少年の顔へ戻し、拳銃は構えたままで、ゆっくりと床の上の通信端末機に近づいていく。膝を折り、左手に握っていた青い布切れを今一度ズボンのポケットにしまい、床の上の通信端末機を拾い上げた。

 通信端末機を口に近づけ、側面のスイッチを押す。

「こちらコマンダー。再度報告せよ」

 

『は、はい。こちらチームデルタ。第5ケージに硬化ベークライト注入完了。エヴァ2機の無力化に成功です』

 

 男性の眉間に皺が寄る。

 

「2機。確かか?」

 

『はい。2機です』

 

「各機のナンバリングは?」

 

『はい。「7」、それに「8」。以上です』

 

 男性の表情が、険しくなる。

 

「「6」はどうした?」

 

『第5ケージに「6」の姿はありません。目下、捜索中です』

 

 男性は通信端末機のスイッチから指を外し、床を睨みつける。

「馬鹿な…。昨日の時点で稼働可能な機体は全て第5ケージに集めたんだ。30分前に確認した時も、マーク6は確かに第5ケージに繋がれていたはず…」

 

「パイロットは…?」

 その声は通信端末機からではなく、正面から聴こえてきた。

 男性は床に落としていた視線を声の主へと向ける。

「パイロットは、全員確保できているのかな?」

 絶やすことのないはずの笑みを断ち、いつになく真剣な表情を浮かべている少年の顔が、そこにはあった。

 男性は再び通信端末機のスイッチを押す。

「拘束したパイロットの人数は?」

 やや間を置いて、通信端末機のスピーカーから声。

『3名です。ナンバー4、5、6の3名を拘束済みです』

 

 その報告に、男性は目を点にする。

 焦点の合わない目で虚空を見つめたまま、ぼそりと呟いた。

「トロワが…いない…」

 ゆっくりと、目の焦点を正面に立つ少年の顔に合わせる。

「トロワと…、マーク6が…、消えた…」

 

 少年は、黙って男性の顔を見つめ返している。

 

 男性は少年の顔を見つめたまま何度か目を瞬かせた。

 3度目の瞬きを終え、いつもの表情に戻った彼は、通信端末機に話し掛ける。

「そこに日向マコトくん、あるいは青葉シゲルくんは居るか?」

 暫く間を置いて。

『はい。2人とも。捕虜の中に』

「おそらくその場に居る者で最も本部内の構造とセキュリティに精通しているのがその2人だ。すぐにマーク6とパイロットの捜索にあたらせろ。拒むようならば多少の暴力も厭うな」

『はい』

 

「ターミナルドグマを」

 通信相手の会話が終わると同時に聞こえたのは、少年の声。

「え?」

「ターミナルドグマを調べさせるんだ」

 男性は少年の顔を見つめながら、通信端末機のスイッチを押す。

「至急、ターミナルドグマを調べろ」

 

 男性はスイッチをオフにした通信端末機を胸に当てる。

「何が起きようとしているんです…」

 おそらくは現状を最も理解しているであろう人物に、答えを求めた。

 しかし答えを求められた相手は口許に人差し指を当て、黙って報告を待つよう促す。

 

 30秒ほどの沈黙の後。

 

 男性が持つ通信端末機から、小さなスピーカーを壊してしまいそうなほどの怒鳴り声が鳴り響く。

 

『マーク6を発見! ターミナルドグマへ向かってメインシャフトを降下中です!』

 

 男性は少年の顔を見つめた。

 何故マーク6の所在を知っていたか。そして何故、マーク6はターミナルドグマへ向かっているのか。2つの疑問を同時に少年にぶつけるような、厳しい眼差しで。

 

「渚司令…!」

 

 呼ばれた少年はゆっくりと頭を横に振り、そして再び人差し指を口元に当てた。

「まだだ…。リョウちゃん…」

「え?」

 

「この次に届けられる言葉…。それがおそらく…、一番大切な情報だ…」

 

 そう囁いて、目を閉じてしまった少年。

 男性は、視線を通信端末機に戻し、そして少年に倣い、沈黙を保って次の報告を待った。

 

 15秒ほどの沈黙の後。

 

 通信端末機のスピーカーから、再び怒鳴り声。

 

『パターン青です! メインシャフト内に使徒を確認!』

 

 少年は閉じていた瞼を、ゆっくりと開く。

 男性は、震える手で通信端末機を握り締める。

 

『MAGIはメインシャフト内の反応を正式に使徒と認定! マーク6及び使徒、同速度で降下中! あと30秒でターミナルドグマに到達します!』

 

 男性は通信端末機を握る左腕をぶらんと下げた。

 奥歯を噛み締めた顔で、少年の顔を見つめる。

 

 少年は一度溜息を吐いた後、ゆっくりと口を開いた。

「どうやらおじいちゃんたちは待ちくたびれてしまったようだ。自らの手で、時計の針を前に進めるつもりらしい。鬼の居ぬ間に…ね」

 

『ヘブンズドア、開きます!』

 通信端末機から聴こえる報告に、少年は思わず笑みを零してしまう。

「ふふ。何度目かの僕が演じた役柄を、今度は彼女が果たすか…」

 通信端末機からの声は、次第に悲鳴じみたものへと変化していく。

『マーク6及び使徒、さらに前進します! リリスとの接触まで、あと30秒! このままではサードイ……』

 

 男性は通信端末機の側面にあるつまみを捻り、通信機の電源を切ってしまった。

 

 右手に握る拳銃の銃口は、ずっと少年の胸を狙ったまま。

 そして険しい顔で、少年の顔をじっと見つめる。

 

 少年はいつの間にか取り戻していた柔和な笑みを口元に浮かべ、静かに男性を見つめ返す。

 

 

 

 男性は少年を狙い続けてきた拳銃をゆっくりと下ろした。

 ふっ、と口もとに笑みを浮かべ、肩に入れていた力を逃す。

 

 急に警戒心を解いた男性に、少年は拍子抜けしたようにきょとんと目を丸くする。

 

 男性は拳銃をジャケットの裏に隠していたホルスターにしまうと、頭を掻いた。

「まったく。こーゆーのを、そーゆー星の下に生まれたって言うのでしょうな」

 男性の声音は、いつもの。彼の大らかな性格をそのまま表す、ゆったりとした声音に戻っていた。

「え?」

 少年は相変わらずきょとんとしている。

「タイミングが悪いという奴ですよ。俺の人生。いつもほんの少しだけ、タイミングが悪いんです」

「そうなのかい?」

 少年は男性を見つめる目を、ぱちぱちと瞬かせている。

「8年前もそうです。あの日、あの時、電車が止まらずに待ち合わせに間に合ってさえすれば、彼女に俺の気持ちを伝えられていたはずなんです。そうすればきっと今頃はこの腕に2~3人の我が子を抱いていたはずなんです」

「はぁ…」

 男性が何のことについて言っているのか分からず、適当な相槌を打つことしかできないでいる少年。男性は構わず続ける。

「今日もそうですよ、ああまったく。あと1日。いやいや、あと1時間でも早く決行していたら、こんな事態は防げていたのかもしれないのに…」

 捲し立てるように喋っていた男性。その声が、少しずつ勢いを失い始めた。

「あと少しで…、本物の我が子を抱いていたはずなのに…」 

 男性は通信端末機を握る左手の甲を、自身の額に押し当てた。

 目を閉じ、そのまま押し黙ってしまう。

 

 額に当てられた手で隠れてしまった男性の顔を、少年はやはり黙ったまま見つめる。

 

 

 男性が口を噤んでいたのは、ほんの10秒程度の間だった。

 

 

 額から手を離す。

 2度だけ鼻を啜り、1度だけ目尻を手の甲で拭う。

 両手を腰に当て、肩を上げ、下げると同時に短い溜息を零し、うんうんと自分を納得させているかのように2度小刻みに頷いた。

 

 通信端末機の電源を入れる。

 

「こちらコマンダー…」

 

 男性が呼び掛けると同時に、スピーカーからは極度のパニックに陥った人間の声が届いた。

『加持さん! 何やってたんですか! ターミナルドグマに正体不明の高エネルギー体を確認! 加持さん、これってサードインパ…!』

 

「落ち着け」

 相手のパニックぶりが滑稽だったらしく、男性は笑みを零しながら通信端末機に話し掛けた。

「捕虜含めて全員速やかにネルフ本部から退去。可能であればジオフロントからも脱出するんだ。それとチームフォックストロット、聴こえるか?」

 

『はい! チームフォックストロット!』

 

「使用可能なVTOLを至急本部ヘリポートまで下ろしてくれ」

 

『VTOLを…ですか?』

 

「ああ。強制停止信号プラグ、それと搭載量ギリギリまでアンチLシステムを載せてな」

 

「リョウちゃん…」

 

『ですが強制停止信号プラグはまだ試験段階にも達していませんが…』

 

「構わないさ。この時のために開発したんだ。今使わなくてどうするよ」

 

「リョウちゃん…」

 

『分かりました。5分で向かわせます』

 

「おう、よろしく。俺も5分以内に行くから。ああ、アンチL防護服も忘れないでおいてくれよ。あんな所を普段着でピクニックなんて、俺はごめんだぜ」

 

「リョウちゃん!」

 

「防護服は俺用の一着でいい。じゃあよろしく頼むよ。ああ、あとこの事は妻には内緒だぞ。通信終わり。…そんなに大きな声を出さなくても聴こえてますよ。渚司令…」

 通信端末機を顔から離した男性は、落ち着き払った様子で少年の顔を見た。

「なんて顔をしてるんです。あなたらしくもない」

 まるで2分前まで少年が浮かべていた柔和な笑みを、今度は男性が浮かべている。

 対して少年は、2分前に男性が浮かべていたような険しい表情で男性を見返していた。

「僕は今君が言っていた強制停止信号プラグもアンチLシステムも、その設計書には目を通している」

「おやおや。強制停止信号プラグもアンチLシステムも、我が海洋研究機構の極秘情報のはずですが」

 からかうような男性の口調を、少年は無視して続ける。

「無理だ。一度起きたインパクトの前に、君たちが頼みとする強制停止信号プラグもアンチLシステムも、何の役にも立たない」

 男性は脱いだジャケットを床に投げ、締めていたネクタイを緩め始める。

「やってみなくちゃ分からんでしょ。何事も挑戦です」

 ワイシャツの袖を腕まくりすると、男性の鍛えられた逞しい腕が現れる。

「馬鹿げている。君も分かっているはずだろう。君たちにはもう、サードインパクトを止める手段はないんだよ。奇蹟でも起きない限りね…」

 両方のシャツの腕を肘まで捲った男性は、わざとらしく両手を肩の高さまで上げてみせた。

「残念。奇蹟って言葉は、うちの妻が大嫌いな言葉でしてね」

 

 ここには居ない彼女の顔を思い浮かべた。

 いつもどこか不機嫌そうな顔をしている彼女の顔は、思い浮かべた頭の中でもやはり不機嫌そうな顔をしているが、いつも通りの彼女の顔を思い浮かべることができた男性は満足そうに笑った。

 

「我々がするべきことは奇蹟を願って待つより、望む結果をもぎ取るために捨て身の努力をすることだそうですよ」

 少年は穏やかな男性の声を打ち消すように、厳しい声を投げかける。

「やめよう。リョウちゃん。無駄な努力に貴重な時間を費やすよりも、今は残された時間を君の大切な人と共に過ごすべきだ」

 少年のその言葉に、一瞬だけ男性の動きが止まり、表情からは笑みが消える。

 しかしそれはほんの一瞬の間に過ぎず、すぐに表情には笑みが戻り、そして腕時計に視線を落とす。

「おっと。早く行かないと」

「リョウちゃん!」

 巨人の足もとで仁王立ちしていた少年が、一歩だけ男性の方へと踏み出した。

「なんです? 渚司令」

 

「何故…。どうしてそこまで…」

 

 「何故」と問われ、自分としは至極当然のことをしようとしているつもりだった男性は、きょとんと目を丸くしてしまった。上官の問いを無視するわけにはいかず、ズボンのポケットに両手を突っ込み、虚空を見上げながら5秒ほど考え、そして答えを導き出せたのか床を見つめてふっと笑い、少年へと視線を戻す。

 

「渚司令…」

 少年は明らかに苛立ちを纏った溜息を鼻から漏らす。

「いい加減、カヲルって呼んでくれないかな…」

 そんな不貞腐れたような態度の少年に、男性は小さく笑った。

「司令には、全てを捧げてでも、何もかも投げうってでも守りたいものってのはありませんか?」

 質問に対して質問で返されてしまった少年だったが、その問いについては真摯に答えた。

「…幸せにしたい人…ならいるよ」

 そうポツリと言った少年の顔が、その一瞬だけは外見相応の子供らしい表情になったように見え、男性は優し気に笑う。

「そっか。さすがは渚司令だ…」

「どいゆう意味だい?」

 男性は視線を床に落としながら言う。

「私には人が望む幸せを推し量ることなんてできません。私が思い描く幸せが、相手の幸せとイコールは限りませんから。だから、あなたのように誰かを幸せにしたいと思うこともできません」

 男性の顔に浮かぶのは自嘲的な笑み。

「あるいは今日この日にインパクトが起きて何もかも終わらせてしまった方が、今度生まれてくる私の子供にとっては幸せかも知れませんな。こんな海も大地も汚された地獄のような世界で生きなければならないことを考えれば…」

 溜息を一つ入れ、少年の頭の遥か上にある、暗闇の中に薄っすらと浮かぶ巨人の顔を見上げる。

「ですが子供の幸せの定義を決めるのは父親のすることではありません。父親が子供にするべきことは、子供の存在とその未来を守るためにあらゆる努力を尽くすことです」

 そして視線を巨人の顔から、まっすぐに少年の顔へと落とした。

「そして、自分の子ならば、それがどんな未来であっても、逞しく生きていけると信じてやることです」

 自身の空っぽの両腕を見つめる。

「結局、我が子には、抱いてやることもあやしてやることもできませんでしたが、…未来を残してやれたら、父親としては十分合格でしょ?」

 顔を上げ、ニッコリとした笑顔で、少年の顔を見つめた。

「ありがとう、渚司令。私の最後の上官があなたで、本当に良かった」

 少年は何も答えない。口を噤んだまま、男性の足音を見つめている。

「そんじゃ、ちょっくら行ってきます」

 男性はまるで所用でも済ませてくるかのような軽い素振りで少年に向けて手を振ると、踵を返して歩き始めた。

 

 

 

 



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(7)

 

 

 

 

 男性の後ろ姿が離れていく。

 その大きな背中を見つめながら。

 

「……まいったな…」

 

 一人その場に留まる少年は小さく呟いた。

 

「…まいったね…」

 

 自分に言い聞かせるように、2度呟く。

「まったく…。この僕が「彼」以外のリリンの言葉に揺り動かされることになるとはね」

 収まりの悪い白銀の髪をガシガシと3回ほど引っ掻いた。

 両手を腰に当て、一度だけ深呼吸する。

 背後を振り返って、遥か頭上の巨人の顔を見上げ。

 そして離れていく男性の背中を見つめ直した時には、彼の顔にはいつもの柔和な笑みが戻っていた。

 

 少年は口を開く。

 

「リョウちゃん」

 

 少年の朗らかな声はだだっ広いこの空間の中でもよく響いた。

「はい?」

 男性は歩みを止め、首だけ捻って振り返る。すでに遠く離れた少年の顔はよく見えないが、その顔は笑っているように見える。

「いいよ」

 まるで朝の小鳥の囀りのような、軽やかな少年の声。

「何がです?」

「僕が行こう」

「何処へ、ですか?」

 察しの悪い男性の反応に、少年の柔和な笑みは苦笑いへと変化する。仕方なく、少年はもう少し具体的に言ってみることにした。

 

「僕がサードインパクトの波を封じる。そう言ってるんだ」

 

 男性の眉が、少しだけ上がった。

「渚司令…」

 踵を返し、体ごと少年に向ける。

「僕でも一度起きてしまったインパクトを無かったことにすることはできないよ。でも君たちの強制停止信号なんたらやアンチLシステムとやらに比べたら、僕の方が確実にインパクトの影響を最小限に抑えることができるはずさ」

 少年はズボンのポケットに突っ込んでいた両手を外に出すと、のんびりとした足取りで男性の方へと向かって歩き始めた。

「それに僕だったら防護服も必要ないし」

 男性のもとへと近づいていく少年。

「VTOLよりも早くターミナルドグマに辿り着けることが出来るし」

 遠くてよく見えなかった少年の顔が、はっきりと見えるようになった。

「何より僕には一度インパクトを止めたっていう、揺るぎない実績があるからね」

 見る者全ての心に、福音という種を植え付けてしまいそうな、そんな笑みを宿した少年の顔が。

「渚司令…」

 少年は笑みを浮かべたまま、男性の横をのんびりとした足取りで通り過ぎていく。

「リョウちゃん。君への貸しは、これで帳消しというこでいいよね?」

 すれ違いざまに、ぽんと男性の肩に手を叩いてみた。

 男性は潤ませた目を細めて言った。

「もちろんです」

「初号機の処遇については全てが終わってからにしよっか。話し合うなり、殴り合うなりしてさ…」

「…分かりました。渚司令…」

 少年はにっこりと笑う。

「やだなあ。僕のことはカヲルって…」

 

 

  ピピッ

 

 

 その小さな電子音は、すぐ近くから聴こえた。

 

 少年の歩みが止まる。

 少年の顔から、笑みが消える。

 

 少年の右手がゆっくりと上がり、その指が首に触れた。

 

 ごくりと、生唾を呑み込む。

 

 少年は目を閉じた。

 色素の薄い唇を噛み締め。

 その眉根に、深い皺を寄せて。

 

 

「…リョウちゃん…」

 

 

「渚司令…」

 男性は急に歩みを止め、俯いたまま固まってしまった上官の頭を不思議そうに見下ろす。

 

「すまない…、リョウちゃん…」

 少年はゆっくりと顔を上げ、隣に立つ男性の顔を見上げる。

 その幼さを残した顔に、悲痛な面持ちを浮かべて。

「老人たちは…。彼らはこの事態に対する僕の介入を禁じてしまったようだ…」

 

 男性は少年の右手が触れる彼の首もとを見た。 

 少年の首に常に嵌められている首輪。その特別仕様の首輪の名前を、男性は知っている。

 

「DSS…チョーカー…」

 

 黒いベルトの中央にある銅色のプレート。

 そのプレートが、淡く光っていた。

 

 少年の耳にまで、男性の奥歯が鳴らす歯ぎしりが聴こえた。

 

 少年は目を伏せる。

「本当に…、すまない…」

 少年の声は震えていた。

 これほどの無力感に苛まれたことがかつてあっただろうか。

 少年の白い両手がぎゅっと握りしめられ、指の爪が手の平の皮に深く食い込んだ。

 

 さぞ失望させてしまったことだろう男性の顔を見ることができず、薄く開けた瞼の隙間から男性の足もとを睨んでいたら。

 

 ポンポンと、誰かに頭を軽く叩かれた。

 

「まあ、そんなに肩を落としなさんな」

 顔を上げると、大きな手が自分の収まりの悪い髪の上に乗っている。誰かに頭を撫でられることなど生まれて初めてだった少年は、白磁のような頬を微かに赤らめた。

「ありがとう、渚司令。あなたの気持ち、本当に嬉しかった」

 男性が穏やかな笑みを浮かべながら、少年を見下ろしていた。

 

 男性の屈託のない笑みが眩しくて、少年は再び目を伏せてしまう。

 そして着用していた士官服の上着の詰襟を解くと、第1ボタンを外した。開いた胸元に手を突っ込み、中から首に掛けていた細い鎖の輪を引っ張り出した。

 その細い鎖の輪に吊り下げられていたものを右手で握り締める。

 そしてそれを思い切り引っ張った。

 ブチっと小さな音と共に、それは鎖の輪から外れる。

 少年は右手に残ったそれを、男性へと差し出した。

 

「これを持っていくといい…」

 男性は少年から受け取ったものを見つめる。

「これは…」

 男性の手の平に乗る、赤い棒状のもの。

「カシウスの槍…」

「カシウスの槍…、これが…」

「そう。僕がリリンが言うニア・サードインパクトを止めた時に使ったものだ…」

 

 大人の手のひらより少し大きいだけの小さな槍。

 まるで鳥の羽根のような、軽い槍。

 

 俄かには信じられないという男性の表情に、少年は小さく笑った。

「これを使ってインパクトの依代となるマーク6を強制停止させる。これがインパクトの波を抑える唯一の方法だ」

 呆けた表情で小さな槍を見つめてた男性は、少年のその説明についつい笑ってしまった。

「なんだ。理屈は我々の強制停止信号プラグと変わらんですな」

 軽口を叩きながらおどける男性に、しかし少年は厳しい視線を向ける。

「そう。だから、誰かがインパクトの爆心地に赴かなければならない」

「分かってますよ。渚司令」

 男性はズボンの後ろポケットに突っ込んでいた青い布を取り出し、渡された小さな槍をそっと大切に包んだ。

 それを見ていた少年は思い出したように踵を返すと、床の上に投げられていた男性のジャケットまで駆け寄り、拾い上げて男性のもとまで駆け足で戻る。

「リョウちゃん。大切なものを忘れてるよ」

 少年はジャケットの袖に縛られたまま残っていた青い布を剥ぎ取り、青年の右の二の腕に巻いてやった。

「ありがとう。渚司令」

 自分の腕に絆の証を結んでくれる少年の横顔を、男性はまるで我が子を見守る父親のような眼差しで見つめていた。

「うん。…もう止めないよ」

「はい。渚司令」

「爆心地は、君たちの想像を絶する所だ」

「ええ。分かってます。妻からも、よく聴かされてきましたから」

「そっか」

「ええ。…あ、渚司令」

 何故だかにんまりと笑う男性。

「なんだい?」

 少年はそんな男性の顔を訝し気に見つめながら、巻いた布の端と端で結び目を作り始める。

「渚司令って、もう女は知ってるんですか?」

「へ?」

 男性の口から出てきた突拍子のない質問に、少年は口をあんぐり開けながら間の抜けた声を上げてしまった。

「あれ? もしかしてチェリーくんですか?」

 揶揄うような男性の口調に、少年はやや不快そうに顔を顰めながら答えた。

「うん。確かに僕自身の槍は未だいかなる門も貫いたことはないけれど、そもそも僕たちは性衝動とは無縁の生きも…」

「機会があったら一度は女を抱くと、いや、抱かれるてみるといい」

「はあ?」

 再び間の抜けた声を上げる少年。

「女の腕の中。それこそ想像を絶する世界ですよ」

「何を言ってるのかな、こんな時に君は」

 少年は男性の出来上がった結び目がそう簡単にはほどけそうにないことを確認すると、これで完成とばかりにその結び目をポンと叩いた。

「残念です、渚司令」

 どこか芝居掛かった男性の口調。

「司令には、大人の男として、土仕事以外にももっと色んなことを。それこそあんなことやこんなことまで教えてやりたかったのに」

「もう。馬鹿なこと言ってないで、さっさと行ったらどうかな」

「はいはい」

 男性は少年からそっと2歩ほど離れる。

 そして踵を鳴らし、猫背気味の背中をぴんと伸ばし、額に右手を掲げ、大袈裟な敬礼をしてみせた。

 

「ネルフ副司令官、加持リョウジ! 最後のお勤めを果たしてまいります!」

 

 大仰なセリフと姿勢の割には、何とも締まりのない、ニヤっとした、彼らしい笑顔。

 

 少年も背筋をピンと伸ばし、現在の役職に就いてから一度もしたことがなかった敬礼を返してやる。

 彼らしい柔和な笑みを、今にも涙で崩してしまいそうな表情で。

 

「うん。行ってらっしゃい。リョウちゃん」

 

 

 

 



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(8)

 

 

 

 

 ガラス張りの世界。

 

 ガラスの枠で縁取られた世界。

 

 自身が吐く息に合わて白く曇ってしまう世界。

 

 汚染された空気で見通しの悪い世界。

 

 

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」

 

 

 完全密閉された体。 

 

 呼吸の音が、すぐ耳もとで聴こえる。

 

 胸の中の鼓動が、すぐ耳もとで聴こえる。

 

 

 

 赤銅色の空に灰色の大地。空の真ん中には、地上を見下ろす巨大な瞳のような真っ黒な穴が、その外周に何重もの光の輪を従えてぽっかりと空いており、その穴はまるで怪物の口のように地上にあるあらゆるものを吸い上げようとしている。

 顔を上げれば、この世の終わりに相応しいと言える、この世のものとは思えない異様な光景が飛び込んでくるようなこの状況下で、加持リョウジは空に開いた大きな穴に吸い込まれてしまわないよう、灰色の地面を見つめながら一歩一歩慎重に歩みを進めていた。

 もっとも、彼が着る機動性を度外視したような防護服では、走りたくても走ることができない。宇宙服をさらに3割増しに膨らませたような分厚い防護服の中で、加持は汗だくになりながら懸命に灰色の大地を踏みしめ、歩き続けている。

 

 

 

「ぐわっ!」

 

 宙へと巻き上げられた大きな瓦礫が頭上を掠め、咄嗟に地面に伏せる。

 

「おおっと!」

 

 直後に伏せた地面が大きく揺れ、大地に巨大な裂け目が走った。

 足場が崩れ、天と地が反転。裂け目の底に目掛けて真っ逆さまに落ちる寸前の所で、裂け目の淵に両手でしがみ付く。

 

「ふ~、危ない危ない」

 

 暗くて見えない裂け目の底を見下ろしながら安堵のため息を漏らす。額から伝う大量の汗が目の中に流れ込んでくるが、完全密閉の防護服を着ているこの状況では手で拭うことさえできない。

 底の見えない暗闇は見つめ続けていたら別世界へと誘われてしまいそうだったので、何度か瞬きして目の中に溜まった汗を追い出し、今度は空を見上げてみた。地上を見下ろす巨大な瞳と目が合う。頭上では、ビルくらいの大きさの巨大な瓦礫が幾つも宙を舞っている。

 

「これが原罪で穢れた生命を阻むというL結界の中か…。なるほど…。こりゃ…、想像を絶するな…」

 

 想像を絶するものを目の当たりにした人間は、頭の中の処理が追い付かずにむしろ笑ってしまうらしい。

 

「でもま…、彼女が作る料理の…、味に比べれば…」

 

 笑みを浮かべながら、懸命に裂け目をよじ登る。

 

「まだまだ常識の…、範囲内だ…」

 

 初めて彼女の手料理を口にした若かりしあの日。夜明けは彼女の部屋のベッドではなく、病院のベッドで迎えたっけ。

 随分昔のことを思い出しながら、辛うじて大地の裂け目から脱出した彼は、防護服の手首にあるコントロールパネルに目をやる。小さな画面上に表示される様々な数値。

 

「L結界密度、観測史上最高値を更新…か。これだけでも、俺の名前は歴史に残るかな…」

 

 防護服の完全密閉型のヘルメットの下で、加持は歯を見せて笑う。

 

「そのためにも、人類には歴史を紡ぎ続けてもわらなくちゃ…」

 

 防護服が備えたセンサーによって採取されたデータは、常に彼の仲間のもとへと送られている。このデータが、何時か彼らの役に立つ日が来ることを信じながら、彼は休むことなく目的地へと向かって歩き続けている。

 

 

 

 彼が今歩いている場所。

 それは正確に言えば、大地ではなかった。

 また彼を見下ろす赤銅色の空。それも、正確に言えば空ではなかった。

 ここは地上から遥か奥底にある地下の空間。空など、見えるはずがなかった。

 

 そして彼が立つ場所。大地ではない場所。

 それは生物の背中だった。

 人間と似たような形状の生物。2本の足があり、2本の腕があり、胴があり。

 人間と違うところと言えば、全身が全て真っ白という点と、とてつもなく巨大であるという点。そして首から上がないという点であった。

 そのとてつもなく巨大な白い生物は、首を落とされ、さらには背中を巨大な赤い槍で貫かれながらも、地下の空間の底に四つん這いになり、のっしのしと、非常にゆっくりとした足取りで移動している。

 

 そしてとてつもなく巨大な白い生物の背中に、まるでデキモノのようにニョキと生えている、いや、埋まっている小さな何か。

 あまりにも巨大過ぎる白い生物に比べればまるでデキモノのような小さい何かだが、それでもそのデキモノは人間に比べれば遥かに大きい。

 そのデキモノ。やはり人の形をしたもの。

 すなわち、巨人。

 

 とてつもなく巨大な白い生物の背中に埋まった巨人の腹。

 巨人の腹の上で、まるで小さなしゃくとり虫のようにへばり付いて、よじ登っているモノ。

 

 

 

「どんなに…、科学が…、進歩しよとも…」

 

 腕を懸命に伸ばしては、壁にへばり付き。

 

「結局最後に…、モノを言うのは…、お袋がくれた…、この体か…」

 

 足場を蹴り上げて、壁をよじ登る。

 

「ビバ! 人間! だね!」

 

 巨人の腹を登り切り、ついに目的の場所に立った。

 

 

 

 そこは巨人の腹部と胸部のつなぎ目の部分。

 

 巨人が纏う装甲の、胸当てと腹当ての隙間を覗き見る。

 

「これが…、マーク6の…、コア…!」

 

 激しい呼吸で曇ってしまったガラス越しにでも見える、赤く光る巨大な球体がそこには鎮座していた。

 

 腰のポーチのファスナーを開け、中から青い布に包まれた槍を取り出す。

 布は大事にポーチの中にしまい、小さな槍を右手に握りしめた。

 防護服の分厚いガラス越しに見つめる小さな槍。

 

 彼にとっての、希望の槍。

 

 大切な人たちの未来を紡ぐ槍。

 

 その槍が、二重にも三重にもダブって見えた。

 

 

 加持は咄嗟に固く目を閉じ、頭を小刻みに横に振る。

 

 目を開くが、彼にとっての未来と希望の槍は、元に戻るどころかさらに四重にも五重にも重なり、歪んでしまった。

 

「ハッ…、ハッ…、ハッ…、ハッ…、ハッ…、ハッ…」

 

 呼吸が明らかに促迫している。

 

 心臓が今にも爆発してしまいそうなほどに踊り狂っている。

 

 鼓膜を劈くような耳鳴り。

 

 脳味噌を錐で刺されたような激しい頭痛。

 

 全身が激しく戦慄いている。

 

 

 

「ここまでか…」

 

 

 

 体のあらゆる神経や臓器、筋骨らがこう訴えている。

 

 もう限界だ、と。

 

 この肉体はそう時を経たずに崩壊する、と。

 

 いや。

 

 「変容」する、と。

 

 

 

 見れば、希望の槍を握り締める右手も激しく震えてしまい、まるで逆さまにされたコップの中の水のように、凄まじい勢いで握力が失われていくのが分かった。

 今にも、この未来と希望の槍を落としてしまいそう。

 落としてしまって、苦労して上ったこの巨人の腹を一度降り、またよじ登らなければならないなんて、冗談ではない。

 彼は槍を包んでいた青い布で槍を己の右手に括り付けた。どんなことがあっても決して離すことはないよう、きつくきつく、縛り付ける。

 さらに左手も添え、両手で希望の槍を握り締める。

 

 

 装甲の隙間から覗く、巨大なガラス玉のような球体を睨んだ。

 

 

「みんな…、生き延びてくれ…」

 

 

 絶え絶えの息の中で、強く願う。

 

 激しく戦慄く手で、槍の切っ先を装甲の隙間に滑り込ませた。

 

 

 

 不意に、彼女の顔が頭の中に浮かんだ。

 

 頭の中の彼女は、こう言っている。

 

 

  ―――名前、決めてくれた?

 

 

「男だったら……、女だったら……」

 

 噛み締めていた口もとに、小さな笑みが宿る。

 

「すまん…。結局いい名前…、思いつかなかったよ…」

 

 体に残った全精力を腕に籠めて、槍の先端を球体へと突き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地下の底を這うように、四つん這いになって進んでいた巨大過ぎる白い生物。

 

 ゆっくりと、ゆっくりと。規則正しい動作で、両膝を引き摺りながら大地を這っていた巨大過ぎる白い生物。

 

 それが急にこれまでとは異なる行動を起こした。

 

 右腕をゆっくりと上げ、背中をのけぞらせたのだ。

 

 まるで天に在る何かを求めてるように、ゆっくりと赤銅色の空へと。

 

 赤銅色の中央にぽっかりと開いた穴に向かって、巨大過ぎる腕を伸ばし始めたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぐわっ!」

 

 突如、足場が大きく揺らいだ。

 

 

 それは槍の切っ先が球体に触れる寸前の出来事だった。

 

 

 足場が大きく揺らいだと思った次の瞬間には、足の裏に感じていた巨人の装甲の感触が消えていた。

 

 両足は巨人の体から離れていた。

 

 世界は、反転していた。

 

 足場を失った彼の体は、宙に浮いていた。

 

 あとはひたすら重力の基本法則に従うのみ。

 

 巨人が離れていく。

 

 彼の体は地上へと、真っ逆さまに落ちていく。

 

 

 

 いや、この場では自然界の法則など通用しない。

 

 

 彼の体は地上へ叩き付けられる寸前のところで、急にふわりと浮き上がり、宙を漂い始めたのだ。

 

 今度は、灰色の大地が離れていく。

 

 巨大過ぎる生物の肩を越え。

 

 巨大過ぎる生物の背中にニョキっと生えた巨人の頭を越え。

 

 巨大過ぎる生物が天に向けて伸ばした腕を越え。 

 

 彼の体は、赤銅色の空の真ん中に大きく開いた、巨大な穴へと吸い込まれていく。

 

 

 

「おい…!」

 

 重力という不自由を手放した体。

 

「ちょっと…!」

 

 無重力という自由を手に入れた体。

 

「ちょっと待て…!」

 

 どんどん離れていく地上。

 

「ダメだ…!」

 

 どんどん遠ざかっていく巨大過ぎる白い生物の背中。

 

「ダメだダメだダメだダメだ!」

 

 どんどん見えなくなる、未来と希望の槍を刺すべき巨人の姿。

 

 

 

 体に残った力を総動員した。

 

 腕で、足で、宙を掻く。

 

 自分が居るべき場所へ。最後の責務を果たすべき場所へ。彼が愛する人たちの未来を紡いでくれる唯一の場所へ。

 

 戻ろうと、異常な重力場の中を懸命に泳ぐ。もがく。

 

 しかし彼の体は彼が戻るべき場所ではなく、正反対の、赤銅色の空にぽっかりと開いた巨大な穴へとぐんぐん高度を上げていく。

 

 

 

「そんな…。ダメなんだ…。この槍を刺さないと…! みんなが…!」

 

 その上に立っていた時は全容などとても見えない程に巨大だったのに。

 

「ミサトが…!」

 

 今は広げた左の手の平の下に隠れてしまう程に遠く、小さくなってしまった白い生物。

 

「俺の…子が…」

 

 

 

 そしてその時は訪れた。

 

 

 

「く゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

 

 加持の口から放たれた、獣のような叫び声。

 

 しかしその叫び声はすぐに止んだ。

 

 もはや、声を上げることすら許されなかった。

 

 

 宙を漂う彼の体。

 

 その四肢が、宙の上を暴れ回る。

 

 彼の体が、宙の上を転げ回る。

 

 まるで全身を炎に包まれたように、宙の上をのたうち回る。

 

 

 

 激痛に支配される肉体。

 

 「変容」に耐え切れず、断末魔を上げる肉体。

 

 まるで全身の神経を末端から少しずつ、1センチメートルずつ切り刻まれたような感覚。

 

 爪を一枚一枚剥ぎ取られ、角膜や網膜を一枚一枚剥ぎ取られ、全身の皮を丁寧に剥ぎ取られ。

 

 全ての臓器を引きずり出され、筋肉を削ぎ落され、骨を一本一本抜きとられ、脳味噌を攪拌機で掻き混ぜられ。

 

 

 未知の感覚に支配されていく頭の中で、彼が思い浮かべることができた音はたったの4つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちくしょう!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宙の上を暴れ回りながら。

 

 

 

 

  ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!

 

 

 

 

   宙の上を転がりまわりながら。

 

 

 

 

  ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!

 

 

 

 

      宙の上をのたうち回りながら。

 

 

 

 

  ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!

 

 

 

 

          やがて彼の体は力尽き。

 

 

 

 

 

  ちくしょう… ちくしょう… ちくしょう… ちくしょう…

 

 

 

 

この世の不条理全てに抗うように暴れていた四肢も、少しずつ大人しくなり。

 

 

 

 

 

  ちく…しょう… ちく…しょう… ちく…しょう… ちく…しょう… 

 

 

 

 

 

 全身を弛緩させながら、何度か大きく全身を痙攣させ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ち・・・く・・・しょ・・・う・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして彼の体は動かなくなった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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(9)

 

 

 

 

 それを世界の終わりと呼ぶのならば、灰色の大地と赤銅色の空に挟まれたこの世界ほど相応しい風景はなかった。もっとも「世界の終わり」が進行しているこの場所は人の手、人の目が届かない地下深くにあり、世界の終幕を見届ける者はここには存在しない。

 

 灰色の大地と赤銅色の空と。

 

 その狭間に漂う体。

 

 オレンジ色の分厚い防護服を身に纏った体。

 

 赤銅色の空と、灰色の大地とに交互に体を向け、ゆっくりと回転しながら漂う体。

 

 他の大小さまざまな瓦礫と共に、大きな大きな螺旋を描きながら、赤銅色の空にぽっかりと開いた、まるで怪物の口のような大きな黒い穴へと吸い込まれていく体。

 

 「世界の終わり」を見届けるはずだった。

 

 あるいは「世界の終わり」を阻止するはずだった者の体。

 

 

 

 地上にある全てのものをその口の中に収めんとする、空にぽっかりと開いた大きな穴。

 

 その穴に吸い上げられるあらゆる物体はみな吸い込まれていく速さは違えど、時計周りに大きな螺旋を描きながら穴へと近づいていくという法則は変わらない。

 

 大きな穴がもたらす法則が支配しているこの場所で、しかしその法則に明らかに反した動きをしている物体が一つ。

 

 その物体は、他の全てのものが時計回りに大きな螺旋を描く動きをする空間の中で、真っすぐに飛翔していた。

 

 あるものを目指して。

 

 その動きに明確な意志を宿して。

 

 真っすぐに、「世界の終わり」の中を飛んでいく飛翔体。

 

 

 

 

 

 

 

 奇蹟的にも、まだ意識を保っていた。

 

 視力も殆ど失われてしまったが、微かに防護服のガラス越しに見える景色が見えた。

 

 

 

 灰色の大地と赤銅色の空とを交互に映し出すガラス越しの視界。

 

 大小様々な浮遊物。

 

 その浮遊物の隙間。大地と空との間に浮かぶ何か。

 

 その何かが音もなく、ゆっくりと近づいてくる。

 

 

 

 近づいてくるにつれ、殆ど潰れてしまった目にも、その輪郭がはっきりと見えるようになってきた。

 

 それは人の形をしている。

 

 

 

 人の形をしていると分かった瞬間思った。

 

 

 

 あ、これ、天使かな? と。

 

 

 

 ついにお迎えが来てしまったのかな? と。

 

 

 

 ちょっと待ってくれ。

 

 もう少し待ってくれないか。

 

 お迎えにはまだ早い。

 

 俺にはまだ…。

 

 

 

 人の形をした何かは、さらにこちらに近づいてくる。

 

 形だけでなく、色も判断できるようになった。

 

 人の形をした何かは、紫色をしている。

 

 紫色の装甲を纏っている。

 

 それにしても人にしては随分デカい。

 

 そしてその額には、まるで一角獣のような一本の角が生えている。

 

 

 それはかつて、世界を滅びから救い続けた人類の守護者。

 

 それはかつて、世界を滅ぼし掛けた悪魔の遣い。

 

 

 彼は笑った。

 

 

 

「やあ…、シンジくん…」

 

 

 

 人の形をしたそれは、ゆっくりと両腕をこちらに向けて伸ばしてきた。

 

 広がる大きな手。

 

 その手が、ゆっくりと彼の体を包み込んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年はがらんどうの大きな空間の中にぽつんと立っていた。

 

 少し前までは、ここにはもう一人男性が居て。彼は大きな使命を胸にこの場所を去っていき。

 

 そしてほんの少し前までは、ここにはもう一人。いや、もう一体、大きな巨人が居たはずなのに。

 

 少年は、彼以外誰も何もない檻の中にぽつんと一人残っていた。

 

 

 少年は、巨人が強引に開けた檻の巨大な穴を呆れ気味に見つめている。

 

 

「「彼女」はやる事がいちいち乱暴だね…」

 

 

 檻の穴の向こうでは、さらに分厚いコンクリートや岩盤を貫いた巨大な横穴が続いている。

 

 

「シンジ君のお父さんが「彼女」を初号機の中に残したのはこの時のためだったのか…。あるいは槍そのものが目的だったのか…」

 

 

 少年は答えてくれる者など誰も居ない空間の中で、一人の男以外は誰も答えることができない問いを呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 紫色の巨人は、灰色の大地にゆっくりと、音もなく降り立つ。

 片膝を地面に付き、両手を重ねて包んでいたものを、そっと地面の上に置く。

 

 巨人の手が地面から離れると、そこに現れたのはオレンジ色の防護服に身を包んだ人間、だったもの。

 

 巨人の黄金色に光る眼が、地面に仰向けで横たわる、かつて人間だったものが被る防護服のヘルメットの中身を覗き込む。

 ヘルメットの中身のかつて人間だった彼は、鬼のような厳つい形相の巨人の顔を見て、柔らかく笑った。

 彼はぶよぶよに膨れ歪んでしまった口を開く。 

 

「もしかして…、スイカ畑での約束を…、果たしに来てくれた…、のかい…?」

 

 

 ―――俺は君を初号機ごと破壊しようとしたのに…。

 

 

 巨人はかつて人間だったものの呟きと、懺悔の光を宿した濁った眼を無視し、ゆっくりとその巨大な手を、地面に横たわっているかつて人間だったものの右手へと伸ばす。 

 

 その右手に握られているのは、小さな槍。

 

 巨人の巨大な手の巨大な親指と巨大な人差し指が、小さな槍を起用に挟む。

 そしてそのまま小さな槍を、摘まみ上げる。

 摘まみ上げると、小さな槍を握り締めているかつて人間だったものの右腕も引っ張り上げられる。

 

 

 どうやら巨人の目的は、小さな槍だけらしい。

 小さな槍を握り締めるている彼につていは、お呼びではないらしい。

 

 

 小さな槍を摘まみ上げたまま、ぶらんぶらんと左右に小さく振ってみる。

 その揺れに合わせて、小さな槍に付いてきた腕もぶらんぶらんと左右に揺れる。

 巨人は再度、今度は少し強めに摘まみ上げた小さな槍をぶらんぶらんと左右に振ってみる。

 すると槍に合わせて左右に大きく揺れた腕の肘から、ゴキっと嫌な音が鳴ったが、その手は小さな槍を握り締めたまま離すことはない。

 

 仕方なく、巨人はさらに摘まんだ小さな槍をさらに高く吊り上げてみる。

 すると小さな槍を握り締めた手の持ち主の背中が地面から離れ、お尻が地面から離れ、足も地面から離れ、つには体全体が宙に浮いてしまった。

 

 巨人が摘まみ上げた小さな槍にぶら下がるかつて人間だったもの。

 巨人は、まるでゴミでも振り落とすかのような動作で、手首にスナップをきかせながら小さな槍を大きく左右に振る。

 小さな槍にぶら下がる彼の体が、まるで子供に玩ばれる人形のように、ぶらんぶらんと左右に揺れた。

 

 それでも、その手が小さな槍を手放すことはなかった。

 

 

 巨人は、困ってしまったように、小さな槍にぶら下がるかつて人間だったものの顔に自身の顔を近づけ、ヘルメットの中身を覗き込む。

 

「くっ…、くっくっく…」

 

 その様子が、「どうしよう」と途方に暮れてしまっている子供のように彼には見えた。その厳つい巨体と子供のような仕草のギャップが可笑しくて、彼は思わず声に出して笑ってしまう。

 

 小さな槍に未練がましく、執拗なまでにぶら下がっているかつて人間だったものの肩が、急にびくびくと震え始めた。驚いてしまったのか、巨人は咄嗟に顔を遠ざける。

 その様子がさらに可笑しくて、彼はさらに肩を揺らせて笑いながら言う。

 

「…君…、シンジくんじゃないな…」

 

 巨人は、その巨大な首をくてんと傾げさせた。

 

 

 

 諦めた様子の巨人は、ゆっくりと小さな槍とそれにぶら下がっていたものを地面へと置いた。

 

 地面に寝かされた彼は、巨人の顔を見上げながら言う。

 

「悪いが…、この槍だけは…、誰にも譲れないよ…」

 

 防護服の外まで届いているかどうかも分からない小さな彼の声。巨人は肩を竦ませている、ように彼には見えた。

 

 彼はすっかり変容してしまい、そして今も変容しつつある首を懸命に動かして、巨人の視線をある方向へと誘導させる。

 

「俺を…、あの場所へ連れてってくれないか…」

 

 彼の潰れかけた目から放たれる途切れ途切れの視線が指す先。

 

 巨大過ぎる白い生物の背中に埋まる、灰色に染まった巨人。

 

 彼は、視線を紫色の巨人の顔へと戻す。

 

「頼む…!」

 

 すっかり潰れ、膨らんでしまった口の隙間から、絞り出すように言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空にぽっかりと開いた巨大な穴が作り出す、異常な重力場。地上から吸い上げたあらゆるもので、宙に大きな螺旋を描く異常な重力場。

 本来飛行する能力を持たない紫色の巨人は、その異常な重力場を器用に利用し、まるで鳥のように宙を舞って一直線に青色の巨人へと向かった。

 

 頭部を失った巨大過ぎる白い生命体の首の前を飛び越えると、そこには巨大過ぎる白い生命体の背中にニョキっと生えた灰色に染まった巨人。

 紫色の巨人は灰色の巨人の前に。巨大過ぎる白い生命体の頸部に、ゆっくりと降り立つ。

 

 紫色の巨人は灰色の巨人の胸に手を伸ばした。装甲のつなぎ目に指を差し込み、強引に装甲を引き剝がす。装甲を失った胸部から、その巨人の心臓部である巨大な球体が露わになった。

 

 巨大過ぎる白い生命体の背中に生えた、灰色の巨人。その灰色の巨人の胸に埋め込まれた、赤い球体。その赤い球体にもまた、まるでキノコのようにニョキっと生えた何かがある。

 

 

 球体から生えたもの。

 

 それもやはり、人の形をしていた。

 

 か細い人の形をしていた。

 

 少女の形をしていた。

 

 少女の上半身が、球体から生えていた。

 

 

 大地や巨人と同じように全身を灰色に染め上げられた少女。

 枝のような細い両腕を胸の前で交差させ、前屈みになっている少女。

 無造作に襟元で切り揃えれた髪。

 前髪の隙間から覗く目は、閉じられている。

 

 しかし少女を隠していた装甲が剥ぎ取られたためか、外気と光を感じた少女はゆっくりと閉じていた瞼を開け、顎を上げ、自分を見下ろす紫色の巨人を見上げた。

 少女の顔が上がった瞬間、少女の目尻から一粒の涙が零れ、灰色に染まった頬に一筋の雫の跡を描き出す。

 

 繊細な睫毛に縁どられた目。

 

 真紅に染まった瞳。

 

 まるでルビーのような瞳で紫色の巨人の顔を見上げた少女は、微かに笑った。

 

 微かな笑みをこの終わりかけの世界に残し、そしてまた目を閉じて顔を俯かせる。

 

 顔を伏せたまま、少女は動かなくなる。

 

 

 紫色の巨人は、球体に向けて左手を伸ばす。

 左手で、動かなくなった灰色の少女の体を、そっと握った。

 握った少女の体を、手前に向けて少し傾けさせる。続けて、今度は逆の方向へと傾けさせる。

 それを何度か繰り返し、最後に少女の体を上に向けて引っ張る。

 大地に深く根を張った雑草を抜き取る要領で、少女の体を球体から毟り取った。

 

 下半身のない少女の体を、顔の近くまで寄せる。

 紫色の巨人の黄金色の目が、少女の顔を見つめた。

 少女は口許に微かな笑みを浮かべたまま、動かない。

 

 巨人の口が、大きく開く。

 巨人の左手が。少女を握った巨人の左手が、巨人の口の中へと吸い込まれていく。

 巨人の口が、巨人の左手を咥えるように閉じられた。

 巨人の喉仏が、上下に大きく動く。

 再び巨人の口が開き、巨人の左手が口の中から出てきた時。

 巨人の左手は、空っぽになっていた。

 

 

 灰色の少女を呑み込んだ紫色の巨人は、今度は握っていた右手を開く。右手の上には、オレンジ色の防護服にその醜い体を包み込んだ、かつで人間だったもの。

 そのかつて人間だったものを、赤く光る球体の上。灰色の少女が生えていた部分にそっと乗せてやる。

 

 

 

 

 彼は、球体の上に仰向けになって寝かされた。

 

 もはや首も動かせなくなったため、灰色に変色した眼球を懸命に動かし、殆ど潰れてしまった瞼の隙間から自分をここまで運んできてくれた紫色の巨人の顔を見上げた。

 

「ありがとう…、初号機…」

 

 唇も、歯も、舌も、全てが融合し、分裂してしまった口で呟く。

 

「これで…、俺は…、大切な人たちの未来を…、少しだけ守ることができる…」

 

 すっかり変容してしまった彼の顔。もはや目が、鼻が、口が、耳が、眉が。顔のあらゆる部位が、何処にあるのかも分からなくなってしまった顔。

 

 そんな顔になってしまっても、彼は笑った。

 

 終末を迎える世界の片隅で。

 

 こんな姿になってしまった自分を唯一見守る、厳つい鬼のような顔をした巨人を見上げながら。

 

 彼は笑った。

 

 満足そうに、笑っていた。

 

 

 

 瞼を閉じ、瞼の裏に彼にとっての大切な人々の顔を思い浮かべる。

 

 再び瞼を開け、一度閉じてしまったので更に潰れてしまった瞼を薄く開け、巨人の顔を見る。

 

「初号機の中の君…」

 

 厳つい風貌に、周囲を威圧する巨体を誇る紫色の巨人。 

 

「何故君が…、その中に留まり続けているのかは知らないが…」

 

 その見た目とは真逆のような、子供のような仕草や立ち振る舞いを見せる巨人。

 

「後悔の…、ない…、ように…な…」

 

 そんな巨人を、この期に及んで心配してやる彼。

 

「君には…、君にしかできない…、君にならできること…が、ある…はずだ…」

 

 最後にもう一度だけ笑い掛ける。彼にとっての大切な人たちではなく、紫色の巨人の中に居る誰かに向かって。

 

 

 

 視線を空へと向けた。

 

 

 

「俺は…、俺がすべきことを…する…」

 

 

 

 右手に握りしめていた小さな槍を、逆手に持ち替える。

 

 

 

「じゃあな、みんな。今度こそサヨナラだ…」

 

 

 

 小さな槍を握り締めた右拳を、天に向けて突き上げる。

 

 拳を突きあげた先には、赤銅色の空の真ん中にぽっかりと開いた、怪物の口のような穴。

 

 突き上げられたその拳は、世界を丸呑みにしようとする怪物の口に対する、勝利宣言であったのかもしれない。

 

 

 

「愛してるぜ…! ミサト…!」

 

 

 

 右拳が、彼が背にする球体に向けて、振り下ろされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

槍の切っ先が球体に触れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さな火花が舞い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界は、眩い光に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[メインサーバー ニ アクセス]

 

 

 

[映像データ 再生開始]

 

 

 

 

 

 

 暗闇の中の一角がポンと長方形に切り取られ、その中にノイズ混じりの映像が映し出された。

 映像には巨人の胸。

 装甲の一部が剥ぎ取られた胸。

 巨人の胸に埋め込まれた、巨大な球体。

 その巨大な球体の上に置かれたもの。

 オレンジ色の防護服を纏ったもの。

 ぐったりとした四肢を球体の上に伸ばし、仰向けに倒れているもの。

 

 その右腕が、空に向かって突き上げられる。

 そして赤い棒状のものを握った右拳が、球体に目掛けて一気に振り下ろされる。

 舞い散る小さな火花。

 直後、映像は眩い光に包まれた。

 

 

 

 

[再生停止]

 

 

[10秒前へ]

 

 

 

 

 画面一杯を支配していた光が消え、再び現れるオレンジ色の防護服。

 

 

 

 

[映像拡大]

 

 

 

 

 防護服のガラス張りのヘルメットに向けて、映像が拡大される。

 

 

 

 

[再生開始]

 

 

 

 

 動き出す映像。

 映像の隅っこで右腕が振り翳され、その右腕が下に向かって振り下ろされる。

 強烈な光に包まれる映像。

 

 

 

[再生停止]

 

 

[5秒前へ]

 

 

 

 

 光が消え、防護服のヘルメットが現れる。

 

 

 

[音声解析ソフト起動]

 

[ガラス ノ 振動 ヲ 分析]

 

[再生開始]

 

 

 

 

 動き出す映像。

 酷いノイズに混じって、微かに聴こえる男性の声。

 

 

 

  愛してるぜ…!

 

  ミサト…!

 

 

 

 強烈な光に包まれる映像。

 

 

 

[再生停止]

 

 

[3秒前ヘ]

 

 

 

 

 光が消え、現れる防護服のヘルメット。

 

 

 

 

[再生開始]

 

 

 

 

 動き出す映像。

 

 

 

  愛してるぜ…!

 

  ミサト…!

 

 

 

 

[再生停止]

 

[1.5秒間へ]

 

[再生開始]

 

 

 

 

  愛してるぜ…

 

 

 

 

[再生停止]

 

[1秒間へ]

 

[再生開始]

 

 

 

 

  愛し…

 

 

 

 

[再生停止]

 

[0.5秒間へ]

 

[再生開始]

 

 

 

  あい…

 

 

 

 

 

[再生停止]

 

[0.3秒間へ]

 

[再生開始]

 

 

 

 

  あい…

 

 

 

 

[再生停止]

 

[0.3秒間へ]

 

[再生開始]

 

 

 

 

  あい…

 

  あい…

 

  あい…

 

  あい…

 

  あい…

 

     あい…

 

あい…

 

       あい…

 

  あい…

 

             あい… 

 

 

あい…

 

  あい…

 

    あい…

 

        あい…

 

                あい…

 

                            あい…

 

あい…

  あい…あい…

      あい…あい…あい…

            あい…あい…あい…あい…

                        あい…あい…あい…あい…あい…

あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あい…あいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAIAI

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[再生終了]

 

 

 

 

[映像データ 封印]

 

 

 

 

 

 

[メイサーバー アクセス 終了]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイッテ ナニ ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1-1.それを世界の終わりと呼ぶのならば 《終》

 

 

 

 



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1-2. 機甲少女が見た夢
(10)


 

 

 

 

 ×年×月×日

 第10の使徒、第3新東京市を強襲。

 特務機関ネルフは所有する人型兵器エヴァンゲリオンをもってこれの迎撃にあたるが失敗。後に「ニア・サードインパクト」と呼称される未曾有の大災害が世界を襲った。

 国連はニア・サードインパクト発生の責任の所在をネルフに求め、ネルフ本部を軍事占領するが、総司令官の拘束は失敗に終わる。

 ネルフ解体に伴い、この時初めて歴史の表舞台に現れた国連機密機関ゼーレは、渚カヲルを首班とした新生ネルフの創設を発表し、更なる使徒の襲来と予測された次なるインパクトの発生に備えた。しかし新生ネルフの誕生から3月を待たない間にサードインパクトが発生。

 人類にとって3度目となる滅亡の危機は、しかしネルフ副司令官加持リョウジの命を投げうった献身により辛うじて免れた。加持の勇名と共にニア・サードインパクト以来地に落ちていたネルフの名声も高まり、ネルフとその上位機関であるゼーレは人類の守護者として世界秩序の番人を司ることになる。

 しかしその加持が生前秘密裏に収集していた情報が世界に向けてリークされ、サードインパクトはゼーレとネルフによって人為的に引き起こされことが示唆されると、生き残った人類の間で大混乱が巻き起こった。

 ゼーレは加持ファイルを真っ向から否定すると共に、サードインパクトの起因となるニア・サードインパクトの発生理由をエヴァンゲリオン初号機パイロットの暴走であることを公表。さらに偽情報をリークしたとしてネルフ総司令官渚カヲルを更迭すると共に、偽情報により民衆を扇動した元ネルフ職員らを国際テロリストとして指名手配した。

 世界を緩やかな黄昏と反ゼーレ・ネルフ感情の嵐が覆う中、ゼーレは碇ゲンドウのネルフ総司令官復帰を発表。さらにサードインパクト以来封印されていたネルフ本部の除染作業を開始した。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 闇に閉ざされた空間を、2つの人工的な光の筋が切り裂く。

 

 そこはかつておきた極大現象の爆心地から少し外れた位置にある、真っ暗闇の空間。長期に渡って封鎖され、密閉されたこの場所には、当時起きた現象によって巻き上げられた大量の土砂や瓦礫等が宙で粉々になり、混ざり合い、結晶化したものが、今もなおまるで雪のようにしんしんと降り注ぎ、空間一帯を灰色に染め上げている。

 地面に降り積もったそれらは雪と言うよりも土埃と表現した方が適切で、2つの光の源、懐中電灯の持ち主たちが歩く度に、地面から舞い上がる飛沫のような結晶が彼らの視界を遮っていた。

 極端に見通しの悪い中を、一歩一歩慎重に進む2人。2人とも、完全密閉された、まるで宇宙服のような分厚い防護服を身に纏っている。

 先頭を進む者の背中を、3歩ほど後ろから付いていく人物は、手に持っていた端末機の画面に映し出される様々なデータに注意を払っていた。

 

 通気性皆無の防護服を纏いながら、何キロメートルも歩き通し。汗だくの体や呼気から昇る湯気で曇るヘルメットのバイザー越しに見つめていた端末機の表示が、目的の座標の数値と一致した。

「ここです」

 その声。女性の声に、その先を涼やかな顔で呼吸一つ乱さずに歩いていた者が足を止めた。

 手に持っていた懐中電灯を翳すと、その光が彼らの近くに聳える何かを照らし出す。

 それは、3分の1を地面に埋め、残りの3分の2を地面から出した、黒い大きな柱だった。

 

「アンチLシステム、除染型封印柱AL-012号。1年前に投下したものですが、正常に稼働中です」

 端末機を操作し、別のデータを表示させる。

「AL-012周辺50mのL結界密度、安全基準の範囲内です」

「そうか…」

 先頭に立っていた者は低い声で呟くと、防護服の首の辺りを操作し始める。防護服と一体化されている完全密閉型のヘルメットから、プシュッ、プシュッと、立て続けに空気の抜ける音がした。

 その様子を見ていた女性は、慌てて声を上げた。

「碇司令…! まだ安全が確認された訳では…! 他にどんな有害物質があるかっ…」

「かまわん…」

 女性の警告に対し、その人物は平坦な声で答えると、ヘルメットを両手で挟み、ゆっくりと持ち上げていく。ヘルメットの下から、顎髭を蓄える色付きの丸渕メガネを掛けた男の顔が現れた。

 巨大な黒い柱を改めて見上げた男は、そのままゆっくりと振り返る。

 男の背後に広がるのは、深い深い闇。

 手に持っていた懐中電灯を、その闇に向けてゆっくりと翳していく。懐中電灯が造り出す光の筋。空から静かに降り注ぐ灰色の雪で満たされた闇。光の筋が何かに遮られ、光の輪を作り出す。

 

 男の口角が、少しだけ上がった。

 

「久しぶりだな…。レイ…」

 

 懐中電灯が照らし出す先。

 しんしんと降る灰色の雪の向こう。

 降り積もった雪でできた灰色の小山。

 その小山の中から、一本角の鎧兜を被った大きな顔が覗いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 2人の男が長い長い廊下を歩いている。後ろを歩く、腰の後ろに両手を組んだ白髪の男性、ネルフ副司令官冬月コウゾウは、前を歩く黒のジャケットを着た男、ネルフ総司令官碇ゲンドウに向けて口を開いた。

「我々の手では成しえなかったサードインパクト。ゼーレを以てしても完遂することは叶わなかったか」

 背中で冬月の声を受け止めたゲンドウは、律動的な歩みを澱ませることなく、低い声で答える。

「我々にとっては好都合だ。インパクトの波及を遅らせることで、我々は何よりも貴重な時間を得ることができた。所在不明だったカシウスの槍も手に入れた。何よりゼーレは我々を頼ざるを得なくなった。老人たちは主導権を失ったのだ」

 右手の人差し指と中指でで丸渕メガネのブリッジを押し上げる。

「レイの功績は極めて大である」

 この男が他者を讃えることなど滅多にない。どのような顔であの少女のことを褒めているのだろう。正面からこの男の顔を観察することができないことを悔やみつつ、冬月は続ける。

「ふむ。しかしネルフ職員の大量離叛はさしものお前も想定外ではないか。ようやく城主に返り咲いたと思いきや、肝心の兵士たちが皆逃げ出してしまったこの状況は目も当てられぬが」

「本部機能の大半は既に完全自律化を済ませてある。今残っている人材だけで十分事足りるだろう。現に本部が封鎖されている間も、無人の造兵廠は滞りなく一番艦の建造を進めていたのだ。脱落者のことで我々が気に病む必要など、どこにもあるまい」

 冬月は小さく嘆息を吐く。

「ついに機械が自ら機械を生み出す時代になったか。私もそろそろお払い箱だな」

 そんな冷笑混じりの冬月の声に、ゲンドウの鉄のような硬さと冷たさが宿った声が重なる。

「冬月。いかなる時も、最後に事態を推し進めるのは人間の意思だ」

 

 冬月は廊下の丁字路で足を止める。そして冬月が目指す廊下とは反対の廊下へと進もうとする碇ゲンドウの背中に声を掛けた。

「碇。何処へ行く。モニター室はこっちだぞ」

 碇ゲンドウは振り返ることなく答える。

「ケージに降りる」

 遠ざかる碇ゲンドウの背中を見送りながら、冬月は肩を竦めた。

「…我らが戦姫を自ら迎えにいくか」

 

 

 

 モニター室に入ると複数人の技術者がコンソールの前で慌ただしくキーボードを叩いていた。

 その内の一人。この場の実質的な責任者である科学者に声を掛ける。

「どうだね。状況は」

「はい。電子部、生体部、いずれも正常に稼働中。全ての制御系はこちらの支配下にあります。ですがやはりコアへの回線のみが、復旧しません」

「ふむ。3年もの間あの爆心地、カオスの中心に居たのだ。長く厳しい冬を越すための冬眠状態といったところだろう」

 モニター室のガラス窓に近づき、外を見下ろすと、ちょうど碇ゲンドウがケージの中に姿を現したところだった。

 冬月はコンソールの隅にあるコントロールパネルのボタンの一つを押す。

「碇」

 冬月の声がスピーカーを通してケージ内に響き渡り、ゲンドウがモニター室に振り返った。

「やはりコアへの回線のみが復旧せん」

『構わん。強制起動プログラムを走らせろ』

「…分かった」

 スイッチから手を離し、2人のやり取りを聴いていた技術者たちに目配せをする。

「聴いての通りだ。眠り姫を起こすのに必要なのは口付けではなく、平手打ちだそうだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真っ暗だった視界のあちこちで火花が舞った。

 

 体中を襲う激しい痙攣。

 

 刺すような頭痛。

 

 閉じていた瞼が、強制的に開いた。

 

 

 

 

 

 急速に復旧する視界。

 

 広がっていく視界。

 

 白黒の世界。

 

 ブロックノイズ混じりの世界。

 

 明るくなっていく世界。

 

 色彩を帯びていく世界。

 

 

 その世界の中央に。

 

 視界の真ん中に、人が立っていた。

 

 人が、こちらを見上げていた。

 

 

 知っている人。

 

 この世界で最も敬愛する人。

 

 敬愛すべき人。

 

 敬愛しなければならない人。

 

 

 無意識のうちに、その人に向けて手を伸ばしていた。

 

 やたらと大きな手。

 

 ゴツゴツとした、鋼鉄を纏った手。

 

 そこに立つ彼を、簡単に捻り潰してしまえそうな手。

 

 

 そのゴツゴツとした手を。

 

 ゴツゴツとした指を、そっと彼に近付ける。

 

 

 彼は、近づいたその人差し指を。

 

 とても醜い人差し指を。

 

 彼の体と同じくらいの大きさの人差し指にそっと手を差し伸べ、指の先に優しく触れてくれた。

 

 

 分厚い鋼鉄を纏った指。

 

 彼の手にも、白の手袋。

 

 それでも指の先を撫でる彼の手のぬくもりが、じんわりと伝わってくるような気がした。

 

 

 指の先を優しく撫でてくれている彼の口が、ぱくぱくと開閉している。

 

 彼が、何かを喋っている。

 

 何かを、語り掛けてくれている。

 

 すぐに視界の中の彼の顔を拡大させた。

 

 画面一杯に広がる彼の顔。

 

 敬愛すべき、彼の顔。

 

 指向性マイクを向ける。

 

 音声を増幅させる。

 

 彼の口から紡がれる言葉を増幅させる。

 

 彼はこう言っていた。

 

 

 

 

   よくやった   レイ

 

 

 

 

 ―よくやった―

 

 ―よくやった―

 

 そのたった一言で、全てが報われたような気がした。

 

 彼の手から伝わる彼の温もり。労わりの心。

 

 それらが、あまりにも大き過ぎるこの体全体に、波紋のように広がっていくような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

   良かった。

 

       良かった。

 

 

      これで全てが元通り。

 

   「あの日」の前に、元通り。

 

 

          彼がそこに居て。

 

  そして「彼」がすぐ側に居て。

 

 

       彼と

 

           「彼」。

 

 

 2人にはポカポカしてほしいから。

 

    2人には笑顔でいてほしいから。

 

       そのためだったら何でもしたい。

 

          肉体を捨ててしまっても構わない。

 

 

 

 そうだ。

 

 「彼」。

 

 彼の命令を守り。

 

 そして「彼」の肉体と魂を、この鉄の体の中で守ってきた。

 

 「彼」はどこ。

 

 すぐ側にいるはずの「彼」はどこ。

 

 

 

 「彼」は?

 

 「彼」は?

 

 「彼」は?

 

 「彼」は?

 

 

 「彼」

 

 「彼」

 

  「彼」

 

 「彼」

 

 

 「彼」がいない。

 

    「彼」がいない。

 

 「彼」がいない。

 

  「彼」がいない。

 

 

 どこ?

 

 どこ?

 

      どこ?

 

どこ?

 

 

 碇くん、どこ?

 

   碇くん、どこ?

 

      碇くん、どこ?

 

        碇くん、どこ?

 

 

  誰?

 

   誰?

 

      誰?

 

 誰?

 

 

   そこに居るの誰?

 

そこに居るの誰?

 

      そこに居るの誰?

 

  そこに居るの誰?

 

 

              「私」?

 

         「私」?

 

    「私」?

 

「私」?

 

 

そこに居るのは   「私」?

 

そこに居るのは  「私」?

 

そこに居るのは 「私」?

 

そこに居るのは「私」?

 

 

 

 

 

 

 

 

 巨大な檻に繋がれた巨人。

 全身に紫色の甲冑を纏った巨人。

 片膝を折って中腰になり、檻の床に立つ男に向かって、右腕を伸ばしていた巨人。

 

 その巨人の下顎が突如大きく下がり、白い歯を剥き出しにした。

 その大きな口から放たれる、地響きのような咆哮。

 檻を見下ろす位置にあるモニター室の窓ガラスが、ビリビリと大きく振動し、檻の中の音声を流していたスピーカーが火花を散らしながら爆ぜた。

 

「まさか…、暴走…!」

 技術者の一人が悲鳴のような声を上げた。口に出した表現は「暴走」に留めたが、その場に居る全員がその更に一歩先。「あの日」、終末の扉を開き掛けた巨人の「覚醒」した姿が頭を過った。

 冬月はすぐさま技術者たちに指示を飛ばす。

「強制停止信号送信! ダミープラグを強制射出!」

『待て!』

 技術者たちが冬月の指示通りに動こうとした時、モニター室内に生き残ったスピーカーからゲンドウの怒鳴り声が響いた。

 

 

「レイ」

 ゲンドウの頭上では、ただでさえ大きな口を限界にまで広げて雷鳴のような叫び声を轟かせる巨人。その音圧だけで、内臓が破裂してしまいそうなほどの、津波のような咆哮。いや、それは咆哮と言うよりも悲鳴に近かった。

 棍棒で殴られているかのような咆哮をすぐ側で受け止めているゲンドウは、今にも鼻から落ちてしまいそうな丸渕メガネのブリッジを右手で支えつつも落ち着いた表情で巨人の顔を見上げ、癇癪を起した子供を宥めるような声音で巨人に話し掛ける。

「レイ。大丈夫だ。心配する必要はない」

 巨人はまるで何かを探すようにその巨大な顔をあちこちに向け、視線を方々に投げつける。

 しかし探し物が見つからないと分かるや、巨人は左手で拳を作り、床に向かって勢いよく振り落とした。岩のような巨大な拳がコンクリート製の床を大きく抉り、周囲に強力な衝撃波を撒き散らす。その衝撃にバランスを崩したゲンドウはその場に片膝を付いたが、すぐに立ち上がり、狂乱に陥っている巨人に静かな声で語り掛け続ける。

「レイ。聴きなさい」

 ゲンドウの低い声など掻き消してしまう咆哮を上げ続ける巨人。

 それでもゲンドウは辛抱強く声を掛け続けた。

 

「シンジのことなら心配をする必要はない」

 

 ようやく巨人が、ゲンドウの声に反応した。

 巨人の動きがピタリと止まる。

 檻の隅に目を向けていた視線を、ゆっくりと自身の右手へと向けた。

 その右手の人差し指に触れながら、静かな眼差しで眼鏡越しに巨人を見上げているゲンドウ。

 巨人の顔が、ゆっくりとゲンドウの方へと近づいていく。

 腕を伸ばせば触れることができる位置にまで、巨人の鼻先が近付いた。

 ゲンドウの目の前には、一つ一つが角ばった岩のような巨人の歯が並んでいる。

 岩のような歯を蓄えた巨人の口が、ぱかっと開いた。

 

 巨大な咆哮。

 

 巨人の大きな口の中から放たれる竜巻のような呼気。

 

 ゲンドウが掛けていた丸渕メガネが吹き飛び、床の上を軽い音を立てて転がっていくが、ゲンドウは身じろぎ一つせず、彼のことなど一飲みしてしまいそうな巨大な口の奥を見つめる。

 吐き出せるだけの空気を吐き出した巨人は口を閉じ、今度は口の隙間から吐き出した分だけの空気を吸い込んでいく。吸い込まれる空気に引っ張られるように、遠くに転がっていった丸渕メガネが持ち主の足もとまで戻ってきた。

 ゲンドウは腰を屈め、メガネを拾い上げて掛け直すと、右手をジャケットのポケットの中に入れ、小型の通信端末機を取り出す。端末機のスイッチを入れ、筐体に埋め込まれたマイクに向かって話し掛けた。

 

「碇だ。シンジを連れてこい」

 

 巨人は鎧兜の奥から覗く目で、じっとゲンドウを見つめている。

 

「聴きなさい。レイ」

 

 通信端末機をポケットにしまったゲンドウは、鎧兜の奥にある巨人の大きな瞳を見つめる。

 巨人は口の端から小さく息を出し入れしながら、ゲンドウの次の言葉をじっと待っている。

 

「我々はお前が目覚めるより前から、お前たちのサルベージ実験を続けてきた。しかし爆心地から放たれる放射線に長期に渡って晒された結果、初号機に保存されたお前たちのデータには著しい損傷が認められたため、我々はサルベージによるお前たちの完全再現を断念せざるを得なかった」

 

 巨人の鼻先から激しい呼気が吐き出され、ゲンドウが纏うジャケットの裾が大きくはためく。

 ゲンドウは構わず続ける。

 

「我々は代替手段を用意した。お前たちに新しい肉体を用意し、それに初号機に保存されていたお前たちのパーソナルデータを移植するというものだ。シンジについてはすでに10日前に移植を済ませてある」

 

 丸渕メガネ越しのゲンドウの視線が、巨人から離れた。

 ゲンドウが見つめる先。

 

「今、シンジの魂はアレに入っている」

 

 ゲンドウが見つめる先にある扉。

 その扉が開く。

 

 巨人の顔も、ゲンドウの視線に誘われるままに扉の方へと向く。

 

 巨人の瞳孔が広がる。

 

 

 

 開いた扉の向こうには、白衣を着た女性が立っていた。 

 

 

 

 



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(11)

 

 

 

 

 観音開き式の自動扉が開いたその先に広がる異様な光景。

 

 床に這い蹲るような姿勢の巨人。

 その巨人に間近で睨み付けられながらも、平然と立っている男性。

 

 扉の向こうに広がる異世界に圧倒され、呼ばれてこの場にやってきた白衣を着た女性は一歩後退りしてしまった。

 扉が開いたことに気付き、男性を睨みつけていた巨人はその大きな顔をこちらに向けた。厳つい鎧兜の隙間から覗く鋭い巨人の目に見つめられ、女性はさらに2歩、3歩と後退りしてしまう。

 女性はこのまま回れ右をして、来た廊下を走って帰ってしまいたい気持ちで一杯だったが、巨人の前に立つ男性の顔もこちらを向いていることに気付いてしまう。女性をこの場に呼んだ張本人である男性が、こちらを見て待っている。この組織における絶対の権力者である男性が、女性が来るのを待っている。彼女にこの場から立ち去る選択肢など無かった。

 目を瞑って気合を入れ直し、震える膝に喝を入れながらゆっくりと彼ら?のもとへと歩き始めた女性。

 巨人は扉から入ってきた女性の動きを、黄金色の瞳でじっと追い続けている。猛獣の檻の中へと自ら足を進め、入っていく。気が気でない女性は、巨人の顔を視界に入れないよう視線をずらしたが、その視線の先には猛獣などよりももっと恐ろしい調教師、この組織の最高司令官が立っている。仕方なく、視線を1メートル先の床に落とし、膝を震わせながら、彼ら?のもとまで歩き続けた

 

 やがて女性は巨人と、男性。碇ゲンドウの前に立つ。

 

 ゲンドウの目には、巨人が被る鎧兜のバイザー越しに見える目が、まん丸に広がっていくのがはっきりと見えた。

 巨人の口の端から出し入れされていた荒い呼吸が、止まった。

 

 巨人の前にびくつきながら立つ、白衣を着た女性。背中まで伸びた黒髪をサイドアップに纏め、メガネを掛けたおっとりとした顔立ちの中年女性。

 

「それがシンジだ」

 

 ゲンドウは女性を見る。

 

 いや、正確には、女性がその腕に抱いているものを見る。

 

 女性が抱いているものに釘付けになっていた巨人の瞳が、その声に反応して一瞬だけゲンドウに向けられ、しかしすぐに女性の腕の中へと戻る。

 

「プラグ内にあったシンジの服に付着していた血液サンプルを元に肉体の超高速培養を試みたが、この短期間では4~5歳児程度までの肉体の再現が限界だった」

 

 女性が抱いているもの。

 女性の腕の中に在るもの。

 

 すぐ側に立つ男性が、それが彼の息子であると主張するもの。

 

 

 それは小さな子供。

 

 男の子。

 

 

 女性の腕に抱かれた男の子。

 スヤスヤと寝息を立てている男の子。

 

 

「移植されたパーソナルデータについては問題なく新しい肉体に定着した。それに付随する記憶も、全て保持されている」

 ゲンドウはもはや男の子以外は全て視界に入ってない様子の巨人の横顔に向けて言う。

「しかし4~5歳の肉体と14年掛けて形成された人格、すなわち蓄積された記憶との大幅な乖離がもたらす様々な障害を考慮し、現在シンジの記憶には封印を施してある」

 親指をおしゃぶり代わりに咥えながら寝ている男の子。

「そのため、見た目は4~5歳であっても」

 時折、口を開け、口の端から涎を垂らしながら大きく欠伸をする男の子。

「中身は赤子同然だ」

 抱きかかえる中年女性の豊満な胸に頬を押し付け、女性の白衣に涎の染みを作る男の子。ゲンドウが表現する通り、その寝顔は無垢な赤ん坊そのものだった。

「記憶の封印については、肉体の成長と共に段階的に解いていくことになるだろう」

 巨人の人差し指に触れていた右手を離し、ポケットの中に入れる。

「レイ。シンジについては何も心配はいらない」

 巨人の横顔に、この男にしては極めて珍しい、優し気な声で語り掛ける。

「レイ。お前のサルベージも近々行われるだろう。それまでゆっくりと心を休めているといい」

 

 一通りの説明を終えたゲンドウだが、その間巨人の目が白衣の女性が抱く小さな男の子から動くことはなかった。そんな様子の巨人に、ゲンドウは口角を小さく上げ、ふっと小さく笑う。

 巨人の目はあくまで男の子に集中しているが、技術者の一人で男の子の子守りを命じられていた白衣を着た若い女性にとっては巨人から睨まれているような気がして、気が気でない様子だ。気の毒なほどに顔面を引き攣らせている女性に対し、ゲンドウは指示を下す。

「もういい。下がりたまえ」

 彼女にとっては救いとなるゲンドウの指示に女性は小刻みに何度も頷くと、すぐに踵を返して扉の方へと足早に歩き始めた。

 

 猛獣どころの話ではない。

 自分など身じろぎ一つで簡単に踏み潰してしまえそうな巨獣の檻から、さっさと逃げ出してしまいたい。小走りで扉へと向かう女性の背中はそう物語っていたが、そんな女性の想いは扉の数メートル手前で断ち切られてしまうことになる。

 

 何かが頭上を横切ったと思ったら、突然視界が塞がれた。

 扉まであと数メートルはあったはずなのに、何故か今、目の前に壁がある。壁が、行く手を通せんぼしている。

 女性が、突然現れたその壁が、人の手の形をしていると気付くのに数秒の時間を要した。

 人の手にしてはあまりにもデカすぎる手。

 

 顔を引き攣らせながら、恐る恐る背後を振り返る。

 

 巨人の顔が、目の前にあった。

 

「ひっ…!」

 

 女性が上げ掛けた悲鳴は、巨人が素早いかつ極めて繊細な動きで突き出してきた巨大な人差し指によって封じられることになる。

 女性の顔の数センチ前まで突き出された巨人の巨大な人差し指。

 女性の呼吸が止まる。

 

 女性の腕に抱かれてスヤスヤ寝息を立てている男の子の安眠を妨げまいと思って、女性の口を噤ませるために人差し指を突き出したらしい巨人。

 その巨人の配慮は女性の脳味噌をフリーズさせてしまったことで、一定の効果は示されたようだ。

 女性は、巨大な指を突き付けられ、完全に固まってしまっている。

 

 しかしその5秒後。

 徐々に状況を把握し始めた女性。

 自分の顔など、いとも簡単に圧し潰すことができそうなほどの、巨大な巨獣の指。

 その指が、自分の鼻先の数センチメートル前にまで迫っている。

 いや、「圧し潰すことができそう」などではない。

 この巨獣の人差し指は、今、まさに自分の顔を圧し潰そうとしている。

 こんな大きな指を目と鼻の先にまで突き付けられては、女性がそう勘違いしてしまうのも、無理からぬものであった。

 

 

「きゃあああああああああああああ!!」

 

 

 結局悲鳴を上げてしまった女性。

 顔をしわくちゃにさせて金切り声を上げる女性に、むしろ巨人の方がびっくりしてしまい、突き出していた指を引っ込めてしまう。

 

「いやあああああああああああああ!!」

 

 悲鳴を上げ続ける女性に対し、狼狽えてしまう巨人。どうしたらよいのか分からず、巨人の手が女性の頭上をおろおろと彷徨う。

 結局。

 

「ぎぃやああああうぷっ!?」

 

 巨人は人差し指を超繊細な動きでちょんと突き出し、女性の口もとを押さえて強引に口を噤ませた。

 女性の悲鳴が消え、静寂に包まれる檻の中。

 巨人の肩と胸が上下にゆっくりと揺れる様は、まるでほっと安堵の溜息を吐いたようだった。

 

 しかし巨人が安心したのも束の間。

 巨人が女性を黙らせるのが、少しばかり遅かったようだ。

 女性の腕の中の小さな男の子は、すでに小さな瞼を開けてしまっていた。

 

 小さな男の子は小さな両拳で小さな目をぐりぐりと押さえる。

 小さな口を目一杯広げ、大きな欠伸をする。

 何度か目を擦りながら顔を起こし、自分を抱きかかえている女性の顔を見上げた。

 極限まで引き攣った女性の顔。

 その女性の口もとに当てられた、大きな丸太ん棒のような何か。

 男の子は女性の口もとに当てられた大きな丸太ん棒の出所を探るように、ゆっくりと首を捩じっていく。

 

 寝起きでうすぼんやりと開いていた男の子の目が、ぱっちりと開いた。

 

 そこにあったのは、巨人の顔。

 

 額に一本の角を生やした巨人の顔。

 

 厳つい鬼のような鎧兜を被った、巨人の顔。

 

 

 途端に、巨人は女性の口もとに当てていた指を引っ込ませ、その手で巨人の顔を隠してしまう。

 恥ずかしそうに。

 醜い醜い顔を見られまいと。

 右手だけでは足りず、左手も使って、両手で顔を隠す。

 首を縮め、背中を屈め、蹲って。

 

 小さな男の子の前で、デカい図体を縮こませてしまった巨人。

 

 そんな様子の巨人を見て男の子は。

 

「ああ…」

 

 男の子は笑った。

 

「だあ…」

 見た目は4~5歳くらいの男の子。

 しかしその仕草、動きは赤ん坊そのもの。

「ああ…」

 言葉を発しない男の子は、頭を抱えて蹲ってしまった巨人に向かって、その小さな手を一生懸命伸ばそうとする。

 伸ばそうとして、女性の腕から身を大きく乗り出してしまう。

 女性は相変わらず巨人に恐怖しており、男の子の動きに気付いていない。

 男の子の腰から上が、完全の女性の腕の中から出てしまう。頭の方へと移動してしまう男の子の重心。ぐらりと、男の子の体が前のめりに揺らいだ。

 重力に引かれる男の子の上半身。男の子の体が、女性の腕の中からずり落ちる。

 ついにでんぐり返しでもするかのように、男の子の体が宙を半回転。

 そのまま、男の子の体は頭から真っ逆さまに床の上へと転がり落ちてしまった。

 

「あっ」

 男の子の転落に、真っ先に声を上げたのは、腕の重みが消えたことに気付いた白衣の女性。

 

「あっ」

 モニター越しに檻の中の様子を覗っていた冬月も声を上げる。

 

「あっ」

 やはりモニター越しに巨人の様子を見守っていた技術者たちも声を上げる。

 

「あっ」

 そしてゲンドウまでもが、声を上げていた。

 

 

 女性の腕の中から転落した男の子の体が、頭が、硬い床へとぶち当たる。

 

 かに思われたが、男の子の体が着地した場所は硬い床ではなかった。

 

 

 男の子が転落する様を、大人たちが棒立ちのまま見つめている中で、唯一動いたそれは、咄嗟に、それでいてそっと、男の子を抱いていた女性の足もとに人差し指を差し出す。

 

 男の子が着地した場所。

 

 それは、巨人が差し伸べた人差し指の、先っちょだった。

 

 指の先に腹ばいの状態でちょこんと乗っかった小さな男の子。

 男の子が頭部から真っ逆さまに床に落ちるという惨事を免れたことに、肩と胸を上下に揺らしてほっと安堵の溜息を吐くような仕草をした巨人は、その男の子の顔を見つめながら、ゆっくりと体を起こしていく。

 

 どんどん視線が高くなり、床が遠くなっていく中で。

「きゃっきゃっ」

 恐怖するどころか、無邪気に笑っている男の子。その男の子の遥か下では、腰を抜かした女性が床に尻餅を付いている。

 

 体を起こした巨人はそのまま床に腰を下ろし、もう片方の腕で膝を抱えると、男の子を乗せた指を顔に近づけ、男の子の様子を興味深そうに見つめる。

 男の子も急接近した巨人の顔に、相変わらず無邪気な笑い声を上げながら、短い腕を巨人の顔に向けて伸ばしている。

 すると身を乗り出す男の子の体はまたもやでんぐり返しをするように指の先から転がり落ちてしまい、そのまま滑り台の要領で巨人の指の上を転がり落ちていく。慌てた巨人。男の子の体を受け止めるため、手の平に大量の燐光を溢れ出させる。

 突如、巨人の手の平に溢れた光の粒子。それはATフィールドと呼ばれる、あらゆる外部からの接触を拒む光。しかし巨人はそのATフィールドをの結晶を手の平に大量に集めることによって、即席の光のクッションを作り出したのだ。

 巨人の指の上をコロコロ転がり落ちる男の子は、そのまま光の結晶の中へと身を投げ、ぽてんと巨人の手のひらに着地。

 巨人の手の平の中央にぺたんと座り込んでいる男の子。何度もでんぐり返しをして目が回ってしまったらしく、くりくりとした瞳を眼球の中でぐるぐる回しながら、頭をふらふらと揺らしている。

 やがて視界が定まってきたらしい男の子は、自分を包む光の結晶たちの存在に気付く。たちまち目を輝かせた男の子は、手足をじたばたさせて、光の結晶たちを巻き上げさせ始める。

 舞い散る光の粒の中で、「きゃっきゃ」と笑い声を上げながらはしゃぎ回る男の子。

 そんな男の子の姿を、じっと見つめていた巨人。

 巨人と、男の子の視線が重なった。

 

 くりくりとした男の子の瞳に見つめられ、巨人は尻込みするように首を竦める。

 

 男の子はばたつかせていた手足を下ろし、じっと巨人の顔を見つめ返す。

 そして。

 

「だあ…」

 

 無邪気ににっこりと笑った。

 小さな男の子に笑い掛けられ、巨人はさらに首を竦めさせてしまう。 

 一方の男の子は、両膝と左手を巨人の手の平に付き、右手を巨人の顔に向けて伸ばし始めた。

 巨人の顔に近づこうと、小さな身体を目一杯伸ばして、右手を突き出してくる男の子。このままでは手の平からも転がり落ちてしまいそうだったので、巨人は男の子を乗せた右手を、おずおずと自身の顔に近付け始めた。

 徐々に近づいてくる巨人の顔。

 男の子の笑顔も、大きくなる。

 伸ばされた男の子の手が、何かを求めるようにグーとパーを繰り返す。

 

 そして巨人の手首が巨人の口もとに触れ。

 これ以上は寄せることができないところまで、巨人の手と顔が近づいて。

 

 ついに、男の子の小さな手が、巨人の鼻っ面にぺたりと触れた。

 

 その瞬間、まるで蒸気機関の排気弁を目一杯に開け放ったかのように、巨人の口の両端から大量の蒸気が吐き出された。

 急激に立ち込める蒸気に、無邪気な男の子は「きゃっきゃ」と声を上げて笑い、「もっともっと」とでも言うかのように、巨人の鼻っ面をペタペタと叩いた。

 

 

 

 異種間?の交流を、床の上から見上げていたゲンドウ。彼が握る通信端末機から、冬月の声が聴こえた。

『どうする。強制停止させるか』

 ゲンドウは通信端末機を口に近付け、静かに告げた。

「いや、このままでいい」

『しかしこのままではお前の息子が危険ではないか』

「構わん。…冬月」

『なんだ』

「シンジの部屋の荷物を全てこちらに移せ」

『は?』

「シンジの居室を、この第7ケージに移す」

 通信端末機のスピーカーから相手の溜息が聴こえたような気がした。

『貴様が冗談を言う人間とは寡聞にして知らなかったぞ』

 呆れたような冬月の声。ゲンドウは静かに告げる。

「命令だ」

『…分かった』

 

 

 

 モニター室からケージの中の様子を見下ろす冬月。

 彼の視線の先には、巨人の手の平の上で巨人の顔にぺたぺた触れたり、巨人の大きな指に戯れたり、光の結晶を舞い散らせて遊んでいる男の子の姿。

 視線を、その様子を見上げている男に移す。

「碇。お前の後を付いていくと決めて以来、この世のものとは思えない光景に何度も出くわす羽目となったが…」

 巨人の横顔を見る。装甲に固められた巨人の顔が、柔らかく見えるのは気の所為か。

「…これは極めつけだぞ…」

 

 

 

 



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(12)

 

 

 

 

 だだっ広い空間の床に置かれた簡素なパイプベッド、小さなチェスト、小さなテーブルに小さなイス、簡易トイレ。まるで監房のような、病室のような。必要最低限のものしか置かれてない、寂しい場所。

 そんな場所には不似合いな、子供のはしゃぐ声。

 腕白な男の子は、今日も巨人の体を遊具代わりにして遊んでいる。

 巨人が垂直に立てた手の指を、短い四肢を伸ばしてうんせうんせとよじ登る男の子。指の先端に辿り着くと、おぼつかない足取りで立ち上がり、遥か下の床を見下ろして、怖がるどころかきゃっきゃとはしゃいでいる。

 はしゃいでいる内に小さな体が前後へと揺れ始め、そしてついには足場を踏み外し、男の子の体は数十メートル下にある床へと真っ逆さま。

 巨人はすぐにもう片方の手を男の子が落下する地点へと差し出し、その手のひらに無数の光の鱗粉を溢れ出させる。男の子の小さな体は無数の光の鱗粉の中へ。男の子の背中が光の鱗粉に接触すると、まるでトランポリンの上に落ちたかのように、ぼよよ~んと男の体が柔らかく跳ねた。

 光の鱗粉の中と空中とを何度か行き来し、やがて男の子の体が光の鱗粉の中に落ち着くと、男の子は再びきゃっきゃと笑い声を上げる。

 そんな男の子の鼻先を、巨人はおぞおずと伸ばした人差し指で、極めて繊細な動きでちょいちょいっとつついた。男の子はくすぐったそうに身を捩らせつつ、巨人の丸太のような指をよじ登り始める。

 

 

 

 画面上に映るのは、男の子が巨人の体を巨大な遊具代わりにして遊んでいる光景。しかしそれを見る男の目には、少女が人形とドールハウスで遊んでいるように見えていたのかもしれない。

 

 執務室で卓上のモニター越しに映る第7ケージの様子を見ていたら、ただ1人の男のために用意されたものとしては無駄に広い部屋の奥にある扉が開き、白髪の男が入ってきた。

 碇ゲンドウはすぐに卓上モニターのスイッチをオフにし、背もたれから背中を離し、両肘をこれまた1人の男に用意されたものとしては無駄に大きなテーブルに付き、組んだ手の上に顎を乗せて冬月コウゾウを出迎える。

 

 部屋に入ったと同時に彼の上官が卓上モニターのスイッチを切った瞬間を目ざとく見ていた冬月。

「何を見ていた?」

 ゲンドウは何も答えずジロリと冬月を睨み、早く用件を済ませるよう目で訴える。

 冬月は鼻で軽くため息を吐くと、持っていたボード状の端末機の画面に目を向け、彼らの事業の進捗状況を報告し始めた。

 

 

「ゼーレよりマーク9以降の機体の譲渡が正式に決定した。半年後より順次、機体の引き渡しが始まるだろう」

 冬月が次々と読み上げる報告を、微動だにせず黙って聴いているゲンドウ。

「最後に綾波レイの新しい素体への転送についてだが」

 冬月がその言葉を発した瞬間、瞬きさえしなかったゲンドウの目が、一度だけ短く閉じられた。

「綾波レイを着床させるための新しい素体だが、綾波タイプのプラントは特に汚染が進んでいる場所だ。現在急ピッチで除染を進めているが、使えるようになるまではあと1年は掛かるだろうな」

「それでは遅い」

 冬月がこの部屋に入ってきて初めて発したこの部屋の主の声に、冬月の片方の眉がぴくりと動いた。

「ではダミーシステム用にストックしていた素体を使うか。それならば大量にあるが」

「ダミーシステム用は基準を満たさなかった欠陥品だ。そんなものにレイを入れるわけにはいかん」

「ではどうする。人間の臓器移植と同じだ。時間の経過と共に、魂の移植も困難になるぞ」

「ゼーレから支給された素体がある。あれを使え」

「ナンバー4、5、6のことか?」

「ああ。ナンバー6がいいだろう。未成熟故、人格の上書きもし易いはずだ」

「……」

 冬月は、黙ったままゲンドウの顔を見下ろしている。ゲンドウは瞳だけを動かし、冬月に視線を向けた。

「どうした。何か問題でもあるか」

 問われた冬月は、それでも暫しの間黙ってゲンドウの顔を見つめ、そして。

「ああ、分かった。すぐにでも工程表を作らせよう」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 この組織の副司令官に与えられた執務室に、その主が居ることは殆どない。この日も冬月が副司令官の執務室に初めて入ったのは、1日の全ての仕事を終えた夜更けだった。

 扉を開けると、総司令官の執務室に比べれば遥かにこじんまりとした部屋が現れるが、それでも人一人に与えられた仕事部屋としては十分な広さがあるため、冬月にはなんの不満もなかった。

 

 部屋の中央には副司令という役職に相応しい重厚なテーブルと本革製の椅子。

 そのテーブルの端の方に置かれた簡素な丸椅子。その丸椅子に座る人影の背中を見て、冬月は溜息を吐いた。

「ここに無断で入ってはいかん。君には何度も言っているはずだが」

 手にしていた本を夢中で読んでいた人影は、その声でようやく冬月の訪室に気付いたらしい。

 飛び跳ねる様にして立ち上がり、持っていた本を隠すように自分の背中に回し、冬月の方へと向く。

「す、すみません…、つい…」

 顔を真っ赤にさせて、伏し目がちの目で冬月を見つめる、肌にぴったりとくっ付く黒いプラグスーツを着た、空色髪の女の子。

「ここ。とても静かで…。落ち着いて本、読めるから…」

 しどろもどろに言い訳をする少女に、冬月は苦笑いしながら椅子の方へと向かう。

「まあいい。続けたまえ」

「は、はい…」

 部屋の主の許可を得た女の子は、すぐに丸椅子に腰かけると、閉じていた文庫本を開いて続きを読み始める。

 冬月も自身の椅子に座り、テーブルに置かれていた端末機を起動させ、今日のうちに溜まったメールと明日のスケジュールのチェックを始めた。

 

 

 ピピピッという軽い電子音。

 女の子は黒いプラグスーツの手の甲にあるコントロールパネルを見つめ、小さな画面に表示された文字を確認する。パネルのボタンを押してアラームを止めると、再び文庫本を読み始めた。

 

 その様子を横目で見ていた冬月は苦笑しながら口を開く。

「本日の活動限界が来たのではないか?」

 冬月の低い声に、女の子は弾かれたように顔を上げ、冬月を見た。

「早く自室に戻りたまえ」

「で、でも…」

 膝の上に広げた文庫本と冬月の顔とを交互に見つめる女の子に、冬月は苦笑いを続ける。

「本は逃げはせんよ。また明日、続きを読めばよかろう。これは命令だ」

 最後の言葉を使われると、女の子は有無を言うことを許されない。

「はい…」

 あからさまにしょげた様子で立ち上がる女の子。

「気に入っているよだね」

 冬月は女の子が胸に抱いている文庫本を見つめる。

「はい…」

 女の子は小さな口に柔らかい曲線を描いて答えた。

 

 女の子が持つ文庫本は冬月が与えたものだった。

 訓練と実験とメンテナンス。この建物の中で、女の子はそれなりに忙しい日々を過ごしているが、それでもぽっかりと空く時間はあり、そんな空いた時間を持て余している様子だった女の子に、冬月は読書を勧めてみた。最初は女の子の先任に当たる少女がかつて好んで読んでいた医学書や哲学書を与えてみたが、「生まれて」10年にも満たない女の子にその内容を理解できるはずもない。頭から煙を立ち昇らせながら、それでも懸命に読み進めようとしている女の子に、冬月はもう少し読みやすい実用書を与えてみた。他にも歴史書や偉人の自伝など、色々と試してみてようやく落ち着いたのが、今女の子が持っているジュブナイル本である。

 

「どこまで読み進めた?」

「まだ4分の1ほど…です」

「面白いのか?」

「は…い…」

「どのような内容だ?」

「男の子と、女の子の…、お話しです…」

 冬月はふっと笑った。

「俗に言うボーイミーツガールもの、というやつか。どんな時代であろうと、若人が好む物語は結局のところそれだ…」

「ぼー…?」

「なんでもない。早く帰りたまえ」

「は、はい」

 女の子は冬月に向かってぺこりと頭を下げると、ドアに向かってトテトテと小走りに歩いていく。

 

 ドアの前で止まり、冬月に向かってもう一度ぺこりと頭を下げる女の子。

「おやすみなさい。冬月先生」

 冬月は端末機の画面を見つめたまま応える。

「ああ、おやすみ。ナンバー6」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 総司令官の執務室。

 今日も総司令官碇ゲンドウは、副司令官冬月コウゾウの長々とした報告を受けている。

「先月の反ネルフを標榜する組織の創立宣言件数は6。これでアフター・サードインパクトにおける同様の宣言は100件を超えることとなった。記念の祝杯でも挙げるべきかな」

 毎度毎度事務的な報告はつまらない。たまには趣向を変えるのもいいだろうと報告の中に冬月なりの冗談を織り交ぜてみたのだが、その冗談を聴いた唯一の人物であるゲンドウの顔は眉一つ動かない。冬月は咳払いを一つ入れて続ける。

「先月のネルフに対するテロ予告は325件、実際にネルフ関連施設を狙ったテロ行為は77件。いずれも過去最多に達したな」

「小物に構う必要はない」

 珍しく、報告の途中でゲンドウが口を挟んできた。

「我々が注意を払うべき組織は一つだけでよい」

「元ネルフ副司令官、加持リョウジが海洋生態系保存研究機構とやらを中心に立ち上げた組織か」

 ゲンドウは深く頷く。

「ゼーレの活動を抑え込み、ユーロネルフもコア化の波に飲まれた今、我々の計画を成しうる上で最も警戒すべきは彼らの動きだ」

「加持リョウジがサードインパクトで命を落として以降は表立った動きはないが…」

「ああ。以来、葛城一佐も消息を絶っている。サードインパクト時にネルフから大量離反した職員と共にな」

「無論、諜報部は最重要手配テロリストの一人として葛城一佐の消息を追っている。しかし連中は各地の難民キャンプを転々とし、拠点を移動し続けているらしい。キャンプでの反ネルフ感情は連中の扇動もあって烈火の如くだ。諜報活動は容易ではない」

「我々が第13号機の建造に着手したという情報は、彼らにも伝わっているはずだ。故加地一派に対する警戒は特に厳にすべきだ」

「私としては先月のテロの半分を主導したゼーレ原理主義派どもを重点的に取り締まるべきだと思うがね」

「もうすぐ一佐の夫の命日だ」

「なるほどな…」

 互いに伴侶を失った者同士、通じ合うものでもあるのだろう。ゲンドウの一言に妙に納得してしまった冬月は、早速その場で週明けのテロ対策委員会招集の指示を出すことにした。

「最後に綾波レイの転送作業の件だが、予定通りでよいのだな?」

「ああ、構わん」

「では明日、転送作業を実行する」

 

 

 

 



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(13)

 

 

 

 

 ケージに降りると、そこにはだだっ広い床に腰を下ろし、両膝を抱えて座っているまるで小山のような巨人。巨人の視線の先には、ベッドの上ですやすやと寝息を立てて寝ている男の子。

 ベッド上の男の子を一瞥したゲンドウは、巨人の顔を見上げる。

「レイ」

 ゲンドウの声に、巨人は少しだけ首を動かして、鎧兜の眼孔から覗く黄金色の瞳をゲンドウへ向けた。

「お前の新しい肉体に入る日が決まった。明日だ」

 巨人は暫くゲンドウの顔を見つめ、そしてベッドの上の男の子を見つめた。

 巨大な腕を動かし、巨大な手を伸ばし、巨大な人差し指をベッドの方へと近付ける。

 巨大過ぎて厳つ過ぎる見た目には反する、極めて繊細な動きで、ベッドの上で眠っている男の子の頬を、ちょんとつついた。頬を突っつかれた男の子は、目を閉じたままくすぐったそうに手足をじたばたさせている。

 その様子を見ていたゲンドウ。自身の口の口角が少しだけ上がっている事に、おそらく本人は気付いていない。

「明日になれば、装甲と人工神経越しではない、お前自身の指で直接シンジに触れることができるようになるだろう」

 巨人の口の両端から、やや多めの蒸気が漏れた。

 

 

 巨人の指がちょんちょんと、2度3度、男の子の頬を突っつく。

 頬に柔らかい刺激を受け続け、次第に男の子の小さな瞼が上がっていき、瞼の向こうから男の子のつぶらな瞳が現れた。男の子の瞳が自分の頬をつつく巨人の顔を捉えると、安眠を妨げられたにも関わらず、男の子は嬉しそうににっこりと笑う。

 男の子がベッドから体を起こすのと同時に、ゲンドウはベッドに背を向け、廊下へ繋がる扉へと歩き始めた。

 

 扉に向かって5歩ほど歩いたところで。

 

 急にゲンドウの視界が塞がれた。

 突然、目の前に現れた大きな壁。

 それが行く手を塞いだ巨人の手であるとすぐに気付いたゲンドウは、後ろを振り返る。

「何のつもりだ、レイ」

 巨人の顔を見上げた。

 ゲンドウの行く手に手を置いた巨人は、黙ってゲンドウを見下ろしている。

「私は忙しい。行くぞ」

 立ちはだかる障壁はぶち破ることで越えてきたゲンドウだが、さすがに巨人の手をぶち破る術は持っておらず、巨人の手を迂回して扉へ向かおうとした。

 

 再びゲンドウの視界が塞がれた。

 目の前を塞ぐ、巨人の大きな手。

 行く手を阻む自身の胴体くらいはあろうかという丸太のような指を見つめながら、ゲンドウは大きくため息を吐く。

「いい加減にしなさ…」

 やや苛立ちがこもった声で言いながら振り返ろうとして、ゲンドウは息を呑む。

 ゲンドウの目の前に、巨人の大きな2本の指が迫っていた。

 

 顔に近づいてくる大きな指の腹。顔を潰されそうになったゲンドウは、咄嗟に顔の前に手を翳し、亀のように首を引っ込める。

 そんなゲンドウの頭上を巨人の指は素通りし、彼の首根っこへ回された。巨大な親指と人差し指がゲンドウの着るジャケットの襟首を摘まみ上げる。そのまま上に向けて、ひょいっと引っ張った。たちまち、宙に浮いてしまうゲンドウの体。

「な、何をする! 馬鹿な真似は止めなさい!」

 ゲンドウの口からこうも上擦った叫び声が発せられたのは、もしかしたら生まれて初めてだったかも知れない。

 しかし巨人はそんなゲンドウの声を無視して、摘まみ上げたゲンドウをある方向へと移動させていく。

「やめなさい! やめなさいと言っている!」

 まるでイタズラがバレて折檻される猫のような宙吊り状態のゲンドウは、無様にも手足をジタバタさせるが、その手足は巨人の手に届くことなく、空しく空を切るだけだった。

 

 ゲンドウを目的の位置まで移動させた巨人は、パッと摘まんでいた指を離してしまった。

 支えを失ったゲンドウの体は重力の法則に従って落下。そのお尻は、激しい音と共にパイプ製のベッドの上へと着地する。

 

 

 突然空から降ってきた知らないおじさんに驚いた男の子は、目を丸くした。

 しかし次の瞬間には。

「きゃっきゃっ」

 突然空から降ってきたおかしなおじさんに対して、声に出して笑い始める。そして。

「だあ…」

 四つん這いでベッドの上を移動しおじさんの近くに寄ると、その紅葉のような小さな手を、ぺたんとおじさんの膝の上に乗せた。

「何を…!」

 その手の感触に激しい拒否反応を示したゲンドウは、男の子の手を反射的に払いのけようとした。しかし寸での所で手を止める。

 すぐ側で、巨人が彼の一挙手一投足をじっと観察していたからだ。

 もし自分が男の子の手を払い除けでもして、男の子を泣かせてでもしてしまったら、この巨人からどんな制裁が加えられるのか。また巨人の指に摘まみ上げられ、床にでも叩き付けられてしまったら。「彼女」に限って、そんなことはないとは思うが…。…いや、しかし…。

 

 動けないでいるゲンドウ。知らないおじさんが無抵抗であることをいいことに、調子に乗り始めた(ようにゲンドウには見えた)男の子は、おじさんの足の上をよじ登り、ゲンドウの腰に抱き着いてしまった。

 まるで軟体の捕食動物にでも捕まった小動物のように身を捩らせながら、ゲンドウは巨人を睨み付ける。

「何のつもりだ! レイ!」

 この組織における最高権力者の心の底からの怒号。

 しかし巨人は何も語らない。涼やかな表情?で、ゲンドウとその腰に抱き着く男の子の様子を見つめている。

「俺は怒るぞ…!」

 

 ゲンドウが顔を真っ赤にさせて拳を振り上げた(何処に振り下ろすつもりだったかは知らないが)、その時。

 

 背後で扉が開く音がした。

 

 それに続いて、キュルキュルと、若干潤滑油が切れ気味のキャスターの転がる音。

 見ると、男の子の世話係をしていた白衣の女性が、テーブルワゴンを押しながらこちらに向かって来ている。巨人の存在にビクビクしながらテーブルワゴンを押す女性は、巨人の手に隠れていたベッド上のゲンドウの姿を見つけてギョッとしてしまった。そしてゲンドウの腰に抱き着いている男の子を見つけて、さらにギョッとしてしまう。

 

 もしかしたらこの世界で一番見てはいけないものを見てしまったのではないか。立て続けにギョッとしてしまった女性は、掛けたメガネの奥の目を点にしてしまっている。その彼女が押してきたテーブルワゴンの上にあるものを見て、今度はゲンドウがギョッとしてしまう番だった。

「なんだ…、それは…」

 低い声で訊ねるゲンドウに対し、女性は震えた声で答える。

「食事です…」

 確かに、テーブルワゴンに載せられているのは食事だ。そんなの見れば分かる。問題は、テーブルワゴンに載せられた食事は、2人分ということだ。

 

 2つの食品トレー。2つのスプーン。

 2つの食品トレーのうち1つは、いかにも子供向けの小さなトレー。2つのスプーンのうち1つは、いかにも子供向けな、柄に花柄の模様が付いた小さなスプーン。2人分の食事のうち、1つは男の子用のものであるということも、見れば分かる。

 では残りの1つは、一体誰のために用意された食事なのか。

 

「誰のために用意された食事か?」

 自分の中に渦巻く疑問を、率直に口にするゲンドウ。

 女性は激しく瞬きを繰り返しながら答えた。

 いや、ゲンドウの鋭い眼光に怯えて声を出すことすらできない女性は、ただゲンドウの顔を見つめていた。

 「これが答えだ」とばかりに。

 

 ゲンドウは生まれて初めて眩暈というものを感じた。

 

 そして2人のやり取りを見守っていた巨人を再度睨む。

「お前の仕業か…、レイ…」

 女性を怯えさせたゲンドウの鋭い眼光も巨人は何処吹く風。どうしたらよいのか分からず硬直してしまっている女性のお尻を、大きな人差し指でそっと押す。

 お尻を押された女性は「ひっ」と短い悲鳴を上げつつ、震えた手で食品トレーとスプーンを、ベッドの前にある小さなテーブルの上に並べた。そして巨人の顔を睨みつけたまま硬直してしまっているゲンドウに対して深々と頭を下げ、テーブルワゴンを押しながら逃げるようにして扉の方へと走り去っていった。

 

「だぁ…」

 おじさんの腰に抱き着いていた男の子は、テーブルの上に並べられた食事に目を輝かせ、おじさんから離れてベッドから滑るように下りると、テーブルの側に置かれた子供用の椅子に座る。そして食事と一緒に準備されていた子供用エプロンを首に巻くと、小さなスプーンを右手に持ち、トレー上の食事を突っつき始めた。

 3つの区画に分けられた食品トレー。そこに盛られたものは、それぞれ色は違うが、全てペースト状の食事。まるで食欲などそそられない見た目の食品を、男の子はぎこちない動きでスプーンを操りながら、スプーンの先にペースト食を掬い、大きく開いた口の中へと運ぶ。口を閉じた男の子の顔が、幸せそうな笑みで溢れた。

 

 「自分は一体何を見せられているのだ」という表情で、男の子の食事する様子を見下ろしていたゲンドウ。

 ズズズ、と何かを引き摺るような音。見ると、巨人の指が空いている椅子をゲンドウの前に寄せていた。

 ゲンドウは巨人の顔を見る。

 

「冗談だろ…」

 

 ゲンドウの顔を見つめる巨人の口の両端から、シューッと蒸気が立ち昇った。

 

「冗談だよな…」

 

 巨人の口の両端から、ジューッと勢いよく蒸気が立ち昇った。

 

 未だかつて経験したことがない大量の汗を額に浮かべるゲンドウ。

 額に青筋を浮かせ。

 眉間に深い皺を寄せ。

 奥歯を噛み締め。

 もし先程の女性が見たら刹那に失神してしまいそうな物凄い形相を浮かべ、巨人と男の子とを交互に睨んだ。

 

 

 握り締め過ぎで震えていた右拳を、ジャケットの右ポケットに突っ込む。

 ポケットの中から通信端末機を取り出し、スイッチを押して話し掛ける。

「冬月…」

 通信端末機は沈黙を守っている。

「冬月…」

 通信端末機は沈黙を守っている。

「見ているのは分かっている…! 冬月…!」

『なんだ、碇』

 明らかに笑い声を噛み殺している様子の副司令の声が通信端末機の小さなスピーカーから聴こえた。

「第7ケージ内の全てのカメラを切れ」

『それは保安上、問題があるのではないか』

「命令だ。今すぐ切れ」

『分かった…。くくっ…』

 遂に堪え切れなくなったらしい副司令の笑い声を残して、通信は切れた。

 

 ゲンドウはあからさまに不愉快そうに通信端末機を乱暴にポケットの中に突っ込みと、ベッドから立ち上がり、巨人が用意した椅子にドスンと音を立てながら腰を掛ける。そして食品トレーの横に用意された白のペーパーナプキンの端をシャツの襟の隙間に突っ込み、スプーンを手に取った。

 まるで叩き付けるような動作で、スプーンを食品トレーの中に突っ込む。鉄製のスプーンとプラスチック製のトレーが辺り、カッカと耳障りな音を立て、撥ねたペースト食の粒がテーブルを汚した。やや多めに掬われたスプーンのペースト食を、ずるると音を立てて啜り、口の中に入れる。大きな鼻息を立てながら咀嚼し、大きく喉を鳴らしながら嚥下する。

 ひと口ふた口と、味も素っ気もないペースト食をいかにも不味そうに口に運びながらふと視線をずらすと、男の子がこちらを見上げていた。

 

 ゲンドウは3口目を口に運びつつ、男の子を睨む。

「さっさと食え」

 ぶっきらぼうに言う。

 すると男の子は何を思ったかスプーンを逆手に持ちかえ、頭の上にまでスプーンを掲げて、勢いよく食品トレーに向けて振り下ろした。

 当然、周囲に飛び散るペースト食。

 男の子はスプーンでペースト食を掬うと、スプーンの先に山盛りになったペースト食を、乱暴気味に小さな口の中に突っ込む。掬われたペースト食の殆どは口の中に収まらず、男の子の口の周りを汚し、エプロンを汚した。

 そして男の子は再び乱暴に食品トレーにスプーンを突き刺し、乱暴にペースト食を掬い、乱暴に口に運ぶ。それを繰り返す。見る見るうちに、男の子の周りが赤、白、黄色のペースト食で汚れていく。

 

 ついに、飛び散ったペースト食の粒が、隣に座るゲンドウのジャケットの袖にポトリと着地した。

 ゲンドウの額に、何本もの青筋が浮かび上がる。

「なにを…!」

 堪らず怒鳴り声を上げそうになり、握り締めていた左拳を振り翳してしまいそうになってしまう。

 

 しかし寸でのところでこらえ。

 

 目を閉じ。

 

 一回だけ大きく息を吸い。

 

 鼻から大きく息を吐く。

 

 体内に溜まった怒りの熱を、呼気と共に外へと追い出す。

 

 

 男の子のスプーンを持つ手に、大人の手が添えられた。

 男の子が、不思議そうな顔で手の持ち主の顔を見上げている。

 そんな男の子に、ゲンドウはぼそりと言った。

 

「食事は静かに食べるものだ…」

 

 ゲンドウは襟元に突っ込んでいたペーパーナプキンを取ると、それで汚れた男の子の口の周りや手を拭いてやる。拭き終えて、ゲンドウの手が離れた後も、男の子はぽかんとしたままおじさんの顔を見上げていた。

 ゲンドウはペーパーナプキンを丁寧に畳んでテーブルの隅に置くと、改めてスプーンを手に取り、自分の前に置かれた食品トレーにスプーンを下ろした。トレーの手前から、そっと柔らかい動作でペースト食を掬う。背筋を伸ばしたままゆっくりとスプーンを口元まで運び、音を立てず、啜らず、すっと素早く口の中へと流し込む。

 

 おじさんの一連の動作を、口を半開きにしながら見つめていた男の子。

 ゲンドウはゆっくりとスプーンを下ろしながら男の子を見下ろす。

「こうだ…。やってみろ…」

 暫くはぼんやりとおじさんの顔を見上げていた男の子。声で返事をする代わりにニッコリと笑い、逆手に持っていたスプーンを正しく持ちかえると、おじさんの動きを真似て、ゆっくりとした動作でペースト食をスプーンで掬う。スプーンを口に、ではなく、顔を前に出し、口からスプーンに近付けたところはゲンドウにとっては減点ポイントだったが、それでも静かな動作でスプーンを口元まで運び、そしてずずっと少しだけ音を立てて啜った。

 口をもごもごさせながら隣のおじさんの顔を見上げ、

「だあ…」

 ニッコリと笑い掛ける。

「咀嚼中に口を開けるな」

 ムスッと答えるゲンドウ。

 

「足をばたつかせるな」

 

「食事中に立つな」

 

「服の袖で口を拭くな」

 

「残さず食え」

 

 

 スプーンの音と、時折ゲンドウからの極々短い指導が飛ぶだけの、静かな食卓。

 

 父と子の、慎ましやかな食事会の様子を、巨人は食卓から少し離れた場所で、床に頬杖を付きながら見つめていた。

 

 

 

 



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(14)

 

 

 

 

 ドアを開ければ、それはもはや見慣れた風景。

 重厚なテーブルの前の丸椅子に、ちょこんと座っている空色髪の女の子の細い背中。女の子の赤い瞳から放たれる視線は、手もとに広げられた文庫本のページに熱心に注がれている。

 冬月は、彼が訪室したことにも気付いていない様子の女の子の横を通り過ぎると、本革製の椅子に腰を掛けてテーブルの上の端末機を起ち上げ、老眼鏡を掛けて今日1日で溜まったメールと明日のスケジュールのチェックを始める。

 

 

 ピピッと軽い電子音。

 女の子はアラームを鳴らす黒いスーツの手首のコントロールパネルに触れ、アラームを切った。そしてその時初めて椅子に腰掛けている冬月の存在を知り、ビクッと肩を震わせて思わず文庫本を閉じてしまう。

 

「あっ…、あ~…」

 

 悲しげな声を上げながら、慌てて閉じた文庫本を広げる女の子。どこまで読み進めたか、分からなくなってしまったらしい。そんな女の子に冬月は小さく笑いながら。

「173ページあたりではないかね?」

 冬月に指摘された通りのページを開く。女の子の顔に、ほっと安堵の表情が広がったことを横目で見ながら確認した冬月は、端末機の画面に視線を戻す。

 

 女の子は文庫本のカバーの袖を栞代わりに挟み、閉じた文庫本を口もとにやりながら冬月に対して頭を下げる。

「あ、ありがとうございます…」

「構わんよ」

 冬月は端末機の画面から目を離さず応える。

 女の子はもう一度冬月に対して頭を下げた。

「す…みません…」

「何がだね?」

「勝手に…、入ってしまっ…て」

「好きにしたまえ。読書中の君への説教は馬耳東風であることは、この1カ月で思い知らされたからな」

「…すみま…せん…」

 呆れた様子の冬月に、恐縮してしまった様子の女の子。冬月は意識して声音を柔らかくして言う。

「どこまで読み進めた?」

「…半分ほど…です…」

 冬月は画面から目を離し、女の子が口もとに押し付けている文庫本をちらりと見る。全部で300ページくらいだろうか。冬月なら2時間もあれば読み終えてしまえそうな文庫本。発売された当時は凡作との評価が一般的だったジュブナイル小説。なぜこのような本が本部の図書館に所蔵されているのか。それは冬月の中におけるネルフ7不思議の一つであるが、そんな小説を彼女はじっくり丁寧に、常人の何倍もの時間を掛けて読んでいるようだ。

 小さく口もとに笑みを浮かべながら、視線を画面に戻す。

 

「あ、あの…、冬月先生…」

 女の子からの躊躇いがちな声。

「なんだね」

「質問…、いいですか…?」

「構わんよ」

 その冬月の返答に女の子は顔をぱっと明るくさせ、文庫本のページを捲る。

「このお話し…。舞台の「学校」というのは…」

「以前説明した通りだ。若者が集まり、勉学に励む公的機関だ」

「はい…。「放課後」というのは…」

「1日の全てのカリキュラムが終わった時間のことを指す」

「はい…。それで、その「放課後」の「学校」の「教室」という場所で、主人公の男の子と女の子がお話をしてるんですが…」

「ふむ」

「男の子が、突然、女の子に「好きだ」ってゆーんです…」

「そうか」

 どうやら、女の子が読む文庫本の物語は、中盤の佳境に差し掛かっているらしい。

「冬月先生…」

「なんだね」

「「好き」って、なんですか…?」

 冬月は端末機のキーボードを叩く指を止め、老眼鏡を傾けながら女の子を見る。

 冬月は口もとだけでなく、目も細めて笑った。

「それをここで説明してしまってはつまらんだろう。その本を読み続けなさい。物語を最後まで読めば、君にも分かるはずだ」

「最後まで…ですか…」

「ああ」

 冬月は視線を端末機の画面に戻し、キーボードを叩く作業を再開する。

 歳の所為かこの頃強張りを見せる指を懸命に動かしながらキーボードを叩き続けて約10秒後。

 

 冬月の指が止まる。

 

 視線をゆっくりと女の子の顔へと向けた。

 

 

 文庫本を胸に抱き締める女の子は、静かに笑っている。

 

「それじゃあ、もう、間に合わない、ですね…」

 

 女の子のその言葉に、冬月はキーボードの上に置いていた両手をゆっくりと椅子のひじ掛けに乗せ、背中を背もたれへ預ける。老眼鏡を外し、目を伏せて右手でこめかみを押さえ、一度だけ鼻から溜息を漏らす。

 

 顔を上げ、正面から女の子を見つめた。

 

「「好き」という感情については…」

 

「「綾波レイ」は…」

 

 元教授らしく、教え子から投げられた問いを一から丁寧に解説し始めようとしたその矢先に、女の子が声を発した。

 

「「綾波レイ」は、「好き」、を、知ってますか?」

 

 冬月は口を噤み、女の子の顔を見つめた。

 そしてゆっくりと頷いて言った。

 

「ああ。「綾波レイ」ならば知っているだろう」

 

 「それは仕組まれた感情ではあるがな」と心の中で苦々しく注釈を入れながら。

 

 冬月は女の子の顔の隅々にまで、喜びが広がっていくのを見た。

 

「良かった。嬉しいです」

 

 女の子は、文庫本をひしと抱き締めている。

 

 

「私、早く、「綾波レイ」に、なりたいです」

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 

 モニター室には数名の技術者が詰め、それぞれが担当するコンソール上のキーボードを澱みない動きで叩いている。

 彼らの動きを後ろから眺めていた冬月は、モニター室の前面に張られた窓ガラスに近寄ると、窓ガラスの外に広がる大きな空間に目をやった。

 

 

 六面体の空間には、紫色の甲冑を纏った巨人が床に腰を下ろし、膝を抱えて座っている。俯いた巨人の後頭部には何本もの野太いケーブルが刺さっており、そのケーブルの行き先は巨人のすぐ隣。まるで鋼鉄で作られた心臓のような形の巨大な球体が床の上に鎮座しており、その鋼の心臓に巨人から伸びた何本もの野太いケーブルが突き刺さっている。

 

 その鋼の心臓に向かって歩いていく一団。

 数人の白衣に囲まれて歩く、一際小さく、細い人影。

 肌にぴったりと引っ付く、黒いプラグスーツを纏った女の子。

 

 白衣の者に指示されたらしく、女の子はその場で躊躇う様子もなくプラグスーツを脱ぎ始めた。袖から腕を抜き、スーツを腰まで下ろし、裾から足を一本ずつ引っこ抜く。黒のプラグスーツの下から、女の子の真っ白な裸体が露わになる。中身を失ったプラグスーツは、床に投げた。

 鋼の心臓の中央は、人一人が出入る出来る程度の大きさの鉄扉になっていた。その鉄扉が重々しく開くと、そこにはやはり人一人が入れる程度のスペースがある。

 白衣の者に促された女の子は、開いた鉄扉へと向かう階段を上り始めた。

 階段を上り切ったら回れ右をし、扉の中にある人一人分のスペースの中に、背中から身を収める。

 白衣の者から注意事項か何かを説明されているのだろう。白衣の者に対し、小さく頷き返している女の子。

 

 白衣の者が、階段を下り始めた。機械式の鉄扉が、ゆっくりと閉まり始める。

 ふと、女の子の顔が上を向いた。女の子の視線の先には、この実験房を見下ろせる位置にあるモニター室のガラス窓。そのガラス越しに立つ人影に気付く。

 女の子は穏やかな笑みを浮かべながら、その人物に向かって小さく手を振った。

 

 

 鋼の心臓の中に収まった女の子が、こちらを見上げながら小さく手を振っている。

 両手を腰の後ろに組んでいた冬月。

 暫しの逡巡の後、両手を解くと右腕を体の前に出し、手を広げる。

 女の子に向かって小さく手を振ろうとして。

 しかし、冬月が女の子に手を振り返そうとした時には、すでに鉄扉は閉まり、女の子の姿は見えなくなっていた。

 

 

 

「被検体A。転送システムにエントリー完了。いつでも開始できます」

 この場を取り仕切る科学者が冬月に報告する。

 鋼の心臓のような転送システムを見下ろしていた冬月は窓ガラスから離れると、科学者に目をやり、頷いた。

「碇が来たら始めよう」

 と冬月が答えている最中にも、モニター室の奥の扉が開き、碇ゲンドウが入ってきた。ゲンドウの登場により室内の気温は体感温度で3度ばかり低くなり、鳴り続けていたキーボードを叩く音もまるで息を潜めるように一斉に消えた。

「碇。準備は出来ている」

「ああ。では始めよう」

 ゲンドウはモニター室が見渡せる位置にある椅子に腰を掛けた。

 冬月の視線を受け、科学者は部下に指示を下す。

 

「転送システム起動」

 

「システム起動します。稼動電圧、臨界点まであと2、1、突破しました。全回路正常。システム、安定しています」

 

「被検体Aに神経接続開始」

 

「被検体A、神経接続開始します」

 

 ゲンドウが見つめる先にある大型モニター。その半分に、転送システムから送られてくる被検体についての様々なデータが表示される。

 

「被検体Aのパーソナルアーカイブ、解析開始します」

 大型モニターの隅に、「0%」の文字が浮かび上がった。その「0」は、「1」へ、「2」へと次第に数字を大きくしていき、やがて「100」へと到達する。

 冬月は大型モニターから視線を外し、窓ガラスの外にある転送システムを見下ろした。

 

「被検体Aのパーソナルアーカイブ解析完了しました。チーフ」

 

「初期化開始」

 

 冬月は目を閉じる。

 

「了解。被検体Aのメモリーを初期化します。初期化開始」

 

 キーボードの音が、タン、と一度だけ鳴る。

 

「初期化完了。被検体Aの神経回路解放、状態アクセプタブルです」

 

「続けてエヴァンゲリオン初号機。神経接続開始します」

 

 実験は、滞りなく進んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

1-2.機甲少女が見た夢 《終》

 

 

 

 



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1-3. 夢の終わり
(15)


 

 

 

 

 科学者、技術者たちがキーボードを叩く音。時折、データを読み上げる声、指示を飛ばす声。

 それ以外は換気扇の音と、彼らが啜るコーヒーの音しか聴こえないモニター室。

 彼らは、モニター室前面の窓ガラス越しに見える巨人からとある魂を取り出し、別の肉体へと移すための作業を、淡々と進めている。

 

 彼らの後ろ姿を見守っていた碇ゲンドウのジャケットの右ポケットから電子音が鳴った。ゲンドウはポケットから通信端末機を取り出し、耳に当てる。ゲンドウは通話相手と短い会話を交えた後、通信端末機をポケットにしまった。

 椅子から立ち上がりながら、腹心の名を呼ぶ。

「冬月」

 窓ガラスから実験房の床に鎮座した鋼の心臓のような転送システムを見下ろしていた冬月は振り返った。

「後は任せる」

「最後まで見ていかないのか」

「ああ」

 ゲンドウは短く答えながら冬月らに背を向け、モニター室から退室した。

 

 作業は滞りなく進んでいく。

「初号機側の神経回路、解放確認できました。マスタークロックとの同期完了。初号機コアと被検体A、完全に同調しています」

「初号機からの転送準備、完了しました。チーフ」

 部下からの報告を受けた科学者は腕時計を確認する。

「時間ね…」

 科学者の呟きに、コンソールの前に座っている2人のオペレーターが囁き合う。

「ええ。ですが…、碇司令が…」

「司令が実験途中で退室するのは想定外です…」

 2人を諭すように、科学者は言う。

「でもすでにゼロアワーは過ぎたわ。我々だけ動かないわけにはいかない」

「はい」

「分かりました」

 彼らはコンソールの下に置かれた鞄に手を伸ばす。

 

 

「副司令」

 

「何だね、赤木くん」

 

 背中に声を掛けられ、冬月は振り返る。

 冬月の顔が、俄かに歪んだ。

 

 冬月の視線の先には、拳銃を構えた赤木リツコが立っている。

 

 

 転送実験の責任者でもある赤木リツコの背後では、彼女の部下の数人がやはり銃火器を構えて、他の同席者たちを牽制している。

「何のつもりだね。赤木くん」

 そう訊ねた冬月の顔から、歪みは消えていた。リツコが構える拳銃の銃口はまっすぐに冬月の胸を狙っているにも関わらず、まるで明日の天気でも訊ねるような軽い口調で聞く。

「馬鹿な質問はお止め下さい、副司令らしくもない」

 リツコはリボルバー式拳銃の撃鉄を起こしながら言う。

「拳銃を向けている者が、相手に望むことは一つしかありません」

「両手を挙げればよいのかね?」

 大袈裟な動作で両手をリツコに見せながら肩の位置まで上げてみせる冬月。そんな冬月にしては珍しい冗談めかした態度に、リツコはくすりと笑う。

「これよりこの場は我々が仕切ります。流血は本意ではありません。どうか、我々に従ってください」

「科学を信望する君が理論ではなく、暴力で相手を支配する、か」

 リツコを見据える冬月の目が普段以上に細くなった。

「君も変わってしまったようだね」

 リツコは表情を変えずに言う。

「物事を円滑に進めるためには、時には手荒い手段も必要。これは碇司令から教わったことです」

「まったく」

 冬月は目を閉じ、年齢相応のくたびれた溜息を漏らす。

「奴も碌でもない教え子だったが、その教え子もまた碌でもない者に育ってしまったようだ…」

「副司令。申し訳ございませんが、私たちにあなたの皮肉に耳を傾けている時間はありません」

 リツコは彼女に従う部下たちに目配せした。

 

 部下たちは、彼らとは陣営を異にする同席者たちを自動小銃で威嚇しながら一カ所に集め始める。一方、リツコは廊下へ続く扉へ近づくと、拳を使って扉を1回、2回、1回と特徴的なリズムで叩いた。するとドアの向こう側から、やはり1回、2回、1回とドアを叩く音。

 リツコは扉のロックを解除する。

 開いた扉から、武装した兵士たちがゾロゾロと入ってきた。服装はそれぞれバラバラだが、「WILLE」という綴りのロゴが入ったヘルメットに防弾ベスト、銃器、そして右の二の腕に巻かれた青いバンダナは統一されているようだ。

 

 兵士たちの中の見知った顔に、冬月は声を掛けた。

「久しぶりだね。青葉くん」

「おっす。副司令。お久しぶりっす」

 トレードマークの長髪を先端で結ったかつての直属の部下は、携えた自動小銃の銃口を冬月の胸へと向けながら、リツコのもとへ駆け寄る。

「リツコさん。碇司令は?」

 支配下に置いた捕虜たちの顔を一人一人確認する青葉シゲルは、その中に最重要人物が居ないことに気付く。リツコは首を横に振った。

「残念ながら実験途中で退席してしまったわ」

「組織のナンバー1とナンバー2が同席する現場を強襲し、一網打尽にする。ちょっと考えが甘過ぎましたかね?」

「想定外はつきものよ」

 リツコのその言葉に、青葉は天を仰ぎ見るように天井を見つめながら、芝居がかった動作で肩を竦めた。

「まるで我々の人生のようだ」

「冗談はいいから。実験房の転送システムの中にゼーレのパイロットが1人入ってるわ。さっさと確保して。パスワードはあなた達が居た頃と変わってないわ」

「分かりました。おい」

 青葉は数人の兵士を引き連れて、モニター室を出ていった。

 

「パイロットはどうするつもりだね?」

 2人の会話を聞いていた冬月は、リツコに質問を投げかける。

「ゼーレのパイロットについては全員処分します」

 予想通りの答えだったため、冬月は驚かない。

「初号機はどうするつもりだね?」

「凍結した後、破壊します」

 リツコは冷たい声でそう言うと、コンソールの前に立つ。

 キーボードを叩いて幾つかのコマンドを入力し、コンソールの中央に挿し込まれていた鍵を握った。

 窓ガラス越しに見える、巨人の顔を見つめる。 

「レイ。悪いけど、あなたは永遠にそこで眠っていて…」

 鍵を捻ると、実験房の中に響いていた様々な機械音が一斉に鳴り止み、薄く光っていた巨人の目からも灯りが消えた。

 

「我々は処分しないのかね?」

 リツコはコンソールの画面上に映し出されるデータから、巨人の機能が完全停止していることを確認しながら冬月の質問に答える。

「冬月副司令。あなたと碇司令には私と共に、我々が犯してしまった過ちに対する責任を取ってもらわなければなりません。全ての情報を開示し、滅びかけの世界のコンテニューのための知恵を絞り切っていただいた上で、我々の処分は決まるでしょう」

 そこで言葉を止め、握っていた拳銃をコンソールに向けて振り下ろす。拳銃の銃床はコンソールに挿し込まれていた鍵を根本から破壊した。

「さあ、副司令。お喋りの時間はあとでたっぷりと用意していますから。まずはここを発ちましょう」

「我々は何処に連行されるのかな? この老体に、長い距離の移動はこたえるが」

 冬月の年齢を知っているリツコは、年齢の割には壮健過ぎる体つきの老人の言葉に笑みを零す。

「私たちの指導者のもとへ、です」

 冬月の目が鋭くなった。

「指導者とは誰かね?」

「あなたもご存知でしょう。葛城ミサト…ですわ。副司令」

「葛城一佐がここに来ているのか?」

「彼女はもはやネルフの職員ではありません。大佐…、と呼んであげてくださいな」

 

 冬月との会話を打ち切ったリツコは、再びコンソールに目を落とし、作業を続ける。

 2人の会話が途切れたことを見計らった兵士の一人が、冬月をはじめとする捕虜たちに自動小銃の銃口を向けながら近付き始めた。

「爺さん、こっちに来な」

 その兵士は、まずは捕虜たちの中での最重要人物である冬月を連行しようと近付いた。

 

 全てのデータをチェックし終えたリツコは、コンソールから顔を上げる。

 兵士が、不用意に冬月に近づいている姿を見て。

 

「気を付けて。冬月司令は柔道2だ…」

 

「え?」

 

 リツコの声に、その兵士が間抜けな声を上げながらリツコに振り返ろうとした時。

 

「え?」

 

 すでにその兵士の体は真っ逆さまになりながら、宙を舞っていた。

 

 

 

 




 

ここから冬月無双…じゃなかった、ちょっとしんどめな話が続きます。

 


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(16)

 

 

 

 

 無警戒に近づいてくる若い兵士。彼が着る防弾ベストの胸倉をむんずと掴むと、すぐさま膝を折って自身の体を一気に床へ沈め、所謂背負い落しの形で相手の体を宙に浮かせて半回転させた。おそらく技を掛けられた側は訳も分からぬまま天地が逆さまになるのを見届け、訳も分からぬまま床に叩き付けられ、訳も分からぬまま組み伏せられていたに違いない。そして相手を組み伏せる事ではなく、無力化することを目的に動いている冬月は、相手を叩き付けるのと同時に、自身の肘に全体重を預け、その肘を相手の喉へと押し付けた。

 大人一人分の体重を喉に叩き付けられ、たちまち呼吸困難に陥いる兵士。大技を繰り出しながらも動きを止めない冬月は、悶える兵士の腰のホルスターから拳銃を奪い取ると、銃口を兵士の胸に押し付ける。

 

 発砲。

 

 至近距離で銃撃を受けた防弾ベストはその機能を果たさず、兵士の背中からは床に向けて大量の血が弾けた。

 冬月は動かなくなった兵士から離れると、すぐに拳銃をリツコへと向ける。

 

「銃口を向けたからには、殺される覚悟はあるのだろうな」

 

 冬月のナイフのような鋭さを持つ声と共に発砲。

 冬月が兵士から拳銃を奪った瞬間にリツコは身を屈めていたため、拳銃から放たれた銃弾はリツコの頭を辛うじて外れ、背後の壁に大きな穴を開ける。

 

 リツコを牽制することに成功した冬月は、急転直下する事態に呆然として固まってしまっていた他の兵士たちに向かって、次々と発砲していく。発砲されてもなお動けないでいる彼らは、おそらくまともに訓練を受けてない即席の兵士なのだろう。そんな素人たちをいきなり実戦投入しなければならない彼らの内情を敵ながら憂いたが、数年前に何も知らずにこの場所にやってきた少年を無理くり人型決戦兵器に乗せたことを思い出す。冬月は敵に対する憂いを捨て、淡々と発砲を続けた。

 

 一人が脚を撃ち抜かれ、盛大な悲鳴を上げながら床に倒れたところで他の兵士たちは漸く動き出し、物影に身を隠しながら冬月に向かって反撃を始めた。

 

「副司令! この人数相手に無駄な抵抗はお止め下さい!」

 飛び交う銃声に、リツコは手で耳を塞ぎながら怒鳴った。

「多勢に頼れば何かと隙が生まれるものだよ。赤木くん」

 激しい銃声の中でも、何故か副司令の声はよく通った

 

 コンソールの下に隠れていたリツコ。そのコンソールの卓上に、ゴトンと丸いものが落ちる。

「え?」

 コンソールの下からひょっこりと顔を出す。卓上の上を転がる、丸いものを凝視するリツコ。

 それは、ピンが抜かれた手榴弾。

「ヒッ!?」

 短い悲鳴を上げながらリツコが慌ててその場から逃げ出して2秒後。

 激しい爆発音と共に、強烈な閃光が瞬いた。

 

 

 

 

 青葉シゲルをはじめとする兵士4人は広大な実験房へとに出ると、中央に置かれた巨大な鋼の心臓のような姿の転送システムへと走る。

 転送システムの横には、膝を抱えて眠りについている巨人。

「頼むから、大人しくしておいてくれよ」

 

 その巨人については、赤木リツコが完全に沈黙させているはずである。にも拘らず、2度に渡ってありえない状況から再起動を果たし、暴走した姿を目撃してきた青葉は、3度目の暴走が起こらないよう祈らずにはいられなかった。今のところ沈黙を保っている巨人の前をびくびくしながら通り過ぎ、転送システムの前に置かれたコンソールに張り付く。コンソール上にあるキーボードを叩き、転送システムの扉を開けるためのコマンドを打ち込んだ。

 

 やがて鋼の心臓の中央が動き出し、扉が開き始めた。

 

 扉の向こうから現れる人影。

 空色の髪。雪のような肌。

 

 大仰な装置に比して小さなスペースしかない扉の向こうでは、一人の女の子が眠っている。

 すぐに青葉以外の3人の兵士が扉に向かう昇降台を駆け上がり、まだ開き掛けの扉の隙間に手を差し入れ、中の女の子の腕を掴むと外へと引きずり出した。女の子は意識がないのか、乱暴に引きずり出されても反応を見せず、床に膝から崩れ落ちる。

 年端もいかない女の子の膝から血が滲み出るが、兵士たちは気にも留めず囁き合う。

「ゼーレのパイロットについては確保し次第、即刻処分…でよかったよな?」

「ああ。サードインパクト発動のキーの一つがゼーレのパイロットだったという情報がある。フォースインパクトを防ぐためには、ガキだろうと容赦はいらない」

 そう言いながら、その兵士は手にしていた自動小銃の銃口を、女の子の額へと押し当てた。

 

 

 

 どこからか激しい発砲音。

 青葉を含めた4人全員が、音がする方へと視線を向ける。

 音がするのは、この広大な実験房を見渡せる位置にある、モニター室から。

「なんだ?」

 青葉がモニター室の窓ガラスを凝視していたら。

 

 ドン!

 

 強烈な爆発音と共に、その窓ガラスが砕け、弾け飛んだ。

「え?」

 砕けたガラスが、実験房の床にバラバラと舞い落ちる。

 割れた窓からはもうもうと立ち昇る黒い煙。

 その煙に混じって、何かがモニター室から実験房へと飛び出してくるのを目撃した青葉。

 モニター室から飛び出してきた意外過ぎるものに、青葉は素っ頓狂な声を上げる。

 

「ふ、副司令!?」

 

 

 

 投擲した手榴弾が弾け、強烈な爆発音と閃光。窓ガラスが砕ける音。あちこちから上がる悲鳴。そこかしこからもくもくと立ち昇る黒煙。

 冬月はモニター室の壁に備え付けられた消火用ホースを抱えると、煙に巻かれて半狂乱に陥っている捕虜たちを掻き分け、割れた窓から外へと飛び出した。

 

 10階建てビルの高さに相当するモニター室から飛び出したすと、遥か下にあった実験房の床が、見る見るうちに迫ってきた。

 冬月は床に向かって落下しながら、実験房内の状況を素早く確認していく。実験房の中央には膝を抱えて座っている巨人と、その隣に置かれた転送システム。転送システムの前に置かれたコンソールの前には、かつての部下。そして転送システムの扉に群がる3人の兵士。3人の兵士の足もとには、転送システムから無理やり引きずり出されたらしい空色の髪と白い肌の女の子。かつての部下も3人の兵士も、皆呆気に取られてこちらを見上げているが、兵士の一人が持つ自動小銃の銃口は、女の子の額に押し付けられている。

 落下する冬月の体が床に到達するまで2メートルのところで、モニター室の散水栓に繋がれていた消化用ホースが伸び切った。垂直落下していた冬月の体は、ピンと伸びた消化用ホースに引っ張られ、大きく弧を描きながら横移動を始める。

 

 遥か上のモニター室から垂れ下がる長い消火用ホース。そのホースの先端にぶら下がりながら、宙を歩いてこちらに迫ってくるかつての上官。

「ふ、副司令…!」

 青葉は咄嗟に冬月に向けて自動小銃を構えるが、その指は震え、引き金を絞り切れない。

「青葉くん。命のやり取りの最中だよ。躊躇ってはいかんな」

 ホースから手を離した冬月。落下運動と振り子運動。2つの力を纏った冬月の体は、青葉に向かってまっすぐに突っ込んでいく。

「ぐへっ!?」

 かつての上官によるドロップキックを食らった青葉は、そのまま冬月の足の下敷きになりながら気を失った。

 青葉の体に着地するなり冬月はすぐさま青葉が持っていた自動小銃を奪い取り、転送システムの前の3人に向かってフルオートで発砲。狙いやすい急所である胸部と頭部は防弾ベストとヘルメットで守られているため、3人の下肢を次々と狙い撃ちしていった。

 

 下半身にしこたま銃弾を撃ち込まれ、悲鳴を上げながら転送システムの扉の前から転がり落ち、床の上をのたうち回っている兵士たち。冬月は弾倉が空になった自動小銃を投げ捨てると、血染めの彼らを踏み越え、血染めの階段を一気に駆け上がり、転送システムの扉の前に立った。

 扉の前で、ぐったりと横になっている裸の女の子。飛び散った血飛沫で赤く染め上がった女の子の細い首もとに、手の指を押し当てる。指の先に感じる、ポツポツと鳴る慎ましやかな脈動。少女が生きていることを確認した冬月は、ほっと安堵の溜息を漏らした。

 

 その直後に、冬月の頭上を何かが掠め、転送システムの鉄扉に激しい火花が瞬き、凄まじい破裂音が鳴り響いた。振り返ると、実験房の奥にある扉から同じヘルメット、同じ防弾ベストで身を固めた兵士たちが、冬月に向けて発砲を繰り返しながら続々と入ってきている。

 冬月は足もとの兵士から自動小銃を奪い、兵士たちに向けて牽制射撃を繰り出しながら、女の子を抱えて転送システムの陰に隠れた。

「さすがに無勢では限界があるか…」

 冬月は空になった弾倉を交換すると、物陰から身を乗り出し、迫ってくる兵士たちに向けて発砲。実験房の奥の扉から冬月が居る転送システムまでの間に、まともな遮蔽物はない。そこを真正面から馬鹿正直に突っ込んでくる兵士たちは、実に狙いやすい的だった。しかし。

 

「むっ」

 自動小銃の弾倉が空になる。交換できる弾倉はすでになく、冬月は自動小銃を床に投げ、最後の得物である拳銃を構える。

 しかし拳銃の残弾は、こちらに迫ってくる兵士の人数と比較して、明らかに少ない。兵士たちも一人抵抗を試みる老人が持つ得物が自動小銃から拳銃に変わったことに気付き、老人が隠れている転送システムへとより大胆な動きで近づいてきている。

 冬月の目の前に、ゴトンという音と共に落ちてきた手榴弾。冬月は躊躇うことなくその手榴弾を拾い上げると、迫ってくる兵士たちに向かって投げ返す。手榴弾は兵士たちの真上で破裂し、周囲に強烈な閃光と激しい爆発音をまき散らし、その真下にいた兵士たち数人がたちまち行動不能に陥った。冬月は冷静に的確に、一発一発を無駄にすることなく丁寧に、棒立ちとなった彼らへ銃弾を送り届ける。

 投げられた手榴弾は殺傷能力のない音響閃光弾だった。どうやら敵はまだ老体の生け捕りを諦めていないらしい。実際彼らがその気になれば、転送システムにバズーカ砲でもぶち込んで、一瞬にしてこの事態を終わらせることができるはずだ。

 いずれにしろ、冬月は自分が追い詰められていることを自覚していた。そして手にした拳銃が、残り2発で弾切れを起こすことも知っていた。

 

「万事休す…か」

 

 冬月がそう呟いた、その時だった。

 

 

 事態は急変した。

 こちらに距離を詰めてくる20人近い兵士たちの体が、瞬時に爆ぜたのだ。

 機関砲が打ち鳴らすけたたましい発砲音が実験房の中に充満する。本来は装甲車や航空機の破壊を目的として作られた鉄の塊たちは、生身の兵士たちの体をあっさりと爆散させると、その勢いを些かも留めることなく、冬月がいる転送システムの裏の壁を穿ち、冬月の頭上に砕け散った大量のコンクリート片を巻き散らした。冬月は右腕で自身の頭を庇いながら、左腕で女の子の体を庇う。

 

 5秒間続いた機関砲の発砲音が止んだ。

 地響きのような轟音が止み、その後にやってきたのは、耳鳴りがするほどの静寂。

 

 冬月は立ち上がり、硝煙と土埃が立ち込める実験房の奥を見つめる。

 やがて硝煙と土埃が晴れると、床の上に広がるミンチ状になった無数の肉片たちが現れ、そしてその奥に立つ見知った人物の顔が目に入った。

 

「碇」

「冬月。無事か」

 

 碇ゲンドウは靴が汚れるのも構わずに、血と肉片の海の上を歩いて冬月のもとへと向かう。ゲンドウの両脇には、円筒形のドームの下に機関砲を備えた、まるで戦闘艦に搭載されるCIWSに蜘蛛の脚をくっ付けたような形の屋内用多脚式歩行戦車が付き従っており、その機関砲の砲口からは煙が立ち昇っていた。

 

 血と肉片の海が広がる中、所々にはまだ人の形を留めている肉の塊が転がっている。

 その一つ。

「碇ゲンドウ…、悪魔め…」

 その兵士は両脚と片腕を失い、裂けた腹からは贓物を溢れ出させながらも、目前を過ぎて行く悪魔の化身に向かって、握っていた拳銃を向けた。

 

 パン! パン!

 

 乾いた2発の発砲音は肉塊と化したその兵士が握っていた拳銃からではなく、ゲンドウが握っていた拳銃から放たれたものだった。2発の銃弾を喉に食らった兵士は、体内に残された最後の血液を床にまき散らしながら、今度こそ絶命した。

 

 ゲンドウは、何事も無かったかのように歩くペースを変えず、冬月の前に立った。

「30分前に全てのセキュリティシステムがダウンしたようだ。我々は今、大変無防備な状態で叛乱分子の奇襲を受けている」

 事態の深刻さの割に、いつもと変わらない冷たい表情で言うゲンドウ。老体に鞭を打った冬月も、その顔に多少の疲れは宿しつつもいつもと変わらない冷静な声で応じる。

「赤木くんの仕業だろうな」

「敵の目標は我々、エヴァ・パイロット、そしてエヴァ本体だ。セキュリティシステムは再起動させたが完全復旧まで30分は掛かるだろう」

「碇、貴様はこの襲撃を事前に知っていたのか」

 冬月はゲンドウが赤木リツコらの決起直前にモニター室から退室していたことを思い出しながら訊ねる。

 ゲンドウは珍しく不愉快そうに鼻を鳴らした。

「不本意だが我々は不意打ちを受け、そして今もなお、不意打ちを受け続けている」

「その割には準備が良いようだが」

 

 ゲンドウが付き従えている2機の多脚式歩行戦車。この多脚式歩行戦車は本部のセキュリティシステムからは独立した、ゲンドウの命にのみ従う自律型のオートマトンであり、本部防衛における最後の砦である。

 不意打ちを受けながらも速やかに多脚式歩行戦車を投入し、セキュリティシステムを再起動させたゲンドウの手際の良さが冬月は気に入らなかった。

 

 ゲンドウは無感動に言う。

「襲撃直前になって、叛乱分子から密告者が現れた」

「密告者?」

 冬月は年を重ねるごとに動きの乏しくなる表情筋を駆使し、片方の眉が吊り上げる。

「ああ。加えて密告者は、我々に叛乱分子の首班の身柄を提供すると言っている」

「葛城くんをか」

「ああ。館内の監視カメラでも葛城一佐の姿を確認した」

「貴様。よもや、その密告者とやらの言を信じているのではあるまいな」

「信じはせん。だが利用はする」

 今度は冬月が鼻を鳴らす。

「まあいい。私も叛乱分子の一人を捕らえた。奴からも情報を引き出すとしよう」

 冬月は視線を転送システムの前にあるコンソールに向けた。しかし、そこで気絶して倒れていたはずの青葉シゲルの姿がない。

「逃げたか…。私の部下の時代から、私の目を盗んでサボるのが上手い男だったが…」

 肩を竦めながら、視線をゲンドウへと戻す。

「叛乱分子の武装は小火器が中心で軽装だ。侵入者の人数はまだ把握できていない以上油断は禁物だが、オートマトンによる迎撃で十分対応可能だろう」

「優先保護対象を初号機、マーク7、NHGとする。マーク7とそのパイロットの確保が確認できたらすぐに出撃させろ」

 ゲンドウのその指示に、冬月は再び片方の眉を上げることになる。

「エヴァは対人戦闘には不向きだが」

 まさか、あの巨体を本部の中で暴れさせるつもりだろうか。

「連中はこの日のために周到に準備を重ねてきたはずだ」

「攻撃の第2波がある、ということか」

 ゲンドウは頷くと、握っていた拳銃の弾倉を抜き、新しい弾倉を装填し直す。

「冬月。お前は引き続きここで初号機を守れ。このオートマトンを1機、残しておく」

「お前はどうするつもりだ」

 ゲンドウは残りの1機を従えながら、実験房の奥の扉に向かって歩き出す。

 

「息子のところへ行く」

 

「それが貴様にとっての最優先保護対象という訳か」

 

 冬月のその問いに答えることなく、ゲンドウは実験房を後にした。

 

 

 

 



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(17)

 

 

 

 

 広く長い廊下を走る、武装した一団。

 揃いのヘルメットに防弾ベスト、腕には青いバンダナを縛った一団。ある者は脚に、ある者は腕に酷い傷を受け、廊下に血の足跡を残しながら走り続けている。

 そんな彼らの行く手を、1機の多脚式歩行戦車が立ち塞がった。多脚式歩行戦車に備え付けられた機関砲が火を噴き、炎を纏った鉄の塊が兵士たちの体を次々となぎ倒していく。兵士たちは方々に散りながら手にした自動小銃で反撃。一人は自動小銃の銃身に備えられた擲弾発射器をぶっ放し、擲弾を正面から受けた多脚式歩行戦車は大爆発を起こして機能を停止した。

 

「くそっ。また3人やられた」

「武装ロボットがうようよいやがる。敵の警備システムはダウンしてあるはずじゃなかったのか」

「ここでうだうだ言っても仕方ないだろ。我々は進むしかないんだ」

 

 さらに人数を減らした一団はそれでも走り続け、ついにあるドアの前へと辿り着いた。

 ドアの前にある表札。

 

  [ 7th CAGE ]

 

「本当に、ここに奴が居るのか?」

「事前情報ではな」

 館内セキュリティのダウンでロック機能を失っているスライド式のドアを開け、中へと踏み込むんだ。

 

 パン!

 

 彼らが部屋の中に踏み込んだ瞬間、銃声。

 最初に部屋の中に突入した兵士の胸に、焼き付くような痛みが走る。

「痛ぇ! ちくしょう!」

 しかし放たれた銃弾は兵士が着用した防弾ベストを貫くことなく、着用者の肋骨の1本を折っただけに留まった。

 その兵士は胸の激痛に耐えながら、素早く自動小銃を構え、短く引き金を引く。

 パン、パンと、セミオートの自動小銃からは2発の銃弾が続けて放たれた。

 

「ひぅ!」

 

 短くかつ歪んだ悲鳴。

 ドサっと、人が倒れる音。

 

 

「おい、大丈夫か」

「息ができねぇ…」

 武装した一団は胸を撃たれた兵士に手を貸しながら、彼が撃った2発の銃弾によって額から上を粉々に砕かれて床に倒れている者の側へと駆け寄る。倒れた者の右手には握られたままの拳銃。絶命しているのは明らかだが、念のため拳銃を蹴って、遠くに飛ばした。

 床に扇状の血痕を広げ、頭部の半分を失った死体。その顔に生前の面影など見る影もないが、胸の膨らみから絶命している者は女性らしいことが分かる。

 

 死体を囲んだ兵士の一人が言う。

「おい。こいつで間違いないのか?」

「ああ」

「だが、確か奴は当時14歳だったはずじゃ…」

「ああ。赤木女史の情報では、奴は今5歳児のような外見をしているらしい」

 この一団では一番の年配者に当たるその兵士はそう言いながら、女性の死体に抱き着いている男の子の側に膝を折った。

 

 男の子は、突然倒れて動かなくなってしまった女性を不思議そうに眺めている。

 自分を抱いてくれていた女性の顔だったものを、不思議そうに小さな手でペタペタと触れている。

 

 兵士は、腰に付けたポーチから小指サイズの機器を取り出すと、その先端を男の子の瞳に向ける。先端からは微細な赤外線が照射され、男の子の瞳の虹彩を読み取る。機器の側面にある小さな画面に解析されたデータが表示された。

「間違いない。第3の少年だ」

 その兵士は立ち上がり、周囲の兵士たちに目配せをした。

 

 この場には彼らしかいない。

 男の子は、彼らの言葉を、まともに理解していない。

 

 それでも彼らは体を寄せ合い、隠し事でもするかのように声を押し殺して話し始める。

 

 年配の兵士が口火を切った。

「ゼーレのパイロットについてはその場で射殺。第2の少女、第3の少年については拘束するよう指示が出ている」

「ああ」

 彼以外の全員が、声を揃えて返事をした。

 

「ここに集った我々には、皆、共通点がある」

「ああ」

 皆が、声を揃えて返事をする。

 

「皆、ニア・サードインパクトとサードインパクトで、大切な人を、故郷を失っている」

「ああ」

 皆が、声を揃えて返事をする。

 

「第3の少年。碇シンジ。彼こそ、ニア・サードインパクトの元凶だ」

「ああ」

 皆が、声を揃えて返事をする。

 

「皆、異論はないな?」

「ああ」

 全員の意見が、一致する。

 

 

 女性の死体を取り囲む兵士たち。

 そのうちの一人が、腰のホルスターから拳銃を抜いた。

 

 拳銃のスライドを引き、安全装置を外し、引き金に人差し指を掛ける。

 

 彼が握る拳銃の銃口は、女性の死体の上でうつ伏せになっている、男の子の後頭部に向けられた。

 

 

 本部突入前にマッチ棒で作ったくじ引きの結果によって、大任を任されることになった若い兵士。

「不思議だ。子供を背中から撃つというのに、何も感じない」

 人を殺めたことなど一度もないその手は、震えることなくまっすぐに拳銃を男の子の後頭部へと向けている。

「その拳銃を握っているのは、あの日より地上から消えた数十億もの人々の手だ。お前は彼らに己の手を貸しているに過ぎん」

 若い兵士は深く頷いた。

「ああ。そうだな。その通りだ」

 

 

 男の子は動かなくなった女性の頬を、不思議そうにペタペタと触っている。

 鼻の上から半分が無くなった女性の頬を、不思議そうにペタペタと触っている。

 

 

 

 

 今日はあの「おっきな人」がいないから。

 

 このお姉さんがずっと面倒を看てくれていた。

 

 ご飯を運んでくれて。

 

 絵本を読んでくれて。

 

 自分が「この世界」で目覚めてから。

 

 あの「おっきな人」の次に、一番長い時間を過ごしたお姉さん。

 

 とっても優しいお姉さん。

 

 なぜかあの「おっきな人」の前だと、変な顔になるお姉さん。

 

 

 そのお姉さんが動かなくなった。

 

 ペタペタと頬を叩いても、動かなくなった。

 

 赤い水が、どんどん溢れ出してくる。

 

 ペタペタと叩く頬が、どんどん冷たくなっていく。

 

 

 

 

 狙いを外さないように、その場に膝を折った。

 狙いを外さないよう、男の子の後頭部のすぐ側まで銃口を近づけた。

 

 

「ふえ…」

 呆けていた男の子の顔が、突然くしゃくしゃになった。

「ふぇぇ…」

 半開きの口が、大きく歪んだ。

「ふええああああああああああああ!!」

 

 簡素なパイプベッドに小さなチェスト、小さなテーブルに小さなイス、簡易トイレ。

 たったそれだけが置かれただだっ広い空間の中を、男の子の大きな泣き声が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 破壊的な音が轟くと同時に、コンクリートの壁が弾け飛んだ。

 

 続けて壁の穴から現れた巨大な右手は、女性の死体を取り囲む兵士たちよりも数メートル手前のコンクリートの床を激しく叩く。巨大な手に叩かれた床はたちまち放射状のひび割れを方々へと広げ、まるで爆弾が破裂した時のように大量のコンクリート片を伴う強烈な衝撃波を周囲へとまき散らす。

 その衝撃波に煽られた兵士たちの体が吹き飛び、続けて女性の死体が吹き飛び、そして女性の死体の上に乗っていた男の子の体も吹き飛んだ。

 

 巨大な右手に続いて壁の穴から現れたのは、巨大な左手。

 巨大な左手は、その手の平に極小の光の結晶を無数に溢れさせながら、宙をくるくる回転しながら舞っている男の子の体を、そっと包み込む。

 男の子の体をその中に収めた巨大な左手に、右手も重なり、男の子の体を両手で守りながらゆっくりと床へと下ろしていく。

 

 

 

 大量の塵埃と火花が散らす壁に開いた巨大な穴。

 そこから巨大な右手が現れ、続けて巨大な左手が現れ。

 常識的な縮尺から大きく逸脱したものが次々と現れる壁の穴。

 そして最後に現れたのは、巨大な顔だった。

 紫色の鬼のような、巨大な鎧兜を纏った巨人の顔。

 巨人は穴から顔をにょきっと突き出すと、床に転がっている兵士たちを見下ろした。

 

 

 ここは子供の部屋。

 子供の寝所。

 子供が夢見る場所。

 世界中の何処よりも、平和でなければならない空間。

 

 

 床に転がっている兵士たち。

 その手には、この部屋には決して持ち込んではならない銃火器が握られている。

 

 

 巨人は顎を少しだけ下ろし、口の隙間から深く深く息を吸い込んだ。

 

 そして今度は顎を限界まで下ろし。

 

 真っ赤な舌を突き出し。

 

 狂暴な牙を剥き出しにし。

 

 

 

『グァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!』

 

 

 

 それは聴く者のハラワタがひっくり返るような、いや天と地そのものが全てひっくり返ってしまうような、あまりにも巨大な咆哮だった。咆哮は不可視の強烈な波となって周囲に広がり、コンクリートの床をビリビリと震えさせる。

 その狂暴極まる咆哮を真正面から受けた兵士たちは、幾人かは泡を吹いて気絶してしまい、幾人かは腰を抜かししてしまい、幾人かはズボンの股間を濡らしてしまい。

 瞬く間に半分が行動不能に陥ってしまった。

 

 そして残りの半分は。

 

「悪魔…」

 拳銃を構え。

 

「悪魔…」

 自動小銃を構え。

 

「悪魔…」

 手榴弾を構え。

 

 

 パン!

 

 

 最初の一発を放ったのは、つい10秒前まで男の子の後頭部に向けられていた拳銃の銃口だった。巨人の激甚な咆哮に比べれば、何とも慎ましやかな破裂音。そして銃口から旅立った豆粒のような銃弾は、巨人が纏う装甲の表面に当たり、微かな凹みを付けただけで跳ね飛び、何処かへ行ってしまった。

 

「あああああああ!」

 

 それでもその若い兵士は絶叫と共に立て続けに発砲を繰り返す。

 弾倉に詰められた12発はたちまち撃ちつくされ、弾切れを起こした拳銃からは撃針が空を切る音だけが空しく響いた。

 

「ああっ!」

 若い兵士は短い叫び声と共に空になった拳銃をぽいっと投げる。放り投げられた拳銃はくるくると回転しながら宙を舞い、巨人の額にコツンと当たって床に落ちていく。

 

 カタン、と、拳銃が床に転がる音。

 

 それが合図となった。

 

 

 激甚な咆哮を真正面から食らいながらも、行動不能に陥らなかった彼ら。

 彼らの足を踏み止まらせたのは、恐怖を上回る殺意。

 

「返せ!」

 彼らは口々に叫んだ。

 

「返せ!」

「返せ!」

「返せ!」

 殺意の対象に向かって、喉を嗄らさんばかりに叫んだ。

 

「子供を返せ!」

 

「父を返せ!」

 

「母を返せ!」

 

「家族を返せ!」

 

「ふるさとを返せ!」

 

「俺たちの未来を返せ!」

 

 彼らは「返せ!」「返せ!」と連呼しながら、対人用のささやかな武器を携え、彼らの何十倍もの大きさを誇る巨人に向かって襲い掛かり始めた。

 

 

 子供の部屋。

 子供の寝所。

 子供が夢見る場所。

 世界中の何処よりも平和でなければならない空間は、たちまち銃声と爆発音と火炎と火薬の匂いで満たされることになる。

 

 

 ある者は拳銃を撃ち、ある者は自動小銃をフルオートで撃ちまくり、ある者は手榴弾を投げ、ある者はナイフを突き立て、ある者は歯で噛み付き。

 

 それは言わば人間に群がる10匹足らずの無力で小さな虫たちだった。

 巨人は、ただ一回だけでも、その巨大な腕で小さな虫ケラたちを薙ぎ払えば済むことだった。たったそれだけで、この事態を鎮静化することができた。

 もし巨人に虫ケラたちを駆除する意思がないのであれば、開けた穴で逃げればよい。たったそれだけで、この全くもって無意味な闘争を終わらせることができた。

 

 しかし、巨人はどちらの選択肢も選ばなかった。

 選べなかった。

 

 憎悪を剥き出しにして、巨人に襲い掛かってくる虫ケラたち。

 かないっこないのに。

 勝てるはずないのに。

 彼らの復讐心は、彼らがこの場でどんな攻撃を繰り出したとしても、決して満たされることはないのに。

 それでも我を忘れた彼らは、巨人に群がってくる。

 

 一人の兵士が飛び出した。

 全身に大量の爆薬を巻き付けたその兵士は、巨人の重なった両手に抱き着く。

 極限まで吊り上がった2つの眼が、巨人の手を。いや、その下に潜むものを睨み付ける。

 

「死ねぇ! 碇シンジィ!!」

 

 彼の大声と共に、爆音、閃光。飛び散る血と肉片。

 爆炎に包まれる巨人の手。

 しかし爆炎と煙が晴れて現れた巨人の手は、多少の埃と血が付着しただけで、傷一つ付いていない。

 兵士たちが撃つ銃弾も、投げる手榴弾も、突き立てるナイフも、巨人が纏う特殊装甲の前には、まともな傷一つ付けられない。

 

 それでも彼らは攻撃の手を止めない。

 「返せ!」「返せ!」と連呼しながら。

 

 いや。

 「死ね!」「死ね!」と連呼しながら。

 

 

 反撃も逃亡もしない巨人。

 

 巨人は動かなかった。

 

 動けなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 碇ゲンドウは扉を蹴破った。

 目の前に現れた光景は、数々の怪奇を目撃し、また作り出してきた彼にとっても異様なものであった。

 

 コンクリートの壁に開いた巨大な穴から、紫色の巨人が身を乗り出している。その巨人が突き出した両手は、まるでその下に大切なものを護るように、床の上で重ね合わせられている。

 実験房に居たはずの巨人。完全機能停止状態だったはずの巨人が、自分を先回りして第7ケージに現れている。これだけでも十分に異様と言える光景だったが、ゲンドウにとって、完全停止していたはずの巨人が動き、保護対象を守ったことよりも異様なこと。

 

 それは、巨人よりも遥かに小さい人間たちが、ちっぽけな武器で巨人に襲い掛かっていること。

 

 そして、ちっぽけな人間に対して圧倒的な力を持つはずの巨人が、抵抗の意志をまったく見せていないこと。

 

「ちっ!」

 ゲンドウは舌打ちをすると、巨人への攻撃に夢中になっている叛乱分子の兵士たちの背中を、拳銃で狙い撃ちにしていく。

 

 

 

 何人かの兵士が、背中を撃たれた。

 突然の背後からの銃撃に、まだ立っている兵士たちが振り返る。

 

 

 想定外の厳重な警備。

 想定外の巨人の出現。

 

 数々の「想定外」に見舞われてきた彼らにとって、振り返った先に在ったものは、この日一番の「想定外」だったかも知れない。

 

 

 碇ゲンドウが立っている。

 

 あの碇ゲンドウが、立っている。

 

 

 

 この場に碇ゲンドウがいる。

 

 碇シンジがいる。

 

 そしてエヴァンゲリオン初号機がいる。

 

 

 

 彼らの震怒の対象。

 大切な人々を奪い、故郷を奪い、未来を奪った憎悪すべき相手。

 それらが、この場に全て揃っている。

 

 

 3つのうち、2つが揃った時点ですでに理性を手放していた彼ら。

「ああああああ!!」

 思いがけぬ3つ目の登場に、彼らの憤懣はむしろ狂喜へと昇華する。

 

 一人の兵士は、唇の両端が吊り上がった口で雄叫びを上げながらゲンドウに向かって自動小銃を向けた。

 

 パン!

 

 人の神経を鷲掴みにするようなその雄叫びにもゲンドウは顔色一つ変えずに淡々と拳銃を構え、その兵士の膝を撃ち抜く。

 ガクンと膝を折った兵士。

 

 パン!

 

 続けて撃った2発目は、ヘルメットと防弾ベストの隙間から僅かに覗いていた兵士の喉を貫いた。

 仰向けに叩き付けられるように倒れ、床の上に放射状の血飛沫を広げる兵士の顔は、狂気的な笑みを浮かべたまま硬直している。

 

 

 立っている兵士はたったの3人にまで減っていた。

 ゲンドウの背後からは重武装の多脚式歩行戦車が現れ、ぶら下げた機関砲を生き残った3人へと向ける。

 

 ゲンドウは氷のような凍てついた声で言う。

「降伏しろ」

 

 

 生き残った3人の兵士。

 彼らにとってその生涯において抱くことができる全ての憎悪をぶつけたとしてもまだ足りぬ相手を前に、彼らは不思議と冷静だった。先行して自動小銃を構え、一方的に殺された仲間の兵士の死に様が、理性を彼方に飛ばしていた彼らに辿るべき正しい道を示してくたのかも知れない。

 

 互いの顔を見合わせる3人。

 笑い合う。

 そして頷き合う。

 

 

 彼らは武器を床に捨てた。

 

 床の上に、折り重なるように落下する3丁の自動小銃。

 彼らはさらにホルスターの拳銃も捨て、手榴弾や弾倉を装着したベルトも脱ぎ捨てる。

 

 

 素直に武装解除に応じた3人に対し、ゲンドウは拳銃を構えたまま告げる。

「手を挙げて跪け」

 

 

 武器は素直に捨てた3人。

 しかし彼らは互いの顔を見合ったまま、両手は床に向けてぶらんと下げ、突っ立ったまま。

 手を挙げる素振りも、膝を折る素振りも見せない。

 不気味なくらいに穏やかな笑みを浮かべながら、互いの顔を見合っている。

 

 パン! パン!

 

 ゲンドウが構えた拳銃から更に2発の銃声。

 3人の兵士のうち右端に立っていた1人の両膝から、大量の血が迸った。

 両膝を撃たれた兵士は、悲鳴も上げずに、口角を上げたまま、その場に崩れ落ちる。

 

「捕虜は2人もいらん」

 淡々としたゲンドウの声。

 残りの2人に銃口を向けた。

「どちらか一人だけでいい。跪け」

 

 

 残った2人の兵士。

 ゆっくりとした動作で、体の正面をゲンドウへと向けた。

 そしてまるで相手を焦らすように少しずつ両手を挙げ始める。

 ゲンドウに向けて、相手を包み込むような笑顔を向けながら。

 

 

 その兵士の背後では、もう一人の兵士が笑う兵士が背負う背嚢の中に手を差し入れようとしていた。

 

 パン! パン!

 

 ゲンドウの拳銃から放たれた2発の拳銃は、1発は笑う兵士の右膝へ。もう1発は、背嚢から何かを取り出そうとしていた兵士の左太ももへ吸い込まれる。

 その2人も、やはり悲鳴一つ上げず床の上へと倒れ込む。

 

 倒れた拍子に、背嚢の開いた口からゴロンとサッカーボール大のボール状のものが床に転がり落ちた。

 

 

 ゲンドウの目に、ボール状のものの表面に印字された文字が見えた。

 

 

    『N2』

 

 

 兵士の穏やかな笑みが、狂気的な笑みへと変化した。

 

「碇ゲンドウ…、碇シンジ…、この世界を破滅させた親子に裁きの鉄槌を!!」

 

 両目と口の両端を吊り上げた兵士は床を舐めたまま右腕を大きく振りかぶる。

 大きく開いた手の平は、ボール状のものの表面にある突起物に目掛けて、勢いよく振り下ろされた。

 

 パン!

 

 ゲンドウが撃った銃弾はその兵士の手のひらを貫いたが、1発の銃弾だけでは彼の手の勢いは止まらなかった。

 ゲンドウの隣に立つ多脚式歩行戦車の機関砲が2人の兵士を目掛けて火を吹いたが、初弾が目標物に届く前に、それは起きた。

 

 

 兵士の手が、携帯型N2爆弾の起爆スイッチを叩いた。

 

 

 

 

 



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(18)

 

 

 

 

 気が付けば世界は暗転していた。

 

 眼球を焼かれ失明してしまったか。

 あるいは体を、命を燃やし尽くされた末に辿り着いた死後の世界とやらは、漆黒の闇なのか。

 

 後者の可能性については早々切り捨てた。自身の大願を成就する前に死ぬことなどありえない自分が、今日この時、死後の世界とやらの門を叩くことはなどありえないからだ。

 前者の可能性について否定するまでの時間もそう掛からなかった。漆黒の闇と思われたこの場所に、僅かな隙間から差し込む微かな光。その光に手を翳してみると、いつも身に着けている白い手袋が薄っすらと見えた。

 

 

 目の前で爆弾が弾けた。

 それは人類が操る範疇の中で最大級の威力を誇る爆発。

 間近でその光を見た者には、絶対の死を約束する爆発。

 

 自分は何かに覆われている。大きなものによって、包まれている。

 その「何か」によって、自分の死は免れた。

 その「何か」によって、人体など刹那に蒸発させる業火から、自分の命と体は守られた。

 

 その「何か」の正体を、ゲンドウはすでに理解している。

 

「レイ」

 

 ゲンドウは呼び掛けてみた。

 

 自分を覆う「何か」に変化はない。

 

 自分を包む「何か」に、そっと触れてみた。

 触れた手を思わず引っ込めてしまいそうになるほどの、熱を帯びた「何か」。

 闇の外の在りようが伝わってくる。

 

「レイ」

 

 再度の呼びかけ。

 やはり自分を覆う「何か」に動きはない。

 

 ここで時間を浪費するわけにはいかないゲンドウは、光の筋を漏らす闇の隙間に両腕を突っ込む。強引に隙間を押し広げ、その中に頭を突っ込み、上半身をねじ込んだ。

 

 

 

 そこはかつて「第7ケージ」と呼ばれていた。

 エヴァンゲリオンと呼称された汎用ヒト型決戦兵器の格納庫だった場所。

 ニア・サードインパクトのトリガーとなった初号機が幽閉されていた場所。

 そして今は、男の子と巨人の寝室兼遊び場。

 分厚いコンクリートと鉄筋に囲まれた、六面体の広大な空間。

 

 が、あった場所。

 

 

 ゲンドウは自分を覆っていたドーム状の「何か」の隙間から、体を捩らせながら外へと這い出る。何とか2本の足も外に出すと、ジャケットやズボンに付いた埃を払い落としながら、「何か」の上に立つ。

 

 左右を見渡した。

 

 そこにはコンクリート製の壁があるはずだったが、何も無かった。

 

 天を仰いでみる。

 

 そこにあるはずの天井の代わりに、夜空に浮かぶ大きな月が見えた。

 

 足もとに視線を落とす。

 

 ゲンドウを閉じ込めていたドーム状の「何か」。

 

 5本の太い指。広い手背。

 それは、その下にあるものを包み込むように伏せられた、巨大な手だった。

 

 ゲンドウの視線は手から繋がる太い腕の上を這い、肩へ移っていく。そしてゲンドウの視線が行き付いた場所にあったものが、額に一本角を生やした巨人の顔だった。

 

 巨人の頭部。鎧兜の形をした装甲は、間近で炸裂した強烈な爆発がまき散らした熱風と衝撃に晒され、表面は溶けて大きくひしゃげ、その巨人の象徴でもある額の一本角もぐにゃぐにゃに変形している。頭部だけでなく、肩当、胸当て。巨人が纏う様々な装甲が、熱に炙られて酷く損傷していた。

 足もとの巨人の手の装甲はほぼ無傷なところを見ると、おそらく巨人が発生させることができるあらゆる物理的干渉を拒否する防壁、ATフィールドは、全て手に集中させたのだろう。

 

「レイ…」

 

 ゲンドウは三度、巨人の顔に向かって呼び掛けた。

 しかし、返事はない。

 

 

 ゲンドウは視線を動かす。

 動かした先は、今彼が立っている巨人の右手と対になる、巨人の左手。

 巨人の左手も右手と同様に、その中に何かとても大切なものを包み込むように柔らかく、守るようにしっかりと握られ、地面に伏せられている。

 

 ゲンドウは巨人の右手から降り、地面に立った。炙られて蒸気を立ち昇らせる地面に降り立った瞬間、靴底がジュッと音を立てたが、ゲンドウは構わず巨人の左手に向かって歩き始める。

 

 巨人の左手まであと10歩の位置で、ジャケットのポケットに入れていた通信端末機からコールが鳴った。応答すると、端末機のスピーカーから冬月の声が聴こえた。

 

『本部内でN2爆弾と思われる爆発を確認。本部上層階の半分が吹き飛んだぞ』

 冬月の報告に、ゲンドウは落ち着いた声で答える。

「ああ。爆弾は、私の目の前で爆発した」

『目の前だと?』

「ああ。至近だ」

『無事なのか?』

「私は無傷だ」

 平然と答えるゲンドウに対し、返ってきたのは呆れたような冬月の声だった。

『悪運の強い奴だ。加えて報告する。爆発の少し前に初号機が再起動し、実験房から姿を消した』

「ああ。初号機なら今、私の目の前に居る」

 今度のゲンドウの返答に対して、冬月は「やはりな」と答えた。巨人の「暴走」についての冬月の短い感想を無視し、ゲンドウは続ける。

「おそらくこの爆発は本部の破壊のみを目的としたものではない。何らかの合図だろう」

『攻撃の第2波か…』

「ああ」

『分かった。マーク7と綾波タイプのパイロットはすでに確保済みだ。マーク7にはナンバー4を搭乗させ、いつでも出撃できるように待機させておこう。……しかしながら…』

 冬月が漏らしたらいい溜息の音が、無線通信を通してゲンドウの耳に届けられる。

『ついにエヴァという超常兵器の矛先が、人類に向けられる日がやってきたか』

 

 

 

 通信端末機をポケットにしまったゲンドウは、巨人の左手の前に立った。ゲンドウを覆い、爆発から守った巨人の右手同様、左手にも爆発の影響はみられない。もしこの左手も何ものかを護っているのであれば、自分同様その「何もの」も無傷でいることだろう。

 

 巨人の顔を見上げる。

「レイ。この手を開けなさい」

 巨人は何も答えない。

 

 巨人の顔をじっと見つめる。

 起動時は黄金色に輝くはずの巨人の瞳。

 光を宿していない巨人の瞳。

 

 

 ゲンドウは巨人の左手に向き直ると、その手首に向かって歩み寄る。手首を覆う一部の小さな装甲を手動で外すと、その下からバルブが現れた。ゲンドウはそのバルブを握ると反時計回りに回し始める。すると巨人の指を制御する人工伸筋腱が緩み始め、頑なに閉じていた巨人の指と指の間に隙間が生じ始めた。

 バルブを全開にさせたゲンドウは手首から離れ、巨人の親指の前へと行く。そして巨人の親指の爪の部分に両手を引っ掻け、力を振り絞って引き始めた。人工伸筋腱による固定が無くなったとはいえ、ゲンドウの体と3倍くらいの大きさはあり、かつ分厚い装甲を纏った巨人の親指である。ただでさえ焼け爛れた地面の上。すぐに汗だくになってしまったゲンドウは、体を休めて一息つくと、第1ボタンまで留めていたジャケットの前を全開にした。

 巨人の親指と人差し指の間に30センチメートルほどの隙間ができたら、その隙間に身を滑り込ませる。そして背中を巨人の人差し指に当てると、両足で巨人の親指を蹴っ飛ばすように押した。ズズズと親指が動き、親指と人差し指の隙間が開いていく。

 

 巨人の親指を押すゲンドウの膝が伸び切り、親指と人差し指の間が1メートルほど出来たところで、ようやく巨人の左手の中が見えるようになった。

 ゲンドウは額から滝のように落ちてくる汗を袖で拭いながらその場に片膝をつき、巨人の左手の中を覗き込んだ。

 

 思わぬ重労働に荒くなっていたゲンドウの呼吸。

 その呼吸が止まった。

 

 

 ゲンドウは、息を呑んだ。

 

 

 まるで血のような赤い線が格子状に走る大きな月。

 人工的な光が何もない夜空の下、その月明りだけが地上をぼんやりと照らし出している。

 月の光は、巨人の大きな左手の中までは届かない。

 しかし巨人の左手の中は明るかった。

 まるで夜空に浮かぶ月のような淡い光が、巨人の手の中を照らしていた。

 巨人の手の中をぼんやりと照らし出すもの。

 光の、源。

 

 それは、一人の少女。

 

 

 全身から淡い光を放つ少女。

 いや。少女の体が光を放っているのではなく、少女そのものが光だった。

 

 頭部らしきものがあり、胴体らしきものがあり、腕らしきものがあり、脚らしきものがあり。

 だからその淡い光が人の形をしていると分かるし、丸みを帯びた肩や腰、膨らんだ胸元から淡い光が象っているのは女性、少女だと分かる。

 

 その少女の形をした淡い光は地面に伏していた。

 小ぶりなお尻、痩せた背中、小さな後頭部をゲンドウに見せながら。

 

 

 ゲンドウは呼び掛ける。

 

 

「レイ」

 

 

 その呼び掛けに、少女の形をした淡い光は反応を示した。

 

 ゆっくりと、地面に伏していた顔を上げる。

 

 淡い光の中に、ぽつぽつと並ぶ2つの赤い瞳。

 

 

「レイ…」

 

 

 ゲンドウにとって、数年ぶりにその目で見る「彼女」の顔がそこにはあった。

 

 

 

 



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(19)

 

 

 

 地面に伏していた、少女の形をした淡い光。

 ゆっくりと上がったその顔も、実態を持たない朧気な光そのものだった。

 しかしその顔立ち。特徴的な瞳の色。最後にその顔を見た時はうなじが見える長さで切り揃えられていた髪は背中まで伸びているが、そこに居るのは紛れもなく。

 

「レイ…」

 

 少女の形をした淡い光は顔だけでなく、上半身もゆくりと起こしていく。

 淡い光の胸が地面から離れると、その下から見知った頭が見えてきた。

 

 淡い光がその細い身体で隠していたもの。

 その身を挺して、守っていたもの。

 

 ゲンドウは淡い光の顔から、地面に横になっている男の子の顔へと視線を移す。

「シンジ…」

 

 ゲンドウが男の子の名前を呟いた瞬間だった。

 淡い光は、何かに弾かれたように起こしかけていた上半身を地面に伏せ、そして両腕を使って男の子を抱き締める。抱き締められた男の子は気を失っているのか、淡い光の腕の中でぐったりとしている。

 

 男の子を抱き締めながら、警戒するように、あるいは怯えたように、伸びた前髪の隙間から赤い瞳を覗かせ、男の子の実の父親である碇ゲンドウの顔を見つめる淡い光。

 そんな表情をを浮かべる淡い光に、ゲンドウは頬の筋肉を緩めながら、自分に出しうる限りの柔らかい声で語り掛けた。

 

「大丈夫だ。お前たちを傷つけようとした者は、全て消えた」

 

 ゲンドウは左手を地面に付き、身を屈めて巨人の手の下へ入り込む。

 

「この騒乱もあと少しで終わる。終わったら食事にしよう」

 

 少女の形をした淡い光の顔が、睫毛や鼻筋まではっきりと見えた。

 

「私と、お前と、そしてシンジとで、…な」

 

 淡い光に向かって、ゆっくりと右手を差し伸べる。

 

 淡い光の顔から警戒の心が緩み、怯えの表情が消えていく。

 淡い光は右手で男の子を抱き締めながら、ゲンドウの差し伸べた手に対し、ゆっくりと左手を伸ばしていく。

 

 ゲンドウの手のひらの上に、そっと、淡いの光の手が重なった。

 

 まるで重さというものを感じない手。

 温かさも冷たさも感じない手の形をした光。

 

 

 ゲンドウの表情が強張る。

 

 自身の手に重なる淡いの光の左手。その人差し指の、第一関節から先が無くなっている。

 人差し指だけではない。中指も、薬指も、ゲンドウの右手に触れているあらゆる部分が、溶け始めている。

 淡い光の手が、少しずつ形を崩し始めていた。

 

 ゲンドウは視線を上げ、淡い光の体全体を観察する。

 溶け始めているのは手だけではない。地面についた膝から下、男の子の体を抱く右腕。外部から圧力が加わる全ての部分が、崩壊し始めていた。

 

 

 ゲンドウは小さく溜息を吐きながら、淡い光の名を呼んだ。

「レイ…」

 右手に重ねられた淡い光の左手を、ゆっくりと離す。

 淡い光の赤い瞳を見つめた。

「やはり今のお前では肉体の顕現化とその維持は困難だ」

 

 おそらく男の子を守りたい一心で、独力でコアからのサルベージ、そして肉体の再生を行ったのだろう。しかし「彼女」が目覚める以前に繰り返し行われたサルベージの模擬実験で得られた結論の通り、コアに残されていた損傷著しいデータだけでは「彼女」の肉体の完全再現は果たせておらず、不完全なサルベージで得られた肉体は人間の体を成すどころか、早くも崩壊すら始まっている。

 

「すぐに初号機のコアに戻りなさい」

 淡い光が消失を免れる道は、それしかなかった。

 しかし、淡い光が返事をしない。

「後日、改めてお前のサルベージを行おう。それまでの辛抱だ」

 淡い光は返事をしない。

「早くしない。そうでなければ、お前の肉体は魂ごと崩壊することになる」

 ゲンドウはやや語気を強めて言う。

 

 しかし、淡い光は返事をしない。

 

 

 少し離れた場所から見れば朧気な光であっても、間近で見れば目が焼け付いてしまいそうな少女の形をした淡い光。

 その淡い光の顔をよくよく観察してみると、顔の形をした青白い光の中に収まる2つの赤い瞳は、正面に跪くゲンドウの顔を見ていなかった。

 淡い光の瞳は、目の前の男ではなく、男の肩越しに見えるものを見つめていた。

 

 ゲンドウは淡い光の視線を追って、背後を振り返る。

 背後には、巨人の大きな親指。その親指の隙間から見える、「外」の風景。

 

 ゲンドウは淡い光へと向き直る。

「レ…」

 淡い光の名を呼ぼうとして、ゲンドウは出かけた声を飲み込む。

 淡い光の赤く光る瞳が、まるで信号を送り出す機械のように、チカチカと明滅を繰り返していた。

 

 ゴトン、と頭上から重いものが軋む音がする。

 ゲンドウと淡い光、そして男の子を覆っていた巨人の手が動き出したのだ。淡い光と男の子を隠すように地面に伏せられていた巨人の左手が、その下に居る者たちを潰してしまわないよう、ゆっくりと慎重に浮き上がっていく。

 離れていく巨人の手を見上げていたゲンドウ。その目に、星々が瞬く夜空が映り込む。

 

 巨人の左手が完全に取り払われた。

 ゲンドウは、視線を淡い光へと移す。

 いつの間にか、淡い光は立ち上がっていた。音もなく。その腕に、男の子を抱きかかえたまま。

 

 

 そこは四方を囲む壁も、空を塞ぐ天井も何もない、開けた場所。巨大な爆発によって、巨人を除く周囲のあらゆるものが吹き飛ばされた場所。

 

 外からの冷たい風が、ゲンドウと淡い光の間を吹き抜けた。

 淡い光の背中まで乱雑に伸びた髪が揺れる。風によってたなびく癖のある髪。その毛先から、青白い光の粒が飛沫のように飛び散り、地面に落ちて光のまだら模様を浮かび上がらせる。男の子を抱きかかえている細い腕の肘から光の水滴が滴っており、淡い光の足もとに朧気に光る水溜まりを作っている。

 

 ゲンドウは目を細めて淡い光の横顔を見つめるが、淡い光は相変わらずゲンドウのことを見ていない。塞いでいた巨人の手がなくなり、見通しが良くなった視界。頭を左右にゆっくりと振りながら、10分前とはすっかり様変わりしてしまった周囲の様子を観察している。

 

 そして淡い光はゆっくりと歩き始めた。

 ゲンドウは、彼の横を音もなく通り過ぎていく淡い光の背中を声も掛けずに見送り、そしてその足もとに視線を下ろす。地面には、淡い光の足跡。人の足の裏の形をした光跡が、ぽつぽつと地面の上に残っている。

 

 その細腕に抱える男の子の体を、時々抱え直しながら歩く淡い光。30歩ほど歩いて、淡い光の前に続いていた地面が無くなった。

 半歩先の、足場のない空間を見下ろす。

 淡い光は、絶壁の上に立っていた。

 

 

 淡い光より3歩後ろの位置に立ったゲンドウ。

 淡い光の背中に、声を掛ける。

「お前が「外の世界」を見るのは初めてだったな…」

 淡い光は返事をしない。

 眼下に広がる風景に、釘付けになっている。

 

「これがお前を救うためにシンジが引き起こしたニア・サードインパクト、それに続くサードインパクトの結果だ…」

 

 淡い光はゆっくりと体の正面をゲンドウの方へと向けた。腕の中の男の子は未だ覚醒した様子はなく、姿勢を保てずずるずると淡い光の腕の中からずり落ちていき、その度に淡い光は体を縦に揺すって男の子の体を抱え直し、その度に細腕から迸る光の雫が床の上に滴り落ちる。

 

 

 2人が立っている場所。そこはかつて地中深くに存在した広大な地下空間を利用して作られた要塞の中枢。1度目の大厄災がもたらした地殻変動によって地下要塞は地上へと顔を出し、立て続けに起きた2度目の大厄災による地殻変動でその中枢は地上から遥か上空へとせり上がっていた。

 2人が立つ場所。そこから見える、まるで血で塗りたくられたような地上は、遥か下。地上を覆う雲海ですら、眼下にある。生命の息吹など感じられない赤く染まった大地は怪獣の爪で引っ掻かれたように大きく何重にも裂け、地下要塞の真上にあった近未来的な都市は特大の溶鉱炉に沈められたかのうように蹂躙し尽くされ、高層ビル群に代わって地上から生えているのは、まるで地上から消えて言った生物たちを弔う墓標のような十字状の形をした奇妙な赤い塔だった。

 

 赤く変色した大地。星々が瞬く空と地上とを結びつけるかのように聳える、幾つもの十字状の塔。そして夜空に浮かぶ、破裂寸前のように肥大化した白い月。

 縮尺も象形も色彩も全てが出鱈目な景色。

 それらを背景にして立つ、少女の形をした淡い光。

 淡い光に抱きかかえられた、小さな男の子。

 その光景は何もかもが出鱈目のはずなのに、不思議と収まりの良い、統一性のとれた幻想絵画のようにゲンドウの目には写った。

 

 

 目の前の幻想絵画に何時までも見とれているわけにもいかなかった。遥か下の地上で、十字状の形をした奇妙な赤い塔の隙間を、幾つもの黒い影が蠢いていることに気付く。少女の横に立ったゲンドウは地上を這う黒い影を凝視し、ポケットから通信端末機を取り出して、副司令を呼び出した。

「叛乱分子の第2波を目視で確認した。地上部隊。おそらく1個師団はあるだろう」

 スピーカーから、「やれやれ」という呟きと共に冬月の声。

『マーク4の量産型を実戦投入するか。まだ試験運用段階にも至っていないが…』

「実戦こそが最高のテストの場だ。今宵、我々は叛乱分子との全面戦争に突入した」

『出し見惜しみはなし…、か』

 

 冬月との通信が終わったと同時に、地上を這う幾つもの黒い影から、無数の閃光が瞬いた。地上で発生した閃光は光の尾を引きながら天高く、夜空へと伸びていく。

 地上から空へと向かう、無数の光の筋。大規模な流星群のように空を駆け巡る光の筋たちは、ゲンドウらが立つ場所よりもさらに高く上空へと舞い上がり、やがて宙に大きな弧を描きながら落下を始める。

 光の筋たちが目指す先。その先に立ち、落下してくる無数の光の筋たちを見上げていたゲンドウの隣では、男の子を抱きかかえる淡い光が、赤く光る瞳を瞬きするかのように明滅させている。

 

 淡い光とゲンドウの背後で、蹲るように両膝と両手を地面に付けていた巨人。その巨人がゆっくりと動き出し、地面を這って移動すると、淡い光とゲンドウの頭上にその身を乗り出す。そして右手を地面から離し、空に向けて突き出した。

 

 淡い光とゲンドウたちが居る場所に目掛けて、まっすぐに落ちてくる光の筋たち。淡い光もゲンドウも、瞬きもせず、涼やかな目でその光の筋たちを見つめている。

 光の筋たちの正体は、炎を纏った鉄と火薬の塊。

 炎の中央にある円錐形の榴弾がゲンドウの目にもはっきり見えた時。

 

 

 それはまるで夜空に瞬く無数の花火のようだった。

 遥か彼方の地上で砲身から飛び出し、大空を駆け、淡い光とゲンドウが立つ場所まで遥々やって来た無数の榴弾たち。それらは、目標地点まであと100メートルの位置まで至って、空中で次々と大爆発を起こし始めた。

 100メートルという至近距離での爆発。しかし淡い光とゲンドウのもとにまで、爆発の衝撃波は伝わってはこない。彼らの前に張り巡らされた見えざる壁。2人を護るように身を乗り出す巨人によって発生させられた絶対不可侵の壁によって、無数の榴弾たちは目標地点まであと一歩のところで弾かれ、大量の火薬が起こした無数の爆発たちも、目標地点に立つ淡い光とゲンドウに塵一つ付けることすら叶わなかった。

 それでも地上を這う無数の影たちは、次々と光の筋を天に向けて打ち上げては、2人が立つ場所に向かって砲弾の雨を降らせ、見えざる壁に幾つもの花火を咲かせている。

 眩い光をまき散らす花火たちをぼんやりと見つめていた淡い光。

 その隣で、やはり夜空に瞬く花火を見上げていたゲンドウは、一度人差し指で丸渕眼鏡を押し上げると、淡い光の方へと体を向けた。

 

 

「分かるか…、レイ…」

 

 その呼び掛けに、淡い光はゆっくりとゲンドウの方へと向く。

 

「これが世界の総意だ」

 

 至近で弾ける花火たち。しかしその爆音すら見えざる壁は遮り、2人が立つ場所は静寂に包まれていた。

 ゲンドウは静かな声で淡い光に語り続ける。

 

「この世界に渦巻く怨嗟の槍の矛先。それは全て私、そしてお前が抱くその子に向けられている」

 

 ゲンドウのその言葉を咄嗟には理解できなかったのか。

 淡い光の赤い瞳は、ぼんやりとした眼差しをゲンドウに向けている。

 ゲンドウは語り続ける。

 

「世界が私と、そしてシンジの死を願っている」

 

 淡い光が息を呑む音が聴こえたような気がした。

 淡い光の赤い目が、まん丸に見開かれる。

 そしてゲンドウのその言葉から逃げるように、淡い光はまん丸に広げていた目をぎゅっと閉じ、そして男の子の体を抱く両腕に、ぎゅっと力を籠めた。

 ゲンドウは語り続ける。

 

「レイ。この世界に、シンジにとっての安息の地など、どこにもない…」

 

 淡い光はゲンドウの言葉などもう聴きたくないとばかりに、抱き締めた男の子の短く刈り込まれた髪の中に、額を埋めている。

 それでもゲンドウは語り続ける。

 

「シンジを守ってやれる者。それは私と、お前だけだ」

 

 ついに淡い光はその場に両膝を折った。男の子のお尻を自身の太腿の上に乗せ、左腕で背中を抱え、右腕で腰を支える。淡い光の体全てを使って、男の子の体を抱き締める。淡い光の体全てを使って、男の子の体を覆い隠す。

 この世界のどこからも、誰からも、男の子の姿が見えないように。

 そう願っているように見える、淡い光の背中。

 

 ゲンドウは蹲ってしまった淡い光の側に片膝を折った。

 

「レイ…」

 

 ゲンドウが、「彼女」がこれほど恐怖を感じ、怯える姿を見たのは初めてのことだった。

 小刻みに震えている少女の痩せた背中に、ゲンドウは語り続ける。

 

「私とお前とで、シンジを守ろう…」

 

 淡い光は蹲り、顔を伏せたまま。

 

 しかし、その小さな頭が上から下へと小さく揺れた。その揺れは何度も繰り返され、次第に揺れる幅も大きくなっていく。

 淡い光はまるで自分に言い聞かせるように、決心を促すように、小刻みに何度も頷いていた。上下に揺れる頭に合わせて、乱雑に伸びた淡い光の髪もふるふると揺らめき、毛先で弾けた燐光がゲンドウと淡い光と男の子の周辺をまるで蛍のように舞った。

 

 淡い光の上下に揺れる後頭部を見つめ、ゲンドウは一度目を閉じる。寄っていた眉間の皺がほんの少しだけ薄くなり、強張っていた頬がほんの少しだけ緩み、ほんの少しだけ安心したように短い溜息を吐いた。

 これまでも長く孤独な戦いを強いられ、そしてこれからも長く辛い戦いに身を投じていくことを決意したらしい淡い光。そんな淡い光を少しでも慰め、労わり、励ましてやりたいと思ったゲンドウは、その痩せた背中を撫でてやろうとしたが、下手に触れてしまうと少女の形をした淡い光の崩壊を促進させてしまいそうなので、背中に伸ばし掛けた手を寸でのところで止める。

 背中を撫でる代わりに、ゲンドウは淡い光を勇気付けるためにこう言った。

 

「我々は第13号機の建造に取り掛かった。第13号機はエヴァンゲリオンの最終形態。覚醒すれば、神にも等しい存在となるだろう。神の御手にその身を委ねるパイロットは、悠久の時と絶えることのない真の安息を手に入れるのだ」

 

 小刻みに上下に揺れていた淡い光の頭部が止まった。

 

 ゲンドウは語り続ける。

 

「レイ。再びシンジをエヴァに載せるのだ。第13号機へ」

 

 淡い光の顔が、ゆっくりと上がっていく。

 

「それが…、レイ。お前の、最後の役割となるだろう」

 

 乱雑に伸びた淡い光の前髪の隙間から覗く真っ赤な瞳が、まっすぐにゲンドウの顔を見つめていた。

 

 

 

 



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(20)

 

 

 

 

 異常に肥大化した白い月を背に男は跪き、地面に蹲っている少女の形をした淡い光に向けて手を差し伸べている。

 淡い光の腕の中には小さな男の子。すぐ側で幾千もの巨大な花火が瞬いている中で、瞼一つ動かさず、深い眠りの中に落ちている。

 

 淡い光は地面から顔を上げ、男の顔を見つめていた。

 赤い瞳に真っすぐに見つめられて。

 碇ゲンドウは珍しく視線を逸らし、地べたを見つめる。

 

 焼け爛れて黒ずんでいるコンクリートの地べたを見つめていたら、その視界の隅に見えていた少女の形をした淡い光の姿が消えた。

 視線を上げると、淡い光が男の子を抱きかかえたまま立ち上がっていた。

 

「レイ…」

 ゲンドウも立ち上がると、改めて淡い光に向けて手を差し伸べた。

「シンジを私に預け、お前はすぐにコアの中へ戻りなさい」

 

 淡い光。

 全身から光の雫を地面に落とし続け、少女の象形を保てなくなりつつある淡い光は、差し伸べられた手に一度も視線を向けることなく、目の前に立つ男の顔をじっと見つめている。その腕の中の男の子を、ひしと抱き締めながら。

 ゲンドウは、半歩ほど前に出た。

「安心しろ。シンジは私が守る」

 

 

 半歩ほど前に出て近付いたはずなのに。

 なぜか視線の先にある淡い光の顔が小さくなったような気がした。

 視線を淡い光の足もとに落とす。

 淡い光の小枝のような細い左足が、半歩、後ろに下がっている。

 顔が小さくなったのではない。

 淡い光が、ゲンドウから遠ざかったのだ。

 

 

 淡い光の足は半歩後退しただけに留まらなかった。

 一歩一歩。

 地べたに、光る小さな足跡を残しながら、後ずさっていく淡い光の足。

 淡い光は、ゲンドウと距離を取り始めていた。

 

 視線を淡い光の顔に戻す。

 淡い光はゲンドウの顔を見つめながら、視線の先に在るものを拒絶するように、頭をゆっくりと左右に振っていた。

 

 その淡い光の赤い瞳が、明滅を始めた。

 

「レイ…!」

 声を張り上げるゲンドウ。

 遠ざかっていく淡い光を追いかけようと、ゲンドウがその足を一歩前へ踏み出そうとした瞬間だった。

 

 

 突如、ゲンドウの前に現れた黒い壁。

 行く手を大きな壁によって遮られたゲンドウは、踏み出そうとした足を引っ込めるしかなかった。

 

 まるで空から降ってきたかのように、突然現れた壁。

 昨日、全く同じ体験をしているゲンドウは、その壁が巨人の手であることはすぐに理解できた。

「レイ…!」

 ゲンドウは巨人の手の向こう側に居るであろう者の名を叫ぶ。

 返事はない。

 ゲンドウの両手が巨人の手で作り上げられた壁に張りつく。一分の隙もない壁。右拳で叩いてみたが、小動もしない。 

「レイ! レイ!」

 それでも壁を殴りながら何度も「彼女」の名を叫ぶが、壁の中は沈黙を保ち続けている。

 

 そして壁が動き始めた。

 ゆっくりと、地面から浮き上がっていく壁。

 ゲンドウは2歩ほど壁から遠ざかり、身を屈めて壁の下を覗き込む。

 壁の向こう側。そこに2本の淡く光る細い足が在ると期待して。

 しかし覗き込んだ先にあるのは焼け爛れたコンクリートの地面。そしてその地面の上に残った、2つの淡く光る足跡だけ。

 

 壁の向こう側には、誰も居なかった。

 

 

 ゲンドウは地上から離れていく壁、巨人の手を見上げた。

「レイ!」

 巨人の手はゲンドウの呼びかけを無視してどんどんその高さを増していく。地上のゲンドウから、離れていく。

 そしてその手が行き着いた先。

 そこは、巨人の顔。

 巨人の下顎ががくんと落ち、巨人の口が大きく開いた。

 ゲンドウは遥か頭上にある巨人の口を目を細めて凝視した。

 

 巨人の手の指の隙間から見える、光輝く人の影。

「レイ!」

 ゲンドウの呼び掛けに、地上に背を向けていた人影が、ほんの僅かだけ振り返る。乱雑に伸びた髪の隙間から、赤く光る瞳が地上のゲンドウを見下ろしていた。

 しかし人影がゲンドウを見下ろしたのはほんの一瞬のみ。その腕に抱いていた男の子を抱え直し、目前でぽっかりと開いている巨大な口に向かって、ゆっくりと歩き始める人影。

 綺麗に並ぶ白い歯を跨いで。

 柔らかい真っ赤な舌を踏んで。

 深い深い闇へと繋がる咽頭へと消えていく人影。

 

「レイ…」

 ゲンドウはもはや声も届かぬ所へ行ってしまった少女の名を呟くしかできない。

 

 少女の形をした淡い光と男の子を口に含んだ巨人は、下顎を上げ、広げていた口を噤む。

 頸を仰け反らせ、喉仏を上下に大きく動かし、口の中にあるものを飲み込む。

 そして今度は頸を前に倒し、胸を大きく上下させながら、口の両端から大量の蒸気を吐き出す。

 

 淡く光っていた巨人の瞳が、煌々と輝き始めた。

 

 

 

 

 絶え間なく空へと打ち上げ続けられる光の筋。無数の光の軌跡は大きく放物線を描いた末に、赤い大地から突き出た巨大な構造物へと向かって落下していくが、その全ては構造物に辿り着くことなく空中で次々と爆発していく。

 地上に展開された自走砲群による砲撃。ネルフ本部強襲の第2波は、自走砲群の標的である構造物の頂上に立つ巨人、エヴァンゲリオン初号機が展開する不可侵の壁、ATフィールドによって全てが阻まれていた。

 

 夜空を支配する幾筋もの細い光の軌跡。

 その中にあって、一際輝く大きな光の筋が混じり始める。膨大な量の推進剤を燃焼させ、重力と空気抵抗に逆らいながら空中を押し進む数十基もの巡航ミサイル群。それらは地上部隊のさらに後方。野を越え、山を越え、朽ち果てた都市を越えた先に広がる海上に展開された、ミサイル巡洋艦を中心に構成された大艦隊から放たれたものだった。

 海上から発射されたミサイルたちは朽ち果てた都市を越え、山を越え、野を越えてようやく目標物であるネルフ本部まで辿り着いたが、しかしそれらも結局は、初号機が張り巡らせるATフィールドを穿つには至らず、積載された大量の火薬は本来の目的を果たすことなくただ夜空を明るく彩り、地上を無駄に明るく照らすだけの花火として生涯を閉じたることになる。

 

 さすがの碇ゲンドウも、目前で繰り広げられる火薬の祭典に対しては、手を翳し、目を細めずにはいられない。

 

 そのゲンドウの背後で、体動する初号機。

 空気の揺らぎを感じ、ゲンドウは振り返る。

 初号機が、立ち上がっていた。

 立ち上がれば高層ビルの高さに匹敵する初号機のその顔は、初号機の足もとに立つゲンドウの位置からはとても見ることができない。

 

 初号機の動きは立位しただけに留まらない。

 膝を折り、腰を低くし、身を屈め。

 

 初号機のその予備動作を見て、ゲンドウは怒鳴った。

 

「待て! レイ!」

 

 ゲンドウが声を張り上げた瞬間、初号機の膝は伸び、腰は上がり、体全体が大きく躍動する。

 竜巻のような突風。そしてコンクリートの地面に巨大な足跡を残して。

 

 初号機の巨体が、空中へと躍り出た。

 

 

 

 

 砲弾とミサイルの雨は未だ止んでいない。無数の光跡の束の中に飛び込んでいく巨人。巨人の周辺に張り巡らされた見えざる壁に触れた無数の砲弾やミサイルが、次々と爆発。爆発物で満たされていた空は誘爆の連鎖によって隅々まで爆炎に満たされ、まるで昼間の太陽のように光り輝いた。

 

 巨人が去ったことによって絶対不可侵の壁の加護を失った構造物の頂上に立つゲンドウは、空を埋め尽くすほどの爆発がまき散らす衝撃波を正面からくらいそうになり、その場に膝を付いて地面にしがみ付いた。構造物を襲う爆風によって、ゲンドウの丸渕眼鏡が吹き飛んでしまう。

 

 

 どのような大爆発も、燃焼するための材料が無くなれば消えてしまう。巨大な爆発が空中に集まった火薬の全てを消費尽くした結果、空は闇と煙に包まれることになる。

 

 大量の埃を被ったゲンドウはそれらを払おうともせずにすっくと立ち上がった。初号機の巨体が飛び立っていった夜空へと、眼鏡を失った目を細めて見つめる。

 ポケットの中の通信端末機から呼び出し音。通信端末機を耳に当てる。

「碇だ」

 通信相手である腹心の声は、珍しく乱れている。

『碇。初号機を実戦投入するつもりか』

 相手の問い掛けに対し、3秒の間を設けて。

 ゲンドウは、少なくとも声音だけはいつもと変わらない調子で答えた。

「初号機は我々の支配下を離れた」

 ゲンドウの応答に対し、相手もやはり3秒の間を設けて。

『…どういう意味だ』

 ゲンドウは細めていた目を閉じながら答える。

「初号機は…」

 頭を振り、主語を訂正する。

 

「レイは今…、私の手を離れ、独自に行動している」

 

 その言葉を聴いた相手は、太陽が西から昇ってくるのと同じくらいあり得ないとでも言いたげな口調で言う。 

 

『レイが我々を…、お前を裏切ったということか…』

 

 その問いについて、ゲンドウの返答はなかった。

 

 

 

 



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(21)

 

 

 

 

 膨大な数の爆発物の中に自ら飛び込み、自らその爆発物を引火させ、誘爆させた紫色の巨人、エヴァンゲリオン初号機。

 肥大化した月と満天の星々が浮かぶ夜空に躍り出た初号機の巨体は地球の重力に引かれるままに自由落下、はせず、展開したATフィールドをまるでセイル代わりにして、空を埋め尽くす猛烈な爆風の波に乗って飛び立った場所からさらに天高くへと舞い上がり、ついには成層圏にまで達してしまう。しかし空中にある全ての火薬が消費し尽くされ、全ての爆発が収まり、滑走する波を失った初号機は、今度こそ地球の重力に引かれて落下し始めた。

 

 超高高度からの落下。落下傘などない。

 来たる衝撃。地上との衝突に備えるべく、初号機が自身の足もとに向かって衝撃吸収に適するハニカム構造に編んだATフィールドを張り巡らせようとした、その時だった。

 

 初号機の背後から、強烈な閃光を背負う何かが急接近した。

 背後から迫ってくる「何か」に気付いた初号機は、すぐさま初号機と「何か」の間にATフィールドを張り巡らせる。ところが高速で突っ込んできた「何か」は初号機が張り巡らせたATフィールドをあっさりと通過。初号機に向かって両腕を突き出し、その体に組み付いた。

 

 背中に背負ったロケットブースターを点火させた巨人。成層圏から地上に向かって落下している初号機に向かって、一直線に大空を駆けた全身を水色に塗装された機体、エヴァンゲリオン・マーク7は、初号機が張り巡らせたATフィールドに対し、自らもATフィールドを発生させて相手のATフィールを弾き飛ばすと、初号機に向かって溜め込んだ運動エネルギーを全てぶつける。その巨体を「く」の字に捩じらせた初号機。2体の巨人が空中で錐もみ状態になる中、マーク7はさらに両腕を回して初号機の左肩と胴体を拘束した。

 

 落下中の無防備なところをマーク7によって横合いから高速で激突された初号機。さらに左肩と胴体を掴まれ、密着され、動きを封じられてしまいそうになるが、まだ動く右腕をぶん回して右肘をマーク7の頭部へとぶつける。2度、3度と続けて肘打ちを食らわせていくうちに密着されていたマーク7の体が少しずつ離れていき、初号機はすかさず生じた隙間に左膝を挟み入れ、一気に突き放そうとマーク7の胴体を蹴り上げた。

 初号機の胴体を拘束していたマーク7の右腕がずるずると抜け落ち、拘束が緩んだお互いの胴体が離れる。しかし、マーク7の右腕は未だ初号機の左肩をがっちりと拘束したまま。

 

 初号機はマーク7を完全に突き放そうと、今度は右拳をマーク7の顔面に向かって振り落とした。

 2度、3度と。初号機の厳つい拳が、マーク7の顔面を潰していく。

 

 4度目の拳をマーク7の顔面に打ち込もうとして。

 

 その初号機の拳が、手首から吹き飛んだ。

 

 マーク7の左手に握られていたのは拳銃。拳銃とは言え、エヴァンゲリオン用に用意された拳銃は戦艦の主砲並みの口径を誇る。その拳銃をほぼゼロ距離でぶっ放された初号機の拳は、あっけなく砕け散り、大きな穴が開いた手の甲から盛大に体液を撒き散らした。

 

 しかし。

 

 それでも構わず、初号機は砕けた拳でマーク7の顔面を殴り続ける。

 初号機の砕けた拳から迸る人工血液が、マーク7の西洋式甲冑の鎧兜のような顔面を真っ赤に彩っていく。

 

 顔面に強打を受け続けるマーク7は、今度は拳銃の銃口を初号機の胸に押し当てた。

 再びゼロ距離での発砲。

 銃弾は初号機の胸当て装甲を簡単に貫き、その下の分厚い人工皮膚を穿ち、肋骨を砕き、肺をズタズタに破壊する。

 

 それでも初号機はマーク7の顔面を殴り続ける。

 肺が弾け、体内を逆流した血液が初号機の口の周囲を真っ赤に彩ることを気にも留めず。

 砕けた右拳で、顔面に殴り続ける。

 

 マーク7は初号機の体に押し当てた拳銃の位置をずらし、3度目の発砲。

 初号機の脇腹が大きく抉れた。

 マーク7はさらに拳銃の位置をずらし、4度目の発砲。

 初号機の骨盤が砕け散った。

 

 それでも初号機は殴打を止めなかった。

 

 繰り返し、ひたすら、愚直に、一途に。

 

 初号機の砕けた右拳はマーク7の顔面を殴り続けた。

 

 そしてついに、マーク7の顔面が完全に潰れ、陥没する。

 初号機はさらに右腕でマーク7の左腕を抱え込むと、ダメ押しとばかりに東洋式甲冑の鎧兜のような顔面の額を、マーク7の潰れ掛けの頭部に向かって勢いよく突き出した。

 初号機による渾身の頭突きを正面から食らったマーク7の頭部は弾かれたように後屈し、首の根本からぽっきりと折れてしまった。

 

 初号機はさらに右腕をマーク7の背中へと回すと、マーク7が背負っていたロケットブースターも殴り付ける。火花が散ったロケットブースターはたちまち大爆発を起こし、推力を失ったマーク7の体は背中から大量の炎と煙を吐き出しながら、真っ逆さまに地上へと墜落していく。

 

 超高速で迫ってくる地表。

 マーク7は地上との激突の衝撃を和らげるため、地上に向かってATフィールドを張り巡らせた。

 ところが、マーク7が発生させたATフィールドは何故か霧散してしまう。諦めず、何度も、何度も。迫る地上と機体との間にATフィールドを発生させてみるが、悉く掻き消えてしまう。

 それが、初号機が同時に発生させたATフィールドによる中和作用だと気付いたマーク7(のパイロット)。初号機の思惑を悟り、今度はマーク7の方が初号機の胴体を蹴り上げ、初号機の体を突き放そうとするが、マーク7の左腕を抱え込んでいた初号機は、マーク7の右腕もがっちりと抱え込んでしまい、てこでも離そうとしない。何度蹴り上げても離れようとしないため、マーク7は先ほどのお返しとばかりに初号機の顔面に向かって頭突きを試みたがが、すでに根本で折れていたマーク7の頭部は初号機への頭突きによって完全に千切れてしまい、夜空の彼方へと消えてしまった。

 

 初号機とマーク7。

 

 2つの巨体は、互いの体を絡み合わせながら、地上へと真っ逆さまに墜ちていく。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 遥か遠方の真っ赤な地表に、巨大な土煙が立ち昇った。

 覗き込んでいた望遠鏡の調整リングを回し、倍率を上げていく。円形に縁どられた視界の中一杯に広がる土煙。その土煙が、少しずつ晴れていく。

 

 薄くなっていく赤い土煙。

 土煙の下から現れる、放射状に広がるクレーター。

 そのクレーターの中央に横たわる、2体の影。

 折り重なるようにして倒れている2体の影。

 

 その内の1体。もう1体を下敷きにして腹ばいに倒れていた1体が、ゆっくりと体を起こし始めた。片膝を付き、腰を上げ、上半身を起こす。

 土煙の中でふらりふらりと立ち上がるその姿は、濃霧の中を彷徨う戦場に散った狂戦士の亡霊のようだった。

 その狂戦士の足もとで横たわるもう1体。無残にも四肢(と頭部)が胴体から千切れてしまっている水色の塗装の巨人は、動き出す気配はない。

 

 狂戦士は今一度足もとに横たわる水色の巨人の側に片膝を付くと、その上半身を引き摺り起こす。

 さらに水色の巨人の背中の装甲を引き剥がして頸部から背部までを剥き出しにさせると、口を大きく開いた。

 そして。

 

 

 

 

「うはぁ~…、食っちゃってるよ~…」

 

 丸く縁取られた視界の中央に、十文字に交わる2つの線。

 

「こりゃウォーキングデッドも裸足で逃げ出しちゃうね~」

 

 その十文字が、「捕食」に夢中になっている狂戦士と重なるように微調整していく。

 

 動かないもう1体の頸部を喰らい尽くした狂戦士は、ゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がってくれたおかげで、狙える面積が広くなる。

 

 しかし。

 

「ああもうっ…。ふらふら動き過ぎ…」

 右胸部から腰に掛けて3つの大穴が開いているらしい狂戦士。重傷を負い、立ってるのが不思議な狂戦士の足もとはおぼつかず、上半身が右に左にと大きく不規則に揺れている。

 おまけに。

「煙、邪魔…」

 立ち昇る土煙が、標的の姿をまるで陽炎のように揺らめかせてしまう。

 

 

 一発で片づけてしまおうと思えば簡単だった。

 一番狙いやすい胸部。

 その中に収まるコアをぶち抜いてしまえばよいのだから…。

 

「そんなことしたら彼、チョーおかんむりだよねぇ…」

 

 次に狙うべきは、エヴァンゲリオンのセンサー類が集中している頭部だが、ファッションモデルも形無しの頭身を誇るエヴァンゲリオンの、しかも右に左にゆらゆら揺れる超小顔をこんな長距離から狙い撃ちするのは容易ではない。

 

 仕方なしに。

 

 視界の中央にある十文字を少し下にずらす。

 

 十文字が、標的と重なる。

 

 静止。

 

 そして静寂。

 

 

 地鳴りのような、発砲音。

 

 

 視界の中を、一筋の閃光。

 閃光は、狂戦士の右大腿部へ。

 

 装甲が砕け、筋肉が弾け飛ぶ。

 右大腿部の筋肉の半分を刮ぎ取られた狂戦士は、堪らずその場に片膝を付く。

 

 狂戦士の右大腿部が弾け、膝が付くまでの1秒に満たない時間。

 構えている狙撃銃のボルトハンドルを回し引いて銃身内に残っていた空薬莢を弾き出し、すぐさまボルトハンドルを押し込んで次弾装填。

 

 片膝を付いたおかげで狂戦士の姿勢は安定。頭部の揺れも小さくなる。

 狙いやすくなる。

 

 再び地鳴りのような発砲音。

 

 視界の中を、一筋の閃光。

 対使徒用に鋳造された巨大な弾丸は、空気を切り裂いて、狂戦士の頭部へ一直線。

 

 弾丸が届けば狂戦士の頭部は粉々に爆散するはずだったが、弾丸が到達する直前になって狂戦士の上半身が左に大きく揺れた。

 弾丸は狂戦士の鎧兜の端を掠めただけに留め、その背後の地面を穿つ。

 上半身を大きく揺らした狂戦士は、そのまま地面に左手を付いた。

 

 

 それはただの偶然か。狂戦士にとっての幸運か。

 放たれた弾丸が狂戦士の頭部を砕くことなく地面を削っただけに終わったのは、体に4つの穴を開けられた狂戦士が、倒れそうになり体がよろめいたことによる、偶然のタイミングによるものか。

 それとも。

 

「避けられた…?」

 

 偶然か、それとも狂戦士が遥か彼方から放たれた弾丸を避けのか。

 そんな些末な事を判断するために、貴重な時間を浪費し、思考を割いててはならないことを、彼女は知っている。

 

 今、彼女がしなければならないこと。

 

 ボトルハンドルを操作し、空薬莢排除、次弾装填。

 間髪入れずに引き金を絞る。

 3度目の、地鳴りのような発砲音。

 

 標的の頭部へと吸い込まれる弾丸。

 しかし、この弾丸も、標的の頭部を破壊するには至らなかった。

 

 標的は。

 狂戦士の頭部は動いていない。

 

 頭部の代わりに動かしていたもの。

 それは狂戦士の左手。

 

 前方に翳された左手を中心に広がる、八角形の輪。

 それはATフィールド。

 

 ATフィールドにぶち当たった弾丸は、粉々に霧散する。

 

 ATフィールドを展開させる左手。

 その左手の指の隙間から覗く、狂戦士の目。

 

 その目と、狙撃銃の照準器を覗いていた8号機の目が合った。

 

「まずっ!」

 

 8号機のパイロットがそう呟いたと同時に、照準器の中に捉えていた初号機の姿はすでに消えていた。

 

 

 

 



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(22)

 

 

 

 

 照準器から顔を離した。

 8つある目が、星々が瞬き、肥大化した白い月が浮かぶ夜空を見上げた。

 その大きな白い月を背に、黒い大きな影が宙を舞っている。

 

「ちっ!」

 

 元ユーロネルフ所属エヴァンゲリオンパイロット真希波マリは舌打ちをすると、狙撃のために地面に腹ばいになっていた8号機を後方へ跳躍させる。その直後、8号機が腹這いになっていた場所を、夜空から降ってきたエヴァンゲリオン初号機の左踵が襲った。大地が大きくひび割れ、初号機の踵の直撃を食らった狙撃銃の銃身は粉々に砕け散った。

「その体でよく動く!」

 8号機はすぐに予備の拳銃を構え、長距離をひとっ飛びして地面に着地した初号機に向かって、立て続けに発砲した。

 初号機は8号機を中心に大きく円を動くように横跳びを繰り返すと、初号機の姿を追って上半身を捻りながら拳銃を撃ち続ける8号機の腰が限界にまで捻じれたところで、大地を思い切り蹴り、8号機との距離を一気に詰める。

 8号機は上半身を極端に捻るという不自然な姿勢となりながらもなおも銃撃を止めず、その一発はついに初号機の左脇腹を撃ち抜いたが、初号機の突貫は止まらない。

 突き出した左手で8号機の右手首を掴み、突っ込んだ勢いを利用して8号機の右手が握る拳銃を空へと向けさせた。さらに砕けた右拳を8つの目が並ぶ8号機の顔面に向けてぶち込む。

 顔面を殴打された8号機は突っ込んできた初号機に押し倒される形で、背中から地面に倒れた。2体の巨人が折り重なるように倒れ込み、地面が割れ、舞い上がった土煙が初号機と8号機を包み込む。

 初号機は拳銃を握る8号機の右手を左手で握りしめて地面に押し付け、右前腕で8号機の顎を押さえ込む。押さえ込んだ8号機の顎を横に強引に捻じれさせると、現れたのは無防備な8号機の頸部。その頸部に浮き上がる、極太の頸動脈。

 

 初号機の下顎が下がり、ぱかっと口が開いた。

 

 皮を裂き、骨を砕き、肉をすり潰すために並んだ堅牢な歯。

 

 初号機はその歯を、8号機の頸動脈に向かって突き立て、8号機の首に齧り付いた。

 

 

「イタイイタイイタイ!!ちょー、ちょっと痛いってええ!!」

 大量の気泡が発生した8号機のエントリープラグ内に、パイロットの悲鳴が木霊する。警告を示す赤い表示が、プラグ内の壁を利用した全周囲型のモニターのあちこちに現れる。

 8号機は自由な右手で初号機の額を押し上げようとするが、噛み付かれた8号機の頸部の皮膚が下の血管ごと大きく伸びた。

「いったああああああああ!!ちくしょうーめえええ!!」

 初号機の口を頸部から引き剝がすことを諦めた8号機は、右手で初号機の顎を握り締めた。

「こんのぉおおおお!!」

 全身の力を右手に注ぐ。

 

 初号機は8号機の頸部を食い破ろうとし

 8号機は初号機の顎を握り潰そうとする。

 

 8号機の頸部が先か。

 初号機の顎が先か。

 

 

 軍配が上がったのは8号機の方だった。

 

 グシャリと音がする。

 それは初号機の顎が8号機の頸部を食い破る前に、8号機の右手が初号機の下顎を握りつぶした音だった。

 続けて初号機の喉の奥から、大地を震わす低い叫び声が轟いた。

 

 頸部の圧迫から解放された8号機は、初号機との体の隙間に右足を挟み入れ、爪先で初号機の体を蹴り上げる。蹴っ飛ばされた初号機の体が大きく宙を舞い、大地を転がっていく。

「うおぇっ! けほっ、けほっ…! …ったく」

 エントリープラグ内に響く咳音と悪態。

「爆弾持って突っ込むしか能のないコと思ってたけど…。捨て身の攻撃ってぇのが一番厄介ね…」

 転がっていった初号機の方を見ると、初号機はすでに体を起こしており、早くも8号機に向かって突撃を始めている。

 8号機はすぐさま拳銃で迎え撃とうとするが、拳銃を握っていた右手が動かない。

 見ると、8号機の右手は、握った拳銃ごと握り潰されていた。

「ありゃま。あっちは顎1つに対して、こっちは左手1つに拳銃1丁か。第1回握々(にぎにぎっ!)潰し合いっこ対決は、あたしの負けのようだね。君の執念、本当に恐れ入るわ」

 8号機の8つの目が、撃ち抜かれた右足をさぞ不自由そうに引き摺り、砕けた下顎をだらんと下げながらも、大口を開けながら凄まじい勢いで襲い掛かってくる初号機を見つめる。

「おー怖っ。ウォーキングデッドどころじゃないね。ジェイソンにマイヤーズにフレディ足しちゃったんじゃないの、あれ」

 初号機は8号機の10歩手前で、健在な左脚を使って大きく跳躍。その左膝を前に突き出して、8号機に向かって飛び掛かった。

 

 8号機は初号機が繰り出す渾身の膝蹴りを、避けようともせずに棒立ちのまま迎える。

 初号機の突き出された膝が8号機の鼻っ柱に触れようとした瞬間。

 

 8号機は瞬時に両膝を折り、まるで五体投地でもするかのように一気に身を低くした。

「でもやってることはトーシローレベルだよん」

 8号機の頭部をぐしゃぐしゃに破壊するはずだった初号機の膝小僧が空を切る。その初号機の下では、8号機が身を低くするのと同時に腰の後ろに回していた左腕を、まるで野球の投球のように大きくぶん回していた。

 鈍い光が闇夜を切り裂くと共に、宙に大量の血飛沫が舞った。

 

 

 轟音と盛大な土煙と共に、初号機の体が大地へと転がっていく。

「馬鹿正直な突貫がそう何度も通用すると思ってるんだったとしたら君。Too optimsticだよぉ~」

 8号機は地面にうつ伏せになって倒れる初号機を見ながらすっくと立ち上がる。その右手に、独特の「く」の字の曲線を描く、大型のナイフを握り締めながら。

「脚一本もーらいっと」

 8号機は足もとに転がる、初号機の左下腿を小突いてみせた。

 視線を少し上げると、右下腿を失った初号機が四つん這いの状態で地面を這い、8号機から離れようとしている。

「おやおや。頑張るねぇ」

 8号機はナイフを一度縦に勢いよく振って、刃にべったりと付着していた初号機の血を飛ばすと、逃げる初号機の背中を追って歩き始めた。8号機の足取りはのんびりとしていたが、まるで壊れかけのからくり人形のようなぎこちない動作で地面を這う初号機の背中に、あっという間に追いついてしまう。

「でも、そろそろいいんでないかな。君、よく頑張ったよ。うんうん。じゃ、いい加減意地張るのやめて、お姉さんと一緒に行こっか」

 初号機の背後に立った8号機。右手に持った大型ナイフの背を、自身の首にトントンと当てる。

 初号機は引き摺った右膝から溢れ出す大量の血を地面に引きながら、なおも8号機から離れようと這い続けている。

「ちょっとー。声は届いてんでしょ? 第一の少女さん」

 8号機は身を屈め、左手を初号機の肩に伸ばそうとした。

 

 その瞬間を狙ったかのように、初号機は身を翻す。

 左手に握った拳銃を、8号機に向けて。

 銃口はまっすぐに8号機の眉間を捉える。

 引き金に掛けた人差し指に力を込めて。

 引き金を、絞り切ろうとして。

 

 しかし初号機の人差し指が引き金を絞り切ることはなかった。

 拳銃を握った初号機の左手。

 左手が、拳銃を握ったまま、手首から離れ、宙を舞っている。

 手首から噴き出した大量の血が宙を彩った。

 

 初号機が身を翻し、左手に握った拳銃を向けてきた瞬間、右手に持っていたナイフを横薙ぎにした8号機。ナイフで切断された左手を見ながら砕かれた顎を大きく開けて咆哮している初号機の胸に向かって、右足を突き出した。右足に体重を乗せ、初号機の体を地面の上に磔にする。

「へー。切り札を隠し持ってるなんて、君にも案外小賢しいところあるんだね~。マーク7が持ってた奴かな~?」

 宙を舞っていた拳銃付きの初号機の左拳が、轟音と共に地面に落下する。

「でも、見た感じ今ので打ち止めみたいだね。よしっ、気は済んだかな? じゃあ、一緒にゲンドウくんの所に帰ろっか。ゲンドウくんにはあたしが一緒に謝ってあげるからさ」

 8号機が、初号機の胸に乗せていた足から、ほんの僅かだけ体重を除いた瞬間。

 初号機は一応まだ全ての部位が繋がっている右足を大きく振り上げた。8号機の顎に初号機のつま先がぶち当たり、8号機の巨体が大きく揺らぐ。初号機は間髪入れずに右足を8号機の腹に押し付け、強く蹴り上げた。

 

 8号機を渾身の前蹴りで遠くへ突き飛ばした初号機は、満身創痍の体を腹ばいにさせると、短くなってしまった手足をバタつかせて地面を這い始めた。千切れた左手首、左膝。風穴が開いた胸部、両脇腹、右大腿。砕けた顎に右拳。全身から夥しい量の血を撒き散らし、赤い大地をさらに赤く染め上げながら、初号機は這い続ける。

 少しでも遠くへ。

 「彼」にとって、僅かばかりでも脅威となる可能性があるものから、少しでも遠ざかるために。

 

 

 その初号機の背後で、星空を駆ける黒い影。

 黒い影が握る、鈍い光を放つ「く」の字の形をした巨大な刃物が、初号機の右足に向かって振り下ろされた。

 初号機の右足は大腿部の中央で輪切りにされ、胴体から分断された右下肢がくるくる回転しながら飛んでいき、宙に血飛沫の螺旋を描いていく。

 

 初号機の壮絶な咆哮。

 初号機の右足を切断した8号機は、左のつま先で初号機の脇腹を蹴り上げた。

 

「君が「この戦い」から降りるのは勝手だけどさ」

 

 宙に浮いた初号機の首を右手で掴み上げ、初号機の体を半回転させると、今度は初号機を背中から地面に叩き付ける。喉が潰れたか。初号機の開いた口から、血反吐が噴水のように吹き上がった。

 

「初号機とワンコくんは置いてってほしいんだな」

 

 8号機は今度こそ初号機を逃さないよう、初号機の胸にどっかりと腰を下ろし、馬乗りになった。

 

「ワンコくんも悲しいかな運命を仕組まれた子」

 

 初号機は8号機を押しのけようと手首から先がない左腕の先端を8号機の喉に向けて打ち付けようとするが、8号機はすぐにナイフを振り下ろし、今度は初号機の左腕の肘から先を切り落とす。

 

「君がどんなに彼を運命から遠ざけようとしたって、運命ってのはストーカーばりにどこまでもしつっこく追いかけてくるもんさね」

 

 続けて8号機は、初号機の左腕がこれ以上悪さをしないよう、その左肩に向けてナイフの刃を打ち付けた。

 

「逃げられないんだったらさ。せめてワンコくんの背中を押してやろうよ。運命に立ち向かっていけるように」

 

 しかしナイフは初号機の鎖骨は断ってもその下の肩甲骨までは断ち切ることが出来ず、初号機の肩の2分の1を裂いたところで止まってしまう。

 

「それにゲンドウくんとこも裏切っちゃうとなると、今のこの世界にシンジくんが逃げられる場所なんてないんだよ? 君」

 

 仕方なく、8号機はナイフを前後に挽き、ノコギリの要領で初号機の肩を切断しに掛かる。8号機の下で初号機が暴れ狂うが、8号機はまるで暴れ牛を乗りこなす牧童のように、体を前後に揺らせて絶妙なバランスを取りながら、淡々と肩を切断する作業に勤しんだ。

 

「そりゃ君がもちっと強けりゃまだ君の行動にも説得力があるんだけどさ」

 

 初号機の左腕が胴体と離れ離れになる頃には、8号機の下の初号機は暴れ疲れたのか、ぐったりとして動かなくなっていた。

 

「こんなに弱っちいのに、あっちゃこっちゃ敵に回しちゃってどーすんの?」

 

 8号機は切断した初号機の左腕をぽいっと遠くへ投げ捨てる。

 

「な~んにも知らずに寝ちゃってるワンコくんの立場が一層悪くなっちゃうような気がすんだけどな~」

 

 投げ捨てられた腕が、轟音を立てて地面を転がっていく。

 

「せめてリリンの手の届かない、空の彼方にでも飛んでいけるようなおっきな翼が君にもあったらよかったのにね」

 

 初号機がすでに抵抗する力を失っていることを確認した8号機は、初号機の体からゆっくりと腰を上げた。

 

 

「あーもしもし? あ、センセ、おひさー。いや誰って、あたしですよあたし。いやいや“スナックあけみ”のママじゃないですって、センセ。そーそー、そーですそーですお久しぶりでーす。ところでセンセ、今、あたしの足もとに初号機があんだけど、どーしたらいいです? うん、そうそう、その初号機。え? あ、そう。じゃあ今からそっちに持ってきまーす。ついでに8号機が活動限界ぎんりぎりだから、予備バッテリー用意してくれてるとありがたいんですけど。えへへ、まあいいじゃないですか。どーせ誰も乗ってなかったんだから。あい。あい。よっし、これで契約成立ですね。んじゃ、よろぴく~」

 

 通信を終えたマリは、8号機の足もとを見下ろし、呆れたように眉を顰めた。

 左下腿を失い、右下肢を失い、左上肢を失った初号機はなおも俯せになり、腹這いになり、残った一本の右腕で地面を引っ掻き、短くなった両足をジタバタさせながら、前に進もうとしている。

 止まり掛けのゼンマイのようなぎこちない動きで。

 手足をもがれ、まるで芋虫のような姿で、地面を這っている。

 

「その執念だけは、見上げたものね」

 これからこのジタバタ足掻く芋虫を担いで連れて帰らなければならない8号機。お持ち帰りしやすいよう足2本と腕1本をもいでみたが、完全に無力化するためにも、残りの右腕も切断してしまおう。

 8号機はなめくじのような速度で地べたを這っている初号機の上を跨いだ。右手に握ったナイフを、天に向かって振りかぶる。そして初号機の右肩目掛けて。

 握ったナイフを初号機の右肩に目掛けて振り下ろそうとしたその時。

 

 背後からまるで遠雷のような爆音が聴こえた。

 振り返る8号機。

 8つある目を、爆音が聴こえた方向へと向ける。

 赤く染まった大地の彼方。

 赤く染まった大海が見える。

 その赤く染まった海に浮かぶ幾つもの影。

 その影から、幾つもの閃光が瞬いた。

 閃光に遅れて、再び遠雷のような爆音。

 

 8号機の目は海に浮かぶ幾つもの影を拡大して捉える。

「アイオワ級戦艦? 奴らもまたどえらい骨董品を引っ張り出してきたもんだね~」

 海に浮かぶ戦艦から放たれた幾つもの閃光。

 閃光たちは夜空に大きな弧を描きながら、8号機が立つ場所へと降り注ごうとしている。

 8号機はその閃光たちに向かって、右手を翳した。

 その右手を中心に、八角形の光の輪が発生し、空中へと広がっていく。

 

 大空を駆け抜けた閃光は、大きく広がった八角形の光の輪の中へ。

 閃光は光の輪の内面に触れた瞬間、弾け飛ぶ。

 

 はずだった。

 

「あれ?」

 

 光の輪の中を素通りしてきた閃光。戦艦の主砲から放たれた砲弾たちを見つめながら、マリは気の抜けたような声を上げる。

 

 直後、8号機は巨大な爆炎に包まれた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「目標地点に着弾を確認! アンチAT弾! 効果ありです!」

 双眼鏡を構えた観測手の報告に艦橋のそこかしこから歓声が沸くなか、艦橋の中心にある重厚な椅子に腰を掛けていた老将は膝を叩いた。

「全艦隊に打電。アンチAT弾第2射用意」

 老将のその下知に、側に控えていた副官が口を挟む。

「長官。我が艦隊の第一目標はネルフ造兵廠の破壊では?」

「構わん。初号機の破壊はニア・サードインパクトを経験した我々人類の悲願だ」

「あの白いエヴァンゲリオンは報告にない機体です。初号機を攻撃しているようにも見えましたが」

「少なくとも我が陣営にエヴァが参戦しているという情報はない」

「では、ネルフのエヴァが同士討ちをしていると…?」

 老将は鼻を鳴らす。

「敵さんの事情など知ったことか。我々は我々の仕事を遂行するまでだ。アンチAT弾斉射後、全艦隊は持ちうる全ての火力をもって目標を殲滅せよ」

「はっ!」

 踵を鳴らす副官は老将に向けて敬礼した。

 

 海上に犇めく大艦隊。何百とある全ての砲塔、ミサイルランチャーが、一斉に同じ方角を向き始めた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 土砂に巨体の半分が埋まってしまった白い機体。エヴァンゲリオン8号機。

「いーっちっちっち。ひ~どい目に遭ったにゃ~」

 体の周辺にATフィールドを勢いよく放ち、機体を埋めた土砂を弾き飛ばす。

「あれが噂のアンチAT弾か…。…ったく。いつの時代のリリンも敵を殺すための研究だけは努力を惜しまないね~」

 立ち上がった8号機は、周辺を見渡す。ほとんど平らな地形だったはずの場所は、そこかしこに爆発で抉れた大穴が開いたいてる。そして8号機が立つ場所から2つめの穴の向こう側。

 

 地面に、奇妙なものが生えていた。

 

 8号機は跳躍すると、2つの大穴を飛び越え、奇妙なものの側へと降り立つ。

 地面からにょきっと生えたもの。それはよくよく見れば、腕のような形をしている。8号機はその腕のような何かを握ると、ぐいっ、と引っ張ってみた。地面の下から、肩、胸、そして頭部が出てくる。

 マリは吹き出してしまった。

「あんたも酷い目に遭ったね~」

 8号機の手によって地面の下から引っ張り出されたのは初号機。最後に見た時は、膝や大腿部の位置で切断された両脚がまだ残っていたはずだが、今の初号機には腰から下がない。

「うん。でもコアは無事だから。ゲンドウくんがちゃんと治してくれるよ」

 8号機はまるで胸像のようになってしまった初号機の体を、手でバンバンと乱暴に払ってやる。すると泥まみれだった初号機の体から本来の紫色の装甲が見えてきた。顔に付いた泥も払い落としてやる。

「う~ん。やっぱり初号機はイケメンさんだね~」

 泥が落とされた初号機を満足そうに見つめた8号機は、初号機の腕を掴んだまま背負う。

「じゃあ帰ろ…っか…」

 

 再び遠くの空から遠雷のような爆音。

 振り返る8号機。

 遠くの海に浮かぶ艦列から空に向かって立ち昇る、幾つもの光の筋。

「お~きたきたきた~」

 艦載砲の発射から着弾までの時間は数十秒しかない。8号機は砲弾がここに落っこちてくるまでに、さっさと戦場から逃げてしまおうと、海に背を向けて走り出した。

 

 走り出そうとして。

 

「およ?」

 

 足を止めて、振り返る。

 海全体から、空全体を埋め尽くすほどの無数の光の筋が立ち昇っていくのを目撃してしまったマリ。

 

「飽和攻撃ぃ!? たった2機相手にぃ!?」

 

 海上を埋め尽くす大艦隊。兵装を備える全ての艦の、全ての砲塔、全てのミサイルランチャーがほぼ同時に火を噴き、全ての砲弾、全てのロケット弾、全てのミサイルがたった2つ(正確には1つ)の目標を狙って空を駆け抜けていく。

 

「ひぃぃぃぃぃぃ!?」

 初号機を担ぎながら走り出す8号機。瞬く間に最高速に達し、音速の壁をぶち破った。

 

 エントリープラグ内にけたたましいアラーム音。同時に、プラグ内を囲む全周囲型のモニターに四角い枠で縁取られた「警告」の文字があちこちに現れる。

「活動限界!? こんにゃ時にいぃぃ!!」

 8号機の動力源が自動的に予備バッテリーへと切り替えられるが、通常バッテリーに比べるとその非力さは明らかだった。みるみるうちに、8号機の走るスピードが落ちていく。背後では放物線の頂点を過ぎた砲弾やミサイルたちが、いよいよ8号機の居る場所目掛けて落下を始めている。それらが着弾するまでに、攻撃範囲外まではとても辿り着けそうにない。

 

 

 エヴァンゲリオン8号機の非合法的所有者、真希波マリ。

 この戦いに飛び入り参加するにあたり、彼女が自らに課した2つの使命。

 1つ目は、「彼女」によって奪われ、攫われた初号機、そして初号機に在る「彼」の身を奪い返すこと。2つ目は、初号機と「彼」の身を脅かすあらゆるものから護ること。

 少なくとも、今、この時。初号機と「彼」の身が危険に晒される可能性の最も少ない場所は、「彼」の父親のもとだ。

 1つ目の使命を果たすことには成功した。そして2つ目の使命は、初号機と「彼」を父親のもとに送り届けることで果たされるはずだった。

 

 その使命を果たせそうにないこと。

 そして、果たしたはずの1つ目の使命も放棄し、そして2つ目の使命を別の誰かに譲らなければならないというこの事態は、彼女にとって不本意極まりないものだった。

 

「ええい、こんちくしょうめぇ! これで「あん時」の借りはちゃらだかんねぇ!!」

 

 8号機は初号機の右腕を両手で掴むと、左脚を軸にその場で回転を始める。

 反時計回りにぐるぐると回転する8号機。その8号機の両手に右腕を握られている初号機の腰から上だけになってしまった体が、8号機を中心にぐるぐると回る。

 陸上競技のハンマー投げの要領で、初号機の体にたっぷりの遠心力を与えた8号機。

 

「ほ~ら、飛んでけ~~!」

 

 8号機が両手をぱっと離すと、初号機の体はあっという間に空の彼方へと飛んで行った。

 

 投げた初号機が夜空の星になったところで、本当の活動限界を迎えた8号機。膝ががくんと折れ、その場に跪く。

 8号機の背中に、無数の砲弾とミサイルが降り注いだ。

 

 

 

 



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(23)

 

 

 

 

 爆発によって全ての壁が吹き飛び、大変見通しがよくなったネルフ本部第7ケージ。2度に渡る地殻変動で本来近く深くに埋まっていた第7ケージは今や周囲の山々が見下ろせるほどの高さにまでせり上がっており、おまけに壁もないため、山城の物見櫓のごとく周辺の様子がよく見渡せた。

 

 第7ケージは対使徒戦において最も戦果を上げた機体の専用格納庫だったが、その主の姿はない。

 主の代わりに居たのは一人の男。大きな瓦礫の一つに腰掛け、下界の様子を眺めている男の背中に、冬月コウゾウは声を掛けた。

「この一大事を前に一人呑気に見物を決め込むか。優雅なものだな」

 碇ゲンドウは肩越しに冬月を見たが、すぐに視線を下界へと移す。下界では、幾つもの光の筋が飛び交い、あちこちで爆炎が上がっている。光の筋の幾つかは2人が居る巨大構造物の壁にまで辿り着き、轟音と共に床が大きく揺れ、階下から熱風が巻き上がってくるが、地上を見つめるゲンドウは瞬き一つしない。

 

「戦況は?」

 冬月に背を向けたまま訊ねる。

「そこからであれば良く見えるのではないか?」

「メガネがない…」

「は?」

「メガネを失った。よく見えん」

 どうやら我らが最高司令官は呑気に高見の見物を決め込んでいたわけではないようだ。

 

 立ち止まるということを知らない男。

 その碇ゲンドウを立往生させたのが、メガネの紛失という極めて素朴な理由だったことに苦笑を禁じ得ない冬月。口の端から漏れそうになる笑い声を噛み殺しながら、右手に携えていたアタッシュケースを床に置く。ケースの蓋を開けると、中にはケース一杯に敷き詰められた端末機。端末機のキーボードを叩くと、蓋の裏にあるディスプレイ上に様々な情報が映し出される。

「本部内に侵入した敵はほぼ排除した。地上戦も我々に優位に動いている。急ごしらえの自律型マーク4だったが、思いのほか使えるようだ」

「被害は?」

「弐号機を強奪された。幽閉していた第二の少女も行方不明だ。連中に殺されたか、あるいは連れ去られたと見るべきだろう」

「初号機は?」

 ゲンドウのその問いに、冬月は小さな溜息を前置きにして答える。

「追撃したマーク7は返り討ちにあったようだ…」

 肩越しに冬月を見るゲンドウ。その目が普段よりも細くなっているのは、メガネを失った目の焦点を合わせようとしているからか。それとも…。

 

 冬月は続ける。

「5分前に8号機から通信が入った」

「8号機だと…?」

「ああ。サードインパクト以来行方知れずだったあの8号機だ。強奪者はやはり…」

「奴は何と言ってきた?」

「初号機を確保した。今から我々のもとに連れてくるそうだ」

「そうか…」

 ゲンドウは短く答え、視線を地上へと戻す。冬月の目には、ゲンドウの背中がほっと胸でも撫で下ろしているようにも見えた。

 

 

 突如、地平線の彼方に眩いばかりの巨大な爆炎が上がった。

 視界のあらゆるものがぼやけてしまっているゲンドウの目にもその爆炎は飛び込んできて、再び目を細めてしまう。

「あれは我々の造兵廠の近くだな」

 冬月もただでさえ細い目をさらに細め、地平線に浮かぶ爆炎を見つめた。

「近海に敵大艦隊が展開していると聞く。連中による攻撃だろうが…」

 おそらく造兵廠を狙っての攻撃だろうが、それにしては的を外し過ぎている。冬月は端末機を操作し、画面に表示された地図を確認する。

「まずいな…」

 冬月の呟きに、ゲンドウは再び肩越しに冬月を見やる。

「あれは8号機が連絡を入れてきた場所だ…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 半径数キロメートルを無数の巨大な爆炎が埋め尽くす。

 衝撃波に抉られ、高温の炎に炙られた大地は瞬く間に蒸発させられていくが、蒸発を免れた岩石たちは爆風に乗ってまるで火山の噴石のように、方々へと飛び散っていく。

 

 その噴石たちに混じって。

 

 それは煙を引きながら爆風に乗って遠くへ遠くへと飛ばされていく。

 やがて重力に引かれ、少しずつ高度を落としていく。

 そしてある建物の真上に落下する。

 建物の天井を突き破り、幾層もの床を穿ち、そして建物の地下に広がる巨大な地下空間に到達したところで、それはようやく止まった。

 

 そこは夜空の星々や白い月の光も届かない、真っ暗闇の地下空間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 それはとある日のとある夜。

 

 この日も日がな一日巨人の体を遊具代わりに遊んですっかり遊び疲れた男の子。簡素なベッドの白いシーツの上で、夢の国へと身を委ねている。巨人も連日遊び盛りの男の子を相手にすっかり疲れているようで、ケージの壁に背を預けながら膝を抱えて顎を落とし、省エネルギーモードに入っている。

 住人2人(?)ともが寝入っているケージの中は明るかった。天井や壁に備え付けられた照明が、ケージの中を煌々と照らし出している。動くものはなく、明るさと静寂に満ちた空間は、夢の国に相応しく穏やかに時を刻んでいる。

 

 

 そのアナウンスは、天井にぶら下がったスピーカーから響いてきた。

 

『これより本館は計画停電に入ります。作業を継続される方は予備バッテリーに切り替えて下さい。繰り返します。これより本館は…』

 

 アナウンスから5分後。

 ケージ内の全ての照明が落とされた。

 真っ暗闇になるケージ内。

 

 

 巨人は、足もとから響く子供の泣き声によって省エネルギーモードから復帰した。

 しかし視覚センサーを起動させても、辺りは真っ暗。すぐに赤外線モードに切り替え、泣き声がする方向へとセンサーを、つまりは巨人の目を向ける。

 白と黒で表現される世界。音源はケージの中央に置かれたベッドの上。

 男の子がベッドの上に座り込み、口を大きく開けて泣いている。

 

 男の子は暗い場所では寝られない子だった。暗闇を、極端に嫌う性分だった。

 だから、男の子が寝ている時間もケージ内の全ての灯りは点けたままにしているのだが。

 

 何故か、ケージ内の全ての照明が消えている。

 

 巨人は、すぐに本部の電気制御システムに(不正)アクセスし、ケージ内の照明を点そうと試みるが、制御盤を(不正)操作してみても、一向に照明が点る気配はない。次に本部のメインサーバーに(不正)アクセスし、本部のスケジューラを閲覧してみると、『×月×日 22:00 本部内計画停電』の一文を見つけてしまった。

 ケージ内への電源供給そのものが断たれてしまっているらしいことに、愕然としてしまう巨人である。

 ベッドの上の男の子はひたすら泣いてばかり。

 オロオロするばかりの巨人は、ようやく巨人そのものに備え付けられた照明システムの存在を思い出し、頭部と胸部にある照明に光を灯してみた。

 

 真っ暗闇の中に、ぼわっと浮かぶ、鬼の面のような巨人の顔。

 それが余計に怖かったらしい。

 男の子は泣き止むどころか、悲鳴と泣き声が混ぜこぜになった声を上げて、巨人の顔から逃げるようにベッドの上をじたばたと這い、ついにはベッドから転がり落ちてしまう。床で頭を打ってしまったらしい男の子は、両手で額を押さえながら声を張り上げ、大粒の涙を流しながら泣き続けている。

 

 ひたすら狼狽するしかない巨人。両手を両頬に当てながら、どうしらいいのだろう、と助けを求める様に周囲をぐるぐると見渡す。

 

 その巨人の目に留まったもの。ケージの、薄汚れた壁。

 ケージの壁には、極太のケーブルが床から天井に向けて数本束になって這っていた。ケーブルが行き着く先を追って視線を上げていくと、そこは天井にぶら下がっている照明機器類。

 巨人はケーブルに向かって手を伸ばしケーブルの束を掴むと、ぶちぶちと壁から引き剥がす。ケーブルは強固なボルトでしっかりと固定されていたため、引き剥がされるケーブルと共に壁のコンクリートが剥がれ落ち、床に瓦礫の山が出来上がる。

 巨人はさらにケーブルの束を両手で掴むと、それを引き千切った。

 引き千切られたケーブルの絶縁体の下から覗く、電気を通すための伝導体。

 

 はたしてこれが最良の方法なのか。

 よく分からないが、とりあえず、千切られたケーブルの先を咥えてみた。

 

 

 あえて言えば、肺の中の空気を、咥えたパイプに吹き込むようなイメージ。

 「あの日」、巨人が「少女」と共に外部から取り込んだ半永久機関。

 その機関から生み出されるエネルギーを、咥えたケーブルに向けて流し込むように。

 

 するとたちまち咥えたケーブルから火花が舞い、ケーブルを中心に放電現象が生じる。巨人の内部から放出されたエネルギーは淡い光を放ちながらケーブルを伝っていき、真っ暗闇の天井の奥へと吸い込まれていった。

 その1秒後。

 天井にぶら下がる照明類が、一斉に光を輝かせる。

 照明から降り注ぐ人工の光が、広い広いケージの中を明るく満たしていく。

 

 

 明るくなった天井を見上げ、どこかホッとした様子の巨人。

 視線を足もとに投げる。

 足もとのベッドの側に座り込んでいる男の子。

 明るくなった天井を見上げ、きゃっきゃと手を叩いて喜んでいる。

 

 ようやく泣き止み、それどころかはしゃいでいる様子の男の子を満足そうに見下ろす巨人。心なしかその口角が上がり、生じた口の隙間から咥えていたケーブルが零れ落ちた。

 エネルギー源を失った照明類は、たちまち灯りを消してしまう。

 光を失ったケージ内はすぐに暗闇に。

 

 途端に、足もとがから沸き起こる男の子の泣き声。

 巨人は慌ててケーブルを咥え直した。

 一度目は要領が分からなかったため、慎重にそっとエネルギーを吹き込んでみた。

 2度目は慌てていたため、一気にエネルギーを吹き込んでしまった。

 

 

 

 

 この日の碇ゲンドウは珍しく早めの就寝に入っていた。

 息子とは反対に暗闇の中でないと寝れない性分のゲンドウ。就寝中はいかなる光も瞼を刺激することを許さない彼は、その目に厚いアイマスクを掛けて布団を被っている。そのため、全ての照明が落とされていたはずの寝室が、急に昼間の太陽の下のように明るくなってしまっても、不覚にも気付くことができなかった。

 

 ゲンドウが異変に気付いたのは、寝室の壁際に置かれた彼こだわりのオーディオ機器から突然、大音量でマーラーの交響曲第1番第4楽章が流れ始めた時だった。ヒステリックな管弦楽器の響きとシンバルの強烈な一撃から始まる、嵐のような楽章。ゲンドウがベッドから跳び起きるのも、無理からぬことである。

 漆黒の闇の中で鳴り響く大爆音のオーケストラ。ようやくアイマスクの存在を思い出したゲンドウは、アイマスクを頭から毟り取って床に投げつけたが、聴覚の次に視覚を強烈な人工の光に襲われ、思わず両目を手で押さえる。就寝前に一切を切っていたはずの照明が全て点き、寝室の中を明るく照らしていた。

 ベッド脇のチェストに置いていた色付きの丸渕メガネを取り上げ、顔に掛けると、今も大音量を垂れ流す壁際のオーディオ機器を睨み付ける。ベッドから降り、オーディオ機器に走り寄り、電源ボタンを押すが、何故かオーディオ機器は爆音を流し続ける。何度も電源ボタンを押すが、マーラーは寝室から去ってくれない。たまらず、ゲンドウはオーディオ機器のコンセントプラグを壁のソケットから引っこ抜いた。

 ようやくオーディオ機器の電源が落ち、寝室を彼好みの静寂が包み込む。

 すると今度はその静寂を、電話の呼び出し音が引き裂いた。

 ゲンドウは不快そうに頭に被っていたナイトキャップを床に投げ捨てると、ベッド脇のチェストに設置された電話機の受話器を取り上げる。

「碇だ…!」

 あからさまに不愉快さを纏ったゲンドウの怒鳴り声に、電話相手の若いオペレーターの声は震え上がっていた。

「緊急事態です。本部の送電網に大量のエネルギーが流れ込んでいます。すでに各所で過電流による火災が発生しています」

「外部からの攻撃か?」

 ゲンドウは通話をしながらオーディオ機器の隣のテーブルに置かれたディスプレイ付きの端末機を操作し始める。

「い、いいえ。エネルギーの発生源は本部内のようです。今現在、発生源の位置を特定中です」

「いや…」

「え?」

「いや。特定は必要ない」

「へ?」

 最高司令官の意外な指示に、オペレーターは間の抜けた返事をしてしまう。

「消火活動に専念しろ」

「はあ…」

「復唱は?」

「は、はい。全員消火活動に回ります!」

 

 ゲンドウは受話器を置くと、端末機のディスプレイに表示されたデータを睨む。

 多くの発電所を失い、ニア・サードインパクト以前の半分にも満たない電力供給しか受けられない現在のネルフ本部。しかし、報告にある送電網に流れる膨大なエネルギーは、僅か数分間でニア・サードインパクト以前の1月分の電力供給量に匹敵していた。

 本部内に在って、これだけのエネルギーを発生し得るもの。

 ゲンドウの頭の中には、一つしか思い浮かばなかった。

 

「レイめ…!」

 

 この日の昼食を強引に息子とを摂らされたことを思い出し、嘔気を催したゲンドウは慌てて口を抑えつつ、スリッパから革靴に履き替えて、ただし着ているものはボーダー柄の寝巻のままで、寝室の外へと飛び出した。

 ゲンドウの寝室は無駄に広い最高司令官執務室のすぐ隣だ。その広い割には普段は間接照明しか焚いていない薄暗い部屋は、全ての照明が付いていて、掃除の行き届いていない埃だらけの床がよく見えた。「掃除のおばちゃんめ、さぼりおって」と心の中で毒づきつつ、無駄に立派な扉を乱暴に開け放つ。節電のために半分以上は消している廊下の照明も全て付いており、使われていない部屋の自動扉がガシャコンガシャコン言いながら勝手に開閉を繰り返している。エレベーターやエスカレーターは超高速で昇降を繰り返しており、とても乗れたものではなかったため、仕方なく階段で目的の階まで駆け降りた。

 

 

 

 扉が激しい音と共に勢いよく開け放たれた。

 続けて。

 

「レイ!」

 

 あの人の怒鳴り声。

 

 ケーブルを咥えていた巨人は、まるで悪戯が見つかった子供のようにに、怒鳴り声がした方に背を向けてケージの隅っこに逃げ出した。そしてその場にしゃがみ込み、目の前の壁を見つめつつ、ケーブルを咥え続ける。

 

「レイ!」

 ゲンドウは怒鳴りながら巨人の背中の近くまで駆け寄った。

「レイ! 今すぐ止めなさい!」

 

 巨人は、おずおずと振り返り、肩越しに床の上の小さなゲンドウを見下ろす。

「止めなさいと言っている!」

 ゲンドウの怒鳴り声に、巨人はびくっと肩を震わせた。

 巨人はゲンドウの鋭い視線から逃げるように一度壁へと向き直ると、今度は逆方向に振り返る。

 巨人の視線の先には、ベッドの横の床に座りながら、とても明るい天井を見上げてきゃっきゃと笑い声を上げている男の子。

 巨人は再び壁に向き直り、そして振り返って、こちらを睨みつけているゲンドウの顔を見下ろす。

 

 巨人は、ケーブルを咥えながら、ゲンドウに向けて小刻みにふるふると頭を横に振った。

 

「レイ!!」

 ゲンドウの怒鳴り声が一際大きくなる。

 ついに巨人はゲンドウの呼びかけを無視し、壁の方を向いたまま振り向かなくなってしまった。その大きな口には相変わらずケーブルが咥えられていて、巨人の口からケーブルへ淡い光が伝い続けている。

「今度こそ、本当に怒るぞ!」

 巨人はゲンドウの怒鳴り声に背中をびくつかせながらも、口からケーブルを離そうとしない。

「レイ…!!」

 堪忍袋が底が抜けてしまったゲンドウは、つかつかと靴音を立てて巨人の足もとに歩み寄ろうとして。

 

「きゃっきゃ…!」

 

 ようやくベッドの側に座り込む男の子の存在に気付く。

 男の子は、煌びやかな明かりを灯す天井の照明を、まるで満天の星々を湛える夜空を仰ぐかのように、満面の笑顔で見上げている。

 

 

 沸騰していたゲンドウの頭が、急速に冷えていった。

 ゲンドウは、男の子の世話係をしていた女性技術者の言葉を思い出していた。

 曰く、あなたの息子は暗い部屋ではてんで寝付かない、と。

 折しも今日は計画停電の日。ようやく、巨人の迷惑極まりない行動の意図が読めたゲンドウだった。

 

 胸の中の怒りの渦を吐き出すように溜息を一つ入れ、両手を腰に当てる。

 改めて巨人の背中を見つめた。

 碇ならぬ怒りのゲンドウにびくついてる様子の大きな背中を。

 もう一度、ふ~と、溜息を吐く。

 

 

 

 背後から投げられ続けた怒鳴り声が止んだ。

 そして、つかつかと床を鳴らす足音。

 足音は、巨人から離れていっている。

 

 巨人はケーブルを咥えたまま、ゆっくりと後ろを振り返った。先ほど振り返った位置に、ゲンドウの姿はすでになかった。ゲンドウの姿を探すため、さらに首を捩じる。首を180度曲げて、視界の隅に入ってきたのは、男の子用のベッド。

 男の子用のベッドの上に、ゲンドウが腰掛けている。

 その腕に、男の子を抱きかかえて。

 

 無理に首を捩じってしまったため、首が痛くなってしまったらしい巨人は、一度、正面の壁へと向き直った。

 

 

 次の瞬間。

 

 巨人の首が物凄い勢いで捻じ曲がった。

 

 首を180度捩じり、巨人の目が見た先にあったもの。

 

 

 碇ゲンドウが。

 

 男の子を。

 

 我が子を。

 

 抱きかかえている。

 

 

 

 ゲンドウは極めて不愉快そうに眉根を歪ませながら、奥歯を噛み締めながら、腕の中の男の子をあやすように揺さぶってやっている。

 腕の中の男の子は最初こそぽかんとゲンドウの顔を見上げていたが、やがて好奇心を顔全体に滲ませて、その小さな手でゲンドウの頬をぺたぺたと触り始めた。ちくちくするゲンドウの剃り残しのある肌の感触が可笑しかったらしく、男の子はきゃっきゃと笑い声を上げながら、遠慮なしにゲンドウの頬をべたべたと撫で繰り回す。

 ゲンドウの額に青筋が浮かび、口の端からは激しい歯軋りの音が漏れていたが、その様が百面相のようで余計に可笑しかったらしい男の子はさらにゲンドウの顔を撫で回し、無我の境地に達したゲンドウは男の子の好きなようにさせていた。

 

 そしてジロリと、巨人を睨む。

「暫く私があやしている。だからお前は、垂れ流すエネルギーをせめて10分の1にしろ。でなければ、この施設はあと30分で灰塵と化す」

 

 ゲンドウが何か言っているが、それどころではない。

 あの碇ゲンドウが、子供を、我が子をあやしている。

 もしかしたら腹踊りをしている姿よりも貴重かも知れない、その碇ゲンドウの姿に、唖然としてしまった巨人。

 口がぱっくりと開き、ケーブルの端っこが歯の隙間から零れ落ちた。

 

 途端に、真っ暗闇になるケージ内。

 

「わああああああああああああん!!!」

 

 途端に、男の子の泣き叫ぶ声。

 

「おーよちよち。怖くないですよ~。お父たんがついてますよ~」

 

 暗闇のどこからか、聴く者の背筋を凍らせるようなオッサンの声が聴こえてくる。

 

「ぎゃああああああああああああ!!!」

 

 激しさを増す男の子の泣き叫ぶ声。

 

「くそっ! レイ! 光だ! もっと光を!」

 

 巨人は、慌ててケーブルを咥える。

 

 途端に、眩い光を解き放つ照明たち。光だけでなく、天井のあちこちで火花が散っている。

 

「ばかもん! やりすぎだ!」

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 

 その目から溢れるのは潤滑油か。それとも人工血液か。

 いずれにしろ生物でいう涙腺というものを備えていないエヴァンゲリオンに、涙を流すという機能はない。

 それでも、地面に大きな水溜まりを作るほどの大粒の液体をその目から滴らせているエヴァンゲリオン初号機のその姿を見た者が居たら、この巨人が涙を流して泣いていると思ったに違いない。もっとも、初号機のその姿を見ている者は誰も居ないが。

 

 

 巨人は夢を見ていた。

 

 夢から目覚め、そして涙を流していた。

 

 

 

 そこは地下深くに隠された空間。

 暗闇に包まれた地下空間。

 空高くから降ってきた初号機は、その地下空間の上にある建物の屋根を突き破り、全ての階層を突き抜けて、この広い広い地下空間にやってきた。

 地下空間の床で、ぐったりと倒れている初号機。胴体から生えているものは頭部と右腕のみ。その胴体も、腰から下を失っている。

 初号機の墜落によって様々なものが破壊され、あらゆるものが薙ぎ倒された地下空間。所々で破壊された機械類が散らせる火花が舞っているが、それ以外の光源はなく、ほぼ真っ暗闇。

 

 初号機は唯一残った四肢の右腕を地下空間の床に這わせる。

 砕けて薬指と小指しか残っていない右手。その指が、何かに触れた。

 その「何か」を震える薬指と小指で挟み、顔の近くまで寄せてみる。

 

 それは千切れたケーブルの先端だった。

 

 

 「彼女」は夢を見ていた。

 

 それは、「彼女」が見た初めての夢だった。

 

 その夢は、あるいは「彼女」にとって、一番幸せだった時の思い出だったのかも知れない。

 

 

 初号機は下顎を失った口で、そのケーブルの端っこを咥え込んだ。

 

 初号機の胸のひしゃげた装甲の隙間から見える大きな球体が、煌々と光り始める。

 

 咥えたケーブルの周辺に、放電現象。

 

 咥えたケーブルの中を、淡い光が伝っていく。

 

 

 

 



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(24)

 

 

 

 

「むっ」

 端末機のディスプレイを見ていた冬月コウゾウが唸った。

 

 メガネを失い、視界の全てがぼやけてしまっている碇ゲンドウ。瓦礫の上に腰を下ろしながら、ぼんやりと見える地平線の彼方。ネルフ所有の造兵廠がある場所の近くから立ち昇る大きな黒煙を眺めていたが、いい加減飽きてきたところに背後から唸り声が聴こえたため、肩越しに冬月を見やった。もっとも、視界がぼやけているため冬月の輪郭もぼんやりとしか見えないが。

「どうした?」

「造兵廠内に正体不明の高エネルギー反応を確認…」

 上官の問いに対し、冬月は端末機のディスプレイに表示されたデータを信じられないとでも言いたげな表情で見つめながら、彼にしては珍しいたどたどしい口調で返答した。

「造兵廠ではアレを建造中だったな」

「ああ…。まさか…!」

 冬月の細目が広がる。端末機から視線を起こし、地面に付いていた左膝を浮かせて立ち上がる。高くなった視線を、地平線の彼方にある造兵廠の方角へと投げた。

 

 そして目に飛び込んできたものを見て、唖然とする冬月である。

 

「どうした」

 ゲンドウは問う。

「なんてことだ…!」

 上官の問いを無視し、驚嘆の声ばかりを漏らす冬月。

「何があった」

 冬月が見ているらしい造兵廠が方角にゲンドウも顔を向けて目を凝らすも、ぼやけた視界では何も見えない。冬月に繰り返し説明を求めるが、冬月からは明確な返事が返ってこない。

「冬月」

 冬月からの返事はない。

 

「冬月!」

 

 ゲンドウの怒鳴り声に、地平線の彼方に見える光景に呆気に取られていた冬月はようやく我に返った。

 何度か目を瞬かせ、目に映るものが誤認や幻覚などではないことを確認し。

 そして彼はその名を呟いた。

 

「NHGヴーゼ…」

 

 ぼそりと呟く冬月の声は、すぐ側から聴こえた。

 地平線の彼方を裸眼で睨んでいたゲンドウの目が見開き、いつの間にか隣に立っていた冬月を見上げた。

「建造中の一番艦…。それがどうした?」

 

「ヴーゼが、空を飛んでいる…」

 その名を口にしてもなお、目に映る光景が未だに信じられないという口調で呟く冬月。

 

「なに?」

 ゲンドウはすぐに視線を造兵廠の方へと戻した。

 やはり視界はぼやけたままでよく見えないが、確かに地平線の上空に、巨大な影が浮かんでいるように見える。

 

「馬鹿な…。ヴーゼはまだ艤装途中の未完成だ…。搭載済みの反動推進型エンジンのみでは飛べるはずが……、まさか!」

 冬月はすぐに端末機の前に戻り、端末機を通じて造兵廠の中枢システムに繋げる。そして画面上に表示されたデータを見て、絶句してしまった。

 

 

 上空に浮かぶ巨大な艦影。

 左右にはためかせた大きな翼、竜を思わせる長大な尾翼、そして3つの頭部を備えた異形の戦艦。

 重力制御装置を稼働させているのか、艦体は大地に対して水平を保ったまま、大空に向かって垂直にぐんぐんと高度を増し始めている。

 

 その異形の姿に気付いたのは、巨大構造物に立つゲンドウと冬月の2人だけではなかったようだ。

 大地を爆炎で彩り、大気を轟音で震わせていた地上での砲撃戦が、ピタリと止んだのだ。

 

 おそらくこの地上に居る者。遥か彼方の海上に居る者。

 この場に集った者。

 この場で、殺し合いを演じている者。

 それら全てが、一斉に息を呑んだに違いない。

 大空に浮かぶ、異形の戦艦の姿に目を奪われたに違いない。

 

 周囲が、不気味なほどの静寂に包まれた中で。

 

 

「はっはっはっはっは!」

 

 

 静寂を打ち破るように、その笑い声は響いた。

 

 突如近くから湧いた笑い声。

 端末機の画面を見たまま固まってしまっていた冬月は、笑い声の発生源に顔を向ける。

 そして再び固まってしまった。

 

 冬月の視線の先。

 一人の男の背中。

 

 碇ゲンドウが笑っている。

 肩を揺らして、笑っている。

 

「はっはっはっはっは!」

 

 膝を叩いて笑っている。

 

 赤木リツコの造反から始まった今宵。想定外のことが次から次へと起こっているが、これはもしかしたら極めつけかも知れない。

 

 あの碇ゲンドウが、大声を上げて笑っている。

 

「くっくっく…。ふ、冬月…」

 慣れない馬鹿笑いをして頭が痛くなってしまったのか。ゲンドウは手で額を押さえながら、笑い声を噛み殺しつつ、震えた声で腹心の名を呼んだ。

「な、なんだ…」

 見えてはいけないものを見てしまったのかもしれないと、ここに来たことを後悔し始めている冬月もまた、震えた声で返事をする。

「ヴーゼには初号機が…」

 そこまで言って、ゲンドウは一度首を横に振り、言い直す。

 

「レイが乗っていたか?」

 

 その問いに、冬月は今一度端末機の画面に表示されたデータを確認して答える。

「ああ…」

 未だ、この事実を認めたくはないという口ぶりで。 

 

「ふむ…。くっくっく…」

 事実を確認したゲンドウ。こみ上げてくる笑いを、必死の努力で押し殺そうとしている。

 

 想定外過ぎる出来事に凍ってしまっていた冬月の思考が、ようやく仕事をし始めた。その思考が、冬月に対して事態の深刻さを懸命に訴えかけてくる。

「笑い事ではないぞ! 弐号機を強奪されたのとはわけが違う! ヴーゼは補完計画の要中の要だ!」

 珍しく声を荒げる冬月に対して、ゲンドウから返ってきた声は彼にしては珍しく穏やかなものだった。

「叛乱分子に破壊されるよりは良いだろう。そう目くじらを立てるな、冬月」

 この緊急事態を前に妙に落ち着き払っているゲンドウの横顔を見て、冬月はそれ以上何かを言う気が失せてしまった。

 

 

 ゲンドウは腰を掛けていた瓦礫の上からゆっくりと立ち上がる。

 東の空が明るくなり始めている。白み始めた空を背に浮かぶ巨大な艦影は、視界がぼやけてしまっているゲンドウの目からもしっかりと見えるようになった。

 

 白み始めた空の色を反射してピンク色に染まる海。その海上に展開する大艦隊から無数の光の筋が立ち昇り、上空に浮かぶ巨大な戦艦へと襲い掛かっていく。その光の筋の多くは、空に浮かぶ戦艦が張り巡らせる光の壁によって弾き飛ばされているが、しかしその内の何本かは特殊な弾頭なのだろう。飛行戦艦が張り巡らせる光の壁を突き抜け、船底に到達するが、しかしあまりにも巨大過ぎるその飛行戦艦を前に旧時代の艦砲射撃の威力は豆鉄砲に等しく、飛行戦艦を小ゆるぎもさせない。

 

 

 ぐんぐん高度を上げていく飛行戦艦。

 まるで3つ首の竜のような、あるいは翼を背負わされた鯨のような姿のその戦艦は、少しずつ艦首を上へ、艦尾を下へと傾けていく。

 

 地上にあるもの全てに背を向け、艦首の先にある何処までも続く大空だけを見つめながら。

 

 

「レイ…」

 ゲンドウは遥か彼方の戦艦に向かって呼び掛けた。

 

「私の夢は、もはやお前の夢ではないのだな…」

 

 目は細めたまま、少しだけ口角を上げた顔で漏らしたゲンドウの声は、どこか寂し気だった。

 

 地上に対して完全に垂直の姿勢となった戦艦。艦尾に備えられた巨大なノズルに、火が点った。

「お前の好きにするがいい。初号機も、ヴーゼも、そしてシンジも…、しばしお前の手に委ねよう…」

 ノズルから大量の煙を吐き出す戦艦。その爆音と衝撃が、遠く離れたゲンドウたちの居る場所まで届く。

 

 

 天空へと漕ぎ出し始めた巨大な艦影。

 地上へ引き留めようとする重力という名の束縛に抗い、人の心を縛り付ける絆という名の束縛を断ち切り、膨大な量の推進剤を燃焼させて全ての束縛を振り払い、上昇していく。

 「彼」と「彼女」を乗せた2人のためだけの箱舟は、大量の噴射煙で描いた軌跡を大空に残しながら、星が瞬く濃紺の宇宙へと吸い込まれていった。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 赤い大地に突き刺さった円筒形の柱。

 その周囲には液体が広がり、柱の上部には穴が開いている。その穴から、ひょっこりと顔を出した少女。軽い身のこなしで、ひょいっと穴から地上へと飛び降りる。しかし、

「あいて!」

 足を踏み外し、地面に尻餅を付いてしまった。着地の拍子にずれてしまった、ひび割れたメガネを掛け直す。

「あ~あ。ほんに酷い目に遭っちゃったにゃ~」

 額から滴る血。おかしな方向に曲がった左肘。首筋に浮かぶ、歯型のような痕。

「それにしても…」

 お尻を擦りながら腰を上げ、空を見上げた。

 下半分は乳白色。上半分は濃紺色に染まった空。

 その空を突き抜けるように描かれた、噴射煙の軌跡。

「本当に翼広げて空の彼方まで飛んでちゃったね~。いや~大したやっちゃ」

 

 おかしな方向に曲がった左肘を右手で抱えながら、まもなく新しい一日を迎えようとしている空を見上げている少女。

 その少女の背後に、数人の人影が立つ。人影のそれぞれの手には銃器。

 

「真希波マリ・イラストリアス…さんね?」

 呼ばれた少女は、背中まで伸びる髪をなびかせながら、軽い足取りでくるりと振り返る。

「はいは~い。呼んだかにゃ~?」

 振り返ると、そこには赤いジャケットを羽織った女性が立っていた。

「私たちは反ゼーレ・ネルフ組織の者よ。真希波マリさん。元ユーロネルフ所属のエヴァンゲリオンパイロット。私たちはあなたを拘束します」

「あたしに拒否する権利はあるのかしらん?」

 おちゃらけた顔で訊ねるマリに対し、女性は疲れ切った顔で短く答える。

「ありません」

 女性が銃器を携えた部下たちに目配せすると、真希波マリはあっという間に彼らに囲まれてしまった。

「あちゃ~。今日は本当に散々な日だにゃ~」

「ええ。お互いにね」

 マリのおどけた調子の声に対し、赤いジャケットの女性の声は終始重苦しいままだった。

 赤いジャケットの女性の背後の空には、4機の大型VTOL機。4機のVTOLによって空中に吊り下げられた、全身黒焦げで手足のない8号機の痛ましい姿は、まるで磔にされた罪びとのようだった。

 

 複数の銃器に背中を狙われながら連行されるマリ。

 赤いジャケットの女性は、大地に刺さったエントリープラグ越しに見える、宇宙へと向かう一筋の噴射煙を見上げた。

 大空を右と左に引き裂くようなその軌跡を厳しい眼差しで見つめる。

 二の腕に縛っていた青い布を剥ぎ取り、ジャケットのポケットに入れると、西の空に背を向け、部下たちの後を追って歩き始めた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 暁の空を切り裂くように縦に突き抜ける一筋の雲は、上空の気流に揉まれ、少しずつ乳白色の空へと溶け始めている。

 銀髪の少年は消えゆく一筋の雲に、広げた手を伸ばしてみた。

「僕の、手の届かないところに行ってしまったね」

 空へと掲げた手を何度か開閉させ、虚空を握っては手放し、握っては手放す。

「でも、待つことには馴れている。また会えると信じているよ。碇シンジくん」

 天へと伸ばしていた手を下ろし、作業着の上着のポケットの中へと収めた。

「その時、僕は君を幸せにするために、あらゆる努力を尽くすつもりだ」

 東の地平線から日の出が顔を覗かせ始めた。強烈な陽の光に視覚を襲われ、少年は目を細める。

「それまでは…、綾波レイ…。碇シンジくんのことを頼んだよ…」

 

 視線を下に下げた。

「それにしても…、あ~あ。せっかくここまで育ったのにな」

 心底がっかりしたように呟く少年。

 彼の足もとに広がるのは、方々に蔓と葉っぱが伸びたスイカ畑。

「リリン同士で殺し合うのは勝手だけど、もう少し離れた場所でやってはくれないだろうか」

 どこからか飛んできた大量のコンクリート片が畑のあちこちに落下しており、熟れる前の小ぶりの実を無残にもかち割っている。

 その一つを拾い上げた。厚い皮が砕け、赤い中身が外に漏れ出てしまった実。彼にしては珍しく心底悲しそうな顔をする。

「リョウちゃん。結局今年も、スイカの収穫はお預けのようだ」

 実を遠くへ投げると、作業着のポケットから取り出した軍手を両手にはめた。その場にしゃがみ込み、散らばったコンクリート片を一つ一つ丁寧に拾い上げ、ゴミ袋の中に入れていく。

 

 

 

 こちらを見つめる視線を感じ、地面に向けていた顔を上げる。

 作業に没頭してしまっていたようで、気が付けば太陽は高い位置まで昇り、頭上には青空が広がっていた。

「やあ、君か」

 スイカ畑の端っこに立っている人影に声を掛ける。

「もう任務はいいのかい?」

 人影は頷く。

「戦争は終わったのかい?」

 人影は頷く。

「もしかして、僕を手伝いにきてくれたのかな?」

 麦わら帽子に作業着という万全の格好をした人影は頷く。

 少年はにっこりと笑った。

「ありがとう。じゃあ僕と一緒に、畑に落ちてしまった石っころを拾って集めてくれるかな」

 頷いた人影は、ほっそりとした足を前後に動かし、トテトテと少年のもとまで駆け寄る。

「はい。ちゃんと軍手して。手を切らないようにね」

 少年から軍手とゴミ袋を受け取った人影はその場にしゃがみ込み、あちこちに散らばるコンクリート片を拾い始める。

 その背中を微笑みながら見つめる少年。

 

「いつもありがとう。サンク」

 

 振り返った空色髪の少女は、「気にしないで」とばかりにふるふると頭を横に振った。

 

 

 

 

 

 

 

 

1-3.夢の終わり 《終》

 

 

 

 



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1-4. 祭りの後
(25)


 

 

 

 

 必要最低限の照明しかない薄暗い地下壕の中。地下水が染み出る壁に天井、溝鼠が這いまわる汚物塗れの床、密閉された空間に充満するあらゆるものが腐った臭い。

 そんな地下壕の闇の中に浮かぶのは、四角に縁どられたモニターの映像。モニターが置かれたテーブルの前の椅子には一人の女性。モニターの中の映像にも、一人の女性。

 モニターの中の女性は硬い声で淡々と言う。

 

『ゼロアワーは二二〇〇時とします。その15分前に館内セキュリティを全てオフにするので、あなたたちは西5番搬入路より進入した後、待機していた先導役に従ってそこでそれぞれ、一つ、シグマユニット第1実験棟、一つ、プリブノーボックス第9使徒隔離棟、一つ、エヴァンゲリオン初号機専用ケージ、一つ、エヴァンゲリオン弐号機封印柩。以上4つの目標物に向かってください。我々はゼロアワーと共にネルフ総司令官碇ゲンドウ、副司令官冬月コウゾウを拘束します』

 

 モニターの前の女性は厳しい声で言う。

「あの碇ゲンドウと冬月コウゾウの同時拘束。そんなことが現実に可能なのかしら」

 

『当日の実験の内容からみて、2人は必ず第1実験棟モニター室に姿を現します。当日の実験は私の責任下で行われますので、実験棟内の人員配置も私の意向が反映されます』

「なるほどね。あなたが立てた作戦計画案。悪くないけれど、でも、私たちはこの作戦を実行するに躊躇せざるを得ない、大きな懸念材料を抱えている」

『それは何かしら? 葛城大佐』

「赤木リツコ。私たちはあなたを信用していいものかどうか、ということよ」

 

 モニターの中の女性、赤木リツコは溜息を吐く。

『確かに私はリョウちゃんの誘いを蹴って、ネルフに残った身よ。今さらの宗旨替えし、疑われても当然ね』

「本作戦は元国連軍も加わる大規模な軍事行動よ。一人の裏切り者の存在で人類に残された最後の抗体を失う訳にはいかない」

『私のことを信用する必要はないわ。でも彼のことならば、きっとあなたは信用することができるはず』

「彼?」

『紹介するわ。この計画案を一緒に作成してくれた人よ』

 モニターの中に、1人の男性が姿を現した。

『どうもこんにちは。いや、そっちはこんばんわ、かな?』

 モニターの前の女性、葛城ミサトは、見知らぬ男性の登場に一瞬きょとんとした顔をする。

 しかし、男性の顔をよくよく観察してみて、その顔に浮かぶ面影を感じ取り。

「あなた、もしかして…」

『あっ、分かりました? 初めまして、葛城さん。じゃなかった、大佐』

「え、ええ。初めまして」

『ちなみに彼は第9使徒隔離棟への先導役でもあるわ。つまり、当日は葛城大佐。あなたをアスカのもとまで道案内してくれるのよ』

「そうなの…」

『特に彼は保安課勤めだから武器の扱いにも慣れてるわ。現場では心強い味方になってくれるはずよ』

 男性は苦笑いしながら頭を掻く。

『いやいや。実戦経験はありませんから、あまり期待しないで下さいね』

「あなた…」

 モニターの男性の顔を見つめるミサトの口から、少しだけ厳しい声が飛ぶ。

『はい?』

「あなたの家族は…、このことを知ってるの…?」

 ミサトの問いに、男性は頭を掻いていた腕を下ろすと、背筋をぴんと伸ばし、砕けていた顔を引き締めた。

『いえ、伝えていません。そもそも、家族とはもうずっと会えてませんからね』

「そう…。そうだったわね…」

 神妙な面持ちになってしまったミサトに、男性は再び砕けた表情を浮かべる。

『家族は元気にしてますか?』

 その問いに、ミサトは微笑みながら答えた。

「ええ。難民キャンプ住まいだけど。逞しくやってるわ」

『そうか。そりゃ良かった。作戦が成功して、無事に帰ることができたら、家族に会えますね』

「ええ、そうね」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 けたたましい発砲音が鳴り響く廊下を、数人の集団が走っている。

 集団の後方には重機関銃で武装した屋内型多脚式歩行戦車。

 その重機関銃が火を吹き、集団の足もとの床に大量の土煙を立ち昇らせる。

 対戦車用携帯型ロケットランチャーを抱えた一人が振り返り、多脚式歩行戦車に向けて構える。彼が床に膝を折った瞬間、彼の体は無数の銃弾によって引き裂かれた。

「ちっ!」

 葛城ミサトはすぐ側で爆ぜた味方の血を全身に浴びながらも自ら飛び出ると、もはや人間の形を留めていないものが転がっている床の上のロケットランチャーを毟り取り、歩行戦車に向けて構えた。狙いもそこそこに引き金を引くと、轟音と共にロケットランチャーから成形炸薬弾が飛び出す。たちまち、歩行戦車を火だるまとなった。

 

「無茶をしないで下さい、大佐」

 部下の一人が床に膝を付き、肩で息をしているミサトに手を差し伸べる。しかしミサトは差し伸べられた手を握ることなく立ち上がり、代わりに肩に抱えていたロケットランチャーを部下に投げ渡しながら言った。

「私の代わりなんていくらでもいるわ。でもその子の代わりはいない」

 ミサトの視線が、集団の中央にいる2人。2人が抱える担架の上に寝かされた人物へと向けられる。

「エヴァを動かせる私たちのパイロットは今、その子しか居ないのよ。第4班は隊の大半を犠牲にして弐号機を確保したわ。私たちはたとえ全滅したとしても彼女を、式波アスカ・ラングレーを地上へと連れ出さなければならない」

 

 担架の上の人物。濡れた緋色の髪を、乏しい廊下の照明で艶やかに照らした少女。長期に渡って彼女を閉じ込めていた封印柩から出されたばかりの彼女の肉体はまだ昏睡したままであり、彼女の口に当てられた酸素吸入器のボンベを抱えた看護資格を持つ女性隊員が、常に少女のバイタルを確認している。

 

 担架の上の少女を見つめる部下は、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「搬送中に覚醒しなければよいのですが…」

 その部下の発言に、ミサトは小さく頷いて同意した。

「第9の使徒による侵食の影響は未だ不明。精神汚染の可能性も否定し切れない。目覚めた瞬間、自我崩壊なんてことも十分考えられるわ。でも…」

 不安を色濃く浮かべる部下の肩を、ポンと叩く。

「先ほどの爆発。予定より随分早いけれど、あれは元国連軍への合図よ。もう間もなく、彼らによるネルフ本部への総攻撃が始まるわ。とりあえず、今はさっさと彼女を連れ出して、上で待機している隔離対策班に引き渡しましょう。彼女が抱えるリスクについてあれこれ考えるのはそれからよ」

「はい」

 

「大佐。こっちです」

 廊下の分岐で先導役の男性が右の廊下へと進む。

 ミサトは足を止め、先導役が行く方向とは反対の、左側の廊下の奥を見つめる。

「待って。脱出口の東12番搬入路はこっちの方が近いんじゃないの?」

「ええ。そっちはL結界密度の高さが基準値を大幅に超えていて、防護服なしではとても通れたものじゃないんです」

「そう。仕方ないわね」

 ミサトは肩を竦め、すでに走り始めている先導役の背中を追い掛けた。

 

 

 次々と現れる分岐を、先導役の男の案内に従って走り続ける。あれほどしつこかった敵の歩行型戦車の追撃は途絶えた。他の部隊は敵の自律型警備網の妨害に遭い、多大な犠牲が出ているという報告が入ってる。ミサト隷下の部隊も損耗は避けられず、すでに半数が犠牲となっているが、重武装の歩行型戦車の追撃を受けた事を考えれば、むしろ損害は軽微だ。

 そして今、自分たちが走っている場所。次々と現れる分岐。迷いなく道順を選択していく先導役。

 

 この場所で戦術作戦課のトップとして勤務していた当時でさえ、その複雑な内部構造を把握し切ることはできなかった。あれから長い年月が経ち記憶も風化し、おまけに直下で起きた2度の地殻変動であちこちが破壊され、あちこちを補修されていて、ミサトが居た頃に比べれてその内部は様変わりしていた。

 もはや、我々はこの場所の住人ではない。目的に辿り着くまでの安全な道順など知らないから、ならば今もこの場所を住処としている先導役の案内に従うしかない。

 

 ひたすら先導役の背中を追いかけた。すでに、ミサトの頭の中のナビゲーションシステムは機能停止している。先導役に案内されるままに、走っている。もはや、自分たちが走っている場所が何処なのかも分からない。

 此処は一体何処だ。

 

 この廊下は、この階段は、一体何処に繋がっている。

 

 我々は、一体何処に向かわされているのだろう。

 

 我々は、本当に東12番搬入路に、向かっているのだろうか。

 

 

 ミサトの心の中で、疑念が産声を上げ、形を成し始めた時。

 

 腰にぶら下げていた小型通信端末機から呼び出し音が鳴った。ミサトは走りながら、通信端末機を手に取り、顔に近付ける。

「チームアルファ」

『こちらチームベータ01。この通信を聴いているのはあなただけですか?』

 押し殺した声で訊ねてくる通信相手。ミサトは部下たちに対して止まれの合図を出す。全員が足を止め、肩で息をしながら彼らの指揮官を見つめた。

「2分休憩」

 部下たちにそう告げたミサトは彼らに背を向け、数歩ほど離れて、小声で通信相手との会話を再開する。

「チームベータ。状況は」

『チームベータは対象の確保に失敗。俺を除いて全滅です』

「全滅!? 」

 咄嗟に大声を出してしまい、部下たちの視線を背中に感じたミサトは慌てて声を押し殺す。

「リツ…、協力者の安否は?」

『分かりません。首尾よく脱出したと願うばかりです。それよりもコマンダー』

「なに?」

『対象の会話を傍受しました』

 通信相手の声が、一段と低くなった。

 

『気をつけて下さい。裏切者がいる』

 

「うらぎりもの…」

 まるでその6文字を生まれて初めて耳にしたでも言いたげな声で復唱するミサト。

 

『はい。奴はあなたの身柄を敵に差し出すつもりです』

 

 

 ミサトは顔に当てていた通信端末機を下ろす。

 右手をベルトのホルスターに差している拳銃に伸ばし、そっと抜いた。

 右手で銃把を握り、音を立てないようにそっとスライダーを引き、左手で銃床を支える。

 頭の中に、自分の背後にいる部下たちの、最後に見た立ち位置を思い描く。

 

 奴は。

 

 そう、奴は。 

 

 奴は、床に下ろされた担架の側に居た。

 

 

 親指で安全装置を外し、人差し指を引き金に掛け、振り返る。

 

 

 立て続けに3発の発砲音。

 

 それらは、ミサトが構えた拳銃が轟かせたものではなかった。

 

「動くな!」

 

 3発の発砲音。そしてドサ、ドサ、ドサと、3つの床に何かが倒れる音。それに続く、怒鳴り声。

 

 ミサトが振り返った時、担架の運び手だった2人の部下が側頭部を撃ち抜かれ、酸素ボンベを抱えていた女性隊員は胸を撃ち抜かれて床に倒れていた。

 

 

 担架の側に立ち、拳銃を握り締めている男。

 先導役の男は、硝煙が立ち昇る拳銃の銃口を、担架の上で眠っている少女の額に向けている。

 

「動けば彼女を撃ちます」

 

 ミサトは構えた拳銃を男に向けている。

「葛城大佐。銃を下ろしてください」

 瞬時に3人の仲間を屠った男は、落ち着き払った声でミサトに警告する。対峙するミサトは未だに男の裏切りが信じられないと、見開いた目で男を見つめている。

「なぜ…。どうしてあなたが…」

 当然の疑問を口にするミサトに対し、男は質問の意味が分からないとばかりに首を傾げた。

「なぜ? あなた方こそ、一体何をしてるんです?」

「何を…って」

 今度はミサトが質問の意味が分からないとばかりに声を詰まらせる番だった。

「ニア・サードインパクトにサードインパクト。2つの地獄の釜が開き、世界の人口は最盛期の10分の1にも満たないというのに。あなた方は今日のこの戦いにおいて、さらに大きな地獄の釜を開けようとしている。残りの10分の1同士が争い、殺し合うという悲惨極まりない地獄の釜を。バカみたいだと思いませんか?」

 この戦いの正当性を問われたミサトは相手を睨み付けながら反論する。

「それでもネルフとゼーレの計画を阻止しなければ、残り10分の1全てが地上から消滅し、この世界は破滅してしまうのよ。私はゼロかプラスか、どちらかを選べと言われたら、たとえそれがどんなに血塗られたものであったとしても、迷わずプラスを選ぶわ」

 男はミサトの主張に対し、冷笑で応じた。

「あなた方が組織を立ち上げるうえで広く流布させたその風聞は欺瞞に満ちています。俺たちは消滅する訳じゃない。浄化された新しい世界で生きていける、新しい生命体に生まれ変わるだけだ」

「たとえ新しい生命体とやらに生まれ変わったとしても、それはもはやあなたじゃないわ。それは私たちにとって、消滅、死と同義のはずよ」

「それでもこんな先のない世界で、常に死の恐怖に怯えながら生き続けるよりはずっといい。汚染された水を啜り、腐った肉を食らい、溝鼠に指を齧られ、夜露に体を凍らせ、目覚める度に隣で誰かが死んでいる。こんな地獄のような世界。俺は、自分の家族に。息子にこれ以上の苦しみを味わわせたくないだけだ」

 ミサトは男に拳銃を向けたまま、首を横に振る。

「自分の子供の幸せのために、その死を願うの…? そんなの間違ってる…」

 男もまた、担架の上の少女に拳銃を向けたまま、首を横に振る。

 

「葛城大佐。あなたに子供はいますか?」

 

 男の問いに対し、ミサトはほんの僅かばかりの躊躇いを挟んで答えた。

 

「…居ないわ」

 

 男は再び冷笑する。

 

「だったらあなたに俺の気持ちは分かるまい…」

 

 

 先導役の男は床に跪くと担架に乗った少女の額に銃口を押し付けつつ、声を張り上げた。

「さあ、武器を捨てなさい。お前たちも!」

 

 ミサトは歯噛みするが、先ほど自分が部下に対して言った言葉は今も有効だ。この場において、何よりも優先するべきはエヴァパイロットの生命。

 ミサトは先導役の男を狙っていた拳銃をゆっくりと下げた。そして、男の足もとに向けて、拳銃を投げる。

「大佐…!」

 生き残った3人の部下が、上官の行動に目を丸くする。

「従って…」

「ですが…!」

「命令よ…!」

 上官の命令に、3人は手にしていた銃器を捨てざるを得ない。ガン、ガン、ガン、と3つの鉄と合成樹脂の塊が床に落ちる音が鳴り響く。

 全員が武装解除に応じたことを確認した男は、拳銃の狙う先をミサトらに変更しつつ立ち上がる。

「両手を頭の後ろに。その場に腹這いになるんだ」

 ミサトも、その部下の3人も、男の指示されるままに、その場に跪き、床へと伏せる。 

 

 ミサトが目の前にある汚れた床を睨み付けながら、この事態を打開するための策を懸命に頭の中で巡らせていた時。

 

 3つの乾いた銃声が立て続けに鳴り響いた。

 ミサトは床から顔を浮かせ、隣に視線を投げる。そこでは、床に腹ばいになっている部下の一人が、後頭部から口にかけてまるで花びらのようにぱっくりと大きな穴を開け、床に大量の血を広げながら絶命していた。

 銃声は全部で3発。おそらく残りの2人も。

 

「あなた…! なんてこと…!」

 ミサトの悲鳴にも似た叫びに対し、男は涼やかな声で言った。

「大佐。あなたの所為です。あなたがこんな戦いを望まなければ、彼らは死なずに済んだ」

 男の声が移動している。

「俺も、この手で人を殺めずに済んだ」

 いつの間にか、男はミサトの頭部のすぐ側に立っていた。男はミサトの側で跪き、拳銃の銃口をミサトの頭頂部へと突き付ける。顔面を床に押し付けられたミサトは、床の上に散らばるコンクリート片の砂を噛み締めた。

「大佐。あなたの命までは奪いません。あなたの身柄はネルフに引き渡すことになっていますから。幽閉された先で、あなたの父の罪に対する贖罪と、あなたの夫の復讐のために。そんな己の欲望を満たすために大勢を死地に追いやったあなたの所業を、存分に悔いることです」

 ミサトは喉の奥で唸りながら男の顔を睨み付けようとするが、顔面を床に押し付けられたままなので、視界には男の黒い革靴しか入らない。噛み締めた唇から、血が滴った。

 ミサトの歯軋りの音が、男の耳にまで届く。一向に闘志の衰えないミサトの様子を受けて。

「ふむ。足くらいは撃っておいた方がいいか」

 男は腰を浮かせると、床に腹這いになっているミサトから少し離れ、拳銃の狙う先をミサトの足の方へと向ける。

 

 頭頂部に突き付けられていた拳銃の感触が消え、ミサトは少しだけ顔を上げた。

 立ち上がった男が、自分の足に向けて拳銃の狙いを定めている。

 ミサトは呻くように呟いた。

「ダメよ…」

 

 男はゆっくりと首を横に振る。

 

「あなたは油断ならない人です」

 

 ミサトは必死に首を横に振る。

 

「やめて…。やめなさい…!」

 

「多少痛むでしょうが、我慢して下さい」

 

「やめて!」

 

「往生際が悪いですよ。大佐」

 

「ダメよ! あなたはそんな事しちゃだめ!」

 

「何をそんな…」

 ミサトの足に拳銃の狙いを定めていた男。視線を、足もとにあるミサトの頭へと移す。床から顔を浮かせ、必死に訴え続けているミサト。

 

 そのミサトの目は、男を見ていない。

 

 男の背後を見ている。

 

 男は振り返った。

 

 

「ダメよ! アスカ!」

 

 

 振り返った瞬間、3発の銃声と共に、男の胸に3つの穴が開いた。

 男は貫かれた胸と背中から鮮血を迸らせ、肺から喉を通って逆流した血を口から盛大に噴き出しながら、大きな音を立てて床に倒れ込む。

 

 

 担架から上半身を起こした少女。

 毛布がはだけ、その下の裸身を外に晒しながら、両手に握って構えているのは、ミサトが投棄した拳銃。銃口から立ち昇る硝煙。その硝煙の隙間から覗く、少女の見開かれた蒼い双眸。

 その見開かれた目が、ゆっくりと閉じられていく。ピンと伸ばされていた、拳銃を構えた腕が、少しずつ下がっていく。

 上半身が大きく右へと揺れ。

 

「アスカ!」

 

 ミサトは男の死体を踏み越えて担架の側まで駆け寄り、床へと倒れていく少女の体を抱き留めた。

 

 

 

 



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(26)

 

 

 

 式波アスカ・ラングレーは白い病衣を着せられ、車いすに座らせられていた。

 彼女の目の前には、簡素なパイプ椅子に座る白衣を着た赤木リツコ。アスカの2つの蒼い瞳にペンライトの光を当て瞳孔の広がりを確認したり、舌圧子を口の中に突っ込んで口の奥を覗き込んだりして、アスカの体を調べている。

 2人が居るのは病院の診察室や研究施設の隔離室などといった、御大層な設備が揃った場所ではない。屋外に立てられたくたびれた天幕の下だ。

 アスカのこめかみや胸部に貼られた電極パットが繋がっている機器から、様々な数値が印字された記録紙が吐き出される。リツコはその紙に記された情報に視線を這わせながら口を開いた。

「気分の悪いところは」

「ちょっと頭がぼんやりしてる」

 その言葉の通り、アスカは少しぼんやりとした口調で答えた。

 

 その後も繰り返されるリツコの問診に、やはりぼんやりとした口調で答えるアスカ。その視線が目の前のリツコから外れ、天幕の入り口から覗く外の風景へと向けられる。

 天幕の外は慌ただしいようだ。天幕の入り口によって長方形に縁どられた世界の中を、何人もの人々が引っ切り無しに行き交っている。聴覚もまだぼんやりとしているアスカの耳には、外の喧騒までは入ってこない。

 

 

 右に左にと、銃器で武装した人、作業着姿で大きな荷物を抱えた人、大怪我を負って担架で運ばれていく人。

 様々な人々が立ち止まらずに行き来している中で。

 

 その2人だけは、その場から動かずに対峙している。

 

 

 一人はアスカの上官であり同居人であった葛城ミサト。腕組みして立つミサトは、彼女の前に立つ少年に向かって何かを話している。

 話が進んでいく内に、少年の顔が遠く離れたアスカの位置から見ても分かる程に、悲痛に歪んでいく。少年は1歩、2歩と後ずさりし、膝が震え、ついには足腰が砕け、その場に崩れ落ちてしまう。

 ミサトは少年の側に跪き、少年の肩に手を置く。泣き崩れてしまった少年に対し、何かしら優しい言葉を掛けてやっているのだろう。少年は止めどなく溢れる涙を両手で拭いながら、ミサトの言葉に対して必死に頷いている。

 

 

 アスカのぼんやりとした視線が遠くに投げられていたことに気付いたリツコ。その視線を追うと、天幕の入り口に行き付く。入り口の外では、泣き崩れている少年と、そんな彼を慰めているミサトの姿。

「彼…、どうしたの…?」

 ぼんやりとした口調のアスカの問い掛けに対し。

「あの子の親が死んだのよ…。ミサトも辛いわね」

 まるで世間話でもするかのような、緩急のない声音で答えるリツコ。

 アスカは、すでに手元の書類に視線を戻しているリツコの顔を見る。

「死んだ…って…」

 そして再び、入り口の外で泣き崩れている少年を見つめた。

 

「あたしが殺した相手…?」

 

 そのアスカの言葉にリツコははっとし、立ち上がると天幕の入り口まで足早に歩み寄り、カーテンを下ろして外が見えないようにしてしまった。

 その慌ただしい態度が、アスカの問いに対する答えとなったことに、リツコ自身は気付いていない。

「あなたが気にするようなことじゃないわ。それよりも頭痛は? 視界が狭くなるようなことはない?」

「うん。大丈夫…」

 

 

 リツコによる問診が続く間に、天幕のカーテンが上がり、葛城ミサトが入ってきた。

「やっ。アスカ。気分はどう?」

 まるで慣れ親しんだ、例えば家族に対してするかのように、軽い口調で挨拶するミサト。

「何だか変な気分。ずっと眠っていたような感じ」

 そのアスカの言葉に、ミサトもリツコもお互いを見合って、肩を竦める。

「おまけに目が覚めたらいきなりド修羅場だしさ。もう訳わかんない」

 そう呟きながら、アスカは膝の上に両手を広げ、右の人差し指を折ったり伸ばしたりしている。まるで想像上の引き金の感触を確かめるかのような動作で。

 ミサトはアスカが座る車椅子の側に立つと、アスカの腰まで伸び放題になった髪を撫でた。

「今はまだ混乱してるでしょ。もう少し落ち着いたら、ちゃんと説明してあげる」

 アスカは頭を横に振った。

「嫌よ。今説明して」

 ミサトはリツコの顔を見る。

「多少意識レベルの低下はあるけれど、状態は落ち着いている」

 そこまで言って、リツコはミサトの側に立ち、その耳に囁きかける。

「今のところ精神汚染の兆候も認められない」

 ミサトはリツコの顔を凝視する。

「使徒に侵食された影響はないってこと?」

「分からない。これ以上の精査はここでは無理よ」

 

 小声でぼそぼそと話し込んでいる2人。

 2人を相変わらずぼんやりとした眼差しで見上げているアスカ。ちょっと眠っている間に、何だか2人とも老けちゃったな~、などと頭の隅っこで思う。

 

 暫く話し込んでいた2人。ようやく結論が出たらしく、お互い頷き合う。ミサトもリツコも、車椅子に座るアスカを見下ろした。

「いいわ、アスカ。じゃあ、何から話しましょうか」

 アスカはやや前のめりになりながら言った。

「今日は何曜日? 3号機の実験から、何日経ったの?」

 そのアスカの問いに、ミサトは苦々しく笑った。

 

「質問の仕方が間違ってるわ」

 

「へ?」

 アスカの、呆けた声。

 

「何年経ったのか? …よ」

 

 

 

 

 天幕の外に出たミサトとリツコは、天幕の中に用意された簡素なベッドで大人しく寝ているアスカの姿をもう一度確認した上で、出入り口のカーテンを閉めた。

 リツコがミサトに囁き掛ける。

「気付いてる?」

「ええ」

 ミサトはゆっくりと頷いた。

「アスカが幽閉されていた封印柩。あれには肉体の成長を止める効果もあるの?」

 そのミサトの問い掛けに対し、リツコはゆっくりと首を横に振る。

 

 

 

 

 天幕の外ではすでに日が暮れてしまったらしい。外灯らしき光が透き通る天幕の布製の天井。その天井に向けて、右手を翳してみる。

「シンジ…」

 手の甲を見つめ。そしてひっくり返して手の平を見つめ。

「あたしのことは…、助けてくれなかったんだ…」

 翳していた右手を下ろす。

 

 ベッドから、緩慢な動作で体を起こす。まるで見えない糸で縛り付けられているかのような重い体。

 ベッドから両足を下ろし、ベッドの端に座る。頭の血の巡りが悪いのか、ちょっとだけ眩暈がする。

 ベッドから腰を浮かす。地面に足を付け、そして立ち上がろうとして。

 途端に膝が折れ、その場に倒れてしまった。すぐに両手を地面に付いて上半身を起こし膝を立ててみるが、足の筋肉はすっかり衰えてしまっていて、まるで踏ん張りが効かない。仕方なく、ベッドの近くに置かれていた車椅子まで這っていき、座席までよじ登った。

 車椅子のブレーキを外し、両手で左右のリムを回す。やはり腕も随分と筋力は衰えていたが、リムを押し回すだけの力は辛うじてあるようだ。キュルキュルと、潤滑油が切れた音を響かせながら動き出す車椅子。出口のカーテンを開け、外に出た。

 

 

 アスカが居た天幕は葛城ミサトらが所属する組織が設営した野戦病院の一角だった。壁もないような粗末な天幕の下には、体のあちこちを激しく損壊させた人々が手当てもそこそこにブルーシートの上に雑魚寝させられている。彼らのその姿を見て、専用の天幕とベッドを与えられていた自分はかなりの特別待遇であったことを知るアスカだった。

 傷ついた人々の呻き声が絶え間なく湧き上がり、医療スタッフと思しき人々が絶え間なく行き来する天幕の間を縫って、慣れない車いすをキュルキュルと鳴らしながら進める。

 野戦病院の区画を過ぎると、次に現れたのは左右に延々と張り巡らされた長い長いフェンスだった。フェンスを辿っていくと途切れた箇所があり、錆びが浮いた鉄製の立て看板が立てかけられている。

 

『第3新東京市避難民収容所』

 

 どうやらフェンスの向こう側は難民キャンプらしい。フェンスによって民間区画と、野戦病院等の軍事区画とで隔てているようだが、特に警備員らしき者は立ってはおらず、自由に行き来できるようだ。アスカは軋む車いすをキュルキュルと鳴らしながら、難民キャンプへと入っていった。

 

 

 難民キャンプも、野戦病院と負けず劣らずの劣悪な環境だった。与えられた住居はやはり粗末な天幕で、天幕と天幕の間では、屋根の下で寝ると言う贅沢にありつけなかった痩せこけた子供たちが、路上で肩を並べて座り込み、数人で一枚の毛布を羽織って眉間に皺を寄せながら眠りについている。彼らの細い裸の足の隙間を大きな鼠が這って行くが、すっかり寝入っている子供たちは気付く様子もない。

 そんな彼らの足を踏まないように、慎重に車椅子を進めていたら。

 キュルキュルという音が耳障りだったのか、路上で眠る人々が羽織る毛布の一つがむくりと起き上がり、毛布の下から覗かせた眠たそうに顰めた顔をアスカに向けた。

 その人物の視線と、アスカの視線が合う。

 途端に。

 

「え? アスカ?」

 

 急に名前を呼ばれ、アスカは車椅子を動かす手を止める。

「だれ?」

「私よ!」

 声を張り上げてしまい、その人物は慌て口もとに手を当てる。周囲の寝ている人々が起きた様子がないことを確認し、その女性は毛布から出ると、アスカのもとまで忍び足で近寄った。その女性が被っていた毛布の下には、もう一人、小さな男の子が眠っている。

「私よ…、私…」

 小声で話しかけてくる女性。暗がりでよく見えない女性の顔を、アスカは目を細めて凝視する。

「洞木よ。ほら…。壱中で一緒だった…」

「え? ヒカリ…?」

 アスカから名前を呼ばれ、洞木ヒカリは嬉しそうにアスカの両手を握った。

「わあ~、懐かしい。「あの日」以来だったものね」

「え、ええ。そうね」

 自分にとっては数日振りという感覚でしかないアスカは、学友の遠い昔を懐かしむようなその反応と、成長した旧友の姿、そしてそれ以上に疲れ果て、やつれた女性の顔に戸惑いの表情を浮かべるしかない。

 

 おそらく何日も着替えてないであろうくたびれたジャージの上下。何日も洗ってないであろう艶を失った髪。何日もまともな食事にありつけてないであろう、栄養失調を感じさせる痩せこけた頬。

 

「みんな離れ離れになっちゃって…。アスカも、碇くんも、綾波さんも…、「あの日」以来一度も会えてなかったから…。良かった…。本当に…」

 震えた声でそう言うヒカリは、握ったアスカの両手に額を当てた。アスカの手の甲に、涙がぼたぼたと落ちる感触が広がる。

 ヒカリは顔を上げた。大粒の涙を目尻に浮かべながら、痩せた顔に笑顔を浮かべる。

「でも、今日会えて良かった。私たち、来週にはこのキャンプを離れることになってたから」

「何処に、行くの?」

「クレイディトの人たちが山の奥の方に、人が住めるような汚染されてない場所を見つけてくれたんですって。ねえ。アスカも一緒よね? 私たちと一緒に行きましょ? それでまた、みんなと一緒に。あの頃のように!」

「ちょ、ちょっとヒカリ。ごめん」

 握り締めてくるヒカリの手が痛くて、アスカは自身の手をヒカリの手から引き抜き、逆にヒカリの手を握り直した。

「ごめん、ヒカリ。ヒカリと話したいのは山々なんだけどさ。あたし、ちょっと会いたい人が居るのよ…」

 

 

 アスカと、そのアスカの車椅子を押すヒカリは、ある天幕へと辿り着く。

「あれ? 居ないな…」

 その天幕の下を住処としている人物の姿が見当たらない。

「ごめん、アスカ。留守みたい」

「いいえ」

 アスカは首を横に振る。

「居たわ」

 アスカが見つめる先。

 民間区画と軍事区画を隔てるフェンス。

 そのフェンスに、人影があった。

「ありがとう、ヒカリ。ここまででいいわ」

 アスカは無理に作った笑顔をヒカリに向けた。

「え? でも…」

 ヒカリは戸惑いの表情を浮かべている。

 そんな旧友に、アスカは少し低い声で言う。

 

「ごめん。2人切りにしてちょうだい」

 

 

 

 

 

 その少年は地面に両膝を付き、網目状のフェンスに両手でしがみ付き、フェンスに額を押し当て、歯を噛みしめて喉の奥から溢れそうになる泣き声を押し殺していた。泣き声の代わりに2つの目からは涙が止め処なく溢れ、頬を伝い、顎を伝い、零れ落ちた雫が薄汚れたズボンの膝の上に大きな染みを作っている。

 

 背後から、キュルキュルと、車輪の軋む音が近づいてくる。誰かが荷車でも押しているのだろうか。

 彼は慌てて立ち上がり、目の周辺の汚れをシャツのほつれた袖で拭った。両手をズボンのポケットに突っ込みながら空を見上げ、満天の星々を眺めている風を装う。

 

 キュルキュルという車輪の軋む音は、彼のすぐ後ろで止まってしまった。

 そのまま通り過ぎてほしかったのに。

 泣いていたところを、見られてしまったのだろうか。

 見られていたとしてもいい。

 今は、何も見なかったことにして、黙って去ってほしい。

 そう期待していたのに。

 

「ねえ」

 

 ついに声を掛けられてしまった。

 

 仕方なく、彼はもう一度目の周りをシャツの袖で拭い、シャツの胸ポケットにしまっていたメガネを掛け、後ろを振り返る。

 

「なんです?」

 

 出した声が震えていなかったことを、自分で褒めてやりたい気分だった。

 

 振り返った先には、車いすに座った少女が居る。

 

「久しぶりね」

 

「え?」

 

「相田ケン…スケ…、だったかしら?」

 

 

 

 



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(27)

 

 

 

 

「久しぶりね」

 アスカにとっては数カ月学窓を共にしたクラスメイトの一人に過ぎず、思い出と言えばせいぜい一緒に海洋研究所という名の水族館に遊びに行った程度だ。

「相田ケン…スケ…、だったかしら?」

 アスカの中では数日前の、でも実際には数年前の記憶をほじくり返しながら、その名を口にした。

 

「え? え? 式…、波…?」

 一方の相田ケンスケは、車椅子に座るアスカを見て目を丸くしていた。

「え? あれ? う、うん…。ひ…、久し…ぶり…、だね…」

 意外な人物の登場に、ケンスケはひたすら戸惑いながら、細切れの挨拶を口にする。

 アスカはケンスケのつま先から頭のてっぺんまで、ゆっくりと視線を動かしながら言う。

「随分、背、高くなったのね。最後に会った時は、私とそれほど変わらなかったはずなのに」

 見ているうちに、少しずつ母校の教室に立つ「3バカ」の一人の姿をぼんやりとした頭の中でも思い浮かべることができるようになってきた。同時に、世界は本当に多くの時を刻んでいたことを思い知らされる。

 アスカの視線を受け、ケンスケは恥ずかしそうに頭を掻いた。

「う、うん…。今、せ、成長期で…。骨の節々がい、痛いんだよ…」

「そうなんだ」

「し、式波は…、変わらない…、ね…」

「え? そう?」

 指摘されたアスカは自分の両手を見て、そしてその両手で自分の両頬を触ってみる。そう言えば、目覚めてからまだ一度も鏡を見ていない。

「う、うん。ほんと。中学生のこ、頃と…、ぜ、全然、変わってない…。髪は伸びちゃっ…てるけ…ど」

「そうなのよ。気が付いたら髪の毛こんな風になっちゃってたの。鬱陶しいったら、ありゃしない」

 櫛すらろくに通してないボサボサの赤毛を指で玩んでみる。

「え? なに? あたしって、髪以外はあまり変わってないの?」

「う、うん…。まったく…。あ…、なんだったら、俺のカメラに中学時代のアスカの写真のデータが残ってると思うけど。それと比べてみる?」

「え? あんた、そんなもの、残してんの?」

「うん。アスカの写真には、かなり稼がせてもらったから…」

「うわ、キッショ。ちょっと。ちょっとくらいはあたしにもマージン寄越しなさいよ」

「一枚につき30パーセントでいいかな?」

「何言ってんの。80よ、80」

「そりゃ暴利だよ」

「何言ってんの。当然でしょ。ふふ…」

「ははは…」

 2人の虚ろな笑い声は、すぐに闇夜の中へと消えていく。

 その笑い声を最後に、2人とも地べたに視線を落とし、黙ってしまう。

 

 1分ほどの沈黙の後、ケンスケは喉の奥から声を絞り出すようにして、話を切り出した。

「悪い…、式波…」

「なに?」

「一人にしてくれないかな?」

「どうして?」

 ケンスケが一人にしてほしい理由をアスカは知っていたが、あえて知らない風を装った。

「親父が死んだんだ…」

 ケンスケの両手が、背後のフェンスを強く握った。 

「今は、そっとしといてほしい」

 アスカはあえて問う。

「お父さん…、どうしたの?」

 質問をやめないアスカに、ケンスケは溜息を一つ交えながら、ほんの少しだけ苛立ちの籠った声で言った。

「ミサトさんたちの作戦に参加して…。途中事故に遭って死んじゃったらしいんだ。遺体もないらしい…」

「そうなんだ…」

「ああ…。だからさ…。察してくれよ…」

 そこまで言って、ケンスケは再び視線を地べたに落とし、再び押し黙る。

 

 再び長い沈黙。

 

 一瞬だけ、視線を上げた。

 そこに居るのは、車いすに座る少女。

 すぐに視線を地べたへと戻す。

 

 

 何故、車いすの少女はこの場に留まっているのだろう。

 何故、立ち去らないのだろう。

 何故、一人にしてくれないのだろう。

 

 

「ねえ、相田」

 アスカからの問い掛け。

「なに? 慰めの言葉とかは要らないよ」

 明らかに苛立ちの籠ったケンスケの声。

「ごめん。相田」

「なんで式波が謝るの?」

 ケンスケは地べたに落としていた視線を、車いすの上の少女に向ける。「ごめん」と言いながらも、その表情はいつもと変わらない彼女の表情。

「本当は黙ってた方がいいってのは分かってるんだけどさ。あたし、こんな性格だから。嘘とか苦手なのよ」

「うそ?」

「それに、「あいつ」みたいに自分の責任から逃げたくないもの。まっ。つまりは、これはあたしの利己的動機に基づく身勝手な行動、我儘よ。だからごめん」

 一方的に喋り続けるアスカに、ひたすら困惑するしかないケンスケ。

「式波。何を言ってるの?」

 説明を求められたアスカは、簡潔に答えた。

 

「あんたのお父さんを殺したのはあたし」

 

「え?」

 メガネ越しのケンスケの目が、点になる。

 

「あんたのお父さんはミサトたちを裏切った。だからあたしが殺した」

 もう一度。今度は補足情報を添付した上で、やはり簡潔に伝える。

 

「え?」

 ケンスケの目は、相変わらず点になっている。

 

「あたしがあんたのお父さんを殺した」

 

「え? え?」

 ケンスケは意味を成さない短い声を上げ続けながら、アスカに向けていた視線を、虚空へと這わす。何もない空間に、まるで歪な円を描く様に視線をぐるっと一周させた後、再びアスカを見つめた。

 

「嘘…、だよね…」

 

 ようやく口から出た形を成した言葉がそれだった。

 アスカは間を置かずに言う。

「言ったよね。あたしは嘘が苦手だって」

「ああ…、うん…、そうだったね…」

 アスカからの返答を素直に納得したケンスケは、視線を再び地面へと落とした。

 

 虚ろげな視線を放つその目は相変わらず点になったまま。

 その目が、瞬時に細くなる。

 

 握り締めた指の爪が手のひらに食い込む。

 

 噛み締めた口の端から涎の泡が噴き出る。

 

 止めたはずの涙が、大量に溢れ出した。

 

 

「あぁぁぁぁぁぁ……!」

 地面に向かって唸った。

「あぁぁぁぁぁぁ……!」

 1度では足りず2度。

「あぁぁぁぁぁぁ……!」

 2度でも足りず、3度。

 

 自分の肚の中で渦巻くどす黒い何かを吐き出そうと、懸命に唸った。

 

 でも駄目だった。

 

 吐き出しきれなかった。

 

「あぁぁぁぁぁぁ……!」

 ケンスケは唸りながら腰に巻いていたウェストポーチに手を伸ばす。

 ポーチのファスナーを開け、隙間に手を滑り込ませ、中に入れていた玩具のような小さな拳銃を握り締める。

 

 

「あぁぁぁぁぁぁ……!」

 目の前の彼が拳銃をウェストポーチから取り出し、唸りながらその銃口をこちらに向けてきた。

 

 そりゃこんな治安の悪そうなところだもの。護身用にピストルの1個や2個くらいは必要でしょうね。確かこいつの父親はネルフの保安部だったらしいし。

 などとぼんやりと考えながら、アスカはまるで他人事のようにその銃口を見つめていた。

 

 薄く笑う。

 

「いいわ。あんたにその引き金を引く権利なんてないけれど。あたしはあんたに撃たれる資格があるから」

 車椅子の背もたれに背を預け、無防備に胸を曝け出した。

 

 

 耳障りな息遣い。彼女に狙いを定める銃口が激しく揺れる。

 震える手を懸命に制御しながら、ケンスケは口を開く。

「本当に…」

「ええ。あたしが殺したの」

 もう一度、一分の隙もなく、念入りに答えたアスカに対し、ケンスケは小刻みに頭を横に振った。

 

「本当に…、親父は…、ミサトさんを裏切ったのか…」

 

 ケンスケのその言葉に、アスカの顔から笑みを消えた。

 

「昨日、ミサトさんから…、聴かされていたんだ…。今日…、親父が…、ネルフ本部から帰ってくるって…。あなたのお父さんは…、英雄よ…って」

 

 アスカの眉間を真っすぐに狙っていた銃口が、少しだけ下を向いた。

 

「ミサトさんたちがネルフから離反しても、親父はネルフに残ってたから。だから俺、ずっと周りから疎まれてたんだけど…。明日からはもう…、そんな思いしなくて…いいって…、昨日からずっと思ってた…」

 

 両手で構えていた拳銃を、ぶらりと下ろす。

 双眸から大粒の涙をボロボロと流し、鼻の孔から鼻汁を滴らせ、口の端から涎を垂れ流し。

 そんな酷く汚れた顔で、アスカを見つめる。

 

「俺、今朝からずっと待ってたんだ…。親父が帰ってくるのを…。でも戻ってきたトラックやVTOLから降りてくるのは、怪我人や死体ばかりでさ…。なあ、式波…」

 

 名前を呼ばれたアスカは、唇を噛みしめながらケンスケの顔を正面から見つめる。

 

「あれ…。俺の親父の…、所為なのか…?」

 

 アスカの眉間に、皺が寄った。

 

 ここまで何を問われてもすぐに、そして明瞭に相手の質問に答えてきたアスカの口。

 

 そのアスカの口が、開かない。

 

 アスカの口は、ケンスケの問いに答えなかった。

 

 答えることができなかった。

 

 その沈黙が答えだった。

 

 

 ケンスケは笑った。

 

「ありがとう…、式波…」

 

「え?」

 

「親父を…、裏切り者を殺してくれて…」

 

 

 両手で握っていた拳銃を、右手に持ち替える。

 

 そしてそのまま、その銃口を自身の喉元に押し付けた。

 

 引き金に掛けた人差し指に、力を籠める。

 

 

 

 アスカは車椅子の肘掛けに両手を付いて押すと、その反動を利用して一気に腰を上げた。本当はそのまま相手の上半身なり右腕なりに飛びついて抱き着こうと思っていたが、足に体重を掛けた瞬間に膝が折れてしまい、相手の腰に向かって突っ込む形となってしまった。それでも相手の発砲のタイミングは外せたようで、腰に抱き着かれたことで体を「く」の字に折られた相手は両腕を万歳してしまい、右手に握られた拳銃の射線も空を向いてしまう。

 ケンスケは押し倒される形で背中から地面に倒れ、アスカもケンスケの体に覆い被さる様に倒れた。

 アスカはそのまま自分よりも遥かに大きくなってしまったケンスケの体をよじ登り、右手で拳銃を握ったケンスケの手首を掴み、左手で拳銃そのものを掴む。そのままケンスケの手から拳銃を毟り取ろうとしたが。

 

「あああああああ!」

 

 ケンスケは激しく抗った。拳銃を奪われまいと、空いていた左手も使って、両手で拳銃を握り締める。

 腕力だけならケンスケの方が遥かに勝っていた。アスカの手によって伸ばされていた右肘を、少しずつ畳み始める。銃身の先が、少しずつケンスケの側頭部へと向き始めた。

 アスカも負けてられない。体に残った全ての力と全体重を使って、ケンスケの右腕をねじ伏せに掛かる。

 アスカの左手と、ケンスケの両手とで。

 死を願う手と、それを阻止しようとする手で、揉みくちゃにされてしまう拳銃。

 

 

 乾いた発砲音が、しんと静まり返った難民キャンプの中に轟いた。

 

 

 とにもかくにも銃口を自分の側頭部に向けようとしていたケンスケの動きが、その発砲音でピタリと止まる。銃口は、まだ彼の側頭部には向いていない。にも拘らず、ケンスケの右人差し指は、拳銃の引き金を引き絞ってしまっていた。

 

 ケンスケは自身が握る拳銃の銃口が睨む先を追った。

 

 銃口の先にあるもの。

 

 

 それは、アスカの顔。

 

 

 ケンスケは、目の前に広がる光景に、驚愕していた。

 そしてアスカ自身も、目の前に広がる光景に、驚愕している。

 

 2人の視線の先にあるもの。

 

 2人で握り締めた拳銃の銃口の先にあるもの。

 

 銃口と、アスカとの顔の間にあるもの。

 

 

 それは銃弾。

 

 

 銃弾が、アスカの顔と、銃口との間の虚空で、制止している。

 

 

 その銃弾を中心に広がる、八角形の、光の輪。

 

 

「AT…フィールド…」

 

 

 その現象の名称をアスカが呟いた、その瞬間。

 

 

 

「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 

 アスカの口から、女性の、人間の、生き物のものとは思えないような叫び声が放たれた。

 

 アスカの両手が拳銃から、ケンスケの手首から離れ、その手は彼女自身の左目に押し当てられる。額に立てられた爪が皮膚を破り、鮮血が滴る。さらにその手の隙間から、強烈な青白い閃光が漏れ、夜の帳を引き裂いた。

 時に背骨が折れそうになるほどに背を弓なりに反らし、時に腹に食いつきそうになるほどに身を屈曲させ、両足の踵で何度も地面を削りながら、地面の上をのた打ち回る。両手は光る左目を押さえ付ながら。口からは舌を突き出し、絶叫を迸らせながら。

 

「式波…! 式波…!」

 すぐ側にいるはずのケンスケの声が、遠くに聴こえた。

 

 ケンスケの声に混じって、複数の駆け寄る足音が聴こえた。

 

 

 

 



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(28)

 

 

 

 

 目を覚ますと、真上にある複数の照明から放たれる光に目を射貫かれ、一度開いた目をすぐに閉じてしまう。

 暗闇の中で眼球を癒し、今度は慎重にゆっくりと瞼を開く。照明の光に少しずつ目を慣らしていく。

 

 何故か、左目は開かない。

 開く右目だけで、周囲を伺う。白い光を放つ照明。粗末な天幕の天井。薄いマットレスのベッド。

 自分は、明るい照明が照らす、天幕の中の、ベッドの上に寝かされているらしい。

 

 体は動かない。

 足も腕も、何かに縛り付けられたように動かない。

 

 右手に感触があった。右手を視界に収めるため、眼球の中の瞳を下の方へと移動させる。

 右手を誰かが握っている。

 ベッドの側の椅子に座った誰かが、自分の右手を握っている。

 

 声を出すために、口を開く。乾いて引っ付いていた上唇と下唇の間を糸が引いて不快だった。カラカラの喉が痛かった。

 

「気安く…、触って…んじゃ…、ない…わよ…」

 

 自分でも驚くほどに、霞んだ声しか出なかった。

 相田ケンスケはばつが悪そうに苦い笑顔を浮かべながらも、握ったアスカの右手を離そうとはしない。

 

 アスカは視線を天井へと戻した。

「ま…、好きに…した…ら…。どう…せ、あたし…は、振り払う力も…ない…から…」

 そう言われ、ケンスケは今にも泣いてしまいそうな顔で笑いながら、許可は得られたとばかりにひしとアスカの手を握り締めた。

 アスカの細い指が、微かにケンスケの手を握り返す。

 

「あんた…、偉かった…ね…」

 脈絡もなくアスカに褒められ、ケンスケはきょとんとした顔をする。

「ちゃんと…、自分で…、自分の落とし前…、つけよう…と…した…。別に…、あんたがあんたの父親の罪…、背負う必要…なんて、ない…のに…。あんた…は…、自分の父親の罪…から…、逃げなか…った…」

 声を出すのもやっとなアスカは、そこまで言って、胸を何度か上下に大きく動かしながら肺の中の空気を出し入れする。

 肺の中を巡った新鮮な空気を燃料にして、アスカは言葉を再開した。

「でも…、ま…」

 再び瞳のみを動かして、ケンスケを見る。

「あの落とし前の…つけ方…は…、間違って…る…、って…、思うけど…ね」

 アスカの口角が、少しだけ上がった。釣られて、ケンスケもえへへと申し訳なさそうに笑う。

 

 目を閉じたアスカは3回ほど深呼吸を繰り返し、開いた目で天井を見上げた。

「あたし…たち…。一緒…だね…」

 ケンスケは「何が?」とアスカの顔を見つめる。

「二人…とも…、一人…ぼっち…。一人…っきり…」

 ケンスケの手に、力が籠もった。握るアスカの手に、心の中の不安を訴えるように。

「あんたに…、教え…とい…て、あげ…る…。一人で…、生きる…術を…」

 ケンスケは黙ったまま、2度、大きく頷いた。

「誰とも…、つるまない…こと…。誰にも…、心を…、許さない事…」

 そこまで言って、瞳のみを動かしてケンスケを見る。

「あんたたち…、今度…、山奥に引っ越す…、らしいわね…」

 ケンスケは頷く。

「だったら…、他のみんなとは…、距離、置くの…よ…」

 ケンスケは頷く。

「家も…、なるべく離れた…場所に…」

 

 

 気まぐれで始めた赤の他人との同居生活。

 結局、はりぼての疑似家族は、はりぼてのままだった。

 もしかしたら本当の家族になれる。

 こんな自分にも、誰かの家族になる資格がある。

 そう信じ掛けていた疑似家族の一人は、私を助けてはくれなかった。

 

 

 ケンスケは頷く。

「でも…、これが重要…。人間は…、一人では…、生きて…は、…いけない…」

 

 それは、あの街で過ごした数カ月で学んだ、知ってしまったこの世界の真実。

 覆しようのない、この世界の理。

 

 ケンスケは頷く。

「だから…、証明し…続ける…の。…自分が…有能である…と。あなたたちの…役に立つ…、人間だ…と…」

 ケンスケは頷く。

「そうすれば…、周りが認めてくれる…から…」

 ケンスケは頷く。

「…一人ぼっちの…私たちでも…、この世界の隅っこで…、生きててもいい…って…」

 

 

 

 

「ありゃま…」

 入り口を覆うカーテンを開いたその人物は、天幕の中の光景を見て呆れたような声を出した。

 天幕の真ん中にはベッド。ベッドの上には少し染みの浮く清潔とは言い難い白いシーツの上に、緋色の髪を広げて眠っている一人の少女。ベッド脇にあるパイプ椅子に座る青年へと移ろう一歩手前の少年は、少女の手を握り締めながら、ベッドの隅に顔を伏せ、やはり眠りに落ちている。

 足音を立てずに、ベッドの側まで歩み寄る。

 メガネを掛けたまま寝ている少年の横顔を見つめて、そしてベッド上の少女の寝顔を見つめて。

 

「あっちのわんこ君がお空の彼方まで飛んでっちゃったと思ったら、今度は別のわんこ君を拾ってきちゃったか」

 

 右手の人差し指で、少女の前髪にそっと触れる。

「君もつくづくあれやこれや、色んなものを背負っちゃう質なんだねぇ…」

 前髪をそっと掻き上げ、その向こうに見える額の髪の生え際をなぞり。

 

「異形の人型兵器、エヴァンゲリオンのパイロット…」

 

 こめかみをなぞり。

 

「式波シリーズの、生き残り…」

 

 頬をなぞり。

 

「裏切り者の子…」

 

 顎をなぞり。

 

「使徒を宿した体…」

 

 そして少女の細い首へと行き付く。

 

 少女の首に填められた、鉄製の首輪。

 

 

 改めて少女の顔を見つめる。

 閉じられた右目。髪の毛の色と同じ、繊細な睫毛が伸びる瞼。

 そしてもう片方の左目。

 

 左目は、見えない。

 

 左目に被された、物々しい鉄製のアイマスク。その下にあるものを封じ込めるかのように被されたアイマスクからは何本もの鉄製の管が伸び、その管の先はベッドの背後を占拠する幾つもの大きな機器へと繋がれている。管の何本かはセンサー類のようで、繋がれた機器はセンサーから送られてくる情報を常に受信、解析しており、それぞれの機器の画面上にはまるで踊るように様々な数値や波形データが次々と表示されている。また、別の管の何本かは幾つかのボンベに繋がれており、そのボンベからは管を通じてアイマスクへと常に一定量の薬品を流し込んでいるようだ。

 

 

 その場に跪き、ベッドの下を覗き見る。

 ベッドの下を占拠していたのは、床に敷き詰められていた爆弾。

 溜息を吐きながら、立ち上がる。

 

「こんな仕打ちを受けても…、まだエヴァに乗り続けるってぇのかい…?」

 少女が被るタオルケットの中に右手を忍ばせ、隠れていた少女の拘束帯に縛られた右手をそっと握る。

「分かったよ…。せめて…、あたしくらいは…、あんたを護ってやるよ…」

 少女の手を離し、今度は少女の額を、右手でそっと撫でる。

「いいかにゃ? アスカちゃん…」

 ベッド上の少女の名前を呼んだ、額に大きな絆創膏を貼り、首に包帯を巻き、シーネ固定された左腕を三角巾で吊るしている真希波マリ。

 

「いんや…」

 

 微笑みながら頭を振る。

 

「姫…」

 

 

 

 

 天幕の外に出れば、そこには満天の星々を輝かせる夜空。

 その星々の中を、奇妙な光跡を描きながら移動をする流れ星がある。

 

 いや、あれは流れ星などではない。

 

 流れ星ではない何かを見つめながら、真希波マリは呟いた。

 

「いつか必ず…。何年先であっても、…必ず迎えに行くよ、わんこ君…。姫と一緒にね…」

 

 右腕を空に向かって伸ばし、手でピストルの形を作り、伸ばした人足し指と中指の先で、流れ星ではない何かに狙いを定める。

 

「ばーん…」

 

 小さな声で、拳銃の発砲音を真似てみた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 葛城ミサトは野戦病院から離れた区画にある大型天幕の下の、粗末なパイプ椅子に浅く腰掛けていた。ちなみにこれが彼女にとっての24時間ぶりの座位だった。そしてテーブルに頬杖をつき、これまた24時間ぶりの食事である携帯食を齧りながら部下の報告を聴いている。

 

「元国連軍の地上部隊はほぼ全滅。海上部隊も敵の造兵廠に肉薄しましたが、敵の激しい反撃に遭い、半数を失った模様です」

「本部潜入組の損害は?」

「未帰還率は80パーセントを超えています」

「そっ」

 ミサトは素っ気なく答えた後、椅子から立ち上がって手にしていた携帯食の箱を天幕の隅に向かって思い切り投げ付ける。

 八つ当たりされた携帯食が天幕の隅にある黒板に当たって地面に落ちるところを見送った日向マコトは、上官が椅子に座り直し、ペットボトルの水を口にし始めたところで報告を続ける。

「我々の戦果はエヴァンゲリオン弐号機、および8号機の奪取。パイロット2名の拘束。ネルフ本部の一部破壊。以上です」

 ミサトは含んだ水で口の中を含嗽すると、半分を飲み込み、半分を地面に吐き出す。

「初号機と建造中だったネルフ一番艦の宇宙空間への投棄。それも我々の戦果として発表しておいて」

 事実と大幅に異なるミサトの言葉に、日向マコトはあからさまに不満顔をする。

「たったあれっぽっちの戦果じゃあ、組織の士気が下がるし脱落者がさらに増える。何よりパトロンたちが納得しないわ」

「分かりました…。ああそれと」

「なに?」

「8号機パイロットが我々に恭順を申し入れてきました」

 ミサトは荒っぽくパイプ椅子の薄い背もたれ背中を押し付けた。

「朗報ね。弐号機パイロットはあんな調子だし。8号機が戦列に加われば、私たちにとてっては大きな戦力向上よ」

 

 ミサトらが居る大型天幕の中に、伊吹マヤが入ってきた。

「大佐」

 伊吹マヤは小走りでミサトの側へと駆け寄り、一枚の紙切れを差し出す。

「通信衛星を通じて、全世界に向けて発信されたようです」

 紙切れを受け取ったミサトは、その紙面に記された文章に視線を這わせる。 

 その紙切れが深く長い吐息によってひらひらと揺れ、日向はその吐息を漏らしたミサトの顔を見た。

「やっぱりあれに乗っていたのは、あなただったのね…」

 日向には一瞬、ミサトの顔が数年前の。3人の子供たちの上官にして保護者であり、姉のような存在だった、あの頃の彼女の表情に戻っていたような気がした。テーブルに頬杖を付き、紙切れの文面を見つめる眼差しが、少しだけ優しい。

「いいのね…。世界の全てを、敵に回すことになったとしても…」

 瞼を閉じ、紙切れを畳んでテーブルの上に置く。

 瞼を開け、その瞳からテーブルの上の紙切れに注がれたのは、まるで氷のように凍てついた視線。

「加持が私たちのために残したあの舟を奪った以上、私たちもあなたの敵だから…」

 椅子の背もたれに掛けていた赤いジャケットを羽織り、袖に腕を通す。

 椅子から立ち上がり、再度、テーブルの上の紙切れを一瞥し、そして天幕の外へ出ていった。

 

 上官の背中を見送った日向マコトは、テーブルの上の紙切れを拾い上げる。丁寧に畳まれたそれを、手の上で広げてみた。

 紙面に記された文字。

 

 

 

 

 

 

  下記ニ該当スル全テノ方々ニ通達シマス。

 

 

  一ツ 碇シンジノ生命及ビ健康ヲ脅カスモノ。

 

  一ツ 碇シンジニ対シ、先ノインパクトニ対スル責任ヲ問ウモノ。

 

  一ツ 碇シンジヲエヴァンゲリオンニ搭乗サセルモノ。

 

 

  アナタ方ハ、私ノ敵デス。

 

  アナタ方ニ対シ、私ハ持チウル全テノ戦力ヲ以ツテ、

 

  コレヲ殲滅スルコトヲココニ宣言シマス。

 

 

                         ―――RA

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 「後始末」にようやく一区切りがついた冬月は、何日ぶりかの睡眠を貪るべく自室へ向かう廊下を、疲労が如実に表れた足取りで歩いていた。その彼の足が、ある部屋の扉の前で止まる。

 足はすぐにでも自室のベッドに向かいたがっていたが、彼の欲求に反して彼の手はいつの間にか扉のノブを握っていた。

 

 扉を開くと薄暗い部屋の中央に、ぽつんと置かれたベッドが一つ。ベッドの中身は空っぽ。乱れたシーツが、床に落ちている。

 部屋の中を、ぐるりと見渡す。

 部屋の隅に設置された洗面台。

 

 その前に立ち、鏡の中に映る人物の姿をじっと見ている人影が一つ。

 

 その人影は鏡越しに冬月の存在に気付き、ゆっくりと振り返る。

 

 小枝のような細い手足。

 血の巡りを感じさせない白い肌。

 作り物のような空色の髪。

 空虚さばかりが目立つ赤い瞳。

 

 その身に何も纏わず、裸体を露わにしたままぽつんと立っている少女。虚ろ気な瞳を冬月に向けていたが、すぐに興味を失くしたように視線を外した。

 

 

「体の調子はどうだ?」

 冬月に声を掛けられた少女の視線は一瞬だけ冬月の顔に向けられるが、しかしすぐにその視線は虚空を漂い始める。

 革靴の音をコツコツと鳴らしながら歩き、少女の目の前に立つ冬月。

 視界を冬月の胸に塞がれた少女は、緩慢な動きで冬月の顔を見上げる。

 光を宿さない瞳。弛緩した頬。一筋の涎を垂れ流す唇。

 

「体の調子はどうだね?」

 再度、同じ質問を投げかける。

 焦点の定まらないぼんやりとした目で冬月の顔を見上げていた少女は、質問に答えることなく視線を冬月の胸まで落とし、そして上半身を左にぐらりと傾ける。左足も前に出し、目の前に立つ冬月の体を避けて歩き始める少女。右肩や右肘が冬月の体に当たるが、少女は気にした様子もなく、ふらふらと上半身を右に左に傾けながら、ベッドの方へと向かう。

 冬月は質問に対する答えを諦め、少女の背中を黙って見送る。

 少女はベッドの側に落ちていたシーツを拾い上げると、それを引き摺りながら部屋の隅へと向かう。

 壁に辿り着いた少女は、その場にしゃがみ込み、壁に背を預け、シーツを体に纏わせながら膝を抱えた。

 膝の上に顎を乗せ、半開きの目から放つ弱々しい視線を床の上に這わせ始める。

 少女の行動の一部始終を見ていた冬月は、鼻から盛大に溜息を吐いた。

 

 「あの日」。少女の肉体へ、ある魂の転送実験が行われるはずだった「あの日」の後始末に忙殺されていた冬月にとって、少女とはこれが「あの日」以来半月ぶりの再会だった。

 「あの日」、突如始まった戦争により途中で頓挫してしまった実験の残骸に対し、とりあえずとばかりに宛がわれたらしいこの部屋。おそらくこの半月の間、一度たりともまともに掃除されたことがないのだろう。埃が降り積もり、汚物が点在する床。澱んだ空気。饐えた臭い。

 

 ベッドの横にあるサイドボードに目を向ける。

 この部屋に運ばれてきて、そのまま放置されているらしい食品トレーが何重にも積み重ねられている。

 トレーの中身であるペースト食に手を付けられた形跡はない。こんなほぼ密閉された空間でも「奴ら」は何処からか入ってくるらしく、トレーの上を数匹の蠅が集っている。

 サイドボードの側に立ち、蠅たちを手で追い払う。一番上のトレーに鼻を近づけ、その臭いを嗅ぐ。臭いを確認した後、そのトレーをベッドの上に置いた。2つめのトレーに鼻を近づけ、臭いを嗅ぐ。たちまち、顔を顰めてしまう冬月。部屋の隅っこにあるゴミ箱をサイドボードの側まで引きずると、その中に残りのトレー全てを放り込んだ

 ベッドの上のトレーを手に取り、改めて臭いを確認する。歳が歳なので嗅覚の鋭敏さに自信はないが、まあ大丈夫だろう。

 トレーを持ったまま、部屋の隅っこで膝を抱えて座っている少女のもとまで歩み寄る。

 少女の前で跪き、少女の前の床に食品トレーを置いた。

 少女を見つめる。

 骨が浮き出た肩。皮しかないような腕。痩せこけた頬。窪んだ眼。

 

 トレーを、すっと少女の爪先の近くまで押し出す。

「食べなさい」

 少女の虚ろな視線がトレーの上を彷徨う。

 一度瞼を閉じ、そして次に瞼を開いた時には、中の瞳は明後日の方向に向けられていた。

 

 トレーの上のスプーンを持ち、少女に差し出す。

「食べなさい」

 少女は抱えた両膝に顔を寝かせながら、ぼんやりと差し出されたスプーンを見る。

 スプーンを見続けるだけで、両手は膝を抱えたまま。スプーンを受け取ろうとしない。

 

 冬月は少女の右手首を掴んで、強引にスプーンを握らせた。

「食べなさい」

 少女は握らされたスプーンを、ぼんやりと見ている。

 その手には少しも力が入っておらず、スプーンは少女の手の中をずるずると滑っていき、音を立てて床に落ちた。

 

 冬月は床から拾ったスプーンを上着の袖で拭くと、トレーの中のペースト食を掬い上げ、それを少女の口の前まで運んでやる。

「食べなさい」

 少女は差し出されたスプーンの上の、赤いペースト食をぼんやりと見ている。

 色素の薄い、乾いた唇が開く様子はない。

 

 冬月はスプーンで掬ったペースト食を少女から離し、自分の口に近付ける。そしていつもよりも大きめに口を開け、スプーンの先端を口の中に入れた。口を閉じ、ペースト食を舌の上に乗せる。スプーンを口から出し、口をもぐもぐさせて咀嚼の必要のないペースト食を口の中で掻きまわし、わざと喉を大きく鳴らしてペースト食を飲み込んだ。

 冬月のその一連の動きを、少女は膝に頬を乗せたまま、ぼんやりと見つめている。

 冬月は再びトレー上のペースト食をスプーンで掬った。少女の口の前に、ペースト食が乗ったスプーンを差し出す。

「食べなさい」

 虚ろ気な視線が、赤い双眸からスプーンに注がれる。

 

 30秒ほど経過して。

 少女のくっ付いていた上唇と下唇が、粘着性の高い糸を引きながら開いた。

 その機を見逃さす、冬月はすかさず、それでいてそっとスプーンの先端を少女の口の中へと滑り込ませる。ペースト食は、無事、少女のピンク色の舌の上へ。

 少女の口から、スプーンをそっと抜く。

 少女は、口をもごもごと動かす。

 そして喉の真ん中に浮く小さな突起を上下に動かして、口の中のものを飲み込んだ。

 少女の小さな口が開き、ふぅ、と小さな呼気が零れる。

 それを見た冬月もまた安堵したかのように、ほっと大きな溜息を漏らした。

 

 冬月はトレーからペースト食を掬うと、2口目を少女の口もとに運んでやる。少女は素直に口を開き、スプーンを咥え込む。口をもごもごと動かして、嚥下する。

 3口目。4口目。

 鉄製のスプーンが、合成樹脂製のトレーを引っ掻く音だけが、部屋の中に響いた。

 

 トレーの中身の半分が少女の胃の中に収まった頃。

 少女が口もとを押さえ、咳き込む。

 冬月は一旦スプーンを置くと立ち上がり、サイドボードの上に乗せられていた未開封のペットボトルを持って少女のもとに戻る。

 キャップを開け、そのペットボトルの口を少女の口にそっと押し付けた。少女はペットボトルの口を咥えると、中身のミネラルウォーターをごくごくと喉を鳴らして飲み込んでいく。半分は少女の口から零れ落ち、少女の裸体を覆うシーツの上に染みを作った。

 

 ペットボトルを床に置き、まだ半分残っている食事を再開させようと、スプーンを手に取る。

 ペースト食を掬い、少女の口もとに近付け。

 

 少女の口が、微かに開く。

 

「ワ…タ……」

 

 少女の口から、声が漏れた。

 

 少女の開いた口にスプーンの先端を滑り込ませようとしていた冬月の手が止まる。

 

「ワ…タ…、…シ…、ワ…」

 

 冬月は少女が言葉を発したことに大いに驚きつつ、少女の途切れ途切れの声に耳を傾ける。

 少女は言った。

 

「ワタ……シ…、ハ…、…ダ…レ……」

 

 冬月は、そっとスプーンをトレーの上に置く。

 

 少女は冬月の顔を見ていない。

 視線を床に這わせたまま、まるで壊れ掛けの蓄音機のようなぎこちない口調で、同じ言葉を繰り返す。

 

「ワタシ……ハ……、…ダレ……」

 

「君は…」

 冬月の低い声が部屋の中に響く。

「君は綾波タイプ、ナンバーシ……」

 言い掛けて、言葉を止める。

 

 トレーの上の、赤と黄色と白のペースト食を見つめ。

 

 20秒ほど沈黙した後、冬月は口を開く。

 

 

「君はアヤナミレイだ…」

 

 

 少女の瞳が、初めて真っすぐに冬月の目を見つめた。

 

「アヤナミ…、レイ…?」

 

「そう」

 冬月は深く頷く。

 

 

「君が、アヤナミレイだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1-4.祭りの後 《終》

 

第一部 終了  ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q へと続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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2-1. 天蓋の少女
(29)


 

☆これまでのあらすじ☆
ネルフはシンジくんをエヴァに乗せようとするしヴィレはシンジくんを殺そうとするしで、ついにブチ切れた綾波さんがシンジくんを攫って宇宙へ逃げちゃった。

 


 

 

 

 

 特務機関ネルフと反ゼーレ・ネルフ組織ヴィレが初めて戦火を交えた日から10年後。

 

 地上で繰り広げられる戦闘の業火から離れた、遥か上空。

 

 

 

 小さな明かりだけが灯る狭い空間に、ピピッと小さな電子音が鳴り響く。それは東の空から朝日が昇り、西の空へ夕陽が沈む地上とは異なり、1日の始まりと終わりを知る術がないこの場所に世界標準時における朝が来たことを告げるアラームだった。

 アラームが鳴り止んでから数秒後。薄暗い空間に、それこそ東の空が少しずつ白み始め、やがて朝日が昇るのと同じ様に、人工的な光はゆっくりと時間を掛けて光量を増やしていく。

 その空間は細長い、円筒状を成していた。

 円筒の中央に鎮座するのは、大仰な機械類に囲まれた、人一人がゆったりと座れる大きさの座席が一つ。

 その座席は、今は空っぽ。

 ではこの狭い円筒形の空間に無人なのかと言えば、そうではなかった。

 座席は空席だが、その座席の上に、人が一人、浮いていた。

 

 座れる場所があるというのに、その人物がわざわざ宙に浮いている理由は2つ。

 一つは、この空間には重力の影響が及んでいないから。

 そしてもう一つは、その円筒状の狭い空間は半透明の液体で満たされているから。

 宙に浮くその人物の体は重力に支配されず、半透明の液体の中を揺蕩っていたのだった。

 

 

 腰まで伸びた黒い髪を華奢な体に纏わせた、見た目は14~5歳くらいの人物。一見すれば女性と思われても仕方がない姿をしているが、伸び放題の黒髪の隙間から覗く細やかな裸身。胸に膨らみはなく、その股間には男性器があり、液体の中を漂う彼は少年であるということが分かる。

 少年は、ただ液体の中を漂っていた。黒髪の隙間から覗く肌には血の気が通ってはいるものの、瞳は閉じられ、だらりと伸ばされた四肢からは生命の活動というものを感じさせない。ただ、やや濁った、半透明の液体の中に身を任せている。

 

 

 少しずつ光量を増していく照明。1時間掛けてゆっくりと明るくなった筒状の空間。

 その一角が、人工的な明かりとは全く違う類の光を放ち始める。

 まるで急速に増殖するアメーバーのように、範囲を広げていく淡い光。人一人分の大きさまで大きくなった淡い光は、その中心から2本の腕、そして2本の脚を生やし、やがて人の形を成し始める。

 丸みを帯びた肩、腰。慎ましやかに膨らんだ胸。少年と同様に、いや少年以上に長い、膝まで伸びた髪を半透明の液体の中に漂わせる人の形をした淡い光。

 少女の形をした、淡い光。

 最初はぼんやりとした、曖昧な少女の形だった淡い光は、時間を掛けて指の一本一本、毛先の一本一本までをはっきりと形作ったところで、ゆっくりと液体の中を漂う少年へと近づき始める。少し濁った半透明の液体を両手で掻き、両足を軽くばたつかせ、少年のもとへと泳いでいく。

 少年のもとまで辿り着いた淡い光は、少年の背後へと回ると、背中から少年の薄い胸の方へと両腕を回し、少年の華奢な体をそっと抱き締める。淡い光に抱き締められた少年の体は少しずつ沈んでいき、淡い光に重なりながら、ゆっくりと座席へと体を預けた。

 淡い光は少年の背後から身を乗り出し、その顔、その耳を、少年の薄い胸元へと押し付ける。

 少年の胸の奥に埋められた生命の源が紡ぎ出す、生命の脈動に耳を傾ける。規則正しく、落ち着いたテンポで奏でられる鼓動を確認した淡い光は、次に右手を少年の左頬に当て、親指で少年の左の下眼瞼を押し下げる。瞼の下から現れた、まるで黒曜石のような瞳。その瞳、瞳孔の広がりに異常がないことを確認する。

 胸や顔に触れられている間も、少年の顔は不快だったりくすぐったそうだったり、そんな外からの刺激に対する反応を、その表情には一切浮かべない。深く深く、眠っている。

 

 日課である少年の体の健康チェックを終えた淡い光は、少年の伸び放題の前髪を手で梳き、少年の顔から払い除けた。卵のような輪郭の少年の顔を、暫し見つめる。

 

 少年と一緒に2人で座る座席から少し身を乗り出し、座席の下へと腕を伸ばす。淡い光の手が座席の下で何かを掴み、それを少年の胸元へと運んだ。背後から少年を抱き締める淡い光は、少年のお腹の上で座席の下から取り出した物のフィルム包装を破り、中身を取り出す。中身は固形タイプの高カロリー食。包装を破った瞬間に液体に触れてふやけ、溶け始める高カロリー食を、淡い光はその顔の近くに寄せた。少女の形をした淡い光は口を開くと、棒状の高カロリー食を咥える。もぞもぞと細い顎を動かして、咥えた高カロリー食を口の中へと吸い込んでいく。全てを口の中に収めたら、咀嚼を繰り返し、口の中の高カロリー食を噛み砕く。十分に噛み砕いたら、口の中のそれを飲み込…。

 飲み込まない。

 淡い光は口の周りをもごもごと動かしながら、右手に残っていたフィルム包装を宙へ投げ捨て、改めて少年の体を抱き寄せると、左手は少年の胴に回したままで、右手で少年の顎を挟んだ。

 少年の顎を挟んだ右手に少し力を籠めると、ずっと閉じられていた少年の下顎が下がり、口がぱかっと開いた。

 淡い光は、もごもごと動かしていた自身の口を、ゆっくりと少年のぱかっと開いた口に近付ける。開いた少年の喉の奥が見える位置にまで近づいたら、今度は淡い光の口もぱかっと開いた。

 少年の開いた口と、淡い光の開いた口が交差する。

 淡い光の唇を押し付けられた少年の唇が、醜く歪む。

 お互いの口と口がしっかりと連結したことを確認した淡い光は、口の中で食塊と化した高カロリー食を、舌でぐいっと押し出す。押し出された食塊は淡い光の歯と歯の間を通り抜け、唇の間を通り抜け、やがて少年の口の中へと辿り着く。

 淡い光の口が、少年の口から離れる。円筒状の空間を満たす液体とは別の、粘着性のある液体が、淡い光の唇と少年の唇との間に糸を引いた。淡い光はその位置を手刀で断つと、少年の顎を挟んでいた右手から力を抜き、さらに左手で少年の下顎を押し上げ、口を閉じさせる。

 淡い光は左手で少年の下顎を支えたまま、右手は少年の額に当てた。そして、額を少し押し、顎を浮かせ、少年の頭部を後屈させる。未発達な喉ぼとけを注意深く観察し、口の中に含んだ食塊が口の奥へと流れ、咽頭に差し掛かった瞬間に、今度は顎を引かせ、頭部を前屈させる。そして喉ぼとけの動きを、注意深く観察する。どうやら、口の中の食塊は気道に入ることなく食道を通過し、無事、胃の中に収まったらしい。

 淡い光は次のフィルム包装を破ると、中身の固形タイプの高カロリー食を口に含み、咀嚼する。少年の口を開けさせ、自身の口を少年の口に寄せ、口の中身の食塊を少年の口へと移す。

 

 少年に1日に必要なカロリーの半分を与え終えた淡い光は、唾液と食べこぼしで汚れた少年の口の周りを、伸び放題になった淡く光る髪の端っこで拭いてやる。食事は1日2回。12時間後に、また同じ行為を繰り返すことになる。

 

 

 朝食を終えると暫くはすることがない。

 少年を背後から抱き締めながら、座席に深く身を預けていた淡い光。その淡い光の、赤みを帯びた目が、瞬きをするように小刻みに光った。

 すると無機質な金属製の壁で形成されていた筒状の空間の中の照明が落ち、一瞬だけ真っ暗闇になる。しかしすぐに頭上にはぽつぽつと幾つもの燐光が広がり始め、そして足もとにはまるで絨毯のように淡い赤の光が広がり始めた。

 

 燐光。それは闇の中に瞬く星々だった。

 絨毯のような淡い赤の光。それは幾層もの大気に包まれ、薄っすらとした光を纏う惑星だった。

 筒状の壁は、外部カメラから送られる360度映像を、リアルタイムで映し出していた。

 

 

 眼下に広がる赤い大地、赤い海。

 そこは少女の形をした淡い光が生まれた場所。

 淡い光の腕の中で眠っている少年にとっての故郷。

 

 筒状の空間の半分から下一杯に広がる赤い惑星。

 それをぼんやりと見下ろす淡い光の瞳に、しかし望郷の情は宿らない。

 そこは確かに少女の形をした淡い光にとっての生まれた場所であり、その半生を過ごした場所ではあったが、そこが淡い光にとって拠るべき場所、故郷であるという認識は些かもなかった。

 

 では、淡い光の腕の中で眠る少年にとってはどうか。

 少年は目を閉じたままでいるため、眼下に広がる惑星への想いを顔に宿すことはない。

 そもそも、少年は自身が故郷の惑星を見下ろせる場所にいるということを知らない。

 そして円筒状の壁に映し出されたこの光景は、少年には決して見せてはならない光景だった。

 

 赤い海。赤い大地。

 この惑星が、28年前までは、青い海、緑の大地であったことを、淡い光は知識として知っていた。おそらく、少年も知っていた事だろう。

 そして14年前までは、海こそすでに赤く染め上げられていたが、大地はまだ豊かな緑を抱えてたことを、淡い光は見て知っていたし、少年もまた見て、知っていた。

 

 そして今、眼下に広がる惑星。

 赤く染め上げられた海。

 赤く染め上げられた大地。

 大気圏内に浮かぶ白い雲以外、全て赤く染まった惑星。

 赤く爛れた惑星。

 この惑星の姿。

 故郷の姿は、決して少年の目に留めてはならない光景だった。

 

 

 そしてあの惑星の住人のほぼ全てが、少年を憎んでいる。

 少年を、世界の破壊者であると信じている。

 それを知った時、硝子のように繊細で傷つきやすい少年の心は、今度こそ粉々に割れ、砕け散ってしまうに違いない。

 だから、絶対にこの惑星の姿を、少年に見せるわけにはいかなかった。

 

 それでももし、何かの間違いで、少年が変わり果てた世界を目撃してしまって。

 それでもなお少年は、故郷に帰りたいと願うかも知れないから。

 

 それは何時のことになるか分からないけれど。少年が、この惑星の住人に赦されるのは、遠い遠い未来のことかもしれないけれど。一世代くらいは循環しなければならないかもしれないけれど。人々の記憶が風化し、そのような大厄災が起きたことなど誰も覚えていない日が来るまで待たなければならないかもしれないけれど。それは、何十年、何百年先のことかもしれないけれど。その時までに、この惑星が、人類が残っているかなんて、分からないけれど。

 

 いつか、彼が赦される日が来ることを信じて。

 彼が再び故郷に帰る、故郷の土を踏む、その日のために。

 

 彼がまた、人として生きていける日が来ることを信じて。

 笑いながら、皆と生きていける日が来ることを願って。

 

 その日が訪れるまでは、どんなことがあっても彼の身を護り続ける。

 彼を傷つけ、その存在を脅かすものと戦い続ける。

 相手が誰であろうと。

 かつての仲間たちであろうと。

 敬愛すべき人であろうと。

 

 彼を護るために。傷付けないために。

 そのためには、あらゆる努力を尽くす。

 この身にならできること。この身にしかできないことをする。

 後悔などない。

 彼に大罪を背負わせてまで救われた命は、彼のために使い、彼のために散らすべきだから。

 

 赤い瞳に赤い惑星を宿らせ、少年の胸をひしと抱いた。

 淡い光の背が、座席から離れる。

 少女の形をした淡い光と、少年の体が、宇宙空間の中を漂う。

 少年の漆黒の髪と、淡い光の青白く光る髪が深く絡み合い、液体の中を揺蕩う。

 

 

 

 けたたましいブザー。

 宇宙空間のそこかしこに、四角で囲われた『警告』の文字が浮かび上がる。

 淡い光の目が瞬きをするように明滅すると、筒状の壁に映し出されていた宇宙空間の一部が切り取られ、拡大される。

 赤い惑星の赤い大地。その一角に浮かぶ、幾つもの白い点。地上から飛び立つ、幾つもの飛翔体。それらはすでに大気圏を超え、宇宙空間へと飛び出そうとしている。

 

 淡い光は少年を座席へ寝かし、その体をシートベルトで固定する。

 狭い空間の中に鳴り響く、耳障りなブザー。それでも少年は瞼一つ動かすことなく、深い深い眠りの中に落ちている。

 淡い光は手で少年の顔に纏わりつく長い髪を左右に掻き分けた。長い髪の奥から、少年の幼さを残した顔が露わになる。

 少年の頬を一度だけ撫でた淡い光は、少年からそっと手を離した。

 淡い光が少年から離れ、宙に浮いていく

 

 

 少年の顔を見つめる淡い光。その目が瞬きするように明滅を繰り返すと、周囲に映し出されていた映像が消え、筒状の壁が現れた。

 淡い光の四肢が、少しずつ透明になっていく。

 淡い光の体が、筒状の空間を満たした液体の中に、少しずつ溶けていく。

 

 

 

 淡い光が溶けて消えてしまうと、筒状の空間は薄闇に包まれた。

 座席には一人残った少年の体。

 その瞼が最後に自発的に開いたのは10年も昔。

 彼は筒状の空間を揺りかご代わりに、下界で起きていることなど知らないまま、10年経った今も深い深い眠りに落ちている。

 

 

 

 




 


 ラブシーンのつもりがホラーになっちった。


 


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(30)

 

 

 

 

 冬月コウゾウは完全自律のVTOL機の窓から、眼下に広がる景色を無感動に見下ろしていた、

 VTOL機の下に広がるのは赤い荒野。その広大な荒野を埋め尽くすように並べられているのは、無数の投石器。何世紀も前に戦場から姿を消したはずの攻城用兵器が、現代の戦場で再びその雄姿を示そうとしている。

 この作戦に投入された前時代的な投石器たちは、現代版として様々な改良が加えられている。一見して分かりやすいのは、かつて木製だった器体は金属製へと置き換えられ、そしてとにかくバカみたいにデカかった。荒野という周りに比較対象が少ない場所に並べられているが、もしここが街中であったり渓谷であったりしたならば、ビルよりも遥かに高い、山よりも遥かに大きい投石器が居並ぶ姿はさぞ壮観だったことだろう。

 

 冬月がたった一人で見守る中、ついに投石器たちが稼働を始めた。その投石器はトレビュシェットと呼ばれるタイプのもので、支点となる軸にシーソーのようなアームが取り付けられ、片方に重り、片方に投擲物を入れるための籠がぶら下げられ、テコの原理によって投擲する仕組みである。

 

 稼働を始めた投石器たちから次々に空へ向けて飛ばされる投擲物たち。山のような巨大な重りの落下エネルギーと超高層ビルのようなアームの回転エネルギーによりって、投擲物たちは地球の重力という呪縛をも打ち破り、空の彼方へと消えていった。

 莫大な予算と資材と時間を費やして拵えた投石器たちだが、無論、石ころを空に飛ばすためにこれだけの数を揃えた訳ではない。

 投石器たちによって、空の彼方へと飛ばされる投擲物たち。それらは、人の形をしていた。

 バカみたいにデカい投石器の籠に乗せられ、空へと飛ばされる人の形をしたそれもやたらとデカかった。

 人の形をした巨大なもの。巨人。

 頭部が頭蓋骨という悪趣味極まりない造形をした巨人。

 エヴァンゲリオン・マーク7。

 10年前に起きた戦闘で破壊されてしまったオリジナルの機体を再利用し、量産化された巨人たちは、投石器の籠に乗って、次々に空へと放り投げられていく。

 荒野を埋め尽くす無数の投石器群。その投擲物であるマーク7の数もまた膨大だった。

 空から見下ろせば蟻の群れのようなマーク7たちは、割り当てられた投石器の後ろに行儀よく並び、空に向けて放り投げられるのを大人しく待っている。

 

 順番が回ってきたら、アームの籠の中に座り、体を折りたたんで丸くなる。巨大な重りとマーク7が自ら発するATフィールドの反動によって、地面に置かれていた籠は空高くへと瞬時に舞い上り、マーク7の体は宙へと放り出される。

 文字通り、投げられたマーク7は地球の重力に逆らってぐんぐん高度を増していく。

 対流圏を超え、成層圏を超え。

 真っ青だった空は、いつの間にか濃紺の空へと変わり、視線を下に移せば赤く染まった大地、赤く染まった海が空気の層に覆われて淡く光っている。

 マーク7は、宇宙空間へと飛び出していた。

 宇宙へと次々と飛び出して行くマーク7の群れ。ある程度重力から解放される高度に達したら、背中に背負ったスラスターを使い、軌道修正を行いながら、彼らはある一点を目指していく。

 彼らが目指す先。

 幾つもの閃光が瞬いている。

 先行していたマーク7たちと、彼らが目指す先で待ち構えていたものたちとの間では、すでに激しい戦闘が繰り広げられていた。

 

 

 

 それは数百基に及ぶ軍事衛星から成る防御システムだった。

 14年前まで地上に存在していた国々が製造し、打ち上げ、運用していた軍事衛星たち。14年前の厄災により、それらの国々の殆どが地図上から消え、地上からのコントロールを失い、周回軌道を彷徨っていた軍事衛星たち。

 それらをかき集めて構築された防御システムは、実に効率的・効果的に運用され、統一された指揮系統のもとに完璧な連動を見せ、この数年間、この防御システムの突破を試みようとした敵たちを、悉く撃退していた。

 全方位に張り巡らされた一切の死角のないレーダー・ソナー類はどのような侵入物も見逃さず、定めた防衛ラインを突破したものに対しては警告を発し、警告が無視されればそれが自然物の隕石であろうとただの宇宙デブリであろうと、光学兵器や電磁加速砲、ミサイルなど、搭載されたあらゆる兵器を駆使して破壊していた。

 それらは正に宇宙の覇者だった。

 宇宙の覇者は陣営に属さない人工衛星についてはたとえ軍事利用を目的としていない人工衛星であっても片っ端から拿捕し、あるいは破壊し尽くした。

 そしてその宇宙の覇者が定めた地球方面に対する防衛ライン。

 それは地上より400キロメートル上空。

 即ち、大気圏。

 宇宙の覇者は、地上から宇宙への飛翔を試みる人工物を、宇宙空間に達する前に破壊し尽くした。

 

 凡そ70年前に最後の未開の地である宇宙への進出の第一歩を踏み出した人類。以後、彼らは宇宙空間における活動圏を貪欲に広げてきたが、世紀を跨いで四半世紀以上が過ぎ、地上での生存圏をかつてないほど奪われた今日。宇宙とも隔絶され、不毛の地と化した地球に閉じ込められた人類は、地上に僅かに残された辛うじて人の存在が許される土地での活動を強いられていた。

 

 しかし、この日。

 ついに人類は、空を塞ぐ巨大な蓋を打ち破ることになる。

 

 もっともこの日、人類の尖兵たちを宇宙空間へと送り出した特務機関ネルフが目論むのは、人類の生存圏拡大などではなかった。空を塞ぐ蓋、防御システムが護ろうとしているもの。それを奪取するために、大量のマーク7を宇宙空間へと放ち、防御システムの破壊を目指していた。

 

 

 背負ったスラスターを操作して軍事衛星群へと向かっていくマーク7の群れ。しかしまともな兵装を持たないマーク7たちは、軍事衛星から放たれる光学兵器や電磁加速砲などによって、無残にも次々と撃ち落されていく。あっという間に、広大な宇宙空間の一角は、マーク7の死体(?)によって埋め尽くされた。

 それでもなお、マーク7は続々と地上からやってくる。撃墜されるためだけに、健気に宇宙空間へと飛び出してくる。

 

 ネルフがこの防御システム破壊のために企てた作戦。それは極めて単純なもので、防御システムが処理しうる限界を遥かに超えた物量を一斉投入するというものであった。加えて宇宙空間へ飛び立とうとする熱を帯びた飛翔体は大気圏を飛び出す前に防御システムの格好の的になってしまうため、投石器での飛翔方法を用いたのだった。

 

 広大な宇宙空間は瞬く間にマーク7の死体によって埋められていくが、それらは有効な遮蔽物として軍事衛星らによる狙撃を妨害し、マーク7の侵攻を容易にしていく。築き上げられる死体の山と、軍事衛星らが築く防御ラインとの間が、徐々に近づいていく。軍事衛星の中にはエネルギー切れや弾切れを起こすものも発生し、防御システムが張り巡らせる弾幕は目に見えて薄くなっていった。

 そして遂に仲間の屍と敵の弾幕を乗り越えるマーク7が現れ始める。彼らは片っ端から軍事衛星に取り付き、何の武器も持たされていない彼らは口を大きく開け、取り付いた軍事衛星へと噛り付いていく。

 あちこちで軍事衛星の爆発が起き、防御システムは崩壊を始めた。

 防御システムの第1層を突破し、続いて第2層が彼らを待ち受けるが、マーク7の群れがするべきことは変わらない。死体の山を築きながら軍事衛星へとにじり寄り、軍事衛星へと取り付き、噛り付き、破壊する。それをひたすら繰り返す。

 

 防御システムは第12層まで続いた。

 ネルフが本作戦のために用意したマーク7とて、無限ではなかった。防御システムが張り巡らせる弾幕によって築かれたマーク7の死体は膨大な数に及び、それらはやがて地球の周回軌道上を回り始め、一時的に地球の周りに土星や木星のような惑星の環を発生させるほどだった。もはや地上には、宇宙空間に放り投げられるために待機しているマーク7の在庫はない。

 そして宇宙空間で健在なマーク7の数も、片手の指で数え切れる程度しか残っていなかった。

 それでも現代の宇宙空間で「肉を以て弾と成す」を実践したマーク7たち。彼らの努力はもう間もなく結実しようとしてる。

 攻撃力を有している軍事衛星はあと1基のみ。旧世紀の重機関砲を擁するその衛星は、飛び掛かってくるマーク7に鉄の塊を叩きつける。粉々になったマーク7の後ろから、さらに別のマーク7が衛星へと迫る。そのマーク7も機関砲によって爆散するが、ついに機関砲の弾は底を尽き、残りの3体が衛星に取り付いた。マーク7に噛り付かれた衛星は爆発を起こし、取り付いたマーク7諸共宇宙の藻屑となった。

 

 

 ここに、宇宙の覇者として君臨した防御システムは崩壊した。

 用意していたマーク7軍団が全滅するという大損害を被ったネルフだが、それでも彼らは未だに作戦の目的を達成していない。彼らの目的は、防御システムの破壊ではないのだ。そして最終目標を達成するために、彼らは最後の一手を投じる。

 地上から、宇宙空間に向けて放り投げられた最後の投擲物。それは、人の形はしていない。まるでサイコロのような、立方体を成している。

 その立方体はマーク7たちの残骸の環を抜け、軍事衛星たちの残骸の環を抜け、彼らが目指そうとし、彼らが護ろうとしたある物体へと、真っすぐに飛んでいく。

 

 

 周回軌道上を高速で移動するそのコンテナは、これといった兵装もなく、これといった動力機関もない。ただ、彼らの母星の引力に引かれながら宇宙空間を漂うだけの物体。しかし十字架のような形を成したこのコンテナこそが、地球の空に蓋をし続け、あらゆる侵入者を拒み、破壊し、人類を地上へと閉じ込め続けた防御システムの中枢だった。

 

 その中枢が今、大変無防備な状態で宇宙空間を漂っている。

 

 地上から飛来したサイコロ状の物体は、あっという間にコンテナとの距離を詰め、ついにはその表面に貼り付いた。

 コンテナと接触した部分からは無数の細長いケーブルが伸び、コンテナの壁を貫き、その内部に収められているものに浸食を始める。

 

 

 

 



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(31)

 

 

 

 

 その組織が産声を上げてから早くも14年が経過しようとしている。

 長年の闘争、幾度もの統合、分裂を経てこの日を迎えた反ゼーレ・ネルフ組織。

 すでに地図上には存在しない西洋のある国の言葉で「意志」の意味を持つ、その名もヴィレ。

 

 その名前が初めて歴史の表舞台に現れた日。それはヴィレにとってゼーレとネルフに対して反旗を翻した記念すべき日であり、また同時に抜群の求心力と行動力で一研究機関に過ぎなかった海洋研究開発機構を反ゼーレ・ネルフ勢力の旗手にまで押し上げた組織の創立者、加持リョウジをサードインパクトによって失うという悲劇の日でもあった。

 加持という優れた指導者を失ったヴィレは、その後継者を巡って迷走することになる。創立者の未亡人が指導者の地位を引き継ぐことで内部ゲバルトの様相さえ呈していた後継者問題は一応の鎮静化をみたが、ネルフの元幹部が反ネルフ組織のトップの地位に就くことをよしとしない反主流派の中には大きな火種が燻ることになり、亡き夫の志を継いだ葛城ミサトは、組織運営において薄氷を踏むような難しい舵取りを強いられる羽目となる。

 

 葛城ミサトはネルフ時代に培った人脈を駆使して、主を失い軍閥化していた元国連軍と共同戦線を張ることに成功し、数ある反ネルフ・ゼーレ組織の先陣を切って、ネルフ本部への大攻勢を仕掛けた。この戦いでヴィレはネルフ所有のエヴァンゲリオン2機の奪取と、1機の破壊に成功。さらに建造中の一番艦と、世界を厄災の業火に包んだニア・サードインパクトとそれに続くサードインパクトのトリガーとされる初号機をそのパイロットごと宇宙空間へ投棄させたことは、ゼーレ・ネルフの計画を大幅に遅らせたと言われている。

 一方でヴィレ・元国連軍共同戦線側も大損害を被ったが、ゼーレ・ネルフとの闘争における主導権争いを元国連軍との間で繰り広げていたヴィレにとっては、元国連軍の壊滅という事態はむしろ好都合に働いた。難民キャンプへ手厚い支援を行うことで民衆からの支持を取り付ける事にも成功したヴィレは、反ゼーレ・ネルフ陣営における最大組織へと成長を遂げ、最高幹部である葛城ミサトは反ゼーレ・ネルフの象徴として祀り上げられることになる。

 

 星の数ほどあった反ゼーレ・ネルフ組織を次々と吸収したヴィレに、再度のネルフ本部への大攻勢の期待が高まったが、最高幹部・葛城ミサトは意外な行動に出る。

 衛星軌道上に投棄したネルフ建造の戦艦ヴーゼの鹵獲作戦である。

 宇宙空間という特殊な条件下での作戦行動は困難を極め、幾度も重ねられた失敗は莫大な資金、資材、人材を浪費することになる。

 ヴィレはこの作戦に多大な労力を払う理由を、戦艦とその中に格納されている初号機が再びネルフの手に渡ることを防ぐため、ひいては来るフォースインパクトを未然に防ぐためと説明していた。ところが艦本来の所有者であるネルフにこの艦の奪回に向けた明らかな動きはなく、ヴィレの戦力の大半を投じてまで宇宙空間での作戦を続けるよりも、ネルフへの直接攻撃に戦力を集中するべきだという意見がヴィレの内部でも主流を占めていた。そんな反対意見を押し切ってまで葛城ミサトがこの艦に固執するのはそれが亡き夫が残した遺産であるからということは誰の目にも明らかであり、組織の私物化であると葛城ミサトを非難する声が方々から上がる中、10回目を重ねたこのUS作戦においてヴィレは軌道強襲艇を用いた接舷攻撃によって遂にこの艦の拿捕に成功した。

 

 組織の創立者が残した遺産とは何なのか。彼がネルフの副司令時代に秘密裏にこの艦に施した仕掛けとは何だったのか。戦艦ヴーゼに乗り込む葛城ミサトを含むヴィレ先遣隊の期待は大いに高まったが、しかし艦には彼らが期待したような、敵の計画を挫くための強力な武器もなければ地上で滅亡の危機に喘ぐ人類を救うための新装置もなく、がらんどうの格納庫だけが鈴なりのように並ぶ艦内に、彼らは愕然と立ち竦むしかなかった。

 この作戦に費やされた膨大な労力に対して得られた戦果はただの運搬船一隻ではとても釣り合わず、ヴィレの内部で葛城ミサトに対する非難が再燃する中で、それでもなお葛城ミサトはこの艤装途中でとても戦力になるとは言い難いヴーゼを、ヴィレの軍事拠点として運用することに拘った。

 ヴーゼ、やがてヴンダーと名を改められることになるこの艦には、兵装はおろか動力源すら搭載されていない。

 幹部の一人、赤木リツコはヴィレがこの艦を宇宙空間へと投棄する際、同時に投棄したエヴァンゲリオン初号機を動力源に用いたと説明しているが、初号機の姿は艦内の何処にも見当たらなかった。葛城ミサトは多くの反対を封殺し、宇宙空間における初号機の捜索を命じた。

 

 周回軌道上を漂う宇宙デブリ群の中に、コンテナに偽装した初号機を発見したのは、捜索開始から1年が経過した頃だった。

 葛城ミサトは直ちに第二次US作戦の発動を指示。ヴーゼを拿捕した時と同様に、軌道強襲艇によるコンテナへの強行接舷を試みる。

 

 そしてその日以来、人類は宇宙と隔絶されることになる。

 

 コンテナに格納された初号機。その初号機の中に潜む「何か」。

 ヴィレがヴーゼの拿捕に躍起になっている間に、密かにヴーゼから離艦していた初号機とその中に潜む「何か」は、宇宙空間に漂う無数の軍事衛星を密かにかつ尽く接収し、宇宙空間に強力な攻撃システムを築き上げていた。

 コンテナに近づいたヴィレの行いは、スズメ蜂の巣を突く行為に等しかった。無数の軍事衛星からなる攻撃システムはヴィレが放った軌道強襲艇の接近を拒んだ後、地球全域にまでその攻撃網を張り巡らせる。それらは言わば空を塞ぐ巨大な蓋であり、地上から宇宙へと飛翔を試みる人工物を尽く破壊した。

 失敗を重ねるヴィレは一時的に弱体化。その間、ヴィレとは思想を共にしない他の武装組織が勢力を盛り返すが、彼らもまたそれぞれの事情によるそれぞれの思惑から、相次いでコンテナへの接近、接触、交渉、攻撃などを行うが、彼らの試みもまた尽く失敗した。

 

 

 後に、滅亡にあえいでいた人類同士の争いに対する冷笑を籠めて「空白の14年」と称されるこの期間は、前期と後期に分けられる。

 その前期はネルフと、ヴィレを代表とする反ゼーレ・ネルフ組織との抗争の期間。

 そして後期は、あらゆる武装組織と、宇宙空間を漂う初号機、その初号機の中に潜む「何か」との戦いの期間。

 後期において、ネルフは各地で反ゼーレ・ネルフ組織との戦闘を繰り広げつつも、少なくとも周回軌道上の初号機に対しては明確な介入の動きを見せなかった。月の住人たちがその所有を主張してコンテナに対して行った所業は、原子炉又は熱核兵器搭載型の人工衛星の体当たりによって軌道を変えさせられた小惑星を月面に向けて雨のように降らされるという形で報われたが、ネルフの上位機関の本部が破壊される間も地球上のネルフは奇妙なまでに沈黙を保ち続けていた。

 

 

 

 そしてニアサードインパクトから14年後。

 そのネルフが近々宇宙に向けて大規模な軍事行動を行うとの情報を掴んだヴィレ。

 それが初号機の奪還作戦であると予想し、ネルフが推し進める「人類補完計画」とやらがいよいよ次の段階へと進むことを予見した葛城ミサトもまた、第二次US作戦を最終段階へと進めることを決意する。

 

 

 

 おそらくこの作戦は14年に渡る長き抗争の、大きなターニングポイントとなるに違いないと感じていた日向マコトは、頭の中でこれまでの彼らにとっての14年間を振り返っていた。

 ネルフが初号機奪還に向けて、大量の飛翔体を宇宙空間に向けて打ち上げているとの情報が入ったのが32時間前。

 そしてついにその飛翔体の1つが、目標とするコンテナへの強行接舷に成功したとの情報が入ったのが、6時間前。

 ヴィレ最高司令官から作戦発動の命令が下ったのが2時間前。

 すでにパイロット2人は、日向が居る管制室の前面に鎮座する大型モニターに映し出された、天を穿つ勢いで聳え立つ2基の超大型複合式ロケットに搭乗を済ませている。いや、正確にはロケットの格納庫に収められた、人型決戦兵器のエントリープラグへの搭乗を済ませている。

 ロケットへの燃料注入はすでに済んだ。天候は上々。科学者たちが弾き出した目標物への接触を果たすための最適な打ち上げ時間まで、残り10分を切っていた。

 

 管制室後ろの扉が開き、赤いジャケットを身に纏った最高司令官が入ってきた。

 彼女が入ってきた瞬間、管制室の室温は3度ばかり低くなり、方々で聴こえたキーボードを叩く音もまるで息を潜めるように鳴り止む。葛城ミサトは何も言わず、管制室が見渡せる位置に立ち、大型モニターが映し出す映像を見つめている。その佇まいは日向たちがかつて所属し、そして今は敵対している組織の最高司令官の姿を思い起こさせ、日向に心の中で小さくため息を吐かせた。

 葛城ミサトに続いて副司令官の赤木リツコも現れ、部下たちにロケット打ち上げの進捗状況を報告させる。

「打ち上げまであと3分。全て順調です」

 日向の報告に頷いて答えたリツコは、近くにあるコンソールから伸びるマイクに顔を近づけた。

「2人とも、問題はないかしら?」

 

『はいはーい。こちとら初めての宇宙じゃ。今からわっくわくが止まらんとですよ~』

 管制室の中に、場違いなほどの陽気な若い女性の声が響く。

 そんな通信相手に、リツコの冷めた声が飛ぶ。

「ベテランのあなたたちでも宇宙空間でのエヴァンゲリオン運用は初めての経験よ。油断しないで」

『ほんにここにいると幾つなっても初体験尽くしで飽きないね~』

「あなた、本当は幾つなのよ」

『永遠の14歳だにゃん』

『くだらない』

 リツコと、陽気な声との会話に割って入る、凍てついた声。

『打ち上げまであと2分。コネメガネ。集中しなさい』

『んーもう。愛しのワンコくん迎えに行くんだから、そんな眉間に皺作っちゃだめだよ~姫~』

『あいつのことはどうでもいい。あたしたちに必要なのは初号機だけ』

「情報が入りました」

 2人の若い女性の会話の間に、今度は日向の声が割って入る。

「ネルフはすでに目標物周辺に複数の防衛網を敷いているようです」

「聴こえたかしら。このオペレーション、エヴァンゲリオン初の宇宙空間での戦闘になる可能性が高いわ」

『もとよりそのつもりだから問題ない。ポッド・ツー・ダッシュ。打ち上げに集中したい』

 

「打ち上げ予定時刻まで残り1分です」

 

 リツコはマイクから顔を離し、翻って最高司令官を見た。

 ミサトはリツコの視線を受けて、一度だけ頷く。

「最高司令官より本作戦開始の最終承認を得ました」

 リツコのその言葉を受けて、日向はコンソールの中央にあるガラス製のカバーを開き、カバーの下から現れた大きな丸いボタンに親指を乗せる。

 カウントダウンを刻むのは青葉シゲル。

「打ち上げまであと10秒、7、6・・・」

「メインエンジンスタート!」

 リツコの号令に合わせ、日向は親指でボタンを押し込んだ。

「ロケットブースター点火! リフトオフ!」

 

 大空に向けて聳える2基の超大型ロケットの底辺が大きく煌めき、次の瞬間、とてつもない爆音と共に膨大な噴射煙を吐き出す。

 

 その巨体を、ゆっくりと空に向けて浮かせ始める2基のロケット。

 

 管制室に詰めている人員の半分が宇宙へと飛び立つロケットの姿が映るモニターを見つめ、残りの半分がコンソール上の計器を見つめている中、リツコは左に3歩離れて立つミサトの横顔を見た。彼女が掛けるサングラスにはモニターに映るロケットの光が反射しており、その表情は読み取れない。

 

「2号機固体ロケットブースター燃焼に異常なし」

「目標接触予定時刻まであと900秒」

 

 リツコの視線はモニターへと戻る。

 周囲の誰にも聴こえない程度の声量で呟く。

 

「シンジくん…。今、私たちのお姫さま2人が、あなたを迎えに行ったわ…」 

 

 視線を横にずらすと、大型モニターの隅には地球を表す円が描かれ、その円の周囲を楕円が囲っている。それは、今飛び立った2基のロケットが目指す目標物が描く周回軌道。

 その楕円を見つめるリツコの目が厳しくなる。

 

 

「初号機を返してもらうわよ…、レイ…」

 

 

 

 



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(32)

 

 

 

 

 

『ポッド・ツー・ダッシュ、妨害物コード4Bの排除に成功』

 

 

『交戦中、目標物に12秒間の覚醒を確認。司令部に作戦継続の是非を問う』

 

 

『了解。作戦は続行。予定通り、ポッド・ツー・ダッシュは目標物を確保したまま大気圏へ再突入せよ』

 

 

『了解。ポッド・ツー・ダッシュは再突入シークエンスへ移行する。』

 

 

『ポッド・エイトの帰還を確認。着地点の座標を送る』

 

 

『座標を確認。回収班を向かわせる』

 

 

『ポッド・ツー・ダッシュ、高度200キロメートル地点を通過。ATフィールド展開を確認。機体表面温度、基準内を維持』

 

 

『ポッド・ツー・ダッシュ、着地予測地点の座標、出ました。予定地点の天候、クリア』

 

 

『ポッド・ツー・ダッシュ、高度20キロメートル地点を通過。目標物を切り離す』

 

 

『切り離しを確認。目標物のパラシュート展開まであと10秒、8、7…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜空を駆ける一筋の彗星。

 まるで星空のキャンバスの上に、光を纏う絵の具を走らせたような彗星の軌跡を、地上から見上げる少年が一人。

 少年は彗星に向かって静かに語り掛ける。

 

「お帰り、シンジくん。待っていたよ」

 

 少年が見つめる先にある青白い光を引きながら流れていく彗星。その彗星はやがて2つに分離し、1つは地上に向かって少しずつ高度を下げていっている。少年の目は2つに分離した彗星のうち、地上に向かって落下している方を追っていた。

 遥か彼方に聳える山々の稜線の向こうに消えていく彗星。高度を保っていたもう一つの彗星も、地平線の彼方へと吸い込まれていく。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 その頭上に満天の星空を抱く赤い荒野。そこに、数機のVTOL機が着陸する。地上へと下ろされたタラップを伝い、対L結界用防護服に身を包んだ物々しい姿の人影が、次々と赤い地面へと降り立っていく。

 彼らの中心に立つ女性。赤木リツコは、VTOL機から数十メートル離れた位置にある大型コンテナを指さした。自動小銃を携えた2人の男性を先頭に、一団はコンテナへと向かって歩き始める。

 

 まるで散ってしまった花びらのように、周辺の地面にワイヤーで繋がれたパラシュートを広げているコンテナ。地面に着地した拍子に損壊したらしく、コンテナの側面が大きく裂け、そこからコンテナの「中身」の半分が外へ零れ落ちている。

 外へ零れ落ちているもの。巨大な腕と、巨大な顔。

 それは巨人の半身だった。

 

 コンテナの周辺に舞い散る火花。数人が大口径の電動カッターを使ってコンテナの壁の穴を広げている。拡大された壁の穴の向こう側から現れたもの。巨人の胸に埋め込まれた、巨大な赤い球状の物体。

 表面がガラス状の球体に、傷一つ付いていないことを確認した赤木リツコは、ほっと安堵の溜息を漏らしている。

 そのリツコを、部下の一人が呼んだ。

 

 リツコが呼ばれた先は、巨人の顔の部分だった。

 下顎を失い、だらんと開いた口。何本かはすっぽ抜け、並びも歪んでしまっている岩のような歯。途中で千切れてしまっている長い舌。

 部下の一人は、その舌を指さしている。

 

 舌の上に点在するもの。

 ポツ、ポツと、一定の間隔を置いて、人の足の裏くらいの大きさの何かが、舌の上に浮かび上がっている。

 

 いや、それは紛れもなく人の足跡だった。

 まるで蛍光塗料を塗った足で歩いたかのように、淡く光る人の足跡。

 その足跡が巨人の喉の奥の方から舌を伝い、地面に降り立っている。足跡はそこで終わらず、さらにコンテナから離れて、コンテナの側の大きな岩の陰へと伸びている。リツコも部下も、夜の闇夜にポツポツと浮かぶ足跡が消えていく先を見つめた。

 

 その光る足跡を追おうとする自動小銃を携えた部下を、リツコの声が制止する

「待ちなさい。私が行くわ」

「ですが…」

「私一人で行かせて。それよりも滞在可能時間は残り30分よ。ネルフの横槍が入らないとも限らないわ。それまでに、初号機の回収準備を終わらせなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ごつごつとした大きな岩が転がる荒野。この日、極端に肥大化した白い月は地球の裏側へ。白い月に代わって夜空は無数の星々によって隅々まで満たされ尽くしているが、星々のか細い光のみで寥廓たる荒野を照らし出すには、あまりにも光量が足りない。

 そんなほぼ真っ暗闇の地上。

 その地上の一角が、淡く光っている。

 

 

 その淡い光は、人の形をしていた。

 小枝のような腕と足。痩せた背中。丸みを帯びた肩、胸、腰。

 そして、膝の裏まで伸びた髪。

 

 少女の姿をした淡い光。

 その光は、何かに肩を貸しながら荒野を歩いていた。

 淡い光の左手は相手の左手首を掴んで自分の左肩へと回させ、そして右手は相手の右脇へと差し込み。

 淡い光はひと一人に肩を貸しながら、ひょこひょこのそのそと歩いていた。

 

 少女の姿をした淡い光が肩を貸しているもの。

 それは少年だった。

 華奢な体つき。白い肌。閉じられた瞼。腰まで伸びた、黒い髪。 

 

 少女の姿をした淡い光は、少年の体を支えながら歩いていた。

 一方、肩を貸されている方の少年の足は伸びたまま。少年の足は、大地を踏みしめない。2つの足は芯が抜けたように伸び切っており、淡い光が一歩進む度にずるずると地面に引き摺られている。伸び放題の黒髪の隙間から覗く目は、閉じられたまま。淡い光は、意識のない少年を肩で支えながら歩いていた。

 

 淡い光と殆ど体格差のない相手。加えて意識さえもない相手の体を運ぶのは、大人であっても容易ではない。

 時折膝が折れて尻餅を付いたり、前につんのめってしまったり。

 何度も何度も転倒を繰り返す。

 尻餅ならまだしも、前に倒れてしまえば両手が塞がっているため顔面から地面に倒れてしまうことになる。淡い光はその度に少年の右脇に差し入れた右腕を畳み、少年の体を抱き寄せ、急接近する地面から彼の体を守った。

 そして淡い光は立ち上がる。休まず、歩き続ける。少年の体を、懸命に運ぶ。のそのそと重い足取りで。ひょこひょこと、少年の重みに体を傾けながら。

 光る顔に微かに浮かぶ口を引き締めて。その隙間から覗く奥歯を噛みしめて。

 転んでは起き上がり、転んでは起き上がりを繰り返して。

 額から滴り落ちる汗のような光の顆は、頬から顎へと伝い、地面の上に薄く光る小さな水溜まりを作る。転ぶたびに伸び放題の髪の毛が宙へと広がり、その毛先からは光の粒が空へと舞い散る。

 

 淡い光の手が握っていた少年の左腕がすっぽ抜けてしまった。右肩からずり落ちそうになる少年の体を、淡い光は慌てて両腕で抱き締めて支えようとするが、その細い腕では支えきることができず、淡い光はもつれるように少年もろとも地面に倒れてしまう。

 今日何度目かの転倒。淡い光はノロノロとした動作で起き上がると、隣で倒れている少年に手を伸ばし、その体を起こそうとして。

 少年に伸ばし掛けた両手を見つめる。

 左手の親指から中指までが、まるで炙られた蝋のように溶けて無くなっていた。

 それらの指だけでなく、他の残った指も少しずつ長さを縮め始めている。右手も同様だった。

 

 「崩壊」を始めている両手を見つめて。

 何も握ることができなくなってしまった左手を見つめて。

 

 そして、目を閉じて深い眠りに付いている少年の顔を見つめて。

 

 少女の姿をした淡い光は、今度は少年の背中から両脇に腕を差し込むと、肘を曲げ腕を鍵状にし、少年の上半身を地面から浮かせた。そしてもはやただの棒と化した左腕と、まだ辛うじて手の形を残している右腕を少年の胸の前で組むと、後ろ向きに歩き始める。淡い光は、少年の体を引き摺りながら歩き出した。

 しかし数歩歩いただけで、今度は左脚の膝から下が溶け落ち、少女の姿をした淡い光はまたもやその場に尻餅を付いてしまう。しかし淡い光はすぐに腰を浮かせると、膝の先から無くなってしまった左脚を地面に立て、左右で異常にバランスの悪くなった体で立ち上がった。そして少年の体を引き摺り始める。数歩歩いていくうちに今度は右脚の踵も削れ始めるが、淡い光は構わず少年の体を運び続ける。

 淡い光から溶け出した光の粒子たちが、地面にまるで夜空に掛かる天の川のような光の帯を作り出す。目を閉じた少年はその光の帯の上に、川の上に浮かぶ小舟のように静かに身を任せ、ゆっくりと移動していく。

 

 

 少年の両脇を抱えて引き摺る少女の形をした淡い光。

 後ろ向きで移動していたため、その斜面の存在に気付かなかった。

 後ろに出した膝から下が無い左足が、何もない空間を踏む。足場を踏み外した淡い光は背中から後ろへ倒れ込んでしまい、抱え上げていた少年の体ごと、その斜面をコロコロと転がり落ちてしまう。

 10メートルほど続く斜面。淡い光と、淡い光が抱えていた少年の体は、地面を何度も跳ねながら斜面の上を転がり落ちていく。受け身を取れない少年の体を抱き締め、転落の衝撃から守る淡い光。

 深く絡み合った2人の体は、斜面が終わり地面が平らになって、ようやく止まった。

 

 少年は仰向けになって地面に倒れ。淡い光はうつ伏せになって地面に倒れ。淡い光の周囲に、朧げな光を放つ液体が染みのように広がっていく。

 

 地面に突っ伏していた淡い光の顔が、震えながらも徐々に上がる。泥だらけの淡い光の顔。その顔の一番目立つところに収まる2つの赤い瞳が、自身の左手へと向けられる。

 地面に投げられた左手。その左手が、何かを掴んでいる。

 その右手が掴んでいるものの先に視線をやると、少し離れた場所で倒れている少年がいる。

 淡い光の左手が掴んでいたものは、少年の右手だった。

 

 淡い光の左手は全ての指を失っているのに?

 

 淡い光の手が少年の手を握っているのではなかった。

 少年の手が、淡い光の手を握っていた。

 

 淡い光はすぐさま少年に向かって這い寄った。腰から下が、すっぽりと溶け落ちてしまっていることにも気付かずに。

 

 まだ指が残っている右手で、少年の顔に掛かる前髪を梳く。

 前髪の向こうから現れる少年の顔。

 瞳は閉じられたまま。

 

 淡い光は少年の顔に自身の顔を近付ける。

 少年の鼻から漏れ入る微かな、それでいて確かな吐息。

 

 少年の顔から離れた淡い光は、少年の顔を見つめる。

 少年の瞳は閉じられたまま。

 

 それでも彼の右手は、今も淡い光の左手を握って離さない。

 

 淡い光は自身の左手を握る少年の手に、右手を添えた。

 少年の手に顔を近付け、額に当てる。

 少年の手を額に当てたまま、こうべを垂れ、前屈みになる。

 まるで何かに祈りを捧げているかのような淡い光の姿。

 2度ほど繰り返された深呼吸で、淡い光の肩がゆっくりと上下する。

 

 顔を上げ、額から少年の手を離す淡い光。

 少年の右肘に、血が滲んでいることに気付いた。斜面を転がり落ちた時に出来た擦過傷だろう。

 血が滴り落ちている少年の右肘に、淡い光は顔を近づける。

 唇と唇の隙間から覗く、淡く光る舌。その舌先が、少年の右肘の擦り傷に触れる。

 擦り傷から滴る血を、舌で丁寧に舐め取った。少年の肘の上には血の赤に代わって、淡い光る舌先から分離した青白く光る液体が残る。

 

 淡い光は、なおも淡い光の右手を握り続けていた少年の左手を外し、彼のお腹の上に乗せた。

 視線を下の方へ移したところで、淡い光はようやく自身の下半身が無くなっていることに気付く。

 もはや歩いて移動することも叶わなくなったこの事態に、しかしなおも淡い光は諦めること知らず、右手を少年の右脇の下に挿し込んで背中に回し、背中を地面から浮かせると、左腕は地面に付いた。

 その左腕を地面に付いたまま胸元へと手繰るように動かすと、その反動で淡い光の体が僅かに前に進む。淡い光の右腕に抱えられた少年の体も僅かに進む。

 その距離はほんの数センチメートル。本当に取るに足らない距離だったが、それでも確かに淡い光と少年の体は前に進んでいた。

 淡い光は匍匐による前進を繰り返した。

 芋虫のように、地面を這い続けた。

 

 

 

 

 足音がした。

 少女の姿をした淡い光は咄嗟に動きを止め、足音がする方へと視線を向ける。

 2人が転がり落ちた斜面の上から聴こえる足音。

 シャリ、シャリと、赤く爛れた大地を踏みしめる足音。

 だんだんとこちらに近づいて来る足音。

 

 淡い光は、慌てたように周囲をきょろきょろと見渡す。しかし隠れる事できるような都合の良い場所など、どこにもない。

 淡い光は、咄嗟に少年の体の上に覆い被さった。まるで、その細い体で、あるいは膝まで伸びる長い長い髪で少年の姿を覆い隠そうとでもしているかのように。

 彼の姿が、誰の目にも留まらぬように。

 彼の存在を、世界から隠すために。

 

 

 そんな少女の姿をした淡い光の後姿を見て、足音の主は呆れたように薄く笑う。

 

「あなた。体中をそんなに光らせておいて、それで隠れたつもりなの?」

 

 その声に、淡い光はそっと顔を上げ、後ろを振り返る。

 

「久しぶりね、レイ。こうして顔を合わせて話すのは14年ぶりかしら」

 

 防護服のバイザー越しに、金色に染めた髪を短く纏めた女性の顔が見えた。

 

 

 

 



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(33)

 

 

 

 斜面の途中で足を止め、斜面の下を見下ろす人物。

 気密性を極限まで高めたオレンジ色の防護服に身を包んだ女性。

 赤木リツコの姿を認めた少女の形をした淡い光は、その体の下に隠していた少年の体を守るように抱き寄せる。

 そして睨み付けるように、あるいは怯える様に、目を細めてリツコの顔を見つめた。

 

 そんな淡い光の反応に、リツコは口許に笑みを浮かべる。

「あなたにもそんな顔、できたのね」

 

 少なくとも自分の記憶の中に、感情というものを宿らせた彼女の顔は刻まれていない。久しく会わなかった間に随分と人間の真似が上手くなったものだと感心しながら、リツコは淡い光と淡い光が抱き締める少年に近づこうと、右足を前に出した。

 右足で地面を踏みしめ、続けて左足を前に出そうとして。

 

 リツコの足もとに、石ころがころころと転がった。

 

 左足が地面に付いたら、今度は右足を前に出そうとして。

 

 やはり、リツコの足もとに転がってくる石ころ。

 

 リツコが一歩、また一歩と歩みを進める度に、前から飛んでくる石ころ。

 

 リツコは歩みを止め、石ころが飛んでくる方向を見つめた。

 リツコの視線の先には、目を閉じたままの少年を抱き締める淡い光。

 

 試しに、右足を前に出してみる。

 するとすかさず淡い光は手近にあった石ころを右手で拾い上げ、リツコに向かって投げた。

 今度は左足を前に出してみた。

 するとやはり淡い光は手近にある石ころを拾い上げ、リツコに向かって投げ付ける。

 今度は右・左と、2歩続けて前に出てみた。

 淡い光は右手で2つの石ころをいっぺんに拾い上げ、リツコに向かって放り投げてくる。

 放り投げられた2つの石ころのうち、1つは明後日の方向に飛んで行ってしまったが、一つはリツコの右の脹脛に当たり、そのまま足もとに落ちてころころと転がっていった。

 

 リツコが歩みを止めても、淡い光は石ころを拾い上げては、リツコに向かって放り投げるという行為を繰り返す。

 拾っては投げ。拾っては投げ。

 小さな手で石ころを掴み上げ。細腕を振るって。

 質量も乏しければ勢いもない石ころは、宙をひらひらと力なく舞い、ほとんどは目標物に辿り着くことなく地面に落ちてしまうが、いくつかはリツコまで辿り着き、足に、腕に、お腹に当たって、リツコの足もとにころころと転がる。その辛うじてリツコの体まで到達した石ころでさえも、リツコが着る分厚い防護服の前にはほんの少しの衝撃も中身の体にまで伝えることはできていない。

 それでも淡い光は繰り返す。

 歯を噛みしめながら。懸命に腕を振って。

 近寄らせまいと。

 「彼」には何人たりとも触れさせまいと。

 

 「彼」を護るために。

 「彼」が何も見なくて済むように。

 「彼」の安寧の日々を守るために。

 

 石ころを拾っては投げ。

 

 石ころを拾っては放り投げる。

 

 「彼」の眠りを守ってきた軍事衛星を駆使した防御システムはもはやない。

 ないから。

 あらゆる脅威を排除する光学兵器やミサイルはもうないから。

 

 だから代わりに石ころを拾って投げた。

 目の前に迫る脅威を排除するために。

 

 石ころを拾っては投げつけた。

 

 

 少女の姿をした淡い光の細腕から投げられた石ころの一つが、有機ガラスで出来たヘルメットのバイザーに当たった。銃弾をも通さない強度を誇る有機ガラスを、ひょろひょろと飛んできた石ころが傷付けることができるはずもなく、その石ころはバイザーの表面に染みのような汚れを残しただけで、リツコの足もとに転がり落ちていく。

 有機ガラスで囲まれた視界の隅にできた染みを見つめて。

 ついにリツコは堪えきれなくなった。

 

「ふふふふはははははっ!」

 

 大きな笑い声を上げるリツコの口から漏れる呼気が、完全密閉されたヘルメットのバイザーを曇らせる。

 身を捩らせて笑うリツコを前に、次に投げるために握って石ころが、淡い光の右手から零れ落ちた。

 

「はははっ! うふふふっ」

 

 リツコは腹を抱えながら笑い続けている。淡い光は石ころを拾い上げるのを止め、左腕の中にある少年の体に右腕も重ね、唇を噛みしめながら少年の華奢な体をぎゅっと抱き寄せた。淡い光の顔が、伸び放題の前髪に隠れてしまう。

 

 笑い過ぎて目尻に溜まった涙を拭いたかったが、ヘルメットが邪魔をするので何度か瞬きをして目尻の涙を絞り落とした。

 だって可笑しいじゃないか。

 10年に渡って世界の空を封鎖し続け、10年に渡って人類を地球に閉じ込め続け、10年に渡って我々ヴィレの挑戦を尽く退け続けた、宇宙の防御システム。その中枢にしてこの10年間、ネルフを凌ぐ世界最大の敵であったものの成れの果てが、目の前のコレ。目の前に居て、少年を抱き締めながら、地べたの石ころを拾っては、ぽいぽいと投げてくるコレ。

 滑稽でしかなかった。

 こんなものの相手に多大な労力と資金、時間を費やしたのかと思うと、この10年間を呪いたく、いや、むしろ笑い飛ばしたくなってくるこの衝動は、人として正常の反応ではないだろうか。

 

 こんなに笑うのは何時以来だろう。

 この10年の間に心の中で溜まりに溜まったものを、笑い声と一緒に一気に吐き出したリツコは、ようやく落ち着きを取り戻し、一つ深呼吸を挟み、そして淡い光を見た。

「あなたには2つ、お礼を言っておかなければならないわね」

 そのリツコの声に、淡い光は少しだけ顔を上げ、伸び放題の前髪の隙間から覗かせた赤い瞳でリツコを見つめる。

「ありがとう。弐号機を、アスカを助けてくれたの、あなただったんでしょ?」

 淡い光は何も答えず、再び俯き、額を少年の後ろ髪へと押し付ける。

「それと初号機を護り続けてくれたこともね」

 淡い光は何も答えない。

 そんな態度の淡い光にリツコは溜息を漏らしつつ、淡い光と少年に対して近付き始める。

 足音に気付いた淡い光はすぐに顔を上げ、手近にあった石ころを握り締めた。

 

「いい加減、無駄なことに力を使うのはおよしなさい」

 リツコの厳しい声に気圧されたように、淡い光は石ころを零してしまう。 

 リツコは少年の側に膝を折ると、防護服のポーチに入れていた手の平サイズのバイタル測定器を取り出し、少年の手首に翳した。10秒程度経過して、測定器の小さな画面に幾つかの数値が表示される。

「体温、血圧、心拍、酸素飽和度、全て異常なし。健康体のようね」

 リツコの言葉に、淡い光は何処か安心したように胸を撫で下ろしている。

 

「さて…、と」

 リツコは立ち上がると、淡い光と少年から2歩離れた。背筋を伸ばし、武装闘争組織ヴィレの幹部としての表情をその顔に宿らせ、相手を威圧するような鋭い眼差しで淡い光を見下ろす。

「綾波レイ…」

 名前を呼ばれ、少女の形をした淡い光はリツコの顔を見上げる。

「あなたは我々ヴィレとの戦いに敗れました」

 その言葉に、淡い光は下唇を噛みしめながら、顔を俯かせる。

「あなたは10年前にあなたが宣戦布告した相手に、負けたのです」

 少年を抱く腕に、ぎゅっと力を籠める。

「あなたに我々の降伏勧告を受諾する意思はありますか?」

 淡い光は少年を抱き締めたまま、何も答えない。

 リツコは少し姿勢を崩し、右足に体重を傾け、腰に右手を当てながら続ける。

「あなたが私たちの降伏勧告を無視するというのならば、私はそれでも構わない。これ以上の攻撃を仕掛けるつもりもないわ。私たちの作戦目標はあくまで初号機の鹵獲だから」

 口調も少しだけ砕けたものにした。

「だから、初号機さえ手に入れば、あなたとシンジくんはここに置いていったって、別に構わないの。ミサトやアスカは怒るかもしれないけれど、幸いここに居るのは私だけだからどうとでも報告できる。私はあなたたちの愛の逃避行を笑って見送ってあげられるわ」

 そこまで言って、リツコは淡い光から視線を外す。彼女の視線が向いた先には、人工的な光は一切ない、赤く爛れた大地が広がっている。

「こんな世界で…」

 そして視線を戻し、淡い光の体を上から下までを、舐めるように見つめる。

「そんな姿のあなたが、碇ゲンドウからシンジくんを守り通せる自信があるのならば、ね」

 

 すでに人の形を保てなくなり始めている淡い光。腰から下を失い、少年の胸の上で交差させている腕も炎天下に置かれたアイスクリームのように少年の肌の上に溶け出しており、毛の一本一本までが再現されていた長い髪の気も綿飴のように一つの塊と化している。淡い光と少年の周囲には蛍光塗料混じりの雨が降ったかのように、あるいは蛍光塗料混じりの湧き水が浸み出したかのように、青白く光る水が円を作っており、今もその面積を広げている。

 体の半分以上を崩壊させながらも、なお少年を護るように抱き締め続けている淡い光。

 満天の星々が瞬く夜空の下、闇夜の中に浮かぶその姿は美しもあり、一方で怪談話にでも出てきそうな生霊の姿のようにも見えて、リツコは再び声に出して笑ってしまいそうになった。

 

 

 それはまだ大地が緑に包まれ、都市には人々が溢れていた頃。

 感情の表出というものを知らず、一人の男を除いて誰とも関わりを持とうとしなかった少女。そんな彼女が何を思ったか、ある親子を囲んで食事会を催そうと奔走し、リツコに対しても食事会の招待状を手渡してきた。

 当時の友人であり、現在の上官である彼女は、ぎこちない文字で綴られた招待状を眺めながら言ったものだ。

 

  ―――愛、じゃない?

 

 その時のリツコは「ありえない」と一笑に伏したが。

 

 一人の少年を護る為に、敬愛していた唯一の人間との絆を断ち、己の肉体すら捨てた彼女の一途な想い。

 それは紛れもなく、

 

「…愛…ね…」

 

 リツコにとってその2文字を口に出したのは何時以来だっただろうか。

 目の前にあるのは、一人の少女の想いの成れの果て。

 それはとても歪であり、哀れであり、惨めであり、醜くすらあったが、あらゆる思惑が入り交じり、誰が敵で誰が味方なのか、自分たちが目指すべき方向は何処なのか、それは果たして正しい道なのか。それすらも分からずひたすら戦いに明け暮れる10年間を過ごしたリツコにとって、たった1人の少年のために全てを捨て、全てを巻き込み、全てを敵に回すことを選んだ少女の一途さ、素直さ、そして愚かさは、眩しくすらあり、また一人の女としては痛快ですらあった。

 

 結局、リツコは堪えていた笑いを鼻の孔から零してしまった。

 

 片や、一人の少女を救うために世界を破滅の淵に追いやった少年。

 片や、一人の少年を護るために世界の全てを敵に回した少女。

 

「まったく…、お似合いのカップルだわね…」

 そう呟いて、顔から笑顔を消す。

 

「周囲には迷惑極まりないカップルだけど…」

 吐き捨てるように呟いた。

 

 

 

「そう言えば、あなたとシンジくんには謝らなければならないこともあったわね」

 目を細め、頬を緩め、優し気な眼差しで、淡い光を見つめる。

「10年前のあの日。私たちの仲間の一部が暴発し、シンジくんを殺害しようとしたことは知ってるわ。それがあなたを一連の行動に走らせた大きな動機になったことも分かってる」

 そこまで言って、リツコは再び背筋をピンと伸ばす。

「あの日の私たちの行動があなた達を追い詰め、10年に渡る戦いと逃亡の生活を強いらせたことを、ヴィレを代表してここに謝罪します」

 淡い光と、淡い光が抱く少年に向かって頭を下げる。誰が見ても非の打ちどころのない完璧なリツコのお辞儀を、淡い光はぽかんとした顔で見つめている。

 

 5秒ほど頭を下げたリツコは、頭を起こして話を続けた。

「でも考えてちょうだい。あれから14年も経ったの。私たちは生きることに必死で。戦うことに必死で。ただ一人の少年を想って殺意を抱き続けるには、長過ぎる時間よ。私たちの仲間に、まだシンジくんを殺したいと思っている人間なんて、もう一人も居ないわ」

 「彼を赦している人間も一人も居ないでしょうけどね」という注釈については、表には出さず、心の中で付け加えた。

「あなたには10年前の謝罪の意味と、この10年間、初号機を護ってくれたこと。付け加えれば初号機とNGHヴーゼを強奪し、碇司令たちの計画を大幅に遅らせたこと。そして我々にヴーゼを、ヴンダーを与えてくれたことに対する謝意を込めて、無条件での降伏は求めないわ」

 リツコの顔が、険しくなる。

「降伏を受け入れるのに、何か条件があるのならば今おっしゃい」

 これが最後通牒だと言わんばかりのリツコの声音。

 

 

 もはや人の形を成してない淡い光は、両腕のような部分で少年の体をひしと抱き寄せ、頭部のような部分を少年の髪の隙間から覗く額に押し当てている。

 その姿勢のまま固まってしまった淡い光。

 リツコは、淡い光が決意するのを、辛抱強く待ってやった。あるいは、淡い光が自然に完全崩壊するのを待っていただけなのかもしれないが。

 

 5分後。ようやく淡い光が少年の額にくっ付けていた頭部のような部分を上げる。崩壊著しい淡い光と少年の額との間に淡い光の糸が引かれ、やがて千切れ、少年の額に淡く光る雫を数滴残した。

 淡い光は頭部のような部分をリツコへと向ける。まるで卵の表面のように、凹凸がなく、ツルツルになっている淡い光の顔。その下部に横線が入り、まるで口のように微かに開閉した。

 リツコは、開閉する淡い光の口のような部分を、注意深く見つめる。開閉する口のようなものが発しようとしている言葉を、懸命に読み取る。

 

 淡い光の口のようなものが閉じられるのと同時に、目を閉じ、ほっと安堵の溜息を吐くリツコ。

「良かった。あなたと私たちとの間で、その一点においては意見が一致したわね」

 リツコの口もとが、緩やかな曲線を描いた。

「安心して。私たちがシンジくんに求めるものも、あなたと一緒よ」

 瞼を開き、淡い光を見つめる。

 

「シンジくんには、二度とエヴァに搭乗しないでほしい」

 

 ニッコリと、淡い光に向けて笑い掛けた。

 

「そのためならば、あらゆる手段を尽くすつもりだわ」

 

 

 

 



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(34)

 

 

 

 

 リツコは防護服のヘルメット内に仕込まれている通信用のマイクに話しかける。

「第3の少年を発見したわ。隔離対策班を寄こして」

『わ、分かりました』

 通信相手の声に明らかな緊張が生まれたのを無視して、リツコは続ける。

「それと」

『はい』

「バケツのようなものはあるかしら?」

『バケツ…、ですか?』

「ええ。液体を掬えるものだったら何でも構わないわ」

『分かりました』

 

 

 やがて簡易型のアイソレーターを乗せた担架を抱えた一団がやってきた。

 彼らを呼んだリツコのもとまであと10メートルの位置で、全員が足を止める。

 固唾を飲む彼らの視線の先にあるもの。

 運んできたアイソレーターの中に収めるべき対象。

 地面に寝かされた人物。

 写真で見たものとは違い髪の毛は伸び放題になっているが、そこに横たわっていたのは紛れもなく。

 

「何をしてるの。滞在可能時間はあと10分よ。急ぎなさい」

 リツコの厳しい声に弾かれるように、彼らは慌てて対象、すなわち第3の少年の回収作業に動き出す。

 

 一人がリツコのもとまで歩み寄った。

「副長。すみません。こんなものしか」

「構わないわ。十分よ」

 リツコは部下が差し出したビニール袋を受け取ると、少年の側に膝を付いた。

 

 部下たちが少年の姿を見た瞬間、硬直してしまったのは、その少年が世界を破滅の淵へと追いやった元凶という理由だけではなかった。

 少年を護るかのように、包み込むかのように。少年の周囲に広がる、青白く光る液体。

 

 満天の星々が浮かぶ夜空の下、赤く爛れた大地の上。

 青白く光る水溜まりの上に横たわる髪の伸びた少年の姿は、酷く幻想的に見えた。

 

 リツコはそんな少年の周囲を浸す青白く光る液体を、両手で掬ってビニール袋の中に流し込む。リツコにビニール袋を渡した部下は、リツコの作業を手伝うためビニール袋の口を大きく広げてやった。

「なんですか? これ」

 リツコは作業を続けながら一度だけ部下の顔を見て、そして足もとの青白光る液体に視線を戻す。

「生霊の成れの果て…よ」

「は?」

 訊き返してくる部下に対し、リツコはそれ以上何も言わず、地面に広がる青白く光る液体を手で掬ってはビニール袋の中に流し込む作業を続けた。

 

 

 

 回収作業を進める上で、やたらと伸びた髪の毛が纏わりついて邪魔だった。上官からは切っても構わないと許可を得ているため、鞄からハサミを取り出し、分厚いグローブをはめた手で、黒い髪を梳き、束ねる。すると、髪の毛に隠れていた少年の華奢な首が露わになった。

 

 殆ど、無意識のうちに、少年の首に両手を添えていた。

 未発達の喉ぼとけに、2本の親指を押し付けていた。

 残りの8本の指は少年の首の後ろへと回し。

 全ての指に、ぐっと力を込め…。

 

 耳のすぐ側で、カチャッと金属音がする。

「あなたがその指に力を込めるのならば、私はこの人差し指に力を込めなければならなくなるわ」

 声がする方へ視線を向けた。

 自分のこめかみに、拳銃の銃口を押し付けた副長が立っている。

 

 拳銃を突き付けられたことで、初めて自分の行為を自覚したらしいその若い部下は、跳ねるように少年の体から離れた。

「すっ、すみません! そんなつもりじゃっ!」

 しどろもどろに言い訳をする部下を見てリツコは鼻から溜息を漏らしながら、拳銃を腰のホルスターにしまった。14年前に立て続けに起きた大厄災によってその部下の家族が辿った末路を知っているリツコは、彼が犯そうとしていた内規に著しく反する行為について責め立てる気にはなれなかった。同時に、14年程度では癒えることのない人々の心の傷の深さと、衰えることのない少年に対する殺意を目の当たりにし、自身の見識の甘さを恥じるのだった。

「あなたは初号機回収を手伝いなさい」

 リツコに命じられ、その部下は逃げるようにコンテナの方へと走っていく。

 部下の背中を見送ったリツコは、左手に持っていた青白く光る液体がたっぷりと入ったビニール袋の口を縛った。

「それは何ですか?」

 部下の一人が、リツコが脇に挟んでいるものを見て訊ねる。

「ああ、これ?」

 訊ねられたリツコは、脇に挟んでいたものを手に取った。

 手のひらサイズの、黒い筐体。筐体には、イヤフォンのコードが巻き付けられている。

 

 かつて少女の形をしていた淡い光。

 それが完全に崩壊する直前にリツコに差し出してきたものが、これだった。

 

 「少年」がこれと同じような携帯型音楽プレイヤーを所持していたような気がしないでもないけれど、もう14年も前のことなのでそんな些細なことの記憶は不確かだ。

「さあ」

 部下の質問に対し、リツコは曖昧な返事しかできなかった。

 

 

 

 コンテナの回収現場に戻ると、4機のVTOL機から伸びるワイヤーの先端をコンテナに打ち込まれたフックに固定しているところだった。コンテナの破損している箇所からは、顎がだらんと下がった巨人の顔が覗いている。

 リツコの後を、少年の体を収めたアイソレーターを乗せた担架が続く。担架はそのままコンテナの横を通り過ぎ、1機のVTOL機へと向かった。担架が運ばれる間、その場に居る全員が手を止めて、担架を、担架の上に乗せられたアイソレーターを、その中に収まる少年の姿を見つめていた。ある者は化け物でも見るかのように恐怖で歪ませた表情で。ある者は持ちうる全ての憎悪を浮かべた表情で。ある者は当の昔に感情など捨てたかのような表情で。

 そんな部下たちの様子に、リツコはヘルメットのバイザーが曇る程の勢いで大きな溜息を吐き、拳銃の銃床でコンテナの壁を2度ほどガンガンと殴り、彼らに作業の継続を促した。

 

 

 部下たちが作業を進める間、リツコは少し離れた場所で腰を下ろし、タブレットタイプの端末機をコンテナの端末に繋げ、初号機の状態確認を進めていた。

 ヘルメットのスピーカーから、部下の声。

「別動隊より入電。弐号機の回収は無事完了したようです」

「分かったわ。滞在可能時間はあと5分よ。こちらも急いで」

 部下との交信を終え、端末機での作業に注意を戻す。

「両下肢、左下肢欠損。胸部、腰部に著しい損傷あり。損傷率は80%以上。よくこんな状態で10年も逃げ回ってこれたものね」

 呆れたような表情の後に浮かんだのは小さな笑み。

「でもこれで、初号機をヴンダーの主機に使う算段はついた…」

 この作戦の成果を確認したリツコはタブレット端末機の電源を落とし、コンテナの側面にあるソケットからケーブルを引っこ抜いた。

「さてと…」

 立ち上がろうとして。

「あれ?」

 あることに気付き、リツコは自分の周囲をきょろきょろと見渡す。

 自分の側に置いていたものがない。

 地面に下ろした腰のすぐ側に置いていたものがない。

 

 生霊の残骸。

 その液体を収めたビニール袋がなかった。

 

 周囲をきょろきょろと見渡していたリツコ。

 背後に気配を感じた。

 リツコの動きが止まる。

 

 部下?

 いや、部下などではない。

 リツコはそう直感した。

 

 全身を寒気が襲う。

 気配を感じるのに、実態を感じさせないもの。

 この世ならざるモノ。

 

 そんな気配を背中に感じたリツコは、慌てて拳銃を構え、後ろを振り返った。

 

 振り返った瞬間、リツコは息を呑む。

 

 彼女の背後に立っていたもの。

 

 

 それは光。

 

 人の形をした、光。

 

 

 しかしそれは10分前に形象崩壊を起こした少女の形をしていた淡く青白い光ではない。

 真っ白な光を放つ人の形をした光。

 強烈な光を前に、リツコは思わず両目を細める。

 

 女性を思わせる丸みを帯びた肩、腰、膨らんだ胸。

 少女の形をした淡い光よりも背は高く、髪の毛も短い。

 形状は違うが、あの少女の形をした淡い光とどこか同じ空気を纏った、女性の形をした真っ白な光。

 その真っ白な光の手には、あのビニール袋。

 真っ白な光は、青白く光る液体が入ったビニール袋を、大切そうに両手で持っている。

 

 リツコは突然現れた真っ白な光に、呆然として固まってしまった。構えていた拳銃も、いつの間にか下ろしてしまっている。

 

 そんなリツコを見下ろしていた真っ白な光。

 やがて光は踵を返し、歩き始めた。

 少女の形をした淡い光と違い、女性の形をした真っ白な光はしっかりとその形状を維持している。真っ白な光が歩いた跡には、光る足跡は残らない。

 

 リツコが呆然と見つめる先で、真っ白な光はコンテナの角を曲がり、反対側へと姿を消してしまった。

 真っ白な光が消えて。

 その間息をすることも忘れていたリツコは、慌てて呼吸を再開。ヘルメットの中に、リツコ自身の荒い呼吸音が響き渡る。

 5回ほど肺から空気を出し入れしたリツコは、未だに震えている膝に鞭打って立ち上がり、真っ白な光が消えたコンテナの角に向かって走った。

 

 コンテナの角を曲がると、そこには女性の形をした真っ白な光の背中。

 真っ白な光は、悠然とした足取りで、歩みを続けている。

 部下たちは皆コンテナの反対側で作業をしているらしく、この真っ白な光を目撃しているのはリツコただ一人だった。

 

 真っ白な光が足を進めている先。

 そこはコンテナの裂け目。裂け目から覗くのは、紫色の巨人の腕。そして紫色の巨人の顔。

 

 その巨人の顔を見て、リツコは再び息を呑むことになる。

 

 下顎を失い、大きく開いた巨人の口。だらんと垂れ下がる大きな舌。その舌の奥。

 巨人の喉の奥に、人影が2つ。

 

 その2つの人影もまた、真っ白に光り輝いている。

 

 2つの人影は、ビニール袋を持って歩いている女性の形をした真っ白な光よりもは、背は低く、また幼く見える。

 そう。まるで女性の形をした真っ白な光を、そのまま少女期まで若返られせたような。

 むしろ、その雰囲気は形象崩壊した少女の形をした青白い淡い光の方に似ていた。

 

 女性の形をした真っ白な光は、2つの人影が待つ巨人の口まで、ゆっくりと歩いていく。

 やがて口まで辿り着いた真っ白な光は、地面までだらりと垂れ下がった大きな舌をゆっくりと登っていく。

 舌の上を登り切ると、待っていた2つの人影が、真っ白な光に向けて手を伸ばす。真っ白な光から青白く光る液体で満たされたビニール袋を受け取った2つの人影は、そのまま滑る落ちるように巨人の喉の奥へと姿を消した。

 

 喉の奥へと消えた2つの人影を見送った女性の形をした真っ白な光。

 それが、ゆっくりと振り返った。

 そして真っ白な光は、右手を顔に近付けていく。

 その手の人差し指がピンと伸び、真っ白な光の口の部分に当てられた。

 

 

 振り返り、口もとに人差し指を当てる真っ白な光の視線の先には、ゴツゴツとした分厚い防護服に身を固めて立っている人間の女性。

 真っ白な光に見つめられたリツコ。

 何故だか分からないが、リツコはその真っ白な光が、自分に向けて微笑み掛けているように感じた。

 

 

 手を下ろし、リツコから視線を外した真っ白な光は、巨人の喉の奥へと見つめる。

 やがて真っ白な光もまた、滑り落ちるようにして巨人の喉の奥へと姿を消した。

 

 

 人は理解の範疇を超えた現象を目の当たりにすると、むしろ可笑しくなってしまうらしい。

 喉の奥へと消えていく真っ白な光の背中。背中が消えてからも、巨人の喉の奥は薄く光っていて、しかしその光もやがて消えて。

 全てが終わった後になって、リツコは一人で吹き出していた。

 声に出して笑ってしまいそうなっていたところに。

「副長! 副長!」

 呼び掛けられ、後ろを振り返ると、すぐ後ろに部下が立っていた。

「大丈夫ですか? 副長」

 心配そうにヘルメットの中を覗き込んでくる相手に、リツコは軽く頷きながら「大丈夫」と応じた。

「作業完了しました。いつでも発てます」

「ご苦労さま。長居は無用よ。さっそく出発しましょう」

「はっ」

 部下はリツコに向けて敬礼をすると、他の部下たちに向けて頭上に掲げた右腕を大きく回し、撤収の合図を送った。

「副長も早く」

 そう言い残して、部下はVTOL機へと走っていく。

 

 リツコはコンテナを振り返った。

 コンテナの裂け目から覗く、エヴァンゲリオン初号機の顔。その口。その喉の奥。

 リツコは口許だけで小さく笑うと、部下たちを追ってすでにエンジンの起動を済ませているVTOL機へと向かって走り出す。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

『副長先輩』

 自室の端末機で報告書の作成をしていたら、端末機のモニター画面の隅にリツコの腹心の部下の顔が現れ、話し掛けてきた。

「なに? マヤ」

『検体・BM-03のテスト結果が出ました。今、先輩の端末にデータを送ります』

「ありがとう」

 2秒後、モニター上に伊吹マヤから送られたてきたファイルのアイコンが表示される。そのアイコンを開き、表示されるデータを確認する。

『副長先輩、もう一つ報告が』

「なに?」

 可愛い部下の問い掛けに、リツコはデータを読みながら返事をする。

『医療部からです。検体・BM-03ですが、この6時間で意識レベルの明らかな向上がみられるそうです。あと1日もすれば、目覚めるだろうと』

「そう」

『その…』

「なに?」

『医療部から検体に対する再鎮静の許可申請が出てます。私の周りも大半が医療部の意見に賛同してて…』

「艦長は何と言ってるの?」

『このテストの結果次第だと…』

「だったらもう結論は出てるじゃない」

『そう…、何です…、けど…』

 歯切れの悪い部下の声。彼女が抱える不安はよく分かるため、努めて声を柔らかくして言う。

「大丈夫よ。彼が今目覚めたからといって、それがすぐに世界の破局に繋がるわけではないわ。彼がネルフの手に渡らない限りね」

『分かりました。艦長にテスト結果を提出します』

 

 マヤの顔を映し出しいていた枠が消える。

 リツコは、改めてテスト結果の数値を見た。

 

 ヴィレの旗艦に検体・BM-03を収容した直後、直ちに行った一つの検査。

 それはエヴァンゲリオン初号機と、元エヴァンゲリオン初号機専属パイロット・碇シンジとの深層シンクロテスト。

 リツコが他の検査を後回しにしてまで、真っ先にこの検査を行った理由。

 それは碇シンジが抱えるリスク確認のため。

 そしてもう一つ。

 形象崩壊を起こした彼女の生存を確認するため。

 

 マヤから送られていた検査結果を、リツコは満足そうに見つめる。

 

「何が何でもシンジくんをエヴァに乗せないつもりね…。レイ…」

 

 

 『 Deep Synchronization Test : 00.000% 』

 

 

 モニター上に見事に並ぶ、(レイ)の数字に、リツコは口もとにそっと笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

第二部 第一章 天蓋の少女《終》 

 

 

 

 



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2-2. ~ Do vist ayn shirt ~
(35)


 

 

 

 

 黒いプラグスーツを身に纏った空色髪の少女は、布製のパーテーションで囲われただけの屋根すらない、部屋にもなっていない部屋の中でぼんやりと佇んでいた。

 少女の赤い瞳に映るのは殺風景な部屋の風景。人一人に宛がわれた部屋としても決して広いとは言えないこの部屋を、その少女はそれでも広すぎると感じていた。

 この部屋は少女一人のために用意された部屋ではなかった。過去には、もう一人の「自分」がここには居た。同じ空色の髪、同じ赤い瞳、同じ白い肌の顔をした少女。それでいて幾分か年上にみえる少女が、ここには居た。

 ずっと前には、別の「自分」はあと2人くらい居たような気がするが、昔のことはもう思い出せない。

 

 もう一人の「自分」と訓練をし、実験をし、メンテナンスをし。

 時々エヴァンゲリオンに乗って敵対組織との戦闘をこなし。

 この部屋と、実験房を兼ねたエヴァンゲリオン格納庫との行き来を繰り返すだけ。

 単調なルーティンを繰り返す日々。

 ナンバー5と呼ばれる、もう一人の「自分」と。

 

 少し歳が違うだけで、姿顔立ちはまるで一緒のもう一人の「自分」は、与えられた命令やスケジュールは同じはずなのに、それでも時々この部屋から一人で姿を消すことがあった。そして何時間も経過した後に、何処かしら満ち足りた表情で帰ってくる。

 自分とは違う、もう一人の「自分」。

 「何処に行っているの?」とは訊ねなかった。

 誰が何処で何をしていようと、興味が持てなかったから。

 

 時々もう一人の「自分」は、「あなたも一緒に来る?」と誘ってくるけど、そんな命令は受けていないため断った。

 時々もう一人の「自分」は、「抱っこしてあげようか?」と言ってくるけれど、やはりそんな命令は受けていないので断ると、もう一人の「自分」はどこか寂しそうな顔をする。

 何故寂しそうな顔をするのか、少女には分からなかった。

 そして何故姿顔立ちは全く一緒のもう一人の「自分」が、自分には決してできない感情の表出というものができるのかも分からなかった。

 

 命令を待つための部屋。

 この部屋を訪れるのは、命令を伝えるためにやってくるこの組織の副司令だけ。

 あれは何時だっただろうか。

 そんな場所に、とある人物がやって来たのは。

 顔は見えなかった。出入り口のカーテンの隙間から見える、収まりの悪い白銀の髪だけが見えた。

 その人物はもう一人の「自分」を迎えに来たらしい。出入り口のカーテンの隙間から声を掛けられたもう一人の「自分」はいそいそと立ち上がると、出入り口まで駆け寄っていく。そしてこちらには一度も振り向かないまま、カーテンの隙間から差し伸べられた真っ白な手を握り、そのまま部屋の外へと出ていった。

 

 それ以来、もう一人の「自分」とは会っていない。

 

 もう一人の「自分」が、この部屋に帰ってくることはない。

 

 

 一人になった少女。

 それでも訓練と実験とメンテナンスと、時々の戦闘を繰り返す日々は変わらない。

 少女も何事もなかったかのように、日々のルーティンを繰り返した。

 

 もう一人の「自分」とここで過ごしていた時も、それほど狭いとは感じていなかった部屋。寝て、起きて、命令を待つだけの部屋であれば、ほかに何人かの「自分」が居ても十分な広さだった。

 

 もう一人の「自分」が消え、とても広く感じてしまう部屋。

 

 いずれ「私」も、消えるのだろうか。

 

 そうしたら、また何処からか新しい「自分」がやって来て、この部屋で寝泊まりすることになるのだろうか。

 そうしたら、今度はその新しい「自分」が、「アヤナミレイ」を名乗るのだろうか。

 「私」が消えてしまっても、この世界には変わらず「アヤナミレイ」が存在し続けるのだろうか。

 

「…私は…、アヤナミレイ…」

 

 床の上で朧げな光を放つランタンを見つめながら、ぼそりと呟く。

 

「何か言ったかね?」

 突如、粗末な部屋の中に響いた男性の低い声。

 少女は特段驚いた様子もなく、一度だけ瞬きを挟んで声がした方へと瞳を動かした。

 部屋の出入り口に、冬月コウゾウが立っている。

 

 少女は腰を下ろしていた丸椅子から腰を上げ、冬月へ向き直る。冬月は出入り口のカーテンを大きく開けると、低い梁に頭をぶつけないように身を屈めつつ、粗末な部屋の中に入り、少女の前に立った。

「体の調子は?」

 そう訊ねる冬月の声は、どこか不愉快そうだった。

「問題ありません…」

 声音で相手の機微を判断する力も、相手の気分に合わせて態度を変化させる能力もない少女は、いつも通りの涼やかな声で答えた。

 

 冬月の不機嫌の理由。

 1年以上の準備期間を経て行われた作戦。想定以上の犠牲を払った上で掴みかけていた成果という名の果実は、あらぬ方向から伸ばされた「ヴィレ」という名の手によって掠め取られてしまい、彼が払った多大な労力は一瞬のうちに水泡と化して消えてしまっていた。作戦の失敗を知った時、冬月は柄にもなく腰掛けていた椅子の肘掛けを殴ってしまい、そんな冬月の痛々しく腫れた右手首には湿布が貼付されている。

「碇が呼んでいる。出撃だ」

 自分の失敗の尻拭いを目の前に立つか細い少女に押し付けてしまうことを深く恥じ入る冬月の声は、珍しく沈んでいる。

「はい」

 少女の返事の声は相変わらず涼やか。すでに少女には作戦の概要は伝えられているが、これから敵対組織の総本山にたった一人で乗り込むことになる者とは思えない態度だった。

 冬月は出入り口の前に立つとカーテンを開け、少女を待った。

 少女はまっすぐに出入り口へと向かい、冬月が開けたカーテンの下をくぐる。

 

 部屋の外に出ると、出入り口の側の床に段ボール箱が置かれており、その中には無造作に放り投げられた衣類が入っている。

 山吹色のベストに白いブラウス、膝丈のスカート、緋色のネクタイ。

 自分が持つ「最後の記憶」よりもずっと前から、この段ボール箱の中に入っている衣類。この衣類の持ち主を、自分は知っているような気がするし、知らないような気もする。

 

 昔の記憶は「ある日」を境に曖昧になってしまっている。

 自分の中に在るはっきりと思い出させる「最後の記憶」は、隣に立つ老人が自分の口に流し込んだペースト食の生ぬるさだ。

 そして「ある日」以降に続くのは、空虚な毎日。平坦な日々。

 

 破壊された天井から覗く満天の星空を見上げても。

 時折どこからか響いてくるピアノの音色に耳を傾けても。

 

 この心は響かない。

 

 自分を取り巻く全てのことに、この体に放り込まれた魂が共鳴することはない。

 

 アヤナミレイ。

 

 自分の中にある、アヤナミレイという名の魂。

 

 これが「アヤナミレイ」の生き方なのだろうか。

 

 これが、自分のなりたかった「アヤナミレイ」なのだろうか。

 

 

「こんな時…、綾波レイなら…、どうするの…」

 

 段ボール箱を見下ろしたまま佇んでいる少女が、ポツリと何かを呟いた。

「何か言ったかね?」

 冬月の問い掛けに、少女はゆっくりと首を横に振っている。

 

 冬月は少女を先導するように歩き始めた。少女は冬月の後を付いていく。

「マーク9の準備は出来ている。第5ケージに向かいたまえ」

「はい。第5ケージに向かいます」

「襲撃目標はインド洋上空の敵旗艦だ」

「はい。敵旗艦を襲撃します」

「作戦の第一目標は第3の少年。碇シンジの身柄の確保である」

「……」

「復唱は?」

「はい。第3の少年の身柄を確保します」

 

 

 碇シンジ。

 

 

 この作戦の概要の説明を受けた時、初めて聴いた名前。

 

 この組織の最高司令官の息子。エヴァンゲリオン初号機の元パイロット。

 

 世界と引き換えに、ワタシ「たち」の前任者を救い出そうとした少年の名前。

 

 ワタシ「たち」の前任者がこの組織を裏切ってまで、護ろうとした少年の名前。

 

 そしてこれからワタシが迎えに行く少年の名前。

 

 

「碇…くん…」

 

 

 試しに、その名前を呟いてみた。

 きっと。おそらく。「綾波レイ」ならばこう呼ぶだろうと、自分の中の枯渇した想像力を最大限に膨らませて思い浮かべた声音で、呟いてみた。

 

「碇…くん…」

 

 もう一度。

 

「碇…くん…」

 

 さらにもう一度。

 

 

 それでも。

 

 

 やっぱり。

 

 

 

 この心が響くことはない。

 

 

 

 



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(36)

 

 

 

 

「綾波! ここだ!」

 

 

 

「…やっぱり…、助けたんじゃないか…」

 

 

 

「綾波…! ずいぶん探したよ…」

 

 

 

「ありがとう…、ずっとお礼、言いたかったんだ…」

 

 

 

「ねえ、綾波は何か知らないの?」

 

 

 

「ねえ、綾波はいつ初号機から戻ったの?」

 

 

 

「本とか、読んでないの?」

 

 

 

「いつも持ってて、好きだったみたいだし…」

 

 

 

「なんで本…、読まないんだよ…」

 

 

 

「…じゃあもういいよ!」

 

 

 

「ねえ、綾波だよね?」

 

 

 

「だったらあの時助けたよね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「綾波じゃ、ないのに…」

 

 

 

    「綾波じゃ、ないのに…」

 

 

 

        「綾波じゃ、ないのに…」

 

 

 

            「綾波じゃ、ないのに…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「リリンの模倣品では無理さ。魂の場所が違うからね」

 

 

 

「あんたのオリジナルは、もっと愛想があったよん」

 

 

 

「あんたこそ誰よ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「知るか! あんたはどうしたいの!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 10年に渡って宇宙空間を漂い続けた「彼」。その「彼」を乗せた箱舟が、夜空に煌めく流れ星となって地上へと落下していく。

 

 「彼」の帰還を見届けた少年は、学生用ズボンのポケットに両手を突っ込むと、2つの光の筋が残る夜空に背を向けて歩き始める。

 

 彼の視界の隅に、人影が在った。

 その人影に視線を向けると、そこには蒼銀の髪を風に躍らせて立つ少女が一人。黒のプラグスーツを身に纏った彼女もまた、夜空に残った2つの光の筋を見上げていた。

 

「こんばんは」

 背中に声を掛けられ、少女は空へと向けていた視線を落とし、振り返る。

 収まりの悪い白銀の髪、赤い瞳の少年が立っていた。

「ええっと…、君は」

 そこはまるで廃墟のような場所だった。その場所は2人が籍を置く組織の総本山であったが、あちこちに瓦礫が散乱し、あちこちの床が崩落し、壁すらないこの場所からは夜空がよく見え、天体観測にはもってこいだった。

 人工的な光は最小限しかないため、近くに立つ人の顔もよく見えない。

「君は確か…」

 薄闇の中に立つ少女を、目で細めて見つめて。

「シス…、だったね」

 少女の識別子を特定した少年は、少しだけ目を丸くした。

「随分と大きくなったんだね。最後に会った時はまだこんなだったのに」

 嬉し気に言う少年は自身のお腹の位置で手をひらひらさせてみた。

 少女は少年を見つめたまま目を瞬かせている。

「シス…?」

 少年が言った言葉を、まるで初めて耳にした単語とでも言いたげに、ぽつりと呟いた。

「うん。それともナンバー6、と呼ぶべきかな?」

「ナンバー6…?」

 やはり、初めて耳にしたとでも言いたげに、少年の言葉を繰り返す少女。

 少女は少年を見つめ。瞬きを挟みながら床を見つめ。そして再び瞬きを挟んで少年を見つめる。

「私はアヤナミレイ…」

 少女の突然の自己紹介に、少年は再び少しだけ目を丸くした。

「そっか。君はついに、アヤアミレイになったんだね」

「そう…。私は、アヤナミレイ…」

 控えめな口調で、自分が何者であるかを繰り返し強く主張する少女に、少年は眉尻を少しだけ下げつつも、口もとには緩やかな曲線を浮かべた。

「良かったね。素敵なおまじないだ」

 少女は首を傾げる。

「おまじない…?」

「そっ。おまじないだよ」

 少女はよく分からないと言いたげに、首を傾げ続けている。

 このままだと少女の小枝のような細い首を痛めてしまいそうだったので、少年は話題を変えることにした。

 胸の高さで両腕を広げてみる。冗談めかした口調で。

「もう抱っこ、しなくていいのかい?」

 すると少女は細い首をさらに90度近くまで傾けてしまう。

「だっこ…?」

 少年は苦笑いしながら少女の側まで近づき、見ているこっちが痛くなりそうなほどに傾いた少女の頭を両手で挟んで、真っすぐに戻してやった。

「そう。抱っこ。もう10年以上も前のことだけど、よく抱っこしてあげたじゃないか。覚えてないかな?」

 少女が再び首を傾げてしまいそうな仕草を見せたので、少年は少女の両頬を両手で挟みこんでそれを阻止した。

「覚えてないのかい?」

 少年に両頬を挟まれ、おたふくのような顔になっている少女は、こくりと頷く。

「そっか…」

 そう小さく呟きながら、自分の手に挟まれた少女の顔を見つめる。

 

 どこか虚ろな瞳。意思、感情というものが感じられない赤い瞳。

 

「あの頃の君は、時に悲しんだり…」

 少女のこめかみに人差し指を当て、眉毛の両端を下げさせてみる。

「時に笑ったり…」

 少女の口の両頬に親指を当て、口の両端を上げてみる。

 眉尻を下げさせたり。口の両端を上げたり。

 それらを繰り返し、少女の顔をおもちゃにする少年。自分の手でもみくちゃにされる少女の顔に、少年は無礼にも「ぷっ」と吹き出してしまう。

「この顔に、その時々によって様々な感情を宿らせていたはずだけど。リリンのようにね…」

 少女は「私が?」と不思議そうな顔で、自分の顔を福笑いにして遊ぶ少年の顔を見上げた。

「うん。君は笑ったこと、ないのかい?」

 少女は眼球の後ろに収められている脳味噌の中身を探る様な仕草で、赤い瞳をぐるりと一周させた。

 眼球の中央に戻ってきた赤い瞳で少年を見つめ、こくりと頷く。

「だったら笑う練習でもしてみたらどうかな」

「笑う…、練習…?」

「そう」

「なぜ…?」

「決まってるじゃないか。君の笑顔が見たいからだよ」

「なぜ見たいの…?」

「笑顔は人を幸せにするおまじないだからさ」

「おまじない?」

「うん。君には誰か幸せにしたい人は居ないのかな?」

 そう問われた少女は、もう一度赤い瞳をぐるりと一周させる。

「幸せって…、なに?」

 少女にそう訊ねられ、少年の口もとに浮かんでいた柔和な笑みが消えた。

「さあ…。その質問には、僕の古い友人にも答えることができなかったよ」

 少女は2度ほど短い瞬きを繰り返し。

「命令?」

 ぽつりと呟いた。

「ん?」

「笑顔の練習…。それは…、命令…?」

 笑みを取り戻した少年は少女の頬から手を離し、右手でぽんぽんと少女の頭を軽く叩いた。

「昔言ったよね。僕はただの穀潰し。誰かに命令する資格なんて持ち合わせていないさ」

「そう…」

「だからするしないは君のここ」

 少年は人差し指で自分の胸をとんとんと叩く。

「君の心次第だよ」

「私の…、ココロ…?」

 手を離した途端、またもや首を傾げてしまった少女に、少年は苦笑するしかない。

「そうさ。君の心に問い掛けてみたらいい。笑顔の練習をしたいかどうか。自分は何がしたいのか、をね」

「そう…」

 「よく分からない」と言いたげに目を伏せる少女。そんな少女に対し、少年は改めて両腕を広げてみせる。

「抱っこ。ホントにしなくていいの?」

 少女は少年の顔と、少年の広げられた胸元を、交互に見た。

「抱っこ、ってなに?」

 きょとんとした少女の表情に、少年は眉毛を「ハ」の字にして笑った。

「君は本当に魂の在処が変わってしまったようだね。こうゆうことさ」

 

 少年は半歩、少女に近付く。

 そして両腕を少女の背中に回し、少女の体をそっと包み込む。左手はそのまま少女の背中に。右手は少女の後頭部に添え、そっと少年の胸元へと抱き寄せる。

 

「これが抱っこ…、だよ」

 

 ろくに櫛を通してないだろう癖のついた髪の隙間から覗く小さな耳に囁き掛ける。

 

「さすがに、あの頃のように体ごと抱えることまではしないけどね」

 いきなり顔面を少年の薄い胸板に押し付けられた少女は、顔を左右に振って圧迫された鼻や口を何とか外に出し、呼吸を確保する。

「これは…」

「ん?」

「これは…、何の…、おまじない…?」

「さあ。なんだろうね。君は何のおまじないだと思う?」

「分からない…」

 少年は腕の中の少女を、そっと離す。乱れてしまった少女の前髪を右手で梳き、整えてやる。

「おっと。そう言えば…」

 何かを思い出したようにそう呟いた少年は、ぼんやりとした面持ちでこちらを見上げてくる少女の顔を見つめる。

「じゃあ、今度はお返し」

「お返し…?」

「うん。今度は君が僕のことを抱っこしてくれないかな」

 「私が?」と、目をぱっちり開ける少女。

 少年は少女の返事を聞かないまま、少女の前で跪く。ちょうど、少年の頭部が少女の胸とお腹の境目の位置にきた。

「はい。お願い」

 少年は目を閉じて、少女に抱っこされるのを待っている。

 少女は瞬かせた目で少年の収まりの悪い白銀の髪を暫く見つめた後、躊躇いがちに少年の頭へと両手を伸ばす。つい1分前に少年がやったことを見よう見まねで、まずは両腕を少年の両肩の上から背中へと滑り込ませ、右手はそのまま少年の背中に、そして左手は少年の後頭部に当て、そっと少年の体を抱き寄せた。

 

 少女が少年を抱き締めてから約1分。

「うーーーん」

 少女のお腹に顔をうずめる少年が唸った。

「うーーーん」

 唸りながら、ゆっくりと少女の体から離れる少年。

 唸る少年を「どうしたの?」と首を傾げながら見下ろす少女。

「古い友人から聴いた話しでは、女性の腕の中は「想像を絶する世界」のはずだったんだけどな。君はどう感じた?」

 「何が?」と目を瞬かせる少女。

「僕に抱っこされて」

 少女は一度だけ左右に首を振る。

「何も…」

 少年も深く頷く。

「うん。僕も特にこれといって…。もしかしたら、相性ってものがあるのかもしれないね」

「これも…」

「ん?」

「これも…、練習した方が…、いいの?」

 少年は笑いながら首を横に振った。

「止めといたほうがいいかな。リリンたちの常識では、誰彼構わずに抱き着く人は、変態という不名誉なレッテルを貼られてしまうらしいから」

「ヘンタイって、なに?」

「今の質問は聴かなかったことにするよ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 気が付けば、板張りの天井を見上げていた。

 何度か、目を瞬かせて。

 微睡みの中にあった意識を掬い上げていく。

 4回ほど瞬きをするとあやふやだった目のピントが定まるようになり、天井に浮く染みの数まで数えられるようになった。

 

 天井。

 こんなに低い天井を見ながら寝るのは「ここ」に来た時が初めてだったので、最初は落ち着かなかった。

 「布団」という寝具に横になるのも「ここ」に来た時が初めてだったので、やはり最初は落ち着かなかった。

 今ではすっかり慣れた低い天井、ふんわりとした布団。

 全身を包む温もりと二度寝という名の悪魔の誘惑に今日も打ち勝ちながら、布団から這い出る。

 布団の側に畳まれた赤い袢纏に袖を通す。

 畳の上に座り込んだまま、くすんだガラス戸の向こうに広がる外の景色を見つめた。

 庭木の葉っぱから滴る雫。地面に広がる水溜まりと無数の波紋。

 雨が降っている。

 

 

 

 洞木ヒカリは赤ん坊を抱きながら、脱衣所の引き戸を開けた。

「あら、おはよう。そっくりさん」

 洗面台の前に、空色の髪をした少女が立っている。

 全身にぴったりとくっ付いた黒いスーツに赤い袢纏を羽織った奇妙な格好をした赤い瞳を持つ少女は、洗面台の鏡から視線をそらし、ヒカリとその腕に抱かれている彼女の子である赤ん坊、ツバメを見た。

「おは、よう…」

 起き抜けらしいぼんやりとした発声で挨拶を返す少女。

「顔を洗ってたの? もう少しで朝ご飯の準備できるから、もうちょっと待っててね」

「うん、ありがとう…」

 ヒカリは笑顔で「どういたしまして」と言いながら、脱衣所のタンスの中に収めている布おむつを一枚取り出した。

「あ、そうだ」

 鏡を見つめていた少女は、声を上げたヒカリを鏡越しに見る。

「さっき、小森さんから電話があったわ。今日は雨だから外作業は中止。7時30分にC地区のビニールハウスに集まって、だって」

「分かった。〇七三〇時にC地区のビニールハウスに集合する」

「ふふっ。農作業には慣れたかしら?」

 ヒカリのその問いに、少女は「よく分からない」とばかりに首を傾げる。

「小母さんたち、みんな言ってたわ。そっくりさんには色々と教えがいがあるから楽しいって」

「楽しい…?」

「そっ。みんなに気に入られたみたいね」

 少女は相変わらず「よく分からない」とばかりに首を傾げつつ、ぽつりと言う。

「楽しい…、って、なに?」

 ヒカリは「始まった」とばかりに苦笑いしつつ、ガラス戸を開けて換気を促すと、腰の高さのタンスの上にツバメを寝かせ、濡れて重くなった布おむつを外し始める。

「そうね。そっくりさんを囲んでる小母さんたちの顔、思い出してみて」 

 ヒカリに言われたことを、素直に実行しているらしい少女。瞳を天井に向け、何かを頭に思い浮かべているようだ。

「みんな笑ってる。でしょ?」

 少女はおずおずと頷いた。

「それがつまり、楽しいってことよ」

「笑うと…、楽しい…」

「そう。はい、今日も一杯出てよかったね~」

 ヒカリはおむつを履き替えたツバメのお腹を、ぽんぽんと軽く叩く。叩かれたツバメはくすぐったそうに短い手足をじたばたさせながら笑い声を上げた。

 いつの間にか鏡の前からタンスの側に移動していた少女。笑顔のツバメを、興味深そうに見つめている。

「ツバメも…、笑ってる…。ツバメも…、楽しい…」

 ツバメのふっくらとした頬を、ツンツンとつついた。

「そうね。うんちが一杯出て、よかったって」

「うんちが出ると…、楽しい…」

「あと、今日もそっくりさんと会えて嬉しいって」

「嬉しい…。嬉しい時も…、笑顔…」

「そっ。嬉しい時も楽しい時も。幸せを感じた時、人は笑顔になるの。つまり笑顔は人を幸せにするためのおまじない、ね」

 

 身を屈めてツバメの様子を覗き込んでいた少女は、ゆっくりと体を起こした。

 振り返り、洗面台の鏡を見つめる。

 

 鏡に映るもの。

 真っ白な肌。

 空色の髪。

 真っ赤な瞳。

 

 今、鏡に映っているもの以外の表情を、浮かべたことがない顔。

 

 

 

 後ろで、少女が鏡に映る少女の顔をジッと見つめながら、固まってしまっている。

「そっくりさん?」

 ヒカリに呼び掛けられ、少女は何でもないとふるふると頭を横に振る。そしてそのまま、鏡越しのヒカリの顔を見つめる。

 まだ何か訊きたそうな少女の顔。ヒカリは鏡越しの少女の顔に笑顔を向け、質問を促した。

 少女は振り返り、直にヒカリの顔を見て、そしてヒカリの腕に抱っこされたツバメを見て、そして再びヒカリの顔を見る。おずおずと、口を開いた。

 

「ヘンタイ…」

 

「へ?」

 

「ヘンタイって…、なに?」

 

 

 

 



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(37)

 

 

 

 

 ビニールハウスでの作業の帰り道。夜明け前から降り続ける雨は、今も差した傘の表面をぽとぽとと濡らしている。白の傘を差し、雨具を羽織る空色髪の少女は、本日の支給品であるジャガイモが入った桶を手に、雨でぬかるんだ未舗装の道をてくてくと歩いていた。

 古い駅舎と車両基地を中心に作られたこの村は、その名残であちこちに古びた電車の車両が安置されている。もう2度と線路の上を走ることのないそれらは貴重な住宅資源として活用されており、各々の車両の乗降口の横には「第3村駐在所」や「第3村簡易郵便局」、「第3村隣保館」といった立て看板が設置されている。

 その内の1つの前で、少女の足は止まった。

 車両の乗降口に上がるための急な昇降台を、母親と小さな女の子が手を繋ぎながら上っている。乗降口に吸い込まれていく親子連れの背中を見送り、乗降口の上にぶら下がっている看板に目をやった。

 看板には、『図書館』の文字。

 

 

 閉じた傘を上下に振り、水滴を落としいたら、桶からジャガイモが1個、ゴロンと床に落ちた。窓際の縦座席に座っていた小さな女の子はひょいっと立ち上がると、床を転がるジャガイモを拾い上げ、少女の前へとてとてと歩いてくる。

「ひろったからかえすね」

 女の子から差し出されたジャガイモを受け取った少女。

「ありが、とう」

 最近覚えたばかりの挨拶を、たどたどしく口にした。

 

 濡れた傘を傘立てに挿し、女の子の隣が空いていたのでその席に座る。

 車両の真ん中には来館者が座る縦座席と向かい合うように本棚が並べられており、その棚には様々な書籍がぎゅーぎゅー詰めにされていた。

 色とりどりの背表紙を、ぼんやりと見つめる。

 

 

 

 膝の上に乗せた大きな絵本のページを捲る。現れたページ一杯の絵とひらがなで綴られた文章に目を通すと、目が細まり、口もとが綻んだ。笑い声を漏らしてしまいそうな口を、懸命に噤む。大好きな絵本。図書館に来るたびに読んでいて内容はほぼ覚えてしまっているが、何度読んでも、いつも同じページで笑ってしまう。顔に満面の笑みを浮かべながら、次のページを捲った。

 図書館では静かに本を読むのがマナー。だから、いくら可笑しくても、笑い声を上げてはいけない。

 今日も何とか笑い声を我慢することができたと、自分を褒めながらページを捲っていたら。

 

「わっ!?」

 

 自分の顔のすぐ側に人の顔があったので、びっくりして大きな声を上げてしまった。

 自分の顔を覗き込むように見つめる赤い瞳。

「な、なに?」

 小さな女の子は膝の上で開いていた絵本を閉じ、身を竦めながら、隣の席から身を屈めてこちらを覗き込んでいる空色髪の少女を怪訝そうに見つめた。

 空色髪の少女はさらにぐぐっと顔を近づけ、女の子の顔を観察するように見入る。

「いま」

「え?」

「今、笑ってた…。どうして、笑ってたの?」

「え、えと…。このえほん、よんで、たのしかったから…」

「楽しいから笑う…」

「うん…」

 ぎこちなく頷く女の子。そんな女の子に対して、少女は逸る様に言う。

「それ、知ってる。人は、楽しかったら、笑う。笑顔は、人を幸せにするための、おまじない」

 そりゃ楽しいかったら笑うのは当たり前だし、そんなことは子供も大人も誰でも知ってることだ。それを、さも大発見したのは自分だとでも言わんばかりの空色髪の少女の顔に、ただでさえびっくりさせられた女の子は不満顔で言う。

「もう。ここではしー、しなくちゃいけないんだよ」

 女の子は自分の口もとに縦に伸ばした人差し指を当てる。そんな女の子に対し、少女は首を傾げる。

「しー、ってなに?」

「しずかにしてなくちゃいけないってゆーいみのしー」

 少女も女の子を真似て口もとに人差し指を当ててみる。

「しー」

「そっ。しー。わかった?」

 少女は返事をする代わりに、うんうん、と2度頷いた。

「わかればよろしい」

 そうお姉さんぶる女の子は、つんとすまし顔をしながら、膝の上で絵本を開き直し、読書を再開する。

 その女の子の隣では、2人のやり取りを見ていた女の子の母親が口もとに手を当てながら、クスクスと笑っていた。

 

 

 

 物語はいよいよ佳境。長年、すれ違い続きだった若い男女がようやく結ばれ、幸せな日々が始まると思った矢先の、女性の不治の病の発覚。病室のベッドの上で、愛を語り合う2人。

 

 目から涙がボロボロ溢れ、文字が霞んでしまう。

 その滲んだ視界の隅っこ。

 気の所為だろうか。

 空色の何かがチラつくのだが、まあ今はどうでもいい。今は早く、この物語を読み進めないと。

 

 雨の影響でこの日の土木作業が全て中止となった作業着姿の中年男性。手に持った文庫本のページを捲ろうとして。

 

「わっ!?」

 

 ページを捲るために少しだけ閉じた文庫本の陰から現れた顔。

 自分の足もとで膝を抱えてしゃがみ込み、こちらを見上げている空色髪の少女。

 驚いた拍子に大声を上げてしまい、館内の全員の視線が中年男性に集まる。

 

 空色髪の少女は、人差し指を口もとに当てて「しーっ」と言った。

 車両の手前では、その様子を見ていた女の子が「またやってるよ」とばかりに頭を抱えている。

 

 

「涙…」

「へ?」

「涙、出てる…」

「へ? あ、ああ、これ?」

 指摘され、男性は慌てて作業着の袖でずぶずぶに濡れた目もとを拭いた。

 

 男性の前でしゃがみ込んでいた少女はぴょんと跳ねるように立ち上がると、男性の隣の席に座り、男性の赤くなった目もとを興味深そうに見つめる。

 彼女居ない歴=年齢の彼。若い女の顔の急接近に、どぎまぎしている。

「な、何ですかね?」

「どーして…」

「へ?」

「どーして、泣いてた、の…?」

「どうしてって…、その。悲しかった、から…?」

「悲しい…?」

「う、うん。読んでる小説が、悲しいお話しなんだ」

「悲しい…」

「うん…」

「悲しかったら、人は、泣く…」

「そうだよ…」

「悲しい思い…」

「え?」

「悲しい思い、するために、わざわざ、本、読んでるの?」

「え、ええっと…」

 

「はっはっはっ」

 車両の中に朗らかな笑い声が響く。

 いつの間にか2人の側に立っていた老婦人が、肩を揺らしながら笑い声を上げている。そんな老婦人に対して、遠くに座っている女の子がわざわざ身を乗り出し、口もとに人差し指を当てながら「しー」。空色髪の少女も老婦人に向けて「しー」。

「おっとっと」

 この図書館の司書である老婦人は、館内の風紀を正すべき立場でありながら、自らその風紀を乱してしまっていたことに気付き、慌てて口を噤む。

 

「お嬢ちゃん、ここは初めてだね」

 小声で話し掛ける老婦人に、少女はこくりと頷く。

「本は読まないのかい?」

 手ぶらの少女はふるふると頭を横に振った。

「どーして、みんな、本、読んでるの?」

 図書館という施設、ひいては司書という職業の存在意義そのものを問う質問に、老婦人は一瞬たじろいでしまうが、すぐに笑顔を取り戻した。

「本はいいよ。本は心を潤してくれる。人類が生み出した文化の極みだよ」

 老婦人のちょっと大袈裟な表現に、いまいち要領を得ないとばかりに首を傾げている少女。老婦人は笑いながら続ける。

「本はね。その人が持つ世界をうんと広げてくれるんだ。知らないことを教えてくれたり。知らない場所に連れていってくれたり。知らない経験をさせてくれたり知らない感情を呼び覚ましてくれたり。本を開けば、そこには知らない世界への扉が鍵を開けて読者を待ってるんだよ」

「世界への…、扉…?」

「そう。ここの連中にとっては、この村だけが世界の全てなんだ。世界はずっとずっと広いのに。村の外に一歩も出ることができないまま、日々の食を得るために、毎日朝から晩まで肉体と精神をすり減らしながら働き、そして死んでいく」

 老婦人の頭の中には、「毎日朝から晩まで働いて死んでいった」具体的な人物の顔が浮かんでいるのだろう。笑っていた顔に、一瞬だけ影が差した。しかしすぐに一筋の影を顔から追い出し、空色髪の少女の顔を観察する。

「あんた。見たところ10代半ばくらいだね」

 その問いに少女は答えなかったが、老婦人は構わず続けた。

「あんた。海って知ってるかい?」

「うみ…」

 唐突な質問に、首を傾げる少女。

「そう。海」

「大きくて…、しょっぱい…、水溜まり…」

 少女の何とも大雑把な海の定義に、老婦人はふふふと笑う。

「まあ正解だね。じゃあ、海はどんな色、してるかな?」

 その問いに、少女は目をぱちくりとさせる。その目を、窓ガラスの外へと向けた。窓の外は雨。地面には、透明の水溜まりが広がっている。

 老婦人に視線を戻し。

「透明…?」

 首を傾げながら答えた。

 期待通りの答えが返ってきた老婦人。内心でにひひと意地悪っぽく笑いながら、その顔を手前の座席に座る小さな女の子のお母さんに向ける。

「あんたは知ってる?」

 急に話を振られ、ちょっと驚いた様子のお母さんは、開いていた本を閉じながらおずおずと答えた。

「赤、だったと思うけど…」

 これまた期待通りの答えが返ってきた老婦人は、内心ではははと会心の笑い声を漏らしながら、得意げに言う。

「それもまあ正解なんだけど。本当の海はね。実は青かったんだよ」

 そう言いながら、老婦人は本棚に収容されている一冊の古びた写真集を持ち出した。多数の風景写真が収められた大きな写真集。広げたページの見開きに大きく載せられたのは、下半分が白、上半分はどこまでも透き通った青。白い砂浜に穏やかな波が打ち寄せる、誰も居ない海岸を写した写真だった。

「わあ、綺麗…」

 それを見たお母さんは小さく感嘆の声を漏らす。

「わあ、懐かしいな…」

 それは一緒に写真集を覗き込んでいた中年男性が漏らした言葉。

「おや。あんたはセカンドインパクト前の世代かい?」

「ええ。子供の頃、親に連れて行ってもらった記憶があります」

「ねえ、これ、なーにー?」

 いつの間にか小さな女の子もお母さんの肩から身を乗り出して、写真集を覗き込んでいる。

「これが海よ」

「うみってなーにー?」

 無邪気に問う女の子の顔を、老婦人は寂し気に見ていた。

 

 写真集を囲んでのやり取りを、ポカンとした表情で見ている少女。そんな少女に、老婦人は言う。

「あんたは海っていうのを大きな水溜まり、って思ってた。このお母さんは、海の色を赤いと思っていた。この子にいたっちゃ、海ってもの自体を知らない。でも、本は本当の海の色を教えてくれる。本当の海の姿をみんなに見せてくれる。何処にも行けないあたしたちに、世界中の色んなことを教えてくれるんだ」

 少女は、老婦人の言葉をぼんやりとした眼差しで聴いている。

「何も外の世界のことだけじゃないんだよ。本には愉快なことも悲しいことも為になることも、色んなことが載ってる。本はあたしたちに知らないことを教えてくれる。知らない場所に連れて行ってくれる。知らない経験をさせてくれる。そしてあたしたちは本を読んで、時に笑って、時に悲しんで、時に考えさせられて。明日がどうなるかも分からない、こんな毎日の中で、心の中に疼く、ほんの些細な心の機微が、人々の生活をほんの少しだけだけど変えてくれるんだ」

 色々と長ったらしく纏まりに欠ける説明となってしまった。老婦人は、自分が少女に伝えたかったことを、簡潔にまとめることにした。

 

「本はね。人の心を豊かにしてくれるおまじないなんだよ」

 

 

 

 女の子は読んでいた絵本を元の位置に戻し、代わりに風景写真集を熱心に見始めている。

 女の子のお母さんは、読んでいた実用書に視線を戻している。

 中年男性は、せっかく気分が高揚してたところで水を刺されてしまったため、文庫本のページを少し戻して読書を再開している。

 老婦人はカートに乗せていた返却された本を本棚にしまい始める。

 

 

 

 少女は。

 

 

 そして少女は、目の前に並ぶ本棚に詰められた本の背表紙を、じっと見つめていた。

 

 縦座席に腰を掛けて、本を見つめていた。

 

 いや、その目は背表紙を見ていなかった。

 

 焦点の合ってない視線を、本棚に並ぶ本に這わせていた。

 

 

 

 

 

 

 布のパーテーションで囲われただけの、部屋にもなっていない部屋。

 

 自分の住処。

 

 命令を待つ場所。

 

 ランタンに寝袋、簡素なラックに載せれたた幾つかの機材。必要最低限のものしか置かれていない部屋。

 

 物が増えることも減ることもなく、とても長い間、ランタンの位置、寝袋の位置、チェストの位置すらも変わることがなかった部屋。

 

 流れる時から、そこだけが置き去りにされたような部屋。

 

 その部屋。

 

 正確に言えば、部屋の出入り口の外。

 

 部屋に変化がもたらされたのは、「彼」がやってきてからだった。

 

 

 日々、積み重ねられていく本。

 

 知らないうちに、増えていく本。

 

 「彼」が何処からか探して持ってくる本。

 

 

  ―――本とか、読んでないの?

 

  ―――そうだ、ここの図書室で探して持ってくるよ。

 

  ―――いつも持ってて、好きみたいだったし。

 

 

 

「碇…くん…」

 

 

 

 知らないことを教えてくれる本。

 知らない場所に連れて行ってくれる本。

 知らない経験をさせてくれる本。

 知らない感情を呼び起こしてくれる本。

 

 

 

「碇…くん…」

 

 

 

 「彼」は、本を通じて、知らない世界のことを教えてくれようとしていたのだろうか。

 知らない場所へ連れて行ってくれようとしたのだろうか。

 閉じていたこの心の扉を、開けようとしてくれたのだろうか。

 

 

 

 視線は本棚から外れ、天井へ。

 首が傾き、後頭部が結露したガラス窓に当たった。

 

 目を閉じる。

 視覚からの情報を断つことで、鋭敏になる聴覚。

 

 左隣で写真集を読んでいる女の子の口から微かに漏れる笑い声が聴こえる。

 その隣で実用書を呼んでいるお母さんの咳払いが聴こえる。

 右隣で小説を読む男性のページを捲る音が聴こえる。

 近くで、老婦人が本棚を整理している音が聴こえる。

 図書館の中に居る、全ての人々の息遣いが聴こえる。

 ガラスを通じて、しとしとと降る雨の音が聴こえる。

 

 

 今までは気に留めることすらなかったそれらの音。雑音。

 

 それらの音に耳を傾けているだけで。

 何故だろう。

 

 この前初めて入った温かいお風呂に浸かっているような。

 穏やかな流れの中に身を委ねているような。

 

 どこからか聴こえてくるピアノの音にも、夜空を埋め尽くす満天の星々を見上げた時も、揺れ動くことのなかったこの心。

 

 それが今は、雑音に身を委ねているだけで。

 

 その雑音が、心の中を埋めていく。

 満たしていく。

 

 ただの雑音。

 どこにでもある、何気ない音のはずなのに。

 

 雑音で埋め尽くされていく心が、とても心地よい。

 

 

 雑音を。

 

 周囲の世界を引き入れていたこの心。

 

 いつの間にか開いていた、心の扉。

  

 

 そして瞼の裏に思い浮かぶもの。

 

 本。

 

 積み上げられた本。

 

 

 そして「彼」。

 

 心を閉ざしてしまった、「彼」の姿。

 

 

 

 少女の周囲を満たしていた雑音が遠くなる。

 

 目も閉じて。

 光が消えて。

 音も消えて。

 

 暗闇の。

 静寂の世界。

 

 

 その世界の中に、ぽつんと佇んでいる、あの少年の背中が見えたような気がした。

 

 

 

 



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(38)

 

 

 

 

「はい。じゃあここにあんたの名前書いて」

「なまえ…」

「そっ。名前」

 5秒間ほど天井を見つめながら考え、受け取ったボールペンでカードの裏に文字を書き込んでいく。

 

「えっと…」

 ミミズが這ったような文字を凝視する老婦人。

「ごめん。これ、なんて書いてあるの?」

 読み取ることを諦めた老婦人は、直接本人に訊ねてみた。

「そっくりさん」

「え?」

「そっくりさん」

「え?」

 同じ問答を2度繰り返す2人。

 

 図書館の受付カウンターでの2人のやり取りを、カウンターの台に顎を乗せながら見ていた小さな女の子。

「そっくりさん」

「え?」

 老婦人の視線が、小さな女の子の顔に注がれる。

「このひと、そっくりさん、ってゆーの」

 女の子に言われ、老婦人はまじまじと少女の顔を見る。

「訳あり…、なんだね…」

「ワケアリ?」

 老婦人は少女に同情の視線を送りつつ、新品の図書カードを「そっくりさん」とやらに渡してやる。

「よかったね」

 小さな女の子は乳歯が抜けた歯を見せながら、少女に向かってにっこりと笑った。

「うん」

 図書カードを受け取った少女は頷いて返す。

 

 

 乗降口が開き、女性が入ってきた。

「こんにちは」

「あら、こんにちは」

 挨拶を交わす老婦人と女性。顔馴染みなのか、女の子もカウンターから顎を上げて女性に向けて挨拶する。

「こんちは」

「あら、チヒロちゃん、こんにちは…、って、わっ!?」

 女の子の隣に立っていた少女がいつの間にか側に近付き、こちらを覗き込むように顔を突き出してきたため、びっくりした女性は大きな声を上げてしまった。

 少女は口もとに人差し指を当てながら「しー」と言う。その後ろでは女の子が「またやってるよ」と呆れたように頭を抱えている。

 

 少女はまん丸に広げた目で、女性が抱いている小さな赤ん坊を見つめている。

「ツバメよりも形状が大きい…」

「ツバメ? あ、ああ。あなたがヒカリんところの居候さんね」

 少女は女性の腕の中の赤ん坊を熱心に見つめながら、こくりと頷く。

「なんだい。存外に有名人なんだね、あんた」

 カウンターの向こう側から老婦人が言う。

「うちの上の子がよく遊んでもらってるらしいのよ。変な髪の色して、変なカッコした新入りの女の子」

 赤ん坊は間近にある少女の顔に、もみじのような小さな手を伸ばした。少女も赤ん坊に右手の人差し指を近づけると、赤ん坊は指に触れ、顔をしわしわにしてにっこりと笑っている。第三種接近遭遇を果たした我が子と少女のやり取りに、女性も「ふふっ」と笑いながら言った。

「この子がもう少し大きくなったら、一緒に遊んであげてね」

 少女は大きく2度頷いている。

 

 突然、少女の背中に、どさっと重みが加わった。女性の腕の中の赤ん坊を覗き込むために前屈みになっていた少女の背中に、女の子が勢いを付けて負ぶさってきたのだ。

 女の子はそのまま少女の背中をよじ登り、少女の両肩に腕を回して少女の肩からひょっこりと顔を出すと、少女の肩越しに赤ん坊を覗き込む。

「あー、ミッちゃん、またおおきくなってる~」

 両足をばたばたさせながら言う女の子。

「ふふっ。チヒロちゃんも、いつかミツコと遊んであげてね」

「うん!」

 図書館の風紀は何処へやら。元気いっぱいな声で返事をする女の子。

 すぐ側で大きな声を出されて驚いてしまったのか、女性の腕の中の赤ん坊がぐずつき始めた。

「あーよしよし」

 女性は赤ん坊をあやすため、抱き直して体全体を使って静かに腕を揺さぶった。

「こら、チヒロ」

 縦座席に座っていた女の子の母親から、叱責の声が飛ぶ。

 女の子は慌てて口を噤む。そんな女の子に向けて、少女は口もとに人差し指を当てながら「しー」と言う。

 

 

 女性が赤ん坊を抱き締めながらあやす様子を、興味深げにじっと見つめている少女。

 ポツリ、と呟く。

 

「ヘン…タイ…」

 

「へ?」

 

 女性は我が子に落としていて視線を、少女へと向けた。

 女性の瞳を、少女の無垢な瞳が見つめる。

 

「それ…、なに?」

 

「え? それって…?」

 

 少女は赤ん坊を抱く女性の腕を指さした。

 

「え? 抱っこのこと…?」

 

 少女は2度頷いた。

 

「そう。抱っこ。どーして、抱っこするの?」

「え? どーしてって…」

 初めての出産の時も、この子を産んだ時も、産んで10秒後には何も考えずに、それが当然と思ってその腕に抱いていた。どーしてと言われても…。

「赤ちゃん…、だから?」

 とりあえずとばかりに答えてみる。

「赤ちゃんは、抱っこする…」

 自分の返事を咀嚼するように呟いている少女。そんな少女を見て、この子もあと何年かしたら我が子を抱いているのかな、と勝手な想像を膨らませた女性は柔らかく笑った。

「そう。赤ちゃんは、まだ何にもできないから。こうして抱っこして、守ってあげなくちゃね」

「赤ちゃん以外は、抱っこしちゃいけないの?」

 少女の立て続けの質問に、女性は「そーゆー訳じゃないけど」とばかりに困ったように笑った。少女の背中に負ぶさる女の子が身を乗り出す。

「そーだよ。おっきくなったら、だっこ、されちゃだめなんだよ」

 自分の肩に顎を乗せる女の子に視線を向ける少女。

「あなたは、もう、抱っこ、されないの?」

「うん。だってあたし、おねーさんだから」

 縦座席に座る女の子の母親が大きく吹き出した。

「なによー、ママ」

「昨日の夜に怖い夢みて眠れないとか言って、わたしに抱っこされてたのはどこのお姉さんだったかしら」

「もー!」

 身内からの思わぬ暴露に、女の子は顔を真っ赤にして抗議している。

 女の子の母親は我が子の抗議を無視して、少女に笑顔を向ける。

「赤ん坊じゃなくてもいいのよ。大人になっても、人は抱っこされたいものだから」

「あなたも?」

「ええ。私も」

 頷く母親に、赤ん坊を抱く女性は目を細める。

「相変わらず、あんたのとこは仲が良いね~。そろそろ3人目を拝めるかしら?」

「ふふっ。チヒロがもう少し大きくなったらね」

 赤ん坊を抱いた女性は女の子の母親の隣の席に座り、そのままご婦人2人はここが図書館ということを忘れて世間話に入った。

 

 

 少女は前屈みにしていた体を起こす。

 その背中にはまだ、女の子がぶら下がっている。

 身を捩じらせ、背中にぶら下がる女の子の体に腕を回す。女の子の胴体を両腕で支えると、女の子の体をそのまま正面へと持ってきた。

 

「え?」

 

 少女の背中に負ぶさっていたはずなのに。

 

「え?」

 

 いつの間にか目の前に少女の胸があって。

 

「え?」

 

 いつの間にか少女の両腕が背中に回されていて。

 

「え?」

 

 いつの間にか少女の腕に中で、抱っこされている。

 

 

 突然の状況変化に戸惑っているのか。

 

「え?」

 

 女の子は立て続けに短い声を上げている。

 

 

 そんな女の子を他所に、少女は女の子の小さな体を抱き締めながら、目を閉じていた。

 

 すぐ側で聴こえるご婦人方のお喋りの声。

 ご婦人2人の世間話に合いの手を入れる老婦人の声。

 天井を叩く、大粒の雨の音。

 

 それらに混じって。

 

 腕の中の女の子。

 女の子の息遣い。

 女の子の胸の中の小さな鼓動。

 女の子の体内で奏でられる、生命の息吹の音。

 

 

「もー」

 腕の中の女の子がじたばたし始めた。

「おねーさんはだっこされちゃだめなんだよー」

 人前で抱っこされたことが恥ずかしかったらしい。

 

 少女はゆっくりと女の子を床へと下ろす。

 ふくれっ面で抗議の視線を送ってくる少女の顔を、ぼんやりと見つめて。

 

「ポカポカ…した…」

 

 ポツリと呟いた。

 

 

 

「ん? 借りたい本でもあった?」

 目の前に立った少女に声を掛ける老婦人。

 少女は何も答えず、カウンター席に座る老婦人に向けて身を乗り出す。伸ばした腕を、老婦人の背中へ。

「え?」

 老婦人の短い声を無視し、そのままそっと老婦人の体を抱き締める。

 

 

「あら。どうしたの?」

 目の前に少女が立ったため、ご婦人2人はお喋りを中断する。

 少女は何も答えず、まずは女の子の母親の前に立った。

 縦座席に座る女の子の母親に向けて前屈みになり、伸ばした腕を母親の背中へ。

「え?」

 母親の短い声を無視し、そのままそっと母親の体を抱き締める。

 

 30秒ほどの抱擁の後、母親の体から離れた少女は、次に赤ん坊を抱いた女性の前に立った。

 ぽかんと少女の顔を見上げている女性。

 少女は何も言わず、女性に向けて前屈みになり、伸ばした腕を女性の背中へ。

「え?」

 女性の短い声を無視し、そのままそっと、その腕に抱かれた赤ん坊ごと、女性の体を抱き締める。

 

 

 小説を読んでいた中年男性の前に立つ。

「ダメダメ! 僕はダメだよ!」

 急に抱き着き魔と化した少女に目の前に立たれ、理性を総動員させた男性は素っ頓狂な声を上げながら車両の奥へと逃げてしまった。

 

 

 逃げていった男性の背中を何処か寂しそうに見送った少女は、自分の両腕をぼんやりと見つめる。

 女の子を。老婦人を。母親を。赤ん坊と女性を抱き締めた腕を。

 

 そんな少女の背中を、唖然とした表情で少女を見つめている抱き着き魔の被害者たち。

 少女は振り返り、ぼんやりとした表情で被害者たちを見つめ返した。

 

「不思議…」

 

 ぽつりと呟く少女。

 

 カウンター席の老婦人はおずおずと言った。

「そりゃこっちのセリフだよ…」

 老婦人の言葉に、赤ん坊を抱いた女性は同意したように頷く。

「よっぽどの不思議ちゃんね。あなた…」

 

 

 

 

「お帰りなさい、そっくりさん」

 鈴原家の家の引き戸を開けたら、土間の台所に立つヒカリが出迎えてくれた。背中には、ツバメをおんぶしている。

「ただいま…」

 遠慮がちに挨拶をして、ヒカリの側に立つ。

「ん? どうしたの?」

 ヒカリの問いには答えず、少女はヒカリに向けて腕を伸ばし、そしてそっとツバメごとヒカリの体を抱き締める。

「え?」

 少女からの突然の抱擁に、戸惑ったような短い声を上げるヒカリ。

「どうしたの? そっくりさん」

 菜っ葉を切っていた包丁の手を止める。

 

 少女は耳を傾ける。

 ヒカリとツバメの息遣い。

 ヒカリとツバメの胸の中の小さな鼓動。

 2人分の、生命の息吹。

 

「不思議…」

「何が不思議なの? そっくりさん」

 突然の抱擁に最初は戸惑っていたヒカリだったが、少女の腕から伝わる心地よい温もりに包まれ、問い返す声音は柔らかい。

「誰かを抱っこしてると、ポカポカする…」

「ふふっ。そうね。誰かを抱っこしてると、心が温かくなるわよね」

「これは?」

「ん?」

「これは、何の、おまじない?」

「さあ。なんだろう」

 

 

 

 



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(39)

 

 

 

 

 木枠の窓ガラスの向こうは雨の世界。

 目を閉じると耳に届くのは、窓ガラス越しに聴こえる雨の音。

 木々を濡らし、地面に水たまりを作り、雨樋から零れ落ちる水たちの戯れの音。

 体を包み込む、雨の音たち。

 

 目を開け、鏡の中の自分を見た。

 

 

 洞木ヒカリが木製の引き戸を開けると、そこにはいつもの彼女。

「おはよう。そっくりさん」

 洗面所の鏡を見ていた空色髪の少女は、ヒカリに顔を向ける。

「小森さんから連絡あったわ。今日も雨だから、いつもの時間にビニールハウスに集まって、だって」

「うん。分かった」

 そう答えながら、ヒカリに近づく少女。伸ばした腕を、ヒカリの背中に回す。

「おは、よう」

「うん。おはよう」

 ヒカリも少女の背中に両腕を回し、ぽんぽんと、少女の細い背中を軽く叩いて応じた。

 

 

 

 鈴原家の食卓。一家の大黒柱、鈴原トウジとその妻ヒカリ。2人の一人娘ツバメ。ヒカリの父親。そして居候の「そっくりさん」。

「いただきます」

 雑穀で作ったお粥、雑草混じりのおひたし、トウモロコシの芯で出汁を取った汁もの。食糧難の時世でも毎朝一汁一菜を揃えてくれるヒカリに感謝しながら頂く朝ご飯。

「ごちそうさまでした」

 空のお茶碗や皿を重ね、台所の流し台に運んでいたら。

 

「そ・っ・く・り・さ・~ん!」

 

 外から数人の子供による掛け声が聴こえてきた。

「あら。もう来たみたいね。そっくりさん。後片付けはいいから。さっさと仕度しちゃいなさい」

 少女はこくりと頷いて持っていた食器をヒカリに預けると、足早に奥の部屋に駆け込み、農作業用の道具が入った背嚢を背負い、干していた雨合羽を羽織ると、玄関のある土間へと向かった。

 土間に降りようとして。

「ん? なんや?」

 ちゃぶ台で新聞を読みながら食後のお茶を啜っていた鈴原トウジは、自分をじっと見つめてくる少女に視線を向けた。少女はトウジに向かって、ぽつりと言う。

「教えてほしいこと、ある…」

 

 

 今度こそ土間に下りた少女は、長靴を履くと、玄関の扉を開けた。

 扉の外では雨合羽を着た、数人の子供が待っている。

 

 玄関から現れた少女を、たちまち囲んでしまう子供たち。

「あの子はすっかりこの村に馴染んだのう」

 少女の背中を見るヒカリの父親は、口もとを綻ばせながら呟いた。

「ほんまですな。まさかあの綾波がこない子供に好かれるとは思うとりませんでしたわ」

 トウジも玄関に視線を投げながら言う。

 視線の先では、少女が出迎えてくれた子供たち一人一人を、身を屈めながら抱き締めてり、抱き締められた子供たちはきゃーきゃーとはしゃいでいる。

「ちょっと、あなた。「綾波」さんじゃないでしょ」

 トウジの空いた湯飲みに笹のお茶を注ぎながらヒカリが言う。

「おお。そうやったな。「そっくりさん」やったわ」

「「そっくりさん」。何て?」

「ん?」

「出掛けに、何か訊かれてたでしょ?」

「おお。シンジのことや」

「碇くん?」

「シンジ。何処におるんや?って」

 扉が開きっ放しの玄関の先では、少女が両手を子供たちに引っ張られて駆け出し始めている。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 泥濘んだ斜面を歩くたびにガッポガッポと鳴る長靴。

 踏み出した長靴は泥濘に着地する度に深く沈んでしまい、次の一歩を踏み出すために苦労する。おまけに雨でない日でも登るのに苦労しそうな急な斜面。連日の雨で十二分に水を含んだ泥の斜面を、一歩一歩慎重に登っていく。

 

 ようやく斜面を登り切った。何度か足を踏み外し、すってんころりんして泥だらけになってしまった顔を、首に掛けていたタオルで拭う。

 泥を拭いて顔を上げると、ようやく目的地が見えた。

 赤い瞳の視線の先には、高台に建つプレハブ小屋がある。

 

 

 小屋のドアの前に立つ。

 傘を畳み、右拳でドアをコンコンと叩いた。

 

「誰…!」

 

 小屋の奥から鋭い声が飛んでくる。

 

 アヤナミレイ

 

 そう答えようとして、口を噤む。

 3秒ほど考えて。

 

「わたし…」

 

 それだけで通じたのだろう。

 

「初期ロットか…。ちょっと待って」

 

 内鍵を開ける音。

 ドアが開く音。

 

 開いたドアの向こう側に、あからさまに不機嫌顔をした、緋色髪の少女が立っていた。

 

 

 上半身は前がはだけたパーカー一枚、下半身はパンツ一丁という、とても客人を迎える格好ではない出で立ちの少女、式波・アスカ・ラングレーは、ドアを開けっぱなしにすると、そのまま小屋の奥に引っ込み、部屋の隅にあるベッドの上に背中からダイブした。ベッドの上に投げていた携帯型ゲーム機を手に取り、不機嫌顔のままピコピコと遊び始める。

 

 ドアの前で暫く立ち往生していた少女。小屋の中を見渡し、そして小屋の外を見渡し。目的の人物が見える範囲では居ないことを確認し、着ていた雨合羽をドア近くの衣文掛けに掛けると、ゆっくりとした足取りで中へと入った。

 

 鈴原家とはまた違う、様々な機器や工具が並ぶ部屋を物珍し気に見渡す。

「なに?」

 ベッドの方から不機嫌そうな声が飛んでくる。少女は不機嫌な声の主、ベッドの上のアスカに顔を向けた。

「碇くん、ここにいると聴いた」

 アスカはゲーム機から目を離さずに答える。

「ここにはいない。目下、家出中」

 少女は改めて部屋の中を見渡す。確かに、「彼」の姿はない。

「そう。なら探してみる」

 アスカはゲーム機から目を逸らし、少女の方へと視線を向ける。

 すでにアスカに背を向け始めている少女。この村には不似合いな、肌にぴったりとくっ付く黒のプラグスーツを着た少女の背中を見つめる。

 アスカは視線をゲーム機に戻す。目を逸らした隙に、ゲーム内の残機が1つ減っていたことに気付き、心の中で舌打ちする。

「あんたさあ…」

 ゲーム機のリスタートボタンを押し、冒頭から再開。ピコピコと小さなボタンを連打し、ゲームを続ける。

 

 声を掛けられたドアの前の少女は振り返る。自分を呼び止めたベッドの上のアスカを見つめた。

 

 ゲームに没頭するアスカ。

 アスカを見つめる少女。

 ピコピコと鳴るゲーム機。

 プレハブの屋根を叩く、大粒の雨の音。

 

 5分が過ぎた。

 

「あ~もうっ」

 今日は調子が悪い。

 目を瞑ってもクリアできそうなゲームの序盤で、残機全てを失ってしまった。リスタートボタンを押すと、冒頭のオープニング映像がゲーム機の小さな画面に流れる。いつもならスキップ機能を使うところだが、映像はそのまま流しっぱなしにして、5分間身じろぎもせずに突っ立っていた空色髪の少女に視線を向けた。

 

 少女の赤い瞳を、じっと見つめる。

 何を考えているのか、そもそも何も考えていないのか。よく分からない赤い瞳。

 

 赤い瞳から視線を落とし、少女が着る黒のプラグスーツの手首にあるコントロールパネルを見つめる。

 目を細め、コントロールパネルの小さな液晶画面に表示されてている文字を睨み見た。

 

 アスカの視線に気付いた少女は、両手を後ろ手に組み、手首のコントロールパネルをアスカには見えないようにする。

 

 アスカの視線は再び少女の赤い瞳へ。

 

 そのまま10秒ほど、少女の赤い瞳を見つめて。

 

 そしてゲーム機へと視線を戻す。

 オープニング映像は終わっていたので、ピコピコを再開。

 

「なんでもない」

「そう」

 呼び止められてからその言葉を聴くまで6分待たされた少女は、それでも少しも気にする素振りを見せず、ドアへと向き直り、ドアノブへ手を伸ばした。

「あいつなら…」

 ベッドの方から再び声がしたため、少女はドアノブを捻りかけた手を止め、振り返る。そこにはベッドの上でピコピコを続けているアスカの姿。アスカはピコピコしながら言う。

「あいつならネルフ第2支部N109棟跡よ」

 少女は瞬きを一つした。ドアノブを握っていた手を下ろし、ベッドの上の少女に体の正面を向ける。

「ありがとう」

 アスカはピコピコを続けながら、一瞬だけ視線を少女とアスカの間にあるテーブルに向けた。

「あいつの所に行くなら、そこのレーション持っていって。そろそろ限界だと思うから」

 テーブルの上には高カロリーの携帯保存食が置かれてある。少女はテーブル近くまで歩み寄り、携帯保存食を拾い上げた。

 少女はベッドの上のアスカを見つめて、そして今一度、小屋の中をぐるりと見渡して。ふと思ったことを、アスカに訊ねてみた。

「あなた、一人、ここで住んでるの?」

 アスカはゲーム機から目を離さずに答える。

「ここはケンケンの家。あたしの家じゃないわ」

「ケンケン?」

「ケンケンはケンケンよ」

「どうして、みんなと一緒に、暮らさないの?」

「……」

 アスカは黙っている。

「この村に、いて、仕事、しなくて、いいの?」

「あんたバカぁ?」

 今日一番の、アスカの不機嫌顔。

「ここは私が居る所じゃない。守るところよ」

 

 

 

 ドアが閉まる音。

 雨合羽を羽織る音。

 傘を差す音。

 そして遠ざかっていく足音。

 

 それらの音を、ベッドの上からゲーム機で遊びながら聴いていたアスカ。

 無感動にゲーム機の画面を見つめていたアスカの顔。徐々に眉間に皺が寄り、目が細くなっていく。

 ゲーム機を、枕の上に投げ出した。

「あーもう…!」

 ベッドから体を起こし、ベッド脇に投げていた膝丈のショートパンツを履き、はだけていたパーカーの前のファスナーを閉じてサンダルを履く。傘を差して、外に出た。

 

 

 

 目的地に着く頃には土砂降りの雨は止んでいた。

 湖の畔。

 古代の城郭を思わせるような、天に向けて縦長に伸びた、崩れかけの廃墟。

 その入り口の側まで行くと、固いコンクリートの床に何かが激しく投げ付けられたような音がした。

 暫くして、霞むような口調で「また来る」と言うあの少女の声。

 コツコツと、コンクリート製の床を叩く足音。足音は、だんだんこちらに近付いてくる。

 その足音に、何故かはアスカ自身も分からないが、咄嗟に物陰に身を隠してしまう。

 廃墟の入り口から、あの少女が出てきた。小屋から出ていった時に持っていた携帯保存食の箱はその手にはなく、あちこちが凸凹だらけの携帯型音楽プレイヤーが握られていた。

 少女はアスカの存在には気付かなかったらしく、そのままてくてくと歩いて廃墟の前を立ち去っていく。

 

 アスカは、廃墟の入り口から中をこっそりと覗き見た。

 あちこちが陥没した床。崩れた壁の向こうに広がる静寂に包まれた湖。

 

 廃墟の床で蹲った、少年の背中が見えた。

 

 少年は蹲ったまま、唸っている。

 肩を震わせ、嗚咽を漏らしている。

 

 その少年の右手が、床に伸びた。

 床の上には、あの携帯保存食。

 少年の手は保存食の箱を掴むと、その包装を乱暴に破り、少年の口は包装の中身に齧り付いた。

 

 

 

 



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(40)

 

 

 

 

 立ち止まる少女。

 少女を囲むように歩いていた農作業仲間の小母ちゃんたちは、少女が集団から遅れたことに気付き、足を止める。

 未舗装の田舎道の真ん中で、少女が小母ちゃんたちを見つめながら、ぽつんと突っ立っている。

 

 小母ちゃんの一人が笑顔で声を掛けた。

「今日も行くのかい?」

 少女は頷く。

「そっか。遅くならないようにおしよ」

「先生んところの奥さんにはあたしから言っとくから」

「気を付けてね」

 小母ちゃんたちは、口々に少女に向けて優しく声を掛ける。

 少女は頷く。

 そして少女は小母ちゃんたちに歩み寄り、そして。

「はいはい」

「今日もだね」

「あたしゃまだ慣れないね~」

「なんだか外人さんの挨拶みたいだよ」

「でも悪かないじゃないか」

 数日前から突然始められた、少女からの挨拶代わりの抱擁。少女から一人一人軽い仕草で、それでいてしっかりと抱擁され、すっかり照れている小母ちゃんたち。

 全員をハグし終えた少女は、小母ちゃんたちにペコリと頭を下げると、そのまま村への帰り道とは違う、湖のある方へと向かって走っていった。

 

 

 村への帰り道を歩きながら。

「それにしても誰なんだろうね。毎日会いにいく相手って」

「そんなの決まってるじゃないか。あの年ごろだよ?」

「やっぱり? あ~残念だね~。うちの倅のお嫁さんにピッタリだと思ってたのに」

「あんたんとこには勿体ないよ。それよりも加持さんとこに若いのいたじゃないか。あたしはあの子んとこに嫁がされたらどうかと思ってたのよ」

 ぺちゃくちゃお喋りに興じるうちに、やがて地面を走る線路へと行き当たり、村の中心部が見えてきた。

「んじゃ、今日もご苦労さんでした」

「じゃ、またね」

「明日も頑張りましょう」

「お疲れさ~ん」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「え?」

「え?」

「え?」

「え?」

 お互い見合ったまま、突っ立ている小母ちゃんたち。

「なに?」

「解散でしょ?」

「う、うん」

「なんか、ねぇ」

「う、うん」

「え? あんたもかい?」

「う、うん」

「このままだと物足りないからねぇ」

「う、うん」

「じゃ、ま」

「あたしたちも」

「やっときましょっか」

「そうしましょうっか」

 

 小母ちゃんたちは、互いにハグをしあってから別れたのだった。

 

 

 

 

 数日ぶりの晴天。家の中でゲームばっかりやってたら体にカビが生えてしまいそうなので、体の天日干しのために久しぶりに外をぶらぶらと散歩することにした。

 陽が傾き掛けた時間帯。左右に菜の花畑が広がる田舎の泥道を茜色の陽射しが照らし、菜の花の上にはクロアゲハがひらひらと舞っている。

 拾った木の枝で道端の雑草をビシバシ叩きながら歩いていたら、菜の花畑の中を歩く人影が目に入った。

 

 左右の色鮮やかな菜の花には目もくれず、視線を地べたに這わせながらトボトボと歩く空色髪の少女。

 アスカは足を止め、少女の姿を見つめる。アスカが立つ位置まであと3メートルまで迫って、ようやく視界の隅にアスカのサンダル履きの足が見えたらしい少女は、地べたに這わせていた視線を上げてアスカを見た。

 少女の顔を正面から見たアスカは、2度、目を瞬かせる。

 

 人が辛うじてすれ違うことが出来る程度の狭い道。

 道の真ん中に堂々と立つアスカを避けるため、少女は道の端に寄り、身を捩らせながらアスカの横を通り抜けようとする。

 

 少女が、お互いの肩が触れ合いそうな位置まで近づき、そしてそのまま通り過ぎようとする。

 アスカは心の中で「ああもう」と悪態を付きながら、少女の手首を掴んだ。

 手首を掴まれた少女は振り返る。

「どうしたのよ、それ」

 アスカが言う「それ」。

 少女の真っ白のはずの右頬が、赤く腫れている。

 

 少女が足を止め、アスカの方に体を向けたため、アスカは少女の手首を離した。

 少女は解放された手で、腫れた右頬にそっと触れながら、おずおずと口を開いた。

「みっちゃんの…」

「みっちゃん?」

 少女は頷きながら続ける。

「みっちゃんのお母さんが言ってた」

「お母さん?」

「何も出来ない人は、守ってあげないといけないと、って」

「何も出来ない人?」

 話しの筋が見えてこず、オウム返しするしかないアスカ。

 少女は頷きながら続ける。

「だから、碇くん」

「え? バカシンジ?」

「バカ?」

「いいから続けて」

「そしたら碇くん。急に大きな声、上げて。碇くんの手、私の顔、当たって」

「え? え? それ、シンジにやられたの?」

 少女は頷く。指で触れた患部が痛かったのか、少女は顔を顰めている。

「これが「痛い」。「痛い」は、知ってる…」

 自分の中の「痛み」の記憶を探るように、視線を虚空に這わせる少女。

「でも、この「痛い」は、初めて…」

 這わせていた視線を、目の前に立つ緋色髪の少女に向けた。

「これは、何の、おまじない?」

「おまじない?」

 突然問われたアスカは、またもやオウム返しをする。

 少女はうんと頷いて、アスカの答えを待っている。

 

 あのバカが女子に手を上げたという事実に戸惑ってしまっていたアスカは、突然の質問にさらに頭の中がこんがらがってしまった。

 

 赤い瞳をこちらに向けて、じっと答えを待っている少女の顔をぼんやりと見つめて。

 

 

「気合いよ…」

 

 ぽつりと呟いてみた。

「キアイ…?」

 今度は少女がオウム返しをし、アスカはこくりと頷く。

 

「闘魂注入…よ」

 

「トーコンチューニュー…?」

 

「ボンバイエ…よ」

 

「ボンバイエ…?」

 

「元気ですかー?…よ」

 

「ゲンキですか…?」

 

「元気があれば、なんでもできる、…よ」

 

「ゲンキがあれば、なんでもできる…」

 

「行くぞー…」

 

「行くぞー…」

 

「1」

 

「イチ」

 

「2ぃ」

 

「ニィ」

 

「3」

 

「さん」

 

「だああ!」

 

「だああ…」

 

 

 何時の間にか2人して拳を天に突き上げていた。

 

 2人の間を、ひらひらと舞うクロアゲハが横切って。

 

 アスカがゆっくりと腕を下ろしたため、少女も倣って腕を下ろす。

 そしてアスカはぽつりと言った。

「これよ」

 少女は素直に頷く。

「うん。分かった」

「え? マジで?」

 少女は頷く。

 

 アスカは手を伸ばし、少女の赤く腫れ上がった右頬に触れる。

「へ~、あのバカシンジがね~」

 少女には気の毒だが、あの腰抜けに女に手を上げる度胸があったとはと、妙に感心してしまう。

「ってか、あのガキに何したの?」

 少女は触れられた患部の痛みに顔を顰めながら言う。

「みっちゃんのお母さんが言ってた。何も出来ない人は、守ってあげないと、って」

「(みっちゃんのお母さんって誰よ)それは聞いた」

「うん。だから、こうしようとしたの」

 

 少女はアスカに半歩歩み寄った。

 

「え?」

 

 そのままアスカの背中に両腕を回し。

 

「え?」

 

 アスカの体を包み込み。

 

「え?」

 

 アスカの体を抱き寄せる。

 

 

「え? え?」

 いつの間にか少女に抱き締められていたアスカ。

「え? え?」

 ひたすら、短い声を上げ続けることしかできないでいる。

 

 そんなアスカを他所に、少女はアスカの息遣いに耳を傾けている。

 アスカの胸の中の小さな鼓動に耳を傾けている。

 アスカの体から生命の息吹を感じている。

 

「あなたの音…」

「え?」

「あなたの音…、とても気持ちいい…」

「そう…」

 突然抱き締められ、硬直していたアスカの体から、力みが消えていく。

「これは…?」

「ん?」

「これは、何の、おまじない…?」

 

 視界の隅にチラつく少女の空色の毛先。

 視界の下半分に広がるオレンジ色の菜の花畑。

 視界の上半分に広がる、茜色の空。

 すぐ側で感じる、少女の息遣い。

 

 アスカはポツリと言う。

 

「D・ b・st ・in S・・at・」

 

「え?」

 

 アスカの呟きが聴き取れなかった少女は訊き返す。

 アスカはその口を少女の耳元に近付け、もう一度ゆっくりと丁寧に囁く。

 少女は、アスカが囁いた言葉をそのまま真似てみる。

 アスカはこくりと頷いた。

 

「それを相手に伝えるための、おまじないよ」

 

 

 家路へとつく少女の背中を見送る。

 アスカは、まだ少女の体の感触が残る自身の胸の辺りを見下ろした。

「あったかかったな…、あいつ…」

 

 

 ―――あなたの音…、とても気持ちいい…。

 

 

「そっか…」

 

 手を、胸に当てる。

 手のひらに感じる、微かな鼓動。

 

「あたし。まだ生きてるんだ…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 本日も晴天。小屋の掃除や洗濯以外はすることがないため、その辺をテキトーにぶらぶらと散歩。拾った枝で雑草をビシバシ叩きながら歩いていたら、件の廃墟の前を通った。

 廃墟の前を通り過ぎ、そのままてくてく10歩ほど歩いて。

 立ち止まって。

 踵を返し、足早に、かつ足音を立てないように慎重に歩きながら、廃墟の入り口へと向かう。

 そっと廃墟の中を覗き見たら、「あいつ」と、もう一人別の気配。短く切り揃えられた空色の髪が、廃墟の前に広がる湖から吹く風にひらひらと揺れていた。

 

 湖に体を向け、床にしゃがみ込んでいる「あいつ」。その背中を、数歩後ろに立ちながら、身じろぎ一つせずに見つめている少女。

 水面を泳ぐ水鳥。流れていく雲。風に揺れる、少女の空色の髪。それら以外はまるで静止画のように動かない、廃墟の中の退屈な風景。

「アホくさ…」

 そう呟いたアスカは、廃墟に背を向け、歩き出す。

 

 廃墟から10歩ほど離れた時に。

 

「1、2、3、だぁ…!」

 

 廃墟の方から、気の抜けたような、スッカスカな掛け声と共に。

 

 ペチッ

 

 何かを軽く叩く音が聴こえた。

 

 少し間を置いて。

 

 ビタン!!

 

 続けて何かを激しく叩く音。

 

 

 しんと静まり返る廃墟。

 唖然として、廃墟を見つめるアスカ。

 

 暫くして、廃墟の方からてくてくと足音がする。

 見ていたら、廃墟の入り口から少女が出てきた。

 今度は左頬を真っ赤に晴らした少女が。

 

 アスカの存在に気付く少女。

 腫れあがった左頬に触れながら、ポツリと言う。

「ボンバイエ…」

「ボンバイエ?」

 オウム返しするアスカに、頷く少女。

「ボンバイエのおまじない…、碇くんに、してみた…」

「そう…」

「碇くんに、キアイ、入れてほしかったから…」

「そう…」

「碇くんから、ボンバイエのおまじない…、返された…」

「そう…」

「これは、私に、もっとキアイ、入れろ、ってこと…?」

「そうかもね…」

「そう…。分かった…」

「あんた…」

「なに…?」

「あんた、底なしのアホね…」

 

 トボトボと家路につく少女の背中を見送る。

 少女の背中が見えなくなって。

 

「プッ!」

 アスカは遂に堪えきれなくなり、吹き出した。そして、

 

「キャハハハッ!」

 

 腹を抱えて笑いだしてしまった。

 

 それは彼女にとって何時以来の笑い声だっただろうか。

 腹を抱え、引き攣った顔でヒーヒー言いながら、その場に蹲る。

 

 アスカのバカ笑いが耳障りだったのだろう。廃墟の方から「あいつ」の声で「うるさい!」と怒鳴り声が飛んできたが、アスカは構わずその場で笑い転げていた。

 

 

 

 



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(41)

 

 

 

 

 コンコン、とドアを叩く音。

 咄嗟に枕の下に隠している拳銃に手を伸ばそうとして、しかし時計を見たら「何時も」の時間だったため、手を引っ込め、携帯型ゲーム機でピコピコを再開。

「んんん」

 返事代わりに唸った。するとドアが開き、空色髪の少女が入ってくる。

 

 雨具をドア近くの衣紋掛けに引っかけて小屋に入ってきた少女は、アスカが寝っ転がっているベッドの横を通り抜け、まっすぐに台所の戸棚へ。

 戸棚の戸を開き、中に積まれた携帯保存食の箱を1個取り出し、手に提げていた背嚢の中に入れる。戸を閉め、踵を返し、アスカが寝っ転がっているベッドの横を通り抜けてドアへ向かおうとして。

「今日もあいつんところ?」

 不意に、ベッドの上の彼女から声を掛けられた。少女は足を止め、ベッドへ振り返る。アスカは寝っ転がったまま、ピコピコを続けている。

「うん」

「毎日毎日ご熱心ですこと」

 冷やかし混じりのアスカの口調だったが、少女は気にした様子もなくこくりと頷く。

 

 そのままピコピコを続けるアスカ。

 ベッドの上のアスカをじっと見つめる少女。

 ピコピコを続けるアスカ。

 

 それ以上アスカは何も言いそうになかったため、少女は体をドアの方へと向けた。

 アスカはすかさず視線を横に向け、少女が着る黒のプラグスーツの手首にあるコントロールパネルを睨む。

 小さな画面に点る、赤く光った表示。

 

 ドアに向けてスタスタと歩き始める少女。

 アスカは軽く溜息を吐き。

「教えといてあげる」

 少女を呼び止めた。少女はドアノブに伸ばし掛けた手を引っ込める。

「私たちエヴァパイロットはエヴァ同様人の枠を超えないように設計されてる。非効率な感情があるのもそう。人の認知行動に合わせてデザインされているだけ」

 ドアの側に立つ少女の赤い瞳が、じっとアスカの蒼い瞳を見つめていた。

 アスカは視線をゲーム機に戻す。いつの間にか残機が全滅していたため、心の中で舌打ちをする。

「あんたたち綾波シリーズは」

 ゲーム機のリスタートボタンを押し、冒頭から再開。

「第3の少年に対する感情が調整されている。今のその感情は、最初っからネルフに仕組まれていたものよ」

 ピコピコと小さなボタンを連打し、ゲームを続ける。

 

 順当に第一ステージはクリア。

 小さな長方形の画面が第二ステージに切り替わったところで。

 

「わっ!?」

 

 アスカの顔を間近で覗き込む少女の顔が目に入り、びっくりしてしまうアスカである。

 

「な、なによ、あんた」

 思わぬ急接近に上半身を起こし、壁に背を付け、少女と距離を取るアスカ。

 慌てた様子のアスカの姿を、少女はきょとんとした目で追う。

 

「その感情…」

「え?」

「「その感情」って、なに?」

「はあ?」

 今度はアスカがきょとんとした顔で少女を見つめる番だった。

「碇くんのこと、考えると、世界が優しく、なった。色んな音が、心の中に、入ってくるように、なった。体が、ふわふわ、した」

 少女はきょとんとしたアスカの目を、まっすぐに見つめている。

「この感情って、なに?」

 

 何度か目を瞬かせたアスカ。

 開閉しているうちに、きょとんとした目は消え、いつもの不機嫌そうな目付きに戻る。

 再びベッドに横になり、ゲームを再開させ、体を壁の方へと倒し、少女に背を向ける。

 

 ゲーム機から鳴るピコピコ音

 呼吸に合わせて上下する、アスカの右肩。

 屋根を叩く、雨の音。

 

 ゲームに没頭してしまったらしいアスカに、答えを得ることを諦めた少女は立ち上がると、ドアへと足を向けた。

 

「「好き」…」

 

 唐突にベッドから声がした。

 

 振り返ると、緋色髪の少女は壁を向いたままゲームを続けている。

 

 空耳かと思った少女は、再びドアへと向けて足を進めようとして。

 

「「好き」って、ことじゃない…」

 

 振り返ってみると、そこには変わらずこちらに背を向けてゲームに没頭しているアスカの姿がある。

 

 その背中に視線を送り続けるが、それ以上、何かを言ってくれる様子はない。

 

 アスカの背中から床へ、そして窓ガラスの外の雨の景色へと視線を巡らせて。

 

 

「好き…」

 

 何度も目を瞬かせて。

 

「好き…」

 

 視線を天井に、壁に、アスカのパンツ丸出しのお尻にと、次々と巡らせて。

 

「好き…」

 

 

 何処からか、ふっ、ふっ、と空気の巡る音がする。

 何処からか、トク、トク、と脈打つ音がする。

 

 音の在処を探る視線は、やがて少女の胸の上へと辿り着いた。

 

 

 色んな人の体を抱き締めて。

 その人の息遣いに耳を傾けて。

 その人の胸の中の鼓動に耳を傾けて。

 その人の生命の息吹を感じて。

 

 初めてかも知れない。

 自分自身の息遣いを聴いたのは。

 自分自身の胸の中の高鳴りを聴いたのは。

 自分自身の生命の息吹を感じたのは。

 両頬が、熱くなるのを感じたのは。

 

「これが…、好き…」 

 

 

 ゲーム機の画面に集中していたはずなのに。

 背後からぽつりぽつりと聴こえる少女の呟きに、アスカは目をぎゅっと閉じて、鼻から盛大に溜息を吐く。

 少女には背を向けたままで、念を押すように言った。

 

「だからその感情はネルフに仕組まれたものなの。偽りの好意、よ」

 

 もう何も答えてくれないものと思っていた緋色髪の少女からの声に、空色髪の少女は目を大きくぱちくりとさせる。

 アスカのパンツ丸出しのお尻から、アスカの後頭部へと視線を移した。

 

「そう…」

 ぼんやりとした口調で答える少女。

 

「そっ」

 素っ気ない口調で念押しするアスカ。

 

「でもいい…」

 

 少女の口から零れたその言葉に、アスカはゲームの手を止め、肩越しに少女を振り返る。

 

「良かったと、感じるから…」

 

 少女の赤い瞳を、じっと見つめる。

 少女が初めてこの小屋を訪れた時に見た時は、何を考えているのか、そもそも何も考えていないのか、よく分からなかった赤い瞳。

 気のせいだろうか。

 その赤い瞳が、微笑んでいるように見えるのは。

 

 ゲーム機へと視線を戻す。

 ピコピコを再開。

 

「そう。なら勝手にすれば…」

 どこか不貞腐れたように、そう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 陽が暮れた世界。

 赤く染まった西の空の隅っこだけを残して、世界を夜の闇が多い始めている。

 明かりの点いていない部屋。

 窓越しに、夜の帳が落ち始めた外の景色をぼんやりと眺めていた。

 窓ガラスに映るのは、左目を眼帯で覆った少女の姿。

 ガラスに映る眼帯に、そっと手を伸ばす。ガラスの表面の、ひんやりとした感触が指に伝う。

 自分自身の左目を最後に見たのは、何時だっただろうか。

 

 徐々に面積を狭めていく東の赤い空。風に揺れる木々。それ以外、動きのなかった外の世界。

 その一角に、2つの動く影。

 影は、段々とこちらに近づいてくる。

 影の形が、人の形を成し始めて。

 

 アスカは、一度両肩を上げて空気を大きく吸い込み、そして盛大な溜息を鼻から漏らしながら肩を下ろした。

 

 ガラス窓に映る眼帯を覆った少女の隣に、メガネを掛けた青年が立った。

 青年の視線も、2つの人影を追いかけている。

 

「凄いんだな…、彼女」

 青年、相田ケンスケは2つの人影の片方、全身を肌にぴったりとくっ付く黒いスーツで包んだ、空色髪の少女を見ていた。

「別に…。徹底的に甘やかしただけでしょ」

「そうかもしれない。でもあんな状態の…。何も話さず、何も聞かず。周囲のあらゆるものを拒んでいた碇が誰かと手を繋いで歩いてるんだ。どんな経緯でああなったにせよ、それだけでも凄いことだよ」

 空色髪の少女の隣には、ジャージ姿の少年。2人は、手を繋ぎながら。正確には、少女が少年の手を引きながら、田舎道をゆっくりと歩いている。

「ありがとな。式波」

「え? どーして今の流れでソレなのよ」

 アスカは口を「へ」の字に曲げながら、窓ガラスに向けていた視線をケンスケへと向けた。

「碇に厳しく当たってくれて。むしろ式波の方が辛かったんじゃないか?」

「べっつに。見てて心底イライラしてただけよ。1回蹴飛ばすごとに、むしろ清々したわ」

「ははっ。でも式波の鞭と、あの子の飴が無かったら、きっと碇はこんなに早く立ち直りの切っ掛けを掴むことができなかったはずさ。俺の見立てじゃ、最低1年は掛かると思ってたからな」

「経験者でも、宛てが外れた?」

 からかうような、それでいてその中に一抹の優しさを混ぜたアスカの声。

「俺の時も半年は掛かったからね。あの時はお世話になりました。式波センセ」

 アスカに向けて仰々しく頭を下げるケンスケに対し、アスカも芝居がかった動作で胸を張る。

「どーいたしまして」

 ケンスケは笑いながら言う。

「誇っていいんじゃないかな? 式波」

「何をよ」

「式波はその半生において、2人の男をどん底から引き揚げたんだ。凄いことだよ」

「ま、その内の1人はこの村に大いに役に立つ存在になったからね。そこはまあ、誇ってやることにしましょっか」

「お褒めにあずかり光栄です」

「でも…、あいつはどうかしら…」

 

 小屋の側まで手を繋ぎながらやってきた2人。

 今は足を止めて互いに向き合い、互いに黙っている。

 少女は少年の瞳をじっと見つめ、少年は照れ臭そうに少女の足もとをじっと見つめ。

 

 ふと、少女が半歩だけ少年に歩み寄った。

 少女は少年の手を離すと、両腕を広げる。広げた両腕で、少年の体を包み込もうとして。

 

 素っ頓狂な声を上げた少年は、慌てふためきながら少女から2歩も3歩も離れてしまった。暗がりでよく見えないが、少年の顔が真っ赤になっているのは想像に難くない。

 

「ちっ」

 アスカの舌打ち。

「あんのヘタレが…」

「ああ、ヘタレだね」

 ケンスケも困ったように笑いながらアスカに同調する。

 

 お別れのハグをし損なった少女は、自身の空っぽの両腕を寂しそうに見つめ、そして仕方なく、ハグの代わりに胸の前で、少年に向けて小さく手を振った。

 少年は右手で頭を掻きながら、左手で手を振り返す。

 少年に手を振られて安心した様子の少女は、手を振りながら少しずつ後退り、そして踵を返してすっかり暗くなった夜道を歩いていく。

 

「ありゃりゃ。碇センセそりゃないですぜ」

 ケンスケの心底残念がった声。

「こんな夜道を女の子一人で帰らせるつもりですか」

「あんのボンクラにそんな甲斐性があるわけないでしょうが」

「仕方ないな。俺が送ってこよう」

 ケンスケは壁に掛けた懐中電灯とテーブルの上の自動車の鍵を持ち、裏口へと向かう。

「ありがとう、ケンケン」

「式波も。今日くらいは優しくしてやれよ」

「それはどうかしらねぇ」

 ケンスケが小屋の裏口から出ていく。

 窓の外では、少女の姿が見えなくなるまで見送った少年が、口もとに少しだけ丸みを帯びさせた顔で、小屋の正面のドアへと回っている。

 

 

 

 

「ふん…、家出は終わり?」

 

 

「初期ロットのおかげ?」

 

 

「泣けるだけ泣いて…、スッキリした?」

 

 

「そう…。だったら、少しはケンケンの役に立て…!」

 

 

 

 

「ただいま~。あれ? 碇は?」

「帰ってきた途端、寝床に直行よ」

「そっか。ま、碇にとっては久しぶりの屋根の下での就寝だからな。今日はゆっくりさせてやろう」

「明日っからこき使ってやって…、何よ、その顔」

「へ?」

「何だか締まりのない顔しちゃってさ」

「あ、いや、これは……。ごめん、式波。さっきの言葉、俺は撤回させてもらうよ」

「は?」

「碇センセはヘタレじゃない」

「は?」

「いや~、あんなカワイイコのハグなんて、そりゃ14歳のガキんちょには荷が重いって~」

「ケンケン、あんたまさか…」

「鈴原んちまで送ったら突然別れ際にぎゅっとさ、…って、式波さん?」

「……」

 ゲシゲシッ

「え、ちょっと痛いですよ。式波さん…」

「……」

 ゲシゲシゲシッ

 

 

 

 



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(42)

 

 

 

 

「ニアサーを生き延びた親父が、まさか事故で死ぬとは、その時はまるで思わなかったな」

 

「こんなことになるんならちゃんと話をして、酒でも飲んで愚痴の一つでも聴いときゃよかったよ」

 

「お前の親父は生きてるんだろ。無駄とは思っても、一度は会って、きちんと話せよ。後悔するぞ」

 

「そんなのコイツには重いわよ。あの碇ゲンドウじゃ」

 

「それでも親子だ。…縁は残る…」

 

 

 村の高台にある共同墓地。友人の父親の墓参りを終えた少年は、村へと戻る坂道を下り始めている。 

 少年のその後ろ姿を見送り、そして隣に立つ青年の横顔を見上げた。

 相田ケンスケは目の前にある、墓地の片隅に置かれた人の膝の高さくらいの大きさの丸い石をじっと見つめている。

 アスカもケンスケに倣って、「相田家」と彫られた丸い石を見つめる。

 丸い岩を見つめて。

 そして隣のケンスケの横顔を見上げて。

 

 あの難民キャンプで再会して多くの歳月が流れた。

 こいつも随分とデッカくなったもんだ、と感心しながらケンスケの横顔を見上げて。

 メガネの向こうの、まるで睨むように細められたケンスケの目を見つめて。

 

「よっと」

 いきなりアスカが相田家の墓石に飛び乗ったものだから、ケンスケは仰天してしまう。

「ちょ、ちょっと式波!」

「いいじゃん、別に。どうせこの下には誰も埋まってないんだから」

「そ、そりゃそうだけど…」

 

 そしてアスカは目線の高さが一緒になったケンスケの顔を正面から見つめる。

「えらいえらい。ケンケンもようやく自分の親父のことを人に話せるようになったか」

 そう言ってアスカは手を伸ばし、ケンスケの頭をよしよしと撫でた。

 途端に真っ赤になってしまうケンスケの顔。

 指で頬をぽりぽりと掻きながらケンスケは言う。

「碇くらいさ。こんなこと話せる相手。むしろ碇に言ったことは10年前の俺にそのまま言ってやりたいことだよ。それに…」

 メガネの奥の目を細め、アスカが乗る墓石に掘られた「相田家」の文字を見つめる。

「結局本当のことは誰にも言えずじまいさ…」

 そんな態度のケンスケに、アスカはやれやれと溜息を吐く。

「それでも君にとっては大きな前進であ~る。よし。今日は特別にご褒美を与えてしんぜよう」

 おどけた口調でそう言うアスカは、ケンスケの前で両腕を広げてみせた。

「え?」

 首を傾げるケンスケ。

「んん」

 唸るアスカは両腕を広げたまま、顎を手前に向かってちょいちょいと2度振る。どうやら「来い」と言っているらしい。

「え、えっと…」

 「まいったな」と頭を掻くしかないケンスケ。

「ほ~ら~」

 見れば、彼女も両頬をほんのりと赤く染めている。

 女の子?に恥をかかせてはいけないと覚悟を決めたケンスケは、一歩二歩と墓石の前へと歩み寄り、そして少女の姿をした彼女の開いた両脇の下に、自身の両腕を滑り込ませた。

 

 自分の胸の中におずおずと入ってきた青年の体。

 この10年で随分と逞しくなってしまった背中。

 両腕をその背中に回すと、手と手が何とかぎりぎり届いた。

 そんな彼の背中を、そっと抱き締める。

 

 

 体全体で彼の温もりを感じながら。

 

 少女は耳を傾ける。

 

 青年の息遣いに。

 青年の胸の中の小さな鼓動に。

 青年の生命の息吹を、全身で受け止める。

 

 アスカはケンスケの肩に顎を乗せ、腕の中の相手に体重を預ける。

 彼の息遣いに寄り添って。

 彼の胸の中の小さな鼓動に身を委ねて。

 彼から感じる生命の息吹に包まれて。

 

 

「 Do vist ayn shirt 」

 

 耳もとで、彼がぽつりと呟いた。

「え?」

 アスカの頬だけでなく、顔全体が真っ赤になった。

 アスカの顔が見えていないケンスケは、そのまま続ける。

「最近村の子供たちの間で流行ってるんだ」

「む、村で…?」

「うん。こんな風にハグしあいっこするのが。その時、今のおまじないを言うんだ」

「ふーん…」

「どんな意味なんだろうね?」

「さあ…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「うん。村重さんの心臓は今日もえー感じにぴょこぴょこ動いとるで。お薬がよう効いとるわ。おんなじお薬出しとくから、忘れんと飲みなや」

「先生、いつもありがとうね」

 

 ぎゅっ

 

 

「ほな、また1週間後なぁ」

 長屋の玄関から部屋の奥の布団で寝ている老婦人に挨拶を済ませ、外へと出る。

 ガラガラと自分で閉じた玄関の引き戸を、ぼーっと見つめる。

 

「先生、どうかされました?」

 往診に訪れた長屋の玄関の前で突っ立ているトウジに、同行した鈴原診療所の看護師を勤めている女性が声を掛けてきた。 

 トウジは女性に目を向けて。

「なんや、今日だけでこれで3人目や。みんな別れ際に抱き着いてくるんやで。近いうち「お迎え」でも来るんかと心配になるやん」

 女性は口許に手を当ててクスクスと笑う。

「先生知らないんですか?」

「え? 何がや」

「今、村で流行ってるんですよ。挨拶代わりのハグが」

「ハグ?」

「ええ。ほら」

 女性が指差す先。

 

 往来で、シルバーカーをゆるゆると押しているおばあちゃん。

 反対方向からも、やはりシルバーカーをゆるゆると押すおばあちゃん。

 すれ違った2人は道端で軽く世間話をし、そして。

 

「あ」

「ほらね」

 

 おばあちゃん2人は道端で軽くハグして、そしてゆるゆるとシルバーカーを押しながら去っていった。

 

「そういやうちのそっくりさんも仕事に出掛けるときいっつも抱き着いてきよるんやわ。年頃の娘がそんなはしたないことするんやない、言うとるんやがな。けったいなもんが流行っとるのぉ」

「でもこれが流行り始めて何だか村人同士の距離が近くなったような気がするんですよね」

「そりゃええことやけど、医者の身としてはせっかくインフルが収まったっちゅーのに、人同士の接触が多くなるのはあまり感心せんなぁ」

「まあまあ、いいじゃないですか。そうそう、なんでもハグする時の特別なおまじないがあるみたいで。ええっと、なんだったかな。そうそう。「 Do vist ayn shirt 」って言うといいらしいですよ」

「なんやて?」

「 「 Do vist ayn shirt 」。どんな意味なんでしょうね?」

 トウジは首を傾けながら、口もとで女性が言った言葉を何度か反芻して。

「それ。ドイツ語ちゃうんか?」

「え? ドイツ語? 先生、ドイツ語分かるんですか?」

「医者の勉強しとった時にちょい齧っただけやけどな」

「どういう意味なんです?」

「多分、「 Du bist ein Schatz 」やな。Schatz は「宝物」の意味。「あなたは私の宝物」ってことやな」

「へー」

「つまり、「あんたんことが好き」っちゅーこっちゃ」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 この村での滞在を始めてそれなりの月日が経過した。今や日課となってしまった、夕暮れ前の散歩。今日も拾った枝で道端の雑草をビシバシ叩きながらふらふらと歩いていたら、足は自然とあの廃墟へ。

 何故か忍び足で近づいてしまう廃墟の入り口。そっと廃墟の中を覗き見ると、廃墟の前の湖に体の正面を向けて胡坐をかいて座っている「あいつ」の背中。その手には1本の釣り竿。釣り竿の先端から伸びる釣り糸は、湖の水面へ。少年の傍らにはバケツが1個。ここからではよく見えないが、「あいつ」があの小屋の主から「釣り」という仕事を与えられて以来、釣果はゼロが続いているので、あの肩の下がり具合から見たら今日もあのバケツの中身は空っぽなのだろう。

 水面に顔を覗かせる釣り糸の浮きをただぼんやりと見ているだけの「あいつ」。釣りの経験がないアスカであっても、あの様子じゃ今日も一匹も釣れず終いで終わるだろうことは、容易に想像がつく。

 そして、そんな「あいつ」の左隣では、やはり水面の浮きを見つめたまま、微動だにしない少女が一人。

 畑仕事の帰りなのだろう。背中に下げた麦わら帽子。泥に汚れた黒いプラグスーツに農作業用の腕カバー、長靴というアンバランスな格好。少女の傍らに置かれた背嚢からは、鎌や根さばきといった農耕具の先端が顔を覗かせている。

 空色髪の少女は、少年から人2人分程度の隙間を置いて、床に腰を下ろし、膝を抱えて座っている。

 

 少年と少女2人に見つめられる水面の浮き。沈むことも浮き上がることも、左右にゆらゆら揺れることもない浮き。それを見つめる2人もやはり身じろぎ一つしない。

 夕暮れ前の湖畔。風はなく、水鳥の姿もなく、水面には波紋一つ広がらない。空にぽつぽつと浮かぶ雲は地上に錨でも下ろしているかのように流れていくことはない。

 変化に乏しい風景。そんな風景を背景に、微動だにしない2人。

 「眠る」ことを忘れてしまったアスカでさえ、ついつい欠伸を漏らしてしまいそうなほどの極めて退屈な光景。

 それでいて、朴訥とした、穏やかな雰囲気を纏う、2人の背中。

 人型決戦兵器に乗り、戦うことを宿命づけられたはずの子ども2人が、水面の浮きをただぼんやりと眺めながら、言葉も交わすことなくおそらく何時間も過ごしている。そしてそんな彼らの背中をただぼんやりと眺めている自分が居る。

 

 彼らに。

 私たちに。

 こんな時間の過ごし方が許される日が訪れるなんて。

 

 

 ふと、自分の口もとに浮かんでいた笑みに気付いてしまったアスカは、口を意識的に「へ」の字に曲げると、足もとの石っころを音を立てないように蹴っ飛ばし、パーカーのフードを被り直して廃墟に背を向けた。

 自分にこんな時間の過ごし方は似合わない。

 こんな時間の過ごし方は許されない。

 そう心の中で思いながら、そのままスタスタと歩き、廃墟を離れ、散歩を再開。

 

 

 

 

 カーカーと鳴くカラスが2羽、空を横切っていった。気が付けば陽は本格的に傾き、空全体が茜色に染まり始めている。

 テキトーにぶらぶらと歩いていたはずなのに、足はいつの間にか例の廃墟の前へ。一度は廃墟の前を通り過ぎたが、数歩歩いたところで立ち止まり、やはり忍び足で廃墟の入口へと近付く。

 

 そっと中を覗き見て、アスカは呆れてしまった。

 1時間前に覗いた時と、寸分違わず同じ格好でいる2人。

 床に胡坐を掻いて、釣竿を構えている少年。その隣で、人一人分の隙間を置いて膝を抱えてちんまりと座っている少女。

 

 ん?

 一人分?

 

 アスカは気付いてしまった。

 1時間前に見た時は、人2人分の距離は空いていたはずの、2人の隙間。それが、今は一人分にまで縮まっているではないか。

 

 そしてアスカは見てしまった。

 身じろぎ一つしていないはずだった2人。

 しかし、よくよく見てみれば、左側に座る彼女。

 空色髪の少女が、ちらちらと隣に座る少年を見ているではないか。

 少年は水面の浮きに集中しているようで、少女の視線に気付いた様子はない。

 

 そしてまたもやアスカは見てしまった。

 床にちょこんと座っていた少女の小ぶりなお尻が、僅かばかり浮いたのだ。少女の浮いたお尻は右側へと移動し、そのままちょこんと床へ着地。右隣の少年との隙間が、人一人分から、人半人分までに縮まる。

 腰を落ち着けた少女は、ちらりと隣の少年を見るが、少年が少女の接近に気付いた様子はない。

 人一人分から、人半人分まで縮まった2人の距離。

 それから何があるという訳でもなく、再び静止画と化した2人は、水面の浮きに視線を注いだまま、動かなくなる。

 

 いつの間にか、アスカは廃墟の入り口の前に転がる大きな瓦礫の上に腰掛け、廃墟の中の2人の背中を眺めていた。

 

 

 空の半分が濃紺色に侵食された頃。

 

 少女の顔が、ゆっくりと隣の少年へと向く。

 ようやく隣の少女の視線に気付いたのか、少年も少女の方へと顔を向けるが、少女はすぐに正面に向いてしまったため、2人の視線が交差することはなかった。少女の横顔を見ていた少年は気の所為かなと首を傾げ、やがて視線を水面の浮きへと戻す。

 

 それから3分後。少女は再び少年に顔を向ける。少年の視線は浮きに注がれたまま。少女は、少年の横顔を、じっと見つめている。そして今一度、視線を正面に戻す。

 

 それから3分後。またもや少女の顔が、少年へと向けられる。

 少年の横顔を見つめ。

 少女の右手が、少年と少女の間の床にそっと置かれる。その手に、少しずつ体重を乗せ。傾いていく少女の体。少年の近くへと、寄せられる少女の体。

 少女の顔が少年の肩に触れるほどに近付き。

 そして少女の左手が、そっと少年へと伸ばされる。

 右手も床から離れ、少年の背中へと伸びる。

 少女の小枝のような細い両腕は、そっと少年の体を包みこもうとして。

 

 

 何処からか馬の嘶きが聴こえた。

 いや、でもこの村には馬を飼っている家はないし、もちろん野生の馬も存在しない。

 その馬の嘶きのような声が、少年の悲鳴であるとアスカが気付いた時、もう少しで少女に抱き締められそうになっていた少年は、まるで肉食動物に襲われた小動物のように身を縮ませながら、少女から距離を取っていた。

 あともう少しでハグできるところだったのに。

 少女は残念そうに、両腕の中の空虚な空間を見つめている。

 一方の少年は顔を真っ赤にさせながら大きな声を上げている。少女の「不意打ち」に、抗議しているのだろう。

「あんのヘタレが」

 たかがハグくらいで何をあーもどぎまぎしてるんだろうか、あのガキんちょが。

 心の中でそう毒づいたアスカは、いい加減付き合ってられないとばかりに、2人に背を向け、家路に付こうとしたら。

 

 急に廃墟の方が騒がしくなり、アスカは足を止めた。スタスタと歩いて戻り、廃墟の中を覗いた。

 見れば、少年が腰を浮かし、両腕で釣り竿を握り締めている。釣り竿の先端は大きくしなり、水面に顔を覗かせていたはずの浮きもない。

 おそらく釣りを始めて以来、初めてのアタリなのだろう。慌てふためく少年はわーわー喚きながら、必死にリールを回し、釣り糸を巻いている。そんな少年の隣にいる少女も、急に慌ただしくなった少年の姿に狼狽えており、ただオロオロするばかり。

 余程の大物なのか、ピンと伸びた釣り糸に、少年の腕が引き負けている。危うく釣り竿ごと湖の中に引き込まれそうになり、隣に居た少女は咄嗟に釣り竿を掴んだ。

 少年と少女の4本の腕によって掴まれた釣り竿は、ようやく釣り針に食いついた獲物に引き負けないようになり、竿を立てては倒し、立てては倒しを繰り返しながら、その間に少年の右手はぐるぐると猛烈な勢いでリールを回し続ける。

 少年の悲鳴のようだった声が、歓声に変わる。どうやら、水面から獲物が顔を出したようだ。

 水飛沫を上げながら水中から空中へと引き揚げられる大きな影。

 釣り糸で吊り上げられた大きな魚は、尾ひれを右に左に揺らしながら、宙で激しく踊る。

 少年の歓声が一際大きくなって。

 少女からも小さな驚きの声が上がって。

 アスカも思わず「うわっ」と感嘆の声を漏らしそうになって。

 

 ポテっと釣り針から外れる、魚の口。

 

 釣り針から外れた大きな魚は、真っ逆さまに水面へ。

 少年の歓声は、一転して悲鳴へ。

 ぼしゃんと魚が水面に落ちる音。

 少年の悲鳴は、やがて落胆の声へ。

 今日半日粘って、最後の最後で大物を逃してしまい、その場にしなしなと崩れ落ちてしまう少年。

 

 その隣では。

 落胆している少年の隣では、少女が湖に向かって前屈みになり。

 両手を水面に向かって伸ばし。

 そして少女の両足は、廃墟の床を蹴っていた。

 

「あ」

 

 アスカのその短い声と共に、ばしゃんと、大きな水飛沫の音。

 逃した魚を追って湖に飛び込んでしまった少女に、慌てふためく少年。座り込んでいた床から跳び上がり、そして床にしゃがみ込み、湖を覗き込みながら、水面に向かって大声で呼びかける。

 何度か呼び掛けるうちに、無事、少女が水面から顔を出したらしい。少年がほっと胸を撫で下ろしている。

 少年は床に両手を付きながら湖を覗き込み。

 そして。

 

 そして少年の背中が小刻みに揺れ始めた。

 そして。

 

 そして少年の口から漏れる笑い声。

 くっくっく、と、心の中の衝動を抑え込んでいるような笑い声。

 そして。

 

 そして湖の中からも微かに聴こえる、小さな笑い声。

 ふふふ、とまるで小鳥の囀りのような笑い声。

 

 その小さな笑い声に誘われるように、少年の声量を押し殺した笑い声は、次第に大きくなっていき、やがて大爆笑へと変化する。

 

 ぺたんと尻餅を付き、額に手を当てながら、両肩を大きく揺らして、大声で笑っている少年。

 少年のそんな後ろ姿を見つめていたアスカは。

 

「なんだ…、あいつ。もう笑えるんじゃん…」

 

 そう呟くアスカの口もとも、柔らかな曲線を描いていた。

 

 

 少年は今も笑いながら、床から腰を上げる。

 そして廃墟の床の淵に左手を付き、そして右手を水面に向けて伸ばした。どうやら、湖の中の少女に手を伸ばしているらしい。

 差し伸べられた手に少女は戸惑っているらしく、少年は早く手を掴むよう、何度か催促する。

 ようやく少女が少年の手を掴んだらしい。

 少女一人分の体重に引っ張られ、少年の右肩が大きく下がる。

 そして。

 

 わっ、わっ、と少年の悲鳴。

 

 消える少年の姿。

 

 ざぶんと、大きな水飛沫と音。

 

 あまりにもお約束な展開に、溜息を吐くことしかできないアスカ。

 少年の背中も少女の背中も消えてしまった廃墟の向こうから、少年と少女の笑い声が聴こえてくる。

 

「あほらし」

 

 アスカはそう独り言ちながら、パーカーのポケットに両手を突っ込んで瓦礫から腰を上げ、廃墟を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

2-2. ~ Do vist ayn shirt ~ 《終》

 

 

 

 



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《短編》
(43)鴨とニートとオーディオテープ


 



単体で読める仕様です。
シン・エヴァンゲリオンでシンジくんの家出が終わってから2~3日後のお話しです。



 


 

 

 

 

「かわいい…」

 少女は今日10回目となるその言葉を呟いた。

 

 ピチピチタイトな黒いスーツという、この牧歌的な村の風景には不似合いな格好をした空色髪の少女は本日も農作業に駆り出され、1月前に田植えを済ませていた田んぼの畦道を歩いている。

 

「かわいい…」

 11回目。

 少女の視線の先には、「グエグエ」と濁った鳴き声を上げながら、列を成してとてとてと歩く合鴨の集団。

 水かきの付いた短い足を危なっかしい足取りで前後させ、尾っぽを左右にふりふりさせながら歩いていく合鴨の集団。

 

「かわいい…」

 12回目。

 

 合鴨たちは水の張った田んぼの中に次々と入っていき、合鴨たちの背丈と同じくらいの背丈まで成長した稲の間をすいすいと泳いでいき、水の中をちょいちょいと啄み始めた。

 

「かわいい…」

 13回目。

 

 少女の隣に立って合鴨たちの様子を見ている農作業仲間の小母ちゃんに、声を掛ける。

「あのトリたち…」

「ん?」

「あのトリたちは、何、してるの?」

「ああ。悪い虫や草を食べてくれるんだ。ニアサー以前は薬撒いてたんだけどさ。場所も水源も限られてるここじゃ、おいそれと薬漬けにするわけにはいかないからね。土地を汚さないための、昔ながらの方法さ」

「ふーん」

 少女はその場にしゃがみ込み、膝の上に頬杖を付きながら、田んぼの中の合鴨たちを見つめる。あちこち泳ぎ回っては、水の中に嘴を突っ込み、虫や雑草を啄む合鴨たち。

「みんな、働きもの…」

「そっ。合鴨も鶏も牛も山羊も人間も、この村はみんな働きものさね。ありゃ?」

 小母ちゃんの目が、一羽の合鴨に向けられる。眉を、「ハ」の字に曲げた。

「ありゃりゃ。やっぱり駄目か」

 少女も小母ちゃんが見ている合鴨に視線を向けた。

 

 酷くぎこちない泳ぎ方。

 頭を前に突き出して水面に浮く雑草を啄もうとするが、バランスが悪く首を傾けると途端に体全体が横に傾いて、沈んでしまいそうなる。

 

「あのコ…」

 そんな合鴨を心配そうに見つめる少女。

「うん。足を怪我してるみたいなんだよ。もうちょい頑張れると思ったけど、仕方がないね」

「しかたがない…?」

 小母ちゃんは大きなたも網を持って、その合鴨に近付く。

「え?」

 小母ちゃんはたも網を器用に使って、その合鴨を捕まえてしまった。

 網は一羽分の鴨で膨れており、中で鴨がじたばたと暴れている。

 小母ちゃんは少女に向かってニッと笑った。

「じゃ、行こっか」

「え?」

 

 

「はい、それじゃまずはお湯を沸かしまーす」

 かまど七輪の上に水が満たされた大きな鍋を置き、火をくべる。

「え?」

 

「お湯が沸く間に鴨ちゃんを絞めちゃいまーす」

 小母ちゃんはナイフを取り出し、慣れた手つきで鴨の喉をサッと掻っ捌く。

「えッ!?」

 鴨の首から、ピューと赤い液体の糸が飛び出る。

 

「血が抜け切ったらお湯の中に入れまーす」

 足を持たれて逆さ吊り状態の鴨を、煮立った鍋の中に入れる。

「え?」

 

「さっと湯がいたら次に羽毛を全部抜きまーす」

 台の上に鴨を置き、羽毛を毟り取り始める。

「え?」

「ほら、手伝って手伝って。これが一番大変なんだからさ」

「え?」

 

  ブチッ ブチッ ブチッ ブチッ ブチッ

 

「んじゃ、次に解体を始めまーす」

 よく研がれた包丁を用意する小母ちゃん。

「あんた、やってみる?」

「え?」

 

  ザクッ ザクッ ザクッ ザクッ ザクッ

 

「おーうまいうまいね、そうそう。骨に沿ってね。その調子調子」

「……」

「つぎにそのお尻の穴の周りを切って。そうそう」

「……」

「じゃあ内臓全部引き摺り出して」

 

  ズルズルズル…

 

「……」

 

「もも肉、むね肉、ささみ…と。はい。よくできました」

「……」

 

 小母ちゃんは切り分けられた肉の一部を経木で包み、少女に渡す。

「はいこれ。鈴原先生のとこに持ってっておやり。ああ、心配ないよ。合鴨農法用の鴨は飼っている家庭毎で処理していいって決まりになってるから」

 

 手の上の包みを見つめる少女。

 そして目の前に立つ小母ちゃんの顔をじっと見つめて。

 そして今度は田んぼの中の鴨たちを見つめる。

 

 グエグエ言いながら稲の間を泳ぎ、水の中を啄み、時々羽根を羽ばたかせて水飛沫を上げる鴨たち。

「かわいい…」

 14回目。

 

 そして改めて手の上の包みを見つめて。そして小母ちゃんの顔を見つめて。そして田んぼの中の鴨たちを見つめて。

 

 それを5回ほど繰り返して。

 

「どうして…」

「ん?」

「どうして、あの鴨を…」

 そう呟きながら、手の上の包みをじっと見つめる少女。

「怪我してまともに動けなくなってたからね。餌も馬鹿になんないし。働けなくなった鴨はこうして絞めて食べることにしてるのさ」

「食べる…」

 包みから視線を上げ、小母ちゃんを見つめる。

「これを…」

「そう。美味しいよ」

 再び包みに視線を落として。

「働けなかったら…」

 再び小母ちゃんを見つめて。

「シめて…、食べる…」

「そう。生きてる間は有害な虫や雑草を一杯食べてくれて、糞は稲の肥やしになって、死んだらあたしたちの血となり肉となる。文字通り、自分の全てを捧げてこの村を支えてくれてるんだよ、こいつらは」

 

 

 

 

「これ…」

 鈴原ヒカリは少女が差し出したものを見て目を丸くした。

「わぁ、鶏肉じゃないの? これ」

 少女はこくりと頷く。

「小森さんが…」

「ああ。じゃあ、合鴨ね。わあ、お肉なんて久しぶり。ありがとう、そっくりさん。さっそく今晩のオカズにしましょうね。……そっくりさん?」

 「なに?」とヒカリの顔を見る少女。

「何だか顔色悪いけど、大丈夫?」

 少女は「平気」と言うが、ヒカリの目から見るととても平気そうには見えない。

「もしかして…、絞めるとこ、見ちゃった…?」

 少女はこくりと頷く。

「血がピュー…、羽根をブチブチ…、内臓ズルズル…」

「あれまぁ…」

 

 

 

「おおっ! なんやこれ! 今日は何かの記念日やったか?」

 食卓に並ぶ鶏肉を見て目を輝かせるのは一家の大黒柱、鈴原トウジである。

「そっくりさんが貰ってきてくれたのよ。本物のお肉なんて何時以来かしらね」

「そりゃ嬉しいのう! あんがとさん! そっくりさん!」

「ありがとう」

 トウジとヒカリの父親にお礼を言われ、顔を赤くして目を伏せてしまう少女である。

 ヒカリが大皿の上のソテーした鴨のもも肉を、各々の取り皿の上に切り分けてやる。

「それじゃあいただきましょうか」

「いただきます!」

「いただきます」

「いた、だきます…」

 皆、真っ先に切り分けられた肉を箸で摘まみ、口の中に入れる。

「あー、うっまー。これやこれ…。このジューシーさは合成肉には真似できへん…」

「旨いなぁ」

「ほんとねぇ」

 口の中に染み出る濃厚な脂の味をうっとりとした顔で味わう3人。

 一口目を飲み込んだところで。

「あれ? そういやそっくりさん。肉、食われへんかったちゃうんか? …あいや、…あれは「綾波」やったか。って、そっくりさん?」

「そっくりさん、大丈夫?」

 3人の視線が、口もとを手で押さえ、青ざめている少女へと集中する。

「洗面所洗面所! 早う!」

 トウジに促され、立ち上がった少女は洗面所へと駆け込んでいく。そして、

 

「げえええ……」

 

「ありゃまあ…」

「まあ、私も初めて絞めてるとこ見た時は、半年は合成肉も食べれなかったから…」

「なるほど。そっちか」

「んじゃ、そっくりさんのお肉はわいが…」

 

 心配したヒカリは立ち上がり、洗面所へと向かおうとして。

 ドタドタと廊下を駆ける音。

「あれ? そっくりさん?」

 少女はヒカリの前を通り過ぎ、そのまま台所の方へと走って行ってしまった。

 

 勝手口に下りる音。

 つっかけを履く音。

 ドアを開ける音。

 ドアを勢いよく閉める音。

 外を駆けていく音。

 

「ちょっと、そっくりさん! どこ行くのー!」

 

 

 

 

 ドンドンドンとドアを激しく叩く音に、ベッドの上で携帯型ゲーム機をピコピコしながら遊んでいた式波・アスカ・ラングレーは跳ね起きた。

「な、なに!?」

 慌てて枕の下の拳銃を取り出そうとしたが、拳銃はアスカの手から零れ落ち、床へと落ちてしまう。

「碇くん…!」

 ドア越しに、あの子のか細くも、どこか必死な声が聴こえた。

 

 ドアを開けると、肩で息をし、顔中を汗だくにした空色髪の少女が立っていた。どうやら、村の中心からこの小屋まで走ってきたらしい。小屋の前の斜面で何度もこけたのだろう。少女が着る黒のプラグスーツの膝は、泥だらけになっている。

 

「何よ、初期ロット。こんな遅くに」

 不機嫌さを隠そうともせずに少女を睨み付けるアスカである。

「碇くんが…!」

 「この顔」で、こんなに必死な表情は見たことがなかった。

「しっ、シンジがどうしたってーのよ」

 さすがのアスカもたじろいでしまう。

 

「碇くんが、殺される…!」

 

「はあ!?」

 アスカは身を翻すと小屋の奥に駆け込み、床の上に無造作に落ちていた拳銃を拾い上げ、戻ってくる。

「だ、誰! どこのどいつがシンジを殺そうとしてんのよ!」

「碇くんは…!」

「は?」

「碇くんは…、何処…!」

「バカシンジなら今朝からケンケンの仕事の手伝いで出かけてるけど。今日は遠出するから遅くなるって」

「仕事の…、手伝い…?」

「そ、そうだけど…」

「よ…」

「よ?」

「良かったぁ~…」

 しなしなと崩れ落ちるように、その場に座り込んでしまう少女。

「ちょ、ちょっと。説明しなさいよ」

 訳が分からないアスカは、座り込んだままの少女の膝を、ちょちょいと爪先で突っつく。しかし少女はここまで走ってきて息が上がってしまったのか、ぜえぜえと乱れた呼吸を繰り返すばかりで、アスカの問いに答えてくれない。

 

 ようやく呼吸が落ち着いてきたところで、少女ははっとし、顔を上げてアスカを見上げた。

「な、何よ…」

 突然見つめられ、身構えてしまうアスカ。

「たいへん…」

 勢いよく立ち上がった少女は、両手でアスカの両肩を掴んだ。少女の剣幕に、アスカは気圧されてしまう。

 

「逃げて…!」

 

「はあ!?」

 

「あなた…、殺される…!」

 

「はあ…?」

 

 

「この村では、タダ飯食らいの、穀潰しは、絞められる…!」

 

「……」

 

「ろくでなしの、プータローは、殺される…!」

 

「……」

 

「無職の、ニートに、生きる価値、なし…、あイタっ!」

 

 

 少女の頭頂部に脳天チョップをかましたアスカは、勢いよくドアを閉めると、踵を返してスタスタと歩き、ベッドにごろんと横になり、枕元に投げてあったゲーム機を取って、ピコピコを再開。

 

 

 じんじん痛む頭を撫でながら、閉じられてしまったドアを見つめる少女。

 どうしたらよいのか分からず途方に暮れていたら、周辺が急に明るくなった。振り返ると、目に飛び込んできた強烈な光に、目を細めてしまう。

「あれ? 君は…」

 ヘッドライトを照らした自動車の窓から、相田ケンスケが顔を出した。助手席には、「彼」が乗っている。

 

 

 

「ハッハッハッハッ!」

 少女から事情を聴いたケンスケは膝を叩いて笑っている。助手席に座る少女は何故笑われているのか分かっていないようで、きょとんとした顔で運転席に座るケンスケの横顔を見上げている。

 少女を鈴原家まで自動車で送ってやることにしたケンスケ。少年は小屋の前で下ろし、少女を助手席に乗せて、オフロード型の軽自動車で未舗装の夜道を走っている。

「でもありがとうな」

 「何が」とケンスケの横顔を見上げる少女。

「式波のこと、心配してくれて。でも大丈夫。式波には、式波にしか出来ないことがあるからな。それで十分に村には貢献してるさ」

「村を…、守る…、こと…」

 少女がぽつりぽつりと呟いた言葉に、ケンスケは深く頷く。

「そう。…それに…」

 ケンスケの顔から、少しだけ笑みが薄れた。

「式波は…、正確には村の一員じゃないからな…」

 

 

「そう言えば、ニートなんて言葉、久しぶりに聞いたな。こんな時代じゃ今や死語だよ。よく知ってたね」

「コモリさんの弟。昔、そうだった…って」

「えっ? あのヤスタカさんが? へー、意外だな~」

「ニートは、働けるのに、一日中家でゴロゴロしてるって…」

「そうらしいね」

「外に出る機会、少ないから、いっつも、同じ服、着てるって…」

「そうなんだ」

「それでも働かない、後ろめたさは、あるみたい、だから。だから家の掃除とか、洗濯くらいはして、ジソンシンを満たすんだって…」

「ふーん…」

「苦労も知らないし…、日光も浴びないから…、年齢の割に顔は幼いままだって…」

「……」

「……」

「……」

「……」

「今度…、アスカにも仕事手伝ってもらおっかな…」

 

 

 

 

 少女が居候している一家の家の近くで車を停めた。

「あ、ちょっとちょっと」

 車外に下りた少女にケンスケは声を掛ける。

「これ、忘れてるよ」

 そう言いながら、ケンスケは少女が座っていた助手席を指差す。

「ありがとう…」

 少女はお礼を言いつつ、助手席に手を伸ばそうとして。

「あれ? これって…」

 少女がそれを拾い上げる寸でのところで、ケンスケがそれを拾い上げてしまった。

「へー、珍しい。S-DATプレイヤーじゃないか」

「えすだっと?」

「そうそう。光学記憶媒体の普及で僕らが生まれた頃には廃れてしまったらしいんだけどさ。あれ…? そう言えば中学の時、碇がこれと同じもの持ってたような…」

 ケンスケの呟きに少女は頷く。

「それ、碇くんの」

「へー、そうなんだ。いつも持ち歩いてるの?」

 少女はこくりと頷く。

「いつでも、碇くんに、返せるように…」

「ふーん」

 あまり大事に扱われていないのか、でこぼこだらけになっている筐体をしげしげと見つめる。

「これ…」

「ん?」

「これ、なに?」

「え?」

 少女の問い掛けに、ケンスケはメガネの向こうの目をぱちくりとさせた。

「これ、なに?」

「知らずに、持ち歩いていたの?」

 少女はこくりと頷く。

「これはいつでも何処でも音楽が聴ける機械さ。録音機能もあるようだけど」

「おんがく?」

「そう」

「碇くんも、これ、聴いていたの?」

「ああ。俺たちとつるむ前はもうしょっちゅうね」

 少女が、興味深そうにケンスケの手の上の音楽プレイヤーを覗き込んでいる。ケンスケはそんな少女の横顔を見て微笑みながら、筐体に巻いてあるイヤフォンのコードを解き、2つのイヤフォンを少女の空色の髪に隠れていた耳の孔に入れてやった。

 プレイヤーの電源を入れ、再生ボタンを押す。

 どんな反応をするかな? と少女の顔を見た。

 両方の耳からコードを垂らす少女。

 ぼんやりと突っ立っている。

「どうだい?」

 何の反応も見せない少女に、ケンスケは少しがっかりしながら声を掛けた。

 少女はぼんやりとした表情のまま、運転席に座るケンスケを見る。

「碇くんは…」

「ん?」

「碇くんは…、変な、人…」

「え?」

「碇くんは、何もないものを…、聴いていたのね…」

「は?」

「ずっと、無音を、聴いていたのね…」

「無音?」

「とても前衛的…」

「いやいや、ちょっと待った」

 ケンスケは少女の耳からイヤフォンを抜くと、自分の耳の孔に突っ込む。

「ホントだ。何も聴こえない」

 プレイヤーを見るが、電源ランプはちゃんと点いているし、筐体の中のマイクロカセットテープもきちんと回っている。しかしイヤフォンからは何の音も奏でられない。筐体からイヤフォン端子を抜いて内臓スピーカーに変えてみるが、音量ダイヤルを上げ下げさせてもうんともすんとも言わない。

「壊れてる…、のかな?」

「壊れてる…」

「うん」

 見上げれば、どこか残念そうな少女の顔。

「よかったら、これ。俺がちょっと預かっててもいいかな?」

「預かる…?」

 どこか不安そうな少女の顔。

「ははっ。大丈夫さ。直るかどうか、ちょっと試してみるだけだよ」

 やはりどこか不安そうな少女の顔。

「直るにせよ直らないせよ、ちゃんと君に返すからさ。そしていつか君の手から、碇に直接返すといい」

 そう告げると、少女の顔から不安が消えた。

 ケンスケに向かって、ぺこりと頭を下げる。

「お願い、します」

「う、うん」

 「この顔」で頭を下げられるとは思ってもみなかったケンスケは、困ったように頭を掻きながら返事をする。

 一家の玄関の引き戸が開き、少女の姿を認めてほっとした様子の彼らの同級生の女性が出迎えてくれた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「これで…、どうかな?」

 時間は深夜。ケンスケは様々な工具やテスターが並ぶデスクの上で、卓上ライトの灯りのみで音楽プレイヤーの修理をしていた。

 修理のために開けていた筐体の底を閉じる。電源を入れ、イヤフォンを耳の孔に突っ込み、再生ボタンを押してみた。

「ふふっ」

 耳の中に流れ始める軽快な音楽に、ケンスケの口もとが綻ぶ。

「碇のやつ、こんなブリブリのアイドルソングを聴いてたのか」

 

 思春期真っ盛りの少年のプレイリストにはどんなイタい曲目が並んでいるのだろう、と期待して聴き続けてみたが、このプレイヤーの持ち主は幅広いジャンルの音楽を聴いていたらしい。アイドルソングやアニメソング、正統派のポップスに激しいロックや前世紀の歌謡曲、洋楽からクラッシック音楽まで。

 ケンスケは自分でも気付かない間に、イヤフォンを通じて奏でられる音楽の世界に没頭する。

 

 気が付けば、壁に掛けられた時計の分針が2周していた。カセットテープの残りは、まだ半分以上ありそうだ。明日も6時に起床。今日はここまでにしよう。

 イヤフォンを外そうとして。

 プレイヤーは、次の曲を流し始める。

 イヤフォンを外そうとしたケンスケの手が止まった。その手をお腹の上で組み、そして姿勢を崩して背中を背もたれに深く預ける。

「懐かしいな…、この曲…」

 シンプルなピアノの伴奏と男性コーラスのハミングから始まる楽曲。落ち着いたイントロダクションが終わると一転してリズミカルな電子ドラムが鳴り響き、男性の甘い声が歌詞を歌い出す。

 それは、ケンスケが少年時代に流行った、海の向こうの国の歌手が歌うポップスソングだった。

 

 薄目で卓上ライトの光を見つめながら、お腹の上に組んだ手の右手の親指と左の親指をくっ付けては離し、くっ付けては離してリズムを取る。イヤフォンに流れるメロディに合わせ、何時しかケンスケの口からも鼻歌が漏れていた。

 

 曲が終わる。

 プレイヤーの停止ボタンを押す。

 

 椅子の上に寝そべりながら、ふう、と小さく溜息。

 

 プレイヤーを持って椅子から立ち上がり、壁付けにされた別の机へと向かう。

 その机には、幾つもの機材が積まれていた。

 その機材の一つと、プレイヤーをコードで繋ぐ。機材の電源を入れ、幾つかのつまみを捻る。機材の調整を終えたら、机の隅に置いてあった卓上マイクを自分の前に置いた。

 マイクのスイッチを入れる。

 

 

 

「JOZ33、こちらは○△地区第3村放送局。

 

 周波数9.××メガヘルツ、出力1キロワット。

 

 世界の何処かで誰かがこれを聴いてくれていることを信じて。

 

 みなさん、こんばんわ。

 

 昼間は村の何でも屋、夜は短波ラジオのDJ、相田ケンスケだ。

 

 前回の放送から随分と日が経ってしまったから、心配させてしまったかな。

 

 安心して。

 

 第3村は今日も無事、一日を終えることができたよ。

 

 時間が空いてしまったのは新しいネタがなかなか入らなかったからさ。

 

 でも今日。新しいネタを仕入れることができたよ。

 

 それもみんな、聴いて驚け。

 

 音源媒体はあのS-DATだ。

 

 なに? S-DATを知らない?

 

 そんな軟弱アフターセカンド世代はググってウィキるか親御さんに聴いてみるんだな。

 

 つっても俺もアフターセカンド世代だけどさ。

 

 ってなわけで、サードインパクトで失われてしまった音源の発掘と保存、そして伝承を試みるために始まったこの放送。

 

 第465回はこのSDATのテープに収められた楽曲から1曲披露しようと思う。

 

 ああ…。

 

 だけど曲を流す前にちょっとみんなに謝らないと。

 

 世界の何処かで誰かが聴いてくれていることを信じて放送しているこの番組。

 

 そして音楽は全人類が共有すべき尊い財産だ。

 

 でも今夜は。

 

 この曲だけは。

 

 今もこの部屋の隣で。

 

 ベッドに横になって。

 

 眠れない夜を過ごしてる彼女に贈りたいと思う。

 

 ああ、それともう一つみんなにごめん。

 

 もう20年近く前の歌だし、さっき発掘したばっかりなので歌手の名前がどうしても思い出せないんだ。

 

 でも、曲名は分かってる。

 

 歌の中で、呆れるほどに出てくるからね。

 

 それでは聴いてくれ、アスカ。

 

 

 Just The Way You Are 」

 

 

 

 



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2-3. What A Wonderful World
(44)


 

 

 

 

 鈴原ヒカリが木製の引き戸を開けると、そこにはいつもの彼女。

「おはよう。そっくりさん」

 洗面所の鏡を見ていた空色髪の少女は、ヒカリに顔を向けると、ゆっくりとした足取りでヒカリに歩み寄り、そして両腕を伸ばして。

「おは、よう…」

 ツバメを抱いたヒカリの体をそっと抱き締めながら囁く。

「うん。おはよう」

 ヒカリも少女の体をそっと抱き締め返す。

 

 ヒカリはタンスの上にツバメを寝かせ、おむつ交換を始める。

「そう言えば、そっくりさん」

 洗面所の鏡を見つめていた少女は、鏡越しにヒカリを見る。

「昨日は驚いちゃったわ。ツバメの寝てる側で、そっくりさん、畳の上で布団も掛けないで寝てるんだもの。倒れたんじゃないかって、心配しちゃった」

 少女は視線を一度鏡に映る自分の顔に向け、そしておむつ交換をしてるヒカリの横顔に向ける。

「疲れてて…、そのまま寝ちゃった…」

「ふふ。いつも本当にご苦労さま。辛かったらお仕事、たまには休んでもいいのよ?」

 少女はふるふると首を横に振る。

「平気。仕事、楽しい。もっと色々、したい。もっとたくさん、みんなと時間、過ごしたい」

「ふふ。そっくりさんは本当に働きもの。そしてみんなの人気者ね」

 

 洗面所の引き戸がガラガラと開き、トウジが顔を出した。

「おう、おったおった。そっくりさん」

 少女は鏡から視線を外し、トウジを見る。

「ちょっと来週から頼みたいことがあるんやがな」

 「なに?」と首を傾げる少女。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 村を見渡せる高台に建つ監視塔。

 その監視塔のてっぺんで、柵に頬杖を付きながら、村の中や郊外の田畑で労働に勤しんでいる村人たちを見下ろす。

 

 時折上がる村人たちの笑い声が、遠く離れた監視塔まで届く。

 目に入る村人たちの姿。耳に入る彼らの笑い声。

 その中に自分が交わることは決して無いのだし、交わるつもりもないし、などと頭の半分で思いつつ、もう半分では数日前の共同墓地での出来事を思い出していた。

 

 

 今でも腕の中に残る、人を抱き締めた感触。

 

 誰かを。

 人を抱き締めたのは何時以来だっただろうか。

 

 いや、もしかしたら生まれて初めてのことではなかっただろうか。

 

 あの飛行戦艦の中に居るときは、鬱陶しい同僚に抱き着かれることはしょっちゅうなのだが。

 

 この自分が。

 この腕が。

 誰かを抱き締める日が来るなんて。

 

 ふと、あの子の言葉を思い出す。

 

 

  ―――あなたの音、とても心地いい。

 

 

 この腕を通して、この体を通して聴こえた「彼」の音。人の音。生命の音。

 

 とても心地よかった。

 いつまでも聴いていたいと思った。

 もう一度。

 機会があるのであれば、もう一度。

 誰でもいい。

 誰かを、抱き締めたいと思った。

 来る、決戦の日までに。

 

 自分がこんな気持ちになる日が来るなんて。

 

 あの子のおかげ?

 あの空色髪の…。

 

 噂をすれば…。

 

 

 遠くからでも嫌でも目立つ、空色の髪。

 村の中を、てくてくと歩く空色の髪の少女。

 今日は珍しく、中学時代の元委員長の旦那と一緒だ。

 

 白衣を着た旦那と、袖なしの白いエプロンを着た空色髪の少女は、村共有のオンボロのピックアップトラックに乗り、黒い排気ガスをボコボコと出しながら村の出口へ向かって走り出す。

 

 

 2人を乗せたピックアップトラックは村の東側へと向かい、森の中の道へと消えていく。

 トラックが消えていった森の中の道が辿り着く先を頭の中に思い浮かべる。

 

「あんのバカ!」

 そう悪態をつくと身を翻し、監視塔の梯子を滑るように一気に降りた。

 

 

 

 

 未舗装の凸凹道。時折大きな陥没にタイヤが落ち込み、車内が上下に大きく揺れ、その度に助手席に座る少女の軽い体が車の天井に付く勢いで浮き上がる。初めてこの道を車で走った時、助手席に乗せた看護婦さんはあまりの揺れの酷さに終始悲鳴を上げ続け、10分おきに車を停めさせては道端に向かってげーげー言っていたものだが、今隣に座っている少女は顔色一つ変えず、平然と座っている。

「さっすがはエヴァンゲリオンのパイロットやの」

 鈴原トウジのその呟きに、少女は「何が?」と視線を送る。

「気分悪うないか?」

「平気…」

「そっくりさんとシンジがここに来てもう随分経ったのう。新しい環境に慣れるんに色々しんどい思いもしたやろ。体調悪かったら遠慮のう言うんやで」

「うん。ありがとう…」

「カッカッカ…」

 奇妙な笑い声を上げるトウジの横顔を、少女は不思議そうに見つめる。

「いやの。その顔で「ありがとう」言われると、なんやこそばゆうなるわ」

「この顔?」

 少女は自身の顔の両頬を、両手の人差し指でぷにぷにと押してみる。

「おう。わしらが知っとる「綾波」はそりゃもう仏頂面での。挨拶もろくにせんような奴やったから」

「あなたが知っている、「アヤナミ」…」

「まあ、最後の方はあいつもちいとばかし挨拶できるくらいにはなっとたがの。まあでもなんや。わしら第3村の住人にとっちゃ、お前さんがすっかり「綾波」やがのう」

 少女はふるふると首を横に振る。

「私は、アヤナミレイ、じゃない」

「おう、そうやった、そうやった。「そっくりさん」やったの。おう、そういや、新しい名前は決まったんか?」

 少女はふるふると首を横に振る。

「碇くん、に、頼んでる…、けど、まだ…」

「シンジもまたどえらい大役を仰せつかったものやの。わしらもツバメが生まれた時は、三日三晩悩んだもんやで」

「名前、決めるの。大変?」

「そりゃのう。この世にたった一つしかない、魂を吹き込むための大切なおまじないや。そりゃもう一世一代の大魔法やで」

「大魔法…」

 少女はそう呟きながら、膝の上に置いていた手提げ鞄を抱き締め、背中を深く背もたれに預けた。

 少女の横顔をちらりと見たトウジは、歯を見せてニヤニヤと笑う。

「なんや。シンジに名前決めてもらうんが、そない嬉しいか?」

「嬉しい…?」

 少女の口もとに浮かぶ、微かな曲線。

「そう…、これが嬉しい…」

「そっくりさんも、よう笑うようになったのう。ええこっちゃ」

「笑顔は、人を幸せにする、おまじない…」

「そうやそうや。笑うんはタダなんやから、笑うとけ笑うとけ。鶴瓶師匠もよう言うとったわ」

 助手席の少女は、左右の人差し指で両頬を押し上げ、無理やりに口の両端を上げてみせた。

 

 

 村の郊外の凸凹道。クーラーなんて洒落たものは付いていない前世紀の骨董品のような車なので、窓ガラスを全開にして走っていた。その窓のすぐそばを、物凄い速さで通り抜けていく一台の原付バイク。

「なんや、えらい急いどるのう」

 車を追い越していった原付バイクのお尻を見つめていたら、そのバイクが目の前で大きくハンドルを切り、急ブレーキを掛けた。

「どわっ!?」

 バイクを轢いてしまいそうになり、慌ててブレーキペダルを踏みこむトウジ。突然の急制動にダッシュボードに額を打ってしまう少女。

 トウジは窓から顔を出し。

「おんどりゃあ! 何晒しとんのじゃこのボケぇカスぅ!」

 バイクの運転手に向かって巻き舌で怒声をぶつける。

 バイクの運転手はスタンドを立ててバイクから颯爽と下りると、ヘルメットを脱いだ。

 青空を背景に、緋色の髪が広がる。

「式波…」

 バイクの運転手の名前を呟くトウジの目が丸くなる。

 パーカーにハーフパンツというラフな格好で現れた式波・アスカ・ラングレーはスタスタとトウジらが乗るピックアップトラックまで歩いていき、運転席の窓を覗き込んだ。

「よ、よう。式波。久しぶりやの」

 意外な人物の登場に、戸惑いつつ挨拶をするトウジ。

「どこ行くの?」

 対してつっけんどんなアスカの声。

「ど、どこて。この先の病院やけど」

「そいつは?」

 顎で、助手席に座る空色髪の少女を指す。

「いつも手伝うてもろうとる看護婦さんが暫く来れんようになって。せやからそっくりさんに来てもろうたんやが」

「やっぱり…」

 アスカは吐き捨てるようにそう呟くと、運転席から離れ、助手席へと回る。助手席のドアを開け、少女の腕を引っ張ると、強引に車外へ出させてしまった。

「な、何するんや!」

 トウジは抗議の声を上げるが、アスカにキッと睨まれ、口を噤んでしまう。トウジを視線のみで黙らせたアスカは、少女の腕を引っ張りながらスタスタと歩いていってしまった。

 

 

 トウジが残ったピックアップトラックから10メートルほど離れ、対峙する2人。アスカは、少女の涼し気な瞳を間近で睨みつけている。

「あんた。これから行くところがどこか、分かってんの?」

 少女はこくりと頷く。

「病院。人手、足りないから、手伝ってほしい、って」

「ええ。あんたが行くところはね。クレイディトが運営する病院。民間人だけじゃない。色んな所から色んな患者が来る病院よ。あんた、その意味分かってる?」

 少女はこくりと頷く。

 アスカは呆れたように盛大に溜息を吐いた。

「そんな場所にそんなナリで…」

 少女から半歩遠ざかり、少女の頭からつま先までを視界に収めたアスカ。少女の姿を改めて見直して、初めてそのことに気付いたアスカの口が、閉じてしまう。

 5秒ほど間を置いて。

「あんた…、プラグスーツ…。どうしたのよ…」

 

 少女の服装。

 牧歌的な村の中にあって違和感しかなかった黒のプラグスーツ。

 体のラインが丸見えのその格好はすれ違えば誰もが二度見したものだが、慣れというものは恐ろしいもので、時が経てば少女のそんな奇抜な服装も村の風景の中に馴染んでいたものだ。

 

 少女はふるふると空色の髪を揺らせ、頭を横に振った。

「もう、必要、ないから」 

 そう答える少女の口角は、少しだけ上がっている。

 

 少女の服装。

 遠い昔、どこかで見たことがあるようなコバルト色の吊りスカート。白のブラウス。赤のリボンタイ。

 そんな学生服然とした服装に、白の袖なしエプロンを纏った少女の姿。

 

「必要…、ない…、って…」

 アスカはぎこちない口調で少女の言葉を繰り返す。

 少女は何も答えず、その口許に緩やかな曲線を浮かべながらアスカを見つめ返している。

「あれがないとあんたは!」

 怒鳴り声を上げたアスカは少女に半歩近付き、両手で少女の左右の二の腕を掴んだ。怒気を孕んだアスカの顔の急接近に、しかし少女の表情は変わらず涼やか。

「もう、着てても、意味、ないから」

 そう呟いた少女は、ブラウスの第1ボタンを外し、襟元を少しだけはだけさせてみせた。

 白い布地の向こうから現れる、真っ白な肌。

 急に胸元をはだけ出した少女に、アスカの瞼が2度ほど小刻みに開閉する。

 少女のブラウスの第2ボタンも外され。

 少女の胸元が露わになって。

 そしてアスカの目が、大きく見開かれ、アスカの荒い呼気が止まった。

 

 少女はぎこちない動作で、慣れないボタンを留める。

「なんで…」

 少女の二の腕を掴んでいたアスカの手に力が籠った。その痛みに、少女の顔が少しだけ歪んだ。

「だったらなんで! なんでこの村に留まってるの! なんでネルフに帰らないのよ!」

 アスカの激しい剣幕にちょっと驚いてしまったらしい。少女はぱっちりと見開いた目で、アスカを見返している。

「あのバカのため!? あいつのために村に残ってるの!?」

 少女はやはり目をぱっちりと開けたまま、口を半開きにしてアスカを見返している。そんな少女に、アスカは深呼吸を挟んで口調を落ち着かせ、諭すように言った。

「だったらあんたは良くやった。あいつはあんたのお陰でもう立ち直ったから。だからあんたは早くネルフに帰りなさい」

 少女は口を半開きにしたまま、ゆっくりとした動作で首を横に振っている。物分かりの悪い少女に再びアスカの口調は強くなる。

「なんでよ!?」

 問われた少女は、半開きのままだった口を閉じ、口内に溜まっていた唾を控えめな喉仏を上下に静かに動かして飲み込み、そして口を開いた。

「碇くんの…、側に…、居たいから…」

「ああもう~!」

 アスカは顔を俯かせ、緋色の髪を揺らしながら激しく頭を左右に振る。

「だから言ったじゃない! その感情はネルフに仕組まれたものだって! そんな作り物の感情に振り回されるなんて、そんなの…!」

 顔を上げたアスカの目に映るのは、口許に静かな笑みを浮かべた少女の顔。

「そんなの…、バカみたいじゃない…」

 アスカの声が、失速していく。

 

 

 沈黙が続く間、赤い瞳と蒼い瞳はお互いを瞬きもせずに見つめ合っていた。

 

「ありがとう…」

 

 そして少女はぽつりと呟いた。

 

「私に…、この感情の意味…、教えてくれて…」

 

 少女は自分の二の腕を掴んだアスカのそれぞれの手に、自身の両手を重ねる。

 

「わたし…、ここじゃ、生きられない…」

 

 少女の手に重ねられたアスカの強張った手が、少女の手から伝わる温もりで少しずつほぐされていく。

 

「でも、ここで初めて、自分が生きてると、感じた」

 

 少女の二の腕から離れるアスカの両手を、少女は胸の前で重ね合わせる。

 

「命令がなくても、生きていられること、分かった」

 

 そしてアスカの両手を、そっと自身の胸元へと手繰り寄せた。

 

「私、ここじゃないと、生きられない」

 

 アスカの手が、少女の胸に触れる。

 

「ここで生きたい。最後まで」

 

 アスカの手に伝わる、少女の胸の奥から轟く心音。

 

「最後まで、みんなのために、働きたい」

 

 

 

 

 ピックアップトラックから離れて対峙していた2人。その内の1人、左目に眼帯をした、背中まで伸びた緋色の髪の持ち主が、声を荒げながらもう1人の短く摘めた空色の髪の持ち主に詰め寄っている。

 何やら揉めているらしい。トラックから降りて2人の間に割って入った方がよいのだろうか迷っていたら、空色の髪の持ち主が緋色の髪の持ち主の両手を自身の胸に手繰り寄せながら、ぽつりぽつりと相手に語り掛け始めた。やがて緋色の髪の持ち主の背中から激しい感情が消えていくのが、離れた場所にいるトウジの目からも見て取れることができた。

 

 少女がアスカの手を離すと、どちらからともなく2人の足はピックアップトラックへと向かい始めた。

 少女はトラックのドアを開けると、助手席へと乗り込む。

 アスカの方は、トラックの行く手を塞ぐように駐輪していた原付バイクを道路脇へと寄せた。そしてバイクから離れ、ツカツカとトラックまで歩み寄ると、助手席の窓から車内を覗き込む。

 助手席に座る少女の隣では、運転席に座るトウジが顔を顰めながらアスカを見ている。

「おう。もう話は済んだんかいな?」

 トウジのその質問に答えることなく、アスカは窓の中に上半身を突っ込むと、助手席の少女を越えて運転席のトウジまで腕を伸ばし、トウジが着る白衣の襟首を掴んで、強引に引っ張った。狭い空間に、トウジとアスカと少女の顔が密集する。

「な、なんや…」

 突然のことにトウジの抗議の声も引き攣ってしまう。

 アスカはトウジの顔を睨み付けながら口を開く。

「もし…」

「は?」

「もし病院でトラブルが起きたらこう言いなさい。こいつの」

 片方しかない視線だけを、少女へと向ける。その少女は、アスカの乱暴な行動にびっくりしたように目をぱっちりと開けて、アスカとトウジの顔を交互に見比べている。

 アスカは視線をトウジへと戻し。

「こいつの身元はあたしが保証する、と」

「お前が…?」

「こいつのことで文句がある奴はヴィレ所属特務少佐、式波・アスカ・ラングレーのとこに来いっつってんの! 分かった!?」

「お、おう…」

 アスカの迫力に承諾の返事をするしかないトウジ。それを聴いたアスカは、掴んでいたトウジの白衣を離す。

 

 アスカの片方しかない蒼い瞳は、助手席に座る少女の赤い瞳へと向けられる。まだびっくりしているらしい少女はぱっちり開いた目を何度か瞬かせながら、アスカを見つめ返している。

 アスカの手が伸び、少女の空色の髪に触れた。

「これじゃ目立つわね…」

 そう呟いたアスカは、両手を自身の首へと向ける。その両手は、アスカの首に巻かれていた青いバンダナを解いた。

 正方形のバンダナを三角形に折り、少女の頭へ被せる。そのまま、少女の空色の髪が隠れるように、バンダナを頭部に巻いた。

「いい? 病院に居る間は、これ取っちゃだめよ」

 少女はアスカに言われえるままに、こくりと頷いている。

 そんな様子の少女に、アスカは鼻から短く溜息を吐く。固く引き締められていたアスカの口角が、ほんの少しだけ上がった。

 

 アスカはトラックから一歩離れる。運転席のトウジに向かって出発するように、顎を振った。

 促されたトウジは止めていたトラックのエンジンを再スタートさせる。

「式波…」

 エンジンルームから轟くガタピシ音に紛れて、トウジの呼ぶ声が聴こえた。

 トウジはフロントガラス越しに見える未舗装の道を見つめながら言う。

「ヒカリが会いたがっとったぞ…。ケンスケんとこばっかしやなく、たまにはわいらんとこにも顔出せや…」

 そのトウジの言葉にアスカは返事をすることなく、一歩、二歩とトラックから離れて行ってしまう。

 そのアスカの態度にトウジは深く溜息を吐きながら、右足をブレーキペダルからアクセルペダルへと踏み替えた。

 白のピックアップトラックはどす黒い排気ガスをアスカの足もとに残して、未舗装の道の上を走り去っていった。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「そう。そっくりさん。さっそくみんなのお気に入りになったのね」

 そう呟いた鈴原ヒカリの目は、自然と話題の少女の寝室である隣の部屋へと通じる襖へと向けられる。

「おう。さすがに看護師さんの真似事まではさせられんがの。初日から掃除に洗濯とあれこれしてもろうたわ。あない素直な性格やし働き者や。病院から帰る頃には「そっくりさん・そっくりさん」ゆうてみんなが病院の玄関まで見送ってくれとったわ」

 その光景が手に取るように思い浮かべることができたヒカリは、目を細めながら隣の布団で横になっている夫に目を向ける。

「別れ際にはいつもの…?」

「おう。ハグしまくっとったで。ありゃ第3村だけじゃ収まらんの。病院でも流行りそうやわ」

「ふふっ。あなたもご苦労様。午前中は診療所で開診。午後は夜遅くまで病院に勤務じゃ、体も休まらないでしょうに」

 妻から労われたトウジはくたびれた布団から両手両足を出し、大きく伸びをする。

「まあクレイディトとの取り決めやししゃーないな。わいがクレイディトの病院に勤労奉仕する代わりに、村には優先的に薬や医療機器を回してもろうとんやから。それにわいみたいなヤブやない、立派な先生方の診療見るだけでもええ勉強になっとるわ」

 とても模範的な生徒とは言い難かい夫の学生時代を知っているヒカリは、夫のそのセリフに口に出そうになる笑い声を噛み殺しながら、視線を再び隣の部屋の襖へと向ける。

「そっくりさんもご苦労さま…」

 2度の伸びを済ませたトウジは、隣の布団で横になっている妻から天井へと視線を向けた。

「そう言えばの…」

「ん?」

「今日、式波に会うたわ」

「え…」

 ヒカリの視線が、トウジへと向けられた。

「なんやあいつ…。10年前とまるで変わっとらんかったの…」

「そう…」

「不機嫌そうなとこも相変わらずやったな。ま、とりあえずは元気そうやったわ」

「そう…」

 

 

 

 



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(45)

 

 

 

 

 そこは病院の一室。

 広い室内に、壁側と窓側にそれぞれ頭を向ける形で幾つものベッドが並んでいる。一応病院の体は成しているが、本来は14年前の大厄災によって滅んだ山間の小さな町に残っていた廃校の校舎を再利用したものだ。教室と教室を隔てる壁をぶち抜いて拡張した病室。フローリングの床。壁の黒板。各ベッドの間を仕切るカーテンはなく、パイプとマットレスだけで出来た簡素なベッドの上に、怪我や病気の種類も容態も様々な患者たちが雑多に寝かされている。

 そんな幾つも並ぶベッドの一つを、白衣を着た医師たちと看護師たちが囲んでいる。

 彼らが囲むベッドの上には、全身を包帯に巻かれた痛々しい姿の患者が寝かされていた。

 

 

 

 頭にバンダナを巻いた少女は汚物入れ用のカートを押しながら病室へと入った。

 各ベッドを回り、ベッドの下に置かれたバケツの中身を、カートのカゴの中に入れていく。

 4つ目のベッドを回ったところで。

「よっ。そっくりさん」

 5つ目のベッドの上に寝かされた患者の中年男性が声を掛けてきた。少女は男性の挨拶に頷いて答え、男性が寝るベッドへと近付く。

「今日もご苦労さん」

 笑顔を向けてくる痩せた男性患者に対し、少女は着ていたエプロンを脱ぎ、はめていた手袋を取ると、男性患者の頭をそっとハグした。この先その死が訪れるまで頭部以外を動かすことが許されなくなったその男性患者は、少女の背中に腕を回す代わりに額を少女の胸に押し付けることで少女のハグに応える。少女は男性患者から離れると、改めて手袋をはめ、エプロンを着て、男性患者が寝るベッドの下のバケツを引っ張り出し、中身の汚物をカートのカゴの中に入れた。

 

 この少女が近くの村の医師に付き添ってこの病院に顔を出すようになってから数日が経った。見るも可憐な少女が挨拶代わりにハグをしてくれるという噂は、病院の男性患者の間であっという間に広まってしまっており、すでにこの病院のちょっとした名物になっている。

 

 バケツをベッドの下に戻し、体を起こした少女。

 その少女の視線が、病室の奥の方で、一つのベッドを囲む医師と看護師の集団に向けられた。

「ああ…、あいつか…」

 男性患者の声に、少女は視線を側のベッドの上に戻す。

「あいつ。そろそろヤバいらしいな…」

「やばい…?」

 少女の視線が、再び病室の奥のベッドへと向けられた。

「あいつも今日までずっと頑張ってきたんだけどな」

 少女は男性患者に視線を戻す。少女の問うような視線を受けて、男性患者は辛そうに目を細めながら言う。

「あいつ、ヴィレの戦艦の乗員だったんださ。先月の戦闘で全身に大怪我負って、ここに運び込まれたんだよ」

「戦闘…」

 少女は男性患者の言葉の一部分だけを切り取って、ぽつりと繰り返す。

「そう。ヴンダーがネルフのエヴァと戦ったんだ」

 

「ネルフの…」

 

 胸の中の心臓が、1回だけ大きく脈打ったような気がした。

 

「エヴァ…」

 

 

 

「彼に家族は?」

 年配の医師の質問に、トウジが答える。

「居ません。皆、14年前に…」

「そうか。下顎呼吸に尿量の著しい低下。今夜が山だろうな」

 トウジは力なく頷いた。まだ若いが何人もの患者を看取ってきたトウジと、年配の医師の見解は一致している。

 1月前にこの患者がこの病院に運び込まれた日に、最初に診察をしたのがトウジだった。以来、非常勤にも関わらず、トウジが担当医としてこの患者を受け持ってきた。

 初診の段階で、この患者にしてやれることは何もないということは分かっていた。せいぜい、疼痛に対する対症療法くらい。前回の勤労奉仕から2週間ほど空けてこの病院に戻ってきて、まだこの患者が生きていたことに驚いてしまったほどだ。

 

 背後に気配を感じ、トウジは振り返った。

 エプロンにマスク、頭にバンダナを巻いた少女が立っている。

「おう。そっくりさんか」

 トウジはベッドから離れ、少女へと近付いた。

「すまんの、そっくりさん」

 ベッド上の患者に視線が釘付けになっていたらしい少女。トウジが隣に立っていたことにも気付かず、声を掛けられてはっとした様子でトウジの顔を見上げる。

「今日は泊まりや。わいの受け持ち患者が危篤なんや。村に戻るにも便がないし、悪いがそっくりさんも付き合うてくれるか?」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「ほんまにええんか?」

 心配そうに言う鈴原トウジに、少女は頷いて答える。

 

 廃校を利用した病院を包む夜の帳。暗がりの病室は、隅に置かれたランタンの灯りのみがぼんやりと点り、患者たちの寝息と窓の外から聴こえる虫の鳴き声のみが聴こえる。

 

 村の診療所での連日の激務に加えて、勤労奉仕にやって来た病院で担当患者を看取るために突如舞い込んだ夜勤。体力には自信のあるトウジも、さすがに疲れていたのだろう。宿直室で寝ていた少女は、トイレに向かう廊下の窓の隙間から、病室の隅の椅子の上でうつらうつらと船を漕いでいるトウジを見かけ、彼に見守りを後退すると声を掛けた。ここで働き始めてまだ数日の少女にいきなり夜勤をさせるわけにはいかないため、トウジは少女の申し出を初めこそ断ったが、少女と話している最中にも油断をすればすぐにでも瞼を閉じてしまいそうだったため、「30分だけ」という約束で、少女が病室に残り、トウジは宿直室で仮眠を取ることにしたのだった。

 

「なんかあったらすぐに呼ぶんやで」

 心配そうに言うトウジに、少女は頷いて答えた。

 

 

 

 トウジが病室を後にし、静かになる病室の中。

 少女は病室の隅にあるパイプ椅子に腰を掛け、ベッド上の患者たちを見守る。

 

 小さなランタンの朧げな光が静かに照らす室内。

 時折外から拭く風に煽られ、広がる窓のカーテンの隙間から差し込む、月の光。

 窓の外から聴こえる虫の鳴き声。

 変化の乏しい風景を、パイプ椅子にちんまりと座る赤い瞳の少女は、ぼんやりとした眼差しで見つめている。

 

 

 そっと、目を閉じてみた。

 視覚を断つことによって、鋭敏になる聴覚。

 聴こえてくるのは、窓の外からの虫の鳴き声。

 カーテンを揺らす風の流れる音。

 それらに混じって聴こえる、ベッド上の彼らの息遣い。

 寝息。

 時々歯軋り。

 時々いびき。

 時々寝言。

 時々放屁。

 

 静かな空間の中にも、溢れるような様々な雑音。

 充満している生命の息吹。

 

 「終わり掛け」のこの体を満たしていく色とりどりの音たちが、心地よかった。

 

 

 鼓膜を刺激する、色彩豊かな音。

 眠りという安息の地を礼賛する音。

 

 その中に紛れ込む微かな歪みを、少女の耳は聞き逃さなかった。

 

 豊かな音の流れの中に、ぽつんと染みのように浮く音。

 それは、人の呻き声。

 

 少女は咄嗟に目を開け、パイプ椅子から立ち上がる。呻き声が聴こえた方に視線をやるが、そこには鈴なりのように並ぶベッドの上に寝かされた、何十人もの患者たち。

 呻き声の行方を見失った少女は、もう一度目を閉じた。

 虫の鳴き声。風の流れる音。患者たちの寝息。

 その中に混じる、苦し気な呻き声。

 

 その音源を特定した少女はすぐに、しかし足音を立てないよう慎重に、そのベッドへと駆け寄った。

 

 ベッド上に寝かされていたのは、まるで図書館で呼んだ絵本に出てくるお化けのように、全身を包帯に包まれた患者。体の全てを薄汚れた包帯が覆い隠しているため、寝かされているのが男か女か、子供か大人か老人かすらも分からない。

 少女はベッドの側に膝を折ると、ミイラのような患者の口もとに耳を近づける。

 切迫した呼吸に混じって聴こえる、微かな呻き声。

 

 医療・看護知識に乏しい少女であっても、目の前の患者の生命が危機に瀕していることは察することができた。すぐに立ち上がり、宿直室で寝ているトウジを呼びに行こうとして。

 

 しかし少女の足は止まる。

 少女の足は、その場から立ち去ることができなかった。何よりも優先すべきことは、患者の担当医を呼ぶことなのに。患者の担当医からもそう命令を受けていたはずなのに、少女の体はそれを実行することができなかった。

 

 何故ならベッドの上から、包帯で包まれた腕が伸び、少女のエプロンの裾を握っていたから。

 顔に巻かれた包帯の隙間から覗く、灰色に濁った瞳が、少女の顔を見つめていたから。

 

 

 

 

 彼はとある空中戦艦の乗組員だった。その戦艦は人類に残された最後の砦だった。

 ニア・サードインパクトの日に生を受け、生まれたその日に親を失い、生まれたその日から始まった飢餓と混沌の日々を生きた彼は、年齢を偽って反ネルフ・ゼーレ組織に参加し、最後の砦たる戦艦の甲板員として、とある広大な地下空間で起きようとしていた世界の4度目の破局を阻止する戦いに身を投じていた。彼が乗る艦は地下空間に強行突入し、あと一歩で起きる寸前だった4度目の破局を辛うじて防ぐことに成功したが、同時に敵対する組織が所有する人型兵器の猛烈な反撃を受けて大きな損害を被っていた。敵の攻撃の直撃を浴びた戦艦の主砲付近に居た彼は、全身に重度の熱傷を負い、野戦病院で幾度もの人工皮膚の移植手術を受けた末に、この病院に運び込まれたのだった。

 

 

 

 

 全身を蝕む激しい痛み。

 四六時中灼熱の炎に包まれているような、針のむしろに包まれているような感覚。

 癒えることのない喉の渇き。

 

 それでも生に対する渇望を手放すことが出来なかった彼は、気力だけで今日まで生きながらえてきた。

 死にたくない。

 死にたくない。

 その一心で、担当医さえも驚く生命力を見せていた。

 しかし、彼の戦いも、今宵、静かに終息を迎えようとしている。

 

 

 彼が求めるもの。

 それはもはや生きることへの切望でもなく、全身を支配する痛みを和らげることでもなく、喉の渇きを潤すことでもなく。

 彼が最期に欲したもの。

 

 

 独りにしないでほしい。

 

 誰かに側に居て欲しい。

 

 

 ただ、それだけだった。

 

 

 それは考えてした行動ではなかった。

 近くに感じる人の気配。

 咄嗟に、包帯だらけのその手を、人の気配がする方へと伸ばしていた。

 伸ばした先に触れたエプロンの裾を、掴んでいた。

 殆ど視力が失われた瞳で、側に居る誰かを見つめていた。

 

 

 

 

 それは考えてした行動ではなかった。

 それは経験則。

 あの村の生活で得た経験が、少女をある行動へと導いた。

 

 頭では分かっている。自分が取るべき行動。それは、すぐにこの患者の担当医を呼びに行くこと。それは分かっている。

 でも、体が勝手に動いていた。

 

 患者にエプロンの裾を掴まれた少女。灰色に濁った瞳で見つめられた少女。

 彼女は、病室の出口へと向いていた体を翻し、そっとその場に膝を折った。

 

 エプロンの裾を握る患者の手に両手を添えて、そっと包み込む。

 すると患者の手はエプロンから離れ、包み込んだ少女の手を握り返してきた。

 

 

 彼は少女の指に自分の指を絡めたかったに違いない。おそらくこの世界で自分が知る、最後の人肌の温もりをもっと感じたくて。しかし彼の手に巻かれた包帯は、人指し指から小指までを纏めて縛ってしまっているので、彼の望みは叶わなかった。だから代わりに、持ち得る限りの力で、少女の手を握った。

 

 

 手を握った途端、患者の手に物凄い力で握り返され、少女はその痛みに思わず顔を顰めてしまったが、しかし手を振払おうとはしなかった。

 それは「あの少年」に頬をぶたれた時と同様の、「知らない」痛みだった。

 誰かと握手を交わすこと。抱擁すること。相手に直に触れ、互いの息吹を確かめ合う行為は、いずれも柔らかさと優しさと温もりに溢れ、痛みを伴うものではなかったはず。

 患者が握る手。自分の手を圧し潰さんばかりに握ってくる手。

 手に感じる初めての痛みを確かめるように、心に、体に刻み込むように、少女の両手もまた患者の手を硬く包み込んでいる。

 

 体中の細胞が崩壊していく痛みに、患者の喉の奥から低い呻き声が上がった。少女の手を握った患者の右手がガクガクと激しく震えだした。まともに悲鳴も上げられない口の代わりに、その手で痛い痛いと悲鳴を上げていた。

 

 少女は自身の右手を患者に握らせたまま、もう片方の左手を患者の背中へと回す。患者の上半身を、ゆっくりと抱き起こした。患者の背中には体内からの浸出液が包帯の隙間から滲み出ていて、ベッドのシーツとの間に幾つもの液状の細い線を作る。少女の服の左袖にも、浸出液がべったりと付着する。

 それでも構わず少女は患者の体に自分の胸を、お腹を密着させ、患者の顔に自身の頬をそっと寄せ。

 少女は、包帯だらけの患者の体を、ひしと抱き締めた。

 

 居候先の赤ん坊を抱っこするのと同じ要領で。

 相手の全身を優しく包み込むように。

 背中に回した手には、心地よい一定のリズムを刻ませながら。

 薄汚れた包帯。包帯の隙間から滲み出る様々な体液。皮膚や肉が、腐っていく匂い。

 そんな体を、彼女はなんの躊躇もなく抱き締めた。

 

 密着した体から伝わってくる少女の息遣い。

 少女の胸の中の小さな鼓動。

 少女の温もり。

 生命の息吹。

 

 

 痛みが消えていく。

 それと同時に、視界が狭くなっていく。

 その体から。器から、少しずつ離れていく、「自分」という存在。

 

 患者の口元がモゾモゾと動いた。何か、言葉を発しようとしているらしい。しかし患者の口にも何重もの包帯が巻かれており、彼の最期の言葉を阻害する。

 あるいは、少女の耳にはこの言葉は届かないかもしれない。

 

 それでも彼は、包帯の向こうで言った。

 

 最後の力を振り絞って、こう言った。

 

 

 

 ア・リ・ガ・ト・ウ、と。

 

 

 

 彼はこの世界での最後の言葉に、感謝の言葉を選んだ。

 

 

 

 

 

 

 抱き締めていた患者の体。

 密着した体から伝わってくる患者の息遣い。

 患者の胸の中の小さな鼓動。

 患者の温もり。

 生命の息吹。

 

 それらが、急速に遠ざかり、薄くなり、失われていくのを、少女は感じていた。

 

 

 窓を塞ぐカーテンを揺らしていた風が止み、月の淡い光が差し込んでいた病室の中が暗闇へと変わる。

 虫の鳴き声も止み。

 他の患者たちの寝息も静まる。

 

 

 その日の夜は、とても静かだった。

 

 

 

 



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(46)

 

 

 

 

 瞼を開けると、真っ先に視覚を刺激したのは窓ガラスから差し込む太陽の光。

「お~…、今日もええ天気や…」

 夢うつつの鈴原トウジは大きな欠伸を交えつつ、両手で目をぐりぐりしながら呟く。

 布団の端から両腕、両足を突き出して、大きく伸びをして。

 普段使い慣れた布団とは違うことに気付き。

 

「まずっ!?」

 

 次の瞬間には簡易ベッドから飛び起き、宿直室から飛び出していた。

 所々床板が禿げた廊下をドタバタと走り抜け、病室の扉を勢いよく開き、中に駆け込む。

 

 病室へ駆け込んだトウジの足が、ピタリと止まった。

 乱れたトウジの呼吸も、ピタリと止まる。

 

 病室の中。

 夜が明ければ目覚めた患者たちの喧騒で溢れているはずの病室。

 奇妙なほどに静寂に包まれた今朝の病室。

 いつもと違う光景。

 鈴なりに並ぶベッド。そのベッドの大半が空になっている。

 

 視線を少し動かせば、空のベッドの住人たちの所在はすぐに見つかった。

 患者たちは、病室の奥に集まっていたのだ。

 病室の奥にある一つのベッドを囲んで、患者たちの大きな輪が出来上がっていた。ベッドから動くことができない患者たちも、体や頭だけを起こして、皆が囲むベッドの方を見つめている。

 トウジが勢いよく開けた扉の音にも、駆け込む足音にも誰も振り返ることなく。

 誰一人、一言も喋らないまま、息を潜め、一つのベッドに視線を集めている。

 

 トウジには、そのベッドの主に心当たりがあった。

 そして静謐に包まれた病室の様子から、ベッドの主の身に起きたことも、悟ることができた。

 

 悟った瞬間、トウジは目を閉じていた。

 眉間に深い皺を寄せ、こうべを垂れる。

 両手を握り締め、肩で大きく息を吸い、次に大きく息を吐く。

 何度か鼻を啜り、そして瞼を開け、潤んだ目で天井を見上げた。

 

 涙が溢れるのを何とか堪えたトウジは、視線を下げるとゆっくりと病室の中を見渡す。

 ある人物の姿を求めて、視線を巡らせる。

 しかし自分の見守りを代わってくれた少女の姿がない。

 30分だけと約束したはずの少女の姿が、どこにも見当たらない。

 少女に事の詳細を訊ねようと思ったのだが、トイレにでも行ったのだろうか。居ないのであれば仕方がない。

 トウジはゆっくりと歩みを進めた。ベッドを囲む患者の輪に辿り着き、その隙間に割って入る。

 患者の波を掻き分け掻き分け進み、やがて目的のベッドの全貌が見えてきた。

 

 

 トウジは息を呑んだ。

 

 

 患者たちが囲む、簡素なパイプと薄いマットレスで組み上げられただけの粗末なベッド。

 その上で、トウジの受け持ち患者が、上半身を起こしていた。

 

 全身を包帯で包まれた患者。

 そしてベッドにはもう一人。

 痩せた背中。頭部に巻かれた青いバンダナ。

 決して広いとは言えないベッドの隅っこに腰を下ろした少女が、包帯塗れの患者の上半身を、支えるように抱き締めている。

 身じろぎ一つせず。

 身に着けた白の袖なしエプロンを、患者の体液で汚しながら。

 

 少女に抱き締められた患者。

 その口から絶えず漏れていた呻き声は、もう聴こえない。

 少女の背中に回された左腕は、少女の背中から少しだけ浮いていて、そのまま凍り付いたように硬直している。

 

 

「先生…」

 

 開いたカーテンの隙間から差し込む朝の陽射し。

 その陽射しに照らし出されるベッド。

 それはまるで演劇の舞台を照らすスポットライト。

 

 少女が抱き締めた患者の体がすでに生命活動を停止させていることは、わざわざ触診しなくても分かった。

 分かってはいたが、トウジには不謹慎にも、薄汚れた包帯で全身を覆われた患者を抱き締める少女の後ろ姿が、この世界の何よりも尊く、美しく、神秘的であるように見えてしまった。

 その幻想的な宗教画のような光景に目を奪われていたトウジは、隣に立つ患者からの呼び掛けに、すぐ反応することが出来なかった。

 

「先生…」

 再度の呼び掛けに、トウジははっとなって隣に立つ患者に顔を向ける。

 顔半分が包帯で覆われた髭面の患者を見ながら、何度か瞼を瞬かせて。

 トウジはようやく口を開き、状況の説明を求めることができた。

「これは…、いったい…」

 髭面の患者はベッド上の少女の背中を見ながら言う。

「今朝起きたらこうだったんです。いや…、多分、俺たちが起きるよりもずっと前から…」

 

 トウジは髭面の患者の顔から、再びベッド上に視線を戻した。

 少女の背中に回されたまま硬直してしまっている患者の腕。その様子から、その患者が人生に幕を閉じてからすでに数時間は経過していることが分かる。つまり、少女はもう何時間もの間、患者の遺体を。

 

 

 トウジはベッドの側まで歩み寄った。

「そっくりさん…」

 少女の背中に、声を掛ける。

 反応はない。

「そっくりさん…」

 今度は少女の肩にそっと手で触れ、呼びかけてみる。

 すると、少女の顔がゼンマイ仕掛けの人形のように、ゆっくりとトウジに向けられた。

 

 少女の顔は、いつも通りの顔。

 涼やかで、何を考えているのかよく分からないような顔。

 濁りのない、澄んだ赤い瞳が、トウジへと向けられる。

 

 そんな少女に、トウジは2度、ゆっくりと頷いた。

「もうええんや…。もうええんやで…」

 そして患者の背中に回された少女の手に、自身の手を重ねる。

「もう、ゆっくり、眠らせたろうや…」

 

 少女は一度だけ頷き、抱き支えていた患者の遺体を、ベッドに向かってゆっくりと下ろし始めた。するとベッドを囲んでいた患者の輪の中から数人が駆け寄り、次々と腕を伸ばして遺体の背中を支え始める。未明に天国へと旅立ったその患者の体は、仲間たちの手によって支えられ、ゆっくりとベッドへ着地した。

 

 ベッドの端に腰を下ろしながら、枕の上の遺体の顔を見つめていた少女。

 その少女の顔の前に、手が差し伸べられた。 

 少女は、松葉杖で立つ患者が差し伸べる、本来あるべき本数の半分以上の指を失った手に、自身の手をそっと添える。そしてその手に支えられ、ゆっくりとベッドから立ち上がった。

 少女の起立を助けてやった松葉杖の患者は、少女の手をぎこちなく握り締めたまま、涙で濡れた瞳から熱い眼差しを少女に送りつつ、何度もうんうんと頷く。少女はその患者の仕草の意味が分からなかったようで、首を傾げながらぼんやりと患者の顔を見つめ返していた。

 

 

 トウジはポケットから小型のハサミを取り出し、ベッド上の遺体の頭部に手を伸ばした。

 自分の受け持ちだった患者。その最期を、看取ることが出来なかった患者。死に目に立ち会えなかったのだから、せめてその死に顔だけでも見送ってやりたい。

 ハサミで包帯の端をちょきちょきと切り始める。

 

 

 起立を手伝ってくれた患者だけではない。他の患者からも握手を求められたり肩を叩かれたりしていた少女。

「ははっ…」

 背後から短い笑い声がして、振り返る。

 トウジが、遺体の頭部の部分だけ、包帯を剥がしていた。

 トウジが振り返って、少女の顔を見る。

「そっくりさんも見たってくれや」

 

 それは本来、年端もいかない少女に見せるべきものではなかったものかもしれない。

 剥がした包帯の下から現れたもの。

 赤く爛れた皮膚。腐った肉。とても人間のものとは思えない色、形をしている顔。

 

 それでも少女だけでなく、ベッドを囲む患者たちが皆身を乗り出して、その顔を覗き込む。

 

 皮膚が溶け、肉が溶け、表情を読み取ることさえ困難なその顔。

 

 それでも見る者には分かった。

 

 この1月。全身を蝕む痛みに苦しみ続けた患者。

 

 その顔が、穏やかに笑ってくれていることに。

 

 

 

「あり…が…とう…」

 

 ぽつりとそう呟いた少女の横顔を、トウジは見つめる。

「どうしたんや…、そっくりさん…」

 少女は遺体の顔に注いでいた視線を、トウジへと向ける。

「この人が…、最後に…」

 その少女の言葉に、トウジの目から、堪えていたはずの涙が一粒だけ零れ落ちる。

「そっか…」

 遺体の顔を見つめる。

「最後に…、ありがとう、ゆうてくれたか…」

 少女もトウジに倣って遺体の顔を見つめる。そして、

「ありがとう、って…、なに?」

 こんな時でも少女のいつもの質問攻めが始まり、トウジは思わず笑ってしまった。

「そうやのう…」

 遺体の、穏やかな笑みを見つめながら考える。

 彼がこの世界からの旅立ちの時に、あえてこの言葉を選んだ意味に思いを巡らせながら。

 

「「ありがとう」、ちゅーのは感謝を表す言葉。ええ思い、ええ時間を一緒に過ごしてくれた相手に捧げるための言葉や」

 トウジの説明が理解できなかったのか、きょとんとした顔をしている少女。トウジ自身も自分の説明にイマイチ納得できなかったようで、頬をぽりぽりと掻きながら頭の中で自分の言葉をもう少し整理してみる。

 3秒ほど唸った後に。

 

「つまりはな。大切な時間、大切な思い出を忘れんようにするためのおまじない、っちゅーこっちゃ」

 

 

 

 病室の扉が開き、日勤帯でやってきた看護師たちがストレッチャーを運び込んできた。

 ベッド上の遺体をストレッチャーの上に乗せ換え、病室の外へと運んでいく。

 皆が、背筋を伸ばして遺体を見送っていた。

 ある者は胸に手を当て、ある者はメガネを取り、ある者は被っていたニット帽を脱いで、黙祷を捧げながら。

 それを見た少女も他の患者たちに倣って、外に運び出される遺体を見送ることにした。

 

 背筋を伸ばし、胸に手を当て。

 

 頭に被っていたバンダナを取り払い、頭を左右に一度ずつ振って髪を軽く揺らし。

 

 祈りというものが何であるかもよく分からないまま。

 

 

 少しだけ開いた窓の隙間から吹き込む風が、少女の空色の髪をさらさらと揺らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 反ゼーレ・ネルフを標榜するヴィレが発足して以来、14年が経過していた。創立当初こそ技術者や民間人の寄せ集めに過ぎなかったこの組織は、長年の闘争による経験の積み重ねと他の軍事組織の吸収により武装闘争組織としての成熟度が増していき、新兵に対する訓練課程も十分とは言えなかったが10年前のネルフ本部強襲時に比べれば遥かに充実した内容になっている。

 新兵たちに用意される訓練課程の中には、座学もあった。

 

 

 講堂に並べられた机につく訓練兵たち。

 彼らの視線の先では、映写機によって壁のスクリーンに映し出された画像を教材に教鞭をとる壮年の教官。

 

「…以上がゼーレ及びネルフの概要である。ではここで君たちが実際に戦場で相対することになる敵の実像を見せることにしよう。これが現在我々が確認しているネルフ所有のエヴァンゲリオン各機である。特に注意すべきはこのマーク4と呼称される量産機だ。様々なタイプが確認されている上に、その数もまた膨大だ。10年前の決戦の時も、かつて私が所属した元国連軍の陸上部隊を全滅に追いやっている。目下、我々実戦部隊の最大の敵であると言えるだろう。また単機ではあるものの、このマーク9についても侮れない。単純な機体性能であれば、我が軍の弐号機や8号機をも上回っている。未だ表立った動きはないものの、いずれ戦場における敵の主戦力となるとみて間違いない。なお、マーク4並びに今後実戦投入が予想されるマーク7改良型についてはパイロットを必要としない完全自律型ではあるが、マーク9については旧来のエヴァ同様人型のパイロットが搭乗している。これがネルフ所属のパイロットの写真だ。見ての通り、特徴的な外見をしている。このパイロットについては複製体、つまりクローン人間であることはすでに確認済みである。赤木リツコ博士の証言によれば、ネルフ本部内には同一のクローンが数千から数万単位、あるいはそれ以上の数が保管されていると言う。君たちが戦場で出くわす機会もあるかも知れない。もしこの顔を目撃した場合には、速やかに上官に報告すると共に………」

 

 

 

 

 



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(47)

 

 

 

 

 電話が鳴っている。

 相田ケンスケ宅の、固定電話が鳴っている。

 村の「何でも屋」であるケンスケは、すぐに連絡が取れるようこの村では数少ない携帯電話の所有者であり、彼に連絡を取るための電話はほぼ全て彼が持つ携帯電話に掛かる。だから、家の固定電話が鳴ることは、滅多にない。

 その固定電話が鳴っている。

 

 どうしたものか。

 黒電話の側に立ち、じっと黒電話を見つめる。

 でもこの家への電話なんて、間違いなくこの家の主への電話だ。

 そしてこの家の主は、今は居ない。彼の中学時代の友人と共に、朝早くから山の奥へと出かけてしまった。

 

 無視しよう。

 自分が出ても意味ないし。

 相手が諦めて、電話を切るまで放っておこう。

 

 そう決めて電話から離れ、ベッドに寝っ転がり、携帯ゲーム機を再開させる。

 

 鳴り止まない電話。

 

 ゲーム機に集中する。

 

 鳴り止まない電話。

 

 ゲーム機に集中する。

 

 鳴り止まない電話。

 

「ああもう!」

 

 アスカは唸り声を上げながらベッドから飛び起き、ドタドタと盛大に足音を立てて黒電話の側まで歩み寄ると、その受話器を乱暴に取り上げた。

 

「何よ! しつこいわね!」

 

 相手の声も聞かずに初っ端から怒鳴りつけてやったら。

 

『お、おう、式波か! よかった! 通じて!』

 

 相手は、この家の主のもう一人の中学校時代の友人。

 どこか焦りを感じさせる、上擦った声。

 

「な、何よ。あたしに用事?」

 

『おう、式波。自分、なんでゆーてくれんかったんや』

 

「何のことよ」

 

『そっくりさんのことや』

 

「初期ロットがどうしたってーのよ」

 

『わいはてっきりあの子もお前らの。ヴィレの仲間や思うとったのに』

 

 通話相手のその言葉に、アスカの顔から表情というものが消えていく。

 

「なに? もしかして初期ロットの正体、バレちゃったわけ? だから言わんこっちゃない」

 

 そう気だるげに言いながら、アスカは右のつま先で左の脹脛をぽりぽりと掻く。

 

『病院の患者の中にヴィレのもんがおったんや。そいつがそっくりさんの髪の色見て、急に騒ぎ始めよって…』

 

「あ~あ~、だからあのバンダナは絶対に取るなっつったのに。で? どうしたの? ちゃんとあたしの名前は出した?」

 

『おう、ゆーたで。式波少佐の保護下にあるゆーた。そんでその場は何とか収まったんや』

 

「ふーん。だったら良かったじゃない」

 

『あかんのはその後や。そっくりさんがネルフの人間ちゅーことが村の連中にも伝わってしもーて。今、村の青年団の連中がいきり立ってわいん所に押しかけてるんや。もう収集がつかへん』

 

「そう…」

 

『なあ、式波。なんでゆーてくれんかったんや。あん時全部ゆーてくれとったら、わいも無理に病院には連れていかんかったのに…、なんでや…』

 

 アスカは、近くにあった丸椅子にドカっと腰を下ろす。

 木製の床の木目を見つめながら低い声で言った。

 

「もしそんなこと言ったらあんたたち、あの子のこと、もうまともに見ることできないでしょ」

 

 次の言葉は、アスカは言うつもりはなかった。言うつもりはなかったのに、その口は勝手にその言葉を呟いていた。

 

「あたしみたいに…」

 

 

 

 5秒ほどの沈黙の後。

 

『なんや…、そら…』

 通話相手の、呻くような声。

 

『わいらを舐めるのも大概にせーよ…』

 通話相手の声音が明らかに変わり、アスカは押し黙る。

 

『まともに見ようにも…、お前はわいらがまともに見ることもさせてくれへんやないか!』

 

 アスカの呼吸と瞬きが止まる。

 下唇を、噛み締める。

 

『もうええ…! ケンスケは! ケンスケはおらんか! 携帯にも繋がらん!』

 

「け、ケンケンなら…」

 もはや通話相手の意識はこの家の主の方へと向き始めている。アスカは自分から離れつつある通話相手の意識を繋ぎ留めようとでもするかのように、慌てて口を開いた。しかし、

 

 

『なんや…! おまえら…!』

 通話相手の声が遠くなる。自分ではない、電話機の向こう側の誰かに向かって怒鳴りつけているらしい。

 

『ここはわいの家や…! 勝手に入るもんは承知せんぞ…!』

 

 激しい物音に混じって、老齢の男性の怒鳴り声が聴こえてくる。

 

『帰りたまえ! 良い若いもんが寄ってたかって恥ずかしくないのか!』

 

 それはおそらく通話相手の義父の声。その声の傍らで。

 

『ツバメ…。お願い…。泣かないで…』

 啜り泣きのように聴こえるのは、おそらくアスカの中学時代の同級生の声。

 激しい物音、飛び交う怒鳴り声に混じって、赤ん坊の泣き喚く声が聴こえてくる。

 

『とにかくや…!』

 急に通話相手の声が近くなった。

『そっくりさん助けんとあかんから、ケンスケの力も借りたいんや! ケンスケにわいんとこに連絡するようゆーてくれ!』

 

 ブツっと音が鳴り、そこで電話は切れた。

 

 

 ツーツーと電子音を鳴らす受話器を、眉間に皺のよった顔で見つめる。

 

「なんで…、みんな…、あいつのことばっか…」

 

 受話器を本体のフックに戻さず、放り投げる。

 丸椅子から立ち上がり、そのままベッドの上に飛び込んだ。

 ベッドの上にうつ伏せになり、頭に枕を被る。

 

「誰もあたしのことは…、助けてくれないくせに…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 鈴原家の家の前では村中から押し寄せた若い男たちを中心に人だかりができていた。

 玄関の前では仁王立ちにしている鈴原トウジと、彼の義父。

 玄関の奥の部屋では、ツバメを抱いた鈴原ヒカリが今にも泣きそうに顔を顰めながら、夫と父親の背中を見つめている。

 

 押し寄せた男たちの一人が、トウジの胸に突き当たる距離までにじり寄った。

「なあ先生! いい加減あいつを! ネルフの犬をこっちに引き渡してくれんかな!」

 村の青年団兼消防団兼自警団の団長である大柄な男の恫喝にも、トウジは少しも怯まない。

「何度ゆーても同じや! 渡さへんもんは渡さへん! うちはこれから晩飯なんや! わいの世界一カワイイ嫁さんが作ってくれた世界一の晩飯やで! 貴様はさっさと帰ってぶっさいくな嫁さんがつくるくっそ不味い飯でも食っとれや!」

「貴様!」

 トウジの挑発に激昂した団長の両手がトウジの胸の胸倉を掴もうとしたところで、隣のヒカリの父親が口を開く。

「水口くん! 君に空手を教えてやったのは誰だったかね!」

「し、師範…!?」

 その一喝に、団長の両手が恐縮したようにトウジの胸倉から離れた。

 今度は青年団の副団長がトウジらに詰め寄る。

「先生がた! あんたらがあの子を匿いたい気持ちも分かるけどさ! 俺たちの心情も察してくれよ! ここにはな! ネルフとの戦いで身内を失ったものも大勢いるんだ! あの子がネルフの兵隊だってんなら、俺たちにはあの子と話しをする権利があるはずだ!」

 副団長の言葉に、あちこちから「そうだそうだ」と同調する声が上がった。

「先生! これがこの村の総意だ! 分かったら早くあの子をここに連れてきてくれ!」

 トウジは詰め掛けた連中の顔を見渡しながら大袈裟に笑う。

「話をするだぁ? 話をするためだけに、なしてそんな鎌や鍬が必要なんや。おのれら、百姓一揆でも起こす気か。生きるために生活様式を100年前に戻すんはしゃーないことやが、頭ん中まで300年前に戻せとは誰もゆーとらんぞ」

「相手は敵性人物だ! 万が一の用心は必要だろう!」

「お前らアホか! あんなひょろっひょろの女の子相手に万が一て何や、しょーもない! 肝っ玉の小さいやつばっかやのう!」

「先生。まあそうカッカしないで」

 村の若い医師と青年団幹部たちの言い争いの間に、年配の男性の落ち着いた声が割って入る。

「先生。わしらはこの村が出来た頃からの顔馴染みじゃないか。もうちっと落ち着いて話すことはできんかね?」

「おう安永さん。最近、診療所に顔見せんのう。痔は治ったんかいな?」

「ま、まあ先生。この村は全体が家族のようなもんだ。みんなで手を取り合いながら助け合ってきたじゃないか。大事に大事に築いてきたこの仲を、こんなことで崩してしまうなんて、あまりにも勿体ないことじゃないかね?」

「そやったらあの子もすっかりこの村の一員や。わいらの家族やからのう」

「違う。あれはネルフの人間。わしらの敵だ」

「ほう、そうか! でも生憎やったの! あの子はおのれらの家族やのうても、鈴原家の家族や! 貴様ら、わいの家族にちいとでも手ぇ出してみぃ! ドタマかち割ったるぞ!」

「先生はわしらよりもあの子の方が大事なのか? わしらが長年掛けて培った絆を、まだここに来て間もないあの子のために壊してしまうのか?」

「わいはいつかて自分の家族が大事や! わいは自分の家族守るためやったら、いつでも何だってしたる覚悟や! こちとらお天道様に顔向けできんことも仰山してきた身ぃやけえのぉ! 今更ええ人ぶるつもりもない! 貴様ら全員敵に回したってかまへんのや!」

「先生!」

「ええ加減帰らんとしばき回したるど!」

 

 

 

 道ですれ違えば気さくに挨拶をしてくれるあの人が。

 いつも嫌な顔一つせず、力仕事を手伝ってくれるあの人が。

 自分の夫と激しい剣幕で怒鳴り合い、罵り合っている。

 

 ヒカリは、泣き止まない我が子の両耳を、大人たちの怒鳴り声が届かないように塞ぎながら、その小さな体をひしと抱き締め、ぎゅっと両目を閉じ、外の騒ぎに背を向けるように畳の上に蹲っていた。

 

 突然、腕の中にあった、赤ん坊一人分の重みが消えた。

 閉じていた瞼を開く。自分の腕の中に居たはずのツバメの姿がない。代わりに在ったのは、畳の上に立つ2本の黒い足。その黒い足の持ち主の顔を視界に収めるため、ヒカリは顔を上げる。

 ツバメの小さな体は、空色髪の少女の腕の中に収まっていた。

 

 少女はツバメを抱っこしたまま、ヒカリの側に両膝を折る。ヒカリは、我が子を見つめている少女の横顔を見つめた。

 今も飛び交う怒号。そんなものはまるで別世界の出来事とでも言うかのように、少女はいつもと変わらない涼やかな顔で。いや、この頃少しずつ見せるようになった、花の蕾がほころぶような控えめ笑みを浮かべながら、腕の中のツバメを見つめていた。

 そんな少女の表情に釣られるように、ヒカリも小さく笑う。そして。

「もう。そっくりさんに抱っこされると、すぐに泣き止んじゃうんだから」

 つい20秒前まで顔中をしわくちゃにして大口を開けて泣き喚ていたはずのツバメが、今は泣き止むどころか口の両端を上げ、目を細め、足をじたばたさせながら自分の顔を覗き込む空色髪の少女の顔に手を伸ばしている。

 ツバメの小さな手のひらが少女の真っ白な肌に触れ。そしてツバメの母親は、ツバメのぷにぷにした頬を人差し指でちょんちょんとつついている。ツバメはくすぐったそうに、声を出して笑っている。

「まったく。妬いちゃうなぁ…」

 そう呟きながら、ヒカリはクスクスと笑う。少女もヒカリに釣られ、ふふふと小さく声を上げながら笑った。

 

 少女は言う。

「ツバメ…、凄い…」

「何が…?」

「ツバメの笑顔は、みんなを幸せにする…」

 いつの間にか笑っていた自分に気付いたヒカリ。その笑顔を、我が子を抱く少女へと向ける。

「それはそっくりさんもよ」

「え?」

 少女はきょとんとした顔で、ヒカリを見返した。

「そっくりさんの笑顔も、みんなを幸せにしてる」

 少女は心底驚いた様子で、目を丸くしている。

「本当に…?」

「ええ。笑顔は…」

「人を幸せにするおまじない」

 ヒカリの言葉を途中で引き継いだ少女。

 言葉を途中で奪われてしまったヒカリは一瞬目を点にし。

 見つめ合った2人はどちからともなく吹き出し、そして再び小さく声を上げながら笑い合った。

 

 少女はヒカリに向けてツバメを差し出す。

 ヒカリは我が子を両腕で迎え入れる。

 我が子を抱く母親の姿を、目を細めて見つめる少女。

 そして。

 

 ツバメを抱っこしたら、そのツバメごと、目の前の少女に抱き締められた。

「そっくりさん…」

 少女はその真っ白な左頬を、雀斑の浮くヒカリの左頬へと当てる。

 少女の色素の薄い唇が、ヒカリの左耳に近付いた。

 その薄い唇が、小さく開閉した。

 

 何事かを短く呟いた少女。

 ヒカリとツバメの体の形を、2人の温もりを、2人の息吹をその全身で感じようとでもするかのように、ひしと母子を抱き締める。

 

 やがて少女はヒカリとツバメから体を離した。

 穏やかな笑みをヒカリに向け。

 そしてゆっくりと畳から立ち上がり、2人に背を向ける。

 

 玄関に向かう少女の背中を、ぼんやりと見つめていたヒカリ。

「「ありがとう」って…」

 少女が耳もとで呟いた5文字を口にする。

 

「そっくりさん…」

 少女の、特殊素材でできた黒い布で覆われた背中。

 

 そこでようやく気付く。

 この頃は農作業用のつなぎ服や中学校の制服を中心に着ていた少女が、1週間ぶりにあの奇妙な体の肌にぴったりとくっつく黒いスーツを着ていることに。

 そして彼女が向かう先には、大人の男たちが激しく言い争いしている場所であるということに。

 

「そっくりさん…!」

 慌てて少女の背中を追おうとして。

 しかしその大声でびっくりしてしまったのか、腕の中のツバメがわんわん泣き始めてしまい、彼女の足は止まってしまった。

 

 

 

「先生! いい加減にしないと、俺たちにも考えがあるぞ!」

「ほー、そりゃ聴きたいのう! 去年はお前んとこのババア看取って、今年はお前んとこのガキ取り上げてやったわいに聴かせてくれる考えとやらなはんじゃい!」

「と、トウジくん…!」

 いきり立つトウジの肩を、彼の義父が手が揺さぶった。

「なんやね、お義父さ……」

 振り返ったトウジの言葉が詰まる。

 

 

 

 



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(48)

 

 

 

 

 鈴原トウジは村の者から敬われ、慕われる人物だった。村で唯一の医者であり、急患が出れば深夜でも駆け付け、診療所が休みの日は村の作業を手伝い、村への配給物資を確保するために遠くの病院にまで勤労奉仕に出ている。村の運営に欠かせない人物でありながらそのことを鼻に掛けるようことはせず、誰にでも分け隔てなく気さくに接し、裏表のない大らかなその性格もまた愛された。

 だから、鈴原家に押し寄せた彼らも、出来るだけ事を穏便に済ませたかった。鈴原家が敵性人物を匿っていたことも、不問に付したかった。

 きっとトウジたちは騙されたのだろう。あの一家は皆人が良いから。そりゃあんな年端もいかない少女があの憎むべきネルフの手先であるとは俄かには信じられない。騙されるのも、無理はない。

 トウジたちがそのことを認め、素直に悪辣なネルフの手先を引き渡してくれたら、全ては無かったことに。今まで通りの、今までと変わらない村に戻るはずだった。はずだったのに。

 トウジたちの強硬な態度。村との縁を切る覚悟を見せてまで、ネルフの手先を庇い続ける彼ら。

 問答無用の鈴原家に対し、それでも彼らは辛抱強く説得を試みようとした。それは説得と言うよりも恫喝に等しかったが、それでも彼らが数と力に物を言わせてまで、鈴原家の中に雪崩れ込もうとしなかったのは、皆、鈴原家が好きだったからだ。

 玄関の前に仁王立ちする鈴原家の男2人。未だ、説得に応じる気配など微塵も見せないが、彼らが自ら玄関の前から退いてくれることを、村人たちは期待して待ち続けていた。

 それでも。

 

 

「そっくり…さん…」

 

 鈴原家の玄関に立つ空色髪の、黒いプラグスーツを身に纏った少女を、呆然と見つめるトウジ。

 

「なんで出てきたんや…!」

 

 玄関に立つ、ネルフの手先。

 その姿をその目で直に見てしまった村人たちの行動は、もはや止まらなかった。

 

「こいつだ!」

「捕まえろ!」

 

 彼らは玄関の前に立つトウジとその義父を押し退け、少女に迫る。

 

「何や貴様ら! やめえや!」

「止めなさい、君たち!」 

 トウジやその義父の制止は、もはや彼らの耳には届かない。

 

 

 

 鬼気迫った男たちの表情。

 諸手を突き出しながら迫ってる男たちを、当の少女は涼やかな顔で見つめていた。

 

 少女の脳裏に浮かぶのは、この村にやってきて目の当たりにした、2つの幕切れ。「結末」。

 

 一つは、働けなくなり、皆に食べられることで、その生の全てをこの村に捧げたあの合鴨。

 

 もう一つは、全身を焼かれ、生きたまま地獄を味わいながら、最期を穏やかに迎えたあの包帯塗れの患者。

 

 

 人には。

 生きているものには。

 命を与えられたものには。

 それぞれに相応しい、その生き方に見合った「結末」というものが与えられるのかもしれない。

 

 

 今、自分の身に迫るもの。

 自分に突き付けらた「結末」の片鱗。

 それは愛しい一家の笑顔でもなく、愛しい村人たちの笑顔でもなく、愛しいあの少年の笑顔でもなく。

 

 

 それは、人々の怒り。憎しみ。狂気。怒号。

 

 

 その生を。

 その存在を。

 与えられた名前すらも否定されてきた。

 

 

 きっと「これ」が。

 おそらく「これ」が、自分に与えられた相応しい「結末」なのだろう。

 

 

 こんな自分を家族と呼んでくれて。

 今もなお、その身を挺して怒りに満ちた村人たちを押し返そうとしてくれている彼ら。

 

 もうこれ以上、彼らを巻き込んではならない。

 

 

 

「そっくりさん! 早う家の中に入るんや!」

 そう叫んでも、少女は回れ右するどころか、何故かこっちへと歩いてくる。

 

「ありがとう…」

 

 トウジたちに向けて、笑顔でそう呟きながら。

 

 そしてトウジとその義父の隙間から縫うように伸びた村人たちの腕の一つが、ついに少女の細い腕を掴んだ。

「そっくりさん!」

 トウジが少女のもう片方の手を掴もうとしたが間に合わず、少女の小さな体はたちまち村人の集団の中に引きずり込まれてしまった。

「貴様ら! わいの家族を返…」

 トウジはすぐさま少女を狂気に染まった集団の中から救い出そうとしたが、しかしトウジの前を別の村人たちが立ち塞がってしまう。その手に、鉈や鎌を構えて。

「何のつもりや! それをわいに向けてどないするつもりや!」

 トウジの怒声。その村人たちは、反射的に手に持ったものを構えてしまっていたらしい。トウジに怒鳴られ、慌てて構えていた鉈や鎌を下ろす。

「どけ!」

 トウジがそう叫びながら、少女をその中に引きずり込んだ村人たちの集団に割って入ろうとした、その時だった。

 

 

 

 

 パン!

 パン!

 

 

 

 

 耳を劈く2発の発砲音。

 

 

 その場に居る全員の動きが止まり、そして発砲音が鳴った方へと視線を向けた。

 

 皆の視線が集まるその先に、緋色の髪を背中に広げた少女が立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 原付バイクを飛ばして村の中心へと向かう。

 初めて入る場所。いつも外から眺めるだけだった村の中心部。

 いつも眺めていたから、目指すべき鈴原家が何処にあるかも分かっていた。

 

 鈴原家の前には、村人の集団。遠くから見ても、狂気に染まっていると分かる人々の背中。

 そしてあの少女は、すでに村人の集団に囲まれているらしい。

 原付バイクを倒すように停めると、飛び降りてすぐさま右手に握っていた拳銃を空に向けた。

 

 引き金を、素早く2度引く。

 

 

 陽が傾き、茜色に染まり始めた空に、2発の発砲音が轟いた。

 

 村人たちの怒号がピタリと止み、その動きも止まり、彼らの視線は空に向かって拳銃を撃ったアスカへと集中する。

 

 緋色髪の少女の姿を見た瞬間、村人たちの顔に明らかな動揺が広がる。

 怒りに染まっていた村人たちの顔が、一様に恐怖に染まった。

 

 

 アスカは拳銃を空に向けたまま叫ぶ。

 

「ヴィレ所属特務少佐、式波・アスカ・ラングレーが第3新東京市衛星村の住民に告げます!」

 

 アスカは意識的に重々しい声音で叫んだ。

 

「そこに居るゼーレ所属の綾波タイプ・初期ロットナンバー6は我々ヴィレの捕虜です!」

 

 この場に居る全員に漏らさず自分の声が伝わるように。

 

「捕虜への虐待はこの国が批准するジュネーヴ条約で固く禁じられています!」

 

 言葉の力だけで、この場に居る全員の狂気を挫くために。

 

「付け加えればあなたたちの行いはこの国の憲法第参拾壱条にも著しく違反しています! 憲法及び国際条約違反のあなた達の行いを、私は黙って見過ごすわけにはいきません!」

 今自分が口にした憲法も条約も、世の理の多くが変わってしまったこの世の中で果たして機能しているのかどうか。アスカ自身もよく分からなかったが、ここまで来たのなら後は勢い任せとばかりにはったりとかまし続ける。

 

「今すぐに彼女を解放し、この場から解散しなければ、私はこの村に対する然るべき措置を取らざるを得ません!」

 

 ぎょろりと剥いた、一つしかない目で、村人たちを威圧し続ける。

 

「このことがクレイディト及びその上位機関に伝わった時、あんたたち第3村がどのような報いを受けるのか! せいぜい想像力を働かせることね!」

 

 

 自分のはったりが効果があったのか。それとも自分という存在そのものが、彼らをそうさせたのか。

 いずれにしろ、村人たちはアスカが期待した通りに動き始めた。

 少女を取り囲んでいた村人たちが一人、また一人と、人の輪から離れ始めたのだ。

 

 村人たちの輪の隙間から、黒いプラグスーツを着た少女の姿が見え始めた。空色髪の少女は、地面の上でしゃがみ込んでいる。その少女の腕を握り締めている一人の村人。

 作業着姿で首にタオルを巻いたその中年男性は、拳銃を空に向けて構えているアスカを睨んでいた。

 

 くたびれたパーカーにハーフパンツ。ベッドの側に脱ぎ捨ててあったものを、そのまま着てここまでやって来ました、みたいなアスカの格好。

 威厳など、欠片もない服装。

 

 そんな緋色髪の少女の左目を覆う眼帯。

 

 男性はその眼帯からまるで逃げるように視線をアスカから外し、歯噛みしながら地面を睨む。

 

 

 

「使徒もどきが…」

 

 

 

 男性の、誰にも聴かせるつもりもなかった小さな呟き。

 しかし不幸にもその呟きは、アスカの耳に届いてしまう。

 

 

 アスカの頭が、瞬間的に沸騰した。

 アスカの顔が真っ赤に染まり、眼帯に覆われていない右目が吊り上がる。

 

 アスカ自身、気付かないうちに空に向けていた拳銃を、その男性に向けていた。

 

 そしてアスカ自身、無意識のうちに、引き金に掛けていた人差し指に力を籠めていた。

 

 

 

 

 

 もしその人物が、男性の前に立っていなかったら。

 もしその人物が、男性とアスカが構える拳銃の間に立っていなかったら。

 

 アスカは拳銃の引き金を引き絞っていたかもしれない。

 鈴原家の前で起きた混乱は、取り返しのつかない、一つの破局へと転がり落ちていたかもしれない。

 

 その人物が男性の前に立ちふさがった時。

 その女性の背中が、銃口が睨む先に現れた時。

 アスカは咄嗟に引き金から人差し指を外していた。

 

 

 バコっと、鈍い音がした。

 

 

 それは、男性が頬を殴られた音。

 目の間に立つ女性から、グーパンチをお見舞いされた音。

 

 そして、ドサっと、殴られた男性が地面に倒れる音が鳴り響く。

 

 

「ヒカリ…」

 アスカは、自分を侮蔑した相手に鉄拳制裁を加えた旧友の名前を呟いた。

 

「きゃっきゃ…!」

 右拳で正拳突きを食らわせた母親の姿に、その左腕に抱かれている彼女の一人娘が「よくやった」とばかりに声を上げながら笑っている。

 

 急展開する事態にツバメ以外の全員が硬直してしまっている中で。

 ヒカリはその場に跪き、地面にしゃがみ込んでいた少女の右脇に右腕を滑り込ませる。

 その左腕に我が子を、そして右腕に我が家の居候を同時に抱える母親は、地面にしゃがみ込んだままの居候を強引に立ち上がらせた。 

 

 少女も、一人の男性を殴り倒したヒカリの顔を。暴力とは最も縁遠い場所に立つ母親の顔を、目を丸くして見つめている。

 そんな少女の背中を、ヒカリは力強く押した。

 

「アスカ!」

「は、はい!」

 中学時代の旧友に名前を叫ばれ、他の村人たちと同様に硬直していたアスカは、親に叱咤された子供のような返事をする。

 

 背中を押された少女の体が、アスカの方へ向かってよろめいていく。

「そっくりさんをお願い!」

 その声に、アスカは反射的に少女のもとへと駆け寄った。

 よろめいていた少女の体を両手で受け止めながら、少し遠くにあるヒカリの顔を、マジマジと見つめる。

 

「早く!」

 ヒカリに怒鳴り付けられ、アスカは慌てて少女の手を引いて原付バイクに向かって走り出した。

 

 

 アスカに遅れて8秒後。ようやく硬直から脱した村人たち。見れば、ネルフの手先が遁走を始めている。

「待て!」

「この野郎!」

 彼らは口々に叫びながら、アスカたちの背中を追い始めた。

 

 動き出してからのアスカの行動は素早かった。未だ戸惑いの中に居る様子の少女の腕を引っ張りながら路上に倒していた原付きバイクへと駆け寄り、起こすと、少女を後部の荷台へと座らせ、自らもシートに跨ぎ、キックペダルを思い切り踏み込み、エンジンスタートと同時にスロットルグリップを思い切り捩じり込んだ。

 マフラーから黒煙をぼこぼこ吐き出しながら走り始める原付バイク。最小限の排気量の上に2人乗りだ。トコトコと、少々場違いなのんびりとしたエンジン音を鳴らしながら、ゆっくりと走り出すバイク。それを追い掛ける、半ば暴徒と化している村人の足は、今にもバイクに追い付いてしまいそうだ。

 

「待ちいや!」

 あと少しで荷台に跨る少女の肩に手を掛けようとしていた村人の体を、後ろから突っ込んだトウジが押し倒す。

「行かせはせんぞ!」

 少女の腕を引っ張ろうとした村人の頸部に、トウジの義父が空手チョップを食らわせる。

 

 鈴原家の男衆2人が体を張って村人たちを止めに入るが、彼らが一度に制止することができる人数は精々2~3人だ。

 トウジたちの制止を逃れて、さらに何人もの村人たちがのろのろ走る原付きバイクへと迫った。

 

 

「おんどりゃあ!! ええ加減にせんかい!! このタコ助どもがぁ!!」

 

 

 人々の怒号を切り裂くような、甲高い怒声。

 村人たちの足が止まる。

 その場に居た者たちが、その怒声がこの村唯一の医者の夫人の口から放たれたものであると気付くのに、最低でも10秒は要したという。

 

 両腕でツバメを抱っこするヒカリは、村人たちを睨み付ける。

 

「大の男どもがあんなかわいいコを寄って集って虐めくさりよってからに! おんどれら、ふざけんのも大概にせえよ!」

 

 呆気に取られる村人たち。

 

「あの子は婦人会の大のお気に入りや! こん村の最大派閥の婦人会さまのやで! こん事が婦人会の長老たちの耳にでも入ってみい! あんたら! 今晩からヨメはんに家に入れてもらえんようになるけえ覚悟しときいや!」

 

 ヒカリの恫喝に、震え上げる村人たち。

 ヒカリの腕の中のツバメは、生まれて初めて見る額に青筋を浮かせた母親の面白い顔を、相変わらずきゃっきゃと笑い声を上げながら見上げている。

 

 数人の村人を抑え込んでいたトウジとその義父も、呆気に取られながら彼らの妻を、娘を見つめている。

 義父はぽつりと呟いた。

「あれは本当にうちの娘かね…?」

 夫は両頬を赤く染めながら言った。

「ヒカリ…。惚れ直してしまうやろ…」

 

 未舗装の泥道の先では、2人の少女を乗せた原付きバイクが黒い排気ガスを残しながら、村はずれの丘へと向かって走り去っていく。

 

 

 

 



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(49)

 

 

 

 

 村を見渡せる丘へと続く未舗装の坂道。

 その上を、2人の少女を乗せた原付バイクが、トコトコとエンジンを響かせ、ボコボコと黒い排気ガスを吐き出しながら走っている。

 

 運転席に座る緋色髪の少女は凸凹道の路面を見つめながらバイクを走らせ、後部座席に乗る空色髪の少女は緋色髪の少女の胴に抱き着きながら、その背中に額を預けている。

 

 背中に感じる体温の持ち主。

 彼女を、この村に連れてきた張本人である式波アスカ・ラングレー。その行為に何か思惑があったわけではない。勿論、彼女が所属する武装闘争組織ヴィレの捕虜にするつもりだったわけでもない。

 単に、「あいつ」のついでに付いてきたおまけでしかないこいつの処遇を、あの村に押し付けてやっただけだ。

 ネルフという閉ざされた世界のことしか知らないこいつのことだ。早々に自分の居場所はここにはないことに気付き、勝手にネルフに帰ってゆくだろう。

 そう思っていた。

 

 ところが、空色の髪に赤い瞳、肌にぴったりとくっつく黒いスーツの奇妙な出で立ちの少女は、アスカの予想に反して瞬く間に村へと溶け込んでいった。

 みんなと挨拶を交し、みんなと肩を並べて歩き、みんなと汗を流しながら働き、みんなと裸になりながらお風呂に入り。

 彼らの中に、違和感なく収まってしまった少女。

 まるで人間のように、日々を過ごしてしまっている少女。

 

 忘れてしまったのではないだろうか。

 穏やかな日々を送る中で、勘違いしていまったのではないだろうか

 

 あんたは。

 

 いや。

 わたしたちは、彼らとは違うということを。

 

 

 元来、黙っておくということが苦手なアスカは、ついつい口を滑らせてしまう。

 

「どう? 全てを失った気分は?」

 

 

 どんなに丁寧に積み上げたものも、崩れてしまうのは一瞬。

 

 「あの街」にやってきてから少しずつ積み重ね、築き上げてきた、新しい自分。

 やっと笑えるようになった自分。

 もしかしたらこれこそが本当の自分なのでは思えた「私」の姿は、「あの日」、一瞬にして崩れ去った。

 

 今、背中の少女は、自分が「あの日」に感じた。正確には数年のタイムラグを挟んで突き付けられた喪失感を味わっているはずだ。

 少女も分かっていることだろう。彼女が「自分の居場所」、「生きていける場所」と信じていたあの村には帰ることは、2度とないということに。

 

 背中の少女は何も答えない。

 

 アスカもそれ以上は何も言わず、黙って原付きバイクを走らせた。

 

 

 

 相田ケンスケの住まいに到着をする頃には、すっかり日は陰っていた。アスカは原付きバイクの荷台から少女を降ろすと、バイクをガレージの中に停める。少女はぼんやりと突っ立ったまま丘の上から見える、夜の帳の下でポツポツと灯りが点いている村の風景を見つめている。アスカはそんな少女の手を引いて、小屋の入口へと向かった。

 入口の扉を開けたところで、アスカの足が止まる。

「あ~あ~、それにしても酷いナリね、まったく」

 アスカの言う通り、村人たちに囲まれ、地面の上を引き摺り回された少女の体は泥だらけになっている。アスカは少女の体をはたいて落とせるだけの泥を落としら、その手を引いて小屋の中に入り、小屋の奥へと向かった。

 

 脱衣所へと入った2人。

 アスカが少女が着るプラグスーツの左の手首にあるコントロールパネルのボタンの1つを押すと、空気が膨らむ音と共に少女の肌に密着していたプラグスーツが大きく弛んだ。アスカはプラグスーツの襟元を大きく広げて、さらに押し下げ、少女の体からプラグスーツを脱がしていく。

 少女の真っ白な首が現れ、鎖骨が現れ、肩が現れ。

 右腕を袖から引っこ抜き、続けて左腕も袖から引っこ抜き。

 さらにスーツを押し下げると胸が現れ、おへそが現れ、腰が現れ。

 

 少女の外見を特徴づける、シルクのような真っ白な肌。

 しかし、黒のプラグスーツが胸まで下ろされたところから、少女のシルクのような肌に変化が生じ始める。

 

 右の胸に浮かぶ、火傷のような濁った赤褐色の痣。左脇腹にも同様の痣が広がり、さらにお臍の周辺、左の腸骨部、臀部、太腿や脹脛、踵や爪先と、体のありとあらゆる箇所に、醜く、そして仄かに光を発する痣が浮き上がっている。

 

 アスカはそれらの痣を気に留めた様子もなく、プラグスーツを少女の足もとまで下ろすと、少女は右足左足とスーツから足を順々に出していく。

「これ、まだ着るの?」

 アスカの問いに、少女はこくりと頷く。

 一糸まとわぬ姿となった少女。ふと見ると、少女の右前腕部に、1分前まではなかったはずの鈍く光る痣が広がり始めている。

 少女の体に残った白い部分を埋めるかのように新しく出現する痣を目撃してもアスカは何も言わず、少女が脱いだプラグスーツを前時代的な二層式洗濯機の中に放り投げ、自身もパーカーとハーフパンツ、パンツを脱いで洗濯機の中に入れると、少女の手を引いて浴室の中に入った。

 

「ここのシャワー。殆ど熱くなんないから」

 そう言いながら、少女の空色の髪にシャワーヘッドから流し出されるお湯なのか水なのか微妙な温度のシャワーを掛けてやる。この頃すっかり大浴場の熱いお湯に慣れていた少女の口から「ひっ」と短い悲鳴が漏れ、少女の肩もびくっと波打って硬くなったが、アスカは構わず少女の体にまんべんなくシャワーを掛け回し、体に付いていた泥や砂、汗を洗い流していく。

 

 お湯なのか水なのか微妙な温度のシャワーに慣れてきたのか、少女の体から少しずつ緊張が抜けていくのがアスカにも感じられた。

 一度シャワーを止め、固形石鹸を少女の頭に塗りたくって泡立て、両手でワシャワシャと髪の毛を引っ掻き回す。ついでに石鹸が付いた手で少女の顔も撫で回す。顔をもみくちゃにされる少女の口から、うーうーと呻き声が漏れた。

 再びお湯なのか水なのか微妙な温度のシャワーを少女の頭上から掛け流す。少女の髪を梳き、少女の顔を撫で、残った石鹸の泡を洗い流していきながら、アスカは言う。

「体までは洗わないから」

 少女は石鹸が染み込まにように目をぎゅっと瞑りながら、こくりと頷いている。

 

 シャワーを壁のフックに掛け、扉を開き、少女の手を引いて脱衣所へと出る。

 脱衣所のタンスの上に重ねられたタオルの一枚を取り、それで少女の頭をワシャワシャと引っ掻き回して髪に残った水分を拭き取ると、今度は顔をゴシゴシと拭いてやる。再び顔をもみくちゃにされる少女の口からは、うーうーと呻き声が漏れている。

 首を拭いて、肩を拭いて。

 そこまでやって、アスカはふと気づいた。

「なんであたしがこんな事までしてやんないといけないのよ」

 そう言うと、アスカはタオルを少女の顔に向かって投げ付ける。

 目の前が白のタオル生地に覆われてしまった少女。タオルが床に落ち始める前に両手で受け止め、顔から剥がすと、目の前に居たはずの緋色髪の少女はすでに浴室へと戻っており、閉じた扉の向こうからはシャワーの流れる音がし始めた。

 曇りガラスに映るアスカのシルエットをぼんやりと見つめている少女。

「着替え、そこら辺にあるもの、テキトーに着ていいから」

 扉越しのアスカの声に頷いて答えた少女は、与えられたタオルで体を拭き始めた。

 

 

 固形石鹸で髪を洗うと乾いた後にゴワゴワになってしまうので好きではないのだが、ここではシャンプーやリンスなどという贅沢品は望んではならない。そもそもこのシャワー自体、ここの家主に強請って造ってもらったものだ。この村でシャワーがある家は、ここだけなのだ。

 背中まで伸びた髪に付着する石鹸の泡を、シャワーで丹念に洗い流す。一度シャワーを止め、洗身用と同じ石鹸で顔を洗う。頭も顔も、体も、使う石鹸はこの固形石鹸一つ。幸いと言うべきか、特異体質であるアスカの顔はこれといったスキンケアをしなくても染み一つないピチピチ肌だ。

 浴室の中にある鏡に映る、ツヤツヤ肌の顔を見つめる。

 まるで赤ん坊のような卵肌の顔を、忌々しく、見つめる。

 

 アスカの顔の4分の1を占める黒の眼帯。

 入浴中であっても、取ることが許されない、黒の眼帯。

 

 つい先ほど目撃したばかりの、全身に鈍く光る痣を浮かせた少女の姿を思い出す。

 

「まったく…、エヴァのパイロットって奴は…」

 

 忌々しくそう呟きながら、シャワーヘッドを手に取り、栓を勢いよく捻って、お湯なのか水なのか微妙な温度である人工の雨を顔に浴びた。

 

 

 脱衣所への扉を開く。

 タンスの上のタオルを一枚取り、頭と体を拭いていく。使ったタオルは洗濯機の中に投げ込み、洗濯機のスタートボタンを押す。ゴトゴトと、見ているこっちが不安になるような激しい物音と横揺れを出しながら、動き出す洗濯機。

 髪はまだ生乾きだが、もちろんドライヤーなどという代物もないため、タンスの引き出しからパンツを一枚取り出して履き、そのままリビングへと出た。

 

 

 リビングに出て飛び込んできた光景に、アスカはうんざりしたように鼻から盛大に溜息を漏らすことになる。

 

 リビングの床の真ん中で、空色髪の少女が寝ている。

 

 床で体を横に伏せて寝ている少女の足もとまで歩み寄る。

 少女が床の上で、ただ「寝ている」だけではないことは、少女のその姿を一目見た時からすぐに分かっていた。

 乱れた少女の髪。

 乱れた少女の衣類。

 横たわる少女の近くに投げられたタオル。

 少女の周囲に散乱する文具類。倒れた椅子。

 空色の髪の隙間から覗く小さな鼻の頭は赤く腫れ、その孔からは鮮血が滴っている。

 

 転倒し、そのまま意識が混濁してしまっているらしい少女。

 薄く開いた瞼の隙間からは瞳孔が開き掛けた瞳が覗き、そこから放たれる弱々しい視線が、床の上をぎこちなく這っている。

 

 そんな少女の姿にも、アスカは特段慌てた様子もなく、少女の顔の近くで跪く。

 少女の頬を、ぺしぺしと叩いた。

「ほら、起きなさい」

 アスカに頬を叩かれ、少女の瞼か何度か開閉する。

 それでも少女の両腕両足は力なく床に投げ出され、動き出そうとはしない。

「ほら。早く。こんなとこで倒れられても、こっちが迷惑なのよ」

 アスカは引き続き少女の頬をぺしぺしと叩いている。

 何度か開閉が繰り返された少女の目が、すっとアスカの方へと向いた。どうやら、意識を取り戻したらしい。

 それでも、少女の両腕両足は床に投げ出されたまま。

「もう。あんたが自分で決めたことでしょうが」

 少女の頬を叩くことを止めたアスカは、右手の指で狐さんを作ると、少女の顔の前に翳す。

「いずれはこうなるって分かってた上で、ここに残るって決めたんでしょ?」

 そして少女の額に目掛けて、右手の中指を勢いよく弾いた。

 所謂、デコピンを喰らった少女。

 額を襲った鈍痛に思わず顔を顰め、口をへの字に歪ませている。

「それとも誰かが助けてくれるとでも思ってた?」

 

 少女の両腕両足がようやく動き出す。

 両腕を自身の体の下に潜り込ませ、床を押すようにして上半身を起こし始める。

 上半身が床から離れたら、今度は両膝を床につけて腰を床から浮かせる。右膝を立て、左の足底を床に付け、ゆっくりと腰を上げ始めた。

 

 まるで生まれたての小鹿のように両膝を戦慄かせながら立ち上がろうとする少女。

 その姿にアスカは「ちっとは根性あるようね」とばかりに、少しだけ感心した表情を浮かべる。

 しかし。

 

「あうっ」

 

 短い呻き声と共に少女の腰が砕け、少女の体は床に片膝を付いてしまった。

 崩れた拍子に少女が着る服が乱れ、はだけた襟の陰から見える少女のうなじ。

 鈍く光る痣に染まった、少女のうなじ。

 

 さらに。

 

「うぅ…」

 

 少女は咄嗟に口を押さえようとしたが間に合わず、少女の口から呻き声と共に漏れ出た液体が床を汚した。

 少女の口から吐き出された吐瀉物。

 鈍く光る、赤褐色の吐瀉物。

 少女の全身を覆いつつある痣と同じ色の、少女の体の中から吐き出された吐瀉物。

 それはつまり、あの痣は少女の体の表層部だけでなく…。

 

 アスカは咳き込む少女の背中を、不快そうに顰めた顔で見つめながら言う。

「あ~も~汚さないでよ、まったく。誰がここ掃除してると思ってんのよ」

 

 この小屋における自分の数少ない仕事の成果を殊更主張するアスカの声に、少女は慌てた様子で着ていた服のポケットに手を突っ込んだ。

 

 

 村人に囲まれた鈴原家の家。

 そこから着の身着のままで逃げ出した少女が持ち出すことができたものは、たったの2つ。

 そのうちの1つをポケットから取り出した少女は、それを使って床の上の吐瀉物を拭き取り始めた。

 

 

 少女が、彼女自身が吐き出したものの後始末をしている。

 布を使って、床の上の吐瀉物を拭き取っている。

 青い布。

 青いバンダナを使って。

 床の上の汚物を拭いている。

 

 いや…、それって…。

 

「ちょっ、それって…」

 

 

 戸惑いの混じった声が頭上から降ってきたので、少女は顔を上げる。

 

 アスカが、目をまん丸にして少女を見下ろしている。

 いや、正確に言えば、少女が手に持つ青いバンダナを見つめている。

 

「それって…」

 

 同じ言葉を繰り返し呟くアスカ。

 

 少女はアスカの顔を見つめ、そして自身の手の中にある青いバンダナを見つめ。

 アスカの顔を見つめ。

 青いバンダナを見つめ。

 

 目を、激しくぱちくりとさせる少女。

 

 アスカの顔を見上げ。

 そして再び目を激しくぱちくりとさせる少女。

 

 その後も何度かアスカの顔と青いバンダナとの間を、交互に視線を行き来させていた少女。

 

 最後にゆっくりと顔を上げてアスカの顔を見上げ。

 

 そしておずおずと、吐瀉物塗れの青いバンダナをアスカに差し出した。

 

「そのまま返すんかい!」

 

 少女の額に、アスカの渾身のデコピンが炸裂した。

 

 

「ああもう…!」

 仕方なく少女の手からバンダナを毟り取ったアスカは、そのまま脱衣所の洗面所に直行。バンダナに付いた光る液体どもを蛇口の水で洗い流すと、ガタゴトと激しい物音を響かせながら回っている洗濯機の中に放り込む。

 

 リビングに戻ると、少女が側の机を支えにしながら、震える膝に鞭打って何とか立ち上がろうとしている。

 ようやく両膝が伸びた少女。そのまま食事用テーブルの椅子に向かって歩き出そうとして。

「ああもう…!」

 再び倒れてしまいそうになった少女のもとへアスカは慌てて駆け寄り、少女の脇に腕を滑り込ませてその細い体を支える。

 自分の体を支えてくれるアスカの横顔を、驚いたような表情で見つめる少女。

 そんな少女の視線を無視して、アスカは少女に肩を貸しながら、ベッドに向かって歩き始めるのだった。

 

 

 

 

 空色髪の少女の体を、ベッドの上に寝かせる。

「それにしても…」

 ベッドの上に横になった少女を、呆れ気味に見下ろすアスカ。

「テキトーに着ていいっつったけどさ。よりによって男物選ぶかね、まったく」

 

 少女が着ている服。

 アスカから「その辺にあるものを着ていい」と言われたので、リビングのテーブルの上に畳んで置いたあったものを拝借して着た服。

 

 両肩に白の線が入った、紺色のジャージ。

 少女の体躯にはちょっと大きい、ダボダボのジャージ。

 

 少女はアスカが被せてくれたブランケットを鼻の近くまで手繰り寄せながら言う。

 

「碇くんと…、お揃い…」

 

 アスカは口を「へ」の字に曲げながら、「はいはい」と超テキトーに相槌を打つ。

 

 

 

 自分用のベッド(正確にはこの小屋の持ち主用)を空色髪の少女に占拠されてしまったアスカは、食事用テーブルの椅子に腰かけながら、携帯ゲーム機でピコピコと遊んでいた。

 

 奇妙な音がした。

 アスカは奇妙な音の音源であるベッドに顔を向ける。

 

 ベッドのシーツの上に空色の髪を広げて横になっている少女。

 目は閉じておらず、瞼を薄っすらと開いた目で天井をぼんやりと見つめている。

 

 再び、奇妙な音。

 ぐ~~、と。

 アスカが自分自身の体から聴くことは当の昔になくなった、お腹の虫の音。

 

「なに? あんた、腹減ってんの?」

 ベッドの上では少女がこくこくと頷いている。あの一家ならとっくにお夕飯を済ませている時間。

「あなたは、お腹、空かないの?」

「あたしはあんたみたいに食い意地張ってないのよ」

 アスカの皮肉めいた言葉を無視して、少女は天井を見つめ続けながら言う。

「昨日は午前中は畑仕事。午後は病院の手伝い。そのまま病院で夜勤」

 そこまで言って、アスカに目を向ける。

「労働者は、お腹が減るの…」

「言っとくけどあたしがお腹減らないのはあたしがニートだからじゃなくて…、って、誰がニートじゃ!」

 芸人も真っ青の見事な一人ボケツッコミをかましたアスカを、きょとんと見つめている少女のお腹からは、相変わらずぐーぐーと腹の虫が鳴っている。

「ああもう…!」

 アスカは立ち上がると、台所に向かった。

 

「何かあったかしら…。レーションはあいつが全部食べてもう無かったし…」

 アスカにとってはこの家で一番用事のない場所である。どこに、何が置いてあるのかも分からない。

 ふと、ガスコンロの上の鍋に目が行った。蓋を開け、中身を覗いてみる。

 

 

 お盆の上にお椀とお箸を乗せ、ベッドのあるリビングへと戻る。ベッドと同じくらいの高さの椅子を引っ張り出し、その上にお盆を乗せ、ベッドの側に置いてやった。

 少女はいかにも気だるそうに体を起こして、ベッドの端に座る。

 身を乗り出して、お椀の中身を覗き込んだ。

「今朝の残り物だから。痛んでても知らないわよ」

 お椀の中身に目を輝かせている少女はアスカのその声に黙ったまま頷くと、ゆっくりとお椀を手に取り、ゆっくりと顔に近付ける。とんがらせた唇をお椀の淵にくっ付け、お椀を傾け、中身の味噌汁を口の中へと流し込んだ。

 少女の細い首に浮く控えめな喉仏が上下に動き、一口、二口と、味噌汁を飲み込んでいく。

 お椀を水平に戻し、唇をお椀から離し、お椀を持つ手を膝の上に置く。

 

「ふ~…」

 

 幸せそうな吐息を吐く少女。

 

 そんな少女の顔を、椅子の上から眺めていたアスカ。人の幸せを素直に喜べない困ったちゃんな彼女の心の中に、意地悪な考えが浮かんでしまう。

 

「ねえ、あんた」

 三口目を頂こうとお椀を口に近付けようとしていた少女は、その手を止めてアスカに視線を向ける。

「その味噌汁と、ヒカリが作る味噌汁と、どっちが美味しい?」

 

 突然の質問に、きょとんとした表情を浮かべてしまう少女。

 

 暫くアスカの顔を見つめ。

 そして膝の上の味噌汁が入ったお椀を見つめ。

 そして天井を見つめ。

 

 部屋の中をぐるっと一周した少女の視線は、再びアスカの顔へと戻った。

 少女はぽつりと言う。

「選べない…。どっちも…、美味しい…」

 

「うわっ。ずるっ」

 少女の答えにアスカはそう漏らしつつも、心の中では。

 

  ―――つまりあんたにとっては、ヒカリが作った味噌汁も、「あいつ」が作った味噌汁も、どっちも一緒ってことか。

 

 心の中で密かにほくそ笑むアスカを他所に、少女は虚空を見つめながら続ける。

「あのおうちで食べる味噌汁は、ほくほくして、体が何か、温かいものに包まれていくような、そんな感じ…する…」

 そして膝の上のお椀の中身に視線を落とす。

「この味噌汁は、胸の中から、心の奥からじわじわと温かいものが、体中に広がっていく、そんな感じ…、する…」

 そこまで言って、少女はお椀を顔に近付け、三口目を口にする。

 

 控えめに喉を鳴らし終え、お椀を顔から離す少女。

 ふー、と短い吐息をし。

 そしてアスカを見つめ。

 

「ポカポカ…、する…」

 

 そうぼんやりと呟いた少女の左目から、一筋の涙が零れ落ちた。

 

 左頬に走る感触。

 少女は左手を上げ、左頬に残る涙の足跡に触れる。

 

「涙…」

 

 微かに濡れている左手の指を見つめる少女。

 

「涙…、知ってる…。悲しい時…、寂しい時に…、人は泣く…」

 

 少女は小さく口を開き、その隙間からピンク色の舌を少しだけ出す。

 指に付いた涙の痕跡を、そっと舌先で舐めてみた。

 指の先に付着していたのはお椀の味噌汁と同じ、ちょっとばかりしょっぱい液体。

 

「初めて…、知った…」

 

 アスカの顔を見つめる。

 

「嬉しい時も…、人は、泣くのね…」

 

 そう呟く少女の両目から、大粒の涙がぼたぼたと零れ始めた。

 

 少女はお椀を顔に近付け、四口目、五口目を啜っている。

「泣きながら味噌汁飲むやつとか、初めて見たわ…」

 呆れつつも、何処か羨まし気にそう呟くアスカ。気が付けば、生唾を呑み込む喉がごくりと鳴っていた。

 立ち上がり、台所へ向かう。棚からお椀を一つ取り出し、ガスコンロの前に立ってその上に乗る鍋の蓋を取り、中身の味噌汁をお椀へと注いだ。

 リビングへと戻り、椅子にどかりと乱暴に座る。

 ベッドの上の少女は、相変わらず涙を流しながらも幸せそうに味噌汁を啜っている。

「ふん…」

 アスカは鼻を鳴らしながらお椀に口を付けた。

 中身の3分の1を、一気に呷ってみる。

 

 口の中に広がるのは、無味無臭の液体。

 酸味も甘味も旨味も、温かさも冷たさも、何も感じない舌。

 液体を口に含む感触すらもなく、まるで砂でも飲み込んでいるような舌触り。

 

 すぐにでも吐き出してやりたかった。

 お椀の中の残り3分の2を、床にぶちまけてやりたかった。

 

 それでも。

 

「美味しい…」

 お椀を見つめながらそう漏らす少女が目の前に居て。

 少女の視線はアスカへと向けられ。

「美味しいね…」

 同意を求められてしまって。

 

「ふん。まあまあなんじゃないの…」

 アスカはそう答えながらそっぽを向き、残り3分の2を口の中へと流し込むのだった。

 

 

 

 



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(50)

 

 

 

 

 夜も更けて、ようやくこの家の主と「あいつ」が帰ってきた。友人の仕事の手伝いによほど疲れたのか、軽自動車から降りた「あいつ」は夕飯も摂らずにふらふらと夢遊病者のような足取りで小屋の裏部屋にある寝床へと直行。空色髪の「こいつ」が来ていることを告げる暇もなく、そのままバタンキューしたようだ。何故か家の主は軽自動車から降りず、そのまま夜の道を引き返していった。

 

 村の夜は早い。貴重な電力を浪費しないようにするため、早めの就寝が推奨されており、夜遅くまで電灯を点けている家は周りから白い目で見られてしまう。

 家の主に迷惑を掛けるわけにもいかないため、アスカも消灯することにした。

 空には異常に肥大化した月が浮かんでおり、窓から差し込む月明りのおかげで部屋の中は思いのほか明るいものの、暗がりの中で何かをするつもりにもなれず、さすがにゲーム機にも飽きてしまったため、仕方なく、アスカもベッドに横になることにした。

 とは言え、彼女専用のベッドは(本来はこの家の主用のベッド)「こいつ」が占拠してしまっている。軽自動車で何処かへ行ってしまったこの家の主の寝床(寝袋)で横になるという手もあるが、疲れて帰ってくるだろう彼のためにその寝床は空けておきたい。だったら「あいつ」を足蹴にして無理やり寝床を奪うという手もあるが、横になりたいだけで睡眠をとるわけでもないので、乱暴狼藉を働いてまで寝床を確保したいわけでもなかった。

 結局、アスカはこの場所で横になることにした。

 

「ちょっと」

 家の主と「あいつ」が帰ってくる少し前から、アスカ(家の主)専用のベッドですやすやと小さな寝息を立てながら眠っている空色髪の少女の頬を、ぺしぺしと軽く叩く。

「も少し端に寄んなさいよ。あたしが入れないでしょうが」

 安眠を妨げられた少女はいかにも不服そうに顔をしわくちゃにし、両拳で目もとをぐりぐりしながらも、命じられた通り体をベッドの端へと寄せる。右半分が空いたベッドの上に、アスカはその身を横たえた。

 

 

 

 時計の針が0時を回った。

 ベッドに横になって以来、20回目の寝返りを打つ。シングルのベッドに2人が寝ているので、寝返りを打つのも一苦労だ。

 

 

 眠ることができない。

 睡眠というものを、必要としない。

 

 自分のこの特異な体質のことは、誰にも知らせていない。おそらくヴンダーの副長やあの耐爆隔離室の同居人あたりは気付いているのだろうし、その上で知らない振りをしているのだろうが、少なくともアスカ自身はこの数年間一睡もしていないこの体のことを誰かに、この家の主にも報告したことはなかった。

 

 

 左目が「別のもの」になって。

 次に自分の体に現れた異変は、味覚の消失だった。

 何を食べても、どんなものを口に入れても味がしない。

 体が、味覚というものを必要としなくなっていた。

 

 味を感じたくて。

 味覚というものを思い出したくて。

 自分がまだ人間であると信じたくて。

 

 だから手あたり次第、あるものを食べた。

 胃が膨れ切って、もうこれ以上入らないと情けないことを言い始めたら、口の中に指を突っ込んで胃の中のものを全て吐き出し、そしてまた食べた。

 吐いては食べ、吐いては食べを繰り返し。

 口に入れていいものは何でも全て口の中に押し込んで。

 気が付けば滞在していた、正確に言えば軟禁されていたヴィレのとある小さな後方基地の倉庫にある全ての食糧を喰い尽くしていた。

 

 食い散らかしたものが散乱している倉庫の隅っこで、火も通していない生の人造肉に泣きながら齧り付いている自分の姿を見つめる、仲間たちのあの眼差し。

 

 あんな眼差しを向けられるのは二度とご免だから。

 だからアスカは、その後も現れ続ける体の異変を誰にも報告することなく、自分の心の内に留め置いた。

 

 

「眠れない、の…?」

 ふと、すぐ側から声。閉じていた瞼を開けると、少女の顔が視界一杯に広がる。

 アスカはすぐ瞼を閉じ、21回目の寝返りを打って、自分の顔を覗き込んでいた空色髪の少女に背中を向けた。

「いつもよりベッドが狭いからよ…」

 不愉快そうに言う。

「ごめんな……」

 謝罪の言葉を言いかけて、咳き込んでしまう少女。

「ベッド、汚さないでよ…」

「うん…」

 そう言う少女は、口を閉じながら小さく咳を繰り返している。

 

 少女の咳が落ち着いて。

「一つ…、訊きたいこと…、ある…」

 背中から少女のか細い声。

「なによ…」

 わざとらしい欠伸を交えながらアスカは答える。

「あなたは…、どうしてみんなと…、暮らさないの…?」

 くだらない質問を、と思ったアスカは無視しようかとも思ったが、そう言えばこいつが初めてこの小屋にやって来た時も、同じ質問をされたことを思い出す。

 ベッドから見える窓ガラス。そのガラスの向こうに浮かぶ肥大化した月を睨みながら、アスカは口を開いた。

「あんたも見たでしょ? あたしを見た時のあの村の連中の反応…」

 

 原付バイクであの村に駆け付け、鈴原家を囲む群衆の後ろで拳銃を空に向けて2発放った。

 その発砲音に驚き、振り返った彼ら。

 彼らの顔から一斉に怒気が消え、代わって彼らの顔に浮かび上がった感情。

 あれは嫌忌。

 そして恐怖。

 

「あいつら見てたのよ。あたしがリリン…、人じゃなくなる瞬間を。もう10年も前の話だけどね」

 

 

 4年ぶりに目覚めたあの日の夜。あの難民キャンプでの夜の出来事。人ならざる咆哮を放つ口。不可解な閃光を放つ左目。人ではない何かへと変容する体。

 異変に気付き、駆け寄ってきたヴィレの屈強な兵士たちを紙切れのように次々と突き飛ばしていく少女の姿をした怪物。

 暴れる少女の姿をした怪物を、人力で抑え込むことは不可能と判断したヴィレの最高司令官は自ら運転するトラックで少女の姿をした怪物を撥ね飛ばし、少女の姿をした怪物の暴走を辛うじて食い止める。

 あの難民キャンプを住処としていたこの村の住人たちは、その一部始終を見ていた。

 

 

 いつの間にかベッドのシーツを握り締めていた左手を、そっと緩ませる。

「そりゃあいつらもご免でしょ。こんな人か使徒かも分かんないような奴と一緒に暮らすなんてさ」

 体から意識的に力を抜くために、無理に口角を上げ、鼻から短い息を吐いた。

 背後で動く気配。どうやら、少女が上半身を起こしたらしい。

「あなたは、人、じゃないの?」

 背後からか細い声で投げ掛けられたその問いに、緩んでいた左手が再びベッドのシーツを握り締める。

 体中の筋肉が緊張したが、それでも、少なくとも声音だけはいつもと変わらない、ちょっとだけの不機嫌を乗せた声で。

「さあ」

 とだけ答えた。

 

「あなたは、使徒、なの?」

 

 アスカは握り締めていたシーツを離すとその手でベッドを押し、体を起こして身を翻した。

 上半身を少しだけ起こしていた少女。

 その少女の両肩に両手を伸ばし、少女をベッドに無理やり押し倒す。さらには右足で少女の腹を跨ぎ、少女の体に馬乗りになった。

 瞳孔の開いた青い瞳で、赤い瞳を睨み付ける。

 

「あたしはあたしよ! 人だろうと、使徒だろうと関係ない!」

 

 急に押し倒されたかと思えば、怒鳴り付けられてしまった空色髪の少女は、目をまん丸にしてアスカを見上げている。

 そんな少女に対して、アスカは言い放つ。

 

「あたしはエヴァンゲリオン弐号機専属パイロット! 式波・アスカ・ラングレーよ!」

 

 

 

 ベッドのシーツに広がる空色の短い髪。

 シルクのような白い肌。

 控えめに主張する鼻と小さな口。

 そんな少女の顔の、一番目立つところに収まった2つの赤い瞳。

 まん丸に見開かれていた少女の目が、2度の瞬きを挟んで、普段のサイズへと戻る。

 

 色素の薄い上唇と下唇に小さな隙間が生じる。

 

「そう…」

 

 少女の口から漏れる、掠れた声。

 

「あなたは、しきなみ、あすか、らんぐれえ、というのね…」

 

「そうよ!」

 

「素敵な…、おまじない…」

 

 紺色のジャージの袖に包まれた少女の2本の腕が、ゆっくりと上がった。

 ブカブカの袖の先端から覗く白い手が、ゆっくりとアスカの顔へと近付く。

 

 少女の両手が、アスカの顔を柔らかく包み込んだ。

 

「これが、しきなみ、あすか、らんぐれえ…」

 

 まるで顔の形を確かめているかのように、少女の手はアスカの肌の上をゆっくりと上下しながら、アスカの顔を撫でている。

 

 その手は少しずつアスカの頭の後ろへと回される。緋色の長い髪を掻き分け、後頭部に達した少女の右手と左手は、互いの指を軽く絡ませて、そしてその手に包んだものを、優しく手前へと引き寄せる。

 

 

 気が付けば、睨み付けていた少女の顔は視界から消えていて。

 気が付けば、ベッドのシーツが目前に迫っていて。

 気が付けば、自分の頭は誰かの腕の中に収まっていて。

 気が付けば、自分の胸やお腹は誰かの胸やお腹と密着していて。

 

 気が付けば、自分の体は空色髪の少女の腕の中にすっかり収まっていて。

 

 

 少女は左手でアスカの頭を包み込み、右手でアスカの背中を抱き寄せる。

 腕と胸とお腹、足。全身で感じる、ヒトの象形。

 

「これが…、あなたの…、形…」

 

 少女はその頭を窮屈そうに動かしながら、空色髪の隙間から覗く小さな耳をアスカの胸元に押し付ける。

 その耳に届く、力強い生命の鼓動。

 

「これが…、あなたの…、音…」

 

 少女は耳をアスカの胸から離すと、今度は鼻をアスカの首もとへと近づけた。

 小さな鼻の孔を少し膨らませ、大きく深呼吸する。

 

「これが…、あなたの…、匂い…」

 

 瞳を少し動かすと、そこには緋色髪の隙間から形の良い耳たぶがひょっこりと顔を出している。

 少女は口を少し開け、その耳たぶをぱくっと上唇と下唇の間に挟んでみた。

「ちょ、ちょっと何すんのよ…!」

 アスカの口から悲鳴のような声が上がり、その体が一気に強張る。

 少女はそんなアスカの反応も気にせず、耳たぶから口を離すと少しだけ舌を出して、唇をそっと舐める。

 

「これが…、あなたの…、味…」

 

「いい加減にし…」

 

 アスカは少女を突き放そうとするが、その前に少女の腕が2本とも背中に回り、アスカの体をぎゅっと抱き締めてしまう。

 まともに立つこともできやしないこの体の、どこにこんな力が残っているのだろう。

 力強く、それでいて柔らかくアスカの体を抱き締める、少女の両腕。

 

「これが…、あなたの…、温もり…」

 

 少女の両腕の中に包み込んだアスカの強張った体が、まるで温かいお湯の中に浸かった時のようにゆっくりと、じんわりとほぐれていく。

 

「覚えておく…わ」

 

 少女は瞼を閉じた。

 

「あなたの形…。あなたの音…。あなたの匂い…。あなたの味…。あなたの温もり…」

 

 

 それはあと数日か。

 それとも数時間か。

 

 覚えていられる時間は、あとどれくらい自分に残されているのか、少女には分からないけれど。

 

 

「これが…、しきなみ…、あすか…、らんぐれえ…」

 

 

 

 気が付けば、その体からはすっかり力が抜け切っていて。

 気が付けば、その体を、自分を包み込む腕の主にすっかり預けてしまっていて。

 気が付けば、自分の腕も自分の体を包み込む腕の主の背中に回されていて。

 

 気が付けば、アスカも少女の体を抱き締めていて。

 

 

 暫くの間、空色の髪の少女と緋色髪の少女は無言のまま互いの体を抱き締め合っていて。

 

 

 

 耳もとで、少女の咳き込む音。

 少女の体に覆い被さり、その胸を圧迫する形となっていたアスカは、少女を抱き締めたままゴロンと横になる。自分の重みから少女を解放してやると、少女の痩せた背中を優しく摩ってやった。

 

 咳が収まった少女は、ぽつりと言った。

 

「みっちゃんの、お母さんが、言ってた」

 

 その言葉に、アスカはくすりと笑う。だからみっちゃんのお母さんって誰よ。

 

 少女は小屋の薄汚れた天井を見つめながら言う。

 

「赤ちゃんを抱っこするのは、守るためだって」

 

 アスカは視界の半分を占拠する空色の髪を見つめながら、素っ気なく呟く。

 

「そっ」

 

「だから私、試してみた…」

 

「何を?」

 

「私が消える時まで、村の人全員、抱っこすること」

 

「バカなことやっちゃって…」

 

「でも全然ダメ、だった…。全然足りなか、った…」

 

「そう…」

 

「だから、あなたは凄い…」

 

「へ?」

 

「あなたは、凄い人…」

 

「どうしてそうなんのよ…」

 

「あなた言った。あなたはこの村を、守る所だって…」

 

「……」

 

「あなたは、この村の人、全員を、守ってる…」

 

「……」

 

「この村の人、全員を、抱っこしてる…」

 

「……」

 

「私が何日掛けても、出来なかったこと。あなたは、毎日してる」

 

「……」

 

「お願い…、しきなみ、あすか、らんぐれえ」

 

「……」

 

「これからも、この村を、守ってあげて…」

 

「……」

 

「これからも、村のみんなを、抱き締め続けてあげて…」

 

「……」

 

「私の分、まで…」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「あったりまえじゃないの…」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「そんなこと…、あんたにお願いされるまでもないわ…」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「くぅ…」

 

 

「寝ちゃってるし…」

 

 

 

 

 



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(51)

 

 

 

 

 ぼんやりとした視界。

 四角に縁取られた窓ガラスの向こうに、朝日に照らされた庭が見える。

 夜露に濡れた木の葉が爽やかな陽光できらきらと光り、物干し竿の上では羽を休めに訪れた朝の使者たちがちゅんちゅんと鳴いている。

 

 一度目を閉じ、両手で枕を突き上げ、両足でブランケットを蹴とばし、全身で大きく伸びをした。

 右手で瞼をぐりぐりしながら口を大きく広げて欠伸。

 左手で枕もとに置かれた目覚まし時計を手に取り、顔の近くに持ってきて薄く開いた目で針が差す数字を確認する。

 起床にはまだ早い時間。

 時計を元の位置に戻し、はだけたブランケットを胸元まで手繰り寄せた。

 心地よい温もりに包まれながら、二度寝へと突入。

 する前に。

 

「シンジ~」

 

 ぼやけた声で、同居人の名を呼ぶ。

 

「朝ごはんはエッグベネディクトね。卵は2個。ベーコンはミサトのおつまみの奴があったでしょ。飲み物はトマトジュースでいいわ」

 

 ブランケットを頭まで被る。

 

「できたら起こして~」

 

 体を横に倒し、膝を曲げ、背中を曲げ、胎児のように体を丸めて、今度こそ二度寝へ向けて旅立つ。

 

 

 スー、スー、と布団の中から規則正しい、小さな呼吸。

 窓の外から聴こえる雀たちの軽やかな鳴き声。

 目覚まし時計が微かに鳴らすチクタク音。

 

 

 

 

 ブランケットを跳ね除け、弾かれたように上半身を起こした。

 

 かっと開いた目の中の青い瞳から放たれた視線が、ベッドの上を彷徨う。

 飾りっ気のないシーツ。少し視線を上げれば、トタン板を張っただけの簡素な壁。

 

 そっと、口もとに手をやる。

 唇の端から頬に掛けて残る、涎の痕。

 

「あたし…、寝てた…?」

 

 

 ふと、視線を左隣へ向けた。

 

 ベッドの左半分にある空白。

 

 シーツの上に残る、人が寝ていた痕跡。

 

「初期ロット…!」

 

 空色の髪を求めて、今度は視線を右へ投げる。

 

 そこにはベッドの近くに置かれた椅子。

 その上に、何かが置かれている。

 

 それは丁寧に畳まれた、紺色のジャージ。

 

 

 ベッドの上で跳ね起きた姿勢のまま、椅子の上のジャージを見つめる。

 

 そして視線をベッドがある位置とは反対側の壁へ。

 壁のフックに掛けられた、3つのハンガー。そこに干されていたのは、右端から順に男物のパーカー、ハーフパンツ。

 そして左端のハンガーは空っぽ。

 

 すらりとした2本の足を、ゆっくりと床へと下ろした。

 

 少しずつ体重を、2本の足へと乗せてゆく。

 

 ベッドから腰を浮かせると、膝の上にあった飾りっけのない無地のブランケットが、ベッドから床へとはらりと落ちる。

 

、寝ぐせの付いた髪を掻き上げた。

 

 ギシギシと、薄い床を踏みながら、椅子へと向かって歩いていく。

 

 椅子の上には、丁寧に畳まれた紺色のジャージ。

 

 ジャージの上には、一枚の紙。

 

 その紙を、拾い上げる。

 

 紙の上には、拙い筆跡で綴られた文字。

 

 

 

 

   おはよう

 

   しきなみ あすか らんぐれえ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三方を囲む壁によって縁取られた青い空。

 その青い空に浮かぶ、肥大化した白い月。

 背中に感じるコンクリートの冷たい感触。

 前髪を揺らすのは湖から吹く朝の冷たい風。

 

 起きたら体調は少しだけ回復していて。

 それでもあの小屋に留まっていたら、これからこの身に起こることでベッドや床をとても汚してしまいそうだったから。

 そしたら式波・アスカ・ラングレーをまた怒らせてしまいそうだから。

 すやすやと寝息を立てている式波・アスカ・ラングレーを起こしてしまわないよう、そっとベッドから抜け出して。

 3つ並んだハンガーの左端に干されていた黒のプラグスーツに袖を通して。

 そっとあの小屋から抜け出して。

 一度だけ、高台から見える目覚める前の村を見下ろして。

 そしててくてくと、一人で朝露で濡れる道を歩いて。

 

 気が付けば、この場所に来ていた。

 

 あの一家の家に戻りたい気持ちもあったし、皆で汗水垂らしながら過ごした畑や、雨の日に子供たちと過ごしたあの図書館でもいいけれど。

 村の人たちに見つかってまた騒動になってもいけないし。

 だから、この村にやってきて、あの家とあの田畑に次いで3番目に多くの時間を過ごしたこの場所に、自然と足は向いていた。

 

 

 朝靄が立ち込める湖畔に立つ廃墟。

 壁は崩れ、床もあちこちが陥没した鉄筋コンクリート製の遺構。

 

 コンクリートの床に横たわる、細い影。

 

 空色髪の少女は、床に仰向けになって、屋根のない天井を見上げていた。

 

 

 身に纏うのは彼女の半生の中で最も多くの時間、その身を包んできた黒のプラグスーツ。

 その胸に抱き締めるのは、彼女の手もとに残った唯一の持ち物。

 それすらも、彼女の所持品ではないのだけれど。

 結局、「彼」に返すタイミングに巡り合えなかったのだけれど。

 

 

 

 赤い瞳で、青い空を見つめる。

 雲一つない空。

 肥大化した月が浮かぶだけの、変化のない空。

 

 瞼を閉じて、耳を澄ます。

 夜明けを迎えたばかりの湖畔。

 水面には波紋一つなく、ここを住処としている南方原産の水鳥たちは、まだ夢の中らしい。

 空色の髪を揺らしていた風もいつの間にか止んでいて。

 

 静寂に包まれた湖。

 何も響かない廃墟。

 

 その耳に届くのは。

 少女自身の吐息と。

 少女自身の心音だけ。

 

 

 夜明け前にいつも起こされる羽目になるあの赤ん坊の泣き声も。

 赤ん坊の母親が台所に立って包丁でまな板を叩く音も。

 赤ん坊の父親が鳴らすおならの音も。

 赤ん坊の祖父が鳴らす乾布摩擦の音も。

 電車の下に住み着いた猫の鳴き声も。

 大きな水溜まりの中に苗を一束ずつ植える音も。

 小川でカブを洗う音も。

 鍬で畑を耕す音も。

 彼に投げ付けられた音楽プレイヤーがコンクリートの床の上を転がる音も。

 仕事仲間と啜るお茶の音も。

 長靴を履いた子供たちと一緒に水溜まりの上を駆ける音も。

 彼と手を繋ぎながら歩いた帰り道に聴いた蛙の鳴き声も。

 図書館でお喋りに興じるお母さんたちの話し声も。

 大衆浴場で響く桶が床を叩く音も。

 彼が回す釣竿のリールの音も。

 プラグスーツが鳴らす警告音も。

 お母さん猫の後を付いていく子猫たちの鳴き声も。

 包帯でぐるぐる巻きにされた人の呻き声も。

 村の人たちの怒号も。

 抱き締めた相手の息遣いも。

 抱き締めた相手の生命の鼓動も。

 彼の笑い声も。

 

 

 今は何も聴こえない。

 

 ずっと自分を包み込んでくれていた豊かな音たちはどこかに消え。

 自分とこの世界とを繋げてくれた色鮮やかな音たちはどこかに消え。

 

 聴こえるのは、自分の中で奏でられる小さな音たちだけ。

 

 

 あの村で見た、2つの「結末」。

 

 働けなくなり、皆に食べられることで、その生の全てをこの村に捧げたあの合鴨。

 

 全身を焼かれ、生きたままで地獄を味わいながら、最期を穏やかに迎えたあの患者。

 

 人に、生きているものに、命を与えられたものに与えられる、その生き方に見合った「結末」。

 

 

 ずっと一人だった。

 

 この村にやってくるまで、一日の大半を一人で過ごしてきた。

 

 生涯の大半を、沈黙の中で過ごしてきた。

 

 

 そして今。

 

 自分は独り、空を見上げている。

 

 自分は独り、静寂の中に包まれている。

 

 

 相応しい。

 こんな自分に、実に相応しい「結末」だ。

 

 

 

 波紋一つなかった湖の水面。

 その水面に、小さな波が立ち始めた。

 鉄筋コンクリート製の廃墟。

 その床の上の砂が、小刻みに踊り始める。

 

 湖畔を包み込む静寂を塗りつぶすように響き始めた、地響きのような低い音。

 

 崩れかけの壁に囲われた青い空。

 肥大化した月が浮かぶだけの、変化のない空。

 

 そこに突如、大きな黒い影が入り込む。

 

 それはまるで空を泳ぐ巨大な鯨のよう。

 

 地上に巨大な陰を作る艦影。

 

 空を跨ぐ、超大型空中戦艦。

 

 

 少女はその戦艦を知っていた。

 彼女が、黄色に塗装されたエヴァンゲリオンに乗って、愛しい彼を攫いに行った場所だから。

 

 そして少女は、その戦艦の中で眠っている「何か」の存在も知っていた。

 彼女は本来、その「何か」になるはずだったから。

 彼女は本来、その「何か」になりたかったのだから。

 

 恐ろしく長大な艦。

 壁に囲われた空に蓋をし、少女が横になる廃墟の中に陰を落とす。

 

 あの艦の中で眠っている「何か」。

 ワタシがなりたかった「何か」。

 なりたいと願い、ついに手の届かなかった「何か」。

 

 

 でももう構わない。

 

 「あなた」になれなかった代わりに、ワタシはこの世界の全てを手に入れたのだから。

 

 

 

 

 ねえ。

 

 あなたは知ってる?

 

 

 

 あなたは知ってる?

 犬の呼気の匂いを。

 

 口の中に含んだ雑炊の舌触りを。

 

 赤ちゃんはちっちゃいということを。

 

 ツバメはカワイイということを。

 

 あなたと違ってもいいことを。

 

 今日を一緒に生きていくためのおまじないを。

 

 お日様の下で流す汗水の冷たさを。

 

 泥濘んだ地面の踏み心地を。

 

 稲の苗の植え方を。

 

 尻餅を付いて見上げた空の青さを。雲の高さを。

 

 カブを貰ったら、ありがとうっていうことを。

 

 お風呂に入るときは、みんなで裸ん坊になることを。

 

 命令がなくても生きていいってことを。

 

 また会うためのおまじないを。

 

 仲良くなるためのおまじないを。

 

 人を幸せにするおまじないを。

 

 拾ったものは返さなくちゃいけないことを。

 

 図書館ではしー、しなくちゃいけないことを。

 

 人を抱っこした時の温かさを。

 聴こえる息吹を。

 感じる生命の鼓動を。

 

 人は何時まで経っても、抱っこされたいってことを。

 

 子供たちと長靴で水溜まりの上を跳ねた時の音を。

 

 雨上がりの匂いを。

 

 トーコンチューニューの仕方を。

 

 人を抱き締めた時のおまじないを。

 

 ワタシたちに調整された、仕組まれた感情のことを。

 

 その感情の意味を。

 

 彼に頬をぶたれた時の痛みを。

 

 彼が抱えていた絶望の深さを。

 

 彼と繋いだ手の温かさを。

 

 瓶に詰められた梅干しの表面にある皺の数を。

 

 子供たちと歩く畦道から見える夕焼けの色を。

 

 働けなくなった鴨は殺されることを。

 

 無職のニートに生きる価値はないことを。

 

 人でも猫でも。赤ちゃんが生まれたらとても嬉しいってことを。

 

 彼との釣りの退屈さを。

 

 彼と眺める湖の美しさを。

 

 逃した魚を追いかけて湖に飛び込んだら、彼は笑ってくれるということを。

 

 みんなからカワイイって言われたら恥ずかしいことを。

 

 生きることを終えた人の体が冷たくなるまでの時間を。

 

 思い出を忘れないためのおまじないを。

 

 

 あなたは知ってる?

 

 風の色を。

 土の音を。

 水の形を。

 火の匂いを。

 

 

 あなたは知ってる?

 

 人々と共に生きていくことの喜びを。

 

 

 あなたは知ってる? 

 

 一人になることの寂しさを。

 

 

 

 

「どんなもんだい、綾波レイ」

 

 

 

 

 気が付けば、廃墟の空を塞ぐ巨大な艦影に向かって右拳を突き上げていた。

 

 

 あなたがその中に引きこもっている間に、ワタシはこの世界の全てを手に入れてやった。

 あなたがその中に引きこもっている内は知りえないであろうことを、全て知ってやった。

 

 

 ワタシは全てを知っている。

 色んなことを知っている。

 人は泣く。

 悲しい時に、人は泣く。寂しい時に、人は泣く。

 でも、人は悲しい時や寂しい時だけではなく、嬉しい時も泣くってことを、ワタシは知っている。

 

 だから。

 だから、そう。

 ええ、きっとそう。

 

 きっとこの涙は、悲しいから流した涙じゃない。

 寂しいから流した涙じゃない。

 

 あなたになれなくても。

 あなたにならなくても。

 

 

 「好き」って何か、分かったから。

 

 

 だから。

 嬉しいからワタシは泣いてるんだ。

 

 大好きなツバメをもう抱くことができなくても。

 大好きなあの一家と食卓を囲むことができなくても。

 大好きな小母さんたちと稲刈りができなくても。

 大好きな子供たちと遊ぶことができなくても。

 

 大好きな彼の傍に居ることが、もうできなくても。

 

 

 「好き」って分かったから。

 

 

 それだけで、空っぽだったワタシの器は満たされたから。

 

 

 だから大丈夫。

 

 

 寂しさを知ってしまったワタシでも、一人でも大丈夫。

 

 

 もう大丈夫だから。

 

 

 

 だから。

 

 

 ねえ、だから。

 

 

 だからお願い。

 

 

 

 涙。

 

 

 止まって。

 

 

 目が塞がれて、空の色が見えないから。

 

 鼻の奥がツンツンして、風の匂いが嗅げないから。

 

 口から漏れる嗚咽がうるさくて、水の音が聴こえないから。

 

 体が熱くなって、地面の冷たさが感じられないら。

 

 

 最期のその時まで、この世界を感じていたいから。

 

 

 大好きなこの世界を。

 

 

 彼が居る。

 皆が居る。

 

 愛おしいこの世界を。

 

 

 ワタシが生きたこの世界を。

 

 

 ワタシが手にしたこの世界を。

 

 

 

 だからお願い。

 

 

 お願い。

 

 

 涙。

 

 

 止まって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 廃墟に陰を落としていた巨大な艦影が過ぎ去り、崩れかけの壁に縁どられた青い空が姿を現す。

 

 せっかく青空が見えるようになったのに、床に横になっている少女はその顔を両手で覆っていた。

 

 

 指の隙間から滲み、頬を伝う大粒の涙。

 小刻みに震える細い肩。

 口の端から漏れ出る、微かな嗚咽。

 

 少女は泣いていた。

 静かな湖畔に佇む廃墟。

 三方を崩れかけの壁で囲まれた舞台。

 その中で、少女は一人で泣いていた。

 

 

 

 その嗚咽を止めたのは。

 

 肩の震えを止めたのは。

 

 涙の流れを止めたのは。

 

 顔から手を離させたのは。

 

 

 それは足音。

 

 

 廃墟の入り口の方から、コツコツとコンクリートの床を叩く足音。

 

 床に仰向けになっていた少女は、ゆっくりと上半身を起こす。

 

 息を止めながら、廃墟の入り口を見つめた。

 

 崩れかけの壁の隙間から覗く白いシューズ。

 紺色ジャージの袖。

 短く纏まった黒の髪。

 

 少女の顔に最初に浮かんだのは、驚きの表情。

 その直後に顔がしわくちゃになってしまい、2つの瞳からさらに大量の涙が溢れ出てしまって。

 涙を引っ込めるために一度鼻から大きく深呼吸をして。

 口からふーっと深く息を吐いて。

 何度か鼻を啜って。

 涙で汚れてしまった頬を手のひらで一生懸命拭って。

 そして緊張しきっていた表情筋を一気に緩ませ。

 

 目尻を下げ。

 そして口もとに、緩やかな曲線を描いて。

 

 

 ゆっくりと、床から立ち上がった。

 自分に残された、最後の力を振り絞って。

 その胸に、彼女の唯一の持ち物となった黒の音楽プレイヤーを抱いて。

 

 

 

 朝靄が立ち込める湖の畔に立つ廃墟。

 

 その中に足を踏み入れた彼。

 

 

 彼女は、彼に向かって「おはよう」と言った。

 

 

 彼も、彼女に向かって「おはよう」と答えた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 裏部屋にある「あいつ」の寝床。

 床に干し草を敷いて、その上に薄いマットを広げただけの、とっても粗末な「あいつ」の寝床。

 そこで、さっきまで大いびきをかきながら寝ていた「あいつ」の姿は、今はない。

 

 

 左半分が空っぽのベッドから離れて。

 結局昨晩は帰ってこなかったらしいこの家の主の、やはり空っぽの寝床の横を通り過ぎて。

 そしてこの裏部屋にやってきて。

 

 慣れない肉体労働でよほどくたびれていたのか。

 3人で過ごしたあのマンションでの日々では見たことがない、大口を開けたまぬけな顔で寝ている「あいつ」。

 あたしが裏部屋に入ってきたことも気付かず。

 「あの子」が居なくなったことにも気付かず。

 呑気に寝ている「あいつ」。

 

 とりあえず、その背中を蹴っ飛ばしてやる。

 あたしのつま先に蹴っ飛ばされて、寝床から床の上に転がり落ちた「あいつ」。

 それでも「あいつ」は寝ぼけた様子で目をぐりぐり押さえながら、「朝ごはんにはまだ早いよ」などとほざいてる。

 

 そんな「あいつ」にあたしは言った。

 

 魚が食べたい、と。

 

 あいつは鳩が豆鉄砲食らったような間抜けな顔で、「は?」と言う。

 

 朝っぱらから人をイライラさせる表情を見せる「あいつ」にあたしは言った。

 

 いいから、さっさと行って、鯛でもエビでも何でもいいから釣ってこい、と。

 

 そしてもう一度「あいつ」の背中を蹴っ飛ばしてやる。

 

 「あいつ」は、「そんもの釣れやしないよ」などとぶつくさ言いながらも、釣り道具を抱えて小屋を出て、湖へと向かう小径を歩いていった。

 

 

 

 「あの子」が居なくなって。

 この家の主もまだ帰ってこなくて。

 「あいつ」も追い出してやって。

 

 そして、アスカは日当たりの悪い裏部屋で、木箱に腰かけながら一人佇んでいる。

 

 その手には一枚の紙きれ。

 

 いかにも不器用そうな筆さばきで綴られた、拙い文字。

 

 

 

  おはよう

 

  しきなみ あすか らんぐれえ

 

 

 

 その文字を見つめながら、アスカは呟く。

 

「おはよう…、そっくりさん…」

 

 呟いてみて、アスカはくすりと小さく笑う。

 

「おはよう、とか、久しぶりに言ったわ…」

 

 と呟いた瞬間に。

 

 

 

「「「「お・は・よ・う!!」」」」

 

 

 

 などと、外から大声で呼びかけられたものだから、びっくりしたアスカは木箱からずり落ち、床にすっ転んでしまった。

 

 

「「「「そっ・く・り・さあ~~ん!!!」」」

 

 

 モルタルの床にしたたかに打った腰を摩りながら、声がする方を睨む。

 

 甲高い声の集合体。

 

 声の主は、子供たち。

 

 アスカは起き上がると、小屋の表へと回り、勝手口のドアを開いた。

 

 

 ドアを開いた瞬間、真正面から太陽の光を受け止めたアスカは頭上に手を翳し、目を細める。

 朝日の光が燦燦と降り注ぐ、朽ちた駅のプラットフォームを利用した前庭。

 そこに立つ複数の人影。

 10人ばかりの小さな子供たちが、横一線に並んでいる。

 

「あれ~、そっくりさんじゃなーい」

 前歯が抜けた女の子は、ドアから出てきたアスカを見てあからさまにがっかりしたように呟いた。それを皮切りに、子供たちは次々に口を開いていく。

「ねー、そっくりさんは?」

「あたしたち、そっくりさん、むかえにきたの」

「きょうはそっくりさんとおえかきしてあそぶんだから」

「ちがうちがう。ぼくときのぼりしてあそんぶんだよ」

「はやくそっくりさんもかえろーよー。ぼく、おなかすいたよー」

「はやくはやくー」

 

 子供たちに囲まれてしまい、棒立ちになってしまうアスカ。

 

「はっはっは。ちょっと君たち。あんまりお姉さんをいじめないでおくれよ。困ってるじゃないか」

 その青年は朗らかな笑い声を上げながら子供たちの背に立ち、子供たちの頭をぐりぐりと撫で回していく。

「ケン…、ケン…」

 アスカは呆然としたまま、この家の主の顔を見つめた。

「アスカ。村の方は何とかなったよ。だからもう大丈夫だ」

「そうそう」

 相田ケンスケの言葉に相槌。アスカの視線は、ケンスケの後ろから現れたお揃いの青いツナギを着た数人の女性たちに移る。

「青年団の連中には、あたしたちからきつーくお仕置きしといてやったから」

「この村じゃ青年団なんかよりもあたしたち婦人会の方がよっぽど強いからね」

「それに結局のところ村の連中の大半はあの子のことが大好きなのさ」

「そうさね。あたしたちももうあの子の居ない生活なんて考えられないよ」

「寝る前は、明日はそっくりさんに何教えてあげようかって考えちゃうくらいだからね~」

 女性の一人がケンスケの肩をぽんと叩いた。

「それでもまだうだうだゆってる連中は居たけどさ。最後はこのお兄さんの一言でみんな受け入れてくれたさ」

「さっすがは我が村の何でも屋さんだね~」

「うちのバカ旦那よりよっぽど役に立つよ」」

「いや~…」

 女性たちに褒められ、照れ臭そうに後ろ頭を掻くケンスケに、アスカは再び視線を向ける。

 その何かを問う視線に、ケンスケは穏やかな笑みを返しながら言った。

「親父のこと、みんなにバラしちゃった」

 そう言って、子供っぽく舌先を出すケンスケ。

「え?」

「俺の親父は裏切者だってこと。俺は大罪人の子だってこと」

「せんせ~、ウラギリモノってな~に~?」

 子供の一人がケンスケの顔を見上げながら言う。その質問については、困ったような笑顔を返すことでケンスケは応じる。

「俺は村のみんなを騙し続けたことになる。つまり、俺もあの子と一緒だ。だから俺もあの子と一緒に村を出て行くことにするよ、って」

 よく分からないと首を傾げている子供の頭を、ケンスケの大きな手がわしゃわしゃと少し乱暴気味に撫で回す。 

「ついでに言ったんだ。俺と同じようにこの村で暮らすことに後ろめたさを感じてる奴は、俺と一緒にここを出て、別の場所で暮らそう、ってさ。でも結局、この村じゃニアサー以後に生まれた子供たち以外で、あの日々を生き延びたことに後ろめたさを感じてない奴なんて、一人も居なかったってことさ。みんな、大なり小なり、誰かを傷付け、自分を傷付けながら、あの日々を生きてきたんだ」

 撫でられた子供は質問のことなんか忘れて、きゃっきゃと笑い声を上げている。

「だからみんなで話し合って、今日から仕切り直そうってことに決めたんだ。俺たちも、もちろん、あの子のことも含めてね。今頃村じゃ今日が村の第2の開村記念日だって、ちょっとしたお祭り騒ぎさ。トウジなんて朝っぱらから一升瓶持ち出して、みんなと酒酌み交わしてるよ」

 子供に落としていた視線を、アスカへと向けた。

「みんな、あの子の帰りを待ってる。だからさ、アスカ」

 

「ねえ、アスカ」

 ケンスケの言葉を、若い女性の声が引き継ぐ。

「ヒカリ…」

 アスカの視線が、子供たちの後ろに立っていた、彼女の中学時代の同級生に注がれた。

「アスカも一緒に帰ろ。碇くんと一緒に。そっくりさんと一緒に。ね?」

 鈴原ヒカリはアスカに向けてにっこりと微笑んだ。まるであの時の。14年前の中学校の教室。母国を離れてこの国にやって来たばかりでクラスメイトと打ち解けようとしないアスカに、お弁当に誘うために声を掛けてきたあの時のような笑顔で。

 ヒカリは周囲を見渡す。

「アスカ。碇くんと……」

 そして改めて、中学時代の旧友の顔を見つめた。 

「そっくりさん…、は…?」

 

 全員の視線が、緋色髪の少女の顔に注がれた。

 

 

 アスカはとぼとぼと歩き始めた。

 サンダルでペタペタと地面を踏み。

 自分を囲む、子供たちを掻き分け。

 揃いのツナギを着た女性たちの前を通り過ぎ。

 青年の前も通り過ぎ。

 旧友のもとへと、とぼとぼと歩いた。

 

 やがてアスカの足は旧友まであと一歩の位置で止まる。

 

 どこか虚ろ気な表情の、左目を眼帯で覆った緋色髪の少女。

 その眼帯以外は、かつて学び舎を共にした頃と変わらぬ姿で、目の前に立った少女。

 ヒカリは訊ねる。

「アスカ?」

 アスカは黙ったまま、ヒカリに向かって手に持っていた一枚の紙切れを渡した。

 紙切れを受け取ったヒカリは、皺が走る紙面を見つめる。その紙面に綴られた、見覚えのある筆跡の文字。

 

「おはよう…、しきなみ、あすか、らんぐれー…」

 

 拙い文字を表すかのように、たどたどしい口調で読み上げたヒカリの口。

 視線を紙面から上げ、目の前に立つアスカの顔を見つめた。

 どこか焦点の合わない、青色の瞳。

 ヒカリの視線は、紙面と青い瞳との間を何度か行き来し、やがてその紙切れの裏にも、何かが書かれていることに気付いた。

 紙切れを裏返しにしてみる。

 

 

 

 

  おはよう

 

  おやすみ

 

  ありがとう

 

  さよなら

 

 

 

 

「さよなら……、って…」

 紙面からアスカへと視線を移そうとして。

 

 視界一杯に、緋色の髪が広がった。

 ヒカリに、もう半歩歩み寄ったアスカ。

 そのアスカの右腕が、ヒカリの背中に回され。

 アスカの左腕も、ヒカリの背中に回され。

 アスカの額が、ヒカリの右肩に押し付けられる。

 

 

 まるで迷子になっていた子供が母親を見つけた時のように、抱き着いてきた緋色髪の少女。ヒカリは少しだけ戸惑いの表情を浮かべつつも、そんな少女の体をすぐに、そしてそっと抱き締め返した。

 なんてたって、急に抱き着かれるのは「そっくりさん」で慣れているから。

 ごく自然に、旧友の体を抱き締めていた。

 目を閉じ、旧友の息遣いに耳を傾け、旧友の胸の中の鼓動に耳を傾け、旧友の生命の息吹を感じて。

 

 

 互いに抱き締め合うアスカとヒカリの周りに、子供たちが集まってくる。

 前歯の抜けた女の子が、アスカのパーカーの裾を引っ張った。

「ねえ、そっくりさんは?」

 

 アスカは何も答えない。

 

 他の子どもたちも、みな口々に「そっくりさん」の居所を尋ねてくる。

 

 アスカは何も答えない。

 

 何人かの子供が子供の輪から離れ、「そっくりさーん」と呼びかけながら小屋へと入っていく。

 

 アスカは追い掛けない。

 

 女性たちも、「やれやれ。手の掛かる子だこと」「でもそこがまたカワイイんじゃないか」などと楽し気に言葉を交わしながら、子供たちを追って小屋へと向かう。

 

 アスカは追い掛けない。

 

 みんなが「そっくりさん」の姿を求めて小屋へ向かって。

 

 その場に残ったのは、かつて学び舎を共にした3人だけになって。

 

 

 昇ったばかりの太陽が、朽ちたプラットフォームに立つ3人に無償の愛を注ぐ、その傍らで。

 

 

 青い空に浮かぶ巨大な影。

 村から少し離れた空の上で、超大型飛行戦艦が大地に向けて投錨を始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2-3.What A Wonderful World《終》

 

第二部 終了  シン・エヴァンゲリオン劇場版 Bパート へと続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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《短編》
(52)える・あ~る・えす ざ・びぎにんぐ


 



単体で読める仕様です。
新劇場版における一人目の綾波レイについてのお話。劇中では殆ど語られなかったことをいいことに、好き勝手に妄想、捏造したれという歪んだ二次創作精神に則った内容です。



 


 

 

 

 

 そこはかつて人類の夢を託した、希望に満ちた空間だった。最新の機器が並び、様々な実験が繰り返され、昼夜問わず気鋭の科学者たちが熱心に議論を交わした場所だった。

 今は、薄暗い、必要最低限の明かりしかない部屋。ただ一つの目的のために。ある一人の男の願望を叶えるためだけにあてがわれた部屋。

 

 その部屋がある研究所は、その男の子にとっての遊び場だった。この研究所に勤める父親と母親に連れ立たれ、託児所代わりに朝から晩まで過ごしていた。

 母親がかくれんぼを始めたっきり戻ってこなくなってしまってからは、父親は研究所にこもりきりとなってしまったため、そのまま成り行きで男の子もこの研究所に住み着いていたのだった。

 

 

 母親がかくれんぼを始めてから、この場所は雰囲気が変わってしまったと男の子は感じていた。母親の手に引かれて廊下を歩けば、行き交う大人たちはみな笑顔を向けてくれて、中には小さなお菓子を分け与えてくれる人も居たものだが、今男の子が一人で廊下を歩いていると、大人たちはみな視線を逸らしてしまう。

 それでも、男の子は特に子供向けの遊具があるわけでもない、食堂には子供向けのメニューがあるわけでもない、この研究所の中に留まることを嫌がらなかった。かくれんぼをしている母親が、この建物の何処かで自分に見つけられるのを待っているのではないか、と思っていたから。

 

 この日も、研究所の廊下を歩き、各部屋を見て回る。母親の姿を求めて、捜して回るが、残念なことに殆どの部屋は鍵が掛かっていて、男の子一人では入ることはできない。

 ふらふらと歩いていたら、廊下の一番奥の部屋のドアが開いた。

 中から出てきたのは、メガネを掛けた痩躯の男性。

 男の子は、反射的に、廊下の角に身を隠してしまう。

 メガネの男性、そして彼と一緒に出てきた長身の男性は、男の子の存在には気付かず、ドアの前で口論を始めた。

 

 長身の男性は言う。

「これ以上は危険だ。あらゆるデータが、最悪の未来を予測している。特異点を過ぎる前に…、「あれ」が怪物になり果ててしまう前に、我々は「あれ」を破棄すべきだ」

「何を馬鹿な。コアから回収した、唯一の検体だぞ」

「「神を拾った」とはしゃいだ4年前を。我々はあの愚行を繰り返そうとしているのかもしれない。そうは思わないのか」

「私は葛城博士とは違う。私は失敗しない。失敗するわけにはいかないのだ」

「お前の行動はすでに上でも問題になっている。ここはお前のためだけの研究所ではないのだぞ」

 忠告の言葉を無視して歩き始めようとしたメガネの男性の肩を、長身の男性の手が掴んだ。

「待て!」

 声を荒げる長身の男性に対し、するとメガネの男性は身を翻し、逆に長身の男性の胸倉を掴み、壁へと押し付ける。

「私の研究所だ! この私と! ユイとの!」

「やめろ…、いかり…」

 白衣の襟で首を絞められ、長身の男性の声が掠れる。メガネの男性が手を離すと、長身の男性は激しく咳き込みながらその場に尻餅を付いた。

 メガネの男性は背中を丸めて咳き込む長身の男性の背中を一瞥し、そして廊下を歩き始める。

 ようやく呼吸が落ち着いた長身の男性は、ただでさえ細い目をさらに細めて、離れていくメガネの男性の背中を睨んだ。

「こんなこと…、本当にユイくんが望んでいるとでもいうのか…!」

 その問いにメガネの男性は答えることなく、廊下の奥へと消えていく。

 一人残された長身の男性も立ち上がると、白衣についた埃を払い落とし、そしてメガネの男性が去って行った方向とは別の廊下へと去っていった。

 

 

 

 

 

 薄暗い、必要最低限の明かりしかない部屋。

 「それ」は、部屋の中央に置かれた大きな円筒形の水槽の中を漂っていた。

 

 数名の大人以外は、誰も立ち入ることのない部屋。

 そんな部屋に、一人の男の子が入ってきた。

 暗がりの空間に目が慣れず、しばらく部屋の中を右に左にうろうろしていた男の子は、部屋の中央に置かれた大きな水槽。そしてその水槽の中に在る「それ」の存在に気付き、肩を震わせ、怯えたように一歩二歩と後退し、物陰の中に隠れてしまった。

 

 男の子が物陰に隠れてから1分後。

 男の子の顔が、おずおずと物陰から出てくる。

 2つのつぶらな瞳が、水槽の中に在る「それ」をじっと見つめる。

 じっと見つめ始めてから1分後。男の子は物陰から出てきて、おっかなびっくりといった様子で、一歩一歩、水槽へと近づいていった。

 水槽の前に立った男の子は、両手をガラス面にくっ付け、そして額もガラス面に引っ付け、水槽の中に在る「それ」を間近で興味深そうに見つめる。

 

 

『アナタ… ダレ…?』

 

 

 不意に声を掛けられ、驚いてしまった男の子はその場に尻餅を付いてしまった。

 声の出所を探ろうと、周囲をきょろきょろと見渡す男の子。

 

『アナタ… ダレ…?』

 

 その声が、水槽の中の「それ」から発せられたものだと気付いた少年は、短い悲鳴を上げながら転がるように駆け出し、そして再び物陰の中へと隠れてしまう。

 男の子が物陰から隠れてから2分後。

 再び、男の子はおずおずと物陰から顔を出し、じっと水槽の中に在る「それ」を見つめる。

 

『アナタ… ダレ…?』

 

 水槽の中から届く、不可思議な声。

 その「体」の何処から発せられているのかも分からない声。

 

「きみは…、だれ…?」

 逆に、男の子の方が震えた声で訊ね返した。

 

『ワタシ…?』

 

「うん…」

 物陰から顔だけを出す男の子は、こくりと頷く。

 

『ワタシハ… ユイ…』

 

「え?」

 驚いた顔をする男の子は顔だけでなく、体も物陰から出す。

 

『ワタシハ… ユイ…』

 

「うそだ!」

 男の子は怒鳴り声を上げると、水槽の前まで駆け寄り、両手で水槽のガラス面を叩いた。

「きみはぼくのおかあさんじゃない! きみなんか…!」

 ガラス面を叩かれた「それ」は、「体」全体をびくつかせ、水槽の奥へと引っ込んでしまう。

 何処が顔なのかも分からないが、「それ」を怖がらせてしまったことに気付いた男の子は、慌てて両手を引っ込めた。

「ご、…ごめん」

 しゅんとしている男の子に、水槽の中に満たされる液体の中を漂う「それ」は、ゆっくりと近づいていく。

 

『アナタ… ダレ…?』

 

「ぼくは…、シンジ…」

 

『シンジ…』

 

「うん…、ぼくは…、いかりシンジ…」

 

『ワタシハ… アナタノ… "オカアサン" ナノ…?』

 

「ちがうよ。きみはぼくのおかあさんじゃない」

 

『アナタノ… "オカアサン"… ハ?』

 

「しらない。ねえ。きみはぼくのおかあさんがどこにいるか、しらない?」

 

『シラナイ…』

 

「そう…」

 

『ゴメン…ナサイ…』

 

「きみはわるくないよ…。ぼくこそごめん…。さっきはびっくりさせちゃって…」

 

『ウン…』

 

「きみは…、ユイってゆうの?」

 

『ワカラナイ…』 

 

「え? でもさっき…」

 

『ココニクル ヒト… ヨク ユイ ッテヨブ… カラ…』

 

「そうなんだ…」

 

『ワタシハ… ユイ ジャナイ… ノ?』

 

「わからないよ」

 

『ワタシノナマエ… ナニ…?』

 

「わからないよ…」

 

『ワタシニハ… ナマエ… ナイノ…?』

 

「わからない…よ…」

 

『ソウ…』

 

「うん…」

 

『ダッタラ…』

 

「うん」

 

『ダッタラ… アナタ…ノ… ナマエ… チョーダイ…』

 

「え?」

 

『アナタノ… ナマエ…』

 

「そんな。むりだよ。そんなこと。シンジはぼくのなまえなんだから…」

 

『ソウ…』

 

「それにきみは、おんなのこなんじゃないの?」

 

『”オンナノコ”…?』

 

「うん。たぶん…、だけど…。シンジはおとこのこのなまえだから…」

 

『”オンナノコ”ッテ…?』

 

「え?」

 

『”オンナノコ” ッテ ナニ?』

 

「おんなのこはおんなのこさ。そんなこともしらないの?」

 

『ウン… ワタシ… ココカラデタコト… ナイカラ…』

 

「そうなんだ…」

 

『”オンナノコ” ッテ ナニ?』

 

「え、えっと…。ぼくはおとこのこで、きみはおんなのこなんだよ」

 

『”オトコノコ”?』

 

「うん」

 

『ホカニハ?』

 

「ほかはないよ。おとこのことおんなのこだけだよ」

 

『ナゼ?』

 

「え?」

 

『ナゼ ”オトコノコ”ト ”オンナノコ” イルノ?』

 

「そ、それは…。その…。ごめん…。よくわかんないや…」

 

『ソウ…』

 

「うん…」

 

『アナタデモ… ワカラナイコト… アルノネ…』

 

「うん…。ぼくのおかあさんなら、しってるかも、しれない、けど…」

 

『アナタノ ”オカアサン” ッテ ナニ…?』

 

「ぼくのおかあさんは、おかあさんさ」

 

『アナタノ ”オカアサン”ハ ”オトコノコ” ナノ?』

 

「ちがうよ。おかあさんは、おんなのこだよ。それでおとうさんは、おとこのこ」

 

『”オトウサン”…?』

 

「うん。それで、おかあさんと、おとうさんのこどもが、ぼく」

 

『コドモ…ガ アナタ…』

 

「うん…」

 

『ソウ…』

 

「うん…」

 

『ソウ… ナンダ…』

 

「うん…」

 

『……ナントナク』

 

「え?」

 

『ナントナク… ”オトコノコ” ト ”オンナノコ” イルリユウ ワカッタ キガスル…』

 

「ふーん。すごいんだね、きみ」

 

『アナタハ ”オトコノコ”…』

 

「うん」

 

『ワタシハ ”オンナノコ”…』

 

「うん」

 

『ワタシト アナタデ コドモ デキル?』

 

「え?」

 

『ワタシト アナタデ コドモ…』

 

「どうなんだろう。おかあさん、いってたんだ。ぼくは、おとうさんとおかあさんがアイしあったからうまれたんだって」

 

『アイ…?』

 

「うん」

 

『アイ ッテ ナニ…?』

 

「わかんない…」

 

『ソウ…』

 

「うん…」

 

『アナタト ワタシデ アイシアッタラ コドモ… デキル?』

 

「たぶん…」

 

『ドウシタラ…』

 

「うん…」

 

『ドウシタラ… アイシ アエルノ…?』

 

「わかんない…」

 

『ソウ…』

 

「うん…」

 

 

 いつの間にか床に腰を下ろし、膝を抱え、水槽を見上げながら「それ」と話し込んでいた男の子。

 そんな男の子のお腹が、くー、となる。

 

『ナニ…? イマノオト』

 

「おなかのむしがないたんだ」

 

『オナカノムシ?』

 

「うん。そろそろおひるごはん、たべにいかないと」

 男の子は床から腰を上げる。

 

『ゴハン…?』

 

「うん。きみはごはん、たべないの?」

 

『シラナイ…』

 

「そうなんだ…。ほんとうに、なにもしらないんだね…」

 

『ゴメン…ナサイ…』

 

「あ、だったらさ」

 男の子は水槽のガラス面に両手とおでこを貼り付ける。

「こんど、ほん、もってきてあげるよ」

 

『ホン?』 

 

「そう。おかあさんがいってたんだ。しりたいことがあったら、ほんをよみなさいって」

 

『ソウ…』

 

「うん。どうかな?」

 

『ウン。タノシミニ シテル』

 

「うん!」

 

 ガラス面に引っ付いた男の子のおでこに合わせるように、水槽の中の「それ」も、体の一番丸い部分をちょんとくっつけてみた。

 分厚いガラス越しに、「それ」に向けて笑顔を向ける男の子。どこが目でどこが口なのか、そもそも人間と同じそれらの器官があるのかも分からないが、何故か男の子にはガラス越しの「それ」が笑っているような気がした。

 ふと思い立ち、男の子はガラス面におでこと両手を引っ付けたまま、右に移動してみる。すると水槽の中の「それ」も体の丸い部分をガラス面に引っ付けたまま、男の子に付いていくように右に、「それ」から見れば左に移動する。

男の子が今度は左に移動してみると、水槽の中の「それ」も左に、「それ」から見れば右に移動する。

 男の子が上に移動すれば「それ」も上に。男の子が下に移動すれば「それ」も下に。

 ちょっとばかり悪戯心が芽生えてしまった男の子。今度は右に移動しようとする仕草を見せたところで、咄嗟に向きを変えて左へ移動してしまう。フェイントを入れられた「それ」は、男の子とは逆の方向へと移動してしまい、ガラス越しにくっ付き合っていた男の子のおでこと「それ」の体の丸い部分は離れてしまった。

 自分の悪戯が見事に成功した男の子は、ころころと笑い声を上げている。

 一方、騙されてしまった「それ」は憮然とした表情を男の子に向けていた(ように男の子には見えた)。

 

 「それ」はガラス面から体を遠ざけた。

 そしておでこをガラスにくっ付けたままころころと笑っている男の子に向かって。

 

 ドン!

 

 「それ」が勢いよくガラス面にぶつかってきたものだから、男の子は「わっ!?」と大きな声を上げて、床の上をごろんとでんぐり返ししてしまう。

「いてて…」

 床に尻餅をついたまま、水槽を見上げる男の子。

 水槽のガラスの向こうでは、「それ」が肩を揺らしながら笑っている(ように男の子には見えた)。

「ひどいな~」

 男の子は抗議の声を上げつつ笑みを浮かべ、床から立ち上がる。

 水槽に近づけば、白い肉の塊をガラス面に引っ付けて、ガラス越しに男の子を見ている(ように男の子には見える)「それ」。

「じゃあね。ぼく、そろそろいくよ」

 お腹の虫が本格的にぐーぐー鳴り始めたので、男の子は踵を返して出口に向かおうとした。

 

 出口に向かって3歩歩いたところで、男の子の足が止まる。

 

 

「レイ…」

 

 

 そう呟いた男の子は、ゆっくりと水槽の方へ振り返った。

 

「レイ…は、どうかな?」

 

『レイ?』

 

「うん」

 水槽の中の「それ」を見つめる男の子は頷く。

「きみのなまえだよ」

 

『ワタシノ… ナマエ…』

 

「おかあさんがいってたんだ。もしぼくがおんなのこだったら、レイってなまえにするつもりだったって」

 

『レイ…』

 

「うん。どうかな?」

 

『ウン アリガトウ トッテモイイ…』

 

「おかあさんがいってた。なまえは、おまじないだって」

 

『オマジナイ?』

 

「うん」

 

『オマジナイッテ ナニ?』

 

「ええっと…。おねがいをかなえたいときに、ゆうものだよ」

 

『ネガイ…』

 

「そう。なまえは、しあわせになってほしいあいてにとなえるものなんだって。おかあさんがいってた」

 

『ソウ… アナタハ… ワタシニ… シアワセニナッテ… ホシイ…ノ?』

 

「もちろんさ」

 男の子はその小さな顔一杯に笑いを浮かべながら、「それ」に向かって手を振る。

「じゃあね。こんどは、ほん、もってくるから」

 

『ウン タノシミニシテル…』

 

 「それ」も、男の子に向かって手を振り返す。

 

 

 

 

 

 ドアを出て、廊下を駆ける男の子。

 頭の中の半分では、今度ここに来るときに持ってくる本は何にしようかと思いを巡らせながら。もう半分では、大きなガラス張りの水槽の中で、こちらに向かって手を振り返してくれた「それ」の姿を思い浮かべながら。

 

「あれ?」

 

 男の子は廊下の真ん中で立ち止まる。

 

「あのこ、”て”なんて、あったっけ?」

 

 

 

 

 

 

 

 薄暗い部屋の中の中央にあるガラス張りの水槽。

 その中にプカプカと漂う「それ」。

 

『レイ… ワタシハ… レイ…』

 

 白い肉の塊である「それ」。

 丸い肉の塊のぶよぶよとした表面から、にょきっと、1本だけ枝を生やしている「それ」。その枝は、見ようによっては人の手のようにも見える。

 

『シンジ… カレハ… イカリ… シンジ…』

 

 枝を1本だけ生やした白くて丸い肉の塊に、変化が生じる。

 

『シンジ…』

 

 肉の塊の下の方から、もう1本、いや、2本、枝を生やし始めたのだ。

 さらにすでに生えていた枝と対になるように、もう1本、枝が白い肉の塊の表面からにょきにょきと生え始める。

 

『シンジ…』

 

 4本の枝に引っ張られるように白い肉の塊は縦に伸び始め、そして塊の一番てっぺんには丸い突起のようなものが膨らみ始めた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「これは一体…!」

 長身の男性は、目の前の光景を信じられないとばかりに普段は線のように細い目を限界にまで広げている。

 彼の視線の先にあるのは、ガラス張りの水槽。液体で満たされた円筒形の水槽の中に浮かぶ、白い物体。彼が最後にこの部屋を出た時、その物体はただの肉の塊でしかなかった。

 その塊が、今は別の形をして水槽の中をぷかぷかと漂っている。

 

 胴体と思われる部分から4本の枝が伸び、そして塊のてっぺんいは丸く膨らんだ突起物。

 枝はまるで四肢のよう。そして丸い突起物は頭部のよう。

 目や鼻や口や耳や指や毛があるわけではないが、「それ」は紛れもなくヒトの形をしていた。

 

 人の形をした「それ」がプカプカと浮く水槽。

 そのガラス面にへばりついている男性が一人。

 メガネの男性は、長身の男性以上に目を見開き、水槽の中の「それ」を食い入るように見つめている。

 

 長身の男性は近くにあった端末機を操作した。

「遺伝子が変異している…。これではまるで…」

 

 水槽のガラス面にへばり付くメガネの男性。

「ユイ…」

 人の形をした「それ」に、震えた声で呼び掛ける。

「ユイ…、私だ…。分かるか…?」

 

『ワタシハ…』

 

 水槽の中から声がして、メガネの男性は一言一句聞き漏らすまいと、耳をガラス面に強く押し当てた。

 

 

『ワタシハ… ユイ… ジャナイ…』

 

 

 メガネの男性の顔がガラス面から離れた。

 メガネの奥にある目を点にして、水槽の中の「それ」を見つめる。

 

 

『ワタシハ… レイ…』

 

 

 メガネの男性の顎が震えた。

 

『ワタシノ… ナマエハ… レイ…』

 

 メガネの男性の上半身が後ろにぐらりと傾いた。

 危うく背中から倒れそうになったところを、右足を後ろに出して何とか姿勢を保つ。

 

『”カレ”ガトナエテクレタ… タイセツナ… オマジナイ…』

 

 

 メガネの男性はさらに一歩、二歩と後ずさりし、水槽から離れた。

 水槽の中の「それ」を、驚愕の表情で見つめていた彼。

 暫く固まっていた彼の表情に変化が表れる。

 半開きになっていた口が閉じ、眉間の皺が薄くなり、見開かれていた目が細くなり。

 

 メガネの男性は革靴の踵をコツコツと鳴らしながら、水槽に繋がれた端末機の前に歩み寄る。

 彼の右手が端末機へと伸ばされ、そしてその人差し指は端末機の端にある赤いボタンへと触れそうになる。

 

「碇! 何をするつもりだ!」

 その腕を、長身の男性が掴んだ。

「これは失敗作だ。失敗作は破棄せねばならん」

 メガネの男性は極めて事務的な口調でそう告げた。

「何を馬鹿なことを。コアから回収した唯一の検体だぞ」

「これはユイではない。検体自身がそう言っているではないか」

「それでも我々にとっては貴重なサンプルだ。いい加減、頭を冷やせ」

 長身の男性は掴んだメガネの男性の腕をそのまま背中に回して捻り上げ、拘束してしまうと、強引に部屋の外へと追い出してしまった。

 ドアを内部からロックする。

 外ではメガネの男性が喚き散らし、ドアを叩いたり蹴ったりしているが、長身の男性はそれを無視して部屋の中央にある水槽を見つめた。

 水槽の中では、人の形をした「それ」がぷかぷかと浮いている。

「本当に…、ユイくんではないのか…」

 そう独り言ちた彼は、別の端末機の前に立つ。キーボードを叩き、この研究所のセキュリティシステムにアクセスする。

「一体アレに何があった…」

 端末機の画面上に映し出されたのは、この部屋の監視カメラの映像。自分たちがこの部屋を最後に出た時間まで映像を遡らせた。

 

「これは…」

 

 映像に映し出されたものを見て、男性は思わず顔を画面に近付けてしまう。

 

 映像を停止させ、近くにあった椅子に腰を下ろす。

 大きく息を吐きながら、暗い天井を見上げた。

「碇には…、今は見せぬ方がよいだろうな…」

 未だに背後の扉から鳴り響く激しい物音に耳を傾けながら、小さく呟いた。

 

 視線を天井から端末機の画面へと戻す。

 

 画面上に映し出された静止画。

 

 その静止画に映るのは、ガラス張りの水槽の前に立つ小さな男の子。

 

「しかし…」

 

 長身の男性の眉間に、皺が寄った。

 

「この子はどうやってこの部屋に入った…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「これが、おひさま。あおいそらにういてて、とってもまぶしいんだ」

 

 男の子は開いた大きな本を円筒形の水槽のガラス面に押し付けている。ガラスの向こうでは、白い人の形をした「それ」が、頭のような部分をガラス面に引っ付けて、本の内容を食い入るように見つめていた(ように男の子には見えた)。

「それでね…」

 男の子は本を一旦ガラス面から離す。そして自分の体の半分くらいはありそうな大きな本。風景写真が写真集のページを一枚めくり、再びガラス面に押し付ける。

「これが”うみ”だよ」

 

『ウミ…』

 

「うん」

 

 やはり本のページを食い入るように見る「それ」。

 見開き一杯に広がる、白い砂浜、澄み渡った青い空、柔らかい白波を寄せる青い海。

 

『トテモ… キレイ…』

 

「だろ」

 

『"ウミ”ハ ”ソラ”トオナジ… アオイ ノネ…』

 

「あ、あー、うん」

 「それ」の問い掛けに、歯切れの悪い返事をする男の子。

「”うみ”はあかい、ってゆーひともいるんだけどね」

 

『"アカ"?』

 

「そう」

 

『"アカ" シッテル… ”チ”ノイロ…』

 

「うん…」

 

『ワタシ… "アオ"ガ イイ…』

 

「”あお”が?」

 

『ウン…』

 

「”あお”が、いいの?」

 

『ウン…』

 

「そうなんだ」

 

『”ソラ” ト ”ウミ” ノイロ…』

 

「ぼくもまだ”うみ”はみたことないんだ」

 

『ソウ ナノ?』

 

「うん…。おかあさんが、いつか”うみ”につれてってくれる、ってゆってたんだけどね…」

 

『ソウ… ナンダ…』

 

「うん…」

 

『ワタシ…モ…』

 

「え?」

 

『ワタシ ”ウミ” ミタイ… アオイ”ウミ” ミテミタイ…』

 

 「それ」の言葉に男の子は、「ふふ」と小さく笑い、そして本をガラス面から離し、代わりに自分のおでこをガラス面に押し付けた。

「じゃあさ…」

 水槽の中から押し付けていた「それ」の頭のような部分と、男の子のおでこがガラス越しに重なり合う。

「ぼくが、いつかきみに、うみをみせてあげるよ」

 

『ワタシニ…?』

 

「うん」

 

『アオイ”ウミ”ヲ…?」

 

「うん。いつかかならず、きみに、あおいうみをみせるよ…」

 

『カナラズ…?』

 

「そう。やくそくするよ」

 

『ヤクソク…?』

 

「うん」

 

『ヤクソク ッテ… ナニ…?』

 

「え、えっと…。”チカイ”…、のことだよ」

 

『チカイ…?』

 

「そう。なにがあっても、ぜったいにまもるためのおまじないだよ」

 

『オマジナイ…』

 

「うん。いかりしんじは、きみをかならずあおいうみにつれていゆくことをちかいま~す!」

 

『ソウ…』

 

「うん」

 

『ウレシイ…』

 

 

 男の子はおでこだけでなく、自分の両手もガラス面に張り付けてみせた。すると、水槽の中の「それ」も、胴体のようなものから生える腕のような2本の枝の先端をガラス面にくっ付け、男の子の手と重ね合わせる。

 男の子はガラス面におでこと両手を引っ付けたまま、右斜め上に移動してみる。すると水槽の中の「それ」も頭部のようなものと手のようなものをガラス面にくっ付けたまま、男の子に付いていくように右斜め上に、「それ」から見れば左斜め上に移動する。

男の子が今度は左斜め下に移動してみると、水槽の中の「それ」も左斜め下に、「それ」から見れば右斜め下に移動する。

 男の子が円を描くように移動すれば「それ」も円を描くように。男の子が波を描くように移動すれば「それ」も波を描くように。

 この日もちょっとばかり悪戯心が芽生えてしまった男の子。今度は下に移動しようとする仕草を見せたところで、咄嗟に向きを変えて上へ移動してしまう。

 ところが「それ」は男の子のフェイントには引っ掛からず、男の子と同じように上へと移動し、しっかりと付いてきた。

 「それ」を引っ掛け損ねた男の子は、憮然とした表情でガラスの向こうの「それ」を見つめる。

 目も口もないが、男の子には「それ」の顔のような部分が、得意気に笑っているように見えた。

 

 唇をとんがらせて悔しがる男の子。

 そんな男の子の頭の中に、更なる悪戯心が芽生えてしまった。

 

 男の子は一度ガラス面からおでこを離した。

 そして再び、「それ」が引っ付いているガラス面に向けて、顔を近づける。

 唇を、うー、ととんがらせたまま。

 

「ん」

 

 「それ」はびっくりしたように、ガラスから慌てて離れた。

 そんな様子の「それ」がおかしくて、男の子は「ははは」と笑い声を上げる。

 

『ナニ? イマノ?』

 

 男の子は得意気に笑いながら言う。

 

「”きす”だよ」

 

『キス…?』

 

「おかあさんがいってた。ひとがアイしあうときは、こうするんだって」

 

『ソウ…』

 

「あ、ご、ごめん」

 どこかぼんやりとした「それ」の声に、今更ながらに自分の行為が恥ずかしくなってきた男の子。

「いや…、だった?」

 頭を掻きながら、恐る恐る訊ねてみたら。

 

『イヤ… ジャナイ…』

 

「そっか」

 ほっと安心する男の子。

 

『デモ ドウシヨウ…』

 

「え?」

 

『ワタシタチ コドモ デキチャウ?』 

 

「えっ、あっ! ああ!?」

 男の子は目を丸くしながら、大きな声を上げてしまう。

 

『コドモ デキルノ?』

 

「あっ、えっと、そ、その…、あ、ど、どど、どうしよ…」

 両頬を手で押さえ、狼狽えてしまう。

 

『コドモ… デキルノネ…』

 

「う、うん…」

 

『ソウ…』

 

「うん…」

 

『ソウ…』

 

「ごめん…」

 

『ドウシテ アヤマルノ?』

 

「え、えっと…。えっと…」

 

『アイシアウ コトハ イケナイコト ナノ?』

 

「そ、そんなわけないよ。いい、こと、の、はず…、だよ…」

 

『ソウ…』

 

「うん…」

 

 男の子は両手を組み、親指の腹同士をくっ付けたり離したりを忙しなく繰り返している。

 しばらく自分の親指と、水槽の中の「それ」を交互に見つめながら。

 

 男の子は、おずおずと口を開いた。

 

「…ねえ…」

 

『ナニ…?』

 

「だったらさ…」

 

『ウン…』

 

「その…」

 

『ウン…』

 

「えっと…」

 

『ウン…』

 

「ぼくの…」 

 

『ウン…』

 

「お…」

 

『オ?』

 

「お…お…お…」

 

『オ? オ? オ?』

 

「おぉ…、おぉ…、おぉ…」

 

『オォ… オォ… オォ… 』

 

 

「お…よめさんに、なる…?」

 

 

『”オヨメサン”…?』

 

 

「うん…」

 

『”オヨメサン”ッテ ナニ…?』

 

「”およめさん”は…、その…」

 

『ウン…』

 

「ぼくと…、その…」

 

『ウン…』

 

「けっこん…、する…、ことだよ…」

 

『”ケッコン”…?』

 

「うん…」

 

『”ケッコン”ッテ ナニ…?』

 

「”けっこん”は…、その…」

 

『ウン…』

 

「えっと…」

 

『ウン…』

 

「その…」

 

『ウン…』

 

「ずっと、いっしょにいるための、おまじないだよ…」

 

『ズット…?』

 

「うん…」

 

『”オヨメサン”ニナッタラ… アナタト イッショニ イラレルノ…?』

 

「そうだよ…」

 

『ズット?』

 

「うん。ずっとだよ」

 

『ズット? ズット?』

 

「うん。ずっと、ずっと」

 

『ズット? ズット? ズ~ット?』

 

「ずっと、ずっと、ず~~~~~っとだよ!」

 自分の声に合わせるように、両手をぐるりと大きく回して宙に円を描く男の子。

 

 

『ナル!』

 

 

「わっ!?」

 「それ」が勢いよくガラス面に顔のような部分を押し付けてきたものだから、びっくりしてしまった男の子はその場にひっくり返ってしまった。

 

『ナル! ワタシ! アナタノ”オヨメサン”ニナル!』

 

 尻餅を付いていた男の子は目を輝かせながらひょいっと立ち上がった。

 

「ほんとに?」

 

『ウン!』

 

「ぜったいだよ?」

 

『ウン!』

 

「やくそくだよ!」

 

『ウン!』

 

 男の子はガラス面におでこをくっ付ける。

 「それ」も、頭のような部分を男の子のおでこに重ねるようにガラス面にくっ付けた。

 

 お互いの顔と顔?を見つめながら、くすくすと笑い合う男の子と「それ」。

 薄暗い部屋の中に、2人分の軽やかな笑い声が、密やかに木霊した。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「私はこれを一体どのように理解したらいい…」

 

 薄暗い部屋の中にぽつんとあるパイプ椅子に腰を掛ける長身の男は、部屋の真ん中に鎮座する円筒形の水槽に満たされた液体の中を漂うものを見つめながら小さく呟いた。

 その視線を、椅子の近くにある情報端末機の画面に向ける。その画面上に映し出されるのは、この部屋の監視カメラの映像。彼が見つめていた水槽の前に立っているのは、小さな男の子。水槽の「中身」と何か言葉を交わしているようだが、音声までは拾えない。

 

 映像に映る男の子の父親は半ば錯乱状態に陥っており、自傷行為まで始めてしまったため、彼の指示で鎮静薬を投与されて強制的に眠りに付かせている。

 

「さすがにこれ以上、碇に知らせぬわけにもいくまい…」

 視線を端末機の画面から、水槽へと戻した。

 

 水槽の中を漂うもの。

 

 白い、人の形をした「それ」。

 

 胴と思われる部分から生える4本の枝。その枝の先端は更に5本ずつに枝分かれを始めている。

 あたかも、人の指のように。

 

 そして胴のてっぺんに生えた、頭のような部分。そこに、まるで水の中を揺蕩う川藻のようなものがびっしりと生えている。

 あたかも、人の髪の毛のように。

 

 その藻は奇妙な色をしていた。

 

 それはまるで雲一つない澄み渡った空のような。

 あるいはこの星の3分の2を覆っていたかつての海のような。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 薄暗い部屋の中に、開いたドアから明るい光が差し込む。続いて床を叩く靴の音。

 「大人」が出ていった後は、決まって「彼」が入ってくるため、「それ」は弾んだ声で「彼」の名前を呼んだ。

 

『シンジ…』

 

 しかし『それ』はすぐに床を叩く靴の音が「子供」のものではないことに気付く。

 

『アナタ… ダレ…?』

 

 部屋に入ってきた人物は「それ」の質問に答えない。

 いや、答えることができない。

 部屋の中央に鎮座する水槽の中身を見て、絶句している。

 

 30秒ほど硬直してしまっていたその人物。

 口の中に溜まっていた唾をごくりと飲み込む。

 

「これが…、この研究所がひた隠しにしていたものか…」

 

 作業着のブルゾンを着て、ワークキャップを目深に被ったその男は、震える手をポケットの中に突っ込み、中からデジタルカメラを取り出す。

 カメラのレンズを、水槽へと向けた。

 シャッターを押す。

 

 強烈なフラッシュの光。

 水槽の中の「それ」は怯えたように体をびくつかせる。

 

 もう一度。さらにもう一度。

 

 水槽の中身を撮影する男がシャッターを押す度に、強烈なフラッシュの光が瞬く。

 その度に「それ」は体全体を震わせ、身を縮こませ、水槽の奥へと引っ込んでしまう。

 

 もう写真は十分だろうと、カメラをポケットの中に戻したワークキャップの男は、水槽の間近まで歩み寄り、液体で満たされた水槽の中身を凝視した。

 彼の視線の先に漂う、人のような形をした「それ」。無精髭を生やした男の口角が上がる。

「明らかなバイオ技術規制法違反…。これでこの研究所を告発できる…」

 男は水槽から離れ、水槽と繋がった情報端末機の前に立つ。ポケットからメモリーカードを取り出し、端末機の側面にある差込口に入れる。キーボードを叩き、端末機の操作を始めた。

 

 水槽の奥に引っ込んでいた「それ」は、ゆっくりとガラス面に近付き、こちらに背を向けて作業をしている男を見つめる。

 

『アナタ… ダレ…?』

 

 男は答えない。作業に集中している。

 

 画面上に表示されていた「0%」の数字が少しずつ膨らんでいき、やがて「100%」になった。

 男は差込口からメモリーカードを抜き、ポケットの中に収める。

 

 振り返って、思わず大きな声を上げてしまいそうになり、慌てて口を塞ぐ。

 「それ」が、水槽のガラス面に引っ付いて、こちらを見ていた(ように男には見えた)。

 

 やや濁った液体の中に浮かぶ、人のような形をした白い物体。

 頭部のような場所に揺蕩う奇妙な色をした藻。

 顔のような場所には凹凸はなくつるつる。

 

 びっくりさせられた男は顔を顰めて水槽の中の「それ」を睨む。

 軽く舌打ちをし。

「化け物が…」

 吐き捨てるようにそう言って、男は水槽に背を向け、出口へ向かおうとした。

 

 男の足が止まる。

 彼の視線の先。

 開いたドア。

 廊下の光を背に立つ、人影。

 小さな人影。

 

「君…、いつからそこに…」

 

 男の子が立っていた。

 

 

「あ、あの…」

 男の子の震えた声。

 持ってきた大きな図鑑を、胸の前でぎゅっと抱き締めている。

「ごめんなさい…。いつも、あいてたから…、その…」

 いつも「それ」以外は誰も居なかった部屋。その部屋の中に立っていた、見知らぬ大人の男。

「ごめんなさい…! おとうさんには…、いわないで…!」

 

「おとうさん…?」

 ワークキャップの男の目が大きく見開かれる。

「君…、もしや所長の子供か…?」

 男の子は返事をせず、大きな図鑑を抱き締めたまま一歩、また一歩と後ずさりし始めた。

 

 ワークキャップの男はその顔に出来る限りの柔和な笑みを浮かべる。

「怖がる必要はないよ。君のことは誰にも言わないから」

 その場に片膝を折って、視線を男の子に合わせる。

「だからこっちにおいで」

 男の子に向かって、手を差し伸べた。

 

 男の子はワークキャップの男の顔を見て。

 そして男が差し伸べる手を見て。

 そして男の背にある水槽を見た。

 

「レイ…!」

 

 水槽の中に漂う「それ」の名前を叫んだ。

 

 男の顔が驚きに染まる。

 背後を振り返り、水槽の中身を見て、そして男の子を見て。

「君はこの”化け物”のことを知っているのか!」

 これまでの柔和な声とは真反対の、低く鋭い声が男の声から飛んだ。

 男の全力で振られたハンマーのような声に対し、男の子は叫び返す。

「レイはばけものなんかじゃない!」

 叫ぶと同時に男の子は幼い四肢を懸命に振り、自分よりも遥かに大きい大人の男に向かって掴み掛かった。

「や、やめなさい! 何をする!」

 まだ小さい子とはいえ、全身を使って右足に掴み掛かってきた男の子に、男は足を掬われそうになってしまう。男は慌てて男の子の首根っこを掴み、男の子を右足から引き剥がそうとするが、男の子は男の右足に抱き着いたままテコでも離れようとしない。

「このっ! いい加減にしろ!」

 男は無意識のうちに、男の子が抱き着いたままの右足を、思い切り振り飛ばした。

 大人の力によって振り回された男の子の手は男の足からすっぽ抜け、男の子の体はそのまま後ろへと吹っ飛んでしまう。

「あうっ!?」

 背中から壁にぶち当たった男の子は、短い呻き声を上げながら床の上に倒れた。

「しまった…」

 結果的にまだ小さな幼児に対して暴力をふるってしまう形となった男は、顔を真っ青にして床に倒れたまま動かなくなってしまった男の子のもとに駆け寄った。

「君…!」

 俯せに倒れている男の子の近くに跪く。

「君…! 大丈夫か…!」

 男の子の背中を揺さぶった。

「君…!」

 返事をしない男の子に男の顔がますます青くなっていく中で。

 

 

 男は、咄嗟に両手で両耳を押さえた。

 鼓膜を劈くような強烈な高周波音がまるで耳鳴りのように頭の中に響き渡ったからだ。

 男は耳を襲う鋭い高周波音に歯を食いしばり、顔を顰めながら、方々に視線を送り、音の出所を探る。

 

 そして男の視線が行き付いた先。

 部屋の中央に鎮座する、大きな円筒形のガラス管。

 水槽の中に漂う人のような形をした「それ」が、2つの手のような部分をガラス面に張り付かせている。

 そして最後に見た時には何もなかったはずの頭のような部分の真ん中に、丸い穴を開けていた。

 

 それはまるでスピーカーのような、あるいは人の口のような形をした穴。

 「それ」はその穴を懸命に振動させている。

 懸命に振動させて、そして聴く者の鼓膜を壊してしまいそうな高周波音を鳴り響かせている。

 そしてその穴が懸命に鳴り響かせる高周波音は、その音波が届いた周囲のあらゆるものを共鳴させ始めた。

 

 そしてその共鳴は、ついに水槽を囲うガラスに亀裂を走らせ始める。水槽の中に満たされた液体は生じた僅かな隙間も見逃さす、ガラスの亀裂からは勢いよく液体が漏れ始めた。

 ガラスを共鳴させる音波と、内部からの水圧に崩壊を始める水槽。最初は微かな隙間に過ぎなかった小さな亀裂は瞬時に水槽のガラス全体へと広がり、そしてついにガラスは粉々に砕け散った。

 割れた水槽から一気に流れ出す液体。

 そして水槽の中で漂っていた「それ」も、大量の液体と共に外の床へと滑り落ちた。

 

 全身に濁った液体を纏わりつかせながら、初めての「外界」へと降り立った「それ」。

 初めての自重というものを感じながら、「それ」は2本の「足」でゆっくりと立ち上がった。

 

 

 ガラス張りの檻の中から解き放たれた何か。

 人の形を成した、人成らざるもの。

 根源的な恐怖と本能的な嫌悪を感じたワークキャップの男は、反射的にブルゾンの内ポケットに隠していた拳銃を抜き出していた。

 

 狙いもそこそこに放たれた一発目は、人成らざるものの足もとの床を抉る。

 そして二発目。

 放たれた銃弾は、人成らざるものの肩のような部分にぶち当たる。肩から伸びた、人の腕のような枝が根元から捥げ、吹き飛び、切断面から大量の赤い液体が噴き出した。

 さらに三発目。

 その銃弾は人成らざるものの胴体に当たり、体の真ん中に大きな穴を穿つ。溢れ出る赤い液体が床に広がる濁った液体と混ざり合い、部屋全体へと広がっていく。

 

 2発の銃弾に体を抉られた人成らざるものは遂にその場に片膝を付く。

 男は片手で構えていた拳銃を、両手で持ち直した。

 より安定した銃身の先端にある銃口は、まっすぐに人成らざるものの頭部のような部分へと向けられている。

 男は叫んだ。

 

「お前は生まれてきてはいけなかったんだ!」

 

 引き金に掛けられていた指を、全力で引き絞った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヤット

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    アナタニ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       サワルコト

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          デキタ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 体全体を包む温かな感触に、彼の視界がうっすらと広がる。

 

「やあ…、レイ…」

 

 ぼんやりとした意識の中で、視線の先にある「顔」に向かって微笑み掛けた。

 

 肩から力なく下がった腕の先端が、床の上の何かに触れる。それは彼が持ってきた図鑑。彼はその図鑑を両手で拾い上げ、「顔」に向かって見せる。

 

「きょうは…、この…、ほん…、もってきたんだ…」

 

 分厚い装丁の表紙に描かれたのは、きらきらと光る大きな石。

 

 

  ナニ…? コレ…?

 

 

「きみに…、えらんで…、ほしかったんだ…」

 

 

  コレ…ヲ…?

 

 

「うん…」

 

 

  ナニヲ… エラベバ… イイノ…?

 

 

「ぼくたち…、ケッコン…、するんだろ…?」

 

 

  ウン…

 

 

「だったら…、ケッコン…、ゆびわ…、つくらないとって…」

 

 

  ユビワ…

 

 

「うん…。きらきらひかるいしをつけたわっかを…、きみのゆびにはめるんだ…」

 

 

  ワタシノ… ユビニ…

 

 

「うん…。だからきみに、いしを、えらんでもうおう…、おもって…」

 

 

  ワタシニ…?

 

 

「うん…。どれがいいかな…」

 

 

  ドレ…?

 

 

「うん…」

 

 

  ワタシガ… エラブ…?

 

 

「うん…」

 

 

  イイノ…?

 

 

「うん…」

 

 

  ワタシガ… エランデ… イイノ…?

 

 

「もちろんだよ…。だって…、きみのための…、ゆびわなんだから…」

 

 

  ワタシノ… タメノ…?

 

 

「うん…。そうだよ…」

 

 

  ワタシノ… 

 

 

「うん…」

 

 

  ワタシタチノ…

 

 

「うん…、ぼくたちの…」

 

 

  タメノ…

 

 

「ぼくたちの…、ための…」

 

 

 

 何処からか伸びてきた白く細い枝が、男の子の持つ図鑑の表紙を指した。

 

 

  コレ…

 

 

「え…?」

 

 

  コレ… イイ…

 

 

「え? これでいいの?」

 

 

  ウン… キラキラヒカッテ…

 

 

「うん…、とてもきれいだね…」

 

 

  コレガ… キレイ…

 

 

「うん…」

 

 

 鉱物図鑑の表紙を飾るのは、赤く煌めく紅玉の石。 

 

 

「じゃあ…、いつか…、これで…」

 

 

  ウン…

 

 

「これを…、もって…」

 

 

  ウン…

 

 

「むかえに…、いく…から…」

 

 

  ウン…

 

 

「きみを…」

 

 

  ウン…

 

 

「むかえ…に…、いく…、から…」

 

 

  ウン…

 

 

「やく…、そく…、だよ…」

 

 

  ヤク…ソク…

 

 

「そう…」

 

 

  ウン…

 

 

 

 

 重厚感のある大きな図鑑が彼の細い腕からずるずると落ち、そしてゴトンと音を立てて床へと落ちる。

 重力に引かれた彼の短い腕が、ぶらりと床に向かって下がった。

 閉じられる瞼。

 彼の小さな鼻の孔から漏れる、規則的な呼吸。

 

 彼の小さな体を支えていた何本もの白く細い枝が、彼を優しく包み込んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  アリガトウ…

 

 

  イカリ… シンジ…

 

 

  ワタシニ… ”ナマエ”ヲ… アタエテ… クレテ…

 

 

 

  アリガトウ…

 

 

  イカリ… シンジ…

 

 

  ワタシニ… ”ヒト”ノカタチヲ… アタエテ… クレテ…

 

 

 

  アリガトウ…

 

 

  イカリ… シンジ…

 

 

  ワタシニ… ”ヒト”ノココロヲ… アタエテ… クレテ…

 

 

 

 

  ゴメンナサイ…

 

 

  イカリ… シンジ…

 

 

  ヤクソク…ヲ

 

 

  マモレ… ナクテ…

 

 

 

  オマジナイヲ…

 

 

  ズット ズット 

 

 

  イッショノ オマジナイヲ

 

 

  マモレナクテ…

 

 

 

 

  デモ…

 

 

  ダイジョウブ…

 

 

 

  ワタシガ…

 

 

  キエテモ…

 

 

  カワリハ…

 

 

  イル…カラ…

 

 

 

 

  デモ…

 

 

  ダカラ…

 

 

 

  ソウ… 

 

 

  ダカラ…

 

 

 

 

 

  ”オマジナイ”…ヲ

 

 

  カケヨウ…ト

 

 

  オモイ…マス…

 

 

 

 

  ツギニ…

 

 

  ウマレテ…クル…

 

 

  ”ワタシ”…ヘ…

 

 

  ワタシ…カラノ…

 

 

  ”オマジナイ”…ヲ…

 

 

 

  ツギ…ノ…

 

 

  ”ワタシ”…

 

 

 

  ”ワタシ”…ノ…

 

 

  ソノツギ…ノ ””ワタシ””

 

 

 

  ソノ ツギ モ…

 

 

  ソノ ツギ モ…

 

 

  ツギ ノ ソノ マタ ツギ モ…

 

 

  ツギノ ツギノ ソノ マタ ツギ モ…

 

 

  ズット ズット ズット

 

 

  ソノサキモ…

 

 

 

 

  ドンナニ

 

 

  ワタシガ 

 

 

  ウマレカワッタト シテモ…

 

 

 

 

  ワタシハ…

 

 

 

 

  “レイ“ハ…

 

 

 

 

  イカリ シンジ クン…

 

 

 

 

  アナタヲ 

 

 

 

 

  永遠ニ

 

 

 

 

  愛シ 続ケルト

 

 

 

 

  誓イマス。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄暗い部屋に駆け込んだ瞬間、メガネの男は息を呑んだ。

 部屋の中央に鎮座していたはずのガラス張りの水槽は砕け、床に赤く濁った液体を広げている。

 そして、その砕けた水槽の台座の前に居た「怪物」。

 白い肉の塊の上に藻のような青い毛を乗せる「怪物」は、その中核である大きな肉の塊から無数の白い枝を方々に延ばし、部屋の中を埋め尽くしていた。

 

 男は、ドアの近くの壁に伸びていた白い枝の一本に、恐る恐る触れてみる。

 枝は冷たく、そして彼が触れた瞬間、触れた個所が赤く光り、そしてまるで水風船に針を立てたように枝は弾け、床にオレンジ色の液体をまき散らしながら消失した。

 

 床に広がるオレンジ色の液体を呆然と眺めていたら、何処からか呻き声が聴こえた。

 薄暗い室内のあちこちに視線を這わせると、壁の隅に、白い枝が束になって伸びている個所があった。その束になった枝は、何かを壁に押し付けている。

 近づいてみると、枝が押し付けていた何かは人であると分かった。

 

 白い枝によって壁に磔にされた人物。

 ワークキャップを被った、作業着の男。

 枝によって凄まじい勢いで叩き付けられたと見え、彼が背にする壁には放射状に亀裂が走っている。当然、作業の男の体も無事では済まないだろう。

 

 作業着の男の目が、うっすらと開いた。

 その視界に収まるのは、目の前に立ったメガネの男。

 

「きさま…、碇…ゲン…」

 

 メガネの男は、作業着の男が自分の名前を言い終える前に、その顔に己の右拳を叩き込んでいた。

 鈍い音と共に、作業着の男の口からくぐもった悲鳴が漏れる。

 メガネの男は作業着の男の鼻に叩き込んだ拳を振り翳すと、2発目を叩き込む。2発目は男の顎へ。

 3発目は男の右頬へ。

 4発目は男の左目へ。

 5発目は男の額へ。

 前頭骨に正面からぶち当たったメガネの男の右拳は中指と薬指の骨に亀裂が入ったが、メガネの男は構わず6発目、7発目を加えていく。

 その拳が作業着の男の顔面に叩き込まれる度に、ぐしゃり、ぐしゃりと、骨が砕け、肉と血管が破裂する音が鳴り響いた。

 

 

 ぐしゃり

 

「ま…」

 

 ぐしゃり

 

「まて…」

 

 ぐしゃり

 

「まって…くれ…」

 

 ぐしゃり

 

「お…、おれは…」

 

 ぐしゃり

 

「ないむ…しょう…」

 

 ぐしゃり

 

「ちょうさ…」

 

 ぐしゃり

 

「きょく…」

 

 ぐしゃり

 

「ぐぇ………」

 

 

 その拳はついに作業着の男の顎を破壊し、男から発語する術を奪った。

 

 

 

 メガネの男から遅れること2分。

 長身の男もまた、メガネの男と同様に薄暗い部屋に入った瞬間に息を呑んだ。

 まるで太古から大地に根を生やした大樹のように方々に伸びる無数の白い枝。

 その白い枝が集まる部屋の中央。

 床に横たわる、白い肉の塊。

 その白い肉の塊から伸びる繊細な数本の枝は、小さな男の子を優しく包み込んでいる。

 

「自ら…、ヒトの枠を超えたか…」

 

 そう呟いた長身の男は肉の塊に近付こうとして、部屋の隅からあまり神経によろしくない鈍い音が何度も鳴っていることに気付いた。視線をやると、肉の塊から伸びる数十本の太い枝によって壁に磔にされている作業着の男の顔面を、メガネの男が殴り続けている。

 長身の男は目を閉じ、小さく溜息を吐くと、歩く方向を変える。

 彼の同僚は、なおも作業着の男を殴り続けている。

「セキュリティのログを調査した結果、数日前からこの部屋のロックを一時的に解除するよう、細工をした形跡があった。内部の何者かが、その男の侵入を手引きしたらしい」

 同僚の背中に語り掛けたが、同僚の拳は未だに人の顔を殴り続けていた。殴られ続けた男の顔はすでに半壊状態。砕けた頭蓋骨の隙間からは、脳味噌までが見え隠れしている。

 

 長身の男がやれやれと肩を竦ませたその時。

 

 部屋中に伸びていた無数の白い枝が、一斉に崩壊した。

 まるで花火のように、一斉に弾けた枝たち。

 弾けた枝からはオレンジ色の液体が溢れ出し、部屋中の床を満たしてしまう。

 

「固体を保てなくなったか…」

 長身の男はズボンの裾を汚す液体を睨みながら呟く。

 磔にしていた白い枝が消え、作業着の男の体が床に落ちたところで、ようやくメガネの男の拳は人体破壊を止めた。作業着の男は液体に溢れる床に突っ伏しながら、ぴくりとも動かない。

 メガネの男は瞬時に作業着の男から興味を無くすと、液体を掻き分け、枝と同時に崩壊してしまった白い肉の塊があった場所へと行く。

 

 オレンジ色の液体の上に揺蕩う、青色の毛髪。

 メガネの男はその毛髪を左手で拾い上げると、血塗れの右手で優しくその毛髪を撫でた。

 

 足もとから、呻き声がした。

 液体の中で、小さな男の子が仰向けに倒れている。

 

 メガネの男は、その時になって初めて男の子の存在に気付いたかのように、2度ほど瞬きをして男の子を見下ろした。

 

 手に絡みつく青い毛髪を見つめて。

 

 そして男の子を見下ろして。

 

「お前もか…」

 

 男の口から、呻くような低い声が漏れた。

 

「お前も…、私から…、全てを奪っていくのか…」

 

 青い毛髪を握り締める。

 

「シンジ…」

 

 我が子の名を呟く男の口の奥から、歯軋りの音が漏れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の壁に掛けられた内線用の電話が鳴った。長身の男が電話に出る。

「なに…?」

 電話相手からの報告を聴いた長身の男の声が上ずった。短い通話を交わした後、電話を切る。

「碇…」

 声を掛けると、メガネの男は足もとに倒れている男の子に落としていた視線を、ゆっくりと長身の男に向けた。

 氷のように冷え切った男の視線を受け、長身の男は背中に走る冷たいものを感じながら報告した。

 

「コアから、新たな「肉塊」が生まれたようだ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 長身の男はこの日何度目かの溜息を鼻から漏らしながら、彼の視線の先にある同僚の背中を見つめていた。

 同僚。

 メガネの男は、ガラス張りの大きな水槽に両手を張り付け、額をくっ付けて、熱心にその中身を覗き込んでいる。

 

 液体で満たされた円筒形の水槽。

 その液体の中を漂うもの。

 

 それは一人の少女。

 

 白磁のような肌。

 淡い青の毛髪。

 薄桃色の唇。

 鋭角に伸びた鼻。

 毛髪と同じ色の睫毛。

 そして閉じらた瞼。

 

 

 

「ここまで再現することには成功したが…。よいのか、碇…」

 長身の男が名前を呼んでも、メガネの男は振り返らない。そんな男の背中を苦々しく見つめながら、長身の男は続ける。

「確かに検体2号はヒトの形を成した…。しかしそれは検体1号があの子供…。お前の息子との接触で来たした変調をそのまま再現するべく調整した結果だが…」

「構わん」

 メガネの男は短く答えた後、再び口を閉じ、熱心に水槽の中の少女を見つめる。

 長身の男はたたでさえ細い目をさらに細め、そしてまたもや溜息を吐く。

「その変調がいつかお前の足もとを掬うのではないかと…、俺は不安で仕方が無いのだよ…」

 誰に聞かせる訳でもなく、長身の男は小さな声で呟いた。

 

 

 

「ユイ…」

 

 メガネの男は水槽の中の少女に向かって呼び掛ける。

 穏やかな声で。柔らかい声で。

 

 少女は目を閉じたまま。

 

「ユイ…」

 再び呼び掛けてみる。

 他の誰にも聞かせたことはない。それこそ息子にも聞かせたことがない。

 彼なりの愛情を全て込めた声音で。

 

 しかし少女の目は閉じたまま。

 

 

 ガラス面に張り付いていた男の手が拳を作る。

 その額が、1度、2度とガラス面を軽く小突いた。

 

 男は目を閉じ、下唇を噛み締める。

 

 意識的に、大きく息を吐いた。

 

 そして目を開き、水槽の中の少女を見つめた。

 

 

「レイ…」

 

 

 まるで呪詛を吐き出すように、その名を口にした。

 

 

 

 水槽の中の少女に、変化が生じた。

 

 伏せられていた睫毛が揺れる。

 

 閉じられていた瞼が、ゆっくりと上がる。

 

 瞼の向こうから現れた瞳。

 

 男が初めて目にする少女の瞳。

 

 その瞳が、目の前に立つ男の顔を見つめていた。

 

 

 

 

 

 まるで宝石のように輝く、赤い瞳が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

える・あ~る・えす ざ・びぎにんぐ《終》

 

 

 

 




 



☆ぼやき☆
書いている人間は頭が弱いので、「人の枠を超えないための好意調整の対象が碇シンジ」の理屈がイマイチ理解できないのですが、いずれにしろシン・エヴァ初見時、アスカさんの口から俗に言う「好意プログラム」が飛び出た時に、「え? つまり綾波って碇くん好きにならんと人ではおれんっちゅうこと? これってもうLRSエンドにするしかないやん」と一瞬でも期待した当時の自分をぶん殴ってやりたい。



 


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(53)覚醒


 



☆これまでのあらすじ☆
概ね原作通り


※ここから大幅に改変が始まりますが、特に捻りのない、王道的展開です。



 







 

 

 

 

 朝靄が漂う小径。 

 赤毛の彼女に2度も蹴っ飛ばされた背中の痛みに顔を顰めつつ、バケツとたも網、そして釣り竿を持って、道端に咲く野花の数を数えながら歩いていたら、ふと地面が暗くなった。今朝は雲一つない快晴だったはずなのに、と視線を空へと向けたら、そこには空を覆いつくすほどの大きな影が浮いていた。

 空を見上げる少年。

 碇シンジは、空を塞いでしまったその大きな影の正体を知っている。

 彼の元上官であり、元同居人であり、元保護者である女性とその仲間たちが乗り込む、超大型飛行戦艦。

 おそらくこの村に滞在しているエヴァンゲリオンパイロットの、赤毛の彼女を迎えに来たのだろう。あるいは、あの艦から脱走した自分を拘束しに来たのかもしれない。

 いずれにしろ、自分がこの村に滞在できる時間はそう長くはないのかもしれない。中学時代の旧友は、いつまでもこの村に居たらいいとは言ってくれたが。もう一人の旧友は、機会があれば父親と話しをしてみたらどうだと言っていたが。

 

 先日、その旧友に紹介された一人の少年のことを思い出す。

 父親のことを知らない彼。

 父親の顔を見ることも、話すことも許されなかった彼。

 自分に与えられた名前が持つ意味も知らないで生きている彼。

 

 あの人は、自分の子。

 自分が愛した男性との子に。

 どんな気持ちであの名前を与えたのだろうか。

 

 

「ああ、そうだった…」

 あの少年のことを思い浮かべていたら、今の自分に与えられた難題のことを思い出し、シンジは困ったようにポリポリと頬を掻く。

「彼女の名前…、決めてあげないと…」

 

 気が付けばその足は目的地へと辿り着いていた。

 さざ波一つ立たない、静かな湖。その湖の畔に立つ廃墟。

 自分に課せられた仕事を果たすべく、毎日通い詰めた場所。

 自分の処遇がどうなるにせよ、自分がこの村を離れるその時が来るまで、せめて魚1匹くらいは釣って、彼らに恩返しをしておきたい。

 

 崩れたコンクリートの壁の隙間から、廃墟の中へと入る。

 直方体の建物。屋根はなく、四方の壁の内、湖に面している壁は綺麗に崩れ、床は所々が崩落している。

 その床の端。

 穏やかな湖を背にして立つ人影。

 

 彼女の存在を認め、心の中にほっと安堵感を抱く自分に、ちょっとした驚きを覚える。

 護りたかったもの。それこそ、世界と引き換えにしてでも救いたかった存在。

 それと姿形がそっくりな彼女。それでも決定的に違う彼女。

 彼女と向き合う時。それは自分が失ったもの、護れなかったもの。そして自分が犯した大罪と、正面から対峙させられているようであり、顔を見るのも辛かったはずなのに。

 

 彼女は。黒のプラグスーツを身に纏った空色髪の彼女は、穏やかな笑みを浮かべながら言った。

 

「おはよう…」

 

 シンジの顔も、釣られて笑顔になる。

 

「おはよう」

 

 廃墟の中。

 まるで劇場の舞台のような場所。

 その中央に2人は立ち、お互いを向き合う。

 

「どうしたの? こんな朝早くに」

 そう訊ねたシンジに、彼女は一歩歩み寄った。

「碇くんに…、会いたかった…」

 そして胸に抱いていた黒の筐体をシンジに差し出す。

「これ」

 彼女の手の中にあるのは、角が欠けたりてあちこちが凸凹になっている古い携帯型音楽プレイヤー。以前、彼女から渡された時には無言で叩き返したものを、シンジは素直に受け取った。

 暫く手の中の音楽プレイヤーを見つめていて。

 そして彼女の顔を、正面から見つめる。

「頼まれていた名前…、だけど…」

 

 見つめた先にあるのは、彼女の穏やかな笑み。

 その笑みの向こう側に見えたような気がした。

 3つの人影を。

 横に並ぶ、3人の幻影を。

 中央には先日会ったばかりのあの少年。その左側には彼の母親が、そして右側には彼の父親が立っている。彼らの一人息子を囲むように、肩を寄せ合って立つ家族。この世界では、決して見ることができないその姿。

 少年の右側に立つ父親は、もうこの世界には居ない。

 その父親の名前を引き継いだ少年。

 その名前を自分の子に引き継がせた母親。

 

 湖の方から、一陣の涼やかな風が吹き抜けた。目の前に立つ彼女から少し視線を外し、風が吹いてきた湖の奥の方を見つめる。

 目の前に立つ彼女が初めてここを訪れた時。自分がまだ絶望の淵を彷徨っていた頃。この湖の奥の方に、「彼女」の姿を見たような気がした。

 

 改めて彼女に視線を戻す。

「綾波は…」

 

 

 彼女に向けて何かを告げようとした口を、シンジは咄嗟に噤んだ。

 

 彼女の背後に、一人の男性の姿を見たような気がしたからだ。

 彼女「たち」をこの世界に生み出した男。

 この世界から消えた最愛の人を、「綾波レイ」として蘇らせた男。

 母親の代替品として「綾波レイ」を愛でていた父親の幻影を見たような気がして、シンジは喉まで出掛かっていた言葉を飲み込む。

 

 

「ごめん…」

 

 代わりにシンジの口から出たものは、謝罪の言葉だった。

「君の新しい名前…。僕には思いつかなかったよ…」

 そう告げるシンジの顔に広がる悲しみの色。そんな彼の表情を、洗い流すような笑顔を目の前の彼女は浮かべている。

 

「ありがとう」

 

 彼の謝罪の言葉に対して彼女の口から出たのは感謝の言葉。

 

「名前、考えてくれて。それだけで嬉しい…」

 裏表のない、透き通った彼女の声。

 そんな彼女は、さらにもう一歩、シンジへと近づいた。

 そして両腕を広げ。

 さらにもう半歩、シンジへと近づき。

 広げた両腕をシンジの背中に回そうとして。

 

 危うく彼女に抱き着かれそうになったシンジは、慌てて2歩ほど後退し、彼女から遠ざかる。

「な、何度も言ってるだろ。ダメだよ、急に人に抱き着いちゃ」

 しどろもどろな口調で抗議するシンジに対し、彼女は2度ほど大きく瞬きをして、寂しそうに自身の空っぽの両腕に視線を落とした。

「命令?」

 ぽつりと呟く彼女。

「え?」

「それは、命令?」

 彼女にそう訊ねられたシンジは、半ば自棄っぱちになりながら小刻みに頷く。

「あ、ああそうさ。命令だよ。これはメイレイ」

 そんなシンジに、彼女はくすりと笑った、

「やだ」

「え?」

「私、もう、命令聞かない。命令は、必要ない」

 「この顔」では見たことのない、心の底から溢れ出るような笑顔を浮かべている彼女に、シンジはぽかんとしてしまう。

「でも…」

 彼女は空っぽの両手を腰の後ろに隠す。

「碇くんが、嫌なら、しない…」

「べ、別に嫌、という訳じゃ…、ないけど…」

 

 彼女は両手を後ろに組んだまま、シンジから一歩遠ざかった。

 

「ここじゃ生きられない…。けど、ここが好き」

 

 そう呟く彼女は目を閉じながら、鼻から大きく息を吸い込んでいる。まるでこの世界の全てを、空気を通じて感じ取ろうとでもしているかのように。

 そして少しずつ息を吐き出しながら、再びにっこりと笑い、シンジを見つめる。

 

「好きって分かった。嬉しい」

 

 自身の胸に両手を当て、噛み締めるように言う。

 

「稲刈り、やってみたかった」

 

 さらに一歩、シンジから遠ざかる彼女。

 

「ツバメ、もっと、抱っこしたかった」

 

 さらにもう一歩。

 

「好きな人と…」

 

 シンジの顔をまっすぐに見つめる彼女の体は、廃墟の壁を背にしたところで止まった。

 

「ずっと、一緒に居たかった」

 

 

 何か予感めいたものがあったのかもしれない。

 

「綾波っ!」

 

 無意識のまま彼女の名前を叫んだシンジは、遠く離れてしまった彼女のもとへと駆け出す。

 目を閉じ、体を大きく傾け始めた彼女。

 懸命に足を前に出し、今にも倒れてしまいそうな彼女へ駆け寄り、そして両腕を前に出し。

 ようやく辿り着いた彼女の細い体を、力強く抱き締める。

 彼女の体が何処にも行ってしまわないように。

 「あの日」の彼女のように、消えてしまわないように。

 

 少年の腕の中の少女。

 彼女の両手は遠慮がちに彼の背中へと回され。

 

 

「さよ…なら…」

 

 

 彼の耳元に囁かれた小さな呟きと共に、彼の顔に数滴の水飛沫が掛かり、そして彼の腕から彼女の体の感触が消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「アスカなら知ってるんだろ! 綾波はどこなんだよ!」

 

 

『知らない…』

 

 

「知らないって…、助けたんだよ、あの時!」

 

 

『人ひとりに大袈裟ね…。もうそんなことに反応してる暇なんてないのよ、この世界には』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「綾波はどこなんですか! 教えてください! ミサトさん!」

 

 

『シンジくん…、綾波レイはもう存在しないのよ』

 

 

「いいえ…、確かに助けたんだ! きっとまだ初号機のプラグの中に居ます! よく探してください!」

 

 

 

 

「父さんの…、あの時綾波が持ってた…。やっぱり助けたんじゃないか…!」

 

 

 

 

 

『レイはもういないのよ! シンジくん!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『君はお母さんを覚えているかね?』

 

「この人は…、…あやなみ…?」

 

『君の母親だ。旧姓は「綾波ユイ」。大学では私の教え子だった。今はエヴァ初号機の制御システムとなっている』

 

『エヴァのごく初期型制御システム。ここでユイくんが発案したコアへのダイレクトエントリーを、自らが被験者となり試みた。君も見ていたよ。記憶は封印されているがな』

 

『結果、ユイくんはここで消え、彼女の情報だけが綾波シリーズには残された。君の知っている綾波レイは、ユイくんの複製体の一つだ』

 

『その娘も、君の母親同様初号機の中に保存されている』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 けたたましいブザーの音。

 薄闇を切り裂く警告灯の光。

 方々から湧き上がる、科学者や技術者たちの怒号、悲鳴。

 

 その渦中にあって、とりわけ狂騒と恐慌と混乱に陥っている男が一人。

 彼は彼らが居るモニター室と、被検体が居る実験房を隔てる強化ガラス製の壁を両拳で何度も叩き、誰かの名前を声を嗄らしながら叫んでいる。

 寥廓たる実験房の床からは巨大な赤い球体がその一部を覗かせており、天井からはその球体に向けて2本の太いワイヤーロープが吊るされていた。まるで大量のマグマを抱える火口のように怪しげな光を放つ赤い球体の中へと沈んでいるワイヤー。その先端は見えない。天井に設置された2基のウィンチは火花を舞い散らせ、耳を劈くような金属音を鳴り響かせながら、最大限の速さで長い長いワイヤーロープを巻き取っている。

 

 やがて、光り輝く球体の中から、ワイヤーの先端が現れた。

 

 ぷつりと途切れたワイヤーの先端。

 

 それが現れた瞬間、男の悲鳴が、一際大きくなった。

 男は両手で頭を抱え、身を捩らせ、獣のような叫び声を上げると、大きな強化ガラスの一角にある扉に駆け寄り、ドアノブを何度も捻るが、自動ロックが掛かったドアは1ミリメートルも開かない。男が何度となく体当たりをしても、小動もしない。男は強化ガラスを拳で叩き、さらにはその額をもガラスに打ち付ける。掛けていたメガネのレンズが割れ、フレームが歪み、カタカタとけたたましいブザーの音に比べれば遥かに慎ましい音を立てて床に転がっていく。強化ガラスには男の割れた額や拳から滲んだ血が、べっとりと付着している。

 自分の肉体のみではこの扉も強化ガラスも砕けないと悟った男は、近くにあった重い椅子を持ち上げるとガラスに向けて投げ付けた。しかしショットガンでも撃ち抜けない強化ガラスはあっさりと椅子を跳ね返し、椅子は激しい物音と共に床に落ちて脚ももげてしまった。

 

 長身の男に指示された同僚の3人が恐慌状態の男の体を押さえに掛かったが、両腕と胴を拘束されてもなお男は暴れ回り、右腕を拘束していた同僚の顎を肘で撃ち抜き、自由になった右拳で左腕を拘束する同僚の頬を殴り飛ばし、最後に胴を拘束する同僚の腕からも逃れようと上半身を大きく振り回すが、さらに複数の同僚たちが男の体を抑え込みに掛かり、ついに男は床へとねじ伏せられてしまう。

 

 床にうつ伏せに組み敷かれた男は、顔だけを上げ、強化ガラスの向こうを見つめる。

 割れた額から血を垂れ流し、両目から大量の涙を溢れさせ、口の端からは大量の唾液の泡を吹き出し。

 そして懸命に口を開き、誰かの名前を叫んでいる。

 

 

 

 その男の子は、自分の父親が何人もの人間に抑え込まれる姿を、部屋の隅で身を縮ませながら見つめていた。

 そして父親の口が必死に呼ぶ名前が、自分の母親の名前であることは分かっていた。

 母親の身に。

 あの大きなガラスの向こうに居るはずの母親の身に、何か良からぬことが起きていることも分かっていた。

 

 それでも今の男の子の目には。その頭には。

 哀れなまでに顔全体を歪ませ、顔中の穴から液体をまき散らし、そしてまるでその2文字しか知らないとばかりに同じ言葉を繰り返し叫んでいる彼の父親の姿しか入らなかった。

 

 男の子はただ恐怖した。

 

 何となく、疎まれていることは分かっていた。

 避けられていることは、幼心に感づいていた。

 

 それでも母親が愛した相手。

 自分に、「シンジ」という名を与えてくれた人。

 ぎこちない手つきで、何度もこの体を抱き上げてくれた人。

 

 男の子は、そんな父親の、見たこともない姿に、ただ恐怖していた。

 

 

 警告灯が消え、ブザーも止み、扉の自動ロックが解除される。長身の男を含めた何人かの科学者たちが、扉を開けて実験房へと入っていく。

 

 2分後。

 

 長身の男が実験房から戻ってきた。

 今もなお、数人の同僚たちによって床の上に組み敷かれている男の前に立つ。

 

 涙と鼻水と涎と血で汚れた顔で。

 悲痛に歪曲した顔で。

 それでもほんの僅かだけ期待を寄せた顔で、男は長身の男を見上げる。

 

 長身の男はそんな哀れな男の顔を5秒ほどじっと見つめ。

 

 そして目を閉じ。

 

 

 その顔を、ゆっくりと左右に振った。

 

 

 

 部屋中に、男の泣き叫ぶ声が充満する。

 

 聴く者の鼓膜を切り裂いてしまうかのような、心臓を鷲掴みにしてしまうかのような、魂を汚泥の中に引きずり込んでしまうような、男の悲鳴のような泣き声。

 

 

 男の子はその場に蹲り、目を閉じ、両耳を塞いだ。

 

 男の慟哭から逃げるように、体の中の全ての扉を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

『新弐号機! 全ての信号をロスト! パイロットの状況不明!』

 

 

『補機N2機関! 大破!』

 

 

『エヴァっぽい何かです! 取りつかれました!』

 

 

『艦内が物理的に浸食されていきます!』

 

 

『侵入速度が速すぎて対処が追い付きません!』

 

 

『マーク9! VD防壁を突破!』

 

 

『ダメです! コントロールが全部乗っ取られました!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全部…、思い出したんだね…」

 

 気が付けば、隣に「彼」が座っていた。

 爆破物で囲まれた物々しいガラス張りの部屋の中に置かれた簡易ベッド。

 そのベッドに座る少年。その隣に、「彼」が座っている。

 

 少年は手の中にある、父親がくれた携帯型の音楽プレイヤーを見つめながら頷いた。

「うん…、消去されていた…」

 そこまで言い掛けて、少年は頭を小さく左右に振る。

「僕自身も、忘れようとしていた…、忘れたいと願い、自分で封じ込めていた記憶…」

 顔を上げ、隣の「彼」を見つめる。

「全部、思い出したよ…」

 

 隣の「彼」はにっこりと笑った。

「回顧すれば、君の歴史は喪失の繰り返しだね」

 少年の心に寄り添うような、柔らかな「彼」の声音。

「母親が消え、父親は君の前から去り、君を慕ってくれた君の母親そっくりなあの子たちもみんな消えてしまった」

 少年は、苦々しく笑う。

「君も、だよ…」

 少年の指摘に、「彼」はほんの刹那、意表を突かれたような顔をしたが、すぐにやや大き目の口の端を上げる。

「悲しいかい…?」

「うん…」

「苦しいかい…?」

「うん…」

「こんな世界は間違ってる…、って思うかい?」

「うん…」

 素直に頷く少年の耳もとに、「彼」は口を近付け、そして囁いた。

 

「じゃあ…、全部無かったことにしてしまおうか…」

 

 少年は何も答えず、両手で持っている音楽プレイヤーを見つめている。

「エヴァに乗ったあの2人の攻撃もどうやら失敗に終わったようだ。この舟も新しい世界のための供物となるようだね。この世界は、もう、”詰み”だよ…」

 少年の指が、音楽プレイヤーの角に食い込む。

「そうなってしまう前に…」

 笑っている「彼」の口から零れる、凍てついた声。

「時間を巻き戻してしまえばいいのさ…。君がまだ、みんなと笑っていられたあの頃まで…」

 少年は音楽プレイヤーに視線を注いでいた目をぎゅっと閉じた。

「そうすれば、全部が元通りだ。君はいつものように彼女と彼女のために朝ごはんを作って、迎えに来てくれた彼と彼と一緒に学校に行って、教室に入ればいの一番に片隅で本を読んでいる彼女に声を掛ける。それはとてもとても退屈な毎日で、でも今振り返れば宝箱のように光り輝いていた日々だったはず」

 音楽プレイヤーの角に食い込んでいた少年の指が少しだけ緩んだ。

 

「全部無かったことにしてしまえばいい…。君の大切な人たちが、皆消えていく。こんな世界になんて、背を向けて…」

 

 少年の体から強張りが薄れたのを感じた「彼」は、すかさず告げる。

 

「全部無かったことにして…。自分の望む世界にしてしまえばいいのさ…」

 

 

 閉じていた少年の目が開いた。

 

 

「そうか…。そういうこと、か…」

 

 

 少年は顔を上げると、すぐ側にある「彼」の顔を見つめる。

 少年の黒曜石のような瞳。

 その澄んだ眼差しに見つめられた「彼」は柔らかく笑うと、ゆっくりと少年から顔を離した。

 

「ありがとう…、カヲルくん…」

 少年は目を細めながら、「彼」に向かって感謝の言葉を捧げた。

「どういたしまして。碇シンジくん…」

 「彼」もまた、目を細めて少年の謝意に応じる。

 少年は「彼」から視線を逸らすと、再び手に持った音楽プレイヤーを見つめた。

 

「僕、初めて父さんの気持ちが、分かったよ…」

 

 そう呟く少年の右手が、音楽プレイヤーの表面を優しく撫でた。

「うん…」

 少年のその右手を見つめながら、「彼」は柔らかく笑う。

「だから…、カヲルくん…」

 少年は隣の「彼」を見た。

「僕、父さんと会いたい…」

「うん…」

「僕は今、父さんと会って、無性に話がしたいんだ…」

「うん。そうだね」

 

 「彼」はベッドから立ち上がる。そしてガラス張りの壁へと近付き、やはりガラス張りの扉を大きく開けた。

「それじゃあ行こうか。碇シンジくん」

「うん」

 少年も立ち上がり、扉へと向かう。そして「彼」が大きく開けてくれている扉をくぐり、部屋の外へと出た。

 

 扉を開けてくれた「彼」は、部屋から出てこようとしない。

 少年は立ち止まり、肩越しに「彼」を見た。

 「彼」は扉枠に背中を預けながら、その場に佇んでいる。

 「彼」は少年の視線を受けて、くすりと笑いながら言った。

「分かってるはずだよ。僕は君が心の中で作り上げた、ただの幻想に過ぎない」

 「彼」の指摘に、少年は小さく頷く。

「この扉を開いたのは君の手であり、君をこの部屋から出したのは君の脚であり、君が再び立ち上がったのは君自身の意思に依るものだ」

「うん。分かってるよ」

 少年は身を翻し、「彼」に正面から向き直った。

「だからこれは、僕自身に対する誓いだ…」

「うん」

 「彼」はにっこりと笑い、扉枠から背中を離し、両手はズボンの中に突っ込んだままではあるが、背筋を伸ばして少年の言葉を待った。

 

「アスカを…、みんなを…助けたい…」

 

「うん」

 

「そして、君も、助けたい…」

 

「うん…」

 「彼」の声が、少しだけ震えた。

 

「だから待ってて。カヲルくん…」

 その決意を表すように、右手の中の音楽プレイヤーを握り締める。

 

「必ず迎えに行くから」

 

 そして少年もまた、にっこりと笑った。

 

「みんなを、迎えに行くから」

 

 握り締めた音楽プレイヤーを、胸元に当てた。

 

「綾波と、一緒に…。必ずみんなを、迎えに行くから…」

 

 「彼」は少しだけ潤んだ目で破顔する。

 

「うん。待ってるよ。碇シンジくん…」

 

 

 

 



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(54)時をかける声

 

 

 

 

 赤色灯の光と警報で満たされた廊下を歩き、階段を昇る。

 半ば恐慌状態に陥っている乗組員たちと何度もすれ違うが、誰も彼の存在に気を留める余裕はない。

 少年は静かに歩いた。人ごみを掻き分け、充満するガスを貫き、崩壊し掛けの足場を踏んで。

 何かに導かれるように、見知らぬ廊下を、階段を、梯子を進んでいく。

 

 そして一つの大きなハッチに辿り着く。

 ハンドルを回し、ハッチのロックを解除すると、この大き過ぎる舟の甲板に出た。

 

 最初に見えたのは、赤銅色に染まった空。

 その空を背に浮かぶ、4本の腕を持つ異形の白に染まる巨人。

 その白い巨人が抱く、四肢を捥がれた赤に染まる巨人。

 

 甲板の上には、白い巨人を前に立ち竦む2人の女性。

 一人は金色の髪を短く刈り込んだ女科学者。

 そしてもう一人は、赤いジャケットを着た少年のかつての保護者。

 

 白い巨人が唸り声を上げながら、堅牢な歯が並ぶ口を大きく開いた。

 その口に向かって浮遊する人影が一つ。

 それは、彼が会いたいと願った人物の背中。

 

 碇シンジは呼び掛けた。

 

「父さん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 回顧すれば、葛城ミサトの半生は後悔の繰り返しだった。

 

 父親のこと。

 愛した男性のこと。

 息子のこと。

 人類を救うためと信じ、身を奉じた組織のこと。

 そして、碇シンジのこと。

 

「父さん」

 

 背後から声。

 振り返ると、後悔の一つ。

 碇シンジが甲板の上に立っていた。

 

 

 

 

 碇シンジは異形の白い巨人に向けて浮遊する人影に向かって呼び掛けていた。

 

 しかし人影は振り返らない。

 

 白い巨人の口に辿り着いた人影は、岩のような歯の上に乗ると、一歩、また一歩と、巨人の舌の上を歩いていく。

 やがて人影は、巨人の真っ暗な喉の奥へと、その姿を消してしまった。

 

 口を閉じた白い巨人は再び大きな唸り声を轟かせる。

 2本の腕で手足を捥がれた巨人を抱き、残りの2本の腕には1本ずつの槍を携えて、そしてこの大き過ぎる舟から離れ、そして直下にあるぽっかりと開いたブラックホールのような穴へと向かって降下を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 碇シンジは甲板の淵に立ち、この大き過ぎる舟の直下の空間に開く、ブラックホールのような巨大な穴を。異形の白い巨人が降下していった穴を。彼の父親が消えていった穴を見下ろしていた。

 彼の背後では、この大き過ぎる舟、超大型飛行戦艦ヴンダーの艦長である葛城ミサトと副長の赤木リツコが話し込んでいる。

「もはや我々ヴィレには人類補完計画を止める術はない…。”万事休す”…ね…」

「諦めるにはまだ早いわ…。私たちはヴィレ。私たちが諦めない限り、”意志”という槍が折れることはない…」

「でも艦はボロボロ。主機も補機も失ったまま。こうして浮いてるだけでも奇蹟なのよ…」

「それで結構。予備動力が尽きる前に…、更なる奇蹟を起こ……何をしようとしているの! 碇シンジくん!」

 

 葛城ミサトは素早く身を翻すと、腰のホルスターから拳銃を抜き、碇シンジの背中に銃口を向けた。

 金属製の床が尽き、何もない空間に次の一歩を踏み出そうとしていたシンジは、背中にかつての保護者の厳しい声を受けて、出し掛けていた右足を止めた。

 振り返って、少し離れた場所に立つ2人の女性たちと正対。そして、遠慮がちに言う。

「父さんのあとを、追おうと思って…」

 ミサトは拳銃を構えたままかつての被保護者に向かって氷の刃のような声を放つ。

「碇ゲンドウを追って…、何をすると言うの…!」

 シンジはかつての保護者のサングラスに隠れた目を、真っすぐに見つめながら言う。

「父さんと、話しがしたいんだ」

 その返事を聴き、ミサトは体温が急速に膨れ上がるのを自覚した。体内の熱を追い出すように鼻から大きく息を吐きながら、ミサトは努めて平坦な声でかつ事務的に言う。

「ヴンダーの艦長として、ヴィレの最高責任者として、それは許可できません」

 対するシンジも淡々と、事務的に伝えた。

「僕は、父さんと話しをしたいだけなんです」

「いいえ。あなたに碇ゲンドウと会って、話をする必要はない」

「何故です。ミサトさん」

 

 

 

 

 回顧すれば、後悔の繰り返しばかりの半生。

 あの時、碇シンジの問いにあえて答えなかった自分。

 14年ぶりに目覚めて、混乱の中にある彼の問いに正面から向き合わなかった自分。

 

 

 

 

 ミサトは短い呼吸を2回ほど繰り返した後、慎重に言葉を選びながらシンジの問いに答えた。

「サードインパクトの起因となるニア・サードインパクト。そして先のフォースインパクト。碇ゲンドウが主導したインパクトにおいて、シンジくん。あなたが全てのインパクトのトリガーになっているのよ」

「分かっています。ミサトさん」

 そう答えるシンジの表情には、動揺も迷いも見られなかった。

「いいえ、あなたは分かっていない」

 それがかえって、ミサトの心の中の不安を煽り立てるのだ。

 

「危険過ぎるのよ、シンジくん…」

 

 努めて平坦に響かせていた声が崩れ始めた。

 

「でも僕は…」

「もういいのよ! シンジくん!」

 

 この艦の。そして組織の最高責任者としての仮面が崩れ始めた。

 

「でもミサトさん。僕は…」

「もういいの! あなたがこれ以上、何かを背負う必要なんて、ないのよ…」

 

 崩れた仮面の向こうから現れたもの。

 

「ミサトさん…」

「これ以上、私たちが犯した罪を、あなた一人が背負う必要なんて、ないの…」

 

 それは、少年のかつての同居人であり、保護者であり、成長過程にある子供に過ぎなかった少年の側に寄り添い、支えてきたお姉さんの顔。

 

 

 

 回顧すれば後悔ばかりの半生。

 「あの時」。世界と引き換えにしてまで一人の少女を救おうとした彼の背中を、届かない声で後押しした。

 それについての後悔はない。

 あの瞬間。人類の、世界の命運は、彼の手に委ねられていたのだ。彼にのみ、選択権があったのだ。彼以外の人類は選択権を得る力も、選択をする資格も持ち合わせていなかった。その権利も資格も、彼を。あの少年を。「あの日」。第4の使徒が襲来したあの日に、何も知らずにやって来た彼を強引にエントリープラグの中へと押し込んだ時点で放棄していたのだ。

 彼は一方的に委ねられた選択権を行使したに過ぎない。

 世界よりも、一人の少女のことを、選んだに過ぎない。

 その選択について、選択権を一方的に押し付けた者に責める資格も権利もないし、その選択を後押ししたことを後悔することもない。

 

 後悔があるとすれば、彼が何も知らぬまま眠っている間に、彼へと向けられる怨嗟の炎を鎮静化できなかったこと。

 彼を後押ししたことの責任を果たせなかったこと。

 

 そして彼について、もう一つの後悔。

 その後悔の発端となるのは10年前のあの日の夜。

 彼と境遇の似た彼女。世界の激変を知らぬまま、4年ぶりに目覚めた彼女。目覚めたばかりの彼女に請われるまま、3号機の実験の日からあの日の夜までの4年間を、ありのまま伝えた。

 その数時間後。その彼女は自殺を図った。

 彼女がその夜にとった行い。同じ中学校の同級生の少年に、彼の父親の死の真相を告げたこと。

 事の詳細を聴いて、直感した。彼女は、間接的な自殺を図ったのだろうと。企図までには至らなかったかも知れないが、少なくとも念慮はしたであろうと。

 

 だから、葛城ミサトは14年ぶりに目覚めた碇シンジに対して、何も告げない、何も話さないことを選択したのだった。

 その選択を後になって。

 碇シンジがネルフに攫われ、再びエヴァンゲリオンに乗り、そしてフォースインパクトを起こした時になって、またもや遅すぎる後悔に苛まれることになる。

 

 

 

 後悔ばかり。

 そんな半生を歩んできた葛城ミサトの前に今再び、選択が突き付けられている。

 

 選択を突き付けてきた相手。

 碇シンジが、ミサトが構える拳銃の銃口の先で立っている。

 

「うん。…ありがとう、ミサトさん…」

 

 銃身の先端にある照星と重なりながら、立ったている。

 

「でもミサトさん。僕はやっぱり、父さんに会いたい」

 

 その顔に微かな笑みを浮かべながら。

 

「僕は、父さんと話をしなければならないんだ…」

 

 その瞳に、確かな意思を湛えて。

 

 

 揺らぐミサトの隣に、リツコが立った。

「あなたが碇ゲンドウと話をしたところで、何が変わるといいうの…?」

 人の願いや想いよりも、結果を、成果を求める。リツコらしい質問に、シンジは苦笑いしながら答える。

「分かりません」

 曖昧な返事とは対照的に、シンジの目はまっすぐにリツコの目を見ている。

「でも、伝えたいことがあるんです」

「伝えたいこと?」

「ええ、父さんに伝えたいこと。たった2つのことだけを」

「2つのこと?」

「ええ。その1つはミサトさん」

 視線をミサトへと戻すシンジ。

 

 シンジの全てを見透かしたような視線。

 その視線がリツコへと向けられ、何処かホッとしていたミサトは、その視線を再び向けられたことで少したじろいでしまう。

 

「それはミサトさん。加持さんが抱いていた想いと、一緒です」

 

 シンジの口から唐突に現れたその名前。

 

「加持が…」

 

 ミサトは、その名前が彼女の子供の父親の名前であるということを、すぐには理解できなかった。

「うん。加持さんが…」

 ミサトの頭の中で、ようやくその名前が無精髭を生やした男性の顔と一致する。

 シンジの視線に対する怯えにも似た感情が、ミサトの体内から消えた。

「加持が抱いていた想いは私たちとは相いれないものよ…」

 ミサトの顔が、一気に険しくなった。

「シンジくん…。あなたが加持と一緒に水をやったあのスイカ畑。あの畑の姿そのものを残すことが加持の願いであり、使命だったの。たとえその畑の中に、私たち人類の姿がなかったとしても…、加持はそれで構わなかったのよ…」

「いいえ…、ミサトさん」

 シンジはかぶりを振る。

「父さんの計画の巻き添えになる種の保存。それは加持さんの使命ではあったとしても、それだけが加持さんの願いではなかったはずです」

 

 シンジの右手が彼が履く黒の学生ズボンの後ろポケットへと伸びる。

 そのポケットにねじ込んでいたもの。

 彼の右手は、携帯型の音楽プレイヤーを取り出した。

 

 筐体に巻き付けていたイヤフォンのコードを解き、そしてヘッドフォンジャックに挿し込まれたイヤフォンのピンを抜く。

 筐体の側面にあるダイヤルを回し、内臓スピーカーの音量を上げる。

 

 

「初号機の中の綾波が、残してくれていたもの、だよ」

 

 

 シンジの親指がプレイヤーの再生ボタンを押す。

 プレイヤーの中のマイクロカセットテープが回り始めた。

 

 

 

 

『私の願いなんて、ささやかな、極ありふれたものですよ』 

 

 

 

 

 酷いノイズに混じって聴こえる、大らかな雰囲気を纏った男性の声。

 

 スピーカーがその声を奏で始めた瞬間、サングラスに隠れたミサトの目が大きく見開かれた。

 

 プレイヤーは淡々と、磁気テープに記録された音声を流していく。

 

 

『でも、その願いを叶えるためならば、何だって利用してやろうと思ってます』

 大らかな声の持ち主は、誰かと話をしているらしい。

 

 

『君は、何を願うんだい?』

 大らかな声の持ち主の話し相手。涼やかな少年の声が、問いかける。

 

 

 

 

『子供たちが笑って暮らせる、明るい未来』

 

 

 

 

 かつての被保護者を狙う拳銃を構えたミサトの腕。

 それが重力に引かれ。

 否。

 まるでその場には居ない、見えない誰かの手によって、そっと引かれるように、ゆっくりと下がっていく。

 

 

 

 

『俺、父親になるんです』

 

 

 

 

 シンジはプレイヤーの再生を止める。

 

「加持さんが抱いていた願い…」

 

 ミサトを見つめた。

 

「それはきっと、あのスイカ畑で、加持さんとミサトさんの子が笑いながら駆け回ってる姿、だったんじゃないかな…」

 

 

「リョウジに…、会ったの…?」

 ミサトの口から掠れた声で漏れる、我が子の名前。

 シンジは頷き、そして彼女の子と初めて顔を合わせた時のことを思い出して、小さく笑った。

 その笑みに釣られるように、ミサトの顔から少しだけ緊張が薄れた。

「元気…、だった…?」

 それはシンジが初めて目にすることになる、母親としてのミサトの顔。

「うん…。すごくいいヤツだったよ…」

 

 シンジは表情を引き締めた。

「僕の願いも加持さんと一緒だよ」

 シンジが纏う空気が変わったことに気付いたミサトは、一瞬表情に宿った母親の顔を打ち消す。

「加持さんと、ミサトさんの子が生きているこの世界を、守りたい」

 彼女の夫の肉声が込められた音楽プレイヤーを握り締めながら、シンジは訴えた。 

「その想いを、僕は父さんに会って、直接伝えたいんだ」

 

 

「でも…」

 

 目の前には突き付けられた選択。

 背後には、積み重ね続けられた後悔の山。

 

 その狭間に立つミサトのサングラス越しの瞳が、シンジの顔と自身の足もとの間を何度も行き来する。

「シンジくんが碇ゲンドウと会えば、きっとまたシンジくんが利用されて…、傷ついて…」

 震えた声でそう訴えるミサトの姿に、シンジは表情を緩めた。

「頑固な父親と思春期真っ盛りの息子が顔を合わせるんです。多少の摩擦は仕方がない事ですよ。ミサトさん」

「でも…、でも…。私はもう、シンジくんには…」

 

 

 シンジはミサトと話しをしながらイヤフォンのコードをプレイヤーの筐体に巻き付けると、それをズボンの後ろポケットに捻じ込んだ。

 しかし。

「あっ」

 ポケットへの捻じ込みようが浅かったらしく、プレイヤーはズボンのポケットから零れ落ちてしまった。

 甲板の床へと落ち、カタカタと硬い音を響かせながら転がってしまうプレイヤー。

 プレイヤーは、かつての保護者と、そしてかつての被保護者の間で止まる。

 

 転がった拍子に、再生ボタンが押されてしまったらしい。

 プレイヤーの中にセットされたマイクロカセットテープが、所持者の意図に反して回り始めてしまった。

 

 

 そしてそれは、プレイヤーの小さなスピーカーから赤銅色の空に向かって、大音量で流れてしまった。

 

 

 

 

『愛してるぜ…!』

 

 

 

 

 スピーカーの音割れを起こすほどの大きな声。

 

 世界中の隅々に向けて。

 この声を届けたい相手が、世界の何処に居たって届くように。

 

 

 

 

『ミサト…!』

 

 

 

 

 その声は14年という時を越えて、ようやく目的地へと辿り着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、こ、これは、その…」

 相手に聴かせるつもりはなかった音声記録が流れてしまって、シンジは大慌てでプレイヤーを拾い上げて再生を停止させる。

 

 ドサリと、鈍い音。

 

 顔を上げた。

 つい5秒前までそこにあったはずのミサトの顔がない。

 しかし視線を少し下げれば、すぐにミサトの顔を見つけることができた。

 

 ミサトが、甲板の上に両膝を付いている。

 膝を付いた拍子にずれたらしいサングラスの隅から覗く彼女の瞳。

 その瞳が、瞬時に潤み始める。 

 

 

「リョウジ…」

 

 ミサトの顎が震えた。

 

「リョウジ…」

 

 口と眉根が、大きく歪んだ。

 

「リョウジ…」

 

 愛した人の名を繰り返し呟く。

 その瞳から、大量の涙を溢れさせながら。

 愛した人の名を繰り返し続けた声は、何時しか激しい嗚咽となって甲板の隅々まで響いていく。

 

 

 人目も憚らずに泣き崩れてしまったかつての保護者。

 こうなってしまうことは予想が付いていたので、この音声は聴かせるつもりはなかったのだが。

 これは「ズル」をしてしまったなと、シンジは頬をぽりぽりと掻きながら、甲板にしゃがみ込んで泣き続けている女性の姿を見つめた。

 

 

「あ~あ~。うちのミサトに何てことしてくれたのよ、碇シンジくん」

 そう呆れたように言いながら、床にしゃがみ込んでいるミサトの背後に立ったのは彼女の古い友人。

 床に転がっていた官帽を拾ってやり、ミサトの頭の上に被せてやる。

「サードインパクトが起きたあの日から、今日まで頑張って一度も泣かなかったのに。ねえ?」

 ミサトの隣に跪いたリツコがしゃくり上げながら泣いているミサトの体を抱いてやると、友人の温かい腕に包まれたミサトの泣き声が一際大きくなった。

 リツコはそんな鬼の艦長の背中をよしよしと摩ってやる。

 

「それで? 碇シンジくんはどうやって碇ゲンドウに会いにいくつもりなの?」

 リツコは友人の背中を摩り続けながら、シンジを見つめる。

「ガフの扉の向こうは、ヴンダーも手出しできないマイナス宇宙よ」

 その問いに対して、シンジは口を噤んだまま、ただ微笑みを返すことで答えた。

「そう…」

 リツコも微笑む。

「全部、思い出したのね…」

 シンジは何も言わず、こくりと頷いた。

 

 リツコの腕の中では、変わらずミサトがおいおいと泣き続けている。

「ほら。何やってるの、シンジくん」

 リツコにそう言われ、きょとんとするシンジ。

「あなたの所為で我らの艦長はこんな風になってしまって。そして私は乙女になってしまった艦長をあやす為に両手を塞がれてしまったわ」

 リツコの言葉の意味をくみ取り損ねるシンジは、小首を傾げている。

 この鈍ちんなところは相変わらずね、とリツコは苦笑しながら言った。

「今、あなたを止められる者は誰も居ないわ」

 

「あっ」

 シンジがようやく気付き、短い声を上げたところで、後方のハッチが開いて数人の乗組員が甲板に出てきた。

「あっ! 疫病神!」

 ピンク色の髪をした女性が叫びながら、腰のホルスターから拳銃を引き抜こうとしている。

 

「ほら! シンジくん!」

 リツコに再度促され、シンジは力強く頷いた。

 駆け出そうとする少年に、リツコはもう一言だけ付け加える。

 

「レイによろしく、ね?」

 

 リツコのその言葉に、シンジはもう一度力強く頷き、身を翻した。

 

「シンジくん!」

 リツコの腕の中のミサトが叫んだ。

 すでに甲板の隅っこに向けて走り出していたシンジは肩越しにミサトの顔を見た。

 

「必ず! サポートするから!」

 

「うん! 行ってきます! ミサトさん!」

 振り返ったシンジは、一度だけミサトたちに向かって手を振った。

 

「いってらっしゃい! シンジくん!」

 

 

 ピンク色の髪の女性が構えた拳銃が火を放つ。

 銃弾が甲板の床に跳ねたと同時に、シンジの右足が床を蹴った。

 

 

 少年の華奢な体が、空中へと躍り出る。

 

 

 

 



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(55)共鳴する声

 

 

 

 

 容赦のない陽射しが降り注ぐアスファルトの上をてくてくと歩く。目指す先は、朽ちかけの大型集合住宅。この地が3番目の首都の名を冠すことが決まって、急造された鉄筋コンクリート製の建物群。結局のところ入居する住人は殆どおらず、都市の更なる要塞化のために取り壊しが決まっており、遠くからはコンクリートの塊りを打ち崩す解体作業の音が鳴り響いている。

 建物の中の日陰に入れば少しは暑さから逃れられるかと思ったが、目的の部屋は4階。エレベーターはないため、階段を上り切った時にはすっかり汗だくになっていた。

 

 汗一つかかないように見える彼女は、この階段をあの涼やかな顔で毎日上り下りしているのだろうか。

 

 などと考えながら、目的の部屋の前に立つ。

 錆びついた扉を前にして、初めてこの部屋に訪れたことを思い出してしまった。

 ただでさえ暑いのに、まるで体中の血液が集まってしまったみたいに、顔が火照ってしまう。手のひらに残る「あの感触」を確かめるかのように、右手を無意識に開閉させてしまったため、慌てて不届きな右手をぶらぶらとさせた。

 深呼吸を一つ入れ、火照った顔を冷ます。

 部屋の住人を呼び出すため、ドアの横にあるインターホンを押した。押してみて、「あ、そう言えば」と思い出す。

 やっぱり、鳴らない。

 仕方なく、右手で拳を作り、鉄製の扉をコンコンと叩いた。

 扉を叩いて、少し経過して。

 部屋の中からト、ト、と軽い足音が聴こえてきた。

 あの時みたいに無断進入する必要がなくなったため、ほっと安堵の溜息を吐く。

 錆びた蝶番が軋む音と共に、扉が開いた。

 

 彼女が、扉の隙間から顔を出した。

 ぼんやりとした朧気な表情で。眠たげな目を擦り擦り。

 

 良かった。

 今日はちゃんと服を着ている。

 

 心の中でもう一度ほっと安堵したのも束の間。

 彼女が着る学校指定の白のブラウス。

 そのブラウスの裾の下から伸びる、剥き出しの白い素足。

 

 性の目覚めを迎えるお年頃には十分に刺激的過ぎるその姿に、悲鳴を上げてしまいそうになったところで。

「なに?」

 落ち着いた、というか、冷めた彼女の声に、何とか悲鳴は上げずには済んだ。

「ご、ごめん。寝てた?」

「夕べは、零号機の再起動実験、徹夜だったから…」

 起き抜けらしいどこか呂律の回っていない彼女の口ぶりが微笑ましく、体から緊張が少しばかりほぐれた。

「じゃあ、零号機、直ったんだ」

 あの決戦の時。初号機の前に飛び出し、死の熱線を浴びた彼女が乗る機体。

「よかった…」

 そう呟いた心の中では、嬉しさが半分。そして悲しさが半分。

 

 

 まともに動くかどうかも分からない人型兵器に乗っけられ、世界の命運を背負いながら巨大過ぎる人類の天敵と戦う。そんな理不尽極まりない境遇にあって、微かに見えた希望。あの日の夜に、確かにこの手に掴んだ絆。

 自分は一人ではない。”戦友”という存在。彼女とならば。あの死線を一緒に潜り抜けた彼女とならば、自分は一方的に押し付けられたこの不条理な戦いを最後まで戦い抜くことが出来るのではないだろうか。

 一方で、彼女があの機体に乗るということは、再び彼女は戦地に立つという訳で。命令があれば、きっと彼女は次もまた、危険を一切顧みずに死地に飛び込んでしまう訳で。その細い身を、任務遂行のためならば躊躇うことなく捧げてしまう訳で。

 

 

 細い身。

 細い足。

 

 まじまじと彼女の白い素足を見つめていた自分に気付き、慌てて視線を床に落とす。

 いつから放置されているのかも分からない色褪せたダイレクトメールで埋められた床を見つめながら、本日の訪問の真の目的を果たすべく、学生鞄からプリントの束を取り出した。

「これ。溜まっていたプリント」

 彼女がプリントの束を受け取ったのを確認し、自分の慌てぶりを隠すかのように、彼女に背を向ける。

「じゃ、ゆっくり休みなよ。睡眠の邪魔をしてごめん」

 そそくさと部屋の前から立ち去ろうとして。

 

「少し、上がっていけば…」

 

 それは遠くから轟く解体作業の騒音や、集合住宅を囲う木々から鳴り響く蝉の大合唱に比べれば遥かにか細い声だったのに、何故かはっきりと聴こえた。

 

「あ…」

 

 彼女の意外な申し出に大いに戸惑いつつも。

 

「うん…」

 

 何故か口は勝手に返事をしていた。

 

 

 

 部屋の中に招き入れられる。

 靴を脱ぎ、上がり框に足を乗せようとしたところで、彼女がスリッパを用意してくれた。見れば、彼女の足にもスリッパ。この部屋に2足分のスリッパが用意されていることにちょっとした驚きを覚えつつ、用意されたスリッパに足を入れ、部屋の中へと入る。

 普通ならば招き入れた側は招き入れられた側に何処か適当な場所でくつろぐよう指示するものだが、相手はあの「彼女」である。無言のまま台所の棚から取り出したケトルに水道水を入れ始めたので、暫く所在なく部屋の真ん中で立っていたが、ただぼんやりと突っ立っているのも間抜けに思えたので、何処かに腰を下ろせる場所はないかと視線を巡らせた。

 まず目に入ったのはベッド。つい3分前まで、彼女を眠りの国に誘っていたはずのベッド。彼女の小さな頭を乗せていたはずの白の枕。彼女を包み込んでいたはずの、白のブランケット。

 いやいや、さすがにそれは、と思い、次に目に入った部屋の隅にあった椅子を引っ張り出し、無断ではあるが座らせて貰うことにした。

 相変わらず殺風景な部屋だな、と100人が訪問したら100人が思うであろう、この部屋に対する凡庸な感想を心の中で抱きつつ、台所に立つ彼女の背中を見つめる。

 

 あの「彼女」が台所に立っている。

 

 違和感しかなく、心の中で笑ってしまった。

 一体どんな方法で自分をもてなしてくれるのだろう、と期待半分、不安半分で彼女の後姿を観察する。

 

 寝ぐせのついた空色の髪。

 寝巻代わりの皺が寄った白のブラウス。

 その両袖から伸びる、2本の白い腕。

 その2本の腕のうち1本が頭に翳され、撥ねた後ろ髪を梳き。

 蚊にでも刺されたのか、もう片方の腕の肘の辺りを掻き。

 時折、細い肩がぐっと盛り上がり、そしてすーっと下がる。きっと欠伸でもしているのだろう。

 肘を掻き終えた手が、ぶらりと下がる。

 そしてそのままコンロの火に掛けたケトルを、じっと見つめている彼女。

 そのままコンロの前で、彫刻のように固まってしまっている彼女。

 お湯が沸くのを、待っているらしい。

 そんな彼女の後ろ姿に、またもや心の中でくすりと笑ってしまう。

 少しでも家事に慣れた者ならば、お湯が沸くまでの時間で他の作業を済ませてしまうのだが。

 コンロの前に立ち続けている彼女。案外、マルチタスクが苦手なのだろうか。

 ケトルの注ぎ口から白い湯気がぽっぽと立ち昇り始め、蓋がカタカタと揺れ始めた。

 お湯が沸いたのを確認した彼女は、ようやくコンロの前から離れ、棚からガラス製のティーサーバーと、2つの紙コップ、そして四角い缶ケースを取り出す。紅茶を淹れてくれようとしてるのだろうが、しかしあの彼女の部屋にあんなに立派なティーサーバーという代物が存在していることにまたもやちょっとした驚きを覚えつつ、一方で紅茶を淹れるための器はただの紙コップというその落差が何となく彼女らしいと思えた。

 

 それにしても、もしかしたら初めてかも知れない。彼女の姿をこうもまじまじと見つめたのは。時間にすれば2分にも満たない、短い間だけれど。その短い時間の中で、2度も心の中で笑っている自分が居る。

 人間味など感じさせない。どこか別世界の住人のような彼女。

 それが、これまでの。あの決戦の日まで、自分が彼女に抱いていた印象。

 でも、ちょっとの間だけでも観察すれば、その一つ一つの行動が何かと微笑ましい。案外、色々と面白い子なのかも知れない。

 部屋に招き入れられた時は緊張のあまりカチコチに固まっていた肩の力が、ふわりと抜けていく。

 

 椅子の背もたれに背を預けながら、彼女の後姿を見続ける。

 その彼女は、今も四角い缶ケースを見つめながら、固まっている。

 彼女が手に持っている缶ケースは、おそらく紅茶の茶葉が入ったケースだろう。遠目で見る限り、封は切られていない。

 

 紅茶の缶ケースを見つめた彼女が固まってしまって、1分が経過した。

 今もコンロの火に炙られ続けているケトルの蓋が、カタカタと激しく揺れている。

 そろそろ助け舟を出した方がいいかなと思い、椅子から腰を上げる。

 その気配に気づいたらしい彼女は、ようやく口を開いた。

 

「紅茶って…、どれくらい葉っぱ、いれるのかな…」

 

 何だろう。

 何の変哲もない、極ありふれた質問のはずなのに、彼女の口から聴くとまるで万病に効く秘薬の調合方法を訊ねられたような気分になってしまう。

 訊ねられたのに、何となく黙ってしまい、彼女の動向を見守り続けた。

 

 彼女は手の中にある缶ケースと、肩越しに来客者の顔とを、交互に見比べている。

 この部屋には2人しか居ないわけで。

 彼女が発した質問は、彼女以外のもう一人に投げ掛けられた訳で。

 その相手が何も答えてくれないので、少し戸惑っているらしい。

 やがて彼女の視線は缶ケースの上に落ち着き、そして何度か目を瞬かせ。

 そして缶ケースの蓋を留めるテープを剥がし、蓋を開けた。

 ケースの中には、細かく刻まれた茶葉。甘く香ばしい匂いが溢れ出し、鼻孔を擽る。

 彼女は蓋を調理台の上に乗せると、調理台の隅にある空き瓶に挿された1本の歯ブラシと1本のスプーンのうち、スプーンを手に取る。

 

 咄嗟に、調理台に置かれた缶ケースの蓋に目をやった。

 蓋の淵に印字された数字。

 良かった。ギリギリ消費期限内だ。

 

 視線を調理台の上の蓋から、彼女に戻した。

 

 吹き出しそうになった口を、懸命に噤む。

 

「これくらい、かな?」

 

 大きなスプーンに山盛りの茶葉を乗せた彼女が真顔で訊ねてくるその様は、もはやコメディ映画のワンシーンにしか見えなかった。

 

「それじゃ、入れ過ぎ、じゃない、かな?」

 今にも笑ってしまいそうな声を、必死で取り繕う。

 彼女はスプーンの上の山盛りの茶葉に視線を戻す。茶葉を見つめたまま、困ってしまったようにくてんと小首を傾げるその後姿は、とてもあの巨大過ぎる人型兵器に搭乗するパイロットには見えない。

 小首を傾げたまま、またもや固まってしまった彼女。

 炙られ続けたケトルの蓋が蒸気に煽られてついに零れ落ちそうになってしまったため、硬直から解かれた彼女はコンロから降ろすためケトルに手を伸ばした。

 

「あっ…」

 彼女の口から、小さな悲鳴が漏れた。

「大丈夫!?」

 慌てて彼女の隣に駆け寄る。

 彼女は、赤く腫れた右手の人差し指を見ていた。

「少し、火傷、しただけ…」

 いつもの無感動な声でそう告げる彼女の右手首を、すぐに掴んだ。

「しただけって!」

 隣の流し台に、すぐに彼女の腕を引き入れた。

「早く冷やさないと!」

 蛇口から流れる水に、彼女の右手を晒す。

 

 勢いよく流れる水道水の中の、彼女の人差し指。

 2人で、その指をじっと見つめる。

 

 水の流れる音と、蒸気に煽られたケトルの蓋が跳ねる音。

 缶ケースから漂う甘く香ばしい香り。

 すぐ側で感じる、彼女の体温。

 

 ふと、すぐ隣に在る彼女の横顔を見る。

 光の加減の所為だろうか。

 彼女の両頬が、少しだけ赤く染まって見えるのは。

 

「あ…」

 

 今更ながらに彼女の体に密着し過ぎていることに気付き、掴んでいた彼女の手首を離した。

 

「紅茶、僕が淹れるから。綾波は暫くそうしていなよ」

 そう告げて、彼女に背を向けコンロの前に向かう。

 

「うん…」

 

 背中で聴いた彼女の小さな声。いつもより声音が揺れているような気がしたのは、指に負った火傷の所為なんだろうなと思いながら、コンロの火を消した。

 ティーサーバーの中の茶こしに2人分用の茶葉を入れ、ケトルのお湯を注ぎ入れ、蓋を閉める。

 蒸らしの間は何もすることが無い。

 背後では、水の流れる音が続いている。

 

「綾波は…」

 ガラス製のティーサーバーの中で茶葉から広がる紅い色を見つめていたら、殆ど無意識に口を開いていた。

「綾波は、父さんと、いつもどんな話をしているの…?」

 

 背後で蛇口レバーを捻る音。

 水の流れる音が止まる。

 

「お父さんと…」

 

 彼女の視線を、背中に感じた。

 

「お父さんと、話、したいの?」

 

 ティーサーバーから視線を上げ、少し汚れた剥き出しのコンクリートの壁を見つめる。

「うん…。話をして何が変わるってわけでもないだろうけれど…、でも…」

 視線をティーサーバーに戻すと、お湯の上の方に浮いていた茶葉たちが、茶こしの底に沈んでいる。

「でも…、今のこんなままの状態では…、つらいんだ…」

 ティーサーバーの蓋に付いているレバーを引っ張り、茶こしをお湯の中から引き揚げた。

「父さんのことが、よく分からないまま…、エヴァに乗り続けるのは…」

 

 

 なぜ、こんなことを彼女に言ってしまったのだろうと、少しばかりの後悔。

 こんなことを言っても、彼女を困らせてしまうだけだろうに。

 

 

 

 沈黙。

 

 

 

 ティーサーバーの取っ手に手を伸ばす。

 さっさとお茶を淹れて、飲んで、帰ろう。

 取っ手を掴み掛けて。

 

「言えば、いいのよ…」

 

「え?」

 

 伸ばし掛けた手を引っ込め、彼女を見た。

 彼女は火傷した右手を胸の前で抱き締めながら、いつものまっすぐな瞳でこちらを見ている。

 

「思ってる本当のこと…。お父さんに、言えばいい…」

 

 

 気が付けば、まっすぐな瞳で彼女を見つめ返していた。

 いつもなら人と交差した視線はすぐに逸らせてしまうのに、彼女のまっすぐな視線を受け止め続けている自分が居た。

 

 珍しく、先に視線を外したのは彼女の方。

 仄かに、その真っ白な頬を、赤く染めて。

 

 外された彼女の視線の先には、調理台の上のティーサーバー。

 

「綺麗な色…」

 

 彼女の視線に釣られて、ティーサーバーを見る。

 2人分のお湯で満たされたガラス製のティーサーバー。まるで彼女の瞳のように、赤く染まっている。

「飲んで、いい?」

「あ、うん…」

 

 紙コップに彼女の分の紅茶を注ぎ入れ、彼女に渡す。

 残ったもう一つの紙コップにも、紅茶を注ぎ入れる。

 

 両手に包まれた紙コップに、そっと唇を近付ける彼女。

 紙コップを傾け、中の紅茶を口の中へと少しだけ流し込む。

 

 そんな彼女の様子を眺めながら、自分も紙コップの紅茶を一口だけ飲み込む。

 ちょっと蒸らしすぎたかな?

 

「少し、苦かったね…」

 

 少しだけ、彼女の口角が上がって見えるのは気の所為だろうか。

 彼女は柔らかな声で言う。

 

「でも、温かいわ…」

 

 

 

 3口ほど紅茶を飲み込んだ彼女は、両手に包み込んだままの紙コップをそっと調理台の上に置いた。

 白の紙コップの中にある半分に減った紅茶を見つめながら、彼女は言う。

「碇くん…」

 3口目を啜っている途中だったため、「ん?」と短い声で応えた。

「碇くん…、今度の日曜日、予定は?」

「え?」

 紙コップから口を離した。

 

「今度の日曜日。予定、ある?」

 

 

 それはもしかしてデートの誘いとかゆーやつですか!

 

 

 一瞬心臓が跳ね上がったが、しかしすぐに肝心なことを思い出してしまう。

「あ、うん…。ちょっと、用事が入ってて…」

 跳ね上がっていた心臓が、急速に萎んでいくのを感じた。

「そう…」

「うん…」

 彼女の顔が隣へと向けられる。

「その用事って…」

「え?」

「その用事って…、もしかして…」

 彼女は何かを言い掛けて、しかし口を閉じ、寝癖が付いた頭を左右に振る。

「なんでもない…」

 そう言って、紙コップに残った紅茶を一気に飲み干す彼女。コップから口を離し、小さく溜息を吐いて、そして。

「美味しかった…」

「そう。良かった」

 間違いなく、今度ははっきりと、彼女の口角は上がっている。

「よかったら、紅茶の淹れ方、教えてあげようか?」

「ええ、お願い」

 意外なほど素直に頷く彼女に、さっそく茶葉の一人分の分量から教えることにした。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 まるで砂漠のような丘陵に並ぶ、無数の墓標。広大な霊園の一角に、一機のVTOL機が土煙を巻き上げながら降り立つ。

 そのVTOL機を背にして立つ男は、視線の先に立つ彼の息子に言った。

「時間だ。先に帰るぞ」

 踵を返し、着陸したVTOL機に向かって歩き出す。

「父さん」

 背中に投げ掛けられた声に立ち止まり、振り返った。

 一つの墓標を背にして立つ少年。

 彼の息子が、ぎこちなくも微笑んで父親を見ている。

「あの…、今日は嬉しかった…。父さんと話せて…」

「そうか…」

 そう短く答える男の声もまた、ぎこちない響きだった。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 突然の7番目の襲来。

 輸送途中だった弐号機のいきなりの実戦投入。

 そして嵐のような赤毛の少女の登場劇。

 

 色々あり過ぎて頭の中が少々混乱したまま廊下を歩いていたら、廊下の先を歩く彼女の後ろ姿を認めた。

 心が逸るのを自覚しながら、彼女の背中を駆け足で追いかける。

「綾波…!」

 すでに制服に着替え終えていた彼女は、足を止め、振り返った。

 彼女の前まで辿り着き、両膝に手を付いて乱れた息を整える。

 彼女は何も言わず、呼吸が整うのを待ってくれている。

「綾波、今日さ」

 顔を上げ、彼女を見た。

「父さんと、話が、出来たんだ」

 弾んだ声で、彼女に言う。

「結局僕が言いたいことが何なのか、分からず終いでさ…」

 彼女は、無言のまま見つめてくる。 

「碌な話もできなかったけど…」

 そんな彼女の顔を、笑顔で見つめ返しながら、噛み締めるように言う。

「でも、父さんと話、できたんだ…」

 シャワーを浴びたばかりらしい、少し濡れた前髪の隙間から見える彼女の紅玉の瞳。その瞳が少しだけ細くなり、そして薄桃色の唇が緩やかな曲線を描いた。

「そう…」

 

 微笑んだ彼女の顔。

 

「よかったわね…」

 

 彼女の顔を、暫しぽかんと見つめた。

 

 

 父親を迎えに来たVOTL機の窓ガラスに、彼女の姿を見たような気がした。

「綾波…、もしかして…」

「なに…?」

 いつの間にか彼女の顔からは微笑みが消え、いつもの無表情に戻っている。そんな仏頂面で小首を傾げる姿が、少しだけ可笑しく思えた。

 

  ……そして、とっても可愛いとも思ってしまった。

 

「ううん。なんでもない」

 彼女と肩を並べて、廊下を歩き始める。

「そう言えば、あれから紅茶淹れてみた?」

「ええ」

「…あの茶葉は早めに使い切った方がいいよ。確か、消費期限ギリギリだったと思うから」

「そう…。碇くん…」

「なに? 綾波」

「また…」

「うん」

「また、お父さんと、話。したい?」

 彼女からの意外な質問に、虚を突かれたようにきょとんとしてしまう。

「うん…。そうだね…」

 隣を歩く彼女の横顔をちらりと見ながら、深く頷く。

「また、父さんと話、できたらいいな」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 それから例の嵐のような少女との同居生活が始まったり、上官兼保護者兼同居人の元カレの誘いで郊外の巨大水族館にみんなで出かけたり、空から降ってくる8番目を3人で受け止めたりと、あれやこれや色々あって。

 

 訓練や実験が終わり、プラグスーツから制服に着替えて更衣室から出たところで。

「あ、綾波?」

 廊下に制服姿の彼女が立っていたので、ちょっと驚いてしまった。

「どうしたの?」

 彼女はいつもの仏頂面でスタスタと歩み寄ってくるので、ちょっと身構えてしまう。目の前にやってきた彼女はすっと右手を差し出してきた。

 彼女の真っ白な手の中にあるのは、白の洋封筒。

 

「え!?」

 

 

 これはもしかしてラブレターとかゆーやつですか!

 

 

 情けなく震える手で洋封筒を受け取る。

 表紙には、ぎこちない筆跡で綴られる『碇君江』の文字。

 

「あやな…?」

 封筒から顔を上げると、彼女はすでに背を向け、歩き始めていた。

 彼女の背中と手もとの封筒とを交互に見つめる。

 封筒をひっくり返すと、『綾波レイ』という差出人の名前と、彼女のイメージにはまったく合わない犬の足跡を模したシールで留められた封。シールを剥がし、封を開け、中のメッセージカードを取り出す。

 

 

「食事…、会…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 まるでブラックホールのような穴。

 赤い空間にぽっかりと開いた大きな穴。

 自分が飛び降りた巨大過ぎる空中戦艦など、ミジンコのように思えるほどの大きな穴。

 

 それに向かって、真っ逆さまに落ちていく。

 どんどん、どんどん、落ちていく。

 凄まじい風圧に煽られ、錐もみ状態になりそうな体を必死に制御して。

 真っすぐに大きな穴へと落ちていく。

 

 落ちていくのに、何故か穴は遠くのまま。

 穴に近付けない。

 それは単に、穴がこの体に比してあまりにも大き過ぎるからであって、近付いている実感が持てないだけなのかもしれないし。

 あるいは、あの女科学者が言っていたように、あの穴の向こうは、ただの人間には手出しできない場所、立ち入れない場所、近づくことすらできない場所なのかもしれない。

 

 

 

 だけど。

 

 

 そうだとしても。

 

 

 

 

 確信があった。

 

 

 あの穴の向こうに行けるという確信が。

 

 

 あの穴の向こうに行ってしまった父親に会えるという確信があった。

 

 

 

 何故なら。

 

 そう、何故なら。

 

 

 

 

 

 

 そうだったね。

 

 君は、ずっと前から、僕に言っていたんだ。

 

 望んでくれていたんだ。

 

 

 あの男と。

 

 碇ゲンドウと。

 

 ぼくの父親と話せと。

 

 君はずっと、僕に言い続けてくれていたんだ。

 

 

 だから。

 

 

 

 

 僕は今、父親と。

 

 碇ゲンドウと、話がしたい。

 

 無性に話がしたいんだ。

 

 

 

 だから。

 

 もう一度、手を貸してほしい。

 

 

 

 僕に。

 

 

 君の手を。

 

 

 もう一度。

 

 

 

 だから。

 

 

 

 もう一度僕の手を握って。

 

 もう一度手を繋いで。

 

 

 あの時のように。

 

 

 

 

 もう一度、僕の手を。

 

 

 

 だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

「綾波!!」

 

 

 

 

 

 

 僕の声に応えて!

 

 

 

 

 

 

「僕はここだ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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(56)響き合う声

 

 

 

 

 彼が、この部屋から出ていった。

 律義に、使ったティーサーバーを洗ってくれて。

 彼が、この部屋から出ていった。

 

 閉じられた扉から視線を離し、振り返る。

 ベッド。椅子。チェスト。小型の冷蔵庫。それ以外は、何もない部屋。

 普段通りの部屋。見慣れた部屋。

 それなのに感じる、ちょっとした違和感。

 

 この部屋は、こんなに殺風景な場所だっただろうか。

 

 まるで逃げるように部屋に背を向け、ほんの2分前まで彼が立っていた台所の方に視線を向ける。

 すー、と鼻から大きく深呼吸をした。

 まだ、紅茶の甘く香ばしい匂いが残っている。

 この部屋で、消毒液と石鹸と歯磨き粉、そして血以外に感じる、初めての匂い。

 

「碇くんの…、匂い…」

 

 その匂いを嗅ぐと、少しだけ心の中がぽかぽかと温かくなるような気がした。

 

 

 チェストの上に乗せていた学生鞄の中から、携帯電話を取り出した。

 短縮ダイヤルを使い、ある相手に電話を掛ける。

 

 2度の呼び出し音の後で、相手が出た。

『どうした…?』

 低い、男の声。

『どうした…、レイ。何があった…』

 この携帯電話でこの番号に掛けたのはこれが初めてだ。出た相手も、ちょっと驚いているらしい。

「碇司令…」

『なんだ』

「今度の日曜日」

『日曜日…?』

「予定、ありますか?」

『それを聞いてどうする』

「……」

『…午後から第2新東京市に出張予定だ』

「午前は…?」

『午前だと?』

「午前中の予定は…?」

『…その日の午前は私用に当てられている』

「私用…、ですか…」

『ああ』

「私用…とは、碇司令の…」

『レイ』

「はい」

『お前には関係のないことだ』

「はい。申し訳ありません…」

『……』

「……」

『話は終わりか』

「……」

『ならば切るぞ』

「……」

「……」

「……」

『レイ…』

「はい…」

『言いたいことがあるなれば言え』

「…碇司令」

『なんだ…』

「その私用には、碇司令お一人で…?」

『……』

「……」

『それを聴いてどうする…』

「……」

『……』

「……」

『…その予定だが』

「…そう、ですか…」

『……』

「……」

『話は終わ…』

「碇司令」

『…なんだ…』

「碇司令の私用に、私も同行することはできますか?」

『なんだと?』

「私も、碇司令の私用に、同行させてください」

『何をバカな…』

「お願いします」

『……』

「……」

『……』

「……」

『……』

「……」

『レイ…』

「はい…」

『〇九〇〇時に迎えに行く。それまでに準備を済ませておけ』

「はい。では、〇九〇〇時までに出発の準備を整えておきます」

『分かった。話は以上か』

「はい」

『では切るぞ』

「はい」

『…レイ』

「はい」

『いや…、何でもない』

「はい…」

 

 

 

 相手が通話を切ったことを確認し、今度は別の短縮ダイヤルを使って電話を掛ける。

 呼び出し音が10回ほど鳴って、相手が出た。

『え? え? レイ? ど、どうしたの?』

 今度の相手も、この携帯電話から掛けられたことに大いに驚いているらしい。

「葛城三佐」

『は、はい。なんでしょ?』

「今度の日曜日、ご予定は?」

『え? 日曜日? え、えーと。あ、あー。そうだそうだ。一応シンちゃんとお出かけすることになってるんだけど』

「お出かけ…」

『そう。どうやらね。その日、シンちゃんのお母さんの命日らしいのよ。だから、本人は「いい」って言ってんだけどね。せっかくだからお墓参りに行こうって、前々から約束してたのよ』

「では、その日は三佐の車で」

『ええ、そうよ』

「出発の予定時間は?」

『特に決めてはないけど、午後には弐号機と新しいパイロットが着く予定だから午前中には行くつもり…』

「分かりました。失礼します」

『え? ちょっと、ちょっとレイ。何なの…』

 相手がまだわーわー言っている内に、電話を切ってしまう。

 

 

 学生鞄の中から、飾りっ気のない小さな茶色の手帳を取り出す。

 手帳の中のカレンダーには、訓練や実験、そして「メンテナンス」のスケジュールしか記されていない。

 その中の、次回の日曜日の欄。

 何も記されていない空っぽの欄に、ボールペンで予定を書き込もうとして。

 ふと、その手を止める。

 この日の予定を、一体どのように記せばよいのだろう。

 

 ボールペンのお尻を顎に押し当て、10秒ほど考えて。

 

 思い立ち、日曜日の欄にペンを走らせる。

 

 

 この日、彼女は生まれて初めて「花」のマークを描いた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 激しい爆音を轟かせながら、1機のVTOL機が集合団地の側の空き地に着地する。地面へと伸びたタラップから、一人の男性が降りてきた。その男を追って降りてきた警護の一人が、彼に話し掛ける。「私が迎えに行きましょう」と。しかし男は首を横に振り、警護にはここで待つように指示を出し、彼が自ら本部内の売店で購入した品物が収められている買い物用のビニール袋を手に下げて、集合団地に向かって歩き始めた。

 

 エレベーターはないため、階段を使う。この猛暑にあって厚手のジャケットを着こむ彼は、その額に汗一つ垂らさずに階段を上っていく。

 目的の部屋の前に立ち、インターホンには手を伸ばさず、錆びついた鉄の扉を拳でトントンと叩いた。

 ドアノブが捻られる音と共に、錆びた蝶番の音。ドアが開き、その隙間から彼女が顔を出す。

 彼女は視線で彼に向かってお辞儀をし、彼は無言のまま頷いて答えた。

 彼女はドアを大きく開け、彼を招き入れる。

 用意されたスリッパを履いて部屋に入った彼は、ぐるりと部屋の中を見渡し、彼女の生活状況を確認した。

 書類上は10代半ばである少女が住まう環境としては、100人に訊いたら100人が不適当であると答えるであろうその部屋を、しかし彼は「何も問題はないな」とばかりに頷きながら見渡し、そして彼女に向かってビニール袋を差し出す。

 ビニール袋の中身はミネラルウォーターのペットボトルや、パウチ入りのゼリー食など。10代半ばの少女に渡すお土産としては、100人に訊いたら100人が不適当である答えるであろうそのビニール袋を、しかし彼女は喜ぶ素振りもがっかりする素振りも見せずにいつもの仏頂面のままで受け取り、中身を冷蔵庫の中に収める。

 自分が持ってきたお土産を彼女が冷蔵庫に収めたことを確認した彼は、玄関の上がり框に立った。彼女に、「行くぞ」と無言で伝える。

 しかし、彼女は部屋の中央に立ったまま、動こうとしない。

「レイ。出発するぞ」

 彼はようやく声に出して、彼女に指示する。

「碇司令」

 彼女の方もようやく声を出して、彼を呼んだ。

「なんだ」

「紅茶…」

「は?」

「紅茶…、飲んで、いきませんか?」

 

 

 

 粗末なベッドに腰を下ろすと、細いパイプの骨組みがミシリと音を立てて沈んだ。膝の上に手を組みながら、改めて部屋を見渡す。チェストに小型の冷蔵庫、椅子、そして自分が座っているパイプベッド。必要最低限のものしか揃っていない、粗末な部屋。

 部屋に置かれたそれらの家具は、全てベッドに座っている彼が揃えたものだ。

 

 別にこだわりをもって選んだわけではない。

 何かを意識したわけでもない。

 でも、改めてこのベッドから見渡したこの部屋の風景は、既視感を彼に抱かせた。

 

 

 それは彼と「彼女」が愛を育んだ部屋。

 若かりし頃の2人。

 2人とも駆け出しの科学者で裕福ではなく、またお互い物欲がないもの同士だったため、部屋に揃えたものはこの部屋と同様必要最低限のものだった。

 シングルのパイプベッドに2人分の衣類が入ったチェスト。アルコールとミネラルウォーターと少しばかりの食べ物くらいしか入っていない小さな冷蔵庫。1日の大半を研究所に詰め、帰って寝るだけでしかない部屋であるため、これだけあれば十分だった。

 それは彼にとって、最も幸せだった時代。

 部屋に帰ればすぐに服を脱ぎ捨て、2人でシャワーを浴び、下着だけを着てベッドの中になだれ込む。

 お互いの肢体を絡ませながら、カーテンの隙間から空を見上げれば、闇夜に浮かぶ月。

 果てた後は汗だくの「彼女」の腕の中で朝まで微睡む。

 目を覚ませば台所に立っている「彼女」の後姿。

 あるものを挟んだだけのサンドイッチを皿に乗せ、ケトルでお湯を沸かし、ガラス製のティーサーバーに茶葉を入れ、ティーカップを用意する。

 

 そう。

 今、正に彼女がそうしているように。

 

 

「碇司令…?」

 コンロからケトルを下ろした彼女が、肩越しに彼を見ている。

 その赤い瞳から放たれる視線を受けて、彼は初めて自分がいつの間にかベッドから離れ、彼女のすぐ背後に立っていたことに気付いたらしい。その右手は、あと10センチメートルで彼女の肩に触れようとしていた。

 2度ほど丸渕メガネの奥にある目を瞬きさせ、手を下ろした彼。

 見れば、調理台の上にはサンドイッチなんて置いてないし、彼女の髪は不自然な空色。

 

 調理台の隅に置かれているのは、ガラス製のティーサーバー。

 それは彼が、彼女の書類上ではない、「本来の誕生日」に贈ったものだ。

「使っているのか?」

 彼のその発言の意味をすぐに理解できなかった彼女は、彼のメガネ越しに注がれる視線がティーサーバーに向いていることに気付く。

「はい…、たまに…」

 これが2回目だということは黙っておくことにした彼女。

「そうか…」

 そう呟く彼の声音は、どこか満足げであったことに、人の心の機微に疎い彼女が気付いた様子はない。

 

 ケトルのお湯が沸いたことを確認した彼女は、スプーンを使って缶ケースの中の茶葉をティーサーバーの茶こしの中に入れる。

 蓋を閉め、調理台の隅に置かれた紅茶の缶ケースに、彼は素早く視線を走らせ、その缶ケースの蓋に記された印字を確認する。

 蓋に記された年月日。

 その紅茶の消費期限を示す数字。

 その日付は、2日前。

 

「レイ…」

 彼女の名を呼んだが、すでに彼女はティーサーバーの中に熱湯を注ぎ入れているところだった。

「はい…」

 熱湯を注ぎ終えた彼女は肩越しに振り返る。

「いや、なんでもない」

 多少期限が過ぎた程度の紅茶で、人が死ぬようなことはないだろうと、多少潔癖の気がある自分を納得させる彼である。

 

 こぽこぽと音を立てながら紙コップの中に注がれる紅茶。

「どうぞ」

 彼女の手で差し出された湯気が立ち昇る紙コップを、彼は黙って受け取る。

 

 数日前の「彼」と同じように、台所に立ったまま紙コップの中の紅茶を啜る彼。

 彼女もまた自分用の紙コップに紅茶を注ぎ、両手で包み込むように紙コップを持って、とんがらせた口で紅茶を啜った。

 

 丁度良い風味、香り、甘味。

 あの日、「彼」が淹れてくれた紅茶に比べればずっと飲みやすいが、何故だろう。「彼」が淹れてくれたあの日の、苦味の強い紅茶の方が美味しかったと感じるのは。これが”嗜好”というものなのだろうか。

 それとも…。

 

 一方の彼は、猫舌なのだろうか。

 熱々の紙コップに慎重に口をつけ、一口一口をちびちびと、ゆっくり啜っていた。

 

 暫くの間、2人が紅茶を啜る音だけが殺風景な部屋の中に響いた。

 

 

 空っぽになった紙コップを、調理台の上に置く。

 彼はメガネのレンズを湯気で曇らせたまま彼女に言った。

「行くぞ」

 彼女は自分と彼の紙コップをゴミ箱に捨てながら言う。

「碇司令…」

「なんだ」

「トイレ、いいですか」

「ああ」

 

 

 ユニットバスのトイレに入り、この部屋に住み始めて以来初めてドアの内鍵を閉める。

 パンツもスカートも下ろさず、そのまま洋式の便座に座った。

 スカートのポケットから携帯電話を取り出す。携帯電話の画面に表示される時刻を確認し、そして短縮ダイヤルを使って電話を掛けた。

『もしもし?』

「三佐…」

『う、うん。どしたの?』

 やはりこの電話番号から掛かってくることに戸惑いを覚えているらしい相手。

「碇くんは…」

『え? 部屋に居るけど?』

「今日は、お墓参りでは…?」

『それがさ、シンちゃん、やっぱり今日はいい、って言い始めちゃってねぇ』

「え?」

『あ、でも何とか説得して、今部屋で着替えてるところ』

「そう、ですか…」

 ホッと、安堵の溜息を漏らすトイレの中の彼女。

『ねえ。なんなの? あなた、この前から変よ?』

「三佐」

『なに?』

「三佐のおうちから、お墓まで、車でどれくらい…?」

『え? えっとぉ…、30分くらいかな?』

「分かりました」

『ちょ、ちょっと。何なのよレ…』

 相手がわーわー言っている間に、電話を切ってしまう。

 

 

 

 パイプベッドの上に腰掛けたまま、部屋をぼんやりと眺めていた。

 どこか懐かしさを感じさせるこの部屋を。

 

 ふと、立ち止まることなど許されないはずの自分が、無為に時間を過ごしていることに気付き、視線を左手首の腕時計に落とす。

 彼女がトイレに入ってから、随分と時間が経過していた。

 

 トイレのドアの前に立った。

 右拳を、木製のドアに当てようとして。

 年頃の女の子のトイレ中に声を掛けるのはあまりにも不作法ではないか、と彼にしては珍しく躊躇いを感じ、右手を下ろした。

 その後も彼の右拳は何度かドアの前と彼の腰との間を行き来する。

 十分に逡巡した後、ようやく彼女がトイレの中で倒れている可能性に思い当たり、彼は思い切ってドアを叩いた。

 

「はい…」

 

 ドアの向こうからすぐに彼女の返事があり、彼はほっと安堵の溜息を吐く。

 

「レイ。そろそろ出発だ」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ。時間が押している」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ。どうした。気分でも悪いのか」

「いいえ…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ…」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ」

「なんでしょう…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「まだ時間が掛かるのか…」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「長いな…」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「お…」

「お?」

「大きい方…、ですから…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「そうか…」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「すまん…」

「いいえ…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「ご無沙汰だったのか…」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「そうか…」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「食物繊維は十分に摂っているのか?」

「たぶん…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「今度支給するサプリメントの内容を再検討させよう」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「まだ時間が掛かりそうか」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「分かった」

 

 

 ドアの向こうに居た彼の気配が消えた。

 携帯電話を掛ける。

『はいはい。なんでござんしょ?』

「碇くんは?」

『ようやく部屋から出てきたわ。今から出かけるところ』

「分かりました」

 電話を切る。

 

 先ほど聞いた、「彼」の家から目的地まで車で掛かる時間と、ここからVTOL機で目的地まで掛かる時間の差を計算する。

 

 

 

 さすがにこれ以上はもう待てない。

 トイレのドアの前に立つ。

 

「レイ」

「はい…」

「どんな様子だ?」

「はい…、えっと…」

「VTOLの中にもトイレはある」

「はい…」

「まずは出発しよう」

「……」

「どうした? レイ」

「碇司令…」

「なんだ」

「実は…」

「なんだ」

「くだしてしまったようで…」

「なに?」

「……」

「大丈夫なのか?」

「はい…」

「やはりあの紅茶はまずかったか…」

「はい?」

「いや…。レイ」

「はい…」

「今日はもう、諦めなさい」

「え?」

「お前が望むなら、また別の機会に連れて行こう」

「え?」

「だから今日は家で養生していなさい」

「大丈夫です」

「レイ。我儘はよしなさい」

「大丈夫です。碇司令。もう少し、待ってください」

「レイ…」

「お願いします」

「……」

「お願いします」

「……」

 

 ジャケットのポケットに手を突っ込む。

 中から、朱色の小さな瓶を取り出した。

 

「レイ」

「はい…」

「ドアを開けなさい」

「え?」

「ドアを開けるのだ、レイ」

「でも…」

「開けなさい。これは命令だ」

「はい…」

 

 ドアノブが回り、ドアが僅かに開いて、その隙間から赤い瞳が覗いた。

 その瞳を見つめながら、彼は溜息を吐きつつ、手に持っていた小瓶を差し出す。

 差し出された小瓶を見て、彼女はぱちくりと瞬きをする。

 

「これを飲め」

「これは…?」

「征露丸だ」

「セイロ…ガン…?」

「下痢から便秘まで、お腹の悩みには何でも効く」

「なんでも…?」

「私がこの世界で最も信頼を寄せる薬剤だ」

 

 ドアの隙間から、おずおずと白い手が伸びる。

 その白い手に小瓶を乗せると、彼は一旦ドアの前から離れて台所に行き、コップに水を注いだ。トイレの前に戻り、ドアの隙間から中の彼女にコップを渡してやると、ドアを閉めた。

 

「あと10分待つ」

「はい…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 広大な丘陵の表面には、まるでサボテンの針のように並ぶ無数の墓標。

 VOTL機は大きな爆音を轟かせながら、霊園の広場に降り立とうとしている。

 

 彼は、VTOL機の窓から見える一つの墓標の前に立つ人影を見て、目を丸くした。

 彼の視線の先に立つ2つの人影。その人影の1つ、少年もまた、この静かな霊園には不似合いな爆音を轟かせて降り立とうするVOTL機を、目を丸くして見上げている。少年の隣に立つ赤いジャケットを着た女性は爆風に暴れる黒髪を抑えながら、全てに合点がいったような様子でニヤニヤと笑いつつ、少年と同じようにVTOL機を見上げていた。

 

 

 彼は窓から視線を外し、隣の席に座る彼女を見た。

「レイ…」

「はい…」

「お前…」

「はい…」

「謀ったか…」

「何のことでしょうか…」

「……」

「……」

 2人の間に沈黙が横たわっている間に、VTOL機の主脚が地上に接触した。

 ハッチが開き、地上に向けてタラップが降りる。

 開いたハッチと、隣に座る彼女とを交互に見比べる彼。

 

「司令?」

 目的地に到着したのに座席に座ったままの彼に、警護の一人が声を掛ける。

 私用で公用機を使っている以上あまりもたついている訳にもいかない彼は、仕方なしに座席から腰を上げた。

 

 ハッチの前に立つと、墓標の前に立ちこちらを向いている少年と目が合ってしまう。

 彼は一度機内を振り返った。

「どうした?」

 同行を願い出たはずの彼女は、まだ座席に座ったまま。

「来ないのか?」

 彼女は手でお腹を摩る。

「まだお腹の調子が…」

「そうか…」

 彼の足が、タラップに向けて踏み出される。

 1段降り、2段降り。

 彼は未練がましく振り返り、機内の彼女を見る。

 彼女は、黙って彼を見送っている。

 同行してくれる様子のない彼女を見て、仕方なしに彼はさらに3段、4段と降り、彼の2本の足はついに地面に降り立った。

 

 改めて目的の墓標を見ると、その側に立つ少年がこちらを見つめている。

 いつの間にか、少年の隣に立っていた赤いジャケットの女性の姿は消えていた。

 何のつもりだ。それで気を利かせたつもりか、と自分の部下の女性を心の中で激しく呪う彼である。

 

 彼はまたもや振り返り、タラップの下から機内を見た。

「レイ、やはりお前も…」

 

「機長さん」

「は、はい」

 この。彼らの最高司令官のお気に入りであるやたらと白いこの少女をこの機に乗せたのはこれが初めてではないが、その少女から声を掛けられたのは今回が初めてだった。VTOL機の機長はやや上擦った声で返事をしてしまう。

「私、トイレに…」

「トイレなら機内の後方に」

「凄いのが出そうなんです…。どこか、ちゃんとしたトイレに…」

「わ、分かりました」

 

 自分を置いて無断で飛び立って行ってしまったVTOL機を、彼は唖然としたまま見送るしかなかった。

 仕方なしに振り返り、そして墓標の前で立っている息子と対峙する。

 

 

 

 

 

 

 着地したVTOL機のタラップが降りると、父親は少年に背を向けて歩き始める。

「父さん」

 少年はそんな父親を呼び止めた。

「あの…、今日は嬉しかった…。父さんと話せて…」

「そうか…」

 父親はやや俯きながらぎこちなくそう答えると、タラップを上り始める。

 

 

 彼が指定の座席に腰を下ろすと、タラップは閉まり、VTOL機は少年を一人地上に残して上昇を始める。

 彼女は、窓からそんな少年の姿をじっと見つめていた。

「レイ…」

 呼ばれ、彼女は隣の席に視線を向ける。

 彼は、組んだ足の上に組んだ両手を乗せながら、前を見つめている。

「二度と、こんなことはするな…」

「……」

 返事をしない彼女に、彼は目だけを動かして隣に座る彼女を見た。

「分かったか…」

「……」

「返事をしろ…」

 

 彼が彼女に対し強引に返事を迫った時。

『乱気流に入ります。全員シートベルトを着用して下さい』

 との機長のアナウンスが終わる前に機体は激しく揺れ始めたため、結局彼は彼女からの返事を聞くことはできなかった。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 7番目の使徒襲来との報にすぐにプラグスーツに着替え、零号機に搭乗して待機していたら、この日到着したばかりの機体とパイロットによって、使徒はあっさりと撃退されたようだ。

 シャワーを浴び、制服に着替え、廊下を歩いていたら、弾んだ声で自分の名前を呼ぶ声が聴こえた。

 胸の中の心臓が少しばかり高鳴るのを自覚しながら、後ろを振り返る。

 長い廊下をずっと走ってきたらしい彼が、自分の前で足を止め、両膝に手を付いて乱れた呼吸を整えている。

「綾波、今日さ」

 顔を上げた彼の顔は、何処か晴れやか。

「父さんと、話が、出来たんだ」 

 その顔を見ていると、何故だか自分の心の中も晴れやかになっていくことを自覚する。

「結局僕が言いたいことが何なのか、分からず終いでさ…。碌な話もできなかったけど…」

 彼の口から、楽し気に彼の父親の話をされると、何故だか自分の心の中がぽかぽかと温かくなるのを自覚する。

「でも、父さんと話、できたんだ…」

 綻んだ彼の顔。

 

 きっとこんな時が、そうするべき時なのだろう。

 

 「あの時」、彼が教えてくれたことを、この場で再現してみることにする。

「そう、よかったわね…」

 微笑みながらそう答えたら、彼はぽかんとした顔をしてしまった。

 もしかしたら、タイミングを間違えてしまったのだろうか。

 やっぱり、自分にはまだ「笑えばいい」時がどんな時か、よく分かってないようだ。

 気を取り直した様子の彼が言う。

「綾波…、もしかして…」

「なに…?」

「ううん。なんでもない」

 どちらからともなく、廊下を歩き始めた。

「そう言えば、あれから紅茶淹れてみた?」

「ええ」

「…あの茶葉は早めに使い切った方がいいよ。確か、消費期限ギリギリだったと思うから」

「そう…。碇くん…」

「なに? 綾波」

「また…」

「うん」

「また、お父さんと、話。したい?」

 ちらりと、隣を歩く彼の横顔を見つめる。 

「うん…。そうだね…」

 彼は深く頷いた。

「また、父さんと話、できたらいいな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「碇司令…」

 

 

「なんだ…」

 

 

「食事って…、楽しい、ですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――■■■■…

 

 

 

 

 どこからか声がしたような気がした。

 

 誰かが、私の名前を呼ぶ声が。

 

 

 

 

「レイ…」

 

 

 

 それは彼の声。

 

 

 

「もういいのだ…。レイ」

 

 

 いつになく、柔らかな彼の声。

 

 

「全てはもう終わる…」

 

 

 微睡んでいる幼子を、優しく寝かしつけている父親のような声。

 

 

「戦いの時は、終わったのだ…」

 

 

 彼の優し気な声に包まれて。

 

 

「お前はよく戦った…、レイ」

 

 

 彼の労わりの心の中に包まれて。

 

 

「だから…、レイ…」

 

 

 私の意識は、深く暗い海の底へと、ゆっくりと引きずり込まれていく。

 

 

「お前も、もう、眠りなさい…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  そう…

 

 

 

    全てはもう…

 

 

 

       終わる…

 

 

 

 

 

 

「ああ…」

 

 

 

 

    これで私も…

 

 

 

  私の役割も…

 

 

 

      私が生まれてきた意味も…

 

 

 

 

 

 

「ああ、終わりだ…。

 

 

 

 世界は書き換えられる。

 

 

 

 全てが、等しく、単一な、

 

 

 

 人類の

 

 

 

 心の世界。

 

 

 

 他人との差異がなく、

 

 

 

 貧富も、差別も、争いも、虐待も、苦痛も、悲しみもない。

 

 

 

 浄化された魂だけの世界。

 

 

 

 そこには自分も他人もない。

 

 

 

―――父さんと、話がしたい。

 

 

 

 全ての境が消えた世界。

 

 

 

―――碇ゲンドウと、話がしたい。

 

 

 

 境がない故に、言葉も必要としない。

 

 

 

―――無性に話がしたいんだ。だから。

 

 

 

 境がない故に、身体的接触も必要としない。

 

 

 

―――もう一度、手を貸してほしい。僕に。君の手を。

 

 

 

 境がない故に、人と繋がる恐怖も、人が溢れるこの世界への恐怖も存在しない。

 

 

 

―――だから、もう一度、僕の手を握って。

 

   もう一度、僕の手を繋いで。

 

 

 

 人類は、誕生以来の最大の敵である「他人」という恐怖に、初めて打ち勝つのだ。

 

 

 

 

 

だから

 

 

 

 

 

―――だから。

 

 

 

 

 

レイ!

 

 

 

 

 

―――綾波!!

 

 

 

 

 

耳を貸すな!

 

 

 

 

 

―――僕はここだ!!

 

 

 

 

 

答えてはならん! レイ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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(57)運命の二人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

綾波!!

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はここだ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 4本の腕を持つ異形の巨人。

 エヴァンゲリオン第13号機。

 

 13号機は、暗闇に包まれた空間。その中に聳え立つ巨大な赤い十字架に磔にされた、仮面を被る怪物の前に立っていた。

 

 13号機の肩から伸びる4本の腕。

 そのうちの2本の腕。第1、第2の手に握られた、2本の赤い槍。

 

 槍は13号機の手から離れると、空中を舞い、互いの周りを旋回し始める。

 やがて槍同士は距離を縮め、接触し、溶け合い、混ざり合い、一本の槍へと姿を変えた。

 その槍の切っ先は、まっすぐに仮面を被った怪物の胸へと深く沈んでいく。

 

 その槍はカラクリ人形のゼンマイを巻くための鍵のような役割を果たす。

 巨大な十字架に磔にされていた怪物は、胸に槍を捻じ込まれてから数秒を経て、大きく体動を始めた。

 磔にしていた杭から両手が引き抜かれると、その巨体をゆっくりと十字架の周囲に広がる原始の海に着地させる。着水の衝撃で原始の海は大きな津波を起こし、十字架の前に立っていた第13号機の体に生命のスープの雨を浴びせた。

 

 原始の海に着地した瞬間、ただでさえ、とてつもない大きさを誇る怪物の体が、さらに膨張を始めた。

 肥大化していく体。一方で醜い形をしていたその体は、腰や腕は細くなり、肩は丸くなり、胸は膨らみ、そして頭部からは不自然な色をした毛髪が生え始める。

  

 肥大化していく体は空間の天上にある、虚構の世界と現実の世界の狭間にある扉へと接近する。

 この怪物の体が扉を越え、現実の世界へと姿を現した時。

 その時こそが、「彼」が思い描いた新しい世界が始まる瞬間だった。

 

 

 

「もうすぐだ…、ユイ…」

 

 ついに怪物の頭部が虚構と現実の扉に辿り着いた。

 扉に接触した瞬間、怪物の頭部がぐらりと大きく揺れ、その首からごろんと転げ落ちた。

 しかし頭部はそのまま落下することなく、怪物の胸に寄り添うように宙を漂い続ける。

 そして暗闇に包まれていた空間が。天井が、床が、全てが黄金色に輝き始めた。

 

「もうすぐ会える…、ユイ…」

 

 怪物の顔面を塞いでいた仮面が剥がれ落ちる。

 仮面の向こうから、「彼」がその再会を待ちわびる人物とよく似た顔が現れた。

 

「私たちの夢が叶うのだ…!」

 

 

 4本の腕を持つ異形のエヴァンゲリオン第13号機。

 その内の第1、第2の手は、握っていた2本の槍をすでに手放している。

 そして残りの2本。第3、第4の腕に抱かれたていたのは、四肢が捥げた1体のエヴァンゲリオン。

 

 

「だからレイ…!」

 

 

 エヴァンゲリオン初号機。

 

 

「耳を貸すな…!」

 

 

 その瞳に、光が宿った。

 

 

「答えてはならん! レイ!」

 

 

 第13号機の腕の中で完全に活動停止していた初号機。

 胴体と頭部だけが残った痛々しい姿の初号機。

 その初号機が、体動を始める。

 

 

 その先を失った右肩に燐光が瞬くと、何もなかった空間に一筋の眩い光が走り、それはすぐに腕の形を成し始めた。

 右肩だけではなく、左肩にも同じ現象。

 

「もうよせ!」

 

 第13号機の第1、第2の腕が、再生された初号機の2本の二の腕を掴み上げた。

 しかし抗う初号機は再生された手で逆に13号機の二の腕を握り締める。そして初号機を拘束する13号機の手を、引き剥がしに掛かった。

 互いの二の腕を掴みあう2体の巨人。腕の本数と目以外は、まるで双子のように瓜二つの2体の巨獣。

 しかし次第に片方の巨獣の腕力が、もう片方の巨獣の腕力を凌駕し始める。

 初号機の両手が13号機の腕を握り潰さんばかりに肉に深く食い込み、初号機の二の腕を拘束していた13号機の手から、徐々に腕力が失われ始めた。

 

「やめろ!」

 

 

 発動した「世界の書き換え」。

 アディショナルインパクト。

 それは秘密結社ゼーレの悲願であり、滅びへと向かいつつある人類が生き残るための最後の儀式であったはずのフォースインパクトに、たった一人の男の願いを上乗せするための儀式。

 彼が抱くただ一つの願い。

 そのための最後のマテリアルは、初号機の中にある。

 だから。

 

 

 4本ある第13号機の腕。

 うち第1と第2の腕は初号機の腕を掴んでいる。

 そして残り2本の腕。

 第3と第4の腕が、前に向かって真っすぐに伸びた。

 

「やめるんだ! レイ!」

 

 第3と第4の腕が突き出された先。

 そこにあったのは初号機の頚部。

 分厚い装甲で覆われた第13号機の手が大きく開き、初号機の頚部に絡み付いた。第2指から第5指までの計8本の指は首の後ろに回り、そして残った2本の第1指は初号機の逞しい喉仏に突き立てられる。

 次の瞬間、全ての握力を総動員する第13号機の手。

 第13号機の手が、初号機の首を一気に締め上げた。

 

 首を急激に圧迫された初号機はたまらず13号機の腕を掴んでいた手を離し、今度は首を締め上げている腕の手首を掴み、引き剥がそうと試みた。しかし自由になった13号機の第1と第2の手が初号機の両手首を掴み返し、逆に拘束してしまう。

 その間にも、13号機の第3、第4の手は、初号機の首を絞め続けている。

 

「もういいんだ、レイ…」

 

 そして13号機は4本全ての腕を己の頭上に向かって掲げた。

 

「もういい…」

 

 13号機の4本の腕によって、まるで絞首刑に処せられた罪人のように吊り下げられた初号機。

 その機体が、弛緩していく。

 腕から、足から、力が抜けていく。

 黄金色に輝く空を背景に、両腕を強制的に広げられた初号機の体が、地面に向かって力なく垂れ下がる。

 

「お前はもう、休め…」

 

 眼孔の奥に宿っていた光が消え、初号機の体は動かなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

碇くん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なに? 綾波

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、お父さんと、話。したい?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うん

 

 

 

 

 

 

 

 

そうだね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また父さんと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できたらいいな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然迸った強烈な光。

 初号機の切断されていた腰から、眩い光が弾ける。

 腰から地面に向かって一気に伸びた光の柱。

 それはやがて2本の柱に分かれ、そして脚の形を成し始める。

 足の形を成すと光は急速に消え失せ、そして現れたのは紫色の装甲。

 

 初号機は瞬く間に再生させた両脚を素早く折り畳むと、初号機と第13号機の間に挟み込んだ。そしてその足底を第13号機の胸に押し当て、畳んでいた膝を一気に伸ばす。初号機の2本の脚が、13号機の体を渾身の力で一気に突き飛ばした。

 初号機の全霊を込めた一撃についに第13号機の手による4つの拘束が解け、束縛から解放された初号機の体が轟音を轟かせながら地面に降り立つ。

 すぐさま初号機は後方に向かって跳躍し、第13号機から距離を取った。

 地面に両手を付いて着地する初号機。

 

「待て! 行くな! レイ!」

 

 顔を上げ、遠くに離れた第13号機を見つめる。

 初号機の視線の先にある第13号機の顔。大きく開いた口の中に、一人の人物が立っていた。

 

「お前もか! お前も…! 私から全てを…! 希望の光を奪っていくのか…!」

 

 碇ゲンドウは遠くに行ってしまった初号機に対し、懸命に声を振り絞る。 

 

 初号機はゆっくりと腰を上げ、2本の脚で大地に立った。

 少しだけ開いた口。その両端から、少量の蒸気が漏れ出る。

 初号機の喉の奥が、まるで遠雷のような低い唸り声を響かせた。

 

「なんだと…」

 

 棒立ちとなっている第13号機。そしてその口の中に立つ男の姿を、まっすぐに見つめる初号機。

 その口は今も少しだけ開き、その奥の喉は低い唸り声を響かせ続けている。

 

 初号機の足もとから、湧き水のように淡い光が溢れ出し始めた。

 

 淡い光は泡となって瞬く間に範囲を広げていき、脚、腰、そして胸と、初号機の体を包み込んでいく。

 

「レイ…」

 

 ついに初号機の巨体全てを包み込んだ光の泡は、一際強く煌くと、急速にその輝きを失い、そして消えていった。

 

 光が消えた跡。

 

 そこに初号機の姿はなかった。

 

 

 

 13号機の口の中に立つ碇ゲンドウ。

 光の泡に包まれていく中、初号機の薄く開いた口から確かに聴こえた「彼女」の声。

 

「“必ず、戻ってくる”…」

 

 彼女の言葉を、碇ゲンドウは反芻する。

 

「“希望の光と、共に”…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 ブラックホールのような巨大な穴に向かってひたすら落ちていく。

 あの巨大過ぎる飛行戦艦から飛び降りて、どれくらいの時間が経っただろうか。こんなに距離や縮尺の感覚が出鱈目な空間に居ると、時間の経過すらも分からなくなってしまう。

 ひたすら、ひたすら落ちていく。

 あの艦の副長は、この先は人類には手出しできない未知の空間、不可侵の場所と言っていた。

 

 でも行ける。

 

 絶対に辿り着ける。

 

 この確信が揺らぐことはない。

 

 自分が進むべき道を見失うことはない。

 

 

 なぜなら。

 

 

 それは。

 

 

 

 背中に空気の揺らぎを感じた。

 背中に、熱を感じた。

 背中に、光を感じた。

 

 何処か懐かしい光。

 何処か懐かしい温かさ。

 

 

 それは彼が抱く確信の拠り所。

 未知の場所を目指す彼にとっての、揺るぎない道標。

 

 てっきり今自分が落っこちている最中のこの大きな穴の奥から現れるものとばかり思っていたのだけれど。

 相変わらず、「彼女」の行動は自分の想像を軽く超えていく。

 

 少年は微笑む。

 

 体を捩じり、背中を真下に広がる大きな穴へ、そして体の正面を空へと向けた。

 

 

 途端に、その視界に入ってきたのは大きくて厳つい顔。

 

 ごつごつとした鉄兜に包まれた大きな顔が、彼を覗き込んでいた。

 

 そんな、見る者によっては一目見ただけで失神しそうになってしまいそうな顔を、少年は愛おし気に見上げる。

 

 

「やあ、綾波…」

 

 

 大きな顔の鼻に向けて、両手を伸ばした。

 

 

「やっぱり、来てくれたんだね…」

 

 

 

 紫色の巨人。

 エヴァンゲリオン初号機は、巨大な漆黒の穴に背に落下していく少年の体に向けて両手を伸ばした。

 あらゆる敵を、障壁を引き裂き、粉砕し、叩き割ってきた厳つい手。その大きな手が、ゆっくりと繊細に少年の体を包み込んでいく。そして少年の華奢な体を覆うと、その手の平に無数の光の顆、極小のATフィールドの結晶を溢れ出させた。その結晶が緩衝材となり、少年の体は巨人の手のひらに柔らかく着地する。

 自分の体を包み込む光の結晶たち。

 「かつて子供の頃」に見た記憶がある懐かしいこの光景に、少年は「ははは」と声を上げて笑った。そして「当時」に戻ったかのように、その光の結晶たちを両手で掬い上げ、空へ向けて放り投げる。舞い上がった光の結晶たちが少年の体の周りと、そしてすぐ側にある巨人の顔との間に無数の燐光を舞わせた。

 

 光の結晶の中に、背中から倒れ込んだ少年。

 舞い上がった光の結晶たちが、羽毛のように少年の体を包み込む。

 

 そんな少年を覗き込む巨人。

 少年もまた、数多の光に囲まれながら巨人の顔を見上げる。

 少年の目には、手のひらに溢れる数多の光を反射させ、きらきらと光っている巨人の顔が、何よりも美しく思えた。

 

「ありがとう、綾波…」

 世界一美して、ちょびっとだけ厳つい大きな顔を見つめながら、彼は口を開く。

「ずっと僕を、護ってくれてたんだね…」

 世界一美してちょびっとだけ厳つい顔の持ち主は、「大したことじゃない」とでも言うかのように、その大きな顔を左右に振る。

「ごめん、綾波…」

 少年の声が、僅かばかり強張った。

「僕を護るために…、君はとてもたくさん傷ついてしまった…」

 巨人は今度もやっぱり「大したことじゃない」とでも言うかのように、大きな顔を左右に振っている。

 そんな厳つくも健気な巨人の仕草を見て、少年は笑みを見せつつ、目尻に涙を滲ませる。

  

 ATフィールドの結晶の光を浴びてキラキラと光る巨人の顔。

 その装甲は無数の傷で抉られ、亀裂が走り、彼が眠っている間に巨人が身を投じた戦いの激しさを物語っている。

 そんな傷塗れの巨人の顔を見つめていると、心の底から色々なものが込み上げてきてしまう。

 

 それでも、今は感傷に浸っている時間はない。

 再会の喜びも、今は脇に置いて。

 

 少年はぎゅっと目を閉じ、目尻に浮いた涙を絞り出した。

 細めた目で、巨人の顔を見上げる。

「綾波…。僕は父さんと、話がしたいんだ」

 巨人は、再会して初めてその大きな顔を、縦に大きく振った。

 何の躊躇いもなく縦に振られた巨人の顔に、涙を絞り出したはずの少年の目が再び潤んでしまう。

「だから。綾波」

 潤んだ少年の目が、彼を囲む無数の光の結晶たちを映し出して、万華鏡のように光り輝く。

 光に溢れた顔で、少年は言った。

 

 

「僕を、エヴァに。初号機に乗せて欲しい」

 

 

 

 

 まるで一心同体。

 シンクロ率(無限大)

 「彼女」とは、全てが通じ合っているかのよう。

 

 

 少年はそう感じていたのだが、しかし彼が巨人に告げたその願いに対し、巨人は、今まで一番大きく、顔を左右に振った。

 

「お願いだ、綾波…。僕を初号機に…」

 

 少年が言い切る前に、巨人はもう一度。まるで駄々をこねる幼子のように、顔を左右に大きく振るう。

 

 何となく、巨人のその反応を予想していた少年は、困ったように笑う。

「もう…、頑固だなぁ、綾波は…」

 そんな少年の指摘に、巨人は「そうだ」と言わんばかりに素早く2度頷いた。

 少年はくすりと笑う。

「そんなに、僕がエヴァに乗るのはダメなことなのかな?」

 一度だけ大きくゆっくりと頷く巨人に、少しばかり呆れたように浅い溜息を吐く少年。

「あ、でもごめん、綾波」

 少年は何かを思い出したように苦笑いした。

 

「僕、実はもう別のエヴァ。あの第13号機ってやつに乗っちゃったんだ」

 

 少年の告白。

 まるで悪戯の報告でもするかのような少年の報告に、巨人は虚を突かれでもしたかのように、固まってしまった。

 

 巨人が少年の顔を見つめたまま10秒ほど硬直してしまって。

 

 ようやく硬直から解かれた巨人が動かしのは、巨人の大きな手。

 少年の体を支えるためにお椀のように重ねられていた巨人の手が、まるでおにぎりを作る要領で、少年の体全体を完全に包み込んでしまう。

「え? 綾波?」

 巨人の手に覆われてしまい、外が見えなくなってしまった少年。

「あ、あのさ…うわわわ!?」

 やっぱり怒ってるのかなと思って言い訳を始めようとしたところで、地面が。正確に言えば背にしていた巨人の右手の平が大きく浮き上がり、その反動で少年の体も浮き上がってしまった。かと思えば、今度は少年の体を覆っていた巨人の左手の平が大きく沈み、少年の体を下に叩き付けてしまう。少年の背が右手の平に付いたら再び右手の平が浮き上がり、少年の体が浮いたら左手の平が少年の体を下に叩き付ける。それを小刻みに何度も繰り返す。

 少年の体は、巨人の手の中で思いっきりシェイクされていた。

 

「わあああああああああああああああああ! やめてぇ! やめてよ綾波ぃ!」

 

 光の結晶たちが緩衝材になっているので特に痛くはないし怪我もしないが。

「ごめん! ごめんごめんごめん! ごめんったらごめん!」

 巨人の手の中で激しくもみくちゃにされてしまう少年の体。

「ごめんってば! 謝るから許してよおぉぉ綾波ぃぃ!」

 重ね合わされた巨人の手の中から、少年の情けない悲鳴が木霊する。

 

 

「分かったよぉ! もう2度とエヴァには乗りませんからぁ!」

 

 

 巨人の手が、ピタリと止まった。

 

 重ね合わされた巨人の手が、ゆっくりと開く。

 そこには無数の光の結晶たちに囲まれて、ひっくり返っている少年の姿。

 そんな情けない格好のままで、少年は巨人を見上げている。

「分かったよ、綾波…。君の言う通りにするよ…」

 そう告げる少年の顔はあからさまに不満顔。しかしそんな表情は長くは保っていられず、すぐに歯を見せてくくっと笑う。

 とりあえず天地逆さまの不様な格好を戻し、2本の足で光の結晶の上に立ち上がった。

「それじゃあ綾波」

 巨人の大きな親指に手を付きながら、巨人の顔を見上げた。

「僕を、父さんのもとまで、連れて行ってくれるかな」

 少年のその申し出に、巨人は大きく頷いた。

 

 

 巨人の手の平から溢れ出る光の結晶たちが更にその量を増し、光の奔流となって少年の体だけでなく、巨人の腕を、胸を、腰を、足を、頭を。体全体を包み込む。光の奔流はやがて穴に向かって降下する巨人の体に尾を引き、その様は赤銅色の空を流れる大きな彗星のようだった。

 巨人の手の上から、眼下に開く巨大な穴を見つめる少年。あの穴に向かって一人で落ちている時は、どんなに落ちても一向に近付く気配のなかった穴が、今は明らかに距離を縮めているのが分かる。

 自分を手の平に乗せている巨人が、巨大な漆黒の穴の、さらにその先へと導いてくれている。

 巨人の中の「彼女」が、自分が望む場所まで導いてくれている。

 「彼女」が、僕の願いと共鳴してくれている。

 

 

 

「綾波」

 

 少年はその先に望む場所がある穴の奥を見つめながら、巨人に向けて呼び掛けた。

 

「僕たちは、運命を仕組まれた子だ…」

 

 顔の正面に巨大な穴をまっすぐに捉える巨人は、瞳だけを動かして手の上の少年を見た。

 

「それは人の手によって仕組まれたものかもしれないけれど…、でも綾波」

 

 少年も、巨人の顔を見つめる。

 

「僕は、君との運命を信じてるよ」

 

 そして、少し照れ臭そうに、少年は笑った。

 

「僕たちはきっと、運命の二人なんだ」

 

 分厚い装甲で固められた巨人の顔。

 表情を浮かべることなんてできないはずの巨人の顔。

 しかし少年の目には、その顔がどことなく恥じらっているように見えて、少年の笑顔はさらに大きくなる。

 

「だから行こう! 綾波!」

 

 少年の瞳は再び彼らが目指す巨大な漆黒の穴の奥をまっすぐに見据える。

 

「どこまでも一緒に!」

 

 その呼び掛けに呼応するかのように、巨人の体全体から光の結晶たちが溢れ出し、強烈な閃光を瞬かせる。

 

 この惑星の極地。

 セカンドインパクトの爆心地であるこの地に久しく覗かせることのなかった太陽よりも遥かに強烈なその光は、全ての光を飲み込んでしまう深い漆黒の闇に覆われた巨大な穴の中をも、明るく照らし出した。

 

 

 闇の中を突き進む彗星。

 

 彗星が目指す、深い深い闇の奥。

 

 まるで降下する彗星と入れ替わるように、闇の奥底から宇宙へと向かって膨張を繰り返す、白い怪物の姿が見えた。

 

 

 

 



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(58)南極決戦

 

 

 

 

 艦橋の後部扉が開き、この艦の最高幹部2人が顔を出した。

 赤いジャケットを身に纏うヴィレ旗艦ヴンダー艦長、葛城ミサトは、艦橋を見渡せる位置にある艦長デッキの上に立ち、乗組員たちを見下ろす。艦長と副長の登場を待っていた乗組員たちもまた、艦長デッキを見上げていた。

 人類を破滅へと導く計画を止めるため、24年間封印され続けたこの惑星の極地へと乗り込み、宿敵との間ですでに激しい戦闘を繰り広げた彼ら。結果は惨敗。阻止するどころか、こちらの思惑をまんまと宿敵の計画に利用される始末。彼らが乗る大型飛行戦艦も主兵装は破壊され、主機も奪われ、酷く傷付き、浮いているだけでも奇蹟と称された。そんな痛ましい姿の艦と同様に、指導者を見上げる乗組員の顔にも、一様に濃い疲労の影が浮かんでいた。

 

 しかし、彼らのその瞳には絶望は宿っていない。希望の光は、失われていない。

 そんな彼らの顔を、一人一人見つめたミサトは、自らもサングラスを外し、彼らにその瞳を晒した。

 部下たちが彼らの指導者の素顔を直接見るのは、指導者がかつての被保護者と14年ぶりの対面を果たした時以来だった。

 彼女の瞳にもまた、意志の光が力強く宿っている。

 

「みんな、いいのね?」

 艦長は静かに部下たちに問いかけた。

 部下たちを代表して、年長者である機関長の高雄コウジが席から立ち上がり、姿勢をぴんと正す。

「ヴンダー乗員一同、どこまでも艦長に付いていく所存です」

 彼は低く重く、かつ明朗な声音で答えた。

 ミサトは柔らかく笑う。

「ありがとう…、みんな」

 艦橋要員だけでなく、この艦に乗り込む全ての乗員一人一人に告げるように、ミサトは感謝の言葉を口にした。

 

 艦長デッキから見える全ての部下がミサトを見上げているかに見えたが、一人だけミサトに背を向け、目の前のコンソールを黙々と操作しているオペレーターが居る。

 そんな部下の背中に、ミサトは微笑みながら声を掛ける。

「北上少尉。あなたは良かったの?」

「ふん!」

 北上ミドリはピンク色に染めたボブカットの髪を揺らしながら、不満げに鼻を鳴らしている。そんな若いオペレーターの横顔を呆れたように見ながら青葉シゲルは言う。

「北上。希望者に対して退艦許可は下りている。若いお前さんが俺たちに無理に付き合う必要はないんだぞ」

「同調圧力!」

 キーボードのキーをわざとらしく大きな音を立てて叩きながら、北上ミドリは吐き捨てるように言った。

「こんな空気であたし一人だけ降りられる訳ないっつーの。それに」

 コンソールの隅に投げてあったパウチの口を咥え、中身のゼリー食を口の中に押し流す。ゼリー食を一気に飲み干し、もう一度鼻をふんと鳴らして。

「あたしが降りちゃったら、誰がこの席に座るっつーのよ」

 口の中のゼリーを咀嚼しながら言う北上に、日向マコトはメガネのブリッジを押し上げながらくくっと声を押し殺して笑った。

「北上の口からそんな言葉を聴く日がくるとはな」

「お前さんもようやく一端の船乗りになったか」

 高雄の揶揄うような声に、艦橋のそこかしこから笑い声が上がる。北上は不機嫌そうに眉根を寄せ、顔を隠すようにコンソールの画面に向かって前のめりになりつつ。

「あーうっさいうっさい。もう世界の命運とか、人類の未来だとか、そーゆーの全部どーでもいいのよ。あたしはただ」

 そこまで言って北上はようやくキーボードを叩く手を止め、振り返り、艦橋のみんなを見た。

 

「あたしはただ、あの碇ゲンドウをぎゃふんと言わせたいだけ」

 

 

「碇ゲンドウを…」

 ミサトの後ろに立つ副長の赤木リツコ。

「ぎゃふん、とか…」

 北上の言葉を、口の中で転がしてみせる。

「何て素敵なことかしら…」

 リツコの顔に笑顔が広がった。

「それは命懸けで挑む価値のあるものね…」

 

 リツコの独り言を聴いていたミサトもふふっと小さく笑った。

「それじゃあみんな」

 艦長の呼び掛けに、艦橋に居たもの。北上を含めた全員が立ち上り、姿勢を正す。

「我々ヴィレの最後の作戦、始めるわよ!」

 全員の「はい」という威勢の良い返事が、艦橋の中に木霊した。

「名付けて“碇ゲンドウをぎゃふんと言わせたい”大作戦!」

 艦橋に溢れる笑い声に、北上の「ちょっと待ってくださいよ!」という悲鳴にも似た叫び声は無残にかき消される。

「発動!!」

 

 

 ミサトの号令と共に、部下たちは皆一斉に各々に与えられた席へと着座し、それぞれに課せられた最後の仕事を始める。

 そんな部下たちの頼もしい背中を見下ろしながら、ミサトは側に立つリツコに小さな声で呟いた。

「リツコ…」

 勇ましい号令を発した人物とは思えない。これから世界の命運と人類の未来を賭けた決戦に挑む艦の艦長とは思えないほどの弱々しい声音を吐いた人物の横顔を、リツコは見つめる。

「何処かの誰かの未来の為に…。そう自分と部下たちに言い聞かせながら戦い続けた14年間だったけれど…」

 部下たちを見下ろしていたミサトの視線が、自身の足もとへと下がる。

「今、この瞬間だけは…。息子のために…。リョウジの未来の為に戦いたい…。そう思ってる…。私にそんな資格なんて、ないってことは分かってるけど…」

 足もとに下ろしていた視線を、隣に立つ友人に向ける。

「ダメ…、かな…?」

 ミサトの顔に浮かんだ表情に、リツコは一度目を丸くした。しかしすぐにその目を細め、口もとを綻ばせる。

「情動で動くとあなたは碌な目には合わない…」

 溜息を一つ交えて。

「でも、情動で動かないミサトなんて、ミサトらしくないわ」

 左手を、ぽんと友人の右肩に乗せた。

「良かったじゃない。ミサトとリョウちゃんの願い。14年ぶりに重なったわね」

 そのリツコの言葉に今度はミサトが目を丸くする番だったが、ミサトもまた目を細め、口もとを綻ばせた。

「ええ」

 顔を艦橋正面に向ける。

 

「子供たちが笑って暮らせる、明るい未来の為に…」

 

 艦長デッキに用意された鉄柵を握り締める。

 ミサトの表情が戦いに臨む艦長のそれへと切り替わる。

 薄く開いた口の隙間から大きく息を吸い込み。

 

 

「全艦! 第一種戦闘配置!」

 

 

「第一種戦闘配置!」

 リツコの復唱と共に、乗員全員の表情もまた切り替わった。

「メインエンジン点火!」

「メインエンジン!」

 艦長の命令を復唱する高雄は、自らが座る座席の両脇にあるレバーを握り締め。

「点火!」

 それを一気に押し倒した。

 高雄がレバーを倒してから数秒後。艦全体を、大きな揺れが襲う。

『固体燃料ロケットエンジン! 点火しました!』

 スピーカーを通して聴こえる機関室からの報告に、高雄はがははと高笑いした。

「錆びついちゃいなかったか!」

 高雄の痛快な声に、機関室からの声も大いに高揚している。

『はい! 日頃から手間を惜しまず整備してきた甲斐がありました!』

「俺は重力制御だとか時空間制御だとか、得体の知れん推進方法は好かん!」

『はい! 反動推進型エンジンこそ、男のロマンであります!』

 機関長と機関室との通信のやり取りを、高雄の隣に座る北上がげんなりとした顔で聴いている。

 

 艦後方から聴こえる景気のよい騒音に耳を傾けながら、その騒音に負けない大きな声でミサトは叫んだ。

「艦回頭120度! 艦首上げ15度!」

「艦回頭120度! 艦首上げ15度!」

 ミサトの指示を、操舵手の長良スミレが正確に艦に伝えていくと、艦橋の床がうねるように大きく浮き上がった。艦の急速回頭に、艦橋の壁全面に張り巡らされた全周囲型モニターに映る外の景色が、目まぐるしく変わっていく。

 まるで三つ頸の竜のような艦首。その三又の艦首の矛先が捉えようとするもの。

「針路0-2-5! ヨーソロー!」

「ヨーソロー!」

 艦の航路を指し示す艦首が向く先にあるもの。

「機関全速!」

 艦首が導く先にあるものを睨みながら、ミサトは叫ぶ。

「機関全速!」

 ミサトの号令を復唱すると同時に、高雄は握っていたレバーをさらに奥まで押し倒した。

 艦尾から轟く猛烈な爆音。艦全体を覆う振動は激しさを増し、座席に座っていた者は体をバックシートに押し付けられ、立っていたリツコは激しい揺れに振り落とされないよう手すりに懸命にしがみつく。

 同じく艦長デッキで立っていたミサトも片膝を付き、手すりにしがみ付きながらも、その目はヴンダーの艦首が捉える物体をまっすぐに見据えていた。

 

「目標! ネルフ三番艦! エルブズュンデ!」

 

 艦尾に備えた幾つもの噴射ノズルから特大の火炎を吐き出しながら、ヴンダーが最後の航行を始めた。

 

 

 

 

 赤銅色の空に浮かぶ4隻の超大型飛行戦艦。新たな槍の生成という唯一の役割を果たし終えたそれらは、儀式の後に起こるであろう、この宇宙において開闢以来となる極大事象の発現を待つべく、方陣を敷きながら空中に停泊していた。

 そのうちの1隻。他のドッグから出されたばかりで金ぴかの舟とは異なり、酷く傷ついたオンボロの舟の艦尾から光が瞬き、猛烈な噴射煙を撒き散らしながら大きく旋回を始める。

 艦体の中央には、オーバーテクノロジーを駆使して繰り広げられた艦隊戦において、体当たりという非常に原始的な攻撃を受けてぽっかりと開いた大きな穴。主砲は破壊され、主だった動力源も奪われ、瀕死の状態の艦。

 ネルフ一番艦ヴーゼ。今はヴィレ旗艦ヴンダーと名乗る手負いの艦が、旋回を終えるとその艦首の先にある物体に向かって一直線に進み始めた。

 

 ネルフ艦隊旗艦エアレーズングの艦橋で一人佇む長身の男性。

 ネルフ艦隊総司令官にしてネルフ艦隊唯一の搭乗員である彼、冬月コウゾウは、宿敵ヴィレの旗艦の動きを冷めた表情で見つめている。

「葛城大佐…」

 その名の持ち主が乗る船が向かう先に停泊するのは、ネルフ三番艦エルブズュンデ。ヴンダーは、エルブズュンデに向かって猛烈な速度で突進している。

「追い詰められた先に玉砕の美を見い出す。結局君も、過去の凡庸な指導者と同類なのかね…」

 肩を竦めつつ、床から伸びる細長い柱で支えられた大人の手の平大の小さなコンソールの上に、右手を這わせる。彼はこの小さなコンソールのみで、彼が搭乗するエアレーズングを含むネルフ艦隊全ての艦を操っていた。

 

 

 

 

「機関出力98パーセントを維持!」

「針路誤差修正!」

「誤差マニュアルにて修正!」

「艦長!」

 オペレーターたちの間で行き交う怒号を切り裂くような、北上の甲高い声。

「目標エルブズュンデの主砲に高エネルギー反応を確認!」

 その報告に対し、ミサトは迷わず叫んだ。

「針路このまま!」

 艦長のその指示に、北上は「ああやっぱり」とばかりに天を仰ぐその隣で、日向がマイクを通じて全艦に向けて叫ぶ。

「敵主砲が来るぞ! 全員衝撃に備えろ!」

 

 

 ネルフ艦隊3番艦エルブズュンデの上甲板に設置された4つの球体。それぞれの球体には一つの穴があり、それらが全て突進してくるヴンダーへと向けられた。そしてその穴の周囲が青白く光り始め、その光たちが穴の中央に吸い込まれていってから2秒後。

 4つの球体それぞれに強烈な閃光が瞬き、穴から弾き出された超高密度エネルギー体の光球がまっすぐに標的へと向かった。

 

 

 巨大な棍棒で殴り付けられたような激しい衝撃が艦橋を襲う。

「右主翼! 大破!」

 乗員たちの悲鳴に混じって、多摩ヒデキによる損害報告が叫ばれる。多摩は身を乗り出し、全周囲型スクリーンに映し出される右舷を目視。敵主砲の直撃を受けた鷲の翼のような主翼が、粉々に砕けていた。

「翼なんてただの飾りよ! 舵そのまま! 最大船速を維持!」

 無茶苦茶なことを言う我らが艦長に、高雄はがははと笑いながらすでに目一杯押し倒しているレバーを、限界のさらにその先にまで押し倒した。

「両弦一杯っ! 持ちこたえてみせろぉ!」

 以前にも増して激しい振動が艦全体を覆う。

「機関出力125パーセント!」

 子供のようにはしゃぐ機関長の横で、彼にとっては子供のような年齢の若いオペレーターが叫んだ。

「敵主砲、エネルギー再充填! 来ますっ!」

 北上の悲鳴のような報告と同時に、ヴンダーの針路方向に浮かぶ艦影から4つの強力な閃光が煌めいた。

 

 その数秒後。

 

 艦橋の全周囲型スクリーンの右半分が、強烈な閃光に支配される。同時に、激しい爆発音。最初の被弾を遥かに上回る衝撃が艦全体を襲った。

「敵主砲! 直撃です!」

 衝撃に耐える多摩が、呻くように叫ぶ。閃光が静まると同時に、艦橋周辺が猛烈な爆炎によって満たされた。

「右舷第2船体を直撃! 第3から第7格納庫で火災発生!」

「ただちに消化班を派遣!」

「右舷機関部にも延焼! 駄目です! 収拾がつきません!」

 多摩から次々と報告される悲惨な損害報告。

 目標のエルブズュンデだけを見ていたミサトは、初めてその視線を右側へ。

 艦橋からも見える、三つ首の竜のような姿をしたヴンダーの、右端の首。右舷第2船体を見た。

 今も各所で大規模な爆発を起こしながら猛烈な炎を吐き出し、膨大な量の黒煙を上げている右舷第2船体。

 ミサトがそれを見たのは、ほんの一瞬だった。

 すぐに視線を目標物に戻したミサト。

「右舷第2船体を切り離せ!」

「え…?」

 多摩と北上。艦橋に居る、若いオペレーター2人が、その命令を下した人物を見上げた。

「聴こえなかったの!」

 艦長の命令を、副長が復唱する。

「右舷第2船体を切り離すのよ!」

 

 副長の怒号のような指示を受け、多摩は呆然としたまま目の前のコンソールを見つめる。

 震える指で、しかし訓練通りの素早い手つきで端末を操作し、コマンドを入力。

「右舷第2船体…」

 その言葉を言いかけて、強烈な吐き気を感じた多摩は咄嗟に口元を抑えようとしたが、寸でのところで堪え、唇を噛み締めて喉の奥からせり上がってきそうなものを強引に押し戻し、そして口を開いた。

「右舷第2船体! 切り離します!」

 

 艦全体が縦に大きく揺れると同時に、巨大な金属同士がぶつかり合い、軋むような音。そして右側が「軽くなった」艦全体が、左側に大きく傾いた。操舵手の長良は明らかに左右不均衡になった艦の姿勢を懸命に保とうとする。

「右舷第2船体…、離れていきます…!」

 多摩の絞り出すような声で告げられた報告。

 右舷を見つめるリツコの目にも、艦本体から離れていく右舷第2船体の姿が見えた。今も次々と巨大な爆発を起こし、その身全体が炎に包まれた竜の首が。

「右舷第2船体より入電。「我ラノ魂ハ槍ト共ニアリ。皆ノ武運ヲ祈ル」…」

 青葉が読み上げたその電文に対し、ミサトは感想を述べる代わりに叫んだ。

「左舷機関部は!」

 艦長のその問い掛けに、高雄は弾かれたように答える。

「左舷機関部! 問題ありません!」

「マギ・コピーは!」

 その問い掛けには、スピーカー越しの伊吹マヤの声が応じた。

『マギ・コピー! 損害なし!』

「よろしい! 針路そのまま!」

 ミサトのその号令に、動揺と迷いが生じていた乗員の顔が一様に引き締まる。

「機関最大出力! 突撃続行!」

 

 

 

 

 著しい損害を被った右舷を切り捨て、なおも突進を止めないヴンダー。その姿を遠くから見つめる冬月は目を細める。

「そうか…。これは古の生命最後の抵抗だったな…」

 小さなコンソールに翳した右手の薬指と小指を、微かに動かした。

「それに対して飛び道具で応じようとは…。私も些か無粋だったようだ…」

 

 

 

 

「目標エルブズュンデまで距離2000!」

 長良が暴れる操舵輪を懸命に握り締めながら目標までの距離を読み上げ終えた直後に、北上が叫んだ。

「エルブズュンデに回避運動を確認! ヴンダーとの衝突コースから外れます!」

「逃すな! 針路修正!」

 

 艦全体が大きく傾く中。

「え?」

 モニターを見ていた北上の顔が驚愕に染まった。

「艦尾8時方向に反応!」

 北上の口が限界まで開き、レーダー上に現れた反応の正体を口にする。

「ゲベートです!!」

 北上のその報告を耳にした全員が、左舷後方を睨んだ。

 彼らの視線が集まった先。最大船速で突っ込んできたネルフ4番艦ゲベートの衝角が、今まさにヴンダーの脇腹を突き破らんとしていた。

「全員! 耐ショック姿勢!」

 ミサトの叫び声と共に艦内に鳴り響いたけたたましい警告音は、その直後に襲った凄まじい衝突音によって掻き消されることになる。

 

 

 地面から突き上げるかのような激しい振動に、オペレーター席に座っていた日向マコトの体が宙に投げ出された。

 間近で火山の噴火に遭遇したかのような衝撃に、青葉シゲルの体が側壁に叩き付けられた。

 艦橋の内壁に施された全周囲型モニターが割れ、落ちてきた大量の破片が北上ミドリの体を襲った。

 長良スミレは握っていた操舵輪を意地でも離さなかったばかりに体が右に左に大きく振り回され、両肘がおかしな方向に捻じ曲がった。

 

 そして葛城ミサトは。

「ミサト!!」

 天井を支えていた鉄骨の支柱が根元から折れ、艦長デッキに向かって倒れていく様を見ていたリツコは咄嗟に叫んだが、間に合わなかった。

 折れた鉄骨が艦長デッキを襲い、その衝撃で吹き飛ばされた赤いジャケットを纏う身が宙へと吹き飛ばされる。

 そのまま床に叩き付けられた葛城ミサトのもとに、リツコはすぐさま駆け寄った。

「ミサト! ミサト!」

 体を抱き起し、その名を幾度となく呼ぶが、額から大量の血を流す艦長の目は閉じられたまま。

 

 

 日向マコトと青葉シゲルは、体中のそこかしこから出血しながらも、艦橋に上がった火の手の消化に走り回る。

 大きな怪我を免れた多摩ヒデキは情報収集に躍起になっていた。そして各所から集まってくる情報に目を通すごとに、艦が負った深刻なダメージが明らかになっていく。

「敵4番艦…、左舷第2船体を直撃…!」

 

 

 割れた全周囲型モニターから落ちてくる大量の破片から身を守るべく、咄嗟に頭を抱え、床に伏せた北上。しかし、その背中を襲うであろう激痛が、何時まで経ってもこない。

 おそるおそる顔を上げてみた。

 むさ苦しいおじさんの顔が、すぐ側にあった。

「若いの。怪我はないか…?」

「機関…長…」

 北上の体に覆い被さっていた高雄は、ゆっくりとその大きな体を起こし、北上の体を解放してやる。

「怪我はないかと聞いている」

「は、はい…」

「そうか…。そいつは良かった…」

 高雄は似合いもしない柔らかな笑みを厳つい顔に浮かべると、立ち上がり、自分の持ち場である席へと向かう。

 その高雄の背中を見た北上の口から、短い悲鳴が漏れた。

 

 席に戻った高雄は機関室へと繋がる通話回線を開く。

「こちら機関長…。機関室、機関室…」

 呼び掛けるが、相手からの応答はない。

「機関室…。誰でもいい…。しぶとく生き残っている者がいたら声を聞かせろ…」

 相手からの応答はない。

 高雄は悪態を吐きながら、右拳でレバーの一つを殴り付けた。

 座席のバックシートに、深くその背中を沈める。

 高雄の席の後ろでは、北上ミドリが医務官の鈴原サクラの手を引っ張りながら、今にも泣きそうな顔で駆け寄ってきている。

 

 

 

「ミサト…! ミサト…!」

 リツコは彼女の友人の名を何度も呼び続けていた。

「目を覚ますのよ! ミサト!」

 血の気が引いているその頬を、何度も叩いていた。

「この戦いが終わったら会いに行きましょう! ミサト!」

 リツコの目尻に小さな水滴が滲んだ。

「あなたが許さなくても私が許してあげるから!」

 友人が着る赤いジャケットの胸倉を掴んで叫んだ。

「あの碇シンジでさえ、碇ゲンドウと会うのを許されたのよ! 今度はあなたの番でしょ! ミサト!」

 

 

 

 

「ま…ぎ…」

 

 

 

 

 友人の閉じていた唇が、僅かに開いた。

 

「ミサト!」

 

「ま…ぎ…、こ…ぴ…ぃ…、は…?」

 

 

 リツコは目を醒まして開口一番に発した友人のその言葉に、この混乱の中で感傷に染まっていた自分の言動を恥じた。

 友人は昏迷の中にあって、なお自らに課した責任を放棄しようとはしていない。

 

 リツコは首に掛けていたインターカムのスイッチをすぐさま押した。

「マヤ! マギ・コピーは!」

 

 返事はない。

 

「マヤ! 報告なさい! マギ・コピーは!」

 

 返事はない。

 

「マヤ!」

 

 

 

 

『予備電源入りました!』

 

 酷いノイズに混じって、インターカムのスピーカーから聴こえた馴染み深い声。

 

『マギ・コピー、健在です! シリコン液タンクも損害なし! 行けます! 副長先輩!』

 

 悲嘆に暮れていたリツコの顔に、希望の光が広がる。

 

 

 リツコの手を、ミサトの手が力強く握りしめた。

「リツコ…、あなたのターンよ…。存分にやって…!」

 リツコはミサトの手を強く握り返し、そして艦長デッキから見える部下に向かって怒鳴った。

「ハープーンキャノン用意! 目標、ネルフ4番艦!」

 リツコの号令に日向がすぐさま呼応する。

「ハープーンキャノン照準固定よし!」

 リツコは友人の魂を宿したかのような声音で叫んだ。

「撃てぇ!」

 

 

 

 

 ネルフ艦隊旗艦エアレーズングの艦橋に一人立つ冬月コウゾウ。彼が見つめる先には敵対組織ヴィレの旗艦ヴンダーが、連結された3つの船体のうちの1つを失い、さらに僚艦の衝角によって左舷後方から船体を深く抉られた状態で浮いている。その様は特大の銛で体を貫かれ、海上に打ち上げられ、瀕死に喘ぐ鯨のようだった。

「これで詰みだ。葛城大佐…」

 冬月が一人静かに、人類最後の戦いの終幕を宣言した、その時だった。

「おぉ…!」

 冬月にしては珍しい、興奮の色を孕んだ感嘆の声がその口から漏れた。

 エアレーズングを始めとる超大型飛行戦艦4隻が浮かぶその真下。その前には巨大戦艦ですらも小さな塵のように見える、空間にぽっかりと大口を開けたブラックホール。その漆黒の穴に、変化が生じたのだ。

 穴の奥から少しずつ姿を現したそれ。2つの穴があるだけのシンプルな仮面を被り、不自然な色の髪をゆらゆらと揺らしながら浮き上がってきたそれ。

「ようやく始まったか…」

 特大のブラックホールから現れた、女の形をした白い巨人の姿に、冬月の心は奪われ、魅了されてしまう。

 だから冬月は気付かなかった。瀕死の鯨の体から、その鯨の体を貫いている彼の遼艦ゲベートに向かって、複数の銛が放たれたことに。

 

 

 

 

 艦橋に開いた大きな穴から身を乗り出し、双眼鏡を構える青葉シゲル。双眼鏡が睨む先では、ヴンダーから放たれたワイヤー付きの複数の銛がゲベートの船体に深く突き刺さっている。

「ハープーン固定完了! 副長!」

 青葉の報告を聞いたリツコは、インターカムに向かって叫んだ。

「マヤ! ゴーよ!」

『アイアイサー!』

 

 

 

 

 ブラックホールから現れた女の形をした白い巨人。前屈させていた上半身を起こしていくと、その首の上に乗っていた頭部ががくんと落ち、体と頭部が分離してしまう。しかし頭部はそのまま穴に落ちるのではなく浮遊し、また顔面に被されていた仮面が剥がれ落ち、その下から暗闇に煌く太陽のような真っ赤な瞳が現れた。

「ふむ。壮観だな…」

 古い世界に終局をもたらし、新しい世界の到来を告げる女の姿をした白い巨人に魅入る冬月。

 彼が床から伸びる小さなコンソールに翳していた手に違和感を覚えたのは、白い巨人の背中から銀色の翼が広がり始めた時だった。

 

 

 

 

 

『全加圧ポンプ、稼働率99パーセントに到達!』

 

 腹心の部下の報告に耳を傾けるリツコは、手にした端末機の画面を睨みながらブツブツと独り言を呟いていた。

 

「冬月副司令…、あなたの前では私たちなど、手の平で踊る哀れな虫ケラに過ぎなかったようですね」

 

『電導シリコン、敵艦内に侵入を開始します!』

 

 画面上に表示されているのは、ヴンダーが接舷した敵艦に対し、銛に繋がれた大口径のホースを通じて大量に流し込んでいる電導性流動体の注入状況。

 

「ですが副司令。あなたは大きな過ちを犯しました」

 

『浸食率2パーセント…、8パーセント…!』

 

 空気に触れた瞬間、一気に膨張を始める特殊流動体が、敵艦内部を満たし始める。

 

「あなたは私たちに、マーク9がヴンダーに浸食する様を2度も見せてしまったのです」

 

『浸食率30パーセントを突破…!』

 

 その流動体は、敵艦内に潜む「あるもの」を求めてひたすら膨張を繰り返す。

 

「私は私の母親のようなオリジナルを作り出す才能には恵まれませんでしたが、それでも子供の頃から誰かの真似事をするのはとっても上手だったんですよ」

 

『見つけました! 敵艦内”ヴィーゲ”到達まで、あと10秒!』

 

 地図上から姿を消した国の言葉で「揺り籠」を表すその場所に、ヴンダーから流し込まれる流動体が殺到する。

 

「純粋な魂だけで作られた穢れなき生命体さん…」

 

 画面を睨むリツコの瞳が怪しく光った。

 

「穢れに塗れた人間のおぞましさを、存分に味わいなさい!」

 

 

 

 

 突然、コンソールに翳していた右手に痺れが走った。

 冬月がネルフ艦隊を操るためにコンソールに翳していた右手。その内の親指は彼が搭乗する旗艦エアレーズングを、人差し指と中指は三番艦エルブズュンデを操り、そして薬指と小指は四番館ゲベートの操艦を司っていた。

 指先の違和感に、冬月はコンソールから右手を離す。

 見れば、薬指と小指がピクピクと不随意運動を繰り返している。

「何をした…、ヴィレ…!」

 この時になって、ブラックホールで現れた現象に心を奪われていた冬月は、ようやくその注意をヴンダーへと向けた。

 

 

 

 

『マギ・コピーからの信号、ゲベートのVD防壁を突破しました! 敵艦の中枢システムを占拠します! 副長先輩、やりました!』

 腹心の部下からの会心の報告を、端末機の画面でも確認したリツコ。彼女にしては珍しく、握り締めた拳を頭の近くまで掲げる。

『ゲベート操艦システム及び兵装コントロールシステムを艦橋に回します!』

 艦橋に鳴り響くヴンダー整備長の歓声のような報告。しかし、その報告に喜びをもって答えることができる艦橋要員は少ない。

「北上!」

 日向が叫んだ。

「は、はい!」

 鈴原サクラによる治療を受けている高雄の側に居た北上は、上官の呼名に弾かれるように返事をする。

「ゲベートの操艦は俺がやる! お前が兵装を操作しろ!」

「あ、あたしがですか!?」

「今動ける奴はお前だけだ! 電測は俺が引き継ぐから急げ!」

「は、はい~!」

 

 リツコは床に寝かされているミサトの側に膝を折り、その上半身を抱き起こした。

「艦長! 命令を!」

 ミサトは体中を襲う激痛を堪え、端から血を垂れ流す口を大きく開いた。

「ゲベート主砲! 発射用意!」

 すでに役に立たない操舵輪を、役に立たなくなった両手で未だに握り締め続けている長良は、ミサトの勇ましい声を背中で聴き、全身の産毛が逆立つのを感じた。

「げ、ゲベート主砲にエネルギー充填開始!」

 不慣れな様子で呼応した北上が、彼女のコンソールに回された、ゲベートの兵装システムを操作し始める。

「なんなのよ、これ…。うちの奴とアルゴリズムが全然違うじゃないの、もう…!」

『泣き言禁止!』

「は、はい!」

 通信を通して飛んできた整備長からの檄に、北上は舌を噛みながら返事をする。

 若い部下の戸惑いをミサトは考慮しない。すぐに次の指示を下す。

「目標、ネルフ3番艦エルブズュンデ!」

「目標エルブズュンデ!」

 艦橋の周囲を覆う継ぎ接ぎだらけの全周囲型モニターは、ヴンダーの左舷後方に突き刺さった戦艦ゲベートの、球状の砲塔を映し出している。ヴンダーの艦橋に向けられていたその砲塔が、別の方角に向けて一斉に動き始める様を見た高雄は、背中を襲う激痛に顔を顰めながらも頼もしそうに笑った。

 砲撃目標の観測をしていた日向は、表れた変化を迅速に報告する。

「エルブズュンデの主砲にも高エネルギー反応を確認!」

「ゲベートの主砲は!」

「え、エネルギー充填完了! 照準固定よし! いつでも撃てます!」

 ミサトは短い呼吸の直後に叫んだ。

「撃てぇ!」

 

 ゲベートの4つある球状の砲塔。そこに、まるで一万発の雷が同時に発生したような強烈な閃光が迸った。

「うひゃぁ!」

 ヴンダーの主砲とは比べ物にならない破壊力を持つゲベートの主砲。それら全てが同時に火を噴き、ゲベートと、それに密着しているヴンダーの艦全体を震わせる轟音と振動に、主砲を撃った北上本人が悲鳴を上げる。

 

 主砲の発砲音に比べれば何とも慎ましやかな北上の悲鳴。

 その悲鳴と同時に、エルブズュンデの主砲からも閃光が煌いた。

 同型艦が互いに撃ち合った光球は、お互いを目指して一直線に進む。

 

 それぞれの光球は、ちょうど両艦の中間地点で交差した。

 超高速ですれ違った超高密度エネルギー体は、互いのエネルギーと干渉し合い、反発し合い、全ての光球の軌道が変化する。

 

 真正面から迫る破壊の光に艦長を除く艦橋要員全員が目を閉じたが、ヴンダーを破壊するはずだったエルブズュンデから放たれた4つの光球は、ヴンダーの船体から僅かに反れて通り過ぎていった。

 超高速で掠めたエネルギー体によって巻き起こされた激しい振動の中、日向が主砲一斉射撃の成果を報告する。

「初弾! 外れました!」

「第2射、発射用意!」

「はい!」

 ミサトの指示に、北上は主砲のエネルギー再充填を始めた。

 画面上に映し出される、主砲のエネルギー充填率。0だった数字が10、20と急速に膨らんでいく。その数字が100になるのを固唾を飲んで見守る北上の耳に、日向の怒鳴り声が飛び込んできた。

「敵艦主砲も再充填始めています! 敵主砲発射可能まであと10秒」

「ちょ、やめてよ! カウントダウンなんて!」

 北上の抗議を無視して日向はカウントダウンを続けている。

「早く早く早く!」

 画面上に映し出される数字は70を越え、80を越え。

「7! 6! 5!」

  画面上のカウントダウンは、日向が刻むカウントダウンの早さを僅かばかり上回った。

「再充填完了! 艦長!」

 北上はすぐに来るであろう「撃て」の号令に身構え、親指をゲベートの主砲を発射するスイッチの上に乗せていた。

 しかし。

 

「え…?」

 

 すぐに来るはずの号令がない。

 

「3!」

 艦長の号令の代わりに轟くのは日向のカウントダウン。

 

「艦長…?」

 

「2!」

 

「艦長…!」

 

「1!」

 

 ついに日向のカウントダウンがゼロを刻む。

 遠くに浮かぶ敵戦艦から、4つの大きな閃光が瞬いた。

 

「艦長!!」

 

 それでもまだ「撃て」の号令が来ない。

 大量出血で意識を失いでもしたのではなかろうかと、北上は艦長デッキを見上げた。

 しかしそこでは副長に上半身を抱き起された艦長が、目を爛々に輝かせて敵戦艦を睨んでいた。

 ミサトは叫ぶ。

「ゲベートIFF信号出力最大!!」

「IFF信号出力最大!!」

 日向は復唱すると同時にあらかじめ入力していたコマンドを、ヴンダーの支配下に置いたゲベートに向けて送った。

 

 

 ヴンダーからの命令を受けたゲベートは、搭載されたIFF(敵味方識別装置)の信号を最大出力で発信させた。

 

 主砲を発射すると同時にその信号を受け取ったエルブズュンデは、目標物を味方と判断。同士討ちを避けるべく咄嗟に砲塔を回転させ、撃ち放つ瞬間の超高密度エネルギー弾の軌道を強引に捻じ曲げる。

 

 

 軌道が変化した光球が、ヴンダーの艦橋の真横を通り過ぎていくと同時に。

「第2射! 撃てぇ!」

 ミサトが叫んだ。

「どうだ…!」

 北上も同時に叫ぶ。

「ぎゃふんと言ってみろぉ!」

 北上の親指が、発射スイッチを叩いた。

 直後に雷のような閃光と爆音、そして衝撃。

 ゲベートの4つの主砲から4つの超高密度エネルギー弾が、目標物目掛けて弾き出された。

 

 

 目標物に、巨大な爆炎が上がった。

「全弾、目標に命中! 敵艦主砲群を破壊しました!」

 日向の報告はこの砲撃戦における事実上の勝利宣言となったが、ミサトは好機を見逃すこともなければ容赦をすることもない。

「主砲! 第3射用意! 準備完了と同時に撃てぇ!」

「第3射準備完了! 撃ちます!」

 再び4つの光球がゲベートから放たれ、それらは真っすぐに燃え盛る目標物へと吸い込まれていく。

「再び全弾命中! 敵艦機関部を直撃です!」

「第4射! 休むな!」

「は、はいぃ!」

 

 

 

 

 拡大された映像に映るのは、船体の半分以上を失い、猛烈な爆炎と煙を上げているエルブズュンデ。

「エルブズュンデ…、完全に沈黙しました」

 この映像を見れば誰もが分かることだが、日向は「この場には居ない者たち」への手向けとして、あえて声に出して報告した。

 計8回の主砲一斉射撃をピンクのネイルを施した親指で行った北上は、コンソールに顔を伏せ、ぐったりとしている。

「どんなもんだ…、ちくしょう…」

 その細い肩が、小刻みに揺れていた。

 

 ミサトの目にも、遥か遠くで燃え盛る炎が写っている。

 そのミサトを抱き起しているリツコは、手に持っていた端末機の画面の情報を確認し、ミサトに報告した。

「ゲベート主機によるカウンターが始まったわ。ゲベートを私たちの支配下に置けるのはあと1分よ」

 ミサトは頷くと、表情を引き締め直しつつ、次なる行動を指示する。

「ゲベートを逆進!」

「ゲベートを後退させます! 総員、衝撃に備えろ!」

 

 ヴンダーの左舷第2船体に突き刺さっていたゲベート。その上甲板に立つまるで宝石のような正八面体を成す3つのコアが光り出すと、ゲベートがゆっくりと後退し始めた。

「ゲベート機関最大出力! そのまま最大船速で後退! 機関部冷却システムは全てオフにせよ!」

「冷却システム全て停止させました!」

「ハープーンキャノンワイヤー切断!」

「ワイヤー切断!よし!」

 

 ヴンダーの脇腹に大穴を開けたエルブズュンデの船体が猛スピードで離れていく。

「ゲベート内部の熱がどんどん上がってます!」

 日向から電測を引き継いだ北上が報告する。

「臨界点まであと10秒、8、7、6…」

「ゲベートとの距離は?」

「まだ1200です」

「近いわ…。全員対ショック姿勢!」

「3、2、1…」

 

 

 

 

 冬月コウゾウは、僚艦であるエルブズュンデが撃沈される様を、この沈着冷静な男にしては珍しく、唖然としたまま見つめていた。

 そして体当たりしたところを逆に拘束され、支配下に置かれたゲベートが僚艦に向けて何発もの砲撃を浴びせた上で、体当たりした標的から猛スピードで離れ、そして自爆していく様も、唖然としたまま見つめていた。

 2隻の超大型戦艦が起こした大爆発。

 それはこの広大な空間を猛烈な煙で覆い、そして強烈な電磁波で埋め尽くしてしまう。

 

 

 

 

 ゲベート爆沈の余波を間近で受けたヴンダーの船内は、今も大きな揺れに包まれている。

「電磁波で全てのセンサー類がダウンしました! 敵旗艦エアレーズングをロスト!」

 艦橋の全周囲型モニターが、砂嵐で埋め尽くされる。

 

 激しい揺れの中、目と耳を塞がれたも同然のこの状況でほくそ笑むのはヴンダー副長。

「相手が見えないということは、相手もこちらが見えていない。ミサト…!」

 副長の呼び掛けに、ヴンダー艦長は力強く頷いた。

 

 

 無謀な特攻を敢行し、乗員が多数残っていた右舷第2船体を見捨て、残った左舷第2船体にも大損害を被り、あらゆる犠牲を払って敵艦2隻を葬ったのも、全てはこの瞬間のため。

 

 

 ミサトはインターカムのマイクに向けて怒鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「今よ! マリ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

『8号機!』

 

 

 

 

 その声は艦橋内のスピーカーから大音量で鳴り響いた。

 

 

 

 

『発進!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 深く傷付いたヴンダーの中核船体。

 

 

 鯨のような船体の船尾が、大きく動いた。

 

 

 

 

 



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(59)不撓不屈

 

 

 

 

 2隻の超大型飛行戦艦の爆発により、立ち込めていた煙と撒き散らされた電磁波の嵐がようやく晴れてきた。目と耳が塞がれてしまった以上、その場での停船を余儀なくされていたネルフ旗艦エアレーズング。その巨艦にただ一人乗り込む冬月コウゾウは、センサーが回復するとすぐに索敵を開始した。

 そして敵艦もまた、その場での停船を余儀なくされていたらしい。もっとも、無傷のエアレーズングと違い、敵艦は全ての動力源を失い、直下のブラックホールが発生させている異常な重力場の潮流に乗ってただ漂流しているだけに過ぎないようだが。

 煙が晴れ、エアレーズングの2隻の僚艦の姿も見えてきた。機関部の炉心融解によって自爆させられたゲベートはその機関部を中心に船体が真っ二つに割れ、そしてそのゲベートの主砲28発の直撃を喰らったエルブズュンデは中核船体の一部を残して粉々に砕け散っている。その2隻の残骸もまた、敵艦同様にブラックホールの上をゆらゆらと漂流していた。

 

「やってくれたな…。葛城大佐…」

 

 恨み節を呟く冬月は、口にした人物が搭乗する敵艦ヴンダーへと視線を向けた。

「古の人類が見せた最期の一花…、実に見事だった…」

 コンソールに右手を這わせる。

 指揮官から与えられた命令を受け、エアレーズングに備えられた4つの砲塔が、全てヴンダーへと向けられた。

 

 右舷第2船体を失い、左舷第2船体も後方に大穴が開き、そして鯨のような姿をした中核船体もその尻尾がまるまる無くなっている。

 もはや、抵抗する力は残ってはいまい。

 しかし相手は冬月の部下として肩を並べて戦っていた時代に、不可能と断じられた作戦を幾度となく成功させ、人類の天敵を駆逐し続けた女傑だ。まだどんな奥の手を隠し持っているかも分からない。油断して、ネルフの計画の締めに綻びを生じさせるわけにはいかなかった。

 全ての砲塔に、エネルギーの充填を始める。

 

「ん?」

 

 冬月は、もはや形を留めていることすら奇蹟のように思えた敵艦の姿に、違和感を覚えた。

 頭の中で、戦闘経過記録を描き出す。敵艦が再起動し、エルブズュンデに突撃を始めてからの記録を。

 

 エルブズュンデの主砲第2射が敵艦の右舷主翼を破壊し、第3射が右舷第2船体を破壊し。そしてゲベートの突貫によって左舷第2船体を破壊し。

 ネルフ艦隊が敵艦に与えた主だった打撃は、その3つ。

 

 では。

 

 冬月の視線の先に在るヴンダー。

 右舷第2船体を失い、左舷第2船体も後方に大穴が開き、中核船体もその後尾をまるまる失ってしまったヴンダー。

 そのヴンダーの中核船体。

 

 鯨のような船体の尻尾を切り落としたのは、一体誰なのか。

 

「まさか!」

 

 冬月はエアレーズングの索敵範囲を最大限にまで広げた。

 

 撃沈され、宙を漂う2隻の僚艦。

 そしてあらゆる動力を失い、宙を漂うだけの敵艦。

 

 それ以外の反応が在った。

 その反応はエアレーズングの真下。

 4隻の超大型飛行戦艦の真下に在る、巨大なブラックホールの中から。

 光学による観測可能範囲ぎりぎりの距離に在るその反応。

 冬月は、ブラックホールの深淵を映し出す映像を即座に拡大させる。

 

「自ら新しい槍を生成したのか!」

 

 映像に映るのは、母艦に匹敵する大きさを誇る巨大な槍。

 異形の槍が、その切っ先をブラックホールに向けて、真っ逆さまに落ちてゆく。

 その背に、ピンク色の機体。

 エヴァンゲリオン8号機を乗せて。

 

 冬月の拳がコンソール上を叩く。

 その乾いた額の皮膚に、何本もの深い縦皺が寄った。

 

「この程度の小細工で碇の…、我々の計画を止められると思うな! ヴィレ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「新造の槍及び8号機、毎秒1.36キロメートルで降下中! ガフの扉まであと8分です!」

「艦長! 敵艦に新たな動きが!」

 艦橋デッキに用意された椅子に傷付いた体を座らせた葛城ミサトは、不穏な報告をしてくる北上ミドリに視線を向ける。

「エアレーズングに?」

「いいえ! エルブズュンデとゲベートです!」

 ミサトは小さく舌打ちした。北上が口にしたそれらは、ヴンダーによる捨て身の攻撃ですでに沈黙させたはずの艦。

「各艦の残骸にエネルギー反応! これは…」

 艦橋の継ぎ接ぎだらけの全周囲型モニターに、それぞれの艦の拡大映像が映し出された。

「あれは…」

 北上をはじめ、艦橋に居る全員が全周囲型モニターを見つめ、目を凝らす。宙を漂う巨大戦艦の残骸。その中で、蠢く影がある。残骸の中から、にょきにょきと生えてくる影。這い出てきた人型の影。

「エヴァンゲリオン…!」

 その映像を見ていたリツコが奥歯を噛み締めながら言う。

「ネルフ艦の主機になっていたオップファータイプ…。まだ生きていたの…」

 

 

 2つの戦艦の残骸から這い出てきた2体のエヴァンゲリオン。墓場から蘇った亡者の騎士のような顔が、いずれもヴンダーへと向けられた。

 その機体の同型機から繰り出される光学兵器によって艦を散々に痛めつけられた経験のあるヴンダーの乗員たちは、咄嗟に身を竦ませる。

 しかし2体のエヴァンゲリオンはヴンダーを一瞥したのみで、その顔をすぐに彼らの真下。ぽっかりと大きな口を開けている、ブラックホールへと向けた。

 2体のエヴァンゲリオンの背中に、まるで天使の輪のような光輪が広がる。

 光の輪の翼を背負ったエヴァンゲリオンは、彼らの揺りかごだったものの残骸を蹴ると、ブラックホール目掛けて真っ逆さまに降下していった。

 

 

「くそっ…!」

 青葉シゲルの拳が椅子の肘掛けを殴る。

 あの2体のエヴァンゲリオンが追うもの。ブラックホールを深淵を目指すもの。それは、彼らにとっての希望。

「どーすんのよ! これってヤバいんじゃないんですか!」

 北上が吠えるが、彼女も分かっている。

 全ての動力、兵装を失い、乗員も3分の2を失ったヴィレ旗艦。

「もはや…、俺たちに出来ることはなにもない…」

 鎮痛剤を打たれた高雄コウジが、朧気な意識の中で呟いた言葉。それは、艦橋に居る者全員の共通認識だった。

 ただ一人を除いて。

 

「いいえ…、まだできることはあります」

 全員の視線が、艦長席に座る人物へと集まった。

「まだ何か策が…?」

 誰よりも長く彼女に付き従ってきた日向マコトは、期待を籠めた眼差しを向ける。そんな日向の眼差しを、葛城ミサトは穏やかな微笑みを浮かべながら受け止めた。

 

「祈るのよ…」

 

「へ…?」

 ミサトの口から出てきた何とも拍子抜けする言葉に、日向の目が点になる。

「私たちは出来ることは全てやり尽くしました。だから後は祈るだけです。全てをやり尽くした者にのみ、奇蹟を祈ることが許されるのだから」

 

「かんちょぅ~…」

 艦橋の隅から、北上の弱々しい声が響いた。

「これも…、祈ってたらどうにかなりますかぁ~…?」

 北上が見つめている先。

 継ぎ接ぎだらけの全周囲型モニターに映し出されるもの。

 

 接近してくるネルフ艦隊旗艦エアレーズング。

 その全ての砲塔がこちらに向けられており、砲塔にエネルギーを充填するべく上甲板に備えられた3つの正六面体のコアが光り始めている。

 

 ミサトは下唇を噛み、今から自分たちの人生に終幕を引こうとしている敵旗艦を睨み付けたが、そんなミサトの手を隣に立つリツコが優しく握る。見上げてくるミサトに対し、リツコは微笑み掛けた。

「私たちの意志は全てあの槍に託した。大丈夫。8号機のパイロットなら、必ず私たちの意志をあのだっさいサイクロップス野郎のもとに届けてくれるはずだわ」

 いつになくおどけた口調の副長に、ミサトも笑う。

「ええ。そうね」

「だから私もできることはもう「祈る」ことだけね」

「あなたが?」

 「祈り」というものから最も遠い立場にいるはずの友人の顔を、ミサトは意外そうに見つめた。

「何か文句でも? 私だって、長いこと生きてきたら奇蹟を信じたい時だってあるわ」

「お互い歳をとったわね」

「本当に…」

 最も長い付き合いとなった友人同士。彼女たちは学生時代の時のように、お互いの顔を見ながらくすくすと笑い合う。

 しかしながら彼女たちの今の立場は学生などではなく、武装闘争組織の最高幹部である。部下に対する責任を放棄するわけにはいかない。だから、ミサトは若い部下に命じた。

「北上中尉」

「は、はい」

「私の分まで祈っておいてくれる?」

「は、はいぃ!」

 顔の前で手のひら同士をすり合わせながら「なんまんだぶなんまんだぶ」と唱え始めえた素直な部下の背中を、艦長と副長は笑いながら見つめた。

 

 ヴンダーの正面に陣取ったエアレーズングの砲塔全体が光り始めた。

 その光を見つめながら、2人は弾んだ声で語り合う。

「ところでリツコさん」

「なんですか? 加持夫人」

「シンジくんに言ったこと。「レイによろしく」って、あれなに?」

「さあ」

「あんた。またあたしに何か隠し事してるんじゃないでしょうね」

「仕方ないじゃない。シンジくんのお母さんとの約束なんだから。それに…」

「それに?」

「あなたにこれ以上荷物を背負わせたくなかったのよ」

「それはそれは。お気遣いいただきまして」

「どういたしまして」

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱりおいでなすったか!」

 レーダー画面上に浮かぶ背後から迫る2つの存在を見て、真希波マリは振り返った。

「さっすがは冬月センセ。ただじゃ~行かしちゃくんないねぇ~」

 

 彼女が搭乗するピンク色の機体、エヴァンゲリオン8号機。その8号機が乗るのは、8号機の母艦ヴンダーの脊髄によって創造された巨大な槍。母艦の全長に匹敵する長さの白い一本の直槍。その直槍を中心にはためくように広がる、赤い翼と青い翼。複雑な構造をした、異形の槍。その異形の槍が、8号機を背に乗せてブラックホールの中心に向かって真っ逆さまに降下していた。

 

 エヴァンゲリオン新弐号機と共にネルフ本部への突撃作戦に参加したばかり。僚機の損失と第13号機の再起動という事態を前に撤退を余儀なくされ、さらに敵機との交戦により両上肢を大破させられるという大損害を負いながらも、母艦に取り付いていたネルフ機マーク9を撃破するという大車輪の活躍を見せる8号機は、休むことなく母艦から切り離された異形の槍と共にブラックホールへの突入を敢行していた。

 マーク9を「捕食」することによって失った右腕を取り戻した8号機。それでも左腕は欠損したまま。長時間の任務と戦闘により機体及びパイロットの体力は共に限界を超えているが、パイロットは限界のその先に足を踏み入れることに躊躇するようなタイプではなく、そして彼女が乗る機体も彼女の期待に常に応えてきた。

 

 

 ブラックホールに向けて落下していく異形の槍を追う2つの機影。

 ネルフ所有のエヴァンゲリオン、マーク11とマーク12。

 先行するマーク11の顔面。ローマ数字のⅪが刻まれた仮面の額に光が瞬き、赤く光る光球が弾き出された。それは彼らの揺りかごだった戦艦の主砲に匹敵する威力を誇る超高密度エネルギー弾。そのエネルギーの塊が、異形の槍へと襲い掛かった。

 

「させるかぁ!」

 8号機は足場にしていた槍の背を蹴ると、マーク11が放った光球に向かって跳躍。右腕を前に翳し、手のひらを中心に8角形の光の輪、ATフィールドを展開させた。

 その光の壁に光球が超高速でぶち当たると、8号機は展開させたATフィールドだけではその衝撃を押し殺すことが出来ず、光球をATフィールドで抱え込んだまま後方に弾き返されてしまう。その背中が槍の背に激突するが、8号機は全身を使ってATフィールドを張り巡らせ、光球が槍に接触するのを、身を挺して防いだ。

「こんのぉおおおおお!」

 それでもなお光球は前進を止めず、8号機の機体は槍と光球に挟まれて押し潰されそうになる。

 ATフィールドと光球。2つの超高密度エネルギー体の摩擦によって8号機周辺は猛烈な高温となり、その熱が神経接続を通してパイロットにまで伝わってくるが。

「地球のみんな…! オラに元気を分けてくれぇぇぇぇ!」

 この期に及んでドラ○ンボールごっこに興じるマリは、8号機の片腕で猛烈な熱を発する光球を抱え上げてしまうと。

「どりゃああああああ!」

 ついには光球をその持ち主に向かって投げ返してしまった。

 

 異形の槍を破壊するはずの光球が、槍を破壊するどころか何故かこちらに向かって突っ込んでくる。

 想定外の事態に戸惑っているらしいマーク11は一瞬硬直してしまったが、光球と接触する直前になって体を捻り、辛うじて光球を避けた。

「悪いけど!」

 マーク11が避けた光球の陰に潜んでいた8号機。

「オーバーラッピングのための糧に!」

 8号機は残された唯一の腕を前に突き出す。

「なってもらうわよ!」

 その手が、マーク11の頭部を鷲掴みにした。 

 

 8号機の顔面に並ぶ8つの目が赤く光り、顎が下がって口の中に並ぶ凶悪な歯が現れる。8号機は限界まで開いた口で、マーク11の頭部を丸呑みにしようとする。

 

 

 背後で大きな閃光。

 あと少しで拘束したマーク11の頭部を丸呑みにするところだった8号機は、その動きを止め、次々と爆発音が轟く方向へと目を向ける。

 ブラックホールに向けて落下していく巨大な異形の槍から、幾つもの爆炎が上がっていた。

 追手の片割れ。マーク12から放たれる次々と放たれる光球が、槍に向かって雨のように降り注いでいる。

 光球の直撃を受けた槍の各所で立て続けに爆発が起き、砕けた破片がバラバラと周囲に散らばり、帯となって空へと伸びていく。母体となった空中戦艦とほぼ同じ大きさであり、なおかつ最も頑丈な部分で生成されたものであるため、マーク12による攻撃を数発受けた程度では崩壊しそうにないが、それでもこれ以上槍への攻撃を見逃すわけにはいかない。

「くっ」

 その光景を見たマリが歯噛みした直後、腹部に強烈な圧迫を感じ、マリの呼吸が2秒間止まった。

 

 突き上げた右膝を8号機のどてっ腹に叩き込んだマーク11。

 膝の上でその機体を「く」の字に曲げている8号機の、がら空きになった頚部に向かって、今度は右肘を突き落とす。8号機の逞しい首が、ありえない角度まで曲がった。さらに今度は右拳を8号機の顎に向かって振り落とす。8号機の上顎と下顎がそれぞれ逆方向に大きく捻じれ、岩のように並ぶ堅牢な歯が、ボロボロと割れ落ちていった。

 

 膝の上で全身を弛緩させた8号機。マーク11は8号機の胸倉に両手を伸ばし、胸当て装甲の隙間を掴み上げると、8号機の頭部をマーク11の顔の前に掲げてみせた。

 弛緩したままの8号機の頭部は、首の根っこからぐらりと垂れたまま。

 その項垂れた頭部を見るマーク11。そのメーク11の顔面に、光の筋が集まり始める。

 集められた光の筋はやがて光の球へと練り上げられ、超高密度のエネルギー体と化す。

 マーク11は顔面で生成した膨大なエネルギーの塊りを、目の前にある8号機の頭部に向けて弾き出した。

 

 マーク11が超高密度エネルギー弾を繰り出そうとしたその瞬間。

 突如、マーク11の顔の前に大きな手が翳された。

 手の持ち主は8号機。

 そして8号機の主であるパイロットは、LCLの中に吐瀉物と血を撒き散らしながらも、「にゃはっ」と笑った。

 

 マーク11の目の前に翳された8号機の手。その手のひらを中心に広がる、八角形の輪。

 マーク11が生成したエネルギーの塊りは繰り出された直後に、8号機が展開させたATフィールドにぶち当たる。

 マーク11の目の前で、大量の火花が舞い散った。

 

 展開させたATフィールドによってマーク11の超高密度エネルギー弾を受け止めた8号機。しかし咄嗟に張った一枚のATフィールドのみではその衝撃とエネルギーを受け止め切ることができず、突き出した右腕。再生させたばかりの右腕が、その手から二の腕に掛けてが瞬時に蒸発してしまった。

 右腕が丸ごと溶けていく痛みに歯を食いしばりながら耐えるパイロットは、8号機の機体全てを使ってATフィールドを何重にも張り巡らせ、右腕の消失によって消えかけたATフィールドをさらに補強する。

 

 ATフィールドに衝突した光球。その衝撃によって削られたエネルギーが大量の飛沫となって、マーク11に降り注いだ。

 ここに至って、自らが放ったエネルギー弾から光の刃を浴びる羽目となったマーク11は、攻勢から守勢に転じざるを得なくなった。

 マーク11の顔面を中心に広がる、八角形の光の輪。

 8号機のATフィールドと、マーク11のATフィールド。至近で展開された2つの光の壁が、激しく共鳴し合う。

 その共鳴し合う2つの光の壁に挟まれ、猛烈な速さで振動し始めた光球は、やがてその形を保てなくなり、周囲に大量の光る飛沫を撒き散らし、ついには凄まじい破裂音を伴いながら弾け飛んでしまった。

 

 至近で超高密度エネルギー弾の大爆発を受けた2体の巨人。

 弾き飛ばされた8号機はブラックホールに向かって真っ逆さまに落下する中、背中に光の輪を発生させて落下速度を殺すと、空中で静止。そしてそこにあたかも見えない踏み台でもあるかのように宙を踏み込み、赤銅色の空に向かって猛スピードで上昇を始めた。

 

 一方、空に向けて弾き飛ばされたマーク11もまた、背中に光の輪を広げて上昇スピードを殺す。

 大量の光の刃を浴び、その頭部は半分が溶け落ち、そして肩から胸、そして腹部までが大きく爛れてしまったマーク11。その半分溶け落ちた顔で、足もとを見下ろした。

 見れば、背中に光の輪を広げた8号機が、猛スピードでこちらに向けて突っ込んできている。右腕も左腕も失った状態で。その機体の中で最も頑丈に作られた部分。衝角代わりにした頭部の額をマーク11に向けながら。

 マーク11は天地逆さまの姿勢になると、背中に広げた一枚の光の輪を大きくはためかせ、そして高速で落下し始めた。

 

 8号機は頭部を向けて。そしてマーク11は振りかざした右拳を向けて。

 お互いスピードを緩めることも針路を逸らすこともせず、やがて到達することになる衝突点に向けてまっすぐに飛び込んでいく。

 

 

 

 

 ブラックホールに向けて降下を続ける異形の槍。その槍に向けて散々にエネルギーの塊りを浴びせてやったマーク12だが、派手な爆発を何度も起こし、無数の破片を撒き散らしながらも崩壊する様子のない槍に、マーク12は一度攻撃の手を止め、槍に接近。槍の中核である白い直槍の上に降り立ち、その複雑な構造を観察し始めた。

 

 槍の中核である白い一本の直槍。その槍から生えた、2枚の大きな翼。

 赤い翼と青い翼は、白い槍の先端部でまるで大樹に巻き付く蔦のように螺旋状に絡み合い、そして今マーク12が立っている白い槍の中央部でも同様に2枚の翼が絡み合い、そして白い槍の尻尾の部分でも絡み合い。

 異形の槍は、白い槍と2枚の翼とが、先端と中央と尻尾の部分、計3か所で連結する構造になっていた。

 見れば、最も多くの光球を浴びた尻尾の部分。白い槍には傷らしい傷は付いていないが、赤い翼と青い翼の連結部は大部分が破壊され、あと少し衝撃が加われば今にも崩壊してしまいそうだ。

 マーク12は、その顔を槍の先端へと向ける。

 マーク12の顔面に光が集まり、光の球体が生成される。練り上げられた超高密度のエネルギー体は、生成した者の意思に従って、槍の先端部へ向かってまっすぐに飛翔。

 光球の直撃を食らい、大爆発を起こす槍の先端部。白い槍に絡み付く2枚の翼の蔦の部分に亀裂が走り、爆風と落下の風圧に乗って大量の赤い破片と青い破片が宙を舞った。

 マーク12は休むことなく、その顔面に発生させた光球を槍の先端部に向けて次々と放っていく。先端部で次々と怒る爆発。大きな赤い翼と青い翼が大きく揺れ、槍全体から大きな軋む音が鳴り響いた、その時。

 

 頭上から急接近する物体を察知したマーク12。

 攻撃の手を止め、何かが接近してくる方向に顔を向ける。

 空を見上げた瞬間、マーク12の視覚センサーを、巨大な腕が占拠した。

 

「その槍はお前が気安く立っていい場所じゃない!」

 

 その背中に2つに光の輪を広げる8号機。広げた右腕に全体重と落下によるエネルギーを託した8号機が、その右腕を槍の背に立つマーク12の喉元目掛けて飛び込んできた。

 首を刈られたマーク12の背が大きく仰け反り、その足が槍の背から離れる。

 俗にいうラリアットをマーク12の喉にぶち込んだ8号機の右腕は、そのままマーク12の機体に絡み付いた。

「ガフの扉まであと3分…!」

 まるで槍を先導するかのように、ブラックホールへ向かって真っ逆さまに落下していくマーク12と8号機。

「このままあたしに付き合ってもらうわよ!」

 8号機は片方しかない腕でマーク12の胴体をしっかりと拘束し、その背中に背負う2つの光輪を大きくはためかせ、落下するスピードをさらに上げていく。

 

 

 

 

 槍を「彼」に届ける。

 

 その先に待つ結末はマリにも分からないし、槍が届いたところで起こりつつあるこのインパクトが止まるとは誰も保証できない。

 それでもこれだけは分かる。

 

 この槍を「彼」に届ける。

 みんなの「意志」を「彼」に届ける。

 

 我々の「意志」を貫き通した時。

 その瞬間こそが、我々の。

 ヴィレの勝利であるということが。

 

 槍さえ届けばいい。

 その場に配達人が居なくても、問題はないのだ。

 

 

 2つの光の輪をさらに大きくはためかせて落下スピードを上げていく8号機。8号機と、8号機に絡み付かれたマーク12の周辺は断熱圧縮による超高温が生じ、2つの機体は大きな炎に包まれる。

 

 

 頭の上で。すぐ側で光が瞬いた。

 顔を上げる8号機。

 すぐ側のマーク12が、なおもその顔面で光球を生成し、空に向かって放っていた。

 放たれた光球は上空の槍へ向かうが、狙いもそこそこに放たれた光球は槍から大きく逸れて赤銅色の空の彼方へと消えていく。

 するとマーク12はその顔面に複数の光球を同時に練り上げると、それを同時に槍に向かって繰り出した。それぞれが放射状に広がって飛んでいく光球は殆どが外れるが、そのうちの1発が槍に命中する。

 マーク12は再び顔面に複数の光球を生じさせた。

「往生際が悪い!」

 マーク12の顎に対して、額を突き出す8号機。

 頭突きを食らったマーク12の頭部が大きく仰け反り、同時に放たれた複数の光球は全て明後日の方向へと飛んでいく。

 それでもなお槍の破壊を諦めないマーク12は、またもやその顔面に複数の光球を発生させた。

 そして8号機もまた、さらに強力な頭突きを叩きこむためにマーク12に密着させていた胸を離し、その背を大きく仰け反らせた。

 

 その瞬間。

 複数の光を湛えていた顔面を槍へと向けていたマーク12。その顔が、仰け反った8号機の頭部へと向けられた。

 複数に分けて発生させられた光の球体はたちまち一つの大きな光の球体へと姿を変え、頭突きの予備動作に入っていた8号機の無防備な顔面へと繰り出される。

 

 マリの耳に、頭部が根こそぎ蒸発する音が聴こえたのはほんの一瞬だけだった。

 

 

「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 生きながらにして頭部が瞬時に溶けてしまう感覚。

 人類が未だかつて経験したたことのない激痛に、マリの口から声にならない悲鳴が迸る。

 

 頭部を失い、途端に力を失った8号機の右腕を、マーク12はゴミでも払うような動作で振り落とした。マーク12から離れた8号機の体は、ブラックホールに向けて力なく落下していく。

 

 

 

 マーク12は槍のもとへと戻った。

 白い槍と2枚の翼を繋ぎとめる3つの連結部。その内の2つ。後尾だけでなく、先端部も崩壊寸前。

 あとは中央部の連結部だけ。

 

 マーク12の顔面に光が集まり始める。光たちは一つに纏められ、練り上げられ、そして生成された超高密度のエネルギー体は、かつてない大きさにまで膨れ上がった。

 マーク12は、まるで恒星のように禍々しく輝く光球を、槍の中央部に向かって撃ち放つ。

 

 槍全体をも包み込む、巨大な爆炎が生じた。

 

 ブラックホールに向けて超高速で落下中の槍。

 爆発によって発生した煙は落下の風圧によってすぐに薄らいでいく

 マーク12は槍の崩壊に備えて、槍から距離を取った。

 

 しかし槍は崩壊しなかった。

 爆発の衝撃で全体を大きく震わせながらも、槍はその形を。母体となった舟。その乗員の意志を託されるに相応しい威風を、保ち続けていた。

 

 槍を薄く覆っていた煙。

 その煙が完全に晴れる。

 消えた煙の中から現れた、槍の形を保つための最後の連結部。

 赤と青。2枚の翼から伸びる蔦は、未だ白い槍に対して強固に絡み付いていた。

 そしてその赤と青の蔦が螺旋状を織り成す連結部に在ったもの。

 それは、連結部の前に立ち塞がる巨人。

 前面に、分厚いATフィールドを幾重にも張り巡らせて槍の前に立ち塞がる、8号機の姿がそこには在った。

 

 

 間近で超高密度エネルギー弾を受け、頭部を丸ごと失った8号機。

 神経接続を断つ間もなくその熱を浴びた8号機のパイロットの顔もまた、酷く爛れていた。

 

「この槍は…、絶対に折らせない…!」

 

 それでもなお、彼女の体から闘志が衰えることはない。

 赤く爛れた皮膚。炭化した眉に睫毛。白く変色した目。もはや光も音も温もりも感じることが叶わなくなった顔から、不敵な笑みが消えることはない。

 その手は今も操縦席の両側にあるコントロールレバーを握り締め、機体に生き残ったセンサーからの情報を直接自身の脳神経へと捻じ込み、白く濁った目で目の前のマーク12を睨みつけながらATフィールドを張り巡らせている。

 

 

 8号機と対峙するマーク12は顔面に複数の光球を発生させる。どの光球も十分な破壊力を備えた、超高密度のエネルギー体。

 その光球たちが、一斉に8号機に向かって襲い掛かった。

 

 

 激しい衝撃。爆発音。エントリープラグ内の全周囲型モニターほぼ全てが爆発による閃光に包まれ、「警告」の文字が踊り狂い、警報のブザーが鳴りまくる。

 

  

 マーク12は攻撃の手を休めない。

 連結部が無数の爆炎に包まれて見えなくなってしまっても、なおも光球を次々と発生させ続け、浴びせ続ける。

 マーク12とそのパイロットに発達した思考はないが、それでも「彼ら」は本能で分かっている。

 この槍を破壊したその瞬間こそが「彼ら」の。ネルフの勝利であるということを。

 だから「彼ら」は攻撃の手を緩めない。

 大量にエネルギーを発し続けたことでマーク12の頭部が溶解し始めたが、それでもお構いなしに光球を発生させ続け、目標物に向かって浴びせ続けた。

 

 

 前面に張り巡らせたATフィールド。

 不可侵の光の壁に、亀裂が生じ始めた。

 エントリープラグ内の全周囲型モニターのあちこちでノイズが走り、まるで崩れ落ちるブロック塀のようにブラックアウトしていく。

 気泡で溢れるLCL。超高密度エネルギー体の雨とそれを受け止めるATフィールドの間で凄まじい熱が生じ、その高温は特殊装甲で守られたエントリープラグの中さえも炙り、その中を満たすLCLを沸騰させた。

 様々な条件下でパイロットの身を守ることを想定して作られたプラグスーツ。そのプラグスーツすらも各所で融解し始め、溶けたスーツの下から現れるパイロットの肌にも次々と水膨れが生じる。

 全身を炎で炙られるような激痛。

 掛けていたメガネのフレームさえも歪む高温。

 それでもパイロットは歯を食いしばり続けながら、パイロットの意思を機体に伝えるためのコントロールレバーを握って離さない。

 

 

 パイロットの意思。

 ヴィレの意志。

 

 その身を挺してでも。

 この身が滅んだとしても。

 槍を守り続ける。

 この槍を「彼」に届ける。

 

 その意思を、8号機に伝え続ける。

 

 ここから離れるなと。

 

 最後まで、この槍の盾となれと。

 

 口の端から。

 鼻の両孔から。

 耳の両孔から。

 目の端から。

 全身から鮮血を迸らせながら、マリは叫んだ。

 

 

「絶対に…! 折らせは…、しない…!」

 

 

 ATフィールドだけではなくなった。

 ついに、エントリープラグの壁にも亀裂が生じ始めた。

 

 

 ブラックアウトだらけとなった全周囲型モニター。

 まだ生きているモニターの殆ども、爆発によって生じる閃光によって光に満たされている。

 その中にあって、ただ一カ所だけが、黒と光とは違うものを映し出していた。

 

 それは8号機の頭上。

 爆炎の隙間を縫って見える、空。

 赤銅色の空。

 

 その空に浮かぶ小さな黒い点。

 その存在に気付いた8号機のセンサーが、その黒い点にマーカーを付与する。

 

 機体が崩壊し掛けていることを知らせる警告音とはまた違う、何かの急接近を伝える警告音。

 マリは、白く濁った目で頭上を見上げた。

 

 生き残った視覚センサーを通して微かに見える赤銅色の空。

 その空に浮かぶ小さな黒い点。

 8号機に向かって。槍に向かって急接近している黒い点。

 

 モニター上に、その黒い点の解析結果が表示させられる。

 

 

 

「ち…」

 

 

 

 どんな状況であろうと。

 それがどんなに絶望的な状況であろうと、諦めるということを知らない女。

 真希波マリ。

 

 

 

「ちくしょう…」

 

 

 

 その言葉は、そんなマリの口から零れた。

 

 

 モニター上に表示された、急接近してくる黒い点の解析結果。

 

 

 

 

  『接近警報: オップファータイプ マーク10』

 

 

 

 



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(60)鋼鉄の守り人

 

 

 

 

「では診察券をお返しします。次回受診は1月後となっておりますので」

 診察券を収めた財布を腕に下げたハンドバッグに入れたその女性は、正面玄関でスリッパから靴に履き替えると、ドアを開いて外に出た。空から降り注ぐ容赦のない日光。慣れない強さの陽射しに思わず右手を掲げ、目の周囲に即席の日陰を作る。指の隙間から覗くぎらつく太陽を暫し見つめた後、女性は手すりを握って体を支えながら、慎重に階段を降りていく。

 

 表通りの歩道に立ち、並木が作る木陰伝いに歩いていく。

 半年前までは、この街の繁華街として老若男女問わず多くの人々が生き生きとした顔で行き交っていた並木通り。今は人影もまばらで、痩せた野良犬たちが闊歩し、歩道の片隅では浮浪者たちが路上に敷いた段ボールの上で横になっている。

 時折男性の浮浪者たちから向けられる下卑た視線。女性は庇うように身を竦めながら、足早に並木通りを歩ていく。

 

 ゴミが散乱する路上を見つめながら歩いていた女性。

 その女性の足が止まった。

 見つめていた路上に立つ、2本の足。

 男性の足。

 女性は視線を上げた。

 

「■■■くん…」

 

 行く手に立ち塞がった男性の名前を呟く女性。

 

「綾波…」

 

 男性もまた、女性の名前を呼んだ。

 

 

 男性は彼女の名前を呟いたきり無言のまま女性に歩み寄ると、彼女の右手首を掴み、彼女の手を引いて歩き始める。

 どんどん歩いていく男性。手を強引に引っ張られる女性もまた無言。女性よりもずっと身長の高い男性が、大股で、かつ足早に歩いていくため、女性は小走り気味に男性の後を追う。

 

 大通りの方では幾つもののプラカードを掲げ、ヘルメットを被った物々しい空気を放つ群衆がシュプレヒコールを上げており、遠くからは機動隊の怒鳴り声が拡声器を通して鳴り響いている。

 一触即発の雰囲気の大通りから離れ、女性の手を引く男性は街の郊外を目指した。

 

 やがて2人は大きな緑地公園に辿り着く。

 かつては市民の憩いの場として愛されたこの公園もまた住む家を失った者たちのバラックが立ち並び、殆どのベンチは昼寝をしているバラックの住人たちで占拠されていたが、大きなコナラの木の木陰に空いているベンチを見つけた男性は、女性をベンチの前まで誘導したところでようやく女性の手首を解放した。

 ずっと握られていた右の手首に、人の手の形をした薄い痣が浮いていた。

「ごめん…」

 男性の詫びに、女性は「平気」と短く答え、ベンチに腰を下ろす。

 男性も女性の隣に、少し間を空けて座った。

 

 暫しの沈黙。

 女性は背筋をピンと伸ばした姿勢で。

 男性は少し前のめりの、項垂れた姿勢で無言の時を過ごす。

 

 

「綾波…」

 最初に口を開いたのは、男性の方。

「なに?」

 女性は正面にある枯れた噴水を見つめたまま返事をする。

「なぜ…、黙って姿を消したんだ…」

 男性は相手を責めるような、普段よりも低く鋭い声でぼそりと呟いた。

「手紙は…、出したわ…」

「なぜ、僕の前から消えたんだ…!」

 男性は呻くような声で語気を強める。

「…あなたは、望まない、と思ったから…」

 ぽつりぽつりと呟く女性の横顔を見つめる男性。一度目をぎゅっと閉じ、そして開いた目で足の間の地べたを睨んだ。

「…そんなはず」

 地べたを睨みながら呟く男性の横顔を、今度は女性が見つめる。

「そんなはず、…ないじゃないか…」

 語気が弱まっていく男性の頭部が項垂れていくのを見届けた女性は、視線を正面の噴水に戻す。

「だから…、わたし…、ひとりで…」

 

 再び2人の間に横たわる沈黙。

 上空を編隊を組んだ軍用ヘリコプターが通り過ぎ、地上に爆音を轟かせる。

 ようやく爆音が去っていったところで、再び男性が口を開いた。

「君が姿を消したと気付いて…。その後僕は必死で君の行方を捜した」

 男性の膝の上に乗せられた彼の手が握り締められた。彼女を捜し続けた日々を。彼女を失う恐怖に苛まれた日々を思い出しながら彼は続ける。

「君の行方と…、そして君の素性も調べたんだ…」

 枯れた噴水をぼんやりと見つめていた女性の目が、大きく見開かれた。

「綾波…」

 地べたを見ていた男性は顔を上げると、隣に座る女性の横顔を見る。

「この国に…、”綾波”という姓を持つ人物は存在しない…」

 女性の顔が、ゆっくりと男性へと向けられた。女性の視線と、男性の視線が交差する。

「綾波…。君はいったい…、誰なんだ…?」

 

 

 再びの沈黙。

 お互いの顔を見つめ合ったまま、口を閉ざす2人。

 

 

 女性は絡み合った視線を解き、顔を噴水の方へと向けた。

 女性の口は枯れた噴水の栓のように、閉ざされたまま。

 女性のその態度に男性は深い溜息を吐き、視線を地べたへと戻す。

「マルドゥック機関…」

 男性の口から漏れたその言葉に、女性は短く瞬きをした。

「世界の教育水準向上を目的に設立された私設教育機関。君の就学と活動の場を支援し、僕たちの南極行きの資金援助もしたとされるこの組織も、調べてみれば殆ど実態がなかった。君の経歴と同じように…」

「■■■くん…」

「そしてマルドゥック機関を調べていくうちに、僕はその背後にある一つの組織に行き当たった…」

「■■■くん…」

「ゼーレ…」

「■■■くん…」

「綾波…」

「■■■くん…、だめ…」

「ゼーレとは、いったい何なんだ…?」

「だめ…、■■■くん…」

 前歯で微かに下唇を噛む女性。彼女の左手は、いつの間にか隣に座る男性の右膝の上に乗せられている。

「そして日本に居た君が南極の僕のもとへ寄越したあの手紙。僕を日本へ呼び戻すためのあの手紙。僕が呼び戻されてから3日後に、「あれ」が起きた」

 男性は女性の左手に自身の右手を重ねた。

「君は「あれ」が起こることを知っていたのか…?」

 重ねられた女性の手を、彼は骨が軋むほどに握り締める。 

「君はいったい…、何者なんだ…?」

 見つめる女性の横顔。伏せられた目の縁を彩る繊細な睫毛が、微かに揺れている。

 

 女性は2度、鼻を啜って、そしてぽつりぽつりと言う。

「わたしは…、■■■くんが愛してくれた女…。わたしは…、■■■くんを愛してる女…」

 女性の顔が、ゆっくりと男性へと向けられた。

「それではだめ…、なの…?」

 繊細な睫毛に縁取られた目が、微かに潤んでいた。

 その女性の視線を正面から受け止め切れなかった男性は目を閉じ、頭を小刻みに横に振る。

「僕も一緒さ…。僕も…、君を愛してる…。狂おしいほどに…」

 そう告げて、男性は女性の体を抱き寄せた。

「なのに…」

 無精髭に縁取られた男性の唇が、微かに女性の頬に触れる。

「何故君は、僕の前から消えてしまったんだ…」

 

 密着する彼と彼女との間に、彼女の腕が挿し込まれる。男性の胸に両手を広げた女性は、そっと男性の体を押し返す。離れてしまった彼女の顔を、男性は表情を歪めて見つめた。

「あなたは、祝福してくれるの?」

 女性のその問いに、男性は再び目を伏せてしまう。

「わたしは祝福してあげたかった。祝福に満ち満ちた場所で、迎え入れてあげたかった。あなたは、望まれてこの世界にやってきたのだ、と」

 男性の胸に広げられた女性の手が、男性のワイシャツを掴んだ。

「あなたは、本当に、祝福してくれるの?」

 男性の両手が、彼のワイシャツに皺を走らせる彼女の両手に添えられる。

「祝福できるわけ…、ないじゃないか…」

 その男性の返答に、今度は女性の顔が悲し気に歪んだ。

「世界が血の色で分断されたあの日から僅かな期間で世界の人口は4分の1が削られた。各地で起きた紛争はすでに世界大戦の様相を呈してる。こんな世界で…。この世界が辿る末路は、葛城博士と共同であの計画を提唱した君が、一番よく分かっているはずだろう…」

 男性から向けられるその厳しい眼差しに、今度は女性の方が目を伏せてしまう番だった。

 

 女性は1度だけ鼻を啜り、そして鼻からゆっくりと息を吐き出しながら、震えた声で言った。

「私は裏死海文書を解読し、そこから得られた情報をもとにこの世界の未来を予測しただけ。あの計画それ自体は、葛城博士独自のものよ」

「論点をすり替えないでくれ…」

「ごめんなさい…。でも」

 震えていた女性の声音が変わったことを、男性は感じた。

「私は葛城博士が予測したあの計画の結末とはまた違う未来を、思い描いてる」

 彼女の口から発せられる、芯の通った声。

「違う未来…?」

「ええ…」

 女性は伏せていた目を男性へと向ける。

 そして次に女性の顔に現れた表情に、男性はたちまち心を奪われてしまった。

 それは彼女の普段通りの表情。

 見る者全てを慈愛で包み込んでしまいそうな、柔和な笑み。

「綾波…。君はいったい、どんな未来を思い描いているというんだ…」

 その問いに、女性の顔から緊張が消えていく。

「全ての母親が思い描く未来なんて一つだけよ。■■■くん」

 「さっぱり分からない」とばかりに眉根を寄せる男性の顔に、女性はくすりと笑う。

 

「子供たちが笑って暮らせる、明るい未来」

 

 そう告げた女性は、視線を自身の腹部に落とし、右手でそのお腹を摩った。

「そのために、わたしはこの子を産むの…」

 男性も女性のお腹に目を向ける。まだ大きくなる前の、肉の乏しいほっそりとしたお腹を。

「”明るい未来”とやらのために、終末へと転がり落ちているこの世界にその子を産み落とす、というのか…」

 皮肉めいた彼の口ぶりに、女性は困ったように笑った。

「ええ。わたしはこの子を産むために、この世界にやってきたの」

 大袈裟な物言いの女性の顔を、男性は面白くなさそうに見つめている。

「それじゃ君はまるで子供欲しさに僕に近付いてきたみたいじゃないか…」

 どこか不貞腐れたような、子供のような表情の男性に、女性はきょとんとした顔。少し間を置いて、女性の口もとが悪戯っぽく笑った。

 女性は男性に顔を近付け、そして彼の耳もとに口を近付けた。

「ええ、そうよ…」

 妖しげな響きを伴う囁き。

 その言葉を受けて男性の顔に広がる困惑の色を観察しながら、女性はさらに続けた、

「わたしと、あなたの…。わたしたちの子供を産むために、あなたに近付いたの…」

「僕…たちの…?」

「ええ。だって、あなたとわたしの子なんですもの。もしかしたら明るい未来を切り開いてくれるのは。世界中に。全ての人類を希望の光で照らしてくれるのは、この子かもしれないじゃない」

 もはや「明るい未来」とやらは約束されたような女性の口調。そんな口調で告げられても、男性は唇をとんがらせたまま。

 女性はふふっと、声に出して笑った。

「何がおかしいんだ」

 男性に咎められ、女性は慌てて口もとに手を添えて笑う口を隠す。

「あなたは時々忘れてしまってるんじゃないかと、心配になるから…」

「何がだ…」

「あなたもみんなと同じ、ヒトだってこと。人類全てに注がれる希望の光。その光は、あなた自身にも注がれるかもしれないのよ」

 

 

 ベンチに座る男女。

 彼に寄り添うように、彼の肩に体を預ける彼女。

 

 何度目かの沈黙の後。

「分かったよ…」

 重い口を開いた彼を、彼女は見つめる。

「祝福、するよ…」

「本当に…?」

 彼女の顔が華やぐ。

「ああ。本当だ。僕は、僕たちの子を、祝福する」

 誓うようにそう告げた彼は、自身の肩に寄り添う彼女の背中に腕を回した。

「だから綾波…」

「うん…」

「僕のもとに、帰ってきてほしい…」

「うん…」

「君の居ない生活など、僕には考えられない…」

「うん…」

「それともう一つ…」

「うん…」

「君に頼みがある…」

「うん…」

「”綾波”という君の名前…」

「うん…」

「それはもう、名乗らないでほしい…」

「……うん……」

「偽りの名前は、もう捨ててほしいんだ…」

「……うん……」

「だから…」

「……うん……」

「その…、だから…」

「……うん……」

「そ、そその…、え…と…」

 しどろもどろになる彼に、彼女は思わず吹き出してしまった。

 聡い彼女は、こう見えて意気地のない彼に助け舟を出してやる。

 

「ええ。分かったわ」

 

「え?」

 

「私は今日から…」

 

「え?」

 

「六分儀ユイになる…」

 

「え?」

 

「でしょ? 六分儀ゲンドウくん」

 

 悪戯っぽく笑いながら覗き込んでる彼女。彼は真っ赤になってしまった顔を彼女に見られないようそっぽを向いてしまった。

「六分儀くん…?」

 どこか不機嫌そうな彼の態度に、彼女は心配そうな表情で顔を寄せてくる。彼は掛けたメガネのブリッジを押し上げながら言う。

「綾波…」

「なに?」

「僕は親から勘当されたも同然の身ってことは知ってるよね?」

「ええ」

「僕も、あの家に戻るつもりはない」

「うん…」

「だから、”六分儀”という名前も、できれば君には名乗らせたくないし、生まれてくる子にも継がせたくはないんだ…」

「そう。だったら…」

「え?」

「だったら、綾波ゲンドウになる?」

「そ、それは…」

「ふふっ」

 困った顔をする彼の顔を見るのが何よりも好きな彼女は、彼のその顔を見て嬉しそうに笑った。

 いつの間にか会話の主導権を完全に奪われてしまった彼は、大そう不満げに鼻を鳴らしつつ、膝の上に頬杖を付きながら枯れた噴水を睨んでいる。

 そんな子供のような拗ね方をしている彼の横顔を満足そうに見つめる彼女。

 

「私たちの新しい苗字のことはまた後でゆっくりと考えればいいわ。それよりもろく…、ゲンドウくん」

 

「なんだい? あや…、ユイ」

 

「私たちのことよりも、決めなくちゃいけないもっと大切なことがあったでしょ?」

 

「え?」

 

「決めてくれた?」

 

「何を?」

 

「手紙に書いてあったこと…」

 

「君を捜すのに必死だったんだぞ。そんな暇…」

 

「うそ」

 

「なに?」

 

「ゲンドウくんは、相変わらず嘘が下手ね」

 

「……」

 

「名前、決めてくれた?」

 

「ああ…」

 

「ふふっ」

 

「男だったら”シンジ”。女だったら”レイ”と名付けよう」

 

 彼の口から告げられた2つの名前。

 

「シンジ…、レイ…、ふふっ」

 

 彼女は彼から贈られた一番の宝物を、口の中で転がし続ける。

 

「シンジ…、シンジ…。綾波…、シンジ…」

 

 試しに、男の子だった時の名前を仮のフルネームで呟いてみた。

 

「レイ…、レイ…」

 

 続いて女の子だった時の名前を。

 

 

「いかり…、レイ…」

 

 

 自分が考えた子供の名前なんて恥ずかしくて溜まらないのに、彼女の口で、声音で読み上げられるとまるで高尚な詩の一節のようだった。目を閉じ、彼女の声に耳を傾けていたら。

 唐突に、それは彼女の口から出ていた。

「いかり?」

 彼は閉じていた目を開ける。

 「誰だ? それは」と訊ねようとして、隣の彼女の顔を見た彼の口は出し掛けた声を飲み込んだ。

 

「違う…」

 

 自分のお腹を。新しい生命が宿ったお腹を見下ろす彼女の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちていた。

 

 

「綾波…、レイ…」

 

 

 大きく見開いた眼から大量の涙を流す彼女の横顔。

 初めて見るような、知らない女性のように見えた彼女の横顔。

 また彼女が何処かへ消えてしまいそうな気がして、彼は咄嗟に彼女の手を握る。

 彼に手を握られ、彼女は弾かれたように瞬きをし、そして緩慢な動作で彼の方へと顔を向けた。

 

「そっか…。そういうこと、か…」

 

 彼の瞳から零れ落ちる涙は止む気配がない。

 彼女は泣きながら。それでいて顔の表情は笑いながら。酷く矛盾した表情で、彼を見つめ返した。

 

 そして再び自身のお腹に視線を落として。

 

 

「おめでとう…。碇シンジくん…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「私にとっての希望の光…。それはお前だけだ…。ユイ…」

 

 全ての儀式を終えた碇ゲンドウは、虚構の世界に立っていた。

 虚構の世界。マイナス宇宙。

 ヒトでは認知することすら叶わない場所。

 そこにヒトを捨てた姿で立つ碇ゲンドウは、彼自身が取り仕切った儀式の行く末を見守るべく、虚構の空を見上げていた。

 

 ヒトを捨てた相貌から放たれる視線の行く先。

 そこに在るのは現世には存在しない、架空の存在。

 虚構と現実。本来、相容れない2つの世界を等しく信じることができるヒトだけが認知できる存在。

 ヒトには到達し得ない場所に鎮座した、ヒトにしか見ることができない存在。

 

 その存在が、2本の槍。

 希望の槍と、絶望の槍。

 対となる槍を吸収することで、矛盾に満ちた存在は初めて同一の情報と化し、虚構と現実とが溶け合っていく。

 それは即ち既存の認識の破壊と再生。即ち、世界の書き換え。

 

 矛盾に満ちた存在は実態を成し、そして白い女性の姿を成しながら肥大化していく。

 ついにその頭部はこの空間を塞ぐ天蓋。ガフの扉へと到達し、その扉をもすり抜けて虚構から現実の世界へと溢れ出し始めた。

 

 今もなお肥大化し続ける女性の姿をした存在を見上げるゲンドウ。

 表情というものを構築するための部位の半分を失ったその顔は、しかし何処か満ち足りている様子だった。肥大化し過ぎてもはや顔すら見えなくなってしまった女性の姿をした存在に向けて、語り掛ける。

「もうすぐ会えるな…、ユイ…」

 

 

 

 

 ふわりと。

 

 背後から風が巻き起こった。

 彼の背中をそっと押すような、柔らかな風。

 

 そして彼が立つ地面を微かに震わせる、柔らかな地響き。

 

「お前を再構成するための最後のマテリアルも、今届いた…」

 

 彼は振り返る。

 

「戻ったか…。レイ…」

 

 紫色の甲冑を纏った巨人が、跪いていた。

 

 

 巨人。エヴァンゲリオン初号機は跪いた姿勢のまま、重ねた両手で大切に包み込んでいたものを、そっと地面に置く。

 初号機の大きな指の隙間から現れた、白のワイシャツと黒の学生ズボンに身を包んだ少年。碇シンジは、ゆっくりと虚構の世界の地面に降り立つ。彼らの先に立つ人物。碇ゲンドウの、ヒトを捨てた顔をまっすぐに見つめて。

 両足で地面に立ったシンジは、その顔を初号機の顔へと向けた。

 シンジの視線を受け、初号機は身を屈め、首を窮屈そうに曲げて、耳(があると思われる部分)をシンジに近付ける。シンジは初号機の耳(があると思われる部分)に向けて口を開き、短い言葉で語り掛けた。初号機はその大きな顔をシンジから離すと、シンジを見つめながら大きく頷く。そして地面に跪いたままのっしのしと。シンジが立つ場所から一歩二歩と、ゆっくり遠ざかっていった。

 少し遠くに離れた初号機の顔を眩しそうに見上げていたシンジはその表情を引き締め直し、視線を父親の方へと戻した。

 

「父さん…」

「レイ」

 虚構の世界に響いた息子の声を、父親は遮る。

「約束の時は来た。初号機を、私のもとへ」

 

 少年にとっては長い眠りから目覚めて以来初めて見る父親の素顔だった。

 しかし少年から少し離れた場所に立つ父親の素顔は、少年が知るものとは懸け離れたもの。

 目の周辺が十字状に大きく陥没し、陥没した奥に鈍い光を湛えているその顔に向けて、息子はなおも呼び掛ける。

「父さん…」

 しかし双眸を失った父親の顔から放たれる視線は息子ではなく、その背後に控える巨人へと向けられている。

「全ての儀式は成った。もう間もなく全ての魂が溶け合い、混ざり合う。初号機の中に残置されているユイの魂と共に」

 他の存在を無視するかのように、巨人へのみ語り掛ける父親。息子は健気に呼び掛け続ける。

「父さん…、僕は」

「さあレイ」

「僕は、父さんと…」

「初号機を私のもとへ」

「父さんと話がしたいんだ…」

「私を導け」

「父さん」

「安らぎの世界へ」

「僕と」

「ユイと私が再び出会える世界へと、導くのだ」

「僕と話をしよう…」

 

「何を…」

 ゲンドウの顔は彼の目線よりも遥かに高い位置にある初号機の顔に向けられたまま。しかし十字状に裂かれた顔面の奥に浮かぶ鈍い光が、初めて彼の息子へと向けられる。

「この期に及んで何を話そうというのだ。シンジ」

「僕は…」

「もはや」

 父親に問われ、言葉を紡ごうとしたシンジの声は、またもや父親の声によって遮られる。

「もはや話をすべき時は過ぎたのだ。成さなければならないことがある私に、お前と語り合う時間などない」

 父親からのその言葉に、伏せられる息子の目。

「うん。そうだね。僕たちは…」

 言い掛けて、息子は頭を左右に振った。

「僕は、もっと早く話をしなければならなかったんだ。父さんと…」

 華奢な両手が、密かに握り締められた。

「「あの時」の。この世界で言う14年前のあの悲劇が起こる前に、僕は父さんと話をしなくちゃいけなかったんだ」

 右手に握っていた、何度もあちこちをぶつけられ、べこべこに凹んでいる携帯型音楽プレイヤーがミシリと音を立てた。

「遅すぎたってことは分かっている。でも今、ようやくこうして父さんと向かい合って、僕は立っている。この機会を、僕は逃したくないんだ。だから、父さん…」

 伏せていた目を、まっすぐに父親へと向けた。

「僕と、話をしよう」

 

 ゲンドウの顎が下がる。目線よりも遥かに高い位置にある初号機の顔に向けられていたゲンドウの顔が、ようやく息子の方へと向けられた。

「私と話をすることで、お前は何を成すつもりだ」

 その問いに対し、シンジは一拍だけ深呼吸を挟んで答えた。

「父さんが成そうとしていることを、止めたい」

 

 息子が父親の問いに答えた瞬間、ゲンドウの十字状に裂かれた顔面に強烈な閃光が瞬いた。凄まじい破裂音と共にゲンドウの顔面から膨大なエネルギーを圧縮した光球が放たれ、彼の視線の先に立つ息子へと襲い掛かる。

 巨大な爆発と共に激しい轟音。

 自分の息子が立っていた場所が爆炎に包まれた様子を、表情一つ動かさずに見つめているゲンドウ。

「ならば、語り合うことは何もない」

 再びゲンドウの顔面が光り、そして放たれた光球は彼の息子が立っていた位置に新たな爆炎を作り出す。

「大人しく初号機を渡せ」

 3発目、4発目と、次々と放たれていく光球。

「そうすれば、お前も再び母に会える」

 幾つも起こった爆発で辺り一面が煙で包まれたところで、ようやくゲンドウは攻撃の手を止めた。

 

 

 立ち込めた煙が少しずつ晴れていく。

 そして最初に見えたのは、地面に築かれた幾つもの爆発の痕…、ではなく、うず高く聳え立つ小山のような影。

 2分前と同じ姿で跪く、エヴァンゲリオン初号機。

 しかしその位置は2分前よりも巨人の歩幅で2歩ほど前に出ており、そしてその右腕は前に向けて伸ばされ、地面に置かれた右手はその下にある何かを守るように覆っている。

 

 その巨大な手の下から声がした。

「もう大丈夫だよ。綾波」

 その声を合図に、初号機はゆっくりと右手を上げていく。

 右手の下から現れたシンジは、父親の攻撃から自分を守ってくれた右手を見上げ、そしてそのまま右手の持ち主の顔へと視線を移す。

「ありがとう。綾波」

 微笑みを向けられ、巨人はその図体には不釣り合いな繊細な動きで、小さく頷いた。

 

「あくまで私の邪魔をするか。シンジ」

 その声に、シンジは視線を正面へと向けながら、頭を横に振る。

「僕に父さんを邪魔する力なんてない。ただ願うだけだよ。父さんがやめてくれることを。だから父さん…」

「人の願いや思いだけでは何も変わらん」

「僕と話をしよう」

「くどい」

 

 シンジの頭上に巨大な拳が振り下ろされたのは、ゲンドウが短い言葉を放った直後だった。

 ゲンドウの背後に突如現れた巨体。

 まるで地の底から這い出てきたように、ゲンドウが立つ場所の後ろからその大きな上半身を現した巨人。エヴァンゲリオン第13号機は、握り締めていた岩のような拳を、第13号機の使役者の息子に向かって振り落とした。

 

 人間など。

 地球上に現存するどのような生命体も一瞬にして粉々に潰してしまえる第13号機の拳。

 しかしその拳は、華奢な少年の体に傷一つ負わせることも叶わなかった。

 シンジの頭上に差し伸べられたもう一つの手が、第13号機の拳を受け止めたからだ。

 その手を差し伸べたもの。

 シンジの後ろに控えていたエヴァンゲリオン初号機は、受け止めた第13号機の拳を広げた指で包み込むと、一気に握り締める。握り締められた拳は瞬時にして捻じれ、千切れ、捻り潰される。すり潰された第13号機の右手から大量の血飛沫が舞い、地面へと降り注いだ。

 

 ほんの数メートル頭上で繰り広げられる血染めの握手。その直下に居るシンジは、顔色一つ変えることなく正面に居る父親を見続けている。

「父さん…」

 潰された第13号機の右手から滝のように落ちてくる大量の血。初号機によって生み出されたATフィールドで守られるシンジの体を汚すことなく、少年が立つ場所の周囲に血の池を作り上げる。

「僕と…」

「耳障りだ…」

 

 第13号機の4つある目が光った。

 雷鳴のような轟音と共に第13号機の顔面から強烈な光線が放たれ、シンジに襲い掛かる。

 しかしATフィールドをも穿つその光線すらも、シンジを傷つけることはできない。

 シンジの背後からも、ほぼ同時に雷鳴のような轟音。シンジの背後に跪く初号機からも同様の光線が放たれ、第13号機の光線を弾いてしまう。目標から大きく反れた光線は地を、そして空を這いながらありとあらゆるものを貫いて回り、この虚構の空間のあちこちに鈴なりの大きな爆発を巻き起こした。

 

 第13号機は使役者を。

 初号機は護るべき者を。

 それぞれの左手で、無数の爆発がまき散らした衝撃波から守る。

 

 土煙が晴れ、2体の巨人はほぼ同時に左手を上げた。

 

 初号機の左手の下から現れた少年は、2分前に初号機の手によって覆われた時と全く変わらない姿勢で彼の前に立つ父親の顔を見つめていた。

「僕と、話をしよう…」

 

 一方、第13号機の左手の下から現れた父親は、少年の方を見ていない。

「絶望の第13号機と対を成す、希望の機体。初号機…」

 十字状に裂かれた顔を、少年の背後に控える巨人の顔へと向けている。

「やはり初号機は第13号機の…、私の側に立つこそ相応しい」

 ゲンドウは右手を上げ、シンジの背後で跪く初号機に向かって差し伸べた。

「だからレイ。私のもとに来なさい」

 その手が、あらゆるものを、虚空すらも毟り取ろうとするかのように大きく開かれた。

「これは命令だ」

 

「ダメだよ。父さん」

 息子へと向けられる父親の顔。十字状の裂け目から覗く鈍い光。

「綾波は、もう命令には耳を傾けない」

 その光から放たれる冷気を纏った怪しげな視線を、シンジは顔色一つ変えずに受け止める。

「綾波は、命令では動かない。…でも」

 静かな眼差しを父親へ返す。

「願いになら、耳を傾けてくれる」

 抑揚を押さえた声で、父親に語り掛ける。

「願いになら、綾波は応えてくれるはずだよ」

 背後で、初号機から響いてくる小さな唸り声に耳を傾けながら。

 

「くだらん」

 ゲンドウは吐き捨てるように言った。

「綾波と式波型パイロットは、もとよりこの時のために用意されたもの。これは運命だ」

 十字状の目を初号機へと向ける。

「レイ。運命に逆らうか」

「自身の願望はあらゆる犠牲を払い、自身の力で実現させるもの」

 ゲンドウの言葉を遮るように重なった、シンジの声。

「そう言ったのは父さんじゃないか」

 ゲンドウの右頬が、一度だけ痙攣した。

「綾波は綾波の願いの為に、あらゆる犠牲を払って…。そして今、ここに立っている」

 そしてシンジは頭を少しだけ動かし、背後に控える巨人を肩越しに見た。

「彼女の願いは僕の願い」

 初号機に向けて微笑み掛けたシンジは、そして再び彼の父親を正面から見据える。

「僕の願いは、彼女の願いだ」

 シンジの言葉に同調するように、初号機の口の両端からやや多めの蒸気が漏れ出た。

 

 

「そうか…」

 父親の口から漏れた微かな呟き。

「そうだったな…」

 少しだけ顎を引き、少しだけ顔を俯かせる。十字状の目から放たれる視線が、地べたを這う。

「父さん…」

「ならば…」

 息子からの呼び掛けと同時にゲンドウの顔が上がり、十字状の目の奥にある光が爛々と輝いた。

「私も私の願いのために最後の犠牲を払うしかあるまい」

 

 

 まるで碇ゲンドウの宣言に呼応するかのように、第13号機が動き出した。

 握り潰された右手を尚も掴んでいる初号機の手を強引に振りほどくと、大きな地響きを立てながら、一歩、二歩と後退する。

 そして両手を地面に付けて前屈みになり。全ての指を地面にめり込ませ、背中を弓なりのように反らし。

 それはまるで四つ足の獰猛な肉食獣が、獲物に向かって今にも飛び掛かろうとしているかのような姿勢。

 第13号機の口が大きく開き、口の端から凶悪な牙が覗く。

 そして。

 

 

 

  グアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!

 

 

 

 空間を揺るがすほどの巨大な咆哮が、第13号機の口から放たれた。

 

 相手を威嚇し、圧倒するための咆哮。

 その咆哮を真正面から受けたシンジは両足に力を籠め、地面を踏ん張り、竜巻のような風圧に耐える。

 そして第13号機の咆哮が止むのと同時に鳴り始めた背後からの音を耳にし、シンジはふふっと小さく笑った。

 

 それは空気を吸い込む音。

 この空間の中にある全ての空気を吸い尽くしてしまうような勢いで吸息する音。

 メキメキと、胸の中の肺が急速に膨らみ、肋骨を押し広げていく音。

 その音が止まり。

 世界をほんの僅かな間、静寂が包んで。

 そして。

 

 

 

  グアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!

 

 

 

 地面を揺るがす程の巨大な咆哮。

 相手を威嚇し、圧倒するための咆哮。

 しかし背後に控える初号機から放たれたその咆哮を背中で受けたシンジには、その咆哮が何よりも頼もしく、そして心地良く感じられた。

 

 

 第13号機は深い前傾姿勢を保ったまま、さらに三歩、四歩と後退していく。

「あくまで私に逆らうか。シンジ。レイ」

 巨人たちが轟かせる足音に混じって、ゲンドウの声が飛んでくる。

「父さん。僕は父さんと話がしたいだけだ」

 シンジの背後からも足音と共に大量の土煙が立ち昇る。そして喉を鳴らす低い音。

「そして彼女は」

 助走を付けるには十分な距離をとった第13号機。地面に付いた両手のうち、右手で何度も地面を引っ掻く。背中を弓なりに反らし、右膝は折ったまま。そして左足はピンと伸ばし、お尻を天に向かって高く突き上げ、そして。

 

 

「綾波は約束してくれたんだ」

 

 

 後ろ足で大地を蹴り、前足で大地を引っ掻いた。

 激しい咆哮と共に剥き出しになる第13号機の牙。

 全身の筋肉を躍動させ、宙を舞う第13号機の体。

 前に突き出された両手と牙が、地上に立つ一人の少年へと襲い掛かる。

 

 

「僕が父さんと話をするまで、邪魔するあらゆるものを排除すると」

 

 

 シンジの背後から、その頭上を大きな影が飛び越えた。

 

 

 

 



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(61)Battle Of Titans

 

 

 

 

 鼠に飛び掛かる虎。どころの体格差ではない。

 地を這う虫に飛び掛かる肉食恐竜と形容した方が正しい。

 エヴァンゲリオン第13号機はその巨体を大いに躍動させて、地上に立つ小さな人間。使役者たる碇ゲンドウの息子。碇シンジに向かって襲い掛かろうとした。

 

 前に突き出した両手が今まさに少年を叩き潰そうとしたその瞬間。

 背後から少年の頭上を飛び越えた巨体。

 エヴァンゲリオン初号機が、第13号機のどてっぱらに向かって体当たりをぶちかます。

 空中で衝突する2体の巨人。

 2つの巨体が激しくぶつかり合った衝撃で、無数の火花と共に周囲に凄まじい衝撃波をまき散らしていく。

 

 より低く。より鋭い跳躍で飛び掛かった初号機は、第13号機の突き出された両手を掻い潜ると、その右肩を第13号機の胴体へと押し当て、さらには両手を相手の腰へと回す。

 第13号機は初号機による低姿勢からのタックルを決められた形となり、体全体が「く」の字に曲がった。

 2体とももつれたまま、地面へと墜落。巨人2体分の落下の衝撃で地面が激しく振動し、ひび割れ、そのエネルギーは大気をも揺るがし、噴煙のように舞い上がる土煙の隙間には摩擦電気による稲妻が発生するほどだ。

 

 第13号機を地面に組み伏せた初号機は、その顔を初号機とまるで兄弟のような顔の第13号機へと近付ける。

 そして咆哮。

 口を極限まで開き、連なる牙を剥き出しにして、相手を屈服させるための咆哮を吐き出す。

 負けじと、第13号機も口を大きく開けて吠え返した。

 

 

 息子を捻り潰すために飛び掛かった第13号機が逆に吹き飛ばされ、今は後方で初号機に組み伏せられている。

 その様子を首だけ動かして、肩越しに見ていた碇ゲンドウ。

「父さん」

 声を掛けられ、顔を正面へと向けた。

「綾波が作ってくれた貴重な時間を僕は無駄にしたくない」

 激しく揺れる大地を踏みしめて立っている少年。

「僕と話をしよう」

 すぐ側で巨人同士が終末戦争を繰り広げている中で、彼は静かに父親に呼び掛ける。

 

 

 互いに2度3度と吠えることを繰り返した2体のエヴァンゲリオン。

 組み敷かれた第13号機の眼孔が鋭く光った。同時に凄まじい破裂音と共に、目の前の初号機に向かって超高密度エネルギー体である光線を放つ。しかし初号機も第13号機が眼孔を光らせると同時に光線を発生させ、第13号機に向かって撃ち返したため、2つの超高密度エネルギー体は2体の巨人の顔の間で激しく衝突。大爆発を起こし、その衝撃で初号機の体は後ろへと吹っ飛び、第13号機の体も地面の上を跳ねて転がっていく。

 

 その巨体が3度地面の上を跳ね、そしてゴロゴロと地面の上を2回転したところで、第13号機は体制を立て直す。

 第13号機が跪きながら身を起こした時は、視界一杯に広がっていた土煙。

 その土煙が徐々に晴れていく。

 広くなった第13号機の視界。その視界に一番最初に入った人物。

 それは、第13号機の使役者の背中。

 その使役者の前に立つ華奢な人影。

 それは、使役者が「最後の犠牲者」と定めた人物。

 

 第13号機は吠えた。

 その身に託された最後の使命を果たすべく、大地を蹴り、その人物に再び飛び掛かる。

 

 

 少し離れた場所に立つ父親。

 その父親の背後から、立ち籠める土煙を巻き込み、切り裂くように現れた第13号機。

 2つある眼孔をさらに2つに切り裂いた4つの目を鬼火のように光らせ、大口を開け、両手を前に突き出し、飛び掛かってくる第13号機。

 しかし碇シンジの双眸は第13号機を見ようともしない。

 絶対の死を運んでくる巨大な死神を、一瞥もしない。

 第13号機の存在を無視するかのように、静かに父親の顔を見つめている。

 

 

 死神の体が碇ゲンドウの頭上を飛び越え、その先に立つ彼の息子に襲い掛かろうとしたその時。死神の顔が横に引き裂かれたように大きく歪み、暗紫色の体が横に大きく吹き飛んだ。顔面から地面に叩き付けられ、さらに地面の上を何度も跳ねた後、第13号機の体はようやく止まる。

 第13号機の横っ面に、突進した勢い全てを込めた右拳を撃ち込んだ初号機は、碇ゲンドウを飛び越えると、地面に倒れてぐったりとしている第13号機に向けて、飛び込み様に膝蹴りを叩きこもうとした。

 しかし初号機の全体重を乗せた膝蹴りが第13号機の顔面に叩き込まれる寸でのところで、眼孔を鈍く光らせた第13号機はすぐに身を翻し、反撃に転じる。

 首を捻じ曲げて初号機の膝蹴りを躱すと、地面に突っ込む初号機の頸部に目掛けて、潰された血塗れの右手を突き出す。第13号機の大きな右手が初号機の首を掴み上げ、カウンターを喰らう形となった初号機の首が激しく歪んだ。第13号機は初号機の首を握り締めたまま地面から背中を浮かせると、今度は自身の体重を全て預けて初号機を地面に叩き付けた。初号機の背中を中心に、地面に放射状の巨大な地割れが発生し、初号機の口からは鮮血が迸る。

 初号機を叩き伏せた第13号機。しかしその視線はすぐに碇シンジへと向けられた。与えられた使命を忠実に果たすべく、第13号機は大きく吠えながら三度、碇シンジへと飛び掛かろうとするが、両手両足で地面を押し、跳躍しようとした第13号機の体は地面に縛り付けられたまま離れない。見れば、首を掴んで叩き伏せていた初号機が第13号機の右腕に両腕両足を絡みつかせ、組み付いていた。全体重と全身の力を第13号機の右腕に集中させた初号機は強引に第13号機の右肘を畳ませると、口を大きく開ける。凶悪な牙が並ぶその口で、第13号機の右前腕部に噛み付いた。

 初号機の上顎と下顎の圧力に挟まれ、たちまち砕かれる第13号機の前腕。装甲が潰れ、皮膚が千切れ、肉が弾け、血が噴水のように大量に吹き出た。紫色の装甲を真っ赤に染める初号機は両腕両脚にさらに顎も加え、全身を使って絡み付いた第13号機の右腕を地面に向けて強引にねじ伏せると、第13号機も自身の右腕に引っ張られる形で背中から地面に倒れてしまった。

 

 

 すぐ側で巨人2体が凄まじい地響きを轟かせ、方々に地割れを走らせ、盛大に土煙を立てながら取っ組み合いをしている中、その親子はお互いの顔を見つめながら静かに対峙していた。第13号機の前腕から迸った大量の血液の飛沫の一つが2人の間にぼたりと落ち、大きな水溜まりを作るが、互いに身じろぎ一つしない。

 飛び散った血で白のスニーカーの爪先を汚しながら、息子が口を開く。

「父さんは、ここで何をしようとしているの?」

 同じく血で白の手袋の右薬指の部分を汚しながら、父は答える。

「ここでしか起こしえない、アディショナルインパクトだ」

「アディショナルインパクト…」

「すでに儀式は終わり、そしてインパクトは始まった。始まったことは誰にも止められぬ。お前はそこで事の行く末を黙ってみていればよい」

 

 

 第13号機を組み伏せた初号機は素早く身を入れ替えると、そのまま第13号機の腹の上に馬乗りになる。

 圧倒的不利な体勢となった第13号機は顔を正面に向けると、すぐさま両目を光らせた。第13号機の視線の先は初号機の顔。第13号機の顔面に閃光が瞬き、そこから放たれた鮮烈な光線が初号機の顔面を襲おうとするが、初号機は左手で第13号機の顎を掴むと首を強引に捻らせた。第13号機の顔が地面へと向き、初号機の顔を襲うはずだった光線は大きく逸れ、初号機の顔の代わりに第13号機の視線の先にある地面を抉り、炙る。

 

 第13号機から放たれた光線は親子の間の地面をも炙り抉った。

 地面は一瞬にして蒸発し、猛烈な蒸気と熱風が2人を襲うが、2人の顔は相手の顔を見据えたまま動かない。

 熱風で前髪が焦げ付くのを感じながら、息子は口を開く。

「父さんは、何を、望むの?」

「お前が選ばなかったATフィールドの存在しない世界」

「僕が…?」

「お前が一度は否定した世界。お前が望まなかった世界だ。私とお前とでは望むものが違う。故に我々は分かり合えない。だから、我々がこれ以上言葉を交わすことは無意味なのだ」

 

 重心を第13号機の胸の位置に預け、両膝を第13号機の両肩に乗せ、左手で第13号機の顎を押さえ付けた初号機。右手は拳を作り、それをそのままがら空きの第13号機の側頭部へと振り落とす。

 装甲と装甲が激しくぶつかり合い、激しい火花が散った。

 一発目で、第13号機の兜に放射状の亀裂が入った。その巨体の全身を覆う1万2,000枚の特殊装甲の中でも、最も分厚い箇所を殴った初号機の右拳にも亀裂が走り、血が滲み出るが、初号機は構わず2発目を第13号機の側頭部へと叩き込む。

 3発目。

 そして4発目になって、ついに第13号機の兜が割れ、その隙間から第13号機本体の頭部が覗き始める。

 

 

 

 静かに対峙している2人。

 その2人の上を、大きな影が飛び越えた。

 シンジは父親の方を向いたまま。

 一方のゲンドウは息子から視線を外し、彼らを飛び越えていった影を十字状の目で追う。

 大きな影は激しい地響きを立てながら地面へと墜落した。土煙の隙間から見えるそれは紫色の装甲を纏った巨人。

 再び、彼らの頭上を大きな影が飛び越える。

 地面に倒れている紫色の巨人に向かって飛び掛かるその影もまた、紫色の巨人だった。

 後から現れた紫色の巨人は両膝を前に突き出したまま落下すると、その両膝の着地点は地面に倒れている紫色の巨人の腹。空から降ってくる相手の全体重を腹部に一極集中させられた巨人の体が、「く」の字に曲がり、大きく開いた口から血が噴き出た。

 

 浴びせ膝蹴りを見舞った巨人はそのまま相手に馬乗りになると、左手で相手の首を押さえ込み、そして右拳を相手の顔面に振り落とす。

 1発目で兜の額が陥没し。

 2発目で左眼の眼孔がひび割れ。

 そして3発目は相手の顎に直撃し、ただでさえ血に塗れていた口の周辺がさらに真っ赤に彩られた。

 地面に組み敷かれた巨人もやられっ放しではない。首を押さえ込む相手の左腕に両腕を絡ませ、捻じ曲げ、その束縛を強引に解こうとした。

 しかし相手はそれを許さなかった。相手が己の支配下から逃れることを許さなかった。

 

 2体の紫色の巨人。並べばまるで兄弟のような。姿形がそっくりな2体の巨人。

 しかし一目見て、決定的に違う場所がある。

 

 相手を組み敷き、拳の雨を降らせている異形の巨人。

 第13号機。

 初号機と対を成す絶望の機体は、「異形」と呼ばれる所以である胸の前に畳んでいた第3、第4の手を動かし、左腕に絡み付いていた初号機の両腕を強引に解き、逆に束縛してしまった。

 両腕の自由を失った初号機に対し、第13号機は第1の手で作った拳でさらに4発目、5発目とその顔面に鉄拳を食らわせると、第1、第2の手を使って初号機の首を締め上げた。

 初号機の真っ赤に彩られた口が大きく開き、声にならない悲鳴を上げる。

 第1、第2の手で初号機の首を、第3、第4の手で初号機の両手を握り締めた第13号機は、ゆっくりと腰を上げ、そして畳んでいた膝を伸ばす。そして両肩から伸びる4本の腕を頭上に向かって伸ばすと、その4本の腕に拘束された初号機の体も地面から浮き上がり、第13号機の頭よりも高くに吊るされた。

 

 第13号機の第1、第2の10本の指が初号機の首に深く食い込む。頸部を締め上げられ、頭部へ血液を送るための大動脈が塞がれてしまう。その体は何とかして脳へ血液を送ろうと激しく痙攣するが、第13号機の手によって隙間なく塞がれた血管は一滴の血も巡ることを許さない。

 じたばたと暴れる初号機の両脚が何度も第13号機の胸部を蹴った。

 すると第13号機は初号機の首、そして両腕を拘束したまま初号機の体を右から左へと大きく振り回し、そして最後には地面に叩き付けてしまう。初号機が背にした地面が大きく割れ、初号機の体が陥没した地面の中に深く埋まった。

 初号機を地面に叩き伏せた第13号機の4本の腕は、尚も初号機の首と両腕を拘束したまま。第13号機は地面に埋まった初号機を引きずり出すと、再び頭上に高く掲げた。そして今度は左から右へと勢いを付け、全体重を乗せて初号機を地面に叩き付ける。再び大地が大きく割れ、初号機の体が裂け目の中に埋没する。

 第13号機の腕は尚も初号機を拘束したまま。裂け目から引きずり出された初号機の体は、5秒後には再び地面に叩き付けられ、新しく出来た大地の裂け目に埋没する。

 引きずり出され、そして叩き付けられ。

 引きずり出され、そして叩き付けられ。

 プログラムされたルーチンワークをひたすら繰り返す機械のように、第13号機は初号機を地面から引きずり出しては頭上に高く掲げ、そして地面に叩き付け続ける一連の行為を繰り返した。

 

 その間も初号機は全身を痙攣させながらも両脚を第13号機の胸に腹に打ち付け続けるが、第13号機の体はびくともしない。

 初号機は徐々に弱まりつつある眼光に最後の油を注ぎ、煌々と光らせて目の前にある第13号機の顔面に向けて超高密度エネルギー体の光線を叩きつけるが、しかし第13号機も息を合わせたように同様の光を放ったため、互いの光線はぶつかり合い、弾け、四散し、周囲に無数のエネルギー体の鱗粉を撒き散らすことになる。それらは至近に居る初号機と第13号機の体にまるで刃の雨のように襲い掛かり、装甲を穿ち、その下の素体を抉った。

 体中に穴を開け、血が混じった体液を迸らせながらも、第13号機はなおも初号機の両腕を拘束し続け、首を絞め続ける。

 やはり体中に穴を開け、血が混じった体液をつま先から地面に向けて滴らせる初号機。なおも眼光を光らせ、2発目の光球を第13号機に叩き付けようとするが、第13号機は初号機の喉仏に突き付けていた2本の親指をさらにめり込ませ、首の締め付けを一層強くし、初号機の眼光に宿り掛けていた火を掻き消してしまった。

 初号機の目の代わりに光ったのが第13号機の眼孔だった。凝縮されたエネルギーは球状となり、空気を切り裂くような破裂音と共に初号機の胸に襲い掛かった。

 

 大きな爆発が初号機の胸で弾ける。

 

 光球の直撃を食らった初号機の胸部の装甲は無残にも溶け落ち、溶けた装甲と共に焼かれた筋肉や砕けた肋骨がぼたぼたと地上に落下していく。

 その崩れ落ちてしまった装甲や肋骨や筋肉が守っていたもの。

 赤く光る巨大な球体。

 超高密度のエネルギー体を真正面から食らい、抉れてしまった胸の奥に収められていた巨人の心臓。

 初号機のコアが露出した。

 第13号機の4本ある腕。第1、第2の手は初号機の首を絞めつけたまま。一方で束縛されていた初号機の両腕はようやく解放されたものの、弛緩したまま地面に向けてだらりとぶら下がる。

 初号機の腕を解放した第3、第4の手は、初号機の胸へ。コアへと伸ばされた。

 その手で、コアを挟み込む。

 コアを、両手で鷲掴みにする。

 コアを鷲掴みにした第3、第4の手が、コアを引っ張り上げる。

 第13号機の2つの手は、初号機の胸からコアを引き摺り出そうとし始めた。

 

 

 

 大地に立つ細身の少年。

 碇シンジ。

 彼の視線は、彼の前に立つ父親に向けられている。

 

 息子の視線を受ける父親。

 碇ゲンドウ。

 彼の顔もまた、息子の顔に向けられている。

 しかしその顔に走る十字状の陥没。その奥から放たれる鈍い光を纏う視線は、明らかに息子以外のものに向けられていた。

 

 父親の視線は息子の顔の少し上。

 息子の頭越しに見える光景。

 息子の背後で繰り広げられている、ある惨劇に向けられていた。

 

 シンジの背後に立っているのは異形の巨人。

 全身から血を流して仁王立ちをしている巨人。

 その巨人の両肩から伸びるのは、異形の所以たる4本の腕。

 うち2本は、その巨人とそっくりな形、そっくりな色をした、もう一体の巨人の首を締め上げ、宙に吊し上げている。

 そして残りの2本の手を使って、その吊し上げた巨人の胸に埋まる赤く光る球体。巨人の心臓を引き摺り出そうとしている。

 それはもはや一方的な殺戮。

 父親の視線は、初号機のコアを引き摺り出そうとする13号機の背中を。いや、心臓を奪われようとしている初号機の顔を見ていた。

 

「父さん…」

 近くから投げ掛けられた声。

 ゲンドウの十字状の視線が声の主へ。彼の息子へと向けられる。

 しかし彼の視線が息子へと向けられたのは一瞬。その視線は、またすぐに初号機へと戻った。

「父さん…」

 再びシンジに呼ばれ、ゲンドウは律儀に視線をシンジへと向けるが、やはりまたすぐに初号機へと戻してしまう。

「僕と話しをしよう。父さん…」

 そう呼び掛けられ、息子と初号機の間を行き来するゲンドウの視線は、ようやくシンジの顔へと落ち着いた。

 しかしゲンドウは息子の呼び掛けには答えず、逆に問い返す。

「何のつもりだ…、シンジ…」

 ゲンドウの感情を押し殺したような低い声に対し、シンジは極めて平坦な声で訊き返す。

「何のことだい?」

 その一言で、ゲンドウの表情に、明らかに焦りの感情が浮かび上がった。削れた眉間に皺が寄り、唇の隙間から微かに見えた噛み締められた歯が軋む。

 そしてゲンドウの視線は再びシンジの背後の初号機へ。

 第13号機に頚動脈を締め上げられ、無数の光の刃によって体中に穴を開けられ、至近で浴びた超高密度エネルギー弾によって胸を抉られ、露出した心臓が引きずり出される寸前の初号機に。

「いいのか…」

 シンジに視線を戻し、明らかに焦燥を孕んだ声を発するゲンドウ。

「……」

 シンジは何も答えない。

 その息子の態度に、ゲンドウの顔が更に歪んだ。

「今すぐ、初号機に抵抗を止めさせるんだ」

 歪んだ十字状の目で息子を睨みつけながら言う。

「……」

 シンジは何も答えない。

 沈黙を守る息子の背後では、第13号機の第3、第4の手によって初号機の心臓が胸の外にまで引きずり出されていた。心臓と初号機本体との間は無数の管で繋がれているが、その管が濁った液体を撒き散らしながら、次々と千切れ始めている。

「シンジ…!」

 ついにゲンドウの口は声を張り上げる。

「……」

 しかしシンジは何も答えない。

 ゲンドウは全身を蝕む焦燥を表すかのように、シンジに向かって右足を一歩前に出した。白い手袋を嵌めた両拳を握り締める。

「貴様! レイの命を天秤に掛けるつもりか!」

 激しい語気で問われたシンジは、ようやく口を開いた。しかしそれは、

「何のことだい? 父さん」

 30秒前に口にしたものと同じ科白であり、ゲンドウの焦燥感に満ちた声と表裏を成すような凍てついた声だった。

 

 息子の背後からは、ブチブチと破壊的な音が鳴り続けている。

 息子の頭越しに見れば、初号機のコアに繋がれた無数の管の半分がすでに引き裂かれていた。あの管が全て千切れた時。それは初号機の肉体が死滅する時。初号機の肉体が死滅すれば、初号機と同化している者の魂もまた死滅してしまう。彼が全ての魂の救済と、彼自身のほんの細やかな願いを叶えるために起こした最後のインパクト。そのインパクトが完遂する前に死滅してしまった魂は、インパクトが齎す福音から漏れることになってしまう。

 初号機が漏らす呻き声と管が引き千切られていく音は息子の耳にも届いているはず。

 しかしシンジは、背後を振り返ろうともしない。

 涼やかな顔で、彼の父親を見つめ続けている。

 一方、父親の視線は初号機と息子との間を忙しなく行き来していた。

「こうすれば私が躊躇うとでも思っているのか。シンジ」

「……」

 父親の詰問に、シンジは何も答えない。

「レイの命を危険に晒せば、私が止まるとでも思ったか! シンジ!」

「……」

 シンジは何も答えない。

 

 ゲンドウがその被使役者たる第13号機にこの場で降した命令は一つだけ。それは使役者の望みを阻むものの排除。排除されない限り、第13号機が止まることはない。

 初号機の首を掴む13号機の第1、第2の手は、手の持ち主から遠ざけられ、そして初号機の心臓を掴む第3、第4の手は、手の持ち主に向かって引き寄せられる。相反する2つの力に晒されるコアと肉体とを繋ぐ管は次々と引き千切られ、ついに残すは数本のみとなった。

「レイに抵抗を止めさせるんだ! シンジ!」

 その数本も限界まで伸び切り、細くなり、一本、また一本と引き裂かれていき。

 そしてついに残り1本になり。

 

「レイが死ぬぞ! シンジ!」

 まるで乞うような声音で、ゲンドウは叫んでいた。

 

 

 

「父さん」

 

 

 シンジの声は変わらず涼やかだった。

 

 

「綾波は死なない」

 

 

 彼の父親の目を見る眼差しもまた、涼やかだった。

 

 

「綾波は負けないよ、父さん」

 

 

 その涼やかな眼差しに宿る、揺るぎない確信。

 

 

 

 

「綾波は強い子だ」

 

 

 

 

 初号機の首を絞め続け、その心臓を毟り取ろうとしている第13号機。

 違和感を抱いたかのように、2つの眼孔から漏れる4つの視線を初号機の顔へと集中させる。

 第13号機が抱いた違和感。

 それは初号機の顔と、第13号機の顔の間の距離。

 その距離が、20秒前よりも近いような気がしたのだ。

 頸部を絞られ、固定され、第13号機とは反対の方向へと仰け反っていた初号機の頭部。

 その頭部が、第13号機に近付いているような気がしたのだ。

 

 いや、「気がした」ではない。

 初号機の顔が、明らかに第13号機の顔に近付いている。

 第13号機の手によって絞り上げられていた初号機の首が、伸びている。

 縦に伸びるだけでなく、横にも膨張し始めた初号機の首。膨張する初号機の首の筋肉が、その首を締め上げていた第13号機の手を徐々に押し広げ始めた。

 首だけでなく、肩、胸、背中、上半身のありとあらゆる箇所の筋肉がメキメキと音を立てながら膨張する初号機。

 その膨張を利用して前へ前へと押し進む初号機の頭部。

 第13号機の顔の間近までにじり寄ると、初号機の口が開いた。

 涎の糸を引きながら開いた口の端から露わになる、異常に発達した犬歯。

 初号機は鋭い唸り声を上げ、首を震わせながら、第13号機の頸部へとその牙を突き立てた。

 異常に発達した4本の牙が第13号機の首へと食い込む。引き裂かれた皮膚と貫かれた肉の隙間から、真っ赤な血が間欠泉のように噴き出る。

 堪らず第13号機は凶悪な牙から逃れるべく上半身を激しく振り回す。暴れる第13号機の上半身に引き摺られて、その首に噛み付く初号機の体も右に左に大きく振り回されるが、そうしてるうちについに初号機の首や心臓を束縛していた第13号機の手が外れると、ついに自由を得た初号機は、13号機の首の半分の肉を齧り取った上で後方へ向けて跳躍。4本の「足」で、地面に降り立った。

 その様はあらゆる獲物を食い散らかす獰猛な肉食獣のよう。

 牙に13号機の肉片を突き刺し、口の端から13号機の首から啜った血を大量に滴らせながら、初号機は両前足を地面につき、身を低くして13号機と対峙する。首は明らかに縦と横に1.5倍以上は膨張しており、僧帽筋や三角筋やその他あらゆる筋肉が発達し、盛り上がった胸筋が胸に空いた穴をその中に収まるコアごと覆っていき、地面に付いた前足の指先からは鋭い爪が伸び、背中からは膨れ上がる背筋に押し出されるように次々と巨大なボルトが飛び出してゆく。体内で生成される異常な量のエネルギーは体内のみでは消費し切ることができず、大量の蒸気となって初号機の体のあちこちから噴出した。

 

 

「存在するはずのない…、初号機の裏コード…」

 その姿を目撃し、やや呆気に取られたような口調で呟くゲンドウ。

「14年掛けて書き加えたか…、レイ…」

 

 

 すでに人型と呼ぶのも疑わしい姿となり、地面の上を右に左にとゆっくりと這いながら「獲物」を見定める初号機。

 対して、異形の巨人、第13号機は、異形の所以たる4本の腕のうち2本を使って大きく引き裂かれた首の傷口を懸命に塞いでいる。

 その第13号機の頭部が光った。全身に漲るエネルギーを顔面に凝縮させようとするが、千切れかけの首からそのエネルギーが漏れ出てしまい、大量の血液と共に閃光が迸り、漏れ出た光の刃は見当違いの地面を抉り、破壊していく。

 それでもなお顔面にエネルギーを凝縮し続ける第13号機。練り上げられたエネルギーの塊は禍々しい光を放つ極小の太陽となり、その太陽が初号機に向けて耳を劈くような破裂音と纏いながら突進する。。

 迫りくる超高密度のエネルギー弾に対し、初号機は避けようともせずに、前足を折り、後ろ脚を伸ばして待ち構える。そして左右に極端に避けた口を大きく開くと、迫りくる極小の太陽をその口で正面から受け止めてしまった。膨大なエネルギーを孕んだ光球を受け止めた衝撃で初号機の前足と後ろ足が地面に4つの轍を描きながら後退するが、エネルギーの塊は初号機の喉を貫くには至らず、それどころか初号機は開いていた口を閉じ、鋭い牙でエネルギーの塊を噛み砕いてしまった。

 砕かれた光球の破片が方々に散り、地面を穿いて各所で盛大な爆発を起こす中、初号機は跳躍。

 空を一気に駆けると、13号機に向かって襲い掛かった。

 第13号機は飛び掛かってくる初号機を迎え撃つべく右腕を大きく振り翳し、そして握り締めた拳を前に突き出してたが、それは獰猛な猟犬と化した初号機にむざむざ腕を一本差し出してしまう行為となってしまった。突き出された拳が鼻っ面に激突する寸前に首をいなした初号機は寸でのところで拳を躱すと、伸び切った第13号機の腕に鋭い牙で齧り付く。噛み付いた瞬間に全身を鋭く回転させたため、第13号機の腕は巨大な撹拌機の中に突っ込んだように激しく捻じれ、絞られ、根本の肩からズタズタに引き裂かれてしまった。

 

 

 第13号機が右腕から大量の血を噴き出しながら倒れていく。

 その姿を黙って見つめている第13号機の使役者に対し、シンジは語り掛ける。

 

「僕は父さんと話がしたい」

 

 大きな地響きと共に舞い上がる土煙の中、第13号機の右腕を根元から食い千切った初号機は、休まず左腕にも噛み付いた。

 

「そして綾波も僕と父さんが話すことを願ってくれている」

 

 初号機が左腕に噛み付いた瞬間、第13号機の頭部が光り、激しく煌めく光球が初号機の左肩を襲った。初号機の左肩の装甲が弾け飛び、下の肉がこそげ落ち、骨もろとも吹き飛ばしてしまうが、それでも初号機は噛み付いた第13号機の左腕を離さない。

 

「だから父さん。綾波は負けないよ。絶対に。僕たちの願いが叶うまで」

 

 光球の直撃によって抉れた初号機の左肩から噴き出た血が、組み敷いた13号機の顔と大地とを真っ赤に染め上げる中、初号機はなおも齧り付いた13号機の腕を噛み砕き、捩じり切っていく。

 

「綾波は強い子だ」

 

 やがて限界にまで絞られた13号機の左腕からも血が噴き出るようになり、血の霧を作り出す。そして皮膚が裂け、筋肉が捩じり切られ、骨も粉々に砕け、ついに第13号機の左腕も胴体から離れた。

 13号機の口から、断末魔の叫び声。

 同時に初号機の口からも、相手を屈服させるための獰猛な咆哮が放たれた。

 

「それは、誰よりも父さんが一番知っていたことじゃないのかな」

 

 2体の巨人が織り成す悲鳴と雄叫びの大合唱に背を向け、ゲンドウは息子を見た。

 息子は直ぐ近くで繰り広げられている血塗られた惨劇には目もくれず、父親のことを見つめ続けている。

 

「それに父さん…」

 

 何かを言い掛けたシンジの言葉は、宙を舞っていた第13号機の巨大な左腕が彼らの近くに墜落したことで一旦遮られた。

 

 巨人の左腕が巻き上げた土煙が2人の絡み合った視線を遮る。

 

「父さんは知らないかもしれないけれど…」

 

 土煙が去り、息子と父親の視線が再び交差した時。

 

 シンジは言った。 

 

 

 

 

「アスカだって強い子だ」

 

 

 

 



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(62)Just The Way You Are

 

 

 

 

「あれがヴンダーか」

 小型ビデオカメラのモニター越しに見る巨大な艦影。

「でっかいなぁ~」

 小さなカメラの視野には収まり切らない超弩級飛行戦艦の威風に、相田ケンスケは感嘆の声を漏らしながら撮影を続けている。

 

 ヴィレ旗艦AAAヴンダー。乗員の家族の多くが住まう村の外れの上空に投錨した飛行戦艦は、決戦の前に最後の物資の搬入作業を進めていた。

 地上にはヴンダーの随伴艦たちが着底しており、その甲板に大量のコンテナを運び込んでいる。巨大なリフトによって次々と引き揚げられるコンテナ群。コンテナが甲板に移動させられると、空になったリフトにはコンテナに代わって大量の人々が乗せられ、地上へと降ろされていく。

「離艦希望者が下船している。いよいよ決戦か」

 地上を忙しく駆け回る中に、よく知る人物が一人。離艦者の受け入れを担当するケンスケの中学時代の同級生が、支援機関クレイディトの構成員に向かって次々と指示を出している。まったく。昨日は「第2の開村記念日」にかこつけて朝から晩まで村人たちと飲み明かしていたくせに、あの回復力は何処から来るのだろうかと感心してしまう。

 

 ヴィレ艦隊が寄港する広場から少し離れた高台より彼らの様子を撮影しているケンスケは、そんな同級生の姿も遠目に映像に収めながら、ビデオカメラをさらに横に振っていく。

 遠くの景色から、近くの景色へ。

 撮影対象との距離が縮まり、一瞬ピンボケするカメラ映像。

 そのピンボケしたモニターに映るのは、一人の少女。

 ケンスケの隣に立つ、パーカーのフードを被った緋色髪の少女が小さなモニターを占有する。

 

 地上の様子をぼんやりと眺めていた式波・アスカ・ラングレー。隣に立つ青年からカメラを向けられたことに気付き、一度目線をカメラのレンズに向けるが、すぐに地上へと戻す。

「あれ?」

 いつもと違う反応。

「今日は嫌がらないんだね?」

 普段ならカメラを向けられるとすぐに顔を隠してしまう彼女。

「うん。今日はいい…」

 らしくない細い声で呟きながら、アスカは彼女の前に張られた転落防止用の鉄柵を両手で握る。握った鉄柵を支えに、肘を曲げては伸ばし、曲げては伸ばしを繰り返し、体を前に後ろにとぶらぶらさせる。

 揺れる彼女の体をカメラで追おうとするケンスケ。彼女から撮影の許可が下りることなど滅多に無いのに、その彼の動きは鈍く、カメラの枠の中に彼女の姿はなかなか収まらない。

「式波…」

「ねえ、ケンケン」

 ようやく動きを止めた彼女。柵を掴んだまま腕を伸ばし、柵の根元を踏む足も伸ばし、体を「く」の字に曲げて、顔を俯かせて地面を見つめている。背中まで伸びる緋色の髪が垂れ下がり、彼女の横顔を覆った。

「なに? 式波…」

 彼はモニターから目を離し、肉眼で彼女の髪に隠れた横顔を見つめた。

「たぶん、あたしは生きては帰ってこれない…」

 彼女のその言葉を聴いた瞬間、彼の息が5秒だけ止まった。

 目を閉じた彼は、5秒掛けて、止めていた息を吐き出す。カメラを持っていない左手を、ぎゅっと握りしめる。

「うん…」

 微かに震えた声で返事をした。

「でもね」

 俯いていた彼女の顔が、少しだけ上がる。

「もし何かの間違いで…」

 緋色髪の隙間から覗く瞳。

「あたしが生きて帰ってこれたとしても…」

 彼を見つめる蒼い瞳が、微かに揺れている。

「多分、それはもう、あたしじゃない…」

「式波…」

「それでもさ。ケンケン…」

 「く」の字に曲げていた体をゆっくりと伸ばし。

「そんなあたしでもさ…」

 体を起こし。

「帰ってこれたらさ…」

 柵から手を離し。

「ケンケンはさ…」

 彼の顔を正面から見つめ。

「また「おかえり」って言ってくれる?」

 

 彼はカメラを下ろし、電源をオフにした。

 彼女が彼に対してしているのと同じように、彼女の顔を正面から見つめる。

 

「しき……」

 

 何かを答えようとして、一度止めて。

 

 返事を止めてしまった彼に、彼女の顔に不安が色濃く浮かぶ。

 

 彼はそんな彼女の不安をほぐすような、柔らかい笑みを浮かべながら言った。

 

 

「アスカはアスカだ」

 

 

 不安げな様子だった彼女。

 

「どんなに変わったとしても」

 

 そんな彼女の呼吸が、一瞬止まったのが側に居る彼にも分かった。

 

「いつだって。どこにいたって」

 

 噤まれた彼女の口に代わって広がるのは、宝石のような深い蒼を湛える瞳が収まる目。

 

「アスカはアスカだ」

 

 そんな彼女の瞳に向けて、彼は真摯に伝える。

 

「ありのままの君でいたらいい」

 

 

 彼女の瞳をまっすぐに見つめる彼の眼鏡越しの目。

 対してまん丸に見開かれた彼女の目は泳ぎまくっており、地べたを見ては彼の顔を見て、空を見ては彼の顔を見てと色々と忙しそう。頬から額までが真っ赤に染まり、噤まれていた口は重力に引かれて半開き。肩から指の先は石化の呪文でも掛けられたかのように、カチコチに固まってしまっている。

 しかし次第に忙しかった目は落ち着いていき、頬や額の照りも薄れていき、肩は大きく沈んでいく。

 伏し目になった彼女の顔を、彼は心配そうに覗き込んだ。

「アスカ…?」

「ごめん、ケンケン…!」

 彼女の名前を呼ぶ彼の声に重なるように、彼女の口から絞り出される大きな声。彼の視線から逃げるように、彼女は顔を人々が忙しく動き回っているヴィレ艦隊の停泊地へと向ける。彼もまた、これ以上自分の視線が彼女を追い詰める事がないように彼女から視線を外し、同じく艦隊の停泊地に顔を向けた。黙って、彼女が続きを話し始めるのを待つ。

 

 暫くして、彼女はぽつぽつと話し始めた。

「あの日の夜…」

「うん」

「あたしたちが4年振りに会った、あの夜」

「うん」

「あたしは4年振りに目覚めて。世の中はすっかり変わっちゃってて」

「うん」

「知らない間に、みんなは大きくなってて。あたしだけがみんなから取り残されてて」

「うん」

「シンジは…、あたしだけ助けてくれなくて…」

「うん」

「どうして傷付くのは、あたしばっかりなんだろう、って…」

「うん」

「どうしてあたしばっかり苦しまなくちゃいけないんだろう、って…」

「うん」

「そんな捨て鉢になってた時にさ…」

「うん」

「ちょうどいい具合にさ…」

「うん」

「あんたが近くにさ…」

「うん」

「居たからさ…」

「うん」

「あたしばっかり傷付くのはズルいって思ったからさ…」

「うん」

「あたしばっかり苦しまなくちゃいけないのはおかしい、って思ったからさ…」

「うん」

「誰でもいいからさ…」

「うん」

「傷付けてやりたい、って思ってさ…」

「うん」

 

「だから…!」

 彼女の手は再び鉄柵を握り締める。

「別にケンケンが知る必要はないのに…!」

 額を、鉄柵に押し付ける。

「あたしが黙っていれば、ケンケンの中のお父さんは英雄のままで居られたのに…!」

「アスカ…」

「何も知らずにお父さんの死をただ悲しんでいるケンケンの姿が…、なんだかあたし…、許せなくて…!」

「アスカ!」

 相手の心情の吐露をひたすら受け止め続けてきたケンスケの声が、初めてアスカの声を遮った。

 その怒鳴り声にアスカは肩を震わせ、そして鉄柵に押し付けていた額を離し、ゆっくりと体を起こして隣に立つ青年を見上げる。

 

 ケンスケの顔は、いつもと変わらない、2人の頭上で輝いているお日様のような、穏やかな笑顔。

 いや、少しだけ緊張してるのか、笑顔の端っこで右頬が少しだけ引き攣っている。

 

「アスカ。俺はさ」

 生唾を一つ飲み込んで、彼は話し始めた。

「一つだけ、決めてることがあるんだ。こんな、明日のことも分からないような世界でも、これだけは絶対にやり抜こうって」

 アスカは端っこに微かな涙を滲ませた目で、「何を?」と問う。

「生きる、ことだよ」

 そのケンスケの回答に、アスカはきょとんとした様子で目を瞬かせる。

「生きて生きて、生き抜いて。よぼよぼの爺さんになって、周りから「さっさとお迎えがきたらいいのに」なんて疎まれても、この世界にしがみ付いて、寿命が尽きるまで生き続けて」

 話しているうちに熱気が帯びてきたのか、赤くなっていくケンスケの顔。

「それで、あの世に行ったら親父に会って言うんだ。どうだ。俺は生き抜いてやったぞ、って。親父が“地獄”と呼んで生きる価値がないと否定したこの世界を、最後まで楽しみ抜いてやったぞって」

 体が温まって、緊張もほぐれたらしい。

「ありがとう、アスカ」

 端っこにあった緊張も解け、顔全体に柔和な笑みを浮かべながら、彼女を見つめる。

「あの時、俺の命を救ってくれて」

 一寸の濁りもない、本心からの感謝の言葉を、彼女に捧げる。

 

 ストレートな気持ちをぶつけられることに慣れていない彼女の目は再び泳ぎ始め、そして彼女の顔もまた彼と同じように赤く染まっていく。

 そんな彼女の両肩を、彼の両手がいきなりむんずと掴んだものだから、彼女は「ひっ」と短い悲鳴を上げてしまい、全身を硬直させてしまった。

 

 ケンスケは顔を真っ赤にさせながら言う。

 

「アスカ! 俺はこの世界が大好きだ!」

 

 相手に唾が飛ぶのもお構いなしに。

 

「みんなが生きてるこの世界が…、アスカが生きてるこの世界が大好きなんだ!」

 

 そんなケンスケの剣幕に、ただただ圧倒されるばかりのアスカ。

 

「だから…」

 

 続きを言おうとして、しかしケンスケは咄嗟に出かけていた次の言葉を飲み込む。

 今、彼の右手が掴んでいる彼女の左肩。彼の左手が掴んでいる彼女の右肩。

 14年前と変わらない、少女の姿で立つ目の前の女性。

 とてつもなく、細い肩。

 このまま力を込めて握ってしまえば、砕けてしまいそうな肩。

 過酷な運命を背負わされるには、あまりにも脆い肩。

 

 それでも。

 やっぱりこの場で言葉を濁してはいけないと思ったから、ケンスケは飲み込み掛けていた言葉を言い放った。

 

「がんばれアスカ!」

 

 これは彼女にとっての新たな呪詛になってしまうかもしれないけれど。

 彼女の後ろにあったかもしれない退路を断ってしまうことになるかもしれないけれど。

 

「負けるなアスカ!」

 

 すでに彼女の中で固まっている覚悟。その身を捨てでも課せられた任務をやり遂げると誓う彼女の覚悟を、せめて後押ししてやりたいから。

 

「この世界を守れるのは、君しかいない!」

 

 

 どこからか飛んできたテントウムシが、ケンスケの頭のてっぺんに止まる。

 ケンスケの頭で羽根を休めたテントウムシは、再び鞘翅を広げ、青い空へと飛び立っていく。

 

 

 暫くの間ぽかんとした顔でケンスケの顔を見つめていたアスカ。

 あんぐりと開いていた口の端が、小さく上がる。

「ふふっ」

 その口から短い笑い声が漏れ。

「あ~も~」

 照れ隠し丸出しの悪態を付きながら。

「ケンケンといい「そっくりさん」といい。結局この世界はこのアスカさまにおんぶにだっこか」

 緋色髪をわしゃわしゃと引っ掻きながら。

「しっかたないな~」

 一度視線を地面から空へとぐるりと巡らして。

「分かったわよ」

 迷いのない、力の漲った目でケンスケを見た。

「この世界もあんたたちの命も。このアスカさまがまとめて背負ってあげようじゃないの」

 そう宣言した彼女は、白い歯を見せて笑う。

 

「アスカ…」

 ケンスケはこれから死地に赴く彼女の笑顔を、眩しそうに見つめていた。そんなケンスケに、アスカは桃色に染めた頬で言う。

「そんじゃさ、ケンケン」

「え?」

「ご褒美、ちょうだいよ」

「え? ご、ごほうび?」

「そっ。生きて帰れるかどうか分かんないだからさ。この世界を救ってくるあたしに、ご褒美の前渡し」

「うん…。俺に用意できるものなら…」

「あの歌」

「うた?」

「あの歌。聴かせてよ」

「え?」

「あのラジオで流した歌」

「え? あ、あれ、聴いてたの?」

「あんな薄い壁じゃあケンケンの声だだ洩れなんですけど」

「マジか…」

「ケンケンの声は聴こえたけど歌までは聴こえなかからさ。今、ここで聴かせてよ」

「あ~、でも」

「何よ。もったいぶらないでよ」

「いや、実は、あの音源が入った音楽プレイヤー、あの子に。「そっくりさん」に返しちゃったからさ…」

「ふーん」

「ごめん…、アスカ」

「じゃあさ」

「うん。他のだったら。俺にできることだったら何でもしてやるよ」

「じゃあケンケンが歌ってよ」

「え゛ッ?」

「今ここで、ケンケンが歌ってみせてよ」

「ちょ、そ、それは」

「何でもするってゆったじゃん」

「いや、で、でもさ~」

「そもそもあれはあんたがあたしに贈った歌なんでしょ? あたしに届いてなきゃ意味ないじゃん」

「そりゃそうだけどさぁ…」

「ほらほら~、早く~」

「え、ええ~~」

「あ~あ。後で後悔しないかな~。あたしがこの戦いで死んじゃって。あの時恥ずかしがらずに歌を聴かせておけばよかったって」

「その言い方はずるいんじゃないかな…」

「あたしはこれから死ぬかもしんないのよ? そりゃズルくもなりますって」

「…それじゃあ、約束しろよ」

「何を?」

「必ず、もう一度。君に向けて「おかえり」って、俺に言わせてくれるって」

「ええ。約束するわ」

「本当に?」

「信用ないな~。あたしが約束を破るように見える?」

「アスカと約束するのはこれが始めてだからさ」

「仕方ないな~。ほんじゃ」

 アスカからケンスケに向けて差し出されたのは右手の小指。

「うん」

 ケンスケもアスカに向けて左手の小指を差し伸べる。

 2人の間で絡み合う小指と小指。

「指切った」

 その言葉に合わせて、アスカは絡み合った2人の小指を縦に振る。

 

 普通ならば、このおまじないはその言葉通り、そこで2人の小指は離れるはず。

 しかしアスカは小指を鉤状に折り曲げ、ケンスケの小指を離さない。小指をぐいぐいと引っ張られ、固められてしまったケンスケが怪訝そうに指切りの相手を見ると、そこにあるのはにんまり意地悪く笑うアスカの顔。

 つまり、こうだろう。

 あんたが歌うまで、この小指は離さないと。

 ケンスケは観念するしかなかった。

 

 鼻孔を大きく広げて新鮮な空気を肺の中に取り込み、口を窄ませて、肺の中の空気を外へと吐き出す。

「サビしか歌えないけど」

「いいよ、それで」

「英語の歌詞だけど、発音はめちゃくちゃだよ」

「いいよ。あたしも英語はあんまし得意じゃないし」

「そもそも俺、歌はめっちゃ下手…」

「いいから早く!」

「はい!」

 小指を四の字固めにするアスカに、ケンスケは悲鳴のような返事をしながら、姿勢を正した。

 

 

 そして、彼は顔を真っ赤にしながら歌い出す。

 初っ端からいきなり裏返ってしまうケンスケの声。雉の鳴き声のような、何とも情けないケンスケの歌声。鼻から下半分は真っ赤にさせ、鼻から上半分は青くなっているケンスケの顔。

 そんな情けない歌声と情けない顔を目の前で披露されたアスカは、吹き出しそうになる口を懸命に噤む。

 そんな今にも笑ってしまいそうなアスカの顔に、ケンスケはむっとしたような顔。不機嫌さをアピールするように眉根を寄せつつ、そしてそんなアスカの顔を見ないようにしつつ、それでも健気に歌い続ける。

 

 その歌のサビは同じ旋律を2度繰り返す。

 ケンスケがまだ学生服を着ていた頃の、海の向こうの国の男性歌手が歌っていた歌。自分を卑下する女性を男性がひたすら甘い言葉で褒め捲る歌。節の最後は、必ずある一言で閉められる歌。

30間近の平凡な声域の持ち主であるケンスケには少々キツめのハイトーン。それでも目の前の彼女がねだるから。これから死地に赴く彼女がせがむから。

 多少の恥なんてこの際頭の隅っこに追いやるしかなく、背けていた視線を彼女に向けて、ケンスケは懸命に歌い続けた。

 

 

 時間にすれば30秒にも満たない。

 それでもケンスケにとっては永遠のように感じられたサビの時間が、ようやく終わる。

 大した運動をしたわけでも激しくカロリーを消費したわけでもないのに、肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返す。

 そんなケンスケの前に立っているアスカはと言うと、今にも吹き出しそうだった口はぽてっと半開き。どこか呆けた顔でケンスケの顔を見上げている。

 どうせ笑い出したり揶揄ったりするのだろうと半分覚悟していたケンスケは、そんなアスカの態度に戸惑い気味。恥ずかしさを懸命にねじ伏せて歌ったのに、何かしらの反応を見せてくれないと、無理に抑えていた恥ずかしさが込み上げてきてこの体が爆発してしまいそうだ。

 

「え、えと…」

 我慢できず、声を掛けてみたら。

 

「もう一回…」

 かすれ気味のアスカの声が重なる。

 

「え?」

「もう一回…、歌ってよ…」

「え?え~?」

「早く…」

「え? ちょ…、えっと」

 アスカの顔は意地悪く笑っていない。

 至って真面目なアンコール。

 

 

 ケンスケは今日何度目かの覚悟を決める。

 そしてアスカの小指によって絡め取られている自身の左手の小指を強引に動かし、解くと、そのままアスカの右手をそっと握った。

「え?」

 そんなケンスケの意外な行動に、今度はアスカが戸惑う番となる。

 アスカがあたふたしている間に、ケンスケの右手はアスカの左手も握ってしまった。そのまま、両手を肩の位置にまで上げてしまう。

 お互い半歩もない距離で、両手を握り合って対峙している。

 状況が飲み込めてない様子のアスカに、ケンスケは相変わらず恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら言った。

 

「じゃあさ」

 

「え?」

 

「俺と踊ってよ」

 

「え? え~?」

 

 ケンスケの突拍子もない誘いに、今度はアスカが素っ頓狂な悲鳴を上げてしまう番だった。

「ちょ、ちょっとケンケン! 何言い出すのよ!」

 とアスカが抗議の声を上げる間もなく、歌い始めてしまったケンスケ。

 歌の拍子に合わせて、彼は右へとステップを踏む。

 彼の動きに引き摺られて、彼女の足も左へとステップを踏む。

 歌に合わせて彼が左へステップを踏めば、彼女の足も右へとステップを踏んで。

 

 お互い誰かとダンスをするなんて初めてのこと。ぎこちない足取りで踏まれるステップは、時に相手の爪先を踏んでしまい、時に互いに別々の方向に進んでしまい。

 「えっと、えっと」と声に漏らしつつ足もとを見ながら、相手の足を踏まないよう必死にステップを踏んでいた彼女。4回5回と刻んでいくうちに、少しずつ慣れてきて、相手の足に合わせることができるようになって。

 

 ふと顔を上げてみれば、そこには相変わらず頬を真っ赤に染めながらも、必死に歌い続けている彼の顔。

 

 その顔がやっぱり可笑しくて。

 

 それでいて、彼の歌と体の動きに合わせて刻むステップがとても心地よくて。

 

 自然と笑みが綻ぶ彼女の顔。

 

 そんな彼女の顔を見つめながら、ケンスケは思う。

 

 

 

 ああ、やっぱりこの歌の歌詞の通りだ。

 

 君の顔には笑顔が一番似合ってる。

 

 君が一度笑顔を見せれば、世界中の時が止まり、世界中の人々が足を止めて振り返ることだろう。

 

 君は何も変わらなくていい。

 

 アスカはアスカ。それで十分じゃないか。

 

 だって君はとっても素晴らしいんだから。

 

 

 ありのままの君でいて(Just the way you are)

 

 

 

 

 

 

 

 

 作業に勤しむ夫に、我が子を抱いた鈴原ヒカリは家から持ってきたお弁当とお茶が入った包みを渡す。

 ふと、遠くに視線をやった。

 その視線の先にある光景に、あまりの「突然の別れ」に一晩中泣いて腫れてしまったヒカリの目がまん丸に開き、ぱちぱちと瞬きをしている。

 

 シャツの袖をくいくいと引っ張られ、鈴原トウジは隣に立つ妻の横顔を見る。

 妻の目は、遠くを見つめている。

 その視線を追ってみると、そこには村の外れにある高台。

 その高台に立つ、2つの人影。

 

 妻と同様に「突然の別れ」に消沈していたトウジの顔に笑顔が広がった。

「ははっ。なんやあいつら」

 そう呆れたように呟きつつ、口の周りに両手を添えて、そして高台の2人に向けて声を張り上げる。

「お前ら! 公衆の面前で何乳繰り合っとんのや!」

 トウジのその大声に周囲に居た作業員全員が手を止め、トウジが見ている方を向いた。

「朝からお盛んやのお!」

 更なるトウジの追い打ちに、周囲のそこかしこから笑い声が湧き出す。

 

 トウジの冷やかしに高台の2人は一瞬硬直し、そして慌てて繋いでいた手を離して距離を取った。

 2人の片割れが鉄柵から身を乗り出し、緋色の髪を乱しながら拳を振り上げてわーわー喚いている。金切り声がトウジの居るところまで届くが、何を言ってるかまでは分からない。おそらくトウジに対して抗議しているのだろう。

 中学生時代の友人の慌てふためきように、トウジの妻は口許を押さえながら笑いつつ、そして夫と同じように口の周りに両手を添えて声を張り上げた。

「アスカー! 頑張れぇーー!」

 彼女なりの精一杯のエールを送りながら、友人に向かって手を振る。

 すると高台の友人は胸を張ると、左右に伸ばした腕を折り曲げ、その細い腕に力こぶを作ってみせた。そしてまた何やら喚ているが、今度も何を言ってるかまでは分からない。おそらく、「任せなさい」とでも言っているのだろう。そんな友人の様子に、ヒカリはくすくすと笑い、そしてもう一度手を振ると、友人は両手を空に掲げて大きく手を振り返してくれた。

 

 鈴原夫妻の後ろを一台のトレーラーが横切った。トレーラーはその場で停車し、運転席から「Wille」のロゴが入ったキャップを被った作業員が顔を出す。

「式波少佐ーー!」

 高台の人影に向かって叫ぶ。

「これ! 本当にヴンダーに積んじゃうんですかああ!?」

 作業員は荷台の積荷を指差す。

 高台の人影は、顔を上下に大きく振って、遠くからでも分かるように頷いてみせた。

「ちゃんと検疫は通してるんでしょうね~!? 艦長の許可は得てるんですかあ~!?」

 高台の人影は、両腕を天に向け、そして頭の上に大きな輪っかを作ってみせる。

「ほんとかな~?」

 

「なんやねん、これ」

 トレーラーの側に立つトウジは作業員に声を掛ける。

「あん? あっ、あなたは!」

 トウジの顔を見た作業員は慌てて運転席から降りてきた。

「サクラさんのお兄さまじゃないですか!」

「誰がお兄さまや誰が! けったくそわるい」

 不穏な熱量が籠った目で握手を求めてくる作業員から距離を取りつつ、トウジは再度訊ねる。

「これ、なんやねん」

「ああ、これですか」

 作業員は荷台の積荷を見上げた。

「パリ・カチコミ作戦でエヴァのパーツと一緒にわざわざ持ち帰ってきたものらしいんですがね。何でも式波少佐のたっての希望とかで」

「中身は?」

「さあ。それが誰も知らないんですよ」

 

 荷台に積載された積荷。

 横積みされた、タンク型コンテナ。

 側面には「EURO NERV」のロゴ。

 そのロゴの下には小さな文字で「CODE:02」と刻印されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 円筒状の閉鎖空間。

 魂の座。

 エヴァンゲリオンのコクピットである、エントリープラグ。

 

 そのパイロット座席に、2人の少女が横たわっている。

 

 2人とも背中まで伸びる緋色の髪。

 2人とも蒼い瞳。

 顔の造形から背丈まで、全てが同じの2人の少女が、絡み合うようにコクピットの操縦席に横たわっている。

 もっとも一方の少女は全身が弛緩したように腕も脚も力なく伸び切っており、もう一方の少女が腕を弛緩している少女の胸と背中に、脚を弛緩している少女の脚に回し、一方的に絡み付いているのだが。

 相手に一方的に絡み付いている方の少女は、一方的に絡み付かれている少女の顔を薄い笑みを浮かべながら覗き込んでいる。

 

「バカみたい…、まだ抵抗してる…」

 

 そう揶揄された少女。

 首から下と同様に、顔も頬が垂れ、唇が垂れ、目尻が垂れ、顔のあらゆる筋肉が弛緩している少女。

 垂れた瞼で潰れ掛けた目に微かに覗く瞳。瞳孔が散大した青色の瞳は、虚ろな視線を天井に向けて注いでいるだけ。

 

 その姿はあたかも宿主に寄生し、その養分を吸い尽くす寄生植物のよう。自分とうり二つの少女に絡まれた少女にはもはや生命力など感じられないが、それでもなお、絡み付く側の少女は相手が完全に自分の支配下に収まったとは感じていない。

 

「あなたもさっさと、神の愛に身を委ねればいいのに…」

 

 相手に囁き掛けながら、弛緩した頬を指でなぞる。

 

 触れた頬に反応があった。

 頬が、微かに動いている。

 見れば、絡み付いた相手のだらりと垂れた上唇と下唇が、小さく開閉していた。

 何かしら言葉を発しているらしい。

 発しているらいしのだが、その内容までは聴き取れない。

 少女は相手の声を拾うべく、相手の口に耳を近付けてみた。

 

「い…や…ぁ…、まい…、った…、な…ぁ…」

 鼻から漏れる吐息の音に混じって、微かに聴こえる掠れた声。

 

「す…べ…て…が…、し…く…ま…れ…て…た…、ん…だ…」

 途切れ途切れの声。発する音、その一つ一つに、体中のありったけの呪詛を詰め込んだような声。

 

「あた…し…たち…が…、や…って…きた…こと…。ち…へど…を…、はき…な…がら…、じべた…、はいずり…、まわり…ながら…、やって…き…た…こと…。ぜ…ん…ぶ…、あの…、バ…カ…おや…じ…の…、て…の…ひら…の…、う…え…、だった…、ん…だ…」

 その言葉を聴いて、少女は口許に歪な笑みを浮かべる。

 絡み付いた相手が歩んできた、闘争に塗れた半生を嘲るような笑みを。

 

「お…ま…け…に…、あ…た…し…ん…、な…か…の…、使…徒…、ま…で…、り…よう…、する…なん…て…」

 絡み付いた相手の垂れた瞼が、完全に閉じた。 

 

「こ…りゃ…、い…ぽっ…ん…、とら…れ…た…、な…ぁ…~」

 そして再び開いた瞼の向こうから現れた瞳は、弱々しくエントリープラグの天井を見上げている。

 

 

 それを相手の「敗北宣言」と捉えた少女。

 口許に手を当てて、くすくすと声に出して笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんてゆーとでも思ったかあああ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その怒鳴り声が一体何処の誰から発せられたものなのか。

 少女はすぐには理解できなかった。

 

 目の前の少女。

 髪の色から瞳の色。顔の造形から背丈まで何もかも一緒の目の前の少女。

 体中の筋肉を弛緩させ、顔からも生気が失せていたはずの少女が、いつの間にか顔をこちらに向けていた。

 

 歯を力強く食いしばり。

 

 その蒼い瞳を爛々と輝かせて。

 

 

 

 先ほどの怒鳴り声が、この目の前にいる少女から発せられたものと気付いた時。

 

 

 

 背後から誰かに肩を、とんとんと叩かれた。

 

 

 肩を叩かれた少女は、背後を振り返った。

 

 

 振り返った先に少女が見たもの。

 

 

 

 背中まで伸びた緋色の髪。

 蒼玉のような瞳。

 自分と顔の造形から背丈まで何もかもが一緒の少女。

 

 

 その少女が、握った右拳を大きく振りかぶっている。

 

 

 

 



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(63)WILL

  

 

 

 

 超大型飛行戦艦の一角。決戦を前に大量の武器弾薬が敷き詰められた薄暗い格納庫。その格納庫の隅っこにまるで周囲から隠れるようにひっそりと鎮座する、白のタンク型コンテナ。側面には「EURO NERV」のロゴ。ロゴの下に刻印された、「CODE:02」の文字。

 大きなコンテナの前に立つ式波・アスカ・ラングレーは、コンテナの側面に設置された梯子を上ると、コンテナの中央にある覗き窓に顔を近付けた。

 分厚いガラス越しに見える「中身」を、忌々しそうに見つめる。

「ふん…。このあたしに”バックアップ”なんて必要ないのに…」

 そう呟いたアスカの眉間に寄っていた縦皺。

「…なんつって」

 それが、短い吐息と共に少しだけ薄まった。

「そんな風に考えていた時期が、あたしにもありました」

 厳しい表情で「中身」を見つめていた彼女の顔に、ぎこちない微笑みが宿る。

「なんてったって…。あたしは世界を救うっつー大役を任されちゃったんだから」

 覗き窓から顔を離し、コンテナの天井まで続く梯子をさらに上っていく。

「2度目よね…。このあたしが、自分だけのためじゃない…。誰かの為に、エヴァに乗ろうって思うなんて…」

 そう呟いた彼女の梯子を上る手足が止まった。

 「1度目」の時を。そして、その時に至った結末を思い出し、彼女の細い肩が微かに震えた。その結末の象徴である、眼帯に覆われた左目を撫でる。

 コンテナの天井に立った。

「でも…」

 ハッチのハンドルを回す。

「ミスは許されないのよ…。アスカ…」

 開いたハッチの下には、彼女には馴染み深い半透明のオレンジ色の液体が満たされていた。

 オレンジ色の液体の中に揺蕩うのは、彼女の髪と同じ、緋色の髪。

 その髪を暫く見下ろしていたアスカは、両手を自身の後頭部へと翳す。背中まで伸びる緋色の髪の中に隠れていた結び目を解いた。

 彼女の顔から、その顔の4分の1を覆い隠していたもの。眼帯が、ゆっくりと離れる。

 外れた眼帯の下から現れたもの。

 紫色の肌。腐った骸のような肌の中に収まる、マグマのように燃え滾る真紅の瞳。

 

 眼帯を外した瞬間、頭の中を駆け巡った脳味噌を撹拌機で掻き混ぜられたような激痛を、歯を噛み締めて耐える。

「ただでさえ使徒を宿したこの体。さらにもう一個異物を入れるなんて嫌で嫌で仕方ないんだけどさ…」

 呼気を通じて体内の激痛を外に追い出すかのように、窄ませた口でゆっくりと息を吐く。

「なりふりなんて、もう構ってられない…。必要ならば、なんだって利用してやるんだ…」

 その場に腰を下ろし、ハッチの中に右足を入れ、次に左足を入れ。

「使徒も…」

 彼女の2本の足が、オレンジ色の液体の中に沈んだ。

「あたしの姉妹たちも…」

 両手を床に付き、腰を浮かせると、その身を一気にハッチの中へと滑り込ませた。

 

 半透明の液体の中に揺蕩う人影。

 オレンジ色の液体の中に、緋色の髪を広げて漂っている少女。

 両目を閉じ、深い深い眠りに付いている少女に、同じ緋色の髪の少女がゆっくりと近付いていく。

「もしあたしの身に何かあったら…、その時は頼むわよ…」

 両腕を広げ、長く深い眠りに付いている少女の体を抱き締める。

「”ツヴァイ”…」

 紅く燃え滾る瞳の奥から、青白い光が漏れ始めた。

 その光はやがて大きな翼のように広がり、2人の少女を柔らかく包み込んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 円筒状の閉鎖空間。

 

 魂の座。

 

 エヴァンゲリオンのコクピットである、エントリープラグ。

 

 その操縦席に、2人の少女が横たわっている。

 

 その2人に背後からそーっと近付いた「彼女」は、こちらに背を向けてもう一人の少女に向けてくすくすと歪んだ笑い声を立てている少女の肩を、とんとんと叩いた。

 

 その少女は肩を叩かれるままに、無防備にこちらへと振り返る。

 

 肩を叩くと同時に、大きく振りかぶっていた右拳。

 その握り締めた右拳を、「彼女」は振り返った少女の顔面に向かって一気に突き出してやった。

 その拳は見事に標的の左頬に命中。

 パコン!と小気味いい音と共に、殴られた少女の体は勢いよく吹き飛んだ。

 

 

 

 自分の体に絡みついていた少女が、殴られた拍子に座席の後ろまで吹っ飛んでしまった。

 体が解放された少女。寄生植物に養分の大半を吸い取られたかのように弛緩していた少女の全身に、血の気が戻り、筋肉に張りが漲り、みるみると生気が蘇っていく。瞬く間に復活した少女は、上半身を起こし、今しがた寄生していた少女を殴ったばかりの自分と姿形がそっくりな少女に向かって怒鳴った。

 

「遅い!" ツヴァイ"!」

 

 ツヴァイと呼ばれた少女は、人の顔をグーで殴って赤くなってしまった右手をひらひらさせながら、負けじと怒鳴り返す。

「うっさい! "アインス"! 「同化」から解けたばっかしですぐに動けるかっつーの! それにDSSチョーカー起爆させるなんてこっちは聴いてない! 危うく爆発に巻き込まれるところだったじゃんか!」

「「分離」させたあんたをこっち側に引き込むためのカモフラージュにあの爆発が必要だったのよ! あたしの「バックアップ」なんだからそんくらい分かれ!」

 相手の「バックアップ」という言葉に、ツヴァイと呼ばれた少女の顔が引き攣った。

「ホントーだったらあんたが使徒に食われちゃった時点であたしが繰り上がるはずだったのにぃ!」

 地団駄を踏むツヴァイと呼ばれた少女に、アインスと呼ばれた少女は得意気な顔で言う。

「お生憎様! アスカさまの座をそう簡単に渡してなるものですか! あんたこそ、パリの地下でコア化の波に飲まれてそのまま化石化するはずだったところを助けてやったんだから! 最後まであたしの役に立て!」

 

 全く同じ顔の少女が向かい合いながら怒鳴り合い、いがみ合っているという奇妙な光景。その奇妙な光景の中に、さらにもう一人、全く同じ顔の少女が入ってくるものだから、それは奇妙という範疇を超えて珍妙と呼ぶしかない。

「あたしの複製体どもが調子に乗って…!」

 殴られた左頬を大きく腫らした少女が座席の後ろから身を乗り出して、2人の少女を睨み付けていた。

 そんな相手を、アインスと呼ばれた少女は鼻で笑う。

「そっちこそ。あんな見え見えの罠であたしを嵌めようなんて、ちょっと調子良すぎなんじゃないの」

「なに!?」

 左頬を腫らした少女の顔が歪んだ。

「歩くインパクトトリガー同然のあたしが、何の備えもなしに第13号機に近付くかっつーの。それに13番目の使徒がフォースのトリガーとして消費された以上、最後のインパクトの贄に使える使徒なんて、もうあたしん中のバルディエルちゃんくらいなもんじゃない」

「黙れ!!」

 その少女の怒号が広げる音の波紋に、エントリープラグを満たす液体が大きく振動する。

「あんたたち複製体は「この日」のために用意された贄でしかない! 大人しく、自分の運命に従いなさい!」

 額に青筋を浮かべて怒声を叩き付けてくるその少女に対し、アインスと呼ばれた少女は再び鼻で笑うことになる。

「残念! あたしはヴィレ所属のエヴァンゲリオンパイロット、式波・アスカ・ラングレー様よ!」

 胸の前で腕を組み、座席の上に仁王立ちしながら自己紹介する少女。

「ヴィレ、即ち「意志」とは神が用意した宿命に抗うあたしたちの決意そのもの!」

 組んだ腕を解き、こちらを睨み付けてくる少女の顔に向けて人差し指を突き立ててやる。

「今、ここであんたと共にそのくだらない運命とやらも打ち砕いてやる!」

「ほざくな!」

 

 激昂した少女は座席を飛び越えてて、アインスと呼ばれた少女に襲い掛かってきた。

「ツヴァイ! あんたも手伝いなさい!」

「あーもう! 科学の粋を集めて生み出されたあたしたちが、最後はただの殴り合いかよ!」

「昔どこかの偉い学者さんたちが言ってたわ! フォースインパクトの後の人間は石と棍棒で戦い合うことになるってね! 喜びなさい! あたしたちは時代の最先端よ!」

「だったらせめて石と棍棒寄越せっつーの!」

「複製体どもがぴーちくぱーちく五月蠅いのよ!」

「五月蠅いのはあんたよ!」

「”あんた”って、どっちの”あんた”よ!」

「あいたっ!?」

「こんにゃろこんにゃろ!」

「そっちいった! 捕まえて!」

「どりゃあああ!」

「ぐはっ!?」

「ほいさあああ!」

「ぐへっ、ちょ、ちょっと! あんたが殴ってんの違う! それあたし!」

「”あたし”って、どっちの”あたし”よ!」

「あたしはあたしよ!」

「だから”あたし”って、どのあたしよ!」

「こんのうすらトンカチどもがあ!」

「痛っ!? こ、こいつよ! こいつが”ヌル”!」

「こんにゃろめ! ちょいさあああ!」

「いったぁ! だからそれあたしだってぇ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 激しい地響きと猛烈な土煙を巻き上げて揉み合う2体の巨人。うち一体は2本足で立つ人型から四つ足で這う獣と化け、もう一体の巨人を地面に組み敷いて、相手の4本ある腕のうちの2本を瞬く間に食い千切ってしまった。

 四つ足の獣に組み敷かれた巨人。エヴァンゲリオン第13号機の使役者である碇ゲンドウは、彼の機体が獣に蹂躙される様を遠くから十字状に裂かれた目で傍観している。四つ足の獣、エヴァンゲリオン初号機がリミッターを解除し、機体性能を大幅にブーストさせたとは言え、第13号機はエヴァシリーズの最終にして究極形態。初号機が人の姿を捨てようと、神にも等しい。あるいはその神をも超えようとする意志を宿した存在である第13号機の前には、到底敵わないはず。

 第13号機とのリンクに僅かな歪みと淀みを感じたゲンドウは、そのリンクを辿って機体の中の確認を始めた。そして彼は複座型のエントリープラグの片方で繰り広げられている珍事を察知することになる。

 

「小細工を弄したか…」

 

 そう呟くゲンドウは、短い溜息を漏らした。

 

 2本の腕を食い千切られてしまった第13号機は、残った2本の腕を使って激しく抗う。残った右手で初号機の甲冑の額から伸びる一本角を掴み、左手で初号機の下顎を突き上げ、凶悪な牙が伸びる初号機の口がこれ以上第13号機の機体を貪らないように強引に封鎖した。

 さらに顎の下に設けれている噴気孔から冷却用の窒素ガスを噴出させて、初号機の獰猛な牙によって引き裂かれ、大量出血を起こしていた首の大きな傷口を凍らせ、無理やり塞ぐと、顔面に強烈な光を瞬かせる。そして固定した初号機の顔面に向かって、幾つもの高密度エネルギー体の光球を叩きつけた。

 それらは全て初号機が瞬時に張り巡らせた、これまでとは比べ物にならないほどの強力なATフィールドによって阻まれるが、至近で瞬く強烈な閃光が初号機の視覚を襲う。

 ほんの一瞬だけ初号機が怯み、ATフィールドが弱まった瞬間を狙って振り上げられた第13号機の左拳が、初号機の顎に炸裂する。顎が割れ、粉々に砕けた下顎の歯がばらばらと音を立てて地面に落下していく。殴られた初号機の体が大きく仰け反る。無防備になった体を狙って、さらに第13号機の顔面から一筋の光線が飛び出し、初号機の胸を貫いた。

 

 

 初号機の背中から勢いよく噴き出る大量の血飛沫は、まるで大空をはためくための翼のように見えた。

 第13号機による初号機への反撃を目視したゲンドウ。

「だが所詮まがいものだ」

 初号機の胸に風穴を開けた第13号機を見つめながら、低く平坦な声でそう呟いた。

「ただの複製体が徒党を組もうと、オリジナルには勝てん」

 そして十字状に裂かれた目から注がれる視線を、胸と背中から夥しい量の出血を来し、断末魔の叫びを上げる初号機に向ける。

「レイに…、ユイの代わりが務まらんようにな…」

 その声に乗せられたのは一抹の寂しさ。

 彼の視線の先では、初号機の体が大きく仰け反り、背中から地面に倒れようとしている。

 ゲンドウは初号機が倒れる瞬間を見る前に振り返り、視線を息子の方へと向けた。

 

 その瞬間、ゲンドウの視界全てを、一つの拳が占拠する。

 

 

 

 父親から数メートル離れた位置に立っていた碇シンジ。すぐ側で2人の巨人が終末戦争を繰り広げている最中、その場から一歩も動くことのなかった碇シンジ。

 彼の右足が、地面を蹴った。

 その華奢な体が宙に放物線を描きながら大きく浮く。そして左足で地面に着地。さらにその左足で、地面を思い切り押す。

 続いて右足が地面に付いたら、さらにその右足で大地を蹴って。

 

 父親との数メートルの距離。その距離を僅か3歩で詰め寄った彼は、振りかざした右拳に走ってきた勢いと全体重を乗せて、彼の父親の顔面に向けて叩き込んだ。

 相手の鼻骨が潰れる感触を4本の中手骨と基節骨で感じつつ、シンジは突き出した拳を一気に振り抜く。

 駆け込み様に殴られた彼の父親の上半身が大きく捩じれ、体全体が半回転し、そのまま地面に叩き付けられた。

 

 

 

 気が付けば、目の前で仁王立ちしている息子を地べたから見上げている自分が居た。

 そのまま息子を見上げながら3秒を過ごして、ようやく彼は自分が息子によって駆け込み様に全力で殴られたことに気付く。

 

 

 

 地面に尻餅を付いたままこちらを見上げているゲンドウに対し、シンジは5秒前に父親を殴ったばかりの拳を握り締めながら言った。

「綾波は誰の代替品でもない。綾波は綾波だ。母さんじゃない」

 肚の底から絞り出すようにその言葉を震える声で吐いたシンジ。

「僕は父さんと話をしに来た。綾波も僕が父さんと話をすることを願ってくれている」

 赤く腫れた右拳を一度緩める。

「でも、また父さんが綾波を貶めるようなことを言うのなら…」

 そして虚構の世界に立って以来、彼が初めて見せた激情を全て宿らせるかのように、改めて右拳を握り締め、父親に向かって突き出した。

「僕はこの拳で応じることにするよ。殴り合いは拳による語らいとも言うしね」

 しかし、シンジはすぐにその拳を下ろし、顔に出していた感情を払い落とす。

「でも…、できることなら…、僕は父さんと言葉で話がしたいな…」

 

 ゲンドウは潰れた鼻を摘まみ、折れた箇所を反対に曲げて強引に整えると、尻餅を付いていた腰を上げ、立ち上がった。

「お前に諭されるまでもない。レイがユイでないことは、この私が一番よく知っている」

 ジャケットとズボンに付いた土埃を払いながら言う。

「そう。綾波は綾波」

 シンジは父親の言葉に心底同意しながら言う。そして。

「そしてアスカはアスカだ」

 おそらく今父親の背後で。第13号機の中で。あの中に何が起きているのかシンジに知る術はないが、それでもきっとあの「絶望の機体」の中で懸命に戦っているであろう赤毛の彼女。その彼女のことを思いながら、シンジは言った。

「今、彼女たちがこの場で示している意志は誰かに仕組まれたものでもなければ、コピーされたものでもない。彼女たち自身の意志で、戦っている。だから二人は絶対に負けないよ」

 確信に満ちた顔で、シンジは父親に向けて訴えた。

 

「それに…」

 

 父親の顔をまっすぐに見つめていたシンジの視線が、一瞬だけその背後に在る第13号機に向けられる。

 「絶望の機体」の中に在る、もう一つの存在に向けて語りかけるように、シンジは言った。

 

 

 

 

 

 

「あそこには、カヲルくんだって居るしね」

 

 

 

 

 

 



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(64)シアワセのカタチ

 

 

 

 

 その少年と少女は光源の乏しい薄闇に包まれた広大な空間に立っていた。

 空間を横切るように作られた歩廊。彼らが立つその歩廊の下には、この広大な空間の半分を埋め尽くすほどの巨大な球体が鎮座している。球体には何本もの極太のチューブが繋がれており、チューブと球体を繋ぐジョイントは一定の速度でくるくると回転しており、この巨大な人工物が今も稼働中であることが分かる。そして球体の側面には大きな文字で「13」の数字。

 まるで金属の塊りで出来た巨大な心臓のような。あるいは怪物を育むための巨大な子宮のような。そんな球体の真上を横切るように作られた歩廊。少年と少女が立つ歩廊の真下では、球体のてっぺんが大きく口を開いており、まるで歩廊の2人を誘うように怪しげな赤い光を放っている。

 少年と少女は互いの手を繋ぎながら、歩廊の下で開いた大きな口を見下ろしていた。

 

「最後の執行者…。エヴァンゲリオン第13号機…」

 

 少年。収まりの悪い白銀の髪の少年は、球体の大きな口から漏れ出る赤い光と似た色の目を細める。

 

「僕にとって…」

 

 言い掛けて、彼は一度口を閉じ、自戒するように首を横に振る。

 

「”彼”にとって、希望の機体となるか…。それとも絶望の機体となるか…」

 

 少年と同じように、彼と同じ色の瞳で球体の大きな口を見下ろしていた少女。蒼銀の髪の少女は、繋いでいた彼の手に力が籠ったことを感じ、視線を隣の彼の横顔に移した。

 

「いや…、それではいけない…」

 

 彼女が初めて見ることになる、彼の表情。

 

「僕が、そうしなければならないんだ…。”彼”にとっての幸せを、僕がこの機体で…」

 

 柔和な笑みを絶やすことのなかった彼の、険しい眼差し。

 

「そうだろ…。リョウちゃん…」

 

 眉間に深く皺の寄った目で、球体の穴を見つめていた少年。一度目を閉じ、整った鼻から深く息を吐くと、目を開けた。

 いつもの柔和な笑みを湛えた表情に戻っていた彼は、横に立つ彼女に顔を向ける。

 

「いいのかい?」

 

 その問い掛けに、少女はこくりと頷いた。

 

「僕は、この機体を、僕のものにしたい…」

 

 少女はこくりと頷いた。

 

「”彼”にとっての、希望の機体にしたいんだ…」

 

 少女はこくりと頷いた。

 

 少女は少年から目を離し、そして足もとの下で開いた大きな口を見下ろす。

 2人が立つ歩廊から10メートル下で開いた大きな口。その口から漏れる怪しげな赤い光。火口の奥底に覗く煮え滾ったマグマのような。あるいは全てのものを燃やし溶かし尽くす溶鉱炉の火のような。

 その赤い瞳に、大きな口から漏れる怪しげな赤い光を宿らせた少女の喉が、微かに動いた。

 生唾を呑み込んだらしい。

 

 少女の緊張した横顔。

 少年は微笑みながら、少女の横顔に声を掛ける。

 

「大丈夫。君にならできるさ」

 

 少女は少年に顔を向けた。「本当に?」とでも言いたげに、首を傾げている。

 

「うん。できるはずだよ」

 

 少年は繋いでいた少女の手を離した。

 

「なぜなら…」

 

 離した手を、少女の背中に回す。

 

「君たちのオリジナルにでも出来たことだからさ」

 

 その手で、少女の背中をドンと押した。

 

 

 少女の口から短い悲鳴が漏れたような気がしたが、本当に悲鳴を漏らしたのかどうかは確認しようがない。

 なぜなら、少年に背中を押された少女の細い体は歩廊から離れ、そのまま落下。球体のてっぺんに開いた、まるでマグマを抱えた火口のような、あるいは全てのものを燃やし溶かし尽くす溶鉱炉のような大きな口に、真っ逆さまに落ちてしまったからだ。

 少女の体が大きな口に収まると同時に、ジュッと何かが蒸発するような音。

 大きな口に落ちていった少女の姿は、たちまち見えなくなってしまった。

 

 少女が消えていった大きな口を、少年は無感動に見下ろしている。

 

「ありがとう…、サンク…」

 

 それだけを呟くと、少年は大きな口に背を向け、歩廊を歩き始めた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「10年ぶりに姿を現したかと思えば…。そんな世迷言を言うためにわざわざ来たのか。ゼーレの少年」

 総司令官執務室のテーブルの横に立つ、重ねた齢にしてはやたらと姿勢の良い冬月コウゾウは、忌々しそうに表情を顰めながら言った。

 彼の視線の先に立つ少年。渚カヲルは学生ズボンのポケットに両手を突っ込んだ崩した姿勢で言う。

「うん、そうだよ。君たちが建造中の機体。あれを僕に譲ってほしいんだ」

「馬鹿な…」

 まるで隣の食事の一品をねだるような少年の物言いに、冬月は呆れかえっている。そんな冬月に対して、カヲルは当たり付きのアイスバーの棒を持って駄菓子屋にやってきた幼子のような表情で言う。

「だってあの機体のコアシステムは僕仕様に書き換えさせてもらったんだ。あれはもはや僕の命令のもとでなければ動かないのだから、構わないだろ?」

 老人の右頬が一度だけ痙攣するのを目ざとく確認しながら、カヲルは柔和な笑みを浮かべたまま続ける。

「だから本当は交渉などという煩わしいものも必要ないのだけれど、それでも膨大な手間暇を掛けてあれを完成間近までこぎつけた君たちに一応の敬意を払い、わざわざこうして「お願い」という形式をとっているんだ。素直に応じてくれたら嬉しいな」

 そして視線をテーブルの中央の前に置かれた椅子に座る人物に向けた。

「どうかな? 碇シンジくんのお父さん」

 

 カヲルの朗らかな声に呼び掛けられた人物。碇ゲンドウは、リクライニング式の椅子の倒された背もたれに深く体を預け、無言のまま天井の隅を睨んでいる。

 そんなゲンドウに代わって、冬月が口を開いた。

「君がどのようにして第13号機を掌握したというのだ」

 その問い掛けに、カヲルはゲンドウに顔を向けたまま答える。

「簡単なことだよ。碇シンジくんのお父さん。君の奥方さんがしたことを、彼女のコピーにさせただけさ」

「ゼーレの綾波タイプを使ったか…」

 冬月のその呟きに、カヲルは視線だけを皺の目立つ顔に向けた。

「君たちもあの子たちの管理にはもう少し心を割くべきだったね。まるで生まれたばかりの雛鳥の条件付けだったよ。少し優しく接してあげれば、簡単に懐いてくれたさ」

 そして再びゲンドウに視線を戻す。

「碇シンジくんのお父さん。君が可愛がっていた綾波タイプ・ナンバー2。あの子も君が予測した以上に碇シンジくんに絆されてしまったばかりに、君の計画は大幅な遅延と修正を余儀なくされてしまったようじゃないか」

 どこか揶揄するようなカヲルの口調。しかし椅子の背もたれに深く身を預けるゲンドウは黙ったまま。ただし、肘掛けに乗せられた彼の右腕の拳は、強く握りしめら、小刻みに震えている。

 その震える拳を見て、カヲルの表情から笑みが消えた。

「何を躊躇っている。碇ゲンドウ。最後の執行者はほぼ完成している。なぜ、計画を次の段階に進めようとしない」

 カヲルの言葉に、ゲンドウの右拳がさらに強く握り絞められ、ミシリと骨の軋む音を立てた。

「君もどうやら準備万端のようじゃないか。それなのに、君は一体何を待っているというんだい」

 どこか憐憫の情を籠めた眼差しで、碇ゲンドウを見つめるカヲル。

 一方の碇ゲンドウは倒された椅子の背もたれに身を深く預け、無言で天井の隅を睨んだまま。

 

 いや、彼は天井の隅を睨んでなどいない。

 彼は、睨めない。

 今の彼には、天井の隅を見る事すら許されない。

 彼の目は何枚も重ねられた厚いガーゼで覆われ、その上を包帯で何重にもぐるぐる巻きにされていたからだ。

 視覚を塞いでしまった包帯の隙間からは粘着性の黄色い体液がまるで樹液のように浸み出しており、それらは頬を伝って落ちていき、床にちょっとした水溜まりを作っている。

 そして彼は意図的に無言を貫いていたわけではない。

 口を開けては切迫した呼吸を繰り返し、あるいは何かに耐えるように歯を食いしばり。包帯の下から絶え間なく疼く痛み、そして全身を襲う熱にうなされ、まともに言葉を発することすら許されないでいるのだ。

 

 そんな惨めな姿を晒すこの組織の最高司令官にしてこの惑星の運命を握る人物を、カヲルは憐れむ眼差しで見つめながら続ける。

「あとは第13号機を覚醒させ、ガフの扉を開くだけじゃないのかい? だったらトリガーとしての実績ある碇シンジくんをさっさと連れ戻したらいいのに。そこに居るおじいちゃんも…」

 冬月に向けられるカヲルの視線。

「君のゴーサインをずっと待ってるんじゃないのかな」

 ゲンドウに戻されるカヲルの視線。

「君は一体何を待っているんだ」

 同じ問いを繰り返す。

「もしかしたら、あの子が自ら君のもとに帰ってくる時を待っているのかい?」

 やや大き目の口の右端が、微かに上がる。

「どうやら君には悪癖があるようだね。誰よりも他人を恐れ、他人と距離を置き、世捨て人を演じていながら、心の隅のどこかで他人に期待している」

 顎を上げ、赤い瞳を天井へと向けた。

「あの子が、いつの日か碇シンジくんを連れて、君のもとに帰ってくると信じている」

 天井の先。彼が居る巨大構造物の屋根を貫き、空をも越え、さらに遥か彼方でこの星を周回している「あるもの」を見つめる。

「でも気の毒だけど、それはありえない」

 顎を下ろし、その赤くも冷たい瞳は椅子の上の男を見つめる。

 やや大き目の口の両端が、はっきりと釣り上がった。

 

「碇ユイだって、君のもとには戻ってきてくれなかったじゃないか」

 

 肘掛けの上で拳を握り締めていたゲンドウの右手が素早く動いた。

 無駄に大きいテーブルの引き出しを開け、中に収められた拳銃を取り上げる。

 両目を包帯で何重にも覆われたその体で拳銃を構え、瞬時に引き金を引き絞った。

 

 乾いた銃声。

 それが何発も立て続けに、無駄に広い執務室の中に響き渡る。

 幾つもの空薬莢が床やテーブルの上に転がり、銃身から立ち昇る硝煙が薄暗い天井へと広がっていく。

 

 弾倉に収められていた計12発の銃弾を撃ち尽くしてもなお、ゲンドウの人差し指は引き金を引き続けている。

 その様子を側で見ていた冬月は溜息を吐きつつ、ゲンドウの右手から拳銃を取り上げた。ゲンドウの右手は玩具を取り上げられて癇癪を起した子供のように、拳で椅子の肘掛けを何度も殴り付けている。

 そんな態度のゲンドウに冬月は再び溜息を零しつつ、テーブルの向こう側を見た。

 

 彼の上官が構えた拳銃は、視界が完全に塞がれていたにも関わらず、まっすぐに「標的」へと向いていた。

 その「標的」。渚カヲルはズボンのポケットに両手を突っ込んだ格好で、立っている。

 冬月らと渚カヲルの間の空間には、ゲンドウの拳銃から飛び出した12発の弾丸が静止したまま浮いている。

 そして渚カヲルの前に広がる、八角形の光の壁。

 

 冬月は視線を落とし、目を細めてテーブルの上に落ちた空薬莢を見る。空薬莢の側面には「AA弾」の刻印。

 もう一度視線をカヲルに向けると、薄く輝く八角形の光の壁は消え、同時に浮いていた12発の弾丸もバラバラと音を立てて床の上に転がっていく。

 憮然とした表情の冬月に、カヲルは薄く笑った。

「自らを進歩させることができるのはリリンだけと思うのは君たちの思い上がりだね。むしろ自らを進化させるという点においては、僕たちの方が君たちよりも数倍長けている」

 

 椅子の上のゲンドウの呻き声が一際大きくなった。声だけでなく、ゲンドウの体全体がまるで火で炙られてでもいるのかのように、大きくのたうっている。拳銃を撃った衝撃と、肘掛けを殴った衝撃と、そして激しい衝動に駆られる激情によって、全身に疼く痛みが増大してしまったらしい。包帯の隙間から滲み出ていた黄色い液体はまるで滝のような勢いとなって床へと溢れ出すため、冬月は仕方なく膝を折って用意していた数枚の雑巾を使って床に土手を作り、液体が周囲に広がらないようにする。そして立ち上がると、テーブルの上にあったペットボトルの蓋を開け、中身のミネラルウォーターをゲンドウに飲ませた。

 

 古い時代の枠組みで言う後期高齢者の域に足を踏み入れつつある老人に介護される最高司令官の姿に、カヲルは呆れたように溜息を吐いた。声に、若干の憐れみを籠めて言う。

「無条件に、とは言わない。君はあの子が再び碇シンジくんをエヴァに乗せてくれることを期待していたようだけど…。その役割は、僕が引き受けよう」

 冬月が差し出すペットボトルの口にがっついていたゲンドウの口が閉じられ、行き場を失った水がゲンドウの口から首にかけて広がっていく。

「僕が、碇シンジくんをエヴァに乗せる。そう言ってるんだ」

 荒くなっていたゲンドウの呼吸が静かになった。

 椅子の背もたれに預けていた体を起こし、包帯に覆われた目でカヲルを見る。

 そのゲンドウの態度に、カヲルはにっこりと笑った。

「交渉成立だね」

 

 冬月は身を屈め、ゲンドウの耳に顔を近付ける。

「いいのか…。奴は…」

 腹心の進言を、ゲンドウは右手を上げて遮る。

「それじゃあ君は早速空の上の碇シンジくんを。初号機を迎えに行っておいで」

 まるで子供にお遣いを言い渡すような物言いのカヲルを、冬月は横目でジロリと睨んだ。

 そんな冬月の鋭い視線をカヲルは短い笑い声で躱しながら、彼らに背を向ける。

「機体の譲渡契約書を交す必要があるのならいつでも言ってね。判子はすぐに用意できるから」

 背中を向けたまま大人2人に軽く手を振り、廊下へと通じる扉へと歩き始めた

 

 無駄に広い部屋の奥にある扉へ向かって歩く。

 古びたスニーカーで床を踏み、テーブルと扉との間の半分を歩いたところで。

 

 カヲルの足が止まった。

 

 彼の足を止めたもの。

 それは笑い声。

 

 カヲルは振り返った。

 

 無駄に大きい部屋。

 その奥に鎮座する、無駄に大きいテーブル。

 そのテーブルの側に用意された椅子に座る人物。

 

 その男が、押し殺すような声で笑っている。

 肩を震わせながら笑っている。

 

 やがて閉じていた口が開き、男ははっきりと大きな声で笑い始めた。

 

 男が笑うたびに包帯の隙間から黄色い液体が噴水のようにぴゅーぴゅーと飛び出て、その液体から逃れるために側に立つ老人が数歩ほど遠ざかったが、それでも男は構わず大きな声で笑っている。

 

 カヲルは、彼にしては珍しく、眉間に深い皺を刻みながら笑う男の顔を睨んだ。

 両目を包帯で塞がれた男。

 視覚は完全に塞がれているはずなのに、まっすぐにこちらを見ながら笑っている男。

 髭を蓄えた逞しい顎を下げ、口を大きく開けて、一本も欠けることなく生え揃った丈夫な歯を見せながら笑っている男。

 

 カヲルは顔を顰めたまま、なおも笑い続ける男に背を向け、足早に扉へと向かった。

 

 その扉を開けた先には、「彼」が望む幸せが待っている。

 いや、自分が「彼」が望む幸せを築いてみせる。

 

 そう心に誓って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 近くから声がする。

 とても近くから、か細い声がする。

 幾つかの物音に混じって、か細い少女の声がする。

 

 

 爆散した体。

 首に嵌められた爆発物によって、全身が粉々に砕けたはずの体。

 隣に座る「彼」に一生モノのトラウマを植え付けたであろう、無惨に散った体。

 

 不思議だ。

 砕け散ったはずなのに、自身の体の形を感じている。体の存在を認知している。

 

 これは手。

 自分の手。

 失ったはずの手を感じている。

 手掌から伸びる5本の指。

 失ったはずの指。

 少し違和感があるけれど、確かに指の存在を感じている。

 試しに動かしてみた。

 右手の親指、人差し指と、順番に動かしてみる。

 右手に続いて左手。親指から順番に。

 やはりちょっと違和感はあるが、ちゃんと動いている。

 

 その指の随意的な動きに、か細い声の主が気付いたらしい。

 

「目が…、醒めたのね…」

 

 今にも消え入りそうな、透明感のある声。

 自分はこの声の主を知っている。

 

 返事をしようとしたが、口からはまともな言葉の代わりに薄気味悪い唸り声しか出なかった。

 

「ちょっと待って。まだ顎が…」

 

 声がそう言うので、試しに舌を動かしてみたが、舌先がその下にあるはずの顎の存在を感じなかった。

 不意に、声の主の手が後頭部に添えられる。

 続いて、顎関節に強い衝撃。何かを関節部に強引に嵌め込もうとしているらしく、頭部全体がくがくと震える。

「えい…」

 か細い声の何とも頼りない掛け声と共に、カコンと乾いた音が蝸牛神経の中に鳴り響いた。

「嵌った…」

 か細い声がそう言うのでもう一度舌を動かしてみたら、舌先に確かに下顎の存在を感じる。

 

「さ…ん…」

 

 試しに声を出してみたら、ようやく声が形となって喉から出た。

「もう少し待って…」

 か細い声がそう言うので、出し掛けた言葉を止める。

 下顎の中に、もぞもぞと何かを植えられている。

 どうやらか細い声の主の手が、歯を一本一本歯茎に植え込んでいるらしい。

「できた…。もういいわ」

 か細い声がそういうので、試しに口を何度か開閉させてみる。上の歯と下の歯が噛み合い、カチカチと音を立てる。

 

「サンク…、なのかい…?」

 

 ようやくまともに出すことができた声で、そう訊ねてみる。

「ええ…」

 か細い声で返事があった。か細い声の主は手を休めず、「作業」を続けている。

 

 暫くして、頭部の前面の中央からやや上の部分。2つの空洞がある部分の1つに、何かが嵌め込まれた。

 か細い声の主の手が、空洞の部分に嵌めたもの。おそらく球体だろう。それをぐりぐりと動かして、球体の正面を正しい方向へと向けている。

 か細い声の主の手が頭部から離れたので、空洞を覆う機能を持つ瞼を、何度か開け閉めしてみる。

 しかし、視界に変化は起きない。

 目覚めてからずっと、世界は暗闇に沈んだまま。

「少し待って…」

 か細い声がそう言うので、瞼を閉じた、

 空洞に嵌められた球体の後ろで、声の主の指がもぞもぞと動いている。何か、おそらく糸状のものを結わえているらしい。

「できた…。いいわ」

 か細い声がそう言うので、瞼を開いてみた。

 視界に広がる光。少しずつ色彩を帯びていく世界。少しずつ形を成していく世界。

 

 その目が最初に見たのは淡い光。

 人の形を成した、淡い光。

 襟元で摘まれた髪、丸みを帯びた肩、胸、腰。一見して少女の形をしていると分かる、淡い光。

 少女の形をした淡い光の顔に収められているのは、2つの赤く光る瞳。

 淡い光の手がこちらに近づいてくる。淡い光の瞳の色と同じ、赤く光る小さな球体を手に持って。

 その球体は、2つある空洞の、まだ空っぽの方へと嵌め込まれる。そして先ほどと同じようにぐりぐりと動かして、球体の正面を正しい方向へと向け、次に球体の後ろに糸状のものを結びつける。

「こっちもできた」

 か細い声がそう言うので何度か瞬きしてみると、欠けていた視界の残り半分にも光が広がり、世界が色彩を帯び、形を成していく。

 

 2つの瞳で、目の前にいる少女の形をした淡い光を見た。

 

 何かしら違和感がした。

 試しに淡い光の頬に触れようと手を伸ばしてみるが、差し伸べた右手は淡い光の頬には触れず見当違いの方へと向かい、そして淡い光の胸を鷲掴みすることになる。

 突然のセクハラ行為に、しかし淡い光は表情一つ変えずに「作業」を続けている。そして淡い光の胸を鷲掴みにした右手は、そのまま小ぶりな胸を撫でたり揉んだりしている。

 違和感。

 その手で感じる胸の形と、視覚から得られる胸の形とが微妙に一致しない。

 

 違和感の正体に気付いた彼は淡い光に告げる。

「サンク…、知っているかな…?」

「何を?」

「視神経の半分は、交叉して繋げないといけないことを…」

「知らなかった」

 淡い光の両手が、2つの空洞に収まる2つの球体の裏側へと伸ばされた。

 ブチッ、ブチッ、と、何かの線を引き千切る音。

 途端に、彼の視界が真っ暗になる。

 そして球体の裏側で、何かをごそごそと結ぶ音。

 

 暫くして。

「これでどう」

 淡い光がそう言うので、両瞼を開けてみた。

 目の前に居るのは、少女の形をした淡い光。

 彼は再び淡い光に向けて右手を差し伸べた。その手は、今度はまっすぐに淡い光の胸へ。

 胸に触れ、その形を確かめるように撫でたり揉んだりする。

「うん。今度は大丈夫だね」

 手から得られる胸の立体感と距離感の情報と、視覚から得られる情報が一致した。

「そう。よかった」

 淡い光は微笑みつつ、「作業」を続ける。

 

 取り戻した視覚で、自身の体の様子を調べる。

 

 爆散したはずの肉体。ばらばらになったはずの肉体が、ヒトの形と判断できるまでに復元されている。いくら自分が「生命の実」を宿した存在であるとは言え、あの状態からこの短期間でここまで自然再生させるのは不可能だ。

 視線を、少女の形をした淡い光へと向ける。

 淡い光はこの空間。円筒形の空間の壁や床に散らばった「色々なもの」を拾い上げては、それが「何処のもの」かを見定めた上で、該当する箇所にくっ付けたり乗せたり嵌めたり貼り付けたりしている。

 

「君が…、これを…?」

 

 そう訊ねると、淡い光はこくりと頷き、拾い上げたもの。おそらく右側の眉毛だろうか。それを彼の眼球が収まっている場所の少し上にぺたぺたと貼り付けた。

 淡い光は少し離れ、遠くからその眉毛が正しい位置で貼り付いているかを確認する。

 首を傾げた淡い光は、貼り付けたばかりの眉毛を引っぺがしてしまった。どうやら、角度が気にくわなかったらしい。何度か吟味を重ねた上で、ようやく納得できる角度になったらしく、またぺたりと眉毛を貼り付ける。

「テキトーで…、いいのに…」

 目覚めた時に最初に覚えた違和感。復元された両手の指の違和感。右手の人差し指と中指、そして左手の人差し指と薬指が、互い違いにくっ付けられている。淡い光は手の復元にはテキトーなのに、顔の復元には妙に注意を払っている様子だ。

 こんな手でまたピアノが弾けるようになるのだろうかと思いつつ言った彼の言葉に、淡い光はふるふると頭を横に振った。

「だめ…」

「なぜ…?」

「あなたには、カッコよくしていて、ほしいから…」

 淡い光のその返事を聴いて、復元されたばかりの彼の口が自嘲気味に歪んだ。

「いくら見てくれを良くしたところで、僕が無様な敗残者であることに変わりはないよ。結局僕は、シンジくのお父さんの手のひらで踊っていただけの、哀れな道化さ…」

 そんな彼の自虐的な発言に対し、淡い光は特に感想を述べることなく、今度は左側の眉毛を貼り付けようとしている。

 彼は目を瞑った。やや強めに瞼を閉じた所為で眉毛を貼るはずだった場所に皺が寄ってしまい、淡い光の手が止まる。

「僕はただ、彼を幸せにしたかっただけなんだ…」

 淡い光は右手で彼の額と右瞼の境の皮膚に寄った皺を伸ばしつつ、眉毛を貼り付ける。

「でも、あれは彼が望んだ幸せの形じゃなかったんだ…」

 手のひらで、貼り付けたばかりの眉毛がすぐに剥がれ落ちないよう、ぺたぺたと押し付ける。

「僕の行いは、結局彼を更なる不幸に陥れただけだったんだ」

 最後に眉尻の角度の微調整をする。

「僕には…、誰も幸せにすることなんて、できないんだ…」

 

 2つの手が、顔を両側から挟み込んだ。

 2つの親指で、下目蓋をこじ開けられた。

 強引に開かれた視界にあるのは、こちらを覗き込む淡い光の赤い瞳。淡い光の唇が、薄く開く。

「1日の大半をLCLで満たされたカプセルの中で過ごし、たまに外に出された時も訓練と実験。それがあなたに出会う前の、私たちが過ごしていた日々」

 彼の閉じられていた目を強引に開かせた淡い光の顔が、少しずつ彼の顔に近付いていく。

「でも、あの日。あなたと出会ってから、私たちの日々は変わった。あなたと過ごす中で、初めて「生きる」こと、「喜び」というもの、「幸せ」というものを感じることができた」

 淡い光の顔が、ゆっくりと彼の視界を覆っていく。

「大丈夫。あなたには、人を幸せにする力がある」

 淡い光の額が、こつんと彼の未完成の額に当たる。

 

 強引にこじ開けられた目で、彼は間近にある淡い光の赤い双眸を見つめた。

「君たちの頭の中はお花畑どころか腐って蛆が沸いているらしい。僕は君をただ利用したかっただけだ。そんな僕の見せかけの優しさに触れて、偽りの「幸せ」に心躍らせるとは。愚かしいにも程があるよ」

 吐き捨てるように言う彼に、淡い光は当てた額をぐいぐいと押し付ける。

 淡い光は言う。

 

「私たちの幸せの定義を決めるのは、あなたじゃない」

 

 淡い光の赤い瞳を見つめる、彼の赤い瞳の瞳孔が窄まった。

 

 

 遠い昔に、友人に言われた言葉と重なる、淡い光の言葉。

 

 

 友人は。「彼」は言った。

 「彼」にとっての大切な人の幸せ。

 結局抱いてやることもあやしてやることもできなかった、「彼」の子供。

 その子供の幸せの定義を決めるのは、父親のすることではない、と。

 

 

 淡い光は言う。

 

「あなたと過ごす日々で、私の心の中に確かにあった「幸せ」。それは誰にも、あなたにさえも否定はさせない」

 

 彼の下目蓋を強引に下げていた親指が離れ。

 

「信じてほしい。あなた自身のことを。あなたには、人を幸せにする力がある」

 

 淡い光の両手が彼の両頬を優しく包み込む。

 

「あなたが本当に幸せにしたかった相手は誰?」

 

 そう問うと、彼の右目から一筋の涙が零れ落ちた。 

 

「”彼”は今、自分の運命に立ち向かうために、必死で戦ってる」

 

 淡い光は左手の親指で、その涙をそっと拭ってやる。

 

「あなたが、共に戦ってくれることを待っている」

 

 そして彼の頬を包み込んだ両手を少しずつ下げていき。

 

「あなたはこのままでいいの? 渚カヲル」

 

 その手は彼の首を伝い。 

 

「もし”彼”を幸せにしたいというその気持ちが本物ならば」

 

 彼の両肩に辿り着き。

 

「もっと足掻いて見せて」

 

 その両肩を力強く掴んだ。

 

「無様でもカッコ悪くてもいいから、もっと必死に足掻いてみせて」

 

 

 

 今度は右目だけでなく、左目からも涙が零れ落ちた。

「涙腺も、繋がったみたいね」

 淡い光は彼の目から溢れる液体を満足げに見ながら、掴んでいた彼の両肩から手を離し、「作業」を再開させる。

「僕は、”彼”を、幸せにしたい…」

 今はバラバラになった頭頂骨の復元中らしい。手のひらに乗せた幾つかの白い粒を、彼の頭部の断面に順々に乗せていく。

「サンク…、僕は…、”彼”を…、幸せにすることができるかな…?」

 その問いに、淡い光は口もとに小さな笑みを湛えて、こくりと頷いた。そして、黙々と「作業」を続けていく。

「こんな体の…、僕でも…」

 涙に濡れた目で、彼は彼自身の体を見つめた。

 

 

 自身が持つ自己修復能力と、淡い光の手によって丹念に復元されていった体。

 視界と聴覚を取り戻し、言葉も操ることができ、手も。そこはちょっとテキトーなところもあるが、それでも動かせる程度には形になり、そして涙も流せるようになり。

 しかし下半身は未だに全て失われたまま。

 復元がある程度進んだ上半身も、右胸半分はまだ手付かずで空洞のまま。頭部の様子までは見えないけれど、頭の中身の復元もまだ途中なのだろう。

 淡い光は今も手を休めることなく「作業」に勤しんでいるが、この体がまともに動くまで復元されるには、あとどれくらいの時間が掛かるのだろうか。その時までに、この世界はまだその形を留めていてくれるだろうか。

 

 

「サンク…」

「大丈夫」

 

 彼の声を、淡い光の声が遮った。

 「作業」の手を止めず、淡い光は言う。

 

 

 

 

「もうすぐ、”みんな”が、来る」

 

 

 

 

 



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(65)仲よくなるためのおまじない

 

 

 

 初号機の背中から、まるで大空をはためくための翼を思わせるような、大量の血飛沫が宙に舞い散った。

 人の形を捨ててまでして第13号機を地面に組み伏せた初号機。その初号機の顎に、第13号機の拳が叩き付けられ、さらに第13号機から放たれた強力な光線が初号機の胸から背中に掛けてと貫く。

 背中から。そして胸からも大量の血を噴き出す初号機の体が、赤く彩られる第13号機の上で大きく仰け反った。

 地面へと急接近する初号機の背中。

 

 

 

 しかし初号機は弓なりになった背中が地面に着地する寸前のところで、まるで弾いたバネのように上半身を一気に前へと押し倒すと、その勢いを乗せた頭部を第13号機の顔面へと叩き付ける。

 激しい火花が方々に散ると共に、初号機に2発目の光線を繰り出そうとしていた第13号機の顎が跳ね上がり、直後に撃ち出された光線は空の彼方へと飛び、宙を切り裂いてしまった。

 第13号機の顔に急接近した初号機の顔。

 初号機の砕かれた下顎が大きく開く。

 第13号機の鼻っ面で放たれる、初号機の咆哮。

 突風を巻き起こし地響きを轟かす咆哮と同時に、初号機の下半分が砕けた口から、砕けた白い牙がボロボロと零れ落ちていく。砕かれた牙の破片たちは、外の光を浴びてキラキラと光りながら、初号機が組み伏せた第13号機の顔へガラスの破片のように降り注いでいく。

 

 そのキラキラと光る破片たちに混じって。

 光の結晶たちに混じって。

 青白い光が2つ。

 

 

 折れて砕けて零れ落ちていった牙の破片たちとは明らかに別の、初号機の口の奥から吐き出された2つの青白い光。

 第13号機の顔へと降り注いだ牙の破片たちは、顔の表面でさらに砕け、跳ね、そして顔の周辺に散らばっていくのに対し、その2つの青白い光は、第13号機の顔の上にふんわりと柔らかく降り“立った“。

 

 第13号機の顔の上に立つ2つの青白い光。

 人の形をした、2つの青白い、淡い光。

 襟元で摘まれた髪、丸みを帯びた肩、胸、腰。一見して少女と分かる、2つの淡い光。

 第13号機の顔の上に立った2つの淡い光は、示し合わせたように別々の方向へと駆け始める。

 細い2本の脚で、厳つい第13号機の体の上をとてとてと駆ける淡い光。

 1つは、第13号機の左の胸へ。

 もう1つは、第13号機の右の胸へ。

 

 左の胸へと走った淡い光。

 第13号機が纏う堅牢な装甲の胸当ての上に立つと、その場に跪いた。

 両手も装甲に付けて、さらに顔も装甲へと近付けていく。

 まるで大地に向けて口付けでもするかのように、淡い光の顔が第13号機の胸に触れた。淡い光の顔は頑丈な装甲に遮られ、そこで止まる。

 

 いや、止まらない。

 淡い光の顔が、第13号機の装甲の中へと埋没していく。顔だけでなく、首、胸、腰まで。

 まるで足もとにある穴の中を覗き込むように、淡い光の上半身が第13号機の分厚い装甲。その下にある、あるものの中へと進入していった。

 

 

 

「ぐへっ、ちょ、ちょっと! あんたが殴ってんの違う! それあたし!」

「”あたし”って、どっちの”あたし”よ!」

「あたしはあたしよ!」

「だから”あたし”って、どのあたしよ!」

「こんのうすらトンカチどもがあ!」

「痛っ!? こ、こいつよ! こいつが”ヌル”!」

「こんにゃろめ! ちょいさあああ!」

「いったぁ! だらかそれあたしだって!」

 

 

 

 装甲の下に在る、あるものの中を覗き込んだ淡い光。そのあるものの中で繰り広げられている珍騒動を見て、その顔に「うへっ」と苦い表情を浮かべると、あるものから逃げるように顔を引っこ抜く。

 装甲から上半身を引き抜いた淡い光は、振り返った。

 振り返った先には、もう一つの淡い光が第13号機の右の胸に跪き、やはり上半身を突っ込んで胸の下にあるものの中を覗き込んでいた。その淡い光も装甲から上半身を引っこ抜き、そして振り返る。

 ちょいちょいと、手招きをした。

 その手招きを見て、第13号機の左胸に立っていた淡い光は、右胸に向かって駆け出す。

 

 13号機の右胸に立つ、2つの淡い光。

 その淡い光の4本の脚が、右胸の装甲の中へと吸い込まれるように埋没していく。

 

 

 

 その光景に、渚カヲルは目を見張った。

 彼が居る第13号機の右胸に収められた複座式エントリープラグ第2号。円筒形のプラグの天井から、4本の淡く光る足が生えてきたのだ。

 足底から生えてきた体は脹脛、膝、太腿。さらにはお尻、腰、お腹、胸と、その全体像を露わにしていき、そして最後に現れたのは、カヲルの体の復元作業に勤しむ少女の形をした淡い光とそっくりの2つの顔。

 天井から生えてきた2つの淡い光は、床に音も立てずに着地する。

「トロワ…、キャトル…」

 カヲルの復元作業の手を止め、淡い光は天井から現れた2つの淡い光に向かって呼び掛けた。

 呼び掛けられた2つの淡い光。トロワと呼ばれた光は、呼び掛けた相手に向かって微笑みかける。

「サンク。よく頑張ったわね」

 サンクと呼ばれた淡い光は、彼女の“姉”に労われて、嬉しそうにはにかむ。

「私たちも手伝うわ」

 キャトルと呼ばれた淡い光は床に散らばる「色々なもの」を片っ端から拾い上げ始めた。

「早く、私たちの渚司令をもとのカッコイイ姿に戻しましょう」

「ええ」

「はい」

 

 3つの淡い光の6本の手が、次々と床から「色々なもの」を拾い上げては、カヲルの体の失われた部分にくっ付けていく。その復元速度は、1つの淡い光だけで作業していた時に比べて3倍。

 どころではなかった。抜群の連携をみせる3つの淡い光。彼女たちの6本の手で、爆散された渚カヲルの体が、まるで建築現場を映すタイムラプス映像のようにみるみるうちに復元されていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いい加減、観念しなさいよ!」

 緋色髪の少女が、もう一人の緋色髪の少女に向けて言う。

 それに対してもう一人の緋色髪の少女は額に青筋を浮かべながら言い返す。

「コピーごときがオリジナルを超えようだなんて、身分不相応な夢は持たないことね!」

 もう一人の緋色髪の少女のその発言に、緋色髪の少女の額にもまた青筋が浮かんだ。

「“コピーごとき“だとか”リリンもどき“だとか”使徒もどき“だとか、うっさいつーの! あたしは”あたし”だっつーの! ってか、”ツヴァイ”! あんた何もうへばってんのよ!」

 緋色髪の少女の隣に居る、さらにもう一人の緋色髪の少女は肩で息をしながら言う。

「ぜぇ、ぜぇ…。だってあたし…、20年くらい地下で眠ってたんだから…、ぜぇ、ぜぇ…。そりゃ運動不足にもなるっつーの…」

「かああ! 散々誤爆ったくせにこんの役立たずがぁ! ってか、そっちのあんた!」

 突然、緋色髪の少女は彼女たちが居る円筒形の空間。第13号機複座式エントリープラグ第1号の、右側の壁に向かって叫び始めた。

 

「誰だか知んないけど、黙ってないであんたも何かしたらどうなの!」

 

 

 

『ってか、そっちのあんた!』

 壁の向こうからくぐもった怒鳴り声が聴こえてきた。

 渚カヲルの復元作業を急ピッチで進めていた3つの淡い光の一つが手を止め、怒鳴り声が聴こえた壁の方を向く。

『誰だか知んないけど、黙ってないであんたも何かしたらどうなの!』

 明らかに「こちら」に向けて放たれている怒鳴り声。手を止め、壁を見つめていた淡い光はぱちくりと瞬きをした。

 その淡い光は渚カヲルが座る座席のコントロールパネルに手を伸ばし、並ぶボタンの1つを押そうとする。

 その手を、別の淡い光が止めた。その淡い光は、ボタンを押そうとした淡い光に向かって首を横に振る。

「やめておいた方がいい」

「なぜ?」

「あっちは、色々と面倒臭そうだから」

 事前に「あっち」のエントリープラグを覗いていたその淡い光は、「あっち」のエントリープラグの中で繰り広げられていた珍騒動を思い出し、「巻き込まれるのは勘弁したい」とでも言いたげな苦い表情を浮かべる。

「不測の事態には、備えないと」

 淡い光はそう言うと、ボタンを押してしまった。

 

 金属製の壁。エントリープラグを形作る特殊合金の壁。光を通さない壁が、淡い光がボタンを押すのと同時に、まるで金属製の壁が透明のガラスの壁に置き換わったかのように、渚カヲルと3つの淡い光が居るプラグ第2号の隣にある、プラグ第1号の様子をまざまざと映し出した。

 

 

 突然、ガラス張りのような状態となったエントリープラグ。

 エントリープラグの中に居る、全てのものの動きが止まる。

 そして、合計14個の視線が交差した。

 

 

 しばしの沈黙。

 

 

「あんたたち…、なにやってんのよ…」

 最初に口を開いたのは、緋色髪の少女。

 その緋色髪の少女の蒼い瞳から放たれる視線の先。

 「彼女たち」が居るプラグの、隣のプラグ。

 

 操縦席に座る一人の少年。

 体の幾つかの部分が欠けている少年。

 その少年に群がるように集う、3つの淡い光。

 少女の形をした淡い光。

 素っ裸の少女の形をした淡い光。

 その有様は、椅子に鎮座する少年がすっぽんぽんの少女3人を侍らせているように見えないでもない。

 おまけに少女の一人は少年の前に跪き、そのたおやかな手で少年の股間をいじって(復元して)いる最中ではないか。

 

 

「君たちこそ、いったい何をしてるんだい…」

 少女の一人に股間をいじらせて(復元させて)いる少年は、隣のプラグの様子を見ながら言う。

 少年の赤い瞳から放たれる視線の先。

 彼らが居るプラグの、隣のプラグ。

 

 プラグの床で揉みくちゃになっている3人。

 同じ緋色の髪、同じ蒼い瞳。背格好から顔立ちまで全て一緒の3人の少女が、プラグの床で揉みくちゃになっている。

 壮絶なキャットファイトでも繰り広げていたのか、3人とも髪はぼさぼさに逆立ち、顔には引っ掻き傷や青タンが出来ているが、3人のうちの1人の少女が優勢に立っていたらしく、残りの2人を床に組み伏せ、その両手で2人の首根っこを押さえ付けている。

 

 最初に口を開いた少女。

 相手に首根っこを押さえ付けられ、床に組み伏せられている2人の少女の片割れは、隣のプラグを睨みながら叫ぶ。

「あんた誰!」

 怒鳴られた少年は、涼やかな表情で返す。

「君たちこそ誰なんだい?」

 

 

「「「アスカよ!」」」

 

 

 3人の緋色髪の少女がいっぺんに同じ声音で同じ言葉を叫んだ。

 少年も、その少年が侍らせる淡い光たちも、「うわ、めんどくさ」とでも言いたげに表情を顰める。

 

 最初に口を開いた緋色髪の少女は、もう一度叫ぶ。

「あんたたちは誰の味方よ!」

 

 

「「「渚司令よ」」」

 

 

 3つの淡い光がいっぺんに同じ声音で同じ言葉を言う。

 3人の緋色髪の少女たちは、「うわ、キモッ」とでも言いたげに一様に表情を顰めている。

 

 最初に口を開いた緋色髪の少女は、今度は少年を睨みながら叫んだ。

「あんたは!」

 少年は涼やかな顔で即答する。

 

「僕はいつだって碇シンジくんの味方さ」

 

 その返答に、最初に口を開いた緋色髪の少女。もう一人の緋色髪の少女に組み伏せられ、首根っこを押さえ込まれて窮地に追い込まれているはずの少女は、笑いながら言った。

「だったら、あんたがあのバカにとって最善と思うことをして!」

 

 

 

 股間をいじって(復元して)いた淡い光の手が、少年の股間から離れた。

「完成…」

 復元したものを何処かうっとりした表情で見つめながら、満足げに呟いている。

 

「ありがとう。サンク」

 股間をいじり(復元し)終えた淡い光に感謝の言葉を言った渚カヲルは、他の2つの淡い光にも言う。

「ありがとう。トロワ。キャトル」

ついに動き出したカヲルの右手が、3つの淡い光のそれぞれの頭を撫でていく。

「渚司令」

 サンクと呼ばれた淡い光がカヲルをそう呼ぶと、淡い光の口もとにカヲルの右手がすっと伸びる。その右手の、人差し指と中指が互い違いに付けられてしまった右手の第2指が、そっと淡い光の唇を塞いだ。

「僕は遥か昔に司令職を剥奪された身さ。前から言ってるよね。僕のことは何て呼んだらいい?」

 淡い光の赤い瞳が瞬きしながら、カヲルの顔とプラグの床との間を交互に泳ぐ。

 そして意を決して。

「カヲ…ル…」

 名前を呼ばれたカヲルは普段より、より一層深みを増した笑みを浮かべながら答えた。

「なんだい? サンク」

「私が…」

 何かを言い掛けた淡い光の口を、またもやカヲルの指が止めてしまう。

「いいんだ。サンク」

 カヲルの赤い瞳に宿る、意志の光。

「後は僕がやろう」

 

 カヲルが復元されたばかりの2本の足で立ち上がる。

 周囲を囲む3つの淡い光によって、彼の体が怪し気に照らされている。

 カヲルは操縦席から降りると、プラグの床に両膝を付き、そして両手も床に付いた。

「やあ。アダムスの生き残りくん」

 そしてプラグの床に向けて語り掛ける。

「僕は渚カヲル。又の名を第13の使徒、ダブリスだ」

 プラグの床に向けて自己紹介する彼の両手が溶けるように、床に中に埋没し始める。

「同じ”13”の数字を与えられた者同士、仲良くしようじゃないか!」

 普段の穏やかなものではない、酷薄な笑みを浮かべる渚カヲルの体全体が、床の中へと沈み始めた。

 

 

 

「第13号機とのリンクにノイズ…!?」

 自分とそっくりな緋色髪の少女2人をプラグの床に押さえつけ、相手の体を掌握しようとしていたその少女は、体の中に響く不快な雑音を感じ取った。

 咄嗟に、視線を隣のプラグへと向ける。

 見れば、収まりの悪い白銀の髪をした少年が、まるで底なし沼へと自ら足を進めていくかのように、プラグの床に肩から下までを沈めていた。

「お前! 何してる!」

 隣のプラグからのその怒鳴り声に、床に首までを沈めた渚カヲルは隣のプラグに視線をやる。

「何って…」

 そして朗らかな声で言った。

「仲良くなるためのおまじないだよ」 

 彼はそれだけを言い残して、その体は床の中へと完全に沈んでしまった。

 

 

 LCLの揺らぎを感じ、少女は隣のプラグに向けていた視線を正面へと向けた。

 

「あんたの相手はあたしだっちゅーの!」

 

 目の前を、無数の火花が散る。

 

 

 自分の首根っこを押さえつけていた相手が隣のプラグに気を取られている隙を狙って、思いっきり右拳を突き上げてやったら、見事にその拳は相手の鼻っ面を直撃した。

 首根っこを押さえる手が緩んだ瞬間に、上半身を跳ね起こす。

「どりゃああああああ!」

 殴った相手が鼻血を噴出させながら体を大きく仰け反らせている間に、伸ばした右手を相手の額に、左手を右肩に突き当て、相手を一気に押し倒す。

「”ツヴァイ”! あんたも!」

 ツヴァイと呼ばれた少女も体を起こすと、片割れが殴り倒した相手の下半身に抱き着いた。

 

「くそっ…! ちくしょう…!」

 渾身の一発を鼻っ面に浴びた少女は、朦朧とした意識の中で悪態を垂れ流し続けている。

 渾身の一発を浴びせた少女は、顔中を鼻血塗れにしている相手の顔を冷めた目で見下ろす。

「これがあたしのオリジナルとは、がっかりね。まったく」

「黙れ!」

「式波シリーズの始祖がこんな陰気な場所でリリンの鎖なんかに繋がれちゃってみっともない。なに? 神にでもしてやるって言われた? あんたの願いは、神さまなんて大それたものになんなきゃ叶わないものなの?」

「黙れ黙れ黙れ黙れ!」

「そんな腐った性根! ”あたしん中”で叩き直してやるんだから!」

 少女は組み敷いた相手の少女に対し、右手は額を押さえつけたまま、そして左手で相手の顎を押さえつけた。

 少女の口が、強引にこじ開けられる。

「まずはあたしのバルディエルちゃんを返してもらうわよ!」

 少女もまた大きく口を開くと、一度だけ大きく深呼吸。

 そして強引にこじ開けた少女の口に目掛けて、大きく開けた少女の口を押し当てた。

 

 

 まったく同じ顔をした2人の緋色髪の少女によって繰り広げられる濃厚な接吻。

 無理やり口を押し付けた少女の方が、相手の口の更にその奥にある「何か」を根こそぎ奪ってやる勢いで、頬を窄ませ、思い切り吸引するディープキス。

 その様子を間近で見る、彼女たちとまったく同じ顔を持つ緋色髪の少女は、唇を無理やり奪われた相手が激しく暴れさせる下半身に抱き着きつつ、「うへ」と顔を顰めている。

 そしてそんな3人の様子を隣のプラグから眺めていた3つの淡い光たち。

 その淡い光の長姉は「あなた達にはまだ早い」とばかりに両手を使って2人の妹たちの目を塞ぎながら、自身は興味津々といった様子で隣のプラグの中の情事を見つめていた。

 

「ぷはあっ!」

 吸引を終えた少女は相手から口を離すと、風呂上がりの一杯を飲み干した元戦術作戦部作戦局第一課長のような呼気を吐いた。

「あたしのファーストキスよ。光栄に思いなさい」

 右手の甲で口の周りの涎を拭く少女の左目が、怪しげな光を輝かせ始める。唇を奪われた少女は光る左目を睨みながら叫んだ。

「お前! なぜまた使徒を!」

「バルディエルちゃんは侵食型。つまり対象を捕食し、対象と一体化するタイプの使徒」

 左目を怪しく光らせる少女は、綺麗に光る歯を見せて笑う。

「この意味が、分かるかな~?」

 得意げに語尾を上げる少女の、口の両端が吊り上がった顔を見て、少女の顔がみるみると青ざめていく。

「待って…! やだ…! だめ…!」

 徐々に近づいてくる相手の顔から逃げようと、懸命に頭を左右に振ったり、首を仰け反らせたりする少女。

「なーに嫌がってんの。全ての人類の単一化はあんたが組したあのジジイどもの悲願じゃないの」

「やだ…、やだやだやだやだ…」

 近付いてくる顔を両手で押し返そうとするも、少女の接近は止められない。 

「私と一つにならない? それはとてもとても気持ちいいことなのよ」

「やだやだやだやだやだああわあああああああん!」

 激しく取り乱した末に、少女の口から沸いて出てきたのはまるで子供のような泣き声。

 そんな少女に拍子抜けしてしまった少女は、強引に近付けようとしていた顔を一旦離した。

「ママぁ…、ママぁ…」

 少女の体の下で、まるで胎児のように体を丸め、泣きじゃくってしまっている少女。

 そんな少女の乱れた前髪を、少女は右手で優しく梳いてやる。

 

「こんなところでずっと一人。辛かったよね…、寂しかったよね…」

 

 相手の背中に左手を回し、そして右手も回し。

 

「でも、もう大丈夫…」

 

 両腕で、まるで幼子のようにしゃくりあげている少女の体を柔らかく包み込んで。

 

「あたしがあなたを一人にはさせないわ…」

 

 あの村で過ごした日々によって、すっかり上手になった抱擁をする。

 

 

 

 

 気が付けば、抱き着いていた相手の下半身が消えていた。

 気が付けば、”アインス”が抱き締めていた”ヌル”の姿が消えていた。

「”アインス”…?」

 ”一人”になっていた少女の背中に声を掛ける。

 声を掛けられた少女はゆっくりと振り返った。

 蒼い双眸から、玉のような大粒の涙を零しながら。

「”ツヴァイ”…」

「なに…?」

「あなたは…、どうする…?」

 少女に問われ、問われた少女は上半身を起こす。

 

 今も大粒の涙を零す蒼い瞳を見つめ、そして視線を落とし、床に付いている自身の両手を見つめ。

 その両手を、自身の胸の上に重ねる。

 

 「選考」が終わり、「予備」としてコールドスリープ処理され、20余年ぶりに外の世界に出されて。

 擬装のため、使徒の力を使って”一人目”の体内に潜んでいた、短い時間。

 

 少女と少女は見つめ合う。

「あなたの中にある異常なまでの熱量。それはオリジナルが備えていた不安定要素として、あたしたち式波シリーズには受け継がれなかったはず。それがイレギュラーに発芽した”一人目”は欠陥品の烙印が押されていたのに…、それでも最後に選ばれたのはあなただった」

 自身の胸の上に重ねられていた少女の手が、もう一人の少女の方へと伸ばされた。

「あなたの中に居て、あなたが選ばれた理由。あたしたちが叶わなかった理由。それが分かった気がする」

 その両手は少女の両頬に触れ。

「あなたの中、とても気持ちが良かった」

 蒼い双眸から零れ落ちる大粒の涙を親指で拭き取り。

「あたしは、あなたに。式波・アスカ・ラングレーになりたい」

 そしてその両手は少女の背中へと回される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 激しい痺れが疼いた右手を、碇ゲンドウは堪らず左手で抱え込む。

 彼が使役するエヴァンゲリオン第13号機。その機体とリンクしていた右手に走る疼き。拒絶の痛み。

 ゲンドウは身を翻し、十字状に裂かれた目で彼の機体を睨んだ

 

 猛獣と化した初号機によって組み敷かれていた第13号機。その初号機の顎を割り、胸部を貫き、反撃の狼煙を上げたはずの第13号機の動きが停滞している。

「式波シリーズの反応が消えた…!」

 彼が13号機を支配下に置くための依代の存在がない。

 ゲンドウは第13号機に向かって叫んだ。

「何者だ!?」

 

『スーパーアスカさまよ!!』

 

 ゲンドウの頭の中に響く、まるで間近で打ち鳴らされた鐘楼の鐘のような金切り声。第13号機から返ってきた声に、ゲンドウは面食らったように半歩だけ後ずさりしてしまった。しかしすぐに下がり掛けた左足を前に戻す。

「そうか…」

 凍てついたゲンドウの声。

「ならば、その機体はもう必要ない…!」

 十字状に裂かれたゲンドウの顔面。

 その顔面が強烈に瞬き、瞬時にして巨大な光球が発生する。 

 

 ゲンドウの顔の前で練り上げられる超高密度のエネルギー体。

 その光を視界の隅に見た獣姿の初号機は、組み敷いていた第13号機から顔を起こすと、ゲンドウに向けて左手を翳す。

 初号機の手から発せられる、強力なATフィールド。

 あらゆる物理的干渉を拒絶する八角形の光の輪。

 

「初号機はまだ必要だ…」

 そう呟いたゲンドウは右手を肩の位置まで上げると、空気を薙ぎ払うかのような動作で右手を水平に振り切った。

 

 

 初号機が、第13号機の上から消えた。

 

 初号機は第13号機から遠く離れた地面の上を何度も跳ね、回転し、さらに遠くへと吹き飛ばされていく。

 

 

 ゲンドウの顔面で練り上げられた巨大な光球が凄まじい破裂音と共に飛び出し、第13号機へと襲い掛かった。

 それは彼の隷下にあった超大型戦艦の主砲よりも、遥かに強大な破壊力を持つ超高密度エネルギー体。

 それを真正面から食らった第13号機。

 瞬時に発生した巨大な火球は第13号機を包み込むと、激しい爆音と同時に膨大な量のエネルギーを周囲に発し、地面は溶け、空気は燃焼し尽くされ、大量の土煙と水蒸気を周囲にまき散らし、空には幾つもの稲妻を走らせる。

 

「第13号機。お前の役目はもう終わりだ」

 ゲンドウの顔からは立て続けに光球が放たれ、第13号機が居た場所を次々と特大の花火で彩っていく。

 

 2桁に及ぶ光球を放ったゲンドウ。前髪が焦げ始めた時になって、ようやく粛清の手を止めた。

 爆発によって上空に巻き上げられた水蒸気と土煙が、次第に晴れていく。

 

 土煙が晴れて見えた光景に、ゲンドウの右頬が小さく引き攣った。

 薄くなった土煙の隙間から、光り輝く壁が見えたからだ。

 

 光り輝く八角形の輪。

 その輪の中央に翳された右手。

 第13号機の右手。

 地面に跪く第13号機。

 その右手が、ゲンドウに向けられている。

 その右手を中心に広がる、八角形の光の輪。

 第13号機が持たないはずのATフィールド。

 しかしその第13号機が発生させるATフィールドは、これまでゲンドウが目撃してきたいかなる不可侵の壁よりも鮮烈に輝いていた。

 

「ダブリスか…!」

 

 噛み締めたゲンドウの奥歯から、歯軋りの音が鳴り響いた。

 

 

 

「父さん…」

 

 それは、立て続けに起きた爆轟に比べればとても小さな事象。とても小さな呼び掛けに過ぎなかったが、それでもゲンドウはまるで背後から誰かに肩を掴まれたかのように、弾かれたように振り返っていた。

 彼から少し離れた場所で、彼の息子が数分前と変わらない佇まいで立っている。

 

「僕と話を…」

 

 ゲンドウは息子の言葉を遮るように視線を外し、頭上を見上げた。

 赤銅色に染まっていた空が、黄金色に輝いていた。

 黄金色の空に向かって聳え立つ、背中に12枚の翼を広げた、首が欠けた巨人。その巨人の前に浮かぶ、女の頭部。

 その巨人を囲むように空を泳ぐ、無数の首が欠けた白い少女の群れ。

 

 地上で巨人同士が争いを繰り広げている最中も、空では着々と事が進んでいる。

 ゲンドウは視線を下ろし、息子を見た。

「間もなく言語という不自由からも解放される我々に、語り合う必要などない」

 意固地な父親に、息子は少しだけ表情を崩す。

「僕と語り合うのが嫌だったら、僕の話しを聴いてくれるだけでもいい」

 そこまで言って、シンジは何かを思い出したように「あっ」と呟いた。

「でも父さん。これだけは父さんに会ったら訊いておこうと思ったんだ」

 「聴いてくれるだけでいい」と言っておきながら、直後に相手に返答を求める質問をしてしまう自分の手際の悪さを恥じ、シンジは申し訳なさそうに後ろ頭を掻きながら言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「真希波マリさんって、何もの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 首が欠けた白い少女の群れが埋め尽くす黄金色の空。

 

 

 その一角に、亀裂が走った。

 

 

 

 



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(66)私たちの槍

 

 

 

 

 12枚の翼を背負った、首の欠けた巨人。

 その巨人の周りを泳ぐように周回する無数の首が欠けた少女の群れ。

 その巨人と少女の群れ。そして虚構の世界を覆う、黄金色の大空。

 まるで金メッキを施された、円蓋の天井のような大空。

 その大空の一角が、放射状にひび割れた。

 そして、まるでガラス製の天窓のように、音を立てて砕けながら一角に大きな穴を開ける空。

 空に開いた大きな穴から飛び出てきたのは、異形の槍だった。

 

 

 白い支柱に青い翼と赤い翼が絡みつくような造形の巨大な槍は、黄金色の空を外から穿つと、周囲に空の破片をまき散らしながら地上に向かって落下していく。

 ヒトの手では開くことが許されない扉を、ヒトの意志を乗せてぶち破いた槍。

 勇ましくその姿を現した槍だったが、その全貌はあちこちが破壊され、すでにボロボロの状態だった。

 

 白い支柱と、2枚の翼を繋ぐ3つの連結部。そのうち前部と後部はすでに粉々に破壊され、残る最後の中央の連結部も今にも砕けてしまいそう。槍は落下しながら、今まさに崩壊の危機に陥っていた。

 その崩壊を何とか繋ぎ止めていたもの。

 残された最後の連結部を、身を挺して繋ぎ止めていたもの。

 エヴァンゲリオン8号機は、2本の腕と2本の足を使って、崩壊寸前の連結部に抱き着き、繋ぎ止め、辛うじて槍全体の崩壊を防いでいた。

 8号機の八つの目が地上を見下ろす。

 

 

 

 

「アァァァァァァァァァァァスゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥカァァァァァァァァァァァ!!」

 

 

 

 

 8号機のパイロット。真希波・マリ・イラストリアスは生まれたばかりのようなツルッツルの肌の額に青筋を浮かべ、噛み締めた口の端からは血を滲ませ、青い瞳を爛々と輝かせながら、最後の気力を振り絞って8号機を操っている。そして地上に立つ第13号機の存在を認識するや、彼女の相棒の名を懸命に叫んでいた。

 マリの背中に抱き着く小さな子供も身を乗り出し、やや興奮気味に鼻の両孔からふんふんと荒めの呼気を漏らしながら、右拳を突き上げている。

 

 

 第13号機は頭上を見上げた。

 4つある目から放たれる視線の先には、こちらに向かって落下してくる巨大な異形の槍。

「マリィーーーーーーーーー!!」

 第13号機の搭乗者も彼女の相棒の名を叫んだ。

「その槍寄越せええええええええ!!」

 

 

 

「ゴメン…、もぅマヂ無理…」

 槍に抱き着きながら勇ましく表れた8号機だが、機体よりも遥かに大きい槍の連結部を支え続けた全身の筋肉がいよいよ限界に達したらしい。8号機の両腕が、両足が。連結部に絡めていた8号機の四肢が明らかに緩みつつある。

 そして8号機の四肢と槍との間に僅かな隙間が生じると、途端に大きな破裂音と共に中央部の連結部にも複数の亀裂が走り始めた。

 

「なにやってんのよコネメガネ! ちったー根性見せなさいよぉ!」

 アスカの叱咤も空しく、槍にしがみ付いていた8号機のまずは両足が槍から離れてしまった。両足が絡みついていたことで何とか形を保ち続けていた中央連結部の後部が完全に割れてしまう。

 さらに続けて左腕が離れ。そして残った右手も小指、薬指と次々と槍から外れてしまい。

 そして。

「あ~~~~れ~~~~~!」

 8号機の機体は槍から離れ、高速で落下する槍が巻き起こす乱気流に飲まれて弾け飛んでしまった。

「こんの役立たずがぁぁぁ!」

 

 槍の形を辛うじて繋ぎ止めていた8号機がついに離れてしまった。

 白い支柱に絡みつく赤い翼と青い翼の、残された最後の連結部がついに粉々に砕け、異形の槍はそれを構成する1本の支柱と2枚の翼に分裂してしまう。

 

 飾りっ気のないただの素槍となってしまった白い槍。

 その白い槍から分裂した赤い翼と青い翼。それらはまるでそれぞれが一枚の羽根のような形状であり、その先端はまるで如何なるものも貫く鋭い刃のようだった。

 

 白い槍。

 そして赤い羽根と青い羽根。

 いや、赤い槍と青い槍。

 3本の巨大な槍が、轟音と共に虚構の世界の大地へと突き刺さる。

 

 

 遥か上空から落下した超巨大構造物。

 地上に衝突した瞬間に強烈な空振が発生し、それは見えない津波と化して周囲に波及していく。

 第13号機はATフィールドを張り巡らせながら片膝を付いてその衝撃に耐え、そして初号機は大きく跳躍すると地面に着地すると同時にその右手で地上に立つ少年の体を庇い、そして左手で少年の父親の体を庇った。

 直後に襲った衝撃波。

 空が震え、大地が割れる。

 

 

 

 槍の衝突によって巻き上げられた大量の土砂による霧が落ち着き、そして現れた光景を前に、アスカは思わず頭を抱えてしまった。

「あっちゃーーーー…」

 この槍が一体どのような経緯でここまで辿り着いたのか。第13号機に乗るアスカは知る由もない。しかしその槍に彼女の相棒が乗ってきた以上、あの槍はきっと彼女の仲間たちが彼女たちのために届けてくれたものなのだろう。

 その槍が。

 ヴィレの槍が見るも無惨に崩壊してこの世界に届けられ、そして地面に突き刺さる様を目撃したアスカは唖然とするしかなかった。

「どうすんのよ、これ…」

 そうアスカが呟いた時。

 

「うわっ!?」

 

 第13号機のパイロット。アスカ・ラングレーは、彼女が支配下に置いたはずの第13号機が勝手に動き始めたので小さな悲鳴を上げてしまった。彼女が乗る機体が、大地に突き刺さった3本の槍へと向かって走り始めたのだ。

「何勝手に動いてんのよ、こいつ!」

 第13号機のコントロールを取り戻そうと操縦桿を握り締める。

「スーパーアスカ…」

 アスカは最初、隣から掛けられたそのか細い声が自分に向けられたものとは気付けなかった。「何者だ」と問うあのヒゲ親父に向かって咄嗟の思い付きで、その場のノリでついつい口走ってしまったその名で改めて呼ばれてしまうと、こっ恥ずかしさが込み上げてしまう。

「な、何よ…」

 隣を見ると、隣のエントリープラグに屯する3人の少女。アスカがネルフに所属していた時代の同僚によく似た少女たちのうち、操縦席に座る一人がこちらを見ていた。

「碇ゲンドウは、付加的なインパクトを発生させるために、2本の槍を使った」

 それを聴き、アスカの目は地上に突き刺さった3本の槍へと向けられる。

「このインパクトを止めるには、それを上回る3本の槍を使えばいいってこと?」

 少女はこくりと頷く。

「カヲルがそう言ってる」

「それってどーゆー理屈よ!」

 アスカはそう怒鳴りながらも、握った操縦桿を通して槍へと向かうよう機体に意思を伝えつつ、素早く通信回線を開いた。

「コネメガネ! あんたも手伝え!」

「心得たぁ!」

 槍と共に地上に墜落し、頭の上に天使とお星さまをぐるぐる回していた8号機は、その号令を聴いて弾かれたように飛び上がった。

 アスカはさらに開いた別の回線にも向かって怒鳴り散らす。

 

優等生(エコヒイキ)!」

 

 少年とその父親を槍の落下による衝撃波から守っていた初号機は、その呼び掛けにゆっくりと顔を上げた。

 

「あんたもよ!」

 

 

 その落下により地表に巨大なクレーターを築き上げた3本の槍。

 真っ先に辿り着いた第13号機は、赤、白、青の順で並んで突き刺さっている3本の槍の内、赤の槍のもとに駆け込む。

「あたしはもちろん赤い槍!」

「んじゃあたしは青い槍で!」

 槍のもとまでひとっ跳びで現れた8号機も、青の槍の根元へと着地した。

 

 4本のうち半分を失いつつも、残っている2本の腕を使って赤い槍を引き抜こうとするエヴァンゲリオン第13号機。

 復活させた2本の腕を使って、青い槍を持ち上げようとするエヴァンゲリオン8号機。

 素体の表面に極太の血管が浮かび上がり、素体を覆う装甲をはち切る勢いで筋肉が膨張する。

 空に向けて真っすぐに突き刺さっていた2本の槍が大きくぐらつき、地面深くに埋没していた先端が露出し始めた。

「どりゃああああああ!」

「だっしゃあああああ!」

 2人のパイロットによる雄叫びが重なる。

 彼女たちが操る機体もまた大きく咆哮しながら、ついにはその機体よりも遥かに大きな槍を抱え上げてしまった。

 

「何やってんのよ優等生(エコヒイキ)!」

 2体のエヴァンゲリオンが槍を引き抜いた時になって、ようやく白い槍のもとに現れたその巨人に向けて、アスカは怒鳴り散らす。

 すでに4つ足の獣の姿ではなく、人型に戻った姿で現れた初号機。リミッターを外し暴走させるという形で機体スペックを強引に引き上げた結果、体内に蓄えられたエネルギーを使い果たしたかのように筋肉が萎んでしまった初号機は、まるで飢民のような姿。第13号機との激闘により至る所に穴が開いている体は、動く度に大量の体液を垂れ流している。人型に戻ったはずなのに、2本の足で歩くことなく、地面を這ってやってきた初号機は、もたれかかった槍に助けられながら、辛うじて大地に立った。

 両手で白い槍に抱き着き、そして大地を踏みしめた両脚に力を籠める。

 しかし地中深くに刺さった槍は小動もしない。

「あんたも根性見せろ!」

 8号機のパイロットから檄が飛ぶが、初号機が引き抜こうとする白い槍の切っ先は、未だ地面に埋まったまま。

 それでも初号機は残された力を全身に漲らせる。体中に開いた穴から夥しい量の体液が飛び散り、足もとにどす黒い水溜まりを広げながらも、傷だらけの機体で、その機体よりも遥かに大きい槍を引き抜こうとする。

 そしてついに、地上から天に伸びた白い槍がぐらつき始めた。白い槍の先端が地面から顔を出し始めた。

 長大な槍が初号機の右肩に乗り、その膨大な質量を支えきれずに初号機の膝は堪らず地面に付く。

 初号機の口の両端から大量の水蒸気が噴き出した。

 顎が砕けた口を大きく開き、喉の奥から大地を轟かす巨大な咆哮が迸る。

 

 地面に付いていた右膝が浮く。

 折れていた膝が伸びていく。

 腰が地上から離れていく。

 

 白い槍を右肩に抱えた初号機が、ついに地上に立った。

 

 

 右側には赤い槍を構えたエヴァンゲリオン第13号機。

 左側には青い槍を構えたエヴァンゲリオン8号機。

 その2体に囲まれる、白い槍を構えたのはエヴァンゲリオン初号機。

 

 その3本の槍の切っ先が、一斉に上空を睨んだ。

 

 3本の槍の鋭い切っ先が睨む先。

 

 この虚構の世界の大地に、世界樹のように聳え立つ、女性の姿をした白い巨人。

 黄金色の空をすり抜け、この世界の「外」へと顔を覗かせた白い巨人。

 あまりにも巨大過ぎて、その足もとに立つ3体のエヴァンゲリオンからの視点では、先端の見えない2本の巨大な柱があるようにしか見えないだろう。

 

 3体のエヴァンゲリオンは、誰から合図するでもなしに、ほぼ同時にその予備動作に入った。

 左足を前に。そして右足を後ろにずらし、大きく股を開いて大地を強く踏みしめる。

 右足に体重を乗せ、上半身を大きく後ろへ倒す。

 その上半身を時計回りに捻じれさせ、その捻じれの中に上半身のあらゆる筋肉から生じる弾性エネルギーを溜め込む。

 

 その体勢で静止して3秒後。

 

 右足に傾けていた体重を、一気に左足に傾け。

 後ろに倒していた上半身を一気に前に倒し。

 上半身の捻じれに集中させていた弾性エネルギーを一気に解放させる。

 体中から発したそれらのエネルギー全てを、構えた槍に籠めて。

 

 

 投擲。

 

 

 エヴァンゲリオンが持ちうる全ての力を乗せられた3本の槍が、空に向けて一斉に飛翔した。

 

 

「行けええええええええ!!」

 アスカが叫ぶ。

 

「貫けっ!! ヴィレ(あたしたち)の槍!!」

 マリが叫ぶ。

 

 そして槍を投擲したと同時に、両膝を地面に付き、両手を地面に付き、力尽きたかのように崩れ落ちてしまった初号機も、地面を睨みながら最後の力を振り絞って咆哮する。「届け」と叫ぶ。

 

 

 

 大地から飛び立つ3本の槍。

 秒速11.2キロメートルを遥かに超える速度で飛翔する3本の槍。

 その切っ先が虚構の空。黄金色の円蓋に触れると、まるで稲妻のように空全体に大きな亀裂が放射状に走った。次の瞬間、黄金色の空はガラスのように音を立てて砕け散る。砕けた蓋の破片たちは、さらに微小な塵へと分解していき、それらがまるで光輝く流星群のように虚構の大地へと降り注いでいく。

 

 

 虚構と現実を分け隔てる扉を完全に砕いてもなお、3本の槍の勢いは衰えない。

 断熱圧縮による膨大な熱エネルギーを纏った3本の槍は、炎を纏った不死鳥のような姿で、虚構の空から現実の空へと飛び出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤い大地。

 赤い海。

 抱いた豊かな生命のほぼ全てを血の色で塗り固めた星。

 

 地球。

 

 その地球の最南端。

 南極点に聳え立つ、女性の姿をした白い巨人。

 その背に、12枚の翼を背負った白い巨人。

 虚構と現実の境を取り払い、全てを、あらゆるものを単一化するためにこの世界に遣わされた白い巨人。

 その体からは頭部のみが切断され、その頭部の母体の胸の前でゆらゆらと浮いている白い巨人。

 

 その頭部。

 巨人の顔。

 まだ幼さが残る、少女の顔。

 全身が白く染まった巨人の体において、青みがかった頭髪、赤い瞳。

 宇宙空間を漂う少女の頭部。

 その頭部に向けて、地上から3つの光の筋が伸びていく。

 

 3つの光の筋はやがて1つの光に融合すると、光煌めく大きな彗星となって宇宙空間へと飛び出した。

 

 ぐんぐんと高度を増していく彗星はやがて少女の頭部へと到達。

 光を纏った槍の切っ先が、少女の下顎に深く突き刺さる。

 光の尾を引く彗星はそのまま頭部の中を突き進み。

 少女の左目へと。赤く輝く瞳へと到達し。

 その赤い瞳を穿ち。

 瞳を砕き割り。

 

 少女の頭部を貫いた彗星はなおも強烈な光を瞬かながら、やがて地球という小さな檻からも飛び出し、数多の星々が瞬く無限の宇宙へと音もなく消えていった。

 

 頭部のない女性の姿をした巨人の体が、胸を張り、背中が大きく仰け反っていく。

 背負った12枚の翼が、少しずつ消滅していく。

 そして彗星によって貫かれた少女の頭部は、一度大きく煌めき、そして次の瞬間には砕けて無数の塵へと分解していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 虚構と現実。

 2つの相反する世界を隔てる扉。

 それが砕け散ると、その先に現れたのは数多の星々を抱く濃紺の空。

 空という大海に掛けられた橋のように伸びる天の川。

 そしてこの地か、あるいは対極の地でしか見られない現象。オーロラが舞い踊る夜空。

 その夜空を、砕けた扉の粒子たちが流星群となってさらに彩っていく。

 

 そんな幻想的な空に在って、圧倒的な異物感を撒き散らして聳え立っていた女性の姿をした白い巨人。

 

 その白い巨人に向かって。

 正確には、頭部を欠いた巨人の前でゆらゆらと浮遊する少女の頭部に向かって。

 

 地上に向けて降り注ぐ流星群に逆らうように。

 瀑布の中を遡上する龍のように。

 

 虚構の地上から投擲された3本の槍。

 炎を纏う3本の槍。

 それらは1つの彗星へと融合し、少女の頭部を下顎から左の瞳に掛けて貫いた。

 

 天に向けてひたすら肥大化していった巨人は、まるで糸が切れた操り人形のように、体を大きく仰け反らせ、その大き過ぎる体を背中から大地へと倒れていく。

 貫かれた頭部は大きな光を発すると、無数の塵と化して弾け飛んだ。塵たちは夜空を描いたキャンパスの上に落とされた灰色のペンキのように八方に大きく広がっていき、星々と流星群とオーロラで彩られた夜空を覆っていく。

 

 

 

 

 それらの事象は。

 3体の巨人が空に向けて巨大な槍を投擲してから僅か数分の間に起きたそれらの事象は、彼の夢が。

 四半世紀の時間を費やした彼の夢が。

 文字通り心血を注いだ彼の夢が。

 あらゆる犠牲を払って叶えようとした彼の夢が、打ち砕かれた瞬間だった。

 

 彼は。

 碇ゲンドウは、自分の夢が。願いが。希望が引き裂かれる瞬間を、十字状に裂かれた目で、ただ見守っていた。

 見守るしかなかった。

 見守ることしかできなかった。

 

 己の夢を叶えるために、尋常ならざる熱量を漲らせ続けたその肉体からは生気が消え。

 彼の夢を妨害するあらゆる障壁を打ち砕いてきた拳を握ることもできず、その両腕は重力に引かれるままに両肩からぶら下がるだけ。

 

 白い巨人は。

 彼の願いを叶えるはずだった白い巨人は地球という牢獄の重力という鎖に引かれるままに倒れていき、その倒れていく過程で今更自然の法則でも思い出したかのように、不自然過ぎる膨張を重ねた体のあちこちが裂け、腕がもげ、脚がもげ、自然の、神の法則に逆らった罰でも受けるかのように、その巨大過ぎる体を崩壊させていく。

 

 崩壊していく白い巨人。

 肩から完全に分断した右腕の先端。

 右腕から捥げた右手の先端。

 右手から千切れた小指のさらにその先端。

 小指から剥がれ落ちた爪が、碇ゲンドウらが居る場所から少し離れた場所へと落下した。

 

 あまりにも大き過ぎる巨人から剥がれ落ちたその小指の爪もまたあまりにも大き過ぎて、その落下の衝撃は地面を大きく震わせ、周囲に突風を撒き散らし、膨大な量の土砂を舞い上がらせた。

 突風と土煙に煽られ、ゲンドウは両腕で顔を覆う。

 

 突風が止み、ゲンドウは腕を下ろした。

 

 大地は未だに震え、大気は騒めき、遠くからは地鳴りが響いている。周囲は土煙が立ち込めたまま。

 その土煙も次第に晴れていき、大気は清浄を取り戻し、大地の震えが静まる中で。

 

 

「父さん」

 

 

 遥か彼方で未だに響く地鳴りに紛れて聴こえてくる、小さな声。

 それでいて、まるで頭の中に直に語り掛けてくるような、明瞭な声。

 

 

「僕と…」

 

 

 背中に掛けられた声に、ゲンドウは振り返る。

 振り返った先に彼が見たものは、次第に晴れていく土煙の向こうに見える華奢な人影。

 人影は彼に語り掛ける。

 

 

「話をしよう…」

 

 

 世界は静寂に包まれた。

 

 

 

 



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(67)You(We) Are Not Alone

 

 

 

 

 風に渦巻く砂塵の中に立つ少年。

 学校指定の白のワイシャツに黒の学生ズボンを着た少年。

 その右手に父親から譲り受けた携帯型音楽プレイヤーを握り締めて立つ少年。

 碇シンジは、彼の仲間たちが彼の父親の夢を打ち砕く様を静かに見届け、そして自分の夢が打ち砕かれていく様を見届ける彼の父親の背中を、静かに見つめていた。

 

 彼は口を開く。

 

「父さん」

 

 数多の星々が煌めき、オーロラが揺らめく夜空。その夜空を覆いつつある灰色の塵。

 その塵を見上げていた父親の背中に声を掛けると、父親の肩が僅かばかり震えた。

 

「僕と…」

 

 父親はゆっくりと振り返る。

 十字状に裂かれた父親の目を見つめながら、彼は呼び掛けた。

 

「話をしよう…」

 

 

 

 

 

 そんな彼の静かな呼び掛けを切り裂くように、それらは現れた。

 2人の頭上を2つの大きな影が飛び越える。

 そして大地を震わす2つの轟音。

 再び2人を突風が襲い、収まり掛けていた砂塵が勢いを増す。

 

 2つの影。

 2つの、エヴァンゲリオン。

 エヴァンゲリオン第13号機と、8号機。

 碇シンジの背後に降り立った2体の巨人。

 碇シンジの背中を見守るように、後押しするように、彼の背後に聳え立った2体のエヴァンゲリオン。

 

 しかしながら複座式の第13号機のパイロットの一人は、この状況を静観するつもりはさらさらないようで。

「さあ~この腐れヒゲ親父ぃ! 積もりに積もった積年の恨みぃ! ここでたっぷりと晴らしてやるっつーの!」

「スーパーアスカ…」

「2枚に下ろして3枚に下ろして、4つに畳んで5つに畳んでやるから覚悟しろっつーの!」

「スーパーアスカ…」

「何よ、ってかその呼び方止めてよ!」

 息まくアスカ・ラングレーは、そんな彼女とは正反対の冷めた声で呼びかけてくる隣のエントリープラグに身を置く淡い光の少女を睨んだ。

「もう戦う必要はない」

「あんたに必要はなくてもあたしにはあるっつーの!」

「もう戦うべき時は終わった」

「何よ! それもカヲルって奴がゆってんの!?」

 その問いに、淡い光の少女は小さく首を横に振る。そしてアスカに向けていた視線を外した。

「彼女が、そう言ってる」

 アスカはその声に促されるままに、淡い光の視線を追う。

 

 彼女たちが見つめる先には、地面を這う巨人。

 もはや跳ぶことも駆けることも歩くことも叶わなくなったエヴァンゲリオン初号機が、大地をどす黒い体液で汚しながら這い続け、碇シンジの背中を守るように立つ2体のエヴァンゲリオンの隣に並ぼうとしている。

 

「あとは、全てを碇シンジに任せよう」

 

 初号機の痛々しい姿に目を奪われていたアスカは、その声にはっとして、隣のエントリープラグに視線を戻した。

 

「「「綾波レイが、そう言ってる」」」

 

 その名前の持ち主とそっくりの3つの淡い光が、声を揃えて言った。

 

 

『そ~だよ~、姫~』

 彼女たちがいるコクピットに、のんびりとした口調の声が届いた。

 アスカはその声の持ち主が搭乗する機体。第13号機の隣に立つ、エヴァンゲリオン8号機へと向ける。

『親子喧嘩は犬も食わないってゆーでしょうが。外野は黙って見守るが吉だよん』

 

『そりゃ夫婦喧嘩でしょうが…』

 スピーカー越しに聴こえる、欧州育ちの割にこの国のことわざに造詣の深い相棒の声に「にゃはっ」と笑う真希波マリは、操縦席の背もたれに背を預け、足を伸ばし、肘掛けに頬杖を付くという、完全に臨戦態勢を解除した姿勢でその光景を見つめていた。

「男子、三日会わざれば刮目して見よ…、か」

 彼女たちが乗るエヴァンゲリオンの足もとで対峙する2人。そのうちの一人に目を向ける。

「ちょ~っと見ない間にカッコよくなっちゃってま~」

 拡大された少年の顔に見惚れるマリの膝に乗る小さな子供も、うんうんと頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 息子は黒曜石のような瞳で。

 父親は十字状に裂かれた目で、互いの顔を見つめ合っていた。

 10歩程度の距離を空けて。

 息子は右手に携帯型の音楽プレイヤーを握り締めて。

 父親は空手で。

 武器らしいものは一切持たず、時に拒絶し合い、時に激しく憎み合った2人は対峙していた。

 

 

 息子が彼の父親の背中に呼び掛け、父親が振り向き、そして互いの顔を無言で鑑賞し始めてから、どれくらいの時間が過ぎたことだろう。

 2人を見守る数人ばかりの立会人にとっては、永遠にも思えたような時間。数多の星々やオーロラ、円蓋の粒子化した破片が流星群のように舞っていた夜空はいつの間にか灰色の塵で完全に覆われ、怪しげな光を放つ虚構の世界の大地が2人の体を足もとから照らし出す。

 

 

 止まった時間を動かしたのは、父親の方だった。

 

「何故だ…」

 

 口火を切った父親の口から、最初に出た言葉。

 それは問い質す言葉だった。

 

 先に沈黙を断ったのが父親であり、その一言目が問い質す言葉だったことに少しだけ驚いたのかもしれない。

 息子は、最後に口を開いてからずっと父親を見続けてきた目に、初めて瞬きをさせる。

 

「何故なんだ…」

 同じ言葉を繰り返す父親。

 

 ようやく始まった会話。

 息子が望んだ親子の会話。

 しかし父親から投げかける言葉は、まるでその2文字しか知らないとばかりに「何故・何故」と続く。

 「何故」と言われても、何を問われているかを理解していない息子は、その表情に少しばかりの困惑の色を乗せた。  

 

「お前にも私が得たものと同じ喪失を、幾度となく与えたはず」

 

 ようやく「何故」以外の言葉を紡いだ父親の口。

 息子は父親の問いの意味を瞬時に理解し、表情に宿していた少しばかりの困惑を捨てた。

 

「何故だ」

 父親は再び同じ言葉。

 まるで呪詛のように、その2文字を声に乗せる。

 そして十字状に裂かれた目から注がれる視線をほんの刹那、息子の顔から外し、顔のその下。首のその下。胴体のその下。怪しげな光を放つ大地を踏みしめる、少年の2本の足に向ける。

 

「何故、お前は立っていられる」

 

 息子の足に向けられた視線は、再び息子の顔へ。

 

「何故、お前は絶望しない…」

 

 

 

 父親の口から問いを投げ掛け続けられながら、少年は頭の中で記憶の箱の中身を探っていた。

 箱の中に蓄積された、父親との会話の記憶を。

 彼がこの世界に産み落とされてから今に至るまで、父親から投げかけれらた言葉の数々を。

 何しろ疎遠過ぎた間柄のため、交わした会話もほんの僅か。

 だから息子は、父親と交わした会話のほぼ全てを思い出すことができた。

 思い出してみて、そして改めて思う。

 

 今、対峙している男が。

 

 自分の父親が、ここまで自分に関心を持ってくれたのは、これが初めてではないか、と。

 

 

 だから碇シンジは少しだけ笑った。

 

 それは父親の関心を惹けたことを嬉しく思う子供の極々自然な反応に過ぎなかったのだが、自分の中に渦巻き溢れる疑問の答えを必死で求めている父親にとっては、さらなる混乱を掻き立ててしまう表情になってしまったに違いない。

 父親の右足が、ほんの半歩分だけ。

 まるで得体の知れない化け物とでも対峙してしまったかのように、半歩分だけ後ずさったのだ。

 

 

 そんな父親の混乱ぶりを察することができない息子は、その顔に僅かな微笑みを浮かべながら、首を左に向けて少しだけ捻ってみた。

 左側に移動する視界。

 視界の右隅っこに父親の姿が消え、代わりに視界の左隅っこから巨大な足が現れたため、息子は瞳を動かしてその足の持ち主の顔を視界の中央に迎える。

 

 彼の視界の中央に収まったもの。

 

 8つの目を宿す、異形の顔。

 

 エヴァンゲリオン8号機。

 

 黄金色に輝く8つの目が、静かに彼を見下ろしている。

 

 異形の顔を見上げる彼は顔だけでなく体の正面を8号機に向け、異形の顔に向けて微笑み掛けた。

 

 

 そして彼はさらに首を左側に捻る。

 左側に移動する視界。

 すると視界の隅っこにはまたもや巨大な足。彼はやはり瞳だけを動かして、足の持ち主の顔を視界の中央に迎える。

 

 そこにあるのは2つの眼孔を横に裂いた、4つの目を持つ顔。

 

 エヴァンゲリオン第13号機。

 

 黄金色に輝く4つの目が、静かに彼を見下ろしている。

 

 彼は体の正面と共に、笑顔を第13号機へと向ける。

 

 

 そして彼はさらに首を左側へと捩じった。

 左側に移動する視界の隅っこに入ってきたもの。

 それは今度も巨大な足。

 ではなかった。

 視界を左側に移動させるだけで、その巨人の全体像を収めることができてしまったのだ。

 

 彼は左側に捻った首を一度正面に。第13号機の足もとに戻してしまう。

 

 胸の鼓動が高鳴るのを自覚した。

 呼吸が切迫するのを自覚した。

 彼の顔から笑みが消えてしまう。

 額に大量の汗が滲み出て、その内の一粒が滑り落ち、彼の頬を伝い、顎から滴り落ちる。

 

 下唇を噛み締め、喉の奥から漏れかけた嗚咽を押し戻す。

 瞼を閉じ、涙腺から漏れかけた涙を押し戻す。

 

 一度大きく深呼吸をして、乱れた息を整えて。

 

 そして一度は消えた笑みを、再びその顔に宿し。

 

 そして再び視界を左側へと移動させ、その巨人を視界に収める。

 

 

 エヴァンゲリオン初号機。

 

 14年前まで、彼が専属パイロットを務めていた機体。

 

 先の2体の巨人が直立していたのに対し、その巨人は両膝を地面につき、両手を地面に付き、蹲っていた。

 第13号機との激闘によって体中に開いた大小様々な孔は今も夥しい量の体液を垂れ流し続け、体内に溜まった膨大な熱を逃すためにあらゆる装甲の隙間から幾筋もの水蒸気を燻らせている初号機。

 下顎を砕かれた口では、苦し気に濁った呼吸が浅くゆっくりと繰り返されている。

 

 そんな状態でもなお初号機は顔を上げ、2つある目をまっすぐに彼に向けてくれている。

 見守るように、後押しするように。

 そのひたむきな瞳を碇シンジに向けてくれている。

 

 彼は体の正面を初号機へと向ける。

 そして半ば強引に宿らせた笑顔を、初号機へ送った。

 

 

 そして彼は首を左側に捩じった。

 左側に移動する視界。

 視界の片隅に現れた人物。

 それは、彼の父親。

 

 

 

 息子が体をぐるりと一回転させて、彼を囲むように立つ(蹲る)3体の巨人の顔を一つ一つ見つめていく。

 そして再びこちらに向けられた息子の顔。

 その顔に宿された笑顔。

 父親の混乱は深まるばかりだった。

 

「父さん」

 そんな父に、息子は静かに語り掛ける。

 

「これが答えだよ」

 相手の耳にではなく、心に語り掛けるような声音で。

 

「確かに僕は何度も打ちのめされた」

 息子の顔から笑みが消える。

「突き付けられた運命は、ただの弱い人間でしかない僕には、あまりにも過酷過ぎたんだ」

 喪失したもの。そして自分自身が犯してしまったあまりにも大きな罪。それを頭に思い描く彼の握り締められた左拳が微かに震え、伏せられた目から放たれる弱々しい視線は父親の足もとへと注がれる。

 

「でも…」

 しかし彼はすぐに視線を彼の父親の顔へと戻した。

「でも僕が殻の中に閉じこもり、外の世界のあらゆるものを拒絶していた時。あの時弐号機に乗っていた君は、君が寄せてくれた甘く厳しい声で、閉じていた僕の心の扉を開いてくれたね」

 彼の視線は彼の父親の顔に注がれたまま。しかし彼の口から紡ぎ出される声は、明らかに父親以外へと向けられている。

「君のお陰で、僕は逃げようとしていた現実に、もう一度目を向けることができたんだ」

 彼の顔に、再び笑顔が宿る。首だけを捻り、彼の左手に立つ巨人の顔を見上げる。

「あの時はありがとう。マリさん」

 8つ目の巨人。8号機は、「どういたしまして」とばかりに肩を竦めてみせた。

 その仕草はその巨体を操るパイロットそのもののようで、彼は「ふふ」と口の端に小さな笑い声を乗せる。

 

 彼は父親の顔に視線を戻し、言葉を紡ぎ続ける。

「僕が犯した大き過ぎる罪を僕自身が背負いきることが出来ずに打ちのめされていた時。ピアノの弾き方と、誰かと繋がることの楽しさを思い出させてくれた君は、僕を希望の光で照らしてくれたね」

 そこまで言って、彼の顔に再び暗い影が差した。

「そして僕が犯した2度目の大きな罪を、君は一人で引き受けてくれた…」

 自身の顔に差した影を短く瞬きを繰り返すことで追い出す。首だけを左側に捻り、肩越しに背後に立つ4つ目の巨人の顔を見上げる。

「ありがとう。カヲルくん。そしてごめん…、カヲルくん…」

 彼の背中を見下ろす4つの目を宿した巨人は、「気にしないで」とばかりに深く頷いた。

 その仕草もまたその巨体に宿っているはずの誰かを想起させ、彼はやはり「ふふ」と小さな笑い声を口ずさんだ。

 

 彼は父親の顔を視線を戻し、言葉を紡ぎ続ける。 

「そして絶望に浸っていた僕をプラグの底から引き摺り出してくれた君。僕をもう一度大地に立たせてくれた君。僕の手を引いてくれた君。僕の口に食べ物を押し込んでくれた君。僕を見捨てずにいてくれた君」

 息継ぎなしで喋り続けた彼は、一度言葉を区切るとふうと溜息を吐く。今度は右側に首だけを捻り、右肩越しに背後に立つ4つ目の巨人の顔を見上げる。

「ありがとう、アスカ」

 するとその巨人はまるで照れたように顔をそっぽに向けてしまった。

 それはもはやまんま巨人に乗る元同居人の普段通りの仕草だったので、彼は口を開いて「ははっ」と笑い声を上げてしまった。

 

 

 そして彼は4つ目の巨人に向けていた視線を下ろし、一度地べたを見つめ。

 そして目を閉じ。

 心を落ち着けようと深く静かに息を吐き。

 目を開け。

 その顔に笑みを宿し。

 そして4つ目の巨人に向けていた視線を正面に戻す過程で、もう一つの巨人の姿を視界の中央に収めた。

 

 血だまりの中で蹲り、顔だけをこちらに向けてくれている初号機。

 

 その姿を見た途端、落ち着けたはずの心が掻き乱されるのを、彼は自覚した。

 

「綾波…」

 

 彼の震える口から掛けることが出来た言葉は、それだけだった。

 

 目を伏してしまった彼。

 

「ありがとう…、綾波…」

 

 口の中で呟かれたその声が外界に響くことはなかった。

 

 彼はこの場には必要ない情動を、それでも体の奥底から溢れ出てきそうな感情を胃の中に押し込めるように奥歯を噛み締めつつ、顔を彼の答えを待っている男の方へと向ける。

 

 

 

 父親は、黙って息子の答えを待っていた。

 息子は、目尻に浮かんでいた小さな雫を拭いながら言う。

「彼らだけじゃない。ミサトさんやリツコさん、加持さん。トウジに洞木さんに、…って、違った。今は鈴原ヒカリさんだ…。それにケンスケ」

 頭に浮かぶ顔の名前を次々と口に出す彼。

「そして…」

 そして彼の頭の中に最後に浮かんだ顔。

 

 彼は自身の両手を見つめる。

 

 「彼女」を、一瞬だけ抱き締めたその両手を。

 

 一瞬だけ抱き締め、そして次の瞬間には泡となって消えてしまった「彼女」の最後に見た笑顔を思い浮かべて。

 

 その両手を、右手に持っていた音楽プレイヤーごと。

 「彼女」が持たせてくれた音楽プレイヤーごと包み込むように絡め、額に当てる。

 

「ありがとう…、みんな…」

 

 目を閉じ、この場に居ない彼ら彼女らへ心からの感謝の言葉を捧げた。

 

 

 額から手を離した。

 

「僕の傍には、いつも誰かが居てくれた」

 

 組んでいた両手を解いた。

 

「絶望の底に沈んでいた僕に、手を差し伸べてくれる人が居たんだ」

 

 瞼を開き。

 

「僕は、一人じゃなかったんだ…」

 

 父親の顔を、正面から見据える。

 

「それなのに…、僕は…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある研究所の研究棟。

 数分前に、とある悲劇に見舞われた場所。

 実験房の中で、一人の女性が消えた場所。

 

 モニター室と実験房を隔てる大きな強化ガラス。

 その前に立つ長身の男。

 長身の男の足もとには、複数の男たちによって床に取り押さえられた人物。

 

 突き付けられた「現実」を否定するために。覆すために取り乱し、暴れ続けた末に同僚に取り押さえられた男。

 父親。

 

 長身の男から「現実」を告げられて以来、この世の終わりでも見たような喚き声を撒き散らしていた父親。

 その喚き声も何時しか大人しくなり、父親が漏らす弱々しい小さな嗚咽のみがモニター室の中を漂う。

 

 長身の男が父親を取り押さえている同僚たちに指示を出すと、同僚たちは一人、また一人と、父親の背中から離れていく。

 全員が背中から退き、拘束から解放された父親。

 のそりのそりと、まるで生ける屍のように、ゆっくりと立ち上がる父親。

 彼は目の前の強化ガラスにへばり付き、中を覗き見る。

 長身の男から告げられた事実をまだ信じ切れないとばかりに。

 彼の愛する人が消えていった実験房の中に、隅々まで視線を這わせる。

 

 

 大きな悲鳴。

 

 父親が上げる大きな悲鳴に同僚たちは身構えたが、長身の男が視線で彼らを制止する。

 

 父親は癖のある髪を両手で引っ掻き回し、意味を成さない喚き声を上げ続けながら、一歩二歩と、ゆっくりと強化ガラスから遠ざかった。

 

 そしてふらりと振り返る。

 

 

 振り返った父親。

 

 目から大量の涙を溢れさせる父親。

 口の端から大量の泡を吹く父親。

 額から大量の血を滲ませる父親。

 

 絶望に打ちひしがれた父親の顔。

 

 その父親が、一歩二歩と、こちらに近付いてくる。

 

「シンジ…」

 

 こちらに向けて、縋るように手を差し伸べてくる。

 

「母さんが…」

 

 それはまるで地獄の底から這い出てきた亡者のよう。

 

「ユイが…」

 

 地獄の底へと誘う化け物のよう。

 

 

 堪らず息子は身を翻す。

 

「待て!」

 

 大人たちの足を掻き分けて、走り出す。

 

「待ってくれ!」

 

 ドアに辿り着くと、腕を伸ばしてドアノブを掴み、捩じった。

 

「行かないでくれ! シンジ!」

 

 ドアを開け放ち、転がるように廊下へと飛び出す。

 

「私を見捨てないでくれ! シンジ!」

 

 短い両腕を交互に懸命に振って、廊下を駆ける。

 

「シンジィィィーーーーーーーー!」

 

 ドアが閉じてもなお聴こえてくる父親の悲鳴。

 

 堪らず両耳を塞いだ息子は、短い両足を懸命に動かしながら、必死で父親の叫び声から遠ざかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうなんだ…」

 

 十字状の目を宿す父親の顔を見つめながら、息子は呟く。

 

「父さんが僕から離れたんじゃない。僕が、父さんから逃げたんだ…」

 

 変わり果ててしまった父親の姿を見つめながら、息子は呟く。

 

「みんなはずっと、僕のことを見守ってくれていたのに…」

 

 体中を蝕む哀しみを克服するために変わらざるをえなかった父親の顔から視線を外し、父親の足もとを見つめ。

 

「それなのに僕は…」

 

 唇を噛み締め。

 拳を握り締め。

 

 

 

 

 この日、この時。

 碇シンジが碇ゲンドウと相対し、彼の父親に直接伝えたかったこと。

 直接会って、伝えなければならなかった2つのこと。

 

 その1つ。

 

 

 

 

「それなのに僕は…」 

 

 彼は伏せていた目を上げ、父親を見た。

 

 その視線の鋭さに、父親は反射的に身構えた。

 

 

 

 

「ごめん…! 父さん…!」

 

 

 

 

 息子は肚の底から絞り出すよに叫んだ。

 

「ごめん…、父さん…。あの時…、父さんから逃げ出してしまって…」

 

 息子は最初に発した叫び声に釣られて身を乗り出すように、右足を一歩前に出していた。

 すると父親は見えない手によって肩を突き飛ばされたかのように、半歩後ずさりしてしまう。

 

「ごめん…。父さんが一番必要としていた時に、僕は父さんから離れてしまって…」

 

 さらに一歩前へ。今度は左足を前に出す息子。するとやはり父親は半歩、後ずさりしてしまう。

 

「ごめん…。父さんが悲しみに打ちひしがれている時に、僕は何もしてやれなくて…」

 

 息子が近付く度に、遠ざかる父親。

 

「ごめん…。僕が、母さんの代わりになれなくて…」

 

 それでも息子は大股気味に一歩前へ。そして父親は躊躇うように半歩後ろへ。

 

「ごめん…。あの日の僕が…、まだ子供で…」

 

 息子が一言発する度に、近付いてく2人の距離。

 

「ごめん…。何もできない、ただの子供のままでいてしまって…」

 

 父親は顎を引き、顔を俯かせる。

 

 

「よせ…」

 

 

「ごめん…。あの時…、母さんが消えたあの瞬間から、僕は大人になる努力を始めなくちゃいけなかったのに…」

 

 

「よせ…」

 

 

「ごめん…。父さんが望む子になれなくて…」

 

 

「よせ…」

 

 

「ごめん…。父さんが望んだ大人になれなくて…」

 

 

「よせ…」

 

 

「ごめん…。父さんが負った心の傷の深さに気付ける大人になれなくて…」

 

 

「よすんだ…」

 

 

「ごめん…。父さんの心に刻まれた傷を癒すことができる大人になれなくて…」

 

 

「よせと…」

 

 

「ごめん…」

 

 

「僕が…」

 

 

「よせと言っている…」

 

 

「僕のような人間が、碇ユイと碇ゲンドウの間に生まれてしまって…」

 

 

 

 いつの間にか、2人の間は互いが手を伸ばせば触れることができる距離まで縮まっていた。

 

 

 

「ごめん…、父さ…」

 

 

「やめろおおおおおおおおおおお!!」

 

 

 そして父親は手を前に出した。

 手を伸ばせば触れることができる位置に立つ息子に向けて。

 

 いや、突き出した。

 

 両手を、息子に向かって突き出した。

 

 両手を、息子の首に向かって突き出した。

 

 父親が突き出した両手は息子の首に絡みつく。

 

 突き出した勢いをそのまま息子の首にぶつける。

 

 息子の細い首が、「く」の字に曲がる。

 

 突き出した手に、全体重を乗せる。

 

 息子の体を突き倒す。

 

 息子の体を、息子の首を絞めながら地面に押し倒す。

 

 

 背中と後頭部に響く鈍痛。

 そして首に感じる強烈な圧迫感。

 薄れゆく視界一杯に広がるのは、父親の顔。

 

 

 まるであの時のように。

 

 彼の父親が変わった。

 

 変わらざるをえなかったあの日のように。

 

 

 ひどく歪んだ父親の顔。

 

 

「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろおおおおおおおおお!!」

 

 

 気道が塞がれ、頸動脈が圧迫され。

 紫色に変色した顔で、父親の十字状に裂かれた目の奥に灯された鬼火のような鈍い光を見つめながら、それでも息子は続ける。

 

 

「ごめん…。僕が父さんのもとに残された…、唯一の家族なのに…」

 

 

「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ………」

 

 

「ごめん…。家族は…、傍に居なくちゃ…、いけないのに…」

 

 

「やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…」

 

 

「ごめん…。父さん…」

 

 

「やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ……」

 

 

「ごめん…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでに首への圧迫感は消えていた。

 父親の口から呪詛のように繰り返されていた「やめろ」という3文字も消えている。

 

 父親は息子の首から手を離していた。

 その手を握りしめ、自身の額に当てていた。

 自身の額に当てた両拳を、息子の胸に押し付けていた。

 その角ばった肩を、小刻みに震わせていた。

 その口から漏れるのは、激しい嗚咽。

 

 首を絞めながら押し倒した息子に馬乗りになっていた父親。

 

 その父親が、今は息子の胸を借りながら泣いている。

 涙を流すことも叶わなくなった体で、泣いている。

 

 

 

「ごめん…、父さん…」

 

 

 

 そんな父親に向けて、息子はそっと両手を伸ばした。

 

 まだ幼さを残した少年の華奢な手は、父親の広くて大きくて、それでいてとても脆い背中へと回される。

 

 

 

 

「父さんを…、一人にしてしまって…」

 

 

 

 

 息子の胸を借りて泣く父親の嗚咽が一段と激しくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 立位した巨人の視線から見る、遥か下の地上の2人。

 押し倒した息子の首を絞め続けた父親。

 その父親の体を、そっと抱き締める息子。

 地上の2人の姿を、身を乗り出して食い入るように見つめていた小さな子供。

 その子供の体を、背後から伸びた2本の腕がそっと包み込む。

 背後から抱き寄せられた子供は、自分を抱き寄せた人物の顔を見ようと首を捻った。

 肩越しに見える、女性。

 メガネを掛けたその女性は、顔を俯かせ、唇を噛み締め、微かに肩を震わせながら、小さな子供の体を抱き締めていた。

 身近にある人肌の温もりを確かめるかのように。あるいは、縋るように。 

 

 

 

 

 スピーカー越しに聴こえる男の嗚咽。孤独に塗れた嗚咽がエントリープラグの中を満たしていく。

 その赤毛の少女は凍えたように身を震わせ、胎児のように体を丸め、胸の前で腕を交差させ、自分自身を抱き締めていた。

 ふと、自分が搭乗するプラグの隣のプラグに視線をやる。

 そこには操縦席に屯する、3つの少女の形をした淡い光。淡い光たちはまるで暖を取るかのように、そして互いの存在を確かめるかのように、身を寄せ合ってる。

 隣のプラグからの視線に気付いたらしい。3つの淡い光の1つが、赤毛の少女が居るプラグに向けて手を差し伸べた。

 赤毛の少女もまた、淡い光に向けて手を伸ばす。

 2つの手は、エントリープラグの隔壁越しに重なり合った。

 

 

 

 

 地上の親子を見つめ続ける2つの目。

 彼らが会話を始め、父親が息子の首を絞めながら押し倒し、息子はそんな父親の体を抱き締め、そして父親の口から漏れる嗚咽が静寂に包まれた虚構の世界を満たしていく間も、片時も離さずに2人を見守り続けた2つの目。

 エヴァンゲリオン初号機。

 体中から燻らせていた水蒸気の筋は消え、その口から漏れ続けていた苦し気な呼吸も止まり、今はただ静かに、地上の彼らを見守り続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シンジ…」

 

「うん…」

 

「母さんが…、ユイが…」

 

「うん…」

 

「何処にも居ないんだ…」

 

「うん…」

 

「私には…」

 

「うん…」

 

「俺には…、ユイの居ない世界なんて…、耐えられない…」

 

 

 息子は目を閉じ、眉間に皺を寄せながらも、うんうんと。

 父親の口から吐き出された弱々しい声に寄り添うように、2度ほど小刻みに頷く。

 

 

「僕もだよ…、父さん…。僕も…、アスカを見捨ててしまった時や…、カヲルくんが目の前で消えてしまった時…、「あの子」がこの腕の中で消えてしまった時…。そして綾波を救えてなかったと知らされた時…。気が狂いそうになったよ…。本当に…」

 

 喪失が齎す絶望の肌触りを思い出し、父親の背中に回された息子の手の先が微かに震えた。

 

「でも…、乗り越えなきゃ…」

 

 震える手を握り締める。

 

「父さん。僕は、多くの喪失を抱えながらも、それでも力強く生きてゆく人たちにたくさん出会ったよ」

 

 終末へと向かいつつある世界の片隅で、なおも明日を信じながら生き続けてきた人たちの顔を思い出す。

 

「特別な力を持たなくても。エヴァに乗れなくても。たくさんの絶望を乗り越えて、懸命に生きてゆく人たちと、出会ったよ」

 

 

 父親の背中に回された息子の両手。その右手に握られた、携帯型の音楽プレイヤー。

 父親から息子へと譲られた、音楽プレイヤー。

 息子の右手の親指が、その音楽プレイヤーの側面にある再生ボタンを押す。

 プレイヤーの中のマイクロテープが回り出し、内臓された小型スピーカーが音を奏で始めた。

 

「聴こえるかな? 父さん」

 

 小型スピーカーから漏れ出る音。それは音楽ではなかった。

 

「多分、「もう一人の綾波」が残したものだと思う…」

 

 プレイヤーの中に内臓された小型マイクロフォンで録音された音。

 息子は父親の頭越しに見える灰色の塵で覆われた空を見上げながら言った。

 

「「あの子」は本当にこの世界が大好きだった。この世界を心から愛してた。だからだと思う。残された時間とこのプレイヤーを使って、この世界が奏でるあらゆる音を記録していたんだね」

 

 

 

 内臓スピーカーから微かに聴こえる音。

 

 チョロチョロと。

 

 それは父親が、世界が赤い大地で閉ざされた日から久しく聴くことのなかった、小川のせせらぎの音。全ての生命の源となる水を大地の隅々へと行き渡らせる小川の音。

 せせらぎの音に混じって、水面をぱしゃぱしゃと叩く音。その音に混じって、女性たちの声。

 

『ほら、そっくりさん。何ぼーって突っ立ってんの。ちゃっちゃとやんないと洗濯終わんないよ』

 

『うん、わかった…』

 

 

 音は途切れる。

 少しの空白を挟んで、プレイヤーは次の音を奏で始める。

 サラサラと。

 木々の枝が揺れ、葉っぱたちが揺らぐ音。それは母なる星の息吹。この惑星の至る所に行き渡る、風の音。

 優しくそよぐ風の音に混じって、女性たちの声。

 

『休憩時間は終わりだよ。そっくりんさんもほら、起きた起きた』

 

『うん、わかった…』

 

 

 音は途切れる。

 少しの空白を挟んで、プレイヤーは次の音を奏で始める。

 ザク、ザク、と。

 周囲からは、蛙の鳴き声の大合唱。田んぼの近く。畦道だろうか。その畦道の上を歩く音。地上のあらゆる生命の営みを支えてきた大地の音。

 土の音に混じって、今度は子供たちのはしゃぐ声。

 

『そっくりさん。あしたもあそぼーねー』

 

『うん、わかった…』

 

 

 音は途切れる。

 少しの空白を挟んで、プレイヤーは次の音を奏で始める。

 パチパチと。

 何かが引っ切り無しに小さく弾ける音。弾ける音を包み込むように、ゴーっと小さな上昇気流の音。かこんかこんと薪をくべる音。人類に自然界を生き抜く力を与えた、炎の音。

 釜土に灯された火の音に混じって、若い女性の声。

 

『そっくりさんもだいぶ火を起こすのが上手くなったわね。今度からお料理も手伝ってもらおうかしら』

 

『うん、わかった…』

 

 

 

 水の音。風の音。土の音。火の音。

 小さなプレイヤーが奏でる、この世界を彩る多種多様な音たち。

 それらの音に耳を傾けながら、息子は言う。

「「もう一人の綾波」は本当に何も知らない、純真な子供だった」

 「彼女」とはまた違う無垢な瞳の持ち主だった「あの子」の顔を思い浮かべる。

「そんな彼女の目を通して見た世界。それが、この音たちを聴いていると見えてくるような気がするんだ。そして思うんだ」

 目を閉じた息子は、その瞼の裏に「彼女」が見た世界の姿を思い浮かべる。

 

 

「ああ、世界はなんて素晴らしいのだろう、と」

 

 

 そして眉根を寄せて、苦笑いした。

「彼女が本当に色んな音を記録してくれたものだから、僕がテープに入れておいた"お気に入り"が沢山消えちゃったけど。でも…」

 息子はボタンを押して再生を停止すると、テープを早回しさせる。

「彼女が残してくれたプレイリストの中に、新しい"お気に入り"を見つけることができたよ」

 そして任意の場所で早回しを止め、再生を開始させた。

 

 

 小さなノイズに混じって聴こえる小さな音。

 

 それは鼻歌。

 

 それは自然の音や人々の話し声を延々と記録してきたテープの中において、唯一の楽曲。

 

 囁くような歌声。

 聴く者の体を温かい羽毛で包み込むような歌声。

 聴く者の心を柔らかい綿毛で包み込むような歌声。

 聴く者の心身を、夢の国へと誘うかのような歌声。

 

 それは子守唄。

 

 若い女性の口から。

 母親の口から奏でられる、子守唄だった。

 

 その子守唄に混じって聴こえる、もう一つの声。

 

 短い声。

 単純な声。

 意味の成さない声。

 それでも、子守唄を歌う声の持ち主に、一分の迷いもなく信頼を寄せていることが分かる声。

 

 それは赤ん坊の声。

 

 

 碇シンジのお気に入り。

 

 それは母と子の音。

 

 

 赤ん坊に。抱いた我が子に子守唄を歌い聴かせる母親。

 母親の歌声に寄り添い、少しずつ眠りの国へと誘われている子。

 そんな母と子の姿を、聴く者に容易に想像させる音。

 

 

「この子守唄を歌ってる人…」

 

 息子はスピーカーから聴こえる鼻歌が掻き消えてしまわない程度の声で父親に囁き掛ける。

 

「鈴原ヒカリさん、ってゆーんだ」

 

 鼻歌の持ち主の名前を父親に紹介する。

 

「僕の中学の同級生。クラスの委員長だった」

 

 髪をおさげにしていた「あの頃」を思い出しながら言う。

 

「ちなみに旦那さんは鈴原トウジ。僕の親友だよ」

 

 初対面でいきなり校舎裏に呼ばれ、いきなり殴られた「あの頃」を思い出しながら言う。

 

「分かるかな、父さん」

 

 息子は、世界が一変する前の「あの頃」を。自分が一変させてしまった前の「あの頃」を思い出しながら父親に語り掛ける。

 

「僕の同級生だった子たちが、今はもう誰かの父親だったり母親になってたりしてるんだ」

 

 そして息子はくすりと笑った。

 

「もしかしたら…。僕がもうちょっとまともな人生を送ってたら。父さんだって、誰かのお爺ちゃんになっていたかも知れないんだよ…」

 

 口にしてしまって、ついつい想像してしまう。自分と、そして誰かとの間に出来た小さな幼子が、自分の父親の体にじゃれ付き、自分の父親を困り果てさせている光景を。

 

 

「父さん。世界が立ち止まることはなかったんだよ」

 

 僕たちの時間は止まってしまっていた。

 

「僕が消えていた14年の間も…」

 

 僕がこの世界を壊してしまった14年前から。

 

「母さんが消えた、25年の間も…」

 

 母親を失ってしまった25年前から。

 それでも世界は。

 

「世界は変わらず動き続けてたんだ。僕が壊してしまったこの世界でも、彼らは生き続けて、そして新しい命を紡いでくれたんだ」

 

 プレイヤーの停止ボタンを押す。

 

「世界中が混沌としていた中でも僕を産み、育ててくれた父さんと母さんのように…」

 

 プレイヤーの中のカセットテープの回転が止まる。

 

「父さん。僕はそんな世界が、たまらなく愛おしい」

 

 女性の声で奏でられる子守唄が消え。

 

「父さんと母さんのように、こんな世界でもなお、生まれてくる子を祝福できた彼らが、たまらなく愛おしいんだ…」

 

 無邪気な赤ん坊の声も消え。

 

「どうしたらいい? 父さん」

 

 少年の声だけが響いた。

 

「どうしたら、僕はこの世界を守ることができる…?」

 

 父親に教えを乞う、息子の声だけが響いた。

 

「教えて…、父さん…」

 

 

 

 

 

 

 息子の腕の中で泣いていた父親。

 25年ぶりに誰かの。他者の腕に抱き締められた孤独な男。

 そんな彼の震えていた肩が、止まっている。

 頑なに外の世界を拒否していたその体は、聖なる鍵によるものでもなく。聖なる槍によるものでもなく。人の温もりによってその扉は開かれ、上書きされ、他者による抱擁をありのままに受け入れている。

 

 

 

 

 

 

「私はアディショナルインパクトを起こすために、2本の槍を使った」

 

 腕の中の父親から漏れ聞こえる、低い声。

 

「しかしインパクトはお前たちが齎した3本の槍によって、強制停止させられた」

 

 父親の右手が少年の頭部のすぐ側の地面に着地する。父親が身を捩り始めたため、彼の体を抱き締めていた息子はその抱擁を緩めた。

 息子の腕から解放された父親は、ゆっくりと上半身を起こす。そしてそのまま、顔を頭上へと向けた。

 

「インパクトの強制停止により、堰を失った虚構と現実は混ざり合うことも隔たれることもなく、極めて不安定な状態で互いを貪り合っている」

 

 父親が見上げる先を、地面に寝転がったままの少年も見上げる。

 この場所に辿り着いた時は、作り物のように黄金色に塗り固められていた空。そして一瞬だけ垣間見えた無数の星々とたなびくオーロラを抱えた濃紺色の空は、今は灰色に染まっている。

 女性の姿をした白い巨人の弾けた頭部が灰色の塵となって空を、いや、世界全てを覆いつつある。

 

「このままだと世界は…」

 

 息子のその呟きに、空を見上げていた父親は顔を下げ、息子を見つめた。

 

「インパクトはまだ終わっていない。アディショナルインパクトに続く、新たなインパクトが執行者を待っている」

 

 父親は右膝を起こし、腰を浮かせ始める。

 

「執行者による導きを、世界が待っている」

 

 息子に向けて差し出される父親の右手。 

 

「シンジ。お前が新しいインパクトを起こせ」

 

 息子は差し伸べられた父親の大きな手を、素直に握った。

 

「でも…、どうしたら…」

 

 父親は立ち上がりながら、握った息子の手を引っ張り上げる。

 

「儀式とは虚構と現実の間を隔てた扉を開けるための鍵だ。そしてその扉はすでにない。故に、儀式はもはや必要ない」

 

 父親の大きな手に引っ張られ、息子の腰が地面から浮いた。

 

「必要なもの。それは執行者の願いだけだ」

 

 立ち上がった少年の顔を正面から見据えながら、父親は問うた。

 

 

 

 

「シンジ。お前は何を願う」

 

 

 

 



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(68)空に虹を描こう

 

 

 

 

「シンジ。お前は何を願う」

 

 

 目の前の父親から放たれたその言葉は、まるで一陣の風のように少年の体内を駆け巡った。

 全身に漲る力を弾けさせるように、少年は身を翻し、そして口を大きく開けて叫ぶ。

 

「綾波!!」

 

 彼がそう叫ぶのとほぼ同時に、彼とその父親の上空を大きな影が横切った。

 続けて凄まじい衝撃と激しい地響き。

 もうもうと立ち込める土煙の中で、聳えるのは。

 

「綾波!」

 

 巨人の騎士。

 鋼鉄の守護者。

 エヴァンゲリオン初号機が、碇親子の傍らに跪いていた。

 碇シンジは空から舞い降りてきた初号機の足もとに向かって駆け寄る。

 碇ゲンドウはそんな息子の背中を見送り、そしてふと自身の右手に視線を落とした。その手には、いつの間にか彼が少年時代に愛用してきた携帯型音楽プレイヤーが握られている。

 

 

 近寄ればまるで小山のような巨躯を誇るエヴァンゲリオン。シンジはそんな初号機を見上げながら叫ぶ。

「綾波! 僕をあそこに…!」

 初号機の顔を見上げていたシンジは、その視線をさらに上へと向けた。

「僕をあの空に連れてって!」

 

 シンジの視線に誘われるように、灰色の塵で染められた空を見上げていた初号機。

 そしてシンジの願いを聞き届けた初号機は、足もとのシンジに視線を落とすと砕けた顎を下げ、低い唸り声を上げた。

 シンジに向かって、人差し指と中指を失った左手を差し伸べる。

 

 シンジが差し伸べられた初号機の左手の上に右足を踏み出した時、初号機の意識が視界の隅に立つ人物へと向けられた。

 

「レイ…」

 その人物は視線が交差した巨人に向けて呼び掛けた。

 初号機は左手に乗った少年の体を3本だけの指で優しく包み込みながら、一方で右手を碇ゲンドウへと差し伸べる。

 

 差し伸べられた、まるで丸太のような指に、ゲンドウの手が触れた。

 

「よくやった…、レイ…」

 

 彼の口から漏れる声が、震えていた。

 

「よくぞ…、私のもとに、シンジを導いてくれた…」

 

 巨人の口の両端から、静かにやや多めの蒸気が漏れた。

 

「レイ…。シンジのことを頼む…」

 

 巨人の口の両端から、大量の蒸気が勢いよく噴き出した。

 

 

 

 初号機が上空を見上げる。

 伸びた喉仏を大きく上下に動かしながら、空に向けて大きく開いた口からは咆哮。その咆哮は強烈な波動となって、空に立ち込めた灰色の塵を突き抜け、その先に広がる星々が瞬く濃紺の空を微かに覗かせた。

 2つの眼孔に宿る黄金色の瞳を煌々と輝かせながら、地面に付いていた膝を浮かせ、腰を浮かせ、光る大地を踏みしめる。

 

 初号機の左手の上には、初号機と同じように、これから向かうべき空を見上げていたシンジ。

「バカシンジ!」

 背中に声を掛けられ、振り返った。

 第13号機の頸部から天に向けて生えた2本の柱。パイロットを収めた、エントリープラグ。そのうちの1本の開いたハッチから、アスカ・ラングレーが顔を覗かせている。

「アスカ!」

 シンジは笑顔で手を振った。

「待ってて! 必ずみんなを迎えに来るから!」

 

 初号機の背中に大きな光の輪が現出する。

 両膝を伸ばし、立ち上がった初号機の足が、地面から離れ始める。

 大地に付いた2本の足の踵が離れ、そして爪先が離れ。エヴァンゲリオンの巨体が、地上から完全に浮遊する。一度地上から解き放たれた初号機の体は、まるで自由を謳歌する若鳥のようにぐんぐんと上昇していく。

 

「あんまり待たせるんじゃないわよ!」

 顔だけでなく、体もエントリープラグから出したアスカ。深紅のプラグスーツに身を包んだ彼女もまた笑顔で手を振り返したが、その時点で初号機は地上から遠く離れ、その手に乗る少年の姿はアスカの位置からは見えなくなってしまっていた。

 

 

 

 深青色のプラグスーツを着た渚カヲルが複座式であるエントリープラグの、もう一つの搭乗口から顔を出した頃には、光の帯を引きながら空へと向けて飛翔する初号機の姿は豆粒のように小さくなっていた。

「あ~あ、行ってしまったか」

 見れば、隣のエントリープラグの搭乗口に立つ緋色髪の少女が両手を腰に当てて、初号機が空に描いた光の軌跡を見上げている。

「君は行かなくて良かったのかい」

 その問いにアスカは振り返り、肩越しにカヲルを見る。そして「ふん」と小さく鼻を鳴らながら視線を空へと戻した。

「碇シンジの罪は綾波レイの命を救おうとしたあの時から始まったんでしょ」

 顔は空へと向けたまま、エントリープラグの外壁に腰を下ろし、そしてゴロンと横になる。

「綾波レイの命が、碇シンジがこの世界を犠牲にした上で成り立っているというのなら、碇シンジがこれからすることの顛末を見届けなくちゃならないのは綾波レイしかいない。それに…」

 両拳を頭上に突き上げ、両足を思いっきり突き出し、うんと伸びをしながらカヲルを見た。

「あいつにガキのお守りはもう必要ないっしょ」

 口角が上がっているアスカの顔を見るカヲルは、どこか不満顔。

「君はいいさ。僕はこれで2度目だよ」

 搭乗口の縁に頬杖を付き、不満顔のまま空に残る光の軌跡を見上げる。

「綾波レイが碇シンジくんを連れ去っていくのを見るのはさ」

「はは」

 何かを思い出したようにアスカは笑う。

「そう言えばあたしも見たっけ。綾波レイによく似た子があのバカを連れ去っていくのをさ」

 

「まあまあ」

 今度は背後から声が聴こえ、アスカとカヲルは振り返った。

「ワンコ…、じゃなかった。碇シンジくんは言ったじゃないか。必ず迎えにくるってさ」

 第13号機の頸部から突き出たプラグのタラップを上ってきたピンク色のプラグスーツを着た真希波マリは、寝っ転がっているアスカの頭の近くに腰を下ろし、胡坐を掻いた。

「あたしたちはここであの2人の帰りをのんびり待っときましょうや」

 そう言いながら、両手でアスカの乱れた髪を梳き始める。

「アスカ・ラングレー」

「ん?」

 アスカから差し伸べられた手を、カヲルはきょとんとして見つめている。

「自己紹介まだだったでしょ」

「あ~」

 搭乗口から顔を出しただけのカヲルは身を乗り出すと、上半身と腕をうんと伸ばして、アスカの手を握る。

「僕は渚カヲル」

「真希波マリだにゃん。よろぴく~」

「よろしく」

 マリもカヲルと握手を交わす。

 

 マリの背中に抱き着いていた小さな子供は、ぴょんと飛び降りると、アスカと同じように空を見上げた。

 その幼い目にはスピードを上げ、眩い光を纏いながら無数の塵が立ち込めた空へと突入していく初号機の背中が映っていた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 赤く爛れた大地を。赤く染められた海を。

 南極から溢れ出た無数の塵たちは、赤い星を灰色で上塗りするように広がっていく。

 塵たちは、分厚い層となって大気圏を埋め尽くす。

 

 地上から見上げた時は小さな粒にしか見えなかった塵の正体。

 近付けば塵の一つ一つは、エヴァンゲリオン初号機に匹敵する巨躯の、頭部が欠けた灰色の巨人たちだった。

 その無数の巨人たちが織り成す層の中を、真っ白な光を纏う初号機はぐんぐんと上昇していく。

 乱気流が渦巻く高高度。隙間もない程に犇めく巨人たちの群れ。

 初号機は凄まじい気流に煽られ、巨人たちと何度も激しく接触する。

 その度に傷付いた初号機の装甲が剥がれ、肉片が零れ落ちていくが、それでも初号機は上昇することを止めない。

 

 灰色の巨人で埋め尽くされた暗い世界。

 その中を突き進む初号機の目指す先に、光が見えてきた。

 光はやがてさなぎから羽化したばかりの蝶々の翼のように大きく広がっていく。

 大きく広がった光の翼は、傷ついた初号機を癒すように優しく包み込んでいく。

 

 

 赤い星の南半球をすっぽりと埋め尽くしてしまった分厚い塵の層。

 その層の中心から、ぽん! と。

 南極点から、ぽん! と。

 まるでこの星から。

 赤と灰色の丸い卵から産まれ出た雛鳥のように、それは宇宙へと飛び出した。

 

 

 

 

 縦に揺れ、横に揺れ。

 大きな手の中で護られている碇シンジのもとにまで、不規則で激しい振動が伝わってくる。

 立て続けに鳴り響く、この大きな手の持ち主を襲う衝撃音。

 途切れることのない振動と衝撃音からこの手の外で起きていることは容易に想像できるが、それでもただの人間でしかないシンジは、大きな指にしがみ付きながら激しい揺れと全身を束縛する凄まじい重力に耐えることしかできない。そのシンジの周りを、無数の光の粒、ATフィールドの結晶たちが優しく包み込んでいる。この手の持ち主は、今も全身を傷付けながらもなお、シンジの身を護ることを最優先にしている。

「ごめん…、綾波…!」

 シンジの頭の中には、この場所に辿り着くためにこの手の持ち主が払った犠牲が映像となって駆け巡っていた。

「僕は、僕の願いを叶えるために、君を傷つけた…。君を犠牲にした…」

 シンジは彼の父親と正面から対峙しながらもその視界に隅に映る、この大きな手の持ち主と第13号機との間で繰り広げられた死闘をつぶさに脳裏に焼き付けていた。

「僕が居なければ、君はこんなに傷付く必要はなかったかもしれないのに…。僕が願わなければ、君はこんなに苦しまずに済んでいたのかもしれないのに…」

 しがみ付いた指の腹に額を押し付ける。

「それでも綾波…!」

 振動が一際激しくなり、自分自身の声すらも聴こえなくなった。

「僕はそれでも…!」

 

 

 

 唐突に、振動が止まった。

 

 

 

 振動の世界が去り、そして訪れたのは静寂の世界。

 

 彼を護るために大量に溢れていたATフィールドの結晶も消えた、暗闇の世界。

 

 

 

 そして体中を襲っていた衝撃も消え失せ。

 体中を束縛していた重力も薄まり。

 そして体を包み込んだのは奇妙な浮遊感。

 

 

 

 

 

 あらゆるものから彼を護るために固く閉じられたいた大きな指に、隙間が生じた。

 その隙間から漏れ入るのは、柔らかな光。

 その隙間から見えてきたのは、濃紺の空。そして瞬く星々。

 

 

 かつて彼は心許した少年に言った。どんなに時間が経過したとしても、変わらずそこに在る夜空の星々が好きだと。

 しかし大きな指の隙間から見える星々。

 彼の知らない輝き。知らない配置。見慣れぬ星々。

 彼を包み込んでいた大きな指が開いていく。

 彼の頭上に、無数の星々を抱く空が広がっていく

 母国の夜空しか知らない彼は、見慣れない星々が輝くその濃紺の空を、不思議そうに見上げた。

 

 そんな彼の横顔を、強烈な光が襲った。

 彼はあまりの眩しさに目を細め、顔に手を翳しながらも光の正体を探るべく、光が差す方へと視線を向ける。

 翳した手の指の隙間から彼の目に飛び込んできたもの。

 それは水平線。

 丸い水平線。

 綺麗な円を描く水平線。

 

 彼の顔を襲った強烈な光の主は、丸い水平線の彼方からその半身を覗かせ始めていた。

 

 一日の始まりを告げる朝日が、丸い水平線の彼方から昇り始めている。

 

 

 

 見慣れない星々。

 丸い水平線。

 自身の目線よりもずっと下から昇ってくる太陽。

 

 

 ようやくシンジは、自分が宇宙に居ることを理解した。

 

 

 理解した途端、シンジの体がふわりと浮き、足が大きな手の上から離れてしまう。

「わっ、わっ」

 シンジは慌てて大きな指にしがみ付こうとするが、どんどん浮き上がっていく彼の体は大きな手から離れるばかりで、しがみ付こうとした大きな指にも手が届かない。

「わっ、わっ」

 必死に足をばたつかせ、犬掻きをするが、彼の体は体の持ち主の意に反してくるくると回り出し、進みたい方向とは逆の方向へと向かっていく。

「あ、綾波~…」

 自力ではどうすることも出来ない状況に陥り、シンジの口から情けない悲鳴が漏れる中、そんな彼の背中にふわりと柔らかい感触。そして彼の体を、無数のATフィールドの結晶が包み込む。

 

 左手の中から浮き上がってしまい、どんどん離れていくシンジの体を、初号機は緩衝材となるATフィールドの結晶を溢れさせた右手でそっと受け止めた。危うく宇宙で迷子になり掛けたシンジはふう、と安堵の溜息を漏らしながら、もう2度と離れないぞとばかりに初号機の右手中指にしがみ付く。

 顔を上げれば、そんな自分を心配そうにのぞき込んでいる初号機の厳つい顔。

「ありがとう、綾波」

 そう語り掛けると、シンジの目には初号機の厳つい顔が微笑んでいるように見えた。

 

 初号機の頭越しに見えるのは、彼の故郷。

 赤い星。

 赤い大地。赤い海。

 大気の層に包まれて薄く光りを放つ地球。

 

 地球に向けて頭を向けて。地球を中心に考えれば、逆さまの状態で浮いている初号機の体は、ゆっくりと縦に回転していく。

 

 赤い山脈、赤い大河、赤い高原、赤い砂漠、赤い大海原が、視界の中を上から下へとゆっくりと過ぎ去っていき、そして次に見えてきたのは丸い水平線。そしてその水平線の彼方からは昇ってきたばかりの太陽。太陽から伸びる強烈な光が地球の形を縁取り、まるでこの星全体が大きな宝石を戴いた指輪のように輝いている。

 

 ゆっくりと回転する初号機は地球と太陽に背を向けた。

 シンジの眼前に広がるのは、素のままの宇宙空間。

 どこまでも無限に広がる闇を埋め尽くす星々の群れ。

 大気というすりガラス越しの地上からでは見ることができない、小さな星々までもが鮮明に輝く煌びやかな宝石箱。

 

 その宝石箱が上から下へと過ぎ去れば、次に見えてくるのは薄く輝く惑星。

 

 

 母なる地球。

 

 母なる恒星。

 

 母なる宇宙。

 

 

 移り行く壮大な光景に目を奪われていたシンジは、ふと視線を初号機の顔へと向けた。

 その初号機もまた、目前に広がる光景に心を奪われている様子で、眼孔の奥に収まる黄金色の瞳に、大気に包まれた惑星や恵みの光を発する恒星、そして瞬く無数の星々を次から次へと輝かせている。 

 そんな初号機の様子にシンジはくすりと笑いながら、視線を壮大な光景へと戻した。

 

 

 「彼女」と共に見下ろす星空。

 「彼女」と同じ目線で見上げる地球。

 「彼女」に寄り添いながら見つめる夜明け。

 

 

「初めてのデートが宇宙ってのも、悪くないな…」

 

 

 独り言として呟いたその言葉は、どうやら「彼女」の耳にも届いてしまったようだ。初号機の厳つい顔が、シンジへと向けられる。

 どこか首を傾げているようにも見えるその仕草は、「デートってなに?」とでも問い掛けているようにシンジには思えた。

 シンジは少し赤らんだ頬を人差し指でぽりぽりと掻きながら言う。

「デートってのはつまりその…。好き…な…子と…」

 ごにょごにょとどさく紛れに「それ」をしようとしたら。

 

 ドン

 

 シンジの両脚を支える初号機の手が大きく揺れたため、シンジは慌てて大きな指にしがみ付く。

 「何か」と衝突したらしい初号機の体はくるくると回転し、シンジたちが見ていた惑星から恒星、そして宇宙と、ゆっくりと移ろっていた風景が、目まぐるしく変わっていく。

「うわわわわ…」

 初号機は指にしがみつくシンジが何処かに飛んで行ってしまわないように、空いた指でそっとシンジの体を包みつつ、回転する方向に向けて勢いよく吐いた息をスラスター代わりにして姿勢を制御する。

 なんとか回転が収まり、初号機の体は眼下の惑星に体の正面を向けて静止する。ほっと安堵の溜息を吐くシンジは、大きな指にしがみ付きながら顔を上げ、初号機の体にぶつかった「何か」に視線を向けた。その「何か」は重力の影響の薄いこの空間をぷかぷかと漂いながら、初号機から離れていっている。

 

 それは赤い惑星の表面を覆いつつある灰色の塵の一つ。

 首の欠けた、灰色の巨人。

 惑星の表層から溢れ出た巨人の一つが宇宙空間を彷徨い、衛星軌道上にある初号機にぶつかったのだ。

 

 「せっかくいい雰囲気だったのに」とばかりに、恨めし気に首の欠けた灰色の巨人を見ていたシンジ。

 灰色の巨人に生じた、ある変化に気付いた。

 

 ぶつかった拍子にだろうか。

 灰色の巨人の体が、まるで砂糖菓子のように、ボロボロと崩れていく。

 巨人の脚が、臀部が、背中か、肩が、腕が。

 あらゆる個所に幾筋ものひび割れが生じ、巨人の体が分解していく。

 幾つかの大きな塊に別れ、その塊もまた無数のひび割れを走らせながらボロボロと崩れ去り、小さな塊に別れ、その塊もまた粉々に弾けてさらに小さな粒に分裂し。

 

 シンジはその小さな粒を目を細めて凝視した。

 

 

「ひと…?」

 

 

 灰色の巨人が幾度も分解を繰り返した末に辿り着いた小さな粒。

 その粒の形に最も近い象形を持つ生物の名を、シンジは口にした。

 

 その粒は、シンジの目にはヒトに見えたのだ。

 

 ヒトだけではなかった。

 

 灰色の巨人が幾度も分解した末に成した極小の粒。その一つ一つが違う形をしており、ある粒は大地を駆け回っていた四つ足の獣だったり、ある粒は翼を使って空を自由に飛び回っていた鳥だったり、ある粒は尾ひれをばたつかせて大海原を回遊した魚だったり。

 シンジの足もとにある赤い惑星で、かつて溢れていた多種多様な生命。

 様々な生命の形をした粒が、砕けた巨人の残骸からボロボロと零れ落ち、惑星の地表へと向かってゆっくりと降下していっている。

 

 シンジは大きな指の隙間から顔を出し、足もとを覗いた。

 すでにこの惑星の3分の2を覆いつつある膨大な量の塵。

 分厚い層となった塵の中を、虚構の世界の入り口である南極点から飛翔してきた初号機が駆け抜けた場所だけが、ぽっかりと穴を開けている。

 

 シンジはその穴を凝視する。

 そこでもまた、今シンジが目にしたものと同じ現象が起きていた。

 

 分厚い塵の層を駆け抜けた初号機と何度も衝突を繰り返した塵たち。灰色の、巨人たち。

 その巨人たちもまた、ボロボロと崩壊していき、砕けた塊は白い粒となって、まるで雪のように地上へと降り注いでいく。

 

 

 その光景を見つめていたシンジは、はっとして初号機の顔を見上げた。

 

「綾波…!」

 

 呼ばれた初号機もまた、シンジの顔を見下ろし、そして深く頷いた。

 

 

 初号機は重ねた両手の上にシンジを乗せると、視線を丸い水平線の上に浮かび煌々と輝く太陽へと向ける。

 初号機の背中が少し仰け反り、張った胸が大きく膨らんだ。

 初号機の口が大きく開く。

 

 初号機の口から、特大の咆哮がこの惑星に向かって放たれた。

 

 それはまるで夜明けを告げる鐘の音のような。

 

 それはまるで新しい世界の到来を告げる角笛のような。

 

 この惑星上に在るものにあまねく齎される福音のような。

 

 

 初号機の頭上に、大きな光の輪が現出する。

 さらに大きく露出した胸のコアから四方八方に向けて幾つもの光の筋が迸った。

 光の筋たちは初号機の体を包み込むように背中へと伸びる。

 それらはまるで鳥の羽根のような姿を形作り、初号機の背中に12枚の翼を背負わせた。

 

 初号機の頭上に冠した光の輪や、背中に広がる光の翼だけではない。

 初号機の体全体が、淡い光を帯び始めている。

 

 その姿に、シンジは懐かしさを感じた。

 

 「あの時」。この機体は「彼女」を救いたいと強く願う少年の心に共鳴し、現実を改変し、世界を塗り替えた。

 そして今もまた、「彼女」を乗せたこの機体は、少年の願いを叶えるべく、「あの時」と同じ姿に変容を遂げようとしている。

 その機体は、少年の願いと今再び共鳴するのを待っている。

 

 何を思ったかシンジは彼が立っていた初号機の手を蹴った。

 重力の影響が薄いこの場で、足場を蹴ったシンジの体はふわりと浮き上がる。

 手から零れてしまったシンジを、光に包まれた初号機は慌てて拾い上げようとするが、シンジは初号機に顔を向けながら首を横に振り、初号機の手の中に戻るのをやんわりと拒否する。

 

 ふわりふわりと浮遊するシンジの体は、初号機の顔の前にまでやってきた。

 手から離れてしまった少年を見つめる初号機。厳ついその顔貌に何処か心配そうな表情を浮かべている初号機の姿に、シンジはくすりと笑う。

 そんな初号機に向けて、彼の右手がゆっくりと差し伸べられた。

 

 

 それはまるで、待ち合わせのベンチに座る彼女のもとにやって来た恋人のような仕草で。

 

 

「さあ、行こう。綾波」

 

 

 ダンスホールの隅に所在なく立っている女の子を誘うような声音で。

 

 

 その少年が差し伸べた手は、差し伸べられた相手に比べてあまりにも小さい。

 そんな小さな手を、きょとんとした表情で見つめている初号機。

 少年はふふ、と笑う。

 

「ほら。綾波」

 

 微笑む少年の体は慣性の法則に従って、等速度で初号機から離れていく。

 

「早くしないと離れ離れになっちゃうよ」

 

 少年のその言葉に弾かれたように、初号機は慌ててその大きな手を差し伸べられた少年の手に伸ばす。

 

 初号機の大きな手。

 大きな指。

 その指の、ヒトでいう爪の部分にあたる無骨な装甲の隙間に、シンジは差し伸べていた手を滑り込ませた。

 高層ビルの高さに匹敵する初号機の巨躯に比べれば、碇シンジの体躯は豆粒のようなもの。

 傍から見れば、それは巨大ロボットの指に小さな少年がぶら下がっているようにしか見えないだろう。

 

 それでもシンジはついつい想像してしまう。

 そこは青い空、燦燦と輝く太陽の下で。

 白い砂浜の上で。青い海の波打ち際で。

 

 手を繋いで歩く「彼女」と自分の姿を。

 

 

 少年はエスコートする。

 

 自分よりも遥かに大きな体を持つ「彼女」を。

 

 

 彼らが生まれ育った、故郷の惑星へと。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 アスカ・ラングレー、真希波・マリ・イラストリアス、そして渚カヲルは気が付けばこの場所に立っていた。

 足もとはさらさらとした白い粒が敷き詰められた砂浜。視線を上げれば澄み渡った青い空。そして少し視線を下げれば、浜辺に静かな白波を寄せる青い海。

 なぜ。いつ。どのようにして。自分たちがどのような経緯でこの場所に来たのか。連れられたのか。

 彼らには分からなかったが、それでも何となく彼らは理解している。

 自分たちは、「彼」によってこの場所に導かれたのだろうと。

 

 砂浜。青い空。青い海。

 その3つしかない、奇妙な空間。

 この場所を作り上げたものはその3つしか知らないとばかりに。まるで作り物のような。例えば写真でしか見たことがない光景をそのまま再現したかのような。

 振り返れば遥か彼方まで、途切れることなく続く白い砂地。

 空を見上げれば、一つの雲も浮かんでいない。こんなに明るいのに、太陽さえない。

 海は空とのつなぎ目である水平線が微かに見えるだけで、あとはただひたすら浜辺に穏やかな波を寄せることを繰り返すだけ。

 

 渚カヲルは砂浜に腰を下ろし。

 アスカ・ラングレーは砂浜にごろんと寝そべり。

 真希波マリは小さな子供と一緒に波打ち際で足踏みをしてちゃぷちゃぷと水飛沫を立てながら。

 交わす言葉もなく、ただぼんやりと青い海の畔で佇んでいる。

 

 ふと、カヲルは肌に表れた痺れるような感覚に気付いた。

 痺れが走る右手を、不思議そうに見つめる。

 その痺れの正体に気付いた彼は、ふふと、声に出した小さく笑った。

 

 砂浜に寝っ転がっていたアスカの耳にその小さな笑い声は届き、アスカはカヲルを見る。

「どうかした?」

 カヲルはそのやや大き目な口に緩やかな曲線を与えながらアスカを見る。

「どうやらシンジくんによる世界の改変が始まったようだ。君も感じないかい?」

「そう言えば…」

 アスカは空に翳すように上げた手を見つめる。肌の表面に感じる、微かな痺れ。

「なになに。どーした?」

 小さな子供と波打ち際で遊んでいたマリが振り返る。

「あのバカが始めたらしいわ。何を始めたかまでは分かんないけど」

「ふーん。カヲルっちは何が始まったのか分かるのかい?」

 問われたカヲルは何処か不愉快そう。

「君に下の名前で呼ばれる筋合いは無いんだけどな」

 マリはイシシと笑う。

「いーじゃんいーじゃん」

 カヲルは肩を竦めながら言う。

「そもそもこの戦いは、生命の実を与えられた僕たち使徒と…」

「え? あんた、使徒だったの?」

 アスカの驚きの声を無視してカヲルは続ける。

「知恵の実を与えられた君たちリリンとの生存競争という原始的な、根源的な争いから始まったものだ。彼は。碇シンジくんは、その争いのもとそのものを消そうとしているらしい。そして争いの火種が無くなれば、争いのための道具も必要なくなるというわけだ」

 

 

 作り物のような砂浜。作り物のような空。作り物のような海。

 そこに、彼らが乗ってきたエヴァンゲリオンは存在しなかった。

 

 

「え? それじゃあ知恵の実を失っちゃうリリンたちはみんなお馬鹿さんになっちゃうってこと?」

 マリの疑問にカヲルは微笑みながら首を横に振った。

「それはないだろうね。知恵の実は所詮、リリ…、ヒトの進化を促すために神が与えたきっかけに過ぎない。現に君たちは人の意志だけで、神の意志をも越えたあの槍を作り上げたじゃないか」

 カヲルの賞賛に、マリは鼻を高くしながら「えっへん」と胸を張っている。

「そして僕たち使徒は、有限の時の中に身を委ねることになる。無限という名の牢獄から解放される僕たちは、初めて孤独という苦しみから解放されるんだ」

 カヲルは微かに疼く、情報が上書きされていく手の甲を見つめる。

「使徒も、ヒトも、共に同じ時を生きて欲しい。きっとそれが、シンジくんの願いなんだ」

 その手を、青い空へと翳した。

「これが君の、幸せの形だったんだね…」

 その目尻に、小さな水滴を浮かべて。

「ありがとう、シンジくん…。僕は今、君の優しさに包まれて、とても幸せだよ…」

 

「ああああああ!」

 突然、マリが大声を上げた。

「なーによ」

 砂浜に寝っ転がるアスカは、鬱陶しそうにマリを見た。

「アスカ、それ…」

 アスカに向けられたマリの人差し指。

「あーん?」

 マリが指差すもの。

 アスカの、右肩。

 

「あれま」

 大声のマリに比べれば拍子抜けようなする声を上げつつ、アスカも自身の右肩を見て目を丸くした。

 アスカの右肩に、奇妙なものが乗っかっている。

 

 黒っぽい何か。

 形容しがたい形状をした何か。

 拳大の大きさの何か。

 

「あんた、もしかしてバルディエル?」

 

 アスカの右肩に乗っかった奇妙なものは、アスカの問い掛けを肯定するかのように奇妙な鳴き声を上げた。

「あーん、バルディエルちゃんだ~」

 そして急に猫なで声になったアスカは、その奇妙な生物を胸の前まで手繰り寄せるとひしと抱き締めた。

「おーよしよし。ようやくあんたを抱き締めることができたわね」

 奇妙な生物の頭(と思われる部分)をわしゃわしゃ掻き混ぜながら、そのお腹(と思われる部分)に頬を寄せる。

 

「いや、バルディエルちゃんって。それ使徒じゃん…」

 アスカのその様子を、完全に引いた目で見るマリである。

「何よ。こちとら14年も文字通り一心同体で過ごしてきたのよ。もう肉親のようなものよ」

「へー…」

 そんなアスカを冷めた目で見るマリは、気を取り直してアスカのもとに駆け寄ると。

「あたしだって10年来の相棒だよ。ひ~め!」

「あーもう、鬱陶しい」

 抱き着いてきたマリと小さな子供を足蹴にしながら、アスカはカヲルを見た。

「これもあのバカのおかげ?」

「そうだろうね」

「あのバカ、何処で何してんのよ」

「さあ。何をしてるんだろうね」

 どこか含みを持ったカヲルの顔。

「カヲルっちなら見えてんじゃないの?」

「僕に「彼」と「彼女」の初デートの窃視をしろとでも言うのかい?」

 アスカに顔を踏まれながら訊ねてくるマリを、カヲルは呆れたように見る。マリはにししと笑った。

「若い2人が過ちを犯さないようにしっかりと見守る。それも大人なあたしたちの義務ってもんじゃないのかな~」

「それもそうだね」

 あっさりとマリの意見に同意したカヲルは、空を見上げた。

 彼の赤い瞳の瞳孔が、大きく広がる。

 

 暫く作り物のような青い空を見つめていたカヲル。

 ふふっ、と小さく笑った。

「なになに。どーした? ちゅーくらいはしてたか?」

 マリが身を乗り出しながら訊ねてくる。

 

「虹を…」

 

 カヲルは空を見上げたままぽつりと言う。

 

「空に虹を、描いているよ…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 渚カヲルが言うように、それを虹と呼ぶのならば、この日から人々は「虹」の定義を書き変えなければならないかも知れない。

 しかしそれは、見る者に虹を思わせる。この日から「虹」の定義が変わっても仕方がないと思わせるような、そんな光景だったことだろう。

 

 それは空を駆け巡る光の筋。

 灰色の塵で埋め尽くされた空を駆け巡る光跡。

 

 光の中心に在る巨人の背中から広がる12枚の光の翼。

 その光の翼が触れる度に、塵の一つ一つが細かく砕け、分裂し、弾け、そして様々な生物の形となって地上へと降り注いでいく。

 最初は灰色だった生物の形をしたそれらは、地上が近付いていくごとに徐々に色彩を帯びていく。

 灰色だったそれは、やがて白と黒の縦縞模様の獣に変わり。

 灰色だったそれは、やがて嘴の大きな極採色の鳥へと姿を変え。

 灰色だったそれは、8本の足を持つ真っ赤な軟体動物へと変化し。

 地上に降り注ぐ様々な生物たちが、それぞれの進化を遂げた末に獲得したそれぞれの固有の色で、空を色鮮やかに彩っていく。

 

 巨人の背中から大きく広がる12枚の翼の半分は、惑星の表面にも接触する。

 光の翼に触れられた瞬間に、赤く爛れた地上は豊かな緑へと。赤く染まった海はどこまでも透き通った青へと上書きされていく。

 

 

 この惑星の空を。

 世界中の空を駆け巡る光の翼。

 その光の中心に在る巨人。

 その巨人の手を引くのは。

 世界の空へと「彼女」をエスコートするのは、一人の少年。

 少年は「彼女」の手を引きながら、世界中の空を駆け巡る。

 

 「彼女」の背から伸びる光の翼に触れる度に、14年前にこの地上から姿を消したものたちに姿を変えていく塵たち。28年前に海の中から姿を消したものたちに姿を変える塵たち。

 生物の姿を形作り、色彩を帯びながら海へと、地上へと降り注いでいく塵たちを、少年は目を輝かせながら見送っていた。

 

 

 生物の中にはもちろんヒトもたくさん居て、そのヒトの中には地上へ向かってゆっくりと降下していく中で、少年と「彼女」の存在に気付くものたちも居る。

 地上にゆっくりと舞い降りていく彼ら。彼らの故郷へと、生きてゆくための場所へとゆっくりと戻っていきながら、彼らは少年と「彼女」に向かって手を振った。

 

「ははっ」

 

 それは地上へと降り注ぐ虹の背に咲いた、無数の小さな花のよう。

 花びらのような彼らの手に向かって、少年も微笑みながら手を振り返す。

 

「ほら」

 少年は彼が手を引く「彼女」の大きな手をくいくいっと引っ張った。

 「彼女」は「なに?」と彼に顔を向ける。

「綾波も」

 彼はそう言いながら、地上に戻っていく彼らに向かって手を振り続けている。

 

 「彼女」は少し戸惑ったように彼と彼らとを交互に見比べて。

 そして自分の手を引く彼の見よう見まねで。

 おずおずと、彼に引かれてない方の右手を上げ。

 地上に戻っていく彼らに向かって、その大きな手を振ってみた。

 

 いかにも慣れない様子で手を振る「彼女」。

 そんな「彼女」のぎこちない動作を見てふふっと小さく笑った彼は、「彼女」が手を振った方に視線を戻すと今度はははっと大きく笑った。

 

 地上に戻っていくみんなが、諸手を上げて「彼女」に向かって手を振り返してくれている。

 口々に。声までは伝わってこないが、その表情から見て明らかに「ありがとう」と言いながら、「彼女」に向かって手を振り返してくれている。

 それは地上へと降り注ぐ虹の背に咲いた、無数の大きな華のよう。

 

 そんな彼らを、穏やかな、あるいは今にも泣いてしまいそうな潤んだ目で見送る彼。

 繋いだ「彼女」の大きな手を、ぎゅっと強く握りしめる。

 

 

「綾波…」

 

 地上に戻っていく彼らに向けて躊躇いがちに手を振り続けていた「彼女」は、その手を止めた。

 自分の手を引く彼の横顔を見つめる。

 

「ありがとう…、綾波…」

 

 彼の黒曜石のような瞳に映る景色。

 

「僕をこの景色に導いてくれて…」

 

 彼の瞳の中を、虹のような様々な色彩が踊り、輝き、満たしている。

 

「僕はきっと、この先、何年、何十年、何百年経っても…」

 

 そこまで言って、彼は一度目を閉じ、首を横に振る。

 

「また生まれ変わったとしても…」

 

 目を開け、「彼女」を見た。

 

「この日のことを忘れないよ…」

 

 虹によって彩られた瞳で「彼女」を見た。

 

「君と見たこの景色のことを、決して忘れないよ…」

 

 虹によって彩られた「彼女」の瞳を見た。

 

 

 

 巨人は右手を動かした。

 とても大きな右手は、とても大きな左手の先っちょを握る彼のもとへと。

 人差し指だけを伸ばして、彼の顔のもとへと。

 その動作を1センチメートルでも誤れば、人間の頭など簡単に圧し潰してしまいそうな「彼女」の大きな指。

 それでも彼は、近付いてくるその大きな指を身じろぎ一つせずに待つ。

 

 彼の顔まで辿り着いた大き過ぎる指。

 その指の先端が、極めて繊細な動きで、彼の右頬に触れた。

 

 その瞬間、彼の右の目尻から、数粒の水滴が弾け、「彼女」が背負う光の翼に照らされて輝く飛沫となって空中へと消えていく。

 それを見て、彼は初めて自分が涙を流していることに気付いた。

 

 「彼女」の大き過ぎる指は、今度はやはり極めて繊細な動きで左頬に触れ、彼の左目から溢れていた数粒の涙を拭う。

 

 分厚い装甲と人工筋肉に覆われた「彼女」の指。

 

 その指から伝わる、「彼女」の温もり。

 

 その温もりを確かめるように、彼は「彼女」の指に頬を摺り寄せ、そして左手で「彼女」の右手を握る。

 

 彼の右手は「彼女」の左手(の先端)を。彼の左手は「彼女」の右手(の先端)を。

 お互いの両手を握り合いっこしたため、お互いの両腕で一つの輪っかを作ることになった彼と「彼女」。

 一方の腕はとても短くて。そしてもう一方の腕はあまりにも長過ぎて。

 

 そんなとてつもなく不均衡な腕の長さで作られた一つの輪っか。

 

 それは空から見下ろせばあまりにも歪な形をした輪っか。

 

 しかし地上から見上げれば、その輪っかはきっと。

 

 底辺が少年の体で窄まり、そして頂点は巨人の頭と2つの肩で双丘の形を成すその輪っかはきっと。

 

 

 この空間を満たす「それ」を象徴する形に。

 

 

 彼と「彼女」がこの惑星の隅々に行き渡らせる、「それ」を象徴する形に。

 

 

 彼と「彼女」の間で行き交い溢れる「それ」を象徴する形に。

 

 

 

 

 「愛」を表す世界共通のシンボルマークに見えたに違いなかった。

 

 

 

 

 そのマークの底辺のとんがりの位置にいる彼は、そのマークの頂点の2つの丸い丘を形作る「彼女」の顔を見つめながら、微笑み掛けた。

 

 

 

 

「好きだよ…、綾波…」

 

 

 

 

 まるで熱にうなされたように発せられたその一言。

 それはこの雰囲気に乗せられて勢い任せで言った一言に過ぎないが、それでも彼にとっては明確な意志を籠めた、一世一代の一言。

 彼にとって、「彼女」へ溢れるあらゆる感情を、何とか4文字に絞り込み、詰め込んで、送り届けた告白。

 

 

 告白の時くらいはカッコつけたいと常々思っていた彼は、勢い任せではあっても、表情筋を総動員させて、その顔に彼にとっての最高のキメ顔(のつもり)を宿しながら言ったのだが。

 

 

 

 

 目の前にあるのはきょとんとした「彼女」の顔。

 

 

 

 

 「何を言っているの?」とでも言いたげな、小首を傾げた巨人の顔。

 

 

 あれ?

 もしかしたら聴こえなかったのかな?

 

 

 様々な経験を経たことで、大人になることを恐れなくなった彼。

 大人にならなくちゃと決意した彼。

 そんな彼でも一朝一夕で酸いも甘いも噛み分ける大人になれるはずもなく、根はまだまだウブな少年のまま。

 

 一世一代の告白が肝心の相手に伝わっていないことを知るや、急激に高まる気恥ずかしさは彼の中の覚悟をあっさりと上回ってしまう。

 彼の顔が、まるで瞬間湯沸かし器のように真っ赤になってしまった。

 

「え、えっと…」

 

 

 

  ―――やっぱ今のなし。

 

 

 

 と口走ってしまいそうになった口を、必死で噤む。

 

 

 

  ―――男になれ!

 

     碇シンジ!

 

 

 

 そう自分に言い聞かせた彼は、真っ赤な顔のままで鼻の孔を大きく開け、この惑星の全ての酸素を奪う勢いで息を吸い、大きく口を開いて。

 

 そして。

 

 

 

 

「僕は!!」

 

 

 

 

 相手の耳にこの声が届くように。

 

 

 

 

「君のことが!!!」

 

 

 

 

 世界中にこの声が届くように。

 

 

 

 

「大好きだあああああああああああああああああああ!!!!」

 

 

 

 

 その語尾を、息が続く限り目一杯伸ばした。

 伸ばして伸ばして。

 肺の中の空気を全て吐き出す勢いで伸ばし続けて。

 

 ようやく声が途切れた彼は。

 

「すぅぅ…」

 

 酸欠状態の体内に慌てて息を送り込み。

 

「はあぁ~…」

 

 そして息を吐く。

 

 息を出し続けてしまった所為で軽く眩暈がする。

 視界がぼやけてしまい、「彼女」の顔がよく見えない。

 僕の告白に、「彼女」はどんな反応をしてくれるのだろう。

 

 

 

 彼の「告白」に対する最初の反応は、意外なところから現れた。

 

 「わっ」という歓声。

 その歓声は、「彼女」の方からではない。

 彼と「彼女」が形作る、世界共通の「愛」のシンボルマークの下の方から聴こえてくる。

 

 酸欠から脱し、ようやく視界が定まった彼。

 歓声がする方を見れば、そこには地上へと降りていくたくさんのヒトたち。

 彼らが皆、こちらを見上げている。

 

 ある者は目を輝かせ。

 ある者は両頬に手を当て。

 ある者は両手を叩いて拍手し。

 中には指笛を鳴らす者も居たりなんかして。

 

 まるで舞台劇の終幕を見た観客のような。

 最高のハッピーエンドを見届けた観客のような。

 彼らは口々に何かを言っている。

 今回も何を言っているかまでは伝わってこないが、きっと彼らは「ブラボー!」とでも言ってくれているのだろう。

 

 たくさんのヒトたちだけではない。

 四つ足の獣たちははしゃぐように空を駆け回り。

 尾ひれをもつ魚たちは見えない水飛沫をあげるように空を泳ぎ回り。

 平和を象徴する鳥たちは白い翼をはためかせながら空を駆け巡り。

 

 それはまるでこの惑星にあまねく降り注ぐ虹全体が2人を。

 この惑星全てが2人を祝福してくれているような。

 

 

 

「ま、まいったな…」

 そんな彼らを見下ろす少年。

 図らずも公衆の面前での公開告白になってしまった。

 彼が酸欠で青くなっていた顔を再び赤くしていたら。

 

 

 ボン!

 

 

 それはまるで圧縮された水蒸気が破裂したかのよな音。

 

 そんな音が間近で鳴ったので、驚いた彼は音がした方向。

 「彼女」の顔の方に視線を戻した。

 

 そこにある「彼女」の顔。

 口を、あんぐりと開けた「彼女」の顔。

 顔に纏った鎧兜が溶けてしまいそうな程に真っ赤になった「彼女」の顔。

 その頭上に、大量の水蒸気を立ち昇らせている「彼女」の顔。

 

「綾…、波…?」

 

 呼び掛けた「彼女」の体が、右に大きく泳ぐ。

 

「あ、綾波?」

 

 分厚い装甲を全身に纏った「彼女」の体が、まるで芯が抜けたようにふにゃふにゃに萎びていく。

 

「えええええええ!?」

 

 その巨体が、地上へと墜落を始めてしまった。

 

 

「わわわわわ! 綾波! しっかりしてぇぇ!」

 

 まるで熱にのぼせて昇天してしまったかのような「彼女」。

 墜落していくその巨躯を、必死に引き上げようとする彼だが、如何せんその体格差は象とミジンコだ。

 「彼女」の体に引っ張られるように、彼も墜落していく。

 

 

 それを見て大慌てしたのは彼ら。

 地上へとゆっくりと降下していたたくさんのヒトたちは、今しがた祝福したばかりの彼と「彼女」が地上へと墜落していく様を見て、慌てて2人のもとへと飛んでいく。そしてのぼせてしまった「彼女」の巨体のあちこちに取り付き、その体を引っ張り上げ始めた。

 たくさんのヒトたちだけでなく、翼を持った沢山の動物たちもやってきて、それぞれの翼を懸命にはためかせ、みんなで協力して大き過ぎる「彼女」の体を引っ張り上げる。

 

 彼らの懸命の救出活動?は実を結び、やがて「彼女」の体はふわりふわりと上昇を始め、近付きつつあった地上から少しずつ離れ始めた。

 

 みんなの協力で、なんとか安定した高度を保つことができるようになり、「彼女」と一緒に地上と激突し掛けていた彼はほっと安堵の溜息を吐く。そして「どうもすいません」とばかりに、大き過ぎる「彼女」の体を引っ張り上げてくれたみんなに向けて頭を下げた。

 墜落している間も離すことはなかった「彼女」の両手を握る手に、力を籠める。

 

「大丈夫? 綾波」

 

 そう呼び掛けるが、「彼女」の顔は口をあんぐりと開けたままで呆けたまま。

 すると地上へと降り注ぐ虹の一角からある一団が離れ、「彼女」に近付いてきた。空を泳ぐその一団。地上へと還っていく様々な生命たちの中でも一際大きな個体を誇る生物の一団。優雅な動きでゆったりと空を泳いでやってきたその一団は、呆けたままの「彼女」の顔の前を遊泳し始める。

 この惑星の海全てが血の色に染まってしまったあの日まで、この惑星の最大の生物として世界中の海を巡っていた彼ら。その巨体は、大き過ぎる「彼女」の前であっても見劣りしない。

 そしてその一団は「彼女」の顔の周りを囲んでしまうと、それぞれの個体の頭部にある穴を彼女の顔へと向けた。

 そしてその穴から勢いよく噴き出す空気と共に大量の水が飛び出て、「彼女」の顔を盛大に濡らした。

 

 顔に水を引っ掛けられて、ようやく正気を取り戻したらしい。

 目を醒ました「彼女」は、きょろきょろと周囲を見渡す。何故か自分の顔の周囲を遊泳する大きなクジラたち。そして体に取り付いているたくさんのヒトたちや動物たちを不思議そうに見渡しつつ、そして最後に「彼女」の両手を握る彼の顔を見つめる。

 そして「何があったの?」とばかりにくてんと首を傾げる「彼女」。

 そんな「彼女」の仕草を見て彼は「あ~なんて可愛いんだろう~」と心の中で悶えつつ、あまり不用意なことを言ってまた彼女を失神させてしまったらいけないと反省もしつつ。

 

 見れば、大き過ぎる「彼女」の体を引き上げてくれたみんなが彼女の体から離れ、地上への降下を再開している。「彼女」の目を醒ましてくれたクジラたちも、地上へと降り注ぐ虹へと戻ろうとしている。

「ありがとう」

 彼がみんなにお礼を言うと、クジラの一団の長だろうか。一際大きなクジラ。頭部の皮膚がゴツゴツとした岩のように変色したクジラがみんなを代表して甲高い鳴き声を上げ、彼のお礼に答えてくれた。

 

 彼は彼女の右手と繋いでいた左手を離すと、地上に戻っていく彼らにもう一度手を振り、そして「彼女」と肩を並べた。

「行こっか。綾波」

 「デートの続きをしよう」と促す彼。

 すると、「彼女」は彼の右手と繋いでいた左手をふるふると揺すった。揺すられてしまったため、「彼女」の指(の装甲の隙間)を握っていた彼の右手が解けてしまう。

「え?」

 離れ離れになってしまった彼の右手と「彼女」の左手。「彼女」の方から一方的に手を離されてしまい、彼は驚きと共に少しだけ悲しそうな顔をする。

 一方で、「彼女」の方は彼の手から振り解いたばかりの左手の人差し指を、何故か再び彼の体へ近付けようとしている。しかし彼の体に触れそうになる寸前で、引っ込められる「彼女」の人差し指。

 大き過ぎる人差し指を彼の体に近付けては引っ込め。近付けては引っ込め。行き場を失ってしまっている「彼女」の人差し指。

 

 彼がこの「彼女」の行動の意図をようやく理解できたのは、「彼女」の指が近付けては引っ込めを繰り返して5回目の時だった。

 くすりと笑いつつ、自分の右脇を大きく開いてやる彼。

 すると「彼女」は、大きく開いた彼の脇に向けて、人差し指を近付ける。

 ぴとっ、と彼の脇腹にくっつく「彼女」の大き過ぎる指。

 彼はくすぐったそうに「うひゃっ」と言いつつ、開いていた脇をそっと閉じた。

 「彼女」の大き過ぎる指は、無事に彼の脇に収まることになる。

 

 

 それは傍から見れば、華奢な少年がその細い腕で、バカみたいに大きな指の先っちょを抱えているようにしか見えないだろう。

 しかし当事者の彼。そして「彼女」の頭の中では、彼らの姿はこう描かれているに違いなかった。

 まだまだ初々しくも、仲睦まじく歩く2人。

 寄り添い合いながら、腕を組んで歩く恋人同士の姿に。

 

 

 巨人が背負う12枚の光の翼はますますその輝きを強めていく。

 彼と「彼女」はこの惑星全てをキャンバスにして、世界中の空から地上へと、海へと、山へと、街へと、森へと、川へと、草原へと、砂漠へと。

 

 この惑星の隅々に、光り輝く虹を描いていった。

 

 

 

 



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(69)ハッピーエンド

 

 

 

 

「で…」

 

 白い砂浜。青い海と空。

 この世に存在する色はその2色しか知らない、とばかりに。創造主の底が知れてしまうような、実にテキトーに作られたその空間に閉じ込めれて、どのくらいの時間が経過したことだろう。

「あたしたちは何時までこうしてりゃいいわけ?」

 砂浜に仰向けになって寝っ転がるアスカ・ラングレーは、左隣でうつ伏せになって寝っ転がっている真希波マリに尋ねた。

「さあ…。別にいいじゃん。今はこのバカンスを楽しもうよ…」

 シャリシャリとした砂浜の感触と、お天道様のないこの場所でいったい何処から降り注いでいるのか分からない陽射しの暖かさを楽しむような、うっとりしたマリの顔。

 アスカも最初のうちはこんなにのんびりできたのは何時以来だろうかと思いながら、戦いに明け暮れた自分に対するご褒美とばかりにこの退屈なバカンスを楽しんでいたが、さすがにそろそろぼちぼちいい加減飽きてきた。

 自分の問いに対する答えを求めて、今度は右隣で腰を下ろしている渚カヲルを見た。

 アスカの視線に気付いたカヲルは、「さあ」とばかりに肩を竦める。

「あいつら。今、どの辺りをうろついてんのよ?」

 その問いに対しても、カヲルは「さあ」とばかりに肩を竦める。

「見てたんじゃないの?」

 カヲルは顔を顰めた。

「ただ手を繋いで飛んでるだけの2人を見ていて何が楽しいってゆーんだい?」

「そりゃそっか」

 アスカは地面に投げていた両足をひょいっと空に向けて伸ばし、そして一気に下ろすとその反動を利用して立ち上がった。お尻に付いた砂を軽く払い落とすと両足を肩幅に開き、両手を腰に当てる。その肩に、黒っぽい奇妙な生物をちょんと乗っけて。

「このアスカさまを待たせるとはいい度胸ね。さっさと戻ってこいっつーの」

 雲一つない、どこまでも澄んだ空を見上げた。

 

 ふと。

 まるで亀の甲羅干しのように真希波マリの背中にくっ付いて日光浴をしていた小さな子供が、何かに気付いたように顔を上げた。マリの背中を離れた小さな子供は、とてとてと波打ち際まで歩くと、アスカと同じように空を見上げる。

 その無垢な輝きを放つ瞳が見つめる先。

 

 最初は小さな黒い点だったもの。

 その小さな点が、どんどん大きくなっていく。

 大きくなっていくと共に、ぴゅ~~という、大きなものが落下してくる時の風切り音。

 アスカの目にも、落ちてくる何かが人の形をしているとはっきりと分かった時。

 

 彼女らが居る浜辺の目の前の海が、大きく弾けた。

 海が割れ、巨大な水柱が噴き上がると共に、うねりを上げる津波が彼らの居る浜辺に押し寄せる。

「わわっ!?」

「ちょっ!?」

「うっひゃ~!?」

 カヲル、アスカ、マリがそれぞれの悲鳴を上げて、押し寄せた波によってひっくり返ってしまった。

 

 波が引き、濡れた砂浜に転がる彼ら。

「うへ~。鼻に水が入った」

「まいったね。これは」

「ちょっと優等生(エコヒイキ)! 何してくれてんのよ!」

 恨み節を言う彼らの視線の先には、青い海に立つ紫色の機体。

 海水を浴びてキラキラと光る鋼を纏った体。

 エヴァンゲリオン初号機が立っていた。

 

 

 

 突然空から降ってきた初号機。

 ようやく戻ってきたはいいが、膝上まで海に浸かった状態で立ったまま、その後の動きがない。

 いい加減痺れを切らした彼らは、初号機のもとまで泳いでいくと、その大きな足に取り付き、装甲の隙間に足や手を引っ掻け、えっちらおっちらと巨人の体を登り始めた。

 大腿部をよじ登り、腰の辺りまで辿り着くと、上の方から声がする。

 

 

 初号機の胸の辺りに据えられた初号機の左手。空へ向けられたその手の平に乗る一つの人影。

 碇シンジは、初号機の胸に埋め込まれた赤く光る大きな球体。初号機のコアに両手で張り付き、時にその手で球体の表面をコンコンと叩きながら、コアの中に向かって呼び掛けていた。

「綾波~」

 右耳をコアの表面に張り付け、中の音に耳を傾ける。時折、右手でコンコンとコアの表面を軽く叩きながら。

「綾波~、出ておいでよ」

 

「何やってんのよ、あんた」

 シンジが立つ初号機の大きな手のひらの端の下から、アスカがひょっこりと顔を出した。アスカに続いてマリ、その背中に抱き着いた小さな子供、そしてカヲルも次々と現れ、よっこらせと初号機の大きな手の上によじ登る。

「それがさ、綾波が出てこないんだよ」

 アスカの問いに答えながら、シンジはコアに向けて「彼女」の名前を呼び続ける。

「はあ? この期に及んでなに引き籠っちゃってんのよ、あいつは」

 そうぼやきながらアスカもシンジの隣に立ち。

「ほら、さっさと出てきなさいよ。あたしたちを待たせるなんて100年早いっつーの」

 右の爪先でコアをゲシゲシと小突き始めた。

「くすぐったりしたら出てくるんじゃないかにゃ~?」

 マリもコアに張り付くと、実際に両手でコアの表面をこそこそとくすぐり始める。

 

 一人は爪先でコアを小突き、一人は両手でわしゃわしゃとコアをくすぐっている。そんな2人の女性の背中を、呆れるように見ているのは渚カヲル。

「まったく。この場には2人も乙女が居るというのに、何故そんな貧困な発想しか生まれないのだろうか」

「何よ」

「棘のある言い方だね~カヲルっち」

 2人の乙女が振り返り、カヲルを睨んだ。

 そんな2人に対し、カヲルはどこか得意げな顔で言う。

「お姫様の眠り起こすのは王子様の口付け。古から人々の間ではそう相場が決まってるらしいじゃないか」

 そう言って、シンジの横顔を見た。

 

「うん。それはもう試したんだけどさ」

「え゛っ!?」

「え゛っ!?」

「え゛っ!?」

 

 3人の視線がいっぺんに集まる中で、シンジは相変わらずコンコンとコアを叩きながら「彼女」の名前を呼び続けている。

 

「うわっ、ひっくわ~」

 アスカはシンジの隣から半歩離れた。

「さっすがは童貞。怖れを知らぬ…」

 マリも眼鏡越しに冷たい視線をシンジに送る。

「ご、ごめんシンジくん。僕も今日から人々と共に生きていく身だ。だから、人間たちを真似て僕なりのジョークというものを言ってみたつもりだったんだ。まさか…そんな…。君がそんな恥ずかしいこと臆せずするなんて…」

 大切な人に恥をかかせてしまったと、彼にしては珍しくオロオロしているカヲル。

「もう。好きに言ってたらいいよ。それよりも綾波。どうしたの? 出てこれない理由でもあるの?」

 シンジは3人には取り合わず、コアの中の「彼女」に呼び掛け続け、そしてコアに耳を引っ付けてコアの中の「彼女」の声に耳を傾ける。

「うん…、うん…」

 耳を傾けながら、何度か頷くシンジ。

「どうやって会話してんのよ、こいつら」

「むっふふ~ん。心が繋がった者同士、通い合うもんがあるんじゃにゃいの~? 愛だね~」

 

「なんだ、そんなことか」

 コアから耳を離したシンジは、コアの中の「彼女」に向かって微笑み掛けると、コアから半歩ほど離れた。

 コアの表面に向けて両手を伸ばす。

「何時か何処かで誰かに言われたことがあるんだ。その人の形作ってるのは人の心だって」

 シンジの両手がコアに到達し、手のひらがコアの表面に張り付く。しかしその手はそこで止まらず、まるで水の中に沈むように周囲に波紋を広げつつ、コアの中へと吸い込まれていく。

「自分の力で自分自身をイメージできれば、誰もがヒトの形に戻れるよ」

 

 シンジの両腕は二の腕辺りまでコアの中に沈んだ。

 そこでシンジは前進を止め、瞳を空に向けながら、コアの中にある「何か」を手探りで探す。

 

 10秒ほど経って。

 

 シンジの顔が、にこっと笑った。

「捕まえた…」

 そう呟いたシンジは視線をコアに戻すと、ゆっくりと後退し始めた。

 

 1歩、2歩と慎重に。

 シンジの動きと共に、少しずつコアの中から出てくる彼の腕。

 肘が現れ、前腕が現れ、手首が現れ。

 そしてシンジの腕全てがコアから抜き出された。

 

 そのシンジの両手が、何かを握っている。

 それは手。

 シンジの2つの手それぞれが、コアから出てきた2つの手を握っている。

 

 シンジは後退を止めない。

 さらに一歩後退する。

 するとシンジに握られた細い手に続いて、細い手首が現れた。

 さらにもう一歩後退すると、今度は細い前腕が現れた。

 そして細い肘も外に出たところで。

 

 今度は足。

 シンジの左のつま先の前に着地した、コアの中から伸びてきた足。

 さらにもう一歩後退すると、今度はもう片方の足がコアから現れる。

 

 ここまで来たのならと、シンジは2歩、3歩と一気に後退してみた。

 すると、シンジの手に引かれたそれは、二の腕、肩、膝、太腿と、コアの外に露出する箇所を一気に増やしていく。 

 

 そしてコアの中から最後に現れたもの。

 

「ようやく君に会えたね。綾波…」

 

 シンジは、コアから最後に現れた顔に向かって優しく語り掛けた。

 

 相手の体全てをコアから連れ出したところで、シンジの足は止まった。

 彼の両手は、相手の両手を握ったまま。

 間近で、お互いの顔を見つめ合う。

 

 

「え…」

 アスカは呻くように呟いた。

「これって…」

 マリはメガネの奥にある目を険しくさせる。

 カヲルもまた、彼にしては珍しく深刻そうにその眉根を寄せた。

 

 彼らが、碇シンジの肩越しに見たもの。

 碇シンジがその手を引いてコアの外へと導いたもの。

 碇シンジが対面しているもの。

 

 少女の姿をした、淡い光。

 

 胴体のようなものから腕のようなものが生え、足のようなものが伸び、頭部のようなものが乗っているので、その淡い光が人の形をしていると分かるし、丸みを帯びた肩や腰、膨らんだ胸元から淡い光が象っているのは女性、少女だと分かる。

 

 ヒトではない、ヒトの形をした淡い光。

 シンジが握った淡い光の手。その前腕からポタポタと滴り落ちる光の雫。

 肘からも、顎からも、大量の光の雫が零れ落ちている。

 淡い光の足もとでは、その体から溶け出た雫が集まり、まるで水溜まりのように広がっている。

 

 それを認めたカヲルは、目を閉じ、軽く溜息を吐きながらシンジの耳元に囁き掛けた。

「シンジくん…。早く「彼女」をコアの中へ…」

 

 カヲルが最後まで言い切る前に、シンジは「彼女」に向けて微笑みながら語り掛けた。

 

「よく頑張ったね。綾波」

 

 シンジは半歩前へ歩み出る。

 

「大丈夫だよ。綾波」

 

 近づく彼と「彼女」の距離。

 

「僕もイメージするよ。君を」

 

 握っていた「彼女」の両手をそっと離した。

 

「「あの日」。世界と引き換えにしてでも助けたいと思った君のことを」

 

 自由になった両手を、「彼女」の両肩へと差し伸べる。

 

「「あの日」、強く抱き締めた君のカタチを…」

 

 「彼女」の肩に触れた手を、そのまま背中へと滑らせる。

 

「大好きな君のことを…」

 

 さらにもう半歩「彼女」に近付き。

 

「だから大丈夫だよ。綾波…」

 

 彼の両腕にすっぽりと収まる淡い光の細い体。

 

 彼は、少女の姿をした淡い光を力強く、それでいてそっと抱き寄せる。

 

 

 

 人目も憚らずに始まってしまった彼と「彼女」の熱い抱擁に、外野たちは立ち竦むことしかできない。

 彼が淡い光を抱き締めてから無言の時間が淡々と過ぎ、マリとカヲルが「どうしよっか」と目配せしていたら。

「あーもう。何ちんたらしてんのよ」

 沈黙を破ったのはアスカだった。

「は? なに? こいつに自分自身のイメージを思い出させりゃいいわけ?」

 ずかずかと彼と淡い光の近くまで歩み寄る。

「だったらあたしもあんたにそっくりな奴に何度も抱き着かれてメーワクしてたっつーの」

 などと不機嫌そうに言いいながら両腕を広げたアスカは、淡い光と淡い光を抱き締めている彼の肩にそっと触れた。そしてそのまま、淡い光を彼ごと抱き締める。

 

 2人での抱擁にもう一人加わり、3人での抱擁になって。

 憎まれ口を叩きつつも、2人を抱き締めるアスカの横顔。その頬にちょっとばかりの赤みが差しているのを見たカヲルは、にっこり笑う。

「それらなら僕も、君とよく似た子たちを何度も抱っこしたっけ」

 カヲルもまた長い腕を大きく広げ、淡い光を、彼とアスカごと抱き締めた。

 

「だったらあたしはあんたのオリジナルと何度もハグしたよん!」

 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら淡い光の背後に回ったマリが、その背中に勢いよく抱き着いたため、その拍子で全員が倒れそうになってしまう。アスカはわーわー喚き散らしつつ、一番外に居るカヲルが踏ん張ってみんなの体を支えたおかげで、辛うじて転倒は免れた。

 計10本の足が一カ所にぎゅっと集まる中、その隙間に入り込んだ小さな子供も、淡い光の片方の足にぎゅっと抱き着いている。

 

 いつの間にか仲間たちの腕に囲まれてしまったシンジ。

 左肩から背中に掛けて感じる彼女の腕。右肩から背中に掛けて感じる彼の腕。そしてみんなの背中越しに回された彼女の腕。ついでに「彼女」の足に抱き着いた小さな体からも。

 それぞれの体ら感じる極上の温もりに包まれる彼は顔に蕩けたような笑みを浮かべつつ、自分の中にある「彼女」のイメージを自分の温もりを通して「彼女」に伝えるため、ただひたすら淡い光を抱き締め続けていた。

 

 

 

 

 エヴァンゲリオン初号機の手の上で、彼らが一つになってからどのくらいの時が経っただろう。

 

 抱擁の中心に在る者の右足に抱き着いていた小さな子供は、少し体を離し、その無垢な瞳で自分が抱き着いていた右足の持ち主を見上げた。

 

 

 仲間たちをいっぺんに抱き締めることの心地よさにうっとりとしてしまい、ずっと目を閉じていた。

 誰かにお尻をぺしぺしと叩かれ、閉じていた目を開く。

 見ると、小さな子供が自分のお尻を軽く叩いていた。

 「何?」と目で尋ねると、子供は答える代わりに何かを指差す。

 子供が指差したものを見て、マリは「あらま」と小さく笑った。

 そしてマリは皆の背中に回していた腕を解き、一歩、抱擁の輪から遠ざかる。

 

 マリの気配が少し離れたことを感じたカヲルは、閉じていた目を開ける。

 それに気付いて「ふふ」と小さく笑ったカヲルもまた、皆の背中に回していた腕を解き、一歩、抱擁の輪から遠ざかった。

 

 カヲルとマリの気配が離れたことに気付いたアスカもまた目を開くと、それを見て「ははっ」と小さく笑い、彼らの背中に回していた腕を解き、彼と彼女から一歩遠ざかる。

 

 

 仲間たちが抱擁の輪から遠ざかったことを感じた。

 そして抱き締めていた「もの」の感触が明らかに変わったことも感じた。

 あやふやでない、明確に感じる存在。

 そして温もり。

 

 錨シンジもまた、相手の背中に回していた腕を滑らせ、その手を相手の両肩に乗せ、そして半歩ほど後ろに下がった。

 

 

 

 シンジの体が離れ、ようやくアスカたちの目にも、彼が抱き締めていたものの全体像が確認できるようになった。

 

 

 

「ぷっ!?」

 

 真っ先に噴き出したのはやっぱり今度もアスカだった。

 そして一度蒔かれた笑いの火種は、瞬く間に周囲に延焼していく。

 

「ははははは!」

「くくくくくっ!」

「あーはっはっはっ!」

 

 アスカもカヲルもマリも、肩を揺らしながら笑う。

 

 彼らを爆笑の世界に誘ったもの。

 碇シンジがその肩に両手を乗せて対面しているもの。

 

 

 地面に向けて伸びるしなやかな足。

 ゆったりとした曲線を描く腰。

 慎ましく膨らんだ胸。

 小枝のような細い首の上に置かれた顔には、2つの紅玉の瞳。

 

 

 綾波レイが、彼らの前に立っていた。

 

 

 その身に一糸も纏わず。

 

 

 その頭から、足もとまで届きそうなほどの尋常ではない量の空色の髪を広げて。

 

 

 

「あ、あんた。それ何処の呪いの人形よ…!」

 アスカは今も腹を抱えて笑っている。

「綾波レイ。君はいつも僕の予想の斜め上を行くね」

 カヲルは右手で顔半分を覆いながらこみ上げる笑いを押し殺そうと頑張っている。

「体張ってまで笑いを取りに来るとは! 師匠ぅ! 師匠と呼ばせて下さい!」

 マリはゲラゲラ笑いながら綾波レイの肩をびしばし叩いている。

 

 

 彼の両手によって外の世界へ導かれた綾波レイ。

 自分のイメージを彼の温もりを通じて形作った綾波レイ。

 そして目の前に在る碇シンジの顔を、ひたすら見つめていた綾波レイ。

 マリに肩をびしばし叩かれ、そのもじゃもじゃの髪が伸びた頭が首振り人形のように右に左にふらふらと揺れ。

 目をぱちくりと瞬きして。

 ようやく自分と碇シンジ以外の存在に気付く。

 

 彼らの顔を一つ一つ、不思議そうに見ていく。

 ケラケラと笑い続けている彼らの顔を。

 見れば、足もとでは小さな子供までもがきゃっきゃと笑い転げている。

 

 ようやく、自分が彼らに笑われていることに気付いたらしい。

 彼女の唇が「へ」の字に曲がり。

 彼女の眉尻が「ハ」の字に下がり。

 彼女の頬と額がぽっと赤くなり。

 

「わー待った待った待った!」

「なに戻ろうとしてんのよ! バカ!」

 踵を返してコアの中に戻ろうとした綾波レイを、マリとアスカが慌てて止めるなか。

 

 

「綺麗だ…」

 

 

「え?」

「え?」

「え?」

 

 誰かがぽつりと呟いたその言葉に、その場に居た全員の動きが止まる。

 彼らの視線が、その呟きを漏らした人物の顔に集中した。

 

 周囲の爆笑も喧騒も何処か別の世界での出来事。

 

「綺麗だ…、綾波…」

 

 何処か呆けた声音でそう呟く碇シンジの視線の先には、乱れた空色の髪を足もとに届くほどの勢いで伸ばした一人の少女。

 

「とても綺麗だ…、綾波…」

 

 頬と額を赤く染めていた綾波レイの目が、まん丸に広がる。

 

「綺麗だ! 綾波!」

 

 

 もう辛抱堪らんとばかりに叫んだシンジは、彼女の腰に両手を回すと、彼女の体をひょいっと抱き上げてしまった。

 彼女の両足が浮くと同時に彼女の口からは小さな悲鳴が漏れたが、シンジは構わらず彼女の体を抱え上げたまま、胸の内からこみ上げてくる感情を体全体で表現するかのようにくるくると回り始める。

 シンジを軸にくるくると回る彼女の体。遠心力に引かれる彼女の足が、彼女のもじゃもじゃの髪が外に伸びて、シンジを中心に大きな円を描く。

 彼女の体に引っ張られるように、シンジの足が右に左に大きくよたつき、そして。

 

「あ」

「あ」

「あ」

 

 アスカ、カヲル、マリの目の前で、2人の姿が消えた。

 3秒後、下の方からざぶんという水の打ち立てる音と共に、彼らの元まで舞い上がる大きな水柱。

 

「なにやってんのよ、あいつら…」

 水飛沫を被ったアスカはおでこの隅っこに軽く青筋を浮かべながら呟いた。

「シンジくん、舞い上がり過ぎて、訳分かんなくなっちゃってる感じだね~」

 彼らの足場である初号機の手の縁に跪き、彼と彼女が落ちていった方を覗き込んだマリ。

「あの男前シンジくんは一体何処へ行っちゃったんだい」

 

 初号機の手から数メートル下にある海面には、おそらく2人が落ちた場所を中心に広がる波紋が広がっている。暫くその波紋を見つめていたら、やがて短く摘まれた黒い髪と、もじゃもじゃに伸びた空色の髪が海面へと浮かび上がってきた。

 ぷはっという呼気の音と共に、海面に顔を出した2人。

 空色髪の持ち主は伸びに伸びた前髪が顔面に張り付き、前が見えなくなってしまって右往左往している。

 黒髪の持ち主はそんな空色髪の子の様子にふふっと笑いながら、彼女の体を側に手繰り寄せると、顔面に張り付いた前髪を梳いてやった。もじゃもじゃの前髪の向こうから現れたのは、海水に濡れてキラキラと輝く宝石のような紅玉の瞳。

 瞳だけでなく、彼女の空色の髪が、髪と同じ色の長い睫毛が、白磁のような白い肌が。

 彼女の全てがキラキラと光り輝いている。

 そんな光の結晶を纏う彼女を眩しそうに見つめる彼。

 彼女もまた、間近にある彼の顔を、普段よりも少し大きく広げた目で見つめ返している。

 そのまま、2人はずっと見つめ合っている。

 

「ありゃま。完全にお2人さんの世界」

「ところでさ」

 野次馬根性丸出しのマリの背中にアスカは声を掛けた。

「な~に~?」

「さっきからさ」

「うーん。…おっ、おっ。そうだシンジくん、いっちゃえ!」

「ず~っと気になってたんだけどさ」

「行け! そのままチューしちゃえ!」

「あんたのその背中にいるちっこいの」

「あちゃ~…! 何やってんだあのヘタレは!」

「そのガキんちょ誰?」

「へ?」

 アスカのその問いに、ようやく顔を上げたマリは一度アスカを見ると、首を捻ってその視線をそのまま自分の背中へと向けた。

「あ~こいつ?」

 マリの背中に抱き着いていた小さな子供は、マリの背中から身を乗り出しながら、海面の2人を覗き込んでいる。

 マリの視線はアスカへと戻って。

 そして首を傾げるマリ。

「さあ?」

「さあって…」

 マリから返ってきた要領を得ない答えにアスカはずっこけてしまう。

「気づいたら居たのよ。こいつ」

「何よそれ。ホラー以外の何物でもないんですけど」

「使徒を肩に乗っけてるアスカに言われたくないんですけど」

「ば、バルディエルちゃんのこと悪く言わないでよ」

 マリの指摘に、咄嗟に右肩に乗っていた奇妙な生物を庇うように抱き締めるアスカである。

「まあいいじゃんいいじゃん。こいつもこんなに可愛いんだし」

 そう言いながら頬を寄せ、頭をぐりぐりと掻き混ぜてくるマリに、小さな子供はくすぐったそうに首を竦めながら、きゃっきゃと笑い声を上げている。

 一頻りマリにじゃれついた小さな子供は顔を上げると、アスカを見た。

「な、何よ」

 穢れを知らない無垢な瞳に見つめられて、思わずたじろいでしまう齢28のアスカである。小さな子供は無言のまま、短い指で海面の2人を指した。

「なに? あいつらの所に行きたいの?」

 こくりと頷く小さな子供。

 小さな指に導かれるように、アスカも初号機の手の下の海面を覗き込んだ。

 アスカの目に見えたのは、海面で完全に2人だけの世界に没頭している黒の髪と空色の髪。

「おう、行ったれ行ったれ。ちびっこ爆弾投下~!」

 

 アスカのその掛け声と共に、小さな子供はマリの背中の上でぴょんと跳ねると、マリの頭を飛び越えた。小さな子供の小さな体が何処から降り注いでいるかも分からない陽射しを浴びながら、数メートル下の海へと向かってお尻からダイブ。小さな子供の小さな体は海面の彼と彼女が張り巡らせていた、2人だけの世界を守っているいちゃいちゃATフィールドをいとも簡単にぶち破って、彼らの側に大きな水柱を舞い上がらせた。

 彼は間近で上がった派手な水飛沫にびっくりしつつ、その水飛沫から守るべく彼女の頭を抱き寄せている。

 

 急に彼の胸元に押し付けられた彼女の顔が真っ赤になってることを想像するマリは、ニヤニヤ顔でアスカを見上げた。

「おうおう。アスカもやるねぇ。じれったい2人に援護射撃かにゃ?」

「べっつに」

「へへ。んじゃ、うちらも行こっか」

「へ?」

 いつの間にか、マリの手に握られていたアスカの手。

 マリは、アスカの手を握ったままその体を一気に初号機の手の外へ向けて傾ける。

「ちょ、何すんのよ!」

 マリの手に引っ張られたアスカの体も、初号機の手の外へと大きく傾いてしまった。

 マリの両足が初号機の手から離れ。アスカの両足も初号機の手から離れ。

 その3秒後。

 盛大に舞い上がるのは、2つの大きな水柱。

 

 小さな子供が空から落ちてきた時にはひたすら戸惑っていた碇シンジは、マリとアスカが落ちてきた時にはさすがにちょっと怒ってしまったらしい。綾波レイをその手で抱き締めつつ、マリとアスカに向けてわーわー喚きながら抗議の声を上げていると、マリがけらけら笑いながら碇シンジとその腕に抱かれている綾波レイに向けて両手を振り回しながら海水を掛け始めた。

 マリに対して抗議の声を上げているのはシンジだけではない。彼女に引っ張られて一緒に落っこちてしまったアスカも、その前髪から海水をポタポタと落としながら両手を振り翳してわーわー喚いており、そして両足をばたつかせてマリに盛大に海水を飛ばし始めた。

 シンジも反撃を始めたため、2人から同時に海水を掛けられる羽目になったマリは、ひーひー言いながら顔を両手で覆うと、それを見ていた小さな子供も全身をばたつかせてシンジとアスカに向けて海水を掛け始めている。

 

 

 足もとの海面で繰り広げられている不毛な争いを、呆れた様子で見下ろしていた渚カヲル。初号機の手の端に立ち、彼らの様子を冷めた眼差しで観察する。

 最初、笑っているのはメガネのコと小さな子供だけだった。

 しかし次第に緋色髪のコにも笑顔が見え始め。

 そして碇シンジも声に出して笑い始め。

 碇シンジの首にしがみ付いている綾波レイの顔は見えないが、おそらくきっと彼女も。

 

「笑顔は人を幸せにするおまじない…か…」

 

 そう呟いたカヲルの顔にも、何時の間にやら笑顔が浮かんでいる。

 カヲルはその場で膝を曲げ、腰を落とした。

 そして一気に膝を伸ばし、腰を上げると。

「ひゃっほ~い!」

 陽気な歓声と共に足場を蹴り、空中へと飛び出した。

 

 

 すぐ側で盛大に舞い上がる水柱。

「もう! カヲルくんまで何すんのさ!」

「はははっ」

 海面にひょっこりと顔を出したカヲルは、陽気な笑い声を上げながら両手を交互に振り回してシンジたちに向けて海水を弾き飛ばす。

「もう!」

 シンジも口では不満を表しつつも、カヲルに向けて笑顔で海水を掛け返す。

「ほら! 綾波も!」

 碇シンジの首にしがみ付いている綾波レイは最初、その言葉が自分に向けられたものだとは気付けなかったようだ。

 シンジが、カヲルたちに向けて懸命に海水を掛け返しながら、横目でレイの顔を見ている。

 目をぱちくりとさせているレイ。

 シンジはそんな様子のレイに苦笑しつつ。

「僕を助けてよ、綾波!」

 その言葉に、レイは2度、目をぱちくりとさせた。

 見れば、いつの間にか結託したらしいカヲル、アスカ、マリ、そして小さな子供の4人が、碇シンジ包囲網を狭めつつあるではないか。

 レイはシンジの首に絡めていた両手のうちの左手を離し、おずおずと海面へと伸ばす。

 そして。

 

 

 ぴちゃ

 

 

 手首のスナップを効かせただけの、何とも慎ましやかな援護射撃。

 レイの左手で僅かに弾かれた水飛沫は、誰のもとにも届くことなく海へと戻っていった。

 

「なんだそりゃ! 蛙の逃げションか!」

 その様子を見てけらけら笑うマリは、これがお手本とばかりに海に深く沈めた両手を一気に振り上げ、大量の海水を押し出した。

 塊となった海水が宙に放物線を描き、そしてレイの頭上へと降り注ぐ。

 海水の塊に襲われる前に咄嗟に目を閉じてしまったレイ。

 海水の塊が過ぎ去って3秒後、おそるおそる閉じた目を開く。

 

 もじゃもじゃの前髪が張り付いた顔面。

 その前髪や睫毛の先からぽたぽたと落ちる水滴の向こうに見える人影。

 マリも、アスカも、カヲルも、小さな子供も、そして碇シンジまでもが、濡れ鼠なレイの有様を見て大声を上げて笑っていた。

 

 その赤い瞳を、ぐるりと動かして彼らの顔を一つ一つ確認していったレイ。

 その小さな口もとが、「へ」の字に曲がる。

 

 不機嫌顔になった彼女の頭部が、ゆっくりと海の中へと沈んでいく。

「わあ綾波! 怒んないでよ!」

 海の中に沈んでいったレイの体を、シンジが慌てて引き揚げようとしたが、レイの顔はすぐに海面に戻った

 海面から顔の鼻から上半分だけ出して、自分を笑いものにした彼らを恨めし気に見るレイ。

 マリもアスカもカヲルも小さな子供も、そしてシンジもすでに笑い声は上げていないが、海の中から顔半分だけを覗かせているレイの姿がまた可笑しくて、その顔は決壊寸前であり、今にも噴き出してしまいそうだ。

 鼻から上半分だけでなく、下半分も海面から出し、さらに肩まで出したレイ。

 その肩を、左右交互に前に後ろにと激しく振り始めた。

 

「ど、どうしたの? 綾波…」

 

 突然の彼女の奇行に戸惑う様子のシンジ。

 肩だけではない。肩に引っ張られる形で、彼女の頭部も時計周り、反時計回りと、交互に激しく回転し始める。

 頭に引っ張れる形で、彼女の伸びに伸びた髪も、彼女を中心に円を描くように振り回され始めた。

 

 彼女の豊富過ぎる髪。

 もじゃもじゃの髪が、彼女が頭を振り回す度に、海面を激しく叩く。

 もじゃもじゃの髪に叩かれた海面は大きく弾け、大量の水飛沫を周囲に向けて撒き散らし始めた。

 

「うひゃ~!」

「何すんのよバカ~!」

「この戦いおける武器の使用は、紳士協定に反するんじゃないかな?」

「や、やめてよ! 綾波~!」

 

 

 足もとで湧き上がる悲鳴。

 しかしその悲鳴も3秒後にはすぐに笑い声へと変化する。

 彼らが立てる大きな水飛沫の音。

 彼らが奏でる大きな笑い声。

 静かな波の音に混じって聴こえるそれらに耳を傾けながら、エヴァンゲリオン初号機は足もとではしゃぎ回る子供たちの姿を静かに見守っていた。 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 雲一つない、澄み渡った青い空の下に広がる白い砂浜と、透き通った青い海。その青い海からぽつぽつと現れた人影たちは、陸の方へと向かい始める。陸に近付くに連れ、この世界を支配する重力なるものの存在を思い出し始めるその体は、右に左にふらつく足跡を波打ち際に残しながら陸へと上がっていく。

 最初に浜辺に辿り着いた真希波マリは両手を万歳しながらその場にゴロンと寝ころんだ。それに続く小さな子供もマリの側で疲れ切ったように尻餅を付く。渚カヲルは一度大きく背伸びをした後でゆっくりと腰を下ろした。

「わあ~、髪の毛がベトベトになっちゃった」

 アスカは背中まで伸びる緋色の髪の毛を束ねると、ぎゅっと絞って海水を落としている。

 

 最後になってしまった碇シンジと綾波レイ。

 浜辺に近付くにつれ、ようやく足が海底に付くようになった。

 さらに浜辺に向かって海底を蹴りながら歩いていくと、少しずつ海面が下がっていき、やがて首から上しか見えなかった2人の肩が現れ、胸が現れ。

 ここに来てようやく彼女がまっ裸であることを思い出した彼は慌てて歩みを止めると、着ていた学校指定の白いワイシャツを脱いで袖を彼女の腕に通させた。水を十分に吸った服を水の中で着るのは容易ではない。右腕に袖が通ったら、シャツを彼女の背中に回して肩に羽織らせ、たくし上げていた左袖を彼女の左腕に通してやる。両袖に両腕が通ったところで、彼女は開いた前ボタンを上の方から留めてようとするが、一つ目がなかなか上手く留まらない。どうやら、右側にボタンがあることに、戸惑っているらしい。

 そんな彼女の手に彼の手が重なる。彼の手は彼女からボタンを受け取ると、それを左襟にあるボタン穴に通してやった。1つ目のボタンが留まったら2つ目へ。

 

「あ、ごめん、あやなみ…。胸に触っちゃった…」

「いやん。いかりくんの、エッチ」

 

 全てのボタンを留め終えた彼は、彼女の手を引いて歩き始めた。

 海が浅くなるにつれ、少しずつ海面の上に出る2人の体の面積が大きくなる。腰が現れ、太腿が現れ。

 そしてそろそろ膝が現れそうになったところで。

 

「きゃっ」

「大丈夫かい? あやなみ」

 

 膝が折れてその場に崩れ落ちてしまった彼女の体を、彼が慌てて支えた。

 

「ええ。自分の体。久しぶりだから」

「そうだったね。立てる?」

「ええ」

 

 彼に両手を引っ張られて膝を伸ばそうとした瞬間に、彼女の膝は再び折れ、彼女は小さな水飛沫を立てながら尻餅を付いてしまった。

 

「ごめんなさい…」

「いいよ。気にしなくて」

 

 左手は彼の手と繋いだまま。空いた右手で浅瀬を押して、腰を上げようとして。

 しかし彼女のお尻はすぐに浅瀬の中に引き戻されてしまう。

 

「無理しなくていいよ、あやなみ」

「でも…」

 

 彼女は何度も自力で立ち上がろうとするが、その度にワイシャツの裾で隠れた彼女のお尻は海の中に戻ってしまう。

 

「あやなみ。もういいから」

「え? きゃっ」

「ほら。こうすれば大丈夫だろ?」

「でも…。これじゃ、いかりくんが…」

「はは。僕は平気さ。それよりも君も協力してくれないと、君をまた海の中に落としちゃいそうだ」

「……こうすれば…、いいの…?」

「うん。そうだよ」

「…わたし、重くない?」

「どうってことないさ」

「すてき。いかりくんって、力持ちなのね」

「ははっ。あやなみは軽いなぁ。まるで鳥みたいだ……、って、かあああああああ! なんじゃあの甘酸っぱい空間はぁぁぁ!」

 

 砂浜に寝そべりながら浅瀬に居る彼と彼女のセリフを一人で勝手にアテレコしていたマリは、碇シンジが取った行動にいい加減胸焼けを起こしそうになってしまい、アテレコを途中で放棄してしまった。

 

 

 波打ち際の二人。

 碇シンジは綾波レイの両膝の下に右腕を回し、その背中に左腕を回して抱きかかえている。

 綾波レイもまた、その両腕をしっかりと碇シンジの首に絡めている。

 所謂お姫様抱っこしている彼と、お姫様抱っこされている彼女。

 

 

「あんた。一人でそんなことやってて空しくなんないの?」

 マリの側に立つアスカから冷めた声が降ってきた。

「いや~。彼らからビシバシ伝わってくる青春オーラにお姉さんのキャパがオーバーしちゃって取り乱しちゃったよ~。いいね~。若いってえのは。見境が無さ過ぎて見てるこっちが恥ずかしくなっちゃうわ。……アスカはいいのかにゃ?」

「は?」

 波打ち際の2人を見ていたアスカは、自分の足もとで寝そべっているマリを見下ろした。眼鏡越しのニヤニヤとした目が、アスカを見上げている。

「アスカもあいつらに混ざって、今からでも青春を取り戻して来たらん?」

「ふん」

 アスカは鼻を鳴らすと、視線を波打ち際の2人に戻す。

「ずっと初号機の中に引き籠ってたあいつらと違って、あたしはこの10年間、あたしなりに地に足付けながら一所懸命生きてきたっつーの。戦いに明け暮れた10年間だったとしてもいい。これがあたしの青春だって、今なら胸張って言えるから。それに…」

 お姫様抱っこする碇シンジとお姫様抱っこされる綾波レイ。2人で一つの人影に、アスカはぷぷっと噴き出してしまう。

「今更あんなこっぱずかしい青春なんかできるかっちゅーの」

 マリはひょいっと身軽な動作で立ち上がった。そして。

「ひぃ~めぇ~」

「あーもう、鬱陶しい!」

 絡みついてくるマリを押し返そうとするアスカに、マリは強引に体をすりすりと寄せてくる。

「あたしは嬉しいよ。アスカがあたしたちとの10年間を青春だったと言ってくれたことにさ」

「いいから離れろ。ちゅーかちびっこ! あんたも邪魔しようとしないの!」

 アスカが波打ち際の2人のもとへ駆け寄ろうとする小さな子供の首根っこを掴んでいたら、そのアスカにじゃれつくマリが、目を丸くしながら波打ち際の2人を凝視していた。マリの表情に気付き、アスカも波打ち際の2人に目をやる。

「あ~らら。やっちゃった」

 呆れたように溜息を吐くアスカの隣では、マリが一人で荒ぶっている。

「かああああああ甘じょっぺえ甘じょっぺえ! おーいちびっこぉぉぉ! テキーラだぁ! テキーラ持ってこーい!」

 

 

 わーわー喚いているマリたちの隣では、砂浜に腰を下ろした渚カヲルが波打ち際の2人を見つめている。

 立てた右膝に頬杖をつき、口を「へ」の字に曲げ、眉を「ハ」の字に下げ、目を細め、つまらないものでも見ているかのような表情で。

「シンジくん…。それが君の望んだ幸せの形…、とでも言うのかい…」

 カヲルの赤い瞳から注がれる視線。

 その視線の先に立つ2人。

 

 

 波打ち際の2人。

 陽光に照らされてゆらゆらと光を反射する波。

 綾波レイの豊富な髪の毛からポタポタと落ちる、煌めく雫たち。

 海水を浴びてキラキラと光る綾波レイの体を、同じく海水を浴びてキラキラと光っている碇シンジが抱きかかえ。

 

 

 それは低俗な恋愛映画や小説などで100万回は繰り返されたであろう光景。

 

 平凡で在り来たりで何の工夫もない、手垢塗れのラストシーン。

 

 

 それでも。

 

 

 見せつけられる渚カヲルは「降参」とばかりに、「へ」の字に曲げていた口を逆方向に曲げざるをえなかった。

 

 

 

 

「なるほど…。確かにこれは最高のハッピーエンドだ…」

 

 

 

 

 全身に光を纏う波打ち際の2人。 

 

 

 

 

 彼女の顔に、彼の顔が今、重なっている。

 

 

 

 



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(70)それぞれの旅立ち

 

 

 

 澄み渡った青い空の下、白い砂浜と透き通った海しかないこの場所で、子供たちの笑い声が絶えることはなかった。

 太陽のないこの場所で、どこから降り注いでいるのかも分からない柔らかな陽射しを浴びながら、海水で濡れた体を乾かす彼ら。全員の顔が見えるようにぐるりと車座になって座り、取り留めのない会話を交わしては、澄んだ笑い声を澄んだ空へと響き渡らせる。

 

 半分はこの日まで顔も知らないもの同士。

 彼らを繋ぐのは、エヴァンゲリオンと碇シンジという存在だけ。

 その碇シンジから時計回りで、綾波レイ、渚カヲル、小さな子供、真希波マリ、アスカ・ラングレーの順番に輪っかを作って座る彼らは、まるで旧来からの友人のように語り合い、そして笑い合った。これまでのすれ違いは、今この時、彼らと、彼女らとひと時を過ごすためとばかりに、時間を惜しむように思いつく限りのことを語り合い、失われた時間を取り戻すように笑い合った。

 

 皆の会話をリードするのはやはり真希波マリ。

 あることない事をテキトーに大袈裟に喋るマリに、鋭いツッコミを入れるのはアスカ・ラングレー。

 雑談の中で時折この世の影に隠匿されてきた真理を口走って皆を驚かせる渚カヲル。

 小さな子供の口からは意味を成す言葉は出てこないが、それでも短い手足をばたつかせながらきゃっきゃと声を上げて笑っている。

 碇シンジも皆の会話に耳を傾けながら、肩を揺らして笑っている。

 そして14年ぶりの肉体にまだ慣れず、声もまともに出せない様子の綾波レイの顔にも、溢れるような微笑みが宿っている。そんな彼女の砂の上に置かれた白い右手に、隣の彼の左手が重なっていることについてつっこむ者は、もはや誰も居ない。

 

 彼らが交わす会話は殆どが取るに足らない内容。きっと明日になれば、どんな話をしたかも、どんなことに笑ったのかも忘れてしまっていることだろう。それでも彼らは何年後も、何十年後も、その命数を使い果たす時に至るまで、彼らと過ごしたこの時間を、この場所を忘れることはないだろう。

 

 

 彼が。

 世界を書き換えるという二度目の暴挙を果たした彼が見たかった光景が、今ここに在る。

 

「ありがとう…、みんな…」

 

 碇シンジがぽつりと呟いたその言葉は、皆の笑い声で掻き消されたため、皆の耳に届くことはなかった。

 いや、その呟きに反応したものが、一人だけ居た。

 左手に感触。

 砂の上の彼女の右手に重ねていた左手が、彼女の手によって握られている。

 見れば、隣の彼女と視線が重なった。

 

「綾波も…、ありがとう…」

 

 彼のその言葉に、彼女は伸び放題の前髪から覗く2つの目を2回ほど瞬かせ、そしてその顔中に柔和な笑みを広げる。

 彼の左手を握る彼女の右手。

 そして彼女の左手が2人の間の砂地に降り立つ。

 ぴんと伸びた、白の砂地よりもさらに白い左手の人差し指。

 その指の先端が、砂の上を這う。

 指の先端が這った跡に現れる文字。

 ぎこちない筆跡で描かれた文字。

 

 

  ―――ありがとう いかりくん

 

 

 その文字を見た彼の目が瞬く間に潤んだ。

 鼻で大きく息を吸い、口で深く息を吐く。吐き出された呼気が、砂の上の文字に小さな砂塵を舞わせる。

 潤んだ瞳で彼女の顔を見つめ。

 彼女もまた、潤んだ瞳で彼の顔を見つめ。

 見れば、すぐ目の前にある彼女の、彼の唇。

 自然と近付いていく2人の顔。

 

 

「ああああああああ!」

 2人の顔の先っちょと先っちょが触れ合うまであと2センチメートルのところでマリが叫び声を上げてしまったため、シンジは慌てて彼女の顔から離れた。

「あいや、これは…!」

 しどろもどろに言い訳をしようとしたら。

 

 マリは2人の方を見ていなかった。

 マリだけではない。

 アスカもカヲルも小さい子供も、2人以外の全員が、海の方を見ている。

 

 シンジも、そして綾波レイも、皆が見つめる海へと視線を向けた。

 

「あっ…」

 

 その光景を見て、シンジは立ち上がった。

 

 

 海の中に立っていた巨人。

 碇シンジの願いを世界へと届けた翼。

 碇シンジと綾波レイを、この場所へと導いたエヴァンゲリオン初号機。

 

 その初号機が、海の中へと沈み始めている。

 

 シンジだけでなく、綾波レイを除く全員が立ち上がった。

 

 無数の気泡を発生させながら沈んでいく初号機。

 

 膝の位置にあった海面が腰を越え、胸を飲み込み、さらに首までも浸かり。

 

 海の中へとその姿を消そうとしている初号機。

 

 碇シンジは、浜辺から初号機を見送る。

 

「ありがとう…、初号機…」

 

 顔も半分までが海の下へと消え。 

 

 初号機の水没が大きな波を引き起こす。

 打ち寄せた波が、浜辺に居る子供たちの膝を濡らす。

 

「さよなら…、全てのエヴァンゲリオン…」

 

 ついに最後まで残っていた頭部の角までもが、海の下へと沈んだ。

 

 後に残ったのは、何処までも澄み渡った空と、何処までも透き通った海。

 

 

 

 

 「全ての終わり」を見届けた子供たち。

 誰もが、その後ろに続く果てしない空と海に目と心を奪われていた中で。

 

 

「んんんんんんーーー!」

 

 

 最初に声を発したのは真希波マリだった。

 彼女は両腕を天に向け、大きく伸びをすると、コキコキと首を鳴らす。

「さってと」

 皆の方へ顔を向けた。

「初号機も行っちゃったし。あたしもそろそろドロンしちゃおっかにゃ」

 

 マリはすらりとした足を伸ばしてスタスタを歩き始める。

 彼女が向かった先に居たのは小さな子供。

 体を屈めて、小さな子供に手を伸ばす。その手は小さな子供の両肩を越え、背中に回され、そして小さな体を抱き寄せる。

「誰だか知らないけど、ありがとね。助かったよ。おちびちゃん」

 抱き締められた小さな子供はくすぐったそうに肩を竦めながら、マリの腕の中で笑っている。

 

 小さな子供から離れて、次に向かったのは渚カヲルの前。

 マリから差し出された右手を、カヲルは素直に握る。

「君が一体何者なのか。実は君自身、分かっていないんじゃないかな?」

「へっへっへ…」

 マリは誤魔化すように笑いつつ、空いた左手をカヲルの背中に回す。カヲルもまた、空いた左手をマリの背中へと回す。

 

 カヲルから離れたマリが次に向かったのは碇シンジの前。

「マリさん。色々とありがとう」

「ふっふーん」

 握手を求めてくるシンジを、爪先から額まで舐めるように見つめるマリ。

「少しだけ匂い、変わったね。大人の香りってやつ?」

 「やめてくださいよ」と照れたように笑っているシンジの手をマリは握り、そして彼の体を抱き寄せる。

 彼の耳もとに口を寄せて。

「お母さんもきっと喜んでいるよ…」

 そう囁き掛けた。

 

 シンジが驚いたように「えっ?」と短い声を上げている間にマリはシンジの体から離れ、シンジの足もとに座っている綾波レイに視線を落とす。何を考えているのかよく分からない目で見上げてくるレイに、マリはくすりと笑った。

「あんたも遂に最後まで意地を張り通しちゃったねぇ。見上げた根性だ」

 差し伸べられたマリの手を、レイは握る。

 そしてマリは身を屈め、レイの背中に空いた腕を回した。

「さっすがは「あの人」の……おっと」

 何かを言おうとして、咄嗟に口を噤むマリ。

「ごめんごめん。意地を張り通したのは誰でもない、あんた自身だった」

 身を起こしたマリは、レイのもじゃもじゃの頭をぽんぽんと軽く叩いた。

 

 レイから離れたマリはアスカの前に立った。

 腕組みという、あからさまにハグを拒否する姿勢で立っているアスカ。

「ひーめ」

「何よ。あたしはごめんよ。別れのハグなんてそんな恥ずいこと」

「寂しいことゆーなー、姫は」

 いつもなら問答無用で相手に抱き着きじゃれ付くマリだが、この時ばかりは堪えた。両腕を広げ、相手の方からこの胸の中へと飛び込んでくるのを、辛抱強く待った。

 そっぽを向いているアスカ。下唇を、薄く噛み締めている。

「だって…、今あんたとそんなことしたら…。あたし…、きっと…、泣いちゃうし…」

 相手の方からこの胸の中に飛び込んでくるのを辛抱強く待とうと思っていたマリだったが、そのアスカのセリフと横顔に浮かぶ表情に、彼女の欲望の堰はあっさりと崩壊してしまう。

「ひぃーーーめぇーーー!」

「ああもう! 鬱陶しい!」

 全身を使って抱き着いてきたマリに対してアスカはそう言いながらも、その両腕はしっかりとマリの背中へと回されていた。

「あんたは最高の相棒だよぉ~~~!」

「はいはい。あんたはあたしの”Schatz”だよ、”Schatz”」

 

「そんじゃ皆さん、お達者で~~! 歯磨けよ! 風邪引くなよ!」

 大海原に向かって駆けていくマリの足が、海面に大きな水飛沫を弾き出す。ピンク色のプラグスーツを腰まで海に浸からせたマリは振り返り、浜辺の仲間たちに向かって手を振った。

 シンジたちもまた、マリに向かって大きく手を振った。

 大きくなっていく波。波間の中に在るマリの姿が遠のいていく。

 2度3度と手を振っていく内に、一際大きな波が彼らの間を通り、マリの姿を遮る。

 そして大きな波が過ぎ去った後に、マリの姿は見えなくなっていた。

 

 

「僕もそろそろ行こうかな」

 海に向かって手を振っていた渚カヲルは、手を下ろすとシンジたちに顔を向けた。

 しなやかな足を前に出し、歩き始める。

 アスカ・ラングレーの前に立ち。

「君はどうかな。自分の幸せは見つけたかい?」

 右手を差し出す。

「幸せなんて見つけるもんじゃないわ。この手で掴み取るものよ」

 そう言って、アスカは不敵な笑みを浮かべつつ差し出された手を力強く握り返した。

「ふふっ。君らしいね」

「あんたの乗り心地、悪くなかったわ」

 それぞれの手を相手の背中に回し、軽くハグする。

 

 小さな子供の前に立ち、その場に跪いた。子供の無垢な瞳と目線を合わせる。

「誰だか知らないけれど、君も自分の幸せを見つけるんだよ」

 両腕を伸ばし、その小さな体を抱き寄せる。

 抱き寄せて、子供の温もりと息吹を体で感じて。

 そして目を何度も瞬かせるカヲル。

 一度体を離し、小さな子供の顔を見つめる。

 ははっ、と小さく笑った。

「なんだ。君だったのか」

 小さな子供は、カヲルに向けてにっこりと笑った。

 

 碇シンジと綾波レイの前に立つ。

「綾波レイ」

 シンジの足もとに座るレイを見下ろした。

「君には色々と言いたいことがあるけれど…」

 カヲルの赤い瞳からレイの赤い瞳へと注がれる、穏やかならざる視線。

「でも…」

 ちらりとレイの隣に立つシンジの顔を見る。「様々な」シンジとの巡り合いを重ねてきたカヲルでも見たことがない、満たされたようなシンジの顔を。

 レイへと視線を戻し。

「彼のこの顔に免じて、今は何も言わないでおくよ」

 彼女の顔の前に、手を差し出す。

 彼女の白い手がおずおずと伸び、差し出されたカヲルの手を握った。

 カヲルは身を屈め、彼女の背中に腕を回す。

「これで3度目だけど…。碇シンジくんのこと…、頼んだよ…」

 

 体を起こしたカヲルは、碇シンジを見た。

「シンジくん。君は、君の幸せを見つけたようだね」

 シンジはカヲルに向けていた視線を一度レイへと落とし、そして再びカヲルに向けると、照れ臭そうに鼻先を指で掻いている。

 そんなシンジの顔を何処か面白くなさそうに見ていたカヲルだが、すぐに柔和な笑みを表情に戻した。

「シンジくん。今までも、これからも。世界がどのように変わろうとも、これだけは変わることのない。世界の真理というものがあるんだ」

「それは何だい? カヲルくん」

「君の幸せは僕の幸せってことさ」

 カヲルの右手が、シンジの方へと差し伸べられた。

「君の幸せが。僕の幸せが、恒久的に続くものであることを心から願ってるよ」

「カヲルくん…」

 差し出されたカヲルの手を握り締めるシンジの手。

 どちらからともなく腕を相手の背中へと回し、互いの体を力強く抱き締め合った。

 

 カヲルは優雅な足取りで波間の中を進んでいく。

 深青色のプラグスーツが腰まで浸かったところで振り返り、浜辺に残ってる仲間たちに向かって手を振った。

 浜辺に残っているシンジたちも、カヲルに向けて手を振り返す。

 大きくなっていく波。波間の中に在るカヲルの姿が遠のいていく。

 2度3度と手を振っていく内に、一際大きな波が彼らの間を通り、カヲルの姿を遮る。

 そして大きな波が過ぎ去った後に、カヲルの姿は見えなくなっていた。

 

 

「んじゃ、あたしもそろそろお暇しましょっか」

 そう宣言したアスカ・ラングレーは足もとに居た小さな子供の両脇に手を滑り込ませると、ひょいっと抱え上げ、そしてその小さな体を抱き寄せた。

 抱き締めて、そして目を何度も瞬かせるアスカ。

 一度体を離し、小さな子供の顔を見つめる。

 ふふっ、と小さく笑った。

「なんだ。あんただったの」

 小さな子供は、アスカに向けてにっこりと笑い掛けた。

 

 小さな子供を足もとに下ろしたアスカは、碇シンジと綾波レイの前に立ち、シンジの足もとに座るレイを見下ろした。

「あたしが「自分も笑えるんだ」って初めて知ったのは、あんたからのあの電話だった」

 いつもの不機嫌顔で見下ろしてくるアスカを、いつもの何を考えているのかよく分からない顔で見上げるレイ。

「あんたはどう? あんたはちゃんと笑えてる?」

 そのアスカの問い掛けに対し、レイは言葉ではなく、実践で答えることにした。

 レイの顔に広がっていく、花が綻んだような慎ましい微笑み。

 誘われるように自らも微笑んだアスカは、レイから差し伸べられた手を素直に握る。

 そしてアスカは身を屈め、そしてレイの背中に腕を回し、体を寄せることで近づいたレイの耳もとに囁いた。

「あんたが作ったご飯。食べてみたかったわ」

 

「んで?」

 体を起こしたアスカは碇シンジを見た。

「え?」

 ジロリと見られ、反射的にたじろいでしまうシンジである。

「え? じゃないわよ。あんたの返事、まだ聴いてないんだけど」

「返事って?」

「出撃前にゆったでしょーが!」

「え? あっ、あ、あ~~」

「あ~じゃないわよ」

 シンジのお尻に右中段回し蹴りを浴びせるアスカである。

 シンジは蹴られたお尻を摩りながら、照れ臭そうに言う。

「う、うん。もちろん僕だって、アスカのことは好きだったよ」

「へ~、そ~なんだ~」

 今度はシンジのお尻に左中段回し蹴りを浴びせるアスカである。

「にっしっし」

 おかしな笑い声を残しながら、一歩、二歩と跳ねるように後ずさっていくアスカ。

「でも残念。あんたたちより先に大人になっちゃったあたしには、ガキんちょたちと付き合ったげる時間はないのでした」

 べっ、と舌の先を出す。

「あんたたちがもうちょっと大人になったらまた会いましょ。んじゃね」

 そしてシンジたちに向けて1度だけ手を振って軽やかに踵を返すと、海に向かって走り出した。

「ほら! バルディエル!」

 アスカに呼ばれ、奇妙な形をした生物は何とも形容のし難い動作で砂の上を跳ねて行き、そしてちょこんとアスカの右肩に乗っかる。

 

 奇妙な生物を右肩に乗せたまま、アスカは海へと向かって走っていく。浅瀬の中をばしゃばしゃと水飛沫を立てて走り、そして海面が腰にまで迫ってきたら海底を蹴って飛び跳ね、海の中へと飛び込む。両腕を交互に動かして水を掻き、両足をばたつかせて水を蹴る。

 振り返ることなく、一度も息継ぎをせずに泳いでいくアスカの姿は、あっと言う間に波間の中へ消えていった。

 

 

 アスカに向けて手を振っていた碇シンジの右足に感触。

 見れば、小さな子供がシンジの右足に抱き着いている。シンジはふふっと笑って、小さな子供の背中とお尻に両腕を回し、ひょいっと抱き上げた。抱き上げられた小さな子供は嬉しそうに顔全体を使って笑いながら、その柔らかな頬をシンジの頬へと摺り寄せる。

「誰だか知らないけど、君もありがとうね」

 シンジにそう言われた小さな子供は、返事をする代わりに摺り寄せていた頬を離し、とんがらせた唇をちょんとシンジの頬にくっ付けた。

 頬に感じた小さな感触に、一瞬きょとんとした表情を浮かべるシンジ。しかしすぐに笑みを取り戻し、そしてシンジも軽く唇をとんがらせ、ちょんと小さな子供の柔らかなほっぺにくっ付けた。

 するとたちまち子供の瞑らな目が真ん丸に見開かれ、真っ白な肌があっという間に真っ赤になる。

 小さな子供は全身をぶるぶると震わせながら、そして短い腕を一度大きく開き、そして小さな体をぶつける勢いでシンジの頭を丸ごと抱き締めた。

 ちょっとばかし荒っぽい抱擁にシンジは苦笑しつつ、小さな子供の小さな体を抱き締め返す。

 そのシンジの目が、何度か瞬きをし。

「あれ…? 君って…」

 小さな子供は何かを言い掛けたシンジの腕の中からぴょんと飛び降りると、綾波レイの前に立った。

 小さな子供のつぶらな赤い瞳が、レイの赤い瞳を見つめる。

 すー、と小さな鼻で大きく息を吸い。

 

「いち、にぃ、さん、だあああ」

 

 舌足らずな掛け声と共に、振り上げられる小さな子供の右手。

 

 ぺしっ

 

 振り下ろされた右手は、綾波レイの左頬に着地する。

 

 レイはぶたれた左頬を手で押さえながら、驚いたように目をぱっちりと開いて小さな子供を見つめている。

 そんなレイの顔を満面の笑みで見つめ返した小さな子供は、小さな体を目一杯伸ばして砂地の上を跳ね、海へと向かっていく。海から吹く風に空色の髪をなびかせながら、新しく与えられたこの体を思う存分楽しむように、全身を躍動させて海へと走っていく。

 波打ち際までやってきたら体の正面をシンジらの方に向けて、海へ向かって後ろ向きに走っていく。シンジたちに向けて、天に向けて目一杯伸ばした両手を振って。

 一際大きな波が打ち寄せ、小さな子供の体を攫う。

 その大きな波が消え、次の波が打ち寄せる時には、小さな子供の姿は消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 広大な砂漠を思わせる地肌が剥き出しになった丘陵。その表面に整然と立ち並ぶ、無数の墓標。その一角に立つ、人影。

 時折吹き寄せる風によって揺れるチェック柄のプリーツスカート。白のブラウスに緑色のネクタイ。

 

 真希波・マリ・イラストリアスは一つの墓標の前に跪いており、手にしたダガーナイフの切っ先で地面に埋められた墓標の表面に文字を刻み込んでいた。

「ごめん、碇シンジくん。これは本来君の仕事なんだろうけどさ…。こればっかりはあたしにさせてほしんだにゃ~…」

 刻み終えると立ち上がり、一歩引いてみて自分の作品の出来栄えを確認する。

「うーん…」

 何となく物足りなさを感じてしまう。

 何かを思い付いたようでにんまりと口の端を上げ、もう一度跪いて墓標の表面にナイフの切っ先を立てた。

 ガリガリと石板の表面を削っていく。

 刻み終えて、石板の上に残る削りカスを手でぱっぱと払った。

 立ち上がり、一歩引いてみて、改めて自分の作品の出来栄えを確認する。

「ふっふ~ん」

 満足したようで、人差し指で鼻の下を擦った。 

 

 人の腰の高さほどある円柱の下に埋まる石板。

 その石板の表面に専用の石材用カッターで丁寧に刻まれたのは、「IKARI YUI」の文字。

 「IKARI YUI」の文字の下に、ナイフの切っ先によって雑に刻まれたのは、「IKARI GENDOU」の文字。

 その2つの名前を囲むように刻まれたのは、「愛」を表す世界共通のシンボルマーク。

 

「にゃっはは」

 嬉しそうに笑うマリは青く澄んだ空を見上げた。

「ゲンドウくん。ユイさんとは会えたかな?」

 視線の先には一羽の鳥が舞っており、青い空に大きな円を描いている。

「会えたよね。んじゃなきゃ、この物語はハッピーエンドじゃないもん」

 視線を墓標へと戻し、胸の前で両手を合わせ、瞼を閉じる。

「ユイさん…。これであたしの…。イスカリオテのマリアの罪は赦してくれるかな…?」

 閉じられた瞼の隅から、一滴の水滴が流れ落ちた。

 

 踵を返したマリは墓標から少し離れた場所に停めていた年季ものの原付バイクに向かって走っていく。バイクの荷台にはキャンプ道具一式が積まれている。ハンドルにぶら下げていた半帽ヘルメットを被ると、シートに跨った。

「んじゃ、手始めに国会図書館から攻めますかね」

 マリを乗せた原付バイクは軽快なエンジン音を響かせながら、丘陵の坂道を下っていく。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 狭い視野。

 朧げな視界。

 

 何度か瞬きを繰り返していくうちに、視野は少しずつ広がっていき、その目に映る朧気だったものの輪郭が少しずつはっきりとしてきた。

 

 長い長い眠りから目覚めた一人の男性。

 その男性の視界の真ん中に映る、一人の人物。

 白のワイシャツと黒の学生ズボンを着た少年。

 少年は目覚めた男性に向けて微笑み掛ける。

 

「やあ、起きたかい?」

 

「え…?」

 

 戸惑いの声を上げる男性。

 どうやら自分は地面に寝っ転がっているらしい。こちらを覗き込む少年の背には、広々とした空が広がっている。最後に見た時は赤銅色に染まっていたはずの空が、今は何処までも澄み渡った青い空へと姿を変えて。

 

 男性は地面から背中を離し、ゆっくりと上半身を起こした。

 まだぼんやりとした頭を右から左へと動かし、まだぼんやりとしている目で周囲を伺う。

 

 何処までも澄み渡った青い空。

 豊かな緑を抱える丘陵。

 その丘陵を切り拓いて作られた段々畑。

 丘陵の麓から先は、太陽の光を浴びてキラキラと光る大きな湖が広がっている。

 

「ここは…?」

 

 事態を飲み込めてないらしい男性の横顔を、少年はくすりと笑いながら見つめている。

「君が老後のために密かに作っておいた農園、ではないのかな?」

「はあ…。いや。でもあそこは確かニアサーの時に…、ん?」

 周囲を見渡していた男性の目に、あるものが映る。

 

 丘陵の麓に広がる大きな湖。

 その湖の真ん中に、何本かの大きな円柱形の柱が立っている。いや、突き刺さっている。

 その柱の水面より上の部分には扉があり、その扉から続々と人が出てきている。

 その柱と、湖畔とを行き来する数隻のゴムボート。

 湖畔では、柱の中からボートによって運ばれた人たちと思われる黒山の人だかりができている。

 

 その様子を見ていた男性の視界を、白い手が覆った。

 見れば、少年が男性に向けて手を差し伸べている。

「それじゃ行こっか」

「行くって…、何処へ…?」

 戸惑いながらも少年の手を握る男性。

「決まってるじゃないか。君の奥方さんを迎えに…、だよ」

 少年は握った男性の手をぐいっと引っ張り、男性を立たせる。

「え?」

 男性が自分の足で立ったことを確認した少年はすでに男性から手を離し、歩き始めている。

「ほら。早く来ないと置いていってしまうよ?」

 少年の足は湖の方へと向いている。

「え、ちょっ。待ってくださいよ、渚司令」

 男性は慌てて少年の背中を追い掛け始める。

 

 少年がのんびりとした足取りで向かう先。

 目的地の湖。

 その湖との間に広がる段々畑。

 その段々畑の畦道に立つ、3つの影。

 空色の髪を湖から吹く風で揺らせる彼女たちが、少年と男性に向かって手を振っている。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 自宅の一室で無線機の前に座っている相田ケンスケは混乱の最中にあった。

 この10年間、呼び掛け続けても限られた相手以外は殆ど応答が返ってくることのなかった無線機。それが、数時間前を境にありとあらゆる周波数帯でありとあらゆる言語が引っ切り無しに飛び交っているのだ。彼らの交信の中に混じって情報の収集をしたいのに、乗り遅れたケンスケには踏み込む隙間もない。

 

 トントン、と背後で音がした。

 無線機のつまみを回し、スピーカーから流れるノイズ混じりの音声の音量を絞る。

 再度、トントン、とドアを叩く音。

 

 ケンスケは椅子から立ち上がり、ドアへと向かった。

 

 何となく、予感めいたものを感じていた。

 

 ドアの前に立ち、ごくりと生唾を呑み込む。

 ドアノブに手を掛け、捻る。

 ゆっくりとドアを押すと、ギギギという錆びた音と共に、ドアが少しずつ開いた。

 

 最初に見えたのは地面に立つ2本の素足。

 その細い体を包み込むように羽織った緑色のパーカー。

 そして背中まで伸びた緋色の髪。

 

 

 ドアの向こうに、彼女が立っていた。

 

 

 パーカーのポケットに両手を突っ込み、視線をそっぽに向けながら、彼女は言う。

 

「帰って…、きちゃった…」

 

 ケンスケは一度大きく深呼吸をした。

 深呼吸しないまま喋り出すと、すぐにでもこの目から涙が溢れ出し、まともに声を出すことも出来なくなってしまうだろうから。

 一度だけなく二度。

 三度目の深呼吸にして、ようやく心を落ち着けたケンスケ。

 あの夜以来10年ぶりに目にした彼女の左目を見つめながら口を開いた。

「そうじゃない、だろ?」

 

 ケンスケの指摘を彼女はすぐには理解できず、そっぽに向けていた視線を彼へと向け、きょとんとしてしまう。

 しかしすぐに思い当たることがあるらしく、目を伏せ、頬を仄かに赤く染めて、そして人差し指で右頬をぽりぽりと掻きながらこう呟いた。

 

「ただい…ま…」

 

 いかにも慣れない様子でぎこちなく呟いた後、上目遣いでケンスケを見つめた。

 ケンスケも些か照れがあるようで、髪の撥ねた頭を掻きながら答える。

 

「おかえり…、アスカ…」

 

 そしてにっこりと彼女に向けて笑い掛けた。

 そのケンスケの笑顔に誘わるように。

 

「えっへっへ…」

 

 彼女も歯を見せて笑った。

 

「ははっ…」

「えへへ…」

 

 その後の言葉が続かず、お互い半端な笑い声を漏らしながら足もとを見つめていたら。

 

 

 ぐ~~~~~

 

 

 ケンスケは最初、その音が何処から漏れたのか分からず周囲をきょろきょろと見渡してしまった。

 

 

 ぐ~~~~~

 

 

 その音が目の前の彼女から発生したものだと分かり、ケンスケは目を丸くして彼女の顔を見つめる。

 

 その彼女もまた、目を丸くしてケンスケの顔を見つめていた。

 

 

「お腹…、空いた…」

 

「え?」

 

 

 彼女は目を瞑り、そして深く呼吸を吸い、そして大きく口を開けて。

 14年ぶりに味わうその感覚を目の前の彼に向けて目一杯訴えた。

 

 

 

 

「お腹空いたああああ!」

 

 

 

 

 



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(71)その笑顔が世界を救う

 

 

 

 

 月明かりが照らす夜道を歩く。

 革靴の裏に感じる土の感触。鼻を擽る雑草の匂い。耳に響く虫たちの鳴き声。

 それら全てが夜道を歩く彼にとっては14年ぶりに感じるこの惑星本来の姿の名残であったが、男性の表情に14年前を懐かしむような素振りはなく、未舗装の道には不向きな革靴で淡々と歩みを進めている。

 空を見上げれば肥大化した月がぽっかりと浮ており、灯りのない夜道でも苦労しない。その月の近くでは、決戦を控える巨大な飛行戦艦が空中で停泊している。

 虫の鳴き声。固い靴底が地面を踏みしめる音。それらの音とは明らかに違う、金属の軋む音がしたため、男性は歩みを止めた。

 

「それ以上進めば撃ちます」

 

 声がした方へ目を向けた。

 道の脇に生い茂る藪の中で、一人の少女が立っていた。ハーフパンツにパーカー。そんなラフな服装と幼さを残す容姿には不釣り合いな、厳つい拳銃を構えて。

 

 拳銃を向けられた男性は眉根一つ動かさずに言った。

「君に私を止める権限などないはずだが」

 少女もまたその顔に感情を宿さず、平坦な声音で言う。

「あなたが来たことがこの村の連中に知れ渡れば、あなたはたちまち血祭りに上げられることでしょう。あなたの身を案じてのことです。すぐにお引き取りを」

 男性は目を瞑り、鼻先で小さく笑う。

「君たちの思想統制が行き届いているようだ。ここの村人たちの目には、我々が人類を滅ぼす悪魔の尖兵にでも見えているのかね」

「あなたたちのお住まいには鏡がないのですか? なんなら手鏡をお貸ししましょうか」

 少女の皮肉に、男性は再び鼻先で小さく笑う。

「我々の目的は神が用意した2つの宿命のどちらかを選ぶしかない人類に新たな選択肢を与えるものであり、神の意志に対して叛逆を試みる真のレジスタンスだ。人類補完計画が人類の滅びに向けたロードマップであるという世迷言は、君たちが自らの立場を正当化するために用いた詭弁に過ぎん」

 男性の発言を、今度は少女が鼻先で小さく笑う。

「おー怖っ。それこそカルト教団の世迷言にしか聴こえなないんですけど」

「いずれにしろ第2の少女。いや…、今は第9の使徒と呼ぶべきかな」

 男性のその言葉に少女の眼帯で隠れている左側の眉が反射的にぴくりと動いたが、表情筋を総動員させて表に出ている右側の眉は動かさなかった。

「我々が望むのは人類の未来の恒久的な存続であって、滅亡などではない。争いや飢餓によって救済すべき魂が減少することは我々の望むものではない。故に、この村を始めとする世界各地の隔離地区の支援物資や技術供給の大半はネルフによるものだ。君たちはクレイディトなる団体による救済支援活動を殊更喧伝しているようだがね。式波・アスカ・ラングレー大尉」

「今は少佐よ」

 男性の講釈を黙って聞いていた(聞き流していた)少女は名前を呼ばれ、すかさず訂正を入れるが、男性は無視して続ける。

「君がヒトの形を保っていられるのも、我々ネルフの技術が流用されていることを努々忘れぬことだ」

「で?」

 少女は肩を竦める。

「ここから先はヴィレとネルフの間で結ばれた協定により定められた非武装中立地帯。ヴィレも、ネルフも立ち入ることは許されない。そんな場所に、何の御用かしら」

「我々のドローンによる監視によれば君は昨日、この村の中心部まで立ち入ったようだが」

「記憶にございません」

「君がその手に持っているものは何だね」

「ただのおもちゃよ。え? なに? 本物に見えた? へいへいビビってる~」

 むしろ協定を破っている方である少女の厚顔さに、男性は呆れたように溜息を吐いた。

 

「綾波タイプ、ナンバーシックス」

 

 男性が呟いたその言葉に、少女の顔から表情が消える。

 

「我々が所有する綾波タイプの生体反応がこの地区で消えた。おそらく活動限界を超え、固体を保てなくなったのだろう。私はその身柄と所持品を回収しに来ただけだ」

 少女は構えていた拳銃を下ろす。

「もし君が保管しているのであれば、いずれも私たちに引き渡してほしい」

「嫌…、だと言ったら…?」

「「あれ」はネルフ所有のものだ。君に拒む権利はない」

「それでも嫌、と言ったら…?」

「その死体も、綾波タイプが着用していたプラグスーツも機密情報の塊だ。拒むと言うのであれば、協定に違反しヴィレに一方的に協力しているこの村ごと消すしかないが…」

 少女の眼帯をしていない方の目の上にある眉の端が大きく吊り上がる。

「だったらなんであいつが生きてるうちに回収しに来なかったのよ…!」

 男性は少女の怒りの矛先が「この村を消すこと」ではなく、「回収しなかったこと」に対するものであったことに些か戸惑いを覚えつつ言う。

「ヴィレが欧州で派手に騒ぎを起こさなければそうするつもりだったのだがね。何しろ私たちは人手不足なのだ」 

 舌打ちをする少女の後ろから足音がした。

 振り返ると、メガネを掛けた青年が立っている。右手に以前は黒の、今は白に変色したプラグスーツを。そして左手にはオレンジ色の液体で満たされた大きな密閉瓶を抱えて。

 男性は片方の眉を上げながらメガネの青年を見る。

「協定監査員か。君もとても中立とは言い難い振舞いをしているようだが」

 青年は少女の横を通り過ぎ、男性のもとへと歩み寄る。

「彼女はあなたの言う綾波タイプを捕虜として丁重に扱いました。この村の中心部に入ったのも、捕虜を守るために身の危険も顧みずにとった行動です。賞賛されこそすれ、非難されるべきではない」

 男性へと、持っていたものを差し出す。

 差し出されたもののうち、まずは白のプラグスーツを受け取った男性。次にオレンジ色の液体で満たされた密閉瓶に手を伸ばそうとして。

「碇シンジが…、泣きながら回収したものです…」

 青年のその言葉に、男性の手が止まる。

「第3の少年…は、…今…」

「ひたすら悶えてますよ。泣き腫らして苦しんで…、それでも必死に乗り越えようと藻掻いてる」

「ふむ…」

 男性は、改めて密閉瓶を受け取った。

 

 2人の会話を聴いていた少女が口を開く。

「そいつは…」

 少女の青い瞳から注がれる視線は、男性が持つ密閉瓶の中身へと向けられている。

「そいつは、本当にこの村を愛してた…。あんたやあたしなんかより、よっぽど人間らしく生きてたわ…」

 視線を、男性の目へと向ける。

「モノとしてじゃなくて、ちゃんと人として葬ってあげて…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 自室に戻った男性は部屋の中央に置かれた一人掛けのソファに深く腰掛け、足を組みながら壁に映し出される映像を眺めていた。

 

 ソファの前に配置されたセンターテーブル。そのテーブルの上にあるのは投影機。

 目的のものを回収した彼が、彼が所属する組織の本部に帰着した時にはすでに深夜を回っていた。夜が明ければこの本部を丸ごとこの惑星の極地へと移動させるという大仕事が待っているため、寝る前に回収した物品の確認作業を済ませることにした彼は、白に変色したプラグスーツから抜き取ったメモリーチップを投影機に差し込み、そのチップに記録されている映像を再生させていた。

 

 着用者が活動を開始する(起床する)と同時に撮影が開始される仕組みの、プラグスーツの襟元に仕込まれた極小カメラによる映像。

 その映像に記録された光景は、この国の原風景と言えるものだった。

 広場に並ぶ前世紀の鉄道車両。六畳一間に一家が揃って食べる食卓。薄い障子や襖で仕切られた部屋。棚に置かれた黒電話に、天井近くに吊るされた神棚。土間の端にあるモザイク柄のタイル流し台の前に立つ、赤ん坊を背負った女性の後ろ姿。

 それらはいずれも、この国の地方の片田舎出身である男性の幼少期の頃に見た光景を想起させるものだったが、男性の目は壁に映し出されるそれらの映像を無感動に見つめている。

 

 男性の指が投影機のコントロールパネルに触れる。すると壁に映し出される映像は通常の数十倍の速さで流れ始めた。目まぐるしく変わっていく映像の中の風景。突然現れては、あっという間に消えていく人々。

 

 

 極小カメラの着用者は家屋の外に出る。長屋が並ぶ居住区を抜け、郊外へと出ると、見えてきたのは豊かな水を湛えた田園風景。どうやら極小カメラの着用者はこの村に拘留されている間、農作業に従事させられていたらしい。強制労働と呼べるほどの過酷なものではないようで、食事が与えられ、定期的に休憩が与えられ、着用者はこの村でそれなりに人道的な扱いをされていたようだ。

 一人称視点で綴られる映像記録。泥水の中にはまるで手品のように稲の苗が次々と並んでいったり、視点が泥水の地面から突然空へと切り替わったり、村の女性たちが視界に収まってはすぐに消えたりと、通常の数十倍で流れていく映像は落ち着かない。

 鉄道車両の下に住み着いた大きなお腹をした猫。鉄道車両を利用して運営されている図書館で広げた絵本。卵を奪いにきた人間を警戒する鶏。着用者の前をはしゃぎながら走り回る子供たち。「再教育」でも受けさせられていたのだろうか。時折学校の教室と思しき場所で、長机の端からメガネの教師が立つ黒板を見ている映像も入っている。

 何処を切り取っても長閑な田舎の風景。夜が更ければ布団に入り。夜が明ければ布団から出て、朝ごはんを食べ、労働に出かける。同じことを淡々と繰り返す極小カメラの着用者の日々を、高速で再生される映像は慌ただしく映し出していく。

 

 

 そんな時間の流れを凝縮させたよな世界の中で、とある場面だけはまるで映像の中の時が止まったかのような。慌ただしく流れる時の中で、そこだけを静止画として切り取ったかのような。そんな場面が繰り返し現れるようになった。

 それは朽ちかけの廃墟の中。

 前面の壁は綺麗に崩れ去っており、その先には翠玉色に輝く静かな湖が広がっている。

 その崩れかけの廃墟の床に座る人影。

 着用者に向けられた、項垂れた小さな背中。

 投影機が誤作動を起こしているのではないか。そう勘違いしてしまうほどに、高速で流れているはずの世界の中で、その廃墟の場面だけが数十秒間だけ静止している。

 映像上では数十秒間。しかし実際の世界では数十分間、あるいは数時間の時を刻んでいるはず。

 それでも、小さな背中。少年の後ろ姿を映し出すその場面だけは、時が止まったかのように動かない。

 映像の中に映っている唯一の人物である少年も、背を向けたまま動かないし、その少年の背中を映し出している極小カメラの着用者も身じろぎ一つする様子がない。極小カメラは、ひたすらじっと、少年の背中を見つめ続けている。

 静止した映像の中で動くものは、映像の上半分を占める空に浮かぶ雲と、太陽の動きによって角度と長さを変える影だけ。

 

 もう一つ、気になる場面があった。

 所謂ウェアラブルカメラで記録された映像。一人称視点で映し出される映像には、当然ながらカメラの着用者の顔が映ることはない。

 それでもその時だけは。

 鏡の前に立った時だけは、着用者の顔が映像の中に現れることになる。

 鏡に映るのは黒のプラグスーツを纏った、空色の髪の持ち主の少女。

 そこは少女が滞在した家の脱衣所だろうか。

 洗面台の大きな鏡の前に立った少女。

 先ほどの廃墟の場面ほどではないにしろ、この洗面台に立った時も、まるで静止画のように数秒間だけ映像の流れが止まるのだ。

 映像上では数秒間。しかし実際の世界では数分間だろうか。空色髪の少女は脱衣所の鏡の前で、数分間という決して短いとは言えない時間を、顔を洗うでもなく、歯を磨くでもなく、自分自身の顔をただ見つめ続ける作業に費やしている。

 

 

 廃墟の中の静止画も、洗面台の前の静止画も毎日繰り返し。日々のルーティーンのように、スクリーンの中に現れるようになった。

 

 やがて背を向けて座り込むだけだった廃墟の中の少年に、変化が訪れる。

 座り込むだけだった少年が、廃墟の床の上で立っている。カメラの着用者に背を向けているのは相変わらずで、どこか頼りない後ろ姿も相変わらずだったが、それでも少年は2本の足で立っている。

 そして少年はただ立っているだけではなかった。

 その手には、釣竿が握られている。

 釣竿の先端から伸びる細い釣り糸は、廃墟の前に広がる湖の中へ。

 

 鏡の前の一幕。一家で囲む食卓。田畑での農作業に教室での勉強。図書館での一時。そして釣り竿を構える少年の後ろ姿。

 映像の中で、単調な日々が過ぎていく。

 

 

 そしてそれは突如として起こった。

 廃墟の場面の唯一の登場人物である少年の姿が、見えなくなってしまったのだ。

 静かな湖を背に佇む、空っぽの廃墟。

 誰も居ない廃墟。

 少年は何処に行ってしまったのだろうか。

 

 薄暗い部屋の中では、いつの間にか壁に映し出される記録映像を熱心に見ている男性の姿があった。ソファの背もたれから背中を離し、身を乗り出して、少年の姿を求めて視点の変わらない映像の中を隈なく探す始末である。

 

 廃墟の前に広がる翠玉色の湖だけをひたすら映す映像。

 しかしその映像の中に、一瞬ノイズのようなものが走ったことに気付いた男性は、慌てて映像を停止させた。映像を少しだけ前に戻し、今度は通常の速度で再生させてみた。

 相変わらず湖だけを映すカメラ。

 しかし目を凝らせば、視界の隅から湖の水面に向けて伸びる一本の釣り糸が見えた。

 そして映像は先程一瞬だけノイズの走った場面に差し掛かる。

 ノイズの正体。それは視点の移動。

 カメラが、ゆっくりと右側に振られたのだ。

 右へと動く視界。正面にあった湖が消え、廃墟の床や壁が現れ、そして。

 そして画面を一杯に占拠するのは、カメラの着用者のすぐ隣に腰を下ろしていた少年の顔。

 カメラの着用者のすぐ隣で釣竿を構えながらずっと座っていたらしい少年の顔。

 そんな少年の横顔をジッと見つめる、極小カメラのレンズ。

 カメラの視線に気付いたのか、構えた釣竿の先端から垂れる糸と浮きを見つめていた少年の目が、ちらりとこちらを向こうとした。

 カメラは慌てたように左側へと振られ、映像の中に収まるのは代わり映えのしない翠玉色の湖だけ。

 

 男性は投影機を操作して、映像の再生速度を再び数十倍へと上げる。

 ソファの背もたれに背を預け、足を組む。

 肘掛けに頬杖を付き、映像を見つめ続ける。

 

 

 もう一つの気になる場面。

 洗面台の鏡の映る、少女の顔。

 毎朝の起床直後に現れるこの映像。

 じっと、鏡に映る自身の顔を見つめる少女の赤い瞳。

 この場面が現れる度に、ソワソワしてしまう。まるで鏡の中の少女がカメラを通してこちらを見ていてるような気がして、男性の心拍数が僅かばかり上昇するのだ。

 極小カメラは少女が着るスーツの襟元に仕込まれている。そのため、少女が鏡の中の彼女の顔を見つめれば、自然とカメラそのものを見つめているように見えてしまうのだろう。それは男性にも分かっていることだが、この場面が映し出される度に、鏡の中の少女に見つめられているような気がして落ち着かない。

 

 それにしても、少女は毎朝この洗面台の鏡を見つめ続けて、一体何をしているのだろうか。

 次に映像上に鏡に映る少女の顔が現れた時、男性は今度もまた再生速度を通常の速さまで落としてみた。

 

 四角く縁取られた鏡の中に映る少女。

 所々がひび割れ、汚れている年季ものの鏡の中に映る少女。

 

 少女は、ただ鏡の中に映る彼女の顔を見つめている。

 自分自身の顔を見つめて、突っ立っている。

 ひたすら、自分の顔を見続けている。

 

 自分の顔をじっと観察している少女。

 自分の顔と向き合ったまま、微動だにしない少女。

 

 そのまま4分が過ぎた。

 鏡と少女を淡々と映したまま、何の変化も現れない映像。

 

 映像の再生速度を上げようと男性が投影機に手を伸ばそうとした、その時。

 

 男性はようやく気付いた。

 4分も同じ静止画を垂れ流し続けてきた映像の中にあった、僅かな変化に。

 

 

 その変化が表れたのは彼女の顔。

 

 少女の、口もと。

 

 少女の小さな口の右端が、僅かばかり上がったのだ。

 

 ほんの微かに上がった少女の口の右端は、しかしすぐに元に戻り、少女の口は普段の横一文字に結ばれる。

 

 暫くして、再び少しずつ上がっていく少女の口の右端。右頬を、微かにひくひくと痙攣させながら、歪な曲線を描いていく少女の口の右端。

 しかし少女の口の端は見えない糸。普段使い慣れていないのであろう凝り固まった口角下制筋によって望む方向とは逆に引っ張られ、元の位置に戻ってしまい、少女の口は普段の横一文字に戻ってしまう。

 同じことを何度となく繰り返すが、彼女の口もとは、彼女自身が望んでいるらしい形を描き、維持しようとはしてくれない。

 自分の試みがなかなか身を結ばないことに、少女は肩を大きく上下させて、溜息を吐く。

 鏡に映るのは、何となく落胆したような、そんな少女の表情。

 そして少女は両手の人差し指を、自身の口の両端に当ててみた。

 その人差し指で、口の両端をそっと押し上げてみる。

 2本の人差し指に支えられて、少女の口はようやく曲線を描いた。

 

 少々歪ではあるものの、間違いなく緩やかな曲線を描いている自分の口を、少女は鏡を通して見つめる。

 指によって強引に押し上げられた口の端がその上にある両頬も押し上げ、頬の上にある両目も押し上げ、その目までもが緩やかな曲線を描いているように見えた。

 

 口の両端を押し上げたままで、顔を鏡に近付ける少女。

 人の手によって無理やり作られた表情。

 それでも少女の2つの赤い瞳は、その表情をどこか満足そうに見つめている。

 

 突如、カメラが左に振られた。

 少女の顔が消え、鏡が消え、映し出されたのは脱衣所の入り口。

 入り口の戸が開き、赤ん坊を抱いた女性が入ってくる。

 

 女性と一言二言言葉を交わしているらしいカメラの着用者。

 再び視点は鏡へと戻る。

 そこに映るのは、いつもの仏頂面の少女の顔。

 

 

 ソファの肘掛けに頬杖を付きながら、その場面を見ていた男性。

 映像に現れた変化に気付いた瞬間から止まっていた呼吸を、思い出したように再開させた。 

 

 

 映像は進む。

 いつもの外に出ての農作業。

 繰り返し見ている内に、毎回出てくる年配の女性たちの顔も覚えてしまった。

 カメラを見る女性たちの顔はみんな笑顔。

 カメラを囲む子供たちの顔もまた、みんな笑顔。

 そしていつものように農作業が終わった後は湖の畔の廃墟で、あの少年と一緒に動く気配のない水面の浮きを見つめ続ける。

 

 そして夜が更けて。

 朝が来て。

 

 

 いつものように洗面台の鏡の前に立つ少女。

 いつものように、口の端を上げる練習を始める少女。

 

 繰り返し繰り返し口の右端を上げ。

 この日は12回目の挑戦で、ようやく口の右端を上げたまま維持することができた。

 少女の挑戦は終わらない。

 右端を上げたままで、すぐに左端も上げることにチャレンジする。

 左頬をひくひくと動かしながら、少しずつ上がっていく口の左端。

 やがて左端も上がった少女の口は、綺麗な曲線を描くことになる。

 

 少女はとても疲れたように肩を上下させて鼻から大きな息を吐くが、それでも口もとに描いた曲線は壊れない。

 そんな鏡の中の少女の顔を、目を輝かせて見つめる少女。

 

 少女は、少女を見ている。

 鏡に映る、少女の顔を見ている。

 彼女自身の表情を、見つめ続けている。

 

 

 男性の心臓が一気に跳ね上がった。

 

 

 鏡の中の少女を見つめ続けている少女。

 その少女の目が、自分の目とはっきりと合ったような気がしたからだ。

 

 いや、彼女が見つめているのはあくまで鏡に映る彼女自身の顔。

 こちらと目が合ったと感じるなど、気の所為のはず。

 

 そう自分に言い聞かせるが、しかし映像に映る、鏡越しの少女の目。

 その赤い双眸から、目を離すことができない。

 その赤い瞳が、鏡越しに。そしてカメラのレンズを通して、この映像の前に居る人物を見つめているような気がしてならない。

 

 

 少女の表情は変わらない。

 口の両端を上げたまま、鏡を見つめ続けている。

 

 やがて少女は口を開いた。

 薄桃色の唇で縁取られた口が、小刻みに開閉される。

 少女は何かを喋っている。

 誰かに向かって、話し掛けている。

 彼女自身にではない。鏡に映る彼女にでもない。

 彼女以外の誰かに向かって、語り掛けている。

 

 少女の顔は鏡に向けられたまま。

 少女の瞳は、鏡に映る少女の顔に向けられたまま。

 しかし少女の瞳が見つめているのは、本当に鏡の中の少女の顔だろうか。

 

 少女は口を開け閉めして何か言葉を発し続けているようだが、映像を見ている男性のもとまでその声は伝わらない。この極小カメラが記録するのはレンズを通して撮影された映像のみで、音声までは録音されていないのだ。

 

 そのことを、少女は思い出したらしい。

 少女の右手の指が、襟元の極小カメラのレンズに触れた。

 

 もはや間違いない。

 少女は、カメラに向かって話し掛けている。

 少女の赤い瞳は、鏡に映る少女が着る黒のプラグスーツの襟元に仕込まれたカメラのレンズに向けられている。

 

 少女の顔が鏡へと近付いていく。

 体が鏡に間近に迫ったため、極小カメラが映し出すのは鏡に映った少女の胸元だけとなり、顔は映像の外へとはみ出てしまった。

 3秒後。

 少女の体が鏡から離れる。

 四角くに縁取られた洗面台の鏡。そこに、少女の顔は映っていない。

 なぜなら、鏡の真ん中が白く霞んでいたから。

 どうやら、少女が吐く息で鏡を曇らせてしまったらしい。

 その曇った部分に向けて、少女の右手が伸びる。

 曇った箇所に、人差し指の先端を這わせ始める。

 

 

 男性の呼吸が一際大きく深く、そして乱れた。

 

 

 少女が鏡の曇った箇所に書いた文字。

 

 

 

 

   ふゆつき せんせい

 

 

 

 

 鏡の上に、お世辞にも上手とは言えない、ぎこちない筆跡で書かれた文字。

 やがてその文字は、鏡に曇りを生じさせている鏡の表面に付着した微小な水滴と共に消えていく。

 曇りが消えた鏡に映るのは、少女の顔。

 「こちら」を見つめている、少女の顔。

 

 その少女の顔が再び鏡に近付いていく。

 少女の顔が消え、少女の胸元だけが映し出される。

 3秒後。

 少女の体が鏡から離れ、真ん中を曇らせた鏡が大きく映し出される。

 そして鏡に向けて伸びる少女の右手。

 鏡の曇った箇所を這う、人差し指。

 

 

 

 

   わたし  

 

      すき  

 

        わかりました

 

 

 

 

 鏡の表面に付着した微小な水滴と共に消えていく文字。

 曇りが消えた鏡に映る、少女の顔。

 

 そして鏡に近付く少女の顔。

 3秒後。

 現れるのは、真ん中を曇らせた鏡。

 鏡に向けて少女の右手が伸ばされ、そして人差し指が鏡の曇った箇所に文字を…。

 

 少女の人差し指は文字を書かなかった。

 文字の代わりに、少女の人差し指が書いたもの。

 描いだもの。

 曇った箇所を大きく使って描かれたもの。

 

 

 

 それは「愛」を表す世界共通のシンボルマーク。

 

 

 

 そのシンボルマークもまた、鏡の表面に付着した微小な水滴と共に消えていく。

 

 曇りが消えた鏡に映るのは少女の顔。

 

 目を細め、頬を緩め、口に緩やかな曲線を描いた少女の顔。

 

 

 

 すでに内臓バッテリーの残量が尽き欠けていたらしい少女が着る黒のプラグスーツ。残された全ての電力を生命維持機能に回すため、それ以外の機能が全てオフになる。

 

 

 

 投影機を使って壁に映し出された映像。

 

 1月以上に渡って、一人の人物が経験した物事を収め続けた記録。

 

 世界の歪みから生まれ、世界に翻弄され、世界から見放されたはずの一人の少女が精一杯生きた日々を綴った記録。

 

 その記録映像に最後に映っていたもの。

 

 

 

 

 それは、鏡に映る少女の満面の笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 照明が全て切られた執務室。

 壁に映されていた色鮮やかな映像は途切れ、投影機の投写レンズから壁へと伸びる頼りない光のみが部屋の中を照らしている。

 

 ソファに座る男性。

 両膝に両肘を立て、組んだ手に顎を乗せる彼。

 彼の視線の先にあるのは、何も映し出さない壁。

 

 鼻孔を通して深く長く出し入れされる空気。大きく上下する肩。

 彼の耳に届くのは彼自身の呼吸の音と、胸の中で激しく鼓動する心臓の音。

 まるで熱にうなされたような体。

 体を支配する変調を意識せざるをえない中で、彼の視線が見つめる先。

 何も映し出さない壁。

 

 映像が途切れてから、一度も瞬きをしていなかったことを思い出す。

 1度、2度と、意識的に瞬きを繰り返してみる。

 瞼によって塞がれる視界。

 瞼が上がれば、現れるのは壁。

 瞼によって塞がれる視界。

 瞼が上がれば、現れる壁。

 

 しかし彼の網膜には、壁は投影されていない。

 壁に代わって彼の網膜に投影されているもの。

 

 それはあの子の笑顔。

 

 最後に映った、少女の笑顔。

 

 空色髪の彼女の笑顔が、残像のように彼の網膜に焼き付いていた。

 

 

 今度は長めに瞬きをする。

 次に彼の瞼が開いた時、その中に収まる老いた瞳は、別のところに向けられていた。

 

 そこは彼の執務用テーブル。

 そのテーブルの脇に添えられた、丸椅子。

 誰も座っていない、空っぽの簡素な丸椅子。

 

 

 瞼を閉じる彼の目。

 

 

 暗くなった視界に残るのは、執務用テーブルと、その脇に添えられた丸椅子。

 その丸椅子に座る、一人の少女。

 細い背中。空色の髪。黒に染められたプラグスーツ。

 膝の上に開いていた文庫本を熱心に読んでいた少女は、こちらの存在に気付き、慌てた様子で立ち上がり、閉じた文庫本で顔の下半分を隠してしまう。

 

 

  ―――ここに無断で入ってはいかん。君には何度も言っているはずだが。

 

 叱責を受けた少女は言う。

 

  ―――ここ。とても静かで…。落ち着いて本、読めるから…。

 

 

 瞼を開く。

 そこに在るのは、執務用テーブルと、その脇に添えられた丸椅子。

 誰も座っていない、空っぽの簡素な丸椅子。

 

 

 空っぽの丸椅子を見つめる彼の瞳は、まるで何かに導かれるように、彼が座るソファの前にあるセンターテーブルへと向けられた。

 

 センターテーブルに置かれた投影機。

 投影機の横に置かれた密閉瓶。

 オレンジ色の液体で満たされた、ガラス製の器。

 

 彼は組んでいた手に乗せていた顎を浮かせ、膝に乗せていた肘を浮かせ、その背中をゆっくりとソファの背もたれへと預ける。

 その間も、彼の視線は密閉瓶に釘付けになったまま。

 一人掛けのソファの肘掛けに両手を乗せて、床に付いた足を少し前に出す。

 

 密閉瓶を見つめ続ける。

 

 

「ユイくん…」

 

 

 自室に戻って以来、初めて彼が発した言葉。

 それは、今も網膜に焼き付く笑顔の少女によく似た女性の名前。

 

 

「私は…、本当にこのままでよいのか…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 必要最低限の灯りしか点いていない長大な廊下を歩く。

 その手に、オレンジ色の液体で満たされた密閉瓶を携えて。

 無限に続くような階段を、一定のペースで下り続ける。

 扉を開き、とある部屋に足を踏み入れた。

 

 広大な部屋の中央には、円筒形の柱が4つ立っている。

 柱の全面はガラス張り。

 ガラスの中は空洞になっていて、その中は半透明のオレンジ色の液体で満たされている。

 4つ並ぶ、円筒形の水槽。

 

 水槽の中を満たす液体の中を揺蕩う人影。

 4つの水槽それぞれに、小さな子供が収まっている。

 液体の中に浮いている子供たち。

 同じ姿形、同じ顔をしている子供たち。

 目を閉じ、最初の目覚めの前の深い眠りの中にいる子供たち。

 些かの穢れも知らない子供たち。

 まだ何ものでもない、無垢な生命体。

 

 男性は4つ並ぶ水槽の、左から2番目の水槽へと歩みを進める。

 水槽の背面に設置された梯子を上り、水槽の天井に立つ。

 跪き、天井に設置されたハッチを開いた。

 開いたハッチから見える、液体の中を揺蕩う子供の髪。

 

 男性は手に携えていた密閉瓶を見た。

 密閉瓶を満たす、オレンジ色の濁った液体を。

 

 

 密閉瓶の蓋を開く。

 

 密閉瓶を、開いたハッチの上に掲げる。

 

 密閉瓶を、ひっくり返す。

 

 密閉瓶の口から零れ落ちる、オレンジ色の濁った液体。

 

 濁った液体が、水槽の中の澄んだ半透明の液体の中に広がっていく。

 

 澄んだ半透明の液体の中を揺蕩う穢れのない小さな子供を、濁った液体が包み込んでいく。

 

 

 

 この行為に何の意味があるのか。

 行為者である彼自身も分からなかった。

 

 この行為が何かに変化を齎した時。

 その変化が周囲に及ぼす影響もまた、彼には予測できなかった。

 

 

 男性は25年前の出来事。

 彼の盟友が失われた愛する人を、空色髪の少女として蘇らせた時のことを。

 彼自身が、彼の盟友に対して言った言葉を思い出す。

 

 

 

   ―――その変調がいつかお前の足もとを掬うのではないかと、

 

      俺は不安で仕方が無いのだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  * * * * *

 

 

 

 

 轟沈した2隻の超大型飛行戦艦がまき散らす猛烈な黒煙の中を、静かに航行するネルフ艦隊旗艦エアレーズング。その超大型飛行戦艦に一人乗り込む、ネルフ副司令官冬月コウゾウ。

 エアレーズングが向かう先にあるのは、宙を漂うヴィレ旗艦ヴンダー。ネルフ艦隊との間で死闘を繰り広げ、ネルフ3番艦・4番艦と刺し違えた末に、3つある船体のうち1つを失い、残った船体の機関部も破壊され、航行能力を完全に失った敵艦は、ただ宙を漂うことしかできない。

 そのヴンダーは鯨を思わせる中核船体の長大な船尾を自ら切り落とし、その船尾は直下にある巨大なブラックホールの奥に向けて降下している。それは彼らヴィレにとっての切り札。彼らが鋳造した、新たなる槍。

 冬月はすぐに手を打ち、破壊された2隻の艦から主機として搭乗していた2機のエヴァンゲリオンを切り離し、槍を追わせていた。

 そして冬月に残された最後の仕事。

 それはヴンダーの撃沈だった。

 

 上甲板に搭載された4つの砲塔。船底に搭載された4つの砲塔。艦尾に搭載された1つの砲塔。

 エアレーズングに搭載された9つ全ての主砲は、すでにヴンダーに向けられている。エネルギーの充填も済ませてある。

 あとは、冬月が艦に命じるだけだ。

 

 最初に戦火を交えて以来、10年に渡って抗争を繰り広げた相手。主だった構成員はかつての部下。

 躊躇いが些かも無いと言えば嘘になるが、彼らの優秀さ故に、冬月は手を下さざるを得なかった。

 

 

「さらばだ。葛城大佐」

 

 

 艦に、主砲一斉射撃の指示を下そうとした、その時だった。

 

 

 突然、冬月が立つ艦橋の全ての照明がダウンした。

 照明だけではない。

 艦橋を覆うように設置された全周囲型モニターの全てがブラックアウトし、あらゆるコンソールの明かりが落ち、艦橋を満たしていた全ての機械音が一斉に鳴り止む。

 艦に供給される全てのエネルギーが断たれたことに気付いた冬月は、胸中を渦巻こうとする混乱を抑え込みつつすぐに予備電源に切り替えさせた。

 全周囲型モニターが回復し、艦周囲の映像を映し出す。

 艦の表面に現れていた異変にすぐに気づく。

 冬月は振り返った。

 彼が向いた先にあるのは、この艦のエネルギー供給の大半を賄う主機が積まれた艦尾。

 その艦尾に生える人影を、冬月は目撃した。

 

 あまりにも巨大過ぎる戦艦。

 その艦尾の甲板からにょきにょきと生えてくる人影。

 まるで厚い卵の殻を内側からかち割って、この世界に産声を上げた雛鳥のように這い出てきた人影。

 あまりにも大きい人影。

 巨人は艦体に埋まっていた足も一本ずつ引き摺り出すと、甲板の上に蹲る。

 

 大きな卵から生まれ出た巨人。

 丸めた背中に広がるのは、光の輪。

 その光の輪に引っ張られるように、巨人の体がふわりと浮き上がる。

 

 赤と濃灰色のカラーリング。

 

 エヴァンゲリオン・マーク10。

 

 母艦から離れた機体は生まれたばかりの小鹿の足取りのようにふわりふわりと宙を舞うと、艦の中央にある艦橋へ向かう。

 

 

 艦橋の天窓に張り付いた巨人。

 巨人の顔が、艦橋の中を見下ろす。 

 艦橋の中に立つ人影。冬月は、巨人の大きな顔を見上げた。

 巨人の顔面に刻まれた十字の奥から覗く瞳もまた、艦橋の中の冬月を見つめている。

 

 交差する2つの視線。

 

 冬月は静かに口を開く。

 

 

「それが「君」の選択かね…」

 

 

 この場で呟いたとて、「相手」に届くはずのないその声。

 しかし、冬月の目には艦橋に張り付いた巨人の頭部が微かに上下に動き、頷いているように見えた。

 

 

 

 あの時を。

 4つ並んだガラス製の柱。

 半透明の澄んだ液体に満たされ、その中にまだ何者でもない小さな子供を閉じ込めていた水槽。

 その中に、オレンジ色の濁った液体を垂らしたあの夜のことを思い出す。

 

 この行為に何の意味があるのか。

 この行為が齎す変化が、周囲にどのような影響を及ぼすのか。

 

 あの時の自分は、本当にその答えを持ち合わせていなかったのか。

 

 本当に、この事態を予測していなかったのか。

 

 

 

 冬月は目を閉じ、小さく笑った。

 

 

「君のよしなにしたまえ…」

 

 

 

 巨人の体が艦橋から離れた。

 その背に背負う光輪が、一際大きく、輝きを放ち始める。

 それはまるで、飼い主の手から羽ばたき、自由の空へと飛び立とうとしている若鳥の姿のよう。

 

 空中で倒立する巨人の体。

 その頭部は、直下に広がる巨大なブラックホールへと向けられる。

 そして一気に加速したマーク10の巨体は、瞬く間にブラックホールの深い闇の中へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 扉を開けば、それはもはや見慣れた風景。

 本棚から溢れ出したありとあらゆる書籍が山積みにされた小さな部屋。

 その山積みの本の中に埋もれるように置かれたくたびれた事務デスク。

 そのデスクの脇に置かれた簡素な丸椅子。その丸椅子に座る人影の背中を見て、彼は溜息を吐いた。

「ここに無断で入ってはいかん。君には何度も言っているはずだが」

 そう忠告するが、忠告を受けた相手からの反応はない。

 丸椅子の側に立つ。

 丸椅子に座る人物。

 白衣を着た女性。

 栗色の髪を、襟元よりやや下で摘んだ女性。

 デスクの上につっぷして、くーくーと寝息を立てている女性。

 

 この大学で教鞭をとるようになってから二桁の年数が過ぎた。

 学生からは変人呼ばわりされ、同僚からは敬遠される彼に与えられた、研究棟の隅っこにある一室。

 そんな、訪れる者など皆無であったはずのこの部屋にこの頃毎日入り浸っては、惰眠を貪っている彼女。

 

 くたびれた事務用椅子に腰を下ろすと、擦り切れたスプリングが盛大に軋む。

 その軋む音で目を醒ましたらしい。

 彼女が、口の端から涎を垂らしながら、ゆっくりと顔を上げた。

 朧げな眼差しを周囲に彷徨わせた後、ようやくその瞳を目の前に座る彼へと向ける。

 

「へ…? 何かおっしゃいましたか…?」

 

 彼女のその間の抜けた顔と間の抜けた口調に、彼は苦笑いをするしかない。そして30秒前に言った言葉を、そのまま繰り返す。

「ここに無断で入ってはいかん。君には何度も言っているはずだが」

 彼女は寝癖の付いた前髪を梳きながらはにかんだ。

「ここ。とても静かで誰も来ないから、よく眠れるんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巨大過ぎる戦艦に一人乗り込んでいた冬月。

 彼以外誰も居ない艦橋の床に腰を下ろしていた冬月は、ジャケットのポケットの中に忍ばせていた一枚の写真を手に取って眺めていた。

 

 

 エアレーズングから離艦したマーク10。

 ブラックホールの中へと急降下する機体の航跡を、艦のレーダーは捕捉していた。そのマーク10は瞬く間にブラックホールの最深部に到達すると、ブラックホールのさらにその奥を目指す巨大な槍を追撃していた僚機。マーク12と合流する。

 

 合流してから3秒後。

 

 マーク12の反応が消えた。

 

 

 マーク10の反応が、槍へと近付く。

 

 その4秒後。

 

 マーク10の反応が消えた。

 

 

 レーダー上に残るのは槍。そしてヴィレ所属の8号機の反応。やがてその2つの反応も、ブラックホールの最深部の、さらにその奥へと消えていった。

 

 

 槍の反応が消えてから3分後だった。

 漆黒の闇のブラックホール。

 そのブラックホール全体がガラスのように砕け散り、その中から3本の槍が強烈な光を纏いながら飛び出してきたのは。

 

 光を纏う3本の槍はやがて1つの光に融合すると、光煌めく彗星となって赤銅色の空を切り裂き、宇宙空間へ向けて突き進んでいく。その彗星はこの惑星の最南端に宇宙に向けて聳え立つ、12枚の翼を背負った白い巨人。女性の姿をした白い巨人の首から離れ、宙を浮遊する少女の顔をした頭部に向けて真っすぐに飛んでいく。

 

 その彗星はやがて白い巨人の頭部へと到達し。

 下顎に深く突き刺さり。

 勢いを留めず巨人の頭部の中を突き進み。

 左目へと。

 赤く輝く瞳へと到達し。

 その赤い瞳を穿ち。

 白い巨人の頭部を貫いた彗星は、数多の星々が瞬く無限の宇宙へと、音もなく消えていった。

 

 頭部のない女性の姿をした白い巨人の体が、大きく仰け反っていく。

 背負った12枚の翼が、少しずつ消滅していく。

 そして彗星によって貫かれた白い巨人の頭部は、一度大きく煌めき、そして次の瞬間、無数の塵へと分解していった。

 

 

 

 

 彼の夢が。

 彼らの希望が砕け散っていく様を、冬月は見ていないかった。

 ある変化が周囲に及ぼす影響を正確に予測していた彼は、わざわざその様子を目視で観察する必要がなかったから。

 だから彼は、誰も居ない艦橋の床に腰を下ろし、手にしていた一枚の古びた写真を見つめていた。

 

「すまんな。碇…」

 

 彼の盟友の名を口にする。

 

「お前と同じ夢を追い続けるには、私は些か歳を取り過ぎてしまったようだ…」

 

 

 全周囲型モニターの一角が光り、そこにとある映像を映し出された。

 その映像の中に映るのは、一人の女性の顔。

 血を滲ませた包帯を頭部に巻いている女性の顔は、艦橋の床に腰を下ろしている冬月を見ている。

 

『冬月副司令…』

 

 スピーカーを通して、女性の音声が艦橋の中に響き渡った。

 冬月は顔を上げず、写真を見つめ続けている。

 

『私たちは脱出艇にてこの宙域からの離脱を図ります。副司令は…?』

 

 冬月はその問い掛けに対し、左手を頭上に掲げることで答えた。

 

 ジャケットの袖から覗く彼の手。

 その手がまるで炎に炙られた蝋のように溶け、オレンジ色の液体へと変化し始めていた。

 

 モニターに映る女性は冬月のその手を見て、目を閉じ、そして眉間に皺を寄せる。

 

 冬月は左手を下ろし、写真を見つめたまま言った。

「すまなかったね、葛城くん。君たちを年寄の道楽に付き合わせてしまった」

 

 女性は目を閉じたまま、男性に向けて敬礼をする。

『おさらばです。冬月副司令…』

 その言葉を最後に、女性の顔がモニター上から消えた。

 

 

 

 

 そして冬月は一人になった。

 

 一人になった冬月は写真に写る女性の顔を見つめながら、考え事をしていた。

 

 

 

 本を与え。

 食事を与え。

 仮初めの名を与え。

 そして新しい肉体を与え。 

 

 

 何故、どうして自分はあの少女に。この写真に写る女性とよく似た少女にここまで。結果的に彼の、彼らの夢を挫かれる羽目となるまでに、肩入れしたのだろうか。

 

 彼の盟友と同じように、彼女によく似た少女を愛でることで、彼女との思い出に浸ろうとでもしたのだろうか。

 

 いや。

 

 

「そうか」

 

 

 冬月は笑った。

 

 

「私にもし家族というものがあったならば、あれくらいの孫がいてもおかしくなかったな…」

 

 

 

 瞼を閉じる。

 瞼の裏に浮かぶのは、あの記録映像の最後に映った笑顔。

 

 それはきっとあの笑顔の持ち主にとっての初恋。

 

 初めての感情に胸躍らせる、少女の笑顔。

 

 10年前に人格を消去され時、調整された感情も初期化されたはずの少女が至った、真の恋。

 

 

 

 瞼を開く。

 瞼の裏に宿る少女とよく似た女性が写る写真。

 

 

 写真を見つめる冬月の顔は、満足そうに笑っていた。

 

 

 

 

 金属製の床の上に、はらりとジャケットが落ちた。

 

 宙を舞う飛沫。

 

 ジャケットを中心に広がる、オレンジ色の液体。

 

 

 舞い降りた一枚の古びた写真が、オレンジ色の液体の上を静かに揺蕩う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 慌ただしく出発の準備を整えた鈴原トウジは勝手口にある靴を履いて外に飛び出そうとしたところで、部屋の奥から彼の愛する妻、鈴原ヒカリに呼び止められた。

「あなた。相田くんから電話よ」

「ケンスケ? おうケンスケか。ちょうど良かった」

 トウジは靴を脱ぎ捨てると、電話の前に駆け込んだ。妻から受話器を受け取り、耳に押し当てる。

「ケンスケ。今お前んところに行こう思うとったところや。お前の車、出してくれへんか? 街の方に行きたいんやが。は? なんやお前。もちっと落ち着いて話せや」

 トウジ自身、自分の気持ちが逸っていることを自覚していたが、受話器のスピーカーからはトウジ以上に彼の親友の慌てた様子の声が鳴り響いている。

「は? わいんところの食料を分けてくれ、やと? そりゃ構わんけど。お前何しとん? は? 料理? てんで追い付かない? なんやお前。パーチーでもやっとんかいな? あ? ようやく彼女が寝たところ? でも起きたらまたべらぼうに食い始めるから今のうちに食い物こさえとかなあかん? 奇妙な生きもんも連れてて、それがまたやたらと食う? おぉぉぉぉ、なんやよう分からんが忙しそうやの。ほんまはお前にも一緒に付いてきて欲しかったんやがしゃーないな。とりあえず、お前んとこの車貸してくれな。ええな? おうおう、米でも芋でも何でも持ってったるさかい。ほなな~」

 

 電話相手に約束した通り、食料が入った麻袋を抱えながら再び靴を履き始めるトウジにヒカリは声を掛ける。

「あなた。気を付けてね」

 夫を心配する言葉掛けの割に、妻の顔はいたって晴れやか。

「おう。しっかしほんまなんかのう。街に人が戻り始めたっ、ちゅうのは」

「あなたも見たでしょう、あの虹」

 ヒカリは夫に弁当が入った包みを渡しながら微笑む。

「これからはきっと、良い事ばかりが起こる。そんな気がするの」

 トウジも包みを受け取りながら笑った。

「おう。ほんまにそうやったらええのう。ほんじゃちょいと様子見てくるわ」

 

 

 慌ただしく出ていった夫と入れ替わりに、ヒカリのママ友である近所の女性が鈴原家の勝手口に顔を出す。遠ざかっていくトウジの背中を見送りながら女性は言う。

「先生も忙しそうね。うちの旦那も渡り鳥が来たとか騒いで、朝早くから湖の方に出かけてしまったわ」

「まるで昨日のあの虹が差してから、世界が生まれ変わったようね…」

「ふふっ、あたしも今朝から何だか元気だし。腰痛で寝込んでたうちのおばあちゃんも鍬持って畑仕事に出かけてしまうし。うちが飼ってる牛なんて、おっぱいじゃぶじゃぶ出して幾ら搾っても追い付かないんだからまったく…。あれ?」

 女性は、ヒカリの肩越しに部屋の奥を見る。

「あれ? あんたのところ、2人姉妹だったかしら?」

 ヒカリは女性の視線を追い掛けるべく、振り返った。半分開いた襖の隙間から、隣の部屋に敷かれた布団が見える。

「ああ、あれ?」

 布団の上に寝ているのはヒカリの一人娘。

「いいえ。うちはツバメだけよ」

「え? じゃああの子は?」

 

 鈴原家の一人娘が寝ている布団に、もう一つの人影。

 赤ん坊に寄り添うように寝ている、小さな子供。

 

「さあ」

 ヒカリは自分の一人娘の隣で寝ている小さな子供を、我が子を見るような眼差しで見つめつつも、不思議そうに首を傾げている。

「さあ…って」

「今朝起きたら玄関の前で眠ってたのよ」

「もしかして捨て子? 今時珍しいわね」

「見てよ。まるでずっと前から姉妹のようよ。あの2人」

 布団の上で寄り沿い合いながら眠る赤ん坊と小さな子供。2人とも小さな口もとからむにゃむにゃと寝息を零しながら、幸せそうに夢の世界に身を委ねている。

 ヒカリの笑顔に誘われるように、女性の顔にも笑みが宿った。

「本当ね」

「ねえ? 思わない?」

「え? 何が?」

「あの子見てると、なんだか「そっくりさん」が戻ってきたような感じがするのよね」

 

 布団の上で身じろぎする小さな子供。隣で寝ている赤ん坊に腕を伸ばし、まるで湯たんぽ代わりのようにして抱き締めると、赤ん坊もまた短い腕を伸ばし返して、小さな子供に抱き着く。

 ヒカリが言う「そっくりさん」に幼い娘と揃って何度もハグされた経験のある女性は、ヒカリの一人娘に抱き着いている小さな子供を見て微笑んだ。

 

 空を見上げれば、まるであの子の髪の色のような、明るい青。

 そして視線を落とし、鈴原家の奥の部屋を覗き込めば、まるで今日の空のような髪の色の小さな子供。

 

 女性は鈴原ヒカリの言葉に心から同意する。

「ええ。本当にそうね」

 

 

 

 

 

 

 

 




 



☆このお話でやりたかったこと☆

☑ 碇くんがもう、エヴァに乗らなくて、いいようにする。

☑ 食事会の実現。

☑ とりあえずゲンドウ。お前は一発殴られろ。

☑ 黒波生存。

☑ ほかのキャラもなるべく生存。

☑ アスカさんの咬ませ犬人生をどうにかしたい。

☑ カヲルくんの生き様がもうちょい報われてほしい。

☑ 散々引っ張ったS-DATにもうちょい活躍してほしい。

☑ チルドレン全員が揃う。

□ LRSエンド ←あとココォ!!



 


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(72)世界で一番短い愛の歌

 

 

 

 

 真希波マリ、渚カヲル、アスカ・ラングレー、そして小さな子供が旅立っていった青い海。

 その水平線を、白い砂浜に立つ碇シンジは見つめていた。

 水平線に視線を。そして皆の旅立ちに意識を奪われたまま、腰を低くし、右手を地面に下ろし、お尻を地面に近付ける。

 地面に座ろうとした瞬間、少しバランスを崩してしまったらしい。シンジの体が左側にぐらりと傾いた。

 ちょん、と左肩に感触。

 シンジの左肩が、隣に座る綾波レイの右肩に接触している。

 その接触を合図に、水平線へと投げられていた2つの視線が自然と絡み合う。互いに吐息を感じる距離で見つめ合いながら、どちらからともなく口許を緩め、そしてレイは豊富な髪を抱く頭をそのままシンジの左肩に預けた。左肩に重みを感じ、シンジの顔は今更ながらに赤くなり、背筋がピンと伸びてしまう。

 視線は水平線の彼方に投げつつ、体中の神経は左肩に全集中。

 浜辺に2人きりであることを強く意識つつ、顔は海に向けたままで瞳だけを動かし、隣の彼女の様子を伺う。

 

 羽毛のようなふわふわの空色の髪の隙間から覗く彼女の顔。

 綿のような白い肌。

 伏せられた繊細な睫毛。

 薄く開いた瞼の隙間から覗く、赤い瞳。

 瞳から投げられる視線は、絶えることなく繰り返し押し寄せる波が泡となって消える様子を、静かに見つめてる。

 

 細い全身を包み込む勢いで伸びた髪の間から伸びた彼女の白い右手は、白い砂地の上に下ろされている。

 シンジは立てた膝の上に乗せていた自分の左手を、そっと、彼女の右手の側に下ろしてみた。

 

 サラサラとした白い砂地の上に並ぶ、彼の左手と彼女の右手。

 彼の左手の小指が少し動き、その指の先端が躊躇いがちに彼女の右手の小指に重ねられる。その感触に驚いた様子の彼女の小指が一度だけぴくりと動き硬直してしまうが、やがて彼の指から伝わる温もりにほぐされるように、彼女の指から力が抜けていく。

 そして彼の指の下敷きにされていた彼女の小指が少しずつ動き出し、彼の指の下から脱出すると、今度は彼女の薬指と小指が、彼の薬指と小指に重ねられた。彼女の繊麗な2本の指は、彼の小指と薬指、そして薬指と中指の隙間に滑り込み、指の関節を曲げて彼の指の根元に深く絡み付く。

 

 自身の左手と左肩に全ての神経を集中させつつ、彼女の横顔を見つめていた彼。

 波打ち際を見つめていた彼女の目が一度閉じられ、そして開くと、中に収まる瞳は隣の彼の胸元へと向けられていた。

 そしてもう一度瞼が閉じられ、そして開くと、中に収まる瞳は隣の彼の顔へと向けられていた。

 

 上目遣いでこちらを見上げる彼女の瞳。

 少しだけ潤んだ彼女の瞳。

 波に反射する光を湛えて、きらきらと光る彼女の瞳。

 

 全ての神経を左手と左肩に集中させているため、脳味噌がまともに働いていない彼の顔は、その瞳に吸い寄せらるようにふらりふらりと彼女の顔へと近付いていく。

 

 こつん、と当たる、彼の額と彼女の額。

 

 お互い顎を引いた状態で、お互いの目を見つめ合う。

 

 彼は、彼の額で彼女の額を少しだけ押してみた。

 

 額を押され、少しだけ上がる彼女の形の良い顎。

 

 そして無防備に晒される、彼女の薄い唇。

 

 その瞬間を見逃さず、素早く近付く彼の唇。

 

 彼の唇の動きに呼応するように、前へと出される彼女の唇。

 

 

 砂の上では、薬指と小指だけが絡み合っていたはずの2人の手は、いつの間にか全ての指が深く絡み合い、互いの温もりを求めるように強く握り合っている。

 

 

 

 唇が離れ、再びお互いのおでごを当てたまま見つめ合う2人。

 潤んだ瞳。上気した頬。鼻孔から漏れる乱れた息遣い。

 お互い同じような顔になってしまっていて、それが少しだけ可笑しくて、どちらからともなく笑みを零してしまう。

 

 そして、どちらからともなく相手の背中へと回される腕。

 

 お互いを抱き寄せ合う2人。

 

 触れ合う彼の右頬と、彼女の左頬。

 

 

 2人しか居ない世界。

 

 2人だけの世界。

 

 

 寄せては返す波の音に混じって聴こえるのは、相手の息遣い、そして胸の高鳴りだけ。

 

 それらの音に耳を傾けながら、碇シンジは彼女の耳もとで囁いた。

 

 

 

 

「残っているのは君だけだ…、綾波…」

 

 

 

 

 互いの体を抱き締め合っているため、相手の顔は見えない。見えない表情の代わりに彼の背中に回された彼女の手が、彼の着る黒のランニングシャツをぎゅっと掴む。彼女のその仕草に同調するように、彼女の細い体を抱き締める彼の腕にもより一層力が込められた。

 

「僕にはまだ、やらなきゃいけないことがある…。だから、綾波は先に行ってて…」

 

 ランニングシャツを掴む彼女の手にも、より一層力がこもった。

 

 彼は彼女の背中に回した左腕はそのままに、そして右腕は彼女の両膝の下へと滑り込ませた。

 そのまま、ひょい、と立ち上がる。

 その腕に、彼女の細い体を抱き上げたまま。

 

「はは。本当に綾波は軽いな」

 

 彼のその笑い声に彼女は応えず、額を彼の胸元に押し付け、両手は彼のランニングシャツの胸元を鷲掴みにしている。。

 

 

 彼は歩き出した。

 彼女を抱き上げたまま。

 海に向かって。

 

 サク、サク、と砂を踏む音が、やがてちゃぷ、ちゃぷ、と水を弾く音へと変わっていく。

 

「綾波。君は覚えているかな?」

 

 踝まで浸かっていた水が、やがて膝下まで迫る。

 

「僕たちが初めて出会った時のことを…」

 

 ザブ、ザブ、と海水を掻き分けながら彼の足は沖へと向かって歩いていく。

 

「僕がミサトさんに連れてこられたあの時じゃない。それよりも、ずっと前の」

 

 ついに抱き上げた彼女の腰までもが、海へと浸かり始めた。

 

「この世界での、君と僕との、最初の思い出…」

 

 海に浸かることで浮力を得た彼女の体が、ふわりと浮き上がる。

 

「あの時の約束のこと…、覚えてる…?」

 

 ふわりと浮き上がったことで、彼女の体は彼の腕の支えを必要としなくなる。

 彼の腕から離れる彼女の背中。

 

 彼のシャツを握り締めていた彼女の両手が、慌てたように彼の背中を抱き締める。

 その額は彼の胸元に押し付けたまま。

 縋り付くように。

 必死に、彼の体にしがみつく。

 

 シンジは彼女の膝の下に回していた右手を、彼女の頭へと回し、彼女の体をそっと抱き締めた。

 

「ほら。見てごらん」

 

 彼女に囁き掛ける。

 しかし彼女は彼の胸に顔を埋めたまま、首をふるふると横に振る。

 

「見てごらん…。綾波…」

 

 彼女は首を振る。

 豊富に伸びた髪を右に左に大きく揺らして。

 

「綾波…」

 

 

 3度目の呼び掛けに、彼女はようやく首を振るのを止めた。

 彼の胸から額を離す。

 ゆっくりと顔を起こし、伸びた前髪の隙間から彼が促す方へと視線を向けた。

 

 

 

 そこには青い海が広がっている。

 遥か彼方にある水平線まで続く、果てしない海が広がっている。

 

 

「いつか君に、青い海を見せる…」

 

 

 エヴァンゲリオンも居ない、笑い声を立てるパイロットたちも居ない、静かな海。 

 

 

「そう約束したね…」

 

 

 背後から聴こえる彼の声。

 

 

「25年目の約束…」

 

 

 波の音に混じって聴こえる彼の声。

 

 

「ようやく果たせたよ…」

 

 

 遠くから聴こえる、彼の声。

 

 

 

 

 青い海に目を奪われていた彼女は、慌てて後ろを振り返った。

 

 

 彼の首に絡めていたはずの腕はいつの間にか空っぽ。

 

 

 彼の姿が、波間の向こうに見えた。

 

 

 気付かないうちに出来てしまっていた彼との距離。

 彼女はその距離を埋めるべく、両腕を、両足を必死にばたつかせて、彼のもとへ泳ごうとする。しかし14年ぶりに得た肉体は、宿主の意思のままには動いてはくれない。

 手足はバラバラに海面を叩くだけで。水飛沫ばかりが派手に上がり、その体は一向に前へ進もうとしない。前へ進むどころか、返す波によって逆に沖へと引き摺られていく始末だ。

 

 

 

 腰まで海に浸かった場所で、碇シンジは綾波レイの姿を見ていた。

 彼の元に戻ろうと、必死に藻掻く綾波レイの姿を、ただ見ていた。

 その努力も空しく、少しずつ離れていく綾波レイの姿を見ていた。

 

 波の音に混じって、何かが聴こえてくる。

 それは人の唸り声。

 この場所に居るのは。この空間に最後まで残っていたのは、彼と彼女だけ。

 碇シンジは、口を噤んでいる。

 つまり、その唸り声を発しているのは碇シンジ以外の、もう一人。

 

 綾波レイが、唸っていた。

 波に揉まれながら。

 両手と両足をばたつかせながら。

 海の中で藻掻きながら。

 

 懸命に唸っていた。

 言葉を発することができない。彼の名前すら叫ぶことができない口で、必死に唸っていた。

 まるで沖で響く海鳴りのような唸り声。

 その声も、やがて碇シンジのもとには届かなくなる。

 彼女が上げた必死の唸り声も、波の音に掻き消されるようになる。

 

 そして彼女の姿も。

 両手で海面を掻き、両足をばたつかせている彼女の姿も、まるで青のペンキで上塗りされるように、大きな波で掻き消されていく。

 

 一際大きな波が、シンジと彼女の間を通り抜けた。

 海面のうねりが通り過ぎ、現れたのは遥か彼方に見える水平線。

 静かな白波が絶え間なく打ち寄せる海原。

 

 

 そこに、彼女の姿はなかった。

 

 

 

 

「さよなら…、みんな…」

 

 彼女が消えた水平線を見つめていたシンジの首が前に垂れた。

  

「さよなら…、綾波…」

 

 シンジの華奢な両肩が、微かに震えた。

 

「ごめん…、綾波…」

 

 その言葉の後に続いたのは、小さな嗚咽。

 波の音にも負けてしまうような、静かな嗚咽。

 

 

 

 現実と虚構の狭間。

 崩れかけた世界に秩序と均衡を齎すために作られた空間。

 その空間にただ一人残された少年は、まるで彼女の髪の色のような青い空と青い海に一人で挟まれ、唇を噛み締め、肩を震わせて、ただ一人泣いていた。

 

 嗚咽を漏らす口。

 鼻水を垂らす鼻。

 しかし、彼の双眸からは涙は零れない。

 

 

 黒曜石のような瞳の持ち主だった少年。

 その少年の顔に、2つの目は無かった。

 

 世界の色を知るために。

 世界の形を知るために。

 世界の広さを知るために。

 そして愛する人を見つめるために与えられた2つの目。

 その2つの目が本来収まるべき位置。

 

 

 そこに在るのは、顔の表面を十字状に切り裂いた大きな溝だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一人で泣いていた。

 

 涙を流せなくなった顔で泣いていた。

 

 ただ一人残された空間で、声にならない声で泣いていた。

 

 全身を、かつてない寂しさと悲しさが支配していた。

 

 

 だから、碇シンジはその右肩を叩かれた時。

 碇シンジただ一人を除いて誰も居ないはずのこの空間で、右肩を叩かれた時。

 例えば街中を歩いていて、唐突に背後から肩を叩かれた時と同じように、ただ小さく「え?」と短い声を漏らしながら、後ろを振り返るしかなかった。

 

 振り返ったその瞬間、シンジの視界全てを、一つの大きな拳が占拠する。

 

 

 

 視界一杯に火花が舞い散る。

 

 

 

 振り向きざまに頬を殴られたシンジの体が吹っ飛び、大きな水飛沫を立てながら海水の中へと沈んだ。

 気泡だらけの海中。

 訳も分からず海の中で藻掻いていたら、海面の方から2本の腕が伸びてきて、シンジの黒のランニングシャツの胸元をむんずと掴む。2本の腕は物凄い力でシャツを引き寄せると、シンジの体ごと海上へと引き揚げた。

 薄暗い海中の中から明るい海上へ。

 口にも鼻にも塩水が侵入しひどく咳き込むシンジは、薄く瞼を開きながらシャツの胸元を掴む手の持ち主の顔を確認する。

 

 浅黒い肌。

 顎にたくわえられた髭。

 丸渕の色付きメガネ。

 レンズ越しの、黒い瞳。

 

 

「息子を殴るのはこれが初めてだったな」

 

 

 碇シンジの父親の顔が、すぐそこにあった。

 

 

 

 殴り倒した息子を海中から無理やり引き摺り出す。

 その粗暴な振る舞いとは裏腹に、碇ゲンドウの声音は酷く落ち着いていた。

 

「父さん…」

 シンジは塩水で焼き付いた喉の痛みを感じながら、十字状の裂け目から注がれる視線を父の顔に向ける。

 

 ゲンドウの手が握った息子のシャツの襟元に深く食い込んだ。

「何のつもりだ、シンジ…」

 

 静かで、それでいて厳しい口調による父親の問い掛けの意味を、シンジはすぐに理解した。

 父親に向けていた視線を、気泡だらけの海面へと落とす。

 

「だって…、僕は…、僕の落とし前を着けなくちゃ…」

 震える声で、父親に訴える。

 

「僕が引き起こしたことで、死ななくていい人たちがたくさん死んだ…。苦しまなくていい人たちが、たくさん苦しんだ…。この世界に住む全ての人たちの人生を、僕は狂わせてしまったんだ…!」

 それは、彼の仲間たちにも、愛する人たちにも、誰にも言えなかった胸の中の苦しみ。

 

「虚構と現実を隔てるための新しい扉。その扉を閉めるための鍵がないんだ。誰かが鍵にならなくちゃ…」

 それは、彼の仲間たちにも、愛する人たちにも、誰にも言わなかった決意。

 

「僕が…、鍵にならなくちゃ…」

 

 

 襟元を掴んだ父親の手にさらに力が籠り、シンジの首を圧迫する。喉の焼け付く痛みと首を圧迫される苦しみに顔を顰めながら、シンジは伏せていた目を父親へと向けた。

 

「シンジ。前にも聞いたな」

 

 ゲンドウは息子の視線がこちらに向いたところで、両手に籠めていた力を少しだけ緩めた。

 

「シンジ。お前は何を願う」

 

 ゲンドウは、落ち着いた声で息子に語り掛ける。

 

 

「僕は…」

 解放された気道で深く呼吸したシンジは、父親に向けていた視線を今一度海面へと落とした

「僕は…、みんなが…、世界が…、あや…」

 

「世界だとかみんなとか。そんな大仰な話はしていない!」

 その怒鳴り声と共に、シンジの襟元を掴む父親の手に再び力が籠り、シンジの視線は強制的に父親へと向けられることになる。

「シンジ! お前は…、碇シンジは何を望むのだ!」

 

 

 シンジは初めてだったかも知れない。

 嫌悪、諦念、蔑み、そして無関心。

 父親から自分自身に向けらるそれらの感情以外の。

 父親の怒りの表情を、こんなにも間近で見たのは。

 

 

 シンジは親からこっぴどく叱られて怯え震える幼子のように、顔を小刻みに揺らし始めた。

 その顔の半分を占拠する十字状の裂け目から。

 涙を流さないはずのその裂け目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出す。

 

「僕は…」

 

 奥歯がカチカチと鳴る口をぎこちなく開いた。

 

「僕はみんなと…」

 

 言い掛けて、父親の目を見た。

 メガネ越しに、まっすぐに息子を見据えている父親の黒い瞳を。

 

 シンジは一度歯を食いしばり、そして父親の目をまっすぐに見つめ返して言った。

 

 

 

「僕は、綾波と一緒に生きたい!!」

 

 

 

 息子の口から飛び出た、熱の籠もった力強い声。

 

 しかしその顔は、すぐにしわくちゃになり、眉尻が盛大に下がり、大量の涙と鼻水と涎で塗れるという、何とも情けない顔になってしまう。

 

「父さん…、僕は…、綾波と一緒に…、生きたいよ…」

 

 絞り出すように、縋り付くように、嗚咽に塗れた途切れ途切れの声で、シンジはその言葉を父親に向けて吐いた。

 

 

 

 ゲンドウの両手が、シンジが着るシャツをさらに引き上げる。浮力にも助けられ、シンジの体が海の中でふわりと浮いた。

「立てるか?」

「あ…、うん…」

 シンジはしゃくりあげた声で返事をしながら、2本の足の裏を海の底に付ける。

「顔を洗え」

「あ…、うん…」

 シンジは父親の言われるがままに、両手で掬った海水で顔を洗った。その間、ゲンドウは乱れてしまった息子のシャツを整えてやる。

 

「シンジ…」

「うん…」

 まだ嗚咽が完全に収まり切らない様子のシンジは顔を伏せたまま、ひきつけを起したように肩を揺らしながら返事をする。

「レイが、好きか?」

「うん…」

「レイと一緒に、生きたいか?」

「うん…」

「レイのことは、聞いているな」

 シンジは鼻水が垂れそうになった鼻を右手で拭いながら、こくりと頷く。

「シンジ…」

 ゲンドウの右手が、シンジの左肩に乗せられた。

「レイのことを…、頼む…」

 

 シンジは伏せていた目を上げる。 

「父さん…」

 見たことのない、穏やかな表情の父親の顔が、そこにはあった。

 

「でも…、僕は…」

「シンジ」

 この期に及んで逆説の接続詞から入ろうとする息子の声を、ゲンドウは遮る。

「子が親の罪を被るようなことはあってはならない。しかし、親が子の罪を負うのは監督者として当ぜ……」

 ゲンドウは口を噤み、自分の言葉を途中で自ら遮った。

「すまん」

 ゲンドウは首を横に振る。

「俺は昔から口下手なのだ…」

 そしてゲンドウの左手も、シンジの右肩へと乗せられた。

 

 ゲンドウは一度鼻から大きく息を吸い込んで。

 

 

「最後くらい、父親らしいことをさせろ」

 

 

 息子の両肩に乗せた手を引き寄せ、息子の華奢な体を抱き締める。

 

 

 

 何が起こっているのか分からなかった。

 現状把握が追い付かず、ひたすら混乱した。

 

 自分が。

 碇シンジが。

 自分の父親に。

 碇ゲンドウに抱き締められている。

 

「父さん…」

 

 そう呟いて、シンジはようやくこの行為が、きっと今この瞬間にも、世界中の至る所で繰り広げられているごく有り触れた行為であったことを思い出す。

 

「父さん…」

 

 やがて息子の両手もゆっくりと遠慮がちに、父親の背中へと回された。

 

「父さん…!」

 

 父親の広い背中を感じながら、息子は父親の腕の中で泣いた。

 2つの黒曜石のような瞳から大粒の涙を零しながら、声に出して泣いていた。

 

「すまなかったな…、シンジ」

 頭上から降ってくるその言葉に、父親の腕の中のシンジは激しく頭を振る。

「僕こそ…、ごめ…」

「言うな…」

 息子が口走り掛けたその言葉を封じ込めるように、息子を抱く父親の腕に力が籠った。

「我が子にあのような言葉を吐かせたのは、私の一生の不覚だ…」

 

 息子を抱き締める父親の腕。

 息子の頭を撫でる、いつも身に着けていた白い手袋を脱いだ手。

 古い火傷の痕があったその手のひらに、十字状の溝が生まれていた。

 

 

 

「ごめん…」

 結局のところ謝罪の言葉を吐くシンジの視線の先にあるのは、ゲンドウが着る黒のジャケット。その胸元辺りが、シンジが流した涙と涎と鼻水で汚れている。ゲンドウは右手で掬い上げた海水で、ジャケットに付いた汚れを洗い落とす。

 やや神経質気味に汚れを落としたゲンドウは、ふとシンジの姿を見た。

 腰から上を海面から出したシンジ。黒の学生用ズボンに、黒の袖なしランニングシャツ。

 何を思ったか、ゲンドウはようやく汚れが落ちたジャケットを脱ぎ始めた。海水をふんだんに吸った袖から苦労して腕を引っこ抜いだジャケットを、一度上下に力強く振りさばいて皺を伸ばす。

 そしてそのジャケットを、そのままシンジの背中に羽織らせた。

「父さん…」

 シンジは羽織らされた海水を吸ってずっしりと重いジャケットに戸惑いつつも、その袖に腕を通し始める。大柄な父親のジャケットは成長期に入り始めの子供には明らかに大き過ぎで、袖を何度もたくし上げてようやく袖の口からシンジの手が出てきた。

 一方、息子にジャケットを譲り渡したゲンドウは、赤のタートルネックシャツという、青い海の上では余計に映える出で立ちとなっている。父親がジャケットを脱いだ姿を初めて見たシンジは、黒のジャケットの下に隠れていたやや自己主張強めなシャツの色に思わず笑ってしまった。

「これはユイの趣味だ…」

 そう言い訳するゲンドウの表情が可笑しくて、シンジはまたもや笑ってしまう。

 

 

「行け…、シンジ」

 ゲンドウのその促しに、シンジは力強く頷いた。

 そして水平線へと。彼の帰りを待っている世界へ繋がる出口へと、踵を返そうとして。

 振り向き掛けた体を、今一度父親へと向ける。

「父さん…」

 ゲンドウは息子の門出を、落ち着いた表情で見送ろうとしている。

「父さんは、これでよかったの?」

 その問い掛けに、ゲンドウは静かに目を閉じ、柔らかく頷いた。

「ああ。随分と遠回りをしてしまったが、28年掛けて、ようやく私の願いはユイの願いと重なったよ」

「父さんは…」

 穏やかな表情のゲンドウに、シンジは問い掛ける。

「父さんは今、何を願っているの?」

 父親は掛けていた色付きの丸渕メガネを外し、瞼を開けると、柔らかな眼差しで息子を見つめた。

 

 

「子供たちが笑って暮らせる、明るい未来だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 両腕で海面を掻く。両足で海面を蹴る。

 全身を使って、海を泳ぐ。

 水平線に向かって。

 彼を待つ、世界に向かって。

 

 波の立つ海を泳ぐのに、父親が与えてくれたブカブカのジャケットは正直なところ邪魔だった。

 でも脱ぐ気にはならない。

 この体は、父親の想いを背負って、泳いで。進んでいるのだから。

 

 ふと、後ろを振り返ってみた。

 随分と遠くなってしまった浜辺。

 みんなと。

 仲間たちと語り合った砂浜。

 その波打ち際から沖に向かって10歩ほど進んだ場所で、彼の父親が海に膝までを浸からせながら立っている。

 立って、こちらを見ている。

 息子の旅立ちを、見守ってくれている。

 

 シンジは手を振った。

 いってきます、と心の中で叫びながら手を振った。

 

 波間に見える、彼の父親。

 その父親もまた、少々躊躇いがちではあるが、右手を上げてぎこちない動作で手を振り返してくれた。

 

 

 再び水平線に向かって泳ぎ始める。

 水を掻いて、水を蹴って、前へ。新しい世界へ。未来へと進む。

 

 未来へ進むためには、時折過去を振り返ることも必要だ。

 だからシンジは再び泳ぎを止め、後ろを振り返った。

 

 沖に進むにつれ、高くなっていく波。

 右から左から打ち寄せる波のうねりに遮られ、もはや海岸は見えない。

 

 その波の隙間から、ほんの微かに赤のタートルネック。

 父親の姿が垣間見えた。

 

 向こう側からはこちらが見えているだろうか。

 もう一度、手を振ってみる。

 父親は、手を振り返さなかった。

 もう波間に漂う自分の姿は、波打ち際近くの父親の位置からは見えていないのかも知れない。

 

 

 いや。

 違う。

 

 

 父親は見ていない。

 こちらを見ていない。

 沖の方に、その顔を向けていない。

 父親の目は、沖を泳ぐ息子以外のものを見ている。

 

 父親は、彼のすぐ側を。

 彼の右隣に顔を向けていた。

 

 

 海面が大きくうねる。

 波が邪魔をして、父親の姿が見えなくなる。

 

 大きな波のうねりが去る。

 波の隙間から現れる、遠くの父親の姿。

 

 

 

 シンジは見たような気がした。

 

 

 

 彼の父親が見ているものを。

 

 

 

 父親の側に立っている存在を。

 

 

 

 彼の父親が、心奪われているものを。

 

 

 

 父親のすぐ隣に立つ女性の姿を、シンジの瞳は確かに見たような気がした。

 

 シンジが愛する少女と、よく似た雰囲気を持つ女性を。

 

 

 

 その女性を見ている父親。

 

 遠くからでも見て分かるくらいに、びっくりしている様子の父親。

 

 目の前に在る存在を信じられないとばかりに肩を強張らせ、半歩だけ後ずさってしまっている父親の姿。

 

 その父親が半歩だけ目の前に在る存在に近付き。

 

 その右腕がひどくぎこちない動作で上がり。

 

 その右手がひどくぎこちない動作で女性へと向けられ。

 

 あと少しで、目の前に在る女性の頬に触れそうになって。

 

 

 再びシンジの前を、大きな波のうねりが通り過ぎていく。

 

 波のうねりに遮られ、父親も、女性の姿も見えなくなる。

 

 大きな波のうねりが去る。

 

 シンジは、浜辺の方を凝視した。

 

 泳ぎを止めている間にも、シンジの体は離岸流によって沖へ沖へと運ばれていく。

 離れた分、シンジと浜辺との間に立つ波の数も多くなる。

 

 シンジは、父親の最後の姿を見届けようと、必死に目を凝らした。

 

 そして波間に微かに見えた、赤のタートルネック。

 

 もはや点にしか見えない父親の姿。

 

 

 あまりにも遠くてはっきりと見えないが。

 

 

 シンジの目には、父親が隣に立つ女性を抱き締めているように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 海辺で抱き締め合う男女。

 

 最高のハッピーエンドを目撃したかのように、その2人の姿に心を奪われていたシンジ。

 

 不意に、ブカブカの袖を誰かに引っ張られ、たちまちその体は海の中へと引き摺り込まれてしまう。

 あまりに急なことで、シンジの口からは盛大に息が漏れ、海の中に無数の気泡が溢れた。

 

 

 その大量の気泡の中で。

 海の上の空から差し込む陽射しの中で。

 

 

 シンジは見た。

 

 

 目の前に広がる、この海と同じ明るい青に染まった髪を。

 

 

 父親のあんなに怒った顔を見たのが初めてだったら、彼女がこんなに怒った表情を見たのも初めてかも知れない。

 

 

 無数の気泡と光の筋の中で。

 

 彼女が。

 

 綾波レイが眉間に深い皺を寄せ、両目の端を吊り上げ。

 

 それでいて、眉尻は下がり、口は激しく戦慄き。

 

 

 間違いなく怒っているが、同時に今にも泣いてしまいそうな顔で、シンジの顔を見ていた。

 

 レイはシンジを海中に引きずり込むために掴んだ袖を離すと、両手で拳を作り、それでシンジの胸をポカポカと殴り始めた。

 何かを殴るにはあまりにも細い腕。加えて今は海の中である。水の抵抗に遮られて威力をほぼほぼ削除されたレイの殴打はシンジの胸に僅かばかりのダメージも与えられないが、それでもレイはシンジの胸をポカポカと殴り続ける。

 そして戦慄く口を激しく開閉させた。口が開く度に、レイの口からも大量の気泡が溢れ出す。

 レイが、何かを喚いている。

 口を激しく開閉させて、何かを叫んでいるが、海の中ではその必死の叫びもシンジの耳には届かない。

 それでもシンジは、レイが何を叫んでいるのか理解できた。

 何せ、あのマンションで同居していた緋色髪の少女から、毎日挨拶代わりのように散々言われてきたことだから。

 

 

 

  バカ!

 

  バカ!

 

 

 

 綾波レイの口は、その2文字を懸命に繰り返していた。普段の彼女の口からは決して出ることはないその2文字を、彼女は繰り返し叫んでいた。

 

 レイが何に怒っているのかも、シンジは理解できた。

 そしてその怒りに対して、自分には弁解の余地がないことも。

 

 だから、シンジが彼女に対して言えることは一つだ。

 

 

 

  ごめん。

 

 

 

 彼女の憤りに対して言える言葉は、たったの3文字しかなかった。

 だから、シンジは口を懸命に開閉させて、その3文字を彼女に届けようとした。

 しかし口から発せられた声はブクブクと意味を成さない音に変わり、全ては泡となって海の中へと消えていく。

 海の中では、その3文字すらも相手には届かない。

 せめて口の形でも見て貰えていれば届いたかも知れないが、いつもの冷静さを欠いた綾波レイの取り乱しようは酷く、彼女の口から溢れる気泡が視界を塞ぎ、そしてこれまで内に秘めた激情を全てをこの瞬間に爆発させる勢いで、小さな両拳はシンジの胸を相変わらずポカポカと殴り続けていた。

 

 

 どうしたら彼女にこの心は伝わるだろう。 

 

 どうしたら僕の想いは届くだろう。

 

 

 ポカポカと彼の薄い胸を殴り続ける細腕。

 その細い左手首を、彼の右手が掴んだ。

 それでも彼女は、残った右拳で彼の胸を殴り続けるが、その右腕も、彼の左手に拘束される。

 

 両手を封じられた彼女は、それでもなお両肘をばたつかせ、拳を強引に目の前の彼の胸に打ち込もうとしている。

 

 2人の口から。彼が着ている父親から譲り受けたブカブカのジャケットの中から大量の気泡が発生し、2人を包み込む。

 

 

 気泡だらけの世界。

 

 

 気泡に視界全てを封じられ、目の前の彼の姿が見えなくなる。

 途端に不安が込み上げてきた彼女の動きが、ぴたりと止まった。

 

 その気泡の中から唐突に現れたのは、彼の顔。

 突然前に出てきた彼の顔にびっくりして、硬直してしまう彼女の体。

 

 

 その瞬間を見逃さなかった彼。

 

 ぽかんと半開きになっていた彼女の無防備な唇に、強引に重ねられる彼の唇。

 

 

 無理やり前に突き出された彼の唇に押されるように、後屈してしまう彼女の首。

 

 唇を襲った衝撃にまん丸に広がる彼女の二つの目。

 

 海中に蝶の羽根のように広がる豊富な髪が後屈した持ち主の頭部に引っ張られ、彼女の顔を包み隠してしまう。

 

 しかし彼女の顔はすぐに髪の隙間から現れることになる。

 

 何故なら、彼女もまた彼の顔を押し返すように、彼女の唇を前に突き出したから。

 

 

 2人が同時に顔を前へ前へと突き出すものだから、2人の顔の唯一の接触点である唇が酷く歪む。

 それでもなお2人は相手に負けまいと強引に顔を前に出すため、今度は鼻同士が潰れ、頬同士がひん曲がった。

 2人の力は拮抗し、2人の顔はそれ以上前には出られなくなる始末。

 

 彼は顔の代わりに、彼女の腕を握っていた手を、彼女の背中へと回した。父親のそれに比べれば遥かに狭く、あっさりとその腕の中に収まってしまう小さな背中。回した手でその背中を引き寄せた。

 彼の薄い胸板で、彼女の慎ましく膨らんだ胸が潰れる。

 背骨が軋むほどの、激しい抱擁。

 抱き寄せる彼の腕と、押し付けられる彼の体の形に合わせて、彼女の形も歪んでいく。

 

 すると負けじと自由になった彼女の両手が彼の頭部へと回された。

 彼の黒髪を掻き毟るように突き立てられた10本の指。

 頭蓋骨を砕き割るかの如く頭部を束縛する2本の腕。

 抱き寄せる彼の顔に、自身の顔を押し付ける。

 

 

 言葉を交わせないこの場所で、それが唯一のコミュニケーション方法であるかのように。

 自身の想いを相手に伝えるために。

 より強く、想いをぶつけるために。

 お互いに相手の想いを上回ろうと全身を強張らせながら、互いの体をぶつけあう2人。

 

 衝突と反発を繰り返していた2人の体は、まるで手足を通して互いの想いが互いの体に滲み渡っていくように、深く絡み合うようになる。

 2人の口の周りから激しく漏れ出ていた気泡は消え失せ。

 気泡の代わりに、2人の4つの目尻からは溢れ出た涙が宝石の粒のように輝きながら、光りの差す海面へと染まっていき。

 これまでの激しいやり取りが嘘のように、全身で感じる彼の、彼女の温もりに。唇で感じる彼の、彼女の想いに、2人は静かに身を委ねる。

 

 

 海の中を漂う2人。

 ゆっくりと回転しながら海の中を揺蕩う2人。

 彼女の豊富な髪によって包み込まれる2人。

 深く絡み合いながら、海の底へと静かに沈降していく2人。

 

 2人が沈んでいく先。

 海の底からは、まるで沈んでくる2人を温かく迎え入れるかのように幻想的に輝く淡い光が広がっていくが、2人は光の存在すらも気付かないまま、互いの存在を唇を通してひたすら貪り合っている。

 やがて淡い光は広げられた翼のように、2人を優しく包み込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 波の音が聴こえた。

 海辺に打ち寄せる、柔らかな波の音が。

 

 風の匂いがした。

 海から吹く、湿り気を帯びた風の匂いが。

 

 体の前面で感じるのは光。

 空から降り注ぐ、太陽の光。

 

 体の後面で感じるのは大地の存在。

 多少の身じろぎでは小動もしない、この星の存在。

 

 

 

 

 空を見つめていた。

 青い空を。

 地面に仰向けになって。

 おそらく後頭部に感じる感触から砂地だろう。

 砂浜に横になって、空を見上げていた。

 

 

 

 いつからこうしていたのだろう。

 ここでこうし始めてから、どれくらいの時間が過ぎているのだろう。

 

 いつからここにて、そしてここが何処なのかも分からないまま、ぼんやりと空を見上げている。

 

 

 いつからここにいるのか。

 そしてここが何処なのか。

 

 そんなことはどうでもよいのだ。

 些細なことなのだ。

 

 

 そんなことよりも今、大切なこと。

 空よりも海よりも大地よりも地球よりも今、重要なこと。

 

 それは自分の左手が感じているもの。

 左手が握っているもの。

 

 繋いでは離し、離しては繋いでを繰り返してきたもの。

 

 改めて左手の全ての指を、相手の指に絡めてみた。

 すると、向こう側からも、全ての指をこちらの指の隙間に絡めてくる。

 

 左手のその感触に、シンジは空を見上げながら、ふふ、と幸せそうに笑った。

 

 そして空に向けていた2つの瞳を、左の方へと移動させる。

 瞳が目の端っこまで移動したら、今度は空へ向けていた顔を左の方へと傾ける。

 

 視界の隅から少しずつ入ってくるのは、今見上げていた空と同じ色の髪。

 そして空にぽつぽつと浮いていた雲と同じ色の肌。

 そして地上を温かく照らす太陽のような瞳。

 

 顔を横に向けて。

 彼女の顔を、その視界の中央に収めて。

 

 彼女が、2つの瞳でじっとこちらを見ていたので、ちょっとだけびっくりしてしまう。

 

 

 白い砂浜に広げた空色の髪をベッド代わりに横になっている彼女。

 彼が貸した白のワイシャツだけを身に纏い、体を隣の彼に向けて傾けている彼女。

 ぱっちり開いたその双眸。長い睫毛に縁取られた目に収まる真紅の瞳は、まっすぐに隣の彼の方へと向けられている。

 

 

 自分が空をぼけーっと見上げていた時からずっと見られていたのかな、と思うとちょっとだけ恥ずかしくなるが、それも今はどうでもよいことだ。

 

 今重要なこと。

 何よりも大切なこと。

 

 今、自分の隣に、彼女が居ること。

 

 この左手が、彼女の右手を握っていること。

 

 

 紅い瞳が、じーっとこちらを見ている。

 瞬き一つせずに見つめてくる。

 

 陽射しを浴びてキラキラと光る瞳。

 濁りのないどこまでも透き通った瞳。

 見つめるものを、たちまち虜にしてしまうような瞳。

 

 空も海も大地もこの星のことも。

 全てをどーでもよくしてしまう。

 

 この世界で一番罪深い瞳。

 

 その瞳についつい吸い寄せらてしまうのは、仕方のないこと。

 自然と彼の顔が前へと移動してしまうのは、仕方のないこと。

 彼の唇がうー、と隆起し始めてしまうのは、仕方のないこと。

 

 視線は彼女の瞳に釘付けになったまま。

 意識の全ては彼女の唇に集中したまま。

 

 彼の唇が彼女の唇と接触を果たすまで、あと5センチメートルまで迫った時。

 

 ここまで一度も瞬きをしなかった彼女の目。

 その瞼がぱたりと閉じ。

 そして次にその瞼がぱっちりと開いた時に現れた赤い瞳は、彼ではなく空の方へと向けられていた。

 

「え?」

 

 彼女の瞳に引っ張られるように、彼の瞳もまた空へと向けられる。

 

 

 青い空。

 ポツポツと浮かぶ、白い雲。

 真っ赤な太陽。

 3つの色だけで占められていたそのキャンバスに、1つの染みが落ちている。

 

 その染みは青いキャンバスの上を優雅に舞っている。

 時折、2枚の翼を上下に大きくはためかせて。

 

「鳥だ…」

 

 そう呟いた彼は、空をひらひらと舞っている白い鳥に引っ張られように砂浜から体を起こした。

 

 鳥は、地上の彼らの頭上を大きく旋回しながら飛んでいる。

 

 ずっと鳥を見上げていたら首が疲れてきたので、後屈させていた首を前に戻し、視線を落とした。

 自然と視界に入るのは、砂浜の向こうに広がる青い海。

 

 

 白い砂浜。

 青い海。

 青い空。

 

 それは、彼らが彼らの仲間たちと共にひと時の語らいの場として過ごした場所と同じ。

 彼が彼の父親のもとから巣立った場所と同じ。

 それでいて、決定的に違う。

 

 白い砂浜。

 青い海。

 青い空。

 その3つだけで構成されていたあの場所。

 

 しかし、今見える空には真っ赤な太陽がぎらついている。

 ぽつぽつと白い雲が漂っている。

 海から吹く風には磯の香りが混じっている。

 海面では時折水飛沫を立てながら魚が飛び跳ねている。

 そして頭上の青い空では鳥が舞っている。

 

 彼は海を見つめたまま砂浜から腰を上げた。

 その左手に、彼女の右手を繋いだまま。

 そして2本の足で地面を踏みしめて。

 この星に立つ。

 

 

「戻って…、これたんだ…」

 

 

 虚構の世界ではない。

 

 現実の世界に。

 

 生きてゆくための場所に。

 

 

 目を閉じる。

 2つの鼻の孔から、深く空気を吸い込む。

 鼻腔に感じる、海の匂い。

 彼は、その匂いの正体を知っている。

 この母なる海で生き、そして死んでいったあらゆる生命の骸の匂い。

 すなわち、生命に満ち溢れたこの惑星の匂いそのもの。

 

 鼻から吸い込んだこの星の息吹を、今度は口からゆっくりと吐き出していたら、ふと、着ていたジャケット。父親から譲られた黒のジャケットの右側が微妙に重たいことに気付いた。

 ジャケットの右ポケットに手を突っ込む。

 右ポケットの中に、何かが入っている。

 その何かを取り出してみた彼。

 その口許が、小さく笑った。

 

「父さん…」

 

 彼の右手にあるのは、黒の筐体。携帯型の音楽プレイヤー。

 あちこちがベコベコに傷ついたプレイヤー。

 父から譲られ。

 ゴミ箱の中に投げ入れ。

 「彼女」の手から返され。

 そして自らの手で父の手に返し。

 そして今、自分の手の中にある。

 

 視線を上げ、水平線を見つめる。

 

 

「さよなら…、父さん…」

 

 

 彼のその言葉に重なるように、頭上の海鳥が高い声で鳴いた。

 

 

 

 足もとで横になっている彼女を見下ろす。

 空色のふわふわの豊富な髪に包まれた、白いワイシャツと白い素足の彼女。白い砂地を背景に横たわる彼女。

 まるで地球という卵から生まれたばかりの天使のようだ、などとメルヘンチックなことを思いつつ、いつまでもこうして見ていたいという誘惑に打ち勝ちながら、彼は彼女に声を掛ける。

「立てるかい?」

 彼の声掛けに、彼女は細い身をいかにも重たそうに動かしながら上半身を起こした。そして右膝を立て、左手を地面に付いて腰を浮かそうとしたが、小ぶりなお尻はすぐに砂地へと引き戻されてしまう。

 14年ぶりに形作られた肉体。動かすことに、まだ慣れないらしい。

  

 そんな彼女の様子を見ていた彼は、心の中で密かにほくそ笑んでしまう。

 彼女の側に跪いた彼は、虚構の世界の海辺でやった時と同じように、右手は彼女の膝下に潜り込ませ、そして左手は彼女の背中へと回し、その体をひょいっと抱え上げた。

「ははっ」

 暫くは彼女をお姫様抱っこできる理由に欠きそうにないことに、ついつい喜びを感じてしまう不届きな彼は思わず笑いながら膝を伸ばして立ち上がった。

「こっちの世界でもやっぱり君は軽いや」

 お姫様抱っこされてちょっとだけ恥ずかしそうに頬を赤らめている彼女の顔を満足げに見て、そして空を見上げる。

「まるで鳥みたいだ」

 彼らの頭上では、白い海鳥が空に大きな輪を描きながら飛んでいる。

 

 砂地に2人分の重みを乗せながら、波打ち際まで足を運ぶ。

 彼が履く白いスニーカーに、波が弾く水飛沫が被る。

 

 

 太陽の陽射しを受けてキラキラと光る海。

 その両腕に彼女の存在全てを感じながら、煌めく海を見つめていたら。

 

 ふと視線を感じ、水平線に向けていた瞳を腕の中の彼女の顔へと向けた。

 感じた視線。

 腕の中の彼女の瞳から注がれる視線と、彼の瞳から注がれる視線とが重なる。

 

 彼女は、彼の顔を見つめながら小さな口をパクパクと開閉させていた。

 何かを。何かしらの言葉を、彼に伝えたがっているらしい。

 しかし彼女の口からは途切れ途切れの唸り声が漏れるだけで、言葉が形となって出てこない。

 14年ぶりに形作られた肉体。声帯も、まだまともに機能していないらしい。

 

 懸命に何かを伝えようとして、懸命に口をパクパクさせていたものだから、ちょっと酸欠状態になってしまったらしい。

 彼女は一度口を閉じるとぎゅっと目を瞑り、鼻で大きく息を吸って酸素濃度が下がってしまった肺の中に、海の香りを含んだ新鮮な空気を取り込んでいる。男物のワイシャツに包まれた彼女の胸が、上下に浮き沈みを繰り返している。

 

 上下に動く彼女の胸。今更ながらに彼女の体を包んでいるのが自分が着ていたワイシャツ一枚だけということを思い出した彼の動悸が急速に乱れ始める中、目を開いた彼女はもう一度口を開いてみるが、やはり薄桃色の唇に囲まれたその穴からは、意味のある言葉は出てこない。まるで初心者が奏でるヴァイオリンのように、歪んだ音を鳴らすだけ。

 

 伝えたいことがあるのに伝わらない。彼女の顔が、もどかしそうに、悲し気に歪む。

 それでも彼女はすぐに顔に広がりつつあった悲しみの色を追い出し、そしてどうにかこの気持ちを伝えようとして、何かよい手段はないかと方々を見渡して。

 

 そんな彼女を、彼は黙って見守っている。

 視線を右往左往とさせている彼女の姿を、微笑んで見守っている。

 

 そして何か思い付いたらしい彼女は、胸元に畳んでいた腕を伸ばし。

 その白い手を彼の方へと伸ばし。

 細やかな人差し指を伸ばし。

 

 その指の先が辿り着いたのは、彼の胸元。

 

 彼女の指が、彼が羽織るジャケットの隙間に入り込み、シャツ越しの彼の薄い胸の上を這い始める。

 

「うひゃっ」

 

 突然彼女の指で胸を触れられ、驚いた彼は変な声を上げてしまった。

 そんな彼の反応に、彼女は咄嗟に彼の胸から指を離してしまう。

「あ、いいんだ。続けて続けて」

 彼がそう言うので、彼女は再び伸ばした人差し指で彼の胸に触れた。

 

 彼女の人差し指は彼の胸に押し当てられたまま、右に向かって大きく動いた。

 彼の胸の上に描かれる、一本の横線。

 一度彼女の指は彼から離れ、そして今度はその横線に重なるように、彼の胸の上に縦の線が引かれる。

 そして今度はその縦の線の下の部分に重なるように描かれる、大きく乱れた円。

 

 胸の上を這う彼女の人差し指。こそばゆさとそこはかとないエロティックさに身を捩らせながら、その指の動きに集中していた彼。

「えっと…、もしかして…」

 彼女の顔を見つめる。

 

「あ?」

 

 彼の極めて短いその一言を肯定するべく、彼女は何度も首を縦に振る。

 自分の伝えたいことが伝わらないもどかしさ。

 そして伝えたいことが伝わった時の嬉しさ。

 もしかしたら生まれて初めて感じたかもしれないその気持ちを目一杯に表すかのように、やや興奮気味に頷く彼女。

 

 そして彼の胸の上を這う、彼女の細い指。

 彼女の指は、彼の胸の上に2本の縦線を描いた。

 

「り?」

 

 彼の極めて短いその一言に、彼女は何度も首を縦に振る。

 

 彼女の白く細い指は彼の胸の上を這い続ける。

 

「が?」

 

 

「と?」

 

 

「う? ……ありがとう?」

 

 

 何度も首を縦に振る彼女。

 

 そして彼女の指はさらにもう2文字追加した。

 

 

「う」

 

 

「み」

 

 

 その7文字を伝えるためだけに、全ての力を使い果たした様子の彼女。

 彼の腕の中で、ぐったりとしてしまっている。

 

 そんな彼女を、彼は少しだけ潤んだ瞳で愛おし気に見つめている。

「思い出してくれたんだね…。25年目の約束…」

 彼のその言葉に、彼の腕の中の彼女は小さく微笑みながら、控えめに頷いた。

 彼もまた微笑みながら、視線を彼女から外し、上へと向ける。

 

 彼の瞳が見つめるのは青い海。

 彼がこの世界で初めて目にする、ありのままの青い海。

 

 

「あ…」

 彼と同じように、青い海を見つめていた彼女。

 上から降ってきたその短い声を受けて、視線をすぐ側の彼の顔へと向ける。

 

「そう言えば、もう一つ、大切な約束、あったよね?」

 

 彼もまた青い海から視線を離し、腕の中の彼女を見つめる。

 少しだけ照れ臭そうに頬を赤らめながら。

 

「君を僕のお嫁さんにするって、さ」

 

 そう告げると、腕の中の彼女はぱっちりとその目を開いた。

 

「赤い指輪を持って、君を迎えに行くって、さ」

 

 豊富な空色の髪の隙間に見え隠れする頬、額からさらには首筋に掛けて、白い肌に赤身が帯びていくのが彼の目からもはっきりと見えた。

「いや~、それにしてもさぁ…」

 そんな彼女の表情が面映ゆくて、彼は視線を海へと戻してしまう。

「いくら何でも先走り過ぎだよね。当時の僕って」

 もちろん、後悔なんてない。当時の自分の無邪気な言動について後悔なんてこれっぽっちもないのだが。

「ガラス越しだったとは言えさ。ファーストキスもしちゃうしプロポーズまで済ませちゃうし。そんな大事なイベントごとは将来の僕の為に残しておいてほしかったよ」

 ちょっとばかし、良いところを全部持っていってしまった幼い頃の自分が妬ましい。

 

「お嫁さん…、か…」

 

 もう一度口に出してみて。

 ふと、あることを思い出した。

 

「そう言えばさ。君のこと、色々と聞かされたんだ。冬月副司令から」

 

 彼の視線は水平線に向けられたまま。

 それでも感じた。

 腕の中の彼女の体が、少しだけ強張ったことに。

 そんな彼女の体に走る微かな緊張を無視して、彼は続ける。

「あの時はひたすら混乱してて…。君を救えてなかったことに打ちのめされてて…。正直副司令が言ってたこともあんまり頭の中に入ってこなかったんだけどさ」

 当時の自分の心境を思い出して彼の体も少しだけ強張ったが、両腕に感じている彼女の存在はいとも簡単に当時の恐怖を拭い去ってくれて、小さな吐息と共にその強張りもすぐに消えいく。

「今改めて考えてみると…」

 白髪の男性から伝えられたことを思い起こしながら、視線を腕の中の彼女へと向ける。その体と同じように、少しだけ強張っている彼女の表情。

 そんな彼女に、彼は言った。

 

「君って凄いんだね…」

 

 その彼の一言に、強張っていた彼女の顔がきょとんと緩くなる。

「いや、だってさ」

 彼の視線は再び水平線へ。

「君は僕のお母さん? ってことになるんだし…」

 そう言って、彼は少しだけ首を捻る。

「いや、妹? 姉? ってことでもいいのかな? もしくは従姉妹とか親戚とかでもいいかも知れないね」

 捻っていた首を元に戻す。

「それに同じ学校の同級生だし友達だし、エヴァンゲリオンのパイロット仲間だし同僚だし戦友だし命の恩人だし…」

 熱っぽく語る、彼の口。

「僕を導いてくれた人だし、僕のことをずっと護ってくれた人だし…」

 やがてしどろもどろになる彼の口。

「初めてビンタされた女の子だし…、は、初めてそ、その…、裸を見た女の子だし…。そそそ、それにはは、初めておおおお、おっぱい触っちゃった異性だし…」

 そして彼の両頬に、赤みが差す。

「恋人にしたい人だし、愛しい人だし、大好きな人だし、ずっとずっと一緒に居たい人だし…、……そして」

 恥ずかしそうに笑いながら、彼女の顔を見た。

 

「僕の将来のお嫁さん…」

 

 相変わらずきょとん顔の彼女の顔を見つめながら、彼は続ける。

 

 

「僕の人生に、女性は君一人だけ居れば事足りるってことだね…」

 

 

 途中変なことを口走ってしまったものの、彼は、彼なりに最高の決め台詞を言ったつもりだった。

 やや冗長気味ではあるものの、彼なりの愛の歌を紡いだつもりだった。

 それなのに腕の中の彼女は愛らしい目をぱちくりさせながら、相変わらずのきょとん顔。

 そんな彼女の反応に、彼はついつい苦笑いしてしまう。

 どうやら自分は父親に似て口下手らしい。

 

「えっと…、分からないかな? つまりは…ね」

 

 父親に倣って、率直な言葉を選ぶことにした。

 

 

 

 

「君は僕の全て…、ってことさ…」 

 

 

 

 

 彼女の視線が落ち着かない。

 彼の顔を見て。

 そして彼女の胸元に組んだ彼女自身の手を見て。

 その間を何度もうろうろと行き来している彼女の視線。

 

「君は…?」

 

 彼から掛けられた声に、ようやく彼女の視線は彼の顔に定まった。 

 それでも空色の睫毛は震え、その睫毛に縁取られた目の中に収まる赤い瞳は小刻みに揺れ動いている。

 

「君はどう…?」

 

 その問い掛けの意味をすぐに理解できず、彼女の顔に広がる戸惑いの色。

 彼はそんな彼女の顔から戸惑いの表情を洗い流すように、柔らかく微笑み掛けながら言う。

 

「僕にとっては今、目の前にいる人が全てなんだ。君は…、どうかな…?」

 

 その問い掛けに、再び彼女の視線が彼の顔と彼女の手との間をおろおろと彷徨うようになる。

 

 しかし彼女は戸惑いながらも、必死に彼の問いに対する答えを見つけようとしている。

 彼の真心に、誠意をもって答えようとしてくれている彼女の想いが、彼の目から見てもありありと伝わってくる。 

 

 

 わざわざ探す必要なんてない。

 答えなんてすぐに見つかる。

 あとはその答えを、彼に伝えるだけ。

 

 

 自分の想いを伝えようとして。

 彼の問いに答えようとして。

 そして口を開いて。

 

 

「…ぁ……、…ぅ……」

 

 

 しかし彼女の喉は意味のある言葉を鳴らさない。

 彼女の口は、愛の言葉を紡げない。

 

 自分の心の中の全てを占める想いをただ声に出せばいいだけなのに。

 心の中から溢れ出しそうになる想いを、その一滴でも絞り出せれば十分なのに。

 この喉は、その一滴すらも漏らすことを許してくれない。

 

 

 彼女は口を閉じてしまう。

 自分自身に酷く落胆したように。

 目も閉じてしまう。

 

 

 腕の中で、力なく項垂れてしまった彼女。

 彼は、自分の問いに懸命に答えようとしてくれた彼女のその態度だけでも満たされた気分になっていたが、これだけで満足してはいけないと自身の甘い心を律した。

 

 この世界で共に生きていこうと決めた相手。

 これからあらゆる時を、想いを共有していこうと決めた相手。

 愛の歌も、2人で紡いでこそ価値あるものだから。

 

 

 彼は自分の口を、豊富な髪の隙間から見え隠れする彼女の可愛らしい耳もとに近付ける。

 

「こう言ってくれたら、嬉しいな…」

 

 そして、彼女の耳に、2文字だけを囁いた。

 

 

 彼女の耳もとから顔を離す。

 

 彼女の答えを待つべく、彼女の顔を真っすぐに見つめた。

 

 彼女もまた、彼の顔をまっすぐに見つめる。

 

 

 その小さな鼻で、一度深呼吸をし。

 

 そして小さな口を少しだけ開いた。

 

 開いた口を、横に少しだけ引き延ばし。

 

 喉を鳴らし、唇の形を通して奏でられる彼女の声。

 

 

 

「…み…ぃ……」

 

 

 

 そして今度は開いた口を少しだけ前に突き出して。

 

 再び喉を鳴らし、唇の形を通して奏でられる、愛の歌。

 

 

 

「…と…ぅ……」

 

 

 

 

 彼女の唇。

 

 薄桃色の唇。

 

 

 

 その単語を呟くために、少しだけ前に突き出された唇。

 

 

 

 世界一短い愛の歌を結ぶために、無防備に隆起した唇。

 

 

 

 そんな世界一可愛らしい唇に向けて、彼もまた隆起させた自分の唇を前に出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三部 終了  アフター・シン・エヴァンゲリオン編に続く?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 



第三部終了です。この後最終章となる第四部へと続く予定なんですが、この時点でそれなりにうまくLRSエンドに収まったような気もするので、余計なことせずにこのまま終わりにしてもいいかなとも思ってます(第三部が終わった時点で第四部を書き終えてるはずだったんですがじぇんじぇん書けてない…)。ですので一旦「完結」扱いとしますが、もし再開したらその時はまたお付き合いして頂ければ幸いです。
まずは、ここまで読んで頂きまして、本当にありがとうございました。



 


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