魔人さんと無欲少女 (ほやしろ)
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#1 無欲少女の日常

 将来のために授業を受け、将来のためにバイトをする。

 2年目の高校生活も半分以上が過ぎ、来年もそういうルーティンで高校を終えるものだと、青柳咲(あおやぎさき)は思っていた。

 

 

 HR終了後の放課後。

 スマホで明日の時間割を確認しながら、咲は鞄と机の教科書を整理していた。

 

「咲帰ろー!」

 

 彼女の友人である美由(みゆ)が明朗快活な様子でやって来る。

 咲は肩をすくめてそちらに顔を向けた。

 

「ごめん。今日もバイト入ってるから一緒に帰れないよ、って、朝言わなかったっけ?」

「えー‼︎」

 

 きいてない! と小さな子供が駄々をこねるように、美由は自分の鞄をぽこぽこ叩いて続ける。

 

「咲毎日バイトいってない⁉︎ 過労でたおれちゃうよ⁉︎」

「今週はたまたまね。普段はちゃんと休んでるし問題ないよ」

「ううーん……たしかに咲が風邪引いたり学校休んだとか聞いたことないけどさ」

 

 天井に頭ごと視線を向けて考える仕草をする美由に、咲は「でしょ?」と返す。美由は咲に向き直ったかと思うと急に真面目な顔をした。

 

「な、何?」

「学生の本分は! 遊びだよ!」

「いや勉強だよ」

 

 すかさず咲がつっこむと「あと恋愛も!」と美由は加える。

 

「恋愛……いやそれも本分とは違うからね」

 

 一瞬だけ眉をひそめたあと呆れたように返した咲に対し、美由はふふんと得意げな様子を見せた。

 

「私は知っている……先週B組男子に告られたことを! そしてフッたことを!」

「!」

 

 美由はそういう色恋に関してはやたら情報が早い。

 その現場を知られていたのかと思うと、咲は少し気恥ずかしくなった。

 

「言おうとは思ってたんだけど……話すタイミングが見つからなくて……ごめん」

「咲って見た目クールだけど本当ピュアだよね〜〜。

 素クールは真逆だしクーデレというにはまだ尚早……てゆかクール属性って他に派生あったっけ……?」と早口で呟く美由。意味はよく分からないが褒められている気は全くしない。

 

「…………」

「みゃー! ほっぺらひっぱららいで(ほっぺたひっぱらないで)!」

 

 美由の両頬を軽くつまみながら、咲は教室の時計をふと見上げた。針は丁度4時半を指している。

 咲は美由の頬から手を下ろして呟いた。

 

「そろそろ行かなきゃ」

「いたかった〜〜」

 

 涙目で両頬をさする美由に、咲はごめんごめん、と軽く謝ったあと鞄を手にした。

 

「それじゃ美由、また来週ね」

「月曜はいっしょに帰れる?」

「うん、大丈夫」

 

 そう頷くと、美由はにっこりとして元気を取り戻したようだった。バイト頑張ってねと、両手を小さく振る美由に手を振り返し、咲は教室を後にした。

 

 

 

 

 バイト先に向かいながら、咲は美由との会話を思い返していた。

 

 学生の本分。

 美由に言った手前、第一に勉強であることは否定しない。だが、彼女の言っていることもあながち間違いではないのだろう。

 高校生の内にできる遊びと社会人になってから遊ぶのとではおそらく全く違う内容になる。経験という意味では勉強以外にも触れるべきかもしれない……と、彼女は真面目に考えていた。

 

 咲は高校入学と同時に親元を離れ、単身五木(いつき)荘へと下宿している。家賃や生活費・高校の授業料を始め、さらには今後の進学費までも自分のアルバイト代から捻出しようとしていた。

 できるだけ堅実にそして勉学を怠らない程度に働いてきた結果、進学してもアルバイトを続ければ、計算上は短大へ行けるほどの額が貯まり、推薦も狙えるほどの成績を維持できるようになった。

 

 しかし人生何が起こるか分からない。

 咲は親に頼るつもりは毛頭なかったため、できる限り貯金をしようと、アルバイトと勉学に日々を費やしているのだった。

 

 

 

 

「ふう……金曜はやっぱり忙しいな……今日は22時まであっという間だったし……」

 

 近くの商店街にある"くろねこケーキ"という洋菓子店で、条例ギリギリの時間まで働いたあと。息を切らしていた咲は呼吸を整えてから五木荘の門をくぐった。

 

 五木荘は2階建てで、1階には大家である五木家が住んでいる。2階は6部屋あり、その内咲を含めた半分に借主たち——家族で住んでいる光野(ひかりの)家、それから咲の後輩である小日向(こひなた)ひょう太——が住む。

 

 玄関へと続く石畳の左横には、五木荘がもう一軒建てられそうなほどの広い庭がある。

 

 建物を囲むブロック塀の内側を、丸く整えたトピアリーがさらに点々と庭を囲んでいる。地面に植えた草はところどころ赤色を帯びているが、夏は一面が見事な緑色に覆われていた。そろそろ肥料をまき、雑草を摘むころかもしれない。

 

 また、中央のブロック塀寄りには池が設置されている。まわりに石を敷き詰め、真ん中に板を乗せて渡れるようにしてある。中には水草だけでなく鯉やメダカも生きている。

 みな寝静まっているので、今は池をろ過するポンプの音だけが、ぽこぽこと小気味良いリズムを刻んでいた。

 

 そういう程々に凝った庭なのでメンテナンスはやはりかかせない。五木家はほぼ毎日と言っていいほど庭掃除をしていて、咲も暇があれば手伝うようにしていた。

 

 どちらかというと朝型な咲だが、アルバイトの帰りに眺める夜の庭の雰囲気は好きだった。というのも、咲の部屋は庭の反対側に位置するため、部屋で過ごしている時はどうしたって庭を眺めることができないからだ。

 

 五木家のリビングへ通じるベランダの側には、"おこげ"と書かれたプレートが打ち付けられた小屋がある。かれらが飼っている犬のものだ。

 かれを起こさないよう、そして月明かりにほんのりと照らされた庭をじっくりと眺めるよう、咲は一歩一歩石畳を進んでいった。

 

 静かに扉を開け玄関に入ると、ちょうど大家が自宅へ戻ろうとするところだった。

 

「あら青柳さん、お帰りなさい」

 

 ふわりと優しい笑顔で出迎えられ、咲もつられて微笑みを浮かべこんばんはと挨拶した。

 

「毎日遅くまで働いているみたいだけれど、ちゃんと休みも取らないとだめですよ〜」

 

 彼女はひょう太と同じクラスの(あんず)と幼稚園に通う(ゆず)という2人の娘をもつ母親ということもあって、咲にとっても下宿先の母のような存在である。

 

「そうですね、この土日にゆっくり体を休めようと思います」

 

 似たような台詞を放課後に言われたこともあり、咲は苦笑して答えた。

 

 普段から口調や動作がおっとりとしている大家だが、彼女の言うことはなぜだか素直に聞き入れてしまう雰囲気がある(別に今まで命令されたわけでも理不尽なことを言われたわけでもないが)。

 

 それはおそらく、大家が非常に魅力的な体つきをしているせいもあるのだろう。

 淡いピンクのタートルネックを着ることが多い彼女。リブニットでぴっちりとしたシルエットが、豊満なバストと引き締まったくびれをいっそう強調させている。

 

 引っ越したばかりの時は、あまりに豊かな胸に目のやり場に困るほどドキドキしていた咲だったが、今では当たり前の光景ですっかり慣れていた。

 

 夜も遅いので部屋へ戻ろうとした咲に、大家が思い付いたような顔で両手を合わせた。

 

「そうだわ〜ちょっと待っててね」と言って自宅へするっと入っていったあと、フードコンテナを抱えて戻って来る。

 

「今日は煮物をいっぱい作ったの〜よかったら召し上がって」

「こんなにたくさん……良いんですか?」

「せっかくの休日ですもの、たまには(らく)しないとね」

 

 たまには、とにっこり笑っているが、大家は結構な頻度で手作りのおかずやお菓子をおすそ分けしてくれる。しかもどれも美味しい。

 

 もらってばかりでは悪いからと、咲は時々お菓子などを作って返すことがある。五木家や友人の美由ぐらいにしか振る舞ったことはないが、ありがたいことに好評を得ている。

 しかしその腕も実をいうとバイトでの経験が少々と、大半は大家に教えてもらった結果であり、ここでの生活はお世話になりっぱなしなのだ。

 

 彼女に丁寧にお礼を伝え別れたあと、咲は2階への階段を登っていった。

 自室へ続く薄明るい廊下を歩く途中、にぎやかな声がドアから漏れているのに気付いた。咲は立ち止まり、ふとそちらに目をやる。

 

 "202"と書かれた番号札の下に"小日向"という表札。

 咲と同じ善良高校に通う、後輩の部屋だ。彼もまた実家を離れて五木荘に下宿しているのだと大家から聞いたのを思い出す。

 

 しかし今年に入ってからだろうか。理由は知らないがある日を境に、この部屋は連日大騒ぎしているような気がする。

 とはいえ早く出て遅く帰ることの多い咲は、他の住人含めひょう太とは挨拶ぐらいしか交わしたことがない。学校で会っても会釈する程度の間柄である。

 特にうるさいとまでは思わないし、自分には関係ない——。

 と、どこか他人事のように、咲は扉から目線を外し自室へと帰っていった。

 

 次の日以降、ひょう太の部屋の騒がしい理由を知り、()()()との接点が今以上に増えることになろうとは、この時の咲には知る由もなかった。

 



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#2-1 無欲少女と魔法のランプ

 太陽が南中を越えてから数時間後。気温はその日の最高に達していた。

 しかしこのごろはやっと夏の名残から解放されたようで、窓から差し込む日差しがぽかぽかと心地良く部屋を照らす。

 

 五木(いつき)荘202号室、小日向(こひなた)ひょう太の部屋に、二人と一匹。本人は買い物に出かけていてこの場にはいない。

 だがかれらはそんなことはお構いなしに、それぞれが思い思いに過ごしていた。

 

 当たり前のように居座るかれらだが、ひょう太は同居人として認めていない。

 すべてうやむやの内にそうなってしまったことだ。

 追い出そうにも追い出せないのは、かれらが全員()()()()()()、魔界の住人だからであった。

 

 

 その内の一人——魔人——は、どこからか出現させた自前のリクライニングチェアで優雅に寝そべっていた。

 執事のような風貌にふさわしい、気品あるチェア。

 よくよく見ると角が生えていたり、ギョロリと動く大きな目玉がついていたりと不気味な装飾がされている。

 

 白い手袋をはめた手には、グラスをくゆらせるようにランプを持っていた。

 どこか古めかしい、ランプというよりは水差しに近い細長い形状。取っ手はなく、かわりに注ぎ口らしき突起が4ヶ所ある。

 そして中央に貼られた"封"の字の札。

 およそ本来の用途として使うものには見えない。

 

 このランプは魔界のとある宝物庫に保管されていた、何でも一つ願いを叶えることのできる貴重な道具であり——魔人はそこに封印されていた、いわゆるランプの精的存在である。

 

 今はひびが入り穴の空いてしまったそれを、魔人はおもむろに見つめていた。

 原因は一週間前。

 その時宝物庫を清掃していた悪魔——メムメム——によってランプを落とされ、壊れてしまったのだ。

 薄々わかってはいたが、初めに壊された時となんら変わった様子はない。

 

「ううむ…………」

 

 魔人は壊れたランプから、そして現実から目をそらすように両目を伏せた。

 というのも、ランプにキズが付いた場合、キズをつけた本人の魔力でしか直すことができない。

 また、彼自身の身体も魔力でもって構成されている。身体を顕界(げんかい)に維持したり魔術を使用するためには、原因であるメムメムの魔力が必要不可欠なのだ。

 けれども困ったことに、彼女のそれは魔界にただよう塵以下だったのだ。

 

 この一週間のあいだ、魔人はランプの修復のため、何度かメムメムに魔力を注入させたことがある。

 が、彼女にできたのは辛うじて——最低限の身体の維持と数回の魔術使用であった。

 ランプにも戻れず仕事も続けられないため、彼はやむを得ずひょう太の部屋に居候しているのだった。

 

 実は魔人はすでに、メムメムに一度喚び出され願いを叶えてやったことがある。

 "魔人"として幾星霜を過ごしてきた彼でも、メムメムと出会ってからは予想外の事態が起こるばかり。

 思うところがあってメムメムを非正規にマスターとしながら、魔人はどうしたものかと深いため息をついた。

 

 

 そんな魔人の心境もつゆ知らず。

 ランプをキズつけた加害者であり、そして最初にひょう太の部屋へ居候し始めた悪魔、メムメムはというと。

 のんきにキッチン下の棚へもぐり込んでいた。

 

 メムメムは元々ひょう太の魂を狩るためにやって来たサキュバスの類いである。

 しかし"エロいことが怖い"という本末転倒な弱点にポンコツな性格、本来のサキュバスとは大きな壁がある幼児体型が災いして、まともに仕事をしたことがない。

 ひょう太になつくようになってから、そのサボタージュ癖は加速していた。

 

「ふふ、隠したってあたしにはお見通しですよ……」

 

 誰に言うでもなく、メムメムは暗がりの中から未開封の袋たちを両手いっぱいに抱えて棚から這い出た。

 そしていそいそと袋の中身を確認する。

 

「中からこんなに……アメとチョコが……!」

 

 ひょう太がいない間、こうして様々な場所を漁っては、お菓子やらジュースやらを勝手に飲み食いする。

 それが彼女の日常だった。

 

 瞳をキラキラさせ、メムメムは慣れた手付きでお菓子の袋を開け始めた。

 

 

「中から?」

 

 その最中(さなか)、魔人がメムメムの台詞にぴくりと反応した。

 以前ランプの修復を試みた際、魔人はその表面に魔力を注がせていた。

 もしメムメムの魔力を変換しランプの中からも注入可能ならば。そのあいださえランプに戻れれば。

 ランプの構造を知っている自分の方が、多少なりキズを早く回復させられる可能性がある。

 

 だがそこには一つリスクがあった。

 ランプに戻っているあいだ封印を解かれれば、当然新しい主人の願いを叶えなければならない。

 はっきり言って彼は"魔人"という仕事に対し情熱や意欲などなく、それどころか倦厭(けんえん)しているほどだった。

 

 それでも万が一魔力が枯渇し、自分自身が朽ちてしまうより断然ましである。

 何よりこれまで不自由なく魔術を使用してきた彼にとって、この身体はめっちゃ不便であった。

 要はフタを開けられさえしなければ良いのだ。

 

「試す価値はあるか……」

 

 そう呟くが早いか魔人はすっくと立ち上がり、メムメムを見下ろした。

 視線に気付いたメムメムは魔人を見上げると、チョコレートを頬張った口を不満げに開けた。

 

「え、もしかして、食べたいんですか?」

「結構です。そんなことよりマスター、私はしばしランプの中に戻ります。

 その間ランプに触らぬよう、特にフタは——いえ、とにかく動かさないよう気をつけてください」

 

 メムメムは忙しなく口を動かしながら、オッケーオッケーと軽い調子で小さな丸を小さな指で作ってみせた。お菓子に夢中になっているのは見え見えだ。

 魔人はズイッと顔を近付け圧を加える。

 

「聞いていましたか? 触ってはダメで——」

「ハイッ」

「では、くれぐれも気をつけ——」

「ハイッ」

 

 

 食い気味に威勢よく返事を繰り返し、メムメムは魔人の姿がランプに吸い込まれるのを、背すじをシャキッと伸ばした状態で見送った。

 

「フュイ〜……何とか死守したか……」

 

 魔人の姿が完全に見えなくなったところで、メムメムは死地を脱したかのような顔で額の汗をぬぐう。

 そして再び死守したお菓子に手をつけようとした。

 

 しかしそれを止めるように、羽織っている黒のマントを後ろから引っ張られる感覚があった。

 メムメムが後ろを振り向くと、そこにいたのは小さな何か。

 ずんぐりした全身をおおう赤いフード付きのローブ。顔らしき部分にはでかでかとしたモノアイ。

 ひょう太の部屋に居候する一匹、そしてメムメムの上司であるレースの使い魔だった。

 

 メムメム自身、2頭身という幼稚園児並の小ささだが、使い魔はさらに小さく、彼女の両手におさまるほどのサイズしかない。

 しかしながら、使い魔はメムメムの監視役として派遣されただけあって、力は彼の方がはるかに強い。

 それでもこの頃はメムメムの悪影響か、彼はここでの生活を楽しんでいる様子があった。

 

 邪魔するなよとでも言いたげにメムメムがむっと使い魔を見ると、彼は窓の方を一生懸命指し示している。

 疑いつつメムメムは窓の方へちらと視線を向けた。

 そこには両手にスーパーの袋を持った誰かが、五木荘の玄関に向かって歩いて来るところだった。

 

「ヤバ……!」

 

 この状態がひょう太にバレるのはよろしくない。

 ここは一まず大家の下の娘である、幼稚園に通う(ゆず)と一緒に食べるつもりだったと切り抜けるのが良策。

 メムメムはもったいぶったようにアメを口に放り込む。

 

 そういう自分の罪を隠蔽することには定評(?)のある彼女。広げたお菓子の袋たちを素早くかき集め、何とか両手に抱きかかえると、逃げるようにそこから飛び出して行った。

 

 部屋の絨毯の上には机や座布団などの家具以外、何も残されていなかった。

 一匹残された使い魔がその場にランプがないことに気付き慌てふためく。

 右往左往してはみたもののどうすることもできないので、ほどなく彼は隅の方で昼寝を始めたのだった。

 

 

 

「ふう……ちょっと寝過ぎちゃったかな」

 

 五木荘へ帰って来たのはひょう太ではなく(さき)だった。

 平日より遅く目覚めたせいだろう。まだ少しまぶたが重い。

 咲はゆっくりと瞬きしながら、昨日美由(みゆ)や大家に言われたことを思い出した。

 

 やはり今週は少し働きすぎたようだ。しかし一週間分の買い物はこれで済んだし今日は休みだからゆっくりできる。

 来週のシフトをあまり入れなかったのは正解だったなと、あくびをかみ殺して階段を上がっていた時だった。

 

「やばいやばいやばい」

「! 危ない‼︎」

 

 大量のお菓子の袋を抱え、前が見えないまま1階へ飛び下りていくメムメム。

 咲にはそれが、小さな女の子が階段を踏み外し落ちて来るように見えた。

 とっさに持っていた袋をその場に落とし、少女を受け止めようと両手を差し出し構えた。

 

「‼︎」

 

 咲は少女に触れることはできたが、反動でお菓子が四散してしまった。散らばったアメやチョコの袋が土砂のように降り注ぐ。

 そしてその中には——なぜそんなものが紛れているのか分からないが——古風なランプ、のようなもの。

 

 これは絶対に落としてはいけない……!

 咲はなぜだか強くそう思った。

 当然落としたら壊れるからだ。しかし理由は別にある気もしていた。

 漠然と考えながら、咲はランプも少女も力任せに引き寄せて、ぐらりと後ろに倒れた。

 

「い、たた……」

 

 バランスを崩したものの、階段の踊り場に尻もちをついただけで済んだ。

 両手にはしっかりと少女とランプの感触がある。

 咲は安堵のため息をついた。

 

「良かった……大丈夫? 痛いところない?」と、咲は目の前に向かってやさしく話しかけた。

 

 少女の頭には黄色い2本の角の飾りがちょこんと乗っている。背中のマントには小さな黒い羽と、ちらちらと見え隠れするしっぽ。

 幼稚園のおゆうぎかハロウィンが近いからかな、と咲がぼんやり考えていると、少女がかすかに動いた。

 が、どこか様子がおかしい。

 

「あ、ああ……」

「どこか痛むの⁉︎」

 

 膝の上で小刻みに震え始めた少女に、咲はさっと顔を近付け様子をうかがう。

 少女は何かに恐れおののくような表情をしていた。

 

「どうしたの——あれ? 何これ……」

 

 いつからだろうか。

 気付けばあたりにはうっすらと煙が漂っていた。

 瞬間、咲は火事を疑ったが焦げる匂いは感じない。

 むしろどことなく上品な香りがする。

 

「この煙は一体……?」

 

 羊の毛のようにもこもこと濃くなっていく謎の煙。

 元を辿ると、いつの間にフタが開いていたのだろう、抱えたランプの中からだった。

 何か危険なものがあるのかもしれない。

 咲が遠目に覗こうとしたその時。

 頭上から男性の低く苛立った声が突然降ってきた。

 

「……あれほど触るなと言ったのですが……マスター?」

「ヒィィ」と、少女はかすかな悲鳴をあげる。

 

 階段を上り下りする音は全く聞こえなかったのに、この人は一体どこからやって来たのか。

 咲はおそるおそる声がした方を見上げた。

 

「……‼︎」

 

 そこには黒いスーツを着た細身で長身の男性が、威厳に満ち満ちた態度で立っていた。

 ウェーブがかった黒髪に所々入った白いメッシュ。さらにオールバックという特徴的な髪型が高圧的に見える。

 耳は鋭く長く尖っているし瞳は赤く爛々(らんらん)としていて——正直言って人間には見えない。

 そしてなぜかものすごく怒っている。

 

 ピリピリと張り詰まった空気を感じ、咲は怖ろしさから目を離せず……そのまま意識を手放してしまった。

 

 

「ち、違うんす……あたしは何もしてないんす……」

 

 一方、魔人は無言でメムメムだけを見据えていた。

 ランプを壊された時に聞いた台詞とまったく同じ態度のメムメムに、魔人は疑いの目を向ける。

 

「本当っす! っていうかこいつが勝手に……!」

「こいつ?」

 

 魔人にまとわりついていた煙が、まわりの空気に馴染んで散り散りになっていく。

 メムメムは見知らぬ娘の膝の上に乗っており、その娘の手にはランプがかたく握られていた。

 

「これは……」

 

 ランプがさらにキズついた様子はない。

 経緯は不明だが、メムメムの言う通りこの娘がフタを開けたようだ。

 魔人は片膝をついて目の前に尋ねる。

 

「ランプのフタを開けたのはあなたですか?」

「…………」

 

 しかし娘は何の反応もなく微動だにしない。

 魔人が訝しげに顔を覗き込むと、その視線は一点に集中したまま固まっていた。

 

「この娘、気を失っているようですね」

「えぇ……」

 

 メムメムがなんで? という顔で娘の顔面に向かって手を振ったり頬をつついたが動かない。次に腕を揺さぶってみるがそれでも動く気配はなかった。

 彼女の顔にだらだらと冷や汗が浮かんでいく。

 

 初めは腰に手を当てその様子を傍観していた魔人だったが、このままでは(らち)が明かないと思い始めた。

 

「……仕方ない」

 

 魔人は軽いため息をつくと、すっと人差し指を立てた。

 その周りにフッと金属らしき輪っかが浮かび上がり、フォンフォンと風を切ってぐるぐると回り始める。

 彼のもっとも得意とする、転移の魔術であった。

 

「とりあえず小僧の部屋へ戻りましょう。話はそれからです」

 

 そう言って魔人はこの場にいる3人全員と、娘の側に落ちていたスーパーの袋や散乱したお菓子の袋も全て対象に入れ、輪っかを使って魔術を発動させた。

 

 

 

 それから5分以上が経ったころ。ひょう太は五木荘に帰って来た。

 自室の前まで来るとやけに静かで、メムメムたちはどこかへ行ったのだとひょう太は期待した。が、それは大きく外れた。

 ひょう太はドアを開けるなり、

「何事⁉︎」と叫んでしまった。

 

 部屋の真ん中には散乱したお菓子や袋が置かれ——その中心には見慣れない女性が座り——メムメムは汗だくになりながらその女性をつついてはぶつぶつ呟き——そして魔人は我関せずという感じでそっぽを向いていたからだ。

 

「おい〜早く起きてくれえぇ〜……あたしの身の潔白を……証明できないだろおがぁ〜……」メムメムは必死の形相だ。

「本当にどういう状況⁉︎」

 

 女性は眠っているのか静止したままで、何か怪しげな儀式をしているように見えなくもない。

 ひょう太はこの中では一番まともであろう魔人に説明を求めた。

 

「魔人さんこれは一体……?」

「娘が起きないことには何とも」

 

 異様な光景にも動じず、魔人はぽつりと言ったきり再びそっぽを向いた。

 ひょう太は仕方なく二人に向き直る。

 メムメムは未だ無防備な女性の身体のあらゆるところを揺さぶっている。

 ほんの一瞬だけ羨ましいと思いつつひょう太は近付いていく。

 そしてハッとした。

 

「えっ! この人……」

 

 この女性は向かいの部屋隣、206号室に住む青柳(あおやぎ)咲——ひょう太の先輩である。

 休日でアロマなおねえさんよろしく、私服だったこともあり全く気付けなかった。

 突然の訪問にそわそわしながらも、ひょう太は咲に話しかけた。

 

「あの、青柳先輩……? 大丈夫ですか?」

 



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#2-2 無欲少女と魔法のランプ

 名前を呼ばれ、(さき)はびくりと肩を震わせて我に返った。

 

「! あれ、え? 私……って小日向(こひなた)くん⁉︎」

 

 おずおずとひょう太がうなずく。

 咲は慌ててあたりを見回した。知らない天井、ではないが見覚えのない部屋だ。

 というかさっきまで階段を上っていたはずだ。

 

「ここってもしかして、小日向くんの部屋……?」咲は気まずそうに聞く。

 

 ひょう太が再びうなずいたあと、二人は同時に口を開いた。

 

「先輩どうしてオレの部屋に……」

「私どうしてここにいるのか……」

 

 その疑問に答えたのは背後にいた何者かの声だった。

 

「ここに連れて来たのは私です。階段の踊り場で気を失っていたので」

「‼︎」

 

 聞き覚えのある低く端正な男性の声。

 咲は記憶を辿りながらゆっくりと振り返った。

 

「あ……っ」

 

 思い出した。この人は階段で女の子とランプを受け止めたあと、突然現れた男性だ。

 和洋室の質素な部屋にそぐわない、ややカジュアルな燕尾服。しなやかに背筋を伸ばし、革靴のまま堂々と正座している。

 

 オールバックの髪型に生えた触覚のようなもの、長く尖った両耳を飾る黒と金の角ばったピアス、赤々と鈍く光る瞳。

 改めて見ても人間からはほど遠い特徴しかない見た目。咲は無意識に身構えた。

 

 ふと自身の両手にはランプがしっかりと握られたままだったことに気付く。

 それならあの女の子はどこへ行ったのだろうと考えていると、いつの間にか膝元にちょこんと座っていた。

 どこか不安気な顔をしているようにも見えるが、咲はひとまずほっとした。

 

 側には女の子が持っていたであろうお菓子や、自分の買い物袋が置かれている。

 つまりこの男性が全て運んで来てくれたのだ。

 

 咲は徐々に男性への警戒をゆるめていく。

 あの時は見た目や声音などの雰囲気に恐怖してしまったが、きっと悪い人ではないはず。

 そもそも見た目で判断するのも失礼な話だ。

 

 一呼吸置いてから、咲は男性に向かって深々と頭を下げた。

 

「助けていただいてありがとうございました……それで、あなたは——?」

「魔人です。あなたが抱えているそのランプの」

「…………へっ?」

 

 魔人? ランプの? どういうこと……?

 恐怖こそしなかったものの、現実とあまりにかけ離れた言葉に、咲は情けない声を出してしまった。

 追い討ちをかけるように"魔人"と名乗る男性は続ける。

 

「どういう経緯か分かりませんが——あなたがランプのフタを開けたということで間違いないですね?」

「フタ、ですか……?」

 

 彼の言葉の意味を理解しようと咲は頭をひねった。

 直後、考える隙を与えないかのように女の子に膝を揺すられる。

 

「あたしのせいにされるんで早く認めてください」

「み、認める? 何を……?」

 

 子どもらしからぬ発言に、咲は訳が分からずますます混乱してしまった。

 

「今後に関わるのではっきりさせたいのですが」「違いますよね? あたしじゃないっすよね?」「???」

 

 

 咲は魔人とメムメムの質問責めに合いおろおろしていた。普段学校などで挨拶を交わす時の、冷静で落ち着いた雰囲気のある彼女とはまるで別人だ。

 実は大家の上の娘、(あんず)に気のあるひょう太だが、そのギャップについ、「青柳(あおやぎ)先輩、かわいいな……」ともらしてしまった。

 

 しかしあの様子では魔界のことはおろか、魔人やメムメムのことなど何も知らないのは確定である。

 さすがにこのまま放置するわけにもいかない。

 ひょう太は腕を組みどう説明しようか考えながら、3人の仲裁へと入っていった。

 

 

「————というわけなんです」

「……二人は魔界の……そんな世界が……」

 

 ひょう太の説明を一通り受け、咲はメムメムと魔人を横目にそう呟いた。

 咲はこれまで、童話や漫画などのファンタジーな世界とは無縁に生きてきた。

 半信半疑ではあるが、実際二人を目の前にしているのだからやはり信じざるを得ない。

 

 しかしなるほど魔人の風貌が人間離れしているはずだ。

 そしてメムメムも普通の女の子ではなかった。角や羽やしっぽは全て本物で、おゆうぎでもハロウィンのせいでもなかったのだ。

 自分の勘違いに苦笑してから、咲はあっと小さく声を上げた。

 

「そうか……階段を落ちて来たと思ったけど、私の勘違いだったんだね」と言い、咲は続けて「ごめんね」とメムメムに謝った。

 

「本当ですよ。次は気を付けてくださいね」

「お前はなんで偉そうなの?」

 

 メムメムにそうつっこんだあと、ひょう太が咲に尋ねる。

 

「っていうか階段で何があったんですか?」

「それは——」咲は魔人を盗み見た。

 

 彼が怖くて気絶したとは言いづらい。

 咲はそのあたりのことは誤魔化しつつ、先ほど起こった出来事を語った。

 

「お菓子が散乱してその中にランプがあったって……やっぱお前のせいじゃねーか! しかもオレのお菓子また勝手に開けたな!」

「〜〜〜〜っ‼︎」

 

 部屋に響くひょう太の怒鳴り声。メムメムは図星だったのか何も言えず、大粒の涙をその目にためている。

 メムメムが悪魔であることは分かっていても、はたから見るとひょう太にいじめられているように見えてしまう。

 

 かわいそうに思った咲がひょう太をなだめようとすると、しばらく無言だった魔人が空気を割くように言った。

 

「となると——やはり正式なマスターはあなたということになりますね」

 

 魔人は明らかに咲を指していた。

 3人は態度を一変させ同時に「えっ」と驚く。

 

「大方ランプを掴んだ拍子にフタが開いたのでしょう。

 マスターは()()()ランプを持ち出しただけ——ならばそう考えるのが妥当かと」

 

 魔人は含みある言い方をしてから冷ややかにメムメムを一瞥した。心当たりがあったのかメムメムはギクリとし、白々しい愛想笑いを浮かべた。

 

「あっあぁ〜〜っや、やっぱりあたしがフタを開けちゃったような気がしないでもないですねぇ〜〜」

「ついさっきまで必死こいて身の潔白証明してただろ」

「く、くそぅ……短いマスター人生だった……」

「マスター人生って何だよ」

 

 メムメムとひょう太のやり取りを無視し、魔人は粛々とした様子で咲に視線を送る。

 高貴で深みのある紅色の瞳で視点を定められ、咲は身を強張らせた。

 怖いというより凛々しいが勝った顔。

 目を離すことができない。

 

「ゆくりなくも我が魂を呼び起こし者よ……」

 

 言いながら魔人は左手を腹部に当て恭しく頭を下げる。彼の常套句なのだろう、なめらかな声で流れるように言葉を紡いでいく。

 

「魔人の掟にのっとり願いを一つ叶えてしんぜよう——さぁマスター、望みをどうぞ」

 

 メムメムとひょう太がゴクリと唾を飲んでこちらを見ているのが分かる。その場が緊張に包まれ、軽々しいことは言えないような空気をひしひしと感じる。

 

 しかし咲にはどうしても耐えられないことがあった。

 

「あの……そのマスターと呼ぶのをやめてもらえないでしょうか……恥ずかしいので……」

「はあ、では、ミストレス」

「⁉︎」

 

 聞き慣れない上よけいに恥ずかしさの増した呼ばれ方に、咲は動揺を見せた。それを察したのか、魔人は続けてつらつらと単語を挙げる。

 

(あるじ)——お嬢様——主君——マドモアゼル——雑種——」

「ま、待ってください……!」

「なんですか?」

「あの、そういうことではなくて、普通に——」

「普通?」と、魔人は眉をひそめ首をかしげる。

 

 彼がメムメムへ向けていた態度を思い出し、怒られるかもしれないと思った咲はあわてて付け加えた。

 

「な、名前で! 咲で構わないのですが……!」

「!」

 

 刹那、魔人は面食らったかに見えたがすぐに真顔に戻る。

 

「サキ、ですか……承知しました、咲」

 

 名前を呼び捨てるようお願いするのは良くなかったかもしれない。

 けれど元々偶然手にしてしまった権利だ。マスターやミストレスなどと呼ばせる方がおこがましい。

 

 貴族に仕える執事はきっとこういうものだろう、と容易に想像できるほど丁寧な、魔人の立ち居振る舞い。

 そうさせてしまうのも咲には申し訳なく感じていた。

 

 ともかく魔人が受け入れてくれたことに咲は胸を撫で下ろし、笑みを浮かべて「ありがとうございます」とお礼を言った。

 

「…………」

「…………」

「先輩、願いは⁉︎」

 

 

 窓から差し込む日差しは、変わらずぽかぽかと心地良く部屋を照らしている。

 少しの間穏やかな時が流れていたのを、ひょう太がぶった切った。

 

 役目は終えたと言わんばかりの満足気だった咲の顔が、やや困惑し始める。

 ひょう太は呆れ気味に続けた。

 

「……まさか今のが願いとか言いませんよね?」

「だ、ダメかな?」

「いやダメっていうか……願いに入るんですかこれ?」

 

 同意を求めひょう太がたずねると、魔人も首を横に振り、

「魔力を伴わないので望みを果たしたとは言えないですね……」と、毒気を抜かれたような顔で答えた。

 

 それを聞いた咲は心底ショックを受けたようだった。

「そんな……どうしよう……」と、真剣な顔で青ざめている。

 

 そこまで⁉︎ と出かかったつっこみを抑え、ひょう太はなんの気なしに提案した。

 

「普通にお金にすれば良いんじゃないすか?」

「お金……未成年がいきなり大金を手にしたら怪しまれるよね、部屋に置くわけにもいかないし。

 逆に働けば手に入るぐらいのお金なら、お願いする必要もないかなあ」

「……じゃあ、なんか欲しいものはないんですか?」

「欲しいもの……あ、お米と醤油は重いから、今日は買うのやめておいたんだった」

 

 名案を思い付いたという顔で、咲はさっそく魔人に願おうとしている。

 貴重な願いをおつかい感覚で叶えようとする先輩を、ひょう太は敬語も忘れて引き止めた。

 

「そういう日用品じゃなくて! もっと大きな……たとえば家とか」

「そもそも土地なんて持ってないし、勝手に家を建てたら違法だよね?

 もし建てられたとしても税金は払えないだろうし、やっぱり無理だろうなあ」

「それなら………れ、恋愛……好きな人とかは……」

 

 ひょう太が半分照れながら聞くも、咲は表情を変えないまま、

「好きな人はいないし……魔力? で人の心を変えるのって整合性がなくなって後々面倒なことになりそう……。

 これってどの願いにも言えそうなことだけど」と、生真面目に答えた。

 

 現実的な咲にことごとく自分の意見を否定され、ひょう太は「た、たしかに……」とそれ以上何も言えなくなってしまった。

 

 

 そんなひょう太と咲のやり取りを、魔人は物珍しげにながめていた。

 冒頭で出会うなり気絶し、マスターと呼ぶのをやめるよう願った咲を、初めは臆病で能天気な娘ぐらいにしか見ていなかった。

 しかし思慮深く堅実に生きてきたような受け答えに、魔人はその考えを改めていた。

 

 人間界は魔界に比べ社会的な制約が多い。

 だが、過去魔人を召喚した人間たちは、そんなことなどお構いなしに欲望を醜く吐き散らしていった。

 

 魔人には"願いを叶えた少し先の未来"を示唆することもできたが、どの主人も——人間も悪魔もおしなべて——目先の欲に飛び付くばかりで、助言を聞き入れる余裕など持ち合わせちゃいない。

 むろん、願いを叶えたあと実際に主人たちがどうなろうが彼のあずかり知ることではないが。

 

 彼から見れば人間だろうが悪魔だろうが皆ひとしく強欲であり、それを黙って叶えるしかできない自身もまた、欲にまみれた存在であると甘受(かんじゅ)していた。

 新しく主人となったこの人間の娘は今までにないパターンのようだが——

 

「あの、魔人さん……?」

 

 考えに(ふけ)っていた魔人に、咲がそっと話しかけた。

 魔人がなんでしょうと返すと、彼女の口から予想外の言葉が飛び出した。

 

「たとえば、願いを叶える権利を放棄したい、という願いはありですか?」

「‼︎」

 

 ランプを手に入れるには対価がいる。

 魔界でいえば魔石、人間界でいうなら(かね)

 シンプルではあるが大抵の者にはまずそろえることが不可能な膨大な量を要求される。

 ゆえにランプは魔界でも別格とされる貴重な道具なのだ。

 

 それをただ同然で手にしておいて、権利を放棄したいと、たしかに咲は言った。

 これまでにないパターンだ。魔人は驚きで言葉を失った。

 側で聞いていたひょう太も目を丸くしている。

 

「前例がないので……何とも……」

 

 言葉に詰まりながら言った魔人に、咲も驚いたようだった。

 目をそらし考える素振りを見せたあと、

「……もしかして、今すぐに決める必要はないんですか?」と、胸のつかえが下りたようにたずねた。

 

 どうやら本気でそうするつもりは無かったらしい。

 何のことはない。あくまで例えばの話だ。

「それは問題ありません」と返したあと、魔人はすでに落ち着き払った様子で言葉を続ける。

 

「ただ、決めあぐねて発狂したり老衰で死んだマスターもおりましたので——、あまりに先延ばしするのはおススメしませんね」

「‼︎」

 

 淡々と説明する魔人に対し、咲とひょう太はわずかに肩を震わせた。

 冷静さを取り戻し納得した咲が、ふたたび魔人に質問した。

 

「ちなみに……願いを保留している間、私はマスターではないですよね?」

「と言いますと」

 

 一体今度は何を言い出すのか。

 咲の言葉の真意を汲み取れず、魔人は短く返してその先を促す。

 

「その間は、メムメムちゃんがマスターということになりますよね?」

「エッ?」呼ばれたメムメムはガバッと起き上がる。

 

 自分がマスターでなくなったと判明してから、メムメムは自ら蚊帳の外に行き、使い魔と一緒になってふて寝を決め込んでいた。

 しかし咲の言葉で即座に顔がほころび、メムメムは期待の眼差しで魔人を見つめた。

 

 メムメムと再会した際、魔人は自らの意思で彼女をマスターと呼んだ。そのため始めからメムメムがマスターでなくなったわけではなかった。

 とはいえ実質的には咲が本来のマスターにあたる。それは咲本人も分かっているはずだ。

 にもかかわらず、どういうつもりなのか、彼女はあえて二番手に収まろうとしている。

 

 どちらにせよマスターが二人に増えた事実は変わらない。どちらが上か下かなど、彼にとっては軽微で瑣末(さまつ)なことである。

 魔人は目をつむり、いかにも考慮したという表情で、

「まあ……そうですね」と肯定した。

 

 その言葉を聞いたとたん、メムメムは上機嫌になり、ひょう太の部屋の中をぐるぐると飛び回った。

 

「おまえは意外にいい人間ですね! これあげます」

「物理的にも上から目線だな! っていうかそれオレのお菓子だから!」

「ふふ、良かったねメムメムちゃん」

 

 咲は口に手を当て、メムメムとひょう太のかけ合いにくすくすと笑っている。

 魔人はハッとした。

 

「もしや始めからこのつもりで……?」

 

 メムメムから見えないようにして、咲は魔人に向かって嫣然(えんぜん)と微笑んだ。

 

「まさか、マスターの権利を前マスターに戻すためだけに、嘘とはいえ願いの放棄をするとは……」

「……嘘のつもりはないし、できるならその願いを叶えて欲しいです」

「!」

 

 苦笑ながら咲の声音は真剣そのものだった。

 例え話ではなかったのだ。

 魔人はふむ、と今度はちゃんと考慮してから答えた。

 

「それは結局何も叶えないのと同義です——主人の願いを叶えるのが私の仕事である以上、私も放棄はできかねます」

 

 なにしろ前例がない。

 そう答える以外の解を魔人はもっていなかった。

 

 咲は至極残念そうな顔で、

「……そう、ですよね。困らせてごめんなさい」と伏し目がちに言った。

 睫毛の奥に隠れた瞳が憂いにあふれている。

 願いを叶えるという、たったそれだけのことのはずだが、強い拒絶のようなものを感じとれた。

 

 魔人が瞬きをした内に、咲は取り繕うように、硬かった表情をパッとゆるめていた。

 

「願いについて、ちゃんと考えてみます。もう少しだけ、待っていてもらえますか?」

「承りました」

 

 その返事に咲はいくらか安心したようだった。微笑を浮かべ、丁寧にお礼をいう。

 それから間もなくして咲は全員に挨拶を告げると、しずしずとひょう太の部屋から出て行った。

 

 かたくなに願いを叶えようとしない無欲な少女に、魔人は不思議と興味を抱いたのだった。

 



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#3-1 魔猫の無欲少女

 昼下がりの午後。

 今日は太陽が雲に隠れ気味で、どちらかというと肌寒い。月が変わったせいもあるかもしれない。

 バイトを終えた(さき)は、まくっていたカーディガンの袖をおろしながら、五木(いつき)荘へと帰って来た。

 

 庭の池のそばには大家の姿があった。池の鯉などにエサをやっていた彼女は顔を上げると、咲に気付いてにっこりした。

 

「おかえりなさい青柳(あおやぎ)さん」

 

 咲も笑顔を浮かべ頭を下げたあと、大家のもとへ向かった。

 鯉たちはバシャバシャと大きな音を立てて、水面に浮かぶ小粒のエサに向かって、我先にと食らいついていく。

 寒さなど関係なさそうに動く彼らが、少し羨ましい。

 

「みんな元気ですね」

「最近は水温も下がり始めているから、ごはんは少なくしているんですけれどね〜」

 

 今は2回目のエサをあげたところだが、ゆくゆくは日に一度にするらしい。大家はそう加えたあと、ふいにうふふ、と何かを思い出すように笑った。

 

「どうしたんですか?」

「ここも人が増えてにぎやかになったでしょう?

 お菓子やごはんを作る機会も増えたから、作りがいがありますね〜」

 

 大家はにこにこと鯉たちを見つめている。反して咲は少し目を丸くした。

 

「……どなたかここに越してきたんですか?」

「あら、青柳さんはまだお会いしたことなかったかしら? 小日向(こひなた)さんのところのメムちゃん」

「メムちゃん……?」

 

 聞き慣れない名前だ。いや、近しい名前を一週間前に聞いた覚えがある。

 あっと思い出した咲はもしかして、と続けた。

 

「メムメムちゃんのことですか……?」

 

 悪魔の、と付け足そうとしたが、大家がどこまで知っているのか分からない。何より普段口にしない単語のため、なんとなく気恥ずかしい。

 大家はそんな咲の思考をものともせず言った。

 

「はい、あの小さな悪魔ちゃんのことですよ〜。それからメムちゃんのお兄さんの、たしか——」

「…………魔人さん、ですか?」

「そうそう、魔人さんと仰ってましたね〜」と、大家は微笑んだ。

 

 魔人はメムメムの兄ではなかったはずだ。しかし咲もひょう太から聞いただけで、詳しいことは正直よく知らない。

 彼はランプに封印されていた魔人で、メムメムはそのマスターで、そもそもランプというのは魔界の——などと、上手く説明できる自信がなかった。

 

 大家があまりに自然に言うので、咲は自分の方が気にしすぎなのかと思うほどだった。

 彼らとの出会いを大家にたずねると、

「初めはもちろんびっくりしましたけど、お手伝いもしてくれるし(ゆず)ちゃんとも遊んでくれますし、いい子なんですよ〜」と言ってメムメムを褒めた。

 

 悪魔にいい子と言うのもなんだかおかしな話だが、たしかにメムメムからはあまり悪魔っぽさを感じない。

 そうなんですね、と咲は相槌を打った。

 

「私、今日はもう特に予定がないんです。何か手伝えることはありますか?」

 

 咲はちらりと後ろに目を向けながら言った。

 今日のようにバイトが早く終わった日は、五木荘の庭を掃除することが咲の役目のようなものだった。

 しかし言ったあとで、庭がすでに手入れ後で綺麗だったことに気付いた。

 

「ありがとう、でも大丈夫ですよ〜。今日はメムちゃんのお兄さんがお掃除してくださったので」

「……魔人さんが、ですか?」

 

 驚きはしたものの、想像するのは容易だった。執事風の格好をした魔人が優雅に庭を清掃しているのを、咲は脳裏に思い浮かべた。

 

「ええ。最近は毎日お手伝いしてくれて、とても助かっているんですよ〜」

「そうだったんですか……」

「青柳さんはお部屋でゆっくり休んでくださいね」

 

 

 大家に礼を言って別れたあと。

 咲が五木荘の玄関を開けると暖かい空気を感じた。ほっとするような暖かさだが、その足取りは重かった。

 一週間前のことを思い返していたからだ。

 

 メムメムを助けようと誤ってランプの封印を解いてしまい、新しく魔人のマスターとなったあの日。

 あれきりメムメムや魔人には会っていない。

 

 そのため、実をいうと咲はそれらが全て夢だったのではないかと思っていた。が、違った。

 魔界からやって来たという彼らは、咲の知らぬ間にすっかり五木荘の住人として馴染んでいたのだ。

 

『魔人の掟にのっとり願いを一つ叶えてしんぜよう——さぁマスター、望みをどうぞ』

 

 彼の深紅の瞳に見つめられながら言われたことを、咲は反すうした。

 

「願いごと……」

 

 咲は小さく言ったあと無意識に口を結んだ。

 叶えたい願いが、思いつかない。

 正確には、魔人という超常的な存在に頼んでまで叶えたい願いが、思いつかないのだ。

 

『願いについて、ちゃんと考えてみます。もう少しだけ、待っていてもらえますか?』

『承りました』

 

 あの時魔人にそう言ってしまった手前、答えは出さなければならない。

 2階へ上がろうとする咲の足がさらに重くなる。

 思えば彼はこうも言っていた。

 

『ただ、決めあぐねて発狂したり老衰で死んだマスターもおりましたので——』

 

 そう。このまま願いを叶えずに寿命を迎える方法もある。

 魔人は"おススメしない"と言っていたが(主に発狂するおそれを憂いてのことだろうが)、この先叶えたい願いを思いつく日が来るとは限らない。

 

 ただ、咲の寿命は平均でいえば残り70年ほど。まだ17年しか生きていない咲には、4倍以上の長さがある。その途方もない月日を魔人に待ってもらうのはさすがに申し訳ない。

 やはり大なり小なり何かしら願いを叶えてもらうのが一番現実的だろう。

 でも——。

 

「どうしよう……」

 

 目の前に続く階段が果てしなく見える。

 咲は深いため息をついた。

 願うこと自体を悪いとは思っていない。

 問題は叶ったあとだ。

 

 一つ叶えば次を欲する。欲には際限がない。

 欲のためなら周囲を引きずり下ろすし、欲のためなら周囲を簡単に陥れる。

 咲はそういう家で育った。そしてその血を引く自分自身もまた、欲におぼれる可能性があることを自覚していた。

 

 また? また"欲"に苦しめられるの——?

 心の中で咲はつぶやいた。

 実家を出てからなるべく考えないようにしていたことが、咲の脳内をむしばもうとする。

 

 必死に追い出そうと、咲は目の前を駆け上がった。

 2階の廊下に顔を出したところで、それらの嫌な感情すべてが吹き飛ばされた。

 

「……ん……?」

 

 202号室。ひょう太の部屋のそばに、黒いぬいぐるみが落ちている。

 小型犬ほどの大きさで動物を模しているようだが、何かは分からない。架空のもののようだ。

 

 咲が拾いあげようと近付いていくと、それはぴくりと動き、

「フィー」と小さく鳴いた。

 機械の音声などではない。生き物だった。

 

 ふっくらとした体型に、触り心地が良さそうなツヤのある体毛。地面にたれたロップイヤーのような長い耳。頭上に生えた2本の白い触角。

 

 脇腹からしっぽにかけて白いシマ模様があり、2本のしっぽが絡み合っているように見える。そして額には小さくも輝きを放つ宝石、のようなもの。

 そういう不思議な見た目の割には、素朴で愛嬌のある顔をしていた。

 

 咲がまじまじ見つめていると、その生き物は小さくつぶらな瞳をぱちくりさせ、もう一度フィーンと、今度は甘えるように高く鳴いた。

 かまってほしげに、咲に向かってのそのそと短い足を動かしている。一歩進むたびに、触角が無邪気にゆれた。

 

「……!」

 

 きゅん、と胸が軽くしめつけられる感覚。

 咲の思考は"かわいい"で満たされた。

 先ほどまで思い悩んでいたのが嘘のようだった。

 

「おいで——」

 

 咲はしゃがんでおもむろに手のひらを見せた。

 生き物は一瞬動きを止め、警戒心をあらわにする。咲はじっと手を動かさず、向こうからやって来るのを待った。

 大丈夫だよ、とささやいて見守っていると、それは手のひらの匂いをくんくんと嗅ぎ始め——やがて自らのあごをすり寄せた。

 

「わ、あ……っ」

 

 あまりのふわふわな毛並みに咲はおもわず声を上げた。

 町では野良の動物はほとんど見かけないし、動物園は中学校以来だ。数年ぶりに触れた生き物を慈しむように見つめ、しばらくその手触りに癒されていた。

 

「あなたはどこから来たの? もしかして……魔界、とか……?」

 

 咲はこの生き物を目にしてから思っていたことを口にした。

 話しかけてはみたものの返事はもちろんなく、代わりにゴロゴロと猫のようにのどを鳴らすのが聞こえた。

 

「ふふ、小日向くんに聞いてみようね」

 

 見ればひょう太の部屋のドアがわずかに開いている。おそらくそのすき間から出てきたのだろう。

 咲は微笑みながら手を引っ込めて、やわらかな体を抱き上げようとした。が、その生き物はやめるなと言わんばかりに、かぷ、と咲の指を甘がみした。

 

「またあとでね。一回聞いてみてか、ら…………?」

 

 異変が起きたのはその直後だった。

 噛まれた指先にむず痒さを覚えて見ると、黒く変色していた。いや違う。無数の毛におおわれている。抱えた生き物とそっくりな、光沢のある黒い毛が。

 それはみるみる内に着ていた洋服をもとりこみ、咲の身体を包んでいった。

 

「いったい、()()()が起こって……っ⁉︎」

 

 話し言葉までおかしい。咲はハッと口元をおさえる。

 ぷに、と手のひらが唇に吸い付く感触があった。肉球だ。

 手はグローブをはめたように大きかった。関節の曲がったふさふさな指にベビーピンクの肉球。もう猫の手と形容する以外なかった。

 

 早くひょう太の部屋へ行かなければ。

 だが自身を見下ろした咲はその考えを即座に打ち消した。

 胸元からへその下にかけては毛が生えていない。どういうわけかそこだけは自分の肌のままだ。

 さらに毛が黒いおかげで、くびれや足のラインがくっきりと浮かび上がっている。

 

「黒い魔猫なら先ほど出て行きましたよ。そこの扉から」

「なんで教えてくれなかったんですか⁉︎」

「聞かれなかったからです。知らなければ知らないままで、何の不都合もないので」

「なにどっかの生命体みたいなこと言ってるんすか!」

 

 ドアはほぼ閉まっているのに、部屋の中の会話がはっきりと咲の耳に届いた。

 

「この声は……小日向くんと、魔人さん……?」

 

 頭上に生えた何かがぴくぴくと反応している。おそらく耳だ。そして尾てい骨のあたりにも違和感がある。しっぽがぼわっと逆立っている感覚だった。

 

「また? また面倒なことになったんですか?」

「それこっちのセリフなんだけど⁉︎ とにかく早く追いかけるぞ!」

 

 メムメムとひょう太の声がしたあと、足音が複数こちらに近づいて来た。逃げなければ。

 咲は助けを求めるより、恥ずかしさと警戒心の方がMAXに達していた。謎の生き物——きっと魔人の言う黒い魔猫だろう——を抱えたまま、一目散に自室へと走り去って行った。

 

 

「連れて来ちゃってごめんね。このままじゃ人前に()()()()()から……」

 

 魔猫に言いながら咲は洋服棚をあさっていた。これじゃにゃい、あれじゃにゃいと引っ張り出された服がぽんぽんと宙を舞う。

 自分の洋服のはずなのに、柔軟剤の匂いがやけに鼻につく。洋服だけじゃない。自分のもの、と思えるものが部屋の中に一切なかった。

 

 不快に感じながら咲が振り返ると、魔猫は散乱した洋服になかば埋もれていた。小さな前足でふみふみと服を揉んだりして楽しそうに遊んでいる姿を見て、咲は無意識につぶやいた。

 

「いいにゃあ、ずるい……」

 

 彼女の背中で不満げに大きく揺れていたしっぽがくねくねとうねり始める。咲は身体をうずうずさせると、洋服の山の中へと飛び込んだ。

 

 服に頬をこすりつけたり引っかいたり噛んだりとしばらく遊んでいた咲の元に、魔猫が擦り寄って来た。咲はからかうように別の山へ滑り込む。

 魔猫を驚かせようと暗闇の中で息をひそめていた咲だったが、驚いたのは咲の方だった。

 

「フィーン……!」

 

 彼女の後をついて入って来た魔猫の身体が、突然モコモコと大きくふくらんでいく。

 

「えっ、え……っ?」

 

 咲が冷静に戻ったころには、魔猫はもはや猫とはいえない姿をしていた。

 ツヤツヤした黒の体毛や耳などはそのままに、それ以外はたくましい身体付きの男性。咲のひと回り以上の体格差がある。

 

 耳を伏せ、しっぽを丸めて咲は後ずさりしたが、やすやすと捕まってしまった。魔猫は咲におおい被さり、周りの洋服は二人(匹)を埋めたままで逃げ出せそうにない。

 先ほどは分からなかった魔猫の獣独特の匂いが、咲に身の危険を教えた。

 

「お、落ち着いて……ね?」

 

 ダメ元で咲は話しかけたがやっぱり通じない。魔猫はふんふんと鼻を鳴らし咲に顔を近付けるだけだ。

 素朴で愛嬌のあった表情は変わらないが、不釣り合いな男性の骨格と相まって何を考えているのか分からない。逆に不気味だった。

 

「っ……!」

 

 魔猫がふいに咲の頬をなめた。ざりっとした舌ざわりに咲は身震いする。肌が少しずつ削り取られていくような痺れを覚えた。

 

 ひとしきりなめて満足したのか、魔猫は今度は咲の首すじに顔を寄せた。そこには毛が生えていない。やわらかい魔猫の毛がそよそよとむき出しの肌を撫でる。

「んっ」と小さな吐息が咲の口からもれた。

 

 またなめられると咲が身構えていると、魔猫は大きく口を開けた。そこからのぞいたキバが唾液で光ったかと思うと、咲の首の後ろにがぶりと食いついた。

 

「い……ッ! だ、め……かんだら……」

 

 最初に身体に変化が起きた直前、魔猫に指をかまれた。今度はどうなってしまうのだろう。

 不安で痛みもあって逃げ出したいのに、咲は支配されたように身体を動かすことができない。

 しゅんしゅんと再び身体が変化していくのを感じる。咲は半分あきらめたように瞳をとじた。

 

「そこにいるのですか。マスター……いや、咲」

「…………?」

 

 あまりに落ち着いた男性の声に、咲は初め幻聴かと思った。

 自分をマスターと呼ぶ人物など魔人しかいない。いつから、どうやって、どうしてという疑問が浮かんでは消える。首の痛みで咲の頭は朦朧(もうろう)としていた。

 

 



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#3-2 魔猫の無欲少女

 魔人が(さき)の部屋に訪れる少し前。

 

 ひょう太の部屋には魔猫と呼ばれる魔界の生物が2匹いた。メムメムの上司が世話をするよう、メムメムに頼んだのだという。

 

「頼まれるの実は3回目なんすよ。最初に世話した時になぜかメムメムに懐いて、2回目は色々大変だったんですけど」と、ひょう太が魔人に話した。

 

 魔猫は魔界でもポピュラーな愛玩動物だ。生存競争の激しい魔界で野生として生き残るには柔弱すぎたが、悪魔にその価値を見出されてから今日に至るまでは割と早かった。

 

 それでも魔猫には野生の名残りがいくつかある。

 暗闇に入り身体を変形させて人型を模したり、相手にかみ付いて魔力を送り込み、自身と同じような魔猫に変形させることができるのだ。

 当然悪魔は対処法を開発済みだ。今現在は、そもそも変形能力を伴わない種を生み出そうと改良が進められてはいるが。

 

 魔人は昨今の魔猫事情を思い出しながら、メムメムとひょう太が道具を使って魔猫を遊ばせているのをながめた。

 

「黒い方もそっち行ったぞ」

「ホッハッ! どーです慣れたもんでしょう」

「はいはい。また噛まれないように気をつけろよ」

 

 一般的に魔猫は白いのだが、ここにいる一匹のように黒い魔猫も稀にいる。中でもオスは希少種なため高値で取引される。魔人も実際に目にするのは初めてだった。

 

 それだけ値の張るものを一匹とさらにもう一匹。どちらの魔猫も毛艶が良く、額の石は磨かれた宝石のようだ。メムメムの上司は高名な悪魔かよほどの魔猫好きなのだろう。

 魔人は黒い魔猫がひょう太の部屋から出て行くのを無言で見送った。

 

 

 

「あの部屋ってことは、アレ青柳(あおやぎ)先輩か!」

 

 咲が黒い魔猫を抱えて自室へ走り去る姿を、ひょう太たちはかろうじて目撃していた。

 ひょう太の挙げた名前にピンとこなかった魔人とメムメムは誰? という顔をみせた。

 

「先週来てたじゃないすか。ほら、新しくマスター(?)になった——」

「ああ……そういえばそうでしたね」

 

 誤ってランプのフタを開け、マスターではなく名前で呼ぶよう言った娘。あの日以来一度も姿を見ていない。魔人は忘れていたわけではなかったが、願いを叶えるのに積極的でない人間をせっつくのは億劫に感じていた。

 そろそろ何かしら思い付いているだろう。と、魔人はメムメムを見下ろした。

 

「マスター、上司から薬剤を預かっていますよね?」

 

 話しかけられたメムメムは未だ誰のことか分かっていない様子ながらも、小さなマントから一つの箱を取り出して魔人に手渡した。

 魔界らしい不気味な装飾がされた宝箱。魔人は顔色一つ変えずに開けた。中には薬剤が入れられた注射器型の容器と予備が入っている。一度使用されたのか、予備の容器は空だった。

 

「魔人さんが行ってくれるんですか?」

「仕事のついでですので」

 

 魔人は上着の中に箱をしまいながら答えた。質問したひょう太が何か言いたげな顔をしている。

 

「なんですか小僧?」

「その、なんというか……大丈夫ですか?」

「どういう意味です」

 

 ひょう太は説明しようと口を開けたが、咲の去った方をちらと見たあとなぜか徐々にその頬を赤くしていく。

 

「いや魔人さんなら大丈夫か……やっぱりなんでもないっす」

「はあ、」

 

 照れ隠しにひょう太は両手を振った。魔人はけげんな顔を向けた。

——娘の変身を解除しその願いを叶えてやるだけの取るに足らないことだ。

 心配される所以(ゆえん)はない。と、彼は早速魔術を発動させて自らを転移させた。

 

 

 

 咲の部屋に訪れた魔人は、あたりを見回すと不快そうに眉を寄せた。

 床の一面は服が散乱し足の踏み場がなく、窓から流れ込む風に揺れるカーテンはビリビリに裂かれている。はっきり言って汚い。

 

「ま、魔人さん、ですか……?」

「はい」

 

 くぐもった辛そうな声の咲に対し、魔人は淡々と返した。

 

「魔猫も一緒ですね? とりあえず出てきてください。変身を解除いたしますので」

 

 魔人は服で築かれた大きな山に声をかけた。人型に変身した魔猫と咲が一緒にいるのは明白だった。

 ピクリと山が反応したあと、中から弱々しい咲の声がもれた。

 

「……ダメ、ダメだよ……」

「何を言ってるんです」呆れた魔人に咲は続ける。

「落ち着いて……大丈夫だから……ね?」

 

 咲は子どもをあやすような声で言った。彼女は魔人ではなく魔猫に話しかけていた。

 魔人は山に一歩近づいた。グルルル、と地響きのような唸り声が部屋に響く。変身した魔猫のものだ。

 

「うっ……!」

 

 小さなうめき声のあと、咲の息づかいが荒くなった。大きかった山がひと回り小さくなった。

 

「咲、早くそこから出てください。人間が魔猫にかまれ続ければ、元に戻れなくなるかもしれません」

「! それは……困るのですが……」

「だったら——」

「でも、そうすると……この子、魔人さんをおそってしまうかもしれません……」

「!」

 

 魔人は目を見開いた。そしてまたかと深いため息をついた。

 つい先日のことを思い出したのだ。

 

 

 メムメムにランプを壊された日。彼女の魔力が魔界の塵以下だと判明したあと。魔人はランプを直すため、別の者からパワーを吸収し、それをメムメムの魔力に変換しようとした。

 

 あてがあると案内された先は、あろうことか悪魔の天敵である悪魔狩りの大家(たいか)。しかしその悪魔狩りである娘は呪いを受けており、メムメムにすら勝てないほど弱体化していた。

 ただしその呪いは対悪魔にのみ作用するもの。魔人は彼女に太刀打ちできなかった。やられる、と思ったすんでのところで、メムメムが身を挺して彼をかばったのである。

 

 これまで仕えてきた数多(あまた)の主人たちから道具扱いされ消耗品と罵られるのが当たり前だった魔人にとって、メムメムの行動は理解しがたいものだった。

 

 

「まったく……マスターといい小僧といい……」

 

 ここの住人はどうにも解せない。

 奇妙な気持ちを抱きながら魔人は吐き捨てるようにつぶやいた。

 

 山はまた一際小さくなった。このままでは咲は本当に戻れなくなる可能性がある。

 魔人はつかつかと山に歩み寄った。冷やりとした風を受けて、彼のウェーブがかった黒髪が優雅に揺れる。フウーッと威嚇する魔猫をものともせず、魔人は口を開いた。

 

「たしかに、ランプが壊れた影響で私は万全な状態ではありません——が、」

「……?」

「あなたに心配されるほどヤワでもありません」

「す、すみません……?」

 

 よく分かっていないような咲を無視して魔人は山の側に片膝をついた。上着にしまっていた箱から注射器を取り出し、山へ手をかけた。

 

「……咲、どういうつもりですか」

 

 服をめくろうとした魔人の手を、内側から何かが妨げている。隙間から黒い両手がのぞいていた。

 

「あ、あの、私……その、服が脱げてしまって、それで……」

 

 震えながら咲が言った。

 そんなことは知っている——と口にしようとして、魔人は明らかに不機嫌なオーラをにじませた。

 

「……まさか、今度は私におそわれるとでも? そのようなバカげた、品のない事を私が?」

「め、滅相もありません!」咲は慌てて加えた。

「品がにゃいということは同意です……! 私は、この姿を誰にも見られたくにゃんにゃんにゃあーん」

「⁉︎」

 

——マズイ。悠長に話をしている場合ではなかった。

 咲はうにゃうにゃと言葉にならない鳴き声を上げている。

 

「開けますよ。一瞬で済みますので」

 

 魔人は勢いよく服をめくった。咲と魔猫の姿があらわになる。魔猫は徐々に人型から元の獣の姿に戻っていった。

 注射器を構え、躊躇なく咲の腕にあてがった魔人だったが、彼女の姿をまじまじと目にしてピタリと動きを止めた。

 

「————」

 

 魔人は息をのみ、食い入るように咲を見つめた。魔猫よりは大きいが元々の咲の大きさに比べると随分小さい。

 彼女本来のしなやかな痩身をおおう濡れ羽色の毛並み。部屋の照明に反射して一本一本がきらめいている。

 

 伏し目にかかる長いまつ毛には涙の雫が飾られていた。顔を上げた咲の不安げな瞳と目が合う。瞳孔は段々と細くなり、魔猫の額にある赤い石のように淡く優しい光を放っていた。

 獣とも人とも言えない、華奢で儚げな姿だった。

 

「フィーン……!」

「! しまっ——」

 

 咲の膝元にまるまっていた魔猫が魔人の手を引っかいた。はめていた白い手袋が破れ、手の甲にひずみが生じる。

 持っていた注射器は宙を舞い、壁に当たってパリンと割れた。中の薬剤が壁を伝って床に垂れていった。

 

「にゃん……?」

 

 魔人がきまりの悪い顔をする理由が分からず、咲は首をかしげて一声鳴いた。

 

 

 

「——調合の心得はありますがおそらく数時間かかります。その間咲には待っていただく他ないのですが……」

 

 魔人はそう言って毒々しい色の液体が入った試験管を揺らした。コポコポと小気味良い音を立てて気泡が上がる。

 テーブルの上は、咲の部屋には不釣り合いな化学器具に占領されていた。

 彼が調合しているのはもちろん、咲の変身を解除するための薬だ。注射器は魔人が魔術を使ったため容易に直ったが、中の薬剤はほとんど蒸発してしまった。

 

 咲はというと、テーブルに並ぶ珍しい道具を遠くからおっかなびっくりのぞいている。魔人の言葉は届いていないようだった。

 テーブルにそろりと忍び寄ろうとして、咲はパチパチとまばたきした。液体の匂いが刺激的だったらしい。

 彼女の思考や行動はすっかり猫と化していた。

 

「にゃ〜……」

「咲、危ないので離れていてください」

 

 魔人は咲を直接見ずに言った。言葉自体は理解しているようで、咲は一声鳴いたあと素直にテーブルから後ずさりした。

 

 部屋に静寂が訪れる。

 正確には魔人が気まずさから耳を塞いでいた。

 

 なぜ咲から目を離せなかったのか分からない。

 視界に入れば再び見入ってしまいそうで、咲のいる方へ顔を向けたくない。

 魔猫を(ひょう太の部屋へ)帰すんじゃなかった。と思いながら、魔人は調合に集中した。

 

 

 ふいに視線を感じ、魔人は横目にそちらを見た。咲がそわそわと首を伸ばして手招くように片手を振っていた。

 窓からそよそよと吹く風が、魔人の頭の両側に生える悪魔の角めいた触覚を揺らす。咲はよほど気になるらしく、一生懸命その動きを追っていた。

 

 魔人は大きなため息をつくと人差し指を立てた。

 窓はひとりでに閉まり、ボロボロのカーテンも魔人の髪もやがて動きを止めた。

 

「……離れているよう言ったはずですよ」

 

 集中を削がれたことで魔人の声には少々厳しさが混じっていた。咲からの返事はない。

 

「聞いているのですか咲?」

「……にゃん」

 

 ぽつりと悲しげに鳴いた咲に、魔人は思わず顔を向けてしまった。淋しそうな顔をしていた咲は魔人と目が合うと慌てて顔をそらし、くしくしと顔面をこすり始めた。

 数種の液体を混ぜたビーカーから煙が上がった。あとはろ過を行うだけだ。装置に流し込むだけなので、その間魔人も手持ちぶさたになる。

 

「…………仕方ないですね」

 

——そう。仕方なくだ。

 魔人は半分自分に言い聞かせるようにして手のひらを上に向けた。ポンッとはじけた音と共にいくつもの道具が出現した。魔猫じゃらし、小さな魔獣のぬいぐるみ、魔猫用ブラシ、などなど。

 それらを咲が見やすいようにきっちりと宙に浮かべる。

 

 咲の狩猟本能が目覚める。小さく身構えしっぽの先端を小刻みに動かす。その瞳は好奇心でらんらんと輝いていた。

 

 魔人は満更でもなさそうな顔で、

「さて——どれから始めましょうか」と言った。

 

 

 

 咲は魔人の膝に頭をのせてゴロゴロとのどを鳴らしていた。頭や背中の上をまんべんなくブラシが往復する。遊び疲れた身体がほぐれるのに丁度いい強さで、咲はゆっくりとまばたきした。

 ひとしきり撫でてもらったあと、咲は大きく伸びをした。夢の中に沈むのも時間の問題だった。

 

「そろそろだな」

 

 魔人が手を止めて何事かつぶやいた。咲がどうしたのかと顔を上げようとした瞬間、首すじにチクリと何かが刺さる。

 にゃっと飛び起きた咲は自身の身体が段々と大きくなるのを感じた。黒い毛は短くなっていき、代わりに素の肌と洋服が中から現れる。

 

 その内身体の変化はおさまったが咲は内心まだ困惑していた。そのすぐ耳元で低い声に話しかけられた。

 

「急ごしらえではありましたが上手くいったようですね。具合はどうですか? 咲」

「!」

 

 ビクリとして咲は目を上げた。すぐ近くに魔人の顔があった。

 キリッとした濃く太い眉。目尻に伸びる長いまつ毛。深みがあり高貴を感じさせる紅色の瞳。中性的な美貌を持つ魔人と視線が重なる。

 両手には弾力のある感触。魔人の膝だった。

 咲は顔を赤くし、慌ててそこから身を離した。

 

 私は今まで何を——?

 咲は必死に記憶を辿った。

 そうだ。魔人がいつの間に部屋に現れ、言葉が話せなくなり、元の姿に戻るための薬を魔人に作ってもらうことになったのだ。

 

 その間私は——?

 記憶がよみがえっていく。嫌な予感がした。

 猫じゃらしやおもちゃを追いかけて部屋中をかけまわり、棚の上に登って降りられなくなったため魔人に抱きかかえられたり、魔人に甘えて身体をこすりつけたり手袋をなめたり……そしてたった今、魔人の膝の上でブラッシングされていたところだったのだ。

 

「あ……わ、私……本当に、ごめんなさい……」

 

 咲の顔は一気に青ざめた。我儘に振る舞ってしまった自分が恥ずかしく情けない。そしてそれ以前に申し訳ないという気持ちの方が大きかった。

 しかし魔人はそんな咲を意に介さず、

「ふむ、言葉も戻ったようですね」と一人うなずいた。

 

 その真顔からは感情が読み取れない。が、少なくとも怒っているわけではなそうだった。

 気を落ち着かせてから咲は改めて魔人に頭を下げた。

 

「ご迷惑かけてしまってごめんなさい。今回も助けていただいて、ありがとうございました」

「……いえ。今回は私の油断が招いた結果ですので、お気になさらず」魔人はどこか言葉をにごした。

「油断、ですか? そんな風には全然——」

 

 咲が言葉を言い終えるより早く魔人がスッと立ち上がってあたりを眺めた。

 

「この部屋はいつもこのような状態ですか?」

「いえ……あの子と遊んでしまったからですね」

 

 破れたカーテン、引き出しが全て開いた棚、布団の乱れたベッド、床に散らばる洋服。我ながらひどい有り様だ。

 寝るまでに片付け終わるだろうか、と咲は苦笑した。

 

「手は足りますか?」

「……手伝っていただけるんですか?」

「このままでは不便でしょうし」魔人はコクとうなずく。

 

 そういえば今日五木荘の庭を清掃したのは魔人で、最近毎日何かしら手伝ってくれるのだと大家に聞いたばかりだった。

 咲は誰かに頼るのがあまり好きではない。初めは断ろうとしていたが、あることに思い当たった。

 

「そうですね……では、()()()してもいいでしょうか?」

「承りました」

 

 魔人にはカーテンを取り換えてもらおうと咲も立ち上がった矢先。魔人が手袋をはめた人差し指を立てた。何かが指先に集中している。キイィ、と光が集まったかと思うと、魔人はその指をくるりと振った。

 気づけば荒れていた部屋が一瞬にして整理整頓されていた。魔猫を連れて来たばかりの部屋と寸分違わない状態だった。

 

「! 全部元通りに……魔人さんが直してくれた、んですよね……?」

「たやすい願いだったので」

 

 そんなことはないと咲は思ったが魔人は相変わらず無表情だった。彼にとっては本当に大した願いじゃないのだろう。

 ともかくこれで"マスター"から解放される。心のわだかまりが解けていくのを感じて咲は笑顔をみせた。

 

「願いを聞いてくださってありがとうございました!」

「……元よりそのつもりでしたから。願いに関しては、また改めて」

「え……っ?」

 

 はぐらかすような言い方だった。咲が聞き返そうとすると窓から一際強い風が入って来た。そちらを見やって再び視線を戻すと、魔人は忽然(こつぜん)と姿を消していた。

 また夢かと思ったが首にはたしかに噛まれた痛みがある。

 驚くのも忘れ、咲は一人つぶやいた。

 

「今……噛み合ってなかったような……?」

 



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#4 無欲少女の赤い実は

 部屋の姿見の前に立ち、(さき)は首をひねっていた。

 

「やっぱり……派手じゃないかな……?」と、鏡の前でつぶやく。

 

 黒い猫耳と赤いリボンの付いたカチューシャ。膝丈の黒いワンピースに、フリルがついたオフホワイトのエプロン。いわゆるメイド服だ。

 

 咲は身をひるがえした。ワンピースとエプロンがふわりと舞い、隙間から太ももがのぞいた。靴下をはくつもりだったが、当日もグレーのタイツをはいた方が良さそうだ。

 エプロンの結び目からは、細長い黒猫のしっぽが生えている。猫耳を含めもちろん偽物なのだが、今にも動き出しそうな(無駄に)精巧な作りだと咲は思った。

 

 この衣装は咲の趣味ではない。咲がメインでバイトしている"くろねこケーキ屋"という洋菓子店の店長の趣味である。今回のメイド服は、ハロウィンも兼ねた新しい制服だった。

 高校入学時から咲はそこで働いているが、年々派手になっている気がしていた。

 

 そう思いはしても、咲はそこまで嫌がっているわけではなかった。普段着ることのない衣装に袖を通すことで、別の自分に成り代わった気分を味わえるからだ。ちなみにそういう理由で、咲は年末年始になると近くの神社で巫女として奉仕している。

 

「そろそろできたかな?」

 

 咲はメイド服を着たままキッチンへ向かった。

 鍋の透明なフタからはとめどなく蒸気がふき出ていた。火を止めゆっくりとフタを開けると、蒸気が勢いよくあたりに広がり、さわやかな酸味が咲の鼻をかすめた。

 

 いまだぐつぐつと音をあげる赤いスープの中に、色とりどりの野菜や豆、ベーコンが浮かんでいる。トマトをベースにしたスープが具材に染み込み、その出汁はスープに溶け込んだようだった。

 

 咲は野菜に火が通っているか確認したあと一口味見した。自然な甘さが口の中に広がる。煮込む前に野菜をじっくり炒めたおかげだ。ベーコンの塩気だけでも十分だったが、調味料で軽く味を整えた。

 

 スープを冷ましている間に、咲はテーブルやその周りを整理し始めた。

 メイド服は可愛さ重視かと思いきや意外に動きやすい。バイト中も支障ないだろう。咲は店長のこだわりを強く感じた。

 

 もう一度鍋を火にかけ、キッチン上の棚から食器を出しながら、ふいに咲は笑いが込み上げた。

 

「この格好で掃除するって……ふふ、ちょっと魔人さんみたい」

 

 当然今は部屋に咲一人。咲自身、もちろん独り言のつもりだった。しかし背後から返事があった。

 

「私が何ですか」

「きゃああ‼︎」

 

 悲鳴を上げ身体が大きく揺れた咲の手から、重ねた食器がすべり落ちた。あっと気付いた時には床に触れる寸前で、破片が飛び散るのを恐れた咲は顔をおおった。が、食器の割れる甲高い音は一向に起きない。

 おそるおそる顔を上げると、魔人が全ての皿をそれぞれ器用に持って立っていた。

 

「……あ、ありがとう、ございます……」

 

 しどろもどろになりながら咲は皿を受け取った。

 魔人には色々と聞きたいことがある。何から聞くべきか迷っていると、魔人と視線が重なった。

 彼はふいと顔を背け、気まずさとやや呆れが混じった声で言った。

 

「……咲、また魔猫にかまれたのですか」

「ち、違います!」咲は慌ててカチューシャを外した。

「これは私のアルバイト先の新しい制服で、今度のハロウィンに向けて支給されたものでして……! 今は試着も兼ねて部屋の掃除をしていたところで……ですから、私の趣味というわけではなくてですね……!」

「はあ、」

 

 咲が早口に弁解したのを魔人は一言で返した。別段気にしていない様子だったので、咲も気を落ち着かせてから改めて魔人にたずねた。

 

「それで……魔人さんはいつから、いえ、どうやってここに……?」

「つい先ほど、これで参りました」

 

 魔人はそう言って白い手袋をはめた手のひらを上に向けた。すると人一人通れるほどの大きさの、金属でできたような頑丈な輪っかがフッと出現した。

 魔人曰く、彼の魔力でもってほぼどこにでも行ける魔術だという。最初に咲をひょう太の部屋に運んだのも、咲が魔猫に変身した時の出入りも、それを使ったとのことだった。

 

 便利な道具だと驚きつつ、友人の美由から聞いたことがあるアニメに出て来る青い猫型ロボットを重ねてしまい、咲の口角が少し上がった。

 

「ところで……魔人さん、何のご用ですか?」

「あれから一週間経ちましたので、"願い"もお決まりになったかと」

「……以前部屋を片付けていただいたのは、"願い"に入らないのですか?」

「以前お伝えした通り、私の不注意のせいでもあるのでお気になさらず」

「そうですか……」

 

 先週、魔人との別れ際、会話が成立していないように感じられたのは気のせいではなかったのだ。咲は残念に思いながら、願いはまだ決まっていないことを魔人に謝った。

 

「構いません」

 

 魔人は静かに首を振った。咲はホッとしながら火にかけていた鍋を下ろした。

 けれど根本的な解決には至っていない。咲が願いを決めない限り、魔人はこうして不定期に(勝手に)部屋へ訪れる可能性があるということだ。

 

 ——それは困る……!

 

 咲はできるだけ丁寧に、魔術で部屋に来るのはやめるよう言おうと、魔人を盗み見た。

 魔人は紅い瞳を見開き、しげしげと何かを見つめている。視線は咲の手元。鍋の中身に興味があるようだった。

 

「あの、どうかしましたか?」

「それは何の獣の血液ですか?」

「血ではないです……!」

 

 たしかに赤いですが、と苦笑したあと、咲はミネストローネだと答えようとした。が、それだけでは不十分かもしれないと思い直した。

 魔界の住人である魔人にどこまで教えるべきか迷ったが魔人は嫌な顔一つせず黙って聞いてくれる。咲は一通り説明していった。

 

「なるほど人間の料理は奥深い……」

 

 そう言って魔人は両目をつむった。目尻に伸びた長いまつ毛と下まつ毛が左右対称に整っている。改めて見ても鼻筋が通った美形だ。

 咲は気恥ずかしくなってきた。

 具材を切って炒めて煮込んだだけのシンプルな調理に、そんなに大げさなことを言われるとは思わなかった。

 

 それを隠すように、咲はまだスープに興味がありそうだった魔人に向かって、

「もしよかったら、ご一緒にいかがですか?」と思わず口にしていた。

 

 魔人は面食らった顔を見せた。

 名前で呼んでほしいと彼にお願いした時と同じ反応だったため、咲は慌てて両手を振った。

 

「あ……っ、すみません急に……。魔界にはない食べ物ですし、口に合わないですよね。ごめんなさい」

「……いえ、いただきます」魔人は小さく言った。

「そうですよね。引き留めてしまってごめんなさ……えっ、いいのですか?」

「咲がそう仰るなら断る理由はないので」

 

 それが当たり前だとでもいうような言い方に、咲はもの悲しさを覚えた。その理由はすぐにわかった。魔人に命令だと思わせてしまったのが悲しかったのだ。

 

「そういうつもりで言ったわけではないんです。あ、でも、もしそれが"願い"になるなら……」

 

 咲はダメ元で言った。一緒に食事するだけなら魔術を使う必要はない。魔人はたちまち首を振るだろうと思っていた。

 だが魔人は少しうつむき、返答を考えている様子だった。そのあいだ、秋風の涼しい空気が窓から流れ込み、魔人のウェーブがかった髪をそっと撫でていた。

 

「私は魔力さえあれば朽ちることはないので食物を摂取する必要はありません」

「そうなんですね……?」

「しかし味覚はあります。マスターや小僧と食事を共にすることも少なくないですし、口に合わないと思ったこともありません」

 

 つまり……?

 咲は魔人の言わんとしていることが何なのか考えた。

 

 マスターとは言わずもがなメムメムのことだろう。小僧は誰だろうと一瞬考えたが五木荘で当てはまるのはひょう太以外いない。普段から二人と食事するということは、(残念ながら)願いには含まれないということだ。

 そして、咲と昼食をとることも特に嫌には思っていないと考えて良さそうだった。

 

 相変わらず無表情な魔人に向かって、咲はにこりと笑顔を見せた。

 

「では、準備しますね! 少し待ってていただけますか」

 

 咲はテーブルに座るよう促したが、魔人は手伝うと言って聞かなかった。

 冷蔵庫には事前に作って冷やしていたサンドイッチもあり、それを取り出すと魔人が再び興味を示したので、咲はスープと同じように丁寧に説明していった。

 

「これは……野菜の甘味がトマトの酸味と非常に合いますね。ベーコンなどの塩加減もちょうど良く——美味です」

「こちらのサンドイッチも材料は卵とマヨネーズだけのシンプルな具ながら、飽きのこない味ですね。ミネストローネとの相性が抜群です」

 

 魔人がそれぞれ口にしたあとの第一声だった。

 TVで見るような食レポで料理を褒めちぎるので、咲は頬を染め、「あ、ありがとうございます……」とお礼を言うので精一杯だった。

 

 初対面では見た目こそ怖いと思ってしまったが、燕尾服という外見をふくめても魔人はまさに執事だった。言葉遣い、食事の準備、食べ物を口に運ぶ姿——その一つ一つがとても丁寧だった。と思えば、人間の食事に興味を示し純粋に感動する様は、どこか可愛いらしささえ感じてしまう。

 

 突然部屋に現れたことには目をつむろうと、食事に夢中になっている魔人を見て咲は思った。

 

 

 

 しばらく魔人は咲と二人で静かに食事を続けていた。あらかた食べ終えたところで、咲がテーブルに置いていた機械から音が鳴った。

 通信機のようなものだろうか。魔人が考えていると、咲は申し訳なさそうに頭を下げその機械を耳に当て話し出した。

 

「もしもし、どうしたの?」

『咲ー! ごめんー明日の時間割教えて! アプリに入れ忘れちゃってて……』

「時間割? ちょっと待ってて」

 

 機械の向こうからもれる甲高い声。対照的な落ち着いた声で、咲は機械を操作しながら喋っていた。その姿を横目に、魔人は空になった食器類を重ね始めた。

 

 どことなく違和感を覚え、魔人は彼女らの会話に耳を傾けた。

 内容はほとんど分からない。が、咲の口調が随分くだけていることと、つい先ほどまで動揺したり顔を赤くするなどの臆病な態度とは正反対であることに気付いた。

 

 ——だからどうだというのだ?

 

 そう思いながらも魔人はなぜか釈然としなかった。

 咲はこれまで仕えてきた主人とは違う。それだけのはずだ。

 臆病な態度に加え、咲があまりに礼儀正しく接するので、魔人は咲との距離を測りかねていたのだった。

 

「それから明日の古文は小テストがあるからね」

『そうだった! ありがとう〜!』

「範囲はわかる?」

『ええと〜……あ、書いてあった!』

「じゃあ大丈夫だね。それじゃまた明日ね美由」

『うん、ありがと咲! ばいばーい!』

 

 咲は持っていた機械の画面をタッチして通信を切ったようだった。魔人は食器類を全て片付け終え、今はテーブルを拭いているところだった。

 

「ご、ごめんなさい! 準備だけでなく片付けまでしていただいて……」咲はまたへりくだった。

「食事をいただいた身ですからこのくらい当然です」

 

 テーブルを隅々まで拭きあげたあと、魔人は布巾をたたんだ。咲は申し訳なさそうにしている。やはり態度が全く違う。

 わだかまりを不快に思ったものの言葉にするには煩わしい。その考えを振り払うように、魔人は軽く咳払いした。

 

「それから、」

「?」

「咲はもう少し遠慮を捨てるべきです」

「遠慮、ですか?」

「私に対してそうかしこまる必要はありません」

「…………」

 

 咲は目を丸くした。そんなことを言われるとは思わなかった、という顔だ。

 魔人はやや後悔した。理由を聞かれたらうまく説明できそうにない。

 そんな考えとは裏腹に咲は顎に指を当てた。

 

「……魔人さんも一緒だと思うんだけど……でも私もマスターとは呼ばないようにお願いしてるもんね……」咲はぶつぶつとつぶやいた。だが魔人にはよく聞こえない。

 

 やがて咲は魔人に向き直ると、わかったという一言と共にはにかんだ笑顔を見せた。その頬は、先ほど口にしたスープの赤だった。

 

「………トマト」

「えっ?」

「いえ、何でも」

 

 咲の髪がなびく。柔らかな風が赤い頬を隠した。

 

「テーブルありがとう。あとは、私が片付けるね」

 

 はにかんだまま布巾を受け取った咲は、逃げるように、すぐさまキッチンへと向かっていった。

 水の流れる音が遠い。他に手伝うこともない。気もそぞろだった魔人は帰ろうとした。

 

「魔人さん、」咲がためらいがちに呼びかけた。

「お茶を用意しようと思うんだけど……よかったら、飲んで行く?」

「いただきます」

 

 魔人は反射的に答えた。

 出されたお茶を飲み、ひょう太の部屋に帰るまで、魔人は半分上の空だった。

 一瞬だったにもかかわらず咲のはにかんだ笑顔がなぜだか印象的で、彼の脳裏に焼きついてしまっていた。

 

 

 

「ところで魔人さん、次に部屋に来るときなんだけど……できればその、ノックをしてほしいというか……」

「ノック?」

「ほ、ほら、突然来られるとびっくりするから」

「……ではあちらから参ります。小僧の部屋ではそちらを寝床にしているので」

「やっぱりドラえもん……!」

「なんですか?」

「いえ、なんでも!」

 



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#5-1 無欲少女とお買い物

「地味に(いて)ぇな……」

 

 ひょう太は小さくつぶやきながら二の腕をさすった。

 その日は休日で、いつもなら彼は魔人と買い出しに行くころなのだが、できなかった。側にいる魔人も心なしか動くのを控えているようだった。それもこれも昨日の件のせいである。

 なんとなく宿題に取り掛かってはみたものの、身体の節々の痛みでひょう太は集中できずにいた。

 

 いっそ寝てしまおうかと考えていたところに、ぎこちないノックが部屋のドアから聞こえた。返事をしたが応答はない。重い身体を引きずりドアを開けると、(さき)が何かを後ろ手に持ち、気恥ずかしそうに立っていた。

 

青柳(あおやぎ)せんぱい! どうしたんすか?」

「……小日向(こひなた)くんこそ、どうしたの? 身体が傷だらけなような……」

「これは——」

 

 ひょう太は話そうか一瞬迷った。だが咲は魔界のことを知っているし問題ないはずだ。と、自分が傷だらけの理由を語った。

 ひょう太と魔人は昨日、メムメムに強制的に魔界に連れて行かれ、極厳修行場という、メムメムの上司が罰として彼女に与えた試練に無理やり付き合わされたのだ。

 大変な目にあったと話す内、咲の顔はみるみる青ざめていった。

 

「……それは、とても大変だったね……」

「ハイ。マジで大変でした。それで先輩の用って……?」

「それなんだけど……昨日は魔人さんも一緒だったんだよね? 疲れてるだろうし、やっぱり大丈夫——」

「私なら何の問題もありませんが」

「!」

 

 魔人はそれまで静かに横たわっていたが、咲が彼の名を出した瞬間、ひょう太の後ろから顔を出した。目が合うと咲ははにかんで会釈(えしゃく)した。

 

「何かご用でしょうか?」

「あの、お願いがあって……」

「! なんなりと」

 

 成り行きで咲と食事してからいく日か経っている。そろそろまた咲の部屋へ訪れようとしていた魔人は、その手間が省けたと"願い"を促した。咲は隠していた一枚の紙を見せながら言った。

 

「これなんだけど——」

「……?」

 

 魔人には謎の文字列にしか見えず、首をかしげていると、ひょう太があっと声を上げた。

 

「それ、近くのでかいスーパーでやってる冬の特売イベントすよね?」

「うん。これから行こうと思ってて。買いたいものが結構あるから、魔人さんがもし大丈夫なら、手伝ってもらえたらと思ったんだけど……」

「それはもちろん構いませんが……」

 

 まさかそれだけなのか? 魔人は言葉にはしなかったが少々拍子抜けしていた。その表情から、咲は何かしら察したようだった。

 

「……もしかして、これも願いにはならない?」

「もし相当するなら私は小僧の願いを何度も叶えていることになります」

「そっか……いつもは小日向くんとお買い物に行くんだね」

「いつもではありません。宿飯の借りを返しているだけです」

 

 相槌を打ちながら咲は明らかに落胆していた。見せていた紙を丁寧に折りたたみ、その場を去ろうとしていた。願いが叶わないから一人で行くつもりなのだろう。

 魔人は昨日の件で魔力をあらかた消費した。休息が必要なのは彼自身分かっていたが、魔人は無性に彼女を引き止めたくなった。

 

「やっぱり今日は私一人で大丈夫だから、二人ともゆっくり休んでね」

「私も参ります」

「気にしなくていいよ。願いじゃないのに、申し訳ないし」

「以前食事をいただいた礼です。借りは返す主義なので」

 

 

 そうして食い下がった魔人と根負けした咲の二人は、言葉少なに雑談を交えながら、商店街から少し離れた大型スーパーの目の前までやって来た。

 周りの建物に比べて一際大きく目立っている。ひょう太と買い物に行く時はコンビニなどの小さな店に行くことの多い魔人は、しげしげと建物を眺めた。

 

 咲は疲れたひょう太の代わりに買い出しを引き受けていた。スマホのメモと広告用紙を見比べたあと、魔人に向き直った。

 

「それじゃあ魔人さんは、さっき説明した野菜を袋に入れるのをお願いします」

「承りました」

「去年も同じイベントがあったんだけど、私は袋詰めに夢中になっちゃって……」

 

 咲はそう言って項垂れたが、すぐに顔を上げ、両手でグッとこぶしを作ってみせた。

 

「でも、今年は魔人さんが一緒だし、効率的に回れるはず……!」咲はどこか気合いが入っているようだった。

「毎年この日は——戦場になるから」

「⁉︎」

 

 魔人は耳を疑ったが、咲の表情は真剣で、瞳には熱が宿っている。さながら大型魔獣を討伐に行く悪魔の兵士である。

 戦場というのは当然咲の例えなのだが、魔人には途端に大型スーパーが異質なオーラを放っているように見えた。そんな彼の心情を知らず、咲は両手を下げ落ち着いた表情を見せた。

 

「といってもイベントは朝から始まってるし、今は少し落ち着いてるだろうから、ゆっくりで大丈夫なんだけどね」

 

 そう言っておだやかな笑みを見せたが、心なしか期待のこもった眼差しを感じる。魔人は首を縦に振る訳にはいかなかった。

 

「いえ——引き受けたからには死力を尽くしましょう」

「尽くさなくていいよ!」

 

 慌てた咲は早速スーパーへ入ろうと促した。

 屋内へ足を踏み入れた瞬間、咲は目の色を変えた。その理由は魔人にも分かった。中は熱気を帯びており、ところどころ人間がかたまっている。我先に進もうとひしめき合い、落ち着くどころではなかったからだ。

 

「くじ引き、去年はなかった……チラシにもないし……だから人が多いんだ……」咲は小難しい顔で顎に手を当てた。

「魔人さん、野菜、二袋分詰めてもらってもいい?」

「承知しました」

「場所は左のすぐそばにあるよ。私は何か所かまわるから、あそこにあるレジで待ち合わせで良いかな」

 

 魔人は黙ってうなずいた。咲はよろしくお願いしますと頭を下げると、買い物かごをさっと手に取り、くるりと背中を向けた。

 

「咲、ご武運を」

 

 その背に向けて魔人が声をかけると、咲は振り返り照れ笑いを浮かべた。返事する代わりにうなずき、迷わず歩みを進めて行った。

 咲を見送ったあと、魔人は左に目をやった。人間が特に群がっているところがある。咲に指定された場所で間違いないだろう。

 

「しかしうるさいな……」

 

 耳を塞ぎたくなるようなざわめきだ。魔人は眉をひそめた。だが死力を尽くすと答えた手前、彼の矜恃(きょうじ)が許さない。事実魔力は尽きかけている。とはいえ本当に朽ち果てるのはごめんだった。

 

 魔人は右の白い手袋をおもむろに外した。ズズズ……と地響きのような音を立て、右手があらわになる。陶器のような白く冷たい肌、ではなく、鱗や鎧を彷彿とさせる頑丈でかたい皮膚におおわれた、鋭い爪の生えた黒い手だった。

 

 異形の右手を掲げたまま、魔人はつかつかと野菜コーナーに歩み寄った。まわりにいた人々は魔人を目にした途端ギョッとして、一人また一人と退いていく。道は海を割ったようにひらけていった。

 

「さて——さっさと済ませるか」

 

 魔人は右手をギラリと振りかざし、目にもとまらぬ速さで野菜を詰め始めた。そのインクレディブルな手さばきはのちに伝説となった。

 

 

 

 その日、メイドのプルはいつも以上に張り切っていた。

 クリスマス前の商戦として毎年このスーパーで開催される特売イベント。今年は突発的に千円ごとに一回引けるくじ引きが追加されたこともあり、彼女が狙って午後に足を運んでも、人の波は収まっていなかった。

 

 しかしプルはさほど気にする様子もなく、人だかりの中へとずんずん進んでいく。大柄で高身長な彼女にとって、多少人波が増えたところでどうということはない。人々を見降ろしながら、彼女は狙いである冬の旬の野菜たちを次々とかごの中へ入れていった。

 

 そんな中、プルは一人の少女に目を留めた。少女は周囲と同じような背丈でやや華奢な体つきながら、混雑した客の間を器用に縫って歩いていた。計算したような無駄のない動きに、プルは興味を持った。少女のかごの中をちらとのぞくと、長ネギ白菜大根ゴボウ——プルと同じく旬の物を狙っているようだった。

 

 とすると次は里芋舞茸あたりだろうかと、プルは少女の動きを見守った。予想通り少女は遠巻きにそれらのコーナーを眺めていたが、かすかに首を振ったかと思うと、売り場から遠ざかろうとしていた。

 列はできているが少し待てば買えるはずだ。プルは思わずその少女に声をかけていた。

 

「買われないのですか?」

「! 私、ですか?」

「里芋と舞茸なら、あなたの番まで売り切れにならないと思いますよ」

「時間がかかりそうなので他のところに行こうと思います」

「諦めるのですか?」

「その分他の方が買えますし」

 

 少女は周りの混雑を気にしてか少し早口だった。それではと一礼すると、少女は再び縫うようにして野菜コーナーを抜け出て行った。時間の都合があったのかもしれないが、それでもこの場で他の客に譲るという言葉が出てきたことにプルは驚いていた。

 

 少女が去ったあとプルは列に並んでいた。自分の番となり、プルは思い立って里芋と舞茸を余分に入れた。そして少女を追うようにしてその場を後にした。

 

 

 

 咲は精肉コーナーへ向かっていた。スーパーの入口から一番遠いところにあるからか、人は割合少ない方だった。

 

 歩みを緩めながら、咲はつい先ほど出会った女性のことを思い返していた。白の長いローブをまとい、中からメイド服がのぞいているという、周囲から浮いた格好。物腰は柔らかで、どこかの店員というよりは誰かに仕えているような雰囲気があった。

 

 咲が自然とそう思ったのは魔人の影響が大きかった。もちろん魔人を従者などとは思っていない。咲は心の中で強く思った。

 じゃあ、魔人さんは私の何になるんだろう——?

 ふと立ち止まって咲は考えた。が、適切な言葉が浮かばない。

 

 一旦考えを振り払い、咲は豚肉を手に取った。

 今日の夕飯に旬の野菜をふんだんに使った豚汁を作ろうと考えていたのだ。

 

『里芋と舞茸なら、あなたの番まで売り切れにならないと思いますよ』

 

 先ほどの女性に言われたことをふと思い出し、咲は自分の頬が赤くなるのを感じた。

 学生で自炊の咲には中々手が出ない里芋と舞茸。今日の特売日なら、と考えていたが、他の野菜に比べ人気だったようで遠慮してしまった。きっと食べたいという気持ちが表情に出ていたから女性に話しかけられたのだろう。咲は自分に呆れ笑った。

 

 だが今はどうだろう。売り切れたか、もしくは行列が短くなっている可能性もある。確認するだけなら……。咲は恥ずかしさをこらえ、もう一度野菜コーナーを覗いていこうと歩き出した。

 

 しかし、案の定というか、残念ながら二つともすでに売り切れていた。けれどひょう太に頼まれたものや他の目当ての食材は全てかごにある。それらを買えただけ良かったと、咲は魔人との待ち合わせに指定したレジへ向かおうと振り返った。

 

「あっ」

「先ほどはどうも」

 

 あの白いローブの女性だった。お互い頭を下げたあと、野菜コーナーを横目に女性が言った。

 

「売り切れてしまいましたね」

「そうだろうなとは思っていたんですけど……未練がましいですね」

 

 咲は苦笑いでそういって別れようとした。すると、女性が引き止めるようにかごに手を入れ、二つの袋を差し出した。里芋と舞茸だ。意図が分からず咲は首をかしげた。

 

「実は、間違って余分に入れてしまったようです」

「でも……」

「余りの分ですから遠慮なさらず」

 

 女性はほとんど強引に咲のかごに袋を差し入れた。その押しの強さに咲は困ったように、だが嬉しさから笑みがこぼれた。

 

「……ありがとうございます!」

 

 女性は穏やかに笑みを浮かべ返事の代わりに深くうなずいた。彼女も買い物を終えたとのことで、自己紹介を交えつつ、二人はレジへと向かった。

 

 

 やがて魔人の姿を見つけた咲は、プルに目配せして彼の元へ駆け寄った。

 

「待たせてごめんね魔人さ……⁉︎」

 

 魔人が両手に持った袋を見て、咲は驚きその場に固まってしまった。

 じゃがいもと玉ネギが隙間なくぎちぎちに詰められ、パンパンになった袋の口からは溢れんばかりの人参がこれでもかと刺さっていた。

 

「す、すごいね……!」

 

 咲は袋をまじまじと見つめて言った。その目は興奮で輝いている。あまりに無邪気な様子に、魔人は目を見張ったがとっさに平静を装った。

 

「教えられた通りやっただけです」

「ううんそれ以上だよ! ありがとう!」

 

 咲は興奮したまま顔を上げた。あどけない笑顔をまっすぐに向けられ、魔人はその視線から逃れるように両目を閉じた。

 

「……お役に立てて何よりです」

 

 一方咲に追い付いたプルは、二人のやり取りを見て訝しげにつぶやいた。

 

「あれが彼女の同伴者……?」

 



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#5-2 無欲少女とお買い物

 昨日の今日で忘れるわけがない。自身が仕える悪魔狩りの大家(たいか)——ルーヴィンス家が一人娘、オルルをけなした魔人だ。

 実は昨日の極限修業場に連れて行かれたのはひょう太と魔人だけではなかった。メムメムとオルルが試練や罠に巻き込まれるあいだ、魔人とプルはそれぞれの主人の知らないところで張り合っていたのだ。

 

 プルが見据えていると、何も知らない(さき)がレジの方に手招きしていた。

 

「プルさん、私かごの整理をするのでお先にどうぞ」

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」

 

 この少女は一体何者なのか。疑問に思ったプルは言葉に淡々としたものを含ませて先を進んだ。魔人がプルを目にして口を開いた。

 

「! 貴様は……」

「……」

 

 魔人とプルは無言のまま互いに見つめ合っていた。睨み合っていた、の方が正しいかもしれない。不穏な空気を裂くように、咲が間に入った。

 

「あ、あの! もしかして……お知り合い、なんですか?」

「さあ」二人の声がかぶる。空気がさらに重くなった。

 

 関係は気になるがこれ以上聞いてはいけない。咲は瞬時に悟った。

 

 プルの後ろに少し間をあけて咲は並んだ。順番が巡ってくるまで三人は押し黙っていた。ようやくプルの番になり、咲はひとまずほっとしながら、彼女の会計を眺めていた。

 

「お客様、すみませんがこちらの牛肉はお一人様一点まででございます」

 

 レジの店員が3パックある牛肉を差して言った。

 プルが何か言う前に、咲は何を思ったか、とっさにプルと魔人の腕を取って組んだ。

 

「私たち、家族です!」

「⁉︎」

 

 両隣の二人に衝撃を受けた顔を向けられるのも構わず、咲は店員に訴えるように続けた。

 

「一緒にお買い物に来たのですが……お会計は別々にさせてもらえないでしょうか……?」

 

 店員は考える素振りを見せた。どういう家族関係なのだろうという顔だ。不正を働いたことに良心が痛む。内心ドキドキしながら咲は二人と腕を組んだまま、(なるべく)自然な笑顔を店員に向けた。

 

「……そういうことでしたら、問題ないですよ」

「ありがとうございます……!」

 

 その後の会計はスムーズに進んだ。三人でレジを抜けたところですぐ、魔人が深いため息と共に吐き捨てた。

 

「咲に感謝するんだな」

 

 いつもの丁寧な口調とは違う魔人に驚きつつ、咲は慌ててプルに頭を下げた。

 

「いけないこととは分かっていたのですが……さっきのお礼です。ありがとうございました!」

「……お礼を言うのは私の方です。こちらこそありがとうございました」

 

 プルは深々とお辞儀した後、魔人を射抜くように視線を送ったが魔人はしらを切った。

 

 

 それから三人は突発的に開かれたイベントであるくじ引きの特設会場へと向かった。

 中心に置かれたテーブルにはデジタル抽選器のタブレットが設置されている。その後ろのボードには張り紙がしてあった。千円ごとに一回引けるなどのルール説明と、一等から五等までの景品とハズレ賞の用意があるようだった。

 

「一等は商品券2万円分……!」咲が驚きの声を上げた。

「それが欲しいのですか?」

 

 魔人がたずねると咲はハッとして頬を赤らめた。

 

「当たったら嬉しいけど、無理だろうなあ……私くじ運はあまりないから」

 

 咲は苦笑をもらした。

 もし当選すれば、彼女の残念そうな顔は再び無邪気な笑顔に変わるに違いない。考えるが早いか、魔人は咲に提案した。

 

「でしたら私におまかせください」

「え?」

「一等が当たるようあの機械を操作します。野菜を詰めるよりカンタンです」

「ダメだよ」咲はぴしゃりと言い放った。

「そんなこと、絶対しないで」

 

 予想外の反応だった。それがまるで重罪かのような言い方だった。理由が分からず、魔人は言葉を詰まらせた。

 

「あ……っ、ごめんねせっかく提案してくれたのに……でも、そういうのは、やっぱり良くないと思って……」

 

 咲は態度を一変させ申し訳なさそうにした。が、魔人にはその理由も"そういうの"の意味も分からなかった。

 

「いえ……出しゃばったまねをしてすみません」

「……ううん。列ができてるから行きましょうか」

 

 咲は普段の調子に戻ったようだった。プルにも声をかけたあと、先に列へと進んで行く。

 このまま彼女に着いて行くことに魔人はやや気まずさを感じていた。追い討ちをかけるように、プルがぽそりとつぶやいた。

 

「どういう関係なのか知りませんが彼女のことをあまり理解していないようですね」

「……貴様も知らんだろ」

 

 咲の知らない間に二人はさらに火花を散らしていた。

 

 

 

 三人がくじ引きを終えスーパーを出た頃には、空は夕焼けで緋色に染まっていた。

プルは大量の買い物袋と二等である伊賀焼の土鍋を難なく抱え、咲は五等の500円割引券2枚を入れた財布を嬉しそうにカバンに戻した。プルの帰り道も同じ方向だったらしく、咲は二人に気を遣いながら帰路についた。

 

 やがて五木荘の門前まで来ると、咲は歩みをゆるめた。

 

「プルさん、私たちはここなので……」

「私もです」

「えっ⁉︎」

「正確にはこちらに用があるのですが——」

 

 プルが詳しく説明しようとしたその時。突然何者かの怒号が五木荘の庭に響き渡った。

 

「下がれっ‼︎」

 

 沈みかけた夕陽を背に、五木荘の屋根から小さな影が飛び降りる。咲はまぶしさに目を細めた。

 ふわりと目の前に降り立ったのは、怒号の持ち主には到底見えない、天使のような気高さを感じさせる美少女だった。

 

 膝丈まである白いワンピースに、金色に縁取られたあざやかな赤い上着。その手には少女の頭身を遥かに越えた、十字架のような剣を携えていた。ブロンドの長い三つ編みを凛と揺らし、少女は青く澄んだ瞳で咲を睨みながら続けた。

 

「貴様初めて見る顔だが……自らの下僕(しもべ)だけでは飽き足らず、プルまで(たぶら)かしおって……悪の手先め!」

 

 言うが早いか少女は剣を握る手に力を込め、咲に向かって一直線に突進した。

 ——私、ここで死ぬんだ。

 咲は受け入れたように身体を凍りつかせた。両手から袋が滑り落ちた。

 

「⁉︎ プ、プル……どうして……‼︎」

 

 少女は途中で踏み止まった。剣の切っ先はまっすぐに咲を捉えていたが、魔人とプルが咲を庇うように立ち塞がっていたのだ。プルの行動に余程ショックを受けたのか、少女は弱々しく声を震わせた。

 

「落ち着いて下さい、お嬢様——こちらの方は悪の手先ではありませんし、私は誑かされておりません」

「そっそれが本当なら、なんでお前は黙って立ってるの⁉︎」

 

 そう言われて始めて咲は気付いた。たしかに否定する時間はあった。逃げることもできた。咲の身体が小刻みに震え出した。死を受け入れようと覚悟はしたものの、恐怖で立ちすくんだのも事実だった。咲は瞳からはらはらと涙をこぼした。

 

「……言っても変わらないこともあるから……それで死ぬことになってもいい……私の責任なら、誰も困らない」

 

 咲は絞り出すように声を発した。その姿を背中越しに見た瞬間、魔人が少女の剣先を掴んだ。

 

「悪魔狩りは人間にも手を出すのか?」

「貴様何を……」

 

 魔人は剣を掴む手に力を込めた。刃に指が食い込み千切れそうになっていたが、それも気にならないほど彼は感情が昂っていた。

 

「剣をおろせ」

「! それ以上やれば消滅——」

「貴様の耳はザルか? 剣を——おろせ」

「……お嬢様、(しゃく)ですがここは一旦言う通りになさいませ」

「く……ッ」

 

 魔人の威圧的な態度とプルの説得に、少女は渋々剣をなぎ払い、ザンッと地面に振り下ろした。刃が深く土にめり込む。衝撃で亀裂が入り、あたりの草花がきれいに両断されていた。その重みと切れ味の鋭さに咲はゾッとしてすぐさま魔人にかけ寄った。

 

「魔人さん‼︎」

「ここはキケンです。すぐに避難を」

「手は⁉︎ 大丈夫⁉︎」

 

 咲は魔人が転移の魔術を発動させようとしていた手をそっとつかんだ。その手のひらを見て、小さな悲鳴をあげるように息を呑んだ。

 

 魔人の手は4本の指全てが根元まで裂けていたのだ。白い手袋の布一枚で辛うじて繋がっているだけなのに、指は何の問題もなく動いている。その断面からは血が出ず、ただただ黒い。よく見れば裂けたあたりが煙のように揺らめいていた。

 

「ど……どうなってるの……?」

 

 咲はその痛々しい手をつかんだまま震え、かすれた声で聞いた。魔人は裂けた部分を隠すように手を下ろした。

 

「心配は無用です。私は魔力によって具現化されたモノですから、痛みは感じません」

「物じゃないでしょ? 人でしょう?」

「!」

 

 ランプは道具だがその精である魔人は違う。血は通っていないようだしやや冷淡に感じられることもある……が、そういう感情のあることが人である証拠だ。と、咲は考えを巡らせた。

 魔人を仰ぎ見ると、何か言いたそうな、それでいて返答に困ったような様子でいた。咲はあっと気付いた。

 

「人じゃなくて、悪魔……?」

「悪魔とも違いますね。魔人です」

 

 真面目な顔でそう言われたのがなんだかおかしくなり、咲はぎこちなく笑った。

 

「じゃあ……本当に、大丈夫なんだよね?」

 

 魔人はうなずいた。よかったと胸を撫で下ろし、咲はありがとうございました、と肩をすくめた。

 

「魔人さんには、助けてもらってばかりですね」

「主人を守るのは当然のことなので」

「……主人……」

 

 その響きがしっくりこず、咲が再び考え始めたところで、プルが咲に呼びかけた。その後ろで少女が顔をのぞかせている。魔人がさっと間に入った。二人を牽制するように目の前に出された右手。咲はその手袋を盗み見た。指の根元は揺らめいたままで、その先から泡のような何かが漏れ出ては消えていく。

 

 痛みはないと魔人は言った。だから安心しきっていた。

 もし嘘だったら——?

 咲の心に不安がよぎる。どちらにしろ良い状態でないのは明らかだった。

 これ以上迷惑はかけられないと、咲は小声で言った。

 

「魔人さん。私なら、大丈夫です」

「しかし——」

「でも、右手……このままじゃ良くないでしょう……?」

「…………」

 

 魔人は分かってくれたのかゆっくりと手を下ろした。

 咲が二人の目の前に歩み寄ると、プルが深々と頭を下げた。

 

「お嬢様の非礼をお詫びします。なにより危険な目に合わせてしまったこと、大変申し訳ありませんでした」

「いいえ! プルさんのおかげで何ともありませんでした」

 

 咲は安心させようと大きく首をふったあと、プルの後ろに気まずそうに隠れる少女を見やった。令嬢らしく、今は表情こそいたいけで可憐だが、背中に負った大きな剣が勇ましい。咲は緊張しながらも少女に向かって微笑みかけた。

 

「な、なっ何よ! お前がいけないんだからね! あの下僕と一緒にいるのにプルとも仲良くしてるから……!」

 

 少女はプルにしがみつき喚いた。

 思えば少女はさっきも魔人を下僕だと口にしていた。三人は顔見知りで(なぜか)敵対している。二人がどういう立場なのかはともかく、誤解を解く方が先決だと咲は思った。

 

「勘違いさせてごめんね。プルさんとは今日知り合ったばかりで、魔人さんは私の下僕じゃないよ」

「下僕じゃなかったら何だ!」

「大事な友達だよ。あなたがプルさんを大事に想うのと一緒で」

「!」

 

 少女はプルと咲を交互に見比べた。プルが同意するようにうなずく。少女は苦々しい顔で数秒考えたかと思うと、フンと鼻を鳴らしながら片手を差し出した。

 

「オルル・ルーヴィンスだ! 非礼をわ、詫び……わるかったな!」

「私は青柳(あおやぎ)咲です。よろしくねオルルちゃん」

 

 咲はにこりと握手を交わした。オルルの白く小さな手は、やはりというべきか見た目に反して力強かった。

 

「自らの無礼を認め謝罪まで……ご立派です、お嬢様」

「当たり前でしょこのくらい!」

 

 咲はプルとオルルのやり取りを微笑ましく見つめた。夕陽はアパートに隠れてあたりが暗くなり始めている。咲はそうだ、と両手を合わせた。

 

「そろそろ夕食の時間ですね。良かったら一緒にどうですか? 材料もたくさんあるし……鍋もありますし」

 

 そう言って咲はプルに目配せした。意図を汲んでくれたらしく、プルもにこりとうなずいた。

 手放していた荷物を取りに戻ろうと咲が振り返ると、魔人が難しい顔をしていた。やはり傷が痛むのだろうか。

 

 咲が不安そうに声をかけようとすると、魔人はぽつりと

「……トモダチ、ですか」とつぶやいた。

「咲は私を友達だと思っているのですか」

「! 友達だなんておこがましいよね、ごめんなさい……でも主人とかマスターは、やっぱり私には身に余るというか……」

 

 何より魔人を下僕だと思われるのを避けたくて咲はオルルに友達だと言った。魔人には不快だったかもしれない。

 だが彼はそこには触れなかった。

 

「……友達とは具体的にどういう間柄を指すのですか?」

「えっ⁉︎ 親しい間柄、かな?」

「親しい間柄……」

「ええと、対等な関係で——」

 

 あらためて聞かれると"友達"さえうまく言葉にしづらい。咲はもっとわかりやすい言い方はないかとスマホで調べ始めた。

 互いに心を許し合う。一緒に過ごすと楽しく、安心する。

 ——もしかして、ちょっと違う……?

 咲が疑問に感じていると、魔人もまた同じことを小さく口にした。

 

「いや……アレは、違うな……」

「"アレ"? あ……っ!」

 

 魔人が何を指していたのか気付いた咲は、自分のした大胆な行動に赤面し魔人に弁解する羽目になった。

 

『私たち、家族です!』

 



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#6 無欲少女のそういう話

 二学期の終業式も間近に迫ったある日の放課後。

 (さき)美由(みゆ)とくろねこケーキ屋に訪れていた。正確には、咲がその日シフトが入っていないことを知った美由が、学校で話すには時間が足りないからと、なかば無理やりケーキ屋に連れて来たのだ。

 

 一階は洋菓子の販売のみだが、二階はフロアの半分がイーティングスペースになっている。ちなみにもう半分は倉庫だがここ最近は従業員の衣装部屋と化している。

 今はちょうど誰もおらず貸切状態な中、二人は外の景色を眺められるカウンター席に座った。

 

 下で購入した紅茶を口にしながら、咲は商店街を見下ろした。

 空は暮れかかって暗いのに対しきらびやかな街中。ほとんどの店先が電飾に彩られ人通りも多い。聖なる夜が近いせいもあって楽しげな表情がうかがえた。

 

「それで、どうしたの?」

 

 店長が特別に出してくれた限定のシュトーレンに夢中になっている美由に、咲は話しかけた。小動物のように頬張っていた美由はごくんと焼き菓子を飲み込んだあと、慌てて片手を突き出した。

 

「待って! その前に確認させて! 今年のクリスマスの予定は?」

「バイトだけど?」

 

 咲は即答した。美由は目をぱちくりさせうーんと腕を組み考え込んだ。

 

「でもアレは絶対咲だった……」

「美由、何の話?」

「先週の日曜日何してたの?」

「日曜は買い物ぐらいかな」

「誰と?」

 

 尋問のように美由がたずねる。核心をついた質問! とでも思っていそうな顔だった。

 

 先週の日曜といえば、咲が魔人に買い物に付き合ってもらい、プルやオルルと知り合った日だ。美由も近くに住んでいるのだから見られていてもおかしくない。だが詳しく説明するには色々とややこしい。

 一瞬身が固まったが、咲は動じない風にカップをソーサーにゆっくりのせた。

 

「友達だよ」

「ふーん。咲にいつの間に買い物が一緒にできるくらい仲良しな大人なイケメンのオトモダチがいたなんて美由おどろきだよー」

 

 棒読みでわざとらしい言い方をした美由を咲は軽くにらみつけた。

 

「美由……」

「だって! 私、咲見つけた時声かけようと思ったけどそんなことできる雰囲気じゃなかったもん!」

「どういう意味?」

「アレは完全にデートだった!」

「デ……っ!」

 

 咲は復唱できず頬を少し赤らめた。美由はやっぱりと言いたげに意地悪く笑っている。けれどここで慌てて否定してしまっては逆に肯定を意味してしまう。

 

 咲は自分のシュトーレンにフォークを入れた。洋酒に染みたドライフルーツとナッツの生地がとてもやわらかい。崩れそうになるのをまとめながら、咲はおだやかに話し出した。もちろんその友達が魔界の住人であることは伏せて。

 

「……同じアパートに住む社会人の人?」

「そう。先月知り合ってね。先週はスーパーのセールで買いたいものがたくさんあって、手伝ってもらってたの」

 

 魔人を人間らしく設定するとそんな感じだろう。というかそれ以外に上手い言い方も思いつかない。咲は心の中で美由と魔人に謝りつつ返した。

 

「へ〜。じゃ、やっぱあの燕尾服ってコスかあ」

「……コス?」

「最初はセバス様かファフ君かと思ったけど髪型はバイツァ・ダストぽいようで違うし……自キャラかな?」

「???」

 

 美由の口から出てくる単語や固有名詞が一つも分からず咲は首をかしげた。

 

「あっごめん。咲には分からなかったね」

「気にしないで」

 

 そう返しつつも咲は疑問符を頭上に浮かべたままカップを傾けた。が、次の美由の言葉に紅茶を吹き出しそうになってしまった。

 

「分かりやすく言うと、魔界から来た悪魔の執事のコスプレしてるって感じ?」

「‼︎ そっそうかな……?」

「ってかそういう執事喫茶ありそう!」

「し、執事喫茶……?」

 

 それこそ核心をついた発言だが美由本人は気付いておらず、目をキラキラと輝かせている。執事喫茶に夢をはせているようだった。

 咲が内心ドキドキしながらシュトーレンを食べ進めていると、美由が現実へと帰って来た。

 

「そーいえばその人とは買い物だけ?」

「ううん。部屋で一緒にごはん食べたこともあるよ」

「⁉︎」

 

 美由は口をあんぐりと開けたままフォークに刺していたかけらをボロボロと皿にこぼした。咲は紙ナプキンを渡したが、美由は半分ぽかんとしたような表情で受け取った。

 

「部屋でごはんって、え? 二人っきりで?」

「そうだけど……?」

「だ、大丈夫だったの⁉︎」

「大丈夫って、何が……?」

「いやあの、貞そ……ゲフううんなんでもない」

 

 美由はあわてて首を振り紙ナプキンで口をぬぐったあと、急に真面目な顔で言った。

 

「その人紳士じゃん」

「正にね。だってあのあと——」と、咲は先週の日曜日のことを話し出した。

 

 咲がプルたちと夕食を共にしようと提案したあと。最終的には五木家やひょう太たちも巻き込んで大所帯での鍋パーティーが開催された。

 そのあいだ、咲は準備や後片付けに回っていたが、それ以上に魔人が細かい気配りに長けており、積極的にフォローしてもらっていたのだ。

 

「紳士っていうかスパダリ……!」

「え?」

「ううんなんでもない。でもその人ちょっとかわいそうだね咲って鈍感だから」

「私が、鈍感?」

「ううんなんでもない」

「美由そればっかり」

 

 美由はへらっと笑いごめんごめん、と両手を合わせた。

 

「咲は高校生よりそういう大人な人が似合ってるって思っただけ」

「似合ってるって……」

 

 咲は思わず魔人とそういう関係にあることを想像しそうになってしまった。が、すぐに振り払って全否定した。

 

「ないない! その人はそういうのじゃないから……!」

「ふーん?」

 

 美由は納得のいってなさそうな表情だった。いっそ全て説明してしまった方が楽かもしれない。だが魔界だの悪魔だの現実離れした出来事を大っぴらに話して友人まで巻き込む訳にはいかない。

 そう考えた咲としては、上手く補足を入れたつもりだった。

 

「その人今色々理由があるみたいで、同じアパートに住んでる一年生の小日向(こひなた)くんていう子のところにいるんだよね」

「いるって……一緒に住んでるってこと?」

「そんな感じかな? だから恋愛とかしてる場合じゃないというか……美由?」

 

 美由はなぜだか雷に打たれたような顔をしていた。

 咲には黙っているが彼女はいわゆる腐女子であり、咲の言葉によってそういう妄想をしてしまっていた。

 

「何その設定もう約束されてるじゃんオチが」

「美由?」

 

 妄想の止められなくなった美由は興奮を抑えるように両手で顔を覆い、肩で息をしながら話し出した。

 

「……ごめん咲……私、咲を応援できないかも……」

「応援って何の?」

「このままだと咲はかませ犬だから……本当にごめん……」

「かませ犬⁉︎ さっきから何の話……?」

 

 美由は具体的なことは何一つ言わずまだ興奮したまま。当然咲には何の話だかさっぱり分からない。彼女が落ち着くまで、咲は外のイルミネーションを眺めたりケーキを食べたりして待つしかなかった。

 

「ふう……ありがとう咲、身を引いてくれて……」

「う、うん……?」

「だから咲はイブも当日もバイト入れたんだね」

 

 美由が妙に慈愛に満ちたような瞳で見てきたが、理解もままならないので、咲はとりあえず美由に合わせるようにうなずいておいた。

 

「それじゃ、クリスマスが終わったら咲を慰める会開くからね!」

「あ、ありがとう……?」

 

 ケーキ屋を出て帰り際、美由にそう言われた。あまり長話をしたつもりはなかったが、空はもう陽が落ちイルミネーションに隠れて月がほんのりと輝いている。

 咲は手を振りながら、一体自分は何を慰められるのだろうかとぼんやり思いつつ、魔人に関しては一応説明できたのだし大丈夫だろうとも考えていた。

 

 

 

 

 咲が五木荘の自室に帰りしばらくすると、押入れからノックがあった。一見奇妙に思える状況だが咲は別段驚くこともなく、にこやかにそちらに向かって声をかけた。

 

「魔人さん? どうぞ」

「失礼いたします」

 

 ふすまが静かに開いた。バスケットを抱え正座していた魔人が、ふわりと床に降り立った。押し入れからという点をのぞけば、さながらルームサービスとしてやってきたスタッフだった。

 

「家主からクッキーをいただきましたが、咲もいかがですか?」

「わあ、美味しそうだね。紅茶の用意してくるよ」

「私が淹れますので座っていてください」

「いつもありがとう。じゃあ、お願いするね」

 

 魔人は承りましたとうなずいてキッチンへ向かうと、手慣れた様子でポットやカップを取り出して行った。咲は魔人から受け取ったバスケットをテーブルに置き、彼の分のクッションを向かいに用意した。

 

 ここ最近、大家は魔人を通して菓子や惣菜をお裾分けしてくれるようになった。魔人は今も庭掃除などを頻繁に手伝っているらしく、もう立派なアパートの副管理人的存在である。格好が格好なのでどちらかというとホテリエだが。

 

 ともかくそういう理由で魔人が頻繁に咲の部屋を訪れるようになったため、初めはノックがあるたび肩をびくつかせていた咲も、今では大分慣れ魔人を迎えられるようになっていた。

 

 

 やがて魔人はティーセットをテーブルまで運んで来ると、先ほどと同様慣れた手つきでカップに紅茶を注いでいく。燕尾服に白い手袋を身に付けた魔人の優雅な所作は、やはり何度見ても執事のようだ。アパートの一室で魔人の姿は浮くはずだがそれも気にならないほど咲は見とれ、思わず口にしていた。

 

「魔人さんは絵になるね」

「そうですか」

 

 魔人はカップに目を注いだまま淡々と答えた。褒め言葉のつもりだったがあまり嬉しくなかったかもしれない。というか言われ慣れているのかもしれない。と、咲は余計に恥ずかしくなった。

 

「熱いのでお気をつけて」

「う、うん。ありがとう」

 

 魔人は咲の目の前に紅茶の入った白いカップとミルクピッチャーを音もなく置いた。カップから湯気と共にほのかに甘い香りが漂う。中の紅茶は深い赤褐色で底が見えないほどに濃い。咲はミルクピッチャーを手にした。冷たすぎず人肌程度に温めてある。至れり尽くせりで申し訳なく思いながらも、咲はミルクをカップに注ぎ入れた。

 

「おいしい……!」

 

 紅茶を一口飲んで咲が言った。強いコクにまろやかな渋み。バイト先で飲んできた紅茶とはまた違った優しい味だった。

 魔人は黙ってうなずき咲がバスケットから取り分けたクッキーの皿を差し出した。

 

「クッキーに合うと家主から聞きましたので」

「たしかに合いそうだね」

 

 咲はさっそくクッキーを一つ手に取り口にした。たっぷりと生地に練り込まれたバターの風味がミルクの余韻(よいん)と合わさって口に広がり、咲は自然に笑顔を浮かべた。

 しばらく魔人と二人お茶の時間を過ごすあいだ、咲はカフェで交わした美由との会話を思い返していた。

 

 美由が急に顔を真っ赤にしたのは、魔人がひょう太と一緒に住んでいると伝えてからだった。よくよく考えてみれば訳ありな社会人が部屋主である高校生と同居しているという設定は無理があったかもしれない。しかし二人共男性なのだから何の問題もないはずだ。

 

 咲はあっと口に手を当てた。いや違う。二人共男性であることが問題なのだ。美由が"咲を応援できない"とか"かませ犬"だとか言ったことも、つまりはそういうことなのだと咲は片手で顔を覆った。

 

 すぐに訂正しなければと咲は思ったものの、魔人とひょう太が部屋でどう過ごしているか分からないし実際には二人だけでなくメムメムもいる。それにひょう太は客観的に見ても分かりやすいぐらい、大家の娘である杏に好意を持っているはずだ。

 

 ——じゃあ魔人さんは……?

 咲は彼を盗み見たつもりだったが、視線がばっちりと合ってしまった。

 

「先ほどから落ち着かないようですがどうしました?」

「ええと……その、ですね……」

 

 咲は口ごもった。美由のようには話を聞き出せそうにない。咲は言葉を慎重に選びながら口を開いた。

 

「魔人さんは……誰かに好意を持ったりするのかなって、ちょっと気になって」

「好意、つまり色恋ということですか」

 

 咲がうなずくと魔人は途端に顔をしかめ、

「願いとして叶えたことは何度もありますが、私自身は——」と言葉を探しているようだった。

 

「無理に答えなくていいよ! ごめんなさい、失礼な質問だったね」

「いえ。否定する気はありませんが……そもそも私に好意を持つ物好きがいるとは思えませんね」

 

 おそらく誰から見ても(美由もイケメンだと言っていたし)美丈夫(びじょうふ)な魔人から自虐的な言葉が出てくるとは思わず、咲は目を丸くした。しかし咲が返したのはそんなことないよ、という否定の言葉ではなかった。

 

「……私もそうかもしれない」

 

 咲は苦笑してどこか不思議そうな顔をしている魔人に続けて言った。

 

「魔人さんとは意味合いが違うかもしれないけれど」

「どれだけ求愛されてもですか?」

「えっ?」

 

 見知ったような魔人の発言にどきりとして咲は聞き返した。

 

「おや違いましたか。小僧伝いに聞いたことなのでお気になさらず」

「そう言われると余計に気になるのだけど……。小日向くん、何て言ってたの……?」

「簡潔に言うと"引く手あまたで恋人には困ったことがない"と」

「なっ……」

 

 咲が高校に入学してからだった。制服に合うよう身だしなみに気を遣ったせいなのか、人生で初めて告白された。その後も何度か呼び出しを受けたことはあるが、咲はそのどれにも首を縦に振らなかった。

 

 ——でも引く手あまたというわけじゃないし誰かと付き合ったこともないのに!

 咲は肩をすくめ気を紛らわすようにカップを手にした。

 

「大分誤解されている気がする……」

「まあ、栓無き噂です。現に咲は"好きな人はいない"と言っていましたしね」

「うん……魔人さんに聞いておいてなんだけど、私は自分が誰かに好意を持つのを想像できなくて、余計にそう思うのかも……」

 

 咲はミルクティーを飲み干したあとカップを見つめた。空っぽで混じり気のない白。心の奥底でそうありたいと、咲は漠然と願っていた。欲の無い、何色にもなれる可能性がありながら何にも染まらない存在に。

 恋愛は特に欲に染まりやすいと咲は考えている。想像できないのではなく、したくなかった。

 

「なるほど」と、魔人が顎に手を当てながら言った。

「全てに恵まれ現状に満足しているとあり得るんでしょうね」

「……今は、そうだね」

 

 咲は大きくうなずいた。五木荘に入居してから咲の周りの環境はガラリと変わった。恵まれているのはたしかだ。

 

「となると。願いを叶えるつもりは当分ないというわけですか」

「うっ……そうなっちゃうねごめんなさい……」

「どのみち今はランプに戻れないので構いません」

 

 魔人は気にしていない風に真顔で首を振ったが、咲は気まずい思いを抱いた。本当に魔人が構わないと思っているなら、数日置きに部屋に訪れなどしないはずだ。ランプが壊れた経緯や魔人の現状を咲はその時に知った。そこにいつまでも甘えるのは良くないがと考えつつ、咲は話をそらした。

 

「魔人さんこそ恵まれているよね。何でもできるし、その、容姿だって——」

「……それは咲が物好きという話ですか?」

「? ち、違うよあくまで一般論で……!」

「そうですか」

 

 あわてて咲は否定した。魔人も特に深く追求しないまま、ポットを手にし颯爽(さっそう)とキッチンへ向かった。

 それが後々肯定に変わるフラグになろうとは、この時の二人は思いもしなかった。

 

 



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#7 無欲少女とクリスマス

 その日、ひょう太と魔人はクリスマスケーキを求めて商店街を歩いていた。行き交う人々の表情が明るい中、ひょう太はケーキ屋を探し、魔人はいつもと違って派手な装飾をした街や人を物珍しげに眺めていた。

 

「ケーキ屋は確かこの先だったような……」

「その辺りに人だかりがありますね」

 

 魔人の指した先にくろねこケーキと描かれた看板を見つけ、ひょう太たちが向かうと、ケーキ屋の入り口を囲むようにして大勢の客が固まっていた。その多くは男性で、カメラやスマホで中心にいる何かを熱心に撮っているようだった。

 

 ひょう太が隙間からのぞくと、黒猫とサンタを組み合わせた可愛いらしい衣装を着た女の子が声を張り上げていた。

 

「お客さま押さないでください! クリスマスケーキ購入の方はこちらに並んでお待ちください……!」

「人すご! ってかこの声って——」

 

 ひょう太は目を凝らしてその中心を見た。

 

「やっぱ青柳(あおやぎ)先輩じゃん! けどこれじゃ声かけらんないか……って魔人さんは?」

 

 忽然と姿を消した魔人を探そうとひょう太が見回していると、突然人だかりからどよめきが起こった。

 

(さき)! これは一体何事ですか‼︎」

「まっ魔人さん⁉︎」

 

 魔人は人の壁をすり抜け咲の前に現れた。

 コスプレ会場で積極的なカメコからレイヤーを守るため現れた警備員のごとく、咲の周りを固める群衆を制し立ちはだかっていた。(魔人自体レイヤーのようだが、とひょう太はひそかに思った)

 咲は驚きつつも魔人に答えた。

 

「今仕事中で……」

「これが……⁉︎ 詳しく説明を——」

 

 そう言って魔人は後ろを振り返ったが、咲の胸元や太ももがあらわになった衣装を直視すると、何も聞かずに人だかりへ向き直り無言で周りを威圧した。彼の覇気に耐えられず群れは段々と薄れ、最終的にはケーキを購入する客の列のみがその場に残った。

 

「覇王色かな……?」

 

 ひょう太はそう呟いたあと魔人と咲の元へ歩み寄った。

 

小日向(こひなた)くん! そっか、二人でお買い物してたの?」

「はい。にしてもさっきの人すごかったっすね」

「あはは……いつの間に人がいっぱい集まっちゃって……。ちょっと派手だもんねこの衣装」

 

 咲が肩をすくめると、それに合わせて彼女が身に付けている猫耳としっぽが可愛く揺れる。普段は大人っぽい彼女の恥じらう姿+黒猫サンタ衣装はひょう太にはこうかばつぐんだった。

 

「衣装のせいだけじゃないと思うけど……」

「?」

 

 ひょう太がぽそりと頬をかいていると、魔人が間に割って入るように言った。

 

「小僧、ケーキを買いに来たのでは?」

「あっ」

「そうだったの? ちょっと待っててね」

 

 咲はケーキ待ちの列が途切れたのを確認したあと入口横で街頭販売しているカウンターへ向かった。

 隣に設置されたショーケースには大小様々なケーキがまだいくらか残っている。咲はカウンター側に立っていた店長らしき人物と何やら話してから、一番大きなデコレーションケーキを取り出しレジに金額を打ち出した。

 

「先輩、そっちの小さいのと値段がいっ——」

 

  ひょう太が言いかけたのを咲は唇の前に指を立て「しーっ」とさえぎった。そして苺と生クリームがたっぷり盛られたケーキをさっと箱に詰め、ひょう太に差し出した。

 

「こんな大きいやつ、いいんですか?」

「もちろん! 小日向くんたち3人で住んでるし、せっかくだから」

「住んではないです」

「でもみんなで食べるんだよね?」

「まあ、そうなんですけど……」

 

 咲はふふ、と笑ってひょう太とやり取りしたあと魔人に向き直った。

 

「魔人さんのおかげで助かったよ、ありがとう」

 

 魔人は考え事をするような顔つきで黙って頭を下げた。彼の口数が少ないのはいつものことなので咲は特に気に留めなかった。が、咲がカウンターから離れようとしたところで魔人が重い口を開く。どこか厳しい口調だった。

 

「咲はこのまま中にいるべきです。でないとまた同じ事態になりかねません」

「た、確かに。ちょっと聞いてみてから——」

「それから。咲はもう少し仕事を選ぶべきかと」

「!」

 

 有無を言わさない魔人の態度に咲は言葉が出なかった。魔人はその様子を知ってか知らずか、「では」と一礼したと同時に、ひょう太を置いて行くようにその場から去って行った。

 

「え、ちょ、魔人さん⁉︎」

 

 ひょう太が慌てて咲を見やると、彼女はわずかに表情を曇らせていた。だがひょう太の視線に気付くとすぐに口角を上げて言った。

 

「私は大丈夫だから気にしないで。ケーキを買いに来てくれてありがとう」

「先輩……。こっちこそありがとうございます!」

「どういたしまして。メリークリスマス!」

 

 

 咲と別れたあとひょう太は人ごみの中、急いであたりを見回した。

 魔人は案外店の近くに立っており、ひょう太の姿が視界に入った途端、無言のまま歩き出した。

 ひょう太が気まずさから魔人をちらちらと見ていると、魔人が前を向いたまま口を開いた。

 

「何です?」

「あ、いや、魔人さんが先輩に怒るの珍しいなーと思って……」

 

 魔人の太い眉がピクリと動いた。

 

「怒る? 私が? まさか——咲の身を案じたまでです」魔人はやや早口になった。

「初めはサンタとやらに(ふん)してプレゼントを配っているのかと思いきやアレでは逆、人間から魂をとっているも同然です。あんな、見世物(はなは)だしい衣装で……有り得ん……」

「お、おん……」

 

 魔人はつらつらと語り続けている。一理あると感じた以上にそれを怒っていると言うのでは、という言葉をひょう太は飲み込み、とりあえず頷いておいた。

 

 

 

 

「お先に失礼します。お疲れさまでした」

 

 くろねこケーキ屋の閉店後。咲は店内にいるスタッフに挨拶しロッカールームへ向かった。帰り支度を始めたものの、その動作はいつもより遅い。それは疲労のせいだけではなかった。

 

 あれから魔人の提案通り、咲はカウンター内の接客に回してもらえることになった。忙しくはあったが再び注目を浴びることはなく、無事仕事を終えることができた。それ自体は魔人のおかげだ。

 

『それから。咲はもう少し仕事を選ぶべきかと』

「……それってこの衣装のせいだよね……」

 

 咲は自身を見下ろしてため息をついた。改めて見てもこの寒い季節に外に出るには薄すぎる格好だ。

 仕事中は忙しさもあって寒さは気にならなかったが、最後に言われた魔人の台詞だけは咲の心に引っかかっていた。

 

 ——お礼はまたあとで伝えるにしても。今は会いづらいな……でも今日はもう遅いし、顔を合わさないですむはず……。

 

 咲はうつむき加減でコートを手に取り羽織った。そのことばかり考えていたせいで、咲はしっぽのついたサンタ衣装はもちろん、猫耳のついたカチューシャを外すことさえ忘れてしまっていた。

 

 外へ出た咲の口から白い息があふれる。

 商店街は相変わらずイルミネーションがきらびやかで、街をゆくのはほとんどがカップル層だった。日中はスレイベル響きわたる陽気な音楽ばかり流れていたが、客層に合わせてか今はスロージャズにアレンジされた定番の曲をピアノやサックスが歌っている。

 

 しかしそのどれもが今は虚しい。咲は重い足取りで帰路につく。

 何人かが咲を見ては頭や背中を指していったが、彼女がそれに気付くことはなかった。

 

 

 咲は五木荘へ着いても庭をゆっくり眺める余裕なく、静かに玄関を開け中へと入った。

 いつものことではあるが咲が最後に帰って来たらしい。自室に着くまでどの部屋もしんと静まり返っていたのが余計に咲を心細くさせた。

 

「あれ? 電気が点いて——」

 

 ドアノブをひねりながら咲はつぶやいた。まさか、と思った瞬間中から声をかけられた。

 

「お帰りなさい咲」

「‼︎」

 

 咲は一瞬肩をびくつかせたが、声の主がすぐに分かり愛想笑いを浮かべた。

 

「魔人さん……た、ただいま……」

「遅かったですね」

「う、うん。商店街の飾り付けを見ながら歩いてたら、遅くなっちゃった……」

 

 どうして魔人さんが? 咲は気まずさから彼に背を向け、ハンガーラックへ向かった。風が強くなったらしく窓がガタガタとゆれる。

 咲はコートのボタンを外しながらテーブルを横目に見た。その上にはバイト先で何度も箱に詰めた見慣れたケーキが一切れとワインらしきボトルが置かれていた。

 

「そのケーキって、もしかしてさっきの……?」

「はい。安く購入できたお礼として持って参り————」

「………?」

 

 魔人の言葉が急に途切れたため咲が不思議に思って振り返ると、魔人が無言で眉をひそめ、咲を見て固まっていた。

 その視線の先がやたら寒い。窓から風が入り込んだせいかもしれないと、咲は魔人の視線をたどり、そして悲鳴を上げた。

 

「そんな……私、衣装のまま……⁉︎」

 

 おそるおそる頭に手をやると、触れたのは自分の髪ではなくフサフサしたやわらかな猫耳。咲は恥ずかしさでその場にへたり込んだ。

 

「衣服はあの店にあるのですか? すぐに行きましょう」

 

 魔人が人差し指を立て転移の輪を出そうとしたのを咲はやんわり止めた。こんなことに魔術を使わせてしまうのは申し訳ないと思ったからだ。

 

「大丈夫……明日もまたバイトしに行くから……」

「明日も?」魔人の紅い瞳が鋭く光る。

「仕事は選ぶよう言ったはずですが」

「そ、そのことなんだけど……!」

 

 咲はパッと立ち上がり魔人に向き直った。

 本当はあまり聞きたくないが理由はまだはっきりと聞けていない。咲は膝の上でひらひらしている赤いスカートを無意識につかんだ。裾にパイピングされた白いファーが勝手にめくれ上がり、太ももがさらに明かりに照らされる。

 

「やっぱり……この衣装が似合ってないから、だよね?」

「は?」

「その、魔人さんならはっきり言ってくれると思って……」

 

 魔人は顎に手を当て咲を見据えた。また何か厳しいことを言われるかもしれない。咲が身構えていると、魔人は衣装から背くようにふいと視線をそらした。

 

「なぜその話になるのか分かりませんが、咲は何か勘違いしているようです」と、魔人は軽く咳払いした。

「あの時人だかりにいたのは大半が男衆——あわよくば咲につけ入ろうという品のない顔つきばかりで相応しくないと思いまして。その衣装がサンタクロースを模しているのなら」

「……!」

 

 咲はみるみる内に顔を赤くした。ちょうど衣装の色と同じくらいに。

 サンタクロースは子供たちにプレゼントを配る存在。あの状況は確かに聖なる夜には似つかわしくなかった。クリスマスの在り方を魔人に説かれた気がして、咲は自分が情けなくなった。

 

「ご、ごめんなさい……私、色々と勘違いしてました……」

「誤解を与えた私にも非がありますのでお気になさらず」

 

 魔人はおもむろにテーブルへ視線をやり咲に座るよう促した。咲はひとまずニットのアウターを羽織り、胸元を隠してから魔人の向かいに腰を下ろした(本当は着替えたかったが魔人に出て行けとも言えなかった)。

 

「……魔界にもクリスマスってあるんだね」

 

 魔人がワイン、ではなくシャンメリーを静かにグラスへ注ぐのを見つめながら咲は言った。

 

「ありませんよ」

「そう、なの? 魔人さんは色々知ってるみたいだからてっきり……」

「今日が初耳です。サンタクロースのことも、小僧に聞きました」

「そうだったんだ」

 

 グラスに6分目まで注がれた白いシャンメリーの中を気泡が上に向かって泳いでいく。子ども向けの飲料も魔人が扱えばシャンパンに見えた。

 一人で食べるのも味気ないからと、咲はケーキを半分に切り分け魔人に手渡した。

 

「少し似てるよね。魔人さんとサンタさん」

 首をかしげる魔人に咲は続けた。

「サンタさんは子どもたちの願いを叶えてくれるでしょう?」

「……あるいはそうかもしれません。時に子どもの親が用意するのだそうですね。少し人間を見直していたところです」

 

 魔人の口調に優しさがにじみ出るのを感じ咲が目を細めていると、予想外のことを聞かれた。

 

「咲はどちらでしたか?」

「どちら?」

 

 それは、まるでサンタクロースが実在するかのような物言いだった(無論、この時()()()サンタクロースがひょう太の部屋にいて、ひょう太とメムメムが代わりにプレゼントを配りに行っていることなど咲は知らない)。

 どう答えようか少し迷ったあと、どっちでもない、と咲は苦笑した。

 

「私、ここに来るまでクリスマスのことはほとんど知らなくて。だから……親にも、何も」

「…………」

 

 魔人がケーキを食べ進めていた手を止めた。咲が声をかけると魔人は思い立ったようにすっくと立ち上がった。

 

「今ならまだ間に合うかもしれません。何か欲しいものはありますか?」

「そんな、気を遣わなくていいよ! このケーキで十分——」と言いかけてから、咲はあっと考えを変えた。

「そうだね。今なら魔人さんに願いを叶えてもらうのにちょうどいいよね」

 

 だが魔人は至って真面目な顔つきで当然のごとく言った。

 

「叶えるのは私ではなくサンタクロースです」

 

 咲は呆気に取られて魔人を数秒見つめたが、とうとう堪えきれず口元を隠して小さく笑い出した。

 

「何がおかしいのですか?」

「ごめ、ふふっ……魔人さん、今からサンタさんにお願いしに行くみたいに言うから……ごめんね」

「その通りですよ。直接願った方が早いですし」

「うん、そうだよね。魔人さんやメムメムちゃんがいるなら、きっとサンタさんもいるよね」

 

 咲は顔に笑みを残したまま子どもに話しかけるように言った。魔人は「現に——」と何か言いたげにしたが、やがて首を振った。

 

「とにかく、今日はなるべく早く休んでください。サンタクロースは寝ているあいだでないとやって来ませんので」

「ふふ、うん。そうするね」

「……明日の仕事にも響きますし」

 

 魔人は腑に落ちない顔を咲の衣装に向けた。

 

「あ、明日はね、もう少し厚着することになったの。私も中で接客させてもらえるから、今日みたいなことにはもうならないと思う。魔人さんのおかげです。ありがとう」

「当然のことをしたまで……ですが一応、お気をつけて」

「はい。気をつけます」

 

 咲がはきはきと答えたのを信用してくれたのか、魔人は部屋を去る素振りを見せた。白い手袋をはめた手のひらを上に向けるとほのかに光が集まっていく。

 次の瞬間には皿やグラスやボトルが見えないトレーにのるように魔人の手に浮かんでいた。テーブルには咲の皿とグラス以外、何も残っていない。

 

「一つ言い忘れていました」

 

 魔人の身体が半分転移の輪に吸い込まれた状態で、魔人がふと口にした。

 仕事のことかと思った咲が緊張していると、次に続いたのは思いがけない言葉だった。

 

「その衣装が似合っていないのかという話なら、似合っていますよ」

「……あり、がとう……」

「では」

 

 魔人の姿は完全に見えなくなった。

 部屋には静寂が訪れ咲一人きりになったところで、咲の頬はたちまち赤く染まった。

 

「えっど、どうして……⁉︎」

 

 胸が高鳴る理由もわからず熱くなった頬をおさえる。

 

「……もう寝よう……。クリスマスで浮かれてるんだ、きっと……」

 

 

 寝支度を調えて咲は布団に入った。色々と疲れたらしくすぐに眠気はおそってきた。

 窓が再びガタガタとゆれる。今夜は風が強い。咲はぼんやり考えた。

 

 だがこの時ばかりは風のせいではなかった。

 咲が枕元に置かれた黒猫のぬいぐるみに気付くのは、翌朝のことであった。

 



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#8-1 メムメムちゃんVS無欲少女

「はあ……またか」

 

 メムメムはこれみよがしにため息をついて押入れのふすまを閉めた。ちらりと後ろを振り返ったが、部屋の主であるひょう太の背中は微動だにしない。

 

 ノートと教科書を机に広げているひょう太は、メムメムの声が聞こえていないのかあるいは聞こえたのを無視しているのか、ノートにカリカリとペンを走らせている。

 

 メムメムはスンと真顔になるとふすまの引き手にありったけの力を込めた。ありったけと言ってもメムメムは2頭身の幼児体型であり握力も幼児並みである。ふすまは勢いよく開いたものの、溝から外れそうになりながらガッタンガッタンと大きな音を立てた。

 

 ペンの動きが止まる。ひょう太が振り向きざまに怒鳴った。

 

「何やってんだ壊れるだろ!」

「はああ〜……もう、何なんだよぉ〜マジで〜」

「オレが聞きたいわ!」

 

 ひょう太がメムメムを軽くにらむと、メムメムは押入れの中を指差し再びため息をついた。

 

「ため息やめろ! 何だよ押入れがどうかしたのか?」

「……最近の魔人はあの娘のところばっかり行って……あたしというマスターがいながら……くそぅ……!」

 

 メムメムはぎゅっと目をつむり悔しそうに呻いた。とても幼児とは思えない台詞である。

 

「そりゃ、青柳(あおやぎ)先輩もマスターだからだろ?」

「正式なマスターはあたしですよ!」

「オレに言うなよ」

 

 眉をつりあげながらも、ひょう太は記憶を思い起こすように天井に視線を向けた。

 

「いやでもお前はランプ壊しただけなんだから、どっちかっつーと先輩の方が正式なマスターなんじゃ……」

「…………」

 

 メムメムの頬を冷や汗がだらだらと流れていく。ついでに沈黙も流れていく。ややあってメムメムは意を決して宣言した。

 

「ちょっと文句言ってきます。あたしの方が先輩なんで」

「マスターに先輩後輩あんの⁉︎」

「あの二人がそろうと卑猥じゃありません?」

「それは……いや見た目で判断しちゃ失礼だろ!」

 

 メムメムの中では男女=性的に直結する計算式ができあがっているらしかった。魔人と(さき)の美形二人から醸し出される大人な雰囲気を想像したひょう太は、一瞬同意しかけてなんとか否定した。

 

 だがつっこみむなしく、メムメムは小さな羽でふよふよ浮きながら、ひょう太が着ていたパーカーのフードをえぐいほどひっぱり始めた。

 

「行きましょう!」

「ちょっ、のびる! ってかオレ関係なくない⁉︎」

 

 握力は幼児並みでも必死のパッチのメムメムを放置しては後が面倒そうである。ひょう太は仕方なく咲の部屋へ連れて行かれることにした。

 

 

 

「どうしました?」

 

 二人が咲の部屋を訪れてからの魔人の第一声だった。

 部屋の主のように顔を出した魔人に、メムメムは露骨に嫌な表情を見せた。友達の家に行ったらその彼氏が出てきたみたいな気まずい顔だった。

 

 ひょう太もメムメムも無言でいるので魔人が怪訝(けげん)な様子で言った。

 

「用がなければ行きますよ。今大事なところですので」

「何の⁉︎」ひょう太は思わずつっこんだ。

 

 魔人はなぜか額にうっすらと汗をにじませている。

 その言動にあられもない妄想を繰り広げそうになっているひょう太とメムメムに、魔人の後ろから遅れて咲がやって来た。

 

「大丈夫だよ! もうすぐ終わるから」

「だから何が⁉︎」ひょう太は思わずつっこんだ。

 

 咲はなぜか額にうっすらと汗をにじませ、さらに頬を紅潮(こうちょう)させている。

 その言動にあられもない妄想を繰り広げざるを得なくなったひょう太とメムメムに、咲が心配そうに声をかけた。

 

「二人ともどうしたの……?」

「やっぱりお前もか……」メムメムがわなわなと震え出す。

「えっ?」

「お前だけはおっ……胸もないし大丈夫だと思ってたのに……」

 

 次の瞬間メムメムは吠えた。飼い主に怒りの牙をむくチワワのごとく。

 

「この……っ、ムッツリ色欲モンスターめえぇ‼︎‼︎」

「⁉︎ む……? モ、モンスター?」

 

 咲は言葉の意味があまり分からなかったようで困惑している。

 

「暴言にもほどがあるだろ!」

 ひょう太はメムメムにつっこみを入れたことで、いくらか冷静さを取り戻すことができた。

「あの、二人で何を……?」

 

 魔人はまだ動揺する咲を横目に見て淡々と答えた。

 

「禽獣と偶蹄類の血から生成された細胞と白い汁を合わせて濾し、蔗糖を焦がしていました」

「なんて?」目が点になるひょう太に咲が慌てて加えた。

「プ、プリンだよ……!」

「プリン」

 

 ひょう太とメムメムが唖然として復唱すると、魔人がやれやれと息をついた。

 

「まったく……勘違いも甚だしいですね。何を想像したのか知りませんが」

「だ、だってこいつが……」とメムメムはひょう太を指す。

「オレは何も言って(は)ない」

 

 ひょう太が素知らぬ顔で首をふるのを、メムメムが裏切るのかお前と無言で訴えた。見かねた咲がおずおずと口に出した。

 

「あの、何か用があるんだよね? ここじゃなんだから、中にどうぞ。お菓子もあるよ」

 

 メムメムがぱあっと顔を輝かせた。お菓子に条件反射したのは間違いなかった。そのまま部屋の中へ直行するメムメムを、「急ぐと危ないですよ」と魔人がつかつか後を追った。

 二人をにっこり見送った咲は、ひょう太に向き直り小さくささやいた。

 

「もしかして、何かあった……?」

「少なくともそんな深刻な顔をする必要がないことなのはたしかです」

「? 聞いても大丈夫?」

 

 ひょう太はマジで大した内容じゃないっすと前置きしてから、同じように小声で事情を説明した。

 

「そうだったの。じゃあ小日向(こひなた)くんは——」

「無理やり引っ張られてきました」

 

 そういうことなんで、と自室に帰ろうとしたひょう太を咲は引き留めた。

 魔人はもう幾度となく咲の部屋を訪れ、こうしてお菓子を作ったり軽食も共にするが、実はメムメムが来るのは初めてだった。事情を知っているひょう太がいた方が、話はスムーズに進むかもしれない、と咲は提案した。

 

「——それじゃあお邪魔します」

「ありがとう。今ちょっと空調の調子が悪くて少し熱いんだ、ごめんね」

「ああ、それで……」ひょう太はぼそりとつぶやいた。

 

 咲はひょう太を中へ促すと空調を切り、窓を大きく開けた。女子特有の華やかな香りと熱気が冬の冷たい風と混じりあう。

 

 間取りはひょう太のそれと一緒だが、ベッドや洋服ダンスなどの大きな家具があるため、ひょう太の部屋に比べややこぢんまりしている。清掃と整理整頓の行き届いた清楚な部屋だった。

 

「そろそろいいでしょうか」

「うん。お願いします」

 

 魔人と咲の二人はオーブンをのぞきながら言葉を交わしていた。魔人がオーブンの扉を開けるとカラメルのほろ苦い匂いがひょう太の鼻腔をくすぐった。間食にはちょうど良い時間帯だ。

 

 女子の部屋という特殊な空間、魔人と咲のできあがった空気の中、メムメムはそんなことなどお構いなしにテーブルにつきクッキーを頬張っている。

 ひょう太は拍子抜けしてメムメムの側に腰を下ろした。

 

「おい、お前ちゃんと先輩に謝れよ?」

 

 ひょう太はキッチンにいる二人の耳に入らないよう声を落として言った。が、メムメムはきょとんとした。

 

「何をですか?」

「早すぎだろ! まさか今何しに来てるかまで忘れてるんじゃ——」

「ハッ! だ、騙された! あの娘中々やりますね……」

 

 それでも口を動かすのをやめないメムメムにひょう太は完全にしらけた顔になった。

 

「騙してねーしクッキー食べてる時点でお前の負けだぞ」

「‼︎」

 

 メムメムはあんぐりと口を開けてキッチンを見つめた。

 プリンを前に咲はとても楽しげに魔人と話している。目が合うとヤバい笑い方をした(メムメム視点)。

 何を思ったかメムメムは二つ目のクッキーに手を伸ばし口に放り込んだ。当然クッキーは喉に詰まり思いきりむせた。

 

「ゲホゴホー‼︎」

「何してんの⁉︎」

 

 ひょう太が引き気味に声を上げてすぐ、魔人と咲はほぼ同時に動いた。魔人は背広の内ポケットからハンカチを取り出し咲は小さなコップに水を入れ、メムメムに駆け寄った。

 

「慌てて食べるからですよマスター」

「メムメムちゃんゆっくり飲んでね」

 

 魔人に頬を拭かれ咲に水を飲まされ、まさに至れり尽くせりといったメムメムはなぜか誇らしげで、その上機嫌っぷりを天元突破している。

 

「ところでマスターは何の用でこちらへ?」

「ふふ。あたしはマスター……あたしがマスター……」

「そうだね。メムメムちゃんがマスターだよ」

 

 魔人は訳が分からない様子でなおもメムメムに尋ねようとしていたが、咲が目配せしてそれを止めた。

 セリフと格好を除けば、どう見ても過保護な両親とその娘の一幕であった。

 

 結局メムメムは上機嫌のままその後もクッキーを食べ続けた。咲にいくつかプリンを持たされ、呆れるひょう太と共に咲の部屋を出て行ったのだった。

 

 

 

「結局なんだったんです……?」

 

 嵐が過ぎ去ったような咲の部屋で、魔人がテーブルの上を片付けながら言った。

 ひょう太から聞いた内容をそのまま話すことに負い目を感じ、咲は遠慮がちに口を開いた。

 

「ちょっと寂しくなっちゃったのかな?」

「寂しい?」魔人は首をかしげた。

 

 二人きりになったことで部屋は肌寒さが増した。空調を付ければまた熱くなりすぎる。

 咲は窓を閉めながら、

「魔人さん、最近私の部屋によく遊びに来てくれるでしょう?」

 と返すと、魔人はすぼめていた口元をさらにすぼませた。

 

「遊びに来ているのではありません。家主からの頼まれごとついでに、咲の願いが決まったかどうか確認しに来ているだけです」その口調にはやや不平がこもっていた。

「そ、そうだよね。まだ思いつかなくて……ごめんなさい」

 

 咲は首をうなだれた。

 中途半端に閉めた窓の向こうはひたすらに暗い。ガラスにはさえない顔がはっきりと写っている。

 

「……珍しいですね」魔人が静かに言った。

「え……?」

「人間が迷うのは、いや悪魔もですが——願いを一つに絞れないときなので」

 

 窓の隙間から入る冷ややかな風が腕を刺す。だが咲は両手をかたく握りしめたまま、ガラスに映る暗い瞳を見つめた。

 

「それは、その人たちが元々叶えたい願いがあったからだと思うよ。私は偶然ランプを開けただけだし——」窓を閉め、咲ははっきり口にした。

「あの時、もし魔人さんのランプだって分かってたら、私は絶対に開けなかった」

「…………」

 

 魔人が黙り込んだのに気付き、咲はあわてて振り返った。

 

「ごめんなさい! 魔人さんを否定するつもりで言ったわけじゃなくて……!」

「……本当に珍しいですね」

 

 魔人は分かっているとうなずいた。微塵も気にしていない様子だった。

 

「まあ、確認に来ているとは言いましたが急かすつもりもありませんので」

「あ、ありがとう」

 

 咲は眉尻を下げた。

 やっぱり遊びに来てくれているのでは、と思ったが、口には出さず笑みを浮かべたので、魔人に解せない顔をされた。

 



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#8-2 メムメムちゃんVS無欲少女

「大変、早く見てもらわないと……」

 

 学校からまっすぐ五木荘へ帰って来た(さき)が自室へ入るなりそうつぶやいた。

 

 今日の気温は朝から氷点下に達しており、夕方になってからさらに冷え込んだ。しかし咲の部屋は真夏かというぐらいに熱気を帯びている。窓ガラスは結露でびしょびしょだ。

 昨日から空調の調子が悪いので咲は大家に頼み、今日は業者にみてもらう予定だったのだ。

 

 額にじわりと汗がにじむのを感じ、咲はコートとブレザーを脱ぎガラスを拭きに向かった。換気しようと窓に手をかけたところで、部屋のドアをひかえめにノックする音があった。

 

 ——業者の人、もう来たのかな……。

 

 予定の時間より大分早いと咲は不思議に思った。だがむしろありがたいので、今行きますと声をかけながらドアを開けた。が、そこにいたのは業者ではなかった。

 

「メムメムちゃん、」

 

 咲が驚いて声を上げると、メムメムは「ちゃっす」と小さく挨拶してぺこりと頭を下げた。だがその後が続かず、メムメムはもじもじと指を動かし小さい羽を動かし宙に浮かびつづけている。ひょう太も魔人もおらず、一人で来たようだ。

 

「どうしたの? 部屋に入る?」

 

 メムメムはぶんぶんと首をふり、羽織っていたポンチョの下から何かを取り出しておずおずと口を開いた。

 

「あ、あの……これ……昨日のそのあの……」

 

 メムメムの手のひらには一口大に個包装されたお菓子がいくつかのっている。咲が目を丸くするとメムメムはずいっと両手を突き出した。

 

「ん、」

「あ……」

「ん!」

「でも……あっ」

 

 勢いでメムメムの手のひらからお菓子がこぼれそうになり咲は寸前ですべてキャッチした。

 メムメムはすぐさま背中のささやかな羽をばたつかせて廊下を少し進んだが、ふいにチラと後ろを振り返った。やや上から咲を見下ろすと気まずそうに言った。

 

「おまえも一応マスターなので……あたしは別に全然気にしてないですけど……借りは返したってことで……」

「ありがとう。またお菓子作るから、いつでも遊びに来てね」

「なにを作るんですか?」

「次はシュークリームかな」

 

 昨日ひょう太から聞いた話を思い出し、咲がにっこり微笑みかけると、メムメムも安心したのか同じように笑顔を見せた。

 

 そうして「ありゃますっよろしゃっす!」と、独特の略し方で挨拶したあとふよふよと機嫌良さそうに飛んでいくメムメムを、咲は手を振って見送った。

 

 

 自室へ戻ると熱気はいくらかドアから逃げていた。業者が来る時間までまだ余裕がある。

 咲は何か口に入れておこうとテーブルにビスケットなどを用意し、メムメムからもらったお菓子の包みをさっそくあけた。つやつやと緑色に輝くグミ。咲はためらいなく口に入れた。

 

「! おいしい……!」

 

 食感は普通のグミとなんら変わらず程よい弾力があるが、熟れた果実のようにみずみずしくとても甘い。だが何の果物かと聞かれると思い当たるものがない。包装紙には蔓のような模様が描かれているだけだ。咲はふと口にした。

 

「魔界のお菓子だったりして……まさかね」

 

 そのまさかだった。咲が一瞬目を離した隙に、持っていた包装紙から描かれた模様と同じ蔓がにゅるにゅると生えてきていた。

 

「⁉︎」

 

 咲はぎょっとして包装紙を手放そうとしたが、手は何かに取り憑かれたように言うことを聞かない。蔓はどんどんと手を生やし細く長く伸びていく。

 

「……っひ、」

 

 蔓がひたりと手に触れる。生き物のようにうごめくそれに咲は怯えたがしかしやはり手は動かない。恐怖でよろめきベッドに倒れ込んだ咲に構わず、蔓はするすると咲の手に絡んでいく。あっという間に咲の両腕は後ろ手に縛られていた。

 

 ——動けない……!

 

 蔓はうねうねと咲の制服にまとわりついた。ワイシャツの上を這って胸を縛り、スカートをまくし上げあらわになった太ももにも容赦なく巻き付いていく。

 ぎちぎちに身体を固定され、身動きどころか呼吸もままならない。咲はグミを食べたことはもちろん、部屋の窓を最初に開けなかったことを心底後悔した。

 

「うっ……んん……」

 

 咲は息苦しさにうめいた。胸と両脚の間には特に蔓が密集していて言いようのない気持ち悪さがある。咲はなんとか解けないか身体をくねらせたが、蔓はさらに奥へと食い込んでしまった。

 

 壊れた空調は閉め切った部屋を温め続け、咲の身体が汗ばむ。白いワイシャツが汗ではりつく。中に着ていたインナーがシャツから透けるほどだった。

 

 どれくらい時間が経ったのだろうか。咲は朦朧とした意識の中、身体をしめつける蔓と部屋にこもる熱にひたすら耐えていた。その時。

 コンコン。ふすまの中からノックの音が聞こえた。

 

 ——魔人さん……!

 

 咲はすがる思いでふすまに目をやった。大分汗をかいたらしく、喉は張りつきなそうなほどカラカラだ。咲は声を振り絞ろうとしたがすぐにためらった。

 

 ——魔猫に変身した時より(格好が)ひどい……。

 

 他の誰かであってももちろんだが、魔人には特に見られたくないという漠然とした思いが咲の中にあった。同時にこのままでは良くないだろうということも薄々勘付いている。

 しかし……。咲が迷っているあいだにも、蔓はじわじわと咲の身体をしめあげていた。

 

 

「……留守か?」

 

 一方、閉め切った押し入れの中でそう呟いた者があった。もちろん魔人である。片手には昨日咲と一緒に調理したプリンのカップを抱えている。

 

 今日も大家の手伝いをしていた魔人は、咲が部屋にいることを彼女から聞いていたため、違和感を顔に表した。もう一度ノックしようとして、すぐさまスパンとふすまを開けた。

 魔力を感じ取ったからである。

 

「咲⁉︎」

 

 魔人は手元からカップが滑り落ちたのも構わずベッドに駆け寄った。

 薄い服に無数の蔓がいやらしく絡んだ、明らかに性を強調したみだらな姿。普段なら"品がない"と嫌悪感に近付きもしないはずだったが、魔人はぐったりと横たわる咲を抱き起こした。

 

「何があったんです」

 

 咲は涙に濡れたうつろな瞳を魔人に向けようとした。だが焦点が合わず、紅潮した顔が申し訳なさそうにゆがんでいく。咲は吐息で湿り赤くなった唇を震わせ、小さく鳴いた。

 

「……メム、ちゃんに……グミを…………それで……」

「グミ? しかしこの蔓もしや——すぐにマスターを連れてきます」

「まじ、さ……の?」

「!」咲の言葉に魔人は目を見開いた。

 

『魔人さんじゃ、ダメなの?』

 

 咲が願いを叶えたがっている。蔓につぼみが芽吹く。

 あるはずのない、魔人の胸がさわいだ。

 

 魔人にとって仕事をすませる絶好の機会のはずであり、実際彼の魔術や腕力でもって咲から蔓を引き剥がすことなどたやすい。

 

 ちなみに咲が口にしたのはもちろん普通のグミではない。生き物の水分を糧に生きる、菓子を真似た実が特徴のれっきとした魔界の植物だ。悪魔が改良を加え、人間に渡すことで発動する魔道具の一種である。自縛(じばく)キャンディの派生版ともいえる。

 

 全てのつぼみが花開けば悪魔(メムメム)に完全服従した証だ。

 メムメムが咲の魂を要求し魔力に換算されれば、魔人のランプもすぐに修復可能だろう。

 主人の消えた魔人は願いを叶える必要がない。

 

 ——しかし……。

 魔人はあらためて咲を見下ろした。

 そこには主人の願いを叶えることも主人の魂を悪魔に売ることのどちらも拒もうとする彼がいた。

 

 返事をじっと待つ咲は、今にも天に昇りそうなのを必死にこらえている様子だった。

 やむを得ん、と小さく呟き魔人はうなずいた。

 

「承知しました」

「……やっぱり、大丈夫」咲がぽつりと言った。

「魔力が、足りないんだね」

「いや、そういうわけでは——」

 

 言葉を濁した魔人を見て、咲は弱々しくも首を振り魔人の動きを制した。

 

「ダメだよ。私は……大丈夫だから」

 

 咲はぐっと顔に力を入れて笑った。力なく引きつった笑顔だった。

 弱っていく咲とは正反対に、生き生きとその根を伸ばしていく蔓。血のように色付いたつぼみがほころび始めている。

 

 魔人は何と返そうかどうするべきか瞳に迷いを表しながら咲の額に手をかざした。魔人のはめた白い手袋の内側にあわく光が宿ると、蔓の動きは鈍くなりつぼみの成長が止まった。

 

「ひとまず進行を遅らせました。やはりマスターを呼びますので少々お待ちを」

「ありがとう……そのあと魔人さんに()()()していいかな」

「今回の件はマスターに非があります。願いを叶えるまでもありません」

「お願いします」

 

 咲の意志は強いようだったが、魔人も食い下がった。

 

「急かすつもりはないと昨日も言ったはずです」

「うん。ありがとう」咲は口角を無理やりに上げた。

「私ね……ここに来るまでは、家ではほとんど一人で……ごはんもずっと一人で食べてたんだ——」

 

 魔人はいよいよ蔓に意識をのっとられたのかと訝しんだが、咲は遠い目で振り絞るようにして言葉を続けた。

 

「五木荘の人たちはみんな優しい……でも、メムメムちゃんと魔人さんに出会うまで、あまり話したことなかったの」

「みんなと色々話すようになって、魔人さんと一緒にお菓子を作ったり、お茶を飲んだりするの……楽しいんだ」

「……願いを叶えてくれたあとも、また遊びに来てくれたら、うれしいな」

 

 魔人はじわりと温かさを覚えた。

 咲の体温や部屋の熱のせいではない。

 衝動的に出かかった言葉を飲み込んで魔人は人差し指を立てた。彼の指の動きに合わせ、窓が大きく開いた。冬の冷えた空気が一気に部屋に流れ込む。

 

「……それは別に、私が願いを叶えずともできることです」

「それじゃあ私はマスターのままでしょう……? だからこれは、お願いじゃなくて、お誘いです。お友達として」

 

 咲の言葉はそこで途切れた。汗で頬に張り付いた髪が風に揺られ出した。咲は微笑んだまま、しかし辛そうだった表情から愁眉(しゅうび)を開きかけている。

 

 私も……と魔人はささやきかけて、

「咲が、そう言うのでしたら」と言い直した。が、咲はやわらかな表情を浮かべたままだ。

 

「気を失ったか——」魔人はどこか安堵しながらベッドに咲を横たえると、迫るような低い声を発した。

「で、マスターはそこで何を?」

 

 ヒッとか細い悲鳴が上がった。いつからそこにいたのか、部屋の端にうずくまるメムメムの姿があった。黒く小さなポンチョに身体のほとんどを隠し、頭にちょこんと生やした両の角が何かを発動させる前触れのようにビカビカと発光している(しかし なにもおこらない)。

 メムメムは涙目で魔人と咲をチラ見し素早くポンチョに隠れた。くぐもった悲痛な声が漏れ出る。

 

「じっ地獄絵図じゃないかー‼︎」

「誰のせいだと思ってるんですか」

 

 魔人は物を掴むようにポンチョごと片手で持ち上げると、メムメムがポンチョに身を隠したまま小ビンをこわごわ取り出した。

 

「あ、あのこれ……今週の分です……」

「それは——」

 

 魔人は礼を言ってビンを受け取った。一見空のようだが傾ければ極々少量の液体が入っているのが分かる。週に一度魔人に供給される、メムメムのなけなしの魔力であった。

 

「マスターはいつから、というかなぜここに?」魔力を吸収しながら魔人がたずねた。

「なんか魔人が来たときから……」

「……ほぼずっとですね」

「こいつがお菓子いつでも食べていいって言ってたし……」

 

 メムメムの言葉を聞き流しながら、魔人は咲の身体に手を伸ばした。白いワイシャツの胸元が黒薔薇のような花で飾られている。魔人は花冠(かかん)を摘み手のひらにのせると、たちまち風がさらっていった。花びらは踊るうち小さくなり、窓の外へたどり着くことなく粉々になって消えた。

 

「マスターはよろしいのですか?」

「え?」

「魂をとるなら今のうちですよ」

 

 メムメムはハッとしてポンチョの中から魔人と咲(がいる方向)を見比べた。やがて身体をもぞもぞ動かしながらごにょごにょ言い出した。

 

「えと……こいつから()()必要は特にないというか……あたしは別にとってもいいんですけど……」

「なんです?」

「その、えーと……つ、次はシュークリームつくるって言ってたから、だから……!」

「シュークリーム——」

 

 魔人は思わず繰り返した。記憶を思い返すように遠くを見つめたあと、長い睫毛をふせた。

 

「マスターならそう言うと思っていました」

「なんで聞いたの……?」

「ところでマスターに少々頼みごとが」

「え、無視……?」

 

 

 

 悪夢から解き放たれたような、身体が軽くなった感覚を覚え、咲はパチリと目を覚ました。急いでベッドから上体を起こすと、全身がわずかにピリピリと痺れた。咲はうっ、と小さくうめいた。

 

「回復したばかりですし、あまり動かない方がいいですよ」

「! 魔人さん……」

 

 魔人は一人机に向かい、ティーカップを手にしていた。優雅にソーサーへ置くと、別のカップに紅茶をそそいでいく。立ちのぼる湯気と共に、茶葉の香りがかすかに咲の鼻まで届いた。

 

 ふいに背すじに悪寒が走り、咲は身震いした。制服が湿っている。ワイシャツはしわだらけで、縛られていた跡がくっきりと残っている。

 ——夢じゃなかったんだ……。

 肩を落としたあと、咲はハッと顔を上げた。

 

「業者さん!」

「業者? ああ、その人間でしたら先ほど帰ったところです」

「えっ!」

 

 魔人はその業者が大家と共にやって来て、空調を修理していったことを話した。たしかに窓は閉め切られた状態だが温度は快適だ。空調は無事治ったらしい。

 ということは。咲はスマホを確認した。帰宅してから3時間は経っている。

 

「ごめんね……魔人さん、ずっといてくれたんだよね」

「咲のせいではないのでお気になさらず」

「ううん、ありがとう。それじゃあこれで、私はもうマスターじゃなくなったんだよね?」

 

 魔人はそのことなのですが、と紅茶の入ったマグカップを咲に渡しながら続けた。

 

「咲を治したのは、私ではなくマスターでしてね」

「メムメムちゃんが? 私は魔人さんにお願いしたと思うんだけど……」

 

 自身のあられもない姿を魔人にさらしたことまで思い出してしまい、咲は恥ずかしさに両手でマグを握りしめた。

 

「しかし、あれは咲の本当の願いではありませんよね?」

「それは……そうかもしれないけど……」咲がマグで暖をとっていると、魔人が出し抜けに答えた。

 

「私が叶えられる願いは当人の地頭や能力にも寄りまして。おそらく咲の場合——」魔人の紅い瞳が一層濃く咲を見据え、

「その気になれば、世界を動かすことも可能でしょうね」とこともなげに言った。

 

「せ、世界っていくら何でも大げさだよ」

「まあ、選択肢の一つとして、そういう規模の願いもありということです」

「……よけい決められなくなっちゃうよ……」

 

 口をついて出た不満に魔人をまっすぐ見れず、咲はマグで顔をおおった。だが魔人はこれっぽっちも気にしていないようだった。

 

「シュークリーム、」

「え?」

「次はシュークリームを作るそうですね」

「うん……?」

 

 咲はのぞき見する風にゆっくりと顔を上げた。どこから取り出したのか、魔人が咲のプリンカップを贈り物かのように丁寧にテーブルに置いていたところだった。

 よく見ると側にある皿が空である。帰宅した時に軽食をとろうと用意していたはずだ、と咲は思った。

 魔人がその目線に気付いたらしい。

 

「マスターが全て食べてしまいましてね。お詫びと言ってはなんですが、シュークリームを作るのを手伝います」

「ええと、気にしなくていいよ? メムメムちゃんにいつでも食べていいって言ったの私だし。それに、魔人さんも……無理しなくていいからね」

「……どういう意味ですか?」

 

 魔人は相変わらず真面目な顔だ。表情はピクリとも変わらない。部屋はとても暖かい。手元のマグも温かい。だがなぜだか寒気がする。

 ——もしかして、怒ってる…………?

 咲がどう説明しようか考えていると魔人がさらに質問を重ねた。

 

「先ほど私を誘ったのは嘘ということですか?」

「そんなこと……!」咲は素早く首をふった。

「ではその時にまたお呼びください」

 

 魔人は紅茶を飲み干すとテーブルの上を片付け始めた。おそらくそのままひょう太の部屋に帰るのだろう。

 なんだか腑に落ちず、咲は立ち上がった。身体が温まったおかげか痺れはほとんど残っていない。魔人の元へ向かい、咲は片付けを一緒にし始めた。

 

「あの……いいの?」

「何がですか?」

「……あの時言ったことは、私が願いを叶えてもらったあとの話だから……」

 

 皿を重ねたあと、咲は再び恥ずかしさを覚えた。意識が朦朧としていたせいとはいえ、昔の自分のことや今の気持ちを出会ってほんの数ヶ月の魔人に話してしまうなんて。

 魔人の返事がないのに気まずさを感じた咲は、つまりね、とあわてて言葉を付け加えた。

 

「手伝ってくれるのはうれしいんだけど、魔人さん、大家さんのお手伝いもしてるし毎日忙しいでしょう? 願い事が決まったら魔人さんにまた伝えに行くよ」

 

 咲が言い終えた途端、魔人が短いため息を吐いた。

 

「今さらですね」魔人の太い眉が片方だけ吊り上がる。

「それに、今後咲が願い事を思い付いたとして、そこまでにかなり時間がかかるのではないかと」

「……どうしてさっきの願いを叶えてくれなかったの?」

 

 魔人は一瞬だけ言い淀んだように見えた。が、両目を閉じるときっぱり言い放った。

 

「私は、咲が本当に望むことが何なのか少々興味があります」眉尻を下げ困った表情の咲が見えているかのように、魔人はすかさず続けた。

「もちろんそのための助言はいたしましょう——"友人"として」

「!」

 

 魔人は粛々とした様子で咲を見やった。

 あの時と同じだ。

『さぁマスター、望みをどうぞ』

 凛々しい顔が、高貴で深みのある紅色の瞳が、咲を真っ直ぐに見つめた。

 

「それなら構いませんね?」

「魔人さんがいいなら……」

 

 雰囲気に圧倒された咲は、紅い瞳から目をそらせないままうなずいた。

 気恥ずかしい。けれど嬉しさも同時にこみ上げる。噛みしめるように、しかし遠慮がちに、咲は魔人の口から初めて聞いた言葉を繰り返した。

 

「……友人……」

「そもそも最初に"友達"と言ったのは咲ですがね。悪魔狩りの娘に出会った時——」咲の顔が段々と赤くなる。

「魔人さんって、時々意地悪……」

「何か言いましたか?」

「な、なんでもないよ!」

 

 咲は無意識に口にしてしまったことを後悔しながら、プリンカップを手に逃げるようにキッチンへ向かった。だがその表情は外の暗さに反した晴れやかなものだった。

 



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#9 無欲少女、魔界の医者になったりする

 五木(いつき)荘に来てから年末年始限定で、咲は近くの神社で毎年助勤をしている。

 メインで働いているくろねこケーキ屋同様、巫女装束に憧れのあったことが理由の一つである。何より咲にとって礼儀や言葉遣いなどの作法を学ぶ良い機会であり、自分を律して新たな一年を迎えることができるからでもあった。

 

 その日の元旦も咲は早い内から神社へ奉仕に向かっていた。特に去年の冬は頬をつねりたくなるような出来事が二重三重に起きたので、奉仕中、咲は以前にも増して立ち居振る舞いに気を配った。

 

 昼過ぎ頃、咲は五木荘へと帰って来た。

 早朝から変わらない寒さではあるが日差しのおかげで幾分ましになっていた。庭の芝に付いた朝露が太陽に照らされきらきらと反射している。咲は晴れやかな気持ちで眺めながら、しめ縄で飾られた玄関を開け五木家へと向かった。

 

「あら青柳さん、明けましておめでとうございます〜。巫女さんのお仕事お疲れさま」

「明けましておめでとうございます。神社の方から甘酒をいただいたので、よかったら皆さんで召し上がってください」

「まあ嬉しいわ〜。神社で飲む甘酒って美味しいですよね」

 

 咲はにこりとうなずき大家に甘酒を手渡した。ふいに中から笑い声が上がった。訪問者が何人かいるようだ。

 

「ところで青柳さん、お腹はへっていませんか?」

「はい。今朝いただいて以降でしたので……」

「まあ〜。今ちょうど小日向(こひなた)さんたちを呼んで一緒にご飯を食べているんですよ〜。よかったらあがってください」

「ご迷惑でなければ、お邪魔させてください」

「もちろんどうぞ〜。たくさんたべてくださいね」

 

 助勤の名残からか咲は挨拶を述べ立礼(りつれい)した。

 五木家のこたつ机の上はとても華やかだった。黒い漆器の重箱の中には、有頭海老の煮物を中心に、黒や紅白、黄色など色とりどりのおせち料理が囲んでいる。伝統的なものはもちろん、つくねといったどちらかというと子供向けのものが詰められている。

 

 咲は机に座っていた全員に声をかけた。メムメムは料理に夢中になっていたが、(あんず)とひょう太は口々に咲へ返した。

 

「咲先輩、いつもと雰囲気が違いますね」

「そうだね。巫女装束の時は髪をまとめないといけないから」と、咲は髪に留めていたピンなどを外し始めた。

「そうだったんですか! 先輩似合いそうですね」

 

 杏が想像するように上を見上げると、小ぶりの花飾りに垂れるタッセルが揺れた。新春にふさわしい、水仙柄の明るい着物を着ている。

 

「ありがとう。杏ちゃんもその格好、とっても似合っていて可愛いよ」

「ありがとうございます!」

 

 いかにも女子らしい二人の会話を、ひょう太は咲に同意するように何度も大きくうなずいた。どこに座ろうか咲が迷っていると、後ろから落ち着いた低い声に話しかけられた。

 

「こちらは咲の分です」

「魔人さん、ありがとう」

 

 奥のキッチンからやって来た魔人はお盆を持ち、その上に出来立てらしいお汁粉をのせている。中には網目状に焦がした香ばしい餅も入っていた。魔人は咲の分の取り皿なども甲斐甲斐しく机に並べたあと、またキッチンへと戻って行った。

 

 ふと正月という行事に当たり前のように参加している悪魔のメムメムと燕尾服の魔人に咲は疑問を思い浮かべたが、魔人はともかく楽しそうにはしゃぐメムメムを見るととても口には出せない。

 今はうまいうまいとお汁粉を頬張るメムメムの隣へ向かい腰を下ろそうとして、咲は立ち止まった。

 

「ん? このぬいぐるみは……?」

 

 メムメムのすぐ側に手乗りサイズの小さな一つ目の人形がちょこんと座っている。咲がそう思ったのも束の間、人形は自立して動き出し、メムメムの口からみょーんと伸びるもちを見て飛び跳ねていた。

 

「……!」

 

 咲は息をのんだものの、恐ろしさは全く感じなかった。喜んでいいのか悪いのか、これまでに起きた出来事のおかげで耐性が付いてきたらしい。

 むしろ可愛いなと咲が見とれていると、それに気付いたひょう太がこっそり教えてくれた。

 

「メムメムの先輩の使い魔すよ、オレは使っちって呼んでますけど」

「使っち……」

 

 咲がつぶやいたのに気付き、使い魔が咲をじっと見上げた。その小さな身体にしては大きくつぶらな瞳にドキドキしながら、咲は片手を差し出した。

 

「初めまして、青柳咲です。よろしくね」

「……」

 

 使い魔は無言のままとことこと咲に歩み寄ってきた。咲の差し出した手のひらをぽんぽんと触ったかと思うと、使い魔はお辞儀をしたように見えた。言葉は通じたらしい。

 可愛いらしい一連の動作に、咲はすっかり心奪われてしまった。

 

 

 全員でおせちやお汁粉をひとしきり楽しんだあと、大家は後片付けにキッチンへ向かい、魔人が咲の持って来た甘酒を机に運んで来た。

 メムメムは早々に凧やこま、羽子板で使い魔と遊んだあと、上機嫌な様子で大きな箱を持ってひょう太に見せた。

 

「ね、これしよ。ね、これしよ!」

 

 もはやただの親戚の子供にしか見えないメムメムにひょう太は呆れていた。箱にはでかでかと"魔界転生ゲーム"と書かれている。

 

「魔界で人気のスゴロクですよ」と魔人が代わりに答えると、

「面白そーやろー♪」と、杏。

 

 一見普通のボードゲームのようだが、魔界の道具に敏感になっていた咲は、大家を手伝おうとさっと立ち上がった。

 が、遅かった。

 

「ではさっそく」

 

 全員の同意を得た(と勘違いした)メムメムはパカとフタを開けた。あたりが光り輝いたかと思うと、あっと言う間にその場にいたひょう太、杏、魔人、咲と最後にメムメムが掃除機のごとく箱の中に勢いよく吸い込まれていった。

 

 5人はSTARTと書かれたマスに立っており、その先や周り、宙にまで同じようなマスが続いている。マスの間には岩場や草原が広がっていて、ファンシーな家やビルがいくつも建っている。遠くには山が連なり、家ほどの大きさの鎧が佇んでいたり怪獣が火を噴いたりもしていた。おもちゃを敷き詰めた巨大な街であった。

 

「じゃああたしから」

「さくさく進めるな‼︎」

 

 自分の頭と同じくらいの大きさのサイコロを手に、にこにこと嬉しそうなメムメムにひょう太がつっこんだ。

 慌てるひょう太、口を大きく開ける杏、青ざめる咲に、魔人が淡々と言った。

 

「ゲームの擬似空間に入ってるだけですよ。身のキケンはありませんのでご心配なく」

 

 本当に? と言いそうになったのをこらえ、咲は魔人にしか聞こえない程度の声でたずねた。

 

「あの、私片付けしようと思ってたから参加はちょっと——」

「このゲームは一度始めたら終わるまでは出られない仕様です」

「そうなんだ……」

 

 ファンタジーでにぎやかな空間から目を背けるように咲はうなだれた。

 

「昔っからこれをやってみたくって」

 

 メムメムは嬉しさのあまり泣いている。さすがに目の前でやりたくないとは言えない。魔人が言うなら大丈夫だろうと、咲は自分に言い聞かせた。

 

「ずっと……やってみたくって……」メムメムがもう一度言った。

「わかった! わかったから!」

 

 ひょう太がなだめていると、魔人がメムメムからサイコロを取り上げコロンと軽く転がした。

 

「カンタンですよ。ただサイコロを振って——」

 

 魔人は出た目の5つ分進むと、"スライムの育て屋になる[給料+五千D]"というマスで止まった。

 

「とまったマスの指示に従い、お金を貯めていき、ゴールした時資産の最も多い者が勝ちというルールです」

 

 すると、魔人の格好がポポンと音を立てて変化した。スライムの絵が描かれたキャップをかぶり、オーバーオールを着て、肩や腕にスライムをのせていた。

 

「すごーい! 変身したよ!」杏がハッとして咲に呼びかけた。

「次は先輩が振りますか?」

 

 杏はうずうずしている。本当は自分がサイコロを振りたいはずだ。けれど順番を譲ってもおそらく首を振られそうだ。早めに終わらせたい咲はありがとう、とにこやかに返した。

 

「じゃあ、次は私が振っても良いかなメムメムちゃん?」

「しょうがないですねぇ」

「お前ホント上機嫌だな」

 

 変わらずにこにこと答えるメムメムにひょう太がまたつっこんだ。

 

「それじゃ……えいっ」

 

 咲の手から転がっていったサイコロは6を示した。魔人を抜かし隣のマスへ進んでいく。そこには"魔医者になる[給料+八千D]"と書かれており、あたりに漂ってきた煙と共に服装が変化し始めた。

 

 最後にポンと弾けたような音が響いたあと、咲は白衣を羽織り聴診器を首にかけていた。人間でいう医者と同じような職業かと思って下を向いたところで、咲はとたんに顔をしかめた。

 

「魔医者ですか。中々良い職業だと思——」

「魔人さん……魔界の医者ってみんなこうなの?」

「‼︎」

 

 咲はためらいながらも後ろを振り返った。

 白いワイシャツは中の黒い下着が見える位置までボタンが開いており、下にはいたミニスカートの丈は足の付け根に近い。レースがあしらわれたオーバーニーソックスにはガーターベルトが付いていた。

 

 魔人は一瞬目を見開き、気まずそうに目をそらした。その反応が余計に恥ずかしくなり、咲は急いで白衣を閉じてボタンをかけようとした。が、横幅が妙にきつく、ワイシャツのボタンも止められずスカートも下げられない。身体に張りついたように動かないのだ。

 

「……これも仕様?」

「そのようですね」

 

 魔人が横目にうなずき咲は深いため息を吐いた。耐性が付いたというよりあきらめに近い。

 

「……魔猫の時とか、グミを食べた時よりましだよね……」

 

 咲は自分を慰めるように言ったが声はずいぶん小さい。

 ふと魔人の片腕にのるスライムと目が合った。カジュアルな格好をしていても隠せない魔人の厳かな雰囲気に怯えているのか、半透明な水色の身体をぷるぷると震わせていた。何か、いや誰かを彷彿とさせる。

 

「あ……メムメムちゃん……」

「まあ、要領は一緒ですね」

「!……ん、ふふ……」

 

 咲は堪え切れず肩を震わせた。何がおかしいのかと魔人が首をかしげる中、咲はスライムに微笑みかけた。

 

「大丈夫だよ、こわくないよ」

 

 咲はスライムに触れようとしてためらった。むしろ自分が大丈夫だろうか。()()したりないだろうか。そっと魔人を見上げると、咲の考えていることが伝わったのか、魔人は大丈夫だと言うように腕を近付けた。

 せっかくなので魔医者になりきろうと、咲は聴診器を当てスライムの心音を聞く真似をしたつもりだった。

 

「あ、あれ? もしかしておなか減ってるの?」

 

 なぜだかスライムの体調が手に取るように分かる。スライムはこくこくとうなずいた(ように見えた)。

 

「なるほど。咲は魔獣専門の医者のようですね」

 

 魔人は言いながら小さな一枚の葉を魔術で出現させスライムに与えた。飛び付いたスライムは一口でむしゃりと食べると、魔人の腕に身体全体をすり寄せた。

 どうやら職業に対応した能力がプレイヤーに付与されるところまでも仕様らしい。感心しつつ咲は聴診器と白衣の中とを見比べた。

 

「まあ、ゲームなのですから、気楽にやればいいのです」

「……うん。そうだね」咲は笑顔を取り戻して答えた。

 

 

 そうして杏が見習いサキュバス、ひょう太が悪魔学校の先生、メムメムが泥拾い(咲たちにはよく分からなかったが魔界にはそういう職業があるらしい)となってから数巡目。

 転生ゲームは順風満帆に進んでいた。ただしメムメムを除いて。

 

 魔人はサングラスをかけたくさんのスライムをのせたオープンカーを乗り回し、咲は開業した病院に魔獣の行列ができるほどの人気を得ていた(なぜか白衣の下が黒いボンデージ調の衣装にグレードアップした)。

 

 咲よりも派手なサキュバスの衣装に動揺しおばけのように付き従う人間の魂に怯えながらも、杏も着実に資産を貯めていた。

 次に止まった大きなマスで杏はさらに動揺した。

 

「けっこん……⁉︎ 他のプレイヤーとって……どどどうしよう……」

 

 そこには"STOP‼︎ 結婚ゾーン[このマスに止まった他のプレイヤーと結婚‼︎ それまで進めない]"と書かれている。気付いたひょう太がそのチャンスを狙うも、サイコロは無情にも杏へのマスにはほど遠い1を示した。

 

「ああああああ‼︎」

 

 ひょう太ががくりと膝をついて叫んだ横を颯爽と通り抜けたのは、すぐ後ろにいた魔人だった(メムメムは盗みを働いた罪で牢屋MAPにブチ込まれたため動けない)。

 魔人は杏がいるマスに立ち止まると、誠実な様子でキャップを脱いだ。

 

「私なんかで申し訳ありませんがよろしくお願いします」

「え……⁉︎ いえ、そそそんな……」

 

 恥ずかしさで上手く言葉にならない杏をよそに、二人の頭上には花で装飾された煌びやかなアーチと鐘が現れた。魔人を慕うスライムたちが牧師役や招待客などを務め、魔人と杏の結婚を盛大に祝福した。

 

「足元にお気をつけて」

「あ、ありがとうございます」

 

 魔人は尚も誠実な態度で杏を気遣っている。ひょう太はしばらく四つん這いのまま、華やかなMAPへ進んでいく新婚夫婦を呆然と見ていることしか出来なかった。

 

 

「あとどれくらいなんだろう……」

 

 サイコロを手にした咲が一人つぶやいた。低い出目が多かったため、咲はひょう太たちから遅れていた。

 咲の運営する病院はこぢんまりしているが魔獣たちは絶えずやって来るので程よく忙しい。運に左右されるゲームとはいえ、堅実に生きたいという咲の思想を反映したような道のりだった。

 

「小日向くんが行ったのはあのルートか」

 

 咲の視線の先には"ハイリスク×ハイリターンルート"と書かれた看板が立っている。ルートの周りは毒に染まったような沼で埋まり、並んだマスもそのほとんどが不吉なほど真っ黒で、資産を失うような指示が書かれているのは明らかだった。

 

 ひょう太がわざわざそんなルートを選んだ理由を咲はなんとなく知っていた。

 時空の石。ルートの最初のマスで拾えるアイテムで、プレイヤー全員を5巡前に戻すことができるものらしい。ひょう太は残念ながら拾えず、途中のマスで行き倒れてしまっている。

 

 サイコロを転がしたあと、咲はあることに気が付いた。

 別ルートへは、今いるマスからでもそのまま進められるようだ。サイコロの出目は、時空の石を拾える数字を示していた。

 

 咲はあらためて全員の様子をながめた。

 ひょう太は行き倒れた上、それまで貯めていた資産は全てなくなったどころか借金まで抱えていた。メムメムは……どこにいるのか分からない。牢屋MAPへ行ったきりなので、今もまだその辺りを彷徨(さまよ)っている可能性もある。

 

 メムメムが発端で巻き込まれた形で進めている魔界転生ゲーム。泣くほどやりたかったメムメムにばかり不幸が重なるのはとても不憫でならない。

 魔人と杏はというと、テラス席で優雅に昼食をとっていた。結婚して幸せそうな(少なくとも咲にはそう見えた)二人には悪いが、咲は時空の石を拾いに歩みを進めた。

 

「わ……‼︎」

 

 咲がマス上の台座に置かれたいかにもな石を手にすると、5人全員が光に包まれた。気付けばマスの指示通り、全員5巡前のマスに瞬間移動していた。

 杏は結婚マスに、ひょう太も魔人もその後ろに立ち、咲も彼らの少し後ろにいる。手のひらにあった時空の石はいつの間にかなくなっていた。

 

「咲の仕業ですか?」

 

 魔人が咲に話しかけた。落ち着き払った様子だが、やや意外そうな口調だ。初めはゲームの参加自体やめようとしていたのだから、不思議に思われるのも当然だろう。

 

「うん。ちょっと変えたいことがあって……。せっかく……ええと、結婚してたのにごめんね」

 

 咲はなぜか結婚という単語がスムーズに出て来なかった。さらに魔人が気にしていないと首を振ったのにもなぜだかほっとした。だがその後ろでひょう太がお礼を言いたげに頭を下げるのを見て、咲はその気持ちを追いやるように、ひょう太に向かってにこりと微笑んだ。

 

 ひょう太は勢いよくサイコロをぶん投げた。

 

「2回目ええええ‼︎」

 

 無情にもサイコロは同じ1を示し、ひょう太は再び崩れ落ちる。しかし魔人が4を出したので杏の2マス後ろで止まった。続く咲は5を出しひょう太のいたところへ進んだ。

 次の順番ではひょう太も魔人も1マスのみ。心なしか咲まで杏との結婚レースに加わったようだった。何の気なしに咲はサイコロを振り、思わず声を上げた。

 

「咲先輩どうし——あっ」

「小日向くん……ごめんね」

 

 ひょう太は目が点になった。咲のサイコロは5を示している。

 

「えっ? てことはつまり……?」

 

 咲は申し訳なさそうにひょう太と魔人を抜かし、杏と同じマスで申し訳なさそうに立ち止まった。

 

「杏ちゃん、ごめんね」

「えっっ⁉︎ 咲先輩とけ、結婚ですか……⁉︎」

 

 杏と咲の頭上に先ほどとはまた違った可愛いらしいアーチが現れる。今度は杏の従えている魂や咲の患者であった魔獣たちが二人を取り囲んで祝福した。

 

「……結婚したからには、幸せにします」

「は、はい。よろしくお願いします……」

 

 咲には妙な使命感が湧き上がっていた。杏の両手をにぎると不思議と未来設計図が浮かび上がる。咲が真剣に語るたび、杏は頬を染めながらただただ黙ってうなずいていた。

 

「まさか……咲がやり直したかったのはこのことか……?」

「……これはこれで……うん……」

 

 小悪魔可愛い杏と妖しい女医姿の咲。初々しくも仲睦まじそうに寄り添う新婚カップルを見て、複雑な表情をする魔人とどこか納得したように腕を組むひょう太だった。

 しかし新婚カップルはそれだけで終わらなかった。

 咲と杏の間に子供が誕生したのだ。

 

「杏ちゃん頑張ってくれてありがとう」

「咲先輩が側にいてくれたからです……!」

「どうやって⁉︎」

 

 感動に浸る二人をよそにひょう太と魔人が同時につっこんだ。

 子供は次々と生まれ、最終的に魔界のTVで特集を組まれるほどの大家族になっていた。

 

「まじでどうなってんの⁉︎」

 

 ひょう太のつっこみが聞こえた杏と咲の二人は、お互いを見つめ合うと無言で顔を赤らめた。ひょう太も魔人もそれ以上聞くことはできなかった。

 

 

 一方メムメムは、牢屋からの脱獄に失敗したり竜巻に飲まれたり闇の賭博船に乗せられたり時空のはざまに飲み込まれたり魔界財閥の代表取締役になったり魔犬に喰われたり大魔界戦争に参加したりと波乱万丈過ぎる人生を送っていたところ、時空の石のおかげか見事に下克上を果たし、資産十八兆Dを獲得してブッチギリの一位でゴールしていた。

 



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#10-1 無欲少女2度目の結婚

 元日の夕方。咲の部屋に二人と一匹。咲が編み物をするからと、魔人と使い魔がその手伝いをしていた。

 使い魔は自分の身体の2倍以上はあるかぎ針を持ち、針の先に毛糸を引っかけ針を引っ張り毛糸の穴に通すのに机の上を忙しく往復している。ちょこまかと動く愛らしい様子を、咲はじっと見守っていた。

 

「使っち上手だねえ。疲れたらおしまいでいいからね」

 

 咲が声をかけると、使い魔は一つ目をぱちくりさせ小さな全身を震わせた。まだ大丈夫だと首を振ったように見えて、咲はにっこりした。

 そろそろ自分の作業に戻ろうと咲が視線を移すと、向かいから白い手袋をはめた手がスッと差し出された。

 

「咲、こちらは全て編み終えました」

 

 魔人が手を引くと、そこにはカラフルなアクリルたわしがいくつも置かれていた。それぞれ違った編み方で花や丸などの図形を象っている。咲が渡した毛玉は全て使い切ったらしい。この量なら少なくとも1年以上はもつだろう。

 相変わらず器用で手早い魔人に、咲は感嘆の声を上げた。

 

「すごいね! ありがとう、魔人さん」

「礼には及びません。そちらも手伝いましょうか?」

 

 魔人は咲の手元にある大きな編み物を見て言った。咲が編んでいるのは花形の円座で、周りを縁取れば完成だ。

 

「もうすぐ出来上がるから大丈夫だよ。ありがとう」

「以前も別の円座を作っていましたね」

「そうだね。お客さんも増えたし——今度は使っちの分も必要だね」

 

 咲が使い魔に微笑みかけると、使い魔は両手を上げてコクコクとうなずいた(ように見えた)。

 ふと視界が暗くなったのを感じ、咲はテーブルに置いていた湯のみを手にした。五木家に差し入れて余った甘酒を温め直したものだ。今はもうすっかり冷めたそれを飲み干すと、残りの仕上げを手早く進めていった。

 

「そろそろ夕食にしようか。お昼はたくさんご馳走になったからお雑煮だけにしようと思うんだけど、いいかな?」

 

 咲は出来上がった円座と編み物道具を片付けながら魔人と使い魔に話しかけた。二人がそれぞれYESの反応を示したので早速キッチンへと向かう。大家に分けてもらった餅を取り出している間に、後からやって来た魔人が隣に並び立った。彼にはお椀を用意してもらおうと棚を開けたところで、咲はハッとした。

 

「あっ……ごめんね」

「?」魔人が3個のお椀を手に首をかしげた。

「私、勝手に魔人さんと使っちの夕食も用意しようとしてた……。やっぱり小日向くんの部屋で食べるよね」

 

 魔人は咲の無意識に下がった眉と取り出した餅をしまおうとする手元をじっと見つめた。

 

「小僧の部屋でとるとも言ってませんし問題ありません。それにその量、咲一人で消費するには難しいかと」

 

 そう言って魔人は大家から教えてもらったのか、鍋やら包丁やらを準備し始めた。

 

 ——なんとなく気遣われてる気がする……。

 魔界の植物に絡まれた時。弱っていた時とはいえ、なんて大胆な発言をしたのだろうと咲は気恥ずかしくなってきた。だが同時に魔人が"友人"と言ってくれたことも思い出し、ありがとう、と小さく言い添えて一緒に準備を始めた。

 

 

 

 軽い夕食も済み、魔人と使い魔がそろそろひょう太の部屋へ戻ろうかとしていた頃にドアは鳴った。聞き覚えのある控えめで小さなノックだと咲が出て行くと、案の定メムメムがそこに立っていた。

 

「どうしたの?」

 

 メムメムは口をつぐみ、隠すように後ろ手に大きな箱を持っている。が、いかんせん全く隠せていない。その箱を見て咲は少しためらったが、とりあえず彼女を部屋に入れることにした。

 

「これで、あのっ本当、最後にするんで……! どうか、どうか……っ」

 

 開口一番メムメムはそう言った。机に置かれた"魔界転生ゲーム"をもう一度やりたいというお願いにはまるで聞こえない、尋常じゃない様子である。おそらくひょう太にはすでに断られたのだろう。そう予想できるほどの必死さだった。

 

 そんなメムメムを無下にできず、咲は思わず魔人の顔をうかがった。どうしよう? という気持ちが伝わったのか、彼は特に表情を変えず言った。

 

「私はどちらでも構いません」

「……じゃあ、これで本当に最後だよ?」

「ありゃます‼︎」

 

 メムメムはぽろぽろと涙を零しつつもちゃっかり素早くゲームの箱を開けたので、咲は驚く間もなく魔人、メムメムと共に箱の中に吸い込まれていった。

 一匹残された使い魔は「またか」と言いたげにため息をつく仕草をしたあと、咲の作った大きな円座にごろりと横たわった。

 

「咲は断ると思っていました」

 

 スタート地点に転送されてすぐ、魔人が落ち着き払った様子で咲にだけ聞こえるように言った。

 

「うん……まさかすぐに始めるとは思わなかったけど……」

 

 苦笑して咲も小さく返すと、本日2度目である亜空間を見回して気付いた。使い魔がまたいないのだ。思えば最初の時も、使い魔は側にいたが箱に吸い込まれることはなかった。

 つまり彼は今、咲の部屋に独りっきりということだ。

 咲の残念そうな、悲しそうな顔を見かねたのか、魔人が声をかけた。

 

「使い魔のことでしたら心配いりませんよ」

「心配というか……使っちはさっきもゲームに参加できなかったし、今は一人でかわいそうかなと思って……」

「あの使い魔はゴーレムの一種なので当然です」

「……?」

 

 目を丸くする咲に、魔人がゴーレムの何たるかを説明した。丁寧ではあったが咲にとっては馴染みのない言葉が続いたため、理解するのにやや苦労した。

 

「——つまり、自動で動く人形、みたいなもの?」

「そういう認識で問題ありません。このゲームは悪魔を対象としているので、魂のない使い魔はプレイヤーになり得ません」

「そうなんだ……」

 

 咲の頭に表情豊か(?)に動く使い魔が浮かんだ。魂がないと聞いてますます不思議に思ってしまう。

 

 ——けれど魔人さんには魂がある——。

 ふとよぎった考えから咲は魔人を見上げた。能力こそ人間離れしているものの、容姿は人間とほぼ相違ない。咲はまじまじとその整った姿を見つめていたらしく、魔人がですから、と話を戻したことに気付けなかった。

 

「そう気にする必要はありません」

「う、うん。ありがとう。……もしかして、顔に出てた?」

「使い魔や魔獣に対しては顕著になるかと」

「魔獣……って、魔猫とかスライムのこと?」

 

 魔人は大きくうなずいた。

 心当たりのあった咲の頬がほのかに染まっていく。恥ずかしさにうつむきながら咲は言い訳のように言葉を並べた。

 

「魔界はもっと怖い場所だと思ってたから、かわいい生き物がいるって知って余計に……。他にもたくさんいるんだよね、きっと——」

「…………実際には、」

「おーい、次よろしゃすー」

 

 魔人の言葉をかき消すように、遠くから陽気な声が二人を呼んだ。

 

 咲がそちらを見やると、眼鏡をかけ白衣を身に付け、両手に怪しげな液体が入ったフラスコとビーカーを持つメムメムがにこにこと立っていた。

 いかにも科学者という出で立ちのメムメムが立つマスには、魔道具の研究員になると書かれている。一度目にはなかったはずだ。思えばルートもどこか違う気がする。

 

「さっきとマスの並びも職業も違うよね……?」

「スゴロクですからね」

 

 当たり前と言いたげな魔人にサイコロを渡されながら、咲は妙に感心してしまった。魔界のスゴロクは良くできている。そして、そういう魔界の当たり前に驚かなくなってきた自分におかしくなり、ふふ、と思わず笑みがこぼれた。

 

「どうしました?」

「ごめんね、大したことじゃないんだけど。私、自分のことは理解してるつもりだったのに、魔人さんとメムメムちゃんに出会ってから、少しずつ変わってきた気がして」

 

 咲は笑みを残したままサイコロを放り上げた。メムメムの一つ手前を示したサイコロを魔人に渡しながら、あっと付け加えた。

 

「今、二人に出会ったのが嫌だったような言い方だったね……あの、そんなこと、全然ないからね」

 

 魔人は無言でサイコロを受け取ると、なぜか眩しそうに目を細めた。咲は一瞬にしてその紅い瞳に吸い込まれた。まるで彼が微笑んでいるかのように見えてしまったからだ。が、すぐにハッと我に返ると、はにかみながらメムメムの元へ行き急いだ。

 

 咲がたどり着いたのは"魔界の衣装屋になる"というマスだった。衣装屋? と首をかしげる咲の周りを、どこからか現れた煙が包むと、ポンッとたちまち服装を変化させた。煙が晴れたあと、その手には悪魔らしい禍々しさ満点の長い杖が握られ、丈の短いワンピースを着ていた。

 

 普段の咲なら丈が短すぎると顔をしかめていたかもしれないが、魔界の医者を経験したことと、メムメムが嬉しさのあまり大層ニコニコしていたので、咲もつられてにっこりと微笑んだ。

 

 魔人はいつの間にサイコロを振っていたらしく、メムメムを抜かした先で止まり、そして下を向いたまま固まった。魔人が煙に包まれた後も服装は差ほど変わったように見えなかったが、背を向けたまま微動だにしないので、咲は心配して声をかけた。

 

「魔人さん、大丈夫?」

「……問題ありません。マスター、サイコロをどうぞ」

 

 魔人は後ろを向いたままサイコロを後ろに回した。

 どう見ても不自然すぎる動きだったが、メムメムはそんなことなど毛ほども興味がないようだった(そもそも気付いてすらいない可能性が高い)。ニコニコとサイコロを取って転がすと、スキップで魔人を抜かして行った。

 

 一方の魔人はメムメムが通り過ぎる際も頑なに正面を見せないようにしていて、咲には違和感しか覚えられなかったが、とりあえず自分の番を進めることにした。

 咲はメムメムと魔人の中間ほどに止まり(その時も魔人は咲から背を向けていた)、衣装屋として指名がたくさん入ったらしく、ボーナス支給を受けた。

 

 しかし、衣装屋がどんな職業なのか咲にはまだよく分かっていない。衣装という名が付くからには、悪魔用の衣装を仕立てたりクリーニングを担う職なのだろうかと考えたが、その手には相変わらず装飾が不気味な、長く鋭い杖が一本あるだけだ。

 

 咲は前を向いたまま(つい後ろを振り向こうとしたのを寸前でこらえて)、魔人にたずねた。

 

「魔人さん、衣装屋ってどんな職業?」

「衣装屋にはいくつかの部門があるのですが——その杖を見るに、咲は衣装サポート部門に属しているのでしょう」

「衣装サポート?」

「主に人間界に来た悪魔の衣装のメンテナンスをしたり、新しい衣装を用意する部門ですね」

 

 悪魔の衣装には魔力が宿っており、その魔力が尽きた場合、魔界にいる衣装屋に自動的に知らされるらしい。咲はさらに杖についても魔人に聞いた。

 

「衣装屋の仕事道具で"プイプイの杖"と言います。杖を振った対象にとって、相性の良い衣装を選んで着せかえることのできる魔具です」

「プイプイの杖……」

 

 咲は見た目に反した可愛らしいネーミングの杖をまじまじと見つめた。

 魔医者になった時は、スライムに聴診器を当てると不思議と体調が分かった。きっとこの杖も、本来の衣装屋のように効力があるのかもしれない。

 思い立った咲は魔人に見えるようにして杖を振り上げた。

 

「この杖……魔人さんに向けて振ったら、魔人さんの衣装も変わるかな?」

「!」

 

 魔人が息を飲む音が聞こえた瞬間、咲は悪寒を感じた。一際低い声で魔人が口を開く。

 

「咲……見たんですね」

「‼︎」

 

 背後からビリビリと圧を感じ、杖を取り落としそうになりながらも、咲は慌てて弁明を試みた。

 

「ご、ごめんなさい! さっき通り過ぎる時に見えてしまって……! でも魔人さんの衣装じゃなくてマスに書かれてたイン——‼︎」

 

 咲が魔人の就いたであろう職業を口にした瞬間、背後から口を塞がれた。

 

「言わないで下さい。虫唾が走るので」

 

 魔人が声を押し殺して言った。明らかに機嫌の悪い言い方だった。苦虫を噛み潰したような顔をしていそうだが、ここまで感情がむき出しになった魔人を初めて知ったせいもあって、咲には想像がつかない。

 

 咲が魔人の足元で見たのは、インキュバスという職業。内容こそはっきりと分からないが、前回のゲームで杏が就いていたサキュバスと似たような響きから、おそらく魔人も露出のある格好をしているに違いない。

 

 咲は2度ほど素早くうなずいた。口を覆っていた魔人の白い手袋を身に付けた片手が離れていく。魔人は軽く咳払いしてから咲の質問に答えた。

 

「杖に関してですが、おそらく効果を発するでしょう」

「そうなんだ。魔人さんが嫌なら無理にはしないけど……」

 

 魔人は数秒黙ったあと、

「いえ、お願いしたいところですが……咲がこちらを向く必要があるので……」とぎこちなく言った。

 

 どうあっても衣装を見せたくないらしい。もちろん咲は見たいわけではないし(多少気にはなるが)、魔人の気持ちはすごく分かる。ただ、怒りを露わにしたかと思えばうろたえる魔人が珍しくて、咲の口元に思わず微笑が浮かんだ。

 

「じゃあ、これなら大丈夫だよね?」

 

 咲はくるりと振り返りながら言った。しっかりと両目を閉じている咲を見て、魔人は納得したようにはい、と返し、咲の持つ杖に触れた。

 

「この辺りに向けて杖を振ってください」

「分かった。やってみるね」

 

 咲は緊張を覚えながらも、早速その杖を振りかざした。

 

「ど、どう?」

「…………もう一度お願いします」

 

 ダメだったらしい。咲は再度杖を振った。

 

 それから咲が杖を振るうたび、

「もう一度です」「もう一度」「ダメです」「有り得ない」「なめてるのか?」と、魔人の口調は段々とすさみ怒気を帯びていく。

 

 咲に向けて言っているわけではないのだろうが、段々と申し訳なくなり、咲は杖を下ろし深々と頭を下げた。

 

「ごめんなさい……」

「咲のせいではありません。……これもゲームの仕様なのでしょう」

 

 魔人は深いため息を吐いた。表情こそ分からないが消沈しているのは明らかだ。咲は杖を握りなおした。

 

「あの、もう一回だけやってみていい? 特に案があるわけじゃないんだけど……」

「では、お願いいたします」

 

 咲はわかったと杖を振り上げた。どうか彼にとって良い衣装になるようにと強く祈りながら。

 

「これは……」

「ダメだった……?」

「いや、寧ろ……咲、何をしたんです?」

「えっ?」

 

 咲は思わず両目を開けてしまった。あっと気付いた時には魔人と目が合っていた。魔人はみだら、とは真逆の、豪華な刺繍とレースに彩られた衣装に身を包んでいた。執事服が普段着である魔人の姿を見慣れていることもあり、違和感が全くない。その着こなしに見入ったせいか咲は言いよどんだ。

 

「私は何も……ただ、良い衣装になったらいいなって考えていただけで……。魔人さん、中世の貴族みたいで、すごく——」

 

 似合っている、と続けようとした咲だったが、魔人が吐き捨てるように言った次の言葉で口をつぐんだ。

 

「なるほど。元々はこざかしい貴族が理由付けに使用していましたからね。このような衣装も納得です」

「その、魔人さん、さっき言ってくれたでしょう? ゲームだし、もう少し気楽にやったらいいんじゃないかな……?」

「……それもそうですね」

 

 無表情ながら落ち着いた様子を見せた魔人に、咲はひとまず胸をなで下ろした。まるで中世をよく知っているような言い方をした魔人にやや疑問も抱きつつ。

 



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#10-2 無欲少女2度目の結婚

 それからの3人はサクサクと良いペースでゲームを進めていた。主にメムメムが前回とは違い、アイテムラボで新薬の開発に成功したり多数の業績を認められ室長に推薦されたりと出世街道を爆上がりしていたからだ。

 しかし中盤に差し掛かったところで、魔人はとあるマスで足止めを食らった。

 

「……参ったな」

 

 魔人は腰に手を当て足元を見やった。そこにはでかでかと書かれた結婚の二文字。

 

 結婚後は強制的に別ルートへ進む。本ルートより遠回りになること、ゲームは全員がゴールしないと終わらないため、正直避けたいマスだった。魔人は早く終わらせたいとはそこまで思っていなかった。が、咲が段々と使い魔を気にする素振りを見せたのを魔人は無視できなかった。

 

 メムメムはこのマスに止まることなく、すでにはるか遠くにいる。つまり相手は必然的に、まだ後ろにいる咲ということになる。

 わずかの間をおいて咲が近くに止まった。魔人が全く動かない理由を察したのか、咲は気まずそうに肩をすくめた。

 

「もしかして——」

「はい。他にプレイヤーがいないので、咲は強制的にここに止まるでしょう」

「そ、そうだよね。あの……よろしくお願いいたします……は変、ですよね……」

「いえ。私なんかで申し訳ありませんが、こちらこそ」

 

 魔人が貴族同然の振る舞いで頭を下げると、咲はとんでもないと言いたげに首を大きく横にふった。咲の態度がおかしくなってきていることに、魔人はまだ気付いていない。

 魔人の予想通り、次の咲の番で二人は結婚した。

 

「結婚を強制させてしまいすみません……しかし決して咲のことを軽んじている訳ではありませんので」

 

 二人の頭上には、城からそのまま持って来たような柱を花で彩った豪華なアーチが出現していた。その周りには魔人の()()()魂たちが祝福するように漂っている。

 魔人としては咲を気遣うため、何の他意もなく、そっと肩に手を添え別ルートへと誘導したつもりだった。

 

「は、はい。私こそ、光栄です」

「……?」

 

 咲の不自然な返答に魔人の片眉が上がった。彼女は胸の前で祈るように両手を組んでいる。恍惚とした表情で曖昧な笑みを浮かべる様はまるで操り人形——そこまで考えて魔人は嫌な予感を抱いた。

 

「……咲、あの時何か言いかけていましたね?」

 

 咲はあの時? と夢心地の表情のまま首をかしげた。魔人が自身の衣装を差すと、咲も思い出したのか、頬を赤くしながら答えた。

 

「はい。今お召しの衣装、とてもお似合いだと伝えかったのです——けれど魔人さんはお嫌いなのですよね。お叱りを受けると思い、だまっていました」

「……そのくらいで叱ったりなどしません」

 

 魔人はなんとかそう返した。大分重症だ。その原因は他でもない、自分にある。インキュバスとしての魔力、淫気が咲を魅了してしまったのだ。最悪、ゲームが終わるまで咲はこのままの可能性がある。魔人がなんてこったと額に手を当てていると、咲がうれしそうに両手を頬に当てた。

 

「ありがとうございます、魔人さん。いえ、今は——旦那さま、ですよね」

「…………」

 

 魔人は言葉を失った。しおらしく微笑む咲が本当の彼女でないことはもちろん分かっている。分かってはいるが。

 言いようのないむず痒さを覚えた魔人は、咲をこれ以上刺激しないようにと、数歩距離を置きつつ結婚ルートに臨んだ。

 

「S級昇格おめでとうございます、旦那さま」

「旦那さま、本日はしもべが1000人を越えたお祝いです」

「今回の集会も成績上位でしたね! 旦那さまなら、六淫将の席も夢ではありませんね——」

「…………」

 

 魔人の仕事は不愉快なくらい順風満帆だった。

 咲は事あるごとに魔人を褒めたたえ、その度に彼女の奉仕度も増した。初めは半歩下がって歩いていたのが、今や片時も離れまいと魔人の腕にぴったりと寄り添っている。魔人は無下にできなかった。

 

 異様な疲労を感じていた魔人に光明が差した。彼にとっては悪趣味に思えるくらい、華々しく奢侈(しゃし)な道のりも、残り数マスで本ルートへ合流できるところまで来ていた。

 ——ここを抜ければ少しは落ち着くかもしれん。

 すぐ側で艶然(えんぜん)とする咲を見ていると、ふいに見上げた彼女と視線が合った。

 

「旦那さまと結婚できて、とても幸せでした」

「咲?」

「一つ心残りがあるとすれば、旦那さまとの間に子を成せなかったことぐらい……」

「⁉︎」

 

 魔人が耳を疑っていると、咲はルートの終わり間際に設置されたやたら黒々としたマスを差した。

 

「あのマスに止まれば結婚はなかったことに——つまり離婚することになります」

「!」

「旦那さまが結婚に乗り気でなかったのは知っていました」

 

 魔人から離れた咲の両目には、こぼれ落ちないように耐える涙があった。咲は気丈に笑顔で振る舞った。

 

「それでも私に優しくしてくれたこと、本当に……感謝しています……っ」

「私はそんなつもりでは——」

 

 魔人の顔に焦りが浮かんだ。咲が本心から言っているように聞こえてしまったのだ。魔人が言葉に詰まっていると、咲は何を思ったのか自身の洋服に手をかけた。

 

「最後に一度だけ、」真剣な表情で咲は言った。

「抱いてください。旦那さま」

 

 魔人は度を失った。

 

「なッッ」

「思い出を、いただけますか」

「いや、待っ……ここで……?」

 

 咲は魔人の目の前に歩み寄り、すっと目を閉じた。

 涙に艶めいた睫毛。あらわになった滑らかな肩。

 魔人は咲をそっと引き寄せた。そうする他ない気がした。丹花に彩られた唇にいよいよ触れようとしたその時。

 

「何してるんですか?」

「‼︎‼︎」

 

 魔人はバッと顔を上げた。彼の全身から冷や汗が一気に吹き出た。

 

「マ、マスター⁉︎ これは、その……」

 

 メムメムがどこからともなく現れ、魔人と咲を見下ろしていた。その後も出世街道を突き進んでいたメムメムは、今や背後に巨大なラボを構え、同じような白衣を着た研究員たちを多数従えて、組織の頂点に立っていた。

 魔人が固まっていると、メムメムはやれやれとため息を吐いた。

 

「まだそんな所にいるんですか? あたしもうすぐゴールしちゃうんで、早く追い付いてくださいね」

「……すみません」

 

 メムメムはしたり顔で研究員たちに目配せすると、その場からふよふよと飛び去って行った。

 どうやら魔人と咲が何をしようとしていたのか気付いていないらしい。我に返った魔人は今だ目をつぶって彼を心待ちにしている咲の肩から手を離した。

 

「咲、たとえあのマスに止まったとしても離婚はしません。ここを抜けても、私たちは夫婦です」

「! 旦那さま……」

 

 咲はぱっと顔を輝かせて「ありがとうございます」と涙ぐんだ。

 魔人が安心したのも束の間。咲はいきなり魔人に抱きついたかと思うと、背伸びして彼の頬に口付けた。

 

「⁉︎」

「続きはまた後ですね——大好きです、旦那さま」

 

 咲は名残惜しそうに言うと、足元に転がってきたサイコロを手に取り魔人に渡した。魔人は開いた口が塞がらず無言のままそれを手にした。

 

 運が良いのか悪いのか、魔人も咲も離婚のマスには止まらず結婚ルートを終えた。

 しかし魔人から離れたにもかかわらず、いや魅了された時間が長かったせいかもしれない、咲はご主人様と呼ぶのをやめなかったし腕に寄り添ってくるし抱きつこうとするしで、以前にも増して物理的に魔人に絡んでいった。

 

 厭悪(えんお)の情を抱くほど避けていた情事に、あっさりと雰囲気に流されそうになっていた自分自身を悔いていた魔人は、やっぱ離婚しとけば良かったなどと思いながらも、度重なる咲の誘惑には完全になされるがままであった。

 

 

 

 そうして幾許(いくばく)かのターンを経て、ゴールに辿り着いたのはメムメム、咲、魔人の順だったが、資産数ではそれが逆転した。魔人がトロフィーを抱え、咲は魔人の腕に抱き付いて祝福し、その傍らには廃人同然と化したメムメムが倒れるという状態のまま、3人はゲームの擬似空間から咲の部屋へと帰って来た。

 

「……あれ?」

 

 いち早く気付いたのは咲だった。見慣れた自分の部屋よりもすぐに、身体に違和感を覚えた。自分の上半身を押しつけるようにして黒い腕にしがみついている。それが魔人のものであると判明したと同時に、咲は顔を真っ赤にして彼から飛び退いた。

 

「なっ、なんで⁉︎」

 

 口にしたものの心当たりがまるでない。思えばゲームをした記憶も途中からまるでない。

 咲は嫌な予感がしておそるおそる魔人の顔色をうかがった。が、無表情、というより心ここにあらずと言った方が近い。まるで読めない。

 

「魔人さん、大丈夫……?」

「…………」

 

 しかし魔人の反応はない。非常に気にはなるがところで一緒にいたはずのメムメムはどこへ行ったのか。答えはすぐ足元にあった。

 

「メムメムちゃん⁉︎」

 

 咲は生き倒れるようにして床に突っ伏したメムメムを抱き起こした。心なしかやつれたメムメムは全身を震わせ、かすれた声でうわごとを口にした。

 

「あ……あそこでやめておけば……こんな、こんなことにはあぁぁ」

 

 メムメムはがくりと気絶した。

 

「メ、メムメムちゃーーん‼︎」

「——マスターはゴール直前の賭けに負けに負けて全財産を失ったのです」

「!」

 

 魔人は何事もなかったかのように燕尾服の上着を正すと、ぬいぐるみらしく固まったメムメムを咲から取り上げた。そしてもう片方の手で、今は役目を終えテーブルの上に大人しく鎮座する魔界転生ゲーム(その上にちょこちょこやって来た使い魔が乗った)を拾い上げた。

 彼らがひょう太の部屋に帰ろうとしているのは明らかだった。

 

「魔人さん、大丈夫……?」

 

 咲はもう一度言った。しかし魔人は答えない。その目線もどことなく彼方にある。

 

「あの、具合が悪いなら、何か飲——」

 

 咲は立ち上がって魔人に歩み寄ろうとした。が、魔人は咲から一歩後ずさった。

 確実に避けられている。その事実が意外に心に重くのしかかったらしい。咲はショックを覚え、その場に立ち尽くした。

 

「…………」

 

 咲の部屋に流れていた穏やかで暖かな空気が生ぬるく気まずい空気に変わり、魔人と咲の間に流れる。

 やがて魔人がごく小さな声で言った。

 

「それ以上触れるのは、ご勘弁を」

「そんなつもりは……えっ、私、そんなに触ってたの……?」

「私の口からはそれ以上言えません」

 

 そんなに⁉︎ ひょう太がいればそうつっこんでいただろうが、咲にはそんな気力もなく段々と顔を青くした。

 

「ご、ごめんなさい……」

「いえ。そもそもは私が原因ですから。……もう限界なので失礼します」

 

 魔人は言い終わると同時に、すぐさま転移の魔術を発動させ、一瞬の内に消えた。

 

 ——もしかして、嫌われた……?

 咲にとって、魔人に何をしてしまったかよりも、魔人に避けられたことの方がダメージが大きかった。

 

 こうして2度目の魔界転生ゲームは、プレイヤー全員にダメージを与えて終わったのだった。

 



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