TSアル中悪役令嬢は破滅を御所望です (激辛寝具)
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1章 少女は恋う
1 アル中は愛を知るか?


 乙女ゲーム。それは女主人公を操作して、イケメンたちとの恋愛を楽しむためのゲームである。

 そのため、舞台は恋愛をするにふさわしいものが用意されている。

 ロレナ・ウィンドミルは愛の塔と呼ばれる、王都で最も高い建物から地上を見渡した。

 

 ここ王都立学園には数々の施設がある。王都を見渡せる高さの塔。季節の花が咲き誇る広大な花畑。中心に噴水が置かれた、静かな語らいを楽しめる広場。様々なスポーツができる運動場。

 

 どれも愛を育むのを応援するために造られており、どの施設でも生徒たちがいちゃついている。

 それは、この世界が乙女ゲームの世界であり、王都立学園がゲームの舞台そのものだからなのだろう。

 

 見渡す限り、どの施設も妙にキラキラ輝いている。光を取り込みやすい構造になっているというのもあるが、それ以上に、学園の雰囲気のためにそう見えるのだろう。

 

 ほとんどの生徒はこの学園に希望を持って入学する。

 入学する際、生徒たちは必ず二人組に分けられ、学園に通う五年間で愛を育むこととなるのだ。

 

 世に蔓延る魔物を倒すことができるのは愛の力だけであるため、生徒は自分たちの愛で魔物を倒すのだと意気込んでいた。

 

 ゲーム本編では主人公と攻略対象が恋愛をし、それによって世界が救われる。

 ロレナ・ウィンドミルはそんなゲームの悪役令嬢だった。主人公のパートナーではあるものの、彼女に嫌がらせをしたり、搾取したり、危険なことに顔を突っ込んだりと、好感度の下がるイベントは枚挙にいとまがない。

 

 そうして好き放題した後、攻略対象の個別ルートに突入する前にロレナは魔物に殺されるのだ。それによって主人公は彼女から解放され、攻略対象との仲を深めることになるのだが、主人公の心にはロレナが残り続ける。

 

 自分がもっとしっかりしていたらロレナは死なずに済んだのではないか。

 どんなルートを通っても主人公にはそんな後悔が残るため、プレイヤーからロレナは嫌われている。

 ここにいるロレナ・ウィンドミルは、そんな好感度最悪の悪役令嬢に転生した、元日本人の中学生男児なのである。

 

 乙女ゲーム「鎮魂歌を君に」は、アニメ化や漫画化がされるほどの人気を博していたゲームである。それほどまでに人気だったのは、攻略対象たちに魅力があったことや描写が優れていたこともあるが、何よりも、主人公が魅力的であるためだろう。

 

 悪役令嬢に傷つけられたり、魔物との戦いでボロボロになったりしてもなお、攻略対象の少年たちと共に戦い続ける主人公の姿は多くの人々の心を打ったのだ。

 

 ロレナも前世では主人公に心を打たれた者の一人だった。友人に勧められて渋々始めたゲームだったが、いつしかストーリーや主人公に魅入られ、徹夜で遊んだものである。

 

 泣きながら、傷つきながら、それで前を向いても生きていく主人公は輝いて見えた。

 今のところこの世界ではロレナが守っているため、彼女が傷つく様を見たことはない。しかし、それでもきっと、彼女の輝きに曇りはない。物語で知っているのもあってか、彼女と接していると、世界はきっといい方向に進むと思わせられるのだ。

 

 だからロレナは安心して、彼女に全てを任せることができるのである。

 

「あのー、ロレナさん?」

 

 隣から声が聞こえる。羽のように柔らかいその声は、いつもとは少し違って聞こえた。

 

「こんなに晴れてますし、どこか出かけません? せっかくの休みなんですから」

 

 隣に目を向けると、美男美女揃いのこの世界でも上位に入る美人がそこにいた。太陽に近い場所にいるためか、潤沢な光によって銀色の髪が濡れたようにキラキラと輝いている。鮮血のように赤い瞳は少し困ったようにロレナを映しており、まだ幼さの残る端正な顔には不満げな色が滲んでいた。

 

「出かけるだけが休日ではありませんわ。こうしてゆっくりと学園で休んで明日への英気を養うというのもまた、趣があっていいでしょう?」

「それは否定しませんけど……でも……」

 

 彼女はミア・レックス。「鎮魂歌を君に」の主人公であり、ロレナのパートナーである。

 

「どうしましたの?」

 

 ミアは視線を右往左往させてから、睨むようにロレナを見た。

 

「こんな時くらいお酒飲むのやめてくださいよ!」

「それは無理ですわ」

 

 ロレナは酒瓶を片手に持ちながら言った。

 

「王国の肥沃な大地で伸び伸びと育った果実だけを贅沢に使ったフルーツワインはやはり素晴らしいですわね」

「なんでそんなに説明口調なんですか」

 

 ミアは眉を顰めた。

 

「レックスさんにもこのワインの良さを理解してもらおうと思いまして。どうです、飲みたくなりまして?」

 

 酒瓶を揺らしながらロレナは言う。残り少ないワインがちゃぷんと音を立て、甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 

「……ロレナさん、自分の歳言ってみてください」

「十二ですわね。今年で十三になりますわ。それが?」

「それが? じゃないです! 本来お酒は十八歳になんないと飲んじゃいけないんです! そんなに飲んでるとおっきくなれませんよ?」

 

 ミアは声を荒らげる。彼女のことだから、きっとロレナのことを思って怒ってくれているのだろう。残念ながら飲酒をやめたらロレナは生きるのが難しくなるため、やめられないのだが。

 

「ミアさん」

「な、なんですか急に名前なんて」

「私たち、出会ってもう二年になりますわね」

 

 ロレナは瓶を高く掲げた。黒い瓶の中で微かに揺れる深い色の液体が、太陽の光に照らされる。ワインは天からの恵みと誰かが言っていたが、こうして見ると、本当にその通りだと思えた。

 

「今や私たちは学園に不滅の愛を認められた巫女と術者。いわば一心同体と言っても差し支えありませんわ」

「そう、ですね……」

 

 ミアは懐かしむような表情を浮かべた。

 何があっても変わらない愛を持っていると学園に認められた二人組には、愛によって魔物を倒す役割が与えられることになっている。巫女はパートナーに愛を与え、術者はそれを力に変換して魔物を倒すのだ。一般的に、より愛が強い方が巫女となるといわれている。

 

 本編ではミアがロレナを強く愛して巫女となっていたのだが、この世界ではロレナが巫女であった。

 基本的に、巫女は愛を与える側であり、術者は愛を与えられる側である。つまり、ロレナは少なからずミアを愛しているということになるのだ。もっとも、巫女と術者が選ばれる基準は、実際は愛の深さだけではないのだが。

 

 巫女と術者は役割と同時に特権を与えられる。だからこそ、本来許されていない年齢でもロレナは酒を飲むことが許されているのだ。

 

「もし私が大きくなれなかったら、あなたが私を背負ってくれればいいんですわ。だって、あなたは私よりも大きいでしょう? だから、お酒飲んでも大丈夫ですわ」

 

 ロレナは背伸びをして彼女と視線を合わせる。ミアはふっと微笑んで、ロレナの肩に手を置いた。

 

「騙されませんからね。そういう話してませんから。お酒控えてください」

「あら、強かになりましたわね。一年前なら騙されてたのに」

「ロレナさんのことはたくさん見てきましたから、今更騙されませんよ」

 

 ミアはそう言って、流れるようにロレナから酒瓶を奪い取る。少し迷った様子で瓶を眺めてから、ミアはワインの残りを一気に呷った。

 

「うぇ。アルコール臭い」

「子供ですわね」

「私、ロレナさんより年上なんですけど……」

 

 ミアは柳眉を逆立てて舌を出した。その仕草が小動物じみていて、少し可愛らしく見えた。

 冗談めかしてミアのことを子供だと言ったが、実際はきっとロレナの方がよほど子供なのだろうと思う。

 二十数年生きているため、年齢自体は彼女よりも上なのだが、心は恐らく成長できていないままだ。大人になるつもりもないため、それでも別に構わないのだが。

 

「ね、ロレナさん」

 

 ミアは瓶を床に置いた。

 

「何かありました?」

 

 アルコールの染みた脳の上をなぞるように、透き通った声が頭の中に響いた。

 

「随分と抽象的な問いですわね」

「……それはそうかもなんですけど、だって、ロレナさん最近おかしいです。何か隠してません?」

 

 段々と酔いが回ってきたらしく、頭がふわふわしてくる。体の感覚が少し鈍くなって、ようやく息がまともにできるようになった気がした。

 

「一心同体、なんですよね? 私たち……」

 

 ミアはロレナに迫った。柑橘類のような爽やかな匂いに、微かにアルコールのにおいが混ざる。彼女自身が果実酒であるかのように感じて、何だかおかしくなった。

 

「心配せずとも、隠し事なんてしていませんわ」

 

 巫女は必ず術者に嘘をついている。だが、巫女はそれを隠し通さなければならないのだ。術者の心を守るために。

 ロレナも例に漏れず術者である彼女に嘘をついているのだが、それを素直に白状するつもりはなかった。

 

「それよりお酒、どうでした?」

 

 ミアはそっぽを向いた。

 

「……味なんて、わかんなかったです」

「どうしてですの? ……あ、まさか」

 

 ロレナは彼女の顔を下から覗き込んだ。

 

「ふふ。私の味、改めて味わってみます?」

 

 ロレナは自分の唇に人差し指を置いた。

 

「え」

「冗談ですわ。私、あなたのことは愛してますけど、そういう愛じゃないもの」

 

 ロレナは微笑んだ。ミアは顔を赤くして、怒った様子でロレナを睨みつけた。

 

「やっぱり、まだまだですわね」

「う。からかわないでください!」

「私のことを知ったつもりになるのは百億万年早いですわ」

 

 彼女の唇に人差し指をくっつけてから、ロレナは扉の方に向かった。

 

「先に帰ってますわね。レックスさんは瓶の処理お願いしますわ」

 

 軽くスカートの裾を持ち上げて、ロレナは挨拶をした。それから、彼女に背を向けて歩き出す。

 出入り口の扉を開けた瞬間、心臓の奥から何かが這い出てくるような心地がした。

 

 

 

 

 愛は全てを解決する。

 それがこの世界で広く信じられている思想だった。

 魔物は人の憎しみから生まれるため、愛を持つことで魔物の発生を抑制し、さらに愛の力によって彼らを滅ぼす。そのためにこの思想が生まれたのだ。

 

 愛によって魔物が倒せることを知ったかつての人類は、愛を育むことを正義とし、世界に愛を広めようと試みた。

 そして、その試みは成功した。

 それ以前よりも人類は互いに深く愛を持つようになり、魔物は一時的に数を減らしていった。これにより、愛は万能であるという思想がさらに広まっていった。

 

 しかし、愛は同時に、憎しみを生み出すものでもあった。愛の広がりと共に憎しみも増え続け、いつしか魔物の数は愛の思想の発生以前より遥かに多くなってしまった。

 

 そうして疲弊した人類は魔物を倒せるほどの愛を持つことが難しくなっていったため、苦肉の策としてあるシステムが考え出された。

 

 それが巫女と術者システムである。

 簡単にいえばこれは愛を搾り取るシステムだ。

 

 人類は愛には限界があると知った。だから、人々を縛り付けることによって強い愛を無理やりに発生させて魔物を倒そうと考えたのである。

 

 巫女と術者システムは、一定の基準で巫女と術者を選び出し、術者に強い愛情を抱く巫女を他の誰でもない術者自身に痛めつけさせるシステムである。巫女にはこのシステムの真意が伝えられるが、術者にはそれが伝えられない。

 

 何も知らず、人類のためと思いながら自分のパートナーを傷つけていたのだと知ってしまったら、術者の心は傷つく。

 術者の心を守れるのは巫女だけなのだ。だからどんな痛みにも耐えて、真実を心の中に仕舞い込んで術者のために戦い続けなければならない。巫女にそう思わせることで、無理に愛を絞り出させ、魔物を倒させる。それがこのシステムの目的なのである。

 

 魔物を倒すことができるのは自分たちだけであるという自負と、魔物を倒して人類の役に立てているという高揚感が術者を戦場へと駆り立てる。そして、巫女にもその自負と、術者を守りたいという心があるため、決して逃れられなくなる。術者に一度傷つけられてしまった時点で、巫女はもう後戻りできなくなるのだ。

 

 術者に全てを隠すことができるか、痛みにどれだけ耐えることができるかなど、巫女が選ばれるに当たって、愛情の深さ以外にも様々な基準が設けられている。

 

 魔物の脅威から人類を守るために造られたシステムであることには違いないが、個人的にはひどく悪辣だと思う。

 何も知らず、愛によって平和をもたらしたいと願って巫女と術者を目指す生徒たちは、どこまでいっても救われない。この世界を変えられるのは、限られた人間のみなのだから。

 

 心身共に疲れ果てた巫女は、大抵の場合学園を卒業することなく死んでいく。巫女と術者には特権が認められてはいるものの、それで巫女の心が救われるわけではない。

 

 愛は全てを解決するはずなのに、自分は幸せになれない。そう悟った巫女たちは、もはや生きてはいけなくなるのだ。

 だから自殺する巫女は多い。ロレナの知り合いにも、自殺してしまった者は少なからずいるのだ。

 

 ゲーム本編では、ミアはロレナ・ウィンドミルに愛を搾り取られるだけ搾り取られ、愛されないままいくつもの戦場を転々としていた。それでも気丈に振る舞い続けられていた彼女は、心が強かったのだろう。

 

 ロレナがもし転生者でなければ、巫女であることには耐えられなかっただろう。

 といっても、今も耐えられているとは言い難い。

 

 巫女として魔物と戦い続けている影響で、ロレナの体には日常的に痛みが走るようになっている。それに耐えるために、ロレナは酒で体の感覚を鈍らせているのだ。酒がなければ、今頃痛みで気が狂っていたことだろう。

 ロレナはまだ死ぬわけにはいかない。だから今は、必死に痛みに耐え続けるのである。

 

 

 

 

「おい、ロレナ・ウィンドミル」

 

 千鳥足で廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。振り返ると、不機嫌そうな顔をした少年が目に入った。

 

「あら、ヘクターさん」

 

 所作の一つ一つに精悍さが見える黒髪の少年は、猛禽類のように鋭い目でロレナを見つめている。

 彼はヘクター・グレイヴ。「鎮魂歌を君に」の攻略対象であり、この学園の術者の一人でもあった。

 本編では、彼は巫女であり双子の妹であるフィオネ・グレイヴを喪って失意の底に沈んでいたときにミアと出会い、彼女に惹かれていくこととなる。この世界ではフィオネはまだ生きているため、ヘクターは本編のように沈んだ様子を見せておらず、力強さを感じさせる顔つきをしている。

 

 ロレナが一番気に入っていた攻略対象はまた別の人物だが、ヘクターのことも決して嫌いではない。フィオネと関わることが何かと多いため、彼ともそれなりに交友がある。だから、彼が情に厚く、フィオネのことを大事に思っているということをロレナはよく知っていた。

 

「フィオネがお前を呼んでいたぞ。いつもの場所で待ってる、だとさ」

「あら、そうですか。伝えてくれてありがとうございます」

「……ああ」

 

 ヘクターは居心地悪そうに頬をかいた。

 

「なあ」

 

 黒い瞳が明後日の方を向く。話しづらいことを話そうとする時に目を逸らすのは、フィオネと同じだった。

 

「あいつ、いつもお前と何話してんだ?」

「レディの秘事を詮索するのは男として失格もいいところですわよ?」

 

 ヘクターはロレナを真っ直ぐ見つめた。黒い瞳には、強い意志の光が感じられる。

 

「俺は男である前に、あいつの半身なんだよ」

「情熱的な台詞ですわね」

「茶化すなよ」

「茶化してなんていませんわ。感心しておりましたの」

 

 「鎮魂歌を君に」はミアが一番人気だったが、攻略対象たちも勿論人気だった。ヘクターも攻略対象の中では一位、二位を争うほどの人気があったはずだ。いざというときにこうして、大切な人に対する想いを率直に言えるところが、人気の所以なのかもしれない。

 

「お前が悪い奴じゃないってことはわかってる。お前と関わるようになって、あいつが元気になったことも、感謝してる。でもな……」

 

 ヘクターは一歩ロレナに近付いた。ロレナはアルコールのせいで今一つ頭が回らないまま、彼の一挙一動に目を向けた。

 

「俺はあいつの兄貴だから……できることなら俺が、あいつの心を守ってやりたいんだよ。もしあいつを元気付ける秘訣があるなら教えて欲しい」

 

 ロレナは目を瞑った。術者と巫女という関係になってしまった以上、もはや二人の距離が近付くことはない。システムが改善されない限りは。

 

 それを変えるのはミアの役割だ。悪役令嬢ロレナ・ウィンドミルのすべきことは、死によって彼女の物語を開始させることだけである。

 そしてそれが、ロレナの望みでもあった。

 

「それはできませんわ」

 

 ヘクターはムッとした。術者として戦場に駆り出されてはいるものの、彼もまだ十五歳の少年である。表情が顔に出やすいのも仕方がないのだろう。

 

 前世のロレナは彼よりもよほど感情が顔に出やすく、子どもらしい性格をしていた。そして、今もきっと、それは変わっていない。

 

 大人になったヘクターは、どのような人間になるのだろう。彼が大人になった時、隣にフィオネはいるのだろうか。ロレナはぼんやりと、そんなことを思った。

 

「なんでだよ」

「女同士でしか話せないことがあるからですわ」

 

 滑稽な台詞だと思う。女らしく振る舞うことに慣れた今でも、自意識までもが女になったとは思えない。少なくともフィオネとはそこそこに良好な仲を築けているとは思うのだが、彼女との奇妙な関係を女同士の関係と称していいのかは甚だ疑問である。

 

「俺が踏み入っちゃ駄目なのか。……俺たちは、術者と巫女なのに」

 

 だからこそ駄目なのだとは、口が裂けても言えない。

 

「ええ。愛し合っているからといって、全てを知り合うのは無理ですわ」

 

 ヘクターは悔しそうに拳を握った。この様子を見ていると、本編でフィオネが死んだ時に、ミアと出会うまで沈み込んでいたことにも納得できる。彼は本当に、家族としてフィオネを愛しているのだろう。

 

「人には役割がありますわ。あなたにはあなたの、私には私の。だから安心して私に任せてくださいまし。あなたにしかできないことが、必ず他にあるのだから」

 

 ロレナはにこりと笑った。ヘクターは拳を開いて、目を瞬かせる。その顔は何かを考え込んでいるようだったが、先ほどまであった焦りのような色は多少薄れてきているようだった。

 

 先ほど摂取したアルコールが徐々に分解されて、酔いが覚めていくような感じがする。胸の奥底から痛みが這い上がってくるのを感じたが、ロレナは表情を崩さないように努めた。

 

「まあ、代わりになる人が見つかったら、私は喜んでこの役割を譲りますわ。だって、私は自分しかできないから仕方なく彼女に付き合っているだけだもの」

 

 ヘクターは少し驚いたような顔をしてから、呆れたように笑った。

 

「お前ってほんと、馬鹿だよな」

 

 ロレナは目を丸くした。

 

「悪ぶんなよ。自分しかできないからやるって時点で、お前は大概良い奴だろ」

 

 そう言って、ヘクターはロレナの頭を軽く叩いた。憎まれ口を叩いてみても、あまり効果はないようだった。良い奴という評価はふさわしくないと思うが、彼にはそう見えているのだろうか。だとしたら少し、気分が重くなる。

 

「フィオネのこと、頼むわ。多分あいつも、そんなお前だから心を許したんだろうしな」

 

 そのまま歩き去ろうとするヘクターの背中に、ロレナは声をかけた。

 

「レディの頭に軽々しく触らないでくださいまし」

「叩きやすい位置にあんのが悪い。……じゃ、またな」

「……はぁ。ごきげんよう、ヘクターさん」

 

 手をひらひらと振って、ヘクターは足早に去っていく。その背中を見送ってから、ロレナは歩き出した。

 いつもの場所というのは、保健室だ。彼女はきっといつもと同じベッドでロレナが来るのを待っているのだろう。急いだ方がいいと思い、ロレナは小走りになった。

 

 酔ったまま移動していると、世界が回転しているような錯覚をしてしまう。ロレナは徐々に頭が痛くなるのを感じながら、保健室に向かった。

 



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2 シーツ一枚分の世界

 学園の保健室には、消毒液の匂いは僅かにしか存在していなかった。この学園では、ほとんどの怪我が魔法医の魔法によって治療される。そのため、学園では医療品は補助程度にしか使われない。ロレナは治癒魔法の類いが効かないために普通の治療を受けざるを得ないのだが、他の生徒は違う。

 

 保健室には本来魔法医がいるはずだが、今はいないようだった。彼のことだからきっと気まぐれにどこかに出かけているのだろう。

 

 それよりも、今はフィオネのところへ行かなければならない。彼女はいつも、窓際から数えて二番目のベッドで待っている。

 

 ロレナはいつものように、並ぶベッドを一つ一つ数えるようにして、彼女がいるベッドに向かって歩く。生徒が多いのに加え、時に巫女のケアをしなければならない関係上、保健室のベッドの数は多い。

 

 今日は彼女のベッド以外は使われていないらしい。そのため、周りのカーテンが閉められたベッドは浮かび上がるように目立っていた。ロレナはゆっくりとカーテンをくぐり、半ば個室となったベッドの周りに立った。

 

 その瞬間、白い何かがベッドから飛び出してきて、ロレナを飲み込んだ。

 反射的に瞑っていた目を開けると、少女の顔が視界に広がる。

 

 長い睫毛。ヘクターと同じ色だが、彼よりも垂れ気味で優しげに見える目。すっと通った鼻梁。血色の少し悪い、柔らかな唇。それは、フィオネ・グレイヴの顔だった。

 

 薄いシーツの中に彼女と閉じ込められたロレナは、その息遣いを鮮明に感じていた。熱を帯びた吐息が首筋にかかり、くすぐったくなる。ここまで近いと、アルコール臭い呼気を感じ取られてしまいそうで、少し嫌だった。

 

 そんなロレナの気持ちとは裏腹に、彼女はもぞもぞと動いてロレナの胸に顔を埋めてくる。

 心臓の音を感じていると落ち着く。以前彼女はそう言っていた。

 

 ロレナは何も言わず、彼女の体に手を回し、とんとんと背中を叩いた。彼女が保健室にロレナを呼ぶ時は、痛みに耐えられない時か、こうして甘えたい時なのだ。今日はきっと後者なのだろうと思いつつ、念のために鎮痛魔法を彼女にかける。

 

 胸が熱く濡れていくのが、うっすらとわかる。彼女の体が微かに震えているのを、ロレナは指先から感じ取った。何があったのかはわからなかったが、ロレナは何も言わずに彼女の背中を優しく叩き続ける。

 

 時間が経つにつれ、シーツの中の世界に熱気が広がっていく。それでもなおこうしてくっついていると、暑さで溶けてしまいそうになる。

 だが、二人だけの世界に閉じ込められている今だけは、離れる気にもなれないようだった。

 

「今日ね」

 

 しばらく経って、フィオネが顔を上げた。濡れた黒い瞳が、暗闇の中で微かに輝いている。

 

「友達がいなくなっちゃった」

 

 震える声が耳朶を打った。

 

「部屋に行ったらね、死んじゃってたんだ」

 

 この世界ではありふれた悲劇である。ロレナも幾度となく、死に行く巫女を見送ってきた。

 

「心臓の音も、もうしなかったの。血だけがずっと流れてて、それで……」

「その人は、どんな人でした?」

 

 フィオネはロレナの背中をぎゅっと掴んだ。薄れていく酔いの中で、ロレナは微かな痛みを捉えた。システムによって与えられた痛みの中に消えてしまいそうなほど小さなその痛みを逃さないように、ロレナは背中に意識を集中させる。

 

「いい子、だったの。自分のことよりも人のことを考えて行動できる子だった。でも……」

 

 フィオネはさらにきつくロレナのことを抱きしめる。シーツの隙間から差し込んでくる光が、目に痛かった。二人だけの世界が、ほんの少し変化を見せる。

 

「私に何か、できたのかな。何かしてあげられてたら、もしかしたら……」

「フィオネさん」

 

 涙と共に流れ出した声を、ロレナはそっと止めた。

 

「私たちに守れるものは、そんなに多くありませんわ」

 

 黒い瞳がロレナを映している。その瞳に浮かぶ感情の色は、暗くてよくわからなかった。

 

「巫女になっても、守れるのはきっと自分と、限られた人だけ。それ以上を守ろうとしても、こぼれ落ちてしまう可能性が高い」

 

 フィオネは何も言わない。

 

「それでもきっと、あなたは誰かを想うことをやめられないのでしょう。だから、あなたに言うことは一つだけですわ」

 

 ロレナはじっと彼女の瞳を見つめた。

 

「誰よりも、まずは自分のことを大事にしなさい。自分を責めるんじゃなくてね」

 

 フィオネは少しの間固まっていたが、しばらくして、ロレナの胸にもう一度顔を埋めた。

 

「……うん」

 

 小さく呟かれたその言葉は、ひどく震えたものだった。

 ロレナはこうして日常的に巫女を甘えさせたり、彼女たちの痛みを和らげたりしている。それは自己満足に過ぎなかった。彼女たちが苦しんでいる様を見て、どうにも納得できないというか、放って置けない感じがするから、ロレナは行動しているのだ。

 

 根本から彼女たちを救えるのは、ミアだけだ。彼女はどのルートに入っても、巫女たちを救っている。だからロレナは、彼女の物語が始まるまでの繋ぎとなる存在でしかないのだ。

 

 ゲーム本編ではすでに死んでいるフィオネを助け、こうして関わり続けているのも、全ては自分がこの世界の状況に納得できないためである。

 

 とはいえ、ロレナは世界を変えるつもりはない。ロレナの目的は迅速かつ適切なタイミングで死ぬことだけだ。

 ロレナは自分がもはやまともに生きられないことをよく知っている。それは肉体的な問題もあるが、何よりも精神的な問題のために、ロレナは平穏に生きられなくなっているのだ。

 

「……やだなぁ。あの子のこと、これからは全部過去のこととして話さなきゃいけないの」

 

 艶やかな黒髪が、胸の中で揺れる。その動きをぼんやりと眺めた。シーツの闇と溶け合っていた髪は、差し込んだ光によって輪郭を取り戻している。

 

「もう誰も、いなくなって欲しくないのに」

「……いつか、誰も傷付かず、死なずに済む日がきますわ」

 

 その日を迎える前に、ロレナは確実にいなくなる。それだけはもう決まったことである。

 

「そんな日がきたら、私も……ロレナも、幸せになれるのかな」

「ええ、必ず」

「だったらいいなぁ」

 

 フィオネは消え入りそうな声で呟いて、ロレナの胸にぐりぐりと頭を押し付けてくる。ロレナは彼女の頭を撫でた。

 

「ごめんね。今はちょっとだけ、そうしてて」

 

 フィオネはそれだけ言うと、黙り込んで身動ぎ一つしなくなった。しばらくそうしていると、静かな寝息が聞こえてくる。どうやら、安心して眠ってしまったらしい。ロレナは彼女の髪の感触を確かめるように手を動かす。

 

 戻ってきた全身の痛みが背中の痛みを上書きして、髪を撫でている感触すらも失わせてしまいそうだった。

 まだ、掌の感触と熱は残っている。それに縋ろうとしている自分がひどく馬鹿らしく思えて、ロレナは笑った。

 

 

 

 

「おや、今日も来ていたのですか」

 

 どうやら、まどろみの中にいたらしい。シーツの中から抜け出してカーテンの外を見ると、見慣れた人物が目の前にいた。

 

 漂白されたように白い髪に、人形のように整った顔。すらりと伸びた長身は、見上げなければ顔が見えないほどである。

 

 ラウロ・ルイス。この学校に配属されている魔法医であり、攻略対象の一人である。彼は一部の界隈でカルト的人気を誇っていた人物だ。しかし、自分の快楽のためならば世界を引っ掻き回すのも厭わないという困った性質の持ち主だった。

 

 ロレナもゲームの登場人物としては嫌いではなかったのだが、実際に関わるとなると話が別である。今のロレナは少し、彼のことが苦手だった。

 

「昨日は確か、ディアスさんでしたか。今日はグレイヴさんとは……君も中々移り気なようだ」

 

 彼はそう言って、二つのカップを机に置いた。今日来ていたのを知らなかったような口ぶりだったのに、しっかり二人分のカップを用意しているところに、信用ならない性質が現れているように思える。彼と一緒にいると、全てを見透かされているように錯覚してしまうのだ。

 

「人聞きの悪いことを言わないでくださいまし。大体、移り気なんてあなたに言われたくないですわ」

 

 ロレナはカーテンの外に出た。一つの世界が終わったような感じがして、少し心許なくなる。ロレナは小さく息を吐いて、彼の方に歩いた。

 

「僕は移り気ではありませんよ。ただ、楽しそうな事物を見つけたら、徹底的にそれを解明して次に進むだけで」

「悪質ですわ」

 

 背もたれのない椅子に座ると、カップが差し出される。見れば、カップにはコーヒーが並々と注がれていた。鈍っていた嗅覚が、コーヒーの香りを鮮明に感じ取る。ロレナはカップに口をつけた。痛いほどの苦味が舌先に広がる。彼のいれるコーヒーは、いつもこうだった。

 

「ですが、今は君がいますからね。しばらくは退屈せずに済みそうですよ」

 

 彼は椅子に座って、灰色の瞳でロレナを見つめてくる。彼の目には、ロレナがモルモットか何かに見えているに違いない。ゲーム本編のラウロルートでも、ラウロはミアに惹かれながらも、彼女に色々と質の悪いちょっかいをかけていた。

 

 早いうちにミアに目をつけられても困るので、ロレナはしばしば彼と話をして、その興味を引くようにしている。

 

 しかし、最初に声をかけてきたのは彼だった。彼は何を感じたのか、興味ありげな様子で話しかけてきて、ロレナの内面を言い当ててみせたのである。考えてみれば、彼のことが苦手になったのはそれからなのかもしれない。

 

「君は本当に興味深い。君のような人物に会ったのは初めてですよ」

 

 彼は低い声で言う。生徒の間で密かに人気があるものの、ラウロの本性を知る者はいないはずだ。それを知ってもなお彼のことを好きでいられる人物など、ミアくらいのものだろう。

 少なくともロレナは、遠くから見ている分には構わないが、積極的に関係を深めたいとは思えなかった。

 

「君は自分の死を願いながら、誰かの死を止めている。死んだら誰かを傷つけると知りながら、それでも死を望んでいる。面白い人物です」

 

 物語の登場人物について語るかのように、彼は楽しげに言う。ロレナは眉を顰めた。ロレナが死にたがっていることは、彼以外誰も知らない。ラウロの性格からして、そう簡単にロレナの秘密を他者に暴露することはないだろうが、もし知られると厄介なことになってしまう。

 フィオネが眠っているからこのような話をしてきたのだろうが、ロレナはカーテンの向こうの様子が少し気になった。

 

「聞かせてくれませんか? 君が何を思って行動しているのか」

 

 死を望んでいることを見抜かれた時から、ロレナはこうして時々彼と問答をしている。しかし、ここまで踏み込まれたのは初めてである。何か心境の変化があったのかもしれないが、聞いても良いことはないだろうと思い、ロレナは疑問を心の奥に仕舞い込んだ。

 

「生きることに1パーセントでも未練があるなら生きるべきだと、私は思いますわ」

「だから死に行こうとしている人々を助けて回っていると?」

「ええ。もちろん私だって、完全に死にたいと思っている人までは、無理して生かそうとしないですわ」

 

 静かな寝息が、ロレナの呼吸と混ざる。ロレナは苦いコーヒーを少しずつ飲みながら、彼の様子を窺った。彼は玩具を与えられた子供のように顔を輝かせている。

 

 彼は問答することに意味を見出しているらしく、ロレナの内面など簡単に見透かすことができるだろうに、こうして問いを投げかけてくるのである。それがひどくいやらしいと思う。しかし、彼に目をつけられた時点で、問答から逃れることはできない。

 

 少なくともミアの物語が始まるまでは、彼女には関わらせたくないため、余計に逃げられないのだ。ラウロに目をつけられる時期が早ければ早いほど、碌でもないことが起こる確率も上がる。

 本編開始までに万が一のことがあっても困るため、今はラウロにある程度気を配っておく必要があるのだ。

 もしかするとこの考えすらも、見透かされているのかもしれないが。

 

「では、君は1パーセントも生きようと思っていないということですか?」

「ええ」

「それはなぜ?」

 

 灰色の瞳が奇妙な輝きを見せている。

 

「偶然が、人生にはあるからですわ」

「偶然?」

 

 全てを見透かされるような感覚は、やはり苦手である。兄と接している時も似たような感じがする時があるものの、ここまでではなかった。

 

 自身の心情を吐露しなければ、よくないことが起こるだろうと予測できてしまうため、余計にいやな感じがするのかもしれない。

 仕方がないこととはいえ、彼の興味を引き続けるのは中々骨が折れる。

 

「絶対に明日も生きていられるなんて言うことは、誰にもできないでしょう?」

「確かに、そうですね。人生に絶対はありません」

 

 彼は興味深そうに頷いた。

 

「私はそれに耐えられない。今日ある幸せが、明日突然奪われてしまったら。そう思うだけで、まともに生きられなくなる」

「だから死にたい、というわけですか」

「そうですわ。幸せを奪われたくないのなら、最初から幸せでなければいい。偶然で死にたくないのなら、自ら命を断てばいい。それだけですわ」

 

 言葉にすると、ひどく滑稽である。普通の人間は、こんなことを思って生きはしないだろう。あるいは立派な大人であれば、死の恐怖と正面から向かい合えるのかもしれない。

 

 だが、ロレナは前世で、若くして事故死したのだ。だから偶然に幸せを奪われる恐怖が身に染みているし、その恐怖と戦うこともできない。

 

 まだしたいことがあった。友人と話したいことも、親に聞いて欲しいことも、数え切れないほどにあった。しかし、全ては偶然による事故で奪われてしまった。特別なことなど何もないが、確かに幸せだった日常は二度と戻ってこないのだ。

 

 もし前世に戻ることができても、ロレナはもうかつてのようには生きられない。いつ再び事故が起こって、幸せが奪われるかわからないためである。

 

 奪われるのが怖いから、幸せにはなりたくない。偶然で全てがなくなるくらいなら、自分で終わらせたい。それがロレナの望みだった。ロレナの一番の望みは幸せになることだが、生きている限り、幸せを奪われる恐怖を感じ続けなければならないのだ。ならば、生きて幸せになることを諦め、死という幸福に向かうしかない。

 

 また生まれ変わることがあっても、何度だって自分で死ねばいいのだ。せめて自分の死に方くらい自分で決められなければ、何のために生まれてきたのかわからない。死に方を自分で選ぶことだけが、今のロレナに許された幸福実現の手段である。だからロレナは破滅を目指している。

 

 ロレナは死ねば満足できる。そして、ロレナが死ねばミアの物語が始まり、他の巫女も救われる。結果的には、誰も損しないのだ。

 

「それで誰かを傷つけるとしても、ですか」

「……ええ」

 

 ロレナが幸せになる術は、死ぬこと以外にはない。ロレナの死は一時的に誰かを傷つけ、悲しませるかもしれないが、それだけである。生きている限り、幸せになる余地はあるはずだ。ロレナのように救いようのない人間でなければ。

 

 生きている限り、ロレナは幸せにはなれない。だから、死ぬのは仕方がないことである。

 自分の幸せを最優先にしたいと願うのは、人として当たり前のことのはずだ。他の誰かを最優先にしてしまったら、それはもはや、自分の人生とはいえないだろう。

 

「君はやはり、おかしな人ですね」

 

 コーヒーを少し飲んでから、ラウロは言った。

 

「確かに、事故や死を恐れる心は多かれ少なかれあるでしょう」

 

 妙に楽しげな声だった。

 

「事故に遭った人なら、多少は恐怖が強くなるかもしれない。ですが、それは自害を切望するほどの恐怖にはならないはずです。……普通は」

 

 自分でも、馬鹿らしいとは思う。死んだとしても、転生することができたのだから、過去のことなど忘れて幸せを追求すればいい。そう思うことができればよかったのだが、ロレナには無理だった。

 

 幸せになろうとしたことはあったはずだ。しかし、満たされれば満たされるほど、それを失うのが怖くなった覚えがある。普通に生きようとしても、事故死したことを思い出して恐怖で身動きが取れなくなるのだ。

 もはやロレナは、普通には生きられなかった。

 

「君の恐怖には、実感がこもっているように見えます。それは、単に事故に遭っただけで生まれる実感ではない。そう、まるで、一度死んだことがあるかのような……」

 

 灰色の瞳は、怪しい輝きを保ったままロレナを映している。

 

「そんな非現実的な可能性について思わせられる。だから君は興味深い」

 

 人に好意を向けられると、通常は多かれ少なかれ嬉しくなるものだ。だが、彼から向けられる珍妙な好意は、心にいやなざわめきを生むのみである。ロレナは思わずため息をつきたくなった。

 

「結局、ルイス先生は全部見抜いてるんじゃないですの? 私の口からこんなことわざわざ言わせないでくださいまし」

 

 無駄な言葉である。彼が言われて止めるような人間なら、ロレナも苦労はさせられていない。

 

「答え合わせは大切ですよ。確認が取れなければ、推測は推測でしかないのだから」

「先生の推測は、単なる推測と呼ぶには正確すぎますわ」

「そう褒められると悪い気はしませんね」

「その慧眼をもっと人類のために活かしたらどうかしら」

 

 彼は少年のような笑みを見せた。

 

「ははは、変なことを言いますね。自分のあらゆる能力は自分のために使われるべきでしょう?」

 

 その言葉には、確かに同意できる。誰かのために生きても、結局は救われずに一人死んでいくのみなのだ。ロレナはこの世界でそれを痛感した。誰かを大切にするのは、自分を誰よりも大切にした後、余力があるときだけでいい。無理をしても、共倒れしてしまうだけなのだから。

 

「先生、生まれた世界を間違えたってよく言われません?」

「いいえ、言われたのはこれが初めてですよ」

 

 いつの間にか、カップのコーヒーは残り少なくなっていた。時計を見るが、さほど時間は経っていない。随分と長い間ここにいた気もするのだが。ロレナは机にカップを置いた。

 

「ですが……そうですね。機会があれば別世界に飛ぶ魔法を開発するのもいいかもしれません」

 

 ラウロが異世界に飛んで好き勝手に生きる様を、ロレナはありありと想像することができた。

 

「……ああ、そうだ。君の開発した鎮痛魔法。かなり役に立っていますよ。日常的な痛みがなくなって搾り取れる愛が減っている影響で、術者の力は多少弱くなったみたいですが」

 

 ラウロは当然のように、通常巫女にしか教えられない真実を知っている。

 ロレナは自分に治癒魔法が効かない代わりに、他者を癒す力に長けていた。

 

 巫女は魔物と戦う際に痛みを与えられ、日常に戻ってもロレナのようにその後遺症が出ることも多い。そのため、彼女たちの痛みを和らげようと、ロレナは鎮痛魔法を開発したのだった。

 

 戦場で鎮痛魔法を使うと、愛が効率的に絞り取れなくなり、術者の使える力が減ってしまう。そのため、使えるタイミングは日常に限られていた。

 

 本来であれば、こんな魔法を開発するよりも、巫女と術者システムそのものを改善する方法を考えた方がいいのだが。

 ロレナにできることは、可能な限り巫女たちが過ごしやすい環境を作り、ミアの物語が円滑に進むようにするだけである。ゲーム本編のミアのように多くのものを救えるとは思わないし、そうしようとも思えない。

 最も良いタイミングで死ぬまで、ロレナは自分のしたいことをするだけだ。それくらいは、許されるはずである。

 

「問題はありませんわ。彼女たちの戦績が悪くなってきたら、私が代わりに出撃するだけだもの」

 

 ロレナは巫女の代わりとして戦場に出ることが多い。それは別に、彼女たちのためではない。自分がそうしたいからである。

 

 ミアも一緒に出撃しているが、今のところ彼女には傷一つつけさせていない。彼女も乗り気であるとはいえ、自分の都合に巻き込んでいるのだから、その体は守らなければならないのだ。

 

「ふ……君が死んだときが楽しみですね。君に頼り切っていた人々は、一体どうなってしまうのか」

 

 そんな想像でよく笑えるな、と思う。それが彼だということはよく知っているため、今更苦言を呈すつもりもないが、少しもやもやする。

 

「それ、暗に私に死ぬなって言ってますの?」

「さあ。ですが、君は自分が死んでも大丈夫だと思っているのでしょう?」

 

 ロレナはにこりと笑った。

 

「自分が死んだ後のことなんて、どうでもいいですわ」

「そうですか。それにしては、君の目は希望を映しているように見えますが」

 

 彼の目に、ロレナの心はどれだけ見えているのだろう。ロレナは背筋が寒くなるのを感じた。

 

「私の希望は、死だけですわ」

 

 ロレナは立ち上がった。椅子が悲鳴のように、きい、と音を立てた。

 

「そろそろお暇させていただきますわ。フィオネさんが目覚めるまでに、変なことをしちゃ駄目ですわよ?」

 

 ラウロは苦笑した。彼がこんな表情を浮かべるのは珍しい。ロレナは少しだけ、してやったりという気分になった。

 

「君は僕のことを何だと思っているんですか」

「快楽主義者の変態」

「手厳しいですね。僕からすれば、君もかなりの変わり者ですが」

 

 ロレナは扉の方に向かった。彼の興味がロレナに向いているうちは、他者にちょっかいをかけることもないだろうから、安心してもいいだろう。彼は良くも悪くも、一つ興味のあるものを見つけると、それ以外見えなくなるのだ。

 

 興味を向けられている方はたまったものではないが、仕方がない。

 ロレナは自分のために生きて死のうとしている。だが、どうせ死ぬなら命はできる限り有効活用した方がいい。

 

 自分の体のこともほとんど気にしなくていいからこそ、ロレナは無茶をすることができているのだ。これから先も生きていくつもりならば、無理に他の巫女の仕事を奪って戦ったりはしなかったはずである。

 

 ラウロ曰く、ロレナは自害をしなかったとしても、そう長くは生きていられない体になっているらしい。どちらにしても死ぬつもりであるため、どれだけ体がボロボロになろうと構わないのだ。

 

 痛いのも苦しいのも嫌いだが、酒を飲んでいればそれも紛らわせられる。

 やりたい放題して死ねるなんて、ロレナは幸せ者である。

 そのはずなのだ。

 

「ロレナ」

 

 保健室を出る直前、後ろから声をかけられた。

 

「レックスさんにあまり過度な期待はしない方がいいと思いますよ」

 

 何でもない世間話をするような声色で発せられた言葉に、息が止まった。

 

「何のことか、わかりませんわ」

 

 平静を装ってそれだけ言うと、ロレナは保健室を後にした。背中にラウロの視線が突き刺さっているような感じがしたが、極力それを気にしないように努めた。

 

 扉を閉めると、ようやく息が正常にできるようになる。ロレナは深呼吸をした。あまり、死ぬまでに時間をかけすぎてはならない。彼の言葉を聞いて、そう確信した。

 

 ゲーム本編はミアが十五歳になるタイミングで始まる。彼女は今十四歳であり、後数ヶ月で誕生日を迎える。それまでに、時期を見計らって死ななければならないだろう。

 

 ロレナは自分が死んで幸せになれればそれでいい。しかし、どうせ死ぬキャラクターとしての役割を果たさなければならないのならば、より効果的なタイミングで死にたかった。ロレナは自分勝手に生きると決めているのだ。死ぬタイミングを考えるのも、その一環だった。

 

 これから先どうなっていくのかはわからないが、ロレナが幸せになれるのは確定である。そう考えて、ロレナは自分を安心させた。



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3 愛は赤い跡

 巫女としての仕事がある日の早朝、ロレナは学園内をいつも散歩している。

 今は夏であるため、日が昇る前でも暑いくらいだが、日本とは違って湿気があまりないので比較的過ごしやすい。

 

 とはいえ暑いことには変わりないため、ロレナは愛の広場と呼ばれる、噴水が設置されている広場に来ていた。この広場は噴水から水が飛んできており、いつも少し涼しいのだ。

 

 ロレナは清々しい気分になりながら、深呼吸した。それから酒瓶を取り出し、一気に酒を呷る。今日もワインは甘美である。

 

「ロレナさん!」

 

 その時、すぐ近くから声がした。声のした方に目を向けて、ロレナはすぐに後悔した。

 麻縄で縛られた少女がベンチに転がっていた。

 自分で縛ったのだろう。所々縛りが甘いものの、それにかえって興奮しているのか、少女は妙に顔を赤くしている。

 ロレナは他人の振りをしたくなったが、完全に目が合ってしまっているため、そういうわけにもいかなかった。

 

「……ハーミットさん、こんな時間に何を?」

「えへへ、自分を縛る練習をしてたんです!」

「えぇ……? どうしてですの?」

「痛くて気持ちいいからです!」

 

 アリア・ハーミットは「鎮魂歌を君に」の登場人物であり、ライバルキャラの一人である。そして、彼女はロレナの知り合いでもあった。

 

 パートナーであるライン・ベネットは攻略対象なのだが、アリアはライバルキャラらしくないのだ。

 何せ彼女は恋に恋している乙女というより、痛いことに恋している変人なのである。アリアは自分に痛みを与えてくれないラインにさほど好意を抱いていない。しかし、一応はパートナーということで、ミアとラインの前に立ち塞がるのだ。

 

 本編ではミアに痛みを与えてもらうために付き纏ったりしていたのを、ロレナはよく覚えていた。すでに死んでいるために越えるのが難しい壁として立ち塞がるライバルキャラだったフィオネとは毛色が違すぎて驚いたものだ。

 

 そして、こうして実際に関わっていると、ゲームをプレイしていた時以上に驚かされることが多い。いかにこの世界が変わっているとはいえ、アリアのような者はそうそういないはずだ。

 早朝から飲んだくれている子供も、滅多にいないのかもしれないが。

 

「えーっと、ロレナさん? もしよかったら、縛ってくれませんか? 痛めに」

 

 アリアは細かい注文をつけてくる。麺の茹で具合でもあるまいにと、ロレナは心の中で突っ込んだ。

 

「……今更ですが、そういうことを人に頼むのはどうかと思いますわ」

 

 アリアは首を傾げた。

 

「どうしてですか? 痛みは愛ですよ?」

 

 この世界では、愛と名のつく行為はほとんどが肯定される。とはいえ、流石に痛みは愛なのだから痛くしてくれと頼まれて、その通りに痛みを与えられる者はあまりいないはずだ。

 

 本気で痛みが愛だと思っているのか、欲求を満たすために、痛みを愛だということにしているのか。

 それはわからないが、痛みによって彼女が幸福になるということを、ロレナはよく知っていた。

 彼女はあまり満たされていないのだろう。だからロレナに縛ってくれと頼んできているのだ。

 

 ロレナはどうせそう遠くない未来に死ぬのだから、生きている間くらいは彼女の望みを叶えても問題はないはずだ。そう思い、ロレナは彼女の趣味に普段から付き合うようにしている。

 朝から縛られているところを見せつけられると、流石に目を逸らしたくなるのは確かであるが。

 

「……はぁ。もういいですわ。とりあえず、やってあげますからいったんほどきなさいな」

「はい!」

 

 ロレナは酒を飲みながら、彼女が縄を解くのを見守った。傍目には、酒を飲みながら縛られた少女を観察するロレナは果たしてどう見えるのだろう。考えていると、少し苦笑しそうになる。とはいえ、ロレナの評判が下がる分には、別に構わないのだが。

 

「できました! さあ、どうぞ!」

 

 彼女は笑顔を浮かべて、そっと縄を渡してくる。曇りのないその笑顔が、ロレナの目にはひどく奇妙なものに見えた。それはどうしてだろうと思いながら、ロレナはいつものように彼女の体に触れた。

 

「ん……」

 

 華奢な体からは、柔らかな弾力が伝わってくる。強く触れたら折れてしまいそうな四肢には、縄の跡がくっきりと残っていた。

 

 アリアは翡翠色の瞳で、ロレナのことをじっと見つめている。その瞳には確かに期待の色があった。ロレナは酒瓶を空にしてから、急激にぼんやりとし始めた頭で必死に体を動かした。

 

「今日はどんな縛り方にします?」

 

 こんなことをわざわざ聞く時点で、ロレナも普通とは程遠いのだと思う。

 

「全身をきつく縛ってくれたら何でもいいです!」

 

 無邪気な顔でアリアは言う。ロレナと同い年ではあるが、アリアは少し、他者より子どもっぽい。それに、彼女はどこかちぐはぐに見える瞬間があるのだ。ロレナも決して人のことは言えないが、それが気がかりではあった。

 

 ロレナは慣れた手つきで彼女を縛っていく。両腕と両脚にきつく縄を食い込ませ、多少の痛みが生じるようにして、最後に胴体にも縄を巻いていく。その後、彼女の体をベンチにそっと転がした。

 

 ロレナは何度も彼女を縛るうちに、どのような縛り方をすれば、どれだけの痛みが与えられるかを熟知してしまっていた。彼女に初めて縛ってくれと頼まれたときは、まさかこうなるとは想像もしなかったものである。

 

 巫女の痛みは和らげるようにしているのに、アリアに痛みを生じさせている自分が何だか妙に馬鹿馬鹿しく思えて、ロレナはため息をつきたくなった。これではまた、ラウロに笑われてしまうだろう。

 

 アリアの小さな体は、縛られていると余計に小さく見える。雪のように白い肌は、縄のせいで赤くなってしまっていた。頬が紅潮しているのは、興奮のためなのだろうが。

 

 ロレナは彼女の望みを叶えているだけなのだが、こうして彼女を見下ろしていると、自分が凄まじく悪いことをしているような気分になる。

 

「えへへ、ロレナさんの縛り方は痛くて、優しくて、大好きです」

 

 ロレナは微妙な心地になった。

 

「それ、喜んでいいんですの?」

「はい、褒めてます!」

「……そう」

 

 アリアは屈託のない笑顔を浮かべた。性癖は変態じみているのに、無垢にも見えるところが、彼女の歪なところなのかもしれない。

 

「そもそも、痛いのに優しいってどういうことなの?」

 

 夏の生暖かい風が、二人の間を吹き抜ける。風が肌を滑る感覚がひどく薄いのがわかる。どうやら、自分は泥酔しているらしい。ロレナは他人事のようにそう思った。

 

「それは、えっと……痛くて優しいんです。そういうものなんです」

 

 アリアは困ったように言う。よくわからなかったが、仕方がないと思い、ロレナは彼女の隣に座った。

 

「そんなにいいものですの? 縛られるのって」

「もちろんです。とっても気持ちいいです!」

 

 恍惚とした表情である。ロレナは小さく息を吐いて、自分の膝に彼女の頭を乗せた。

 

「痛いのは幸せなんです。わかりませんか?」

 

 澄んだ瞳が、真っ直ぐにロレナを見つめている。

 

「生憎ですが、そう思ったことはありませんわ」

「やっぱり、そうですよね」

 

 アリアは小さく呟いた。その表情は、先ほどとは微かに変化している。ロレナは彼女の頭をゆっくりと撫でた。

 

「自分の体はもっと大切にするべきだと思いますわよ?」

「痛くて気持ち良くなるのは、大切にするってことじゃないんですか?」

 

 アリアにとってはそうなのかもしれないと思う。それが正しいのか、間違っているのかは、ロレナには判断できなかった。

 

「痛いと、幸せなんです。痛くないと、駄目なんです」

「そう」

 

 ロレナはそれ以上何も言わず、彼女の頭を撫で続けた。

 

「……ロレナさんは、不思議な人です」

 

 不意に、彼女は眠そうな声で言った。

 

「お日様の匂いがして、優しくて、でもなんか、ちょっと変な感じ」

「変な感じってなんですの」

 

 幼い顔に、微かな笑みが浮かび上がる。ロレナは彼女の笑顔を初めて見たような錯覚をした。先ほどまでも、アリアはずっと笑っていたはずなのだが。

 

「よくわからないです。でも……えへへ。私、ロレナさんのこと好きです」

「こんな格好じゃなければ素直に喜べたのに」

 

 ロレナはわざとらしくため息をついた。彼女は困ったように笑いながら、心地良さそうに目を細めている。

 

「それと、私は優しくなんてないですわよ」

「ううん、優しいです。だって……」

 

 彼女は細くなった目で、ぼんやりとロレナを見つめる。

 

「私を縛ってくれたのは、あなたが初めてですから」

 

 風が水滴と共に、彼女の透き通った声を運んでくる。酔いの回りきった熱い体が冷やされて、鈍っていた鼓膜が正しく機能するようになったような感じがした。

 

 彼女が身動ぎする度に響く、獣の唸り声のような縄の音。すぐ近くから聞こえる、絶え間ない噴水の音。ずっと聞こえていたはずなのに気にも留めていなかった音に鼓膜が強く震えるのに合わせて、薄れていた人間性が元に戻っていくように感じた。

 それはきっと、意味のない感覚なのだが。

 

「ひどい褒め言葉もあったものですわね」

「駄目ですか?」

「駄目に決まってますわ」

「むぅ」

 

 彼女は唇を尖らせた。初めて縛ってくれた人だから好きというのは、彼女にとっては最上の褒め言葉なのかもしれない。だが、それを無邪気に喜ぶには、ロレナは汚れすぎているらしい。

 

「ですが、好きという言葉は素直に受け取っておきますわ」

「……そう、ですか」

 

 彼女は嬉しそうに、ぱっと表情を明るくさせた。

 

「なら、よかったです」

 

 アリアは間延びした声で言ってから、静かに目を閉じた。ふと顔を上げると、朝日が登り始めているのが見える。まだ早い時間だから、眠くなってしまったのだろう。ロレナは小さく欠伸をしてから、彼女の頭を抱き込むように背中を丸めた。

 

 泥酔しているためか、朝早いためか、ロレナはひどく眠くなり、そのまま目を閉じた。ぐるぐると頭が回るような感覚があったが、それでも確かな心地良さがあり、ロレナはそのまま意識を手放しそうになる。

 

「ロレナさん……」

 

 さらさらとした髪の感触が、全身に広がるような感じがする。眠りに落ちる直前に、アリアの声がひどく遠くから聞こえてきたような気がした。

 

 

 

 

 魔物の出現位置は不定だが、人間の憎しみから生まれるため、人が多くいる場所に生まれやすいといわれている。

 魔物を消滅させられるのは愛の力だけである。単なる武力で魔物を倒すのは不可能ではないのだが、愛の力以外で倒された魔物はすぐに復活してしまう。それも、倒された場所とは違うところで。だから、普通の人間は魔物を殺してはならないとされている。

 

 だが、魔物は国中に大量に発生するので、巫女だけでは対処が追いつかないのだ。そのため、一般人によって構成された軍が魔物を適度に攻撃し、人里に悪影響が及ばないようにしているのである。

 巫女は時に軍では戦うのが難しいほどの魔物の大群と戦ったり、弱った魔物を消滅させたりしている。

 

 今日のロレナたちに与えられた仕事は、軍では対処しきれない魔物と戦うことだった。

 王都から少し離れたこの町は、一ヶ月ほど前から魔物の侵攻に悩まされているようで、巫女の派遣を依頼していたのだ。

 

 巫女は基本的に使い捨てられているが、それでも人類にとって必要不可欠な存在である。よって、巫女と術者は厳しい基準で選ばれなければならない。

 

 政府に認可された学園以外では巫女と術者を選出することができないために、政府公認の学園を持たない町は自力で魔物を消滅させることができないのである。

 

 巫女からシステムの根幹が暴露された時点で、術者と巫女システムは破綻する。そのため、厳しい基準を設けざるを得ないのだろう。

 

 痛みを与えられれば与えられるほど、術者を愛さなければならない。術者を守れるのは自分だけなのだから、システムの全てを黙っていなければならない。世界を救うために、自分は我慢しなければならない。

 

 そういった思考回路を持つ人間以外に、巫女は務まらない。

 人間の心によって全てが決まるため、この世界はひどく不安定である。いつ全てが崩壊しても、おかしくはない。

 

「……美味しいお酒が飲みたいですわ」

 

 ロレナは小さく呟いた。

 

「ここらへん、水が綺麗なのでお酒も美味しいらしいですよ。温泉もあるらしいです」

 

 ミアが隣で言う。彼女の瞳は、目の前にある森を映していた。今回ロレナたちが対処するのは、この森の中にいる魔物たちだった。鬱蒼と茂る木々の中からは、異様な空気が感じられる。

 

「あら、そう。これは楽しみになってきましたわね」

「全部終わったら、一緒に温泉に入りませんか?」

 

 ミアはちらとロレナを見た。

 

「お酌してくれるならいいですわよ」

「……温泉でもお酒飲むんですか?」

「温泉の醍醐味と言ったらお酒でしょう」

「違うと思いますけど……」

 

 開戦のタイミングはロレナたちに任せられている。軍はすでに町へと引き返していた。軍と連携して戦う巫女は多いのだが、ロレナに関しては、ミアと二人だけで戦う方が効率がいいのだ。

 

 しかし、ミアはこの戦い方に不安を抱いているらしい。彼女はいつも戦場を前にすると、尻込みした様子を見せる。

 本編では勇ましく戦いに臨んでいたのだが、やはり、巫女ではなく術者となっているために、本編とは心境が違っているのだろう。術者は魔物を直接攻撃するために、狙われやすい。

 

 ミアへの攻撃は全てロレナが防御しているし、彼女を前線に出すことはほとんどないものの、魔物に狙われるかもしれないという恐怖は薄れないのだろう。ミアは接近戦をするタイプでもないので、余計に攻撃されることに恐怖を抱いているに違いない。

 

 考えてみれば、本編では接近して魔物を倒すタイプだったロレナについていきながら、巫女としての痛みに耐えていたために、魔物と対峙するのに慣れていたのだろう。だが、物語が始まれば嫌でも戦いに慣れるはずである。

 

「レックスさん」

 

 ロレナは彼女に声をかけながら、耳をそばだてた。今のところ、魔物の声は聞こえてきていない。それどころか、辺りからはほとんど何の音も聞こえてこない。静かに流れる風の音と、それに揺れて服が擦れる音。聞こえるのは、それくらいである。

 

「こういうところで話していると、不思議な感じがしますわね」

 

 ミアは小首を傾げた。赤い瞳がロレナの姿を映している。

 

「まるで、今この世界には私たちしかいないかのような」

 

 戦場にいると、聴覚がいつもより敏感になる。それでも今は、あまり音を感じ取れなかった。もしかすると、本当にこの瞬間だけは全世界から人が消えているのかもしれない、と思う。

 

 だとしたら、偶然による事故が起こる可能性もなくなっているのではないか。ロレナは少しだけ、そんなくだらないことを考えた。

 

「……そうですね」

 

 ミアはくるりとロレナの方に体を向けた。こうして向かい合っていると、互いの心臓の音すらも聞こえるのではないかと錯覚してしまう。

 

「もし皆がいなくなって私たち二人だけの世界になったら、ロレナさんはどうしますか?」

 

 無垢な瞳には、やはり不安の色が見える。そういえばと、ふと思う。本編ではミアはロレナを愛していたが、この世界ではどうなのだろう。ミアには愛が深いという設定があったはずだ。

 

 しかし、そんなミアではなくロレナが巫女になったということは、この世界において彼女はロレナを愛していないということになるのではないか。

 

 互いに不滅の愛を持っていること。それが学園の定めた巫女と術者になる条件だが、実際は術者が特別巫女を愛している必要はないのだ。巫女に深い愛があり、術者に愛の力を効率的に変換する才能があれば、魔物は倒せるのだから。

 

 少なくとも嫌われているということはないと思う。だが、愛されていないというのは好都合だろう。ロレナに愛を向けていない分、物語の攻略対象たちと早期に仲を深める余地があるということになる。

 

 今のところミアが特定の誰かと仲良くしているところは見たことがないものの、彼女ならば何があってもきっと、良い方向に世界を導くことができる。ロレナは今までの彼女を見て、そう確信していた。

 

 彼女は誰からも好かれる性格をしている。そして、困っている人を放って置けないような性質を持っていた。だからこそ、本編では世界の希望となっていたのだ。この世界においても、それは変わらないと思う。

 

「そうですわね……とりあえず、二人でお酒でも飲みますわ。それから、誰もいなくなった王都でダンスでもしたいですわね。きっと開放感があって楽しいですわ」

 

 ミアはくすりと笑った。その顔に滲んでいた不安は、少しずつ薄れてきている。

 

「ロレナさんらしいです。私もお酒を飲むのは確定なんですね」

「二人きりになったのなら、相互理解を深めるのは当然でしょう?」

「ふふ……確かに、そうですね。じゃあ、その時はロレナさんも、私のしたいこと叶えてくれるんですよね?」

「もちろんですわ。レックスさんは何をお望みでして?」

 

 現実的に考えてありえない可能性について話すのは、いつだって楽しいものなのだろう。ロレナも前世では、魔法が使えたらどうするとか、ある日突然異世界に誘われたらどうするとか、そういった話を頻繁に友人たちとしていたものである。

 

 こんな世界でも、子供が好む話はきっと日本とそう変わらないのだろう。そう思うと、なぜだか妙に胸が苦しくなる。

 

 ミアは調子を取り戻してきた様子で、楽しそうに笑っている。その笑顔をどこか遠いものだと感じながら、ロレナは微笑んでみせた。

 

「お話を聞きたいです」

 

 ミアの声は、どこまでも澄んでいた。

 

「これまでのロレナさんのお話。これからのロレナさんの望み。全部、聞かせて欲しいです」

 

 ロレナは少し呆れた。彼女のしたいことは、世界に二人きりにならずともできることである。ロレナのように欲深くないのは彼女の長所であり、魅力でもあるのだが、子供なのだからもっと壮大で馬鹿馬鹿しいことを言ってほしいとも思う。

 

「それ、何か違いますわ」

「え、何がですか?」

「もっとこう……あるでしょう! バーの酒瓶を片っ端から空にして回りたいとか、図書館の本棚でドミノ倒ししたいとか、色々!」

「ドミ……? えー……」

 

 ミアは不服そうな顔をした。ロレナは彼女の額を小突く。

 

「そんな顔しても駄目ですわ。だってそれ、今だってできるでしょう?」

 

 ミアはロレナの手を掴んで、寂しげな表情を浮かべた。

 

「できないですよ。ロレナさん、昔のこと全然話してくれないじゃないですか」

「……む」

 

 確かに、ミアに自分の過去について話したことはない。だが、ロレナについて聞きたいというのが二人きりの世界になった後の望みだとしたら、彼女はあまりにも欲がなさすぎる。

 

「そんなに価値のある話でもありませんわよ」

「それはロレナさんが決めることじゃないです」

「えぇ……? 私の話なのに……?」

 

 ロレナは別に、大層な人生を送ってきたわけではない。学園に入るまでは、ほとんどの時間を実家の屋敷で過ごしてきたのだから。

 

 それに、ロレナはどうせ死ぬのだから、過去についてミアに話す必要もないと思う。だが、一応は一心同体とされているパートナーなのだから、ロレナについて聞きたいと思うのは当然のことなのかもしれない。

 

 ミアにはできる限り攻略対象と仲良くなってもらいたいため、ロレナに時間を費やして欲しくはない。

 しかし、本格的に攻略対象たちと仲を深めるのは彼女が十五歳になった後であるため、問題はないのかもしれない。この世界のミアはロレナをさほど愛していないのだから、余計に。

 

 ならば、ロレナのくだらない過去くらい、話してもいいのかもしれない。その話に彼女が退屈して、失望してくれたらありがたいとは思う。しかし、そもそも昔のことはあまりよく思い出せなかった。

 

 本来ならばミアには嫌われておくべきなのだが、巫女になってしまっている以上、本編のロレナのようにミアに嫌がらせをしても白々しいだけである。飲んだくれているところを見て嫌いになってくれればよかったのだが、彼女は想像以上に懐が広く、嫌うどころかロレナを心配している様子なのだ。

 

 結局人間関係については、色々とうまくいっていないかもしれない。それでも時が来たら、何があっても死ぬつもりではいるのだが。

 

「まあ、ロレナ様教えてくださいお願いしますというのなら、考えなくはないですわ」

「ロレナ様教えてくださいお願いします」

「そこまでして知りたいんですの!?」

「もちろんです!」

 

 ミアはロレナの手をぎゅっと握った。そういえば、彼女はかなり押しが強い人物だったな、と思う。

 

「機会があれば、お話しますわ」

「約束ですからね」

 

 ミアはそう言って、ロレナの手を離した。それから、再び森に目を向ける。

 

「……そろそろ始めなきゃ、ですね」

 

 ミアが呟いた時、辺りに轟音が反響した。見れば、森とは別方向にある平原で、巨大な火柱が上がっていた。ロレナたちとは別の術者と巫女が戦い始めたらしい。愛の力は術者の素質によって形を変える。彼は愛の力を炎に変換するのだ。愛の力は環境に影響を及ぼさないが、彼らは森での戦いには向いていない。だからロレナたちが森の担当となったのだ。

 

 ロレナは跪いている巫女に目を向けた。

 その姿は、神に祈りを捧げているようにも見える。そう見えるから、巫女と呼ばれているのかもしれないと思う。

 

 人類を救うことができる術者を神だとするのなら、彼らを支えている巫女は確かに神に仕えているといえるのかもしれない。しかし、彼らの力は巫女に与えられたものである。そして、巫女は別に祈りを捧げているわけでなく、ただ痛みに喘いでいるだけなのだ。

 

 巫女は誰に見られているかによって、その有り様が変わる。それがひどく不思議なことに思えた。ロレナは少し、胸が痛むのを感じた。

 



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4 ぐるぐる回って愛に迷う

「あー、テステス。レックスさん、聞こえまして?」

「はい。いつも通り感度良好です」

 

 魔法越しに、ミアの声が聞こえてくる。

 ロレナは今、森に侵入していた。ロレナが魔物に突撃し、ミアが遠距離から射撃するというのが、ロレナたちの戦い方であった。本編開始前にミアに万が一のことがあっても困るし、彼女は遠距離射撃が得意であるために、こういう戦い方になったのである。

 

 魔法によってロレナは自身の周りの景色をミアに共有し、魔物を見つけ次第ミアが遠くから愛の力を撃ち出すのだ。

 ロレナは風魔法の応用で、辺りの音や匂いを集めて魔物を発見している。他者がいると匂いが混ざって索敵がしづらいので、ロレナはいつも一人で戦場を駆けているのだ。

 

 数年前自殺ついでに行った自己改造により、ロレナは防御魔法と治癒魔法が普通の人間よりも得意になっている。防御魔法が破られることはあまりないため、単身で魔物のところに行っても、深い傷を負うことはほとんどなかった。

 

 しかし、自己改造の影響によって治癒魔法の類が一切効かなくなってしまっているため、重傷を負ったらそのまま死に至る可能性が高い。だから油断をしてはならない。時が来るまでは、ロレナは死ねないのだ。

 

 死ぬのに最適なタイミングというのは、滅多に見つからないものである。自身が自殺志願者だと知られることなく、それなりの激戦を演じた後に死ぬというのは中々難しい。

 

 今のところ、ロレナがやられるほどの強敵が現れないため、わざとらしく死ぬことはできなかった。

 だが、生きている時間が長くなればなるほど事故が怖くなるため、ロレナはできる限り早く死ななければならなかった。生きていると、ふとした瞬間に恐怖に襲われるのだ。そこから逃れるためには、死ぬしかない。

 

 しばらく歩いた後、ロレナはぴたりと止まった。すぐ近くの茂みから、魔物の臭いを感じる。彼らはロレナを警戒しているらしく、息を潜めていた。

 

「レックスさん」

「了解です、ロレナさん」

 

 ロレナはどの程度魔物との距離が離れているかを手振りで示した。

 その瞬間、全身の毛細血管を蛆虫に食い千切られているかのような痛みが走った。これが、戦闘時に愛を搾り取るための魔法による痛みである。これを感じる度に、ロレナはミアへの想いを絞り出している。

 

 楽しかった記憶。彼女との思い出。彼女の好きなところ。それらについて考えて、彼女の使える力が増えるように努めるのだ。

 日常的な痛みはともかく、戦闘時だけは、痛みを忘れてはならない。真実の愛を持つ巫女は痛みを与えられなくても莫大な愛を術者に届けることができるらしいが、ロレナにそれができる自信はなかった。だからこの時だけは、痛みを酒で消すこともできない。

 

 巫女は痛みに耐えなければならない。

 自身の心に向き合い、術者に深い愛を与えるために、戦う時に巫女は跪くのだとされている。そのため、巫女が痛みに苦しんでいるのだと他者に悟られることはないのだ。しかし、万が一にでも悟られてしまったらまずいため、気をつけなければならない。

 

 本編が始まればミアも巫女となり、この痛みに苛まれることになるのだろう。だが、そうだとしても、今ロレナについて知られてしまうと、厄介なことになる。

 

 彼女は困っている人を助けずにはいられない性格をしている。だから、真実を知ったら巫女であるロレナを助けようとするに違いない。そうなれば、下手するとロレナの死が彼女にとってより意味を持つものになってしまうかもしれない。

 

 多少仲の良い友人が死んでしまった。ロレナの死は、その程度で済まされるべきなのだ。間違っても本編のように、愛した人を守れなかったなどという思いは抱かせてはならない。

 

 必死に耐えていると、いつの間にか魔物が光に焼かれて消えていた。

 愛の力は魔物にしか効果を及ぼさないため、光線が通った後も木々は傷一つない様子であった。残ったのは、何事もなかったかのように揺れる木々と、魔物の気配が消えた茂みのみである。

 

 まるで、最初から彼らの存在などなかったかのようである。自分も彼らのように消えられたら。ロレナはふと、そう思った。

 

「お見事ですわ」

 

 ロレナは意識を切り替えて、軽く手を叩いた。

 

「はい」

 

 深く息を吐いてから、ロレナは魔物の気配のする方に歩き出した。風を集めて臭いを探ると、かなりの数の魔物が潜んでいることがわかった。多少は傷つきそうだが、問題はないだろう。

 

「……あの、ロレナさん」

 

 あらゆる音が遠い。下草と靴が擦れる音も、どこかで反響している魔物の鳴き声も、自分の息遣いすらも、厚い壁を隔てた向こう側から聞こえてきているかのようだった。そんな中で、ミアの透き通った声が鮮明に耳朶を打つ。食い破られた鼓膜が、必死になって彼女の声をかき集めているらしい。

 

「私、ちゃんと役に立ててます?」

 

 ミアは不安げに言う。何度も一緒に戦ってきたが、このようなことを聞かれるのは初めてだった。

 

「どうしたんですの、いきなり」

「だって……いつも私、安全なところで攻撃してるだけじゃないですか」

 

 痛みが止まらない。ミアの声が、全身に響く。彼女は本編で、よくこの痛みに耐えられていたな、と思う。何度経験しても、油断すると気が狂ってしまいそうなほどの苦しさである。それでも呼吸を乱すことはできない。

 

「馬鹿ね」

「え」

 

 いつも通りの声を出すことを心がけてはいるが、果たして彼女の耳には、ロレナの声がどう響いているのだろう。

 

「戦場に安全などありませんわ。だからあなたには防御魔法をかけているんだもの」

「それは、そうかもですけど……」

「あなたが攻撃を担当してくれるからこそ、私は索敵に集中できるんですわ。誇ってもよろしくてよ?」

 

 ロレナは巫女たちが傷つき、死んでいくのを黙って見過ごすのが嫌であるため、彼女たちの仕事を何度も肩代わりしている。今日も限界が近い巫女に代わってこの戦場に来たのだ。

 

 だが、戦う回数が増えるほど、ミアが傷つく可能性も高くなる。自分勝手に生きるとは決めているものの、彼女がもし死んでしまったら巫女たちも救われずに終わってしまう。そうなったら本末転倒である。

 

 だからロレナはミアを危険から一番遠い場所に置いているのだ。それでも彼女は時折魔物に襲われることがある。そのため、油断はできない。

 

「私はあなたの手足となり、あなたは私の力となる。それが一心同体というものでしょう?」

「そう、なんでしょうか……」

 

 もし本編の情報を知らなかったとしても、きっとロレナは戦い方を変えなかっただろう。彼女には、やはりできる限り傷ついて欲しくないものである。

 たとえ、最後には彼女の心を少なからず傷つけることになるのだとしても。

 

「こういうのは適材適所ですから、無理はしないでいいんですわ。……それに。あなたは今のままでも十分、私にとって重要な存在だもの」

 

 色々な意味で、彼女は重要な存在である。

 ミアのことをどんな意味で愛しているのか、ロレナにはよくわからない。そもそも彼女に抱いているものが愛なのかすら判然としなかった。何分心が幼いままであるため、愛やら恋やらについては論じることができないのだ。

 

 しかし、ミアのことを好ましく思っているのは確かだった。彼女と一緒にいると、なぜだかひどく安心するのだ。彼女の笑顔には何か特殊な魔力でもあるらしく、見ていると心が和む。

 

 物語のように大きな事件を解決しているところは見たことがないが、日常的な一面から、ロレナは彼女の魅力を感じ取っていた。特別なことなどなくても、友人として好きになることはあるものだ。

 

 他者の悩み事を解決するために奔走したり、ロレナの我が儘に付き合ってくれたり、魔物に襲われる人々のことを心から思いやったりするところから、彼女の優しさを知った。できればその優しさで、これから巫女たちのことを導いて欲しいと思う。

 

「ロレナさん、私……」

 

 彼女が何かを言いかけた時、木の上に潜んでいたらしい魔物が四方八方から飛び出してくる。どうやら、お喋りの時間はもう終わりのようだ。ロレナは体勢を低くして、魔物たちから距離を取る。

 

 数は多いものの、問題はない。いつも通り対処すれば、すぐに終わるだろう。ロレナは深呼吸をしてから、痛みで壊れかけの体を懸命に動かした。

 

 

 

 

「はい、これで治療は終了ですわ。傷は塞ぎましたが、無茶したらぱっくりですから、ちゃんと安静にするように」

「あ、ああ……ありがとう嬢ちゃん」

 

 森の魔物を殲滅した後、ロレナは町に戻った軍人たちの治療をして回っていた。彼らは皆多かれ少なかれ傷ついており、中にはすぐに治療しなければ死んでしまうほどの傷を負ったものもいた。

 

 この町にも治癒魔法の使い手はいるものの、魔力も無限ではないため、治療できる人数には限りがある。ロレナは治癒魔法に優れているため、中隊程度の人数なら一気に治療することができた。

 とはいえ、ロレナも今日の戦いで少し傷ついたため、一度休むべきだろう。そう思った時、胸に衝撃が走った。

 

「ロレナ!」

 

 聞き慣れてはいるが、いつもとは調子の違う声が辺りに響く。ロレナはたたらを踏みながら、勢いよく抱きついてきたその人物を受け止めた。

 

「フィオネさん。危ないからゆっくり来てくださいませ」

「それは無理」

「えぇ……?」

「……ロレナの姿が見えたら、こう、ぶわーってなっちゃって」

 

 フィオネはきつくロレナを抱きしめる。ロレナは微かに痛みを感じながら、彼女の頭を撫でた。

 

「もう、仕方ありませんわね。私は逃げませんから、落ち着いてください」

「……うん」

 

 フィオネの気持ちはよくわかる。耐えるのがやっとなほどの痛みに苛まれた後は、人肌が恋しくなるものだ。自分から誰かに抱きつくことはできなかったが、ロレナもまた、誰かの体温を感じて安心したかった。

 

 未だに痛みは続いているが、フィオネの熱を感じていると、少しだけ安心する。ロレナはなぜだか泣きそうな心地がしたが、唇を噛んでそれに耐えた。感情を曝け出してしまったら、元に戻れなくなるような気がしたのだ。

 

「ロレナ。ロレナ、ロレナ、ロレナぁ……」

 

 首元に鼻を押し付けながら、フィオネは絞り出す。彼女の声は、今にも泣き出してしまいそうなものだった。湿った声が、首筋に叩きつけられる。その感触が、ひどく悲しいものに思えた。

 

 フィオネが泣いてしまったら、ロレナも耐えられないかもしれないと思う。

 

 考えてみれば、戦った後にこうして誰かと抱き合うのは初めてだ。だからこんなにも、奇妙な気分になっているのだろうか。なぜ自分が泣きそうになっているのかは、わからなかった。痛みには未だ慣れていないが、それでも、泣くほどではないというのに。

 

「大丈夫ですわ。大丈夫……」

 

 何がとは、言えなかった。それは自分に言い聞かせている言葉なのかもしれない、と思う。

 

「ロレナ、あったかい。安心する」

 

 子供のように、彼女は言う。

 

「フィオネさんも、あったかいですわ」

「ん……安心する?」

「ええ、とても」

「よかった」

 

 奇異の視線が向けられているのを感じる。フィオネはそれを感じていないのか、無我夢中でロレナに抱きついていた。ロレナは壊れ物に触れるように、彼女の背中に手を回した。密着する範囲が増えると、それだけ彼女の熱を強く感じるようになる。自分らしくないと思ったが、離れることはできそうになかった。

 

「……ロレナさん」

 

 その時、すぐ近くから声をかけられる。見れば、そこにはミアとヘクターが立っていた。ミアは無表情に、ヘクターは呆れたようにロレナたちを見ている。

 

「あー……無事を喜び合うのはいいけどよ、場所は考えようぜ」

 

 ヘクターは軽い調子で言う。平原の方を担当していた彼は、魔物によって少し傷つけられている。

 

「ヘクター君、傷ついてるみたいです。治療してあげてくれませんか?」

「あ、おい! こんくらいなんてことねえって!」

 

 ロレナはフィオネの背中を叩いた。

 

「フィオネさん」

「……ん」

 

 フィオネはロレナを解放して、ヘクターの方を向いた。

 

「ヘクター、ごめんね」

 

 フィオネは小さな声で言った。

 

「何で謝るんだよ。別にお前のせいじゃないだろ?」

「そうじゃなくて……ううん、やっぱり、いい」

 

 ロレナは居心地が悪そうにしているヘクターの方に行き、その体に治癒魔法をかけた。淡い白の光が彼の体を包み、やがて雪のように溶けて消えていく。それを見送ると、彼の体は傷一つなくなっていた。

 

「……ありがとよ」

「どういたしまして。素直にお礼を言えるのはあなたの長所ですわよ?」

「お前は何目線で言ってんだよ」

「お友達目線ですわ」

「……そうかよ」

 

 ヘクターは不器用な少年である。俺様系のように見えて素直なところがあったり、実は可愛いものが好きだったりと、何となく面白い人物である。何よりも、ラウロと違って接しているときに背筋が寒くならないのがありがたい。

 

「お友達目線ついでに、一つ。こういう場所では、どんな怪我でも放って置かない方がいいですわ。いつ何が起こるかわからないもの」

 

 ヘクターは眉を顰めた。

 

「それ、そっくりそのままお前に返すぞ。お前も他人を気にするより先に、自分の怪我を治せよ」

「生憎、私には治癒魔法が効かないんですわ」

「……何? そんなこと、ありえるのか?」

 

 前に、ラウロにも似たようなことを言われた覚えがある。様々な研究している彼から見ても、ロレナの体は不可思議なものらしい。詳しく調べさせたことはないが、特定の魔法が効かない体質というのは、普通はありえないとのことだった。

 死んだら体を解剖されそうではあるが、死した後のことは好きにすればいい、とは思う。

 

「それがありえるから、今ここに私がいるんですわ」

「胸を張って言うことか、それ」

 

 ヘクターは心底呆れた様子で言う。ロレナは笑った。

 

「ま、お言葉通り後でちゃんと治療しますわ。宿に行ってから」

「あのなぁ……」

「駄目ですよ、ロレナさん」

 

 ミアの目が、瞬くことなくロレナを見つめている。

 

「自分のことは大切にしないと」

「あら、私よりも自分を大切にしている方なんて、そうそういませんわよ?」

 

 いるとしたら、ラウロくらいのものだろう。愛が尊ばれるこの世界では、自分よりも誰かを愛することの方が重要視されているのだ。だからこそ、巫女などという存在が生まれるのである。

 

「本当ですか?」

 

 赤い瞳は試すようにロレナを映している。その瞳に宿る透明な光が、妙に眩しかった。

 

「ええ。レックスさんにも見習って欲しいくらいにね」

「見習って、いいんですか?」

 

 ミアは無表情のまま言う。表情が変わりやすい彼女にしては珍しいと思いながら、ロレナは頷いた。

 

「もちろん。私の全てを見習って、私のように素晴らしい人間になるといいですわ!」

 

 ロレナはにやりと笑いながら言った。

 

「ああいうのをナルシストって言うのか?」

「ロレナらしいって言うんじゃないかな」

「それもそうか」

 

 フィオネとヘクターは顔を見合わせた。ロレナはそれを尻目に、胸を張ってみせた。

 

「こんな世の中ですもの。自分を愛し、自分を大切にし、自信は胸から溢れさせるくらいでちょうどいいのですわ」

「……ふふ、そうかもですね」

 

 ミアは微笑んだ。それを見ていると、少しだけ安心する。だが、それも断続的な痛みによってかき消されて、感じられなくなってしまった。

 

「とりあえず、宿に行きますわよ。立ち話も何ですもの」

「はい!」

 

 ミアはロレナの手を握って歩き出した。その歩調はいつもより軽い。ロレナはそれに合わせながら、ミアの手を軽く握り返した。

 

「ちょっ……いきなり速いですわ!」

「ロレナさんを見習ってますので!」

「私そんな感じのイメージですの!? 歩調くらい合わせますわよ!」

「知りません!」

 

 柔らかな手の感触が、痛みの間を縫って伝わってくる。その感触が一番痛いような気がして、ロレナはそっと目を伏せた。

 

 

 

 

「酒ですわ!」

「……温泉ですけど」

「風呂酒ですわ!」

「お礼でお酒いっぱいもらったもんねー。私もちょっと飲んでいい?」

「もちろんですわ!」

 

 ロレナたちは宿に備え付けられた温泉に来ていた。魔物を倒した後は、大抵の場合大事をとって一泊することにしている。疲れた状態で王都に帰るのも危険だし、何より新たな魔物がその町に生まれる可能性もある。本来であれば数日は泊まるべきなのだろうが、学園内の巫女たちの様子も気になるため、長居はできなかった。

 

「早速お酒ですわ! アルコールが私を求めていますわ!」

「ロレナがアルコールを求めてるんでしょ。ちゃんと体洗ってからじゃないと駄目だって」

 

 フィオネはそう言って、椅子にロレナを座らせた。

 

「こういうところは子供っぽいよねー、ロレナって」

「私はまだ子供だからいいんですわ」

「ロレナさん、この前私のこと子供扱いしてましたよね……」

 

 ミアは隣の椅子に座りながら言う。

 

「子供が子供を子供扱いしちゃいけないというルールはありませんわ」

「……なんかずるいです。私もロレナさんのこと子供扱いしていいですか?」

「駄目ですわ」

「えー……何でですか」

 

 ロレナは胸を張った。

 

「レックスさんに子供扱いされるのは業腹だからですわ」

「フィオネさんはいいのに……?」

「そういうものですわ」

「納得できない……」

 

 ミアは抗議するようにロレナを見つめる。

 

「冗談はこのくらいにしておいて、さっさと体を洗ってお酒を飲みますわよ。今日は宴会ですわ!」

「……あれ? ここに泊まったのって、魔物を警戒するためじゃ……」

 

 ミアは首を傾げた。

 

「それはそれ、これはこれですわ」

 

 森の方では軍人たちが哨戒している。彼らから敵襲の報告があり次第戦場に向かうことにはなっているが、ロレナはアルコールを我慢できそうになかった。今も、気を抜くと叫び出してしまいそうなほどの痛みに襲われているのだ。これを酒で抑えないと、すぐにでも死んでしまいそうだった。

 

 ロレナには鎮痛魔法が効かない。鎮痛剤も服用のしすぎであまり効果がなくなってきている。そのため、酒に頼るのが一番いいのだ。傍目には酒に溺れただらしのない人間にしか映らないというところが特にいい。

 

 ロレナは今年中に死ぬことを決めているため、評判を上げる必要がないのだ。むしろ、ロレナの評判が下がれば下がるほど好都合ではある。ロレナの死を悼む人間は少ない方がいい。

 わざわざ評判を下げずとも、そんな人間は片手の指で数えられる程度しかいないとは思うが。

 

「じゃ、頭は私が洗ってあげるね」

「感謝しますわ。後でフィオネさんの髪も洗って差し上げますわね」

「ん」

 

 タオルで体を洗いながら、彼女に頭を洗ってもらう。誰かに頭を洗ってもらうのは久しぶりだ。今世では使用人たちに洗ってもらう機会が多かったが、学園に入学してからは自分で洗うようにしていた。

 

「……思うんですけど」

 

 体を洗いながら、ミアは訝るようにフィオネとロレナを交互に見た。

 

「二人って、距離近くないですか?」

「そうかな?」

 

 フィオネは繊細な指遣いで、ロレナの長い髪を洗っていく。普段は二つに結んでいるため邪魔にならないのだが、解くと背中までかかってしまう。短く切った方がいいとは思うのだが、これまで伸ばしてきた髪を切るのももったいない気がして、何となく切れずにいるのである。

 

「そうです。絶対近いです」

「あはは、取ったりしないから安心してよ」

「私はものじゃないですわよ」

 

 息が苦しくなるのを感じる。巫女は戦い過ぎると後遺症による痛みが徐々に強くなっていくのだ。それに耐えられないのもあって、巫女の寿命は短い。

 

「ロレナさんは私の巫女、なんですよね?」

「レックスさんのというのは語弊がありますが、パートナーではありますわね」

「……だったら。私とも、近くなってください」

 

 フィオネは苦しみに耐えるために、ロレナを一時的な依存先としている。だが、いつか巫女と術者の関係が改善されれば、ロレナたちの歪な関係も解消される。彼女もそれはわかっているはずだ。だからこそ、ロレナもこの関係を受け入れている。

 

 時が来れば、フィオネもヘクターのパートナーとして、本当の意味で彼と絆を結ぶことができる。そして、その時にはロレナとの関係も新たな関係に上書きされて消えているだろうし、ミアの隣にも別のパートナーがいるだろう。

 

 そういうものである。依存関係は長続きしない。より安定する関係が築かれれば、心も正常に戻り、ロレナは過去のものとして忘れ去られるのである。だが、それまでは、ロレナはフィオネとの関係を続けるつもりだった。

 

 それは、彼女のためではない。寄る辺がないまま彼女が傷ついていく様を見ると気分が悪くなるから、自分のために彼女と関わっているのだ。

 

 生きることに少しでも希望があるのなら、生きるべきである。生きたいと願う者がいるのなら、できる範囲でその補助をしたい。それはロレナの勝手な願いの一つであった。

 

「そう言われましても……具体的には?」

「……髪。私のも、洗ってください」

「あら。かわいい要求ですのね」

「……かわいい、ですか」

 

 ミアは覗き込むように、ロレナを見つめてくる。

 

「私もロレナさんのこと、いつもかわいいって思ってますよ」

「このロレナ・ウィンドミルを捕まえてかわいいだなんて、変わり者ですわね」

「ロレナさんには言われたくないです」

「……それ、どういう意味ですの?」

 

 ミアとの距離をこれ以上近づけるつもりはなかった。それは、彼女が攻略対象といる時間を長くするためでもあるが、何よりも、自分が傷つかないようにするためである。

 

 誰かと仲良くなればなるほど、失った時が苦しくなる。だからロレナは、誰とも深く関わらないようにしているのだ。誰のことも心から好きにならず、少し離れた位置に自分を置く程度でいいのだ。

 

 そうしなければ、ロレナは今度こそ失う痛みに耐えきれずに壊れてしまう。

 だが、人と一切関わらずに生きていくのは、この世界では不可能だ。まして、巫女と術者という関係が築かれてしまった以上、余計に。

 

 それに、ロレナは人と深く関わりたくないと思いながらも、完全に人との関わりを断つ気にはなれなかった。普通の人間として生きていた頃の名残なのかもしれない。こういう中途半端な行為の代償は高くつくと、痛いほどよくわかっているはずなのに。

 

 次に死ぬときは、今回のように転生なんてしなければいいと思う。静かに眠ることができれば、それが一番幸せなのだから。

 

「ロレナさんも私も、きっと同じくらい変わり者だってことです」

 

 ミアは微笑んだ。

 

「えぇ……? それ、笑って言うことですの? もしかして、変わり者だって言われて喜ぶタイプだったりします?」

「さあ、どうでしょうね?」

 

 どこか楽しそうな様子で、ミアは言った。

 その時ふと思う。後何回、彼女とこうして話ができるだろうか、と。

 しかし、そんな考えも、胸の奥からじわじわと湧いて出た痛みに流されて消えてしまった。

 



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5 遠のく君へ

「ふんふんふーん。生麦生米えのき茸ー」

「……何ですかそれ」

「ご機嫌の歌ですわ」

 

 ロレナは湯船に浸かりながら酒を飲んでいた。空にはすでに月が出ているが、月見酒といえるほどの風情はない。

 この世界でもやはり稲作は行われているらしく、米から作った酒も存在している。確か米酒という名前で呼ばれていたはずだ。

 

 ロレナはぐるぐると頭が回るのを感じながら米酒で喉を潤していく。果実のような香りが鼻を抜け、全身を覆っていた痛みが薄れていく。酔いが回ってくるとだんだん五感が鈍くなっていくため、痛みはなくなるのだが、酒の香りもあまり感じられなくなっていってしまう。

 

 それでも泥酔しているためか、問題なく酒を楽しむことができた。何だか気分が浮き浮きとして、このまま飛んでいってしまいたくなる。

 

「今日もお酒が美味しくて幸せですわ! ほらほら、レックスさんも飲んで飲んで」

「私ちょっとお水を飲みたいんですけど……」

「チェイサーなんて邪道ですわ! 血液全部アルコールになるまで飲むんですわよ!」

「うぅ……酒癖が悪いです……」

 

 ロレナはちらとフィオネの様子を窺った。彼女はお猪口を手に持ちながら、心ここにあらずといった様子で湯を眺めていた。透明な湯には月が浮かんでいるが、それを見ているのだろうか。ロレナはフィオネの方に寄った。

 

「フィオネさんも飲んでおりますー?」

「ん……ぼちぼちかな」

 

 彼女はロレナに目を向けた。憂いを帯びたその表情は、何か悩みがあるときに浮かべるものだった。ロレナはミアの方に目を戻した。

 

「……はぁ。仕方ありませんわね。レックスさん、水を飲むことを許可いたしますわ。ここにはありませんから、早く飲んで戻ってくるように」

 

 ロレナはそう言って、お猪口を盆の上に置いた。

 

「はぁい……すぐ戻ります……」

 

 ミアはそう言って立ち上がった。酒を飲みながら風呂に入っていた影響か、彼女は全身が茹だったかのように赤くなっている。流石に倒れるまで飲ませるつもりもないため、休憩を入れるにはちょうどいい機会だろう。

 

「急がなくていいですから、足元に気をつけて行くんですわよー」

「わかりましたぁ……」

 

 ミアはそのままふらふらとした足取りで脱衣所に歩いていく。脱衣所の扉が閉まった音を聞いてから、ロレナは辺りの音を魔法で集めた。衝立の向こうは男湯になっているが、誰も入っていないらしく、水音が静かに響くのみであった。内緒話をしても誰にも聞かれる心配はない。

 

 ぼうっと月を眺めていると、不意に、肩に濡れたものが触れた。ちらと肩を見ると、フィオネが頭を乗せているのが認められた。月の光に照らされた黒髪は、ずっと眺めていられそうなほど綺麗だった。

 

「綺麗ですわね」

 

 ロレナは静かに呟いた。

 

「え?」

「月が、ですわ」

「ん……そうかも」

「かもって……もっとちゃんと見てくださいまし」

 

 フィオネは俯いて、湯の上に浮かぶ月を見つめている。ロレナは彼女の顎にそっと手を当てて、空に目を向けさせた。

 

「ほら、綺麗でしょう? 顔を上げて見ないと、綺麗かそうでないかなんてわからないですわ」

 

 フィオネは上気した顔で月を見つめている。見惚れているかのような、ぼんやりとした様子である。

 

「あはは、そうだね。……そういえば、ロレナが下向いてるの、見たことないかも」

 

 どちらかというと俯くことの方が多いと思うが、彼女にはロレナがいつも上を向いている人間に見えているのだろうか。

 

「下を向くのは愛の塔にいる時だけで十分ですわ! 地上にいるときは顔を上げていた方が、いろんなものが目に入るもの」

 

 しっかりと足元を見ていなければ、何かにつまずくこともある。それでもロレナは、自信たっぷりに断言した。

 

「うん、確かに。……月って綺麗だね。こうしてちゃんと見るのは久しぶりかも」

 

 ロレナは彼女から手を離して、お猪口を持った。微かに緑がかった酒が、月明かりで輝いている。ロレナは吸い込まれるように、酒を口にした。温かい酒は、喉に絡みつくような感じがする。アルコールのにおいが鼻を抜けて、ロレナは小さく息を吐いた。

 

「……ね、ロレナ」

 

 彼女はロレナの方を見た。黒い瞳には、暗い光が満ちている。

 

「ロレナは、不安になったことない? 自分はちゃんとパートナーのこと愛せてるのかって」

「いきなりの問いですわね」

 

 ロレナは徳利から酒を注ぎながら、彼女の様子を窺った。彼女は瞬き一つせず、ロレナのことを見つめている。

 

「……私はありませんわ。学園に認められたということは、どんな意味にせよパートナーを愛してると認められたということだもの」

 

 酒で唇を湿らせてから、ロレナは言った。フィオネの顔は曇ったままである。

 

「私は、いっつも不安になるよ。今日だって私、ヘクターが傷ついてることに気づきもせずに、自分のことだけ考えちゃって……」

 

 本編ではフィオネの詳しいパーソナリティは明かされていなかった。だが、関わり合う中で、彼女が自罰的な人間だということはわかっている。それは、グレイヴという一族の仕事に関連しているのかもしれない。

 

 彼女の一族には、死んだ巫女の名前や性格などを記録し、政府にそれを提出するという仕事が与えられている。そのため、ヘクターもフィオネも、死した巫女について調べることが多いのだ。

 

 死んだ巫女の情報は、次に巫女を育てる時の参考にされ、有効活用されている。しかし、情報を集めなければならないということは、それだけ死者に深入りしなければならないということでもある。

 

 フィオネには巫女の仕事もあるため、精神が疲弊するのも無理はないだろう。とはいえ、本人からグレイヴの仕事について話されたことはないため、それに関して何かを言うことはできない。

 

「前にも言いましたが……まずは自分を一番大切にすればいいと思いますわよ」

「……でも。でも、私はヘクターを愛さないと」

「自分を大切にしていても、誰かを愛することはできると思いますわ」

 

 愛についてわからない者が愛を語るほど滑稽なことはない。しかし、少なくともフィオネに関しては、自分を大切にしていても誰かを愛することができると思う。彼女は誰かを想う気持ちが強いため、それを少し自分を想う気持ちに変えればちょうどいいはずなのだ。

 

「ただでさえ私たちはこんな立場に置かれているのだから、少しくらい自分勝手になったってバチは当たりませんわよ」

 

 自分を責めて生きても辛いだけである。どうせ生きるのなら、多少自分勝手でも楽しく生きるのがいいだろう。ロレナはそう思う。

 

「私を見なさい。自分勝手でも、誰よりも自分を大切にしていても、何やかんややっていけてますわ」

「ロレナは……なんか、もうそういう生き物って感じがするし」

「えぇ……? 私、珍獣か何かだと思われてますの?」

 

 フィオネはくすりと笑った。

 

「あはは、嘘嘘。冗談だよ」

「……随分と調子が出てきましたわね」

 

 ロレナはため息をついて、酒を呷った。酔っていると、言わなくてもいいことまで言ってしまいそうになる。ロレナは少し気を引き締めた。

 

「はぁ。ま、愛云々について悩んでいるよりも、そうやって笑っていた方がいいですわ。あなたは暗い顔でいるよりも、そっちの方が素敵だもの」

 

 フィオネは赤い顔でロレナを見つめている。そろそろのぼせてきたのかもしれないと思い、ロレナはお猪口を置いて立ち上がった。酔いのせいか、長い間風呂に浸かっていたせいか、体がふらふらする。ロレナは頭を押さえた。

 

「少し、脱衣所で休憩しましょうか。のぼせてしまいそうですわ」

「……待って。一つ、聞かせて」

 

 フィオネはロレナの手を掴んだ。

 

「ロレナは、大丈夫?」

 

 フィオネは不安げに尋ねてくる。

 

「だから人のことよりも、自分のことを……」

「じゃあ、私のためってことでいいよ。とにかく、答えて」

 

 有無を言わさない口調である。ロレナは少し困ったが、すぐに笑顔を繕ってみせた。

 

「そんなに凄まないでくださいな。別に平気ですわよ。私、強かな女なんですのよ?」

「でも……」

 

 ぎゅっと、強い力で手首を握られる。

 

「やっぱり、不安だよ。ロレナ、巫女になる前までは全然お酒飲んでなかったんでしょ? それって……」

「心配は無用ですわ。お酒を飲んでるのは、美味しいからですもの」

 

 フィオネは手を引っ張り、ロレナの腕を指でなぞっていく。白く長い指が肌を滑る感触が、微かにくすぐったく感じられる。酒を飲んでいてよかったと思う。

 

「……腕、傷だらけ」

 

 フィオネは確かめるようにそう言った。

 

「ううん、腕だけじゃない。肩も、胸も、お腹も、足も。全部、ボロボロ」

 

 治癒魔法が効かないため、ロレナの体には確かに少なからず傷が残っている。だが、重傷を負ったことはないので、そこまで痛々しい傷跡は残っていない。よく見れば肌の色が少し違って見える程度である。それに、元々ウィンドミルは軍人の家系なのだ。多少傷が残っていたとしても、問題視されることはないだろう。

 

「ロレナだって痛いものは痛いはずだよ。辛くないはず、ない」

 

 ロレナは人に弱みを見せないようにしている。誰かに頼るつもりはないし、自分の辛さに共感して欲しいわけでもないためである。何より、ロレナはこれから死ぬのだから、弱みを見せたところで無駄なのだ。

 

「心配性ですわね。辛いなんて思ったことはないですわ。だから安心してくださいまし」

 

 ロレナはそう言って、彼女の手を自分の胸に持っていった。直接誰かに触れさせるのは初めてだったが、彼女を落ち着かせる手段は、これしか思いつかなかった。ロレナは心臓が早鐘を打つのを感じた。存外に、自分の胸を他人に触らせるのは恥ずかしいものである。

 

 これは性別が変わった影響なのだろうか。自己改造の影響か、酒の影響か、体が劇的に成長することはないものの、これでも一応女なのだ。恥じらいがあるのはいいことといえるのかもしれない。

 とはいえ、男であろうと女であろうと、死ねば同じであるため、どちらでもいいともいえるだろう。

 

「ほら、鼓動を感じて落ち着いてくださいな」

「……鼓動、すごく速い」

「ええ。少し、ドキドキしておりまして」

「ロレナもドキドキしたりするんだ」

「そりゃあ、私も人間ですから」

 

 フィオネは上目遣いでロレナを見つめる。その顔は紅潮している。

 

「あはは、そうだよね。ん……私もドキドキしてる」

「あら、どうしてですの?」

「多分、ロレナと同じ……だったらいいな」

「そうですわね……」

 

 二人の間に、奇妙な空気が流れる。保健室のシーツの中で抱き合っているときとはまた違った感じがして、ロレナは何ともいえない心地になった。フィオネはそれ以上何も言うことなく、ロレナの胸に手を置いたまま、身動ぎ一つしない。

 何か話そうかと思い口を開けたときだった。

 

 心臓が止まったかと錯覚した。

 全身が弾け飛ぶような痛みが、唐突にロレナを襲い始めたのだ。

 

「ロレナ?」

 

 声が聞こえる。だが、それを気にしている余裕はなかった。全く予期していないタイミングで来た痛みに耐え切ることができず、ロレナは呼吸ができなくなる。

 

 一瞬、意識が飛んでいた。ロレナは浅く呼吸を繰り返しながら、急いで湯から上がった。

 酒を飲んでいても、この痛みは軽減されないらしい。ならば、今度から戦闘前も酒を飲んで大丈夫かもしれない。そんな呑気なことを無理やり考えながら、脱衣所に向かう。

 

「どうしたの!?」

「お手洗いですわ!」

 

 言葉を絞り出して、風呂場から飛び出した。今も痛みは続いている。後遺症とは違う鮮明な痛みが体に走っているということは、ミアが力を使おうとしているということである。何かあったに違いない。

 

 今は痛みに気を取られている場合ではない。もし彼女が死んでしまったら、全てが終わるのだ。

 愛の力を使っているならば、魔物と戦っているのだろう。彼女が風呂を出たのはつい先ほどであるため、さほど遠くには行っていないと思う。だからすぐに見つけられるはずだ。

 ロレナはタオル一枚を身につけて、宿の廊下を駆けた。

 

 

——

 

 

「はぁ……ふっ……」

 

 ミアは息を切らしながら、森に向かって光線を発射する。その瞬間、付近に潜んでいたらしい魔物が姿を現し、ミアの腕に噛み付いてくる。

 

「うぅっ! ああああ!」

 

 狼のような見た目をした魔物を光線で消滅させ、ミアは木の幹に背中を預けた。腕から血が流れて、ずきずきと痛む。痛みに強い方ではあるのだが、それでも自然と涙が出てくる。

 

 治癒魔法は使えないし、応急手当の仕方もわからないため、このまま放っておくしかない。ミアは痛みのない手で涙を拭いながら、辺りを警戒した。

 

 魔物の出現を軍人から報告されたのは、先ほどのことだった。ロレナに一緒に来てもらうかどうか迷いはしたのだが、早く行かなければ怪我人が増えると思い、この森にそのまま直行したのである。

 

 それに、ロレナをこれ以上働かせるべきではないと思ったのだ。ミアはいつもほとんど役に立てていないから、こういう時くらいは彼女の役に立たなければならない。そういう考えもあった。

 

 だが、一人で魔物と戦うのは想像以上に恐ろしく、うまくいかないものだった。魔物の気配がどこにあるのかもわからず、いつ襲われるかもわからないため、恐怖で体が動かなくなることが多々あるのだ。

 

 自然と体が震えて、魔物と戦うのが難しくなる。愛の力がうまく当たらなくなって、傷ばかりが増えていく。このままでは死んでしまうと思うと、今すぐ逃げ出したい気持ちで胸がいっぱいになる。

 

 だが、術者である以上逃げることは許されない。魔物を倒さなければ傷つく人が、ミアの後ろには数え切れないほど存在しているのだ。

 

「う、うぅぅぅ……」

 

 痛みによるものではない涙が、瞳の奥から溢れ出す。歯の根が合わず、呼吸がまともにできなくなる。

 いつもロレナに守られているため、ミアは一度も傷ついたことがなかった。魔物に襲われたことは何度かあるが、防御魔法が張られていたため、難なく撃破することができていたのだ。

 

 だが、今はそれがない。ミアを守るものが何もないというだけで、裸で放り出されたような寄る辺なさを感じる。

 それでも、戦わなければならない。ミアは意を決して駆け出した。その瞬間、無数の魔物が飛び出してくる。光線を発射して何匹かは消滅させられたものの、残った魔物が次々にミアを傷付けていく。鋭い爪や牙が柔らかな皮膚に突き刺さり、そこから鮮血が溢れ出した。

 

 もはやどれだけの魔物がいるのかもわからなかったが、ミアはがむしゃらに力を使い、魔物を倒していく。

 それは、愛を駆使して戦う術者らしくない、獣じみた戦いであった。

 

「泣いちゃ、駄目だ。ロレナさんみたいに、強くならないと」

 

 そう自分に言い聞かせてみるが、体の震えは止まらない。

 ミアはロレナに複雑な思いを抱いていた。彼女に対する一番強い思いは、憧れだろう。

 

 前に、ミアの友人が別の友人と喧嘩をして、王都の外に出て行ってしまったことがある。学園の生徒は基本的に、王都の外に出る時は巫女と術者に同行してもらわなければならない。

 

 しかし、彼女は一人で行ってしまったため、ミアは居ても立ってもいられなくなって探しに行った。そして、その姿を王都付近の山で見つけたのだが、彼女は魔物に襲われていたのだった。

 

 それを見て、動くのが遅れてしまった。そうして尻込みしている間に彼女を救ったのが、ロレナだった。

 あの時はまだロレナも巫女ではなかったのだが、怖気付くことなくミアの友人を助けたのだ。彼女とロレナは知り合いでもなかったというのに。後から聞いた話によると、別の友人に探してくれと頼まれたからそうしたらしい。

 

 ミアはあの時、咄嗟に助けに行けなかった自分が恥ずかしくて、ロレナの前に姿を現すことができなかった。

 あの時友人を助けたロレナの姿が、今も目に焼き付いている。

 彼女に対する感情は憧れだけでは終わらなかった。

 

 最初は、彼女のように格好良く生きたいとだけ思っていた。彼女を見習うために、その一挙一動を追っていくうちに、気付けばミアは彼女に惹かれていった。笑ったところ、呆れたところ、優しいところ。彼女の全てが愛おしく思えるようになって行った。

 

 愛には自信があった。レックス家は代々巫女を輩出してきた家系なのだ。だから、ミアも巫女になると思っていた。

 しかし、そうはならなかった。ミアではなく、ロレナが巫女になったためだ。自分が愛されているとは思っていなかったから、ミアは彼女が巫女になった時、ひどく当惑した。

 

 しかし、同時に、どうしようもなく嬉しかったのだ。

 自分の愛を上回るほどの愛を、彼女が持っているということが。

 これからはもっと、彼女との仲を深めていける。そう思っていたのに、どうにも最近うまくいかないのだ。

 

 巫女と術者になってから、何かが変わった。具体的に何が、とは言えないのだが、ロレナの瞳の色が変わったのだ。それ以前も時折ひどく苦しそうな色になることがあったが、それでも透き通った光を宿していたロレナの瞳は、今、暗く沈み込んでいる。

 

 ミアが頑張れば、それも変えられると思った。だが、うまくいかない。

 役に立とうとしても、彼女の背中に追いつくことができない。手を伸ばせば伸ばすほど、開いた距離ばかりが目について、その距離の長さに胸が苦しくなるのだ。

 

 彼女と自分は、見ている世界が違う。そうわかっていても、彼女に追いつきたかった。そうしなければ、彼女がどこかに消えてしまいそうに思えてならなかった。

 

「は……あ……!」

 

 その時、遠くで何かが光っているのが見えた。あっと思った時には、腹がひどく熱くなっていた。どうやら、魔法か何かで撃たれたらしい。

 

「ぐっ……うあ……」

 

 ごぽりと、鮮血が腹から溢れ出す。ミアは膝をついた。もはや、立っていることもできなかった。

 死ぬのかな、なんて、ぼんやりと思う。恐怖は胸に染みついていた。

 結局、何もできずに終わってしまう。だが、人生なんてそんなものなのかもしれない。

 

 勝手に飛び出して勝手に死ぬなんて、馬鹿みたいだ。ロレナには怒られてしまいそうである。怒った後は、ミアの死を悲しんでくれるだろうか。彼女が泣いている姿は想像できないが、ミアのために泣いてくれたら、少し幸せかもしれない。

 

「ロレナさん……」

 

 再び、森の奥が光る。目を瞑って撃ち抜かれるのを待っていると、少し遅れて甲高い音が辺りに響き渡った。ガラスの球同士がぶつかり合うような音である。ミアは思わず目を開けた。

 

 そこには、一人の少女がいた。

 月明かりを受けて、眩い程に輝く金色の髪。幼くも気高さが見える、端正な顔。深い青の瞳は、見ていると吸い込まれそうな、吸い込まれてしまいたくなるような、そんな不思議な感じがする。

 

 髪色も目の色も、きっと在り方すらもミアとは対照的な少女、ロレナの姿がそこにあった。死ぬ間際の幻覚かとも思ったが、その甘やかな匂いが、彼女が本物だと告げている。

 

「……どうして裸なんですか?」

「第一声がそれですの!?」

 

 ロレナは眉を顰めながら、ミアに治癒魔法をかけてくる。温かい光に体を包まれていると、ひどく安心する。他の人に魔法をかけられても同じ気持ちにはならないため、きっと彼女が特別なのだと思う。

 ミアは治癒魔法の光が夜の森に溶けて消えていくのを見送った。

 

「ああもう、無茶しすぎですわ。こんなに血流して、明日は貧血ですわよ」

 

 光が消えた後に残ったのは、困ったようにそう言うロレナの姿だった。急いで来たらしい彼女は、バスタオル一枚を体に巻いてはいるものの、ほとんど裸である。その姿を見て、ミアはどうしようもなく心がざわめくのを感じた。

 

「マグロ……レバー……どれくらい食べれば血が増えるのかしら……」

 

 ミアは気付けば彼女を抱き締めていた。

 

「レックスさん?」

「ミアって呼んでください。今だけで、いいから……」

「……ミア」

「はい。はい……! もっと、呼んでください……!」

「ミア」

「うう……うううううぅ……」

 

 涙が止まらなくなる。自分がなぜこんなにも泣いているのかわからなかったが、ミアはロレナの熱を感じながら涙を流し続けた。その間、彼女に優しく背中をさすられる。胸が苦しくて、彼女の優しさが痛くて、どうしようもならなくなる。いつも直接的な優しさを見せないのに、こういう時だけ何も言わずに優しくしてくれるのは、ずるいと思う。

 

「私、私……強くなりたいんです。ロレナさんみたいに。でも、何も、うまくいかなくて……」

 

 子供のように泣きじゃくりながら、ミアは自分の心中を吐露した。

 

「どうすればいいのか、わからないんです。もっと役に立ちたいのに、もっと近づきたいのに、何もできなくて……」

 

 一度言葉を発してしまうと、堰を切ったように止まらなくなる。

 

「教えてください。もっと私を頼って。名前を呼んで。そうじゃないと、私……」

「……はぁ。あのねぇ、ミア」

 

 ロレナは少しぶっきらぼうだが、優しい口調で言う。

 

「私は本当に、今のままであなたは十分に役立っていると思いますわ。だけど、あなたはそれじゃ気が済まないんでしょう」

 

 ロレナはミアの肩を掴み、じっと目を見つめてくる。暗く青い瞳が、深海のようだった。

 

「だったら、私についてきなさい。あなたの気が済むまで。私に言えるのはそれくらいですわ」

 

 彼女はミアの肩をそっと押す。それから森の方に向き直して、ゆっくりと歩き始めた。その背中を見ていると、彼女に憧れるきっかけとなった日のことを思い出す。あの時は彼女の背中を見ても、追いかけることすらできなかった。だが、今はきっと、違うはずである。

 ミアはごしごしと涙を拭って、小走りで彼女を追った。

 

「あら、休んでいなくていいの?」

「……ロレナさん、意地悪です」

「今更気付いたの?」

 

 ミアはロレナと肩を並べた。

 

「……む。言っときますけど、そんな格好で意地悪しても馬鹿みたいにしか見えませんからね」

「ふ、私くらいになるとこの格好でも様になるのですわ。何だったら、ここでタオルをとってもよろしくてよ?」

 

 風呂場で裸を見るのとは訳が違う。ミアはその姿を想像して、顔が熱くなるのを感じた。

 こんな時に何を考えているんだ、私は。いや、でも、先に変なことを言ってきたのはロレナさんの方だ。だから、悪いのはロレナさんでしょ。でもでも……。

 

 頭が茹っていく。これも、全部ロレナのせいである。彼女がいると、ミアはどうにもおかしくなる。平常心を保つこともできなくなって、妙な世界に誘われてしまうのだ。

 

「……ミア。本当に心が苦しくなってどうにもならなくなったら、誰かを頼りなさい」

「ロレナさんを頼っても、いいんですか?」

「さっき私の役に立ちたいとか言ってませんでした?」

「それはそれ、これはこれです」

「えぇ……?」

 

 ロレナは少し困ったような顔をした。追い付きたい相手にこれ以上頼るのもどうかと思うのだが、彼女はきっと、頼まれたら断れないタイプである。ならばいっそそれにつけ込んで、彼女との距離を縮めるべきなのかもしれない。

 

 ミアは自分の中で、枷になっていた何かが壊れるのを感じていた。

 やはり、自分はロレナのことが誰よりも好きだ。優しいのに優しくないように見せているところも、押しには少し弱いところも、時々妙に常識的になるところも、全部。

 

 ミアはどうしようもなく弱い。ロレナがいなければ今頃魔物に殺されていただろう。それでもきっと、この想いだけは誰にも負けないはずである。巫女にはロレナがなってしまったが、彼女の想いにも、今のミアはきっと負けない。いや、負けたくないのだ。

 

「ま、ミアが誰に頼っても助けてもらえなくて、他の誰にも構われなかったら、考えなくもないですわ」

「じゃあ、そうします」

「えぇ……? そんな宣言されて、私はどうすればいいんですの?」

 

 ロレナはそう言ってから、不意に鋭い目線を森に向けた。

 

「……お喋りはここまでですわね。やりますわよ、ミア」

「はい、ロレナさん」

 

 ロレナは素早く駆け出した。背中までかかった長い髪がそれに合わせて揺れる。ミアは彼女の背中を追うことに集中した。ミアはロレナのように魔物の気配を察知することができない。だが、遠くで見ているよりも、近くにいた方がより役に立てるはずだ。

 

「ミア! 二時の方向、距離は……十!」

 

 ミアは今までずっと遠距離から攻撃してきた影響で、距離を正確に測るのは得意である。この点だけならば、ロレナよりも得意であるといえるだろう。ミアはロレナの指示した方向を見て、距離を修正してから光線を発射した。

 

 ロレナの動きが少し遅くなる。しかし、その足は止まらない。

 彼女の息遣いを感じながら、自分の目を通して魔物を相手にする方が、いつもより正確に攻撃が行える気がする。ミアたちは次々に魔物を倒していく。まるで、彼女と踊っているかのように思える。

 

 恐怖はいつの間にか、どこかに消えて無くなっていた。それは、彼女が隣にいるためなのだろう。彼女さえいれば、何があっても平気なような気がする。

 この瞬間、この場所だけは、彼女と二人だけの世界なのだ。今はそれだけで十分である。

 

「さて、これで終わりですわね。さっさと帰って酒盛りの続き……と、いきたいところだけれど」

 

 ロレナは少し、つまらなそうな顔をした。その顔は、どこかわざとらしい。

 

「今日はもう、お開きといきましょうか。あなたに倒れられても困るし、ね」

「心配してくれてます?」

「あなたに倒れられたら、私の名誉爆上げ計画が台無しだもの。そりゃあそれなりに心配しますわ」

 

 彼女はいつも、他の巫女の仕事を奪っている。彼女は名誉のためだと言っているが、それが嘘だということをミアはよく知っていた。巫女は何かと危険にさらされることが多いため、精神に異常をきたす者が多いのだ。巫女を助けるためにロレナが動いているというのは、彼女たちの様子を見ればわかる。

 

「ありがとうございます、心配してくれて」

「礼なんていいから、さっさと体を洗って休んでもらいますわよ。スプラッタ映画みたいになってますし」

 

 ロレナは時々、訳のわからないことを言う。ミアは首を傾げた。

 

「スプ……? とりあえず、また髪、洗ってくださいね」

「あなたは赤ちゃんか何かですの? お姫様抱っこしてお風呂まで運んで欲しいんでちゅか?」

 

 ロレナは馬鹿にしたように言うが、その瞳にはどこか心配そうな色が滲んでいるようだった。こういうところは、わかりやすいと思う。

 

「運んで欲しいでちゅ、なんて……」

 

 言ってからすぐに後悔した。ロレナは呆れたような、困ったような表情を浮かべてから、ミアに手を差し出してくる。

 

「恥ずかしいなら、最初からやらなければいいんですわ。……もう、仕方がないですわね、ほら」

 

 ミアはその手をとった。傷だらけの手の感触が、少し痛かった。ミアがもっとしっかりしていれば。そう思っても、彼女の傷は消えない。それがひどく悲しくて、情けない気持ちになる。

 

「体格差があるから運べはしませんが……エスコートだけなら、してあげなくもないですわ」

「じゃあ、お願いします」

「エスコート代は、高くつきますわよ」

「大丈夫です、体で払いますから」

「……それ、意味わかって言ってますの?」

 

 ロレナはため息をついてから歩き始めた。彼女の手を握っていると、安心する。彼女の熱が体の奥まで浸透していくような感じがした。その熱さに、溶けてしまいそうだった。

 

「さあ、どうでしょう」

「いつも思いますけど、あなたって意外と強かですわよね。私ほどではないですが」

「私なんてまだまだですよ」

「向上心の塊ですわね」

 

 暗い森の中に、二人の声だけが響く。魔物がいなくなった影響で、森はしんと静まり返っている。そのおかげで、彼女の声を鮮明に聞くことができた。

 

「卒業する頃には、私の方が強くなっているかもしれませんよ」

 

 ロレナの手が、少し強張ったような気がした。今の位置からでは彼女の顔を見ることはできないが、どのような表情をしているのか、少し気になった。

 

「そんな日が来たらいいでちゅわねー」

「あ、馬鹿にしてますね! 今に見ててくださいよ! 後悔させますから!」

 

 後悔だらけなのは、ミアの方である。ミアがもっと強ければ、きっとロレナは傷付かずに済んだはずだというのに。

 

「期待せずに待っておきますわ」

 

 そこで会話が一度止まる。彼女と一緒の時は、沈黙もあまり苦にならない。魔物がいなくなって緊張の糸が切れたため、ミアは少し気が抜けていくのを感じながら、彼女の手を強く握り続けた。

 

 その白い腕についた傷を見て、これ以上傷つけさせたくないな、と思う。もしかすると、ロレナがミアを直接魔物と戦わせようとしなかったのは、今のミアと同じ気持ちだったからなのだろうか。

 

 それならいいな、と思う。

 ミアはその手の感触を確かめながら、静かな森を歩いた。心臓が先ほどとは違う意味でうるさくなっていたが、それが不思議と心地良かった。

 



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6 翼の折れた少女たち

「ロレナ様、先日はありがとうございました」

 

 マリーナ・ディアスは恭しく頭を下げた。その動きに合わせて、癖がかった金色の髪がふわりと揺れる。

 

「礼を言う必要はありませんわ。それよりどうですの、調子は」

 

 遠くから聞こえてくる噴水の音に耳を傾けながら、ロレナは問うた。マリーナは顔を上げて、虚ろな瞳をロレナに向けた。

 

「……苦しいです」

 

 今にも消えてしまいそうなほど、か細い声である。ロレナは目を細めた。彼女はテーブルの上に置かれた手をぎゅっと握りしめている。

 

 マリーナは物語の登場人物ではないが、ロレナが何かと気にかけている巫女の一人であり、一年ほど付き合いのある友人でもあった。先日の仕事は本来マリーナのものだったのだが、彼女の精神が限界に近いため、代理としてロレナが行ったのだ。

 

 ロレナよりも早い時期に巫女となった彼女は、その分精神が疲弊している。巫女の寿命は長くても三年程度であり、大抵は一年半程度で死ぬ。彼女は巫女になってから一年経っているため、そろそろ死を迎えてもおかしくなかった。

 

 ロレナは彼女の瞳を見つめた。その青い瞳からは、生きる気力がほとんど感じられない。こういう状態になってくると、どのような励ましも意味をなさなくなる。ロレナはそれを、経験によって痛感していた。

 

「最近、考えてしまうんです。愛について」

 

 マリーナは祈るように目を瞑った。

 

「どれだけ愛してもきっと届いてなんかいないのに、それでも愛し続けないとけない。痛くても苦しくても、それをやめられない……」

 

 マリーナは体を震わせた。

 

「愛とは何なのでしょう。届かないと知りながら人を想うのが愛? 一人だけ苦しみ続けて、何も知らずに使命に燃えるあの人を見つめ続けるのが愛? なら、無知なあの人に湧いてきた、この燃えるような気持ちは……」

 

 マリーナは目を開けた。どろりとした憎しみが、瞳から溢れ出しそうになっているようだった。巫女は基本的に術者を憎まない。そういう性格の者が選ばれるようになっているのだ。そんな巫女が術者を憎むとしたら、それは精神に異常をきたした時だけである。

 

「愛は全てを救うはずなのに、救われない私は誰なのでしょう。私は救われる範囲外にいる人もどきなのでしょうか。そうでないなら、どうして……」

 

 その瞳から、大粒の涙が溢れ出す。ロレナは胸に穴が開きそうな心地がした。もはや、修復不可能なほどに心が破壊されてしまっている。そうわかっていながらも、ロレナはハンカチをポケットから取り出して、彼女の涙を拭いた。

 

「どうして、私はこんなに苦しいのでしょう。痛くて、苦しくて、救われない。それなのに、誰かを想い続けるなんて、もう無理です……!」

 

 マリーナはしゃくり上げる。ずっと言葉をかけ続けても、最後にはこうして精神が壊れてしまう。それにひどく虚しくなるが、巫女たちと関わり続けているのは自分のためなのだ。だから、壊れていく彼女たちを見て悲しくなったなんて、いえるはずもない。

 

 ミアの物語が始まれば、巫女は救われる。ならば、ロレナは早く死ぬべきなのだ。ただでさえ、生きる時間が長くなって事故への恐怖が抑え切れないほど膨れ上がっているのだから。

 

「……そう。なら、それでもいいですわ。誰かをまた愛せるようになるまで、私があなたの全部を引き受けますから」

「ロレナ様……」

 

 それは、彼女のための言葉ではないのだろう。ロレナはこの状況が個人的に気に入らないから、苦しみもがく巫女たちと関わっているだけだ。自分本位の行為に、良い結果を求めてはならない。

 

「ごめんなさい。……ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 彼女の言葉もまた、ロレナに向けられたものとは思えなかった。その謝罪は誰のために発せられたのか。それを推測することもできなかったから、ロレナは何も言わず彼女の涙を拭い続けた。

 

「……落ち着きまして?」

 

 彼女の涙が止まった頃、ロレナは静かに聞いた。

 

「はい、ごめんなさい」

 

 今度の謝罪は、確かにロレナに向けられたものだった。

 

「謝りすぎですわ。あなたはもっと、私のようにふてぶてしくなった方がいいですわ」

「ロレナ様は、ふてぶてしくなどないですよ」

「あら、そう? なら、余計に見習った方がいいですわね」

「ふふ……確かに、そうですね」

 

 彼女は花が咲いたように微笑んだ。その笑顔がそう遠くない未来に消えることを知りながら、ロレナは笑顔を返してみせた。

 

「さ、暗い話はこれくらいにしておいて、食事にでも行きますわよ」

 

 そう言って、ロレナは立ち上がった。マリーナはゆっくりと立ち上がり、首を振った。

 

「いえ……お誘いは嬉しいのですが、少し体調が優れなくて……」

「む。それは養生しないと駄目ですわね。部屋までは歩けまして?」

「はい、大丈夫です。……本日はありがとうございました。ロレナ様のおかげで、少し心が軽くなりました」

「私は何もしていませんわ」

 

 マリーナは扉の方に向かっていく。その所作が、ひどく儚く感じられた。

 

「自分を過小評価しないでください。ロレナ様のおかげで私は……いえ、私たちは救われているのですから」

 

 ロレナは彼女の前に立って、部屋の扉を開けた。彼女は礼儀正しく頭を下げる。

 

「ロレナ様がいてくれて、よかった。あなた様がいるだけで私は、幸せでした」

 

 彼女と目が合う。その瞳は複雑な感情に揺れていた。ロレナは一瞬固まったが、すぐに胸を張ってみせた。

 

「当たり前ですわね! もっと私を見て癒されてもいいんですわよ?」

 

 彼女は部屋の外に出て、もう一度頭を下げた。

 

「だからまた会いましょう、ディアスさん」

「はい、ロレナさん。また……」

 

 マリーナはゆったりとした動作で廊下を歩いていく。風が吹いたら倒れてしまいそうな彼女の背中を見ていると少し不安になるが、これ以上は余計な手出しだと思い、ロレナは静かに扉を閉めた。

 

 部屋の中に戻ると、噴水の音に混じって生徒たちの声が聞こえてくる。窓を開けていると、室内にいても様々な音が聞こえるのが心地良い。だからロレナは、天気の良い日は時々窓を開けるようにしている。

 

 ロレナは窓際に近づき、外の景色を眺めた。

 学園寮は愛の広場の近くに設置されており、ロレナの部屋はその三階にあった。窓を開けると愛の広場でスキンシップをとっている生徒たちが目に入ってくる。彼女たちが何を話しているのかはよく聞こえないが、恐らく愛でも囁き合っているのだろう。

 

 ロレナは窓に背を向けて、部屋の中を眺めた。部屋は必ずパートナーと一緒になるようになっている。

 ロレナたちの部屋にはミアの趣味が反映されている。花瓶に挿されたカラフルな花、何だかよくわからない動物のぬいぐるみに、河原の石の如く転がったクッションたち。この部屋を何と称するべきだろうか。

 女の子らしい。無軌道。いや、どちらかといえば……。

 

「彼女らしい、ですわね」

「何がだい?」

 

 不意に背後から声をかけられて、心臓が跳ね上がった。振り返ると、窓の外にロレナの兄、ランドルフ・ウィンドミルが立っていた。

 

「お、お兄様? いきなりどうしまして?」

 

 彼は中性的な顔に笑みを浮かべた。

 

「はは、少しロレナを脅かそうと思ってね。その様子だと、成功みたいだ」

 

 ランドルフは軽やかな動きで窓を飛び越してくる。用意周到なことに、靴はもう脱いでいるらしい。彼の足は、妙に鮮やかな赤色の靴下で包まれている。しかし、色がきつすぎて彼には似合っていない。その靴下にはどこか見覚えがある気がしたが、彼はこんな趣味だっただろうか、と思う。

 

「私を脅かしても何も良いことなんてありませんわよ!」

「いいや、あったよ。君の珍しい顔が見れた」

 

 ランドルフはそう言って、ミアが選んだクッションの置かれた椅子の前まで歩いた。

 

「ここ、いいかな」

「どうぞ、お好きなように」

 

 彼はちらとテーブルの上に目を向けた。マリーナに出した茶が、まだテーブルには残っていた。ロレナは急いでそれを片付けて、新しい茶の準備をする。

 

「誰か来ていたの?」

 

 その爽やかな声が、いやに耳に痛かった。彼と接する時、ロレナはいつも緊張する。ロレナは彼に好かれていないと確信していた。なぜなら、幼少期に嫌がる彼を振り回し、迷惑をかけていたためである。

 

 ランドルフは攻略対象の一人であり、ゲームをプレイしていた時は一番好きだったが、今は少し苦手になっている。あの頃振り回してしまった影響か、ランドルフは時々ロレナに当て付けのような行為をしてきたり、鋭い視線で詰問してきたりすることがあるのだ。

 

 彼が何を考えているのかは分かりづらいのに、こちらの考えは見透かされているような感じが恐ろしく思える。小さい頃は死を本気で望んでいなかったから、無邪気な子供を装って彼に付き纏ったのが悪かったのだろう。前世ではずっと一人っ子だったので、兄ができて少しテンションが上がっていたのだ。

 

 我ながら、あの頃はどうかしていた。自らの死を望んでいる今の方が、人間としてはよっぽどどうかしているのだろうが。

 

「友人が遊びにきておりましたの」

「へえ、君に友人なんていたんだ」

「私のことを何だと思ってますの!?」

 

 あけすけな言葉である。

 

「冗談だよ」

 

 彼はくすりと笑った。本当に冗談なのか疑問に思いつつ、ロレナは新しいティーセットをテーブルに置いた。椅子に座ると、自然に彼と目が合う。少し垂れ気味な目は優しげに見えるはずなのだが、どうにもロレナは安心できなかった。

 

「君の話はよく耳にするよ。何でも、他の巫女の仕事を奪って名声をあげようとしてるんだって?」

 

 ロレナはカップに茶を注いで、彼の前に差し出した。酒の飲み過ぎで五感は鈍っているものの、実家ではよく茶を淹れていたため、彼に飲ませても駄目出しはされないはずである。

 ランドルフは茶を一口飲んでから、テーブルに置かれた一枚の皿に目を落とした。

 

「これは?」

「ミアの作ったお菓子ですわ。彼女、菓子作りが趣味なんだとか」

 

 ロレナは結局ミアに押しきられて、彼女を名前で呼ぶようになった。呼び方が変わっても他の何かが変わるわけでもないため、別段問題はない。

 

「へえ。……うん、いい腕だね」

 

 ランドルフは彼女の焼いたスコーンを齧る。そういえば、本編でもミアの腕を褒めるシーンがあったな、と思い出す。王家に影響力を持つウィンドミル家ほどではないが、レックス家も中々の名門である。

 

 そのため、自分で料理を作ることはほとんどなかったはずなのだが、ミアは菓子作りが趣味であり、その腕も確かなものだった。

 

 なぜ彼女が菓子作りを始めたのか、理由は定かでない。本編でも明かされなかったし、直接聞いてもはぐらかされてしまったためである。ただ、少し前まで彼女が菓子を作っているところは見たことがなかったため、比較的最近始めた趣味なのかもしれない。

 

「あら、お兄様も素直に人を褒めるんですね」

「……君こそ僕のことを何だと思っているんだい?」

 

 ロレナもスコーンを齧ってみるが、甘いことしかわからない。痛覚を鈍らせるために泥酔してしまっているため、それに応じて味覚も鈍くなっているのだ。せっかく彼女が作った菓子を味わってあげられないのは残念ではあるが、今はランドルフがいるため問題はないだろう。

 

「お兄様はお兄様ですわ。……ああ、そうですわ。今度、ミアさんも呼んでお茶会しませんか? 直接褒めてあげたら、彼女も喜ぶと思いますわ」

「……君は?」

 

 真剣な目がロレナを射抜く。背筋が少し、ぴりぴりするような感じがした。

 

「君はちゃんと褒めてあげた? きっと、僕が褒めるよりも喜ぶと思うよ」

「悪くないとは言っておきましたわ」

「それはまずいね。もっと情熱的に褒めないと。……君は少し、女心がわかっていないみたいだ」

「えぇ……? 私も女なのに……?」

 

 もしかすると、元男であることを見抜かれているのだろうか。その瞳を見つめ返してみても、涼しげな青が目につくだけで、彼の心を読み取ることはできなかった。

 

「はは、君は男心もわかっていないから大丈夫だよ」

「私何もわかっていないじゃないですの! 何が大丈夫なんですか!?」

 

 ランドルフは愉快そうに笑っている。本編での彼はミアにかなり優しかったはずだが、ロレナにはどうにも当たりが強い。

 

 本編でも彼はロレナが死んでも全く動じていなかった。それに、この世界でロレナが自殺未遂をした時、両親にはひどく怒られたものだが、ランドルフは笑って彼らを嗜めていた。

 

 そう考えると、ロレナは嫌われているというより、路傍の石よりも興味を持たれていないのではないか。だが、だとすると、時折ロレナのところに来るのが不思議である。

 

「大体お兄様だって、女心をわかっていないですわ! 年頃の妹の部屋に急に上がり込んできて、やれ女心も男心もわからないなどと……。デリカシーを持ってくださいまし!」

「ごめんごめん。君なら許してくれると思ってね」

 

 彼はいつも神出鬼没である。ロレナの五感が鈍っているせいでもあるのだろうが、音もなく姿を現されると心臓に悪い。

 

「ま、私も大概ですし、おあいこということにしておきますが……」

 

 ロレナはわざとらしくため息をついた。

 

「ミアにはそういうこと、言わないでくださいまし」

 

 ランドルフは目を細めた。空気が少し、冷たくなった気がする。

 

「そんなに彼女のことが大事かい?」

 

 低い声で、彼は問う。ロレナは頷いた。

 

「当たり前ですわ。彼女は私の名声を上げるための手段だもの」

「……君はそんなに名声を上げてどうするつもり?」

「あら、お兄様らしくない愚問ですわね。名声は上がれば上がるほど良いに決まってますわ。もらえるお金も許される特権も増えて、もっと自由に生きられますもの」

 

 言っていて馬鹿馬鹿しいと思う。どれだけ金や特権があろうと、ロレナの願いは叶わない。死という最大の願いを叶えられるのは、自分だけなのだ。そもそも、名声を上げたいのなら、ミアのように他の巫女たちの模範になる行動をとるべきである。

 

 ロレナは自分が疎まれていることに気付いていない振りをして笑ってみせた。その姿が彼の瞳にはどう映ったのか。ランドルフは無表情でロレナを見つめながら、小さく息を吐いた。

 

「なるほどね」

 

 彼はそう言って立ち上がった。彼のカップに目を向けると、まだ半分ほど紅茶が残っている。茶葉は実家でよく使っていたものだから、彼も好みであるはずなのだが。ロレナはそう思いながら、彼の顔を見上げた。

 

「ロレナ。君の背には、翼は残っているのかな?」

 

 彼は囁くような、小さな声で言う。ロレナは首を傾げそうになった。彼の言葉は時々ひどく比喩的なものになって、理解が及ばなくなることがある。ロレナは少し考え込んだ後、彼に笑いかけてみせた。

 

「さあ。お兄様にはどう見えます?」

 

 彼はロレナの顔を覗き込んでくる。その顔はやはり無感動であった。人形のような顔は、無表情だと恐ろしいものに見える。

 

「残念だけど、僕には見えないんだ。翼が見えるのは、きっと限られた人間だけだから」

 

 一体何の話なのだろうか。ロレナにはよくわからなかった。

 

「……また来るよ。レックスさんによろしく」

「は、はい」

 

 それだけ言うと、彼は部屋を去っていった。嵐のように来ていなくなったのは、彼が風魔法を得意とするウィンドミル家の人間だからなのだろうか。そんなことを思いながら、ロレナは一口茶を飲んだ。

 

 遠くで茶の香りがする。その香りを深追いしようとすると、封じ込められた痛みが目を覚ましそうになる。

 ロレナは立ち上がり、食品棚を漁った。そこから酒瓶を取り出して、中身を一気に呷る。覚めかけの酔いが再び全身に回り始めると、全ての感覚が薄くなる。その頃にはもう、ランドルフに言われたことは頭から抜け落ちていた。

 

 

 

 

 とろとろと溶けるようなまどろみの中、ロレナは不意に誰かの匂いがすることに気がついた。ぼんやりと目を開けると、幼い顔が視界に入ってくる。大きなガラス玉のような翡翠色の瞳がロレナの姿を映していた。

 

 それがアリアの顔だと気づき、ロレナは体を起こそうとした。その時、ぎしぎしと何かが音をたて、体が締め付けられるのを感じた。自分の体を見てみると、麻縄で縛られているのがわかる。ロレナは目を剥き、辺りを見渡した。

 

 愛の広場に集まった生徒たちは互いに愛を交わしながらも、横目でロレナたちの方をちらと見ている。人目を憚らずにいちゃいちゃする彼女たちの目にも、ロレナたちの姿は流石に奇異に見えるらしい。

 

 ロレナは頬が引きつるのを感じた。愛の広場で涼んでいるときに、徐々に眠気が兆してきたことは覚えている。それで船を漕いでいるうちにアリアがやってきて、ロレナを縛ったのだろう。

 

「……縛り方、上手くなりましたわね」

 

 ロレナは平静を装って言った。アリアは無垢な笑みを浮かべながら、動けずにいるロレナを見下ろす。

 

「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいです! ロレナさんのために勉強したんです!」

「あら、それは光栄ですわね。じっくり堪能したいところだけど……一ついいかしら?」

「何ですか?」

 

 彼女は可愛らしく小首を傾げた。小動物のようなその仕草は庇護欲を掻き立てるようなものだったが、今のロレナの胸中には当惑しかなかった。

 

「どうして私を縛ったんですの?」

 

 目を何度か瞬かせてから、アリアはにこりと笑った。それは穢れを知らない幼子のような、無垢な笑みだった。ロレナは少し、肌が粟立つような感じがした。

 

「それは、ロレナさんにも痛みが愛だって理解してもらうためです」

 

 彼女はロレナの耳元で囁いた。羽のように柔らかく軽いその声が、どうにも耳に痛かった。ロレナは息を呑んで彼女を見つめた。その瞳の奥には、見たこともないような感情が渦巻いているように見える。ロレナは言い知れない違和感を抱いた。

 

「どうして今更、そんなことを」

「今だからやるんです。むしろ、今じゃないと駄目なんです」

 

 彼女はすっと目を細めた。無垢な笑みが沈みこんで、無感動な表情が姿をあらわす。彼女のこんな顔を見るのは初めてである。

 

「ねえ、ロレナさん。どうしてですか?」

 

 一切動くことなく、翡翠色の瞳は凪いだ海のようにロレナの姿を映していた。

 

「どうして私の愛を、否定するんですか?」

 

 アリアは泣きそうな声で言った。何が起こっているのかはわからなかったが、彼女の精神が普通でない状態になっているのは確かだと思い、ロレナは軽く深呼吸をした。

 

「……何の話かわかりませんわ。一から説明してくださいまし」

 

 優しい声を出すことを心がけて、ロレナはそう言った。アリアは迷子になった子供のような表情をロレナに向ける。

 

「だって、痛みは愛なんです。それが壊れたらいけないはずなんです。だけどロレナさんは、痛みを否定してます」

 

 アリアとはこのような人物だったかと、ロレナは疑問に思った。しかし、彼女ともそこまで深い付き合いがあるわけではないし、本編でも詳しくは描写されていなかったため、ロレナはアリアについてあまりよく知らないのだ。こういう一面があったとしても、おかしくはないのだろう。

 

「この学園は、完璧だったはずなんです。皆痛そうにしてて、愛が溢れてました」

 

 まさか、アリアは巫女たちが痛みに苦しんでいるのを見透かしていたのか。普通の生徒は教育による先入観で、それに気づかなくなっている。だが、痛みを愛だとする彼女は、先入観に囚われずに巫女たちの様子を見ることができているのかもしれない。だとすれば、彼女に対してどのような対応をするのが正解なのか。

 

「ロレナさんは私を初めて縛ってくれた人です。それが嬉しくて、でも、それだけじゃなくて……。とにかく、ロレナさんのこと、嫌いになりたくないです。だから……」

 

 アリアはロレナの頬に手を置いた。細く長い指の感触が、うっすらと感じられる。

 

「だから、私の世界を壊さないでください。私の愛を、理解してください」

 

 単なる性癖だとか、変態だとか、そういう言葉では済まされない複雑な感情が、彼女の言葉には込められている。これは尋常でないと思い、ロレナは慎重に言葉を選んだ。

 

「あなたの愛を否定したつもりはありませんわ。私は自分のしたいことをしているだけだもの」

 

 アリアは何も言わない。彼女の「痛みは愛」という言葉は、想像以上に重いものだったらしい。余計なことを言うと取り返しがつかないことになりそうだったため、ロレナは彼女にかけるべき言葉を考えた。

 

「……ん?」

「……あ」

 

 その時、誰かと目が合った。溶けた飴のように艶やかな赤の瞳は、ミアのものである。この姿を見られては、どう取り繕っても無駄だろう。ロレナは乾いた笑みが漏れるのを感じた。

 

「何してるんですか、こんなところで」

 

 ドン引きの体である。側から見ればロレナは後輩に縛られている変態なのだろう。同い年ではあるものの、アリアの学年はロレナの一個下である。入学する年齢は皆一緒というわけではないため、こういうことが起こり得るのだ。

 

「愛についてロレナさんに知ってもらってました!」

「そ、そうなんだ……」

 

 ミアは一歩下がって言う。

 

「愛は人それぞれだから、否定はできない……でも、うぅ……それがロレナさんの趣味だとしたら……」

 

 懊悩した様子で、ミアは何かをぶつぶつと呟いている。何かよからぬ気配を感じて、ロレナは身動ぎをした。縛られているために手振りで彼女を止めることはできないし、声はすでに届かなそうである。

 

「わかりました!」

 

 ミアはロレナに顔を近づけてくる。息がかかりそうなほど近くに迫ったミアの顔は、決意に満ち溢れている。

 

「私も頑張ります! 明日までにはきっとできるようになってますから、待っててください!」

「ちょっ……何を勘違いしておりますの? ミア? ミア! 待ちなさい!」

 

 ミアは早合点をした様子でどこかに走り去っていく。その背中は、いつもよりも大きく見えた。ロレナは茫然と彼女の背中を見送ってから、アリアに目を向けた。彼女は目をぱちくりさせてから、ミアが去っていった方を一瞥した。

 

「えへへ……あの人も私の愛、認めてくれるかな」

 

 痛みは愛だと自信を持って言っていた様子だったのに、誰かにそれを認めてもらおうとするのはなぜだろう、と思う。ロレナは釈然としないものを感じながら、辺りを見渡した。生徒たちは今の光景を見てざわついている。ロレナはほんの少しだけ恥ずかしくなった。

 

「……とりあえず場所、移動しませんこと? ここじゃ育める愛も育めなくなりますわ」

「うーん……そうですね! じゃあ、私の部屋に行きましょう!」

 

 彼女は意気揚々と立ち上がり、ロレナを横抱きにした。体格は彼女の方が僅かにいいため、ロレナを持ち上げても平気らしい。

 

「重くないんですの?」

「軽いです! とても!」

「……そう」

 

 アリアはそのまま軽やかに歩き出す。その嬉しそうな顔を見て、ロレナは何とも言えない気持ちになった。何かが歪んでいて、決定的に間違っている。そうは思うのだが、今は何も言うことができず、ロレナは口を噤んだ。

 



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7 交差する歪み

 靴の裏から、砂利の感触がじわりと伝わってくる。

 ロレナはいつの間にか下がっていた頭を上げた。青々とした山林がどこまでも続いている。木々の隙間から差し込む光が眩しくて、ロレナは目を細めた。夏の山には清涼な空気が満ちており、歩いていると清々しい気持ちになりそうなものなのだが、ロレナの体は重かった。

 

「ロレナさん、大丈夫ですか?」

 

 前を歩くミアが振り返る。ロレナは荒く息を吐きながら、彼女を睨みつけた。

 

「これが大丈夫に見えまして?」

「見えないです。……でも、たまにこうして山に来ると気持ちよくないですか?」

 

 酒を飲みながら運動をすると、酔いが全身に回って苦しくなる。

 

「気持ち悪いですわ。今すぐにでも倒れそうなほどに」

「そう言いながらお酒飲むのやめてくださいよ!」

「嫌ですわ! これは私の命の水ですのよ!」

 

 ロレナは酒瓶を片手に登山していた。魔法があるため、よほどのことがなければ事故は起こらないし、魔物もミアがいれば対処可能である。しかし、今日はいつも以上に痛みが強く、酒を絶え間なく飲んでいないと死んでしまいそうだった。

 

 ロレナはある程度アルコールに強い体質らしく、そう簡単に吐くこともないし、二日酔いになることはほとんどないのだが、やはり気持ち悪くなるのは確かだった。

 

 魔物に殺される前に臓器の病気で死にそうではあるが、自分の行為の結果死ぬのであれば、事故で死ぬよりは上等だろう。もっとも、それは効果的な死とは言えないのだろうが。

 

「すみません、僕の我が儘に付き合わせてしまって……」

 

 ロレナと歩調を合わせて歩いている少年、ライン・ベネットが申し訳なさそうな様子で頭を下げる。ロレナと同い年の小柄な少年に頭を下げられていると、自分がひどく悪いことをしているような気分になる。

 

「全くですわ。こんな一銭にもならない仕事、本当はやりたくないもの」

「でもロレナさん、頼み事は大体断りませんよね」

「実績作りのためですわ。どんな些細な依頼にせよ、断らずに請負っていけば、いつか大きな仕事が来るものよ」

 

 足が鉛のように重い。見えている世界がひどく歪んでいるように思えて、ロレナはゆっくりと息を吐いた。

 

「それに、あいつはあんなしょぼい頼み事を断ったんだ、なんて思われたら私の面目丸潰れですもの」

「……素直じゃないですね」

「あら、私ほど素直な人間そうそういなくてよ?」

 

 ロレナの実績はミアの実績である。自分勝手にロレナが行動すればするほど、ミアの評価が上がり、今後の彼女の活動が円滑に行われるようになるはずである。人の頼み事を聞いているのは自分のためだが、そういう効果も期待できると考えると、悪いものではないと思う。ミアが死ぬ危険性があることを考えなければ、であるが。

 

 とはいえ、彼女も大概に頑固な人間だ。ロレナと相性の良い人物として選ばれたのだから、それも当然なのかもしれない。

 

 そのため、彼女が前線で戦うと決めたのなら止めても無駄なのだ。

 他の巫女の仕事を奪うことをやめることはできないのだから、あとはロレナができる限りミアを守っていくしかない。

 

「ありがとうございます、ウィンドミルさん」

 

 ラインは深々と頭を下げた。その仕草はひどく仰々しい。

 

「礼には及びませんわ。あなたは私たちを利用して、自分の目的を果たすことを考えていればいいんですわ。……それより」

 

 ロレナはラインの反対側に目を向けた。その瞬間、鮮やかな緑色の瞳と視線が交差した。そういえば、この前飲んだ酒は彼女の瞳と似たような色だったな、と少し思う。

 

「何であなたまでいるんですの? ハーミットさん」

 

 アリアはにこりと笑った。

 

「ロレナさんと愛を深めようって思ったからです!」

「えぇ……? それ、別に学園でもできますわよね?」

「善は急げってやつです!」

「善……?」

 

 アリアは無垢な笑みを浮かべている。その表情は、先日の奇妙な様子が嘘だったかのように透き通ったものだった。ロレナは呆れたような表情を浮かべながら、どうしたものかと考えを巡らせた。

 

 あれから色々と考えたのだが、アリアに対してどう接するのが正解なのか、ロレナにはよく分からなかった。

 本編ではアリアはただのマゾヒストの変態としてしか描かれていなかったのだ。しかし、彼女はロレナの想像以上に、痛みというものに意味を見出している様子である。緊縛趣味に付き合っていれば彼女は満たされるものだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。

 

 アリアは巫女たちの痛みを見抜き、多くの巫女が痛みに苦しんでいる様を見て、愛が学園に満たされていると考え、幸福を感じていたのだろう。それを崩したのはロレナである。巫女たちの痛みを取り除くべく動いた結果、思わぬところに歪みが出てしまっている。

 

 その歪みを正すのがロレナの責任、といえなくはない。だが、その手段は思いつかない。巫女たちの状態を以前と同じように戻すのはもっての他である。

 

 それに、今のところアリアは巫女たちのように死のうともしていないし、しばらくは様子見で問題はないようにも思えるのだ。

 

 だが、言い知れない嫌な予感のようなものが胸に蟠っている。

 自分勝手に生きると決めたのに、その結果生まれた歪みを正そうとするのは、ひどく滑稽なことのように思えた。

 

 馬鹿げた生き方である。だが、生き方を変えるつもりはない。この人生の果てに何が待っているのかは分からないが、この世界にはミアがいるのだ。少なくともロレナが死した後の事は心配しなくていい。

 ロレナは好きに生きて、最後はミアに任せる。それでいいはずなのだ。

 

「ベネットさん、あなたよくこの子と同室でいられますわね……」

「あ、あはは……で、でもハーミットさんはいい子ですから! その、少し趣味が難しいだけで……」

 

 必死のフォローは尻切れトンボになって消えていく。彼はゆっくりと歩きながらアリアに目を向ける。それに合わせて、炎のような赤い髪が揺れた。

 

「ロレナさんは理解してくれてるから、いいんです」

 

 アリアは静かな声で呟く。ロレナはその瞳に奇妙な色があるのを認めた。

 

「別に私はあなたの性癖について理解したとは言っていませんが……」

 

 若草のような瞳が頼りなく揺れる。ロレナはため息をついた。

 

「ま、あなたがそう思うのなら、今はそれでもいいですわ」

 

 彼女はぱっと表情を明るくさせた。

 

「えへへ、やっぱりロレナさんは優しいです! もっと私と愛を育みましょう!」

 

 そう言って、彼女はロレナの腕に抱きついてくる。

 

「あなたに愛を育もうって言われると鳥肌が立ちますわね」

「何でですか?」

 

 ふわりと揺れた彼女のスカートの下に、麻縄が見えた。どうやら、練習の成果が出ているらしい。きつく縛られた体を見てしまったロレナは、思わず苦笑した。

 

「分からないならいいですわ。それより歩きづらいから離れてくださいな」

「いやです!」

「えぇ……?」

 

 アリアは抱きついたまま勢いよく砂利道を駆けていく。ロレナは頭がぐらぐらするのを感じながら、必死に彼女についていく。

 

 彼女の顔には、今のところ妙な感情が浮かんでいない。このまま今日を終えられたらいいのだが。そう思いながら、ロレナは今にも倒れそうな体を動かした。

 

 

 

 

 山頂に着く頃には、ロレナは一歩も動けないほどに疲弊していた。酒を飲むようになってから体力がなくなってきたのもある。だが、巫女に痛みを与える術式の残した後遺症が何よりも体を蝕んでいるのだ。

 

 だからロレナの寿命は、もう数年程度しか残っていない。ラウロはそう言っていた。彼の言葉をどこまで信じていいのかは疑問だが、嘘でも本当でも、どちらでもいい話である。

 

 ロレナは山頂に設置された木のベンチで横になりながら、ぼんやりと空を眺めた。ミアとアリアがはしゃいでいる声が遠くから聞こえてくる。そんな中で、隣のベンチから静かな息遣いを感じた。

 

 ラインは生命力を操る特殊な魔法の持ち主である。自分の生命力を他者に分けたり、生命力を活性化させることで様々な効果を得たりすることができるらしいのだが、それを使うためには、定期的に自然に触れる必要があるらしい。ロレナは本編をプレイしたことがあるために知っていたが、今日改めてラインから説明を受けた。

 

 そういう事情があるため、ラインはこうして山に来ているのだ。魔物の出現さえなければ彼の護衛は他の巫女たちに任せても構わないのだが、この山にはかなりの頻度で魔物が出現するため、ロレナが来ざるを得なかった。

 

「……どうしてこの山を選んだんですの?」

 

 集中している様子だったので、答えは期待していなかった。しかし、彼は意外にも閉じていた目を開けて、ロレナの方を向いた。金色の瞳が、太陽のように輝いている。

 

「ここが一番、自然の力が満ちているんです」

 

 彼は十二歳の少年とは思えないほどに穏やかな表情で言う。この世界では、中々見られない表情である。

 

「魔法の使用条件を満たすのに一番ちょうどいい、ということですの?」

「はい。……でも、それだけじゃありませんよ」

 

 ラインは辺りを見渡した。

 

「大きな自然の力は人の愛みたいで、それを感じてると……何だか落ち着くんです。えっと、すみません、変なこと言って」

 

 ラインは恥ずかしげに笑う。自然の力を感じることはできないためによくわからないが、愛の力が流れ込んでくる感覚は心地良いものなのだと、前にミアが言っていた記憶がある。それと似たようなものなのだろう。

 

「母なる大地の力、というやつですわね。そういう意味で行くと、あなたはマザコンなのかしら」

「あはは、そうかもしれないです」

 

 ラインは屈託のない笑みをみせた。攻略対象の中だと、ラインとヘクターは比較的素直だが、ラウロとランドルフは曲者であるため、バランスはいいのかもしれない。ロレナはそう思いながら、ぼんやりとその顔を眺めた。

 

「僕は、皆を包み込めるようなものが愛だと思ってます。……ウィンドミルさんはどうですか?」

 

 再び目を閉じて、ラインは問う。それは自分の考えを確認するような口調であった。雑談として処理するには、愛というテーマは重すぎる。だが、この世界では愛は割と気軽に語られるものだ。それでもロレナはまだ愛というものを理解できていない。

 

「さあ。少なくとも、小さな喜びを分かち合って幸せになれる関係は、愛と呼べるのではなくて?」

 

 愛についてよく分からないロレナも、痛みによって絞り出す愛が間違っていることはわかる。そんな方法で絞り出した愛で魔物と戦い続けても、最後には全てが瓦解するのは目に見えているのだ。とはいえ、それをわかっていても、長年維持されてきたシステムを壊すのはきっと怖いのだろう。

 

「そうですね。それはきっと、素敵な愛だと思います」

「あなたの瞳には、全ての愛が素敵に見えそうですわね」

 

 ラインは微かに体をこわばらせた。

 

「そうでもありませんよ。僕にだって、受け入れられない愛はあります」

 

 そういえば、本編における彼は自力で巫女の痛みに辿り着いた数少ない人間の一人だったか。他の攻略対象も痛みに気づくことが多かったために普通のことのように思っていたが、この世界で巫女の真実に辿り着けるのは異常である。

 

 真実にたどり着かれてしまったら、システムの根幹が崩れてしまうのだ。だから、そう簡単には真実にたどり着かないようになっている。

 

 しかし、アリアもそうだが、ラウロなどの奇妙な人物が立て続けに生まれているこの時代は、歴史の転換点といってもいいのだろう。開発者が意図的にそういう設定にしたといえばそれまでだが、ロレナは何か運命的なものを感じていた。

 

「……そう。ま、そんなものですわよね、人間」

「ロレナさん!」

 

 不意に、遠くからアリアが駆けてきて、ロレナの手を握ってくる。

 

「休憩は終わりましたか?」

「あと一億年くらいは待ってほしいですわね」

「じゃあ、私と愛を育みましょう!」

「私の話聞いてまして!?」

 

 ロレナは立ち上がり、彼女の手を握り返した。今は彼女からあまり目を離すべきでないように思える。体の調子は悪いが、今のところ魔物も現れていないため、少しくらいならば遊んでいても問題はないだろう。

 

「ああ、もう! 仕方ありませんわね! ハーミットさんは何をしたいんですの! さあ、言ってみなさい?」

 

 アリアは微笑みかけてくる。

 

「ロレナさんにもっと……もっと縛ってほしいんです。私の愛が、間違っていないって証明してもらうために」

 

 その声はひどく濁って聞こえた。しかし、耳に残る彼女の声は、確かに透き通ったものだった。酔いが回りすぎているのだろうか。それとも、彼女が何かおかしくなっているのか。いや、両方かもしれない。

 

「もっともっと、もっと痛くしてください。私の全部が、塗り潰されてしまうくらいに」

「……ハーミットさん?」

 

 やはり、様子がおかしい。彼女は笑ってはいるものの、瞳が濁っている。このままではまずい予感がして、ロレナは口を開こうとした。その時、奇妙な浮遊感で下腹部がふわふわとした。少し遅れて、硬いものが音を立てて崩れたような轟音が辺りに響き渡る。思わず辺りを見渡すと、地面が崩れているのがわかった。

 

「は……」

 

 ロレナは絶句したが、すぐに何かしらの魔法を使おうとした。しかし、頭がひどく痛くてうまく魔法を使うことができない。酒のせいだと思っていると、額から生温かい液体が伝ってくる。触ってみると、それは血だった。どうやら、飛来した礫か何かで頭を切ってしまったらしい。

 

 昔のように風魔法を自在に使うことができればこのような状況でもどうにかなったのだろうが、自己改造の影響で風魔法は以前よりもうまく使えなくなっている。しっかりと魔力を練らなければ、発動すらもさせられないほどに。

 

 ロレナは意識が遠のくのを感じた。勢いよく落下しているためか、頭を怪我したためか、どちらなのかは分からなかったが、どれだけ頑張っても意識は薄くなる一方である。耐えられなくなったロレナは、そのまま意識を手放した。

 

 

 

 

 砂と石が流れる音で、目が覚める。ロレナはゆっくりと上体を起こし、辺りを見渡した。どうやら落ちた先は洞窟だったらしい。崩落した地面や岩石によって道が塞がれており、元の場所に戻るのは困難のようである。

 

 どれだけ落ちたのかは分からないが、よく生きているものだと思う。立ち上がろうとすると、足に鋭い痛みが走る。さすがに無事では済まなかったらしい。見れば、全身の至る所から血が流れている。

 

 ロレナは痛みに耐えながら歩き始めた。動けなくなるほどの痛みではないが、酒を飲んでおくべきだろう。

 ロレナは背負ってきた背嚢の中身を見た。酒瓶は全て割れてしまっている。漏れ出したワインの匂いが鼻をつく。ロレナは少し迷ってから、背嚢に溜まったワインを一気に飲み干した。

 

 瓶の破片が口に入り、口内が切れる感じがした。後遺症による痛みがいつくるかも分からないため、痛覚は鈍らせておくに越したことはない。ロレナは瓶の破片を吐き出し、血なのかワインなのか分からない液体を飲み込んだ。

 

 アルコールのにおいとワインの匂いに、血のにおいが混ざる。ロレナは頭がくらくらするのを感じながら、暗い洞窟内を歩く。

 

 近くに人はいないらしく、辺りにはロレナの足音が響くのみである。小さな光魔法を使って歩いてみるが、一寸先を見通すことも難しい。目を暗順応させた方がいいとは思いながら、ロレナは先へと進んだ。

 

 暗闇の中を一人で歩いていると、少しだけ心許ない感じがする。両足が地面を蹴る音が一定のリズムを刻み、奇妙な音楽のようになって耳に響いた。絶えず魔法で音を集めていると、静かな足音すらもひどい騒音に感じられる。

 

 ひどく体が重かった。酔いはすでに回っているはずなのに、あまり楽しい気分になれない。

 そもそも、どうして地面が崩落したのだろうか。少なくともこの山は、自然に崩落するような環境ではなかったはずだ。だが、人間に反応して地面を破壊できるほどの力を持つ魔物もまた、この山にはいない。

 

 魔物が単体でそこまで強大な力を持つことはほとんどない。物語のラスボスとして登場した魔物は全ての巫女の憎しみが集まって生まれた存在であり、異常なまでの力を持っていた。しかし、彼女のように特定の憎しみが集まって生まれる魔物は稀である。

 

 いかに王都に多くの人が集まっているといえど、そう簡単にラスボスのような魔物が生まれるとは思えない。

 ラスボスが生まれるのは物語終盤だし、ロレナの活動によって多少状況が変わっているとしても、そこまで劇的に世界が変わることはないはずだ。

 

 アルコールに浸された脳で地面崩落の原因を考えながら歩いていると、不意に奇妙な音が聞こえた。足音に混ざって響いているその音は、ひどく生々しい音である。まるで、誰かが大口を開けてものを食べているかのような。

 

 ロレナはぴたりと止まった。洞窟の分岐点まで歩いてきたらしく、すぐ横に違う道が見える。ロレナはその先を光魔法で照らした。

 

 その瞬間、ロレナは近くにあった石を拾い、明るくなった場所に向かって石を投擲した。

 赤い目が、光魔法に照らされて爛々と光っている。

 それは巨大な蟻であった。

 

 蟻は瞳を光らせながら、何かに食らいついている。野球ボールほどのサイズの石が当たった蟻は咀嚼を一旦止め、ロレナの方を向いた。

 

「なあに、その目は」

「kshyyyy……キキ……ギ……」

「何を言っているかわかりませんわ」

 

 魔物なのは一目瞭然である。ミアと離れ離れになっているため、消滅させることはできないが、それでも倒すことはできる。他の地域で再出現してしまうのは確かだが、その時はミアと一緒に倒しに行けばいいだけの話である。

 

 ロレナは蟻に向かって駆け出した。直接戦闘にはある程度慣れているため、一体程度の魔物に苦戦することはない。

 そう思い、転がった石を拾い上げて蟻を殴打しようとした時だった。

 腕を、何者かに掴まれた。

 

 掌から石が零れ落ち、素早い動きで迫ってきた蟻に肩を噛まれる。ロレナは眉を顰めながら、自分を止めてきた人物を睨みつけた。

 

「どういうつもりですの、ハーミットさん」

 

 先ほどまで蟻に咀嚼されていた少女、アリアは怪しい笑みを浮かべながら、蟻に齧られるロレナを愛おしげに見つめている。

 

「えへへ……」

 

 恍惚とした様子で、アリアは蕩けた声を出す。ロレナはぞくりと背筋が震えるのを感じた。

 

「ハーミットさん! 聞いておりますの?」

 

 意外にも、アリアの力は強い。ロレナは抵抗しようとしたが、肩を噛まれているせいで力が入らない。それに加え、先ほどよりも多くのアルコールを摂取したために、体から力が抜けているようだった。

 

「感じてください、ロレナさんも。この痛みを、心地良い愛を」

 

 アリアは赤く染まった傷口を撫でた。赤子を撫でるような優しげな手つきである。

 

「これが……こんなものが愛だと言うんですの?」

「痛いのは愛なんです。それは間違いないはずなんです」

 

 肩が喰われていく感触がひどく遠い。あまり時間をかけていると、腕一本を失うことになる。そうなったら今後の活動に支障をきたすため、どうにかしなければならない。

 

「……学園に愛が足りなくなったのは、ロレナさんがちゃんと愛を理解してないからだと思うんです」

 

 愛を理解していないというのはその通りだが、彼女が言う愛を、ロレナは愛とは認められなかった。

 

「もっと痛みを知ってもらえば、もっと痛くしてもらえば、きっとロレナさんもわかってくると思うんです!」

 

 アリアは無垢な笑みを浮かべた。その笑みは、いつも浮かべているものと何も変わらない。彼女がここまで歪な存在だとは思っていなかった。想定が甘かったと思うが、後の祭りである。

 

「ほら、だからロレナさんももっと味わってください。その痛みを」

 

 アリアは蟻に噛まれているロレナの肩を愛おしむように撫でる。

 

「私を痛めつけてください。私を染めてください。それで、また学園を愛で満たすんです。もう二度と、愛がなくならないように」

 

 甘やかな声だった。頭の中枢に染み渡るような、透明で甘ったるい声が洞窟内に反響する。ロレナは深く息を吐いて、全身に力を込めた。

 

「お断りしますわ」

 

 ロレナは雑に魔力を放出しながら、さらに力を込める。だが、まだ足りない。

 足りない分は気合で補うしかないと思い、ロレナは叫び声を上げた。アリアの甘い声が自分の声に上書きされると同時に、急速に酔いが冷めていく。ロレナは痛む体を動かし、蟻の頭部を自分の肩から引き剥がした。

 

 そして、蟻の腹部に思い切り蹴りを入れる。蟻は勢いよく吹き飛び、ゴロゴロと転がって壁に激突した。鈍い音が響くと同時にしばらくは痙攣していたが、やがて蟻はぴくりとも動かなくなり、光に溶けるように消えていった。

 

「はぁ……ふぅ。私の肩はスルメじゃありませんことよ」

 

 アリアは呆然とした様子で蟻が消えていった方を見つめている。

 

「……なんで」

 

 泣き出しそうな声である。

 

「私の世界を壊さないで、私の世界を否定しないで。私の愛をロレナさんに否定されちゃったら、もう……」

 

 なぜ彼女がここまで歪んでいるのか、ロレナには分からない。自分が何をすべきなのかも分からない。しかし、このまま放って置いたら彼女は痛みを求めて魔物のところに行って死んでしまうだろう。それは少し、気に入らない。

 

「……宣言しますわ」

 

 ロレナは彼女の頭を軽く叩いてから、両頬を掴んで無理やり自分の方に視線を向けさせた。

 

「私はあなたの愛を否定するわ」

「……ロレナさんは、そんなに私のことが嫌いなんですか?」

 

 アリアはついに、瞳から涙を溢し始めた。鮮やかな緑色の瞳から流れる涙は、米酒とは違って無色である。ロレナは険しい表情を作ってみせた。

 

「いいえ。あなたのことは個人的に嫌いではないけれど、あなたの愛は別ですわ」

 

 ロレナはそう言って、彼女の涙を指で拭った。

 

「あんな蟻畜生に与えられた痛みを愛なんて言うのは許しませんわ。だったら私が今まであなたの緊縛趣味に付き合ってきたのは何だったんだって話になるもの」

 

 ロレナは彼女の頬を引っ張り、得意げに笑った。

 

「だから、私があなたに別の愛を教えてあげますわ! 痛みよりも素晴らしい愛があるってこと、私が嫌ってほど理解させますわ!」

 

 アリアは目を丸くしている。さすがにこの言葉は予想外だったらしい。

 

「それでもやっぱり痛みが大事なら、もうお手上げ。好きにすればいいですわ。でも、もし私が教える愛の方が優れていると思ったのなら……その時は私に従ってもらいますわ」

 

 ロレナは自分の傷口を、彼女の傷口に合わせた。溢れ出した鮮血が混ざり合って、痛いほどのにおいが鼻を突く。ロレナは微かに痛みを感じたが、アリアは少し心地良さそうにしている。

 

「真剣勝負といきましょう。私の愛とあなたの愛、どちらが優れているか」

「……もし私の方が優れていたら、私に従ってくれるんですか?」

「それはもう。頭の先から爪先まで、全部あなたの好きにすればいいですわ」

 

 アリアは目を細めて、肩から流れる血を指で拭った。

 

「えへへ、いいですよ。私が勝ったら、全部、全部私のものです」

 

 アリアは血を舐め取りながら、うっとりとした様子で言う。

 まだ安堵するには早いのだろうが、今のところアリアがまた妙な行動をとることはなさそうだと思い、ロレナは少しだけ安心した。

 

 その時、魔法が辺りの音を感じ取った。硬いものが地面と擦れる音が無数に聞こえてくる。どうやら、魔物のお出ましらしい。ロレナはアリアの前に立った。それから数秒で、視界を埋め尽くすほど多くの蟻が洞窟の奥からやってくる。ロレナは苦笑が漏れるのを感じた。

 

「でかい蟻がここまでいるときもいですわね」

「キキキ……ギギ……shyyyyy……」

 

 ロレナは軽口を叩きながら、アリアの手を引いた。その手は微かに震えている。蟻たちはギリギリと顎を動かしながら、様子を窺うようにゆっくりとロレナ達に近づいてきている。

 

「……あなた、痛みは愛だと言う割にこの状況は怖いんですのね」

 

 アリアは答えない。しかし、図星のようだった。やはり、どこか歪んでいると思う。自分の体を魔物に喰われて喜んでいたが、アリアには確かに死の恐怖があるように見える。痛めつけられるのと死ぬのは別物ではあるのかもしれないが、痛みが愛ならば、痛みの先に待っている死すらも愛になるのではないかと思う。彼女の中では、どのように線引きされているのだろう。

 

「ま、いいですわ。どうせ逃げられないんだもの。せいぜい踊って差し上げますわ」

 

 蟻の動きはロレナよりも速いのだ。どう考えても、震えるアリアを連れて逃げられるような相手ではなかった。仕方がないと思い、ロレナは彼女を守りながら戦うことを決意した。

 

 考えてみれば、今この時こそ、死ぬには良いタイミングなのではないかと思う。

 ロレナはアリアを軽く後ろに下がらせて、その体に防御魔法をかけた。彼女はひどく不安げな表情でロレナを見つめている。ここでロレナが死んだら、アリアは余計に歪むかもしれない。

 とはいえ、最終的にロレナが死ぬことには変わらないのだ。それについては考えるだけ無駄というものだろう。

 

「私にとって、痛みは忌避するものですわ。誰かが痛みに震えているところを見ているとイライラするもの」

 

 ロレナはそう呟いてから、蟻の群れに向かって走り出した。同時に、蟻たちが弾かれたようにロレナに襲いかかって来る。ロレナは身を低くしながら、ロレナを噛み砕こうとする彼らの顎から逃れようとする。

 

 しかし、数が多すぎるために避け切ることはできなかった。蟻同士がぶつかって鈍い音を立てながら、ロレナに雪崩れ込んでくる。蟻の波に飲まれたロレナは、自分の体が食われていくのを感じた。

 

「私以外の人間は、いつでも笑っていればいいのよ。知的なことで頭を悩ませたり、天才すぎるあまり頭が痛くなったりするのは私だけで十分ですわ!」

 

 聞こえているのかはわからなかったが、ロレナはできる限り大きな声で叫んだ。虚しい言葉は広い洞窟の中に延々と反響する。ロレナは自分の体に噛みつく蟻の頭を殴打しながら、背後を振り返った。

 

 震えるアリアの姿が見える。彼女の頬には一筋の涙が伝っていた。その涙は、どんな感情によって流れているのだろう。ロレナは少し疑問に思ったが、それどころではなかった。

 

 数匹の蟻がアリアの方に向かおうとする。防御魔法はかけているが、彼女の元に行かせてはならないだろう。ロレナはどうにか風魔法を使ってそれを止めた。それに気付いた蟻が、苛立ったようにロレナの方に飛びかかって来る。夏の道端で力尽きて蟻に喰われる蝉の気持ちが、今なら理解できる気がする。

 

 このまま死んだら、来世は蝉に生まれ変わるのだろうか。それとも、今度は別のゲームの登場人物になるのだろうか。どちらにしても、転生などしてしまったら、暗い未来に進むことしかできなくなるだろう。

 

 転生させてくれなど、誰も頼んでいないのだ。死んだまま、永遠に覚めない眠りが訪れてくれればそれでよかった。そうすれば、奪われた幸福に心を蝕まれて苦しむこともなかったというのに。

 

「不幸せそうな顔で泣くのなら、その理由を考えなさい。それが分かったのなら、私に教えなさい。理由を教えてくれたら、私が全部それを破壊して差し上げますわ!」

 

 誰かが泣くのは気に入らない。少なくとも、ロレナが生きている間だけは、目の前に広がる悲しみを少しでも壊せればいいと思うのだ。

 

 それはきっと、自分のように辛気臭い気持ちで生きる人間を見るのが嫌だからという、勝手な理由でしかないのだろう。全く高尚でないし、人に褒められる理由でもない。だが、それが今のロレナなのだ。

 

 自分の心を埋めて欲しいわけではない。ただ、気に入らないものを自分の手で壊したいだけだ。それくらいしか、ロレナがしたいことはないはずなのだから。

 

「それが無理なら、今は見ているだけでいいですわ」

 

 ロレナは凄まじい勢いで何かが近づいてきているのを感じた。無駄に大きな声を出していた甲斐があったのだろうか。そう思い、ロレナはふっと笑った。

 

「さあ、見るがいいですわ、私の愛を! ……ミア!」

「了解です、ロレナさん!」

 

 走ってきたミアが、そのまま光線をロレナに向かって発射する。その瞬間、ロレナに噛み付いていた無数の蟻は跡形もなく消滅する。ロレナは思わず膝をついた。愛の力の行使によって全身を激痛が襲っているのもあるが、何よりも、魔物が消滅して気が抜けたためである。

 

 体の感覚がほとんどないのに、体の内側に生じた痛みだけ鮮明に感じるのが不気味だった。

 自分に防御魔法をかけなかったのは、失敗だったかもしれない。この場で死ぬか迷った結果、中途半端なことをしてしまった。だが、何となく、ミアはロレナが死ぬ前に来るだろうという予感はしていたのだ。

 

 今ここで死ねば、彼女の物語も早めに始まるのかもしれない。痛みと安堵で意識が遠のいているせいか、ロレナはうまく頭を働かせることができなかった。

 

「ロレナさん、ロレナさん!」

「落ち着いてください、レックスさん!」

 

 ミアとラインの声が聞こえる。ロレナは地面に倒れ込み、目を瞑った。地面の感触は遠いものの、冷たくて心地良いような気がする。いや、もしかすると、体の方が冷たくなっているのかもしれない。

 

 ふと思う。果たして、効果的な死とはどのようなものなのだろうか、と。漠然と考えていたが、ロレナの死はミアにとって、攻略対象と仲を深めるきっかけとなる出来事になるべきなのだと改めて思う。そういう意味で考えると、今死ぬのが一番良いタイミングな気がしてくる。

 

 ちょうど、ミアと攻略対象のラインが一緒にいるため、これがきっかけで仲良くならないだろうか。そんなことを考えながら、ロレナは息を吐いた。久しぶりに、安眠できそうな心地がした。

 



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8 それは愛?

「地獄から帰ってきた気分はどうですか、ロレナ」

 

 楽しげな声が耳に飛び込んでくる。そっと目を開けると、満面の笑みを浮かべたラウロの姿が見えた。ロレナは彼から視線を逸らして、辺りを見渡した。いくつものベッドが並んだこの部屋は、保健室のようだった。

 

 ロレナはふと、妙に呼吸がしやすいのに気がついた。胸につかえていた何かが取れたような心地である。ロレナは消毒液の匂いと、濃密なコーヒーの匂いを感じた。ちらと机の方を見ると、いつものように二人分のカップが用意されている。

 

 湯気が出ているところを見るに、ロレナが起きる時間を予測していたのだろうか。やはり、彼は底が知れなくて恐ろしい。ロレナは深く息を吐いた。

 

「最悪ですわね。再び目覚めてしまったことも……起き抜けにあなたの顔を見る羽目になったことも」

「おや、手厳しいですね」

 

 ラウロはカップを差し出してくる。ロレナはそれを受け取って、立ち上る湯気をぼんやりと眺めた。

 

「しかし、ベネット君の力は凄いですよ。あの状態の君をほぼ無傷まで持っていくことができるとは」

 

 なるほど、と思う。ラインの力は治癒ではなく、あくまで生命力を分け与えているに過ぎないのだ。だからロレナの傷を治すことができたのだろう。

 確か、生命力を誰かに与えると激しい運動をした時と同じくらいに疲れてしまうという設定があったはずだ。そして、一度力を使うと、再び力が使えるようになるまで時間がかかるのだ。彼には後で礼と謝罪をしておくべきだろう。

 

「彼を見て確信しましたよ。人は己の身に制約を課すことで他と隔絶した力を得ることができるのだと」

 

 彼は低い声で呟いた。ロレナはカップに口をつけながら、現実とは違う何かを見つめているらしい灰色の瞳を一瞥した。

 

「ある者は定期的に星の生命に触れなければならなくなる代わりに生命を操る力を得、ある者は自身を救えなくなる代わりに他者を救う力を得、そしてある者は……」

 

 ラウロは曇り空のような瞳にロレナの姿を映す。ロレナは少し寒気がして、熱いコーヒーを飲み込んだ。

 

「……不思議なのは、ウィンドミル家の中で君だけがそうなったことです」

 

 ラウロはカップに口をつけた。こう見えて彼は貴族の出であるため、所作が洗練されているように見える。だが、何をどうしたら、愛情至上主義のこの国の貴族から彼のような人物が生まれるのだろう。

 

「本来ウィンドミルは風魔法を得意とする一族です。僕の調べた限りでは、君もまた数年前まで風魔法と光魔法を得意としていたはず」

 

 確か、自己改造を行なったのは三年前だったか。あの頃のことは鮮明に思い出せなくなっているのだが、確か自己改造に関する資料を見たような気がする。考えてみれば、幼少期の記憶はほとんど抜け落ちてしまっているのだ。

 

 かろうじてランドルフに迷惑をかけたことや、その頃の気持ちを薄らと思い出せるのだが、具体的なエピソードがあまり出てこない。

 

 それはなぜなのだろうか。前世の記憶は鮮明に残っているのに、今世の記憶が薄いのは奇妙である。いや、だが、どうせ死ぬのならそんな疑問も無意味だろう。それに、忘れたことは思い出さない方がいいのだ。昔の記憶など、自分を苦しめるだけなのだから。

 

「それが唐突に変化した。……後学のために、その理由を教えて欲しいですね」

「ふん、そんなの自分で勝手に調べればいいですわ」

「つれないですね。……とはいえ、君の言う通りです。僕なりの答えが見つかったら、答え合わせに付き合ってもらうとしましょう」

 

 ロレナはため息をついた。

 

「付き合いたくない……と言っても無駄なんでしょうね。全く、どうしてあなたのような人が医者をやっているのかしら」

「はは、それを言ったら君が巫女をやっているのも不思議ですよ」

「それは私も思いますわ。私にあるのは自己愛だけのはずなのだけれど」

 

 ロレナはカップをくるくると回した。コーヒーの香りが鼻腔をくすぐり、少しだけ気分が落ち着く。ラインの力の影響か、今日は少し痛みが薄い。そのおかげか、コーヒーの匂いを楽しむことができた。

 

「愛とは複雑怪奇なものです。自分の気づかないところに、思わぬ愛が埋まっていたりもする」

「珍しいですわね、あなたが愛について語るなんて」

「いえ。……君を見ていたら少し、そう思っただけですよ」

 

 ラウロはふっと微笑んでみせた。本編でミアに付き纏っていたラウロは、確かに彼女を気に入っている様子だった。だが、彼女を愛していたのかどうかはわからない。そもそも、ラウロに愛などという感情はあるのだろうか。彼にあるのは、実験動物に対する興味や好奇心だけに思える。

 

「君の心の奥底に埋まった愛は、どうなるのか。その愛に気付いたら、君はどう変化するのか。僕はそれを楽しみにしていますよ」

「……相変わらず、何を言っているのかわかりませんわね」

 

 ロレナはコーヒーを飲み干して立ち上がった。彼にカップを返して、ロレナは足早に扉の方に向かう。ロレナにあるのは自分を愛し、大切にする気持ちのみである。それ以外は必要ないのだ。

 

「死んでしまったら全部終わりなのに、どうして人のことなんて愛すのかしらね」

 

 ロレナはそう呟いて、扉を開いた。なぜこんなことを口にしたのかは、自分でもよくわからなかった。

 

「終わりがくるからこそ、その時関わった誰かを愛さずにはいられない。それが普通の人間なのでしょう」

 

 ラウロは静かに声をかけてくる。

 

「……もっともらしいことですわね。やっぱり、私にはわかりませんわ」

 

 ロレナはそのまま保健室を後にした。

 誰かを愛する気持ちなど、ロレナにはきっと永遠に理解できないのだ。たとえ巫女としてミアを愛していると認められているのだとしても、好意と愛はまた別物のはずである。ミアが愛の力を使っているのは事実だが、それが本当に自分の愛から生まれたものだと確信することはできていない。愛とは一体何なのだろう。一瞬そう思ったが、ロレナは自分を大切にすることこそが愛だと思い直した。

 

 あとは、アリアに負けないように自分への愛を大事にしていくしかないだろう。死ぬことを恐れているのに、傷つくことに喜びを見出している彼女のことを、ロレナは変えたいと思っている。

 

 考えを振り切るように、ロレナは廊下を歩いた。足の裏から床の感触がしっかりと感じられるのは、久しぶりのような気がした。

 

 

——

 

 

「最近、ロレナ様とはどうなの? 毎朝毎晩ちゅっちゅしてる?」

 

 ミアの友人、ローゼ・リュールは興味津々な様子で言う。ミアは首を振った。

 

「してない」

「え、マジ? じゃあ一緒に寝たりとか……」

「……してない」

 

 ローゼは驚いた様子でミアを見つめてくる。

 

「一緒にお風呂入ったりとかは?」

「この前はしたけど……ロレナさんは基本人に肌見せようとしないし……」

 

 そんな彼女が裸で追いかけてきたのは、考えてみればもう二度とないほどに珍しいことだったのかもしれない。命の危機に瀕していたために深く考えている余裕がなかったが、彼女がそれだけミアを心配してくれたということなのだろう。そう思うと、今更ながらに少し嬉しくなる。

 

「何にやにやしてんの? エロいこと考えてる?」

「エロ……考えてないよ! ただ、ロレナさんが助けに来てくれたときのこと思い出してただけ」

 

 ローゼは羨ましげに口を尖らせた。

 

「いいなーロレナ様に助けてもらえるなんて」

「ローゼは前に助けてもらったでしょ?」

「そう! そうなんだよねー! ほんとすごいかっこよかったんだって! 『全く、手間かけさせないでくださいまし。ほら、手貸してあげるから立ちなさい』って! 思い出すだけでテンション上がるってー!」

 

 微妙に似ていない物真似を披露してから、ローゼはミアの肩を揺すってくる。魔物に襲われたところをロレナに助けられてから、彼女はロレナの熱狂的なファンになっていた。

 

「あー、ロレナ様が私のパートナーだったらなー」

「もう、エステルのこと大事にしてあげなよ」

 

 ローゼは金色の髪を指でくるくると巻きながら、つまらなそうな顔をした。

 

「私が? エステルを? ないないない! 私たち、大事にするとかされるとかそういうのじゃないから」

 

 エステルはローゼのパートナーだが、ローゼとはいつも喧嘩ばかりしている。それでも険悪な関係には見えないから、学園の魔法は大したものだと思う。この学園の生徒は、入学する際に学園の魔法によって精神の波長を調べられ、最も自分と相性の良い生徒とパートナーにされるのだ。

 

 巫女になれるのは女性限定だから、ペアの片方は必ず女性になるのだが、ミアたちやローゼたちのように、両方が女性というケースも珍しくはない。

 

 学園では、男女関係なくパートナーと愛を育むことを求められている。キスをするのも、裸で抱き合うのも、一緒に眠るのも日常茶飯事だと他の友人たちは言っていたが、今のところミアとロレナの間にそんな甘いイベントは起こっていない。無論そういうことをせず、一定の距離を保って過ごしているペアもいるのだが。

 

「まあ、それでも一緒に寝たり風呂入ったりはするけど」

「……喧嘩するほど仲がいいってこと?」

「んー……そんないいもんじゃないと思うけど、まあ、そこそこ? てか、ミアんところがドライすぎるんだと思うわ。何? 倦怠期?」

 

 そういえば、ロレナと直接的に触れ合ったことはほとんどないように思われる。普通、巫女と術者はもっと距離が近いものだとよく言われるのだ。しかし、体を触れ合わせるのは、できるだけ自然な流れで行われるべきなのだ。彼女がそれを望んでいないのなら、無理にするべきではない。

 

 精神的な繋がりも今までは薄かったものの、最近は少しずつ近付けているような気がする。

 だから焦ることはない。そのはずなのに、ミアの胸中には奇妙な焦燥があった。この前ロレナが魔物に傷付けられているのを見てから、焦燥は燃え上がるように胸に広がり続けている。

 

 ロレナがあそこまで傷ついたのは初めてだろう。ラインのおかげで彼女が助かったのは事実だが、ミアはもっと強くならなければならないと決意していた。いついかなる時もロレナの危機を察知し、守れるようになりたい。そうならなければ、彼女は死んでしまうかもしれない。

 

 そう思う一方で、ミアは自分と彼女の間に何かしらのズレがあるような気がしていた。しかし、具体的にずれているのかはわからなかった。

 

「倦怠期っていうか……私たちはずっとそうだから」

「うーん……ミアさぁ……」

 

 彼女はミアのことを見つめてくる。珍しく、その顔は真剣だった。

 

「もしロレナ様が他の人の巫女になったら、どうする?」

 

 その言葉に、ミアは固まった。もしロレナがミアから離れたとしたら、それは彼女に対するミアの愛が足りなかったということになる。

 

 愛が足りない。誰かを愛しきれない。自分の愛が届かず、愛する人が離れていってしまう。そう思った時、ミアは強烈な吐き気と頭痛に襲われた。

 

 頭が白熱して、息ができなくなる。真っ白になった視界の中で、ミアは奇妙な浮遊感を抱く。存在意義が壊れたような気がして、自分が何者であるかを思い出せなくなるのを感じた。自分は何者で、誰を愛しているのだったか。

 

『誰かを心から愛しなさい』

 

 そんな懐かしい声が、どこからともなく聞こえてくる。頭の中に言葉を直接塗りたくられているかのように、その声がいつまでも反響していた。それをぼんやりと聞いていると、不意に、世界が揺れた気がした。

 

「……ア。ミア、ミア!」

 

 ミアははっとした。焦った様子でローゼがミアの体を揺すっているのが認められた。

 

「ごめんごめん、変なこと言って! ミアが本気だってことはよく分かったわ!」

「変なこと……?」

 

 何の話をしていたのだったか。ひどく頭がぼうっとしていて、いまいち思い出すことができなかった。

 

「とりあえずさ、取られたくないなら色々アクションかけてみなよ。私もできることがあれば協力するからさ」

「う、うん……?」

 

 ローゼは必死の形相である。なぜここまで必死になっているのかわからないまま、ミアはとりあえず頷いてみせた。

 

「そしたら今日一緒に寝るとこから誘ってみなよ。ロレナ様ってなんだかんだ優しいから、断らないと思うよ」

「そうだね……」

 

 そうだ。ミアはもっと、ロレナと仲良くならなければならないのだ。もっと彼女を愛し、彼女との愛を深めるのだ。それがミアの望みである。誰よりもロレナを愛しているのはミアだし、誰よりもロレナと仲良くなるべきなのはミアなのだ。そうでなければならない。

 

「……うん、そうだ。よし! 今日はロレナさんのこと誘ってみる!」

「その意気その意気! 頑張れミア!」

「うん!」

 

 ミアは大きく頷いた。胸に満ちていた焦燥は、いつの間にか薄れてきている。だが、問題はないだろう。ミアの愛は誰にも負けないのだ。この愛さえあれば、全て解決できるはずである。ミアはそう思いながら、にこりと笑った。

 

 

——

 

 

「ほら、見てみなさいハーミットさん。ここからだと、どんな人もちっぽけに見えるでしょう?」

 

 ロレナは塔の下を指差した。王都では今日も数えきれないほど多くの人々が動き回っている。ミニチュアを見ているような気分だ。豆粒のように見える人々にも、それぞれの人生があって、日々を懸命に生きている。そう思うと、少し不思議だった。

 

「えと……はい! とってもちっぽけです!」

 

 アリアは微塵もちっぽけだと思っていないような声色で言った。ロレナは手すりに手を置いて、彼女の方を向いた。塔の頂上に吹く強い風に、彼女の栗色の髪がバタバタと揺れている。アリアはそれを手で押さえながら、ひどく不安げな表情でロレナを見ていた。

 

「……もしかしてあなた、高所恐怖症ですの?」

 

 アリアは小さく首を横に振った。

 

「そうじゃないんです。そういうわけじゃなくて……」

 

 風か彼女の声を上書きしていく。ロレナは二つに纏めた髪が風に流れるのを感じながら、風を操作した。昔のように完全に風を止めることはできないが、この場に吹く風を弱める程度のことはできる。

 

「ロレナさんは、怖くないんですか。この前死にそうになったのに……どうしてそんなに、元気でいられるんですか」

 

 魔物に傷付けられて喜んでいた者の口から出たとは思えない言葉である。死を恐れるのは人として当然のことではあるのだろう。しかし、理性のない魔物に傷付けられている時、少しでもそのまま殺されるかもしれないとは思わなかったのだろうか。

 

 痛みに陶酔するあまり、そういう考えが抜け落ちていたのだとしたら、それも歪んでいると思う。

 このまま放置していたら、彼女はそう遠くないうちに死んでしまうのではないか。痛みを求めて魔物のところに行った結果殺されてしまう。そんな未来が容易に想像できた。

 

 痛みを愛だと思うのは百歩譲っていいとしても、傷付けてくれるのなら誰でもいいというのは危険な発想である。人間のように、魔物は手加減などしてくれないのだ。下手すれば、一撃で殺される可能性がある。彼女はそれに気付いていないのだろうか。

 

 やはり、このまま放っては置けないと思う。死を恐れているのに死に近づこうとするなんて、歪にも程がある。彼女が歪んだまま死んでしまうのは、許容できない。だからロレナは彼女の価値観を変えることを決意した。

 

「死を恐れるのなら、どうしてあなたはあの時、私を止めようとしたんですの?」

 

 アリアは目を伏せた。

 

「あのままいけば、二人纏めて死んでしまったかもしれないのに」

「それは……」

 

 アリアは泣きそうな顔になった。

 

「痛くて、気持ち良くて、それをロレナさんにも知ってもらわなきゃって思って、それで……」

 

 彼女の頭の中はきっとぐちゃぐちゃになっているのだろう。この世界の教育は良くも悪くも愛に依存している。痛みを愛として認識している彼女は、痛みがないことに耐えられないのかもしれない。ロレナはため息をついた。

 

「……はぁ。もういいですわ。一つ聞きますけれど、私が今まであなたに与えてきた痛みよりも、あの蟻に与えられた痛みの方が気持ち良かったんですの?」

「そんなことないです!」

 

 珍しく、アリアは真剣な面持ちで叫んだ。そんな声も出せたのだな、と思いながら、ロレナは目を細めた。

 

「ロレナさんのは今までで一番優しくて、痛くて、心地良かったです! それは、嘘じゃないんです……」

 

 アリアの声は徐々に小さくなっていく。ロレナは俯く彼女の顎に手を添えて、自分の方を向かせた。

 

「私が負けていたわけでないのならいいんですわ。……ですが」

 

 翡翠色の瞳には涙が溜まっているのか、太陽の光が乱反射しているようだった。

 

「あなたはそもそも、どうして痛みが愛だと思っているんですの?」

 

 アリアの顔から表情が消える。

 

「……言いたくありません」

 

 その声はひどく平坦だった。彼女は本気で痛みを愛だと思っているというより、そう思いたいだけなのかもしれない。だが、その理由がわからない以上、今のロレナに彼女の愛を崩すことはできないだろう。

 

 いや、彼女が死ぬ危険性がなくなるのであれば、別に痛みが愛だと思ったままでも構わないのだ。ロレナはただ、目の前で死ぬ者をできる限り減らしたいだけである。生きたいと願う者は、生きた方が良いに決まっているのだから。

 

「そう。それならいいですわ。別に無理やり聞き出すつもりはないもの」

 

 ロレナはそう言ってから、身を乗り出して手すりに腰をかけた。アリアは少し驚いたような顔をした。

 

「けれど……そうね。今まであなたに付き合ってきたから、今度は私に付き合ってもらおうかしら」

「え……」

 

 ロレナはアリアの手を引いて、重心を後ろに傾けた。ぐらりと体が傾いで、空が見える。それから少し遅れて、体が重力に引っ張られて地面に向かい始めた。ふわふわとした感じが、下腹部からじわりと溢れ出す。今日は少し酔いが薄いため、それを鮮明に感じられた。

 

 ラインの力のおかげで、少し調子が良くなっている。しかし彼の力はあまり頻繁には使えないものだし、本来はロレナのように死に行く者に使っていい力でもない。だからこれが、彼の力の恩恵を受ける最初で最後の機会となるだろう。巫女としての仕事が入れば、再び後遺症に悩まされることになる。

 

 だから今だけは、僅かな健康を噛み締めるのも悪くはないだろう。体の芯がアルコールに浸されていないのは久しぶりなのだ。今日は少しだけ、昔に戻ったような心地がした。

 

「ロ、ロ、ロ、ロレナさん! どうして! 何が! えええええ!?」

「あはは! すっごい顔してるわ!」

 

 体が加速して、落ちていく。ロレナは自分の周りの風を操り、落ちる速度を調節する。昔は自在に飛ぶことができていたが、今は落下速度をいじるのが精一杯である。とはいえこの前と違い、今は完全に集中することができているので、地面に叩きつけられる心配はない。

 

「安心なさい! ちゃんと私が制御してるから、死んだりしないわ!」

「だとしても! でも! こ、怖いです!」

 

 風の抵抗で髪が揺れる。アリアは必死に抱きついてくる。そういえば昔、似たようなことを誰かとしたような気がする。だが、それが具体的にいつで、その時隣にいたのが誰だったのかは思い出せなかった。

 

「ほら、落ちるのをゆっくりにしたわ。ちゃんと目を開けなさい?」

 

 アリアはぎゅっと瞑られた目を開く。ロレナは彼女の体を抱えながら、綿毛のようにふわりと地面に落ちていく。

 

「見なさい。ちっぽけに見えたものが段々近づいて来るのを。何だか夢から覚めていくみたいだと思わない?」

 

 ロレナは下の景色が見えるように、アリアの体を動かした。彼女は目を丸くしながら、近付いていく地面を物珍しげに眺めている。

 

「……夢みたいです!」

 

 アリアは徐々に目を輝かせていく。こうして塔から飛び降りるのは初めてなのだろう。ロレナは悪戯が成功したような気分になった。すっかり忘れていたが、自分は誰かをこうして驚かせるのが好きだったのだ。それを再認識して、ロレナは思わず笑った。

 

「何だか心までふわふわして、小さかったのがちょっとずつ近付いてきて! すごいです!」

「ふふ、そうでしょう。こうして風を感じながら景色を眺めるのは、とても楽しくて凄いのよ」

 

 魔法によって和らげられた風が、撫でるようにロレナたちの間を通り抜ける。アリアはロレナの腕の中で楽しげに笑っている。どうやら、落ちていく恐怖はもう消えてしまったらしい。

 

「その気になれば、こうやって普通じゃ見れない景色を見ることだってできるのだから、人間は凄いでしょう?」

「はい!」

 

 忙しく動き回る人々の流れが、上からだとよく見える。彼らはどこを目指して歩いているのだろう。きっと、それぞれ理由があって歩いているのだろう。地上を動き回る彼らの姿は、星のようにも見えた。

 

「世界は意外と広いものだから、あなたも私のように視野を広げてみるといいわ」

 

 アリアは上目遣いでロレナを見る。彼女の瞳には、先ほどとは違う色が輝いている。

 

「そしたら私も……ロレナさんみたいになれますか?」

「もちろんよ! 私のように完璧美少女になることだって可能だわ!」

 

 ロレナのようにはならない方が確実にいい。そうは思ったが、彼女の中で形成されているロレナ像は、きっと実際のロレナとは違うのだ。それならいいのだろう。ロレナは内心を隠して、得意げな顔をしてみせた。

 

「それなら……広げてみたいです」

 

 アリアはぽつりと呟く。風を操作していなかったら、きっと聞き逃してしまったであろう声だ。

 

「ロレナさんの世界は、きっと私よりもずっと広いんですね」

 

 ロレナに体を預けながら、アリアは言う。彼女の体は思ったよりも軽かった。

 

「だからロレナさんは優しいんですね」

 

 前にも彼女はロレナのことを優しいと言っていたが、何か現実とは違うものが見えていないかと少し心配になる。だが、それが彼女の感性ならば、否定すべきではないのだろう。

 

「……ロレナさんだけだったんです。私の愛を否定しなかったのは」

「いや……私、否定したわよ? 別にあなたの緊縛趣味を認めたわけでもないし」

 

 アリアは遠い目をした。

 

「そうですね。でも……私を縛ってくれたのは、気持ち悪いって言わずに付き合ってくれたのはあなたが初めてだったから……だから、否定されたときは、世界が壊れたみたいで辛かったです」

 

 以前は単なる性癖だと思っていたが、縛って欲しいという言葉にも、存外に深い意味が込められていたのだろう。それは誰かに愛して欲しいという叫びだったのかもしれない。だからこそ、魔物に与えられる痛みすらも喜んで受け入れていたのかもしれない。

 

 アリアは今まで愛されたことがないのだろうか。だが、だとしたら、痛みは愛という発想はどこから生まれたのか。愛されていなければ、愛を理解することはできないはずだ。

 

 痛みが愛だと教えられ、それを完全に信じて生きてきただけならば、他の誰に否定されようとここまで取り乱すことはないはずだ。一体アリアは今まで、どうやって生きてきたのだろう。

 

「だけど、こうやって広がる景色みたいに、知らないものをロレナさんが教えてくれるのなら……」

 

 アリアはロレナに笑いかけてくる。その笑みは、今までで一番澄んだものに見えた。

 

「少しだけ。ほんの少しだけ、壊されてみたいって、そう思うんです」

「ハーミットさん」

 

 ロレナは彼女に笑いかけた。

 

「その言葉、取り消せないわよ?」

「えっと……でもでも、優しくしてください! 私、こういうの初めてなので……」

「あなたに言われると、犯罪の匂いがするわね……」

 

 アリアは首を傾げた。ロレナは笑みが苦笑に変わりそうになるのを抑える。

 

「ま、いいわ。本来勝負事に優しくもへったくれもないですけれど、特別よ?」

「はい! えへへ……ちょっと、楽しみです」

 

 アリアは楽しげな声で言った。何か変なことになっているような気もしたが、一歩前進したといってもいいのかもしれない。ロレナはアリアの重みを感じながら、そう思った。

 

「……あの、ロレナさん」

 

 アリアは甘えるように、ロレナの首に両腕を回した。ロレナはその重さで、下を向いた。自然とアリアと目が合う。彼女の瞳は眩いばかりに輝いている。その眩しさに、少し目が痛くなるような感じがした。

 

「私、ロレナさんに色々教えてもらいたいです。私から教えたいことも、いっぱいあるんです。だから……」

 

 アリアはロレナに顔を近づけてくる。息がかかるほど近くに接近した小さな唇が、柔らかく言葉を紡いでいく。

 

「これからも一緒にいてください」

 

 ロレナは一瞬、呼吸を忘れた。それはロレナが一番言われたくない言葉だった。誰に何と言われようと死ぬと決めているのだ。だから、ロレナという一人の人間を求められるのは困る。ロレナは他の誰かで代用できる存在でなければならないのだ。

 

 誰かに想われている。それを感じてしまうのは怖かった。だが、そんな恐怖も死ねば全てなくなる。自分が死んだ後のことは、何も考えなくていいのだ。この世界はロレナがいなくても回り続ける。そして、いつか世界は救われるのだ。

 ロレナは好きなように生きればいい。結局、ロレナの行動は大勢に影響を及ぼすようなものではないのだから。

 

「私は巫女だもの。あなたとそんなに一緒にはいられないわ」

 

 ロレナは平静を装ってそう言った。

 

「大丈夫です! 私が勝手にロレナさんのところに行きますから!」

「えぇ……? そう言われて私、どうすればいいの?」

 

 地面の感触が足の裏から伝わってくる。どうやら、話している間に地上についたらしい。ロレナはアリアを下ろそうとしたが、首に腕が回っているせいで下ろすことができない。ロレナは眉を顰めた。

 

「……ハーミットさん、地上に着きましたわよ」

 

 アリアはじっとロレナを見つめる。ロレナは辺りを見渡した。無数の目が、ロレナたちに向いている。

 

「もうちょっとこのままじゃ駄目ですか?」

「駄目ですわ。ほら、めちゃくちゃ周りに見られてますわよ」

「私はロレナさんしか見えてないからいいです!」

「私は視野が広いから駄目ですわ」

 

 愛の広場に着地してしまったためか、辺りには多くの人がいて居心地が悪い。奇異の目で見られることには慣れているが、いつまでもこうしているわけにはいかない。どうしたものかと考えていると、遠くからミアが走ってきているのが見えた。

 

「ロレナさーん!」

 

 彼女は手を振りながらロレナの方に向かってくる。ロレナはアリアを抱えたまま、走ってくるミアを見守った。

 

「はしたないですわよ、落ち着いてくださいまし」

「はぁ……ふぅ……ごめんなさい……」

 

 ミアは息を切らしている。しばらく呼吸を整えてから、彼女はロレナに顔を近付けてくる。

 

「アリアちゃん、いいかな?」

 

 ミアは静かに言う。

 

「……はい」

 

 アリアは名残惜しげにゆっくりとロレナから離れる。ロレナはミアの顔を見て、微かに違和感を抱いた。どこかいつもと様子が違うような気がする。しかし、違和感はほんのわずかであるため、気のせいだと思い直した。

 

「ロレナさん、これから私に付き合ってもらえませんか?」

「いいですけど……急ですわね」

「ロレナさんなら付き合ってくれるって思ってましたから」

「私、そんな軽い女じゃありませんわよ?」

 

 ミアはそのままロレナの手を引いて歩き出す。今日はどうも強引だと思いながら、ロレナはアリアの方を向いた。

 

「今日はここでお開きですわ! またお会いしましょう、ハーミットさん!」

 

 アリアは顔を明るくした。

 

「はい! また、です!」

 

 アリアは大きく手を振った。ロレナはそれに小さく手を振り返してから、ミアと共に歩き始めた。

 掌から、ミアの体温が伝わってくる。彼女の体温を感じるのもひどく久しぶりだと思い、ロレナはその手を軽く握った。もう二度と、この熱を鮮明に感じ取ることはできないかもしれないのだ。この機会に感じておくべきだろう。

 どうせ死ぬのだから、これも無駄な感傷に過ぎない。そう思いながら、ロレナは彼女の手を握り続けた。

 



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9 「大好き」

 どこからか、鳴き声のようなものが聞こえてくる。そういえば今は夏だから、セミが鳴いていてもおかしくはないのだ。今年もそんな季節が来たのかと思いながら、ロレナはゆっくりと体を起こした。

 

 ベッドから降りて窓の外を眺めると、愛の広場でお喋りに興じている人々の姿が見えた。今日はいつもより人数が少ないためか、時折沈黙が生まれている。

 

 鳴き声のように聞こえていたのは彼らの話し声だったらしい。いつもと声の感じが違ったため、勘違いしてしまったようだ。考えてみれば、この世界でセミの姿を見たことはなかった。どうやら少し頭が鈍っていたらしい。

 

 そうだ。ここは日本ではない。そして、自分はロレナ・ウィンドミルという人間なのだ。寝起きとはいえ、それを一瞬忘れてしまっていた。ロレナは自分の頬を叩いて、気合を入れた。

 

 日本への郷愁など、抱いたところで無意味である。所詮あの頃に戻れたとしても、同じように生活するのは不可能なのだから。

 

 ロレナは前世の両親や友人たちの顔が脳裏に浮かぶのを感じた。痛みが薄らいだ影響で、余計なことを考える余裕が出てしまったのかもしれない。

 

 ロレナは窓を閉め、服を脱いだ。ロレナ・ウィンドミルとしてのアイデンティティが崩れそうになった時は、自分の体を見るのが一番なのだ。かつてとは似ても似付かないほど変化してしまった体を見ると、自分がもう戻れないのだということを再認識することができる。

 

 ロレナは自分の胸に指を置き、体の感触を確かめるように指を滑らせていく。くすぐったさに体が震え、なぜだか泣きそうな心地がした。

 その時、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

 

「おはようございます、ロレナさん!」

 

 夏休みの小学生のように、はつらつとした声が聞こえる。開かれた扉の向こうには、学園の運動着を着たアリアの姿があった。今のロレナたちはぎりぎり小学生でも通じる歳だから、元気なのも当然といえるのかもしれない。

 

「ご機嫌よう、と言いたいところだけど、先に扉を閉めてもらえます?」

「は、はい!」

 

 アリアは扉を閉めた後、落ち着かない様子でその場に留まっていた。

 

「そんなところにいないで、こっちに来ていいですわよ」

 

 手招きすると、彼女は気まずそうにロレナの方に近付いてくる。

 

「えっと……ロレナさんって、部屋ではそうなんですか?」

「そう、とは?」

「あの、服……」

 

 アリアはちらちらとロレナの方を見ながら言った。そういえば裸だったと思い、ロレナはタンスから適当な服を引っ張り出した。

 

「たまたまですわ。別に裸族ってわけじゃありませんわよ」

 

 図らずも、アリアと同じ運動着を取り出してしまっていた。わざわざ他の服を出すのも面倒だと思い、ロレナは運動着を着ていく。

 

「それより、何か用事ですの?」

「はい! ロレナさん、今日のイベントに一緒に行きませんか?」

「イベント?」

 

 ロレナは首を傾げた。イベントなんてあっただろうか。そう思っていると、アリアは元気に答えた。

 

「はい! 愛のかけら探し、です!」

 

 そんな珍妙なイベント聞いたことがない。一瞬そう思ったが、よく考えてみると覚えがあるような気がした。ゲーム本編では、季節のイベントが用意されていたはずだ。この国には四季があるのだが、その季節ごとに愛に関連するイベントが色々と起こっていた。

 

 夏のイベントは愛のかけら探しという奇妙なイベントなのだったか。今日朝早くにミアが出かけていったのは、そのイベントに参加するためだったのかもしれない。恐らくこのイベントは去年も開催されているはずだが、一切記憶になかった。去年の夏にはもう巫女になっていて、何かと忙しかったのだったか。

 

「それ、どういうイベントですの?」

「えっとですね……二人組を作って、王都に隠された愛のかけらを探すっていうイベントです!」

「捻りがないですわね」

「でもでも、このイベントは同室のパートナーとじゃ駄目なんです! パートナー以外とも仲を深めようっていう趣旨ですから!」

 

 ロレナは記憶が鮮明になっていくのを感じた。愛のかけら探しは攻略対象の個別ルートに入る前の好感度稼ぎができるイベントだった記憶がある。ということは、ミアも誰か攻略対象を誘いに行ったのかもしれない。

 

 しかし、この国において、パートナー以外と仲を深める意義はあるのだろうか。巫女と術者システムがある以上、パートナー以外と仲を深めさせる必要はないはずだ。

 

 いや、もしかすると、巫女が死んだ後に術者が新たなパートナーを見つけやすいようにするために用意されているイベントなのかもしれない。

 

 そう考えると、思わず顔を顰めそうになる。悪意のためにこの国の思想が操作されているわけではない。そうわかっていても、やはりもやもやするのは確かだった。

 

「愛のかけらを集めたらどうなるんですの?」

「一番多く集めたペアはトロフィーがもらえます!」

「えぇ……? それ、いるんですの?」

「……記念になります!」

 

 アリアは一瞬固まった後、目を逸らしながら言った。このイベントに参加するメリットがあまりないことを、彼女もわかっているらしい。

 

「実質的にメリットがないってことですわね。ま、いいですわ。参加するからには一位を目指しますわよ」

「はい! 一緒に頑張りましょう!」

 

 服を着終わったロレナはドレッサーの引き出しからゴムを取り出し、髪を二つに結いた。鏡には、いつもと変わらない自分の姿が映っている。

 

「じゃ、行きますわよ」

「……待ってください」

 

 アリアはロレナの服の裾を掴んだ。

 

「その、行く前にこれ、お願いしたいんです」

 

 彼女はもう片方の手に握られた麻縄をそっと差し出してくる。その縄はいつもよりも少し短い。その長さが彼女の、最大限の譲歩の結果なのだろうか。ロレナは縄を受け取り、彼女と向き合った。

 

「私たち、勝負の真っ最中ですのよ?」

「はい。でも……やっぱり痛いのが全くないのは、怖いんです。だから、お願いします」

「いつまでも続けるつもりはありませんわよ」

「わかってます。……わかっては、いるんです」

 

 アリアは俯いた。やはり、彼女も完全に痛みが愛だと信じているわけではないのだろう。ロレナはどうしたものかと考えたが、自分にできることは一つだと思い直した。

 

「俯くんじゃありませんわ」

 

 ロレナは彼女の顔を上げさせた。

 

「そんなんじゃ張り合いがありませんわ。あなたはこの私、ロレナ・ウィンドミルと勝負をしているんですのよ? もっと胸を張って頼みなさい」

「えっと……」

 

 アリアは当惑した様子でロレナを見つめる。米酒よりも深い緑の瞳には、迷いが見えた。ロレナは彼女をまっすぐ見つめ返して、得意げに胸を張ってみせた。

 

「こうやって胸を張って、真正面からあなたの愛をぶつけてきなさい!」

 

 ロレナはにやりと笑いながら言った。アリアは目を丸くしてから、麻縄を持つロレナの手をぎゅっと握った。

 

「私のこと、縛ってください! ……私の世界を、壊してみせてください」

 

 アリアの中で、愛が揺れている。徐々に小さくなっていく声から、ロレナはそれを感じ取った。彼女の愛を否定するだけならば、俯かせたままの方が良かったのだろう。それでも、目の前で誰かが俯いているのを見るのは嫌なのだ。

 

「もっとですわ!」

「はい! 私を縛ってください!」

 

 アリアは胸を張って、声を上げた。もしかすると自分は今、とんでもないことをしているのではないか。一瞬そう思ったが、ロレナは何も考えないようにした。

 

「よろしいですわ! さあ、どこをどう縛って欲しいか言ってごらんなさい?」

「お腹がいいです! 強めで!」

 

 彼女は運動着をめくってみせた。ロレナは頷いて、その白い腹に麻縄を回していく。縄は彼女の肌に沈み込み、きりきりと音を立てる。ロレナはひどく悪いことをしているような気分になった。

 

「素直に縛るのは今日だけですわよ。明日からは、あなたの力で私を納得させてみなさい。できなければ、私はあなたの愛を否定しますわよ」

「はい!」

 

 アリアは心地良さそうに笑った。親から褒められている時の子供が浮かべるような表情である。ロレナは力加減に気をつけながら縄を彼女の体に巻いていく。屈みながらそうして縄を巻いていると、不意に彼女から頭を撫でられる。

 

 痛いのが好きだと公言している者とは思えないほど優しい手つきであった。もしかすると、日頃自分の体を縛っているからこそ、繊細で優しい指遣いができるのかもしれない。ロレナは少し複雑な心境になりながら、彼女の顔を見上げた。

 

 彼女は慈愛とも当惑ともとれるような、複雑な感情を顔に浮かばせていた。目が合うと、彼女は少しぎこちなく笑った。

 

「何してるんですの?」

「えっと……撫でてます」

「いや、何でですの?」

「えと……えと……」

 

 彼女は自分のしていることが信じられないような目で、自分の手を見つめている。

 

「……わかりません。ただ、したかったんです」

「……そう」

 

 彼女が何を思って手を動かしているのかは、ロレナにも推測することができない。しかし、唐突に縛られるよりはいいと思い、ロレナはこれ以上何も聞かないことにした。

 

「あの、ロレナさん。聞いてもいいですか?」

 

 アリアはロレナの頭を撫で続けながら言う。

 

「何ですの?」

「ロレナさんは、どんなものを愛だと思っていますか?」

 

 少し、困る質問だった。ロレナは人に語れるほどの愛を持っていない。巫女になった今も、それは変わらないのだ。

 

「あの時見たロレナさんの愛の力は、すごく眩しくて、強いものでした」

「ま、当然ですわね。ミアの力も多少はありますけれど」

 

 ロレナには本当は愛の力などなく、全てはミアの力なのではないか。時々そう思うことがある。だが、実際どうなのかは未だにわからないままである。

 

「私……知りたいです。ロレナさんのこと」

 

 ロレナは少し考えた。しかし、どれだけ考えても言うべきことは一つだった。

 

「知りたいのなら、私を見なさい。私を注視していれば、私の抱いている愛についても理解できるようになるはずですわ」

 

 語る言葉を持たない以上、行動で感じ取らせるしかない。結局、どのような意図で行動しても、それをどう受け取るかは他人次第なのだ。ならば、ロレナは自分にできることだけをして、後は他者の判断に委ねるしかないだろう。

 

 ロレナは飲んだくれのろくでなしである。そして、自分の評価を上げようともしていない以上、アリアに良い影響を与えることはできないかもしれない。

 

 それでも、愛を否定すると彼女に宣言したのだから、退くつもりはない。最終的に何の成果も出なかったとしても、自分がしたいことを貫くとロレナは決めているのだ。何人もの巫女の死を見送ってからは、余計にそう思うようになった。最後に成果が出なければ、どんな行動も意味をなさない。そうわかってはいるのだが。

 

「……はい。見ます。しっかり、見逃さないように。だから、ロレナさんも見てください。私のこと」

「暇があれば見て差し上げますわ」

 

 最後にはロレナは死ぬのだから、全て無駄ではないか。ミアが生きていれば世界は救われるのだから、何もしなくていいのではないか。そう思っても、やはりロレナは行動することをやめられない。

 

 それがくだらない自己満足だと分かってはいる。それでも、見ていて嫌なものや納得できないものは、変えたいと思うのだ。

 

「はい、終わりましてよ」

 

 ロレナは縄を結んで、彼女の腹を軽く叩いた。

 

「えへへ、ありがとうございます!」

 

 アリアは恍惚とした表情で自分の腹を撫でてから、服を元に戻した。

 

「お二人さん、朝から中々ハードなことしてらっしゃるね」

 

 その時、すぐ近くから声がした。見れば、そこにはいつの間にやら部屋に入ってきていたらしいフィオネの姿があった。ロレナは背筋を伸ばし、ふっと笑ってみせた。

 

「あら、フィオネさん。いつから見ていらしたの?」

「ついさっきかな。ロレナ、もしかしてそういう趣味に目覚めたの?」

「そうかもしれませんわ。フィオネさんも縛られてみます?」

「……駄目です!」

 

 アリアはロレナの腕を掴みながら叫ぶ。突然の言葉に、ロレナは目を丸くした。

 

「あ……その……ち、違うんです」

 

 痛みを学園中に広げようとしていたから、てっきり縛ることを推奨するものだと思っていたが、そうではないらしい。彼女の価値観を理解するのは難しいようだ。

 

「そんなに言われなくても本気でやるつもりはありませんわよ」

「そうなの? 私はロレナになら縛られてもいいかなーって思ったんだけど」

「光栄ですわね」

 

 フィオネはアリアの顔を覗き込んだ。

 

「そっちの子は初めましてだよね? 私、フィオネ・グレイヴっていうんだ。よろしくね」

「アリア・ハーミットです。よろしく、お願いします」

 

 フィオネから差し出された手を、アリアはそっと握った。本編でこの二人が関わっているところは見たことがなかったが、やはり初対面だったらしい。

 

「んー……もしかして今日のイベント、アリアと行く感じ?」

「ええ。先ほど誘われまして」

 

 握手を終えたフィオネは、残念そうに笑った。

 

「あちゃー……先越されちゃったか。残念」

「フィオネさんなら引く手数多でしょう?」

「私が欲しい手は一つだけだからねー」

 

 フィオネはそう言って、ロレナの耳に唇を寄せた。

 

「ね、行く前に少しだけ、時間もらってもいいかな」

 

 ロレナは小さく頷いて、アリアの方に目を向けた。

 

「アリアさん、先に外に行っていてくださいまし。私は少し、フィオネさんとお話がありますわ」

「はい! ……あんまり遅くなったら嫌ですよ?」

「分かってますわ」

 

 アリアはちらちらとロレナたちの様子を伺いながら、部屋の外に出て行った。扉が閉まった瞬間、フィオネはロレナにぎゅっと抱きついてくる。その力はいつも以上に強い。ロレナは彼女の背中を軽く叩いた。

 

「あの、ちょっと痛いですわ」

「心配した」

「あの……?」

「心配したの」

 

 彼女は幼子のように言った。他の人がいる時と二人きりの時で、彼女は少し様子が変わる。ロレナはどちらの彼女も嫌いではないが、いきなり態度が変わると戸惑うのは確かだった。

 

「駄目だよロレナ。無理しちゃやだ」

「無理なんてしておりませんわ」

「うそ。だって、大怪我したんでしょ?」

 

 ラインのおかげですぐに怪我が治って目覚めたのだが、フィオネには怪我したことが知られてしまっていたらしい。もしかすると、ラウロが何か言ったのだろうか。

 

「全然平気じゃないじゃん。辛いなら、苦しいなら、言ってよ。私だって巫女なんだよ? ロレナの苦しみ、わかってあげられるんだから」

 

 ほとんど起こる可能性がない事故を恐れて死のうとしているロレナの気持ちなど、わからない方がいいのだ。自分が馬鹿馬鹿しい考えで動いている異常な人間であることくらい理解している。

 

「ちょっと怪我したくらいだから、平気ですわよ」

「ちょっとじゃないよ。今回みたいに怪我したの、初めてでしょ?」

「まあ、それはそうかもしれませんが……」

 

 フィオネはさらに強くロレナを抱きしめた。

 

「……ロレナが弱音を吐かない人だってこと、よく知ってる。でも、ううん、だからこそ、心配。いつか、何も言わずに消えちゃうんじゃないかって」

 

 ロレナが死ねば、フィオネはきっと悲しむのだろう。だが、巫女と術者の歪な関係がミアによって解消されれば、ヘクターがフィオネの心の拠り所になるはずだ。そうなればロレナは忘れられるだろう。だから問題はない。そのはずである。所詮ロレナは一時的な依存先にすぎないのだ。

 

「わかってるよ。どうせ、自分は大丈夫だって言うんでしょ? なら、今はそれでもいい」

 

 フィオネはぱっとロレナから体を離した。

 

「ロレナ。ちょっと屈んでくれる?」

 

 彼女の言う通り、ロレナは少し体勢を低くした。その瞬間、彼女の胸に抱き寄せられる。触れているところから、彼女の鼓動を感じた。その心臓は凄まじい速度で脈打っている。ロレナは少し心配になった。

 

「まだ子供なんだから、こうやって誰かに甘えてみてもいいと思うよ?」

「これだと甘えているというより甘えさせられているのではなくて?」

 

 フィオネはくすりと笑った。

 

「ふふ、そうかも。でも、ほら。いつも私ばっかり甘えちゃってるから、たまにはこういうのも、ね?」

「ま、誰かを甘えさせてあなたが満足できるのなら、別にそれでいいですわ」

 

 柔らかな感触と共に、熱と音がじわりとロレナの体に浸透していく。ほんの少しだけ心が落ち着くような気がする。ロレナは胸がずきずきと痛み始めるのを感じながら、時間が過ぎるのを待った。

 

「……そろそろ私、行かないといけませんわ」

「……うん」

 

 フィオネは最後に一度思い切り抱きしめてから、ロレナを解放した。

 

「行ってらっしゃい、ロレナ」

 

 フィオネはロレナのベッドに座って言う。ロレナは苦笑した。

 

「もしかして、私が出て行った後もここにいるつもりですの?」

「駄目?」

 

 枕を抱きしめながら、彼女は問う。

 

「駄目とは言いませんが……」

「なら、いさせて」

 

 ロレナはため息をついた。

 

「わかりましたわ。ミアの作ったお菓子が棚に入ってるので、お腹が空いたら食べていいですわよ」

「ん……ありがと」

 

 フィオネはゆっくりと横になって、足の間にシーツを挟む。自分の部屋にいるかのようにリラックスした様子である。この様子だと、しばらくは生きるのに絶望して自殺してしまうことはないだろう。それに少しだけ、安心する。

 だが……。

 

「お礼ならミアに言ってくださいまし。それより、枕の匂いを嗅ぐのはやめてくれません?」

 

 フィオネは犬のようにロレナの枕のにおいを嗅いでいる。変なにおいはしないと思うが、流石に他者に嗅がれるのは恥ずかしい。

 

「やだ。こうしてると、ロレナに抱きしめられてるみたいで安心するから」

「えぇ……? なんかそれ、変態っぽいですわよ」

 

 仕方がないと思い、ロレナは扉の方に歩いた。あまりアリアを待たせておくわけにもいかない。いい加減、部屋を出なければならないだろう。

 

「仕方ないですわね。これは貸し一つですわよ。……元気になったら、ちゃんと返してくださいまし」

 

 とろけそうな黒い瞳が、ロレナを薄く映している。彼女は微笑んだ。

 

「うん。優しいね、ロレナは」

 

 ロレナの何を見てそう思ったのだろう。アリアもそうだが、やはりよくわからなかった。

 

「……大好き」

 

 ぽつりと呟かれたその言葉は、きっと、酔っている状態では聞き取ることができなかっただろう。今日はまだ酒を摂取していないが、それが良かったのか、悪かったのか、ロレナには判然としなかった。

 

「そう。ま、当然ですわね」

 

 ロレナはいつも通りの声色で言って、部屋を出た。普段よりも後遺症による痛みはないはずなのに、胸が痛んで仕方がなかった。その痛みが、早く死ぬべきだとロレナを急かしている。

 

 傷つくのはもう嫌だから、誰を傷つけても死ぬと決めている。それでいいはずなのだ。それに、他の皆はロレナと違い、生きることに少なからず希望を抱いている。希望があるなら、傷ついても生きていけるはずである。希望を持って生きている限り、傷は癒えるのだから。

 

 過去の人間は忘れられるのみである。

 きっと、前世の友人たちも、自分のことなどもう忘れているに違いない。死ねば全て終わりだ。自分が死んだ後のことは、気にするべきではない。

 

 ロレナはそう思いながら、廊下を歩いた。ぐるぐると回る思考がアルコールの染みていない体を突き刺して、呼吸を止めてくる。

 早く死ななければ、頭がおかしくなってしまいそうだった。



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10 forget-me-not

 王都は普段以上に賑わっていた。この国では愛が全てだと教えられているため、自分たちの愛を証明するのは、何よりも重要だということなのだろう。アリアに聞いたところ、愛のかけらは愛に反応して音や光を発するため、ペアが愛し合っているほど見つけやすくなるらしい。

 

 普段のパートナーと違う者と愛し合っているという状況は、この国的にどうなのだろうとは思う。新たな巫女を見つけやすくなるから良い、ということなのだろうか。これで一夫多妻は認められていないのだから、この国はよくわからない。

 

「ロレナさん、そっちに行きました!」

「わかってますわ!」

 

 ロレナは魔法で風を操り、走ってきている黒猫の動きを遅くした。黒猫は不満げににゃあにゃあ鳴きながら、足を必死に動かしている。ロレナは黒猫を抱き上げ、その背中をゆっくりと撫でた。興奮気味だった黒猫は次第に落ち着いていき、抵抗する様子はなくなった。

 

「はぁ……捕まえましたわよ」

「ありがとう、お姉ちゃん!」

 

 ロレナは嬉しそうに笑う少女に黒猫を差し出した。彼女はきつく黒猫を抱きしめてから、一転して不安げな表情を浮かべた。

 

「でも、お母さんたちが……」

「乗り掛かった船ですわ。ここまできたら、あなたのご両親も一緒に探して差し上げますわ!」

 

 ロレナは少女を自分の肩に担ぎ上げて、人混みの中を歩く。愛のかけらを探しにきたはずが、気付けば全く別のものを探すことになってしまっている。

 

 それも全てはこの人混みのせいである。普段王都に住んでいない者がこぞって来た結果、人混みに流されて迷子になる者が続出していた。学園に住む者はパートナーと一緒には参加できないが、学園外に住む者は配偶者と一緒にイベントに参加できるのが災いしたといっていいだろう。

 

「わっ! 高い高い!」

「そこからならよく見えるでしょう?」

「うん!」

 

 この少女は、両親に連れられて王都にきて迷子になった子供の一人だった。慣れない場所に一緒に連れて来られた黒猫が逃げ出してしまい、少女は慌ててそれを追った結果迷子になってしまったらしい。

 

 先ほどから迷子を保護者のところに送り届けているのだが、どうにもキリがない。放っておけばいいのかもしれないが、皆愛のかけらに目がいっているせいか迷子に気づいていないのだ。さすがに誰にも気づかれずにさまよい歩く子供を放っておくことはできない。

 

 知らない場所に一人で投げ出された時の寄る辺なさを、ロレナはよく知っている。誰かが一人の寂しさに泣いているところは見たくない。それを見ていると、昔の自分を思い出してしまいそうになる。

 

「ロレナさんは面倒見がいいですね」

 

 アリアはくすりと笑いながら言った。彼女は迷子にならないようにロレナの服の裾を掴んでいる。多少の歩き辛さを感じながら、ロレナは鼻を鳴らした。

 

「私の前でめそめそしているのが気に入らないだけですわ。ハーミットさんは私に付き合わずに愛のかけらを探しに行ってよくってよ?」

 

 アリアはかぶりを振った。

 

「愛のかけらはロレナさんと二人で探さないと意味がないんです。……それに」

 

 アリアは若葉のような色の瞳で、ロレナをじっと見つめる。人混みの中にありながら、彼女の瞳の中にはロレナしか映っていない。それが少し、不思議な感じだった。

 

「ロレナさんがそうしているところ見るの、好きですから」

 

 アリアは無垢な笑みを浮かべている。それは本音のようである。こうしていると、彼女も普通の子供のように見えるのだが。ロレナは目を細めた。

 

「私の苦労しているところを見ているのが好きだなんて、私に恨みでもありますの?」

「いえ、そういうことじゃないんです。ただ……なんだか素敵だなって」

 

 ロレナは落ちないように少女の足を押さえつつ、嬉しそうにするアリアを見つめた。

 

「ロレナさんは、私が迷子になったら探してくれますか?」

 

 アリアは疑問を呈しているとは思えないような、ある種の確信に満ちているような声で言う。ロレナは眉を顰めた。

 

「そりゃあ、探しますわよ。あなたのことだから、誰彼構わず縛ってください! なんて言ってそうで心配ですもの」

「えへへ……。前までだったら、そうしてたかもしれませんね」

 

 アリアは遠い目をした。

 

「だけど、最近は思うんです。誰にしてもらうかも、すごく重要なんだって」

 

 アリアは無垢な子供のような、成熟した大人のような、不思議な表情を浮かべている。

 

「魔物に傷つけられた時は、確かに幸せでした。でも、後になってみたら、死んじゃってたかもしれないって怖くなって」

 

 喧騒の中でも、彼女の声はよく通る。ロレナは人混みに押されるようにして歩きながら、その声に耳を傾けた。

 

「それで、やっぱりロレナさんにしてもらうのが一番だってわかったんです」

「……それ、死ぬ危険がないなら誰でもいいのではなくて?」

 

 ロレナは空を仰いだ。目に痛いほどの青空がどこまでも広がっている。夏の昼間の日差しはひどく強い。日本で生きていた頃からこの季節は嫌いではないが、今は少し、この光に弱くなってほしいと思う。

 

「ううん、きっと駄目なんです。ロレナさんだから、いいんです」

 

 よくわからないな、と思う。ロレナは小さく息を吐いて、アリアに視線を戻した。彼女は透き通った笑みを浮かべている。

 

「ロレナさんのこと色々知れると、楽しいです。それだけは、きっと、嘘じゃないんです」

 

 自分に言い聞かせるように、彼女は言う。彼女が何を思ってそう言ったのかはわからないが、ロレナはふっと笑ってみせた。

 

「なら、もっと笑うといいですわ。私と一緒にいられることを光栄に思いながらね」

「ロレナちゃん、偉そうだねー」

 

 頭上から声が聞こえる。

 

「実際偉いんですわ。あなたも慕わないと、こうですわよ!」

 

 ロレナは強く肩を揺らした。彼女は楽しげに声をあげる。

 

「きゃー! 揺れるー! ロレナちゃんの馬鹿ー!」

「不敬罪ですわ!」

 

 少しの間体を揺らして彼女の反応を楽しむ。しかし、我慢の限界を迎えたらしい黒猫に頭を尻尾で叩かれ、ロレナは体を揺らすのを止めた。それからしばらく歩いていると、開けた場所に出た。人の流れが少し緩和されて自由に動けるようになり、ロレナは歩く速度を遅くした。

 

「アマンダ!」

 

 そうして歩いていると、不意に後ろから声をかけられる。振り向くと、両親と思しき男女が走ってきているのが認められた。

 

「お父さん、お母さん!」

 

 明るい声が頭上から聞こえる。ロレナは体勢を低くして、少女を地面に下ろす。その瞬間、少女は両親に向かって走り出した。無事に再会できたようで何よりである。ロレナは深く息を吐いた。その時、少女を羨ましげに見つめるアリアの横顔が目に入った。

 

 彼女が何を羨ましく思っているのか、ロレナには手に取るようにわかった。ロレナは少し逡巡してから、静かに口を開いた。

 

「アリア」

 

 名前を呼ぶと、彼女ははっとしたようにロレナに目を向ける。その目には、複雑な色が浮かんでいた。

 

「なんですか、ロレナさん」

「今は私の声で我慢なさい。そんな顔で見られたら、あの子が怖がってしまいますわ」

 

 アリアはぎこちなく笑ってみせた。

 

「これで、いいですか?」

「……普段とは比べ物にならないくらいひどい顔ですわよ、それ」

 

 先ほどから、迷子と両親が再会した時、彼女は嫉妬が込められたような暗い表情を浮かべていた。彼女には再会を喜んでくれるような両親がいないのかもしれない。ロレナもそれは同じであるため、彼女の気持ちはよく理解できる。

 

 ロレナはアリアについてよく知らない。どこの家に生まれ、どのように生きてきたのかも定かではなかった。とはいえ、それを知る必要はないのかもしれないが。

 

「え、えへへ……どうすれば笑えるんでしたっけ」

 

 引きつった頬が痛々しい。ロレナは眉を顰めた。

 

「仕方ないですわね。手、挙げなさい」

「えと……こう、ですか?」

 

 アリアが手を挙げた瞬間、ロレナは彼女の脇の下に手を這わせた。そのままくすぐっていくと、彼女は声を上げて笑い始めた。

 

「ふっ……ふふ! あはは! ちょっ! ロレナっさんっ! いきなり……あはは!」

「嘘つきですわね。ちゃんと笑えるんじゃないですの」

「それはロレナさんが! くふっ……ふふふ」

 

 アリアは笑いながら、ロレナの体に手を滑らせようとしてくる。

 

「お返しです!」

「くらいませんわ」

 

 ロレナは身を翻らせ、彼女の手から逃れた。アリアはむっとした顔でロレナを追ってくる。

 

「ずるいです! 私にもさせてください!」

「嫌ですわ。私、みだりに体を触らせるほど安い女じゃありませんわよ?」

「むむむ……えい!」

 

 ロレナは彼女の攻撃をかわしながら、何度もその体を突っついてみせた。

 

「弱いですわね! 私の勝ちですわ!」

「これっ……ふふ……あは! 勝負、だった、んですかっ?」

「私が勝ちと言ったら、自動的に勝負だったことになるんですわ!」

 

 めちゃくちゃなことを言いながら、ロレナはしばらくアリアをくすぐっていた。少しロレナたちの行動が落ち着いた頃、少女の両親がロレナたちに近づいてくる。彼らは申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「あの……ありがとうございました。アマンダと、チェリーを見つけてくれて」

 

 チェリーというのは黒猫の名前らしい。チェリーはにゃん、と小さく返事をした。ロレナは首を横に振った。

 

「大したことはしていませんわ。最終的に彼女を見つけたのは、あなた方ですもの。……ただ、迷子にならないようにしっかり見ていないと駄目ですわよ?」

 

 ロレナはそう言ってから、にやりと笑った。

 

「でないと私みたいな悪い奴に連れ去られてしまいますわよ?」

「ロレナちゃん、悪い人なのー?」

 

 チェリーを抱えたアマンダが、ロレナに近づいてくる。ロレナはしゃがみ込み、彼女と目を合わせた。

 

「そうですわ。私は悪役として生きることを定められた悪ーい奴なのですわ。あなたも油断していたら食べられていたかもしれませんわよ?」

「ふーん……お腹すいてるの?」

「……いや、そうじゃありませんわよ」

「んー……? よくわかんないけど……そうだ!」

 

 アマンダは何かを思い出したように服のポケットを弄り始める。

 

「ロレナちゃん、手出して」

「どうしてですの?」

「いいから!」

 

 手を出すと、彼女は何かをロレナの掌の上に置いてくる。見れば、それは薄く輝く桜色の宝石だった。しずくのような形をしたその宝石は、掌に乗る程度の小さなものである。ロレナは首を傾げた。

 

「さっき拾ったの! 落とした人に届ければ、何か食べ物もらえるかも!」

「私、そこまで飢えてませんわよ!? ……ですが、落とし物ならちゃんと届けておきますわ」

 

 ロレナは運動着のポケットの中に宝石をしまおうとした。その時、アリアがロレナの肩の方から顔を出した。

 

「それ、愛のかけらです!」

「え、そうなんですの?」

 

 ロレナは掌とアマンダを交互に見た。

 

「そういうことなら、あなたが持っているといいですわ。たくさん集めたら、いいことあるかもしれませんわよ?」

「ううん、ロレナちゃんが持ってて! その方が私も嬉しいから!」

 

 少女はにこにこと笑う。ロレナは少しバツが悪いような心地がして、彼女の両親の方を見た。彼らもまた、少女と同じように笑っていた。

 

「もらってあげてください。この子もあなたにとても感謝しているんです」

「……そう言われたら、仕方ありませんわね」

 

 ロレナは愛のかけらを運動着のポケットの中にしまった。

 

「本当にありがとうございました!」

「今度はチェリーに逃げられないようにするんですわよ!」

「うん!」

 

 両親は何度も頭を下げて、アマンダと共に歩いていく。ロレナは大きく手を振って歩くアマンダに手を振り返した。彼女たちの姿が見えなくなってから、ロレナは愛のかけらをポケットから取り出した。

 

「これ、光ってますわね」

 

 愛のかけらは少女たちがいなくなってもなお光っていた。一体どういう仕組みで愛を検知しているのだろう。ロレナは少し、疑問に思った。

 

「私の愛にあなたが染まったのか、あなたの愛に私が染まったのか……どちらにしても、愛のかけらは私たちの間に愛があることを示しているらしいですわね」

 

 ロレナはアリアに向かって軽く愛のかけらを投げた。アリアは慌てた様子でそれを受け取り、しげしげと眺めてみせた。

 

「きっと、私がロレナさんに染まったんだと思います」

 

 アリアは愛のかけらを胸に抱き寄せた。昼の眩い日差しに混じって、淡い桜色の光が彼女の胸を照らしている。

 

「……ロレナさんは」

 

 微かな風で、背中までかかった彼女の髪が揺れる。夏の風は、生温くも爽やかな、不思議な感じがする。ロレナはそれをすっかり忘れていた。風はいつも吹いているのに、不思議である。これも全ては、アルコールのせいなのだろうか。

 

「どうして私に付き合ってくれるんですか?」

 

 アリアは真剣な目でロレナを見つめる。辺りの喧騒が遠のいていくような気がした。

 

「そうですわね……」

 

 愛のかけら探しに精を出している人々が、ロレナたちの横を通り抜けていく。ロレナはそれを横目で見送った。

 

「出会った時、あなたが捨てられた猫みたいな顔してたからですわ」

「……え」

 

 ロレナはにこりと笑った。

 

「笑ってるくせに、どこか笑えてない。痛くないと駄目だなんて、自分に言い聞かせてるようなあなたが……何だかとても気に入らない。だから今も、あなたに付き合っているのかもしれませんわね」

 

 アリアは無表情でロレナの話を聞いている。

 

「あなた、死にたいと思ったことはありまして?」

 

 アリアは首を横に振った。

 

「じゃあ、幸せになりたいと思ったことは?」

「……あります。いつも、思ってます」

 

 ロレナはふっと息を吐いた。

 

「でしょうね。……だからこそ、ですわ」

 

 ロレナはアリアに近づいて、その顔を覗き込んだ。

 

「死にたくないのに、幸せになりたいのに、自ら死に近づくなんておかしな話でしょう?」

「それは……」

 

 ロレナは彼女の手を握った。アリアの手から漏れ出した淡い光がロレナの手を照らす。

 

「私はどうしてもそれが気に入らない。願いと好きなものが噛み合っていない状況に納得できない。痛みが愛で、あなたに幸せを与えるのだとしても……もしあなたが痛みのために望まぬ形で死を迎えたら……」

 

 ロレナは生きる希望を失い、自殺してしまった巫女を多く見てきた。自身も生きる希望を見出せず、死のうとしているからこそ、生きたいと願う者が死に向かう状況を許容することができないのだ。自分で自分を幸せにすることこそ、人生で最も重要なことのはずである。

 

 幸せになるために、ロレナは死のうとしているのだ。だが、アリアはそうではない。アリアの幸せは死ではなく、生きていく中で生まれていくものなのだ。ならば、彼女を死なせるわけにはいかない。

 

「それはとても、悲しいことでしょう?」

 

 アリアは目を見開いた。ロレナも自分の言葉に、少し驚く。自然と出た言葉が、考えてもみなかったものだったためである。誰かの死を悲しく思うなんて、ロレナらしくない。ロレナは自分勝手な人間なのだから。

 

「……ロレナさんは、私が死んだら悲しんでくれるんですか?」

「勘違いしないでくださいまし」

 

 ロレナはアリアの頬を軽く引っ張った。

 

「私が悲しいんじゃなくて、あなたにとって悲しいことってだけですわ。それに、私がいるのだから、あなたが死ぬようなことにはならないに決まってましてよ」

 

 アリアは目を瞬かせた。緑色の目には、無垢な輝きが満ちている。

 

「えへへ。確かに、ロレナさんの言う通りです。ロレナさんが私に勝ったらって思うと……少し、嬉しいです」

 

 ロレナは眉を顰めた。

 

「えぇ……? 最初から負けるつもりでいるのはやめてくださいまし。張り合いがありませんわよ」

 

 アリアはくすくすと笑った。

 

「えへへ……。私が勝ったら、ロレナさんは私色になるんですよね。それも少し、気になるかもしれません!」

 

 アリアはそう言いながら、愛のかけらを高く掲げた。日の光と愛のかけらから発せられる光が混ざり、不思議な色がアリアの手を照らしている。彼女はしばらく愛のかけらを眺めていたが、不意に、彼女の手から愛のかけらが消える。

 

「え」

「は?」

 

 見れば、カラスのような黒い鳥が、愛のかけらをくわえて飛んでいっていた。ロレナは一瞬固まったが、すぐに鳥を追って駆け出した。

 

「ちょっ……ハーミットさん! 追いますわよ!」

「は、はい!」

 

 今日は追いかけっこをしてばかりである。ロレナはため息をつきたい心地になりながら、アリアを抱き上げた。

 

「え、ロレナさん!?」

「こっちの方が速いですわ! 舌噛まないようにね!」

「……はい!」

 

 ロレナは彼女を抱えたまま、風魔法を使って家屋の上まで飛ぶ。そのまま悠々と飛んでいく鳥を屋根の上から追った。

 

「ああもう! こんなのでかけらを無くしたら、あの子に顔向けできませんわよ!」

 

 アリアはロレナの腕の中で、じっと瞳を見つめてきている。ロレナの瞳には、何が映っているのだろう。彼女の瞳を見つめ返してみても、自分の瞳の中を覗き見ることはできなかった。

 

 

——

 

 

「ベネット君、また愛のかけらを見つけましたよ」

「す、すごいですね!」

「僕たち、意外と相性が良いのかもしれませんね」

「あ、あはは……そうですね……」

 

 ラウロ・ルイスとラインの間には、やや気まずい雰囲気が流れていた。ミアはそれを横目に見てから、自分の隣にいる人物に目を向けた。

 

「私たちも愛のかけら、見つけられるといいですね」

 

 ミアは様子を窺いながら、小さな声で言った。あまり話したことがないため、こういう時なんて言えばいいのかよくわからなかった。まだ、ミアたちは一つも愛のかけらを見つけられていない。

 

「そうだね。もしかすると、僕もロレナと同じように、君との相性が良いかもしれない」

 

 ランドルフ・ウィンドミルは爽やかな声で言った。数日前、彼はミアをこのイベントに誘ってきていた。ミアとの仲を深めたくて誘ったわけではないことは明白だろう。ミアとランドルフ間にある繋がりは、ロレナだけである。彼女に関して何か聞きたいことがあるから、彼はミアを誘ったに違いない。

 

「ロレナは君に迷惑をかけていないかな?」

 

 ロレナと同じ色の瞳が、ミアを射抜く。色は同じなのに、彼の瞳は、見ていると溺れてしまいそうになる。ミアは少しだけ、呼吸が苦しくなるような錯覚をした。

 

「そんなこと、ないです。私の方が迷惑をかけてしまっているくらいですから」

「へぇ……」

 

 答えを間違えてはいないだろうか。嘘をつくことはできないため、素直に答えたが、ミアはひどく不安になった。心臓がうるさいくらいに鼓動を打ち鳴らしている。

 

「確か、巫女になってからだったね。ロレナの悪い噂が立つようになったのは」

 

 彼は平坦な口調で言う。何の感情もこもっていない声である。ミアは背筋が寒くなるのを感じた。

 

「急に酒を飲み出したり、態度が悪くなったり……権力に溺れた子供とはよく言われているよ」

「そんなの!」

 

 ミアは思わず叫んだ。

 

「そんなの、勝手に言ってるだけです! 皆本当のロレナさんを知らないから、そんなことを言うんです!」

 

 ランドルフは薄く笑った。

 

「君は本当のロレナを知っているのかい?」

 

 顔は少しロレナに似ているのだが、どこか恐ろしく思える。ミアは息が詰まるのを感じながら、彼の顔を真っ直ぐ見つめた。

 

「少なくとも、他の人たちよりは知ってます。ロレナさんは不器用だけど優しくて、頼りになる人です」

「それが全て、まやかしだとしたら?」

 

 ミアは返答に窮した。ロレナのことを知っているつもりではいるものの、本当に彼女の内面をよく知っているかどうかは、わからないのだ。ミアは彼女の本音を聞いたことがない。大きく傷ついて目覚めた後も、彼女は弱音一つ吐かなかったのだ。

 

 自分にだけは、本音を言って欲しかった。怖かったと一言でも言ってくれれば、ミアだってきっと、何かできたはずなのだ。

 

 だが、彼女はミアに何も言ってくれない。だからミアも、彼女に何もすることができないのだ。もう、傷ついた彼女に対して何かをできるタイミングではないのだから。

 

 彼女に対するミアの愛は誰にも負けない。この愛さえあれば、全てが解決できるはずなのである。

 

 そう思う一方で、微かな焦りが胸の奥から膨らんできているのを感じた。だが、その焦りがどこからきているものなのかは、もう思い出せなかった。ミアは胸が痛むのを感じた。ミアは何か、忘れてはならないものを忘れてしまったような気がした。

 

「あまりレックスさんを虐めないであげてください、ウィンドミル君」

 

 ミアが黙り込んでいると、ラウロが横から言った。

 

「僕はただ質問をしているだけですよ、ルイス医師」

 

 空気がどこか乾いていくのを感じる。ミアは一歩後ろに下がった。その時、ラインと目が合う。彼は苦笑しながら事の成り行きを見守っているようだった。

 

「少なくともレックスさんのロレナに対する愛は本物ですよ。それでいいじゃないですか」

 

 鷹揚に笑いながら、ラウロはミアに目を向ける。その灰色の瞳には、現実のものとは違う景色が映っているようだった。誰かに愛を認められれば嬉しいはずなのに、ミアは魔物に睨まれたような心地になった。

 

「……ルイス医師。あなたはロレナの何を知っているんですか?」

「大抵のことは知っていますよ。彼女は僕の患者ですから」

 

 患者というフレーズに、ミアは穏やかでないものを感じた。もしかするとロレナは、何か病気を患っているのだろうか。

 

「ロレナさん、どこか悪いんですか?」

 

 ラウロは奇妙な笑みをミアに向けてから、ちらとランドルフに目を向けた。

 

「それは、きっとウィンドミル君が一番よく知っていますよ」

「……」

 

 ミアは訴えかけるようにランドルフを見た。彼は何も言わない。

 

「まやかしでないロレナを知っているのなら、教えてあげたらどうですか? そのためにレックスさんを誘ったんでしょう」

 

 ランドルフはしばらく考え込んでいたが、やがて、静かにミアに目をやった。

 

「ロレナに付き合っていて、嫌になったことはない?」

 

 彼女の兄として、何を思ってそれを聞いたのだろう。ミアにはよくわからなかったが、感じたままに答えることにした。

 

「ありません。私はロレナさんを愛していますから」

「……なら、いいんだ。色々と迷惑をかけると思うけど、ロレナをよろしく頼むね」

「……はい」

 

 ランドルフはロレナのことをどう思っているのだろうか。彼女のことをミアに頼むくらいだから、少なくとも憎からず思っているはずだ。しかし、それ以上に何か、愛とは違う複雑な感情が窺えるような気がする。ロレナとの間に何があったのか疑問に思うが、流石にこの状況で聞くことはできなかった。

 

「美しい兄妹愛、というものでしょうか。ロレナは幸せ者ですね」

 

 先ほどのランドルフ以上に感情がこもっていない声で、ラウロは言う。ミアは何を言っていいかわからず、空を仰いだ。その時、屋根と屋根の間を何かが通り過ぎた。いつの間にか鈍色の雲に覆われた空が、それを見下ろしているようだった。

 

「……え」

 

 よく見るとそれは、ミアのよく知る人物だった。

 

「ロレナさん! はやっ……はっ速いです!」

「速くしてるんだから当たり前ですわ! もっと飛ばしますわよ!」

「ええっ!? し、死んじゃいます!」

「ちゃんと安全なようにしてるから死にませんわよ! それより、ちゃんとあの鳥見ておきなさい! 私は魔法に集中するから、あなたが私の目になるんですわ!」

「は、はい!」

 

 アリア・ハーミットを抱き抱えたロレナが、屋根から屋根に飛び移って何かを追っている。どうやら、愛のかけらをくわえた鳥を追っているらしい。ミアは遠ざかっていく彼女を追おうとして、やめた。ミアの愛は誰にも負けないのだ。だから今は、無理して彼女たちを追う必要はないだろう。

 

「く……はは……相変わらず君は面白いですね、ロレナ」

 

 ラウロは一転して、楽しげな声でひとりごちた。ミアはひどく不気味なものを感じたが、それ以上にロレナの姿が気になり、彼女を見送った。相変わらず、小さな背中である。ミアよりももっと小さいのにいつも走り回っている彼女は、一体どこで止まるのだろう。

 

 彼女を見ていると、頭がぐるぐる回る。その背中に追いつきたい。彼女の止まり木になりたい。そうは思うが、彼女がミアの隣にずっといてくれる未来は、あまり想像できなかった。

 

 自分の中で、何かが揺れるのを感じる。ミアは彼女の背中が見えなくなるまで、瞬きせずにその姿を見続けた。そうしていると、不意に、頬に水が落ちてきた。どうやら、雨が降ってきたらしい。ミアは頬をハンカチで拭おうとした。

 

 しかし、体が妙に震えて、ハンカチを取り出すことができない。なぜなのかと思っていると、心臓がどくんと跳ねた。同時に、落ち着かない胸の奥から嫌な感情が溢れ出してくる。

 

 忘れていた焦燥や、彼女との間に感じていたズレが、再びミアを襲う。ミアは自分の愛がぶれていくのを感じた。思わず胸を押さえる。愛がぶれると、自分が何者なのかも分からなくなる。自分の愛を信じなければならないと思いながらも、それが今は、どうにもうまくいかない。一体、何が起こっているのか。

 

「おや、何やら妙なことになっていますね」

 

 ラウロの声が聞こえる。

 

「苦しそうですね、レックスさん」

 

 ミアは荒く息を吐いた。

 

「ロレナさん……」

 

 届くはずのない言葉を発していると、胸が苦しくなる。

 

「どうやらこの雨は、普通でないようです。見えますか、皆が苦しんでいるのが」

 

 ラウロは世間話をするような声色で言う。ミアは辺りを見渡した。先ほどまで賑やかにしていた人々は、苦しそうに蹲っていた。まさか、魔物の仕業なのだろうか。町に魔物が来るのは珍しくない。

 

 だが、魔物は強大な力を持っているというだけで、本質的には野生動物とそう変わらないはずなのだ。普通の魔物は、人の精神に影響を及ぼす力は持ち合わせていない。

 

 魔物の仕業なのであれば、術者として何もしないわけにはいかない。しかし、心がひどく乱れていて、動くことができそうになかった。

 

「凄まじいですね。それだけ皆さんには、心に抱えているものがあるということですか」

 

 淡々とした口調である。ミアに話しかけているのか、辺りの人々全員に話しかけているのかわからないような声量である。ラウロの声量が特別大きいわけではなく、周りがひどく静かであるために、そう聞こえるだけなのだろう。

 

「忘れるべき苦しみと、忘れてはならない苦しみが人にはある。皆さんが感じているのは、どちらなのでしょうね」

 

 ラウロは何も感じていないのだろうか。平然とした様子で、笑顔を浮かべながら彼は立っていた。

 

「君はどうですか、レックスさん。今君の感じている苦しみは、忘れていいものだと思いますか?」

 

 精神が乱れているせいか、その声が妙に深く心に染み込んでくる。忘れてはならない苦しみと、忘れていい苦しみ。それぞれどういうものなのかはわからない。だが、少し前まで感じていたズレや焦燥は、本来であれば忘れてはならないものだったような気がするのだ。

 

 それを感じるのは辛い。自分の愛に確信が持てなくなってくるためである。だが、そこから逃げたら、もっとひどいことになるように思える。

 ミアは微かに自分が何者なのかを忘れそうになりながらも、胸を襲っている苦しみに意識を向けた。

 

「僕は君にも期待しているんですよ。君がいれば、ロレナは否応なしに変化する。そうなれば……」

 

 ラウロは空を見上げた。雲と同じ色の瞳が、鈍い光を発しているようだった。ミアはそれを見ないようにして、ゆっくりと歩き始めた。

 胸がひどく苦しい。

 だが、それよりも、ロレナに会いたい。

 ミアはその一心で歩いた。その間も、胸の苦しみから意識を逸らさないようにしながら。

 



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11 嘘つき

「はぁ……ふぅ……ようやく捕まえましたわね」

 

 ロレナの腕の中で、アリアは鳥を抱えていた。彼女はくちばしから愛のかけらを奪い返すと、鳥を解放した。鳥は阿呆と聞こえるような鳴き声を残して飛び去っていった。ロレナは大きく息を吐いて、屋根の上に座り込んだ。ごつごつした瓦の感触と熱が伝わってくる。

 

「えへへ……取り返せてよかったです!」

「そうですわね……これで私も、鳥に負けた女という烙印を押されずに済みましたわ」

 

 アリアはロレナに背中を預けてくる。ロレナは何となく手慰みに彼女の頭を撫でた。

 

「意外と髪、さらさらですわね」

「そうですか?」

「ええ」

 

 彼女はくすくすと笑った。

 

「えへへ……ロレナさんに触られるのは、気持ちいいです」

 

 痛めつけられるのが大好きな割には、こうして普通に触られるのも嫌いでない様子である。アマンダを羨ましげに見ていたところを見て、ロレナは彼女のことを少し理解できたような気がした。

 

 彼女は恐らく、愛と称した虐待を受けてきた子供なのではないだろうか。これまでは家庭という狭い世界しか知らなかったために痛みを愛だと確信できていたが、学園に入ったことで世界が広がり、自信を持って痛みが愛だと言えなくなった。そう考えるのが、一番自然であるような気がする。

 

 愛とは何が正解で、何が間違っているのだろう。今世の両親はロレナにウィンドミル家の血を残すための道具としての教育を施してきたが、あれも一種の愛だったのだろうか。しかし、あれを愛として認識することは、未だにできそうにない。それは、ロレナの心が幼いためなのだろうか。

 愛に痛みは伴うべきでない。愛とは、きっと人を幸せにするためのものなのだから。ロレナはそう思うのだ。

 

「人に触られて気持ちいいというのは、私にはよくわかりませんわね」

「それはもったいないです! 私が教えて——」

 

 アリアが言葉を発している途中に、ぽつぽつと雨が降り出す。ロレナは空を仰いだ。先ほどまで痛いほどに青く済み切っていた空が、暗い色の雲に覆われている。ロレナは鼓動が早くなるのを感じた。

 

 雨が体に降り注ぐ度に、胸が苦しくなる。忘れていた昔の記憶が妙に思い返されて、息ができなくなりそうになった。

 これは、普通の雨ではない。魔物か、あるいは特殊な魔法使いの仕業か。わからなかったが、王都に異常が起こっていることは確かだった。ロレナは急いで立ち上がろうとした。しかし、膝の上でアリアが石造のように固まっていて、身動きが取れない。

 

「ハーミットさん! 寝てる場合じゃありませんわよ!」

 

 ロレナの頭は疑問で埋め尽くされていた。ゲーム本編では、季節のイベントの最中に襲撃されるなんてことはなかったはずだ。この国は魔物によく襲われているが、このタイミングでの襲撃は想定外である。

 

 だが、この異変が魔物によるものならば、奇妙ではあるのだ。精神に直接影響を及ぼす力を持つ魔物など、本来はラスボスしかいない。ラスボスである魔人メテウスは巫女の憎しみを増幅させる力を持っていたが、これはそういう類の力ではない。

 

 メテウスがこの時期に生まれていないのは確かだが、だとしたら、精神に悪影響を及ぼす力を持った別の魔物が生まれているということになる。人間の力である可能性はゼロではないとはいえ、限りなく低いだろう。精神に作用する魔法を使える存在など、本編でも見たことがないのだから。

 

「早く立って、雨宿りしますわよ!」

 

 ロレナはアリアの肩を叩いた。アリアはびくりと体を跳ねさせ、ロレナから離れた。彼女はひどく怯えたような目でロレナを見ている。

 

「触らないで!」

 

 アリアはいつになく大きな声で叫んだ。ロレナは目を細めた。雨はいつの間にか、土砂降りになっている。ロレナは心が寒くなるのを感じた。

 

「あ……ち、違うんです、今のは……ごめんなさい!」

 

 アリアは自分で言ったことで、ひどく傷ついたようである。彼女は苦しそうな表情を浮かべて、屋根から飛び降りた。そのままどこかへ走り去っていく。

 

 追わなければならない。そう思ったが、足がうまく動かない。体が震えて、古傷が心臓の音と共に痛んだ。降りしきる雨に服が濡れて、体が重くなる。忘れていた苦しみが蘇るのを感じながら、ロレナはしばらくぼんやりとしていた。

 

 体が動くようになったのは、王都が水浸しになった頃だった。ロレナは首を振って、駆け出した。

 王都は先ほどまでとは違った意味の喧騒に包まれている。王都は見えない壁で覆われているらしい。そのため、このまま雨が降り続ければ、最後には王都は水に飲まれてしまうということになる。昔のような力があれば壁を破壊することができたのかもしれないが、この雨の原因を何とかした方が早い。

 

 ロレナは屋根から屋根へ飛び移りながら、アリアを探した。意外にも足が速いのか、それともロレナが止まっていた時間が長いのか。どちらかはわからなかったが、彼女の姿が見えないのは確かだった。

 

「今日は追いかけっこが多すぎますわ! 嫌になりますわね!」

 

 ロレナは胸の痛みを誤魔化すように叫びながら駆け続ける。そうしていると、少し先に誰かが立っているのが見えた。腰まで水に浸されながら、少女が無表情で空を見上げている。ロレナは屋根から飛び降り、その少女のところに向かった。

 

「あなた、こんなところで何してますの?」

 

 少女は深海のような青い瞳でロレナのことを見つめる。その瞳を見ていると、吸い込まれそうになる。

 

「お姉さん、誰?」

 

 鈴を転がすような声である。ノイズのような大雨の音に負けない声が、柔らかく耳朶を打つ。ロレナは眉を顰めた。

 

「悠長に自己紹介してる場合じゃありませんわ。このままじゃ溺……」

 

 溺死すると言おうとして、やめる。こんな状況で子供を怖がらせても仕方がないだろう。

 

「でき……?」

「……何でもありませんわ。とにかくここはとても危ないから、高いところに行きますわよ」

 

 ロレナは少女に手を差し出した。少女はちらとその手を見てから、ロレナの顔に視線を戻した。

 

「名前、教えてもらってないよ」

「それ、今重要なことですの?」

「うん。とっても」

 

 少女は薄く笑った。その顔を見ていると、鏡を見ているような錯覚をしてしまう。少女の顔は少しロレナに似ていた。

 

「ロレナ。ロレナ・ウィンドミルですわ」

「ロレナ……」

 

 少女は噛み締めるように、ロレナの名を呼んだ。まるで、忘れていたものの名前を思い出したかのようである。

 

「……いい名前だね。すごく」

 

 少女は透き通った声で言う。

 

「それはどうも。あなたの名前も教えてくださる?」

「名前……」

 

 少女は何度か瞬きした後、柔らかく微笑んだ。

 

「スノー。そう、呼んで」

 

 不思議な雰囲気を持つ少女である。ロレナは差し出された手が握られるのを待ってから、早足で歩き出した。

 

「わかりましたわ。ほら、行きますわよ」

「……うん。ふふ、よろしく、ね」

 

 彼女の手は、意外にも力強い。ロレナはその手を握り返して、空を仰いだ。雨の勢いは強くなるばかりである。このまま世界が終わってしまうような心地がしたが、ロレナはいつものように胸を張ってみせた。

 

 

 

 

「ロレナさん!」

「……ぐふっ」

 

 愛の塔の頂上についた瞬間、ロレナの腹に誰かが突進してくる。こんなことをしてくる人物は、ロレナの知る限り二人しかいない。ロレナはぐりぐりと頭を押し付けてきている彼女を軽く叩いた。

 

「いきなり突進かましてくるなんて、ずいぶんなご挨拶ですわね、ミア」

 

 ミアは顔を上げた。その表情は少し苦しげである。ロレナはため息をついた。

 

「ごめんなさい……。でも、これも親愛の証ってことで一つ……」

「いや、駄目ですわよ?」

 

 ロレナはミアを一度引き剥がして、スノーの方を見た。彼女はロレナたちを見て笑っている。

 

「ここにいればしばらくは安全ですわ」

「……本当に?」

 

 スノーは無垢な瞳をロレナに向ける。ロレナは試されているような心地がした。

 

「皆、苦しそうだよ?」

 

 ロレナは辺りを見渡した。愛の塔に避難してきたらしい人々は、確かに皆苦しそうな表情を浮かべている。この雨の影響なのだろう。ロレナも苦しくはあるが、それを隠すのには慣れている。

 

「あなたは大丈夫なんですの?」

 

 スノーは平気そうな顔をしている。特別苦しみに強いのか、ロレナのように隠すのが上手いのか。それとも……。

 

「うん、大丈夫。私には、苦しいことがないから」

 

 彼女は当然のように言う。今のロレナよりも幼いようだから、苦しいことがないと自信を持って言えるのかもしれない。

 

「それは何よりですわね。ところで、あなたの親はここにいまして? 特徴を教えてもらえれば探しに行きますわよ」

 

 スノーは首を横に振った。

 

「ううん、いるから大丈夫」

 

 そう言ってから、彼女はじっとロレナを見つめた。

 

「お姉さんも、苦しそう。大丈夫?」

 

 ロレナは少し驚いた。他者に見抜かれるほど、ロレナの演技は甘くないはずである。彼女は子供だからこそ、ロレナの内に潜む苦しみに気付いたのかもしれない。

 

「大丈夫ですわ」

「ふうん……そう、なんだ。なら、仕方ないね」

 

 スノーは小さく頷いた。彼女の言葉にどこか引っ掛かりを覚えながらも、ロレナはミアの方を向いた。

 

「ミア。私はこの雨の元凶を見つけてきますわ。あなたはここで、皆様のことを守ってくださいまし」

 

 ミアは俯いている。彼女の銀色の髪は、濡れて体にべったりと張り付いていた。

 

「……ついて行っちゃ、駄目なんですか?」

「それはあなたが一番よくわかっているでしょう」

 

 ロレナはミアの肩を叩いた。

 

「あなたはとてもじゃないけど、動ける状態じゃない。でも、私は動ける。だから私が行く。それだけですわ」

「それは……」

 

 ミアは納得できない様子である。普段の戦いは、多少危険があるとしても、ミアが納得できるようについてきてもらうことにしている。だが、今回は話が別である。どう考えても、今のミアを連れていくべきではない。それに、探索の際はロレナ一人の方が効率がいいのだ。

 

「頑張れるときとそうでないときは誰にだってあるものよ。恥じる必要はありませんわ。それに、愛の力は使ってもらうことになるもの。だから、そんな顔しないでくださいまし」

 

 ミアは泣きそうな顔をした。

 

「……ロレナさん」

 

 雨はいつまでも、降り止まないままである。地上がどうなっているかは、見ないでもわかった。あまり時間がない。ロレナは急いで地上に降りようとした。そのとき、後ろからミアの腕が伸びてきた。

 

「私、負けたくないんです」

 

 ミアはそのまま、ロレナの肩から腕を通してくる。振り向くと、彼女は筆舌に尽くし難い、複雑な感情を浮かばせていた。

 

「ロレナさんは私の巫女で、私はロレナさんの術者ですから……だから私、今よりもっと強くなります!」

 

 雨の冷たさに混じって、ミアの体温を感じる。

 

「だから、だから……どこかに行っちゃ嫌です」

 

 それは、物理的な話ではないのだろう。ロレナがどこに向かおうとしているのか、ミアには見えているのだろうか。いや、だとしたら、こんな迂遠な言い回しはしないだろう。死のうとしていることに気付かれていないのなら、そのままでいい。

 

 今のロレナたちは、巫女と術者という特別な関係である。だが、それは容易に解消されるものだ。ミアはいつか攻略対象たちと本当の愛を育むことになる。本編でそうだったのだから、巫女ではなく術者である今の彼女は、さらに彼らとの愛を育みやすくなっていると言えるだろう。

 

 今までの様子を見るに、彼女が少なからずロレナに好意を抱いているのは確かである。だがそれは、好意であって愛ではない。ロレナが死に、愛する人を見つけたら、ロレナへの好意など容易に忘れるだろう。

 

「心配は無用ですわ。あなたがいないと、私の名声は上がらないもの。だから、本当の意味であなたを置いていくことにはなりませんわ」

 

 他人にも、自分の心にも、嘘をつくことにすっかり慣れてしまっている。だからロレナは、平然と彼女に嘘をついた。ミアはどこか不安そうな顔をしながらも、ロレナのことを解放する。

 

「……なら、いいです。役に立てなくて、ごめんなさい」

「強くなったと思ったら、やっぱり弱いですわね、あなた」

 

 ロレナは大きくため息をついた。

 

「ミア! 強くなりたいなら、もっと自分に自信を持ちなさい! 謝るべき時なんて、そうそうないものよ!」

 

 ロレナは胸を張って言った。

 

「ほら、私はあなたたちの代わりに魔物を探しに行って差し上げるんですのよ? 言うべきことがもっと他にあるでしょう?」

「……はい。ありがとうございます、ロレナさん。御武運を」

 

 ミアはロレナに倣って、小さく胸を張った。本編では彼女はもっと強かったが、この時点ではあまり強くないらしい。精神的にも、肉体的にも。だが、これから様々な事件を経て、どんなことがあっても挫けないような心を育てていくのだろう。ロレナには恐らく、関係のないことではあるのだろうが。

 

「上出来ですわ! 跪いて私の無事を祈っていてもいいんですわよ、ミア!」

「……いや、それはしないです」

 

 ミアはまだ少し苦しそうにはしているものの、調子を取り戻してきたらしい。子供っぽいようで、どこか冷静というか、辛辣というか、そういった性質を持っているのが彼女のいいところなのだ。ロレナは笑った。

 

「小生意気な……。ま、それでいいですわ。あなたはちょっと腹立つくらいがちょうどいいもの」

「それ、どういう意味ですか?」

「さあ。その小さな頭で考えてみなさい?」

「む。ロレナさんはまたそうやって……」

 

 ロレナは塔の手すりから身を乗り出して、飛び降りた。今の状態ならば、魔法の制御は容易である。ロレナは体が浮くのを感じながら、地上を見渡した。すでに水は家屋の半ばまできている。このままでは、王都はそう遠くない内に沈んでしまうだろう。ロレナは息を吐いて、気を引き締めた。

 

「……嘘つき」

 

 雨の音に混じって、柔らかな誰かの声が聞こえる。頭上を見ると、スノーと目が合ったような気がした。

 

 

——

 

 

 アリアは水が迫りつつある屋根の上に寝転がっていた。空を眺めるには、少し雨が強すぎる。それでも、もう走る気にもなれず、雨に打たれながら空を仰いだ。自分は何をしているのだろう。そう思いながら、縄の巻かれた腹に手を置いた。

 

 心地良い痛みが走って、少し心が落ち着く。しかし、先ほどのことを思い出し、すぐに気分が重くなった。

 ロレナにひどいことをしてしまった。あんなことを言うつもりはなかった。しかし、彼女に触られた時、反射的に拒絶してしまったのだ。

 

 誰かに触られるのが怖い。アリアは今、そう感じていた。自分でも、どうして怖いのかわからない。しかし、誰かの手が自分の体に伸びてくるのを見ると、父との記憶が蘇るのだ。

 

 父はアリアに、痛みが愛だと教えてくれた。アリアに痛みを与え、人は痛くなくては駄目なのだと教えたのは彼である。父曰く、母は父の愛に応えることなく、勝手に自殺してしまったらしい。だから父は「愛から逃げないように」とアリアに強く言って、いつも痛みを与えてきたのだ。

 

 アリアはそれを愛だと信じてきた。痛みは苦しいが、それこそが愛ならば、逃げることは許されないと考えて生きてきたのだ。そのおかげで、痛みを心地良く思えるようになった。しかし、学園に入ってから、愛にヒビが入った。

 

 誰もアリアに愛を、痛みを与えてくれないのである。彼らは皆異口同音にアリアの愛を「気持ち悪い」と拒絶した。要求の仕方が悪かったのかもしれないと思い、直接的に痛みを要求するのではなく、縄で縛ってもらうことで痛めつけてもらおうと考えたのだが、それもうまくはいかなかった。

 

 しかし、それでも学園には愛が満ちていた。多くの人が苦しそうに、痛そうにしながら生活をしていたのだ。だというのに、アリアの愛を否定するのはなぜだろうと思った。アリアには何もわからなかった。ただ、壊れ始めた自分の世界を、ぼんやりと見ていることしかできなかった。

 

 それを変えてくれたのはロレナだ。彼女だけは、アリアのことを否定しなかった。困った顔をしながらも、アリアに愛を与えてくれていた。

 

 だから、そんな彼女に愛を否定された時、完膚なきまでに世界が終わってしまったような気がしたのだ。しかし、彼女の考えを聞いて、意識が少し変わった。きっと、彼女はアリアのことを考えてくれているのだ。痛みとはまた違う愛のために、彼女はアリアに接してくれているのである。

 

 そう思うと、嬉しかった。

 彼女色に染まりたい。彼女を自分の色に染め上げたい。そんな欲望が、心の内から湧いて出てくるような気がした。

 しかし、なぜだか雨が降り始めてから、心が乱れて仕方がなかった。自分は壊れていて、今までの積み重ねは何もかも無意味だったのだと、心が叫んでいるのだ。

 

 自分の愛がおかしいことくらい、わかっている。きっと、本当は学園に入る前からわかっていたのだ。それでも——。

 

「早目の天体観測ですの?」

 

 聞こえるはずのない声が聞こえた。アリアは弾かれたように声のした方を向いた。そこには、いつもと同じように呆れたような表情を浮かべたロレナの姿があった。彼女は濡れた髪を揺らしながら、アリアの横に腰をかけた。

 

「全く、勘弁して欲しいですわね。あなたを探し回ったおかげで、全身ずぶ濡れですわ」

「ご、ごめんなさい……」

 

 彼女にだけは嫌われたくない。気持ち悪いと言われたくない。そう思っても、今更遅いのだろう。アリアの壊れた愛は、きっと他者から見ればひどく気持ち悪くて、どうしようもないものなのだろう。

 

「殊勝な態度ですわね。今日のところはそれに免じて許して差し上げますわ」

 

 服越しに、ぎゅっと縄を握る。心地良い痛みが体に走るが、それに浸ることはできそうになかった。

 

「で、何があったんですの?」

 

 ロレナはじっとアリアの目を見つめてくる。その視線が痛いが、目を逸らすことはできない。

 

「……言いたくないって言ったら、駄目ですか?」

 

 ロレナは目を細めた。呆れているような、困っているような、そんな表情である。

 

「あなたがそう言うのなら、仕方ありませんわ。無理に聞き出すほど、私は鬼ではないもの」

 

 この前も、似たようなやりとりをした覚えがある。無理に踏み込まないのは彼女の優しさなのだろう。しかし、それに甘えていたら一生、今のまま変われなくなる。

 

 今まで信じてきた世界に、壊れて欲しくない。アリアの世界を壊して、彼女の見ている世界に連れて行って欲しい。アリアの胸の中には、そんな相反する願いが渦巻いていた。

 

 いっそ、強引に壊してくれればいいのに、と思う。アリアの全てを彼女が蹂躙してくれたら、これまで感じてきた苦しみも全てなくなるのだ。しかしそれは、現実逃避なのかもしれないとも思う。

 

「……やっぱり、聞いてもらってもいいですか?」

「消極的ですわね。聞かせてやる、くらいのことを言ってくれてもいいんですわよ?」

 

 ロレナは優しい声で言う。その声が、耳に痛かった。

 

「……はぁ。何があったんですの? 話してごらんなさいな」

 

 ため息交じりの声が、雨の音をすり抜けて耳朶を打つ。アリアは泣きそうな心地になりながら、彼女の瞳を見つめ返した。

 

「苦しいんです」

 

 こんなことを吐露しても、どうにもならないのかもしれない。それでも、もはや黙ってはいられないと思った。

 

「誰かに触れられるのも、痛いのも、きっと嬉しいはずで、嬉しくないと駄目で。それなのに……怖くて、苦しいんです! 全部嫌に思えて、どうしようもなくなるんです! 私……私、どうしたらいいんですか?」

 

 ロレナは少し考え込むような顔をしてから、立ち上がった。

 

「そんなの単純ですわ!」

 

 ロレナはにやりと笑って、大きく胸を張った。

 

「私に触りなさい、ハーミットさん」

 

 彼女は得意げに言う。アリアはどうしていいかわからず、固まった。

 

「怖くて苦しいのが全部なくなるまで、私に触るといいですわ。人間なんて、存外に怖くないものよ?」

 

 父に何度も痛めつけられた記憶が蘇る。それでもアリアは、ロレナに手を伸ばした。彼女は微動だにしない。アリアはそっと、彼女の頬に触れた。柔らかく温かな頬からは、生きている人間の感触がした。

 

「あったかい、です」

「そうですわね。私も、生きていますから」

 

 痛くないのに、彼女に触れていると幸せを感じる。この幸せを、何と呼べばいいのかはわからない。なぜ自分が幸せを感じているのかも、今のアリアにはよくわからない。それでもアリアは、彼女の頬に触れ続けた。

 

「……怖くないです」

「そう」

「苦しくも、ありません」

「よかったですわね?」

 

 アリアは立ち上がり、そっと運動着をめくった。そして、ロレナの手を自分の腹まで持っていく。

 

「……ロレナさん。解いて、くれませんか」

「あら、いいんですの?」

「よくないです。でも、きっと解かないと駄目なんだって、思うんです」

 

 ロレナのことをもっとよく知るために、ロレナの色を取り入れるために、縄を解く必要がある。アリアはそう思った。しかし、縄を解くのは怖い。痛みがなくなってしまうのは、どうしようもないほど怖いのだ。今までアリアの支えはそれだけだったのだ。

 

 自分の愛が間違っていると薄々わかってはいるが、それでも、信じるものがなくなったまま生きるのは怖くて仕方がなかった。

 だが、今まで信じてきたものを捨てて、ロレナを信じたいと思うのだ。だから、一歩踏み出さなければならない。

 

「いいですわ。勝負は私が一歩リードですわね」

 

 ロレナはそう言って、縄を解いていく。濡れた縄が音を立てて滑り、少し後に、腹から痛みが消えた。ロレナは解いた縄を投げた。少し離れたところから、ぽちゃんという音が聞こえてくる。それが何だかおかしくて、アリアは思わず笑った。

 

「ふふ……えへへ……なくなっちゃいました」

 

 赤い跡の残った腹を、アリアは見下ろした。ロレナは呆れたように笑う。

 

「痛くても痛くなくても笑うのね、あなたは」

「ロレナさんといるときは、いつも嬉しくて、楽しいですから!」

 

 それは嘘偽りない気持ちだった。ロレナと出会ってから、アリアは学園内でも楽しく生きられるようになった。彼女が自分に付き合ってくれているだけで、幸せな気分になるのだ。

 

 アリアの愛に付き合ってくれるのであれば誰でもよかったわけではない。アリアは最近、それに気がついた。ロレナがロレナだからこそ、アリアは幸せを感じるのだ。

 

 ロレナはわかりづらいようで、とてもわかりやすい優しさを持っている。色々言いながらもアリアに付き合ってくれるところや、アリアが俯いていると、そっと前を向かせてくれるところ。それが彼女の優しいところなのだ。

 

 今までのアリアを受け入れ、付き合ってくれたからこそ、今までとは違う世界に行ってみたいと思うようになったのだ。だからアリアは、ロレナのことが好きだった。この気持ちに、嘘はない。

 

「それは何よりですわね。……さて、じゃあそろそろやりますわよ」

「何をですか?」

 

 ロレナは笑った。

 

「魔物退治を、ですわ」

 

 そう言って、ロレナは手を差し出してくる。今度はその手に、恐怖を感じなかった。アリアは彼女の手を強く握った。いつの間にか、屋根の上まで水が迫ってきている。アリアは靴底が水に濡れていくのを感じた。しかし、ロレナの手を握っていると、死への恐怖も感じなかった。

 

 

——

 

 

 王都が水に沈んでいく。ロレナは深呼吸をして、魔法を使った。風魔法と光魔法の応用による連絡は、向こうが魔法を受信してくれなければ効果がない。ロレナはミアに向かって連絡を送る。彼女ならば、ロレナの魔法に気づかないということはないはずである。

 

「ロレナさん! 大丈夫ですか!?」

 

 魔法越しに、ミアの声が聞こえてくる。ロレナは辺りの景色を魔法で送りながら頷いた。

 

「ええ、まだ平気ですわ。ですが、あんまり余裕はなさげですわね」

 

 ロレナは風魔法によって落下速度を緩めたり、高く跳んだりすることはできるが、飛行することができないのである。ここまで水が迫ってきていると、魔法を使っても塔まで行くのはほぼ不可能であった。

 

「待っててください、今そっちまで……」

「落ち着いてくださいまし。……悪いですが、ミアには一つ、して欲しいことがありますわ」

「わかりました。何でもします」

 

 彼女は真剣な声で言った。こういう時に落ち着くのが早いのは、彼女の長所である。ロレナは空を見上げた。

 

「あの雲に向かって愛の力を放っていただきたいですわ」

「雲に、ですか?」

 

 ミアはやや苦しげな声で問う。魔法後しに遠くから聞こえる人々の苦悶の声が、ロレナの心を急かしていた。

 

「ええ。恐らくはあの雲は魔物か……魔物の力で生み出されたものですわ」

 

 鈍色の厚い雲が王都の頭上を覆っている。少し遠くを見ると、雲一つない青空が広がっている。

 

「先ほどまで雲一つない青空だったのに、急にここまで雲ができるのはおかしいですわ。何度か空を見ても、雲が発達している様子はなかったもの」

 

 アリアを探すと共に魔物の気配も探っていたのだが、結局それらしき姿を見つけることはできなかったのだ。それに、もし普通の魔物のように獣のような姿の魔物がいるのだとしたら、誰にも見つかっていないのはおかしい。

 

 いかに雨によって精神が乱れているといっても、王都中に人がいるのだ。魔物が現れたら、その場所で騒ぎになっているはずである。

 

 塔から落下する途中で騒ぎになっている場所がないか探してみたが、雨から逃げ惑う人々しか見つけることができなかった。屋内にいる可能性もなくはないが、凶暴な魔物が静かに屋内に待機できるとは思えない。

 

 つまり、王都に普通の魔物がいる可能性は限りなく低いということになる。

 王都の外にいる魔物が攻撃を仕掛けてきている可能性も高くはないだろう。ラスボスの魔人メテウスですら、対象が近くにいないと精神に影響を及ぼす力は使えなかったのだ。今発生している魔物がイレギュラーだとしても、彼女より能力が高いはずはない。

 

 先ほど確認したのだが、王都に張られた見えない壁は全力の魔法でも破壊できないほど強固であった。だから、この状況を脱するにはもはや、雲を攻撃するしかないのだ。何か腑に落ちないものを感じるが、ロレナに選択肢は残されていない。

 

 当てが外れれば水に飲まれるだけである。

 ロレナはアリアをちらと見た。彼女は恐怖を一切感じさせない表情を浮かべながら、しっかりとロレナの手を握っている。ロレナは軽くその手を握り返した。ロレナが死ぬのは、アリアの安全を確保した後でなければならない。生きることを望んでいる者を、ロレナの死に巻き込むわけにはいかないのだ。

 

「……もし、全く関係なかったら?」

 

 ミアは神妙な声で言う。

 

「私の考えが間違っていると思うんですの?」

「それは……」

 

 ロレナは笑った。

 

「ま、大丈夫ですわ。もし駄目だったら、その時は……」

「その時は、一緒に死にましょう」

 

 アリアは静かに言った。その手はロレナの手を強く握りしめている。

 

「いや、その時は諦めないで最後まで頑張るんですわよ」

「そうなんですか?」

「当たり前ですわ! 縁起でもないこと言わないでくださいまし!」

「えへへ……私はロレナさんと一緒なら、どっちでもいいですよ」

「えぇ……?」

 

 雨は止む気配を見せない。足首までが水に飲み込まれていく。ロレナはぼんやりと遠くを見た。見えない壁に包まれた王都は、水風船のように水を溜め込んでいる。それを見ていると、胸がざわざわするような、不思議な感じがした。感情を胸の奥に仕舞い込むのには慣れている。だからロレナは、いつものように全てを隠して得意げな顔をした。

 

「安心なさい。私たちは、ここで散るような人間ではありませんわ」

「何でそう言い切れるんですか」

 

 ミアは不安げな様子である。ロレナは胸を張った。

 

「人間の可能性を信じているからですわ!」

 

 ロレナの声は、雨の降る王都に空虚に響く。いつの間にか、王都から喧騒が消えていた。人々の声は一切聞こえず、聞こえるのは振り続ける雨の音のみである。まるで、世界から人類が消えた後であるかのようだ。

 

「自分なら何でもできると信じている限り、そう簡単に人は死ぬことはないんですわよ」

 

 この世界では特に、心の持ちようによって全てが変わるのだ。それでも、事故は防ぎようがないのだが。

 

「人は自分の力で全てを変えられる。未来を切り開いていける。私はそう信じてる。だから、きっと……絶対にここでは終わりませんわ」

 

 信じているというよりも、信じたいという方が正しいのだろう。こんな言葉を口走ってしまうのは、魔物が降らせている雨のせいなのかもしれない。

 

「ロレナさん……」

 

 水が迫ってきている。もう、時間がないだろう。

 

「はい。ロレナさんがそう言うのなら、私も信じたいです。……ううん。ロレナさんを信じて、やります」

 

 ミアはこれから、負担がかかる状況で戦うことを余儀なくされるだろう。だが、こうして経験を積めば、そんな時でも力を出すことができるようになるはずだ。

 

「私じゃなくて自分を信じなさいな。最後に役に立つのは自分だけですわよ」

「私たちは一心同体ですから、ロレナさんを信じることは自分を信じることなんですよ」

「……なるほど。これは一本取られましたわね。ま、肩の力を抜いていいですわよ。あなたに無理をされても困るもの」

「いえ、できる限り頑張ります」

 

 そこで一度、会話が止まる。ロレナはアリアと繋いだ手の間に雨が幾筋も入り込むのを感じた。雨が体を濡らすたびに、心が乱れるのを感じる。ロレナは目を閉じて、ミアのことを想った。

 

 その時、全身に激痛が走った。ミアが力を使ったのだろう。

 どうしてか、今日に限って昔のことを思い出す。昔はよくこうして、痛みを与えられていたのだったか。自分がその時何を思っていたのか、ロレナはいまいち思い出すことができなかった。

 

 痛みに混ざって、アリアの手の感触が伝わってくる。冷たい雨よりも強く伝わるその感触と熱は、どこか心地良いものに思えた。意外と自分は人の体温に飢えているのかもしれないな、とぼんやり思う。思えばこの世界に生まれてから数年は、誰かの熱を感じたことがほとんどなかったのだったか。

 

 生まれたばかりの頃はまだ、自分の幸せを追い求めようとする気持ちもあったはずだ。一体いつ、死を目指すようになったのだろうか。そんなことを思う。しかし、思い出そうとするとひどく頭が痛くなった。

 

 思い出せそうにないことは、思い出さなくてもいいはずだ。

 ただ、心が満たされれば満たされるほど、それを奪われるのが怖くなることだけは確かである。だから死を目指す。それだけだ。過去も未来も、関係ない。

 

「ロレナさん!」

 

 その時、ぎゅっと体を抱きしめられる。目を開けると、アリアの顔が視界に飛び込んできた。

 

「ハーミットさん、どうしたんですの?」

 

 暗かった王都が、眩い光に照らされている。頭の上から空に向かって放たれた光線が、王都全体を輝かせているようだった。光が通った後の空からは、雲が消えている。やはり、普通の雲ではないらしい。光は徐々に空を移動し、王都を覆っていた分厚い雲を吹き飛ばしていく。それに伴って、雨の量も少し減っていった。

 

「えと……今のロレナさん、何だか辛そうだから……こうです!」

 

 アリアは思い切りロレナを抱きしめる。ロレナは痛みと共に、息苦しさを感じた。

 

「いや、こっちの方がもっと辛いですわよ!?」

「でも……私ができるのはこれだけなんです」

 

 アリアはひどく不安そうな声で言った。ロレナの苦しみを軽減しようとしているのだとしたら、痛みが愛だという発想から少し離れ始めていると言うことなのかもしれない。このまま彼女が自ら死ににいくようなことがなくなれば、ロレナの役目は終わったも同然である。

 

「ロレナさんも、こうしていたら少しは苦しさ、なくなりませんか?」

「……別に私、苦しくなんてありませんわよ。むしろこうして抱きしめられてる方が苦しいですわ」

 

 アリアは誰かの痛みや苦しみを見抜く能力が優れている。だから、こんな嘘をついてもきっと無駄なのだろう。だが、ミアに聞こえている以上、余計なことは言えない。無論、二人きりだとしても、誰かに弱音を吐くつもりはないが。

 

「私はこうされると……苦しさ、なくなります」

「そう。ならまあ、このままでもよくってよ?」

 

 雲の量は減ってきているが、それでも王都を覆う水の量は増え続けている。下半身はすでに水に飲まれていた。空を見上げると、雲を消している光線が少しずつ細くなっているのが認められた。

 

「ミア、大丈夫ですの?」

 

 吐きそうなほどの痛みを感じながら、ロレナは言った。応答はない。じっと空を見つめていると、次第に細くなっていた光線が消えていく。雲はまだ半分以上残っている。ロレナは魔法越しに、何かが崩れ落ちる音を聞いた。

 

「ミア! 応答なさい!」

「……無理だよ」

 

 聞こえてきたのはミアではなく、スノーの声だった。

 

「倒れちゃったから、この人」

 

 スノーは淡々と言う。その声には何の感情も込められていない。ロレナは歯噛みした。想像以上に、ミアの精神には負荷がかかっていたらしい。魔法の使用と同じように、愛の力の使用は体調が万全でなければ難しいものである。ミアは限界を迎えてしまったのだろう。無茶をさせてしまったようだ。

 

「ミアの様子はどうですの?」

「ん、大丈夫だよ。ちょっと気絶してるだけ。多分、心が乱れたせいでうまく力が使えなかったんだろうね」

 

 幼い少女とは思えないほど冷静な言葉である。しかし、そんな彼女が大丈夫だと言うのなら、ミアは本当に大丈夫なのかもしれない。

 

「……そう」

「どうするの?」

 

 スノーは世間話をするように問うた。ロレナは深呼吸をしてから、意識を集中させた。

 

「決まっていますわ」

 

 ロレナは魔力を練り、空に手を向けた。

 

「私が魔物を倒す。それしかありませんわ」

 

 雨はすでに、塔以外の全てを呑み込みつつある。ロレナの腹まで水が迫ってきていた。もはや一刻の猶予もないと言っていいだろう。愛の力なしで魔物を完全に消滅させることは不可能だが、まずはこの場を切り抜けることが最優先である。ロレナは息を吐いた。

 



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12 ヒビに染みるもの

「お姉さんにできるの?」

「できるじゃなくて、やるんですわ」

 

 コンディションは最悪である。全身に絶え間なく激痛が走っているため、うまく魔力を練れる気がしない。それでも、今動けるのは正真正銘ロレナだけなのだ。

 

「ふふ……そっか、そっか……頑張って」

 

 スノーの嬉しそうな声が雨の音と共に耳朶を打つ。ロレナは背筋が震えるのを感じた。雨に濡れたせいで、体が冷えているのかもしれない。

 

「ええ。私の勇姿をしっかりと見ているんですのよ?」

「うん。見てるよ、お姉さん」

 

 スノーはどこか楽しげに言った。子供だから危機感がないのかとも思ったが、何かが違うような気がする。しかし、今は彼女について考えている場合ではない。ロレナは魔力を練った。

 

 魔力を練り上げる度に、心臓に亀裂が入ったかのような痛みが走る。ロレナは息を吐き出した。集中しようとすればするほど、魔力が霧散していくような感じがする。それでもロレナは、必死に魔法を放った。

 

「ぶっ飛びなさい!」

 

 風が辺りの水を引き裂きながら空に登っていく。しかし、空に届く頃には、魔法の威力はひどく弱まっていた。雲を少しは減らすことができたものの、それだけである。全身が張り裂けそうなほどの痛みに、頭が白熱するのを感じる。

 

「ロレナさん!」

 

 アリアの声がひどく遠い。鮮明に残る痛みのせいで、息ができなくなりそうになる。それでもロレナは何度も魔法を放った。だが、やはり雲を完全に散らすには足りない。そうしているうちに、王都の水嵩が増えていく。

 

 アリアも一緒に魔法を放っているが、彼女は攻撃魔法があまり得意ではないらしく、空に届く前に消えてしまっている。痛みのせいで魔力の変換効率が悪いためか、ロレナの魔力は底を尽きそうになっていた。

 

 まずい、と思う。このままでは、ロレナだけでなく、アリアも死ぬことになってしまう。どうにか彼女だけでも逃がせないかと思い、辺りを見渡す。しかし、役に立ちそうなものは何もなかった。

 

 こうなったら、精魂尽き果てるまで魔法を放ち続けるしかないだろう。ロレナにできることは、もはやそれだけである。

 

 ミアが巫女だったのならば、このような状況でもどうにかなっていたのかもしれない。少しだけ、そう思う。どうにも限界が近いためか、考えても仕方がないことについて考えてしまう。

 

 そもそも、なぜ空に魔物が現れたのだろう。

 この前の山の崩落もそうだが、最近は想定外のことが起こりすぎている。あの後件の山にもう一度行ってみたのだが、山頂は崩落が嘘だったかのように綺麗になっていた。あれもまた、魔物の所業に違いないだろう。

 

 ロレナの知らないところで、何かが大きくずれ始めている。そんな予感がする。だが、きっとミアならば、どんな問題にも立ち向かっていけるだろう。今のロレナがすべきことは、アリアを無事に帰すことだけである。

 

 アリアが物語とは全く違う行動をとり始めた原因は、ロレナなのだ。巫女たちの仕事を引き受けたことで、彼女に影響が出るとは思ってもみなかった。だが、影響が出てしまった以上、その責任は取らなければならないのだろう。少なくとも、彼女を死なせるわけにはいかなかった。

 ロレナが生きている間は、できる限り誰も死なせない。誰かが死ぬのを見るのは嫌なのだ。

 

「まだまだ……いきますわよ……」

 

 心の乱れと激痛で、ロレナは意識が遠のき始めていた。しかし、最後の瞬間まで、諦めるわけにはいかないのだ。

 

「もう、やめませんか?」

 

 アリアは息も絶え絶えに言う。

 

「十分頑張りましたよ。もう、諦めましょう? ロレナさんの苦しそうな顔、これ以上見たくないです!」

 

 アリアはロレナの体に縋り付く。その感触を、ひどく遠くに感じた。

 

「誰が苦しそうにしているというんですの? これくらい、全然ですわ!」

 

 ロレナはそう言って笑顔を繕ってみせた。しかし、アリアは悲しそうな表情を浮かべるのみである。

 

「私は絶対に、死んでも諦めませんわよ」

 

 ロレナは風魔法を空に向かって放ち続ける。そうしていると、視界の端に愛のかけらの光が見えた。

 

「もう駄目だって、わかってるはずなのに。やめてください。お願いですから……」

 

 ロレナは俯く彼女の顔を上げさせた。もうそろそろ、全身が水に飲まれるだろう。

 

「私が諦めないのだから、あなたも諦めては駄目ですわ。最後の最後まで、私の勇姿を見届けなさい!」

 

 そう言いながら、魔法を放ち続ける。降り続ける雨を切り裂いて空まで登っていく風が、ひどく虚しく感じられた。昔のように風魔法が使えれば、この程度の雲は一撃で消し去れたのだが。全ては後の祭りだったが、ロレナは少し、自己改造をしたことを後悔した。

 

「どうしてですか? どうしてそんなに、頑張るんですか?」

 

 アリアは泣きそうな目でロレナを見つめる。ロレナは水の中で胸を張った。

 

「あなたを死なせたくないから。理由なんてそれだけですわ」

 

 アリアは目を見開いた。

 

「あなたはまだ、十二歳でしょう? これから先いっぱい楽しいことや幸せがあるはずなんですわ。それがこんなところで、奪われていいはずがないわ!」

 

 こんなことを言うなんて、柄でもないと思う。きっと全ては雨のせいなのだ。ロレナはただ、自分のために誰かを助けているだけなのだから。

 

「あなたがいいと言っても、私が許さない。納得できない。そう簡単に消えていい命なんて、あるはずがないのよ」

 

 どんな命も、容易に奪われるべきではないのだ。生まれた以上、長く生きられた方がいいに決まっている。人は長く生きて、その分幸せを感じるために生まれてきたはずなのだ。

 

「だから……泣くのはやめなさいな」

 

 アリアの頬には水が伝っている。それが雨なのか涙なのかは、見ただけではわからない。しかし、見ていていたたまれなくなるほどにしゃくり上げるので、泣いていると思ったのだ。

 

 ロレナは答え合わせのために、彼女の頬に手を添えた。意味はないとわかっていたが、手で彼女の涙を拭う。皮膚の奥まで染み込むような温かさが、指先から伝わってくる。ロレナは苦笑した。

 

「もう、顔ぐしゃぐしゃじゃないですの。可愛い顔が台無しですわよ」

「だって、だってぇ……」

 

 アリアはもはや、何を言っても泣き止まない様子である。できることなら背中でも撫でてやりたいところなのだが、水が迫ってきているためそれもできそうにない。

 

「泣くほど死ぬのが怖いなら、ちゃんと私と一緒に魔法を使いなさいな」

「ちがっ……うん、です。涙が出るのは、そうじゃ、なくてぇ……」

 

 彼女の声を聞いていると、少し力が抜ける。ロレナはため息をついた。

 

「わかりました、わかりましたわ。とにかく、最後まで抗いますわよ」

「うぅ……はい!」

 

 アリアは泣きながら頷いた。その顔はまだ濡れたままだったが、それでも、先ほどよりも強い意志が感じられる。

 

「あなたは少し、諦めやすいきらいがありますわね」

 

 魔法を使いながら、ロレナは言った。消えない雲から降り注ぐ雨が、冷たくて痛い。

 

「いい? 今度から、諦めそうになったら私を呼びなさい。私が生きている間は……暇なら駆けつけてあげますわ」

 

 アリアは目をぱちくりさせてから、微妙な表情を浮かべた。

 

「……いいんですか? 私、すごく頼っちゃうかもしれないです」

「暇だったら、付き合ってあげなくもないですわよ」

 

 アリアはいつものように無垢に笑ってみせた。

 

「……はい! やっぱりロレナさんは、すっごく優しいです!」

 

 王都は暗いままだが、彼女の笑みはどこまでも輝いて見えた。ロレナは何だか毒気を抜かれて、思わず微笑した。

 

「だから、私は優しくなんてないって言っているでしょうに」

「私、そんなロレナさんが大好きです!」

「あなた、都合の悪いことは聞こえない耳になってませんこと?」

 

 アリアはにこにこと笑い続けている。次第に増えてきた水が、ロレナたちの首を飲み込んでいく。普通の水とは違うためか、こうして流されることもなく立っていられるが、流石に飲み込まれたらただではすまないだろう。

 

 想像以上に絶体絶命である。ミアが動けない以上、もはや打つ手はないと言っていいだろう。

 その時ふと思う。元々愛の力は、苦痛を与える術式なしで使われていたものだ。ならば、魔力が尽きたとしても、原始的な愛の力を使えば、魔物を攻撃することはできるのではないか。

 

 いや、だが、ロレナは術者ではないため、愛の力の変換方法を知らない。それに、愛の力を感じるのも難しいのだ。自分の愛を自分で変換するのは至難の業である。そう思っていると、先ほどから輝き続けている愛のかけらが目に入った。

 

 もしかするとこれは、愛の力を発しているのではないか。だとしたら、これを攻撃に使えるかもしれない。もはや魔法を使うことは困難であるため、最後の賭けとして愛のかけらを使ってみるしかないだろう。

 

「ハー……アリア。愛のかけらを貸してくださいまし」

「えと……わかりました!」

 

 アリアは愛のかけらをポケットから取り出し、ロレナに手渡してくる。ロレナは自ら腕を出して、愛のかけらを高く掲げた。

 

「何をするんですか?」

「分の悪い賭けですわ」

 

 ロレナは愛のかけらを握りしめた。桜色の光がロレナの手を照らす。しかし、愛の力を感じることは叶わなかった。どれだけ握りしめていても、変わらない。そうしているうちに、ついにロレナたちの顔を水が覆った。ひどく冷たい感触が、全身に突き刺さる。

 

 ロレナは強く愛のかけらを握る。その手に、アリアの手が重ねられた。彼女はそのまま、腕を辿るようにしてロレナに抱きついてくる。その時、胸に何かが流れ込んでくるのを感じる。

 

 ロレナは無我夢中でそれを魔力のように練り、空に向かって放出した。

 眩い光が、水を切り裂いて雲に向かう。そういえば、ロレナ・ウィンドミルは愛の力を、ミアと同じく光に変換するのだったか。そんなことを思っていると、光が勢いを増していく。

 

 暗かった辺りを痛いほどに照らしながら空へと駆けていく光は、希望そのもののように見えた。ロレナは目を見開いて、水の中から厚い雲を見つめた。胸に感じる温もりを次々に撃ち出していると、やがて雲の形が見えなくなっていく。

 

 雲がなくなった瞬間、全てが夢だったかのように王都を覆っていた水が消えて無くなる。ロレナは糸が切れたように、その場に倒れそうになった。しかし、アリアがそれに気づいたらしく、ロレナを抱き止める。そのまま彼女は、屋根に座り込んだ。

 

 見れば、愛のかけらは色を失っていた。もしかすると愛のかけらは、愛の力をため込む機能でも持っていたのだろうか。だが、今はそれも、どうでもいいことだろう。ロレナは空を仰いだ。

 

「目が痛いですわね。……眩しすぎですわ」

 

 中天で太陽が照っている。ロレナは悪い夢を見ていたような心地になった。水中にいる間呼吸ができていなかったせいか、息がひどく乱れる。ロレナは深呼吸をしながら、薄く目を開けて太陽を見つめ続けた。その時、アリアが上からロレナの顔を覗き込んでくる。

 

「えへへ……ロレナさんの、とっても眩しかったです」

 

 彼女はロレナの頭を膝の上に乗せた。

 

「眩しいのは私じゃなくて……」

 

 アリアは嬉しそうに笑っている。ロレナは言いかけていた言葉を、別の言葉に変えた。

 

「いや、そうですわね。私は誰よりも眩しく……」

「ロレナ!」

 

 その時、すぐ近くから張り裂けんばかりの声が聞こえてくる。ロレナは上体を起こした。凄まじい勢いでフィオネが飛んできているのが見える。あまりの勢いに、ロレナは一瞬、防御魔法を使うかどうか逡巡した。もっとも、魔力が切れているため使えるはずもないのだが。

 

「よかった、無事で」

 

 フィオネは雷魔法で編まれているらしい巨大な剣を手にしている。巫女である彼女が戦っているところは見たことがないが、もしかすると、ロレナよりも接近戦に向いているのかもしれない。

 

 彼女はいくつかの瓦を吹き飛ばしながら、屋根の上に着地した。砕け散った破片から、その勢いの強さが窺える。それだけ急いできたということなのだろう。ロレナは立ち上がり、彼女の元に歩いた。

 

「ごめん、遅れて」

「大丈夫ですわ。ヘクターさんは?」

「多分、王都の人を避難させてたと思う。急いで来たから、ちょっとわかんないや」

 

 息を切らして、フィオネは言う。痛そうにしている様子は見えないため、ヘクターは力を使っていないのだろう。フィオネが元気そうでよかったというべきなのか、ヘクターは無事なのか心配するべきなのか。わからなかったが、ロレナは表情を変えずに彼女と顔を合わせた。

 

「……フィオネさんって、戦えたんですのね」

「うん。ただ魔物を殺すだけなら、ヘクターよりも私の方が速いし、強いよ」

 

 大言壮語というわけではないらしい。彼女の佇まいには隙がない。巫女でなく軍人であったならば、フィオネはもっと大成したのではないかと思う。

 

「だけど、駄目だね。……間に合わなかった」

 

 フィオネは剣を霧散させた。

 

「そんなに深刻にならずとも良いですわ。私は生きている。それが全てでしょう」

「……うん。だけど、今度からはもっと早く駆けつけるから」

 

 フィオネの黒い瞳には、数え切れないほど多くの感情が渦巻いているようだった。雨のせいで心が乱れているに違いない。後でヘクターにそれとなく、フィオネを気にかけるように言っておくべきだろう。

 

「無理はしたら駄目ですわよ?」

「それ、ロレナにだけは言われたくない」

「……あなたの目には私が無理して頑張る人に見えているの?」

「実際そうだもん。今日確信した」

「えぇ……?」

 

 ロレナは苦笑した。誰かのために無茶をするほど、ロレナは出来た人間ではない。ただ自分のために生きているだけなのだ。その結果傷つくことがあっても自業自得なのだが、フィオネにはロレナが聖人か何かに見えているのだろうか。ロレナは何があっても死ぬのだから、別段問題はないのかもしれない。だが、少し決まりが悪いようにも思えた。

 

「おや……どうやら無事みたいですね、ロレナ」

 

 頭上から声が聞こえる。見れば、ラウロとミア、ランドルフが空から降りてきていた。ラウロとランドルフが死ぬことはないとわかっていたが、彼らの姿を見て、ロレナは少し安心した。

 

「そういうあなたこそ、しぶといですわね」

「はは、僕は君より先には死にませんよ」

「ま、そうでしょうけ……ぐえっ」

 

 頭上から何かが降ってきて、ロレナに張り付く。ロレナは身動きが取れなくなりながら、自分の体にがっしりと組みついた少女に目を向けた。

 

「またですの、ミア。無事なのは結構ですが、痛いですわ」

「ロレナさん」

「何ですの? 泣き言は聞きませんわよ」

「ありがとうございます。ロレナさんが終わらせてくれたんですよね」

 

 ミアはロレナの胸に顔を埋めて言う。吐息がかかってくすぐったい。しかし、それ以上に、愛を絞る術式の後遺症による痛みがひどかった。少しの間とはいえ、痛みのない生活を送っていたせいか、いつもより痛く感じる。ロレナはミアの頭を撫でた。

 

「どういたしまして。あなたもよくがんばりましたわね。……辛い時に力を使わせて、悪かったですわ」

 

 ミアはもぞもぞと首を横に振る。銀色の髪が尻尾のように揺れた。あれだけ雨に濡れていたのにもかかわらず、ミアの髪は完全に乾いている。いや、ミアだけではない。ロレナの体も、王都の建物も全て、水など最初からなかったかのように乾ききっていた。嘘のように照る太陽が、肌に痛いくらいである。

 

「私の力はロレナさんのものですから、いくらでも使ってください」

 

 ふわりと降りてきたランドルフと目が合う。彼は目を細めてロレナの瞳を見つめている。彼は今、何を考えているのだろう。ミアと一緒に来たということは、彼女と今日ペアを組んだということなのだろうか。

 

 まさか妹に嫉妬することはないだろうが、彼の前であまりミアとべたべたするべきではないのかもしれない。ロレナはミアの背中を叩いた。

 

「あまり役に立てなくて……」

 

 ミアは何かを言いかけて、顔を上げた。その顔には強い意志の光が見える。

 

「ううん。もう、謝りません。見ててください、ロレナさん。明日の私はきっと……もっと強くなってるから」

 

 血のように赤い瞳が、太陽の光を反射させて輝いている。彼女の瞳は、主人公然とした力強いものだった。そろそろ、画面越しに多くの人々の心を打った彼女の魅力が発揮される頃なのかもしれない。

 

「上出来ですわ。私を見下ろせるくらい、強くなって見せなさい?」

「……身長的には、もう見下ろせますよ」

「それなのに小さくなって私に抱きついている甘えたがりはどこの誰かしら」

「……知りません」

 

 彼女は強くロレナに抱きついてくる。雨に濡れて冷たくなっていた体は、ひどく熱くなっていた。そろそろ離れてほしいと思ったが、何を言ってもきっと駄目なのだろうと思う。

 

「ほら、私よりも空を見てみなさいな。太陽が眩しくて、いい天気ですわよ」

 

 赤い瞳はロレナの顔を追っている。ロレナは空を仰いだ。魔物が消え去った後の空は、やはり雲ひとつないほど晴れ渡っていた。

 

「今日は空より、ロレナさんが見たいです。……私にとっては、空よりも眩しいですから」

 

 ロレナは目を瞬かせた。ミアがロレナに向ける好意は、どれほどのものなのだろう。ロレナは少し疑問に思った。それが分かっても意味はないのだが。

 

「……ふふん! そうでしょうとも! 私より眩しいものなんて、この世のどこにもありませんわ!」

「はは、そうかもね」

 

 不意に、ランドルフが言う。ロレナはびくりと体を跳ねさせた。彼は無感動な目でロレナを見ていた。

 

「お兄様に言われると怖いですわね。本気で言ってます?」

「もちろん本気だよ。十分の一くらいは」

「本気度低すぎですわよ!?」

「ははは」

 

 ランドルフは爽やかな笑みを浮かべている。この様子を見るに、フィオネと違ってロレナを心配してはいないらしい。彼はゲーム本編でも、ロレナが死んだ時に何の反応も見せていなかった。しかし、ロレナのパートナーであるミアには興味を持ったらしく、何かとミアに接触していたのだ。

 

 前々から彼に好かれていないのは知っていた。この世界でも、ロレナが死した後にランドルフがとる行動はゲームと同じものになるに違いない。そう確信して、ロレナはひどく安堵した。

 そんなロレナを見て、ランドルフは怪訝そうな顔をした。

 

「ロレナ? 何か変な顔をしてるけど……どうしたんだい?」

「いや、そう言われましても……」

 

 自分が好かれていないと感じられる時が一番、幸せなのかもしれないと思う。悪意を向けられるのは怖いものの、好かれるよりよっぽどいいのだろう。ロレナはかけがえのない存在としてではなく、いくらでも替えが利く存在として死にたいのだ。

 

 それは、自分の死でできる限り誰も悲しまないようにしたいからなのだろうか。だとしたら、我ながら勝手だと思う。

 死にたいのなら、最初から誰とも関わらず死ねばいいのだ。だが、ロレナにはそれができない。俯いている人がいたら放って置けないし、誰かが死のうとしているのを見たら止めたいと思う。それだけは、もはやどうあがいても変えられないのだ。

 

 自分の心が自分を責めている。勝手気ままに生きると決めたはずなのに、それで本当にいいのかと問いかける声が、心のどこかから聞こえてくる。これもきっと、雨のせいだ。

 

 全てもう通り過ぎた道だ。

 自己改造によって死ねなかったあの日、ロレナ・ウィンドミルとしての役割を果たして死ぬまでは好き勝手に生きると決めたのだ。

 

 自殺を試みても死ねなかったということは、物語の登場人物としての役割を果たすことを世界に望まれているということなのだ。だからこそ、ロレナは現在まで生き続けている。

 

 後少しなのだ。後少しで、何も考えず、永遠の眠りにつける。だからそれまでは、余計なことを考えるべきではない。そのはずである。

 

「私はいつでも美しいもの。それを見て変だと思うのは、お兄様の目がおかしいからですわ」

「言うね。君だって生まれたばかりの時は猿のような顔をしていたのに」

「お兄様、その時から目が……」

 

 ロレナは泣き真似をしてみせた。ランドルフは鋭い眼光をロレナに向けたままである。この程度の冗談で怒るほど心は狭くないはずなのだが、今の彼はどこか様子がおかしいように見える。雨の影響で気が立っているのかもしれない。

 

「お兄様が目医者にかかるかは後回しにして……とりあえず行きますわよ、ミア」

「え?」

「どこに、とは言わせませんわよ。避難する時に怪我した人がいるはずですから、さっさと治療に行くんですわ」

「……あ、は、はい!」

 

 ミアは慌てた様子でロレナから離れた。逃げ遅れて溺れた人もいるかもしれないため、早く救助に向かった方がいいだろう。水は完全になくなっているとはいえ、人々に治癒魔法をかけておくに越したことはない。

 

「と、その前に……」

 

 ロレナは屋根全体を覆うように、治癒魔法と鎮痛魔法をかけた。蛍の光のように淡い光が屋根を覆い、間もなく消えていく。

 

「後のことは任せましたわよ、お医者様?」

「本来患者を治すのは僕の仕事なんですがね」

 

 ラウロは肩を竦めた。その仕草は、ひどくわざとらしい。

 

「あなたは技術が優れているのですから、容態が悪い人を担当してくださいまし。私は薄く広く治癒魔法をかけていきますわ」

 

 ラウロはロレナに笑顔を向けている。きっとまた、碌でもないことを考えているのだろう。しかし、彼の医者としての実力は確かだ。ロレナ以外に妙なことはしないはずである。

 

「私は何をすればいいですか?」

 

 ミアは真っ直ぐロレナを見ながら問う。

 

「あなたは励まし担当ですわ。いつもみたいに元気のない人を励ましなさい」

 

 ミアは普段から困った人を助けたり、元気のない人を元気付けたりしている。ロレナはそれを何度か目撃したことがあった。今のところ戦場では余裕がないものの、これから先もっと彼女が成長すれば、戦場においても人々の希望として動けるようになるだろう。

 

「いつもって……見てたんですか?」

「それなりにね」

「……そっか。そうなんだ。ロレナさんも——」

 

 ミアは小声で何かを呟いている。ロレナは首を傾げた。

 

「ミア?」

「な、何でもないです! さあ、行きましょう! 私たちの力を必要としている人がいますよ!」

「あなた、大丈夫ですの? もしかして、さっきの雨で……」

「大丈夫です! 大丈夫ですとも!」

「そ、そう……」

 

 ロレナは釈然としないものを感じながらも、歩き出そうとした。

 

「ロレナさん!」

 

 その時、アリアに呼び止められる。ロレナは彼女の方に目を向けた。

 

「私もついていきます! ちょっとだけですけど、治癒魔法、使えるので!」

「私も行くよ。一応、何かの役に立てるかもだし」

 

 彼女の隣でフィオネが言う。

 

「わかりましたわ。急ぎますわよ」

 

 彼女たちは頷いて、ロレナの方まで歩いてくる。ロレナは彼女たちを連れて、塔に向かった。まずは最も人がいるであろうあそこを目指すべきだ。

 

 ロレナはその途中で、ふと後ろを振り向いた。先ほどまでロレナたちがいた屋根の上では、ランドルフとラウロが何かを話していた。穏やかな世間話というわけではないらしい。ランドルフはひどく険しい顔をしている。妙に楽しげに笑うラウロの顔が、彼とは対照的だった。

 

 二人は知り合いなのだろうか。本編ではあまり交流がなかったはずだが。一瞬そう思ったが、深く考えることではないと思い直し、ロレナは前を向いた。

 



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13 酔いどれ談義

「今日は私の奢りですわ! 予算がどうのと面倒なこと考えず、どれだけ飲んでもよろしくてよ!」

 

 ロレナは得意げな笑みを浮かべてみせた。

 

「お前じゃあるまいし、俺はそんな飲まないぞ?」

 

 ヘクターは呆れたように言う。

 

「分かってますわ。でも、一杯は付き合ってもらいますわよ」

「それくらいならいいが」

「よろしいですわ。お酒じゃなくても、好きなものを頼んでいいですわよ」

「……本当にいいんだな? 容赦はしないぞ?」

 

 彼はにやりと笑う。バーの仄かな光に照らされた黒髪が、僅かに揺れる。やや暗い店内でも、彼の瞳は輝いて見える。暗闇の黒色と、彼の瞳の黒色では、同じ色でも見え方が違うらしい。ロレナは自分の隣に座るフィオネに目を向けた。彼女の瞳もやはり、ヘクターと同じく輝いていた。その輝きに、生命力を感じる。

 

「ええ。ケチくさいことは言いませんわ。だって私、あなたよりも稼いでいるもの」

「確かに、そりゃそうだ。……最近、前にも増して仕事してるらしいな」

 

 テーブルを挟んだ反対側に座るヘクターは、肘をついて言う。その隣で、ミアが微妙な表情を浮かべていた。

 

「ええ」

「……それだけ余裕がない奴が増えてきたってことか」

 

 ヘクターは頬杖をついた。彼は苦々しい顔で虚空を見つめた。その瞳には、苦しむ巫女たちの姿が映っているのかもしれない。

 

「別に、私が仕事をすることと余裕がない人が増えることはイコールで結ばれるわけじゃないですわよ? あ、マスター。いつもの四つお願いしますわ」

「かしこまりました」

 

 そういえば、前世では酒を飲むことに憧れを抱いていたこともあった。二十歳になったら酒を飲もうと友人たちと約束を交わしていたことを、ロレナはふと思い出す。きっと彼らの中では、前世のロレナの記憶はもう風化しているだろう。酒を飲むのも当たり前になって、何を思うこともなく日常的に酒を酌み交わしているに違いない。

 

 それはロレナも同じである。飲酒への憧れも特別感も全てなくなって、今では痛みを薄れさせるためのルーチンとしてアルコールを摂取している。ロレナは胸が微かに痛むのを感じた。封じ込めていたものが、溢れそうになっているようだった。

 

 王都に雨が降ったあの日から、ロレナの心はどうにも乱れている。平静を装うのは得意なはずなのだが、こうしてふとした瞬間に心が辛くなるのだ。それはもう、どうしようもないのだが。

 

「結ばれるさ。お前たちが揃ってお人好しなことはよく知ってる」

 

 ヘクターは小さく息を吐いた。

 

「それよりも大事なのは、ここ最近の魔物の動向だ」

 

 ヘクターは真剣な顔をした。今更自分はお人好しではないと言っても、彼がそう思っている以上は無駄でしかないと分かっていたため、ロレナは彼の話に乗った。

 

「そうですわね……最近、魔物の動きが怪しいもの」

「魔物の動きが変わった原因は何だと思う?」

 

 暖色の光が薄くロレナたちを照らしている。ロレナは天井を仰いだ。太陽の光よりもずっと弱いその光が、今のロレナの目には心地良く感じられた。

 

「わかりませんわ。強いて言うなら……人々の憎しみが今までとは違う方向に向きだした、と考えるべきではないかしら」

「というと?」

 

 ロレナはヘクターに目を戻した。その鋭い目つきは、しばしば他者を怯えさせることがあるが、彼自身は全く人を怯えさせている自覚がないのだろう。彼の目は、鋭さが増すばかりである。

 

「例えば、何か問題が起きて生活に苦しむ人が増えて、普段とは違う憎しみが生まれたとか、あるいは……」

 

 ロレナはちらとフィオネに目を向けた。彼女はそれに気付くと、じっとロレナのことを見つめてくる。

 特殊な魔物が生まれたのは、巫女の憎しみが原因かもしれない。ロレナが転生者となったことで、何か変化が起こり、魔人メテウスのような魔物が早期に生まれることになったという可能性はある。

 

 だが、いくらなんでも早すぎる。魔物が生まれるには、まだ巫女の憎しみは足りないはずなのだ。それに、巫女の憎しみが蓄積したのだとしたら、連続して奇妙な魔物が生まれるのはおかしい。ゲームでは、巫女の憎しみで生まれたのは魔人メテウス一人だったのだ。

 

 そう考えると、何か他の原因があるのかもしれない。だが、心当たりはなかった。一体この国に、何が起こっているのか。

 

 ミアならばどのような問題も解決できるはずだ。そうは思うが、成長しきっていない彼女に万が一のことがあったらまずい。できることならば、イレギュラーはロレナが潰すべきなのだろう。

 だが、ロレナにはあまり時間がない。ロレナは早く死ななければならないのだから。

 

「一定の方向性を持つ憎しみが蓄積して、魔物を生み出すに至ったのかもしれませんわね」

 

 会話が止まる。それを見計らって、マスターが四つのグラスとつまみを持ってくる。深めのカクテルグラスに注がれた薄緑色のカクテルが、ゆらりと揺れる。動いたカクテルの跡が、グラスに薄く残っていた。

 

「とりあえず、乾杯しますわよ。素面で重い話をしていると、肩が凝りますわ」

「お前なぁ……」

 

 ヘクターはため息をつきながらも、グラスを手に持った。見れば、ミアたちもグラスを掲げている。

 

「じゃ、乾杯ですわ」

 

 乾杯、という声が重なり合う。ロレナたちは軽くグラスを合わせた。うるさくない程度の音量で流れる音楽に、高い音が混ざる。微妙に間の抜けたその音が、ロレナは嫌いではなかった。

 

「これ、飲みやすいね。甘くて美味しい」

 

 フィオネは静かに言った。

 

「そうでしょう。ただ、度数が高いので注意して飲む必要がありますわよ」

 

 確か、この店で一番アルコール度数の高いカクテルがこれだったはずだ。ロレナはグラスの中身を一気に呷ってから、もう一杯同じものを注文した。それから、小皿に入れられたナッツをいくつか口に入れる。アルコールが臓腑に染みてくると、判断力と共に痛覚が鈍る。

 

「で、だ」

 

 半分ほどカクテルを飲んだらしいヘクターが、グラスを置く。

 

「お前には少し休んでもらうぞ」

「あら、困りますわね。あんまり仕事を取られると、私の賃金が——」

「お前は最近働きすぎだ。ミア・レックス。お前もだぞ」

 

 突然声をかけられたミアはびくりと体を跳ねさせた。

 

「それは……でも、私たちがするべきことだから」

「別に、お前たちである必要はないだろ? とにかく、しばらくは俺たちが仕事を引き受ける」

 

 有無を言わさぬ口調である。ロレナはフィオネを見つめた。彼女は小さく頷いて、強い光の宿った瞳をロレナに向けた。どうやら、意志は固いらしい。だが、大丈夫だろうか。他の巫女の仕事を引き受けるのは、楽ではない。

 

 万が一フィオネが死ぬようなことがあれば、悔やんでも悔やみきれないだろう。とはいえ、ミアを働かせすぎるのもよくないのだ。ただでさえ彼女は普段から人助けを行っている。それに術者としての仕事が重なりすぎると、疲弊してしまうだろう。

 

 雨が降ったあの日から、精神に異常をきたす巫女が増え始めている。彼女たちを自殺させないためにも、あれからロレナはいつも以上に仕事を引き受けているのだが、確かに疲労が少し溜まっていた。

 

 極力ミアに危険がないように努めてはいるのだが、疲れだけはどうにもならないものである。

 いつまた特殊な魔物が現れるかもわからないのだ。ミアの体力は温存しておくに越したことはない。

 巫女たちのことを放って置ければよかったのかもしれないが、ロレナにそれはできなかった。

 

「フィオネさん。少しでも体に異常を感じたら、私をすぐに呼びなさい。報酬次第で助けて差し上げないこともないですわ」

「うん、ありがと。でも大丈夫。ロレナはゆっくり休んでて」

 

 フィオネは穏やかな笑みを浮かべた。彼女には鎮痛魔法が効くため、後遺症による痛みは解消できるものの、それでも辛い思いをさせることには違いない。ロレナは少しもやもやしたが、ミアを休ませなければならないため、彼らの好意を受け取ることにした。

 

「……そうだ。月末のパーティの時、一緒に踊って欲しいんだけど、いいかな? いくらでも払うよ」

「いや、流石にそれだけでお金は取りませんわよ。でも、一曲だけですわよ?」

「うん、それでいいよ」

 

 フィオネは机の下に置かれているロレナの片手を握った。一つ一つ確かめられるように、手が揉まれていく。指先、掌、手首の順に、彼女の手が滑っていく。少しくすぐったかったが、表情は変えなかった。

 

「俺たちは戦いの要だ。協力して魔物を倒していく必要がある」

 

 その言葉は、あながち間違いというわけではない。巫女の仕事はほぼ均等に分配されるものの、ロレナたちとヘクターたちは、元々仕事が多めに振り分けられている。それは、ロレナたちの能力が他の巫女たちよりも高いためである。

 

 フィオネは一度死にかけたことがあるのだが、それは、仕事の多さが原因だった。能力が高くてもあまり大切にはされないため、過労によって注意力が散漫となり、彼女は魔物に殺されそうになったのだ。

 

 あの時は鎮痛魔法もまだ開発していなかったし、ロレナも巫女ではなかったため、彼女を助けるのは容易ではなかった。あの頃より、今は少しだけ巫女たちを助けやすくはなっているが、油断はできない。

 

 ロレナが死んだ時のために、ラウロ以外の誰かに鎮痛魔法を教えたほうがいいかもしれない。治癒魔法が使えるアリアが適任かもしれないが、後々のことを考えると、鎮痛魔法もミアに託すべきかもしれない。鎮痛剤と違い、鎮痛魔法は副作用をもたらすこともないため、誰かに受け継がせるに越したことはない。

 

「今後も魔物がどう動くかわからないんだ。油断はできないぞ」

「分かっていますわ。魔物は神出鬼没だもの。油断してたら一気にバクッですわね」

 

 ロレナは片手でナッツを口に放り込んだ。良いものを使っているはずなのだが、味覚が鈍くなっているロレナには、その良し悪しを感じとることができなかった。

 

「ああ。魔物の出現を察知できればいいんだがな……俺たちはどうしても、後手に回らざるを得ない」

 

 ヘクターは残りのカクテルを一気に呷った。行き場のない感情をぶつけるような飲み方である。彼の顔は少し赤くなっている。

 

 ロレナは時々こうしてヘクターたちと食事をしながら話をしている。この店はロレナがよく通っているのだが、彼らを連れてくるのは初めてだった。思えば、ヘクターに酒を飲ませるのも初めてだろう。

 

 彼はそこまで酒に強くないらしい。先ほどとは打って変わって、ヘクターの瞳は潤んでいる。彼は酒を飲むとどうなるタイプなのだろうか。

 

「とはいえ……お前がいる限り、そうひどいことにはならないだろうが」

「あら、随分と買ってくださってるのね」

 

 ヘクターはふっと笑った。

 

「なんだかんだ、お前がいる時は魔物による被害がほとんど出ないからな。この前の騒動も、お前が解決したと聞いたぞ」

 

 巫女と術者は、どちらが欠けても成り立たない。そのため、あらゆる実績はロレナだけでなく、ミアのものなのである。それに、あの時アリアが愛のかけらを持っていなければ、どうにもなっていなかった。

 

「そうですわね。ミアやハーミットさんも中々頑張っていましたが……私が一番活躍しましたもの! もっと評価してもよろしくてよ?」

 

 ロレナはいつものように、得意げに胸を張ってみせた。ミアは何も言わず、ちびちびとカクテルを口にしている。その隣で、ヘクターは呆れたようにため息をついた。

 

「お前は何というか、相変わらずだな。その方がお前らしいんだろうが」

「私はいつでも私ですわ。……あなたもこの前は中々活躍したそうですわね。何でも、人々が避難するのを手伝ったとか」

 

 ヘクターは少しバツが悪そうにした。

 

「まあな。それくらいはしないと、術者の名折れだろ」

「真面目ですわねぇ……。そんな堅く考えなくてもいいと思いますわよ?」

「そりゃ無理な話だ。俺の……俺たちの双肩には、皆の命がかかってるんだからな」

 

 ロレナは新しく提供されたカクテルに口をつけた。そこで一度会話が終わる。ヘクターはいくらか料理を注文してから、ぼんやりと店内を見渡した。その様子を横目に見ながら、ロレナはフィオネに顔を寄せた。

 

「そんなに楽しいんですの? 私の手をいじるのは」

「楽しいとは、少し違うかな。……安心する」

 

 ロレナたちは小声で話す。しばらくは関わる機会が取れないかもしれないため、今くらいは彼女の好きにさせてもいいだろう。フィオネはずっとロレナの手を握り続けていた。

 

「ところで、ずっと疑問だったんですけど」

 

 不意に、ミアが声を上げる。彼女のカクテルは、もうほとんど残っていなかった。

 

「どうしてフィオネさんが隣に座ってるんですか?」

 

 じっと、ミアはロレナを見つめる。

 

「どうしてって言われても……何となく?」

「私もロレナさんの隣に座りたいです」

 

 彼女はそう言ってフィオネの方を見た。フィオネはロレナの手を握りながら、考え込むような仕草を見せた。ミアがロレナと仲良くなろうとしているのは最近の彼女の態度から読み取れるのだが、様々な理由から、その望みを叶えるのは難しかった。

 

 本編では、ミアはどれだけ傷ついても立ち上がれる精神の強さを持っていた。今は未完成ではあるものの、そう遠くない未来に彼女の精神は完成されるだろう。だが、それでも、本編のようにロレナの死をずっと後悔し続けるようなことにはなって欲しくはない。

 

 一度関わってしまった時点でもう、多かれ少なかれ傷つけることになるのは分かっている。

 ロレナの役割は、きっとミアと関わって死ぬことなのだ。そのためにロレナは生まれてきたはずなのである。だからこそ、ロレナは自殺を試みても死ねなかったのだ。

 

 ミアの物語のために死ぬことが、ロレナ・ウィンドミルに課せられた使命なのだ。しかし、できる限り彼女を傷つけないように配慮はすべきなのだろう。

 

 誰を傷つけても死ぬと決めているのに、誰かを極力傷つけないようにしたいなんて、勝手な望みである。ロレナの生き方は、ずっとぶれたままなのだろう。どう生きればいいかなんて、わからないままなのだ。

 

 少なくとも、長生きするために日々を生きるのが健全で正しい生き方ではあるのだろう。それでも、どうしても正しくなれないから、ロレナはどうしようもない生き方をしているのだ。

 

「んー……」

 

 フィオネはロレナの内面までも見通すように瞳を見つめてくる。黒い瞳は、どこまでも澄んでいる。

 

「……いいよ、はい」

 

 フィオネは最後にぎゅっとロレナの手を強く握ってから、席を譲った。ミアはおずおずとロレナの隣に座り、真っ直ぐに目を見つめてくる。ロレナは少し居心地の悪さを感じた。

 

 パートナーなのだから仲良くなりたいと思うのは当然なのだろうが、実際、ミアはロレナのことをどう思っているのだろう。ロレナは少しだけ、それが気になった。だが、聞くつもりはない。

 

「ロレナさん」

「何ですの?」

「呼んでみただけです」

 

 ロレナは苦笑した。

 

「……意外と面倒くさいですわね、あなた」

「そうです。私、面倒くさいんです。いい子なんかじゃないんです」

「えぇ……? 開き直られても困りますわよ」

 

 ヘクターはロレナたちを見て、訝しげに目を細めた。

 

「ミア。前々から思ってたんだが、お前は何でロレナに敬語使ってるんだ?」

「あ、それ私も思った」

 

 フィオネはヘクターの隣に座って言う。考えてみれば不思議である。ゲーム本編でもそうだったために、あまり疑問に思っていなかったが、なぜミアは年下のロレナに敬語を使っているのだろう。ゲームでの彼女はもっとフレンドリーで、あまり敬語を使わないキャラクターだったはずだ。

 

 そういえば、本編でミアがロレナのことを好きになった理由は最後まで明かされなかった。ミアがロレナを愛すに至った原因は何なのだろう。少なくとも今ここにいるロレナは、ミアに好かれるようなことはしていないはずだ。

 

 本編ではこの時期にはすでにミアが巫女になっていたことに鑑みると、何か転生者のロレナにはできない行動を、ゲームのロレナがしたのかもしれない。

 

「それは、ですね。その……」

 

 ミアは視線を右往左往させた。

 

「な、何となくです」

 

 明らかに何かを隠している。ロレナの方が身分が上だから敬語なのかとも思うが、違う気がする。この世界では、貴族の位はほとんど形骸化している。名前に位がつけられることも、その高さによって優位に立つこともあまりないのだ。

 

 位の高さによる得といえば、家が広かったり、専属の教育係がいたり、将来の仕事に困らなかったりするくらいである。

 

 ウィンドミル家は王族に対する影響力を持ってはいるが、そのことはほとんど知られていない。

 それに、パートナーには敬語を使わず、家族のように関わるべきだと学園では言われている。ロレナと仲良くなろうとしているミアが、わざわざ敬語を使うのには、それなりの理由があるはずだ。とはいえ、その理由には見当がつかない。

 

「試しに敬語を抜きにしたらどうだ。敬語使わなきゃなんないほど偉くないだろ?」

「いや、偉いですわよ? ウィンドミル家を何だと思ってますの?」

「お前はウィンドミルじゃなくてロレナだろ」

「ウィンドミルのロレナですわよ」

 

 もっとも、ロレナはほとんど勘当されているようなものである。自己改造によって風魔法の適性を失った時点で、ウィンドミル家にとってロレナは無価値な存在になっている。風魔法を受け継ぐことだけが、ウィンドミル家の女の使命なのだから。

 

「ま、いいですわ。ミア、試しに敬語抜きにしてみなさい。採点して差し上げますわ」

「何様なんだお前は……」

 

 ヘクターは呆れた目でロレナを見る。彼にはこういう目で見られることが多い気がする。ロレナは彼の目から逃れるようにミアを見つめた。

 

「え、えー……ロレナ、さん。今日はいい天気、だね?」

「0点ですわ」

「ええ!? 早いです!」

 

 ミアは困ったように声をあげた。

 

「違和感バリバリですわよ。何をどうしたらそうなるんですの?」

 

 ミアはカクテルで唇を湿らせている。その向かい側で、フィオネが笑っていた。

 

「あはは……もっと砕けていいと思うけどね。そんなに緊張する?」

「うぅ……しますよ。恐れ多いです……」

 

 ミアはうなだれる。フィオネは皿からナッツをいくつか摘んで、ロレナの方に差し出した。

 

「ほーらロレナ、ご飯だよー」

「あなたは私のことを舐めすぎですわ」

 

 ロレナはため息をついてから、彼女の手からナッツを食べた。自分で食べた時と味は変わらないはずなのだが、何かが違うような感じがする。

 

「ロレナも私のこと舐めてもいいけどねー。……舐めてみる?」

 

 フィオネはロレナの頬に手を添える。

 

「物理的な話じゃありませんわよ?」

「私はどっちでもいいけどね」

「えぇ……? あなた、相当変態ですわね」

 

 ロレナは彼女の手に自分の手を重ねた。そのままそっと彼女の手を頬から離した。

 

「ヘクターさん、あなたフィオネさんにどういう教育していらっしゃるの?」

 

 ヘクターは苦笑した。

 

「俺に言われても困る。前はここまでじゃ……いや、昔からこんなだったかもしれないな」

「ヘクター……?」

 

 フィオネはヘクターを睨みつける。やはり、パートナーなだけあって、この二人は仲がいいらしい。

 ヘクターの頼んだ料理が来るのに合わせて、ロレナは再びカクテルを飲んだ。ミアは隣で小動物のようにカクテルを飲んでいる。その顔は段々と赤くなっていっていた。度数が高い酒を飲んでいるせいだろう。ロレナは彼女の首筋に触れた。ミアはびくりと体を跳ねさせる。

 

「ひゃっ! ロ、ロレナさん?」

「あなた、相当熱くなってますわね」

「そう……だね?」

 

 ミアは必死に敬語を捨てようとしているが、やはり不慣れな様子である。ロレナは小さく息を吐いて笑った。

 

「ふふ、変な口調」

「う……わ、私、ちょっと夜風を浴びてくる!」

「あ、私も行くよ。一人じゃ危なそうだしね」

 

 ミアは直接戦闘があまり得意ではないが、恐らくフィオネがいれば大丈夫だろう。魔物が現れても、彼女たち二人ならば容易に対処ができる。ロレナは連れ立って店の外へ出ていく彼女たちを見送って、料理に手をつけた。

 

 ヘクターの頼んだ料理は軽食が多い。サンドイッチやちょっとした和え物は、この国の家庭の味ともいえるものである。ロレナは鈍った舌で料理を味わった。やはり、あまり味は感じない。

 

 かろうじて塩気は感じるため、酒を飲むにはちょうどよかった。ロレナは料理を酒で流し込みながら、もう一杯カクテルを注文した。ヘクターは何も言わずに料理を口にしている。

 

 今日はこの店を貸し切りにしているため、他の客が入ってくることもない。店内には音楽が流れているものの、会話がないとどうにも耳が退屈するような感じがする。

 

「料理、美味しいですわね?」

「ああ」

 

 ヘクターは短く返事を返した。再び沈黙が訪れる。時々廊下でばったり会ったときやフィオネが呼んでいるときは、二人だけで話をすることがあるのだが、こうして二人きりで座って話をするのは初めてだった。

 

「……何笑ってんだ?」

 

 どうやら、無意識のうちに笑っていたらしい。ロレナはカクテルを飲み干して、今度は意識して笑顔を作ってみせた。

 

「何だかおかしくなりまして。私たち、知り合ってからそこそこ経ってますが、こうして腰を据えて話したことはなかったでしょう?」

「そうだな」

 

 ヘクターは赤ら顔で食器を置いた。その所作は少しおぼつかないように見える。どうやら、酔いが深く回ってきたらしい。ロレナもかなり酔っているため、痛みはもうほとんど感じない。その代わり、気分がふわふわして仕方がなかった。

 

 いつもと酔い方が違う。それは、心の調子がおかしいせいなのだろうか。隠せるはずの感情が隠せなくなるような感覚が気持ち悪い。ロレナはそれを誤魔化すように、料理を食べ進めていく。少し、腹が苦しくなってきた。

 

「なあ」

 

 ヘクターは目を逸らしながら口を開く。

 

「お前は、嫌になることはないか?」

 

 いつも強気な彼にしては、珍しい言葉である。酔っているために、弱気な言葉が出てきているのかもしれない。

 

「俺たちの戦いは、どこまでも先が見えない。だから辛くなって自殺する奴もいるし、フィオネも……俺も、時々嫌になったりする」

 

 ヘクターは迷ったようにちらちらとロレナを見てから、意を決した様子でロレナを正面から見つめてくる。

 

「お前はどうなんだ? 死んだ巫女の交友関係の中には、必ずお前がいた。お前はいくつもの死を見送って……何を思った?」

 

 猛禽類のような目が、今はやけに頼りなく見える。彼もまた、あの雨によって精神が不安定になっているのかもしれない。いや、それとは関係なく、この戦いに嫌気が差していてもおかしくはなかった。

 

 魔物との戦いは、人類が存在する限り決して終わらないのだ。そんな戦いに身を投じなければならなくなった子供がどのような精神状態になるかは想像に難くない。ロレナは目を瞑った。

 

 今まで死んでいった巫女たちの姿が、暗くなった視界に浮かぶ。自分の死を自分で選び、死ねた彼女たちは幸せだったといえるのだろう。だが、そもそも、こんな世界に生まれたことが彼女たちにとっては不幸だったに違いない。

 

「最後に死を選ぶのは本人の自由だもの。それに対して、何かを思うことなんてありませんわ。死んだ人のことは思い出としてとっておくだけですわ」

 

 ロレナは薄く目を開けた。真剣なヘクターの瞳は、ロレナを映したままである。

 

「そうか。それができるお前は、強いんだろうな」

 

 ヘクターは遠い目をしている。ロレナは自分が誰よりも弱い人間だということを知っている。普通の人間は、ロレナのように死を目指したりはしないのだ。それに、ロレナは死した巫女たちのことを完全に思い出にできているわけではない。

 

 誰かが死んだ時は、心が乱れる。自分が目指しているものが間違っているような気がする反面、自分の手で死を掴み取れた彼女たちを羨ましく思う。そして、彼女たちが死んだ後に悲しみに暮れる術者を見て、胸がどうにも苦しくなるのだ。

 

 だからロレナは、できる限り何も考えないように努めている。死んだ巫女について考えてもどうにもならないのだ。ロレナが考えるべきなのは、自分の幸せについてのみである。ロレナは自分のために生きると決めているのだから。

 

「別に、そうでもありませんわ。嫌になる時があるというのも、わからないでもないですもの」

 

 ヘクターは意外そうな顔をした。

 

「お前がそんなことを言うなんて珍しいな」

「酒場のくだらない愚痴ですわ」

 

 ロレナはフォークで料理をつついた。

 

「とはいえ、嫌になったってキリがないから、私は自分の目的に向かうことだけを考えるようにしていますわ」

「お前の目的って、何だ?」

 

 ロレナは小さく笑った。

 

「幸せになること、ですわ」

 

 存外に、その言葉はすんなりと口を出た。そう、本当の目的はそれだけである。だが、奪われることが怖い以上、生きる中で幸せを感じることは不可能なのだ。だから、死ぬことを選んだのである。自分が幸せになるために誰を傷つけても仕方がない。ロレナはそう思うようにしている。

 

「あなたも目的を定めれば、嫌になっても乗り切れると思いますわよ?」

「目的か……」

 

 ヘクターは少しの間考え込むような仕草をみせた。

 

「……フィオネを守ること。俺の目的は、これだけだ」

「ふふ、そう」

 

 ヘクターはどこまでも、フィオネを大切に思っているらしい。ロレナにはその真っ直ぐな気持ちが眩しく見える。

 

「あなたは本当に、フィオネさんのことが大事なんですわね」

 

 ヘクターは照れ臭そうにそっぽを向いた。

 

「悪いかよ。家族は大事にするもんだろうが」

 

 前世のロレナだったら、手放しで彼の言うことに同意できていただろう。だが、今は、家族というだけで誰かを想う気持ちがうまく理解できそうにない。

 

「お前だって、家族のことは大事に思っているだろ?」

 

 ロレナは頷いた。

 

「少なくともお兄様のことは、大事な家族だと思ってますわよ」

 

 それは嘘ではない。苦手ではあるが、それでも彼のことは大事に思っている。とはいえ、そう思ったところで、ロレナが彼にしてあげられることは何もない。それに、彼はロレナのことを道端の石程度にしか思っていないだろう。ロレナは少しだけ、頭が痛くなるのを感じた。

 

「……フィオネさんのことが大事なら頑張ってくださいまし。嫌になってもめげないようにして、ね」

「ああ」

 

 ヘクターはここにはいない誰かを見るように、遠い目をした。彼が見ているのは、きっとフィオネなのだろう。

 

「フィオネのことは、俺が守る」

 

 その言葉を聞いて、ロレナは少し安心した。ロレナがいなくなっても、きっとフィオネは大丈夫だろう。そう思わせられた。ミアが世界を変えさえすれば、ヘクターは必ずフィオネの支えになってくれるだろう。

 

「その意気ですわ! 兄として、しっかり妹を守ってあげてくださいまし」

 

 ヘクターは神妙に頷いた。

 

「わかってる。だが……俺に万が一のことがあったら、フィオネのことを頼む」

 

 ヘクターはロレナを見つめる。その瞳には、見たことのない色の光が宿っているようだった。

 

「らしくないですわね。あなたはもっと、俺が全部何とかしてやるーって人だと思っていましたわ」

 

 ヘクターは答えない。代わりに、ロレナを見つめるのみである。

 

「……そもそも、どうして私に頼むんですの? もっと適任がいるでしょうに」

「お前以外に誰がいるんだ?」

「ミアなんてどうかしら」

「無理だな。あいつは確かに人に安心感を与えるような人間だが……フィオネは任せられない」

 

 そんなことはないと思うのだが、何を言っても彼の考えは変わらなそうである。確かに、魔物の動きが本編とはかなり乖離している以上、ヘクターが死ぬ可能性もある。だが、ロレナは確実にヘクターよりも先に死ぬため、フィオネのことを託されてもどうしようもない。

 

「私は自分の幸せ以外に興味がない女ですのよ? そんな女に、どうして大事な妹のことを託そうとしているのかしら」

「お前が、誰よりも巫女のことを思っているからだ」

 

 ヘクターの言葉に、ロレナは目を丸くした。

 

「死んだ巫女のパートナーは、大抵お前に感謝していたよ。お前がいたから、巫女が元気になってくれたってな」

 

 ロレナはグラスの縁を指でなぞった。グラスは微かに音を立てる。

 

「……最終的に死んでいるのだから、何の意味もありませんわ」

「俺はそうは思わない。最後には死んでしまったとしても、お前が巫女にしてきたことは無駄じゃないはずだ」

「私が何をしてきたか、あなたは知ってるんですの?」

 

 ヘクターは少しバツが悪そうに頷いた。

 

「ある程度はな。辛い時にお前が相手になってくれていたことは、よく知ってるさ」

 

 かなり危険な発言である。ヘクターたちはグレイヴの仕事について他者に話さないようにしている。それは、踏み入って欲しくないであろう領域に土足で踏み入らなければならない仕事を隠そうとしているためである。フィオネがどう思っているのかはわからないが、少なくとも本編のヘクターはそうだった。

 

 しかし、ここまで話したら、死んだ巫女について何かしら探りを入れていると悟られる危険性があるだろう。元々その仕事について知っているロレナだからいいものの、他人にこのような不用意な話をしたらまずいように思える。

 ヘクターはそれに気付いていないのかもしれない。見たところかなり酔っている様子なので、口が滑ったのだろうか。

 

「お前が何を思って巫女に接していたのかはわからない。だが、それで救われた人がいるのは確かだ」

 

 ヘクターは肘をつきながら言う。彼はどうやら、酔うと眠くなるタイプらしい。真剣な様子で開かれていた目が、少しずつ細くなっている。

 

「フィオネもそうだ。お前と関わるようになって、あいつは変わった。……お前の言う通り、人にはそれぞれ役割があるんだろうな」

 

 ヘクターは目を瞑って言う。

 

「お前にしかできないことがあるんだ。だから……頼む」

 

 普段の彼だったら、こんなことはきっと言ってこないのだろう。

 

「考えておきますわ」

「ああ……ありがとよ」

 

 糸が切れた様子で、彼はテーブルの上に突っ伏した。ロレナは皿をいくつかどかし、小さく息を吐いた。

 

「ここまで酒に弱いとは……いや、良い子は寝る時間だからかしら」

 

 ヘクターは静かに寝息を立てている。

 

「全く、私のことを何だと思ってるのかしら。買い被りすぎよ」

 

 ロレナは上着を脱いで彼の体に被せた。店内は涼しいため、上着を脱ぐと少し寒いくらいである。ロレナが風邪を引くのは構わないが、彼に風邪を引かれては困る。

 

「生きているうちにできることなら、するけれど。限界があるわ」

 

 ロレナはため息をついた。先ほど頼んでいたカクテルが届くと、ロレナは一人で飲み始めた。今頃、前世の友人たちは何をしているのだろうか。ふとそんなことを思った。もし彼らと酒を飲めたのなら、その酒は、どんな味がしたのだろう。今感じられるのは、むせそうなほどのアルコールのにおいのみである。

 

 不思議と帰りたい、とは思わなかった。あの頃に戻ってもまともな暮らしができないと知っているためでもあるが、それだけではないような気がした。理由を考えてみても、いまいちよくわからなかった。

 

「戻ったよー」

 

 カクテルを飲みながら考え事にふけっていると、フィオネたちが戻ってくる。ロレナは片手を挙げた。

 

「遅かったですわね。良い子はもう寝てしまいましたわよ」

「ありゃ。意外に弱かったんだね、ヘクター」

「疲れもあるのかもしれませんわね」

「あー。まあ、ちょっと寝かせといてあげようか。私はもうちょっと飲もーっと」

 

 そう言って、フィオネはヘクターの隣に座る。ミアは先ほどと同じように、ロレナの隣に座る。

 

「料理、ちょっと冷めてるね」

「少し時間が経ってしまってますわね。何か、追加で頼むといいですわ」

 

 ロレナは残りの料理を食べようとした。それをみて、フィオネは大きく口を開ける。

 

「あーん」

「雛鳥か何かですの、あなた」

「いいからいいから」

「はぁ……仕方ないですわね」

 

 ロレナは食べかけのサンドイッチを彼女の口元まで持っていく。彼女はどこか楽しげにそれを齧り、ロレナに笑いかけてくる。

 

「ロレナ……さん。私にも……」

「えぇ……?」

 

 ミアはぐいぐいとロレナの服の裾を引っ張ってくる。仕方がないと思い、彼女にも料理を食べさせる。

 そうしていると、自然に前世のことは考えなくなっていく。

 

 それはいいことなのか、悪いことなのか。ロレナにはわからなかったが、ロレナはそれ以上何も考えないようにして、ミアたちと戯れた。

 

 きっと、こうしていられる時間も、もうあまり長くない。だが、ミアたちと関われなくなっても、死ねるのならそれで幸せなはずなのだ。彼女たちといる時間と死は、天秤にかける必要すらない。そのはずなのに、妙に胸が痛くなるような感じがした。

 



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14 壊れた愛を持つ者

 王都立学園の生徒たちのデートスポットは学園内に集中している。王都というだけあって、学園の外にも様々な店がありはするのだが、やはり愛を育むのに特化した造りの学園の方が、デートするには適しているらしい。

 

 王都の外に出るには巫女たちに付き合ってもらわなければならないし、学園内ならば帰る手間もないため、学生の多くは休日でも学園内に篭っている。

 

 ロレナはいつも散歩しているため、学園内の施設を熟知していた。夏は綺麗な花が多いとのことで、生徒たちは花畑によくデートしに来ている。今日もいつも通り、花畑は人で満ちていた。

 

「見てください、ロレナさん! 花がいっぱい咲いてます!」

 

 アリアは興奮した様子で言った。色々と歪なところがあるものの、やはり彼女も十二歳の少女なのだ。ロレナは少し微笑ましく思いながらも、ため息をついてみせた。

 

「花畑ですもの。当然ですわ」

「綺麗ですね! あれは何ていう花なんでしょう!」

 

 アリアはふらふらとあちらこちらに行っては、楽しげに話しかけてくる。ロレナは辺りを見渡した。生徒たちは腕を組みながら道を歩き、あの花の花言葉がどうだのという話をしている。

 

 ウィンドミル家の人間として相応しくなるように教育は受けたものの、流石に花言葉までは教わっていない。それに、ロレナは前世では好き放題に遊び回っていた中学生男児だったため、花の名前も全く知らないのだ。

 

 花畑にはオレンジや黄色といった鮮やかな色の花が多く咲いている。生徒たちのテンションが妙に高いところから察するに、やはりここに咲いているのは愛に関する花言葉を持つ花なのだろう。

 

「もう、はしゃぎすぎですわよ。ほら、迷子にならないように手握っておきなさい?」

 

 ロレナはアリアに手を差し出した。彼女は目をぱちくりさせながらその手をとった。

 

「目を離したら血だらけになってたり死にそうになってたりと、あなたは色々危ないですから、ちゃんと手綱を握っておかないとね」

 

 アリアはにこりと笑った。

 

「見えない縄で縛られてるみたいでちょっと……興奮、しますね」

 

 その笑みは以前よりも自然ではあるが、ロレナは何と言葉を返すべきか少し迷った。

 

「……はぁ。あなたのそういうところは、相変わらずですわね。物理的に縛られるのを望まなくなっただけ、前進と言えるのかしら」

 

 最近、アリアは縄で縛られることを望まなくなった。しかし、時折巫女たちを見て羨ましそうにしたり、痛めつけてくれと頼んでくることがあったりする。以前に比べれば痛みを求める癖もマシにはなっているものの、未だ彼女は少し不安定に見えた。

 

 ここのところ、ヘクターたちが仕事を肩代わりしてくれているため、アリアと一緒にいられる時間が増えている。放って置いたらまた妙なことになりそうで不安なため、彼女からは目が離せなかった。

 

 ロレナがいなければミアも他の人と過ごす時間が増えるため、アリアと関わることは一石二鳥といえる。全ては順調に進んでいるように思えるのだが、色々と不安はあった。

 どのタイミングで死ぬべきなのか。特殊な魔物たちは今後世界にどのような影響を及ぼすのか。そして——。

 

「ロレナさんの色に染まったんです。それはきっと……私にとっては、前進です」

 

 ロレナの手を強く握りながら、アリアは言った。彼女の顔は少女は思えないほど成熟して見えた。

 

「そうだ! 早いですけど、お昼にしませんか? ロレナさん、お弁当作ってきてくれるって言ってましたよね?」

 

 一転して、少女の顔が姿を現す。ロレナは目を細めた。

 

「もうですの? あなた、もしかして結構食いしん坊?」

「えへへ……そうかもしれないです! だから、お願いします!」

「仕方ありませんわね」

 

 ロレナは道の途中に設置されたベンチに腰をかけて、持ってきた鞄から弁当箱を取り出した。

 ロレナは実家で料理を学んでいた。本来であれば貴族はほとんど料理を作らないのだが、ロレナは料理人がいないような家に嫁ぐ可能性があるとのことで、料理を教わっていたのである。

 

 ウィンドミル家の女はより進化した形で風魔法を子供たちに受け継がせるため、身分を問わずに結婚相手を決められる。重視されるのは子供が強大な力を持てるかどうかということだけなのだ。

 

 とはいえ、ロレナはもう風魔法を受け継がせることが不可能となっているため、婚約者は決められていない。もはやロレナは実家から何の期待もされていないのだ。絶対にあり得ないが、もしロレナが生きて学園を卒業するようなことがあれば、その時はウィンドミルという家名を名乗れなくなっているだろう。

 

「簡単にパンに具材を挟んだだけのものだけど……味は保証しますわ」

 

 家族には、ベンチで食事をするなんて行儀が悪いと怒られるかもしれない。実家ではよくマナーがなっていないだとか、言葉遣いが悪いとかで折檻を受けていたものである。おかげでロレナはいかなる時でも男口調で喋れなくなった。

 

「ロレナさんの手料理、楽しみです! いただきます!」

 

 弁当箱の蓋を開けて、アリアに好きなものを選ばせる。ロレナは頭が割れそうなほどの頭痛を感じた。これは術者が力を使おうとする際に生まれる痛みではない。ロレナは鞄から水筒を取り出して、中に入った酒を呷った。それでも痛みは止まらない。

 

「美味しいです、ロレナさん!」

 

 アリアは満面の笑みを浮かべる。ロレナは彼女の口元をハンカチで拭った。

 

「それはよかったですわ。でも、もっとゆっくり食べなさい?」

 

 もう一つの水筒を取り出して、コップに茶を注ぐ。微かな湯気が、コップから立ち昇る。ロレナはコップを彼女に手渡して、自分もパンを齧った。朝味見した時は美味だと思ったものの、今はあまり味を感じない。

 

「はい! えへへ……」

 

 アリアはにこにこと笑いながら、ロレナを見つめる。宝石のような薄緑色の瞳が、太陽の光を受けて輝いている。

 

「ロレナさんは、お母さんみたいです」

 

 アリアはぽつりと言った。

 

「そう。きっと、素敵な母君なんでしょうね」

 

 アリアは微かに笑みを曇らせた。

 

「えへ……実は、私お母さんのこと全然知らないんです」

「そうなんですの?」

「はい。私が生まれてすぐに死んじゃったんですけど、きっと……とってもいい人だったんだって思うんです」

 

 アリアの家族について、初めて聞いた。本編でもアリアの家族については語られなかったのだ。アリアについても、さほど詳しくは描写されなかった。ただ、ある時期からアリアはミアに付き纏わなくなり、出番がほとんどなくなったことを覚えている。物語のアリアは誰にも助けられることなく、魔物に殺されたのかもしれない。

 

 しかし、母がいないということは、彼女の愛は父から教わったものなのだろう。彼女の母がなぜ死んだのかはわからないが、その死によって彼女の父はおかしくなってしまったのかもしれない。

 

「きっとお父さんは……お母さんがいい人だったから、忘れられないんです」

 

 アリアは遠い目をした。その瞳には、悲しそうな色が宿っているようだった。

 

「……お父上は、どんな人なんですの?」

 

 アリアは黙り込んだ。そのまましばらく虚空を見続けていたが、やがて、穏やかな顔でロレナを見つめた。

 

「悲しい人です」

 

 その声は存外に透き通ったものだった。父に思うところがあるのだろう。彼女はその瞳に複雑な感情を浮かばせている。それでも、その中に怒りや憎しみのような感情は見えない。ロレナは息を吐いた。

 

「で、でもでも、嫌いっていうわけじゃないんですよ! 私に愛を教えてくれたのは、お父さんですから!」

 

 アリアは慌てたように言う。ロレナは水筒をベンチに置いて、彼女の頭を撫でた。アリアは心地良さそうに目を細めて、お茶を口にした。

 

「ロレナさんのご両親はどんな人なんですか?」

 

 アリアは無邪気に問うた。ロレナはパンを全部食べ終えてから、酒で喉を潤した。

 

「……機械、ですわね」

「え?」

 

 ロレナは両親のことも、あまり思い出せなくなっている。記憶がひどく薄いものの、彼らが冷酷な人間だったことはよく覚えている。魔物と戦う役目を課せられた家だから当然といえるのだろうが、彼らはより強くなり、魔物を倒すことしか考えていない様子だったのだ。

 

「何でもありませんわ。そうですわね……ま、軍人らしい軍人といった感じかしら。甘さのかけらもない人物だったのは覚えてますわ」

「そう、なんですか……」

 

 アリアは微かに俯いてから、嬉しそうに笑った。

 

「えへへ……じゃあ私たち、すごく似てるのかもしれませんね」

 

 今の話を聞いて親近感を抱くということは、やはり、彼女は父親から虐待を受けてきたということになるのかもしれない。ロレナは複雑な心境になった。愛の思想や巫女と術者システムが生まれてから長い時間が経ち、色々なものが歪み始めているのだろう。

 

「それ、すごい悲しい親近感ですわよ」

「そうですか? 私は嬉しいですよ」

「えぇ……?」

 

 今まで自分と似たような境遇のものと出会ったことがないのだろう。だからこそ、アリアはこんなにも嬉しそうにしているのだ。ロレナは彼女の笑顔を見て、少し悲しい気分になった。

 

「私、ロレナさんに出会えてよかったって思うんです」

「親近感が湧くから?」

 

 アリアはかぶりを振った。

 

「いいえ。ロレナさんと一緒にいると、すっごく温かい気持ちになるんです。ロレナさんが隣にいるだけで楽しくて……幸せです!」

 

 彼女の表情には、一切の曇りがない。ロレナは胸が痛むのを感じた。勝負はほとんどロレナの勝ちなのかもしれないが、アリアの考えが変わったら、その後はどうなるのかと思う。

 

 アリアはロレナのことを憎からず思ってくれている。そんなロレナが死んだら、彼女は何を感じるだろうか。縋れる人間がロレナだけだとすれば、彼女はロレナの死と同時に心の寄る辺をなくすことになりかねない。

 

 今後はアリアをミアや他の者ともっと関わらせるべきかもしれない。そうしなければ、彼女の考えを変えても無駄に終わってしまうだろう。ロレナは唯一の存在になってはならないのだ。

 

「だから……ロレナさんにも、もっと幸せになって欲しいんです」

 

 アリアはそう言って、ロレナの頭を撫で返してくる。彼女の手の感触が、ひどく遠かった。ロレナは生き方を間違えている。自分の幸せを全て諦めて、他の人々のために生きるべきなのだろうか。そうは思っても、自分の幸せを捨てようとは思えなかった。ロレナの幸せは、死の先にしかない。

 

「わかったんです。ロレナさんが苦しそうにしてると、嫌だって。ロレナさんにはいつも笑顔でいて欲しいって、そう思うんです」

 

 アリアは穏やかに笑っている。その笑顔がひどく痛い。思考がぐるぐる回って、自分がどうすればいいのかわからなくなりそうだった。それでも、まともに生きようとするのは無理である。ロレナはもう戻れないところまで来ているのだ。肉体的にも、精神的にも。

 

 誰を傷つけても死ぬと決めている。だが、自分の死によって、誰かの死を招いてしまったら嫌だと思う。自分が死んだ後のことはどうでもいいと思いながら、誰かの死を恐れるのは、矛盾といえるのかもしれない。

 

 普通だった頃の価値観と、事故死したことによって生まれた価値観がせめぎあっているのだ。いっそのこと、誰かが今すぐロレナを殺してくれたら、と思う。だが、できる限りのことをせずに死ぬのは許されない。

 

 死ぬと決めたのなら、最大限できることをするべきなのだ。それが、ロレナ・ウィンドミルの責任なのだから。

 事故を恐れずに、これからも生きていたいと思えるようになる日が来ればいいのだろうか。だが、そんな日が来ても、ロレナの寿命は残り僅かである。もはや、全てが手遅れなのだ。後は、ロレナが死ぬまでに極力周りの被害を減らすしかない。

 

「ロレナさんがいつも苦しそうにしてる理由、私にはわかりません。でも、今だけは……笑って、くれませんか」

 

 アリアはロレナのことをじっと見つめる。ロレナはふっと笑った。

 

「言うようになりましたわね。ま、いいですわよ。私の素晴らしい笑顔、特別に見せてあげますわ。ほら、感想を言いなさい?」

「……えへへ。綺麗です」

 

 アリアはふわりと笑みを浮かべた。その笑顔は、花が咲いたように綺麗なものだった。ロレナは小さく息を吐いた。

 

「あなたもね。……まあ、私ほどじゃないですが」

「そうですか? ロレナさんの目にそう見えてるならよかったです!」

 

 アリアの笑顔が眩しい。ロレナは風に運ばれてくる花の匂いを、微かに感じた。花の匂いと共にアリアの顔を見ていると、彼女そのものが花であるかのように感じられた。ロレナは生温かい風に、目を細めた。

 

 そのままロレナたちはしばらく見つめ合っていた。

 地面を踏み締めて人々が歩いていく音に、デートしに来た人々が愛を交わす声。そして、風が花々を揺らす音。その全てが二人の息の音に上書きされて、遠いものに感じられた。

 

 不意に、何かの羽音がすぐ近くから聞こえてくる。ロレナはびくりと体を跳ねさせた。見れば、ハチらしき虫が弁当箱の付近をホバリングしていた。ロレナは弁当箱の蓋を閉めて、鞄にしまい込んだ。

 

「ここじゃゆっくりできそうにありませんわね。もうちょっと虫が少ないところに行きますわよ」

「はい!」

 

 アリアはロレナの手を握って歩き出す。ロレナは水筒を鞄にしまって、彼女と歩調を合わせた。

 

「あんまり急ぐとお茶を溢しますわよ」

「大丈夫です! 私、こう見えてバランス感覚がいいので!」

 

 アリアはそう言って、素早く足を動かす。彼女の動きは小型犬のように見える。ロレナは何だかおかしくなって、思わず笑った。

 

 

——

 

 

「ご馳走様でした!」

 

 アリアは手を合わせた。

 

「お粗末様でした。あまり多くはなかったけれど、足りまして?」

「はい! お腹いっぱいです!」

「ならよかったですわ」

 

 ロレナはそう言って微笑んだ。それから、彼女は弁当箱を鞄にしまい、アリアの持っているコップに茶を注いでくる。今日の彼女は少し苦しそうにしている。一時期は調子がよさそうにしていたものの、最近は他の巫女と同じように、調子が悪そうだった。

 

 巫女はいつも、痛そうで苦しそうな顔をしている。ロレナはそれを無くして回っているが、そもそも彼女たちがなぜ苦しそうにしているのか、アリアには見当がつかなかった。

 

 ほとんど巫女には外傷がない。だというのに、皆一様に痛みを堪えた様子を見せているのだ。何かがおかしいとは思うが、アリアには何もすることができない。ロレナが苦しそうにしていても、それを取り除いてあげることはできないのだ。

 

 彼女に「死なせたくない」と言われたとき、アリアは今までにないほどの喜びを感じた。自分は生きていてもいいのだと他者に認められたことが、どうしようもなく嬉しかったのだ。だから、涙が止まらなかった。

 

 同時に、彼女をこれ以上苦しませたくないと思った。だが、彼女はどこまでも、苦しそうな表情を浮かべ続けるのである。

 

 アリアの愛が壊れているから、何もしてあげられないのだろうか。もし、他者から気持ち悪いと言われないような愛を持っていたら、今頃彼女の苦しみを少しでも軽くしてあげられていたのだろうか。そんな考えが頭の中を渦巻く。

 

 彼女に対する好きという感情も、気持ち悪いと一蹴されるものにすぎないのかもしれない。それでも、アリアは自分の気持ちに嘘をつけないのだ。だから、彼女を想い、彼女の苦しみを除きたいと望み続けるのである。

 

「ロレナさん。ここから学園の外まで連れて行ってくれませんか?」

 

 アリアは茶を飲みながら、柵の方を見た。今日は少し風が強いためか、愛の塔の頂上にはアリアたち以外の人がいない。しかし、アリアたちの座っているベンチの周りは風が弱いように感じられる。もしかすると、ロレナが何かしているのだろうか。

 

「……いいですわよ。でも、今回はあなたにも手伝ってもらいたいですわね」

「えっと……私、少ししか風魔法使えないです……」

「大丈夫ですわ。あなたに全てを委ねるつもりはないもの」

 

 アリアは茶を飲み干して、コップを彼女に返した。ロレナはすべての荷物を鞄に戻して、柵のすぐ前まで歩く。それから、アリアの方を振り返って手を差し出してくる。まるで、ダンスの誘いのようだった。

 

「やっぱり私は、花を見るよりも綿毛のように飛んでいる方が性に合っていますわ」

 

 アリアは彼女の手を握った。柔らかな感触とともに、微かに傷の感触が伝わってくる。アリアはそれを確かめるように、その手を強く握る。ロレナは青い瞳に優しげな光を宿している。その瞳を見ていると、幸せを感じる。

 

「私はロレナさんと一緒なら、どっちでもいいです」

「それ、前も同じこと言ってましたわよ。あなた、主体性がないんですの?」

 

 ロレナと一緒なら、アリアはそれでよかった。死ぬのは怖いが、最悪彼女と一緒ならば、死んでもいい。あの時そう思ったのは確かなのだ。しかし、彼女が生きるのを望んでくれているのなら、アリアも諦めずに生きたいと思う。

 

「私がロレナさんと一緒にいることを強く望んでいるんです。これって、主体性じゃないんですか?」

「……そう言えないこともないのかもしれないですわね」

 

 ロレナは柵を飛び越した。アリアもつられて、柵の向こう側に体を持っていく。すると、風の流れを強く感じた。アリアはロレナの背中に抱きついた。二つに結ばれた彼女の髪が、風で揺れる。アリアよりも小さいはずの背中が、今は少し大きく感じられる。

 

「じゃあ、行きますわよ!」

 

 ロレナの言葉と同時に、体を浮遊感が包む。体がふわりと地面に向かっていく。温かい風がアリアたちの間を吹き抜けて、どこかへ走り去っていった。アリアは目を細めながら、王都を見渡した。

 

 やはり、こうして地面に向かっていると、夢を見ているような心地になる。小さな人形のような人々の姿がだんだんと近付くと共に、風の音が耳に渦巻く。降り注ぐ太陽の光はひどく近くて、密着しているロレナの体温が心地良い。

 

 彼女と一緒にいると安心する。どんな時でも、きっと大丈夫だと思わせられるのだ。アリアは彼女の体に強く抱きつきながら、近づいてくる王都の景色を瞬きせずに見つめた。そうしていると、不意に落下速度が少し速くなる。アリアは目を丸くした。

 

「ハーミットさん、風を操ってくださいまし」

「えっ、えっと……どんな感じでやればいいんですか?」

 

 風にさらわれてしまいそうな声が、アリアの鼓膜を震わせる。ロレナの声は、静かにアリアの中で響いている。

 

「翼を広げているような感じ、ですわ。自分の翼でどこまでも飛んでいくようなイメージで魔法を使えば、落っこちることはありませんわよ」

 

 ロレナはどこか、懐かしむような声で言う。アリアは首を傾げながら、風魔法を使ってみせた。アリアはあまり、魔法が得意ではない。大抵の魔法は使えるものの、全てが並以下なのだ。それでも、ロレナのように視野を広げてみたいと思い、必死に魔法を使い続ける。

 

 自分の背に生えた翼で滑空するようなイメージで、風を放出し続ける。最初はうまくいかず、落下速度は上がるばかりだったが、次第に速度が緩くなっていく。アリアは魔力量もあまり多くないので、長い間滑空はしていられない。

 

 アリアは自然に吹く風に流されるように魔法を使っていく。集中しなければ、すぐにでも制御不能になってしまいそうだった。しかし、ロレナと同じ魔法を使えているのが嬉しくて、集中力が上がっているらしい。今は、風をうまく制御できていた。

 

「あなた、才能ありますわよ! 風をこうして操るのは、結構難しいんですわ!」

 

 ロレナの声が聞こえる。アリアの操る風が、ロレナの操る風と混ざり合って、二人を空に浮かせている。そう思うと、どうしようもないほど嬉しかった。アリアは笑いながら、王都に目を向ける。そろそろ、地面が近いらしい。

 

「それなら、よかったです! 私、もっともっと頑張りますね! 見ててください!」

 

 アリアたちはそのまま風魔法によって王都を見て回った。しばらく経って、二人きりの空の旅が終わりを迎える。ロレナが地面に足をつけると同時に、アリアも彼女から離れて地面に立った。

 

「今日はいつまでもくっついていないんですわね?」

「……きっと、それだけじゃ駄目ですから!」

 

 ロレナは目を瞬かせてから、ふっと笑った。

 

「そう。あなたにしては、上出来ですわ」

「えへへ……」

 

 ロレナは優しい瞳でアリアを見つめている。彼女は厳しいようで、ひどく優しい。その優しさが、アリアの心に染みる。ロレナはアリアの生き方が気に入らないと言っていたが、それは半分嘘だろう。

 

 アリアのことが気に入らないのならば、関わる必要がない。アリアの愛を気持ち悪いと一蹴して、離れていけばいいだけなのだ。他の生徒たちと同じように。だが、彼女は愛を否定しながらも、ずっとアリアに関わってくれている。

 

 あの雨の日も、アリアを探しに来てくれた。それは、きっと彼女が優しいためなのだ。アリアの愛が気に入らないのは確かなのだろうが、それ以上に、アリアのことを思ってくれている。これまでの彼女の態度から、アリアはそれを読み取っていた。

 

「いつか、私だけの力で飛べるようになってみせます! その時は付き合ってくれますか?」

「ええ。そうなったら、あなたの魔法を採点してあげますわ」

 

 ロレナは得意げに言った。

 

「今日は何点でした?」

「そうですわね……初めてにしては良かったので、90点ですわ! 誇ってもよろしくてよ?」

「はい! 誇ります!」

「……そう素直に受け止められるとちょっと拍子抜けですわね」

「そうですか?」

 

 アリアは首を傾げた。ロレナは苦笑している。

 

「……調子が狂いますわ」

 

 ロレナはそう言ってから、歩き出した。

 

「ま、いいですわ。これからも精進なさい」

「はい!」

 

 アリアはその背中を追う。

 

「思ったよりも流れましたわね。……どこか、行きたいところはありまして?」

「えっと、じゃあ……」

 

 王都はいつでも人が多い。風に流されている時は静かだったが、地上についた途端に喧騒が耳につくようになる。人々が歩いていく音や、彼らの発する声は決して不快ではないのだが、ロレナと二人きりだった静かな世界が少し恋しくなる。しかし、二人でいられるのならそれでいいとも思う。

 

 ロレナが道を曲がるのに合わせて、アリアも曲がる。

 その時、誰かと目が合った。

 アリアと同じ、緑色の目である。その目の中には、狂気めいた感情が見え隠れしている。アリアは呼吸を止めて、その目の持ち主を見つめた。暗く沈み込んだ表情。短く切りそろえられた、艶のない黒い髪。

 

 その男は、ローレンス・ハーミット。アリアの父であった。

 アリアは縋るように、ロレナの手を握ろうとした。だが、ここで彼女に頼るわけにはいかないと思い、拳を握った。どうして父がここにいるのだろう。何をしに来たのだろう。そう思ったが、彼の顔を見て、すぐにその目的がわかった。

 

 悲しみと怒りが混ざったようなその表情は、アリアを痛めつける時のものである。アリアは心が冷えるのを感じた。

 

「……お父さん」

「アリア。やっと見つけたよ。……今、いいか?」

 

 その言葉は、問いのようで問いではない。来いと言われている。そう思いながら、アリアを守るように立つロレナの姿をぼんやりと見つめた。

 

「……はい。ロレナさん、ごめんなさい」

 

 アリアはロレナの手に触れた。彼女は振り返って、気遣わしげな表情を浮かべた。

 

「……いいんですの?」

 

 アリアは頷いた。

 

「今は、大丈夫です」

 

 ロレナは小さく息を吐いた。

 

「わかりましたわ。……では、ご機嫌よう」

 

 ロレナはアリアとローレンスにお辞儀をしてから、どこかに立ち去っていく。アリアはその背中を追いたくなる気持ちを抑えて、ローレンスに目を向けた。

 

「じゃあ、来なさい」

 

 ローレンスはそれだけ言って、踵を返す。アリアがついてくると、一切疑っていない様子である。アリアは自分の手を見つめた。彼から手を引かれたことは、あっただろうか。考えてみても、思い出せなかった。

 名前を呼んで、優しく手を引いてもらえたら。

 そうしてくれる人がいたら、壊れた愛を信じなくても済んだのだろうか。アリアは少しだけ、そう思った。

 



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15 お味はいかが?

 ぱん、と乾いた音が響く。アリアはずきずきと痛む頬を押さえて、ローレンスを見上げた。彼はいつものように無表情で、アリアを見下ろしている。

 

 ローレンスはアリアが愛を忘れていないか確認するために王都に来たらしい。今、アリアは彼が泊まっている宿の部屋に足を運んでいた。

 

「入学してから、愛を忘れていなかっただろうね?」

 

 優しいようで、冷たい声色である。彼が見ているのはきっとアリアではなく、その言葉もアリアに向けられたものではないのだ。

 

「……はい」

「よろしい」

 

 そう言って、彼はアリアの腹を殴る。鈍い痛みが体に走り、息が苦しくなった。痛みは心地良いものだ。誰かに痛みを与えられる度に嬉しくなって、どうしようもなくなる。そのはずなのに、今はどうにも、心地良くは感じられなかった。

 

「お前はいい子だ。愛を受け入れずに死んでしまったお前の母は、パートナーとして失格だった」

 

 褒めてもらえても、嬉しくない。だって、父の目にはアリアの姿が映っていないのだ。彼が見ているのは、今も昔も死んだ母だけである。そうわかっていても、アリアは彼から与えられる痛みという愛に縋りたかった。アリアにはそれしかなかったのだ。

 

 アリアは自分の母の名前すら知らない。ローレンスは母の名前を呼んだことがなかった。それは、意図的に呼ばないようにしているのだろう。きっと、母の名前を口にしたら、彼の中にある世界が壊れてしまうのだ。

 

 最近は、彼のことを悲しい人だと思うようになった。痛みが愛だと固く信じていた頃は、彼に対して何かを思うことはなかった。しかし、こうして改めて彼のことを見ると、その歪みがよくわかる。

 

 現実を映しているようで、空想の世界を映している、暗く沈んだ瞳。痛みを愛と信じられているようで、信じられていないような顔。自分の世界を壊したくないから、無理やり何かを自分に言い聞かせている様子。全てがかつてのアリアによく似ていた。

 

 彼は何を思って、自分と似通った存在を生み出そうとしたのだろう。彼はなぜ、痛みが愛だと言い出したのだろう。本当は、彼だってそれが愛でないということは、少なからずわかっているはずなのだ。

 

「痛みは愛なんだ。そうでなければおかしい。それに耐えられなかったあいつは、愛を受け入れなかった悪なんだ」

 

 彼はそう叫びながら、アリアの体を叩く。彼の声は、耳が痛くなるほどに悲しいものだった。ロレナのことを好きになったためか、今のアリアには彼の感情がよくわかる。彼はきっと、誰よりも母を愛していたのだ。いや、今も愛しているのだろう。

 

 その愛は、痛みのように歪んだものではなく、この国に数え切れないほど存在している普通の愛なのだ。

 きっと、母の死によって彼の信じる愛が壊れてしまったのだろう。信じてきたものがなくなって、別の何かを信じるようになるというのは、アリアと同じである。だが、彼は信じるべきでないものを信じてしまったのだ。

 

「そうだろう、アリア! そうでないと……」

 

 全身が痛い。しかし、恐怖は感じなかった。アリアはもう、信じるべきものを見つけている。好きな人の熱を思い出せば、痛みにも耐えることができた。

 

「俺の今までの人生の意味が、わからなくなる」

 

 イベントの時に見つけた迷子のように、不安げな声で彼は言う。

 

「お父さん」

 

 アリアの声は届かない。彼の耳に入るのは、きっと母の声だけなのだ。アリアは愛した人を失ったことがないから、本当の意味で彼を理解することはできなかった。

 

 彼女を失えば、アリアもローレンスのように現実を見られなくなるのだろう。そうなったら彼に声を届かせることもできるようになるのかもしれないが、そんな未来については考えたくなかった。

 

「何があっても、私のお父さんは一人だけです」

 

 殴打される音に混ざって、アリアの言葉は消えていく。その言葉は彼の耳には入らずに消えていったのだろう。アリアには彼を変えられない。きっと、アリアが生まれた時点で彼はもう戻れないところまで行ってしまったのだ。

 

 ローレンスは未来のアリアである。痛みを愛と自分に言い聞かせたまま生き続ければ、誰の言葉も届かなくなり、彼のように歩くべき道が見つからないままさまようことになるのだろう。

 

 それは嫌だと思った。ローレンスを変えることが叶わないのなら、せめて自分だけは変わりたいと思うのだ。死んだ母も、アリアたちが歪んで生きることは望んでいないはずである。

 

「本当は、お父さんだって……」

 

 言いかけた言葉を飲み込む。アリアは口を結んだまま痛みに耐えた。沈黙の部屋に、乾いた音が延々と響く。その音はどこか、悲しみの声のようにも聞こえた。

 

 

——

 

 

 始まったものは、いつかは全て終わってしまう。ロレナはそれを誰よりもよく知っていた。

 

「ロレナ様、来てくださってありがとうございます」

 

 マリーナは洗練された所作で頭を下げてから、部屋の鍵を閉めた。ロレナはマリーナに呼ばれ、彼女とそのパートナーの部屋に来ていた。

 

「こちらにどうぞ」

 

 彼女はロレナの前を歩き、部屋の奥へと進んでいく。ロレナはマリーナのパートナーとも少しは関わったことがあるのだが、あまり彼女についてよく知っているわけではない。

 

 部屋に散らかった服や小物を見るに、だらしない性格なのかもしれないと思う。しかし、パートナーがどんな性格であれ、マリーナの性格から考えて、部屋が片付いていないのはおかしいのだ。いつもマリーナの部屋は綺麗に保たれているのだから。

 

 今は散らかってしまっているということは、マリーナが限界を迎えたということなのだろう。ロレナは目を細めて、マリーナに促されるままに椅子に座った。テーブルの上には、すでに茶の準備がされていた。

 

「散らかっていて、すみません」

 

 マリーナは暗い顔で言う。ロレナは首を小さく横に振った。

 

「謝らなくていいですわ。あなたは頑張り屋ですから、疲れることもあるんでしょう?」

 

 彼女はロレナの向かい側に座り、カップに茶を注ぐ。ロレナは差し出されたカップに目を落としてから、彼女に視線を戻した。彼女の瞳からは、完全に光が消えている。どうやら、僅かに残っていた生きる気力も、もう無くなってしまったらしい。

 

「……はい」

 

 光のない青の瞳は、深海のようだった。もはや彼女の目に、ロレナは映っていないのかもしれないと思う。

 

「これ、食べてもよろしくて?」

 

 彼女はこくりと頷いた。ロレナは小皿に盛られたクッキーに手をつけた。齧ってみると、微かな甘味が舌から感じられる。今日はさほど酔っていないため、まだ味を感じることができていた。

 

「美味しいですわ。あなたもお菓子作りが趣味なんですの?」

「よかったです。……ですが、趣味ではないんです。ただ、ロレナ様に食べて欲しいと思いまして、今日のために練習しました」

 

 マリーナはそう言って微笑んだ。

 

「そう。それは光栄ですわね」

 

 ロレナはそれ以上何も言わず、菓子を口にしていく。マリーナはそんなロレナをしばらく見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

 

「ロレナ様」

 

 ひどく穏やかな声である。彼女のこんな声は、久しぶりに聞いた。ロレナは悲しくなったが、表情を変えないように努めた。

 

「私、ようやく理解しました」

 

 マリーナは部屋をゆっくりと見渡す。暗い瞳には、憎しみとも悲しみともいえるような感情が滲んでいる。

 

「愛とは、どこにもないものなのだと」

 

 彼女は聖女のように微笑みながら言った。その笑みは、ぞっとするほど綺麗なものだった。

 

「誰を想っても、どれだけ尽くしても、何も伝わらない。伝えられない。届かないのなら、気づかれないのなら、無いのと同じ……」

 

 静かな声である。だが、窓の締め切られた静寂の部屋には、大きすぎるようにも聞こえる。ロレナは耳が痛くなるのを感じた。

 

「なら、愛なんてどこにもない。そうは思いませんか?」

 

 背後に設置された窓から差し込む茜色の光が、彼女の背中を照らしていた。世界にも、彼女の心にも、黄昏時が訪れている。この世界にはまた日が昇る。だが、彼女の心には、もう二度と日が昇らないのだろう。逆光で暗くなった彼女の顔を見て、ロレナはそう思った。

 

「愛がどこにもないのなら、誰も救われない。私も、他の巫女も。全部、全部……壊れて消えていくだけ」

 

 夜の帳が下りようとしている。ロレナは目を瞑った。自分にできる限りのことはしたつもりだった。だが、やはり、ロレナはミアのように誰かを救うことはできないらしい。巫女たちの苦しみを取り除きたいという願いは、大抵の場合叶わないのだ。

 

 巫女と術者システムそのものが変わっていないのだから、当然である。それでも自分が死ぬまで、無駄と分かっていても行動することをやめられないのなら、せめて彼女たちの死を見届けるのがロレナの役目である。

 

 ロレナは目を開けた。マリーナはロレナを瞬きせずに見つめている。その目を真っ直ぐ見つめ返す。逃げることは許されない。巫女たちと関わると決めたのは自分なのだ。だから、最後まで責任を持つべきである。

 

「ですが……ロレナ様を見ていると……どこかに愛があるのではないかと、少し思わされるのです」

 

 マリーナは儚い笑みを浮かべた。瞬きしたら消えてしまいそうな笑みを見て、ロレナはそれを目に焼き付けた。

 

「ロレナ様は、お優しい方です。こんな私にも、ずっと寄り添ってくれました」

 

 彼女はそう言って立ち上がる。そのままロレナの方に歩いてきて、そっと肩を抱いてくる。控えめな彼女らしい、優しい抱きつき方だった。ロレナは彼女の腕に手を置いた。

 

「あなただって、十分に優しいでしょう」

「……いいえ。私は、最低の人間です。きっと、私はこの世に生まれるべきではなかった」

 

 柔らかな花の匂いが鼻腔をくすぐる。マリーナの自虐的な言葉は、どこまでも静かにロレナの鼓膜を震わせていた。なのに、耳が痛くなる。ロレナは何も言えなくなって、彼女に身を任せた。

 

「苦しくて、憎くて、仕方がないんです。あの人を思うと苦しくなって、胸が痛くなって……あの人の全部を、ぐちゃぐちゃにしてしまいたくなる」

 

 彼女の腕に力がこもる。

 

「こんな私は巫女に……いいえ、人間として生きるに相応しくない。だから、終わりにするんです」

 

 幾度となく聞いてきた言葉である。もはや、こうなってしまったらどのような言葉をかけても無駄であることは、ロレナが一番よく知っていた。

 

「あなたの考えは尊重しますわ。ですが……これから先、もし生きていたら、何かいいことがあるかもしれませんわよ」

 

 彼女の腕はひどく震えている。意味がないとわかっていてもなお、言葉をかけずにはいられなかった。

 

「だとしても……私はもう、生きられません。私の信じてきたものは何も残っておりませんから」

 

 友人からこのような言葉を聞かされるのは、やはり辛い。だが、自分にできることがそう多くないというのは、ずっと前からわかっていたことである。それに、全ては自分のために行っていることなのだから、辛くても耐えるべきなのだ。ロレナは、普段と変わらない態度をとってみせた。

 

「そう。なら、仕方ありませんわね」

「……ごめんなさい、ロレナ様」

 

 ロレナはかぶりを振った。

 

「もう謝らなくていいわ。今までそうやって、ずっと自分を責めてきたんでしょう。最後くらい、自分勝手になりなさいな」

 

 マリーナは痛いほど強くロレナを抱きしめる。最後の最後でようやく、彼女の本当の顔が見られたような気がした。

 

「ロレナ様。私、ずっとあなた様のことをお慕いしております。これまでも。これからも、ずっと……」

 

 彼女はロレナの耳元で囁いてくる。ロレナはその声に耳を傾け続ける。もう二度と、彼女の声は聞けなくなるのだ。耳にしっかりと焼き付けておかなければならない。

 

「ロレナ様。あなた様はどうか、そのままでいてください。あなた様は、私たち巫女の希望なのですから」

 

 ほとんどの巫女を救えなかったロレナは、彼女たちの希望たりえない。ミアのように誰かのことを想い、救えるほどの力量もなければ、他者のために生きることもできないのだ。それでも、彼女がロレナを希望として見ているのなら、否定することはできなかった。

 

「……私は永遠に、私のままですわ。だから安心してくださいまし」

 

 その言葉と同時に、マリーナの体がロレナから離れる。

 

「……はい。安心、しました」

 

 マリーナは笑った。死んでいった巫女たちは皆、最後にこうしてロレナに笑みを向けてくれた。彼女たちの笑顔は今でも、鮮明に思い出すことができる。ロレナは笑顔を返してみせた。

 

「今まで、ありがとうございました。どうか、私のことを忘れないでください」

「生きている限り、忘れませんわ」

 

 彼女は心底安心したように息を吐いた。ロレナはハンカチを制服のポケットから取り出した。

 

「このお菓子、もらっていってもいいかしら」

「いくらでもどうぞ」

 

 クッキーを包み、ポケットにハンカチを戻す。ロレナはゆっくりと立ち上がった。

 

「手伝いはいりまして?」

「いえ……。最後くらいは、誰の手も借りずに終わらせたいんです」

 

 彼女は強い意志を感じさせる表情で言った。

 

「そう。私は、出て行った方がいいかしら」

「ロレナ様にだけは、私が死ぬところは見られたくないです」

「わかりましたわ」

 

 ロレナは部屋の扉の方に向かった。普段は見送りに来るマリーナだが、今日は部屋の真ん中で微動だにせずロレナを見つめている。ロレナは扉を開けながら、彼女に向かっていつもの言葉を口にしようとした。

 

 ロレナはいつも、彼女に「また会いましょう」と声をかけていた。しかしもう、そんな言葉をかける意味はないのだ。もう二度と、生きた彼女と会うことはないのだから。ロレナは急激に虚しくなるのを感じて、言葉を発することができずにぱくぱくと口を動かした。

 

 一年近く彼女と交わしてきた挨拶を、もう二度と交わせない。そう思うと、胸が苦しかった。だが、ロレナは彼女の希望なのだ。ならば、悲しむような素振りを見せることはできない。

 

「マリーナ。あなたが自分のことをどう思っているかはわからないけれど……私にとって、あなたはいい友人でしたわ」

 

 ロレナはそう言って笑った。マリーナはきょとんとした表情を浮かべてから、笑い返してくる。

 

「ありがとうございます」

 

 ロレナは踵を返して、扉と向かい合った。木製の扉はいつも通り、何も言わずにロレナを見つめている。これを開ければ、もう二度とマリーナとは会えない。そう思うと、ドアノブに手をかけるのが少しためらわれる。

 だが、別れには慣れているのだ。体が止まることもない。

 

 ロレナがいたら、彼女は安らかな眠りにつけないのだ。だから、行かなくてはならない。

 深呼吸をして、ロレナは扉を開けた。開け放たれた入り口から、新たな空気が部屋に飛び込んでくる。

 

「ロレナ様。私は……あなた様に抱いている感情が愛だと、信じたいです。ううん、あなた様だけでなく……あの人に抱いている感情も……」

 

 もはや、彼女の死を止めるのは不可能である。ロレナはこれまでの経験により、それを確信していた。だから、これ以上は何を言っても無駄なのだ。

 

「そうね。私もあなたを、きっと友人として愛しておりましたわ」

 

 それだけ言うと、ロレナは部屋の外に出て、扉を閉めた。両肩にかかっていた重圧が途端になくなるような感じがして、ロレナは少し悲しくなった。振り返っても、木の扉が視界を埋めるのみである。

 

 ロレナはポケットから一枚クッキーを取り出し、齧った。素朴なクッキーは、彼女らしい味である。

 今更誰かとの別れで涙を流すことはない。だが、ほんの少しだけ、胸が痛いのは確かだった。ロレナは軽く胸を押さえてから歩き出した。後遺症による痛みも無視できないが、心の痛みの方がよほど苦しいように思える。

 

 そういえば、最後に泣いたのはいつだろう。昔のことはよく思い出せないが、記憶にある範囲では、一度も泣いたことがないように思える。つい先日フィオネに抱きしめられた時は泣きそうな心地がしたものだが、果たしてロレナに流せる涙は残っているのだろうか。

 

 ロレナはふっと笑った。どうでもいいことだ。泣いたって何も解決しないことはわかっているのだから。

 

「ロレナさん!」

 

 少し歩いたところで、ミアが走ってきているのが見えた。彼女はいつも走っているな、と思う。ロレナは笑いながら、乱れた髪を揺らしながら走ってくるミアを眺めた。

 

「ミア。……何でそんなに髪がぐしゃぐしゃなんですの?」

「あはは……友達のペットのハムスターを探してたらこんなになっちゃって……」

「相変わらずですのね」

 

 ロレナは苦笑しながら、彼女の髪を手で梳いていく。彼女もまた困ったように笑いながら、ロレナに目を向けた。

 

「ロレナさんは何をしてたの?」

「……何も、していませんわ」

 

 ミアは不思議そうに首を傾げた。ロレナは銀色の髪を整えて、彼女の頭を軽く叩いた。赤い瞳が、訝しげにロレナを映している。

 

「それより、ちゃんと髪くらい整えなさいな。あなただって一応女の子でしょうに」

「一応じゃないけど……一旦部屋に戻って整えようと思ってたの。それでロレナさんを見たから、ついはしゃいじゃって……」

 

 この前から、ミアはあまり敬語を使わなくなった。彼女の心境にどのような変化があったのかはわからないが、崩した話し方にも慣れてきた様子である。最近は言葉に詰まることもなくなってきている。

 

 誰とも仲良くなるつもりはなかったはずなのに、気付けば距離が近づいてしまっているようにも思える。アリアともそうだが、ミアとの距離も段々と近づいてきているのだ。このままでは、色々な意味でまずいのは確かである。

 

 生きている限り、誰とも距離を近づけずに過ごすのは不可能なのかもしれない。愛が重視されているこの世界では輪をかけて難しいのだろう。何か対策を考えなければならないとは思うが、どうすればいいのかはわからなかった。

 

 ロレナは幸せになるために死のうとしている。誰とも仲良くなりたくないと思うのも、失ったときに耐えられなくなるためだ。

 

 だが、ロレナの幸せに価値などあるのだろうか。

 自分を誰よりも大切にするのは自然なことだ。しかし、何かを犠牲にしてまで実現させるほどに自分の幸せが大事だと、胸を張って言うことはできないのかもしれない、と思う。

 

 人は自分を愛するからこそ、他者を愛することができる。ロレナはそう思っているが、少し生き方に迷いが生じているのも確かだった。

 

「あれ? ロレナさん、何かいい匂いしますね」

 

 ミアはロレナの体に鼻を近づけてくる。

 

「はしたないですわよ。……ほら、匂いの原因はこれでしょう」

 

 ロレナはハンカチを取り出して、クッキーを彼女に見せた。ミアは目を丸くした。

 

「これ、ロレナさんが作ったの?」

「いいえ。貰い物ですわ」

「……食べていいですか? お昼食べてないからお腹空いちゃって」

「いいですわよ」

 

 ロレナが言うと、ミアはクッキーを一枚摘んで、口に放り込んだ。しばらく無言で咀嚼していたが、ミアは不意に目を見開いた。

 

「……美味しい。何だか、優しい味」

 

 ミアは何枚かクッキーを食べてから、ロレナをじっと見つめた。

 

「これ、きっとロレナさんのことを想いながら作ったんだね」

「そんなのわかるんですの?」

「うん、私もお菓子作るから。このクッキー、愛って感じの味がする」

「……そう」

 

 ロレナもクッキーを一枚食べてみる。先ほどと味は変わらないが、クッキーを食べていると、少し泣きそうな心地がした。彼女は愛を見失っていた様子だが、それでも、ロレナに感情を向けてくれていたのだろう。そう思うと、胸がずきずきと痛んで仕方がない。

 

「……ちょっと待っててください! 私のも持ってくるから!」

「えぇ……?」

 

 ミアは走って部屋に向かっていく。相変わらず、忙しそうな子である。ロレナは彼女の背中を見送りながらクッキーを食べ続けた。しばらく待っていると、ミアが皿ごとクッキーを持って戻ってくる。

 

「比べてみて! どっちがおいしいか!」

 

 よほど菓子作りに自信があるのだろう。ミアは自分が上でなければ気が済まない性格ではないはずだが、菓子作りには並々ならないこだわりがあるのかもしれない。それならばと思い、ロレナは彼女の作ったクッキーを口にした。

 

「どう?」

 

 こうして二人のクッキーを食べ比べてみると、味の違いがよくわかる。マリーナの作った方は甘さ控えめで優しい味だが、ミアの方は甘く、バターの風味が強い。どちらかといえば、ロレナはミアのクッキーの方が好みだった。

 

「……そうですわね。あなたの方がやや上と言えないでもないですわ」

「ほんと?」

「本当ですわ」

「やった! やっとロレナさんに認められた!」

 

 やはり、パートナーには何でも認めて欲しいものなのだろう。ここは彼女の方が下だと言うべきだったのかもしれない。だが、このクッキーを前にして嘘をつきたくはなかった。

 

「ですが、私には愛の味だとか、そういうのはわかりませんわね」

 

 そう言ってから、ロレナはマリーナのクッキーを齧った。ミアはそれを見て微笑んだ。

 

「ふふふ、ロレナさんもまだまだ子供だね」

「あなたにだけは言われたくありませんわ」

 

 ロレナは廊下の窓を眺めた。西に傾いた日が、完全に沈もうとしている。ロレナは少しだけ、胸の痛みが軽くなっているのを感じた。

 

「……ロレナさん?」

 

 ミアは不思議そうな声を出す。ロレナは彼女の方を向いた。

 

「何ですの?」

「……光の加減で、ちょっと泣いてるように見えて」

 

 ミアの瞳は、りんご飴のように艶やかである。クッキーから香ってくる甘い匂いと、彼女の匂いが混ざる。その甘い瞳には、ロレナが泣いているように映ったらしい。ロレナは思わず笑ってしまった。

 

「ふふ……私が泣くなんて、あり得ないわ」

「そ、そうだよね。ロレナさんが泣くなんて……」

 

 ミアはそう言いかけてから、ロレナの顔を覗き込んでくる。

 

「……なんか、ずるい」

「は?」

「私はロレナさんの泣き顔見たことないのに、ロレナさんには見られてるって、不公平じゃないかな」

「えぇ……?」

 

 ミアはロレナの肩に手を置いた。

 

「ロレナさん! 一度でいいから泣いてみてください!」

「何を言っておりますの!?」

「ロレナさんが泣いてるところが見たいの!」

 

 とんでもない発言である。彼女はもしかするとサディストなのかもしれない。アリアが縄で人を縛らなくなって少し安心していたが、今度はミアに縛られる日が来るのだろうか。ロレナは後ずさった。

 

「そんなこと言われていきなり泣けるのは役者くらいですわ!」

「じゃあ私が泣かせてあげる!」

「じゃあじゃないですわよ!」

 

 ロレナはハンカチをポケットに戻し、走り出した。

 

「あ、待って!」

「待ちませんわ!」

 

 ミアの声を振り切って、ロレナは廊下を駆ける。走っていると、少し気分が軽くなっていく。ロレナはマリーナを思い出として心の奥に仕舞い込んだ。彼女のことを忘れてはならないのは確かだが、ずっと彼女のことを思い続けていても無意味ではあるのだ。

 

 ロレナはこれまで死んだ巫女のことは、誰一人として忘れていない。

 それは、きっと自分が死んだ時に忘れられたくなかったためだろう。だから自分も、死んだ人のことを忘れないようにしているのだ。

 

 ロレナ・ウィンドミルのことは、すぐに忘れられるべきだと思う。だが、前世の友人たちには、自分のことを覚えていて欲しかったのだ。死を悲しんでほしいわけではないし、ずっと自分に思いを馳せて欲しいわけでもない。ただ、自分との記憶を心の片隅に置いて欲しかった。

 

 もう彼らと会うことは叶わないし、もし会えたとしても、彼らとは時間の流れが異なっているため、以前のように一緒にいることはできない。ならば、せめて忘れられたくないと思った。

 

 だが、きっと、もう彼らからは忘れられているのだろう。いかに仲が良かったとはいえど、あれから十数年の時が経過しているのだ。とっくに前世のロレナは過去となり、思い出されることもなくなっているに違いない。

 

 望んでいても忘れられてしまうのなら、この世界でも、ロレナはすぐに忘れられるのではないかと思う。

 結局、自分が死んだ後のことは、死んでみないとわからないのだ。そして、死んだ後のことは自分では確認できないため、考えても無駄である。もしかするとロレナが死んでも誰も何も思わないかもしれないのだ。

 

 ならばこれまで通り、死を目指せばいいのだろう。ロレナは自分にそう言い聞かせた。

 ロレナはしばらく走った後、壁を背にして座り込んだ。どうやらミアは追ってきていないらしい。風魔法で辺りの音を集めても、ミアのものらしき足音は聞こえてこない。しかし、日が沈み始めてきたためか、寮に帰ってきている生徒が多いようだった。

 

「ロレナさん」

 

 ロレナはびくりと体を跳ねさせた。顔を上げると、すぐ近くにアリアが立っているのが認められた。彼女はどこか苦しそうな顔をしている。まるで、後遺症に悩まされる巫女のように。

 

「ハーミットさん、帰ってきてたんですの」

 

 見たところ、彼女の体に傷はついていない。しかし、彼女は虐待を受けて育ってきた可能性が高いため、父親と会って暴力を振るわれたのかもしれない、と思う。ロレナは念のため、彼女に鎮痛魔法と治癒魔法をかけた。

 

「あ……」

 

 淡い光が彼女を包む。ロレナは廊下を歩いていく生徒たちを一瞥してから、彼女の様子を窺った。

 

「……ロレナさんも、わかるんですか?」

「何のことですの?」

 

 ロレナは首を傾げた。アリアは穏やかな表情で、翡翠色の瞳をロレナに向ける。

 

「私は、わかります。ロレナさん、何かあったんですよね」

 

 人の苦しみを見抜くのに長けている彼女の目はごまかせないらしい。ロレナは小さく笑った。

 

「さあ。どうかしら」

 

 ロレナはハンカチを取り出して、残り少なくなったクッキーを彼女に差し出した。

 

「あなたにもお裾分け。食べてもよろしくてよ」

 

 アリアはロレナとクッキーを交互に見てから、クッキーに手をつけた。

 

「……美味しい、です」

 

 アリアは小さく呟いた。料理が趣味でもないのに、ここまで人に褒められる味にできるのは才能なのだろう。そんな才能も、死んでしまえば全部なかったことになる。だが、こうして多くの人に味を知って貰えば、彼女が完全に忘れ去られることはなくなるのではないかと思う。

 

 それは、自己満足の行動に過ぎないのだろう。だが、これまで必死に生きてきた彼女のことが完全に忘れ去られてしまうのは、嫌なのだ。ロレナが死ねば、彼女のことを覚えている者はさらに少なくなってしまう。

 

「そう。……よかったわ」

「えへへ……ちょっと、泣きそうになる味です」

 

 彼女の頬には、一筋の涙が伝っている。ロレナは彼女の頬に指を添えた。

 

「泣きそうじゃなくて、泣いてますわよ」

「わっ……ほんとです! 何でだろう」

 

 アリアは少し震えた声で言う。彼女はそのまま、クッキーを食べながら涙を流し続けていた。ハンカチが使えないため、ロレナは彼女の涙を指で拭い続ける。ロレナたちはよほど珍妙に見えるのだろう。廊下を歩く生徒たちは不思議そうにロレナたちを横目に見ながら歩いていく。

 

「ロレナさん。この世界は、何だか泣きたくなるようなことが多いですね」

「そうかもしれませんわね」

 

 彼女はロレナの手に自分の手を重ねた。この世界で泣かずに生きることができる人間は、きっとそう多くない。

 巫女が死ねば術者は泣く。愛が報われなければ巫女が泣く。そして、大切な人が魔物に襲われれば、普通の人間も泣くことになるのだ。

 

 彼女の言うとおり、この世界には泣きたくなるようなことが多く存在している。だが、それでも、ロレナは涙を流さなかった。

 

「ロレナさん、言ってくれましたよね。泣いている理由を教えたら、全部壊してくれるって」

 

 アリアは懐かしむような口調で言う。彼女の歪みを知り、その愛を否定してから随分と時間が経ったような気がするが、実際はそこまで経っているわけではない。

 

「私、まだ自分が泣いてる理由がわからないです。でも、ロレナさんと一緒にいると救われるから……」

 

 アリアの顔が近付く。間近でみると、その瞳は宝石のように綺麗だった。

 

「時々こうやって、隣にいてもらってもいいですか?」

「……ええ。時間があったら、付き合いますわ」

 

 ロレナの言葉に満足したのか、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 

「ありがとうございます!」

 

 いつもと同じように、彼女は元気な声で言った。ロレナはやや耳が痛くなりながらも、ふっと笑った。

 

「ロレナさん! 見つけました!」

 

 いつの間にか、ミアが接近していたらしい。ここが戦場なら、命を取られているところである。ロレナはアリアの手を引いて走り出した。

 

「あなたの執着心にはびっくりですわ! ハーミットさん! 今のミアに近付くと泣かされますわよ!」

「え、ええ!?」

「私が泣かせるのはロレナさんだけです!」

「それはそれで悪質ですわ!」

 

 ミアと追いかけっこをしていると、まだ男として生きていた頃のことを思い出す。あの頃はこうして、くだらないじゃれあいを毎日無邪気に楽しんでいた。

 

 ロレナは何だかおかしくなって笑った。自分が今していることも、自分の生き方も、全てが馬鹿馬鹿しく思える。

 だが、今は何も考える必要がないだろう。そう思いながら、アリアと共に廊下を走った。

 



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16 その名は

「パーティですわ! パーティといえば何か、わかる人はいまして?」

「はい!」

「どうぞ、フィオネさん!」

「お酒!」

「正解ですわ!」

「やったー!」

 

 学園では、夏と冬にパーティが開かれている。パーティでは豪華な料理が用意されると同時に、巫女や術者用に酒も用意される。

 

 生徒たちはパートナーやその他の人々と仲を深めるべく、ダンスをすることになる。パーティに参加するのはこれで三回目だ。前回は確か酔い潰れてしまって、ダンスどころではなかったのだったか。

 

 今回はフィオネとの約束もあるため、あまり飲み過ぎないようにしなければならない。今日は痛みもそこまでではないため、酔い潰れることもないはずだ。

 

「妙にテンション高いな、お前ら」

 

 ヘクターはいつものように、呆れた顔で言った。

 

「当然ですわ! こんな着るのが面倒くさいドレスを着てここまで来たのは、お酒のためだもの!」

 

 ロレナは胸を張った。巫女になりたての頃に大枚をはたいて買ったドレスだが、あまり体が成長していないため、今でも問題なく着ることができていた。

 

「でもロレナさん、そのドレスを着てるといつもよりもっと綺麗に見えるね」

 

 ミアが言う。

 

「そう? ま、当然ですわね。元がいいもの。ミアも私ほどではないけれど、似合ってますわよ」

「ふふ、そうかな?」

 

 ミアはくるりと回る。白を基調としたドレスは彼女らしいものだ。銀色の髪と共に舞うドレスの裾が、天井から降り注いだ光に照らされて輝いた。

 

 パーティ会場は目が痛くなるほどに光り輝いている。天井の高さは十五メートルほどあるだろう。前世の学校の体育館より数倍は広いであろう会場は、全生徒を収容しても余裕がある。

 

 会場には多くの生徒たちが集まっていた。皆顔を輝かせながら、愛を交わし合っている様子である。いくつもの声が重っているために言葉の意味を聞き取ることはできないが、会場の雰囲気はどこか甘ったるく感じられた。

 

「フィオネさんとヘクターさんもね」

「あはは、ありがと」

「……そうかい」

 

 それから二、三言葉を交わしていると、教師たちが壇上に立ち、挨拶をし始める。生徒たちはあまりそれに興味がないらしく、教師の話を聞いている風に装いながらも、小声で会話を続けている。

 

 愛の思想が広がっていても、やはり子供は子供ということなのだろう。ロレナはぼんやりと彼らの様子を見ながら、そう思う。しばらく話が続いた後、教師たちは乾杯の音頭をとった。

 

 無数のグラスが軽くぶつかり合う音が会場全体に反響する。それは一種の魔法のようだった。人々の間に幸せと愛を呼び、会場の雰囲気を盛り上げるための、目に見えない魔法である。

 ロレナは誰かとグラスを合わせることなく、酒がなみなみと注がれたグラスに口をつけようとする。

 

「ロレナさん、乾杯だよ、乾杯」

 

 ミアがグラスを持って近づいてくる。

 

「知ってまして? こういう場では、グラスは本来合わせないものなんですわよ」

「でも、私はしたいから」

「あら、そう」

 

 魔法にかけられるのが怖いから、グラスを合わせたくないのだろうか。ロレナは他人事のように思いながら、グラスを掲げた。

 

「したいなら、してもいいですわよ」

「じゃあ、乾杯」

「……乾杯」

 

 ミアはロレナとグラスを重ねる。酒を注ぐときに微かに濡れたらしいグラスの縁が、星のように眩く輝いた。ロレナは目を細めて、グラスに口をつけた。その時にはもう、角度が変わったためか、グラスの輝きは失われていた。それが少し、不思議な感じだった。

 

「美味しい」

 

 ロレナと同時に酒を飲んでいたらしいミアが、ぽつりと呟く。

 

「そうですわね。これならいくらでも飲めそうですわ」

 

 ロレナは水のように酒を飲んでいく。アルコール度数がそこそこに高いらしいワインは、飲んでいると喉がかっと熱くなるような感じがする。鼻から抜けるアルコールと果実の香りが痛いほどだったが、心地良くも感ぜられた。

 

「駄目だよ、あんまり飲んだら。去年それでふらふらになったの、忘れてないからね」

 

 ミアは咎めるように言った。

 

「今日は大丈夫ですわ、きっと」

「あんまり酔ってたら一回吐かせてでも踊らせるから平気平気」

 

 フィオネは笑顔で恐ろしいことを言う。ロレナは苦笑した。

 

「……程々にしておきますわ」

「よろしい。それより、私とも乾杯してよ。ヘクターもほらほら」

「あ、ああ……」

 

 ヘクターはどこか気まずそうな様子である。考えてみれば、他が全員女性であるため、男性のヘクターは肩身が狭いのだろう。どうしたものかと辺りを見渡すと、不意に金色の瞳と視線がぶつかった。瞬く星のようなその瞳は、ライン・ベネットのものである。

 

「あ——」

「ロレナさん!」

 

 ラインと一緒に来ていたらしいアリアが、一目散にロレナの方へと寄ってくる。裾が長いドレスを着ている割に、随分と軽い身のこなしである。ロレナはそのまま抱きついてくるアリアをどうにか受け止めた。

 

「危ないからゆっくり来てくださいまし」

「えへへ……ごめんなさい」

 

 アリアは子供のような笑みを浮かべて、ロレナから少し離れた。その後ろから、ラインがゆっくりとロレナの方に歩いてくる。

 

「久しぶりです、ウィンドミルさん」

 

 その声を聞いて、おや、と思う。ラインはどこか気まずそうにしている。もしかするとこの前のことが尾を引いているのかもしれない。

 

「お久しぶりですわ。……この前のお礼がまだでしたわね。あなたのおかげで助かりましたわ。本当にありがとうございます」

 

 フィオネはロレナが傷ついたことを知っていた。ならば、ヘクターにも少なからず話は伝わっているのだろう。だから隠す必要もないと思い、ロレナはその場でラインに頭を下げた。

 

「い、いえいえ! そんなにかしこまらないでください! 僕は当然のことをしたまでですから!」

 

 ラインは大げさにかぶりを振った。

 

「ですが……後で少し話したいことがあるんです。いいですか?」

 

 彼は少し険しい表情で言う。この世界の彼のことはあまりよく知らないが、こういう顔をするのは珍しいのではないかと思う。ロレナは頷いた。

 

「わかりましたわ。……とりあえず、あなたたちもグラスを持ってきてくださいまし。乾杯しますわよ」

「はい」

 

 二人は別のテーブルに用意された、酒の入っていないグラスを取りに行った。彼らを見つめていると、不意に横から威圧感のようなものが向けられていることに気付く。見れば、ミアがロレナを睨んでいた。

 

「なーんか、納得できない」

 

 低い声で彼女は言う。

 

「やっぱりロレナさん、フィオネさんには妙に優しいですよね? ……私の時は、自分から乾杯するって言わなかったのに」

「そう見えまして?」

「見える。とーっても見えるよ」

 

 一応はパートナーなので、ロレナが他の誰かと仲良くしているのが気に入らないのかもしれない。特別フィオネに優しくしているつもりはなかった。しかし、巫女には極力厳しくしないようにしているため、他者からは彼女たちに甘いように見えてしまうのだろうか。とはいえ、巫女たちに対する態度を変えることはできない。

 

「なんて、冗談だよ」

 

 返答に窮していると、睨んでいたのが嘘であるかのように、ミアはぱっと表情を変えた。

 

「ロレナさんがフィオネさんに……ううん、他の巫女にも優しい理由、少しわかるから」

 

 ミアは密着して、ロレナにしか聞こえないような声で言う。辺りに満ちる愛の言葉に混ざったその声は、なぜか妙に鮮明に聞こえた。

 

「でも、私のことを愛してくれているのなら、もっと私のことを見てくれないと嫌です」

 

 巫女は術者への愛に縛られている。そのため、普通の巫女は他の巫女に気を配っている余裕がないし、術者だけを見ていなければならないと言う強迫観念にいつも付き纏われているのだ。だから通常の巫女はいつも術者と一緒にいる。だが、ロレナは転生者ということもあって、他の巫女とは違う。

 

 どうするべきか、と思う。ミアとこれ以上仲良くなるのは得策ではない。ロレナ自身が辛くなるのもそうだし、ミアの今後に関わる可能性が高くなるためである。

 

 ロレナは今のままでも十分だと思うのだが、ミアはそう思っていないらしい。

 ロレナが巫女になった時点で、ミアがロレナに向ける感情が本編よりも少ないのは確かである。

 

 だが、少なからず好意を抱かれてしまっているのなら、多少仲の良い友人が死んでしまった、という程度にロレナの死を捉えるのは最初から不可能だったのかもしれない。

 

 しかし、これ以上仲を深めても、今後の役には立たないのだ。ロレナが死ぬことが確定している以上、ミアは攻略対象たちとの交流を深め、愛を育むべきなのである。

 

 とはいえ、今この時を生きているミアには、そんなのは関係ないのだろう。パートナーと仲を深めたいと思うのは当然のことである。

 

 そう遠くない未来に死ぬとしても、彼女の望みを叶えることが、パートナーとしてするべきことなのだろうか。だが、仲を深めてから死んでしまったら、彼女をさらに深く傷つけることになる。

 

 やはり、ロレナは今のままでいるべきなのだろう。ロレナに現在向けられている好意は、死ねば無くなるものに過ぎない。ロレナが死ねば、好意は別の人に向けられるようになるはずである。

 ロレナはミアに目を向けた。彼女は透き通った瞳でロレナを見つめている。

 

「見てますわよ。あなたのことは、いつも」

 

 ロレナは小さくそう言った。

 

「じゃあ……そのまま目を逸らさないでね。ずっと……」

 

 ミアのことを愛していると学園に認められた以上、彼女との仲を深めようとしないのは不自然だ。その不自然さから、ロレナが死のうとしていることが見抜かれるかもしれない。だが、もはや後には引けない。

 

「そう、ですわね……」

 

 ミアは押しが強い人物だ。彼女がロレナと仲良くしようとしているのなら、そこから逃れるのは困難だろう。結局、なるようにしかならない。

 

「ロレナさん! 持ってきました!」

 

 アリアたちがグラスを持って戻ってくる。それを合図に、ロレナたちは離れた。

 

「では、乾杯しますわよ」

 

 ロレナはグラスを掲げた。それを合図に、皆が乾杯と口を揃える。ロレナはアリアたちとグラスを合わせた後、浴びるように酒を口にした。

 

 しばらくそうしていると、再び教師たちが壇上に立ち、ダンスの始まりを告げる。同時に、壇上に設置されたピアノが弾かれていく。アップテンポなその曲は、この国ではダンスをする時の定番と呼ばれる曲であった。

 

 テーブルが設置されていない空間で、生徒たちが踊り始める。まるで人形劇を見ているかのようだった。ロレナはアルコールに浸された体で、ミアと一曲踊った。

 

 その後、フィオネに手を引かれ、次の曲を踊り始める。アルコールのせいでうまく足が動かなかったものの、フィオネがリードしてくれているため、何とか様にはなっていた。

 

「調子がよさそうですわね、フィオネさん」

 

 踊りながら、ロレナは彼女に声をかけた。フィオネはにこりと笑う。

 

「まあね、おかげさまで」

 

 フィオネはそう言って、ロレナの手を引く。

 

「ロレナ、何か悩んでるでしょ」

 

 不意に、彼女は囁いた。

 

「……そんなことありませんわよ」

「ん、そっか。やっぱ、ロレナはそう言うんだね」

 

 会場に、曲が流れる。生徒たちは踊るのに集中しているらしく、会話も減っている。

 

「私、ロレナにいっぱい救われてきたからさ、少しでもロレナの助けになりたいんだよ」

 

 静かな言葉が、耳をなぞる。彼女の動きは、激しいようで優しい。

 

「ロレナが私を頼ってくれないことはわかってるよ。でも……」

 

 黒い瞳がロレナを映す。ロレナはその瞳を見つめた。

 

「好きな人が苦しんでいるのを見るのは嫌だから。少しだけでも、ロレナのこと教えてよ」

 

 ロレナの生き方は矛盾していて、正しくない。しかし、全てを失う恐怖に襲われると、矛盾した生き方以外を選べなくなるのだ。もう二度と、事故によって全てを奪われたくない。自分の手で人生を終わらせて、死という幸福に身を沈めたい。どうしても、そう願うことをやめられないのだ。

 

「……そうですわね」

 

 終わり良ければ全て良しだと、ロレナは思う。逆に、終わりが良くなければ、きっとどのような行為も無意味なのだ。

 この瞬間、ロレナが心中を全て吐露したら、フィオネは満足してくれるのかもしれない。しかし、それでは駄目なのだ。依存関係は解消されなければならないのだから。

 

「私は、あなたのそういうところ、好きですわよ。あなたは私のことを優しいと言うけれど、あなたの方がよっぽどですわ」

「そんなことないよ」

 

 曲が終わる気配を感じる。ロレナは薄らと彼女の体温を感じながら、手を引かれるままに踊り続けた。

 

「私を変えてくれたのは、ロレナだから」

 

 その言葉と同時に、曲が終わる。ロレナたちはどちらからともなく離れて、ダンスを終わらせた。

 

「……やっぱり、ロレナは鉄壁だなぁ。そういうところも、嫌いじゃないけど」

 

 フィオネは独り言のように言った。

 

「いいよ。少しでも油断したら、ロレナの全部、奪っちゃうから」

 

 フィオネはそれだけ言うと、ヘクターのところに走っていく。ロレナは友人と踊っているらしいミアのことを横目に見ながら、会場の端に歩いた。

 

「ベネットさん、話って何ですの?」

 

 壁際で待っていたらしいラインは、ロレナの姿を認めると、何かを考え込むような顔をみせた。

 

「その……」

 

 彼はひどく思い悩んだ様子で口を開く。しばらくぱくぱくと口を動かしていたが、やがて意を決したらしく、言葉を発した。

 

「ウィンドミルさんの生命力について、話しておきたいことがあります」

 

 ロレナは目を細めた。生命力を操ることができるのだから、今のロレナの体がどれだけ壊れているかもわかるのだろう。ロレナは辺りを見渡した。皆ダンスに夢中になっているため、話を聞かれる心配はなさそうに見えるが、ここで話されるのもまずいと思う。

 

「……何か重要な話のようですわね。外に出ましょうか」

 

 ロレナは何も知らない体で、ラインと共に会場の外に出た。外に出るまで、会話は一切なかった。

 二人の間には重苦しい空気が流れているものの、外の空気はひどく澄んでいた。空を仰ぐと、いくつもの星が輝いているのが見えた。夏とはいえ、夜は涼しいらしい。ロレナは火照った体に風が染みるのを感じる。

 

「それで、生命力がどうの、という話でしたわね」

「はい。……これは、直接伝えるべきではないのかもしれません。でも、知ってしまった以上、黙っておくこともできなかったんです」

 

 金色の瞳をロレナに向けて、彼は言う。やや高めの声が、耳に浸透する。

 

「ウィンドミルさん。あなたの体は、生命力がなくなりかけています。……それに、僕の生命力を分けようとした時も、弾かれるような感じがしました」

 

 辺りで鳴いているらしい虫の声とともに、彼の声が聞こえる。

 

「あの時は何とかうまくいきましたが、今度は全部生命力が弾かれてしまうかもしれない。ウィンドミルさん、あなたは一体……」

 

 ラインは恐ろしいものを見るような目をロレナに向けている。もう彼から生命力を分けてもらうつもりはなかったとはいえ、分けてもらおうとしてもうまくいかないのかもしれない。

 

 ロレナがあの時生きながらえたのは、奇跡なのだろう。

 やはり、ロレナは死ぬべき時が決められているのだ。自殺しようとしたときも、医者には奇跡的に命が助かったのだと言われた。二度も奇跡によって命を救われているということは、きっと、ロレナ・ウィンドミルの死に場所が定められているということなのだ。

 

 ロレナは思わず哄笑しそうになった。やはり、彼女たちとはこれ以上仲良くするべきではない。ロレナ自身死ぬつもりだし、運命に死に場所を決められているのならば、何も考えずにこれまで通り生きるべきだろう。

 死ぬべきではないときに、偶然死ぬのは嫌だ。だが、自身の死に場所が最初から決まっているのなら、それでいいのだろう。

 

「私は、生まれつき治癒魔法の類が効かない体質なんですわ。きっと、その影響があるのでしょう」

 

 ロレナは平然と嘘をついた。ロレナの体質は、生まれつきではない。

 

「……本当ですか?」

「ええ。だからそんな深刻にならなくてもよくてよ?」

「そう言われたって……深刻になりますよ! だって、生命力が抜け落ちてしまっているんですよ? もしかしたら……」

 

 ラインは何かを言いかけて、止まった。彼が何を言おうとしたのか、ロレナにはよくわかった。まずいな、と思う。ラインは口の軽い方ではないが、もしロレナの寿命が残りわずかであることが他の人に知られた場合、死ねなくなる可能性が出てくる。少なくともミアは、全力でロレナを助けようとするだろう。

 

「心配は無用ですわ。……あなた、ルイス先生のことは知っておりまして?」

「はい。この前のイベントで、ペアになりましたから」

 

 彼はラインに興味を示していたが、すでに接触していたのか。彼ならば何をしてもおかしくはないため、驚きはない。しかし、一つのことに集中しがちな彼がロレナ以外に目を向けるのは珍しいとは思う。ミアにだけは興味を向けて欲しくないのだが、それはもう手遅れかもしれない。

 

「そう。なら話が早いですわ。彼は私のかかりつけ医なんですわ。彼には今、死から逃れる方法を探ってもらっておりますの。だから、ベネットさんが心配する必要はありませんわ」

 

 ラインは暗い表情でロレナを見つめている。ほとんど関わったこともないのに、ロレナの身を案じてくれているらしい。彼はこのゲームでは珍しく、特に裏表のない、素直で心の優しい少年である。だが、その優しさはロレナに向くべきものではない。

 

「餅は餅屋……いえ、医学のことは、医者にですわ。あなたの気持ちは受け取りますわ。ですが、他の皆には何も言わないでいてくれるとありがたいですわ。心配させたくないもの」

 

 ロレナは彼の情に訴えかけた。ラインはしらばく逡巡するような素振りを見せたが、やがて小さく頷いた。

 

「わかりました」

「よかったですわ。……では、会場に戻りましょうか」

 

 ラインはそれ以上何も言わなかった。ロレナは彼の前を歩いて会場に戻る。虫の声が徐々に遠くなると同時に、人々の作り出した音が近付いてくる。

 

「ウィンドミルさん」

 

 会場の扉に手をかけたとき、ラインは静かに声を発した。

 

「今の僕にできることは、多分ないんだと思います。……ですが」

 

 彼は生命力に満ち溢れた顔をロレナに向ける。流石に攻略対象なだけあって、彼は今までに見てきた誰よりも、この世界で生きることに向いているように見えた。

 

「星の生命に触れる者として。……ハーミットさんのパートナーとして、僕はできることを探します」

 

 ロレナは少し驚いた。彼はあまりアリアのことが得意でない様子だったため、パートナーとして、などという言葉が彼の口から出てくるとは思わなかったのだ。

 

「ハーミットさんのこと、苦手ではないの?」

「……苦手、だと思います。僕は、彼女の愛をどうしても受け入れることができませんでした」

 

 ラインは十二歳の少年とは思えないほど成熟した表情を浮かべた。

 

「傷つけたり傷つけられたりする愛は、ベネット家の人間として受け入れるわけにはいきませんから」

 

 強張った表情を浮かべて、彼はそう断言した。彼がこういう顔をするのは珍しいと思う。もっとも、ロレナはゲームの登場人物としての彼しか知らないのだが。彼にもゲームでは描写されなかった側面があるのだろう。

 

「でも、彼女はあなたと出会って変わりました。パートナーに選ばれたのに、僕は何もできなかったから……せめて彼女が好いているあなたのことは、助けたいと思うんです」

 

 善人らしい言葉である。そこまで他者を助けようとするのはなぜなのだろうか。疑問に思ったが、口には出さなかった。

 

「そう。ま、約束さえ守ってくれるのなら、後は好きにすればいいですわ」

 

 彼の目を見て、止めるのは不可能だと判断した。今の彼は、調子の良い時のミアに少し似ている。自分の意志を絶対に曲げないという決意が滲んだ表情が、ロレナの目にはひどく眩しく見える。

 

 ラインが動いても、ロレナが死ぬことは変わらない。彼によってもし寿命の問題が解決されても、自殺には何の影響も出ないはずである。だが、協力してもらってから死んだら、彼の心に傷をつけることにはなるのだろう。

 

 生きている限り、誰かを傷つけずにはいられない。

 ならば早く死ななければならないと思う。しかし、死ぬべき時が運命に決められているのだとしたら、早く死ぬのもままならないのかもしれない。

 ロレナはそう思いながら、会場の扉を開けた。

 

 

 

 

「あのー」

 

 会場に戻ってから少し経った頃、ロレナは後輩らしき少女に声をかけられた。小柄なその少女は、おどおどとした様子を見せながらロレナの様子を窺っている。その少女を、ロレナはどこかで見たことがある気がした。恐らく廊下ですれ違ったか、学園内の施設で見かけたのだろう。

 

「あら、どうしまして?」

 

 ダンスが終わり、お喋りに興じる生徒も増えているが、ロレナに話しかけてくるのは珍しい。ロレナはミアと違い、生徒たちからの評判が悪い。そのため、遠巻きに見られることはあっても、声をかけられることはないのだ。

 

「私、その……ロレナさんのファンなん、です!」

 

 少女は目を輝かせて言った。ロレナと同じ色の瞳なのに、輝き方が違うだけで、全く違う色にも見えるのが不思議だった。

 

「それは光栄ですわね。私の魅力がわかるなんて、見る目ありますわ!」

 

 誰かが息を切らしているかのような音が、近くから聞こえる。姿は見えないが、ダンスのせいで皆疲れているのかもしれない。ロレナは付近に犬がいるかのような錯覚をした。

 

「サインでも欲しいんですの? いくらでも書いてあげますわよ」

 

 少女は首を横に振った。

 

「いえ、そうじゃないん、です。えと……その……ロレナさんに聞きたいことがあって……」

 

 少女は目線を右往左往させた。

 

「ロレナさんは、ミアさんのことをどれくらい愛してるん……ですか?」

 

 少女は無邪気な顔でロレナを見つめてくる。少し困る質問だったが、ロレナはすぐに答えた。

 

「言葉では言い表せないくらい、ですわ」

 

 ロレナは友人達と談笑するミアを一瞥した。このような質問をされるのは初めてだが、やはり、巫女と術者の間にある愛について気になる者は少なからずいるのだろう。ロレナは少女に目を戻した。

 

「ミアさんのことを一番愛してるってこと、ですか?」

 

 少女は楽しげに尋ねる。その顔には、奇妙な笑みが浮かんでいた。他者から愛について聞くのが好きなのだろうか。愛について話をするのはこの世界では普通だが、ロレナは少し、言い知れない違和感を抱いた。

 

「ま、そうかもしれませんわね」

 

 きっと、ロレナが愛しているのは自分だけだ。そうは思ったが、少女の前でそれを口にするのは憚られたため、曖昧な言葉でお茶を濁した。少女は何度か頷いてから、輝く瞳でロレナを見つめる。

 

「そうなんだ! すごい、です! じゃあ、ミアさんと二人きりの世界になったりしたら?」

 

 前に、ミアと同じ会話をしたことを思い出す。やはり、この年頃の少女はこういった話が好きなのだろう。

 

「そうですわね……それはそれで、楽しいでしょうね。そうなったら、色々と悪いことをしたいですわね。明日のことを考えずにお酒を飲んだりとか」

 

 少女は興味深そうに頷いている。そんなに話を聞くのが楽しいのだろうか。彼女は親に甘える子供のように、ひどく楽しげな様子を見せている。ロレナは酔いで頭がぼんやりするのを感じながら、彼女との会話を続けた。

 

「じゃあじゃあ……」

 

 少女は様々な質問をロレナに投げかけてくる。ロレナはしばらくそれに付き合った。会話はたわいもないものが多かった。好物の話や、これまでロレナが巫女として行ってきたことの話や、学校に入ってからの話。どれもさほど面白い話ではないはずなのだが、少女はどうにも楽しそうにしている。

 

 興味を持ってくれているとわかって、嫌な気持ちはしない。だが、酒のせいか口が軽くなって、話が長くなっているように思われる。流石に長々と話に付き合わせるわけにもいかないため、そろそろ別れるべきだろう。

 

 そう思っていると、アリアがこちらに駆け寄ってきているのが見えた。ちょうどいいタイミングだと思い、ロレナは少女に声をかけた。

 

「そろそろお開きにしないといけませんわね」

「そっかー。残念だなー。ロレナさんの話、もっと聞きたかったのに」

 

 少女は砕けた口調で言う。どうやら、敬語は無理して使っていたらしい。

 

「そんなに面白いものでもなかったでしょう?」

「ううん、すごく面白かったよ。……もっと、もっとロレナさんのこと知りたくなっちゃった」

 

 アリアがロレナのすぐ横まで近付いてくる。ロレナは彼女と目を合わせた。彼女はロレナの肩に手を置いて、少女に顔を向ける。

 

「ロレナさん! あっちに美味しい料理があったんですけど……あれ、こちらの方は?」

「……そういえば、名前を聞いていませんでしたわね」

 

 ロレナは少女の方を向いた。少女はにこにこと笑っている。その笑みは、やはりどこか奇妙に見える。ロレナは違和感の正体がわからないまま口を開いた。

 

「改めて……私はロレナ・ウィンドミル。あなたは?」

 

 青い瞳が輝いている。少女はロレナに触れそうな距離まで顔を近付けてくる。長い空色の髪が、ふわりと揺れた。

 彼女の息遣いを間近で感じていると、不意に、獣の唸り声のようなものが聞こえてきた。不思議に思いながらも、ロレナは彼女の言葉に耳を傾ける。そして、その口から出てきた言葉に、絶句した。

 

「メテウス。私は、メテウスだよ。よろしくね。……さん」

 

 穏やかな口調で、少女は言う。その言葉を最後まで聞き取ることはできなかった。その前に、意識が途切れたためである。

 最後に見えたのは、少女の背中から伸びてきていた無数の黒い手と、どこからか現れた、巨大な獣の口だった。

 



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17 自縄自縛

 生まれて初めて抱いた感情は絶望だった。

 ロレナ・ウィンドミルは風魔法によって切り裂かれた肌を押さえながら、自身を見下ろす女性に目を向けた。

 

「立ちなさい、ロレナ」

 

 ぐい、と腕を引っ張られる。傷ついた腕から血が流れ出し、床を汚す。女性——カサンドラ・ウィンドミルはそれを無表情で一瞥してから、ロレナの頬を叩いた。

 

「放心している暇はないわ。さあ、もう一度魔法を使いなさい」

「お母様、俺は……」

「俺、ではないでしょう?」

 

 風魔法がロレナの体を切り裂く。これは教育と称された拷問である。だが、痛みに悲鳴を上げることは許されない。ウィンドミルの女として、気丈に振る舞わなければならないのだ。それでも、前世では平和な家庭で生まれた普通の中学生だったロレナは、未だウィンドミル家のあり方に順応することができていなかった。

 

「……申し訳ありません、お母様」

 

 カサンドラはため息を吐いてから、ロレナの傷口を指でなぞった。鋭い痛みで、顔を顰めそうになる。

 

「あなたはウィンドミルの最高傑作よ。あなたが男子を産めば、魔物はもはや人類の敵ではなくなるでしょう」

 

 この世界では、女は痛みに強く愛が深い代わりに戦闘には向いていないとされている。男は戦闘に向いているものの、痛みにはあまり強くなく、女よりも愛が深くないとされているのだ。だから巫女には女しかなることができない。

 

 ロレナはこの家始まって以来の魔法の天才らしい。そのため、ロレナは最高傑作の母体として、最強の男を産むことを期待されているのだ。ロレナに子供を産ませるために婚約話が進められているらしいが、詳しくはよく知らない。知りたいとも思えなかった。

 

 自分が子供を産むなんて、考えたくない。自分は男なのだ。

 この世界に生まれ変わって、全てが変わった。家庭環境や人間関係ががらりと変わり、両親から授かった名前も容姿も奪われた。そして、性別すら変わってしまったのだ。今のロレナが昔から変わらずに持っているのは、記憶だけである。

 

 だから男だという自意識を捨てたくはなかった。それを捨ててしまったら、前世との繋がりが全てなくなってしまうような気がしたのだ。

 

 前世との繋がりに縋っても意味がないことはわかっている。しかし、ロレナにはもう、それしかなかった。頼れるものは何もないし、したいこともない。これから先の人生に、希望を持つこともできなかった。

 

 いっそ、自分の力で全てを滅ぼしてしまおうか、とも思ったことがある。しかし、元一般人であるロレナの心は、自分のために誰かを不幸にできるほど強くはなかった。

 

 だからロレナは抵抗することなく、教育を受け続けているのだ。

 ここから逃げ出すこともできはしない。ロレナ一人だったら逃げ出していたかもしれないが、ロレナには兄がいるのだ。

 

 彼がいる以上、一人で抜け出すことはできない。そして、彼自身が外に出ることを望んでいないのだから、どうしようもなかった。

 

 ロレナはいつも、一日に一度は兄と会うようにしていた。

 厳しい教育を受けさせられているロレナたちに、自由な時間はあまりない。男である兄には、ロレナとはまた違った教育が施されているはずだが、彼の表情はロレナとそっくりである。

 

 希望を失った瞳。能面のように張り付いた表情。それを見ていると辛くなる。外界を知らず、閉じた世界で従順な人形となるように育てられた彼は、両親を恨むことも自由を求めることもない代わりに、ほとんど感情を持つことができていないのだろう。

 

 そんな彼を変えたいから、ロレナは彼の元に足を運んでいるのかもしれない。

 彼はロレナにとって、初めてできた兄であり、この辛い状況を唯一共有できる家族なのだ。彼にはできれば笑っていて欲しいと思う。ロレナのように壊れた人間と違って、彼には未来があるのだ。意志さえあれば、ウィンドミル家としての使命に囚われず、きっと自由に生きられるはずなのである。

 

「お兄様! 見て見て!」

 

 ロレナは庭の隅で本を読んでいるランドルフのところに駆け寄った。

 

「どうしたの、ロレナ」

「すっごく大きい虫を見つけたの! かっこいいでしょ?」

 

 ロレナは普通の子供の振りをして、彼に話しかける。そんなロレナは、彼には奇妙に見えているのだろう。彼は奇異の目をロレナに向けている。

 

「……よくわからないな。それを見て、君はかっこいいと思うんだ」

「うん! ほら、ここのツノの部分とか、すごくかっこいいと思わない?」

「そうかな」

 

 ロレナは彼の手を引いて、その掌の上に虫を乗せた。カブトムシによく似た虫は、彼の掌の上をゆっくりと移動してから、やがて羽を広げて飛び去っていく。ロレナはそれを見送ってから、彼の手を握った。

 

「さっきあそこの茂みで見つけたら、まだいるかもしれないわ! お兄様も探してみましょ?」

 

 ロレナはぐいぐいと彼の手を引っ張る。彼は無表情で本を置いて立ち上がった。無感動な表情を浮かべながら、彼は青い瞳をロレナに向ける。その瞳は、綺麗な色なのに、光がないためにひどく恐ろしいものに見えた。それでもロレナは、無邪気な子供のように彼の手を引いて走った。

 

「君は……何が楽しくてこんなことをしているんだい?」

 

 平坦な声で、彼は言った。ロレナはにこりと笑う。

 

「何がって、全部よ! 大きい虫を見つけたらテンションが上がるのは当たり前でしょう?」

「当たり前……」

 

 ロレナは敷地内にある茂みに足を運ぶ。小さな森のようになった茂みの中には、何匹もの虫が存在している。バッタのように跳ねながら移動している虫。無数の足で湿った土の上を這い回る虫。そして、木の上で鳴き声を上げている虫。

 

 人類の未来のために人形を作り出している家の敷地内とは思えないほど、ここは生命力に満ち溢れていた。ここにいるときだけは、ロレナは自分の人生に希望がないことを忘れられるのだ。

 

 ランドルフは何とも思っていないのか、無表情で辺りを眺めている。ロレナはその様子を見て、ともすれば、自由を知らない方が幸せなのかもしれないと思った。

 

 ロレナは前世では自由に生きてきた。それを奪われたからこそ、絶望に心を支配されたまま、惰性で生きているのである。だが、生まれた頃から自由を知らない彼は、希望も抱けない代わりに絶望することもないのだろう。

 

 しかし、自由を知らないまま死ぬのは、きっと不幸なことなのだと思う。彼にはロレナのようになって欲しくない。全ては彼の意志で決められるべきなのだ。そうでなければ、生まれてきた意味がわからなくなる。

 

「ほら、見て。ああやって自由に羽を広げて跳べたら、楽しそうだと思わない?」

 

 近くで飛んでいる虫を指差して、ロレナは言った。

 

「……羽なんて、僕らにはないよ」

 

 その言葉はどこか、吐き捨てるかのように発せられているように聞こえた。ロレナはかぶりを振って、得意げに笑ってみせた。

 

「そんなことないわ!」

 

 ロレナは声で驚いたらしい虫達が、活発に動き出す。ランドルフはぼんやりとロレナを見つめていた。

 

「誰にだって、自分の行き先を自由に決められる……そう! 自由の翼があるはずなのよ! ロレナにも、お兄様にもね!」

 

 ロレナは胸を張って言った。ランドルフは無感動にロレナを見ながら、ひとりごちるように呟く。

 

「僕には、そうは思えないな」

 

 ロレナは彼の手を握った。

 

「だったら、今度見せてあげる! 腰を抜かしても知らないからね?」

 

 その言葉に何を思ったのか、ランドルフは微かに口角を上げた。

 

「期待せずに待っているよ」

 

 その後、ロレナは彼に何でもない話をし続けた。彼は気のない返事をしながらも、ロレナに付き合ってくれていた。感情がひどく薄いように見えて、こういうところは優しいと思う。単にロレナに付き合うのが面倒臭いという感情すらないのかもしれないが。

 

 できることならば、彼と一緒に幸せになりたい、とは思う。自分が幸せになれる未来が見えないが、もしこの先ロレナが絶望に飲まれるとしても、せめて彼にだけは幸せになってもらいたい。そう思うのだ。

 

 未来には何も希望がないと思いながら生きていくのは辛いから、彼には希望を持ってもらいたい。それは単に、ロレナの我儘に過ぎないのかもしれないが。

 

 

 

 

 忘れていた記憶に、ガンガンと頭を殴られているような心地だった。ランドルフとの具体的なエピソードはほとんど忘れていたはずなのに、なぜ今になって思い出すのだろう。

 

 ロレナはぼんやりと目を開けた。微かな消毒液の匂いと共に、白いカーテンが目に入る。そこでロレナは、気絶する前に何が起こったのかを思い出した。

 

 そうだ。アリアは無事だろうか。ロレナは居ても立ってもいられなくなり、ベッドから起き上がってカーテンを開いた。並ぶベッドを見るが、ロレナが寝ていたベッド以外にはどれも使われていないようだった。

 

「落ち着いてください、ロレナ」

 

 ラウロはいつもの椅子に座りながら、落ち着いた様子で言う。ロレナは彼に駆け寄った。

 

「ルイス先生! アリアは無事なの?」

 

 ラウロは目を細めた。灰色の瞳が、怪しげな光を秘めている。ロレナはそれを気に留めず、彼に迫った。

 

「無事ですよ。君より先に起きて、部屋に戻りました」

 

 その言葉で、胸に満ちていた焦りが薄れていくのを感じた。しかし、ラウロの言うことを素直に信用してもいいのだろうか、とも思う。

 

「……そう。でも、私の目で確かめないと不安だわ」

「おや、信用されていませんね」

 

 ロレナは急いでアリアのところに向かおうとした。怪我してはいないのだろうが、それでも、何か心に傷を負っているかもしれない。

 

「あなたの腕は信用しているけれど、性格が悪いもの」

「そこまで包み隠さずに言われると傷つきますね」

 

 ラウロは笑いながら言う。

 

「ところでロレナ、体に異常はありませんか?」

「ないわ。……アリアは、どこも悪くはなさそうだった?」

「体に異常はありませんでしたよ。心の方がどうなのかは、僕にはわかりませんが」

 

 ラウロは静かな声を発する。学園に雇われた医者は生徒たちの心のケアをすることも求められている。しかし、ラウロにそれは期待できないだろう。

 

「そんなに取り乱すなんて、君らしくないですね。そこまでハーミットさんが大事ですか?」

 

 ラウロは机の上に用意されているコーヒーカップに手をかけた。彼はそのままカップに口をつけて、楽しげにロレナを見つめてくる。

 

「もちろん。あの子に何かあったら……」

「それは……自分の身よりも、ですか?」

 

 ロレナの言葉を遮って、ラウロが言う。

 何を言っているのだろう、と思う。

 自分よりも他者を大事に思うのは、当然のことである。

 

「当たり前でしょう」

 

 ロレナはそう断言した。ラウロは目を丸くした。こんな顔は初めて見る。彼はしばらく呆けたような顔をしていたが、やがて、狂ったように笑い始めた。

 

「はは……ははは! なるほど、なるほど。そういうことですか。では、今まで自分を一番大事にしていたのは、間違いだったということですか」

 

 彼は湯気の上がったコーヒーを水のように勢いよく飲み込んでいく。彼は今、ひどく興奮しているようだった。ロレナの言葉がそんなにおかしかったのだろうか。確かに、ロレナは今まで自分を誰よりも大事にしてきた。

 

 だが、目覚めてから、そういう気持ちが嘘のように無くなった。自分を大事にするよりも、他者を大事にする方がよっぽど良いことなのだ。今のロレナは、心からそう考えている。

 

「……ええ」

「いいんですか? 自分を大事にしなければ、君は永遠に幸せにはなれないはずですよ」

「自分のことだけを大事にして得た幸せなんて、きっと碌なものではないでしょう」

 

 ラウロは興味深そうにロレナを見つめている。その瞳の奥に映る感情は、実験動物への関心か、あるいは、それ以外の何かなのか。ロレナにはわからなかった。

 

「まさか、君の口からそんな言葉が出るとは」

 

 ラウロは椅子から立ち上がり、ロレナの傍に歩いてくる。長身の彼は中腰になり、ロレナと目線を合わせた。

 

「いや……あるいは、元々それが君の本心だったのでしょうか。君の奥底に埋まった愛は、存外に可愛らしいものでしたね」

 

 彼は囁くように、言う。その響きはどこか、ロレナの心胆を寒からしめるようなものに聞こえた。

 

「君はその愛で、ハーミットさんを救ってあげるといいでしょう。そうすればきっと……面白いことになる」

 

 不気味な口調である。ラウロが面白いと言うのは、普通の人間にとっては全く面白くない時だ。ロレナは少し不安になった。そもそも、誰かを救うなんて大層なことは、ロレナにはできないだろう。ロレナにできるのは、ほんの少し他者の意識を変えることくらいである。

 

「私は、自分にできることをやるだけよ」

 

 ロレナはそう言って、踵を返した。

 

「ロレナ。真に恐ろしいのは純粋な力でも、悪意でもありませんよ」

 

 ラウロはロレナの背中にそう声をかけてくる。ロレナは思わず振り返った。彼はひどく穏やかな表情を浮かべている。ロレナは背筋が寒くなるのを感じた。

 

「愛。それがあらゆる災いをもたらすものであり、人の原動力にもなるものです」

 

 ラウロはロレナの肩に手を置いた。その手は、思いがけないほどに優しい。それが妙に怖いような気がした。

 

「断言しましょう。君はこれから先、愛に囚われる。その結果君が本懐を遂げるのか、今のまま他者を愛して生きることを望むのか……僕は楽しみにしていますよ」

 

 彼の言葉は神託のように、ロレナの心に染み付いた。不吉な言葉だと思ったが、今はそれについて考えても仕方がないと思い、ロレナは彼の手を振り払った。

 

「……そう」

 

 ロレナはそれ以上何も言えず、保健室の扉を開いた。その瞬間、誰かに体を抱き寄せられた。

 

「むぐっ……」

 

 まさか、新たな魔物だろうか。ロレナは魔力を練ろうとしたが、鼻腔をくすぐる匂いを感じ、魔力を止めた。花のように甘い匂いは、ミアのものだった。ロレナはミアの匂いに抱かれて、息が苦しくなるのを感じた。思わず背中を叩くが、ミアはきつくロレナを抱きしめるのみである。

 

「ロレナさん、ロレナさん! よかった、よかったよぉ……」

 

 ミアは泣きそうな声で言う。

 

「ロレナさんが死んじゃったらどうしようって思って……でも、よかった」

「今、まさにあなたに殺されそうになっていますわよ……」

 

 ロレナは何とかそう言って、彼女の背中を叩き続けた。ミアはようやく強く抱きつきすぎていたことに気付いたのか、力を弱める。どうやら、かなり心配させてしまったらしい。魔物の襲撃は予測不可能だったとはいえ、悪いことをしたような気分になった。

 

「ご、ごめんなさい……」

「別に、いいですわ。それだけ心配してくれたんでしょう?」

「うん。だってロレナさんは、私の巫女で、大切な人だから」

 

 彼女は静かに言った。考えてみれば、最近は彼女に心配ばかりかけてしまっているような気がする。ロレナは彼女の背中に腕を回して、優しく抱きしめた。彼女の背中は微かに震えている。

 

「心配かけて、悪かったですわね」

「ロレナさんのせいじゃない。悪いのは……魔物だけだから」

 

 全身でミアを感じる。彼女の髪がロレナのうなじにかかり、少しくすぐったい。ロレナは身動ぎした。

 メテウスと名乗ったあの少女は、一体何者だったのかと思う。少なくとも魔物であることは確かなのだろうが、彼女はロレナの知るメテウスではない。物語の登場人物は皆、絵として見ていた姿と似ているのだ。だが、彼女は絵に描かれていたメテウスとは似ても似つかない。

 

 本来のメテウスはどちらかというとミアに似ていたし、もっと静かな喋り方をしていた。それに、彼女は本来この時期には生まれていないのだ。

 

 だが、メテウスと名乗る魔人が現れたのは確かなのだ。人間と同じ姿で生まれた魔物——魔人は、本編ではメテウスだけだった。ならば、彼女は本編とは違う形で早期に生まれたメテウスなのだろうか。

 

 何かが違う気がする。彼女を見た時に抱いた違和感が、今もロレナの胸に残っていた。

 あの少女は、本編メテウスとは違う力を持っている。だが、あの時ロレナたちを飲み込んだのはなんだったのだろう。その気になれば殺すことができていたはずなのに、ロレナは五体満足で生きている。

 

 この世界のメテウスが何のために行動しているのかわからない。そして、魔人がこの時期に生まれた理由も、定かではないのだ。ロレナは当惑していたが、するべきことは一つである。

 

 彼女が最近生まれている奇妙な魔物たちの一人ならば、ミアの物語に影響が出る前に倒すべきだろう。違和感は続いているが、早く彼女を見つけて倒さなければならない。ロレナを殺さなかったとはいえ、彼女は魔物なのだ。放って置けば、何をするかわからない。

 

「そうだ、あの魔物はどうなりました?」

「……逃げられた」

 

 ミアは悔しそうに言う。

 

「あの場にいた術者の力を全部避けて、逃げていったの。あの身軽さは、今までの魔物にはないものだった」

 

 どうやら、倒すのは容易ではないらしい。

 

「……魔物を追っていたら、途中で倒れたロレナさんとアリアちゃんを見つけたの。本当に、怖かった」

 

 彼女は今にも泣きそうな声で呟く。ロレナは彼女の背中を撫でた。

 

「もう、離れたくない。離れたら、またロレナさんが傷つくなら、私……」

 

 こんなロレナのことを心配してくれるミアは、心が優しいのだ。だが、どうしたものかと思う。本編からの乖離が進んでいるこの状況で、頼りになるのはミアだけだ。ロレナは自分の愛をそこまで信じてはいない。

 

 かといって、現在存在しているイレギュラーを倒させるために、今からミアと攻略対象の間に愛を生じさせるのも難しいように思われる。今後起こる様々な事件のために、ミアと攻略対象の仲を深めさせる必要性はあるのだろう。しかし、今は目先の問題に対処するべきである。

 

 自分の愛を信じられないにせよ、転生者ロレナの存在によってイレギュラーが生まれてしまっているのなら、ロレナがどうにかしなければならない。それがロレナの責任なのだ。

 

 死んでいる場合ではない。他者に求められていて、戦わなければならない相手がいるのなら、ロレナは生き続けなければならないのだ。自分の幸せのために死ぬなんて、もっての外である。

 

 ロレナには死ぬ運命が待っているのだとしても、自分から死ににいくことはできない。

 もはや本編とは状況がかなり乖離している。ならば、ロレナが死なないままミアが覚醒することもあるのではないかと思う。彼女ならば、どのような状況でも世界を、巫女たちを救うことができるはずだ。

 

「……安心なさい。私たちはパートナーだもの。本当の意味で離れ離れになることはありませんわ」

「でも、それは……」

 

 ミアは強くロレナに抱きつく。身長差があるためか、彼女の体に密着する形になって、息が苦しくなる。

 

「……うん。今は、それでいい。帰ろう、ロレナさん」

 

 ミアはロレナの手を握り、歩き出そうとした。

 

「ちょっと待ってくださいまし。ア……ハーミットさんの様子を見に行かないと」

 

 ミアは縋るような目でロレナを見た。

 

「お願いします。今は……今だけは、私だけのことを考えてください。他の誰も、見ないで……」

 

 今までに一度も聞いたことがないほどに、弱々しい声だった。何度もロレナが危険な目に遭っているためか、彼女は心が不安定になっているのかもしれない。まだ彼女は本編のように強い心になっていないのだ。それも仕方がないことなのだろう。

 

 ここまで心配されているのなら、やはり、死ねない。ロレナは自分の幸せを捨ててでも、彼女を幸せにしたいと思った。今後は自身の死に抗わなければならなくなるだろう。

 

 ロレナは少し考えたが、彼女の言葉に従うことにした。アリアの様子も気になるが、ミアを放っては置けない。ラウロが信用できないのは確かだが、彼は腐っても医者であるため、そちら方面で嘘はつかないはずである。

 ロレナはそう思い、ミアの手を握り返した。

 

「わかりましたわ。今日だけは、あなたの言葉に従いましょう。感謝するんですわよ?」

「……はい!」

 

 ミアはぱっと顔を明るくさせた。彼女の笑顔は、今日も輝いて見える。ロレナはその笑顔を、守りたいと思った。

 

 

——

 

 

「ロレナさん、昔のこと聞かせてくれませんか?」

 

 ミアたちは二人で過ごした後、一緒に寝ることになった。ミアの希望により、ロレナのベッドに一緒に入っている。全身をロレナの匂いに包まれていると、安心して眠ることができそうな気がした。

 

「そんなに色々あったわけではないけれど、そうですわね……」

 

 ロレナと一緒に眠るのは、これで二度目になる。一度目は緊張して眠れなかったが、二度目ということで、少し慣れてきたらしい。ミアは眠気が兆してくるのを感じた。

 

「基本、お兄様と遊んで過ごしてましたわ。後は勉強したり……それくらいですわね」

 

 ミアは少し驚いた。今までロレナは、自分のことをほとんど話してくれなかった。だから今回も、聞いても答えてくれないと思っていたのだ。ミアは彼女との距離が近付いたことを嬉しく思ったが、同時に、言い知れない不安を感じた。何かがおかしい。そんな気がする。

 ミアはそれをごまかすように、彼女に抱きついた。小さな背中は、やはり近いようで遠い。

 

「ロレナさんらしいね」

「それ、どういう意味ですの?」

「ロレナさんは、いつでもロレナさんだってことだよ」

 

 部屋の静寂を、ミアたちの声が上書きしていく。抱きついているせいで少し暑かったが、ミアは彼女から離れようとは思えなかった。ずっとこうしていたいと思うが、目を離したらロレナの背中はきっと遠ざかってしまうのだろう。それが痛くて、苦しい。

 

 傍にいられるのなら、道具になってもいい。ミアは少し、そう思った。もっと強くなれば、彼女に頼ってもらえるかもしれない。彼女が見ている世界を、少しでも理解できるかもしれない。彼女に近付けるかもしれない。

 

 しかし、彼女は自分の道具になれだなんて言ってくれないのだろう。彼女はミアを自分の名誉を上げるための道具として見ていると吹聴している。だが、ミアはそれが嘘だということを知っていた。

 

 彼女がミアに向ける優しさは嘘ではない。これまでずっと彼女のことを見てきたから、どういう言葉が嘘で、どういう言葉が本当なのかはある程度わかるようになっている。

 

 彼女とミアの間にはズレがある。わかっているが、それでも、ミアは誰よりも彼女のことを知っていると自負していた。もしかすると、そう信じたいだけなのかもしれないが。

 

「あなたは? あなたは、これまでどうやって生きてきたのかしら」

 

 彼女からそんな質問をされるとは思っていなかった。少しは興味を持ってもらえているのだろうか。

 彼女の優しさは嘘ではない。だが、それはミアだけに向けられるものではないのだ。彼女は他の巫女たちに優しくしているし、最近はアリアとも仲が良い様子である。

 

 彼女は特別ミアに興味を持っていないのではないかと、少し不安になる。彼女はミアの巫女なのだ。ミアのことを愛しているのは確実であるはずなのにそんな不安を抱いてしまうのは、ミアの心が弱いせいなのだろう。ロレナの特別になりたい。誰よりも、愛して欲しい。他の誰よりも多く、その瞳にミアの姿を映して欲しい。そう、思ってしまう。

 

 悩みや不安がぐるぐると頭の中で回っている。ミアはロレナに抱きつきながら、その体温と匂いを感じた。

 

「私も、そんなにすごい人生は送ってないんだ。それなりに勉強して、それなりに友達と遊んで……」

 

 ミアは手でロレナの髪を梳かす。艶やかな金色の髪は、触り心地が抜群であった。

 

「全部普通な私だけど、一つ誰にも負けないものがあるんだ」

「負けないもの?」

「それは、愛です。ずっと昔から誰かを心から愛しなさいって教えられてきたの。だから、愛だけは誰にも負けないって、胸を張って言えるんだ」

 

 ミアの愛は誰にも負けない。負けてはならないのだ。愛が負けたら、ミアはミアでいられなくなるのだから。

 

「お母さんもおばあちゃんも皆巫女で、術者と結婚してきたら……私もそうなるんだって思ってた」

「でも、あなたのパートナーは女の私になって、あなたは巫女ではなく術者になったと」

 

 愛は全てを救う。そう言われてはいるものの、子を残さなければならないために、女同士で結婚することはできない。とはいえ、ミアにとってそれはどうでもいいことである。結婚という儀式に、それほど重要性を見出さないためだ。互いに愛し合っているのなら、子供が出来ようとそうでなかろうと、どちらでもいいだろう。

 

「うん。……だから、ちょっと不思議な感じ。レックス家の中で私だけが皆と違うのも、運命なのかな」

「運命……」

 

 ロレナはぽつりと呟く。

 

「意外にあなた、ロマンチストですわね」

 

 その言葉はどこか、悲しげな響きだった。それがなぜなのかわからないまま、ミアは彼女の髪に顔を埋めた。

 

「うん。これから先の運命がロレナさんと一緒だったらいいな……」

「そうですわね……」

 

 こうしてゆっくり話をするのは、久しぶりな気がする。もっと色々と話したいことがあったのだが、ミアは眠気に耐えられなくなった。最後に彼女と見つめ合いたいと思ったが、その前に目が閉じてしまい、それは叶わなかった。

 

 視界が閉ざされると、彼女の熱が強く感じられるようになる。ミアは段々と意識が遠のくのを感じた。

 二人だけの世界に、沈黙が訪れる。それが少し心地良かった。明日も、いつもと変わらず彼女と一緒に過ごせればいいのに。そう思いながら、ミアは意識を手放した。

 



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18 愛ゆえに

「あれ、あいつどこ行った?」

「んあ? さっきトイレ行くっつってたぞ」

「遅くね? トイレが早いのが唯一の長所だろうに」

「便秘なんじゃね」

「あー、ありえる」

 

 早朝、アリア・ハーミットは王都を歩いていた。今日は授業がある日のため、本来であればこうして外出をしてはならない。しかし、アリアは矢も盾もたまらず学園を飛び出してきていた。向かう先は、父が泊まる宿だった。

 

 先日魔物に襲われてから、アリアはおかしくなっていた。

 今まで信じていた愛が、嘘のようになくなったのだ。自分の愛は壊れていて、間違っているのだとわかってはいた。それでも、ずっと信じてきたものなのだ。それが唐突に消えて、アリアは自分を信じられなくなった。

 

 壊れた愛よりも、ロレナを信じたいと思った。痛みとは関係なく、彼女を愛したいと思った。そのために、少しずつ変わろうと思っていたのだ。

 

 だが、つい数日前までアリアの心に深く根付いていた愛が突然なくなってしまった。

 アリアは自分の心境の変化が信じられなかった。しかし、どれだけ自分を痛めつけても、何も感じなくなっていた。

 

 ロレナのことは好きだ。きっとこの気持ちは、愛に最も近いものなのだろう。だが、だからこそ、今の自分をロレナには見られたくなかった。簡単に今まで信じてきた愛がなくなってしまうのなら、ロレナに対する感情も泡沫のようにいつか消えてしまうのではないか。そう思うと、怖かった。

 

 だからアリアは、父に会って壊れた愛を再確認しようと考えたのだ。ロレナへの気持ちが、そう簡単に消えるものではないと証明するために。

 

 誰かを愛するために間違った愛を心にもう一度抱こうとするのは、歪で間違っているのだろう。しかし、そうしないとアリアはどうかしてしまいそうだったのだ。

 

 昨日ロレナの部屋に侵入し、彼女の顔を見た時、やはり自分は彼女のことが好きなのだと思った。だからこそ、この気持ちが明日突然消えたら怖いのだ。

 

 しばらく歩くと、宿が見えてくる。アリアは後ろめたい気持ちを抱えたまま、気配を殺して宿の中を歩いた。父の部屋の前まで歩くと、静かに扉をノックする。返事はない。早朝であるため、まだ寝ているのだろうか。

 

 そう思いながらアリアはドアノブを回した。鍵がかかっている。しかし、部屋の中からは気配がしない。ドアに耳をくっつけてみるが、何の音も聞こえない。アリアは外から回り込み、部屋の窓を覗いた。

 

 アリアは胸騒ぎを感じた。

 窓が開いている。部屋のベッドはひどく乱れていた。荷物は置かれたままであり、ドアの鍵もかかっているのに、父の姿が見えないのは奇妙である。

 

 彼は几帳面な性格だ。普段通りであれば、起きた後きちんとベッドのシーツを整えているはずだ。

 起きたばかりの時に何か予期せぬことが起きて、窓から外に飛び出したのだろうか。アリアは弾かれたように走り始めた。ひどく嫌な予感がした。何かよくないことが起こっている。そんな気がするのだ。

 

 だが、走ってどうするのか。アリア一人でできることは限られている。ロレナを呼ぶべきではないか。そう思ったが、今彼女と顔を合わせたら、アリアはおかしくなってしまいそうだった。

 

 だからアリアは、一人で王都を駆けた。息を切らして走っている間だけは、愛について考えずに済む。それが救いのようにも感じられた。

 

 

——

 

 

「ハーミットさんがいない?」

 

 朝、ロレナたちの部屋に焦った様子のラインが訪ねてきていた。彼はアリアがロレナの部屋に来ていると思っていたらしい。ロレナはミアの髪を結びながら、彼の様子を窺った。

 

「散歩に行っているのではなくて? あの子、結構朝早くに愛の広場にいたことがありましたし」

 

 ロレナは鏡を見た。ツインテールは、ミアにはあまり似合わない気がする。十四歳の少女には、この髪型は幼すぎるように思える。しかし、今日は彼女の希望で、ロレナと同じ髪型にすることになっているのだ。何でも、同じ髪型にすれば仲が深まるのではないかと思った、とのことである。

 

「いえ……それにしても、妙なんです。いつもこの時間には部屋に戻って来ているのに、今日は……」

 

 ロレナはミアの制服のリボンを整えた。確かに、おかしな話である。まだ授業が始まる一時間ほど前ではあるが、用意する必要があるため、普通はもっと早く部屋に戻るはずだ。

 

 もしかすると、メテウスに攻撃された影響で、何か精神に不調が出ているのかもしれない。それで彼女は、授業をさぼってどこかに行こうとしているのではないか。

 

 ロレナは山に行った時のことを思い出し、立ち上がった。彼女に万が一のことがあったらまずい。最近は奇妙な魔物が多数出現しているため、王都内にいても油断はできないのだ。

 

「探しに行きますわよ」

 

 ロレナは制服の袖を捲った。

 

「一時間以内に探し出せば、授業に遅刻せずに済みますわね」

 

 すぐ隣でミアも立ち上がり、ロレナの手を握ってくる。

 

「うん。何かあったのかもしれないし、早くアリアちゃんを見つけよう」

「何があったとしてもまずは説教ですわ、説教」

「あはは……お手柔らかにしてあげてくださいね」

 

 ラインは苦笑した。

 

「ですが……最近は何かと物騒です。不用意に外に出ない方がいいのは確かですね」

「全くですわ。ベネットさんは控えないと駄目ですわよ」

「はい。……ウィンドミルさんも、色々とお気をつけて」

 

 ラインは小声で言う。ロレナは微笑みながら頷いた。今のロレナは自分から死ににいくつもりはないため、彼をこれ以上心配させることはないだろうと思う。

 

 自分を大切にする気持ちがいきなり消えたのは不思議だが、重要なのは今の自分がどう考えているかである。原因が何であれ、今のロレナは他者を自分よりも大事に思っているのだ。

 ならば、それでいいはずなのである。

 

「ええ。とりあえず、学園内を探しましょうか。もしかしたらどこかで寝てたりするかもしませんわ」

 

 ロレナはそう言って、ミアたちと共に部屋を出た。

 

 

 

 

 学園内では、アリアは見つからなかった。複数人に聞いて回ったのだが、アリアの姿を見た者はいなかった。ロレナは奇妙に思いながら、王都でもアリアのことを聞いて回った。しかし、その結果は芳しくなかった。

 

 王都では毎日無数の人間が往来しているのだ。物語の登場人物なだけあって、アリアは整った顔立ちをしているものの、王都には彼女と似たような特徴を持つ人間が多くいる。そのため、アリアのことを聞いても、別人のことと間違われる可能性が高いらしい。

 

 アリアらしき人物の目撃情報を辿ってみたが、結局別人だったというケースが多く、彼女の捜索は難航していた。気付けば日が高く上がり、王都はすっかり暑くなっていた。もうとっくに授業が始まる時間になっているのだろう。

 

「見つかりませんわね……」

 

 不審な音を聞き逃さないように、ロレナは風魔法で辺りの音を集めていた。しかし、耳に入ってくるのは王都を行き交う人々の話し声だけである。

 

「もしかしたら、王都の外に行っちゃったのかな」

「だとしたらまずいですわね。外は広いから、ますますわかりませんわよ」

 

 ロレナは焦っていた。この広い王都で彼女を見つけるのは困難である。もし彼女が王都の外に行ってしまったとしたら、余計に探すのが難しくなるだろう。どうしたものかと考えていると、不意に、奇妙な音を耳が捉えた。

 

 何か重いものが地面に落ちるような、そんな音である。その音はどうやら、路地裏から聞こえてきているらしい。魔物が現れたのか、それとは全く関係のない音なのか。わからなかったが、行ってみるしかないと思い、ロレナは音のした方に向かった。

 

「ロレナさん、どうしたの?」

「何か、変な音が聞こえましたわ」

「え……」

 

 ミアは緊張した面持ちになる。その隣で、ラインが深刻そうな顔をしていた。

 

「……嫌な気配を感じます」

 

 彼はぽつりと呟く。

 

「わかるんですの?」

「少しだけですが。……気をつけてください、ウィンドミルさん」

 

 ロレナは慎重に路地裏に足を運んだ。入り組んだ路地には人の気配がなく、光もあまり差し込んでいない。こういう場所は、日本とそう変わらないらしい。ロレナたちは一列に並んで歩いた。

 

 行き止まり付近で、ロレナは誰かが倒れているのを認めた。慌てて駆け寄って呼吸を確認する。どうやら、生きてはいるらしい。口元にかざした手に、息がかかる。気絶しているその男は、苦しげに呻いた。

 

 魔物の仕業なのは明白である。ロレナは辺りを見渡した。すぐ近くの屋根の上にで、何かが動くのが見えた。目を凝らすと、それが獅子であることがわかった。一見するとただの獅子だが、その背中から生えた無数の手が、魔物であることを如実に表していた。

 

 それは、メテウスに襲われた時に見えたものと酷似していた。その魔物が屋根を走っていくのを認め、ロレナは叫んだ。

 

「ミア!」

「はい!」

 

 激痛がロレナの体を走ると同時に、ミアの両手から光が迸る。光は建物を貫通して屋根に向かうが、獅子は身軽な動きで光をかわし、別の屋根に飛び移っていく。まるで、愛のかけら探しの時の自分のようである。ロレナは眉を顰めながら表通りに戻ろうとして、止まる。

 倒れている男を放っておくことはできない。だが、魔物を放置していたら、さらに被害が拡大するだろう。

 

「ウィンドミルさん、あの人のことは僕に任せてください」

 

 ラインが言う。

 

「大丈夫なんですの?」

「はい。……魔物を倒せるのは、巫女と術者だけです。だから、追ってください」

 

 彼は気遣わしげな表情を浮かべている。ロレナは少し不思議に思ったが、すぐに頷いて駆け出した。見れば、後ろからミアがついてきている。ミアは走りながら、魔物が走って行った方向に向かって光線を飛ばした。

 

 ロレナは痛みで足が止まりそうになりながらも、必死に走り続けた。痛みに耐えていることを悟られないように、いつもと変わらない態度でいるように努める。これ以上、誰かを心配させるわけにはいかないのだ。

 

 表通りに戻ると、光線を見て驚いたらしい人々が辺りに集まっているのが見えた。ロレナは魔物が現れたとだけ言って、遠くに見える魔物の背中を追う。痛みが続いているため、集中できるかはわからないが、魔法を使って屋根に上るべきだろう。そう思い、ロレナは走りながらミアの手を引いた。

 

「跳びますわよ!」

「え?」

 

 ロレナは必死に魔力を練り、風魔法を発動させた。跳躍すると同時に、風によって自分の体を持ち上げる。かつてのようにうまくはいかないものの、何とか屋根に届く程度まで跳ぶことができた。ロレナはそれだけで倒れそうなほどの疲労を感じた。しかし、今魔物を追わなければ、まずいことになる。

 

 あの魔物が何を思って人を襲っているのかはわからない。そもそも、メテウスとはどのような関係があるのだろう。あの獅子がメテウスそのものなのかもしれないが、何かが違う気がする。

 だが、考えている暇はなかった。

 

「なっ……!」

 

 今まで逃げていた獅子が、急に方向転換してロレナたちの方に向かってくる。弾丸のような速度で走って来た獅子は、そのまま大口を開けてミアの首に噛みつこうとする。ロレナは咄嗟にミアに防御魔法を使いながら、彼女を抱き寄せた。

 

 背中に鋭い痛みを感じる。どうやら、噛みつかれたらしい。ロレナはミアを強く抱きしめたまま、絞り出すように言った。

 

「ミア。私の体に光線を」

「はい……!」

 

 ミアの顔は見えないが、すぐそばから聞こえてくる声はひどく暗いものだった。また、心配をかけてしまっただろうか。

 

 そう思っていると、ミアの光線がロレナの体を貫いた。愛の力は人や環境には影響を及ぼさないが、魔物には影響を及ぼすことができる。だから、このまま力を使わせれば、獅子を倒せると思ったのだ。

 

 ロレナは振り返った。獅子は背中から生えた腕を長く伸ばし、別の屋根に移っていた。獅子は唸り声を上げながら、ロレナたちの方を見つめている。その間、数メートルほど伸びた腕が蛇のように揺らめいていた。

 

「あなたが何をしたいのかはわからないけれど、ここで倒されてもらいますわよ」

 

 獅子の牙から、血が滴り落ちる。考えてみれば、直接傷をつけられるのはこれが初めてである。メテウスが襲って来た時も、ロレナは傷一つ負わなかったし、先ほど倒れていた男にも外傷はなかった。なぜ今になって直接的な攻撃をしてきたのだろう。少し疑問に思ったが、考えても無駄かもしれない。

 

「ロレナさん! 血が、血が!」

 

 愛を搾り取る術式による痛みと共に、背中から痛みが感じられる。ロレナは意識が遠のくのを感じたが、拳を握り締めてそれに耐えた。

 

「そんなことより、あれを倒さないといけませんわ!」

「でも……! いえ、わかりました。倒したら、すぐに治療を受けましょう」

「ええ」

 

 ロレナは自分の体にも防御魔法を使った。防御魔法と治癒魔法だけは、痛みが続いていても問題なく使うことができる。しかし、先ほどは咄嗟のことだったため、自分に防御魔法を張っている余裕がなかった。ミアを守ることしか考えられなかったのだ。

 

 ロレナは獅子の方に駆ける。獅子は動かずに、腕だけをロレナの方に伸ばしてくる。ロレナはちらとミアに目を向けた。彼女は小さく頷いて、ロレナに向かって伸びた腕に向かって光線を発射していく。

 

 彼女の攻撃のおかげで、獅子の元まで問題なくたどり着くことができた。ロレナは唸り続けている獅子の口に防御魔法を張った腕をねじ込み、その腹を蹴り上げる。続けて風魔法を使い、体を切り裂いていく。

 

 獅子は一切体を動かすことなく、血のように赤い瞳でロレナを見つめている。黒い腕がロレナに張り付くが、攻撃してくる気配はない。ロレナは不気味に思いながら、その体を持ち上げ、宙に投げた。伸びきった腕を掴み、どこにも逃げられないようにする。

 

「ロレナさんのために、早く倒れて!」

 

 ミアは叫びながら、宙に浮かぶ獅子に光線を発射した。これで終わりだと思った次の瞬間、関節が外れるのではないかというほど大きく、獅子の口が開かれた。一拍遅れて、その口から目に見えない何かが吹き出した。

 

 どうやらそれは、魔法らしい。轟音と共に、光線をかき分けて魔法がミアに向かう。ロレナは黒い腕を離して彼女のもとに向かおうとしたが、逆に腕に体を締め付けられ、身動きが取れなかった。

 

「ミア! 逃げなさい!」

 

 ロレナは声を張り上げた。しかし、ミアは一歩も動かない。なぜ動かないのかと思って彼女の足を見ると、黒い腕が巻きついていた。はっとしてその後ろを見ると、もう一匹の獅子が彼女に腕を伸ばしているのが見えた。その獅子は、宙に浮かぶ獅子と同じように大口を開けている。

 

 防御魔法を張っているとはいえ、このままではまずい。ロレナは追加で彼女の周りに防御魔法を張るが、もう一匹の獅子から放たれた魔法によって、防御魔法にすぐにヒビが入っていく。

 

 光線が打ち破られ、さらに魔法がミアを襲う。ロレナは風魔法によって腕を引き裂こうとするが、うまくいかない。ミアは光によって足に巻き付いた腕を切るが、それと同時に防御魔法が破られる。

 

 少し遅れて、二つの魔法がミアに炸裂した。そのまま、彼女の体は弾かれて地面に向かっていく。

 地面に落下したらただでは済まないだろう。ロレナは風魔法を使おうとしたが、愛の力の多用による痛みで、うまく使うことができなかった。

 

「まだ、まだ!」

 

 空中で、ミアの動きが変わる。どうやら、風魔法を使ったらしい。落下速度が緩やかになり、彼女は屋根の上に降り立った。

 

「私だって、ただロレナさんを見てきたわけじゃないんだから! 今更こんなところで、てこずっていられない!」

 

 ミアはロレナに目を向けた。彼女の目は、今までにないほど透き通っている。彼女の中で、何かが変わったのかもしれない。

 

「まだ、足りない。こんなんじゃ、この程度じゃ、これくらいでやられるくらいじゃ……」

 

 ミアの放った光線が、ロレナを縛る腕を貫く。自由になったロレナは、落下してくる獅子に向かって駆けた。

 

「ロレナさんを、守れない」

 

 ミアは俊敏な動きで、もう一匹の獅子に接近する。無数の腕がミアに向かって伸びるが、その全てを最低限の動作で避け、彼女は獅子の元に迫った。獅子の口が向くよりも速く、彼女の光線が獅子を貫く。

 

 獅子の消滅を確認してから、ミアはロレナの方に走ってくる。獅子はミアに向かって再び魔法を放つが、ミアは光線によってその軌道をずらして走り続ける。ロレナは集中して魔力を練り、風によって大きく跳び上がった。そのまま獅子の体を掴み、屋根に向かって落下する。

 

 獅子の顔がめり込み、瓦が弾け飛ぶ。ロレナは目を細めた。黒い腕が力なくロレナに触れるが、もはや脅威にはならない。

 

「もっと速く。もっと強く。どんなことがあっても、冷静に」

 

 ミアは自分に言い聞かせるように言いながら、獅子に向かって光線を放つ。これで終わりだ。ロレナは獅子の口に防御魔法を張りながら、その体が光に飲まれるのを待った。その時、ミアがいる建物が崩れた。

 

 獅子の攻撃の余波で、建物がかなりボロボロになっていたらしい。ミアの体が落ちていくと同時に、光線の向きが変わる。同時に、獅子が凄まじい力でロレナを跳ね除け、ミアの方に走っていく。

 ロレナは痛みで体が動かなくなるのを感じた。獅子は落下するミアの首に喰らいつき、そのまま地面に向かう。

 

「うあっ……ぐっ!」

 

 ミアの呻き声が聞こえる。ロレナは何とか体を動かし、彼女の様子を窺った。どうやら防御魔法のおかげで喉を噛みちぎられてはいないらしいが、落下の衝撃で背中を怪我したらしい。防御魔法は、衝撃を防ぐことはできないのだ。

 獅子に噛みつかれたことで、ミアは風魔法の制御ができなかったのだろう。だからそのまま落下してしまったのだ。

 

 ロレナは呼吸を整えた。鋭い痛みは続いているが、今はそれに耐えなければならないのだ。ロレナは屋根から飛び降り、獅子を攻撃しようとした。しかし、それよりも早く、ミアの体から迸った光線が獅子を貫く。

 意外にも、あっけない終わりだった。ロレナはミアに駆け寄り、その体に治癒魔法をかけた。

 

「お疲れ様ですわ。どこか痛いところはありまして?」

 

 ミアは首を横に振った。

 

「ないです。あの……」

 

 ミアは深呼吸してから、虚な目をロレナに向けた。

 

「何ですの?」

「私、ロレナさんの役に立てましたか?」

 

 ロレナは少し驚いたが、すぐに彼女の頭を撫でた。

 

「もちろんよ。……いつだって、あなたは私の役に立っているわ」

「……そっか。よかった」

 

 ロレナは彼女に魔法をかけながら、瓦礫の山を眺めた。風魔法によって音を集めてみるが、人の声は聞こえない。崩れた建物には、人がいなかったらしい。ロレナはほっと胸を撫で下ろしたが、まだアリアが見つかっていないため、気を引き締めた。

 

「ロレナさん」

 

 彼女はロレナの首に腕を回してくる。

 

「私、ロレナさんのパートナーとして恥ずかしくないくらい、強くなるから。何よりも、誰よりも」

 

 ミアの瞳は、ロレナだけを映している。

 

「それで、ロレナさんのこといつか、守ってみせる。絶対に」

「私は、強いですわよ?」

「分かってるよ。誰よりも、よく分かってる。だからこそ、だよ」

「そう。なら、やってみなさい」

「……はい」

 

 ミアは目を細めて、ロレナの胸に顔を埋めてくる。ロレナはその背中を撫でた。ロレナは自分が、彼女に少なからず想われていると感じた。その想いに応えるためにも、やはり死ねないな、と思う。ロレナは痛みと共に、彼女の熱を感じた。

 少しの間ロレナたちは抱き合っていたが、アリアを探しにいかなければならないため、すぐに離れて立ち上がった。

 

「ウィンドミルさん! レックスさん! 大丈夫ですか?」

 

 その時、遠くからラインが走ってくる。彼は瓦礫を見てひどく不安そうな顔をしていた。

 

「ええ。どうにか魔物は倒しましたから、ハーミットさんを探しに行きますわよ」

「その前に、治療だよ」

 

 ミアは心配そうに言った。

 

「治療って……うわ! ひどい怪我じゃないですか!」

「これくらい、なんてことはありませんわ。それよりも、ハーミットさんに何かあったら……」

 

 ラインはウエストポーチから小瓶と包帯を取り出した。

 

「応急処置します。本当はちゃんとお医者様に見て欲しいですが……」

 

 ラインは何かを諦めたような顔をした。

 

「ウィンドミルさんは、止まらなそうですから。……少し、服をまくってもらえますか?」

「ええ」

 

 ロレナは服を捲り、背中を彼に見せた。ラインは手慣れた様子で傷口を消毒し、包帯を巻いていく。

 

「……随分と慣れてますわね」

「色々と、勉強しましたから」

 

 彼はそう言って、手当てを終わらせた。

 

「これでひとまずは大丈夫、だと思います。でも、無理はしないでください」

「分かっておりますわ。ありがとうございます」

 

 ロレナは軽く体を動かした。痛みは続いているが、術式によるものなのか、傷によるものなのかは判然としなかった。

 

「事情を話してここは任せるとして……ハーミットさんをどう探したものかしら」

「それなんですが。僕に考えがあります」

 

 ラインはロレナとミアを交互に見てから、静かに考えを話し始めた。

 

 

——

 

 

『アリア、アリア』

 

 自分を呼ぶ父の声が聞こえる。どう考えてもそれは、実際に発せられている言葉ではない。辺りには誰もいないから、ただの幻聴なのだろう。それでもアリアは縋るように、声のする方に向かって歩いていた。

 

 気付けば知らない場所に来ていた。鬱蒼と茂る木々の間を縫って歩くが、暗い森の中は、少し先を見るのも難しいほどに暗い。

 

 父の声が聞こえ始めたのは、王都を探して回っている時だった。最初は人混みの中からアリアを呼んでいるのだと思っていたが、王都を出たあたりから、それが幻聴だと気付いた。

 

 幻聴に縋っても仕方がないと分かってはいるのだ。だが、アリアの足は止まらなかった。

 自分は一体何をしているのだろう、と思う。父と会うために学園を飛び出してきたのに、最終的にこんなところに来てしまっているのだ。いや、だが、父もアリアと同じように、幻聴に引き寄せられてどこかに行ってしまったのかもしれない。

 

 そもそもこれは、本当に幻聴なのだろうか。もしかすると、魔物の仕業なのではないか。そう思いながらも、アリアは声を追った。

 

 気付けばアリアは、開けた場所に来ていた。

 そこは、暗い森の中で唯一陽が差し込んだ場所である。そこには一人の少女が立っていた。

 腰までかかった、空色の髪。空のように輝く青い瞳。そして、ロレナに少し似た顔。それを見て、アリアは一歩後ろに下がった。

 

「メテウス……!」

 

 彼女はパーティの時アリアたちを襲った、メテウスと名乗る少女だった。

 

「はろー。一日ぶりだね、アリア・ハーミット」

「私の、名前……」

「知ってるのが不思議?」

 

 彼女はにこにこと笑う。子供のように無垢な表情である。だが、油断はできない。魔物には見えないが、彼女は魔物なのだ。油断しているとあの時のように襲われることとなるだろう。もっとも、警戒していてもアリアは弱いため、どうにもならないかもしれないが。

 

「アリア・ハーミット。ローレンス・ハーミットとエール・ハーミットの一人娘で、愛を理解できてない悲しい子だよねー」

 

 アリアすら知らない母の名前を、メテウスはこともなげに言ってみせた。背筋が寒くなるのを感じる。一体彼女は、どこまでアリアのことを知っているのか。

 

「ま、それも仕方ないよね。エールはあなたを産んですぐに自殺しちゃうし、ローレンスはそれで壊れちゃったみたいだしねー。壊れた人間が普通に子育てなんてできるわけないし」

 

 それを否定することができたら、どれだけ幸せだっただろうと思う。アリアは壊れた愛を壊れた人間から教わったのだ。今はそれを必死になってもう一度得ようとしているのだから、救えない。

 

「でも、そんなのは割とどうでもいいんだよね。あなたは私たちにとっては障害にもならない石ころだもん」

 

 メテウスはそう言って、近くに生えた木の後ろから何かを引っ張り出す。それが自分の父親であることは、すぐに分かった。彼は苦しげな顔で倒れている。気絶しているようだ。メテウスはその細腕からは考えられないほどの力で、ローレンスをアリアに向かって放り投げてくる。

 

「あなたの愛も、あなたの父親の愛も、あんまり楽しくない。特にあなたの父親のは最悪ね。死んだ女の声で呼んだだけでこんなところまで来る割に、愛してるんだか憎んでるんだか自分でも分かってないみたいだし……」

 

 彼女は嗜虐的な笑みを浮かべた。人の形をしているだけで、やはり彼女は魔物なのだ。アリアは得体の知れない恐怖を感じて、倒れる父の体を抱きしめた。

 

「何のために、こんなことを……?」

「んー……」

 

 メテウスはゆっくりとアリアに近付いてくる。彼女はそのまま、息がかかるほど近くまで顔を迫らせて、瞬きせずにアリアを見つめた。

 

「本当ならあなたを始末するつもりだったんだけど……」

 

 彼女はそう言って、アリアから少しだけ離れる。

 

「それじゃつまらないかな? あなたは生かしておいても私たちの邪魔になることはないと思うけど……」

 

 彼女は子供のように無邪気な表情で、何かを考え込んでいる。アリアは魔法によって自分の力を強化し、父を抱え上げた。

 

「……あ」

 

 不意に、メテウスは何かに気付いたように表情を明るくした。何があったのかと思っていると、彼女の背中から無数の腕が生えた。腕はどこまでも伸びていき、付近の木々を根っこごと抜き取っていく。メテウスはその黒い腕でぶんぶんと木を振り回しながら、アリアに微笑んだ。

 

「ふふ、決めた。ちょっとだけ、遊んであげる。私から逃げられたらそれでいいよ。逃げられなかったら、ぷちっと潰しちゃうけど」

 

 その言葉と同時に、メテウスは木をアリアの方に投げてくる。アリアは咄嗟に、父を抱えたまま飛び退いた。腹に響くような重い音が辺りに満ちる。アリアは何が起こっているかわからないまま立ち上がり、父と共に逃げた。

 

 ちらと後ろを振り返ると、ロレナとは似ても似つかないような嗜虐的な笑みを浮かべたメテウスが、ゆっくりとアリアの方に歩いて来ているのが見えた。ロレナと顔立ちは似ていても、表情が全く違う。

 アリアは心臓がうるさいほどに脈打つのを感じながら、足場の悪い森の中を駆けた。

 



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19 少女は愛を知るか?

「ほらほら、もっと必死に逃げないと死んじゃうよ!」

 

 木々が石ころのように投げられてくる。アリアは必死になってそれを避け、森の出口を目指していく。しかし、自分が今どこにいるのかもわからないため、うまくいかない。この森は永遠に続いているのではないかと錯覚してしまうほど、変わらない景色が続いていた。

 

 付近の木々が、物理法則を無視しているかのように吹き飛んでいく。あまりにも軽く吹き飛んでいるが、それが凄まじい力によって起こされているということは明らかである。アリアは衝撃によって生じた風で服がばたばたと揺れるのを感じた。

 

 逃げられない。

 アリアはそう思ってしまった。

 

 どう考えても、アリアの力でメテウスから逃れるのは不可能である。そもそも、彼女は全く本気ではない様子なのだ。くすくすと笑いながら、メテウスは逃げ惑うアリアを楽しげに追っている。その気になれば、アリアなど一瞬で殺せるだろうに、彼女はアリアが必死になっているのを見て楽しんでいるらしい。

 

 アリアは泣きそうな心地がした。自分のことも信じられなくなっている中で、命が危険にさらされれば、平常心を保つことなどできるはずがない。

 

 死にたくないと、アリアは心の中で呟いた。こんなところで死んだら、アリアの今までの人生は何だったのだということになる。せめて、ロレナが隣にいれば。そう思ったが、彼女に会うことを恐れていたのはアリアである。今更どうにもならない。

 

「どうして! 何で、そんなに楽しそうに!」

 

 声を出したらいたずらに自分の位置を教えてしまうだけだ。そう分かっていても、錯乱した心が言葉になって喉から這い上がってくる。

 

「だって、私にとってはただの遊びだから」

 

 アリアのすぐ横を、巨木が飛ぶ。地響きが辺りに満ちると同時に、アリアの心がさらに冷えていく。

 

「あなたはいてもいなくても変わらない存在。なら、遊び道具にするくらいがちょうどいいでしょう?」

 

 目の前の木が持ち上げられて、アリアに叩きつけられる。体が軽く吹き飛び、ごろごろと地面を転がって、木に激突する。アリアは肺から息が全て吐き出されるのを感じた。同時に、全身に激痛が走る。息がうまくできなくなり、視界が歪んだ。

 

「結局、最後に殺すことになるのは確定しているけど……それだけじゃつまらない。愛で楽しませてくれなかったんだから、せめて直接私のことを楽しませてよ」

 

 黒い手から走った衝撃が、辺りの木々を吹き飛ばしていく。アリアは顔を上げた。暗かった森に、光が差し込んでいる。そのおかげで、メテウスの顔がよく見えた。彼女はどこまでも楽しそうに笑っている。まるで、玩具を与えられた子供のように。

 

「私の愛が無くなったのは……あなたのせいなんですか?」

「うん? あー、そうだよ。私は愛を食べられるからね。返すこともできるけど、する予定はないかなー」

 

 アリアは近くに倒れ伏すローレンスに目を向けた。一人で逃げることはできない。だが、痛む体を動かして彼と一緒に逃げるのは困難である。

 

「あなたの愛はもっと面白いものだと思ってたけど、意外とつまらないのね。全く、あの子はあなたの何にそんな脅威を感じたのやら」

 

 アリアは父に駆け寄り、その体を抱き上げてから、風魔法によって体を浮かせた。木の枝の間に突っ込み、そのまま複数の木を風で揺らしながら、別の木に移っていく。この程度で撹乱できるとは思わないが、やらないよりはいいはずだ。

 

「……まあ、つまらないのはあなただけじゃないんだけど」

 

 メテウスはぐるりと森を見渡して、嘲笑した。

 

「皆、皆、つまらない愛しか持ってない。本当は心から信じてなんかいない癖に自分にはそれしかないと思い込んでみたり、一つ愛を失っただけで、全部失っちゃったみたいな顔してみたり」

 

 空色の髪が揺れる。それと連動するように、黒い腕が尻尾のように揺れながら辺りの木に触れていく。

 

「そんなに一つのことに依存して生きて楽しいものなの? 愛情と思い込んでるだけのちっぽけな感情を失っただけで人生に迷うくらいなら、最初から一つのことになんて依存しなければいいのに」

 

 アリアは魔法で枝を揺らしながら、素早く枝の中を移動していく。メテウスはどこを見ているのかわからないような顔で、無数の黒い腕を森に張り巡らせていく。アリアは心臓が跳ねるのを感じた。

 

「愛が全て? 愛があらゆることを解決する? そんなわけないわ!」

 

 メテウスは先ほどの楽しげな表情から一転して、憎しみを剥き出しにした。その叫びは、アリアの背筋を凍りつかせた。何か、言い知れない恐怖が胸に満ちる。アリアは息を潜めながら、逃げる方法を考えた。

 

「想うだけで幸せに生きられるほど、世界は甘くない。だから私たちみたいな魔物が生まれるんだもん」

 

 魔物が言葉を発しているところを、アリアは今まで見たことがない。何か恐ろしいことが起こっているのではないか。そう思った瞬間、黒い手がアリアの頬を撫でた。アリアはそのまま、木から引き摺り下ろされた。

 

「いつだって、世界は残酷なもの。思うままに生きられなくて、苦しくて……そんな中で幸せになるには、どうしたらいいと思う?」

 

 メテウスは目の前まで歩いて来て、アリアを見下ろした。その目は、どうでもいい虫を見るように無感動な色が湛えられていた。

 

「答えは単純。大好きな人だけがいる世界を造ればいいんだよ」

 

 メテウスはそう言って蹲み込んだ。猫のように四つん這いになりながら、彼女はアリアに顔を近づけた。

 

「今ある幸せをなくしてしまうのが怖くて、誰かに傷つけられるのも、誰かを傷つけてしまうのも怖くて……死のうとしている人がいるのなら、不安の種を全部壊して、全部全部ぐちゃぐちゃにして、その人と私たちだけの世界を造って、あなたはここで生きていいんだよって教えてあげればいいの」

 

 何を言っているのかわからない。しかし、その声に込められた狂気だけは、アリアの心に真っ直ぐに届いていた。魔物は憎しみから生まれるものだ。言葉を話せることしても、そんな魔物が正気であるはずがない。人間の形をしているだけで、結局魔物は人間とは全く違う存在なのだから。

 

「それが私たちの願い。そして、あの人の願いのはず。……それを叶えるためだけに、私たちは生まれたんだから」

 

 無数の黒い手が、アリアたちを包み込もうとする。どこかから獣の唸り声が聞こえる。アリアは必死になって黒い手を払い除け、脇目も振らずに走り出した。ローレンスの体がひどく重い。ずっと気絶しているが、彼は大丈夫なのだろうか。一瞬そう思ったが、逃げること以外を考えたら、殺されてしまうかもしれないと思い直した。

 

「邪魔なものは全部壊す! 私たち以外は、いらないの! だって、こんな世界何の価値もないんだから!」

 

 遠くからメテウスの声と、木々が倒れていく音が聞こえる。アリアは振り返らずに走り続ける。

 

「そうでしょう? 愛を盲信して、歪んだ愛が蔓延ることに気付かない人。愛されている癖に、自分は愛してくれている人の痛みにも苦しみにも気付かない人。利用されているのを分かっているのに、それでも誰かを愛さずにはいられない人。……皆、救いようがないとは思わない?」

 

 その声は、妙に鮮明に聞こえた。アリアは息を切らして走り続けたが、一向に森の出口は見てこない。そもそも、森から抜け出してどうすればいいのだろう、と思う。自分が今王都からどれだけ離れた位置にいるかもわからないのだ。こんな状態では、殺されるのも時間の問題だろう。

 

「まあ、救うつもりもないんだけどね。私たちが救いたいのは一人だけ。私たちが愛したいのは一人だけ。私たちの種になってくれた、お母さんだけなんだもの」

 

 気の根っこに足をとられ、アリアは倒れ込む。その背中に、メテウスの言葉が降り注ぐ。魔物のお母さんとは、一体誰なのか。この国に何が起こっているのか。疑問は尽きなかったが、アリアは必死に立ち上がり、父を抱え上げた。

 

「エール……」

 

 彼は悪夢にでもうなされているのか、ひどく疲弊した声で呟く。アリアは微かに落胆した。彼が母以外を見ていないことは知っているのに、こうして必死になっているアリアのことは、少しも思ってくれていない。

 

 無意識のうちに口にしたであろう言葉が、母の名前なのだ。それだけ母を愛していたということなのだろう。だが、だからどうしたのか、と思う。母を愛しているのはわかる。だが、それならなぜ、母との間に生まれたアリアに正しい愛を教えてくれなかったのか。

 

 愛しているはずの母を、なぜ悪く言うのか。アリアに与え続けてきた暴力は何だったのか。様々な感情が竜巻のように心に渦巻いて、アリアは泣きそうな心地がした。胸がひどく苦しい。

 

 こんなにも苦しいのなら、いっそのことここでメテウスに殺されてしまえばいいのではないか、と思う。

 そうすれば、父ももう母の影を追わずに済む。壊れた愛を抱えたまま、暴力を振るい続けなくて済む。それは彼にとっても、救いなのではないだろうか。

 

「お父さん、私……」

「あーあ。足、止めちゃったね」

 

 すぐ近くで、メテウスの声がした。はっとして辺りを見渡そうとすると、ぐるりと視界が回転する。黒い腕に巻き付かれたのだと気付いたのは、それからすぐだった。アリアは無数の腕に締め付けられながら、父の方を見た。彼はまだ、うわ言のように母の名を呟き続けている。

 

 何だかひどく、馬鹿馬鹿しくなった。

 アリアは昔から、父を信じようとしてきた。痛くて苦しくても、それを愛だと思うようにした結果、痛みを心地よく感じるようになった。父が愛を与えてくれているのだと信じたかったから、痛みを愛だと思うようにしたのだ。それが薄々、間違ったものだと思ってはいたが。

 

 だが、結局父はどこまでも、アリアのことなんて見ていなかったのだ。そんなこと、昔からわかっていた。だというのに、改めてこうして、命の危機にさらされてもなお母の名前を呼び続ける父を見て、アリアは落胆した。

 

 悲しくて、虚しくて、仕方がなかった。全部わかっていたはずなのに、自分が一切愛されておらず、彼に見てももらえていなかったのだと思うと、今までの人生がひどく空虚なものに思えた。

 

「もう終わりにしよっか。あなただって、生きる理由なんてないんでしょ?」

 

 その通りである。もはや生きる理由などない。愛がメテウスに奪われたのは確かだが、それで信じるものを失ったということは、アリアは痛み以外の愛を結局得ることができなかったということだ。

 

 自分のことを一切見ていない者に教わった偽りの愛を今まで信じ続け、失った瞬間必死になってそれを追いかけて、最後には何も得られずに死んでいく。自分の人生は、一体何だったのだろうと思う。

 

 こんなことならば、生まれてこなければよかった。アリアに興味がないのなら、自我が芽生える前に殺してくれればよかったのだ。どうして、父の愛に巻き込まれなければならなかったのか。

 

 母のことだけを愛しているのなら、アリアを捨てればよかった。母を恨んでいるのなら、アリアのことなど放って置いてくれればよかった。それなのに、アリアを傷つけるだけ傷つけて、他に何も教えてくれないなんて、あまりにもひどい。

 

 アリアには今まで父しかいなかった。家という狭い世界が、痛みという名の愛が、アリアの全てだったのだ。

 アリアはもはや何者でもない。信じるべきものも、希望も、何もかも失った壊れた人形でしかないのだ。

 

「私たちの世界のために死んでね、アリア・ハーミット。安心してよ、そう遠くない未来に、皆そっちに行くから」

 

 黒い腕が体に巻きついていく。次第に視界が閉ざされて、締め付けが強くなっていく。それは、まるで縄で縛られている時のようだった。痛みを与えられて幸せを感じていた頃がひどく懐かしく思える。

 

 アリアは遠のく意識の中で、ロレナのことを思い出す。

 彼女はアリアにずっと付き合ってくれていた。時に優しく、時に力強く導いてくれた彼女のことを、アリアは好きになっていた。だから、最期に彼女のことを思い出すのは自然といえるだろう。

 

 愛がメテウスに奪われたのなら、アリア自身に問題はなかったということになる。それなら、ロレナに会っておくべきだっただろうか。彼女ならば、今のアリアのことも受け入れてくれたかもしれない。

 

 彼女の姿が鮮明に思い浮かんで、アリアは自分が恥ずかしくなった。

 諦めるなと彼女に言われたはずなのに、アリアは今、諦めようとしている。だが、仕方がないのだ。ロレナのことを信じていないわけではないのだが、自分の今までの人生が馬鹿らしく思え、未来に希望も持てなくなった今、アリアにできることは何もない。

 

 だが——。

 諦めて死を受け売れようとすると、ロレナの顔が思い浮かんで仕方がないのだ。彼女の優しい笑顔が忘れられない。アリアと呼んでくれた柔らかい声が、耳に染み付いて離れない。

 

 今更どうすればいいのだろう。

 彼女なら、アリアの希望になってくれるのか。これから先も、生きていたいと思わせてくれるのか。そんな考えがぐるぐると回る。

 

『いい? 今度から、諦めそうになったら私を呼びなさい。私が生きている間は……暇なら駆けつけてあげますわ』

 

 彼女の声が聞こえる。アリアは気付けば口を開いていた。

 

「……ロレナさん」

 

 黒い腕の力が微かに緩む。しかし、すぐにアリアの体をきつく締め付け始めた。みしみしと骨が悲鳴を上げる。アリアは呻き声が漏れるのを感じながら、必死になって彼女の名前を呼び続けた。

 

「ロレナさん、ロレナさん、ロレナさん、ロレナさん!」

 

 なぜ自分がここまで必死になって声を上げているのかわからない。それでも、言葉が止まることはなかった。

 

「私、やっぱりまだ諦めたくないです! ロレナさんがいてくれるなら、生きていたいです! だから、だから! この声が聞こえているのなら、来てください! ロレナさん!」

 

 アリアの声は、自分のものとは思えないほどの音量で辺りに響き渡る。しかし、無数に生えた木々に吸収されて、音はすぐに消えて無くなってしまう。アリアは涙が溢れるのを感じた。もはや希望なんてないはずなのに、やはりアリアはまだ、ロレナのことを求めているのだ。

 

 喉に鈍い痛みが走る。どうやら、腕が喉にも巻きついたらしい。呼吸ができなくなり、何かが折れるような乾いた音が全身に響く。アリアは激痛で言葉を失った。

 

 こんなところでロレナを呼んでも、来てくれるはずがない。そんなことはわかっているはずだ。アリアは急速に心が冷えていくのを感じた。何を思っても、ここで終わりである。そう思い、もう何も考えないようにしようと努めた。

 

 その時だった。

 閉ざされていた視界が急に開け、眩い光が目に飛び込んできたのは。

 

「ピクニックするには最悪のロケーションですわね」

 

 静かな声が聞こえる。アリアはほとんど動かない首を動かして、声が聞こえた方に顔を向けた。

 自分でも驚くほどに、胸が熱くなるのを感じる。冷え切って荒んだ心に彼女の声が染みると、痛みすらも消え去るようだった。アリアは安堵しながら、その姿を見つめた。

 

 ロレナ・ウィンドミルは胸を張り、近くにいるメテウスに顔を向けているようだった。二つに結ばれた彼女の髪は、風で揺らめいている。金色の髪、海のような青い瞳、自信の満ち溢れた表情。それはアリアが好きな、いつも通りの彼女の姿だった。

 

「あは、やっと来たんだ」

 

 メテウスは嬉しそうに言う。同時に、アリアの体を温かい何かが包み込んだ。どうやらそれは、治癒魔法らしい。アリアは痛みが引いていくのを感じた。見れば、ロレナがアリアたちに治癒魔法を使っていた。それだけで、アリアの心には幸福が満ちた。

 

「遅れましたわ。痛いところはありまして?」

 

 彼女は悲しげな表情でアリアを見つめる。少し、彼女らしくない表情だと思う。こんな表情を見るのは初めてな気がする。何かあったのだろうか。疑問に思ったが、それ以上に、彼女に見つめられていることが嬉しかった。

 

「ないです。ロレナさんが、治してくれましたから。……来てくれたんですね」

「ええ。言ったでしょう、暇なら駆けつけるって」

「えへへ……嘘つき。今日は暇じゃないはずなのに、来てくれたじゃないですか」

「たまたまですわ」

 

 彼女はアリアの頭を撫でてから、メテウスに向き合った。

 

「よくここがわかったね」

「……ミア。やれますわね」

「はい。どんな敵も、二人なら」

 

 ロレナはアリアたちを後ろに下がらせる。メテウスはひどく嫌そうな顔をした。

 

「げっ……なんかやな感じに覚醒しちゃってる?」

 

 ミアの両手から、光線が走る。メテウスは巧みに黒い腕を使うことでそれを避けようとするが、腕が次々に光線に焼かれ、彼女はバランスを崩した。それを見計らったようにロレナが跳躍し、空中で彼女に蹴りを放つ。

 

 小さな体がミアの方に吹き飛ぶ。ミアはそのままメテウスに向かって光線を放つが、メテウスは身をよじってそれをかわした。

 

 着地したメテウスはミアの腕を引っ張り、彼女を放り投げる。降りてきたロレナが彼女を抱き止め、その腕の中でミアが光線を放つ。メテウスは軽やかな動作で光線を避けながら苦笑した。

 

「ひどいなぁ。ちょっとくらい話してくれたっていいのに」

「この前不意打ちしてきたのに、何を言っているのかしら」

「あちゃー。やっぱあれはまずかった?」

「当たり前ですわ」

 

 しばし膠着状態が続く。ミアの放った光線は全てメテウス本体に当たることなく、黒い腕のみを溶かしていく。しかし、黒い腕は瞬時に再生してしまっているため、有効打にはなっていない。一方で、ロレナはミアが力を使う度に、苦しそうな様子を見せていた。

 

 このままではまずいと思ったが、アリアには何もできない。アリアは歯痒さを感じながら、ローレンスの様子を窺った。治癒魔法のおかげか、彼は安らかな表情を浮かべている。

 

「ふーん……かなりキレてる感じだね」

 

 メテウスの様子が、先ほどまでとはどこか違う。アリアは肌でそれを感じ取った。彼女の表情からは、怒りが感じられた。その怒りの矛先は、ミアに向けられているようだった。射殺すような鋭い目線が、ミアに向けられている。

 

「ロレナさんを傷つける存在は、私が滅ぼす」

「言うね、ミア・レックス」

 

 無数の光線が、メテウスを貫こうとする。しかし、それらは全て、メテウス本体に直撃することなく消えていく。

 

「狂人に造られた人形の血族の癖に、随分と吠えるのね。愛を信じなければ何もできないような人間が、誰かを守れるなんて本気で思ってるんだ」

 

 メテウスの声は、爆発寸前の感情が込められている。なぜここまで彼女が怒りを見せているのか、アリアにはわからなかった。直接怒りをぶつけられているわけではないのに、アリアは恐怖で肌が粟立つのを感じた。

 

 メテウスの体がぶれる。その瞬間、彼女の体から無数の獅子が生まれた。その獅子は、あの時アリアたちを襲った魔物である。背中に黒い腕を生やした獅子は、唸り声を上げながらアリアたちの方に走ってくる。

 

「いいよ。試してあげるわ、愛の奴隷さん。あなたが望まれた存在なら……あの子の恐れが正しいのなら、これくらいは切り抜けられるはずだよ」

「何を言ってるのかわからないよ!」

 

 ミアは叫びながら、四方八方から襲いかかる獅子に向かって光線を放つ。その攻撃を避けた獅子がミアに噛みつこうとするが、ロレナに阻まれた。ロレナには防御魔法がかけられているらしく、獅子に噛み付かれても怪我した様子がない。

 アリアは獅子の様子を見て、首を傾げた。ロレナに噛み付いている獅子は、どこか困惑しているように見えた。

 

「ロレナさん!」

「私のことは気にしないで、メテウスを狙いなさい! 彼女をどうにかしないと、死にますわよ!」

 

 アリアに向かってくる獅子を蹴り上げながら、ロレナは言う。

 

「わかりました! すぐに終わらせます!」

 

 ミアはそう言って、走り出した。獅子に噛みつかれながらも、彼女は止まることなくメテウスに向かう。メテウスは付近の木を抜き取り、ミアに向かって何度も放り投げる。それでも、ミアは止まらなかった。

 

 木々はミアに触れる前に、見えない何かによって軌道を変えられる。どうやら、ロレナが風魔法によって木を動かしているらしい。ロレナの顔色は蒼白になっている。その背中には、血が滲んでいた。

 

 ミアが力を使う度に、ロレナの息が切れていく。もしかすると、術者が力を使うと、巫女に何か影響が出るのかもしれない。

 

 獅子とメテウスは、あらゆる方向から木を投げる。その全てが、ロレナの魔法によって軌道を変えられ、明後日の方向へと吹き飛んでいく。ロレナは膝をついた。その体に噛みつこうとしていた獅子は、方向を変えてミアに向かう。

 

「ああ、むかつくなぁ、その信頼関係。所詮砂上の楼閣に過ぎないなんて、わかってても……やっぱり、壊したくなる」

 

 黒い腕から、何らかの魔法が放たれる。何かが爆発するような音が響くと共に、ミアの体が吹き飛んだ。ミアは木に激突するが、すぐに立ち上がってメテウスに向かっていく。その目には涙が滲んでいた。彼女は必死に歯を食いしばって痛みに耐えている。

 

「あなたじゃ……ううん、あなたたちの愛じゃ、誰かを救うことなんてできるわけない」

 

 メテウスは真っ直ぐにミアを睨み付けて言う。ミアはメテウスのすぐ傍まで迫った。

 

「魔物が愛を語らないで!」

「魔物だから語るんだよ。私たちの憎しみは、愛は、誰にも負けない。私たちはあなたたちみたいに愛に縋らず、愛を信じて生きているのよ」

 

 メテウスはそう言って、ミアに手を向ける。その瞬間、凄まじい衝撃が辺りに走った。轟音と共に、風が吹き荒れる。どうやら、メテウスが強力な魔法を使ったらしい。衝撃によって、何頭かの獅子の体が千切れ飛んでいる。

 

 あれが直撃したミアは、ただでは済まないだろう。アリアは強い風で開きづらくなった目で、ミアの方を見た。

 ミアは無事だった。メテウスの放った魔法は、ミアの正面から伸びた無数の草によって防がれたらしい。アリアは目を丸くした。先ほどまで、あんなにも背の高い草は生えていなかったはずだ。

 

 これもロレナの魔法なのか。そう思っていると、ミアの手から光線が放たれる。メテウスはそれを避けようとするが、彼女の足に巻きついた草が、それを妨害した。

 

「これで終わり!」

「なっ……」

 

 草が伸び、メテウスの胴体に巻きついてく。身動きが取れなくなったメテウスの胴中を、光線が貫いた。上半身と下半身が離れ、地面にぼとりと落ちる。メテウスは苦悶の表情を浮かべた。

 

「……ライン・ベネットね」

 

 メテウスはぽつりと呟く。その時、メテウスのすぐ近くに生えた木の陰から、ラインが姿を現した。

 

「僕の名前も、知っているんですね」

 

 ラインは意外にも穏やかな声で言う。

 

「まあね。……あーあ、そっか。ここに来れたのも、あなたのおかげってわけね」

 

 ラインは何も言わなかった。

 

「いいよ。今回は、私の負けってことにしておいてあげる。……でも」

 

 何かを言いかけたメテウスの体が、光線によって消滅する。ミアが無感動な表情でメテウスのいた方を見下ろしているのが認められた。アリアはそれを見て、少し怖くなった。ミアの表情が、あまりにも冷たいためである。彼女にはあまり接したことがないものの、こんな表情を見るのは初めてだった。

 

「ミア」

「ごめん、ロレナさん。情報を引き出すべきだったかも」

「いえ、いいですわ。放って置いたら、まずいことになっていたかもしれないもの」

 

 ミアは柔らかい表情でロレナを見る。その表情は、普段見るものと同じだった。アリアはほっと胸を撫で下ろしながら、辺りを見渡した。獅子の姿は消えている。だが、本当にメテウスは消滅したのだろうか、と思う。アリアの愛はまだ戻ってきていない。一度奪われた愛は、彼女を倒したとしても戻ってこないのだろうか。

 

「ベネットさん、ありがとうございました。あなたのおかげで、メテウスを倒すことができましたわ」

 

 ラインは首を横に振った。

 

「いえ。僕はできることをしただけです。ハーミットさんたちが無事でよかった」

「そうですわね。ハーミットさん、お父上は?」

 

 アリアはロレナに目を向けた。彼女は心配そうにしている。巧妙に隠されているものの、アリアは彼女の顔が微かに苦しみに歪んでいるのを認めた。

 

「多分、大丈夫だと思います。……あの、ロレナさんたちはどうやってここに?」

「それは帰りながら話しましょうか」

 

 ロレナはそう言って、ローレンスを担ぎ上げる。

 森を歩く途中で、ロレナはここまで来た経緯を話してくれた。どうやら、アリアの位置がわかったのはラインのおかげらしい。一度彼を星の生命力に触れさせ、生命力を操る力を使わせることで、アリアの位置を探ってもらったとのことである。

 

 ラインの力は、かなり応用の利くものらしい。アリアは少し驚きながら、彼に礼を言った。彼は微妙な表情を浮かべて謙遜した。

 

 草を急成長させたのも、ラインが生命力を操ったためらしい。彼を森に潜ませていたのは、ここぞという時にメテウスの動きを封じるためだったと、ロレナは言った。アリアはその後、自分がなぜこの森に来たのかを彼女たちに話した。

 

 ロレナたちはアリアを責めることなく、心配してくれていたが、その気遣いが胸に痛かった。全てアリアが悪かったわけではないのは事実だが、誰も呼ばず父を探しに行ったのは間違いだったといえる。アリアは深く反省した。

 

 疲れもあってか、王都についたのは日が沈み始めた頃だった。どうやら、あの森は王都からかなり離れた位置にあったらしい。王都についた瞬間、アリアはどっと疲労が吹き出すのを感じた。

 

「とりあえず、あなたのお父上を宿に送りましょうか。一応、大事をとって一晩見ておいた方がいいかもしれませんわね」

「私は学校に報告しに行ってきますね」

「では、僕は被害を受けた方々の様子を見てきます」

 

 そう言って、ミアたちはそれぞれの目的地に向かっていく。

 

「ロレナさん! 困ったら私のことを呼んでね!」

「ええ、わかってますわ」

 

 ミアとロレナはそんな会話を交わしてから別れた。アリアはロレナをローレンスの宿まで案内する。その間は他に何かを話すことなく、ただ道案内をし続けた。

 

 アリアは宿の従業員に事情を説明して、父の部屋の鍵を開けてもらった。彼をベッドに寝かせて、そのままアリアは近くに設置された椅子に腰をかける。その隣に、ロレナが座った。

 

 ローレンスは静かに寝息を立てている。無事で良かったという気持ちと、自分は一体何なのだろうという気持ちが入り混じる。アリアは気付けば、ロレナをじっと見つめていた。

 

「ロレナさん。……聞いてもらえますか」

「何ですの?」

 

 アリアは堰を切ったように、自分の心中を吐露し始めた。今日まで母の名前すら知らなかったこと。ずっと父に痛みが愛だと教えられてきたこと。父は結局、どこまでも母しか見ていないこと。愛を見失い、自分がこれから先、どう生きていいかわからなくなったこと。

 

 ロレナは何も言わずにずっとそれを聞いていた。彼女の青い瞳は、絶えずアリアの姿を映している。全てを話しきったアリアは、少しだけ心が軽くなるのを感じた。しかし、こんな話をしてロレナに嫌われたりはしないだろうかと不安になった。

 

 今更ロレナがこの程度でアリアを嫌いになることはないだろう。そうは思っても、他者に自分の過去のことや、心情を赤裸々に話すのは初めてであるため、やはり怖かった。

 

「……アリア」

 

 彼女は澄んだ声で名前を呼ぶ。その声が、心の奥底に浸透する。ずっと、優しく名前を呼ばれたい、手を引いてもらいたいと思い続けてきた。アリアの願いは、ロレナによって少しずつ叶えられていっている。

 

「あなたが今、愛を失って不安なのはわかったわ」

 

 ロレナはアリアの手を握った。その手から伝わってくる熱が、嬉しくて、悲しかった。彼女ともっと早く出会っていたら、アリアは今、もっと普通に生きられていたのではないかと思う。

 

「私はあなたに愛を取り戻させてあげられない。……でも」

 

 ロレナは優しげに目を細めた。

 

「あなたの友人として、一緒に愛を探してあげることはできるわ」

 

 そう言って、彼女は微笑んだ。西日に照らされた彼女の顔は、見惚れてしまうほどに綺麗だった。

 

「今までの愛が信じられなくなったのなら、新しく愛を探しましょう。信じられるものが見つかるまで、これから先の未来に希望が持てるようになるまで……私があなたの傍にいるわ」

 

 飾らない言葉だった。アリアはその手を握り返して、彼女に体を寄せた。

 

「だから、生きて」

 

 彼女はどこか寂しげにそう言った。その言葉は、彼女が巫女だからこそ出てきたものなのだろう。巫女の死亡率が高いことは、アリアも知っている。

 

「……生きてもいいんでしょうか」

 

 彼女の胸に頭を預けて、アリアは言った。

 

「私、何の取り柄もありません。愛も持っていないし、本当の意味で信じられるものはきっと何もない。誰かを幸せにすることも、愛することも、きっとできないんです」

 

 ロレナのことは好きだ。この気持ちはきっと、愛に最も近いものなのだと思う。だが、胸を張ってロレナへの気持ちを愛だと言いきることはできない。彼女を信じたい、自分の全てを染めて欲しいという気持ちはある。しかし、心の底から彼女を信じられているのかは、わからなかった。

 

「そうね……あなたはどうにも諦めやすいし、人の話を聞いてるようで聞いてなかったりするし、肝心なところで人を頼れなかったりするけれど……」

 

 その言葉が、耳に痛い。ロレナに自分の悪いところを言われると、メテウスに傷つけられた時よりも苦しくなる。

 

「でも、私はあなたのこと、嫌いじゃないわよ」

「……え」

「何だかんだ、元気なあなたを見ていると楽しいもの。心の底から笑った時のあなたの笑顔は、とても眩しいし……あなたにはいいところがいっぱいあると思うわ」

 

 顔を上げると、ロレナと目が合う。彼女は優しくアリアを見つめている。アリアはそれを見て、胸が熱くなった。母がいたらこんな感じだったのだろうか。そう思うが、この感情は、母に向けるものとはまた違うような気がする。アリアは心臓が早鐘を打つのを感じながら、ぎこちなく笑ってみせた。

 

「本当、ですか?」

「こんな時に嘘なんてつかないわ」

「……う」

 

 顔が熱い。何を言っていいのかよく分からなくなり、アリアは目を伏せた。

 

「じゃ、じゃあ……お願いしても、いいですか。これから先も、一緒にいてもらって、いいんですか」

「ええ」

 

 その言葉を聞いて、アリアは胸に喜びが満ちるのを感じた。しかし、同時に、微かな違和感が胸に宿る。ロレナは確かに優しいが、こういう言葉に頷いてくれるような人だっただろうか。ほんの少しだけ、そう思った。しかし、アリアが変な状態になっているから、気を遣ってくれているのだろうと思い直した。

 

「ありがとうございます、ロレナさん」

 

 アリアはそう言って、彼女の体に抱きついた。アリアとそう変わらない小さな体躯から、柔らかな感触が伝わってくる。

 

「今はまだ、何も分からない私ですけど……でも、だけど!」

 

 アリアは意を決して、声を絞り出した。

 

「きっと、絶対、あなたのことが大好きです!」

 

 それだけ言うと、アリアは彼女の体に顔を埋めた。そうしていると、頭をゆっくり撫でられる。

 

「うん、ありがとう」

 

 彼女は子供のような声で、そう言った。初めて聞く声色だった。アリアは少し驚いたが、彼女も自分に心を開いてくれたのかと思い、少し幸せな気分になる。そのままアリアは、目を瞑った。彼女の匂いを感じていると、安心する。甘い花のようで、少しトゲがあるような、そんな匂いがする。微かに混じっているのは、消毒液の匂いだろうか。

 

 その匂いは、何だか彼女そのものであるようにも思えた。緊張の糸が切れたためか、アリアは意識が遠のくのを感じた。先ほど襲われていたときとは違い、今は意識を失うのが怖くはなかった。

 アリアは幸せな気分のまま、意識を手放した。目が覚めた時に、変わらず彼女の顔を見られることを願いながら。

 



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20 少女は恋う

 前に、道端で力尽きるセミの気持ちが理解できそうだと思ったことがある。

 

「ロレナぁ〜……」

 

 そんなロレナは今、セミに止まられた木の気持ちが理解できそうな気がしていた。フィオネが強い力で抱きついてきているため、ロレナは身動きが取れなかった。アリアに縛られたときといい、メテウスの黒い腕に掴まれたときといい、最近は何かに締め付けられることが多いような気がする。

 

「フィオネさん、そろそろ離れてくれません?」

「無理」

「あの……」

「絶対無理」

「フィオネさん?」

「やだっ」

 

 その頑なな態度に、ロレナは苦笑した。メテウスに襲われたせいで、彼女にはまた心配をかけてしまったらしい。近頃は何度も魔物に襲われているため、彼女を心配させてばかりである。とはいえ、魔物の発生は止められないので、ロレナにできることはこうしてフィオネを甘えさせることくらいのものである。

 

「……いつも、心配かけますわね」

「ほんとだよ。……魔物が来るのは、仕方ないけどさ。でも、やっぱり怖いよ。ロレナがいなくなったらって思うと」

 

 彼女はか細い声で言う。ロレナは力を抜いて、彼女に身を任せた。その力強さを感じていると、マリーナのことを思い出す。彼女も最期は、こうして力強くロレナを抱きしめてきた。

 

 ロレナは少し怖くなった。もう誰にも死んで欲しくはないのだが、もしかすると、フィオネもいつか彼女たちのように死んでしまうかもしれない。ミアと違い、フィオネが未来で絶対に生きているのだと確信することはできなかった。

 

「……ロレナ、今何考えてる?」

「少し、未来のことを」

「ふうん……」

 

 消毒液の匂いが鼻をつく。最近はフィオネたちをあまり心配させないために酒の摂取を控えめにしているのだが、その効果もあってか、五感が敏感になっている。今も保健室の匂いが強く感じられるが、それと同時に、耐えがたいまでの痛みがロレナの体を苛んでいた。

 

「怖い?」

 

 不意に、フィオネは優しげな声で言った。こういうとき、何と言うのが正解なのだろう。そう思ったが、彼女のためにも、本心を話した方がいいかと思い直す。

 

「……少し」

「え」

 

 フィオネは短く、驚いたような声を出した。彼女はぱっと手を離してから、ロレナの上で四つん這いになった。彼女の髪先が、ロレナの頬をくすぐる。ロレナは目を細めて、その黒髪に触れた。

 

「弱音、初めて聞いた」

「そう?」

「そうだよ。ロレナ、いっつも平気か大丈夫しか言わないんだもん」

 

 今までは、誰かに弱音を吐くつもりはなかった。自分をさらけ出して、それが受け入れられてしまったら、きっと自分は幸福を感じてしまうだろうと容易に予想できたためである。誰とも仲良くなりたくない。これ以上、幸せを奪われたくない。そう思って今まで生きてきたのだから。

 

 だが、今は、できる限り長く生きると決めている。そのため、自分の本音を、少しくらいは他者に話してもいいと思った。頼られたいと誰かが望んでいるのなら、きっと、その望みを叶えるべきなのだろう。

 

「ね、教えてよ。何が怖いのか」

 

 ベッドがぎし、と音を立てる。他のベッドは使われておらず、ロレナたち以外には誰も人がいないためか、その音がいやに大きく耳に響いた。

 

「そうですわね……」

 

 ロレナは目を瞑った。

 

「誰かが死ぬことが、かしら」

「……誰か、なんだ」

 

 彼女は少し不満そうに言った。そういえば、自分よりも他者のことが大事に思えるようになったのは、何故だろうと思う。ロレナはそれを正しいことだと思うようになったが、きっかけは何だっただろう。ロレナは胸騒ぎを感じた。

 

「まあ、それは私も同じだよ。できることなら、誰にも死んで欲しくなんかない」

 

 目を開けると、黒い瞳が見える。夜空のようだと思った。黒い瞳の中には、星のような光がいくつも煌めいている。それは綺麗なようで、少し頼りなくも見えた。

 

「だけど……」

 

 フィオネは自分の胸に、ロレナの手を置かせた。フィオネとロレナの手が重なり、鼓動がそこから伝わってくる。彼女の鼓動は恐ろしく速い。少し心配になるほどに。ロレナはそれを感じながら、彼女の顔を見た。彼女は曇りのない目でロレナを見つめている。

 

「少なくとも私は今、生きてるよ。ロレナも同じ」

 

 彼女は真剣な声で言う。その心臓からは、痛いほどの生命力が伝わってくる。

 

「未来のことは誰にも分からないから、今この時の私を感じて欲しいな」

 

 彼女はそう言って、ロレナの手を胸に押し当てる。柔らかな感触と共に伝わる熱と鼓動が、ロレナの不安を和らげていく。ロレナは目を細めた。

 

「私、ロレナの名前だけは……」

 

 フィオネは何かを言いかけて、首を振った。

 

「やっぱり、何でもない。ロレナ、今日は飽きるまでこうしていようよ」

 

 それだけ言って、フィオネはロレナに覆いかぶさる。ロレナは彼女の背中に手を回して、目を瞑った。

 誰かの熱を感じていると、少し落ち着く。喉の奥に骨が刺さっているような感じがしたが、ロレナはそれを気にしないようにして、体から力を抜いた。まだ時刻は昼を回ったくらいだが、何だか妙に眠気が兆してきて、ロレナはそのまま意識を手放した。

 

 

 

 

 起きた時、喉がカラカラに乾いているのがわかった。ロレナは唾液を飲み込み、立ち上がった。フィオネは熟睡している様子である。恐らく、最近は働き詰めだったために疲れているのだろう。ロレナは彼女の頭を撫でてから、カーテンを開けた。

 

「いい夢は見られましたか、ロレナ」

 

 いつもと同じ声が、同じ調子でロレナの鼓膜を震わせる。ロレナは長い夢を見ていたような心地になっていた。欠けた心が満ちたような感じがする。ロレナは胸に手を置いた。心臓がうるさいほどに鼓動を打ち鳴らしている。ひどく頭が痛かった。

 

「……あなた、気付いていましたわね」

「何のことでしょうか。ああ、そうだ。今日はコーヒーではなくホットミルクを用意してみました。こちらの方が、心が落ち着くのではないでしょうか」

 

 ラウロは普段通り、ロレナにカップを手渡してくる。ロレナは椅子に座り、カップを受け取った。白い液体から立ち上る白い湯気が、目に染みるような気がした。ロレナはカップに口をつけた。ホットミルクには蜂蜜がたっぷりと入れられているらしい。彼から出されたものらしくない、落ち着く味である。

 

「その様子を見るに、例の魔物は倒したということですか」

 

 ラウロは当然のように言う。ロレナはミルクを口にしながら、眉を顰めた。

 

「どこまでわかっているんですの?」

「君の自己愛が一時的に消えていたこと。それが、パーティの時に現れた魔物によるものだということ。そして、その魔物が倒されたか……あるいは魔物から愛を取り戻したか、どちらかがあった、ということくらいでしょうか」

 

 彼は淡々と事実を述べていく。ロレナは頭痛がひどくなるのを感じた。メテウスに襲われた後に話した際、ラウロの様子がおかしかったことには、気づいていたはずだ。だが、ロレナは、自分よりも誰かを大切にすることが正しいと思い込み、突き進んでしまっていた。その結果、取り返しのつかないことが起こっている。

 

「どうでしたか。誰かを思い、誰かのために必死になった感想は」

 

 ロレナは何も言えなかった。メテウスに愛を奪われてから数日の時が経過したが、その間に、ロレナは色々なことを知ってしまった。ミアが本気でロレナを守ろうとしていること。想像以上に、彼女がロレナに好意を抱いているということ。

 

 フィオネに弱音を吐いてしまったのも、致命的である。

 なぜ今になって、自己愛が戻ってきたのだろうと思う。自己愛を失ったままであれば、誰かを思ったまま生きていけたはずだ。ミアの想いを知っても、フィオネに弱音を吐いてしまっても、問題はなかった。

 

 だが、今のロレナは、また全てを奪われるのが怖くなっている。奪われるかもしれないのなら、幸せになりたくない。理不尽に命を奪われるのなら、自分で命を終わらせてしまいたい。そんな思いが、再び胸の中に生まれていた。

 

 アリアは愛を見失い、どう生きていいか分からなくなったと言っていた。なのに、ロレナはなぜ愛を奪われたときに、誰かのために生きようなどと思ったのだろう。

 

 ロレナが死んだらアリアはどうなるのか。それは想像に難くない。

 ロレナは彼女と約束してしまった。希望を持てるまで一緒にいる、と。その約束を反故にして死んで、本当にいいのか。

 

 今のところ、アリアはロレナ以外に頼れる人がいない様子なのだ。これから彼女が頼れる人を探すにしても、場合によっては、アリアは頼れるものを全て失い、自殺してしまうかもしれない。

 これから自分はどうすればいいのか。その答えは、すでに出ているはずである。

 

「……ほんの少しの間だけれど、普通の人間に戻ったような心地がしましたわ」

 

 ロレナはそう言って、深く息を吐いた。ラウロは興味深げにロレナを眺めている。

 

「分からないのは、私がそうなったこと。私には自己愛しかないはずなのに、愛を奪われたときに、他人を一番に思うようになったのはなぜなのか」

「ははは、君も本当はわかっているでしょう」

 

 ラウロはカップに口をつけてから、にこりと笑った。その笑顔は、ぞっとするほど無邪気なものだった。

 

「君は元々、自分の幸せだけでなく、他者の幸せを願えるような普通の人間だったんですよ」

 

 静かな声である。ロレナは目を伏せた。白い水面がゆらゆらと揺れている。それは、ロレナの手が震えているためなのかもしれない。

 

「調査したところ、件の魔物が奪ったのはその人が持つ一番大きな愛だけだと判明しました。……つまり、君は最も大きな愛である自己愛を奪われたおかげで、眠っていたもう一つの愛によって動くようになったというわけです」

 

 滔々と彼は語る。ロレナは何も言えなかった。彼の言う通り、本当は心のどこかでそれに気づいていたのだろう。ロレナは自分の愛に向き合いたくなかったのかもしれない。だから何も考えようとせず、あの時の心に従って動いてしまったのだろう。

 

「君の中の愛のバランスは、何らかのきっかけで崩れ、自己愛の方に偏った。だから今まで、君は誰を傷つけても死のうとしてきたのでしょう」

 

 顔を上げると、彼と目が合う。グレーの瞳は、恐ろしいほどに綺麗な光を秘めていた。

 

「しかし、その他の愛がないわけではない。だって、そうでしょう? 自己愛しかない者は、他者が死んだ時に悲しむことなんてできませんよ。それに、本当に自分以外大事でないのなら、君は死にたいと思った直後に首を切っていたでしょう」

 

 見えないようにしていた心が、暴かれていくような感じがする。彼には一体、どこまでロレナが見えているのだろう。考えても無駄なこととはいえ、考えずにはいられなかった。

 

「今も君が死ねていないのは義務感のためか、罪悪感のためか……どちらにせよ、君は何かを憂いている。自分の死ぬタイミングで何かが変わることを恐れている。それは、自分のための恐れではなく、誰かのための恐れなのでしょう」

 

 生きたいと思う者は生きるべきである。自分の死をきっかけに世界が救われるのなら、自分のためにも世界にためにも、死ぬべきである。ロレナはそう考えている。この考えは、利己的なもののはずだ。そうでなければならない。ロレナは自己愛のみを持っていなければならないのだ。他の愛を持ったら——。

 

「本当に自分勝手な人間なら、生きることに希望を失ったものすら助けようとするでしょう。そして、助けるだけ助けて、後は他者に任せるとばかりに、すぐにでも死んだはずです」

 

 ラウロはじっとロレナを見つめた。

 

「君にそれができますか? 悩むことなく、苦しむことなく、全てを捨てることができますか?」

 

 しばらく彼は無言でロレナを見ていたが、やがてふっと笑って口を開いた。

 

「無理でしょう。なぜなら君は、中途半端なのだから」

 

 胸がずき、と痛む。

 

「自己愛だけを持った人間であれば、悩むことなく自分のために死ねた。他者への愛だけを持った人間ならば、自分の恐怖など気にせず、他者のために生きられた」

 

 確かに、その通りかもしれない、と思う。ロレナは結局、普通だった頃の価値観を完全に捨て切れていないから、こんなにも悩んでいるのだろう。

 

「君の愛は自己愛に偏りを見せていますが、それは完全なものじゃない。だから悩み、苦しみ、自分がどこに行けばいいのか分からなくなるのです」

 

 説法のような響きの言葉だった。ロレナは何も言えないまま、ミルクを喉に流し込んでいく。痛いほどの甘みが、舌に広がった。

 

「本来であれば、自分と他者の両方を愛する性質は長所になるはずです。そのバランスが取れた人間こそが、素晴らしい人間としてもてはやされるのでしょう」

 

 ラウロは微かに声色を変えていった。何か、奇妙な感情が混ざっていたような気がする。しかし、すぐに言葉の続きが発せられたため、その感情の正体はわからなかった。

 

「君はバランスが取れた、普通の素晴らしい人間だったのでしょう。だからこそ今、そのバランスが崩れ……いえ、今もバランスが取れているからこそ、苦しんでいるのかもしれませんね」

 

 ラウロは一転して、楽しげに言う。

 

「元が普通の人間だったからこそ、君はどこにも行けないのです、ロレナ」

 

 心臓を鷲掴みにされたような心地がした。曇り空のような瞳が、試すようにロレナを映している。

 

「ですが、そんな君だからこそ、多くの人の心を打つのでしょう。……聞かせてくれませんか? 君がこれから、どう生きていくのか」

 

 自分の心を言い当てられて、ロレナは揺れていた。本当に、自分の幸せのために全てを犠牲にしていいのか、と思う。確かに、事故によって死ぬのは怖い。明日自分が唐突に全てを奪われたら。そう思うと、恐怖で身動きが取れなくなりそうだった。

 

 本当は、人の好意がそう簡単に消えないことくらい、わかっているのかもしれない。

 そう簡単に割り切れるのなら、本編のヘクターはもっと早くに立ち直っていただろう。ロレナの死は多くの人の心に傷を残す。

 

 ロレナを守ろうとしているミアは、好意を向けてくれているフィオネは、一緒にいたいと願っているアリアは、心配してくれているラインは、どうなるのだろう。彼女たちは本当に、いつかロレナの死を乗り越えることができるのだろうか。

 最初から、本編のロレナのように誰とも仲良くしなければ良かったのかもしれない。だが、それは後の祭りである。

 

「私は。私は……」

 

 誰かを傷つけるのが怖い。ロレナはそれを自覚した。だが、奪われることへの恐怖は、誰かを傷つける恐怖を上回っている。ロレナは恐怖が胸の内で燃え上がるのを感じた。

 

「……愛に囚われるとは、このことだったんですのね」

「はは、そうですね。君は自分に向けられる感情を無視して死ねるほど無情な人間ではないでしょう」

 

 全てを見透かしたように彼は言う。ロレナが悩んでいるのがよほど面白いのだろう。彼は幸せそうに笑っている。人として壊れていると思うが、それはロレナも同じであるため、咎める気にはなれなかった。

 

「レックスさんは本当に、君が死んだ後の希望になるでしょうか。……君が死んだら、君に頼り切っていた人々は、一体どうなってしまうのか」

 

 少し前に聞いた言葉だった。ロレナがミアに期待していると、彼はもう確信しているらしい。ロレナはカップの中身を飲み干した。水分をとってもなお、口の中が乾いているような感じがする。

 

「君はどう思いますか?」

 

 彼はにこにこと笑っている。

 

「そんなの、死んでみないとわからないですわ」

 

 そう言って、ロレナは立ち上がった。

 

「少し、外の空気を吸ってきますわ」

 

 ロレナは一度カーテンを開けて、フィオネの様子を窺った。よほど疲れているのだろう。彼女は安らかな表情で熟睡している。ロレナは彼女の頭を撫でてから、保健室を出ようとした。

 

「ロレナ。個人的な話になりますが、僕は君に死んで欲しくないと思ってますよ」

「流れるように嘘をつきますわね、あなたは」

「嘘ではないですよ。確かに、君が死んだらそれはそれで面白そうです。君が死んだ後のことが楽しみなのも事実です」

 

 悪びれることなく、彼は言う。

 

「ですが、まだ僕は君を解き明かしていません。それに、生きた君を見続ける方が楽しそうだ」

 

 ロレナはため息をついた。

 

「あなたは相変わらずですわね。私のことなんて、もう全部わかっているのではなくて?」

「いいえ、まだまだですよ」

 

 もはや、彼に見透かされていない部分の方が少ないと思う。だが、彼にとっては、ロレナがまだ未知の塊に見えているのかもしれない。

 

「……そう。ま、あなたがどう思っているにせよ、私は私の道を行くだけですわ」

「行けるといいですね、ロレナ」

 

 彼の言葉が背中に突き刺さる。ロレナはそれ以上何も言わず、保健室の外に出た。

 怖くても生きる覚悟を決めるべきなのかもしれない。ロレナは胸を押さえながら、歩き出した。ロレナの場合、他人の幸せと自分の幸せを両立させることができない。選べるのは一つだけだ。自分の幸せを捨てて、皆の幸せを優先させるには覚悟がいる。今のロレナには、他者を選ぶことができそうになかった。

 だが、そう遠くない未来に、選ぶべき時が来るのだろう。その時まで、ロレナは悩み続けなければならない。

 

 

——

 

 

「……アリア?」

 

 目を覚ましたらしいローレンスが、アリアの名前を呼ぶ。アリアは腰を上げて、彼の顔を覗き込んだ。昨日ロレナに治癒魔法をかけてもらったため、彼の顔には生気が満ち溢れている。しかし、彼は表情に影を落としていた。

 

「はい、おはようございます、お父さん」

「俺は、何を……」

 

 彼はうわ言のように呟いた。アリアは昨日の事件について彼に話した。魔物が王都の人々から愛を奪い回っており、アリアたちはそれに巻き込まれた。簡潔にそう伝えると、彼は複雑そうな顔をした。

 

「ああ、あれは魔物の罠だったのか」

 

 彼は遠い目をして言った。相変わらず、その目にはアリアの姿が映っていない。だが、アリアはそれでもいいと思った。アリアの胸にはもう、信じるべきものがあるのだ。それが揺るがない以上、父に左右されることはない。

 

「そんなに、お母さんに会いたかったんですか?」

 

 アリアが言うと、彼は驚いたように目を見開いた。

 

「メテウス……魔物が言ってました。お母さんの声で、お父さんを呼んだって」

 

 死んだ女というのは、確実に母のことだろう。ローレンスは目を伏せた。

 

「……ああ」

 

 気のない返事である。

 

「お母さんは、どんな人だったんですか?」

 

 彼はアリアに目を向けた。緑色の瞳は、相変わらず誰を見ているのかわからない。

 

「お前の母は……エールは、強い女だった」

 

 彼の口から母の名前が出てくるのは、初めてである。アリアは何も言わず、彼の言葉を聞いた。

 

「どれだけ痛かろうが、苦しかろうが、弱音を吐かない女だった。だから、わからないんだ」

 

 ローレンスは親に捨てられた子供のような顔をしている。彼はこんなにも弱々しい人間だったのだな、と思う。

 

「なぜあいつがあのタイミングで死んだのか」

 

 静かな声だった。いつもとは異なるその声が、少し耳に痛い。

 

「何も知らなければよかった。あいつの死を、見なければよかった。そうすれば……」

 

 ローレンスと、初めて目が合ったような気がした。彼はひどく濁った目でアリアを見つめている。アリアはそれをまっすぐ見つめ返した。

 

「お前は、少し見ない間に変わったな。……少し、強くなったか」

「……よく、わからないです。ただ、好きな人ができたんです」

 

 彼は目を瞬かせた。

 

「そうか。……どんな人なんだ」

 

 こんな話をするのは、初めてだった。こうして父とまともに話せること自体が珍しいのだ。今更それで舞い上がることもないが、アリアはほんの少しだけ嬉しくなった。

 

「強くて、優しい人です。私を受け入れてくれて、私の名前を呼んで、手を引いてくれるような」

 

 ローレンスは何かを懐かしむように、アリアを見つめている。

 

「それは、お前の巫女か?」

「いいえ。私ではなく、他の人の巫女です」

「そうか……」

 

 彼は少し、迷うような様子を見せた。しばらく彼は無言だったが、やがて、何かを諦めたように口を開いた。

 

「巫女を愛するな。地獄を見るぞ」

 

 彼は老人のような声で言った。それは心胆を寒からしめるような声だったが、アリアは彼から目を逸らさなかった。

 

「どういうことですか?」

「巫女を愛したところで、未来はないということだ」

 

 か細い声である。ここまで言うということは、母はもしかすると巫女だったのかもしれない。アリアはふと、巫女たちがいつも苦しそうな顔をしていることを思い出す。それが、何か関係しているのだろうか。

 

「それでも私は、好きを止められないです」

「なら、無知でいるといい。巫女のことなど何も知らないまま……いつか散る初恋として、その人を愛するといい」

 

 アリアは眉を顰めた。

 

「お父さんは何を知っているんですか? どうしてそんなことを……!」

 

 彼はひどく悲しげな表情を浮かべている。アリアはそれを見て、何を聞いても答えは返ってこないのだと悟った。アリアは深く息を吐いて、立ち上がった。

 

「私は、そんな簡単に自分の思いを変えられません! だから、お父さんの言うことは聞けません!」

 

 ローレンスはひどく驚いたような表情を見せた。

 

「お前がそこまで言うとはな。なら、好きなようにするといい。……お前もいつか、俺の気持ちがわかる日が来る」

「……また来ます」

 

 アリアはそれだけ言って、部屋を飛び出した。彼の態度は、尋常ではなかった。一体彼と母の間に、何があったのだろう。巫女にはどんな秘密があるのだろうか。ロレナは大丈夫なのだろうか。

 

 いや——。

 大丈夫ではない、と思う。ロレナはいつも苦しそうにしているのだから。

 彼女のことが好きならば、彼女とこれからもずっと一緒にいたいのならば、そこを変えなければならない。

 

 アリアは胸に手を当てた。心臓の鼓動が、今は落ち着いている。

 壊れた愛は、胸に戻ってきていた。しかし、もはやそれを盲信することはない。アリアが信じるべきなのは、ロレナに向ける好意なのだ。これこそがきっと、愛の萌芽に違いない。アリアはそう確信していた。

 

 もう、愛に迷うことはない。自分が信じられなくなることもないだろう。今のアリアがすべきことは、ロレナから苦しみを取り除くことだけである。そのために、できることを考えるべきだ。そう思いながら、アリアは宿の外に出た。

 

 秋の訪れを感じる風が、王都に吹き抜ける。アリアは目を細めて、揺れる髪を押さえた。この風を、彼女も感じているのだろうか。アリアは無意識のうちに、魔法で風を学園の方に送っていた。

 

 アリアはそっと腹に手を当てた。かつてはずっと感じていた縄の感触を、今は感じない。あれほど求めていた痛みもまた、なくなっている。それが寂しいようで嬉しくて、アリアは笑った。

 

 

——

 

 

「おはよう」

 

 静かな声が聞こえて、メテウスは目を開けた。金髪の少女と白髪の少女が、それぞれメテウスを見ているのがわかる。メテウスは手を閉じたり開いたりしながら、彼女たちを交互に見つめた。

 

「おはよ、二人とも」

「……おはよ、ではありません」

 

 白髪の少女が苛立ったように言う。

 

「なんですか、あの体たらくは。……ミア・レックスはあの場で仕留めておくべきだったでしょう」

「えー……そんなこと言われてもなぁ。私だってミアがあんなに強くなってると思わなかったんだもん。しょうがないじゃん」

 

 メテウスは唇を尖らせた。一度殺されたのは、ミアが多少強くなっていたためでもあるが、彼女を見てメテウスが冷静でいられなかったためでもある。冷静さの欠如と油断が命取りだったのだ。とはいえ、あの程度であれば、もう一度殺されることはないだろう。

 

「それに、遊びたかったのもあるし。いいでしょ、別に。そっちだって、お母さんと会ったらどうせ遊びたくなる癖に」

「む……それとこれとは話が別です。あなたからも言ってやってください」

 

 白髪の少女は、金髪の少女に目を向けた。金髪の少女はそれを受けて、静かに微笑んだ。

 

「いいよ……遊んでも。最後に目的が果たせるなら、同じ。……でも」

 

 金髪の少女は、無垢な瞳でメテウスを見つめる。

 

「油断は、だめ。憎しみの総量も、無駄にできるほど多くない。だから、遊ぶなら、慎重に。ミアには、気をつけないと」

 

 鈴を転がすような声が、耳をくすぐる。ぞっとするほど透き通った声である。メテウスは苦笑した。

 

「わかってる。同じ轍は踏まないって。でもさぁ、確かにミアはちょこーっと強くなってたけど、そんなに警戒するほどなの? どうせ、あの感じじゃ目覚めることはないでしょ?」

 

 金髪の少女は首を横に振った。

 

「だめ。ミアは、レックスだから。何が起こるかは、わからないよ」

「それはそうかもだけどさ……私たちの計画だと、ミアは潰す前提でしょ?」

「それでも、だめ。メテウスは油断、しすぎ。だからラインにも気づかない」

「うっ……それを言われると弱いわ」

 

 メテウスは肩を竦めた。金髪の少女は小さく息を吐いて、白髪の少女を見つめた。

 

「次は、あなたが主体になって、いいよ。遊びたいなら、遊んで」

「……あなたは甘いですね。でも、許可が出たのならいいでしょう。私も少し、かまって欲しいと思っていたところです」

「あー! やっぱり! 自分だけ冷静ですーみたいな顔して、許可が出るの待ってたんでしょ! このむっつりさん!」

「うるさいです。私は私の好きにさせてもらいます」

 

 白髪の少女はそう言って、どこかに歩いていく。メテウスはその背中を見送って、金髪の少女に目を向けた。

 

「ぶー。私は動いちゃダメ?」

「しばらくは。でも、ちゃんと出番は作るよ。……愛は、ちゃんと返した?」

「ん、大体はね。でも、よかったの?」

「うん。もう大体、解明は済んだから。お母さんの気持ちも、愛がどういうものなのかも」

 

 メテウスはふっと息を吐いた。

 

「そっか。うまくいきそう?」

「大丈夫、心配しなくて。私たちの夢は、叶うから」

 

 メテウスは笑い返した。

 

「……あは。なら、いいわ。楽しみだね、私たちだけの世界」

 

 金髪の少女は、くすくすと笑う。

 

「そうだね。私たちの世界には、苦しみも、痛みも、不幸も……偶然も、ない」

 

 彼女はそう言って、空を仰いだ。それに倣うと、雲ひとつない青空が見える。この空も、そう遠くない未来にメテウスたちのものになるのだ。

 

「その世界を作るためだけに、私たちがいる。全ては、お母さんのために」

「うんうん。でも、その前にお母さんのことをたっくさん知らないとね!」

「ふふ……。世界に人がいるときだけしか、知れないことがある、からね」

 

 笑い声が重なる。

 

「遊びが終わったら、お母さんと私たち以外の人類を、全部消す。そうすれば、もう傷つかない」

「楽しみだね、本当に」

 

 メテウスは笑いながら言った。

 

「……うん」

 

 金髪の少女は虚空を見つめながら言う。

 メテウスたちの望む未来は、近い。幸せな未来のために、邪魔者には退場してもらわなければならないだろう。ミア・レックスを含め、障害になるような存在は早めに処理するべきである。

 メテウスは幸せな未来を想像して笑った。

 

「待ってて、お母さん」

 

 その言葉は、どちらが発したものなのか。わからなかったが、どちらでもいいのだろう。メテウスたちの心は一つなのだから。

 



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IF まちがいさがし

20話後にロレナが死んだらというIFです。
重くて救いようのない話なのでご注意ください。


 今日と変わらない明日が来ることを、ミアは疑っていなかった。

 メテウスを倒してから数日が経った頃、フィオネが怪我をした。怪我自体はすぐに医者によって治されたのだが、精神の方に悪影響が出たらしい。彼女が仕事のできる精神状態でなくなってしまったため、ミアたちが以前のように巫女たちの仕事を引き受けることとなった。

 

 その日も、ミアは普段通り魔物の出た場所に訪れていた。以前よりも成長したミアは、今更普通の魔物に苦戦することはないと思っていた。事実、その日の魔物は大した問題もなく全滅させることができた。

 ミアは自分の成長を実感して、喜色満面であった。そんなミアを、ロレナはいつものように呆れた顔で見ていた。

 

「ミア。あんまり笑ってると、魔物を殺すのが楽しい狂人と間違われますわよ」

「でも、嬉しいものは嬉しいよ。私、強くなったでしょ?」

「ま、そうですわね。以前よりは強くなったと言えないこともないですわね」

「でしょ? ロレナさんもそう思うでしょ?」

「う、うざいですわ……」

 

 ミアは鬱陶しそうな顔をするロレナにまとわりついた。青い瞳は相変わらず、吸い込まれそうなほどに綺麗である。その瞳をじっと見つめていると、不意に、ロレナはひどく驚いた表情を浮かべた。何かあったのだろうかと思っていると、ロレナに突き飛ばされる。

 ぱりん。そんな軽い音の後、何かが破裂する音が響いた。

 生温かいものが、ミアの全身に降り注ぐ。ミアは目を見開いた。呼吸が止まるのを感じる。

 

「あ……」

 

 自分のものとは思えないほど、か細い声が喉から漏れる。

 ロレナの胸に、穴が空いている。そこから吹き出した血液が、止めどなくミアに降り注いでいる。濃密な血のにおいを感じた。ロレナの体に空いた穴の向こうから、鈍色の空が見える。

 

 ミアが動けずにいると、ロレナはミアに覆いかぶさった。一拍遅れて、ロレナの体にいくつもの穴が空く。ミアの服に染み込んでいく血の感触が、ひどく遠い。青白くなった彼女の顔が、息がかかるほど近くに迫った。そこでようやく、ミアは正気を取り戻した。

 

「ロレナさん!」

 

 喉が張り裂けそうなほどに、ミアは叫ぶ。

 

『ミア』

 

 焦点の合わない目で、彼女はミアのことを見つめている。彼女の喉からは、声にならない声が漏れ出している。もはや、喋ることもままならないのだろう。しかし、ミアの耳には確かに彼女の声が聞こえてきていた。それが風魔法によるものなのだと、ミアは少し遅れて気がついた。

 

『私の指差す方向に、魔物がいるわ。私が生きている間に、愛の力で倒しなさい』

 

 ロレナは淡々と言う。ミアはロレナの指差す方向に目を向けた。この体勢では、魔物がどこにいるのかはわからない。だが、彼女が指差すということは、そこに魔物がいるのは間違いないということなのだ。

 

「でも……!」

『いいから、早く』

 

 魔物を倒さなければ、ミアもロレナも死んでしまう。それはミアだって、わかっている。

 ミアは立ち上がり、その方向に向かって走り出した。光線をいくつも飛ばしながら、必死に駆けていく。遠くの茂みが光り、ミアにかけられた防御魔法が吹き飛ぶ。だが、そのおかげで、どこにいるのか目星がついた。

 

 ミアは光った場所に向けて愛の力を放った。しかし、いつもより力の勢いが弱く、そこまで届くことなく消えてしまう。ミアは思わずロレナの方を振り返ろうとした。

 

『振り返らず、行きなさい。私に構っていると、あなたも死にますわよ』

 

 彼女の声に押されて、ミアは駆ける。その間、魔物からの狙撃によって体に傷がついていく。だが、それに構わず走り続ける。そして、ついに潜んだ魔物を見つけ、ミアはすぐに光線を放った。

 

 魔物の消滅と共に、静寂が訪れる。ミアは辺りを見渡した。魔物の気配は感じないが、ここにいたら危険だろう。ロレナの探知にも引っかからないような魔物が潜んでいる可能性が高いのだ。彼女を連れて、早く逃げなければならない。

 

 ミアはロレナの元に戻った。彼女はほとんど虫の息であった。見たところ、肺も心臓も弾け飛んでいる様子なのだ。それで即死していないのは、何か魔法を使っているためなのだろうか。

 

 ミアは治癒魔法を使えない。それに、もし使えたとしても、ロレナは治癒魔法が効かない体質なのだ。ミアは心が絶望に覆われていくのを感じた。それでも、歯を食いしばって彼女の体を抱き上げ、歩き出す。

 

「ロレナさん、寝ちゃ駄目ですよ」

 

 彼女は目を閉じている。もはや、助からない。ミアは咄嗟にそう思ってしまった。もしラインがこの場にいたらどうにかなったのかもしれないが、ミアたちが呼ばれた村には、普通の魔法医しかいない。どう考えても、彼女の治療が間に合わないのは明白だった。

 

 いやだ、と思う。

 こんなところで、こんなにも簡単に、彼女が死んでしまうなんて、嘘だ。

 これが悪い夢だったら。そう思うが、彼女から伝わってくる感触が現実だと告げていた。

 

「ロレナさん、この村にも、美味しいお酒があるらしいです。だから、後で一緒に飲みましょう? 血液全部アルコールになるまで、付き合いますから」

『……ミア』

 

 彼女の体からは、急速に熱が失われていっているようだった。ミアは痛いほどの無力感に苛まれた。もし、自分がラインのような力を使えたら。もっと強かったら、ロレナを守れたかもしれないというのに。そう思ったが、もうどうにもならない。

 

『私のことは、忘れなさい』

 

 ロレナの声で、血液が沸騰しそうになるのを感じた。

 

「いや!」

『あなたには、私なんかよりもずっと良い人がいますわ。その人と一緒なら、あなたはどこまでだっていける』

「そんなの知らない! ロレナさんと一緒にいられれば、どこにだっていけなくていい! ロレナさん以上に良い人なんて、この世のどこにもいないの!」

 

 ロレナの体から、血が滴り落ちる。ミアの体から落ちた血液が、彼女のものと混ざって見えなくなる。ミアは頬を涙が伝うのを感じた。

 

『……馬鹿ね。私みたいな悪人しか見てこなかったから、そんなことを言うのよ』

 

 不意に、柔らかな光がミアを包む。それは治癒魔法だった。傷ついたミアの体が治っていく。見れば、ロレナは微かに笑みを浮かべているようだった。

 

『あなたには自由の翼があるわ。その翼は、私に縛られていいものではない』

「聞きたくない、そんなの。もうやめよう、ロレナさん。そんなことより、もっと楽しいことを話そうよ。ほら、ロレナさんの大好きなお酒の話とか……」

 

 ミアは村に向かっていく。魔物の攻撃は、今のところない。

 

『そういう話は、もう十分ですわ』

「十分じゃないよ! まだまだ、話したいこと、話さないといけないこと、いっぱいあるのに!」

 

 ロレナは何も言わない。ミアは子供のように駄々をこねた。

 

「やだ、やだやだやだ! いかないで、ロレナさん! 私、ロレナさんがいないと駄目なの! ロレナさんがいなくなったら、何もできないよ! いいの? ロレナさんが死んじゃったら、私……」

 

 話している途中で、ミアは気がついた。ロレナはもう、身動ぎ一つしていない。ミアはその体を、ひどく重く感じた。

 

「ロレナさん?」

 

 彼女は返事をしない。

 

「ロレナさん、ロレナさん! 起きてください!」

 

 その体を揺らしてみるが、血が流れ落ちるのみで、他には何の反応も見せない。ミアはそこで、彼女が死んでしまったのだと悟った。しかし、認めたくなくて、必死に彼女の名前を呼んだ。だが、やはり何の反応も見せない。

 

 強くなったと思っていた。

 これからはロレナのことを守れると、そう思い込んでいた。だが、結局、ミアは何も成長していなかったのだ。

 

 ロレナを守りたいと思いながらも、彼女の能力に依存していたために、このような事態になったのだろう。本気で守るつもりだったのならば、彼女を頼るべきではなかったのだ。

 

 だが、全ては後の祭りである。ミアはぼんやりと空を見上げた。泣き出しそうな空が、ミアを見下ろしている。

 一足先に、ミアにだけ雨が降っているのだろうか。ミアの両頬には、とめどなく温かい水が伝っていた。

 

 

 

 

「ねえ、ミア。聞きたいことがあるんだけど」

 

 あれから一月ほど経ったある日、寮の廊下でフィオネに声をかけられた。彼女は気まずそうな表情を浮かべながら、ミアに近付いてくる。

 

「何ですか?」

 

 彼女が何を話そうとしているのか、ミアには察しがついていた。しかし、こちらから話を進めたいとは思えず、何もわからない体で質問をした。

 

「その……ロレナのことで……」

「お断りします」

 

 ミアはそう言って、彼女の横を通り抜けた。

 

「待って!」

 

 彼女はミアの背中に声をかけてくる。だが、止まる理由がなかった。

 

「……ロレナがどうして死んじゃったのか、知りたいの。友人として」

「なら、私はあの人の術者として、それを拒否します」

 

 ミアは思わず立ち止まり、振り返った。

 

「人の死にずかずかと踏み入ることが、友人としてすべきことなんですか?」

 

 ひどく冷たい声が出る。フィオネは泣きそうな顔でミアを見つめていた。それを見ても、ミアは彼女に同情することができなかった。

 

「……それに。あの人の最期は、私だけのものです」

 

 死なせてしまった罪も、彼女が最期にかけてきた言葉も、全てはミアだけのものである。生きている間、ロレナはきっと他の巫女に、ミアの知らない顔をいくつも見せてきたのだろう。だから、あの時のことだけは、ミアしか知らない顔として心の中にしまっておきたかった。そこにだけは、誰にも踏み込ませない。

 

「話がそれだけなら、もう行きますね。仕事がありますから」

 

 ミアは一人で巫女と術者を兼任している。ロレナから受けた愛を自分の心に再現することで、擬似的な愛の力を生み出し、それによって魔物を倒しているのだ。ミアはあれから、さらに強くなった。

 

 風魔法や治癒魔法を覚え、ロレナのように戦えるようになった。どれだけ傷ついても死ぬまでは止まらなくなったし、大抵の魔物は敵にすらならない。

 

 だが、ミアは全ての魔物を滅ぼすまで止まらない。ロレナを死なせてしまったのはミアの責任だが、それでも、魔物が憎かった。ミアは魔物を絶滅させるためなら、何でもするつもりである。

 

 人がいる限り魔物がいなくならないのなら、人類を滅ぼすつもりである。そして、憎しみに支配された自分を最後に殺し、永遠に魔物が生まれない世界を造り上げるのだ。それがミアの贖罪である。

 

 ミアは踵を返して廊下を歩きながら、フィオネを一瞥した。いつか、彼女のことも殺すことになるのかもしれない、と思う。

 

 だが、どうでもいいことだ。全ては魔物を消滅させるためである。そのために必要なら、自分も他人も殺すだけだ。

 ロレナがいなくなり、自殺する巫女の数は以前とは比べ物にならないほどに増えている。ロレナが守ろうとした人たちなのだから、助けるべきかとは思うだが、ミアはもう彼女たちに何の情も持てなかった。今は魔物を消し去ること以外考えられない。考えたくない。それだけである。

 

 

——

 

 

「フィオネ。……どうだ?」

 

 部屋で手帳に情報を記していると、ヘクターに声をかけられる。フィオネは顔を上げて、そっと手帳のページを手で隠した。

 

「……ん、大体書き終わったよ」

「……そうか」

 

 彼はフィオネの隣に座り、気遣わしげな表情を浮かべた。フィオネはロレナの情報を手帳に記していた。この手帳は、グレイヴの仕事用のものである。この学園で今まで死んでいった巫女の情報が全て手帳に残されている。ここから提出用の資料を作る必要があるのだが、そうする気にはなれなかった。

 

「私、ロレナの名前だけは、ここに書きたくなかった」

「ああ」

「もし……。もし、私が体調を崩してなかったら、ロレナは……」

「やめろ、フィオネ。それ以上考えても、辛いだけだ」

 

 ヘクターはそう言って、フィオネの肩に手を置いた。フィオネも、こんなことを考えても仕方がないとわかってはいる。だが、彼女が死んだ一因がフィオネにもある以上、考えずにはいられないのだ。

 

「わかってるよ、そんなの……。でも、私は……」

 

 手帳に書かれた文字が、滲む。そこでフィオネは自分が泣いていることに気がついた。必死に手で拭うが、涙が止まる気配はない。ロレナが死んだと聞いた時、フィオネは泣けなかった。彼女が死んだという実感が湧かなかったためである。

 

 しかし、こうして情報を整理し、もう二度と会えない彼女に想いを馳せていると、本当に彼女は死んだのだという実感がふつふつと湧いてくる。フィオネは胸に大穴が空いているような感じがした。

 

 ロレナがいなくなっても、世界は続く。だが、フィオネの中にある世界は、終わりが訪れているようだった。生きるのに必要な何かが足りていない。まるで、酸素を失っているかのように、フィオネの心は苦しくなっていた。

 

「ごめんね、ヘクター」

「何の謝罪だ、それは」

 

 ヘクターは強くフィオネの両肩を掴む。

 

「悩んでいるのなら、俺に全部話してくれ。絶対に力になるから」

「無理だよ」

 

 涙で視界が歪んでいる。声を出すのが辛い。いや、呼吸をすることすら、辛くて苦しいことに思えて仕方がなかった。

 

「だって、ヘクターは好きな人を失ったことなんてないでしょ?」

 

 歪んだ視界の中で、ヘクターが悲しそうな顔をしているような気がした。彼の手からは徐々に力が抜けていっている。

 

「フィオネ……」

「……ごめん。こんなこと言ったって、仕方ないのに」

「いや、いい。事実だ。……それに、お前の心が少しでも軽くなるのなら、いくらでも言ってくれて構わない」

 

 ヘクターの優しさが痛い。もう、優しくされるのは嫌だった。誰かを好きになったら、その人を失った時に苦しくなる。愛が深ければ深いほど、失うことが怖くなる。だからもう、フィオネは誰も愛せそうになかった。

 

 もはや、フィオネは巫女として戦えない。ヘクターを愛することができない。死んだロレナのことが忘れられない。希望を失ったフィオネは、普通に生きることもできないのだ。それに、学園からは巫女として戦うことを期待されている以上、どうにもならない。

 

 フィオネはふっと笑って、ヘクターの手に自分の手を重ねた。ずっと一緒にいて、彼のことを見てきたはずだ。そのはずなのに、彼の手が自分より遥かに大きくなっていることに、フィオネは今更気がついた。

 

 ヘクターは大切な家族だ。そんな彼を傷つけることに、罪悪感はある。だが、希望がなくなってしまったフィオネは、もう生きられない。

 

「ヘクター。ちょっと外に出ててくれないかな」

「……わかった。落ち着いたら、食事にでも行こう。いい店、知ってるんだ」

「……うん」

 

 嘘をついた。そのせいで、胸が痛くなる。ヘクターが出て行った後、フィオネは手帳に目を向けた。開かれた手帳の右側のページには、ロレナの情報が書かれている。そして、左側のページには、フィオネのことが書かれていた。

 

「えへへ……」

 

 それを見て、フィオネは笑った。生きて一緒にいることは叶わなかった。パートナーではないから、一緒に死ぬことも叶わなかった。だから、せめてこのような形で彼女と一緒にいたかったのだ。死した後どこにいくのかはわからないが、少なくともこのページの中では、フィオネとロレナはいつも一緒である。

 

 フィオネたちの資料を提出するのは、ヘクターに任せよう。彼ならばきっと、フィオネの遺志を尊重してくれるだろう。

 

 フィオネは手帳を閉じて、手の中に雷の刃を作り出した。それを首に押し当て、一気に引く。鮮血が迸った。革の表紙の上に、血が滴り落ちる。このまま放置していれば、ロレナのところに行けるだろう。

 

 フィオネは目を瞑った。意識が遠くなり、体の感覚が薄れていくのを感じる。フィオネは手帳に手を置いた。そこからは何の熱も感じられないが、そうしていると、ロレナの体温を思い出す。

 死んだ後の世界では、また彼女の熱を感じられるようになればいいな。フィオネはそう思いながら、意識を手放した。

 

 

——

 

 

「聞かせてください、ローレンスさん。巫女の秘密を」

 

 ローレンスの宿に訪れたラインは、静かな声でそう言った。アリアはラインとローレンスを交互に見た。ローレンスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。

 

「……やはり、こうなったか」

「やはりって、どういうことですか?」

 

 アリアが尋ねても、返事がない。その代わりに、彼はアリアとラインに目を向けた。

 

「巫女について知ったところで、失われたものが元に戻るわけではない。わかっているか?」

 

 アリアは小さく息をついた。

 

「わかっているからこそ、こうして聞きに来たんです。その先に何が待ってるとしても、私は巫女について知らないといけないんです!」

「なぜ、そこまで……」

「ロレナさんのことが好きだった……ううん、今でも大好きだからです」

 

 アリアは真っ直ぐにローレンスを見つめた。ロレナが死んだことを受け入れるには、一ヶ月以上の時間が必要だった。今も彼女の死を乗り越えられているわけではないが、受け入れなければならないとは思っている。

 

 そして、ただ受け入れるだけでは駄目なのだ。彼女が死んだのは魔物のせいのはずだが、それだけではないような気がした。巫女の秘密が、彼女の死に何か関わっているように思えてならないのだ。

 それを知らないままでは、納得できない。好きな人の死をただの不幸で済ませられるほど、アリアは潔くなかった。

 ラインもまた彼女のことを知りたがっている様子だったので、今日はここについてきてもらったのだ。

 

「……誰にも言わないと、約束できるか」

 

 アリアたちは頷いた。

 

「いいだろう。なら、知るといい。……これは、エールが死んだ後に知ったことだ」

 

 そう前置きして、彼は巫女の秘密について話し出した。巫女は術者から痛みを与えられ、愛を絞り取られているのだということ。それが原因で、巫女の多くが自殺していること。そして、痛みで動けず、魔物に殺される巫女が数多くいること。

 

 エールはどうやら、巫女だったらしい。彼女が唐突に死んだことを疑問に思ったローレンスは巫女について徹底的に調べ上げ、ついに事実を知った、とのことである。巫女と術者はこの国の支柱といえる存在であるため、この秘密は絶対に秘匿されていなければならないらしく、秘密を知ったと関係者に悟られたらただでは済まない、と彼は言った。

 

 痛みが愛だと彼が言い出したのは、秘密を知ったのが原因だったのだろう。彼は自分が巫女であるエールに痛みを与えていたことや、それによって彼女が死んだことを受け入れられなかったのだ。

 

「……これが俺の知っている全てだ。お前たちは秘密を知った。これからどうするつもりだ?」

 

 アリアは立ち上がった。

 

「どうするもこうするも、ないです。……巫女の苦しみを、どうにかします。それを、ロレナさんも望んでいるはずだから」

 

 現実逃避をしている暇はない。ロレナを変えられなかったアリアには、彼女のために何かをする権利がないのかもしれない。だが、それでも、何もせずにはいられないのだ。アリアが死ぬ日がきたら、その時は、ロレナに会って謝るべきだろう。

 

「僕も、協力します。こんな世界は、変えないといけない」

 

 ラインはそう言って、アリアの隣に並ぶ。

 

「そうか。……死なないように」

「わかってます。この命は、ロレナさんにいただいたものですから。……ロレナさんが望んでくれた以上、私はこの命を無駄にはしません」

 

 ロレナがいなければ、アリアはもうこの世にはいなかった。だから彼女のために、できることをするべきなのだ。

 そうでなければ、許されない。

 

 彼女に救われたのに、何も返せずに終わるなんて、許されるべきではない。だから、アリアは進み続けるべきである。

 

 そう思いながら、アリアはローレンスの部屋を後にした。これから具体的に何をするべきなのかはわからない。だが、今は足を動かしていないと、どうにかなってしまいそうだった。足を止めた瞬間、きっとアリアは耐えられなくなる。

 ロレナともう二度と、触れ合えないのだということに。

 

 

 

 

 アリアが三年生になった時、王都が魔物によって襲撃された。襲ってきた魔物の軍を見た時、アリアは絶句した。その中に、ロレナたちが倒したはずのメテウスがいたためである。

 

「やっほー。人類の皆さん。慎重に協議を進めた結果、世界を滅ぼすことになりましたー。ぱちぱちぱちー」

 

 気の抜けた声で、メテウスが言う。王都を埋め尽くさんばかりの魔物が、鬨の声を上げていた。あれからアリアたちは巫女のケアを行ってきたが、それでも、この数の魔物と戦えるほど巫女は多くない。

 

 やはり、ロレナの死が致命的だったらしく、王都立学園の巫女たちは戦意を失ってしまっていた。他の学園から巫女を呼ぼうにも、どこも人手不足であり、どうにもならなかった。

 

 できる限りのことはしてきたつもりだった。しかし、それでも足りなかったのだろう。

 だから王都は、蹂躙された。逃げ惑う人々は魔物によって殺されていき、抵抗していた巫女と術者たちも、徐々に押されていった。アリアは人々の避難を手伝っていたが、恐らく、生き残る者はほとんどいないだろうと確信していた。

 

「ミア様は何をしているんだ!」

 

 逃げながら、誰かが叫ぶ。ロレナの術者だったミアは、今や一人で大群を消滅させるほど強い巫女兼術者に成長していた。王都では、彼女は人類の希望と呼ばれていた。彼女は今王都にいるはずだが、姿を現していない。

 

 その時、門から逃げようとしていた人々が吹き飛ぶ。それは、強力な風によって引き起こされているらしい。吹き飛んだ人々はそのまま風によって全身をずたずたに引き裂かれ、地面に転がった。

 

 血のにおいが辺りに充満する。ざわめいていた人々が、にわかに黙り込む。アリアは門に立つ人の姿を見て、ああ、そうか、と思った。

 

 そこには見覚えのある人物が立っていた。

 赤黒いリボンによって長い銀色の髪を二つ結った、凛々しい顔の少女。血のような瞳には、狂気が滲んでいる。それは、ミア・レックスだった。彼女は今、かつてアリアを傷つけていたローレンスと同じ顔をしている。

 

「な、なんで……」

 

 誰かが声を上げる。どうやら、人々は当惑しているらしい。人類の最大の希望であるはずのミアが人を襲った理由が分からないのだろう。アリアは彼女がなぜ人を攻撃したのか、痛いほどよくわかった。

 

「皆さん! ここは駄目です! 別の出口から——」

 

 アリアは声を張り上げたが、その前に、光線によって人々の姿が消滅する。まるで魔物のように跡形もなく、一瞬でほとんどの人が消されてしまった。アリアは背中に汗が滲むのを感じた。

 

「久しぶりだね、アリアちゃん。私のこと、覚えてるかな?」

 

 彼女はかつてと変わらない声色で言う。光を失った瞳が、無感動にアリアを映している。彼女にとって、アリアは虫よりも価値がない存在なのだ。それは、瞳を見るだけでわかる。

 

「こんなことしても、ロレナさんは戻ってこないですよ」

 

 アリアは静かな声で言った。恐らく、アリアはここで殺されるだろう。だが、それならば、できる限り時間稼ぎをするべきだろう。ミアを引きつけておけば、他の人が逃げる時間くらいは作れるはずである。

 

 アリアは恐怖が背中を這い上がってくるのを感じた。死ぬのが怖い。ロレナが隣にいた頃は、死ぬのも怖くなかった。だが、一人で死と向き合うのは、息が止まってしまうほどに怖かった。

 

「わかってるよ。何回も何回も、考えた。どうすればロレナさんにもう一度会えるか。どうすれば、ロレナさんに褒められるか」

 

 彼女はリボンを触りながら言う。

 

「でも、分からないんだ。だって、ロレナさんはもう死んでるから。声をかけてくれない。何も教えてくれない。……顔も、声も、もう思い出せない」

 

 擦り切れている。そう、思った。アリアは今でも、ロレナの声も顔も、鮮明に思い出すことができている。だが、彼女の心は壊れてしまい、全てを忘れてしまったのだろう。彼女に残っているのは、身を焦がすような復讐心だけなのだ。

 

「だけど、一つ。ロレナさんのために、できることがある」

 

 僅かに残っていた人々を光線で消滅させ、ミアは笑った。だが、その瞳は一切笑っていない。

 

「それは、全てを消すことだよ。ロレナさんを傷つける原因になったものは、全部壊す。全部消す。そうすれば、ロレナさんは……」

「喜ぶわけ、ないじゃないですか」

 

 アリアは血が出るほど強く拳を握りしめた。

 

「何で、ロレナさんのそばにずっといたあなたが、ロレナさんが一番喜ばないことをしているんですか! 誰よりもロレナさんを知ってるはずなのに!」

 

 今更彼女を糾弾しても仕方がないとわかっている。それでも、アリアは思わず叫んでいた。ミアが個人的な復讐のために誰かを傷つけるのは、まだわかる。だが、それをロレナのためと言うのは許せなかった。

 

「ロレナさんは、誰かを傷つけることを望むような人じゃありませんでした。なのに、一番大事にされていたあなたがこれじゃ、ロレナさんがかわいそうです……」

 

 アリアは涙が滲むのを感じた。巫女たちを手助けする活動の中で、アリアは強くなった。だが、今のミアに抵抗することは叶わない。アリアは大きく手を広げ、かつてのロレナのように胸を張ってみせた。

 

「殺すなら、殺してください。あなたの手で、あなたの意志で、あなたのためだけに」

 

 震える声で、アリアは言った。ミアの瞳からは、憎悪が溢れ出しそうになっているようだった。

 

「いいよ。そこまで言うなら、殺してあげる」

 

 ミアはそう言って、アリアに向かって光線を放った。アリアは光線をじっと見続けた。最後の最後まで、目を逸らしてはならない。

 

 そう思っていると、光線が逸れる。少し遅れて、アリアの前に二人の男が現れた。一人はフィオネ・グレイヴの元パートナーであるヘクター・グレイヴ。そしてもう一人は、ロレナの兄であるランドルフ・ウィンドミルだった。

 

「大丈夫かい?」

 

 ランドルフはアリアの方を見て言った。ロレナが死んだ後、彼とは何度か関わる機会があった。だが、彼のこんな顔を見るのは初めてだった。

 彼は顔に怒りを滲ませていた。その怒りは、ミアに向いているらしい。

 

「ミア・レックス。お前は何をしているんだ?」

 

 ヘクターが言う。

 

「……復讐ですよ」

 

 ミアは小さな声で言った。

 

「そう、そうです。最初から、ロレナさんのためじゃなかった。全部、全部私のため。ロレナさんを殺した魔物も、それを生み出した人間も……守れなかった私も、全部憎い。だから全て壊すんですよ」

 

 そう言って、ミアは光線を走らせた。ランドルフは風魔法によって、アリアを遠くに運ぶ。ミアたちの姿が遠ざかり、見えなくなった。それと同時に、辺りに轟音が響いた。彼らの戦いが始まったらしい。

 

 手伝うことはできない。アリアがいても邪魔なだけだろう。アリアは泣きそうになるのを抑えて、走り出した。生き残りの人々を避難させなければならない。そう思い、風魔法で辺りの音を集める。

 

 だが、聞こえるのは魔物の唸り声ばかりである。まさか、皆殺されてしまったのだろうか。

 アリアは立ち尽くした。襲いかかってきた魔物を何匹か倒すが、焼け石に水である。ミアたちが戦う音が、次第に少なくなっていく。数分経った後、完全に戦闘音が止む。アリアは目を瞑った。どちらが勝ったのかは分からなかったが、誰かがアリアの方に向かってきているのは確かだった。

 目を開ける。そこに立っていたのは、一人の人物だった。

 

「……二人は」

「殺したよ」

 

 ミア・レックスは平然とそう言った。随分と変わってしまったな、と思う。最初に会った時も、確かに、少し怖そうな人だと思った記憶がある。だが、ここまで冷酷で狂った人間ではなかった。恐らく、父と同じように愛する者の死によって壊れてしまったのだろう。

 父とは異なり彼女には全てを終わらせる力がある。それは恐ろしいことだった。

 

「ありがとう、アリアちゃん。あなたのおかげで、私は自分の気持ちを思い出した。私がこんなことをしても、ロレナさんは喜ばない。褒めてもくれない。……だから」

 

 光線が走る。アリアは意識が闇に沈むのを感じた。

 

「私が死んだら、ロレナさんに裁いてもらうよ」

 

 最後に聞こえたその声は、ひどく寂しげなものだった。

 

 

——

 

 

 全てが終わった。

 人類を滅ぼし、魔物を滅ぼし、世界に残るのはミアだけになった。

 隣にロレナの姿はない。

 あれから何年経っただろう。ミアは誰よりも強くなった。全てを灰燼に帰す力を手に入れたのだ。だが、きっと未だに、誰かを守る力はないのだろう。求めていたものだけが手に入らない。復讐に手を染めた人間など、そういうものなのだろう。

 

 昔、ロレナと二人きりの世界になったらどうするか話したことを思い出す。あの頃は、彼女のことをもっと知りたかった。彼女が隣にいてくれれば、二人きりの世界でなくても構わなかったのだ。

 

 だが、全ては遠い昔の話である。

 ミアは草の上に寝転がった。優しい風が、ロレナを思い出させてくれそうな気がした。しかし、彼女のことはもう、ほとんど思い出せなくなっていた。

 

 どうすれば良かったのか、ミアには分からなかった。ロレナならどうしただろうか。今のミアと同じ立場だったら、彼女はどんな行動をとっていただろう。

 

 そう考えて、ミアは笑った。

 決まっているではないか。彼女は愛するものが死んでも、変わらずに他者を助け続けただろう。間違っても憎しみに支配されることはなかったはずだ。

 

「ロレナさん、会いたいです」

 

 そう言って、ミアは自分に死の魔法をかけた。これはミアの開発した魔法の一つだった。これを受けた者は、二十四時間以内に死ぬ。だが、死ぬ時間はランダムである。

 

「レックスさん」

 

 聞き覚えのある男の声だった。幻聴のはずはない。だが、この世界に人が残っているはずもないのだ。ミアの探知魔法に引っかからない人間など、いないのだから。しかし、目の前には、確かに知り合いの男が立っていた。

 

「ルイス、先生……」

 

 彼は相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべながらミアを見ている。

 

「久しぶりですね。少し、大きくなりましたか。おっと、攻撃はしないでくださいね。無駄な魔法は使いたくありませんから」

 

 ミアはその言葉を無視して、彼に向かって光線を放つ。しかし、光線は彼に触れる直前で消滅してしまう。

 

「おやおや、血気盛んなご様子で」

「どうして……」

「ずっと別の世界にいたのですが、ふと気になって帰ってきたんですよ」

 

 彼はそう言って、辺りを見渡した。

 

「随分と自然豊かになりましたね、この世界は。温暖化とは無縁そうだ」

 

 彼が何を言っているのか、ミアにはよく分からなかった。

 

「いやはや、それにしても君がこんなことをするとは。可能性の未来は、やはり無限と言えるのでしょうね」

 

 ひどく楽しげな声が、耳障りだった。だが、彼は殺せないと本能が告げていた。まさか、最後の最後でこんな障害が現れるとは。ミアは小さく息を吐いた。

 

「そうだ、君も一緒に来ますか? 今、僕たちは鎮魂歌を作っているのですが……」

「……お断りします」

「はは、振られてしまいましたか」

 

 生温かい風が、ミアたちの間を吹き抜ける。

 

「……鎮魂歌って、何ですか?」

「おや、気になりますか。ロレナへの鎮魂歌ですよ。とはいえ、歌と言うのは語弊があるかもしれませんが。気になるなら来てはどうですか?」

 

 彼は手を差し出してくる。ミアは今更、誰の手も取るつもりがなかった。ミアにはもう、死ぬ以外の道は残されていないのだから。

 

「あなたは、ロレナさんの何なんですか」

「主治医……いえ。友人、だったのでしょう。きっと」

 

 ラウロはそう言って、微かに笑った。関わった機会はそう多くないが、その表情は珍しいものに見えた。

 

「彼女が死んでから、退屈で仕方がないですよ。とはいえ、彼女は死にたがっていましたから、いつかはこうなるのも必然だったのでしょう」

「……は?」

 

 聞き捨てならない言葉が聞こえた。ミアは上体を起こし、彼を見つめた。

 

「ああ、知らなかったんですか。彼女は、ずっと死にたがっていたんですよ。学園に入学したときから。もしかすると、もっと前からなのかもしれませんが」

 

 知らなかった。気付かなった。誰よりも好きだったのに、誰よりも彼女のことをよく知っていると思っていたのに。ミアはロレナがまだ生きていた頃のことを思い出した。確かに、彼女は人と距離を置こうとしていたような気がする。それは、彼女が死にたがっていたためなのか。

 

「なんで……?」

「偶然が怖いから、だそうです。事故死したら、幸せを奪われる。ならば最初から幸せでなければいい。偶然によって命を奪われるくらいなら、自分で命を終わらせたい。それが……それだけが彼女の望みでした」

 

 ラウロはそう言って笑った。その瞳には、理解できないほど複雑な感情が絡み合っている。

 

「……あ」

 

 ミアは最初から、何もできていなかったのか。

 彼女を幸せにすることができなかった。死にたがっていることにも気付かず、能天気に彼女と接し続けていた。彼女と自分の間にズレがあるのをわかっていたのに、何もできなかった。彼女はミアにたくさんのものをくれたのに、ミアは彼女に何もあげられなかった。

 

 愛にヒビが入っていくのを感じる。ミアは自分が誰であるのか分からなくなっていった。ミアの愛は、ひどく弱い。愛した人のことを何も知らず、愛した人に対して何もできず、彼女が死んだ後も自分のためだけに動き続けた。結果、ミアには何も残っていない。

 

「恥じることはありませんよ。彼女は自らの望みを誰にも伝えぬまま死ぬつもりだったのですから。……ですが、残念ですね」

 

 何が、と言う間も無く、彼は言葉の続きを口にした。

 

「ロレナは君の中に希望を見出していました。君がいれば、自分が死んでも大丈夫だと、そう思っている様子でしたが……」

 

 心が壊れる音が聞こえた。

 彼女は、ずっとミアを信じてくれていたのか。ミアはそれを裏切り、全てを壊してしまった。彼女を守れなかっただけでなく、その心に気付かず、期待にも応えられなかった自分は、一体何だったのだろう。

 

「う……あ……」

「とはいえ、全ては君の選択です。ロレナにも、僕にも、文句を言う権利はないのでしょう」

 

 ラウロはそう言って、何らかの魔法を使う。彼の前の空間が歪み、全く別の場所の景色が浮かび上がった。そこには、灰色の大地が広がっている。嗅いだことのないにおいが漂った。

 

「本当に、来なくていいんですね?」

 

 ミアは何も言えなかった。

 

「……そうですか。では、いつかまた、会いましょう。次会うときの君は、君でないのかもしれませんが」

 

 そう言って、ラウロは歪んだ空間の向こうに消えていく。その瞬間、心臓が跳ねる。どうやら、死の魔法の効果が出てきたらしい。

 

 結局、何も得ることなく終わってしまった。

 どこで間違えたのだろう、と思う。

 しかし、考えるのも嫌になって、ミアは目を瞑った。もし別の人間に生まれ変わるようなことがあれば、今度は選択を間違えない自分になりたい。そう思いながら、命が終わるのを待った。

 




1章はこれで終了です。
次回の更新は書き溜めがある程度できてからになります。


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