その日は等しく誰かにとって特別な一日だった、それは特に
"日本ウマ娘トレーニングセンター学園"
通称「トレセン学園」で、様々な運命と彼女達の人生が交錯し合い変化していく瞬間でもあった。
ウマ娘__彼女達は栄光と己の野心とを誰に阻まれる訳でもなく、また汚される訳でもなく、自分を最大限主張する場所が与えられている、それは競争、それは可憐、それは挫折....苦悩
人は彼女達に追い縋る事しか出来ない、それを人は助け、応援等と言い
それを正当化しているのだ、その脆さには、誰も目も向けられないが.......
時に雄壮、時に数奇な彼女達の運命は、選ばれた者の意思で多彩な色彩を放つ
それはウマ娘も人も心を持ち、感情と言うスープが入った鍋をよく沸かす生き物であるからか
人間がどんなに卑しく、自己の幸福しか求めない生き物だとしても
一つだけ純粋に求め続ける物がある、それは自分には持ち得ないほどの「純粋な気持ち」だろう
だから人はその刻、その一瞬の表情に宿る物に、魅了され続けるのだろう....
それは人が"英雄"を作り出し、栄光と称賛を送る姿に似ている
星のように瞬くウマ娘達の、少し特殊な運命と可能性が見れるだろう
それは誰もが望む訳ではないが...誰かにとっては希望や幸福になるのだろうか
この物語に、曽て英雄として、数々の栄光と期待を、そして歴史を揺らし望まずその称号を背負ってしまった男がいる、「ヤン・ウェンリー」
彼の時は永遠に停止した筈であった....が彼の生命時計は停止せず、少しずつ朽ちていく
これは誰も知らない、歴史の一片である
____良く晴れた日だった
陽は可もなく不可もなく、当たった物全てに窯から出したパンのような柔らかな熱を送っている
どの生物にも、植物に、道路に、そして彼等にも
「まいったな...あぁこんなに随分出遅れてしまって、これじゃ始まってしまったかな」
普段ならば、こんな通りを駆け足でいるとウマ娘の一人や二人に
「ヤン先生どうしたの!?」
「先生またたずなさんに怒られちゃうんですか~?」
なんて驚かれて、気かけの一言でも飛んでくる筈の時間であるが、今日のトレセン学園はその敷地の
殆んどが、まるで住人に夜逃げされてしまった住宅のような静寂さと
自然が発生させる繊細な演奏で、その威光を示しているようだった
「大体選抜レースとやらが明日なのに、軽い模試をさせるのが効率を悪くさせるんだ
これじゃ"文武両道"なんて都合の良いこと言えないさ、私自身"歴軍二股"だったからな」
一回巻いたっきり今日まで巻き直す事のなかった小豆色のネクタイをほどき、不器用に編直しながら
彼は少しばかり急いで向かわなければいけけないのだ、既に挽回できぬほどの遅れからのスタートだが......
__ウマ娘達の選抜レース! それはトレセン学園に潜む大人達ならば誰もが目を細め、また光らせている特別な行事である
分かりやすく言うならば、網を構えた漁師達が魚群に紛れて泳ぐ人魚を狙うようなもので
ウマ娘達の伸び代を探り、トレーナーとしての器量を以て、彼女達をスカウトするのだ
トレーナー達はその一瞬機会を逃すまいと、早くから園内のトレーニング場兼の模擬レース場に急ぎ
好機を待っている、が彼だけが前日にあった担当の教科での模擬試験の採点に追われ、快眠からの覚醒を数度延期した後、慌てて閑散としたトレセンの中を急いでいるのだ
「やっと採点から解放されたと思ったらこれだ、これならよっぽど軍の方が良かったかな、まぁどっちもどっちだろうか...」
それも崩れかけのYシャツとズボンで、寝癖の髪を直さず、また直す事もできずに
異常にかけられるのを拒む首元の第一ボタンに気を取られて、大きな耳を付けた茶色い毛糸玉のような物がすくみ、道の真ん中で弱々しく足を進ませている事に至近になるまで気付かなかった
「うぅ..ぁ.イス...どうしたら...いの?」
「しまった」
彼の反射神経はこの前後の行動でかなり鈍感になっており、それがウマ娘だと認識しても避ける指示など出せず、ただ転倒する瞬間にやっと受け身を指示することに成功したと言う体たらくであった
「ふえっ!?ひやぁぁ」
対して被害者となってしまったウマ娘は備わっている本能が一瞬発現し、プディングを掬い取るように
滑らかに彼との巻き込み事故を回避したのだった
「...本当にすまない、君 怪我は、どこかぶつけてないかい?擦りむいたり、打ったり」
突然の事だったが、冷静に謝辞の述べて、大人としての責務を何とか一心に果たそうとしている若く青鹿毛色の髪をした教師の姿が、幼さを残す黒鹿毛のウマ娘の眼前に映った
「あっその、ライスちゃんと避けれましたよ、ほらっ全然平気です」
事実をひらいた手のひらと一緒に教える、その教師は少し安堵したように見えて、黒鹿毛のウマ娘も
不器用な教師もひとまず心に伸びていた不安と恐怖が払底されたようだった
「所で、君はどうして残ってたんだい?私もだが、もう大分出遅れているよ...いや人の事は言えないな、まったく」
今までウマ娘達を一度も見かけなかったので、自分一人が本当に取り残されてしまったと思っていたが
一人ぽつんと佇む彼女を疑問に思ったのだ
「あのっ、その、ら、ライス....は、えっと、その...」
質問に納得したように見えたウマ娘だが、まるで口にガムを含んでいるように言葉が絡まり
返事をする事もままならなくなってしまった
「その..ごめんなさい...あの、ライス...ぅぅ」
「ライスのせい、で...ライスのせいで......」
耳もおじぎ草のように力なくしおれ、ベーグル犬のように垂れている、ここに他の人物がいたらほぼ確実に存在しない罪が生まれ、認める事になるだろう
「いや、君が謝らなくていいんだ、さっきの非は間違いなく私にあるし、勝手にこっちが急ぎ足でこけただけだからね 」
彼の主張は変わらない、それは事実で彼女は擦りむき一つなく、教師の方も多少服に汚れが付いただけだった
「でも....ライスの周りにいると、みんな不幸になっちゃうの...」
黒鹿毛のウマ娘も主張は変えない、それは彼の身を案じての事と、今まで不幸を重ねているからであってその再燃した不安と恐怖を纏った返事は、誰が聞いても考え過ぎと思うだろう
「いや、君の近くにいなくても、今日は運が悪いんだ、小悪魔に悪趣味なイタズラをされててね、朝は寝過ごすわ目覚まし時計も壊れるわ、まぁ寝坊はいつもの事なんだがね...」
「えっ」
「だから大丈夫さ、君と会ったんだからこれ以上は小悪魔も可愛らしい天使を巻き込まない為に、イタズラをやめるだろうね、きっと」
「そっ、そうかな?」
「あぁ、きっと」
その穏やかで冗談の混じった説得に彼女は安心した
「ところで、君の名前は?さっきから名詞抜きで話してしまったね」
この質問には単なる興味とこの一人のウマ娘を心配する気持ちが籠っていたが、先に自分を紹介するべきと考え直して、自己紹介に移行した
「あぁすまない、先に名乗っておくべきだったね」
「私はヤン・ウェンリーと言ってね、まぁでここで日本史と世界史の先生をやらせてもらってる"新人トレーナー"って所だ、好きに呼んでくれるとこっちもありがたい」
「は、はいっ"ヤン先生"!」
思わず"先生"が付いてしまったのはヤンの穏やかな表情と風貌が他のトレーナー達と違い、体にうっすら透けてきる己のポリシーのような物が見えなかった、強いて言うなら「優しそうな社会の先生」と言う印象が、くたびれたシャツの襟に寄生しているトレーナーバッチを見ても崩れなかったのだ
「あのっ、ライスシャワーっていいます、高等部ですっ」
その緊張が過多に点滴されたライスの自己紹介に、ヤンは、凍結していた記憶が少し解凍された
(そうだ、ユリアンも初めの頃はこんな風に幼くて、少し緊張の糸が解けなかったかな)
「あの、ヤン先生?、これからどうしよう..選抜レース、終わっちゃったかな?」
「あぁ、そうだった、ひとまずコースまで走らないとだなぁ」
「うん」
ライスシャワーが小さく頷く
「急ごう、早く着けばその分小言の時間が減るだろうからね」
よりによって叱られる事を前提として状態を進めるのが、ヤンと言う男の悪い所である
二人は走り出す、もっともライスシャワーとヤンの速度はどんどんと比例から反比例に変わっていくが
その加速する空間の中でヤンは思い出した
(あの時私はどんなことをしても、もう少しは生き長らえてみるんだった、もうユリアン達に詫びようにも、ここは同盟や帝国とも全く違う、恐らく遠い過去の人類社会の中に私はいるのだろう)
「...(だが、ウマ娘なんて、私のジョークにも登場しない女の子達がいるのは、流石に想定外だったね、これは夢なのだろうか?いや、私には少女趣味はないし、どっぷりこの時代の歴史を学べるんだ、地獄だったらこうはいかないだろう、寧ろ天国だ)」
「まぁ、微力を尽くすか、地獄から呼び鈴がなるまで、ね」
米粒のように小さくなるライスシャワーの後を見つめながら、ヤンウェンリーは、それだけを呟いた
...nextepisode
さて、すっかりトレセンに落ち着いてしまっているヤン提督、どうなってしまうのか...
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